逆行のサシャ (木棒徳明)
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第一話 死の先

「あ……」

 

 サシャ・ブラウスは絶望していた。

 その視線の先には巨人がいた。数体の巨人が、丸腰のサシャに近づいていた。息がうまくできず、あごが震えてガチガチと音をたてた。

 サシャの頭の中では、警告の鐘がこれ以上ないほど鳴り続けている。しかし足はすくみ震えるばかりだった。無理に動かせば倒れてしまうだろう。

 逃げることもできない状況に、サシャの頭は目の前の現実に立ち向かうことをやめ、ただただ過去を巡っていた。

 いったいどこで間違ったのだろうか、どうしてこんな目に合わなければいけないのだろうか。

 この不幸の原因を順にたどるなら、父との諍いが始まりであろう。

 サシャはウォール・ローゼ南区のダウパー村という場所で生まれ育った。良く言えば自然豊か、悪く言えば山奥の田舎だ。しかし巨人が人類を滅ぼさんとする世界の中ではウォール・マリアに住むよりマシであるし、餓えて死ぬようなこともないので恵まれているほうだろう。

 小さな頃から母はいなかった。父だけが家族、そして一族がいた。サシャは彼らと共に狩りをして育った。狩猟民族は少数派で、一歩外に出れば野蛮だとバカにされることも多い。けれど幸せだった。

 転機はウォール・マリアが突如現れた超大型巨人により突破されたことだった。ウォール・ローゼにマリアの人間が入ってきた。それに伴い、自然から得られるものも徐々に少なくなる。父は一族の伝統である狩りをやめ、外の世界と関わり、王政に従い生きていこうとしていた。

 父に反発し、外の世界に怯えるサシャ。話し合い、最後はほとんど喧嘩別れのようになった。父はサシャにまともな人間になるまで帰って来るなと言った。村を出たサシャは、見返してやろうと訓練兵団に入った。そして上位十名に選ばれた。

 だからだろう、きっと。サシャは調子に乗っていたのだ。才能があると思い込んでいた。立派な兵士になれると自負していた。父よりもずっと見事に義務を果たせると思っていた。だから調査兵団に入ってしまった。

 才能がないことは分かりきっていたはずなのに。

 思い出すのはトロスト区が襲撃された日。上位十名に選ばれた翌日。ガスが切れ、巨人に包囲されたトロスト区で、意気消沈する仲間を励ますことすらできなかった。本部にて、ガス補給のために立体機動なしで巨人を襲撃したとき、サシャは失敗し危うく食われかけ、巨人に屈服し謝罪までしてしまった。

 それなのに勘違いした。もう戦おうとするべきではなかったのに。

 ジャンが調査兵団へ行くと言い出した。エレンという人類の希望が見いだされた。それらに流されたのだ。サシャは自分を知らなかった、自分がこんなにも弱いとは思っていなかった。

 

「ひっ……」

 

 詰まった喉から悲鳴にもならない声が出た。

 地面をならして巨人がゆっくりと近づいてくる。巨人の挙動に絶対はない。突然走り出すやつもいれば、ゆっくり歩くやつもいる。飛び上がるやつもいれば、地面を這うやつもいる。ただ確実なことは、人を食おうとすることだ。

 このままでは食われる。走って逃げたとしても捕まる可能性は高い。馬がいれば別だが、もう逃げてしまった。

 サシャの頭は一色だ。後悔、後悔、後悔。

 もはや弓矢すら持っていない、丸腰の私服でいったい何ができよう。ここで食われる。今日までの人生は何だったんだろう。自分は何を成し遂げたのだろうか。

 

「そ、そうだ。わ、わ、私は、あの女の子をた、助け……」

 

 ウォール・ローゼに巨人が出現し、装備もないまま馬に乗って、各地の村々に避難勧告を行うことになった。同期のみんなとは東西南北バラバラになった。サシャは北を担当。そしてさっきまで一緒にいた上官とも分かれ、村の近くにまで来たのだ。そして新しい村を見つけた。そこで巨人に襲われていた女の子の母親は助けられなかったが、女の子のほうは無事に逃がしたのだ。それも巨人に立ち向かった。背の低い巨人だったし、目をつぶしただけだったが、それで女の子を救えた。

 だから自分は無意味ではない。後悔することなんてない。そう思ってサシャは笑おうとした。けれど笑えなかった。人生の終わりが近づいて、女の子を助けたことすら後悔し、涙が流れる。あの子を助けなければ、馬を失うこともなかった。巨人の足止めに成功し、あの子のもとに行こうとして、地響きに振り向けば複数の巨人がいたのだ。

 サシャは棒になっていた足をやっとのことで動かし後ずさる。けれどもう遅い。巨人特有の気味の悪い表情がサシャに向けられた。

 サシャは思い出す。トロスト区の本部で、殺し損ねた大きな目の巨人を。

 

「ああああああ!!」

 

 叫んだのが先か、巨人が動いたのが先か。一瞬後にはのろのろと動いていたはずの巨人が驚くほどの速さでサシャの足首を掴んでいた。反転する視界。浮遊感。そんなものはすぐに関係なくなった。宙吊り状態にされたサシャは圧迫され潰れた足の痛みに悶える。しかしそれも束の間、今度は腕を掴まれた。それも別の巨人だ。巨人たちはまるで子供がおもちゃを取り合うようにサシャを引きあった。

 

「あああっ! やめてええ! やめてください、お願いですから!」

 

 情けないことを言ってるのは自覚していたが、サシャは叫ばずにはいられなかった。痛いのが嫌だった。巨人が怖かった。死が、今まで他人事のように見てきたたくさんの死が、今は目の前にあった。

 

「サシャ!」

 

 サシャは痛みに呻きながらもそちらの方向を見ないわけにはいかなかった。自分の名前を呼ばれたのもあるが、その懐かしい声の主に心当たりがあったからだ。

 そこにはもう二度と会えないだろうと思っていた父親の姿があった。

 父親だけではない。この付近の村人だろう人々も、大勢馬に乗って恐怖の表情でこちらを見ていた。村人たちは巨人がいることが分かると叫び声をあげ、方向転換する。当然だ、巨人は人の多いほうへ集まる習性がある。このままでは彼らに興味が行くだろう。

 だが一人だけ逃げずにこちらに向かってくるものがいる。

 

「ブラウスさん! ダメです、戻ってきてください!」

「サシャ!! 今助けたる!」

 

 サシャは目を見開く。弓矢すら持っていない、腰に下げていた小ぶりなナイフ一本で巨人に向かってくる父親。そんなものが巨人に効くはずがない。逃げるなら今しかないのに。

 サシャは一瞬痛みを忘れた。代わりに別の恐怖が沸き起こってきた。サシャはあらん限りの力で叫ぶ。

 

「お父さん! 逃げて!」

「安心せえ! 今助けたるからな!」

 

 声が聞こえていないのか、聞こえて無視しているのか、止まる気配はなかった。その目はサシャしか見ていない。彼を掴もうとしている大きな手のひらにすら気づいてない。

 

「うがあっ」

 

 父が掴まれる。頭を噛み取られた。単なる肉片となった。胴体だけがボトリと落ちた。

 サシャにはそれが嫌にゆっくりに見えた。その一連の現実を理解したとき、猛烈な悲しみに囚われた。

 

「あああああっ!」

 

 痛い。痛い。右手がちぎれた痛みではない。左足がなくなった痛みではない。自分の無力さを呪う痛み。大切な家族を失った痛み。サシャは痛みで泣き叫ぶ。

 サシャが最後に見たのは、巨人の大きな歯が自分の首を分けるために、静かに閉じていく瞬間だった。

 

 

「サシャ。起きて、サシャ」

 

 意識が覚醒していく。暗闇しかない視界に、あたたかな光が瞼を通して伝わってきた。頭を包むやわらかさと、足をなでる布の感触。サシャはこの感覚をよく知っていた。朝だ。

 半分まどろみの中、サシャは重たい頭をなんとか持ち上げ、上半身を起こした。薄く目を開く。光が目に入ってきて眩しい。少しずつ目が慣れ見えてきたのは、布団にくるまる自分の足と、そこに置いてある自分の手だ。

 五体満足。サシャは困惑した。寝起きで働かない頭を、必死に働かす。さっきまでの記憶がサシャの脳裏を駆け抜ける。叫び、恐れ、痛み。自分は巨人に食べられたはずだ。それがどうしてこんな状況になっているのだろうか。

 

「あ、起きた?」

 

 サシャは重たい頭をかきむしりながら考えた。自分は助かったのだろうか。まったく覚えていないが、あの後いくつかの奇跡が起きて、どこかの病院のベッドにでも寝かされているのだろうか。しかし即座に否定する。確実に手も足も食われていたし、あの状況で助かるとは思えない。

 ではあれは夢だったのだろうか。今まで夢を見ていたのだろうか。それも否定する。夢なら目が覚めたとたんに夢と分かるはずだ。あの生々しさは夢ではなく現実に起きたことだ。あの恐怖を、あの痛みを、サシャははっきりと思い出せた。

 寒気がした。とてつもない恐怖に襲われる。全身が震えてまともに上体を起こせないようになった。鉛でも飲み込んだような苦しさだった。胸の苦しさをなんとか吐き出そうとして力なく首を垂れる。

 

「あああ……」

「サシャ?」

 

 こんなに苦しいことがあるだろうか。サシャを助けようと果敢に殺されに来る父親を思い出さずにはいられなかった。首のなくなった父の胴体が、頭から離れない。思い出さないように努めるほど、より鮮明に思い出してしまう。サシャに後悔の念が迫る。

 自分のせいだ。自分のせいで父は食べられたのだ。見捨ててくれれば、食べられずに済んだのに。もういない。もう帰れない。

 サシャの苦しむ声に心配そうな声が重ねられる。

 

「しっかりしてよ……」

 

 肩に力がかかり、優しく体をゆすられた。それによってサシャは先程から自分の隣に人がいたことに気づいた。心配そうに呼ぶのは女性の声だ。いったい誰なのだろう。

 サシャは項垂れたまま、静かに顔を横に向けた。よく見知った顔がそこにあった。

 

「ミーナ……」

「う、うん。私だよ。大丈夫?」

 

 知り合いがいたことで安心できたのか、苦しさが少し楽になった。

 訓練兵時代、ミーナとはそれなりに仲が良かった。量の多い髪を両横でくくっているのが特徴的で、髪に自信があるとよく言っていた。なのでサシャの長い髪を何度も代わり整えてくれたことがある。幾度と同じ班になり、常識的で優しい彼女には何度もお世話になった。サシャは彼女のおかげで女子寮でみんなと女の子らしい話に交じることもできた。

 しかしそんな彼女ももう死んでしまった。トロスト区の戦いのときに死んだ。あの時はたくさんの仲間が一度に死んで、彼女一人を悲しむ暇さえなかったことが思い出された。

 そこでふとおかしいことに気づく。

 

「え?」

 

 サシャは思わず呆けた声を出した。

 死んだはずの友人がそこにいた。ミーナはサシャの呆然とした様子を見て頭にハテナを浮かべている。その表情は生き生きとしており、確実にそこにいるように見えた。

 

「ミーナ?」

「だからそうだって。どうしちゃったのサシャ」

 

 サシャは自分の目を疑うしかない。もしくは頭だ。ミーナがここにいるはずはないのだから。

 

「ミーナ……」

 

 失ったはずの右手を伸ばした。わけの分らないことが続いている。どこまでが現実なのか、もはやうやむやだ。確認しなければならない。

 サシャはミーナの括ってまとめてある横髪を一房すくいあげた。ミーナは戸惑っているが、避けることはなく黙ってなすがままにしてくれた。すくった髪を手で遊ばせる。やわらかく、よく手入れされた綺麗な髪だ。たしかな質感を感じる。

 髪を戻すと、今度はミーナの頬に触れた。押せばその分やわらかく沈む。撫でるとさらさらとして温かい、そんな肌だった。

 生きている。そしてここにいる。

 サシャはミーナの瞳を見つめた。サシャの真剣な瞳に、ミーナは唾を飲んだ。

 

「サ、サシャ……」

「ミーナ……ここは天国ですか?」

「はい?」

 

 今度はミーナが呆けた声を出した。

 サシャは目の前にいるミーナが自分の幻覚ではないことを確認した。ミーナはここにいる。けれどミーナは死んだはずだ。そこから導き出された結論が天国だった。やはり巨人に食われて死んでいたのだと思った。それなら死んだミーナと一緒にいる説明にもなるし、なくなったはずの手や足があるのも納得できる。

 謎が解けて晴れ晴れとした気持ちになったサシャは落ち着いて周りを観察することができた。

 想像していた天国とだいぶ趣が違う。サシャの想像していた天国には間違いなく食料の類があったが、ここにはそれらしいものが一つもない。普通の部屋だ。二段ベッドと少しの棚と花瓶。やわらかい風が窓から入り込みカーテンをゆらしている。居心地はいいが少し気落ちした。どちらかというとミーナもいるし訓練兵時代にでも戻った気分だった。

 しかしここが天国ならば、そんなことを気にしている場合ではない。サシャは確認しなければいけないことがあった。

 

「お父さんはどこですか?」

 

 ミーナに尋ねる。天国経験では先輩にあたる彼女なら何か知っているのではないかと思って。

 少しの時間だったが、父は自分より先に死んだのだから、先に天国に着いていてどこかで待っているのではないかとサシャは考えた。この部屋にはいないようだから、外にいるのかもしれない。

 ポカンと口を開いたままだったミーナは混乱し、口をつぐんでいる。どう答えたらいいか分からないのだ。

 サシャはそうと気づかず急かした。

 

「ミーナ」

「いや知らないよ……サシャの故郷にいるんじゃないの?」

「もういませんよ。ここに来たはずです」

「トロスト区に?」

「トロスト区?」

 

 お互い見つめあったまま首を傾げた。どうも会話がかみ合わない。

 

「ここは天国じゃないんですか?」

「いやいやいや。たしかに最前線の町だし、ある意味天国に一番近いのかもしれないけど」

「…………」

 

 サシャは再び混乱し始めた頭のままベッドから立ち上がった。

 風が入ってくる窓から顔を出す。見える景色は間違いなくトロスト区だ。けれどサシャの知っているトロスト区ではない。サシャの記憶ではここまで綺麗なはずがなかった。巨人に襲撃され、どの建物にも大なり小なり傷がついて、人ももっとまばらになっていたはずだ。これではまるで巨人に襲撃される前のようではないか。

 サシャは呆然と立つほかなかった。

 

「これ、何なんですかね」

「何って……トロスト区でしょ?」

「何で私、トロスト区にいるんですかね」

「今はトロスト区に滞在中だし……」

「何でミーナは生きてるんですか」

「逆に何で死ななきゃいけないのよ」

「意味が、分かりません……」

 

 様子のおかしいサシャをミーナはいよいよ心配した。手を引いてベッドに促す。

 ミーナは力なく座り込むサシャの額に手を当てた。特に熱があるわけではない。しかしぼうっと虚空を見つめるサシャは明らかに異常だ。自分では手に負えないと考え、ミーナは医者を呼んでくるために部屋を出ようとした。

 

「ま、待ってください。一人にしないで……」

 

 サシャの弱々しい声にミーナは立ち止まった。この状態のサシャを一人にしておくのは不安だ。医者に診てもらうべきなのは変わらない。しかし小さく震えて、今にも壊れそうなサシャを歩かせるのも心配だった。

 ミーナはサシャの隣に腰かけると背中を撫でた。

 

「本当にどうしちゃったのサシャ……」

 

 サシャは頭を抱え込む。ミーナはよけいに心配になり顔を覗き込んだ。サシャは吐き出すように言った。

 

「いえ、大丈夫です。大丈夫。ただ、ただ……そうです。少し、怖い夢を見て……」

「夢?」

「は、はい。きょ、巨人に食べられる……」

 

 ミーナは呆気に取られる。確かにそれは怖い夢かもしれないが、それだけでこんな状態になるだろうか。しかし、それを否定してしまうのはまずい気がした。サシャの余裕のない声色はミーナに向けられたものだが、サシャが自分に言い聞かせているようにも感じたからだ。

 ミーナは励ますように言った。

 

「大丈夫よサシャ。ここに巨人はいない。それにサシャは明日にでも憲兵団に入れるんだから、すぐ内地に行けるでしょ。どっちかというと私のほうが食べられちゃう確率高いと思うな」

 

 なるべく元気を与えようと、ミーナは努めて明るい声を出した。サシャの手を握り陽気に上下に振る。

 しかしサシャは返事ができない。手を取って励ましてくれた友人の言葉を反芻する。それはサシャにとって一つの恐ろしい可能性を想起させた。

 

「憲兵団に……入れる……?」

「そう。昨日の解散式で上位十名に選ばれてたじゃない」

「つ、つまり……」

 

 息が詰まる。喉が渇く。

 

「ここは解散式の翌日の……トロスト区……?」

「変な言い方だけど……そうだよ」

 

 サシャは戦慄した。

 なぜ自分の手足があるのか分からない。なぜ自分に意識があるのか分からない。生きているのか死んでいるのかも分からない。なぜ死んだはずのミーナがいるのかも分からない。

 分かるのはここがトロスト区だということだ。そして今は解散式の翌日だということだ。つまりサシャは壁が破壊され、巨人が入ってきたあの地獄のような日にいるということだ。そしてサシャの記憶が確かならば、あと数時間もすれば、その地獄は始まるということだ。

 サシャは思わず立ち上がった。急がなければならない。

 サシャはもう逃げることしか考えていなかった。

 

 

 サシャが後ろについてきていたミーナに気づいたのは、鞍も馬も盗み出し、首尾よくそれに乗り込んだ後だった。いざ走り出さんとしたまさにその時、後ろから大声で名前を呼ばれて思わず飛び上がった。

 こちらに走ってくるミーナ。括った髪がぽんぽんと跳ねる様をサシャは馬上から黙って眺めていた。

 

「ど、どこに行くつもり」

 

 息も絶え絶えのミーナが言った。

 サシャは答えたくなかった。答えることは、今から自分は逃げると宣言することのように感じた。逃げることはもう心に決めているが、臆面もなく言うのはばつが悪かった。そもそも兵団管轄の馬を盗み出している時点でそんなことを気にするのはおかしかったが。

 しかし無視することもできなかった。何も言わず去ることが、直接的に彼女を傷つける気がしたからだ。

 サシャは少し考えていたが、そんなことをしている間にも巨人が来てしまうので、しかたなく答えることにした。

 ミーナから視線を外し、たいして面白くもない馬の首を撫でながら言った。

 

「故郷に帰ります」

「どうして……」

 

 突然の言動にミーナはそう言うほかない。ミーナとしては今すぐ医者のもとへ行ってほしかった。

 てきぱきと行動し、何やら準備をしているサシャを止めようとしたが、移動の度に全力で走るサシャに追いつくのは至難の業だったし、呼び止めてもまったく聞かなかった。

 

「帰ります。どうしてもです」

 

 サシャは断言する。理由を聞いても意味がなく、止める余地など残されていないとばかりに。

 

「固定砲整備はどうするの?」

 

 サシャはそれを聞いて思い出した。確か固定砲整備のために壁の上に行き、そしてそこで超大型巨人に出くわしたのだ。それが起きると分かっていて行くわけがなかった。

 

「やりません」

「任務を……放棄するの?」

 

 その気遣わしげな声色はサシャの良心にちくりと突き刺さる。兵士にとって命令は絶対だ。それを破るとなればどうなるかは分かりきっている。罰則は当然あるだろうし、脱退させられるかもしれない。場合によってはすぐ死刑にもなりうるのだ。もちろん憲兵団への通行証は間違いなくダメになるだろう。それを心配してくれているのがよく分かった。

 だがサシャにとっては全て関係のないことだ。巨人に食べられれば、そんなもの何の意味もないのだから。

 

「もう兵士はやめます。やめることにしたんです」

「え!? な、なんでっ、せっかく……」

 

 ミーナの言いたいことがサシャにはわかった。あと少し我慢すればいいだけだということだ。あと一日トロスト区にいて、適当に仕事をこなせば、誰もが羨む内地での安定した暮らしが手に入る。

 しかしサシャには憲兵などどうでもよかった。調査兵団よりもマシだろうがそれだけだ。兵士であることには変わりない。サシャはもう兵士になどなりたくなかった。

 今回のトロスト区襲撃はエレンのおかげで人類の勝利で終わる。しかしそのうちウォール・ローゼは破られる。また人類の領域は後退することをサシャは知っている。そこまで追い詰められれば憲兵団とて他人事ではないだろう。兵士となればいざというとき戦わねばならない。

 サシャはもう戦えない。戦う気がないのだ。複数の巨人が目の前に現れた、巨人に父を食い殺され、自分自身も食い殺された。あの時から巨人と戦う意志など消え去っていた。

 

「すいません迷惑かけて。さようなら」

「サシャ……」

 

 もう二度と会うことのないだろう友人を一瞥する。今日、死んでしまうことが決まっている友人を。

 けれど連れていくことは考えていなかった。一緒に乗れば馬の走力が落ちるし、もう一頭馬を用意するだけの余裕がサシャにはもうない。

 サシャの頭にあるのは、一刻も早くここから離れることだ。もしこの現実が、過去にいるような状態だと仮定すれば、今すぐ逃げないとまずいことになる。事態は一刻を争う。もう二度と、巨人を見たくない。

 けれど悪いことばかりではない。ミーナが生きているように、父親も生きているはずだという希望があった。だからこそすぐにでも故郷に行きたかった。

 自分勝手な考えというのは百も承知だ。それでもサシャはここを離れることに迷いはなかった。

 サシャは走り出す。最後に一瞥すると、そこには悲しげに目を伏せるミーナがいた。サシャは罪悪感にかられる。

 

「ごめんなさい……」

 

 聞こえたかどうかはわからない。言っていい言葉なのかもわからない。けれど言わずにはいられなかった。



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第二話 逃げた先

 トロスト区から故郷のダウパー村まで一気に駆けた。人が通る道では馬を飛ばせないので、できるだけ草原を行く。途中で村をいくつか越え、山もいくつか過ぎた。ここまで来れば安全と言い切れる場所まで行っても、サシャの焦燥感は消えることなく残っていた。

 疲労困憊の馬のために何度か休憩を取りながらも、サシャの意識は常に目的地のダウパー村と出発地のトロスト区に向いている。休憩もそこそこに、水すらろくに飲まず走り出した。

 いよいよ故郷に近くなってきたところで、サシャは緊張で息が荒くなった。ダウパー村に行くには、どうしても通らなければならない道がある。しかしそこはサシャが食われたまさにその場所だ。できれば通りたくなかった。

 馬を降りれば遠回りして行けないこともないが、森や山を何の装備もなく越えなければならないことになる。危険だし時間がかかるだろう。

 はやく父が生きていることを確かめたいサシャは通過することを選択した。巨人などいないと自分につぶやいて言い聞かせた。

 覚悟を決めるのに時間はかかったが通るのは一瞬の出来事だった。ほとんど目を閉じて駆け抜けた。ヘタをすればどこかに衝突して落馬していたかもしれない。

 そのような危険な行為にまで及んだにもかかわらず、またあの光景が脳裏をかすめ、サシャを苦しめた。

 今はまだ大丈夫かもしれないが、そのうちウォール・ローゼ全体は巨人の領域になってしまう。この付近も無論例外ではない。

 トロスト区から離れたとて安全ではないのだ。シーナまで逃げねばならない。故郷を捨てるのは悲しいことだが、命あっての物種だ。

 サシャはさらに馬の速度をはやめた。

 夕刻になろうかという時間だった。馬で揺れる視界に父の姿が飛び込んできた。

 サシャの生家はもっと奥のほうにあったはずだが、こちらのほうに引っ越したのだろう。木はだいぶ少なくなり、記憶とは様子の違う故郷。そのひらけた土地にポツンと小さな家がある。隣の馬小屋の大きさに比べると、どちらが家畜の小屋かわからない。そんな場所の片隅で、馬の一頭をブラシでなでてやっている父を発見することができた。

 やはり、生きていた。

 体の内から喜びで震えた。舞い上がり、最高速度で突っ込む。

 

「お父さん!」

 

 サシャの呼びかけに、父はブラシの手を止めて何事かと振り返る。目に映ったのは、ここにいるはずのない娘の姿。

 

「サシャ?」

 

 娘がなぜかいることもそうだが、とんでもない速さで突撃してくる馬にまず驚いた。

 馬は徐々に速度を落としたが、やはり急すぎたのか勢い余って父を通り過ぎていった。

 止まるか止まらないかのところでサシャは無理やり飛び降りると、その勢いのまま父に抱き着いた。

 その温かさに、血の通いを感じる。やはり生きている。ミーナと違ってやわらかくはない。男の固さ、泥の汚れ、獣の臭い。そのどれもが懐かしくうれしかった。

 

「ただいま!」

 

 胸に頬ずりをして全身で喜びを表しているサシャ。

 しばらく呆然としていた父だったが、状況が理解できると戸惑いの表情から父親らしい厳しい顔つきに変わる。サシャを引きはがし、突き放した。

 かわいくないわけではない。むしろ自分の子がかわいいからこそ、一度は追い出したこの娘を易々と受け入れるわけにはいかなかった。

 それでもにこにこと喜ぶサシャに毒気を抜かれながらも、向ける言葉には咎める鋭さがあった。

 

「サシャ、お前何しに帰ってきたんや」

「やめてきた!」

「何?」

「私は兵士向いとらん。やからやめてきた!」

 

 いい笑顔だ。いっそ清々しい気持ちにさせる。父は悪びれもせず報告するサシャを怒鳴ろうか迷った末に、ただ頭を抱えてため息をついた。

 サシャには臆病なところがあった。仲間内だけの安心安全な関係を大切にし、外の世界を避けていた。そんな内向きな娘の視線を外に向けさせたい。自分が世界と繋がっていることを知ってほしい。そんな気持ちで出したにも関わらず、目の前の呑気な娘は当たり前のように逃げ帰ってきたのだ。いったい三年間何をしていたのか。怒る気力もなくなる。

 

「サシャ……お前は何のために兵士になった。何のために外に行った。何か学んできたんか」

「巨人は怖いし、兵士には向いてない。やから帰ってきた」

「あきれて物も言えん……」

「それよりお腹すいたし、ごはんは?」

 

 いい意味でも悪い意味でも本当に変わっていないと父は思った。突然帰ってきてそんなものあるかと言いたかったが、腹の虫が鳴く音に止められた。

 サシャの期待の目に降参する父。さすがに父親、娘のことはよく分かってる。このまま何も与えないとそのうち盗み食うのは目に見えていた。

 

 

 サシャは起きてから何も食べず、急いでここまで帰ってきた。恐怖やら緊張やら心配やら、様々な感情に支配されて食事のことなど頭から抜け落ちていた。

 けれど父の安否も確認できて故郷に帰れたことにひとまず安心すると、忘れていた空腹がよみがえる。

 それを取り戻すようにパンも肉もスープも豪快に平らげた。長距離を走り終えた馬に水をやったときのような勢いだ。

 食事を終えると黙ってみていた父に再び抱き着いた。父は、自立するどころか甘えん坊になって帰ってきたサシャを離して、木製の無骨な椅子に無理やり座らせた。

 話し合うことはまだまだあるのだ。

 

「兵士をやめたことはわかった。それで、これからどうするつもりや」

「そんなん、お父さんとまた一緒に暮らすだけ」

 

 当たり前やろ。そう言うサシャにためらいはない。本気で兵士に向いてないと思っている。故に三年の訓練兵生活が無駄になるという後悔もなかった。父親と仲睦まじく生きられれば他に言うことはない。

 父は椅子に腰かけ、視線を家の壁に隔てられた先の馬小屋へと移した。

 

「もう前のように狩りはできんぞ……今は馬を育てとる」

 

 大事に育て上げ、主に商人を相手に取引している。巣立っていった馬たちは、荷馬車や辻馬車として活躍しているだろう。

 

「そうやね……でもいい。お父さんと一緒ならそれでいい」

「何があったんや」

 

 父の目が鋭くなった。サシャは一族の伝統である狩りを大切にしていたはずだ。また狩りを始めようなどと我儘を言うと思っていた。しかし目の前のサシャにそのこだわりは見えない。悲しんでいるようだがそれだけだ。

 狩りが嫌いになったのなら別にそれでいい。しかし、そうではないだろう。生きるだけで満足している、ある種無欲な状態のサシャが父には危険に見えた。

 

「いったい何があった。どういう理由で帰ってきた」

「……」

 

 話さないわけにはいかないが、サシャは憂鬱な気分にならざるを得ない。あの光景を思い出すのも嫌なのに、それを当人の父に話すことになるからだ。そしてサシャ自身もよく分かってないこの現状についても話さなければいけない。

 躊躇していたサシャだったが、やがてぽつぽつと話し始めた。自分がおそらく未来から来たこと。ここはあと約ひと月も経てば人が住める土地ではなくなること。未来でサシャも父も巨人に食べられたこと。

 

「本気で言うとるんか」

 

 父の言葉にサシャは口をとがらせた。これが突拍子もない話なのは話してる本人が一番よくわかっていた。

 

「私だって意味わからん。でも嘘やない」

「うーん……」

「信じてお父さん。今はまだ大丈夫やけど、ここも危ない。はよ逃げんと。シーナに行こ」

 

 サシャの言葉に黙ってしまう父。サシャはやはりこんな話は信じてもらえないかと肩を落とす。

 そもそもサシャだって確信できているわけではない。あの恐ろしい光景がただの夢である可能性も、今見ている現実がただの幻覚の可能性もある。だがどちらも可能性の話だ。何もわからないサシャは、今の状況を未来から来たような状態と形容して受け入れるほかない。

 

「仮にお前の言うことが本当だとしても、逃げるわけにはいかんな」

 

 サシャは顔をあげた。何を言っているのか理解できなかった。額にしわをよせて唸る父を信じられないとばかりに凝視した。

 

「なんで……」

 

 サシャとしては今すぐにでも逃げたかった。だが準備が必要なのは分かっていたし、遅くても明日か明後日にはシーナに行くことを考えていた。逃げないという選択肢はなかった。

 問題はどうすれば父が自分の話を真剣に受け止めてくれるかだと思っていた。けれど真剣に受け止めた上で、父は逃げないと言う。

 

「そもそも逃げるなんて簡単に言うとるが……壁を越えるのは楽やない。用事があって一日行くならまだしも、そこで暮らすとなると仕事もいる」

「仕事なんて後で見つければいい。命が一番大事やろ!」

「もちろん大事や。けどその命は自分たちだけにあるわけやないぞ。他の人はどうするつもりや」

 

 サシャは目をぱちくりさせる。考えてもいないことだった。自分と父が助かることしか考えていなかった。

 しかし父はそうではない。サシャは、あのとき父が大勢の人といっしょだったことを思い出す。そしてみんな馬に乗っていたことを。あの馬は父が育てた馬だろう。きっと彼らを助けていたのだ。

 

「見捨てるわけにはいかん。この話して今からシーナに引っ越すて言うてくれる人はおらんやろうしな」

「じゃあどうするの……」

「とりあえずやれるだけのことやる。その日が来たらみんなで逃げる。あとはトロスト区が破られたときの模擬訓練通りにするだけよ」

 

 それではあの時とほとんど変わらない。また巨人に遭遇する可能性がある。そしてまた死ぬ可能性も。

 助かる道があるのに、確実に生きていける道があるのに、それを選ばない父にサシャは苛立った。

 立ち上がり、必死の形相で父に詰め寄る。

 

「嫌や! お父さんは巨人を見たことないからそんなこと言える!」

 

 サシャは巨人の恐ろしさを知っている。目の前に立たれると足が震えて動けなくなる。体を掴まれるとその握力に悲鳴をあげる。実際に食われるとその理不尽さに絶望するしかない。

 

「お前、私が巨人に向かって行ったて話したん、もう忘れたか」

 

 サシャは息を飲んだ。父の強い瞳がぶれることなくサシャだけを射抜いていた。

 あの時、サシャを助けに巨人に立ち向かった父の姿が、目の前の父と重なる。

 

「サシャ、助けられる命があるのに助けないのは殺すんと同じぞ」

「っ! で、でも……」

「ブラウスさん!」

 

 突然ドアが開け放たれた。入ってきたのはサシャの見知らぬ男だ。おそらく父の知り合いであろう男はサシャに目を留めた。一人で暮らしているはずの彼の家に若い女性がいることが気になったようだ。しかしそれも一瞬のことで、男は父に近づくと時間を惜しむように急いで言った。

 

「馬をかしてください!」

「どうしましたか」

「トロスト区が破られました! すぐそこまで巨人が来てます!」

 

 サシャの頭が一瞬で真っ白になる。暖かい部屋の中なのに背筋からガタガタと震えた。

 ありえない。何故。はやすぎる。

 確かに今日はトロスト区の壁が壊される日だ。しかし壊されるのは外側に面した門だけだ。内側の門は無事のはずだった。

 それにエレンが巨人化し、トロスト区内にある大岩で穴を塞いでくれるはずだ。だから結果的にトロスト区で被害はあっても、ウォール・ローゼ内での被害はまずないはずだ。だから、ここはまだ安全なはずではないか。

 

「サシャ!」

 

 青ざめて震えたままのサシャは何とか父のほうを見た。

 

「お前は逃げろ」

「お、お父さんは……」

「馬を与えて回る。巨人から逃げるんには必要や」

 

 父らしい行動に思えた。けれどしてほしくない行動だった。助けるなら自分を助けてほしかった。一緒に逃げてほしかった。

 

「嫌や……嫌や……」

「ここでそうしてても死ぬだけぞ」

 

 そう言って出ていく父。サシャは力の入らない足を鞭打って、なんとか追いかけた。

 巨人は日光がなければ著しく活動が衰える。外に出ると空には見事な夕日が輝いていた。日光がある。つまりまだ人間を食うために活動している。

 逃げなければならない。

 

 

 今日という日は人類にとって大変な日というだけでなく、馬にとっても今までで一番忙しい日になりそうだった。父の丹精込めて育てた若い馬たちはは人を乗せて群れになり、砂埃の舞う中をずっと走っている。

 サシャの乗ってきた馬は疲れて眠ってしまったので置いてきた。馬は巨人に狙われることがないので、人間がいなければ気楽なものだ。

 付近の住人に馬を与えて回り、幾ばくかの時が過ぎた。もうほとんど配り終え、与える馬もいない。そろそろ潮時だろう。

 

「逃げ遅れた人は……」

「たぶんもう大丈夫でしょう」

 

 それを聞いて、やっと逃げられるとサシャは思った。

 もうすぐ夜になるとはいえ、家に引きこもったまま避難しないのは論外だ、一番危ない。かと言って一人で逃げることもできなかった。父が心配だったし、何より一人でいるのが怖かった。それで結局ついてきてしまったのだ。他人がいる前で堂々と父を説得することもできず、逃げたいのに逃げられない状態が続いた。

 いつ巨人が現れるかとひやひやしていたが、無事にここら一帯の人々の避難を手伝い終えたらしい。サシャは安堵のため息つく。これで自分たちもここから一番近いウォール・シーナの突出区へと真っ直ぐ行くことができるだろう。

 ここから近いのはヤルケル区だ。集団はその方角へ走り始めた。人を探して声をかけることも、見回ることもなく進んでいく。これでもう助けなければいけない人はいないと確信して。

 しかしサシャはふと思い出した。サシャは死ぬ直前に一人の女の子を助けた。足の悪い母親を誰にも助けてもらえず、巨人に食べられている母親の横で一人絶望していた女の子。彼女はどこにいるのだろうか。

 この集団の中にはいない。避難を手伝った人たちの中にもそれらしき子供はいなかった。もうすでに逃げている可能性もあるだろうが、それならあの時も逃げられたはずだ。まだ避難できず、あの時と同じように母親の食われる横で座っている可能性は高い。

 

「ああ……」

 

 サシャはそのことに気づき、半ば呆然とする。

 助けにいかなければ間違いなく死んでしまうだろう。しかしその子のいた村はとうに過ぎた。今から戻るのか。せっかく逃げられるのに。やっと逃げられるのに。

 サシャの顔はだんだんと張りつめていった。その様子に父は訝しげに問いかけた。

 

「サシャ。どうした?」

「なんでもない。はよ逃げよ」

 

 先ほど父が言った言葉が頭を駆け巡った。

 ――助けられる命があるのに助けないのは殺すんと同じぞ

 サシャは必死に否定する。

 あの子を助けようとすれば来た道を戻らなければいけない。誰が死んでもおかしくないこの状況は一秒でも短くするべきだ。あの子のために戻って、そこで巨人と遭遇したらどうするのだ。

 あきらめるしかない。それは悪いことではない。こんな状況だ。あの子はそう、運がなかったのだ。運命だ、仕方のないことだ。

 

「あ!」

 

 サシャが頭の中で戻らない理由を確認していると、前方のほうから声が響いた。サシャの位置からでは、ちょうど曲道になっていて先で何が起きているのか見ることができない。

 しかしすぐに何が起きたのか分かった。

 瞬間、サシャは叫びそうになった。馬とは違う、地を響かせる音。忘れたくても忘れられないその音は、サシャの苦痛を呼び覚ます。いる、巨人が、すぐそこに。

 気づいたのはサシャだけではなかった。集団は何が起きたのかを理解し始める。

 

「前にいる! 止まれ! 下がれ!」

 

 前方にいる名前も知らない誰かが叫んだ。サシャにはほとんど悲鳴のように聞こえた。

 集団はなんとか止まろうとするが、群れで走っている馬が一斉に急転回できるはずもない。落馬でもしたら目も当てられない。結局ゆっくり止まるしかなかった。

 目の前には巨人がいた。一匹だけだ。調査兵団や、駐屯兵団の精鋭なら、しっかりした装備でもあれば勝てるだろう。しかしこの集団は、数は多くても田舎の生産者集団でしかなかった。巨人が腕を振りぬき、最先頭にいた男を捕まえる。

 

「わあああ!!」

 

 恐ろしい光景だった。巨人の大きな両手でがっちりと掴まれた彼は絶望の表情で全員を見ていた。しかしその絶望も頭を砕かれれば消え失せる。

 一瞬だけの静寂。その後には悲鳴が上がり、先程までの連帯はどこへやら、群れていた馬が一斉にバラけた。どちらの方角がヤルケル区かなど誰も気にしていない。誰もが必死に逃げることを考えていた。サシャも同じように逃げ出した。

 しかしサシャは運に見放された。前方にいた馬が巨人から離れようとしてサシャの馬と突撃してしまう。混乱状態だったサシャはその衝撃を流すことができず、馬から放り出されてしまったのだ。乗り手を失った馬は自由を得たとばかりに走り去ってしまった。

 その一瞬のできごとにサシャは呆然とするしかない。こんなことになるのは女の子を助けない理由を運命のせいにしてしまったからだろうか。

 ここで死ねとばかりに巨人の前に放置されたサシャ。近づいてくる巨人を見て、立つことすらできなかった。

 

「サシャ!」

 

 蹄の音も鳴り止み、残っているのはサシャと巨人。ここまでかと思っていると、事態に気づいた父が慌てて戻ってきた。

 同じだ。前と同じ。巨人を目の前にして恐怖でまともに動けない。もうすぐ食われる。そしてサシャを助けようとして父も食われてしまうだろう。

 

「お、おと……」

 

 サシャは逃げろと言おうとした。けれど言えなかった。助けてほしかった。このまま見捨てられたくなかった。けれどもやっぱり逃げてほしかった。

 父が馬から飛び降りる。そしてサシャを持ち上げて馬に乗せようとした。

 しかし恐怖で体が固まっている人間を乗せるのは簡単ではない。サシャもなんとか動こうとしたが、もう遅かった。

 真上に影ができる。巨人が掴んだのは、父だった。

 

「あああ……」

 

 沈痛な声をあげたのはサシャだった。持ち上げられていく父を見ることしかできない。

 逃げろと叫ぶ父が巨人の口に入り、その声もぷつりと止んだ。また死んでしまった。

 サシャは動けない。怖かった。そして悲しかった。涙がとめどなく溢れた。こんなことになるなら自殺でもするほうがどれだけ楽だろう。

 やがてサシャも巨人の口の中に入れられた。人の手が歯と舌の間に挟まっているのが見えた。父のものだろうか。サシャはその手を掴んで泣いた。二度も死なせてしまった父に、謝りながら泣いた。

 刹那、視界は闇につつまれた。

 

 そして、目覚めた。

 二段ベッド。花瓶。揺れるカーテン。やわらかな風。ミーナ。

 

「いったいどうなって……」

「サシャ起きた? いっしょに固定砲まで行かない?」



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第三話 さらに逃げた先

「だから! 何回も言ってる! もうすぐここは地獄や!」

 

 サシャは半泣きになりながら物分かりの悪い父親の胸倉をゆする。激しい前後の揺れに父の被っていた帽子がはずれ、疲労で動けない馬の前足付近に落ちた。

 突如始まった親子喧嘩とも言えない一方的な感情の発露。それに注目するのは繋がれた馬ばかりであった。

 なんとか抜け出そうと、父はサシャの腕を取る。力が込められた細腕は鉄のごとく固まっていた。体重をかけてなんとか揺れを止めるも、今度は押し合いが始まる。

 どう見ても冷静ではない娘に、父は同じだけの声量で返す。

 

「お前の言うとることが何一つ分からん! いきなり帰った思ったら、有無も言わせんとシーナに行きよる言うて!」

 

 父親の意地か、体をひねって無理やりサシャを離した。しかしサシャはまたも父を掴もうとする。口も体も、力押しの問答が続く。

 

「そうしな死ぬ!」

「なんでそんなこと分かるんや!」

「説明してる暇ないの! 急いでここまで逃げてきたんやから!」

 

 目覚めてから状況を理解したサシャは、ミーナとまともに会話することもなく馬を盗み出した。二回目ということもあり早々に出発することができた。そして前回よりもさらに馬を酷使して帰ってきたのだ。

 それも全ては父を救いたいがため、父と平和に暮らしたいがためであった。

 何故か突破されてしまうトロスト区。もうすでに内門も破られ、巨人がウォール・ローゼ内に広がっていることだろう。

 今こうしている間にも、巨人は生きた人間を捕食しようと、巨大な図体を動かしている。

 そんなことを知る由もない父が抵抗するのは当然だったが、サシャはきちんと話す気がなかった。未来がどうとか話すとややこしい上に、時間が取られて巨人に食べられる危険性が高まるからだ。

 かと言って何も言わずにシーナに連れて行こうとしても抵抗するだろうと思い、巨人が来て危ないことと、兵士をやめてシーナ内ですぐにでも一緒に暮らしたい旨を伝えた結果がこれだった。

 サシャの焦った物言いをすぐに理解できるはずもないし、そもそも突然帰ってきた娘に色々と言いたい父。

 そして結局は言い合いのようになっていた。

 

「今なら間に合うから! もう巨人来てるから!」

「ほな余計になんでここにおる! お前は兵士やろ!」

「やめたって言うたやろ!」

 

 辛抱できなくなったのか、サシャはつかみ合っていた父の腕を思い切り引いた。突然の挙動に父は平衡を保てず前方に倒れる。

 サシャは倒れてきた父の鳩尾に膝を入れた。鈍い声を上げながら父は崩れ落ちた。

 兵士はやめたが、その鍛えた体は残っている。立体機動を扱う兵士の体は鋭く固い筋肉を持ち、細く見えてもその力や丈夫さは常人の比ではない。サシャは対人格闘訓練を真面目にやったことは少ないが、それでも成人男性一人をどうにかできるだけの技術はあった。

 力と技術によって気絶させられた父親に向けるサシャの視線は複雑だ。自分の娘に気絶させられるのは屈辱だろう。

 

「ごめん、お父さん」

 

 けれどもこれで父を守れるのだからとサシャは気持ちを切り替える。

 疲労で眠ってしまった馬から鞍を取り外し、選別した一番イキのいい若い馬に装着する。

 気の失った父をなんとか馬に乗せると、落とさないようにしっかりと支えながら走り出した。向かう先はもちろんヤルケル区だ。

 

 

 ローゼからの避難民は一様に首を垂れ、ヤルケル区の開閉門を通り過ぎた。みな閉口し、聞こえてくるのは泣きわめく子供の声と兵士の誘導ばかりである。

 彼らが沈痛な面持ちで向かっているのは旧地下都市だ。

 地下は元々巨人から逃れるために作られたと言われる。使われていないうちに、不法にそこをねぐらとするゴロツキのたまり場になり、ウォール・シーナの治安を悪化させる一要因になっていた。しかし今回のことで住処を失った避難民たちの避難先となり、元々の役割を果たすことになったというわけだ。

 雨風に晒されるよりはずっといいだろう。しかし、太陽の当たらない場所に好んで行くような人間はいない。日が当たらない分だけ地上よりも巨人からは安全だが、殆どが岩とレンガと松明で構成されたその場所に豊かな人間らしさは微塵も感じられない。

 そんな場所にサシャは向かっている。馬はそこらに乗り捨て、歩いて移動する避難民の波に加わった。

 父親を背負って歩くサシャは遅れないようについていく。誘導する兵士に自分が脱走兵だと気づかれないよう、視線はずっと下にあった。けれどそうする必要はあまりなかっただろう。誰もかれもが下を見て、人を気にする余裕などなかった。憲兵ですら戦々恐々としている。

 サシャは改めて巨人の脅威を認識せざるを得ない。目につく人間を食うこともそうだし、それによって副次的に多くの土地を奪われる。

 サシャの周りにいる人はみな巨人に故郷を奪われた。これらの人々に加えて、逃げ遅れた人や食べられた人はどれだけいるのだろうか。想像するのも恐ろしかった。

 見ていた地面はやがて階段になった。下に降りていくと通路があり、しばらくするとまた階段を下った。

 そして開けた場所に出た。サシャは初めての旧地下都市を見渡した。巨大な洞窟の中に無理やり街があった。陰気な場所だと思った。

 兵士の誘導に従って避難民にはそれぞれ新しい住居が定められたが、戸籍をつくるわけでもなく単に人数ごとに割り振っているような状況だった。この取り決めに完全に従う者はおらず、避難民は自然と家族や仲間や村の単位で寄り集まる。それを兵士も黙認していた。

 サシャは父と一緒に、割り振られた部屋にいた。埃っぽく、窓が一つの簡素な部屋だった。家具も最低限しかないが、毛布を配られているので寝ることはできよう。

 ここが新しい住処だ。巨人はいないし、父と一緒だ。最高に良いとは言えないが、サシャの望んでいた暮らしだ。

 父が目を覚まし、状況を理解すると、サシャに怒鳴った。

 

「この馬鹿娘がっ」

 

 色々と怒られるだろう。もしかしたら殴られるかもしれない。そう考えていたサシャだったが、父から言われたのはそれだけだった。

 父は覇気をなくしたように座り込み、頭をかいてため息をついた。その失望にはサシャもこたえた。これなら殴られるほうがずっと良いと思った。

 父はサシャが他人を顧みずに逃げたことを残念に思っている。それをサシャは分かっていた。自分の行いが褒められたものでないことを自覚していた。けれど後悔はなかった。巨人に食べられるより悪いことがあるだろうか。たとえ失望されたままでも父と一緒に生きることができる。それがサシャにとっては一番大事だった。

 配給が行われたので、部屋から出て列に並んだ。その時改めて人の多さを実感した。長い時間を並び、全員平等に配られたのは最低限の保存食だけだった。口に含むと美味くも不味くもない味だ。栄養はあるだろうが、ずいぶん味気なく感じた。サシャは食べ物ならなんでも美味しく食べられる自信があったが、そうでないこともあるらしい。

 けれど食べられるだけ感謝しなければならない。ここには人がたくさんいるが、人の営みはない。生産できない生産者は、寝るか散歩か集まって話をするしかなかった。

 ウォール・ローゼの住人全員を賄えるほどウォール・シーナに余裕はない。この配給はいつまでも続かない。誰もが分かっていたことだった。食えている現状は良いほうなのだ。

 銃を背負った憲兵団が何度も通り過ぎる。暴動を警戒しているのは目に見えていた。

 

「なあサシャ」

 

 スープを眺めながら父は話しかける。

 

「私は、マリアが突破された時に、何人もの人間がローゼに逃げてきよったのをよう覚えとる。けどなあ、そのうちのほとんどはローゼから追い出された。そうせんと、より多くの人が死ぬからだ。今回もたぶん同じよ。お前はまだ若いし大丈夫やろう。私は……」

 

 サシャには父の言わんとしていることが分かった。

 四年前、政府が打ちだした施策があった。ウォール・マリア奪還作戦だ。ウォール・マリアの住民が立ち上がり、自分たちの土地を取り戻すと言えば聞こえはいいが、要はマリアから逃げてきた大量の失業者の処分だ。

 当時でさえ抱えきれなかったのだ。今回も抱えきれなくなるだろう。残されるのは前途のある若いものばかりで、父は処分される可能性が高かった。

 

「嫌」

 

 世界は残酷だ。巨人から逃げれば安泰ではない。人が生きるには食べていかなければならない。

 考えの隅に追いやっていた容赦ない現実にサシャは立ち向かうことができない。

 

「また逃げればいい」

「逃げれるとこがあるんか?」

 

 サシャは押し黙るしかなかった。ウォール・シーナにアテなどない。そもそも逃げられるかさえ分からない。せいぜい憲兵に捕まるか、餓死するのが関の山だろう。

 ここまで逃げてきたのに、また父を失うのはサシャには耐えられなかった。それも巨人の蔓延るウォール・ローゼに向かわせるなど絶対に許容できなかった。

 けれどサシャには何もできない。もう逃げる先はない。自分の弱さを呪うしかない。

 

「サシャ。兵団は普段、腐っとるだの税金泥棒だのと言われとるが、私は彼らを尊敬しとる。彼らはいざとなれば、自分の命を賭してでも人の命を守れるからや。だから私はお前が訓練兵になったんが誇らしかった」

「私には無理や……」

「みたいやな」

 

 サシャの頭に触れたのは父の手だ。硬い皮膚が乱暴にサシャを撫でた。髪が顔に垂れ、ちょうど涙を隠した。

 

「でもいつかできるようなる。そんでそれが嬉しい思える日がくる。やから生きろサシャ。しっかり生きろ」

「お父さんも生きて」

「口の減らん娘め」

 

 父が笑い声を上げた。虚を衝かれ、思わず顔を見る。そこに失望の色はなく、ただ笑顔でサシャを見る父の姿があった。

 何の解決もしていないはずだが、サシャの心は不思議と落ち着いていた。味気ないと思っていた配給もなんだか美味しく感じられる。こんな時間が永遠に続けばいいのにとサシャは思った。

 けれど世界は残酷だ。こんな小さなひと時すら許してくれない。

 サシャの耳に聞こえてきたのは、明らかに発砲音だった。この場所で鉄砲を持っているのは憲兵しかいない。何かトラブルがあったのだ。視線を音がした方へ移すと人が慌てて逃げている様子が確認できた。

 

「何や?」

 

 発砲したということは、威嚇か、誰かを撃ったということだ。もし威嚇ならそう慌てることではない。丸腰の一般市民相手ならその一発で大抵の事は収まるだろう。

 けれども、なぜか喧騒は大きくなるばかりで、発砲音は二つ三つと増えていき、ついにはもう数え切れないほどの音となった。

 どこかで銃撃戦が始まっている。まさか憲兵同士で争っているわけではないだろう。誰かが銃を持ち込んだのだ。

 何が起きたのかつかめず音のする方向をぼんやり見ていた避難民たちも、何事か起きたのを理解したのだろう、慌てて音のする方向から離れ、建物の影へ隠れた。

 もはや聞こえてくるのは銃撃の音ばかりではなかった。人の叫びが、怒号が、あたりに響いた。

 そこからもっと離れようとして、押し合いへし合い、移動する避難民。あたりは軽いパニック状態になった。

 数人の若い憲兵が何とか収めようとしているが、全く効果はなかった。人に押され、怪我をする者が多発する。それを契機として喧嘩をする者が後を絶たない。人ごみで、それから抜けようにも抜けられない人もいた。

 サシャと父はそんな状況を確認すると、お互いくっつき、部屋の隅で騒ぎが収まるのを待っていた。

 騒ぎが収まったのはそれからしばらくしてからだった。所々が流血で赤く染まっている。あちこちで怪我をしている人がおり、憲兵はその対応に追われていた。

 一体何が起きたのか。それは避難民全員が知りたいことだった。

 巨人に追い詰められ、地下に住むことを余儀なくされても、人の探求心は収まらないらしい。人々が冷静になり始めると、どこからか野次馬根性丸出しで銃撃戦のあったところを調べにいった者が出てきた。

 彼によると、この旧地下都市に不法滞在していたものどもを憲兵が立ち退かせようとして今回のことになったらしい。ごろつきらしくどこからか手に入れた銃を使って憲兵と戦ったようだ。

 死んでいるのかいないのかは分からないが多くの人間があそこに倒れていると彼は述べた。

 巨人は恐ろしい。だが人の争いも恐ろしい。直接巻き込まれていなくても、たくさんの怪我人ができた。もしこんな事が日常茶飯事で続くとしたら、いよいよ人類は終わりだろう。だが起きない話ではない。

 どんよりとした空気と嫌な緊張感にサシャの気分は打って変わって信じられないほど重くなった。

 

 

 それから五日が過ぎた。嫌な雰囲気は銃撃戦の後からもずっと続いていた。

 日の下では快活だった者も、地下に来てからは鬱屈としている者が多い。誰とも話さず座り込む人間があちらこちらにいた。希望を見いだせないものがたくさんいた。

 こうなったのは何も事件だけが原因ではない。配給される食料が、配給されるたびに少しずつ粗末で少なくなっている。これが大いに人を不安にさせた。食料が少ないのは分かっていたが、まさか一週間も経たずにここまで追い込まれるとは考えていなかったのだろう。

 避難民は日々を戦々恐々と過ごしている。気の休まる時間がない。ずっと空腹だ。いつ食料を巡って五日前のような争いが起きるか分からない。そうでもしないと明日も生きていけないような状況に多くの人が追い込まれていた。その時は奪う側なのか、奪われる側なのか。

 サシャは空腹を我慢して祈るばかりだった。自分はもう二回も恐ろしい思いをしながら死んだ。その分幸せなことがあってもいいではないか。これ以上のひどい仕打ちはやめてほしい。せめてお腹いっぱい食べさせてくれてもいいではないか。

 けれど世界は残酷だった。

 人々の叫び声が聞こえた。暴動が起きたのだと思った。危険ではあるが、ありがたかった。運が良ければ混乱に乗じて外に逃げられるかもしれないからだ。

 しかし人々が逃げているのは憲兵の銃ではなかった。それよりもずっと恐ろしいものだった。

 巨人がいた。

 ウォール・シーナは突破されたのだ。サシャは半狂乱になった。

 こんなこと誰が予想しただろうか。百年の安寧を過ごしウォール・マリアは崩れた。次は五年後にウォール・ローゼ。そしてその次はたった五日でウォール・シーナだ。

 地下は日光が当たらない関係で地上より安全だが確実ではない。巨人は完全に日光を遮断しても、すぐに動きを止めるわけではない。巨人によって個体差はあるが、夜になってもしばらく活動している個体はいる。

 それに地下とはいえ、昼には微量ながらも、天井に空いた穴から太陽光が降り注いでいる。

 その証拠に地下に入ってきた巨人は普通に活動し、普通に人間を食らっていた。

 もはや食料がどうとかいう話ではなくなった。人類にとっての最後の砦が打ち破られた。本当に終焉だ。どこにも逃げる場所はない。

 地下は未曾有の混乱状態に陥った。巨人から離れようと人々は右往左往していた。

 サシャもその一人だった。父に抱きついて泣き叫んでいた。逃げ場のない地下で終わりが近づいてくるのをひしひしと感じていた。

 

「サシャ。泣くな。周りを見ろ」

 

 サシャは顔をつかまれ方向転換させられた。そこは阿鼻叫喚の嵐だった。サシャと同じく絶望し、多くの人が泣いていた。

 サシャは父を見上げる。悲痛な面持ちでサシャを見ていた。

 

「お前、話してくれたな。二回も死んで、なんとか助けようとしたって言うてくれたな。けどそれじゃあ足らん。お前はこの人達全員を守らにゃならん。もし次があれば、私のところには来んな。ローゼを、人類を守ってくれ」

 

 サシャは目を見開いた。地下の生活は退屈で、自然父との会話が多くなっていた。自分が何をしてきたか、どんなことが起こったのかも全て話した。

 だからサシャがどれほど巨人を恐れているか知っているはずだ。兵士に向いていないことを知っているはずだ。守る力などないことを知っているはずだ。なのにサシャに人類を守れという。

 

「そんなん、私には無理やって……!」

「けどもうそれしかない。サシャ、お前は臆病や。けど知っとるやろが。臆病な獲物ほど厄介なもんはない。誰よりも巨人の怖さを知っとるお前なら、必ず立派な兵士になれる。頼んだ」

 

 やがて巨人が目の前に現れた。

 動けないサシャをかばって父は食われた。

 そしてサシャも食われた。



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第四話 図る先

 サシャは厳しすぎる現実に衝撃を受けていた。

 巨人が怖くて逃げたのに、逃げた先にはまた巨人がいた。ウォール・シーナが突破され、サシャどころか人類にさえ希望はなかった。

 サシャは逃げ道を絶たれたのだ。故郷にはもう帰れない。いや、帰ってはならない。サシャがここから逃げ出し、故郷に帰ったところでどの道地獄しか待っていないからだ。父を連れてシーナに行っても、そのウォール・シーナが破られるのだから意味がない。

 父は人類を守れと言った。確かにもうそうするしかないだろう。でなければ死が待つのみだ。やるしかないのだ。

 しかし同時に無理だとも思っていた。サシャにはできる自信がなかった。

 

「ねえサシャ」

 

 そもそも、どうしてそんなことになるのだろうか。

 一度は巨人に破られたトロスト区も、エレンという存在により、巨人から奪還するはずだった。だが前回も前々回もそうはならなかったようだ。でなければウォール・ローゼに巨人が侵入するはずはない。

 本来突破されないはずのトロスト区が突破される。ここが本当に過去の世界ならば、なぜサシャが知っているはずの結果にならないのだろうか。

 サシャの記憶にあるトロスト区攻防戦。それとサシャが逃げている間に行われた攻防戦。双方の何が違うのかと言われれば、思い当たるのはサシャ自身が逃げたか逃げてないかの違いだけだった。

 しかしサシャは疑問に思う。大して力のない兵士一人がいなくなったところで、そう大きく戦況は変わるものだろうかと。

 サシャはあの日の自分の行動を振り返った。

 作戦が始まってからは、中衛で班の仲間とひたすら巨人を避けていた。そのうち撤退の鐘が鳴ったが、ガスが切れかけており、逃げられなかった。

 ガスを確保しに行った班が籠城を決め込み、みんなが死を覚悟した。やがてミカサが来て、本部に突撃。本部にて小型の巨人を討伐しようとしたがサシャとコニーは失敗。それをミカサとアニに助けてもらった。

 ガスを補給できたところでトロスト区から脱出した。その後、ピクシス司令から作戦の説明があり、エレンが穴を塞ぐまで、巨人からエレンを守るためにおとりをすることとなった。

 おとりといっても少しだけ巨人から逃げただけで、基本的に壁の上を移動しているだけだったし、気がつけば人類は勝利していた。

 これが全てだ。考えれば考えるほど、自分が何の役にも立っていないとサシャには感じられた。自分一人が逃げたからといって何が問題だろうか。

 

「サシャ、聞いてるの!」

 

 ミーナの大きい声に驚く。返答のないサシャに明らかに怒っていた。

 また目覚めてしまったのだとサシャはミーナを見て実感する。巨人も巨人だが、この現象もどうにかしてほしい。これで三度目だった。もし目覚めなければ、本当に天国にでも行けて楽だったのではないかと考える。何が悲しくてこの世の地獄に舞い戻ってしまうのだろう。

 

「やっとこっち見た。ねえ、いっしょに固定砲まで行かない?」

「固定砲……」

 

 固定砲整備。本来は駐屯兵団の仕事だろうが、訓練兵が滞在している時は、訓練兵の主な仕事となっている。口うるさい駐屯兵の先輩方は、これ幸いにと憲兵が駐屯兵に仕事を投げるように訓練兵に任せていた。

 仕事自体は難しいものではないが、そこそこの手間がかかる。煤だらけの重たい壁上固定砲を掃除するのは人気のない仕事だった。緊急時でもないので立体機動を使うわけにもいかず、リフトに乗って壁の上に移動しなければならない。

 壁の上。あの時から始まった。突如現れた超大型巨人。あのとてつもない熱風をサシャは覚えていた。故に即答する。

 

「行きません」

「え? そ、そう……」

 

 仲のいい友達をわざわざ起こして誘いに来たのに、この返答は予想外だったのだろう。間髪入れず冷たく言い放ったサシャにミーナは存外傷ついた顔をした。

 壁の上に行きたくないのはミーナのせいではなく、超大型巨人に会いたくないからだが、それが今ので分かるはずもない。サシャは慌てて弁解する。

 

「ほ、ほら。まだ朝ご飯たべてないじゃないですか」

「あ、そうだね。でもはやく食べなきゃだよ。待たせちゃうからね」

 

 今が何時か確認できないが、整備はまだ始まっていないし、それに超大型巨人が現れたのは午前だったはずだ。ということは確実に昼は越えていないだろう。けれど急いで朝食を食べなければいけない程には遅い時間に起きてしまったようだ。

 女子寮から食堂まではほとんど距離は離れていない。ささっと準備をし、食堂に移動した。ミーナと向かい合わせで席につき、パンとスープを食べる。見慣れたいつもの食事だ。普通にお腹が空いていたので、サシャにはありがたかった。

 ミーナはもう食事をすませたのか、何も食べずサシャに話しかけていた。

 

「それでね、エレンが調査兵団を見送りに行くんだって言って、すごい勢いでスープを飲んでたの。だからミカサとアルミンもがんばって早食いしてたんだよ。ふふっ。すごいよねぇ」

 

 ミーナの穏やかで平和な話に毒気を抜かれそうになる。けれどサシャは、ぼんやりしているわけにはいかない。パンを含みながらも難しい顔をする。このままでは本当にあっという間に食べて、そのまま壁の上に行くことになりそうだからだ。

 トロスト区から逃げても、巨人に食われる運命にある。だから何とかしなければならないというのはサシャとて了解している。だが超大型巨人や巨人と会うのはそれでも嫌だった。何とか回避はできないものかと口を動かしながら頭を動かす。

 そんな心情など知らないミーナはずっと楽しげにサシャに話しかけていた。まさかこれから地獄が始まり、自分が死んでしまうとは露程も思っていない気楽さだ。サシャはそれが少し羨ましかった。

 サシャが全て食べ終えると、それを確認したミーナは立ち上がった。壁の上に行くために食堂を出ようとする。しかしサシャは座ったままだった。それを見て訝しげなミーナにサシャはとっさに言い訳した。

 

「実は教官から少し他用を押し付けられまして、固定砲の整備には行けないんです。みなさんに言っておいてもらえますか?」

「そうなの?」

 

 ミーナは他用の内容を聞きたいようだったが、それは逆にサシャが聞きたい位だった。そんなものは口から出まかせだ。超大型巨人を避けるために、教官まで利用して嘘をついたのだ。

 とても大切な仕事だと具体的な内容をぼかしミーナを送り出した。あまり納得していないようだったが、追及はせずそのまま行ってしまった。やり過ごせたことにほっとするサシャ。しかし危難はミーナでなく巨人である。これからどうすべきか考えねばならない。

 お腹が膨れたこともあってか、サシャは少し落ち着いて考えることができた。

 サシャは経験上、自分が恐怖に支配されると、逃げるより先に固まって動けなくなってしまうことを分かっていた。三回も食われているが、慣れるどころかより恐怖が増している。巨人を前に固まってしまう兵士は、たとえ立体起動装置を着けていたとしても、単なる的にしかならないだろう。

 そういう意味でも巨人には会わないほうがいいと、サシャは結論づけた。情けない結論だったが事実だった。

 そこでふと、巨人に会わずしてトロスト区を救う方法を思いついた。

 サシャは急いで寮の部屋に戻った。ちんたらしているわけにはいかない。もうすぐにでも超大型巨人が門を蹴り破ってもおかしくない。行動しなければならない。

 

「えーっと、紙とペンは……」

 

 部屋に戻るとすぐに自分の荷物を確認した。サシャにとってこの部屋はあまり馴染みのある部屋ではない。トロスト区の滞在期間中にしか使わない部屋だし、それもサシャの感覚からすれば一ヶ月以上前のことだ。どこに何があったかなどほとんど忘れていた。

 やっとのことで目的のものを見つけ出した。筆をすべらせる。簡潔に、エレンが巨人になれること、エレンがトロスト区を奪還できること、彼を使って人類に勝利をもたらしてほしいと書きつけた。

 サシャの作戦は単純だった。サシャがいないというだけで、未来は大きく変わったように見える。それなら少し変化を加えるだけで、良い方向にも変わるのではないかと思ったのだ。変化といっても、例えば肉を全て盗み出すといったようなものでは、魅力的かもしれないがあまりトロスト区攻防戦に影響を与えないだろう。だから確実に人類に利益となる情報を報告することにした。

 サシャが逃げた場合、なぜかエレンは穴を塞いでくれない。しかし、こうして先に手を打っておけば、この手紙を読んだ者はいざとなればエレンを頼るはずだ。穴を塞ぐ方向に未来は傾くだろう。

 我ながらいいアイデアだとサシャは得意になる。未来の情報を知っているサシャにしかできない作戦だ。どうしようかと追い込まれたところに、このアイデアが出てきたのだから喜びもひとしおだった。

 あとはこの手紙を上官に届ければいいだけだ。上官に渡すにしては粗末な紙だし、字は急いで書いたせいでまずかったが、渡した後は逃げる予定のサシャが気にすることではない。

 早速上官の元へ向かおうと、意気揚々と鼻歌交じりに本部を目指す。本部と食堂はほとんど一体で、同じように寮からほとんど離れていない。すぐに行けるだろう。しかしそこで問題があることにサシャは気づいた。

 上官と言っても、訓練兵のサシャにとって上官はたくさんいる。だができるだけ上の人間に渡したほうが効果がでるだろう。ここは最前線の街だし多くの兵士がいるが、今確実に本部にいて、一番地位の高いものは駐屯兵団の隊長クラスだ。彼らは壁が破られたときの指揮もしていたはずだし、適任に思えた。しかし本部には間違いなくいるだろうが、上の人間であればあるほど、それに比例して会うのは難しくなっていく。一介の訓練兵でしかないサシャにいきなり手紙を渡しに行けるはずもない。どうすればいいだろう。

 迷っている間にも超大型巨人は迫っている。どうせ逃げるのだし押しかけて手紙だけ渡そうかと大胆な考えをしたところで、目の前を駐屯兵が通り過ぎた。今日のサシャは頭がさえているらしい。その駐屯兵を呼び止める。

 

「あの、すいません」

「ん? 何だ?」

 

 眼鏡をかけた女性の兵士はサシャの姿を認めると冷静に返した。

 

「この手紙を上官殿に渡しておいてくれませんか」

 

 サシャは手紙を渡した。女性兵士はそれを受け取って確認している。さすがに中身まで見ないが、怪しんでいるようだった。

 

「上官とは?」

「誰でもいいので偉い人です。よろしくお願いします!」

「え、おい!」

 

 なんとなく厳しそうな人だったし、追及されるのが嫌なのでサシャは捕まらないように全速力で逃げた。後ろから声が聞こえるが無視して走る。

 少々乱暴なやり方だったし、上まで届くか心配だったが、少なくとも手紙の内容は誰かに確認されるはずだ。いざとなれば上に報告してくれるだろう。

 あとはもうトロスト区から逃げるだけだった。馬を盗むのばかりが確実に上手くなっている。誇れることではないが役に立つ。

 トロスト区の外街を背にして馬で駆け出した。結局は逃げた格好になったが、サシャとしては自然なことだ。やれることは全てやり終えた。完璧かと言えば否定するしかないが、これがサシャにできる限界だった。上手くいきますようにと天に祈るしかない。

 さあ帰ろう、故郷へ。

 サシャは父が自分のところへ来るなと言っていたのを覚えていたが、もう関係ないだろう。これでトロスト区は救われた。ひいては人類も救われた。

 ローゼの平和は今しばらく保たれる。次にローゼが危うくなるまで一ヶ月以上の猶予があるのだ。その間に父を連れてシーナに入れば避難民としてあの地下に行かなくてすむだろう。

 それどころか、また手紙でも書いて誰かにウォール・ローゼを守ってもらえばいい。楽観視はできないがやってみる価値はある。もしかしたらシーナでなく故郷で父と再び暮らせるかもしれないのだから。

 こんなに簡単なことだった。こんなことをしないだけで何回も怖い目にあった。けれどそれも終わりだと、サシャの眼前には希望が見えていた。

 草原を馬で駆ける。やがて村を越え、山を越える。しばらくすると馬が疲労で止まってしまった。少し休憩させてやった方がいいだろう。

 もう焦って帰る必要はないのだ。ウォール・ローゼは無事なのだから。だから焦る必要はない。しかしサシャの焦燥感は収まらなかった。今にも巨人が後から追いかけていているような気がした。

 トロスト区からある程度離れたことで分かったことがあった。サシャは自分がとにかくトロスト区から離れたくて仕方なかったことを自覚した。だから手紙を一枚書いたくらいで全てが解決したと思い込めたのだ。ごまかしていた不安がどっとサシャの胸にあふれだした。

 もう帰ることはできなかった。帰郷すれば父がいる。そして父はサシャを助けようとして死ぬのだ。これ以上父を死なせたくなかった。もし帰るとするならば、安全を確認してからだ。

 もしサシャの手紙が功を奏しているなら、トロスト区の方角へ走っても問題ないはずだ。巨人がいて閉鎖されたトロスト区はあるだろうが、巨人がローゼまで入り込んではいないだろうから。

 サシャは馬を休めた後、そのまま踵を返し、トロスト区に駆け戻る。どうか成功していてくれと、祈りながら馬を走らせる。しかし結果はすぐに分かった。前方から複数の巨人。サシャは馬の上でへたりこんだ。

 ウォールローゼは突破された。

 

 

 またも巨人に食われた。そしてまた目覚めた。そこからサシャの孤独な戦いが始まった。

 サシャはまず猛省した。あまりに安易な発想だったと。

 考えるような時間がなかったこともあるが、狩りで鍛えられたサシャの頭は、深く考えることよりも、短い時間で直感的に行動するほうに向いているようだ。トロスト区を救うことと巨人と会わないこと、それを両方同時に、しかも短時間で達成させるための作戦をサシャは思いつけない。結果行きつく先は最初の作戦の焼き直しだった。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 様々な方法を試した。

 最初は手紙が届かなかったのだろうと思って届ける相手を色々と変えた。しかし効果はなく、巨人に食われた。

 手紙が悪いのだと思い、わざわざ質の良い紙とペンを使い、できる限り時間をかけて書いた。内容も簡潔なものではなく挨拶から入り、サインもし、エレンについての特徴まで事細かく書いた。しかし巨人に食われた。

 今度は直接上官の所へ出向き、直接エレンのことを伝えた。信じてはもらえなかったが、伝えることはできたはずなのにダメだった。巨人に食われた。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 時には反逆者に見られた。

 説明している途中で超大型巨人が壁を壊してしまったことがあった。それに慌てたサシャは逃げ出そうとして捕まった。

 駐屯兵団の隊長は、半信半疑で聞いていた態度をやめ、ひどく怯えた目でサシャを見た。どうしてトロスト区が破られることを知っていたのかという質問を投げかける隊長に、サシャは正直に答えた。しかし未来から来たという話は納得できるものではなかったのだろう。隊長はサシャを兵団に敵対する反逆者だと決めつけた。

 嘘つき呼ばわりをされ、巨人の仲間呼ばわりをされ、結果的に銃殺された。

 あまりに一瞬の出来事だった。音が鳴ったと思えば衝撃と共に視界が暗転し、また目覚めていた。人に殺されるのは、巨人に食い殺されるのと違った種類の恐怖と悲しみがあった。けれどもまだマシだった。少なくとも歯で潰される痛みはない。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 時には異常者に見られた。

 銃殺されたことで上官に頼らず何とかできないものかと考えたサシャに新たな閃きがあった。その閃きは前の作戦よりもっと単純だった。報告する相手を上官ではなく、上官以外の人たちにした。つまり、ただ誰彼構わずエレンのことを言いふらすのだ。寮で、食堂で、本部で、街中で、仲間も見知らぬ人も関係なくだ。

 しかし反応は良くなかった。真面目に聞いてくれる人などいない。

 見知らぬ人はそもそも話を聞いてくれないし、変な顔をされるか、鬱陶しがられればいいほうだった。

 仲間内でも、サシャの言葉にただ笑うばかり。仲の良い者は最初こそ笑っているが、必死に話すサシャを見て途中から心配してくる。

 それでもいざ超大型巨人が現れれば信じてくれるだろうと、銃と馬を盗んで何度も逃げた。けれども内門は破られ、巨人がサシャに向かってくるたびに、サシャは持っていた銃で自殺した。

 今度はより多くの人に聞いてもらおうと、大勢の人がいる中で演説のようなことさえやった。適当に小高い場所を見つけるとそこに立ち、まるで予言者のごとく高らかに宣言した。トロスト区はもうじき破られる。されど巨人の力を持つエレン・イェーガーという男が大穴を塞ぎ英雄となるであろう。

 サシャは話を聞いてもらうために宣言し続けた。多数の人からの注目を受けるのは落ち着かなかったが死ぬよりはマシだ。

 しかしこれは一番悪い結果となった。住民からの通報によって兵士に捕らえられた。尋問を受けていると、なんと超大型巨人が現れ壁を破壊した。そしてどこからか鎧の巨人が現れ、内門を破壊した。あっという間の出来事だった。

 混乱状態の中、逃げ出そうとしたが、なんと鎧の巨人はサシャを追いかけて来た。その恐怖に屈したサシャは青果店の屋台にあった小ぶりなナイフを喉に突き刺した。

 銃よりもはるかに苦しかった。死ぬなら銃に限ると思った。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 何度やっても上手くいかない。何をやっても上手くいかない。必ず銃で自殺することになるか、運が悪ければ巨人に食べられることになる。

 サシャは自殺できないことが不幸だと考えるようになった。



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第五話 怒る先

 そして、また目覚めた。

 いったい何度目覚めただろうか、そしてその分、何度死んだだろうか。目覚める時はいつも寝起きだが、もうずっと寝ていないような気がした。先程の死は、適当に掴んだ銃が運悪く壊れていて巨人に食われる結果となった。

 

「サシャ――」

「うるさい!!」

 

 ミーナの声が聞こえて、サシャは金切り声を上げた。ミーナは驚きで体が揺れ、まとめた髪が小さく跳ねた。それすらもサシャの神経を逆なでした。八つ当たりでしかないのは分かっていたが、すり減った精神状態では、何も知らずのうのうと起こしてくるミーナが鬱陶しくてしかたなかった。

 目覚めるとまず彼女がいる。故にサシャにとって、死の直後に見るミーナは失敗とやり直しの象徴のように見えた。

 もう何度も同じやり取りを繰り返し、無難かつ手短にミーナをやり過ごすことができるようになった。今回もそうするべきだったが、度重なる失敗と死に気が立っていてとっさに言ってしまった。

 しかし不都合はなかった。嫌われたからといって何も変わらない。このあと死ぬのだから、交わした言葉など無かったことになる。

 

「サ、サシャ?」

「うるさいって言ったのが聞こえませんでしたか?」

 

 困惑して覗き込んでくるミーナをサシャは睨んだ。これでも我慢したほうだった。一度吐き出し始めた鬱憤は抑えようにも止められなかった。

 サシャのトゲのある言い方に温厚なミーナもムッとした表情を見せる。

 

「何それ。せっかく起こしてあげたのに」

「誰も起きたいなんて言ってませんよ」

 

 二人の間に花火が散った。しばらく睨み合ったまま動かなかった。

 しかしミーナは急にシラけたとばかりに視線を外し、そのまま何もいわずに部屋を出ていく。サシャは遠のいていくミーナをじっと睨んでいたが、姿が見えなくなると消沈して布団に潜り込んだ。張りつめた空気の後は、静寂だけが部屋の中に残った。

 サシャは今すぐにでも行動を起こさなければいけないが、体が思うように動かない。自分の無力さ、バカさ加減に嫌気がさす。友人にまで喧嘩を売ってしまった。もう何もしたくなかった。

 サシャはしばらく寝て過ごそうかと考えた。いざとなれば銃を盗み出して自殺すればいいのだ。どっちみちそうなることは目に見えていたし、一度くらい何もしないまま死んでもいいのではないか。それを咎める者は良くも悪くもいないのだ。

 何度も何度もサシャは死んでいるが、それが理解されることはなく、礼を言われることもない。これだけの苦労が続いたことを知っているのはサシャだけだ。他に覚えているものは誰一人としていない。サシャが休もうが休むまいが、他の者たちは何も気にしない。なかったことになる。

 今までの苦労は何だったのだろう。

 その苦労を考えたとき、サシャの内にどっと黒い感情が沸き起こってきた。どうせ死ぬのだったら何もせず見ておいてやろうと考えた。他の者たちが巨人に食われる様を見て笑って楽しむのだ。恐怖を思う存分味わえばいい。やつらに次はないが、自分にはある。余裕の表情で銃を片手に、ただただ死んでいくところを眺めてやろう。何も知らずにのうのうと生きている報いだ。

 しばらくそんな暗い想像の海を漂っていた。すると布団越しに軽く体を揺すられ、ぼんやりした意識がはっきりしてくる。

 熱のこもった掛け布団に冷気が入る。何事かと顔を向けると、そこにいたのはミーナだった。まさか戻ってくるとは思わず、サシャは一瞬唖然となった。そして睨まずにはいられない。先程のやり取りの後で戻ってくること自体怪しかったし、想像の中でのミーナはサシャの復讐対象だった。

 不機嫌そうなミーナが手を差し出した。サシャは呆気にとられた。目の前に突きつけられたのはパンだった。食堂で出される普通のパン。まさかこれで攻撃するわけでもないだろう。

 

「なんで泣いてるのか知らないけど、食べたら元気でるでしょ」

 

 サシャははじめて自分の頬を流れる冷たい水に気がついた。袖で拭うが、後から後から流れ出て止められなかった。

 

「どうして泣いてるの?」

 

 睨むことはやめたが、返事をすることはなく、サシャは下を向いて涙を拭い続けていた。

 パンを受け取る様子もないサシャにミーナは逡巡するが、今は詮索せずに放っておくのがいいと判断し、再び部屋を出ようとする。

 けれどパンを持ったほうの腕をサシャに掴まれた。突然の無言の引き止めに、ミーナは目をぱちくりさせて振り向いた。

 

「わっ!」

 

 腕ごと引かれ、サシャの方向へと体が倒れた。布団のやわらかい衝撃を受けてミーナはわずかに目を閉じる。痛くはないが、少し鼻を打った。文句の一つでも言おうとサシャの方向に向きなおろうとするが、その前にまたやわらかい衝撃を受けた。

 気づけば、サシャがミーナに抱きつく形になっていた。抱き枕のごとく絡みつかれている状況にミーナは戸惑う。サシャはミーナの胸元に顔をうずめており、その表情を伺い知ることはできなかった。ただ泣いていることだけは分かっていた。

 

「疲れてるんです」

 

 顔をうずめたまま、サシャは独白する。ミーナは黙って聞いていた。

 

「少し疲れただけなんです。ごめんなさいミーナ」

「……そっか。大丈夫だよ」

「ごめんなさい……」

 

 謝っている理由をミーナは半分しか理解していないだろう。それでも優しく頭を撫でてくれるミーナの手はあたたかく、全てを許してくれるかのような慈しみを感じた。

 サシャはミーナに甘えることに決めたようで、動物のように擦り寄りながら、パンを食べさせるように要求した。

 ミーナは満更でもないようで、楽しげに要求に応えた。一口サイズにちぎっては口に運んでくれるミーナに、サシャは甘えるような鼻声で応え、顔を擦り付ける。ミーナは本当に動物でも相手にしている気分だった。

 ゆっくりと減っていくパン。全て食べさせ終えると、ミーナは大事なことを思い出した。

 

「あっ……固定砲整備……!」

 

 夢中になっていて本来の目的をすっかり忘れていたと、口元をおさえ焦りを表現するミーナ。そんなミーナに対してサシャに焦った様子は見られない。

 当然だ、最初から行く気などないのだから。思い切り甘えたことで、むしろ清々しい気持ちにさえなっていた。

 

「うあー、最後の最後に私……」

 

 しかしミーナにとってはそうではない。固定砲整備が特別好きなわけではないが、任務をサボるのは気が引けたし、訓練兵としての最後の仕事くらいはきちんとしたかったというのが本音だ。昨日解散式を終え、明日には所属する兵団を選択するというのに、これで教官に叱責でもされればなんと締まらない最後だろうか。

 

「はやく行こうサシャ」

「平気ですよ。そろそろですから」

「え、何が?」

「行きましょう」

 

 そのあっけらかんとした物言いにミーナは戸惑う。

 最初の不機嫌さはどこへやら、サシャは軽い足取りでミーナを連れ出した。まるで迷子の子供を道案内でもするように手を引くサシャ。されるがままにミーナは連れられて外に出た。このまま壁の上に行くのだろうと思えば、別の道を行きだしミーナは焦る。

 

「ちょっと、どこに行くつもり?」

「本部です。そのうちごたごたしますから。簡単ですよ」

「簡単……?」

 

 本部に到着しても手を離すことはなかった。変な目で見られてないかとミーナは気が気でなかったが、サシャの有無を言わせぬ態度に怯みそのままにしていた。

 しかしサシャは訓練兵ではまず立ち寄らないであろう場所にどんどん進んでいく。本部であるのに兵士の姿もない薄暗い廊下。その雰囲気にミーナはさすがにまずいと思ったのか抵抗を試みた。

 

「サ、サシャ」

 

 サシャは足を止めた。しかしそれはミーナが不安の声を漏らしたこととは関係がないだろう。

 突如、どこか遠くから信じられないくらい大きな音が響いた。

 その後には上のほうから鐘の音ががんがんと響く。ミーナはこの音を知っている。トロスト区に設置された緊急避難用の鐘だ。

 ミーナは思わずしゃがみ込んだ。そして一つの考えにたどり着き、青ざめる。

 

「こ、これって……」

「門が破られたみたいですね。こっちです」

 

 立ち止まってぼんやり上を見ていたサシャは、ミーナを起き上がらせると、再び手を取って歩き出した。

 平然と門が破られたと言ってのけるサシャにミーナは混乱する頭で何も言えず、抵抗もする余裕もなくついていくだけだった。

 

「ここは……武器庫? て、こんなとこ来てる暇ないよ!」

 

 ミーナは歩いて少し冷静になったらしい。さっさと武器庫に入ってしまうサシャについて行きながら言った。

 食糧庫ではなく武器庫なことに微妙な違和感を覚えるが、どちらにしろこんな場所にいるべきではなかった。

 これからどうするべきか。兵士となれば、緊急時にこそ冷静な判断をしなければならない。

 

「ええと、ええと……こういう時は訓練通りに……そうだ、たぶん招集されてる。はやく行かないと!」

「ありましたよ」

 

 そんなミーナをそっちのけでサシャはあるものを探していた。

 探していたといってもどこにあるかは既に知っているので取りに行っていたというのが正しい。武器庫の奥まったところに雑多に置いてあるそれは、少々埃を被っているが十分に使えるものだ。その隣に積まれていた弾も手に取り装填していく。

 ミーナは恐る恐る訪ねた。

 

「サシャ、その……何やってるの?」

「銃を使えるようにしてるんです」

「それは……何故?」

 

 背を向けて淡々と装填作業をするサシャの姿はミーナにとって不気味の一言だ。

 銃というのは巨人に対してほとんど効果がない。だから今はそれを準備する意味などないはずだ。兵士が銃を向けるのはもっぱら人間だ。その銃を使うとすれば、向けられるのは人間。そしてここにはサシャとミーナしかいない。ミーナは唾を飲む。考えたくもないことが頭をよぎった。

 作業を終えるとサシャは振り返った。ミーナの嫌な予感は当たる。その銃口はミーナを向いていた。

 

「サシャ……やめて……」

 

 凶行に走った友人に他に何が言えるだろうか。ミーナはサシャについてきたことを後悔する。

 起こしたときから様子がおかしかったが、まさかこんなことになるとは思わなかった。本部へ手を引かれたときにハッキリと意思表示しておけば、何か違っていたかもしれない。

 だがもう遅い。真っ黒な空洞は、ちょうどミーナの頭を狙っている。まだ撃たれてないが、ミーナはもう脳を射抜かれたような気分だった。膝はガクガクと震えていた。

 今にもサシャは引き金を引こうとしていたが、ミーナの様子を見てサシャは考えを変えた。銃口を下げると、ミーナのこわばった体もふっと力が抜けていた。

 

「すいませんミーナ。怖かったですよね」

 

 正気に戻ってくれたのかとミーナは縋る思いでサシャを見る。

 冗談にしてはたちが悪すぎた。ミーナはサシャにどういうつもりかと問い詰めたかった。

 しかしサシャは平然とした態度のまま歩きはじめ、後ろに回り込むと、ミーナの願い虚しく、そのまま後頭部に銃口を突きつけた。考えを変えたのは、位置だけだ。

 

「これなら怖くないですよね」

「なんで……なんでよサシャ……」

「ミーナは優しくしてくれましたから。そのお礼です」

 

 サシャはミーナに感謝していた。ただ腐るように布団にこもるよりもずっと息抜きができた。彼女のおかげで、非道な人間にならずに済んだ。だから恩返しをしなければならない。そしてこの残酷な世界でサシャのできる一番の恩返しがこれだった。

 しかしサシャの論理をミーナは理解できない。

 

「どうして優しくしたお礼が殺すことにつながるのか、説明してもらえる……?」

 

 ミーナの口から出てきたのは説得するような慎重な言葉使いだった。背筋を凍らせているミーナはサシャの頭がおかしくなったと考えている。

 サシャとしてはどう思われようがどうでもよかった。どうせ死ぬからだ。

 銃声は響かず、沈黙が空気を支配する。

 サシャの中で殺すことが一番のお礼だという考えは変わらなかったが、自分に優しくしてくれた目の前のミーナを作業のように冷たく撃つのは気が引けていた。何も分からず、いきなり頭を撃たれるのはいい死に方ではないような気がした。どうせなら納得の上で死んでもらうほうがいいだろう。

 サシャは銃口を向けたまま、静かに、確信をもって言った。

 

「人類は巨人に勝てないんですよ。そのうち食い殺されるんです。だったら、今ここで死んだ方がマシです」

「そんなの、分からないじゃない……」

「分かります。ミーナ。あなたの班はたしかアルミン以外は全員すぐ死んだはずです。あ、エレンは生きてましたね。でもミーナ、あなたは死ぬ運命にあるんです。死に目に会ったことはないですけど、間違いなく巨人に食われて死んでます。そんな怖い思いをミーナにしてほしくありませんから」

「なんでそんなこと分かるの……?」

 

 サシャはここで気づいた。納得してもらうのは不可能だと。ミーナの反応は何度か見たことのあるものだった。サシャが必死にトロスト区を救おうとして未来の話をすると、こういう反応が返ってくることがあった。

 サシャはため息を吐く。

 

「どうせ言っても信じません」

 

 残念な気持ちだが、やることは変わらない。これで終わりだとサシャは引き金に指をかける。

 これでいいのだ。巨人に食われるのも、銃に頭を撃ち抜かれるのも、死ぬのには変わりない。であればマシな死に方をしたほうがいい。それをサシャはミーナにしてあげられる。ただそれだけの話だ。

 

「どうせ死ぬなら巨人と戦って死にたい」

 

 サシャは指を止めた。目を細め、そして皮肉げに口元を歪める。

 

「ミーナは巨人の恐ろしさを知らないから、そんなことが言えるんですよ」

 

 もし巨人の恐ろしさを知っていたら喜んで銃に撃たれているはずだ。しかしミーナは喜ぶどころか震えている。

 

「確かに知らない。けど戦いたいの」

「エレンに感化されて調子に乗ってるだけです。実際にはミーナがいてもいなくても同じです」

「そうかもしれない。でも戦いたい」

 

 物分かりが悪い。自分の力を過信している。サシャは苛立たしげに吐き捨てた。

 

「どうしてですか。どうせ死にますよ。痛い目にあって、怖い目にあって。それで終わりです」

「だって……」

 

 ミーナが震える体を動かした。襲い掛かってくるかと警戒して、サシャは銃を構えなおす。

 しかしミーナの動きはぎこちなく、錆びた歯車のようだった。

 

「だって、戦わないと生きるのを諦めたことになるから。私は生きたいの。だから戦うの。痛くても、怖くても、戦うの」

 

 ゆっくりとサシャの方に振り向き、構えをとった。対人格闘訓練で習った型通りの構えだった。実戦はこれでどうにか出来るほど甘いものではない。サシャが指先を動かせば、いとも簡単にミーナは倒れてしまうだろう。ミーナもそれが分かっていて恐怖で震えている。けれどもその目は死んでいなかった。

 サシャはミーナよりも強いという自負がある。これでも成績上位者だ。身体能力や、立体機動でミーナに劣っていたことなどなかった。だが、それがどうしたというのだ。サシャに立ち向かうミーナは美しく、その目の涙の奥にはサシャにはない強さがあった。

 サシャは思わず息を吞んだ。

 

「え、えい!」

 

 ミーナが銃を飛びつくように奪い取った。避けられるものだったが、放心状態のサシャはあっけなく手放した。

 形勢逆転だ。サシャは銃を取り返そうとはせず、その場に座り込んだ。どっと疲れが押し寄せて、さっさと消えてしまいたかった。

 

「はあ。もういいです。殺してください。勝手に生きてればいい。私は死にます」

「だ、ダメだよ!」

「なら、自分でやるので返してください」

「渡すわけないでしょ! サシャも生きるの!」

 

 ミーナの言葉にサシャは乾いた笑みを浮かべる。その言葉に是と返せるほど、サシャは世界に希望を持っていない。

 

「生きる……生きるって、そんなに大事なことですか? ミーナはどうして生きたいんですか。生きることがそんなに良いことですか」

「大事に決まってる。生きてないと、大切な人といっしょにいられないもん。いっしょに笑ったり、泣いたりできないもん。それを壊そうとするやつがいたら、私は戦う……」

 

 ミーナは銃を抱えながら言った。

 

「みんなそうじゃないかな。人は人を守ろうとするんだよ。だから人類のために心臓を捧げた兵士は、誰よりも生きることを諦めちゃいけないの」

 

 サシャはうつむく。成績など関係ないと心底思えた。サシャよりもずっと立派な兵士が目の前にいた。兵士をやめてしまったサシャはミーナの目を見れなかった。

 

「ミーナは強いですね。私はそんな風に考えられません。生きることは死んでいくことですから」

 

 無理解か侮蔑を得て、自殺か捕食に行き着くだけ。そして死んでも次がある。長く続いた繰り返しの中で、生きることの価値はサシャの中で次第に下がっていた。

 ふわりと風がふいた。サシャはミーナに抱きしめられていた。ミーナのにおいがサシャの鼻をつきぬける。さっきも嗅いだ臭いだ。けれどよりいっそう暖かくて優しかった。

 

「そんな寂しいこと言わないで。こうやってくっついてると安心するでしょ? 部屋でもこうやってて、整備も忘れちゃうくらい楽しかったじゃない」

 

 涙まじりの声がサシャの耳元をなでる。

 

「この戦いが終わったらまたしようよ。サシャともっと仲良くなりたい。そのためには死ぬわけにはいかないでしょ。ね?」

 

 涙を拭ってサシャを鼓舞するミーナ。だがサシャはそれに応えることができずウジウジと尻込みした。

 死ぬわけにはいかない。そんなこと分かっていた。サシャだって好きで死にたいわけじゃない。だが死ぬしか選べない。

 

「無理です……怖いです……」

「サシャには大切な人、いる……?」

 

 気弱なサシャにミーナは無理やり目線を合わせた。

 サシャはしばらく間をおいて言った。大事な者はたくさんいるが、一番大切な人は一人しか思いつかない。

 

「お父さん……」

「じゃあお父さんを守るためにも戦おう。私はこの街に家族がいるの。だから死ねない。生き残るためにも、守るためにも、死ねない。サシャもそうでしょ?」

 

 無言でこくりと頷いた。

 サシャは父を思い出した。笑いあった父の姿を、サシャを守ろうとした父の姿を、そしてその死に様も。

 何故父が人類を守れと言ったかが少し分かった気がした。

 

「大切な人のことを考えれば、私は怖くても前に進める。さあ行こう。今回のことはなし! なんにもなかったの! 私とサシャはちょっと道に迷ってここにいるだけ」

 

 銃を捨てると、ミーナは脱力するサシャを無理やり立ち上がらせた。今度はミーナがサシャの手を引く番だった。ぐずる子供を引っ張る母親のようにミーナは本部の集合場所を目指した。

 みんなはとっくに集まって慌ただしく立体機動装置を整備し、装着していた。あちらこちらで兵士が駆け回り、まさしく緊急事態だった。

 

「あ、おいミーナ! サシャ!」

 

 遅れないよう準備に取り掛かろうとすると、そこに一人の訓練兵が飛び出してきた。男子にしては身長が小さく、わかりやすい頭が特徴的なコニーだ。コニーは二人の前に躍り出るとぐしゃぐしゃと髪のない頭をかいた。

 

「ああ、どう言えばいいんだ。クソ。仲良くサボりやがって。お前らがいない間、大変だったんだぞ!」

 

 サシャはコニーを見た。ひどく動乱しているようだ。超大型巨人が目の前に現れ、開閉門を破壊したのを直接見たことを言いたいのだろうと思った。本来であればサシャとミーナも見ていたはずだったものだ。

 門が破壊される光景は今でも鮮明に思い出せる。それほど物理的にも精神的にも人に衝撃を与える。しかしサシャは過去の記憶と比べて、少し違和感があった。たしかに衝撃的ではある。だがここまでコニーは動揺していただろうか。

 

「超大型がいきなり出てきて、壁を壊して……それでサムエルとエレンが死んだ!」

「えっ、うそ……」

 

 サシャにとって聞き捨てならない言葉が出てきた。死んだ。エレンが。

 ショックを受けるミーナを押しのけサシャはコニーに詰め寄った。

 

「死んだってどういうことですか。なぜエレンが」

「あいつ、超大型に向かっていって、それでそのままやられた」

「そんなはずありません……」

 

 エレンは超大型巨人に立ち向かう。そこまではいい。だが、その時点で死ぬようなことはなかったはずだ。駐屯兵の先輩方に促されて、いっしょに本部に戻り、超大型巨人が現れ何があったのかを報告したことを覚えている。

 だから死ぬはずがないし死んではならない。もし死んだとしたら、いったい誰が壁の穴を塞ぐというのか。

 

「サシャ……悪い。いきなりこんな話するんじゃなかったな。ミカサも錯乱しちまってるし……」

 

 立ち尽くすサシャにコニーは気遣いの言葉をかける。

 サシャは泣けばいいのか笑えばいいのかも分からなかった。今までの努力が全て無駄だったと思い知った。どれほどエレンの力を流布させたところで、トロスト区が救われるわけがなかった。ずっとエレンは死んでいたのだろうから。

 エレンがいない以上、この街は終わりだ。もう穴を塞ぐ手立てはない。サシャだけは知っている。ここで戦っても無駄骨だと。五日後にはウォール・シーナも破られるだろう。そして人類は終わる。

 だがみんな戦おうとしている。ミーナも落ち込んではいるが意志を失ってない。もうすぐ死ぬのに。みんな死にに行くのだ、生きるために。そのために準備している。

 

「私も……死にます」

「サシャ?」

「逃げるためじゃなく、生きるために、進むために……」

「お、おお。よく分かんねえし物騒だけど、がんばろうぜ!」

「ええ……」



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第六話 覚悟の先

 撤退の鐘はとうに鳴り終えた。住民の避難が完了した合図だ。

 兵士たちは喜々としてこの物騒なトロスト区から抜け出していく。わざわざここに残りたい者はいないだろう。巨人の蔓延るこの場所は、長くいればいるほど食われる可能性が高くなる。

 そんな中で、残っている兵士もいた。だが彼らは逃げないのではい、逃げられないのだ。トロスト区から抜け出すには、門を使えない関係上、当然壁を越える必要がある。だがそうするには壁まで巨人を避けて行き、登って行かねばならない。そのためには立体機動装置が必要だ。だがその肝心の立体機動装置はガスがなければ単なる重りと化す。彼らのそれはもう残り少なく、壁を上るだけの余裕はなかった。

 訓練兵たちは巨人を避けて動き、自然と同じ場所に集まっていた。前衛の駐屯兵は死に、後衛の駐屯兵はさっさと逃げた。中衛を担当していて、ガスをふかしすぎ、運が悪くガスを手に入れられなかった、そんな訓練兵の集まりだった。みんな絶望に顔を染めている。

 サシャも座り込んでいる。しかしそれは絶望してのことではない。死ぬことはほとんど確定しているが、諦めて死のうとはしていない。座っているのは単純に疲れたからだ。恐怖で体が強ばらないように気力を振り絞り、巨人に食われないように必死に避けてここまで来たからだ。

 サシャはまた気力を振り絞り立ち上がると、アルミンへ近づく。

 記憶が正しければ、そろそろミカサが来てもいいはずだが、いっこうに来ない。彼女がみんなを先導し、残り少ないガスで本部へと突っ込むはずだった。だが来ないとなると、みんなここで死ぬかもしれない。

 サシャはため息を吐く。エレンが死んだ弊害がこんなところにまであるとは。

 

「アルミン。ミカサはどこですか」

「……後衛に引き抜かれた。後は知らない」

 

 座り込んでいるアルミンは顔も上げずに言った。この様子では班員は全滅だろう。その中にはミーナも含まれていたはずだ。未来はこんなにも変わりやすいのに、どうしてこんなところばかり同じなのだろうとサシャは思った。

 悪いことばかりでなく、良いことも起きてほしかった。自分に何ができるのかサシャは分からなかったが、やりたいことがあった。

 しかしここにきて順調に事が運ばない。この現状ではやりたいことはできない。せっかくの覚悟が無駄になりそうだった。

 サシャは本部に行きたかった。でなければあいつに会えない。

 だがこのままサシャ一人で本部へ行くことは不可能だ。かといってミカサの代わりに皆を奮い立たせて本部へ急がせるだけのことができるかも疑問だった。

 サシャは考える。自分に今できることは何だ。どうするのが正解だ。何をすべきだ。

 思案しながら、何かないものかと、サシャは周りを見渡した。

 あいかわらず知能は感じないが、人を食う本能だけは働いているようで、巨人たちはサシャがいる建物の辺りを徘徊している。

 狙っているのは巨人から逃れてきた大勢の訓練兵。これだけ人が集まると巨人も寄ってくるのだ。それでも動かないで済んでいるのは、寄ってきている巨人が比較的小さく、屋根に手が届きそうにないからだ。十五メートル級が来たならいざ知らず、その程度の巨人は無視していた。

 しかし比較的小さいとはいえ巨人。危険なことには変わりない。寒気を覚える光景だった。なるべく見ていたくなかった。

 しかしサシャの視線はある一体の巨人に吸い寄せられた。

 

「あれは……」

 

 忘れもしない、あの巨人だ。四メートル級、大きな目に、固く口を閉ざした顔。

 思わぬ再開に、喜ぶのも変だが妙な高揚感があった。

 サシャは一度あの巨人に屈した。巨人の恐怖を最初に叩き込まれた。ブレードを投げ出して逃げた。そこをミカサに助けてもらった。サシャにとっては因縁の相手だ。

 あいつを倒さないで、進むことはできない。あいつと戦い勝つこと。それがサシャのやりたいことだった。

 本来ならこんなところにいるはずはない。だが、未来はほんの少しのことで大きく変わる。残酷な世界であるが、戦うことは許してくれるようだ。

 成功するかは分からない。無残に死ぬかもしれない。だが覚悟は無駄にならなかった。今こそ、反撃の嚆矢だ。

 

「お、おい!」

 

 コニーが驚愕の声を上げた。静かに項垂れていた者たちは思わず顔を上げた。この状況での人の叫びは巨人の出現を意味しているからだ。

 屋根に手が届く巨人が近づいてきたのかとあたりを警戒するが、それらしき影はなかった。コニーの視線の先は下を向いている。何かあるのかと、訓練兵たちも屋根の端に近づき覗き込んだ。そこには目を疑う状況があった。

 

「サシャ!」

「信じらんねえ。バカだと思ってたがここまでバカだったのか!?」

 

 サシャが屋根を下り地面に立っていた。屋根から同期たちに好き勝手に言われるサシャだが、それも仕方ないだろう。ガスが残り少ない中でわざわざ巨人と戦うのもどうかしてるのに、その上、強襲するわけでもなく一体の巨人の真正面に棒立ちしている。これでは食われに行ったようなものだ。

 巨人はサシャに気づくと、その巨体を近づけていく。

 

「何考えてんだあいつ……」

「分からん。あのデカさの巨人になら勝てるとふんだのか?」

「おーい! 戻って来い!」

 

 心配する同期の声を全て無視する。

 サシャは目の前の巨人にだけ集中していた。四メートルは小さいほうとはいえ、巨人は巨人だ。サシャの何倍の体積があるだろうか、近づくにつれ、その巨体と重量感に圧倒される。

 屋根の上からでは味わえない圧迫感がサシャを襲った。サシャは膝が崩れないように必死だった。音を鳴らそうとする歯をくいしばる。

 

「危ねえ!」

 

 サシャは巨人の初動を予想していた。それは見事に当たった。巨人は大口を開けて、その巨大な顔面から突っ込んできた。この攻撃をサシャは一度避けたことがある。今回も同じように右側に飛ぶことで回避した。

 前はここでミカサが助けてくれた。しかし今回はサシャ一人の戦いだ。サシャはすばやく立ち上がると、巨人のほうへ走り出す。巨人はサシャに躱されてうつ伏せの状態から、もう起き上がりかけていた。うなじを削ごうとするが、あと一歩届かず、肩下あたりを切りつけただけだった。

 掴みかかられないように、すばやく身を引いた。

 

「来ないでください!」

 

 サシャは屋根に向かって叫ぶ。そこには心配した同期がサシャを助け出そうと、ブレードを手に隙を伺っているところだった。気持ちはありがたかったが、邪魔されては困る。サシャは自分の手でこの巨人を倒したかった。

 

「今すぐ戻れ!」

「できません!」

「せめて立体機動装置を使え!」

「嫌です!」

 

 立体機動を使えば勝てる確率はぐっと高まるだろう。だが、これはあの日の再現だ。立体機動を使っては意味がないのだ。ブレードだけで戦ってこそ意味があった。巨人を倒し終わって屋根を上るときのために、立体機動装置は一応装着しているが、今は機能させていない。

 サシャは巨人を見据えて考える。立体機動を使わないとなると、どうすればうなじを削げるか。地面からは単純に届かないし、まさか背中をよじ登らせてはくれないだろう。巨人が自ら寝そべってくれることもない。先程の好機はかなり大きなものだったのに、逃してしまった。

 サシャは思い出す。あの時は、高いところから飛び降りて、うなじを狙った。

 サシャは近くの建物に走った。幸い鍵はかかっていない。サシャは真っ直ぐこちらに向かってくる巨人を一瞥すると、建物の中に入る。中の構造をサシャは知らなかったが、そう大きな建物ではない。すぐに階段を見つけると、一気に上まで駆け上った。

 一室の窓から外を見ると、ちょうどすぐそこに巨人の頭頂部が見えた。サシャは一瞬躊躇し、少し後ろに下がったが、すぐ覚悟を決めそこから助走をつけて窓から飛び出した。

 巨人が都合よく後ろを向いていてくれるはずもない。真正面からサシャをじっと見ていた巨人は、巨大な手でサシャを掴み取ろうとしていた。ブレードを叩きつけ、なんとか回避するサシャ。頭の上に落ちたかったが、巨人が上を向いている関係上、ほとんど顔面に落ちてしまった。

 急いで髪の毛をひっつかみ、うなじの方へ移動しようと肩に片足をかけた。しかしもう片足にとんでもない痛みが走った。

 

「ああ!」

 

 屋上にいた訓練兵は息を呑む。サシャの片足は食われていた。

 サシャは自分の左足の潰れていく感覚がよく分かった。どっと脂汗が出て拭う暇もない。このままでは掴まれて、全身を口の中へと入れられるだろう。そうなれば死んだも同然だ。それだけは避けねばならない。

 サシャは左手のブレードを食われた左足のまだ繋がっている部分に持っていく。そして自らの骨身に刃を突き立てた。利き手でないこともあってか、一度では削れず、何度も往復するように断ち切った。

 サシャはほとんど気合いだけで動いていた。執念とでも呼ぼうか、獣のように小さく唸りながら、痛みを堪え、右半身だけで巨人の肩からうなじへと回り込んだ。

 落下しながら両ブレードで巨人のうなじを削ぐ。そして逆さまのまま地面に激突した。

 

「サシャ!」

 

 立体機動を使い下りてきたのはコニーとアルミンだった。二人が地面に着くと同時に、巨人もその巨体を倒し蒸気を上げはじめた。サシャは倒せたことを確認すると、もう体に力が入らなかった。立つことはもちろん、ブレードを握ることすらできず、前のめりに倒れ込む。それを二人が支えた。

 コニーとアルミンに抱えられ、サシャは屋根へと避難できた。

 落下した衝撃からか、右腕はおかしな方向に傾き、何より左足があった場所は血の川を作り続けている。この出血量は平時ですら助かるかあやしい。意識はあるようだが、目の焦点が定まっていない。

 戻ってきたサシャの惨状に同期の誰もが青ざめていた。

 

「バカが! なんか勝算でもあんのかと思ったらこんなことになりやがって! なんで立体機動装置を使わなかったんだよ!」

 

 サシャにはコニーがまるで水面を通して話しているように聞こえた。だが水の中にいるのはコニーではなくサシャのようだ。くぐもって聞きにくい声に何とか返事を返そうとしたが、息が詰まって上手く声が出せない。息をしているだけでも苦しかった。まるで酸素を求めるかのように、浅い息づかいを繰り返しているのをサシャは自覚できた。

 だがこんなに苦しいのに、このまま眠れてしまいそうだった。不思議な感覚だった。

 

「はは……」

「笑ってんじゃねえよ!」

「私……巨人に……屈してません……勝てました……ちゃんと……」

「そんなこと聞いてねえだろ。しっかりしろ!」

 

 サシャは朦朧とする意識の中にいた。返事ともつかない言葉をぶつぶつと呟いている。

 コニーは聞こえているのかも分からないサシャに必死に呼びかけ続けた。

 しかしここにいる誰もが分かっていた。サシャはもう虫の息だ。じきに死んでしまうだろう。

 コニーもそれが分かっている。その頬には多量の涙がとめどなく流れていた。

 

「戦わないと……」

「ならここじゃなくてもよかっただろ! なんでだよ、あんな巨人一体に、無駄死にじゃねえか……」

「無駄死にじゃない」

 

 アルミンが力強く言った。コニーはアルミンを仰ぎ見る。握りしめた拳は小さく震え、死にかけのサシャを見る目には涙と決意にあふれていた。

 

「サシャは僕達に教えてくれた。巨人に屈しちゃいけないことを、諦めちゃいけないことを」

「でもよお……」

「それにあの巨人はミーナを食った。サシャはその仇を打ち、立派に戦った!」

 

 サシャは薄れていく意識の中で、アルミンのその言葉だけはしっかりと聞き取れた。

 あの巨人はサシャの因縁の敵というだけでなく、ミーナを食った巨人でもあった。サシャは意図しなかったが、ミーナの仇をとれたことになる。

 サシャの口角がわずかに上がる。

 

「さあ行こう。僕達は進まなくちゃいけない!」

 

 それが最後に聞こえた言葉だった。人はこんなにも穏やかに死ねるのだと、サシャは思った。



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第七話 注意の先

「おはようございます。ミーナ」

「あ、起きたのねサシャ。おはよう」

 

 また目覚めた。死んだ証拠だ。失敗の証拠だ。しかし今までの鬱屈した気持ちではない。

 サシャは隣にミーナがいることに安堵の息をついた。今回ばかりは戻ってこられたことが嬉しかった。

 

「固定砲整備、一緒に行きませんか」

 

 今まではミーナがサシャを起こして固定砲整備に誘っていた。それを今回は逆にサシャから先に誘ってみた。ミーナは自分が言おうとしていた台詞を取られ少し驚いたようだが、すぐ笑顔になった。私も誘おうと思っていたと笑うミーナに、サシャは幸せな気持ちになる。

 兵団服に着替える。これから壁の上に向かう。超大型巨人が出現する壁の上へ。

 以前のサシャなら絶対に行かなかった。巨人というだけでも怖いのに、何が悲しくてその何倍もある親玉のようなやつに会わなくてはいけないのかと思っていた。

 今は違う。サシャはもう戦うと決めた。逃げないと決めた。だからこそあの巨人と戦ったのだ。

 けれど会いたいというわけではない。巨人に対する恐怖心は残っていた。巨人に幾度と食べられた記憶は消えない。食べられる度に増えていった恐怖は消えていない。けれども踏み出せるようにはなったのだ。

 今もサシャの中では、超大型巨人に会いたくないという気持ちと、会わなければならないという気持ちがせめぎ合っている。行かなくてはいけない理由がなくなれば、絶対に行かないだろう。けれど現実はそうではない。サシャは人類のために戦わなくてはならない。具体的にはエレンを守らなければならない。

 だから壁の上に行くのだ。

 

「おまたせー」

 

 壁の上に着くとミーナが班員たちに挨拶をした。サシャ、ミーナ、エレン、コニー、サムエル、トーマス。この六人で固定砲整備四班だ。サシャもミーナと同じように挨拶をする。整備の準備をしていたエレンは気楽に返事をした。

 サシャはエレンの背中を見て奇妙な気持ちになった。何故かと頭をひねったが合点がいった。サシャの感覚では、エレンとかなり久しぶりに会ったことになる。エレンは早くから調査兵団の見送りに街に出ており、そのまま壁の上に向かっているのだから、壁を避けていたサシャとは一切鉢合わせしなかった。最後に会ったのは、サシャが一番最初に死ぬ前、壁外調査にて女型の巨人と交戦し、失意の中カラネス区に帰ってきた時以来だった。それをエレンが知るわけもなく普通に挨拶を返したのが、なんとなく面白かった。

 

「どうしたサシャ」

 

 ぼけっとしているサシャを変に思ったのかエレンが声をかけた。サシャは何と気なしに返事をした。

 

「エレン……元気ですか?」

「は? まあ、元気だけど」

「それはよかったです」

 

 サシャはそれ以上何も言わずエレンから離れた。エレンは頭を傾げて作業に戻る。しかしサシャはつかず離れずの距離からずっとエレンを意識していた。

 エレンは何故かトロスト区を守ってくれないと考えていたのだが、それはサシャの間違いだった。正確には守ってくれないではなく、守れないのである。何故なら死んでしまうのだから。

 サシャがいないとエレンは超大型巨人に突撃して死んでしまうというのは前回知ったことだった。エレンが死んだらトロスト区は終わったも同然なので、彼を守らなくてはならない。

 人類の運命は彼の手にかかっている。そして彼の運命はサシャにかかっている。だから何かがあればすぐに守れるように、作業に移りながらも、ちらちらと視線と向ける。超大型巨人が現れたらすぐにでも盾になれるように。

 

「ふーん……」

 

 一緒に作業をしていたミーナが呟いた。半目でニヤニヤと見てくるミーナの意図がつかめず、サシャは何と言えばいいか分からない。

 

「ミーナ?」

「エレン! ちょっとこっちに来て!」

 

 サシャの戸惑いは無視され、ミーナは大きく手を振ってエレンを呼んだ。

 さすがに班長に選ばれるだけはある。ライナーほどではないが、エレンにもリーダーの気質はあるのだろう。ミーナの突然の呼び声にも面倒くさがらず作業を中断した。

 

「どうした?」

「私の作業と代わってくれない? 私はそっちやるから」

「え、なんでだよ」

「いいから!」

 

 エレンは戸惑った。当然だろう。代わってほしいと言った仕事は固定砲内部の掃除だ。背丈ほどもある大きなブラシを持って煤だらけの穴を掃除するのは体力がいるし汚れる仕事だ。

 わざわざ代わりたい人間はいないはずだが、ミーナは別のようだ。嬉々としてブラシをひったくると、エレンをサシャのほうへ押しやった。そしてエレンの後ろからサシャに向かって小さくガッツポーズを見せた。そしてエレンが元いた位置に移動していく。

 ミーナの奇行に困惑し、サシャとエレンはお互い見つめあった。

 

「なんなんだミーナのやつ……」

「さあ、なんなんでしょう……」

 

 しかしサシャにとって悪い結果ではなかった。これで不審に思われることなくエレンの近くにいれるからだ。

 エレンは黙々と作業を再開した。サシャもそれに合わせて作業を始める。しばらく淡々とお互い作業をしていた。けれど無理に黙る必要もないと感じたのか、エレンが目線を落としながら話を振った。

 

「そういえばサシャはどの兵団に行くんだ。やっぱり憲兵団か?」

 

 憲兵団、駐屯兵団、調査兵団。訓練兵を終えるとその中のどれかを選んで所属することになる。たいていの訓練兵にとっては駐屯兵か調査兵の二択だ。そして大体が駐屯兵を選択する。上位十名は憲兵団に行く権利が与えられているので、大体が憲兵団を志望する。

 聞かなくてもほとんど分かるようなものなのだが、解散式の翌日に兵士がする話といえばこれだった。

 

「調査兵団です」

「……本気か?」

 

 憲兵団は上位十人しか入れない特別枠だ。そして安全な内地での勤務だ。調査兵団に行くというのは、それをふいにして、危険極まりない壁外に行くことを意味する。

 しかしサシャにとってその選択はあまりにも自然すぎて、驚かれたことに驚いたくらいだった。

 

「何でだ?」

「何で……」

 

 難しい質問だなと思った。エレンの疑問に上手く答えられる気がしない。前もそうだったから、というのが一番近い答えかもしれない。だが言ったところで間違いなく納得してくれないだろう。

 サシャは回顧する。自分が調査兵団に入った日のことを。エルヴィン団長の話の後で、壇上の前で泣きながら心臓を捧げたことを。

 あの場で動かなかった理由は複雑で、サシャは自分のことであるがはっきりと分からない。けれど原因の一つは確実に分かっている。

 

「エレンがいたからです」

「オレがいたから?」

 

 エレンという希望がいた。初めて人類が巨人に勝利した。さらには彼の生家の地下室に巨人の正体がある。きっとそれらが主な理由だ。

 サシャの答えにエレンはよく分からないという顔をした。たしかに抽象的すぎる答え方だった。サシャはごまかすように笑う。

 

「それに土地を増やせば美味しいものがたくさん食べられるようになりますし」

「あ、そのほうがサシャらしいな」

「ちょっと待って!」

 

 サシャとエレンは同時に体をのけぞらせた。ミーナがいつの間にか腰に手を当ててこちらを、正確にはエレンを、睨んでいた。今日のミーナはどこか情緒不安定に見える。

 未来は変わりやすい。そして変えているのは間違いなくサシャだ。しかしミーナが変になってしまうような大きな変化を起こした覚えはなかった。

 ミーナはエレンに詰め寄った。サシャは事の成り行きを見守るしかできない。他の班員も注目していた。

 

「今、サシャが大事なこと言ったよ。なんで無視できるかな!」

「なんだなんだ、どうした。なんかあったのか?」

「あ、聞いてよコニー! 今サシャがエレンに……」

 

 ミーナが最後まで言い切ることはなかった。そして誰もそれに気を留めなかった。突如現れた巨大な影、そして熱風。

 

「熱っ……!」

 

 吹き飛ばされる前、サシャは一瞬それが見えた。超大型巨人だ。巨人の中の巨人。他の巨人とは比較にならないほどの大きさだった。

 熱風は体を包み、サシャを壁から離していく。宙に浮き、そして落ちた。真下にはトロスト区が広がっていた。

 

「立体機動に移れ!」

 

 サシャは気を引き締める。あまりにも突然のことで、エレンの盾にもなれなかった。一瞬呆けていたが、こんなことではエレンを守れない。

 すぐさまエレンの位置を確認し、アンカーを刺す場所を慎重かつすばやく選ぶ。なるべくエレンの近くがいい。

 エレンは超大型巨人に向かって行って死んだとコニーが言っていた。であればここが正念場だ。エレンが危なくないように、体を張って止めねばならない。なんだかミカサになったような気分だとサシャは思った。

 立体機動で壁に吊り下がることに成功する。エレンもすぐ近くにいた。サシャは超大型巨人を無視し、エレンにのみ集中していた。

 

「サムエル!」

 

 エレンが叫んだ。視線の先には、頭を打ったのか、気を失ったサムエルが落下しているところだった。

 サシャは動けなかった。たった今この時まで、自分がサムエルを助けていたことなどすっかり忘れていた。エレンに近いこの場所では今から走っても間に合わないだろう。

 サムエルは班員全員に見守られながら、叫び声をあげることもなく、頭から落下し、地面を赤に染めた。

 エレンの顔がみるみる憎悪に支配される。目が鋭くなり、歯を食いしばっていた。その矛先は超大型巨人に向く。

 

「よくもサムエルを!」

 

 サシャは自分の不手際で人が死んだことにショックを受け、一瞬思考が停止していた。その間に立体機動を使い壁の上まで飛び上がるエレン。サシャは慌てて追いかける。

 瞬間、轟く衝撃音。開閉門の扉が破壊されたのだ。

 エレンはもう止まらなかった。

 

「てめえええ!」

「エレン! 待ってください!」

 

 サシャの制止は聞こえていないようだった。壁の上に着地すると、そのまま超大型巨人に突っ込む。エレンの頭には血が上り、冷静な判断ができていない。すんでのところでサシャはエレンの首根っこを掴むことに成功した。

 壁の上では恐ろしい光景が見えた。超大型巨人がその巨大な右腕をかかげ、横一直線に振り払おうとしている。この調子で突っ込んでいれば、確実にエレンは巻き込まれていただろう。

 

「離せ!」

 

 突っ込めば死ぬ。されど止まっていても死ぬ。助かる選択は引くことだけだ。

 だが暴れるエレンを引かせるのは簡単ではなかった。前に進もうとするエレンを押しとどめるのが限界だった。こんなことをしている間にも超大型巨人の腕は迫っていた。

 サシャはエレンを殴りつけた。

 

「ぐっ」

 

 ひるむエレン。心の中で謝罪しながら、サシャはエレンを壁の内側に落とそうと押し込んだ。しかし格闘術はエレンの十八番だ。壁の端ギリギリで止められた。両手を組み、押し相撲の体勢となる。それでもエレンの視線は超大型巨人の顔にだけ向いていた。

 

「っ!」

 

 右側から強烈な破壊音が聞こえる。線路や固定砲が潰される音だ。これに気を留めないエレンが信じられなかった。

 いよいよサシャとエレンに巨大な腕が迫った。

 そのまま押し込んでも、力では負けてしまう。もしくは躱されるだけだ。どうするべきかと考える暇もなく、サシャはとっさに身を引いて、エレンを蹴り抜いた。

 

「あ……」

 

 宙を舞って壁の内側に放り出されたエレンは、ここにきて超大型巨人からサシャに視線を移した。

 蹴った体勢のまま、エレンを守れたことに心底ほっとした表情を浮かべていた。

 そしてエレンの前で、巨大な腕に飲み込まれた。

 

 

 サシャは目覚めたベッドの上で、自分の愚かさに閉口する思いだった。

 ずっと逃げてきて、なぜトロスト区が滅びることになるのか疑問のまま、何度もやり直していた。半ばエレンのせいにさえしていたが、原因はまさしくサシャにあった。

 サシャが固定砲整備にいないことで、誰もサムエルを助けられず、彼は壁から落下して死亡してしまう。それに激昂したエレンが冷静さを欠いて超大型巨人に突撃する。そしてエレンが死んでしまい、大穴を塞ぐ手段は無くなる。結果トロスト区は陥落、引いては人類の終焉となる。

 逃げずに少し踏み出すだけですぐに分かることだった。この一つの真実のために何度サシャは死んだであろうか。

 

「大丈夫?」

 

 悄然と佇む姿をミーナは気遣わしげに覗き込んだ。サシャは大丈夫だと答え、丈夫な革製ジャケットの襟を正した。

 守るべきはエレンではなくサムエルだった。サシャは彼のことを失念していた。それが申し訳なく思えた。細かいことは忘れても仕方ないかもしれないが、仮にも人の命がかかっていたことを忘れるとは。地面に叩きつけられ肉塊となったサムエルの姿を思い出して寒気がした。

 だがとにかく前進には違いない。サシャはやるべきことをやるために行動する。

 

「すいません。先に行っててもらえませんか。すぐに行きますから」

「そう? なら先に行ってるね」

 

 ミーナを見送ると、サシャは上官の食糧庫に向かった。

 今やるべきことは上官の肉を盗むことだ。だがそれは肉が食べたいからでない。サシャは肉を愛しているが、それが主目的ではなかった。

 サムエルのことを反省し、あの一番最初のトロスト区攻防戦の日を再現しようと考えたのだ。未来がおかしな変化を起こさないように、なるべく記憶の中のあの日と同じ行動を取ろうとしていた。

 サムエルを失念していたように、忘れていることは多い。もちろん細かいことなど覚えていないので、どこまで再現できるのかも分からなかった。だがサシャは肉を盗んだことはしっかりと覚えていた。

 食糧庫は本部の地下にある。ひんやりとした地下は食べ物を保存するのに適していた。だがその場所故に、そう人が多いわけではない。数人の駐屯兵をやり過ごせばすぐにたどり着ける。

 サシャは腰を低くし、彼らの目を抜け、食糧庫を目指す。お遊びではないのだから気を引き締めなければいけないが、サシャは浮つく心を抑えきれなかった。サシャは久々に自分を取り戻したような気がした。狩人としての本能が騒ぐ。獲物にされた兵団はいい迷惑だろう。

 上官の食糧庫には、訓練兵にはまず出されることのない貴重なものもあった。希少品や高級品と呼ばれるそれらは、当然肉よりも高価な代物だ。だがサシャはそんなものには目もくれず、真っ先に肉を物色した。

 あの遠き日から現在まで、サシャの中には色々な変化があったが、変わらないものもある。その一つが肉は何よりも美味いという考え方だ。

 おいしそうで、盗みやすく、無くなっても見つかりにくそうな手頃な肉を一瞬で選別し、懐に入れた。かじりつきたい衝動に駆られるが、我慢して壁に向かう。

 壁の上では既に班のみんなが集まっていて、作業もそこそこに話し合っていた。そういえばこんな光景だったなとサシャは思った。記憶を探りながら、サシャはそこに割って入った。

 

「みなさん。お肉盗ってきました」

 

 かつての自分が言ったことを一字一句覚えているわけもなく、おおよそこんな内容だったと当たりをつけてサシャは言った。

 懐に隠していた肉を見せると、班員全員が驚きの表情を浮かべる。その反応は記憶と合致しており、サシャは安心した。

 

「いや、何やってんだよ。バカかお前は……」

 

 教官に目をつけられてる上に、解散式の翌日に盗みを行うサシャは疑いなくバカだ。だがこんなことは訓練兵時代に何度もあった。そして度々教官室に呼び出された。サシャにとってはなれた評価である。

 

「大丈夫ですよ。土地を奪還すればいいんですから」

「え?」

「だから先に食べちゃいましょう」

「なるほどな。ウォール・マリアを奪還する前祝いにいただこうってわけか。食ったからには腹括るしかないもんな!」

「そうです!」

 

 サシャは記憶と重ね合わせ。案外上手くいくものだと感心していた。あとで肉を食うこととなり、調査兵団に入ってウォール・マリアを取り返すことを意識し合う。これから起きる地獄さえ知らず、暢気に調査兵団に入ろうとしていた。そしてサムエルの言葉で、それぞれの作業に戻っていく。その一連の流れには懐かしささえあった。

 これにどれほど意味があるかは分からない。しかし大した苦心はしていないし、やって損はないだろうと思われた。それに記憶通りに動くことの利点は変に未来を変えないことだけではない。これから起こるその地獄が、どの瞬間に始まるかがわかる。

 サシャは神経を研ぎ澄ませる。記憶通りなら、もうすぐにでも来るはずだ。サムエルの近くにいたほうがいいか、それともなるべく記憶通りの場所にいたほうがいいか。

 サシャは超大型巨人が現れる場所を確認した。

 

「あ……」

 

 そこでふと欲が湧いた。門前には今何もない。巨人に奪われた雄大なウォール・マリアの景色が見えているだけだ。だが今からここに超大型巨人が現れることをサシャだけは知っていた。

 もし超大型巨人が、エレンと同じように、誰かが巨人になった姿なのだとすれば、今少し調べることでその正体が分かるかもしれない。顔を覚えておいて後で報告すれば、人類に多大なる貢献ができるだろう。

 せっかくここまで記憶に従って行動してきたのに、今からそれに逆らうのは躊躇した。しかしここを逃せば、ずっと分からないままだ。約一ヶ月以上後には、ウォール・ローゼは破られる。それを阻止するためにも、この機会を逃すわけにはいかない。

 サムエルに注意を払いつつも、サシャは壁の上からそっと顔を出した。真下には超大型巨人に破られる前の開閉門が見える。けれどそれだけで、人っ子一人いない。

 サシャはじっと観察する。どこから出てくるのか。まさか空中から突如現れるわけでもないだろう。

 変化が起きたのはすぐだった。開閉門の上は段になっており、そこには固定砲が設置されている。なので当然そこには人が行けるように、扉がついていた。固定砲へと続くその扉が開かれ、何者かが出てきた。サシャは咄嗟に身をかがめて様子を伺う。

 こそこそと動いている様は明らかに怪しい。顔をよく見ようと、サシャは目を凝らした。そして驚愕で目を離すことができなくなった。

 

「あれは……」

 

 扉から出てきた兵士はサシャの知っている人物だった。辺りを確認する彼。サシャは思わず顔を引っ込めて、後ずさった。

 彼は仲間のはずだ。サシャは信じられない気持ちでいっぱいで、今見たことを忘れたいとさえ思っていた。もし見間違いでなければ、そして推測が正しいのだとすれば、あの地獄を引き起こしたのが彼だということになる。

 サシャの目の前に超大型巨人が現れた。熱風に吹き飛ばされる。

 無意識にアンカーを刺して壁に吊り下がった。だがあまりのショックに眩暈さえ感じていて、サムエルの救助を忘れていた。エレンのサムエルを呼ぶ声でやっと気づいたほどだった。サシャは助けようとアンカーを射出するが、しかし遅かった。すんでのところでアンカーは刺さらず、サムエルはそのまま落下死した。

 状況は最悪だった。エレンが叫びながら上を目指している。ほとんど前回の焼き直しだ。サシャは半ば混乱する頭でエレンを追いかけた。

 そこには前回も見た恐ろしい光景が待っていた。超大型巨人が腕を振りかぶったところだった。サシャはエレンを止めなくてはならない。

 けれどサシャは動けなかった。超大型巨人を見ただけで、先程の熱の中にまだ残っているように息苦しくなった。サシャはその苦しみを消したくて、どうにもできず叫んだ。

 

「ベルトルト!」

 

 サシャの声に合わせて、超大型巨人の動きが止まった。これだけ巨大な生き物がぴたりと静止する様は、まるで時が止まったかのように静かだった。その巨体に相応しい大きな目はサシャを捉えていた。そこには確かな知性が感じられた。

 

「ベルトルト! あなたなんですか!」

 

 サシャは言わずにいられなかった。もし喋れるのなら、違うと答えてほしかった。

 その悲痛な大声に頭の熱が下がったのか、エレンは呆気にとられた顔をしてサシャを見ていた。

 

「何言ってんだよサシャ……」

 

 超大型巨人は返事をしなかった。代わりに腕を横に振らず、真っ直ぐサシャに掴みかかった。

 腕はその巨大さ故にゆっくりに見えるが、実際にはかなりの速度だ。

 とっさに近くにいたエレンを突き飛ばした。皮膚のない大きな手がサシャを飲み込んだ。

 超大型巨人はサシャを握りつぶした。



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第八話 対面の先

 飛び起きたサシャの勢いにミーナは身を反らせた。

 

「ベルトルトはどこですか」

「へ? ベルトルト?」

 

 勢いとは裏腹に冷静な声だった。だが開口一番のその質問にミーナは困惑する。サシャは寝起きとは思えないほど毅然とした態度でミーナを見ていた。ベッドに入っている関係上、目線はミーナが上のはずだが、見下ろされているような圧迫感さえあった。

 だがミーナは質問に答えられない。ベルトルトの動向など知っているわけもなかった。仲が悪いわけではなかったが、異性であるし、高身長で成績上位者だが目立つ人間ではない。むしろなぜ急にベルトルトが出てきたのかという興味が、ミーナの中で困惑より勝ってきた。

 

「ベルトルトに用事?」

「そうですね……」

 

 サシャは回想の中のベルトルトを静かに睨んでいた。解決の難しい大きな問題を捉えるように。

 

「うーん、誰かに聞けば分かるんじゃないかな。とりあえず今は固定砲整備に行かない?」

 

 固定砲整備に行けば確かにベルトルトに会えると、サシャは皮肉げに口元をゆがめた。ただし正確にはベルトルトではなく超大型巨人だ。

 そこまで考えて、サシャはかぶりを振った。

 サシャは彼が開閉門上部の壁の扉を開けて出てきたところを確かに見た。だが彼が超大型巨人に成るところを直接見たわけではない。超大型巨人に呼びかけたときも特に返事はなかった。

 だから確証はないはずだ。サシャの勘違いかもしれない。可能性は低いだろうが、サシャはそれに縋りたかった。今の時点でベルトルトが超大型巨人だと確定したくなかった。

 サシャとしては、会わずに済むならそれが一番よかった。真実を知るのが怖かった。自分の同期が、仲間が、ついさっき自分を握り殺したと思いたくなかった。

 けれど無視するわけにはいかない。確認しなければならない。そのために会わなければいけない。

 

「行きましょう……」

 

 サシャは固定砲まで行くことにした。考えてみれば簡単だ。外門の内側あたりで待っていればベルトルトに会えることに気づいたのだ。

 サシャはすばやく準備を終えると、ミーナと一緒に壁を目指した。

 トロスト区は賑わいを見せている。道の脇には屋台が並び、人が行き交っていた。最前線の街ではあるが、五年の平和でずいぶん活気づいていた。客を呼び込むハツラツとした声に、つられる兵団服がチラホラと見える。サシャはその度にベルトルトではないかと確かめていた。彼は地味だが、ある意味目立つのですぐ分かるはずだ。

 

「あ、アニ。おはよう」

「どうも」

 

 ミーナが声をかけたのはアニだった。

 サシャは前々回、ミーナと壁に行ったとき、途中でアニと鉢合わせたことを思い出した。その時はエレンを助けられるかという心配と、超大型巨人に会わなくてはならないという恐怖心で頭がいっぱいで、アニと特に会話することはなかった。アニも一言か二言、ミーナと言葉を交わすと、さっさとサシャの向かう先とは逆の方向に歩いて行ってしまったはずだ。

 食糧庫に行く等の寄り道をせずに、ミーナと一緒に壁まで歩くと、この場所で遭遇するのだろう。それが今回も起きたのだ。しかし変化もあった。

 

「ねえ、ベルトルトがどこにいるか知らない?」

 

 サシャは未来の変化に半ば関心さえした。前はこんな会話をしなかった。意図せず未来は変化する。サシャが思わずベルトルトのことを聞いてしまったが故に、ミーナが善意で動いたのだろう。

 

「食堂だけど。何で」

 

 そのまま通り過ぎようとしていたアニが足を止めて言った。その言葉にサシャは目を丸くした。答えてくれるとは思わなかったし、答えられるとも思っていなかった。

 質問したミーナでさえそうだった。ベルトルトのことは一応程度に聞いてみただけで、何か掴めると期待したわけではない。無愛想なアニのことだ。せいぜい、さあ知らないね、とだけ言われて終わり。あとは普通に別れることになるだろうと思っていた。

 

「へえ、食堂にいるんだ。アニってベルトルトと仲良かったっけ?」

「別に……たしか食堂にデカいのが見えたなって思っただけ」

 

 アニは明らかに言わなければよかったと思っているだろう。目線を逸らして面倒そうにしていた。ミーナはそのアニの反応を見慣れているのか、特に気にする素振りは見せない。

 ともかくベルトルトの居場所が分かったのはいいことだろうと、ミーナは純粋な喜びをサシャに向けた。

 

「よかったねサシャ。どうする? 今から行く? 整備には遅れちゃうかもだけど、大事な用事なんでしょ」

「行くことにします。みんなに言っておいてください」

 

 ミーナは了承し、班員に伝えておくと約束した。サシャは踵を返して食堂へと歩き始める。

 ベルトルトと会うだけなら、壁の下で待ち伏せしていればいいが、なるべく人目に付くような場所で会うのは避けたかった。それにベルトルトと開閉門という組み合わせは、否が応にも疑いの気持ちを強くさせてしまう。別の場所で会えるならそれに越したことはなかった。

 ふと隣を見るとアニが並んで歩いていた。背の低さ故に頭頂部がよく見える。しかし鋭い目つきで下から覗いていたので、サシャは急いで前を向いた。

 

「ねえ、あんたがベルトルトに何の用があるの」

「少し話があるだけです」

「話ね。今から食堂に行くから、連絡とかなら代わりに伝えとくけど」

 

 まさかベルトルトが超大型巨人かを代わりに確かめてもらうわけにはいかない。

 こんな時に限って、アニは珍しく優しかった。アニはどちらかといえば孤立気味だ。サシャとは話さないわけではないが、特別仲がいいわけでもなかった。わざわざ手伝おうとしてくれる姿をサシャは意外に思う。

 

「ありがとうございます。でも直接言わなきゃいけないことなんで」

「そう……でもまだ食堂にいるとは限らないと思うけど。後にすれば?」

「後じゃだめなんです。いなければ探します」

 

 屋台が並ぶ通りを抜けていく。おいしそうな臭いにサシャのお腹が小さく音を立てた。

 そういえばアニはどうして食堂に行くのだろうか。朝にしても昼にしても、食べるには微妙な時間だ。

 

「アニは何しに食堂へ?」

「別に……」

 

 アニは話す気がないようだった。サシャは小首を傾げた。単に無口なのか、隠しごとをしているのかよく分からない。しかし深入りする必要もないだろうと、サシャは話題を変えていく。

 どこの兵団に行くのか、好きな食べ物は何か、そんな取り留めのない話が続いた。

 アニは憲兵団に行くことに決めていた。それは記憶通りで特に驚くこともなかった。

 そして好きな食べ物は特にないと答えた。サシャは信じられないと驚く。

 

「肉は? 芋は? パンは!?」

「それは全部あんたでしょ。それより私はあんたが調査兵団に入るっていうのが意外。内地に行けばどうとかって言ってなかった」

「たしかに内地なら美味しいものがいっぱいありますね。でも外に行けばお肉がいっぱい取れますよ」

「なるほどね……」

 

 サシャはいつの間にかアニとの会話を楽しんでいた。言葉自体はぶっきらぼうだが、けして嫌ではなかった。憲兵団に行ってしまうアニとは、会う機会が少なくなる。もっと仲良くしておけば良かったと思った。

 ベルトルトと会うことが余計に憂鬱になってくる。こんな穏やかな時間を過ごせるのはあと少しだ。なるべく話していたかった。

 

「それに私は戦うことにしたんです。生きるために」

「逆に死ぬと思うけど」

「逃げたらそのうち死にます。でも戦って敵を倒せば安心して暮らせます」

「そう……」

「故郷がウォール・ローゼにあるんです。もし壁が突破されたら、お父さんが死んでしまいます。だから私は戦って、巨人に怯えないでいい故郷で、家族と平和に暮らしたいんです」

 

 穏やかな時間は終わりを迎え、いつの間にか食堂に到着していた。こんな時間ではあるが人はいて、コップを片手に談笑しているものは多い。その中にベルトルトの姿もあった。ライナーと一緒にいる。

 二人はサシャとアニに気づくと席を立って近づいてきた。サシャはそれに合わせて強張っていく体を解そうと、むやみに肩を回して、アニに怪訝な顔を向けられた。

 眼前に立ち止った二人を見て、やはり大きいとサシャは思った。だがそれぞれ特徴があって、ライナーは大柄に見えるのに対し、ベルトルトは長いという印象を与えた。隣の小柄なアニと比べると、ますますその感じは強くなった。

 サシャが二人を観察するのと同じく、ライナーも二人を観察していた。

 

「よう。二人仲良く珍しいな。どうした」

 

 話しかけてもいないのに、どうして用事があると分かったのだろう。サシャは疑問だったが気の重さに追及もできず黙っていた。

 ベルトルトを見やると、会話のすべてをライナーに任せているのか、そのでかい図体を突っ立てているだけだ。この二人はよく一緒にいる。ライナーはこの男のことをどれほど知っているいるのだろう。あるいはすべて知っていて黙っているのかもしれない。

 サシャはこれ以上人を疑うことを避けたくて、考えを振り払った。とにかく今はベルトルトだ。

 

「ライナー、ベルトルトを貸してもらえませんか」

 

 ベルトルトのことなのにライナーから許可をもらうというのは奇妙な感じがした。だが同時にそれが自然にも感じた。二人も特に気にしていないようだ。

 ライナーは顎に手をやり困った顔を浮かべた。断りの雰囲気を感じたがサシャは引く気がなかった。

 

「これから少しやることがあってな、後でじゃだめか?」

「ダメです」

 

 サシャは即答した。これは後でやれる類のものではない。この気がかりな状態を維持したままは嫌だったし、何よりこれから起こる地獄のせいで、後で口を開ける保証すらないのだ。

 ライナーは四角い顔にしわをよせ、目の前のサシャをどう説得しようか迷っていた。

 

「大丈夫です。少し話すだけですから」

「うーん、なら少しだけだぞ。いいか、ベルトルト?」

「う、うん」

「来てください」

 

 許可はとれたし遠慮することはないだろうと、サシャはベルトルトを食堂から連れ出した。向かう先は建物の裏手である。

 到着するとサシャはここで正解だったと確信した。人っ子一人おらず、遠くから人の賑わいがうっすらと聞こえるばかりの静かなところであり、他聞がまずい話にはうってつけだった。

 もし教官に、どうしてそんな場所を知っているのかと聞かれれば、狩りにおいて場所の把握は重要だとしか答えられないだろう。

 辺りを確認するサシャに、ベルトルトは遠慮がちに声をかけた。

 

「それで、話って?」

 

 向き合うサシャだが、ここに来て言葉に詰まった。使命感でベルトルトに近づいていたが、具体的に何をどうしようという考えはさらさらなかった。

 ただ確認をしなくてはという気はしていたが、どう言ったものかも分からない。もしかして超大型巨人なんですかと直球で聞くこともできず、迷った挙句に出たのは取り留めのない普通の話題だった。

 

「ベルトルトはどの兵団に行くんですか」

 

 仰々しくこんな場所まで連れてきておいて、いたって平凡な面白味もない話を始めたサシャを、ベルトルトは怪訝な顔で見ていた。

 

「憲兵団だけど……」

「へえ。理由を聞いてもいいですか?」

「やっぱり内地での安定した暮らしがほしいからね」

 

 多くの兵士にとってそれは本音だろう。公の場では、ジャンでもなければ、人類のためだの住民が安心して暮らしていけるようにしたいだの建前を述べる。けれど憲兵団を目指す本当の理由は誰もが分かりきっていた。内地でのいい暮らし。それはみんなにとっての本音だった。

 けれどサシャには、ベルトルトの言葉が本音ではなく建前に聞こえてしまった。いよいよベルトルトが怪しく見えて、サシャはかぶりを振る。

 

「ベルトルトは……みんなのことをどう思ってますか。仲間だと思ってます?」

「え? もちろんだよ。みんな仲間だと思ってる」

「誰かを憎んでるとかないですか?」

「な、ないよ。どうしてそんなこと聞くんだ?」

「では人が死んだら悲しいって思いますか?」

「ちょ、ちょっと待ってくれよサシャ!」

 

 無表情のまま淡々と話すサシャに、ベルトルトは尋問を受けているような気分になっていた。

 これ以上はたまらないと思ったのか、要領の得ない質問を続けるサシャをベルトルトは慌てて止めた。

 

「いったいどうしたんだ? 結局何が聞きたいんだ」

「すいません……」

 

 サシャは頭を下げた。矢継ぎ早に質問をしてしまった原因をサシャは自分で分析できていた。怖いのだ、結局。直球で質問して、是と答えられるのが怖かった。だから遠回しにベルトルトが真っ当な人間であることを確認していた。

 伏目で落ち込むサシャはどこか疲れて哀れに見えた。ベルトルトは普段のサシャとは違う暗い雰囲気にたじろぐ。だが両者とも黙ったままでは、この空気は変えられないと思ったのだろう。頭をかくと、ばつが悪そうに言った。

 

「僕は……これは驕りだし、恥ずかしいけど……告白でもされるのかと思ったよ」

 

 サシャは思わぬ言葉に目を丸くした。

 

「告白、ですか」

 

 解散式の翌日に異性から人目のつかない場所に呼び出されれば、そう捉えることもできるだろう。普段はバカと呼ばれるか、芋女扱いなので、そういう対象として見られるという経験がなく、サシャはこそばゆい気持ちになった。

 無論サシャに告白のつもりなど毛頭ない。

 

「すいません、勘違いさせてしまいました」

「いや、いいんだけど。でも、これじゃあ僕がフラれたみたいだね」

「あはは」

 

 やわらかくなった空気に、サシャは一抹の憂いを覚えた。こうして見ると、どうしたって普通の同期との会話だ。このまま別れて、何事もなく見過ごしてしまいたかった。けれどそうするわけにはいかなかった。

 覚悟を決めたように小さく深呼吸を始めるサシャ。ベルトルトはそれを見て、やっと本題に入るのかと構える。

 サシャは吸った空気をぶつけるように言った。

 

「どうして壁を破壊するんですか」

 

 言葉が真っ直ぐベルトルトに突き刺さった。瞬間、吹雪にでも当たったかのように身を凍りつかせた。サシャの視線に捕らえられ、目をそらすこともできない。

 一瞬なのか、長い時間なのかも分からず、二人は静止した空間で見つめあい動かなかった。

 サシャはその反応を見て、彼の正体を確信した。

 

「あなたが超大型巨人なんですね。ベルトルト」

「な、な、なんで……」

「そして今日、トロスト区の門を破壊する。五年前、シガンシナ区を襲ったように……」

 

 ベルトルトは目玉が落ちそうなほど目を見開く。足がガクガクと震えだした。サシャは見ていられなかった。

 

「ど、どこまで知ってるんだ? 知ってるのはサシャだけか? どうやって? なんで?」

「それは言えません。でも知ってるのはたぶん私だけです」

 

 この結果は半ば予想していたこととはいえ、やりきれない気持ちでいっぱいだった。

 サシャはどうすればいいのか分からない。ただ口から出てくるのは矢継ぎ早な質問だけだった。

 

「ああ……どうしてですかベルトルト。なぜここまで人類を追い詰めるんですか。あなたの目的は何なんですか。あなたがシガンシナ区で……ぐあっ!」

 

 腹部から背骨まで届いた衝撃に、サシャの息が一瞬止まった。何が起きたのか分からず目を白黒させていると、気づけば体をくの字にして倒れていた。

 サシャはそこから見上げたベルトルトに超大型巨人の影を見た。かつて見たときはもっと巨大だったが、その殺意の色は同じだった。

 

「がえぇっ」

 

 ベルトルトがサシャに馬乗りになった。サシャは振り解くことも、起き上がることもできない。

 ベルトルトの体重を乗せた手はサシャの気道を強く締め上げた。遠のく意識を振り絞って、サシャは拳を入れようとするが、ベルトルトの真っ直ぐに伸ばした腕に少し当たる程度で、顔にすら届かない。手の甲に爪をたてるが、その程度で離してはくれなかった。

 

「お、おいベルトルト! お前何して……!」

 

 声をかけられたことに顔面蒼白となってベルトルトは振り返った。しかしその相手を認めるとほっと息をついた。様子を見に来たライナーだった。

 サシャは声も上げられないまま、助けを求めるように手を向けたが、ライナーは啞然として二人を見ているだけだった。

 

「正体がバレた!」

「何だと!?」

「どこから漏れたかわからない。でも生かしちゃおけない。ライナー、腕を押さえててくれ!」

「くそ!」

 

 サシャは目を見開く。

 超大型巨人がベルトルトだということすら辛いのに、ライナーまで敵だった。その証拠に、二人は協力してサシャを殺している。サシャはその事実がとてつもなく悲しかった。

 動けない。声も上げられない。意識は遠のき、死んでいくのがわかる。

 声にできない叫びを上げながら、見開いた目は涙で濡れていた。

 やがて意識は暗闇に沈んだ。



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第九話 涙の先

 目が覚めたと同時に、サシャは大声で泣いた。

 

「ちょっ」

「うああああああん」

 

 大口を開けて、二段ベッドの天井に向かって叫んでいる。人目も憚らない子供のような泣き方だった。

 いきなり泣き散らすサシャにミーナはどう対応すればいいか分からない。駄々っ子のように布団を引っ張ったり叩いているサシャは明らかに普通ではない。慰めて収まるものなのか。

 しかしミーナが泣かしたわけではないが、ミーナの前で泣き出したのも事実だ。放ってはおけなかった。

 

「よ、よしよし」

 

 サシャはミーナの手をいやいやと振り払う。いよいよ子供だった。言葉に耳を貸すわけもなく、ミーナは憮然としてサシャを見ていることしかできなかった。

 当のサシャはミーナを気遣う余裕がない。悲しみ。辛さ。その二つにサシャは支配されていた。

 サシャは自分の運命を呪うしかなかった。どうして自分だけこんな目にあう。どうして自分だけこんな事実を知らなければいけない。どうして仲間だと思っていた相手に首を絞め殺されなければならない。どうして。

 サシャの泣き声には悲しみと同時に怒気の色も多分に含まれていた。

 戦わなければいけない相手は巨人だと思っていた。ただ意思もなく、人間を食らう動物ともつかない化け物。殺しても害はなく、むしろ殺して然るべき相手だった。何の感傷もわかない。だからこそ戦えた。

 しかし巨人化した人間は違う。それも同期だったらなおさらだ。

 自らの浅はかさを憎む。こんな結果になるとは思いもせず、何の覚悟もないまま壁の下を覗いたのだ。サシャは後悔する。あのまま何も知らなければ楽だったのに、人類のためと思って覗いてしまった。

 真実を知った今、サシャの進むべき道は決まってしまった。同じ釜の飯を食った仲間と戦うしかない。でなければ人類は滅びるのだから。それをサシャは理解していた、そしてまだ受け入れられないからこそ、泣き叫んでいた。

 

「うぐっ……うううああああああぁぁ」

 

 大声を出し過ぎて喉を痛めたのか、段々と嗚咽混じりの泣き声に変わっていく。それをミーナはじっと見ていた。サシャが落ち着くまで待つことに決めたようだ。少し収まったとはいえ、まだ十分に号泣しているので、しばらく待つ必要があるだろう。

 そんな時、別の部屋にいた女子訓練兵たちが騒ぎを聞いて、何事かと詰めかけてきた。数人の女子同期に囲まれる中、それでもサシャは脇目も振らず泣いていた。涙でぐちゃぐちゃの顔を布団で拭っていた。

 同期たちも最初は啞然と見ていたが、やがてミーナと同じように慰めようとし、ミーナと同じように無視されていた。どうしたものかとサシャを見守る中から出てきたのはクリスタだった。

 

「サシャ、泣かないで」

 

 同期の中では誰よりも優しい彼女。当然、泣いているサシャを放っておくわけもない。ベッドに腰掛けると優しく手を包み込んだ。一同は感心する。何の反応も示さなかったサシャが握られた手を見て、嗚咽を少し収めたからだ。さすがは一部の同期から女神と評されるだけのことはあった。

 

「大丈夫? きゃっ!」

 

 暖められていた手が突如クリスタの腕を掴んで引き寄せた。クリスタは倒れ込み、サシャに抱き寄せられる。結果、サシャの膝の上に乗る形となっていた。まるでぬいぐるみでも抱くかのような扱いだ。顔をクリスタの後ろ髪に押し付け、涙を拭いていた。

 

「てめぇクリスタに何してんだ」

「いいのユミル。こうすると安心するみたいだから」

 

 涙が少しづつ収まり、すねた子供のような泣きかたになった。クリスタの髪を涙で濡らすだけでは物足りないのか、手を伸ばしてミーナも引き寄せた。

 

「え? 何? 私?」

 

 ベッドに座らせると、サシャはミーナにもたれかかった。これで完成とでもいいたげに、静かに泣いていた。

 クリスタを抱きしめ、ミーナに甘えるようにもたれかかる様を見て、ユミルはげんなりとして言った。

 

「酔っ払って女侍らせてるじじいにしか見えねえぞ……」

「何言ってるのユミル。サシャは女の子だよ」

「んなこと分かってる」

 

 ユミルはぐすぐすと鼻を鳴らすサシャに詰め寄った。

 

「おいバカ。わざわざクソでかい声で私とクリスタの時間を潰してくれた訳を話してもらうぞ」

「ユミル。そんなの無理に話させることじゃないよ」

「でもここにいるやつらは気になってるみたいだぞ」

 

 部屋に集まった女子たちは、もちろんサシャの心配もしていたが、それと同時にサシャがここまで泣く理由も知りたがっていた。訓練兵は自由が少ない。つまり娯楽も少ない。彼ら彼女らにとって、何かの事件や人の噂は大きな娯楽である。

 サシャの大泣きはすぐに噂として楽しまれてしまうだろう。その際に何故泣いたのか理由もあれば完璧だ。だが下手をすれば傷つける結果になりかねず、悪者になってしまう可能性もある。ユミルのように堂々と聞けるのは少数派だ。

 

「サシャ、平気? 話せる? 言っちゃったほうが楽になるかもよ」

 

 ミーナも理由を知りたがった。だがそこには気遣いの色が多分に含まれている。ユミルと違ってサシャにも優しいミーナは、手を頭に持っていき今度こそサシャを撫でた。

 サシャはこくりと頷いた。ミーナとクリスタに挟まれてやっと泣き止んでいた。ミーナが背中をさすってくれる。

 

「それじゃあ、どうしたの? 何かあったの?」

「ライナーとベルトルトが……」

「ライナーとベルトルト?」

 

 一同は口を閉じて、一様に耳を澄ませていた。サシャの口から発せられた意外な人選に、否が応にも期待が高まる。

 

「二人がどうかしたの?」

「二人は巨人だったんです……」

「へ?」

「はあ?」

 

 部屋の中の女子同期たちは、みんながみんな、ぽかんと口を開けてサシャを見いていた。当人は苦悩を色を浮かべているが、とてもそんな気になれなかった。

 部屋中がどっと笑い声に包まれた。中でもユミルは一番大声で笑っていた。

 

「たしかにあいつらデカいからな。間違いなく二メートル級の巨人だろうよ。実は私もそう思ってたんだ」

「やめなよユミル」

 

 諫めてはいるがクリスタ自身もその表情は緩んでいる。これはいい笑い話ができたと朗らかな雰囲気が流れた。

 だがサシャだけはこの不服な状況にまた泣きそうになっていた。

 

「信じてください! ベルトルトは超大型巨人で、ライナーはおそらく鎧の巨人なんです! それで今日トロスト区の門を破壊しようと企んでるんです!」

 

 また笑い声が起きた。先程より大きな笑いで、サシャの悲痛な訴えがまともに受け取られていないのは明白だった。

 未来の話をしたときの人々の反応をサシャは思い出していた。冗談だと受け止められて、突拍子もない話だと言って、笑うのだ。そしてそれを覆す方法をサシャは見つけられなかった。

 下を向いてしまうサシャをさすがに哀れに思ったのか、クリスタが頬を撫でてその顔を覗き込んだ。

 

「ねえ、きっとサシャは夢を見たんだと思うの」

「違います……」

「それなら確認しに行く? 二人と話せばきっと違うって分かるよ」

 

 それを聞いてサシャは背筋がゾッとする思いだった。目を閉じればすぐにでも、二人がサシャを押さえつけ、窒息死させたところが思い浮かぶ。ついさっきの出来事だ。それに会ってどうすればいいのか、話すらできるかも怪しかった。

 逃げないと決めたはずなのに、とっさに拒否反応を示してしまう。

 

「私はこれからミーナと固定砲整備がありますから……」

「うーん。そっか」

 

 クリスタは少し残念そうにサシャを見ていた。心配の気持ちはありがたかったが、今は勘弁してほしかった。

 会いたくないと体が拒否する。けれど、やはりあの二人を放っておけないとサシャの冷静な部分は警告を鳴らす。そこにクリスタが目に入った。

 サシャはクリスタを抱きしめながら言った。

 

「クリスタ。代わりに言っておいてくれませんか? 巨人になるな。バカな考えはやめろって」

「ライナーとベルトルトに? でもどこにいるか……」

「食堂にいますから」

「そうなの? じゃあ伝えておくね」

「おいおい、そんなバカの話に付き合う気か?」

「いいじゃない」

 

 サシャが落ち着いて話せるようになり、一通りのことは終わったと思ったのか、一同は誰が言うともなく解散していた。

 急げば整備に遅れずにに済むらしくミーナは準備を急かしたが、サシャはそれを拒否した。遅れてはいけないからとミーナを先に行かせる。けれど本音としては、ただ一人で行きたいだけだった。裏切り者に対する憂鬱と、信じてもらえないことに対する落ち込みで、とてもお喋りをしながら壁を目指せる気分ではなかった。

 だらだらと準備をして、その歩みのまま出発した。しばらくはとぼとぼ歩いていたが、あまりに遅れてサシャがいない間にまたサムエルが死のうものなら目も当てられない。少し足を早めた。

 サシャは歩いている内にさらに冷静になり、先の自分を恥じた。同期の前で年甲斐もなくわんわんと泣き散らしてみんなに迷惑をかけた。その上、クリスタとミーナにずっとベタベタとくっついていた。友人の範疇に収まるような行為ではなく、ユミルの呆れも当然だった。精神的に弱ると誰かに甘えてしまう癖があることをサシャは今はじめて自覚した。

 だが問題はそこではない。確かに恥ずべき行為だが、それよりもサシャは危惧していることがあった。

 最後にクリスタに妙な頼み事をしてしまった。クリスタはきっとあの二人に巨人になるなと話してくれるだろう。

 もし話していなくとも、笑い話にされたが、同期たちに二人の正体をサシャは喋ってしまっていた。話はすぐに広まるだろう。

 巨人のことを話された二人はどんな行動に出るだろうか。

 サシャは青くなった。絞め殺された紀億を思い出す。何か悪いことが起こるのではないかと気が気でなかった。

 このまま壁に行っている場合ではない。もしかしたらクリスタが同じ目にあう可能性だってある。

 サシャは来た道を走って戻ろうとした。だが振り返った少し先で、人影が待ちわびていた。

 

「待ちな」

 

 サシャは足を止めた。小さくて金髪という点では同じだが、クリスタとは違った印象を受ける人物。アニだった。

 こんな状況でなければ少し話してもよかっただろう。だが今は急がねばならない。

 

「すいません。急いでるんです」

「いいから」

 

 通り過ぎようとしたが、進行方向を塞がれた。サシャは眉をひそめる。アニが制止させる理由は思いつかなかった。

 

「なんですか。手短にお願いします」

「ベルトルトとライナーのこと、どこまで本気なの」

 

 サシャは頭を抱えたくなった。アニはあの場にいなかったのだから、そのことは人づてに聞いたのだろう。噂が広まるのが思っていた以上に早い。

 けれど所詮は噂のはずだ。わざわざ急いでいるサシャを引き留めてまで、そんな話をするような人間だっただろうか。アニは平然としていて、その感情はあまり読み取れない。本当に聞きたがっているのかも分からなかった。サシャは不審げな目を向けた。

 

「ただの夢ですよ。寝惚けてたんです」

「それにしては、ずいぶん具体的だね」

 

 アニが詰め寄る。その小ささとは裏腹に鋭い目つきは人を気圧すには十分であった。

 

「今から時間ある?」

「整備に行くところで……」

「なら、いっしょに行こうか」

 

 サシャは断りたかったが、それは叶わなかった。

 クリスタを心配する気持ちはあったが、アニの雰囲気にのまれ、逆らうことができず、壁の方向にまた振り返ることとなった。整備に行くと言いながらサシャが逆の方向に向かっていたことをアニは気にも留めていないようだ。

 有無を言わせぬ物言いと、軽く背中を押してくる歩き方は、ほとんど強制と言って差し支えないだろう。サシャは刃物でも突き付けられている気分になった。

 

「何がしたいんですか……?」

「いいから」

 

 この調子が続いて、まともに答えてさえくれない。だが道を逸れようものなら、背中を掴まれて真っ直ぐ歩かされる勢いだ。憲兵に連行される犯罪者はこのような感じだろうか。サシャはいよいよ嫌な予感がした。

 屋台が立ち並ぶ通りを抜け、門の辺りをまでやってきた。このまま壁の上まで行ってしまいたかったが、大きな開閉門の隣にある小さな扉までアニに誘導されてしまう。中は飾り気のない部屋で、駐屯兵団の備品がそこかしこに置いているだけだった。隅の方には階段があり、これを登れば、外側の開閉門上段にある固定砲まで通じるのだろう。

 ここが目的地のようだ。人目につかないこの空間にサシャの本能は警鐘を鳴らした。案の定サシャが振り向くと、そこには蹴りの構えをとるアニがいた。

 とっさに避けようとするがアニの速さには叶わず、脛を蹴られる。単なる力技ではない。骨に響くような痛みと共にサシャはふらつく。

 

「ぐっ」

 

 首に巻きつかれ、そのまま地面に倒された。息ができない。この状況には覚えがあった。

 

「ア……ニ…………」

「悪いけど、しばらく眠ってもらうから」

 

 アニが自分を組み敷いている。そして先程の質問。

 答えはもう出ていた。敵はベルトルトとライナーだけではなかった。アニも敵だったのだ。

 嫌な予感はしていたし、サシャは実際には勘付いていたのかもしれない。走って逃げるべきだったかもしれない。だがアニのことを信じたくて、サシャは結局ついてきてしまい、こういう結果になった。

 サシャはまた泣き叫びたくなった。けれどアニがそれを許してくれない。

 やがてサシャは意識を失った。

 

 

「サシャ、起きろ」

「……ミーナ?」

 

 目覚めたときには、いつも隣にミーナがいたので、サシャは反射的にそう返してしまった。だがすぐに後悔の念に駆られる。見下ろしているのはミーナとは似ても似つかない屈強な男だった。彼はばつが悪そうにしていた。

 

「悪いが、俺はミーナじゃない」

 

 ライナーは分かりきったことを言った。

 このバカバカしいやりとりを笑うものは一人もおらず、ただサシャを囲うように佇んでいたアニとベルトルトが神妙な顔つきをしているだけだった。

 サシャは身を起こそうとするが、そこで自分が寝ている場所をやっと把握できた。継ぎ目のない硬い石が細長く続き、空はずっと近くに感じる。壁の上だ。

 吹きすさぶ風を受けながら、サシャは立ち上がった。

 壁の上であるが、どうも様子がおかしいとサシャは気づいた。まず真っ先に目に付くのは眼下に広がる突出区の様子だった。あちこちの家は荒廃し、いやに埃っぽい。寂れた景色の中に人の気配はなく、数匹の巨人がうろつくばかりだ。まるで人類の全てが滅び去った後を見ているようだった。

 

「ここは……」

「シガンシナ区だ」

 

 ウォール・マリア南側突出区シガンシナ区。かつての最前線の街にサシャはいた。壁の上にあるはずの線路や固定砲がないことからも、それが確認できた。

 巨人に蹂躙され、もはや死に絶えた街。かつての街の面影も、巨人の領域となれば、ただ寂しい印象しか受けない。あまりに希望のない景色に、サシャは胸が張り裂ける思いだった。

 だがそう感じているのはサシャだけのようだ。目の前のありさまを実際に作り出した張本人たちは、シガンシナ区に一瞥もくれることなくサシャを見ていた。

 三人の中でも役割は変わっていないらしく、ライナーが代表してサシャに言った。

 

「起きたなら、質問に答えてもらいたい」

 

 サシャはライナーの言うことを真剣に聞く余裕がない。

 巨人の領域となったシガンシナ区を見て、すぐにでも確認しなければいけないことがあった。

 

「トロスト区はどうなったんですか」

 

 もしかしたらトロスト区も同じ景色になっているかもしれない。そう思うと気が気でなかった。

 だがライナーはサシャの言葉に不快感を示す。

 

「質問をするのはこっちだ。お前はどこまで知ってる。誰にどこまで話した。どこで俺たちのことが分かったんだ。答えろ」

「嫌です」

 

 サシャの頬に衝撃が走る。そのまま横に吹っ飛び、壁の上に叩きつけられた。口の中に血が滲んで、咳と共に鮮血を吐く。目がちかちかとして、サシャは一瞬方向感覚を失った。ライナーを睨もうとして空を見ていた。

 

「容赦はしない。俺たちは、もうお前の知ってる俺たちじゃないぞ」

「トロスト区はどうな……ぐぅっ」

 

 ライナーの固い拳が、またサシャの頬を貫いた。今度は逆側を殴られた。サシャは苦痛の声を上げる。

 傷めつけられるのは辛いことだが、サシャは質問に答える気はなかった。意地でもトロスト区のことを聞こうとしていた。

 

「サシャ、頼む。こんなことはしたくない」

「トロスト区は――」

 

 サシャは殴られ続けた。反撃する暇も与えられず、サシャの唯一の抵抗は意地でも質問に返さないことだった。ライナーの質問を無視する度に、サシャがトロスト区のことを聞く度に、傷はますます増えていく。気を失いそうになると叩き起こされた。答えるまで続けるつもりのようだった。

 鼻は折れ、顔は腫れあがり、まともに喋るのも辛くなる。手足も容赦なく折られ、立つこともできない。それでも抵抗を続けるサシャにライナーは足を踏み落とした。もはや体の内側全体が熱く、どの骨や臓器が傷ついてるのかも分からないほどだ。

 途轍もなく苦しい。だがこれより苦しい思いをサシャはずっとしてきた。だから耐えられた。

 血反吐に汚れた壁の上で、ボロ雑巾のようになりながら、サシャはライナーを見ていた。

 

「もう……もうやめよう。ライナー……」

 

 もはや半ば死にかけているサシャを見て、ベルトルトは震えていた。ライナーは動きを止めて息を切らしていた。

 

「これ以上やっても意味がない……」

「けどよ……」

「拷問しても、答えないやつはいる。サシャはそれだった。見てられない。もう、殺してやろう……」

 

 重たい沈黙が壁の上にできた。聞こえるのは風の音と、サシャの掠れた呼吸音ばかりだった。

 その静かな空間に響いたのは靴音だった。今まで黙って見ていたアニがサシャのほうへと進む。蹴られることを想像して、サシャは身構えようとしたが体はぴくりとも動かなかった。だがサシャに向かってきたのは足ではなく手だった。ゆっくりと仰向けの状態から上半身を起こされる。

 

「ごめんなさい……」

 

 脇の下に手を入れながらアニが呟いた。満身創痍のサシャの体を少しでも痛くないように抱えようとしている。壁から落として殺すつもりのようだ。これはアニの優しさだった。このまま放置していれば苦痛と共に死んでいくことになる。それなら落下して一瞬で散ったほうがいい。

 だがサシャは諦めてはいなかった。力を振り絞って言った。

 

「トロスト区はどうなったんですか……」

 

 その弱々しくも力強い声に、アニは耐えられないとばかりに顔を歪めた。抱えていたサシャを離し、後ずさる。

 

「トロスト区はもうない! 外側の門も、内側の門も、壊した! あんたを抱えてここまで逃げてきた! 今頃はもう巨人の街になってる!」

 

 サシャの目には、空を背景に、涙を落としてこちらを見下ろしている逆さまのアニが見えた。サシャは涙を見つめながら、苦しげにまくしたてるアニの激情を冷静に受け止めていた。

 

「おいアニ!」

「……! どうせこいつは死ぬ……いや、私たちに殺される。なら、最後に餞の言葉として……ね……」

「アニって優しいんですね……」

「やめて……」

 

 サシャは本当にそう思った。表面の印象からでは伝わらない彼女の人間的な魅力を初めて理解できた。あとの二人もそうだ。サシャを痛めつけたが、その辛そうな表情は、サシャの良く知る優しい同期の二人だった。

 だからこそ、この三人がトロスト区を滅ぼしたという事実が、サシャをやるせない気持ちにさせる。

 

「どうして……壁を壊したんですか。仲間だと思っていたのに……」

 

 三人は聞きたくないとばかりに、一様に苦悶の表情を浮かべながら目を背けた。

 

「あなたたちの目的は何ですか……どうすれば……やめてくれるんですか。どうすれば、また元に戻れるんですか……」

 

 傷だらけになり、死にかけ、これから殺されるというのに、トロスト区の門を破った三人に対して、また仲間に戻りたいと願っているサシャ。それを見たライナーは、途轍もない自己嫌悪に陥り、崩れるように膝をついて頭を抱えた。

 

「サシャ……ああサシャ! 俺たちは故郷に帰りたいんだ。そのために壁を壊した! これは俺たちの使命なんだ! だから……俺たちがやめることはない……俺たちは最初から、仲間じゃないんだ! すまない……すまない……」

「どうあっても……私たちを追い詰める気ですか……」

「ああ、そうだ……!」

「なら、あなたたちは私の敵です……」

 

 サシャは全身を駆け抜ける痛みに震えた。何をしても気絶しそうで、空気を吸うことさえまともにできない。それでも全身に力を入れ、呻き声を上げながら、無理やり膝を立てた。骨が折れていようが関係ない。徐々に体を起こしていく。

 あまりの痛々しさと、あまりの気迫に、三人は動くことができない。信じられないものを見る目だった。

 

「やめろ……立つな! サシャ!」

「あなたたちは敵です……巨人と同じです……必ず……必ず、必ず! 必ず!! 必ず!!!」

 

 サシャはついに立ち上がった。

 呆然とする三人をそれぞれ睨みつける。

 

「必ず殺します……」

 

 そして息絶えた。



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第十話 殺意の先

 食堂では訓練兵たちが男女入り混じって思い出話に花を咲かせていた。

 解散式も昨日のこととなり皆がそれぞれの道を歩む。ほとんどは同じ駐屯兵団に行くが、中には調査兵団を志望している者もいる。それに駐屯兵団といってもその規模は大きく、師団ごとに分かれるので、一緒に働けるかは上の取り決め次第だ。本日、何の任務も課せられていない運の良い者たちは、訓練兵としての最後の時を仲のいい者同士で過ごしていた。

 そんな穏やかな空気の中、食堂へと顔を出したのはサシャだった。幾人かがそちらを向くが、サシャを認めると、目を丸くしてコップを落としかける。

 今期きってのお調子者が両手に持っているのはブレードだった。腰に下げているならまだしも、抜き身のまま構えてさえいる。

 まるで今から巨人でも狩ろうかという鋭い目つきのサシャ。入口付近にいたサシャは、そこから一気に食堂の真ん中を駆け抜けた。

 それは一瞬のできごとだった。真っ直ぐ目標に近づいたサシャはブレードを振り下ろした。しなやかでよく曲がるが、それと同時に硬い。対巨人用の武器として兵士に支給されているそれが、人に降り注ぐ。

 

「ベルトルト!」

 

 狙われたベルトルトは後ろを向いていて気づくのが遅れた。

 ライナーは立ち上がり、とっさに庇う。鈍く光る刃はライナーの前腕を捉えた。角度が悪かったのか、刃は肉に食い込むと骨の位置で止ってしまう。

 ベルトルトの首を狙っていたものが、ライナーの片腕を中途半端に潰すに留まってしまい、サシャは舌打ちをした。

 一連の惨事。これがウォール・シーナの治安の悪い場所で起きたなら不思議でもないかもしれないが、ここは兵士が集まる食堂だ。何が起きたのかが分かると、先程までの緩やかな雰囲気も雲散し、食堂が騒然とし始めた。

 

「サシャ!」

 

 遠巻きに見ていた訓練兵が声を上げた。凶行に及んだサシャはそれに反応することなく、目は真っ直ぐベルトルトに向いていた。

 ブレードを脇に挟むと、前方に引いて血を拭う。刃がまだ使えることを確認すると、サシャはゆっくりと進み出した。

 このままでは、また彼を切りつけるのが目に見えていた。止めなければならない。だが先程まで安楽を享受していたこの部屋で、サシャ以外に武器を持っている者はいない。下手に近づくことができず、兵士たちはいびつな輪になってサシャを見ていた。

 

「サシャ! やめろ!」

 

 標的にされているベルトルトとライナーは後ずさるしかない。

 刃物を持った相手を無力化する訓練が、いかに実践では使い物にならないかを証明していた。あの訓練の想定は、せいぜいナイフを持った小悪党を倒すことだ。だが今の相手はブレードを躊躇なく振るう兵士だ。その上、ライナーの片腕は確実に使い物にならない。

 食堂は途轍もない緊張感に包まれていた。

 サシャを捕らえるとするならば、全員で押さえにかかるのが得策だった。何人か切られるかもしれないが一番安全で確実だ。それも隙をつけたらなお良い。そして一番隙ができるのは攻撃を仕掛けたときだ。

 皆が隙を伺っていたが、サシャもそれを分かっているのだろう、派手な動きは見せず、ただ刃物を揺らしながら、ゆっくりと近づいていた。その歩みと連動して、ベルトルトとライナーも徐々に引き下がる。ライナーの腕から血が垂れて、一本の道ができていた。やがてその道も行き止まりに差し掛かる。

 

「サシャ、落ち着け……話をしよう」

 

 サシャの歩みは止まらなかった。

 それを見て覚悟を決めたのか、二人はすばやく動けるように腰を落とした。サシャは立ち止まる。だが躊躇しているのではない。どうすれば上手く殺せるのかを必死に考えていた。

 一撃目を失敗した時点で二人同時に殺すことは難しくなった。壁際まで追い詰めたとしても、左右に分かれて二人に逃げるのならば、一人を殺すよりずっと悪い。せめてベルトルトだけは絶対に殺そうとサシャは決めた。

 しかしサシャは後ろから複数の足音が近づいてくるのに気づいた。目の前の二人はあからさまにほっとした表情を浮かべている。足音はサシャを取り囲む。

 

「動くな! 武器を捨てろ!」

 

 サシャはちらりと横目に見ただけで、武器を落とすことはなかった。兵士たちが一様に並んで銃口を向けている。

 サシャの冷徹な双眸が再び二人を見据えた。その落ち着きはひどく不気味で、銃を向けられている人間の反応ではない。そして皮肉げな笑みを見せた。

 

「まあ、簡単じゃないとは思ってましたけど」

「何言って……」

 

 刹那、サシャが地面を蹴り上げる。全身の筋肉を使い、身をねじって刃を敵に叩き落とさんとする。狙うは首。超大型巨人の首だった。首が落ちる音を聞くまで止まるつもりはなかった。だがそれよりも先に食堂を支配したのは発砲音だった。

 体を貫く銃弾に、サシャは音をたてて倒れる。ブレードを手放し、床に広がる自らの血の中で悶えていた。

 だがそれでも視線だけはじっと敵に向けられていた。必ず殺す。サシャはそう言った。

 そして意識は暗黒に落ちた。

 

 

 サシャは殺しに行く。そして死んでしまう。また殺しに行く。そして死ぬ。殺しに行く。死ぬ。

 幾度も、幾度も、繰り返した。これも全ては人類のため。人類の脅威であるライナー、ベルトルト、アニの三人を一人残らず殺すため。死んではその都度反省し、手を変え品を変え、三人を殺そうとした。

 しかしサシャは自分の愚鈍さを再認識するに至る。何度か繰り返せば勝てると単純に考えていた。だがその想定は非常に甘かった。厄介な問題があり、成功の兆しは見えなかった。

 問題は主に二つあった。

 一つはサシャに力がないことだ。三人が三人とも、サシャより遥かに高い戦闘能力を有している。ミカサを除けば上から連続して成績がいい。その相手に挑むため、丸腰のときを見計らって強襲した。だがそれですら勝てない。隙をついて怪我を負わせることはできるのだが、最後には必ず無力化させられた。

 二つ目は時間がないことだ。アニが食堂へ来ると、ベルトルトとライナーの二人は壁に向かい始める。目的は無論壁の破壊だ。あっという間に超大型巨人が出現する時間になってしまう。

 一度ドジをやらかし、悠長に隙を伺いすぎて何もしないまま門が破られたことがあった。トロスト区を救いたくて三人と戦っているのに、これでは本末転倒だ。

 それにアニは基本的に単独行動を取る。どこかから食堂にやってきて、その後は二人と一緒に壁に向わず別行動だ。故にアニをとるか、ベルトルトとライナーをとるかを選ばなくてはいけない。無論壁を破壊しに行く二人を殺そうとするのだが、やはり失敗するし、もし成功したとしても、サシャは銃殺されて、アニは生き残ってしまうだろう。

 なのでサシャに好機があるとすれば、食堂に集って話している数分間だけだ。その時には三人が揃っているので同時に襲える。だが、一人ですら倒せるか怪しいものを三人同時、それも一瞬で片付けなければ騒ぎを聞きつけた兵士に銃に撃たれて死ぬか、あるいは連行される。簡単ではない。

 サシャは何度も突撃した。ある時は盗んだ銃を使い、またある時は爆弾を使った。けれども殺せない。

 失敗し、殺される。その一巡は短く、サシャは息をつく暇もない。それが延々と繰り返されていた。

 サシャは気が遠くなりそうだった。けれど諦めるわけにはいかない。そんなサシャの作戦は単純だった。

 できるまでやる。それだけだった。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 ある時を境にサシャは自分の動きが変わっているのを自覚できた。もはや格闘で勝てない兵士などいないと思えた。途方もない数の繰り返しによって、三人を同時に相手取ることができるようになる。

 その際使う武器はブレードだ。彼らは巨人と同じように再生能力を持っており、銃弾を入れても死ぬことはない。それに弾が尽きればそれで終わりだ。ブレードのほうが確実に傷を負わせられた。

 だがその再生は脅威のもので、一度、首を断ち切ることに成功したが、それでも生きていたことがある。驚きで固まってそのまま殺されてしまった。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 首の骨を潰そうが、心臓を貫こうが、どうなっているのか死ぬことがない。そしてそこまで追い詰めると確実に巨人化し、壁を破壊してしまう。

 殺す方法はただ一つ、完全なる不意打ちだけだった。どうやら意識しなければ能力は使えないらしい。だが逆に言えば、不意打ちでしか殺せないのだ。三人集まるところに不意打ちをしても、確実に取りこぼしができてしまう。

 何度も戦って、ようやく一人だけ仕留められるようになったところだ。仲間が殺された怒りからか、残された二人は巨人化した。壁を守ろうと懸命に戦うが、サシャは踏み潰された。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 三人同時に不意打ちするのは現実的ではない。それに何度も巨人化する三人に対処しなければいけなくなった。サシャは巨人化した三人を殺すことも視野に入れた。

 だが四メートル級の巨人を一体倒しただけのサシャには途方もない試練だった。彼らは単なる巨人ではないのだ。

 ベルトルトは超大型巨人になった。彼の巨大な図体は少し動くだけでも武器になる。さらには熱を噴出することで攻撃もできた。街は簡単に焼き尽くされる。サシャは何度も焼け死んだ。

 ライナーは鎧の巨人になる。彼の硬い皮膚にはブレードが通らない。その硬い体で何度も門を破壊した。サシャは何度も圧死した。

 アニは女型の巨人になる。小回りが利く彼女は確実に兵士を刈り取っていく。さらには皮膚が一部硬質化し、ブレードの効かない防御力に加えて、鋭い攻撃力も見せた。サシャは何度も潰された。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 超大型巨人はとにかくでかい。足を一歩踏み出せば建物は崩れ、瓦礫の雨が降り注ぐ。その被害は尋常ではなく、多くの兵士と住民が建物に潰されて死ぬこととなった。そんな巨人が食堂の場所から門まで移動し、さらには固定砲を壊して回る。

 兵士たちも必死に止めようとするが、近づけば熱を噴出されてアンカーを外されてしまうし、それでもなお近づけば焼き殺された。

 繰り返す度に、戦う度に、サシャは自分の感覚が鋭くなっていくのを感じていた。

 降り注ぐ瓦礫を避けられるようになった。どこに何が落ちてくるか、予想をつけて超大型巨人に近づいていく。特に聴覚は優れ、耳を澄ませればだいたいどこで何が動いているのかが把握できた。故に熱を放出する瞬間も、耳で気づくことができるようになった。

 サシャは超大型巨人を討伐することに成功した。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 女型の巨人は機動力が高い。あちらこちらに駆け回り兵士を殺していく。小回りが利いたその動きは兵士の行動を熟知している。すでに大混乱に陥っているトロスト区を確実に落とすため、指揮をしている兵士を中心に狙っていた。

 兵士も反撃に出るが、アンカーが刺さろうものならそれを逆手にとってワイヤーを振り回し、囲まれようものなら叫び声をあげて普通の巨人を呼び寄せて逃げる。仮に運よくうなじを狙えても、すばやく手で守るか、硬化するので削ぐことができない。

 繰り返す度に、戦う度に、サシャは立体機動の動きが洗練されていくのを感じていた。

 女型の巨人に捕まることなく飛び続けられるようになった。集まってきた普通の巨人も苦労なくすばやく処理できるようになった。女型の巨人が目に追えないほど、速く複雑に動くことで、防御される前にうなじを狙えるようになった。

 サシャは女型の巨人を討伐することに成功した。

 

 繰り返す。繰り返す。繰り返す。

 

 鎧の巨人はとにかく硬い。常に全身硬質化した状態だ。そして一直線に内門を破壊する。止めようとしても、その硬い体には刃は通らず、砲撃も意味をなさない。門は守れず、大勢の住民も踏み潰されることとなる。

 だが弱点がないわけではない。関節部だけは硬化しておらずブレードで切ることもできた。しかし少しの足止めになるだけで決定打にはならず、それもすぐに再生してしまう。

 繰り返す度に、戦う度に、サシャはより長く戦えるようになっていくのを感じていた。

 鎧の巨人は仲間の二人が倒されるとウォール・マリアに逃げようとする。決定打はないが、逃げられるのはまずいとサシャは足止めをした。

 最初はすぐに体力がなくなり、動けなくなって殺されていたが、体の使い方を覚えて、息が上がらなくなった。すぐにガスを使い果たし落っこちていたのが、少量のガスで長く飛べるようになった。刃こぼれが絶えなかったブレードも、長く使い続けられるようになった。

 足止めを続けると、鎧の巨人は限界を迎え、巨人化を解いてしまった。

 サシャは鎧の巨人を討伐することに成功した。

 

 そして繰り返しは終わった。

 サシャはついに人類最大の敵である三人を殺すことに成功したのだ。

 

 

 命乞いをするライナーの首を刎ねたとき、サシャの中を駆け抜けたのは大きな達成感だった。サシャは感極まって声にならない叫びを上げた。門の破壊を企てる巨人はもういない。人類はもう巨人に怯える必要はない。大きな痛手を負ったが、これからは平和になるだろう。

 瓦礫の上に身を落とす。筋肉が緩んでいくのが分かった。戻ってこれるのは記憶ばかりで、体は普通の訓練兵のままだ。それを戦闘経験や技術によって無理やり動かしていた。突然の酷使に体は悲鳴をあげていたが、やっと休ませることができる。

 

「はあ……」

 

 しかしサシャの耳が足音を捉えた。巨人の足音だ。その方向を見ると、積み重なった瓦礫の山の間から一体の巨人がサシャ目掛けて歩いてきている。

 十五メートルはあるだろう。大きな巨人だった。これが近づいてくるまで気づけなかった。サシャは自分の疲れを再認識する。だが体を休めるのはもう少し先だ。一度抜けた力を入れなおし、サシャはブレードを構えた。

 巨人はサシャの目の前まで迫ると、叩き潰すようにして掴みかかった。サシャはその単調な攻撃を予見して、先に飛び上がっていた。巨人の腕の軋みが、骨の鳴る音が、肌の擦れる音が、空気が押されてできた風が、全てがサシャの味方だった。次にどうなるのか、何もかもを教えてくれる。

 サシャは腕に飛び乗ると、一気に駆け上がる。巨人のもう片腕の攻撃も避け、近づけてくる歯を前に一回転してうなじに回り込んだ。一太刀でうなじを削ぎ落し、ブレードを巨人に刺して緩やかに落下する。

 十秒程の戦闘が終わり、サシャは息をついた。耳を澄ませると、巨人があちこちにいるのが分かる。外門も内門も破られ、ここはもう巨人の領域だ。こんなところでは碌に休むこともできないだろう。

 幸いにもまだガスは切れていない。サシャは壁を上った。そこでなら巨人に邪魔されることなく眠ることができるだろうと考えた。しかしそれが叶うことはなかった。

 サシャは絶句した。壁の上からはかなり恐ろしい景色が見えた。シガンシナ区以上の地獄が広がっている。巨大な瓦礫のゴミ箱をひっくり返したようだ。そこはもうトロスト区と呼べるかも疑問だった。

 辺りにちらばる巨人はサシャに反応するか内門の方向へと向かっていた。ここにはもう生きている人はいないのだ。途方もなく長い戦いの旅を終えて、その結果がこれだった。喜んでくれる者はなく、ただ三人を殺したという事実だけを持っていた。長い戦闘で、しばらく使っていなかった頭の部分がじんじんと痺れるようだった。

 

「あああ……」

 

 サシャの中にはもう達成感の一欠けらも残っておらず、ただ虚しさのみが心を支配していた。

 もう巨人が攻めてくることはない。ウォール・シーナが破られることはない。これから人類は安寧の時を過ごす。なので人類を救うという意味においては目的を達成できたのかもしれない。だがこれはサシャの望んだ景色ではなかった。

 人類を救うために、トロスト区を救おうとしていたはずだ。そのために三人を殺したのだ。だがそれは結局達成できなかった。サシャがどれだけ努力しようが、門を破壊しようとする一撃を止める手立てはなかった。もうウォール・ローゼは巨人の領域だ。

 サシャは父に思いを馳せる。記憶の中の最後の父は巨人に食われて死んでいるところだった。旧地下都市に巨人が進入し、混乱の中サシャより先に食われた。あの人々の阿鼻叫喚はもう起こらないはずだ。しかし食料の問題が解決したわけではない。きっと無事では済まないだろう。

 この事態を引き起こしたのは三人ではない。サシャが自ら作り上げた悲劇だ。

 サシャが殺意に任せて動かなければ、愚かにも三人を殺そうと考えなければ、自分の限界を把握して途中で諦めていれば、ここまで酷いことにはならなかったのだ。

 巨人化した三人を殺すことも、門が破られることも、トロスト区が滅茶苦茶になることも、住民や兵士の命が散ることも、繰り返しによって、いつの間にか当たり前のこととして受け止めていた。

 父の言葉が脳裏を駆け巡った。助けられる命があるのに助けないのは殺すのと同じ。きつい言葉だと思った。それならサシャはいったい、いくつの命を奪ったことになるのか。トロスト区を見捨てて逃げたことを思い出す。あの頃と何も変わっていない。サシャが殺したのだ。

 

「ごめんなさい……これで最後やから……最後にするから……」

 

 サシャはブレードを胸に突き刺した。今だけは痛い思いがしたかった。

 死んだトロスト区を見ながら、サシャも息絶えた。



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第十一話 決意の先

 傷ひとつないトロスト区は平和そのものだ。何てことない日常が今日も続いていた。空は真っ青に晴れ、開いた窓からやさしい風が舞い込むと、サシャの髪をさらさらと撫でた。それを見たミーナは窓もカーテンも閉めてしまった。

 

「本当にいいのね」

「お願いします」

 

 サシャの寝起きの乱雑な髪をミーナは櫛で丁寧に撫で付ける。サシャは苦笑いした。この確認はもう三回目だ。

 起きていきなり髪を切ってくれと頼まれて、ミーナは複雑そうだった。その理由は主に、せっかくの綺麗な髪がもったいないというものだ。それでも何度かの押し問答の末に切ってくれることになった。

 これから用事があるのだし、時間はそう多くない。切ってくれるだけでもありがたかった。

 だからサシャとしては、おかしくない程度に短くしてくれればよかったのだが、ミーナはそうはいかないようだ。ハサミを当てて、これから切る髪の長さを何度も調節している。

 髪は女の命だとミーナが豪語していたことを思い出した。

 

「じゃあ肩くらいの長さにするね」

「あの、もう少し短く」

「ダメ! これ以上は無理!」

 

 ミーナに言い切られてサシャは折れた。頼んでいる立場なのだから文句は言えない。

 髪が持ち上がり、ハサミの音が頭の周りを回った。切られた髪は前よりも高い位置に落ちていく。すべて切り終えると頭がずいぶん軽くなった。ミカサよりも少し長い程度だ。

 頭を振って髪のはね具合を確認する。女性兵士は男性と違って長髪が認められているが、立体機動のときは邪魔にならないように髪を括る必要があった。サシャの新しい髪型は少し顔にかかってしまうが許容範囲だろう。これで括らなくていいので楽だ。

 

「うん。よし。かわいい」

 

 何度目かの繰り返しのとき、サシャは髪をばっさりと切ってしまったことがあった。巨人になった三人をまだ倒せていない頃で、立体機動の途中で髪がほどけて、前を見れず建物に激突して死んでしまったのだ。目覚めると苛立ち半分で勢いのままざっくり切った。その時のミーナの剣幕をサシャは忘れられない。

 だが今回はお気に召したようである。サシャをあらゆる角度から観察すると満足げに頷いていた。

 

「そろそろ準備しないとね。男子たち驚くよ!」

「そうですか?」

「うん! 大人っぽくなった!」

 

 サシャがいきなり髪を切りたいと言った理由は、もちろん括った髪がほどけると危ないというのもある。だがそれなら自分で適当に切ってしまえばいい。

 わざわざミーナにやってもらったのは、一種の戒めだった。自らを変えて、あの愚鈍な繰り返しを二度と起こさないように、何度も犠牲になったであろうミーナにわざわざ切ってもらったのだ。だからサシャとしてはここまで丁寧にされると、その意味合いが薄れるようで少し微妙な気持ちになった。

 だがサシャのそんな気持ちとは裏腹に、ミーナは一人で盛り上がっている。準備を終えて壁に向かっている間も楽しそうにサシャの髪をいじっていた。

 そして盛り上がっているのはミーナばかりである。壁の上に到着し、今にも作業をはじめている男たちに向かってミーナは意気揚々とあいさつを終えると、サシャの肩を押して自慢げに見せた。しかし思ったような反応を返してくれる、例えばマルコのような気の利いた男子は、この班にはいない。

 

「遅かったな。さっさと作業するぞ」

「髪の毛? さっき? ふーん……」

「飯食うとき髪が汚れる心配が減るかもな」

「俺みたいに剃ったらどうだ。楽でいいぞ!」

「あ、あのねえ……」

 

 男の反応は一様に素っ気ない。サシャとしては特に気にしていなかった。褒められるのは無論うれしいが、別段何も何も言われなくても、それはそれで構わなかった。それにエレンやコニーが、ミーナのように髪型を褒めてきたらむしろ喜ぶ前に心配が先立つ。この反応のほうが彼ららしい。

 しかしミーナはそう思わないようだった。整備を放置して男子四人を並ばせると、説教が始まった。やれ女心を分かっていないと、くどくどと続けるミーナに男子たちはゲンナリとしている。

 サシャはそれがおかしくて思わず笑った。

 

「サシャ?」

 

 後ろからした笑い声にミーナは説教を止めて振り返った。それに応じて男子たちの視線もサシャに集まる。

 サシャは笑っていたが、大口を開けたいつもの笑いではなかった。喜びの中にどこか憂いのある笑みだった。

 

「えっと……どうしたの?」

「いえ、なんかいいなぁと思いまして」

「いい?」

「ええ。平和で、楽しくて。みんながいて……ずっとこんなのが続けばいいのに」

 

 サシャは心からそう思った。空も、風も、気持ちがいい。整然と並ぶ建物と、活気あふれる人の行きかう姿。仲間とくだらない話を続けられる穏やかな時間。この状況がどれほど尊いものかをサシャは知っていた。そしてどれほど脆く崩れ去るのかも。

 自然と神妙な面持ちになる。みんなはサシャの雰囲気に戸惑っていた。

 サシャの最後の呟きは誰に向けたものでもなかったが、その後訪れた妙な沈黙を破ったのはトーマスだった。

 

「まあ、明日にはバラバラだからな」

 

 明日は兵団の選択日であり、別れの時である。トーマスは、サシャが単にそのことで気が沈んでいるのだと解釈したようだ。

 

「勤務地によっては、しばらく会えなくなるな」

「なんか寂しくなるね……」

「みんなはどこの兵団に行くんだ?」

 

 話題は自然と所属希望へ移る。和気あいあいとエレン以外は希望を述べていった。エレンの場合は、聞かなくとも誰もが知っているくらい本人が公言しているので、言う必要はない。もしジャンがいれば同じように外されていただろう。

 エレンは少々不満そうだったが、みんなの希望を聞いていくうちにその顔は驚きへと変化していった。なんと全員が調査兵団を志望していることが分かった。駐屯兵団か憲兵団に行くのだろうと考えていたエレンはこの結果に開いた口が塞がらない。

 

「何で……」

「お前の演説が効いたんだよ」

「でもこれでお別れにはならないね。良かったねサシャ」

 

 同じ調査兵団なら一緒になる機会も多い。ほとんど訓練兵のときと変わらないだろうと、ミーナは安心させるような笑顔だった。

 だがサシャの表情が晴れることはない。調査兵団に入って実際に壁外調査に赴き、そこで何人もの兵士が犠牲になった。そしてそれは普通のことだった。もし全員が生きて調査兵団に入れば、この中で何人が一回目の調査で死ぬことになるだろう。それを考えると安易に喜べるものではない。

 

「死んだらお別れですよ」

 

 口に出すべきではないと分かっていたが、サシャは我慢できなかった。半端な気持ちで戦えば後悔しか待っていないことを知っていたから。

 サシャの言葉に場が凍りついた。

 

「調査兵団に行くというのは、巨人と戦うのと同じことです。当然、死がつきまといます……」

「そんなの……覚悟の上だ」

「本当ですか? 死ぬかもしれないんですよ? 巨人と戦ったこともないのに、どうして分かるんですか?」

 

 生きている限り必ず死がつきまとう。誰が死んで、誰が死なないかは分からない。

 強ければ死なないということはない。重要な何かを握っているから死なないわけではない。巨人の力を持っているはずのエレンでさえ、少しのことで死んだり死ななかったりする。

 だが死に近いものは確実に存在する。彼らのような普通の兵士だ。

 サシャは彼らを失いたくなかった。

 

「巨人は怖いですよ。きっと見たら逃げちゃいます。その時になって、私が近くにいれば助けられるかもしれませんけど、それも絶対じゃありません! きっと食べられて――」

「おいサシャ、いい加減にしろ!」

 

 声を荒げたのはエレンだった。

 

「さっきから何なんだ。オレたちをバカにしてるのか」

「違います……ただ私は、みなさんに死んでほしくなくて……」

「……心配してくれるのはいいけど、それはオレたちだって同じだ。サシャ。オレたちは兵士で、仲間だろ。なんで自分だけが戦えるみたいに言うんだよ。オレたちはお前に守られるだけの存在か?」

「いえ……」

「なら腰抜けみたいに言うのはやめてくれ」

 

 サシャは兵士だ。でもみんなも兵士だ。守らなければならない住民ではない。

 心配から出たサシャの物言いは、エレンの兵士としての矜持を傷つけるものでしかなかった。

 

「すいません。調子にのってました。みなさんは立派な兵士です」

 

 サシャは首を垂れた。重い空気が頭に乗っているようだった。

 何も言わなければよかったとサシャは後悔した。随分と図に乗った発言だった。サシャの一言二言で皆の気持ちが変わるわけがないのだから。

 

「な、仲直りだね! よかった!」

 

 重苦しい空気の中、ミーナはそれを壊そうと、無理やり明るい声をひねり出した。

 

「仲直りなのか?」

「さあ……」

「なあ、話がよくわかんねえんだけど」

「みんな立派な兵士だよってこと!」

 

 ミーナはわざとらしく大手を広げる。ブレードが音をたてて揺れた。

 サシャの耳が反応した。しかしブレードにではない。金属音を飛び越えて、微かな軋みを聞き取った。扉が開く音だ。

 サシャは思い切り深呼吸した。気持ちを切り替えていかねばならない。冷たい空気は肺へと広がる。だが次の瞬間には熱風に変わっていた。

 熱風に吹き飛ばされると、落ちないように壁に吊り下がる。サムエルだけは姿勢を正すことなく頭から落ちていた。

 

「オイ! サムエル!」

 

 エレンがそれに気づいて彼の名を叫んだ。だがそれよりも早く、サシャはアンカーを抜いて、壁を力いっぱい蹴っていた。

 自由落下するサムエルにすばやく追いつく。彼の足をなんとか掴んだ状態で壁に吊り下がることができた。アンカーで足に穴を空けられるよりはずっといい助かり方だろう。

 ゆらゆらと揺れるサムエルを落とさないようにしっかりと掴み、サシャは上を確認する。そこではエレンが、サムエルをサシャに任せて、他の班員と共に超大型巨人に突撃していくのが見えた。助けるかどうか迷ったが、踏みとどまった。サムエルを抱えていくのは危険だし、そもそもサムエルが死んでいないのだから、なんだかんだで生き残るはずだ。

 サシャはサムエルを落とさないように、ゆっくり地面まで下ろした。

 おそらく整備用の工具が頭に当たったのだろう。血を流して気絶していた。だが命に別状はなさそうだ。

 しばらくするとエレンたちは立体機動を使って壁を降りてきた。エレンはサシャに気づくと一目散に駆け寄ってくる。

 

「サシャ! サムエルは!」

「頭を打って気絶してますけど、無事です」

 

 エレンはそれを聞くとほっと息をついた。だが気を抜いているわけではない。その瞳は先程消えてしまった超大型巨人をまだ見ているようだった。

 

「本部に報告しに行くぞ」

「おいエレン、さっさとサムエルを担ぐぞ! 巨人が入ってくる!」

 

 コニーがサムエルの装備を外しながら言った。鐘はすでにがんがんと響き、住民に避難を促している。その音が焦燥感を煽り、なかなか装備を外せないようだった。

 なんとか協力して班は移動を開始した。トーマスがサムエルを担ぎ、エレンがそれを支え、装備をコニーが持ち、ミーナが誘導している。だがそんな中でサシャだけは場違いに自分のブレードの具合を確かめて突っ立ていた。

 

「サシャ! 行くよ!」

 

 サシャがついてこないことに気づいたミーナが呼びかける。サシャは黙って歩き出した。だが向かう先は本部の方向ではない。

 

「サシャ! どこ行くの!」

「おいサシャ! 何してんだ!」

 

 サシャは班から離れていく。その向かう先は、つい先程まで門があった場所だ。今は門の破片と大きな穴だけしかない。人のための門ではなく、巨人を通すだけの穴に成り下がった門の前では、駐屯兵が迎撃のために忙しく砲台を準備していた。

 

「サシャ!」

 

 サシャは張るような振動を腕に感じ、体が止まった。二の腕を捉えた先にはエレンがいた。奇行に走る同期を止めるため、ここまで走ってきたのだ。

 エレンはそのまま引きずって班の場所まで戻ろうとするが、力を入れて捻られ、簡単に振りほどかれる。エレンの目は釣り上がり、明らかな怒りの色を見せた。悪人面と評されることの多いエレンの怒った顔がサシャに向けられる。

 

「何やってんだよ! 行くぞ!」

「本部には行きません」

 

 サシャの突然の言明に、エレンは怒った表情のまま押し黙った。本部に行くのは義務のようなものだ。臆面もなくそれを放棄したサシャに何を言おうか迷っているようだった。けれど間違いなく怒りを露わにする言葉をぶつけられるだろうと予想して、サシャは先に断言する。

 

「私はここで、できるだけ巨人を狩っておきます」

 

 エレンはまた沈黙せざるを得なかった。だが怒りの色は消えた。混乱のせいか口を呆然と開けてサシャを見ていた。

 

「いつまで持つか分かりませんが、ここでなるべく巨人を減らせば、生き残る人は多いでしょうから」

「はあ!? 死にたいのかお前!」

「死ぬつもりはありません。いざとなれば逃げますから。エレン、はやく行ってください」

 

 エレンとサシャを心配しているのか、班員たちはあまり移動できていない。

 今に巨人が入って来てもおかしくない状況で、悠長に話して彼らを遅らせる時間などなかった。

 サシャはエレンに行ってほしくて促すが、彼は少し黙り込むと、覚悟を決めたようにブレードを引き抜いた。

 

「オレもやる」

「そんな! 危ないですよ!」

「どの口が言うんだよ……それにさっきオレたちは兵士だって認めあっただろ」

 

 サシャが人類を救いたいと願うように、エレンもまた人類を救いたいと思っている。サシャに戦う理由があるなら、エレンにだって戦う理由はあった。確かにそこは対等な関係かもしれない。その点で、一緒に戦おうとするエレンを制止させる資格がサシャにはない。

 しかしサシャとエレンでは大きく異なるところがある。サシャは申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「でもエレンには荷が重いと思います。私くらい強くないと……」

 

 単なる戦闘能力において自分はエレンの遥か高みに位置している。サシャにはその自負があった。それは経験に裏付けされたものだ。それ故に不遜に思われるような今の言葉を堂々と言えた。それを知る由もないエレンは怪しげに目を細めた。

 

「そんなに実力差なかっただろ。それに順位はオレのほうが上だったし」

 

 サシャがそれにどう答えたものかと迷ったとき、ワイヤーの引く音が聞こえた。立体機動の音だ。

 その音は穴付近の建物に着地する。一人の兵士がサシャとエレンに叫んだ。

 

「そこの訓練兵! 持ち場に戻れ!」

 

 薔薇の紋章をつけている彼はおそらく先遣班だろう。入ってくる巨人を真っ先に討伐するのが彼らの仕事だ。そして今からサシャが奪おうとしている仕事でもある。

 駐屯兵の一喝にエレンはたじろいでしまう。トロスト区が超大型巨人に襲撃された際の訓練は何度か行っている。その通りに動かないのは立派な兵規違反だ。

 しかしサシャは無視していた。兵規違反よりもずっと厄介なものが、すぐそこまで来ているのを音で確認できたからだ。

 

「来ますよ」

 

 エレンは、何が、と聞こうとしたがそれよりも早く答えがやってきた。八メートルもの巨大な穴。そこから最初の巨人が現れる。

 巨人は穴よりも大きいようで、身を屈め、ほとんど四つん這いの状態で這い出てきた。うなじを狙ってくれと言っているようなものだが、先遣班が動く気配はない。その代わり、駐屯兵が慌ただしく設置していた砲台が火を吹いた。

 砲弾は巨人に直撃し煙を上げる。当たったことに駐屯兵たちは歓喜しかけたが、すぐに絶望の表情に変わった。煙がはれると損傷した体の一部はもう再生し始めている。巨人はほとんど動きを止めることなく、目の前の人類に向かっている。駐屯兵たちは砲撃を止め、慌てて逃げ出した。

 

「お、おい! さっさと逃げろ!」

 

 先遣班が声を荒げた。

 砲撃をしていた駐屯兵が逃げてしまい、次に巨人が目を付けたのはサシャとエレンの二人だった。

 サシャは刃を両手に持って広げた。狙ってくる巨人を歓迎しているようだった。

 

「サシャ!」

「私は人類のため、助けられるものなら兵士だろうと何だろうと助けます」

 

 先遣班の一人がアンカーを巨人に刺して突っ込んだ。恐怖を振り払うためか、大きく叫びながらうなじを狙っている。だがその叫びは単純な恐怖の叫びへと変化した。巨人が彼に反応し、振り回した手がワイヤーに引っかかってしまったのだ。歪んだ顔面が兵士を覗き込んだ。

 兵士は顔を青くする。そして周りで見ていた者も。こうなれば、あとは食われるだけだと思われた。だが突如巨人は手を離し、その場に倒れる。

 その背からサシャがひらりと舞い降りた。

 

「は……?」

 

 一瞬のできごとにエレンは愕然とする。目の前にいたはずのサシャが気づけば巨人を討伐していた。

 サシャはエレンに近づく。

 

「ですからエレン、今は守らせてください。あなたは人類の希望です」

 

 巨人を討伐したことに対して何の快哉もなくサシャは言った。そしてすぐに踵を返した。その耳は壁の向こうから近づく巨人の足音をしっかりと捉えていた。

 

「サシャ……」

「はよ行かんかい!」

 

 巨人が次々と穴から出てくる。

 サシャは一人進撃した。



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第十二話 戦の先

 トロスト区の外街。突出区からはみ出たように存在するその街は、住所としてはウォール・ローゼ南区に位置している。だが壁を挟んで日常トロスト区と行き来している住民にしてみれば、もはやトロスト区の一部といっても過言ではない。

 けれども壁の存在は大きい。特に外門を破壊されるような事態とあっては、内門のある壁の役割は単なる突出区との隔たりではない。人類と巨人、その境界線となり、外街は人類の最前線となる。

 

「首尾はどうじゃ」

 

 そんな新たな最前線の街をスキットル片手に闊歩するものがいる。

 ドット・ピクシス。

 部下からはもっぱらピクシス司令と呼ばれる彼は、駐屯兵団のトップであり、南側領土の最高責任者でもある。そしてそれに見合うだけの実力と実績を持つが故に、緊急事態であろうがなかろうが勤務中の飲酒を注意するものなどいなかった。

 ピクシスは常にトロスト区にいるわけではない。その地位の高さから様々な場所で様々な仕事があり、壁が破壊されたときも地方の有力者と会っていた。そこに早馬が駆けつけ、トロスト区のことを知ると急いでここまで来たのが先程のことである。

 首尾はどうかという曖昧な質問も、超大型巨人が現れ外門を破壊したという情報しか持っていないからだ。どれだけトロスト区に巨人が入り込んでいるか、兵士の消耗具合はどの程度か、指揮をする立場の人間として知らなければならないことは山のようにある。

 しかしピクシスに伴って歩いていた駐屯兵団隊長のキッツ・ヴェールマンは言い淀んだ。どう言うべきかを迷っているようだった。

 大柄な体格に似合わず小鹿のように繊細な彼は、報告を誤魔化すような性格ではない。ピクシスが怪しんでいるのが分かるとキッツは慌てて言った。

 

「今は住民に避難をさせているところでして……」

「まだ終わっておらんのか」

「もうすぐ終わるかと」

 

 ピクシスの顔つきが厳しくなる。

 避難、すなわち住民の命を守ることは兵士の任務としては最優先事項であり、真っ先に終わらせるべきものだ。ピクシスが馬で駆けつけるまでに、それができるだけの時間はあったはずである。それすらも出来ていないということは予想以上に深刻な事態になっているのかとピクシスは考えた。

 住民の避難が完了していないなら、内門の扉を閉ざすわけにはいかない。だがそうなれば巨人がウォール・ローゼ内に入ってくる可能性がある。それに避難が完了するまで兵士たちは巨人を抑えなければならない。犠牲は増えるばかりだ。

 だがピクシスは様子がおかしいことに気づいた。もし避難がまだ完了していないなら、とっくに巨人がこの外街にも入り込み、この一帯も地獄と化しているはずだ。しかし兵士が行き交い忙しく働いてはいるが、そんな様子ではない。ピクシスが視認する限り、門は開かれているが巨人が入ってくる気配はなく、普通に兵士が往来している。

 ピクシスは頭を捻らざるを得ない。

 

「ふむ。何か起きているようじゃの。キッツ」

「はい。見ていただいたほうが早いかと」

 

 

「はっ!」

 

 最小限の動きで巨人を狩る。この程度なら立体機動は必要なかった。一体狩ればまた次の一体が出てきた。それもまた狩った。巨人は倒れ蒸発していく。これの繰り返しだ。

 巨人は赤子の手をひねるように倒せた。サシャはあまりの呆気なさに逆に不安を覚えるほどだった。油断をしているわけではないが、それなりの覚悟と気合いで挑んだ割には肩透かしのような状況だ。

 一体づつか、多くても三体同時にしか出てこない。特別硬いわけでもない。意思もないので通常種だろうが奇行種だろうが動きにキレはなく、大きさも十五メートルが限度だ。

 六十メートルもある火を噴く巨人に、すばやく戦闘能力が高い巨人、硬くて止めを刺せない巨人。普通の巨人も闊歩する中でこれらの知性がある三体の巨人を同時に相手し討ち破ったサシャにとっては、この状況はぬるま湯のようで苦戦しようもなかった。

 

「ブレードをください!」

「分かった!」

 

 その上、サシャにはいつの間にか支援体制ができていた。最初こそ持ち場に戻るよう言われていたが、戦っているうちに徐々に変わってきた。今では付近の建物の屋根に待機し、サシャが頼めばすばやくガスやらブレードやらを持って来てくれる。先輩を小間使いにしているようで複雑な心境だったが、ありがたいことには変わりなかった。

 名前も知らない駐屯兵が飛び降りてくる。彼が持ってきた刃をサシャは鞘に収めていく。

 ブレードは基本的に使い捨てだ。消耗が激しく、どれだけ気をつけても徐々に切れなくなっていく。それ故に兵士はいくつもの替えの刃を鞘に収めていた。

 サシャも例外ではない。慣れない頃と違って今は随分と長持ちさせられるが、それでも限界がある。サシャはなるべく長くこの戦いを続けたかったが、そこが気がかりだった。戦えなくなるのはブレードが尽きたときだろうと考えていた。しかしこうして補給してくれるならば話は別だ。体力が続く限り戦うことができるだろう。

 

「!」

 

 今度は二体同時に巨人が出てきた。同じように殺そうとするが様子がおかしいことに気づく。

 巨人は穴の一番近くにいる人間、つまりはサシャを狙うはずだ。だが片方の巨人はサシャに興味を示すことなく、その視線は空の彼方にあった。奇行種だ。どんな動きに出るか分からない。

 奇行種は案の定、片方の通常種とは違い、サシャに突撃するよりも横に逸れて街に入ることを選んだ。サシャはそれにいち早く気づくと、立体機動に移る。

 通常種を躱し、奇行種のうなじへと一直線に飛んだ。巨人の図体はサシャに次の動きを教えてくれる。突然振り向いて、その勢いのまま腕を振り抜こうとしているようだ。奇行も分かっていれば対処は容易だ。すばやく身を翻して奇行種の腕を躱し、うなじを削いだ。

 倒れていく奇行種を足場にしてサシャは飛び上がると、空中で体をひねり、そのままもう一体の巨人にアンカーを刺した。ワイヤーを引いて突っ込む。通常種だけに特に大きな動きもなく、うなじを刈り取った。

 だがまだ止まらない。壁にアンカーを射出すると、大きく飛び上がった。二体と戦っている間にも、新たな巨人が穴を通っていることを耳は捉えていた。八メートルの穴をくぐるように出てくる巨人。そのうなじをほとんど自由落下の勢いで叩き切ると、サシャは軽やかに着地した。

 その間、数十秒も経っていない。その人間業とは思えない動きに大きな歓声が送られた。

 

 

 声を上げて喜んでいるのは、本来ならとっくに避難しているはずの住民たちだった。半分酔っ払いのような風貌の男が、押し止める兵士の隙間から拳を掲げていた。だが集まってきた兵士に無理やり担がれ避難させられていく。

 

「見事なもんじゃのう……」

 

 ピクシスが感嘆の息を漏らしたのは、無論酔っ払い仲間に向けてではなく、サシャに対してだ。見事と形容するほかにない、無駄の一切を省いた洗練された動き。それはもはや芸術的でもあり、人の心を大いに昂らせた。

 だが誰もが無邪気に喜んでいるわけではない。少なくともキッツだけは困り顔を浮かべている。

 

「あの訓練兵のおかげで、良くも悪くもこんな状況でして」

 

 多大なる戦果を上げているので完全には否定できないが、規律を尊ぶキッツとしては、サシャの兵規を無視した単独行動を素直に喜ぶことはできない。さらにはそのおかげで、既に終わっていたはずの避難が今でも続いて滞っている。

 未だに街に残る住民が壁の上からはよく見えた。だがこれでもマシになったほうである。

 

「見に行くやつはいるわ、荷物を取りに戻るやつはいるわ、勝手に誤報と勘違いするやつはいるわ。挙句商会の人間が荷台を扉に詰まらせまして、さらに避難が遅れました」

「まあ、死なれるよりマシじゃろう」

 

 ピクシスが望遠鏡を覗く。水晶体越しのサシャは大きく手を広げて伸びをしていた。巨人が来ていない間の小休憩だろう。退屈すらしているように見える。まだまだ余裕がありそうだった。

 

「うむ。なかなかの美人。将来も楽しみじゃ」

 

 組織を尊び、基本上官に逆らうことのないキッツだが、ピクシスのこの手の発言には無視を決め込む。

 

「それで司令。いかがしましょう」

 

 作戦の立案と命令が司令であるピクシスの仕事だ。キッツはそれを実行に移すのが仕事。

 だがピクシスが来るまではキッツが代わりにその仕事を務めていた。結局作戦は実行されることなく、サシャの支援を承認するしかできていない。しかし上の立場故にこれから何ができて何ができないかの判断はつく。

 現状においてできることは少なく、それは有能な上官であるピクシスといえど同じことだろう。キッツは命令を待ちながらも、どんな命令が下されるかの予想をある程度していた。おそらく遅れている避難を終えて、内門を閉ざし、警備に務める。大まかにはこの流れとなるはずだ。

 だがキッツの予想は大きく外れた。

 

「壁を塞ぐしかなかろう」

 

 事もなげに言ったピクシスに対してキッツは一瞬口を噤んだ。

 

「それができれば、とうにやっています。ですが我々にはすぐに壁を塞ぐ技術はありません」

 

 ウォール・マリア奪還のため、兵団内においてはいくつもの作戦が立てられることとなった。だが五年が経った今でも目途が立たない。その主な原因の一つは人類に大穴を塞ぐ手段がないことだった。トロスト区内にある大岩を運ぶことまで考えられたが、動かすことすらできなかったのが実情だ。

 そんなことは訓練兵でさえ知っていることだった。無論ピクシスとて承知している。その上で言ったことだった。

 

「すぐに塞ぐ技術は確かにない。だが時間を掛けて塞ぐことはできる」

 

 キッツは信じられないという顔をした。

 確かに時間は掛かってしまうが穴を塞ぐだけの技術を人類は持っている。調査兵団を筆頭に人類の自由を求めるものたちによって反対され、実行には移されていないが、安全のために門を完全に密閉して塞いでしまおうという案は何度か出ていた。

 だがそれは準備にすら時間を要するし、それに何よりも大きな問題があった。

 

「巨人はどうするのですか」

 

 巨人の脅威に晒されながら、壁をのんびりと塞ぐことはできない。キッツはそれを指摘したが、ピクシスは軽い調子で言った。

 

「あの訓練兵に倒してもらうしかあるまい」

 

 キッツはさらに指摘する。

 

「ですが……そうなると門の外側で戦わなければなりません」

 

 外の危険は内側の比ではない。門が大きく削れており立体機動も使いにくいだろう。穴から数体ずつ巨人が出てくることはなく、全方位から巨人がやってくる。そんな中でいつ終わるかも知れない作業を守り続けなければならない。

 キッツはとても成功するとは思えなかった。その危険性をピクシスも分かっているはずだ。だがピクシスは実行に移す気のようだ。

 

「では外側で戦えるか、本人に確認してみるとしよう。呼んできてくれんか」

 

 壁の外では巨人がまばらに近づいている。だが歩みは遅く、しばらく来る気配はない。呼んで少し話すくらいの時間は取れそうだった。

 キッツはまだ言いたいことがあるようだったが、大人しく壁を降りていった。それを確認するとピクシスは門の上付近まで移動した。

 その辺りは超大型巨人によって大きく削られている。凸凹の壁上を靴の裏で感じながら、ピクシスは吹き飛ばされた壁上固定砲や線路の残骸を街の隅に発見した。

 そして壁から突出した柱部分に立つと、外側からの門を見下ろした。内側から見るのとは違い、大きく抉られて内部が見えている。細長い三角形に開いたそれは、超大型巨人が蹴り破ったときの衝撃を物語っている。

 それでも門の上のほうは無事に済んでおり、固定砲がいくつか残っていた。そこでは駐屯兵が懸命に弾の補充をし、射程範囲外にいる巨人の動きを予測して狙いを定めている。

 

「順調かの」

「ピクシス司令!」

 

 固定砲を操っていた兵士たちは突然の呼びかけに顔を向け、それがピクシスだと分かるとすぐさま敬礼した。

 

「質問をしたい。集団で来る巨人をバラけさせることはできそうか」

「申し訳ありません。我々もそれをやっているのですが、あまり効果は……」

「ふむ……」

 

 固定砲で巨人を殺すことはできなくとも、せめて足止めして負担を減らすことはできないかと思ったが、難しいようだ。それに壁の外側で戦うとすれば固定砲が邪魔になる可能性もある。

 大して意味がなく危険が増えるだけならば撃たないほうがいい。固定砲による支援はないものとして考えるべきだろう。

 ピクシスは大穴を注視した。穴の場所には大小の瓦礫が散乱している。足の踏み場もない状況だ。何も気にせず進む巨人ならまだしも、普通の人間ならただ通るだけでも苦労するのが目に見えた。穴を塞ぐとなればこれらのことも考慮に入れねばならない。時間はより必要となるだろう。

 キッツの言う通り、ピクシスの作戦は無理があるように見えた。

 現状一人の死者もでていないし、トロスト区とローゼを結ぶ門は無事だ。何もしなければ、とりあえずはここで平和に終わらせることもできるだろう。トロスト区は失うが損害はそれだけだ。だからそれ以上は何もしないという選択肢もある。

 だがそれでもピクシスは実行したかった。わざわざ危険を冒してでも門を塞ぎたいのは、それが人類のためになると信じているからだ。そこがキッツとピクシスの違いだった。

 

「呼んできました!」

「ふむ」

 

 ピクシスは振り返る。

 息ひとつ上がっていない。汚れもない。先程まで巨人と戦っていたとは思えない、出撃前のような風貌での敬礼がピクシスに向けられていた。

 

「訓練兵、名前は何という」

「はっ! サシャ・ブラウスです!」

 

 ピクシスはその名を頭に刻みつけた。

 

「サシャ訓練兵。手短に話そう。この壁の外側で戦えるか」

「はい」

 

 即答が返ってきた。サシャの平然とした顔つきを見て、虚栄で言っているのではないことをピクシスは読み取った。壁の内で戦おうが、外で戦おうが、本当に何も変わらないという意思表示に見えた。キッツが懸念していた事柄はサシャには些細なことのようだ。ピクシスは思わず笑う。

 

「我々は今から穴の閉塞作業に入る。明日までかかるじゃろう。少なくともこれから夜まで戦うことになる。できるか」

「できます」

「一匹とて巨人を通してはならん。作業が完了するまで守り通せるか」

「はい」

「おい見栄を張るなよ訓練兵! もし失敗すれば……」

 

 失敗すれば多大な被害が出る。そう言おうとしたが、ピクシスの強い視線にキッツは自然黙らざるを得なかった。

 ピクシスはサシャに敬礼を返した。

 

「では頼んだぞ」

「はっ!」

 

 サシャは横を向くとゆっくりと倒れていく。その先に体を支えるものは何もない。壁から足を離すと、頭を下にして地面に吸い込まれていった。

 落下していくサシャに固定砲のそばで作業をしていた兵士が驚きの声を上げる。

 壁にアンカーを突き刺してゆっくり降りていくことはあっても、飛び降りることはあまりない。立体機動にかなりの自信がなければできない芸当だろう。

 キッツは喋ることを許されたと判断したのか、ピクシスの隣に移動して言った。

 

「ピクシス司令。危険です。あれだけの逸材をむざむざ殺すことにも……」

「のうキッツ。わしは賭け事は好まん」

 

 ピクシスは飛び降りたサシャを見ながら言った。

 

「勝ちを見極めてから勝負にでるほうが好みじゃ。そしてわしは先程、人類の勝機を見た」

 

 サシャは壁の柱にアンカーを近距離で刺すと、ほとんど地面まで落下して、跳ねた。ワイヤーを巻き戻し、その場で一回転して地面に降りる。ブレードを確認すると、巨人を待つ姿勢になった。

 ピクシスはキッツに向き直った。その顔はどこまでも力強さに溢れていた。

 

「駐屯兵総員に命令する。これより穴を塞ぐことに全力を傾けよ。駐屯兵団は壁と共にある」

 

 

 サシャの後方では駐屯兵たちが慌ただしく駆け回っていた。大急ぎで街中を移動し大量の資材を集めている。瓦礫の撤去も同時に進めていた。それもこれも、すべては穴を塞ぐためだ。

 サシャはこっそりと安堵の息を漏らす。

 最初は、エレンが生きているのだから大穴はそのうち塞がるものだと想定していた。戦っていれば巨人化したエレンが大岩を持ってきて全てが解決するような気がしていたのだ。

 だが当ては外れた。エレンが来るはずがない。その事実に気づいたとき、サシャは自分の安易さに頭が痛くなった。エレンはまだ自分の正体を知らず、巨人になれることなど夢にも思っていないだろう。そんなことをすっかり失念していたのだった。

 だからといってサシャには何もできなかった。次々と出てくる巨人を街に入れずに倒せるのはサシャだけだった。故に持ち場を離れてエレンに会いに行くわけにもいかなかった。

 その上、そもそもサシャはエレンが巨人化に至った経緯を知らない。記憶をたどると、アルミンが涙ながらにエレンの死を報告したことがあるのだから、死ぬほどの危険な事態が巨人化には必要なのかもしれない。であればエレンをわざとそんな目に合わせるべきかとも考えたが、すぐに却下した。守らせてくれと言った人間の所業ではない。

 だがこれでは穴を塞げない。どうしたものかとサシャは巨人と戦いながら考えた。だが良い案は出なかった。そんなときにピクシスからの話があったのだ。

 サシャの記憶とは随分ずれているが、とにかく穴を塞いでくれるのなら、この際誰であろうと喜んで受け入れた。

 穴が塞がるまで戦うというのも、長い繰り返しの記憶からすれば大した時間ではないように思えた。それに普通の巨人なら何体来ようがあまり体力は使わない。

 

「来た!」

 

 後方の駐屯兵が呻いた。前方には五体ばかりの巨人が一斉に押し寄せてきていた。全方向からほとんど同時に来た形だ。

 サシャは一歩前に出ながら、この戦いは今までのやり方ではダメだと気づいた。巨人は五体とも奇行種ではなく通常種だが、その視線はサシャ単体に向けられていない。巨人は大勢の人間に引きつけられる習性を持つ。サシャを含め、後ろの駐屯兵たちに反応しているのだ。下手をすればサシャを無視して後ろに走り抜けてしまうかもしれない。今までは奇行種でもなければ勝手に近づいて来ていたが、ここからはおびき寄せる必要があった。

 サシャはどの巨人にも離れすぎないようにして注意を自分に向けた。そしてはみ出していく巨人がいないかを常に気にかけた。もし一体とて逃せば大惨事になる。進めていた作業も無駄になるだろう。全てはサシャに懸かっていた。

 巨人を何体か倒し終えたところでサシャは気づく。この戦いは想像以上に神経を使うと。

 だがどの道これ以外の方法はない。サシャは気合を入れ直した。

 

 

 夕暮れから夜闇に変わり幾分かの時が過ぎた。点々と現れていた巨人も今ではすっかりその姿を見せない。

 冷たい地面に胡座をかきながら、サシャは静かに耳を澄ませていた。夜の冷たい風の音。ずっと聞こえていた巨人の足音は聞こえなくなった。日光がなくなり、闇の中で活動を停止しているのだ。未だに地面を鳴らしているのは人間だけだった。

 否、地面の音だけではない。サシャの頭上からはワイヤーを伸ばす音が聞こえる。誰かが降りてきているのだ。

 サシャが閉じていた瞳を開き、上を確認すると火がゆっくりと壁を下っているのが見えた。地面に降り立つと、火は左右にゆらゆらと揺れた。

 

「ここです」

 

 サシャの声に反応し近づいてくる。火の持ち主はサシャを照らすとニコリと笑いかけた。

 

「やあやあ。ごくろうさん」

 

 自由の翼をもつ緑色の外装を着用している。立体機動用の眼鏡をかけ、長い髪を後ろにまとめていた。ハンジ・ゾエ。調査兵団の分隊長だ。

 調査兵団はまだ日のあるうちに壁外調査からトロスト区へと帰ってきていた。そしてサシャが戦っている間ずっと上で待機していたのだ。

 

「もう巨人は来ないだろうし、戻ってこいだってさ」

 

 壁際まで誘導するハンジ。

 サシャはどうしてハンジがそれを報告するのか疑問だったが何も言わずついて行くことにした。

 念のため耳を澄ますが相変わらず巨人の音は聞こえない。急かすハンジの声ばかりが大きい。

 火を持って降りてきたが、さすがに登るときは危ないと思ったのか火は消して捨てていた。明るい光が急に消え、一気に闇に包まれる。壁の上では火を焚いているのか、ぼんやりと明るくなっているのが見えた。

 

「暗い中でよく戦えたねぇ」

「耳が良いんです」

 

 日光がなくなってもしばらく動き続けていた巨人を相手に、サシャは暗闇の中で耳だけを頼りに戦った。もし火を持てば片手が塞がってしまうし、地面に置いてても見えにくいし危ないだけだからだ。巨人は図体が大きい分、何をするにも大きな音が出る。火に頼るよりも、それらに頼るほうがサシャには向いていた。

 立体機動装置を使って壁に足をつくと、サシャは自然と空を見上げる形になった。雲があるせいか月は見えず、どことなく暗い空間が永遠に続いているように見える。こんなに暗い中で戦っていたのかとサシャは他人事のように思った。

 

「穴はどうですか」

 

 サシャは一番気になっていることを聞いた。最初こそ後ろを向けば作業風景が見えていたが、途中から木枠がはめられだんだんと見れなくなった。音で聞いてもよく分からないし、仮に見えていたとしてもやっぱりよく分からないだろうが、どれだけ進捗しているのかはずっと気がかりだった。

 

「まだ完成とはいかないみたいだね」

「そうですか……」

「夜通し作業だって。まあ朝になれば立派なのができてるさ」

 

 壁の上ではピクシスがサシャを迎えた。敬礼をするサシャに敬礼を返すと、ついてくるように言って歩き出した。

 兵士たちは壁の上でも必死に働いている。朝起きたときには、まさかこんなに働くことになるとは考えてなかっただろう。その顔には疲れが感じられた。

 そんな彼らの中を突っ切るようにして進んでいくピクシス。サシャはその後ろをついて行く道すがら、ぎょっとしてしまう。二人が歩いていることに気づいた何人かの兵士が敬礼をしてきたのだ。ピクシスにしているのなら何も思わないのだが、どうもサシャに向けているように見えた。ここにいるのは全員サシャより目上のはずだ。敬礼を返さないといけないが、どんどん進むピクシスに遅れないよう、ついて行くことしかできなかった。

 

「ここからならよく見えるじゃろ」

 

 半円状のトロスト区。その頂点から円の中腹あたりまで移動した。横側からトロスト区を一望できる場所だ。

 ピクシスの視線の先を見やる。闇に沈むトロスト区の中で、そこだけは一際明るかった。開閉門があった場所だ。サシャが最後に見たときは無惨に穴がぽっかりと口を開けていた。だが今、炎に照らされて見えるのは穴ではない。強固な壁だった。

 穴の内側から柱のほうまでびっしりと煉瓦が積み重ねられ固められている。さらには鉄格子のようなものも用意されており、今からそれを取り付けるようだ。

 

「お主のおかげでここまできた。巨人が入ってくることはないじゃろう」

 

 壁の穴は塞がった。トロスト区も住民が避難しているせいで静まり返っているが無事だ。その事実はサシャに衝撃を与えた。

 サシャは力が抜けて、壁の上にへたり込むとそのまま横になってしまう。張り詰めていた緊張感が一気に体から抜け出した。安堵と疲労がサシャの内部を駆け巡る。上官の前でこの態度は失礼にあたるだろうが、サシャは立つことも、ろくに返事をすることもできなかった。

 真っ黒な空を見上げながら、大きく息を吐き出した。

 

「お腹空きましたぁ……」

「ふむ。では何か用意しようかの」

 

 サシャのそれは、頼んだのではなくほとんど独り言、それも思わず出てしまったものだった。けれど何か食べられると思うと自然と期待した。司令ともなれば美味しいものを食べさせてくれるに違いない。上官の食糧庫にあった肉を盗まなくても食べられるかもしれない。

 そんな幸せな妄想にふけるサシャの隣に人影が近づいて座り込んだ。

 

「まさか本当に一人でやりやがるとはな」

 

 人類最強と謳われる兵士、リヴァイ兵士長その人だった。

 

「お前は巨人に立ち向かい、化け物じみた戦いを見せた。だが俺には分かる。お前は誰よりも臆病だ。なのに戦い続けた。だが何のためだ。いったい何がお前を、そこまで駆り立てる」

 

 返事はなかった。リヴァイに返ってきたのは身を投げだして寝ているサシャの寝息だけだ。

 

「…………」

「しっかし本当にすごかったねぇ。調査兵団に入ってくれないかな。ねえ、エルヴィン」

 

 いつの間にかリヴァイの後ろにはエルヴィンとハンジがいた。

 サシャの寝顔は、ハンジが地上で見たときと打って変わって、鋭さの抜けたあどけない年相応の少女に見えた。調査兵の三人は一様にその顔を覗き込む。

 エルヴィンは目を細めてうなずいた。

 

「ああ。必ず入ってもらう。忙しくなるぞ、サシャ・ブラウス」



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第十三話 進む先

 トロスト区にある兵団本部。兵士の施設ということもあり、基本的には飾り気のない場所である。だが公の重要施設でもあるが故に、一応客室や応接間といった部屋もあった。他の部屋では見られない重厚なソファに、足の低いテーブル、装飾の施された額縁。サシャは自分がいる部屋がそういう一室だと確信する。

 慣れない部屋にひとり置いておかれ、手持ち無沙汰に艶のあるソファを撫でる。サシャは背中を預けながら、自分の置かれた状況に思考を巡らしていた。

 夜まで巨人を討伐し、トロスト区を守れたことに安心して、いつの間にか眠っていた。そして知らない部屋で起こされたのがつい先程のことである。起こしたのはハンジで、寝ぼけ眼のサシャを誘導し、この部屋まで連れてきた。そしてここで待つように言われて十分ほど経った。

 つまりはほとんど寝起きの状態だ。そして状況的にこれから誰かに会う可能性は高い。

 サシャは自分の格好を確認した。人に会う格好ではなかった。ジャケットは脱いでいるし立体機動装置も着けてないが、装いは昨日のままだ。汚れているし、寝起きで皺が寄っている。せめて汚れを取ろうと、戦闘のせいで所々に付着していた砂を払い落とす。

 髪の毛も汗と砂埃でベタついて気持ちが悪かった。髪を切っていなければさらに酷いことになっていただろう。

 そこに複数の足音がこの部屋に向かってくる。サシャは慌てて髪を手ぐしで整えると姿勢を正した。

 入ってきたのは三人。全員サシャの知っている人物だった。

 

「調査兵団団長のエルヴィン・スミスだ」

 

 目の前の椅子に腰掛けたエルヴィンはサシャに向かって自己紹介をした。真向かいに座りながら、かつての上司が直々に自分に話しかけているのを見て、サシャは妙な気分になった。それにリヴァイとハンジの存在もある。調査兵団の幹部といってもいいだろう。死亡率の著しく高い調査兵団において長年生き残ってきた猛者たちだ。かつて単なる新兵だったサシャにとって、その存在は遠いものだった。それが今は三人ともがサシャに注目していた。

 

「寝ているところを呼び出してしまったようだ」

「い、いえ。大丈夫です」

 

 エルヴィンがサシャの直せていない寝癖を見て言った。サシャは油分を含んだ頭をなでつける。

 リヴァイが舌打ち混じりに小さな声で汚いと罵ったのを、サシャは気にしないように努めた。

 

「所属兵団を選択する本日、君を呼び出したのは他でもない。調査兵団への勧誘だ」

「勧誘ですか」

 

 万年人手不足の調査兵団が勧誘をするのはおかしなことではない。だが特定の一人に勧誘するのは珍しいだろう。普通は訓練兵全員に向けてやるものだ。それをわざわざ団長が直に出向くという特別扱いにサシャは戸惑うほかない。

 

「新しく調査兵団に迎えた君の友達から聞いた。君も調査兵団を志望していると」

 

 友達とは整備班の誰かだろう。みんな生きて調査兵団に入れたのだ。

 しかしサシャは別のところが引っかかった。

 

「もしかして、他のみんなはもう所属兵団の選択を終えたのですか」

「当たり前だ。朝には終わった。今何時だと思ってやがる」

 

 サシャの斜めに座っているリヴァイが紅茶をすすりながら言った。

 何時なのか分かるわけもないが、寝坊したのは確かなようだった。身だしなみに加え、いったいこの短時間でいくつの恥をかけばいいのか。サシャはきまりが悪かった。

 ハンジが苦笑いでなだめた。

 

「まあまあ。昨日は大変だったんだから」

「それでどうだろう、サシャ・ブラウス訓練兵」

 

 エルヴィンが改めて言った。

 

「我々はウォール・マリアの奪還を目指している。トロスト区の扉が完全に塞がれて使えない以上、東のカラネス区より新たに行路を開拓していかねばならない。シガンシナ区に着けば門を塞ぐ必要もある。それを実行するには、昨日のように君の力が必要になる。気持ちに変わりないのなら、ここで調査兵団に入ることを決めてもらいたい」

 

 門を塞ぐ。その言葉を聞いてサシャはエレンのことが真っ先に頭に思い浮かんだ。

 エルヴィンの口振りでは、まるでシガンシナ区でも、昨日と同じような方法で穴を塞ごうとしているように聞こえる。

 しかしエレンがいれば、もっと安全で確実な方法があるはずだ。それを言わないということは、エレンが巨人化できることを、団長をはじめ、サシャ以外は誰も知らないということだ。サシャはその当然の事実に今更ながら驚いた。

 

「エレンをご存知ですか」

「エレン?」

 

 勧誘に対する快諾でも拒否でもない、サシャの口から出てきた突然の人名に、エルヴィンは首を傾げる。

 

「調査兵団に入ったはずなんですが……」

「すまないが、まだ新兵の顔と名前を覚えていない」

「え、なになに? 恋人か何か?」

「違います……」

 

 ハンジの軽い調子に、サシャは二重の意味で頭を抱えた。

 

「エレンは……うまく説明できませんが、実は巨人なんです。それで人類の希望で……」

「えー! 何それ! 面白そうだねぇ!」

 

 ハンジが無駄に昂る。エルヴィンはサシャを見据え、リヴァイが苛立たしげにカップを置いた。

 

「話が見えねえな。巨人だの、人類の希望だの。お前の返事は調査兵団に入るか、入らないかじゃねえのか」

 

 サシャは口を噤んだ。一番大事なのは調査兵団に入るか入らないかであって、サシャの戯言は二の次。

 しかしサシャにとってはそうではない。一番大事なのはエレンのことだ。

 話しても信じてもらえるか分からない。信じてもらえたことなどない。事実が突飛すぎて誰も認めてくれなかった。無力感に何度も襲われた。それでも話す必要があった。

 調査兵団にとっても人類にとっても、エレンの力が必要だからだ。それにエレンのことだけではない。未来で何が起こるか、そしてあの三人のことも話さなければ、そのうち大きな被害が出るだろう。

 サシャは決心した。

 

「調査兵団には入ります……」

「では……」

「ですが交換条件です」

 

 条件をつけるという明らかに調子に乗った発言。それを声高らかに咎めるものはいないが、部屋の中には妙な緊張状態が生まれていた。サシャはそれに負けないよう、しっかりとエルヴィンの目を見ていた。

 

「私のこれからする話を信じてください」

「信じるかどうかは聞いてからでないと判断できない。話してみてくれ」

 

 

 サシャは全てを話した。経験し、知り得たことの全てを。

 話し終えると部屋は静寂さに包まれた。相変わらず紅茶を飲んでいるリヴァイの隣では、エルヴィンとハンジが腕を組んで考え込んでいた。

 サシャは唾を飲んで見守るしかない。

 

「信じてみようと思う」

 

 やはりダメかと諦めかけたときエルヴィンからその言葉が出て、サシャは信じられない思いで顔を上げた。

 驚いているのはサシャだけではなかった。ハンジも狐につままれたような顔でエルヴィンを凝視していた。

 

「エルヴィン、本気? 巨人化についてならまだしも、未来から来たっていうのも?」

「ああ」

「どうして」

「そもそも、こんな嘘をつく理由はないからだ。それに優秀な成績上位者とはいえ、ただの訓練兵があれほどの力を見せた説明にもなる」

 

 ハンジは眉をひそめていた。納得できていないようだ。

 だがハンジは団長としてのエルヴィンを何より信頼し、命を預けている身だ。そのエルヴィンが信じるというのだから、それを前提に話を進めることにしたらしい。息をつきながら、眼鏡をかけ直した。

 

「けど、そうなると壁内に壁の破壊を企む巨人が三人もいる。さらには、正確な日付は分からないけど、おおよそ一ヶ月後の壁外調査の後にはウォール・ローゼが破られることになるわけで……」

「いや、おそらくそれだけではない。サシャ、君はウォール・ローゼは突然破られたと言ったな。超大型巨人や鎧の巨人が壊したのを見たわけではないと」

「はい。ライナーとベルトルトはその場にいましたし、壁を壊してないと思います。アニは分かりませんけど、憲兵でしたから中央にいたはずですし……」

「じゃあ、アニって子がこっそり壁を破壊したのかな」

「時間をかければ分かりませんけれど、アニが壁を壊せるほどだとは思えません」

 

 ウォール・ローゼに突如現れた巨人たちは、門から入ったのではなく、壁のどこかが破壊されて入ってきたと考えられた。でなければトロスト区は大騒ぎになり、巨人を見つけるより先に、調査兵団に連絡が来ただろうから。

 だが壁を直接壊すのは、ベルトルトとライナーでさえ困難だろう。なので二人より戦闘能力はともかく破壊力では劣っていたアニが、壁を壊していたとは考えにくかった。

 

「つまり敵は三人だけではない可能性がある」

 

 エルヴィンはサシャに目を向けて言った。

 

「壁を破壊できる者が他にいるとして、心当たりはないか」

「すいません。ありません」

 

 謝りながらもサシャはぞっとする思いに駆られていた。あの三人ですら厄介極まりないのに、それ以外にも同じような敵がいる。もしかしたら複数かもしれない。エレンも巨人になれるし、この世界にはいったいどれだけそんな人間がいるのだろうか。

 

「エレンってやつはどうなんだ。お前の話じゃ人類の希望だそうだが、巨人になれるなら裏切り者の可能性もある」

 

 リヴァイは不機嫌そうな顔をサシャに向けた。だが怒っているわけではなく、これが標準の表情だ。

 サシャはすぐに否定する。

 

「違うと思います。自分が巨人になれると知らなかったくらいですし。それにローゼが破られたときは、たしか憲兵に引渡しをするとかで中央に行ってたはずです」

「とにかく三人のことも、まだ見ぬ敵のことも、いろいろ探る必要があるな」

 

 エルヴィンは仕切り直すように言った。

 

「サシャ、君はどうするべきだと思う。何か意見はあるか」

「どうするべきと言われましても……」

 

 行き当たりばったりな作戦で行動し、死に戻ったのは数知れない。

 唯一まともな結果に終わったのは昨日だけだった。なるべく巨人を狩ることで人命やトロスト区を守った。

 だがそれは、三人を倒すことを一先ず諦め、記憶の中のトロスト区攻防戦の結果を少しでも被害を抑えたものにしようとした結果だった。それが偶然うまくいっただけの話で、作戦と呼べるかは微妙なところだ。

 まともな意見を具申できる気がしなかった。

 

「たぶん……私はそういうのを考えるのに向いていません。兵士として人類のために戦い続けるだけです」

 

 リヴァイがそれを聞いて口を開いた。

 

「戦い続けるか……一度は逃げ帰ったらしいが、ずいぶんな心境の変化だな」

 

 サシャは思わず苦笑いを浮かべる。

 確かにそうだ。もしあの頃のサシャが今のサシャを見れば、別人のように思うだろう。

 

「そうですね。私は戦い続ける……いえ、戦い続けなければいけないんです」

 

 サシャは今までの長い旅路を回顧する。

 何度も死に、その度に目覚めた。何度も繰り返した。

 だがいつしかサシャは考えるようになった。自分が死んだ後の世界はどうなっているのだろうかと。

 もし世界の全て逆回転して元に戻っているのなら、それが一番だ。しかし、もしかしたらサシャの死後もあの世界は独立して続いていて、大勢の人が巨人に食われ、人類が滅んでいるのかもしれない。

 本当のところは分からない。人知を超えているだろう。知りようもない。しかし一度そう考えると、無視できなくなった。

 

「私の臆病で、私の力不足で、私の愚かさで、滅んだ世界がたくさんありました。その苦しみは確かに存在しました。それらを越えて今の私がいます。その犠牲のためにも、私は生きて、戦い続けなければいけません」

 

 サシャは覚悟を掴むように拳を握りしめる。小さく身を屈めて拳を額に当てていた。何かに祈るようにも、何かを背負っているようにも見えた。

 エルヴィンは薄く笑った。

 

「命を賭して情報を集めてもらい、また過去に戻ってもらうことまで考えていたが、それをやるわけにはいかないな」

「うわぁ、うちの団長はえげつないなぁ」

 

 ハンジはエルヴィンから身を引いた。だが半分面白がっているようにも見えた。

 

「あくまで最終手段だ。不確定要素が多すぎる。サシャ、その過去に戻る力について君自身、何も分かってないのだろう」

「はい」

 

 サシャはうなずいた。この力については巨人以上に謎だ。

 確実に分かることは、死ぬとあの日のミーナの隣で目覚めるということだけだ。それも経験則でしかない。

 しかしサシャは確信していることがあった。だが根拠のあるものではないので言うべきか迷った。しかしエルヴィンがそれに気づき促したので、結局言うことにした。

 

「おそらく、この力は私が最初に死んだあの時間まで生きていれば、自然と消えると思います」

「確かに何かあるとすればそこだろうが、どうしてそう確信できる」

「勘のようなものですが、これはきっと運命なんです」

「運命?」

 

 非科学的な話に、さらに非科学的な説明が加わる。おかしなことと分かっていたが、サシャはそうとしか考えられなかった。

 

「私はあの時点で死ぬ運命ではなかったんです。生きてなければいけない運命なんです。ですから、その時点で生きていれば力は消えます」

 

 本人がそう言うのだから信じるほかない。この話に否定も肯定もできないエルヴィンは静かに頷いた。

 サシャの過去に戻る現象を有効活用できないものかという考えは、エルヴィンの中で順位を下げていく。

 エルヴィンは口を閉じて、静かに考えを巡らせていた。はじめはサシャの能力を何とか調査兵団に引き入れようとしていた。しかしサシャが持っていたのは、その類まれなる能力だけではなかった。未来の情報、敵の情報というサシャの能力に劣らない得がたいものがあった。だがそれらを上手く活用できるかはエルヴィン次第だ。

 

「サシャ。確認するが、この話は我々以外にはしていないな」

「していません」

「では秘密にしておいてくれ。他の者には話さないように。さて……」

 

 エルヴィンが立ち上がったのを見て、サシャは話が終わったのだと思った。しかし違った。エルヴィンは部屋を退出することなく、その場で真っ直ぐに休めの姿勢をとる。サシャは慌てて立ち上がると、同じように休めの姿勢をとった。

 机を挟んで、真剣な顔つきがサシャに向けられる。

 

「我々が君の話を信じ、そして行動に移すことは伝わったはずだ。改めて問おうサシャ・ブラウス訓練兵。君の力が必要だ。我々と共に戦ってくれるか」

 

 サシャは今何をすべきか分かった。

 握りこぶしを胸に打つ。

 心臓を捧げた。

 

「ハッ!」

「いい敬礼だ。よろしく……いや、お帰りサシャ。君を歓迎する」

 

 苦労の末、再び調査兵団に入った。差し出された手を握り返しながら、サシャは感慨深いものを感じていた。

 しかしエルヴィンは手を握りながら、事も無げに言う。

 

「ではさっそく仕事だ」

 

 サシャは目を丸くした。エルヴィンはサシャに命令できる立場になったわけだが、いくらなんでも早い。

 いったい何を言われるのかとサシャは身構える。

 

「君には人類の希望になってもらう」

「はい?」

 

 サシャはさらに目を丸くした。

 

 

 ウォール・ローゼ東の突出区であるカラネス区は、かつてないほどの賑わいを見せていた。壁の外へと続く開閉門、そこに続いていく大通りは人で溢れている。彼らの目的は、本日ここを通過する予定の調査兵団を見送ることだった。

 壁外調査は巨人に対する人類の攻勢を象徴する。命を賭して戦いへと挑む英雄たち。自然、その見送りには人が集まるのが常だ。

 しかし今回は毛色が違う。

 

「ここからならよく見えるだろ」

 

 男は二階の窓から顔を出している甥っ子の後ろ姿を見ていた。無邪気にはしゃいでいるところを母親に止められている。

 ここは男の自宅。大通りに面した場所にある。

 トロスト区からやってきた弟家族は大喜びだった。

 

「ありがとな兄さん」

「いいってことよ」

 

 窓の外を覗くと大通りがよく見える。男にとってはいつもの景色だ。だがここまで人でごった返したところは見たことがなかった。

 道の中心だけ開けており、端には見物人が身を押し合いながら行き交っていた。カラネス区の住民もいるが、ほとんどはトロスト区やウォール・ローゼ南区から来ている。

 カラネス区は経済的利点の多い城郭都市の一つであるが、特に何か珍しいものがあるわけでもない。せいぜい兵士と商人が行き交う普通の街だ。そこにこれだけの人が一斉に来たのは初めての経験だった。商店を営んでるものはさぞかし儲かっているだろう。

 

「すげえなこりゃ。一人を見るために、これだけ集まるか」

 

 憲兵まで出動して人を誘導しはじめる事態だ。

 窓の外を見ながら言った男の言葉に、弟は思わず笑った。

 

「確かにすごい人気だ。トロストじゃ毎日話題に上るほどだよ。特に戦ってるところを直に見た人の盛り上がりはすごい。それにはじめて公に顔を出すんだからね」

 

 それでこの盛り上がりかと男は思う。

 彼女の噂はこのカラネス区にも轟いていた。トロスト区ではなおさらだろう。

 男は時計を確認する。

 

「そろそろ来るんじゃねえか」

「うん。そうだね」

 

 弟は甥っ子と同じように窓から体を出して外を眺めた。いつもは冷静な弟でさえこれだけ夢中にさせるとは。

 男はトロスト区民の熱狂ぶりに目を見張るばかりだった。

 

 

 サシャは微笑みを浮かべていた。余裕を感じさせる、美しい微笑みだった。

 しかしその表情とは裏腹に、内心は落ち着かない。前後左右、さらには建物の上からも喝采が常に浴びせられている状況にあるからだ。

 大勢の人々に手を振られ、サシャは馬上から漠然と誰に向けるわけでもなく手を振り返していた。その仕草一つで盛り上がる見物人たちに、サシャは頬をひくつかせないように必死だった。

 歓迎されるのは嬉しいのだが、ここまでくると戸惑いしかない。

 サシャの耳は人々の歓声の内容まで正確に聞き取る。大半がトロスト区を救ったことに対する感謝の言葉だった。だが中にはサシャの功績を褒めあっていたり、直接戦っているのを見たことがあると自慢する者もいて、誇らしいよりも居心地の悪いほうが勝っていた。

 サシャへの称賛が功績だけでなく容姿にまで移ってきたので、気恥ずかしくなり慌てて意識を別に向けた。

 

「わあ、すごいねぇ」

「うるせえ連中だ……」

 

 すぐ後ろに並んでいるのはハンジとリヴァイだ。ハンジは呑気に見物人を逆に見物していた。リヴァイは人の多さに辟易している。

 

「こいつの暴食ぶりを見せりゃ、少しはマシになるか」

「エルヴィンの努力が無駄になっちゃうよ」

 

 ハンジの言葉を聞いて、サシャは怒涛のように過ぎたここ一ヶ月に思いを馳せた。

 エルヴィンは本当にサシャを人類の希望にしようとした。

 まず始まったのは訓練だった。だが戦闘訓練ではない。エルヴィンが連れてきた初老の女性がサシャに施したのは行儀作法と演技指導だった。地獄を抜け出したと思ったら、また趣の違う地獄が待っていた。

 サシャの顔は幾度となく罵られた。間の抜けた顔をするな、かといって無表情や仏頂面でもいけない。気品に溢れていて、兵士としての矜恃も失っておらず、女性らしい包容力もある、そんな顔をしろ。

 苦労の末に、サシャは微笑むことを覚えた。今も人々に向けているこの微笑みだ。初めて鏡で見たとき、こんなにも爽やかに微笑むことができるものかと、微笑んだまま驚いた。

 訓練は顔に留まらず、言葉遣いや挨拶作法、食事作法、会話の進めかたと多岐にわたった。

 慣れていた敬語は褒められたが、女性らしい言葉遣いには苦労した。だがそんな苦労も食事作法に比べれば楽なものだった。サシャは食べたいものを、食べたい順に、食べてはいけない世界に衝撃を受けた。

 なんとか作法も習得し、微笑みを携えて、サシャは壁内の様々な人と会った。貴族、区長、町長、会長、兵団関係者。団長に同行する形でそれらの人と会っていた。極めて政治的なやりとりに、ある意味では巨人よりも恐ろしいと思った。

 何とかそれらを乗り越え、次は何かといえば、休む暇もなく壁外調査であり、この状況である。

 サシャは目の前を進むエルヴィンを見る。彼は他にも色々動いていた。辺りに響く歓声はサシャの功績あってのものだが、エルヴィンの力も少なからず影響しているだろう。

 

「まさか、こんなことになるなんてな……」

「噂じゃトロスト区に像まで作るらしいぜ」

 

 サシャの優れた耳が漫然と盗み聞きをしてしまう。列のずっと後方にいる同期の声だとサシャは気づいた。

 彼らはサシャと同じく調査兵団の新兵である。それにも関わらず、サシャは彼らとろくに会話をしていない。それどころかずっと会ってすらいなかった。入団してから作法の訓練か、エルヴィンとの挨拶回りで忙しかったからだ。隊列を組む前に少し時間があり、その時に声をかけたのが、久々の同期との交流である。

 しかもどう話しかけるか迷った末に、照れ隠しなのか何なのか、お得意となった微笑みのまま、みんな今日はよろしくね、と声をかけてしまった。

 せめて敬語を使えばよかったとサシャは反省する。同期はサシャと気づかず、先輩だと思い込んで、畏まって挨拶を返したのだから。あんなに気まずいことはなかった。

 サシャはため息を噛み殺して微笑み続ける。

 人との交流は、会食であっても雑談であっても色々複雑だ。

 父の言葉を思い出す。他者と向き合うのはそんなに難しいかと。心の中でサシャは答える。きっと何よりも難しいと。

 

「サシャ」

 

 目の前のエルヴィンが呟いた。辺りを確認すると予定されていた位置だ。

 やるべき事はたくさんある。分からないこともたくさんある。いつかは乗り越えて、帰らなければならない。

 けれど今は仕事をこなそう。

 ブレードに手をかけ高々と掲げた。

 その姿に人々はさらなる歓声を上げる。

 進む。どこまでも。

 進む。巨人を狩るために。

 進む。人類のために。

 進む。生きる限り。

 民は叫ぶ。新たな希望の名を。

 サシャ・ブラウス。

 人は彼女を、トロストの勇者と呼ぶ。




これにて完結です。
稚拙な文でしたが、少しでも楽しんでいただけたでしょうか。
みなさまのおかげでランキングにも乗ることができ嬉しかったです。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


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