病気物件のなおしかた (くまさん in the night)
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一位 幽霊は闇落ちの向こう側にいる

 ほとんど全てのハーメルン民の皆さんは初めまして。作品を初投稿する作者です。

 ちなみに私はウェブ上での投稿は初めてですが、この作品は処女作ではありません。拙いながら今までにも物語を書いたことはあります。
 ただしそれも短編をいくつか作っただけであること、最後に作ってからそれなりにブランクがあることなどの理由から、この作品のクオリティはほぼ処女作レベルだろうと思われます。


「あのう、ものすごく家賃が安い事故物件って……ありますか? 俺、命の危険しか問いませんから……」

 

 不動産屋に入店して早々、俺の発した一言のせいで店員さんがわずかに眉をひそめた。

 

 まあ、当たり前か。事故ってる物件の紹介をするのは、店員さんにとってもあまり良い気分では無いだろうし。

 それとも、みすぼらしい格好をしたオカルトの好きなそうな学生が来店したのがいけなかったのかな。これから厄介な客の相手をしなくてはいけない、とでも思われたのだろうか。

 

 いや、六割くらいは当たってるけどね。確かに俺は一目でわかる苦学生らしい姿をしているから。

 むしろ現在の俺が苦学生じゃないなら、日本にいる苦学生の大半は腎臓の片方か住む家が無い人だろうね。

 

 例えば俺が今背負ってるリュックには生活に必要な道具を始めとして、貴重品や大学で必要な筆記用具一式などが詰め込まれている。だけど大学生活を送るための全財産を肌身離さず持ち運ぶ人間は、同級生達の中を見渡してもたぶん俺以外にはいないだろう。

 ていうか全財産が自力で持ち運べるくらいの量しか存在しないとか、そんな学生が他にいるのか? いないよな?

 

 それになんていうか『生活費が無いなら安さが取り柄の事故物件に住めば良いじゃない』などと考えてしまう性格だって、我ながら少し変わっていると思う。

 変人であればイコール厄介な人間って訳じゃないけど……でも、厄介である確率は多少高くなる。だからひょっとすると自覚がないだけで俺は厄介な客かもしれない。

 

 それでもさすがに幽霊や怪奇現象の類いは好きじゃないから、残りの四割くらいは間違っている。

 オカルトって何が面白いんだろうね?

 

「そうですね……ちなみに、予算はどれくらいをお考えでしょうか」

「ええと、高くても一ヶ月で八千円前後です。九千円代だとかなりキツいです」

「そう……ですか」

 

 無茶な相談なのはわかっているつもりだ。だけど俺には退けない理由がある。

 

「どんな部屋でも良いんです。ここで見つからなければ、今年の冬はもう野宿するしかないんです」

 

 そう、もし今が夏なら橋の下や公園でも生きていけた。だけどもう目前まで迫って来ている冬将軍は違う。

 なんたって将軍様だからね。皇帝や王様よりもなんとなく弱そうだけど、曲がりなりにも責任者だからね。

 

「そうですね……九千円ちょうどの物件では難しいでしょうか?」

「はい。学費のために食費や光熱費を削ろうにも限界があります。だからできればこれ以上の出費は押さえたいです。それに」

 

 一瞬迷ったけど、これも言っちゃうか……。

 

「今の俺はお金が無さすぎて、ここ三年ほどは服すら買えていません。しかも靴に至っては七年も買えていま」

「うわぁー……」

 

 引かないでお願い。

 ていうかなんで小学生時代の靴がまだ履けるの? 物持ちが良すぎとか以前に、足のサイズが固定しすぎだろ。

 

「そうですね………………では、こちらの物件はいかがでしょうか」

「え、それってもしかして……」

 

 やった! やっと条件に合う部屋が見つかりそうだ。ここまで長かったなあ。

 

 あとどうでもいいけどさ、この店員さんは『そうですね』が口癖なのかな。その言葉を聞くと、しばらく前に放送していたお昼休みの番組を思い出すんだよね。

 なんだよ『ウキウキウォッチング』って。今の俺を観察するのかよ止めろよ恥ずかしいだろ!

 

 おっと、浮かれ始めてる場合じゃないよね! さあて、お楽しみの家賃はいくらかな?

 どれどれ……。

 

 

 

 えーと、一ヶ月…………500…………円……?

 

 ん?

 

「あ、そっか。これって5000円の間違いですよね?」

「いえ、500円です」

 

 えっ……? 

 

 えええええええええええっ!?

 

 

 さっそく部屋の下見に来た訳なんだけど……うん、どうしてだろう……やっぱり普通(?)のボロアパートにしか見えない。

 もしかしたらまだ見えないだけで、扉の向こう側には惨劇の爪痕でも残ってるかもしれない。だけど外観を眺めた限りでは、そこそこ、いやかなりボロいことと、周囲に生えている木々のせいで昼でも暗い以外には何の特色も見当たらない。

 なんでだ……ここの二〇四号室は本当に敷金無し、礼金無し、家賃は月額五百円のとんでもない事故物件なんだよね?

 

 実は犬小屋のことを「ワンコイン」と呼んでいました。くらいは覚悟してたけど……全然違うよね。

 

 なんで隙間風があまり吹き込まない程度のボロさなんだ? せめてもっと無様であれよ、怖いだろ!

 これって過去に起こった事件の概要とか知っといたほうが良いのかな? 知らない方が逆に怖いタイプだよね。訊けば不動産屋なら教えてくれるよね?

 

「もしかして、この部屋って過去に五十人くらい死んでたりしますか?」

「アハ……アハハハ……ハハ……」

 

 間違えた。せいぜい四~五人にしとけば良かった。図星は良くない。

 

「あ、いや、さすがに五十人も亡くなられてはいりゃせ、いませんよ!」

 

 おい、フォローが遅いぞ。あと噛まないで、焦られると怖いから。

 

「ただ、ちょっとこの二〇四号室に入居した方々がいつの間にかスーっとどこかに去ってしまわれるだけです。実際に亡くなられた方はむしろ一人だけですよ。

 つまり旅ですよ旅! ほら、よく言うでしょう? 『旅は道連れ世は情け』って」

 

 『道連れ』じゃねえよアンタはもう黙っててくれよ怖いんだよ。この職員はちゃんとフォローする気があるのか?

 

 いや、逆にここはあえて担当者の正直で誠実な対応と考えよう。この人は大切な顧客に対して、物件の危険性を正確な情報で伝えようとしているんだ。そうに違いない。ていうかそうだ。

 

 だから目の前にいるこのオッサンが「しまった」って顔をしてるのも、何か別の理由があるはずだ。

 きっとブリブリと溢れ出てしまったとか、そんなところだろう。

 どうかそうであれ!!

 

 って今は、「この情報が正確なものです」とかダメじゃねえか。

 神隠しとか漏らしたとか。

 

「あ、やっぱり噂です。行方不明になるという噂があるだけです。そういうことです」

 

 『あ』でも『やっぱり』でもねえよ。一瞬でも担当者が誠実だと誤解した俺の純情を返せよ。

 仕方ない。色々と気になることはあるけど、それでも五百円の家賃は魅力的だから、住むかどうかは一度部屋の中を見てから決めよう。

 

「あれ? 二階にはどうやって上がれば良いんですか?」

「あ、それはですね、確かこっちに……ああ、あった。この脚立を使うんですよ」

 

 どうやらこの二階建てアパート、階段はすでに失われているらしい。

 言われた通りに俺は脚立で二階に上がった。しかしなぜか担当者のオッサンはここまで来ない。

 見た感じ靴ヒモを結ぶのに忙しいようだけど……すぐに来るのか?

 

 オッサンは左足の靴紐を結んで、それが終わると次に右足の靴紐へと取りかかった。

 その後、すでに結び終わっている左足の靴紐を一度ほどき、そしてまた最初から結び始めた。

 

 そうですか。来たくない、と……。

 

「来てくださいよ!! なんでこっちに来ないんですか!?」

「二〇四号室の鍵です。お受け取りください」

 

 会話ってドッジボールじゃない。俺はそう思います。

 

 下にいるオッサンが、こちらに鍵を投げてきた。キャッチボールは鍵じゃないんだけど、仕方ないので俺は鍵を受け取……拾う。

 ちょうどその時、俺の背後にある二〇五号室の扉が開いた。

 そして扉の向こうから大学生みたいな青年がヌッと顔を覗かせてきた。

 第一住人発見。

 

 あれ……? コイツ……貧乏オーラが皆無だ……!!

 つまりボロアパートに好んで住む変人ってことだな。

 お近づきになりたくない。

 

「新入りか?」

「いえ、通りすがりの学生です」

 

 今の俺は「まだ」通りすがりの学生だ。

 俺は偶然ボロアパートの前を通り、偶然脚立に登って二階に上がり、偶然ボロアパートの鍵を保持しているだけだ。

 これらはあくまで偶然でしかない。

 すなわち嘘はついていない。

 よし、完璧な論理だ。完全無欠すぎるからか、俺の胃からはゲロがこみ上げてきた。

 

「なるほど。冬は近いが、十分な資金を持ち合わせていないから格安の事故物件に住むのか。そして今まで、春から秋にかけては、雨宿りのできる公園かどこかで寝泊まりしてたってところだな」

 

 速攻でバレた。なんでそこまで分かるんだってとこまで見抜かれた。

 

「俺は理学部三年の弥柳だ。弥生時代の弥と幽霊の出る柳で『ミヤナギ』だ。今はこの通り二〇五号室に住んでいる。もし君が何か困ったらすぐ俺に言ってくれ。大学の先輩として、できる範囲で協力する」

 

 だから俺が後輩であることとかこの人に言ってないよね? あれ、もしかして俺の心が読まれてる? 神通力か?

 まさか神通力があるからこんなアパートでも生きていけるのか!?

 俺が頭の中に大量の「?」を浮かべていたら、先輩が右手を差し出してきた。俺も反射的に右手を差し出して弥柳なんとか先輩と握手する。

 

「えっと……経済学部一年の矢車です。矢を放つ車で『矢車』って書きます。こちらこそよろしくお願い致します」

 

 仕方ない。この人に嘘をついてもすぐ見破られそうだから、残念だけど正直に言ってしまおう。

 

「ちょっと待ってろ。引っ越し祝い持ってくる」

「そんな、まだ入居も決まってないのに貰うなんて悪いですよ」

「だが引っ越すんだろ? それに俺はこれから外せない用事で出掛けなきゃいけない。だから今を逃すとしばらくは渡せない」

「え、ちょっ……」

 

 なんか微妙に勘違いされてるけど、俺がそれを伝える前に先輩はドアを閉じた。

 

 

 弥柳先輩が持って来たのは、陰陽師が持ってそうな八枚のお札だった。

 使い方は一〇二号室の住人に教えてもらえ。とだけ言うと、先輩は黒い自動車に乗り込みどこかへ出かけてしまった。

 先輩がアパートの敷地内を出発する時、俺の視界に入ったその横顔は、最初に見たときよりもいくらか晴れやかになっていた。

 なんだか少しずつ外堀を埋められているような気がしないでもないけど、それは錯覚……だよね?

 

 その後、お札があるから大丈夫、と何度か自分に言い聞かせてみた。だけど愛車のアクセルを踏んだ直後に先輩が一瞬だけ見せた安堵の表情は、やっぱりまだ俺の脳裏にこびりついたままだった。

 

 

 さて、と。そろそろ本気を出して玄関に入らないとね。

 

 よーし、ドアを開けるぞ。

 

 すぐ開けて、すぐ中を確認して、すぐ帰ろう。

 

 おっと俺には帰る家(?)が公共の土地にしかないんだっけ。

 まあ、私用地じゃないから俺の家とは呼べないよね。

 

 よし、開けよう……あ、そうだ。ドアを開ける前に鍵を開けないと。

 

 カチャカチャ、カチリ。

 

 それじゃあ、さん、に、いちでオープン……いや、スリー、ツー、ワンの方が良いかな。スリー、ツー、ワン、GOシュートにしようか。むしろ最後のワンだけウノに代えて、ささやかなアクセントを加えるっていうのも悪くは

「お客様ぁー? まだドアを開けないのですかぁー? そろそろ大人しく入居するか手続きをしてくれないと困りますよー!」

 

 どっちみち住むのかよ同じじゃねえか。

 

「あーはいはい、部屋に入れば良いんでしょ入れば!」

 

 さようなら平凡な人生。

 そしてこんにちは異世界異能力バトルラブコメディ。

 なんだよ『異世界異能力バトルラブコメディ』って。欲張りすぎだろ俺。

 まあ、神隠しだからある意味間違ってないけど。

 ガチャリ、ギィィ。

 

 ……しまった、変なこと考えてたら、ついうっかりノリで開けちゃった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『きゃっ! エッチ!』

 

 

 

「………………………………え?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間、俺は自分の目を疑った。

 

 なぜなら扉の先にあったのは、半透明なオッサンによる、誰得な下着姿だったからだ。

 




 最初はニセコイのSSを投稿しようと思っていました。
 その構想、というより妄想が始まった段階では、せいぜい十~二十話くらいあれば完結するかな、などと考えていました。
 しかしこの見通しは甘すぎました。プロットが完成したら、なんと第一部は四十九話も必要だと判明します。しかも第二部とおまけを合わせると、さらに十一話が追加されます。

 未完は嫌だ、どうせ書くなら完結させたい。ていうか完結しないと登場人物が可哀想すぎる!

 そこで私はとりあえず一旦短い作品を完成させて、その中で連載の練習をしようと決めました。

 それがこの作品を書き始めたきっかけです。


 またその関係で、この作品にはその二次小説に登場するオリキャラの一部を登場させています。試運転ってヤツですね。


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二位 幽霊より怖いのは人間

 この小説は、なんだかんだで3DSによる投稿をしています。
 そのため独自の保存は出来ず、ルビやダッシュが封じられ、さらに変換不能な漢字があるなど、かなりの縛りが付きまとっています。
 コメディならともかくとして、シリアスでのダッシュ不可は相当しんどいと思います。だけど練習で表現力の乏しさが少しは克服出来るといいなあ……(遠い目)。


 いちおうiPadもあることにはあるんですけどね? 使えないこともあるんですよ。壊れたりとか。
 だから逆転の発想で、今は縛りプレイを楽しもうってことですね!

 とりあえず、次回作の第59話までにはiPad中心の執筆に変えるつもりです。(3DSでは、物語上めちゃくちゃ重要な漢字である「糸編に少」が打ち込めそうにないため)

 それまでは読みにくい表現や分かりにくい文章もあるかと思います。ですが原因は端末にあると気がついた時は、どうか見逃してくださいお願いします何でもしますから! (何でもするとは言っていない)


 事故物件には大きく分けて2種類ある。

 

 ひとつは心理的な瑕疵(かし)のせいで、あまり快適に住めない物件。

 かつてその場所で火事や殺人事件が起こったりすると、この心理的瑕疵がある物件に分類されてしまう。

 また、物件の近くに嫌悪施設(文字通り近くに住んでいる人が嫌悪感を抱く施設。刑務所や火葬場、時には子供の声がうるさいという理由から小学校など)がある場合、これも心理的に瑕疵のある物件の一種になってしまう。

 あとは特に事件が起こったわけじゃなくても、変な噂のせいで気分良く暮らせなくなった物件もこのタイプに属している。例えば長年ヤクザが住んでいたらしい、とかね。

 

 もうひとつは物理的な瑕疵のせいで、あまり快適に住めない物件。

 床が傾いているとか、部屋が常に日陰で洗濯物が乾かないとかがこの条件に当てはまる。

 

 これを踏まえた上で、このボロアパートが事故ってるところを挙げてみる。

 

 まず、1人が亡くなっているのは心理的な瑕疵だ。

 次に失踪事件がいくつも発生しているらしいけど、噂か事実かは別にしてこれも心理的な瑕疵になりうる。

 

 ここからは不動産屋の店舗で知った情報。

 どうやらアパートの裏には墓地があるようだ。これも心理的な方。

 ついでに加えると、アパートのすぐ横に線路があって電車の騒音がひどいのも心理の方だ。

 

 それらに対して、階段や耐震強度がアレなのは物理的な瑕疵だ。

 アパートが全体的にボロクソなので、おそらく多少のすきま風や雨漏りもあるだろう。こっちも物理的な瑕疵だ。

 あとは……先ほど俺がとっさの判断で玄関の扉を閉めた時に、ドアノブから『メリッ』と音が聴こえた。ごめんなさい大家さん。

 確かに俺も慌てて閉じたのは良くなかったと思う。だけどこれは物理的な瑕疵と呼んで差し支えないレベルの脆さだろう。

 

 

 さて、と。これだけ事故物件の条件が多ければ、当然のように格安で借りられる部屋となることだろう。

 だから……だから幽霊なんかいなくたって、ワンコインになるハズなんだ!

 それと、さっきのはアレだよアレ、目の錯覚! そう、目の錯覚!!

 部屋の中にいたオッサンの全身が、なんとなく透けてたのも目の錯覚! おい、どんな錯覚だ。

 そのオッサンが下着を上半身しか着けてなかったのも錯覚!! だからどんな錯覚だよ。

 

 ここまで来ちゃうと、もうこれは幻覚だよね! 俺はバイトのしすぎで疲れてるのかな? そうに違いない!! バイトは肉体労働じゃないから、きっと脳がやられたんだ!

 ていうか、そうだとしてもどんな幻影だよ! なんで女装の途中みたいな映像を生み出すんだよ、俺の脳は!!

 せめてもっとまともなヤツを見せろよ!!

 

 

 

 おっと待て、焦りは禁物。落ち着け、落ち着くんだ俺……!

 

 …………よし……つまり認めたくないけど、俺の脳は半透明でギリ半裸のオッサンをご所望のようだ。二度と所望すんな。

 俺が二十年近く生きて来て、やっと明かされた驚愕の事実だ。ずっと闇に葬られてろ。

 

「お客様ぁー?、どうかされましたかぁー?」

 

 あ、そうか。角度の関係で、後方のオッサンからは室内のオッサンが見えないのか。

 

「いえ、ほんの少し興味深い物があっただけですよ」

 

 嘘はついていない。

 

「えーっと…………窓が割れていることでしょうか?」

 

 またかよ物理的な瑕疵!

 すいうっかり半裸のオッサンに目を奪われて気がつかなかった。だから目を奪われるなよさっきの俺!!

 

 ここ数分は色んな意味で本格的に危ないな。物件も俺も。

 しょうがない、ちょっと怖いけど確かめようか。要はあの幻覚が疲労から来るものだと分かれば良いんだ。

 

「そういえばこの部屋って、いわゆる……出るんですか?」

 

 せめて俺が原因であってくれ!

 諸悪の根源は俺! それで良いんだ!!

 

「………………そうですね。二〇四号室は今までに住んだ方が、色々と見ています」

 

 生きているオッサンの顔が、覚悟を決めた様に引き締まった。

 

 それにしてもどうしよう。

 やっぱりこれって心理的なアレ……だよね?

 

 いや、まだだ。幻覚の種類だ! 今までの住人が見てきた幽霊と、さっきの俺が見た幻覚の種類が完全に別物であれば、まだチャンスはあるはずだ!!

 

「ち、ちなみに、どんな幻覚を見てるんですか?」

「幻覚……? ああ、そうですね……いくつか例を挙げますと、半分透けている中年男性が着替えたり、それから半分透けている中年男性がフリースタイルでラップ音を刻む……などですかね。あとは服だけ全部透けている中年男性の報告もあります」

 

 …………あれ? たぶん俺が見たのと同一人物だよね……。

 

 あ、いや、『たぶん』だから大丈夫! たぶん大丈夫!

 よし、もう一度ドアの向こう側を確認してみよう!

 もしかしたら全然違うかもしれないし!!

 

 

 

 よし、開けドア!!

 

 ガチャリ

 

 

『ようこそ我が城へ!』←スーツ着用

 

 ドン!!! メリメリィィッ!!

 

 

 

 

 ふう……やっぱりドアとドア枠の激突音はやかましいな。耳に悪いよね。もっと静かに開閉できる製品が開発されないかな。

 

 ……それよりもあの中年、着替えてやがる……!

 こいつはクロだ、本当にどうしよう……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………そうだ、お札!

 

 お札を使いこなせれば余裕で近づけるはずだ!!

 

 そうと分かれば、えーっと……一〇二号室、だっけ?

 

 俺はすぐに動き出し、急いで二階から脚立を経由して下に降りる。

 目指すは一〇二号室! 探るはお札の使用法!

 

 

 

「お~きゃ~く~さ~ま~?」

 

 駆け出そうとした俺は、声を掛けられてすぐに止まった。なんか知らないけど、生きてる方のオッサンが顔にビキビキと青筋を立てている。

 

「どうかしたんですか?」

「ドアノブを!! タダで済むと! 壊してタダで!!」

 

 まるで要領を得ないオッサンって怖いよね。

 え~っと、ドアノブ? かなり軋んでたけど、あの取っ手はまだ壊れては…………あれ?

 

 二〇四号室の方を見上げたら、扉にノブは付いてない。まさか……。

 俺が恐る恐る左手に向けて目を下ろすと……。

 

 

「あ"」

 

 そこには根こそぎいかれたノブの塊があった。

 さきほどなぜかメリメリと怪音が聴こえた気がしてたけど、音源はこれだったのか。俺はてっきり、あまりの貧しさでクリスマスの幻聴でも聞こえ始めたのかと思ってたぞ。なにその切ない幻。

 

 って、おい! そんな場合じゃないだろ!!

 

「……弁償、高く、付きますよ」

「…………え、あの、つい……! 取れやすいから取れただけで! えっと、その……貧相なノブにも少なからず責任が!」

「で、お客様は、いったい、何を、おっしゃりたいのでしょうか?」

「申し訳ありませんでしたァァァァァ!!! あと修理代を払うだけの余裕はありませんすみませんでしたァァァァ!!」

 

 気がつくと俺の身体は土下座してた。

 

「顔を上げてください」

「はい……」

 

 顔を上げると冷徹で何の表情もない顔面が目に入る。やっぱりホラーって苦手だ。

 

「…………そうですか。ところで部屋を借用した者は、出居の際にはその部屋を借用前の状態へと戻さなくてはなりません」

「ん?」

 

 まったく話が見えない。

 もしやオッサン(生)の思考回路が怒りで殺られたとか?

 

「言い代えれば、出居時に部屋の状態を回復できるのであれば、部屋を借りている間はその一部を多少汚したり壊したりしても、弊社はそれを見逃すことが可能、といえます」

 

 おかしいな、なぜか嫌な汗が止まらないぞ!

 

「つまり、お客様がこの二〇四号室にお住まいになっている間でしたら、こちらとしても修理費用の支払いをしばらく待てる、ということです」

 

 

「…………あ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺の入居が確定しました。

 

 

 さて、このボロアパートに住むのは決定事項としても、俺はお札の使い方を覚えなければいけない。

 オッサンの冷えきった視線が背中へと突き刺さるのを感じながら、俺は優しく一〇二号室の扉をノックした。

 

 すると部屋の中からジャージ姿の若い女性が出てきた。

 こんなセキュリティがガバガバなアパートに住んでいて危なくないのかな。と思ったのもつかの間、俺はドアに掛けられた腕の筋肉がめちゃくちゃ鍛えられていることに気がついた。筋肉は袖口からやや覗いているだけなのに、まがまがしい威圧感すら感じる。

 お札の知識といいキレてる筋肉といい、このアパートでもっとも身の安全が確保されているのは、おそらくこの人だろう。

 

「はいはい、新聞なら後輩のメガネを脅してスマホを借りられるから要らないです。っと、なにこれノブ……の残骸? なんでこんなもん持ってんの? 鈍器?」

「違います」

 

 筋肉さんの疑問をほとんど受け流しながら、俺はリュックに仕舞っていたお札を取り出した。

 

「ここに新しく引っ越す矢車です。弥柳先輩に言われて来たのですが、これの使い方を教えてください」

「……え? 私が?」

「はい」

「君に?」

「はい」

「使い方を?」

「はい」

「誰が?」

「なんでだ」

 

 言ったことをすぐ忘れんなよこのアパートは住人の頭も事故ってるのか?

 

「冗談もこれくらいにして、これの使い方だろ? ちょっと貸してみろ、むしろくれ!」

 

 俺は束の中から一枚だけ引き抜いて、筋肉さんへと手渡した

 

「はい、どうぞ。でもあげませんよ。これは俺が入居祝いにもらったんです」

「チッ、ケチくせぇな。……えーっと確かここに……あったあった」

 

 筋肉さんは玄関の壁にいくつも掛けられた巾着袋のひとつからボールペンを取り出すと、さっそくお札を裏返して何かを書こうと

「ちょっと!! せっかくのお札に何してるんですか!!」

 

 予想をはるかに下回る無法地帯だ。

 

「お札? 君こそ何を言っているんだ? メモ用紙だろ?」

「えっ?」

「逆になんだと思ってたんだ?」

 

 なんということでしょう。

 この紙には何の霊力もありません。

 

「って、そんなわけ無いじゃないですか! 弥柳先輩はいつ来るか分からない入居者のために、こんなわけのわからないイタズラを仕掛けたって言うんですか」

「いいや。アイツはそこまで無駄なことをあまりしない」

 

 たまにするのかよ。

 

 それにしてもお札に書いてある文字が本格的すぎるせいか、とてもイタズラには見えない。

 

「そうだな……ご利益は皆無だろうが、それでも気休めくらいにはなるんじゃないか。……おい、聞いているのか?」

 

 これは住人達による手の込んだイタズラなのか?

 それともこの人が使用法どころかお札であることすら忘れたのか?

 そういえば中島敦の『名人伝』にもそんな人が出てきた。弓を極めすぎて、最後には「弓」という概念すら忘れてしまった弓の名人。 もしかしたらこの人もその名人と同じ……?

 

「おい」

「ひえっ!! ……なんですか?」

 

 なぜかはわからないけど、一瞬で背筋が凍りそうになった。

 筋肉さんの肉体から放たれる圧力が、爆発的な増加をしたのと何かの関係があるのだろうか?

 

「ところで君の貴重品はどれだ?」

「え? ……今背負ってるリュックにあるのが全部ですけど……」

「そうか。それなら……三枚もあれば十分だろう」

「何がですか?」

 

 俺が思案を巡らせているうちに話が進んでいるようだ。

 筋肉さんはお札っぽいメモを掴んでいる手を持ち上げた。

 

「『何』って、こいつを肌身離さず身に付けとけ。リュックに二枚、ポケットに一枚だ」

「メモをですか?」

「おいおい、これは札なんだろ? 気休めでも良いから持っといたらどうだ?」

 

 枚数が謎だ。除霊対策が雑すぎないか?

 

「それより『気休めでも』とか言わないでください。為す術もなく祟られそうで怖いじゃないですか」

 

 お札を使うならせめて「効く!!」って思い込みたいし。

 

「んんん? あれあれ~? もしかしてもしかすると、君はもう大学生なのにまだまだおばけが怖いのかな~? へぇ~! なるほど~! ふ~ん」

「ち、違いますよニヤニヤしないでください!! 疾走は好きでも失踪は嫌なだけで、ってなんで俺が大学生ってバレてるんですか!? まだ言ってないのに!!」

 

 嘘だろ!? やっぱり神通力か……?

 

「ん? だって君はさっきロリコンのことを『先輩』と呼んだだろう? すなわち君はアイツの後輩だ」

「えっ?」

 

 まさか筋肉さんが覚えていたとは。それと弥柳先輩のあだ名がひどすぎるぞ、ただのヘンタイじゃねえか。

 

「それだけなら中高生や社会人の線も捨て切れないが、あとはなんとなく勘で大学生かな、と思ったまでだ」

 

 この人の記憶力は壊滅的じゃなかつた。出会いがしらのあれは本当に冗談だったのか。

 

「まあ、でも心配すんなよ! 地縛霊といえどアレは大したもんじゃないから!」

「え!?」

 

 どういう……こと……だ……?

 

「ポルターガイストとかラップ音はかなり迷惑だけど、別に祟られるわけじゃないし」

「え……でも、行方不明者が続出してますよね……?」

「それはあの部屋に住むヤツの大半が美大生だからだ」

「すみません、よくわかりません」

 

 この人は何を言い出すか予測できない。

 

「え? 美大生って卒業後は連絡が着かなくなるもんじゃないのか!?」

「すみません、よくわかりません」

「Siriかよ」

「すみません、それも含めてマジでわかりません」

「そうか、それは辛かったな。私が全面的に悪かった」

 

 筋肉さんが優しい眼差しを俺に向けて来た。

 この人の思考回路は本当にわからない。

 

「あ、そうだ! そういえばまだ正式な自己紹介をしていなかったな!」

 

 唐突に話をすり替えるところといい、すごく自由な個性の持ち主なのだろう。それだけはわかる気がする。というよりもそれしかわかる気がしない。

 

「言われてみればそうですね。俺は経済学部一年の矢車です。矢を放つ車って書きます」

「ププッ、戦車みたいな名字なのに幽……おっと、私は教育学部三年の秋野だ」

 

 一瞬バカにされたような気がする。

 この先輩ならありうる話だ。

 

 ……って、あれ? そういえばこのアパートの住人ってどうして名字しか名乗らないんだろう?

 俺も弥柳先輩に釣られて名字しか名乗ってないけど、普通はフルネームだよね?

 

「ところで、ここの住人には自己紹介のときに名字だけしか名乗らないルールでもあるんですか?」

「あるわけないだろ」

「……ですよね。それで秋野先輩の名前って何ですか?」

 

 やっぱり勘違いだったようだ。

 

「……貴様は『名を名乗るときはまず自分から』と教わらなかったか?」

「え、いきなりどうしたんですか!?」

 

 わけがわからないけど、この先輩に逆らうのは怖いので俺は自分の名前を口にした。

 

「普通だな」

「ほっといてください」

「いや、誉めているぞ。普通って最高だな。至高と言い換えても良い」

「それで、秋野先輩の名前はなんて言うんでしょうか?」

 

 なぜか先輩は遠い目をしている。なんで?

 

「名は体を表す? ナンダソレハ? 別に名が何であろうと、私は私だろ。……そうか、そうだったのか! それで良いんだ!!」

「それで、先輩の名前はなんですか?」

「………………なんだ君か」

 

 自分の殻には閉じこもり、代わりに悟りを開きそうだった先輩は、俺が言葉を掛けたらこちらの世界へと帰って来た。

 先輩はまるで素晴らしい夢から覚めたかのように、とても残念そうな顔をしている。

 

「………………自己紹介の『己』と、倫理委員会の、『倫』だ」

「『コリン』ですか。 外国人みたいな名前ですね」

「……違う……それは男性に付けられる名前だ……」

「へえ、じゃあなんて読むんですか?」

 

 先輩の首から上が、なぜかだんだんと赤くなっていった。どんな名前だよ。

 

「………………き、ききき、きりん……だ」

「予想外です」

 

 「きりん」はボディビルダーみたいな人の名前っぽくない。

 もっと幼い感じの女の子か、さもなくば納豆を混ぜるお婆さんの名前だ。

 コリンもコリンで変だけど。

 

 むしろコリンの方が変だけど。

 

「なんていうか……聞いちゃってすみませんでした」

「だから言いたくなかったんだ!!」

 

 秋野己倫先輩はうずくまると頭を抱えてプルプルと震え始めた。

 そんなに嫌なの!?

 コリンよりも!?

 

「しくしく、しくしく」

「あの……知らなかったとはいえ本当にすみませんでした。それと、わざとらしい泣き真似は止めてください」

「しくしくッ!!」

 

 先輩はしゃがんだままキッと睨んできたけど全然怖くない。

 なんだ? 慰めて欲しかったのか? 小学生が拗ねているようにすら見えないぞ?

 

「事情を知らなかった俺が悪かったですから、せめて日本語で話してください」

「歯を食いしばれ」

「ぐぁッ!! 理不尽!!」

「演技を見破るなッッ!!!」

 

 いきなり腹パンを食らった。体罰か?

 「歯を食いしばれ」って言うなよ! せめて顔を殴れよ!

 前言撤回、俺はここまで悪くはない!!

 

「いいか? 私が怒っているのは演技を見破られたのが悔しいからだ!! 名乗るのが嫌なのとはまた別の問題だ!! おばけが怖いくせに勘違いすんな!!!」

「おばけ関係無いだろ」

 

 めちゃくちゃだ。この人。

 皮肉なことに、教育者を目指す人間が、最も教育者に向いていない。

 

「名乗りたくないからって殴るわけないだろ!! 何度でも言ってやる、貴様からこんな屈辱を受けたのが悔しいだけだ!!」

 

 まるで「先輩は何もひどくない」みたいに言わないでよ!

 それに殴りはしなくても、名前の話題は嫌がってましたよね?

 

「いいか? 名前のことは誰にも言うんじゃないぞ! 絶対だ!」

 

 やっぱり名前じゃん!! 見破られたことより名前じゃん!!

 

「……コホン。で、気を取り直して本題に戻るけど」

 

 取り直すなよ。

 

「やべぇよ……この人やべぇよ」

「なにか言ったか?」

「いえ、なにも」

 

 ゴォッ!! と、再び先輩の圧力が増した。

 

「それで本題に戻るけど、実はあの部屋って別に怖くないんだ」

「へー、そうなんですか」

「だって幽霊なんて人間の残りカスみたいなもんだろ? うるさいのと驚かすのと物を動かすのは迷惑だけど、それ以外には大したことなんてひとつもできないんだから」

「ふーん、そうなんですね」

「肉体を失った者に、鍛え上げられた筋肉が打ち砕かれるなど、あまりに論理が破綻しているだろ?」

 

 俺は先輩の理論が理解できないや。

 だけどそう言われたら、ノブを壊した直後ほどは幽霊が怖くなくなっていた。

 残りカスか……。

 

「そっか……そうですよね! よく考えたら幽霊なんて楽勝ですよね!」

「そうだ、筋肉は裏切らない、嘘をつかない。だが札は忘れるなよ。リュックの側面に左右それぞれ一つずつポケットがあるだろ? そこに一枚ずつ入れておけば良いんじゃないか?」

「えっ、なにそれ怖い」

「あくまで念のためだ」

「そ、そうですよね!」

 

 言われて俺は三枚のお札を折り、そのうち二枚をリュックに、残りの一枚を服のポケットに詰めた。

 

「色々とお互いに言いたいことはあるだろうが、とにかくようこそ『呪われそう』へ!」

「『乃路我荘』って呼んでください!!」

 

 あ~あ、このオンボロアパートの名前は不吉だから呼びたくなかったのに。

 

「あれあれ~? もしかしてもしかすると」

「ところで先輩の名前って」

「私が全面的に悪かった!!」

 

 今ので秋野先輩の扱い方がなんとなくわかった気がする。

 

 それにしても……アパート名がすでに呪われてるとか、ここの大家さんは祟られたいのか?

 




 筋肉先輩のセリフは恐らく『冗談も(筋肉での威圧も)これくらいにして』って意味だろうなあ。ツッコミが入らなかったから真相は不明だけど。



 小説を書いていて、ボケを全部拾っていたら会話のテンポが悪くなってしまうと感じました。ボケを前にしてのスルーが多いのはそのためです。
 この小ボケ無視は、すぐに気がつけないような細かいボケが多かったのも原因の一つです。しかしそれでも半分以上流してたのは良くなかったです。反省。

 偶然にも今回は7777文字で書き終われました。しかしボケをひとつ残らずツッコんでいたら114514文字くらいになってたかもしれません。
 矢車君の分かりにくい小ボケにも一通りツッコまなきゃいけないし。

 この先ストーリーを進ませるためには、速く書くことだけでなく、余計な文章を減らして短くまとめることも必要になってくると思います。

 だからこれからは悪ふざけの渋滞を起こさないよう、特に次回は弾数の抑制を意識しながら書こうと思います。

 今回はモブキャラの筋肉さんに良いことを教わりました。


 …………だがそれでも、オッサン(死)の言動は止められない。
 なぜならあらすじに書いたから、あとプロットにも。ていうかそういう話だから。
 このままだと「おい、地獄さ行ぐんだで!」ってなる可能性が高い……!!


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三位 幽霊の傾向と対策

 タグに「ネタ」を追加しました。
 実はこれまでも数々のネタを忍ばせていましたが、これからはハーメルン民特有のいn……ゲフンゲフン!!

 つまり様々なネタを仕込めるようになったため、メジャーなネタを禁止して縛りプレイに興じるよりも書きやすくなったってことですね。
 ネタってただでさえ語呂が良かったりするので、元ネタを知らない人の前でも結構気軽に使いやすいですしおすし(受け入れられるとは言っていない)。


「あ、やっぱり待ってくれ!!」

 

 俺が一〇二号室の前から去ろうとすると、ジャージ姿のキリン、じゃなくて筋肉先輩に引き留められた。

 

「なんですか」

「残った札は使わないだろ? だったら私に譲ってくれないか。お礼にプロテインあげるからさ!!」

「え? 食料!?」

 

 欲しがっていたのは冗談じゃなかったのか。

 

「ところで先輩はなんでそんなにこのお札を欲しがるんですか?」

 

 メモ用紙が足りないとか?

 

「そうだな、まず札は消耗品だから、私も部屋に貼ってある札をそろそろ交換しなきゃいけないだろ。私にとって筋肉の増強は生きがいだからな」

「支離滅裂じゃねぇか」

 

 意味がわからないぞ。主に後半が。

 っていうかほぼ後半だけが。

 

 言ってることが色々と破綻しているけど、それに気づいているのかいないのか、先輩は虎視眈々と俺のお札を狙ってきた。

 

「どういうことですか?」

「わからないか? 言い換えると筋トレのためだ」

「わからないのは『筋肉の増強』の意味じゃねぇよ! 今は俺のために説明して!」

 

 ……筋トレ……? お札の交換で……?

 もしや貼るために天井まで跳躍する……のか?

 

 だけどこの時の俺は、さきほど筋肉先輩に「おばけ怖くない。先輩ウソツカナイ」というようなことを刷り込まれたおかげもあり、幽霊に対してあまり恐怖を感じなくなっていた。だから必然的に、お札への執着心も数分前までよりはずっと薄くなっていた。

 そんなこともあり、今の俺は多少の安心感をくれたことへの感謝も込めて、先輩に数枚のお札を譲るくらいは別に良いかなと思い始めていた。

 

 確かにさきほどの筋肉先輩が発言した内容を振り返ると、そのお札っぽい物は気休めのメモだったんじゃないのか? 有用な効果は特に存在しない、ただの紙だったんじゃないのか? それなのに先輩はお札を有効活用する気しかないですよね? と指摘したくなる。

 それでも俺には、なんとなくだけど先輩はお札を欲しがる理由すら隠そうとしているように見えたので、仕方なく真相の究明は諦めた。

 わざわざ隠したがっている秘密を追求するのはかわいそうだ。

 

「それで、何枚くらい必要なんですか」

「くれるのか?」

「はい。先輩がこれを欲しがる理由はいまいちわかりませんけど」

「良いのか?」

「俺が幽霊に今までほど恐怖を感じなくなったことへの、せめてもの感謝です」

 

 お札なんて余分に持ってても使わないし。カウンセリングでも受けたと思えば安いもんだろ。それ以前にお札は弥柳先輩からの引っ越し祝いだから、俺が払った金額は〇円だけど。

 

「それによく考えたら、正体不明の悪霊よりも冬の公園の方がずっと身体に悪いじゃないですか。先輩のおかげで、これからは雨と風と死霊の心配をせずに暮らせそうです。いくつも事故ってる部屋だけど俺にはこれで十分ですよ」

 

 先輩の顔はまるでアホを前にしたような表情へと変わっていった。おい、なんでだ。

 

「……そうか、ありがとう。それと自称霊能力者に気をつけろよ」

「ちょっと意味がわかんないです」

 

 もしやなにかの筋肉ジョークかな? それなら常人に理解できないのも納得だ。

 

「君は暗示にかかりやすいタイプだろ? だからこそ騙されやすい。言い換えれば、詐欺師にとっては良いカモだ」

 

 あ、そういう意味ですか。やっぱりこの先輩は頭のネジが飛んでいるなあとか思ってたら、実は色々とよく見ている人だった。

 だけど、筋肉先輩は大切なことを忘れている。

 

「ありがとうございます。それはそうと俺ほどの貧乏人を狙う詐欺師なんていませんよ? それで、何枚必要ですか?」

「念のために気をつけても損はない。あと、札は五枚もあれば十分だ」

「わかりました。ええと、五枚ですね」

 

 奇妙なことに、俺が気休めとしてリュックなどに詰めたのは三枚。先輩が欲しがったのは五枚。足したら八枚。

 弥柳先輩から手渡されたのも、ちょうど八枚。

 

「先輩、俺がお札を残り何枚持ってるか知ってますか?」

「知るわけないだろ。見た感じ九枚くら……いや、まさか五枚か?」

 

 俺はまとめて折り畳んでいたお札の束を、先輩の目の前に広げた。

 

「……正解です」

 

 これは単なる偶然だろうか?

 だけど何かがおかしい。それが具体的にどこなのか訊かれると困るけど、それでも確実に何かがおかしい。

 

「……やはりな」

「『やはり』? 何か知ってるんですか?」

 

 俺の言葉に反応して、先輩の目が一瞬だけ空中を泳いだ。

 

「……まあ、うん。そのうちな」

「…………」

 

 筋肉先輩とは出会ってから十数分しか経っていないけど、俺はこの先輩がはっきりとものを言う性格だとわかっているつもりだ。

 名前が話題にのぼった時だって、最後は羞恥心と戦いながらもしっかりと発言していた。

 だからなんとなくだけど、言葉を濁すのはこの人らしくないように思える。この人が本当に隠そうとしているものはなんだろう?

 

「そうだな……ここでの生活に慣れてきたらロリコ……弥柳にでも教えてもらうと良い」

「…………」

「……あ、そうだ。プロテイン!!」

 

 先輩は思い出したように叫ぶと、部屋の奥からお札の対価を持ってきた。

 今、何が起きたのか分かりますか? あなたの声が大きいので俺の耳がキーンとしましたよ先輩。

 

「ほらよ、お礼だ!」

「え、これ……プロテイン……!?」

「プロテインはタンパク質のことなんだから間違ってないだろ?」

「はあ、とりあえずありがとうございます」

 

 ……ま、いっか。気になることはあるけど住めば都って言うし。変な人がいたり変な現象が起こったりしても、たぶん何とかなるだろ!

 

「それじゃあ俺はそろそろ入居の手続きをしてきますね」

「またな!」

 

 それだけ言うと先輩はノブが壊れないように、慎重な手つきでドアを閉めた。

 十本ほどの大豆バーを受け取った俺は、いまだにアパートから離れた場所に佇む生きたオッサンの方へ振り替えると、自分の気が変わらないうちに急いで一歩を踏み出した。

 

 ……そうだ、今日はこのプロテインを夕食にしよう。

 

 

 契約を終え帰宅してから、このボロアパートについて理解したことが二つほどある。一つはたぶん良いニュースと呼べるけど、もう一つは確実に悪いニュースだ。

 

 おそらく良いニュース。

 このアパートの住人達は妙に優しい。

 

 彼らがガムテープと段ボールをくれたおかげで、俺は窓だった四角い穴を塞げた。これでそれほど寒くはならないだろう。

 風が吹き込まないってすごく良いね! だけど俺が来るずっと前に復旧作業が終わっていたらもっと良いと思うぞ!

 

 また、引っ越し祝いに耳栓をプレゼントしてくれた人もいた。

 彼は、「俺にはしばらく必要の無い物だ。貴方に譲ろう。……おやおや、どうやら不審がっているようだが? 安心したまえ、これは新品だ。使い古しなどではない」と言いつつ、大量に買い置きした真新しい耳栓を俺に見せつけてきた。

 耳栓に首ったけかよ。耳を塞ぐ器具のどこに魅力を感じたんだよ。

 

 そんな中で一番助かったのは一日に三食も食べられるらしいことだ。

 住人のうち数人は、バイト先から消費期限切れの食料を多くもらってくる。これを山分けすることで、このアパートでは食費をほとんど掛けずに食料を確保できるらしい。

 ボロアパートに常識とエンゲル係数は通じねぇ! ってことですね。なるほどわからん。

 

 何はともあれパンの耳とプロテイン以外の食事をとれるのは久しぶりだ。これだけでも素直に嬉しい。しかも今日からは今まで払っていた三百円分の食費まで抑えられると思うと、もう笑いが止まらなくなりそうだ。

 アハハハハ! アーッハッハッハッ!! アヒャヒャヒャヒャッ!!!

 

 はぁ~、腹いてぇ……。

 

 それに対して悪いニュース。

 地縛霊のオッサンが想像以上に厄介。

 

 まずアイツとは初歩的な会話すら成り立たないことがある。なにせ契約後に初めて二〇四号室のドアを開けた瞬間、あのオッサンが発した第一声は『騒ぐなよ。平穏に暮らしていたおじさんの日常を壊すなら、誰であろうと容赦なく呪うぞ』だった。

 

 その数分後、ヤツは歓迎会と称して一人で大声コンテストを始めた。お前が黙れ。

 誰であろうと呪われるなら最初の餌食はお前だ。容赦すんじゃねぇぞ。

 その後もオッサンは基本的にうるさい上に邪魔だったので、俺はこの事故物件に住んでしまったことを早くも後悔し始めた。

 

 初日からさっそく耳栓が役立ったことは言うまでもない。

 

 

 この部屋に入居してから一週間が過ぎた。あのオッサンのせいで、俺の精神と体力は日々削られている。

 

 例えばこのアパートでは俺の部屋だけ朝が早い。

 

 最大の原因は、夜が明ける数時間前になるとオッサンが二〇四号室の天井や壁を軋ませ、いわゆるラップ音を鳴らすことだ。

 朝日が上るまでの間、奴はずっと『ギギィー……』とか『ミシミシィー!』とか『ドンドンドンカーン!!』といった騒音を部屋中に響かせやがる。

 最後のは何の音だ。

 

 アパートのすぐ横を通過する電車の音くらいなら、実は高級な耳栓でも装備すればさほど気にはならない。

 しかしオッサンのラップ音はなぜか直接頭の中で響いているように感じるので、耳栓の意味はほとんど無いと言っても過言では無い。

 

 奴はなぜラップ音を鳴らすのか。昨日まではずっと謎だった。だが幸か不幸か、さきほどラップ音が止まった直後に、オッサンが『貴様らニワトリに敗北する私ではない。コケーッ!』とほざいているのを俺は聞いてしまった。

 近所に一羽もいないニワトリを敵視し、朝を競い会うのは辞めていただきたい。

 ニワトリの声がしないのはお前に負けたからじゃない。存在しないからだ。むしろお前がニワトリだ。

 

 ところで話は変わるけど、今俺が住んでいる二〇四号室に誰も暮らしていない時期は、毎朝別の部屋でこの爆音が響くらしい。

 月々の家賃がワンコインになった背景を垣間見た気がする。

 

 起床後、野宿時代から使っていた寝袋や最近手に入れた耳栓を仕舞うと、俺は弥柳先輩の住む二〇五号室に向かう。

 そこにはこのアパート内では貴重な、常に稼働している冷蔵庫が設置してあり、その中にはお弁当やおにぎりといった消費期限切れの食料が詰め込まれている。

 二〇五号室と一〇三号室、正常に動く冷蔵庫が合わせて二台もあるとか素敵。

 

 朝食用のお弁当をもらい受けると、俺はすぐに自室へと引き返す。あの部屋に誰もいなくなると、数分後にオッサンが徘徊を始めることがあるらしいからだ。

 住人の皆さんはあんなのといると食欲を無くしたり、時には生きる気力を失ったりするらしいので、食事の間はオッサンをあの部屋に引き留めておかなければいけない。

 それが超格安で住む者の責任ともいえるだろう。

 

 そんなわけで、俺がオッサンを前にして白米を噛みしめていた時のこと。

 『んん? ごま塩が足りませんな!』という胡散臭い一言と共に、お弁当のご飯めがけて奴の鼻から小さくて茶色い塊が二~五発ほど連続で噴射された。

 オッサンはこの弾丸みたいな物を人魂と言い張ったけど、色、形、ツヤ、そして弾力のどれをとっても、あれは鼻クソ以外ありえない。それとせめてごま塩と言い張れ。

 効果は抜群。当然のように俺も食欲を無くす以外ありえない。

 

 住人達の食事さえ終われば、俺はこの苦役から解放される。

 自由を手に入れた俺はオッサンのいる空間から一秒でも早く離れるために天国、じゃなくて地縛霊のオッサンが来られない大学へと出掛ける。

 あ、天国で正しかったわ。色んな意味で。

 

 ところで大学は中学や高校と比べたら授業の開始時刻がずっと遅い。

 また、他の住人達がオッサンのいない朝食を確実にとれる時刻は朝の七時まで、それ以降はもし二〇四号室に誰もいないせいでオッサンが徘徊しても、五百円部屋の住人には責任がない。というルールがすでに決まっていたおかげもあり、七時に出発した俺にはアパート以外で使える時間が、今日は午前中に四時間近く生まれている。

 

 捻り出した大切な四時間をいかにして過ごすか?

 アパートでは熟睡できないから、もちろん寝るに決まっている! ……と言いたいところだけど、睡眠時間は後で作れるため、今は課題の計算問題に集中しよう。

 

 なぜならオッサンの生態は夜行性かつ昼行性かつ不可解であるため、あの部屋では常に俺の集中力が削がれる。そのせいで俺が作業に没頭することなど不可能に近い。

 だからこそ外出中の時間は、最低限必要な睡眠を取るだけではなく、大学で出された課題をこなすためにも使いたい。

 

 さて、そんなわけで本日はここ、大学の大教室にて楽しい楽しい数学スタート!

 

 

 夢中になって数学と向き合っている時って感情が消え失せる感覚があるよね。それなのになぜ数学はあれほど面白いのかな? そうか、美しいからだ!

 

 暗算を絡めて一気に問題を終わらせると、ついつい興奮で目が冴えてしまった。

 これじゃ野宿慣れしている俺でも簡単には眠れなさそうだぜ……。

 

 だが幸いなことに、俺以外の人間がまだ誰も来ていない大教室は静寂に包まれている!

 そのうえ俺には住人の一人に教わった、一瞬で眠りに落ちるかもしれなくもない秘術がある!!

 

 つまり、残りの三時間を有効活用するなど造作もない!!! 

 

 さっそく身体を横に倒して目を閉じ、穏やかで広い海を想像する。

 

 ……ところでこんな暗示にかかるヤツなんているのかね? どんだけ単純な人間なんだよ。

 おっと、雑念は放っておいて、秘術を信じないと!!

 浜辺に寄せては返す波をイメージ! そして海辺を柔らかに吹きわたる潮風の様子もイメ……。

 

 

「おい矢車! 起きろ!」

「……?」

 

 同級生の一人に肩を揺すられて目が覚めた。

 ……あれ、俺ってなんで寝てたんだっけ?

 ……あ、そうだ。そこに睡眠時間があったからだ。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか肩を揺する勢いが激しくなってきた。

 

「お願いだ! 起きてくれ矢車!! 目を……開けてくれ……!!」

「お前が目を開けろ」

「……なんだよ起きてたのかよー、ツマンねぇー」

 

 この男はなぜ俺が死んだみたいな茶番を繰り広げていたのでしょうか?

 変人だからでしょうか?

 アパートの住人もそうだけど、俺の周囲にいる人間のほとんどが癖の強い性格をしているのはなんでだろう。

 貧困の影響とか?

 

「……なあ、今思ったんだけどさ。なんで俺の周りには変な奴しかいないんだろうな?」

「類はホ、じゃなくて友を呼ぶって言うだろ。だからお前が元凶なんじゃね?」

「……俺が変人であるかのようなデマは止めろ」

「不思議なことだが、変人と変人は惹かれ合うんだ」

「俺が変人であるかのようなデマは止めろ!」

「いや、あのな? マジで冗談とかじゃなくて、お前が断トツでおかしいと思うんだよ。俺は」

 

 まるで俺が諸悪の根源であるかのように考えるのは止めてくれ。ひどい事実誤認だ。

 

「そんなことより講義が始まるぞ」

「だから俺が一番の変人みたいに……ん? そういやそうだったな」

 

 俺の目の前にいる人間が正しいとは限らないけど、大教室の前方にある時計は正しい。

 

「あ、そうだ。言い忘れてたけど起こしてくれてありがとうな」

「貸し114514な」

「インフレって怖いよね」

 

 俺はリュックから筆記用具やら資料やらを取り出すと、これから始まる最高に楽しい授業へと意識を切り替えた。

 さあ!! ロックンロールの始まりだ!!

 

 

 ああ、楽しかった。

 最近は生きる楽しみが教室の中にしか無いような気もするけど、これから俺が足を踏み入れるあの地獄と比べたら、きっと他の空間はどこだって天国に思えることだろう。

 

 さて、帰って昼食にするか……。

 

 あーあ、消費期限の問題すら無ければ、アパートにある食料を大学まで持って来れたのになあ。

 っていうか外気と冷蔵庫の温度ってそんな変わらなくね? お弁当の一つくらい持ち出しても良くね?

 

 憂鬱で足が重くなるのを感じながら、俺は幽霊のオッサンが待つアパートへと歩き始めた。

 

 

 昼食中、俺はオッサンのせいで食欲と精神力が削れた。つまりいつも通りだ。

 食後にアパートを脱出した時はとてもすがすがしい気分だったが、これは冬の空気が冷たいおかげだけではないだろう。

 午後の授業開始時刻までは、まだしばらくの余裕がある。

 今度も昼寝をしようと思えばできるけど、今回は図書館のパソコンを借りてオッサンを除霊させる方法でも検索しよう。

 

 最近はバイトに加えて事故物件探しをしていたので特に忙しかった。そして物件を見つけた後の俺は、物件探しで遅れ気味だった課題の消化に追われていた。

 だから幽霊のオッサンを殲滅するための時間を作ろうとしても、それはなかなかに難しかった。

 そのため今は除霊方法の調査に割ける最初の自由時間と言える。

 

 ただでさえオッサンのことは一刻も早く対処したい。

 それにもし時間と心の余裕がある今のうちに対策を立てなければ、ヤツのことはいつか取り返しがつかなくなるだろう。健康被害を舐めてはいけない。

 

 そんなわけで授業が始まるまでの俺に与えられた猶予を、地縛霊対策のために捧げるのは当然といえよう。

 せっかく受験と除霊にはフライングが無いんだし、どうせなら思いっきりフライングしてやろうじゃないか。

 

 

 次の授業開始まで俺に残された時間は約五十分。

 大切なことは三つ。

 調査は高速、俊敏、迅速でなくてはいけない。

 あ、実質一つだった。

 

 とにかく調べものは早く終われば良い。早く終われば授業に間に合う。当たり前だ。

 

 そのためには一瞬で解答へとたどり着ける検索ワードを入力しなくてはいけない。

 とりあえず「地縛霊 除霊 殺り方」、おっと本音が。

 「やり方」に変えて検索!

 

 まずは色々と詳しそうなこのサイト、君に決めた!!

 

 えっと、「確実な除霊を行うには特別な才能や厳しい訓練、専門的な知識や特殊な道具などが必要不可欠です。そのため素人が無闇に手を出すと最悪の場合悪霊が凶暴化し、その結果不幸を撒き散らすこともあります。」……って、マジかよ……。

 

 いや、もしかしたらこのサイトが間違ってるかもしれない! ネットだし!

 次だ! 次のサイトだ!

 

 次はこっちのサイトにしよう!

 「低級霊はこちらで販売している霊装を用いれば初心者でも祓えます。」、よし! これを待っていた!

 どこだ! どこで買える?

 

 「商品の詳細を知りたい方はこちらをクリック」……あった!! クリックするに決まってるだろ!!

 

 …………高い。無理、買えない。

 次だ!

 

 えーっと……「もし簡単に除霊できたのであれば、それは大した力を持たない霊だったということです。放っておいても別に被害はないので、除霊する必要はなかったということですね。」。……あ、そっか。

 

 つ、次だ……!

 

 「地縛霊を対処するやり方はふたつあります! ひとつは除霊、そしてもうひとつは浄霊です!」。ん? ……浄霊?

 なんだろう? 除霊とはどこが違うんだろう?

 

 「除霊は力ずくで霊を倒すかんじなのでとても難しいです! 私たち初心者にはなかなか手が出せないので、専門家の方に任せちゃいましょう! それに対して浄霊は、霊を説得して自発的に成仏してもらう方法らしいです! 初心者でも比較的安全にできるようなので、ここからば誰でもできる浄霊の方法を詳しく書きたいと思いますね!」。

 これだ!!!

 

 ついに、これでついに俺はあの悪魔を葬れる!!

 待ってろオッサン! 今夜が貴様の命日となるのだ!!

 

 

 ……あ、幽霊だから命日は死んだ日か。それってたぶん今日じゃないよね。

 じゃあ今日は成仏した日だ!

 

 

 

 この後、俺は時間も忘れて浄霊の調査に没頭した。

 うっかり授業に遅れかけて単位を落としそうになったのは言うまでもない。

 




 今回は痛みと共に素晴らしい教訓を得ました。

 それは投稿直前に行った推敲でのことです。
 変更する箇所を洗い出した後、そういえば投稿フォームの設定をいじれば一気に文章を修正出来るじゃないかと思い至りました。
 さっそく九千文字ごとに区切りを変更し、よっしゃ書くぞ! となったところまでは良かったのですが、思えばここが最後の砦でした。

 保存をタッチすると、3DSでは容量の関係なのか多少のエラーが発生しました。気がつくと第三話のうち、序盤を除く五千文字ほどが吹き飛んでいました。

 ファッ!?

 意外と苦労して書いた、矢車君によるガバガバ推理のシーンやらなんやらが消え去り、そして残ったのは第二話のおまけみたいなやつだけでした。

 しかも私はこの物語を執筆するにあたって、一日に五百文字以上書くことを最低限の目標に定めていました。この文字数を基準にすると、実に十日分くらいの労力が無に帰したということですね。

 もしこの事件が次回作で起こっていたなら。そしてそれがもし文字数の多いエピソードだったら……。
 下手をすると百日分くらいの労力が消し飛んでいたかもしれません。
 そういう意味では、傷の浅いうちに経験出来て良かったと思っています。















 え? 独自にバックアップしとけ?
 便利な機能ですよね。バックアップって、















 え、ガバガバの推理シーン?
 よく考えたらいらなかったので消しましたよ? 探偵役は一人だけで手一杯なのもありますが、探偵小説じゃないから推理要素は添えるだけでいいかな……と感じたんですよね。(ちなみに探偵役は筋肉の秋野己倫先輩じゃないです)

 その代わりといってはなんですが、プロットに手を加えて大学でのシーンを増やしました。
 具体的には、物語の終盤までとっておこうと思っていた人物を当時させて、オリ主の個性をチラ見せしなくもないあの場面がそれです。


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四位 幽霊VSベクトル変換

 主人公はストレスや寝不足のせいか、軽いキャラ崩壊が始まっています。ところでこの原因って不動産屋に勤めている、それほど誠実ではないスタッフと、アパートに固執する、ただの変な地縛霊だけなんですよね。

 つまりこの物語は、生きたオッサンと死んだオッサンによって、主人公の歯車が噛み合わなくなる話ということですね(適当)。

 オッサンの影響って偉大だなあ(遠い目)。これからはぜとも、敬意を込めて「おっちゃん」と呼んでさしあげましょう(すっとぼけ)。


 あ、それから杞憂かもしれませんが、「媒介」の読み方は「ばいかい」です。
 中学の理科で「触媒」が登場したり、夏になるとニュースで見かることもある熟語なので、多くの方は読めると思いますが念のため。


 あのサイトには書いてあった。

 「浄霊の第一段階、それは霊との対話です! 霊の悩みを知り、彼らや彼女らが現世に留まる原因を見つけちゃいましょう!」と。

 

 一刻も早くオッサンを浄霊したい俺は、今日のバイトが終了したと同時に帰り支度を終わらせ、可能な限り早い電車に乗った。

 

 で、今ちょうどアパートに到着したわけだけど、さっそく地縛霊にインタビューをするかな!

 

 ところで、俺はできることなら一撃でヤツの真意を聞き出したい。しかし残念ながらここで一つ問題がある。

 それは、俺の目の前に居座り、この部屋を占拠する地縛霊のオッサンが、そう簡単に真実を語るとは思えないことだ。ずっとふざけてるし。

 

 きっと、オッサンとの戦いはかなり長引いてしまうだろう。だからこの戦いは、根気が無くては続かないと思う。

 逆に言えば、諦めなければいつかは勝利をつかめるかもしれないということだ。

 

 正直今の俺にはオッサンが成仏しない理由なんて見当もつかないけど、それでも挑戦し続ければいつか本音を引き出せると信じている。

 

 そう、信じるんだ。

 ヤツの本音さえ引き出せば、その後は浄霊が意外とあっさり終わるかもしれないと。

 生きている人間が死者の魂ごときに負けることなど決してあり得ないと!

 長年に渡ってこのアパートを苦しめてきた、非日常的な「日常」を打ち砕く、会心の一手は必ず存在していると!!

 

「オッサン、ちょっといいか?」

『私のことはマザーと呼ぶが良い』

 

 「呼ぶが良い」じゃねぇよ、いきなり女体化すんなよ。

 

 ……おっと、危ない危ない。コイツの術中に嵌まりそうだった。

 冷静さを失うな! 大切なのは冷静さだ!

 

「クールになれ。頭を冷やすんだ俺!」

『いきなりの脱衣宣言とか、おじさんに話しかけようと必死すぎ~、マジさむ~い』

「黙れ、全身ごと冷やすな」

 

 それと、お前に近づく手段の一つとして「脱衣」を挙げるなよ。

 なんで服を脱いだらお前とお近づきになれんだよ。もうやだ、この人。

 

 いや、まだだ。まだ諦めるな……! 振り回されるんじゃない、俺!!

 

『身体も財布も超さむ~い、さむ~い、サムシングエルス~、サムギョプサル~、サムタ~ン回し~』

「ところでマザーが迷惑行為を繰り返すのはどうしてだろうね?」

『…………?』

 

 ポカーンとするなよ!!

 何か言えよ!!

 

「迷惑行為だよ、め・い・わ・く・こ・う・い!! うるさいだろ!! いつもいつも!!」

『ふーん』

 

 駄目だ……。コイツ、まるで聞く耳を持たねえ……!

 この悪霊相手に俺ができることなどまったく無いのか……?

 

「…………はぁぁ。なんで、こんなに、ふざけてんだよ……」

『“生きる”とは、呼吸をすることではない。だが、呼吸をしなければ生きられない』

 

 だからなに?

 関係ないじゃん。

 

 あのさあ、俺の独り言に反応して哲学を始めないでくれませんかね?

 

 

 

 ……今回の質問で分かったことは一つ。

 

 俺の戦いはまだ始まったばかりだ。つまり終わる気配など皆無だ。

 

 ……今日はもうひどい頭痛がするから、続きは明日にしよう……。

 

 この戦いって終わるのかなぁ……。

 

 

「いらっしゃ……うわっ、すごく顔色が悪いよ? また寝不足?」

「え? ……ああ、うん。そんなところ」

 

 バイト先に到着したらいきなり心配された。

 オッサンと関わったストレスであまり眠れなかったからか、昨日蓄積した疲労はまだ消えていない。

 だけどまさか心配されるレベルだったのか。

 

「おじゃまします」

 

 俺はいつものように顧客、というより生徒である西さんの部屋に入った。

 別に隠すようなことでもないけど、俺のやっているバイトは家庭教師だったりする。

 

 俺は昔から数学と物理は好きだったので、必然的にこの二つは成績が良かった。

 そして、どちらも大学入試で得点源になってくれたり、幸運にも時給が高いバイトに就けたりと、かなりの恩恵があった。俺はこれを、数学か何かの神様から、期待してた以上の恩返しがあったのだろうと勝手に思っている。

 

 特に家庭教師のバイトと出会えたことは本当に運が良かったと思う。

 だって仮にこのバイトを逃していたら、収入の条件に合う働き方の選択肢は、肉体労働かブラックなヤツしか残らなかったのだから。

 

 しかも俺の身体能力は低く、例えば握力は19キロ、すなわちイコール年齢! ついでに彼女いない歴も年齢! ……色んな意味で悲しい。

 

 そんなもやしのように筋肉が少ない俺にとって、肉体労働はブラックな部類に入るバイトとなってしまう。そして肉体労働じゃなくても、苦学生にとって十分に稼げる働き方は、基本的にブラックだと相場が決まっている。

 おそらく、よっぽど上手くいかなくては、どう転んでも真っ黒からは逃げられないだろう。

 

 もし今年の春頃の俺にわずかでも手違いがあったら、きっと今の俺は干からびて死んでいただろう。

 

 それに対してこのバイトは、生活費を稼ぎつつ、さらに学費を工面しつつ、しかもそれほど死が近くない。

 控えめに言って最高!

 

 ……まあ、とはいえ他の科目は点数がそこまで高くなかったこともあり、俺がドヤ顔で人様に教えられるのは数学と物理しかないけど。

 

「本当に顔色が悪いよ? クマもひどいし、横になってた方がいいんじゃない?」

「ダメだよ。そうしたら教えられないじゃん」

 

 死霊を免罪符にしてサボるのは良くない。仕事は仕事、オッサンはオッサンだからね!

 

「わからないとこがあったら質問するからさ、それまでは休んでてもいいよ?」

「……えっ?」

「『教えられないから休んじゃダメ』なんでしょ? それってさ、『教えられるなら休んでもいい』ってことでしょ?」

「……いや、それでもサボるのはダメ! ゼッタイ!」

「うーん、体調最悪の矢車くんが、私にちゃんと教えられるのかな?」

「…………」

 

 なんということでしょう! 素直に「できる」とは言えません。

 はっきり言って、西さんが相手なら体調が悪くても教えられると思う。おそらくは、彼女もそれを理解している。

 それでも西さんは、多分俺を休ませるためにこんなことを言っているのだと思うと、その優しさを無下にするのは心苦しい。

 

「だから少しなら休んでもいいよ?」

「……そっか、ありがとう……ありがとう西さん。じゃあ、お言葉に甘えて休憩するかな」

 

 俺はそう伝えると、床へ向けてゆっくりと身体を倒した。

 幸せな睡眠時間をありがとう、西さん!

 フォーエバー、西さん!

 君のことは決して忘れないよ!

 

 さて、そんなわけで、さっそくだけど急速に休息しようかな!

 

 ……いや、待て。果たしてこの手は最善だろうか?

 確かに今眠ればこの瞬間は休めるだろう。だけどオッサンがいる限りストレスにまみれた生活は変わらない。

 そうなればまた疲れてしまうことは容易に予測可能……!

 つまり「これからも休める保証」はどこにも存在しないけど、「これからも疲れる保証」は確かに存在している……!

 

 ところがこれらの問題は、オッサンさえいなくなれば解決するはずだ。

 だからこそ今は、あえてオッサン退治にエネルギーを注ぐことこそが最善手なのではないだろうか?

 

 よし、そうと決まれば、まずは昨日のオッサンをもう一度分析しよう。

 

 ……浄霊を成功させるためにはオッサンとの対話が必要不可欠。だけど当のオッサンとは、会話のキャッチボールすらままならない。

 このままでは浄霊の実行など夢のまた夢……。

 それなら多少の危険を承知で除霊した方が良いのかもしれないな。

 

「ねえ、矢車くん? これってどうすれば最速で解けるの?」

 

 アパートに定着している状況から考えると、オッサンは十中八九地縛霊。二〇四号室に強いこだわりを持つことも、ヤツが地縛霊であることを示している。

 

「おーい、聞こえるー? どう見ても最大まで目を開けてるよねー? まさか矢車くんはそんな状態で寝られるのかなー?」

 

 さて、地縛霊の弱点は、憑いている場所から離れられないことだと言われている。

 取り憑いた場所から地縛霊を排除すると、場合によってはその地縛霊がただの浮遊霊に変わることもあるらしい。

 あれ? もしかしてオッサンをアパートの敷地内から追い出せば解決する……?

 でも、どうやって?

 

「矢車!!」

「うわっ!! いきなり何!? ……なんだ西さんか。ごめん……ついうっかり考えごとしてた」

「ふう……。休むなら休む、休まないなら働く、そうだよね?」

「あ! ……はい、面目ないです」

 

 バイト中であることを思い出した俺は、瞬時に正座で居直った。

 これは完全に俺が悪い。

 

「もうセンター試験まで三ヶ月、二次試験までは四ヶ月をそれぞれ切ってるんだよ?」

「はい、申し訳ありません。ぐうの音も出ないです」

 

 そうだ、いくら速やかにオッサンを粉砕したくても、今の俺はただのしがない家庭教師。

 そして西さんはヤツと無関係な生徒。

 

「最大に反省したかね?」

「はい、最だ……盛大に反省しました」

 

 オッサンはオッサン、西さんは西さん。今、もう一度はっきりと心に刻もう。

 

「反省すればいいのだよ明智くん!」

「矢車です」

 

 あれ? そういえば今日は西さんが騒がしいな。

 でもこの人、少しキレてます。

 

 見た感じの雰囲気は、全然怒っているように見えないけど。

 

 彼女の顔は、彼女が前年度の受験に落ちてから掛け始めたメガネが似合っていないせいか、俺にはどこか抜けているように見えるし。まるでゲームか何かをやりすぎて視力が落ちた人のようにも見えるし。

 

 だけどその、ぽけーっとした雰囲気に隠れていても、キレていることくらいは分かる。

 

 っていうかむしろ、本気で勉強している浪人生なら、ここでキレるのが当たり前だろう。

 

 しかもよりによって、彼女は俺と同じ大学の、医学部を目指している。

 うちの大学は別に最難関とかじゃないけど、それでも国立の医学部は難易度が別格だ。

 これで怒らない人がいるなら、それは勉強に真剣さが足りない人か、ただの聖人だろうね。

 

 その上、西さんは高校を卒業するまで数学と物理が大の苦手だった。

 その頃も彼女は頑張って頑張って、頑張り続けていたようだけど、いくら頑張っても、その二教科は思うように伸びてくれなかったらしい。

 結果的に浪人が決定し、現在もこうして高校の範囲を勉強をしている。

 西さんの実力ではまだ、この二つを得意科目と呼ぶことは叶わないけど、それでも彼女は諦めずに毎日数式と戦っている。

 

 実は、そんなふうに彼女が全科目で高得点を目指す姿勢を、俺は密かに尊敬していた。

 

 だってあれほどの努力を積み重ねるなんて、俺にはできそうもない。苦手科目をあんなに勉強しているとか、もし俺が西さんだったら、努力しすぎて発狂するかもしれない。

 

 俺には真似できないことをやってのける彼女に対し、もし俺が微塵の敬意も持たず、応援する気にもならないとしたら、そっちの方がおかしいだろう。

 

 だから折れずに頑張り続ける西さんに対して、俺が邪魔をする、なんていう事態は起こって欲しくない。

 

 そんなわけで、西さんに対して著しく誠実さを欠いていたさっきの俺は、自分でも嫌になるくらいひどいことをしていた。

 こんなことはもう二度としたくない。

 とにかくしっかりしろ俺!!

 

「それで、この問題を最速で解くアプローチはなにかな? 休まないってことは働くってことだよね? 矢車君はなんの支障もなく教えられるから休まないんだよね? それってこの程度の問題は一瞬で導ける自信があるってことだよね?」

「……」

 

 今しがたの「休んでいい」発言は本音を漏らしただけのようですね。優しさは幻想だった、というわけですか。そうですか。

 それと、確かにさっきの俺はいけないことをしたと思いますが、今あなたの示している問題文は、パッと見て、「あ、これ軽めの鬼畜だわ」と分かるほどの難問じゃないでしょうか?

 弱みに浸け込んで無茶な要求をするところは、たとえ西さんでも尊敬できないや。

 

「早く!」

 

 その瞬間、西さんの座る隣に置かれた椅子が、シュンッ!! と叩かれてメキィッッ!! と悲鳴をあげた。威圧するような行為はおやめください!

 へ、平和にいきましょう!

 

「わ、分かったから! 西さんの言いたいことは分かったから!」

「早く!」

 

 俺は恐怖で笑いそうになる膝へグッと力を込め、急いで西さんの隣に座った。

 壊れかけの椅子がぐらついて座りにくいけど気にするな、俺!

 

 そして俺は問題文が書かれているページを覗き、西さんが指さした一問を再び確認した。

 

「えっと、最速でございましょうか?」

「なにかな?」

 

 黒ぶちメガネの奥で、西さんの大きな目が冷たく光った。この浪人生めちゃくちゃ怖い。

 だけど悪いのはバイトをサボりかけた俺だから、反抗する気は微塵も起きないけど。

 

 話を戻して。西さんが指を指していたのは…………よりによってベクトルの難問だった。

 あれって多彩なアプローチがチラつくんだよなあ……。

 

 ベクトルの問題は初手が肝心だ。確かに序盤・中盤・終盤、どれも気を抜けないけど、解き方の選択を間違えると時間を大量に浪費したり、最悪の場合では解けないこともある。

 だからこそベクトルの問題、というよりベクトル関係の公式が使えそうな問題は、特に序盤が肝心だといえる。

 西さんは相変わらず要求が高いなあ。

 えっと……。

 

「……はい! 媒介変数でございます!」

「え? ここは行列とかじゃなくて?」

「いえ、こうしないと手順が無駄に複雑化します!」

「うーん、そっかー?」

 

 西さんはどこに納得していないのかな?

 俺は再び問題文を見返した。

 西さんが間違えそうな箇所はどこだろう……。

 

「あ、それから t と置くのはこっちじゃなくてこっちだからね」

「…………」

 

 俺は問題文の一部を指し示した。

 彼女は何を言われたのか一瞬理解できなかったのか、その顔は俺が昨日の事故物件で見かけたような、ポカーンとした表情に変わった。

 

「……え? あれ……? なんで?」

「ペン貸して」

 

 西さんから手渡された、ヒヨコのマスコットが付いているシャーペンを握ると、俺は彼女のノートに素早く途中式を書き込んだ。

 

「……あ、うん、そっか、そうだよね……私、なんでわかんなかったんだろ?」

「大丈夫、二次試験までには何とかなると思う。半年でここまで来れたんだから大丈夫」

 

 ……多分いける。

 

 大した根拠は見当たらないけど、それでも大丈夫だと信じて頑張らないと、伸びるものも伸びない。受かるものも受からない。だから本気で合格したいなら、まずは自分の可能性を最大まで信じてあげなきゃだよ。

 ––––って、今年の春に西さんが言ってた。

 

「そ、そうだよね! センターの数学はもう、四月からあんなに伸びたんだもんね! センターも二次もまだまだいけるよね!」

「そうだよ」

 

 西さんはその身にまとわりついた不安を振り払うかのような勢いで、俺の書いた式から目を離すと、先程の問題を自分で新たに計算し始めた。

 

 

 ……この人はいつもこうだ。

 

 行く手を高い壁が阻んでいると知っても、諦めるとか逃げるとかいう選択肢を決して選ばず、果敢に前へ進もうとする。本当はすごく怖いはずなのに、無理にでも気合を入れ直して立ち上がる。

 

 彼女はきっとこの先も、俺には真似できないくらいの努力を重ねていくことだろう。

 

 しかし、あの部屋に住んでいたことが原因となって、もし俺の健康状態がこれまで以上に悪化したら……。

 もしかしたら、今度こそ寝不足で上手く教えられなくなるかもしれない。

 もしかしたら、俺が倒れてこのバイトを休んでしまうかもしれない。

 

 そしてもしも、そのせいで西さんが積み重ねてきた、血の滲むような努力が一度でも実らなかったら……。

 

「…………」

 

 つい嫌な未来を想像してしまった。

 

 頑張る西さんには、重ね続けた苦労が報われる、幸せな未来が待ち受けていて欲しい。

 この人が悲しむであろう可能性は、できれば現実にならないで欲しい。

 

 だから俺は、自分のためだけではなく、この浪人生のためにもオッサンの件を解決しなくてはいけないな……。

 西さんが書き連ねていく数式を眺めながら、俺は静かに決意を固めた。

 

 

「媒介変数ってコツとかあるの?」

「コツがあるのかはわからないけど、強いて言うなら慣れかな」

「じゃあ頑張ればそのうちなんとかなりそう?」

「大丈夫だと思う。慣れるといきなり簡単に感じてくるから」

「そっか、よかった!」

 

 彼女は嬉しそうに笑った。

 

 媒介変数はその名の通り、式と式を媒介させる計算方法だ。

 こう言うとわかりにくいけど、要は蚊のようなものだ。

 

 蚊は血を吸う昆虫であり、ある動物から別の動物へと病原菌を媒介、言い換えると橋渡しをする。

 その結果、蚊がいなければ存在しなかった経路を通り、動物から動物へと病気が感染してていく。

 

 同様に、媒介変数は式から式へと式を媒介する。式しかねえじゃねえか。

 まるで意味がわからんぞ。

 

 きっと俺って教え方が下手なんだろうな。

 これじゃ西さんが合格した時は、一から十まで彼女の功績だな。

 

「突然なんだけど、俺って教え方が下手なのかな?」

「……矢車くんのいいところは、数学と楽しそうに向き合えることだよ?」

「ありがとう。今ので察したよ」

 

 優しさが少し辛いです、西さん。

 バイトとはいえ、こんな俺を家庭教師として雇うなんて、もしかして俺の勤め先は教育界の底辺企業なのだろうか?

 

 ……と思ってた瞬間が俺にもあった。だけど、彼女の話はまだ終わってなかった。

 

「人の話は最後まで聞く!」

「へい、すんません」

「あのね、矢車くんが楽しそうに計算をしてたから、私も数学や物理が楽しいのかもしれないと思ったんだよ?」

「えっ?」

 

 何それ初耳。

 さらに西さんは続けた。

 

「まあ、それでも実際は苦しいことの方が多かったけど……だけどたまに楽しいときがあったり、おもしろいなって思えるときがあったから……ずっと最悪でつまらないだけだった教科が、『やや悪』くらいにはなったんだよ!」

「へえ、そうだったんだ」

 

 ……で、結局のところ俺の教え方は下手だと。そういうことですね?

 

 ああ、計算と西さんを媒介するのは難しいなあ……。

 

 もしかしてうちの地縛霊を退治するよりも難しいんじゃないか?

 西さんも地縛霊も、あの問題と同様に媒介変数で何とかなれば良いんだけどなあ……。

 

 

 

 

 

 ……ん?

 

 

 

 媒……介…………?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………あ。

 

 

 毎度のごとく食欲が失せながらも夕食を食べ終わり、やっと自由な時間が巡って来た。

 普段なら、弥柳先輩の部屋に備え付けてある風呂へと直行するところだけど(俺の部屋は電気、ガス、水道がすべて止められているので入浴できない)、今日はその前にやることがある。

 

 俺は二〇五号室のドアを、壊れないように優しくノックした。

 

「先輩、今日もお弁当ごちそうさまでした。それといきなりなんですが、風呂の前に端末を貸してください」

「ほらよ」

「ありがとうございます」

 

 先輩の用意が速すぎることは気になるけど、そんなことより、さっそく調べるかな!!

 オッサンを消し去る会心の一手を!!

 

 俺が知りたいのは主に二つ。まず俺の身体にオッサンを憑依させる方法、そして憑依させたオッサンを体外に逃がさないまま、俺の身体をアパートの敷地外へ出す方法。

 

 つまり、俺が地縛霊と一体化することで、アパートの敷地外––オッサンを浮遊霊化できるかもしれない場所––へと、力ずくでヤツの霊体を媒介しよう。という作戦だ。

 蚊が動物から動物へと病気を運ぶように、俺もオッサンという病魔を土地から土地へと運んでやる!

 

 ……あれ? それはそうとアイデアが生まれたキッカケって、もしや媒介変数じゃなくて蚊じゃ……?

 

 

 「幽霊 憑依 コツ」で検索したら、案外早く、ちょうど良いサイトが見つかった。

 

 それによると、憑依したりされたりする際には、霊体という名の着ぐるみに入るイメージでやると上手くいくらしい。

 

 運の良いことに、憑依状態を維持する方法もこのサイトに掲載されていた。

 大雑把に言えば、飲み込んだ食べ物を吐かないように我慢する感じらしい。

 

 なるほど、思ってたよりも簡単そうだ。

 

 ここで問題があるとすれば、それは俺がオッサンとピッタリ身体を合わせられるか否かだろう。

 

 オッサンは止まることを知らないかのように、いつも動き回っている。あれほどせわしなく動くオッサンを捉えるのは、正攻法だと正直難しいだろう。

 

 ではヤツの動きに対し、どのような手段を使って俺の身体を合わせていくのか?

 

 俺はしばらく考えた後、ある結論にたどり着いた。

 

 

 必要なことを調べ終えた俺は、入浴の前に部屋へと戻って来た。

 

 さて、まずは第一の策略。

 

「おい、マザー。俺とマザーの身体をピッタリと合わせれば憑依できるけど、それでも憑依するなよ? 絶対に憑依するなよ?」

 

 これぞオッサンを捕獲する秘策の一つ、「『やるな』って言われたら逆にやりたくなっちゃうじゃないか作戦」!!

 行動のふざけているオッサンが、俺に合わせて動いてくれないなら、解決方法は単純。俺がヤツのふざけた行動パターンに合わせれば良い。

 ちょっとした逆転の発想だ。

 

『おっけー』

「良いか? 絶対に憑依すんじゃないぞ!」

『おっけー』

 

 よし、あとはオッサンが釣れるのを待つだけだ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんなことを思いながらオッサンを待っていたら、気がつけば俺は新しい朝を迎えていた。

 憑依しろよ! 人の嫌がることをしろよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今回の作戦で分かったことは一つ。

 やはりあれは俺の思い通りに動くようなヤツじゃなかった。

 

 

 

 こうなったら残る策略は最終手段しか無い。

 そう、第一の作戦が失敗したら、後は最終手段しか残っていない。最初から二つしか作戦を用意していないとかではなく、あくまで第二段階として最終手段に頼るだけだ。三つ目の作戦を思い付かなかったとかでは断じてない。

 ……うん、自分でもまるで意味が分かんないや。

 それもこれも、寝不足で頭が回ってないからだと思うんだ。

 

 で、作戦の名前だけど、その名も、「もういっそのこと、油断したオッサンを背後から襲えばよくね? 作戦」!!

 

 とはいえ、俺もすぐに上手くいくとは考えていない。なぜなら奴は単純に隙が無いだけでなく、幽霊として動き回っているせいで、俺達には物理的に不可能なことをいとも簡単にやってのけるからだ。そこがムカつく。

 例えば空中浮遊はしょっちゅうで、そのうえ奴は常に床から数センチほど浮いている。だから奴の足は汚れない。元々汚いことを除けばとてもきれいだ。

 そればかりか、たまに天井へと張り付いたり、壁に半分埋もれたりもする。お前は想像上の忍者か。

 

 よって、俺が身体を重ねようとしても、そのチャンスは極端に少ないといえるだろう。

 

 だけどオッサンを観察していれば、ヤツはいつか隙を見せるはずだ。

 オッサンが生んだその隙を突いて、俺がその小さなチャンスを生かせれば……!

 そうなれば……そうなればその時が貴様の最期だ!!

 

 

 最初のチャンスは意外と早くやって来た。

 それは俺が第一の策略に見切りを付けてから少し経ち、ちょうど朝食を食べ終えた頃のこと。

 

 俺に背を向けたオッサンは、なぜか「レレレ~」と軽く叫びながら、箒でゴミを掃くような動作を始めた。なにそれ意味不明。

 見た感じ、うちの地縛霊はいつも通りだ。もしかしたら今まで気がつかなかっただけで、これくらいのチャンスはありふれていたのかもしれないな。

 

 さて、ではさっそく除霊を始めるか。

 

 俺はこの貴重なチャンスをものにするべく、静かにゆっくりと立ち上がった。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 俺はオッサンへと音もなく近づこうとしたけど、ボロい床がミシミシと鳴ってしまった。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 あと一歩踏み込めば、俺の身体がオッサンと重なるという距離まで近づいた。

 それでもオッサンは気がつかない。

 

 着ぐるみに入る感覚をイメージしながら、俺は慎重に、しかし素早くオッサンの霊体に身体を重ねた。

 それでもオッサンは気がつかない。気がつけよ。

 

 あーあ、なんで俺は、こんな鈍いオッサン相手に手を焼––––––。

 

「––––え?」

 

 あれ……?

 

 ……何……これ?

 

 

 俺とオッサンの頭が重なった瞬間、心の中へと、急激に流れ込んで来た。

 

 オッサンの感情……。

 

 それと……記憶……。

 

 

 

 

「––––これって……」

 

 

 

 

 …………ああ、そうか……。分かってしまった。

 

 理論とか理屈などという以前に、俺は直感で気がついてしまった。

 

 なぜオッサンは亡くなってしまったのか。

 なぜオッサンは霊となってまで、この場所に居座り続けるのか。

 

 つい数十分ほど前まで、ずっと探し求めていた疑問の、その答えを、俺はついに見つけてしまった。




 今回は媒介変数の説明シーンが難しかったです。
 「誰だよスペックが数学に偏ってるキャラとか作った人は!」と、執筆中に何度思ったことでしょうか。自分で決めた設定なのに。しかもあまり活躍しない設定なのに。


 数学は美に達しているが、説明は難しい。
 例えば、高校卒業レベルの数学、しかも難易度の高い応用問題をわかりやすく説明をしようとすれば、そこで繰り広げられるキャラクター同士の掛け合いは、不自然な会話になりやすい。
 だって数学の応用問題は自然な会話じゃないし。

 しかし、自然な展開の中で説明しようとすれば、説明がわかりにくくなりがちだ。
 だって数学の応用問題の時点で不自然だし。

 なんという、なんという二律背反!!


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五位 生者の記憶

 今回と次回はオッサンの過去編です。

 オッサンはどこから来たのか、オッサンはなんであるか、オッサンはどこへ逝くのか。それらをうまく伝えられたなら幸いです(適当)。


 私はふざけなければ死んでしまう病気です。

 そんなことを言われれば多くの者は、ふざけているのかと呆れることだろう。

 これがもし真剣な会話の中でそう告げたのであれば、ふざけるなと怒りを買うかもしれない。

 

 だが実際に自分が、あるいは自分自身よりも大切だと思える誰かが、その病気にかかっていると発覚したとき、それでも同じように呆れられるだろうか?

 神や運命を心底呪うのではなく、なんでもないことのように鼻で笑い飛ばせるだろうか?

 病名を告げた相手へ向かって、「ふざけるな」という言葉を投げつけられるのだろうか?

 

 ––––「先天性心筋不完全強縮症候群」。

 私は生まれつき、ふざけなければ死んでしまう、この病気を患っていた––––––。

 

 

 彼女と最初に言葉を交わした日のことは今でもよく覚えている。

 あれは私がまだ中学生として学校に通っていた頃の夏、ちょうど学期末の大掃除が終盤に近づいた昼下がりのことだった。

 

 その日は一学期の終わりが目前まで迫っていることもあり、校舎全体の雰囲気はどこか緩んでいた。

 明け方からこの地方へと接近していた台風も、ちょうどその目が頭上を通過してる真っ最中なのか、中庭に吹きわたる風は穏やかでどこか心地よかった。

 

 そのうち校舎の近辺が台風の目を抜け出せば、この地域はまた吹き飛ばされるような強風や、叩きつけるような豪雨に襲われるだろう。そうなれば下校時は台風の中を進まなくてはいけなくなる。登校時の暴風雨と同様、お世辞にも楽しいものではない。

 しかし掃除の時間限定とはいえ雨が止んでくれたことは、今でも天に感謝したい。

 

 なぜならそれは、私とはクラスの異なる彼女が、偶然見かけた私へと声をかける、その小さなきっかけとなってくれたからだ。

 

 大掃除は佳境を過ぎ、あとは中身の詰まったゴミ袋をゴミ捨て場まで運ぶだけとなったときのことだ。

 この日もいつもと変わりなく、私はゴミ袋の運搬役を決めるジャンケンで負けた。

 これは毎度のごとく、私がかつてない手を創作し、結果として反則をとられたからに他ならない。ジャンケンでは石やハサミなどは許されるのに、どうやら人面犬は禁じられているらしい。

 

 その後、とても片手では持ちきれないほどのゴミ袋をひとりで担ぎ、私はゴミ捨て場へと歩を進めた。

 

 教室棟を離れ、渡り廊下を抜けた先で、まだアスファルトに水溜まりが残る駐輪場のそばを通りかかったときだ。

 そこではおそらく強風に煽られたのだろう、立てかけの甘い自転車が、無惨にも数十台ほど薙ぎ倒されていた。

 

 私はとっさに周囲へと目を光らせた。よかった、私を除くと人影は無い。

 念のために耳を澄ませてみると、校舎の喧騒が遠くに聴こえた。幸いなことに、私を囲んでいる気配はカエルの鳴き声や風に揺れる木々のざわめきくらいのようだ。

 

 確認を終えた私は抱えていたゴミ袋を一旦置くと、雨に濡れ、そして少しだけ泥にも汚れた自転車を一台一台立て直していった。

 ついでに、再び倒れることのないよう、駐輪場に備え付けられている自転車用スタンドへと一台一台固定しておくことも忘れない。

 

 しかし作業中、私は夏休み前で少しだけ浮かれてたことや、それに加えてさきほど誰も見当たらなかったという安心感からか、知らず知らずのうちに気が緩んでいた。

 

「ねえ、どうしたの?」

「自転車が倒れてたから立て直––––うわっ!」

 

 気がつくと、大きなゴミ袋を手にした女子生徒が一人、私の背後に立っていた。

 

 まずい、と思った。私が普段から装っている変人の仮面が、この瞬間に限っていえば、わずかに外れていたからだ。

 

 しかもよりによって、彼女の胸元に着いているリボンの色は、彼女が私と同じ一年生であることを示している。

 入学直後から私が苦労して築き上げた、常に不真面目でふざけている変人という私のレッテルが、ひょっとすると近日中に崩れ去ってしまうかもしれない。その恐怖が私の心拍数を跳ね上げた。

 

「––––じゃなくて!!! チャリをまとめてかっぱらおうとしてただけだから!!!」

「へ〜、盗むんだ。……それで、盗んだ自転車はどうするの?」

 

 これはどちらだろうか。

 

 単純に彼女のノリがいいだけで、私の言葉を一から十まで冗談の一種として捉えられているのか。

 

 それとも彼女は私の言葉を、ほんの毛先ほどは信じているのだろうか。

 もしかしてもしかすると、さきほどの私が行っていた作業の動機を、今からでも誤魔化せるのだろうか。

 

 恐怖の中からどうにかして一筋の希望を見いだそうとした私は、内心では震えながらも変人のふりを続けた。

 

「……そこから先を知りたくば、風の声を聞くがいい」

「風の声? それってどうすれば聞こえるの?」

 

 ––––こんなことを言ってもまったく引かないとは……。この人の性格はノリがいいとか悪いとなどという次元ではない。

 ……そしておそらくは、私の言葉はすべてが冗談である、とは思っていないようだ。もし全部を冗談だと思っていたら確実に引くだろうし。

 なんだよ「風の声」って。

 よかった。この調子で適当なことを言い続ければ、この人をなんとか煙に撒けそうだ。

 

 私はここぞとばかりに両手を広げた。

 

「風だ……君は風になるんだ。君はあれだ……吹き荒れろ。そして耳を澄ませろ。さらば聞こえん」

「……ふ〜ん、それはともかく真面目なんだね」

「…………なにが?」

 

 まずい、もしやバレた……のか?

 

「だから、『あなたは真面目なんだね』って言ったんだけど。って、なんで梅干しみたいな顔するの? 杉田玄白?」

 

 完全にバレてた。

 

 この瞬間、私の脳裏には、幼稚園や小学校へ通っていた時代に私が起こした事件の数々が甦った。このままでは、きっとあの惨劇が繰り返されてしまう。

 

 私の心臓は、彼女の一言が引き金となって、早鐘のように鼓動を刻み始めた。

 

 ……いや、まだだ。私の学園生活は、まだ終わったわけじゃない。

 ほとんど終わりかけているけれど、それでもまだ完全には終わっていない

 

 だが……どうせなにもしなければじきに終わるだけだ。

 ……それでも少しだけ、もう少しだけ戦ってみよう。無駄かもしれないが、最後の最後まで足掻いてみよう。

 つまり変人のふりを続けるんだ!

 

「おじさんは真面目ではない。なんだチミは」

 

 私は一人称に「おじさん」を使うことが多々ある。

 いけ! どうかわずかでも騙されてくれ!

 

「あのさあ、なんで誤魔化せると思ったの? この状況を見て、それでもあなたを真面目でもない、優しくもない……そんな人だと思うとか逆におかしいでしょ」

 

 ……やはり無理だったのだろうか。

 こうなったら残された手段はたったひとつ。私の服はかなり汚れるが、それでも私に迷いは無かった。

 

「私のことは黙っててください! なんでも言うこと聞きますから!」

「え!? 土下座するほど!?」

 

 緊急事態だ。この際水溜まりだとか泥だとかは気にしない。

 彼女が私のことを「真面目な人」と吹聴しなければいい。

 それさえできれば他は関係ない。

 

「そんなことしなくても、あなたが隠してほしいなら誰にも言わないよ」

 

 ––––––え?

 

「……マジで?」

「うん、マジで」

「ホント!?」

「貴様その姿勢で顔を上げるなよスカートだろうが」

「すんませんした!」

 

 私はまた顔を下げた。水溜まりだとか泥だとかは関係ない。

 

 ––––ところで彼女の履いているあの長いスカートだと、これくらいでは中が見えないと思います。はい。

 

 ……なにはともあれ、穏便に解決しそうでよかった。

 短い間だけ心臓に悪かったが、私の脈はすぐに落ち着いた。

 

「……で、いつまでそうしてるの? そろそろ立ちなよ」

「へい、がってんしやした」

 

 「顔を上げるなよ」と威圧されたから、すぐには土下座を解除できなかった。世の中にはそのような面もあるのではなかろうか?

 

「あ、そうだ。自転車戻すの手伝おっか?」

「……ありがとう、分け前はサドルだけやるよ」

 

 唐突に口を開いた彼女は、ゴミ袋を脇に置くと私に歩み寄ってきた。そして倒れている自転車のひとつをつかむと、私が中断していたのと同じ作業を始めた。

 

「ところで、それってどういう意味?」

「え? なにが?」

「だから、なんでサドルだけくれるの?」

「おじさんは大臀筋(だいでんきん)を鍛えたいからサドルいらないって意味」

 

 説明が足りないからか、彼女はどこか納得していなさそうだった。

 

「う~ん……。なんで鍛えられるの?」

「もしサドルを外して自転車に座ったら、鉄がケツに刺さるでしょ? 刺さらないように力を込めれば筋トレになりそうじゃん」

「……ああ、そっか。なんで私は気がつかなかったんだろう?」

「知らない」

 

 なんだこの会話。

 自身の言動に含まれるしょうもない箇所を、こと細かに解説するという行為はつまるところ地獄だ。

 にもかかわらず、私はなぜこのようなくだらないことを解説しているのだろうか。

 

「そういえばさ、あなたはなんでこんなことばっかりしてるの?」

「だからチャリをまとめてかっぱら––––」

「そっちじゃなくて、わざわざ変な人のふりをしている方なんだけど」

 

 なんだその話か。

 私は変人のふりが板につきすぎたせいか、またついうっかり変人の演技に走りかけた。しかしすでに演技のことはバレたので、この人にはもうその手が通じない。

 

 それにしても……これは真実を告げるべきか、それとも適当にお茶を濁すべきか……。

 もしこの人に確実な隠蔽をしてほしいなら、病気の特徴や私の事情を教えることで、この人を協力者にした方がいいのだろうか。

 ひとまずは様子見として軽くジャブを打ってみるか……?

 

「……これから言うことはかなり嘘臭いけど、私がどんなことを言っても信じてくれるかい?」

「そんなこと言われても、実際に聞かないとわからないよ」

 

 そうか……ならば仕方ない。ここは覚悟を決めなくてはいけないな……。

 

「実はおじさんは『先天性心筋不完全強縮症候群』っていう持病があるんだ」

「へ~」

 

 彼女は、その病気とあなたの言動がどう関係しているのか、とでも言いたげな顔つきで作業を続けた。

 

「そしてこれがかなり厄介で、この病気になった人は、緊張しすぎると最悪死ぬらしい」

「えっ……緊張するだけで……?」

「うん。詳しい仕組みはよく知らないけど、強く緊張しすぎると心臓の筋肉が緩まなくって、え~っと……ポンプの役割を果たさなくなるとかなんとかで……」

「ふ~ん、それでその病気とあなたが変な人のふりをしてることって、なんの関係があるの?」

「病気の治療法がね……薬と、あとは……ふざけることしかないんだ」

「……ふざける?」

 

 彼女は自転車を持つ手を止めた。今度はハトが豆鉄砲を食ったような顔になっている。

 

「そう、緊張をほぐすために大声を出したりとか、身体を動かしたりとか、それからおちゃらけたりとか。それでもし、普段から真面目な人が急にそんなことをしたら、周りの人はドン引きするだろ。例えば幼稚園のお遊戯会では……」

 

 私は重い口を開き、これまでに私が生んだ数々の悲劇を語った。

 

 ––––舞台を縦横無尽に駆けまわってしまったお遊戯会。

 ––––盗んだマウンテンバイクで走り去ってしまった卒園式。

 ––––ひとりだけへヴィメタルを歌ってしまった合唱会。

 ––––フライングしかやらなかった運動会。

 ––––挙手の代わりに逆立ちをした授業参観。

 

 ––––––積み重ねた努力が無に帰す瞬間を、幾度となく目にしてきたこと。

 

 ––––––いつしか「緊張してはいけない」という強迫観念によって、なんでもない日常の場面ですら強く緊張してしまうようになったこと。

 

 ––––––だからこそ中学に入ったら奇人を演じようと決心したこと。

 

「……それでもし、普段からおかしな言動をしておけば、いざっていうときに奇行に走っても、『ああ、また変なヤツが変なことしてるよ』って受け取られるかもしれないでしょ?」

「……?」

 

 彼女の顔は、「おいおい、『だからこそ』の使い方が間違ってないか?」という表情にはっきりと変わった。

 

「失敗してもちょっとしか引かれない。そう思い込めば、ほんの少しは失敗が怖くなくなるかなって気がしたんだ」

 

 私はこの病気について、少ないながらも私が知る限りの事実を話した。

 確かに私は、これほどまでに荒唐無稽な話を、すぐさま信じてもらえるとは思っていない。とはいえ本当に信じてほしいなら、私はこうするしか方法がわからなかった。

 

 さあ、あとはこの人がどう受け取ってくれるか––––?

 

「へ~、それは大変だったね」

 

 あれ、ちょっと拍子抜け。

 これは……信じてもらえたのだろうか?

 

「あの~、信じてくださるのでしょうか?」

「うん、信じるよ。だって今の状況に限っていえば、あなたの言葉を疑う理由がないでしょ? 疑う理由がないってことは、信じるしかないってことでしょ?」

 

 彼女は微笑んだ。少しずつ荒れ始めた空模様とは違い、その顔には一点の曇りもなかった。

 わりとチョロいな。まさか、これほど無条件に信じてもらえるとは……。

 

 ––––いや、違う。今はそんなことなど問題ではない。

 いかにも胡散臭い私の言葉すら、これほど簡単に信じてしまったのだ。彼女は放っておけばきっといつか痛い目を見るだろう。

 だから今は、彼女に私のことを信じさせてはいけないはずだ。

 

「君ねえ、それはおかしいよ。疑う理由しかないでしょ。なんだよ『ふざけなければ死ぬ病気』って。完全にふざけてるだろ! お願いだからこんな話を簡単に信じないでくれよ! これはおじさんのためじゃない。君のために––––」

「あのさ、今のあなたは自分の仕事を中断してまで、顔も知らない他人のために動いているでしょ? しかもさっきまでは誰の視線もなかったのに。私はそんな人を疑う理由なんて持ち合わせてないって言ってるの!」

 

 目の前の同級生は、まるで物分かりの悪い子供を諭すようだった。

 もし私の人生が決定的に変わった瞬間があるとすれば、それは多分、この日の、この出来事を指すのだろう。

 

 ––––私にとっては些細な親切でしかなかった行いが、私の目の前に立つ彼女にとっては、無茶苦茶な話を信じる理由になってしまう。

 はっきりいって、完全に予想外だった。

 

「……ふぅ。わかった?」

「そうか。……そうか、ありがとう。……信じてくれて本当にありがとう」

 

 私は十三年近く生きてきた。それでも同年代の人間からこれほどまでに手放しで信用されたことは、一度たりとも記憶になかった。

 だから今の私はこんなときに言うべき的確な日本語を、うまく見つけられなかった。

 

「わかればよろしい」

 

 彼女はどこか得意げな声でそう告げると、倒れている自転車の、最後の一台へと向かっていった。

 

 ––––まさか、これほど信じてもらえるとは本当に期待していなかった。

 私はこの秘密をうち明ける寸前まで、正直な話、駐輪場での出来事は彼女の誤解であることにしておきたかった。

 秘密を共有する人間が増えれば、隠したい情報は一段と漏れやすくなるからだ。だから私の本性を隠しておきたいなら、見ず知らずの他人には私の秘密を教えない方が都合は良かった。

 

 ––––しかし、正直に話すのも、それほど悪くないのかもしれないな……。

 

「よし、これで終わり!」

 

 最後の自転車を立てかけた彼女は大きく伸びをすると、満足げにうなずいた。

 

「おーい!! サイー!! 急げー!!」

 

 そのとき、急にゴミ置き場の方角から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。

 誰だろうと思い振り向くと、私と同学年らしき女子生徒がひとり、こちらへと近づいていた。

 

「わかったすぐ行くー!! じゃあね、友達待たせてたんだ」

 

 それだけ言うと、彼女は湿ったアスファルトの中で、比較的湿っていない場所に放置されたゴミ袋を拾い、友達のいる場所へと駆けていった。

 

 そういえばまだ彼女の名前を聞いていなかったな。そんなことを思いながら、走り去る彼女の後ろ姿を目で追っていると、彼女が思い出したように立ち止まり、いきなり私の方へと振り返った。

 

「早く持っていかないと怒られるよー!!」

 

 彼女は手にしたゴミ袋を一度だけ指差したが、すぐにきびすを返して去っていった。

 

 ––––ふと気がつくと、風はさきほどよりも少しばかり荒れていた。

 私は置いてあるゴミ袋を手にすると、彼女が向かったのと同じ方向へ駆け出した。

 なんとなく見上げた空は、大掃除が開始した頃と同様に、どんよりとした雲に覆われ、アスファルトや私の身体には数滴の雨粒が当たった。不思議なことに私は––––私の手のひらや制服がすでに泥水で汚れていたことを考慮しても––––この雨を不快だとは思わなかった。

 

 

「……ねえパ……起きて……パパ起きろ!!」

 

 娘の発した年相応に幼い声と、腹部への強烈な一撃で目が覚めた。

 

「……ふぅ。起きた?」

「いてて、起きたよ」

 

 たったひとりしかいない私の娘はいつも通りいとおしい。これが見られるならエルボーくらいは安い対価だ。

 

「パパ、おはようんこ!!」

「違うよムーちゃん、おはよunknownだよ」

「そうだった!」

 

 外はまだ暗かったけれど、ムーちゃん––––娘にとっては、今の時刻はもう朝らしい。私は朝が苦手なので、娘の早起きは妻の影響だろう。

 私は昨日の夜に決まった新しいあいさつを娘と交わし、パジャマのすそを小さい手に引かれながら起き上がった。

 

「パパのねぼすけ! 早くしないとランドセルが売り切れちゃうよ!」

 

 今日は金曜日。もうすぐ小学生になる娘のためにランドセルを買う日だ。

 娘は「早く早く!」と急かしてくるが、対照的に私の心は落ち着いていた。

 

「大丈夫大丈夫。ムーちゃんが急がなくてもランドセルは逃げないよ」

「それがどうした!」

 

 娘は「一番乗りで買うんだよ!」とでも言いたげな顔をしながら元気に叫んだ。

 

「それに銀行やお店だって、暗いうちはまだ開いてないんだし」

「だからどうした!」

「お店が開いてないうちは、ムーちゃんがどんなに急いで出かけても、ランドセルを買えないんだよ」

「えー!?」

 

 いくら残念そうな顔をされても、開いてないものは開いてない。

 それでも私は、失望する娘を前にしてほんの少しだけ心が痛くなった。

 

「うわー、サイアクだよー!!」

「じゃあ、お店には一番乗りしようか」

「え!? いつ出かけるの?」

「う~ん、そうだなあ……朝ごはん食べたらすぐ出かけよう!」

「急げー!!」

 

 娘は嬉しそうな声を上げると、「バラバラバラ!」とヘリコプターのような効果音を口にしながら、まるで飛行機になったかのように腕を広げてリビングへと走り去っていった。

 ……さてと、朝食用に作り置きした料理は温めるとして、あとは何を作ろうか。

 私は朝を迎えるたびに毎度のごとく襲いかかって来る厄介な眠気と戦いながら、昨日の晩、枕元に畳んでおいた服へと手を伸ばした。

 

 

 朝食が完成するまでの間、娘はずっと落ち着きがなかった。私が調理を続けている間、ニワトリをモチーフにしたお気に入りのぬいぐるみを可愛がったり、そうかと思うとすぐに飽きたのか、台所にいる私とおしゃべりをしたりして過ごしていた。

 ––––娘は活発か物静かでいうとかなり活発な方だが、それでも今日ほどそわそわとしていることは珍しい。よほどランドセルが楽しみなのだろう。

 ––––私としてはひとつだけ不安要素もあるのだが……。

 

 朝食を食べ終えて食器を片付け、支度を整えて玄関にたどり着くと、「おせーよ、おせーんだよ!」という顔をした娘が待っていた。

 ––––この顔だけで確信できる。怒りやすさと怒り方は完全に母譲りだ。

 これ以上待たせるのは忍びないので、私は急いで靴を履いた。

 

「あーあ、サイアクだよやっと出かけられるよー!」

「よし、まずは銀行に行ってお金を降ろさなきゃね」

「行ってきまーす!」

「行ってきます」

 

 ドアに鍵をかけ、私たちはしばらく留守にする家へと言葉をかけた。

 

「もっと速く!」

「え? 行てきます!」

「違うよ脚だよ!」

 

 ––––ふと思ったが、もし娘が銀行の仕組みや、銀行が休みになる日にちを知っていたら、さきほどの私が発した「お金を降ろさなきゃね」というセリフに対して「昨日のうちに降ろしとけよー!」とでも返すのだろうか?

 小学生になり今よりも少しだけ成長すれば、ひょっとするとそんなことも言い出すかもしれない。いつか来るかもしれないそのときが今から楽しみだ。

 

「フンフンフ~ン♪ フンフンランドセル~ン♪」

 

 娘はよほどご機嫌なのだろう。

 

「それってなんの歌?」

「フンフン真っ黒––––パパも気になるでしょ?」

「うん、すごく気になるなあ。木になりすぎて光合成しちゃおっかなあ!」

「コーゴーセー? なにそれニワトリ!?」

「それはコケコッコーでしょ。『皇后制(こうごうせい)』っていうのはね、お姫様が王様みたいになることだよ」

「ふーん。じゃあパパはドレイになるの?」

「違うよ」

「なんだツマンナイのー!」

 

 銀行や文具店までの道のりは少し遠いが歩いて行けるので、自動車の免許を取れない私には大いに助かる(私は病気のせいで試験を受ける許可すら降りない)。

 これらがもしも自宅から数キロの距離にあったのであれば、この買い物は運転免許を持つ妻に頼まなくてはいけなくなるだろう。

 しかしできるならばそれは避けたいところだ。家庭のために毎日毎日外で疲労を溜め込み、休日以外はろくに帰宅できない彼女には、やはり家にいるときくらいはくつろいでいてほしい。

 

「フンフン真っ黒ランドセル~♪ やっぱりランドセルは黒がいいなあ!」

 

 私の娘は黒が好きだ。しかし入学後にその黒いランドセルが原因でイジメられるかもしれないと思うと、親としてはどうしても複雑な気分になる。

 

「今日こそパパもそう思うでしょ?」

「え~、そうかな〜? パパは赤いのがいいと思うなあ〜。ムーちゃんは代わりに赤いのはどう?」

「赤いのはいいや」

「じゃあ赤黒いのはどうかな?」

「どうしても赤くないとダメなの?」

「パパはそうしてほしいな〜」

「う~ん……よわったなあ~」

 

 娘は腕を組んで考え込んだ。かわいい。

 

「そうだ! ところでムーちゃんは赤いのと赤黒いのだとどっちがいい?」

「赤黒いの!」

「じゃあ赤黒いランドセル買おっか!」

「…………騙された!!」

「なんのことやらさっぱりだ」

「嘘つくな!! パパは黒いのを買わない気だろ!!」

 

 仕方ない。こうなったら寝る前に思いついた第二の策だ。

 

「バレちゃったかあ。残念だったなあ。実は女の子が黒いランドセルを買うと呪われるんだけどなあ」

「えっ……?」

 

 よし、今度はうまくいきそうだ。

 

「このままだとムーちゃんは小学校を卒業するまで、ずーっと背中がかゆくなるんだけどなあ」

「ええっ?」

「朝もかゆい、昼もかゆい、夜も寝てるときに見る夢の中でもずーっとかゆいんだけどなあ」

「えええっ!?」

「だけど仕方ない。ムーちゃんが『黒いのがいい』って言うなら––––」

「赤黒いのがいい!!」

「ん? よく聞こえなかったなあ。パパも年かなあ」

「赤黒いランドセルがいい!!」

「そっか。じゃあ、そうしよっか」

 

 娘が生まれてからはずっと平穏な日常が続いている。

 私は出産時の緊迫感で恐怖に慣れてしまったのか、その日から些細なことでは緊張しなくなった。

 

 また、私の病気は治療さえ続ければ致死率自体はそれなりに低く、軽症の患者であるなら死の危険はほぼないに等しいといわれている。

 そして完治する見込みはゼロに近いが、どうやら私の症状は現在のところ、どちらかというと軽症な部類に入るらしい。

 昔はもっと重症だったことを踏まえると、もしかしたら家族の影響で症状が軽くなったのではないか、とつい考えてしまう。

 

「あ……お、お化け屋敷だ……!」

 

 舗装された道路にしてはやや狭く感じる道を歩いていると、娘がいきなり私の腕にしがみついてきた。いったいどうしたのだろう。

 娘の視線をたどると、そこにはつい最近お年寄りが亡くなったというアパートがあった。名前は確か乃路我荘(のろわれそう)だったはずだ。

 それにしても古くてさびれた外観といい、敷地全体に木々が生いしげり昼でも暗いことといい、二重三重に不吉なアパートだ。

 これでは子供達の間で「お化け屋敷」と呼ばれていても不思議はないだろう。

 

 さて、どうしたものか……。

 

「あのね、ここだけの話なんだけど、本当はあのお化け屋敷って怖くないんだよ」

「えっ、ホント……?」

「だって住んでるお化けが全然怖くないんだから」

「嘘だッ!! 怖くないお化けなんていないよ!!」

 

 さっそくバレてしまった。やはりそう簡単にはいかないな。

 ここからどうやって巻き返そうか……。

 

 …………そうだ。

 

「じゃあさ、ムーちゃんはあそこにいるお化けが誰か知ってる?」

「……誰?」

「私だ」

「なんだパパかあ。それじゃあ怖くな––––あれ? ……サイテー!」

「え、なんで!? パパって怖いの!?」

「パパサイテー!!」

「ええっ!? パパはお化けになってもムーちゃんを怖がらせたりしないよ! 後ろからこっそり近づいたりもしないし!」

「ほんっとにサイテー!!」

 

 私にとって最も聞きたくない言葉のひとつが次々と娘の口から放たれた。すでに心が折れそうだ。

 

「そうだ! お化けになったら、ムーちゃんがいなくても朝はニワトリより早く起きるって約束するから! それで今度はパパがムーちゃんを起こしてあげるから! もうねぼすけじゃなくなるから! だからどこがサイテーなのか教えて!」

「だからパパはサイテーなんだ!!」

「だからなんで!?」

「ジブンの心にきいてみろ!!」

 

 どうしよう。全然教えてくれそうにない……。

 

 

 結局このあとも銀行に到着するまでの間に娘の機嫌は治らず、到着してからも娘は引き続き不機嫌だった。

 

 

「あっ! ムーちゃんどこ行くの!?」

「パパはあっち行ってて!! もう小学生なんだからトイレくらいひとりで行けるよ!!」

 

 銀行に到着したとたんに、娘はどんどんと私から離れていった。床を踏みつけるその足音からは、娘の強い怒気が伝わってきた。

 

 ……しばらくはものすごく悲しい状況が続くけれど、娘が怒るのも数時間の我慢だ。半日も経てばきっといつものように、何事もなかったかのごとく機嫌を直しているのだろう。だから今はひたすらに我慢だ。

 怒るようなことをしてしまったのは申し訳ないが、具体的な反省は後回しにしよう。怒った原因は娘の怒りが収まってからそれとなく訊いてみればいい。

 

 それにしても……娘があれほど怒った理由は本当になんだろうか?

 

 

 ––––––––娘が成長していけば、その先にはいつか娘と別れる瞬間がやって来ると私はわかっていた。

 ––––––––だがこのときの私は、それが今日になるかもしれないなどとは微塵も感じてはなかった。

 

 

 事件が起こったのは、私が「今回は意外と待ち時間が短そうでよかった」などと思いながら、銀行のソファに腰を下ろしたときだった。

 銀行の入り口にある、ありふれた自動ドアが開き、その向こうから一目で異様な事態だとわかる、黒い覆面を被った二人組が銀行に足を踏み入れてきた。

 そして––––落ち着いて考えればあれは単なる威嚇だったのかもしれないが––––二人組の片割れが、懐から取り出した拳銃で発泡し、騒げば撃つというようなことを叫んだ。

 平和な朝に起きた突然の出来事に、職員を含めて動ける者は––––強盗を除けば––––ただのひとりもなかった。

 

 その後、銀行にいる人間の大多数が床に伏せられ、犯人たちのハンドバッグに紙幣の束が詰め込まれるまでに、それほど時間はかからなかった。

 

 犯人のひとりが銀行の職員に命令し、ハンドバッグの中に札束を詰めさせている間、もう片方は逃亡の際に役立ちそうな人質を見繕っていた。

 ちょうど間の悪いことに娘がトイレから出てきたのはそのときだ。そして娘は犯人の目に留まった。

 ––––小さくて運びやすそうだから。たったそれだけの理由で、娘は犯人たちに捕らえられた。

 

 私は犯人の指示で床に伏せていたが、犯人たちのいるであろう位置から聞こえてきた声は、万に一つも聞き間違えようがなかった。娘の声は口を塞がれたようにくぐもっており、私は娘の身になにが起きたのかを察した。同時に否が応でも私の心拍数は跳ね上がった。

 

 ––––まずい。娘が捕らえられたこともまずいが、この凶悪な緊張感もまずい。ふざけなければ、騒がなければ、きっとこのままでは私は死んでしまう。

 

 ––––しかし、私が大きな声を発すれば娘はどうなる?

 騒げば撃たれるだろう––––––––誰が?

 それは命令に従わなかった私かもしれない。だが私に気がつき、そして頼ろうとした娘が、私のことを必死で呼べば、犯人たちの命令に従わなかった見せしめとして、騒いだ私だけでなく、娘も撃たれるかもしれない。

 

 

 ––––心臓はかつてないほどに暴れていた。あと少しでも緊張すれば、ほぼ確実に私の心臓は痙攣を始めるだろう。そうなれば死は免れない。だがそれでも私に迷いはなかった。

 

 気を失い倒れる直前、不謹慎にも、私はまだ娘に許……してもらって……いな……いことを思い……した…………。




 こ↑こ↓で一首。

 本編が シリアスなほど 後書きで ふざけたくなる そんな春の日


 そんなことはともかく、この物語は「ネタを挟まないと死んじゃう病」から着想のひとつを得ています。


 では次回、読んでいただけることを願いつつ、「六位 死者の追憶」でお会いしましょう。


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六位 死者の追憶

 今回は前回より遥かに短い内容でお届けします。

 各話ごとの文字数を揃えるのって思ってたよりも大変ですね。
 一話ずつをエピソードごとに区切れば文字数のばらつきが生まれ、文字数ごとに区切ればエピソードごとの繋がりが弱くなる。何という、何という二律背反!!

 何か良い方法でもあればいいんですが。


 気がついたときには、私の身体は例のアパートで浮いていた。

 ––––私はいわゆる地縛霊になっていた。

 

 ☆

 

 それからの日々は生前と同様に、日が沈んでからも私の目は冴えていた。一方で生前とは逆に––––私が娘と一方的に交わした約束を宣言通り守らなくてはという使命感からか––––朝日が昇る以前から私の意識は覚醒していた。

 

 ☆

 

 そして私が地縛霊となってから数日も経った頃だろうか。灰色の雲がどんよりと空を覆うある日、私の娘と妻がアパートを訪ねて来た。

 家族の姿を見つけた私は、文字通り二人の前まで飛んで行った。

 

 敷地内に足を踏み入れた娘は、キョロキョロとせわしなく周囲に目を配っていた。幸運なことに、娘は身体が痛そうなそぶりはひとつも見せず––––今にも泣き出しそうな顔をしているという一点を除けば––––まるで健康そのものだった。

 

 ––––娘はちゃんと生きていた。強盗に捕らえられても無事でいてくれた。よかった。本当に、本当によかった……。

 

 娘にもしものことがあれば、私はきっと死ぬよりも辛い苦しみを味わったことだろう。

 娘の命に別状がなかったとわかっただけでも、輪廻の輪に入らず地縛霊になった価値があるというものだ。

 

 ただ……娘も妻も、私が話しかけているにもかかわらず、ひとことたりとも返事をしてはくれなかった。

 私は何度も何度も、私の魂がまだ消滅していないことを二人に教えようとした。それでも私の口にした言葉は、そのことごとくが二人に届かず、私の行為は単なる無駄な足掻きとなってしまった。

 

 ––––「パパは、お化、けになって、ここにい、るって言っ、てたよ……!」。

 娘が嗚咽混じりに声を震わせるたびに、私は愛する家族が悲しむ様を、ただ眺めることしかできない自分自身に嫌気がさした。

 死ぬということが、そして霊体になるということが、一体どのような意味を持つのか。いまさらながら私は現実を突き付けられた。

 

 二人がアパートを離れてから、私はどうすれば娘に希望を抱かせられるか、夜を徹して考え続けた。

 それでも私にできそうなことは、何一つとして思い付きはしなかった。

 

 ☆

 

 娘は小学校に上がると、明け方や放課後の時間を利用して毎日のようにアパートへとやって来た。

 そんなとき私はいつも娘のすぐそばにいたが、娘は相変わらず私の存在に気がついてはいなかった。

 

 ☆

 

 アパートでは私が死んでから最初の梅雨を迎えた。

 この日はなぜか、ただの平日であるにも関わらず、娘はこのアパートに来なかった。

 もしや娘は事故に会ったのだろうか。それとも事件に巻き込まれたのだろうか。今までにも娘が来れなかった日は時々あったが、娘が来ないことに慣れていない私は、それらの日と同様に気が気ではなかった。

 

 ☆

 

 次の朝になると、アパートには神妙な面持ちの娘がやって来た。

 ––––「ママと新しいとこに引っ越すから、ここにはあんまり来れなくなっちゃっうみたい」

 そうか……。そうか、もう毎日は来てくれないのか。これからは娘の声をたまにしか聞けなくなるのか。ただでさえ、一言も話せてはいないのに。

 ––––「パパ……ごめんなさい。だけど……だけどがんばるから許して……!」

 娘の声は普段より落ち着いていたが、同時にその声は震えていて、朗らかさや希望といったものはまるで感じなかった。

 違う……! 違うんだ……! ムーちゃん、違うんだよ……!!

 どうかムーちゃんが悪いみたいに言わないでくれ……!! 悪いのは、許してほしいのは私だ……!! ムーちゃんは悪くない!!

 私がそう叫んだ途端、背後から金属のへし折れるような音が聴こえた。驚きのあまり振り向くと、そこには無惨にもアパートの階段が崩れ落ちていた。

 ––––「ひゃっ!? ……パパ……? やっぱり、やっぱりそこにいるの……!?」

 娘の腕は震えていた。膝は笑い、顔は恐怖に染まっていた。

 

 この日を境にして、娘がこのアパートを訪れる頻度は目に見えて減っていった。

 

 ☆

 

 私が死んでから初めての夏になり、秋になり、冬になり、そしてまた春になった。

 この間、私が娘に合えるのは盆と正月と誕生日と結婚記念日とゴールデンウィーク、そして命日だけだった。

 平均すると二ヶ月に一度会えたが、私にはそんなことなど関係なかった。

 

 今はただ娘に謝りたかった。たとえ娘が私のことをすでに許してくれているとしても、私はまだ私を許してはいないのだから––––。

 察しが悪くて怒らせてしまったこと。娘を(のこ)してひと足早く死んでしまったこと。私が死んでから、娘を辛くさせてしまったこと。いきなり理不尽な暴力を目にして、怖がらせてしまったこと。

 私はただ、娘に謝りたかった。

 

 …………しかし、もし仮に私が娘の前で姿を現せたとしても、私はどんな顔をして娘の前に立てばいいのだろうか。

 

 そもそも娘の心に消えない傷や、身を縮ませるほどの恐怖を刻んだ私が、のうのうと娘に会う資格などあるのだろうか。

 私はどうすればいいのか、どうするべきなのか、私にはまるでわからなかった。

 

 ☆

 

 私が死んでから十回目の春を迎え、桜のつぼみも膨らんできたある日のこと。

 その日は特に記念するようなこともないはずなのに、アパートには娘の姿があった。

 ––––「聞こえてるよね!! 時間がもったいないから!! しばらくはここに来れなくなるよ!! だけど来年の春までには!! なんとしてでも来てみせるから!! だから待ってて!!」

 敷地内に響き渡るほど大きな声でそのようなことだけ宣言すると、娘は死地に赴く侍のような顔をしながら急ぎ足でアパートを後にした。

 

 ☆

 

 食事を終えたらしいなんとか君が、なぜか私の背後からコソコソとこちらへ近づいて来た。

 なんちゃら君は一体何をしようというのだろう? 私、気になります!

 

 …………ま、いっか。

 

 さて、そんなことより掃除掃除っと。フンフンフーン♪

 ああ、楽しいなあ〜。フンフンフ––––。

 




 わりと頻繁に会う一人娘。

 しかしなぜか父の日には会わない。

 なんででしょうか? 子供は家でミルクでも飲んでるんですかね?


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七位 幽霊はモブ

 前回の投稿から一ヶ月以上開きました。
 待っている方がいるかどうかは不明ですが、お待たせしました! 久しぶりの投稿です。


 それはそうと、ニセコイが実写化するようですね。
 しかしそうなると、もしかしたら映画化を記念したスピンオフが描かれるかもしれません。
 可能性は低いですが、実はその掲載されるかもしれない話と、私の次回作は題材がカブる可能性があるんですよね。

 大丈夫だ。(公式に先を越される前に書き始めれば)問題ない。


 オッサンの魂を俺に憑依させた途端、俺は強烈な吐き気を催した。当然のごとく吐きかけたけど、俺はなんとか吐かずに踏みとどまり、襲い来る吐き気に耐えながら台所までたどり着いた(耐え切れたとは言っていない)。

 吐いてしまうギリギリまで我慢したせいか、シンクに色々とアレする瞬間、俺の喉からは「ゴルルルルァ!!」という、今までに聞いたこともない怪音が鳴った(ギリギリ耐え切れたとは言っていない)。

 人体って不思議(耐え切れたのが不思議とは言っていない)。

 

 それと実は……うん、なんというかこれはその……。意外と吐き気が強かったからか、本当はちょっとだけ服にこぼれちゃったけど……うん、気にしなければ良いんだ。気にしなければ気にならない。

 

「––––ほら、よく言うだろ? 『心頭を滅却すれば屁もまた涼し』って」

『言わねえよ』

「え、言わない?」

『お前は屁に火でも付けとけよ』

「火? 屁? あれ? ……火? そっちだっけ?」

 

 あれれ? そういえばオッサンとの会話が急に回り始めて…………ん?

 

「……あれ!? 俺は何でオッサンみたいに訳のわからないことを口走っているんだ!?」

 

 オッサンか!? 俺はこのオッサンなのか!? もしかして、オッサンを憑依させたときに俺の魂とアレな魂が混ざったとか!? 

 

 ……あ、そういえばオッサンはよく、ぷりてぃーなお洋服をお召しになってるよな……? ってことはもしかしてもしかすると、オッサンと同化した俺も、そのうち女装に走るのか?

 うわあああああああ!!! 無駄な洋服代、払いたくねええええええ!!!

 

 俺が思わず頭を抱え、悶えていたら、玄関のあたりでドアノブをひねる音が鳴った。

 

「おい、大丈夫か? さっき『クルルルルァ!!』とかいう吐いてそうな音が……うわ、ゲロくせ!!」

 

 隣の二〇五号室に住む変な先輩が、靴を脱ぎながら部屋へと入ってきた。片手には未開封の弁当を持っている。

 

弥柳(みやなぎ)先輩……。俺は、俺は一体どうしたら良いのでしょう……?」

「まずは落ち着けばいいと思う」

「ハハッ、そうですか? 落ち着いてますよ俺は!」

「それは落ち着いてる奴の笑い声じゃねえ! 危険な行為はやめろ!*1

 

 先輩、ちょっと何言ってるか分かんないです。

 

「とにかく俺は落ち着いてるってことですよ」

「はあ……まあ、いいか。一応それくらいならセーフだし」

 

 こんなふうに弥柳先輩はよく変なことを口走るけど、それでもこのアパートでは常識人のひとりとされている。すなわちここには、俺を除くと変人しか住んでいないというわけだ。常識が通じなさすぎる。異世界転生かよ。

 

 先輩は寝癖みたいな髪の間から覗く、本人の性格と同様に胡散臭い目を俺へと向けて来た。

 

「で、どこまで見た?」

 

 何を……と口にしかけてやめた。一体何の話ですか、なんてことを聞くまでもなく、俺にはそんなのひとつしか考えられないからだ。

 

「はい、オッサンの過去のことであれば、俺は……それなりに見ました。––––亡くなった原因も、この世にしがみつく動機も」

「そうか。で、除霊は諦めるのか?」

「俺は––––」

 

 オッサンを俺に憑依させたとき、俺の中にはオッサンの記憶だけでなく、オッサンの感情までもが流れ込んできた。

 そこには子供の成長を見守る親心や、大切な人のために生きようとする覚悟みたいなものがあった。

 確かにあんなことを知った後では、しかも不可抗力とはいえ共感させられた後では、オッサンを力ずくで排除するのは気が引ける。だけど––––。

 

「––––俺は知り合いのためにも、俺のためにも、なんとかして不安要素を取り除かなければいけません。そしてその方法が除霊しかないのであれば、俺は迷わず除霊を選ばなくてはいけません」

「そうか、ところで話は変わるが寝不足のことなら心配ない。そうだな……」

「ん?」

 

 え、今なんて?

 俺って寝不足の話とかしたっけ……?

 ……ああ、そっか。そういえば、俺の顔を見れば寝不足だってはっきり分かるんだっけ。

 

「……あと二~三日もすれば夜もぐっすり眠れるようになるんじゃね?」

「いきなり何ですか!? そんなわけないじゃないですか!! 先輩はあの地縛霊の恐ろしさを知らないんですか!? 昼夜を問わずやかまし––––」

「まあまあ、騙されたと思って今日はこれでも食っとけよ」

 

 先輩のテキトーな一言はまったく腑に落ちない。だけど俺はお礼を言いながら、先輩が差し出してくれた弁当をおとなしく受け取った。

 

『‘だけど’の使い方がおかしいね。そんな日もあるね』

 

 オッサンは少し静かにしていただきたい。

 

「それとバケツはないけど鍋ならあるから貸そうか?」

「え……どうしてでですか?」

「おい、お前はまさか台所のヤツを野放しにしたまま食事が摂れるのか? このアパートは換気なら部屋を締め切ってもできるが、水を流さなければヤツは留まるぞ」

 

 そっか……ついうっかり忘れてたな。

 

「じゃあ、お言葉に甘えて貸してもらいます」

「もしかしたら前にも言ったかもしれないけど、困ったことがあったら迷わず俺たちを頼れよ」

「へい、ガッテンしやした」

 

 先輩が部屋から水で満たされた鍋を何回かに分けて持ってきてくれたおかげで、台所には久しぶりに水流が生まれた。それと、軽めとはいえ、わざわざ労働を買って出ていただきありがとうございます先輩。

 ……にしても、水道を止められているとこういうときに不便だよね。

 

 ◇

 

「騙された!!」

 

 一日目からぐっすりじゃねえか!!

 

 ––––いや、こういう方向性なら別に騙されても良いんだけど……。だけどなんか釈然としないな。

 

 確か以前に誰かから、「ここでの生活に慣れてきたら、なんかを弥柳先輩に訊いとけ」みたいなことも言われてたし、ここは先輩に質問するしかないな。

 

「先輩、いますか?」

 

 力づくでノックするとドアが軋むかもしれないから、こんなときは必然的にドアの外から呼びかけることになる。どんだけボロいんだよこのアパート。

 

「おう、矢車君か。どうした?」

 

 返事の後、ドアの向こうからは靴を履くような音が聞こえてきた。

 

「なんで二~三日で俺が慣れると思ったんですか?」

 

 俺が問いかけてから、しばしの沈黙があった。

 説明が足りなかっただろうか? もしかしたら質問が唐突すぎたかもしれない。

 そうこうするうちに、先輩が部屋から出てきた。

 

「……それはそうと、矢車君がここに入居したのはいつだっけ?」

「え……? たしか……一週間と少し前、ですが」

「ふーん、意外と最近なんだな」

「それで、どうして俺が慣れると––––」

「長い話になる。詳しいことは歩きながら話す」

 

 先輩の声にはいつもと違って真剣さというか、どこか有無を言わさない響きみたいなものがあった。

 これは俺が知らないだけで、実はかなり真面目な話なのだろうか? 先輩はまだ何もろくに話していないから分からないけど。

 仕方ない、ここは黙って先輩に付いていくか。

 はしごを使い二階から降りる途中、先輩が口火を切った。

 

「そうだな、まずは矢車君と不動産屋の職員がこのアパートに来た日のことから話そうか。矢車君に札を渡したのは理由がある」

「え? 札……ですか? あの気休めのメモ用紙のことですか?」

「具体的な話はここを離れてからだ」

 

 そして地上に辿りついた俺は、先輩に促されるままに歩き始めた。

 

「で、本当に知りたいのか?」

 

 先輩は周囲に他の人がいないことを確認すると、何やら不穏な一言を発した。

 

「どうしたんですか、まるで知らない方が良いみたいな言い方じゃないですか」

「そうだな。こんなことを中途半端に知るくらいなら、むしろ知らない方が幸せかもしれないな」

 

 それほど!?

 あれか。もしここで真相を聞いてしまえば、たとえるなら好きな漫画を読んでいて、その作中で物語の序盤から主人公と両想いだった一番人気のメインヒロインが、最後にはフラれてしまうとわかった瞬間みたいなことになると……?

 

「えっと……、それって知ったらもう、後戻りできないとかっていうやつですよね?」

「もちろんだ。聞いて後悔したところで、もう取り消せはしない。それに加えて、一度話し始めたら途中で止めたくない。誤解のないように最後まで聞いてほしい」

 

 どうしよう。元はと言えばそれなりに軽い気持ちで尋ねたのに、これはもしかしたらとんでもない地雷を踏みそうになっているのかもしれない。

 

「……では先輩は、その情報を知って良かったと思いますか?」

「ああ。そのおかげで色々と対策が打てたからな」

 

 そうか……。じゃあ聞こうかな。

 それに……俺はこういった怪奇現象について、まだそれほど詳しくは知らないからわからないけど、またいつかオッサンを邪魔に感じる日が来る可能性だって捨てきれないし。これは知っておいた方が良いのかもな。

 俺の脳裏には、これ以上ないくらい真剣に勉強する西さんの姿が浮かんだ。

 

「わかりました。俺にも教えてください。覚悟ならたぶん出来てます」

「そうか。わかった」

 

 とはいえ少々回りくどいところもあるし、最初はあまり口を挟まないでくれよ。と先輩は付け加えた。

 

「まず、矢車君の履いている靴は古い。しかしそれほど汚れてはおらず、かかとも踏み潰されていない」

 

 ん?

 

「さらに一目でそれとわかるような穴も空いていない。つまり、矢車君は靴を大切にする人間だ」

 

 あれ?

 

「また、靴底が擦りきれていることも踏まえると、この靴は長い期間に渡って使用されているとわかる。これらを踏まえると、この靴がかなり大切に扱われていることがうかがえる」

「何の話をしているんですか!?」

 

 この人はいきなりどうしたんだろう? まったく話が見えない。

 それとも、相当回りくどい話なんだろうか? 「急がば回れ」って、「くどいくらいに全力で回れ」って意味じゃないんだけど。

 

「まあまあ、もう少し聞いとけよ。こんなのは序の口だろ?」

「そんなものを序の口に持ってこないでください」

「いや、この靴から得られる情報は、こう見えて重要なヒントになってくれるかもしれないだろ?」

「『だろ?』じゃないですよ」

 

 やっぱりこの話は長くなるやつだろう。それで話し終わってからよく考えてみると、実はほとんど関係ないことを言っていたと気づくやつなんだろう。最近は、夏場の校長先生でもこれより簡潔にまとめるぞ。

 

「で、話を戻すが、靴をこれほど大切に扱う者は、靴以外の物も大切に扱う傾向にある」

「はあ」

 

 ……そうかなあ?

 

「なぜなら矢車君も知っている通り、靴は頻繁に踏まれている。その延長で、靴には雑に扱われやすいという面や、汚れやすいという面がある。まあ、逆にいえば、その靴ですら丁寧に扱えるような奴が、他の物を雑に扱うとは言いがたい。––––という話はさておき」

 

 さておくなよ、やっぱり趣味全開の関係ない話じゃないか!

 

「言い換えると矢車君は浪費家か倹約家かでいえば、おそらく倹約家の部類に入る人間だろう。ここまではいいよな?」

「はい……」

 

 先輩が言っている内容はわかる。実際に俺の物持ちが良いことも合っている。だけど先輩の真意は全然伝わって来ない。いや、先輩がいろんな意味で相変わらずだということだけは伝わってくる。

 

「また、矢車君は全体的にみすぼらしい格好をしている」

「今日一番ぐうの音も出ねえ!」

「お、そうだな」

 

 先輩は適当に相づちを打った。

 

「倹約家であるにも関わらず、矢車君がそのような格好をしているということは、主に二つの可能性が考えられる」

「はあ……」

「ひとつは、矢車君は服やらなんやらを買う資金を持っているが、矢車君の性格がケチすぎて買わない可能性。そしてもうひとつは、服やらなんやらを買う資金すら持っていない可能性だ」

「へえ……」

 

 俺も適当な相槌を打った。先輩、そもそもこの話は必要なんですかね? 俺が地縛霊に慣れることを、なぜ先輩がご存知なのか。いつになつたらこの本題に入るのだろう?

 

「ひとまずは『買わない』可能性について考えてみる。もし矢車君がこのようにかなりケチな人間だった場合、実は一ヶ所だけかなり不自然な点が見つけられる」

「不自然?」

「ああ、それはなぜこの時期に、このアパートを訪ねたのか、だ」

 

 俺たちはバーの開いている踏み切りを渡った。線路の上を歩いていると、俺の背中にはなぜかほんの少しだけ違和感のようなものがあった。視線のようなものを感じるというか、背筋がブルっとなるような感じがするというか……。このアパートに住み始めてからは、なぜかよくわからないけど似たようなことがたまに起きていた。

 

 まだ見ぬ変人の気配を、俺の直感が敏感に感じ取っているのだろうか?

 散歩していれば変なのに遭遇することもあるかもしれない。なんたってこの近辺には変人が多いし。

 例えば数日前、この町では詐欺組織が捕まった。

 そして不思議なことに犯人たちはその全員が坊主頭だったという。わかりやすい特徴で統一するなよ。何人か捕まったら残りの犯人はだいたいスキンヘッドってバレるだろ。

 

「俺がこのアパートに来たことの何がおかしいんですか?」

「ああ、おかしいところだらけだ」

 

 それ以前に、このアパートに来る時点ですでに変人のような……? と思ったけど、それを口にしたらただでさえ長い話を無駄に遮りそうだったのでやめた。

 

「なぜ春さ……新年度が始まる四月頃ではなく、よりによって晩秋なのか。もしや矢車君は秋になってから、今まで住んでいた部屋を追い出されたのだろうか? それとも四月から物件を探していたのに、この時期になるまで条件に合う住居を見つけられなかったのだろうか?」

「冬までは公園で野宿しようと決めていたので、ある意味寒波に公園を追い出されたものですよ」

「おっと、俺の推理はまだそこまでたどり着いていないぞ」

「今までのって推理だったんですか」

「さあな」

 

 なぜご存じない?

 

「で、アパートに来た理由はなんだろうという話に戻すと、どちらにしてもある条件によりほぼ完全に否定できる」

「条件、ですか……?」

「そうだな」

 

 なんだろう?

 

「まず、このアパートに来た矢車君が学生か社会人のどちらなのか、俺は矢車君がアパートを訪れた時点ではまだ知らないとする。とりあえずどちらかだろうとは思うけど、ひとまずは断定せずに置いておく。ちなみにどちらでもないニートという可能性もあるっちゃあるけど、この可能性もひとまずは置いておく」

 

 個人的には、ニート説だけは有無を言わさず否定してほしい。馬車馬のごとくこき使われている、とまではさすがに言えないけど、俺って結構バイトしてるんで。

 

「ところで圧倒的にケチな人間であれば、いつも行動している範囲の近くに住もうとするだろう。つまり、矢車君が学生であるにしろ社会人であるにしろ、学校や会社からそこそこ近い場所に住もうとするはずだ。その方が交通費や移動時間も抑えられるからな。最低でもその学校なり会社なりは、家賃を五百円に抑えてしまえば、もし交通費などの損失が大きくても、全体的な収支を見れば安く済ませられる。そんな距離にあるのだろう」

 

 ……一理ある。

 

「というわけで、もし矢車君の肩書きが今年の四月から変わっていないのであれば、矢車君はその頃からこの近辺に住んでいた可能性が高いといえる。そしてこの近辺の物件に住んでいるということは、もし不動産関係で問題を起こせば、この近辺の不動産屋が持つブラックリストに名前を書かれてしまうことを意味する。つまり、家賃の滞納で夜逃げでもした日には、矢車君はこの地域にある部屋をもう借りられなくなるだろう。よって、矢車君はこのアパートに下見として来れなくなるため、矢車君が不動産関係のトラブルを起こして部屋を追い出されたせいでこのアパートに流れついた、とは考えにくい」

 

 ただしブラックリスト対策で偽名を用意でもすれば別だけどな、と先輩は付け加えた。

 

「もっとも、ブラックリストに書かれた君の名前と、矢車君が今使っている名前が別であるとは考えにくい。なぜならもし名前が別々だとするなら、矢車君はそういった偽名を用意するため、少なくはない代金を支払ったことになるからだ。それならテントでも買って野宿した方が安上がりなんじゃねえか? このアパートなんて雨風が凌げるだけで、室温は外とそう変わらないし」

「へぇ、ブラックリストって本当にあるんですね」

「知らん、そんなことは俺の管轄外だ」

「えええ!?」

 

 言葉のキャッチボールって難しい。

 

「だけどあんじゃねえの? 前に不動産屋の職員がそれっぽいのを持ってたし」

「なんだ、思いっきり知ってるじゃないですか」

「とはいえそれだけじゃ確実じゃないだろ。で、話戻すぞ」

 

 おっと、しまった。ついうっかり会話が横道に逸れていた。

 

「また、圧倒的にケチすぎる矢車君の活動範囲が、四月頃からこの近辺を動いていないなら、部屋探しに半年以上を要するのは不自然だ。矢車君が毎日忙しかったとしても、あまりに時間をかけすぎている」

「そうですね」

「よって、矢車君が最近まで住んでいた部屋を追い出された可能性は、『矢車君がケチすぎる』という仮定の下では否定される。とはいえこの否定は矢車君がニートではないことや、矢車君がブラックリスト対策に使える偽名を、安い値段で用意はできないこと。あとは矢車君の肩書きが『旅人という名のフリーター』ではないことなどの条件が必要だけどな」

 

 ほうほう。ところで先輩は、俺がニートではないという事実をどうやって導いたんですかね? 俺が身にまとっている空気感とか……?

 

「『旅人という名のフリーター』? ……ああ、フリーターだと肩書きが変更したり活動場所が変更しますよね」

「そうだな。さて、とりあえずまとめるか。これらの推測から、『ケチすぎて買わない』可能性が正しいと仮定すると、矢車君の肩書きに大きな変更がなければ軽い矛盾が発生する。ちなみにケチな性格はそう簡単には変わらない。ケチの大きな原因のひとつは、不安を感じやすくなる遺伝子にあるだからだ。こういった生まれつきケチになりやすい人のケチな性格は、後天的に変えるのが難しい。少なくとも変える方法を知らない人間には少々困難だ。で、また話を戻して。例の矛盾を解消するためには、四月から十月までの期間に、矢車君の肩書きに大きな変更が起きていなくてはいけない」

「……え? ないですよ、変更とか」

「らしいな。そのときの俺もそう判断したんだろう。まあ、もっとも俺にはそんな細かいことは思い出せないけどな」

「……」

 

 ん? 今、「そんな細かいことは思い出せない」って言いました? それにしては過去に先輩が推理(推論?)した内容をよく覚えていると思うんですがそれは……?

 

「よって、矢車君はケチすぎてこのアパートに住もうとしたのでも、ケチすぎて服を買わないのでもなく、金欠でこのアパートに住もうとしていることが予想できる。最低でも矢車君は、服や靴を買う資金すらないほどに追い詰められているのだろう」

「そうですよ。でもそれって、俺を見れば直感的にわかるんじゃないですかね?」

「これはほら、アレだ。数学者のワイエルシュトラス*2? も言ってただろ? 『直感だけに頼るとかマジであぶねーから!』って」

「ワイエルシュトラスがそんな口調で話すわけないじゃないですか! 先輩はワイエルシュトラスの何を知っているんですか!?」

「いや、よくは知らないな。それと矢車君こそワイエルシュトラスの何を知っているんだ?」

「俺もよくは知らないですよ!」

 

 なんだよ俺たち、これじゃまるで「ワイエルシュトラス」って言いたいだけの人じゃないか!

 

「もう一度? まとめると、それほど貧乏な矢車君がこのアパートを訪ねて来るとしたら、その動機は『節約超楽しい!!』という娯楽気分や、『お前んち、おっばけやーしきー!!』という興味本意によるものとは考えにくい。このことから、矢車君は金銭的にとても困窮しており、爪に火を灯すような節約を強いられているせいで事故物件を訪れたと推測できる。最低でも、こんな胡散臭いアパートを頼ろうとする時点で相当追い詰められているといえるだろう」

「このアパートが胡散臭いのは分かってたんですね……」

「わかるだろそれくらい」

「驚きました。まさかここの住人が、『胡散臭さ』という概念を理解しているとは」

「あのさあ、矢車君ってちょいちょいヒドくね?」

 

 余談だけど、あの部屋は500円で住めることから、ここの住人には「わんこ イン(犬小屋)」と呼ばれている。そういった、亡霊のすみかを犬小屋呼ばわりして恐れない姿勢や、それ以前に変人の巣窟であることなどから、もしかしたらここの人たちには一般的な感性が存在しないのではないか、と俺はひそかに疑っていた。誰だよ微妙に上手いこと言ったのは。

 

「で、また話を戻すけど。えーっと……」

「俺が貧困のせいであのアパートを訪ねたところまでです」

「ああ、そうだったな。それでお金に困っている矢車君を外に放り出すとどうなるか分からない。冬は近いが、もしかしたら矢車君を放っておいたところで最終的にはなんとかなるのかもしれない。だけど屋外で生活せざるをえなくたった矢車君は、きっとそこそこには苦しむだろう。たぶんその時の俺はそう思っただろうな」

 

 「思っただろう」? なんか引っ掛かる言い方だな。日本語が変っていうか、ここの住人ってそういうところがあるよね。

 

「しかしたったの五百円を払いうちのアパートに住めば、矢車君は雨風をしのげるうえに食費もほとんどかけずに済む。だから矢車君のことが心配ならば、矢車君がこのアパートに住むという選択肢を用意しておいた方がいい。幽霊が怖いから、というだけの理由で、矢車君が快適に住める可能性を捨ててしまうのは良くない」

 

 まるで快適に住めることが最初からわかっていたような口ぶりだな。あれ? いつの間にやら俺の質問に近づいているような気が……?

 

「さて、無駄話はこれくらいにして本題に入ると––––」

「をい」

 

 なぜ無駄なことをした。これからは最初から本題に入ってくれ。

 

「まあまあ、無駄話は無駄話でも、実は意味のある無駄話なんだよな」

「はあ」

「あれだよほら。散歩の理由を思い出せなくなっても、会話の内容から逆算できるようにだ」

「はあ……?」

 

 そんな手のかかることをするなら、さっさと本題に入れば良いと思う。

 

「そんなわけで本題に入るぞ」

 

 早く入れ。

 

「アパートからここに来るまでの間、何かおかしなことはなかったか?」

「先輩の言動ですね」

「それ以外だ」

 

 難しいな……。

 

「うーん、何かありました? おかしなことなんて」

「あったぞ。あれほど露骨なら矢車君も気がついたはずだ」

「露骨? 何がですか……?」

「思い出せないならまた現場まで引き返してもいいぞ」

「……あの、何が『露骨』なんですかね」

「え? 何の話……?」

「忘れんなよ」

 

 もうやめてよそういう記憶喪失とか! ちっちゃい子同士が十年前に交わした、結婚の約束とかなら忘れても仕方ないけどさあ、十秒も経ってないのに忘れないでよ、もうやだこの先輩。

 

「『露骨』って言ったのは先輩ですよね!?」

「露骨……? あ、そうか。この歩道を歩いて……」

「……あの、思い出せましたか」

「いや? だけどすぐにわかりそうだ」

 

 そう言うと先輩の顔からは一瞬で表情が消えた。雰囲気を見る限りでは集中しているようだけど、はたから見れば急に目の焦点が合わなくなった青年が、目先の空間に向かって何度も指差し確認をしているだけだ。

 何……コレ……? 不審者じゃん、この人……。

 

「よし。矢車君はさっきの踏み切りを渡る時に、何か変な感じはしなかったか?」

「え? 踏み切り……?」

 

 そういえば踏み切りを渡ったっけ。あれ? 本当に踏み切りなんてあったか……?

 えーっと……。

 

「……」

「思い出せるか?」

「踏み切りを渡ったことは覚えています。だけど変な感じと言われてもちょっと……」

「違和感と言ってもいい。いや、少し言い換えるか。どこか空気が違うとか、背筋が震える感覚とか、そういったものを感じなかったか?」

「あ、そうだ! ありましたありました。それに加えて変な視線も感じました。だけどそれがどうかしたんですか?」

「それが札の力だ」

「え?」

 

 あの札の力? 持ってることがバレると、他人から優しい笑顔を向けられることだけじゃないのか……?

 

「どういうことですか!? この紙には効力があるってことですか!?」

「そうだな、今まで黙ってて悪かった。実はその札の効果……というより副作用によって、札のそばにいる者は霊感が強くなったような状態になる」

「へえ~、そうなんですか。これってすごい札だったんで……あれ? じゃあ、さっきの踏み切りで感じた違和感の正体って……?」

「幽霊だな」

「うわっ!!」

 

 マジかよ、オッサンの同類ってそこらじゅうにいたのかよ! だれか成仏させてやれよ、不憫すぎるだろ!

 

「ああ、やっぱり矢車君はそんなに怖がらないんだな」

「あのですね、逆にどうして怖がるんですか、俺だってあのアパートに二週間も住んでいるんですよ! あんなところに平気で住めるような人間が、今さら幽霊を怖がるわけないじゃないですか!」

「そうだな」

「あ、それとさっき『副作用』って言いましたよね。それならあの札の本来の効果って何なんですかね?」

「それはな、霊の思い出を吸い取ることだ」

「思い出を吸い取る……ですか? 乾いた雑巾みたいに?」

「おそらくな」

 

 なんでその副作用が、霊感を上げるような感じに繋がるのだろう?

 

「ほら、よく言うだろ? 現世に執着心を残している霊は成仏しにくいって」

「そうですね、よく言いますよね」

 

 オッサンを討ち滅ぼそうとして色々と調べたおかげで、俺は霊関係の初歩的な情報なら知っている。

 

「それで俺も詳しくは知らないけど、幽霊って生前の記憶があると、執着心とかがなかなか消えてくれないらしいんだわ」

 

 覚えていると執着し続ける? それってまるで––––。

 

「人間みたいですね」

「そうだな。幽霊とはいえ元は人間だからな。幽霊が人間らしい特徴を持っていてもそれほど不思議じゃない。そして厄介なことに、思い出が残っている霊は執着心が消えないだけではなく、悪霊化もしやすいらしいんだわ」

「あー、だから思い出が奪われれば弱体化に繋がると……?」

「そうだな。まあ、もっとも記憶を思い出せなくなっても、執着心だけでこの世にしがみついているやつも中にはいるらしいけどな」

 

 言っておくがそこまで強力な霊は、専門家にどうにかしてもらうしかないからな、素人が手を出すなよ。と先輩は付け加えた。

 

「そうか……思い出、か……あれ? ところでその力って生きている人間にも効果はあるんですか?」

「大丈夫だ、そんなに心配ない。魂が肉体に守られているうちは、札の影響が弱くなる」

「なんだ、大丈夫じゃないですか。あと、『心配ない』の前に『そんなに』って付けないでくださいお願いします。さすがに悪霊はシャレにならないですよ」

 

 こういうときはたとえ嘘でもキッパリハッキリ断言してほしいよね。

 

「大丈夫大丈夫。札と肌が密着していても、軽い認知症になるくらいの被害しかないはずだ」

「うわっ!? それめちゃくちゃまずいじゃないですか! あ、そういえば最近なんとなく物忘れがひどい気がしてたのって、全部札の力だったんですね!!」

「一理ある」

「全理ですよ!! っていうかそれって、俺が札持ってバイト先に行ったら、そばにいる受験生も悪影響を受けますよね!?」

 

 ––––それはそうとして、「全理」って何だろう。全裸みたいなものかな?

 

 ……って、また札経由してやって来たオッサンの影響!!

 はぁ。アタイ、やんなっちゃう……。

 

「だから大丈夫だって。こいつの影響なんて、身体と札が離れればかなり小さくなるし。それに軽度の認知症だって、ほんのちょーっと思い出すのが苦手になるだけだし。第一、思い出の記憶と比べたら、知識の記憶とかは忘れにくいんだから試験のことは問題ない問題ない」

「えー、本当ですかー?」

「逆に矢車君はなんで俺が間違ったことを言っていると思ったんだ。ここに来るまでの間に俺が話した内容の、一体どこに不備があるんだ?」

「え?」

 

 不備? えーっと……。

 うーん……。

 

「確か……先輩は俺の靴を見て、俺の性格や置かれた状況、そして俺がこのアパートに来た理由を当てたんですよね」

「靴? ……ああ、そうだったな」

「さっそく忘れてるじゃないですか。それで……えっと……」

「論理に不備はあるか?」

 

 …………見つからない。話の内容を忘れたからっていうのもあるけど。

 ……いや、先輩の話に明らかな穴があれば、たぶんだけど俺はそのたびに指摘をしていただろう。わざわざ口に出すかどうかは別として。

 逆にいえば指摘した記憶が見当たらないということは、俺には間違いが見つけられないということなの……か……?

 

「……あ、そうだ弥柳先輩。それはそうとして札が思い出を吸うと、どうして幽霊が見えるようになるんでしょうか?」

「とりあえずは矢車君が納得してくれてうれしい」

 

 先輩はうんうんとうなずいた。

 か、勘違いしないでよねっ! 俺が論理の穴を見つけられなかっただけなんだからねっ! 先輩が正しいなんて、一言も言ってないんだからねっ!

 

「だけど別に話をそらさなくても––––」

「せ、先輩こそ話をそらさないでくださいよ! それで副作用って一体なんですか!?」

「いやあ、実に心苦しいんだけどな。いや、言ってもいいのかなコレ。どうしようか……」

「そうやって言われると気になりますよね。どうせ言うならもったいぶらずに早く教えてくれればいいんですけど」

「仕方ないか……。えっと、どこまで話したっけ……?」

「えーっと……」

 

 また忘れてる。しかし俺もだ。

 

「札が思い出を吸うところまでは聞きました」

「そうだったな。それで札がオッサンの思い出を吸い取るだろ? 例えるならタオルが水滴を吸うような感じ、とでもいえばいいだろう。だけど濡れたタオルから水分がしたたるように、この札からも思い出がわずかに漏れているらしいんだよな」

「へえ、そうなんですか」

「で、例えば札がオッサンの思い出を吸い取るとどうなるか」

「……吸い取られたオッサンの思い出が、札から漏れるんですか」

「そうだ、そして札から漏れた思い出が、矢車君の体内にある魂やらなんやらと混ざる。混ざれば矢車君とオッサンは似た者同士になるため、その結果、一時的にオッサンと矢車君の波長が合って、矢車君はオッサンの姿が見えてしまう……?」

「なんで疑問形なんですか」

「冗談を言う時もある。人間だもの」

「まともな人間はこんなときにふざけませんよ」

「そうらしいな」

 

 先輩はどこか遠くを見つめた。そして先輩はそのまま曲がり角を曲がった。なぜか遠い目をしながらもコーナーギリギリをぶつからずに攻められていたので、先輩はあんな目をしていてもたぶん周りがよく見えているのだと思う。この人にも無駄な特技ってあるんだね。

 

 曲がり角を折れると、道のはるか先には俺たちの住むアパートが見えた。

 それにしても、アパートの近所を歩いているうちに、どうやら俺はずいぶんと色々なことを知ってしまったようだ。

 先輩が俺に札を渡した理由とか、その札が持つ本来の力とか、厄介な副作用とか……。

 

「あれ? そういえば、俺が最初に知りたかったことってなんでしたっけ?」

「……確か矢車君って、ここに住み始めてから一週間くらいだったよな」

「そうですけど……?」

「ふーん、じゃあ最速か」

「え?」

「あのアパートに住み始めてから、あの幽霊に慣れるまでにかかった時間が最速だ」

「そういえばそんな話でしたね」

 

 思い出した。俺が知りたかったのは、なぜいきなり俺はオッサンに慣れてしまったのか、そして俺が慣れることを先輩が知っていたのはなぜか、確かこの二つだった。

 

「まあ、アレだ。本当の似た者同士は一緒にいても気にならないってことだな。知らんけど」

「……やっぱりオッサンと俺の中身は混ざってしまったのでしょうか」

「俺がどうこう言っていいことじゃないけど気にすんなよ。どんなに強力な悪霊でも、怨念を誰かと分け合えば弱くなる。だから矢車君は、オッサンを身体に憑依させたことで、あの幽霊の弱体化に一役買ったと思えばいいんじゃないか?」

「そう……ですかね」

 

 いや、先輩の言う通りかもしれない。俺の目的を考えれば、きっとこれで良かったのだろう。俺がオッサンに慣れたのは、俺とオッサンが似た者同士になってしまったからというだけでなく、おそらくオッサン自体の弱体化もあったのかもしれない。弱くなった霊なら悪影響も小さくなるはずだ。

 おそらくこれからは、オッサンによる集中力の妨害も、昼間の眠気もない生活が続くだろう。そうしたら西さんのことや授業のこと、あとは課題のこともちゃんと何とかなるんじゃないかと思う。

 

「ちなみにあの幽霊と混ざったやつは他にもいるぞ。例えば俺もそうだ」

「え……?」

「さすがに今あのアパートに住んでるやつの魂が全員かなり混ざってる、ってわけじゃないだろうけど、最低でも俺とキリ……秋野の分は矢車君くらいの濃度で混ざってるぞ。実は俺たちが一年生の頃に、あの幽霊をアパートから追い出そうとして憑依させたことがあるんだよな」

「え……」

「その後、キリンはより霊に対して強い身体を求め、筋肉を躍動させたという……」

「えっ!?」

「秋野いわく、後輩たちには苦しい数ヵ月を過ごしてほしくないんだとさ」

「筋肉の躍動と後輩たちの平穏の繋がりがちょっとよくわかんないです」

「俺もだ」

 

 なんでだ

 

「卒業までに身体を鍛え抜き、なんとしてでもあの死者を排除してやる。秋野はそう言ったらしいな」

「物理で!?」

 

 有効打が皆無じゃねえか!

 

「いや、筋肉を鍛えれば憑依状態を保ちやすくなるらしいんだ」

 

 補足すると、俺は秋野が決心した時のことを全然思い出せないけどな、と先輩が余計な一言を付け加えていた。だけど、俺にはそんなことどうでも良かった。

 

「それじゃ……それじゃ、秋野先輩は身体を鍛えてこのアパートを住みやすくしようとして……。筋肉の塊みたいな忘れっぽいだけの人じゃなかったんですね……」

「俺はやめとけと言ったのに、あいつは聞いてくれなかったんじゃないかな」

「もしかして秋野先輩の記憶力が低いのも、札を自分に集めることで、他の住人が札の被害を受けないように……」

「いや、それは違うな」

 

 あれれ?

 

「どういう……こと……ですか……?」

 

 先輩は「しまった」って感じの顔をした。この表情にはどことなく既視感がある。

 

「……秋野本人の前でその話題を出すなよ」

「……そんなにまずいことですか?」

「ああ。これは『秋野以外の人間がこの真相を知っていること』すら、秋野に感づかれてほしくない。できれば矢車君にも知られたくなかった」

「わかりました。なら俺は何も聞いていません」

 

 なんだか闇が深そうだし、この件は気になるけどガマンしよう。

 

 ふと思ったけど、もしも今、俺たちがここから100メートルくらい先まで進んでいたら、この会話が住人の誰かに聞こえてしまったかもしれない。だけどさっきから道が上り坂であるおかげで、アパートまではまだ十分な距離がある。

 ありがとう上り坂。……まさか上り坂に感謝する日が来るとは思わなかった。

 

「そうだ! 今度、矢車君が暇な時に、俺がスターバッカスかマックドバーガーでおごるってのはどうだろう? たまには先輩らしいことのひとつもしないとバチが当たるよな!」

「マジですか!? いやぁ~、実はそういうところに行くのって、ものっすごく久しぶりだったんですよね~。小学生以来かな~? 楽しみだな~!」

「そうかそうか! じゃあついでだしどっちも行くか! Lサイズでも大盛りでもいいぞ~!」

「神!! ……あれ? だけど課題とかバイトとかの予定を考えるとけっこう厳しいような……?」

「大丈夫大丈夫! もう矢車君には幽霊の悪影響なんてほとんどなくなったようなもんだ! 昼間は寝なくてもすみそうだし、これからはこの程度の時間なんていくらで作れんだろ!」

「それもそうですね!」

「アハハハハ!!」

「アハ、アハハハ!!」

 

 いや~、楽しみだな~!

 先輩におごってもらって食べる食事は、この世で三番目くらいに美味しいだろうな~!

 札? なにそれ美味しいの?

 

「おっとっと、うっかりしてたけど、その札は売るなよ」

「え? 何でですか?」

「実はこの世には札を悪用しようとする詐欺師がいてな、あいつらこれを高く買うんだよな」

「え?」

 

 どういうことだろう。お札が詐欺に使えるのかな? だけどどうやって?

 

「例えば霊媒師を名乗る詐欺師が、この札を手に入れたとする。そしてその詐欺師が偽のお祓いを行う時、この札を依頼主に持たせれば、依頼主からは霊媒師の力によって悪霊が姿を現したように見えてしまう」

「あれ? それって……それってかなりまずいじゃないですか!」

「ああ。さらに詐欺師が依頼主に対して、お祓いに協力するよう頼んだとする。そして儀式の途中で依頼主が札を手放すように仕向ければ、依頼主には幽霊の姿が消えたように見える。これにより詐欺師は、死者の魂を見事に成仏させ、依頼を完遂したように見せかけられる。つまり力を持たないただの詐欺師でも、強力な霊能力者を装えるんだ」

「うわあ」

「矢車君に札のことやらなんやらをなかなか教えなかったのも、魔がさした矢車君が札を売ってしまう可能性を取り除きたかったからだ」

「そうだったんですか!?」

 

 そういうことはもっと先に言ってくださいよ! って、そういえば先輩はお札の持つ力のせいで、こういうことを言い忘れてたかもしれないんだよな。

 

「あれ? じゃあ今も教えない方が良いんじゃないですか?」

「大丈夫だ。もう売られる心配なんてほとんどないから」

「そうですか? 俺がお金に困って魔がさすかもしれませんよ」

「大丈夫だ。これからは矢車君も、きっと前より生活に余裕が出てくるだろう。そうすれば札を売らなければどうしようもない状況なんて、おそらく生まれなくなるだろう。それでももし、病気やケガでどうしようもない時は俺に言ってくれ。お金を与えるつもりで貸してやるから」

 

 弥柳先輩……!

 

「それに俺はわかっているんだ、矢車君はよほどのことがなければ悪事に手を貸しはしないと」

「そんなほめないでくださいよ~。悪事に加担しないとかそんなこと当たり前じゃないですか~。アレですよアレ。悪貨は良貨を駆逐するってヤツですよ~」

 

 あれ? 違ったっけ? ま、いっか。

 

「まあ、とにかくその札をほしがる人がいても、安易に渡すんじゃないぞ」

「はい、わかりま……」

 

 ……ん? そういえば……。

 

「そういえば俺……秋野先輩に札を……」

「ああ、それなんだけど実は––––」

 

 まずい。まずいまずいまずい!!

 いや、大丈夫だ。俺が札を渡しても、あの人は悪用とかしないだろう。なんたって後輩のために除霊しようとして、己の身体を鍛えるような––––。

 

 ––––––––『先輩はなんでそんなにこのお札を欲しがるんですか?』

 ––––––––『私にとって筋肉の増強は生きがいだからな』

 

 あれれ? もしかして筋トレにお金をかけすぎたら、金欠になったりとかはするのかな……?

 

「––––おい、聞いてるか? 矢車君よ」

「そんなことより、筋トレってどれくらいお金がかかるんですか?」

「知らね。あー、でも、会員制のジムとかは高いらしいよな。もっとも秋野は––––」

 

 もしやこれは……。筋トレのために軍資金を集めようとして……?

 ……いや、ダメだやめろ! あの人を疑うのはやめろ俺! できればやめろ!

 どうにかして無実の可能性を探すんだ……!

 

「……あのさあ。俺が話してんだけど、聞いてなくね?」

「今はそれどころじゃないんですよ! それで先輩、あのですね……秋野先輩のやろうとしている方法で除霊する際に、お札って何枚も必要になりそうですかね……?」

「いや、あの札は一枚でも強い効果を発揮する。部屋のような比較的広い範囲を守る場合はともかくとして、あの除霊方法を実践したいなら、身につけるのは一枚で十分だ。それにむしろ、札が多くなると、『除霊してやろう』という決意を忘れて逆効果なんじゃねえかな」

「……じゃ、じゃあ、うちのアパートだったら、部屋に貼る枚数ってどれくらいあれば足りるんですか?」

「多くとも八枚だな。だけど俺のいる二〇五号室と大家のいる一〇一号室––––つまりアパートの両端の部屋にそれぞれ貼ってある札の影響で、間にある部屋では二〜三枚も貼れば十分だ。まあ、幽霊の力を抑えるだけなら多く貼るに越したことはないし、俺の部屋にある予備の札を持ち出せばそういった贅沢な使い方もできる。だけどできれば副作用は減らしたいし……だから札は最低限の枚数に抑えた方がいいんじゃねえの。ちなみに幽霊のいる矢車君の部屋では、ポルターガイストのせいか、貼っても気がつかないうちに破れているようでな。かなり前から貼るのをやめたようだ」

「それじゃ、秋野先輩の住む一〇二号室では、五枚も貼る必要なんてないということですか?」

「ああ」

 

 札の使い道はもう悪用しかないのか……?

 他の可能性は……そ、そうだ!! そういえば確か、秋野先輩は、そろそろお札の貼り替えが必要みたいなことを言ってた気がする!

 

「あとですね、秋野先輩の部屋では最近、貼ってあるお札が傷んだりしてるとかって聞いたことがありますか?」

「傷む? 考えにくいな。それどころかこのアパートで札の貼り替えが必要になるとしても、それは十中八九秋野じゃない。なにせこのアパートで秋野だけは札に保護用のカバーをかけているからな」

「保護用のカバー?」

 

 そんなものがあるのか。

 

「だけどあの札に使われている紙はかなり丈夫だ。まあ、丈夫とはいえ思い出を吸いすぎたら多少は劣化するかもしれないが、それにしたって簡単には壊れないはずだ。だからあの札にカバーをかけようがかけまいが、特に違いはないんだよな。それでも札を保護しているなら、なおさら傷まないだろ」

「つまり、秋野先輩にはお札を必要とする理由が、お金儲けしかないってことですか!?」

「あ、いや……それには色々と事情があってだな––––」

「やっぱり秋野先輩は悪事に加担してい––––って、その言い方……知っていたんですね、弥柳先輩も。もしかして先輩もグルなんですか……?」

 

 それまずいって!! いくら変人でもやって良いことと悪いことがあるって!!

 

「誤解だ。半分……いや、七割くらい誤解だ」

「じゃあ、どこがどう誤解なんですか!?」

「あー、なんというかな……。秋野にはこのことも含めて、『住人に知られていること』すら勘づかれたくないんだよな。だから矢車君にもあまり教えたくないんだけど……。そんなこと言っても納得はしてくれないよな?」

 

 当たり前だ。

 

「またそれですか。また『知られていることすら知られてほしくない』ですか。ただの秘密ならともかくとして、さすがに犯罪の臭いがしたら見逃せませんよ」

「はあ……わかった。真相なら教える。だけど、その前に言っておく。俺たちは犯罪を犯していない。それどころか犯罪者の検挙に貢献している。だから事実を知っても、誰かにバラしたりすんなよ」

「本当に先輩たちが無罪ならそうします」

 

 アパートから数十メートル離れた坂道の途中で、俺たちはいつの間にか足を止めていた。

 

「とはいえ何が起きたのかは俺もほとんど思い出せないけどな」

「をい」

 

 口から出まかせかよ、もうやだこの先輩。

 

「まあまあ、ちょっと待ってろよ。えーっと、スマホスマホっと」

 

 先輩はポケットの中から取り出したスマホをいじくり始めた。

 

「おお、あったあった。…………そうか」

「そんなことより先輩は、なんで思い出せないのに庇おうとしたんですか……」

「いいから今から話すことを聞いてくれよ」

 

 先輩の話はまるで漫画みたいな内容だった。だけどクッソ長かったせいか、特に面白くもなかったせいか、それとも札の力か、俺は一晩寝たら内容のほとんどを忘れてしまった。

*1
この話が書かれた当初、ハーメルンの利用規約では、ディ◯ニーの二次創作がご法度だった

*2
積分がアレして収束が厳密にアレする人




 この章を投稿する予約を終わらせたら、活動報告を更新するつもりです違う死亡フラグじゃない。


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八位 幽霊の正体見たり

 ––––本編を読みたい人間にとって、まえがきは邪魔な存在になりうる。だからまえがきを載せたいのであれば、本編と同様の情熱を込めなくてもいいから、少しは気合いを入れてまえがきを書いてくれ。

 制作側から漏れ聞こえたこの言葉に、私は感銘を受けました。この言葉を漏らした人間が、『あとがき? 川柳詠め川柳』の発言者であるとはとても思えません。
 だから今回からは、まえがきもあとがきも、ちゃんと練ったものを載せようと思います。



 それから、今回の投稿はずいぶんと遅れてしまいごめんなさい。

 この作品を心待ちにしている生物が、はたしてこの世に実在するのか?
 私の脳内では存在しない寄りのグレーですが、もし実体が存在したら謝ります。


 俺の身体にオッサンを憑依させたり、俺がオッサンの過去を知ったり、俺がアレを吐いたり、良くいえば小さな子供のことが大好きな先輩が、色々と秘密を吐いたりした日から数ヶ月ほどが過ぎた。

 

 俺の魂にアレな魂が混ざった当初、きっと俺は、「パパサイテー!!」とばかりに「オッサンサイテー!!」と叫びたかったのだと思う。だってオッサンは食事中に鼻の穴から、小粒のマシンガンみたいなアレを撃ってくるような地縛霊だし。しかも俺がオッサンと同じ部屋にいても、ヤツは構わず脱ぐし。それに迷惑じゃない瞬間の方が珍しいし。ついでに精神的な意味でも犬小屋の最奥部レベルで汚いし。

 

 だからたとえオッサンの死因に同情の余地があろうと、あの地縛霊を排除したい俺の気持ちは、おそらく変わらなかったと思う。うん、変わらないはずだ。俺のこういった思い出が、根こそぎ札に吸われたっぽいから確信はないけど。

 

 記憶の欠けた俺ですらそう確信するほどに、今のオッサンはカオスを極めつつあるといえるだろう。

 

 同時に、生前のオッサンが多少マシだったことを踏まえると、歴代の住人達は、何の目的があったにしろ、一度はオッサンを憑依させたのだろう。そして俺がまだ知らない、かつての住人達も俺と同様、オッサンの魂の中に、己の魂の片鱗を残していったのかもしれない。

 霊体に変人の残滓(ざんし)を溜め込まないでほしいね。変人の退出後、その変人が住んでいた部屋に暮らし始めた赤の他人の中にも、オッサンの中と同様に、よくないものが連綿と受け継がれちゃうからさ。

 

 だけど今は幸か不幸か、俺に混ざったこの魂も、そんなに悪くないと思えるようになっていた。なんでだよ俺。やべー奴かよ俺。

 

 これはもしかしたら、アレな魂のせいで俺の性格も多少アレになったから、というのも理由のひとつかもしれない。

 もちろん、俺の性格は前から変人そのものだとか評している奴がいたら、俺はすぐさま、その一言を根に持つ。そしてもし、そいつが後日、俺のレポートを二千円で写させてくれと頼んできても、「変人の書いた個性的なレポートなんて写したら、一発で教授にバレるんじゃねーかなー?」とか言ってそいつを数分ほど焦らすだろう。

 

 しかし俺は最終的に、レポートを三千円で写させてあげることだろう。

 

 信じ難いが、世の中には、「バッキャロウ!! ダチから金なんて取れるかよ!!」と断言する、熱血漢みたいな人もいるという。都市伝説かな?

 だけど俺はそんな人間じゃないので、同級生のあいつからは心置きなく搾り取れる。第一、あいつとは友達じゃないし。

 

 そ、それと勘違いしないでよねっ! べ、別に俺のレポートをそのまま写させるんじゃないんだからねっ! 参考文献とか構成とかをところどころ変えたやつを写させてやるんだからねっ!

 

 この偽装のおかげで、写したことは教授にバレず、「同じレポートはまとめて減点」と言い放つ教授が相手でも、ギリギリのところで減点にはならない。工夫に工夫を重ねて、バレないギリギリのラインを攻めるこの作業は大変だけど結構楽しい。

 

 ただ最近は、そんな偽装をするくらいだったら、最初から全然違うレポートを作った方が手っ取り早いと思う俺がいる。

 なんつーか……俺にとっちゃ、偽装の準備をする時間がすげー無駄な気がする。

 

 たぶんだけど、あれを時給に換算すれば、最低賃金とそう変わらないのではないだろうか。あいつにとっても、俺に支払うための野口さんを稼ぐ時間は、基本的に無駄みたいなものだろう。俺達が通う大学は、国内でも比較的安く済む国立の経済学部とはいえ、高い学費を払ってまで学ぶやる気があいつにはあるのだろうか。いや、ないでしょ。

 

 であれば、俺もあいつも、これからはもっと真面目に生きないといけないのではないか。それが人間というものだなあ。

 

 

 ……ん?

 

 ……あれ?

 

 ……えーっと、何の話だっけ……?

 

 …………まあ、いっか。

 

 どうせお(ふだ)かお(さつ)の話だろ。

 それにしても(ふだ)の力は厄介だな。

 

 しかも弥柳(みやなぎ)先輩によれば、もし札を手放したとしても、その人が持っていた本来の記憶力(←『記憶』じゃなくて、『記憶力』な)は、すぐには戻らないらしい。

 「もしかしたら、四六時中札に思い出を吸われていると、そのうち勝手に思い出を垂れ流すクセでも付いてしまうのかもな」と先輩は語っていた。なんて迷惑な話だ。

 しかし先輩は、「それでもしばらく経てば、この呪いも少しずつ消えていくらしいな。知らんけど」とも口にしていた。「呪い」などと口走るなよ。俺が以前に聞いた、「副作用」とは何だったのか……。

 

 もっとも、オッサンがあのアパートにいる限り、たとえどんなに記憶を守りたくても、あの札を手放すなんてことは危険すぎて出来ない。

 

 ここで一つの疑問がある。「危険」とは、具体的にどのようなものを指すのだろう? そこは俺にもよくわからない。だけどとにかく危険だという情報は、アパートの先住民たちが幾度となく口にしている。そうやって何度も同じ話をするのは、きっと前に話したことを忘れているからだろう。札め……!

 

 いちおう先住民たちの話をまとめるてみると、札の放棄は大ケガに繋がることもなきにしもあらず、といったところらしい。

 ここだけ聞けば曖昧な証言をしているように思えるかもしれない。それでも実際に語る姿を前にすれば、彼らが青ざめていることや震え声であることに気がつくだろう。おい、なぜ曖昧に話した? 教えてくれよ、ことの詳細を。

 

 ……ああ、そっか。札か。先住民たちは、札のせいで細かいことを思い出せないのかな……?

 

 ◇

 

 幸運なことに、オッサンを憑依させた日からはずっと、俺はバイト中、とても快適に働けるようになった。

 しかもその理由は、単に寝不足が解消されたから、というだけではない––––。

 

「よって、m:nの比は常に2::1なので––––」

「あー、そっか! 『無限の大きさが違う』ってそういうことか!」

「あれ。バレた?」

「あのさぁ……矢車君って私に教える気ある?」

「おっと、すみまセンブリ茶! ついクセで言っちゃっただけだから気にしないで!」

「ふーん……? まあ、いっか。えーっと次の問題は……!」

 

 西さんは問題文を一瞥(いちべつ)すると、すぐに目を離して時計を確認した。

 

 ––––さて、おわかりいただけただろうか?

 このように今の俺が口にする説明は、今までの俺ではありえないほど西さんに伝わりまくっている。

 

 憑依させる前の俺なら、たとえ頭の中では完璧な論理を組み立てられたとしても、なぜかうまく口に出来ないことが多々あった。しかし例のアレを憑依させてからは、頭の中にあるものを素直に言葉として出せるようになった気がする。

 

 これについて、弥柳先輩があるひとつの仮説を立てた。それによると、「あれだ。単に人見知りがなくなって、心を開きやすくなったとかじゃね? たぶん過去に、うちの住人の中に人見知りとかしない奴がいたんだろ。それでオッサンの霊体を介して、そいつの魂が矢車君の中に流れ込んだとか? まぁ、わかんねえけど」……とのことだ。俺もそう思う。

 

 余談だけど、現在あのアパートに住んでいる者達も、何人かはまったくと言っていいほど人見知りをしない。

 

 例えばそれは、道ですれ違った赤の他人が、自分と同じ髪色というだけで話しかけるような次元に達している。さすが変人、ナンパの切り口に軽い狂気すら感じる。

 

 補足すると、あのアパートにはわざわざお金を払ってまで髪を染めるような人間はほとんどいない。その理由は人により異なるけど、過半数を占めるのは、自分の髪に犬のフンが付着していても気にしない人間だ。他の人は貧乏だったりケチだったり、自分の力を過信しすぎて、実験ついでに染めようとしたら自爆したり、節約によって快感を覚えるタイプの変態だったり、財布の紐が核シェルターよりわずかに緩かったりするからだ。自力の人は(スーパー)サイヤ人じゃないかぎり諦めた方がいいと思う。

 

 ––––話が逸れた。

 

 そんなこんなで俺の説明力が覚醒した。

 以降は、俺が家庭教師として教えてるお客さんの中で、もっとも教えるのが面倒な西さんですら俺の言葉をバンバン理解してくれる。ましてや俺が担当している他の生徒は、もう笑うしかないくらい教えやすくなった。ちなみに最近、別の生徒に勉強を教えながらついうっかり笑みをこぼしたら、本気のトーンで気持ち悪がられた。

 

 この説明力について、弥柳先輩がまたしても仮説を立てた。それによると、「あれだろ、今までの説明が壊滅的なだけだろ。口が追いつかないんじゃね? 思考とかにさ」とのことだ。誰がしゃべりの遅い新人類だ。誰がゆるふわ系ヒロインだ。様々な意味でひどい。

 

 しかし、なんにせよ俺の説明力は覚醒してしまった。

 

 そしてついでに西さんの計算力も覚醒した––––。

 

 いや、いつかはするだろうと思ってたけどね? 去年の三月の終わり頃から西さんの浪人生活が始まって、当時は俺の説明力が圧倒的に足りなかったにも関わらず、西さんはものっすごい伸びを見せていたし。模試結果の変遷(へんせん)がとんでもないことになっていたし。

 

 そんな西さんは当初、数学の点数もそうだけど、物理にいたっては小学生で習うような内容が含まれているにも関わらず、あんな点数を取っていた。あれだけを見ると、医学の道を志している人間とはとてもじゃないけど思えなかった。それこそ、口に出すだけでも勇気が必要な点数だ。

 しかしそこからのセンター九割五分だ。

 さっきから手を付けている二次試験の過去問も、比較的難しい問題なのにかなりのハイペースで解けている。

 

 確かに俺は、西さんに出会った当時から、彼女ならそれくらい伸びてもおかしくはないと、心のどこかでは信じていた。俺が教えていない時間帯に行う自主勉でも、かなりの実力を付けているらしいことを知っていた。だけどそれでも、昨日の午後、センター試験の自己採点の結果を聞いた時は、一瞬だけ耳を疑ってしまった。今さらだけど、なぜあれほど実力が伸びたのだろう?

 

 っていうかあの子は、高校生時代にどうして壊滅的な点数を取っていたのでしょうか? ついこの間の西さんは確か、幼い頃から医師を目指してたとか言ってましたが……。もしかして、それほどまでに数学と相性が悪かったのでしょうか? 気になります。

 

 大問をまたひとつ終わらせて、西さんがまた時計に目を向けた。

 

「……チッ、大問ひとつに十九分か。見直し含めて、あと二分は切りたいところだ……」

「いつの間にやら幾何学(きかがく)以外は完全に合格ライン超えてるよね、君」

「……え? ああ、矢車君……いたんだっけ?」

「無駄口を叩くより解答を確認しよう」

「そうだね、丸つけ丸つけっと!」

 

 このように西さんが覚醒しすぎて、幾何学を除く範囲ではもう教えることなんてない気がする。教えなければいけないことを無理にでも挙げるとするなら、この浪人生のすぐ横にいる、俺の存在くらいだろうか?

 

 ちなみにうちの大学の二次試験は、数学の試験時間がたった八十分しかない。そしてその中で、解答しなくてはいけない問題は大きく分けると四つある。だから全問と対峙するなら、大問ひとつあたりに、平均して二十分くらいまで使っていい計算になる。

 

 ただしうちの医学部では、二次試験の合格ラインがだいたい六割ほど(低いとか言うなよ。問題が難しいからこれも仕方ない)なので、取り掛かった問題を正しく解けるのであれば、大問を一つくらい無視しても十分に合格は望めるはずだ。その場合は、一問に三十分は費やせると思う。

 

 だからもし西さんが欲張らず、堅実に点を取りに行けば、もし幾何学の問題を丸ごと捨てても、数学ではほぼ確実に合格ラインを超えられるだろう。

 だけど油断は出来ない。なんたって、出題者である教授が変人である関係なのか、この科目は変な問題が多く、そのせいで試験結果を事前に予想しにくいからだ。

 

 去年なんて、「自然数を1から100まで、声に出して順番に数える。ただし、3の倍数もしくは3が付く数を数える時だけはアホにならなくてはいけないとする。この条件下でアホになる回数の和を求めよ」という、俺の心をくすぐる問題がシレッと紛れ込んでいた。

 

 だけど俺以外の受験生にとっては、面倒な問題を前に、軽い敵意を抱いたかもしれない。なにせこの問題は、一から百までの数字を地道に調べるというアプローチを選んでしまうと、無駄に時間を奪われるからだ。

 

 ちなみに俺の場合は、集合と確率という二種類の手法を利用し、一分くらいで「45回」という解にたどり着いた。

 

 大雑把な計算は次のようになる。

 まず、計算する範囲を「1~100」ではなく、「1~99」と「100」に分けて考える。

 そして1~99の整数のなかで、3の倍数が登場する確率は$\frac{1}{3}$。よって3の倍数は全33回。

 

 次に、計算の範囲を「1~100」に戻す。ここで3の付く数字を求める。

 100個の整数の中で、一の位に3が付く可能性は$\frac{1}{10}$。よって一の位が「3」である数字は全10回。

 十の位も同様に全10回。二つのグループを合わせて20回。

 ただし、「33」は一の位のグループにも十の位のグループにも在籍している。だからこのまま3の付く数字は全20回、としてしまうと、「33」だけは二重に数えていることになる。よって、3の付く数字は10+10-1=19回だ。

 

 さらに、3の倍数かつ3の付く数字、要は3の倍数グループと3の付くグループに共通する構成員が、「3」、「33」、「63」、「93」、「30」、「36」、「39」で全7回。

 

 最後に、問題の解は[3の倍数]+[「3」の付く回数]-[ダブってる回数]なので、解は33+19ー7=45回。

 

 もし試験本番で西さんも俺と同様の工夫を行えれば、ある程度は他の受験生を出し抜けるだろう。

 

 きっと今回の試験も前回に引き続き、ところどころにちょっと変な問題が待ち構えていると思う。

 こういった設問を前にしても、現時点の西さんではまだまだ力が及ばない部分もあるかもしれない。もっとも、今の西さんを見ていると、この程度ならそのうち容易く対処出来るように成長するのではないか、という気もしてしまうけど。

 

 ◇

 

 今朝––––というよりまだ今宵と呼ぶべきか––––も相変わらず、オッサンの音はアパート中に鳴り響いていた。だがしかし、今日の俺もそんな轟音ごときは意に返さず、いつもと同じ時刻に起床した。屋内なのに死ぬほど寒いことを除けば、実に気持ちのいい朝だ。

 

 気分の良い早起きついでに、俺は普段よりもやや早めにアパートを出発した。そのおかげで、授業開始の時刻よりもかなり前に大学へと到着してしまった。そうしたら、まだ正門が開いてから間もないにも関わらず、性格とかしゃべり方とかがとても変わっている知り合いの男に絡まれた。実に気持ちの悪い朝だ。

 

 さて困った。ここで俺がこいつの変なアレに付き合ってしまえば、課題を終わらせるという大切な目的を、俺は忘れてしまうかもしれない。札め……!

 

 ……よし、逃げよう。出来るだけ迅速に逃げよう。出来るだけ遠くに逃げよう。一秒でも長く生き延びよう。俺は風になるんだ。そうしなければきっと、せっかく手に入れたこの爽やかな時間を、課題の消化には使えなくなってしまう。

 

 だからこいつにわずかでも隙が生まれたら、俺は一目散に駆け出そうと思う。それまでは適当に相槌でも打ってればいいや。

 

「おっはー!」

「おはよう」

 

 君にさようならを言いたい。

 俺の気を知ってか知らずか、例の同級生(?)がしゃべり始めた。同級生だよな……? 同級生に分類されるはずだ……。

 

「あのさぁ……お前、もう構内で寝ないのか!?」

「ああ。寝るわけないだろ。眠くないんだから」

「寝ろよ寝ろよ〜」

『寝ないよ』と 何度言えば わかるのか  矢車

 

 なんでお前は、この俺に寝てほしがるんだ?

 俺の幸せそうな寝顔でも見たいのか? ヘンタイか? 寝顔のみを求めるタイプのヘンタイなのか?

 

「とにかく、俺はもう大学の構内で寝る予定なんてないから」

 

 ここまで、俺は大したことを何も言っていないのに、俺の知り合いらしい男はたぶん怒り出した。

 

「ふざけんじゃねえよ、お前これどうしてくれんだよ! ふざけんな!」

「アナタは語彙(ごい)力を基礎から鍛え直してくださいわよ」

 

 あいつは声だけ迫真で文句を垂れながら、スマホの画面を俺に見せつけてきた。俺にこれを読めとでも言いたいのか?

 

「何だよ。……えーっと、何これ。『クッソ汚い寝顔撮ってみたパート114』……?」

「お前の寝顔は面白いってそれ一番言われてるから」

「何これ!? 俺知らない!」

 

 なんで俺の寝顔を勝手にネット配信してんだ貴様は! 肖像権主張するぞゴルァ!

 

「せめて本人に言えよ! そして許可取れよ! お前にこんな許可なんてやらないけど」

「イワナ……言わなかった?」

「俺は一言も聞いてないだろ! いい加減にしろ!」

 

 きっと俺は、この件についてひとつとして知らされてないはずだ。札のせいで記憶が曖昧だから、いまいち確証は持てないけど。

 それに寝顔の配信くらいは別に構わないけど、ひでえ寝顔の配信は許せない。今の俺が知らない、過去の俺とはいえ、お嫁に行けなくなる危険を冒すとわかっていたら、アイツにこんな許可を与えるわけないじゃないわよ!

 

「そういうわけでその動画消せわよ」

「こっちの事情も考えてよ」

「俺が悪いの!? 理不尽!!」

 

 配信で儲けたいなら自力でなんとかしろよ。……っていうかよく見たら、動画の再生数もたったの八百十回じゃねぇか! 配信のシステムは知らないけど、一分の視聴で一円儲かると仮定しても、コイツが手にする金額は雀の涙だろう。

 

「ンだよ。俺がいなくても、お前はどっちみち売れてねェじゃンか」

「しょうがないね」

「なんでちょっと励ますような口調なの!? お前の蒔いた種にお前が水を与えて全滅させただけだろ!」

 

 あと、俺の肩に手を置くなよ。

 あーあ、俺だってこんなやつの相手をしてる場合じゃないのに。もう、いっそのこと、相手が油断しているとかいないとか忘れて、さっさとこいつから逃げようかな。

 

 それに、きっと不意なんか突かなくても、俺はこいつを振り切れるっぽいしなぁ……。

 

 だって、ホームレス生活をしていた頃の俺は、全財産をリュックに入れて持ち運んでいた。そのおかげで、もやしみたいな俺の身体においても、脚力だけはそこそこ強い。それだけではなく、全然使ってない上半身が無駄に軽いおかげで、現在の脚力が全盛期より多少弱くなっていたとしても、以前と同様に爆発的な加速が見込めるだろう。風だ、俺は風になるんだ。

 

「じゃあな。これでも俺は、あと四時間以内に、来週提出するレポートをまとめなきゃいけないんだ。分かるか? 授業開始時刻の十時までだ。よって、お前に構ってる暇など––––」

「あ、おい待てぃ」

「なんだい、江戸っ子かい」

 

 おっと、あたしも江戸っ子みたいになっちまったね。こいつぁ一本取られたよ。……まぁ、取られたっていっても、それは目の前の変人に、じゃなくて札に、なんですがね。取られたのも一本じゃなくて記憶だし。それに記憶を奪われたといっても、その代わりに新しい人格とか記憶とかを札からもらったから、僕らはそれを「プラマイゼロ」と呼ぶのだろう……。

 

 それに、今はかようなことよりも––––。

 

「––––でさぁ、なんで我輩が待たねばならんの?」

「俺も仲間に入れてくれよ〜」

「え? まさかお前……自分でレポートを……?」

「当たり前だよなあ?」

 

 これでは俺の収入が減ってしまう……! いや、余計なレポートを作らなくていい分だけ、むしろ自由時間が増えるからいいのか……?

 それにここ何ヶ月かのアパート生活では、もうびっくりするくらい生活費が浮いている。家賃が五百円でも住める、食費が0円でも生きられる。まさにそんじょそこらの地縛霊より浮いていると言っても過言ではない。この前なんて、笑いが止まらなさすぎて職質されたからな。

 

 そんな生活のおかげで、もし俺がレポートの売買を廃業して収入が多少減ってしまっても、月に数千円の貯金が貯まり続ける状況は変わらない。

 

「……本当に自力でレポート書くのか?」

「当たり前だよなあ?」

「うん、確かに当たり前なんだけど。学びたいことのために大学来て、それで課題を真面目にこなすのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど。まさかお前の口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかったからびっくりしたッスよ。お前でもたまには真面目に生きるんッスね〜」

「まぁ、多少はね?」

 

 もしかして温暖化か何かの影響で、この男の頭もおかしくなったッスか? ならば今日は雪でも降るかもしれない。いや、たとえコイツが平常運転でも、今の時期なら降雪は十分にありえるッス!

 

「しからば共に()こうぞ。永劫に続くレポート(みち)を!」

「ありがとナス!」

 

 何だよ、『レポート道』って。

 

「えーっと行き先は……図書館だったよな?」

「おっす、お願いしま〜す」

 

 あ、そうだ。ちょっと唐突だけど、ついでに気になったことも訊いておこう。

 

「あのさ。別に大した用事じゃないんだけど、お前の名前ってなんだっけ?」

「え、それは……」

「忘れててゴメン!」

「悲しいなぁ……」

 

 目の前の男が、目に見えて落胆してしまった。こうなったら、いっそのこと真実を打ち明けてしまおうか……?

 

「……こんなこと言ったら困惑すると思って黙ってたけど、実は俺、ひょんなことから記憶喪失になりやすい体質っていうか、アレになったんだ」

「おっ、大丈夫か大丈夫か?」

 

 変なニンゲンが、今度はものすごい勢いで心配し始めた。「ひょんなこと」の正体を気にしてないから、たぶんかなりテンパっているのではないだろうか。

 やっぱり心配させすぎたかも……。もしや記憶力のことはもう少し煙に巻いた方が良かったのかな……?

 

 そうだ。こんな時はもっと衝撃的なことを言ってしまえば、記憶喪失程度の問題は上書きされるはずだ。

 

「……まあ、でもあれだな。もし記憶喪失にならなくても、きっと俺はお前の生きた証なんて忘れてるだろうけどな」

「人間のクズがこの野郎……」

 

 加減って難しい。

 

「……すまねえでゲス、ちょっと言い過ぎたでゲス」

「頭に来ますよ〜」

「とにかくごめん! 名前忘れたこととか調子乗ったことは二、三回まで謝るから、どうかお前の名を教えてくれ!」

 

 俺は手のひらと手のひら同士を「スリスリスリィィィ!!」と擦り合わせながら頼んだ。乾布摩擦は熱い、という教訓を俺は得た。

 

「教えてくれよ、貴様の魂を!」

「しょうがねえなあ」

「ありがとう……それしか言う言葉が見つからない」

「二十四歳、学生です」

「年齢と肩書きじゃねえよ名前だよ!!」

 

 そしてナチュラルにサバを読むなよ。なんだコイツ。

 

 しかし、どうやらコイツのふざけた一言は冗談だったらしく、コイツはすぐに(まこと)の名を明かしてくれた。

 

「悔い改めて。俺の名は斉根(さいね)、斉根富貴(とみたか)だ。あっ、いや。やっぱ富貴、斉根富貴だ」

「小技でカッコ良く言い直すなよ。……それにしても、なかなか変わった名前だな––––」

 

 そういえば、例のオッサンの記憶にも、苗字がサイなんとかさんとかいう人がいたよな。あれは確か……オッサンの奥さんになった人だっけ? それにしても、お互いにあんなのを選ぶなんて、ずいぶんと物好きな者共もいたもんだ。

 

 もっとも、目の前にいるこいつもサイなんとかさんだからといって、別にどうというわけじゃないけどな。例のサイなんとかさんとコイツの間に、何かしらの関係があるとは思えないし。

 だって仮にサイなんとかさんの苗字を「斉藤」だけに絞ったとしても、この市内には膨大な人数の斉藤さんがいるんだからな。

 

 ついでに、コイツがムーちゃんの弟である、という可能性にいたっては皆無だ。

 

 なぜなら、大学近くの図書館で調べたところによると、オッサンの思い出に登場した銀行では、今までに発生した強盗事件はたった一件。それは、十三年ほど前にオッサンが死を迎えたアレだからだ。

 そして十三年前の斉根は若くとも六歳。だから、斉根がオッサンの子供であると仮定するならば、オッサンが生きていた時点で、斉根は小学校に就学する前のちびっ子でなくてはいけない。

 

 しかしオッサンの記憶が正しければ、当時のオッサンとサイなんとかさんの間に生まれた子供は、ちっちゃい女の子であるムーちゃんしかいない。これにより斉根が性転換でもしない限り、「斉根=オッサンの子供説」は否定される。

 

「えーっと……。何だっけ?」

「名だよ名」

「おっと、そうだったな」

「記憶喪失は不便。はっきり分かんだね」

「せやで」

 

 俺の記憶が蘇ると共に、俺の心にはカッスカスに薄い罪悪感も蘇った。

 

「どんな理由があるにしろ、忘れてしまって申し訳なかった。これからはあまり忘れないように気をつけるよ。えーっと、タカシ……?」

斉根(さいね)富貴(とみたか)だ」

「そうそれ! いやー、惜しかったな」

「微塵も惜しくねえよ! 『()()()か合ってねぇから!」

()()()か……。だいたい合ってんじゃん」

「あのさあ……」

 

 細かいことを気にするやつだな。もしかしてこの男は理系なのか? うん、間違っちゃいないよな。経済学部って、書類上は文系ということになっているけど、結構な頻度で計算とかしなきゃいけないから、実質的には理系みたいなもんだし。

 

 そんなことを考えていたら、タカシ(?)が俺の肩をバシバシ叩いてきた。

 

「ちょっとアンタ! 急に肩叩いてなんなのよっ! あまり馴れ馴れしくしないでよねっ!」

「ふぁっ!? 多重人格!?」

 

 おっとっと。危ねーな。俺の魂に混ざった、別の魂の存在が、タカシにバレそう。誤魔化さなきゃっ!

 

「まあまあ。そんなことより、早くレポート作ろうぜ」

「ところで俺の名は?」

「たぶん斉根富貴だろ?」

「もっと確信を持っちくり〜」

 

 なんだこの抜き打ちテスト。そしてなんだお前の言葉選び。だがうまく誤魔化せたようだ。

 

 よかったよかった。めでたしめでたし。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、そうだ。お前が『斉根富貴』の四文字を脳に刻み込むまで、これから毎日、俺の名を364364回ほど聞かせ––––」

「何はともあれ、改めてよろしくな」

「はい、よろしくぅ!」

 

 ◇

 

「西さん、二次試験も近いし、勉強はこれくらいで切り上げて、今はもう早く寝た方がいいんじゃないかな」

「え? ……じゃあ、あと一問だけ!」

「二問ほど前にも同じこと言ってた……よね?」

「そうだっけ?」

「たぶん……」

 

 俺のポケットに仕舞った野蛮な札は、本日も元気に思い出を吸っているようだ。

 

 ごめんね、西さん。本当のところ、アパートの外では札を持つ必要はあまりないんだけど、今日も持ってきちゃった……。てへっ♡

 でもさ、ついうっかり札を持たないままアパートに足を踏み入れると、実はめちゃくちゃ危ないらしいんだ。だから命が惜ければ、この札を肌身離さず身につけないといけないらしいんだ。アパート目前で札の存在を忘れてしまっても大丈夫なようにね。

 

 それに、この札は思い出を吸う力ならそれなりにあるけど、知識とかを吸う力はほとんどないらしいんだ。

 だから西さんが必死で勉強した内容には、あまり悪影響を及ぼさないらしいよ。

 

 ……って、何の話だっけ?

 

 えっと……。

 

 ……ん? おい、八時じゃん!!

 

 西さんに勉強を教えるのは、夜の七時半までのはずなのに!

 

「ってなワケで、今日の勉強はもう終わりにしましょう。受験生はお風呂に入って大人しく寝なさいよ」

「え? ……でも……」

「テスト前に欲張って勉強しても、当日に実力を発揮できなきゃ意味ないでしょ」

「うーん……」

「それともたった数十分の勉強時間を得るために、三百日以上も積み重ねた努力を捨てるつもりかい? お嬢ちゃん」

「はぁ……分かったよ、今日の勉強は終わりにすればいいんでしょ……!」

「そうだよ」

 

 西さんは少しだけ残念そうな顔をしながら、ノートや過去問などを片付け始めた。

 

 ……さて、それじゃ、俺も帰るかな。

 

 壁の時計を再び確認すると、バイトの終了時刻を三十分以上も過ぎていた。本当ならこれは、時間外手当を請求しないといけない事態だ。

 

 ……だけど、まあ、別にいいか。今思い出したけど、バイトの終了予定時刻になってから俺が選んだ行動は、西さんを急かすか、西さんを待つかのどっちかだった。だから勉強は全然教えてなかった。つまり手当の対象外だ。

 札め……! また俺の記憶を奪いやがったな……! オッサンが成仏した暁には、ブタさんのエサに混ぜてやる……!

 

「それじゃ、西さん、一年間お疲れ様。勉強を教え始めた当時はどうなることかと思ったけど、これまでよく頑張っ––––」

「急にどうしたの?」

「激励だよ、激励」

 

 普段はこんなことやらないけど、最後くらいはこういうことしてもいいじゃん。

 

「そうじゃなくて。試験は明後日なのに、なんで今日?」

「え……。だって俺が家庭教師として教えるのは、今日が最後だったから……?」

「……そうだっけ?」

 

 忘れてんのかい。大切なスケジュール忘れてんのかい。俺も一瞬忘れかけたけどな。

 

「おかしいな。俺は確かに言った気がするんだけど。言ってなかったっけ? ……言ってなかったかも」

「矢車君って、最近忘れっぽいよね」

 

 君もね。そして札のことは本当にごめんなさいね。俺の命ある限り、西さんに謝り続けたいとすら感じるね。

 

「西さん。詳しくは言えないっぽいけど、色々とごめん」

「ん? なんで矢車君が謝るの?」

 

 俺のせいで札の被害を拡散させているからだよ。いや、拡散っていうか、思い出の吸収だけど。いや、拡散か? いや、吸収か? 一体どっちなんだ? 拡散か?

 

 とにかく、こういう出来事が起こると、思い出が消失したら不便だと痛感するね。

 

「では若人(わこうど)よ、次は入学式で逢おうぞ」

「うん……。じゃあね……?」

 

 どこか釈然としていない受験生を残して、俺は部屋を出た。札のことはきっとバレないだろう。たとえ今は彼女の心に微かな違和感が生まれようとも、「小さな違和感」程度の思い出は、札がジャンジャン吸い取ってしまうからだ。少なくとも、俺の場合はそうだと言われている。

 これでは札の効力があまりに強すぎて、少々怖いかもしれない。今の俺にとって札は、オッサンよりもむしろ札に強い恐怖を感じると言っても過言ではない。「0」と「0.001」は違う。

 

 扉を閉めて玄関へ向かう途中、西さんのお母さんが居間で夕食をとっているのを見かけた。

 珍しい。この人は仕事の都合上、この時間帯に帰宅することがほとんどない。だからバイト中に会えるのは、サバンナでヒョウのハンティングシーンに出くわすくらい難易度が高いと思っていた。

 

 会ったついでだ。挨拶でもしておこう。

 

「こんばんは〜」

「こんばんは。えーっと……火ダルマ君?」

 

 燃やすな。

 

矢車(ヤグルマ)ですね」

 

 「ルマ」しか合ってない。それなら「昼間」とかでもいいはずだ。わざわざ火炎を用いてまで、汚物を消毒しないで欲しい誰が汚物だ。

 

 俺の気持ちを分かっているのかいないのか、西母は小首を傾げた。この人はきっと、こういった古い習慣が身体に染み付いているのだろう。

 この子の前世は、付喪神(つくもがみ)か何かに違いないわよ。西さんの前世が底なし沼の(ヌシ)っぽいから、まったく釣り合ってない親子だわよ。

 

「え〜、ホントにぃ〜?」

「なんで俺がわざわざ嘘つくと思ったんですか……」

「じゃあさ、そーゆー君は私の名前分かるの?」

 

 話のすり替えはやめてくれよ。「こんなものに流される俺など、現世に実在しちゃいない」と(自称で)(うた)われた俺だぜ?

 

優樹(ゆうき)さんですよね」

 

 流されるとしたら、それは他人の魂が原因だ。略して札悪だ。

 

「バレたか」

「隠す気だったんですか……」

 

 西母こと優樹さんは、「フフフ」と楽しそうな笑みを浮かべた。笑いの沸点がドライアイス並みに低いな。この人は氷点下でも笑いそうだ。それは人としてどうなのだろうと、俺は疑問に思わざるを得ないね。

 笑い方や沸点といい、変人のベクトルといい、一般的に、この母親は娘とあまり似てないとされている。

 

「それはそうと、この一年近く、娘の勉強を見てくれてどうもありがとう。あの娘に聞いたんだけど、模試の成績もずいぶんと上がったみたいね」

はい? それは彼女––––紫苑(シオン)さん––––が努力を重ねた結果のようです。ぼくはそこまで(だい)それたことをしていないようですがねぇ

 

 実際、俺の身体にオッサンを憑依させるまでは、俺の教え方が結構下手だったらしいし。加えて、一時期は俺の寝不足もヒドかったし。その上、オッサンを憑依させてからは物忘れが悪化しているし。うん、よくわかんないけど、これも札が悪いに違いない。

 

 まあ、俺はまったく悪くない。とまでは言わないけどさ。

 はいはい、俺も悪いんでしょ。わぁーってますよ、俺が(わる)うございましたねぇー。

 

 余談だが、「紫苑」は西さんの下の名前だ。贅沢な名だね。

 

「何にしろ、数式嫌いだったうちの娘が、あれだけ楽しそうにしているのは矢車君のおかげじゃないかな?」

「ん……? 『数式嫌い』……?」

 

 そうなの……? 別に西さんが勉強中に楽しそうな顔をしている訳じゃないけど、少なくとも数式を嫌ってるようには見えないような……?

 

「あら、知らなかった? 去年の紫苑は、『方程式』と名のつくものを想像しただけでも、すぐムカムカするんだけど」

「そうなんですね? 初めて聞きました」

 

 ついでに、大人が「ムカムカ」とか言っているのも初めて聞いた。

 

「えっ……? でも矢車君が最初にうちに来た日に、娘が『計算は嫌だけど、今年からは死ぬ気で頑張ります』って言ってたような……?」

「そ、そそそそういえばそうでしたね!! 最近は寝不足気味のせいか、ついうっかりしてたようです!! そう!! 寝不足のせいで!!」

「ならいいんだけど……」

 

 危ない危ない。記憶の件がバレかねないところだった。

 

「あと、よく考えたら紫苑さんは数学とか物理とかがめちゃくちゃ苦手だったし! それなら数式嫌いになるのも当たり前ですよね!! いやあー、さっきの俺は、なんで気がつかなかったんだろうなあー!! 記憶の混濁って本当に怖いなあー!! じゃなくて、本っ当に具合悪いなー!!」

「矢車君の体調がそんなに大変なら、もう早く帰って寝なきゃいけないんじゃないかな?」

「そうですよね! 大学だって、明日からちょうど鎖国体制に突入するんだから、こういう時に休んどかないと損ですよね!」

 

 よし、俺が思い出を忘れてたことは、このまま寝不足のせいにすれば誤魔化せそうだ。こうしなければ、受験生とその父兄諸君に不安を与えない。だから勉強を教えることだけでなく、札関係の隠し事も俺の任務だと思える。俺にはそんな心もある。

 

「ってなワケで、一刻も早く寝たい俺はそろそろ帰りますね!」

「それじゃ、またね〜」

「はい! 失礼しました!」

 

 言い終えると、俺は足早にその場を去った。

 玄関のドアを閉めた直後、緊張の糸が切れると同時に、俺の口からは自然と息が漏れた。

 

 やっぱり、思い出が奪われるのは怖い。忘れたくないことや、忘れてはいけないものまで思い出せなくなるのは嫌だ。

 だからこそ、あの札が受験生に少しでも悪影響を及ぼさないか、とても心配になる。

 

 アパートの住人達は「大丈夫だぁ」とか言ってるけど、その言葉を本当に信じていいのか、俺にはまだよく分からない。

 

 この間、今みたいな感じで不安に思った俺が、先住民達に札の危険性やらなんやらを聞いて回ったところ、そのうちの一人は言っていた。「心配すんな。全身麻酔とかも仕組みは解明されてないけど、安心して手術受けるだろ? なら札も大丈夫だ。たぶんな」と。メカニズム未解明なのかよ全身麻酔。怖えな。

 

 別の一人も教えてくれた。「大丈夫(でぇじょぶ)大丈夫(でぇじょぶ)! アパートさ住んで(なげ)(もん)は、最初(ハナ)っから札に強き耐性を持つ(もの)しか生き(なが)らえないのだ」と。札の影響メッチャ受け取るやないかい。他人の魂混ざりすぎや……。

 

 色々聞いて回ったら、危険性とかは頭で考えてもなんやよう分からんけども、札が知識を吸い取らんっちゅうんは心で理解できたわ。

 

 ––––札は知識を奪う能力が極端に低い。

 この特性を踏まえ、俺は聞き込みの際に入手した一言一句を頭の中で反復しまくって、これらの情報を知識として思い出せるまで記憶に定着させた。だから今も、当時の会話を思い出せている。

 

 だが不安は残る。札が受験生に与える悪影響が微少だとしても、その影響力がゼロでなければ、万が一ということもありうる。

 

 たとえ札やらオッサンやらのおかげで俺の説明力が上がり、結果的に西さんの勉強がはかどった、という面があったとしても、札のせいで不合格になってしまったらと思うと、俺は心の底から恐怖を感じる。

 

 いくら俺が、日々のバイト先にあの札を持ち込むようなヤベェ人間でも、西さんが積み重ねた努力は出来る限り報われてほしいと思う。だって、札のせいで忘れた思い出も多いとはいえ、彼女が必死で勉強する姿を、俺は十二分に知っているはずだから。

 

 あの努力が報われるか、それとも合格があと一年先延ばしになるか。すべては明後日の試験で決まる。

 どうか来年度は、家庭教師と生徒という関係ではなく、ただの先輩と後輩として、西さんに会いたいものだ。

 

 ◇

 

 試験当日になった。

 今日が大事な一日だと思うと、オッサンの声がアパートに響くよりも早く、俺は目が覚めてしまった。

 

 時計を確認すると朝の五時。今は二月なので、まだ夜は明けてない。ニワトリことオッサンの奏でる迷惑なラップ音は、いつも夜明け前に鳴き始めるから、きっとあと一時間もすればこの部屋は騒がしくなるだろう。

 ならばうるさくなるその前に、課題に着手するほかあるまい。俺は公園時代から苦楽を共にしているデカいリュックを開け、急いで課題に取りかかった。にしてもこのリュック、マジでデカいな。ニホンザルの数匹は入れられそうだ。

 

 おっと、危ない。札のせいで意識をかき乱されたな。集中、集中。

 

 しばらくすると、今度はオッサンのせいで俺の集中力が途切れた。これほど大きな音を立てても許されるのは、お(まわ)りさんを呼ぶ時と愛を叫ぶ時と雨乞いをする時だけだ、と俺はオッサンを糾弾(きゅうだん)したい。もっとも、俺が何かしら叫んでも、ヤツは三歩ほど歩いたら忘れるだろうから言わないけど。

 ……おっと、お巡りさんと雨乞いだけじゃなく、山頂で「ヤッホー」と叫ぶ時と、法廷で異議を唱える時もあったか。オッサンだけでなく、俺も色々と忘れていたようだ。なんてサイテーな札だ。

 

 さて、そんなことより、オッサンの音が収まるまで、散歩に出掛けるのも良いかもしれないな。

 

 そういえば、俺が()くまでここの住人達は誰一人として教えてくれなかったけど、実は俺以外の住人達は、ここでの生活に慣れすぎて、ラップ音程度なら全然気にならないらしい。ヤツの声を、住人のある者はそよ風、ある者はむしろ子守唄、ある者は秋の風物詩に例えているほどだ。スズムシか? スズムシのことか? もしくは肥えた馬の(いなな)きか? あるいは哀しげに鳴く鹿の尻声(しりごえ)か? オッサンという存在は馬と鹿に例えられる、ということだろうか。

 

 そういった事情もあって、俺が今アパートを脱出し、寂しいと死ぬオッサンが他の部屋に侵入しても、住人達には轟音の被害が及ばないらしい。

 ただ、筋肉の強い先輩からはそれでも、「朝食までには帰って来てくれよ。だってあんなのと一緒に食事出来る人間は、あんたを除くとこのアパートにたった四人しかいないんだから」とお願いされてるから、俺が外出可能なのはせいぜい一時間くらいだ。あと四人もいるのかよ。なんだこの魔窟(まくつ)。アマゾン川か?

 

 俺が玄関を開けると、アパート近くの道路にいる真っ黒な誰かが、この魔窟の前をトコトコ歩いているのが見えた。この付近を歩行で横断する時点で、すでに勇者かバッキャローだ。

 

 だけどまさかこのアパートの敷地内に入ることは……来るのか。

 お前さんはこんなところに用事でもあるのかい? なんだ、肝試しか? ホラーな生き物なら豊富に取り揃えていますよ。と、俺が内心呟いたのもつかの間。三十メートルほど先にいるその誰かさんが、二階に立つ俺の存在に気づいた。

 

 そして驚いたことに、俺とバッチリ目が合ったその人は、なんとあの西さんだった。だから真っ黒だったのか。

 

「あれー? 矢車君ー? ()()()()()()で何してるのー?」

「住んでるだけなのに侮辱された!!」

 

 西さんのくせに声がデカイ。もし今が面接中なら、114514点は減点されてるところだ。

 それに、いきなり「こんなところ」とか言わないでほしい。個々の住人が口にするならともかく、住んでない人はそんな発言をしないでほしい。

 

「ごめーん! ついうっかり本音がでちゃったよー!」

 

 さっきと同じくらい遠くから、謝罪の言葉が聞こえた。西さんよ。そこに立ち止まるんじゃないよ。人々が眠ってる早朝なんだから、こっち来て小声でしゃべれよ。歩いて来い。俺も室内から離脱する程度には近づくからさ。

 

 しかし俺の願いとは裏腹に、西さんはチンタラ()を進めている。

 仕方ねぇな、俺が二階から降りるか、跳ぶの怖いけど。さっきの君は珍しく、素直に謝罪したから、そのご褒美を……。

 

「……って、謝ってない!!」

「あ、バレた?」

「大学生をみくびるな!!」

 

 彼女は試験前にも関わらず、とてもリラックスしているようだ。それ自体はとても良い傾向だと思う。だけど歩いて来い。おせーよ西。ペンギンの遠足かよ。もっと(ちこ)う寄れ。あ、でもこの建物、わりと傾いてるから気をつけてね。

 

 西さんが低速で移動している間に、俺は覚悟を決めて、跳躍という名の飛び降りをした。毎回怖いなコレ。

 

「それで、西さんはこんなところに何の用? 探検なら諦めんだな。うん。ここに財宝なんてないし、あっても絶滅してるんだな。うん」

「違うよ。なんていうのか……合格祈願……みたいなものかな?」

「それなら最寄りの神社に行こっか。この近所には、ファンキーな神主がいる、えげつねェ神社があるらしいよ」

 

 実はこのアパートで使われている札は、そこの神主によって製造されたものだ、と住人達は漏らしていた。今現在、ほぼ一日中に渡って、札を身に付けている俺には分かる。あれほどの不可思議な術を操る者が住まうのであれば、そこはきっと名のある神社なのだろう。まあ、俺は行ったことがないから、どこにあるのかすら知らないけどね。そもそも、近所にあるという情報自体が疑わしい説だって、俺の中限定で流れてるからね。

 

「うん? 『近所』って、もしかしてあの全国的に有名な神社?」

 

 俺の無知が露見した。

 

「言っとくけど、そんな暇はないよ?」

「ふーん。そんなことより、この敷地から脱出しよう。ここは良くない土地だ」

「えー?」

 

 西さんはこの期に及んでだだをこねるようだ。

 だけどね、このアパートに近づくと健康に悪いかもよ。ここの敷地に足を踏み入れるだけでも、身体を(むしば)まれそうな気がしないでもなくはないし。

 

 それに、ここには君を合格に導いてくれる神様などいない。

 いるのは数多(あまた)の変人と、お下品な地縛霊のオッサ––––––––。

 

 

 その刹那。

 俺の中に混じった、誰かの魂が、唐突に思考を開始した。

 

 西さんはなぜこのアパートにやって来たのだろう。

 その理由はここに住みたいから、ではない。西さんがもし本当に住みたいなら、今はっきりとそう言えばいい。普段の西さんならそうするだろう。

 

 では、住む気もないのに、こんなボロアパートに訪れる人間とは誰か。

 しかも大学入試当日、という人生における重要な場面の、その直前。その時に、わざわざ時間を()いてまでこのアパートに近づこうとする人間とは誰か。

 

 ––––その人は十中八九、このアパートと何らかの関係があるはずだ。それも、生半可なものではなく、相当の。

 

 

 苗字に由来するあだ名が、「サイ」であった場合、由来となったその苗字は何か。

 

 ––––可能性を甘く見積もっても、「斎藤」である期待値は決して高くない。

 

 なぜなら、あだ名の多くは、その人間が持つ、特徴的な個性から付けられるからだ。

 そして、かなりありふれた苗字である「斎藤」が、ほぼその原型を留めたまま、あだ名として使用される可能性は低いだろう。

 

 では、「サイ」というあだ名の由来になりうる、かつ、それほどありふれていない苗字とは、具体的に何か。

 

 ––––例えば斉木、才場、そして苗字を音読みした場合も含めると、西。

 

 

 加えて、オッサンが亡くなったのは三月。その時点で、ムーちゃんは小学校に上がる直前だった。そしてオッサンの死は、今からだいたい十三年近く前に発生した強盗事件が、致命的な引き金となった。すなわち––––。

 

 ––––仮にムーちゃんが現役で進学していれば、彼女の学年は、現時点で俺と同じ大学一年生。

 

 さらに、西さんは去年の大学受験で合格出来ず、現在は一浪している。つまり––––。

 

 ––––もし西さんが現役で合格していれば、彼女の学年は、現時点で俺と同じ大学一年生。

 

 

 それらの断片的な思考はどれも、西さんとムーちゃんが同一人物である可能性を指し示していた。




 今更ですが、練習用小説のボツ構想載せます。


☆タイトル
 『首を長くして』(仮題)

☆あらすじ
 デュラハンの子孫である半田君は、頭がすぐに外れる高校生。秘密を隠すために体育祭をサボってたら、屋上で首を外しているところを同級生に見られちゃった!
 だけど秘密を知った子はろくろ首の子孫で……?

☆ボツ理由
・日常系は物語の終着点が曖昧であるため、完結させる時期を作者の都合で決めやすい。言い換えると、作者が執筆に飽きてしまえば、多少中途半端でも物語を素早く終わらせることが可能だ。
 しかしせっかく練習するのであれば、個人的にはあまり逃げ道を作りたくなかった。

・物語の中盤あたりで、執筆意欲の湧きそうな展開を思いつかなかった。

・この作品は物語の特性上、好かれやすい登場人物と、嫌われにくい登場人物ばかりを使わなくてはならない。しかしこれは、キャラクターの魅せ方などの点で、私の身につけたい課題とは少々違っていた。

☆一言
 現在の作品を執筆していて思うのは、魅力を伝えやすく読み手に好かれやすいキャラの大切さです。
 事故物件の方では、好かれにくい人物や嫌われやすい人物ばかりを登場させましたが、これは結果的に自分の首を絞めてしまうと最近気が付きました。
 狂気が目立つタイプの奇人を過半数にしてしまうと、思ったよりも魅せ方が窮屈になります。


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九位 その吐く気こと幽霊のごとく

 Q.なぜ〆切を破ってしまうのか?

 A.そこに〆切があるから


 ムーちゃんの正体が西さん……?

 

 そういえばムーちゃんは西さんと同様に、女の子としては珍しく黒が好きだった。そして黒いランドセルを楽しみにするあまり、ランドセルの、ランドセルによる、ランドセルのための歌を作り出……なんだこのランドセル!?

 

 あと、よく見れば今日の西さんも、普段と変わりなく堕天使の翼っぽい黒髪で、普段と変わりなく漆黒の装束を(まと)い、まるで闇に抱かれているかのような威圧感が我に襲いかかる。

 

 このように、小学生にも満たなかった少女と、とっくの昔に小学校を卒業しているアレ……えっと、何やったっけ……合格とか目指すアレ……。何ていう職種だっけ?

 確かに、二人の好みはわりと珍しいにも関わらず、紛れもなく共通している。

 

 ただ残念なことに、証拠やら推理やらの一つ一つにどれほどの信ぴょう性があろうと、『ムー=西説』はあくまで推測の範囲を出ない。

 

 だって、ねえ? 黒を好きな女の子だって、ホエールウォッチング中の観光客を(あさ)ればすぐ会えそうだし。他にも、そういった人は、カブトムシとかの黒いものに群がってる子供の集団にも、複数人は混ざってそうだし。

 

 そんなわけで、ムーちゃん(黒)と西さん(黒)が別人である可能性を、俺はまだ捨てきれない。

 

(とき)に西さん。一個、教えてもらってもいいかい」

 

 だから俺は問う。俺の中に眠る誰かの魂が導き出した仮説が、まごうことなき真実であると証明するために。

 

「う〜ん……。それって二十分以内に終わるの?」

 

 黒酢まみれ……じゃなかった、西さんは腕時計を確認しながら答えた。それと、君は次から体内時計に頼ろうか。これは電池がなくてもバリバリ動くから、とてもおすすめだ。

 

「(気持ちの上では)二十秒で済ませる」

 

 俺の一言で、西さんは黙った。この沈黙を、俺は勝手に了承の合図と受け取った。

 

「西さんって、去年もこのアパートを訪れてたりする? 冬とかにさ」

 

 『名探偵コナン』の犯人、じゃなくて受験生が目を見開いた。ついでにポカンと口も開いた。おいおい、いい歳した西さんが、不意打ちで歯茎を見せるんじゃないよ。俺はてっきり、威嚇されたかと思ったじゃないか。

 

「そっか……。やっぱり、誰かに聞かれてたんだね……」

 

 大黒天、じゃなくて不動明王、でもなくて西さんが軽くため息を吐いた。

 どうやら俺の予想は当たったようだ。

 

 西さんは、「……ま、いっか」などいう独り言をつぶやいた。引くわー。予告もなく独り言開始とかマジ引くわー。

 

「そうだよね。別に減るもんじゃないし……」

「と、言いますと?」

「いやぁ……。この近所って変な人が多いから、ちょっとした変質者なら目立たないでしょ?」

 

 西さんは、人差し指で頬をぽりぽりと掻いた。かゆいなら皮膚科通えよ。そして処方された軟膏でも塗布(トフ)してろよ。

 

「だから、ちょっとくらい叫んだとしても、私にとっては大した黒歴史にはならないと思うんだ。やっぱり、木を隠すなら森だからね」

 

 歩く黒歴史が何を言ってんだか。

 

「と、言いますと……?」

「去年、合格発表の後にここ来て、大声で意味不明な宣言した人っていたよね? 私だよ。それ」

「と、言いますと……?」

「だから……。この時期にこんなとこ来る物好きなんて、私の他にいないじゃん!」

「と、言いますと……?」

「おい」

「と、言いますと……?」

 

 俺の中に眠る魂よ、推理ご苦労。今後は目覚めないでくれ。「と、言いますと……?」。

 

 マジで永眠してくれ。あと、俺の心の声にまで返事しないでくれ。モノローグは心のツイッター、とは言うけれど、いいね!ボタンなんて押さなくていいから。

 

 ……ん? ツイッター……? そういえばツイッターって、一体全体どういうものだろ。

 ツイッター……?

 見当もつかないな。イタリア料理か何かか? フィットチーネみたいな?

 うーん。名前なら聞いたことがあるけど、ツイッターか……。

 

 どうしよう。調べようにも、そもそも俺ってケータイ持ってないからなあ……。やっぱり、ケータイ関係の用語は全然分かんないなあ……。

 

「と、言いますと……?」

「はぁ……。あのね、矢車君。あの頃の私はまだメガネ掛けてなかったし、顔の印象が今とは違うけど、あの美少女は私だから」

「とヒーモフホ!!」

 

 俺は握力を総動員して、俺の気まぐれな口をねじ伏せた。ついでに身体中の筋肉を総動員して、死に物狂いで笑いをこらえた。これじゃ明日は筋肉痛だ。

 おいおい、こんな不意打ちを試みないでくれたまえよ。たとえメガネ装着前の彼女の顔を、俺がほとんど覚えてないとしても、こんな不意打ちを試みないでくれたまえよ(二回目)。

 

 さーて、困った。腕周りの筋肉がイカれちまいそうだ。

 

「あれ、どうしたの? いきなり全身をねじりあげて。雑巾のモノマネ?」

 

 勉強の積み重ねすぎで視力が自滅したのか、西さんはどうやら俺の笑顔が狂い咲いていることを見破っていないようだ。「好都合」って言葉は、きっとこんな日のためにあるのだろう。

 

 よし。バレないなら、しばらく笑っててもいいかもしれないな。

 むしろ、どこまでバレないか試してみようとさえ思うね。それに、こういう挑戦は、後学のためにもやってみる価値がありそうだ。

 

「で、念のために確認するけど、体調でも悪いの?」

(ぬん)でむぬいよ、西(ニヒ)はん」

 

 と、視力が落ちても試験には落ちたくない西さんが、可哀想な人を見上げるように嘆息(たんそく)した誰が短足(たんそく)だ。

 

「『美少女』って言っただけなのに笑いすぎでしょ」

 

 俺はとっさに土下座した。

 

「わっ! もう、いきなり視界から消えないでよ!」

 

 さ、俺はもう一生分は笑ったことだし、そろそろ笑いを滅ぼすかな。心の中では「あひゃひゃひゃひゃ」と声を上げられても、西さんの前でふたたび失態を演じようものなら、二度と笑えない身体にされそうだし。

 

「ヒッヒッフー。ヒッヒッフー」

 

 よし、実は呼吸関係の手段にはあんまり期待してなかったけど、俺の体調が微妙に回復しそうな気配がなくもない。さすがラマーズ法。まさに妊婦さんの味方誰が女の敵だ。

 

「え……? 矢車君、おめでた……?」

男が(ヒヒッフ)!?」

 

 しゃべりながら回復にも専念可能。それが呼吸系の術の良いところだ。

 

「意外だね。まさか矢車君が、お医者さんに診てもらう側だったなんて。私はてっきり、お医者さんを脅す側かと思っ––––」

違うから(ヒヒフヒフ)! 脅したらお巡りさんに捕まっちゃうから(ヒヒフヒーッ)!」

 

 ……なぜだ。まともなラマーズ法が続かないぞ。かくなる上は素数を数えて落ち着––––。

 

「——ゴホッゲホッ」

「大丈夫?」

 

 だ、だめだ……数える余裕もない……。笑いの沸点が……俺の沸点が……なぜだ……ブッ壊れてやがる……!

 

「ねえ、酔い止めあげよっか?」

止まらないから(ゴホゴホッ)!」

 

 考えろ……! 何でもいい……! ほんの少し……ほんの少し俺の意識を逸らすだけでいい……! 『と言いますと?』とかいう、俺の妄言によって暴発した意識を、ほんの数グラムでも(まぎ)らわせられる……何か他のことを……!

 

「それとも、のど飴の方が好きだった?」

「し、試験って……フフ。いつ始まるんですかね?」

「ん〜? まだ一時間以上あるよ? だけどあと十五分くらいで試験会場が開くから、そろそろ行った方がいいかも……」

「そいつぁ急がにゃならねぇな……」

 

 こうして矢車国の平和は保たれた。西部戦線異状なしだ。よかったよかった。

 

 

 ……ん? 素数ってさ、心の中で数えればよかったんじゃね? 2,3,5,7......ってさ。

 別にさ、口に出す必要とか、なかったよね……。

 

「じゃあ、そろそろ面接関係の確認とかしたいから、私行くね?」

「あっ! ちょ待っ……!」

「何?」

 

 素数ついでに一つ、思い出したことがある。

 

「や、何でもないでゲス……」

 

 しかし俺は、この受験生に伝えるべきか迷った。

 

 上手く言葉に出来ないけど、俺にはいくつか、西さんに知って欲しいことがある。

 

 オッサンがこのアパートに、現在進行形で存在していることを。

 彼女がこの地で残した一言一句は、そのどれもが父親に届いていたことを。

 

 だけど、それらを伝えたところで何になる?

 もし、君のお父さんは地縛霊ですだからいつでも会えます良かったね、なんて打ち明けられたら、西さんは気にするだろう。俺が語った情報の真偽や、地縛霊として存在する父親のことを。

 

 そうなってしまえば、西さんを納得させるために、俺は洗いざらいぶちまけざるを得なくなる。

 

 札の能力を。

 生前とは大きく異なる、オッサンの混沌具合を。

 彼女の父親が持つ、地縛霊としての危険性を。

 

 そして今、それらを知った彼女が動揺すれば、結果として試験に悪影響が出るかもしれない。

 そうなれば、目標に向かって努力を積み重ねた彼女が、何事もなければ掴めるであろう合格を、逃してしまうかもしれない。

 

 だから、仮にこの件を伝えるとしても、その機会は後日に回せばいいじゃないか。

 

「何?」

 

 西さんが質問を繰り返した。

 

「と、ととと、とにかく今は何でもないから!」

 

 俺は再びお茶を濁した。

 

「本当は?」

「君は父さんに会いたいか」

 

 言っちまったじゃねぇかァァァァァンヌ国際映画祭!!

 

「会いたいか、って? そりゃあ、出来れば、ね……」

「誘導尋問とかサイテーだな! 引っかかる俺も含めてサイテーだな誰が人間のクズだ!」

「…………」

「すんませんした。調子こいてすんませんした」

 

 「時間ないっつってんだろ、ざけんじゃないわよ」という殺気を感じた気がしなくもない。

 だから、俺は二度とダークマターの正体、じゃなくて西さんに逆らおうなんて思わないですそんなわけで許してくれよ。

 

 ……うん。言っちゃったモンは仕方ないね。世に放たれた過去を消し去ることなんて、神様でも出来ない。

 そう、例えるなら、ニャンコがフンを埋めても、残り香が獰猛(ドウモウ)であるようなものだ。ん? 違うか。

 

「……うん、ニャンコは別にいいや。で、何の話だっけ?」

「お父さんにはもう二度と会えないし、墓参りと同じで気休めみたいなものだけど、それでもいいからここを訪ねてみよう、と思ったから来たんだよ」

 

 『と、言いますと……?』と、口をはさむ隙を与えたくないからだろうか。今度はずいぶんと丁寧な説明じゃないか。

 うん。西さんの気持ちは大体分かった。

 しかしだな、俺には俺で、まだオッサンの件を教えたくない理由があるのだよ。それはだな––––。

 

「会ってもロクなことがないよ」

「そう言うからには会えるの?」

 

 カンの鋭いガキめ……!

 

「カンの鋭いガキめ……!」

「誰がガキだ」

「ひっ! 助けて!」

 

 まるで悪役レスラーと同じ檻に入れられたような気分だ。このままレフェリーを放っておけば、デスマッチ開始のゴングが鳴ってしまうじゃないか。

 

 だが大丈夫。俺は二階、西さんはまだドブ(クセ)え砂利の上。その距離は1メートル以上離れている。まだ大丈夫だ。

 

 しかし、いくら自分の心に言い聞かせても、俺の両腕は服の上を勝手に()い回り、のど笛と腹をガードする位置に「イャォッ!」と到着した。この姿勢がどちらかといえば不審者っぽく見えたとしても、天からいただいた命には代えられない。

 

 そんな俺の背中を流れる、土砂降り後の朝露のような冷や汗を知ってか知らずか、西さんが寂しそうに下を向いた。

 

「……ま、会えるわけない……よね」

「そうだよ」

 

 俺の無情な一言を耳にした西さんは、寂しそうに下を向いている。

 

「あーあ。今日の筆記試験、もしもお父さんに会えたら、死なない程度に頑張れる気がするんだけどな〜」

 

 西さんはチラチラこっちを見ている。

 俺は、んだよ、おねだりかよメンドクセーな、とは言わないでおく。

 

「一目でいいんだけどな〜?」

 

 バレてない? ねえ、バレてない? 地縛霊のこととかさ。札のこととかさ。レフェリーいないこととかさ。この子は完全に見抜いてるから、こんな奇行に走ってんじゃないの? ゼッタイに見抜いてるよね? その上でねだってるよね? じゃなきゃ痛い子だよ西さん。俺と同じかそれ以上に痛い子だよ西さん誰が激痛だ。

 

「……アレの性格は変わり果てている……オヌシはそれでも良いのか?」

「上等だよ」

 

 西さんはボクサーのようにファイティングポーズをとった。アイタタタ、痛い子だ……脇が開きすぎですよ。それにもっと腰を落とさないと……

 

「アヤツに会えば後悔するぞ」

「だとしても、本当にお父さんを連れて来れるなら、お願いします!」

 

 西さんは祈るように合掌した。なぜだろう、下手なファイティングポーズより、こっちの方が強そうだ。仮に俺が西女史の要望を断れば、即座に俺の生きる希望が包み潰されるかのような……?

 

「されど地縛霊の動かざること猫糞(ネコババ)(ごと)く––––」

「結論を急いでよ」

「しばしお待ち下さい」

 

 俺は部屋に引き返す。天井付近を見上げると、無事ユーレイ発見。捕捉完了。

 

「ご主人様がお呼びだ誰が召使いだ」

『ククク……。二分(ごふん)だ。オレの手で焼きそばパンを買って来るまで、な』

 

 ヤツは話を聞いていない。だが俺も、こういった常識的な作法でコレを崩せるなどという能天気な思考回路など、ハナから持ち合わせていない。相手に常識が通じない、じゃあどうするか? 初撃を(かわ)されても二撃目で仕留める、これすなわちヒットマンの基本だ。

 

「外にはムーちゃんがいる」

『誰よそのオンナ!』

 

 忘れんじゃないよアンタの子を!

 そんなオッサンが、ゆらゆらと降りてきた。

 

 落ち着け俺。

 きっとコイツの記憶は、我々の想像を絶するほど混濁(こんだく)しているのだろう。だがそれでも何かしらの反応を返してしまうあたり、やはりオッサンの根底には、生前の大切な思い出が染み付いているのだと思いたい。つーか、染み付いていてくれ!

 

「分かるか? お前の娘だ」

『誰よそのオトコ!』

「女の子だ」

 

 「娘なのに!?」とか、「どんな三角関係を経たらそのセリフにたどり着くんだ?」といったツッコミを、俺はあえて加えない。ツッコんだところで、オッサンの小ボケに追い付かないからだ。(ゆえ)に今回、俺は焼け石に(極力)水を掛けないと決めた。

 

「いいから来い」

『ポッ……♡』(//∇//)

 

 「『恋』じゃねーから、『来い』だから!」、というツッコミをこらえながら、俺はポッケから(とき)に毒々しく、時に禍々(まがまが)しい薄汚ぇ和紙を取り出した。

 

「この(フダ)を使えば、霊体のお前でもムーちゃんと話せる。娘に会いたいだろう?」

『ウン……ボバ……?』(( _ _ ))..zzZZZ

「寝るな」

 

 人語思い出せ。

 

 ……ダメだ、会話どころじゃない。誰か助けてくれ、早くも俺の心が折れそうだ。「お助けをー!」って叫べば、誰か来るかな。住人とかさ。

 

 …………うん、いないけどね。駆けつけてくれそうな住人なんて。しかも早朝ならばなおさらだ。仮に俺が「お助けをー」と叫んでも、「うるせー」とか「燃やせー(脂肪を)」などと怒られるんじゃねーの?

 その他にも、季節や地域によっては、「肥やせー(土を)」と怒鳴られるかもしれない。大河の氾濫かよ。

 

 気を取り直して。

 

 ……おっかしいなあ。

 言動が支離滅裂であることにかけては右に出る者がいないオッサンでも、ムーちゃん関連の話題なら真剣に取り合ってくれると思ったんだけどなあ……。

 

 そんな地縛霊こと変なオッサンは、まるで酔っ払っいが歩くようにフラフラと、部屋の中を漂っている。

 

『はぁ……。やっぱ世界一美味いアルコールは消毒用やな』

 

 経口摂取すな。度数至上主義か。何だ「度数至上主義」って。

 

 ……さて、ツッコミを収めて、ふたたび気を取り直して、っと。

 

 自由すぎるコイツに俺の意図を伝えるには、もうあの手を使うしか方法はないだろう。そしてもしあの手を使うならば、オッサンが油断している今がチャンスだ。だけど本当にあの手を? それでいいのか俺よ。結構ヒドい目に合うらしいぞ、特に大家さんが。

 

『そうだ、秘書のせいにしよう』

 

 いや、それでも俺はあの手を決行しよう。今は試験前、事態は一刻を争う。悠長(ゆうちょう)な他の作戦に頼ってる場合でも、悠長に他の作戦を練ってる場合でもない。そして、大家さんを気づかってる場合でもない。

 

 俺は覚悟を決め、オッサンに一歩近づいた。俺の殺気をオッサンに勘付かれないよう、静かに、ゆっくりと。だが確実に。こんな時、音を殺して歩くのがクセになってて地味に助かった。

 

『今まで黙っていたが、お前の妹は、実はお前の爺さんなんだ』

 

 俺はもう一歩だけ進む。これでヤツを射程圏内に収めたはずだ。

 とはいえ、欲を言えば、もう一歩分は近づいておきたい。だからここからは、ナメクジ並の足運びで進む。

 

『かけ算九九はビートルズで覚える。これが高校生物の必勝法だ。君も先日、納得してくれただろ?』

 

 ところで、アパートからオッサンを引きずり出すにあたっては、四つほど問題点がある。

 

 一つ目の問題点は、オッサンと対峙するこの俺が、生身の人間であることだ。

 

 そのせいで、俺が闇雲に突撃しても、オッサンに幽霊ならではの機動力を発揮され、スタコラサッサと逃してしまう可能性がでかい。

 だから、普通の融合作戦を成功させられるとすれば、それはオッサンが隙を見せるまでじっくりと待てる、ヒマな時が狙い目だ

 

 一方で、今は時間的な余裕がスッカラカンであり、こういった長期戦向きの策は、勝算がめっぽう薄い。

 

 いや、嘘言いました俺。本音を言うと、勝算なんて薄いどころか皆無だ。

 それでも俺は、一か八かに賭けて、オッサンを追わなきゃいけないんだ。

 

 このように、時間に追われてるから、野生の地縛霊を追うしかない状況。それが第一の問題点だ。

 

 とはいえ、完全な無策だとキツいんで、俺は俺で考えた。その名も、「オッサンに近づく時は何事もないフリしつつ、奇襲で霊体に札をねじ込みそのまま憑依完了作戦」だ。

 

 やり方はいたってシンプル。

 まずは俺がオッサンに近づく。次に、オッサンの中に札をブチ込む。こうして、オッサンの中にある、「目の前の男に襲われかけている」とか「今さっきヘンタイに襲われた」といった思い出を、根こそぎ札に吸わせる誰がヘンタイだ。

 

 これにより、恐怖の記憶を奪われた憐れなオッサンは、俺の接近に対して、危機感のカケラも感じなくなるだろう。最後に、俺が完璧な余裕を保ちながら、オッサンの霊体と俺の肉体を重ねる。

 これで、上手くいけば憑依完了だ。

 誰だ今「キモい」とか口走ったヤツ! 俺も心底そう思うよ。

 

 それと、別に大したことじゃないけど、俺のお身体にオッサンズソウルが混入すれば、俺の魂もガッツリしっかり汚染完了だ。そして、憑依が長引けば長引くほど、この汚染は進行し、いつしか俺の魂がオッサンと一つになると思う。

 すなわち、作戦が成功すれば、俺は瞬時に狂人と化す。

 

 強いて言えば、これが二つ目の問題点だ。

 

 ……さあ、残りの二つはどうしましょ。

 最初に問題点を一つしか考えてなかったからかな。即興で複数の問題点を用意するって、さすがにキツかったね。

 

 計画性って大切だ。俺は今、死したオッサンを通して、生きた知識を学んだ。

 

『本日の朝食のメニューは、お昼ご飯にしようと思います』

 

 と、いうわけで、そろそろオッサンを捉えるかな。

 

『よくもオレの仲間を傷つけやがったな! オマエを許す!!』

 

 倒せ。もういっそお前ごと倒せ。五歳くらいの子が公園で戦いがちな、空想上の怪人と相討ちしてろ。

 俺は握りしめた札を、右ストレート気味に、()き身の霊体へとねじ込む。

 

『風は止まらない。たとえ貴様の息の根が止まレレレレレッ!?』

「誰が鼻息で風止める人だ」

 

 オッサンから猛烈に吸われていく思い出が、札を握る俺の腕にも流れ込む。吸われた多くの思い出のうち、漏れた量は多少。漏れた量のうち、俺の中に流れ込んだ思い出は、さらに微量。それでも俺には、空中に浮かぶオッサンの姿が、急に色濃く見えた。世の中には神秘的なこともあるものだ。

 

『ねすっいいすぱんゃきどってんーほ』

「聞こえるか? オッサン!」

 

 オッサンの発する音は、もはや言語ではない。しかも、俺がすぐ隣で声を発したにも関わらず、霊体であるオッサンには、いっさいの警戒が見られない。これらの怪奇現象が起こるのは、直前に起こった出来事すらも、オッサンが思い出す間も無く、札が記憶を吸い尽くしているからだろう。

 

 これで第一段階クリア。さあ、本当に大変なのはここからだ。

 

『ギナヤハイラウョシノスンシヤヒ』

「よいしょ!」

 

 自分でも分かるほどマヌケな掛け声と共に、俺は床から数センチだけ跳ぶ。と同時に、霊体内部から札を引き抜き、ちょっとだけ浮かぶオッサンへと、俺の全身を重ねた。キモい。キモいよパトラッシュ……。いや、パトラッシュはキモくないけどね。

 

『ふぁっ!?』

「ヴォエッ……!」

 

 あ、やべ。意外と吐きそ。

 そういや吐き気ってあったよね。憑依時にさ。

 

「ヒッヒッ2……3フー……ヒッヒッ5……!」

 

 俺が必死で呼吸や気分を落ち着けようとしても、吐き気はまだまだオサラバしない。

 だけど……オッサンには、俺の想いが……伝わっただろう。なぜなら、オッサンからも俺の中に、色々と流れ込んで来やがるから。はいはいモイキーモイキー。

 

『なん……だと……?』

 

 よし、オッサンに届いたようだ。思い知ったか、驚き方がアレなオッサンよ。これが人間さんの……。

 ん? 足元がスースーするぞ。スカートなんて履いてないのになぜ?

 

 と、何気なく見下ろしたら、眼下に広がるは駐車場の砂利。いつ眺めても、いい景色だなあ。

 

「って、飛んでんじゃん! 俺!」

 

 着地とかどうすゃいいの!? 保健体育で習ってないよ!!

 

「痛っ!!」

 

 俺は大地にズドンした。着地って難しいね。これからは心を入れ替えて、ネコ様を(あが)めようと思う。偽名とかも「ネコⅡ世」に改名しよっかな。

 

 そんな俺が何気なく振り返ると、アパートが二十メートルほど遠くに立っていた。生きたニンゲンの分際で、俺はそんなに飛んだらしい。

 何はともあれ、俺、降臨だ。観衆よ、思う存分に刮目(シケモク)*1するがいい。

 

「イッッッタ!! 骨折れてるぞ俺!! 審判見てるか!? どこにいるんだ審判!! 出て来いや審判!!」

「大丈夫? グラウンドですらないのにサッカー始めたりして」

 

 倒れている俺の顔を、彼方から駆け寄って来た西さんっぽいメガネ(黒)が覗き込む。なんだ、審判なんて最初からいないのか……。

 

「チッ、PKは明日のお楽しみってか」

 

 指をパチンと鳴らしながら、俺は何事もなく立ち上がった。指鳴らしたら突き指したかも。

 着地時に大腿(だいたい)骨とアバラと尺骨(しゃっこつ)が数本持ってかれたけど、他には骨盤がやられてる程度だから、憑依による吐き気を除けばこれといって問題はなさそうだ。

 

「ちょっ、大丈夫!?」

 

 黒魔術師、じゃなかった西さんが、なぜかとても狼狽(うろた)えていた。我輩の居住領域が粉砕されているからだろうか。

 

「ふぅ……。またつまらぬドアを吹き飛ばしてしまった」

「ドアの心配より人体(ジンタイ)の心配してよ!」

「断裂した覚えはないね」

靭帯(ジンタイ)じゃないから!」

 

 なんかね。うまく言えないけどね。「西さんとは会話が噛み合ってない説」が成り立ちそうだね。分かんないけどね。

 

 あ、俺の手の中に札発見。ポッケに突っ込んでおこう。いや、どうせこいつを突っ込むなら、うるさい西の口がいいかも。

 

「自分が死の淵に立ってるの分かってるの!?」

「ひっ! 助けて! と、()られる!!」

 

 に、ににに、逃げなきゃ!! どこへ!? 天空!?

 

「お(ねげ)えしますだ! 右頬だけは引っ(ぱた)かないないでくだせえ! 左頬は好きなだけ差し出しますから!」

「変な誤解しないでよ! 私がケガ人を叩く訳ないでしょ! そもそも矢車君を叩いたことなんてないし!」

 

 あらやだ。実はアナタは、武力による威嚇しか行ってなかったのね。

 重罪じゃねーか。右頬えこひいきを上回る重罪じゃねーか。

 

「そ、そそそそうだ! 殺られる! (西から)東へ逃げないと……!」

「わっ! まだ走っちゃいけないったら!」

 

 俺の背中がガシリと掴まれた。さてはお嬢ちゃん、鬼ごっこかい? 負けるかよ……! と、俺は駆け出そうとしたけど、気がつけば俺の全身は、なぜか大地に突っ伏していた。それどころか、組み伏せられていた。

 何で……?

 

 これじゃ、身体の自由が利かないし、何より青空を見上げられない。

 何で……?

 

「ほら、私は119番するから! 矢車君はじっとしてて!」

「まあまあ、そうカッカしないで。ある意味では骨がイカれてるかもしれないけど、これくらいはヘッチャラだなあ」

「上半身が著しく右に傾いてたのに!?」

「へー、ピサの斜塔みたいだね。そんなことより連れて来たよ。えっと……タカシを?」

「『そんなこと』で済ませないで!!」

 

 なぜかプリプリと怒りながら、目の前の人がスマホをイジり出した。会話中にポチポチとは……。まったく、最近の若者(わかもん)はエチケットがなっとらん。ついこの間なんて、電車内なのにアベックがナイフを(うま)そうに舐め––––。

 

「もしもし救急車お願いします! 知り合いがアパートの二階からまともに落ちて!! 上半身が紫イモみたいに変色して死んでるかもです!!」

 

 さりげなく殺すな。

 

「俺は生きている、って何度言えばいいんですかねぇ……。ま、俺は今、生まれて初めて言ったけどね」

「住所ですか!? 少々お待ちください!!」

 

 西なんたらさんがこちらに目を向けた。

 

「矢車君教えて!! ここどこ!?」

「概念でいえば阿鼻(アビ)地獄かな」

「番地でお願い」

「イタタ髪掴まないで!! 俺持ち上げないで!! 正直に生きるから!!」

 

 西のヤロウがパッと手を離す。俺は尻餅をついた。

 叩きはしない。されど引き上げる。よく分かったよ、それがお前のやり方だってなあああ!!

 

 戦慄ついでに憤怒した俺が、正しい住所を答えると、似死惨(にしさん)は電話の相手にそれを伝えた。

 

 それよりなにより、独裁者の魔手から俺の髪様が解放されたにも関わらず、俺の頭皮は依然として痛い。あのカミツカミは今朝目覚めてから一番痛かったかもしれない。

 

 つーかさ、髪をガシッとやっちまうなんざ、中途半端に叩くよりタチが悪いよなぁ?

 あー吐きそ。メンタルの面でも吐きそ。ムシャムシャするなぁ!!

 

「……はい! お願いします!! ではまた!!」

 

 アマゾネスが右手で通話を切る。ここで俺が注目すべきは、彼奴(きゃつ)の左手。かつて迫った魔の手は悪辣(あくらつ)。広げて無残にもバサバサ落ちる、俺の毛髪(もうはつ)。まるで見せつけるかのよう、まさに挑発。

 

 ……さて、お気付きいただけただろうか? 「バサバサ」という擬態語が、カラスの飛翔っぽいことに。

 なんと風流なのでしょう。

 

 風流に身を任せ、ここで一句。

 

  朝露に ()れる背中は 滝みたい

 

 カラス関係ねーじゃん。

 

「ねえ、矢車君は自分の名前……は分かるよね。私の名前は分かる?」

豪傑(ゴウケツ)……に見せかけて……『チャンムー?』」

「違うけどそれでい––––どこで知ったのそれ!?」

「『おはようんこ!』」

 

 俺の体内でいきなり存在を主張し出したオッサンによって、俺の口が勝手に動いた。が、会話は成り立ってない。「そのあだ名をどこで知りましたか?」に対する回答が、「おはようんこ」。意味が分からない。

 こんな時、普段の俺なら、西さんのご機嫌をうかがうために、「別れる際は“グッバイ小便”かよ!」と、ツッコむことだろう。

 

 だけど今は違う。俺の身体にオッサンの魂を宿(やど)らせたおかげで、俺はオッサンの思考を、同時通訳よりも圧倒的に素早く、理解可能になった。

 

 すなわち––––。

 

 今の俺は、オッサンの思考を、同時通訳よりも圧倒的に素早く、理解可能になったということだ。

 

 だから俺は、この会話の意図までも完全に理解出来てしまう。たとえ、「ハロー人糞(ジンプン)」などという訳の分からない一言が、赤の他人には言葉のPKに感じたとしても、西親娘の間では言葉のキャッチボールとして完璧に成り立っていることを、俺は心の底から納得せざるを得ない。

 

 そんな中、驚愕か何かで第一と第二の()を見開いた西さんは、震える口を動かした。

 

「何……言ってんの……?」

 

 PKでした––––。

 

 ……と、しばし俺もそう思っていた。ところがムーちゃんは、ドン引きするどころか伏した(まなこ)を濡らしている。

 ふむ。あの微量の液体は、塩化ナトリウム水溶液、か。人とは不思議なものだ。

 

「違……違うよパパ……。おはよUnknown(アンノウン)、だよ……!」

 

 その瞬間、俺の脳裏にも蘇る。(オッサン)が息絶えた数時間の、幸せなやりとりが。

 

 ––––パパ、おはようんこ!

 ––––違うよムーちゃん。おはよUnknownだよ!

 

 ひでぇ思い出だ。もう台無しだ。なんだか文字の色までも、排泄物っぽい雰囲気で最悪だ。

 

「『そうだったね』」

 

 ま〜た俺の口がオッサンの言葉を紡いでるよ……。もうさあ、ここは口をオッサンに任せちゃってさあ、親娘水入らずでパサパサとかのアレにすればいいんじゃない? 西スリー、略して西さんもちょっと嬉しそうな感じだしさあ。

 

 ってことで、せいぜいシャバの空気を楽しめよオッサン。ハメ外すなよ! 分かったかコノヤロー! 分かったら髪全部刈れ! お前は中途半端に残ってるからダサいんだ。この際だから、失恋したヒロインみたいに(いさぎよ)く刈り尽くせ! 場合によっては一本残らず抜け! 燃やしてもいいぞ! これが本当の『悪霊の炎』ってヤツだ。パサパサだとよく燃えそうだな。

 

「あっ、で、でも! この合言葉をパパが他の誰かに教えたりとかしてるかもだし……」

 

 疑うのかよ西。

 

「第一、パパはもうとっくに死んでるし……。だから、何かの間違い、だよね?」

 

 だから疑うなよ西。もっとテンポ良くパッパッと話を進めろよ。そして手早く終わらせろよ。会話劇系のギャグコメディって、推敲が面倒くさいんだからさ。

 

「『雨が降りました。おじさんは傘を差しません。傘が濡れるのが嫌だからです』」

「いきなり『おじさんと傘』のワケ分かんないとこを引用するなんて! 本物だ……! 本物のパパだ……!」

 

 そうだよ。君らのような若者は、そうやって勢いで誤魔化せば良いんだよ。

 

「『あなたが落としたのは、高めた集中力ですか、それとも二次試験の点数ですか』」

「わざわざ不吉な予言を残すなんて……! やっぱり本物だ……!」

 

 アナタねえ、確信のポイントおかしくない? なんで父親の真偽を、生死じゃなく、変人の度合いで決めつけるの?

 

 ……と、俺の心に盛大な疑問を産み落とした西さんは、クライマックスっぽくハンカチを目元に当てている。ついでに嗚咽とかも漏れている。

 しかし、あまりに疑問が強すぎるからか、俺には彼女の感情が入ってこない。一切入ってこない。

 

「本物だよ……! もう会えないかと思ってたのに……! 本物だよ……!」

 

 そう、オッサンはいつだって本物のヘンタイだ。いわゆる不健全な魂だ。

 

 また、不健全な魂と不健全な身体は、常にワンセットだ……①

 ①より、オッサンの魂が憑いている、俺の身体も不健全である……②

 

 ①、②より、不健全な俺の身体に宿(やど)る、俺自身の魂も不健全である。

[Q.E.D.]

 

 つまり俺はヘンタイということに……?

 

「『最近どう?』」

 

 何おっしゃりやがってんだオッサン。この子の近況は俺の心が教えてやる。さあ、俺の魂にでも問いたまえ。

 自問自答の時間だ。

 

「『ぼちぼちでんなあ』」

 

 何返してんだオッサン。自問自答やめろよ。そうやって自分自身だけで完結を図るのが、貴様の()しき習慣だ。

 

「最近かあ……」

 

 しかし、西さんはオッサンのヤバさに慣れているのか、それとも彼女が元々おかしいのか、オッサンの奇行をそれほど意に介していない。さすが親娘だ。

 ひっ! 髪掴まないで! 俺は何も思ってないから!

 

「あれから、色々あったからなあ……」

 

 西さんはやや天を仰いだ。

 

「本当に、色々……」

 

 西さんが小さく(↓「はな」って読むんだぜ。知ってたか?)をすする。彼女はなぜか、微笑んでいた。その顔には、怒りらしい感情なんて、何一つとして浮かんではいなかった。

 

 ……良かった。どうやら俺の心境は、上手いこと隠せているようだ。めちゃくちゃ良かった。もし俺の心(あんなもん)がバレたら、俺はいつもみたいに、西さんに根こそぎ()かれるっぽいもんな。

 

「私は、最近はね、思いっきり頑張ってるよ……!」

「『すべて、計画通り……!!』」

 

 どうやら中年になると、運命をつかさどる力までも得るらしい。

 

「パパは?」

 

 どうでもいいけど、西さんって父親のことを『パパ』って呼ぶんだね。意外だなあ……。

 まさかオッサンのことを、ママだと誤解してなかったなんて。

 

「『住み込みで、騒ぎ立てる行いを少々』」

「思いっきり地縛霊じゃん……」

 

 本日をもって引退しろよ。西さんも心の奥底で俺と同じ感想を抱いたのか、オッサンの一言にちょっと引いていた。気が合うね、俺達!

 

「……あのね、やめた方がいいよ、そういうの。パパに会うたび驚かされる人も可哀想––––」

 

 ……と、そんな西さんが、ハッと軽く息を飲んだ。何かに気付いたようだ。勘の鋭いガキだなすみません何も思ってません! なにせ俺の心は植物みたいなもんですから!

 

「じゃあ何で……何で今まで、私に会ってくれなかったの? 姿を見せようと思えば出来たよね?」

 

 その話題はね、なんか知らないけどね、オッサンがなんか気にしてんだよね。オッサンの生前に起きた、強盗の日の件で、ちゃんムーを怒らせちゃって申し訳ないとか、勝手に死んで会わせる顔がないとかなんとか、そんな感じでね。気にしてたはずだ。

 

 何だろうね、変人の思考回路ってよく分かんないよね。

 

 そもそもさ、オッサンがこういう風に考えるのってさ、ひょっとするとさ、変人の魂がさ、オッサンに混ざったせいなのかな。変なアレに変なアレが混ざりに混ざったせいで、謝罪の意だかアレだかが生まれたのかな。魔法薬学かよ。

 

 だけどさ。何にせよこうして西さんが会おうとしてくださるんだからさ。オッサンはそのチンケな罪悪感? とかそんなの捨てちまえよ。

 ……と、俺は思うんだけどね。

 

「ねえ、それなのに、パパはどうして隠れてたの?」

 

 なぜだろう。西さんの話がまったく頭に入らない。

 

「『なんスか?』」

「こういう時だけはふざけないでほしいんだけど」

「『なんやったっけなぁ……。サプライズとか?』」

「ま、いっか」

 

 いくないよ。家庭教師だろうとお父さんだろうと、平等かつ執拗(しつよう)に追及しろよ。髪を掴め無礼メーカーだよ。俺が許可するよ。

 ……あ、やっぱ今のナシ! 俺のお(とう)さんが悲鳴をあげちゃうから!

 

 うん、髪はともかくとしてね、何にせよ、俺への対応と父への対応に格差がありすぎんだよね。もっと是正(ぜせい)に取り組めよ。じゃなきゃ、次の選挙でお前には票入れないからな!

 

 ……さて、西さんよ。一連の流れで、君の人間性はおおよそ分かった。

 さては忘れん坊さんだな?

 だから、疑問があったら尋問! 尋問するなら毛束(けたば)引け! 同情するなら金をくれ! そんな基本中の基本を忘れちまったな? とんだじゃじゃ馬のおっちょこちょい鹿だ!

 

 ……もちろん、西さんの記憶力と、俺の携帯する札の間には、何の因果関係もないはず。俺はそう信じてるよ。

 なぜなら! 俺の記憶にも! (覚えてる範囲では)特に問題は起きてないからね!

 

「あっ! そういえば……!」

 

 忘れん坊さんの西さんが、何かを思い出した。

 「どうせロクな話じゃない」に俺のギザギザした十円玉を賭けてもいい。だからこれを読んでるお前らは、「飼いならされた爬虫類(ハチュウルイ)の話」に全財産賭けてくれ。

 あ、ただし、動物園とかで飼われてるヤツはノーカンだからな! 首に赤いリボン巻いて、富豪の足元に転がってるワニとかじゃなきゃダメだからな! よろしく頼むぜ!

 

「パパが隠れてたとか、会えなかったとか、そんなことよりもね……」

 

 どうした黒の暴牛、じゃなくて西さんよ。何をしおらしくなってんだい?

 ほら、元気出しな。アメちゃんでも舐めるけぇ? どうせ黒いやつが君のカバンに入ってんよね?

 

「『なんだい?』」

「今さらこんなこと言っても、取り返しなんかつかないけど……」

 

 西さんが(こうべ)を垂れた。

 

「だけど、言わせて! ごめんなさい……!」

 

 ん? ん?

 

「『ん?』」

「……あのね、パパが命を落としたのって、私のせいでしょ? だからごめんなさい!」

 

 は?

 

「それから、私達の最期の会話が、ケンカになっちゃっ……ん?」

 

 西さんが顔を上げた。

 

「『え?』」

「……あれ?」

「『ん?』」

「え?」

 

 この親娘は何の茶番を演じてんだ? そして西さん、君は何をきょとんとしてんだ?

 

「『何が! 誰の! せいだって!?』」

「えっと……。パパの死因は、私のせいでふざけられなかったからでしょ?」

 

 へ?

 

「『ツェ?』」

 

 やべーな。オッサン独自の疑問形やべーな。そんでもってこの音は、下の前歯どもの間を、空気が通り抜けていく(たぐい)の摩擦音だ。もっと僕に聴かせてくださいお願いします。

 

「だから……。パパはふざけないと命に関わる病気なのに、人質だった私を守ろうとして、大人しくしてたんでしょ? だってほら、あの時、銀行強盗がやって来て、それで––––」

「『あーはいはいそっちの話ね!』」

 

 あーはいはい。あったね、そういう奇病。覚えてる覚えてる。いや、マジで。

 

 何だっけ、複雑骨……じゃなくて水虫とかのアレでしょ? うん。しょっぱい水虫が、目頭に込み上げるやつがアレするアレだよね。それにしようめんどくさいし。

 

 それからこの病気って、顔面にかかと落としを食らったりすると発病リスクが高まるとされているよね。まあ、顔面かかと落とし自体が、御陀仏(オダブツ)の前兆みたいなもんだけどね。

 その他にも近年では、死に(いた)(やまい)として一般の間にも周知が進んでるよね。怖いよね。

 

「ねえ、パパはホントに理解してるの? 私の話」

「『ずっとオレのターン!』」

「せめて聞く態度を保ってよ」

 

 寒い朝らしく、まるでイライラしてるかのように細かく足踏みしながら、ついでに白い息をもらす西。

 まだ若いからか、黒い煙を吐き出せない西。

 あげくの果てに、父親に疑念の目を向ける西。

 

 君は疑うのが遅いんだ。次からはもっと早く疑え。

 

 それに、こういうのは意外に思われるかもしれないけど、疑うという行為自体は別に悪いことじゃない。

 特に医療の世界では、病気を早期に治療できるのは、病気を早期に疑った患者だからな。

 

 似たような話は、ついこの間だって、ドクターを名乗るタレントが宣伝してただろ? 「早期発見でうまくいくかも!?」って。

 正確にいえば、「今日(きょう)の早期発見は土管☆  好きな人と座れば万事(ばんじ)うまくいくかも!?」だったな。

 

 おっと、「早期発見」じゃなくて「ラッキーアイテム」だったわ。ごめんごめん。

 

「はあ……。もしかして、パパは覚えてないんじゃない?」

「『もちろん覚えてるよ。1日だって忘れたことはない』」

「ホントかなあ?」

 

 西さんがすげー疑ってんじゃん。オッサンと西さん、二人の関係は終了ってはっきり分かるね、仕方ないね。

 

「『確かに、ある日を境にして、私は変わってしまった』」

 

 そしてオッサンは何の話をしてんだ? ……あ、札か。札の話か。何の話だ?

 

「『なぜ私がこのように変わってしまったのか、私は知らない。それに、こうなりたかったとも思わない』」

 

 オッサンの魂から、俺の心に直接伝わる感情があった。それを翻訳すると、生意気なことにコイツは、「(ダフ)のせいで(シータマ)(ガケ)れたんスよ〜」とか主張したいらしい。

 

 だけど俺に言わせれば、オッサンがこんなことを考えてしまのは、「オッサン自身が汚染する側の生き物である」という常識を、オッサンが忘れてるだけだ。だからかな、俺にはオッサンが、ふてぶてしくも「自分、バッチリ被害者ですよ。加害者なんかじゃないですよ」という(ツラ)を下げてるように見えるね。

 

 ……つーか、俺の意見っていうか話題、今関係なくない? 俺だってコメンテーターの真似事なんかしたくないんだ。こんなことより、朝から晩まで昼寝したいんだ。

 

「変わる? パパが? それって何の話?」

 

 未確認生物こと西子(ニシ湖)のニッシーが、不可解な言語を使い始めた。確かこの言語、ジャパニーズ……とかいう名前だっけ? 俺だってこれくらい知ってるよ。なぜって? これは俺の母国語だからさ。

 

「『私は、息絶えてからの私は、もう昔とは違うんだ』」

「何言ってるの? パパが幽霊か生きてる人間かなんて、そんなことどうだっていいよ!」

「『違う。そういうことじゃないんだ……!』」

 

 オッサンに乗っ取られた俺のノドが、言葉を詰まらせた。俺の頭部が申し訳なさそうにうつむき、そのつむじが俺の目前に見え……目前?

 

 俺は数十センチほど下を見下ろす。

 

 あれれ! なーんで俺の後頭部が丸見えなんスかねー。

 もしかして、俺ってば上半身が幽体離脱してんじゃない? ヤバくない?

 

 それはさておき、誰か俺の写真撮ってくれねーかなー。で、後で現像(げんぞう)したらビックリ。心霊写真だ。

 

「『亡くなってからというもの、私の魂には多くのものが混ざりすぎた。だからもう、私の中にあるものは、そのほとんどが“私”じゃないんだ』」

「え……? 何、ソレ……?」

 

 虹だか西だか知らないけど、俺の目の前にいる、えーっと、人間(?)の顔が硬直した。

 

「あっ! で、でも! 人間なんて変わる生き物だし! あとは、こう……パパは私のこと覚えてたし! だからいくら変になっても、パパは本物のパパだよ!」

「『それだけじゃない。私が魂だけになってからは、なぜだろう、一日ごとに私の存在が薄くなっていくように感じた』」

 

 なんだろね。

 

「……そ、そうだ! それはきっと、少しずつ成仏していってるんだよ! そういうことでしょ!?」

「『違うんだ。私の中に知らない何かが混ざっていくような、にも関わらず、大切なものはこぼれ落ちていくような……。この地に縛られてからの日々は、そんなふうに失いたくないものだけが失われていく毎日が続いた。だからきっと、これは成仏なんかじゃないんだ』」

 

 会話が頭に入って来ないんだよね。

 

「『しかも、頭の中に霧がかかっているようにも感じる』」

 

 なにゆえだろうね。

 

「『まるで子供の頃に除夜の鐘をえーと、アレの気分だ』」

「寝不足って言いたいの?」

「『当然だ』」

 

 なんだこのハイレベルな以心伝心。

 

「『そう、寝不足気味のえーと、アレだ』」

 

 今度は「気分」の二文字を忘れてやがる。

 どいつもこいつも狂ってやがる。

 

「もういいよ、言わなくても。分かったから。色々分かったから……!」

 

 心を落ち着けるためか、西さんが深く息を吐き出した。

 それに反応し、オッサンこと俺の身体が深く息を吸った。何やってんだオッサン。『チャンス!』とか思ってんじゃねーよオッサン。

 

「ハハハ……。じゃあ、なおさら、今伝えなきゃいけないんだ……」

 

 なんかつぶやいてる人がいる。

 

「『Why?』」

 

 俺の肩がすくめられた。なぜだ日本人のオッサンよ。

 

「えっと……放っといたらパパは、これからどんどん手遅れになるんでしょ?」

「『ああ!』」

 

 はるか昔から手遅れだ。

 それと、最大限の自信で答えるんじゃないよオッサン。自信をはるかに上回る自信、人はそれを過信と呼ぶんだ。

 

「実はね、あの日からいろんなことを考えた結果、私は将来、お医者さんになります」

「『鶴? それなーに? おいしい?』」

「ははは……」

 

 西さんは笑っていた。だけど俺は、この笑顔を作り物だとは思えない。なぜなら、この年頃の西さんは一般的に、箸が転んでも笑うとされているからだ。

 

「はあ……。実はね、あの日からいろんなことを考えた結果、私は将来、お医者さんになります」

 

 さっき聞いた。

 

「『右から来たら左手で撃ち落とす。左から来たら左毛で撃ち落とす』」

「実はね、あの日からいろんなことを考えた結果、私は将来、お医者さんになります」

 

 乙女心って難しい。

 

「『ヤバくないかその職業?』」

「実はね、あの日からいろんなことを考えた結果、私は将来、お医者さんになります」

 

 西さんは俺の予想通りの危険人物のようだ。

 

「『ほんま西ぃぃおらー』」

「実はね、あの日からいろんなことを考えた結果、私は将来、お医者さんになります」

 

 浪人生特有の粘り腰か。

 

「『そうなのか……。成長したね。ムーちゃんは』」

「やっと届いた……」

 

 西さんは安堵の表情を浮かべた。

 

「『良かった……』」

 

 小学生の感想かよ。

 

「そうだよ。すごいでしょ?」

「『うん、見直したよ』」

 

 オッサンに奪われた俺の手が、西さんの頭を優しく撫でる。西さんはまるで小さな子供みたいに……なんだこの顔。

 それでもオッサンは手を止めない。オッサンよ、セクハラはよしなさい。訴えられても知らねぇぞ!

 

「私、これからもっともっと頑張って、たくさん成長するからね……!」

「『ああ、知ってるよ、ムーちゃんはそんな子だって』」

 

 西さんがオッサンの顔を見上げる。

 

「知ってるの?」

「『ずっと見てたからね』」

 

 俺がな。家庭教師としての俺がな。

 そしてオッサンが西さんの努力を知ってるのは、俺の記憶がオッサンに流れ込んだからだぞ。

 

「そっかぁ……。良かった……」

「『そうだよ。だから私は、ムーちゃんが思ってるよりも、ずっと幸せな幽霊なんだ……』」

 

 不可解なことに、オッサンの魂が、これまでにないほどの速度で薄くなっていく。それと並行して、俺の目線が下がっていく。

 どうやら、俺の魂が身体への帰宅を始めたらしい。

 

 あと、今気がついたんだけど、俺っていつのまにか幽体離脱とかしてたんじゃない?

 あーあ、どうせなら臨死体験がの方が良かったなー!!

 

「……あれ、なんで光ってるの?」

 

 小娘がスットンキョウな声を上げた。

 

「『そ……じゃ、パパ……ちょっくら天に召されて来……から』」

「えっ、もう!?」

 

 昇天が唐突だ。略して「がだ。」だ。

 

「あ、そうだ。他にも言いたいことがあったんだ!」

 

 最終局面で付け加えるなよ。もっと事前に計画しとけよ。

 

「『な……だい?』」

 

 オッサンが薄くなりすぎたからだろうか。俺の口はそれほど動かない。

 

「長い間、パパ独りで待たせてごめんなさい!」

「『お……か……な……に……ま……は……う……!』」

「うん……! うん……!」

 

 しきりにうなずいている西さんが、俺の肩を絞め殺……と思いきや抱きしめた。

 

「『と……、ご……さ……い……わ……う……』」

「うん……待っててくれて、ありがとう……!」

 

 なんだこの究極の以心伝心は。

 

 俺の身体を占拠していた汚い魂は、俺がアパートから射出された頃と比べて、すでに半分以上が消え去っている。

 そして俺の魂も、少しずつだけど、無事に本体へと戻っていく。

 

 ただ、なんでだろうな。俺の魂が自分の身体に戻り始めてから、吐き気も戻り始めてんだよね。

 このままじゃ、昨日の夕食が当然逆位置になっちゃうんじゃないかな……。ま、いっか。

 

「『……ゃ、……つ……う!』」

 

 おう、スッゲー吐きそうだぞ。でも身体が言うこと聞かないぞ。吐けないぞ。

 

「うん……! じゃあね!」

 

 俺の全身が、(まばゆ)い光に包まれる。なんかヤダ。

 

 十秒も経たず、光は意外とあっけなく消えた。

 そして、俺の体内には、百歩譲って犬小屋の深奥みたいな魂の、残り香みたいな薄汚いものが、かすかに感じ取れるだけだっ––––。

 

「痛い痛い痛い!」

「えっ!? ごめんなさい!! ついうっかりしてて、ごめんなさい!!」

 

 西さんが俺から離れ、頼んでもないのに土下座した。しかも西さんは、首の動作を止めたくないのか、何度も頭を下げている。

 

 それにしても、お前の腕力はプロレスラーか。俺も召されるかと思ったわ!!

 

「……」

 

 ……って文句をさらけ出したいんだけど、俺にはどだい無理な話だ。

 

 せわしなく上下動を繰り返していた西さんの頭が、ピタッと止まった。

 

「あれ……。どうして私、こんなことしてんだろ?」

 

 俺は答えないぜ。

 なぜって? その原因を叫んだら俺は、腹に力を入れすぎたせいで、「オボロボロボロッ!」と吐きそうだからだ。

 

「って、こんな時刻!?」

 

 頭を上げたついでに腕時計の文字盤が視界に入ったらしく、西さんは慌てて立ち上がった。

 

「じゃあ、私、そろそろ行くね。試験会場」

 

 西さんが、ふたたび腕時計を一瞥(いちべつ)した。

 

「あれ、私……何しようとしたんだっけ?」

 

 知らないわよ。

 

 それより俺を助けてくれよ。

 

「あれ、矢車君?」

「……」

 

 ……そういや、俺はどうすれば助かるんだ?

 確か、俺は昔、こういう時はあお向けにすると良くない、っていう話を聞いたことがある。

 

 しかし俺は自分からは動きたくない。なぜなら動いたら負け、負けたらオボロボロ、オボロボロしたら、せっかく噛みしめた食料を逃しちゃう。よって俺は動かない。

 

 では、いかにして解決するか? 答えは簡単。西さんの手を借りよう。

 オロロロボを必死でこらえながら、俺はどうにか言葉を紡いでみた。

 

「うっ、うつ()す……」

「誰が鬱ブス——」

 

 ひえっ!!

 

「うつ伏せ……!」

「……あっ、うつ伏せに寝かせてほしいんだね?」

 

 そんなこんなでこの姿勢、まるで土下寝だ。そして西さん、君の怪力は末恐ろしい限りだね。見た感じ、俺より君の方が体重も重そうだし*2すみません俺は何も考えてません!!

 

「どうしたの? 大丈夫……?」

「……」

 

 余談だがこの土下寝。大学の芝生に寝転がりながら謝罪の練習をしている近頃の俺にとっては、かなり馴染み深い技でもある。

 

「しゃべりたくないならそれでもいいよ?」

「…………」

 

 また、この謝罪技(しゃざいぎ)は、強い誠意を伝えられるだけでなく、睡眠も同時にこなせるという点において、素晴らしいの一言に尽きる。

 とはいえ、謝罪中の睡眠が、審判、もしくは謝罪相手に発覚した場合、理不尽なことに自分の持ち点から5ポイントが差し引かれるため、乱発には向かない大技であるという欠点にも、最低限留意(りゅうい)しなければならない。

 

「ねえ、本当に大丈夫……?」

「俺も、(ある意味)成仏しそう……」

「きっと大丈夫だよ。私も具合が悪いっていうか……なんだかちょっと吐きそうだけど、大丈夫だし……!」

「…………」

 

 そういえば、オッサンがほとんど昇天したはずなのに、なぜだろう、俺の吐き気が全然引かない。

 

 これはもしや、俺の中に、不潔な魂のカケラでも残っているのだろうか。やっぱり、多少の汚物を憑依させただけでも、身体には相当な負担がかかってしまうのだろうか。

 

「って、私の調子が悪いのは関係ないか……」

「……」

 

 ああ、俺の中に居座るコイツら……。一刻も早く、完璧な形で、天に召されねぇかなぁ……。

 

「あ、救急車だ……」

「……」

 

 遠くからピーポーピーポーという不吉な音が近づいて来る。

 俺を見下ろした西さんが、「私も呼ぼっかなぁ……」などと常識外れな一言を呟いた。はたしてこの子は、医療費が高すぎて目ん玉が飛び出てしまう、という当たり前の事例をご存知ないのだろうか?

 こんな子は、俺が常識を教えてあげないと、何も考えずに199番してしまうかもしれない。

 そうだ、もし西さんが救急車を呼ぼうものなら、俺が命がけで止めてやろう。お金を払ったあげく目ん玉を失うくらいなら、俺は不調を(たしな)む道を選ぶんだ。

 

「あれ? 結構近いね……」

「…………」

 

 それにしても、救急車のサイレンは(じゃかま)しい。

 オッサンの成仏を邪魔しないようにと、俺がせっかく心を無にしてるのに、ティーパーティーパーなどという音が、俺の集中をかき乱す。

 

「え……? なんでここに……?」

「…………」

 

 俺が顔を上げると、駐車場には、いちごのケーキみたいな色の車が侵入していた。鳴り響く「パーティーパーティー」といい、いちごショートといい、なんだかクリスマスみたいだ。

 へ〜、リア充かよ。バイト漬けの日々を送る俺の前で、ゴキゲンな度胸してんじゃん。クリスマスだけに、景気(ケーキ)のいい話ってか?

 

「そういや、モミの木ってゲロみたいな配色してるよね」

「矢車君って、どんな人生送ってきたの?」

 

 あ、やべ……。ゲロの話題で吐き気思い出した。気分害した。

 

 そして俺は吐いた。はあ……。俺うつ伏せだから、服とか盛大に汚れたかも。

 

「わわっ! びっくりしたなあもう!!」

「…………」

 

 ……そうだ、大地を肥やしたんだと考えよう。

 つまり、これはゲロじゃない。

 ゲロじゃなくて、精神的な意味で清らかなあまり、触れた者に雪解けや朝露すら想起させる聖水。すなわち解露(ゲロ)だ。

 そう信じると、この「ゲ」で始まる汚い水分も、心なしかキラキラと輝いて見えるではありませんか。なんということでしょうね。

 

「大丈夫!?」

「………………」

 

 東西南北でいえば西っぽい手のひらが、俺の背中をさすった。

 俺は恐る恐る振り返る。

 

「サ、佐武 麻燐(サブ マリン)博士 ……?」

「何者!? 名付け親も含めて何者!?」

 

 あと、言い忘れたけど、気がついた時には、俺の中にいたしょっぱい(かたまり)(?)だかオッサンの(シータマ)(?)だかも消滅していた。

 はあ〜、すっきりした。よし、立ち上がろ。

 

「あれ……? 何この吐瀉物(としゃぶつ)(またた)いてるように見えるんだけど……?」

 

 西さんが意味不明な疑問を言い出した。

 

「なんだろ、コレ……?」

「ケーキ、パーティ、そして輝く夜にようこそ。今夜は最高のおもてなしォルルルァ!!」

 

 不意打ちで根こそぎ持ってかれた。西さんがとっさに口元を手のひらで押さえた。

 よう、ネェちゃん。俺の口も押さえてくれへんかぁ?

 

「しゃべりながらは行儀が悪いよ……」

 

 知らねーな。

 だって、俺は吐きたかったんだもん。俺にだって、ゲロっちゃう権利くらいあるだろ!

 

 第一、よく確認してほしい。西さんが着てる面接用っぽい漆黒のスーツには、一滴たりとも聖水が跳ねてないんだ。

 だから吐いちゃってもいいじゃないか。黒スーツ、略してクツは汚れてないんだからさ。見逃してくれよ。

 

「むしろ、持ち前の栄養素を差し出して、大地を肥やしたボクを(たた)えるべきだと思うんですけどねぇ……」

「あっ……ちょっ、息吐かないでよ……!」

 

 俺は「やれまれ……」ため息を漏らしただけなのに、顔面蒼白の西さんが、さらに強く口元を押さえた。

 

「君も、未練*3を砂利の上に敷いてみないか?」

「うっ……!」

 

 俺がニコッとほほえみつつ「ハァ……!」と息を吐いたら、西さんが元朝ごはん*4をチョロっと垂れ流す。

 

「ほら、もっとだ!! 君の限界はそんなもんじゃないだろ!!」

 俺は西さんの顔を正面から凝視して励ましただけなのに、西さんは即効で顔を背けた。

 

「だから、呼吸を控えてよ」

 

 鼻をつまむんじゃないよ。君は無礼者だな。

 しかも、西のヤロウは、スッと一歩引いた上、あろうことか俺達の足元に目を落としている。文句があるなら目を見て話せよ。君は無礼者だな。

 

「え……? どうして私のやつ*5も瞬いてるの?」

 

 なんや、お前はそないなことも知らんのか。理由なんて、考えるまでもないやろ。

 

「ええか? 輝いてるのはなあ、青春全部捧げたからや」*6

 

 西さんが過ぎ去りし昨晩の雫*7を指差す。

 

「いやいや、そうじゃなくってね。これ、明らかに発光(ハッコウ)してて変でしょ?」

「誰が納豆菌じゃあああ!!」

「『発酵』じゃないから!」

 

 もう怒ったぞ。こうなったら抗議の意味を込めて、体内に溜まった分、根こそぎぶちまけてやるんだから!

 

「おろろろ!!」

「あのさ、矢車君の頭はもう手遅れだけど、せめて身体は大丈夫なの?」

 

 俺の背中にそっと手が置かれた。それはともかく、

 

「あ、やば……」

 

 すぐ隣でそんな声が聞こえるやいなや、西さんが「おえっ、おええええ!」と体調を崩したのは良くないと思います。

 

「どうぞ」

 

 俺は口を拭くためのハンケチ……は持ってなかったから、代わりに札を差し出した。

 

「うん、ありが……いらないよ」

 

 西さんに突き返された

 

 つっても、こんなものを返されても困るよね。俺は札を、透明なフィルムっぽいカバーから取り出し、ビリビリに破いて捨てる。どうせオッサンはもういないんだ。敷地内に捨ててもいいだろ。

 

「きゃっ!」

「きゃっ!」

 

 札は破くそばから、ドス黒いガスっぽい……炎? らしき何かを噴出して、地面に落ちる前に燃え尽きた。ただし、俺の手にはヤケドどころか熱さすらなかったから、あれが俺のよく知る炎なのかは分からない。

 

 あ、俺の部屋、ガス止められてたっけ。俺、炎なんて、もう一年以上目にしてないや。

 

 そんな中、気まぐれに周囲を見渡すと、いつからいるのか、救急隊員らしき人物が集まっており、「患者はどっちだ!?」と慌てふためいていた。

 迷いすぎでしょ、こいつら。とてもじゃないけど、日頃から救急車に乗ってる方々とは思えない。哲学者でももっと即断即決なのに。

 

 

 返事も兼ねて、俺は体内に残る、最後の一滴まで搾り尽くした。

 俺のその行為で察してくれたのか、救急車のお兄さん達は、無事に俺のことを搬送してくれた。ありがとうございます。あと、車内を汚してごめんなさい。

 

 

 ところで、不思議なことに、病院に到着した俺の身体には、何一つとして異常は見つからなかった*8。そう、俺はほんの一時間前に、圧倒的な物量をブチまけたにも関わらず、だ。

 

 急激なストレスが原因だろうとお医者さんは予想してたけど、俺には心当たりを思い出すほどの勇気はなく、結局、俺は適当に苦笑いを浮かべようとした。ただ、俺が上手く笑えなかったり、手が勝手に震え始めたり、顔から血の気が引いたせいで、お医者さんには精神科を紹介されたけど。

 

 どうやら俺の身体は、知らず知らずのうちに、何らかの恐怖が刻み込まれていたらしい。記憶にはほとんど何も刻まれていないのにな。

 

 

 そんなわけで、俺は念のために精神科も利用してから病院を後にした。手痛い出費だけど、長い目で見ると、この程度は必要経費だろう。そう思いたい。

 

 とはいえ、いくら身体が拒絶反応を起こしていても、アパートに到着するまででもいいから、やっぱり真実を思い出してみようと俺は決意した。

 

 そうして、わずかに残っている記憶を掘り返した結果、俺はとんでもない真実にたどり着いてしまった。

 

 

 

 

 あの事故物件に住んで以来、俺は狂ってしまったのだと––––。

 

 あーもう完璧に黒歴史じゃん!!

*1
余談ですが、私が「シケモク」などとルビを振ったら、制作サイドの人間から、「R指定じゃない作品では、お子様に伝わらないネタ持ち出すなよ」という批判が溢れました。

*2
作者が今思いついた設定によれば、矢車は身長168センチ、体重48キロ。一方の西さんは身長163センチ、体重57キロ。このように矢車は痩せ型で軽いため、重厚感のある西さんのフィジカルを駆使すれば、軽々と矢ぐるmすみません失礼なことなんて考えてません!!

*3
ゲロのことです。

*4
現ゲロのことです。

*5
何度も言うようですが、ゲロのことです。

*6
違います。

*7
しつこいようですがゲロです。

*8
西「全身打撲は!? 紫イモは!? 傾斜は!?」




練習用小説のボツ構想その2


☆タイトル
 『風が止むまでそばにいて』(原作:『男子高校生の日常』)

☆あらすじ
 「今日は良い永遠暴風雪(エターナルフォースブリザード)日和ですね」

 私が彼に出会ったあの夕刻からも、私にとって、なんてことのない日常が続くはずだった。

 その風が、寂しげに(いなな)いていたことを除けば––––。




☆ボツ理由
・この作品を執筆しても、風を詠む能力しか磨けなさそうだったから
・読者にとっても、作者にとっても、この作品は一から十まで意味不明だから
・あーもう完璧に黒歴史だから

☆一言
 上記の原案は、『男子高校生の日常』に登場する作中作を模した小説であり、ジャンルでいえばギャグなのかもしれません。日常とはそういうものです。



 それと、後書きでは↑こんなふざけたことを書いていますが、今回の投稿予約後に書く活動報告では、真面目な話題を掲載する予定です。


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