八幡と雪乃の恋物語 (れーるがん)
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ゆきのん充電中

原作のこととか全部無視して読んでね!


 春の日差しが暖かく降り注ぐ春休み。

 俺は当たり前のように小町にパシられていた。

 なんでも駅前にあるたい焼きスイーツたら言うものをご所望らしく、受験も終わり見事に合格した我が妹の頼みならばと喜び勇んでパシられているのである。

 人通りはそこまで多くないものの、家を出た時の俺のやる気は何処へやら。遠くはないとは言え、春休み怠惰の限りを尽くしていた俺にはキツイ距離でして。

 よりにもよってパンクしてる自転車を自宅に置いて、徒歩でやって来ていた。

 小町も付いて来てくれたら八幡的にポイント高かったのだが、妹殿は俺の代わりに怠惰に過ごしておくからと言って家から出てくれなかったのである。

 大丈夫かしら小町ちゃん。あのままニートになったりしないかしら。ニートは一家に一人で十分なのよ?

 いや、一人も要らないか。そもそも俺はニートじゃないし。

 目的だったたい焼きスイーツの屋台でついでに自分のやつも確保し、更についでに本屋でも寄っていくかと駅前の広場を歩いていると、なんだか妙に人集りが出来ている場所を見つけた。

 普段ならそんなもの構わずに我が道をゴーイングマイウェイなのが俺なのだが、聞こえてしまったのだ。

 聞いた事のある声で、にゃーっと言う鳴き声が。

 そんなん気になるに決まってる。

 なんとか人集りの中を掻き分けてその最前列まで進むと、俺の予想は当たってしまっていた。

 

「にゃー」

「にゃー」

「にゃー」

「......にゃー。ふふっ」

 

 所謂『猫の集会』と言うやつである。

 一体なんの目的があるのか、そこいらの野良猫が集まってはただ座ったり寝たりするだけの、謎の猫コミュニティ。

 なるほど確かに、ここ近辺では珍しいそれを見かけてしまっては人集りも出来るというものだろう。

 しかし、理由はそれでは無かった。

 さらに言うと、恐らく猫が集まってる理由もちょっと違う。

 猫の集会の筈なのに、そこに混ざっている人間が一人。

 にゃーにゃーと猫達と共鳴している、絶世の、と枕詞をつけても過言ではない美少女。

 残念ながら俺の知り合い、どころかかなり深い関係性にあるやつだ。

 

「にゃー」

「にゃー」

「にゃー」

「......にゃー、にゃー」

 

 いや、あいつマジで何やってんの......?

 あれか、最近プロムの準備やら卒業式の準備やらで忙しくて猫欲が高まっていたのか。

 猫欲ってなんだよ。

 まあなんにしても。

 恐らく彼女は、今自分がここまで注目されている事に気がついていないだろう。衆人環視の中で鳴いてる姿は見た事ないし、彼女自身も努めてそう言う姿をあまり見られないようにしていた節もある。

 さて、今の俺には二種類の選択肢があるわけだ。

  一つは、何も見なかった事にして立ち去る。

 もう一つは、彼女に声を掛けてこの状況を知らせてやる。

 ではこの内のどちらの選択を取るかと問われれば、俺は問答無用で前者を取らせてもらう。

 俺には帰りを待つ妹がいるんだ。生きて帰るにはスルー一択。幾らあいつとそう言う関係であったとしても。

 しかしそう簡単にいかないのが世の常である。

 ふとした拍子に顔を上げた彼女、雪ノ下雪乃とバッチリ目が合ってしまった。

 

「......あっ」

「よ、よお......」

 

 そして同時に周囲の状況を把握したのだろう。その顔は急速に赤らんでいく。

 雪ノ下の足元の猫達は、遊んでくれていた彼女の異変に気がついたのだろうか。心配するように彼女の足をスリスリと。

 て言うか猫めっちゃいるんだけど。今更ながらその数を数えてみるも、十匹を超えたあたりでやめる。この辺りってこんなに野良猫いたっけ?

 そして雪ノ下の異変に気付いたのは勿論猫だけでなく、集まっていた人達も皆一様にして頭の上にハテナマークを浮かべていた。

 俺としては今すぐにでも退散したいのだが、挨拶をしてしまった以上そうもいかない。

 果たしてこの後どのような行動に出ようかと悩んでいると、突然立ち上がった雪ノ下がこちらにテコテコと歩いてくる。

 え、ちょっと待ってストップストップ! こっち来んな!

 

「付いて来なさい」

「は? いやなんで」

「いいから」

「はい」

 

 文句は一切受け付けないとばかりにキッと睨まれた。怖い。

 そのまま俺は雪ノ下に服の袖を摘まれ、美少女に連れていかれるゾンビという構図が出来上がってしまった。

 気分は出荷される豚である。

 脳内でドナドナが流れ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

「では言い訳を聞こうかしら」

 

 近くの公園まで出荷された後、雪ノ下が発した一言目がそれだった。

 言い訳ってなんだよ。

 

「いいか雪ノ下。それは既に何かしらの罪を犯したやつに対する言葉であり、俺はまだ何もしていない。なんなら妹のためにここまでやって来た奉公者であり、褒められるような事はしても言い訳をしなければならないことなんて何もしてない」

「相変わらずのシスコンなのね......。はあ、ごめんなさい、少し取り乱していたみたい」

 

 心底疲れたような表情を浮かべ、雪ノ下はベンチへと腰を下ろした。

 スッと端に寄った事から、俺もここへ座れということだろう。

 お言葉に甘えて(言葉にはしてない)、ベンチの空いたスペースへと座る。

 が、比企谷八幡痛恨のミス。

 このベンチ、思いの外小さく、雪ノ下との距離はそこまで離れていない。て言うかめっちゃ近い。今にも肩と肩が触れてしまいそうだし、なんかいい匂いしてくるし。

 

「あなたは、どうしてあんな所に? 長期休暇なのをいい事に家で怠惰の限りを尽くしていると小町さんから連絡があったのだけれど」

「待て、何故小町からお前にそんな連絡が行ってるんだ」

「あら、何かおかしな事かしら?」

「いやおかしいでしょ......」

 

 なんで雪ノ下に八幡情報リークしちゃってんの小町ちゃん......。

 

「さっき言った通り、小町にお使い頼まれたんだよ。たい焼きスイーツが食べたいんだと」

「ああ、あの屋台の」

「おう。んで、お前は何故あんな奇行を?」

「......野良猫を追いかけていたらいつの間にかああなっていたのよ」

 

 えぇ......。視野狭窄にも程があるでしょ君......。そんなんでよく車に轢かれたりしなかったな。

 つかまず周りの視線に気づけ。お前もぼっちの端くれなら視線には敏感なはずだろ。

 

「最近はあまり猫動画も見れていなかったから......。猫カフェにも行けていなかったし」

「ま、つい最近まで忙しかったしな」

「ええ、本当に。だから久しぶりに猫を見かけて、存分に堪能していたのだけれど、誰かさんのせいでそれも台無しね」

「そりゃ悪うござんした」

 

 マジで猫欲高まってたのかよ。

 しかし、そうだとするなら随分と悪いことをしてしまった気になる。雪ノ下の猫に対する愛は元から知っていたし、最近忙しかったのなんて更に理解している。

 

「さて、この罪はどう償って貰おうかしら」

「罪に問われるのかよ......」

「当たり前よ」

 

 一体どこのなんて法律に抵触してしまったのだろうか。個人的には雪ノ下さんの可愛らしい姿が見れたので役得ではあったんですけどね。ええ。あんな姿を見れるのなら法律を犯すのも吝かでは......、いや待て落ち着け流石にそれはない。

 さて、ではどのような方法で償おうかと考えるも、何故か頭に思い浮かぶのはたった一つ。

 それ以外にないと言うのなら仕方がないか、なんて誰に向けてかも分からないような言い訳を心の中でしつつ、隣の彼女へ向かって口を開いた。

 

「じゃあ、うち来りゅか?」

 

 

 

 

 

 

 

「お、お邪魔します......」

「ああ、まあ、どうぞ......」

 

 カッチカチ。二人ともカッチカチ。

 錆びた機械とまでは言わなくとも、なんとなくぎこちない動きで二人して我が家のドアをくぐる。

 いやまあ初めて彼女をうちへ招くわけだし、雪ノ下も初めて俺の家に来るわけだし、そりゃそうなるよねって。

 あの公園で家に誘った所、意外や意外、雪ノ下は二つ返事でOKした。

 勿論家には小町がいるだとか、うちならカマクラをもふり放題だとか、色んな言い訳はさせてもらったけれども。そんな言い訳が無意味なほどにほぼほぼ即答だった。

 マジでどうしよう。いや、目的は決まっている。雪ノ下にカマクラをもふらせる。

 それだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 しかし、俺も、恐らくは雪ノ下も、そんなのはただの建前に過ぎないと理解している。

 ただ、折角だからもう少しだけ、一緒に居たかったなんて。

 そんなこと思っても口に出来ない俺たちだから。

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー」

「おーう。帰ったぞ小町ー。あ、雪ノ下いるから」

「ひょえ?」

 

 廊下の向こうから聞こえてきた声に適当に返すと、なんか変な声が返ってきた。でもそんな声も可愛らしいから流石は小町!

 その数瞬後にドタバタと聞こえて来て、驚きに目を見開いた小町が玄関口へ現れた。

 

「ゆゆゆ雪乃さん⁉︎ なんで⁉︎ え、なんで⁉︎」

「こんにちは小町さん。お邪魔させてもらうわね」

「駅前で拾ったから連れて来た」

「いやそんな捨て猫拾って来たみたいなノリで言われても!」

 

 実際猫と戯れてたところを連れて来たので捨て猫みたいなもんだったが、それは言わぬが花だろう。言ったらどうなるか分からないし。

 

「取り敢えず落ち着け。落ち着いてカマクラを確保して来るんだ。今すぐに」

「り、了解であります!」

 

 未だ冷静になれていないのであろうが、小町は俺の言う通りカマクラを探しに行ってくれた。

 こんな事になるんなら、事前に連絡しておくべきだったかもしれない。

 

「んじゃまあ、上がってくれ」

「ええ......」

 

 雪ノ下を連れて二階のリビングへと上がる。

 後ろではマジで借りて来た猫のように縮こまった雪ノ下。

 なんか今日は猫づくしだな......。

 

「取り敢えずソファにでも座ってろ。いまお茶淹れるから」

「あなた、紅茶淹れられるの?」

「ティーバッグになる上にお前の紅茶には負けるけどな」

 

 雪ノ下がソファに座ったのを確認して、キッチンへ向かう。

 普段コーヒーしか飲まないからティーバッグはどこにあるのやらと探していると、またドタバタと足音が聞こえて来た。

 出来ればもうちょっと慎みを持った歩き方して欲しいんだけどなぁ......。

 

「お待たせしましたー! はい、こちらカマクラになります!」

「あ、ありがとう......」

 

 お前は居酒屋の店員かってくらいテンション高い声でリビングへと突入して来た小町が、そのままソファに座っている雪ノ下にカマクラを渡す。

 流石の雪ノ下も小町の謎の勢いに圧されて困惑気味だ。

 

「なあ小町、紅茶のバッグってどこにあったっけ?」

「へ? お兄ちゃん紅茶飲むの? いつもコーヒーなのに?」

「雪ノ下の分だよ」

 

 言うと、ああ成る程ねー、なんて納得したような声でティーバッグを探し出す小町。

 それを尻目に、リビングで一人にしてしまっている雪ノ下は大丈夫かと見てみれば、既に視線がカマクラに固定されていた。しかもめっちゃもふもふしてる。カマクラもうみゃー、と声を上げてなすがままにされているようだ。

 

「小町やっとくから、お兄ちゃんは雪乃さんの隣に座ってて」

「いや別に隣じゃなくても」

「いいから」

 

 こう、なんと言うか、なんで女性の言葉って謎の重みがあるんだろうね。

 今日二度目の同じ言葉を前に、俺はまたしても何も言い返せず言われるがままにリビングへと足を向ける。

 ソファの上には勿論雪ノ下とカマクラが。居なかったら怖い。

 そーっと雪ノ下に近づいて、心の中でだけ失礼しますと一言添えてから、その隣に腰を下ろした。

 

「......にゃー」

「......っ」

 

 無視。

 マジか。雪ノ下さんマジか。この距離まで接近して無視ってお前、流石に悲しくなっちゃうぞ。

 呼び掛けたら応えてはくれるのだろうが、それでは面白味がない。ではどうしようかと考える。

 手を握ってみる? いやいや、雪ノ下の両手はガッチリとカマクラに持っていかれてる。

 なら肩を抱き寄せる? 小町がいるから無理。なんなら小町がいなくても無理。

 ならばと思い、30センチほど空いていた互いの距離を、殆どゼロになるまで詰め寄ってみた。公園のベンチが可愛く見えるくらい。だって肩同士が当たってるし。いやでもこれ結構恥ずかしいな。

 が、雪ノ下は無言。

 そろそろ本気で泣きそう。

 

「はいはーい、お待たせしました雪乃さん! 安っぽい紅茶ですがどうぞどうぞ!」

「......あっ。ありがとう小町さん」

 

 紅茶と買ってきたばかりのたい焼きスイーツをお盆に乗せて運んできた小町には反応を示したが、しっかり隣に座ってる俺にはなんの反応も無かった。下手したらちょっと恥ずかしがる姿が見れるかにゃーとか期待してたのに。

 あと小町、そのたい焼きスイーツ雪ノ下のじゃないから。俺のだから。

 

「では小町は少し早めで少し長めの夕飯の買い物に行ってくるであります!」

「は?」

 

 何言ってるのこのかわい子ちゃんは?

 まだ昼過ぎだよ? 14時にもなってないよ? あと絶対少しじゃなくてかなり長めになるだろお前。

 

「勿論雪乃さんもご一緒しますよね⁉︎」

「いいのかしら? ご家族の方に迷惑ではない?」

「大丈夫です! 両親は二人とも仕事で帰ってくるの遅くなりますから! 家族への挨拶はまた後日と言う事で!」

「なっ......!」

「ではでは〜」

 

 最後にわりかし大きめの爆弾を投下して、小町は家を出て行った。

 家族への挨拶って......。ちょっと気が早すぎるでしょ......。ほら、雪ノ下さん顔真っ赤にしちゃってるよ? かく言う俺も似たり寄ったりだが。

 小町のせいでなんだかリビングには変な雰囲気が。

 互いに一言も発さず、カマクラのうみゃーっと唸る声だけが響く。

 そんな折に、すぐ隣に座っていた彼女が唐突に立ち上がった。

 

「......どうした?」

「......いえ、その」

 

 立ち上がった際にカマクラから手を離したようで、我が家の愛猫はタタタッと何処かへと走り去ってしまう。

 正真正銘、二人きり。

 それを遅まきながらも理解してしまい、妙な高揚感が胸を打つ。

 俺の前に立ったまま動かないでいた雪ノ下は、暫く何事か逡巡していると、決意したように一つ頷きをした。

 

「......失礼するわね」

「え」

 

 それだけ言った後、雪ノ下は俺の膝の上に跨ってきた。

 所謂、対面座位である。

 文字通り目の前に、雪ノ下の整い過ぎている美しい顔が。

 膝の上に乗られたと言うのに、まるで重さを感じない。もしかしたらそれは、密着されたことによって更に感じてしまっている彼女の柔らかさとかサボンの香りとかが影響してるのかもしれないが、そんな事を考える余裕なんてあるはずもなく。

 余りにも唐突過ぎるその出来事に俺が何も言えないでいると、それをいい事に、雪ノ下はちょんと小さく唇と唇を触れ合わせて来る。

 

「ゆ、雪ノ下......?」

「はふぅ......」

 

 別にキスすることに抵抗がある訳ではない。恥ずかしいことに変わりないが、何度か口づけを交わしたことくらいはある。

 しかしこうも突然されると困惑するし、その後、俺にひしっと抱きついて来られると困惑を通り越して驚愕する。

 

「ど、どうした? なんかあったのか......?」

 

 滅多に甘えて来ない彼女が、こんな風になんの抵抗もなく甘えてきた事なんて覚えが無い。

 だとすれば、また何か自分一人で溜め込んでしまってるのではと不安にもなる。

 けれど、俺の問いかけに対する答えは、そんな不安になるようなものなどでは無く。

 

「じゅーでんちゅーよ」

 

 舌ったらずな声で、俺の顔を見上げながらそう言った。

 目はトロンと蕩けきってるし、頬もだらしないくらいに緩々だ。

 本当にお前は雪ノ下雪乃かと、何も知らないやつが見たらそう問わざるを得ないような表情をしている。

 あぁ、ヤバイな、これは。

 ちょっと洒落にならない位可愛い。

 小町や戸塚以上の天使なんて存在しないと思っていたのに、まさかここで出会えてしまうとは。

 

「充電なら、仕方ないな」

 

 先述した通り、ここ最近は忙しかったのだし。完璧超人である雪ノ下にもそう言うのは必要だろう。例えば猫とか、パンさんとか。

 まさか俺すらも雪ノ下の充電に一役買えるとは思ってもいなかったが。

 

「あら......。ふふ、随分と気前のいい充電器さんね」

「残念なことにこの充電器を使うような物好きが一人しかいないからな。これくらいはサービスしてやるよ」

 

 俺からも抱きしめ返してやると、本当に嬉しそうに微笑んでくれる。

 胸元からスンスンと鼻を鳴らす音が聞こえるのが何ともむず痒い。それを聞こえないようにと更に強く抱きしめて髪を撫でてやれば、ふふっ、と彼女の笑みがまた深くなる。

 

「安心する匂いね」

「人の匂い嗅いで安心するとか、雪ノ下もついに猫化が進んできたか?」

「馬鹿ね、そんな訳ないでしょう。好きな人の、比企谷くんの匂いだもの。安心するに決まってるわ」

 

 抱き締め合った状態で良かった。そうでもなければ、この真っ赤な顔を見られていただろうし。

 お返しと言わんばかりに、俺も雪ノ下の首筋に顔を埋めて匂いを嗅いでみる。行為そのものを見たら完全に変態のそれだが、しかし、不思議と俺も心地良さに包まれた。

 

「俺も、雪ノ下の匂い好きだぞ」

「......変態」

「いや、なんでだよ......」

 

 なんで君は良くて僕はダメなんですかね。

 しかも変態的な行動を取ってしまっているのが事実だから否定もできない。

 

「少し、眠ってもいいかしら?」

「このままで?」

「このままで......」

「分かった。お疲れ様、雪ノ下」

「......うん」

 

 常よりも幼い口調を最後に、雪ノ下は俺の胸元ですうすうと寝息を立て始めた。

 長い黒髪を優しく撫でながら、どうか今この時が彼女にとって心休まる時間であることを願い、俺の意識も落ちていった。

 

 

 この後帰ってきた小町にめっちゃ写真撮られたのはまた別の話。

 勿論バックアップ含めて全部デリートした。

 

 



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酒は飲んでも

酔いデレゆきのん!


「お邪魔するわね」

「待って」

 

 今日は土曜日。週休二日制のホワイト企業になんとか就職できた俺にとっては安息日である土曜日だ。休日だ。休む日だ。

 そんな日の夜21時過ぎのお話。大学時代から一人暮らしをしているワンルームに、氷の女王が襲来した。手にはビニール袋と会社のカバンが握られている。今日は休日出勤とか言ってたから、仕事帰りなのだろう。

 確かこいつはそれなりの大企業でバリバリキャリアウーマンしてた筈だったのだが、なんと言うか、こう、今の彼女は未だに結婚出来ない恩師と影が重なる。何故なのか。

 

「どうしたの?」

「それはこっちのセリフなんですけど」

 

 まず施錠はしていた筈だし、こんな時間に男の一人暮らしの家に来るとか非常識極まりないし、ビニール袋からチラホラ見える酒類からは嫌な予感しかしないし。

 突っ込みどころは色々と多いのだが、まず聞かなければならないのは施錠云々の話だろう。ほら、安全第一だし。鍵壊れてるとか言われたら大家さんに文句言いに行ってやる。

 

「鍵は掛けてた筈なんだが」

「あぁ、それなら小町さんから合鍵を譲り受けたわ」

「あのバカ......」

「別にいいじゃない。どうせここ最近の休日はあなたの家で本を読むかゲームをするかなのだし」

「だからっていいわけじゃないんだよなぁ......」

 

 そもそもそれはちゃんと事前に連絡あっての事だし。いや、休日にお前ら何してんのとか聞かないで。一応友人と遊んでるってだけだから。一応。

 

「で、何しに来たのお前?」

「一人寂しい休日を過ごす比企谷くんを笑いに来たのよ」

「え、何それ酷い」

 

 いやまあ確かに今日は雪ノ下とゲームとか読書とか出来なくてちょっと寂しいなーとか思ってたり思ってなかったりしてたんだが。

 それが理由ではないだろう事は容易に推測出来る。伊達に長い付き合いじゃないし。

 

「んで、本当のところは?」

 

 問い直すと、雪ノ下は少しムッと眉にシワを寄せたが、観念したようにため息を吐いた後本当のことを話し出した。

 

「分かるものだとばかり、思っていたのね......」

「やめろ雪ノ下、そのセリフは俺に効く」

「冗談よ。少し、仕事でね......」

「なんだ、セクハラでもされたか?」

「セクハラよ比企谷くん」

「なんでだよ⁉︎」

 

 軽口を交わしながらも、雪ノ下はスーツの上着を脱ぐ。まあ、幾ら冬だと言っても室内は暖房も聞いているし、上着を脱ぐのは当たり前だと思うんだが......。その、なんと言うかですね、妙に煽情的と言うか、歳月を重ねて更に美しくなった雪ノ下の無防備な姿にグッとくると言うか。

 なんだか妙な気恥ずかしさを感じて顔を逸らしていると、今度はビニール袋を漁る音がした。袋の中から取り出されたのは缶ビール4本とサキイカと柿ピー。

 こいつ......。

 

「なんかお前、年々ポスト平塚の地位を確立させていってるよな......」

「失礼な男ね。私はあの人とは違うわ」

「うん、失礼なのは君だからね? 平塚先生泣くぞ」

「私はその気になればどうとでもなるけれど、あの人はもうどうしようもないでしょう」

「マジで失礼なこと言い出しやがった」

 

 まあ、雪ノ下の場合は実家が実家だからな。結婚したければ見合い話なりなんなりに乗ったりするんだろう。その意味深な視線は無視するとして。

 平塚先生も実際もうどうしようもないと言うか、そろそろ諦めたらいかがでしょうかと言うか。だって俺らが今25だからあの人は......。いや、辞めよう。これ以上はダメだ。

 

「所で、冷蔵庫にもまだチューハイが残ってたわよね?」

「まあ何個かあるけど」

「なら良かったわ。私一人だけ飲むと言うのもつまらないもの」

「それ全部一人用かよ......」

 

 呆れながらも立ち上がって、冷蔵庫の中身を見る。中にはチューハイが確かに数本置かれており、その他にも軽くツマミ程度になる食べ物ならあった。

 

「雪ノ下、ツマミそれで足りるか?」

「何かあるの?」

「まあ、一応あるぞ」

 

 冷蔵庫からチューハイとそれを取り出し、袋を開いて皿の上に盛り付ける。

 小さな丸型の机に皿を置くと、雪ノ下は少し驚いた表情になった。

 

「なんだよ」

「......いえ、なぜちくわなのかと思っただけよ」

「いいだろちくわ。ツマミにはなるんだし、猫だってよく食うし」

「別に私は猫が好きなのであって猫ではないのだけれど......」

 

 いや雪ノ下の生態はまんま猫みたいなもんだと思うけどね。特に気まぐれな行動を起こすあたりが。あと休日の昼間はよくうちで陽の光に当てられてうつらうつらしてるし。

 

「まあ、一応は頂くわ」

「おう。その代わりそっちのサキイカと柿ピーも寄越せよ」

「分かってるわよ」

 

 チューハイの缶を開けると、カシュッといい音がなった。

 俺も酒は嫌いではない。よく平塚先生に飲みに連れ回されるし。こいつとこうして宅飲みするのも初めてと言うわけではないし。

 雪ノ下の方も缶ビールのプルタブを開け、互いの缶を軽くぶつける。

 

「んじゃ、お疲れさん」

「ええ」

 

 缶を両手で可愛らしく持ちながらも、グビグビと一気飲みしそうな勢いでビールを煽る雪ノ下。持ち方は可愛らしいし相変わらず何かを嚥下する時の喉元は色っぽいのだが、いかんせん状況が残念すぎる。なんで俺、土曜の夜に美女と缶の酒飲んでるんだろ......。

 

「で? 今日は何があったんだよ」

「あら、聞いてくれるのね」

「聞かなくても喋るくせに何言ってんだか」

「なら早速聞いてもらおうかしら」

 

 そこからは雪ノ下の愚痴のオンパレードだった。どうも今日の出勤は、昨日終わらなかった会議の続きとやらだそうで。司会の議事進行が悪いだの、明確な数字が出ているのに結論を渋るだの、上の連中は相変わらず低脳のゴミどもばかりだの。

 昔のこいつからはおよそ想像もつかないような発言ばかり。こうして誰かに愚痴るくらいなら、直接本人に言いに行きそうなものだったのに。

 これも、社会の厳しさってやつなのかね。学校と違って上下関係のハッキリした会社と言う組織では、さしもの雪ノ下もその猪突猛進ぶりを発揮できないらしい。

 

 暫くは雪ノ下も意気揚々と愚痴を零していたのだが、それも開始一時間くらいまで。

 超ハイペースでアルコールをどんどん摂取していくこの美人OLさんは購入して来た缶ビール4本に飽き足らず、冷蔵庫にあった俺のチューハイやハイボールにまで手を出したのだ。

 その結果今の彼女は頬が紅潮して目もトロンと虚ろになってるし、しかもほぼほぼ無言で酒を煽るしこいつがここまで酔ってるのも初めて見るもんだからなんかもう見てて怖くなって来た。まあ、俺の倍くらい飲んでたらそうなるよね。

 そう言えば会社からこのまま来たみたいで晩飯もちゃんと食ってなさそうだったし、空腹も今の彼女の状態の一助になってるかもしれない。

 

「......雪ノ下?」

「......」

「おーい」

「......なにかしら」

「いや、なにかしらじゃなくて、お前もうそんくらいにしとけ。流石に飲み過ぎだ」

「......いやよ」

 

 この子どんだけストレス溜まってたの......。

 そのストレスの捌け口が俺への罵倒かお酒ってもう色々とダメすぎる。

 いい加減手に握ってる酒を没収してやろうかと考えていると、テーブルの向かいに座ってた雪ノ下がスススッとこちらに這い寄って来た。あまりにも脈絡のないその行動に、俺は咄嗟に対応する事が出来なかった。

 

「......っ」

「ふふっ......」

 

 そのまま俺の肩にコテンと頭を預けてくる。

 相変わらず手にはチューハイが握られているし、目も虚ろで正気であるとは思えないのだが。

 何故だか、彼女から距離を取る気にはなれなかった。

 きっと、俺も酔いが回っているのだろう。

 肩にかかる軽やかな感触がどこか気恥ずかしく、普段なら見れないような幼気な笑顔を浮かべた彼女から顔を逸らす。

 

「ひきがやくん......」

「......なんだよ」

「ひきがやくん......、ひきがやくんっ......」

「はぁ......。呂律回ってねぇぞ酔っ払い」

 

 幼子のような口調で俺の名前を只管に呼び、預けた肩に頭をグリグリとしてくる。そのお陰で綺麗な黒髪は乱れ、いつも髪を結んでいるリボンは解けかけていた。

 

「ったく。髪もぐちゃぐちゃになってるし」

「好き、好きよひきがやくん。大好き」

「......っ。話聞けっての。てか、お前それ酔ったら誰にでも言うやつじゃねぇだろうな。やめとけよそう言うの、死人が増えるから」

 

 こんな風に茶化しでもしなければ、平静を保てるはずもなく。

 テーブルに置いていた新しい缶のプルタブを開けて、一気に喉へと流し込む。それで状況が変化するわけでもないのに。

 俺の頬が熱くなってるのは、酒の影響かそれ以外か。

 

「あなた以外に言うわけないじゃない。あなたの前でだけよ。これだけお酒を飲むのも、酔って無防備な姿を見せるのも。こんなことを言うのも」

「......そりゃ光栄なこって」

 

 酔った勢いで妙なことを口走っていると。そう理解してカタをつけるのは簡単なはずなのに。どうしてもそれが出来ない。理由なんて、考えずとも分かるようなものだが。

 て言うか、こいつこんだけ酔ってたら......。

 

「明日の朝には忘れてるだろうしなぁ......」

「わすれないわよ」

「......独り言に口を挟むなよ」

 

 聞かせるつもりなんてない、本当にただの独り言だったのだが、これだけ近くにいれば聞こえるのは当然か。それが判断出来ないほど、俺も酔っ払ってるのだろう。

 

「私、虚言は吐かないと、昔に言ったでしょう? だから、好きよ」

「......」

 

 接続詞が接続出来てねぇぞおい。忘れる忘れないの話じゃなかったのかよ。

 まあ、最初に話を逸らそうとしたのは俺の方なのだが。

 

「本当に......、とても、とても好きなの......。ずっとずっと......」

「......」

「ひきがやくん......」

 

 何も答えない、なんてのは卑怯だろうか。

 でも、卑怯さで言ったらこいつの方が上だろう。酒の力を借りる、なんてまた小説で良く見る古典的かつシンプルな方法だが。

 

「......雪ノ下っ、て」

「......すぅ」

「マジか......」

 

 まさかまさかの、俺の肩にもたれかかったまま寝てやがるぞこいつ。しかもまた随分と安心しきった顔で。

 思わずその寝顔に見惚れてしまったが、冷静に考えて状況はさらに悪くなってしまった。

 幾ら暖房がついた室内とは言え、真冬に毛布も被らず寝るとか普通に風邪引く。

 

「本当に、卑怯なやつだよお前は」

 

 自分の言いたい事だけ言って寝るなんて。俺にも言いたい事くらいあるのに。

 ここで唇の一つでも奪えたらどれだけマシか。だが悲しいかな。俺にそんな度胸はない。

 

「よいしょっ、と」

「んぅ......」

 

 漏れる寝息に心臓をドキバク言わせながらも、なんとか雪ノ下を担いで直ぐそばにあるベッドの奥の方に寝かせる。

 この家がワンルームで良かった。ベッドが別の部屋にあるとかだったら、そこに運ぶまで俺の心臓が持ちそうにない。

 

「......俺も寝るか」

 

 寝てる隙にキスなんて真似は到底出来ないが、その代わり、これくらいは勘弁してくれ。

 心の中で聞こえるはずもない言い訳をして、同じベッドの上で横になる。勿論しっかり彼女との距離は開けて背中を向けているが。

 残念なことに、それも直ぐに無駄な事となる。

 

「ひきがやくん......」

 

 寝言が聞こえた後、柔らかい感触に包まれた。どうやら俺は、このまま朝まで抱き枕にされてしまうらしい。

 大丈夫か俺......。これちゃんと寝れんのか......。

 

「もうなんでもいいか」

 

 多分朝になれば、この酔っ払いからしこたま文句を言われたり説教されたりするんだろうが、それは明日の俺と今日のお前に言ってくれ。

 諦めて布団をどうにか被ると、思いの外睡魔は直ぐにやって来た。

 

 

 

 

 

 

 翌朝

 

「忘れなさい」

「......何を」

「昨日のこと全部」

「あぁ、やっぱ全部覚えてたのか......」

「忘れないと言うならあなたの存在ごと消し去るしかないわ」

「忘れるよ。ちゃんと忘れるから物騒なこと言わんでくれ」

「そう。なら、いいのだけれど......」

「おう」

「......今度は、ちゃんと素面の時に言うから」

「......おう」

「......だから、もう少し待ってて」

「......待ちきれなくなったら、知らんぞ」

「......そう」

 



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からかい上手の雪乃さん

ゆきのんからかい上手なのん!


 午前の授業が全て終わり、昼休み開始のチャイムが鳴る。高校三年生故か、教室の中には先の授業の復習をしている生徒もチラホラ見かけるが、しかし大半は昼休みの開放感からかバカのように騒いでいる。特に戸部。メッチャうるさい。お前そのバンダナうさ耳とかに変えるぞ。誰得だよ。

 その喧騒がなんだか嫌で、さっさと購買へ向かおうと教室を出る。

 その道中、廊下の向こうから、もう随分と見慣れてしまった歩き姿を発見した。

 迷いのない真っ直ぐな足取りに、ピンと伸びた背筋。艶のある黒髪を靡かせて歩く雪ノ下雪乃は、そのまま俺を無視してすれ違うのかと思いきや、ピタリと足を止めてこちらに向かってくる。なんで?

 

「比企谷くん、そこで止まりなさい」

「は?」

「いいから動かないで」

「え、ちょっ......!」

 

 ふわりと、サボンの香りが舞った。

 そのまま俺の方へと向かう足を止めなかった雪ノ下は、俺との距離を殆どゼロに近いところまで接近して来たのだ。

 ちょいちょいちょい、え、なに? マジでどうしたのこの子? 髪の毛からめっちゃいい匂いするし横顔が凄い綺麗だしなんか肩に手を乗せて来たし! 動かないでとか言われるまでもなく動けるわけがないだろこんなの!

 

「ちょっ、雪ノ下ッ......⁉︎」

 

 学校のアイドルどころか女神として崇められてる彼女の突然の奇行に、廊下にいた生徒達が湧く。

 あちらこちらからキャーキャーと言う黄色い声が上がりながらも、俺に向けられる嫉妬の視線。

 雪ノ下の髪の毛から香るサボンの心地いい匂いと、野次馬からの声や視線に板挟みにされて俺の腐った目がバタフライで泳ぎまくっていると、肩に乗せられた雪ノ下の手が離れていった。名残惜しいとか思ってない。

 

「......はい、取れた」

「......っ」

 

 その穏やかな微笑みを直視してしまい、何故だか顔に熱が集まってくる。

 どうやら雪ノ下は、俺の制服に着いていたゴミをわざわざ取ってくれたらしい。

 

「全く、もう少し身だしなみには気を配りなさい?」

「......悪かったよ」

「ふふっ、分かればいいのよ」

 

 別に一声掛けて教えてくれれば良いものを、こいつは何故か俺に急接近した後に体を触れてゴミを取ってくれた。どうしてそんな勘違いするような行動を一々取るのか。

 これはあれですね。もう完全にあれ。

 

「そんなに顔を赤くして、もしかして、何か期待させてしまったかしら?」

「......んなわけねぇだろ。訓練されたぼっち舐めんな」

「あらそう?」

 

 クスリと笑って見せる雪ノ下は非常に楽しそうだ。そうしていると、どこか彼女の姉に似てるな、なんて思ってしまう。本人に言えば確実に激怒するだろうが。

 

「では比企谷くん。また放課後に部室で、ね?」

 

 その笑みを崩さぬまま胸の前で手を振って、雪ノ下は去っていった。

 なんなんですかその悪戯な笑みは!

 これやっぱり完全に揶揄われてるよなぁ......。

 

 

 

 

 

 

 雪ノ下が昼休みのような奇行に走り出したのは、今週の始めの頃からだった。

 由比ヶ浜が先生達の組んだ特別プログラムとやらに強制参加させられ、今週から部室には俺と雪ノ下の二人のみ。騒がしいアホの子がいないから勉強や読書が捗るなーなんて思っていたのも束の間。敵はどうやらアホの子だけでは無かったらしい。

 この一週間、雪ノ下は俺を揶揄い、その反応を見ては実に楽しそうにクスクスと笑うのだ。その笑顔がまた可愛いもんだから俺も文句を言えずにいる。

 例えば、数学を教えてやると言って椅子同士をくっつけて座ったり。

 例えば、急に「二人きりね」なんて言ってその距離のまま微笑み掛けてきたり。

 とまあ色々と揶揄われてしまった。なんか今の雪ノ下は陽乃さんと同じくらいの性能を獲得してる気がする。実に俺の心臓に悪いことこの上ない。

 しかし、それも今日ここまでだ。

 雪ノ下に一方的に揶揄われるのもうんざりしていた。今日は、俺が雪ノ下を揶揄ってやろうではないか。

 

「......全問正解ね。お疲れ様」

「ん、サンキューな」

「これくらいなら全然構わないわよ」

 

 俺が解いていた数学の問題の丸つけをしてくれていた雪ノ下は、本当になんと言うことはないと言った風に首を横に振る。

 その顔は、今週に入ってずっと見てきた穏やかな、そしてどこか悪戯な笑みを浮かべていた。そんな表情を浮かべていられるのも今のうちだぜ!

 

「いや、本当に助かった。なんかお礼がしたいんだが......」

「......あなたが素直に厚意を示すだなんて怪しいわね」

「俺だって礼くらいはするっての」

 

 くっ、まさかここに来て普段の俺の捻くれ具合が仇となるとは......。いやしかし、ここでめげてはダメだ。めげないしょげないドラゲナイ。

 

「そういやこの前テレビで見たんだが、ハグをすると疲れとかストレスが吹っ飛ぶらしいぞ?」

 

 そう言った時の俺の口元は、それはそれは邪悪に歪んでいたことだろう。

 普段の雪ノ下であれば、俺の今の言葉に対して顔を少し赤くしながらも俺に対して早口で罵詈雑言を捲し立てた挙句、そんなものは迷信だの信憑性が無いだのとボロクソに言うことだろう。

 そんな雪ノ下を見て、俺は言うのだ。「そんな早口で捲し立てて、一体何を想像したんですかねーニヤニヤ」ってな!!

 さあ雪ノ下、いつもの早口を発動するがいい!

 

「あら、それはいい事を聞いたわね」

 

 ......ん?

 

「確かにあなたに数学を教えるのは少し疲れることではあったし、早速実践してみようかしら」

 

 ......んん?

 

「何をしているの比企谷くん? さあ、早く私をハグしなさい」

 

 んんん⁉︎

 待て待ておかいし待て落ち着け待て。

 いやマジで落ち着け俺。

 え? ちょっとなにこの展開? 八幡こんなの聞いてないよ? なんで雪ノ下は俺に向かって手を広げてるのん? 赤面は? 早口は? 罵詈雑言は⁉︎ こいつ、本当にあの雪ノ下雪乃か⁉︎

 

「あら、もしかしてお礼はしてくれないと言うのかしら。あなたの数学を見てあげた結果私は疲れていると言うのに」

「いや、そのだな......」

「お礼をすると言ったのはあなたでしょう? そしてこのタイミングでハグの話を持ち出して来たと言うことはあなたにはそうする意思があると言うこと。違う?」

「違わなくは、ないんだが......」

「それとも、訓練されたぼっちとやらはこの程度で陥落してしまうのかしら?」

「..................わかったよ、やればいいんだろ」

「ふふっ。では、どうぞ」

 

 結局頷いてしまった。

 小町、お兄ちゃん頑張ったけど、雪ノ下には勝てなかったよ......。

 観念して両手を広げる雪ノ下の前に立つ。

 やばい、心臓めっちゃ煩い。本当にハグしちゃって大丈夫なんだよな? したらしたで通報とかされないよな? いや、寧ろハグした後コンマ1秒で、逆に気分が優れなくなったからもういいわお疲れ様みたいな感じになるかもしれない。うわぁ、ガチであり得そうでちょっと凹むな......。

 

「なにをしているの? ほら、早く」

「お、おう......」

 

 俺が中々動かないからか、雪ノ下はちょっと拗ねたような表情で急かしてくる。

 ここまで来てしまったらもう腹をくくるしかない。

 意を決して、俺よりも一回り小さな雪ノ下の体を恐る恐る抱き締める。

 

「はふぅ......」

「うわっ......」

 

 思わず声が漏れてしまった。

 初めて抱き締めた女の子の体は、想像よりもずっと柔らかく、ずっと小さかった。

 その感触と、髪の毛から香るサボンの香りで頭がクラクラしそうになる。

 一方で俺の胸の中の雪ノ下はと言えば、スーハーと深く息を吸っては吐いてを繰り返し、やがて俺の顔を上目遣いで見上げてくる。その表情はやはり、俺の反応を見て愉快そうに笑う小悪魔のようなものだった。

 恥ずかしくて顔を逸らしたかったが、今の態勢ではそれも叶わない。

 

「あなた、心臓の音が凄いわよ?」

「......緊張してるんだよ、察しろ」

「それはごめんなさい」

 

 全く悪びれた様子もなく、クスクスと笑いながら、雪ノ下は俺の背に回した腕に更に力を込めて来た。

 やめて! それ以上がっつりくっ付かれたら八幡のハチマンがとんでもないことになっちゃうから!

 と、俺のそんな男子特有の悲しい感情に雪ノ下が気付くはずもなく、いや、もしかしたら気づいていてわざと抱きしめる力を強めてるのかもしれないが、尚も笑みを浮かべたまま、彼女はどこか恍惚とした声を上げる。

 

「ふふっ、どうやらハグで疲れやストレスを解消できると言うのは本当みたいね」

「あの、雪ノ下さん......? 一体いつまで俺はこうしていたらいいのでしょうか?」

「あなたはいつまでこうしていたい?」

「えぇ......」

「ほら、素直に言ってごらんなさい」

 

 背中に回された雪ノ下の指がススッと蠢く。

 それに背筋がゾクリとして、気を抜けば彼女にどこまでも溺れてしまいそうだ。

 そうは行くまいと必死に理性を総動員させていたはずなのに、口から漏れた言葉は真逆のものだった。

 

「......ずっと」

「あら、それは奇遇ね。私もずっとこうしてたいと思っていたの。どうする? 私の家に場所を変える?」

「いや、流石にそれはちょっと......」

「見事なヘタレっぷりをどうもありがとう。けれど、時間はタップリとあるのだし、折角だから場所を変えてもっと楽しみましょう、ね?」

 

 こちらを揶揄うような可愛い微笑みに充てられ、俺は頷く以外の選択肢を剥奪されてしまった。

 あぁ、全く、こんなにもからかい上手の雪ノ下には、どうあっても勝てそうもない。

 きっとこの後もいいように弄ばれてしまうのだろうが、それも悪くはないのかもしれない、なんて思ってしまう始末。

 俺が雪ノ下に一矢報いることが出来る日は、果たして来るのだろうか。来ないだろうなぁ......。

 

 



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ゆきのんのことが何故かとても可愛く見える八幡の話

 話し声一つない部室の中には、しかし様々な音が鳴り響いていた。

 秒針の刻むカチカチと言う音、壊れかけのストーブの鳴らすグオングオンと言う音、文庫本のページが捲られるペラペラと言う音。そしてそこに時折混じる、グラウンドから聞こえる運動部の声や、音楽室から聞こえる吹奏楽部の演奏。

 とても居心地のいい時間だ。読書も進むし、時には勉強をしても捗ること間違いなし。いつも騒がしいお団子頭の彼女がいないのも、原因の一つかもしれない。

 俺の向かいに座る雪ノ下は、斜陽の中で本を読んでいる。相変わらず絵になる姿だ。

 彼女のその美しい姿を、絵画のようだとか、芸術品のようだとか、そんな風に形容した回数は両手の指では最早足りず。まあだからと言ってそれを口に出して言ったのか聞かれればノーと答えるしかないのだが。

 

「どうしたの?」

 

 少し不躾に視線を投げ過ぎたか。雪ノ下は文庫本から目を逸らさずに声をかけて来る。今もまたページをその白く細い指で捲った。

 って、なんで俺こんなに雪ノ下のこと細かく観察してるんだよ。これじゃ通報されても何も言えないぞおい。

 

「いや、なんでもない」

「そう? その割には、随分と私にその煩悩に塗れた目を向けていたようだけれど」

「おい待て、俺がいつお前にそんな視線を向けたって言うんだよ」

「あら、違うの?」

 

 違わないですねはい。本当すいません。

 しかしここで黙ってしまうのは得策ではない。そうしてしまえば、雪ノ下に対して煩悩に塗れた視線を投げかけていたことを肯定してしまう。いや、事実ではあるんだけどそれを簡単に認めるわけにはいかないし。

 なんと答えたもんかと悩んだ結果、結局頭に思い浮かんだことをそのまま口にした。勿論俺の視線は彼女から逸らされていたけれど。

 

「あー、そのだな、改めて見ると、お前ってやっぱ可愛いんだな、と」

 

 そう、雪ノ下雪乃は可愛い。その昔彼女自身も言っていたことだ。こうして彼女の近くにいて、それなりに長く濃厚な時間を過ごして来て忘れがちだが、こいつは美少女だ。俺や由比ヶ浜の知らないところで告白だってされてるだろうし、その際何人もの男子生徒が心に傷を負っていることだろう。

 改めて言わなくとも、分かりきった事実。

 俺のそんな言葉にどんな罵倒が返ってくるのかと戦々恐々としていたのだが、そんな予想に反して中々返事の罵倒が来ない。

 罵倒って決めつけちゃってる辺り悲しい。

 少し不思議に思い、向こうをチラリと盗み見ると、その顔が驚くほど紅く染まっていた。

 そして重なる視線。雪ノ下は弾かれた様に俺の目から逸らすと、早口で捲し立てだす。

 

「......っ。そ、そう。まさかあなたの口からそんな言葉が漏れるなんて思いもよらなかったけれど、今更な事実確認をありがとう。けれど私が可愛いと言うのはあなたも入部当初から知っていることでしょう? 何故このタイミングでそんなことを言うのか甚だ疑問を感じるわね。疑問を感じ過ぎて最早気持ち悪いまであるわ。確かに可愛いと言われて嬉しくないと言ったら嘘になるのよ? でもそうやって唐突に言うのはよしてくれないかしら、思わず鳥肌が立ってしまったじゃない。通報してしまったらどうするの? そう言うのはきちんとタイミングやムードを弁えて言うものだと思うのだけれど」

「ゆ、雪ノ下......?」

「な、なにかしら......」

 

 いつもの照れ隠しが発動した雪ノ下を取り敢えず止める。一息に言い切ったからか、少し息が上がっており、ゼェハァと肩を上下に揺らすその姿はどこか色っぽくも見えてしまう。

 そんな姿を見せられては、俺まで顔が熱くなってしまうと言うもので。最早正常な思考回路では無くなってしまった脳味噌は、今この状況における事実だけを口から吐かせる。

 

「お前、顔真っ赤だぞ......」

「......っ⁉︎⁉︎」

 

 これ以上は無いだろうと思っていた彼女の顔は、それでもまだ紅に染め上げられる。

 バッ! と勢いよく上げられる両手。

 目元までを一気に文庫本で隠し、しかし、その濡れた瞳だけをチラリと覗かせて俺を見る。

 やめろよおい。お前がそんな事やっても可愛さに磨きが掛かって理性の化け物が死ぬだけだぞ。

 

「やっ......、み、見ないでくれるかしらっ......」

「あ、ああ、悪い......」

 

 ほんの数分前までは、何人にも触れられぬ気高い美しさを醸し出していたと言うのに、今の彼女は幼い少女のようだ。

 そのギャップがまた堪らなく可愛らしい。

 しかし見ないでくれと言われてしまっては、これ以上彼女の方を見ているのも些か失礼だろう。気持ちを落ち着かせて文庫本に目を落とす。

 が、悲しいことに俺は健全な思春期真っ只中の男子高校生である。そんな俺が隣に座っている超絶可愛い女の子を無視することなんて出来ず、懲りもせずに向こうをチラリと見れば。

 

「......っ」

「......っ! こっ、こちらを見ないでと言ったでしょう。その腐った目を抉られたいのかしら」

 

 またしても見事に目があって咄嗟に顔を逸らしてしまった。聞こえてくる罵倒がどこか安心感を齎す始末だ。ちょっと裏返っていたのは聞かなかったことにしておくとして。

 それ程までに、今のこの部室と言う空間は常日頃のものから乖離した雰囲気となってしまっている。

 ああクソ、顔が熱い。

 

「......悪かったって。つーか、お前昔は自分で自分のこと可愛いとか言ってたくせに、なに今更恥ずかしがってんだよ。それに、こんなありきたりな言葉は聞き慣れてんじゃねぇの?」

 

 気を紛らわすかの様にまたしてもなにも考えず発言してしまった。

 その選択が命取りとも知らずに。

 

「昔は昔よ。それに、そこらにいる有象無象に言われるのと、あなたに、言われるのとでは、違う、もの......」

 

 言葉尻にいくに従って掠れていく声。しかし残念なことに、二人だけのこの広くもない部室では十分俺の耳に届いてくる。目元まで隠していた文庫本は更に上まで上げられ、完全に顔を覆ってしまった。

 今の雪ノ下の言葉を鵜呑みするなら、俺はそこらにいる有象無象とは違うわけで。それは即ち、彼女にとっては少なからず俺と言う存在が特別だと言うことで。

 なんだろうか、この込み上げてくる衝動は。胸を高鳴らせる情動は。

 ああ、そうか。嬉しいのか。

 俺が彼女にとって特別であることが。

 俺の言葉が、彼女の心を揺れ動かしていることが。

 ともすれば独占欲にも似た醜い感情かもしれないが。けれど、なぜか悪くない。そんな気分だ。

 

「だから、その......」

 

 一つ前の発言からは暫くの間が出来ていたが、それでも雪ノ下は口を開いた。

 あそこからまだ何か続く言葉があるのか。これ以上はマジで理性の化け物も自意識の化け物も耐えられませんよ? ただでさえノックアウト寸前なのに。

 顔を覆っていた文庫本が少し下げられ、再び目元の位置で固定。

 露わになった濡れた瞳は、俺をしかと見つめていて。

 文庫本で未だ隠された唇が言葉を紡ぐ。

 

「......ありがとう。あなたからそう言ってもらえると、とても嬉しいわ」

 

 顔の殆どが隠されていても分かるほどの、綺麗な笑顔だった。それこそ、身体も精神も止まってしまうほどの。

 それはきっと、彼女の発した言葉も一因を担っているのであろうが。でも、そんな事は正直どうでも良くて。

 今この瞬間、間違いなく。

 比企谷八幡は雪ノ下雪乃に魅了されていた。

 

 

 

 

 

 

 その後特に会話がある訳でもなく、二人して読書に戻っていたのだが、雪ノ下の本を閉じる音で部活終了と相成った。

 帰りの支度をしながら外を見遣ると、日は完全に落ちかけており、もうあと30分もしないうちに外は暗くなるだろう。

 

「雪ノ下」

「......なにかしら」

 

 唐突に呼びかけられ、少し不思議そうな表情をしながらも彼女は答えてくれる。

 その頬が未だ若干紅く見えるのは、橙の空を背に受けている事だけが理由ではないのだろう。

 さっさと用件を伝えないと、俺の頬まで同じ色になってしまいそうだ。

 

「......帰り、送ってく」

 

 随分とぶっきらぼうな言い方になってしまった。寧ろらしくていいかもな、なんて気休めが頭に過ぎるが、それよりも何よりも問題視すべきは彼女の反応だ。

 

「それは、どうして......?」

 

 ほら、やっぱり。

 突然言われて困惑してるらしい。本当にどうしてか分からないと言った風に小首を傾げている。

 どうしてと問われれば理由はいくらでもでっち上げる事が出来る。

 でも、そうだな。今日の流れに沿ってでっち上げるとするならば。

 

「ほら、あれだ。お前は可愛いからな。そんな可愛いお前を夜道に一人で返すとか、襲われたら大変だろ」

「......っ。また、そんな簡単に可愛いだなんて......」

「事実だからいいだろ。んで、どうすんの?」

「......ではお願いしようかしら。いざという時の肉壁程度には役立ってくれるのでしょう?」

「もしかしたら真っ先に逃げてるかもな」

「ならなんのために送るのよ......」

 

 なんのためだなんて、さて、なんのためなんだろうな。少なくとも、襲われそうで心配ってのは強ち嘘でもないと思うぜ。

 それ以外の理由もあるかもしれんが、まあ、そこは今こいつに語るような事でもないだろう。またそのうち、おいおいってやつで。

 

「では帰りましょうか。可愛い私が襲われないか心配で夜も眠れない比企谷くん?」

「なにもそこまで言ってないだろうが......」

 

 それと、自分で言いながら赤面するのやめてもらっていいですかね。こっちまで恥ずかしくなるんで。

 その辺りも含めて、本当に可愛いやつだよ、お前は。



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ゆきのだいふく

 寒い日に食べるアイスは格別である。

 これは俺のみならず、ある程度の人々の間で広まっている一種の常識のようなものだろう。

 寒いからこそ、冷たいものを食べる。そこには、夏の暑い日とはまた違った美味しさが生まれるのだ。

 しかも冬限定の味とか出しちゃうし、これは甘いもの好きとして買わなければなるまい。

 と言うことで、冷凍庫に置いてあった雪見だいふくを取り出してリビングのソファに腰掛ける。

 雪見だいふくはいい。このもちもちとした食感とアイスの甘さが絶妙に口の中で絡み合う。

 

「こんな寒い日に、よくアイスなんて食べられるわね」

 

 カップの蓋を開けたところで、隣の恋人から声がかかった。

 その視線は俺の雪見だいふくに向けられている。

 

「寒いからこそ食べるんだよ」

「体調崩すわよ?」

「春夏秋冬毎日お前の冷たさに耐えてるからな。これくらい余裕だ」

 

 ムッと眉根に皺を寄せる恋人、雪ノ下に苦笑いを返してから雪見だいふくのカップの中に入っている串を持つ。

 今日買ってきたのは普通の雪見だいふくだ。チョコ味とかあったけど、俺はこのバニラ味こそが最高にして至高だと信じて疑わない。

 さて頂こうかと串を刺したのだが、なんだか隣から視線を感じる。

 

「......なに、どした?」

「......一つ頂いてもいいかしら?」

 

 その質問に、今度は俺が眉間に皺を作った。

 

「それはダメだな」

「何故?」

「よく見ろ雪ノ下。雪見だいふくは二つ入りだ。お前はその内の一つを寄越せと言ってる。その意味が分かるか?」

「全く分からないわね」

「ただでさえ二つしかないものが一つになっちゃうんだぞ? 例えばこれが六つ入ってるピノだとしよう。そうしたら俺もなんの気兼ね無くお前に二つほど献上していただろう。俺の取り分はそれでもお前より多くなるからな。けど雪見だいふくを一つでも上げたら、俺とお前で取り分が均等になってしまう」

「ケチな男ね。そんなのじゃ嫌われるわよ、私に」

「それは困る」

 

 いや、マジで困る。

 マジで困るのでどうしようかと悩んでいると、雪ノ下は顔をこちらに向けて目を閉じた。そして無言で口を開ける。

 これは、もしやあれか? この中に雪見だいふくを放り込めとでも言いたいのか?

 いや、でも俺だって雪見だいふくを二つ食べるの結構楽しみにしてたのに。実家にいた頃は確実に小町が無言で一つ取るから、初めて一人で二つ食べられるとちょっとワクワクしてたのに。

 けどここで雪ノ下に上げなかったら彼女に嫌われると言う。

 それだけは避けなければならない。

 たっぷり十秒ほど悩んだ末、俺は雪ノ下の口の中に雪見だいふくを放り込んだ。

 

「あむ......」

 

 小さく齧ってモキュモキュと咀嚼するその様はまるで小動物のようで大変可愛らしい。餌付けした気分だ。

 こんな表情を見れるなら、躊躇わず雪ノ下に差し出せばよかった。

 アイスを口の中で溶かし、餅の皮を飲み込んだのか、雪ノ下は次の一口を強請るようにまた口を開いた。

 そして勿論そこに齧りかけの雪見だいふくを放り込む俺。

 ヤバイ、なんか楽しい。

 まず雪ノ下が可愛いし、次に雪ノ下が可愛いし、最後に雪ノ下が可愛い。

 雪ノ下が雪見だいふくを食べる。そんな様子を見ていて、ふと脳裏に過るとある言葉。特に考えることもなく、それをボソッと言ってみる。

 

「......雪乃だいふ、ああなんでもない。なんでもないから睨むな」

 

 言い切る前に絶対零度の視線で睨まれてしまった。そんなに面白くなかったですかね......。

 因みに雪ノ下のほっぺたは雪見だいふくよりもモチモチである。ソースは俺。なんで知ってるかとかは聞かないで頂きたいが、このほっぺたは一日中触ってても飽きないとだけは言っておこう。ほっそりとしていて薄くみえるのに滅茶苦茶柔らかいとか反則だと思うんだ。

 閑話休題

 やがて雪見だいふくを一つ丸々食べ終えた雪ノ下は満足気にお礼を言ってきた。

 

「ありがとう。確かに美味しかったわ」

 

 残る雪見だいふくは一つのみだ。これは俺が食べるもの。

 俺が食べるものなのだが、悲しいかな。恋人の可愛い姿を見たいと言う欲求には勝てなかった。

 

「もう一個食うか?」

「......いいの?」

 

 控えめに聞き返してくるも、その目は子供のようにキラキラしている。そんなに雪見だいふくが気に入ったの? なんなら明日から毎日買ってきて食べさせて上げますよ?

 

「そんだけ美味そうに食われたら上げたくなっちゃうだろ」

「でも、比企谷くんの分が......」

「気にしなくていい。俺はまた今度食うから。ほれ、口開けろ」

「じゃあ......」

 

 俺の言う通り口を開ける雪ノ下に、また雪見だいふくを差し出す。

 そう、雪見だいふくなんぞ別に今じゃなくても食えるのだ。しかし雪ノ下のこの表情は今この時でないと見れない。

 恋人の可愛い姿と喜んでる姿が見れて一石二鳥である。

 小さな口で雪見だいふくを齧った雪ノ下は、しかしそれを咀嚼するでも無く、こちらに身を乗り出して来た。

 

「え、ちょっ......」

 

 そしてそのまま顔を近づけて来る。

 何事かと口を開いた瞬間、雪ノ下にキスされた。

 

「......っ⁉︎⁉︎」

 

 既に溶けて液体になったバニラアイスが口の中に流れ込んで来る。立て続けにやって来た餅の皮すらも、バニラアイスに負けないほど甘く感じたのは、一緒に口内に侵入して来た雪ノ下の舌のせいだろうか。

 つまり、なんでか知らんが、口移しされた。

 あまりに唐突すぎる出来事に何も言えないでいると、顔を離した雪ノ下は頬を染めながらもしたり顔で微笑んだ。

 

「こっちの方が、甘くて美味しいでしょう?」

「......甘過ぎて舌が痺れちまうが、美味しいのは確かだな」

「そう。なら、次は私に頂戴、ね?」

 

 これから毎日雪見だいふくを買おうと決意した瞬間だった。

 因みに翌日買って来ても同じことはしてくれませんでした。グスン。



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有り触れた青春のワンシーン

「好きです!付き合ってください!」

 

 一つ下の後輩に校舎裏へと呼び出され、思いの丈を告げられる。

 高校生活と言う青春の舞台には有り触れたワンシーンだ。

 しかし、こと俺に関して言えば、それは全く異質なものへと変化する。

 まず最初に、俺が校内でも指折りの嫌われ者であると言うこと。他学年にどこまで広まっているかは知らないが、文実委員長を泣かせたヒキタニ、なんて話は探せば幾らでも出てくる。

 次に、中学での俺の経験。呼び出しを食らった時点でまず罰ゲームとかその類だろうと疑って行かない可能性が大。

 従って、俺に関しては青春ラブコメ的イベントなんて起こるはずも無いのだ。ソースは入部当初の俺と雪ノ下。美少女と密室で二人きりだと言うのに、あの時やってた事なんて互いの黒歴史をほじくり返しては、互いに傷を負うとか言う訳の分からん生産性皆無な事しかしてなかったし。

 それが俺だ。伊達にどこぞの大魔王に理性の化け物だか自意識の化け物だかと呼ばれてない。

 

 さて、ここで今現在の俺の状況を冷静に把握してみよう。

 場所は校舎裏。ベストプレイスに程近い所だ。ベストプレイスよりも更に人目のつかない奥の方となっている。

 時は放課後。授業もすべて終わり、これから部室へ行こうと言う時に、何故か二年F組の教室にやって来た一色いろはに言われるがままここに来てしまった。

 そして俺の目の前には、一年生である女子が。俺の目を見つめて先程の言葉を放った。

 一大事である。

 この名前も知らない一年生。どうやら彼女曰く、一ヶ月ほど前に階段から転げ落ちそうになっていた所を俺が助けたらしい。

 この俺の高度な頭脳による記憶力で過去を回想してみると、確かにそんな事があった。あの時も部室に行く途中だったか。

 

「その、返事を、お願いしてもいいですか......?」

 

 不安そうにこちらを見つめる目は小動物を思わせる。よく見れば可愛い子だ。短く切り揃えられたボブカット。クリッと大きな目。制服は規定通りに着用しており、彼女の真面目さが伺える。

 返事を、と言われたからには返事をするしか無いのだが、さてどうしたものか。

 何もこの告白を受けようかどうかで悩んでいる訳では無い。

 彼女には悪いが、どう断ろうかで悩んでいる。適当に嘘をでっち上げて適当に断るのは簡単な事だろう。

 しかし、彼女は罰ゲームで俺に告白している訳で無ければ、その想いは本気という事なのだろう。ありがたい話だ。こんな人間の屑を好きになってくれるなんて。

 ならばこそ、そんな不誠実な真似をするわけにはいかない。

 そりゃ俺だって健全な男子高校生なわけで、こんな可愛い子から告白されてしまっては心も揺れ動く。彼女だって欲しい年頃だ。

 

 

 ふと、視界の端であるものが揺れ動いた。

 風で靡いた艶やかな黒。その中を飛ぶ番いの赤い蝶。

 実際にその姿を見た訳でも、顔を見た訳でもない。校舎の影からチラリとそれが見えただけだ。

 けれど、それを見た途端に脳裏に過るのは、あいつの、雪ノ下の顔だった。

 ......断る理由、見つかっちまったなぁ。

 別に悪いことをしようという訳ではないのに、心が罪悪感で押しつぶされそうになる。それを必死で耐えながら、俺は目の前の女生徒をしっかりと見て、返事の言葉を口にした。

 

「悪い。俺、好きなやついるんだ」

「そう......、ですか......。あの、お話、聞いてくれてありがとうございました」

「いや、こっちこそ、悪い」

 

 短く言葉を交わした後、女生徒は俺を横切り、校舎の方へと駆けて行った。

 成る程、これはキツイ。

 自分に向けられた感情、しかも好意的なそれを、他の誰でもない自分自身の感情で踏み躙る。

 少し大げさな言い方かもしれないが、強ち的外れという訳でも無いだろう。

 どっと押し寄せて来た妙な気疲れを溜息で押し流し、女生徒が駆けて行った方とは逆方向に歩き出す。

 そこにはまだ、先ほど見た流麗な黒が残っていた。

 

「よう、奇遇だな」

「......そうね」

 

 校舎の角を曲がって直ぐの所に、雪ノ下は立っていた。

 いつものように背筋をピンと伸ばして、けれどその顔はどこか浮かないものだった。

 彼女のことだから、きっと覗き見してしまった事に対して申し訳なく思ってるとかそんなんだろう。別に気にしなくてもいいと言うのに。

 

「その、ごめんなさい。覗くつもりは無かったの」

「いい、気にすんな。それより部室行こうぜ。由比ヶ浜が待ってるかもしれん」

 

 この話はこれ以上続ける必要はない。事実、俺と彼女の間にはなんとも言えない微妙な雰囲気が漂っていた。

 確かに今考えたら、さっきの全部雪ノ下に聞かれてたって事だよな?

 っべー、今更ながらなんか恥ずかしくなって来た。しかも俺が断った時の言葉も聞いていたとすれば......。

 

「あなたにもいるのね。好きな人」

 

 ど真ん中ストレート160km/hの発言が飛んで来やがった。普通そこは流して何事もなかったかのように部室行くところじゃないの?

 

「いちゃ悪いかよ。俺だって一般的で健全な男子高校生なんだ。好きなやつの一人くらいいてもおかしくないだろ」

「あなたが一般的かつ健全なのかはさて置くとして」

「さて置かないで」

「そう、よね......。あなたにも、そう言う人がいてもおかしくはないものね」

 

 雪ノ下の表情が更に沈んで行く。

 このタイミングでそんな表情をされてしまえば勘違いしちゃうだろ、なんて言えるほど、こいつとの関係は浅くない。

 いや、寧ろ勘違いの可能性の方が高いかもしれないけれど。

 でも、ここで一歩、踏み込んで見ても、良いだろうか。

 

「なあ雪ノ下、ちょっと話に付き合ってくれよ」

「部室に行くのではないの?」

「まあその前にちょっとだけだ。ただの与太話だと思って聞き流してくれてもいいし、なんなら俺の独り言だと思ってくれてもいい」

「そんな言い方をされると更に聞く気が失せるのだけれど......」

「バッカお前、俺が今までどれだけお前に与太話を繰り返して来たと思ってんだよ。今から話すのも、それと同じだ」

 

 材木座のセリフを若干パクってしまったが、まあ気にしない。なにせ材木座だから。

 雪ノ下の隣に立って、壁にもたれ掛かる。その距離は人一人分くらい空いている。

 雲ひとつない晴れ空を見上げながら息をひとつ吐き、誰に言うでも無く、言葉を発した。

 

「俺の好きなやつな、凄いやつなんだよ。勉強も出来るし、運動だって出来る。しかも超美人と来た。俺なんかが逆立ちしたって敵わないようなやつだ」

 

 隣の雪ノ下の肩が震えたのが分かった。

 けれど、それに対して俺が反応することはない。彼女はこの話を聞き流しているから、数分後には忘れているだろうし。

 

「最初はそいつに憧れた。そいつの強さや正しさが俺に眩しかった。同じぼっちで、俺とそいつは似てると思っていたんだ。けれど、全然似てなかった。おかしいくらいに違ったんだよ、これが」

 

 地面を見つめる雪ノ下と、空を見上げている俺。

 普段なら逆だろうに。

 いつも下を向くくらい卑屈なのが比企谷八幡で、いつも上を向くくらい真っ直ぐなのが雪ノ下雪乃で。

 それが、いつもの俺たちだったのに。

 

「でも、そもそもの前提から間違えてた。べつにそいつは特別なやつなんかじゃなかった。本当は普通の女の子なんだよ。猫とパンさんが好きで、犬とか暗いところとかが苦手で、素直になれずに毒吐いて、姉にコンプレックスを持ってて、唯一の親友の為に頑張れる。そんな普通の女の子だったんだ」

 

 雪ノ下は何も言わない。

 だから、俺も彼女にかける言葉はない。

 ただ、独り言に似たような話を続けるだけ。

 

「多分、俺に見せてないだけで、もっと別の側面がそいつにもあるのかもしれない。それを知りたいと思った。そんで、そいつも俺のことを知りたいと思ってくれてる、と思うんだよ。まあ、いつもの勘違いかもしれんけど」

 

 最後に自虐的に笑って、話は終わりだとばかりに壁から背を離した。

 この話は本当にここで終わりだ。

 この後部室に行けば、またいつもの日常に戻るし、ここでの事は無かったかのように扱われる。

 それでいい。

 

「ほら、部室行こうぜ。マジで由比ヶ浜待ってるかもだし」

 

 雪ノ下の方を見向きもせず、背中を向けて歩き出そうとして、しかし、出来なかった。

 

「勘違いじゃないわよ」

 

 いつもの、鈴のような綺麗な音色が聞こえて来たから。

 

「勘違いでは、ないわ」

 

 振り返った先の雪ノ下は、先程までの沈んだ表情を消していて。

 もう随分と見慣れた、澄み渡った空を思わせる強い瞳で俺を見ていた。

 いつもその瞳に映されていたと言うのに、直前の出来事もあってかどこか気恥ずかしくなる。

 

「......そうか」

「ええ、そうよ」

 

 雪ノ下雪乃は嘘を吐かない。

 俺の中では最早定説と化したそれだが。

 その雪ノ下が、ここまで断言したのだから、勘違いではないのだろう。

 卒業までに、校舎裏へと呼べるだろうか。



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Accident Kiss

「ちょっと、もう少し詰めなさい」

「無茶言うな、こっちだって限界なんだっつの」

 

  満員電車に雪ノ下と二人、おしくらまんじゅうみたいな状態の車内で目的の駅まで我慢比べ。

  なんでこんな状態になってるかって? そんなもんこっちが聞きたい。と言っても、放課後になって酷くなった降雪故、電車で帰るのを余儀なくされた俺と、元から電車で通学してる雪ノ下が同じ電車に乗っているのはさしておかしなことではないだろう。

  だから、俺が一緒に帰ろうなんて言ってしまった事実は然程関係ないし、その時ちょっと嬉しそうに笑ってた雪ノ下なんてみていない。

  ある程度予想はしていたものの、電車の中は超満員。この雪で仕事が早く終わったのか、むさ苦しいスーツのおじさまが何人も見受けられる。千葉県はホワイト企業ばかりのようで安心です。まあ俺は働かないけど。

 

「少し時間をずらすべきだったわね......」

「これの後って言ったらもう動いてないと思うけどな」

 

  俺たちの今乗ってるこの各駅停車の電車だって、現在は道中で立往生してる状態なのだ。

  お陰様で車内は揺れていないが、出来れば早く運転再開して欲しい。早く帰りたいのも勿論あるし、四方八方から押されているのもあるのだが、それより何より、目の前の超至近距離に滅茶苦茶綺麗な顔があることの方が重大である。しかも俺の胸に手を置いてるし。

  なんなのこの子。さりげないボディタッチとかお前童貞クソ野郎には効果抜群なんですけど? お陰でこいつの顔を正面から見ることすら出来ない。完全に密着してないだけ、まだマシなのかね。

 

「心臓、凄いことになってるわよ?」

「......っ」

 

  揶揄うような笑みを向けられて、言葉に詰まってしまった。その原因が何を言うのか。

  周囲にどれだけ汗臭いおじさま達がいようと、雪ノ下の髪から匂うサボンの香りはその清涼感を全く損なわない。正直それだけで頭がクラクラしてたりするのだが。

 

「悪かったな。こちとら万年ぼっちだったから、女子との接触になれてないんですよ」

「ぼっちだった、ね」

「一々言葉のあげ足取らんでいい」

 

  自分でも特に意識せず発言していたのだから驚きだ。まさか、過去形で語るなんて。

  目の前でクスクスと可愛らしく笑うこのお嬢様は気付いているのだろうか。他の誰でもない、こいつ自身が、俺がぼっちで無くなった原因の一人だなんて。

  知らなかったとしても、それを教えてやる義理はないのだが。

  雪ノ下が楽しそうに笑う様は見ていて飽きるものではないのだが、こちらとしては恥ずかしいやら何やらなのでさっさと運転再開して欲しい。

  その思いが通じたのかどうかは分からないが、運転手からアナウンスが。

 

「漸く運転再開みたいね」

「ああ、やっと小町の待つ家に帰れる......」

「それはそうと、電車が動き出す前にもっと詰めなさい」

「いやだから、今で限界だって言っただろ」

「そうではなくて。もっとこちらに詰めなさいと言っているの。私が気付かないとでも思った?」

「......そこは気付いても言わない方が助かったんだけどな」

 

  どうやら、ぎゅうぎゅうと押し寄せてくる周りの人間を押しとどめていたのはバレバレのようで。そうでもないと、この状況で雪ノ下と完全に密着しないとか無理だし。彼女に負担がいかないようにとの考えは勿論あるが、それよりも自分のためと言うのが大きいので、素直に頷けるわけもない。

  さてどうしようかと悩んでいると、運転を再開した電車が揺れ動いた。今まで止まっていたものがいきなり動き出したのだから、中にいる人間までも一緒になって揺れてしまう。

  その結果、俺の胸を唯一の支えにしていた雪ノ下は見事にバランスを崩してしまい。

 

「きゃっ」

「うぉっ」

 

  すっぽりと俺の胸の中に全身が収まったのでした! しかも咄嗟に雪ノ下の腰に手を回してしまう俺。なにやっちゃってんだマジで。これ痴漢って言われても反論出来ないぞおい!

 

「わ、悪いっ......!」

「......この状況だもの。仕方ないから不問とするわ」

 

  しかし俯いた雪ノ下の口から出たのは、俺を罵る言葉ではなく。意外や意外、なんのお咎めもなし。え、マジで?

 

「だから、降りる駅が来るまではちゃんと支えてなさい」

「......分かりましたよ、お嬢様」

 

  今更手を退かせと言われても、この満員電車の中では中々難しい。だから、仕方ないから言われた通り、目的地まではしっかりと支えておいてやろう。

  しかし困った。なにが困ったって、密着してしまったせいで感じてしまう雪ノ下の体の柔らかさとか、さっきよりも強烈に香る雪ノ下の髪の匂いとか、手を腰に回してしまったことで分かってしまう華奢な体とか、なんか色々困った。中でも一番困ってるのはあれだ。周りの人間どもが少しでも雪ノ下に触れてると思うと、訳のわからない怒りやらなにやらが胸の奥で燻ってることか。そんな感情を抱いてる自分が、気持ち悪いことこの上ない。

  しかも俺たちの降りる駅って、まだ三つくらい先なんだけど。

  流石の俺もそんな長い時間理性が持つかは分からない。さらに言えば、そこに辿り着くまでにまた電車が止まる可能性だってある。

  やっぱり腰に回してる左手退かせて貰おうかしら、と思って胸の中の雪ノ下に顔を向けた瞬間。

 

「ぁ......」

「っ......」

 

  ほんの一瞬だけ、唇になにか柔らかい感触が掠めた。見ると、雪ノ下もこちらに顔を向けている。

  澄んだ空を思わせる濡れた瞳、透き通った綺麗な鼻梁、そして、柔らかそうな紅い唇。その美しい顔から、目が離せない。

  さっきまで電車の揺れる音が煩いくらい耳に響いていたのに、今はなんの音も聞こえない。ただ、先ほど起きてしまった事実を脳内で反芻するのに精一杯だった。

  やがて次の駅に到着した電車は扉を開き、俺たちは弾かれたように外に出される。

  お互い呆けてしまっていたのか、乗っていた電車の扉が閉まり発車してしまっても、一歩も動けずにいた。

  元々利用者の少ない駅なのか、この雪のせいなのか、駅の構内には俺たち以外の人は見当たらない。電光掲示板に表示された次の電車は、運転見合わせと示されている。

  現実逃避するかのように、脳内にはそんなどうでもいい情報ばかりが巡る。起きてしまった出来事が無かったことにはならないと言うのに。

 

「その......。取り敢えず、ベンチに座りましょう?」

「......あぁ」

 

  最初に動いたのは雪ノ下だった。言われるがまま、二人で近くのベンチの端と端に腰掛ける。

  謝るべき、なのだろうか。

  例え故意に触れたわけでなかったとしても、彼女の美しいそれを汚してしまったのに変わりない。

  一体無言の時間がどれだけ続いただろうか。その間に次の電車が来ることも、誰かが構内に入って来ることも無かった。

  時計をチラと見ると、俺たちが降りてから30分は経過しているらしい。まさかそんなに経っていたとは。

 

「......やり直しを所望するわ」

「は?」

 

  そんな折に、またしても雪ノ下から口火を切った。しかしその発言は、到底理解しがたいものでもあって。

  思わずバカみたいな顔でバカみたいな声を発してしまった俺を、同じベンチに座る彼女は、顔を赤くしながらキッと睨む。なんだよそれ可愛いなオイ。

 

「だから、やり直しを所望すると言っているの。私だって女の子なのだから、初めては好きな人と、ちゃんとした形でしたいと言う幻想を抱いていたのだから。あなたはそれを、あんな満員電車の中でサラリと奪ったの。それは本来なら万死に値するわ。だから、ここで、もう一度、ちゃんとやり直してくれたら全て不問にすると言っているの」

「待て雪ノ下、一旦落ち着け」

「私は落ち着いているけれど?」

「いや確実に落ち着いてなんかないだろ待てマジで待てこっちににじり寄って来るな!」

 

  熟れたトマトみたいに真っ赤になった顔で、俺との距離をジワジワと詰めて来る。

  つい数秒前まではしっかりと空いていた筈なのに、今や満員電車の中と同じくらいまで接近されてしまった。

 

「もう一度言うわよ、比企谷くん」

 

  まるで金縛りにあったかのように、目の前にある雪ノ下の顔から目が離せない。

  思わずゴクリと息を呑んでしまった。

  俺の胸に手を添え、完全に逃げ場を塞いだ雪ノ下の唇は、トドメの言葉を紡ぎ出す。

 

「私は、好きな人と、ちゃんとした形で、キスをしたいの。ダメ?」

「......ダメじゃ、ない」

 

  絞り出した声は掠れていて、上手く言葉になっていたのか分からない。

  けれど、目の前で微笑む彼女を見る限り、俺の言葉は伝わったようで。

  どちらからともなく、互いの距離をゼロにした。

 

「んっ......」

「......」

 

  ファーストキスはレモンの味だなんて眉唾だ。完全に無味。味なんて全くしない。

  けれど、彼女の唇はどこまでも甘く、どこまでも柔らかく、溺れてしまいそうになる感触だった。

 

「......好きな人とのキスって、気持ちいいものなのね」

「雪ノ下?」

「......もう一回」

「ちょっ! 待て雪ノ下場所を考えんむっ!」

 

  ......俺まだお前に好きって言ってないんだけど。まあ、もうなんでもいいか。今はこの感触に、溺れてしまおう。

 

 

 



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図書館の彼

 窓から差し込む陽の光が暖かい。近頃は雨の影響などもあり少し冷えていたのだが、本日は雲一つない晴空が広がっている。

 きっと、暖かく感じる要因はそれだけではないのだろう。

 チラリと視線を少し横に移動させて受付の方を見れば、そこには私の片思いの相手が座っている。

 未だ見慣れないメガネ姿に少し胸が跳ねる。彼の視線は手元の本へと落とされていて、表情は真剣そのものだ。

 あの頃はライトノベルばかり読んでいたと思うのだけれど、今は私でも見たことのない海外文学を読んでいる。

 他の利用客の為にその本を和訳するらしいという話は、先週訪れた時に聞かされた。その証拠に受付のカウンターの上にはノートパソコンが置かれており、偶に本から視線を上げたと思えばキーボードで何やら打ち込んでいる。

 それは司書の仕事から外れているのではないのかと思っていたが、彼の性格から考えると嫌々ながらも結局やってしまっている、と言ったところかしら。

 今もまさしくキーボードを打鍵しようと視線を上げた。

 そうなると当然そちらを見ている私と目が合う訳で。

 

「......っ」

 

 瞬時に目を逸らしてしまう。

 おかしい。最近の私は少しおかしい。

 彼への思いは高校時代から抱いていると言うのに。もう数年経っていると言うのに。

 まるであの頃、初めて抱いたこの気持ちに戸惑っていた頃に戻ったかのようだ。

  今も頬が熱い。胸が尋常じゃない程にドキドキしている。

 お陰で本の内容が全く頭に入ってこない。

 

「よお。来てたのか」

「っ! 急に話しかけないで頂戴」

「悪い悪い」

 

 気付かない内に私の座っている席の前まで彼が、比企谷くんがやって来ていた。全く悪びれた様子も無く向かいの席に座る。

 

「あなた、仕事中なのでしょう?」

「ちょっと休憩だ。流石に目が疲れて来たしな。休んで来いって言われたんだよ」

 

 受付の方を再び見ると、ここに通うようになってから顔見知りとなった初老の女性司書さんがこちらに笑顔を向けて来た。

 どうやら気を遣われたらしい。

 嬉しいのは嬉しいのだが、少し恥ずかしい。

 と言うか、ここの司書さんはこの目の前に座る鈍感な男以外全員が私の気持ちに気づいている節がある。事あるごとに私と彼を二人きりにしたがるのだ。

 そもそも利用客があまり多いとは言えない小規模な私立図書館。今日も見渡した限りでは私以外の利用客は過去に何度か見たことのある顔触ればかり。所謂常連さんとやらしか基本的に来ない。

 だからなのか、司書さん達は私と彼のやり取りをどこか娯楽のように楽しげに、しかし親のように優しい視線でいつも見ている。

 彼女達からすれば、私達はちょうど息子や娘と同じくらいの年齢になるのだろう。

 

「それ、先週と同じ本だろ?」

「え? えぇ、そうだけれど。それが何か?」

 

 思考の海に沈んでいた所を比企谷くんの少し小さめの声で引き上げられた。このボリュームで話していると、なんだか秘密の会話をしているみたいで楽しくなる。

 確かにこの本は先週からずっと読んでいる。

 と言うか、この男はそれに気付いていたのね。

 

「いや、雪ノ下にしては読むの遅いなと思ったもんだからさ。お前昔から読むの早かったからなんでかなー、と」

 

 確かに私は何かしらの書き物を読む時はかなり早い方だと思う。出来る限り多くの本を読んでみたいから、速読の練習をした事もあった。

 そんな私の読書のスピードが昔よりも遅い理由。

 仕事は忙しくもあるが読書の時間は取れるし、他の本を買う余裕がない程金銭面で苦労してる訳でもない。

 なら何故か。

 

「......そうね。最近はここでしか本を読んでいないからかしら」

「仕事忙しいとかか?」

「いえ、そうではなくて。ここでこうして本を読んだりするの、好きなのよ」

 

 休日の昼下がり。あなたの顔が見える、陽の光が差し込むこの席で。

 ここで本を読む事が最近の私の一番の楽しみ。

 薄く微笑みながらそのような意図の言葉を伝えると、比企谷くんはバッと目を逸らした。心なしかその頬は赤くなってるようにも見える。

 はて、私は何かおかしな事を言ったかしら?

 ............言った、わね。好きだと、ハッキリと。

 いえ、別に比企谷くんに対して好きだと言った訳ではなくて、ここで本を読むのが好きだと、そう言っただけだ。何もおかしな事は言っていない。確かに比企谷くんの事は好きだけれど......。って、何を考えているのかしら私は。

 あぁ、顔が熱い。多分今の私の頬は目の前の彼に負けないくらい赤く染まってる事だろう。

 

「あー、その、なんだ......。お客様がそう言って頂けて何よりでございます?」

「何故疑問形なのかしら......」

「何故って......。なんでだろうな?」

 

 二人して吹き出す。何がおかしい訳でもないのだけれど、小さな声でクスクスと笑い合う。

 図書館内でのルールには若干反している気もするが、利用客が少ない上に司書さん達も何も言って来ない。どころか微笑ましげにこちらを見ている。

 

「雪ノ下」

 

 呼ばれて、正面の彼を見る。メガネでいつもの腐った目は見れない。

 もういい歳だと言うのに、彼の笑顔は少年のようで。

 

「俺も好きだぞ。お前とここでこうしてるの」

 

 そんな笑顔でそんな事を言われてしまった。

 ハッキリと告げられた。

 分かっている。別に私の事が好きだと言った訳ではない。でも、私とこうしている事が、彼にとっても大事な時間であるのならば。

 ふふ、よく見ると耳が真っ赤ね。どうやらとても頑張って放ったセリフみたい。

 

「そう......」

 

 口角が上がりそうになるのを必死に抑える。

 彼が頑張ってくれたのだから、私ももう少し勇気を出してみようかしら。

 

「ねぇ、あなた。この後時間は空いてるかしら?」

「......まあ、閉館したら仕事終わりだけど」

「その、一緒に夕食でも、どう......?」

「あ、えっと、よろしくお願いします......」

「こ、こちらこそ......」

 

 またお互いに真っ赤になってしまった。

 これでももう25歳と言うのだから笑える話だ。

 彼の顔を見るのもなんだか照れ臭くて、再び手元の本に視線を落とす。

 何故だか自然と笑みが漏れてきた。

 私は今、とても幸せを感じてるのだろう。

 休日に好きな人に会えて、その人と同じ時間を共有出来て。

 私にはとても過ぎた幸せだけれど。それを手放したくは無い。

 だからきっと、これからもここに通い続ける。

 今はとてもじゃないが怖くて告げることの出来ない想いを抱えて。

 



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あなたの温もり

添い寝八雪に無限の可能性を感じる( ˘ω˘ )


 三寒四温なんて言葉は無くなればいい。

 そんなことを思うのは、季節の変わり目にその苦しさを嫌という程味わってしまった時だ。

 つい先日までは暖かいと言うより、最早暑いと言えるほどの気温をマークしていた癖に、今週に入ってから一気に気温が下がった千葉。

 特に俺の主な活動範囲は臨海部に位置しているため、その影響をモロに受けていた。

 端的に言うと、風が物凄く冷たいのだ。

 秋を通り越してもう冬なんじゃねぇのってくらいに寒い。

 そんなに寒いくせに、昨日の俺はなにをトチ狂ったのか、夜中にアイスを食っていた。

 寒い時に食べるアイスは最高だぜ! とか思ってたのもその時だけ。やっぱり寒い時にアイスなんて食べるもんじゃ無い。あれは夏に食うものだ。その癖、冬でも御構い無しに季節限定とか出すからたまったもんじゃない。でもそんな時に食うからこそアイスは美味いと言う意見を曲げることはない。

 まあなにが言いたいかと言うと。

 見事に風邪を引きました。

 その一言に尽きる。

 そして今日は金曜日。平日だ。小町は学校に行ってるし、両親もいつもの如く社畜三昧。

 母ちゃんだけでも今日は早めに帰って来てくれるとか言ってたので、なんだかんだ優しい母親だなぁ、なんてほっこりしていたのも束の間。

 これヤバイ。滅茶苦茶寂しい。

 風邪の症状としては発熱と頭痛だけで済んでいるものの、なんか凄い心細い。

 ひとりぼっちの寂しさなんて慣れていたと思っていたのに、ちょっと体が弱っただけでこの体たらく。

 多分小町が家にいないのが拍車をかけているのだろうが、それだけでは無い。

 現在時刻は十六時。いつもなら放課後になり、部室へと足を向けている時間帯だ。

 

「あいつに会いたいな......」

 

 ほぼ無意識のうちに漏れ出た言葉に、つい頬が赤くなるのを自覚する。

 この家には今俺一人しかいないので、別に誰かが聞いてるわけでもなしに。強いて言うならさっき俺の部屋から出て行ったカマクラくらいか。

 でも、そうか。俺はあいつに会いたいのか。

 今メールを送ってそれを伝えるのは迷惑だろうか。そもそも俺は風邪を引いてるわけで、呼んでしまったら移してしまう危険性だってある。それは避けたい。

 けれど、そんな思考とは裏腹に指先はスマホの上を滑る。三年になってから俺のアドレス帳に追加されたそこをタップして、熱のせいでボヤけた思考の中、たった一言だけ書いてメールを送った。

 送ってしまえば余計に寂しさが募ると言うもので、俺はただそれだけの事を思って、眠りについた。

 

 あいつに、雪ノ下に会いたい。

 

 

 

************

 

 

 

 

 来てしまった。

 つい、勢いのままに、来てしまった。

 私の目の前には数度訪れたことのある一軒家。訪れたことのある、といってもその回数は片手で数えられるし、もっと言えばその時は小町さんがいつも一緒にいた。

 今、この家に小町さんはいない。それどころかご両親もお仕事でまだ帰っていないらしい。

 正真正銘、二人きり。

 いえ、何を考えているの雪ノ下雪乃。私は今日お見舞いと看病に来てあげただけであり、それ以外の何物でもない。疚しいことなんて何もないのよ。

 それに、あんなメールが放課後直ぐに届いたのだから、ここに来る以外の選択肢なんてあるわけ無いじゃない。

 まさかあの比企谷くんが、寂しい、だなんて言うとは。

 メールだったので、正確には言っていたわけでは無いけれど。些細な違いだ。いつもの彼なら寧ろ、私に移るからと言って何が何でも家には入れさせないであろう。そんな彼が、たった一言。寂しい、とだけ打ってメールを送って来た。

 不謹慎ながら嬉しいと感じたのは許して頂きたい。

 

 さて、いつまでもここでこうしている訳にもいかない。小町さんから預かった比企谷家の鍵をカバンの中から取り出す。

 所で、他人である私に家の鍵を預けられる小町さんは少しどうかと思うのだけれど。信頼してくれている、と好意的に解釈してしまえばそれまでだが、もう少し危機感というものを持って欲しい。

 無いとは思うけれど、これがもし私以外、例えば一色さんなんかだといつの間にか合鍵を作ってるなんて事もあり得ない話では無い。流石に一色さんに失礼かしら?

 閑話休題

 覚悟を決めて、いざ鍵を開ける。その際手が震えてるように思えたが、断じて緊張からでは無い。これは武者震いというやつだ。私は誰に言い訳しているのかしら?

 

「お邪魔します......」

 

 扉を開いて玄関に入ると、以前訪れた時となんら変わらない、比企谷家の景色が広がっている。逆に変わっていたら少し怖い。

 誰もいない静かな他人の家に入る事なんて経験したことがないので、少し身が縮こまる。

 一先ずは二階のリビングに荷物を置かせてもらおうと思い、階段を上がってリビングの扉を開いた。

 そこで私を待っていたのは、私がこの世で最も愛していると言っても過言ではない、いえ、寧ろ愛していると言う言葉では足りないレベルで愛している存在。

 

「にゃー」

「あら。ふふ、お久しぶりねカマクラ」

 

 そう、猫である。

 もっと言うなら、この家の飼い猫、カマクラ。

 カマクラは私がこの家に入って来た時に既に来客に気づいていたのか、リビングの入り口で私を出迎えてくれた。

 猫に出迎えられるなんて、今日はこれだけでも来た価値があったわね。一層の事毎日出迎えてくれたら嬉しいのだけれど。

 一人暮らしとは言え未だ学生の身。猫を飼うほどの余裕もなければ、今のマンションがペット禁止でもある。働き始めて安定した収入を得ることが出来れば、早々に引っ越して猫と共に暮らしたいものだ。

 あぁ、カマクラが私の足に擦り寄って来たわ......。可愛い......。

 

「にゃー」

「にゃー......」

 

 しゃがみ込み、この愛くるしい生き物を撫でまわそうとして、すんでのところで留まる。

 待て、待ちなさい私。今日はそうではないでしょう。

 今日は比企谷くんのお見舞い、延いては彼の看病に来たのだから。ここでカマクラに構ってしまえばどうなるのかなんて自明の理。

 ここは心を鬼にするのよ。

 

「ごめんなさいね。今日はあなたのご主人様のお見舞いに来たの。だから、あなたと遊ぶのはまた今度ね」

 

 カマクラを一撫でしてからカバンをリビングの端に置きに行く。

 ダメよカマクラ、そんな目で私を見ないで。また心が揺れ動いてしまうわ。

 最早心を鬼どころではない。修羅と言っても過言ではないだろう。それ程までに固い決意を持って、私はキッチンの方へと向かった。

 ここに来るまでに買って来ていた食材を冷蔵庫の中へと仕舞う。

 お粥を作るくらいの食材はあるので勝手に使ってくれていい、と小町さんには言われたのだけれど、流石に気が引ける。

 

「さて、と......」

 

 リビングに架けられている時計を見ると時刻は十八時前となっていた。今からお粥を作ったら丁度いい時間に仕上がりそうだが、一先ずは比企谷くんの様子を確認しに行こう。

 もしかしたら眠っているかもしれないけれど、もし起きていたなら挨拶くらいしておくべきであろう。

 取り敢えずブレザーを脱いで、ハンガーラックに架けさせてもらう。

 リビングを出て比企谷くんの部屋に向かうと、私の後ろからトコトコとカマクラがついて歩いてきた。

 

「あなたも比企谷くんの様子が気になるのかしら?」

 

 カマクラに懐かれないとは比企谷くん本人の談だが、この様子だと彼の思い過ごしではないかしら。

 それとも、比企谷くんの様子が気になるのではなく、私に懐いているからついて来ている、と言うことかも。そうだったら嬉しい。

 

 そして辿り着いた彼の部屋。その扉の前。

 ここまで来てなんだか無性に緊張して来たわね......。いえ、彼の部屋に入ることだって初めてと言うわけではないのだから、そこまで緊張する必要も無いわ。

 ノックは、した方がいいのかしら? でもそれで起こしてしまったら申し訳ないし。

 と言うかよく見たら扉が少し開いているじゃない。これでは隙間風などが入り込んで寒いのではないの。

 なんて考えてモタモタしている隙に、カマクラが器用に扉を開いて中へ入ってしまった。

 こうなってしまっては仕方ない。少しばかり礼儀作法としては正しくないが、ノックはもう良いだろう。カマクラに続いて私も入室してしまいましょう。

 カマクラが開けたお陰で半開きになった扉を後ろ手で閉め、目の前のベッドへと視線を移す。

 比企谷くんは、穏やかに寝息を立てていた。

 私の入室によって目覚める気配は無く、随分と熟睡している様子だ。

 カマクラはどうするのかと思うと、ベッドの上に飛び乗って、比企谷くんが被っている掛け布団の中へと潜り込んでいった。

 私はどうするべきだろうか。

 彼を一旦起こす? いえいえ、こんなにも熟睡しているのだから、それは可哀想だろう。

 ならリビングへと引き返す? それはダメ、と言うより嫌ね。もう少し、彼の寝顔を見ていたいし。

 自問自答するまでもなく答えは決まっていたようだ。

 ベッドの前まで歩いて行き、その端に腰掛ける。

 スプリングの軋む音が静かな室内に響く。それで彼が起きないか心配になったが、寝息は未だに聞こえて来る。

 

「こうして見ると、可愛い顔をしているわね......」

 

 やはり彼の顔は整った方に見える。それはあの腐った目が閉じられているからだと思うけれど。

 でも、どちらかと言うとカッコいいと言うよりは可愛い顔だ。それも寝顔だから、と言う理由があるかもしれないが。

 小町さんの話では、昨夜遅くにアイスクリームを食べていたのだそう。この寒くなって来た時期に、なんともまあ馬鹿な真似をするものだと呆れる。

 

「本当に、馬鹿な人......」

 

 でもため息は溢れず、私の顔は自然と笑みを形作る。

 本当、いつも馬鹿なことばかりして。

 でも、そんなところも愛おしく感じてしまうあたり、私も相当彼に参っているのだろう。

 手を伸ばして、彼の頭を撫でる。先程はカマクラを一度しか撫でられなかったから、その分彼を撫でさせてもらおう。

 なんとも無茶苦茶な理論だが、そんな事を考えられるようになったのも比企谷くんのお陰。

 

「んんっ......」

「あら」

 

 頭を撫でていると比企谷くんは少し不機嫌そうに身動ぎした。寝ているのに何故不機嫌そう、だなんて言えるのかは無視して頂けたらありがたいわ。

 その様が、私の好きな猫に似ていて。

 どうしようもなく愛しさがこみ上げる。

 比企谷くんと猫の組み合わせなんて最高としか言いようが無いじゃない。ここにパンさんが加わればもっと最高なのだけれど、欲は言うまい。

 そんなこんなで暫く彼の髪の毛を撫でたり、ピョコンと一房だけ跳ねている髪をみょんみょんして遊んでいたりすると、その瞼が開き、腐った瞳が露わとなった。

 

「おはよう比企谷くん。気分はどうかしら?」

「......なんでいんの?」

 

 これはまた失礼な言葉を頂いてしまったものだ。いつもならここぞとばかりに罵倒を浴びせている所だが、彼は病人なので自重。

 私の質問に答えてくれる事を黙って待つ。

 

「......最悪だけど最高だよ」

 

 どうやら私の意図が伝わってくれたらしく、質問には答えてくれた。

 が、要領を得ない答えが返って来た。

 

「なにかしらそれ。最悪なのか最高なのかどちらなのよ」

 

 しかしその言葉の意味は直ぐに理解できた。

 ただ、その意味も含めて、そんな返答がどこか可笑しくて、思わずクスクスと笑ってしまう。

 笑っている私を見てまた不機嫌そうな顔をするものの、諦めたかのようにため息を零している。

 寝起きだと言うのに随分と頭が回るようだ。

 

「手......握ってくれるか......?」

 

 何の脈絡も無く唐突に発せられた言葉。

 思わず耳を疑ってしまった。

 この捻くれた彼がああしてメールで伝えてくれたのは、互いに顔を見ずに済むからだと思っていたのだが。まさか面と向かって話している今もそんな事を言ってくれるとは。

 それだけ寂しかったと言う事なのだろうか。

 

「ええ、喜んで」

 

 なら私のする事は一つ。

 彼の寂しさをこうして和らげてあげるだけ。

 布団から出して来た彼の左手を、優しく包むように、両手で握る。

 まだ熱は下がっていないのだろうか。触れた手はいつもより熱く、温かい。

 その温もりを離したくなくて、ついギュッと握り締めてしまう。

 比企谷くんはそれに気分を害した様子を見せず、それどころかまたうつらうつらとしている。

 

「もう少し寝ていなさい」

 

 半分ほど瞼は閉じてしまっていて、もう殆ど意識は無さそうだ。

 私がこうする事で彼に安心感を与えられたと言うのなら、これ程誇らしいものはない。

 

「おやすみなさい、比企谷くん」

「おやすみ、雪ノ下」

 

 その言葉を最後に、彼はまた眠りについた。

 あどけない、幼気なその顔を見てしまうと、どうしても胸に込み上げる愛しさ。

 まるでこのまま目を覚まさないのではないかと錯覚させるほど、彼の寝姿は絵になっている。

 目を覚まさないなんて、そんな事あるはずもないのに。

 でも、どこか不安になってしまっているのは事実で。

 どうしてもその不安を埋めたくて。埋めて欲しくて。

 彼の手を握ったまま、同じ布団に入り込んだ。

 

「......お邪魔します」

 

 本日二度目の言葉ではあるが、一度目よりも熱のこもった言葉になってしまったのは気のせいではないだろう。

 入り込んだ布団の中でなんだかモゾモゾと動く感覚があったと思うと、私が寝そべっている反対側からカマクラが出てきた。

 ごめんなさい、少し窮屈になってしまったかしら? でも許して頂戴ね。

 心の中だけで謝罪していると、カマクラはそのまま比企谷くんのお腹の上に乗りそこを新たな寝床とした。

 やっぱり比企谷くんも懐かれているじゃない。

 そんなペットと主人の様子に顔を綻ばせていると、私にも睡魔が襲って来た。

 欠伸をするのははしたないので咬み殺す。

 このままここで眠ってしまうのもいいけれど、その前に一つだけ。

 

「私を不安にさせるだなんて、比企谷くんの癖に生意気よ」

 

 言いながら、握っていた手を離す。少し上体を起こし、彼の唇に自分のそれを重ね合わせた。

 彼が起きている時にこうして自分から出来たら良いのだけれど、それが中々出来ないことに歯痒さを感じる。

 先程まで両手で握り締めていた手を、今度は腕ごと抱き締めるようにして、私は瞼を閉じた。

 

 

************

 

 

 ふと、目が覚めた。

 朝方感じていた頭痛や体のだるさは完全とは言わないものの、ある程度マシになっている。

 だと言うのに、腹の上と左腕に違和感を感じる。

 その違和感の正体を探るように、まず腹の上から見てみるとカマクラが寝てた。

 うん。まあこれはいつもと同じ事だ。俺が昼寝してると気がつけばこいつが腹の上に乗ってたりするからな。

 問題は、先程からチラチラと視界の端に移る綺麗な寝顔の方。

 雪ノ下雪乃は、俺の左腕を抱き締めて、俺と同じ布団に入って眠っていた。

 なにこれ。

 なぁにこれ〜?

 OK、慌てるな比企谷八幡。クールだ。クールになるんだ。比企谷八幡はクールに去るんだ。いや去っちゃだめだろ。てか去れない。思いの外強い力で左腕ががっちりホールドされてる。

 まずは記憶を辿ろう。

 何故雪ノ下が俺の家にいるのかは分かる。俺がトチ狂って送ってしまったメールが原因だろう。

 まさか本当に来てくれるとは思わなかったっていうか、三年のこの時期に来させるわけには行かなかったのだが、まあ来てしまったものは仕方ない。

 そこは俺の心の弱さが原因だ。

 では何故雪ノ下が俺の左腕をがっちりホールドして、あまつさえ同じ布団で寝ているのだろう。

 一度、目が覚めたのは覚えている。こいつに手を握ってくれと、熱に浮かされた頭で甘えたのも覚えている。

 .........うん、どんだけ思い返してもそんだけだな。俺の記憶の中にはこいつが俺の布団に忍び込む原因になるようなものは何もなかった。

 て言うかですね、あの、さっきから腕に色々とやわこい感触が当たっててですね......。

 お布団が見事に山を作ってしまっていると言うかなんと言うか......。

 よし、思考を切り替えよう。

 今何時だ。

 

「って、もう二十時かよ......」

 

 枕元に置いてある携帯で時間を確認してから思わず呟く。

 ついでにメールの通知があったので、そっちも確認。左腕を動かすことが出来ないのでやり難い。

 メールは小町からだった。要件は至極単純。

 

『雪乃さんが起きるまでそのままでも良いからね〜。なんならそのまま姪っ子か甥っ子に会わせてくれると小町的にポイント高い! あ、でもお母さんが十九時半には家に着くって言ってたから気をつけてね!』

 

 との事だ。いや、なんも単純じゃねぇよ。何言ってんのこいつ。ついでに俺と雪ノ下とカマクラが寝ているスリーショット写真まで添付して来やがる始末。そこは良くやったと褒めてやろう。

 てか母ちゃん帰ってんのかよ。やだなぁ。これ絶対母ちゃんにも見られてるやつだよ。んで親父が帰って来た頃に家族会議だよこれ。どうせまた親父に美人局がどうやら美人はうんちゃらと聞かされて、それを見た小町に親父がまた嫌われるまでがセットだ。

 

「しっかし、なんだかなぁ......」

 

 特に意味の無い独り言(特技)を漏らす。

 別に雪ノ下とこうしている事が嫌なわけでは無い。寧ろ嬉しい。

 ほら、俺と雪ノ下も一応そう言う関係なわけだし? こうしているのは特に変な事でもないのだ。

 据え膳食わぬは男の恥、という言葉がある。

 第三者から見ればまさしく今の状況こそ当てはまる言葉ではなかろうか。誰だってそう思う。俺だってそう思う。

 しかし、こうも無防備で緩みきった寝顔を見せられると、手を出せるわけがない。

 そんな姿を俺に見せてくれている。それだけで込み上げる何かがある。

 でもやっぱり何もしないと言うのも味気ないので。

 俺は雪ノ下の方に寝返りを打って、彼女の体を抱き締めた。

 その際飛び跳ねる物体が視界に映ったが、そう言えばカマクラが腹の上で寝てたんだった。悪いなカマクラ。今度高めのキャットフード買ってくるから許してくれ。

 

「あったけぇ......」

 

 心も、身体も。

 温かくて、このまま溶かされてしまいそう。

 こいつにメールした時の寂しさなんて既にどこへ行ったのか分からない。

 ただ、この温もりを何時迄も感じていたくて。

 俺は再び夢の世界へ旅立った。

 

 



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彼の友達

 その日は特に予定も無かった休日。

 新刊の発売日でもあつたので本屋へと向かい、その足でどこかでお茶でもして帰ろうかと考えて、行きつけのとある喫茶店に行った時の出来事だった。

 

「あら」

「あっ」

「げっ」

 

 いつも座っている窓際の席に座らせてもらおうかと思いそこへ足を向けると、二人の見知った顔が。

 彼の友達である戸塚彩加君と材木座義輝君だ。

 

「こんにちは雪ノ下さん!」

「こんにちは戸塚君、奇遇ね」

 

 元気に挨拶してくるその姿は一見して少女のようにも見えるが、彼は列記とした男性である。

 一方で先程失礼な声を上げていた小太りの男の方はと言うと、時と場所も考えずに大きな声を上げた。

 

「もはははは! これはこれは部長殿ではあらぬか!」

「大きな声を上げないでくれるかしら。それとその喋り方も辞めて」

「あ、はい。すいません」

 

 そう言えば、この場にいるのはこの二人だけなのだろうか?

 私が彼らと関わる時はいつも彼がいた。それも当たり前。彼にとっては友達かもしれないが、私にとっては元依頼人の知り合い程度の関係性だ。

 だから、この戸塚君と材木座君が二人だけでいると言うのはなんだか不思議な光景に見える。

 その割には机の上にはグラスが三つ置いてあり、この場にもう一人いる事を示唆している。

 あの男の事だから、戸塚君と材木座君を二人きりになんてしておけない、とか言いそうなものだけれど。

 その姿は店を見回してみてもどこにもない。

 

「折角だから一緒しないかな? 八幡もさっき帰っちゃったし、二人で暇してたんだ」

「え、戸塚氏。八幡ならトイ」

「まあまあ材木座君! こんな機会滅多に無いんだしさ!」

「私は別に構わないけれど......」

 

 やけにグイグイと押してくる戸塚君と言うのもなんだか珍しい気がする。材木座君が何か言おうとしていたみたいだが、まあそれはスルーで良いだろう。

 材木座君の隣に移動してくれた戸塚君と入れ替わるように、彼らと向き合う形でボックス席のシートに腰を下ろした。

 店員が注文を取りに来てくれたので、取り敢えず紅茶を頼んでおく。

 頼んだ紅茶は直ぐにテーブルに運ばれて来た。それを口に含みながら少し考える。

 こうして彼らと席を共にしたのはいいが、何か話の話題でもあっただろうか?

 あぁ、そう言えば。一つだけ彼らに尋ねたい事があるのだった。

 

「つかぬ事をお伺いするのだけれど」

「何かな?」

「あなた達から見た比企谷くんはどう映るのかしら?」

 

 ずっと、私と彼女以外の誰かに聞いてみたかった。

 彼がどのような手を取ろうと、どのような立場に立たされようと、この二人は決して離れなかった。

 情けなくも一度拒絶してしまった私とは違い、彼らは比企谷八幡と言う人間の味方であり続けていた。

 そんな二人には、一体比企谷くんがどのように映っているのだろう。

 

「僕達から見た八幡、か......。材木座君はどう?」

「ふむ。我と奴は前世を共に戦った仲。我らの主従の関係は何人にも犯せぬ不可侵の」

「あなたとの関係なんて聞いていないわ。彼がどう見えるかと聞いているの。その程度の読解力も無いから毎度あのようなプロットもどきを書き上げるのではなくて? それと、その喋り方は辞めなさいと言ったでしょう」

「ご、ごめんなさい」

 

 巨体を萎縮させてしまった材木座君と、苦笑いを浮かべる戸塚君。

 ついイラっとなって関係のない話まで引き出してしまったのは少し反省。

 

「でも、改めて考えてみると難しいね。八幡の事はかっこいいとは思うけど、どう映ってるのかなんて考えた事無かったし」

「かっこいい? 彼が?」

 

 戸塚君の発言には思わず首を傾げてしまった。

 確かに彼の顔は整っている方だとは思う。それをあの腐った目が全て台無しにしているのだけれど。

 容姿についてでは無く、彼の行動について考えてみても、かっこいい、とは少し違う気がする。

 問題をスマートに解決出来るわけでは無く、嫌々ながらもあの重たすぎる腰を上げ、常に少ない選択肢の中で最悪かつ最善の方法をなんの躊躇いも無しに取ってみせる。

 彼にスポットライトが当たる事は無く、その裏でコソコソと動く姿は宛らネズミやゴキブリのよう。

 ......少し言いすぎたかしら? でもこれ以外に適切かつ妥当な表現が見当たらない。

 自分の語彙では残念ながらどう頑張っても彼をかっこよく表現する事は出来なさそうだ。

 

「八幡はさ、何かあったら全部自分で抱え込んで、それで何事もなかったかのように全部解決しちゃう。泣き言なんて一つも言わないで、誰かの為に頑張れる。それって凄いかっこいい事だと僕は思うんだ。そう言うところは憧れるんだけど、同時に少し悲しくなっちゃう......」

 

 戸塚君の微笑みに少し影が差す。

 隣の材木座君も大仰に頷いて同意を示した。

 

「生徒会選挙の時は特に酷かったな。あの頃の奴は常に何かに追われているかのような焦燥感に駆られていた。我が何を言っても聞く耳持たず。最終的に我や戸塚氏にも話してくはしたが、我の場合は頼ったと言うより利用した側面が強かっただろう。戸塚氏に話したのも、奴の妹殿の尽力故のようだったしな」

 

 胸を奥をチクリと何かで刺されたような痛みが走る。

 あの時、彼が一色さんを説得させる為に色々としていたのは察せられた。けれど、彼がどれ程悩んでいたのかまでは勘案出来なかった。

 それは私の心の弱さ故に。

 あの時の事を悔いたことは一度もない。こうして過去として振り返り、省みることはあれど、後悔なんて微塵も抱いていない。

 それでも、あの時。

 彼が苦しんでいたことは覆しようのない事実だ。それに気がつけず、誰かを救う為だなんて言いながらその『誰か』すら曖昧で、自分のことすら模糊として。

 分かるものだとばかり思っていたなんて、どの口が言うのか。

 

「でも、さ」

 

 そんな私の暗い思考を切ったのは戸塚君の言葉だった。

 

「最近になって、少しだけだけど、八幡も自分の事を話してくれるようになったんだ。家での小町ちゃんとの事とか、材木座君の小説が面白く無かったとか、奉仕部で何をやったかとか」

 

 とても嬉しそうに、言葉を紡いでいく。

 先程までの影のある笑顔ではなく、その事実に幸福を感じてるかのような。

 成る程、確かに戸塚君のこんな笑顔を見てしまえば道を踏み外しそうになるのも頷ける。

 なんてどうでもいい思考が過った。

 

「その中でも、雪ノ下さんの話をしてる時の八幡が一番楽しそうで、幸せそうな笑顔を見せるんだよ」

「私の?」

 

 何故そこで私が出てくるのかしら? 先程奉仕部の話、と一括りにしていたのに。

 

「ふむ。戸塚氏の言う通り、部長殿の話をしている時の彼奴は憎っくきリア充オーラをプンプン漂わせておるわ」

「まあ話してる内容は雪ノ下さんが怖いとか罵倒が酷いとかそんなのばかりだけどね」

 

 あはは、と苦笑いを漏らす戸塚君とチッ、と小さく舌打ちをする材木座君。

 話の内容は兎も角として、彼がこの二人にそんな風に喋っているだなんて。

 何故だろう、特に暑い訳でも恥ずかしい訳でもないのに頬が段々と熱を持ってしまう。

 

「あ、そうだ。雪ノ下さんはどうなの?」

「どう、とは?」

「雪ノ下さんから見た八幡って、どんな風なのかなって。多分雪ノ下さんの方が僕たちよりもずっと近くで八幡のの事を見てるし。僕もちょっと気になるんだ」

 

 今日の戸塚君はいつになくグイグイ来るわね......。こう言うところは男の子らしい、と言う事かしら。

 まあ、彼らだけに喋らせて私は何も言わないと言うのもフェアではないだろう。

 戸塚君なら口外するような真似はしないだろうし、材木座君にはそもそもそんな相手がいないだろうから。話してしまっても、構わないか。

 

「そうね......。時折急に挙動不審になるのは気持ち悪いし、本を読んでる時に急に笑い出すのも気持ち悪いし、屁理屈ばかり捏ねているのも気持ち悪いし、視線が由比ヶ浜さんの胸に良く行っているのも気持ち悪い。あとはシスコンを拗らせ過ぎて気持ち悪い、と言ったところかしら?」

「あ、あはは......」

「関係のない我でも心が折れそうになった......」

 

 少し言い過ぎたかしら? でも事実だもの。仕方ないわよね。

 特に三つ目。

 確かに由比ヶ浜さんの胸部は目を引かれるだけのモノを兼ね備えているとは言え、流石にあれは見過ぎだと思うのよね。出会った頃なら通報していたわ。

 でも。

 

「でも、その全てに目を瞑っても良いほどに、彼には沢山の魅力がある」

 

 その殆どが、私には無いもので。

 それらに今までどれだけ救われて来たのか。

 どれだけ私が惹かれているのか。

 きっと、本人にはなんの自覚も無いのでしょうね。

 

「そっか。雪ノ下さんも、八幡のこと好きなんだね」

 

 そう言われた途端、先程とは比べものにならないくらい、顔全体に熱が集まるのを自覚する。

 今の私は誰が見ても分かるくらいに顔が真っ赤に染まっているだろう。

 

「すっ......! 好きとか、別にそう言う事では無いわ。ただ、彼の今までの奉仕部員としての働きを評価したまでよ」

「ツンデレ乙」

「何か?」

「いえ、なんでも、無いです......」

 

 何か妄言を吐いていた材木座君を一瞥して黙らせる。

 確か、ツンデレとは素直になれないヒロインの事を指すのだったか。

 強ち否定出来ない自分が悲しい。

 素直になれずつい彼を罵ってしまうのも事実ではあるところだし。

 

「うん。雪ノ下さんからお話聞けて良かったよ。それじゃあ僕たちはそろそろ行くね」

「え、戸塚氏。八幡は」

「じゃあ行こっか材木座君!」

 

 またも謎の押しの強さを発揮した戸塚君が材木座君を無理矢理席から立たせる。

 

「それじゃあ、また学校でね」

「ええ。また学校で」

 

 別れの挨拶を済ませた後、二人はそそくさと喫茶店から出て行った。

 自分の事を語る羽目になったのは予想外だったけれど、彼らからは有意義な話が聞けた。

 それを十分に咀嚼するのは後として、今は他にやらねばならない事がある。

 

「盗み聞きとは良いご身分ね、比企谷くん?」

「ひゃいっっっ!」

 

 私の座っている真後ろのボックス席。背中合わせで座っていた盗聴犯に声をかける。

 随分と情けない声が帰って来たものだ。突然客が大きな声をあげるから店員の方々も驚いている。

 背後に振り返り、下手人であり先の話題の中心人物である男に目を合わせた。

 

「こんな所で奇遇ね」

「ソウデスネ」

「取り敢えずこっちに来て座ったら? どうやらお友達には見捨てられたようだし」

「ソウデスネ」

 

 あいつら後で覚えてろよ、とかなんとかブツブツと呟きながらも、先程まで戸塚君達が座っていた私の向かいに腰を下ろす。

 改めてその顔を見ると、若干朱の混じった色をしている。

 それは周りの注目を一身に浴びる程の奇声を発してしまったが故か、それとも別の理由からか。

 そこを問い詰めて行くと私まで赤面する羽目になってしまいそうね。

 

「......なんでいるって分かったんだよ」

「彼らの目線で気がついたわ。材木座君が言いかけていた通りならば、お手洗いに行っていたのでしょう? あなたが戻って来たであろう瞬間に彼らの目線が一瞬だけ私の後ろに行ったかと思えば、真後ろに誰かが座る気配があるもの。それからも材木座君が時折私の背後をチラチラ見ていたのだから、証拠はそれで十分ではなくて?」

 

 後は後ろに座るように私に見えないようメールか何かを送っていたのだろう。

 これくらいなら少し頭を働かせただけで分かる。

 

「お前、探偵かなんかにでもなれば?」

「お断りだわ。探偵では直接犯人を断罪出来ないじゃない」

「お前が断罪するの前提なのかよ」

 

 呆れたような彼の溜息を聞きながらも、少し冷めてしまった紅茶を飲む。

 さて、彼をこちら側に座らせたのはいいものの、これからどうしようかしら。

 なんて考えていると、彼の方から話を振って来た。

 

「つかお前、俺のこと気持ち悪いって言い過ぎだから。あれ俺じゃなかったら泣いて帰ってるぞ」

「事実を口にしただけじゃない。それとも、あなたに否定出来る程の材料があるとでも?」

「少なくとも最後の一つに関してはな」

 

 最後の一つ、とはシスコンを拗らせ過ぎて気持ち悪いというやつだろうか。

 いや、違うだろう。彼は自他共に認めるシスコンだ。

 ならば、本当に私が最後に口走った方のことか。

 

「あら、それは気になるわね。ぜひ話して聞かせてくれるかしら」

「良いだろう。俺がいかにクズでダメな人間かを分からせてやる」

「別にそこまで卑下する必要もないと思うのだけれど......」

「バッカお前あれだぞ。俺なんかあれだからな。クズさ加減がやば過ぎて一周回って人間国宝に指定されるまであるからな」

「そんな国に住んでると思うとゾッとするわね」

「て言うか、お前の方こそそんな俺なんかの魅力を上げろって言われて出来るのか?」

「............ごめんなさい」

「ちょっと、そこで諦めないで。出来ればもうちょっと頑張って」

 

 他愛のないいつものやり取り。

 こんなやり取りが途轍もなく心地いい。

 きっとこんな風に思える相手なんて、今までもこれからも彼一人だろう。

 だから、言っておかなければならない。

 ちゃんと、否定しておとかなければならない。

 

「比企谷くん」

「お、おう。なんだ雪ノ下」

 

 改まって名前を呼んだせいか、少し身構える彼。

 それが少し可笑しくて笑ってしまいそうになるのをなんとか抑え、口を開く。

 

「あなたに魅力が一つもないだなんて、あなた自身にも言わせないわ」

 

 その腐った双眸を見つめ、言葉を続ける。

 

「あなたは優しい人」

 

 その優しさに救われた人は沢山いる。

 

「あなたは強い人」

 

 何があってもその信念を曲げない強さを持ってる。

 

「あなたは真っ直ぐな人」

 

 大切な事は決して言い訳したり捻くれたりしない愚直さがある。

 

「そのどれもがあなたにしかない魅力よ。私がここまで言っても、あなたはまだ自分を卑下するのかしら?」

 

 これは私の主観から見た彼だ。

 きっと、彼の主観にはまた違った彼が映っているのだろう。

 どうせ今も心の中で捻くれた言い訳を考えているに違いない。

 

「まあ、お前がそこまで言うのなら、そうなのかもな......」

 

 返ってきたのは予想外に素直な言葉だった。

 ポリポリと朱に染まった頬を掻きながら、目もこちらに合わせようとせずに泳いだままだけれど。

 

「驚いた。てっきりまた屁理屈捏ねて私の言葉を否定するものだとばかり」

「俺もそうしたいんだけどな。まあでも、そんな事しても今更だろ」

 

 言葉の意味がイマイチ掴めず首を傾げてしまった。

 そんな私の様子を見て、一転して意地悪な笑みを浮かべた彼が続ける。

 

「今は俺を知ってくれてるんだろ?」

「......っ」

 

 心臓がドキリと跳ねる。本日何度目かの頬の紅潮も自覚できた。

 いつか彼に送った言葉だ。

 今思えばどの口がそんなことを、とも思うが。

 

「そう、ね。今はあなたを知っている。でも、もっとあなたの事を知りたいとも、思ってる」

 

 自然と微笑んで言葉を返せた。比企谷くんはまた顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。

 私は行きつけの喫茶店で何故彼とこんな事をしているのだろうかと疑問に思うも、それも些細な疑問だろう。

 彼と出会ってから一年は経過した。その中で理解できた事も、出来なかった事もある。

 知った事があればまだ知らない事だってある。

 その全てを知りたいと、思っている。

 そんな風に思ってしまうほどに、私は。

 

「......まあ、頑張ってみたらいいんじゃねぇの?」

「随分と他人事のように話すわね」

「うっせ」

 

 私は、彼のことが好きになってしまっているのだ。

 

 



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素直になれない私の、ワガママを一つ聞いてくれる?

秋の日初デート八雪


 雪ノ下雪乃と比企谷八幡が交際を始めた。

 何も知らない第三者がそれを聞けば、先ずは嘘だと決めつけにかかるだろう。

 かたや学校中の嫌われ者(自称)で、かたや校内一の美少女にして完璧超人。

 釣り合うとかそれ以前の問題だ。

 だが残念なことにそれは事実であり、だからと言って俺と雪ノ下の間に大きな変化があった訳でもない。

 付き合う以前と何も変わらない日常が、今日も部室で繰り広げられている。

 由比ヶ浜が話を振り、雪ノ下が少々鬱陶しそうにしながらも楽しげに話に乗って、何故かいる一色もそこに混じる。俺はそれを遠目から眺めているだけ。

 幸せってのはこう言ういつもの日常の事を言うのだろう、なんて、らしくない考えが過ぎるほどだ。

 しかし、そんな日常は突然に、儚くも崩れ去ってしまう。

 

「そう言えば、先輩と雪乃先輩ってどこまでいったんですかー?」

 

 小悪魔のそんな何気無い一言が、日常の終わりを告げるものとなったのだ。

 

「あ、それあたしも気になるかも! 二人とも付き合い出してからも前までと全然変わらないんだもん」

 

 悪ノリしたアホの子が興味津々と言った様子で俺と雪ノ下を見比べる。

 

「別にそんな気になるようなことでもねぇだろ。つか、逆に聞くけどな。俺と雪ノ下がそこら辺の一般的なリア充どもみたいに人目も憚らずイチャイチャしてる姿が想像できるか?」

「彼の言う通りよ。そもそもその男は一般的な高校生とはかけ離れた存在なのだから」

「ちょっと、その一言今必要だった?」

 

 とまあこんな風に、彼氏彼女の間柄になったからと言って雪ノ下の罵倒が収まることはないのだ。寧ろこれこそが俺たちの付き合い方と言える。

 

「所でお二人とも、今まで何回デートしましたか?」

「学校帰りに寄り道したりとかなら何度か」

「あ、それは無しね」

 

 澄ました顔で答えた雪ノ下だったが、由比ヶ浜が即座に口を挟んで言葉に詰まっている。

 おいおい、そこで無言になられたらこいつら更に調子乗っちゃうぞ。

 

「お二人とも、もう少し普通のお付き合いをすべきですよ」

「一色さん、それは比企谷くんにとって余りに酷な話ではないかしら。彼に普通を求めるだなんて、太陽に逆から昇れ、と言ってるようなものよ」

「いやいやいや、お前自分のこと棚に上げてんじゃねぇよ。どう考えても俺よりお前の方が無理だろ」

 

 健全な男子高校生舐めるなよ。こちとら既にデートのシミュレーションは完璧だ。何せ俺には『ときメモ』と『ラブプラス』があるからな。

 そもそも、雪ノ下だって十分過ぎる程にそこらへんの女子高生とかけ離れた価値観を持っている。これは彼女自身も昔言っていたことだ。

 そんな雪ノ下と、ごく普通のカップルのように振る舞う? ふっ、おかしすぎて思わず鼻で笑ってしまうね。

 

「聞き捨てならないわね。バカも休み休み言った方がいいわよ、妄言谷くん」

「それはこっちのセリフだな。お前がそこら辺のリア充よろしく甘えた声でベタベタしてきたらまず偽物かどうか疑うまであるぞ」

「いいでしょう。そこまで言うのなら明日の土曜日、空けておきなさい。あぁ、ごめんなさい。言うまでもなくあなたの休日に予定があるわけないわよね」

「バカお前俺だって休日の予定くらいない事はないし」

「何はともあれ、覚悟しておくことね」

「お前の方こそな」

 

 とまあ、そんな感じで、初デートの予定が決まってしまったのである。

 

「これって二人とも素直になれないだけじゃ......?」

「結衣先輩、それは言わぬが花ですよ......」

 

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 さて、やって参りました決戦の土曜日。

 金曜日じゃなくて申し訳ないが、そこは目を瞑って頂きたい。

 昨日、帰った後冷静になって振り返ってみると、雪ノ下とデートすると言う事の大きさに遅まきながらも気がついてしまい、急いで小町に相談した。服も全部小町がコーディネートした。流石は俺の妹だ。

 更に言えば、楽しみ半分緊張半分で全然寝れなかった。今も絶賛睡眠不足である。

 あんな啖呵を切った手前超情けない。

 現在待ち合わせ予定の午前九時、よりも三十分ほど早い時間。待ち合わせ場所である海浜幕張駅前にて雪ノ下の到着を待っている。

 と言っても、彼女の家はここから直ぐ近くなのだが。

 て言うかデートコースとか全く考えてないんだけどいいんだろうか。小町に相談したものの、自分で考えなよごみぃちゃんと一蹴されてしまったし。

 雪ノ下の事を考えるなら、近場の猫カフェとかでもいいかなー、と思ったのだが、今日の目的はあくまでも『一般的なカップルらしい振る舞い』をすることだ。一般的なカップルはデートで猫カフェとか行かないだろう。知らんけど。

 だからと言ってモールでウィンドウショッピングと言うのも味気ない。折角の初デートなのだから、もうちょっと他に良い感じの場所に行きたい。

 そもそも一般的なカップルってなんなんだ? 先ずはそこを定義しないと始まらないのでは? 少なくとも俺と雪ノ下が一般的なカップルと言うものではないのは確かなのだが、ならばどの様にしたら一般的なカップルと呼ばれるのだろうか。

 あ、ヤバイ、一般的なカップルがゲシュタルト崩壊を起こしてきた。

 

「ごめんなさい、待たせてしまったかしら?」

 

 俺が一般的とは何かと哲学的な事を考えていると、前方から声がかかった。

 顔を上げてそちらを見て、全然待っていないとお約束の返事をしようとして。

 息が、止まりかけた。

 今日は休日なので、勿論雪ノ下は私服姿だ。

 何度か見た事はあるものの、そのどれとも一線を画すものが、そこにはあった。

 雪ノ下はマキシ丈の白いワンピースの上から、薄いピンクのカーディガンを羽織っていた。

 言葉にすればただそれだけでしか無いファッションなのだが、秋らしいその装いは、お嬢様然としている雪ノ下の魅力を150%引き出していると言えるだろう。

 余りにも綺麗なその立ち姿に何も言えないでいると、雪ノ下がこちらの顔を覗き込んで来る。

 

「どうかした?」

「え、あー、いや......」

 

 唐突に距離を詰められたので吃る俺。控えめに言って超ダサい。

 せめて何か言わなければと考え、しかし思考を中断させる。別に考える必要はない。思った事を言葉にすればいい。これもある意味カップルのお約束のようなやり取りだし。

 小さな決意を一つして、俺は口を開いた。

 

「その、なんだ......。その服、いいな。似合ってるってか、その、可愛いと思う......」

 

 滅茶苦茶恥ずかしいのでソッポを向いて、頭をガシガシ掻きながらの発言となってしまった。

 それを聞いた雪ノ下も、何を言われたのか分からないと言った感じにポカンとしていたが、見る見るうちに表情が和らいでいき、薄く頬を染めながらも花のような笑顔を浮かべた。

 

「ありがとう、とても嬉しいわ」

「......おう」

 

 言葉の通り、本当に嬉しそうに笑う雪ノ下。

 その笑顔が俺の言葉によって引き出されたと思うと、なんだか恥ずかしいような、けれどどこか誇らしいような、不思議な感じだ。

 

「それで、今日はどこに連れて行ってくれるのかしら? まさか何も考えていない訳ではないでしょう?」

 

 その笑顔そのままにして俺に問うて来るが、残念なことにその期待には添えられそうに無い。

 考えていない事はないが、結局結論が出ていないのだから同じ事だ。それを口にするのは憚れたので、何も言えずにいると、雪ノ下の表情から笑顔が消えた。もうちょっとその笑顔を見てたかったけど、しかしそれを消したのは他の誰でもない俺なのが悲しい。

 シラーっとした目で俺を睨め付けた後、コメカミに手を当てる。いつものやつである。

 

「はぁ......。呆れた、まさか本当に何も考えていなかったの?」

「いや待て雪ノ下、違うんだ。これは本当に違うんだ」

 

 なんだか浮気が発覚した彼氏の言い訳みたいになってしまった。雪ノ下は尚もこちらをジト目で睨んでいる。その視線に促され、言い訳を続行した。

 

「俺だって考えはした。小町に相談もした。でもどこが良いかとか考えてるうちに、気がつけば朝だったんだよ。これは俺が悪いんじゃない。無情にも時が過ぎてしまう世界が悪い」

「相変わらず変な屁理屈ばかり......。それで、結論は出たの?」

「......」

「ある意味期待を裏切らなくてホッとするわ」

 

 最早一周回って安堵されちゃったよ。

 いや、まぁ、こんなのが彼氏で本当ごめんなさいと言うか、なんと言うか......。

 俺が申し訳なさでありふれた哀しみの果てへと辿り着いていると、雪ノ下は何やら思案顔になっていた。

 

「そうね......。なら遊園地なんてどう? 初デートとしては間違いはないと思うけれど」

「遊園地か。別にそれでもいいぞ」

 

 そこなら二人でアトラクションを楽しめるし、中で昼食を摂る事もできる。幸いにして、月初めなため財布の中も潤っているし。

 

「んじゃ早速行こうぜ」

「待ちなさい」

 

 行き先も決まった事だしさっさと目的地へ行こうと思っていたのだが、雪ノ下から待ったがかかった。

 待てと言われればそりゃ待つけども。なんなら特技なまである。最長で五時間ほど待たされた事もあるし、結局幾ら待っても誰も来なかった事だって......。おっと、これ以上はいけない。何が悲しくてこれからデートって時に黒歴史を掘り返さにゃならんのだ。

 そんな事より今は雪ノ下の事だ。出発寸前に呼び止めるとは果たしてどのような要件かしらと思っていると、俺の目の前に白く綺麗な手が差し出された。

 

「その、手を、繋ぎましょう......?」

 

 どこかぎこちない感じで、頬を真っ赤に染めながら、俺を上目遣いに見上げて、雪ノ下はそう言った。

 え、何この可愛い子。

 ヤバイ。雪ノ下の可愛さが今まさに天元突破してる。

 こんな可愛い子が本当に俺の彼女なのか疑うレベル。

 可愛さのあまり何も言えない俺を見て不安に思ったのか、雪ノ下の表情に陰が差した。

 

「あの、ごめんなさい。嫌だった、かしら......」

「......そんなわけねぇだろ」

 

 差し出されている白い手に、そっと自分の手を重ねる。ギュッと力を入れて握ると、雪ノ下の肩が少し跳ねた。

 とても小さくて、とても柔らかくて、とても温かい。

 

「ふふっ」

 

 一転してとても幸せそうに笑う雪ノ下を見ていると、今日の本来の目的なんて忘れてしまった。

 今日は彼女とのデートを名一杯楽しもう。

 今の俺は、その事で頭がいっぱいだった。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 海浜幕張から電車で移動し、辿り着いた遊園地。

 休日という事もあってか、そこはそれなりに繁盛していた。勿論ディスティニーランドのように何時間も待たされるアトラクションがある訳ではなかったが。

 しかし、存分に堪能したと言えるだろう。

 いや、マジで。この歳で遊園地って楽しめるのかと不安だったのだが、かなり楽しかった。

 例えばメリーゴーランドで

 

「これって何が楽しいのかしら?」

「それ言っちゃったらおしまいだろ」

「だって同じ場所を回っているだけでしょう?」

「相変わらずのリアリストだな。女子ならもうちょい無いのかよ。ほら、俺乗ってるの白馬だぞ? 白馬の王子さま的トキメキは無いの?」

「......ふっ」

「鼻で笑うな哀れだろうが」

 

 雪ノ下にバカにされたり。

 例えばコーヒーカップで

 

「これってアニメとかだとめっちゃ早く回転してるけど、実際可能なのか?」

「可能よ」

「え」

「可能だと言ったの。なんなら試してみる?」

「いや、いい......。て言うかなんで知ってるんだよ」

「昔、姉さんがね......」

「あぁ、納得したわ......」

 

 幼き日の雪ノ下が陽乃さんの餌食となってたり。

 例えばゴーカートで

 

「俺の運転テクニックを見せてやるぜ」

「あら、それは楽しみね。どうせ私には劣るだろうけれど」

「お、言ったな? 知らねぇぞ? 掟破りの地元走り見せちゃうぞ?」

「少なくともルールに則って運転しなさいな......」

 

 よく分からない勝負をおっ始めたり。

 例えばお化け屋敷で

 

「ひ、比企谷くん、キビキビ歩きなさい!」

「いや歩いてるから。ちゃんと歩いてるから服引っ張んな」

「ひっ! い、今そこに何か......!」

「何も無い。何も無いから安心しろ。俺まで不安になっちゃうでしょうが」

「なんだ、比企谷くんか......」

「おい」

 

 雪ノ下に超密着された挙句幽霊扱いされたり。

 例えばジェットコースターで

 

「お前本当に大丈夫なのか?」

「何度もしつこいわね。大丈夫と言っているでしょう」

「いやそんな震えながら言われても説得力無いんだけど」

「こ、これは武者震いと言うやつよ」

「言い訳下手すぎるだろ。あ、もう落ちるっぽいぞ」

「え」

 

 最早絶叫をあげる事すら出来なかった雪ノ下が真っ白な灰になってしまったり。

 とまぁ、色々と回った。勿論アトラクションに乗っていない間はずっと手を繋いでた。

 偶に繋がれた手を見て微笑む雪ノ下だったが、俺はその微笑みを見るたびに心臓がドッタンバッタン大騒ぎで大変だった。

 改めて先程までのことを思い返してみると、俺も雪ノ下もテンション上がりすぎだろこれ。特にゴーカートの辺り。もう雪ノ下がゴーカート乗ってるの絵だけで面白かった。

 

「お疲れさん」

「えぇ、ありがとう......」

 

 今は園内のベンチで休憩中。ジェットコースターに乗って体力の切れた雪ノ下を休ませて、今しがた飲み物を買ってきたところ。

 時間もいい感じに過ぎ、来園した頃にはてっぺんにいた太陽も、今はもう沈みかけている。

 11月ともなると日の入りも早くなる。

 

「そんなになるの分かってたんだから、乗らなきゃ良かっただろ」

「でも、それだとあなたがつまらないでしょう?」

「んな事ねぇよ。気ぃ遣い過ぎだ」

 

 俺よりも先ずは自分の事が優先だろうに。

 けれど、俺のことを考えてくれていると言う事実が、どうしようもなく嬉しい。

 

「十分楽しんでるから安心しろ。て言うか、そうじゃなきゃ、あんなにはしゃがないだろ」

「そうね。今日のあなたは、随分とテンションが上がっていたようだし」

 

 そう言って笑う雪ノ下は、本当に楽しそうだ。

 確か何か目的があって初デートとなったと思うのだが、彼女を見ているとそんな事どうでも良くなってくる。

 

「どうする、そろそろ帰るか?」

 

 彼女の体力の事を考えると、そろそろ退散した方が良さそうだろう。

 そう思っての提案だったのだが、雪ノ下は俺の後ろに目をやった、

 

「......最後に、あれに乗っても構わないかしら?」

 

 雪ノ下の視線の先にあったのは、遊園地の花形の一つである観覧車だった。

 

 

 

 

 一度でも乗ったことのある人なら分かる通り、観覧車は座席が向かい合わせで二つ用意されている。

 けれど、俺たちは当然のように隣り合わせで座っていた。

 乗る前から繋がれていた手もそのままに。

 

「綺麗ね」

「......そうだな」

 

 高くまで昇った観覧車からは、沈み行く太陽と千葉の街が一望出来た。

 成る程確かに、オレンジの夕焼けは風情がある。これから訪れる夜への入り口。その間際に見せる、最後の輝き。

 夜が明ければまた太陽は登ってくるが、何かの終わりと言うのはその悉くが美しいものだ。

 けれど、その景色が霞むほどに綺麗な横顔が、俺の視界を支配していた。

 

「比企谷くん、今日はとても楽しかったわ。ありがとう」

 

 夕焼けを背景に、雪ノ下がこちらに微笑みかける。繋ぐ手の力が少し増したのは気のせいではないだろう。

 

「別に俺はなんもしてねぇよ。ここに来ようって言ったのはお前だし、デート自体もなんか流れで決まったしな」

「それでも、よ。あなたと来ることが出来て、本当に良かった」

 

 小さな幸福を噛み締めるように呟き、それをそっと抱くように繋いでいない左手を胸の前へと持って来る。まるで祈りをする少女のようだ。

 そんな彼女の事を直視できなくて、つい軽口を吐いてしまう。

 

「お前が素直とかなんか怖いな。明日は槍でも降るんじゃねぇの?」

「死ぬときは一緒ね」

「もっと怖いわ」

 

 残念ながらヤンデレはNG。そこまで重い愛は流石に背負いきれないのである。

 雪ノ下がそっちの道に行かない事を願わずにはいられない。

 

「......でも、そうね。今日は、せめて今日だけは、素直になろうと思っていたから」

 

 スッとこちらとの距離を詰めてくる。突然の事だったので、思わず後ろに下がろうとしてしまったが、狭い観覧車の中でそれが叶うはずも無く。

 互いの肩を触れ合わせた状態で、雪ノ下は俺を見つめる。

 

「だから、最後に。いつも素直になれない私のワガママを、一つだけ聞いてくれるかしら?」

 

 とても綺麗な顔がすぐ近くにあって息がつまる。言葉を発する事は出来なくて、なんとか首肯する事で返事が出来た。

 なんと無く、雪ノ下のワガママとやらを察する事が出来た。こう言う雰囲気は本や映像なんかで感じ取ったことはあったけれど、まさか自分がその当事者となるなんて。いや、俺の勘違いかもしれないけれど。

 果たして、それは俺の勘違いなどではなく。

 その口先をこちらへと伸ばしてきた。

 

「......んっ」

「......っ」

 

 人生で初めて触れたそれは、甘く、柔らかかった。

 本当に同じ人間の同じ部位なのかと疑いたくなるほどだ。

 雪ノ下も、恐らくは俺も、今日一番の頬の紅潮を記録していることだろう。

 

「......愛してるわ、八幡」

 

 きっと、今日という日は、一生涯忘れられない。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 太陽はとっくに沈み、空にはお月様が今晩はしている。

 今日は満月のように見えて、よく見たら少し欠けているようだ。

 

「......」

「......」

 

 帰路についた俺たちの間には、なんとも言えない雰囲気が漂っていた。と言うか、観覧車を降りた時からこんな感じだった。

 それも当たり前である。

 だって、あの観覧車の中で、俺と雪ノ下は......。って、思い出したらまた顔から火が出そうになって来た。やめやめ! 思い出すのはやめ!

 ......雪ノ下の唇、柔らかかったな。

 

「あの......」

「ん?」

 

 観覧車を降りてから必要最低限の会話しかしていなかったのだが、ここで遂に雪ノ下が口を開いた。

 いや、俺からなんか話しかけろって思うかもしれんけど、ぼっちの俺にはそんなん無理ゲーだし。

 

「もう、着いたのだけれど......」

「え、あぁ......」

 

 目の前には雪ノ下の住む高層マンションが。

 どうやらいつの間にか目的地に到着してしまったらしい。

 今日一日で繋がれる事が当たり前になっていた雪ノ下の手が、スルリと俺の手から離れた。

 ただそれだけで、何故か寂しく感じてしまう。

 その寂しさを埋めたくて、帰る途中ずっと考えていた事を実行した。

 

「......雪乃」

「え......?」

 

 雪ノ下の本気で驚いた顔、と言うのも珍しい。鳩が豆鉄砲を食ったような、間抜けな面を晒している。

 数瞬後、自分が何と呼ばれたのかようやく理解したのか、徐々に顔が熱を帯びいくのが見て取れた。

 

「......不意打ちなんて、卑怯よ」

「お前に言われたくはないよ」

 

 デートの最中は完全に忘れていたが、今日の目的は『一般的なカップルのように振る舞う』だったはずだ。

 なら、互いに名前で呼び合うことはそれに合致するのではないだろうか。

 恐らく、そんな理由でも付けなければ、恥ずかしくて彼女のことを名前でなんて呼べない。

 

「でも、名前で呼んでくれて嬉しいわ」

「そりゃどうも......」

 

 名前で呼ばれたくらいでそんなに嬉しいものなのだろうか。......いや、普通に嬉しいな。さっき観覧車の中で、名前で呼んで貰う+愛してるのお言葉を頂いたけど、超嬉しかったもんな。

 ......もう一度呼んでくれないだろうか。

 

「じゃあ、そろそろ......」

「ん、あぁ。そうだな」

 

 そんな風に考えていると、お別れの時間がやって来てしまったようで。

 雪ノ下は胸の前まで持って来た手を控えめに振って、

 

「では、また学校でね。八幡」

 

 最後に、そう言ってくれた。

 

「あぁ、また学校でな。雪乃」

 

 嬉しくて叫び出しそうな衝動を何とか抑え、別れの挨拶を返すことが出来た。

 今日はベッドの上で悶えてしまうことだろう。

 多分眠れないので、明日が日曜日で良かった。



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ゆきのんのことが好きで好きでもうどうしようもない八幡の話

どうもさっき六話と全く同じのを投稿してしまったみたいでして......
改めてこちらどうぞm(__)m


 突然だが、俺は人に素直な好意を示すのが苦手だ。

 比企谷八幡と言う人間を少しでも知っているのなら、それは恐らく周知の事実だろう。

 捻くれていて腐っている。それが俺と言う人間に対する評価なのだから、そんな捻くれた俺が素直な好意を示すなんて出来ないのは小町が世界一可愛いのと同じくらいに明らかだ。

 そんな俺が、殊更に素直になれない相手がいる。

 名を雪ノ下雪乃。

 俺の好きなやつで、俺の恋人で、宇宙一の美人で、宇宙一可愛いやつ。

 そして今、俺の目の前で、唇同士が触れ合いそうな距離まで近づき

 

「ねえ比企谷くん。私のこと、好き?」

 

 意図の読めない質問を投げかける女だ。

 

 その質問に対する答えなんて、俺は一つしか持ち合わせていない。が、それを口に出せるかと言えばまた違うのだ。

 理由は二つほど。

 まず一つが、冒頭に説明した通り。素直じゃない俺が、更に素直になれない相手に、素直な好意を言葉で示せと言われた。

 いや、これに関しては厳密には素直になれない、と言うことでもないのだが。それを今言った所で言い訳じみたものになるだけだろう。

 そして二つ目。

 こればっかりは俺にはどうしようも無いのだが、雪ノ下が近過ぎる。しかも真顔。めっちゃ無表情。いつもの彼女は俺同様、素直なんて言葉からかけ離れた位のツンデレさんだった筈。それこそ、こんなに距離が近ければ瞬間的に茹で上がるくらいに。そんな彼女の可愛い様子を見るのが俺の密かな楽しみでもあったのだが。

 残念なことに、今の雪ノ下に照れなんて要素は見当たらない。寧ろ、俺がなにかしら粗相を働いた時に詰問する時と似ている。

 え、俺なにかやらかした? ヒッキーまた粗相を働いたの?

 俺の優秀な脳はここ最近の記憶を遡るも、それらしいものは見当たらない。

 

「ゆ、雪ノ下......? いきなりどうし」

「私のこと、愛してる?」

 

 取り敢えず距離を取ろうと這うように後ろに下がったら、更に距離を詰められて、どころか体勢を崩した俺の胸の中にポスンと収まってきて、上目遣いに問いかけてくる。

 破壊力が尚のこと上がってしまった。

 ついでに質問の難易度も上がってた。

 ふわりとサボンの香りが鼻腔を擽り、全身に雪ノ下の柔らかい感触と体温が伝わる。

 邪な感情が脳裏に過るが、理性の化け物さんがそれを捩じ伏せてくれた。今はまだ太陽もこんにちはしてる時間だし、昨日の夜もハッスルしちゃったし。

 いや、そんな事はどうでもいい。

 今は、目の前の女の真意を問いたださねば。

 

「お前、マジでいきなりどうしたんだ?」

「いいから、質問に答えて」

 

 答えなければどうなっても知らないぞ、と。

 目が言葉以上に雄弁に語っていた。

 先も述べた通り、この質問に対して俺は素直に答えられない訳ではない。

 答えられない理由は別にある。

 だが、今はその理由を押し退けてでも、彼女の質問に答えるべきだろう。

 

「好き、だ、ぞ......」

「言葉が違うわ」

「......愛してます」

 

 自分でも聞き取れるかどうか怪しい程の声量となった。マジでカッスカス。無声音かって疑われても問題ないくらいカスカス。俺のカスさ加減と同じくらいカスカス。

 しかし、この密着した状態で雪ノ下が聞き逃す筈もなく。

 そう、と小さく、けれど俺よりも大きな声で呟いた彼女は、不意に俺の唇に自分のそれを寄せてきた。

 頭の中は疑問符だらけになっていたのだが、口先にツンと何かが当たる。それが何なのか察して、俺は彼女の舌を自分の口内に迎え入れる。

 ネットリと俺の舌を絡め取って来たかと思うと、次に唾液を流し込んで来た。俺も負けじと自分の舌で彼女の舌を嬲り、同じように彼女の口内に唾液を流す。

 さっきから行き場を失ってふよふよと漂ってた俺の両手は、自分でも気がつかないうちに雪ノ下の背中に回され、しっかりと彼女を抱きしめていた。ちょっと抱きしめる力を強めるのと同時に、今度は俺が彼女の口内に舌を侵入させる。

 んんっ、と甘い声が直接脳まで届けられた。

 って、ちょっと待ってちょっと待ってお姉さん。

 古いか。

 そうじゃなくて。

 え、これもしかしなくても最後まで行っちゃう感じ? マジで? 嘘でしょ? そもそもどうしてこうなってるのかもイマイチ理解出来てないんですけど。

 俺が脳内をハテナマークで埋め尽くしていると、雪ノ下は息が続かなくなったのか、顔を離していく。

 互いの間にかかるアーチが部屋の照明で卑猥な輝きを見せる。彼女の口の端からも唾液が垂れており、それを俺のシャツで拭ってから体も離していった。

 っておい。俺のシャツで拭くなよ。

 

「これだけは言っておきたいのだけれど」

 

 ふぅ、と一息ついて立ち上がった雪ノ下は、俺を見下し頬に若干の熱を伴ったまま、口を開く。

 

「あなたに好きと言われたら、思わずこんな事をしてしまう位には嬉しいのよ」

「お前な......」

 

 さっきからずっと真顔だった雪ノ下が、ここに来て会心の笑みを浮かべ、俺の心を撃ち抜くのに十分過ぎる威力を持った言葉を発した。

 このタイミングでそれはズルくないですかね......。

 

「と言う訳で比企谷くん」

 

 俺が二の句を告げるよりもまえに、雪ノ下は宣言する。

 

「今日は少しお酒を飲みましょう」

 

 ??????????????

 再び俺の脳内がハテナマークで埋め尽くされた瞬間だった。

 

 この時、雪ノ下の口元が僅かに歪んでいたことに気がつかなかった。

 それが、今日の俺の一番の失敗だったのだろう。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

「雪乃ぉ......」

「ふふ、なぁに?」

 

 私の隣で、私に枝垂れがかる彼。

 普段なら決して聞くことが出来ないであろう甘えた声で、私の名前を呼ぶ。

 普段は行為の最中くらいでしか、私のことを名前で呼ばないのに。

 

「愛してる。愛してるぞ雪乃......」

「ええ。私も愛してるわよ、八幡」

 

 彼の囁きに微笑みながら答えると、彼はふにゃりと頬を緩みせた。成人男性が浮かべる笑顔とは思えない。

 私までも彼を下の名前で呼んでしまうのは、目の前のテーブルに置かれた一升瓶のせいだろうか。そう言うことにしておきましょう。

 

「本当に、大好きなんだ......」

「知ってるわ」

 

 比企谷八幡と言う人間を知っている人たちがこの光景を見たら、一体どんな反応をするだろうか。

 恐らく、大半の人が偽物だと疑うに違いない。

 しかし、私に甘えてくる彼は間違いなく私の愛する恋人であり、あの捻くれ者と名高い比企谷くんだ。

 

 そもそも、どうしてこんな事になってしまっているのか。

 事の発端は私の小さな、ともすれば、本当にどうでもいいような悩みだった。他人から見れば、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばされるような。

 比企谷くんが、中々私に好きだと言ってくれない。

 そんなちっぽけな悩み。

 先に述べた通り、ベッドの上だと、素面では断じて言えないような睦言を互いに交わし合っている。

 しかしどうしたことか。冷静に考えて見ればここ数年、ベッドの上以外で聞いたことがない事に気がついてしまったのだ。

 彼は素直ではない。これはもう分かり切った事だ。伊達に彼の恋人を何年も続けていない。好きだとか愛してるだとか、その類の言葉をなんの躊躇いも無く発するような性格ではない。

 けれど、それと私の心とは別問題だった。

 そんな悩みを、私はあろう事か姉に打ち明けてしまった。

 散々弄られてしまったあの時のことを思えば後悔しかないが、しかし同時に、心強いアドバイスも貰った。

 

『比企谷くんはねぇ。ああ見えてお酒に弱いのよ。酔わせちゃえば彼の本音を引き出せるかもよ?』

 

 何故姉さんがそれを知っているのかは兎も角として、これはとても大きな情報となった。

 彼と一緒にお酒を嗜んだ事なら何度かある。

 けれど、その時は決まって由比ヶ浜さんと平塚先生が同席しており、直ぐに酔って笑いが止まらなくなる由比ヶ浜さんと、飲み過ぎて気持ち悪くなる平塚先生の介抱があるため、私も彼も限界まで飲んだことはない。

 私は即座に父に頼んで、それなりの値段の日本酒を購入。

 今日、実行に移したと言う訳だ。

 飲み出す前のあれは、まあ、そう言う気分だったと言う事にしておきましょう。

 ベッドの上でなければ酔ってもいない素面の彼から、一度だけでも聞いておきたかったし。

 

 いやはや、しかし。

 驚くくらいに姉さんの提案してくれた作戦は効果的だった。

 私はそれなりにお酒に強い方だったらしく、私がほろ酔い気分になって来た辺りには彼は既に出来上がっていた。

 

「八幡」

「なんだぁ......?」

「愛してるわよ」

「俺も、愛してるぜぇ......」

 

 彼の口から漏れる愛の囁き、その一つ一つを聞くたびになんとも言えない幸福感に満たされる。

 分かっている。これは、私の醜い欲望を満たすだけに過ぎないのだと。

 けれど、裏表のない彼の言葉と、ふにゃりと緩められた顔と、甘えるようにじゃれついてくる彼を見ていると、そんな事どうでも良くなってくる。

 ダメね、私も酔ってしまってるかもしれないわ。

 

「本当はなぁ......、好きだとか愛してるだとか、あんまり言いたくないんだ」

「それは......、どうして?」

 

 突然聞こえて来た言葉に、思わず息を飲む。

 果たして、彼のその真意はなんなのだろうか。

 もしも、もしも今こうして囁いてくれている言葉が全て彼の虚言だと言うのなら。

 私よりも好きな相手がいるのだとしたら。

 さっきまで幸福感のみに包まれていた筈なのに、途端に不安が襲う。

 けど、その不安は他の誰でもない、彼が継ぐ言葉で払拭された。

 

「そうやって言葉にしたら、なんだかとても安っぽくなっちまう気がして、本当は、言葉に出来ないくらい、お前のことが好きで、愛してて、もうどうしようもないくらいなのに、それが、形を持った瞬間に崩れそうで、怖いんだよ......」

 

 いつの間にか彼の手が私を囲むように回され、そのままギュッと抱きしめられた。

 と言ってもその様は、まるで、何かに恐れを抱いて、怯えるかのように母親に縋り付く子供のようだ。

 そんな彼を安心させるように、私は彼の頭を胸に優しく抱く。

 

「大丈夫。大丈夫よ。私も、同じ気持ちだから。あなたがとても好きで、もうどうしようもないくらいに愛してて、だから、その実感が欲しくて......。でも、あなたはそこに恐れを見出してたのね」

「ゆきの......」

「何も怖がらなくてもいいの。私は、ずっとそばにいるから」

「..................くぅ」

「あら?」

 

 腕の中から聞こえて来たのは、なんとも可愛らしい寝息だった。

 どうやら眠ってしまったようだ。

 とても安心しきった顔で、すやすやと寝ている。

 

「私にこれだけ言わせて、自分は寝てしまうだなんて。勝手な男ね」

 

 言葉とは裏腹に、クスリと微笑みが漏れてしまう。

 少しゴワゴワとした髪を撫でてあげる。

 それにしても、良いものが聞けた。

 多分、私は今、彼と出会ってからどころか、人生で一番幸せを感じているかもしれない。

 

「ふわぁ......。私も、少し眠くなって来たかしら......」

 

 酔いが回っているのもあるし、彼の熱のこもった体を抱きしめているのもあるだろう。

 少しとは言ったけれど、かなり眠たい。

 

「愛してるわ、八幡。今度は素面の時に聞かせてね?」

 

 彼の首筋に顔を埋め、私も眠りについた。

 

 

 

************

 

 

 

『雪乃ぉ......』

『ふふ、なぁに?』

『愛してる。愛してるぞ雪乃ぉ』

『ええ。私もよ、八幡』

 

「あの、雪ノ下さん?」

「なにかしら」

「これは、一体なんでありましょうか?」

「なにって、昨日お酒を飲んだ時に起こった一部始終だけれど」

「一応聞くけど、これ、俺?」

「あら、ついに自分の姿すら分からなくなるくらいに目の腐敗が進んでしまったのね......。でも大丈夫よ、そんな八幡でも私は愛してあげるから」

「んぐっ......。なんでいきなりそんな素直なんだよ......」

「さあ、何故かしらね」

 

 あなたが怖くて愛を紡げないと言うなら、その代わりに私が紡いであげる。

 それだけあなたを愛してあげる。

 だから、気が向いたらでいいから。

 また、愛してるって言ってね?



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拗ねるな危険!

拗ねのん可愛いよ拗ねのん。



 俺の休日の過ごし方と言えば決まっている。

 本を読み、ゲームに興じ、日曜朝はプリキュアを見て、時間が余れば勉強。これは大人になっても決して変わらぬものだろう。

 勉強が仕事になる可能性が微粒子レベルで存在しているかもしれないが、俺の志望職種は未だに専業主夫なので本当に微粒子レベルだ。

 そんな休日の過ごし方に一つだけ変化が生じたとすれば、それは休日を過ごす場所。

 いつもなら自宅のソファに寝そべりゆっくりまったりとしていた俺も、ここ最近の休日は毎日の様にとある高級マンションの一室で過ごす様になっていた。別にお引越ししたとかそんなんではない。

 

「紅茶、淹れたわよ」

「ん、サンキュー」

 

 プリキュアもエンディングに差し掛かったところで、キッチンの方から綺麗な声が届いた。

 マキシ丈のロングスカートと暖かそうなセーターを着て、長い黒髪をピンクのシュシュで一つにまとめて垂らしている雪ノ下が紅茶を持ってきてくれた。

 どうして日曜のこんな時間からこいつの家にいるのかとか、そこら辺はまあ、察してください。

 テーブルの上にティーカップを二つ置いた後、ソファに座っている俺の隣へと腰掛ける。互いの距離は10センチも離れていないほど近く、ごく自然に手と手が重なる。

 

「今日はどうする? どっか行くか?」

「そうね......。特に買いたいものがあると言う訳ではないけれど、毎週の様に家に篭っていると言うのもあまり体によろしくないと思うし。どこか出掛けましょうか」

「りょーかい。んじゃ紅茶飲んだら出掛ける準備するか」

 

 紅茶を味わいつつもちょっと急ぎめに、と言う器用な飲み方をして、さっさと準備しますかねと思っていると、重なっていただけだった手が、ギュッと握られた。

 

「まだ、もう少しゆっくりしていましょう?」

 

 そんな幸せそうに微笑みかけられると、首肯するしかなくなる。

 プリキュアの後に時間変更した仮面ライダーを二人で見ながら、ゆっくり紅茶を味わう。

 果たして仮面ライダーなんて見て雪ノ下が楽しんでるのかは分からないが、それでも、その微笑みが絶えていないのを見ていると、少なくとも不満に思ってはいなさそうだ。

 こう言う瞬間は、柄にもなく、とても幸せだと感じる。

 そりゃこんな綺麗な顔がこんな近くにある事に些かの緊張はあれど、それも付き合い始めた時に比べると全然マシになったものだ。挙動不審と手汗で危うく通報されかけたのも良い思い出......、では無いな。苦すぎるだろその思い出は。

 ただ、隣で雪ノ下が笑っている。雪ノ下の淹れた紅茶を飲むことが出来る。そんな、なんでも無い事に、この上ない幸福を感じてしまう。

 

「出掛けるって言ってもどこ行くよ?」

「そうね......。この間行った猫カフェはどうかしら?」

「先週行ったところだっけか?」

「ええ。あそこのアメリカンショートヘアの猫が可愛かったから」

「んじゃそこで決まりだな」

「その帰りに夕飯の買い物もして帰りましょうか」

「どんだけ猫カフェに滞在するつもりだよ......」

 

 取り敢えず行き先は決まったので良しとしよう。先週、件の猫カフェに行った時なんて、結局五時間くらいそこにいたし。猫相手にちょっとだけ嫉妬してたりしなかったり。

 今日は猫だけじゃなく俺の相手もしてくれるかにゃー、と数時間先の未来に想いを馳せていると、ピリリリリ、と着信音が鳴った。

 テーブルの上に置いてある俺の携帯からのようだ。

 

「悪い、電話だわ」

 

 出ても大丈夫か、と言う意図を込めて隣に声を掛けると、頷きが返ってきたので携帯を取る。そこに表示されている名前を見て、思わずウンザリとしてしまった。

 

「もしもし」

『もしもし。おはようございます先輩』

 

 電話の相手は何を隠そう、我らが後輩一色いろはである。休日のこんな時間に果たして何の用があって俺の携帯に掛けてきたのだろうか。もしかして先輩は先輩でも別の先輩と間違えて掛けちゃったとかそんなオチじゃないよね? そうだったらいいなぁ......。

 そんな希望を込めて、俺は電話の向こうに言葉を投げかけた。

 

「人違いです」

『いやいや、先輩の番号に掛けてるんだから、そんなわけ無いじゃないですか』

 

 ダメだったかー。まあ分かってたけどね。こいつが名前をつけずに先輩とだけ呼ぶ時は大体俺だし。

 やだ、俺っていろはすにとって特別な存在⁉︎

 扱き使える扱いやすい先輩と言う意味では特別かもしれない。俺と戸部、後は副会長なんかが特別扱いされている。

 

「何の用だよ、一色」

『それがー、先輩にお願いしたい事がありましてー』

「断る」

『ちょっ、早くないですか⁉︎ でも、先輩今日暇じゃないですかー?』

「暇じゃない暇じゃない。やる事あるから。てかなんでお前が俺の予定を知ってる風なんだよ......」

『えー? だって先輩ですよ?』

「酷い言われようだが否定できん......」

 

 そんな風に一色と会話していると、手を握られる力がちょっと増した気がした。どうしたのかと隣を見るも、雪ノ下の視線はテレビに向けられている。

 向けられているのだが、ちょいちょいチラチラとこちらを見てくるのだ。しかもさっきよりなんか距離近くなってるし。もう殆どゼロ距離ですよお嬢さん?

 

「あー、悪い一色、ちょっと待ってくれ」

『は? はぁ......』

 

 マイクの部分を手で覆って、一応向こうに声が聞こえない様にしてから、なんだか様子のおかしい雪ノ下に話しかける。

 

「なに、お前どうしたの?」

「......別に、何でもないわ」

 

 そうは言うものの、明らかに電話を取る前と取った後では様子が違う。

 まず微笑みは途絶えているし、なんかソッポ向いてるし、若干口尖らせてるし。

 うーん、これはもしかしなくてもあれかな? こいつ、拗ねてるな?

 ......え、なにそれ超可愛いんですけど。

 ヤバイヤバイ。雪ノ下がめっちゃ可愛い。今すぐ撫で回したい。思いっきり抱き締めたい。でもそんな事いきなりしちゃったら恥ずかしいやらなんやらでオーバーヒートしてしまうのでしないけど。

 でもまぁ、そこまでは出来なくとも、少しくらいはご機嫌を取るための行動はしておかないとな。

 

「あー、もしもし、一色?」

『はいはーい、なんですか先輩?』

「悪いが今日はマジで無理だ。なんか仕事あるんなら明日部室に持ってこい」

『えー......。まあそこまで言うなら仕方ないですけど。あ、そうだ先輩』

「ん?」

『昨夜はお楽しみでしたね!』

「はぁ......⁉︎」

『ではでは〜』

 

 プツンッと、無慈悲にも通話は切れてしまった。

 なーんであの後輩は色々と察しちゃってるんですかねぇ......。いや、別に良いんだけどさ。良いんだけど、なんか恥ずかしいから分かってても言わないで貰いたかった。

 そんな諸々の気持ちを溜息で押し流し、携帯をテーブルの上に置く。

 

「随分楽しそうに話していたわね」

 

 数分前よりも冷たい声色だ。明らかに不機嫌になっている、と言うか拗ねている。

 こう言う感情表現は豊かなんだよなぁこいつ。さっきまでみたいによく笑ったり、今みたいに見るからに拗ねてたり。そうやってコロコロ変わる表情がとても可愛らしいのだが。

 それに、こうして拗ねていると言うことは、こいつが俺に対して独占欲を発揮してくれていると言うことで。

 その事が堪らなく嬉しい。

 

「別に楽しそうには話してねぇよ。また仕事の話っぽかったしな」

「その仕事も、結局受けてしまうのでしょう? 相変わらず一色さんには甘いのね」

「そりゃ唯一の後輩だからな。要は妹みたいなもんだ。世話も焼いてやりたくなる。だけどまぁ、なんだ......」

 

 繋いでいる右手を一旦離す。

 その時に、とても不安そうな顔をこちらに向けられたが、すかさず離した右手で彼女の肩を抱き寄せた。

 

「その、ごめんな......」

「......何に対する謝罪なのかハッキリさせなさいな」

「うっ......」

 

 全く仰る通りで。そこを明確にしない謝罪なんて、これっぽっちの価値もない。

 俺は改めて謝るために口を開こうとしたが、言葉を発するよりも前に、物理的に塞がれてしまった。

 雪ノ下の唇で。

 

「......んっ。大丈夫、ちゃんと伝わってたから。だから大丈夫よ」

 

 薄く微笑んで、そう言った。

 その表情に、胸がどうしようもない程の高鳴りを覚えて、半ば衝動的に雪ノ下のことを抱き締めてしまっていた。

 力を込めれば折れてしまうのではと思える程に華奢なその体を、しかし力強く抱き締める。

 恥ずかしいとかそんなもんは気にならない。

 

「きゃっ......!」

「悪い、雪ノ下。暫くこうさせていてくれ......」

「......ええ、構わないわ、甘えん坊さん」

 

 雪ノ下の白く細い腕が俺の背後に回される。右手は背中に、左手は後頭部に当てられ、そのまま俺の頭を撫でるように動かす。

 一時間ほど前まで寝ていたので、眠気がまだ残っていたのか、こうされていると心地良くてそのまま眠ってしまいそうになる。

 

「私の方こそ、ごめんなさい......」

 

 雪ノ下が何に対して謝罪しているのかは、直ぐに分かった。だからこそ、俺は返す言葉もすんなりと出てくる。

 

「いや、いい。元はと言えば俺が悪い事だしな。それに、お前のそう言うの、もっと見せてくれよ。その方が、俺も嬉しい」

「......メンドくさいとか言って捨てないかしら?」

「それはあり得ないな」

 

 抱擁を解いて、互いに視線を合わせてクスリと笑い合う。

 明日死ぬのではと思えるくらいに幸せな時間だ。愛してる相手と心を通わせられて、抱き締めて互いの熱を感じる事ができて、口づけを交わす事だって出来るのだから。

 本当に、俺には過ぎた幸せだ。

 

「肩、借りるわね」

「おう」

 

 こちらの肩に頭を預けて来る雪ノ下。その頭を優しく撫でてやると、気持ちよさそうに目を細める。

 

「やっぱり、今日は家でゆっくりしていましょうか」

「そうだな」

 

 出来ることなら、この幸せがいつまでも続くように、願わずにはいられない。

 

 

 



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雪の降る日は

微糖目指して書いた八雪



 雪の日は少しテンションが上がる。

 日本の全国民が知るように千葉はあまり雪が降らない。だからこそだろうか。日常とはかけ離れた非日常の景色が外に広がるように感じてしまう。

 雨と違い、雪と言うのは謎のプレミア感を感じてしまうのだ。雪の日だからこそ、雪が積もったからこそできる事だってある。雪合戦だったり、雪だるまを作ったり、カマクラを作るのは流石に難しいけれど。

 なんにせよ、雪の日は少しだけテンションが上がるのだ。

 

 雪の日は少し寒い。

 実際の気温で比べてみるとどうかは知らないが、体感温度は寒く感じてしまう。

 雪が降ると常よりも温度が低いのでは、と言う固定観念があるからかもしれない。

 もしくは、寒い日にしか雪が降らないからと言う十八年そこらの人生による経験則かもしれない。総武線も雪が強ければ止まってしまうし。

 なんにせよ、雪の日は寒く感じてしまう。

 

 雪の日は、彼女のことを連想させる。

 それは、今現在俺がマリンピアのあの場所にいることも拍車を掛けているかもしれないけど。高校二年の冬、俺と彼女の間にあった何かが確かに終わりを告げた。

 たった一つ共有していて、しかしここで失ってしまった何か。

 けれど、ここが例え違った場所であったとしても。俺は雪と言う単語から彼女のことを連想してしまうだろう。それ程までに俺の中に彼女は根付いている。

 

 そういった要因があるからだろうか。

 例年と同じくクリスマスのチキンをケンタで予約し終え、あと少しの野暮用を済ませた後にあの時と同じ場所のベンチに腰掛けていた俺が彼女に、雪ノ下雪乃に電話をかけてしまったのは。

 

『......もしもし』

「もしもし。俺だけど」

『残念ながら私の知り合いの中に俺と言う名前の人はいないわ』

「比企谷八幡だよ」

 

 半ば予想通りの答えで思わず笑みが漏れてしまう。

 もう20時をすぎていると言うのにコール後直ぐに出てくれた彼女に少しばかりの嬉しさもある。

 

『あなたから電話を掛けてくるなんて珍しいわね。何かあった?』

「いや、ちょっとお前と話したいと思ってな」

『相変わらずセンスのかけらもないジョークね。嘘をつくのならもう少し笑えるものにしなさい』

 

 別にジョークでも嘘でも無いのだが、それを教える必要は無かろう。

 それはそうと、電話口の向こうからは雪ノ下の声の他にも音が聞こえてくる。なにやらワイワイガヤガヤと、時折車が通るような音も聞こえる。

 

「悪い、もしかして外に出てたか?」

『え?あぁ、そうだけれど別に問題は無いわ。お話、したいのでしょう?』

 

 クスリと笑い声が耳に届く。きっとこの電話の向こうでは雪ノ下がイタズラそうな微笑みを浮かべているのだろう。

 別に面と向かって会話しているわけでは無いのに、どこか照れ臭くなってしまう。

 

「あー、そう言えば外に何しに出てんの?」

『うら若き乙女のプライベートを探って何をするつもりかしら、この男は』

「別に他意はねぇよ。話の話題としては特に間違っちゃいないだろうが」

 

 そもそもこいつのプライベートなんて探ったところで、出てくるものはパンさんと猫関連ばかりになるのは明白である。いつの日か陽乃さんの言っていたあの日課はまだ続けているのだろうか。

 

『来週のクリスマスパーティでの交換用のプレゼントを買いに来てるのよ』

「そりゃ奇遇だな。俺も似たようなもんで外出てるわ」

『あなたも今外に出てるの?天変地異の前触れかしら』

「ケンタにチキン予約しに行ってくれって小町に頼まれたんだよ。そのついでに来週のやつも買いに来たってだけだ。別に自主的に外に出てるわけではない」

『それはそれでどうかと思うのだけれど......。相変わらずシスコンなのね』

 

 今度は呆れたようなため息が聞こえる。こめかみに指を当てているのだろうか。て言うか俺凄いな。声だけで大体雪ノ下が起こしてるであろうアクションを予想できるとか。なにこれストーカーかよ。

 

「はぁ......」

『何故あなたがため息をついているのかしら?』

「いや、今自分の気持ち悪さについて再確認したところだ」

『今更?』

「おい、そんな心底不思議そうな声で言うな。うっかり死にたくなっちゃうだろうが」

 

 そんな当たり前の事に今更気がついたのかしらこのゴミは、みたいな声色だった。泣きそう。

 

『でも......』

「ん?」

 

 そう聞こえて来てから少しの間があった。中々その続きの言葉が聞こえてこなかったのだが、一つ二つ咳払いが聞こえ、漸く言葉が紡がれる。

 

『............最近のあなたは、気持ち悪い、と言うことも、無いと思う、けれど......』

「...........................」

 

 その声色だけでうっかり惚れそうになった。

 ちょっとちょっと雪ノ下さん?あなたそんなに感情が声に出る人でしたっけ?て言うか今お前外に出てるのに恐らく真っ赤になってるであろう顔を披露しても大丈夫なんですかい?

 

『な、何か言ってくれないと困るのだけど......』

「あ、あぁ、うん。まぁ、サンキュ......」

 

 ちょっとー?雪降ってるのになんか暑いんですけどー?やはり雪ノ下の言う通り俺が外に出ると言うのは天変地異の前触れなのだろうか。

 

『そ、それで?結局何の用があって電話を掛けてきたのかしら?』

「お前の声が聞きたくて」

『ごめんなさい、前言撤回させてもらうわ。あなたの気持ち悪さは今も尚衰えていないみたい』

 

 ちょっと素直に本心を口にすればこれである。まあそうして茶化してくれると分かっているから口に出来ると言うのもある。相変わらずのヘタレ具合に全俺が泣いた。

 

「ま、本当のことを言うとだな。雪降ってんだろ?」

『ええ、そうね』

 

 見上げた夜空からは未だにしとしとと白い結晶が地面に落ちている。

 落ちては儚く消えていくこの光景を、彼女も何処かで見ているのだろうか。

 

「マリンピアで雪を見てたらお前のこと思い出して、気がついたら電話してた」

『そう』

「だから特に用事なんて無かったんだよ。悪いな、出掛けてるのにそんな事で電話して」

「別に構わないわ。だって、私の声が聞きたかったのでしょう?」

 

 背後からとても綺麗な澄んだ声音が聞こえた。

 つい今しがたまで電話口から聞こえていたものと同じ声なのだが、こうして遮るものが何も無く耳にすると、やはりその容姿に合った綺麗な声をしていると思う。

 振り返った先にいた雪ノ下は薄く微笑んでいた。

 

「こんばんは比企谷くん」

「お前もこっち来てたのかよ......」

 

 まさかの邂逅に心臓の鼓動が早まる。思わず釣り上がりそうになっていた口元を抑える。

 

「よくこんな寒い所に座っているわね。やはりゾンビは寒さに耐性があるのかしら?」

「出会い頭にゾンビ扱いやめろ。普通に寒いから。今すぐ帰ってコタツに引きこもりたいまであるから」

 

 本当、なんでこんな寒い所にずっといたんだろうね。理由なんて考えても思い浮かばないが、そのお陰でこいつと出会えたことを思えば、まぁ、その、何......。嫌な感じはしない、な。

 

「......ここからだとあなたの家よりもうちの方が近かったわね」

「は?」

「特別にうちに上げてあげるわ。暖かい紅茶を振舞ってあげる」

「いやいやいや、そこまでしてもらう謂れがないんだが」

「お話、したいんでしょう?」

「......じゃあ、まぁ、お邪魔します」

「よろしい」

 

 雪の日はいつもと何かが違う。

 それは自分のテンションだったり体感温度だったり。常日頃なら思い浮かばない何かがあったり。

 だからきっと、彼女が俺を家に上げてくれるのも、それを俺が素直に了承したのも、この雪のせいなのだろう。

 そんな雪の降る日が、俺は案外嫌いではない。

 

 

 



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ゆきのひ

雪だるま作ろう ドアを開けて



 日本の首都圏を襲った大雪。交通網は大打撃を受け、会社や学校は軒並み休みになり、そして晴れ間が広まった時には、一面の銀世界。いえ、銀世界と言うよりもあれは一種の世紀末のようでもあったわね。

 普段なら滅多に雪の降らない千葉もその例に漏れることなく、二日間の臨時休校を挟んだのち登校。総武高校はその色を真っ白に変えていた。

 現在昼休みであり、久しぶりに由比ヶ浜さんとじゃんけんで勝負した結果無様に負けた私は、自販機へ向かうべく、雪に彩られた校内を歩いていた。

 雪は嫌いではない。私自身の名前に漢字が使われていると言うのもあるが、私は雪の日の静謐な雰囲気が好きなのだ。

 一年の頃の部室や自宅から一人で眺める雪は、私の心を落ち着かせてくれた。

 けれど残念なことに、今年の雪は静かに見れることも無さそうだ。先程も由比ヶ浜さんが「寒いなら無理しなくていいからね!」と大きな声で気遣うように言ってくれたが、心配するくらいだったら勝負の提案をしなければいいのに。

 そんな騒がしい彼女と見る雪も、私の心を落ち着かせるものに変わりはなかったのだけれど。

 数分前のことを思い出してつい笑みが漏れてしまう。こんな風に思えるだなんて、いつかの私は想像していただろうか。

 

 やがて自販機の近くへ辿り着くと、その奥、テニスコートの辺りに人影を捉えた。

 この寒さのせいなのか、いつものアホ毛は弱々しくへたり込んでおり、しかし猫背の方はしゃがんでいても健在なようで。

 彼は、比企谷八幡は、テニスコートがよく見える保健室裏で、腰を下ろしてなにやら満足気に笑っていた。

 その顔が、妙に幼く、それでいて可愛らしく見えて、不意に胸をときめかされる。

 なんなのかしら。なんなのかしらあの純粋無垢の少年のような笑顔は! 途轍もなく可愛らしいじゃない! あの瞬間だけは猫と同じくらい可愛かったわよ⁉︎ その癖目は腐ってるってどういう事なのよ!

 比企谷くんの笑顔を脳内画像フォルダにタグ付けお気に入り登録で保存した後、自販機に向かっていた足をあちらに向ける。

 その気配に気がついたのか、顔を上げた彼と目が合った。残念ながら先程の笑顔は消えていたけれど、まあ当然でしょうね。寧ろあの笑顔を正面から向けられてしまったらどうなるか分かったものではない。もしかしたら浄化とかされてしまうかも。

 

「こんにちは」

「......おう」

「こんな所で奇遇ね」

「......そうだな」

「寒空の下一人でお昼を過ごすだなんて、もしやあなた、本当にマゾヒストだったの? ただでさえ人間関係が絶対零度なのに、それ以上自分を冷やしてどうするつもり?」

「いや、マゾヒストじゃないから......」

 

 おかしい。比企谷くんの返しにいつものような捻くれた言葉が混ざっていない。しかもどこか気まずげに視線を泳がせているし。

 

「何故視線を泳がせているのかしら? もしかして、一人なのをいい事に何か疚しいことでも......」

「してない。断じてしていない。と言うか別になにもないし。視線も泳いでねぇし」

 

 そう言う比企谷くんの目がまた明後日の方向に逸らされる。もうそれだけで自白して自爆しているようなもの。

 ふと視線を下へズラすと、彼はその両手で何かを隠している様だった。気になって覗き込んで見るも、それに合わせる様にして動く彼の体。

 

「一体その腕の中になにを隠しているのかしら?」

「なんも隠してないから。はよどっかいけ」

「そう言われて素直に退くとでも? 部員であるあなたが校内で犯罪を働いていたとなっては、部長たる私が見逃すはずないでしょう?」

「なんで俺が犯罪を犯した前提で話を進めてるんだよ」

「いいから、その腕をのけなさい」

「断固拒否する」

 

 ふむ、あくまでも隠し通すと言うのね。

 こうなれば致し方ない。あまり使いたくない手段ではあったけれど、小町さんから伝授されたあの技を使う時が来たようね。

 

「デスクトップ左上の『雪景色』というフォルダ」

「なっ......⁉︎」

「あなたならなんのことか理解できるのではなくて?」

 

 ニッコリ笑って言うと、比企谷くんの顔から血の気が引き真っ青になっていく。

 実は小町さんから聞かされたのはそれだけで、そのフォルダの中身がなんなのかは知らない。けれど、比企谷くんに言うことを聞かせたい時はこれを脅しの材料に使ってくれと言われた。

 小町さんは中身を知っていた様だけれど、どうせ如何わしい画像などが詰まっているに決まっている。男性がそう言ったものを持っているのは当たり前かもしれないので軽蔑はしないけれど。

 全く、言ってくれれば私が幾らでも提供してあげるのに。

 如何わしいものは、その、少し恥ずかしいけれど......。

 

「......なにが目的だ?」

「その腕で隠しているものを見せてくれたらいいのよ。そうしてくれたら言いふらすような真似はしないから安心して?」

「くっ......。本当だろうな?」

「ええ。虚言は吐かないわ」

 

 心底嫌そうな顔をしながらも退けられる彼の両腕。右の腕はそのまま顔まで持っていかれ、何故か恥ずかしそうに目を覆っている。

 果たして、彼が必死に隠していたものとは。

 

「雪だるま?」

 

 小さな雪の玉を二つ重ね、木の枝や雑草などで装飾された、俗に言う雪だるまと呼ばれるもの。

 ただ、それが一般的な雪だるまと違っていたのは、誰が見ても一目瞭然だろう。

 

「これは、私、かしら?」

 

 問うと、比企谷くんは無言で首肯を返した。

 頭の部分には木の枝が幾つかつけられており、そこに小さな雑草を二つ括りつけている。これは髪の毛だろう。それと少しつり上がったような目。

 なるほど、確かに私の特徴を捉えている。しかも無駄に器用に作っているし。その雑草、どうやって括りつけたのよ。ご丁寧に色も赤だけれど、それって最早雑草じゃなくて花弁を千切ってつけてたりしない?

 なんにせよ、この雪だるまは永久保存版ね。ええ。なんなら家に持ち帰りたいまであるわ。

 

「だから見られたくなかったんだよ......」

 

 そっぽを向いてしまった比企谷くんの顔は赤く染まっている。

 まあ、本人のいない所でその人を模した雪だるまを作っているのを見られるのは、確かに恥ずかしいかもしれない。勝手に作られた側は怒るかもしれないし、折角頑張ったのに直ぐ壊されてしまうかもしれない。

 けれど残念。私はそんなことはしないわ。

 

「ちょっと横にズレなさい」

「は?」

「いいから」

「お、おう......」

 

 彼の隣に腰を下ろし、周囲の雪を搔き集める。それなりに積もってくれていて助かった。そうじゃないと、立ち上がって別の場所から雪を集めて来なければならなくなる。

 素手で触れていたので少し、と言うかかなり手先が冷えてしまうけれど、そこは目を瞑りましょう。

 まん丸な雪の玉を二つ作り、その辺りに落ちている木の枝で目を作る。ちょっとタレ目気味にしたら、いい具合に彼の腐りが再現された。仕上げに雑草を引っこ抜いて頭頂部に取り付けると完成だ。

 

「......なにこれ?」

「よく出来ているでしょう?」

「うん、いや確かによく出来てるけど。え? なに、これ俺?」

「それ以外のなにに見えるの?」

「それ以外のなににも見えないから聞いてるんだろうが」

 

 ふふっ、またちょっと顔が赤くなってる。可愛いわね。

 比企谷くんが作った、私を模した雪だるまと、私が作った、比企谷くんを模した雪だるま。

 その二つを隣り合わせに置いて、ちょっとご満悦な私。

 いいわね。非常にいいわ。これは是非写真にして残しておかなければ。

 

「あっ」

「今度はどうしたよ」

 

 携帯、部室に置いたままじゃないっ......!

 雪ノ下雪乃、一生の不覚だわ。まさかこのタイミングで携帯を置いてくるだなんて......!

 いえ、今この場にいるのは私だけではない。つまり、彼に撮って貰っておけばいいのよ!流石だわ、ナイスアイデアよ。

 

「比企谷くん、あなた携帯は持ってるわね?」

「まあ、勿論持ってるけど......」

「貸しなさい」

「なんで」

「いいから貸しなさい」

「......お前今日どうしたんだ?」

 

 言いながらも素直に携帯を差し出してくれる。相変わらずパスワードによるロック機能なんて使っていないようで、受け取った彼のスマホのカメラアプリを起動。

 パシャリと、可愛い雪の妖精達を写真に収めた。

 後はこうして......。

 

「はい、ありがとう」

「写真撮りたいんなら自分の使えよ」

「部室に置き忘れたのよ。それと、私のアドレスを登録しておいたから、後でその写真を送って頂戴」

「いや、なに勝手に」

「返事ははいかYESよ」

「どっちも同じなんだよなぁ......」

 

 私から受け取ったスマホの画面をしげしげと見つめる比企谷くん。なにをそんなに訝しんでいるのかしら。

 そんな様子を見ていると、私の視線に気がついた彼は、なんでもないと首を横に振る。

 

「そう言えば、俺たち連絡先すら知らなかったんだなって思っただけだよ」

「......あっ」

 

 そう。そうだ。私達は互いの連絡先を全く知らなかった。電話番号やアドレスはおろか、LINEの友達登録ですら。

 それを、今、勢いに任せて。

 あぁ、ダメよ私。ニヤけるのは我慢しなさい。あと左手も、ガッツポーズはまだしてはダメ。

 ともあれ、念願の彼の連絡先。私が一方的に登録しただけだけれど。写真を送れと約束したのだし。

 

「まあ、そのうち送るわ」

「なるべく早目にね」

「へいへい。それよりちょっとこっち来い」

 

 言われるがまま立ち上がって、歩いていく彼の後ろについて行く。私が来た方向と同じ方に歩いて行くと、自販機の前で立ち止まった。

 100円玉と10円玉を入れて彼が購入したのは、黄色と黒のスチール缶でお馴染みの、あのコーヒー。

 

「ほれ」

「......?」

 

 それをこちらに差し出されたが、その理由がよく分からなくて首を傾げてしまう。

 自分で飲むのではないの?

 

「お前、素手で雪触ってただろ。これであっためとけ」

「......まさか、自分が飲む前に私と言う美少女に触れさせて」

「ちげぇよ。て言うか自分のは別で買うっての」

 

 最後まで言い切る前に言葉を被せて遮られた。そんなつもりはないと分かっていても、つい口に出してしまう。いえ、別に私としても、あなたが飲むマックスコーヒーに私の指紋とか体温とかを移すのも吝かではないのだけれど。

 吝かではないのだけれど、ではないわよ。丸っ切り変態のような考えじゃない、これ。

 

「......ありがとう」

「おう」

 

 ここは素直にお礼を言った方が良い。彼に対して貸し借りが云々だなんて、今更だし。

 受け取ったマックスコーヒーで暖を取りつつも、そのスチール缶を睨み付ける。

 飲んだことはないけど、色々と大丈夫なのかしら? ほら、味とかカロリーとか。

 プルタブを開き、ゴクリと喉を鳴らせる。まさかコーヒーを飲むのにこんなにも覚悟を必要とする時が来るだなんて。

 

「いや、そんな身構えんでも普通に飲めよ。美味いぞ?」

「分かってるわよ......」

 

 小さく息を吐き出し、缶を握る手に自然と力が加わる。不味い、と言うことはないのかもしれないけれど。

 しかし先ほどの雪だるま製作の影響故か、体が冷えて来たのも事実。もう一度心の中で覚悟を新たにして、マックスコーヒーを喉へと流し込んだ。

 

「......甘い」

「だろうな」

「甘過ぎるわ......」

「それくらいが丁度いいんだよ」

 

 私の反応を見て愉快そうに笑っている彼の顔は、さっき見た少年のようなものではなく、心底意地の悪い笑顔だった。けれどまあ、彼の笑顔が見れただけでも、このコーヒーを飲んだ価値はあっただろう。

 ちびちびとスチール缶の中身を空けていると、昼休み終了のチャイムが鳴った。

 次に彼と会えるのは放課後の部室。それまでに、メールで写真を送ってくれていればいいのだけれど。

 でも彼のことだから、写真以外になんて書けばいいのか、なんて悩んでしまうのでしょうね。そんなところがまた可愛らしい。

 

「そう言えばお前、何しにここ来たの?」

「由比ヶ浜さんにじゃんけんで負けた罰ゲームよ」

「え、お前それ、由比ヶ浜は......」

「......あっ」

 



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比企谷八幡は愛妻家

 愛妻、と言う言葉の意味を正しく認識している人間は、どれほどいるだろう。

 いや、何も特段難しい意味を孕んでいる言葉というわけではないのだ。愛している妻、妻を愛し、大切にすること。まあ大体こんな感じだ。その意味を正しく調べたわけでなくとも、ある程度察しがつくだろう。

 が、待て。しばし。

 このような言葉が出来上がっている訳だが、それは結婚した妻に対しては抱いて当然の感情ではなかろうか。結婚相手とは、好き嫌いよりも一緒にいて苦にならないかが大切なのだ、とはどこかで聞いたような話だが、それも大前提として相手のことを、即ち妻となる女性のことを愛していないと成り立たない関係だ。

 その愛が冷めるからこそ離婚、妻と夫と言う関係性が解消されるのだ。

 改めてこんな言葉を作る必要性など皆無であろう。

 

「と言う訳なんですけど、どう思いますか陽乃さん」

「いやいや、わたしに聞かれても困るんだけど」

 

 駅前のカフェで俺の対面に座る元魔王様は、超げんなりとした様子でため息混じりに言った。なにがあったのか、その目も俺と同じく腐ってしまっている。ただそれを指摘しようものなら、社会的にも物理的にも殺される事になるのは火を見るよりも明らかだ。

 

「あのさぁ比企谷くん」

「なんすか?」

「君のその理屈にはわたしも反対しないよ。うん。確かにその通り。世の中愛さえあればなんでも出来るもんね」

「いやそこまで言ってないですけど」

「比企谷くんは雪乃ちゃんへの愛さえあればなんでも出来るもんね」

「いやその通りですけど」

「否定しないのね......。まあそれは置いといて、お姉さんは雪乃ちゃんとは最近どうなのー? って聞いただけだよ? それがどうして君の妙ちきりんな考えを聞かされる羽目になってるの?」

「あんたさっき同意したじゃねぇかよ。妙ちきりんって言うなよ」

 

 事の発端は数分前まで遡る。別に遡るってほど前の話ではないけども。

 雪乃が由比ヶ浜と遊びに出かけてしまったので、暇を持て余した俺は散歩をしていると元魔王と遭遇。カフェに連行されて最近の雪乃との仲を尋ねられたところ、俺があのような返答をしたと言う訳だ。

 

「つまり、なに、比企谷くんは愛する雪乃ちゃんからの愛を実感出来ていないって言うの?」

「いや別にそんなこと言ってないですけど」

「じゃああれだ。俺の嫁がこんなに可愛いわけがない、って言う惚気だ」

「そっちの方が近いですね」

「はぁぁぁぁぁ............」

 

 めっちゃ長いため息を吐かれた。最初に話を振ってきたのは陽乃さんの方だと言うのに。解せぬ。

 

「あの頃の可愛い比企谷くんはどこに言ったのかしら......」

「そこら辺に落としてきたんじゃないですか?」

「まああの頃も可愛いってことはなかったけど」

「前言撤回が早すぎる」

「寧ろあれだよね。冷静になってあの頃の比企谷くんを見てみると、わがまま言ってるだけのただのガキンチョだもんね」

「辞めて、それは俺が一番理解してますから。それ以上俺の青春時代を掘り起こさないで」

「それじゃあ一応聞いといてあげようじゃないの。比企谷くんのお嫁さんでわたしの妹の雪乃ちゃんがどれだけ可愛いのか」

「お、聞いてくれます?」

「めんどくさ......」

「聞こえてるぞオイ」

 

 さて、ではどこから語ってやろうか。しかし俺と雪乃の結婚生活において特段語るべきようなイベントはなにもない。毎日を普通に過ごしているだけなのだから。

 と言うことで、その一日の模様をお届けしようではないか。

 

「まず朝起きた時なんですけど」

「そこから始まるんだ......」

「あいつ、絶対俺より早く起きてるんですよ。そんでベッドから降りることもせず、ずっと俺の寝顔見てるんです。俺が起きたら直ぐにおはようのキスを強請ってくるんですよ? もうこの時点で滅茶苦茶可愛いですよね。その後は毎日弁当作ってくれて、仕事行く時なんか行ってきますのハグとキス。正直それだけで社畜になった価値があると確信してます。昼休みの暇な時とかに電話したら絶対出てくれますし、弁当の感想を言ったら凄い嬉しそうにありがとうって言ってくれるんですよ。それから会社出る時はいつも連絡いれますね。そしたらなんて返ってくると思います? 『事故に気をつけて、早く帰ってきてください』とかそんな感じのメールが毎回届くんですよ? もうそれだけで通常の三倍のスピードで帰宅出来ますね。寧ろそのスピードがデフォなまである。家に着いたらお帰りのハグとキス。いっつも玄関で出迎えてくれるんですよ。晩飯は俺の栄養を気遣ってくれてるのが理解出来るし、嫌いなトマトもあいつが作ってくれた料理ってだけで克服しましたね。飯食った後は一緒に風呂入って、その後は雪乃の淹れてくれた紅茶を一緒に飲んでソファでゆっくりしてます。雪乃の機嫌が良かったら膝枕してくれるんですよ。ヤバイですよ、雪乃の膝。めっちゃ柔らかい。何回か寝落ちしたことありますし。いい時間になったら寝室に行って、お休みのキスをして一日終了って感じです。......陽乃さん?」

 

 長い長い語りを終えると、目の前の陽乃さんの顔には疲労の色が浮かんでいた。はて、一体どうしたと言うのか。

 

「ねえ比企谷くん、わたしのブラックコーヒーに砂糖混ぜるの辞めてくれない......?」

「混ぜてないですけど」

「本当にあの頃の比企谷くんは、もうどこにもいないんだね......」

「逆にあの頃の俺に今更戻っても仕方ないでしょ」

「あの童貞丸出しだった比企谷くんがこんな惨状になってるだなんて......」

「こんな惨状」

「独り身のわたしを虐めてそんなに楽しい⁉︎」

「正直ちょっと楽しかったです」

「うわーん! 静ちゃんの気持ちが分かっちゃうなんて屈辱ー!」

 

 わざとらしく泣き声を上げて、陽乃さんはテーブルに突っ伏した。なんでか知らんが勝った気分。雪乃の負けず嫌いが移っちゃったかね。

 しくしくと泣いている陽乃さんを見ていると、ポケットに入れていた携帯が震えた。その長さから察するにメールだろう。

 メーラーを起動して新着メールを確認すると、雪乃からだった。噂をすればなんとやら。

 

「......雪乃ちゃんから?」

「そうですけど......。あー、陽乃さん、すんまんせんけど俺そろそろ帰りますね」

「えー」

「由比ヶ浜がうちに来るみたいなんで。あ、陽乃さんも来ます?」

「遠慮しとくよ......。もうお腹いっぱいだし......」

「そうっすか」

「はぁ......。比企谷くん、本当雪乃ちゃんのこと好きなんだね」

 

 陽乃さんの言葉に、思わず苦笑が漏れる。

 ああ、本当に。感情を理解出来ない自意識の化け物とまで呼ばれた俺が、こんなにも誰かを愛することが出来るなんて。あの頃の俺は想像出来ただろうか。

 しかもその相手が氷の女王で、今こうして魔王様と談笑しているだなんて。

 

「当たり前ですよ。なんせ俺は、愛妻家ってやつですから」

 

 妻を愛し大事にしているものの事を、敢えて別の呼び名で表すのなら、俺はそう言うことになるのだろう。

 いいじゃないか、愛妻家。俺が比企谷雪乃を愛しているのは事実として変わらないのだし。

 

「......わたしも愛してくれる旦那様が欲しいなぁ。どう比企谷くん? ここはひとつ姉妹丼なんて」

「何言ってんですか。て言うかもう帰るから。ちょっと、腕掴まないで。離して」

「ほらほら〜、お姉さんの良いことしようぜー?」

「もうお姉さんって歳でもいだだだだだ!!」

「何か言ったかな?」

「なんもないです! なんも言ってないから腕離して!」

 

 あ、待って、マジで痛い。関節キメられてる。胸当たってますよとか心底どうでも良いくらいに痛いんですけど! しかも変に抜け出そうとしたら余計に痛いし! 性格悪いなこの人!

 いい加減にマジで離してください、と言おうとして陽乃さんの方を見ると、何故かその顔は窓の方を見て固まっていた。

 不思議に思い俺も同じ方を向いて、全身が硬直した。

 窓の向こう側、店の外。そこに直立不動でニッコリと深い笑みを浮かべながら立っている、彼女の姿を見てしまったから。

 その背後では由比ヶ浜が苦笑していた。

 真に恐ろしきは我が妻。まさかあの雪ノ下陽乃を恐怖で硬直させてしまうほどの冷気を放つとは。

 雪乃は徐に携帯を取り出し、それを耳に当てる。勿論震え出す俺の携帯。

 

「......もしもし」

『随分と楽しそうなことをしているのね、八幡?』

「いや、これは陽乃さんが全面的に悪いと言うか俺は全くの無実と言うか」

「酷い! 比企谷くん酷いっ! わたしにあんなことをしておいて......!」

「ちょっとあんたは黙ってて!」

『詳しい話は家で聞くわ。勿論、姉さんもね?』

 

 プツッと一方的に電話を切られた。

 それをポケットにしまい店を出ようとすると、陽乃さんから胡乱な目を向けられる。

 

「比企谷くん、さっき言ってたのって嘘じゃないの? ていうかなんで雪乃ちゃんあんなに怖くなってるの?」

「......普段可愛い反動とかじゃないですかね」

「反動大きすぎるよ......」

 

 まあ、そんな怖いようなところも含めて、彼女のことを愛している。

 なんて、そんな事を言えば、陽乃さんにまた呆れられるだろうか。

 



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お茶請けにはポッキーを

ポッキーの日に書いた八雪です


 高校三年の11月ともなると、寒さすらも気にならない程に勉学へと没頭する。どうやらそれは学年一位をキープし続けている雪ノ下も例外ではないらしく、ここ最近の部室は単なるお勉強部屋と化していた。

 いや、部室だけなら俺も文句は無いのだが、雪ノ下は休日にも関わらず俺を自宅へ呼び出し、勉強をしましょうとにっこり笑顔で言ってくる。

 本来はドキドキワクワクの心躍る恋人の部屋であるはずなのに、俺に勉強を教える雪ノ下はまるで鬼や悪魔のよう。別の意味でドキドキしちゃう。

 そんな訳で、付き合い出して数ヶ月経っていると言うのに、俺と雪ノ下の間には浮ついた話など一つたりとありはしないのだ。

 勿論タイミングの問題もある。付き合い出したのが二学期に入ってからとか、これから忙しくなるぞって時だったし、そもそも世間一般から乖離した俺と雪ノ下でそこら辺のリア充のような普通のお付き合いができるとも思っていない。

 ただ、もうちょい、なんかこう、色々あっても良いんじゃないですか? とは期待しちゃうわけで。

 今日だって部室で二人きり。自身の危うさに気がついていない由比ヶ浜は三浦達と遊びに行っている。

 だと言うのにも関わらず、長机の向かい側に座っている俺の恋人様は今も熱心に問題を解いていた。

 ハラリと落ちる長い髪を耳にかける仕草や、真剣に問題を解いている綺麗な横顔。それら彼女の美しさはまるで浮世離れした一枚の絵画を思わせる。

 しかし、少し考え事をする際にシャーペンで頬をぷにっと押す姿に、年相応の可愛らしさが見て取れる。

 自分の勉強のことなんて忘れて雪ノ下に見惚れていると、彼女はシャーペンを机に置いてんっ、と伸びをした。その動きは彼女が愛してやまない猫のようだ。

 

「少し休憩しましょうか。どうやらあなたの方はあまり進んでいないようだし」

「......まぁ、そうな」

 

 どうやら余りにも不躾に見過ぎたらしい。雪ノ下は俺の視線に感づいていたようで、クスクスと面白そうに笑っている。

 その笑顔は大変可愛らしくてよろしいのですが、こちらとしては気恥ずかしいやら何やらでついソッポを向いてしまう。紛らわすようにして、何かお茶請けとなるものはないかとカバンの中を漁っていると、赤い箱が奥の方に見えた。

 これはラッキーと思いそれを取り出して机の上に置く。

 

「お前も食うか?」

 

 ポットの方へと向かい紅茶の用意をしている雪ノ下に尋ねると、何故か考えるそぶりを見せた。

 ガハマクッキーじゃあるまいし、こいつを食うのに何も考えるべきことなんぞないと思うのだが。それでも雪ノ下は何やら深く考え込んでおり、と思えばいきなり顔を赤くしたりしている。なんかよう知らんが可愛いなオイ。

 特に勿体ぶる必要もないので、一応変なものは取り出している訳ではないと言う弁明の意味も含めて説明すると、俺がカバンから取り出したのはポッキーである。

 単なるポッキー。赤い箱で、30本くらい入ってる袋が二つあって、イチゴ味や抹茶味でもなければ、極細40本とかそんなんでもない。

 本当に一般的なポッキーだ。

 なんか頬を染める要素あります? いや可愛いからいいんだけど。寧ろもっと恥ずかしそうにしててもいいんですよ?

 ポッキーの箱へと向けていた視線をこちらに戻すと、雪ノ下は首を横に振った。

 

「いえ、遠慮しておくわ」

「一応言っとくけど、別に変なもんは入ってないからな」

「そんなこと疑ってないわよ。それとも、事前にそう言うなんて、本当は何か仕込んでいるのかしら?」

「んなわけねぇだろ」

 

 まあ彼女がいらないというのであれば、俺が一人で食うことにしよう。別にお茶請けなんて無くても紅茶は飲めるしな。

 

「どうぞ」

「さんきゅ」

 

 雪ノ下から湯呑みを受け取り、勉強道具を一旦隅に置く。なんなら今日はこのままお勉強会お開きで放課後ティータイムと洒落込みたいのだが、それを許す彼女ではないだろう。

 俺も由比ヶ浜みたいにもっと気楽に構えられたらいいのだが、と考えてやはり思い直す。あれは流石に気楽過ぎるし。どうせ明日の部活で彼女を待ち受けているのは、いつも以上にスパルタな鬼ノ下さんによる教育だ。自業自得ここに極まれりである。

 なんて考えていると、その鬼ノ下さんが椅子を持ってこちらへテクテクと歩いてきた。もうテクテクって歩き方が可愛い。

 なんじゃろなと思うと、俺の座っている椅子にピタリとくっつけ、そこに腰を下ろす。

 あまりにも急な接近に思わずたじろいでしまった。

 

「雪ノ下......?」

「なにかしら」

「なんでそんなに近いの?」

「あら、なにかご不満?」

「いや、別に不満とかじゃねぇけど......」

 

 ほんのりと頬を染めつつも、俺に体重をかけてくる。触れている左肩から、紅茶よりも温かい何かが俺の体を包み込んで行く。

 まぁ、こう言うのも悪くはないですね、うん。

 紅茶は暫く冷まさせるために机に置き、代わりにポッキーの箱を手に取って開封。更にその中に入ってある袋も開き、取り敢えず一本取って口に含んだ。

 ガジガジとポッキーを食べ進めていると、不意に視線を感じた。

 ぼっちは視線に敏感である。今まで俺が向けられた視線の種類は数知れず。以前は嫌悪的なものばかりだったが、最近では嫉妬や好奇心から来るものも。一番キツイのはなんか生暖かいやつ。

 しかし、今向けられているそれはそのどれとも違う。ともすればどこか熱を含んでいるようにも感じるものだ。

 今この状況、二人きりの部室で俺に視線を向けるやつなんて、勿論雪ノ下しかいない。

 

「......なんだよ」

「......いえ、別に」

 

 気になってそちらに振り向けば、やはり雪ノ下は俺を見つめていた。体勢のせいか、自然と上目遣いになる上に顔と顔の距離も近いので、なんだか恥ずかしくて頬に熱が集まる。

 俺に質問を投げかけられた雪ノ下は直ぐに顔を逸らしてしまったが、それでもこちらをチラチラと見ていた。

 いや、よく観察してみると見ているのは俺だけではないご様子。

 俺を見て、机の上のポッキーを見て、また俺を見て、それからまたポッキーを見る。それの繰り返し。

 なに、やっぱりポッキー欲しかったの?

 

「欲しいのか?」

「いらないわ」

 

 手元にある食べかけのポッキーを雪ノ下の目の前でヒラヒラとさせてみるも、返ってきたのは否定の言葉。

 しかし何が気になるのか、雪ノ下は尚も俺とポッキーを交互にチラ見する。

 俺がポッキーを食べる姿が気にくわないとかそんなんじゃないだろうし。一度断った手前受け取りにくいとかだろうか。もしくは食い意地を張ってると思われるのが嫌だとか。

 別に気にしなくてもいいとは思うが。寧ろ、食い意地を張る雪ノ下と言うのもギャップがあって大変可愛らしいかと思います。てか俺今日だけで何回雪ノ下に可愛いって言ってんだよ。(言ってない)

 

「欲しいんなら素直にそう言えよ。別になんとも思わないからさ」

 

 あまりにもチラチラ見てくるので、耐え切れずにそう言ってみる。

 実際、今更そんなことでとやかく言うような仲でも無いだろう。

 

「そうではないのだけれど......。いえ、やはり一本頂いてもいいかしら」

 

 一瞬だけ雪ノ下は逡巡して、結果俺にポッキーを求めた。うん、素直な女の子は八幡好きだぞ。うわ......、好きとか恥ずかしい......。

 

「ほれ」

「ありがとう」

 

 そんな俺の純情な感情なんぞ三分の一も伝わってる様子はないようで、雪ノ下は偉く澄ました顔で礼を言った。

 ポッキーを受け取った雪ノ下は、何故かそれを食べることもなくしげしげと観察している。

 いや、別に普通のポッキーですよ? 本当に変なものは入って無いですよ?

 やがて彼女は意を決したようにうん、と一つ頷くと、何故か俺にポッキーを突き出す。

 

「咥えなさい」

 

 ............?

 

「はい?」

「だから、これを咥えなさい。あぁ、食べてはダメよ。口に咥えるだけ」

「いや、俺まだ食いかけのポッキーあるんだけど」

「いいから」

 

 有無を言わさぬ謎の圧力に屈して、結局突き出されたポッキーを口に挟む。言われた通りそれを咀嚼することなく、取り敢えず次の指示を待つ。

 雪ノ下はそんな俺の顔を見て、深呼吸を一つした。

 一体何が始まると言うのか。八幡ドキドキ。

 

「そのままこちらを向いていて。顔は動かさないように」

 

 声は出せないので首肯を返す。

 マジで何をされるのか不思議に思っていると、あろうことか、雪ノ下は俺の咥えてるポッキーを反対側から食べ始めた。

 

「っ⁉︎」

 

 驚いて咄嗟に口を離そうとしたが、その気配を察知した雪ノ下の両手が俺の頬に添えられる。

 決して強い力では無いが、それだけで抵抗する力が失われた。

 少しずつ、とても小さく食べ進める雪ノ下。

 触れてしまいそうな距離にその綺麗な顔があり、彼女の目はパッチリと開かれて俺を見つめている。

 そんな状況でこちらが目を閉じられる訳もなく、それどころかそんな彼女に見惚れてしまっていて、目を閉じるなんて選択肢は元から無かった。

 互いを繋ぐ茶色い橋が残り僅かとなった所で、彼女は瞼を閉じる。

 それにつられるように俺も目を閉じた数秒後、とても柔らかい感触が口先に訪れた。

 刹那の間だけの、とても短い、不器用なキス。

 当たり前だ。だって、俺も、恐らくは雪ノ下も、今まで生きてきた中でキスなんてしたことがないのだから。

 記念すべきファーストキスはよく分からないままに終わり、しかし壮絶な甘さを残した。

 彼女の両手が俺の頬から離れ、顔も遠ざかっていく。

 改めて見た雪ノ下の顔は、これでもかと言うくらいに紅潮していた。頬だけでなく、顔全体が。勿論俺も真っ赤になってるだろう。

 そんな有様だと言うのに、雪ノ下はもう一本ポッキーを抜き取って、こちらに差し出してきた。

 どこか振り切れたように俺の目を見つめ、薄い微笑みを携えて問い掛けてくる。

 

「もう一本、どうかしら?」

 

 今日の日付と雪ノ下の行動の意味に気がついたのは、互いに口の周りをドロドロにさせた後のことだった。

 



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目に見えるモノ、手に届くモノ。

天体観測八雪


 山道を歩く。最低限の舗装がなされた地面はコンクリートの上を歩くよりも足腰にダメージを与えてくる。高校三年間の自転車通学で鍛えられた俺はまだしも、常人より体力の少ない彼女にとってはかなりの苦行となっているのではなかろうか。

 

「大丈夫か?」

「え、ええ。あなたに心配されるほどではないわ」

 

 振り返った先にいる彼女は強がってみせるが、顔には疲労の色が濃く出ている。そんな強がる必要もあるまいに。

 本当にキツそうならおぶって連れて行こうかと言う考えが一瞬よぎったが、普通に恥ずかしいから却下。

 

「取り敢えずカバン寄越せ。俺が持っといてやるから。それだけで大分違うだろ」

「うら若き女子大生のカバンで一体何をしようと言うのかしら、この男は」

「何もしねぇし......。お前を思ってやっての提案だろうが」

「私を、思っての......」

 

 ちょっと、なんでそこだけ抜き取ったの?いや別に嘘を言った訳ではないんだけどさ。ただ改めてそんな風に繰り返されてしまうと気恥ずかしさと照れ臭さで死にたくなるからさ。

 

「......いいから、貸せ」

「あ......」

 

 こんな事で時間を無駄にしたくないので、無理やり彼女のカバンをひったくってから再び歩き出そうとする。

 が、一歩目を踏み出した時にグイッと後ろに引かれる。

 

「なに、どしたの?」

「いえ、その......」

 

 見れば服の裾を引っ張られたようだった。以前から何度か助けを求めるように裾や袖を引っ張られる事はあったが、果たして今度はどうしたのだろう、と思っていると。

 彼女は徐に手を差し出してくる。

 

「暗くて、逸れるかもしれない、から......」

 

 そう言った彼女はそっぽを向いたため、その表情は窺い知れない。

 確かに、この山道には電気などの人工的な光は一切なく、月明かりのみが唯一の光源となっている。だからと言って前の道が見えないほど暗い訳ではない。月明かりを遮る雲は無く、更に言うとここは一本道なので逸れる可能性も皆無だ。

 結論、ただ暗いのが怖いだけですね。可愛いじゃねぇの。

 

「ま、逸れたらダメだしな」

 

 誰に言うでも無く、言い訳じみた言葉を口にして、彼女の手を取る。

 さて行軍再開だと意気込んで再び山道を歩き始める。時折風に揺られた草木がカサリと音を立てるのだが、その度に繋がれた手からビクッと反応してるのが伝わってくる。流石にビビり過ぎで氷の女王は何処へやら。腕に抱きつかれたりしないだけマシか。

 

 そうして歩く事数分で目的地に到着する。

 山道を抜けた先にある小さな原っぱ。草原と言えるほど広くも無く、広場と言えるほど綺麗でもないその場所が、俺たちの目的地だ。

 

「本当にここであっているの?」

「あってるよ。ほれ、上見てみろ」

 

 俺が首を上に向けるのに促されて、彼女も空を見上げる。

 そこに広がっているのは満天の星空。

 地球から何光年も離れていると言うのに、それでも光を届ける星々が、遮るものも無くこの目に映る。

 その中でも最も特筆すべきなのは天の川だろう。膨大な恒星の集団、織姫と彦星を会えなくしている川、まあ解釈の仕方は色々とあるが、実際にこの目で見てしまうとそんなものはどうでも良くなる。

 

「綺麗ね......」

 

 隣から感嘆の声が上がる。

 繋いでいない方の手を夜空に伸ばす彼女のその横顔は、俺の見たことがない表情だった。

 彼女がこのまま夜の空に吸い込まれていってしまうのではないか。そんなあり得るはずもない事を思わず考えてしまうような。

 つい、彼女と繋ぐ手に力が入る。

 

「痛いわ、比企谷くん」

「......悪い」

 

 でも、この手を離してしまうと、もう二度とそこに届かなくなりそうで。

 ダメだな。雰囲気に充てられて変な事を考えてしまう。思考を切り替えよう。そうだ、夏の大三角はどこだ。「君の知らない物語」ごっこやって見たかったんだよな。

 

「星には、手は届かないのね」

 

 折角思考を切り替えたと言うのに、未だ空に手を伸ばす彼女の声でバカな思考が全部吹き飛ぶ。

 

「そりゃ届いたら怖いだろ」

「見えているのに届かないと言うのは、どうにももどかしいわ」

 

 それは、一体何に対する発言なのか。

 言葉の通り、空に輝く星々か。

 その星に負けない程の輝きを放つ彼女の姉か。

 それ以外の何かも彼女の目には映っているのかもしれない。

 

「見えてるだけまだマシだろ。見えないものを無理矢理見ようとして、そこに勝手な幻想を抱いて手を伸ばす方がよっぽどバカだしな」

「それは誰のことかしら?」

「さあな」

 

 クスリと笑って伸ばしていた手を下ろし、その掌を見つめた彼女は尚も言葉を続ける。

 

「でも、そうやって届かないものばかりを見て、大切なモノを見落とすの。それが大切なんだとも気づかないままに」

「なんか見落としたもんでもあるのか?」

「さぁ、どうかしら。でも......」

 

 見つめていた掌を、今度はこちらに伸ばしてきた。驚いて後ずさる間も無く、彼女の手が俺の頬に添えられる。

 

「今はあなたに手が届く。それだけで私は充分だわ」

「雪ノ下......」

「あなたはどう?私のことがちゃんと見えてる?そこに、手は届く?」

 

 頬に触れられた手が震えているのが分かる。

 俺を見つめる二つの瞳は揺れている。

 きっと、不安なんだろう。今まで色んなものを見てきて、それら全てに手が届かなかった彼女だから。ようやっと届いたそれが、自分の一方的なものでしかないのではないかと。

 

「これだけ近くにいるんだ。届かないわけがないし、見えないわけがないだろ」

 

 口をついて出るのはそんな捻くれた言葉だけれど。きっとこれも届いてくれるだろうと、そう願って彼女の伸ばす手に自分の手を重ねる。

 

「ふふ、相変わらずの捻デレさんね」

「だから、その変な造語辞めてくれる?」

 

 どうやらちゃんと届いてくれたらしい。

 スッと離れていく彼女の手の感触に一抹の寂しさを覚える。

 

「さぁ、改めて天体観測を始めましょう。あなたに星の事をみっちり教えてあげるわ。いつかは居場所の出来た比企谷くんもあそこに仲間入りするのだから」

「『よだかの星』かよ懐かしいな」

 

 寂しさは覚えるものの、それだけだ。

 彼女は手を伸ばせば届く距離にいる。いつだって、その手を掴む事が出来るのだから。

 

 だから今度は二人で見つけよう。二人で手を伸ばそう。

 

「雪ノ下」

「なぁに?」

「......愛してるぞ」

「っ......!私も......私も、愛してるわ八幡」

 

 そうしたら全部大丈夫だ。



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愛を込めて

 ここ最近にしては暖かい気候の中。

 窓から差し込む日差しを受けながら、リノリウムの床を歩く。

 生徒たちの喧騒を背に特別棟へと入ると、廊下の向こうから、見慣れた腐った目の男が歩いて来た。男の手には赤い薔薇の花束がある。

 彼が持つには似つかわしくないもので、そもそもそんなものを持っている事自体が珍しいので、ついすれ違いざまに声をかけてしまった。

 

「あら、誰かに愛の告白でもするの?」

 

 イタズラ混じりに少し笑いながら問いかける。

 薔薇の花言葉は「愛」 その中でも赤い薔薇は特にそれについて謳ったものだ。

 愛だなんて言葉、彼には本当に似合わない。そもそも、誰かに対して愛している、だなんて素直に言うような人でもないでしょう。

 私の言葉を聞いた彼は、何処か恥ずかしげにぽりぽりと頬を掻いていた。

 

「まあ、そんなとこ....」

 

 返ってきたのはまさかの肯定。

 思わず耳を疑ってしまった。

 誰に、と言う疑問は出てこなかった。

 私の脳内に浮かぶのは、あのお団子頭の少女。私の親友で、私の、恋敵。

 花束を渡すなんて、らしくない事も、彼女のためなら躊躇いもなく行える。いつもは捻くれているけれど、大切なことはどこまでも真っ直ぐで、愚直とも取られるほどの彼。

 そんな彼なら、あの子のためにここまでするのも頷ける。

 

「......そう。精々頑張りなさい。骨くらいなら拾ってあげる」

 

 声に動揺が出ていなかっただろうか。いつも通り振舞えているだろうか。

 自他共に認める負けず嫌いな私ではあるけれど、この負けは仕方のないことかもしれない。

 彼女は私よりもずっと魅力的な女性だもの。

 いつかは終わる恋心だとは思っていたけれど、まさか今日、こうも唐突に終わってしまうなんて。

 それでも、悔しい気持ちがないわけではない。彼には、私に振り向いて欲しかった。私だけを見て欲しかった。

 そんな醜い欲望が、顔を覗かせる。

 せめて、せめてもう少し素直に自分の気持ちを伝える事が出来ていたら、何か変わっていただろうか。

 でも、そう思っても全ては後の祭り。

 これ以上この場にいたら、いつものように振舞えなくなる。泣き出してしまうかもしれない。

 そんな姿は見せるわけにはいかない。見せてしまったら、彼の決意を揺るがすかもしれない。

 私のこの想いはここで潔く終わらせるべきだ。彼と彼女が結ばれる事を、素直に祝福出来る私でいたいから。

 だから、早くこの場から離れなければ。

 

「......お前、なんで泣いてるんだよ」

「ぇ?」

 

 言われて、目元に手を当てる。

 確かに彼の言う通り、私の目からは熱を持った液体が流れていた。

 それを止めようと何度も制服の裾で拭うが、一向に止まってくれる気配を見せてくれない。

 ハッとなって見上げると、彼は困惑と驚きが綯い交ぜになったような表情で、けれどどこか気遣わしげにこちらを見ている。

 なんとか誤魔化さないと。

 

「こ、これは、あれよ。あなたがこれから無様に振られる姿を考えたら、可笑しくて涙が出ただけよ」

「それは流石に無理があるだろ......」

「いいから、さっさと行きなさい。それともあなたは女の子が泣いている姿を見て興奮するような変態なのかしら? まあ、あなたがここを動かないのなら私が去ればいい話なのだけれど」

 

 嗚咽を噛み殺しながら、彼の横を通り抜けようとして、出来なかった。

 

「これは、なんのつもりかしら?」

 

 薔薇の花束が差し出されている。

 勿論、この場には私と彼しかいない。

 

「さっき言っただろうが。愛の告白をしに行くって」

 

 彼は、何を言っているの?

 だって、その花束は彼女に送るものの筈で、私は、たった今失恋したばかりで

 

「お前、なんか勘違いしてるだろ」

 

 勘違いも何も、だってあなたは

 

「はぁ......。いいか、一度しか言わないからな」

 

 どこか呆れたような溜息。

 待って頂戴、状況が上手く飲み込めないのだけれど

 

「雪ノ下雪乃さん」

「......はい」

 

 聞き慣れた声で、聞き慣れない話し方で、私の名を呼ぶ。

 不器用でぎこちない、けれど、とても優しい笑みが、廊下の窓から差し込む日差しに彩られる。

 

「あなたを愛しています」

 

 胸の奥から何かが込み上げてきた。

 それは流れる涙の意味を変えてくれる。

 差し出された薔薇の花束も受け取らず、最早衝動に身を任せて。

 

「わた、しも......、あなたを、愛してます......」

 

 抱きついた彼の胸の中で、私は静かに嗚咽を漏らした。

 

 



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有意義な休日の過ごし方

 とある休日の昼下がり。

 本当に何もない平穏な日だ。学校がなければ部活もない。ただの休日。

 そんな日に俺が何をしているかと言うと、寝転んでテレビを見ていた。

 ただし、雪ノ下の家のソファで雪ノ下に膝枕をされて、と注釈がついてしまう。

 テレビに流れているのはクイズ番組。先程から出演者よりも早く問題を答えては少し得意げにフフン、とドヤる雪ノ下が可愛過ぎて辛い。しかも気付かれてないと思ってガッツポーズしちゃうあたり更に可愛い。

 

「なあ雪ノ下」

「なにかしら?」

 

 仰向けに寝転んだ状態で話しかけると、雪ノ下が見下ろしてくる。その際に彼女の長い黒髪が俺の頬を撫でて少しこそばゆい。

 その髪に優しく撫でるように触れて、俺は言葉を続ける。

 

「最近休日はこんな過ごし方ばっかだけどさ......」

「そうね。最近の休日はとても充実しているわ」

 

 お、おう......。不意打ちでそんな事言われたら恥ずかしいんですけど......。

 雪ノ下はとても幸せそうに微笑んでいる。その表情を見ていると、本当に充実しているのが一目で分かってしまうほどに。

 ご機嫌な雪ノ下さんは俺の頭を撫で始めた。俺も未だ雪ノ下の髪の毛をいじいじしてるので、膝枕をされながらお互いに髪を撫でるとかいうよく分からないシチュエーションになっている。

 そんなゆきのんには悪いのだが、俺は提案せねばなるまい。

 

「もうちょっと、こう、有意義な時間の使い方をしないか?」

「......?」

「いや、そんな心底意味が分からないみたいな顔で首傾げるな。可愛いだけだから」

「......っ。そ、そう。可愛い、のね。ありがとう」

「ん、お、おう。まぁ、どういたしまして」

 

 ちょっと頬染めんな可愛過ぎて真昼間だってのにハピネスチャージしちゃいたくなっちゃうだろうが。

 

「いや、そうじゃなくてだな。もっとこう、なんて言うの? 為になるような時間の使い方をしようぜって話なんだが」

「私は今この時間がとても為になる時間だと感じているのだけれど」

「具体的にはどの辺が?」

 

 こんななんの毒にも薬にもならなそうな時間は完璧主義者で潔癖症の彼女らしくないと思ったのだが。

 いや、それも俺の勝手な決め付けで幻想を押し付けているだけかもしれないけれど。

 

「そうね......。こうしてあなたと同じ時間を過ごせて、あなたの為に何かしてあげる。私にとってはこの上なく有意義な時間よ?」

 

 薄く微笑む彼女に、思わず見惚れてしまった。そんなセリフを吐くなんて正直反則だと思う。

 これ以上ダラダラと雪ノ下に甘えるような休日を過ごし続けると確実に俺はダメになってしまうかもしれないと思っての提案だったのだが......。

 あ、もう既にダメダメなゴミクズ野郎だろってツッコミは無しでお願いします。

 でも、しかし。この子にならダメにされてもいいかも、なんて思ってしまう。

 て言うかこの膝枕はやばい。確実にダメになる。分かってても抜け出せないのは悲しい男の性だ。

 

「あなたは、どうなの......?」

 

 少しだけその微笑みに影が差した。不安そうにこちらをみる瞳は揺れている。

 そんな表情をさせたかったわけではないのに。

 

「......ま、休日は休む為にあるんだしな。寧ろこうしてゴロゴロダラダラとしている事こそが正しい休日の使い方とも言える」

「ふふっ......。素直じゃないのね」

「さて、何のことだか」

 

 相も変わらず捻くれた答えしか返せないが、どうやらしっかり伝わってくれたらしい。

 俺だって別にこのような時間を無意義だと感じて提案したわけではない。出来るならこんな平穏な時間が永遠に続いてくれればと思っている。

 けれど、人間の時間には限りがあり、その限られた時間の中でやらなければならない事は山程あるのだ。

 髪を撫で続けていた雪ノ下の手がポンポンと俺の頭を優しく叩いて、寝転んでいる俺の唇に接吻を一つ落とした。

 それが起き上がれとの合図だと解釈して、名残惜しくも雪ノ下の膝枕から上半身を起こした。

 

「さて、そろそろお勉強のお時間よ比企谷くん」

「うへぇ......。やっぱりもうちょっとダラダラしてない? お昼寝とかしない?」

「ダメよ。あなた、前回のテストでの数学の点数を忘れたの? 私が見てあげていると言うのに90点台に乗らないだなんて、許されざることよ」

「いやいやいや、75点も取れたんだから十分だろ」

「妥協は許さないわ。さっさと勉強道具一式を広げなさい」

 

 どうやらこの様子だとダメになりようが無さそうだ。寧ろ真人間に更生してしまいそうで恐怖を感じるまである。そんなのただのイケメン八幡じゃねぇかよ。

 

「ちゃんと今日のノルマを達成出来たら、ご褒美も上げるから、ね?」

「よし、早速始めようか。どうする? どこから始める? やっぱり昨日の続きからか?」

「はぁ......。喜べばいいのか嘆けばいいのか。判断に困るところね......」

 

 めっちゃやる気出たよ。て言うかヤる気出たよ。「ね?」ってなんだよ「ね?」って。可愛いかよおい。

 頭痛でもするのかこめかみに手を当てているが、早くしてくれないとご褒美の時間が遠ざかっちゃうじゃないですか! 巻きでお願いしますよ!

 

「因みにご褒美の前払いとか出来る?」

「それではご褒美ですらないじゃないの......」

 

 呆れた物言いだが、少し考える素ぶりを見せる雪ノ下。ここで容赦なく切り捨ててこない辺り、本当丸くなったと言うか甘くなったと言うか。

 やがて良い案でも閃いたのか、ハッとした様子で顔を上げる。

 

「ではこう言うのはどうかしら?」

「ん?......んむっ⁉︎」

「んっ......」

 

 俺に問いかけの時間すらも与えず、強引に唇を奪われた。

 さっきの様な軽く触れるだけのキスとは違い、どこまでも貪欲に求めてくるようなキス。舌が口内に侵入してして全身に快楽が迸る。

 まるで口の中が溶けてしまいそうなほど、熱くて甘い情熱的なキス。

 負けじと俺も彼女の口内に舌を這わせると、ビクッと肩が少し跳ねたのが分かった。

 どれくらい唇を触れ合わせ互いの口内を蹂躙しあっただろうか。一分にも満たなかったかもしれないし、十分以上そうしていたかもしれない。

 離した口と口の間では糸が引いていて、雪ノ下の口からはだらし無く涎が垂れている。それは恐らく俺も。

 朱に染まった顔で揶揄うような笑みを浮かべた雪ノ下は、それを拭うこともせず問いかけてきた。

 

「どう? これでやる気は出た?」

「おう、滅茶苦茶出たぞ。だから、後悔するなよ?」

「え? ってきゃぁ! ちょっと、比企谷く......んんっ......!」

 

 雪ノ下の肩を抱いてソファに押し倒す。誘ってきたこいつが悪いと言うことで。

 

「せ、せめてベッドで......!」

「だめ、無理、我慢できん。お前がいきなりあんなキスするから悪いんだぞ」

「も、もう、あなたって人は......あっ」

 

 そんなこんなで結局怠惰に過ぎていく貴重な休日。

 有意義な過ごし方とはどのようなものなのかと考えてみるも、そこに彼女がいればそれでいいかなんてバカみたいな思考に落ち着いてしまうので。

 今はその彼女を存分に可愛がって上げるとしよう。

 

 



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今年の目標は。

どんどん残弾が少なくなって来てる。毎日更新してたらそりゃそうなるよねって。


 チラリと時計を見ると、気がつけば全ての針が頂点で重なろうとしていた。

 例年通り一人暮らしの家でガキ使を見て笑い転げてたわけだが、もうそんな時間になっていたのか。昔はその瞬間にジャンプして「俺空で年越しを迎えたんだぜ!」とかしょーもないことをやっていたが(一人で)、大学生にもなればそんなこともなく。

 折角だし2017年が終わる瞬間をこの目で見てやろうと時計と睨めっこ。

 あと数秒でその瞬間がやってくると言うその時に。

 

「......誰だよこんな時間に」

 

 携帯が着信を知らせた。

 ウンザリしながらも画面を見ると、そこに表示されている名前は意外な人物。向こうから俺に掛けてくるなんて片手で数えて足りるのではないだろうか。

 そんな相手だからこそ、もしや何かあったのではと少し心配になり電話を取る。

 

「もしもし」

『こんばんは。今少しいいかしら?』

 

 電話越しでもその透き通るような美しい声色は健在なようで。電話の相手、雪ノ下雪乃は言葉とは裏腹に有無を言わせぬ口調をしていた。

 

「別に大丈夫だけど。なに、なんかあったのか?」

『いえ、特に何かあったと言うわけでは無いのだけれど......』

「じゃあなんで電話して来たんだよ。ちょっと心配しちゃっただろ」

『心配?』

「お前から掛けてくるとか、なんか面倒ごとでもあったのかと」

 

 元来特に用も無いのに会話をするようなやつでも関係でもない。そりゃ会ったら他愛のない話の一つや二つはするけども。

 果たして雪ノ下の要件はなんじゃらほい、と耳を傾けていたのだが、聞こえて来たのはなんとも要領を得ない言葉だった。

 

『本当に大した用事は無かったのよ。その、なんと言うか......』

「お前が言い渋るなんて珍しいな。マジでなんかあったんじゃないだろうな?」

『......よくよく考えると、大した用事ではない、と言うことも無いわね』

「ん?」

『今からあなたの家にお邪魔しても構わないかしら?』

「は?」

 

 家のチャイムが鳴ったのはその瞬間だった。

 おい、こいつマジか。

 電話を切って盛大にため息を一つ吐いてから、玄関へ向かう。全く、今何時だと思ってるんだか。

 玄関の扉を開くと、そこにいたのは高校を卒業して時間を重ねるごとにその美しさを増している元同級生が笑顔で立っていた。

 

「こんばんは比企谷くん。それと、あけましておめでとう」

「......あけましておめでとう」

 

 そう言えば年明けたんだった、なんてどうでも良い事が頭を過る。

 その笑顔に見惚れていたなんて、悟られるわけにはいかない。

 

「何しに来たのお前......」

「取り敢えず上げてもらっていいかしら?」

「あぁ、うん、いいけどさ......」

 

 俺の質問に答える気はゼロなのね......。まあそれも今に始まった事ではないからいいんだけどさ。

 雪ノ下は俺の家に上がると、先ずは台所で何やらゴソゴソとしだした。そしてこちらを振り返ったと思うと、その手に持っているのはさっき食べたどん兵衛のゴミ。

 ちょっとバツが悪くて目を逸らしてしまう。

 

「あなた、相変わらずこんな食生活をしているのね」

「男子大学生の一人暮らしなんてそんなもんだろ」

「呆れた、小町さんからは何も言われないの?」

「甘いな雪ノ下、小町は俺が一人暮らしするってなった時親父と同じくらい喜んでたんだ。その小町が俺の食生活の心配なんてするかよ」

「その、悪いことを聞いたわね......?」

「疑問形になるくらい謝らんでいい。で、お前何してんの?」

「台所借りるわね。お蕎麦を持って来たから」

 

 鍋に水を入れて手際よく年越しそばを作る準備をしだす。ところで年越しそばって年越してから食べるもんなの? 普通年越す前じゃ無い?

 

「いや、どん兵衛食ったから良いんだけど......」

「黙って待ってなさい」

「はい......」

 

 おかしいなー、ここ俺の家なんだけどなー、なんで家主より客の方が発言権上なの?

 

 

 暫くテレビを観ながらぬぼーっと待っていると、雪ノ下がお盆に皿を二つ乗っけて来た。

 勿論お皿の中には年越しそばが。海老の天ぷらと油揚げも入ってる。

 

「おぉ、めっちゃ美味そう......」

「普通のお蕎麦を普通に湯がいただけよ。ほら、頂きましょう」

「そうだな。んじゃ、頂きます」

「頂きます」

 

 二人揃って手を合わせてから蕎麦を口に運ぶ。

 美味い。

 これを普通の蕎麦だなんて認めないぞ。神様仏様が認めたとしても八幡は認めない。え、て言うかこれマジで何入ってんの? めっちゃ美味いんだけど。

 半ば夢中で蕎麦を口に運んでいると、向かいから視線を感じた。

 

「ふふっ、そんな美味しそうに食べてくれると作った甲斐があるわね」

「......っ。見てんじゃねぇよ」

「あら、これはごめんなさい」

 

 薄く微笑みを浮かべる雪ノ下。俺の食べてる姿なんて見て何が面白いんだか。

 

「んで? お前マジで何しに来たの?」

「あら、折角美少女と共に新年を迎えられたと言うのに、何か文句があるのかしら?」

「文句はない。だから、なんか用があったんじゃねぇのかって聞いてんの」

「......そうね。強いて言うなら、年が明けてあなたに一番に会いたかった、とかではダメかしら?」

「......」

 

 こいつは本当に......。どうしてそう、俺の心を揺らすような事をなんの躊躇いもなく言ってくるのか。最近の雪ノ下は段々陽乃さんと同じ性能を搭載してて恐ろしい事この上ない。

 

「はぁ......。別にダメじゃねぇよ」

「あらそう? それは良かったわ」

 

 雪ノ下は尚もその端正な顔で笑みを作っている。その笑顔を向けられているだけだと言うのに、頬が熱を持ってしまう。

 

「ところで比企谷くん」

「ん?」

「あなた、今年の目標とかは無いの?」

「随分と藪から棒だな」

「いつもやる気皆無な比企谷くんと言えど、新年が始まってすぐくらいは何かしら目標を掲げているのかな、と」

「おい、お前の言い方じゃ俺が三日坊主する前提じゃねぇか」

「それで? 何かあるのかしら?」

 

 話聞けよ。

 しかし、今年の目標ねぇ......。

 

「まあ、あるにはあるけど......」

「それは気になるわね。是非聞かせていただけるかしら?」

 

 本当ならこいつに言う義理なんて無いのだが、その余裕そうな笑みを崩す意味も含めて教えてやっても良いだろう。

 覚悟しとけよオイ。今にその笑顔を驚きに染めてやるからな。

 

「そうだな。好きなやつに気持ちを伝える、とかか」

「えっ......?」

 

 こうかはばつぐんのようだ。

 俺の言葉が雪ノ下の耳に届いたであろう瞬間、彼女は目を見開いて、先程までの可愛らしい笑顔は引っ込んでしまった。驚愕と言う感情をこれでもかと言うくらい表現してる。

 見ていて面白くはあるけれど、さっきの笑顔の方がまだ見ていたかったかなぁ、なんて少し後悔。

 

「あなた、好きな人なんていたの......?」

 

 恐る恐ると言った風にこちらに問いかけてくる。俯いてしまってその表情は見えないが、明るいものではないだろうことは容易に想像出来る。

 まあ、これもいきなり電話かけて来たり家に凸って来た罰だと思って貰おう。

 

「おう、いるぞ。高校の時からずっと好きなやつがな。こりゃまた偉く美人でその上鈍感なやつがな」

「そう、だったのね......」

「雪ノ下......?」

「いえ、なんでも無いわ。あなたなら、その目標も直ぐに達成出来るんじゃないかしら?」

「さて、それはどうだか」

 

 なにせ、本当に相手が鈍感だからな。俺なりに好意を示して来たつもりなんだが、カケラも伝わってる気がしない。

 何より、こんな面倒な性格してる男が突然やって来た女を追い返しもせず家にあげる時点で、気づいて欲しいもんなんだが。

 

「いえ、きっと直ぐにでも。だって、由比ヶ浜さんも......」

「は? 由比ヶ浜? なんであいつが出てくんの?」

「え? だってあなた、高校の時からと......」

 

 おっと? これは話が噛み合っていないな?

 顔を上げた雪ノ下は本当に訳がわからないと言った風で。

 そもそも本当になんで由比ヶ浜の名前が出ちゃうんだよ。いや、まあ彼女の名前が出るのは納得っちゃ納得だが......。

 

「はぁ......。違うよ」

「え?」

「だから、由比ヶ浜じゃない」

 

 全く、新年一発目からどうしてこんな目に合わなければならないのか。けれど、俺の想い人の面倒な勘違いを正すには、こうする意外に方法はないわけで。

 

「俺の好きなやつは、新年一発目から人の家に来るような図々しいやつで、でも美味い蕎麦を振舞ってくれるような優しいやつだ」

「それって......」

「本当、今年中に達成できたら良いんだけどな、この目標」

 

 ハッ、と無理矢理口元を歪めてみせる。そうでもしなければ、今直ぐ叫びながらこの場から逃げてしまいそうになる。

 なんで俺はこんな事を口走ってるんだか。それもこれも、目の前で顔を真っ赤にしているお嬢様が悪いんだけど。

 そのお嬢様はと言うと、顔を赤く染めたままで、けれどこちらを見ながら、少し前までと同じ柔らかい笑みを携えて。

 

「それでも、よ。その目標、今年中に達成出来るわ。えぇ、あなたなら、きっと」

「......そうか」

「そうよ」

 

 聡明な彼女が言うならその通りなのだろう。

 はてさて、一体いつ達成出来ることになるやら。まあ、思いの外早く達成出来る気がするが、そこは俺が頑張るとしよう。

 

「そういやお前どうやって帰んの?」

「泊まらせてもらうけれど?」

 

 この後一波乱あったのは、また別の話って事で。

 

 



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手が滑っちゃった☆

去年のゴールデンウィークとかに渋にあげてた懐かしいやつです。ある意味では思い出の作品。


「ひゃっはろー雪乃ちゃん!ついでに比企谷君も」

 

 由比ヶ浜のいない二人だけの奉仕部の部室に魔王が出没した。

 今日は依頼も無く、二人で静かに平穏に読書に勤しんでいたのだが、その平穏を吹き飛ばすように、雪ノ下陽乃は現れた。

 てか俺はついでなんですね。

 

「何の用かしら姉さん」

「可愛い妹の様子を見に来たんだよー」

「用がないのなら帰ってくれるかしら」

 

 相変わらず姉に対して冷たい妹だ。

 でも俺の方がもっと冷たく厳しい態度取られてるからね。なにそれ俺可哀想。

 

「つれないなぁ雪乃ちゃんは。あ、もしかして比企谷君と二人きりの時間を邪魔されて怒ってる?このこの〜、可愛い奴め〜」

 

 嫌がる雪ノ下に抱きつこうとする陽乃さん。

 素気無くあしらわれるも、姉は諦めずに妹に引っ付く。

 

「良い加減にしてくれないかしら......」

 

 怒ったように、と言うより呆れたようにそう言って立ち上がった雪ノ下は陽乃さんの背を押して無理矢理ドアの方に歩かせる。

 

「まぁ落ち着けよ」

 

 それを見ていた俺は、取り敢えず雪ノ下を宥めようと続くように立ち上がり、その背後に立つ。

 

「私は落ち着いているわよ。大体......」

 

 こちらに背を向けたまま、何時ものように俺を罵倒するのかな?と思っていると、向こう側にいる陽乃さんがニンマリとした笑顔で目をキラリと光らせるのが見えてしまった。

 

 マズイ

 

 そう思った時には時すでに遅し。

 

「おっとおおお〜、手がすべちゃったああ☆」

 

 全く悪びれもしない顔で、下手するとテヘペロとかしそうな勢いで、魔王雪ノ下陽乃は目の前にいた己の妹に手を突き出しその体をドン、と押した。

 

「えっ......」

「いいっ......!」

 

 後ろに倒れて行く雪ノ下雪乃。

 その背後に立っている俺。

 辿り着く結論はただ一つであり、最早必然的にそれは起きてしまった。

 

「......」

「......」

 

 咄嗟に出した両の手でその華奢な身体を胸の中に収める。

 まぁ端的に今の状況を説明させて貰うのなら、俺が雪ノ下の肩を背中から抱いてますね、はい。

 

 なんとも言えない沈黙の中、雪ノ下の顔が真っ赤に染まって行くのが背後からでも見て取れた。

 それを見てしまい、俺も羞恥を自覚してか頬が熱を持つのを嫌という程実感している。

 

 髪の毛から香る甘い香りが鼻腔を擽る。

 抱いた肩は思いの外小さく柔らかい。

 漂ってきた謎の雰囲気に、何かイケナイコトをしているように感じて目を宙空に彷徨わせる。

 

「ご、ごめんなさい......」

「え、いや、その、えっと......」

 

 これ以上この雰囲気に呑まれてしまってはダメだと二人同時にバッ、と密着していた身体を離す。

 それに伴い頭の中が幾分か冷静になり、自分がたった今行った一連の動作を思い返して見て一転、俺の顔は真っ青になる。

 咄嗟に手を離した時、行き場を失った俺の両手は挙げられた状態となっているので、それも相まって普通に犯罪者みたいな気分である。

 いや、でもこの場合は倒れて来た雪ノ下を助けたのであってそもそも雪ノ下を押した陽乃さんが悪いのであって俺は悪くない。

 別に離れていった雪ノ下の感触に後ろ髪を引かれてなんていない。

 

「こっちこそ......なんか、すまん...」

 

 辛うじて絞り出した言葉はそんな謝罪の言葉だった。

 髪の毛で隠れてしまって雪ノ下の表情は窺い知れないが、チラリと見えた耳の下が真っ赤に染まってた辺り嫌がられてはいない、のか?

 

「おっとおおお〜、またまた手が滑っちゃったあぁぁ〜」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっ」

 

 安心したのも束の間、なんとも棒読みなセリフが後ろから聞こえて来たと思うと背中を押される。

 ちょっと待ってとも言えずラップみたいなのを口から吐き出しながら前に倒れていく俺。

 つーかいつの間に後ろに移動しやがったこの人!しかも押す力も地味に強いから上手いこと踏ん張りがきかない.....!

 

「あっ......」

 

 結果だけを言うと、雪ノ下を再び後ろから抱きしめる形になっていた。

 しかもさっきみたいに肩を抱くとかそんな生易しいものではなく、挙げられていた両手が反射的に動いてしまったためガッツリと、俗に言うあすなろ抱きと言うものになっていたのだ。

 更に先ほどよりも顔が近い。つーか真横に雪ノ下の綺麗な顔がある。

 

 再び舞い降りる沈黙。

 顔ごと横に向けるのは躊躇われたので、目線だけを盗み見るように隣へと向けると、顔ごとこちらに向けている雪ノ下と目が合った。

 

「比企谷君......」

「雪ノ下......」

 

 これは麻薬の類なのだろうか。

 さっさと離れろと脳は命令を下しても、体は言うことを聞きそうにない。

 

 雪ノ下の顔はトマトよりも赤く羞恥に染まっていると言うのに、俺から目を離そうとしない。

 それが、俺の脳髄に直接響く。思考が蕩け、考えることを放棄させる。

 あぁ、いっそこのまま流されてしまった方が楽なのだろうか......

 

「じゃあお姉ちゃんは帰るね〜!面白いものも見せて貰ったし、またね二人とも〜!」

 

 陽乃さんの声で我に帰り、ガララ、と扉の開閉音が聞こえた。

 どうやら魔王はご帰宅なされたらしい。

 そうと分かればさっさと離れなければならない。ゾンビが美少女を後ろから抱き締めている光景なんて誰かに見られたら通報待った無しだ。

 が、俺のその考えなど知る由もなしと、雪ノ下は自分の胸の前に回されてある俺の腕をキュッと掴んだ。

 

「お、おい雪ノ下......?」

「別に、その.......、嫌では、ないから......」

「そ、そうか......」

 

 どうやら、暫くこのままでいろ、とのことらしい。

 正直言ってそろそろ色々と限界なのだが、まぁ彼女が望むのなら致し方ない。

 腕の中の確かな感触を感じながら、魔王はいつの間にラブコメの神様に転職したのだろう、なんて見当外れなことを考えていた。



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プレゼントは私

八幡の誕生日に書いたやつ!


 社会人になってしまうと、一日の流れる時間が頗る早く感じてしまう。相対的に、一週間、一ヶ月と過ぎる時間も早く感じるものだ。

 そんな時の流れの中、一日一日に特に意味を見出せるわけもなく今日も今日とて社畜していた俺なわけなのだが。今日という日は俺にとって少しだけ特別な日。ほんのちょっとだけ意味を見出せる日。

 八月八日

 俺こと比企谷八幡の誕生日である。

 と言っても、誕生日だから彼女とデートとか、友達と飲みに行くとかそんな事があるはずもない。だってどっちもいないし。

 今朝携帯を開いた時には高校時代の同級生からおめでとうメールなるものが幾つか届いてはいたが、そいつらと飯に行ったりするということすらない。今年も平和に一人でまったりと誕生日を過ごさせてもらおう。

 

 会社を出て電車で一人暮らし中の自宅の最寄り駅まで。

 駅を降りてから目に付いたコンビニへGO。いつもなら買わないようなコンビニスイーツを自分への誕生日プレゼントに。なんだか悲しい事してる気もするが大丈夫。丸の内のOLなんて事あるごとに自分へのご褒美とか言ってるし。

 30%OFFのシールが貼られた二つ入りのチーズケーキとマッカン、後はちょっと高めのコンビニ弁当を手に取りレジへ通す。

 去年は同じようなショートケーキにロウソク刺したんだけどなんとも居た堪れない気持ちになってしまったので今年は却下。ロウソクの火を消す辺りで『俺なにやってるんだろう』ってかなり気持ちが沈むのでオススメだぞ。

 

「暑いな......」

 

 コンビニを出てからつい言葉が漏れる。夏の夜はジメジメした空気に満ちていて蒸し暑いか、涼しい風が吹いてきてくれるかのどちらかなのだが、今夜は前者らしい。コンビニの中が良い感じに空調が効いていたので余計に外が暑く感じる。

 だがここから家までそう離れているわけでもないので少しの我慢だ。

 やはり駅から徒歩五分は相当な強みだと思う。暑い日も寒い日もそのどちらでもない日も駅から出て家がすぐそこにあると言うのは精神衛生的に非常に楽なのだ。まぁ、うちはかなり安いボロアパートなのだが。それでもエアコンがあるのでまだマシである。

 家に着いたらまずはエアコンを入れないとなー、なんて考えながら歩いていると

 

「にゃー」

「ん?」

 

 近くの公園から猫の鳴き声が聞こえてきた。

 いや、猫?猫かこの声?なんかどっかで聞いた事あるような声の気がするんだけど。

 ちょっと気になったのでふらりと公園へ足を向ける。

 

「あなたは比企谷くんのお家がどこか知らないかにゃー。ふふ、なんて。分かるわけないわよね」

 

 なんか居た。

 ニャーニャーと猫に話しかける、ちょっとした大きい荷物を持った黒髪ロングの美少女。もう美少女って歳でもねぇか。

 え、いや、て言うかこいつマジでなにやってんのこんな所で。さっきの発言から察するに俺ん家に来たかったの?それで持ち前の方向音痴を発揮しちゃったとかそんな感じかな?

 よく見たら猫めっちゃいるし。五匹くらいいんぞあれ。あ、お嬢さんよく見たら随分と蕩けた表情してらっしゃいますね。取り敢えずパシャりと一枚。後で小町とか由比ヶ浜に送ってやろう。

 高校時代からは考えもつかないような表情を浮かべてらっしゃるその美女に声を掛けるかどうか迷う所だが、もしも本当にこいつの目的地が俺の家だった場合が困る。

 

「雪ノ下」

 

 意を決してそいつ、雪ノ下雪乃に声を掛ける。

 突然背後から声を掛けられたからか、ビクッと肩を跳ねさせる雪ノ下。更にその動きに驚いた猫達もビクッと跳ねてそのまま散っていってしまった。

 雪ノ下さん本当猫みたいな動きしますね。

 なんて言ってる場合じゃない。

 

「あら奇遇ね比企谷くん」

「お、おう。奇遇だな......」

 

 先ほどと似たような柔らかな笑みをこちらに向ける雪ノ下だが、その目は笑っていない。

 ちょっとー!ハイライトさん仕事してー!

 取り敢えずさっきの猫のことで責められないように話の流れを誘導していかなくては。

 

「所で、こんなところでなにやってんだ?」

「そうね。少しここの野良猫と戯れていたのだけれど、誰かさんのせいでそれも出来なくなってしまったのよ。誰かさんのせいで」

「わ、悪かったよ......」

 

 誘導失敗早すぎんよ。

 

「それと、あなたに少し用があって」

「俺に?あぁ、それでさっき猫に俺ん家聞いてたりしてたのな」

「なっ......!なんのことかしら?」

「ここに来てしらばっくれるのかよ......」

 

 若干頬赤くなってるから誤魔化せてないですねはい。別にそう恥ずかしがることもあるまいに。もう何年間の付き合いだと思ってんだか。

 

「取り敢えずうち上がるか?」

「うら若き乙女をこんな時間に家に上げるだなんて、何を考えているのかしら」

「乙女って歳でもいやなんでもないです」

 

 成人式を迎えてから五年も経過している事を考えると乙女と言っていいものかどうか。そもそもまだ十九時回ったところだし。

 

「んで、どうすんの?」

「そうね。折角のお誘いなのだし、家に上がって上げるわ。良かったわね比企谷くん、今年は一人悲しく誕生日を過ごさずに済んで」

「覚えてたのかよ......」

 

 溢れるため息はちょっとした照れ隠し。そりゃ知り合いで唯一今朝のメール一覧に載ってなかった奴がこうして会いに来てくれてるんだから。嬉しくないと言ったら嘘になってしまう。

 

 

 

 

************

 

 

 

「いただきます」

「どうぞ、召し上がれ」

 

 どうやら持って来ていた荷物には食材が入っていたようで、家に入るなりキッチンを占領した雪ノ下は他人の家のキッチンを使っているとは思えない程にテキパキも夕飯の準備を始めた。お陰様でコンビニで買ったちょっとお高めの焼肉弁当は明日の昼飯に回されそうだ。

 

「......そんなに見られると食い辛いんだが」

「そう?」

 

 言っても俺から視線を外さない。

 先程からこのお嬢様はニコニコ笑顔で俺のことをガン見してきやがるが、一体何が楽しいのやら。

 取り敢えず手近な料理を摘んで口に運ぶ。

 

「美味え......」

「それなら良かったわ」

「いやマジで美味いわ。これならいつでも嫁にいけるんじゃねぇの?本当こんな所で何やってんだよお前」

「そうね、私もそう思うわ」

 

 そう思うんなら俺の誕生日とか祝ってる場合じゃないと思うんですよ。

 こいつほっといたらポスト平塚になってそうで心配なんだよなぁ。

 雪ノ下の料理に舌鼓を打ちつつ、結局終始俺の方をニコニコと見てきた雪ノ下の視線に身をよじりつつ、食事はなんとか無事に終わったのだが。

 

「所で比企谷くん」

「ん、どした?」

「あなた、明日は仕事お休みよね?」

「ちょっと待て、何故お前が俺の予定を知っている」

「ワインを持ってきているのだけど、一杯どうかしら?」

「聞いて?てか、お前は明日仕事じゃねぇのかよ」

「あなたと同じで明日からお休みよ」

 

 今の会社に入って良かったと思うところは連休がちょっと長いことだ。寧ろそれ以外に無いまである。繁盛期の忙しなさはヤバイを通り越してヤヴァイし、連休前で無ければ残業も当たり前。定時に帰れる方が珍しいとも言えるだろう。

 持ってきていた荷物の中からお高そうなワインを取り出した雪ノ下。仕方ないのでキッチンからグラスを二つ取り出す。

 普段ワインなんて飲む筈もないので、百均で買った安っぽいグラスだから雰囲気もクソもない。オマケに場所はぼろアパートと来た。

 

「全く、お前ならそこら辺のイケメン捕まえて高級レストランとか行った方がいいんじゃないの?」

「そんなところ行っても息が詰まるだけじゃない。それより、あなたコンビニでケーキ買っていたでしょう?冷蔵庫から出してくれるかしら」

「へいへい」

 

 どうやらコンビニスイーツは片方取られるらしい。二つ入り買ってて良かったよ。

 チーズケーキを皿に分けて持っていくと、既にグラスにワインを注いでいた。

 今更だけどワインとチーズケーキって合うの?

 

「お誕生日おめでとう比企谷くん」

「まぁ、サンキュー」

 

 チン、と軽くグラスを合わせて乾杯する。

 安っぽいグラスに安っぽいぼろアパートなのに、雪ノ下がそうするだけで絵になるのは何故だろうか。思わず見惚れてしまう。

 

「どうかした?」

「......っ。いや、なんでもない」

 

 お前に見惚れてた、なんて言えるわけもなく。そもそもそんな事言えてたら未だに独り身ということもないだろう。

 

「コンビニスイーツと言うのも捨てたものじゃないわね」

「俺も偶にしか買うことは無いんだけどな」

「なら今日は自分へのご褒美のようなものかしら」

「ま、そんな所だ」

 

 ワインを口に含ませる。味わうように喉を通して、次いでチーズケーキをフォークで切って口に運ぶ。

 去年一人で食ったショートケーキよりも幾分か美味く感じるのは、単純にチーズケーキの方が好きだからなのか、それとも別の要因があるのか。考えずとも答えは出そうなものだが。

 

「プレゼント、一応用意してあるのだけれど」

「え、マジで?」

「そんなに驚くようなことかしら?」

 

 いやいやだって雪ノ下さん今まで俺の誕生日にここまでしてくれたこと無かったじゃないですか。

 確かに今までの誕生日でプレゼントを貰ったことはあるが、今日は飯を作って貰った挙句にこうして高級ワインも持って来てくれてるし。こいつならそれだけで十分でしょう?とか言いそうだし。

 

「いや、なんつーか、今年は随分と至れり尽くせりだなと」

「そう?......確かにそれもそうね」

 

 思案顔になりながらもカバンの中から取り出したのは黒い小包。なんかテレビドラマとかで見たことあるような気がするぞそれ。つまり、その中身も案外容易に想像出来てしまうわけでして。

 

「えっと、それは?」

「プレゼントだけれど」

「一応中身を聞いても?」

「開けたら分かるわ」

 

 ふむ、自分で開いて自分で確認しろと。

 おっと雪ノ下さん顔が真っ赤ですね。ワインの飲み過ぎかな?

 言われた通り机の上に置かれたそれを、恐る恐る開いてみる。その中に入っていたのは、俺の予想通りのものだった。

 

「......何故に指輪?」

 

 なんとか絞り出せたのはそんな当たり前の質問。

 え、俺たち別に付き合ってるわけじゃないですよね?でもこの指輪はそう言う事で良いんですよね?

 

「その程度のことも分からないのかしら?」

「いや誕生日プレゼントでこんなもの送られたらそりゃ変な勘違いしちゃいそうになるだろうが」

「......勘違いじゃないわよ」

「は?」

「だから、それを左手の薬指につけろと言っているの。ここまで言ってもまだ理解できないかしら?それとも此の期に及んで勘違いだと逃げるつもり?」

 

 澄んだ空を思わせる瞳は俺を捉えてはいるが、その頬はこれ以上ない程に紅潮している。

 残念ながら俺はと言うと、情けないことに脳の処理が追いつかずに現状把握が上手いこと出来ていない。

 つまり、なんだ?誕生日にプレゼント貰ったと思ったら誕生日プレゼントはわ・た・し。的な展開なのか?いやそれは違うか。あながち違わない気もするけど。

 って巫山戯てる場合じゃない。雪ノ下はきっとかなり勇気を振り絞ってくれているのだろう。ならば、その勇気に応えるべく誠実な答えを返さなければならない。

 しかし、こんな事をされても俺の返事なんてとうの昔から決まっているわけで。

 

「えっと、健全なお付き合いをした上で、と言う事じゃダメでしょうか......」

「ヘタレ」

「......返す言葉もございません」

「まぁいいわ。今はそれで満足してあげる」

 

 ススス、と俺の隣に移動して寄りかかってくる雪ノ下。コテンと肩に乗せられた重みがどこか心地いい。

 

「少し酔ってしまったみたいね」

「いやまだそんなに飲んでないじゃないですか」

「今日は泊めてくれる?」

「えぇ......」

 

 どうやら俺の誕生日に別の記念日も追加されてしまうらしい。

 給料三ヶ月分は口座に残っていただろうかと、嬉しそうに笑う彼女を見て考えてしまっていた。



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あなたに恋する事が出来て。

「ひ、比企谷君!」

 

 週末の放課後、部室へと向かう道すがら。

 背後から突然声を掛けられた。

 知っている声だ。そして、振り返った先に居たのも、俺の知っている女子生徒だった。

 知り合い、なんてものよりも少しだけ深い関係だと俺が勝手に思ってる女の子。

 名を、雪ノ下雪乃。

 

「よお、雪ノ下」

「はい、こんにちは。比企谷君」

 

 けれど、俺の知っている雪ノ下ではない。

 一週間前までの彼女なら、そんな屈託のない笑みを浮かべたりはしていなかった。

 

「これから部室へ向かうのですか?」

「そうだけど......」

「なら、ご一緒してもいいですか?」

「......まあ、行き先は同じだしな」

「はい!」

 

 一週間前までの彼女なら、ここで罵倒の一つでも挟み、俺がそれに軽口を返し、なにも言わずとも共に部室へと向かっていたのだろう。

 いや、そもそもこうして廊下で会うこと自体無かったはずだ。彼女は、当たり前のように、いつも一番にあの場所で俺たちを待っていたから。

 雪ノ下を連れて部室までの道を歩く。

 一般的な男子生徒ならば羨むべきシチュエーションだ。

 けれど、俺はそれどころでは無かった。

 

 ただ、俺の知ってる彼女に、帰って来て欲しかった。

 

 

 

************

 

 

 

 話は先週の休日まで遡る。

 奉仕部の備品の補充にと、雪ノ下と由比ヶ浜の二人に荷物持ちとしての任を賜った俺は、待ち合わせ場所である駅前のモールに向かった。

 本当は家でゴロゴロしていたかったのに、小町に追い出された結果だった。

 ギリギリまで粘っていた為、待ち合わせの時間に十分程遅刻してしまった。

 それが、その時の最大の後悔。

 休日の駅前は人で賑わっており、勿論車通りも多い。

 俺がそこに到着した頃には、妙な人集りが出来ていた。そもそも駅前でこんな人集りができること自体が珍しい事だ。

 遠目からそれを眺めて、さっさとお叱りを受けに待ち合わせ場所まで行こうとした時。

 その人集りの隙間から見えてしまった。

 コンクリートの地面に乱雑に散らばった黒い髪の毛を。

 地面に倒れ伏した雪ノ下と、その隣でしゃがみ込んで泣きじゃくる由比ヶ浜。そして、雪ノ下の腕に抱かれた小さな黒猫。

 車に轢かれかけた猫を雪ノ下が助けようとしたこと、その結果雪ノ下自身も轢かれはしなかったが、その際転倒してしまい意識を失ったこと。それを、救急車を呼んでくれた目撃者に教えて貰った。

 その後病院で無事に意識を取り戻した雪ノ下は、いくつかの検診を受けた後に面会を許され、病室に向かった俺と由比ヶ浜に言ったのだ。

 

『あなた方が、比企谷君と由比ヶ浜さん、ですか?』

 

 そこにいたのは、俺たちの知っている雪ノ下雪乃ではなかった。

 駆けつけていた陽乃さんが医者から聞いた話では、車に轢かれかけ転倒した際の脳への衝撃による記憶障害が原因で、一時的に別人格とも呼べる存在が出て来ている。との事らしい。

 その後少し彼女と話しているうちに、雪ノ下の状態がより分かって言った。

 本人曰く、元の人格の記憶はあるらしい。しかし、記憶と言っても映像を目の前で流されるようなもので、どちらかと言えば記録に近いとも言っていた。

 故に、今まで雪ノ下がどのような人生を送っていたかは知っていても、そこにある雪ノ下の感情までは理解していない、と。

 また、今の自分がいつ消える存在か分からない、とも。

 同一人物ではあれど、同一の存在ではない。

 なんともややこしい話だ。ともすれば、SFの世界に片足を突っ込んでるかもしれない。

 だから、病院を出た後、由比ヶ浜と二人で決めた。

 彼女は紛れもなく雪ノ下雪乃だ。でも、彼女が存在している限りは、俺たちはこれから、今ここにいる雪ノ下と向き合っていこうと。

 

 怪我自体は大した事がなかったとのことで、数日の検査入院を経た後に退院。学校はどうするのかと危惧していたが、本人たっての希望で通常通り登校する事となった。

 校内でこのことを知っているのは俺と由比ヶ浜、あとは陽乃さんから説明された平塚先生くらいのものだ。

 登校初日こそ俺も由比ヶ浜もどこか心配していたのだが、部室で見かけた雪ノ下を見る限り、問題なく学校生活を送られているようだった。

 先週と今週は三人で色んなところへ出かけた。

 今の彼女には思い出と呼べるものが何もないから。それを作ってあげたいと、由比ヶ浜が言い出したのだ。

 ディスティニーランドにも行ったし、猫カフェにも行った。雪ノ下の家でお料理教室も開催された。

 楽しかった。確かに、楽しい時間ではあった。

 それでも、俺の心はどこか満たされていなかったのは、事実だった。

 

 

************

 

 

「やっはろー!」

 

 雪ノ下と二人で部室へと到着すると、間も無く由比ヶ浜もやって来た。

 一体由比ヶ浜が、今の雪ノ下に対してどう思っているのかは分からないが、それでも二人のやり取りは以前となんら変わりのないものに見える。

 つまり相変わらずのゆるゆりでさらに雪ノ下の表情もだいぶ柔らかくなってるからとても眼福です。

 

「こんにちは、由比ヶ浜さん」

「ゆきのん、今日もどっかいく?」

「え、今日も寄り道して帰んの?」

 

 思わず難色を示す声をあげると、由比ヶ浜にムッとした表情で見られた。

 いや、だって、ここ最近毎日ですよ? そろそろ真っ直ぐお家に帰らせてくれません? 小町の追求がヤバいから。

 

「むー。ヒッキーは嫌なの?」

「別に嫌ってわけじゃないけどよ......」

 

 由比ヶ浜の思い出作りの提案に乗ったのは俺だし、今更それを反故にするつもりはない。

 でも、ほら、男子高校生のお財布事情って結構悲しいからさ......。

 

「あの、由比ヶ浜さん。私、今日は奉仕部のお仕事がしてみたいです」

 

 俺に詰め寄る由比ヶ浜を宥めるように、雪ノ下は控えめながら声をあげた。

 成る程、確かに今の雪ノ下が来てからと言うものの、部室に集まっては30分もせず遊びに出掛けてたからな。奉仕部らしい仕事なんて何一つしていない。

 

「でも仕事っつってもな......」

「依頼人が来なかったら、基本暇だもんねー」

「あ、あれはどうでしょうか? 千葉県横断奉仕部お悩み相談メールは?」

「そういやそんなんあったな」

 

 やって来るメールが大体スパムだから完全に忘れてた。前にパソコン使ったのいつだったか覚えてないレベル。

 

「でも碌なメール来てないと思うぞ?」

「いいんです。その、やりたい事は、あとそれだけなので......」

「雪ノ下?」

 

 言葉尻は殆ど掠れていて、聞き取れはしなかったけれど。

 でも、その時の雪ノ下は、とても寂しそうな表情をしていた。

 

「あっ、いえ、なんでもないです! ほら、比企谷君。早速見てみましょう?」

 

 一転して柔和な笑みへと変わった雪ノ下に急かされたので、立ち上がって教室の後ろに段積みされている机の上のパソコンを取りに行く。

 若干掛かっていた埃を手で払い、女子二人の前にそれを置いてやった。

 

「ほれ、んじゃ取り敢えず見てみようぜ」

「ありがとうございます、比企谷君」

 

 ......むぅん。雪ノ下に素直にお礼を言われるのはなんかむず痒いな。一週間程度で慣れるもんでもない。

 出来れば元の雪ノ下にもその優しさの一割でいいから分けてあげられないかな。

 

「それじゃあ久し振りに行ってみよう! 千葉県横断奉仕部お悩み相談メール〜!」

 

 なんか勝手に盛り上がってタイトルコールした由比ヶ浜と、それに乗ってパチパチと小さく拍手する雪ノ下。このタイトルコールも久しぶりですね。

 

「じゃあ最初は、千葉県にお住いの『P.N. 剣豪将軍』さんから」

「飛ばせ」

「即答だ⁉︎ ま、別にいっか」

「いいんですか⁉︎」

 

 突っ込みに回る雪ノ下も中々慣れないな......。いや、そもそもこの部室が元からして突っ込み不在みたいなところあったし。なんなら全員でボケ倒してたまである。

 

「それじゃあ次だね。『P.N. お姉ちゃんですよ』さんから」

「飛ばしてもいいんじゃないでしょうか」

「ゆきのんも即答⁉︎」

「こっちのお前も姉ちゃんと仲悪いのな......」

 

 この温厚バージョンの雪ノ下にすら嫌われるって、あの人一体何したの。気になるけど知りたくはない。知ってしまったら最後、何か取り返しのつかないことになるような気がする。まあ陽乃さんだしね。そう思っても仕方ないよね。

 

「その、別に仲が悪いと言うわけではないんですけど......」

「けど?」

「最近、姉さんが少々鬱陶しいくらいにくっ付いてくるので......」

 

 そういった雪ノ下の表情は、酷く沈んだものとなっていた。

 いや、マジで何したのあの人......。

 

「と、取り敢えず読んでみようよ!」

「まあ無視するわけにもいかないしな。てか無視したら後が怖いし」

 

 由比ヶ浜に続きを促すと、最早雪ノ下の意見など無視して読み上げ始めた。

 

『大変なの比企谷くん! 雪乃ちゃんが凄い久しぶりに私のことをお姉ちゃんって呼んでくれてるの! ねえ凄くない⁉︎ あの雪乃ちゃんだよ⁉︎ 羨ましいでしょ!』

 

「......」

「......」

「......えっと、どうしよっか?」

 

 余りにもアレな内容のメールに、思わず言葉を失ってしまった。

 お悩み相談メールに妹を自慢するメール送って来てどうすんだよ。てかそれが許されるなら俺もバシバシ送るっての。送った後に二人から軽蔑の視線で見られるまであるぞ。

 

「まあ、何かしら返すしかないわな。見ちまった以上は......」

「そ、そうだね......」

 

 由比ヶ浜と二人、チラリと雪ノ下を盗み見る。

 その顔は少し赤く染まっていた。

 家でお姉ちゃん呼びしてる事がバレて恥ずかしがってるのだろうか。なにそれ可愛いなおい。

 

「ね、ねえゆきのん」

「......なんでしょうか」

「あたしの事もお姉ちゃんって呼んでみて?」

「うぇっ⁉︎」

 

 何言ってんのこのアホの子......。ゆきのんが出してはいけないような声出しちゃってるぞ。

 が、しかし。由比ヶ浜の気持ちも分かってしまう俺だった。

 元の雪ノ下はいつも頼れるお姉さんと言った感じだったが、今はなんかこう、守りたくなる妹的サムシングを感じる。

 ......今だったら俺も頼めばお兄ちゃんって呼んでくれるかな。

 いや、それは無いな。うん、無いわ。同級生の女子にお兄ちゃんって呼んでくれ、なんて言うとかただの変態だし。

 

「ほら、ほら!」

「え、えっと......」

「諦めろ雪ノ下。そうなった由比ヶ浜にもう言葉は通じんぞ」

「うぅ......」

「さあ! ゆきのん!」

 

 カムカムと両手を広げる由比ヶ浜に、雪ノ下は全力で恥ずかしがり頬を真っ赤に染めながら、上目遣いと言う必殺技を持ってして口を開いた。

 

「ゆ、結衣お姉、ちゃん......」

「......っ!」

 

 絶句。

 そのあまりの破壊力に、開いた口が塞がらない。

 待て、これ由比ヶ浜をお姉ちゃん呼びしてるのを聞いただけでもヤバイのに、自分がお兄ちゃん呼びなんてされた時には......。いやいやいや、俺にはもう小町という唯一にして絶対の妹がいるじゃないか! 浮気、ダメ、ゼッタイ。

 俺が冷静になる為に脳内小町アルバムを開いていると、由比ヶ浜はそれよりも早く復帰したらしく、なんかプルプル震えたかと思ったら思いっきり雪ノ下に抱きついた。

 

「ゆきのーん!」

「きゃっ! 由比ヶ浜さん......⁉︎」

「こーら、由比ヶ浜さんじゃなくて、結衣お姉ちゃん、でしょ?」

「ゆ、結衣お姉ちゃん......」

「うんうん。お姉ちゃんがよしよしして上げるからね〜」

 

 唐突に始まったゆるゆり劇場。大変眼福ではあるのだが、その、目のやり場にも困るので、あんまり組んず解れつしないでいただけません?

 目のやり場に困るので、自分の席へ戻って本でも読もうとすると、ガハマさんがいきなり、よし! とか言って立ち上がった。

 

「今からモール行こう! お姉ちゃんが欲しいもの買って上げる!」

「えぇ⁉︎ そ、それは流石に悪いですよ!」

「妹がお姉ちゃんに遠慮しちゃダメだよ! そうと決まれば急がば回れ! 早速行こう! ヒッキーも!」

「俺もかよ......」

 

 いや別に構わんのだけども。どうせ帰りは二人で雪ノ下を家まで送るのがここ最近の恒例だったし。

 結局、雪ノ下は混乱したまま、由比ヶ浜はテンション爆上げのまま、俺たち三人は駅前のモールへと繰り出したのだった。

 あと由比ヶ浜、急がば回れじゃなくて善は急げな。そこ回っちゃったらダメだろ。

 

 

 

************

 

 

 

 

 終始テンションの高かった由比ヶ浜に、モール内と言わず千葉付近のあちこちへと連れ回され、帰る時には既に日も暮れていた。

 体力のない雪ノ下と超インドア派の俺は既に疲労困憊だ。

 

「あー、楽しかった」

「お前よく体力持つな......。雪ノ下を見てみろ、死にかけたぞこいつ」

「そ、そんな事は......」

 

 どうやら負けず嫌いな所も元の彼女から譲り受けてしまっているようで。

 明らかに顔色が悪くなってるのに、頑なに認めようとはしない。

 

「ご、ごめんねゆきのん。疲れちゃったかな?」

「大丈夫ですよ、結衣おね......、由比ヶ浜さん。確かに疲れましたけど、楽しかったですから」

「うぅ......。ゆきのーん! またいつでもあたしの妹にしてあげるからね!」

 

 いやそこかよ。

 なに、お姉ちゃんポジ気に入ったの? こいつそのうち小町を妹にするとか言いそうで怖いな。うちの妹は例え女子にだとしても渡さないんだからね!

 

「いつでも......。はい、いつでも、また......」

 

 引っ付く由比ヶ浜を離すでもなく、寧ろ雪ノ下からも抱きついて、呟いた。

 今日の彼女はどこかおかしい。一体なにがどのように、と聞かれれば答えに窮するが、それでも、時折彼女の表情が歪むのは見て取れた。

 

「どうでもいいけど、もうマンション着いてるからな」

「あ、本当ですね。では、由比ヶ浜さん」

「うん。ばいばい、ゆきのん」

「ええさようなら」

 

 その微笑みは、俺の知っている氷の微笑ではない。でも、確かに温かさを感じる微笑みだ。

 由比ヶ浜に別れを告げたあと、雪ノ下は俺に向き直り、

 

「比企谷君も、さようなら、です」

「おう。またな」

 

 別れの挨拶を告げて、マンションへと入っていった。

 それを由比ヶ浜と二人で見送るのをここ数日ずっと続けていた。

 後は由比ヶ浜を家の近くまで送ってやるのが俺の最終ミッションだ。しかし由比ヶ浜は歩き出す素振りを見せず、その代わりに口を開く。

 

「ヒッキーはさ」

「ん?」

「ヒッキーは、ゆきのんがこんな風になっちゃったの、自分のせいだとか思ってるでしょ?」

 

 なんの脈絡もなく、そう問われた。

 由比ヶ浜は俺を見ておらず、未だ雪ノ下が消えていったマンションの方を向いている。

 その言葉にはどこか責めるような刺々しさがあり、そして、それに答えを返すことが出来なかった時点で、彼女の言葉を認めているようなものだった。

 

「それは、ダメだよ。それだけはダメ。多分、ヒッキーがちゃんと時間通りに来てたら、ゆきのんは事故に遭わなかったんだと思う。それで、いつも通りのゆきのんと、いつも通り部活の時間を過ごしてたんだと思う」

 

 由比ヶ浜の言う通りだろう。

 もし、あの日。俺が家でうだうだせずに待ち合わせの時間通りに来ていたら。

 雪ノ下は車に轢かれそうな猫を見かけることも無かっただろう。そうなれば、雪ノ下だっていつも通りに生活できていたはずだ。

 だから、俺のせいで、なんて思ったこと、あるに決まってる。

 しかし、その考えはダメなのだと、由比ヶ浜は否定した。

 

「ヒッキーのそれはね、()のゆきのんを否定する事になっちゃう。確かにゆきのんが車に轢かれかけた事は無かったら良かったのかもしれないけどさ。それだと、今ここにいるゆきのんは、存在しなかったんだよ?」

 

 今、ここにいる、雪ノ下雪乃。

 毒舌や罵倒なんかとは縁遠いような温厚な性格で、冬の冷気を思わせる雰囲気は春の陽気へと変わり、俺たちと少ない日数ながらも、思い出を共有した、彼女。

 その子の存在ごと、否定しているのだと。

 由比ヶ浜はそう指摘する。

 

「だから、ちゃんと二人を見てあげて。どっちか一人じゃなくて、ちゃんと、二人とも、見てあげててね」

「......ああ」

 

 短い言葉で返すしか無かった。他に、言葉が見つからなかったから。

 

「じゃあ、あたし帰るね。今日は、一人で大丈夫だから」

 

 俺の返事も待たずに、由比ヶ浜は立ち去った。

 もう俺以外に誰もいないここで、マンションを見上げながら、こう思わずにはいられなかった。

 

 それでも俺は、元の雪ノ下に戻って欲しい。

 あいつの事が、誰よりも好きだから。

 

 

************

 

 

 その時が近づいているのは、なんとなくだけど理解していた。

 

 私が出て来てから二週間が過ぎ、その短い間で、比企谷君と由比ヶ浜さん、二人と沢山の思い出を作った。

 本当に、沢山。

 パンさんに会いにいったり、猫と遊んだり、由比ヶ浜さんに料理を教えてあげたり、ちょっとだけだけど、奉仕部の仕事もした。

 いずれ消える私には、眩しすぎて直視できないようなものだった。

 昨日、二人に送ってもらった時、ちゃんと別れの挨拶をすることが出来て良かった。

 いや、ちゃんと出来たとは言えないけれど。

 でも、泣き出さなかっただけマシかもしれない。

 この二週間で、大好きになった二人。

 料理が下手で、少し頭が悪くて、けれど、とても素直で可愛い女の子の由比ヶ浜さん。

 いつもやる気が無さそうな態度で、目がちょっとアレで、けれど、不器用ながらも優しさを見せてくれた比企谷君。

 多分、この二人それぞれに対して抱いている好意はベクトルの違ったものだろう。

 私は、()の記憶を有していても、感情まで理解できている訳ではない。

 でも、理解してしまった。出来てしまった。

 自分がいずれ消える存在だと分かっていても、彼に、比企谷君に、恋してしまった。

 この気持ちを彼に告げるのは、きっと狡いことなんだろう。卑怯なことなんだろう。

 自分の気持ちに嘘を吐くことなんて簡単なことだ。怖いことから逃げ出すのだって、安易なことだ。

 私は私で、虚言を吐かないわけでもなければ、壁にぶつかるほどの強さも持ち合わせてはいない。

 なのに。

 だと言うのに。

 何故か、私はこの場所に来ていて、LINEのアプリから、彼へと通話を掛けていた。

 そこで漸く気がつく。

 私は、どこまで行っても、雪ノ下雪乃なのだと。

 

 

************

 

 

 

 昨日の雪ノ下との別れ際。そして由比ヶ浜の言葉。

 そのどちらも脳裏にこびりついて離れないうちに、二日ある休日のうちの一日は既に半分以上経過していた。

 太陽は沈み始め、空はオレンジに染まった頃だ。

 そんな時に、寝転んでいたベッドの枕元にある携帯が響いた。

 休日に俺に電話が来るなんて珍しいことで、しかもそれがLINEの無料通話となると更に珍しいことで、その相手もまたまた珍しいやつで。なんだか珍しい尽くしだ。

 一体何の用かは知らないが、取り敢えず電話を取る。

 

「もしもし」

『......もしもし』

 

 電話の向こうから聞こえてきた声は、どこか覇気のないものだった。

 綺麗な鈴の音のような声はどこへやら、雪ノ下雪乃は、少し聞いただけで消沈しているのだと分かるほどの声色をしていた。

 

『その、ごめんなさい。いきなり電話をかけせてしまって......。迷惑でしたか?』

「迷惑ならそもそも電話を取ってねえよ。なに、なんかあったか?」

『いえ、その......。最期に、比企谷君の声を聞きたくて......』

「は?」

 

 その言葉に、どこか違和感を覚える。

 こいつは今、最期と言ったか? 脳内に不安が過ぎる。昨日の記憶が、何度もリフレインする。

 その言葉の意味を問おうとするも、向こうから更に声が続く。

 

『多分、比企谷君も今の言葉で分かったと思いますけど、私はそろそろ消えます。その前に、あなたの声がどうしても聞きたかったんです』

「おい待て。ちょっと待て雪ノ下」

『それと、伝えたいこともありました。本当は言わずに消えようと思ってたんですけど、私は、虚言は吐きませんから。それは、自分の気持ちに対しても同じです』

「待てって!」

『待ちません!』

 

 つい強めの口調で言えば、更に大きな声で返された。怒号と言っても過言ではないほどの力強い声。

 耳に響いたされに、つい黙ってしまう。

 

『ちゃんと、聞いてください』

「......分かった」

 

 由比ヶ浜に昨日言われたばかりだ。ちゃんと、見てあげてくれ、と。

 それに、本当に最期だと言うなら。

 しっかりと聞くべきだ。彼女の言葉を。

 

『比企谷君。私は、あなたの事が好きです』

「......っ」

『返事は、しなくても大丈夫です。分かってますから。あなたが誰を好きなのか。その代わり、幾つかお願いを聞いてくれますか?』

「......言ってみろ。内容による」

『ふふっ、そうですか。まず、通話が終わったら部室に来てください。私は今そこにいるので』

「ああ......」

『それと、多分眠っているので、起こしてください』

「ああ......」

『最後に......」

 

 聞こえてくる声は、徐々に涙まじりの掠れたものへと変わっていく。

 それを一言一句聞き逃さぬよう、電話口に耳を傾ける。

 

『いつかまた、()を助けてあげて下さい......』

「......分かった」

 

 嗚咽が漏れるのが聞こえた。

 鼻をしゃくりあげる音も届いた。

 今すぐにでも部室へ向かいたい。

 けれど、彼女の話はまだ終わっていない。

 

『......私は、幸せでした。短い間だったけど、あなたがいて、由比ヶ浜さんがいる、あの時間を過ごせて。あなたに、恋する事が出来て......』

 

 俺だって、楽しかった。

 雪ノ下と、由比ヶ浜と、三人で色んなところに遊びに行って。

 俺たちの知ってる雪ノ下じゃない。今の雪ノ下と築いた、大切な思い出だ。

 

『だから......。さようなら、比企谷君』

 

 その言葉を最後に、通話は切れた、

 きっと、そう言った彼女は笑っていたんだろう。顔は見なくとも、なんとなく、声の調子で分かった。

 

「......馬鹿野郎っ!」

 

 急いで制服へと着替え、家を出る。

 廊下で出くわした小町に何か言われたかもしれないが、それも無視して、俺は自転車を学校へと走らせた。

 

 

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 

 私は、ちゃんと伝えましたよ。

 

 逃げも隠れもせず、自分の気持ちに嘘を吐かず。

 

 だから次は、あなたの番です。

 

 大丈夫。私にも出来たんだから、あなたにも出来ます。

 

 だから、怖がらないで、彼にちゃんと伝えて下さい。

 

 あなたも、雪ノ下雪乃なのだから。

 

 

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 とても、とても長い夢を見ていた気がする。

 けれど、それが一体どんな夢だったのか、イマイチ思い出せない。

 唯一頭に残っているのは、主語もなく具体性のかけらもなければ、果たして誰からかすらも分からない言葉。

 次は、あなたの番だと。

 未だ朦朧としている意識では深く思考することも出来ず、しかし。

 

「雪ノ下」

 

 頭の上から降って来た優しい声を聞いて、意識が覚醒した。

 

「比企谷、くん......?」

 

 制服姿の比企谷八幡だ。

 私の部の部員で、友達ではないけれど、私の、好きな人。

 周囲を見回すと、どうやらここは奉仕部の部室らしい。

 

「私、部活中に寝てしまったの......?」

「いや、今は部活中じゃねぇよ。ついでに言うと学校のある日でもない。そんな日に呼び出すもんだから、ちょっとはこの部活の企業形態を改めて欲しいもんだ」

 

 この憎まれ口は紛れもなく比企谷くんね。

 と言うか、奉仕部は一介の部活であって企業では無いのだけれど。

 

「別にあなたを呼び出した覚えはないのだけれど。そもそも、どうして私はここに? 確か、あなた達と比企谷くんのお友達を買いに行って......」

「おい、俺を備品扱いやめろ。あと部の備品を友達扱いもやめろ。可哀想だろうが、備品が」

「自分ではないのね......」

 

 呆れてついコメカミに手を当ててししまう。

 そんな私を見て、比企谷くんは笑っていた。

 

「何かしら?」

「いや、その格好を見るのも二週間ぶりだなと思ってな。一応聞いとくけど、お前なんも覚えてないの?」

「覚えて、とは?」

「......まあ、説明してやるよ」

 

 私の傍に立っていた彼は、定位置の椅子に腰を下ろし、説明とやらを始めた。

 曰く、私は猫を助けて車に轢かれかけたらしい。その時の影響で、別の人格が現れたらしい。比企谷くんと由比ヶ浜さんは凡そ二週間の間、その別の私と過ごし、つい先ほど、私が目覚めたと言う、らしい。

 

「俄かには信じられないのだけれど......」

「ま、普通はそうだわな」

「......車の前に飛び出したのは覚えているわ。けれど、その先の記憶がない事も確か。......信じるしかないのかしらね」

「証人が欲しければ由比ヶ浜か平塚先生を呼ぼうか? お前の姉ちゃんも一応知ってるけど」

「いえ、大丈夫よ。そもそも姉さんを呼んだらまたややこしいことになるじゃない」

「違いないな」

 

 その二週間の記憶は、今の私には無い。

 私が覚えているのは、あの言葉だけ。

 それが、もし、その時の私からの言葉なのだとしたら。

 

「ねえ比企谷くん」

「なんだ?」

「伝えたいことが、あるの」

「......そうか。まあ時間はあるし、聞いてやるよ」

 

 次は、私の番だから。

 

「私、あなたの事が---」




この作品のifストーリーである、別人格のゆきのんが消えなかった未来のお話を渋に投稿しております。気になる方はそちらを是非。


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雪ノ下雪乃は恋する乙女

「雪ノ下」

 

 二人だけの静かな部室。

 私も彼も手元の文庫本に視線を落としている。いつも騒がしい彼女がいなければ、私と彼の間に会話なんて殆どない。あったとしても、それは業務連絡程度のものか、何かのつけて私が彼を詰るだけ。

 そんな折、彼から名前を呼ばれた。

 それはとても珍しいことで、けれど、彼の視線は手元の文庫本から動かない。

 

「なにかしら」

 

 会話をする時は相手の目を見て。

 小学生でも知っているような常識だ。

 私は顔を上げて、彼の目を見る。それでも彼は視線を動かそうとしない。

 普段のやり取りの時はこちらに腐った目をぶつけてくると言うのに、これもまた珍しいこと、と言えるのかしら。

 私が応答してから暫くの間が出来た。それはたった数秒程度だったとは思うけど、その数秒の間に彼の顔がこちらに向けられる事もなく、言葉が発せられた。

 

「......日曜とかって、空いてるか」

 

 日曜、日曜日、その日は勿論休日で、その日の予定を聞いてくると言うことは。

 もしかして、デートのお誘い......?

 そこまで思考が辿り着いた所で、なんだか顔が熱を持ってしまって、彼の顔を直視出来なくて、私も文庫本に視線が釘付けになってしまった。

 嬉しい。嬉しいのは確かなのだけれど、けれどここで無闇矢鱈に喜んでしまってはいけない。人に勝手に期待させておいて、実は全くそんなことは無くてただのぬか喜びだった、なんてオチは避けなければ。

 状況と彼の態度から考えてそれはないとは思うけれど、そう言い切れないのが比企谷八幡と言う男だ。

 でも、彼から誘ってくれたのは事実。

 それを断る理由なんて、私にあるはずもない。

 

「......空けておくわ」

「......そうか」

 

 ここで会話が途切れてしまった。

 えっと、あの、それだけ? それだけなのかしら? どの様な用向きがあって、何時に何処に待ち合わせで、とか、そう言うのはないのかしらこの男は。

 もしかして私を誘うので頭がいっぱいで、それ以外の必要最低限のやり取りが頭から抜け落ちてる、なんて馬鹿な事は......。

 ちらりと横目で彼を見てみると、なんだか安堵した様にため息を漏らしてる所だった。

 どうやら本当にこれでOKだと思ってるようね。流石だわ。

 これではラチがあかないので、私から尋ねることにしよう。勿論恥ずかしいので彼の目は見れないのだけれど。

 

「その、それで、どう言った用向きなのかしら?」

「え? あぁ、そうだよな、説明してなかったよな」

 

 あくまでも平然に、なるだけ声が裏返らないよう心掛けながら問うと、彼は今思い出したと言わんばかりに答えた。

 

「なんか、小町が猫カフェのクーポン貰ったらしくてな。そんで、その、お前さえ良ければ、なんだが......」

「そう。それは、小町さんも一緒に......?」

 

 文庫本のページを捲る。内容なんて一つも頭に入って来ない。今私の脳が捉える情報は、比企谷くんの声ただ一つだ。

 

「いや、小町はなんか用事あるっつってたから、えっとだな......」

「つまり、あなたと二人で、と言うことかしら?」

「......まあ、そうなるな」

「そう......。分かったわ。では当日はお昼頃に私の家に迎えに来てくれるかしら?」

「お、おう」

「決まりね。では今日の部活はここまでにしておきましょう」

 

 自分の気持ちを落ち着かせるために淡々と告げ、帰りの支度をする。

 それにつられて彼も支度を済ませ、二人で部室を出た。そのまま昇降口まで、特に示し合わせるわけでもなく二人で歩き、いつもの通りそこで別れる。

 

「じゃあ、また日曜な」

「ええ、また」

 

 彼が下駄箱の方まで歩くのを見送って、職員室へと足を向けた。

 気を抜くと、一気に頬が緩んでしまいそうだ。なんとか、なんとか家までは堪えなければ。

 職員室に鍵を返すと足早に学校を出て、駅まで向かう。電車はそれなりに混んでいたみたいだけど、正直あまり気にならなかった。

 家に到着すると、制服から部屋着に着替えることもせず、ベッドへと倒れこんだ。

 気を抜いたからか、心の底から一気に嬉しい感情が込み上げてくる。思わず足をバタバタしてしまう。

 

「比企谷くんが......、私と二人でって......。ふふ、ふふふっ......」

 

 頬がニヤケてしまうのを抑えられない。抑えられるわけがない。きっと、今の私は人様に見せられないような顔をしているのでしょうね。

 どうしましょう。こんなに嬉しいのは、彼から誕生日やクリスマスにプレゼントを貰った時以来かしら。

 彼と二人きりで猫カフェ。あぁ、それは一体どれほど幸せな時間となるのだろうか。

 今日は金曜日。日曜日までまだ時間はある。

 それまでに当日着る服を選んで、美容室へも行って、下着は......。

 

「......っ! わ、私は何を考えて......!」

 

 し、下着なんて見せる予定はまだ無いのだから、そんなところを気にする必要も......。いえ、まだ、と言うのは今後その予定があるとかそう言った話ではなくて......。

 って、私は一体誰に言い訳しているのかしら......。

 

「ま、まずは着替えて落ち着きましょう......」

 

 ベッドから立ち上がり、クローゼットの中の部屋着を取る。制服を脱いで下着姿になった所で、姿見に映った自分の姿が目に入った。

 我ながら随分と貧相な体だと思う。勿論肌や髪の手入れを怠った事なんて一度もないし、食事もバランス良く取っている。

 自分の顔に自信もある。くびれや脚にだって。でも、ある一箇所だけはどうしても自信を持てない。持てた試しがない。

 それに......。

 

「比企谷くんは、もう少し大人っぽい下着の方が好みかしら......」

 

 なんの飾り気もないブラとショーツ。もし、もしもの話。仮に、例えば、彼に見られるような事があれば、この貧相な体と相まってがっかりされるのではないだろうか。

 べ、別にそう言った展開を期待しているわけではないのだけれど、万が一にもそうなってしまった時の事を考えると、なんだか気が重い。

 

「はあ......」

 

 やめましょう。これ以上は惨めになるだけだわ。さっさと服を着て、夕飯の準備を始めてしまおう。それに、前に自分でも言っていたじゃない。大切なのは全体のバランスだと。

 うん、大丈夫よ私。その点で言えば私の体は完璧と言えるわ。

 さて、今日の夕飯は何にしようかしら。

 それから、美容室の予約もしておかないと。

 

 

 

************

 

 

 明けて土曜日。更にそれも明けて日曜日。

 デート当日。私はかなり早い時間に目を覚ましていた。

 いや、正確に言うならば、一睡もしていなかった。

 正直に言わせてもらうと、楽しみ過ぎて全く寝られなかったわ。遠足前の小学生の様だけれど、事実なのだから仕方ない。

 眠気はやって来ていると思うのだけど、翌日の事を考えてしまうとつい脳が冴えてしまって全く寝付けなかった。

 これは少しマズイ。何がマズイって、私は体力が無いからデートの途中で寝てしまう可能性も捨てきれないのだ。それだけは何としても避けなければ。折角の幸せな時間を寝てしまって逃すなんてあってはならない事。

 なにより、比企谷くんに寝顔を見られるだなんて、恥ずかしいし......。

 

「ふう......。それよりも、さっさと支度してしまいましょう」

 

 ベッドを降りてから既に数時間経ち、朝食も済ませて朝のお風呂も入ってきた。

 お昼頃と彼に言っているけど、今のうちに支度を済ませておいた方がいいだろう。

 となると、まずは着ていく服装か。

 現在は12月。上旬と言えど先月からの寒さは当たり前のように持ち越している。

 それなりに暖かい格好をした方がいいだろう。ミニスカートやホットパンツを履くことも一瞬考えたけど、それは寒さに耐えれそうにない。いえ、タイツを履けばいけるかしら......? 彼はよく私の脚を見て着ているし、何かの拍子にタイツやニーソが好きだと気持ち悪い事を口にしていた気がする。いえ、それなら寧ろ普通のジーンズを履いてスタイルの良さを見せつけてやった方が効果的かもしれない。うん、そうしましょう。

 さて、下は決まったわけだけれど、上の服はどうしましょうか。

 改めてクローゼットの中を漁っていると、家のチャイムが鳴った。

 比企谷くんが来るにはまだ早い時間だと思うのだけれど、さて誰だろうかと部屋の時計を見て、驚愕する。

 

「もうこんな時間......⁉︎」

 

 長針が示しているのは『1』。

 つまり、13時。お昼頃と十分に言える時間だ。着る服を悩むだけで二時間程使ってしまったなんて......!

 兎に角選んでる暇も無いので、適当に引っ掴んでそれを着る。

 服を着てる間に二度目のチャイム。ああもう待って頂戴直ぐに行くから!

 

「はい......!」

『あー、雪ノ下? 俺だけど......』

「俺じゃ、分からない、わね、はぁ......。ちゃんと、ふーっ、名乗りなさい......」

『いや、比企谷だけど、お前大丈夫か?』

「な、なんのこと、かしら?」

『いや、なんか矢鱈と息切れしてるように聞こえるんだけど』

「気のせいよ」

 

 ふぅ......。取り敢えず落ち着いて。時間を見ていなかった私が悪いのだから、比企谷くんにはあと少しだけ下で待ってもらうようにお願いするだけよ。

 

「所で、事前の連絡もなく突然女子の家に押し掛けるとはどういう了見なのかしら。確かに私はお昼頃にとは言ったけれど、それでも小町さん経由で具体的に何時頃か連絡をしてくれても良かったのではないかしら。こちらにも都合と言うものがあるのだから、その辺りの配慮はしっかりして頂戴。それと、まだ準備が終わっていないからあと10分ほど下で待っていて貰えると助かるわ。ではまた10分後」

『えっ、ちょっ、ゆきのし』

 

 プツン、と。

 無機質な音が部屋に響く。

 ......やってしまったわね。つい、やってしまったわ。ええ、分かってるの。今のは完全に私が悪いのであって、寧ろ約束していた時間の通り来てくれた彼はなにも悪くない。後でちゃんと謝らないと。

 けど、今はそれよりも早く準備をしなければ。服はもうこの際今の格好で良いとして、後他に準備しないといけないものは......。

 

「あっ」

 

 ふと、部屋の机に置いてあるそれが目に入った。

 偶には、そう言う趣向を凝らしてみても良いかもしれない。

 そう思いながらそれを取る。

 

「気づいてくれるかしら......」

 

 気づいてくれたら、嬉しいけど。

 彼は意外と人を見ているから、案外直ぐに気づくかも。

 その時の彼の姿を想像してみて、つい笑みが零れた。

 

 

 

 約束通り十分後。家を出てエレベーターで降りると、彼はエントランスのソファに座って待っていた。

 

「ごめんなさい、お待たせしてしまったわね」

「いや、いい。俺も何時に行くかとか言ってなかったしな」

 

 そう言って、彼は私の全身をチラチラと見る。多分、服が似合ってるとか言いたいのでしょうけど、生憎と今日の服は急拵えで上下を揃えただけで、その上にコートを着ているだけ。そう言ってくれるなら嬉しいけれど、言われたらちょっと複雑な気分。

 

「そのリボン......」

「え?」

「......だから、リボンだよ。いつもと色違うけど、その、なんだ。似合ってるっつーか、可愛いっつーか......」

「......っ。そ、そう。ありがとう」

 

 ちゃんと、気づいてくれた。それも一目で。

 あまりにも嬉し過ぎて、素直に笑顔でお礼を言ってしまった。本心を取り繕う暇もないくらい、心が満たされる。

 彼が指摘した通り、今日の私はいつも髪を縛っている二つのリボンを、少し変えた。

 いつもは赤いそれを、ピンクのものにしているのだ。

 クリスマスの時に彼がくれたシュシュもピンクで、私のイメージとは違うとは思うのだけれど、でも、彼がそう言うイメージを持ってくれていると言うことだから、ピンクのリボンも買っていた。

 今まで一度もつけたことはなかったけれど。

 今日、机の上に置いてあるのを見てつけてみようと思ったわけだが、そうして良かった。

 だって、彼に可愛いと言われたのだもの。面と向かって言われるのは初めてかもしれない。

 

「と、取り敢えず行こうぜ」

「えぇ、そうね」

 

 今日は幸先のいい日だ。彼に可愛いと言われた。そしてこの後は猫カフェ。それも比企谷くんと二人で。

 存分に、存分に楽しむとしましょう。

 

 

 

************

 

 

 ふわふわとした感覚。

 なんだか、頭が上手く働かない。

 ゆさゆさと揺れている事は分かる。はて、私は今どこにいるのだろう?

 

「雪ノ下ー?」

 

 耳を打つ心地の良い声。比企谷くんの声だ。

 なんだか直ぐそばからいい匂いがするから、そこに顔を埋めてみる。すんすん。とても安心する臭いだ。匂いの発生源をよく見ると、少しばかり赤い。

 

「まだ寝てるのか?」

 

 聞こえてくる言葉の意味はよく理解出来ない。必死に記憶を辿ろうとして、思い当たった。

 猫カフェに着いて、そこでお昼ご飯も済ませた私は、猫と戯れ過ぎるあまり体力が切れたのだった。

 その先から記憶がないということは、そこで眠ってしまったと言う事か。

 つまり、これは夢? えぇ、そうね、これは夢よ。だって、状況を推察するに私は現在比企谷くんにおぶられていて、あの捻くれたヘタレ男がまさかそんなことをする筈がないのだから。

 

「はぁ......。全く、なんでこんなやつを好きになっちまったかねぇ......」

「......っ!」

 

 これは夢の中の出来事で、私に都合が良いことが起きるのは当然で、でも、だからこそ、せめて夢の中でくらい、私も素直に口に出してみよう。

 

「......私も、あなたのことがとっても好きよ、比企谷くん」

 

 彼の耳元に口を寄せて言ってみた。

 ふふ、面白いくらい耳が真っ赤になってる。本当は返事の言葉が欲しいところだけど、眠くなって来てしまった。

 夢の中で寝たら、現実に目を覚ますことが出来るのだろうか。

 もし、目が覚めたら。

 もう少しだけ、彼に自分の気持ちを伝えられるように、頑張ってみても良いかもしれない。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 背中に掛かる重みにはもう慣れた。そもそも羽のように軽いやつだから、元から気になる程の重さではなかったけれど。

 伝わる柔らかい感触にも慣れた、と思う。貧相だとばかり思っていたのだが、いざこうしておぶってみると、やっぱり女の子なんだなぁと感じさせられる。

 スヤスヤと寝息を立てる音にも慣れた。まさか猫と戯れながら寝るなんて器用な真似をしやがるとは思いもしなかったが、流石にあのまま店の中にいると言うことも出来ない。

 だからこうして仕方なくおぶって店を出て来た訳なのだが。

 まさか。まさかまさか。

 普通そのタイミングで目を覚ますか?

 しかもまた寝てるってどう言うことなのこのお嬢様。

 

「虚言は吐かないって、言ってたもんなぁ......」

 

 さて、どうするべきか。

 まずは俺の首元に顔を埋めた我が想い人を家に運んでやるところからなわけだが。

 ......いかんいかん。さっきのこいつの発言を思い出してしまうと、つい顔に熱が集まってしまう。しかも漸く慣れて来た背中に伝わる柔らかい感触とかをまた意識してしまってなんかもうやばい。

 

「本当、なんでこんなやつを好きになったんだか......」

 

 本日2回目の言葉。今回は誰にも聞かれてない、と思う。背中の彼女はスヤスヤと寝息を立ててるし。

 だがまあ、こんなやつを好きになってしまった自分を気に入ってるのも事実で。

 

「家着いちまったし......。おい雪ノ下、良い加減起きろ」

「んっ......」

 

 今度は、ちゃんと目が覚めてる時に。

 まあ、そのうち言うから、今は夢の中の出来事ってことにしといてくれよ。

 



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鬼たちだって福が欲しい

 お皿洗いを終えて台所からリビングへ戻ると、ソファの上にうつ伏せで倒れ伏した旦那の姿を発見した。どうやら、夕飯前の一騒ぎでかなり疲れているようだ。つい先程までリビングの掃除を命じていたから、それも疲労に拍車をかけているのかもしれない。

 もう就寝した子供達の前ではそんな姿を見せないのも、彼らしくてつい笑みが漏れる。

 

「お疲れ様、あなた」

 

 同じソファに座って頭を膝の上に乗せる。

 ん、と返事にもなっていないような声を返し、寝返りをうって仰向けになった。

 露わになった彼の目は、なんだかいつも以上に腐って見える。

 

「あいつら、情け容赦なく俺に落花生当てて来やがったな......」

「愛されている証拠じゃない」

「お父さん的には反抗期が来たのかと勘違いしちゃうんだよ」

 

 今日は節分。豆撒きをして、恵方巻きを食べて願い事をする日。

 我が家でもその例に漏れず、毎年の恒例として豆撒きをした後恵方巻きを食べているのだが、今年は娘がどこからか落花生を調達してきた。

 曰く、千葉県民たるものここで落花生を使わないでいつ使うのか、らしい。旦那の千葉愛が着実に受け継がれているのを痛感してしまった。

 因みに落花生は美味しく頂いたわ。子供達に歳の数だけ食べさせて、私達はほんのつまむ程度だったけれど。流石にこんな所で自分の歳を再確認して落ち込むなんて真似はしたくなかったし。なにより40個近くも食べられない。

 

「姉弟揃って俺を狙い撃ちにしやがって......。我が家には俺よりも鬼に相応しい人材がいるってのに」

「あら、それは誰のことかしら?」

「それそれ、その笑顔が鬼っぽくて怖いって言ってんの」

 

 少し笑顔で凄んだら、うんざりしたような顔でそう返される。まあ、私も分かっていてわざとやった節はあるのだし、当たり前の反応なのだけれど。

 鬼役は私と彼で引き受けたのだけれど、子供達は私に向かって投げるような真似はしなかった。その代わりに彼がこんなボロ雑巾のようになってしまったわけだが。

 数刻前の地獄のような光景を思い出していると、彼がそう言えば、と思い出したかのように切り出す。

 

「お前、恵方巻き食べた時なんかお願い事した?」

「あなたはしたの?」

 

 随分と藪から棒な質問に、思わず質問で返してしまう。私自身、そんな大層な願い事なんてしていないのだし。

 

「んー、お前が教えてくれたら教えてやるよ」

「家内安全。以上よ。で、あなたは?」

「思ったよりシンプルだったな......」

 

 一体何を想像していたと言うのかしら。

 私達ももうそれなりの歳なのだし、あまり欲深くなることもないでしょう。願う事なんて、家族の幸せだけで十分よ。

 

「まず娘が嫁に行かないことだろ?」

「待ちなさい」

「待たん。他には息子の目が腐らないことと、娘の高校受験合格、後はまあ、お前に捨てられないように、くらいか」

「全く、あなたは......」

 

 内容は兎も角として、概ね私と願う事は変わらない。どうか、私達一家に幸せを。そんな感じの一言で纏められるものだ。

 

「今更捨てるわけないでしょう。毒を食わらば、よ」

「俺は毒だったのか」

「ええ、猛毒よ」

 

 ボサボサになった彼の髪をかきあげて笑いかけると、ちょっと擽ったそうに顔を逸らそうとする。そろそろ40の数字が見えてきていると言うのに、そんな姿が未だに可愛らしい。

 幸せと言う甘美な毒。それはもう私の奥深くへと侵食してしまって、解毒なんて出来るはずもなく。

 そんな私が、彼を捨てるなんてあり得るはずがない。子供達が生まれる前は、寧ろ私の方が捨てられるのではと、戦々恐々としていた程だ。

 

「つか、お前本当は何願ったんだよ」

 

 照れているのか、話を逸らされた。別にいいけれど。

 

「言った通りよ。家内安全。それ以上でもそれ以下でもないわ」

「ざっくりとしててよく分からんから聞いてんでしょうが。具体的には?」

「子供達が幸せになりますように、かしら」

「家内という単語の中に俺は含まれていないのか」

「今日のあなたは鬼なのだから、当然よ」

「えぇ......」

「ところで鬼谷くん」

「なんだ鬼ノ下」

 

 膝上の彼に小さくキスを落とす。赤くなった頬を見ると、混乱と照れが彼を支配しているのが如実に分かる。いい加減、これくらいはいい加減慣れて欲しいのだけれど。

 

「鬼だって福を願っても構わないと思うのだけれど、どうかしら?」

「......まあ、そうな」

 

 眼下の赤鬼さんはプイとそっぽを向いてしまった。

 今以上の幸福を願うなんて、贅沢過ぎると誰かに咎められそうなものだけれど。でも、福を呼び寄せるこの日くらい、願ってもバチは当たらないでしょう。

 



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にゃんにゃんにゃん

 トリック・オア・トリート、とは、別にリア充どもがイチャイチャするための魔法の言葉などではない。

 小さな子供が大人から御菓子を貰うための口上である。

 いや、本来はその時点で俺的には異を唱えたいのだ。バレンタイン同様、お菓子会社の策略が見え隠れしているハロウィン。しかし、それを声を大にして言った所で無意味なのは知っている。

 言いたいことも言えないこんな世の中だから仕方がない。

 それは最早日本という国の一種の特性のようなものなのだから。

 ハロウィンに限らず、バレンタインやクリスマスがその最たる例だろう。

 何か行事があるごとに、パーティーやらなんやらと騒ぎ出すリア充ども。まあ構わん。それで俺に害を及ぼさないと言うのなら存分にやりたまえ。俺とて、クリスマスにパーティーをやらされ、バレンタインにイベントを企画させられた身だ。今更ハロウィン程度見逃してやろうではないか。

 しかし。しかし、である。

 そんなハロウィンの日に、見慣れた部室で、見慣れた制服姿の恋人が、猫耳と尻尾をつけていた時、果たして俺はどのような反応をすればいいのだろうか?

 

 

 

 

「ト、トリックオアトリート、だ、にゃ......」

 

 放課後の奉仕部の部室を開くと、そこには猫がいた。

 全身真っ赤なのではないかと疑ってしまう程に紅潮した顔。しかしその目はそんな顔の色と言葉とは裏腹にこちらをキッと睨み付けている。

 その目を見て、こいつが誰なのかを漸く思い出した。

 そもそも、18年生きて来た中でこんなデカくて、二足歩行で歩いて、羞恥に震える猫なんて見た事も聞いた事もない。あるとしたら化け猫とか猫又とかそんなんだ。

 さて、目の前のこの生物の正体が判明した訳なのだが、俺は一体どのような反応をすれば良いのだろう。

 冷静に何事かと突っ込むか、トリックオアトリートと言うその質問にトリックで返すか、何も言わず無言で愛でるか。

 この三択だ。俺にしては珍しく選択肢が多い。

 いや、悩むまでも無いだろう。

 まずは無言を貫き視覚で愛でつつ、その後トリックを選んで、それから何事かと突っ込めばいい。

 そうと決まれば善は急げ。

 部室の扉を後ろ手で閉め、目の前に立っている猫の隣をすり抜けてからいつもの席へと座った。

 俺にスルーされたのが予想外だったのか、その猫は固まったまま動かない。

 ふむ、今が好機と見たり。

 この間に目の前の飛び切り可愛くて美人な猫を詳細に描写しようではないか。

 まず目に飛び込んで来るのは、頭の上に屹立した二つの黒い三角。黒というのが素晴らしい。彼女の白磁のような肌と見事にマッチングし、その耳だけでも既にこの上ない美しさを醸し出している。

 そして次に、スカートの中から伸びた尾。こちらも色は黒だ。一体どのようにしてそれを垂らしているのか。そのことだけで妄想を掻き立てられる。

 更に本来の色から懸け離れてしまっている肌。彼女の肌はその名の通り雪のような白さを誇り、太腿なんて見ただけで明らかに弾力があると分かるほどの艶やかさを持っている。その肌が、今は羞恥からか真っ赤に染まっていた。普段の彼女も頬を薄く染めることはあったが、ここまで赤くなってるのは初めてみる。熱でもあるんじゃないかと心配になるほどだ。

 最後に、いつものように強い光を携えた綺麗な瞳。澄んだ空を思わせるその瞳は、ドロっと腐った俺のものとは正反対で。その光は羞恥に震える今もなお変わらない。若干キツい印象を与える目尻は、彼女が血統書付きの猫なのかと思わせる。

 さて、多くの言葉でこの猫の魅力を語った訳だが、まだまだ伝え切れない。俺程度の語彙力ではこれが限界だ。それがもどかしく、歯痒い。

 しかし、それで良いと思っている俺もいる。そもそもこの美しさと可愛さは言葉で表す事すらが不遜に思えるほどなのだ。俺程度が言葉を尽くしたら、逆にその価値を貶めてしまうのではと不安になってしまう。

 同時に、この猫の魅力を自分だけのものにしたいと言う独占欲も湧いている。

 そんなどうしようもない心境で引き続き愛でていると、どうやら黒猫さんは再起動を果たしたらしく、まるで錆びた機械のようにぎこちない動きでこちらに振り返った。

 

「な、何か言ってもらわないと困るのだけれど、にゃぁ......」

 

 取って付けたような語尾が可愛過ぎて今心の中で300回くらい萌え死んだ。

 俺からなんの反応もない事が不安になったのか、先程まで携えていた瞳の光は消え失せ、忙しなくあちこちに泳いでいる。ともすれば泣きそうなまである。

 泣き顔も見てみたいとか思ってもみたが、流石に自重。ここの俺は断じてドSでは無いし、ここのこいつも泣かされて喜ぶドMではない。

 って、なんの話してんだ俺?

 何はともあれ、折角我が愛しの恋人様がこんなことをしてくれているのだから、そろそろ何かしら反応を返してやろう。

 

「雪ノ下」

「な、何かしら、にゃぁ......」

「取り敢えずトリックで。いや、寧ろ俺がトリックする」

「え、ちょっと、比企谷くん......⁉︎」

 

 一度立ち上がって雪ノ下の手を取り、また自分の席へと戻って、雪ノ下を俺の膝の上へと座らせた。

 余りに突然で鮮やかなその手並に、雪ノ下は驚いて語尾をつけるのも忘れている。

 

「あ、あなた、一体何を......」

「別に変なことは何もしねぇよ」

 

 首から上だけ振り向いてこちらに抗議の視線を向けてくるが、俺の膝に座っていることで自然と上目遣いになるので、残念ながらその行動は俺を萌え殺すことしかできない。

 今も500人くらいの俺が萌え死んだ。

 吐血しそうになるのをなんとか死ぬ気で押さえ込み、雪ノ下の顎の下をこしょこしょと優しく撫でる。

 

「あっ、ふにゃぁ......」

 

 ......えっと、その声はわざと出してるわけじゃ無いですよね?

 気持ちよさそうに目を細め、甘い声を上げる雪ノ下。どうやら仮装がどうとか関係なく猫になってしまっている様子で。

 そんな声を聞いたら変な事したくなっちゃうでしょうが。

 暫くそうして俺に身を預けていたが、突然ハッとなって正気に戻り、抗議の声を上げた。

 

「な、なにをしているのかしらあなたは。早くこの手を止めないと通報するわよ?」

「語尾、忘れてるぞ」

「あ、あれは別に好きで付けていたわけでは......」

「いいじゃん。可愛かったからもっとやってくれよ、猫の真似」

「か、かわ......。そう。あなたがそう言うのなら......」

 

 コホン、と咳払いを一つ。

 その間も俺は顎を撫でる手を止めない。

 そうして開かれた雪ノ下の小さな口。

 そこから、とてもか細い、少し上擦ったような鳴き声が漏れる。

 

「に、にゃぁ......」

 

 衝撃が走った。

 頬を赤らめ恥じらいつつも、俺を喜ばそうとその羞恥心を押し殺して猫になる雪ノ下。

 また心の中で700人くらいの俺が萌え死んだ。

 何か、新たな性癖の扉を開いてしまった様な気がする。

 最早一心不乱とでも呼ぶべき有様で雪ノ下の顎を撫でていると、その手に頬ずりをしてきた。それが余りに突然だったので、少し驚いて手を離してしまうと、追撃するように、指の先にザラッとした感触。

 雪ノ下が、俺の指先を舐めていた。

 ......こいつマジで猫になってやがる。

 

「ちょ、待て雪ノ下っ......!」

「にゃぁにゃぁ」

 

 攻守逆転。数秒前まで俺が雪ノ下のことを良いように弄んでいたのに、気がつけばこの猫のんに責められている。

 猫のんは指だけに飽き足らず、クルリと体全体で振り返る。所謂対面なんちゃらの姿勢。

 そのまま俺の首を舐めてきやがった。

 

「ゆ、きの、しっ......!」

「にゃぁ」

 

 どうやらこいつは俺が何を言っても猫で通すらしい。ここまで見事に開き直ってしまうとは。

 雪ノ下の舌は俺の首筋を這っていき、徐々に上へと移動していく。

 

「くっ......、このっ!」

「にゃん」

「ひっ......!」

 

 全身に電流が迸ったかのように感じた。

 今まで感じたことのないような擽ったさ。

 一体何事なのかと状況を把握してみると、雪ノ下は俺の耳朶を甘く噛んでいた。

 かつて陽乃さんから逃れるように、耳が弱いんです、とホラを吹いた事があったが、まさか本当に耳が弱いとは......。自分の事なのに超びっくり。

 そして俺の反応に気を良くした猫のんは、ニヤリと嫌な笑みを浮かべる。

 

「ま、待て雪ノ下。お前一体何を考え」

「にゃー」

「っ......!」

 

 なんとか声を出すのは我慢できた。俺の喘ぎ声とかマジで誰得だよって感じだし。

 しかし、雪ノ下の攻めの手は緩まない。耳朶を甘く噛んだと思いきや、今度は耳の中に舌を侵入させ、耳の裏を卑猥に舐める。それだけならなんとか大丈夫だったのかもしれないが、雪ノ下の綺麗な声が耳元でにゃーと鳴いているのだ。

 その事が俺の興奮を加速させる。

 マズイマズイ。このままだと本当に最後までヤりかねない。ここは学校で、しかも部室で、こんな所で、とかそれどこの薄い本だよってツッコミが各所から殺到しかねない。

 なんとか反撃してこいつの攻めを辞めさせなければ。て言うかここまで来たら攻めと言うか責めだよね。

 

「くそッ......! 良い加減に......!」

「ひゃああッ......!」

 

 目の前にある、綺麗な白い首筋に思いっきり齧り付いたら、より一層甘い声が部室に響いた。

 その声に若干驚きながらも、俺は尚も強く雪ノ下の首筋に吸い付く。

 

「ひっ......ああっ......ひきがや、くんっ......!」

 

 猫の真似をする余裕はもう無いのか、嬌声を上げながらも、しかし抵抗の素ぶりは見せない。

 口を離すと、そこには赤い痕がくっきりと残っていた。元の肌の色が白いので、それはとてもよく目立つ。

 今の俺の責めで雪ノ下は力が抜けてしまったのか、こちらに全体重を預けてグデっとしている。

 そんな彼女の顎にもう一度触れ、少しクイっと上げてから、軽く口づけを交わした。

 

「ひきがやくん......、とりっく、おあ、とりーと?」

 

 トロンとした蕩けた目と、呂律の回っていない口調で、もう一度そう聞かれた。

 勿論、俺の返す言葉なんて決まっている。

 

「トリックで」

 

 

 



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からかい上手の雪乃さんとバレンタイン

からかい上手の雪乃さん第二弾!


  今日は二月十四日、つまりはバレンタインデーだ。女子が男子へチョコを渡す日。この世全てのモテない男子が悲しみに明け暮れ、チョコを頂いているリア充どもを殺意の篭った視線で睨む日だ。

  そんな日に、あの雪ノ下雪乃がなにも仕掛けて来ないはずがない。

  一ヶ月前くらいから俺を揶揄うことに楽しみを覚えている彼女は、確実にバレンタインデーを口実に俺を揶揄って来る事だろう。

  だがまあ、それも良し。別に俺と雪ノ下は付き合っている訳でもないが、夜通しお互いに抱き合ったほどの仲だ。なんかここだけ聞かれると誤解を招きそうだが、なにも疾しいことなんてなかった。

  そんな相手から揶揄い、それも少しでも好意が混ざっているであろうものを受けたところで、なにを思う訳でもない。寧ろちょっと楽しいまである。

  だが、だからと言って油断は出来ない。相手はあの雪ノ下雪乃。眉目秀麗、才色兼備、完璧超人で負けず嫌いの常勝無敗。いかなる手を駆使して俺を揶揄って来るのかなんて想像も出来ないのだから。

  このイベントに感けて、何か盛大に爆弾を落として来そうで怖い。

  さりとて、ここで変に身構えて部室に行くのも、なんか期待してる風に見られてまたそれを揶揄われたりするのだろう。

  結局俺は、例年通り朝にコマチョコを貰い、いつもとは少し違った学校生活を過ごし、しかし普段通りに放課後部室へと向かっているのだった。

  由比ヶ浜は三浦達とチョコパなるものを開催するらしく、運悪くも雪ノ下と二人だけとなってしまう。あいつら虫歯になってもしらねぇぞ。

  リノリウムの床を歩いた先の扉に辿り着くと、無意識のうちにグッと息を呑んでいた。どうやら、ここから先の戦いに体が震えているらしい。武者震い、という奴だろうか。それとも、恐れをなしているのか。

  どちらだろうと変わりはない。今日こそ、俺は雪ノ下に白星を挙げるのだ。

  扉にかけた手は自然と力が入ってしまう。しかしなるべく何時もの通り、ゆっくりと開いた。

 

「うす」

「こんにちは」

 

  部室の中にいたのはいつもと変わらない雪ノ下。静かに文庫本を読み、短く挨拶を交わしたのちに栞を差し込んで立ち上がる。こいつはいつも俺が来るまで紅茶を淹れようとしない。

  やがてティーカップと湯呑みに紅茶を淹れた彼女は、俺の方まで湯呑みを持ってきてくれた。

 

「どうぞ」

「サンキュ」

「......あら、それは?」

 

  掛かったな、雪ノ下!

  彼女が指したのは俺のカバンの隣に置かれている紙袋。その中には今日の戦利品が詰め込まれている。雪ノ下的にはまずそこから揶揄ってやろうとでも思っていたのだろうが、これは単なる罠に過ぎない!

 

「ん? ああ、これな。なんか今日貰った。ほら、バレンタインだろ? 全員が全員、口裏を合わせたように義理だって言いながら渡してきたよ」

 

  戸塚も友チョコだとは言ってたけど、あれは本命だって八幡信じてる。

 

「そう。良かったじゃない」

「ん、まあ、な」

 

  例え義理だとしても、今日という日に渡してくれた彼ら彼女らの好意を無碍にするほど、俺も捻くれてはいない。お返しだってちゃんとするつもりだ。

  さて、そろそろ雪ノ下からの攻撃が来る頃だろうか。ふっ、いいだろう。来やがれ、ツラァ見せろ......、トミーガンが待ってるぜ......。

 

「では今日はあなたのお茶請けは必要ないかしらね。折角私もチョコを作って来たのだけれど、あなたはそちらを食べるのに忙しくなりそうだし」

 

  ......あ、あれ? なんか思ってたのと展開が違うぞ?

  もうちょっと、こう、「あら、良かったじゃない。本命の子からは貰えたかしら?」みたいな感じでニヤニヤとしながら言って来るんじゃないの? まあその本命の子から言われるってのも釈然としないけれど。

  そんでそれに対して俺が貰えたって答えて、ゆきのんは嫉妬のんにジョブチェンジじゃなかったの? うわ、冷静に考えるとこの作戦気持ち悪いな。なにが気持ち悪いって、雪ノ下が俺に好意を抱いてるってのが前提な辺り気持ち悪い。

  その後特に何を言うでもなく自分の席に戻った雪ノ下は、言った通りカバンの中からセロハンの包みを取り出し、その中に入っていた綺麗な形のトリュフチョコをお茶請けにして紅茶を飲み出した。挙げ句の果てには文庫本を開いてまた読み始めてしまう。こうなれば、俺と雪ノ下の間にはおいそれと会話は発生しない。

  おかしい。ここ最近の雪ノ下ならそろそろ攻撃して来るはずなのに......!

  いや、向こうから来ないのだと言うなら、こっちから仕掛けるまでだ!

 

「そう言えば雪ノ下」

「なにかしら?」

「お前は誰かにチョコを上げたりしたのか?」

 

  文庫本を読んでいる手を止めて、顎に手をやり少し考える素振りを見せる。いや、君考えるほど友達いないでしょ。

 

「そうね。由比ヶ浜さんに一色さん、後は一応姉さんにも今朝渡したわ」

「へぇ、お前が雪ノ下さんにねぇ......」

「何か変かしら?」

「いいや、別に。しかし、男には誰一人として渡していないあたり流石だな」

 

  少し意地の悪い笑みを浮かべて長机の対面を見る。きっと雪ノ下は少しムッとなって、意地を張るために一人くらい義理で渡すわよ、みたいな事を言うはずだ。そして雪ノ下雪乃は嘘をつかない。そう言ってしまった以上は誰かに渡さなければならくなり、必然的に友好的な関係を築けていて、なおかつ今この場にいる俺に渡して来るはず! なんか俺、もう雪ノ下からのチョコが欲しいだけみたいになってんな。

  まあそれでもいい。別に欲しくないわけではないのだし。

  さあ雪ノ下はどう反応するのかと見ていると、彼女は俺の予想に反して、なんでもない顔で言ってのけた。

 

「あら、私にだって渡す男性くらいいるわよ? 勿論義理ではなくて本命で、ね」

「えっ」

 

  えっ、いるの? マジで? 嘘でしょ?

 

「その人は今部活中だから、終わった後に靴箱にでも入れておこうかと思っているのだけれど、まさか比企谷くんに気づかれてしまうなんてね」

 

  雪ノ下がチョコを渡すような男で、今は部活中。まさか、葉山か? それとも戸塚? もしくは俺の全く知らない新キャラか?

 

「所で、比企谷くんは本命の子からもらえたの?」

「......貰えてねぇよ」

 

  その質問はもうちょい別のタイミングが良かったな! お陰様で本来答えようと思っていたのとは別の答えを口に出してしまった。単なる事実を口にしただけだけと。

 

「あら、それは残念ね。まあ、バレンタインは後数時間続くのだし、期待して待っていたらいいのではないかしら」

「はん、歴戦のプロぼっちを舐めるなよ。そもそも最初から期待なんてしてないっつの」

 

  嘘ですちょっと期待してました。

 

「そんな哀れな比企谷くんには、特別に私のチョコを恵んであげる」

「え、マジで?」

「ええ、マジよ」

 

  マジか。マジなのか。え、嘘、予想してたよりも嬉しいんですけど。ほら、まあ、雪ノ下料理上手いし、美味しいチョコが食べられるって意味でね。

 

「んじゃ、まあ、貰えるなら貰っとく......」

 

  あまり言葉尻に感情が出ないように、比較的低い声で返事をする。

  しかし、この時の俺は喜びのあまり、その時の彼女の顔を見逃していた。あの、俺を揶揄う時に見せる、小悪魔のような笑顔を。

  トリュフの乗った紙皿を持ってこちらにてくてくと歩いてきたかと思いきや、何故かトリュフを一つ摘んでこちらに差し出してきた。

 

「では。はい、あーん」

「......は?」

 

  その予想外の行動に、思わず間抜けな顔を晒して素っ頓狂な声を上げてしまった。

 

「だから、あーん」

「いや待て待て落ち着け待て。どうしてそうなった?」

「あら、私の手からは食べられないと言うのかしら?」

「べ、別にそんなことはねぇけど......」

 

  ゆ、雪ノ下め......! 最初からこれが狙いだったのか! これまでのやり取りは全てこの状況に持って来るための布石でしかなかったと、そう言うのか!

 

「なら良いじゃない。ほら、あーん」

「............あー」

 

  結局あーんを甘んじて受けることにした。

  ん、と口を閉じると、雪ノ下の指がチョコを押し込んで行き、俺の唇に軽く触れる。ほんの数瞬しか触れていないと言うのに、その白くて柔らかくて繊細な指の感触は、いやに口先に残る。

 

「どう? 美味しいかしら?」

「まあ、美味い、な......」

 

  味なんて分かるはずもないのにそう答える。きっと美味しいはずだ。雪ノ下が作っているのだし。

 

「ふふっ、それは良かったわ」

 

  微笑みながら、自分でも一つ摘んで口へと運んでいる。その度に見せつけるようにして、俺の唇に触れた指先を自分の唇へ触れさせるのだから、こちらとしては心臓が止まる勢いで高鳴っている。

 

「もう一ついかが?」

 

  そのくせ、雪ノ下のこの提案には首を縦に振るのだから、俺はどこまでいっても雪ノ下には敵わないのだろう。

 

 

 

 

「今日はそろそろ終わりにしましょうか。比企谷くん、悪いのだけれど戸締りをお願い出来るかしら?」

「ん、分かった」

 

  二月の中旬に差し掛かってくると、日が落ちてくるのが気持ち遅く感じる。しかし18時前にもなると、やはり外は暗闇に包まれているようで。最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴る前に本日の奉仕部は終了となった。

  きっと、雪ノ下はこの後、本命チョコをどこぞの男子の靴箱へと入れに行くのだろう。俺がそれに対してとやかく言える筋合いはない。

 

「では、また明日」

「ああ、また、な」

 

  ここで彼女を引き止めることが出来れば、どれほど良かっただろうか。勿論そんな事ができる俺ではなく、雪ノ下は先に部室を出て行き、俺も任された戸締りをして、鍵を職員室へと返しにいく。

  この世全てを呪わんばかりの平塚先生に鍵を無事返し、昇降口へ。

  雪ノ下は一体誰の靴箱に入れたのだろう。部室であんなことをされたのだから、もしかしたらと言う思いもある。けれど、そんなわけがないだろうと思う自分もいる。

  マフラーに顔を埋めてふもふも考えながら靴箱を開けると、目に飛び込んで来たのは愛用のローファーなどではなく、ハート形の箱と、そこに貼り付けられた猫のメモ用紙だった。

  唖然としながらもそれを取り出し、メモ用紙に書かれた文字を読む。

 

『私が本命チョコを上げると言った時のあなたの百面相は実に面白かったわ。随分と悩んでいたようだけれど、比企谷くん以外に上げるわけがないでしょう? 雪ノ下雪乃』

 

「あいつ......」

 

  脳裏にあいつの意地の悪い笑顔がよぎる。

  ホワイトデーは、どうやって仕返しをしてやろうか。

  さっきまではあんなにも暗い考えばかりだったのに、今はもうそのことで頭がいっぱいだった。

 

 

 



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からかい上手の雪乃さんとバレンタインのその後

からかいのんバレンタインのその後の話


「比企谷くん」

 

 長机の向かいから声が届いた。

 没入していた本の世界から浮上し、あちらへと目をやる。しかし彼女の視線は文庫本から逸れることはなく、未だ文字を追っている。

 

「どうかしたか?」

 

 由比ヶ浜の居ない部室で、彼女から話しかけて来ると言うのは珍しいことだ。別に全くないというわけではないのだが、お互いに本を読んでいるのなら干渉し合わない。彼女の揶揄いが始まってからも、それは変わらなかった。

 つまり、こうして話しかけて来たからにはなにかしらの用があるという事だろうか。

 

「つかぬ事を伺うのだけれど......」

 

 こうして言葉を探すように辿々しく話す、と言うのもまた珍しいことだ。

 その鈴が鳴るように綺麗な声で、余計なことまでつらつらと喋っては俺のガラスの心を破壊すると言うのに。いや、最近はその限りでもないか。どの道俺の心臓に悪い事には変わらないが。

 やがて彼女は語るべき言葉を見つけたのか、漸く文庫本から視線を上げて俺と目を合わせる。

 そして、いつもの凛とした表情と声で、なんでもない風に問うて来るのだ。

 

「あなた、私のことをどう思っているのかしら?」

「は?」

 

 あまりにも斜め上からの質問に、思わず間抜けた声を出してしまった。俺史において20本の指に入るくらい間の抜けた声だった。結構あるなオイ。

 いや、そんな事はどうでも良くて。

 

「聞こえなかった? ついに聴覚、いえ神経系にまで腐敗が進んでしまっているのかしら」

「聞こえてたから。つーかそこまで腐ってたらもう手遅れだろうが」

「......そうね」

「おい、なんで悲しそうに目を伏せた。まだ手遅れじゃないから。え、手遅れじゃないよね?」

「それで、質問に答えてくれるかしら?」

「んぬっ......」

 

 上手く話を逸らせたかと思ったのだが、そんな事はなかったらしい。まあ、雪ノ下相手にそんな事ができるとも思っていないが。

 俺のうめき声が面白かったのか、クスクスと笑みを見せる。そんな悪戯な笑顔を何度見た事だろう。

 彼女がどう言う意図を持ってそんな質問を飛ばして来たのかは分からない。そもそも、考えて分かるようなものでもない。ならば素直に答えるべきなのかと言えば、そも俺にその気がない。答えるべきだとしても、答えるわけにはいかない。

 

「あなたは、私のことを、どう思ってるの?」

「......っ」

 

 けれど、その吸い込まれそうな程に澄んだ瞳に見据えられると、沈黙すると言う選択肢は奪われてしまう。

 

「......その、なんだ。お前のことは、凄いと思ってるよ」

「それだけ?」

 

 クリッと小首を傾げて、まだ続けろと促して来る。待て待て、ちょっと恥ずかしいから待て。そんな事しても可愛いだけだから。

 

「あー、後は、あれだ。可愛い、とか......、綺麗だ、とか......」

「つまり?」

「............お前のことが好きってことだよ」

 

 観念して吐き出した言葉は、対面まで届いたのかは分からないほどに掠れていた。けれど、クスクスと嬉しそうに笑う彼女を見る限り、聞こえていたようだ。

 全く、いきなりこいつは何をおっ始めているのやら。バレンタインであれだけの事をしてくれたのに、こちらからは好きとかそう言う言葉を全く言わなかった俺にも原因の一端はあるのだろうが、それでも急過ぎる。

 

「やっぱり、そうして改めて言葉にされると嬉しいわね」

「そりゃ良かったよ」

 

 幸せそうに微笑む雪ノ下を見ていると、なんだかもうそれだけで俺も満たされてしまう。けれど一方的に揶揄われた感は否めないので、一応反撃はしておくとしよう。

 

「んで、お前は俺のことどう思ってんの?」

「そうね......。好き、ではないわね」

 

 えっ。

 マジで?

 

「ふふっ、好きではなく、愛してるわよ、八幡」

「......そうかよ」

「ええ、そうよ」

 

 ......雪ノ下め。不意打ちでそういう事言うのは本当卑怯だろ......。

 いつになったら、こいつに一矢報いる事が出来るのやら。いつかの未来、そんな日が来ればいいなと思いながらも、当たり前のようにこいつといつまでも一緒にいる事を考えている事に、俺はなにも違和感を覚えなかった。

 



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雪ノ下雪乃は尽くしたい

 特別棟、四階の廊下を歩く。

 約一年前は非常に冷えた雰囲気を醸し出していたのだが、今は一転して暖かい春の陽気にも似た雰囲気を感じる。

 果たして俺の心境の変化によるものなのか、はたまたこの先にある部室の主の変化によるものなのかは分からないが、今ひとつだけ分かってることがあるとするならば、その部室に向かう俺の足取りは非常に重たいと言う事だ。

 入部当初や去年のクリスマス前だってここまで気分が沈んでいなかったのではないだろうか。

 

 話は数分前。放課後になって直ぐまで遡る。

 三年生になっても同じような顔ぶれのクラスメイト達を尻目に、部室へ向かおうと教室を出た時だ。不意に、ポケットの中の携帯が着信を告げた。

 由比ヶ浜の部活不参加は既に聞いているし、一色と小町は生徒会の方に行くとか言ってたのでその三人ではないと思う。雪ノ下に至っては未だ連絡先の交換すらしていない。

 さて誰からの電話かと携帯の画面を見ると、そこには見知らぬ番号が。

 電話に出ないと言う選択肢も存在していたのだが、何故だろうか、ここで無視すると後で後悔するような錯覚に陥ったのだ。

 だから俺は恐る恐る、通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。

 次の瞬間には逆にその選択自体を後悔する羽目になるとも知らずに。

 

『ひゃっはろー比企谷君!元気ー?』

 

 そう、電話の相手はあの魔王、雪ノ下陽乃だったのだ。

 

『たった今元気が無くなったところです』

『またまたー!可愛い事言ってくれるね!』

『色々と突っ込みたいんですけど、取り敢えず一つだけ。なんで俺の番号知ってるんですか』

『それは企業秘密だよ』

『そうですか。では切りますね』

『あー!待って待って!今日は本当に大事な話だから!』

『はぁ......。手短にお願いしますね。あんまり遅れると雪ノ下に怒られるんで』

『うん。大事な話って言うのはその雪乃ちゃんの事なんだけど......』

『雪ノ下に何かあったんですか?』

『お、食いついたな?』

『そう言うの良いですから』

『ちぇーつまんないの。まぁその雪乃ちゃんなんだけどね。ちょっと困ったことになっちゃって......』

 

 陽乃さん曰く、雪ノ下雪乃が今朝、朝食の際に飲んでいた紅茶には雪ノ下印の特別な薬が入っていたらしい。もうこの時点で突っ込みどころ満載である。

 で、その薬と言うのが、抑圧されている本能を表に出すもの、らしい。

 ようは普段から溜めてある欲求を解放しちゃいましょう!とか言うアホみたいな効果。

 薬が切れるのは約十時間後で、雪ノ下がそれを服用したのは七時前後とのこと。

 しかし、だ。雪ノ下雪乃にその手の薬を使った所で俺に害は及ばないだろう。どうせあいつの抑圧された欲求なんて猫かパンさんだ。

 いや、抑圧されてるのか?普段から割と表に出してる気がするし、いつの日かの陽乃さんが『休みの日はパンさんの人形を抱きながら猫動画見てる』とか言ってたし。

 

 まぁ、仮に違ったとしてもどうせ由比ヶ浜とベタベタしたいとか俺に罵詈雑言を一日中浴びせたいとかそんなんだ。

 後者だと結局俺に被害及んでんじゃん。そうだとしてもそれは日常の延長線上で話を済ませることが出来るからまぁいい。

 俺の足取りが重くなってる理由はそこではない。これが、陽乃さんの手によるものだと言う事実だ。

 別に陽乃さんが自分でやったと言っていた訳ではないがあの人に違いない。俺のサイドエフェクトがそう言ってる。

 もうその時点で嫌な予感しかしない。

 

 嫌だなぁ、帰りたいなぁ。とか思いつつもついに部室の前へと辿り着いてしまった。どうやら腹をくくるしかないようだ。

 

「うーす」

 

 覚悟を決めて何時ものように挨拶にもなってないような挨拶をして部室に入る。

 そこで俺の目に飛び込んできた風景は

 

「こんにちは、比企谷くん」

 

 いつも通り、窓際の席で文庫本を読む雪ノ下雪乃。その光景だけ見るとなんら変わらないいつも通り。だが、違う。雪ノ下は俺に挨拶をするとき、そんな柔らかい微笑みなんか携えていなかった!

 

「お、おう。こんにちは......」

 

 驚きのあまり改まった挨拶しちゃったよ。

 それを見てクスクスとおかしそうに笑う雪ノ下。可愛い。

 じゃなくて!

 果たしてこれは陽乃さんの言っていた薬の影響なのか?だとしたら一体何に作用した?

 確かにあのクリスマスの後くらいから彼女の態度がどこか柔らかくなっていたのには気がついていたが、流石にここまで軟化していた訳でもない。氷の女王は見る影もなく、陽だまりのお姫様とかそんな二つ名をあげたくなる程に、今の雪ノ下の纏う雰囲気は一変していた。

 

「紅茶、淹れるわね」

「あ、はい」

 

 動揺しながらも定位置に腰を下ろす俺を他所に、雪ノ下は立ち上がって紅茶を淹れる。

 しかし、これは良いことなのではないだろうか?雪ノ下雪乃がこれまでの人生で集団から孤立していた理由の一つには、その冷たい雰囲気や毒舌などが該当しているであろう。果たして彼女が今更集団に属したいと思っているとは思えないが、今の雪ノ下ならば少なくとも今までのように他人から無駄に悪意を向けられたりしないのでは?

 そう思うと少しだけ張っていた気が楽になった。

 

「はい、どうぞ」

「ん、サンキュ」

 

 どうやら考え込んでいる間に紅茶を淹れ終えたようで、パンさん湯呑みを机に置いてくれる。

 どうやら劇的な変化とやらがある訳でも無さそうだし、暫くは静観しておくか。

 

 なんて考えた矢先。

 隣からカタリと音が聞こえた。それと同時に人の気配。何奴⁉︎とばかりにそちらを振り向くと、なんと雪ノ下さんが椅子を持ってきてそこに座っているではありませんか!しかも近い!俺の椅子と雪ノ下の椅子の距離殆どゼロだよ!

 あまりにも鮮やかで自然で当たり前のような動作だったので俺が呆けて何も言えないでいると、雪ノ下は置いたばかりの湯呑みをそっと手にとってフーフーと息を吹きかけ始めた。

 

「......雪ノ下?」

「なぁに?」

 

 なぁにってなんだよそんな可愛い笑顔で俺の顔を見るなよ最早誰だよお前。

 

「あの、何やってんの......?」

 

 漸く思考が正常に働き始めた所で当然の質問を投げかける。

 

「あなた、猫舌なのでしょう?だからこうして冷ましてあげてるのよ」

「いや、頼んでないんだけど」

「私がしてあげたいの」

 

 ちょっとちょっと雪ノ下さんどうしちゃったんです?いつものお前なら寧ろ逆に熱々のおでんを俺の口に突っ込むような勢いじゃないですか。ダチョウ倶楽部かよ。

 暫くフーフーしていた雪ノ下だったが、やがてそれを辞めると、今度は温度を確かめるようにソッと湯呑みに手を当てる。納得のいく温度だったのか、うんと一つ頷きをしてから湯呑みを俺に差し出してきた。

 

「どうぞ」

「......どうも」

 

 差し出されてはそれを受け取らないわけにはいかない。

 紅茶を一口飲んで見ると、確かに絶妙な温度だった。猫舌の俺が火傷してしまわないような、しかし冷めてしまってはいない絶妙な温度。

 

「どうかしら、美味しい?」

「美味しい、です......」

 

 くそ、調子が狂う。なんで今日の雪ノ下はこんなに優しいの?ていうかマジで陽乃さんの言ってた薬は一体雪ノ下の何に作用してこうなってるの?全然分からないんだけど。

 

「ねえ比企谷くん、他に何か私にして欲しいことはないかしら?なんでも言ってくれて良いのよ」

 

 ニッコニコ。雪ノ下さんニッコニコである。某スクールアイドルも裸足で投げ出すくらいのニッコニッコニーを見せられている。雪ノ下だからユッキユッキユーか。いや辞めておこう。これ以上はみもりんの事を思い出して泣きそうになってしまう。

 

「なあ雪ノ下。お前今日はどうしたんだ?」

 

 勇気を振り絞って直接聞いて見る事にした。

 雪ノ下の飲んだ薬が陽乃さんの言う通りのものだったとして、もしそれで多少なりとも雪ノ下が素直になっている、と仮定するならばはぐらかさずに教えてくれるはずだ。

 

「私、気づいたの」

「......何に?」

「私は今まで比企谷くんに頼ってばかりだった。あなたに甘えてしまっていたと言っても過言ではないわ。だから、今日は比企谷くんの事をめいいっぱい甘えさせてあげようって思ったの。あなたに尽くしたいと思ったのよ」

「............」

 

 え、いや、これなんて反応したらいいの?残念ながらこんな時の対処法なんて義務教育で教えてもらってないし。

 なに?俺は雪ノ下に心の底から甘えてもいいの?いやそんなん普通に無理だろ。恥ずか死ぬ。

 

「そうだわ。比企谷くん、膝枕をしてあげる」

「ちょ、ちょっと待て......!」

 

 俺の制止の声も聞かず、雪ノ下は俺を無理やり横に倒して膝枕させてくれた。

 お、おおぅ......。なんだこの柔らかな感触は。安心すると言うか心地いいと言うか......。

 

「ふふ、どうかしら?」

 

 ......はっ!マズイ危うくこの膝枕の前で陥落してしまう所だった!いやでも雪ノ下の膝枕マジで気持ちいいし暫くはこのままでも良いんじゃないか?

 

「もっと私に甘えてくれていいのよ?」

「雪ノ下......」

 

 優しい手つきで頭を撫でられる。

 まるでガラス細工でも触るかのように、ゆっくり、ゆっくりと......。

 

「はっ!いや待て雪ノ下!こんな所誰かに見られたらヤバイだろ!平塚先生とか一色とか小町とかが来るかもしれないぞ!」

 

 すんでの所で我に帰った。危ない、もう少しで雪ノ下の膝枕+頭ナデナデに落ちてしまうところだったぜ。

 なんて考えてはいるが、雪ノ下の手は止まらず俺の頭を撫で続ける。

 

「だからッ!ちょっと待てって!」

 

 このままじゃラチがあかないと思って無理矢理起き上がる。

 が、その後の雪ノ下の表情を見てしまってそれは間違いだったと直ぐに後悔する羽目になってしまった。

 

「比企谷くんは私にこうされるのが嫌なの?」

 

 とても悲しそうに、まるで人生全ての絶望を一身に受けたかのような表情で、目尻に涙を堪えながら上目遣いでそう言われてしまった。もし雪ノ下が魔法少女なら魔女になってるレベル。

 その妖艶とも言える表情を見てしまって言葉に詰まっていると、グイッと腕を引かれる。

 抵抗することも出来ずに引かれるがままに体が倒れていく。

 果たして俺の顔面が着地したのは、さっきの膝枕よりも柔らかな場所。雪ノ下の胸の中に、抱かれていた。

 

「ふふ、こうしていれば離れられないわね」

 

 更に俺の頭をナデナデと。

 ヤバイ。このままではヤバイ。何がヤバイってもうこのままでもいいかなって思ってきてる俺が一番ヤバイ。

 雪ノ下さん絶壁だと思ってたけど想像以上に柔らかくて心地い......って何考えてるんだ俺は!

 

「ゆ、ゆふぃのふぃふぁ!」

「きゃっ!もう、擽ったいからあまり喋らないでくれるかしら」

 

 じゃあ今直ぐ離してくれませんかね!あとその子供に向けるような声色はどうにかなりませんかね!そっちの方が擽ったいよ!

 

「そうだわ、比企谷くん。今日はうちにいらっしゃい。夕飯をご馳走してあげる。その後は耳掻きをして、爪を切ってあげて、お風呂で背中も流してあげるわ。その後は一緒に猫動画でも観ましょう。それで、最後は寝れるまで一緒にいてあげる。ふふ、今から楽しみになって来たわね」

 

 ヤバイヤバイもうこの後の予定とか決め始めた!なんとかしてここから脱出しなければいやでももう少しだけ雪ノ下の胸の感触をって何考えてんだ俺は変態かよ!

 

「今日はタップリご奉仕してあげるわね」

 

 聖母のように慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、そんな言葉を口にする雪ノ下。

 男なら言われて喜ぶべき言葉なのだろうがテンパってる俺は刑の執行を言い渡された囚人の気分だ。

 

 ............出来れば使いたく無かった奥の手だが、そうも言ってられない。この状況から脱出するにはもうこれしかない!

 雪ノ下、先に謝っておくぞ、心の中で。

 

 襲い来る心地よさを自意識の化け物でなんとか捩じ伏せ、自由に動かすことの出来る両手を雪ノ下の脇腹へと持っていく。そしてそのままこしょこしょと擽ってやった。

 

「ひゃっ!」

 

 突然やって来た擽りに驚いた雪ノ下は、俺を抱きしめていた両腕の拘束力を弱める。

 そこが好機とばかりに俺は雪ノ下の腕からするりと抜け出し、置いてあるカバンをサッと取って扉までダッシュした。

 

「悪いな雪ノ下今日はあれがあれであれだから今日は帰らせてもらうじゃあな!」

 

 自分でもどうかと思うくらい適当な言葉を並べ、勢いよく部室から飛び出した。

 その時チラリと見えた時計の短針は、既に五の所を通り過ぎていた。

 

 

 

 

 

「折角勇気を出したのに......。比企谷くんのバカ、ボケナス、八幡......」

 

 

 



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幸せを呼ぶ黒い猫

猫の日。つまりはゆきのんの日。即ち八雪の日。にゃ。


 最近、校内で野良猫をよく見かけるので、どうにかして欲しい。

 昨日の部活で、生徒会長殿から依頼されたものだ。なんでも、数週間前から校内の至るところで野良猫の目撃情報があるらしく。一匹や二匹迷い込んだ程度ならば問題なかったのだろうが、ここまで目撃情報が相次いでいると、まさか校内を住処にしているのでは、との危惧からだ。

 平塚先生が生徒会にどうにかしろと指示したらしいのだが、どうも決算やらなんやらで立て込んでいるらしく。珍しく一色もそちらの仕事に追われているらしいので、そこで俺たちに白羽の矢が立ったわけだ。

 受験生ですらこき使うあたり流石は一色と言わざるを得ない。

 まあ、こちらには猫のスペシャリストこと雪ノ下がいるのだ。この依頼もそう日数をかけずとも解決するだろう。

 そんなふうに思いながら歩いていた昼休み。ベストプレイスへと続く道を、購買での戦利品片手に優雅な歩みを進めていたのだが、そんな俺の視界の端にチラつく影が。

 

「ん?」

「にゃー」

 

 猫だ。

 真っ黒な猫。黒猫だ。横切られたら不幸になるとか言う説を持っている、黒い猫だ。

 これは僥倖。英語で言うとナイスタイミング。別に英語にする必要ないな。ともあれ、昨日の今日で早速件の野良猫を発見出来たのだ。こいつの後を追っていけば、猫の住処となってしまっているであろう場所を突き止める事ができる。あとは平塚先生なり一色なりに連絡を入れれば、俺たちの仕事も終わりだろう。

 綺麗な顔した美人な黒猫の後を追い掛けると、ベストプレイスを通り抜け校庭を通過し、今は使われていない体育倉庫付近までやって来た。

 俺のベストプレイスよりも更に人通りの少ない場所だ。黒猫はその裏手へと周り、俺もそれに続いたのだが。

 

「にゃー」

「にゃー」

「にゃー」

「ふふっ、ほら、お昼ご飯よ」

「にゃー」

「にゃー」

 

 猫の鳴き声の中に、ひとつだけ人間の声が混ざって聞こえて来た。

 聞き覚えのある声だ。それは、ともすれば残酷なまでに美しく、天使のソプラノとはこう言った音を言うのだろうと、巫山戯た考えが過ぎるほどに。酷く耳障りがいいのは当たり前だろう。俺は高2の春から、ずっとその音を聞いて来たのだから。

 体育倉庫の陰に身を隠しながらも奥を覗き込むと、そこには十数匹にも及ぶ猫と、一人の女子生徒がいた。

 名を、雪ノ下雪乃。

 彼女は猫たちに餌をやり、寄り集まって食べているその光景を微笑ましく眺めていた。

 そしてその光景を見て俺がどう思うかなんて、説明せずとも分かるようなものだろう。

 いや、一色からの話をあの場で一緒に聞いていた由比ヶ浜だって、こんな場面を目撃してしまっては同じことを思うかもしれない。

 だが、敢えて言わせてもらおう。寧ろ心の中で叫ばせてもらおう。

 お前が犯人なのかよ!!

 

「まだまだご飯はいっぱいあるから、たくさん食べなさい」

 

 しかし参った。いやはや、まさか犯人がこんなに身近な人物だったとは。

 いやなに、ある程度予想は出来ていたのだ。昨日、この依頼の話を聞いた時の雪ノ下の反応はどこかおかしかった。アドリブに弱いことに定評のある彼女だ。もしかしたら、何か隠し事でもあるのかと睨んでいたが、まさか犯人だったとは。

 

「遂に生徒会にもバレてしまったし、どうにかして手を打たないといけないわね......」

 

 にこやかな微笑みを消し、真剣な表情でなにやら思案する雪ノ下。いや、手を打たないといけないわね、じゃねぇよ。なにやってんだよ部長。

 呆れて最早なにも言えなくなっていると、先程俺をここまで導いてくれた黒猫が雪ノ下の足に擦り寄った。

 

「あら、どうしたのクロ?」

 

 名前つけちゃってるし......。これ余計に手放せなくなるパターンだよおい

 雪ノ下にクロと呼ばれた猫は、彼女の注意を引けたことを確認すると、スタコラと歩き始めた。俺の方に向かって。

 え、ちょっ、待て待てこっち来んな!

 

「にゃーっ!」

「うおっ!」

 

 鳴き声を上げながら俺に飛びついて来るクロ。突然の出来事に、驚いて声を出してしまった。なんとかクロはキャッチ出来たからいいものの、割と大きめの声を出してしまった。そうなればどうなるかと言うと。

 

「あ、あなたっ......! どうしてここに......⁉︎」

 

 勿論直ぐそこにいた雪ノ下に気づかれてしまう。

 俺に見られていたのが恥ずかしかったのか、顔を赤くしてアタフタとしている姿は珍しい。可愛らしくて結構なのだが、気づかれてしまった以上はこの状況に対して苦言を呈するしかない。

 

「はぁ......。おい雪ノ下、お前、昨日の依頼は勿論覚えてるよな?」

「......えぇ、覚えているわ」

「で、これはなんだ?」

「待って、違うのよ。この子達にはなんの罪もないの。悪いのは私よ。だからせめてこの子達は見逃してあげれないかしら? 罰なら私が受けるわ。ええ、この子達のためならどんな辱めも受けてあげるから。だから平塚先生に連絡するのだけは辞めてちょうだい。お願い比企谷くん。お願いだから」

「ちょっと落ち着け」

 

 あまりの取り乱しように若干引いた。

 まさかあの雪ノ下雪乃が、俺にここまで下手に出るなんて。珍しいどころの騒ぎではない。明日から猛暑日と言われても信じてしまうくらい、あり得ない姿だ。

 しかし、雪ノ下の想像は見当違いと言うほかない。俺は別に、今すぐどうこうしようと言うわけではないのだ。

 

「雪ノ下、いくつか質問するが、まずこの猫達はどこから連れてきた?」

「別に連れてきたわけではないわ。最初は一匹だけだったのだけれど、お昼休みに毎日その子に餌を与えていたら、気づけば増えていってたのよ......」

「なら次。こいつら、まさかとは思うがここを寝床にしてんのか?」

「......」

「おい」

 

 ツーっと視線を逸らされた。どうやらそのまさからしい。更に奥の方を覗き込むと、ダンボールやら綺麗な布やらが置いてある。おまけにちょっと高級な猫缶まで。雪ノ下が用意したものだろうか。

 

「......しょうがないじゃない。放っておくわけにもいかないのだから」

 

 開き直りやがったよこのお嬢さん......。こいつが猫のことになると、途端に視野狭窄になるのは理解していたが、まさかここまでしているとは。

 

「まあ、ここに住み着いちまってるってんなら仕方ない。最後にもう一つ質問だが、お前、俺たちが卒業した後、こいつらをどうするのか決めてるのか?」

「......あっ」

 

 やっぱりな。目先の快楽に囚われて先のことを見越さないとは、幾ら何でもポンコツ化しすぎじゃありませんこと?

 まあいい。ある程度予想は出来ていたことだし。

 

「決めてないんだな?」

「......」

「はぁ......」

 

 ため息を吐きながらも、雪ノ下の隣にしゃがみ込んで指先を猫達に差し出す。見れば何匹か子猫も混ざっていて、幾つもの無垢な瞳が俺を捉える。やっぱ猫って可愛いな。

 そんな可愛い猫達だが、いつまでもここに置いといてやる事は出来ない。当たり前の話だ。俺達はもう一ヶ月もしないうちに卒業してしまう。雪ノ下がいなくなった後、この猫達の面倒を見る物好きなんていない。

 なにより、ここは学校の敷地内だ。野良猫とは言え、放置することも出来ない。

 

「取り敢えず、平塚先生には連絡する」

「......そうね。それが妥当な判断よ。正しい選択だわ」

「こう言う場合、野良猫達がどうなるのかはよく知らないが、まあ平塚先生のことだ。悪いようにはしないだろう」

 

 急に保健所の人間を呼ぶなんてことはないはずだ。仮に他の先生ならそうするかもしれないが、あの人なら大丈夫だろう。

 猫達の処遇、強いては昨日やってきた奉仕部の依頼についてはそれで解決。平塚先生へ連絡を入れたらもう俺たちにやる事はない。

 けれど、奉仕部としてではなく、俺個人としては、まだやるべきことが残っている。

 クロを腕の中に抱いた彼女の表情には陰が差している。

 雪ノ下雪乃を、そんな悲しい表情のままでいさせたくない。

 

「それと、もし今度、猫と戯れたくなったら、俺に言ってこい」

「......え?」

「うちで良かったら提供する。ペットショップと違ってもふり放題だぞ?」

 

 顔を上げた雪ノ下は、今自分の耳に届いた言葉の意味をイマイチ理解していない風だった。

 俺自身、柄でもないことを言っている自覚はある。けれど、それでも俺は言葉を続ける。

 

「いつでも言ってくれればいい。そしたらうちのカマクラを貸してやるよ。今なら小町の手料理付きだ」

「いつでも......」

「ああ、いつでもだ」

「そう......。なら、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」

 

 雪ノ下がそう言って微笑んだと同時、昼休み終了のチャイムが聞こえてきた。結局昼飯は食えなかったが、まあ、それに見合うだけの報酬はあっただろう。

 子猫をひと撫でして立ち上がる。それに倣って雪ノ下もクロを手放し、最後に撫でてから俺に続いた。

 

「この子達と離れ離れになるのは悲しいけれど、これからはあなたが相手をしてくれるのよね?」

「俺じゃなくてカマクラな」

「......まあ、今はそう言うことにしておいてあげるわ」

 

 何故か不満気な顔をして、そそくさと俺の先を歩いていく。何故か、だなんて白々しいか。でももうちょい待ってくれ。今は、カマクラという建前でもなければ、正気であんな風に誘えない。

 俺も彼女に続いて校舎へ戻るかと思ったが、一歩踏み出す寸前で背後からにゃーっと鳴き声が聞こえた。

 振り返ると、俺をこの場に導いてくれた黒猫が。

 

「お前には感謝しないとな」

 

 こいつを見つけなければ、ここに来ることもなかったし、必然的にあんな誘いをすることもなかっただろう。

 自他共に認めるヘタレで捻くれた俺が、なんとか一歩踏み出せたのも、こいつのお陰だ。

 

「比企谷くん、何をやっているの? 後ろ髪引かれる気持ちはわかるけれど、早く戻らないと次の授業に間に合わないわよ」

「分かってる。すぐ行くよ」

 

 心の中で猫達に別れを告げ、小走りで雪ノ下の隣に並んだ。

 さて、雪ノ下がカマクラをもふりに来るのはいつになることやら。クロと名付けられたあの黒猫の為にも、彼女が家に来た時は、あともう一歩くらい踏み出しても、いいのかもしれない。

 黒猫が不幸の象徴だなんてのも、いい加減な話だ。なにせ、今の俺は不幸なんてものとは正反対の位置にいるのだから。

 

 



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ねこのきもち

 猫。

 この日本に生きている人間ならば皆が等しく一度以上は目にしたことがある動物だ。

 その品種は多種多様であり、多くの人に愛されている。飼い猫であろうとも気まぐれで家の中をうろちょろしている憎めないアンチクショウだ。

 うちの飼い猫であるカマクラも、家の中を割と自由に闊歩している。俺に懐かないのも気まぐれという奴だろう。その気まぐれが随分と長く続いているが。

 そんな可愛げのないカマクラでも俺の家族だ。俺よりもカーストが上な辺りが特に。

 しかしこの日本には、飼い猫以外にも野生の野良猫なんかが大量にいらっしゃる。日本のどこかには猫島なんて言う、うちの部長が行ってしまえば一生帰って来ないんじゃないかと心配になりそうなものまである。

 俺もアニマルスキーヤーの端くれ。街中で野良猫を見かければ目で追ってしまうし、ペットショップなんかで猫を見ていると癒される。

 

 さて、何故突然猫について語り出したのかと言うと。

 その理由を語るには少し長くなってしまうので重要な事だけを述べるのならば。

 

 

 親愛なる小町へ

 前略、お兄ちゃんは猫になってしまいました。

 

 

 

************

 

 

 目が覚めた時には何故か公園にいた。

 そして瞬時に気がつく違和感。周囲に存在するあらゆるものが常よりも大きく見えるのだ。もしかして俺以外のこの世の全てにビッグライトでも当てられたのかと思ったが、むしろその逆。俺が小さくなっていた。

 公園の噴水、その水面に映る自分の姿を見て、俺は絶句するほか無かった。

 そこに写っているのは紛れもなく猫。

 目が若干腐っていて、頭のてっぺんから毛がピョコンと跳ねている黒猫だ。

 え、何その猫全然可愛くねぇな。特に目が腐ってる辺りが。こんな猫がペットショップに並んでいたら最後まで売れ残って、最終的に独身アラサー女教師が「独りぼっちは、さみしいもんな......」とか言って購入しちゃうまである。

 しかしここで慌てないのがぼっち王比企谷八幡。伊達に無駄な思考力で様々な妄想をしていない。

 しかるに、これはただの夢だろう。

 そもそも人間が猫になるなんて非現実的なこと起こるわけがない。

 それが許されるのはラノベや二次創作SSなんかの設定のみ。いかにも材木座が書いてきそうだ。

 

 さて、折角猫になったのだから猫としての人生、いや猫生を謳歌しようではないか。

 日向に当たって只管眠りこける。なんとも理想的な生活だ。この夢は八幡的に超ポイント高い。

 早速絶好の日向ぼっこプレイスを探そうと歩き始めた時、そいつは俺の視界に写った。

 よく見慣れた総武高校の女子制服。烏の濡れ羽色の髪の毛にチョコンと付けられた可愛らしいリボン。

 その姿を見間違える筈もない。

 俺の所属する奉仕部の部長、雪ノ下雪乃だ。

 夢の中にこいつが出てきている事に些かの驚きは隠せないものの、所詮は夢の中。これが誰かに知れ渡る訳でもなし。どうせ起きたら忘れているだろう。

 そんな雪ノ下と、目が合ってしまった。

 そうなるとどうなるかと言うと

 

「にゃー」

 

 こうなる。

 彼女はなんとも無防備に俺の眼前へとしゃがみこみ、共鳴を始めた。

 これは俺もにゃーと答えるべきなのだろうか。でも同級生の女子相手に猫語で喋る男子高校生ってちょっとどころじゃなくヤバイ奴だろ。

 いや、冷静になれ比企谷八幡。ここは夢の中だ。俺がどれ程の醜態を晒そうが俺以外の記憶には残らないしどこの記録にも残らない。なんなら目が覚めると同時に忘れている可能性が大だ。

 ならば、俺が取るべき行動は一つだろう。

 

「にゃー」

「......っ!ふふ、にゃー、にゃー」

 

 俺がにゃーと鳴いたのを聞いて嬉しそうに破顔する雪ノ下。ものごっつ笑顔ですぜこいつ。由比ヶ浜相手にも向けた事ないんじゃないの。

 そんな笑顔を見れていると思うと、なんだか悪い気はしなくなってきた。寧ろこの子のこの素敵な笑顔をもっと見たいと思う。

 

「この猫、よく見ると誰かさんに似ているわね」

 

 ここで漸く雪ノ下が人間の言葉で喋った。

 一瞬こいつも猫語でしか喋れないとか言う謎の夢なのかにゃーとも思ったが、どうやら違ったらしい。

 まあ君が今戯れてる猫はまさしくその誰かさん本人なんですけどね。

 

「毛が一房跳ねているし、目も愛嬌があって可愛いわ」

 

 え、この目を可愛いとか言っちゃう? 君の美的感覚大丈夫? いっつも君が腐った目とか犯罪者の目とかボロクソに言ってるそれだよ?

 

「毛並みも随分と整っているし、どこかの飼い猫かしら?」

 

 そう呟いた後、雪ノ下は何やら考え事をするかのように顎に手を当てた。

 て言うかさっきからなるべく考えないようにしてたんだけど、雪ノ下さんスカートの中見えそうです。いつもはスカートとニーソの絶対領域によって隠されていた秘密の花園が今にもこの腐った目の視界に入り込みそう。

 いや、それよりもヤバイのはその絶対領域を作り出している太腿。常日頃なら120%の確率でこんな近距離で拝めるわけがないものが今まさしくめちゃくちゃ見えちゃってる。

 意識してしまうと、そこから目が離せなくなる。

 華奢に見える雪ノ下の体でも、その太腿はしっかりとした肉感があって、視覚情報のみでもそこが柔らかいのだと分かってしまう。

 

「よし、決めたわ」

 

 目の前の猫に危ない目で見られていることなんて全く知らない雪ノ下が意を決したように声を上げる。

 

「これからあなたを私の家に招待してあげる」

 

 は?

 

「もしかしたら迷子猫かもしれないものね。そうなると本来の飼い主が探している筈だから、家でネットの掲示板などを確認しなくてはならないわ」

 

 いやいやいや。ちょっと待て。

 こいつ適当な理由をつけて猫(俺)ともう少し一緒にいたいだけなのでは?

 それに仮に俺がどこかの飼い猫だったとして勝手にお持ち帰りってのはそれ常識的にどうなの?

 

「そうと決まれば早速帰りましょうか」

 

 そんな俺の想いが届くわけもなく、俺はヒョイっと軽々しく雪ノ下に抱きかかえられた。

 目の前には雪ノ下の綺麗な顔。俺がいつもより小さいせいでその顔は大きく写り、俺の小さな視界いっぱいに広がる。

 そんな綺麗な顔に、頬擦りされた。

 人間よりも鋭敏になっている嗅覚は、ザボンの香りを強烈に脳へと叩きつけてくる。

 まるで麻薬のように甘美な毒となったそれは、俺から正常な思考能力を奪い去る。

 果たしてそのせいなのか。

 ペロリ、と。

 舌で舐めてしまった。

 雪ノ下の、白磁のようなその頬を。

 

「きゃっ、もう、擽ったいわ」

 

 猫に構ってもらえたのが嬉しいのか、言葉とは裏腹にその声色はどこか嬉しそうだ。

 オレハナニヲヤッテイルンダ?

 いや、落ち着くんだ比企谷八幡! こう言う時は素数を数えるんだ。素数は孤独な数字。ぼっちの俺にも寄り添ってくれる優しい数字。所で素数って1も入りましたっけ?

 よし、落ち着いてきたぞ。

 そう、これは夢だ。

 現実ではない。

 つまり目が覚めたら、今俺が雪ノ下の頬を舐めたと言う通報待った無しの変態的行動も無かったことになる! Q.E.D.! 証明終了!

 ............雪ノ下の頬、柔らかかったなぁ。

 

 

 

************

 

 

 その後俺は雪ノ下に抱きかかえられ、背中に感じる柔らかな感触から来る煩悩と戦いながら、なんとか雪ノ下のマンションへと辿り着いた。

 文化祭でこいつが体調を崩した時以来の雪ノ下宅は、あの頃と比べて少し生活感のある部屋になっていた。

 ソファの上にはパンさんや猫のクッションが所狭しと並べられており、ビデオデッキにはパンさんの円盤が。多分あれ全作品揃ってるんじゃないかな。

 

 雪ノ下の腕から降ろされて漸く色々なものから開放された。

 これで嘘でも一息つけると思っていたのだが、そんな矢先だった。

 

「さて、では一緒にお風呂に入りましょうか」

 

 そう提案して来たのだ。

 どうやらこの夢は悉く厄介らしい。

 勿論俺だって健全な男子高校生であり、そう言うことに興味がない事はないのだが、何が悲しくて夢の中で体験せにゃならんのだ。

 しかし俺がどれだけ否定の言葉を並べようとしても口から出るのはにゃーにゃーと可愛らしい鳴き声のみである。

 

「あら、そんなにお風呂に入りたいの? ふふ、用意するから少し待っていて頂戴ね」

 

 盛大に勘違いしてた。

 いや確かに楽しみっちゃ楽しみだけど! 学校一の美少女とお風呂とか夢のようだけど! ってこれ夢じゃん! じゃあ問題ないな!

 ......なんだかテンションがおかしくなってる気もするが察してくれ。こうでもしないと色々と持ちそうにない。もしもこれで俺が目覚めた時に夢の内容全部覚えてたりしたら雪ノ下に合わせる顔が無いし。

 

 それから数分も経たずして、部屋着に着替えて準備の終えた雪ノ下に連れられて風呂場へ。

 なんかもうワクワクしちゃってる自分がいて軽く自己嫌悪。

 因みに雪ノ下の部屋着は上下ともに猫の柄が入ったスウェットだった。前に見た時と比べて随分とラフな格好で割と予想外。

 その格好で俺を抱えた雪ノ下は洗面所で一旦俺を降ろした。

 ついにその神秘のベールの向こう側を見てしまうのかとドキドキしていたのだが、彼女はスウェットの裾と袖を捲るだけに終わり、再び俺を抱えて風呂場へと向かった。

 え、それだけですか? これだけ期待させておいて?

 も、弄ばれた......。男子の純情を雪ノ下に弄ばれた......。

 そんな俺の心情を見透かしたのかは分からないが、雪ノ下は困ったように笑って言った。

 

「ごめんなさいね。本当は一緒にお湯に浸かりたかったのだけれど、あなたに見られていると、なんだか彼に見られているようで恥ずかしいの」

 

 うん、まあそうだよね。今の俺は猫とは言えオスだし。目なんてまんま俺だし。

 

「その代わり、しっかり綺麗に洗ってあげるわ。元の飼い主の下へと帰る時に汚れた体だと嫌だものね」

 

 心底楽しそうに笑って、雪ノ下は俺の体を洗い始めた。

 

 

************

 

 

 風呂場で雪ノ下に全身をくまなく弄られた後は飯が待っていた。

 雪ノ下は猫を飼っているわけでは無いのでキャットフードなんてなかったが、その代わりに鯖缶が出て来た。

 いや、キャットフード出されても困るけど鯖缶て。お前鯖缶とか家に置いてるようなキャラじゃないだろ。

 出された鯖缶を美味しく頂き、なんやかんやあって寝室に通された。

 どうも猫(俺)と一緒に寝たいらしい。でも雪ノ下さん、今まだお日様が出てる時間ですよ? お前昼寝するようなキャラじゃry

 

 その部屋に入った時、真っ先に目に入ったのは少し古ぼけたパンさんのぬいぐるみ。

 他にもパンさんのぬいぐるみなんていくつも置いてあるのだが、枕元に置かれたそれだけがやけに目に付いた。

 失礼かと思いつつもベットの上に飛び乗ってそのぬいぐるみの前へ向かう。

 あぁ、どうやら俺の見間違いじゃないみたいだ。

 

「そのぬいぐるみが気になるの?」

 

 そんな俺の様子を見た雪ノ下がベットに腰掛けて、とても優しい笑顔で語り出した。

 

「それはね、大事な人に取ってもらった大事なものなの。と言っても、そのやり方は褒められた物ではなかったけれど」

 

 クスクスと微笑む雪ノ下は俺と同じくあの日を思い出しているのだろう。

 由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに向かったららぽーと。そこにあるゲーセンで俺が店員に取ってもらったものだ。

 何故そんなものが今更出てくるのか。聞いてみたいが、今この状態ではそれも叶わないし、もし可能だとしてもそれを聞く勇気が俺には無いだろう。

 

「そのぬいぐるみだけじゃないの。あの人には色々なものを貰ったわ。形のあるものから、言葉にすらできないものまで。きっと彼はそんな事はないと否定するのでしょうけど。それでも、私は彼から沢山のものを貰った」

 

 とても大切で、どこまでも愛おしいものを、そっと胸のうちに抱くように。

 本当に、この夢は厄介だ。

 今まで目を逸らしていた感情すらも見せつけて来やがる。

 俺だって沢山のものを貰った。形あるものから言葉にすらできないものまで。本当に、沢山のものを。

 だけど、今この姿ではそれを伝えることすら出来ない。

 

「さあ、私のお話はお仕舞い。そろそろお昼寝しましょう?」

 

 もしもこの夢を覚えていられることが出来たのならば。

 いつかきっと、未だ明確な名前すらつけることの出来ないこの感情を伝えられたらな、と。

 そんな風に思いつつ、俺は雪ノ下の胸に抱かれて眠りについた。

 

 

 




果たしてこれは泡沫の夢まぼろしだったのか、現実に起きた奇跡だったのか。そこはみなさんのご想像にお任せします。


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心と心が触れ合う速度

「秒速5センチメートルらしいわよ」

 

 まだ満開には程遠い桜並木。

 と言うか今歩いている道も桜並木と言うには少し物寂しい感じのする道なのだが、そこには確かに桜が咲き、その花弁が散っていた。

 そんな道すがらに肩を並べて隣を歩く彼女が唐突に口に出した。

 常から散歩というものを嗜んでいた俺たちだが、そんな時は彼女からの罵倒でもない限り基本的に会話の無い俺たちだ。

 その沈黙に対して気分を害すような事はなく、寧ろ心地いいまであるそれは他の誰でもない隣を歩く彼女が破った。

 

「桜の花弁が落ちる速度だったか」

「知っていたの?」

「昔、それを題材にしたアニメーション映画があったんだよ。ま、秒速5センチなんて早いのか遅いのかイマイチ分からんがな」

「分速で300センチ、時速に直すと18000センチ、メートルに直すと180メートル、kmに直すなら」

「いや、もういい。理数系壊滅的な俺が悪かった。て言うか二年時の年度末考査は理数系もいい点数言ってたと思うぞ?」

 

 数学は75点だし、物理などその他の理数系も70点以上を叩き出した。

 それ以前の俺に比べれば天と地の差、月とスッポンだろ。

 しかしそれで満足してくれるような彼女ではないのは俺もよく知っている。

 

「平均点にも届いてないわね」

「それJ組の平均と比べてない?数学だけなら学年平均上回ったよ?」

 

 寧ろ三年になったと言うのに学年平均が70点台とか進学校としていいのかとは思ったりもしたけど。

 そこは気にしたら負けだろう。

 何せその平均点と言う括りで大きく足を引っ張っている生徒を約1名知っているのだから。

 それが部活メイトで俺の数少ない友人だと言うのだから始末に負えない。

 

「本当、あれだけ教えたのに何故平均点を40点も下回るのかしら......」

 

 恒例のアタマイターのポーズ。

 我が親愛なる友人は料理だけでなく勉強も壊滅的なようで、それはさしもの学年一位様でもどうにもならなかったようだ。

 

「ま、今はその話題はいいじゃねぇか。折角一色達が企画してくれたんだしさ」

 

 一色いろは率いる生徒会が初めて生徒会のみで企画、進行したイベント。

 それが今回行われているお花見イベントだった。

 クリスマス、バレンタインデーと奉仕部を頼りにして来た生徒会長だったが、今回のイベントは生徒会だけで頑張ったらしい。

 らしい、と言うのも今回は本当に事前になってからイベントの開催を告げられていたからだ。

 雪ノ下や由比ヶ浜、小町なんかは結構前から知っていたっぽいけどね。

 

「まさか私がああ言っただけで本当にやってしまうとはね」

「基本的に一色はお前のこと大好きだからな」

 

 雪ノ下の『偶には生徒会だけで頑張って私達を楽しませてくれないかしら』と言う鶴の一声。

 たったその一言だけで一色は自分一人の、と言うのは烏滸がましいか。一色たち生徒会のみの力で今回のイベントをやってのせた。

 そして例に漏れず海浜総合との合同で向こうから予算をふんだくったらしい。

 今も向こうからウケるー!とか意識高い系の言葉とかが聞こえてくる。

 

「んで、何の話だっけ?俺が数学めっちゃ頑張ったって話?」

「寝言は永眠してから言いなさい。桜の落ちる速度の話よ」

「永眠しないと寝言言えないのかよ......」

 

 なんならこの時期は桜の木の下に埋められちゃうまである。

 

「んで、その速度がどうしたんだよ?」

「いえ、ね。人の心の距離が近づくスピードはそれよりも早いのか遅いのか、なんて考えてしまって。らしくないわね」

「別に、そんなもん人それぞれだろ。何かのイベントで急激にその速度が早くなったり、遅くなったりするもんだ。何より、終着点が必ずしも互いの心が触れ合う距離とは限らない」

 

 どれだけ近づいても、結局はその心の奥にまで触れることが出来ないことだってある。

 口ではどれだけ友達だの恋人だのと言っていてもそこに辿り着けない関係なんてのは数多い。それは家族と言う関係性を持ってしても例外ではないのだ。

 

「でも、貴方とはこうして触れ合えたわ」

 

 俺の空いた右手をそっと掴んで来る雪ノ下。

 つい数ヶ月前まで袖を掴むのでも恥じらっていたと言うのに、今ではとても幸せそうな顔で俺の手を離しはしまいとしっかりと握って来る。

 そんな顔されては言葉に詰まると言うもので、何も言い返せないで居たら雪ノ下は頬を染めて俯きながら呟いた。

 

「何か言ってもらわないと困るのだけれど......」

「あぁ、いや、うん。そうか......」

 

 何か言ってもらわないとって言われても俺だって困る。

 ここで歯の浮くようなセリフを言うのは俺のキャラじゃないし、て言うか恥ずかしいなら言わなきゃ良いんじゃないですかねぇ......。

 



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君の隣に立っていたい

卒業シーズンですね。という事で卒業八雪です。


  この日、総武高校にまた一つ、確かな終わりが訪れた。

  それを喜び、新年度からの生活に胸を踊らせる者もいれば、それを悲しみ、友人達との別れに涙する者もいる。

  我がクラスでは殆どが後者だ。戸部とかめっちゃ泣いてる。大和や大岡と泣きながら抱き合って、それを見た海老名さんがいつも通り血飛沫をあげ、いつも通り三浦が介抱する。

  けれど、ただ一ついつも通りで無いとしたら、由比ヶ浜が、三浦が、あの海老名さんまでもが、目尻に涙を溜めていることか。

  あの騒がしいような鬱陶しいようなやり取りも今日で見納めかと思うと、少し寂しく、はならないな。うん。ならない。

  他にも周囲を見渡せば、川崎はこんな時でも一人で椅子に座り外を眺めているし、戸塚は他に親交のあった友人と何事か会話を交わしている。

  誰も彼もが教室内で別れを惜しむ中、俺は一人特別棟へと足を向けた。その背中にかかる声はない。

  由比ヶ浜や戸塚には春休み中に遊ぶ約束を取り付けられた。川崎とは大志と小町経由で今後もなにかしら接点があるかもしれない。

  けれど、彼女だけは。

  クラスも違えば、連絡先も知らない、あの少女だけは。

  きっと、このまま家へと帰ったら、由比ヶ浜達とは違い今後会うことも無いのだろう。例え由比ヶ浜や小町経由だとしても、俺は恐らくそこで関わりを絶ってしまう。いや、由比ヶ浜だって、戸塚や川崎だって、この先は分からない。それは当たり前だ。先のことなんて分かるはずがない。

  春休みに遊んだからといって、大志経由だからと言って、果たして俺は今の関係を今後も続けられるのか。問われるならば即座に否と答える。まず俺から連絡を取ることがない。その内向こうも連絡を入れるのも辞めて、そして痛みを伴う思い出へと風化して行くのだ。

  初めて、それでは嫌だと思った。

  彼女のことを過去の思い出にしてしまうことを、俺は酷く嫌った。

  何故かは分からない。分からないが、心の底から強く、そう思ってしまうのだ。

  だから今日も、こうして、これまでと同様にリノリウムの床を踏みしめる。

  特別棟に人気はなく、その事が卒業の寂寥感をより一層増している気もする。窓から覗く桜の木は、未だ満開には程遠い。卒業シーズンだとか言われようと、桜の花弁は俺たちの別れを見守ってはくれない。

  やがて見慣れた扉の前に辿り着く。何度この扉を開いただろう。何度、俺たちを待つ彼女と挨拶を交わしただろう。数えるには馬鹿らしく、けれどその一つ一つが確実に今の俺を形作っている。

  果たして手を掛けた部室の扉は、俺の予想通り軽々と開く事が出来た。

  扉の先の空間には、見事に何もなかった。あたたかな香りで満たしてくれていた紅茶セットも、別々の方向を向いていた椅子も、その椅子達を繋いでくれていた長机も。もう、ない。

  精々が、隅に追いやられ使われる気配のない、椅子と机の山。それと掃除用具の入れてあるロッカー。どこからどう見てもただの空き教室だ。

  けれど、そこが異質に感じられたのは、一人の少女がいたから。

  少女は斜陽の中で立ち竦み、惚けた表情で外を見ていた。

  世界が終わった後も、彼女はここでこうしているんじゃないか、そう錯覚してしまう程に、この光景は絵画じみていた。

  それを見た時、俺は身体も精神も止まってしまった。

  ---不覚にも、見惚れてしまった。

  彼女は来訪者に気づくと、こちらに柔らかな微笑を向けてくれる。

 

「こんにちは」

「おう」

 

  とても短い、いつも通りの挨拶。しかし、彼女の、雪ノ下の表情には些か驚きの色が見える。それもそうか。今日ここに来るなんて、言っていなかったし。

 

「まさかこんななにもない所に来るとは思ってなかったわ」

「それを言ったら、お前だってこんななにもない所で黄昏てたじゃねぇかよ」

「私は少し、ね......」

 

  目を伏せ、窓枠をそっと撫でる。その顔には笑みを浮かべているが、しかし、その瞳がどこを映しているのかは分からない。

  どこか遠くを見ているような。ここではない、遠い未来を。

 

「もう、終わりなのよね......」

「......そうだな」

「過去二度の卒業式ではなんとも思わなかったのだけれど、まさか高校の卒業式がこれ程まで心にくるものになるとは、思いもしなかったわ」

「まあ、それについては同感だな。誠に遺憾ではあるが」

「ふふ、素直じゃないのね」

 

  二人とも椅子を出すこともなく、立ちっぱなしで言葉を交わす。この部屋に、紅茶の香りはもうしていない。だけど、彼女と交わす一言一句が、心地良くて。ずっとこの場でこうしていたくなる。

 

「クラスの方はいいの?」

「誰に聞いてるんだよ。戸塚とか由比ヶ浜はどうせ春休みにみんなで遊ぼうって言ってんだから、特に留まる理由もないだろ。お前は?」

「愚問ね」

「だろうな」

 

  彼女とは進学先も違えば、住んでいる場所だって近いわけじゃない。同じ県内の大学とは言え、互いに進んで外出するようなやつでもない。

  だから、ここで繋ぎ止めておかなければ。

  らしくなくても、みっともなくても。

  それが、俺が出した答えだから。

 

「それで、あなたはどうしてここに来たのかしら?」

「お前ならここにいると思ったからな」

「つまり?」

「......まあ、なんだ。その、伝えておきたいことが、あったから」

「......っ。そ、そう」

 

  どうしてか頬を薄く染めた雪ノ下は、視線を忙しなく泳がせている。

  卒業式の日に、空き教室で男女が二人きり。絶好のラブコメ的シチュエーションだろう。だけど、これから行うのはそんなロマンチックなものではなく、俺の醜いエゴを押し付けるだけのものでしかない。

  伝えるべき言葉はシンプルに。真っ直ぐ、分かりやすく。

 

「雪ノ下」

「......はい」

 

  らしくもなく敬語での返事。ここで漸く目があった。

  パッチリ開かれた瞼と長い睫毛に濡れた瞳。綺麗な線を描いた鼻梁に真っ白な肌。今はその肌が、紅く彩られているが。

  本当に、可愛いやつだ。びっくりするくらいに。ただ向き合っているだけで、気後れしてしまう程に。

  そんな雪ノ下から目を逸らすこともなく、想いを込めた言の葉を紡ぐ。

 

「俺は、これからも、お前の隣にいたい」

「......っ!」

 

  彼女が息を呑んだのが分かった。目は見開かれ、頬の紅潮は増す一方だ。雪ノ下のそんな変化にも構わず、俺は続ける。

 

「でもな、なんでそう思ってるのか、どうして俺はわざわざ言葉にしてまで、お前の隣にいたいのか。分からないんだ」

「えっ......?」

 

  これから先、雪ノ下雪乃に踏み込む人間が出てくるかもしれない。俺たちの卒業を見ることなく転勤してしまった、恩師の言葉だ。

  その誰かが現れたら、きっとそいつが雪ノ下の隣に立っているのだろう。そして、雪ノ下はそいつに優しい微笑みを見せて、雪ノ下自身もそいつの隣に立っていたいと思うのだろう。

  そんな未来を考えると、胸に鈍い痛みが走る。存在すらしないそいつに、理不尽な怒りすら湧いてくる。

  それがどうしてなのか、自分の感情な筈なのに、全く理解出来ない。

  けれど、ただ一つ分かっていることがある。

 

「それでも、理由が分からなくても、俺はお前の隣に立っていたい。他の誰でもない、俺が。比企谷八幡が、雪ノ下雪乃の隣に」

「......」

 

  俯いてしまって、彼女の表情は見えない。

  呆れられてしまっただろうか。もしくは軽蔑されてしまっただろうか。

  そうなってもおかしくないと自覚はある。なんならそうなる自身まである。

  理由も分からない俺自身の感情を、手前勝手にも雪ノ下に押し付けると言うのだ。なんと言う暴挙。なんと言う愚行。

  しかし顔を上げた彼女の頬は、未だ熱を持っていて。

 

「まるで愛の告白のようね」

「うぇっ⁉︎」

 

  想像もしていなかった返答に、思わず変な声を出してしまった。

 

「いえ、寧ろプロポーズの言葉、かしら?」

「ちょ、ちょっと待て、違うから、そう言う意図があっての言葉じゃないから!」

「ふふっ、分かってるわよ」

 

  どうやら揶揄われただけらしい。

  て言うか愛の告白とかプロポーズとか......。思い返してみればそう捉えられてもおかしくない言い回しで、今更ながら恥ずかしくなってしまい、俺まで頬に熱が集まってしまう。

 

「それにしても、そこまで口に出したのに、自分の気持ちが分からないとは、流石は比企谷くんね。最早尊敬してしまうわ」

「おい、ちょっと褒めてるっぽいけど絶対違うだろ。絶対貶してるだろ」

「あら、よく分かったわね」

 

  ニッコリ笑顔で上機嫌の雪ノ下さん。そこからは負の感情が見えることはなく、俺の先程の発言に対しても嫌がったり気持ち悪がったりしているわけではなさそうでちょっと安心。

 

「それで、先程の返事だけれど」

「お、おう」

 

  改めてそう切り出されると、緊張してしまって体が強張る。

  コホン、と咳払いした後、雪ノ下は今まで見たどれよりも綺麗な笑顔で言った。

 

「あなたがその理由を理解出来ないと言うのなら、私が教えてあげる。私が、あなたの感情の正体を見せてあげる。だから、それを理解出来るまで、あなたは私の隣にいなさい」

「お前が......?」

「ええ、私が」

「......そうか」

 

  それは、なんとも頼もしい。あの完璧超人の雪ノ下が教えてくれるだなんて、百人力どころか八万人力だ。八幡だけに。

  いや、頼もしいとか、百人力だとか、そんなのはどうでもよくて。

  ただ、俺の言葉を、俺の想いを受け入れてくれたことが、只管に嬉しい。

 

「ははっ」

「......なにを笑っているのかしら?」

「いや、悪い。なんか、嬉しくてな」

「今日のあなたは素直すぎて怖いわね。一体なにを企んでいるの?」

「これ以上はなにも企んでねぇよ」

 

  それに、卒業式の日くらいは素直になっても、バチは当たらないだろう。

  そう言えば、と付け加えるように言うと、雪ノ下はキョトンと小首を傾げる。その様がまた随分と可愛らしい。

  そんな可愛らしい子の隣に立っていられる。その事がこれ以上ないほどに誇らしい。

 

「もし、いつか俺が、これを理解出来たら。その時はどうなるんだ?」

 

  彼女と共にいれる期限がそこだというのなら、更にその先はどうなるのだろう。

  そこではいさようならか、それとも。

  無駄に期待するなと理性が訴えかけるも、本能は別の答えを求めてしまう。

  そうして雪ノ下が出した答えは。

 

「その時は、余計に離れられなくなっているかもしれないわね」

 

  言われた未来をイメージしてみるも、イマイチ分からない。それも当たり前か。まずその先に至るまでの過程が理解出来ないと言っているのだから。

 

「今はまだ分からなくてもいいわ。けれど、いつかきっと、あなたにも分かる時が来る。その時まで、ちゃんと私について来なさい」

「ああ、ありがとな」

 

  雪ノ下らしい尊大な物言いに、思わず笑みが漏れた。

 

  今日は卒業式。確かなものが終わりを告げ、それでも俺が一歩踏み出し、新しいなにかが始まった日。

  今日、ここで始まった、明確な名前をつけることの出来ないなにかが、いつか終わる時が来るのかもしれない。けれど、その終わりはきっと、また新しいなにかの始まりとなるのだろう。

  その時が、何故だか無性に楽しみだ。



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でもそれはよく出来た......

一年くらい前、と言うか去年のバレンタインの時、初めて書いた八雪をこっちに投稿します。なにせ初八雪だったからクオリティもお察しです。


 あれは、そう。高校三年の二月十四日だった。

 受験勉強もいよいよ大詰め、と言う日だ。

 由比ヶ浜が自分の危うさに気がついたのか、予備校に通い出したのは既に数ヶ月前。

 暫くは俺と雪ノ下の二人きりなんて言う状況が続いていた。

 そんな、何でもない日常の一幕。

 に、なる筈だった日。

 

 世間一般的にはその日はバレンタインデーだった。

 一年前の今頃はクラスメイトやら生徒会長様やらの依頼でお料理教室なんてものをやっていたのも懐かしい。

 因みに部室に来るまでの間に色んな人から義理チョコ貰ってたりするんだけどな。

 俺にも漸く春が来たのだろうか。

 そう、チョコを貰えたのだ。

 戸塚からも貰えちゃった。来月は三十倍くらいで返さないと。あれ、でも来月って卒業した後だから戸塚に会えない?

 嘘だぁ、八幡卒業したくないよぉ。

 と、まぁチョコを貰った相手が主に奉仕部として関わって来たメンツだったから故に、この日、この状況でソワソワしてしまっても仕方ないと言うものだろう。

 

「何をそんなに浮かれているのかしら。先程から百面相をしていて気持ち悪いのだけれど」

 

 隣からページを捲る音が止んだと思ったら罵声が飛んで来たでござる。

 

「え、なに。俺そんなに表情豊かだった?」

「目だけは相変わらず腐っていたけれど」

「そこは仕方ないと割り切るしか無い。何せ目の腐っていない俺なんて俺じゃないまであるからな。て言うか、そっちこそ何俺のこと見てんだよ」

 

 そんなチラチラ俺の顔見るなよ勘違いして告白して玉砕しちゃうでしょ。

 

「別に見たくて見ていたわけではないわ。ただ隣に不審者がいればそちらに目がいって思わず通報してしまうのも仕方ないことだと思うのだけれど」

「通報はやめてね、俺まだ何もしてないからね?」

「まだ、と言うことはこれから何か犯罪に手を染める予定でもあるのかしら?」

「そう言う意味で言ってんじゃねぇよ。一々揚げ足取るなっての」

 

 ふふ、と微笑むその表情に心を奪われる。

 その毒舌が無ければ男子の理想を完璧に体現したかのような少女なのに。

 本当、どうしてこんな奴の事を好きになってしまったのだろうか。

 

「そうね、ここで未来の犯罪者を減らしておくと言う意味でも、これは渡しておくわ」

 

 態々そんな口実をつけてまでカバンから取り出したのは可愛くラッピングされた小さな復路。

 猫のワンポイントがチャーミングだ。

 

「バレンタインの日くらい素直になってもバチは当たらないと思います」

「あら、何を勘違いしているのかしら?私はあくまでも部活仲間が間違えた道に進まない様に配慮して誠に遺憾ではあるけれどこうして貴方にバレンタインのチョコを渡しているだけよ?」

「そこまで言われると流石の俺も傷つきますよ。......まぁ、なんだ、その、ありがたく受け取るとする」

「ええ、ありがたく受け取りなさい」

 

 その後は完全下校時刻まで一つの会話も無く互いに読書をしてその日の部活は終了。

 好意を寄せている女子からチョコを貰えただけで舞い上がって本の内容が全く頭に入ってなかったのは秘密だ。

 

 校門前で雪ノ下が鍵を返すのを待ち、やって来た彼女のカバンをふんだくって自転車の籠に入れる。

 由比ヶ浜は予備校に通い出した辺りからか、彼女を家に送るのは日課となっていた。

 毎日の様に一人で帰れると拗ねた様に言われるが、この時期は日が落ちるのが早い。

 そんな中一人で帰すのは男が廃るってもんだ。

 それを雪ノ下に一度言ってみたところ、

「それ以上廃りようがないでしょう?」

 と心底不思議な顔で発言されたのは記憶に新しい。

 

 そんないつもの帰り道、雪ノ下のマンションが近づいて来た頃合いに、彼女は唐突に口を開いた。

 

「ねぇ、比企谷君。私の将来の夢って聞きたい?」

「どしたのいきなり」

 

 聞きたくない、と言えば嘘になる。

 母親が敷いたレールの上をただ歩くだけの人生を半ば決定付けられている雪ノ下雪乃が持つ、彼女だけの夢。

 気にならないわけがない。

 そんな俺の気持ちを察してか、返事を待つまでも無く雪ノ下は語り始めた。

 

「私ね、喫茶店を開きたいの。大きいものじゃ無くてもいい。どちらかと言えばこじんまりとした、隠れ家的な感じがいいわね。貴方が美味しいと言ってくれた私の紅茶や料理を振る舞って、偶にはお客様の悩み事なんかの相談に乗って見るの」

 

 まるで奉仕部のようにね、と楽しそうに微笑みながらあり得るかもしれない未来を語る。

 

「そこには由比ヶ浜さんや、一色さんもいたりして。そして、貴方が、比企谷君がいつも隣にいてくれる」

 

 あぁ、それはなんて尊く、儚いものなんだろうか。

 所詮は彼女の自己満足の為の願望でしかない。

 

「でも、こんなものは良く出来たお伽話(フェアリーテイル)みたいなものよね」

 

 そんな幻想は現実の前に打ち砕かれる。俺はそれを何よりも誰よりも知っているはずだ。

 だからこそ、そう儚く諦めたように笑った彼女を見て、俺は一歩踏み出そうと思ったのかもしれない。

 

「なぁ雪ノ下。妖精に尻尾があるのかどうか、俺と確かめにいってみないか」

 

 口から出た言葉は、俺には似つかわしくないほど随分とロマンチックな言い回しになっていた。

 クソ、別にこんな風に言わなくても良かっただろうに。

 ほら見ろ雪ノ下さん驚いて目を丸くしていらっしゃるじゃねぇか。

 

「驚いたわ、貴方でもそんな言い回しが出来るのね」

「自分でも驚いてる所だよ。俺の口からこんなロマンチックな言葉が出るなんてな」

「でも、そうね。貴方となら、いいえ。他の誰でもない貴方と一緒に......」

「雪ノ下?」

 

 俯いてボソボソと何かを呟いた後上げたその顔は、冬の寒さのせいなのか少し赤らんで見えた。

 

「比企谷君、私にお伽話のその先を見せてくれるかしら?」

 

 

 

 

 

 それが今から九年前の、とある冬の一幕だった。

 

 

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 

 カランコロンと来店を示す音が店内に響く。

 今日も今日とて閑散とした我が喫茶店に本日初の来客だった。

 

「いらっしゃい」

「マスター、いつものを頼む。」

「いつものってどれだよ。お前毎回紅茶とコーヒーとどっちかわからねぇんだからしっかり注文しろ」

 

 高校時代から変わらない無駄にいい声で小太りの元同級生がカウンターに座る。

 こいつに紅茶を淹れるためだけに奥から彼女を呼び出すのもアレなので今日はコーヒーでいいだろう。

 

「んで、今日も担当から逃げてきたのか材木座先生?」

「逃げてきたのではない。戦略的撤退というやつだ。未来への進軍だ」

「ま、一色が担当に当たっちまったんだからそこは諦めるんだな」

 

 たった今後輩から届いたメールの内容を目の前に座る小説作家に見せてやる。

 どうやら材木座がここに逃げ込んでいることはバレているらしく、そこにいるかと確認のメールが舞い込んできたのが数分前。

 

「は、八幡!我らは前世を共に戦った中であろう!そんな我を見捨てるというのか⁉︎」

「安心しろよ剣豪将軍。適当にはぐらかしておいてやったさ」

「八幡、お主......!」

「感謝の言葉はいいからうちの売り上げに貢献しやがれ」

 

 材木座の頼んだ日替わりランチを厨房に伝えるために奥に下がると、当店自慢の美人シェフと現役JDアルバイトが揃ってあーでもないこーでもないと頭を悩ませていた。

 

「なに、まだ悩んでんの。バレンタイン限定メニューとやら」

「そう思うんなら八幡もアイデア出してよ」

「ダメよ留美さん。この人は学生時代こういう手のものはいつも嫉妬の対象でしか無かったのだからまた捻くれたロクでもない意見しか出さないわ」

「よく分かってんじゃねぇか。ほれ、日替わり一つだ。限定メニューに頭使うのもいいが本来の仕事は忘れんなよ」

「貴方に言われずとも分かってるわよ妬み谷君」

「お前も今は比企谷なの理解しての発言だよな?」

 

 て言うかバレンタインまであと五日しか無いんですけど今更間に合うんですかね、とは言わない。

 言ったら最後雪乃から三倍返しくらいで言い負かされるのは目に見えているから。

 

 客をあまり待たせるなよ、とだけ言い残して表の方に出ると、意外にも材木座はパソコンを広げて執筆作業に勤しんでいたようだ。

 なんだよ、案外真面目に仕事してんじゃねぇか。ま、好きなことを仕事にしてんだからやる気くらいでるか。

 趣味と仕事は別、なんて聞いた事もあるが、こいつを見ているとそう言う事は中々思えない。

 

「八幡よ、奥方と鶴見嬢の姿が見えないが?」

「バレンタイン限定メニューなんてものを考えてるんだとよ。予算もギリギリだってのに女ってのはどうしてこう、イベント事には目がないのかね」

 

 まぁクリスマスや桃の節句なんかの限定メニューはお陰様で大好評だったわけだが。

 それでも今回はいつもに比べて決めるのが遅すぎるだろ。

 

「雪ノ下嬢の手作りチョコをサービス、などはダメなのか?」

「バッカお前、雪乃の手作りチョコは俺と由比ヶ浜だけのもんだよ。見知らぬ他人にやる様な安いもんじゃねぇの」

「それってメニュー決まるの遅いの八幡のせいじゃ......」

「なんか言ったか?」

「い、いや何も。そんな事よりも見ろ八幡!今期話題のアニメの人気キャラのフィギュアの予約にありつけたぞ!」

「前言撤回、俺の心の中の感動を返しやがれ。そして今一色にメール打ったから飯食ったらさっさと帰って仕事しろ」

「はぽーん!」

 

 材木座が奇声をあげて意気消沈した所で、カランコロンと扉の開く音が。

 入ってきたのは見た事のある学生服を着た女子高生。

 我らが母校、総武高校の制服だ。

 

「いらっしゃいませ」

「あの、バイト募集の張り紙見て来たんですけど......」

 

 撃沈した材木座とそれを無視して本を読む俺を見て若干警戒の色が出ているようだ。

 実際店員が目の前の客をほっぽって読書に耽っているのはハタから見ると不思議というか可笑しな光景ではあるだろう。

 

「この仕事内容のところのお悩み相談って、相手のお願いを叶えるとかそう言う感じのやつですか?」

 

 ふむ、最もな疑問だろう。

 て言うか普通の喫茶店にはまず無い仕事内容だ。

 となれば、その問いに対する答えを俺は一つしか持ち合わせていない。

 

「お願いを叶えるんじゃ無い、あくまで手助けをするだけだ。飢えた人に魚を与えるのではなく、捕り方を教える。それが仕事だ。と言うわけで、ようこそ喫茶「fairy tale」へ。アルバイトなら大歓迎だ」

 

 



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兎は寂しいと死んでしまうのよ。

バニースーツゆきのん、略してバニのん。


  兎。

  諸君らはその動物に対して、どのようなイメージを持っているだろうか。丸っこい。なんかもぐもぐしてる。跳ねる。まあ、色々とあるだろう。

  ペットとして飼っている家庭もあるし、兎専門店とかだってある時代だ。この世に存在している数多くの動物の中でも、かなりメジャーな方だと思う。

  俺にとって兎と言えば戸塚だった。いつだかの会話で、戸塚が兎を猛プッシュしていたこともあったし、あの庇護欲をそそられる小動物じみた言動はまさしく兎だろう。

  だから、兎と言えば戸塚だったのだ。

  そう、だった、である。過去形だ。

  何故そうなのか。それを説明するのにはそう時間は有さないし、難しい話でもない。

  俺の目の前に、バニースーツ姿の雪ノ下雪乃がいる。

  その一文で事足りるのだから。

 

「ひ、比企谷くん......。その......」

 

  時は休日、場所は雪ノ下宅の寝室。いつものようにいつもの如く、リビングのソファの上でのんびりと恋人との穏やかな時間を過ごすはずだったのに、どうしてこうなっているのか。

  誤解を招く前に言っておくが、なにも俺がそのような趣味の持ち主で、雪ノ下にこの格好を強制させたわけではない。それだけはどうかご理解頂けたら幸いだ。

  そもそもバニースーツとは、由比ヶ浜や陽乃さんのようなナイスバデーの女性が着るからこそ魅力的に移るのであって、我が恋人のような、スレンダーな体型の女性には似合わない。それが俺の持論だった。

  ここでも過去形であることから、察しはつくだろう。

  そんな持論は、実際に目にしてしまえば跡形もなく消え去ってしまった。

  バニースーツで最も目を惹く所はどこかと問われたら、迷わず網タイツであると即答する。雪ノ下の着ているバニースーツも例に漏れずしっかりと網タイツを着用しており、彼女の綺麗な腰から足先へのラインを、色気たっぷりに演出していた。細身な彼女ではあるが、その網目に沿うようにして女性らしい肉付きがあることがしっかりとわかる。

  そして腰回り。特に網タイツとの境目である鼠蹊部は素晴らしい。雪ノ下のくびれは、抱きしめると折れてしまうのではないかと錯覚する程に細い。そこから上へと視線を遣ると、控えめながらもしっかりと存在を主張する谷間が。そここそが、雪ノ下のようなスレンダーな女性には似合わない所以だと俺は思っていた。だがそんな事はない。恐らく彼女自身、このバニースーツを着た時に最も不安になったであろう箇所ではあると思うが、無駄な膨らみが無いお陰で彼女のスタイルの良さを更に魅力的に見せている。

  ここまで多くの言葉で目の前のバニのんの魅力を語ったが、なんだかんだで一番良いのは、その羞恥に染まった顔であろうか。

 

「何か言ってくれないと、困るのだけれど......」

 

  最早泣きそうになりながら、しかし俺から目を逸らそうとはしない。随分と嗜虐心が唆られるが、まだちょっと我慢。

  て言うか冷静に雪ノ下の今の服装について吟味してる場合じゃない。なんでこんな状況になっているのか、まだ聞いていないのだから。

 

「あー、雪ノ下、取り敢えず、なんでバニースーツ?」

 

  そもそも先に述べた通り、兎と言えば戸塚なのだ。雪ノ下は猫。コスプレするなら猫耳に尻尾つけてにゃーって鳴いて欲しいじゃなくて、今は俺のそんな願望はどうでも良くて。

  雪ノ下がバニースーツなんて、領土侵犯もいい所だろう。戸塚がバニースーツ着てるならまだしも。

 

「......」

「いや、そこで黙られると怖いんですけど」

 

  なに、もしかして陽乃さんになんか言われたとか? ありそうだなぁ......。「この格好で迫れば比企谷くんなんてイチコロだよ!」とか言いそう。けれど悲しいかな。こんな格好しなくても、俺は雪ノ下に迫られてしまえばその時点でイチコロ。その辺りわかってるかは知らんけど。

 

「そ、それよりも、どう、かしら......?」

「めちゃくちゃ可愛い」

「あっ、そ、そう......。ありがとう......」

 

  思わず即答してしまった。

  ちょっとちょっと雪ノ下さん。そこで嬉しそうにハニカムの辞めてくれます? 余計に可愛くて理性の化け物ノックアウト寸前ですよ?

 

「で? 結局なんでそんな格好してるんだよ」

「......兎は、寂しかったら死んでしまうのよ」

 

  質問に対する答えにしては適さないものが返ってきて、首を傾げざるを得ない。

  ......なに、つまりあれか。最近俺がちょっと忙しくて構ってやれなかったから、寂しかったのか? えー。なにそれ可愛すぎません? それでバニースーツを着ると言う発想は全くもって意味不明だけど。

  これでもかと言うほどに顔を真っ赤に染めた雪ノ下が、ズン、とこちらに一歩踏み出す。自然と一歩後ずさる俺。それを繰り返すうちに、俺はベッドの上に座り込んでしまい、雪ノ下はしゃがみ込んで、俺の膝に手を這わせる。彼女の指の一本一本が動くたびに、背筋がゾクゾクとする。

  視線を下に遣ると、最も露出している谷間に目が行ってしまう。

  思わず、息を呑んだ。

  潤んだ瞳は俺を捉え、艶やかな唇が言葉を紡ぐ。

 

「今の私は、兎なの」

「お、おう......」

 

  こちらに身を乗り出してくる。雪ノ下の整いすぎた美しい顔が、すぐ近くにある。正直それだけでどうにかなってしまいそうなのに、彼女は俺の耳元に口を寄せて、囁いた。

 

「だから、この寂しさを、ちゃんと埋めて。じゃないと、死んじゃう、わよ?」

 

  反射的に抱き締めていた。強く抱きしめると折れてしまいそうだと、先述したばかりにも関わらず。そんなもの関係ないとばかりに、強く、強く。

  それに気を悪くするでもなく、雪ノ下も俺の背に手を回す。スンスンと首元の匂いを嗅いでるのは、やはり兎と言うよりも猫を思わせる。

 

「寂しかったのか?」

「......うん」

「そっか。それは、悪かったな......」

 

  暫く抱き合い、それを解くと自然と唇を触れ合わせる。

  常よりも幼い口調がなんとも可愛らしい。こうして兎の真似事でもしないと、素直に甘えられないその不器用さが、この上なく愛おしい。

  そんな彼女に寂しい思いをさせてしまったと言うのなら、ちゃんとその寂しさを埋めるのが、恋人としての役割だろう。

 

「ふふっ」

「どうした?」

 

  打って変わって穏やかな微笑みを見せる雪ノ下に、若干戸惑いを隠せない。顔の赤みも完全とは言わないものの、ある程度引いている。

 

「こうしていると、やっぱり大丈夫なんだって思えて」

「それは、寂しかったら云々の話か?」

「ええ。だって、私には比企谷くんがいるもの。寂しかったら、直ぐにそれを埋めてくれるのでしょう?」

「......まあ、そうだな」

「ならやっぱり大丈夫ね。......んっ」

 

  もう一度短く口付けを交わし、雪ノ下は俺に全体重をかけて来た。それに為すがままにされて、ベッドの上へと押し倒される。

 

「だから、暫く寂しくないように、沢山あなたを感じさせてね?」

「......仰せのままに」

 

  結局バニースーツの謎は解けなかったが、それを着用している姿と、俺に甘える彼女が見れたから、正直どうでもいい。

  つーかこれ、脱がすの大変そうだなぁ......。



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八幡の一言に取り乱しちゃうゆきのんの話

 静寂が心地いい。そう感じ始めたのはいつの頃からだろうか。聞こえてくるのは文庫本のページをめくる音と、秒針の刻む律動。僅かに聞こえる運動部の掛け声や、吹奏楽部の演奏の音は、読書をするには丁度いいBGMだ。

 私の淹れた紅茶は部室にあたたかな香りを充満させてくれる。彼が美味しいと言ってくれた、私の紅茶。

 チラリと横目で長机の対面を伺うと、彼の真剣な表情を見る事が出来る。正面から見たらあの腐った瞳が異質な存在感を放つが、こうして見る横顔は、何故だか少し大人びて見えて、私の鼓動を加速させる。

 そうしていると本を読む手が止まって、つい見惚れてしまう。

 まるで、一枚の絵画のような。

 彼の読書姿は、それほどまでに絵になっていた。なんて、少し贔屓目に見すぎているかしら。

 暫く見惚れていると、彼の手が湯呑みへと伸ばされた。彼を見詰めていたのを悟られたくなくて、咄嗟に手元の本に視線を落とす。けれど、性懲りも無く目はチラチラと彼の方へと向いてしまって。

 どうやら、湯呑みの中が空になっているらしい。湯呑みは口元へ運ばれることもなく、机の上へと戻された。

 

「おかわり、いる?」

「ん、頼む」

 

 尋ねれば肯定が返ってくる。なんでもないことなのにこの上なく嬉しい。立ち上がって彼の湯呑みを回収し、紅茶を淹れ直す。

 紅茶を淹れる時はいつも少しだけ緊張する。今日も彼が美味しいと思ってくれるかどうか、不安になっているからだろうか。彼が一口飲んだ時のその表情を見れば、直接聞かなくとも分かるのだけれど。

 今回も無事、いつも通り紅茶を注ぎ終え、彼の元へと運ぶ。

 

「はい、どうぞ」

「サンキュ」

 

 部活中、唯一彼に接近できるタイミング。まあ、だからと言ってなにかをするわけでもないのだけれど。

 湯呑みを机の上に置き、席に戻ろうとした時。

 

「なんか、夫婦みたいなやり取りだな」

 

 そんな呟きと、その数瞬後にゴッ! と言う鈍い音が部室に響いた。というか、私が長机に思いっきり足をぶつけた音だった。

 

「雪ノ下⁉︎ おい、大丈夫かお前?」

「え、ええ、大丈夫よ......。それよりあなた、今なんと言ったのかしら......?」

「は? 俺? 別になんも言ってないけど」

 

 この男、まさか無意識のうちに言葉にしていたと? 自分でも自覚がないと? そんのものに気を取られて、私は思いっきり足を机にぶつけたの? なにそれ。なによそれ。なんなのよそれ! どこのハーレム主人公なのよ! そう言ったテンプレは廃れつつあるって言ったのはあなた自身でしょう!

 落ち着きましょう。そう、まずは落ち着いて深呼吸。それで痛みが引くわけでもないけれど、まずは落ち着くことが大切よ。慌てていても良いことは何も無いわ。

 

「......自覚がないのならそれで良いわ」

 

 彼に自覚がないと言うのなら、これ以上私が気にしなければこの件はお終い。そう、何もなかったのよ。私はいつも通り彼に紅茶を渡して、彼もお礼以外は何も言わずに受け取った。この痛みはあれよ、あれ。まあ、あれよ。どれなのよ。

 席に戻る時に右手と右足が同時に出ていた気がするし、それを彼に指摘された気もするけれど、まあそれも気のせいね。ええ、錯覚というやつよ。

 そうだわ、紅茶を飲みましょう。私のティーカップもそろそろ空になってしまうから、新しく淹れなおして、そして紅茶を飲んで心を落ち着かせるのよ。

 未だに彼は私の方を怪訝な目で見ているが、それを気にせず再び紅茶を注ぐ。淹れたての紅茶が入ったティーカップを口元に運び、一気に呷ろうとして。

 

「あつっ!」

「なにやってんのお前......」

 

 あつい......。それはそうよね......。だって淹れたてなのだから......。そもそもこうなった原因は彼よ。彼が変なことを言うから私はこのような醜態を晒してしまっているの。なによ夫婦みたいって。私と彼が夫婦だなんてそんなこと......。

 

「......比企谷雪乃」

「何か言ったか?」

「べっ! 別になにも言ってないわよっ!」

「お、おう......」

 

 ちょっと、どうして勝手に口に出してるのよ! これでは先程の彼と同じじゃない!

 でも、いいわね、比企谷雪乃。ええ、悪くないわ。寧ろ好ましい響きよ。ふふっ、彼とそう言った関係になるなんて、夢のまた夢だとは思っていたけれど、想像してみたら案外いいものじゃない。

 彼はきっとなんだかんだで毎日働いていると思うし、いってきますの時はちゃんとハグとキスもしてあげて、帰ってきた時も同様ね。ご飯もちゃんと私が三食用意してあげて、休日は紅茶を片手に二人でソファに座ってゆっくりするの。ああ、なんて素晴らしい未来なのかしら。

 

「ふふっ」

「......なあ雪ノ下、お前本当に大丈夫か?」

「へ? あっ、え、ええ。大丈夫よ。先程の痛みも今は引いてきたし」

「いや、そっちじゃなくてだな......」

 

 要領を得ない彼の言葉に、首を傾げてしまう。そっち、とはどういう事かしら?

 

「なんかお前、今日変だぞ?」

「変、とは?」

「俺が言うのもなんだけど、なんかあれだ、急に気持ち悪い笑い方する辺りが変だ」

「んなっ......! だ、誰のせいだとっ......!」

「え、俺? 俺が悪いの? いや待て俺は悪くない世界が悪い」

 

 この男は本当に......!

 

「そもそもあなたがあんなことを言わなければ......!」

「待って、マジで待って、俺なんか言ったか? 全く記憶にないんだが」

「あなたが、夫婦みたいだなんて言うから......」

 

 勢いよく言葉に出したのは良いものの、言葉尻は掠れてしまい、彼には聞こえていないのではないだろうか。

 けれど、真っ赤に染まった彼の顔を見るに、どうやら肝心なところは聞こえていたようで。

 

「......声に出てたのか」

「......しっかり出てたわね」

「その、なんだ、すまん......」

「いえ、謝るような事ではないわ......」

 

 ぽりぽりと掻いている彼の頬は尚も赤く染まって行く。恐らく、私の顔も同じ色をしているのだろう。

 なかった事にするつもりだったのにこの有様。どうしてくれるのかしら。

 

「あー、もしかして、あれか。さっきの比企谷雪乃ってのも......」

「ま、まさか、聞こえていたの......?」

 

 無言の首肯が返ってくる。

 と言うことは、さっきは聞こえていないフリをしてくれていただけで、実はバッチリ聞こえてしまっていた、と。まあ、そうよね。由比ヶ浜さんも一色さんもいない部室は私と彼の二人きり。狭いわけではないが、そう広いわけでもない部室だと、聞こえて当たり前、よね。

 

「......ごめんなさい」

「いや、なんでお前が謝るんだよ」

「私の妙な想像であなたを不快にさせてしまったのは事実だわ。だから、ごめんなさい」

「......別に不快になったなんて言ってねぇだろうが。寧ろ、なんだ、俺もちょっと良いなって思っちまったくらいだし......」

 

 え? え? 待って、ちょっと待って。良いの? 私たち結婚はおろか付き合ってすらいないのに?

 

「良いじゃねぇか、比企谷雪乃。俺は悪くないと思うぞ?」

 

 ゴンッ! とまた鈍い音が鳴った。と言うか、私の頭が長机にぶつけられた音だった。

 ダメ、恥ずかしすぎるわ。なによこの男ノリノリになって! 恥ずかしくないの⁉︎

 

「どうした比企谷雪乃さん? お前から言い出した癖に恥ずかしいのか?」

「やめて......。私が悪かったから、それ以上はやめて頂戴......」

 

 頭のぶつけたところが痛い。と言うかこの男、開き直ってないかしら? 私をそう呼ぶことがどう言うことか理解してるの? 結婚よ? 男女が一生を共にするための契りを結ぶのよ? 私とあなたが、よ? そこのところちゃんと分かってるの?

 

「あっ......! なたはっ、私がその名字を名乗ることになんの抵抗はないの、かしらっ?」

 

 所々声が裏返ってしまった。目の前の彼が笑いを堪えている。後で覚えておきなさい。

 

「まあ、今更妹が一人増えると思ったら、な」

 

 ......そのセリフはわざとなのかしら。そうなのよね? どうして夫婦と言うワードが一度出ているにも関わらずそう思えるの? 正気を疑うわよ。と言うか妹好きすぎないかしら。

 良いわ、わざとだと言うのならあなたにも辱めを受けさせてあげるのだから。覚悟しなさい。

 

「妹とか、そう言ったものではなくて、その、例えば、私とあなたが、結婚、とか......」

「......恥ずかしいなら言うなよ」

「......あなたこそ、顔真っ赤よ」

 

 放課後の部室で彼と二人、共に顔を真っ赤に染めて、私たちは一体なにをしているのかしら。そもそもの発端は彼が不意に発した一言とは言え、その後追求してしまった私にも一応の責任はあるのでしょうけれど。

 お互いに顔を逸らして相手の顔が見れず、だからと言って手元の文庫本を読もうとしても、全く頭に入ってこない。

 

「でも、な」

 

 紅茶を口に含んで一息吐いた彼が、尚も目を逸らしたままに言葉を紡ぐ。

 

「それでも、俺は悪くないと思うぞ。その、比企谷雪乃っての......」

 

 思わず本を落としてしまいそうになった。彼は耳やうなじまで真っ赤にして、それでもそんな事を言ってくれた。

 嬉しい。嬉しすぎて胸が詰まる。ああ、どうしましょう。顔が自然とニヤケてしまいそうになる。なんとかそんなだらしない顔にはなるまいとするも、頬の筋肉は言う事を聞いてくれない。

 

「......なら、いつかそう名乗れる日が来るのかしら」

 

 自分の今の表情を誤魔化すように、そんな事を聞いてしまった。告白も同然の言葉だけれど、一度口から出てしまったものは覆す事が出来ない。

 それに、彼はそんな一言を聞いても、変わらない表情で。

 

「まあ、いつかその内来るんじゃねぇの? 多分、知らんけど......」

 

 そんな風に言ってくれる。

 なら、その日が来るのを、今から楽しみに待つとしましょう。待ちきれない場合は、どうなっても知らないけれど。

 そんな事よりぶつけたところが凄い痛いのだけれど、これは彼に責任を取ってもらうしかないのでは?



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甘すぎる二人の、初めてのお泊り

甘々で書いたつもり


  雪ノ下雪乃は一人暮らしだ。

  そんな彼女の家には、これまでにも何度か足を運んだ事がある。

  初めて訪れたのは文化祭の時。その次はバレンタインの日。

  紆余曲折を経て、また元の一人暮らしに戻った後も、俺は彼女の恋人として何度もこの高級タワーマンションに招かれた。

  慣れたものだと思っていた。

  一年にも満たない、彼女との恋人としての付き合いで。元々、俺も雪ノ下も好んで外に出るような人間ではない。それなら家でゆっくり、二人だけの時間を過ごした方が余程有意義だ。

  彼女の家のリビングに置かれたソファ。そこに二人並んで座り、彼女が淹れてくれた紅茶を飲む。たったそれだけで満たされた気持ちになっていた。それ以上を望むのは、傲慢だと思っていた。だから、何度もそんな休日を過ごして、彼女の家に、雪ノ下雪乃の内側に踏み込む事に、俺は慣れてしまっていたのだ。

  その認識を、今日、改めざるを得ない。

  タワーマンションのエントランスで一人立ち竦む俺の体は震えていた。果たしてそれは、緊張からなのだろうか。多分そうなのだろう。彼女の家に招かれる。そんな当たり前となった事に緊張を覚えるなんて、久しくなかったから、よく分からない。

  俺がここでこうなっているには、勿論それなりの理由があるわけで。

  話し出してしまえば、それはもう壮大な、ハリウッドも驚きの一大スペクタクルを巻き起こせそうな程に長くなってしまうわけで。

  端的に言うならば。

  放課後、部活が終わった後、雪ノ下に今日は泊まりに来ないかと提案された。

  二行で終わっちゃった上に一大スペクタクルなんてなにもなかった。いや、俺の心の中はまさしくスペクタクルってたのだけれど。

  文字に起こせばたったそれだけ。しかしそれだけだとは思うなかれ。

  雪ノ下の家に何度も来たことあれど、それこそ晩御飯をご馳走になったこともあれど、そこで一夜を過ごした事なんて、一度もなかった。

  お泊まりを提案された時の俺はクーガーの兄貴もびっくりの速さで即答。提案した側の雪ノ下の顔は、赤い彗星もびっくりな程赤くなっていた。

  そうして俺は一度帰宅し、何故か小町の手によって既に用意されていたお泊まりセットを持って、こうして雪ノ下の家にやって来たわけであるのだが。

  ここに着いてから五分は経っただろうか。エントランスに備え付けられた時計の針はそんな感じで動いてるから、多分五分経ってる筈だ。

  未だに部屋番号を押せずにいる俺をどこの誰が責められよう。

  だってお泊りだぞ? 今までそう言う事全く無かったのに、今日、急に。

  ここで期待しなければ健全な男子高校生は名乗れないし、緊張していなければ余計に名乗れなくなる。まあ、責任が取れるようになるまでそう言う事はしないつもりだが。

  幸いにして他の住人が通ることもなく。いや、寧ろ通ってくれた方が俺も腹を括れたかもしれないが、そのようなことはなく。結局インターホンの前で五分立ちっぱなしと言う状況が続いていた。

  このままと言う訳にもいかない。多分、彼女は俺のことを待ってくれているだろうし、今まで住人が誰も通らなかったからと言って、この後もそうとは限らない。

  そうだよ、平塚先生も言ってたじゃないか。今しか出来ないこともあるって。多分意味合いは全く違うけど、そう言っていたじゃないか。

  ならば今、行動しなくてどうする。

  最後に覚悟を決めるようにして、ゴクリと喉を鳴らし、インターホンのボタンへと手を伸ばした。指先は尚も震えが止まらない。止めようと思っても無駄なことは知っているので、震えたままで彼女の家の部屋番号を押していく。

  やがて鳴り出したベルの音は上品な楽器を思わせ、ガチャッと無機質な音がそれを遮った。

 

『はい』

 

  インターホン越しにもその綺麗な声は健在だ。同じ状況で同じ声で、同じ言葉をこれまでも幾度となく聞いて来たのに、どうしても緊張が止まらない。

  大丈夫、落ち着け。いつも通りだ、いつも通り。

 

「おっ、おりぇだ」

 

  裏返った上に噛んだ。唐突に死にたくなった。

  インターホンの向こうからはクスクスと笑う声が聞こえてくる。別に直接見られている訳でもないのに、そっぽを向いてしまう。しかもめっちゃ顔熱い。

 

『ふふっ、どうやら、ふっ、ふふふっ、本物みたいね、ふっ......』

 

  めっちゃ笑われてる。なに、そんなに面白かったの? まあ、面白かったでしょうね。未だに聞こえてくる可愛らしい笑い声に、そろそろ一言物申そうかと思ったら、その前に彼女の笑い声が収まった。

 

『ふぅ、笑わせてもらってありがとう』

「おう、存分に感謝しやがれ」

『その様子では随分と落ち着きがないように思えるから、一応言っておくけれど、鍵は開けておくから、いつものように勝手に入ってきていいわよ?』

「......分かってるよ」

  『そう? ならいいのだけれど』

 

  プツリとインターホンの通話が切れ、エントランスの扉が開く。

  緊張していた体から、漸く力が抜けた気分だ。やはり、彼女とのやり取りはどこか落ち着く。その内容が俺を揶揄うものだと言うのはこの際無視しておくとして。

  扉をくぐり、エレベーターで十五階まで。

  やがて辿り着いた彼女の部屋の前で、一度立ち止まる。いつからか、ここのチャイムを鳴らすことはなくなった。まるで我が家の様にこのドアを開き、そして出迎えてくれる彼女に、何度も「いらっしゃい」と微笑みかけられた。

  今日も、そうなるのだろう。その後になにがあったとしても、そこだけは変わらないやり取りのはずだ。

  そう思いドアノブに手を掛け、ドアを開いた先には。

 

「おかえりなさい、あなた」

 

  学校から帰って来て着替えていないのか、制服の上からエプロンを着用した雪ノ下。そのエプロンも、所々修繕されているのを見るに、かなり使い込まれているのだと分かる。

  去年、由比ヶ浜の誕生日プレゼントを買いに行った時に、彼女が買っていたものだ。どうも、その時に俺が似合っていると言ったのが嬉しかったらしい。

  制服エプロンが可愛すぎるとか、おかえりと言うのはおかしいとか、まあ、思いついた事は幾つかあった。

  けれど、そんなことよりも。

 

「......ただいま」

 

  目の前で俺に微笑んでいる彼女を見ていると、幸せで胸が詰まってしまって。気がつけば、掠れた声でそう返事をしていた。

  直前の緊張は果たしてどこへいったのやら。ただ、彼女がおかえりと言ってくれることが、どうしようもなく胸の奥が熱くなる。

  言葉の後ろに新妻ごっこの定型文のようなものが付いて来なかったは幸いだった。そんなもの聞かされてしまえば、間違いなく最後の選択肢を選んでしまいそうだ。

 

「ご飯、もう少しで出来るから。上がって?」

「おう」

 

  二人で並んでリビングへと歩きながら、雪ノ下は俺の上着を受け取ってくれる。流石にお泊まりセットの入ったカバンは、彼女には重いだろうから渡さなかったけど。

  リビングへと続く扉を開くと、キッチンからいい香りが漂って来た。準備中の夕飯のものだろう。匂いだけで食欲が唆られる。

 

「なんか手伝うか?」

「いえ、大丈夫よ。ソファでゆっくりしていて頂戴」

「分かった。......ああ、そうだ雪ノ下」

 

  キッチンへ向かおうとする雪ノ下の背に声をかける。振り返った彼女は小首を傾げ、なにかと視線で問うてくる。

  床に置いたカバンを開き、中から雑貨屋のロゴがデザインされた袋を取り出し、それを渡した。

 

「......これは?」

「エプロン。お前、それずっと使ってるだろ? 結構傷んでるみたいだし、新しいのに変えた方がいいと思ったんだが......」

 

  袋を受け取ってくれた雪ノ下は、その中からエプロンを取り出した。

  黒猫のアップリケが施されたそれは、今雪ノ下が使っているものとデザイン的にはそう大差ない。猫の足跡がついてるか否かの違いくらいか。

  そのアップリケを見た雪ノ下が、猫......、と小さく呟く。猫好き過ぎるだろ、というのも今更過ぎるか。

  しかし、その呟き以降彼女からの言葉はなく、段々と不安になって来た。もしかしたら雪ノ下的には今のエプロンをまだ暫く使っていたかったのかもしれないし、渡されても迷惑なだけだったかもしれない。

 

「あー、その、なんだ。いらんと思ったら捨ててくれて構わないから......」

「そ、そんなことっ!」

 

  弾かれたようにして顔を上げる雪ノ下。

  俺の渡したエプロンを大切そうにギュッと抱きしめ、その顔には穏やかな笑みを携えている。

 

「とても、とても嬉しいわ。ありがとう、比企谷くん」

「......どういたしまして」

 

  その笑顔を見れたなら、渡した価値があったってもんだ。

  エプロン一つにあれでもないこれでもないと悩んでいた一人の少年の努力が報われた。いや、本当に悩んだ。その結果、今着けているものと代わり映えしないと言うのは、どうにかならなかったものかと当時の自分を問い詰めたいが。

  早速俺があげたエプロンを着用して料理をするつもりなのか、雪ノ下は今のエプロンの紐を解いてスルリと脱ぐと、綺麗に畳んで一先ずソファの上に置いた。

  その後に新しいエプロンに腕を通し、クルリとその場で一回転。

 

「どうかしら?」

「似合ってる。流石俺だな」

「そこは私を褒めるところではないの?」

 

  呆れたように言った後、ふふっ、と笑って俺の胸に飛び込んでくる。それをなんとか受け止めると、背中に雪ノ下の腕が回された。彼女の癖のようなものだ。嬉しいことがあったりすると、こうして胸に飛び込んで来て抱き締めてくる。その後に短いキスを交わすまでがセット。

  これも、最早慣れた行為。

  抱き締め返してやると、腕の中の彼女が更に腕の力を強めてくる。

 

「本当にありがとう。大切に使うわね」

「おう」

 

  言った後、背伸びして俺の顔に唇を近づけてくる。それをいつものように受け入れようとして、しかし、それが触れ合うことはなく、その寸前で雪ノ下は何故か不満げに眉根を寄せた。睨んでるようにも見える。

  あ、あれ? 急にどうしたの?

 

「どうかしたか?」

「......不愉快だわ」

 

  先程までの微笑みは一体どこへ捨てたのか、言葉の通り不愉快そうに眉を顰める。その言葉の意味も理解できないままでいると、背中に回されていた雪ノ下の手が俺の後頭部へと移動し、グイッと引き寄せられる。着地した先は雪ノ下の艶やかな唇。短く触れるとか、そんな甘いものではなく、結構ガッツリと唇を奪われた。

 

「んむっ!」

「んんぅ......」

 

  舌がこちらの口内に侵食してくることこそなかったものの、十分に熱のこもったキス。10秒ほどかけてたっぷりと唇同士を交わらせた後、離れていった彼女の感触がどこか名残惜しい。

  それでも雪ノ下の表情は未だにどこか不満げで。

 

「あなた、また背が伸びた?」

「あぁ、まあ、止まってる感じはしないけど......」

 

  その質問に答えを返して、察する。

  俺の身長は三年生になってから急に伸び始めた。出会った頃は10cm程しか身長差がなかった俺と雪ノ下だが、今では20cm近く違うのではないだろうか。

  つまり、雪ノ下が背伸びをしても、俺の唇にはギリギリ届かないのだ。

  どうやらこの子はそれでご不満顔になっていたようで。でもだからって、いきなりあんなことされたら困惑するんだよなぁ。

 

「男の子からすると、そう言った身体的な成長は喜ばしい事なのかもしれないけれど、あなたの顔が遠ざかるのは納得いかないわ」

「んな理不尽な......」

「私からキスしづらいじゃない」

 

  プイッとそっぽを向いて唇を尖らせる姿は、拗ねた幼子のようだ。大変可愛らしくてもう一回抱きしめたい衝動に駆られるが、そっちは自重するとして。

 

「んじゃまあ......」

「......?」

 

  俺の纏う雰囲気が変わったのを察したのか、雪ノ下はこちらを横目で伺い不思議そうにしている。

  そんな彼女の顎に手を添えて無理矢理こちらを向かせ、少し腰を曲げて、彼女の顔に被さるように上からキスをした。

 

「んんっ」

「......ふう」

 

  流石に雪ノ下からされた時のような熱のあるキスは自重したけれど。離した顔は真っ赤に染まっており、けれど口角はだらしなく垂れ下がっている。そんな表情を見せるようになってくれてからもそれなりに経つが、未だに嬉しいと感じてしまう俺がいる。

  唇を触れさせる時に、雪ノ下の手が俺の胸に添えられて、なんだかその感触が妙に擽ったい。

 

「これなら、身長差とか関係ないだろ?」

「......やはり不愉快だわ」

 

  言葉とは裏腹に、ニコニコと可愛らしい微笑みを浮かべている。怒りながら笑うとか器用な真似をするやつだ。もしも俺が寺の跡取りなら死んでるところだった。

  俺の胸に添えられた手の位置が移動する。か細く、白い指で、俺の胸を撫でるように。それが擽ったくて、どこか気恥ずかしくて、けれど体を離そうとは思えない。

  雪ノ下の手は丁度心臓の位置に置かれる。俺の加速した鼓動を感じ取ったのだろうか、さっきまでまでのだらしない笑顔とは違って、どこかこちらを揶揄うような笑顔を見せてきた。

 

「心臓の音、凄いことになってるわよ? 恥ずかしいのなら無理しなければいいのに」

「......うっせ。ちょっとくらい格好つけさせてくれてもいいだろうが。そう言うお前も顔真っ赤だぞ」

「あなたには負けるけれどね」

 

  そう言われて、頬の熱を自覚する。多分、今日一番の紅潮を記録してるのではないだろうか。何故それに気がつかなかったのか。

  今更顔を逸らしても既に遅い。手で覆っても手遅れだ。俺の赤面顔は、ばっちりと雪ノ下の網膜に焼き付いてしまっただろうから。

 

「ふふっ、そろそろ晩御飯の準備してくるわね」

「お、おう......」

 

  くそッ、最後の最後にめっちゃ恥ずかしくなっちまったじゃねぇかよ......。キスすること自体は恥ずかしくないのに、あんな風に心臓の鼓動を感じ取られると恥ずかしくなってしまうのは、何故なのだろうか。

  赤い顔をしままキッチンへ向かった雪ノ下を見送り、同じく赤い顔したままの俺はソファにドサッと腰を下ろした。

  それにしても、雪ノ下は大分感情表現が豊かになって来た。いや、付き合う以前から割と感情が表に出てしまっていた節はあるけれど。特に由比ヶ浜や一色とのゆるゆりで。彼女は決して鉄仮面を纏った女の子などではなく、ただそこに至るまでの過程が長すぎるだけなのだ。

  付き合い始めてもう少しで一年。まさかここまでデレデレになるとは思いもしなかったけれど。

  まあ、それを言うと俺も、らしいのだが。どうも奉仕部連中曰く、俺も雪ノ下も、互いが互いのことになるとめっちゃデレるらしい。俺のことを話してる雪ノ下が凄い可愛いとは由比ヶ浜からの情報だ。なにそれ俺も見たい。

  なんにせよ、彼女の心の中にあった氷が溶け、あの春の陽だまりのような笑顔を見せてくれている、と言うのは非常に喜ばしいことだ。きっとそれは俺のお陰ではなくて、由比ヶ浜や一色、小町や陽乃さんなんかの功績なのだろう。彼女らに言えば、即座に否定が返ってきそうなものだが。

  床に置いていたカバンを手繰り寄せ、中から持ってきていた文庫本を取り出す。料理が出来るまではこれで時間を潰すとしよう。

  栞を挟んであるページを開き、前回の続きから読み進める。もう何度も読んだことのあるラノベで、この先の展開も知ってはいるが、それでも読んでいる時のワクワク感は未だに湧いてくる。

  そのワクワクを胸にさあ読み進めぞと言うところで、キッチンの方から鼻歌が聞こえてきた。

  この家はキッチンがリビングからも見えるため、振り返ると彼女の姿が直ぐに目に入る。雪ノ下は、どこかで聞いたことあるような曲を鼻歌で歌いながら、エプロンの紐と髪に結われた赤いリボンを揺らして、上機嫌に料理を作っていた。

  聞こえてくる曲を知っているのも当然だろう。彼女が二年の文化祭の時、ステージで披露していたのだから。

  彼女が上機嫌なその理由を考えるも、直ぐに思い当たり頬が熱を持つ。

  一曲終わると、また次の曲へ。

  エプロンを貰ってあそこまで上機嫌になっちゃうとか、ちょっと可愛すぎて意味わかんないんだけど。

  彼女の鼻歌をBGMにすると、不思議と読書が進む気がした。

  それにしても雪ノ下さん、現役女子高生が鼻歌でワルキューレの騎行はどうかと思うな。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

  夕飯はとても豪華だった。それはもう豪華だった。

  鳥の唐揚げにシチュー、シーザーサラダと白飯。種類を上げればこの四つだが、いかんせん量が半端なかったのだ。山盛りの唐揚げに、これまた山盛りの白飯。もうこの時点で男子的には食欲爆発なのに、シチューもサラダまでもが美味しすぎて。

  食べ終わってソファで寛ぐ現在、胃がとてもつらいです。

 

「ダメだ、もう何も食えん......」

「ご、ごめんなさい......。少し作りすぎてしまったわよね......」

 

  お風呂を沸かしに行っていた雪ノ下が戻ってきて俺の隣に座り、少し落ち込んだ様子で呟く。何をシュンとしてるんだか。食い過ぎた俺が悪いというのに。

  彼女の艶やかな黒髪を撫でてやると、心地好さそうに目を細めた。

 

「いや、美味かったから別にいいよ。つか、いつもあんなに作らないのになんでまた」

「......その、少し、浮かれてしまって。あなたが初めて泊まりに来ると言うだけでなくて、エプロンまで頂いてしまったから......」

「お、おう、そうか......」

 

  えー、なにこの子可愛すぎじゃね? 上機嫌にワルキューレの騎行とかラ・カンパネッラとか鼻歌で歌いながら浮かれちゃっていっぱい作っちゃったの? 曲名だけ抜き出すと可愛げのかけらもないのに、その行動が可愛すぎる。ヤバみが深い。

 

「そうだ。比企谷くん、膝枕、してあげましょうか?」

「え、いいの?」

 

  思わず即座に聞き返してしまった。頭を撫でる手も止めて聞き返してしまった。多分今、めっちゃ気持ち悪い顔してるぞ、俺。

  その証拠に雪ノ下も軽く引いてるし。

 

「そこまで食いつかれると反応に困るのだけれど......」

「あ、すまん。いやでも、ほら、なあ?」

「何が言いたいのよ......」

 

  だって膝枕だぞ、膝枕。今までそんなことしてもらった事ないぞ。俺が膝枕してあげることならあったけど。

  あの、雪ノ下の膝の上に、白くきめ細かな肌と程よい弾力がありそうな、その太腿に、頭を乗っけることが出来るんだぞ? 食いつかないわけがない。

 

「あなたのその気持ち悪い表情と腐りきった目を見ていると、なんとなく何を考えているかは想像できるけれど」

「否定出来ないけどもう少しオブラートの包みせん?」

「別に膝枕くらい普通のことでしょう? 私もあなたによくしてもらっているし」

「いや、男子がするのと女子がするのとじゃ色々違うだろ」

「で、どうするの? 膝枕、してほしい?」

「..................はい」

 

  結局欲望に忠実になることにした。

  雪ノ下はまるで年上のお姉さんのような優しい微笑みを見せ、膝の上をポンポンと叩く。

  食後すぐに横になるのは体に良くないとか聞いたこともあるが、そんなことどうでもいい。今は雪ノ下の膝枕を体験することこそが最優先だ。

  雪ノ下が端へと移動してくれたため、ソファは俺が横になっても十分過ぎるくらいに余裕がある。

  ゆっくりと頭を下ろし、雪ノ下の膝の上へと着地させた。その瞬間。

  言葉に出来ない程の心地好さが俺を襲う。

  細くスラっとした体型の雪ノ下だが、それでも太腿はとても柔らかく、女性らしい肉付きをしっかりと感じられる。正直言って、このまま寝落ちしてもなんらおかしくはない。

  雪ノ下が顔を下げ、こちらを覗き込んでくる。その口元には穏やかな微笑を携えていた。

  電球の光が俺を囲む長くて黒いカーテンによって遮られ、俺の眼球から脳に送り込まれる視覚情報は、完全に雪ノ下だけに支配されている。

  白い指が俺の頭に触れ、慈しむように撫でられる。雪ノ下の微笑みを直視しながらそうされていると、なんだか変なところがむず痒くなって、身動ぎしてしまう。

 

「ふふっ......」

「......なんだよ」

「いえ、あなたが随分と可愛らしく見えるものだから」

「俺が可愛いとか、お前の目もついに俺同様腐ってきたか?」

「良かったわね、お揃いよ?」

「そこは嫌がるところじゃないですかね......」

 

  こんなやり取りが酷く心地いい。心がとても落ち着く。彼女は未だ微笑んでいて、恐らくは俺も似合わない笑みを浮かべているんだろう。

  そうしていると、雪ノ下の指が髪から頬へと移動してきた。頬を撫で、顎を撫で、最後に唇へと行き着く。プニプニと押してくるその指を咥えてやろうかとも思ったが自重。

  その代わりと言ってはなんだが、俺も手を伸ばして雪ノ下の唇に指先を触れさせる。

 

「あなたの唇、柔らかいわね」

「お前には負ける」

「そう? けれど、キスをする時、いつも思うのよ? あなたの唇がとても柔らかくて、触れていると心地良くて」

「お前のはあれだ、柔らかいだけじゃなくて、綺麗だ」

「ふふっ、ありがとう。なら、どちらが柔らかいのか、確かめてみましょうか」

 

  雪ノ下の綺麗な顔が、唇が、徐々に近づいてくる。瞼は開かれ、俺の目を見つめたままだ。そこから顔を逸らすことなどせず、降り注ぐキスの雨を受け入れる。

  触れては離し、また触れる。それを何度も繰り返したところで、実際どっちの唇が柔らかいかなんて分かりはしない。

  そうして何度目かのキスを受けた後、彼女の後頭部に手を回して、今度はこっちから唇を押し付けた。

  夕飯前に交わしたものよりも、長く、熱のあるキス。舌を入れる度胸はない。多分、そんなことをしてしまえば、俺も彼女も溺れてしまって、他に何も考えられなくなるから。

  息を継ぐために離した彼女の唇は湿っていて、色っぽい雰囲気を醸し出している。

 

「どっちが柔らかいか分かったか?」

「よく分からなかったわ。だから、もう一回、ね?」

 

  そう言って再び顔を接近させてくる。

  欲張りなやつだな、なんて思いながら、俺自身も満更ではなくて。

  もう一度降ってくる雨に身構えた所で──

 

  ピピピッと、電子音が鳴った。

 

「残念、ここまでみたいね」

 

  本当に残念そうに言いながら、雪ノ下の顔が離れていく。どうやら、風呂の湯が沸いたのを知らせる音らしい。

 

「お風呂、先に入って貰っても構わないわ」

「おう......」

 

  ソッと頭をひと撫でされて、それが起き上がれとの合図だと解釈する。けれどどうしても名残惜しさが言葉尻に出てしまって、それを読み取った雪ノ下がクスリと笑って、また俺の頭を撫でてきた。

 

「あと十分だけ、こうしていましょうか、甘えん坊さん」

「まあ、そうだな......」

 

  雪ノ下だって人のこと言えないくらいには甘えん坊なのに、今の彼女からはどうしても包容力と言うか、年上のお姉さんみたいな雰囲気を感じる。

  お互いに甘えて、甘えさせて。でもきっとそれは共依存なんて大それたものではなくて。

  きっと、もっと尊ぶべきものなのだと思う。

  誰かに甘えるなんて、人生で出来た試しがないから。けれど、今こうして、彼女に身も心も委ねることが出来ている。

  ああ、なんて幸せなんだろうか。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

  俺の風呂シーンとか誰得だよって感じだから全カット。非常に名残惜しくありながらも、膝枕はあれからきっかり十分で切り上げられ、半ば強制的に体を起こされた。

  強制的にと言っても、最後にまたキスされただけなんだけれども。

  ソファの上で雪ノ下が風呂から上がるのを待つこと二十分。時計は二十二時を示している。良い子はそろそろ寝る時間だ。思っていたよりも時間が経っていて、膝枕にどれだけの時間を費やしていたんだと自分でも軽く引く。

  八幡くんは良い子なので、そろそろ眠気がやって来る。嘘、良い子とか関係なく、どうやら自分で思っていた以上に疲れていたらしい。

  欠伸をかみ殺すこともなく盛大に口を開けていると、リビングの扉が開く音がした。

  そちらを振り返り雪ノ下の姿を確認して。

  息が、止まった。

  身を包んでいるパジャマはパンさんの柄が入っており、どこか子供っぽい。けれど、水に濡れた黒髪や、上気した紅い頬、化粧を落としても尚変わらないその美貌は、彼女をどこまでも色のある女性へと演出している。

  て言うかこいつ、化粧する意味ないだろ、これ......。

 

「比企谷くん?」

 

  声をかけられ、我に帰る。危ない。窒息死するところだった。恋人に見惚れて窒息死とか笑い話にもならん。いや、陽乃さん辺りは爆笑しそうだけど。

 

「どうかした?」

「い、いや、なんでもない」

「......もしかして、私に見惚れてたのかしら?」

「......」

「そこで無言になられると困るのだけれど......」

 

  なら聞くなよ。昔の私可愛い宣言はなんだったんですかね。

  困ったような笑う雪ノ下だが、顎に手を当てて何事か考える素振りを見せた後、提案してきた。

 

「少し早いけれど、寝室に行く?」

「別にいいけど、まだ二十二時だぞ?」

 

  特別早い時間と言うわけでも無いが、深夜と言う時間でもない。雪ノ下がいつも何時頃に寝ているのかは知らないが、今の口ぶりから察するに、いつももう少し遅くに寝るのだろう。俺に至っては深夜アニメのために夜更かしが当たり前だし。

  その提案の意図を視線で尋ねる。

 

「だって、お風呂上がりの私を見ただけでその体たらくでは、同じベッドに入って素直に寝付けるわけがないじゃない」

「......確かに」

 

  悔しいが認めざるを得なかった。この期に及んでソファで寝かせろなんて言う事はないけれど、と言うかそれだと、何しに泊まりに来たんだって話だし。

  実際、雪ノ下と同じベッドに入って、簡単に寝れるわけがない。添い寝なんて今までで一度も経験した事ないし。

  彼女が俺の膝の上で寝顔を見せてくれることなら幾度かあったが、その時のとびきりに可愛い寝顔がすぐ横にあるとか、下手すれば起きたまま夜を越す事だってありえる。

 

「それじゃあついて来なさい」

 

  ソファから立ち上がって、言われた通り雪ノ下の後ろをついて行く。

  廊下に面した扉のうちの一つに彼女が手を掛けた。その先が、雪ノ下雪乃の寝室。世の男共もは誰も入ったことがない、未知の領域。何度かこの家に来た俺ですら、終ぞその部屋に入る事はなかった。

  そこに、今から足を踏み入れる。踏み入れることが出来る。

  そして開かれたその先の光景は。

 

「どうぞ。散らかってはいないと思うけれど、あまりジロジロと見ないでくれると助かるわ」

 

  まあ、予想通りのものだった。

  散らかってはいないどころか綺麗すぎるくらいに掃除された床。部屋の中に所狭しと並べられたパンさんグッズ。簡単に見回した程度だが、それでも十分すぎるくらいにパンさんグッズの多さが分かってしまう。

  そして、その多くのパンさんたちの中でも、一際存在感を放つものが。

  写真立てに飾られた、どこかで見たことのある写真と、その隣にチョコンと鎮座している古ぼけたパンさん人形。

  見たことあるのなんて当たり前だ。だって、そこには俺も写り込んでいて、忘れられる筈もない記憶をそこに写しているのだから。

  その隣のパンさん人形だって、そこに詰まった思い出を、はっきりと思い出す事ができる。

 

「あの写真、買ってたんだな」

「ええ。記念にと思って。あなたも欲しい?」

「そうだな。今度プリントしてくれよ」

 

  その時の事には具体的に触れない。大切な記憶で、大切な約束ではあるが、それはもう過去の話だから。俺は、その約束を果たす事が出来た。今も変わらず果たす事が出来ている。その自負も、自信もある。

 

「ベッドで横になっていましょう。話すだけなら、それでも出来るのだし」

「だな」

 

  促されて先にベッドへと上がり、続いて雪ノ下もベッドに上がって同じ掛け布団に潜り込んで来た。

  ベッドは当たり前のようにシングルサイズなので、二人で入るには少し手狭だ。少しでも離れると、落ちそうになってしまう。

 

「腕枕、してくれる?」

「はいよ」

 

  だからお互いの体をくっ付け、左腕を隣に伸ばす。彼女の頭は軽いから、重みを感じても、そこから生じる痛みは感じない。寧ろ、この重みが心地いい。

 

「緊張、してる?」

「まあ、してないって言ったら嘘になるな。お前は?」

「私も、緊張してるわ。けれど、それ以上に幸せがいっぱい溢れてくるの」

「......俺も、似たようなもんだ」

 

  雪ノ下の言う通り、想像していたほどの緊張は無くて。ただ、自分の隣に、愛してる人がいると言うだけで、どうしても幸せな気持ちが勝ってしまう。

  本当に幸せそうに微笑む雪ノ下だが、眠気には勝てないのか、小さく欠伸をした。取り繕うようにかみ殺すこともなく、たったそれだけの小さな事でも何故か嬉しくなる。

 

「ごめんなさい、少し、眠たくなって来たみたい」

「いいよ。実際俺も、結構眠いし」

「ではもう寝ましょうか。お話はいつでも出来るもの。まだまだ、これから時間は沢山あるから」

「そうだな」

 

  これから先。何年も、何十年も、こいつと一緒にいられる確信がある。時間は有限だけれど、俺たちにはまだまだ残されている。その残された時間全てとは言わないが、多くの時間を雪ノ下と共有できたなら。

  そんなことを願わずにはいられない。

 

「おやすみなさい、比企谷くん」

「おやすみ、雪ノ下」

 

  最後に軽く唇を触れ合わせ、雪ノ下は静かに寝息を立て始めた。

  彼女の寝顔はまるで御伽噺のお姫様のようで、もしかしたらこのまま目を覚まさないのかと錯覚してしまうほど美しく、それでいて時折綻ぶ口元が堪らなく可愛らしい。

  起きないだなんて、そんなことはあり得る筈もないけれど。取り敢えず、明日の朝起きた時はキスをしよう。

  なんて、らしくもない事を考えながら、俺も夢の世界へと落ちていった。



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からかい上手の雪乃さんとホワイトデー

からかいのんホワイトデーのお話。書けば書くほどからかいのんが好きになる。からかいのんはいいぞ。


 ついにこの日がやって来た。

 策を巡らせ、謀略の限りを尽くして、反撃の機会を虎視眈々と狙っていた俺。そんな俺にお誂え向きの、この日が。

 今日は3月14日。世間一般ではホワイトデーと呼ばれている日だ。世間一般の範疇外における俺においても、今日はホワイトデーである。

 丁度一ヶ月前のバレンタインの日に雪ノ下から告白紛いのチョコを受け取り、その数日後に思いが通じあった俺たちではあるが、だからと言って俺と雪ノ下の日常に変化が訪れたわけではない。

 いつも通り、俺は部室でからかわれ、反撃を試みても逆に返り討ちにあい、とうとう彼女に一矢報いる事なく卒業してしまった。

 そして卒業から数日経った今日。

 俺は雪ノ下を我が家へ招待した。

 小町は気を利かせたのか、友達の家に遊びに行くと言って朝からいない。つまり、家には俺とカマクラしかいないのである。

 家の片付けを粗方終わらせ、仕掛けの準備も確認した頃、家のチャイムが鳴らされた。約束していた時間丁度だ。

 クククッ、さあ来い雪ノ下。ここは俺のホームグラウンドである我が家。お前が勝てるとは思わないことだな!

 玄関の扉を開けた先に立っていたのは、最近の暖かな気候に合わせたコーディネートの雪ノ下。その姿を見ただけで、一気に緊張がやって来て頭の中から作戦が全部吹っ飛んだ。

 

「......?」

 

 ほら見ろドアを開けてから一言も喋らないから雪ノ下さん不思議そうに顔傾げてるじゃねぇかよ。その感じ凄い可愛いのでもうちょっと見ていたいけど。

 なんとか脳内再起動を果たし、かねてより考えていた策を実行に移す。

 

「よ、よお、雪乃」

「ええ、こんにちは八幡」

 

 スルー、だと......⁉︎

 バカな、初めて名前で呼んだと言うのに、流れるようにして向こうも名前で呼んでくるなんて、俺がこの作戦を実行するのに悩んだ時間はなんだったんだよ!

 

「八幡、どうしたの? 顔、真っ赤だけれど」

「なっ、なんでもねぇよ......」

 

 クスクスと愉快そうに笑う目の前のお嬢様。

 くそッ、雪ノ下め......! まさかこんな容易く名前を呼んでくるなんて、思いもしなかった。もうちょっと恥ずかしそうに頬を染めたりしないのかよ。

 

「それよりも、早く家に上げてくれたら助かるわね」

「へいへい」

 

 未だ頬の熱は引かないが、いつまでもここでこうしているわけにもいかない。そもそも、俺のバトルフェイズはまだ終わっていないんだ。次の一手は確実に決めてやる。

 雪ノ下を家に上げてリビングへと通す。そこには今回の俺の協力者であるカマクラが。カマクラはソファから飛び降り、来客である雪ノ下の足へと擦り寄ってきた。

 

「あら。ふふっ......」

 

 しゃがみ込んでカマクラを撫で、とても柔らかな笑みを浮かべる雪ノ下。その笑顔を見ていると、これからすることに対してなんだか罪悪感が沸き起こってくる。

 いや、騙されるな比企谷八幡。こいつはこんな見た目して中身は俺を揶揄うことに快楽を見出してるとんでもないやつだ。ここで罪悪感とか感じる必要はない。

 

「取り敢えずソファにでも座っててくれ。コーヒーと紅茶とマックスコーヒー、どれがいい?」

「コーヒーとマックスコーヒーは別なのね......」

「当たり前だろ」

「では折角だし、マックスコーヒーを頂こうかしら」

「了解」

 

 珍しい事もあるもんだと思いながらもキッチンへと向かい、冷蔵庫からマッカンを取り出してコップへと注ぐ。コップを両手に持ってリビングに戻ると、雪ノ下はソファの上でカマクラを一心不乱にもふりながらにゃーにゃーと共鳴していた。

 

「ほれ」

「ありがとう」

 

 ソファの前に置かれたテーブルにコップを置いても、一応の礼は言ってくれるが視線はカマクラに固定されたまま。

 

「にゃー」

「にゃー、にゃー。ふふっ」

 

 雪ノ下は俺のことも気にせずにゃーにゃーと鳴く。少し前まではそれすらも恥ずかしがっていたと言うのに。そう言う姿を俺に見せてくれると言うのは、信頼や好意の裏返し、なのだろうか。そうなのだとしたら、嬉しい。

 だがそうやって呑気に鳴いていられるのも今のうちだと思え。

 胸の内にある羞恥心をねじ伏せ、俺は言葉を紡ぐ。

 

「前から思ってたんだけどさ、お前の猫の真似、めちゃくちゃ可愛いよな」

「なら録音しても構わないわよ? 毎日起き抜けに聞く?」

「......っ」

 

 笑みの種類を俺を揶揄う時の悪戯なそれへと変えて即答してきた。しかも下から俺の顔を覗き込むように。

 その笑顔を直視できなくて顔を逸らしてしまう。どうやらまた返り討ちにあってしまったらしい。

 ああダメだ。顔がめっちゃ熱い。

 

「ふふっ、また赤くなってる。可愛いわね」

「......男に可愛いとか言っても喜ばんぞ」

「そう? けれど事実なのだから仕方ないわ」

 

 高鳴る心臓を抑えるためにマックスコーヒーを呷る。いつもと変わらない甘さは、しかし俺の心を落ち着かせることもない。

 まだだ。まだ俺の手札にはジョーカーが残されている! 落ち着け、勝ちの目はまだ見えてるぞ!

 

「そう言えば、今日はホワイトデーね」

「あ、ああ、そうだな」

「お返し、貰えるのかしら?」

「まあ、一応準備してるけど......」

 

 ちょっと待ってろと伝え、再びキッチンへと向かう。そしてまたまた冷蔵庫を開き、その中で保冷してあった包みを手に取りリビングへと戻る。

 

「手作りとかじゃなくて悪いんだが......」

 

 言い訳のように口に出しながら、雪ノ下の隣に腰を下ろす。差し出した包みにデザインされているロゴは、某有名チョコレート店のもの。高級品と言っても差し支えないものだ。

 雪ノ下もそれを理解しているのか、少し驚いた表情をしている。

 

「よく買えたわね......。高かったのではないの?」

「まあ、それなりの値段はしたが、ホワイトデーってのは3倍返しが基本だって言われたからな。それでバレンタインの3倍に届いてるとは思わんが......」

「......いえ、十分過ぎるくらいだわ」

「......そうか」

「ええ、そうよ」

 

 嬉しそうな微笑みを絶やさないまま、雪ノ下は包みを綺麗に剥がしていく。やがて包みの中の箱を開き、そこに入っていたものを見て、またしても驚きに目を丸くしていた。

 

「これは......」

 

 そう、それこそ俺の切り札。俺が持つ手札の中で最も雪ノ下に勝てそうなジョーカー。

 俺がかったチョコレート。それは、薔薇の花の形をしたものだ。そして薔薇の花言葉は多くの人が知っているだろう。それを悟れない雪ノ下ではないはずだ。

 最初はもうど直球に薔薇の花束でも渡してやろうかと思ったのだが、流石に恥ずかしすぎるので自重した。

 バレンタインに告白紛いのことをされたのだから、ならばそのお返しをするホワイトデーで、俺から遠回しに愛を伝える事はなにもおかしなことではない。寧ろ理に適っていると言えるだろう。

 流石の雪ノ下も、これには顔を赤らめて恥ずかしがるに違いない。そう思って彼女の顔を見てみると、恥ずかしがるどころか、いつもの悪戯な笑みを浮かべていて。

 

「ふふっ、ふふふっ......」

「......なんだよ」

「あなたはやっぱり可愛いわね。リアリストを気取ってるくせに、こんなロマンチックなことをして来るのだから」

「......そいつは悪かったな」

 

 あ、あれー? 通用してない? 八幡の切り札全くもって効果ない? 嘘だー。俺がそのチョコを買うのにどれほど苦労したと思ってるんだ。主に精神的に。

 なんでああ言う店って女性客とかカップルとかばかりなんだろうね。お陰様で店に入った俺は終始挙動不審だったし、店員と会話する時とか噛みまくりだったし。

 

「ふふっ、薔薇の花言葉は『愛』だったわね......。あなた、どれだけ私のこと好きなのかしら?」

 

 いつものようにいつもの如く、俺を揶揄うように口にする雪ノ下。けれどその言葉に対して俺は、反撃しようとかそんな考えは全くなくて。

 

「少なくとも、好きって言葉じゃ足りないくらいにはお前のこと好きだよ......」

「えっ?」

「あっ」

 

 思わず、そんな事を口走っていた。完全に素で、なにを考えるでもなく、心の奥底にしまっていた本心を。こんなにいとも容易く。

 既に口に出してしまった言葉を取り消すことなんて出来るわけもなく。いや、取り消そうとも思わないのだが。勝手に変な事を言って勝手に自爆した気分だ。自分の顔が今日一赤くなってるのは自覚できるし、どうせまたこれをいいチャンスだと雪ノ下に揶揄われるのだろう。

 そう思って身構えていたのだが、予想していたような言葉は飛んで来ず。不思議に思い雪ノ下の方を見ると、すぐ隣にある彼女の顔は、俺以上に赤くなってしまっていた。

 

「そ、その、えっと......。そう言ってくれるなら、嬉しい、わ?」

「いや、そこで疑問形になられたら困るんだけど......」

「そ、そうよね......」

 

 なにこれ。なんだこれ。なんなんだこれ。意図せず雪ノ下への反撃が成功してしまったのか? いや、でもこれ俺もかなり恥ずかしいぞ......。なんだよ、好きって言葉じゃ足りないくらいにって。お前それ何年前の曲だよ。あれは愛してるの言葉じゃ足りないくらいにだよ。強ちそれでも間違いではないけれど。

 果たして俺はこの後どうすればいいのかと思っていると、隣から咳払いが聞こえてきた。なんか高校二年の時のクリスマス前を思い出しちゃうな。

 

「これ、早速頂くわね」

「ああ、おう......」

 

 雪ノ下の顔からは既に赤味が引いており、膝の上にいたはずのカマクラもいつの間にか姿を消している。あ、いや、よく見たら耳の下とかうなじの辺りが真っ赤だ。

 あれかな、雪ノ下は真っ直ぐな好意の言葉に弱いのかな? うん、八幡覚えた。今後反撃する時の参考にしよう。まあ問題があるとすれば、俺にも羞恥心と言うダメージが来るので良くて痛み分けに持っていくのが精一杯ということか。

 

「......甘い」

 

 チョコと一緒にマックスコーヒーを口に含んだ雪ノ下がポツリと呟いた。それはそうだろう。チョコ単体でもそれなりに甘いのに、そこへ甘いと言う言葉の権化のようなマックスコーヒーまで加わっているのだから。

 

「先程の比企谷くんの言葉と同じくらいには甘いわね」

「そりゃ相当だな......」

 

 早速さっきの言葉を攻撃に組み込んで来る辺り流石である。俺にマウントを取ることで羞恥心を紛らわそうとしているのか、今は鈴を転がしたような笑みを零している。

 一方の俺は未だに頬の熱が収まらず、雪ノ下の顔を直視することも出来ずにいるというのに。

 

「そんなに拗ねても可愛いだけよ? それに、先程の言葉はとても嬉しかったもの」

「......さいで」

 

 可愛いと言われるのがむず痒くて、けれど嬉しいと言われたのがどうしようもなく胸を高鳴らせて。だからと言う訳ではないけれど、俺にしては珍しく、あと少しだけ素直な本心を口にしてみようと思った。

 

「......雪ノ下」

「あら、もう名前では呼んでくれないの?」

「......雪乃」

「なにかしら?」

「その、あれだ。なんつーか、これからはもっと、さっきみたいに言葉に出来るように頑張るわ」

 

 雪ノ下雪乃の事が好きだ。そこには虚偽も欺瞞もなく、ハッキリとそう思える。だから、そのことを嘘にしないために。揶揄われようがなにを言われようが関係ない。

 

「そう......。なら、言葉よりももっと欲しいものがあると言ったら、あなたはどうするの?」

「言葉よりも......?」

「ええ。そうね、例えば、チョコレートやマックスコーヒーよりも、もっと甘いものが欲しいと言えば?」

「それよりも甘いものって......」

 

 それは果たしてなんなのか考えを巡らそうとした瞬間。その時には既に雪乃の顔が俺の顔のすぐ近くまで迫ってきていて。

 抵抗を試みる隙もなく、あっさりと唇を奪われてしまった。

 

「......ふう」

「なっ、お、おまっ......!」

「とても甘いわね。ともすれば、溺れてしまいそうな程に」

 

 彼女の言う通り、人生で初めてのキスはとても甘かった。それは彼女が直前に食べていたチョコレートやマックスコーヒーの甘さだけではなくて。

 驚愕と困惑と、ほんの少しの喜びに似た感情で脳内がドッタンバッタン大騒ぎな俺を他所に、雪乃は顔を赤くしながらもいつもの微笑みを浮かべていて。

 

「私がこの甘さに溺れてしまわないよう、ずっと隣にいてね?」

「......」

 

 両手で赤くなった顔を覆って頷くのが精一杯だった。

 やはり彼女には勝てそうにない。だって、俺はもう、雪ノ下雪乃と言う女の子に溺れてしまっているのだから。

 




とある曲の歌詞から取って「味わうのは勝利の美酒か それとも敗北の苦渋か」をキャッチフレーズにしようと思ったんだけどどっちがどっちを味わうのか目に見えてるので2秒で却下しました


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部室で居眠りする二人の話

 眠たい。

 俺の心はまさしくその感情のみに支配されていた。

 昨夜は深夜アニメのために夜更かしして、諸々の事情から数学の時間に寝るわけにもいかず、結局朝からの眠気をこうして放課後まで引きずってしまっている。

 勿論今日も今日とて奉仕部は活動するので、家に帰ってお布団へダイブすることも叶わず。いつもの如く特別棟までの道を歩いている。

 普段でも相当重いのに、今日は一段と重く感じる足を引きずりながら辿り着いた部室。そこに手を掛けると、やはり軽々と扉は開き、それと同時に、不意に襲って来た欠伸を噛み締めながら部室へと入った。

 

「うーす」

 

 しかし俺の間抜けな挨拶に返す言葉はなく。

 不思議に思い、改めて室内を見回すと、そこにはひとりの眠り姫が存在していた。

 窓から注ぐ木漏れ日を受け、雪ノ下雪乃は椅子に座ってその長い睫毛を下ろしていたのだ。

 膝上に置かれた文庫本は閉じ、紅茶を淹れることもなく、すうすうと可愛らしく寝息を立てていた。

 その姿に見惚れてしまう事を、不覚にも、だなんて思わない。俺は結局、この少女の姿にいつも目を奪われる。恐らくは、これから先の未来もずっと。

 取り敢えずはいつもの定位置に腰を下ろす。

 さて、部長様自らが居眠りを決め込んでいるのだ。部員どころか未だに備品扱いされてる俺が居眠りしても、文句を言う奴は誰もいなかろう。

 グッバイ現実、ようこそ夢の世界へ。せめて夢の中だけでは、愛しの恋人様がもう少し素直になっているのを信じて。机の上にカバンを置いて枕代わりにし、さて俺も寝ますかな、と言うタイミングで。

 

「んっ......」

 

 小さな、とても小さな声が漏れた。

 発生源は勿論向かいに座る眠り姫。見れば、その眉根に皺を寄せ、苦悶の表情を浮かべている。悪夢でも見ているのだろうか。 そんな顔を見せられると、眠気なんて吹き飛んでしまう。

 

「ひき、がやく、ん......」

 

 どうやら雪ノ下の見ている悪夢には俺が登場するらしい。いやいや恋人が夢に出て来るのってもうちょいロマンチックじゃないの? なんで悪夢なの? や、雪ノ下が本当に悪夢を見てるのかは知らんけども。

 て言うかお前、寝言で名前呼ぶってお前、可愛すぎかよお前。普段は恋人相手であろうがその舌刀を遺憾無く振るい、あれ、俺たちって付き合ってたよね? って本気で疑問に思っちゃうまであるのに。

 名前を呼ばれて鼓動が加速しているのは事実だ。頬が少し熱を持っているのも自覚している。

 けれど、俺の名前を呼んだ雪ノ下は、尚も辛そうな、苦しそうな、悲しそうな表情を浮かべていて。

 なにか、なにかないか。少しでもいい。彼女が安らぎを得られるなにかが。

 悩む俺を他所に、雪ノ下の寝言はまだ紡がれる。

 

「いかないで......」

「......っ!」

 

 目を、疑った。

 その言葉にではない。いや、彼女の発した寝言にも些かの驚きはあったけれど。それ以上に。

 彼女の閉じられた瞼から、雫が一筋。頬を伝って膝上の文庫本を濡らす。

 

「......こう言うのは、キャラじゃないんだけどな」

 

 立ち上がり、自分の座っていた椅子を持って雪ノ下の隣まで歩く。彼女の座っている椅子にピッタリと自分の椅子をくっつけて、そこへ腰を下ろした。

 キャラじゃないとか、そんなこと今だけはどうだっていい。

 ただ、お前にそんな表情をして欲しくはないから。

 膝上の文庫本に添えられた、彼女の白い手を取る。指を絡めるようにして握り、起きてしまわない程度に力を込める。常日頃なら、確実に出来ないような真似だ。雪ノ下が寝ているからこそ出来ること。

 誰が見ている訳でもないのになんだか恥ずかしくなってしまって、マトモに雪ノ下の方を見ることが出来ない。

 あーやばい、顔熱い。つか俺なにしてんだよ。今更ながら冷静に考えてみると、別に手を握る必要はなかっただろ。雪ノ下が魘されてるって言うんなら、起こしてやればそれで良かったのに。

 不意に、右肩に重みを感じた。

 そちらを見れば、雪ノ下が俺の肩に頭を預けている。気のせいか、繋いでる手を握り返されたような感覚も。その顔に魘されているような色は全く見えず、どころかとても穏やかで、可愛らしい笑顔を浮かべていた。

 

「起きて、ないよな......?」

 

 寝ている時は喉の動きがどうやらこうやらと聞いたことがあるが、詳しいことは知らないので、彼女が今起きているのか寝ているのかを確かめる術はない。多分寝てるだろう。

 ただ、それでも。雪ノ下がその表情を浮かべてくれているだけで、俺の胸にはあたたかいなにかが広がる。

 俺のお陰で、なんて思うのは傲慢だろうか。今はそれでもいい。彼女がこうして、安らかに眠れるのなら。

 

「俺も寝るか」

 

 雪ノ下の寝顔を見て安心していると、忘れていた眠気が今頃になってやって来た。

 今度は欠伸を噛み殺す事もなく盛大に口を開け、襲い来る睡魔に抗う事もせず。俺は素直に瞼を閉じたのだった。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 それは、私にとって正しく悪夢と呼べるものだっただろう。

 この世界に存在するあらゆる天変地異をも凌駕するほどの、この世の終わり。そう言っても差し支えない程の悪夢。

 夢の中の私は泣いていた。それはもう、みっともないくらいに。目も当てられないくらいに。肉親が他界したとしても、ここまで泣くことはないんじゃないだろうかと思うくらいに。

 その世界の、どこを見渡しても。

 彼が。彼だけがいなかった。

 たったそれだけの事で、私を形作る世界は粉々に打ち砕かれた。

 どこを探しても、どこへ行っても。比企谷くんの姿だけが見当たらない。由比ヶ浜さんや一色さんに聞いても、そんな人は知らないと言われる。

 比企谷八幡と言う男の存在そのものが、無かったことになっている世界。

 どこにも行って欲しくなかった。私の隣にいて欲しかった。

 だけど、夢の中の彼はどこか遠くへ行ってしまって。

 そうして泣きじゃくっていると、夢の世界に光が広がった。あたたかくて、安心できる、私がずっと求めていた光。

 それに包まれた瞬間、現実の意識が覚醒した。

 瞼を開くよりも先に感じたのは、左手の感触。私のものよりもゴツゴツした、男性らしい手に握られている。それが比企谷くんの手だと直ぐに分かって、無意識のうちに私からも握り返してしまう。

 正直、状況はイマイチ分からない。私が眠っている間に彼が部室へやって来たのは、なんとなく察しがつくけれど。それでどうして、彼が私の隣に座って、私の手を握っているのか。

 状況は分からないけれど、彼がこうしてくれるのも珍しいから。どうせなら堪能してしまおうと思い、直ぐ横にある肩へと頭を預けた。

 

「起きて、ないよな......?」

 

 残念、私はしっかりと起きているわ。ただ、瞼を閉じているだけで。それを教える義理もないのだけれど。

 こうしていると、とても安心する。先程まで見ていた悪夢が嘘のようだ。今は隣に彼がいて、私の手を握ってくれている。気を抜くと、頬がだらしなく緩んでしまいそう。

 

「俺も寝るか」

 

 隣からそんな声が聞こえて来ると、暫くもしないうちに穏やかな寝息が聞こえて来た。

 ここで漸く、私は瞼を開く。

 隣をチラリと見て彼が確かに眠っているのを確認し、膝の上で繋がれている、私と彼の手を見る。

 

「ふふっ......」

 

 誰にも見られていないと思うと、自然と笑みが溢れてしまった。

 指をしっかりと絡ませて、所謂恋人繋ぎと呼ばれる繋ぎ方。お互いが起きている時にしてくれればいいのだけど、彼にそんな度胸を期待するだけ無駄か。

 改めて彼の寝顔を見てみると、ドクンと心臓が跳ねた。

 自他共に認める程腐っている両の瞳は閉じられ、すうすうと可愛らしく寝息を立てているその姿に、思わず見惚れてしまう。

 こうして見ると、彼は整った顔立ちをしている。常日頃なら見られない、カッコいいと評しても差し支えない彼の寝顔。寝ている姿を見るのも初めてだ。

 

「......由比ヶ浜さんはまだ来ないわよね」

 

 今日は日直の仕事があるから、少し遅れると言っていた。黒板の上に掛けられた時計を確認する。彼女がここに来るまであと五分以上はあるだろうか。

 ならば、少しだけ我儘に、欲深くなってみよう。

 隣にいてくれるだけでは、手を繋いでくれているだけでは満足できないから。もっとあなたを感じさせて欲しくて。

 

「比企谷くんの癖に、私を不安にするなんて生意気よ」

 

 体を彼の方に少しだけ乗り出して、一文字に結ばれた彼の唇へ顔を寄せ、小さな口づけを交わす。

 顔を離しても柔らかな感触は唇に残り、感じられた彼の熱は私の全身へと広がっていく。

 ポカポカした心地の良い熱。それに浮かされたわけでもないけれど、繋いでいる手の感触を確かめるようにニギニギと動かす。

 起きてしまわないかと思いもしたけど、隣に座る彼からは未だに寝息が聞こえる。どうやら大丈夫のようだ。

 

 ふと、目元の違和感に気がついた。

 彼が隣にいることのインパクトが強すぎて今まで気づかなかったけれど。

 何かが伝ったような跡が、私の目から頬にかけて存在している。経験上、それが涙の跡なのだと理解すると、彼がこうしてくれた理由も分かってしまった。

 いや、それよりも。

 私は泣いていたのか。

 眠りながら、悪夢に魘されて、涙を流してしまう。

 我ながらなんと情けなく、なんと弱いことだろう。けれど今は、その弱さが愛おしい。

 こんな弱い私でも受け入れてくれる人がいるから。こんな私の弱いところを愛してくれる人がいるから。

 せめて彼が眠っている今だけは、もう少しだけ甘えさせて貰おう。

 

「私の隣からいなくなったりしたら、許さないんだから」

 

 言葉とは裏腹に笑顔で。もう一度目を閉じて、彼の肩へ頭を預ける。

 少なくとも、私からいなくなる事なんてない。それだけは断言出来る。あなたは意外と寂しがりやで甘えん坊だから、私がいなくなったら、きっと生きていけないでしょうね。

 そんな風に考えながら意識を手放そうとしていると、部室の扉が開かれる音がした。

 

「やっは......、ってあれ?」

 

 いつもの様に元気な挨拶をしようとして、しかし部室に広がる光景を見たからか、不思議そうな声を上げる由比ヶ浜さん。

 ごめんなさい、彼が起きてしまうから、今日は少しだけ静かにしていてね。

 

「二人とも寝ちゃってる? うーん、折角クッキー焼いてきたんだけど......」

 

 狸寝入りしていて良かったと思った事なんて人生で初めてだった。

 

「あ、そうだ」

 

 とことこと足音が聞こえてきたと思うと、私達の目の前に立つ気配が。その数秒後、ピロン、と聞いたことのあるような音が聞こえた。確か、由比ヶ浜さんの携帯のシャッター音だったはずだ。

 つまり、今、私と彼のツーショットを由比ヶ浜さんに収められたという事で。

 ......顔、赤くなってないかしら。と言うかこの子はどうしてそんな真似をするのか。自分が何をしでかしたか理解しているの? 後で私の携帯にも送っておくようにお願いします。

 

「ふふーん。いろはちゃん達に見せに行こっと。おやすみ、ゆきのん」

 

 そうしてまた扉が動く音。由比ヶ浜さんはどうやら生徒会室にいる一色さんや小町さんの元へと向かったらしい。

 それにしても、最後のおやすみの一言。私だけ名指しで呼ばれたのが気にかかるのだけれど、もしかして起きているのがバレていたのかしら? いえ、そんな筈はないわよね。

 それよりも、そろそろ本格的に眠くなってきた。部室で居眠りするなんて、と思うのは今更過ぎるか。そもそも、枕がわりにしている彼の肩が心地いいのが悪いのだ。

 由比ヶ浜さんも出て行ってしまった事だし、再び襲ってきた睡魔に身を委ねてしまおう。

 

「おやすみなさい、比企谷くん」

 

 今度は、あなたが隣に、あなたの隣にいられる夢を見られますように。

 夢の世界へ落ちる瞬間、おやすみ、と。優しい声が聞こえた気がした。

 

 

 



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からかい上手の雪乃さんと放課後

ホワイトデーよりもちょっと前の、放課後の一幕


「そろそろ終わりにしましょうか」

「ん? ああ、もう時間か」

 

 本の世界へ意識を没入させていると、傍から聞こえてきた綺麗な声で現実へと浮上させられた。

 今日は雪ノ下からの揶揄いが比較的落ち着いていたので、いつもよりも集中して本を読むことが出来た。まあ、と言ってもなにか高尚なものを読んでるわけでもなく、ただのラノベなのだが。

 そのラノベをカバンの中にしまい、コートを羽織ってカバンを背負う。これで帰る準備は万端だ。

 雪ノ下の方も紅茶セットの片付けと帰りの支度を終わらせ、部室から出るように俺を促す。

 二人揃って部室を出て、雪ノ下が鍵を掛けたのを確認して、俺は口を開いた。

 

「......帰り、送るから」

「ふふっ、別に毎日言わなくても良いのに」

 

 並んで職員室までの道を歩く。ここ数日の間、ずっと続いてることだ。

 二人並んで歩きながら、俺が帰りに送る提案をする。数日前に晴れて付き合うことになったのだから、恋人を家まで送るのはなにもおかしなことでは無いだろう。

 

「私としては、あなたがそう言わなくても、卒業までは毎日そうしてもらうつもりなのだけれど」

「......っ」

 

 雪ノ下は歩きながらも腰を少し曲げて、俺の顔を下から覗き込んでくる。その綺麗で可愛らしい顔に、小悪魔のような笑みを貼り付けて。

 いい加減に俺もそろそろ耐性の一つや二つ出来ればいいのだが、こんな破壊力抜群の笑顔を見せつけられたら耐性なんか出来るわけがない。

 隣からはなおもクスクスと可愛らしい笑い声が聞こえてくる。それを聞きながらも職員室に辿り着き、雪ノ下が中で鍵を返してから昇降口へ。

 

「ところで比企谷くん」

「ん?」

「私達って恋人同士になったわけよね?」

「お、おう、そうだな......」

 

 改めて彼女の方からそう言われると、なんだか照れてしまう。そうだよな、俺、あの雪ノ下雪乃と付き合ってるんだよな......。未だに実感がイマイチ湧かないと言うかなんというか。いや、俺が雪ノ下のことを好きなのは事実であるし、雪ノ下からもその想いは伝えられた訳なのだが。

 俺たちの関係性がそのように変化しても、しかし俺たちの間に甘い話があるのかと問われれば、首を傾げざるを得ないわけで。

 

「そこで思ったのだけれど、私達、もう少し恋人同士らしいやり取りをしてもいいと思うのよ」

「恋人同士らしい、ねぇ......」

 

 例えば、雪ノ下と付き合う以前の話だが、彼女の揶揄いの一環で思いっきり抱き合ったことならある。しかも雪ノ下の家で夜通し。付き合う以前の男女が何してんだって話ではあるが、まあ気にしたら負けだ。

 恋人同士らしいというと、そう言ったやり取りの事を指すのだろうか。

 少し、その当時の事を思い出してみた。

 初めて抱き締めた雪ノ下の体はとても細くて、小さくて。俺が少しでも力を込めてしまえば折れてしまうのではと錯覚してしまうような、華奢な体だった。けれど、とても柔らかくて、彼女の体からはいい匂いがして。

 記憶を辿っていると、その日の夜の事を思い出して顔が熱を持つ。そしてそれを見逃す彼女ではなく。

 

「あら、顔が真っ赤だけれど、何を想像したのかしら?」

 

 足を止めて、ズイッとこちらに身を乗り出してくる雪ノ下。やはりその顔は悪戯な笑みを浮かべていて、しかも顔と顔の距離が近いもんだから思わず後ろに仰け反ってしまう。ついでに足も一歩後ろへ下げようとしたのだが、どうやら俺の背後には壁が存在しているらしく、それも叶わない。

 

「別に、なんも想像してねぇよ......」

「本当に?」

 

 文字通り目の前にある雪ノ下の綺麗な顔。その口から漏れる甘い吐息が、彼女の髪から香るサボンの匂いが、言葉以上に雄弁に、俺の五感に訴えかけてくる。

 

「私と恋人としてしたいこと、ないの?」

 

 その笑みを一層深くして、雪ノ下は更にもう一つ間合いを詰めて来た。

 俺が、雪ノ下と、恋人としてしたいこと。

 いいのだろうか。その、艶のある桜色の唇を奪ってしまっても。

 問うたとしても、俺にそんな事をする度胸なんてあるわけもない。なにより、ここは学校で、まだ昇降口で、他の生徒がいつ通るかも分からないのだから。あまり大胆なことは出来ない。

 

「比企谷くん」

 

 けれど、彼女の透き通るような声は俺の耳に響き、当たり前に存在している倫理観を破壊しにかかる。

 

「いいのよ? あなたのやりたい事、今この場でやっても」

 

 俺の耳元に寄せられた彼女の口。そこから発せられた言葉は、俺にトドメを刺すのに十分過ぎる威力を持っていて。ここが学校であるのも忘れて、俺は雪ノ下に抱きついた。

 

「ふふっ......」

「えっ......?」

 

 しかし、俺の腕は簡単に空を切り、その中に雪ノ下の体は収まっていない。容易くもスルリとそこから抜け出した雪ノ下は、俺の目の前でクスクスと、本当に可笑しそうに笑っていた。

 

「ふふふっ......。あなた、そんなに残念そうな顔をして、ふふっ、私のこと、そんなに抱き締めたかったの?」

「......っ!」

 

 ゆ、雪ノ下めッ......!

 かぁぁっ、と急速に頬が熱を持ち始める。今までだって十分過ぎる顔が熱くて、今が冬と春の境目の季節であることを忘れそうになっていたというのに。

 健全な男子高校生の純情な感情を弄ばれた。してもいいと言うから思い切ってなけなしの勇気を振り絞ったと言うのに。そんな俺の純情な感情を三分の一も理解してくれてなさそうな雪ノ下は、余程俺の顔が面白かったのか、未だに笑いを収めない。えっ、そんなに? そんなに俺、残念そうな顔してた? いや確かに残念ではあったけれど。

 そんなに笑われてしまえば流石にバツが悪くて、赤くなった顔を明後日の方向に向けていると、不意に体があたたかくて柔らかいものに包まれた。

 

「なっ、おまっ......!」

「ごめんなさい、意地悪し過ぎたわね」

 

 いつ誰が通るかも分からない昇降口の一角で、雪ノ下は俺の体を抱き締めていた。

 背中に回した手にギュッと力を込めて、俺よりも小さな体を精一杯背伸びさせて、俺の頬に自分の頬を擦り寄せてくる。

 雪ノ下が抱きついてきたのはほんの一瞬だけだった。俺から抱き返す暇もなく、彼女の体は離れて行ってしまう。

 その温もりが名残惜しく感じたが、それを悟られたらまたなんと揶揄われるか。

 

「勘違いしないで貰いたいのだけれど、私はあなたにハグされるの、それなりに好きなのよ? けれど、時と場所は弁えなければならないでしょう?」

「......ソッスネ」

「ふふっ、だから、今度また、別の機会にあなたからしてくれるのを期待しているわ」

 

 こちらに流し目を送って、雪ノ下はJ組の下駄箱へと歩いていく。

 俺はと言えば、今の短い間に起きた出来事を脳内で反芻していて、再起動するまでに10秒以上の時間を要してしまった。

 彼女に抱き締められた時の感触は、結局翌日になっても忘れることが出来なかった。たったの一度雪ノ下からハグして貰っただけで、この前は一度ならず何度もしたことだと言うのに。

 存外にウブな自分に嫌気がさすどころか、こんな自分が少し好ましくもあって。

 

「さあ比企谷くん、帰りましょう?」

「......おう」

 

 なんとか再起動して靴を履き替え終えると、雪ノ下に手を差し出される。

 その手を、まるで割れ物を扱うかのように取り、未だ広がる寒空の下へ、二人で歩き出した。

 この帰り道で、彼女に反撃することは出来るだろうか。

 繋がれた手を見て穏やかな笑顔を浮かべてる彼女を見ていると、どうにも勝てる気はしなかった。



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いつまでも移ろわない

 花の金曜日

 通称花金と呼ばれるそれは、翌日からの休みを良いことに社会人達が日頃仕事で溜まったストレスを飲み屋なりカラオケなりで発散したり、恋人と仲睦まじく愛を語り合ったりする日だ。

 更にこの四月と言う時期になると仕事終わりにでも花見で一杯、なんて輩も出てくる訳で

 

「どうだい比企谷君、我々はこれからそこの公園に花見に行くんだが。君も来るかい?」

「いや、まだ仕事が残ってるので遠慮しときます。すんません」

 

 それは我が母校であり現在の勤め先である総武高校でも変わらない訳で。

 先輩教師からの申し出はありがたいのだが、先に述べた通りまだ仕事が残ってる。

 高校時代、若手だからと厄介ごとを抱えさせられていた平塚先生の気持ちがこれでもかと言うくらい思い知らされた。

 しかも今年は初めて担任としてクラスを一つ受け持っている為、担当教科のプリントやらの整理などなどだけでは仕事は終わらない。

 いや、一つのクラスの担任になるってのはそれはそれで楽しいんだよ。同居人から言わせて見ると

「比企谷君の場合は高校時代に学ぶべき青春を学べなかったのだから良い機会だと思って生徒達に青春とは何か教えて貰えばいいわ」

 らしいのだが、残念なことに「青春とは嘘であり、悪である」という高校時代の考えは未だ持ってして変わっていない。

 ただ、そんな嘘と欺瞞で塗り固められた生活の中にも、彼ら彼女らなりに守りたいものがあると言う事も高校時代に知った事だ。

 

 なんてある種の感慨に耽っているとスマホがメールを知らせる為に震える。

 メーラーを起動させてその文面を読み、溜息を一つ零す。

 

『お疲れ様です。今日はお仕事何時頃に終わりますか?

 夕食の都合もあるので連絡くれれば幸いです。

 お仕事頑張ってください』

 

 

「はぁ、さっさと仕事終わらせるか」

 

 これでやる気が出てしまう俺も単純だよなぁ。

 

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 

 結局太陽が昇ってる間には仕事は終わらずお月様がお空にこんばんはしている時間まで学校にいた。

 職員室の戸締りをまだ残っていた先生に任せ徒歩で帰路に着く。

 普段ならば自転車で通勤するのだが、本日は徒歩で行けとの同居人からのお達しがあったのだ。

 別に現在居を構えているマンションからは歩いてもそんなに時間はかから無いから良いんだけど。途中の道なんか桜の木が結構な数植えられているから、それをゆっくり見ながら通勤と言うのもシャレオツだし。

 そんな帰り道。夜桜を楽しみながら歩いていると、街灯に照らされた一人の女性が目に入る。

 決して強くはない街灯の光に当てられ、桜の木を見上げる彼女はただただ美しかった。

 絵画じみている、なんて言葉を彼女に対して思ってしまうのはこれで何度目だろうか。

 

「あら、ようやく桜の木の下から這い上がって来たのかしら。だとしたら少し遅いのではなくて?」

「いやゾンビの類じゃねぇから......」

 

 ゲンナリとした様子で返す俺を見て満足そうに微笑む我が同居人。雪ノ下雪乃。

 高校時代から変わらない美しさとキレのある毒舌を惜しみなく放出する彼女とは何がどう転んでそうなったのかは俺でも分からないのだが、同じ屋根の下で暮らしている。人はそれを同棲と呼ぶ。

 だが俺と雪ノ下の間に浮ついた話があるのかと聞かれるとイエスとは答えられないし、ノーとも答えられない曖昧な関係に落ち着いてるのが現状だ。

 曖昧なのに落ち着いてるとはこれいかに。

 

「んで、なんでこんな所にいんの」

「貴方と夜桜を楽しみたかったから、じゃダメかしら」

「ダメじゃない、けど......」

 

 そんな微笑みながら首をコテンと傾けるな可愛いから。

 

「あれだ、こんな夜道に女一人で出歩いてたら色々と危ないだろ」

 

 て言うかメールには飯作って待ってる的な事書いてましたよね?

 

「心配してくれるのかしら?」

「そりゃまぁ、一応同じ家に住んでる身としてはな」

 

 相変わらず素直じゃないのね、なんて言いながら俺の隣に並んで歩く。

 彼女とこうして二人で肩を並べて歩くことなんて今までも何度もあったはずの事なのに未だに慣れなくて、幸せそうに頬を緩ませる彼女の顔を直視できない。

 視線を逸らすように桜の木に目をやるが、正直桜よりも美しい彼女が隣にいては桜の美しさなんて今はカケラも理解できるはずもなく

 

「桜花 とく散りぬとも おもほえず 人の心ぞ 風も吹きあへぬ」

「どしたのいきなり?」

 

 古今和歌集だかなんだかの詩だったか。

 確か人の心を花に例えて、風が吹かなくても散ってしまうその花を嘆いた詩のはずだ。

 

「似たような詩が他にも古今和歌集にはあるのだけれど、私、どうにも納得出来ないのよね」

「その心は?」

「自分で考えなさい」

 

 イタズラそうに笑って不意に俺の腕に抱きついて来る。ちょっとイキナリ何してくれてるんですかね?なんか凄い良い匂いするしその見た目に反してやっぱり柔らかいんだなぁなんて思っちゃったりしちゃうし。いや別に見た目通り硬いなんて思ってはなかったけど「比企谷君」はいすいませんでした。

 

「つーかお前本当にどうしたの今日は。なに、甘えたいデーなの?俺のお兄ちゃんスキルが炸裂しちゃう日なの?」

「何を訳のわからないことを言ってるのかしら?」

 

 あれ違いましたか?まぁでもこいつは学生卒業して今の暮らしになってから随分と他人に、と言うか俺に甘えると言う行為に躊躇いがなくなった気がする。なんなら毎日甘えたいデーだし。毎日俺のお兄ちゃんスキル炸裂しちゃってるし。

 ただ問題があるとすれば、炸裂してしまうお兄ちゃんスキルに籠められた感情が兄と妹なんてものよりももっと下世話なものだってことだよなぁ。

 

「別に、貴方と夜桜を見たいと言うのは本当のことよ。ただ......」

「ただ?」

「周りの目を気にしないでこうして腕を組んで歩くなんて事、この時間帯じゃなきゃ中々出来ないから......」

 

 耳まで赤くなった顔を隠すように俺の腕に擦り付けて来るその姿が余りにも可愛くて、つい抱きしめたくなる衝動に駆られるが理性でそれを押さえつける。

 俺と彼女は付き合っているわけではないのだからそんな無責任なことは出来ない。

 だが一方で俺の顔も負けじと真っ赤になってるだろう。

 だってあの雪ノ下のデレだよ?並の男なら一発で轟沈。並以下の俺なら最早心臓が動きを再開するまである。いやだからゾンビの類じゃねぇって。

 自分で言ってて悲しくなってきた。

 

「なぁ雪ノ下」

 

 俺の肩口に顔を埋めていた雪ノ下が見上げる形で俺の顔を覗き込んで来る。自然と上目遣いになってしまい一瞬ドキリと心臓が高鳴る。

 

「さっきの詩、やっぱり俺も納得いかねぇわ。だって本当にそんな簡単に散っていってしまうもんだってなら、お前とここでこうしてねぇし」

「それってどういう......」

「知らん、ほらさっさと帰るぞ」

「あ、ちょっと!」

 

 照れ隠しをするかのように足早に帰路に着く。

 

 人の心は簡単に移ろいゆく。ああ確かにそれは間違っていないだろう。だからこそ人は嘘と偽りに塗り固められた青春などと言うものを謳歌せしめるのだ。

 でも、そこに嘘や偽りが欠片ほども無いとしたなら、移ろいゆく暇すら与えられない程に心という花が満開に咲き誇ってしまったのなら。

 きっとその花は風が吹いたとしても散っていくことはないのだろう。

 

 

 

 

 

「あ、あなた、って、人は、はぁはぁ......」

「いや、正直すまんかった......」

 

 雪ノ下の体力のなさを全く忘れてそのまま家まで早足で帰ってしまったものだからなんか上気した頬とかはぁはぁいってる雪ノ下エロいなぁなんて思っちゃったりしたのは別の話。

 



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雪ノ下発比企谷行き暴走ゆきのん

一年も経てば、一人暮らしにはかなり慣れた。始めた当初こそ小町に会いたくて会いたくて震えていたが、暫く暮らせば一人暮らしの開放感と言うものが癖になり、今では実家に帰ることなんて殆どない。

仕送りも十分にあるのでバイトをする必要もないし、勉強も上手くいっている。休日なんて誰にも咎められることもなく、夕方まで惰眠を貪ることが出来るのだ。

一人暮らし万歳。もう一生一人暮らしでいいよいや待てそれはダメだ俺は専業主夫として養って貰うんだ。

とまあ、そんな感じでなんだかんだと楽しませて貰っている今の生活。

楽しんでいる。その筈なのに、胸の中にはポッカリと穴が空いたような感覚があって。

その理由が何かなんて、問わずとも分かる。

俺は一年経っても未練の断ち切れない、哀れな男だ。忙しなく過ぎていく日々の中で、彼女のことは思い出へと風化してしまうと思っていたのに。

今でも鮮明に思い浮かぶ。彼女の長い黒髪と、その中で踊る番いの赤い蝶。整い過ぎた顔立ちから時たま覗かせる、年相応の可愛らしい笑顔。

思い浮かぶどころではない。夢に出てくる事だって、数えてしまえば両手の指では足りないくらいだ。

だから、なのだろうか。

そんな夢にまで見た彼女が。

雪ノ下雪乃が。

玄関のドアを開けた先に立っているのを見て、俺の全てがフリーズしてしまっているのは。

チャイムが鳴った。ボロアパートらしい安っぽい音を鳴らし、来客を告げた。俺は密林を利用した覚えなどなかったし、小町が来るとも聞いていない。

本当に、不意打ちだった。夢なのではないかと疑ったが、握るドアノブの冷えた感触はやたらとリアルだ。

目の前に立っている雪ノ下が、ハッと息を呑んだのが分かった。訪ねて来たのは彼女の癖に、驚いたような顔をしていて。

そこで漸く、俺の時間が動き出す。

 

「ゆきの、した......?」

 

自分でも耳を疑うほどに掠れた声だった。けれど、すぐ目の前のいる彼女には勿論ちゃんと聞こえていて。

 

「比企谷くんっ......!」

 

今にも泣き出してしまいそうな顔で、俺の胸に飛びついて来た。

 

「ちょっ、お前いきなりなにを......⁉︎」

「比企谷くんっ、比企谷くんっ!」

 

狼狽える俺を他所に、雪ノ下は俺の名前を呼びながらも抱き締める力を増していく。嗚咽も漏らしていないし、涙も流してはいない。けれど、その姿はまさしく泣いている女の子そのもので。

 

「ずっと、会いたかったっ......!」

 

一年以上恋心を引き摺る相手からそんな事を言われてしまえば、この抱擁を素直に受け入れる他なかった。

 

 

 

************

 

 

 

なんて事があったのが一時間くらい前。

雪ノ下との再会が嬉しかったのは事実であるし、いくら俺が捻くれていようと、彼女も喜んでくれているのは分かった。

一年。一年だ。短いようで長い間会っていなかった元部活メイトで好きな人。そんな相手に会えたのだから嬉しいに決まっている。

決まっているのだが。

「比企谷くん」

「な、なんだ雪ノ下?」

「ふふっ、なんでもないわ」

 

俺の股座に腰を下ろし、首だけこちらに振り向いて穏やかな微笑みを見せる雪ノ下。こんな体勢だもんだから勿論顔と顔の距離は殆どゼロなので、自然と顔に熱が集まる。

なーんでこうなってるのかなー。

雪ノ下に抱きつかれたあの後、取り敢えず開きっぱなしだった玄関のドアを閉めて家に招いたわけだが、お茶でも入れようとしたらそれを止められ、そこに座れと言われるがままに座ったらなんと雪ノ下さんが僕の胡座の上にすっぽりと収まるではありませんか!

 

「もう少し強く抱き締めて?」

「......おう」

「んっ......。はふっ......」

 

しかも後ろから抱き締めろと言われ、これまた言われるがままにしちゃってるし。時たまこっちにの頬に自分の頬を擦り寄せてくるし。なんなのこの子? なにがあったらこうなっちゃったのってああ待てまた頬を擦り寄せてくるなお前のほっぺた柔らかくてちょっと癖になっちゃうだろうが!

 

「比企谷くん」

「だからなんだよ......」

「呼んでみただけよ」

 

このやり取りも、最早何度目だろうか。この一時間、彼女との会話はこれか強く抱き締めろと言われるか、それだけだ。

これ、なにがヤバイって俺自身もこの状況をかなり満更でもなく思っちゃってるのが一番ヤバイんだよなぁ。だって雪ノ下の体柔らかいし。

 

「こうして名前を呼べば返事が返ってくるのって、なんでもないことだけどとても良いわね」

「......」

 

感慨深くそう言う雪ノ下の横顔には、ほんの少しの憂いが見えて。

だから、今聞くしかないと思った。

 

「なあ、雪ノ下」

「なにかしら?」

「今日どうしたんだ? いきなり家に来たと思ったら、こんな事させて。もしかして、なんかあったのか?」

 

彼女の家のことは高校時代に嫌と言う程思い知った。告白出来なかったのも、それが一因を担っている。

もしかしたら、雪ノ下は実家の方でなにか面倒ごとに巻き込まれてしまったのかもしれない。一度心配になれば、心の中に不安が渦巻く。

そんな感情が少しでも出てしまったのだろうか。雪ノ下を抱き締める腕に力が入ってしまう。これ以上強く抱いてしまえば、壊れてしまいそうに錯覚すると言うのに。

けれど雪ノ下はそれに嫌な顔一つせず、どころか心地よさそうな表情を浮かべ、語り始めた。

 

「比企谷くん。私ね、この一年、ずっと戦って来たの」

「戦って、って......」

「御察しの通り、私の実家とよ」

 

やはり、実家でなにかあったのか。こうしてここに来ていると言うことは、一応の終息を見せているのだろう。その事に多少安堵するも、だがその過程で彼女が味わった苦悩を共有してやることも、少しだけでも背負ってやる事も出来ない。その事が、なぜか胸を締め付ける。

 

「安心して。ちゃんと勝って来たから」

「そ、そうか。ならよかった......」

「あなたは心配し過ぎよ。そんなあなただから、この一年会えなかったのよ?」

「どう言う意味だ?」

「この戦いだけは、私の手で勝利をもぎ取らなければならなかったから。あなたの顔を見ると、またあなたに甘えて、頼ってしまいそうで。だから、ずっと我慢していたの」

「それは......」

 

違う、とは言い切れない。俺に頼らずとも、お前一人でどうにか出来たと、そう言ってやる事ができない。高校時代に陽乃さんから言われた言葉もあるし、雪ノ下が具体的にどう戦っていたのかもしらないから。

でも。そうだとしても。だからこそ。

陽乃さんの言葉なんて関係ない。

共依存? ふざけるな。そんなちゃちな言葉で、俺の感情を表してんじゃねぇ。

 

「頼ってくれても、良かったんだ。甘えてくれて良かったんだ。俺だって、好きな子には頼られたいって思うんだからな」

 

好きだと、そう告げるのは余りにもあっさりと呆気なく。それは今この体勢でいるからだろうが。それでも、想像していたものよりも随分と簡単に言葉が出た。

 

「知ってるわ。だから、今こうして沢山あなたに甘えさせてもらってるのよ」

「......そうか」

 

腕の中の雪ノ下がどうしようもなく愛おしくて。また、抱き締める力を増してしまう。それに呼応するように雪ノ下も俺の頬に頬ずりをしてくる。そんな彼女の横顔を見つめ、彼女も横目で俺を見つめてくる。

唇を重ね合うのは合図もなく唐突に、けれど自然とそうしていた。

 

「それで、私がなにを賭けて戦っていたのかと言う話なのだけれど」

「お前よく今の流れで話続けれるな......」

「あら、もう少し雰囲気が欲しかった? それは次に持ち越しね」

「つ、次っすか......」

「どうせキス程度、この後何度も交わすのだから。今はそれよりも私を抱き締める事に専念しなさい」

「......」

「ふふっ......」

 

ああもうなんだこいつ可愛いなオイ! このまま時間無制限で抱き締めて、なんなら髪の毛わちゃわちゃ撫で続けたいとか思うのだが、そうすると話が一向に進まないのて断腸の思いで諦めることに。

 

「で、なにを賭けて戦ってたんだって?」

「これよ」

 

雪ノ下はもぞもぞと動いて懐から何かを取り出す。

どうでも良いけど、今のこの体勢でもぞもぞされるとちょっと下腹部への刺激が強すぎてですね。その、まあ、はい......。察して。

男子特有の生理現象に悩まされる俺に提示されたのは、一枚の紙切れ。

市役所などで受け取りができ、必要事項を記入したのちに提出することで男女の契りを結ばれる。

名を、『婚姻届』と言う。

 

「.......................................は?」

 

何度瞬きを繰り返そうと、頬をつねろうと、俺の眼に映る文字は変わらない。そこにはしっかり婚姻届と書かれている。

なんなら雪ノ下本人の署名と雪ノ下の親の署名、更には俺の親の方までしっかりと名前が書かれていた。空欄になっているのは、夫となる人物が名前を記入する欄のみ。

 

「これを勝ち取るのにまさか一年もかかるだなんて思いも寄らなかったけれど、一年間あなたに会わず頑張った甲斐があったと言うものだわ。あとはあなたがここに名前を書くだけで、私達は晴れて夫婦となるの」

「いや、いやいや、いやいやいや、いやいやいやいや」

「私の荷物も、明日にはここに届くと思うから」

「待って、お願いだから待ってください本当お願いします」

 

最早懇願に近い声を上げる俺。

いや、だってお前、漸く好きだと告げたその数分後に婚姻届を出してくるってお前。

マジで?

 

「安心して比企谷くん。金銭面ならうちの両親が大学卒業まではバックアップしてくれるから」

「そう言う問題じゃなくて」

「それとも、私と結婚するのは、嫌、かしら......?」

「嫌じゃない」

 

即答してしまった。なんでこんな時に限って本能を優先してしまうのか。どうやら理性の化け物さんは長期休暇に入っているご様子で。

 

「ならいいじゃない」

「......その、色々と手順ってもんがあるだろ」

「そんな道理は私の無理でこじ開けたわ」

「えぇ......」

 

なんでそこでグラハム・エーカー? なに、ガンダム知ってるの? ミス・ブシドーって言われてもしっくり来すぎて逆に怖いぞ。

だから、そんな事はどうでもよくて。

先程即答してしまった通り、嫌というわけではない。ただ、話が余りにも急過ぎて脳の処理が追いついていないのだ。

取り敢えず一日考える時間を貰いたいのだが、俺の妻(予定)はそんな暇を与えるつもりもないらしく。

 

「あとは既成事実さえ作れば私の完全勝利ね」

「えっ」

「父さんと母さんは、明日にでも孫の顔を見たいと言っていたから。たまには親孝行をしないと」

 

スルリと俺の腕の中から抜け出した雪ノ下は、今度は向かい合うようにして同じ場所に腰を下ろしてくる。

 

「ちょっ、マジで待てゆきのしんむっ!」

 

状況を正しく判断するよりも早くに唇を塞がれてしまい、俺の脳みそは余計に正常な稼働から程遠い状態に陥る。

彼女とのキスは、まるで麻薬のようだ。

甘くて柔らかい感触が脳髄を痺れさせ、ともすれば中毒になってしまう。

 

「キスはこの後何度も交わすと、先程言ったでしょう? まあ、身体中色んなところにすることになるのだけれど、まずは唇から楽しみましょう?」

「た、頼むからちょっと待ってくんむっ」

 

反論する度に唇を唇で塞がれてしまう。

そのまま俺は背後に敷いてある布団へと、雪ノ下に覆い被さられるようにして押し倒される。

 

「大丈夫、今日はちゃんと出来やすい日だから」

 

全然大丈夫じゃないんだよなぁ......。

微笑みながら告げる雪ノ下に、俺は結局それ以上なにも言うことが出来ず、美味しく頂かれるハメになってしまった。

余談だが、翌日は荷物運びどころではない程にお互い腰を痛めていたのは語るまでもないだろう。

 

 



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穏やかに過ぎていく、とある春の日の一幕。

初めて八雪の子供を書いてみました


 ああ、休日とはどうしてこんなにも素晴らしいのだろう。いつまで寝ていても誰にも咎められない。お布団ちゃんはいいな。最高だよ。こうして日々の疲れを癒してくれるとか、これはもうお布団ちゃんと結婚するしかないので? お布団ちゃんの為なら毎日馬車馬の如く働いてもいい。いやそれじゃ本末転倒だわ。つーか、既に馬車馬の如く働いてるんだよなぁ......。

 悲しいかな、専業主夫と言う夢はもう数年以上前に儚くも破れ、今や家族のために働くひとりの社畜。俺が働くことで、愛する家族が平和に暮らせると思えばなんの苦にもならない......ことはないな。うん。そんな事は決してない。高校教師とかなるんじゃなかったってちょっと後悔してるし。なにが悲しくて卒業後も青春群像劇(笑)を見せられなきゃならんのだ。

 ......うん、まあ、それなりにやり甲斐はあるけれど。いつの日かの恩師も、俺たちを見てこんな気持ちになってたんだろうなぁ、と感慨に耽るのも何度かあった。

 ところでその恩師はいつ結婚のご報告をしてくれるのだろうか......。祝いのお品は用意させてもらってるんですけど。なりたけの半額クーポンだから早くしないと期限切れちゃいますよ? まあクーポンよりも先に平塚先生の期限が切れてるかもだけど。今の直接言ったら絶対機嫌損ねる。期限だけに。

 さて、こんな無駄な思考に脳を費やしている場合ではない。なんなら無駄な思考をしてしまったせいで俺の脳は休息を欲している。故に俺は今から二度寝をしなければならない。そう、言うなればこれは使命だ。義務だ。天からのお告げだ。明後日の月曜日から再び始まる労働へ向けての。

 と言うことでゴートゥー夢の世界。脳内で柳沢慎吾にいい夢見ろよと言ってもらい、目を閉じて布団を被り直したところで。

 

「おとーさーん!」

「ぐへっ!」

 

 腹部に鈍い衝撃が走った。

 特に重いと言うわけではなく、それどころかとても軽いまであるのだが、それでも痛いことには変わりない。寝ようと思った瞬間の不意打ちであれば、驚きもひとしおだ。

 上半身を起き上がらせて下手人を視界に収めると、相手はにぱーっとこの宇宙で最も可憐な笑顔をこちらに向けてきた。

 

「おはよ、おとーさん!」

「あー、おはよう......」

 

 どうやら下手人は娘だったようだ。来年度、つまりは来月から小学二年生になる今が一番可愛い時期。なんなら生まれた日から今日まで一番可愛い時期更新中である。

 しかしそんな可愛い娘でも、流石にこんな起こされ方をするとイラッとしちゃう。憎さ余って可愛さ百倍。やだ、これ以上可愛くなったら八幡死んじゃう!

 と言うことで報復の意味も込めて、娘の体を抱き寄せて頭をわちゃわちゃと撫で回す。

 

「寝てる人の上にいきなり飛び乗ったら危ないだろー」

「ごめんなさーい!」

 

 素直に謝れるとか天使かな? 天使だわ。

 これも母親の教育の賜物と言うものだろう。俺だけの教育だったら絶対こんないい子に育たないよ。比企谷家一子相伝のクズっぷりを舐めてもらっては困る。

 

「で、なんで起こしに来たの? まだ10時なんだけど。お父さんもうちょい寝るつもりだったよ?」

「おかーさんに起こして来てって頼まれたの」

「なんでまた......」

 

 なんでもなにももう10時だからですね。そりゃ起こされるわ。でもねゆきのん、八幡くんは平日毎日働いてるんだし、休みの日くらいは昼くらいまで寝させてくれてもいいと思うの。専業主婦として家の全てを握られた時点でそんなこと無理なのは明白だけど。

 取り敢えず娘を撫でる手を止めて起き上がり、二人で部屋を出る。リビングへと続く扉を開けば、ソファに座って優雅に紅茶を飲む雪乃の姿が。

 その絵画じみた光景は、テレビに映る情報番組と酷くミスマッチだ。スピーカーから聞こえてくる芸能人やらコメンテーターやらの笑い声は最早騒音以外のなにものでもない。

 歳を幾ら重ねようと、彼女の姿は俺の目覚まし時計よりも優秀な働きをする。

 

「おはよう、あなた」

「ん、おはよう」

「朝食、テーブルに置いてあるから」

「サンキュー」

 

 俺はテーブルの方へと向かい、娘は雪乃の隣へとてとて走って行き、その膝の上に腰を下ろした。俺的ベストショットな日常風景第2位にランクインしている光景だ。因みに1位は雪乃と娘が一緒に昼寝してるとこ。

 テーブルの上に置かれた今日の朝食はフレンチトーストだ。勿論セットで雪乃の紅茶も。フレンチトーストに齧り付き、今日も今日とて絶品な雪乃の朝食を堪能しながら愛する妻と娘の会話を聞く。

 

「おかーさん、おかーさん」

「どうしたの?」

「わたし、おはなみがしたい!」

「お花見?」

 

 突然の娘の申し出に雪乃が首を傾げる。が、別に突然のことでも無かった。テレビに流れる情報番組は桜の花がどうやらこうやらと流れており、恐らくは娘もそれに感化されたのだろう。

 しかし、非常に残念ではあるが、その願いを叶えてやることは出来なさそうだ。

 

「花見って言っても、こないだの雨で殆ど流れたぞ」

 

 二日前までは全国的に大雨が降っていた。それはこの千葉も例外ではなく、ついこないだまでは満開一歩手前まで咲いていた桜たちも、全て雨風に攫われてしまったのだ。

 

「え、さくら、見れないの?」

「んぐっ」

 

 雪乃の膝の上で首から上だけこちらに振り返る娘の瞳は、今にも泣き出さんばかりに悲しみで塗れていた。

 そんな表情を見ればどうにかしたくなるのが親と言うものであり、それは雪乃も例外ではないようで。

 

「きのう、お花見をする猫を二ひき見たってなっちゃんにおしえてもらったのに......」

「比企谷くん、今現在花見が出来る場所をピックアップしなさい。今すぐに」

 

 あ、違う。こいつ猫が見たいだけだ。あと呼び方、昔に戻ってんぞおい。どんだけ必死なんだよ。気分なのかなんなのか知らんが、たまにそうやって苗字で呼ぶのやめてね? なんか昔のこと思い出しちゃうから。

 フレンチトーストを貪る片手間で、寝巻きのポケットに入れていたスマホを取り出しぬるぬるくぱあと操作する。

 オーケーGoogle! 俺の愛する家族が喜びそうな場所をピックアップしてくれ!

 残念ですが、それは出来ません。

 な、何言ってんだGoogle! お前ならお茶の子さいさいだろ!

 あなたの家族が最も喜ぶ場所。それは、常にあなたの隣であるのです。

 ぐ、Google......。

 では、ご武運を。

 ああ、お前が教えてくれた場所、きっと守ってみせるさ!

 なんて茶番を脳内で繰り広げながらYahoo!を開いて近隣で桜の木が植えてある有名どころをいくつか検索する。

 どうでもいいけどお茶の子さいさいってきょうび聞かねえな......。

 

「ダメだな、有名どころの公園は殆どこの前の雨でやられたっぽい」

 

 東京の方まで探してみたが、そっちも全滅。神奈川や埼玉も検索しようとも思ったのだが流石に遠すぎる。

 俺のその報告の意味を理解したのだろう。娘の顔がさらに悲しみに歪む。

 

「おとーさん......」

「大丈夫よ」

 

 しかし、その娘の頭を優しく撫でる雪乃。何か考えがあるのだろうか。

 フッと柔らかな微笑みを浮かべた雪乃の表情には、確かな母性を感じられる。

 

「この辺りを少し歩いてみましょう。必ずお父さんが見つけてくれるわ」

「ほんとう⁉︎」

 

 完全に人任せだった。母性もクソもあったもんじゃない。

 

「はあ......。ま、取り敢えず昼から外出てみるか」

「やったー!」

「ふふっ、良かったわね」

 

 これ、見つからなかったらケリィと同じ真似しても大丈夫かな? 桜って言って梅の花とか指してもバレないかな? バレるか。そもそもケリィはクルミだった。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 本日は晴天なり。

 という事で絶好のお花見日和と言える程の晴空が広がる千葉。

 あの後朝食を済ませたら丁度昼前となっていたので、それぞれ準備をして家族揃って家を出たわけなのだが。やはり、と言うべきか。暫く歩いて見たが、どの桜の木も満開と言うには程遠く、その殆どが先日の雨で花弁を散らしていた。

 仮に開花前に雨に晒されていたのなら、まだ望みはあったかもしれないが。満開一歩手前と言うところであの大雨だ。仕方ないと言えるだろう。

 

「やっぱどこも散ってるなぁ......」

「こればかりは仕方ないわね」

 

 娘の望みを叶えてやれなかった事に、夫婦揃って溜息を吐いてしまう。しかし俺と雪乃と手を繋いでいる娘はと言うと、俺たちとは真逆に満面の笑みを浮かべていた。

 

「わたしは、おとーさんとおかーさんとお出かけ出来ただけでたのしいよ! 今のわたしてきにポイントたかい!」

 

 なんと。なんと出来た娘なのだろうか。語尾に妙なものが付いていたが、そんなもの気にならないくらいの天使っぷりだった。

 お花見をしたいと最初に言ったのは娘であったのに。それを我慢しているわけでもないのだろう。まだ幼いと言うこともあるが、そう言う本心を素直に言えるというのはとても大切なことだ。

 素直なんて言葉のはかけ離れた俺たち二人の子供とは思えない。

 娘の言葉を聞いた雪乃なんて、感激のあまり泣きそうになってる。流石は親バカのん。

 

「この子、本当に私達の子供なのかしら......。どうしたらこんな素敵な子がこんな捻くれ者との間に出来るのか不思議だわ......」

「おい、自分のことを棚にあげるな」

 

 なんて軽口を交わしながらも、ゆっくりと足を進める。

 今歩いているこの川沿いの道は、何本もの桜の木が植えられており、お花見をするのに丁度いい公園なども点在している。

 中には桜が散っていようと関係なくレジャーシートを広げている家族も見受けられるが、俺たちの目的はそもそも桜だけではないのだ。

 

「あっ!」

「あ、こらっ! 危ないわよ!」

 

 そしてその目的のものを見つけたのか、娘が俺たちの手を離して桜の木の下へと駆けていく。

 娘が向かった先にいたのは、二匹の黒猫だ。親子なのか兄弟なのか、身を寄せ合って上を見上げ、もう散ってしまった桜の木を見ている。

 人馴れしているのだろうか、娘が近づいてもそこから去る様子は無く、それどころか二匹揃って娘の方に首を向けた。

 

「にゃー、にゃー」

「みぃ」

「にゃぁ」

 

 母親譲りの猫との共鳴を始めた娘。俺と雪乃は、それを一歩離れた位置から微笑ましく見つめる。ついでにスマホでパシャリと一枚。

 

「お前はいかねえの?」

 

 不意に尋ねたその質問に、雪乃はキョトンと首を傾げるも、直ぐに得心がいったようにああ、と微笑んで見せた。

 

「あの光景には、私は邪魔者にしかならないわよ」

「そうか?」

「そうよ。それに、私まで猫に集中してしまっては、あなたが寂しがるでしょう?」

「......ま、否定はせん」

「ふふっ」

 

 さっきまで娘と繋いでいた手を、今度は雪乃と繋ぐ。

 娘が生まれて歳をとって、こうして手を繋ぐと言うことは少なくなっていた。大体に置いて、俺たち二人の間に娘がいたから。

 娘よりも大きくて、けれど俺よりも小さな雪乃の手を握る力を少し強める。こうして手を繋ぐのは本当に久し振りで、今度はいつこう出来るのかも分からないから、今のうちにこのぬくもりを堪能しておこうと。

 まあ、これくらいは頼めばいつでもしてくれそうなものだが。

 

「にゃーにゃー、あなたたちは兄弟なのかにゃー?」

「にゃー」

「にゃー」

 

 娘の言葉に返事をするように、二匹が差し出された指に顔を摺り寄せる。あれは肯定しているのだろうか。猫の知能はかなり高いとは聞いたことがあるが、見たところ野良猫っぽいあの二匹がそんなやり取りを出来るとは。これも我が娘が天使すぎる故なのだろう。

 

「兄弟いいなー。わたしもおとうとかいもうもがほしいなー」

「ぶふっ!」

「......っ!」

 

 思わず吹き出してしまった。うーん、どうやら我が娘はお姉ちゃんになりたいらしい。

 いや、まあ、二人目が出来てもあらゆる面で余裕はあるけれど。

 

「二人目、ね......」

「待ってそんな染み染みと呟かないで。て言うかなに、お前的には大丈夫なの?」

「......ええ、まあ」

「マジか......」

 

 耳の下やうなじを赤く染めて、雪乃はそっぽを向いた。まあ、彼女がそう言うのなら、俺も満更ではないのだけれども......。

 

「愛してる人との子供なら、何人でも欲しいと思うのは当然でしょう......」

 

 ポツリと聞こえた呟き。それを聞き逃す俺ではなく、結婚してから何年も経っていると言うのに顔は熱を持つ。どうやらこう言ったものには、重ねた歳月というものは関係ないらしい。

 

「白昼堂々とする会話じゃねぇよなぁ......」

「まあ、それもそうね......。と言うことで、今夜は頑張ってね、お父さん?」

「今夜っすか......」

「満開の桜を見せてあげれなかったのだから、これくらいの望みは叶えてあげたいじゃない」

「ソッスネ......」

「ふふっ」

 

 気を紛らわすように、スマホを再び構えて娘の写真を撮る。

 いつかはこの画面の中に、もう一人増えるのだろうか。

 だがまあ、そんな未来も悪くはない。



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八幡の夢を見てしまって嬉しくなっちゃうゆきのんの話

  暗がりの中、彼の顔が視界に映る。

  部屋の照明は落として、枕元にある小さなランプが唯一の光。けれど、あなたの顔はどうしたって私の目にはしっかり映っていて。

  多分、彼の方も同じなのだろう。こんな暗い部屋の中でも、私の顔はしっかりと見えているはずだ。だって、その腐った両の瞳は私を捉えているもの。

  そう思うとなんだか恥ずかしくて、頬が際限なく熱を持つ。

 

「比企谷くん......」

 

  名前を呼んだ。彼の姿が、この暗闇に溶けてしまわないように。

 

「雪ノ下......」

 

  名前を呼ばれた。とても切なくて、でも確かな愛情を感じられる声色だ。

  もっと、もっと彼を感じたくて、服を全て脱ぎ去ったその体に抱きつく。

  彼の体は想像していたよりもガッシリしていて、女の私と比べるととても大きく感じる。彼が男なのだと、嫌でも理解させられる。

  彼は少し躊躇ったような気配を見せながらも、私の背中に手を回してくれた。

  とてつもない満足感と、ほんの少しの羞恥心。肌と肌が直接密着していて、お世辞にも大きいとは言えない私の胸部も、彼のそれなりに厚い胸板へと押し付けられる。

  私も彼も、もう全身が真っ赤になる勢いで。けれど、決して体を離そうとはしない。

  これから臨む行為には、些かの恐怖心を拭いきれない。だから、精一杯彼に甘えるように声を出した。

 

「......優しくしてね?」

「......善処する」

 

  まるで余裕の無さそうな彼の顔。本当に優しくしてくれるのかしら。と思いはするも、その顔を見ていると不思議と不安が晴れていく。

  彼は優しいから。自分だって余裕が無いくせに、私を気遣ってくれるのだろうと、なんとなくそう思う。

 

「雪ノ下」

 

  再び名前を呼ばれた。今度は、ハッキリとした声で。

  その声に呼応するように、私は彼の唇へと自分のそれを寄せていき───

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「......最悪だわ」

 

  目が覚めた。

  枕元の目覚まし時計は、セットしていた時間の十分前を表示している。十分程度は誤差だろう。寝坊したのならともかく、早起きしたのなら特に自身を咎めることも無い。

 

「......本当、最悪」

 

  吐き捨てるように呟く。別に目覚めが悪いわけではない。寧ろいい方だ。体調も頗る健康そのもので、精神的な調子もいい。

  だからこそ、気分は最悪だった。

 

「どうしてあんな夢を......」

 

  そんな疑問に答えてくれるような人間はいない。隣に置いてあるパンさんは物言わぬ人形だし、そもそもこの家には私一人しか暮らしていないのだから。

  あんな夢を見て絶好調と言えるほどになってしまっている自分が、心底最悪だと思えた。

  そもそもあれはなに? どう言う状況なの? どうして私と比企谷くんが裸で......、はだ、か、で......。

 

「〜〜〜〜〜〜っ!!」

 

  遅れて湧き上がってきた羞恥心に、自分の頭を枕へと勢いよく投げ出す。危ない、もう少しで人様にはお聞かせできないような声を出してしまうところだった。ナイスよ私の枕。

  ......でも、冷静に考えたら、この枕もあの夢に出てきてたわよね。というか、場所はこの部屋だったし......。

 

「さて、学校に行く準備をしましょう」

 

  声を出して無理矢理思考を断ち切った。こうでもしないと、あの夢のように私の顔は際限なく真っ赤になってしまうことだろう。

  うん、今日も特に何もない日。依頼は無いし、いつも通り由比ヶ浜さんも部活に来る。いつも通りいつもの如く、放課後は紅茶を飲みながら読書をしていたらいい。それだけだ。その日常に、当たり前のようにいる彼の事は、今日だけは必要以上に考えることはやめましょう。別に、いつも彼のことを考えているわけではないのだけれど。

  ベッドから降りて立ち上がり、部屋を出ようとして、振り返りベッドの上を見る。

  夢の中のあの上で行われていたのは、いくら私でも察しがつく。けれど現実に私と彼はそう言った関係では無い。

 

「......比企谷くんの、バカ」

 

  意味のない八つ当たりを一つして、私は部屋を出た。

  今日の部活、どうしようかしら......。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

  時は流れ放課後。

  いつも通り授業を受け、いつも通り部室の鍵を開き、そしていつも通り彼と彼女が来るのを待っている。

  この時間が好きだ。私が部室で、彼と彼女を迎える。こんな私の、学校生活における数少ないこだわりのようなもの。

  けれど、今日ばかりはこの時間が好きになれそうにない。

  昼休み、いつものように由比ヶ浜さんとお弁当を食べていると、今日は飼い犬のサブレを動物病院へ連れて行かないといけないから部活に来れないと聞いた。ペットも立派な家族の一員だ。それを引き止める理由はない。

  理由はないけれど、どうして今日なのかと心の中で何度もため息を吐いてしまった。

  読んでいる文庫本から顔を上げ、黒板の上に備え付けてある時計を見る。彼が来るまでもう数分となさそうだ。

  そうしていると、部室の外から足音が聞こえてきた。やる気のなさそうな、どこかダルそうな、そんな足音。

  いつも聞こえて来るものよりも、更にやる気がなさそうに聞こえるのは気のせいだろうか。

  そして数秒後、足音が止まり、部室の扉がゆっくりと開かれる。

 

「......うっす」

「......っ。こんにちは」

 

  いつも以上にやる気のない挨拶をする比企谷くん。その顔を見て、どうしても思い出してしまう昨夜の夢。私を見つめる彼の瞳と、その猫背からはあまり想像出来ないような、大きな身体。

  そんな事を思い出してしまった所為で思わず言葉に詰まってしまいそうになったが、なんとか挨拶を返す。

  大丈夫、別に由比ヶ浜さんが部室にいないのは今回が初めてと言うわけでもないのだから、今日も今日とていつも通り過ごせばいいだけよ。

 

「紅茶、淹れるわ」

「......おう」

 

  まずはいつも通りの代名詞とも言える紅茶から。これを飲んだら私の心も落ち着くはず。いえ、別に取り乱しているわけではないのだけれど。ただちょっと夢の内容を思い出しかけてしまっただけよ。

  湯呑みとティーカップに紅茶を注ぎ、湯呑みの方を彼の元へ持っていく。自分の一挙手一投足がおかしな事になっていないか不安になりながらも、なんとか彼の目の前へ辿り着いた。

 

「どうぞ」

「......サンキュ」

 

  比企谷くんはこちらに目を合わせようとしない。どこか必死とも思えるくらい、手元の文庫本に視線を落としている。その様子がなんだかおかしくて、彼にまた何かあったのではと不安になって、思わず問いかけてしまった。

 

「なにか、あったの......?」

「......っ」

 

  ピクッと、彼の肩が反応した。

  視線をそのままに、その口を開く。

 

「いきなりなんだよ。俺は今日も今日とて絶不調だぞ?」

「あなた、いつもより目が腐っているわ。また何か面倒なことを抱え込んでいないでしょうね?」

「判断基準おかしくない?」

「いいから。なにかあったのなら嘘偽りなくここで言いなさい」

 

  もう夢のことなんてどうでも良くなっていた。彼がまた傷ついてしまうかもしれない。そう思うだけで、その可能性が少しでもあるかもしれないと言うだけで、胸がキリキリと締め付けられる。

  彼は私の質問にすぐ応えるような事はなく、部室には沈黙が降りる。私は彼の目の前から動かず、ただ、彼が言ってくれるのをそこで待っていた。

  やがて観念したのか、長いため息を吐いた後に、私の目を見つめてくる。

  目が合った比企谷くんの頬は、何故だか少し赤くなっていて。

  不意に、夢の中で彼に見つめられていた事を思い出して、私の頬も少し熱を持ってしまった。今はそんなこと思い出してる場合ではないと言うのに。

 

「......先んじて言っておくが、怒るなよ?」

「それは聞かない限り分からないわね」

「まあ、そうだよな......」

 

  私が怒るような内容。という事は、やはり私や由比ヶ浜さんに隠れてなにかをしていたのだろうか。

  しかし彼が教えてくれたその内容は、そんなものではなくて。

 

「ちょっと、変な夢を見ちまってな......。そこに、その、お前が出て来たと言うか......」

 

  それは、どこかで聞いたことのある話だ。

  いや、それも当然と言えるだろう。

  だって、私の夢にも比企谷くんが出てて、そして彼の夢にも私が。

 

「雪ノ下......?」

 

  彼から顔を隠すようにしてから、自分の席へと戻った。お陰で比企谷くんは訝しげに私を見ている。怒られたと思ったのだろうか、その目には少しの不安も見て取れる。待って頂戴、今ニヤけるのを抑えるのに必死だから。

  こんな事で嬉しくなってしまう乙女な自分。でも、そんな自分が嫌ではなくて。

  ああ、どうしましょう。嬉しくて嬉しくて。けれどそれ以上に顔がとても熱くて、なんだか恥ずかしい。

 

「そ、その、差し支えなければ、どう言った夢を見たのかも教えてもらっていいかしら......?」

「は? いや、なんでそこまで教えんとダメなんだよ」

「私が夢に出て来たのでしょう? なら、それを知る権利はあると思うのだけれど」

 

  滅茶苦茶なことを言っている気がするが、まあ気のせいでしょう。長机の対面では、あーとかうーとか彼が唸っている。そんな様が少し可愛く見えてしまう。

 

「......つーか、お前の方こそなんか今日変だぞ」

「私?」

 

  露骨の話を逸らされた。思い当たる節は勿論あり過ぎるわけで。けれどそれを態々口に出すなんて真似はしたくないので、戯けてキョトンと首を傾げてみせる。

 

「さっき挨拶して来た時も、なんか一瞬詰まってる感じだったし。なんかあったのか?」

「......別に、あなたに話すようなことではないわ」

「本当か?」

 

  間髪いれずに重ねて問われる。その顔は真剣そのもので、本気で私のことを案じているのだと言うことが、嫌でも読み取れてしまう。

  何故だろう。その事実が、私の胸をキューっと締め付ける。けれどそこに痛みがある訳ではなく、どころか、気を抜けば頬が更に赤くなってしまいそうで。

  だって、かつての比企谷八幡からは考えられないじゃないか。こんな言動、そんな表情。私が何もないと言えば、そこでおしまいだったはずなのに、今の彼はこちらに一歩踏み込んで来てくれる。

  だから、考えるよりも先に、口は動いていた。

 

「......あなたと同じよ。少し、変な夢を見てしまったから」

「......えっと、それってつまり?」

「あなたが、夢に出て来たのよ......」

 

  こんな好意を前提とした発言、普段なら言えるはずもないだろう。けれど、彼が夢を見て、私も夢を見て、そして、彼が今までと違って、私に踏み込んで来てくれた。

  そんな、常とは違うような状況が、私の羞恥心を打ち消してくれる。

 

「......待て、ちょっと待ってくれ。一応確認しときたいんだが」

「......?」

 

  真っ赤な顔を右手で覆い、反対の左手の掌をこちらに向けて来る。確認とは一体なんのことなのだろう。

 

「まさかとは思うが......。その夢、お前の家の寝室だったか......?」

「なっ、な、何故、それをっ!」

 

  打ち消された筈の羞恥心が再びやって来る。どうして彼は私の夢の内容を知っているのか。いや、私の脳みそはその答えを導き出そうとしているのだ。けれど、理性がそれを認めようとしない。

 

「......服、は、着てたか......?」

 

  恐る恐ると言った風にこちらを横目で覗き、普通に考えたらバカみたいなことを聞いてくる比企谷くん。そんな彼の方を見ることが出来ず、小さく首を横に振った後、そのまま顔を俯かせてしまう。

  私、このままこの頬の熱に溶かされてしまうのではないかしら? 血液とか蒸発してしまいそうなのだけれど?

 

「そうか......」

 

  どうやらこれは認めざるを得ないらしい。

  私と彼が、全く同じ夢を見ていた、という事を。

  そんな事があり得るなんて信じられないが、事実としてそうなってしまっている。

 

「......その、あれだ。なんか、すまんな......」

「どうしてあなたが謝るのよ」

「そりゃお前、不快にさせちまったなら謝るだろ」

 

  この男は相変わらず......。どうしてそこまで、自己評価が低いのかしら。これは死んでも治らないのでしょうね。

 

「不快になったなんて一言も言っていないわよ」

「いや、でもお前あれだぞ? 夢でその、俺とお前が、だな......」

 

  そこまで言ってから、顔をまた赤くして俯いてしまう彼。そんな姿が可愛らしく見えてしまうが、今はそれに悶えている時ではない。

  ちゃんと、自分の気持ちを正直に伝える時だ。

 

「わたっ、しは、別に、悪くなかったと、思ってるわ......」

「お前、何言って......」

「あなたは、どうなの......?」

 

  酷く掠れた声での問い。でも、私から顔を逸らす彼を見ていると、しっかりと聞こえていたのが理解できる。

  やがて聞こえた声は、私に負けず劣らずか細い声で。

 

「......俺も、別に悪い気はしなかったよ」

「そう......」

 

  しっかりとこの耳に届いた言葉は、じんわりと私の胸へと染み込み、確かな熱を持って喜びへと変化していく。

  抑えようとしても頬が緩んでしまって、それを見られたくなくて、誤魔化すように紅茶を口に含んだ。

  彼は文庫本に視線を落としている。それを、この話は終わりだと言う合図と受け取って、私も彼に倣って読書を再開した。本の内容が頭に入る気はしないけれど、そうでもしないとどうにかなりそうで。

  ただ、今夜も彼と同じ夢が見られたら。

  そんなロマンチックな事だけを考えていた。

 

 

 



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恋人だから

理由なんて、必要ないのよ。


実は今日誕生日なんで自分のためだけに八雪書きました。おめでとう俺!


 購買で買った惣菜パンとマックスコーヒー。

 これさえあれば、というかマックスコーヒーさえあれば俺はどんな苦境に立たされても生き残れる自信がある。

 そう思う程度には、今現在学校で摂っている昼食には満足していた。なにせマッカンがあるのだ。マッカンはいい。荒んだ心を落ち着かせてくれる。これがあれば放課後の罵倒旋風にも耐えられると言うもの。リリンが生み出した文化の極みだよ。

 今日も今日とてベストプレイスで食す昼食。離れたところにいる戸塚の姿はマッカン並みの癒しを俺に与えてくれる。

 なんだかんだで購買人気一番の焼きそばパンを貪り、マッカンをチロチロとゆっくり舐めるように味わうように飲み、俺は昼休みの時間を過ごしていく。

 一年の時から続けて来た一種のルーチンワークのようなものだ。いや、戸塚をこの目に収めている以上、儀式と呼んでも過言ではないかもしれない。

 そんな大事な儀式の途中、人の気配を感じて不意に振り返っると、それが視界に映った。

 艶やかな黒の中で踊る番いの蝶と、凛とした歩き姿。

 彼女のその姿を不意打ちのように見てしまうと、どうしても見惚れてしまうのは毎度のことだ。もう慣れた。嘘、全然慣れない。いつもあいつの美少女っぷりを再確認させられて、その度に「どうしてあんな可愛い女の子が俺の......」とか考えちゃう。もっとも、本人にそれを言えば怒られること間違いなしだが。

 

「あら」

「よお」

 

 向こうも俺の視線に気がついたのか、挨拶がわりに軽く手を挙げればこちらにてこてこと歩み寄ってくる。なんだよてこてこってお前可愛いなおい。

 

「こんにちは。こんな所でなにしているの?」

「見ればわかんだろ。天使の姿を拝みながら昼飯食ってんだよ」

「冬は過ぎ去った筈なのだけれど、あなたの人間関係に春は訪れなさそうね......」

「いや、お前がそれを言うのか......」

 

 冬の気配がまだ残ってる頃合いに春を訪れさせたやつがなにを言うのか。

 雪ノ下の両手を見てみると、そこには紙パックのジュースが握られていた。あー、なんか既視感のある光景だぞ。待て待て、なんだったか......。えっと、確か......。

 

「あぁ、なに、お前由比ヶ浜に負けたの?」

「なっ、なぜそれを......!」

 

 驚愕の表情で俺を見つめる雪ノ下。その後両腕で控えめな胸を抱いて後ずさった。おい、またストーカーかなんかとか思ってるだろ。恋人に対してそれはどうなんですか? やだ、恋人とか言っちゃった、恥ずかしい!

 

「丁度一年前くらいにも由比ヶ浜がお前に負けてここ通ったからな」

「なんだ、そうだったのね」

「てか、部室に紅茶あるだろ。それ飲めよ」

「たまにこうした遊びをしているのよ。由比ヶ浜さんがどうしてもと言うから」

 

 ふふっ、と困ったような笑顔を浮かべる雪ノ下自身、満更でもなさそうだ。まあ、こいつ由比ヶ浜にはとことん甘いし優しいし。それを少しでもいいから俺に向けてくれてもいいのよ?

 つーか、今まで雪ノ下の姿をここから見たことなかったってことは、こいつこれまで無敗だったのか。それはそれでヤバイな。何連勝だよ。

 未だ俺を見下ろすように立った雪ノ下は、俺の手元の惣菜パンを見て眉を顰めた。

 

「それよりあなた、お昼ご飯はそれで足りるの?」

「ん? ああ、まあ足りるって事もないけど、二年以上ずっと続けてるから体がもう慣れた」

「そう言う問題ではないでしょう......。成長期の男の子が、そんな栄養の偏ったものを食べるのはあまり良いとは言えないわよ」

「そうは言われても、こっちは小遣い掛かってるからな」

 

 いや本当、育ち盛りの息子に渡す昼飯代が五百円ってどうなんですかねお母様。その割に小町ちゃんには二千円渡してたけどその辺りどう言う事なんですかねお母様。

 まあ、育ち盛りって言うと小町の方が絶賛育ち盛りの可愛い盛り。なんなら一生涯かけて小町は可愛い盛りが続く。俺の家庭内ヒエラルキーなど無視しても、小町が優先されるのは当たり前と言えるだろう。

 それにほら、ちゃんと栄養取っとかないとダメって言う反面教師がいらっしゃるし。今まさしく俺の目の前に。

 

「今何か、とても不快な視線を感じたのだけれど」

「気のせいだ」

 

 こちらを胡乱な目で見つめるまな板ノ下さんを適当にはぐらかすと、その目のまま俺の隣に腰掛けてきた。いや、お前、早く由比ヶ浜のとこ戻ってやれよ。

 

「それ、美味しい?」

「ん?」

 

 雪ノ下が指差したのは、俺が今食べている焼きそばパン。因みに今日のヒッキーランチは焼きそばパンとコロッケパンだ。焼きそばパンはパンから焼きそばがはみ出す上にちょこんと乗っけられた紅生姜が常に落ちてしまいそうになるし、コロッケパンなんて食べてもなんのコロッケか分からない。学校の購買で売ってる惣菜パンなんてそんなものだろうと割り切ってるが。

 

「まあ、味は悪くないな。食いにくい上に、お前の言った通り栄養にいいとは言えないが」

「そう。......一口貰ってもいいかしら?」

「は? お前自分の弁当あるんじゃねぇのかよ」

「購買でパンを買ったことはなかったから、試しに食べてみたいのよ」

 

 明日自分で買え、と言う言葉は、どうしても出てこなかった。いや、喉まで出かかって、引っ込めざるを得なかった。

 だって、そう言った雪ノ下は直ぐに目を閉じて、その小さな口を開いてこちらに向けているのだから。

 そこから覗く白く綺麗な歯に、妖艶な雰囲気を醸し出す舌。そして僅かに見て取れる唾液。普段なら絶対に見ることの叶わない恋人のその光景に、思わず喉を鳴らす。

 こいつは、今自分がなにをしているのか理解しているのだろうか。本人としては、俺に焼きそばパンを食べさせてほしいだけなのかもしれないが。

 ここが学校で、今は全校生徒が校内に揃っている昼休みだと言うのに、たった一瞬だけだったとしても彼女のその行動が卑猥なものに見えてしまうのは、悲しい男の性。

 そもそも、こんな餌付けするように雪ノ下へと食べ物を献上することなんて経験ないわけで、つまり、俗に言う「あーん」と言うやつをやったことなんてないわけで。

 しかし邪な思考を捩じ伏せるのに必死だった俺は、そんなこと考える暇もなく雪ノ下の小さな口へと焼きそばパンを運んでやる。

 

「あむっ、んくっ。......これ、美味しい?」

「......不味くはないだろ」

「それもそうね」

 

 ポケットから取り出したハンカチで上品に口元を拭う雪ノ下だが、俺は彼女の顔を直視する余裕などなかった。

 どうして焼きそばパン一つでそこまで色っぽく、それでいてどこか幼さを感じさせる食べ方が出来るんだ。俺が紳士じゃなかったら襲われてたぞ。襲われた挙句男が返り討ちにあってその後社会的に抹殺されるまであるぞ。

 

「けれど、やはりこのような食生活はオススメできないわ」

「オススメされても困るけどな」

「そうね。......ならこうしましょう」

 

 俯き顎に手を当てて考える素振りを見せた雪ノ下は、やがて顔を上げてさも冴え冴えとした瞳で俺を見つめて、いかにも名案が思い浮かんだと言わんばかりの笑顔で言った。

 

「明日からは私がお弁当を作ってきてあげる」

「は?」

 

 突飛とも言えるその提案に、思わず間抜けた顔で疑問符を浮かべてしまった。そんな俺の反応が気に食わなかったのか、ちょっとムッとした表情で睨んでくる。

 

「なによ、その顔は」

「いや、なによもなにも、お前からそうして貰う理由がないんだが......」

 

 こうして惣菜パンを毎日貪ってるのも、ようは俺の勝手なわけで。五百円貰えればコンビニ弁当くらい買えるのに、浮いた金を懐に収めようなんて馬鹿な思いつき故にこうしているだけで。つまり、彼女がそんな労力を使う理由なんてないのだ。

 そんな俺の考えを知ってか知らずか、いや、ある程度は察しているのだろうが、雪ノ下は少し頬を赤らめた後、そっぽを向いて呟く。

 

「恋人にお弁当を作ってあげるくらい、理由なんて必要ないじゃない......」

「......っ」

 

 強いて言えば、それが彼女の理由なのだろう。

 恋人だから。

 比企谷八幡の恋人、雪ノ下雪乃として、俺のことが本気で心配だから、昼飯を用意したいと。

 そう言ってくれてる。

 そのことが、なんだろう、とても胸を締め付けた。痛いわけでもないし、鼓動が高鳴ったわけでもない。

 確実に分かったことはただ一つ。

 俺はまた、この女の子のことをより好きになってしまったと言う事実だけだ。

 

「じゃあ、明日から頼む......」

 

 そんな返事をすると、雪ノ下が華やいだ笑顔を浮かべてこちらを見る。やっばりその顔は直視出来なくて、今度は俺が明後日の方向を向いてしまったけれど。

 

「ええ、任せなさい。腕によりをかけて作ってあげる。あなたはなにが食べたいかしら?」

「お前が作るのなら、なんでもいい。絶対に美味いだろうからな」

「なんでもいいが一番困るのだけれど」

 

 本当に困ったように言いながらも、その顔には未だ変わらぬ笑顔があって。

 ふふっ、と上機嫌な笑い声を漏らしながら、明日のお弁当の献立を考えている。

 

「卵焼きに唐揚げ、あとはパンさんウィンナーとかかしら?」

 

 パンさんウィンナーってなに。タコさんじゃないの? パンさんの形したウィンナーとかあるの? て言うか野菜。栄養バランスが云々と言うなら野菜もどうするのか考えろ。

 

「あ、トマトだけは勘弁な」

「なるほど、トマトね。分かったわ。......桜でんぶでハートマークとか、した方がいいのかしら?」

「......勘弁してください」

 

 隣で浮かれている彼女を横目にしながら、恐らくは人生最後になるであろう学校の購買で買える惣菜パンを口に含んだ。

 なんだかんだで、俺も明日が楽しみだ。

 

 翌日、ミニトマトと桜でんぶのハートマークがその姿をしっかりと俺の目の前に現したのは言うまでもない。

 

 



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幼い頃の約束は、今も確かに覚えている。

初めて幼馴染八雪書いてみました。


  この歳になってからの幼馴染と言うのは、心底厄介なものだと思う。

  家族以外で幼少期からの自分を知っている人間と言うのは、つまりは俺の弱みやらなにやら全てを知っているという事で。勿論俺も相手のそれらを理解してはいるが、いかんせん俺の幼馴染と言うのは俺よりも高スペック揃いだ。金持ちで見た目が良くて勉強も運動もできる。漫画の世界に帰れと何度思ったことか。

 

「比企谷くん、お菓子がなくなったから新しいのを取ってきて頂戴」

「比企谷、vitaの充電器貸してくれないか?」

 

  そんな幼馴染の二人が、どうしてこうして俺の家に集まってのんべんだらりとコタツムリになっているのか。

  甚だ疑問である。

 

「あのなお前ら......」

 

  溢れるため息は我慢出来ずに漏れてしまったもの。こうして俺の幸せは逃げていくのかと思うと、幼馴染二人にいつも以上に腐った目を向けてしまうのも無理からぬことだろう。

 

「ちょっとは自分で動くって発想はないのかよ。こんな自堕落そのものなお前ら見たら、学校な奴らから失望されるぞ」

 

  雪ノ下雪乃と葉山隼人。

  タイプは違えど、そのカリスマでクラス内どころか学校中からの人気を集めているやつらだ。そこに性別の是非は問わず、同性であろうが関係なく羨望の眼差しが送られる。

  最も、俺にとっては、今この場でこうしてダラダラしている二人の方が馴染み深いのだが。

 

「私達は客なのよ? あなたは客にものを取りに行かせるつもり? 常識のなっていない男ね」

「休日の朝から押しかけてくるやつらを客とは認めん」

「どうでも良いけど早く充電器を貸してくれないか?」

「自分で持ってこいっていつも言ってんだろ」

 

  もう一度ため息を吐き、まずはキッチンから適当にポテトチップスを取り出してコタツの上に持っていく。そのコタツに入っている雪ノ下は、随分と幸せそうな微笑みでうちの飼い猫であるカマクラをもふっていた。

 

「ほれ、もうポテチしかけどいいよな?」

「あなたバカなの? そんなもの食べていたら手に油がついてしまってカマクラをもふれないじゃない」

「比企谷、充電器早く」

「うるせえ知るかバカ」

 

  季節は春。あと一週間で新学期が始まると言うこの春休みに、どうしてわざわざうちに来るのか。つーかもう三月も終わりだってのにこいつらは何故未だコタツムリになるのか。

 

「て言うか、マジでなにしに来たの? 春休み入ってから毎日毎日うちに来やがって。やることないのかよ」

 

  葉山に至ってはサッカー部どうした。つか部活がなくてもお友達も遊ばなくていいのかよこいつ。お前それでもリア充かよ。

 

「勘違いしてもらっては困るのだけれど、私はカマクラに会いに来ただけよ?」

「俺は比企谷に会いに来てるから安心してくれ」

「キモいからやめろ葉山」

「私だって疑問に思うことはあるわよ。折角の休日なのに、どうしてこんな腐肉とチャラ男と一緒なのか」

「腐肉......」

「チャラ男......」

「けれど仕方ないと割り切ったわ。カマクラに会うためにはここに来なければならないのだし、あなた達なら幾らか気が楽なのも事実だし。それに比企谷くんはこんな美少女と休日が過ごせているのよ? そこのチャラ男なら兎も角、あなたは泣いて喜んでもいいのでなくて?」

「美少女なぁ......」

 

  確かに、本人の言う通り雪ノ下は美少女だ。それも超が付くほどの。幼い頃からそれは理解していたのだが、ここ最近は中学まで見せていた容姿的な幼さも徐々に無くなりつつある。このまま大人になれば、そこらのモデルや女優顔負けの美人になること間違いなしだろう。

  そして、そんな彼女と過ごせるのを悪くないと思っているのも、また事実だ。しかし悲しいかな。そこに込められた感情はそれだけではなく。幼い頃から抱いて来たこの感情は、未だその火を消すことなく俺の心に燻っている。

 

「比企谷くん、少しカマクラを預かっていて」

 

  突然立ち上がった雪ノ下が、俺にカマクラを差し出して来る。素直にそれを受け取ると、リビングの扉の方へ歩いていった。

 

「なんだ、トイレか?」

「デリカシーのない男ね。そういうのは分かっていても言わないものよ」

「そりゃ悪かったな」

 

  リビングを出て行く雪ノ下を見送り、預かったカマクラの腹をうりうりともふる。カマクラは雪ノ下にもふられていた時と違い、どこか不満げだ。いやなんでだよ。お前の飼い主俺だよ? あいつ飼い主じゃないよ?

 

「なあ比企谷」

 

  vitaをポチポチ操作しながら、葉山が声をかけて来た。て言うか充電まだ切れてなかったのかよ。充電器別にいらねえじゃねえか。

 

「君はいつ雪ノ下さんに告白するんだ?」

 

  その質問に、最早条件反射のようにため息を漏らす。こちらに顔は向けないが、その表情は真剣そのものだ。一体同じ質問を、今まで何度されたことやら。数えだしたらキリがない。しかもそこらのリア充みたいなからかい混じりなどではないからタチが悪い。

 

「あのな葉山、何回言ったら分かるんだよ。俺は雪ノ下に告白しない。そもそも、俺じゃあいつに釣り合わないだろ」

「毎度のことだけど、好きじゃない、とは言わないんだな」

「......」

 

  そこは、なにがあっても否定したくないところだから。そもそも葉山相手にそんな嘘をついた所で、通用しないのは目に見えている。

  今度は葉山の方がため息を吐き、vitaをスリープモードにして俺に向き直った。

 

「なあ比企谷、覚えてるか?」

「なにを」

「君が昔、雪ノ下さんに言った言葉だよ。確か、『雪乃は大人になったら俺を養え』だっけ?」

「人の黒歴史ほじくり返してんじゃねぇよ......」

 

  フィクションの中の幼馴染によくあるあれ。小さい頃に交わした結婚の約束。

  尤も、俺の場合はそんなカッコいいものではなかったのだが。なんだよ俺を養えって。もうちょいカッコいい言葉があっただろ。

 

「でも、その気持ちは変わってないんだろう? それに、雪ノ下さんだってちゃんと覚えてるみたいだし」

「まあ、雪ノ下本人が覚えてなくても、あそこの両親がなぁ......」

 

  当時ガキの戯言を間に受けた雪ノ下の両親は、あろうことか早速婚姻届まで用意しやがったのだ。あとはお互いが結婚可能な年齢まで待つだけ。流石の俺も開いた口が塞がらなかった。行動力の化身かよ。

 

「そうだな......。雪ノ下さんはちゃんと覚えてるし、君も一応はそのつもりみたいだし」

「誰がいつそんなこと言った」

「今のうちにもう少し距離を詰めたらどうだい?」

「話聞け」

 

  つか、距離を詰めるもなにも、これ以上どうやって距離を詰めろと? そりゃあの時と違うことは沢山ある。学校へは一緒に行かないし、呼び方も変わったし、なにより、あんな直接的に好意を前提とした言葉なんて吐かなくなった。

  俺たちは高校生だ。小学生のガキではない。それぞれが自意識に翻弄される、所謂お年頃というやつ。

  葉山のようなチャラ男(意訳)ならともかく、俺のような根暗野郎には無理難題。

 

「よし、まずは呼び方を昔のに戻してみようか」

「は? お前、それマジで言ってんの?」

「当たり前だろ。ほら、練習ついでに俺を呼んでみなって、八幡」

「なんでだよ......」

 

  その爽やかスマイルで名前を呼ばれても、葉山なんぞにトキメク筈がない。むしろときめいちゃったらやばい。別のクラスにそっちな趣味の人がいるとか聞いたことあるから、安易な発言をしてしまうとその人の餌になりかねない。

 

「じゃあぶっつけ本番で雪ノ下さんの名前を呼ぶか?」

「だから、なんで俺があいつの名前を呼ぶの前提で話進んでんだよ。一言もやるって言ってねえぞ」

「なんの話をしてるのかしら?」

「どわぁっ!」

 

  突然背後から声が掛かったと思うと、雪ノ下がリビングに戻ってきていた。不思議そうに小首を傾げているあたり、どうやら会話を聞かれていたわけではないらしい。

 

「いや別になんでもない」

「本当に?」

 

  重ねて問うてくる雪ノ下の視線は、しかし俺の背後にいる葉山へ向かっている。そちらへ問いを投げるとどうなるかと言うと。

 

「いや、少し昔の呼び方に戻してみないかと八幡と話していてね。雪乃ちゃんもどうだい?」

「あら、それは面白そうね、隼人君」

 

  とまあ、こうなるわけでして。

  これで仮に、雪ノ下が俺の名前を呼ぶだけに留まっていたのなら。それなら俺にも逃げ道はあった。また適当に屁理屈をこねてその場を凌げばいいだけだったのだ。しかし葉山の名前まで呼ぶとなると、俺の逃げ道は全て塞がれたも同然。

 

「ほら八幡。私の名前、呼んでみなさい」

「うぐっ......!」

 

  助けを求めるように背後を振り向くも、そこには爽やかにムカつく笑み浮かべた葉山のみ。俺を助けてくれるやつは一人もいない。

 

「あぁ、そう言えばこの後用事があるんだった。陽乃さんに呼ばれてるから、俺はここで失礼するよ」

「はあ⁉︎」

「じゃあな八幡。まあ、頑張れよ」

「おい待て隼人テメェ逃げるつもりか!」

 

  俺の叫びも虚しく、葉山は本当に家を出て行った。陽乃さんから呼ばれてると言うのは嘘ではないのだろう。そんな些細な嘘であの人の名前を持ち出すほど、あいつもバカではない。

  そしてリビングに取り残されたのは俺と雪ノ下のみ。

 

「それで? あなたは私の名前を呼んでくれるのかしら?」

 

  言いながら、雪ノ下はソファに座っている俺の隣へと腰を下ろし、上目遣いで俺を見上げる。その目は期待に輝いていて、桜色の唇は弧を描いていた。

  そんな表情をされては、俺に選択肢なんぞ与えられていないも同然だ。

 

「......雪乃」

「ふふっ、なあに、八幡」

 

  ああ、辞めろ、名前を呼んだだけでそんな幸せそうにするな。昔は毎日呼んでただろうが。

 

「ねえ八幡、昔の約束、覚えてるかしら?」

「......まあ、一応な」

 

  俺とこいつの間で交わした約束なんて、葉山と話していたあれしかない。だからこのタイミングでその話を持ち出されると、実は最初から聞いていたのではと疑いたくなる。まあ、アドリブとか演技とか出来ないようなやつだから、その心配も杞憂だとは思うけど。

  雪ノ下は俺との距離を唐突に詰めて来て、俺の腕に抱きついてきた。それをひっぺがす事も出来ず、受け入れてなすがままになっている。

  小学生の頃から全く成長していないと思っていた彼女の身体的特徴は、けれど俺には強すぎるくらいの刺激を腕に与えて来て。おまけに髪の毛から香るいい匂いとかのせいで、頭がクラクラしてくる。

 

「私はいつまでも待ってるから。だから、早く迎えに来てね?」

「まあ、あの約束の通りなら、迎えに来るのはお前の役目だけどな」

「また屁理屈ばかり」

 

  ふふっ、と微笑んでから、雪ノ下の柔らかい感触が俺の腕から離れていく。そしてソファからも立ち上がった彼女は、再びコタツの中へ。

 

「ところで比企谷くん、カマクラは?」

「え? あれ、知らん間にどっか行ったか?」

「捕まえて来なさい。いますぐに」

「へいへい......」

 

  幼い頃に交わした約束を未だに覚えていて、それを真に受けるなんて、俺たちくらいのものだろう。けれど、その約束はなんとしても違えたくはない。

  だから取り敢えず、今は彼女の従者のように、献上するためのネコを捕まえに行くとしよう。

 

 



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からかい上手の雪乃さんと新生活

おまちかねのからかいのん!


  激闘を繰り広げたホワイトデーを超え、大学の入学式も恙無く終わり、俺は現在、平和を噛み締めながら新生活を満喫していた。

  大学入学とともに始めた一人暮らしは思いの外快適で、小町に会えない以外の不満点は殆ど皆無と言って良いほどだ。1LDKと広さも十分だし、寧ろちょっと広すぎるくらいなまである。

  今日は土曜日で授業も休み、バイトなんてしてる筈もないので、一日中惰眠を貪ることが出来る。と言ってもやはり空腹には勝てないもので、11時になろうかと言う時間に布団から這い出て朝食兼昼食となるカップ麺を作ってるなう。

  カップ麺は素晴らしい。その名の通りインスタントに作ることが出来る上にあの美味しさ。これも人類の働きたくないと言う意思の集合体の一つだろう。そう考えると、カップ麺を作った人達には尊敬の念を抱かずにはいられない。

  若干機嫌よく、鼻歌交じりで台所に立っていると、不意にそれが目に入った。

  食器類を入れてある戸棚の中に収納された、お揃いのパンさんティーカップ。

  引っ越し当日に、彼女がここへ持ってきたものだ。それの他にも、何故か数着の着替えやら歯ブラシやらもここに置いていきやがった。それらの事を考えるだけで頬に熱が集まるのは、最早仕方のない事だろう。

  きっと彼女は、俺がそうなることを予想して私物を色々置いていったのだろうし。今もどこかで、あの小悪魔のような笑みを浮かべているに違いない。

  本人はいないと言うのに、そこかしこにある彼女の影に翻弄されながらも、カップ麺は無事完成した。まあ、カップ麺程度で失敗することなんてないのだけど。

 

「いただきます」

 

  テーブルの方まで運んだカップ麺を一口、音を出しながら啜る。

  うん、美味い。流石は人類の怠惰の結晶(語弊)。働きたくないと言う先人の意思がこれでもかと言うほどに伝わってくる。

  しかし、俺の気持ち的にはどこか満足とは程遠いのも事実。

  空腹は確かに満たされる。カップ麺と言えどもその量は十分であるし、なんならもう一つ作ればいいだけだ。だと言うのにどこか満たされないのは、彼女の手によって、幸せと言う最上級の味を覚えさせられたからだろうか。

  はぁ、と一つため息を漏らす。

  どれだけ彼女の揶揄いにしてやられているとしても、結局はこうして彼女のことばかり考えている時点で、やはり俺に勝ち目などないのだろう。

  けれど、なんだかんだでそんな自分が嫌いになれない。それどころか好ましく思っているのも事実で。

  ピンポーン、とチャイムが来客を告げたのは、そんな時だった。

  箸を置いて立ち上がり、玄関へと向かう。外を覗かずとも、誰が来たのかなんて分かる。分かってしまう。出来る限り頬のニヤケを抑え、いざ玄関の扉を開けようとドアノブに手をかけ、開く寸前で手を止めた。

  待て。待つんだ比企谷八幡。

  恐らくこの扉の向こうにいるのは、今俺が想像している通りの人物だろう。勿体つけずに言うならば、雪ノ下雪乃で間違いないはずだ。

  つまり、タダで彼女が我が家へと入ってくるわけがない。必ずと言って良いほど、何か揶揄いの一つでも用意しているはずだ。彼女のキャラ的には考えられないが、扉の後ろに隠れて驚かす的な感じのやつを。

  念の為外を覗いて確認すると、そこにはやはり雪乃の姿が。どこかワクワクしているようにも見える。と言うことは、やはりなにかしら揶揄いのネタを持っていると言うことか。

  それが一体どのようなものかは分からないが、分からないのならば対処法はただ一つ。

  そう、先手必勝だ。

  手を掛けたドアノブを回し、ついに扉を開く。その先には勿論雪乃が。ワンピースに身を包んだ春らしいその装いは、彼女の魅力を最大限に引き立てている。

  一瞬見惚れてしまって固まりかけたが、なんとかすんでのところでとどまり、向こうがなにか仕掛けてくる前に、俺は口を開いた。

 

「よお、おかえり、雪乃」

 

  自分の出せる最大限に優しい声と笑顔で、そんなことを言ってみせる。ここは彼女の家ではなくて、俺と彼女は同棲しているわけでもなくて。だと言うのに、白々しくもそんな言葉を吐く。

  目の前の雪乃は一瞬だけ驚きに目を丸めたものの、しかし直ぐにその顔は綺麗な笑顔を形作り。

 

「ただいま、八幡」

 

  俺の妄言に乗って来た。しかもめっちゃ嬉しそうな笑顔で。えー、これはちょっと予想外と言いますかなんと言いますか......。なんなのこのやり取り、夫婦かよ......。

 

「八幡? どうかしたの?」

「......いや、なんでもない」

「そう。ならいいのだけれど」

 

  こちらの顔を覗き込んでくる雪乃のその表情は、先程とは違った種類の笑みを浮かべている。クスクスと楽しそうに笑うのを見る限り、どうやら俺の目論見は完全にバレていたらしい。

  もう恒例の如くまた一つ無様に負けを刻み、雪乃に家の中へ入るよう促す。

  ところでこいつは今日なにしに来たのだろうか。大抵は事前に連絡があってからうちに来るのだが、今日はそれもなかった。

  いや、別に理由なんてなくてもいいのだ。こうしてうちに来てくれるだけで、嬉しいことには変わりないのだし。

  そんな疑問をなにも言わずとも読み取ったのだろう。雪乃は笑みをそのままに、こちらに向き直って口を開く。

 

「そろそろ私の手料理が恋しくなった頃じゃないかしら?」

「......」

 

  完全に図星でなにも言えなかった。

  なんで分かるんですかねぇ......。なに、エスパーとかサトリとかその類なの?

 

「ふふっ、やっぱり。顔にデカデカと油性マジックで書いてあるわよ。愛しの雪乃の手料理が今直ぐにでも食べたい、って」

「......そこまでは思ってねぇよ」

「そこまでは、という事は、少しくらいなら似たようなことを思ってくれていたのね」

「まあ、ちょっとはな......」

 

  どうやらエスパーでもサトリでもなんでもなくて俺が分かりやすいだけみたいですね。そりゃ揶揄われるし勝てるわけもないわ。

  が、ここで諦めないのが俺である。基本的には『押してダメなら諦めろ、千里の道も諦めろ』が信条の俺だが、ことこの勝負に関しては諦めらつもりなんぞ毛頭ない。だってこのまま雪乃に負けっぱなしってのは、流石に男として色々とあれだし。

 

「あー、飯作ってくれるなら晩飯でもいいか? カップ麺食ってる途中だし」

「あなた、まだあの栄養の偏ったものを食べたいるの?」

「それしかないから仕方ないだろ」

「全く、私がご飯を作りに来なければ、一人暮らしなんて到底無理そうね」

「ほっとけ」

 

  お小言を頂戴しながらも、カップ麺を食べるのを再開させる。

  さて、どう攻めてやろうか。幸いにして雪乃は揶揄いモードから世話焼きモードへと切り替わっているようで、散らかった俺の部屋の片付けを始めた。

  おっかしいなー。確か先週も雪乃に片付けてもらった気がするんだけど、なんでまた散らかってんのかなー。完全に俺の生活スタイルが悪いからですね分かります。

 

「けれど、片付けくらいはしっかり出来るようにしておきなさい」

「善処する」

「そんな事では、将来子供が出来た時に困るわよ?」

「んぶふっ!」

 

  麺が逆流して鼻から出そうになった。

  こいつはいきなりなにを言い出すんだ......!

  振り返って雪乃の方を見ると、彼女はやはり小悪魔のような笑みを見せていて、そして俺と目が合うと、その笑みを一層深くした。

 

「あら、八幡は一体なにを考えたのかしら?」

「......別になんも考えてねぇよ」

「ふふっ。別にいいのよ? 色々と想像してしまっても」

 

  言われて、ついに思い描いてしまった。

  雪ノ下雪乃との未来。

  俺がいて、雪乃がいて、お互いに左手の薬指には鈍く輝く指輪を嵌めて、それから、彼女によく似た可愛い子供がいて、全員が笑って暮らせているような、そんな未来。

  そこまで考えて、思考を断ち切るためにカップ麺の残りを一気に口へと流し込む。

  あまりにも気が早すぎるだろう。雪乃との交際を始めたのは卒業も間近という頃合い。つまりは数ヶ月前の話だ。だと言うのにこんな事を考えてしまうだなんて、浮かれすぎだろう。マジで。

 

「顔、真っ赤よ?」

「気のせいだ」

 

  頬に集まる熱なんて当たり前のように自覚している。けれど、それを認めようとしないのはつまらない意地ゆえか。

  食い終わったカップ麺の容器を台所のゴミ箱へ捨て、箸は適当に流しへと放り込む。

  雪乃のやつめ、今に見てろよ。今日こそは、今日こそはお前に勝ってやるぞ!

 

「なあ雪乃」

「なにかしら?」

「食材、今家になんもないから、後で買い出しに行かないか?」

「ええ、構わないわよ」

 

  よし、掛かった!

  その余裕そうな表情をすぐに崩してやる!

 

「あー、あれだな。よくよく考えたら、これが初デートだな」

 

  そう、初デート。初デートである。所詮は近所のスーパーへ向かうだけではあるが、男女が一緒に出掛けていたらそれはデートになるらしい。ソースは小町。やべえ情報源が信用ならねえ。だが今はそこを気にしている場合ではない。

  驚くべきことに、俺と雪乃は今までデートと言う行為をしたことが一度もない。二人で並んで外を歩くなんて、されこそ通学時か帰りに雪乃を家まで送るくらい。雪乃がうちに来て飯を作ってくれる時も、大体は彼女が食材を持って来てくれていたか、連絡を受けて俺が事前に買っていたか。

  だから、二人で出掛ける、つまりはデートするというのは今日が初めてという訳だ。

  さて、雪乃はこの初デートという突如舞い降りたイベントにどのような反応をするかと、振り返って様子を見てみると。

 

「ふっ、ふふふっ......」

「な、なんだよ......」

 

  肩を震わせ口元を押さえ、けれど抑えきれない笑みが溢れ出ていた。その反応が全く予想もしていなかったもので困惑する。

  この一言で100%勝てるだなんて思うほど自惚れてはいなかったけれど、笑われるなんてのは本当に予想外なわけで。

 

「ふふっ、は、八幡......。そこを見てみなさい」

「そこって......。あっ」

 

  雪乃が指差した先を目で追うと、いつも彼女が食材を持って来るときに使っているスーパーの袋が。

  つまり、彼女は既に買い物を済ませていると言うわけで。俺は雪乃の突然の訪問に驚くばかり、それを見逃していたと言うわけで。

  なんだろう。唐突に死にたくなった。

 

「アポなしで訪れたら気づかないだろうと思っていたけれど、ふふっ、まさかそんなことまで言い出すなんて......。ふふふっ」

 

  ゆ、雪乃めぇ......!

  突然やって来たのはこの事を見越してだと言うのか! つーかお前笑いすぎだろオイ!

 

「ねえ八幡?」

「なんでしょうか......」

 

  ああ、俺はクソ野郎だ......。ここまで全て雪乃の掌の上だったなんて......。しかもそれに気づかず哀れな道化となっていたなんて......。割と毎回そんな感じはするけど......。今回は自分の放ったセリフによるダメージがデカすぎる。

  部屋の片付けの手を止めてこちらに歩み寄って来る雪乃。やっぱり彼女は笑っていて。けれど、そこに揶揄い混じりな様子などなく、どこまでも優しいものだ。

  やがて俺の前に立った雪乃は、その白く小さな手で俺の顔を包み込む。

 

「初デートは、また今度。楽しみにしているから、ちゃんとあなたから誘ってね?」

 

  そんな言葉と共に、俺の唇へと柔らかい感触を落とした。

  毎度の如く突然過ぎて反応できない俺を見て、目の前の可愛らしい頬笑みが深いものになる。

 

「さあ、片付けの続きをするから、あなたも手伝って頂戴」

「え、あ、おう」

「来週まで部屋を綺麗なまま維持出来ていたら、ご褒美をあげるわ」

「......頑張ります」

 

  初デートと、ご褒美。

  取り敢えずはその二つを目標に、この一週間色々と頑張ろうと思った。

  そんな新生活のとある一日。

 



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雪ノ下雪乃はとってもキスが好き

八雪がキスするだけのお話。それ以上でも以下でもないよ。


  最近、雪ノ下がやばい。

  具体的にどうやばいのか。それを説明するのに、時間はそうかからない。

  いや、本当は俺だってかなり困惑しているんだ。けれどそんな彼女の姿を見ることが出来る。それを嬉しく思っているのもまた事実ではある。説明しろと言われれば幾らでも説明できるし、しかしどうしてこんな事になってしまっているのかは俺にも分からない。俺の自惚れでなければ、ある程度は察しがつくのだが。

  前提として話しておかなければならないのがひとつ。俺と雪ノ下は、所謂男女交際をしているという事だ。らしくなく、それでいてみっともなく、雪ノ下雪乃のことが好きだとこの口から伝えたことは、昨日の事のように思い出せる。

  ならばそのような関係になった俺たちが示す愛情表現とは、一体どのようなものになるのだろうか。俺も雪ノ下も、どのような言葉を用いたとしても素直なんて性格とは言い難い。これは俺たちを知っている人間からすると、最早常識のようなものとなりつつあるだろう。

  そんな俺たち二人の、いや、厳密に言うなら、雪ノ下雪乃の示す愛情表現。

  結論を言おう。

  雪ノ下は、キス魔になってしまった。

 

「比企谷くん」

 

  名前を呼ばれ、隣を歩く彼女に首を向ける。

  繋がれた手には確かな温もりが感じられる、それをどこまでも愛おしく思ってしまう。溶けて一つになってしまっているのではと錯覚してしまう程に絡まり合った互いの指は、しかし雪ノ下の手によって容易に解かれてしまった。

 

「もう家に着いたから」

「ん、おう」

 

  こうして学校から彼女の家まで送ることを、付き合いだしてから毎日続けている。一人でも帰れると言っていた雪ノ下だったが、そこは俺の我儘を聞いてもらう事にした。1分でも、1秒でも長く、一緒にいたい。そう思ってしまったのだから。

  俺の手から離れて行ったぬくもりは、その代わりに胸のあたりで感じさせられる。心臓の鼓動が感じ取られているようで、どうにも慣れない。

  手を添えた胸を支えとして背伸びしてくる雪ノ下。彼女の顔は徐々に俺の顔に近づいてきて、やがて当然のように、互いの口と口を触れ合わせた。

 

「んっ......」

 

  この日だけでもう五度目、今までの通算なんて、最早何度したか数えられないほどのキス。それだけの回数をこなしていると言うのに、いや、だからこそ、だろうか。離れていく優しい感触に名残惜しさを感じてしまう。

  けれどそれも一瞬だけのこと。一度離れたと思った彼女の唇は、まるで渇きを満たすかの如く、再び俺の唇を塞ぐ。

 

「んむっ、ふんぅ......」

 

  甘い吐息が直接口内へと侵入する。それだけで前後不覚に陥ってしまいそうになると言うのに、まるで逃げ道をなくすかのように、唇の優しくて熱い感触と鼻腔を擽るサボンの香りが脳髄を刺激してくる。

  いっそこのまま、どこまでも彼女に溺れてしまう事が出来たら。それは、どれだけ楽で、どれ程の快楽を得られるのだろう。きっと、雪ノ下も拒まないはずだ。だけどそうする事が出来ないからこその俺な訳で。

  果たしてどれほどの時間、俺たちの唇は交わっていたのだろうか。永遠とも須臾とも取れるそんな時間は、雪ノ下が唇を離し、一歩後ろへ下がったことで終わりを迎えた。

 

「では、比企谷くん、また明日、ね」

「おう、また明日、な」

 

  薄く微笑んで見せるその頬は火照っていて、あんまり長いこと見ていると変な気を起こしてしまいそうになってしまう。

  だから、別れ際に毎日行うこの行為の後、雪ノ下がすぐにマンションの中へと入っていってくれるのは助かる。

  この別れ際のキスをし始めた当時こそ、こんな人通りの多い場所でやることに抵抗はあったものの、今やそんなもの殆ど消え去っていた。偶々通りかかった人に奇異の目で見られるのには慣れないけれど。

 

 

  彼女と初めて口づけを交わしたのは、告白したその日だった。お互いにそれが初めてのことで、だと言うのに相手のことをもっと感じたくて、その関係になった実感が欲しくて、何度も求め合ってしまった。全てが終わった頃には、俺の口も雪ノ下の口も、お互いの唾液でドロドロになっていたものだ。

  多分、と言うか確実に、きっかけはそれ。

  付き合い始めた翌日こそ、その前日のことを思い出してしまい俺も雪ノ下も顔を真っ赤にして、まともに会話も出来ないでいた。

  それからどう言う経緯でこうなったのかを語るには、少し時間が必要になってしまうため割愛する。

  さて、ではキス魔とは一体どう言ったやつのことを言うのだろう。

  場所や相手を問わずにキスをしてくるようなやつか。

  キスと言う行為にハマってしまい、一度の逢瀬で何度も求めるようなやつか。

  雪ノ下の場合は後者だった。

 

「遅いわよ、比企谷くん」

 

  特別棟、部室へ向かうまでの道中にある階段の踊り場。一時間目と二時間目の間の休み時間で、俺はここに呼び出されていた。

  そして到着した時には既に、呼び出した相手である雪ノ下がそこにいた。

 

「これでも急いで来たんだけど」

「休み時間は10分しかないのだから、もっと早く来なさい」

「じゃあ昼休みまで我慢しろよ......」

「それは無理ね」

「即答か......」

 

  何故授業の間の休み時間に、こんな場所へと呼び出されるのか。まあ、答えなんてひとつしかないわけだが。これにももう慣れた。

 

「その、いい、かしら......?」

「......ダメだったらわざわざこんなとこまで来てねえよ」

「それもそうね」

 

  ふっと微笑みを浮かべた後、雪ノ下が肉薄してくる。か細い両腕は俺の背中に回され、それに倣って俺も両手を雪ノ下の腰のあたりに添える。

  腕の中のぬくもりは俺だけのものだ。

  そんな醜い独占欲が顔をのぞかせる。

  けれど、不思議と自己嫌悪には陥らない。そんな俺の独占欲ですら、受け止めてくれる彼女だから。

 

「比企谷くん......」

 

  俺の名前を呼ぶ声。それはいつもの凛としたものではなく、どこまでも甘くて、俺の理性を徐々に溶かしていく。

  澄んだ空を写した瞳は濡れていて、ずっと見つめていると吸い込まれそうになってしまう。

  あぁ、ダメだ。いつもそうだ。こうしていると想いが溢れて、零れてしまいそうになる。

 

「好きだ......。好きだ、雪ノ下......」

「んむっ......」

 

  俺と言う器には大きすぎるこの感情は、結局言葉という形を持って零れてしまって。その受け皿になって欲しくて、彼女の桜色の唇と重なる。

  口先になにかがツンと当たる感触がして、それを口内へと迎え入れた。

  侵入して来た雪ノ下の舌は俺の舌と絡み合い、彼女の唾液を送り込んでくる。

  辛うじて残っている理性が、ここは学校だと、場所を考えろと告げる。けれど今の俺にはその声に耳を傾ける余裕なんてなくて、ただ本能に従って雪ノ下の唇を貪っていた。

 

「んんっ......、んっ、ぷはっ......。今日は随分と激しいのね」

「......」

「ふふっ、分かりやすい人」

 

  優しく微笑んで見せる彼女との間には、差し込む日の光を反射させるアーチが。

  それを見たらまた邪な欲望が膨れ上がって来て、抱き締める力を強めてもう一度キスをしようと思ったその時、校舎内に予鈴が響き渡った。

 

「......ここまで、だな」

「そうみたいね」

 

  どちらからともなく、密着していた体を離す。たったそれだけで寂しさが湧き上がるが、予鈴によって回復した理性がそれを捩じ伏せる。

  教室に戻る時は、いつも別々に戻る。別に交際していることを隠しているわけではないが、ほぼ毎日のように同じタイミングで二人揃って休み時間ギリギリに教室へと戻るなんて、人様にはお見せできないことをして来ましたよと白状しているようなものだ。

  だから、一言だけ告げていつものように先に戻ろうとしたのだが、それは叶わなかった。

 

「待って」

「ん?」

 

  制服の袖を掴まれて、教室へ戻るための一歩は踏み出せなかった。

  どうしたのかと雪ノ下に向き直り、それから彼女が起こした行動に絶句した。

  俺の袖を掴んだ手を離し、その手でそのままリボンを緩めてブラウスの第二ボタンまでを一気に外したから。

 

「ちょっ、お前っ......! なにやってんだよ!」

 

  直ぐに近づいてボタンをかけ直そうとするも、その手を掴まれてしまいそれも出来ない。ただ、中途半端に近づいてしまったせいでうっすらと見える彼女の下着に、目を奪われそうになる。

 

「......あなたが悪いのよ。あんなに激しく求めてくるから」

「いや、だからってお前......」

「授業にはちゃんと向かうから安心して。ただ、その......」

 

  俯いて言い淀んだ後、真っ赤に染め上げた顔を上げて、俺と目を合わせる。

  次いで発した言葉は、ハッキリと俺の耳に届いて来た。

 

「......足りなかったから、せめて痕をつけてちょうだい」

「......っ」

 

  髪を手で纏めて、そこを晒す。

  視界に映るのは、何者にも汚されることのなかった雪のように白い肌。そして、妙な色気を醸し出すうなじ。

  理性が再び警告を鳴らす。けれどそれはどこか遠いところで鳴ってるように思えてしまって、最早警告の体をなしていない。

  白いはずの肌はどんどん赤く染まっていって、しかしその雪は全く清廉さを損なわない。

  ゴクリ、と。思わず無意識のうちに喉を鳴らしてしまった。

  良いのだろうか。その、何人にも汚されなかった綺麗な肌に、俺の所有印を刻んでも。

 

「そしたら、放課後まで我慢できるから、お願い......」

 

  それを聞いた瞬間、俺の選択肢はただ一つを除いて剥奪された。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

  あの後、二時間目の授業に遅れてしまったのは言うまでもないだろう。しかも運の悪い事に平塚先生の授業だったので、腹に一発いいのを貰ってしまった。どうせ雪ノ下とイチャコラしてたんだろ、と涙目で言われた。いや本当ごめんなさい。

  そして時は少し進んで放課後。

  あれから雪ノ下に呼び出されることはなく、本当に放課後まで我慢してくれたのだった。いつもは昼休みも会っていたのだが、今会うと歯止めが効かないから、とメールで伝えられてしまえば、会うわけにもいかないだろう。

  流石に学校で勢いだけで最後までってのはあれだし。雪ノ下的にも初めてが学校とか嫌だろうし。

  しかし、そろそろ校内であんなことするのも控えた方がいいのかもしれない。このまま続けていたら俺の理性が完全に消えてしまうのも時間の問題だ。学校で最後まで、と言うのが冗談で無くなる。

  今日のあれだって中々リスキーなことをしていたと言うのに。リスクリターンの計算に定評のあった八幡君はどこへ行ったのやら。

  そんなことを考えながら奉仕部へと向かう道すがら、スマホがメールの着信を告げた。

  メーラーを起動すると由比ヶ浜からのメールが一件。どうやら、今日の部活は休むとのことらしい。いや、教室で直接言えよ......。それともあれか、HRが終わった後三浦たちと話してたらそんな流れになったから、みたいな感じか。あんまりグループの方で遊んでたらまた雪ノ下が拗ねちゃいますよ? それはそれで可愛いからいいんだけど。

  歩きながら適当に返信していると、あっという間に部室の前へと辿り着いていた。

  ここでふと思ってしまう。由比ヶ浜がいないと言うことは、今日は雪ノ下と二人きりだ。

  いつもならその程度なんとも思わないのに、今日この日に限っては違ってくる。だって、今朝あんなことがあったばかりで。在ろう事か、俺は彼女の首筋にあんなものを付けてしまったわけで。しかも放課後まで我慢するとか昼休みに会うと歯止めが効かなくなるとか言っていたあたり、今二人きりと言うのは......。

  なんて事を悶々と部室の前で考えていると、いきなり部室の扉が開かれた。なに、奉仕部はいつの間に自動ドアを導入したの? とか思ったがそんなわけがあるはずも無く。

  扉を開いたのは、部室の中にいた雪ノ下だ。

 

「雪ノ下?」

 

  その彼女の行動に疑問を感じて呼び掛けるも返事はなく、その代わりに腕を取られて無理矢理部室へと引っ張り込まれ、そのまま扉の鍵を閉められた。

 

「お、おい、どうかしたのか......?」

 

  恐る恐る尋ねてみるも、やはり返事はない。

  ただ、彼女は俺の目を見つめるだけで。でもそれだけで、彼女がなにを求めているのか分かってしまう。

  どうやら、歯止めが効かないと言うのは本当らしい。その場にカバンを下ろすと、雪ノ下の手が俺の胸に添えられた。

 

「比企谷くん......」

 

  今朝の休み時間の時と違い、どこか切なげな声色で呼ばれる。

  その声に応えるために顔を近づけようとして。

  カツ、カツ、と。リノリウムの床をヒールでふみ鳴らす音が聞こえた。それは雪ノ下にも聞こえていたのだろう。ビクッと肩を震わせて驚いていた。どこか小動物を連想させるような動きで可愛い。

  じゃなくて。

  こんな特別棟の端の辺鄙な場所にやって来るヒールを履いた人なんて、一人しかいない。

  そう、平塚先生だ。

  これはマズイ。このままでは平塚先生にバレる恐れがある。校内でこんなことをしていると言う事自体、誰かにバレるわけにはいかないのだが、あの人にバレたら一番面倒な事になる! 具体的には俺が殴られた挙句に結婚したいって叫びながら泣いて走り去ってしまい最終的には俺が慰めないといけない羽目になってしまう!

  そんな事になればめんどくさいことこの上ないので、取り敢えず今のこの状況をどうにかしようと雪ノ下の肩を掴んで距離を取らせようとしたのだが。

 

「雪ノ下、取り敢えず扉の鍵開けていつもの席にもどんむっ!」

 

  俺の考えとは裏腹に、雪ノ下は寧ろ距離を詰めて、更に唇を重ねてきた。

  しかも軽く触れるだけとかではなく、かなりディープな方。抵抗の隙も与えずに侵入してきた彼女の舌は、瞬く間に俺の口内を蹂躙する。

 

「ちゅっ、ちゅるっ、んんぅ......」

 

  卑猥な水音が部室内に響く。口内から脳へと直接刺激を与える吐息は、俺の思考を段々と蕩けさせる。

  やがて背後の扉がガチャン! と音を立てても、雪ノ下は顔を離しはしなかった。

 

『ん? なんだ、誰もいないのか?』

 

  扉一枚隔てたところから、平塚先生の声が聞こえて来る。

  しかしその声は雪ノ下の奇行を止めることはなく、やがて平塚先生は「入れ違いになってしまったかな」とか言いながら、またカツカツと音を鳴らせて遠ざかっていく。

  息を継ぐためか、雪ノ下の攻めはそこで漸く中断された。どうにか文句の一つでも言ってやろうかと思ったのだが。

  彼女の、その蕩けきった表情を見てしまい、言葉は喉のところで止まってしまい出てこなくなる。

  端的に言うなれば、雪ノ下は明らかに発情していた。

 

「ごめんなさい。あなたから貰ったこの印は、逆効果だったみたい......」

 

  シュルシュルと音を立てて解かれる胸元のリボン。彼女はリボンを外しただけで、制服を脱いだわけでもないのに。

 

「ねえひきがやくん......」

 

  それなのに、俺の中からは理性が完全に切れた音が聞こえてきて。

  目の前で妖艶に微笑む雪ノ下は、トドメの言葉を発した。

 

「もう、いいでしょう......?」

 

 

 

 

  帰る頃には、雪ノ下と俺、その両方の全身に赤い痕がいくつも出来てしまっていた。

 

 

 

 

 



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放課後デートは突然に

「比企谷くん」

 

 名前を、呼んだ。

 これまで何度呼んだのかも覚えていないような、彼の名前。苗字でしか呼べないのは仕方がない。私と彼はそう言った関係ではないのだし、仮にそうなのだとしても、そんな勇気が今の私にはない。

 向かいからは返事の声が聞こえてこない。もしかして聞こえていなかったのかと思うも、さして広くもない部室で二人きり。どれだけ小さな声だったとしても、聞こえないわけがない。

 

「比企谷くん」

 

 もう一度、呼ぶ。

 私は彼の名前を呼ぶのが好きだ。上手く言語化出来はいないけれど、「比企谷くん」と呼ぶその響きが好きだ。別に彼の名前が好きという訳ではない。なによ八幡って。語呂が悪いにも程があるのではなくて? まあ、嫌いな訳ではないのだけれど。

 恋は盲目と言う言葉がある。きっと、今の私はそう言われてもおかしくないだろう。

 名前を呼べば、返事がある。そんな当たり前のことが、どうしても嬉しい。

 けれど、長机の対面に位置している男からは未だに返事の声がなくて。

 

「比企谷くん」

 

 三度、彼の名を呼んだ。

 少しムッとしたようなニュアンスが含まれていたかもしれない。呼んでいると言うのに視線を下へ落としている私にも非はあるのかもしれないけれど、ここまで無反応だと少し悲しい。だから今度は、ちゃんと彼の方を見て名前を呼んだ。視界に入った彼の横顔は、どうしてか常よりも大人びて見えて、不覚にもときめかされてしまう。

 それが良かったのだろうか。彼は漸く顔を上げて、視線をこちらへ寄越してくる。ここからでは何を読んでいたのかまでは見えないが、本の大きさから考えて漫画だろうか。そう言えば、昔は少女漫画をよく持ってきていた気がする。

 

「比企谷くん」

「どうかしたか?」

 

 改めて呼ぶと、返事が返ってきた。

 その事がやっぱりとても嬉しくて、つい顔が綻んでしまいそうになるのを必死に耐える。我慢するのよ私の表情筋。帰ったら幾らでもニヤケさせてあげるから。

 けれどどうやら私の表情筋は私が思っている以上に根性がないらしく。

 

「お前、なにニヤケてんの......?」

「......っ!」

 

 若干引き気味の彼に指摘されてしまった。その気持ち悪いものをみるような目はやめて欲しいのだけれど。いえ、目の前の同級生が突然意味不明な笑みを浮かべ始めたら引くに決まってるわよね。

 

「こっ、これはっ、あれよ。あなたの顔があまりにもおかしかったからつい笑ってしまっただけよ。他意はないわ」

「言い訳下手過ぎるだろ。いやまあ、なんでもいいんだけどさ」

 

 なんでもいいってなによ。そもそも悪いのは無駄にかっこいい比企谷くんであって私ではないじゃない。この失敗美少年! 残念イケメン! でもそんなところがいいのよね......。

 ああ、今の私、絶対顔が赤いわよね。どうしてくれるのよ、これ。全然収まる気配がないのだけれど。そもそも私の表情筋はいつからそんな情けなくなったの? いつもの仏頂面はどこに消えたのよ。こういう時こそ氷の女王の見せ場でしょう。誰が氷の女王よ失礼ね。

 

「雪ノ下?」

「なっ、なにかしら?」

 

 比企谷くんに名前を呼ばれた。

 名前を呼ぶのも好きだけど、呼ばれるのも好き。呼ばれただけで胸の内にあたたかいものが広がって、なんだかとても嬉しくなる。また表情筋が私の意思に反して動き出すけれど、今度は無理矢理にでも無表情になってみせる。

 

「いや、なにかしらじゃなくて。最初に俺を呼んだの、お前だろ」

「え? あ、あぁ、確かにそうだったわね」

「で、結局何の用だったんだよ」

「えっと......」

 

 ......私、どうして比企谷くんを呼んだのだったかしら。確か、なにかお話がしたくて彼の名前を呼んだのだけれど。呼びたかっただけ、と言うのも勿論ある。

 途中で色々と考え過ぎて、彼を呼んだ理由を完全に忘れてしまった。もしかすると、お話がしたいだけでその内容までは考えていなかったとか? だとしたら数分前の私は馬鹿すぎるでしょう。

 比企谷くんは訝しげに私の方を見ている。なにか、何か言わなければ。なんでもいい。彼とお話し出来るだけで。それだけでいいから。

 

「そ、その、比企谷くん」

「おう。だからなんだよ?」

「こっ、このあと、デートしましょう?」

「は?」

 

 

 

 

************

 

 

 

 

 どうしてこうなってしまったのかしら......。

 コメカミを抑えてため息を吐くも、状況はなにも変わらない。

 時は放課後、場所は駅前のモール。

 自分でもどうかと思うあの発言から一時間は過ぎている。

 私の隣に立つ彼は、未だに頬を薄く染めていて。まあ、私の顔も似たようなものだとは思うけれど。

 何故私は、デートをしようなどと言ったのかしら。

 そう、デートだ。デートである。

 その言葉の意味するところを語るのは些か羞恥心が湧き上がるので省略するが、私と比企谷くんは、このモールにデートへ来たのだ。

 目的なんてなにもない。買いたいものも、買うべきものも。目的もなく適当にぶらぶらするなんて、それこそ本当に恋人同士のデートみたいで......。

 

「あー、雪ノ下......?」

「ひゃっ! は、はいっ?」

「......取り敢えず今のは聞かなかったことにする」

「そうして頂戴......」

 

 我ながら随分と可愛らしい声が漏れたものだ。なによ今の裏返った声。こんなもので比企谷くんが落ちるとでも思ってたらその考えは浅ましいとしか言いようがないわね。まあ、その声を出したのは私なのだけれど。

 

「こほんっ! それで、なにかしら比企谷くん?」

 

 態とらしく大きく咳払いを一つ。頬の熱は未だ持って収まらないけれど。

 

「あーっとだな......。この後どうする?」

「えっ、あ、そうね、どうしましょうか......」

「おい、まさか特に目的もなく連れ出したわけじゃないだろうな?」

「そ、そんな事はないけれど......」

 

 目的なんてあるに決まってるじゃない。けれど、正直こうしてここに二人で来ている時点で目的は達せられたと言うか。あなたとデートをするのが目的です、なんて言えるわけもない。

 どう答えようかと迷って、視線をあちらこちらへと忙しなく動かしていると、それが目に入った。

 

「比企谷くん、ねえ比企谷くん」

「ん?」

「私、あれが食べてみたいのだけれど」

「......クレープ?」

 

 指差した先にあるのはクレープ屋。なんて事はない、ショッピングモールのフードコート内であれば普通に存在している程度の普通のクレープ屋さんだ。

 恥ずかしながら、私はクレープと言うものを食べたことがない。ファミレスのドリンクバーですら知らなかったのだから、クレープなんて食べたことなくて当然。

 折角比企谷くんと来たのだし、初めては比企谷くんとがいいし。

 

「まあ、別に構わんけど。んじゃさっさと行こうぜ。結構並んでるっぽいし」

「あっ......」

 

 フートーコート内へと足を進めようとする彼を、私の漏らしたか細い声が止めてしまった。平日とは言え、モール内は人で溢れかえっていて、そこかしこで様々な声や音が鳴り響いていると言うのに。彼は私の声を拾ってくれた。

 

「なに、今度はどうした?」

「いえ、その......」

 

 言ってしまってもいいのかしら。

 そんな気持ちが私の言葉を喉から出る寸前で押し留めてしまう。でも、言う。言えるようにならないとダメなのよ。少しずつでもいいから、ほんの些細なことでもいいから。

 私なりの我儘を。

 

「あの、折角のデートなのだきゃらっ......」

「......」

「折角のデートなのだから、手を繋ぐくらい、してもいいと思うのだけれど?」

「......お、おう」

 

 は、恥ずかしいっ......! なによ今の! 盛大に噛んでしまったのだけれど! 穴があったら入りたいのだけれどっ!!

 しかも目の前の男は肩を震わせて笑いを堪えている様子。私が勇気を出して手を差し出したと言うのに、失礼過ぎない?

 差し出した手をおずおずと握る比企谷くん。その手はとても大きくて。初めて触れた彼の手はとてもあたたかい。そのあたたかさは私の胸へと伝播して、正体不明のポカポカしたものが湧き上がる。

 正体不明だなんて、少し白々しいかしら。そのあたたかさの正体を、私は知っている。彼に、教えてもらったのだから。

 

「んじゃ、行くか」

「ええ」

 

 二人して真っ赤な顔のまま、フードコート内に足を向ける。彼の顔はそっぽを向いていて。けれどチラチラと繋がれた手を見ている。そんな様子がどこか可愛らしくて、つい笑みが零れる。

 

「......随分ご機嫌だな」

「そうかしら? ......いえ、そうかもしれないわね」

 

 クレープ屋さんの列に並んでいると、そんな風に声をかけられた。

 どうやら、今日の私は傍目から見て分かるくらいにはテンションが上がっているらしい。それも当たり前なのだけれど。だって比企谷くんと手を繋いでデートだなんて、明日死ぬと言われてもなんらおかしくない程の出来事だ。これも全て部室での失言から齎されたものなのだから、世の中本当になにがあるのかわからない。

 

「ほら、私達の番みたいよ。行きましょう?」

「あ、ああ、そうだな」

 

 ぎゅっと手を握る力を少し強めて、レジの前へと進む。

 彼の顔が更に赤くなったのを見て、意図せずまた笑みが漏れてしまう。

 

「いらっしゃいませ」

「えっと、イチゴチョコ一つと、お前はなににする?」

「私は......。ではこの、バナナブラウニーと言うのを一つ」

「イチゴチョコおひとつ、バナナブラウニーおひとつですね。合計で880円になります」

 

 イチゴチョコが390円で、バナナブラウニーが490円。まあ、安いとも高いとも言えない微妙な値段ね。これなら材料を揃えて自分で作った方が安くつくかもしれない。

 などと考えていると、繋がれていた手がスルリと解かれる。一抹の寂しさを覚えるが、それよりも彼の行動を止める方が先だ。

 

「ちょっと、自分のくらいは自分で払うわよ」

「こう言う時は男に払わせときゃいいんだよ」

「施しを受けるつもりはないのだけれど」

「はぁ......。今日はデートなんだろ? だったら、俺にもちょっとくらい格好つけさせろ......」

 

 その言葉についなにも言い返せないでいると、彼は真っ赤な顔をそのままに支払いを済ませてしまった。

 どうしてこの男はこんな不意打ちで私をときめかせるのかしら......。ちょっと卑怯じゃない?

 二人分のクレープを受け取った彼はレジの前から退散する。店員の人からもなんだか生温かい目で見られていたので、私もさっさとこの場を離れたかった。

 けれど、彼の手が塞がっているのは問題ね。これでは手を繋げないじゃない。

 

「空いてる席ねぇな......。仕方ない、立って食うか」

「あまりお行儀がいいとは言えないわね」

「文句を言うなら平日なのに満席なフードコートに言ってくれ。ほれ、これお前の」

「ありがとう」

 

 通行人の邪魔にならない所に立ち、彼からクレープを受け取る。私が頼んだバナナブラウニーは、チョコクリームとバナナとブラウニーが入っているらしい。対して比企谷くんの頼んだイチゴチョコは、生クリームとイチゴの上からチョコソースを掛けただけのシンプルなものだ。

 一応食事中ということで、手を繋ぐのは自重。両手で掴んだクレープに、勢いよくはむっと口をつけた。

 

「......美味しいわね」

「だろ?」

 

 私の言葉に同意を示しながら、彼も自分のクレープを頬張る。男性の割にはあまり大きな一口ではない。なんだかクレープを食べてる比企谷くんって、名状しがたい可愛さがあるわね。

 何はともあれ、折角彼が買ってくれた初めてのクレープ。しっかり味わって食べよう。

 

「はむっ......」

「......」

「......? どうかした?」

 

 クレープの中に入ったブラウニーの甘さに舌鼓を打っていると、比企谷くんがこちらをマジマジと見つめているのに気がついて。口の中に残っていたのを嚥下した後、小首を傾げて問う。

 

「いや、なんでも......」

 

 しかし彼はプイッと顔を逸らしてしまって。どうしてか、さっきから彼の頬は赤みが取れていない。その紅潮を紛らわす為だろうか。またクレープに口をつけた。

 ああ、もしかして。

 

「こっちも食べてみる?」

「は?」

「いえ、あなた、甘いものが好きでしょう? だから私のものも食べたいのかと思って」

「いや、確かに甘いもんは好きだけど......。お前はいいのかよ?」

「なにが?」

 

 そもそもお金を払ったのは比企谷くんなのだし、遠慮する必要もないでしょうに。この男はなにを躊躇っているのかしら?

 

「なにを躊躇しているのかは知らないけれど、もし良ければ私もあなたのを一口貰ってもいいかしら? それなら等価交換になるでしょう?」

「......分かった」

 

 ほれ、と私の目の前に差し出される彼のクレープ。それを遠慮なくはむっ、と咥えて、比企谷くんよりも一層小さな一口を頂いた。

 私のバナナブラウニーとはまた違った甘さで、シンプル故に食べやすく、生クリームとチョコソースが口の中で溶けていく感触を楽しむ。

 うん、美味しい。どうしてか彼の顔は更に赤くなっているけれど。

 

「では、はい。どうぞ」

 

 今度は私のクレープを差し出す。それをしげしげと見つめる比企谷くん。別に毒が入っているわけでもないと言うのに。

 やがて意を決したのか、ふう、と一つ息を吐いた後、がぶっとクレープに噛み付いた。

 

「どう? こちらも美味しいでしょう?」

「......まあ、そうだな」

 

 言葉では肯定しているくせに、その声音はどこか落ち込んだものになっている。本当は美味しくなかったのかしら? いえ、彼は極度の甘党の筈だし、それはあり得ないはず。

 不思議に思い首を傾げながらもクレープを食べようとして、気づく。

 つい今しがた、私のクレープに比企谷くんが口をつけていたことを。

 同時に、彼がどうしてそこまで顔を赤くしているのか、どうして私のクレープを食べることを、私にクレープを食べさせることを躊躇っていたのか。全て理解してしまった。

 そう、つまり。これは、れっきとした。

 間接キスである。

 

「ぁ......」

 

 それを理解してしまえば、私の頬が熱を持つのは最早必然であり、その速度は光の速度同然であった。

 そ、そう、私、比企谷くんと、か、かん、間接、キス、してしまったのね......。しかも、意図せず私から誘う形で......。

 どうしましょう。一度意識してしまったら、このクレープが値千金の価値があるように思えてしまう。このまま持ち帰って保存とか出来ないかしら? 出来ないわよね。そうよね。この場で食べるしか、ないのよね......。

 視線をチラリと隣へ動かしてみる。それで状況が変わるわけではないのに彼の方を見てみると、タイミングがいいのか悪いのか、彼も丁度こちらを盗み見ようとしていたようで。

 パチリと、彼の瞳と視線がぶつかってしまった。

 

「っ......」

「......なんだよ」

「いえ、なにも......。それより、クレープ、食べないの?」

「お前こそ、さっさと食わないと遅くなるぞ......」

「そう、ね......」

 

 さっきまでは普通に会話出来ていたのに、今は彼を直視することすら出来ない。けれど彼の言う通り、あまりここで時間を使っては遅くなってしまうのも事実で、そうなれば彼とのデートの時間が減ってしまうのも事実。

 それは嫌だから、さっさと食べてしまおう。

 この後、クレープの味なんて碌に分からなかったのは言うまでもない。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

「悪い、待たせたな」

「いえ、お手洗いなら仕方ないわ」

 

 モール内を粗方ウインドウショッピングで楽しんだ後、帰る前に比企谷くんがお手洗いに向かった。10分もしないうちに戻って来たので、二人で帰路に着く。私の右手も彼の左手も空いているので、勿論手は繋いで。

 いっそのこと腕に抱きついたりしてみたいのだけれど、正直今は手を繋ぐだけで精一杯だ。クレープで間接キスの件もそうだが、その他にも、雑貨屋でエプロンを試着した時に、

 

「似合ってるな」

「そう?」

「おう、将来お前のそのエプロン姿を毎日見れるやつが羨ましいくらいにはな」

「そ、そう......」

 

 みたいなやり取りがあったり。

 フラリと立ち寄ったメガネ屋さんで、彼がメガネをつけようか悩んでいると言った際、

 

「試しに付けてみてはどうかしら?」

「まあ、試しにな......。どうだ?」

「......」

「え、無言? なに、似合ってない?」

「いえ、そんな事はないわ。とても似合ってると思う。けれどメガネはダメね。コンタクトにしたらどうかしら? 若しくは私のようにブルーライトカットのメガネで、特定の時にだけ使う、とか」

「うーん、まあ、そこら辺はおいおい考えるか」

 

 比企谷くんのメガネ姿が思いの外格好良くてときめいてしまったり、他の女にその姿を見せたくないと思ったり。

 そう言ったことがあった故に、手を繋いで歩くと言うことが、デート開始時に比べてとても恥ずかしいような気がして、でも嬉しいから離したくなくて。

 これらを含めて今日一日を総括するなら、比企谷くんに惚れ直してしまった、と言ったところか。私、どれだけ彼のことを好きになれば気がすむのかしら。まあ、そんな自分が嫌ではないのも事実ではあるのだし。寧ろ好ましいまであるわね。

 そんな風に今日のデートを回想していると、あっという間に私の家の前へ着いてしまった。特になにか言うでもなく、極々自然に彼はここまで私を送ってくれて。もしかしたら、比企谷くんも、少しでも私と一緒にいたい、とか。考えてくれているのかしら。そうだとしたら、とても嬉しい。

 

「雪ノ下」

 

 名前を、呼ばれた。

 彼に名前を呼ばれることが、とても好きで。

 その口で、その声で、いつでもいつまでも、私のことを呼んで欲しいと思ってしまう。

 

「なあに、比企谷くん?」

 

 名前を、呼んだ。

 彼の名前を呼ぶことが、とても好きで。

 私が呼べば、彼は返事をしてくれる。私の隣に居てくれているんだと、実感することが出来る。

 

「その、だな。これ、さっき買ったんだが......」

「これは?」

 

 繋がれていた手が解かれ、彼が制服のポケットから取り出したのは、私がエプロンの試着をした雑貨屋の袋。それがここにある理由が分からなくて、それを私に差し出す理由はもっと分からなくて、首を傾げてしまう。

 

「折角のデートだし、一つくらい、なんかプレゼントでもと思って、な......。受け取ってくれたら、嬉しいんだが......」

「プレゼント......」

 

 いつの間に、と疑問が浮かぶも、それよりも彼がそんなものを用意してくれた嬉しさが勝った。

 嬉しい。嬉しいのは確かなのだけれど、私は彼にそんなもの用意していない。だと言うのに、受け取ってしまってもいいのだろうか。

 突然デートをしようなんて突飛なことを言った私に付き合ってくれて、手を繋ぎたいと言う我儘も聞いてくれて、クレープも買ってくれて。挙句こうして、プレゼントまで用意してくれているなんて。

 彼にそこまでしてもらったのに、私は彼に返せるものをなにも持ち得ない。

 だから、これは受け取れない。

 でも、そんな理性による思考は、胸の内から込み上げる本能と欲望に屈しそうになっていて。彼が、私の為に用意してくれたこのプレゼントを受け取りたくて、おずおずと手を伸ばす。

 中々受け取ろうとしない私にしびれを切らしたのか、比企谷くんはその袋を強引に私の手に握らせた。

 

「......なんか面倒くさいこと考えてそうだから言っとくが、俺がお前に上げたいと思ったから買ったんだ。それがお前に似合うと思ったから......。まあ、要は俺の自己満足の押し付けってやつだ。だから、お前はなにも悩まなくていいし、本当に嫌なだけだってんなら無理に受け取らなくても──」

「い、嫌じゃないっ!」

「なら素直に受け取れって。その方が、俺も、なんだ、嬉しいっていうか、そんな感じだし......」

「そ、そう......。その、空けても?」

「ん」

 

 返事になっていないような曖昧な言葉を肯定と受け取り、袋の中身を取り出す。

 その中に入っていたのは、ピンク色のリボンが二つ。大きさとその個数から察するに、私の髪の毛を結んでいるこの赤いリボンの代わりに、という事かしら?

 

「あー、なんだ、要らないんだったら本当に捨てていいから」

「......捨てないわよ。折角の、あなたからのプレゼントなのだから」

 

 ぎゅっとそのリボンを胸元で抱きしめる。

 こうしてまた、私の宝物が一つ増えてしまった。

 

「ありがとう、比企谷くん。とても、とても嬉しいわ」

「......どういたしまして」

 

 ぽりぽりと赤い頬を掻きながらも、やっぱり彼の視線は明後日の方向を向いてしまっている。そういう所は、大変可愛らしいと思うけれど。

 

「......やっぱり、なにかお返しを用意したいのだけれど」

 

 こんなに嬉しい気持ちで満たしてくれたのだ。彼に少しでも返したい。そう思うのはなんら間違ったことではない筈。

 しかし今の私に出来ることなんてないし、上げられるものなんてもっとない。私自身をプレゼントしてあげる、なんて頭の悪いセリフが言えたら楽なのだけれど、そんなことを言う勇気があるわけもないし。

 

「お返しってんなら、一個だけお願いを聞いてもらっていいか?」

「お願い?」

「おう。その、明日からは毎日、そのリボン使ってくれたら、俺としても嬉しいんだが......」

 

 それはつまり。彼の小さな独占欲の発露で。

 断る理由なんて、私には無かった。

 

「ええ、勿論よ。言われずともそうさせて頂くわ」

「......そうか」

 

 本来ならアクセサリーなどの身につけるものを異性へのプレゼントに選ぶのは、それなりの関係性でないと敬遠されがちだ。

 しかし彼はこのようにリボンをプレゼントしてくれて、更にはそれを毎日身につけてくれと言ってくれた。

 明らかに、私に一歩、踏み込んできてくれている。今日、私が彼に少しでも踏み込んだように。

 

「ふう......。じゃあ、また明日、な」

「ええ、また明日」

 

 緊張が解けたようにお互い笑みを浮かべて、別れの挨拶を交わす。また明日、と言ったにも関わらずそこから動こうとしないのを見て、私をマンションに入るまで見送るらしいと察した。

 比企谷くんに背を向けて、マンションのエントランスへと入っていく。エントランスの扉はすぐに閉まってしまったので、彼がまだそこにいるのか、それとも直ぐに帰ったのかは分からない。

 ただ、どちらにしても、今現在のとてもだらし無くにやけてしまっている顔を見られないのは幸いなことだ。

 

「ふふっ、ふふふっ......」

 

 明日からは、このピンクのリボンをつけて。

 あなたの私として、登校してあげる。

 それ相応の覚悟は、出来ているのよね?

 

 

 



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本に囲まれたこの場所で

 図書館はいい。

 心の底からそう思うのは、静寂を好むぼっちだからか。ここでは無駄な雑音など一切なく、他人とコミュニケーションを取る必要すらない。司書さんと最低限のやり取りは必要だが、相手は初老の女性ばかり。変にキョドることもない。

 いやはや、実に素晴らしい空間だ。勉強は捗るし、探せばどんな本だってすぐに手元に持ってこれる。横浜あたりの図書館には野生のバニーガールが出没するとか聞いたことあるし、もし仮に万が一にも専業主夫の道が閉ざされてしまったなら、図書館の司書になるのも良いかもしれない。バニーガールに会いたいしね。

 さて、こんな風に図書館を絶賛するからには、俺は現在自宅から最寄りの図書館へやって来ているわけだが。勿論それには理由がある。

 金がないのだ。

 今月のお小遣いは先日買ってしまったゲームに消えてしまい、新しく本を買うことが出来ない。どうしようかと悩んでいると、小町が「じゃあ図書館にでも行ってきたら? お兄ちゃんは本が読めて、小町はお兄ちゃんを追い出せる。win-winだね!」って言ってきたのである。泣いた。

 まああの言葉は多分冗談だと思う、と言うか冗談だと信じているが、実際に来てみれば居心地がいいことこの上ないではないか。

 学校の図書室とも違った独特の雰囲気。調子に乗ったリア充どもが隅っこを陣取っていることもなく、やかましい子供が騒いでいることもない。

 なんなら家で勉強や読書をするよりも捗ってしまう始末。それらが一番捗る場所が図書館なのかと聞かれれば、首を横に振らざるを得ないのだが。まあ、あそこなら優秀な先生役がいるし、自分よりも成績の酷い奴もいるから、勉強するには打って付け。ついでにあいつの淹れた美味しい紅茶が飲めると来たら、もう言うことはないだろう。

 なんで図書館の話が部室の話になってんだ。

 そんな無駄な思考のせいで勉強する手は止まってしまった。元々そこまで動いていたわけではないけれど。そもそもなんで数学って英語が出てくるのん? 数学なんだから数字だけ出しとけよ。なんかわけわからん英語で答え書かないとダメとか本当ワケワカメ。男は1と2だけ知ってりゃいいってとっつぁんも言ってた。

 席を立ち本棚へと向かう。勉強で頭が疲れているので、あまり小難しい本は手に取らない方がいいだろう。中途半端な面白かったりしたら、今の俺の脳みそでは文章を噛み砕くことが出来ずに後悔しそうだ。となれば、久しぶりに大百科系でも読んでみるか。小学生男子なら必ずハマってしまうと言うあれ。恐竜大百科とか人気過ぎて中々借りれなったんだよな。どうでもいいけどトリケラトプスが一番好き。

 頭の中でトリケラトプスを思い描きながらも本棚が立ち並ぶ中へ足を進める。暫く見ていなかったからか、トリケラトプスってどんなんだっけ? とか思いながら目的の本棚へと辿り着くと。

 そこには、一人の美少女がいた。

 

「ん?」

 

 少女はなにやら本を手に取って立ったまま読んでおり、その顔にはとても可愛らしい、実年齢よりも幾らか幼く見える笑顔を浮かべている。因みにバニーガールではなかった。

 やがて俺に気がついたのか、こちらに向けた顔からは笑顔が消え去る。

 

「..................ぁ」

「......よお」

 

 ワンピースの上からカーディガンを羽織った、春らしい装いの雪ノ下雪乃が、そこにいた。長い黒髪はピンクのシュシュで纏められて肩から垂れ下がっており、今まで見て来た私服姿とはまた違った雰囲気の彼女に、心臓が高鳴るのを自覚する。

 

「こ、こんにちは......」

「奇遇だな、こんな所で」

 

 かなり控え目な声でも、この静かな図書館の中ではしっかりと聞こえてくる。挨拶を交わしながらも雪ノ下の持っている本にチラリと視線を移すと、彼女は急いでそれを本棚に戻してしまった。

 ただ、戻す時に一瞬だけ見えたタイトルの一文字が『猫』だったことから、その本の内容は嫌でも察しがつく。

 雪ノ下さん、猫大好きフリスキーですもんね。そりゃ猫の大百科とか読んでたらあんな笑顔浮かべますよね。

 

「そうね、あなたが図書館に来ているなんて少し意外だわ」

「どう言う意味だよ」

「あなたなら、図書館に来るよりも家で本を読んだり勉強したりする方がいいのではなくて?」

「おっしゃる通りだが、小町に追い出されたんだよ。だから仕方なくここで勉強だ」

 

 しゃがみ込んで最下段にあった目的の本を取る。最後にこう言う本を読んだのはもう随分と前のことだから、当たり前のように大百科は新しいものに更新されていて。けれどもどこか懐かしい気分だ。

 

「恐竜大百科?」

「......っ」

 

 気がつけば雪ノ下もしゃがみ込んでいて、俺の直ぐ隣にその綺麗な顔があった。小さな声で会話しているから近づくのは仕方ないとは言え、それにしても近づき過ぎではなかろうか。俺が少し横にズレれば、肩と肩が容易く触れ合ってしまうような、そんな距離。

 雪ノ下はそれに気づいているのかいないのか、興味津々と言った様子で俺の手元の恐竜大百科を覗き込んでいる。

 

「比企谷くん、残念だけれどそれを読んでも、カエルは恐竜へ進化することは出来ないわよ?」

「......いや、カエルじゃないし。そもそも恐竜になりたいとか思ってないし」

「あら、そうだったのね」

 

 クスリと笑った雪ノ下が顔を上げる。

 不意に、目が合ってしまった。

 先述した通り、雪ノ下と俺は現在密着していると言ってもいいような距離感で。文字通り目と鼻の先に彼女の整い過ぎた美しい顔があって。俺の視界全てが雪ノ下で覆われている。

 そのことを意識してしまったからか、図書館特有の紙の匂いを捉えていた俺の嗅覚は、雪ノ下から香るサボンの匂いに支配されて、彼女の声以外はなにも聞こえなかった静寂は既になく、その息遣いまでも耳に届けてしまう。

 あまりにも突然、雪ノ下雪乃という少女が持つ全てに打ちのめされてしまった瞬間だった。

 視覚と嗅覚と聴覚は馬鹿みたいにフル稼働している癖して、まるで時が止まってしまったかのように動けない。

 それは雪ノ下も同じなのだろうか。見つめ合ったまま、お互いに全く動けないでいた。

 この図書館と言う環境故だろうか。まるで、今この場所に俺と雪ノ下の二人きりでいるかのような、そんな錯覚に陥って。

 カタン、と。どこかから聞こえた音で、俺たちの時間は再び動き出した。

 

「ごっ、ごめんなさい。少し近過ぎたわね......」

「いや、別に......」

 

 弾かれたように顔を逸らす雪ノ下。しかしその場から移動しておらず、俺たちの距離は依然として変わらないままだ。

 それを誤魔化すように手元へ視線を落とし本を開く。適当に開いたページには数匹の恐竜が描かれているものの、どれがどんな恐竜かなんて全く頭に入ってこない。もう全部プトティラってことでいいんじゃないかな、なんて馬鹿な思考が過ぎる。

 

「......恐竜、好きなの?」

「え?」

 

 あまりにも唐突な質問に思わず聞き返してしまった。雪ノ下は再びこちらの手元を覗き込んで来て、間違えても俺の方は見ないように心がけているようだ。

 ただ、彼女よりも高い位置にある俺の顔は、いつもと違った髪型のせいで見えてしまう真っ赤なうなじをしっかりと目に収めてしまっていた。

 

「だから、恐竜。好きなのかと聞いているのよ。こんな所にまで来てわざわざ読むくらいだから」

「あ、あぁ、いや、別に特別好きってわけでもないけどな。つーか、男なら誰でもこう言うのにハマるもんだと思うぞ」

「そう言うものなのかしら?」

 

 雪ノ下の白魚のような手が本の上を這って、勝手に次のページを捲り始める。いや、良いんだけどさ。今は読んでてもなにも頭に入ってこなさそうだし。でもせめて一言断ってからにしよう?

 

「あなたが好きなのはどれかしら?」

「こいつだけど......」

「とりけらとぷす?」

 

 こてんと小首を傾げ、ちょっと危ない発音で言う雪ノ下。可愛いからやめろ。

 どうやら流石のユキペディアさんも恐竜の詳しい種類までは知らないらしい。でもトリケラトプスって結構有名だと思うよ? 恐竜メダルの一つだし。

 

「私にはよく分からないわね」

「ならなんで聞いたんだよ......」

「それは......」

 

 言い淀んで、スススッと俺から少し距離を取る。え、なに、俺なんか今変なこと言った? いや言ってないよね?

 薄く頬を染めた雪ノ下は、こちらを伺うように視線を寄越して、更に小さな声で呟いた。

 

「あなたの好きなものを、知りたかっただけよ......」

 

 音がなく静寂に包まれたこの図書館の中においても、辛うじて聞き取れるほどの声量。けれど俺の耳にはしっかりと届いてきて、その言葉の意味を十分に咀嚼すると、自然と頬に熱が集まってしまう。

 

「そんなん知ってもなんの得にもなんないだろ......。英単語の一つでも覚えた方がマシだぞ」

「ふふっ、それはどうかしらね。私にとっては、たかが英単語如きよりも、あなたを知ることの方がよっぽど価値があると思っているけれど」

「そうかよ......」

「ええ、そうよ」

 

 頬は薄く染めたまま、笑顔を見せる雪ノ下。それは常日頃から見せている大人びたものではなくて、まるでお出かけ前の少女のような。年相応の可愛らしい笑顔だった。

 多分、それは今まで見てきた彼女のどんな笑顔よりも魅力的に映っだのだろう。

 じゃないと、これから先の俺の発言は説明がつかない。

 

「......なら、お前のことも教えろよ」

「え?」

「お前だけ俺のこと知るとか、不公平だろう。だから、俺にもお前が好きなものとか教えろって言ってんだよ」

 

 やたらとぶっきら棒な上に至極小さな声になってしまった。しかしやはり、彼女の耳には俺の声が届いていて。

 

「ふふっ、なにかしらその言い方。相変わらず素直じゃないのね」

「......うるせぇ」

 

 クスクスと漏れ聞こえてくる忍笑いが、俺の羞恥心を加速させる。顔はそっぽを向いてしまって、どうにも雪ノ下の方を見れない。

 もう恐竜は良いだろうと本を閉じて元の場所に戻すと、隣の雪ノ下が立ち上がった。

 

「立ちなさい比企谷くん」

 

 未だしゃがみ込んだままの俺に差し出される手。その事に不思議と疑問を持つことはなく、自然にその手を取って立ち上がっていた。

 初めて触れた雪ノ下の手はとても柔らかくて、とても小さくて。少し名残惜しくはあるが離そうとした瞬間、逆に雪ノ下の方から俺の手をギュッと握ってきた。

 

「ちょっ、おまっ......⁉︎」

「大きな声を出さない」

 

 思わず出してしまった驚きの声に律儀にも注意して、雪ノ下は俺の手を引いてどこかへと歩き出す。

 俺の手を包む雪ノ下の手。そこから伝わる体温は、彼女の名前とは裏腹にあたたかいもので。煩いくらいに心臓が高鳴る。

 やがて連れてこられたのは、先程いた場所から7列ほど奥へと進んだとこにある本棚。海外文学が置いてある場所だった。

 

「お、おい、雪ノ下。こんなとこに連れてきてなんなんだよ」

 

 なんの説明もないままに連れてこられれば困惑するのも当然と言うもので。しかもこんな人気のないところまで来てしまえば、変な想像をしてしまうのが男子高校生というもので。

 

「私のことを知りたいと言ったのはあなたでしょう? だから、まずは普段読んでる本から教えてあげようと思って。もしかして、何か変な想像でもしてしまったかしら?」

 

 完全に図星だった。

 

「そっ、そんなわけないだろ」

「声、裏返ってるわよ」

「......」

 

 いやでもこんなん仕方ないと思うんですよ。だって雪ノ下さん、未だに俺の手を握ったまま離さないし。美少女に手を引かれてこんな所へ連れて来られたら、そりゃ変な想像だってしてしまう。なんもかんも雪ノ下が可愛いのが悪い。俺は悪くない。

 一向に離れる気配のないお互いの手を見つめていると、見たことのない文庫本が視界に入り込んできた。

 

「これは?」

「私が昔読んだことのある小説よ。イギリスの小説なのだけれど、ちゃんと翻訳版だから安心して頂戴」

 

 差し出されたその本を受け取り、しげしげと表紙を見つめる。タイトルから察するに、恐らくは恋愛小説なのだろう。

 

「なんか意外だな」

「なにが?」

「いや、お前もこう言うの読むんだと思ってさ」

「失礼ね。私のことをなんだと思ってるのかしら? 私だって女の子なのだから、こう言った本も読むわよ」

 

 ちょっとムッとした様子でこちらを睨んでくるその姿は、確かに彼女の言う通り女の子らしくて可愛い。

 別に、昔のようにこいつに対して変な幻想を抱いているわけではないが、それでも雪ノ下雪乃の女の子らしい一面を垣間見ることに、何故か慣れない。同時に、そう言う姿を俺に見せてくれている事に、些かの嬉しさもある。

 今この時は、周りに人のいないこの空間では、本当に俺だけに見せてくれている。

 

「悪かったよ。んじゃ、これ借りてくるわ」

「ここで読まないの?」

「ここには元々勉強しにきたからな。それに、ここよりも居心地が良くて、読書が捗る場所を知ってるし。おまけに紅茶も出ると来た。ならそこで読んだ方がいい」

「......そう」

 

 俺の言っている、ここよりも居心地のいい場所とやらがどこなのか、雪ノ下も思い当たったのだろう。ポッと頬を赤らめてはいるものの、その表情は酷く穏やかだ。

 

「では、次はあなたに私の読む本を選んでもらおうかしら」

「......それも、知りたいからか?」

「ええ、そうね」

「ん、分かった」

 

 今度は俺が雪ノ下の手を引いて、本棚と本棚の間を移動する。

 知りたいからと、彼女はそう言った。けれどきっと、それだけではない。

 これは口実だ。図書館の本は返済期限が二週間であり、同じ日に借りたのであれば、勿論期日は同じ日になる。

 その時、またこの図書館で。俺たち以外に誰もいない、本に囲まれたこの空間で。二人で会うための。

 

「紅茶......」

「ん?」

 

 目的の本棚へと移動している最中、雪ノ下がポツリと言葉を漏らした。どんな本を選んでやろうかと思考を巡らせていたから、その呟きを聞き逃してしまって思わず聞き返す。

 

「だから、紅茶。月曜日からも、美味しく淹れるから。楽しみにしていてね」

 

 言いながら浮かべた笑みがあまりにも眩しくて、つい足を止めてしまった。

 恐らくは間抜けな表情をしているだろう俺の顔を、雪ノ下は不思議そうに見つめている。

 どうしたのかと視線で問われているが、なんでもないとかぶりを振って前に向き直る。

 

「んじゃまあ、楽しみにしてる......」

「ええ」

 

 素っ気なくそう返すのに精一杯だったが、雪ノ下の声音はやはり穏やかなものだった。

 

「感想、返す時にちゃんと聞かせてね?」

「おう。お前もな」

 

 あの紅茶の香りに満ちたあたたかな部屋で読むのに相応しい本はなんだろうかと考える。

 どうせだから、俺からも恋愛小説を勧めてみてもいいかもしれない。

 



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お前ら早く付き合えよ

マジで早く付き合えよこいつら!なんでこれで友達ですらないんたよ!


 友達とは一体どう言った定義の元成り立つものなのだろうか。

 最近そんなことを考えてしまうのは、俺の腕を枕代りに使ってスヤスヤと寝息を立てているこの美少女が全ての原因。

 考えても答えなんて出るはずがない事に思考を費やしていないと、正直どうにかなりそうなのだ。だって普通の友達同士で、しかも異性の友達で、添い寝なんてまずしないだろう。お泊りからして成り立たない。

 若干慣れた感じはあるも、それでも邪な妄想が膨らんでしまうのは俺が男である以上仕方のないこと。

 昨夜は夜更かしして二人でゲームに興じていたため、目が覚めたのは午前10時過ぎ。十分グッスリ眠れたのだが、しかし彼女は俺の腕を解放してくれない。俺が目を覚ましてから既に一時間は経過しただろうか。どんだけ寝るんだよこいつ。いい加減腹も減ってきたので起こそうかとも思うが、心地好さそうな寝顔を見てしまえばそれも憚れる。

 どうしたもんかと思っていると、もぞもぞと動く気配が隣から。やがて寝返りを打った彼女は、俺との距離をさらに詰めて胸元に頭を置いた。ちょっとヤバい。何がヤバいって、まず寝顔が可愛すぎだし、それから腕が俺の体に回されたから柔らかな感触を全身で感じちゃってるし、完全に俺抱き枕にされてるし。

 更に膨らむイケナイ妄想。けれど、どうしてかすぐ近くの寝顔を見るとそれも霧散してしまって。あまりに幼く、成人しているとは思えないようなあどけない表情を浮かべている彼女。それを見ていると、なんだか俺の心まで安らいでしまう。

 彼女が寝返りを打ったことで動かすことが出来るようになった左腕を、彼女頭に持って行ってそのまま撫でてやる。

 

「んぅ......」

 

 おい。やめろおい。そんな声出すな。なんで頭撫でただけでそんなエロい声出るんだ。エロいって言っちゃったよ。

 尚も触り心地のいい綺麗な黒髪を撫でていると、またもぞもぞと動き出す。本当にやめて! 今密着してる状態で動かれたら刺激が強すぎてちょっとマジで色々のヤバいから! ただでさえ男性特有の朝の生理現象がヤバいのにそんなことされたら本当死ねるから!

 そんな気持ちが伝わったのか、心地好さそうに閉じられていた目が開かれる。

 

「おう、おはよう雪ノ下」

「ん、比企谷くん......?」

「おう。比企谷くんだ。その比企谷くんは腹減ってるからちょっと退いてくれたら助かるんだが」

「んー......」

「いや二度寝しようとするな」

 

 いやいやと言いたげにとろんとした寝惚け眼のまま、俺の胸板へと顔を擦り付ける彼女、雪ノ下雪乃。

 なんで恋人でも友達でもないこいつと一緒に寝てるのかとか、正直もう考えるのすら疲れてきてるのだが、その思考を放棄することは非常によろしくない。なにがよろしくないかは知らんけど。

 

「ほれ、さっさと起きろ。マジで腹減ってるから」

「仕方ないわね......」

 

 何故か渋々と言った様子で俺から離れ起き上がる。雪ノ下の感触がちょっと名残惜しい気もしたが気のせいだろう。

 目元を両手で擦っている姿は、本当に幼い子供のようで。そんな姿にまたドキリとさせられる。何度も見ていると言うのに、やはり見慣れることはないようだ。

 

「ふあぁ......。おはよう、比企谷くん」

「おはよう。つっても、もう11時だけどな」

 

 グッと猫のように伸びをする雪ノ下に苦笑しながら返した。雪ノ下も「そうね」と同じく苦笑していて、完全に覚醒しているようだ。

 

「休日くらいしか、こんなにゆっくり眠れないものだから、つい」

「仕事、忙しいのか?」

「ぼちぼちと言ったところよ。それに、あなたが一緒に居てくれると安心してしまうから。そのせいかも」

「......まあ、そりゃ良かったよ」

 

 穏やかに微笑む彼女のその顔を直視してしまって、頬に熱が集まる。俺程度の存在で安心出来るなんて、こいつも物好きなやつだ。

 一人暮らしには十分広い1LDKの家の中を歩いてリビングへ。

 

「朝ごはん、どうする?」

「もう昼前だし、時間ずらして昼飯ってことにしようぜ」

「お腹が空いているのではなかったの?」

「いや、もう、なんかお腹いっぱいだし」

「......? そ、そう?」

 

 不思議そうに首を傾げる雪ノ下。可愛い。じゃなくて。

 雪ノ下の寝起きの猫みたいな姿を見たら色々お腹いっぱいになりました、とか言えるはずもなく。辿り着いたリビングに適当に転がってる座布団を引き寄せてテレビの前に置きそこに座る。

 テクテクと俺の後ろをついてきた雪ノ下はテレビの電源を入れた後、なんの躊躇いもなく俺の股座に腰を下ろした。

 

「お前、そこ座るの本当好きだな」

「いいじゃない。あなたもこうしているの、好きでしょう?」

「まあ、否定はせんけど......」

 

 ふふっ、と機嫌良さそうに微笑んで、俺の両腕を掴んでから肩から回すようにする。

 ふえぇ、なんか柔らかいのが当たってるよぉ......。とか思いはするも、これもいつも通り。どうやら雪ノ下さん、このポジションがお気に入りのようで、俺がリビングに座っていると必ずと言っていいほどスッポリ股座に収まっては自分の体を抱き締めさせるようにする。割とマジで勘弁して欲しいとは思うのだが、この時間が案外心地よく感じてしまっているのもまた事実。

 抵抗は無駄だと既に悟り、その意思はないと示すように手を挙げる代わりに、少しだけ彼女に体重を掛ける。そうすると彼女の柔らかさとか甘い香りとかが余計に感じられて、少し頭がくらりとしてしまう。

 雪ノ下は許してくれているから。そんな建前でもないとこう出来ないのは、俺たちの関係云々の前に、生来の性格ゆえだろう。

 

「今日はどっか行くか?」

「食材の買い出しには行きたいわね。今日の夕飯はなにがいいかしら?」

「待て、お前まさかとは思うけど、今日も泊まっていくのか?」

「そのつもりだけれど。何か問題でも?」

 

 何かもクソも何もかもが問題なんだよ。

 

「別に、いつものことじゃない。それとも、比企谷くんは私でなにかよからぬ妄想でもしてしまったのかしら?」

「......」

 

 からかい混じりの微笑みがすぐ横から向けられる。それがなんだか照れ臭くて、その視線から逃れるように、雪ノ下のうなじの辺りに頭を埋める。余計に恥ずかしいことをしている気がするが、まあそれも気のせいだろう。

 

「図星かしら?」

「......んなわけあるか。うなじのとこ真っ赤だぞ。無理すんなよ」

「そ、それは、あれよ。きっと比企谷菌が移ったのよ......」

 

 言い訳が雑すぎる。なんでも俺のせいにしたらいいと思ってないこの子?

 事実として、雪ノ下の雪のような肌は赤みが差していて、彼女もそれなりに羞恥を感じているらしい。

 よかった。これで雪ノ下がなんとも思ってなくて俺が手玉に取られてるだけとか、なんか納得いかないし。

 

「まあ、取り敢えず泊まって行くのはいいけどよ、着替え残ってたか?」

「洗濯はしておいたから大丈夫。あとで干しておいたら夜までには乾くわ」

「そ、そうか......」

 

 いや本当にね。平日とか家に一人でいる時、ふと洗濯してるとこいつの下着が紛れ込んでるのはマジで心臓に悪いから。あまりの驚きにショックで心臓が動きを再開しちゃうから。だからゾンビの類いじゃねぇよ。

 セルフツッコミって悲しいな......。

 

「じゃあ今日は暫く家にいるか」

「そうね。特に用があると言うわけでもないし」

 

 言って、二人してテレビに顔を向ける。流れているのは情報番組。やれ政治家の不祥事だの、やれ芸能人の不倫騒動だの、もうちょい明るいニュースはないのかと思ってしまう。世の中世知辛いのじゃ。

 

「なあ雪ノ下」

「なにかしら?」

 

 ふと、テレビをぼーっと眺めながら、純粋な疑問を口に出した。

 

「俺とお前って、どう言う関係なんだ?」

「え?」

 

 あまりにも唐突に過ぎたからか、雪ノ下は不思議そうな顔をこちらに向ける。

 本当に、少しでも近づけば唇同士が触れ合ってしまう距離で。彼女は口元に弧を描いて、その端からクスクスと笑みを漏らした。

 

「あなたは、どう言う関係がいい?」

「......っ」

 

 聞き返されてしまって、思わず言葉に詰まってしまう。俺は、一体この子とどう言った関係になりたいんだろうか。どう言った関係の女の子だと、思っていたいんだろうか。

 

「......友達、とか」

「ごめんなさいそれは無理」

「なんでだよっ!」

 

 いやまあ知ってましたけどね! これまで雪ノ下へのフレンド申請は全て却下されてるし。フレンド申請ってソシャゲかよ。

 俺は雪ノ下と友達になりたいのだろうか。多分、そうは思っていないのだろう。だと言うのにそんなことを口走ってしまうのは、ひとえに俺がヘタレだからか。

 

「じゃあ、お前はどんな関係がいいんだ?」

「ふふっ、ご想像にお任せするわ。さて、ご飯を作るから離して頂戴」

 

 微笑みながら俺の股座からするりと抜けて、雪ノ下はキッチンへ。エプロンを着けるその姿を見て、頭の中に新婚と言う言葉が思い浮かんでしまうが、首を横に振って無理矢理追い出す。

 

「ご想像にお任せする、って言われてもなぁ......」

 

 望めば、お前は応えてくれるのだろうか。

 応えて、くれるのだろう。後は俺に、その度胸があるかどうかだ。

 



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心配しちゃ悪いかよ

「比企谷くん」

 

  静かな部室に響く上品な音色。それは、読書に集中していた俺の意識を現実に引き戻す程に凛々しくて、ずっとその音に耳を傾けていたいと思う程に綺麗な声。

  その声に呼ばれると、なんだか胸の奥が擽ったくて。けれど、彼女から名前を呼ばれるという事が、なぜかとても嬉しく感じてしまって。

 

「なんだ?」

 

  感情を持て余した結果、ぶっきら棒な返事しか出来ない。そんな自分に落胆する。

  しかし、こうして部室に二人しかいないのに、彼女の方から話しかけてくるとは珍しい。いつもは由比ヶ浜が話を振って来たり、由比ヶ浜との会話の延長線上で俺を詰ったりしているが、そうでもないのに俺を呼んだと言うことは、なにか話でもあるのだろうか。

  顔を向けた先の雪ノ下は、どうしてかどこか言い淀んでいるように見える。バツが悪そうに顔を逸らして、続く言葉を紡がない。

  そんな表情をされたら、自分がなにかしたのかと不安になってしまう。

 

「なに、俺なんかしたか?」

「いえ、そうではないのだけれど......」

「じゃあなんだよ?」

 

  再び問うても、やはり雪ノ下は言いづらそうに顔を逸らしている。

  そんな顔を見せられていると、ふと思った。まさかとは思うが、またなにか厄介なことに巻き込まれているのだろうか。俺や由比ヶ浜には言い出しにくいこと。そう、例えば家のこととか。けれど一人じゃどうにもならなくなったから、こうして言い出そうとしてくれている?

  いや、雪ノ下の家の問題はある程度解決を見せていたし、違うはずだ。でも絶対とは言い切れない。

  一体いつから、彼女はなにかを背負いこんでしまっていたのだろうか。アドリブや演技なんて出来ない彼女の事だから、なにかあれば直ぐに分かるとばかり思っていたのに。俺はそれに気づいてやることが出来なかった。それが堪らなく悔しい。

  いつか助けると、約束したのに。そのいつかを見誤って、見過ごして。そうして雪ノ下雪乃はまた独りになって、比企谷八幡は決定的に間違えてしまう。

  そんなこと、もう繰り返したくなかったと言うのに。

 

「比企谷くん......?」

「あ?」

 

  また、名前を呼ばれる。先程までの逡巡していた様子は見せておらず。今は何故か、どこか気遣わしげな眼差しをこちらに送っている。

 

「どうしたの?」

「いや、どうしたのって......。それはこっちのセリフなんだが。最初に話しかけてきたのお前だろ」

「そうではなくて。今、あなたが泣きそうな、つらそうな顔をしていたから......」

「......っ」

 

  そう言う雪ノ下の方こそ、今にも泣き出しそうで、つらそうな顔をする。

  どうしてお前がそんな顔をするんだ。そんな顔にさせるつもりも、見たかったわけでもないのに。

 

「なんでもない。気のせいだろ」

「本当に? あなた、また何か変なことに巻き込まれたりしていないでしょうね? あなたに何かあったら、私......」

「......」

「......ごめんなさい、なんでもないわ」

「......おう」

 

  その言葉の先を聞いてしまった方が、どうにかなってしまいそうだった。なにを言おうとしていたのかは知らないが、そんな気がしてならない。

  それきり俺も雪ノ下も黙ってしまって、妙に気まずい沈黙が部室に広がる。つい数分前までは、いつもの居心地のいい空間だったのに。居心地が悪いとまではいかないが、これもさっきからなにか言いかけてはなにも言わない雪ノ下が悪い。そもそも、いつもの彼女ならそんな事ないはずなのだし、それも調子が狂う原因の一端でもあるか。

 

「あー、雪ノ下」

「なに、かしら......?」

 

  いや何かしらじゃなくて。先に話しかけてきたのそっちでしょうが。

  覗き込むように伺うような視線を寄越してくる雪ノ下。その姿がなんだか可愛らしく見えてしまって、よく分からない羞恥心やら照れ臭さやらを感じてしまい顔を逸らす。

  が、どうやらそれが宜しくなかったようで。

 

「やっぱり」

「なに、なんだよやっぱりって」

「あなた、なにかあったのでしょう? 私や由比ヶ浜さんに言えないような何かが。無理に聞き出そうとは思わないけれど、あまり無茶なことはしないで」

 

  こいつはなにを勘違いしているのやら。そもそも、俺がそんな風になってしまっている原因だって、元を正せばお前のことなんだぞ。

 

「お前こそ、なにかあったんじゃないのか?」

「私?」

「さっき、最初に俺を呼んだ時だって、なんか言いづらそうにしてたし。もしかして、家のことでなんかあったりしたのかって、心配になっちまったんだよ」

「そう、だったの......」

 

  眼だけを向かいに戻してみると、何故か頬を赤らめて視線を斜め下に逸らしている雪ノ下が。なんで? 今赤面するような要素あった?

  彼女は赤らんだ顔のまま、薄く微笑んでまた俺を見る。

  その顔はいつもの大人びたものでも、皮肉を孕んだものでもなく、とても可愛らしい、年相応の少女のものだった。まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のような、ともすれば実年齢よりも幼く見えるほどの。綺麗で、可憐で、不覚にも見惚れてしまうような。

 

「心配、してくれるのね」

 

  そんな嬉しそうな笑顔で、そんなことを嬉しそうに言うのだ。

  なにをそんなに喜んでいるのか。俺がお前の心配をするのが、そんなにおかしな事なのか。いや、おかしな事なんだろう。俺が、比企谷八幡が。誰かに踏み込むような発言なんて。その誰かが、雪ノ下雪乃だなんて。

 

「......俺が心配しちゃ悪いかよ」

「いえ、そんなことはないわ」

 

  くすくすと耳に届く声が擽ったい。でも、何故だろうか。不思議と悪い気はしないのだ。それがどうしてなのかなんて、今の俺には分からないけれど。

 

「比企谷くん」

 

  俺を呼ぶ、3度目の声。

  斜陽の中でこちらに微笑みかける雪ノ下はどこか神々しくもあって。でも、彼女がそんな手の届かない存在ではない事を、俺は知っている。

 

「心配してくれて、ありがとう」

 

  いつだか、由比ヶ浜が言っていた。雪ノ下は、俺たちに近づこうと頑張ってくれていると。

  今の、ありがとうのたった一言。それが、その頑張りの結果だと言うのなら。それほど尊ぶべきものはないだろう。

  きっと、それは俺たちの中で確かな変化があった証拠なのだから。

  そう思うと、自然と笑みが零れた。

  いじらしくて、もどかしくて。けれど、不器用に一生懸命、俺や由比ヶ浜に近づこうとしてくれる彼女は、やっぱりどこにでもいる、普通よりもかなり可愛いだけの女の子。

 

「なにを笑っているのかしら?」

「いや、なんでもない」

 

  くつくつと笑っていると、訝しげにこちらを見てくる。その眼に宿った温度が気持ち下がった気がしないでもない。落ち着けよ。別にバカにしてるわけでもないんだから。

 

「で? お前はなんで俺を呼んだんだよ」

「......?」

「いや、最初に話しかけてきたのお前でしょ。なに、もう忘れたの?」

「失礼ね。私はあなたのように三歩歩いたら忘れる脳みそは持っていないのよ」

「誰が鳥頭だ。そもそも三歩歩くどころか、さっきから一歩も動いてないだろうが」

「大丈夫よ。あなたが忘れてしまっても、私はあなたの事、忘れるまでは忘れないから」

「それなにも特別なことじゃないよね? 寧ろすぐに忘れるって言ってるようなもんだよね?」

「鳥頭の分際でよく分かったわね」

 

  楽しそうな笑顔を浮かべながら、俺を詰る雪ノ下。けれどそこに嗜虐的なものは含まれていなくて。

  何というか、会話すること自体が当初の目的であったような。

  ああ、だめだ。今日はどうしてか、彼女の笑顔がいつもの10倍は魅力的に見えてしまう。

 

「紅茶、おかわりは?」

「ん? ああ、貰うわ」

 

  立ち上がって俺の湯呑みを回収する。

  もう随分と慣れたやり取りではあるけれど、それだってきっと、俺たちがお互いの距離を少しずつ、本当に少しずつ縮めてきたからこそで。

  そして多分、今日もまた。

  比企谷八幡と雪ノ下雪乃の、目に見えない距離が縮まった。そんな一日。



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あなたの全てを知りたいから。

 休日の昼下がり。

 我が家のものよりも座り心地のいい高級そうなソファの上で、特になにをするでもなくダラダラ過ごしている。目の前のテーブルには好物となってしまった紅茶が置かれ、十分に冷めてしまったそれを、思い出した頃に口へ運ぶ。

 全力で休日を謳歌してる感じがして最高だ。

 

「比企谷くんは普段どんな曲を聴いてるの?」

 

 隣に座る恋人から唐突に問いを投げられたのは、そんな時だった。

 

「急にどうした」

「特に深い意味はないわ。単なる知的好奇心よ」

 

 そちらに首を回すと、彼女は、雪ノ下雪乃は表情を変えず、流れている情報番組を視界に写している。

 

「俺に対して知的好奇心が湧き上がるとか、お前の頭もついにイかれたか?」

「そんな訳ないじゃない。......いえ、そうね。深い意味はないけれど、私にとっては大事なことなの」

「意味はないのに、大事なこと......?」

 

 いつものように憎まれ口を叩くも、返ってきたのは予想以上に真剣な声音。しかし彼女のその言葉がいまいち理解出来ず、首を傾げてしまう。

 言ってしまえば、それは無駄なことだとも言えるだろう。万人に取って意味はないのに、けれどそれは雪ノ下にとって大事なことだと。彼女の知的好奇心を満たす、と言う意味であれば、それは確かに無意味ではないのかもしれないが。

 

「ええ。至極単純で、実にシンプルな感情故の知的好奇心。そうね、曲だけでは無くて、あなたが普段休日になにをしているのか、とか。どんな本を読んでいるのか、とか。そんな些細なことを、私は知りたいの」

 

 こちらに振り返り、俺の目を真っ直ぐに見て言う。その綺麗な瞳に気圧されそうになったが、しかし彼女から目を逸らさない。

 けれどやっぱり、口をついて出るのはいつもの様な言葉ばかりで。

 

「またなんで。ゾンビの日常が気になるのか?」

「そんな訳ないじゃない」

「ならなんだって言うんだよ。俺の生態を知っても得なんかないぞ」

「それを決めるのはあなたではないわ。知った後の私よ」

 

 正論で返されてしまっては、こちらから返す言葉も見つからない。思った以上に頑固だ。思わずため息が漏れてしまう。

 

「後悔するのが目に見えてて知ろうとは思わないだろ」

「後悔しないと分かってるから聞いているの」

 

 そこで断言出来てしまう辺り、流石という他ないのだろう。

 そもそも、こいつの人生の中でこいつ自身が後悔したことなんてあるのだろうか。あったとしても、片手で数えて足りるくらいではなからうか。俺なんて後悔し過ぎて自分探しの航海に出てしまいそうなほどだと言うのに。今の笑うとこだぞ。

 脳内でそんな満点大笑いな親父ギャグを考えていると、雪ノ下は穏やかな微笑みを見せて続く言葉を口にする。

 その笑顔を直視してしまって、つい頬が熱を持つ。それを近距離で見られているという事実が、どこまでも俺の頬を加熱してしまう。

 

「それにね、私は、あなただから知りたいのよ。あなたの事こそを、この世界のなによりも知りたいの」

「......それが、至極単純でシンプルな感情から発しているってのか?」

「ええ。教えて欲しい?」

「教えてくれるならな」

「そうね。改まって口にするのは恥ずかしいけれど......」

 

 咳払いを一つして、何故か頬を薄く染める雪ノ下。その表情がまたとても可愛らしくて、思わず見惚れてしまう。

 

「あなたの事が好きだから、かしら。好きな人のことはなんでも知りたいと思う、当然のことではなくて?」

 

 その顔に微笑みを携えたまま、そんな事を言われた。お世辞にも素直とは言えない彼女が、面と向かって「好き」だと言ってくれる。その事実に対する喜びを噛み締め、とうとう彼女の顔を直視することが出来なくなってしまった。

 照れ臭さとか恥ずかしさとか、そう言った感情が胸に去来するも、それすらも上回る勢いで彼女への愛おしさがこみ上げる。

 

「......まあ、そうかもな」

 

 故に、そんなぶっきら棒な返事しか出来ない。俺もまた、彼女と同じ様に自他共に認める程に素直じゃないから。なんて、言い訳を誰に向けるでもなく脳内で呟いてみせる。

 そもそも、彼女がああして本心を口にしてくれた時点で、これは言い訳として成立しないのであるが。

 

「それで、教えて頂けるかしら?」

「......お前もお前のことを教えてくれるってんなら、俺も教えてやるよ」

「そう? これでも、今まで十分過ぎるくらいには私のことを伝えてきたつもりだったのだけれど」

 

 若干ドヤ顔になっているのが微笑ましい。と言うかめっちゃ可愛い。

 

「ま、昔に比べたら知ってる事も多いけどな。例えば......」

「例えば?」

「今みたいに俺の肩に頭乗せるのがお気に入り、とか」

 

 先程からずっと、俺の肩に自分の頭を乗せて、見上げる様に俺の目を見つめている雪ノ下。毎度毎度、まるで彼女の好きな猫のようにすり寄って来てはこの体勢に収まる。

 俺の言葉を聞いてキョトンとしていたが、次第にその顔は笑顔へと変わっていく。

 

「あら、あなただってこうされるのは好きでしょう?」

「まあ、な」

 

 彼女が俺にその身を預けてくれることが、それだけ信頼されているという事なのだと思える。そのことがこの上なく嬉しい。

 クスクスと笑う雪ノ下に釣られて、俺も笑みが溢れる。

 

「それで比企谷くん」

「なんだ雪ノ下」

 

 お互い笑顔をそのままに、視線をテレビに戻す。どうやら今が旬のお魚的な特集をしているようで。ロケに向かっている芸人が美麗字句を駆使して、見たこともないような魚を褒めていた。こういうの見てると魚が食べたくなってしまう。

 

「結局あなたは、どう言った曲を好んで聴いているのかしら?」

「あ、その話続けるのね」

 

 てっきり、さっきの話で全部流れたのかと思っていた。

 

「当たり前よ。知りたいと言ったでしょう?」

「そうだけども......。あー、笑うなよ?」

「善処するわ」

「そこは笑わないって言い切れよ」

 

 苦笑しながら、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取り、ササっと操作して音楽アプリを起動。最近よく聴いている曲を再生した。

 

「これは、人が歌ってるの?」

「ボーカロイドって言うんだが」

 

 再生したのはもう10年近く前のボーカロイドの曲だ。ボカロだけでなく、普通にアーティスト達に楽曲提供していたり、自分でもクリエイターグループを持っていたりしている人の曲。時が流れても尚、この曲の価値は一切損なわれていない。ボーカロイドを代表する一曲ではないだろうか。

 

「名称くらいは聴いた事があるわね。それよりもこの曲、男性が聞くようなものなのかしら?こんな恋する乙女のような曲を、あなたが......?」

「おい、肩震えてんぞ笑い堪えてんじゃねぇ」

「ふふっ、ごめんなさい......」

「だから教えたくなかったんだよなぁ」

 

 ふう、と息を整える雪ノ下。まあ、確かにこの曲の歌詞は女性視点ではあるものの、歌っているボーカロイドだって女の子なのだからなんら問題はないはずだ。俺が聴いていたってなにもおかしなところはない。ほら、俺って美少女みたいなところあるし。ないか。ないな。

 

「良いじゃない。曲もいい曲であるのには違いないし」

「おっ、分かってくれるか」

「ええ。そうね......、少し、この曲を参考にさせてもらおうかしら?」

「えっ」

 

 俺の手からスマホを奪い、再生途中の曲を停止。そして歌詞を検索し始める。一体なにをしようと言うのか。

 いやまあ、今の曲を参考に、との言葉からある程度の察しはつくが。

 検索が終了したのか、コホン、と咳払いしてから、雪ノ下はスマホに表示された歌詞を読み上げる

 

「まずその1、いつもと違う髪型に気がつく事、は大丈夫ね。あなた意外と細かい所に気がついてくれるし」

「まあ、うん」

 

 そもそも髪型変わることなんて中々無いし。ポニテとかツインテとかになってたら気が付かないわけがない。

 

「その2、ちゃんと服まで見ること、も大丈夫ね」

 

 雪ノ下は基本的にどの服を着ていても似合うから、毎度の如く可愛いとか似合ってるとかしか言えてないが、まあ、それでも一応OKらしい。

 

「その3、私の一言には三つの言葉で返事すること。あら、これはあなたにぴったりじゃないかしら?」

「いい笑顔で言うのやめてね?」

 

 まあ確かに、雪ノ下の言葉には「おう」とか「ああ」とかで返事すること多いけど。

 

「と言うわけで、そう言う扱いを心得なさい」

「2/3を心得ている時点で赤点免れてるから別にそれでいいと思います」

「ダメよ」

「くっ、相変わらず俺に拒否権はないのか......」

「一言で三つだから、二言で六つね」

「理不尽だ......」

 

 なんでそこで比例するように増えちゃうんだよ。片方一言しか喋ってないのに、もう片方がめちゃくちゃ喋るとか、さてはコミュ障の俺に喧嘩を売ってるな?

 が、しかし。彼女は忘れていることがある。雪ノ下の罵倒に対する俺の反応を。

 

「いや、待て雪ノ下。普段の俺たちのやり取りを思い返してみろ。大体お前の罵倒に対しては結構多めの言葉を駆使して屁理屈を宣っている俺だぞ。それも条件クリアしてるんじゃないのか?」

「自分で屁理屈だと認めないでくれるかしら」

「んぐっ......」

 

 でもねゆきのん。俺だってちょっと無理あるかなーってのは分かってるんだよ。でも仕方ないじゃん。殆ど反射的に屁理屈やら皮肉やらが出てくるんだから。

 はぁ、とため息を吐く雪ノ下。今この体勢でなければ、いつものようにコメカミに手を当てて、アタマイターのポーズをしていたことだろう。

 

「そう言えば、あなたは私の何が知りたいの?」

 

 スマホをテーブルの上に戻し、俺の顔を見上げながらそんな事を聞いてきた。別に雪ノ下のように、お前のことが知りたい、とは口にしていないのだが。いや、代わりにお前のことを教えろ、とは言ったか。まあ知りたくないと言えば嘘になる。

 だが改めてそう聞かれれば答えに窮するわけで。

 

「......全部?」

 

 結局、そんなバカのような言葉を口にしてしまった。

 

「具体性のかけらもない馬鹿の一つ覚えのような言葉をありがとう。そんなことだから万年国語三位なのよ。その調子では一位どころか二位すらも夢のまた夢ね」

「なんでお前が三つの罵倒で返してきてるんだよ......」

「お手本を見せてあげたのよ」

 

 三つの言葉とは言ってるけど罵倒とは言っていない。そもそも俺がそんな返しを出来る訳もないので、お手本になる筈がない。

 はあ、と今度は俺がため息を吐く番だった。まあ、三つで済んでる辺り今日は機嫌がいいと見るべきだろう。

 

「つっても、嘘を言ってるわけでもないしな。お前の言葉を借りるなら、好きなやつのことは全部知りたい、ってやつだ」

「......そう」

 

 自分で言いながら、あまりにも小っ恥ずかしい言葉で顔全体が赤くなるのを自覚する。言われた側の雪ノ下も、頬を染めてそっぽを向いてしまった。どうやら、数分前に自分で言った言葉がどれほど恥ずかしいものかを漸く理解したらしい。

 

「けれど、これではフェアではないわ。私はあなたのことを一つ知れたのに、あなたは私のことを知れていないじゃない」

「いや、別にフェアとかそう言うの関係ないだろ......」

「なんでもいいから、何かないかしら?」

 

 言われて、少し考えてみる。しかし中々いいものが思いつくわけでもなく、代わりに思いついた、バカみたいな質問を口に出してみた。

 

「じゃあ、俺のことどう思ってるのか教えてくれよ」

 

 今更分かりきった質問。改めて問うまでもないような事であるのは、俺も彼女も理解している。けれど、こうして質問するのは、俺の心の中にほんの少しでも不安があるからなのだろうか。

 そんな俺の真意を直ぐに理解したのか。雪ノ下はクスリと笑みを一つ溢し、俺の耳にその綺麗な口を寄せた。

 

「愛してるに決まっているでしょう」

 

 そんな言葉一つで不安が晴れる辺り、俺は雪ノ下雪乃のことを心底から好いているのだろう。



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love letter

『今日はキスの日らしいよ』

 

 先程届いたメールを見て、溜息を吐く。

 差出人は姉。なんの脈絡もなく唐突に送られて来たそれの意図は、まあ、面白半分と言ったところだろう。

 放課後の部室には私以外に誰もいない。由比ヶ浜さんは飼い犬であるサブレの散髪に行くと言っていたし、比企谷くんは一色さんに手伝いを頼まれたらしく、姉さんのメールの前に連絡があった。

 彼と今の関係になってから漸く手に入れたアドレスは、今のところ事務的な最低限の連絡にしか使われていない。しかしそんなメールでも、差出人のところに彼の名前が表示されるだけで嬉しくなってしまうのだから。私も存外に単純な女だ。

 閑話休題。

 姉さんから届いた、この全くもって意味の分からないメール。なにを思ってこのメールを届けたのかは考えないでおこう。どうせ碌でもないことなのは確かなのだし。

 問題は、その文面。キスの日、とは果たして一体全体どう言うことなのだろうか。

 後ろの机に置いてあるパソコンを引っ張り出して来て、インターネットで検索をかけてみる。私は部室の備品でなにを調べているのだろうと思わないでもないが、疑問に思ってしまったので仕方がない。そう、これは仕方のないことなのよ。いわば部活動の一環でもあるわ。なにより私には部長としての権限があるのだし、この行為を咎めることの出来る人は校内、いや世界中に一人として存在しない。

 そんな誰に向けるでもない言い訳を頭の中で言い募ってから、目ぼしいサイトを開く。

 

「日本で初めてキスシーンの入った映画が公開された日、ね」

 

 そこに書かれていた文章を、なんとなしに読み上げる。どうやらたったそれだけの理由らしい。

 他にも今日は、ラブレターの日だったり亀の日だったり、よく分からない記念日が名を連ねていた。

 いや、待て。待つのよ私。このままキスの日と言うよく分からない記念日に困惑して姉さんの手のひらで踊らされるつもり? いいえ、そうは行かないわ。姉さんはきっと私がキスの日と言うのを口実に比企谷くんと色々やらかすのを期待している筈。その期待を裏切るために、ここはラブレターの日と亀の日のどちらかに焦点を当てた方が良いのではないかしら。

 そうと決まれば話は早い。カバンの中からルーズリーフと筆箱を取り出し、早速なにを書こうかと思考を巡らせる。

 ......何を書けばいいのかしら? そもそもラブレターってなに? 今まで男子から手紙で告白されたことは何度かあったけれど、改めて自分が書くとなると、どう言ったものを書けばいいのか全く分からなくなる。

 いや、ラブレターと言うからには、相手への愛を綴ればいいのだろう。私の、比企谷くんへの、あ、愛、を......。

 

「ふう......」

 

 よし、少し落ち着きましょう。頬がなんだか熱い気もするけれど、きっと気のせいね。最近気温も上がって来たし、それが原因よ。

 そう、別にそんなもの書かなくてもいいのよ。日頃の感謝の気持ちとか、そう言うのを書けばいい。そもそも、書いたところでこれを比企谷くんに渡すとも決まっていないし。渡さないならどうして書いたんだと言う話ではあるけれど。

 比企谷くんへの感謝の気持ち。感謝の気持ちね。その方向性で行きましょう。うん。

 ......私、比企谷くんから感謝するようなことされたかしら?

 いえ、されてるわ。比企谷くんには本当に感謝している。けれどそれを書こうとすると、結局彼への愛を綴る、と言うところに帰結してしまうわけで......。

 これもう書かなくてもいいんじゃないかしら。いえ、そう言うわけにはいかないわ。一度書くと決めたのだもの。ならちゃんと書き切らないと失礼というものよ。誰にかは知らないけれど。

 取り敢えず書き出しは拝啓からでいいのかしら。それだと少し堅苦しいような気もするけれど。いえ、明らかに堅苦しいわね。普通の高校生の書くラブレターでそんなものは書かないだろうし、季語を使った挨拶の言葉なんかもいらないはず。シンプルに。シンプルに行きましょう。

 

「比企谷くんへ......」

 

 

 

 

 

 突然の手紙ですが、出来れば最後まで読んでくれると嬉しいです。

 

 

 今日はラブレターの日、と言う情報を得たので、今日はあなたへの感謝をここに綴ろうと思います。

 堅苦しいのはあなたも苦手だと思うし、私もあまり得意ではないから、そう重く受け取らないで貰えたら幸いよ。

 

 

 いつも、私の辛辣な言葉を聞いてくれてありがとう。

 あなたはどれだけ罵詈雑言を浴びされようと、お得意の屁理屈で返してくれる。そんなやり取りを心地よく思う私もいて、それが楽しくていつも止められない。本当は嫌だったりするのかしら? それだったら言ってください。あなたが嫌がることはあまりしたくないから。

 

 

 毎日休まずに部活に来てくれてありがとう。

 あなたが部室に来て、それを私が迎える。それだけの事だけれど、私にとっては、学校にいる時に一番楽しみにしていることなの。今でこそ、今の関係があるからいつでも会えるけれど、それまではあなたとの接点はここだけだったから。実は、ちゃんと来てくれるのかと毎日不安だったりしてました。けれどあなたは部室に来てくれて。とても嬉しいです。

 

 

 私の紅茶を美味しいと言ってくれてありがとう。

 紅茶を淹れるのは数少ない私の趣味。それであなたが喜んでくれるのは、私にとっても嬉しい事です。この部室であなたに美味しいと言ってもらうために、毎日淹れていると言っても過言ではないわね。もう、あの甘すぎるコーヒーは必要ないのではなくて? もしあなたが望むのであれば、平日だけじゃなくて休日も、これから毎日振舞ってあげても構わないと思っているわ。

 

 

 私を好きになってくれてありがとう。

 私の好意を受け入れてくれてありがとう。

 あなたのことがとても好き。こうして手紙に言葉として綴るだけでは物足りないくらい。それくらいに、あなたの事が好きなの。あなたも同じ気持ちだと知った時、本当は嬉しくて泣きたかったわ。けれどあなたにそんな見っともない姿を見られたくなかった。今考えると、あなたならそんな私すらも受け入れてくれるのかしら。

 

 

 私を助けてくれて、ありがとう。

 いつも、いつもあなたに助けられていた。気がつけばずっと。あなたはそんな事ないと言うかもしれないけれど、それを判断するのはあなたではなく私。助けた自覚はなくても、助けられた自覚はある。いつかの約束とも言えない私のワガママを、あなたら聞き届けてくれた。それだけで、どれほど私が救われたか。

 

 

 次は、私があなたを助ける番ね。少しでもいい。ただ、あなたの力になりたい。あなたの為に、なにかを成したい。こう思うのは間違っているかしら?

 けれど、私はあなたの恋人だから。あなたは人に弱みを見せないけれど、私にくらいは見せてくれると嬉しいです。

 だからきっと、いつか、私があなたを助けるわ。

 

 雪ノ下雪乃

 

 

 

 

 

 

 

 部室には誰もいない。ただ、長机の上にルーズリーフが一枚置いてあっただけ。由比ヶ浜が部活不参加と言うのは聞いているし、雪ノ下のカバンはあるのでたまたま誰もいなかっただけだろう。

 生徒会の手伝いから漸く解放され、雪ノ下に紅茶を淹れてもらおうと重い足を引きずってやってきたのはいいが。

 つい出来心で、そのルーズリーフの上を躍る文字に目を走らせてしまった。

 

「なんだこれ......」

 

 頬が熱いのは気温の高さのせいではないだろう。手に持ったルーズリーフに書かれているのは、多くの感謝と、好意の言葉。素直とはとても言えない彼女の、本当の気持ち。

 生徒会室で「今日はキスの日ですねー」とか一色に散々からかわれた後ではあるが、まさかラブレターの日でもあるとは知らなかった。さらに言えば、雪ノ下がこんなものを書くと言うのも、想像がつかなかった。それも、俺の知らない彼女の一面と言うやつなのだろうか。

 

「ひ、比企谷、くん......?」

 

 不意に背後から名前を呼ばれた。その声を聞いて、ピクリと肩を震わせてしまう。

 振り向いた先にいたのは、雪ノ下雪乃。このラブレターたら言うものを書いた張本人。そしてそれは今現在俺の手の中にあり、本人の許可なく勝手に読んでしまったと言うのを決定づけている。

 

「よ、よお、雪ノ下。どこ行ってたんだ?」

「......お手洗いよ。そんなことよりも、それ......」

 

 彼女が指で示すのは、俺が持っているルーズリーフ。雪ノ下の顔は真っ赤に染まっていて、そんな表情を見てしまえば俺の顔もつられて赤くなってしまう。

 

「み、見た......?」

 

 無言で頷いた。嘘を吐いても仕方がない。なにより、彼女の気持ちをこんな形であれ知れたのは、俺にとって嬉しい事ではあるのだし。

 そう、とだけ呟いて俯く雪ノ下。あれ、もしかしてゆきのん泣いちゃった? 嘘を吐いてでも読んでないと言うべきだったのだろうか。でもそれをしてしまえば、ここに書かれている彼女の気持ちすらも否定してしまうような気がして。それは嫌だった。

 

「比企谷くん」

「な、なんだ......?」

 

 顔を上げてキッとこちらを睨むように見据える雪ノ下。怒られそうで怖い。

 再び名前を呼ばれた後、彼女らしからぬ大股で下品とも言える所作で俺との距離を詰めてくる。やがて彼女が立ち止まったのは、殆どゼロ距離とも言えるほどの近さ。腕を回せば直ぐに抱き締めることが出来てしまうほどの。

 

「雪ノ下......?」

 

 眼下には彼女の頭があって、こちらを上目遣いで見つめる濡れた瞳と視線がぶつかる。

 そんな距離まで肉薄されたのは初めてのことで、心臓が煩いくらいに高鳴ってしまう。この距離だと、その音が聞こえてしまわないだろうか。なんて、あり得るわけもないことの心配までしてしまう始末。

 

「今日は、キスの日、らしいのよ......」

 

 やがて発した一言は、そんな確認するかのようなもの。未だ頬を真っ赤に染めたまま、彼女は俺の胸に手を添える。

 ああ、これで俺の心臓の鼓動は隠せなくなってしまった。白魚のような指の感触がどこか擽ったく、けれど何故かとても愛おしく感じてしまって。

 徐々に近づいてくる雪ノ下の綺麗な顔。間抜けにもそれに見惚れてしまっていた俺は、実に呆気なく、彼女に唇を奪われた。

 

「んっ......」

「......っ」

 

 一瞬、なにが起こったのか理解が遅れた。

 離れていった柔らかい感触は、しかしまだ残っている気がして、だけどとても名残惜しい。

 あの雪ノ下雪乃と、キスをした。

 その事実を認識したと同時に、顔が焼けるように熱くなる。

 

「おま、えっ......! なんでいきなりっ......!」

 

 慌てて後ろに飛び退こうとするも、即座に制服の裾を摘まれてそれも叶わず。ただ、俺の顔を見上げる彼女の視線を、彼女と同じ真っ赤な顔で受け止めることしか出来ない。

 

「キスしたかったから......。それでは、ダメ、かしら......?」

「......ダメじゃない」

 

 なんとか絞り出した言葉は、明後日の方を向いて発してしまったけれど。目だけでチラリと盗み見た彼女は笑っていたから、間違った返答ではなかったようで一安心。

 

「これ......」

「......ぁ」

 

 そう言えばと思い、手に持ったままだったルーズリーフを彼女に差し出す。キスをされた衝撃で頭から抜け落ちていたが、元はと言えば俺がこれを読んでしまったせいだろう。

 とは言え、流石にそこからキスをすることになるのは、些か以上に脈絡がなさすぎるが。

 

「......あなたに上げるわ」

「いいのか?」

「元々、あなたへの、その、ラブレター、なのだから。それが当然でしょう」

「......そうか」

 

 改めてその文章を読み返そうとして、パッと取り上げられた。

 

「さ、流石に恥ずかしいから、読むのは帰ってからにして頂戴......」

「ああ、うん。そうだな」

 

 斜め下に視線をやりながら言うその姿がとても可愛らしい。

 取り敢えず、帰ったら俺も書いてみよう。我が恋人へのラブレターと言うやつを。

 どんな風に書けばいいのかは分からないから、雪ノ下に倣って、まずは感謝の言葉でも綴ろうか。彼女に感謝することなんて多すぎて、絞り切るのが大変そうだ。

 柄にもなく、それを書くのが少し楽しみな自分がいて、自然と笑みが漏れてしまった。

 

「なにを笑っているのかしら?」

「いや、なんでもない。それより紅茶、淹れてくれよ」

 

 美味しいって、今日も言いたいから。

 



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忘れてはいけないモノ

比企谷八幡は大切なモノを忘れたようです。


「暑い......」

 

  六月になった。そろそろ梅雨入りしようかと言うこの時期。夏と違ってジメジメした、肌に張り付くような暑さが鬱陶しい。

  冷房の効いた電車から降り、改札を抜けてジメッとした空気に身を晒す。脂汗を流しながら我が家へと帰って行くサラリーマンのおじ様がそこかしかに蔓延っていて、人口密度の高さからか実際の気温よりも暑く感じてしまう。首元のネクタイを緩めるが、その程度では気休めにもならない。

  スマホを取り出しチャットアプリを起動。駅前に到着した旨を告げると、返事は直ぐに返ってきた。どうやら向こうも到着しているらしい。改札前にいることを伝えれば、何故か奇妙なオブジェ扱いされる始末。

  携帯から顔を上げると、こちらに駆け寄ってくる女性を発見した。

 

「お疲れ様」

「おう、お疲れさん」

 

  わざわざ家から出てきてくれた雪ノ下雪乃は、随分とめかし込んで駅前へとやって来た。いつもより気合が入っているようにも見える。どちらからともなく手を繋ぎ、目的地へと歩き出した。周囲からの視線を頂いてしまうのには、もう慣れた。

 

「また随分とオシャレして来たな」

「似合うかしら?」

「似合ってないと思ってんの?」

「全然」

「ならそれでいいだろ」

 

  素直に褒めることが出来ないのは生まれ持っての性分というやつ。雪ノ下の方もそれにすっかり慣れてしまっているのか、愉快そうにクスクスと笑っている。

 

「それより、本当にいいの?」

「なにが」

「今日の夕飯よ」

「自分から言っといて今更なに言ってんだよ」

「私も今日が給料日だったから、半分出すけれど」

「いい。こう言うときくらい奢られとけ」

 

  決して安月給ではないのだし。それに、今日と言う日くらいは俺が払いたい。その理由を彼女に伝えるわけにはいかないけれど。

 

「ならお言葉に甘えるわ」

「おう、そうしとけ」

 

  街中を歩いていると、こんなにも暑いと言うのにべったりくっ付いて歩くカップルが何組も見受けられる。その内の一組に、俺たちも名を連ねていると言うのだから、人生なにが起こるのか分かったもんじゃない。

  さて、六月と言えばなにを想像するだろうか。祝日が一切ないことで俺の中では話題沸騰なのだが、世間一般的にはこうではなかろうか。

『ジューンブライド』

  結婚がどうやらこうやらと言うあれ。街の至る所に、と言うほどでもないが、結婚式がどうとかウェディングドレスがどうとか、歩いているとそんな言葉がポツポツと散見される。それは隣の彼女も見つけたようで。

 

「ジューンブライド、ね」

 

  ポツリとそんなことを呟いた。自然、カバンの中に入れてあるアレを意識してしまう。

 

「新婚旅行はどこがいいかしら?」

「ちょっと? 色々と話が飛びすぎじゃない?」

「海外に行く人が多いらしいけれど、沖縄や北海道などの国内も良さそうよね」

「......まあ、パスポートやらなんやらとメンドくさそうだしな」

 

  そもそも千葉を愛してやまない俺としては、国内どころか千葉からも出るつもりはないのだが。ほら、千葉から出て京都に行った時とか酷い目に遭ったし。新婚旅行、マザー牧場とか東京ドイツ村とかじゃダメですかね? ダメですよね。

 

「海外行くとしたらパリだな。一度でいいからパリたけに行ってみたい」

「考える基準がおかしいと思うのだけれど......。でもパリね。なら今のうちからパスポートのことを考えておきましょうか」

 

  手を繋いでいなければまたコメカミに指を当てていただろう。呆れたようにそう言うが、その顔はどうしてか楽しそうだ。

 

「お前、今日はやけに機嫌がいいな」

「そう?」

 

  気になって聞いてみたが、どうやら本人も無自覚なご様子で。久しぶりの好物である伊勢海老にテンション上がってるとかだろうか。

  まあ、前に食べてからもう一ヶ月以上経つしな。それなりの高級品だから、食べたい時に食べれるわけでもない。俺だって久しぶりにラーメン食べたりする時は結構テンション上がるし。

 

「ふふっ、そうかもしれないわね。今日は少し機嫌がいいわ」

「そんな機嫌のいい雪ノ下さんにご報告なんだが」

「なにかしら?」

 

  可愛らしく小首を傾げている雪ノ下に、ポケットから取り出した携帯の画面を見せてやる。表示されているのはさっきまで使用していたチャットアプリ。それを見た途端、彼女は驚いたように目を見開いた。

  うん。そう言う反応になるよね。俺も気づいた時はそんな反応を電車の中でしてしまったし。

 

「これ、グループチャットなんだけど」

「......やってしまったわね」

 

  上の方に『奉仕部』と表示されたトークルーム。普段から使っているトークルームではあれど、まさか個人チャットとグループチャットを間違えるなんて。見れば一色と由比ヶ浜も、その後に呆れたような反応を示している。

  ところで元奉仕部のチャットになんで部員じゃないやつがいるんですかね。まあ別にいいんだけど。

 

「あいつらんとこで良かったな。これがもし仕事のとことかだったら目も当てられんぞ」

「それもそうね......」

 

  どうやら結婚云々の話からは上手く逸らせたようだ。あのままあの話が続くのは良くない。主に俺の精神衛生上良くないし、この後のことを考えさせられるので余計に良くない。良くないことだらけですね。

 

「それより、ウェディングドレスと白無垢、あなたはどちらが好み?」

 

  おっとこれ話逸らせてませんね。なに、遠回しにプロポーズされてるの? そう言えば今日はプロポーズの日たら言うものらしいし、その可能性がなきにしもあらず。いやねぇよ。

 

「だから、さっきから話が飛躍しすぎだって......」

「そうかしら? それより、あなたはどっちがいいと思うの?」

「......ウェディングドレスです」

「そう。ならそちらで決まりね」

 

  なぜか流れで新婚旅行と結婚式について決まってしまった。なんで? 僕まだプロポーズしてないよ? それとももしかして、雪ノ下さん色々と察しちゃってる? やだなにそれ恥ずかしい。

  しかし、ウェディングドレス姿の雪ノ下か。高校の時に謎のノリで一度見たことはあったが、あの頃よりもその美貌に更なる磨きがかかった今の彼女が着れば、それはどれだけの美しさを醸し出すのだろうか。想像しようとしてみるも、途中でそれを霧散させる。きっとどれだけ上手く想像出来ても、実際はそれを上回る美しさに違いない。それに、本人が隣にいるのだから、俺が彼女にウエディングドレスを着てくれと言えばいい話だ。

  それが出来ないから、今日この日までグダグダとやって来たわけだが。

 

「あとは式に誰を呼ぶかよね」

「俺もお前も、交友関係狭いからなぁ。知り合い全員呼んでも、そこまでの人数にはならなそうだ」

 

  もうこの話を止めるのは諦めて、一緒になって考えてみる。親友と後輩の二人から始まり、あいつとかあの人とか、最近は会っていないような奴まで。考えてみれば、思ったよりもその人数が多くて、自分でもビックリする。

 

「......姉さんだけは呼ばない方向でいいかしら?」

「いや呼んでやれよ......。呼ばない方が面倒なことになるぞ」

「それもそうね」

 

  そんな話をしていると、目的地に到着した。何度か来たことのある老舗料理店。初めて来たのは、彼女の両親に連れられて来た時だったか。以降懇意にさせてもらってはいるものの、どこか厳格な雰囲気を纏ったこの店は未だに慣れない。

 

「そう言えば比企谷くん」

 

  店に入る前に、雪ノ下から呼び止められた。繋いでいた手をスルリと離し、彼女はカバンの中を漁る。

  なにか渡すものでもあるのだろうかと首を捻るも、俺としては特に思い当たる節はない。

  やがて彼女が取り出したのは、高級そうな四角い箱で。それは本当ならば俺のカバンの中にあるはずのもので。

 

「忘れ物よ」

「なっ、なんでそれ......!」

 

  急いで自分のカバンの中を見るが、それはやっぱり入っておらず。どうやら間抜けにも、朝家に忘れて来たらしい。

 

「このまま貰ってあげようかと思ったのだけれど、それでは味気ないじゃない?」

「......」

「ふふっ、では入りましょうか」

 

  受け取ったその箱をカバンの中にしまい、彼女に続いて店へと入った。

  どうやらやっぱり、初めから全部知っていてあんな話を振っていたらしい。流石に格好つかなさ過ぎて自分に絶望しそうになる。

 

「どんな言葉で渡してくれるのか、楽しみにしてるわね」

 

  流し目と共にそんなことを言われてしまって、急いで上手い言い回しを考えたのだった。



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ぷれぜんと ふぉー ゆー

八幡、やらかす。


「お父さん、それ本当に渡すの?」

 

  俺の手の中にある物体を見て、娘が心配そうに問いかけてきた。もちろん答えはイエスだ。ここまで来たら引き返せない。例え発想の大元がただの思いつきのイタズラ程度だとしても、これは既に完成してしまったのだから。

 

「当たり前だ。そもそも、こんなどう見ても怪しい箱、お母さんが疑わないと思うか?」

「お父さんからのプレゼントなら疑わないと思うけど......」

 

  俺が今持っているのは、びっくり箱と呼ばれるやつだ。アニメに出て来そうなプレゼントボックス。もうこの見た目の時点で現実にはあり得ないので、怪しさ満点。そして箱を開けば飛び出る犬の人形。人形と言っても、かなり小さいやつだから、中の仕掛けは問題なく作動する。動作テストでも問題なかった。

 

「つーか、これ作ったのお前だろ」

「大好きなお父さんに作ってくれって言われたから作ったんだよ。今の私的にポイント高い」

 

  そのポイント制度やめなさい。あざといから。まあ可愛いので許しますけどね!

  さて、今日は土曜日だ。完全週休二日制の会社に運良く就職できた俺は今日という休日を使って策を練り、娘にびっくり箱の作成を依頼したわけだが。妻である雪ノ下雪乃、現比企谷雪乃は悲しいことに休日出勤。

  ここ最近の彼女は休日でも関係なく仕事に行くため、中々家族としての、延いては夫婦としての時間が取れていないでいる。正直、今回の作戦はその不満を表していると言っても過言ではないのだが。

  なんだかんだで、娘もノリノリで作ってたし。

 

「お父さんも、お母さんともっとイチャイチャしたいんだったら本人に直接言えばいいのに。多分、お父さんに言われたら普通にお休みもらうと思うよ?」

「馬鹿お前、別にそんなんじゃないから。俺はただ、もうちょい三人で過ごす時間があってもいいんじゃないかなーとか思ってるだけだから」

「私のことも考えてくれてるのは嬉しいけど、お母さんのこともちゃんと考えてあげてね」

 

  はあ、とため息を吐く娘。中学生になったばかりなのに、随分と大人びている。最近はどんどん母親に似て来て、マジで俺の娘世界一可愛いんじゃないかって思い始めた。嘘、生まれた時から世界一可愛いって思ってる。

  俺の娘マジ天使とか思ってると、玄関の扉が開く音が。どうやら、ターゲットが帰還したらしい。

 

「よし、行くぞ」

「どうなっても知らないからね」

 

  リビングから玄関へ移動すると、そこにはパンツスーツ姿の妻が靴を脱いでいた。どこかくたびれたようにも見えてしまい、これから行うことに罪悪感が募る。しかしそれをどうにか抑えつけ、声を掛けた。

 

「おかえり、雪乃」

「お母さん、おかえりなさい」

「ただいま」

 

  顔を上げて俺たちを視認すると、雪乃は微笑みを漏らしてくれる。やばい、抑えたはずの罪悪感がまた込み上げて来た。どうしよう。

  ことここに至って、俺は尻込みしてしまっているらしい。いくら彼女との時間が取れないと言っても、仕事から帰って来て疲れている雪乃に対してこんな事をしてしまってもいいのだろうか。

 

「あら、それは?」

 

  なんて心の中でヘタれていると、ついに雪乃の方から箱に触れて来た。まあ、こんなもん持ってたらそりゃ気になるわな。怪しさ全開だし。

  しかし向こうから話を振られれば、これを渡さないわけにもいかない。

 

「あー、その、俺と娘からの、日頃の感謝の気持ちと言うか。まあ、なんだ。受け取ってくれ」

 

  隣から巻き込まないでくれと言いたそうな視線を頂戴してしまったが、これを作ったのは紛れもなく娘なので、その時点で共犯だ。

  差し出したびっくり箱を、雪乃はおずおずと受け取る。どんな反応をされるのか怖くて視線は明後日の方に向いてしまっていたのだが。

 

「......嬉しい」

「え」

 

  聞こえて来た言葉は、俺の予想を裏切るものだった。

 

「ありがとう八幡。とても嬉しいわ」

 

  視線を前に戻すと、そこには綺麗な笑顔を浮かべた雪乃がいて。本当に、心の底から喜んでくれているんだと、わざわざその言葉を聞かなくても理解出来てしまった。

  いや、いやいやいや。待って待って。待ってください雪乃さん。マジで? その箱めっちゃ怪しいよ? マジで言ってる?

  隣からはほら見たことかと言いたげな視線が。やめて、ジト目を向けないで。でもそんな目でも可愛いから俺の娘マジ天使。

 

「開けてもいいかしら?」

「えっ、いや、もうちょい後でもいいんじゃないかな。うん」

「今開けてもいいよ、お母さん」

 

  ちょっとー!誰だよ娘が天使とか言ったやつ! こいつめっちゃ笑顔でなんてこと言いやがるんだよ! 悪魔じゃねぇか! 叔母の悪いところを着々と継承しやがって......。

  そして箱に手を掛ける雪乃。戦々恐々とその様子を見守る俺。悪魔のような笑顔を浮かべる娘。

  やがて開かれた箱は勿論その機能を十全に発揮して。

 

「きゃっ!」

 

  ビヨーン! と。

  バネの反動で中から現れる、小馬鹿にしたような顔の犬の人形。雪乃の口からは可愛らしい悲鳴が漏れたが、残念なことに俺はそれを可愛がる余裕なんてなく。背中から嫌な汗が噴出している。

  やばい。絶対怒らせた。

  最早苦笑いすらも浮かんでこない。ここは素直に怒られようと思ったのだが、雪乃の表情を見て、絶句した。

 

「ゆ、雪乃?」

「お母さん......?」

 

  彼女は、その綺麗な瞳から、静かに涙を流していた。怒るでもなく、かと言って泣き喚くでもなく。ただただ静かに、頬を濡らしている。

  俺も娘もその姿に驚いてしまって、掛ける言葉が見つからない。やがて雪乃は、その役割を全うしたびっくり箱を床に置くと、涙を拭うこともせずに俺たちの横を素通りした。

 

「......お風呂に入ってくるわ」

 

  それだけ言って、部屋へと消えて行く。その後ろ姿は、帰ってきた時よりもくたびれて見えて、ともすればとても悲しそうにも見えてしまって。

 

「どうするの、お父さん?」

 

  翌日の日曜日。雪乃は俺に一言も口をきいてくれなかった。

 

 

 

 

************

 

 

 

 

  俺が朝目を覚ます時は、大抵娘に叩き起こされている。小さい時から中学生になった今の今まで、それは娘にとって日課と言えるものだろう。布団を思いっきり捲られる冬や、俺に思いっきりのし掛かってくる夏。起こし方は多種多様で、苦しみと同時に夢の世界から覚醒するのだが、なんだかんだで娘に起こされることに幸せを感じているあたり、俺も親バカと言われる類の人間なのかもしれない。

  なぜこのような話を唐突にし始めたのかと言うと、なにも特別な事情があるわけではない。いや、俺にとってこれはある意味特別なことで。日々の習慣と化したものが突然変化していたら、俺だって困惑するわけで。

 

「おはよう、比企谷くん」

 

  目を覚ましたとき、そこに娘の姿はなく。その代わり俺の視界に飛び込んできたのは、昨日一言も口をきいてくれなかった、愛する妻の姿だった。

  どうして彼女が起こしにきたのか。一昨日のことは怒っていないのか。そもそもなんで苗字呼びなのか。様々な疑問が頭に浮かんで来るが、それを口にするよりも前に。

 

「んっ......」

「......っ⁉︎」

 

  さらりと唇を奪われた。

 

「おはようのキスよ。目が覚めたかしら?」

「えっ、あっ、お、おう......」

「朝ごはん出来てるから、リビングに行きましょう?」

 

  なにこれ。なにこれ〜? 雪乃さんどないしてしまったん? 一昨日の一件でついにおかしくなっちゃったとか? いやいや、怒る要素はあってもおかしくなる要素はないでしょ。

  なにが一番堪えるって、まるであの頃に戻ったかのような苗字呼びが一番堪える。夫婦になることはおろか、触れることすら叶わないと思っていた、あの高校時代に。

  自分の顔が熱くなっているのを自覚しながらも、ベッドから降りて雪乃の後ろに続いて歩き出す。

  リビングに入ると、そこには既に制服へと着替えた娘の姿が。なんか携帯を見てニヤニヤしてる。

 

「あ、おはようお父さん」

「おはようさん。行儀悪いから飯食ってから携帯見ろよ」

「はーい」

 

  傍に携帯を置いて、娘は食事の手を早める。なに、そんなに携帯見ていたいの? つーかなに見てんの? まさか男からのメールとかじゃないだろうな......。

 

「ねえお父さん」

「ん?」

「お母さん、どうしたの?」

 

  ヒソヒソと内緒話でもするかのような声のトーンで、娘は台所の雪乃を見ながら聞いてきた。雪乃は鼻歌でも歌いそうな程に機嫌よく味噌汁をよそってくれている。

  昨日一昨日の彼女からは想像出来ない姿だ。

 

「俺にもわからん......」

「だよねぇ......。兎に角、お父さんは早くお母さんに謝ってね」

「分かってるよ」

「なら良し」

 

  その後運ばれて来た朝食は、いつもと遜色ない美味しさだった。ただ、雪乃が俺の食べてるところをずっと見ていたから、非常に食いづらかったのだが。

  因みに娘は飯を食い終わるとリビングのソファで携帯を見ながらずっとニヤニヤしてました。あのニヤケヅラは比企谷家の遺伝なんだろうなぁ......。

 

  朝食を食い終わりスーツに着替えて、会社に行く準備を終える。いつも同じくらいのタイミングで家を出る雪乃は、しかし部屋着から着替えていなかった。

 

「今日はお休みをもらったの。最近、休日出勤が多かったから」

「なるほど」

 

  玄関先に見送りに来てくれた雪乃にそう教えてもらい納得する。そこで納得してしまったのが、俺の失態だったのだが、この時に気がつくはずもない。

 

「比企谷くん。ネクタイ、歪んでるわよ」

「お、おう......」

 

  グッとこちらへの距離を一息に詰めて来て、雪乃は胸元のネクタイへと手を伸ばして来る。明らかに今までと違う距離感に、俺は戸惑うことしか出来ない。

 

「な、なぁ雪乃、今日はどうしたん──」

「んっ」

 

  またしても、あっさりとキスされてしまった。

 

「行ってらっしゃい、比企谷くん」

「......行ってきます」

 

  笑顔でそんなことを言われてしまえば、もう家を出るしか選択肢はなかった。唇に残った柔らかい感触と微かな熱に胸の中を翻弄されながら、俺は会社に向かう。

 

 

 

  一度仕事を始めれば今朝のことは考えずに済むと思っていた。しかし現実はそんなに優しいものじゃなくて。朝起きた時と、家を出る時。その二度の口づけがどうしても頭から離れなくて、とてもじゃないが仕事に集中なんて出来るわけがなかった。

  俺ももういい歳だ。かつての恩師の当時の年齢を越してしまっているくらいには。いや、あの人が何歳だったかは結局分からずじまいだったけど。アラサーと呼ばれる年齢になってから、随分と時が過ぎた。

  だと言うのに、今日はまるで、青臭かったあの頃に戻ってしまったようで。彼女の呼び方とか、俺の心境とか。

  子供が生まれている以上、勿論夫婦としての営みはしっかり経験してきているし、それこそキスなんて数えるのがバカバカしくなるほどしてきた。

  だと言うのに、今日のたった二回のキスだけで、俺の心はめちゃくちゃに掻き乱されている。

 

「比企谷さん、今日はあんまり仕事進んでませんね」

「あぁ、ちょっとな......」

 

  後輩からそんな風に言われてしまい、今日こなしたタスクを振り返ってみるが、ノルマには程遠い。今日も残業かなぁ。

 

「もしかして夫婦喧嘩でもしましたか?」

「夫婦喧嘩なら、まだマシだったんだがな......」

 

  喧嘩なんてものよりもよほどタチが悪い。

  俺の言葉に後輩くんは首を傾げ、自分の仕事に戻って行く。

  集中出来ないながらも暫く仕事を進めていると、昼休みの時間になった。社員達が食堂に向かったり弁当を広げたりする中、俺もそれに倣って愛妻弁当を取り出す。

  取り敢えず飯を食って、昼からは仕事に集中しよう。腹を減ってはなんとやらと言うし、きっと弁当を食えばいつも通り仕事ができるだろう。

  そう思い自分のデスクに広げた二段弁当の上の段。

  その中身を見て、驚愕してしまった。

 

「なっ......!」

 

  驚きから動きが膠着してしまったのは何秒くらいだろう。もしかしたら、1分くらい俺は動けずにいたかもしれない。

  桜でんぶでハートマーク。

  つまりはそう言うことだった。朝の奇行から何かあるかなーとは薄ぼんやりと考えていたが、まさかこんなテンプレを、それでいて盛大な爆弾を投下して来るとは。

  俺の弁当を見た同僚達がニヤニヤと笑顔を浮かべながら通り過ぎて行く。中にはラブラブだなーとか、羨ましいぜ、とか声をかけるやつまで。

 

「あいつマジか......」

 

  まさか社内でこんな羞恥プレイをさせられるとは思いもよらなかった。脳裏にほくそ笑む雪乃の姿がよぎりながらも下の段を開けてみれば。

 

「マジか......」

 

  トマトしか入っていなかった。

 

 

 

 

  なんかもう色々と疲れた仕事を終え、なんとか帰宅したのは19時を過ぎたころ。定時退社はやはりいい文明。ノルマギリギリでめっちゃ疲れたけど。

  辿り着いた自宅の扉を開く。今日の雪乃から察するに、玄関に入ったらなにか仕掛けて来るだろうことは容易に予想できた。筈だった。だが悲しいことに、定時退社のために全力を尽くした俺はそこまで頭が回らず、哀れにもゴキブリホイホイに引っかかるゴキブリのごとく、家に入ったのである。

 

「お帰りなさい、比企谷くん」

「ただいま......っておい」

 

  玄関に入ると同時、雪乃に抱きつかれた。ぎゅーって。結構痛い。なんかギチギチ鳴ってる気がするんですけど?

  漸く解放してくれたと思いきや、やっぱりと言うかなんと言うか。そのまま背伸びしてきて、小さく唇を触れ合わせてくる。

  離れて行った雪乃は満面の笑みを浮かべていて、頬に集まる熱は余計に温度を上げてしまう。

 

「直ぐに夕飯の準備するわね」

「あぁ......」

 

  今日の弁当のことで一言物申そうかと思っていたのに、雪乃の笑顔を見てしまってそんな考えは霧散した。ちくしょう可愛いじゃねぇか。

  リビングへ向かうのに足を進ませようとすると、カバンを持っている手と反対の手が、あたたかい感触に包まれる。見れば雪乃の手に握られていて、そのまま引きずられるようにしてリビングへ。

 

「おかえりお父さん」

「ただいま......」

 

  リビングには、ソファにだらしなく寝そべった娘が。また携帯の画面を見てニヤケヅラを晒している。そのうちグヘヘ、とか漏らしそうで怖い。

  その後暫くもしないうちに晩飯の時間となり、家族三人机に揃っていただきます。最近は雪乃も忙しかったから、手の込んだ料理は作っていなかったのだが。今日は休みを取ったお陰か、いつも食べているものよりも美味しく感じた。

  そんな一家団欒の暖かい時間の最中。

 

「比企谷くん、頬にお弁当がついてるわよ」

「お、おう......」

 

  比企谷くん呼びに狼狽えながらも、指を頬に持って行く。しかし何かが取れた様子はない。見兼ねた雪乃が近づいて来て、俺の顔に指を伸ばして来た。

 

「はい、取れた」

「......サンキュ」

 

  白く細い指でつまんだ白飯を、あろうことか雪乃は自分の口へと運んで行く。

  おいそこ、娘よ、うわぁとか言うな。俺が言いたいくらいなんだぞ。

  しかし昼食がトマト地獄だったせいなのか、やっぱりどの料理も馬鹿みたいに美味くて。

  そのうち俺は、考えるのをやめて食事に集中することにした。

 

 

  風呂にも入り、夜も更けて来た頃。俺は思い切って、今日の奇行について聞いてみることにした。

  部屋で一人待っていると、風呂から上がったばかりの雪乃がやって来る。火照った体は肌を常よりも健康的に見せ、濡れた黒髪は照明を反射し美しく輝いている。

  そんな妻の姿は何度も見て来たと言うのに、何故か動悸が止まらない。

 

「どうしたの?」

「いや、なんでもない......」

 

  赤くなった顔を悟られないよう、そっぽを向いてしまう。しかしそんなもの彼女にはお見通しなのか、クスリと笑って俺の隣に腰掛ける。そのまま腕を絡ませて来ることにすら、俺の胸は高鳴ってしまう。

 

「なあ雪乃、今日はどうしたんだ?」

「あら、あなたの望みを叶えて上げただけよ?」

 

  尋ねて返ってきた言葉は、どうにも納得しにくいものだった。

  はて、俺は雪乃に翻弄されるような一日を望んだだろうか。

 

「あの子をパンさんと猫の秘蔵フォルダで買収して、全部聞いたわ」

「おい。娘を買収するな」

 

  つーか今日携帯見てニヤニヤしてたのはそれを見てたからなのね。

 

「あなた、私とイチャイチャしたいんでしょう?」

「語弊がありまくりなんだよなぁ......」

 

  確かにそう思っていたけれど。休日はもうちょっと二人でゆっくり過ごせたらなぁ、程度だったし。なんならトマト地獄とか抱きついてきた時の過剰な力の入れ具合とか、イチャイチャとは程遠いものもありましたけどね?

 

「一昨日の仕返しをするなら、あなたにはこの方が効果的だと思ったのよ。結果は、まあ聞くまでもないわね」

「......」

 

  ふふっ、と微笑みを漏らし、雪乃は俺の腕から離れて机の引き出しから何かを取り出した。

  それは小さな箱。手のひらよりも大きいそれは、綺麗な模様があしらわれている。

 

「これ、あげるわ」

「これは......?」

「日頃の感謝の気持ちと、最近忙しくて構って上げられなかったことの謝罪の気持ちよ。受け取ってくれるかしら?」

「......当たり前だろ」

 

  彼女からの贈り物を受け取らない理由なんて、俺にはない。それに、それが雪乃の気持ちだと言うのなら尚更だ。

  チラリと視線をやると、頷きを返される。それを開いてもいいと言う合図だと受け取り、俺は心持ちワクワクしながら、箱を開いた。

  それと同時、バコッ! と音が鳴る。

  箱を開けた瞬間に飛び出してきたパンさん人形の足が、俺の顔にめり込んだ音だった。

 

「ふっ、ふふふっ、ど、どうかしらっ、私からのプレゼントは......」

 

  肩を震わせて必死に笑いを堪えるも、口の端からは堪えきれなかった息を漏らす雪乃。

  翌日、俺はショックで仕事を休んだ。

 

 



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あめのひ

雨の日、二人きりの部室。なにも起きないわけがなく


「嫌になるわね」

「全くだ」

 

  部室の外をチラリと見て、雪ノ下が心底鬱陶しそうに呟く。部室には俺と彼女の二人しかいないからつい言葉を返してしまったが、もしかしたら俺に向けて言ったわけではなく、たんなる独り言だったのかもしれない。

 

「本当に、嫌になるわ」

 

  開いている文庫本のページをそっと指で撫で、はぁ、とため息を零した。今日みたいな天気で湿気の多い日は、読書家にとっては天敵のようなものだ。雪ノ下にとっての犬みたいなもん。

  さて、そんな今日のお天気はと言うと、見事なまでの雨。鈍色の空が広がり、そこから降り続く大量の水滴。自転車で登校できなければ、昼休みにベストプレイスを使うことすら叶わない。あまり好ましくない天気だ。

 

「どうにかならないものかしら」

「どうにか出来るとしたら、そりゃ神様だけだろうよ」

 

  幸いなのは、しっかりと傘を持ってきていることだろうか。午前中は降っていなかったものの、天気予報をしっかり確認していた出来る妹、小町の言葉に従い、今日の俺は自転車通学を諦めて、来たる降水に備え電車で登校して来たのだ。流石は小町。俺の妹。

  これでどっかの誰かさんと相合傘なんて青春イベントが発生するフラグもへし折る事が出来た。どっかの誰かさんがどこの誰なのかは言及しないけれど。

  と言っても、俺と彼女では下校のタイミングに差がある。彼女は部室の鍵を職員室に返しに行くが、俺は部活が終われば直帰。元帰宅部として、兄として、妹の待つ家へとすぐさま帰らなければいけないのだから。

 

「で、お前その髪、どうしたの?」

「......お昼休みの時、由比ヶ浜さんにしてもらったのよ」

「ほーん」

 

  今日の雪ノ下は、長い髪を親友と同じくお団子に纏めていた。そう、由比ヶ浜のパチモンヘアーである。丁度一年前を想起させる髪型は、どうやらその親友自身の手によってなされたものらしい。

 

「それで午後の授業に出たのか?」

「そうだけど、それがなにか?」

「いや、J組の混乱っぷりを想像しちまっただけだ」

「別に、そんなことはなかったと思うけれど」

 

  それはお前が気づいてないだけだと思うぞ。雪ノ下をどこか女神のように信奉していると言っても過言ではないJ組の面々のことだ。仮に表向きはいつも通りだったとしても、全員心の中では凄いことになっていたはず。いつもの清楚な黒髪ロングが、こんなパチモンに成り下がってしまっているのだから。

 

「ま、似合ってるからいいとは思うけどな」

「そう......」

 

  言ってから、チラリと彼女の方を伺う。その頬は赤く染まってるようにも見えて。

  不意に、剥き出しとなったうなじに視線が吸い寄せられてしまった。別にそんなことはないと言うのに、なんだか見てはいけないものを見てしまった気になって、視線を手元の文庫本に戻す。

 

「雨、止まないな」

「そうね」

 

  自身の顔の熱さを悟られぬように、紛らわすように口にした言葉は、深い意味を持つこともなくザーザーと鳴り続ける雨の音へと消えて行く。

  気分転換のためにマッカンを買いに行こうかと思うも、雨のせいで部室から出る気にならない。雨に対する気怠さとマッカンへの愛を比較すれば、それは勿論マッカンに傾くのだけど、俺の心の奥底が全力で雨へ抵抗しているのだ。流石は俺。こんな時でもヒッキーの名に恥じない行いを心掛けるとは。いやヒッキー全く関係ないな。

 

「紅茶、飲む?」

 

  そんな折、対面の雪ノ下から声を掛けられた。

 

「んじゃ、頼む」

 

  今日はお菓子係の由比ヶ浜がいないため、お茶請けなんてものはないが、貰えるというなら貰っておこう。こいつの紅茶は美味いし。

  文庫本に栞を挟み、立ち上がって電気ケトルの方へと向かう。その際、また彼女のうなじに視線が向いてしまう。雪ノ下自身は無自覚の無防備だから手に負えない。

  自分が今、どれだけ危険な状態か分かっていないらしい。危険は言い過ぎか。どちらにしても、健全な男子高校生の俺としては、非常に目に毒なのに変わりはない。ただ、俺から似合っていると言った手前、元の髪型に戻せと言うのも変な話だ。

  そんな俺の思春期的思考を露ほども知らず、雪ノ下は粛々と湯呑みにお湯を注いでいる。やがて無事に淹れ終えた雪ノ下がこちらに振り返ると、何故か顔を顰められた。え、なに、俺の顔になんかついてる?

 

「随分と気持ちの悪い、カエルみたいな顔をしていたけれど、雨の日になるとやはりそんな顔になってしまうのかしら?」

 

  とんでもない暴言が飛んで来た。泣きそう。

 

「そう言うこと言うのやめろよ。不幸にも黒塗りのトラウマに追突してしまいそうになるだろうが」

「あら、それはごめんなさい。どうぞ」

「サンキュ」

 

  これまた楽しそうな笑顔をして、長机の上に紅茶を置いてくれる。嗜虐的な笑みだとは分かっていても、俺の目には酷く魅力的に映ってしまうのだから、ぼっち王比企谷八幡も随分と堕ちたものだ。自意識の化け物はどこへ行ったのやら。

  読書の手を一旦止めて、湯呑みに手を伸ばす。雨の影響なのか、若干気温も下がり冷えていたので、湯呑みの温度が丁度暖かい。

 

「ふぅ......。相変わらず美味いな」

「ありがとう」

 

  猫舌故にチビチビと飲むことしか出来ないが、それでも思わず漏れてしまう本音。そして笑顔で返されるお礼。なんだか今のやり取りがむず痒くて、誰も来ないと分かっていながらも扉の方に目を向けてしまう。

 

「雨、やまないわね」

「そうだな」

 

  まるで先程のやり取りを繰り返しているようだが、心なしか雪ノ下の声は嬉しそうだ。こいつは意外にも雨が好きだったりするんだろうか。いや、本への影響を鑑みるに、そんなことはなさそうだが。

  読書を再開していた雪ノ下が、唐突にその手を止めた。ポケットから取り出したのは、珍しいことにスマホ。そこに表示されているであろう画面を見て、また優しそうな微笑みを漏らす。

 

「ふふっ」

「どうかしたか?」

「いえ、由比ヶ浜さんが奉仕部のグループラインにサブレの写真を載せて来たから」

「そ、そうか......」

 

  あの、そのグループに僕入ってないの分かって言ってます? その存在を知って二ヶ月くらい経つけど、いつ招待が来るのかなーワクワクって待ってるんですよ? その割には部員でもなんでもない飲料水が何食わぬ顔で鎮座してるのはなんでなのん?

 

「画像越しなら犬も大丈夫なんだな」

「べ、別に、画像越しじゃなくても大丈夫よ」

 

  えぇ〜ホントにござるかぁ〜。

 

「なによその目は」

「いやなんでも」

 

  まあ、サブレにはある程度耐性がついているという事だろうか。由比ヶ浜の家に泊まることも、ここ最近は増えてるらしいし。サブレに限った話で言うと、まだマシ的な。

 

「どうせ疑っているのでしょう」

「そんなこと一言も言ってないだろうが」

「良いでしょう、今年のわんニャンショーは楽しみにしてなさい。私は別に犬が嫌いでも苦手でもないと言うことを教えてあげるわ」

「この負けず嫌いさんめ......」

 

  て言うか、一緒に行くの? 去年は会場で偶々出会っただけだったけど、今年は最初から一緒に行くの決まってるの? つまり今のはデートのお誘いと言うことでいいのでは?

  いや、待て落ち着け俺。別に直接一緒に行こうと誘われたわけではない。確かに俺は今年も小町と行く予定ではあるし、存分に猫とにゃんにゃんできる機会を雪ノ下が逃すとも思えない。だから会場で出くわす可能性は極めて高いんだ。雪ノ下もそのことを考えて言ったに過ぎないだろう。多分。恐らく。知らんけど。

  いやでも、一応確認しておこうかな......。

 

「その言い方だと、一緒に行かなきゃいけないみたいに聞こえるんですけど」

「あら、その通りよ。どうせあなた達兄妹も行く予定ではあるのでしょう?」

「そうだけど......」

 

  マジでござった。いや、いいんだけどさ。個人的な感情を優先させてもらうなら万々歳なんだけどさ。

 

「ならいいじゃない。私みたいな美少女と出歩けるのだから、感謝の一つでもして欲しいものね」

 

  いつもの尊大な口調と勝気な笑みとは裏腹に、頬が赤みを帯びたように見えるのは気のせいじゃないのだろう。ため息を吐きつつも、俺の頬も同じ色になっているであろうことは自覚している。

  と言っても、わんニャンショーなんてまだ先の話だ。当日までに、なんとか彼女の連絡先くらいは知りたいものだが。

 

「雨、やまないな」

「そうね」

 

  三度繰り返されるやり取り。今度は、俺の声もどこか跳ねたものとなっていて。

  気がつけば、湿気による紙への影響なんてどうでも良くなっている。雨の日故の心の鬱憤も、どこかへ吹き飛んでしまっていた。

 




なにも起きなかったね!


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八幡と二人で上機嫌なゆきのんの話

  すでに日は落ちかけ、藍色の空が部室の外に広がっている。後数時間もすればお月様がてっぺんに登り、幾億もの星が夜空に瞬くのだろう。

  部室に注がれる光の色は赤。夕焼けが僅かに残り、黄昏時とも呼ばれるこの時間。室内に響く音は、文庫本のページが捲られる音だけ。いや、それ以外にももう一つ。

 

「ふふっ」

 

  長机の向こうから時折発せられる、鈴を転がしたように綺麗な声。そんなものが耳障りになるはずもなく、心地の良いBGMとなっている。

  今日の雪ノ下雪乃は、どうしてか少し機嫌がいいようだ。部活前に何かいいことでもあったのか。読んでいる本が面白いのか。なんにせよ、彼女の機嫌がいいことでこちらに鋭いナイフのような罵倒が飛んでこないと言うのなら、それで構わない。俺も読書に集中出来るし、win-winだ。

 

「ふふふっ」

 

  しかし、部室に入って挨拶をして以降何度もそれを聞いていれば、流石に少しは気になるというもので。

  向かいに視線を投げてみれば、これまた随分可愛らしい笑顔を直視してしまった。俺を詰る時でも、由比ヶ浜と笑い合う時でもない、また別種の美しい微笑み。なにも悪いことはしていないと言うのに、まるでそれを見てしまった事自体が罪に問われるような。

  その笑顔に見惚れてしまっていたのを誤魔化すかのように視線を戻せば、パタン、と本を閉じる音が聞こえた。

  いつから誰が決めたわけでもないが、奉仕部における部活終了の合図だ。

 

「今日は終わりましょうか」

「......おう」

 

  由比ヶ浜がいればそりゃ笑顔にもなるけれど、こうして二人だけの時は殆ど無表情なのに。綺麗な微笑みをそのままに言われてしまって、心臓が高鳴ってしまう。

  別にあの笑顔は俺に向けられたものではないと分かっているのに。これは雪ノ下が可愛すぎるのが悪い。俺は悪くない。

  なんて、誰に対してか分からない言い訳をしたところで、胸の鼓動が収まるわけでもなく。

 

「......?」

「......っ」

 

  懲りもせずに雪ノ下の方を向けば、笑顔は引っ込んでいたけれど、コテンと小首を傾げられた。どうしてお前は何気ない一挙一動が可愛すぎるんだ......。

  煩い心臓の音と赤くなっているであろう頬の色を悟られないよう、そそくさと帰り支度をする。帰り支度と言っても、本をカバンにしまえばそれで完了するのだが。

  しかし雪ノ下の場合は紅茶セットの片付けもあるので、俺のようにすぐ終わるわけではない。

 

「帰らないの?」

 

  ティーカップやら湯呑みやらを纏めた雪ノ下が問いかけて来た。今からそれらを洗いに行くのだろう。由比ヶ浜がいる時なら、確かに先に帰る日もあるけれど。今日はあのお団子頭はいないのだし。

 

「それ、洗いに行くんだろ? さっさと帰りたいから早く洗ってこい」

 

  少しぶっきら棒な言い方になってしまっただろうか。帰らない理由を明確に口にしなかったのは卑怯だったろうか。ここで卑屈に考えてしまうのは、俺と言う人間の悪い癖だ。

  だけど雪ノ下は少し驚いた顔をした後に、クスリと微笑んでくれて。

 

「あら、優しいのね」

「そんなんじゃねぇよ」

「それはどうかしら?」

 

  こちらの心の底を見抜かれているようで、背中のあたりがむず痒くなる。もう少しだけでも一緒にいたい、なんて。そんな女々しくて恥ずかしい事、死んでも口にするわけにはいかない。言葉にしたとしても、今の彼女なら笑顔で受け止めてくれるのだろうが。

 

「直ぐ戻ってくるわ。待ってて」

 

  またどこか上機嫌な様子で笑みを浮かべながら、雪ノ下は部室を出て行く。今のどこに、彼女の機嫌がさらに良くなるようなものがあったのか。それは分からないけれど、まあ、悪いことではない。

  なにより、今の笑顔は本を読んでいた時や部活終了を告げた時と違って、俺に向けられたものだった。

  たったそれだけのことなのに、とても嬉しく感じてしまう。それは些か単純と言うものだろうか。けれど仕方ない。恋する健全な男子高校生なんて、所詮はそんなもんだ。

  本はもうカバンにしまったし、一々取り出すのもめんどくさい。座っているだけと言うのもあれなので、彼女が戻って来るまでに部室の戸締りを終わらせる。

  ちょうど全ての窓を閉めたころ、雪ノ下が戻って来た。

 

「ごめんなさい、お待たせしたわね」

「いや、全然」

「そう?」

「そう」

 

  洗って来たティーカップと湯呑みを元の場所に戻し、その上から埃防止のナプキンをかけたら片付けは終了。カバンを肩に掛けた雪ノ下と共に部室を出た。

  以前までは彼女の少し後ろを歩くのが普通だったのに、こうして肩を並べて歩くようになったのは、果たしていつの頃からだったろうか。少なくとも、今の関係になってからであることは間違いない。

 

「あなた、今日はいつもより機嫌がいいわね」

「そうか?」

 

  言われても、イマイチ自覚はない。今日はいつも通り過ごしていたし、俺と雪ノ下の間でも、これまたいつも通り全く会話は無かったし。寧ろ少しくらい会話があった方が、上機嫌になっている可能性だってある。

 

「お前の方こそ、今日はなんか上機嫌じゃねぇか」

「そうかしら?」

 

  傍目から見たら分かり易すぎるくらいだったのだが、どうやらこいつも自覚はなかったようで。人差し指を顎に当てて首をひねる。

  だがやがて得心がいったように、ああ、と頷いて笑みを見せた。やっぱり、指摘するでもないくらい上機嫌じゃないか。

 

「ふふっ、確かに、今日の私は少し機嫌がいいわね」

「面白い本でも見つけたか?」

「まあ、確かにそれもあるけれど、そうじゃないわ」

「じゃあなんで」

 

  問えば、こちらを見上げる綺麗な瞳とぶつかった。ずっと見つめていたら、まるで吸い込まれてしまうかと錯覚する、空を写したような瞳。

  その目で俺を見つめながら、まるで唄うかのような軽やかさで言うのだ。

 

「久しぶりに、あなたと二人きりの部活だったから」

 

  ああ、なるほど。それは確かに、俺だって無意識で上機嫌になってしまう。けれどそんな事を言われて恥ずかしいのに違いはなくて。

  のぼせ上がった顔を隠したくても、いつの間にか雪ノ下に右手を握られていて。仕方なく彼女から逸らすことで誤魔化した。

 

「顔、真っ赤よ?」

「知ってる......」

 

  多分、この熱の理由は彼女の言葉が全てではなくて。きっと俺は、同じ理由で二人揃って上機嫌だったことが嬉しいのだろう。でもそれを自覚してしまえばやっぱり恥ずかしいやら照れ臭いやらで、結果顔を赤くしている事実は変わらないのだが。

  顔と同じくらいに右手から熱を感じる。それが隣に雪ノ下のいるなによりの証だと思うと、自然と力が入ってしまう。それでも彼女は、嫌な顔一つせず、なおも俺の手を包んでくれるのだ。

 

「由比ヶ浜に嫉妬されるな」

「あなたが?」

「あたしのゆきのんを取らないでー、って。ほら、あいつ最近は勉強で忙しくて、お前と遊べてないんだろ? 今日も、勉強の息抜きにって三浦たちに連れていかれたらしいし」

「そうだけど、嫉妬されるようなことでもないでしょう」

 

  それがされるんですよ。ガハマさん、割とマジでゆきのんのこと好きだからね。三浦たちと遊びに行くのは結構だし、雪ノ下と一緒にいたいと思うのも結構だが、早くしてくれないと今度は雪ノ下が拗ねてめんどくさいことになる。

  あわよくば、今の上機嫌を暫く保って欲しいものだ。

 

「そう言えば、あなたはどうしてあんな上機嫌だったのかしら?」

「......分かってるくせに聞くのは、性格悪いと思うぞ」

「ふふっ、その言葉で十分だわ」

 

  強いてもう一つ理由を付け足すとしたら、彼女が俺の目の前で、こんなにも笑顔でいてくれるからだろうか。感情表現に乏しいとは言わなくても、雪ノ下はそんな頻繁に笑顔を見せてくれるわけではない。

  でも、今日はこんなにも笑ってくれている。恋人が笑顔でいてくれるのは嬉しいに決まってるし、その理由がこうして二人でいることだと言うなら、尚更だ。

  でも俺は欲張りだから、彼女の笑顔をもっと見たいと思ってしまって。

 

「雪ノ下」

「なにかしら、比企谷くん」

「明日、デートでもしようぜ」

「あら、あなたからのお誘いなんて、珍しいこともあるのね」

「ま、たまにはな」

 

  らしくないと自覚しているから、俺までつい笑顔になってしまう。まあ、苦笑いとかの類なんだけど。

  二人笑い合って歩いていると、職員室まで辿り着いた。ここで雪ノ下の手が俺の手から離れていき、彼女は鍵を返しに職員室の中へと入って行く。些かの寂しさを右手に感じるものの、数分とせず雪ノ下は帰ってくる。

  昇降口まですぐだと言うのにも関わらず、彼女はまた俺の手を握ってくれた。

 

「明日」

「ん?」

 

  それと同時に、ポツリと言葉が漏れる。今度は雪ノ下の方から、握る手に力を込めてきた。

 

「楽しみにしてるわね」

「......まあ、それなりには頑張る」

 

  明日もその笑顔を見たいから。

  だから、帰ったらデートコースはしっかり練ろう。明日のことは、明日の俺に任せるってことで。

 

「ふふっ、頑張ってくれるなら、明日もあなたの好きな私の笑顔を見せてあげるわ」

「......」

 

  完全にお見通しじゃねぇかよ。これは俺が上機嫌な理由も全部見破られてるやつだわ。

  でもまあ、そう言って笑う彼女はやっぱり可愛かったから、それでも良しとしておこう。

 



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ゆきのんの格好が刺激的過ぎて色々ヤバい八幡の話

人ならば誰しも、羞恥心と呼ばれるものを持っているだろう。何に対してそれを抱くかの基準は人それぞれであるが、例えば周りとは違う事を一人だけしてしまったり、なにか致命的なミスをやらかしたり。つまりは自身の中にある常識から外れた行為を、意図せず行ってしまった場合、羞恥心が抱かれる。

極端な話、突然異性から裸を見られれば誰だって恥ずかしいと思うし、常識的に考えて異性から裸を見られるようなシチュエーションなんて、同意の上でもない限りはあり得ないはずだ。

それは勿論、五年間も同棲している恋人に対しても変わることはない。彼女とともに暮らしていれば、突然妙な羞恥心に襲われることもあるし、そう言うことをする時なんて未だに恥ずかしさを隠しきれない。

だがどうやら、それは俺だけのようで。五年間と言う長いような短いような時間は、雪ノ下雪乃から羞恥心と言うごく一般的な感情を奪うには十分過ぎたらしい。

 

「おい」

「なにかしら?」

 

仕事の疲れを癒すための風呂から上がってきた雪ノ下は、ここ最近見るような格好と全く同じ姿をしていて。つまり、なぜか下のズボンは履かず、どこから調達したのか使わなくなった俺のTシャツ一枚を着ているのみで。

俺にとっては小さくなったシャツではあるが、雪ノ下にとってはそれでもまだ大きい。ワンピースのように下着を上手いこと隠しているのだが、一歩歩くごとにその奥が見えそうになって心臓に悪いことこの上ない。

しかも胸元はかなり緩んでいるから、高校時代からほんの少しだけ成長したように見えなくもない彼女の谷間がチラリと覗かれる。

 

「お前、またなんて格好してるんだよ......」

「自分の家で私がどのような格好をしていても私の自由でしょ?」

 

なにをバカなことを、と言いたげな目を向けられる。え、これ俺がおかしいの? そりゃまあ雪ノ下とはもう長い付き合いだし、あんなことやそんなこともやってるんだけど。だけど、なんと言うか、こう、ねぇ?

女性が恥じらいをなくしたらダメだと八幡くんは思うわけですよ。

 

「取り敢えず、ちゃんと服着ろ」

「嫌よ。暑いし」

 

そう言いながらリビングの床で胡座をかきながらテレビを見てた俺に近づいてくる雪ノ下。やがて彼女は俺の股座にすっぽりと収まり、背中を胸に預けてリラックスした表情になる。暑いならなんでくっ付いてくるんですかね、とは言わない。

 

「今日も一日疲れたんだから、ちゃんと労って頂戴」

「仕事してたのは俺も同じなんだけどな」

「あら、私とこうしてるだけで、あなたも疲れが取れるでしょう?」

 

クスクスと笑う雪ノ下に反論出来なくて、見上げてくる視線から逃れるようにそっぽを向く。

て言うか、マジで明後日の方向にでも目を向けていないと、Tシャツの中の下着とか見えちゃうから。ヤバイから。八幡の八幡がやっはろーしちゃうから。もしかしたらひゃっはろーかもしれない。どっちでもいい。

 

「ほら、頭を撫でて」

「はいはい。分かりましたよ」

 

我儘なお姫様の言う通りに、まだ少し湿っている黒髪の天辺へ手を持っていく。そのままスライドして撫でてやれば、雪ノ下は気持ち良さそうに目を細めた。

 

「あなた、本当に撫でるの上手ね」

「お前は本当に撫でられるの好きだよな」

 

彼女の胸元へ視線を行かないよう必死に目を彷徨わせていると、今度は太ももに視線が吸い寄せられてしまう。

胸がないことでお馴染みの雪ノ下ではあるが、彼女の魅力はならばどこなのだと聞かれると、俺は迷いなく脚だと答える。スラリと伸びた綺麗な美脚は、視覚情報だけに留まらず。この太ももの柔らかさはまさに極上と言えるだろう。もしかしたら胸よりも柔らかいかもしれない。ソースは俺。

つまりおっぱいのないゆきのんはおっぱいよりも柔らかい太ももや頬を持っているので、ゆきのんのおっぱい以外はおっぱいだと言う方程式が成り立ち、即ちゆきのん=おっぱいと言えるのではないだろうか?

「なにか、変なこと考えてない?」

「いえ、なにも」

 

ニッコリ笑顔で振り向かれ、即座に首を横に振った。至近距離でそんな顔を直視してしまったものだから、心臓がドキドキと高鳴る。主に恐怖で。

しかし、やばいな。この格好でこの体勢はやばい。服を身につけている時よりも彼女の女性らしい柔らかさが直に刺激を与えてくるので、俺も理性と戦うのに必死だ。頑張れ理性の化け物。無駄に厨二チックな二つ名なんだから頑張れ。

 

「んっ。もういいわよ」

 

ムフー、と満足気に息を吐き、頭頂部に置かれていた俺の手を取って自分の腹の前に持ってくる。更に刺激を与えられる箇所が増えてちょっとヤバいです。

 

「はあぁぁぁぁ......」

「わざとらしい溜息ね」

「うるせ」

 

自分の疲れとかムラムラとか色々解消するつもりで、雪ノ下の肩に顎を乗せた。嗅ぎ慣れたシャンプーのいい匂いが鼻腔を擽る。嗅ぎ慣れたって言うと変態みたいだな......。

まあ、なんにせよ。雪ノ下のこんな格好も、俺に気を許してくれている確かな証拠だと思えば、嬉しい気持ちも湧いてくると言うものだ。

「ふふっ」

 

テレビの向こうではタレント達が動物と触れ合っており、雪ノ下はそれを見て穏やかな笑みを浮かべている。テレビに映る動物と雪ノ下の相乗効果で俺の疲れも癒されると言うもの。

 

「あ、猫......」

「アメショか」

「静かに」

「......」

 

番組が猫メインに切り替わった途端これである。まあ、いいけどね。五年もこのノリに付き合ってるんだからいい加減慣れたけどね。嘘。やっぱりちょっと寂しいです。

寂しいので、肩に乗せいた顎を少し雪ノ下の方に寄せて、自分の頬と彼女の頬を触れ合わせてみた。

ピトリと柔らかい感触が頬に当たって、普通に抱き合うよりも少し恥ずかしさがある。

しかし猫に夢中の雪ノ下さんは、やっぱり羞恥心をどこかに捨ててきたのか。

 

「にゃー......」

「......っ」

 

鳴きながら触れ合わせた頬をスリスリさせて来た。まさかの行動に驚き目を見開いていると、雪ノ下は俺と視線を合わせてくる。そんな俺が愉快に映ったのか、ふふっ、とまた笑みを浮かべた。

 

「全く、あなたは寂しがりやね」

「......別に」

「そんなことない、わけないでしょう。こんなことされながら言われても、説得力皆無だわ」

 

ぐうの音も出ない。クスクスと笑われるのがなんだか恥ずかしくて、雪ノ下の首筋に顔を埋めた。余計恥ずかしいことをしている気もするけれど、今は真っ赤になった顔を見られるない方が優先される。

雪ノ下はそんな俺の頭を器用に撫でてくれる。そうか、これがバブみだったのか......。

 

「全く。いい歳になったと言うのにこんな子供みたいに甘えて来るなんて」

「いいじゃねぇかよ。どうせ甘えられる相手なんてお前か小町くらいしかいないんだから」

「そこは私の名前だけの方が嬉しかったのだけれど」

 

それは仕方ない。小町に甘えない俺は俺ではないし、小町の兄も名乗れないだろう。小町に甘えるのが最早兄としてのアイデンティティなまである。お前もそう思うよな!!!ハム太郎!!!そうなのだ!!!兄妹である以上お互いを支え合うことこそが大切なのだ!!!よって兄が妹に甘えるのは当然のことなのだ!!!

「けれど、今この時は、あなたが甘えられるのは私だけだものね」

「まあ、そうだな......」

 

それはきっと、彼女の小さな独占欲の発露。それを感じられたことが嬉しくて、思わず笑みが漏れる。自分が愛されているんだと、実感できる。

 

「けどまあ、お前も似たようなもんだろ」

「あら、私は姉さんに甘えたりしないけれど」

「そうじゃなくて。寂しがりやで甘えたがり。そんで、その相手なんて俺くらいしかいない。違うか?」

「......誠に遺憾ながら、違わないわね」

 

その遺憾の意はいらなかったでしょ。なんで無駄にこっちのハートを傷つけるようなこと言うの?

 

「けれど私にだって、由比ヶ浜さんがいるもの」

「ま、それもそうか。けど、たまには姉ちゃんにも甘えてやれよ」

「頭を心配されて終わるだけよ」

「どうだろうな」

 

シスコン拗らせすぎたあの人なら、本気で猫可愛がりしそうなものだが。まあでも、雪ノ下が陽乃さんに甘えていると言うのもあまり想像出来ない。

やっぱりこいつが甘えてくるのは、親友を除けば俺だけなのだと思えば、彼女と同じく湧いてくる独占欲。

 

「んっ......」

 

そうこうしていれば、雪ノ下が眠たそうに瞼を擦った。疲れが溜まっていたのは分かっていたし、そろそろ夜も更けてきた頃だ。夜更かしさせるべきではないだろう。

 

「そろそろ寝るか?」

「一緒に?」

「まあ、別にいいけど」

 

その格好で同じベッドに入ると、素直に寝れる気がしないが。

 

「ほら、寝室行くから立て」

「ん」

 

雪ノ下を立ち上がらせ、リビングを消灯してから寝室に向かう。その間ずっと俺の服の裾を掴んで後ろからついて来ていたから、思わず抱き締めそうになってしまった。

寝室に辿り着き、二つあるベッドのうちの片方に二人で入り込む。少し手狭だが、その分身を寄せあえば問題はない。夏も近づいて来ていて寝苦しい筈なのに、彼女と一緒なら不思議とそんなこともない。

 

「おやすみなさい、比企谷くん」

「おやすみ、雪ノ下」

 

ベッドで横になった雪ノ下は、俺を抱き枕にして直ぐに眠りに落ちた。

 

「生殺しもいいとこだよなぁ......」

 

穏やかな寝顔を見ていたら寝込みを襲うなんて発想は浮かんでこなくて、俺も間もなく睡魔に襲われる。

取り敢えず朝起きたら、雪ノ下のこの格好について一言物申そう。

そう言う気分の時以外は着てくるな、とでも言っておけばいいか。



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待ち合わせ

久しぶりですね。息抜きで書いた八雪です。


スターバックスは俺に似合わない。俺にはドトールが一番しっくりくる。

カウンターで頼んだアイスココアをストローで吸い込みながら、なんとなくそんなことを思ってみる。なんかドトールに失礼な言い方に聞こえる人は、きっと心が歪んでいるんだろう。

さて、土曜出勤なんて言うクソふざけている厄介なものを午前中に片付けた現在。所謂待ち合わせと言うものに、俺は駅付近のドトールを利用していた。ドトールのココア美味しいんですよ。本当はウサギのいる喫茶店とか行きたかったんだけどね。残念ながら現実にココアさんもチノちゃんもいないので俺はドトールで我慢しているのだ。やっぱりこれ、ドトールのことバカにしてるな。

 

「にしても、遅いな」

 

店の入り口の方に視線をやるも、待ち人は未だ来ず。午前で仕事が終わったことを同居人に伝えれば、折角だからデートをしましょうと言われここで待つこと一時間。流石にココア一杯で居座りすぎたか、店員の目がちょっと怖い。ミルクレープとかも買っといたら良かったかな。

だがまあ、我が家からここまで遠いわけでもないが、近いわけでもない。あいつにも準備やら何やらあるだろうし、あと十分くらいは待ってやってもいいだろう。八幡くんは懐が広いからね。温かくもあったら尚良かったのだけど、残念ながらオチンギンはあいつに握られているし。

自分のお財布の中身を思い出してちょっとブルーな気分に浸っていると、ウィーンと自動ドアの開く音が。どうでもいいけど、ここに来た時自動ドアが反応しなかったのはイジメかな? 故障してただけらしいけど。

そんな自動ドアの音に首をまた店の入り口へと巡らせると、毎日顔をつき合わせている同居人が、見慣れない服装でやって来た。

そいつはそのままカウンターでアイスティーを頼むと、それを受け取りキョロキョロ店内を見回す。俺が手を上げるとこちらに気がついたようで。てこてこと歩いて来た。

 

「ごめんなさい。待たせてしまったわね」

「本当にな。まさか一時間待つことになるとは思わなかったわ」

 

彼女、雪ノ下雪乃は、どこにそんな服を隠し持っていたのか、ちょっとお洒落なワンピースを着てここへやって来た。俺は普通に仕事終わりなのでスーツなのだが、それがちょっと申し訳ないくらいにおめかししている。

 

「女性の準備には時間がかかるものなのよ。覚えておきなさい」

「でも小町とか、出かけるときめっちゃ準備早かったぞ」

「それはあなたと出掛けるからでしょうね。きっと小町さんも、男性と出掛ける時にはもっと時間をかけるはずよ」

「はっはっはっ、何を言う雪ノ下。小町が男と出掛けるはずないだろう」

「あなたは全く......」

 

呆れたようなため息を吐かれる。いや、呆れと言うより諦めかもしれない。諦めないで!

俺の向かいに座って、彼女はふぅ、と一息つく。外は暑かったのだろう。その首筋にはまだ汗が伝っていて、ちょっと色っぽいなーとか思ってしまう。まだ真昼間なのでそう言う思考は自重。

 

「で、今日どうしたんだ? そんなめかしこんで」

「さっき伝えた通りだけど。デートよ」

「デートねぇ」

 

同棲を始めて、社会人になって、自ずと互いに忙しない毎日を送っていて。そうなれば、いくら一緒に暮らしているとは言え、恋人としての時間は当然のように少なくなってしまう。

だから、デートなんて最後にしたのはもうどれだけ前の話か、思い出すのも億劫なほどだ。それでもなんだかんだ上手くやっていけているのは、家で僅かながらも過ごす二人の時間を大切にしているからか。

 

「本当なら、あなたから誘って欲しかったのだけれどね」

「そいつは悪うござんした」

「まあ、私も現状で満足していた節もあったのだけれど」

 

ならそれでいいんじゃねぇの。とはならないのは、俺たちがもう大人だからだろうか。過ぎていく日々の中で、なにかが確実に変わっていってしまって、俺とこいつの仲も、永遠のものではないから。限りなく永遠に近づけたいから、こうした時間がどこかで必要だったのは事実だ。

 

「んで、どこに行くんだ?」

「特に決めてないわ」

「そりゃ珍しい」

 

こいつが無計画と言うのも中々ない。これはレアだ。

 

「あなたはどこか行きたい場所ある?」

「行きたい場所ねぇ......」

 

もはや殆ど水と化しているグラスの中身をストローで啜りながら、ふと言わなければならないことを思い出した。

 

「話は変わるんだが」

「......?」

「その服、似合ってんな。可愛いと思う、ぞ......」

 

なるほどスマートにさり気なく言おうとしたのに、最後の最後でやっぱり恥ずかしくなってしまった。お陰で言葉尻がやけに掠れてしまって、自分でも聞き取れない。

 

「......慣れないこと言うと思ったら。どうせなら最後までちゃんと言って欲しいわね」

「悪かったな......」

 

本当、慣れないことはしないもんだ。けれど、ほんのり頬を朱に染めた彼女の顔は、どことなく嬉しそうで。

その顔が見れただけで、頑張って口に出した甲斐がある。

 

「あー、行きたい場所だったな。どうせだから、普段行かないような場所とかどうだ?」

「と言うと?」

「遊園地とか、動物園とか?」

「遊園地は去年の五月のデートで、動物園は一昨年の十一月のデートで行ったわね」

「よく覚えてんな......。言われて思い出したわ」

「あなたとのデートは全て記憶してるわよ」

 

なにそれ、俺との思い出限定で完全記憶能力とか? やだちょっと嬉しいじゃん。でもちょっとヤンデレっぽさを感じてしまうのはどうなんでしょう。

 

「他には思い浮かばんな......」

「そう? なら私から一箇所提案があるのだけれど、あなたから意見がないならそこでいいかしら?」

「ん、別にどこでもいいぞ」

「なら適当にモールをふらついた後、私の実家にでも行きましょうか」

「おう。......おう?」

 

余りに予想外なその回答に、思わずオットセイみたいな声を出してしまった。今この子、なんて言った?

 

「それじゃ、私がこれ飲み終わったら行きましょう」

「いやあのちょっと雪ノ下さん?」

「お父さんとお母さんがそろそろ結婚の挨拶に来なさいと煩いのよ」

「えぇ......」

「そのくらいの甲斐性は見せてくれるわよね、私の彼氏さん?」

 

ニコリと微笑まれながら言われると、無言で頷くしかなくなる。

決めるぜ覚悟! とか言ってる場合じゃない。いや、ジーッとしててもドーにもならねぇのも事実だけど。

マジかー。まさかのプロポーズ前に向こうの実家様から迫られるパターンかー。

 

「まあ、頑張りますか」

「ええ。頑張りなさい」

 

一応給料三ヶ月分はカバンの中にあることだし、ちょっとは甲斐性ってのを見せてやるとしますか。



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彼女が恐怖を抱くなら

俺は、なにをしてやれるんだろうか。


そろそろ秋の気配が訪れてもおかしくないであろう九月。天気は雨。ついこの前まで台風やらなんやらでヤバいことになってたのに、今度は秋雨前線やらなんやらでヤバい。なにがヤバいってマジヤバい。

廊下の窓から見上げた空は未だ鈍い色が広がっていて、晴れ間なんてどこにも見えず。本当に今が16時なのか疑うくらいには暗い。実は18時とかじゃないのこれ。つまりそろそろ下校時間じゃない? 帰ってもよくない? よくないですねごめんなさい。

しかしまあ、こうも雨が降り続いているとテンションも下がると言うもので。部室へ向けている足も、心なしかいつもより重たく感じてしまう。マジで帰りたい。なんで警報出てないの? 気象庁仕事して?

帰りたさマックスで仕方なく歩いていると、不意に空が光った。そして遅れてやって来る、腹の底まで響く轟音。雷だ。

こいつはいつも突然鳴るから、心構えなんて出来てるはずもなく。驚いて肩をビクッと震わせてしまう。やだ、今の誰かに見られてなかったかしら? 結構情けなかったぞ今の俺。

だが特別棟に人の影はなく、さらに言うなら俺の情けない姿なんて最早今更ではあるので、見られようが見られまいがどちらでもいいことだ。もしかしたら後ろから由比ヶ浜が付いてきてるかと思ったが、まだ教室でお喋り中らしい。

しかし、結構近くに落ちたな今の。停電になってないと言うことは、どっかの避雷針が仕事したとかそんなのかしら。マジでダブルバトルの時のドサイドン許さねえからな。なみのりで死にさらせ。

そしてやっとの思いで辿り着いた部室。そう言えばあいつは今この中で一人なのか。さっきの雷で泣いてたりしないかな。してたら面白いのに。

 

「うーす」

 

バレたら確実に怒られるであろう恋人の可愛らしい姿を想像しながらも、いつものように気の抜けた挨拶をしながら部室の扉を開く。

 

「こんにちは」

 

とまあ、あの雪ノ下雪乃が雷程度でビビるわけもなく。これまたいつものように文庫本に落としていた視線を上げて、挨拶を返してくれる。むん、やはり雷じゃ氷の女王はびくともせんか。

定位置の椅子に腰を下ろすと、入れ替わるようにして雪ノ下が立ち上がり、電気ケトルの方に歩いて行く。彼女が紅茶を淹れる後ろ姿を見ながら、俺もカバンから文庫本を取り出した。

部室に響くのは雨が地面を打つ音のみ。湯呑みに注がれるお湯の音も、それに掻き消されている。まあ、読書をするにはいいBGMではある。いつだったか雪ノ下が言ってたように、紙が湿って傷んでしまうのがたまにキズだが。

やがて紅茶を淹れ終えた雪ノ下が、湯呑みを手にこちらへ歩いて来る。そして俺の近くまでやって来て、長机の上に置こうとしたまさしくその瞬間。

空に稲妻が迸り、雷鳴が轟いた。

 

「きゃっ!」

「うおっ」

 

なんか厨二っぽく表現したが、つまり雷が落ちた。しかもさっきよりも近くに落ちたっぽい。怖いなーなんて思いながらも、けれど気になるのはそんなことじゃなくて。

つい今しがたの、可愛らしい悲鳴の発生源だ。

 

「ど、どうぞ……」

「……」

 

声と、肩が震えている。しかしそれを決して悟られたくはないのか、至って何事もなかったかのように、湯呑みを長机の上に置いた。その指先も、震えていたけど。

 

「なにかしら……」

「いや……」

 

つい胡乱な目を向けてしまっていたが、それを咎めるように強情な声が。これ、聞いてもいいんだろうか。いや、聞くしかないだろこんなの。でも負けず嫌いノ下さんだから、絶対認めないだろうしなぁ……。取り敢えず聞くだけ聞いてみるか……。

 

「……なあ」

「言っておくけれど」

「お、おう?」

「別に、雷が怖いなんてそんなことはないのよ? 自分の意識の外から急に大きな音が鳴ったらビックリするのは、いわゆる反射行動というもので、当然の動きなの。別に雷が怖いとか、だから悲鳴をあげたとか、そう言うわけでは決して──」

 

と、ここで再びドーンと雷が。

 

「ひぅっ!」

「……」

 

えー。なに今の悲鳴。可愛すぎない? 俺の彼女、可愛いがすぎない?

「オーケーわかった。お前が雷苦手ってのは十分分かった」

「そんなこと一言も言ってないのだけれど」

「いや、言われんでも分かるわ。そんなんで変に強がってどうすんだよ」

 

はぁ、とため息を吐いた俺を恨みがましく見つめながら、雪ノ下は自分の席に戻った。

部室に再び訪れた静寂。聞こえるのは雨の音と、それに呑み込まれてしまいそうな、ページを捲る音のみ。そして忘れた頃に空が光り大きな音が鳴って、その度に向かい座る我が恋人様は肩を震わせている。ここで涙目になったりしない辺り流石だが、時折こちらに向けられる視線を感じる。

怖いならそう言えばいいのに。こう言う関係になっても素直に甘えられないのは、持ち前の負けず嫌い故か、はたまた別の何かか。

由比ヶ浜がさっさと来てくれれば、彼女の恐怖も紛れるのだろうが、あいつ全然こないし。めっちゃ降ってる雨にテンション上がって外出たりしてないよね? 流石の由比ヶ浜さんもそこまで馬鹿じゃないよね?

暫く経っても由比ヶ浜が来る気配はなく、だからと言って後輩が駆け込んでくることもない。どちらか一人でもいればと思いもしたが、こうなったら俺がどうにかしてやるしかないのかね。

 

「なあ」

 

呼びかけたところで、また雷が落ちた。

文庫本から上げられた視線ははっきりとこちらに向いており、捨てられた子犬、じゃなくて子猫のような視線を受けてしまって、妙な庇護欲に駆られる。

 

「なっ、なにかしらっ」

 

声裏返ってますよ雪ノ下さん。

 

「あー、なんだ。こっち来るか?」

 

怖いんだったら、と言う言葉は飲み込んだ。

気恥ずかしさやら照れ臭さやらが押し寄せて来るが、それらを無理矢理押し殺す。俺の感じるそれより、彼女のことを優先させるべきだから。

 

「さっきから言ってるように、別に雷が怖いわけでは……」

「じゃあ、俺が怖いから、こっち来てくれよ。ヒキガエルの俺はみずタイプだからな。でんきタイプは怖いんだよ」

 

一瞬なにを言ってるのか分からないとばかりにキョトンとした雪ノ下だったが、安心しろ。俺も自分がなに言ってんのか分かんないから。

けれど直ぐにクスリと微笑んで。ああ、その笑顔が見たかったんだ。今日はずっと怯えるような顔しか見れていなかったから。でも、俺の心の内を見透かされているようで、背中のあたりがむず痒くなる。

 

「そう言うことなら、仕方ないわね」

「おう」

「雷程度で怖がっているお子様な比企谷くんのためだもの」

 

あの、今物凄いブーメランがそっち飛んでいきましたけど。

 

「はぁ……。もうそう言うことでいいから。さっさとこっち来いよ」

「ふふっ」

 

小さく笑いながらも立ち上がる雪ノ下。俺にしては上出来だと思いつつ、一息つく為に湯呑みを口元へと運ぶと。

またしても、大きな音が鳴った。当然のように猫みたいに跳ねる雪ノ下。

しかしそれは雷によるものではなく。音の発生源、部室の扉に目を向けると、そこに立っていたのは平塚先生だった。

「良かった、二人とも部室にいたか」

「平塚先生、入るときはノックを……」

「なんだ、怖がらせてしまったか? いやあ悪かったな」

 

最早恒例のお小言と親の仇でも見るような目を向けられても、全く悪びれた様子のない平塚先生。俺だったら怖すぎてちびってる可能性すらある。

折角表情が柔らかくなったのに、先生のせいでまた怯えたような、警戒したような表情に戻ってしまった雪ノ下。猫かよ。猫だわ。

 

「それで、どうしたんです?」

「ああ、実はだな。先ほど大雨警報が出たから、今日の部活はこれで終わりだと伝えに来たんだが……。どうやら私はお邪魔だったかな?」

 

やめてそんなニヤニヤしないで。雪ノ下も、そんな顔赤くしてそっぽ向かないで真実味が増しちゃうでしょ。可愛いから許すけど。

 

「由比ヶ浜には先程廊下で会ったから、既に伝えたよ。昇降口で君たちを待つと言っていたから、早く行ってやりなさい。戸締りは私がしておこう」

「ありがとうございます。比企谷くん、さっさと紅茶を飲みなさい」

「へいへい」

 

未だ熱を持ったままの紅茶をなんとか飲み干し、湯呑みとカップの後片付けも平塚先生に任せることにした。舌が火傷しそうだった。

 

「ではすみませんが、あとはお願いします」

「うむ。君たちも、気をつけて帰りたまえ」

 

カバンを肩にかけて先生に挨拶をして、二人揃って部室を出る。

由比ヶ浜がいてくれるなら、帰りも安心だろう。どうやら俺の役目もここまでのようだ。特になにもしてないけど。あまり待たせても可哀想なので、さっさと昇降口へ向かおうと足を動かすと、右腕に微かな重みを感じた。

振り返ると、制服の裾を雪ノ下の細い指が摘んでいる。

 

「あの……」

 

当の雪ノ下本人は、まるで迷い子に目を泳がせていて、頬は真っ赤に染まっていた。

突然の行動に驚きはしたけど、未だ自分の気持ちにすら素直になれないそんな姿が、とても愛らしく思う。

だからだろうか。彼女のその手を、掴もうと思ったのは。

 

「あっ……」

「……行くぞ。あいつが待ってるらしいし」

 

とても彼女の顔を見れるような状態じゃない。だって、頬どころか、耳の裏まで赤くなっているであろうことを自覚してしまっているから。

右の掌に熱を感じながらも、意識をなるべくそこへ向けずに歩き出す。廊下の窓には大粒の雨が打ち付けられ、その音をも上回る心臓の音が酷く煩い。

 

「本当は……」

 

そんな静かな空間に、鈴のような声が広がる。戸惑うような色を含んではいるけれど。この静寂の中だと、やけに響く。

 

「本当は、少し怖かったの。ひとりだと我慢出来ていたのだけど、あなたがいると思うと……」

「そうか……」

 

嬉しかった。だって、今の言葉は。俺に少しでも甘えてくれていると言う、その証左に他ならないのだから。

ダメだな。ああダメだ。気を抜くと、際限なく頬が緩みきってしまいそうだ。雪ノ下は怖い思いをして、それどころではなかったというのに。

 

「怖かったら、すぐ言ってくれればいいんだよ。もっと頼ってくれていいんだ。その方が、俺も嬉しい」

「ええ……」

 

それで、こいつの恐怖が少しでも紛れるなら。

それきり互いの間に会話はなく、雨の音だけが耳に届く。でも、もう少ししたら、騒がしくも明るい声がそこに混じるだろう。

それで彼女の恐怖や怯えも、全て解消されるはずだ。

 

 

 



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八幡とゆきのんが合コンでバッタリ会っちゃう話

よくあるやつ


「なあ比企谷。頼むから今日は来てくれよ!」

「ならん。行かん。絶対断る」

 

大学生と言えば。個人的な偏見で言わせてもらうと、勉強してるイメージなど全くなく、年中遊んでいる。高校の頃はそんなイメージを抱いていた。いかんせん、当時のサンプルが神出鬼没の魔王しかいなかったので、そのイメージには多分に偏見が含まれているが。

だが実際に自分が大学生になってみるとどうか。まあ、確かに遊ぶ暇くらいある。バイトをしていてもなお余裕が出来るくらいには。一回生だった去年は色々と慣れないことがあったものの、二回生の今年は本当に時間が余る。

その余った時間で大学生がなにをするのか。俺を例に挙げるのは些か以上に間違いだと思うので、先程から俺にペコペコと頭を下げては懇願している同期の知り合いを見てみよう。

 

「今日はマジで逃したくないんだって! 向こう、めっちゃ美人の子連れてくるって言ってんだよ!」

「他を当たれ」

 

この大学に入学してから何故かやたらと俺に構う目の前の知人(イケメン)は、今にも土下座しそうな勢いだ。まさか葉山みたいな見た目で戸部みたいなチャランポランのやつがこの世に存在するとは。

そして今の会話でなんとなく察してくれただろう。そう、合コンである。

彼らは女を求めて幾多の戦場を駆け回り、そして散っていく。ただの一度も勝利はなく、ただの一度も理解されないのだ。

俺もこれまで何度か誘われているが、どれも断り続けている。彼と飲みに行くのが嫌いとかではない。寧ろこいつにはどちらかと言うと好ましい感情を持ってすらいる。

しかし、俺は合コンの誘いだけは一度も乗ったことがないのだ。

 

「お前に彼女いるのは分かってる! でも俺を助けると思って!」

 

それが、いつも誘いを断る理由だった。勿論それだけと言うわけでもないのだが、家に帰ればあいつがいるのに、どうしてわざわざ他の女がいるとこまで出向かなきゃならんのか。

だがしかし、こうも助けてくれと懇願されてしまっては、八幡くんの優しい心は揺れ動くと言うもので。

途上国にはODAを。ホームレスには炊き出しを。モテない男子には、女子との会話を。

 

「はぁ……。今回だけだぞ」

「っしゃあ!」

 

それが俺たちの、活動方針だったはずだ。だからあいつも、怒りはしないだろう。

他のやつらに連絡してくると言う知人(友人ではない)を尻目に、俺も家で待ってるであろうあいつに連絡するために携帯を取り出す。

だがどうも、連絡するまでもなかったようで。『今日は大学の友人に誘われて外に食べに行くから、晩御飯用意できません』とラインが来ていた。ふむ、珍しいことだが、まあそう言うこともあるだろう。あいつが大学で友好的な人間関係を築けているのが分かっただけ良しとしよう。それに『了解、俺も大学のやつらと食いに行く』とだけ返して、携帯をポケットにしまった。

 

「よし、行こうぜ比企谷! いざ戦場へ!」

「分かったからくっつくな」

 

さて、根暗ぼっちの合コンデビュー戦。戦果を挙げるつもりなど毛頭ないが、せめて自己紹介とかで噛まないようにはしよう。

 

 

 

 

 

今回戦場となったのは、駅前のダイニング居酒屋。普通の居酒屋よりもちょっとオシャレな感じで、全席個室になっている。初めて入ったそんなお店の雰囲気に既に呑まれかけているのだけど、俺以外の参加者である他の三人はそんなことなく。どころか、ワクワクと目を輝かせてすらいる。

正直、合コンなんて参加したことないから、最近見たアニメでの知識しかないわけで。大丈夫だろうか。向こう全員ケバ子とかそんなオチじゃないことを祈りたいけど。

「いいか比企谷、彼女持ちのお前は、今回俺たちのサポートに努めてくれ。裏でこそこそするのとか、お前得意だろ?」

「ぼっちにそんなん期待すんな。こっちは普通に喋れるのかどうかすら不安なんだぞ」

「彼女いるくせに?」

「その彼女が特殊すぎただけだ」

 

などと会話していると、個室の扉がガラリと開かれた。どうやら、相手さんのお出ましのようだ。

 

「お待たせしましたー」

 

間延びした声で入ってくるのはイマドキって感じの女子。髪は茶色に染めていて、服もなんかオシャレで。そしてその子から遅れて入ってきた子も似たような子だったが、その後ろにいるであろう女子の手を引っ張っている。

 

「ちょっと、合コンだなんて聞いてないわよ」

「だって言ってないんだもん」

「ほらほら、諦めて楽しんじゃおーよ」

 

さらに一番後ろの子から押されて入って来たのは、黒くて長い髪に、その中で踊る番いの赤い蝶、雪のような白い肌と、美しすぎるその顔。見覚えがあるどころではない。だって、毎日家で会っている。て言うか、一緒に住んでいるのだから。

隣に座っている、俺をこの場に誘った奴が、脇腹を肘で小突いてきた。ああ、そう言えばお前は、彼女と会ったことがあったな。

彼女も俺を視認したのか、一瞬目を丸くして驚いていた。しかしそれも本当に一瞬。次の瞬間にはニヤリと愉快そうに口元を歪めていて。

おい。待ておい今何を企んだ。

 

「そうね、ここまで来たら諦めるとするわ」

「お、ようやく乗り気になってくれた?」

「それじゃ早速始めよっかー」

 

席に着く女性陣。ご丁寧に彼女、雪ノ下雪乃は俺の前に着席。そのニコニコ笑顔が超怖い。

ふと、男性陣の方に視線を向けてみると、俺と隣に座るやつ以外の二人の箸が、雪ノ下の方に向いていた。八幡知ってる! あれ、自分が狙ってる女子の方に向けるやつでしょ! この前ダイビングアニメで見た! こいつらふざけんなよぶっ殺すぞ。

 

「じゃあ俺から順番に自己紹介してこっか!」

 

俺の逆端に座る同じ学科のノッポが、いいところを見せようと率先して動く。名前、大学名、趣味、そして最後にお茶目な一言。え、面接かなにかですか?

俺以外の三人が終わり、ついに順番が回って来た。まあ、適当に済ませばいいだろう。この場を穏便に済ますため、あくまでも雪ノ下とは無関係を装い、彼女がいるとかそんなことも言わずに。他の二人は俺と雪ノ下が付き合ってることはおろか、俺に彼女がいることすら知らないからね。

 

「えー、比企谷八幡です。大学はこいつらと一緒、趣味は読書。以上」

 

とまあ、こんな感じで当たり障りないことを適当に言っておけばなんとかなる。ほら見ろ、女性陣もこの自己紹介になんら突っ込むこともせず、わー、とかよろしくねー、とか言ってるしってちょっと待ってなんですか雪ノ下さんなんでそんなジト目を向けてるんですか嫌な予感するんですけど。

 

「じゃー次、そのまま雪ノ下さん行こっか」

「ええ」

 

俺の対角に座る女子が言い、雪ノ下がこちらに流し目を送ってくる。このタイミングでそんなことされても嫌な予感が確信に変わるだけなのでやめて頂きたい。

 

「雪ノ下雪乃です。C大に通っていて、趣味は読書と、それから最近は、彼氏に手料理を振る舞うことかしら」

 

ふふっ、ととても幸せそうな顔で微笑む雪ノ下。ちょっと、意味深な視線をこちらに寄越すのやめて下さい。普段なら嬉しいけど今はちょっと状況が違うからね。バレたら俺、後で他の二人にタコ殴りされるかもしれないからね。

しかし、彼氏がいることを教えたんだ。これで奴らの端の向きも変わって……ないっ⁉︎ マジかこいつら。どんだけハート強いんだよ……。おい俺の二つ隣のやつ。メガネスチャッとかやってんじゃねぇぞ。カッコつけんなクソ野郎。

その後は自己紹介も滞りなく終わり、やって来た飲み物で乾杯。俺の隣に座ってるイケメンは持ち前の軽さとコミュ力で雪ノ下以外の女子に話しかけている。しかし残った二人の男どもは、俺に席を変われとばかりに視線をよこしてきた。勿論無視。

 

「はいはい、しつもーん! 雪ノ下さんの彼氏ってどんなやつ?」

 

端っこに座るノッポが、身を乗り出して対角の雪ノ下に質問を投げかけた。その質問はマズイ。非常にマズイ。彼女の返答いかんによっては、俺とバレてしまう可能性が大いにある。

だから目の前の雪ノ下にアイコンタクトをとる。頼むから、当たり障りない答えで頼むぞ、と。それをどういう風に受け取ったのか、雪ノ下はニコリと微笑み、口を開いた。

 

「そうね。彼はまず目が腐っているわ」

「え、目が……?」

「ええ。それから根性もねじ曲がってるし、将来の夢は専業主夫とかふざけたことをまだ言い続けているし、屁理屈ばかり捏ねて、家ではずっとダラダラしてる覇気のないダメ人間ね」

 

ちょっと心が折れそう。当たり障りのないこと言えってアイコンタクトしたじゃん。やっぱり言わなくても分かるってのは幻想じゃったか……。いや、この場合は分かっててあんなことを言ってるんだろうけど。

隣のイケメン君なんて必死に笑いこらえてるし。全部知ってる傍観者の君は楽しそうでいいですね。

 

「そんなやつなら別れちゃえば? 雪ノ下さんに相応しい人ならもっといるって! 例えば俺とか!」

「おいおい調子乗りすぎだろそれは!」

 

笑いに包まれる俺以外の面々。約2名ほど別種の笑みを浮かべているが。

てか、このノッポはマジで何を調子に乗ってんの? お前程度が相応しいわけないだろ? 削ぐぞ?

 

「ふふっ、面白い冗談ね」

 

あの、目が笑ってませんけど雪ノ下さん。その言葉の後に続くのは「殺すのは最後にしてやる」的なあれじゃないですよね? しかしそれに気づかないノッポとメガネは気をよくしてまだ笑っている。

 

「でもね、そんな彼でもいいところはあるのよ? 誰よりも優しい癖に、不器用だからその伝え方を知らなくて、多くの人に勘違いされながらも、私を助けてくれた、そんな人なの」

 

その幸せそうな笑顔に、誰もが見惚れ、息を呑んだ。男連中だけならず、女性陣までも。

俺はと言うと、正直照れ臭いやら恥ずかしいやらで絶賛死にそうになっているのだが。隣のイケメン君に小声で良かったなと囁かれた。やめろゾワッとするから。

 

「そ、そうだ! えっと、比企谷君だっけ? 比企谷君は彼女とかいるのかな?」

「え、俺?」

 

一瞬静まり返った場を再び盛り上げるように、雪ノ下の隣に座った女子が聞いてくる。確か、雪ノ下を引っ張ってた人だ。

てか、何故俺に聞く? これなんて答えたら正解なのん?

 

「ああ、比企谷ならいるよ、彼女。それも飛び切り美人な子がね」

「おいお前なにを勝手に……」

 

勝手にバラすイケメンに苦言を呈そうと思えば、そのイケメン越しに殺気を感じた。どう言うことだ、聞いてないぞと、ノッポとメガネが睨んでくる。

そして状況は更にややこしいことになり。

 

「へぇー。それって雪ノ下さんとどっちが美人なの?」

 

本当に、単純な好奇心故の質問だったんだろう。今度は俺に質問してきた子の隣、雪ノ下の背中を押しながら入ってきた子に尋ねられた。

今度は前方から視線を感じる。そちらに目を向けると、ニコニコ笑顔の雪ノ下が。だから、これどう答えたらいいんだよ。むしろどう答えても正解なのでは?

 

「あー、雪ノ下、さんの方が美人なんじゃないか? うん。多分。恐らく。きっと。知らんけど」

「ははっ、なにそれー」

「ウケるー」

「彼女さんに怒られるよー?」

 

今折本いなかった? 気のせいか。ウケるとか誰でも言うもんな。

しかし彼女さんに怒られると言われても、その彼女さんは今まさしくあなた達の隣でニコニコ笑ってらっしゃるのですが。怖いんですが。

 

「あなたみたいな目の腐った影の薄い人にも彼女はいるのね。世の中不思議だわ」

「おい、目の腐ったはまだしも、影の薄いは余計だろ。むしろこの目のお陰で無駄に存在感が増してるまであるぞ」

 

そもそもその彼女とやらはあなたなんですがあの。

 

「良かったわね、マイナスしかないあなたの目もこれで役に立つじゃない。けれど、他の人にとってはどうかしらね……」

「俺の存在、邪魔者扱いするのやめてくれる? こう見えても俺はバイト先でも重宝されてんだぞ。知ってんだろそれくらい」

「別に邪魔だなんて一言も言っていないのだけれど。流石の妄想力ね、尊敬するわ」

「まあな。俺ほどの妄想力を手に入れれば、思い浮かべられないことなんてなにもないんだよ。ところで、初めて参加した合コンに恋人様がいらっしゃるのは俺の妄想ってことでオーケー?」

「現実逃避まで一級品だなんて、尊敬を通り越して軽蔑するわ」

「そこは尊敬したままにしといて」

 

と、ここまでいつものような会話を繰り広げたところで、他のやつらがぽかんと口を開けているのに気がついた。隣のイケメンはくつくつと笑みを漏らしているけど。

あー、これはやっちゃったパターンかな? 高2の文化祭ん時と同じようなパターンかな? この場をどう乗り切ろうか考えていると、向かいの雪ノ下がクスリと笑みを一つ落とし、堂々と宣言した。

 

「そう言えば、紹介がまだだったわね。私の彼氏の比企谷八幡よ」

 

この後、作戦会議と称して連行されたトイレで、タコ殴りされかけたのは言うまでもない。

お前らそんなに人の幸せが憎いか。

 

 

 

 

 

「じゃあな比企谷、雪ノ下さん。俺らは二次会行ってくるわ」

「おう、さっさと行ってこい」

 

手を払うように振って、俺と雪ノ下以外の6人を見送る。果たしてあの中で、何人が上手くいくのやら。考えたら少し悲しくなる。

さて、後は帰るだけとなったわけだが。

 

「で、お前なにしてんの?」

「それはこっちのセリフよ。あんなところにいるなんて聞いていないのだけれど」

 

隣に立っている恋人様に胡乱な目を向けると、向こうからも同じ眼差しが返ってきた。

 

「俺はあいつに頼まれて人数合わせ。お前はどうせ、騙されて来たクチだろ?」

「そうよ。日頃レポート見せてるお礼にと言われたから、ありがたくご馳走になろうとおもったのだけれど、蓋を開けてみればあれだもの」

 

嘆かわしいとばかりにため息を吐くが、それよりも俺には聞きたいことがある。

 

「俺が聞きたいのは、なんでいたのかじゃなくて。なんであんな真似したんだって話。あの後大変だったんだぞ」

 

いや本当。イケメン君が助けてくれなかったらメガネとノッポに殺されてるところだった。しかもなにに対抗してんのか、結局箸の向きは雪ノ下から変わらなかったし。飯ちゃんと食えよ。

 

「少しからかってあげようと思っただけよ。お気に召さなかったかしら?」

「お気に召したように見えたか?」

「どうかしらね」

 

ちょっとくらいは嬉しいこともあったけど。それでもやっぱり、ああ言うのは心臓に悪い。

こう言うとこ本当姉に似てるなこいつ。雪ノ下の血筋マジ怖い。

 

「さて、帰りましょうか」

「だな。ああそうだ、帰ったら軽くなんか作ってくれよ。微妙に小腹が空いてる。彼氏に手料理作るのが趣味なんだろ?」

「ええ、その通りよ。だって、私の彼氏は既に私に胃袋を掴まれてるもの。作り甲斐があるわ」

 

仕返しに揶揄ってやろうかと思えば、柔らかな微笑で反撃された。それ一つでノックアウトされるあたり、掴まれてるのは胃袋だけではないらしい。

「それよりも、合コンに行くだなんて聞いていなかったのだけれど、どうして素直に言わなかったのかしら?」

「えっ」

「どうしてかしら?」

 

まだ九月なのに寒くない? やっぱ合コンとか参加するもんじゃねぇな……。



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ゲーガイル続ゆきのんルートの翌日のお話的な


  窓の外は一面の銀世界。昨日から降り続く雪は千葉の交通網に大打撃を与え、結果我らが総武高校は無事に休校となってしまった。

  普段なら小躍りする勢いで喜んでいるのだけど、今日の俺はそうもいかない。

  リビングでコタツに足を突っ込み、机の上にぐでーっと体を預ける。現実に脳の理解が追いついていないと言うか、実は昨日のことは全部夢だったんじゃないかと言うか、まあ、そんな感じだ。や、どんな感じだよ。

 

「ちょっとお兄ちゃん、そこ邪魔なんだけど」

 

  顔を上げると、カマクラを抱えた小町が不服そうにこちらを睨んでいた。コタツのスペースはまだ余裕があるから、邪魔ということはないと思うのだが、小町がいいたいのはそう言うことではないらしい。

 

「朝からそんなじめっとした顔を見せられる小町の身にもなってよねー」

「そりゃ悪うござんした……」

 

  受験が終わった小町は、先日までの不安な様子をちっとも見せていない。合格発表まだだろとか言ったらまた機嫌を損ねる可能性があるので、間違っても小町の前でその話題を出してはいけない。

  そんな小町は俺の対面に座ると、抱えていたカマクラをコタツの中に放り出した。あ、足の先にふわふわした感触が。

 

「なに、またお兄ちゃんなんかやらかしたの?」

「いや、お兄ちゃんがいつもなにかしらやらかしてるみたいな言い方、やめてくれる?」

「だって事実じゃん」

「……」

 

  ぐうの音も出ないとはこのことか。

  しかしこれ、小町に言ってもいいものか。いや、言うべきだとは思うんだけど、そうしたらこいつ、変に騒ぎ出しそうだしなぁ……。

 

「ほれ、小町に言ってみそ」

「いや、別になんかやらかしたとか、そう言うんじゃないんだが……」

 

  どうしようかしらと俺が唸っていると、コタツの上に置かれた小町の携帯がブーっと着信を告げた。それを見て、兄から完全に携帯へと意識を向ける妹。ちょっと悲しいです。

  果たして誰からのメールなのかしらんと思いつつも、そこまで聞いてしまえば嫌われること間違いなし。小町が再び俺に意識を向けてくれるのを待ちながら、ふーんとかほーんとかよく分からん小町の鳴き声を聞き続ける。

 

「お兄ちゃんお兄ちゃん」

「ん?」

「小町、きのこの山食べたい」

「お兄ちゃん、たけのこの里派なんだけど?」

「そんなの今どうでもいいから。さっさと買ってきて。ほら今すぐに」

 

  え、今から? 今、雪降ってるよ? 寒いよ? 下手に外出たら死ぬよ?

 

「そうか、小町はお兄ちゃんを殺すつもりなんだな……」

「そういうのいいから。ほら、海浜幕張まで買いに行ってきて」

「ねえ、お菓子買うくらいならそこらのコンビニでよくない? なんで駅前まで行かなきゃダメなの?」

 

  そもそも俺は里の人間であるからして。そんな俺がきのこの山を買おうものなら、同志達になにをされるか分かったもんじゃない。

  やつらは裏切り者には容赦ないのだ。ソースは材木座。ゲーセン仲間が山の人間だと知った途端、めちゃくちゃ影で悪口言ってた。相変わらず小ちゃい男である。

 

「ごちゃごちゃ言わずにさっさと行くの!」

「へえへえ、分かりましたよ……」

 

  経験上、ここでゴネ続けても小町が折れないのは知っている。ならば可愛い妹のためにこの寒空に身を投じるしかあるまいて。お兄ちゃんな自分が恨めしい。

  部屋で適当に着替えてコートとマフラーと手袋で完全防寒。いざ極寒の千葉へ。

  家を一歩出ただけでもう帰りたさがハンパないのだが、受験を頑張った小町のためにと凍える体に鞭を打つ。

  駅まで向かうのにバスを使おうか迷ったが、体を温めさせる為にも徒歩で駅前まで。

  が、比企谷八幡痛恨のミス。体を温めるもクソもなかった。普通に寒い。だが結構歩いた今からバスに乗る気も起きず、素直に徒歩でなんとか駅前に辿り着いた。

  さて小町ちゃんのお気に召すきのこの山はどこで買えるかしらと辺りを見回して、予想外の人物を発見してしまった。

  いや、海浜幕張を指定された時点で、もしかしたら会えるかなーとか思ったりしたのだけど。でも、まさか本当にいるなんて思っていなくて。

  早くなる鼓動を自覚する。頬も緩んでしまって、さっきまでとは違ってむしろ熱いくらいだ。

  それらをなんとか落ち着かせ、駅の入り口に立つ彼女、雪ノ下雪乃のもとへと向かった。ああ、ダメだ。逸る気持ちが足取りに出てしまっている。

 

「雪ノ下」

「あっ……」

 

  俺の呼びかけに応えて振り向いた雪ノ下が、一瞬だけ。本当に一瞬だけ、表情を和らげた。迷子の中、見知った人物を見つけた時みたいに。それが堪らなく嬉しくて、またにやけそうになってしまう。

 

「よお」

「こんにちは……」

 

  彼女はいつもの白いコートを着ていて、チェックのフレアスカートから伸びる足は黒いタイツに包まれている。対して俺は適当なスウェットに防寒具を着込んだだけだ。待ち合わせた訳でもなくたまたま出会っただけだと言うのに、なんだか申し訳なくなる。

  て言うか、挨拶以降の会話が続かない。だって、どうしても思い出してしまうから。昨日交わした言葉と、唇に触れた柔らかい感触を。

  それは雪ノ下も同じなのか。恐らく頬が赤くなっているのは、寒さのせいだけではないのだろう。

 

「あー、お前、なんでこんなとこいんだ?」

「え?」

「いや、こんな寒い中こんなとこいるんだから、誰かと待ち合わせとかか?」

 

  沈黙がさすがにつらくて、俺から尋ねてみた。ただでさえ今日は寒いのに、こんな朝早くから。シスコンの鑑である俺と違って、まさか雪ノ下が陽乃さんに言われてなんか買いに出てきた、なんてあり得るわけもないだろうし。

  由比ヶ浜あたりと待ち合わせてるのかにゃーと思いきや、雪ノ下の手袋で包まれた指は、何故か俺を指している。

 

「あなたを、その、待っていたのよ……」

「へ? 俺?」

「小町さんに、ここにいれば会えるって言われたから……」

「そ、そうか……」

 

  つまりなにか。俺に会う為だけに、雪ノ下はこの寒い中、外まで出てきてくれて。さっき小町のもとに届いたメールは、雪ノ下からで。

  しかし、それにしても、である。

 

「こんなとこいたら、風邪引くだろ」

「しょうがないじゃない。あなたに、会いたかったのだから……」

 

  どうしよう。やばい。改めて言葉にされると、全身に嬉しさが駆け巡る。なんだか照れ臭いような、小っ恥ずかしいような。けれど、それを上回るほど嬉しさが。

 

「昨日からずっと、夢見心地で……。本当に夢だったんじゃないかって、不安になって……」

 

  だから会いたかったと、雪ノ下が告げる。

  昨日あんなことがあっても、連絡先すら知らない俺たちだから。会おうと思っても直ぐに会えるわけじゃなくて。きっとそれは、お互いの素直とは言い難い性格もあるのだろうけど。

 

「小町さんに、あなたに会いたいからってメールしたら、ここで待ってればいいって言われたから……」

 

  やはり、小町が一枚噛んでいたか。それにしても雪ノ下さん、小町にそこまで素直に言っちゃったの? 俺にももうちょっと素直になってくれるよね? 現在進行形で結構素直に色々白状してくれてるけど。

  となるとやっぱり、俺だって少しは素直に色々言いたい訳で。

 

「俺も……」

「……?」

「俺も、同じだよ。お前に会いたかった……」

 

  言葉尻は酷く掠れてしまって、彼女の耳に届いたのかは定かではない。けれど、花のように微笑むその顔を見る限り、ちゃんと聞こえていたのだろう。

  自分でも、かなり恥ずかしいことを言っている自覚はある。他のやつらなら、もっとスマートにやるのだろうし、そもそも会うだけで妹を介するとか、そんな真似もしないのだろう。そこはもう仕方ない。それが俺たちだから。

  でも、そのままでは嫌なのだと。変わっていきたいのだと思っている自分もいて。

 

「連絡先、交換しとくか」

「……ええ」

 

  会いたい時に会えないのは、会う為の連絡手段がないのは、嫌だから。

  ちゃんと、俺自身から言いたくて、彼女自身から聞きたいから。

 

「でもその前に、どっか移動するか。さすがに寒い」

「それもそうね」

 

  近くのコンビニでも喫茶店でもファミレスでもどこでもいいから、取り敢えずこの寒さから解放されたい。雪ノ下だって名前の割に寒さが得意というわけではないのだろうし、本当に風邪を引きかねない。

  どこに移動しようかしらとちょっと頭を悩ませていると、何故か手袋を外した左手をこちらに差し出された。その意味がイマイチ分からなくて首を傾げていると、真っ赤な顔の雪ノ下が、恥ずかしそうに視線を斜め下に下げて言う。

 

「その、一応、私とあなたはそう言う関係になったのだし、手を繋ぐくらいは、してもらってもいいと思うのだけれど……」

 

  放たれた言葉が予想外過ぎて、一瞬理解が追いつかなかった。顔を下に向けた雪ノ下が、視線だけでちらりとこちらを見やる。

  そんな様が酷くもどかしくて、けれど結局、俺だって似たようなものだ。

  おずおずと、まるで割れ物でも扱うかのように慎重に、差し出された左手の上に、手袋を外した右手を乗せた。

 

「まあ、寒いからな……」

「ええ、そうね……」

 

  寒いなら手袋をしたままの方がいいに決まってる。だけどそんな言い訳がないと行動に移せないのは、最早俺の癖のようなものだろう。

  さて、そんなわけでどこに行こうかと言う悩みに再びぶち当たるわけだが。折角こうして会えたのだから、出来る限り長く一緒にいたい。今日と言う時間を過ごしたい。そう思ってしまうのは、別に欲張りと言うわけでもないだろう。

  手を繋いだはいいものの、それが決まらないことには動きようがない。そんな折、雪ノ下の方から提案された。

 

「あの、比企谷くん……」

「ん?」

「よければ、だけれど、うちに来ないかしら……?」

「え」

「あ、その、別に変な意味ではなくて……」

「分かってる、分かってるから」

 

  一々言わなかったら意識しなかったのになんでそんなこと言っちゃうかなこの子は! うん、まあ、雪ノ下もそれだけテンション上がってるってことなのだろう。多分。知らんけど。

  しかし、願ってもいない提案だ。ここから近くて、寒さを凌げて、雪ノ下と一緒にいられる。俺の望む条件を全て満たしている。ただひとつの懸念事項は、お互いこんな状態でいきなり完全な二人きりになって、まともな会話が出来るかどうかと言うことなのだが……。

 

「じゃあ、行きましょうか。お昼ご飯、ご馳走してあげるわ」

「……お世話になります」

 

  結局、雪ノ下の手料理と言う甘言に釣られて承諾してしまうのであった。

  手を繋いで、二人並んで、駅から彼女の家への道を歩く。

  でも、手を繋いでるだけじゃ満足出来なくて。この短時間で冷えてしまったその左手を、自分の右手ごとポケットに突っ込む。

 

「……寒いから、な」

「……そうね」

 

  降り積もった白い絨毯には、二人分の足跡。乾いた空には、何故か俺たちの足音だけがやけに響いているように感じて。

  本当に、まるで夢物語のようだけど。

  きっとこれからも、この平行線なままの足跡を二人分、どこまでも刻んでいくんだろう。

 



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ハートのクッキー

  ハロウィンである。

  元来このイベントは、古代ケルト人が起源とされており、秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す儀式だったらしい。れっきとした、宗教的な意味を帯びた儀式だったのだ。

  それが今ではどうだ。学校では頭が年中ハッピーな輩が女子にお菓子をもらう口実、はたまたイタズラを仕掛ける口実としてドラミングに利用し、東京の渋谷では、これまた同じく頭が年中ハッピーな輩がゴミを撒き散らし挙句トラックを横転させる、誰がどこからどう見ても有害なイベントに成り下がってしまっている。

  古代ケルトまで遡らずとも、十数年前までは子供達が大人からお菓子を合法的に強奪するための微笑ましいイベントだったはずだ。それが今ではこの体たらく。全国のパリピどもは古代ケルト人に怒られて仕舞っちゃうおじさんに燃やされてしまえ。バスター宝具だから火力そこそこ出るぞ。

  しかし、そんなハロウィンでも侮れないところがひとつある。

  それを説明する以前に前提として知っていてもらいたいのは、『雪ノ下雪乃はおかし作りに於いても完璧である』という点だ。

  奉仕部記念すべき初依頼や、昨年度のバレンタインイベントでもその辣腕を振るっていた。つまり、そんな雪ノ下のお菓子を、合法的にいただく事が出来るかもしれない。それが出来なくても、雪ノ下にイタズラと称して日頃の毒舌に対する憂さ晴らしをしようとして返り討ちに合うかもしれない。いや、返り討ちにあったらダメだろ。

  とまあ、その一点だけを見れば、俺にとっても非常に魅力的なイベントである。返り討ちにさえ合わなければ。

  と言うわけで、俺は今日この日に備えて入念な準備をしてきた。といっても、前日一睡もせず徹夜で学校に来ただけではあるけれど。お陰様で先日無料でダウンロード可能になった神殺しのゲームがめちゃくちゃ進んだ。

  さてその結果どうなったのかと言えば、常日頃よりも三倍は死んでいるであろう俺の目、即ちスーパーゾンビヒッキーの誕生である。昼間に渡された由比ヶ浜のお菓子で朝よりもげっそりしてるから、ゾンビ度が上がってるかもしれない。デンジャラスゾンビよりもデンジャラスなゾンビだ。今日ばかりは由比ヶ浜様々だ。嘘、全然様々じゃない。お前ちょっとはマシになったと思ったら余計酷くなりやがって。上手くなって来たり慣れて来た頃が一番油断しやすくて一番危険だってお母さんいつも言ってるでしょ。ガハマママが言ってるかは知らんけど。

  そしてやって来た放課後。心なしかいつもより重い足取りでやって来た部室。この向こうに、雪ノ下はいる。ついに決戦の時だ。

  まさかあの雪ノ下雪乃がハロウィンなんてイベントに浮かれて特別なお菓子を作って来てるとは思えないが、御茶請けのひとつくらいは用意しているだろう。もうそれでもいいから美味しいものが欲しい。お願いします僕の胃は限界なんです。

 

「うーす……」

「こんにち……比企谷くん?」

 

  扉を開けていつも通りの適当な挨拶を投げると、しかしいつも通りのしっかりとした挨拶が返ってくることはなかった。それは途中で遮られ、代わりに心配の色を滲ませた声音で俺の名前を呼んでくる。

 

「あなた、どうしたのその目? いつもより死んでるわよ? ゾンビの仮装にしては冗談が過ぎると思うのだけれど」

 

  想定外の事態が発生いたしました。なんでこいつ、こんな心配してくれてるのん? いや、そりゃこんな目が死んだどころか壊死してるような奴を見たら大丈夫かと心配になるのは情緒のある人間ならば当然だろうし、その相手が恋人ともなればそりゃ心配されて然るべきだとは思うけども。

  やだ、ちょっと嬉しいじゃないの。

 

「いや、大丈夫だ雪ノ下。問題ない。ちょっと徹夜明けで由比ヶ浜のお菓子を食べただけだから。大丈夫だ」

「大丈夫に見えないから心配しているのよ」

 

  スッと音もなく立ち上がった雪ノ下が、未だ扉の前に立ったままの俺に向かって歩いてくる。その顔は真剣で、俺の体調を本気で案じてくれているのが嫌でも伝わってくる。

  ふつふつと込み上げてくる罪悪感と戦っていると、そのまま肉薄して来た雪ノ下が、俺の後頭部に手を回す。あまりにも突然の出来事すぎて理解が追いつかない。

  待って待ってマジでなにどうしちゃったの雪ノ下さん⁉︎

 

「んっ、熱はないみたいね」

「……っ」

 

  抱きしめられるのかと思いきや、後頭部に回した手でグイッと俺を引き寄せ、おでことおでこをごっつんこ。どうやら、熱があるかどうか確認したかったらしい。それにしてもスキンシップが過ぎませんこと?

  それが確認できて満足したのか、雪ノ下の体が離れていく。それに幾許かの名残惜しさを感じながら、雪ノ下に促されるままいつもの定位置に腰を下ろした。

 

「本当は直ぐに帰って寝て欲しいのだけれど」

「奇遇だな。俺も今日は早く帰って寝たい」

 

  なんなら今日に限らず割と毎日早く帰って寝たいとか思ってる。まあ、最近はここに来るのが楽しみな感じあるけど。ほら、可愛い可愛い彼女さんが待ってるわけだし。

 

「今日は、その、ハロウィンでしょ?」

「まあ、そうだな」

 

  そのハロウィンのせいで俺はこんな目に成り下がっているわけだが。自業自得とか言わないの。

  自分の席に戻った雪ノ下は、なぜか顔を少し赤くしてソワソワしている。その理由が分からず怪訝な視線を投げていれば、意を決したようにこちらをキッと睨んで来た。

  なに、怖いんだけど。

 

「そう、今日はハロウィンなのよ。だから、まだまだ心がお子様な比企谷くんに、これを作ってあげたのだけれど……」

 

  床に置いていたカバンの中から取り出したのは、猫のワンポイントが可愛らしいセロハンの包み。透明なそれの中身を見てみると。

 

「クッキー?」

 

  こちらに差し出されたわけでもないので遠目からしか見れないが、あの中に入っている物体は間違いなくクッキーだろう。雪ノ下は未だに赤い顔のまま、てこてことこちらに歩いて来て、その包みを俺に差し出して来る。

 

「……どうぞ」

「お、おう……」

 

  おかしい。クッキーを渡されただけなのに、なんだこの、なんか変な雰囲気は。ていうかこいつも、なんでクッキー渡すだけでこんな顔赤くしてんだよ。可愛いが過ぎる。

 

「その、体調が優れないようであれば、帰ってから食べてもらっても構わないから……」

「いや、今食う」

 

  本来、今日はこれが目的で徹夜して由比ヶ浜のお菓子も甘んじて受け入れたのだ。休み時間にあいつのお菓子を食べた時のあの嬉しそうな顔を思い出すと罪悪感半端ないが、それも雪ノ下のクッキーへ辿り着くまでの布石だったということだろう。

  早速セロハンの包みを開けて中のクッキーを取り出せば、雪ノ下が赤面していた理由が理解できてしまった。

 

「お前、これは……」

「ち、違うのよ。それは、その、作ってるうちになんだかおかしなテンションになってしまったとか、そう言うわけではなくて、あの、あなたのことを考えながら作っていると、不思議と自然にその形になっていたと言うか……」

「お、おう……。分かったから落ち着け、お前今とんでもないこと言ってるぞ」

 

  雪ノ下さん、更に顔真っ赤。熟れたトマトかよってくらい真っ赤。こんなトマトなら喜んで食べれるわ。

  雪ノ下の作ってきたクッキー。それは、包みの中に入っていたその全てが、ハートの形をしていた。色合いから察するに、かぼちゃのクッキーなのだろう。

  いや、味などこの際どうでもいい。ハートである。あの雪ノ下雪乃が、ハートのクッキーを作ってきたのである。

  作った本人は混乱しているし、地味に俺も相当混乱しているけれど。

  それ以上に、嬉しさが勝った。彼女の言葉を信じるのなら、このクッキーは俺を想って作ってくれたと言うことで。その結果が、らしくないこんな形のクッキーで。

  いや、雪ノ下は嘘をつかないのだから、今言ったことは全て本当なのだろう。

  だったら、これ以上の喜びはない。

 

「雪ノ下。紅茶、淹れてくれるか?」

「え?」

「だから、紅茶だよ。さすがに飲み物なしでクッキーは口の中がキツイだろ」

「そ、そうね。少し待っていて頂戴」

 

  手に摘んだままのクッキーを、もう一度眺める。その形自体はたしかに雪ノ下らしくないかもしれないが、形が微塵も崩れていない完璧さは、雪ノ下らしい。

  このらしさと言うのも、俺の勝手な思い込み、勝手な幻想かもしれないけれど。大切なのは、今ここにこれが形としてあることだ。

  なんだよ、ハロウィンって思ったより最高じゃねぇか。これにはさすがの古代ケルト人もにっこり。

 

「はい、紅茶。どうぞ」

「ん、さんきゅ」

 

  紅茶も来たことだし、少し勿体無い気もするがこのクッキーを頂こうとして。俺の前から中々離れない雪ノ下に気づいた。

  相変わらずどこかソワソワした様子で、俺の方を見たり、視線を逸らしたり。そんなに俺の感想が気になるのかしらん?

 

「心配しなくても、お前が作ったんだから美味しくないことはないと思うぞ」

「そういうのは、食べてから言ってくれるかしら。……いえ、そうではなくて」

「じゃあなに」

「その、私はあなたにお菓子を渡したわけじゃない?」

「そうだな」

「だから……」

 

  おそらくは今日一の頬の紅潮を記録しているその顔は、普段よりも幾分か幼くて可愛く見えてしまう。

  そんな雪ノ下に見惚れていると、雪ノ下の小さな唇が開かれた。

 

「トリックオアトリート、比企谷くん。お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうわ、よ?」

 

  …………俺、お菓子なんて持ってきてないんですけど?

 

 



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いつからゆきのんが黒髪ロングストレートだと錯覚していた?

 最近めっきり冷え込んで来た、11月中旬。つい先日、ポッキーの日がどうちゃらこうちゃらハロウィンがどうちゃらこうちゃらと騒いでいた世間様は、既にクリスマスモードへ移行している。

 クリスマスまではまだ一ヶ月以上もあると言うのに、どうしてこう忙しないのか。今年はクリスマスイベントやらで生徒会長殿に振り回されていないだけまだマシだが、それでも俺たちには受験勉強と言う重要な任務が課せられている。

 リア充どもがクリスマスだのポッキーの日だのハロウィンだのと騒いでいる間にも、俺は来るべき決戦の日に備えて勉強を怠らない。この模範的な優等生っぷりを見習って欲しいね。

 

 さて。そんなわけで今日も今日とて、勉強部屋と化した部室に足を向けているわけではあるが。

 廊下が寒すぎて、今から勉強しようなんて気にはなれない。勿論コートは着てるし、マフラーだって巻いている。しかし僅かに開いた窓から差し込む風は、そんな装備を貫通して俺に寒気を感じさせるのだ。マジで誰だよ廊下の窓開けたやつ。換気するのはいいけど、ちゃんと閉めろよな。寒気だけに。

 余計に寒くなった気もしないでもないが、俺的には満点大笑いだ。寧ろ今ので身も心もホカホカになった。嘘、なるわけないだろあんな寒いギャグで。ゆきのんのいてつくはどうの方がまだあったかいわ。

 脳内で茶番を繰り広げながらもようやくたどり着いた部室。この扉の向こうは暖房が効いたホカホカ勉強部屋となっているはずだ。今年の1月ごろみたいに、ヒーターちゃんが壊れていなければ、の話だが。

 

「うーす」

 

 ガラリと音を立てて開いた扉。気の抜けた挨拶とともに室内へ入れば、そこまであったかいわけでもないけど寒いわけでもない、中途半端な空気が俺を出迎える。まあ、ヒーター一つじゃこんなもんだよね。

 

「こんにちは」

 

 そして、当然のように俺より早く部室へ来ている、我らが部長。彼女が部室で俺たちを待っているのは、いつからか当たり前のことになっていた。俺や由比ヶ浜も、彼女が待っている部室へ向かうのが、この一年以上の時を経て、心のどこかで楽しみになっているんだろう。

 先に着いているにも関わらず、自分のカップに紅茶は注がないで。文庫本を開いて優雅に読書をする雪ノ下雪乃。

 いつもの光景。見慣れた日常。

 の、筈だった。

 定位置である廊下側の席へ向かう途中、思わず二度見してしまう。どこを、なんて一箇所しかない。窓際でヒーターの恩恵を受けている、雪ノ下を、だ。

 

「なにか?」

「あ、いや……」

 

 鋭い視線を頂戴してしまい、思わず吃る。やだ八幡くん今日も今日とてステキな気持ち悪さだわ。

 

「変な人。いえ、変なのは元からだったかしら。ごめんなさい、いつにも増して変な人、と訂正するわ」

「その訂正必要だった? 謝ることで余計に俺の心にダメージ与えるとか、ちょっとテクニカル過ぎませんかね」

 

 最早恒例となりつつある、軽いジャブ程度の会話を終えて席に着く。関係が部活メイトから恋人にランクアップエクシーズしたところで、会話の内容なんて大して変わることもないのだ。逆に俺と雪ノ下がそこらのリア充じみたやり取りをしていると、鳥肌が立つまである。

 対面の雪ノ下が文庫本にしおりを挟み、紅茶を淹れるために電気ケトルへ向かう。歩く拍子に、ねこのしっぽが如く揺れる彼女の髪。

 そう、揺れているのだ。

 別に雪ノ下さんのお胸は揺れないのに髪は揺れるんですねーとかそんな神をも恐れぬ暴言を吐きたいわけではなく。

 雪ノ下雪乃を語る上で欠かせないのが、その艶やかで豊かな長い濡れ羽色の髪だろう。いつもはそれを重力に任せて下ろしているのに、今日は違った。それが、俺が部室に入った時に思わず二度見してしまったものの正体。

 そう、雪ノ下はなんと。その長い髪を、いつもの赤いリボンで。ツインテールに結っていたのだ。

 いや、正確にはツインテールではなく、おさげと言った方が正しいのだろうけど。間違った表現をしてしまうとツインテール協会の人に怒られてしまう。

 

「比企谷くん?」

 

 俺が髪の毛に気を取られてるあいだに、紅茶を淹れ終えたのか。気がつけば、いつの間にか雪ノ下が湯呑みを持って目の前に。

 不思議そうに小首を傾げてこちらを見ているあたり、自身の変化により俺に与える影響と言うものを全く理解していないらしい。

 

「なあ、雪ノ下」

「なにかしら?」

 

 ここは思い切って、聞いてみるべきだろう。雪ノ下の髪型が変化するのは、由比ヶ浜がいれば割と起こるイベントではあったけど、お団子頭の彼女は今日この場にいない。まあ、もう少ししたら来ると思うけど。

 

「お前、その髪型どうしたんだ?」

「え? ああ、これのこと?」

 

 湯呑みを長机の上に置いた雪ノ下が、自分の髪の毛に手櫛をいれる。サラリと流れるその美しさに一瞬目を奪われるも、続く彼女の言葉で意識を強引に戻される。

 

「ふふっ、あなたのお気に召したかしら?」

「いや、まあ、いつもと違ってちょっといいとは思うけど……」

「なら良かったわ」

 

 満足そうに微かな笑みを残して、雪ノ下は自分の席に戻っていった。

 あの、そうじゃなくて。なんでツインテールにしてるのかを尋ねたんですが……。

 

「あなた、覚えてない?」

「なにを」

 

 求めていた答えはやはり得られず。その代わりに、今度は雪ノ下の方から質問が飛んできた。覚えてないかと問われても、そもそも主語が抜けているので、なにを思い出せばいいのかも分からない。

 

「初めて会った時のこと。それから数ヶ月くらい、この髪型だったのだけれど」

「……あー」

 

 言われてみれば、確かに。

 あの頃は今ほど髪の量も多くなかったからか、雪ノ下は赤いリボンで肩の辺りを結んでいた。記憶が正しければ、由比ヶ浜の誕生日辺りまでだろうか。いや、もう少し前までだったかもしれない。

 それがいつからか、昨日までのようなストレートになっていたけど。

 あの頃は正直、こいつにそこまで興味がなかったと言うか、まさか今みたいな関係になるなんて思ってもいなかったから。いちいちこいつの髪型なんて、気にしたこともなかった。

 それが今では、髪型一つに心を動かされる有様。だけど、不思議と悪くはない。

 

「昨日、美容院に行ってきたのよ。それで髪の毛を軽くすいて貰ったから、せっかくだし、と思って。でもまさか、覚えていないとは思わなかったわ」

「覚えてなかったわけじゃない。すぐ気づかなかっただけだ」

「私が言わなければ、ずっと忘れたままだったでしょう?」

「……否定はしない」

 

 クスクスと心地の良い音色が耳を撫でる。

 これがそこらの頭の悪いリア充カップルなら、なんで覚えてないのよサイテーとか言って破局のチャンス、間違えたピンチに陥るのだろうけど。残念ながら頭のいいカップルであるところの俺と雪ノ下では、そうならない。

 実際、雪ノ下のツインテール、というかおさげ髪はとてもよく似合っている。当時のことを思い出した今となれば、なんだか妙な懐古心に駆られる始末。あの頃は雪ノ下も尖ったナイフのように鋭い雰囲気と言葉を放っていたものだけど、それもなまくらになってしまったのか。

 懐かしむのはこの辺りにして、さて今日もお勉強のお時間だ。

 カバンから勉強道具を取り出し、とりあえずそろそろ冷めたであろう紅茶を一口含めば、同じく勉強の準備をしていた雪ノ下から、再び言葉を投げられた。

 

「ところで比企谷くん」

「ん、どうした? 今日の数学の小テストなら、おかげさまでバッチリだったぞ」

「そうではなくて」

 

 そうではないのね。てっきり、点数まで教えた挙句にボロクソ言われるもんだと思っていたけど。

 

「あなたは、この昔の私と、今の私。どちらが好き?」

 

 あっさりと赤いリボンを解いてしまい、黒髪が綺麗に靡く。その動作一つで、見慣れたいつもの雪ノ下へと変身を遂げた。

 流麗な黒髪は、確かに昨日最後に見たときよりも、少しスッキリとしている気がする。髪をすいて貰っただけでなく、毛先も整えて貰ったのだろう。雪ノ下のことだ。通ってる美容院も、それなりにお高いところだろう。

 しかし、その問い方はまちがっている。

 

「今のお前と昔のお前なら、今のお前の方に決まってる。なんせ昔のお前、めちゃくちゃに怖かったからな」

 

 絶対に許さないノートになんどその名を書き連ねたことか。最早MVPを飾ってるまである。

 だけど。

 

「でもまあ、昔の髪型と今の髪型なら、俺はどっちも、好き、だな。うん」

 

 尻すぼみになってしまった俺の声は、果たして向こうまで届いているのか。好きと言うたった二文字を言うだけで、顔が燃えるように熱くなる。我ながら情けない。

 しかし雪ノ下は、そんな俺の情けない声をしっかりと聞き取ったのだろう。

 

「その言葉を聞けただけで、十分だわ」

 

 本当に。心底から喜んでいる、ともすれば、少し幼く見えるような、とても可愛い笑みを浮かべていて。

 そんな恋人の、いつもとは違う魅力に、俺の心臓は鷲掴みにされてしまう。

 

「でも、せっかくだもの。今日一日は、髪を結んでいようかしら」

「……まあ、いいんじゃねぇの?」

 

 視界の端で、雪ノ下が再び赤いリボンを結っているのが見える。部室の扉の向こうからは、パタパタと騒がしい足音が聞こえてきた。

 きっと、喧しい挨拶と共にその扉を開く彼女は、一目見ただけで気づくのだろう。

 そんな数秒後の未来を予測して、思わず頬が緩んでしまった。



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さむいひ

 全世界の全人類が知る一般常識として、千葉の冬はあまり雪が降らない。去年の二月ごろは珍しくどっさり降って積もったりしていたが、普段はただ寒くて、頭の悪いウェイ系大学生がパーリーピーポーする口実となるイベントが続く、実に下らない季節だ。

 今年も立冬はとうに過ぎ、暦の上では既に冬。未だ11月とは言え、冬といったら冬なのだ。そもそも、明確にいつから季節が変わると決められたわけでもない。俺が冬だと言ったら今は冬だし、夏だと言ったら夏になる。嘘、ならない。

 とまあそんな訳で、今日は寒い。いや、なんなら今日だけじゃなくて昨日も一昨日も寒かったし、明日以降も寒いんだろう。寧ろ俺の周りは年がら年中人間関係寒すぎるまである。

 でもほら、手が冷たい人は心が暖かいって言うし、人間関係が冷え切ってる人も心があったかいんだよ。多分。知らんけど。そうじゃなきゃ俺に恋人なんて出来るわけがない。

 チラリと俺の対面、件の恋人様に視線をやると、彼女は寒がるそぶりなんぞ全く見せず、いつものように清廉な雰囲気を纏い読書に耽っている。

 それは一種の絵画のようだと、なんど思ったことだろう。読書している姿に限らず、彼女の立ち振る舞い全てが、俺の目には美しく見えてしまう。なんて言えば、惚気ていると思われるだろうか。だが事実なのだから仕方がない。

 視線を手元の文庫本に戻し、少しでも暖を取ろうと湯呑みに手を伸ばす。しかしその中に入っている紅茶は、実に俺好みなぬるさになってしまっていて。飲む分には丁度いいのだけど、それで暖を取るのはさすがに無理だった。

 伸ばされた手を引っ込めるのもアレなので、寒さに震えながらぬるい紅茶で喉を潤す。さてさてどうしようかしら。心頭滅却すればこの寒さどうにかなったりしない? しないか。しないな。

 せめてヒーターちゃんが壊れてなければ、少しくらいはマシだったのに。と、一年と経たずまた故障してしまった、窓際に置かれたヒーターを恨みがましく睨む。

 

「寒い?」

 

 そんな折、対面から気遣わしげな声が聞こえてきた。

 改めてそちらに視線を移せば、彼女、雪ノ下雪乃は、読んでいた文庫本に栞を挟み、その奥に心配の色を滲ませた瞳でこちらを見つめていた。

 投げられた問いは経ったの三文字。けれど、彼女が俺を心配してくれてると言う事実だけで、胸の奥が暖かくなる。

 

「まあ、寒いな。多分これ、今年最大の寒さだわ。いやマジで。なんで俺室内でコート着てマフラーしてんの? おかしくない?」

「あなたがおかしいのは今に始まった話じゃないでしょう。それに、寒さで言えばあなたの人間関係以上に冷え切っているものなんて北極くらいのものよ」

「心配してくれたのかと思って嬉しくなった俺の感傷を返せ」

 

 前言撤回。今ので俺の心は絶対零度に冷え切りましたわ。これは一撃必殺。しかもゆきのん、『こころのめ』まで使うから絶対に命中させて来るし。

 げんなりしてもう一度紅茶を喉に通すと、クスクスと耳障りの良い音色が聞こえてくる。そうして笑っている雪ノ下は、ただ飛び切り可愛いだけの、年相応の女の子だ。

 

「冗談よ。良ければ紅茶、淹れなおしましょうか?」

「頼む……」

 

 言葉と共に吐き出した息は白く、この部屋の気温が非常に低いことを物語っている。正直こんな寒い空間で部活するとか意味わかんないし、特に寒がっている様子を見せない雪ノ下はもっと意味わからん。

 栞を挟んだ文庫本を長机に置き、こちらに歩み寄ってくる雪ノ下。俺と違ってコートもマフラーもしていない彼女が湯呑みを取り、電気ケトルの方へ向かった。

 女子は特にスカートだから、足元とかスースーして寒いものだと思うのだけれど。

 この季節は寒いだけじゃなくて、陽が落ちるのも早くなって来る。ふと目を向けた窓の外は茜色に染まっていて、水平線に沈む太陽がこの部屋に陽を満ちさせる。

 あと一時間もしないうちに、外は薄暗闇に包まれるだろう。出来れば太陽くんにはもうちょっと仕事をして欲しかったのだけど、彼もウルトラマンばかりやっているわけにはいかないと言うことか。それは太陽違いか。

 

「はい、どうぞ」

「さんきゅ」

 

 紅茶を淹れ終えた雪ノ下が、俺の前に湯呑みを置いた。そのまま自分の席に戻ったかと思うとそこに座ることはせず、椅子と文庫本、それから紅茶を淹れてる間椅子に掛けていたブランケットを持って、俺の隣までやって来た。

 突然のことに驚きなにも言えないでいると、なんと雪ノ下さん、俺の隣に椅子を置いて、そこに腰を落ち着かせてしまったじゃありませんか!

 

「……いや、なにしてんの?」

「なにをしてるのでしょうね?」

「聞いてんのこっちなんだけど……。質問に質問で答えるなって母ちゃんに習わなかったのかよ」

「私の母が教えてくれると思う?」

「思わないなぁ……」

 

 や、そんなことはどうでも良くて。

 

「んで、結局なにが目的だよ」

「目的がなくては近づいたらダメ?」

「ダメでは、ないな……」

 

 今更、そのあたりを遠慮する仲でもない。けれど、そうやって真正面から直截的に言われるのはどうにもむず痒くて、視線を泳がせてしまう。世界水泳優勝も狙えるレベル。

 しかしこう近づかれてしまっては、実際目のやり場に困るわけで。再び読書に戻ろうとしても、絶対に内容が頭に入ってこない。だからと言って雪ノ下の方をマジマジ見るのも気がひけるし……。

 なんて思っていたのは俺だけだったか。チラリと目をやった隣では、雪ノ下が俺の顔をガン見していた。

 自然、交差する二人の視線。空を映したような澄んだ瞳とぶつかり、ありえるはずはないと分かっているのに、そこへ吸い込まれそうに錯覚する。

 そこから、目を逸らせない。その代わりの照れ隠しとして出たのは、詰まりかけた言葉を無理矢理に吐き出しただけの、ただの問いかけ。

 

「……え、なに、どうしたの」

「いえ、別に……」

 

 先に目を逸らしたのは雪ノ下の方だった。なんか勝った気がする。や、なんにだよ。

 顔ごと正面に戻したことで、雪ノ下の横顔がよく見える。その頬は少しばかり朱に染まっていた。君からガン見して来たくせに、目が合ったら恥ずかしがるのね。可愛いかよおい。

 

「ただ、いつもより目が腐ってるなと思っただけよ」

「それ、わざわざ言う必要ありました? 知らない方がいい真実ってあるんだぞ」

「ええ。だから教えてあげたの」

「相変わらずいい性格をしてらっしゃる……」

 

 あまりの寒さからか、今日の俺の目がいつもの数倍腐っているのは、今朝鏡で確認しているし、なんなら教室で由比ヶ浜にもちょっと引かれた感じで言われたし。普通に傷ついたし。

 なんかもう、俺だけじゃなくて千葉県民全員の目が腐っちゃったらいいんじゃない? とか最近は思っちゃう始末。みんなでゾンビランドチバしようぜ。

 ところで、平塚先生に連行された由比ヶ浜は無事なのだろうか……。受験前で成績未だ奮わず、とか聞いたけど……。あんだけ雪ノ下に教えてもらってるのに、そのお団子頭には一体なにを詰めているのだろう。こしあんとかかな。団子はつぶあん派のどうも俺です。

 

「ねえ」

「ん?」

 

 所在なさげに視線を彷徨わせていたのは、雪ノ下もまた同じだったようで。やがて俯いてしまった雪ノ下が、言葉少なに問いを投げる。

 

「……寒い?」

 

 先程と全く同じ三文字を、けれど先程とは違い、確かな熱を持って発した。そこに込められているのは心配や気遣いなどではなく、なにかを期待するような色。

 

 

「まあ、寒いな……」

「そう……」

 

 それに俺も、先程と同じ言葉で返す。俯いた雪ノ下の表情はよく見えないけれど、髪の隙間から覗く耳は、微かに赤くなっていた。それがこの寒さのせいじゃないのは、俺にだって分かる。

 

「じゃあ、これ。一緒に使いましょうか」

「……助かる」

 

 膝にかけていたブランケットの端を持ち、雪ノ下は俺の膝までそれを伸ばしてくれる。それなりに大きいのか、それでもまだ余裕があるくらいだ。

 だから、椅子と椅子の距離を詰める必要なんて全くないのに。俺と彼女の距離は、より一層近くなる。

 付かず離れず。いや、時には離れてしまったにも関わらず、今はこんなにくっ付いて。

 お陰で今は、とてもあったかい。身体も、心も。

 

「今からそんな調子じゃ、これから先はもっとつらいわよ?」

「まだ11月だもんなぁ……。家帰ったらコタツと小町とカマクラにあっためてもらうけど、ここで過ごすにはちょいと対策考えないとな……」

「比企谷くん、今何かとても聞き逃せないようなことを言っていた気がしたのだけれど」

「あ、いや、待て雪ノ下、別に小町にあっためてもらうっていてもだな──」

「猫ってやっぱり、暖かいのかしら……?」

「あ、そっちね……。そりゃもうヤバイぞあいつ。この季節は腹の上に乗って来ても許しちゃうレベルで。まあ、俺から行っても逃げられるんだけど」

「そう……猫……」

 

 惚けた表情で呟く雪ノ下は、完全に猫の方へ興味が移ってしまったらしい。となりの俺なんて、もう意識していない。

 それはそれでちょっと悲しかったりするけど、まあ良しとしよう。

 カマクラのお陰で、丁度いい口実が出来たのだし。

 

「なんなら、今度うち来るか?」

「えっ……?」

「え、なにその反応。さすがの俺も傷つくぞ」

 

 目を丸くして驚いてる雪ノ下。やっぱり、家に誘うのはちょっとキモすぎたかしら……。でも俺だって何度も雪ノ下からこいつのマンション行くの誘われてるし……。

 己のキモさに今すぐ叫び出したい衝動に駆られていると、雪ノ下がコテンと小首を傾げた。その瞳には、今日一番の熱が篭っている。

 

「いいの?」

「……まあ、お前が来たら小町も喜ぶだろうし。俺はなにも問題ない」

「そう……」

 

 俺よりも猫に対する方が、何故か感情の振れ幅が大きい気がするけど、まあ気のせいだろう。気のせいじゃなかったとしても、そこを指摘するのも今更だ。

 

「では、土曜日は予定を空けておいて頂戴」

「え、土曜? 今日でもよくない?」

 

 土曜はほら、休日だから。休む日だから。昼までゆっくり惰眠を貪りたいから。そんな俺の真摯な思いを視線と言葉に込めたのだが、どうも雪ノ下にそれは伝わっていないらしく。どころか、俺の目も見ず、また俯いてしまって。

 

「……その、心の準備が必要だから」

「お、おう、そうか……」

 

 カマクラと会うのにそんなものが必要なのかと一瞬疑ったが、そういう訳ではないのだろう。

 思えば、こいつが俺の家に来たことなんて一度もなかった。そりゃ心の準備だって必要だろうし、それは雪ノ下に限らず、俺もまた然り。

 

「でも、楽しみにしてる、わね」

「……おう」

 

 なんにせよ。俺の休日が丸一日潰れてしまうのは確定したわけで。

 それでも不思議と、週末が来るのが、既に今から楽しみだった。



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八幡がペットショップでゆきのんと出会っちゃう話

 買い物していると、街でばったり友人と出くわす。そんな経験がないだろうか。因みに俺はない。そもそも友人がいない。

 まあ、友人じゃなくてもいい。知人だろうが、妹だろうが、親だろうが、所属している部活の部長の姉だろうが、まあ、そう言った類の誰かしらと、たまたま出先で遭遇することは、一度くらい経験があるはずだ。これ、最後のは殆ど個人特定してんな。

 そしてその遭遇したタイミングが、もしくは相手が、最悪な場合は、どうすれば良いのだろう。

 例えば、陽乃さんと出会ってしまえばそれがどんな状況どんなタイミングでも最悪だと思ってしまうし、戸塚と出会ってしまえばどんな状況どんなタイミングでも最高だと思えるだろう。

 さて。ここで現在、俺が置かれている状況を確認してみよう。

 場所は千葉のモール内にあるペットショップ。カマクラの猫砂を買いに、自転車で遠路はるばるここまでやって来た休日の昼下がり。

 ゲージの前にしゃがみ込む俺と、そんな俺を見下ろしてスマホを構えている、たまたま遭遇してしまった雪ノ下雪乃。

 なんか、いつもと逆じゃない?

 

「違うんだ」

「違うのよ」

 

 言い訳を口にしようと発した言葉は、なぜか向こうと同じものだった。はて、俺はなにか間違ったことを口にしただろうか。いや、そんな筈はない。寸分違わず見事に正確な言い訳をすることに定評のある俺だ。その第一声を間違えるわけがない。そんな一定の評価欲しくなかった。

 交錯する二つの視線。言葉は交わさず、ただその視線のみで、先に言えとお互い譲り合う。

 そして先に折れたのは、意外にも雪ノ下の方だった。はぁ、とため息を一つ吐き、少し肩を落としたように見える。そんな力ない姿の雪ノ下を見るのは、いつ以来だろうか。

 

「違うのよ……」

 

 再び発せられた同じ言葉は、しかし先程のような頑なさを感じない。

 雪ノ下がスマホを操作したかと思うと、その画面をこちらに突きつけて来る。画面は動画を再生していて、そこに映されているのはこのペットショップ。そしてゲージの前にしゃがみ、猫と熱い視線を交わしてる俺の姿。

 それから数秒経って、『にゃー』と低い声が。他の誰でもない、この俺の声だ。

 

「なにも違わないんだよなぁ……」

「そ、そうではなくて……。あなたにしては珍しく無防備だったから、つい勝手にと言うか、気づけば録画してたと言うか……」

「お前それ、言い訳として成立してないぞ……」

 

 自然、俺の頬は紅潮してしまい、嘘のつけない雪ノ下さんも自爆してしまったようで。ペットショップに熟れたトマトがお二つ出来上がり。

 こんなところでなにやってんだ、と。心の中の冷静な自分が問いかけて来るも、その問いになにかしらの行動を返せるわけでもない。

 ここはモールのペットショップで。他に人もいて。それなのに、どうしてこんないじらしい思いをさせられなきゃならんのか。

 

「そ、それで?」

 

 妙な沈黙を破ったのは、雪ノ下だった。顔を斜め下に向けながらも、未だしゃがんだままの俺に視線だけをくれる。

 

「それであなたは、どうしてこんなところで気持ちの悪い鳴き声を挙げているのかしら。ここは公共の場なのよ? もう少し周りの人のことも考えて頂戴」

「公共の場で鳴いてることに関しちゃ、お前は人のこと言えないだろ」

 

 ムッと眉を顰めた雪ノ下が、こちらに歩いて来る。俺はその場で膝を折っているから、自然彼女を見上げる形になってしまい。スカートから伸びる、黒いタイツに包まれた足に目が行きそうになる。そこから必死に目を逸らし、まさか蹴るなり踏むなりされるのかしらとビビっていると、勿論そんなことはなく。

 何故か俺の隣にしゃがみ、ゲージの中のマンチカンに微笑みかけた。いつもは大人っぽいくせに、こう言うときは年相応か、もしくはそれより幼く見えてしまう。

 そしてその微笑みをそのままに、彼女はポツリと呟いた。

 

「別に、誰の前でもそうするわけじゃないわ」

 

 その笑みが向けられる先は俺ではないと言うのに。そう言った彼女の横顔を見て、心臓が高く鳴る。

 違う。別に、その微笑みに見惚れただけじゃない。だって雪ノ下は、少なくとも俺の前では、その姿を見せていいと言っているのだ。

 ほんの少しでも、俺に気を許してくれている。長いようで短いような付き合いの中で、確実に俺と彼女の距離は近づいている。

 それが、雪ノ下自身の口から発せられた。

 顔が赤くなるのを自覚する。まさか、こんな何気ない会話で赤面するなんて。そろそろ耐性ついたと思ってたんだが、どうやら雪ノ下は防御貫通スキルでも持ってるらしい。

 にゃー、とか細い声が隣から聞こえる。聞き慣れた声が、未だ聞き慣れない鳴き声を発している。

 雪ノ下がにゃーと鳴くたび、ゲージの中のマンチカンも呼応してになーと鳴く。

 その光景があまりに微笑ましくて、自然と頬が緩んだ。

 が、しかし。次の瞬間には雪ノ下の顔から笑みが消え、俺の方に振り返る。

 

「それで、まだ質問に答えてもらっていないのだけれど」

「え、あ、ああ……」

 

 思っていたよりも互いの距離が近くて、言葉にもならないうめき声じみたものしか出てこない。しかしどうやら雪ノ下にこの近さは自覚ないらしく、急に挙動不審になった俺を怪訝そうな目で見る。

 俺は大体いつも挙動不審なんだから今更そんな目しないでくださいよ。

 

「あー、俺はあれだ。カマクラの猫砂買いにな」

「そう……」

 

 あ、あれ、なんか雪ノ下さん、素っ気ない? さっきまでの笑顔まじでどこにいったんだこれ。あれか、俺と会話したら猫と共鳴して高まったテンションが急激にダウンしたのか。

 なにそれ泣きそう。

 そう思ったのも束の間。よく見ればこいつ、なんかソワソワしてやがる。

 お手洗いかしら、なんて思いはしても口に出せばどんな罵倒が返ってくるか分からないので、他の心当たりを探してみれば。

 まあ、答えにはすぐ行き着いてしまうわけで。

 

「雪ノ下」

「なにかしら」

「ちょっとここで待ってろ」

「え?」

 

 聞こえてきた困惑の声も無視して、立ち上がり店内を見渡す。そう離れていないところに店員さんを見つけることが出来たので、なけなしの勇気を振り絞り、近づいて声をかけた。

 

「あのー、猫触らせてもらいたいんですけど、いいっすか?」

「はい! どちらの子でしょうか!」

「えっと、あそこのマンチカンを……」

「かしこまりました!」

 

 随分元気のいい店員さんを連れ、雪ノ下の元へ戻る。

 なにも説明せずだったので、雪ノ下は顔に困惑の色を浮かべたままだ。それに店員さんが気づくこともなく、ゲージから出されたマンチカンがこちらに差し出される。

 

「えっと、比企谷くん?」

「いいから、抱かせてもらえよ。触りたかったんだろ?」

「そ、そうだけど……」

 

 恐る恐ると言った様子で、雪ノ下がマンチカンを受け取り、その腕に抱いた。にゃー、と鳴いたマンチカンにペロリと指を舐められ、雪ノ下が擽ったそうに微笑む。

 全く、なにをそんなに遠慮していたのか。

 それを見守っていた店員さんは、ごゆっくり〜と意味深な笑みを浮かべながら離れていく。あの、こういう場合って店員離れていいものなんですか? しかもそのにやけた顔。女性店員じゃなかったら殴ってるところだった。なにを邪推しているのやら。

 はぁ、とため息を吐いたその時。マンチカンの入っていたゲージに、POPがつけられているのを見つけた。ずっとここにいたが、全く気づかなかったものだ。猫に夢中だったからね。仕方ないね。

 なにやらマンチカンについてのうんちくでも載ってるのかと、そのPOPに書かれた文字を眺めてみると。

 

『本日はいい夫婦の日! 仲のいいあなた方ご夫婦に、新しい家族はいかがですか?』

 

 ……ははーん、雪ノ下が困惑してた理由はこれだな? 猫に触りたいとお願いしたら、俺たちの関係を勘違いされるとでも思っちゃったんだな?

 いや、んなわけないだろ。俺も雪ノ下も、どこからどう見ても普通に高校生だぞ。雪ノ下はまあ、大人びて見えるから分からないでもないが、俺なんて目が腐ってることを除けば見てくれは普通の高校生だ。目が腐ってる時点で普通じゃないけど。

 だが、先ほどのあの店員の反応を見るに、どうもまさしくその通りな勘違いをされている、と見て間違いないだろう。

 マジかー。雪ノ下と夫婦ってお前……。マジかー……。

 

「にゃー」

「なー」

 

 チラリと、猫語を駆使してマンチカンと共鳴している雪ノ下を見る。その顔にはさっきまでのように、綺麗な微笑みを浮かべていて。

 想像してしまった。

 彼女と同じ家に住み、こうして二人で、新しく迎えた家族を可愛がる光景を。

 もしかしたらそれはペットじゃなくて、この世に生を受けたばかりの新たな命かもしれない。つまり、俺と雪ノ下の──

 

「比企谷くん?」

「……っ」

 

 呼ばれ、意識が現実に浮上する。ハッとなって視線を向けた先、そこには当たり前のように雪ノ下がいて。

 つい今しがたの想像がフラッシュバックしてしまい、顔全体が燃えるように熱くなる。彼女の目を見ていられなくて顔を逸らした先には、マンチカンが入っていたゲージが。

 コテンと小首を傾げた雪ノ下は、俺の視線を追い、次いで俺の赤くなった顔を見て。

 

「あっ」

 

 察しのいい雪ノ下は、全部気づいてしまった。俺が赤面した理由も。雪ノ下が猫を受け取るのに渋っていた理由を、俺が察してしまっていたことも。そしてあの店員から、確実に誤解されていることも。

 だから、雪ノ下の顔が俺と全く同じ状態になるのに、そう時間は掛からなくて。

 再び訪れた沈黙の中、雪ノ下が抱いているマンチカンの鳴き声が、妙に大きく聞こえた。

 

「違うのよ……」

「違うんだ……」

 

 圧倒的デジャヴ。

 ちょっとー? さっきもこんな展開なかったかしらー? しかも吐いた言葉まで同じとなると、もしかして俺はタイムリープしてるのかと疑いたくなる。なに、一秒ごとに世界線を超えてるの? 孤独の観測者なの?

 またさっきと同じで言い訳を譲り合う、なんて馬鹿なことにならないよう、俺から口を開いた。雪ノ下は俯いてしまって、全く話し出す気配がないから。

 

「その、俺はあれだ。将来誰かと結婚して専業主夫になった時、猫がいればいいなー的なことを考えてただけでだな……」

 

 嘘は言っていない。しかし、それが答えになっているわけでもない。俺が今宣ったことなんて、雪ノ下も既にわかっていて。俺が答えるのは、その誰かが誰なのか、だ。

 けれど、そんなもの言えるはずもない。

 

「私も、似たようなものよ……。いつか、誰かと夫婦になった時、猫を飼いたいと思っただけで……」

 

 俯いたまま声を発した雪ノ下に、腕の中のマンチカンが心配するようににゃーと鳴く。

 彼女の言う誰かを、俺も問うべきなのだろうか。でもそんな度胸が俺にあるわけもなく。言葉は重い鉛のように、胸の中へ沈んでいく。それが再び浮上することもなく。けれど猫に微笑みかけた雪ノ下が、それそのままにこちらを向いて。

 朱に染まった頬はそのままだ。いつものような、凛とした涼しい雰囲気も戻ってきていない。

 でもそんな表情の雪ノ下は、いつもの彼女の何倍も、魅力的に見えてしまう。

 

「ねえ、比企谷くんは、どんな猫を飼いたい?」

「……なんだよ、その質問」

「いえ、少し参考になれば、と思って」

「俺の好みなんか知っても、お前の参考になるとは思えないけどな」

「あら、それは分からないわよ? いつか、そんな日が訪れるかもしれないじゃない」

「……」

「ふふっ」

 

 なにも言えずに、ただ恥ずかしさから右手で顔を覆う俺に満足したのか、雪ノ下はにゃー、とまた猫との共鳴を始める。

 いいのだろうか。望んでも。

 この、目の前で猫を抱いている、とびきり可愛い女の子とのいつかを、願っても。

 もしも、本当にそんな日が訪れたなら。

 そうだな、今日にあやかって、新しく迎える家族は、マンチカンにしよう。



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笑顔、ひとしずく

 表情と言うのは、感情を表す上では欠かせないものだろう。泣いたり、怒ったり、笑ったり、人間と言うのは、そう言った表情の変化で、相手に自分の感情を伝える。ともすれば、それは言葉よりも雄弁に。

 かく言う俺は、そう感情表現が豊かではない。つまりは、あまり表情が動かない。多少の動きはあるんだろうが、心の底から馬鹿みたいに笑ったり、怒ったり、泣いたりと言った経験が、片手で数える程度しかないのだ。

 お団子頭の友人からすれば、俺は静かに怒るタイプだ、なんて言われるけれど。

 彼女の姉からすれば、感情よりも先に理性と自意識が己を後ろから見ている、なんて語られたりしたけれど。

 それを否定出来ないのもまた事実。

 そしてそんな俺と同じく、感情表現がド下手クソなやつが、このワンルームのアパートにもう一人。

 彼女はお気に入りの猫のクッションの上に座り、今日も今日とて読書に勤しんでいた。果たして読んでいるのはどのような本なのか。高尚な哲学書か。はたまた甘酸っぱい青春ものか。もしくは難解なミステリーか。

 ニコリともせず、一心不乱に活字を追うその姿からでは、その本の中身は窺い知れない。

 まあ、本を読むだけではそうそう表情に変化など訪れないだろう。これが俺なら、フヒッ、とか気持ち悪い笑い声あげてそれを咎められるどころか、ここぞとばかりに罵詈雑言の限りを尽くされるのだろうけど。いや、最近はマシか。俺の笑い方も、彼女の毒舌も。

 西日を受けながらページを捲る彼女に見惚れていると、不意にその動きが止まった。丁度いいところまで読み進めたのだろうか、栞を挟んで、部屋の中央に置かれた丸机の上に本を置く。

 グッと背中を伸ばすその様は、彼女の好きな猫のようだ。そうしていると、然程大きいわけではない胸部が強調されてしまい、自然と目のやり場に困ってしまう。

 

「少し、休憩しようかしら」

「随分長いこと読んでたな」

「ええ。久しぶりに当たりを引いたわ」

 

 そう言いながら立ち上がる彼女、雪ノ下雪乃は、声色こそ弾んでいるものの、その顔は眉ひとつ動かしていない。こういう時くらい、素直に笑顔を見せてくれてもいいと思うのだが。

 雪ノ下と出会い、色んなあれやこれやを経て恋仲になって、同棲を始めて。今日まで長いような短いような、多くの時間を彼女と過ごしてきたわけなのだが。そんな中で分かったことがひとつ。

 どうやら俺は、雪ノ下雪乃の笑顔にめっぽう弱いらしい。

 例えば、彼女が俺を詰る時。

 例えば、由比ヶ浜と三人で遊ぶ時。

 例えば、猫と戯れている時。

 感情表現がド下手クソな彼女の浮かべる、色んな笑顔が、俺の脳裏にこびりついている。

 惚れた弱みと言われれば、実にその通りではあるのだけど。

 

「紅茶、あなたも飲む?」

「ん、頼むわ」

 

 キッチンで紅茶の準備をしている雪ノ下に、声を返す。いつからだろうか。あの甘ったるいコーヒーよりも、彼女の淹れる紅茶の方が好きになってしまったのは。

 慣れた手つきで紅茶を淹れた雪ノ下が、こちらに戻ってきて、丸机の上にいつもの湯呑みを置く。

 俺も開いていたラノベを閉じ、湯呑みを手に取ってふーふーと息を吹きかける。

 あの頃と似たような、静かな時間。今は互いに読書を中断しているから、聞こえてくるのは彼女がカップを動かす音と、俺が息を吹きかける音くらい。

 そんな静寂を破ったのは、雪ノ下の方だった。

 

「さっきは随分と熱心に、私を視姦していたようだけれど」

「……言い方。それだと俺が犯罪者みたいだから気をつけてね?」

「あら、なにか間違っていたかしら?」

「なにもかもが間違ってるんだよなぁ……」

 

 クスクスと微笑みを漏らすその声が、背中をむず痒くさせる。先ほどの視線がバレていた恥ずかしさと、それを許容してくれることに対する照れ臭さ。

 顔を正面から逸らしたところで、彼女の綺麗な瞳は逃してくれない。

 

「でも、私に見惚れていたのは間違ってないでしょう?」

「……まあ、うん、そうですけどね」

「ふふっ、素直なのはいいことよ」

 

 チラリと横目で窺えば、心底楽しそうに微笑む雪ノ下が。なんだかからかわれているみたいで若干悔しいけれど、その笑顔を見られるだけで、そんなちっぽけな悔しさなんてどうでもよくなる。

 さて、話を少し戻そう。

 俺は感情表現が下手くそだ。その自覚はある。心底から笑ったり、怒ったりなんて経験は本当に少ない。

 けれど雪ノ下は、最近よく笑うようになった。それはお団子頭の彼女だったり、あざとい後輩だったりが、雪ノ下の心に積もった雪を溶かしてくれたからなのだろうけど。

 そんな雪ノ下に対して、俺はあまり、自分の感情と言うものを示してやることが出来ていないのではなかろうか。

 時折不安になるのは、どうしようもない俺の癖。どうでもいいような事を、深く考えすぎてしまう。

 

「比企谷くん」

「ん?」

 

 降ってきた声に、思考の海から浮上する。雪ノ下は既に笑みを引っ込めていて、上品な所作で紅茶のカップを口に運んでいた。そうしていると、育ちの良さが垣間見えて、ただ紅茶を飲むだけでも絵になる。絵画の中から出てきたと言われても、不思議に思わないだろう。

 

「隣、失礼するわね」

「えっ」

 

 再び立ち上がった雪ノ下が、猫のクッションを持って俺の隣に移動してきた。そしてそのまま、そこに腰を下ろす。腕と腕はぴったりくっついていて、それどころか体重までこちらに掛けてくる始末。

 突然どうしたのかと問おうとすれば、本当に幸せそうな笑顔とぶつかって。

 頬が熱を持つのを自覚する。同棲を始めてからそれなりに時は経つと言うのに、こういった身体的接触は未だに慣れない。

 

「いきなりどうしたんだよ……」

「なにか変かしら?」

「変っていうか……。あんまないだろ、そうやってくっついてくんの……」

「今はそういう気分なのよ」

「さいですか……」

 

 終始笑顔で言われてしまえば、俺は抵抗なんて出来なくて。

 右肩にかかる重みと、微かな体温。なんだかんだ言いつつ、それを感じられることが、この上なく嬉しい。柄にもなく、幸せなんだと思える。

 

「変なことで不安になるのは、あなたの悪い癖ね」

 

 微笑み混じりの声で、雪ノ下が言う。突然心の中を言い当てられたから、俺としては困惑しかない。なにも言葉にしていなかったはずなのに、どうして。

 それすらも雪ノ下にはお見通しなのか、彼女は俺と視線を絡ませて、まるで自慢するかのように語るのだ。

 

「好きな人の考えてることくらい、私には分かるわよ」

 

 胸が高鳴る。隣の雪ノ下に聞こえてしまっているのではないかと錯覚するくらいに。

 まるであの頃に戻ってしまったようだ。彼女の一挙一動に心を揺らしていた、青臭い春に。あれからもう、幾年も時を重ねたと言うのに。

 

「安心しなさい。ちゃんと伝わってるから。まあ、欲を言うのなら、もう少しあなたの笑顔を見たいところだけれど」

 

 恋人にそこまで言われてしまえば、不安に思っていたのすらバカバカしくて。不思議と頬が緩んでしまう。

 

「あら、漸く笑ってくれたわね」

「まあ、そんだけ言われたらな。嫌でも笑いたくなるだろ」

「なら良かったわ。私、あなたの笑顔は好きだもの」

 

 歌うように言葉を紡ぐ雪ノ下は、少し頬が赤くなっている。さすがの彼女も、好きだなんて言葉を使うのは、照れ臭いのだろう。

 けれどその顔から笑顔は絶えなくて。そんな表情を見ていると、強く思ってしまう。

 俺も、お前の笑ってる顔が好きなんだと。

 それを言葉に出せればいいのだけれど、それが出来ない俺だから。

 その代わりに紡ぐ言葉、余計に俺らしくなくて。

 

「あれだ。今俺、めっちゃ幸せだわ」

「ふふっ、柄にもないことを言うのね」

「たまには、な」

 

 笑顔ひとつで、幸せが胸に染み渡って、こんなにも愛しさで満ち溢れる。

 ならば明日からは、もう少し笑顔を心がけてみよう。



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あなたの名前を

 比企谷くん、と呼ばれるのが好きだ。

 うまく言語化できる訳ではないのだけど、彼女に名前を呼ばれるだけで、多幸感に包まれる。そう言えば、惚気になってしまうのだろうか。

 けれど、八幡と呼ばれるのは、ちょっと違う気がする。きっと、出会った頃から一年近く呼ばれたその名で呼ばれることこそに、俺は価値を見出しているのだろう。

 彼女の喉が奏でるその音色にこそ、きっと意味がある。けれどもちろん、そんなことを面と向かって彼女に言ったことがある訳ではなくて。

 

「比企谷くん」

 

 ほら、今日も自然と、雪ノ下は俺の名を呼んでくれる。

 なにか思いついたような、思い出したような、そんな調子で。

 

「ん、なんだ?」

 

 読んでいた文庫本から顔を上げ、長机の対面へと顔を向ける。この距離感も、入部当時からずっと変わらない日常のひとつ。近すぎず、遠すぎず。

 けれど実際の距離よりも近く感じるのは、俺だけだろうか。

 対面に座る雪ノ下は、未だ文庫本に目を落としたままだ。お話しするときは相手の目を見て話しなさいって母ちゃんに教わらなかったのかよ。教わってなさそうだなぁ。

 

「ひとつ思ったのだけれど」

 

 と、ここで漸く顔を上げる雪ノ下。その、空を写したような澄んだ瞳と視線がぶつかる。彼女は至って真剣な表情と眼差しで、続く言葉を紡いだ。

 

「私達、そろそろ名前で呼び合うべきなのかしら?」

「は?」

 

 思わず、手元の文庫本を落としてしまいそうになった。この子、真剣な顔してなに言ってんの?

 

「あなたと男女交際を始めて今日で丁度三ヶ月が経つわ。一般的な高校生の、あなたが言うところのリア充、とやらは、もう既に名前で呼び合うほどの仲になっていると思うのよ」

「お、おう……」

 

 待ってやばい何言ってんのか全然分からん。変なものでも食べたのかしら?

 て言うか。

 

「なに、数えてたの? 付き合ってから何日目か」

「……今は関係ないことだわ」

「数えてたのか……」

 

 そんな赤い顔してソッポ向かれても、白状してるのと同じですよお嬢さん。俺の顔がどんな色かはさて置くけど。

 しかし、こいつがいきなりこんな事を言い出すと言うことは、まず間違いなく第三者の介入が予想されるだろう。例えば陽乃さんとか、例えば由比ヶ浜とか、例えば一色と小町の年下コンビとか。

 まあ、そのあたりはどうでも良い。仮にそうなのだとしても、それは既に過去の話だ。問題は、今こうして発言してしまった彼女に対し、俺がどのような反応を取るのか。

 残念ながら、俺の脳内には某ラノベのように選択肢が現れたりしないので、自分で考えなければならない。いや、まああんな感じの選択肢が出て来られるのも嫌だけど。

 

「それで、どうかしら?」

「どうかしらって言われてもな……」

 

 そもそも、いきなりすぎるのだ。彼女のことを名前で呼ぶのは、まあ吝かではない。だけど、心の準備というのが僕にもありましてね。

 

「んじゃ、取り敢えずそっちから呼んでみてくれよ」

「え?」

「いや、え? じゃなくて。呼び合うって言うからには、雪ノ下も俺のこと名前で呼ばなきゃおかしいだろ」

「そ、それもそうね……」

 

 はっはーん。この子、もしかして俺に雪乃って呼ばれることしか考えてなかったな? さすがはポンコツゆきのん。もうちょい考えを巡らせましょうよ。

 逡巡するような一瞬の間の後に、咳払いが一つ。顔を俯かせ、視線だけをこちらにやって、なんともいじらしさを感じさせながらも、雪ノ下は蚊の鳴くような声を発した。

 

「は……はち、まん……」

 

 言い終わった頃には、雪ノ下の頬は真っ赤に染まっていて。視線も完全に下を向いてしまい、その表情は窺えない。ただ、赤くなってしまった頬が辛うじて見えるだけだ。

 けれど、そんなものを見てしまえば、思考回路はショート寸前で。名前で呼ばれただけだ。例えば、戸塚や材木座になんて、いつも呼ばれている。両親にだって毎日のように呼ばれているのだ。だと言うのに、こんなにも胸がいっぱいになってしまうのは、どうしてなのだろう。

 

「その、何か言って貰わないと、困るのだけれど……」

「お、おう……」

 

 なにか、と言われても。なにを言えばいいのか。感想でも言えばいいのか? もしくはもう一回呼んでもらうか?

 最早使い物にならなくなった俺の頭は、そのうち考えることを放棄してしまい。思ったことをそのまま、口に出してしまった。

 

「その、あれだ……。思ったより、悪くない……」

「そ、そう……」

 

 訪れる沈黙。雪ノ下はすっかり茹で上がってしまい、顔を上げる気配がない。かく言う俺も、彼女に負けず劣らず、頬を朱に染めてしまっているだろう。

 比企谷くんと雪ノ下。

 そう呼んで、呼ばれて。いつしかそれが心地よくなっていた。いつかそれに変化が訪れるとは思っていたけれど。

 今日、唐突にやって来たその変化は、自分で思っていたより悪くはなくて。

 深呼吸を一つして、高鳴る鼓動を抑えつけようとする。けれどそれは全く意味をなさなくて、それに構わず口を開いた。

 

「……雪乃」

「……っ」

 

 心臓の音がうるさすぎて、それに掻き消されてしまったのではと錯覚するくらい、小さな声。けれど、目を見開いて顔を上げた彼女の様子からして、俺のなけなしの勇気は無駄にならなかったらしい。

 顔が爆発してしまうのではないかと思うくらい、熱を持っている。今すぐ逃げ出したい衝動に襲われるが、そう言うわけにはいかない。

 どれだけ恥ずかしかろうが、照れ臭かろうが、対面に座る雪ノ下から目を逸らさない。

 彼女の濡れた瞳と視線が絡まる。逸らそうと思っても、それが出来ないほどに絡め取られて。やがて彼女の目が細められ、その顔は笑みを形作る。

 心底から嬉しそうな。幸せを噛みしめるような。綺麗な笑顔だ。

 

「名前を呼ばれただけなのに、こんなにも幸せなものなのね」

 

 その笑顔に、見惚れてしまう。

 もう何度と見てきた彼女の笑顔。そのどれよりも美しく見える微笑みに、心を奪われてしまう。

 

「ねえ。もう一度、呼んでくれるかしら」

 

 あれだけ暴れていた心臓は、不思議と静かに鼓動を打っている。どころか頬も緩んでしまう始末。

 だから、この胸に溢れんばかりの愛しさを全て込めて、俺はまた呼ぶのだ。

 

「雪乃」

「……なに、八幡」

 

 未だ慣れない呼び方。呼ばれ方。そこに妙な擽ったさはあるものの、悪くはない。どころか、好ましいまである。

 

「これは、慣れるまで少し掛かりそうね」

「まあ、いいんじゃねぇの。慣れるまで何度でも呼べばいいだろ」

「ふふっ、それもそうね」

 

 出会ってから今日つい先ほどまで、ずっと苗字で呼び合っていたのだ。いきなり名前で呼び合っても、少しのぎこちなさがあるのは致し方ない。

 気がつけば、先ほどまでの妙ないじらしい雰囲気はどこへやら。俺も彼女も弛緩しきっていて。だからだろうか、つい、余計なことまで口走ったのは。

 

「実を言うとな、お前に比企谷くんって呼ばれるの、そこそこ気に入ってたんだ」

「……?」

 

 いきなりだったからか、雪乃はキョトンと小首を傾げている。そうしていると、いつもより幼く見えてしまう。それがなんだかおかしくて、笑みを携えながらも、続く言葉を紡いだ。

 

「ほら、出会ってから今の今まで、ずっとそう呼んでくれてただろ? うまく言えないんだが、なんと言うか、お前が俺を比企谷くんって呼んでくれることに、一種の心地よさを感じてたんだと思う」

「そう……」

 

 なにも具体的なことは伝わらない、曖昧は言葉の羅列。それでも、雪乃には俺の言わんとしてることが伝わったのか。どこか可笑しそうに、彼女は微笑む。

 

「それなら、私と同じね。あなたが私を呼んでくれる。それはもう、私にとって日常の一つになっていたから」

 

 この部室に足を運んで、彼女の淹れてくれた紅茶を、三人で、時折四人で味わって。そうして、彼女が俺を呼び、俺が彼女を呼ぶ。

 なにも、雪乃から呼ばれることに限った話ではないのだろう。雪乃の言葉で、合点がいった。

 比企谷くん。ヒッキー。先輩。

 この部室でそう呼ばれることが、最早当たり前すぎて、日常の一つに溶け込んでいて。

 だから、心地よかったのだ。いつもと変わらぬ日常が流れていく。それはともすれば、ぬるま湯に浸かっているかのようなものだけれど。

 それでも、こうして変化は訪れた。

 ただの呼び方一つ。されど、俺たちにとっては大きな変化。

 きっといつか、彼女に名前で呼ばれることすら、日常の風景へと溶けていくのだろう。今のこのぎこちなさはどこかへ消えてしまって、八幡と呼ぶ彼女の鈴のような音色に、心地よさを感じるのだろう。

 それでも。

 

「それでも、私はあなたの名前を呼びたい。あなたに名前を呼ばれたい。だって、こんなにも幸せなことだなんて、思ってもいなかったもの」

 

 いつもの日常が過ぎていくのも、それは幸せなのかもしれない。

 けれどこうして、なにかを変えて行くことで、別の幸せを手に入れることが出来る。

 彼女が、俺の目の前で微笑んでくれている。それこそが、俺にとっての幸せに他ならないのだけれど。

 

「だからこれからも、あなたの名前を呼んでいいかしら?」

「いちいち許可なんていらんだろ。どうせ、俺もお前の名前を呼び続けるんだし」

 

 俺らしい捻くれた回答に、雪乃はただ微笑みを返すのみ。

 恥ずかしさが今更遅れてやって来て、読みかけだった文庫本に視線をおとす。

 果たして、ぎこちなさが取れるのはいつになることやら。そのいつかを想像してみて、やはり俺の頬は、緩んでしまうのだった。



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Everlasting

最近こっちに上がるの忘れてたんで、またピクシブからちょいちょい持ってきます。とりあえずはゆきのん誕生日のをどうぞ。


 こたつでぬくぬくしながら、ぬぼーっとスマホを眺める。ラインの差出人である小太りのワナビは、どうやら年が明ける少し前に有明へ行っていたようで。20万人くらい集まったらしい人混みや、えっちなコスプレのお姉さんなんかを写メで送ってきていた。

 コスプレの方はレイヤーさんに許可貰わないとダメだと思うのだが、俺に勝るとも劣らないコミュ障の剣豪将軍が果たして許可を取れたのか。アングル的に無許可で撮ってそう。

 しかし、俺たちも高校三年生だ。材木座の心配をするわけではないが、そろそろ受験と言うこの時期にコミケに行っていていいのだろうか。てかそもそも俺の場合は、あの人混みの中を歩くのが無理なので、コミケなんて今後も一生行く機会がないんだろうけど。

 

「うわー、お兄ちゃんなに見てんの?」

 

 声が降ってきた頭上を見上げれば、小町がゴミを見る目で俺と俺のスマホを見ていた。どうやら随分な勘違いをされているらしい。

 

「違うぞ小町、これは材木座が勝手に送ってきたものだ。お兄ちゃんはこんなのに興味ないぞ。安心しろ」

「ふーん」

「ねえ、信じてくれてるよね? お兄ちゃんの言葉、ちゃんと信じてるよね?」

 

 尚もゴミを見る目をやめない小町。やだ、なにか新しい扉を開いちゃいそう! まあ、その目で見られること自体には慣れているのだけど。や、慣れちゃダメだろ。

 しかし悲しいかな。約二年間部室で割と殆ど毎日くらいの頻度で似たような視線を向けられてしまっていては、逆に慣れない方がおかしいし、新しい扉を未だ開いていない俺は結構頑張ってる方だと思います。

 

「ま、受験勉強で疲れてるだろうし、お兄ちゃんの息抜きの方法には小町も口を挟まないけどさ」

「おっと信じてないな?」

「お兄ちゃん、明日はなんもないの?」

「……」

 

 長く吐いたため息は、果たしてどう言う類のものなのだろう。呆れか、それとも諦めか。小町には何度も同じことを言ってるはずなのだが、どうして同じ問答を繰り返すのか。

 

「なんもねぇよ。あっちは実家の方で色々やってるだろうし、そもそも受験生だし。そう言うのは、学校始まってからみんなでって決めてんだよ」

「ふーん……なら良いけど、ちょっとは二人きりで過ごしたいって思ってるんじゃないかな、雪乃さんも」

「どうだかな」

 

 年は明けた。今年も無事にお年玉を貰うことが出来、残るイベントはただ一つのみ。けれど結局、俺と彼女が冬休み中に会う予定なんて、立てていなくて。

 ただお互いが臆病なだけなのだ。初めて出来た恋人と言う大切な相手に、距離感を測りかねている。クリスマスは問題なかった。普通にあいつの家に行って、普通に恋人らしいことをして。

 だけど、明日は。雪ノ下雪乃の誕生日は、俺も彼女も、会わない理由づけが出来る。出来てしまう。

 だけど、その逆もまた然りなのだ。俺と雪ノ下の関係は、もう明確に定義づけされてしまって。だからこそ、彼女に明日、会う理由も作ることが出来る。

 だって、誕生日だぞ? らしくなく本気で人を好きになった俺に、初めて出来た彼女の。

 会いたいと、たった一言伝えられれば、きっと雪ノ下は会ってくれるのだろうけど。

 それが出来ない、俺達だから。

 

「ま、どっちでもいいけどね。そんな事より、コタツで寝たらダメだよ。明日家族で出掛けるんだから、体調崩しても知らないからねー」

「おーう」

 

 言い残して部屋に去っていく小町。俺は今受験勉強の最中なのだ。コタツで寝るなんて、そんな馬鹿な真似はするまい。そもそも、俺はそんなに風邪を引かない健康優良児なので。目以外はね。

 去年一年も風邪引かなかったし、まあコタツで寝るくらいで体調崩すわけないっしょ!

 

 

 

 

 

 

 

 今日、一月三日は私の誕生日だ。去年に比べると、実家との折り合いもついて幾分かマシになり、今年は実家で過ごすつもりだった日。なんだかんだで、久し振りに過ごす家族との時間を楽しみにしていた。

 それを言い訳に彼との予定を立てなかったのは、単に私が臆病だからか。でも、今年は実家で過ごすと伝えた時の彼には、少しくらい物申したい。もう少し引き止めるとか、そういうのがあっても良かったのではないかしら。なによ、楽しんでこいって。あなたに言われるまでもないわよ全く。

 さて。そんな私が今現在いる場所は、自宅のマンションでもなければ実家でもなく。表札に「比企谷」と書かれた、一軒家の前だった。

 

「全く、あの男は……」

 

 思わず漏れてしまうため息。同時に出た言葉を向けた先の彼は、きっとこの家の中でダウンしてることなのでしょう。

 今日の朝、小町さんから連絡があった。なんでも、比企谷くんがコタツで居眠りしてしまって、風邪を引いたらしい。しかも今日は、家族で出かける予定があったとかで。小町さんもご両親もいらっしゃらない。

 姉さんに事情を説明して、許可を貰うよりも前に自宅を出発したのはいいのだけれど、さすがに後先考えなさすぎたかしら? 父さんと母さんも、忙しい中私のために時間を割いてくれていたと言うのに。

 けれど、今の私にとっては。そんな実家の家族達よりも優先したいと思うのだ。あれやこれやと理由を付けて、会う予定なんて立てていなかったのに。それでもやっぱり、会いたいと思う気持ちは嘘ではなかったから。

 それに、比企谷くんは今家に一人だと聞いた。病人を一人で放っておくのは、あまりいいこととは言えないでしょう。

 

「よし……」

 

 小さく拳を握りしめ、気合を入れる。

 小町さんから聞いた話によれば、確かポストに鍵を入れているとのことだったはず。言われた場所を確認すれば、そこにはたしかにこの家の鍵が。それをポストから取り出し、ガチャリと家の鍵を開く。どうして比企谷くんのお家の鍵を私が開いているのかとか、よく考えなくても疑問しか湧かないのだけれど、気にしたら負けだろう。

 

「お邪魔します……」

 

 家の中は灯りが点いておらず、廊下は薄暗くて少しだけ気味が悪い。冬の寒さや、この家に人がいないことも、その一因になってはいるのだろう。

 比企谷くんの家に上がるのは、これが初めてのことではない。何度か招かれたことがあるから、ある程度の間取りは頭に入っている。いかに方向音痴の私とは言え、この家の中で迷うなんてことはない、はずだ。あり得ないと言い切れないのが悔しいところだけれど。

 まず二階のリビングに上がり、持ってきていた荷物を置かせてもらう。ここに来る前に買ってきた、お昼ご飯の材料。

 冷蔵庫を拝借してそれを片付け、取り敢えず彼の部屋へ行くことにした。寝顔が見たいとかそう言うのではなくて、そう、ただ体調がどの程度のものなのか確認しておかないといけないから。起きていたら挨拶もしなければならないし。

 誰に向けたわけでもない言い訳を脳内でつらつらと並べていると、ガチャリと扉の開く音がした。

 まさかと思いそちらに振り向けば、そのまさか。いや、予想以上に破壊力の高い光景がそこに。

 

「……雪ノ下?」

 

 あまり顔色がよろしいとは言えず、イマイチ目も開いていない眠たそうな比企谷くんが、腕にカマクラを抱えて現れたのだ。

 

「かっ……」

「……?」

 

 かわいいぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜!!!

 なにあれなにあれ! ちょっと待ちなさいよなによあれ! えっ、ちょっと待って、本当に待って、寝ぼけ眼の比企谷くんに猫とかそれもう最早暴力じゃないの! 可愛いの暴力よ! こんなの聞いてないわ!

 ……一旦落ち着きましょう。取り乱すべきではないわ。思わず声が出てしまいそうだったけど、それもギリギリセーフっぽかったし。そもそも、比企谷くんは私が来ることを聞いてるのかしら? 小町さんが伝えてくれていると思うのだけれど、小町さんから比企谷くんに伝えていると聞いたわけでもないし。

 深呼吸、ええそれがいいわ深呼吸しましょうそうしましょう。

 長く息を吸って吐いてを繰り返し、激しくうるさい心音を落ち着かせていると。足元に擦り寄る、小さな影が。

 

「あら?」

 

 カマクラだ。カーくんだ。可愛い。モフモフ。じゃなくて。

 今すぐにこの冬毛でモフモフ毛ダルマ状態のカマクラをもふりたいのは山々なのだけれど、この子は今の今まで比企谷くんの腕に抱かれていたはずだ。

 この子が自分の足で歩いていると言うことは、比企谷くんがカマクラを手放したと言うことで。もしかしたら、風邪で体調の悪い比企谷くんが後ろで倒れてしまっているかもしれないと言うことで。

 冷静になるとあまりに突飛な思考なのはあとから気づいたのだけれど、今の私にそのような余裕のある思考なんて出来るはずもなく。

 

「比企谷く──」

 

 振り向いた矢先。体が何かに包まれた。

 それは私の体よりも大きくて、熱くて、重くて。比企谷くんに抱き締められているのだと気がつくのに、そう時間は必要なかった。

 

「ひ、比企谷くん……⁉︎」

「雪ノ下……」

 

 私よりも大きいとは言っても、彼は特別身長が高いわけではない。私とは丁度10センチほど違うだけで、その身長差であれば、抱き締めた時に彼の口が私の耳元へ触れそうになってしまうのも、また必然で。

 熱を持った囁きに、ゾクゾクとしたナニカが背中を駆け巡る。熱のせいで高い体温は、外の寒さで冷えていた私に丁度良くて。

 つい、首筋のあたりの匂いを、すんっ、と嗅いでしまったり。

 少しの汗の匂いと、いつもの比企谷くんの匂いがした。客観的に見るとヤバい行動にしか思えないのだけれど、いきなり抱きついてきた比企谷くんが悪いと言うことにしましょう。私は悪くないわ。そもそも、こんな思いっきり抱きしめられるの初めてなのだけれど。どうしてシラフの時にしないのよこのヘタレ八幡。

 いや、それよりも。問題はこの状況をどうするかよ。そりゃいつまでもずっと抱き締めていてほしいけれど、今の比企谷くんは病人なわけで。泣く泣く渋々不承不承かつ断腸の思いではあるのだけれど、取り敢えず離れてもらうために声を上げようとすれば、それよりも先にまた。私の耳を彼の吐息が擽った。

 

「会いたかった……」

 

 とても彼から発せられたとは思えない、熱に浮かされた言葉。

 驚くよりも先に、どうしても胸にこみ上げるものがあって。私の体を抱きしめる彼が、とても愛おしくて。

 

「私も。会いたかったわ」

 

 ギュッと抱きしめ返し、後頭部を右手で優しく撫でてあげる。まるで幼い子供をあやすような動作だけれど、今の比企谷くんはそれと変わりない。

 私だって、本当は家のことなんて全部放り出して、彼と一日を過ごしたかった。すれ違いも勘違いも何度となく繰り返し、果てしない程の遠回りを経た末に、漸く結ばれたのだ。少しでも長く。一日でも多く。そう考えるのは当然で。

 それが、自分の誕生日ともなれば、願わないわけがない。

 けれど私達は、どうしようもなく不器用で、弱くて、怖がりだから。体のいい口実についつい甘えてしまう。

 今だってきっとそう。比企谷くんが心配で、居ても立っても居られなくなったのは確かだけれど。それでも、彼に会うための都合のいい口実が出来たと、思わなかったわけではない。

 だから、こうして会いに来て、彼からその言葉を聞かされて。もうそれだけで、この日は忘れられない誕生日になることは間違いなかった。

 

「……あー、雪ノ下……」

 

 私が幸せな気分に浸っていると、控えめに上げられる声。先程までのような、どこか地に足のつかないものではなくて、いつもの、どことなくジメッとした陰気を纏った、聞きなれた声。

 横目で比企谷くんの顔を伺えば、その耳は熱とはまた違った要因で赤くなっているのは明らかだった。

 あっ、これ正気に戻ったわね。

 

「その、そろそろ離れても、よろしいでしょうか……」

「ダメと言ったら?」

「え゛」

「冗談よ」

 

 冗談だけれど、なにもそんな反応することないじゃない。どこから出したのよ今の声。

 体を離し、改めて彼の顔を見上げると、とんでもなく赤くなっていた。顔はこちらに向けられず、視線もあいこちを彷徨うばかり。そんな姿が可愛らしい。

 

「おはよう、比企谷くん。体調はもう大丈夫なの?」

「あー、まあ、な。熱もある程度下がったし。てか、なんでお前ここにいんの。不法侵入?」

「酷い言い草ね。あなたが体調を崩したと小町さんから連絡があったから、急いで飛んで来たんじゃない」

「そうか……悪いな、心配かけて。それに、用事もあったんだろ?」

「いいのよ。あっちは姉さんに任せたから」

「あとでなんか要求されそうで怖いな……」

 

 それは考えていなかった。たしかに、割と無理矢理と言うか、結構適当に事情を説明しただけで飛び出して来たから、帰った時が怖い。

 いえ、そんな先のことを考えても仕方ないわ。別に、比企谷くんと交際していることは母も知っているのだし、帰った時に説明すればいいだけ。なんなら比企谷くんも巻き添えにしよう。

 

「さて。取り敢えずは熱を測りなさい。それから昼食かしら。食欲はどう? うどんを作ろうと思うのだけれど」

「ん、一応食える」

「よろしい。ならあなたは部屋で休んでなさい。出来上がったら持って行くから」

 

 さすがの比企谷くんも、風邪を引いていたら私に反論する元気もないのか。もしくは単純に、甘えてくれているのか。いつもより比較的曲がってる背筋で、カマクラを抱きかかえてリビングを出て行こうとした。が。

 

「待ちなさい」

「……なんだよ」

「あなた、どうしてカマクラも連れて行くの?」

「いや、だってこいついた方があったかいし」

「置いていきなさい」

「いやでも」

「いいから」

「はい……」

 

 私の目の前から猫を取り上げるなんて、どう言う了見なのかしらこの男。いくら病人とは言え容赦しないわよ。

 比企谷くんの腕から降ろされ、私に寄ってくるカマクラ。ゴロゴロと喉を鳴らしながら私の手に擦りつく姿は、この私の語彙を持ってしても言葉に出来ない程の可愛さを醸し出していた。

 

「なんだかなぁ……」

「あら、まだいたの? さっさと部屋に戻りなさい」

「うっす……」

 

 熱は下がってるとは自己申告されたが、それでも比企谷くんは病人に違いない。いつまでもリビングにいず、早く部屋で横になるべきなのに。

 なんとも言えない難しい表情を浮かべて部屋に戻った比企谷くんを見送り、カマクラを愛でるのも早々に切り上げて、キッチンへ向かう。

 ごめんなさいカマクラ。あとでいっぱい遊んであげるから、少しだけ我慢していてね。

 

 

 

 

 

 

 お昼ご飯のうどんを作ったあと、買ってきた市販の薬と飲み物と一緒にお盆に乗せ、一路比企谷くんの部屋へ。カマクラも連れて行こうと思ったけれど、あの子にもご飯を食べさせなくてはならない。猫缶の中身を皿に移して床におけば、カマクラはそちらに釘付けになってしまった。

 さて。彼は寝てしまっているだろうか。本当はその方がいいのだけれど、少しでもお話したいから、起きていてほしいと言うのが本音。

 果たして三回ノックした扉の向こうからは、入っていいぞ、と聞き慣れた声で返事が。

 

「熱、どうだった?」

「七度三分。まあ、ほっといたら下がるだろ」

「気を抜いてはダメよ。またいつぶり返すか分からないんだから」

 

 なんて会話をしながら、持ってきたお盆を部屋の中央にある丸机の上に置いた。

 比企谷くんはベッドで横になっていたのか、下半身にだけ毛布を被せて上体を起こしている。私はベッドの端に腰掛けさせてもらった。

 

「ほら、うどん作ったから食べなさい」

「悪いな……」

「いいのよ」

 

 うどんの入った器を取って、箸で掬い上げてふーふーと息を吹きかける。三度ほどそれを繰り返した後、彼へ箸の先端を差し向けた。

 

「はい、どうぞ」

「……」

 

 しかし、どう言うわけか比企谷くんはうどんを食べようとしない。まさか、なにか嫌いなものが入っていたとか? いえ、ただの素うどんにトマトなんて入れるわけがないし。もしくは、やっぱり食欲がないとか?

 不思議に思って彼の顔を見つめていると、その頬がポッと赤くなった。

 

「いや、自分で食えるんだけど……」

 

 言われて、理解する。なるほどこれは、恋人同士がよくやると言う、俗に言うところのあーんと言うやつではないかと。

 自然と顔に熱が集まるのを自覚したが、なにを恥ずかしがることがあるのか。ご飯を食べさせてあげるなんて、別に恋人同士に限った話ではないだろう。母親が我が子にするように、看護師が怪我人にするように。

 そう、これは恥ずかしいことじゃない。むしろ、病人の比企谷くんとその看病をする私であれば、この行いを咎められるものは誰もいないのだ。

 

「いいから、食べなさい」

「いやでも、それだとお前が食えないだろ」

「あなたは病人なのだから、余計な気遣いは不要よ。こう言う時くらい素直に甘えなさい」

 

 納得いかなさそうに眉根を寄せる比企谷くんだが、ついに観念してうどんを啜った。最初からそうしていればいいのよ。

 

「美味い……」

「ただの素うどんなのだから、誰が作っても同じよ」

 

 その後も比企谷くんに食べさせながら、彼が咀嚼中に私も自分のうどんを食べる。

 なんだか餌付けしてるみたいで楽しい。

 やがてうどんを食べ終えたのは、十五分ほど経ってから。さすがに食べさせながらだから時間がかかってしまったけれど、そう急ぐ用事もない。

 強いて言うなら、比企谷くんにさっさと寝て欲しいくらいだけれど、そうなると比企谷くんとお話できなくなる。とんでもない二律背反だ。

 

「雪ノ下、ちょっといいか?」

 

 うどんを食べ終え薬も飲ませた後に、そんな声がかかった。改まった様子の比企谷くんにどうしたのかと視線で問えば、布団の中から、小さなナイロンの袋を取り出した。

 どうしてそんな所にそんなものが入っているのかしら。ドラえもんのポケットかなにかなの?

 

「それは?」

「……プレゼントだよ。お前、今日誕生日だろ」

「あ……」

 

 ぶっきらぼうな顔で、視線も泳いだままな彼に、その袋を差し出される。

 忘れていたわけじゃない。今日は忘れられない誕生日になるだろうと、ついさっき思ったばかりなのだから。

 それでもまさか、今日、こうしてプレゼントを渡されるなんて、思っていなかったわけで。

 意を決したように深呼吸した比企谷くんが、私と目を合わせ、薄く微笑んだ。

 

「誕生日おめでとう」

 

 その笑顔に見惚れてしまう。いつも仏頂面で、その上今日は体調も悪いから、心なしかいつもより目も腐っていたと思っていたけれど。

 その微笑みから、彼の私への想いが、これでもかと伝わってくるから。

 言葉にしなくても分かるなんて幻想で、でも、言葉にしてもすれ違ってしまっていた私達だけれど。

 今は、ただその表情だけが、伝えてくる。

 込み上げてくる、「好き」と言うただ一つの感情。けれど私は、それを言語化出来なくて。

 

「……ありがとう」

 

 漸く口から溢れたのは、シンプルな感謝の言葉のみ。そこに込められた万感の想いを、果たして彼も受け取ってくれだろうか。受け取って、くれたのだろう。

 少し面食らったように目を丸め、すぐに逸らされてしまった赤い顔を見れば、考えずともすぐに分かる。

 

「開けてもいいかしら?」

「お好きにどうぞ……」

 

 受け取った袋を丁寧に開き、中に入っているものを取り出す。出てきたのは、ピンクのリボンが二つ。丁度、私がいつも髪につけている赤いリボンと、同じくらいの長さの。

 

「クリスマスにマフラー贈ったばっかだし、なに渡せばいいのか分かんなかったから、取り敢えずリボンにしてみたんだが……」

 

 言い訳じみた言葉が聞こえてくる。可愛い人だ。そんな不安にならずとも、あなたから贈られるものなら、私はなんだって嬉しいと言うのに。

 今つけているリボンを解いて、代わりにこのピンクのリボンをつけてみる。鏡がないと難しいのだけれど、不思議と簡単に結ぶことが出来た。

 

「どうかしら?」

「似合ってる、と思う……」

 

 微妙に挙動不審なのが面白くて、ついクスクスと笑みが漏れてしまう。確か、クリスマスの日も、貰ったマフラーをその場で巻いてみれば、似たような反応をしていたか。

 

「ふふっ、ありがとう比企谷くん。本当に、嬉しいわ」

「まあ、それなら良かったよ」

 

 安堵するようにはっと息を吐いた比企谷くんは、その直後にゴホゴホと咳き込んだ。

 プレゼントが嬉しすぎて、うっかり忘れてしまいそうになっていたが、彼は病人だ。あまり長く起こしているのも悪いだろう。

 

「私はこれを片付けてくるから、その間に寝ておきなさい」

「そうさせてもらうわ。悪いな、折角の誕生日なのに、ろくなおもてなしもできなくて」

「気にしなくていいわ。だって、あなた言ってたじゃない。会いたかった、って」

「忘れてくれ……」

「人間、忘れようと思ったことほど忘れられないものよ。あなたの黒歴史のようにね」

「んぐっ……」

「では、おやすみなさい」

 

 空の器を乗せたお盆を持ち、部屋を出る。リビングまで辿り着いてキッチンの流しにお盆を置いた瞬間、気が抜けてしまったのか、つい顔がにやけてしまった。

 だって、しょうがないじゃない。こんな嬉しいこと、そうそうないもの。会いたかったって言ってくれて、プレゼントも貰って、あんな笑顔も見れて、ちゃんと私の誕生日を祝いたかったって思ってくれてて。

 

「ふふっ、ふふふふっ」

 

 側から見た今の私は、きっと不審者にしか思われないかもしれない。比企谷菌が移ってしまったのね。ええ、きっとそうよ。

 

「にゃー」

「あら」

 

 怪しい笑みを浮かべる私に、カマクラが擦り寄ってきた。しゃがんで撫でてやれば、ペロリと指先を舐められる。

 

「ふふっ、見てカマクラ。比企谷くんに貰ったの」

「にゃー」

「それに、似合ってるって言ってくれたのよ? 今日は来てよかったわ」

「にゃー」

 

 ふわふわ。もふもふ。冬毛のカマクラをその場で堪能しながら話しかける。やはり猫は賢い生き物ね。ちゃんと私の言葉に返事をしてくれるわ。

 

「今日から毎日、これを着けて過ごさないとダメね」

「にゃー」

「あら、カマクラもそう思う?」

「にゃー」

 

 カマクラも賛成らしい。次からは、会う度に彼の視線がこのリボンに向けられて、そのあとちょっと恥ずかしそうにするんだろうか。

 そんな可愛らしい姿を想像していると、ビクッとなにかに反応したカマクラが、リビングの外へと駆けていった。遅れて聞こえてくる、ただいまー、と間延びした声。恐らく小町さんの声でしょう。続けて聞こえた女性と男性の声は、聞き覚えがない。

 と言うことは、つまり。

 ああ、やっぱり。今日は、忘れられない誕生日になりそうだ。



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二人ぼっちで雨宿りする八雪の話

egoistの「雨、キミを連れて」って曲を聞いてくれ


「全然止む気配ないな……」

「しばらくは、ここで雨宿りするしかなさそうね」

 

 はあ、とため息が隣から漏れた。その気持ちも分からんでもない。まさか帰り道の途中、突然の雨に降られるなんて。

 お陰様で制服は少し濡れてしまったし、下手に隣を見ることも出来ない。おまけに真冬の寒さは、雨のおかげで増してると来た。ここは地獄かな?

 しかし、天気予報を見ていなかった俺たちも悪い。まさか雪ノ下まで傘を持って来ていないとは驚きだが、まあ彼女でも朝の天気予報を見逃すくらいはあるだろう。むしろ朝からパンさん関係の番組やってて、天気予報そっちのけでテレビに食いついてた説もあるが。

 俺に至ってはそもそも天気予報を確認するなんて面倒なことは、いつもしていないし。はーほんま。マジで情弱乙ですわ。比企谷八幡は所詮先の時代の敗北者じゃけぇ。なんなら今の時代も次の時代もずっと敗北者なまである。これは懸賞金50ベリーだわ。

 

「しかし、こうも雨が強いと寒くなってくるな……」

「あら、寒いのには慣れているのではなくて? あなたの周りはいつも極寒だと思うのだけれど」

「俺レベルのボッチになると、むしろ一周回ってあったかいまであるけどな。ボッチマジサイコー」

「心にもないことを言うのね」

 

 クスリと笑みを落とした雪ノ下は、まるで俺の胸の内を見透かしているようだ。いや、実際に見透かされているのだらう。

 そもそも、俺が本当にそう思っていたら、こいつとこんな関係になるわけがないのだから。

 

「……いつまで降ってんだろうな、これ」

 

 照れ隠しに放った言葉は、白い息と共に宙に消える。

 俺たちと同じく、傘を持たない道行く人たちは濡れながらもまるで競うように歩いていて。目の前を通る車は水飛沫を上げる。

 それがどこか、遠くの出来事のように、八百屋の軒下から眺める。

 まるで世界に、俺たち二人しかいなくなったようだ。などと言えば、なんだか安っぽく聞こえるだろうか。

 少し詩的に表現するなら、そう、目の前の世界が全てモノクロのまま走っているような。

 けれど、彼女が、雪ノ下雪乃が隣にいるこの空間だけは、色づく世界が咲き誇っている。

 手を伸ばせば届く距離。けれど、その距離を埋めるだけの勇気が、俺にはない。たとえどのように関係を変えようとも、俺が臆病なのは変わらないから。

 ともすれば、肥大化しすぎた自意識の仕業かもしれない。もしも俺が、彼女の手を握ったら。きっと雪ノ下は、そのことに対して何か言うわけでもないのだろう。もしかしたら、少しくらい顔を綻ばせてくれるかもしれない。

 だがそれは、もしかしらの話だ。嫌がられるとは思っていないけれど、それでもなんと思われるのかが怖くて、つい足踏みしてしまう。

 

「はぁ……」

 

 再び隣から漏れ聞こえたため息は、この雨に対するものか。もしくは、やっぱり俺のことなんて見透かされていて、この不甲斐なさに対するものなのか。

 いや、どちらでもないのだろう。根拠はないが、確信はある。きっと雪ノ下も、俺と同じで。

 ああ、なんだってこんな、変なところで思考が似通ってしまうのだろうか。

 

「……っ」

「……寒いから、な」

 

 言い訳のように付け足した言葉に、果たしてどれだけの意味があっただろう。けれど、こんなものがなければ、俺は行動することすら出来ない。本当、不甲斐ない恋人で申し訳ないばかりだ。

 俺のよりも少し低い体温が、手のひらから伝わってくる。ギュッと握る力を少し増せば、呼応するようにして握られる力も増した。

 

「そう、ね。寒いものね……」

 

 けれどそれでも、繋がれている力なんてたかが知れている。あまり力を込めすぎると、壊れてしまうのではないかと。あり得るはずもないのに、考えてしまうから。

 雨は未だ降り止まず、ゆるく繋がれた手は、しかし決して離れることはない。

 いやはやしかし、本当に止まないな、この雨。どころか少し弱くなる気配すらも見えはしない。いつまでもここで雨宿りをしているわけにもいかないから、頃合いを見計らって出なければならないが。

 けれど、この静謐な空間に、いつまでも浸っていたいと思う自分がいる。

 交わす言葉は少なく、ただ地面に落ちる大粒の雨を二人眺めるだけ。途方に暮れている、と言えば聞こえはいいが、結局のところ、俺も雪ノ下も。この二人だけの小さな空間が心地よくて。

 八百屋の軒下は酷く狭い。もう少し風が強くなれば、屋根なんて意味がなくなってしまう。そんな中でないと身を寄せ合うなんて出来ないから。

 ここでもやはり、そのような言い訳が必要になってしまっている。当たり前だ。手を繋ぐだけでも、あんな意味があるのかないのか分からない言い訳が必要なのだから。

 そうして無言の中、心地よい静寂に身を委ねていると。唐突に空が光った。遅れてやって来る轟音。同時に隣で震える気配がして、手を握られる力が少し増した気がした。

 隣に視線をやれば、タイミングがいいのか悪いのか、俺を見上げる雪ノ下と視線がぶつかって。

 なにか言おうとしているのか、雪ノ下の口が開きかけ。しかし言葉は形にならず、白い吐息が漏れるばかり。

 俺はと言えば、そんないじらしい彼女の姿が、どうしようもなく愛おしく感じてしまって。なぜか頬に熱が集まり、空いた手で顔にマフラーを手繰り寄せた。

 しかし雪ノ下さん、雷怖いんですね。お可愛いこと。

 

「……どうしましょうか」

 

 やがて発せられた言葉は、酷く曖昧なものだった。視線はすでに俺から逸れて前を向いており、ともすれば、問いかけられたのかどうか疑うほどの。

 

「どうするもなにも、その内出ないといけないのは変わらないだろ」

 

 いつまでも、ここにいるわけにはいかない。目前を走るモノクロの世界に、いつかは色を広げていかなければならない。

 そもそも、世界に俺たち二人だけだなんて、ただの錯覚だ。俺たちがここで雨宿りしている間にも、世界は回って、そこにいる人々は動いている。お団子頭の友人だったり、あざとい後輩生徒会長だったりは、俺たちがここで停滞している間にも、なにか行動を起こしているのだ。

 それは勉強か、はたまた生徒会の仕事か。

 俺たちだけが、この小さな軒下に二人ぼっちで取り残される。降り止まぬ雨を理由に一歩も動かず、ただその音を聞き、忙しなく動く世界を眺めるだけ。

 変わったと思った俺たちの関係も、それではなんの意味もなさない。

 

「そうね。いつかは、ここから出ないといけない。けれど、こうも雨が強ければ、やはり躊躇ってしまうわ」

「傘がないからな。まあ、傘があっても、この雨の中歩くのはごめんだが」

 

 弱くなるどころか強くなっているのではと思ってしまうほどの雨に、どうしてもため息が漏れてしまう。

 隣の雪ノ下から可愛らしいクシャミが聞こえたのは、白い息が口から吐き出されたのと同時だった。見れば、その細い体を少し震わせている。

 

「寒いなら早く言えよ」

「別に寒いわけでは……」

「いや、そういうの今はいいから。風邪引いたらどうすんだよ」

 

 繋いでいた手を一度離し、着ていたコートを雪ノ下に無理矢理羽織らせる。

 当たり前のようにサイズはブカブカで、少しでも暖を取るためか、羽織ったコートを胸の前で手繰り寄せた。

 

「ありがとう……」

「おう」

 

 それから再び、何も言わずに繋がれる手と手。寒いから、なんて口実は既にその効力を失っているのに。

 それからは、また無言の時間。時折雷が鳴っては、雪ノ下が俺の手をギュッとして。何かを話すわけでもなく、ただ伝わる体温と、微かに聞こえる彼女の吐息と、色褪せて見える眼前の世界を眺めて、時間は流れる。

 果たして俺たちは、いつまでここにいればいいんだろう。濡れる覚悟さえすれば、今すぐにでもここから出ることはできるけど。

 濡れるのが嫌だから、ここでこうしているわけで。そしたら案外、居心地が良くて。

 けれど、その居心地のいい時間も、いつかは終わりがやって来る。俺たちの意思とは無関係に。

 ポケットのスマホが震えた。空いた手でそれを取り出せば、小町からのラインが。どうやら出来る妹小町は、俺が傘を持っていないことを把握していたようで。傘を届けるから今どこか教えろとのことだ。

 

「小町が迎えに来てくれるってよ」

「そう。それは、迷惑をかけてしまうわね」

 

 そう言った雪ノ下は、なぜか笑顔を浮かべている。それが不思議で、視線でどうしたのかと問えば、彼女は嬉しそうに言葉を紡いだ。

 

「ここに二人で取り残されても、今の私達には手を引っ張ってくれる彼女達がいる。それって、とても喜ばしいことだと思うの」

 

 もちろん、頼ってばかりではいられないけれど。

 そう続けた雪ノ下もおもむろにスマホを取り出して、その画面を見るとクスリと小さく笑った。どうやら、彼女の方にも心配する誰かからのラインが届いたらしい。それが誰かは、考えずとも分かるが。

 

「だから、いつまでもこんなところにいるわけには、いかないわね」

「そうだな」

 

 二人ぼっちの俺たちを、無理矢理力づくで引っ張ってくれるやつらがいる。たしかにそれは、なんともありがたい話なのだろう。

 だったらせめて、その次の一歩くらい、自分の力で踏み出さなければならない。

 ぶつかった視線の先。彼女の瞳はこの雨模様の中でも、澄んだ空を思わせる蒼だった。



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アイヲウタエ

バレンタインの時のやつだよ


 未だ寒さの続く二月。布団から出るのすら気力を要し、家を出るとなれば更にその倍の勇気は必要な季節。あばよ涙、よろしく勇気と心の中で唱えながら登校しなければならない。黒歴史を振り返ってばかりの俺に若さはないのかもしれない。

 二月といえば。そう問われた殆どの人間が、バレンタインを連想するだろう。聖バレンティヌスが殉教した日。製菓会社の陰謀渦巻く日。まあ、バレンタインと一口に言っても、その捉え方は様々だ。

 主にリア充か非リア充かで分かれてるが。

 だが冷静になって考えて欲しい。製菓会社の陰謀云々と憎悪を剥き出しにしている、そこの非リア充の自覚があるやつもだ。

 リア充か否か、というのは、果たしてどのような定義の元で分けられているのだろうか。

 リアルが充実してるからリア充。これを前提とするのであれば、なにもクラス内のカーストが高いとか、恋人がいるとか、そんなのに限った話ではないはずだ。

 例えばオタク。一口にそう言ってもさまざまなオタクがあるので、ここは分かりやすくアニメオタク、二次元オタクを例に出そう。

 彼ら彼女らは画面の向こうにいる嫁を愛し、カップリングに尊みを感じて語彙を失い、汗水垂らして稼いだお金をドブに捨てるかの如く捧げていく。オタクの諸君はそれで幸せを享受しているのだ。つまり、リアルに存在しないもの達によって、彼ら彼女らの現実、リアルが充実する。

 これは立派なリア充ではなかろうか?

 カーストが低かろうが、恋人がいなかろうが、現実に存在している自分が充実していれば、それは立派なリア充なのである。

 むしろカーストの高い人間ほど周囲との関係に悩まされたりするから、彼らの方が非リア充と呼べるまである。バレンタインともなると、男子はソワソワしてるだけで済むかもしれんが、女子はそうもいくまい。意中の男子にチョコを渡すために渦巻く権謀術数。想像するだけで嫌になる。かー、卑しか女ばい。

 そして。その説を採用するのであれば。朝から妹に手作りチョコレートを貰った俺は、既に立派なリア充なのでは?

 

「朝から随分と気持ちの悪い顔をしているわね。少しでも社会の福祉役立ちたいという気持ちがその腐った心にほんの僅かでも残っているのなら、今すぐに引っ込めた方がいいと思うけれど」

 

 信号に引っかかって自転車を漕ぐ足を止めていると、不意に後ろから声がかかった。遅れて、隣に人の立つ気配。

 わざわざ誰かなんて、確認しなくても分かる。俺にこんな罵声を浴びせる奴なんて一人しかいない、ことはないかもしれないが。二年近く聞き続けたこの透き通った声音を間違えるなんて、あるはずもないのだから。

 

「腐ってんのは目だけだよ。心まで腐らせた覚えはない。俺の夢は未だ専業主夫一択だ」

「それが腐っていると言っているのだけれど……。まあ、今更言ったところで無駄よね」

 

 理解が早くて結構。いや、これ諦められてるだけだな。

 ため息混じりに呟いた彼女、雪ノ下雪乃は、鼻根を指で押さえながら今にも嘆かわしいとか言いそうな表情をしていた。

 朝からこいつと会うとは珍しいが、まあ三年も同じ学校に通っているのだ。一度くらいはそんな日もあるだろう。

 

「さしづめ、小町さんからチョコを貰えて朝からテンションが高い、と言ったところかしら?」

「まあな。羨ましいだろ」

「羨ましくはないけれど、こんな兄にもチョコを用意する小町さんは尊敬するわ。同時に少し同情も」

「おい」

 

 なんか今日のゆきのん、いつもより毒が強くない? 一昨年の四月ごろに戻ってません?

 しかし小町のチョコが羨ましくないとか、こいつ本当に人の血が流れてるのだろうか。世界の妹比企谷小町の手作りチョコレートだぞ。湯煎して溶かしたチョコを固めただけのやつだけど、立派な手作りだぞ。投げ渡されたりしたけど、この世界で俺が最も早く小町のチョコを受け取ったんだぞ。

 うーん。こうして思い返してみると、小町ちゃん兄の扱いが結構雑ですね。せめて投げ渡すのはやめようか。

 自転車から降り、何を言わずとも隣り合って信号を渡る。いつかの俺なら、構わず自転車を飛ばして先に学校へ向かっていたはずなのに。全く恋とは恐ろしいもので、それが今日この日ともなると尚更に。

 

「まあでも実際、俺に渡してきたチョコなんかついでだと思うけどな。クラスの女子に渡す友チョコやらなんやらって言って大量に作ってたし」

「友チョコ……今はそういうのもあるのね」

 

 知らなかったんですか雪ノ下さん。由比ヶ浜宛に嬉々として作ってそうですけど、その辺どうなんですか雪ノ下さん。

 などと思ったところで口に出せるわけもなく。代わりに出るのは悪態ばかり。

 

「お前は友達いないから、そんなん作らなくていいもんな」

「……私だって、由比ヶ浜さんと一色さんと小町さんには作ってきたわよ」

 

 やっぱり作ってるんですね。今日も部室には百合の花が咲きそうで。目の保養になるからいいんだけど。

 

「問題は、由比ヶ浜さんが作ってくるお菓子よね……」

「ああ、そうだな……」

 

 思わず遠い目をしてしまう。あの春の頃よりも格段に良くなったとは言え、気を抜けばとんでもない劇物を作りかねないのは変わっていない。

 まあ、去年のバレンタインに貰ったクッキーは全然美味かったから、大丈夫だとは思うんだが。

 

「それより。あなた、今日はやけに早いのね」

「そうか?」

 

 いや、うん。まあ、たしかにいつもよりは早く家出たけど。雪ノ下と遭遇した時点で、相当早いってことになるけど。

 本当は遭遇するのは避けたかったんだけど。

 

「まさか比企谷くんともあろう人が、下駄箱の中や机の中に期待しているわけでもないでしょう?」

「んなもん中学生の時に卒業してるっての」

 

 高校生にもなってそんな期待をするやつ、戸部大和大岡の三馬鹿くらいじゃなかろうか。いや、材木座も無駄に期待してそうだな。あの三馬鹿はともかく、ぼっちワナビごときがチョコもらえるなんざ百年早いっつーの。

 

「中学の時は期待してたのね……」

「甘いな雪ノ下。俺レベルになると、机と下駄箱の中だけじゃなく、図々しくも呼び出されたりしないかなーとか、帰りに自転車のカゴの中に入ってないかなーとか考えたりするぞ。まあ、考えるだけだけど」

 

 なんなら最終的にチョコ欲しいアピールを無駄にして女子からキモがられるまである。なにそれ、去年の戸部かよ。や、戸部はどうでもいいから。なんで出てくるんだよ戸部。てか誰だよ戸部。

 

「さすがは比企谷くんね。期待を裏切らないわ」

「中学の時の話だからね? そこんとこ分かってる?」

「分かってるわよ。今のあなたは無駄な期待をしなくても、何人からかは貰えるものね」

 

 こちらを見上げながら漏らした微笑に、どこか照れ臭さを感じてしまう。顔が熱く感じるのは、気のせいなどではないのだろう。

 つい正面に視線を逸らした先には、総武高の校舎が見えていて。周囲にもまばらに生徒達が歩いていた。

 会話は途切れ、ただ二人黙って歩く。居心地の悪い沈黙ではなく、どころか慣れ親しんでしまったもの。こいつとの間に会話がないことなんて、むしろその方がデフォルトなまであって。

 顔を上げれば、澄んだ青い空が広がっている。冬の晴れ空というものに、どことなく寂寥感を覚えてしまうのは、何故だろう。

 それはきっと、もう少ししたらあの校舎と、あの部室と、別れなければならないからで。着々と迫る卒業という二文字を、今更になって実感しているからで。

 ほぅ、と吐いた白い息は形を持たず。ただ青に溶けて消えていく。

 

「じゃあ、俺自転車置いてくるから」

「ええ」

 

 辿り着いた校門を潜り、駐輪場に向かうべく雪ノ下と別れた。

 通い慣れた道に、今日はたったひとつの非日常が紛れ込んでいた。それがなんだと言う話でもないけれど、やはり彼女と過ごす時間は心地いい。

 かつてよりもその時間が増えて、雪ノ下と言葉を交わして、想いを交わして。その度に痛感する。

 寒風に身を震わせながらも、マフラーを口元に手繰り寄せて来た道を戻る。いつもよりかなり早く登校したからか、駐輪場に停めてある自転車もかなり少ない。

 静寂の中耳に届くのは、俺の足音ただ一つ。やけに大きく聞こえるのは、周りに人がいないからか。

 だから、本来小さいはずのくしゃみの音も。開いている距離とは関係なく、俺の鼓膜を震わせた。

 

「……先行ってろよ」

 

 先ほど別れたはずのその場所に、なぜか雪ノ下雪乃は未だ佇んだままだった。くしゃみをするくらい寒いくせに、なぜ目の前の校舎に入ろうとしないのか。

 寒さ故かその頬は少し赤らんでいて、形作るのは若干不満げな表情。可愛いなおい。

 

「別にいいじゃない。先に行く理由もないのだし」

「待ってる理由もないだろ」

「あら、私があなたを待つのに、今更理由が必要かしら?」

 

 俺の頬も同じ色に染まったのは、多分雪ノ下とはまた別の要因から。恥ずかしげもなくこんなことを言えてしまうのだから恐ろしい。

 なにかにつけて理由がなければならない俺たちだったのに、俺と雪ノ下の間に限った話ならば、今はそんなもの必要ない。

 おかしな話だ。ちょうど一年前の俺たちが見たら、どんな顔をすることやら。

 クスクスと鈴を転がしたような音色が聞こえて、頬の加熱は止まる気配を見せない。

 

「それに、これ。今のうちに渡しておこうと思ったから」

 

 雪ノ下がカバンの中から取り出したのは、透明なセロハンの包み。猫の肉球マークの入ったそれを、俺に手渡してくる。

 

「なんで今……」

「その、周りに人がいたら、恥ずかしいじゃない?」

 

 いや、じゃない? って言われても。可愛いですね、くらいしか返事の言葉が思い浮かばないんですが。返事になってねぇなそれ。

 もしかしてあれか。出会い頭のジャブが強烈だったのって、若干緊張してたりしてたからなのか。お前はどこまで可愛いんだ。

 しかし、なんと言うか。こうも思考が似通ってしまうものなのかね。

 思わずため息を吐いてしまえば、雪ノ下の首がコテンと傾げられる。だから、可愛いって。可愛いがすぎるって。はーほんま、お前なんでそんな可愛いんだよ総武高校七不思議だよもはや。

 

「本当は、お前の下駄箱にでも忍ばせておこうと思ってたんだけどな」

「……ぁ」

 

 言ってから取り出したのは、デザインは違えど同じセロハンの包みで。その中には、昨日の夜小町に手伝ってもらいながらも作った、トリュフチョコがいくつか。

 溶かして固めただけの、手作りとも言えないお粗末なもの。きっと、雪ノ下のものと比べれば月とスッポンくらい差があるだろう。

 未だ雪ノ下の手に握られたままの肉球セロハン袋を受け取れば、雪ノ下もまた、俺の差し出した袋を受け取ってくれる。

 しげしげとそれを眺めた後、何がおかしいのか笑みを漏らし始めた。

 

「ふふっ、下駄箱にってあなた、直接渡せばいいじゃない」

「いや、だってなんか、恥ずかしいだろ……」

「なによそれ、おかしなの。ふふふっ」

 

 おかしだけにですかいやなんでもないです。

 てかこれ、俺も雪ノ下と言ってること同じじゃん。そりゃ周りに人いる中で渡すのはなんか恥ずかしいもんな。俺たちが会うのって、放課後の部室以外だと帰りくらいだし。そうなれば自然と周りに人いるし。

 

「つーか、あいつらの分しか作ってなかったんじゃないのかよ」

「そんなこと言った覚えはないのだけれど」

 

 立ち止まったままと言うのも変なので、それぞれ受け取った袋をカバンにしまい、昇降口に向けて歩き出した。

 取り敢えずではあるが、今日の最難関ミッションはなんとかクリアだ。心の中でホッと一息ついていると、それにね、と言葉を続ける雪ノ下。

 そちらに視線をやって。

 彼女の浮かべる笑顔に、思わず見惚れてしまった。

 満面の笑みと言うわけではない。それどころか、とても小さな笑顔。ともすれば、俺を罵倒する時のものよりも更に控えめな。

 けれど、その笑顔は常よりも幼く見えて。いや、これが年相応のものなのだ。いつもが大人びているから、錯覚しているだけ。

 普通の少女の笑み。もしくは、雪ノ下雪乃の奥に潜む、弱さの一端とも言えるものかもしれない。

 そんな魅力的な笑顔を俺に向けて、雪ノ下は歌うように言葉を紡いだ。

 

「バレンタインデーは、好きな人にお菓子を贈る日なのだから。あなたに、恋人に用意しているのは当然よ」

 

 周りに生徒が少なくてよかった。こんな赤くなった顔を晒すなんて、とても出来そうにないから。

 

「さいですか……」

「ええ、そうよ」

 

 なおも笑みを絶やさぬ雪ノ下の手が、俺の手を取る。無言でそれを受け入れていれば、あっという間に指を絡められた。昇降口はもうすぐそこだと言うのに。

 だけどまあ、悪くはない。

 今日はバレンタインデー。聖人の命日だとか、製菓会社の陰謀だとか、リア充やら非リア充やらだとかもあるけれど。

 愛を唄う日には違いないのだから。



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一人よりも、あなたと

 最近、世の中では一人でなにかをすると言うことが流行っているように思える。

 一人焼肉なんかはいい例ではないだろうか。誰かとペースを合わせることなく、自分の好きなタイミングで好きな肉を焼くことが出来る。食事をメインに据えて焼肉に行きたい人には是非オススメだ。煩わしい人間関係に悩まされる必要もなく、ただ欲望のままに肉を食らう。実に有意義な時間を過ごせること間違いなしだろう。

 他にも一人カラオケや一人キャンプ、一人ディスティニーに一人水族館と、ぼっちに脚光が浴びている気がする。闇属性のぼっちは光に弱いので是非干渉しないで頂きたい。

 つーか流石に一人ディスティニーと一人水族館はないな。なにが悲しくて夢と希望の国にぼっちと言う絶望を背負って向かわねばならんのか。

 閑話休題。なにはともあれ、そうしたぼっちに優しい世界へと変わっていくのは非常に良いことだ。

 そして今日の俺もその類のものに来ている。

 そう、一人映画だ。

 昔読んだことのある小説がこの度映画化し、ちょっと気になってたし時間もあるからと満を持しての一人映画。リア充どもは映画を見終わったあとなんかは、友達や恋人と感想を語り合うのだろうが、ぼっちにそんなものは必要ない。ただ己の中とツイッターで感想を呟き、評価を下す。他人の意見なんてどうでもいいね。俺が面白いと思えば面白いんだよ。

 そんな訳でやって来た駅前の映画館。前に足を運んだのは折本の一件でだったか。それ以降映画なんて観に来てないので、本当に久しぶりだ。

 映画館の中へ向かうためのエレベーターの前でボケーっと突っ立っていると、隣に人が立つ気配が。特にそちらに目を向けることもなく、この人も映画観に来たのかー同じ映画観るのかなー混んでたらやだなーとか考えていたのだが。

 

「最近の3Dは凄いわね。まさかホラー映画のゾンビが映画館の外にまで飛び出してくるだなんて驚いたわ」

「残念だったな。俺のこの腐った目なら3Dどころじゃなく最早4DXの域に達してる。五感でこの腐り具合を味わえるぞ」

 

 突然聞こえて来た聞き慣れた声の罵倒に、反射的にそんな返しをしてから隣を向いた。

 そこにいたのは予想通りの人物。映画に出て来るどんな女優よりも綺麗に見えてしまうほどの美少女、雪ノ下雪乃。

 

「こんにちは。こんな所で奇遇ね」

「おう。なに、お前も一人で映画観に来たの?」

「そんなところよ」

 

 意外、と言うほどでもないか。こいつだって映画くらい観るだろうし、パンさんの劇場版も今やってるし。

 やってきたエレベーターに二人して乗り込めば、その中にもパンさん映画の告知ポスターが。とてもファンシーな世界観が描かれているそのポスターの隣には、とてもファンキーな世界観が描かれているゾンビ映画のポスター。太郎丸の悲劇再び。ポスターの配置ミスってない?

 

「言っておくけれど、今日はパンさんを観に来たわけじゃないから」

「えっ、違うの?」

「既に三回観たわ」

「えぇ……」

 

 ヤバイでしょこのパンさんガチ勢。公開からまだ四日くらいしか経ってないんだけど。昨日まで毎日観に来てたのかよ。受験も終わって卒業もして大学始まるまで暇だからって、これから華のJDとして過ごす身としては結構キツイもんがあるぞ。

 いやまあ、好きな映画を何回も観に来たくなるのは分からんでもないけどさ。俺は基本的にいつも金がないから、TSUTAYAで借りたDVDを期限まで何回も観るけど。プリキュアとか何回も観るけど。さすがの俺も、プリキュアの映画を何回も観に来る勇気はない。そこまでの上級者になるまで、まだまだ時間はかかりそうだ。なるつもりもないけども。

 

「んじゃなに観に来たんだよ。まさかゾンビ映画?」

「量産型比企谷くんが出てくるような映画を観る趣味はないわ」

「いや、ゾンビは量産型比企谷くんじゃないからね? 俺は世界に俺一人だからね?」

「まあ、こんなのが大量にいても世界にとって害悪にしかならないものね」

「お分りいただけたようでなによりだよ……」

 

 思わず引きつった笑みを浮かべてしまう。なにも間違ったことを言われていないのがまた悔しい。でも量産型も捨てたもんじゃないんだぞ。量産されるということはそれ相応の需要があると言うことなのだから。

 まあ、俺に需要があるのかと問われれば、最近妹にも需要がなさそうなダメ人間なのだけど。それどころか早く実家出て行けと言わんばかりの目で見てくるし。悲しいねバナージ。

 いつも通りのふざけた会話を交わしていると、エレベーターが目的の階に到着した。扉が開いた先の映画館のホールは薄暗い照明がなされていて、大量の人で混雑している。

 

「いやになる人混みね……」

「まあ休日だしな。しょうがないだろ」

 

 その人混みを掻き分けながら、券売機へと向かう。道中何度か隣をチラチラ確認しながら歩いていれば、ふと視線が合った彼女から不機嫌そうな目が向けられた。

 

「なに?」

「いや、人混みに呑まれてねぇかなと」

「別にあなたが心配する理由はないでしょう。迷子になるような場所でもなしに」

「まあ、そうだな」

 

 雪ノ下の言う通り、迷子になる程ホールが広いわけでもない。映画を観るという目的は同じとは言え、そもそも俺たちは待ち合わせて一緒に来たとか、そんなのでもないのだから。雪ノ下がちゃんとついてこれてるかとか、そんなことは気にしなくていいのだ。

 それでも、心配してしまうから。

 そう素直に口に出来ればどれだけ楽か。それが出来ないならこその俺ではあるのだけど、やはり心配してしまうのは変えられない俺の心境で。

 そろそろ券売機に辿り着くと言ったところで、入場開始の館内アナウンスが流れた。同時に動き出す周囲の人混み。ポップコーンや飲み物なんかを持ってる人もいるから、みな随分と歩きにくそうだ。

 そしてその中には一人くらい、無駄に駆け足気味なやつもいるわけで。

 

「きゃっ……!」

「うぉ……」

 

 誰かと肩がぶつかった雪ノ下が、俺の方へ倒れそうになる。それをなんとか受け止めて周囲に目をやるも、犯人と思わしきやつは既に見当たらない。謝罪の一つもないとか、最近の若者はどうなってるんですかね。

 

「大丈夫か?」

「ええ、ありがとう……」

 

 素直に諦めて視線を下におろせば。

 すぐそこに、雪ノ下の顔があった。長い睫毛に濡れた瞳、すっと通った鼻梁と小さな唇が。薄暗闇の中でもはっきりと、俺の視界に映し出される。

 白い頬が若干朱に染まっているのは、効きすぎた空調のせいだろうか。

 周囲の喧騒がどこか遠くに聞こえる。目の前の空を思わせる透き通った瞳に釘付けになる。今にもそこへ吸い込まれてしまいそうで、ある種の恐怖すらよぎる始末。

 とても短い、数瞬の間だったはずなのに。まるで俺たち以外の時間が止まってしまったような。

 それが動き出したのは、明らかに空調のせいとは思えないほど顔を赤く染めた雪ノ下が、視線を逸らしたから。

 

「あの、そろそろ離してもらえると……」

「あ、ああ、悪い……」

「いえ、助かったわ。ありがとう……」

 

 抱きとめていた肩から腕を離す。掌にまだそのあたたかさが残っているように感じられて、それが俺の体温を余計にあげる。

 雪ノ下の体に触れたことなんて、これまで一度もなかったけれど。初めて触れたその体は、まるで俺たち男とは違う細さで、ガラス細工のように脆そうで。

 

「……結局、お前なんの映画観に来たの?」

 

 見られているわけでもないのに、自分の顔の色を誤魔化そうと話を振る。そうでもしないと、どうにかなりそうだったから。

 ようやくたどり着いた券売機の列に二人で並べば、雪ノ下は上映作品一覧が映し出されたディスプレイに指を向けた。

 

「あれよ。最近原作の小説を読んだから、少し気になっていたの」

「マジか……」

 

 雪ノ下が指し示したのは、俺が観る予定のものと全く同じ映画。大人気推理小説の実写映画だ。思わず頭を抱えそうになる。

 そんな様子を感じ取ったのか、雪ノ下はキョトンとした顔で小首を傾げていた。可愛いなおい。

 

「それがなにか?」

「いや、俺も同じ」

「そう……」

 

 それきり会話は途切れて、雪ノ下は考えるそぶりを見せる。あれかな、比企谷くんと同じ思考回路の末のうのうと映画を観に来てしまうなんて、とか思ってんのかな。

 いやでもその場合俺は悪くないでしょ。俺と雪ノ下両人を映画館に連れて来させるくらいに面白い原作小説が悪い。俺はなにも悪くない。嘘、原作は面白かったから悪くない。やっぱり俺が悪いんじゃないか。

 

「……それじゃあ、一緒に観る?」

「えっ」

 

 やがて口を開いた雪ノ下から飛び出したのは、そんな一言。

 まさかあの雪ノ下からそんなお誘いをされるなんて思ってもいなくて、つい面食らってしまい言葉をすぐに返せない。

 そうこうしているうちに列は進み、券売機の一つが空く。係員の「こちらの券売機にどうぞー」と言う声に急かされ、返事の前に足を進めれば、雪ノ下もてくてくとついて来やがった。

 あ、これ拒否権ないやつなんですね。

 

「別に俺はいいけど、お前はいいのかよ」

「なにが?」

「いや、別に俺なんかと一緒に観なくても、元々一人で来たんだから」

「どうせ観るものは同じなのだから、一人だろうが二人だろうがなにも変わらないわよ」

 

 ごもっともでございますね。観念して二千円を投入し、高校生チケット二枚を購入。その場を離れた後、内一枚を雪ノ下に渡し、代わりに千円を受け取った。

 選んだ席は最後尾の二つ。もちろん隣同士。

 

「私も本当は、一人で観る方が気楽でいいのだけど」

「なら無理して俺を誘わなくても良かっただろ」

 

 元々俺も雪ノ下も、一人を好む。今でこそあいつとかあいつとか、まあ周りには色々といるが、それでも生来の気質というのは変えられない。

 そのはずの彼女が、どうしてか。

 

「でもね。誰かと一緒に映画を観た後、感想を言い合うのって、思っているより悪いものではないのよ」

 

 言いながら浮かべた笑顔は、とても柔らかいものだ。

 そしてその言葉は、いつかの俺たちなら馬鹿馬鹿しいと斬って捨てるようなもの。それが出来ないのは、誰かと一緒になにかを共有することの意味を、終わりを告げた高校生活で俺たちが知ったから。

 

「そうか……」

「ええ、そうよ」

 

 どこか得意げなのは、きっと経験談だからだろう。こいつとあいつが一緒に恋愛映画でも観に行って、終わった後にどこぞの喫茶店でべた褒めするあいつと、容赦なく痛いとこを突くこいつが目に浮かぶ。

 もしかしたら一度くらい、パンさん映画も一緒に観たのかもしれない。特典目的とかで誘ってそうだ。

 

「さて、そろそろ時間かしら」

 

 雪ノ下がそう言った次の瞬間、俺たちが観る映画の入場案内が流れた。今時計見てなかったけど、こいつの体内時計どうなってんだ。

 

「今から始まると、終わった頃には丁度お昼時ね」

「どうせなら飯食えるとこでゆっくりしたいよな」

「それじゃあ私の部屋なんてどう? あなたの好きな紅茶もついてくるわよ」

「紅茶派に鞍替えした覚えはないんだが」

「あら、私の淹れる紅茶はお嫌いかしら」

「んなこと言ってないだろ」

 

 映画が終わった後も一緒の時間を過ごすのは、なにも言わずとも決定してしまっていて。俺の中でも、無意識のうちに当たり前だと感じてしまっていて。

 さて、こいつが納得出来るくらいの感想を考えることが出来るだろうか。

 人混みに流されるように歩いていれば、服の袖に小さな重み。チケットを買う前よりも、隣に立つ雪ノ下の距離が近い。

 

「その、さっきみたいなことになるかも、しれないから……」

「……まあ、そうだな」

 

 その距離のまま、入場口まで歩く。スクリーンに入って席に到着するまで、ずっとそのまま。だから多分、出る時もこうなるんだろうな、なんて。

 二時間先の未来を想像してみれば、自然と口角が上がってしまった。

 

 映画の感想。雪ノ下が可愛かった。以上。




いや映画ちゃんと見ろよ


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ビール片手に焼き鳥食べるゆきのんの話

こんなタイトルだけど最近で一番人気のやつです


「いらっしゃいませー。お一人様ですか?」

「いえ、連れが先に」

 

 近寄ってきた店員を片手で制し店内を見渡してみれば、見慣れた猫背の後ろ姿を発見。いつも通りくたびれて見えるその背中は、あの頃と何も変わらなくて。でも、あの頃より少しだけ大きくなった気がする。

 紫煙を燻らせているのは恩師の影響か。たしかこの前も、税金が上がったとかで嘆いていた。そこまで言うなら辞めればいいのに。

 

「比企谷くん」

 

 名前を呼べば、あなたが私を見てくれる。

 当たり前のことなのに、それだけでとても嬉しい。これだけは本当に、あの頃からなにも変わらない。

 私が来てから吸いかけのタバコを消すのは、いつも通りのこと。あまり気にしなくてもいいのに。あなたのそんな小さな優しさが、私の心に響く。

 

「ごめんなさい、待たせたわね」

「いや、いい。お陰で一服できたからな」

 

 灰皿に捨てられた吸い殻は、どう見ても半分以上残っている。あまり待たせたわけではなさそうだけど、一服出来たなんて嘘をつく必要もないだろうに。

 嘘つきなのも、変わらない。

 

「すいません、生中一つ」

「二つで」

「生中二つと、あと皮とハツ、塩で二人前。それからモモをタレで二人前。あとは……」

 

 手慣れた様子で店員に注文を告げる彼は、どこからどう見ても社会の荒波に呑まれた一介のサラリーマン。

 お互いが大人になって、仕事も始まって。そんな中で、私達の繋がりは消えるものだとばかり思っていたのに。どうしてか今もこうして、花の金曜日に二人で焼き鳥屋に来ている。

 私自身も何故かは分からない。正直、私のキャラ的に焼き鳥屋ってかなりイメージと違うはずなのだけれど。

 いや、どうしてかとか、何故か分からないとか、いちいちそんなことを言うのすら白々しいか。

 ただ、彼との繋がりを断ちたくなかった。

 泡沫の幻が如く消えていくはずだったこの恋を、私はついぞ諦めることが出来なかった。

 なにをしても、どこへ行っても、諦めることが出来ないのなら。それはきっと、本物だ。

 ならば私は、どれだけみっともなくたって、この男との繋がりを消すわけには行かない。まあ、それ以上のことが全く出来ていないのは、現状が物語っているのだけれど。

 でも比企谷くんも比企谷くんよ。私みたいな美少女が花の金曜日に毎週食事へ誘っているのだから、少しくらいなにかあってもいいと思うのだけれど。

 

「んじゃ、今週もお疲れさん」

「ええ、お疲れ様」

 

 運ばれて来た中ジョッキを持ち上げ、カチンとぶつける。

 恩師が飲んでいる姿を見ているだけだったあの頃は、ビールは苦いものだと聞き及んでいたけれど。これがどうしてか、中々癖になってしまう。仕事終わりの一杯、控えめに言って最高よね。悔しいけれど、平塚先生の気持ちが分かってしまったわ。

 

「相変わらずいい飲みっぷりだな」

「そうかしら?」

「年々平塚先生に似てきてるんじゃねぇの?」

「人を生き遅れ呼ばわりしないでくれる?」

「うん、とりあえず謝ってこい」

 

 そもそも私はあの人と違って、ちゃんと相手がいるもの。まあ、問題はその相手が全くそう言う目で私を見てくれていないかもしれない、と言うことなのだけど。

 その辺りは追い追い、ということで。なにごとも焦りすぎはよくないのだ。いえ、そろそろ焦った方がいいかなーとは思ってるのよ。思ってはいるのだけど、ほら、ね? 中々勇気が出ないと言うか……。

 

「ふぅ……」

「本当いい飲みっぷりだな……」

 

 ジョッキを傾けて思考を中断させる。あれ以上は泥沼にはまりかねない。

 向かいからは呆れた声が聞こえてくるが、誰のせいだと思っているのか。自覚がないって罪なことよね。

 

「もう年度末だけど、あなた仕事は大丈夫なの? 上手くやれてる?」

「お陰様でな。上手く行きすぎてもはや将来有望のエリート社畜になってるわ」

「そう。出る杭は打たれる、と言うものね」

「ちょっと? そんな話ひとつもしてませんせど? いや、否定出来ないんだけどさ」

 

 否定出来ないのね……。なんだかんだで比企谷くんは非常に優秀だ。決してバカではない。だから任された仕事はきっちりこなすし、それ故に必要以上に仕事を任されてしまうし、当人の人の良さからそれを断ることもしないのだろう。

 繁盛期は超えたからか、こうして金曜日に食事へ誘っても来てくれるが、先月までは何度か断られることもあった。

 そして、人間社会というのはどこに行ったって同じようなもので。優秀な人間ほど生きにくくなる。

 それは社会人だろうが学生だろうが、なにも変わらない。

 せめて今このひと時が、彼にとって心休める時間であればいいのだけれど。

 

「お前はどうなんだよ」

「今週も恙無く終わったわ。うちの会社は、私よりも優秀な人がたくさんいるから」

「うへぇ、お前より優秀とか、お前の姉ちゃんみたいなのがゴロゴロいるってことか」

「そんな会社なら今すぐ辞めてるわね」

「だろうな」

 

 店員が注文していた料理を運んで来た。ついでに空になったジョッキを下げてもらい、二杯目を注文する。

 

「お前、ちょっとペース早くないか?」

「そんなことないわ」

「酔い潰れるのだけは勘弁してくれよ」

「安心して頂戴。それだけはないから」

 

 だって、酔い潰れてしまったら。せっかくのあなたと過ごせる時間が、台無しになってしまうもの。

 一分一秒でも、今この時を胸に刻みたい。それだけで、また一週間頑張れるから。

 

「比企谷くん、皮をもう一人前頼みましょう。あとあれ、おさつバターがこの前美味しかったわ」

「へいへい」

 

 すいませーん、と声を張り上げると、店員が二杯目のジョッキも持って来てくれた。それを受け取り、皮の塩焼きと一緒に胃の中へ納める。

 やっぱりビールのおつまみには塩味が一番よね。

 うまうまと焼き鳥を頬張っていれば、注文を終えた比企谷くんが私の顔を凝視しているのに気がつく。も、もしかして、さすがにはしたなかったかしら?

 

「なに?」

「いや、今更ながら、雪ノ下に焼き鳥って似合わんよなぁ、と」

「あら。なら次は高級イタリアンにでも行く?」

「勘弁してくれ。そんな金ないし、肩身の狭さで碌に飯の味も分からんくなる」

「でしょうね。私も、このお店の方が気楽でいいもの」

 

 我ながら慣れてしまったものだ。ここでビールを飲んで焼き鳥を食べながら、比企谷くんとお話することに。

 あなたは、どう思っているのだろう。私と過ごすこの時間を、特別に思ってくれているだろうか。大切に思ってくれているだろうか。

 それとも、そう思っているのは、私一人だけなのだろうか。

 もしあなたも、この時間を特別に、大切に思ってくれているなら、それほど嬉しいことはない。

 今の私にとって、あなたと過ごすこの時間は、なによりも特別で、大切なものだから。

 

「そろそろ、なにかあってもいいと思うのだけど、ね」

「なんの話だ?」

「いえ、ただの独り言よ。それより比企谷くん、グラスが空よ? もっと飲みなさい」

「俺を酔わせてどするつもりだ。財布の中はここのお代くらいしか入ってないぞ」

「そうね……送り狼、とか?」

「んぐっ……」

 

 ふふっ、顔が真っ赤になってる。可愛いわね。言ってみただけでそんなことする度胸はないのだけれど。むしろ、比企谷くんに送り狼になってもらわないと困るわ。

 まあ、お互いにそんなことが出来るのなら、今のこの関係に落ち着いているはずもないわけで。

 ヘタレだとか鈍感だとか内心で詰ってはいるものの、そこはお互い様なのだから。

 

「お前、もう酔ってるだろ……」

「さて、どうかしらね」

 

 酔ってはいないはずだけど。もしかしたら、少しだけ、浮かれているのかもしれない。

 

 

 

 

 三月になっているとはいえ、さすがに夜はまだ冷える。

 寒風はアルコールで火照った身体を冷やしてくれて。けれどそれ以上に、あなたが隣にいるだけで、心はポカポカと暖かいまま。

 

「さっきの話ではないけれど、たまには焼き鳥以外もいいかもしれないわね」

「高級イタリアンは勘弁な」

「安心しなさい、安っぽい居酒屋をチョイスしてあげるわ」

「それはそれでどうなんだ」

 

 交わす言葉が心地いい。あなたとの会話は、いつも私に笑顔をくれる。

 本当は、家に招いて手料理を振る舞ったりしたいのだけれど。やっぱり誘う勇気が私になくて。

 もしかしたら、あなたはそう言うつもりじゃないかもしれないから。

 周りのお店はとうに閉まっていて、歩いているのは私達だけ。街灯と星の輝き、月の灯りが照らす道を、隣にいるあなたと歩く。ただこうして一緒に歩いているだけで、満足している私がいるけど。

 いつまでもこのままじゃいられない。

 変わらないものはたしかにある。あなたの目、あなたの後ろ姿、あなたの話し方。そんな表面上のあなたはなにも変わっていないけれど。

 その心の内までは分からない。

 

「なあ、雪ノ下」

「なに?」

 

 ああ、これも同じ。あの頃と変わらない、あなたが私を呼ぶ声。聞く人が聞けば、どこか不機嫌そうにも感じられるその音。

 けれど、私の心にはしっかり刻まれている、大切な音。

 

「お前にそんな気ないのは分かってるんだけどさ」

 

 なんて前置きを挟んで。

 視線を向けた先の比企谷くんは、しっかりと私の目を捉えて。

 

「お前が好きだ。だから、付き合ってくれ」

 

 私の大好きなその音で、不器用ながらもシンプルな言葉を紡ぐ。

 思考が停止した。同時に、動かしていた足も。

 自然と比企谷くんもその場に立ち止まってしまい、けれどそれでも、私から視線を逸らそうとはしない。

 待って。ちょっと待って。え、これもしかして、私告白されたの? え、嘘でしょ? 夢じゃないわよね? 気がついたら家のベッドの上とか、そんなんじゃないわよね?

 いえ、そんなことよりも。

 なによ、お前にそんな気ないのは分かってるけど、って。そんな気しかないわよ。なんならその為だけに毎週食事に誘ってるまであるのに、なによそれ。

 返事をしなきゃ。私もあなたが好きだって。あなたと付き合いたいって。

 でも、余計な思考が頭の中でぐるぐる回ったせいなのか、言葉は上手く出てくれない。喉の奥でつっかえて、意味を持たない吐息だけがただ口から漏れるのみ。

 それをどう受け取ったのか、比企谷くんはやがて私から顔を逸らして、背を向けてしまう。

 

「悪い、なかったことにしてくれ。冷えてきたしそろそろ──」

「待って……!」

 

 歩き出そうとした彼の服を摘んで、なんとかその足を止めさせた。

 再び振り返ったあなたの顔は赤く染まっていて。場違いにも、可愛いだなんて思ってしまって。

 私は、一体どんな顔をしているのだろう。

 正直、彼の言葉が嬉しくて、今にも泣きだしてしまいそうだ。鼻の奥がツンとする。直前に摂取したアルコールとは無関係な熱が、顔全体に帯びている。

 どんな顔をしていようと関係ない。ブサイクな表情だろうが構わない。

 それでも。だとしても。言いたいこと、伝えたいことが、あるから。

 

「なかったことになんて、させないわ」

 

 明確な形と意味を与えられたその音は、ちゃんと届いてくれたんだろう。一歩後ずさる彼の服から手を離して、決して逃さないように、その手を握る。

 私よりも大きくて、骨張った手。その手を、強く。

 

「私は……私、は……!」

 

 事ここに至って、臆病な私が邪魔をする。言いたいのに。伝えたいのに。最後の一歩が、踏み出せない。

 そんな私の手を。あなたの手が、包んでくれた。とても優しく、柔らかく。

 ハッとして見上げたあなたは、とても余裕のあるとは言えない、追い詰められたような、必死な表情だけど。

 

「雪ノ下。もう一度だけ言うぞ」

 

 それでも。そんなあなただから、私は。

 

「俺は、お前が好きだ。ずっと、あの頃からずっと、お前のことが好きだ。だから、俺と付き合ってくれ」

 

 堪えていたものが溢れ出して、視界が滲む。けれど、勝手に笑顔を形作っていて。

 とても綺麗とは言い難い、めちゃくちゃな笑みでも、あなたは受け止めてくれる。

 

「私も、あなたが好き。比企谷くんのことが、とても好きよ」



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あなたに、会いたい

俺は14巻がすでに発売されていて八雪エンドを迎えた世界線から来たのでこの作品は未来予知になっちゃいます。


 夏休みと比べると、春休みというのはとても短い。いや、そもそも比べることすら間違っているのかもしれないけれど、大きすぎるその差はどうしても目についてしまう。

 私自身、そこまで休日を欲しているわけではないし、彼や彼女と会えるのだから、学校がある平日の方が好ましい。

 長期連休で生活のリズムが崩れてしまう可能性もあるから、尚更。

 いくら春休みが短いとは言え、それでも二週間は休みになる。私は元々、進んで外に出るような人間ではないから、その大半を自宅で過ごすことになる。由比ヶ浜さんや一色さんとは遊ぶ約束をしているけど、そこに彼はいない。個別で約束を取り付けているわけでもない。

 だからこの二週間、彼と。比企谷くんと会うことはない。卒業式とプロムを経て、変化を見せた私達の関係だけど。それでも、私はあなたに一言、会いたいと告げることすらできなかった。

 言い訳がないと、自分の望み一つろくに言えない。

 

「はぁ……」

 

 ため息を零し、手元のティーカップを口元に運ぶ。次いで視線を向けた先は、テーブルの上に置いてあるスマートフォン。ラインのアプリを起動していて、画面には真っ新なトークルームが。

 つい最近交換したばかりの、彼のライン。けれどそこにはなにひとつやり取りが記録されていなくて、またしてもため息が漏れる。

 直接会えば軽口と皮肉がいくらでも出てくるのに、スマートフォンを挟んだだけでこの始末。相手の顔が見えない、文字でしか言葉が伝わらないというのも、不便なものだ。

 ティーカップを置いて、代わりにスマホを手に取る。

 別に、理由なんてものは必要ないはずなのだ。世間一般的な私達の関係性だと、わざわざそんなもの用意せずとも、会いたい時に会って、会えない時でもラインや電話などでお話して。そうやって互いの仲をさらに深めるものなのだろう。

 けれど残念なことに、私も彼も世間一般とはあまりにも乖離している。

 おふざけのつもりで文字を打ち込んでいき、書き出されたのは『会いたい』の四文字。

 

「こんなの、送れるはずもないのだけど……」

 

 自嘲気味な笑みを漏らして、文字を消そうとし。

 シュポンッ、と。

 どこか間抜けな音が鳴った。はて、この音はなんだったか。たしか、ラインでメッセージを送信した時に、スマホから鳴る音だ。そのはずだ。

 ならば何故今このタイミングで? それは、私がなにかしらメッセージを送信したからだろう。その時に鳴る音なのだから、そうじゃないとおかしい。

 問題は、私自身にそんなことをした自覚がないわけで。

 

「あっ」

 

 スマホの画面を見て、絶句した。もはや戦慄した。この雪ノ下雪乃が、恐れ慄いた。

 なににって、今まさしく、自分のしでかした愚かなミスに。

 

『会いたい』

 

 その、消すことのできない四文字が、はっきりとトークルームに表示されているのだ。

 えっ、まっ、ちょっ……ゑ???

 待って、待ってちょうだい、なに、なにがあったの? 私はなにをしたの???

 おかしい、たしかに消したはずの文字が、ちゃっかり送信されてしまっている。バグなの? インターネットが壊れたの?

 いやそんな、インターネットが壊れるなんてそんなことあるはずない。その程度なら私でも知ってる。仮に壊れたら世紀の大事件よ。ゆっくりお湯に浸かってる早坂も慌てるわよ! 早坂って誰よ!

 お、おち、おちけつ、もちつきましょう……。今更取り乱したところで、送信してしまった事実は変わらないのだから。餅ついてどうするのよ。

 ええ、素直に認めましょう。これは私が間違えた。バックスペースをタップしようとして、送信をタップしてしまった。

 けれど私が悪いわけではない。バックスペースと送信がこんなに近いスマホが悪い。

 本当、なに、なんなのこのスマホ? つっかえないわね。もうちょっと持ち主の意思を汲み取ろうって気概はないわけ? あるはずないわねそんなの。あったら世紀の大発明よ。ゆっくりお湯に浸かってる早坂も慌てるわよ。だから早坂って誰よ!

 ダメね、全然落ち着けてないわ……。慌てることはないわよ私。この前由比ヶ浜さんに教えてもらったじゃない。送信したメッセージは取り消すことができる、って。

 たしか、メッセージを長押しして……。

 

「ひゃっ……!」

 

 な、鳴った! スマホが! スマホが鳴った!

 しかも比企谷くんからの電話! ラインじゃなくてスマホに直接! なんで⁉︎ ラインは既読ついてなかったじゃない!

 どうするべき? いえ、選択肢が一つしかないことは分かっているのだけれど。でも、えぇ……これ、出なきゃダメよね、やっぱり……あんな意味不明なラインを送った後だから、出づらいというか、出てどうしたらいいのか……。

 でも、出るしかないわよね。迷ってる暇なんてない。ラインに既読はついていなかったから、もしかしたら別件かもしれない。ええ、そうよ。きっとそうだわ。別件に違いない。……別件よね? 今のラインは関係ないわよね?

 心の中で何度もそう唱えながら、ついに私は、通話ボタンをタップした。

 

「もしもし、雪ノ下で──」

『なにかあったのか?』

 

 開口一番、食い気味に。私が名乗り終わるよりも早く、心配げな優しい声が届いた。

 優しいけれど、どこか慌ててるような、見えない何かに急かされているような。

 予想外の言葉と声音に、思わず二の句を継げなくなる。

 

『雪ノ下?』

「……いえ、ごめんなさい。なんでもないわ。こんにちは比企谷くん」

『おう。それで、いきなりどうしたんだよ。あんなライン急に送ってくるなんて』

「いえ、その……」

 

 遅れて、嬉しさが込み上げてくる。比企谷くんの懸念は彼お得意の勘違いだし、その心配は全くの杞憂なのだけれど。

 それでも、あのメッセージを見て、私を心配してくれて。私のことを、そんなにも考えてくれているんだと思ってしまえば、胸の中が勝手に満たされてしまう。

 数日ぶりに聞いた彼の声も、その一因だろうか。比企谷くんの声は、なぜかいつも私の心を落ち着かせてくれる。不思議だ。

 だから、特に迷うこともなく、本当のことを話せた。

 

「あなたが心配するようなことは、なにも起きていないわ」

『本当か……?』

「ええ。忘れたの? 私、嘘は吐かないのよ」

『そうか……ならよかった……』

 

 はぁ、と重めのため息が、電話越しに聞こえてきた。なんだか、本当に耳側で彼に息を吹きかけられてるみたいで、背中のあたりがゾワゾワする。

 そこまで安堵してくれるのが嬉しい。重たい女だと思われるだろうか。そうだとしても構わない。だって、彼の中ではそれ程までに、私の存在が大きくなっている証拠なのだから。きっと、由比ヶ浜さんや一色さんよりも。小町さんは、どうかしら。シスコンな彼のことだから、小町さんの方が上だと言うかもしれない。

 とても小さくて、子供みたいな独占欲。

 でも、それを受け止めてくれるあなただから、私は。

 

「だから、ね。比企谷くん。私は今すぐ、あなたに会いたい」

『……っ』

 

 電話の向こうで、息を飲む気配があった。少なからず驚いているんだろう。私も、こんな言葉が簡単に出てきた私自身に驚いている。

 

「私は嘘を吐かないわ。だから、あなたに会いたいと送ったそのメッセージも、嘘なんかじゃない」

『……珍しいな。なんつーか、お前がそんなこと言うなんて』

「たまにはいいでしょう? その、私達はもう、恋人同士、なのだから」

 

 あなたの恋人になれた実感が、未だに湧いてこない。胸の内にあるこの喜びが、全て泡沫の幻がごとく消えてしまわないか、不安になるときもある。

 けれどきっと、それはこれから積み重ねる時間の中で、自然と消えていくものだ。

 歩く道も目指す場所も違うのかもしれない。

 それでも私は、あなたと同じ景色を見たいから。そう願ったのだから。

 

『……すぐ行くから、待ってろ』

 

 それだけ告げられ、通話が切れた。耳に届くのはツーツーという電子音のみ。

 これからここに、比企谷くんが来る。家の中だけどちょっとオシャレしたいし、おもてなしの準備もしないといけない。

 でも、その前に。

 

「あなたのそういうところ、好きよ」

 

 届かないと分かっていても、言葉にせずにはいられなかった。

 本当に、心の底から、とっても好きだから。

 彼が来たら、面と向かって直接言えるように頑張ろう。

 だから、あなたからも聞かせてね? 不器用で捻くれていてもいいから。あなたの言葉を。



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俺らしさ、彼女らしさ

自分自身でさえ、それが自分らしさだと言えないのなら。なら、本物は。本当の俺たちはどこにいるのだろう。(11巻 223頁)


 ラノベの新刊発売日というのは出版社ごとに結構バラけてるもので、おまけに一冊500円以上はするのだから高校生の財力では気になった本全てを買うということも出来ない。

 一週間前に別の出版社が新刊発売日を迎えたというのに、今日も今日とて俺は本屋にやって来ていた。最近はウェブ小説なんかもあるのだが、そこにはとんでもない落とし穴が待ち受けている。

 そう、書籍化だ。

 面白い作品を無料で読めるじゃんと思ってその作品の信者になってしまえば最後、書籍化されてんじゃん本も買って売り上げ貢献して続巻出してもらわなきゃ! と一連のオタクムーブを敢行してしまうのである。ソースは俺。今日の目的である本もそんな一冊だ。ライトノベルではあるのだが文庫サイズではなく、四六判サイズのやつ。勇者が成り上がったりスライムになったりするのが主な作品だろう。そんな四六判サイズのライトノベルを探しに来たのだが。

 

「……」

「……」

 

 ライトノベルコーナーには似つかわしくない、黒髪ロングの美人さんがいらっしゃった。ていうか知り合いだった。なんなら三月の終わりからお付き合いさせていただいてるやつだった。

 つまり、雪ノ下雪乃がそこにいた。

 

「よう」

「こんにちは」

「珍しいな。お前がこんなとこに来るなんて」

「うちから一番近い本屋さんがここなのだから、なにも珍しいことはないと思うけれど」

「そうじゃなくて。なんでラノベコーナーなんかにいるんだって話だよ」

 

 ご存知の通り、雪ノ下雪乃は読書が趣味だ。意外にも濫読派の彼女ではあるが、しかしライトノベルを読んでいるところなんて見たことがない。

 何度か勧めたことはあるものの、それでも雪ノ下がライトノベルに手を出すことはなかった。単に時間がなかったり、他の本を読んでいたからだったりが理由だったらしいが、ついに積読を消化できたのだろうか。積読って消化できるものだったのか。

 

「先日、あなたに勧められたウェブ小説を読み終わったのよ」

「ああ、なんだそっちか」

「そっち?」

「いや、こっちの話」

「……?」

 

 あっちだとかそっちだとかこっちだとか、指示代名詞だらけで雪ノ下も小首を傾げている。可愛いなおい。

 たしかに以前、ウェブ小説も雪ノ下に勧めたことがある。カクヨムだとかなろうだとかアルファポリスだとかエブリスタだとか色々と勧めて、ついでにオススメの作品もいくつか。

 ウェブ小説というのは実に玉石混交だ。ランキングから選べばハズレはないものの、しかし個人の好みの話になればその中からさらに厳選しなくてはならない。雪ノ下のような一般文芸や純文学ばかり読んでいる奴からすれば、かなり厳しい目で選ぶことだろう。

 なにせ地の文が少ない。全ての作品がそうであるわけでもないが、その方が読みやすいと言うやつらがここ最近は多いらしいのだ。俺からすると全く理解出来ないが。

 

「どうだ、ウェブも中々捨てたもんじゃないだろ」

「そうね、素人が書いていると侮っていたけれど、やはりレベルの高いものは一定数あったわ」

「中にはプロの人も混じってるからな。最近じゃウェブから書籍にデビューだってあるんだし、レベル高いのは当たり前だ」

 

 お互いに目的の本を探しながら会話を続ける。去年の夏休みなんてポツダム宣言もビックリするレベルの黙殺を食らったと言うのに、人はこうも変わってしまうものなのか。

 いや、変わったのは人ではなく、その関係性。俺たち二人を定義づけるその名前が変わってしまったからこそ、今この時間がある。

 それが果たしていい変化なのかは分からないけれど、いい変化なのだと胸を張って言いたい。

 そう思ってしまっている時点で、やはり俺と言う一人の人間は変化を経てしまっているのか。

 

「で、お前なに探してんの?」

「これよ」

 

 スマホを開いてこちらに見せてくれる。そこに表示されていたのは小説家になろうのとある作品のページ。俺が今日探しに来た本の一つでもあった。

 異世界ファンタジー、というよりも恋愛ファンタジーと呼称した方がしっくり来るその作品は、やはり俺が勧めたものだ。

 呪いをかけられた王子とその大陸最強の魔女がおりなす、笑いあり涙ありの超大作。俺も材木座から勧められて読み始めたのだが、三日くらいずっと読んでいた。

 王子が魔女に何度も何度も懲りずに求婚するのだが、そのやり取りがまた面白いのだ。

『umnamed memory』二巻まで絶賛発売中だからお前らみんな買えよな。

 

「あー、それな。その本文庫じゃないからそっちの方ないぞ」

「そうなの?」

「おう。四六判だからこっち」

 

 指差した方にテクテクと歩いて行く雪ノ下。その後ろについて歩き、同じ本を探す。運が良ければ二冊置いてあるだろうが、普通の本屋なら一冊しか置いてないだろう。メロブとかとらのあなとかのオタクショップなら二冊以上置いてあるかもだが、今日のところは諦めて雪ノ下に譲るとしよう。

 

「あったか?」

「ええ、あそこに」

 

 彼女の視線の先を追えば、その小さな体では背伸びしてもギリギリ届かないような場所に。なんでそんなに高いとこにあるんだよ。

 雪ノ下は踵を上げてなんとか取ろうとするも、危なっかしくて見ていられない。

 肩に手を置いて背伸びをやめさせ、代わりにその本を取ってやる。

 

「ありがとう」

「……っ」

「どうかしたの?」

 

 不思議そうな表情で見つめてくるのは、澄んだ空を思わせる綺麗な瞳。それがすぐそこにあって、思わず言葉に詰まってしまった。

 改めて考えるでもなく、こいつはとても美人だ。そんな彼女に気安く触れられる、それを許してくれるというのは、どれほどの価値があることなのだろう。

 

「いや、なんでもない。それ、俺も読みたいから、読み終わったら貸してくれよ」

「そういうことなら譲るけれど」

「いい。興味持ってくれたんだから、お前が買え」

「そう?」

「そう」

 

 俺も目的のラノベをいくつか手に取り、二人でレジへ。わざわざ待たなくてもいいのに。いや、今はその理由が出来てしまうのか。

 不思議なものだと、今でも思う。あの雪ノ下雪乃がライトノベルなんてものに手を出して、あまつさえ俺なんかの恋人だと言うのだから。

 二ヶ月以上経った今でも、これはなにかの夢なのではないかと考えてしまう。

 不安、なんだろう。自分に自信を持てなくて、自分を信じられなくて。だから、いつか隣にいる彼女がいなくなってしまうんじゃないのかと。

 

「比企谷くん。手を出しなさい」

「は?」

 

 レジで会計を終え、さてこれからどうするかと本屋を出たら、雪ノ下が唐突に言ってきた。その言葉の意味を理解できないままに右手を差し出せば、俺のよりも華奢で白い手がそこに乗せられる。

 

「さて、行くわよ」

「いや、待て待て。行くってどこに」

 

 俺の手を握って歩き出した雪ノ下。少し力を込めれば折れてしまいそうな手から確かな熱を感じる。それだけで、さっきまでの不安じみたなにかが全て吹き飛んでしまったのは、我ながら単純だ。

 

「どこでもいいじゃない」

「目的地くらい決めとけよ」

「そうね、ではペットショップにでも行こうかしら」

「いや、別にいいけどよ。急にどうしたんだよ。らしくなく強引だな」

「らしくない、ね」

 

 小さく呟き、クスリと笑みを漏らした。

 その意図を察せずに首を傾げていれば、笑顔を絶やさないままの雪ノ下が口を開く。

 

「いえ、いつかのあなたなら、あなたの口から私らしさなんて出てこないと思って」

「それは……」

 

 その通りなのだろう。

 自分らしさ、彼女らしさ。それは所詮他人の定義したその人自身で、いつもどこかで食い違ってしまう。いつかの俺なら、間違っても口にしないであろう言葉。

 

「でもね、私はそれでいいと思う。あなたの描いた私らしさ。私の描くあなたらしさ。それは、一緒にあり続けた記憶そのものだと思うのよ。そういったものをすり合わせて、この関係を続けられたらって」

 

 穏やかな笑顔で語るそれは、現実とはまるで程遠い理想そのもの。これから先、なにがあるのかなんて分からない。恋人というこの関係を続けられる保証なんてどこにもない。小説の中とは全く違う、ここは現実なのだから。

 それでも、雪ノ下はそうありたいと、あり続けたいと願う。

 

「だからね、比企谷くん」

 

 笑顔が消え、鋭い視線が俺を射抜く。空色の瞳が俺を捉えて離さない。

 そうして、挑むように告げるのだ。彼女の、心の奥底にある想いを。

 

「変に不安を抱いたりしないで。私は、あなたの隣から離れるつもりはないのだから」

 

 全部、お見通しというわけか。

 なにも口にしていないのに、分かってしまう。理解されてしまう。どこかこそばゆいような、でも嬉しいような。

 

「顔に出てたか?」

「ええ。あなた、存外に分かりやすいもの。特に私達には、隠し事なんて無理だと思っていた方が身のためよ」

「ご忠告どうも」

 

 こいつだけじゃない。あいつとか、あいつとか、思い浮かぶ顔はいくつもあって、そいつらみんな、俺のことなんて簡単にお見通しなんだろう。

 ここは現実だ。例えば俺の読むライトノベルのようにご都合主義で時間が進むわけでもないし、例えば雪ノ下が読むミステリーみたいに不可思議な事件が起きるわけでもない。

 全ては俺たち自身の行動に起因している。奉仕部がその形を失っても、未だ俺たちの関係が続いているように。

 決められた話の上を進むんじゃなく、俺たち自身が未来の話を決めなければならない。俺たちの意思で。

 

「で、結局どこ行くよ」

「ペットショップとさっき言ったでしょう。三歩歩いて忘れてしまったのかしら。これだから鳥谷くんは」

「文字にすると野球選手になるからそのあだ名はやめとけ」

「マリーンズとは戦わないからいいじゃない」

「そういう問題じゃないんだよなぁ」

 

 ていうか雪ノ下さん、野球とか観るんですね。いっちょまえにロッテファンなんですね。その辺りも俺が知らないことだ。らしくない、と思ってしまう。

 そういうのをこれからすり合わせて、もっと互いを知っていこうと。雪ノ下が言ってるのはそういうことなのだろう。

 

「ほら、さっさと行くわよ」

「へいへい」

 

 一方的に掴まれていただけの手に、ほんの少し力を込めて握り返す。僅かに見えた彼女の耳は赤くなっていたけど、見なかったふりをしておこう。俺だって大して変わらないだろうから。

 雪ノ下は間違いなく、ここにいる。俺の隣に。それは夢でも幻でもなく現実だ。

 だから、ほんの少しでも。いや、違う。もっと欲張りになろう。

 許されるなら、彼女と永遠を望みたい。

 それを叶えるためにも、もっと積み重ねていこう。

 俺たちの時間と記憶を。俺たちの意思で。



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懐かしくて温かい

ストック切れたのでとりあえずこれ最後です。また増えたらそのうちこっちにも投稿します


「あなた、料理は出来るのよね?」

「は?」

 

 いつからか当たり前になってしまった、雪ノ下と歩く帰り道。いつもは基本的に会話も少なく、ただ静かに二人手を繋いで歩いているだけの、そんな時。

 珍しく口を開いた雪ノ下が、唐突になんの脈絡もない話を振ってきた、

 

「そりゃまあ多少なら出来るけど」

「専業主夫の必須スキルだから?」

「今更んなこと言わん」

 

 質問の意図も分からないままに答えれば、隣の彼女がクスクスと笑い始める。鈴を鳴らしたような透き通る音。いつまでも聞いていられるような。心地のいい音色だ。その上笑顔がめちゃくちゃ可愛い。俺の彼女やっぱ最強だわ。

 なんて内心で惚気るのも乙なものではあるのだけれど、結局どうしてそんな質問をしたのかを聞いていない。

 

「で、なんでいきなりそんな話を出してきたんだ? まさかこの期に及んで俺を専業主夫にするつもりじゃないだろうな。やめろよ、せっかく諦める決心がついたんだからな」

「そんなわけないでしょう。あなたに家のことを全て任せるだなんて、あまりにも怖くて想像するだけでも虫唾が走るもの」

「言葉のチョイスが一々攻撃的なんだよなぁ……」

 

 虫唾が走るって……。別にそこまで家事スキル酷いわけじゃないんだけど……。ゆきのんは八幡のこと舐めて見過ぎじゃない?

 

「それで、一番得意な料理はなにかしら?」

「玉子焼きだな」

「……」

「おい、なんだその目は」

 

 今にもシラーっというオノマトペが空中に現れそうなほどに白い目を向けられた。なんでだよ。いいじゃん玉子焼き。美味しいし。作るの簡単だし。お弁当の必需食品だぞ。

 

「まあいいわ。ところで比企谷くん。今日この後、うちに寄っていかないかしら?」

「お前さっきから本当脈絡ないな。別にいいぞ。また飯食わしてくれるんだろ?」

「そのことなのだけれど」

 

 なに、食わせてくれないの? 今まで放課後に雪ノ下の家へお邪魔して夕飯をご馳走になったことは何度もある。いつも絶品な料理を振舞ってくれるから、せめて食費くらいはといくらか金も払っているくらいだ。

 しかしこの様子ではどうやら今日は違うっぽい。地味にショック。だがどうやら、別にそういうわけでもないようで。

 こちらを見上げる雪ノ下は、どこか好奇心に満ちた目をしていて。

 

「今日はあなたの料理を食べてみたいのよ」

 

 

 

 

 というわけで。やって参りました雪ノ下の家。ここに来る途中で買い物を済ませ、冷静に考えて制服で夕飯の買い出しってなんか変な感じだなーと恥ずかしくなったりしながらも、協議の結果俺が一品作って他はいつも通り雪ノ下に任せることになった。当然の帰結である。俺に雪ノ下を満足させられるほどの料理スキルはないし。

 荷物を置いて雪ノ下からエプロンを借り、いざキッチンへゴー。

 

「さて。では始めましょうか」

「おう。つっても、俺は卵焼くだけだけど」

「せっかくだから、あなたにもこちらを手伝ってもらうことにするわ。そうしたら少しは小学六年生並みらしい料理スキルもマシにはなるでしょう」

「へいへい。かしこまりましたよ」

 

 今日のメニューは俺の玉子焼きに合わせて和食寄りだ。鮭の塩焼き、小松菜のおひたし、冷奴、そして玉子焼き。夕飯っていうかどっちかって言うと朝に出てきそうなメニューである。

 テキパキと調理器具の準備をする雪ノ下。キッチン内を見渡してみれば見たこともないような調理器具もあって、若干気後れしてしまう。多分おかし作りとかに使うやつなんだろう。知らんけど。

 とは言え、メニューからも分かる通り調理自体はとても簡単なものばかりだ。俺が手伝うようなもんでもない。

 

「さて、比企谷くん。早速鮭の下味の付け方についてだけど」

「あ、もしかして俺がやらされる感じ?」

「さすがに私がやるわ。あなたには口頭で説明するだけ」

 

 手伝いというか、お料理教室みたいになってしまった。

 おもむろに料理酒を取り出した雪ノ下は、ボウルの中に移した鮭に塩とともにかけていく。

 

「まず、10分ほど料理酒と塩につけて放置しておくわ」

「へー。……これだけ?」

「これだけよ。とても簡単でしょう?」

 

 いや、まあ、鮭の塩焼きの味付けなんてこの程度なのだろう。簡単に出来てしまうのが和食のいいところだ。和食が簡単に出来るのかは知らないけど。

 その間にコンロが空くので、先に俺が玉子焼きを作ることになった。まあ、こっちも簡単だ。誰もが知っている手順を踏んで卵を溶き、フライパンに流して適当に焼く。

 玉子焼きこそ味付けがそれぞれの家で変わってくるかもしれないが、比企谷家風玉子焼きは醤油がちょっと多目だ。甘いものが好きな俺ではあるけれど、玉子焼きだけは別。田舎のばあちゃんが作るような甘い玉子焼きよりも醤油多目の玉子焼きの方が好きなのである。これが我が家の味、というやつだからだろうか。

 隣で俺の調理する姿を見守っていた雪ノ下は醤油の量をハラハラした様子で見ていたが、口を挟んでくることもなく早速玉子焼きが完成してしまった。

 その後塩と料理酒に浸けていた鮭も焼き、作り置きしていた小松菜と冷奴も皿に盛り付けて今日のメニューは全て完成。

 とても短く簡単な料理ではあったけれど。それでも、こうして並んでキッチンに立つというのはこれまでにない体験で。

 例えばいつか、こんな風景が当たり前になる未来が来るのだろうか。

 

「比企谷くん?」

「ん、ああ悪い。これ持ってくな」

 

 ふと浮かんだ思考をかき消し、料理を盛り付けた皿をテーブルへと運ぶ。雪ノ下は怪訝そうな顔でこちらを見ていたけれど、まさかこんなことを口に出して直接言うわけにもいくまい。そんなことをしてしまえば、夕飯のメニューに茹で蛸が二つ増えるだけだ。

 テーブルの上に料理と白飯、箸を全て並べ終え、席について二人揃っていただきます。

 

「それじゃあ、まずはあなたの玉子焼きから頂こうかしら」

「あんま期待すんなよ」

 

 一口サイズに切り取った玉子焼きを箸で口元に運ぶ雪ノ下。その様子をなぜか恥ずかしくなりながらも見守る。

 誰かのために料理を作るなんて、いつ以来だろう。小町がまだ小さい頃は俺が飯を作っていたから、それ以来かもしれない。果たして雪ノ下は満足してくれるのだろうかと不安になる。いつもとても美味しい料理を作ってくれる雪ノ下のお眼鏡に叶うかどうか。今更ながら調理中にミスはなかった。頭の中にあるレシピを掘り起こして作ったつもりだったけれど、それも随分と古い記憶だったから正しいかどうかも分からない。

 やがて玉子焼きを咀嚼して嚥下した雪ノ下の口元には、穏やかな笑みが浮かべられた。

 

「少し味が濃い気もするけれど、そんなのは個人の好みの範疇ね。とても美味しいわ」

「そうか……」

 

 知らず強張っていた体が弛緩する。随分と緊張していたらしい。そんな俺の様を見て、雪ノ下はまたクスクスと笑みを漏らす。

 

「ふふっ、そんなに緊張することないじゃない」

「いや、するだろ普通。人に自分の作ったもん食わすとか、中々ないんだし」

「そういうものかしら」

「そういうものだ」

 

 雪ノ下は俺や由比ヶ浜相手で慣れているのかもしれないが、こちとら小町くらいにしか食わせたことがない。その上今回は相手が雪ノ下。この世の誰よりも大切で、愛おしい相手だ。緊張するに決まっている。

 

「この味付け、あなたの好みなの?」

「まあそうだけど、正確には逆だな」

「逆?」

「母ちゃんが作るこの味付けが好みになった、ってことだよ。比企谷家一子相伝の玉子焼きだ」

「小町さんがいるのだから、一子相伝ではないでしょう」

「最近の小町はあんま味の濃いもん作らなくなったんだよ」

 

 お年頃の女子だからか知らんけど、最近はどれも味が薄い気がして八幡的には物足りないのである。

 つまりこの味付けをした玉子焼きは今のところ俺しか作らない。よって一子相伝でも間違ってはいない。なんか一子相伝っていうと奥義みたいな感じで材木座が喜びそうだな。

 

「でも、そう。これがあなたの家の味なのね。どうりで……」

「どうりで?」

「……少し、温かい味がしたの。とても懐かしい、私も昔、味わったことがあるような」

 

 そう言った雪ノ下の目は、どこか遠くを見ているようだ。今ではない、いつかどこかの古い過去を。もう戻れない懐かしい頃の記憶を。

 きっと、彼女にもあったのだろう。俺が母ちゃんに作ってもらった玉子焼きのように。雪ノ下も母親に作ってもらった、母の味というものが。

 実家との蟠りを完全とは言えないもののある程度解決させた雪ノ下ではあるけれど。どうあっても、その昔に戻ることはできない。それ程までに、彼女と母親を繋ぐ糸はぐちゃぐちゃにも捻れてもつれて、あるいは切れかけていた。

 濡れた瞳が俺に向けられる。今にも雫が落ちそうで、けれどそうはしまいと強い光を灯している瞳が。

 

「ねえ、比企谷くん」

「なんだ?」

「また、作ってくれる?」

「お前が望むなら」

 

 さっきと同じ思考が頭をよぎる。

 例えば。例えばいつかの未来に。俺と彼女がともにキッチンへ立つのが当たり前になったら。その時は、いくらでも作ってやろう。玉子焼きだけじゃない。こいつを喜ばせるためなら、母ちゃんなり小町なりにいくらでも聞いてやる。我が家の味付け。どこか懐かしくて温かみを感じは味を。

 

「ありがとう。こういうことを言うのは柄じゃないと思うけれど。それでも私、今とても幸せよ」

 

 そう言って笑った雪ノ下はとても美しく、綺麗で。そして、本当に幸せそうだった。

 

 数年後、新しい比企谷家の味が新たな命に振舞われるのだが、それはまた、いつかの未来のお話だ。



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あついひ

 夏。この季節を好んでいる人は、果たしてこの世にどれだけいるのだろう。学生たちは夏休みがあるから、比較的好きなのかもしれない。けれど社会に出て働いている人たちにとってはそんなもの関係ないから、この暑さが嫌いだと言う人もいるだろう。

 かく言う私も、夏はあまり得意ではない。ただ外を歩いているだけで体力の削られる猛暑。体力のない私にはただただ苦痛だ。学校に来るだけでも相当つらいから、夏休みがあって本当に救われている。おまけに耳に響くセミの鳴き声や、この季節になるといきなり増える蚊なんかも、私が夏を苦手とする要因の一つだ。蚊に噛まれた跡が赤くなっていたのを由比ヶ浜さんに見られた時、とんでもない誤解を招いたのは記憶に新しい。

 そんな、だって、ありえないでしょう。蚊じゃなくて彼に噛まれた跡だなんて……そもそもまだそう言う仲ですらないのに……。

 さて。今現在は八月の中旬。夏休み。本来なら冷房の効いた自室で受験勉強か読書に勤しんでいるはずなのだけれど、私は炎天下の中重い腰を上げて学校へと来ていた。ずっと家にいたかった。これでは彼のことを笑えないわね。

 そう大した用事ではない。進路のことで平塚先生に呼ばれていたからだ。生徒指導ではあれど進路指導ではない私たちの恩師は、存在しないはずだったこの一年を私たちのために使ってくれている。あまり贔屓が過ぎるのもどうかと思うが、どうせ今年で最後なのだから周りからどう見られようが関係ない、とは本人の談。

 その平塚先生との話も終わり、ついでだからと先生から鍵を借りて部室へと足を運んだ。

 

「埃が溜まってるわね……」

 

 約一ヶ月ぶりに開いた部室は、やはりというかなんというか。長机、電気ケトル、カップや湯呑みなどの紅茶セットに被せた薄い布などには遠目から見ても分かるほど埃が乗っていて、室内の空気もどこかどんより重いもの。一ヶ月誰も使っていなかっただけでこうなるのは、去年から分かっていたけれど。

 その影響なのだろうか。誰もいない部室は、なぜかモノクロに見えて。部室が汚いことよりも、空気が悪いことよりも。ただ、色褪せたこの光景だけが、私の胸をキュッと苦しくする。

 そんな思考をかき消すように頭を振って扉をくぐる。取り敢えず部室の窓を開いて換気。長机にそっと指を這わせると、指のお腹にはべったりと埃が。差し込む陽の光を浴びて少し煌めいているのがなんとも度し難い。

 とにかく掃除しなければ。一人だと少し体力に不安が残るけれど、一度見てしまった以上は放置できない。夏休みが明けてから大掃除というのも大変だし、私一人で今のうちに終わらせられるならその方が効率的だ。

 掃除道具を取り出すために顔を上げて動き出そうとするも、しかし。足は動かず、視線は扉の方に固定されてしまった。

 そこに、あなたがいたから。

色褪せてモノクロだった景色が、途端に色付いたから。

 この夏休み中に一度も会わなかったわけではない。彼の誕生日は小町さんに招かれて彼の家で行ったし、由比ヶ浜さんの企画で一色さんや戸塚くんも誘って遊びに出かけたりもした。そこにはもちろん、彼の姿があって。

 でも、だからこそ、二学期が始まるまでこれ以上会うことはないと思っていたから。ましてや今日この場所でなんて。

 

「比企谷くん……」

「なにしてんだ、お前?」

 

 三年になって少しだけ伸びた身長。変わらない腐った目つきと猫背。頭頂部に一房だけ飛び出ている髪は、心なしかいつもよりも元気がないように見える。

 突然現れた彼は、比企谷くんは、私の姿を見て少し驚いているようだった。出不精な彼がここにいるということは、なにか用事でもあったのだろう。私と同じで、平塚先生に呼び出されていたのかもしれない。なら何故、今日この場に、部室にまで足を運んだのか。

 

「……今から掃除をするのよ。私も今ここに来たばかりなのだけれど、思っていたよりも汚れていたから」

 

 驚いたのは私も同じ。いえ、多分彼よりも大きかったと思う。

 この夏休みは何度か会った。一緒に遊んだし、彼の誕生日も祝うことが出来た。でも、もっと。もっともっと一緒にいたくて。色んなところに彼と出掛けたくて。それでも意気地なしな私は、外の暑さや受験勉強を言い訳にして行動を起こさなかった。

 そんな折に、いきなり彼が目の前に現れたのだ。驚きもするし、胸の内に湧き上がるこの感情だって当然のものだろう。

 会えて、嬉しい。だなんて。

 そんな幼い少女のような言葉、間違っても直接言えるわけがないけれど。

 

「夏休みにわざわざ律儀なことだな。なに、やることないの?」

「掃除のために来たわけじゃないわ。私はあなたと違ってやることも多いし」

「おい、俺だってそれなりにやることあるんだぞ。小町とゲームしたり、小町とデートしたり、小町のご機嫌取るためにゴマ擦ったり」

「あまり聞きたくなかった情報ね……。平塚先生に呼ばれていたから、そのついでに部室の様子を見ておこうと思っただけよ」

「お前も平塚先生に呼ばれてたのか」

「ということは、あなたも?」

「まあな」

 

 久し振りに言葉を交わす。夏休みでなければ毎日聞いていた彼の声。毎日刻んでいた心地のいいテンポ。それだけで満たされてしまう私は、単純な女なのだろう。

 部室に入ってきた比企谷くんはいつもの定位置に向かおうとして、長机を見て眉をひそめた。彼が思っていたよりも汚れていたからだろう。

 

「暑いから出来ればクーラーつけて欲しいんだが」

「今は換気中だからダメよ」

「ですよね。はぁ……んじゃ、さっさと掃除終わらすか」

「手伝ってくれるの?」

 

 予想外の言葉に、思わず首を傾げて問うてしまった。それを聞いた比企谷くんも同じく、キョトンとした表情をしている。なにを当然のことを、と言いたげな顔だ。

 

「そりゃ手伝うだろ。汚れてるの見ちまったもんは放置できんし、お前一人にやらすのも、なんだ、あれだ。体力尽きて倒れそうで心配だしな」

「……そんなことないわよ」

 

 目を逸らしてしまった。図星だ。まさしく同じことを考えていたのだから。私の体力のなさは彼に露呈してしまっているから、こんなところで強がっても意味はないのに。私の悪癖、のようなものだ。今更彼に強がったところで、意味はないというのに。

 いや、だからこそなのだろうか。散々弱いところを見せた。雪ノ下雪乃という人間の核心にまで、彼も彼女も触れてきた。私自身、それを拒まなかった。でも、だからこそ、これ以上彼に弱いところを見せたくなくて。

 まあ、たかが部室の掃除程度でなにを大袈裟な、とは思うけれど。

 

「そういうことなら、こき使ってあげる。馬車馬の如く働きなさい」

「それで俺がやる気出すとでも思ってんのか」

「どのような言い方をしたところで、あなたがやる気を出すわけがないでしょう」

「よく分かってらっしゃる」

 

 教室後方の掃除用具入れから道具一式を取り出し、その中のバケツと雑巾を手渡す。なにを言わずとも意図を察してくれたのか、比企谷くんはそれらを持って部室を出て行った。

 それを見送り、私も掃除を始める準備。長い髪をカバンから取り出したピンクのシュシュで一つに纏める。

 いつ考えても、私がピンク、というのが少し解せない。それで由比ヶ浜さんが青だったりするのだから、普通逆ではないかしら。

 でも、それが彼から見た私たちの印象なのだろう。それはあくまでも彼の主観であり、そこに他者の共感は求めない。彼本人のみが知っていればいいだけだから。その考えは理解できる。

 でも。それでも知りたいと思うのは、いけないこと? 彼の考えていることも、抱いている想いも、その全てを知りたいと思うのは。

 もっと知りたい。知ってほしい。ともすればあまりにも傲慢で強欲なその願いの源泉は、この胸の内に秘めた一つの感情。

 開放された窓の外を見る。夏休みにも関わらず運動部は練習に精を出し、どこからか吹奏楽部の演奏も聞こえていた。こんなに暑い日でも、彼ら彼女らの青春を止めることはできない。

 右手を翳しながら、どこまでも広がる青空を見上げた。清々しいほどに晴れ渡った空すらも暑さを感じさせる要因にしかならない。そんな空に浮かび地面を照りつける太陽が、どこか忌々しく感じる。

 いつまでも空を睨んでいても仕方ない。さっさと掃除を始めよう。彼もすぐ戻ってくるでしょうし、そうね、戻ってきたら床の雑巾がけでもお願いしようかしら。そのために、先にちゃんと箒で掃いておかないと。

 なんて考えていたら、足音が聞こえてきた。ちょっと気怠げな、重たい足取りを思わせる音。どうやらちゃんと水を汲んできたみたいね。

 

「水汲んできたぞ」

「おかえりなさい、早かったわね」

「……」

「どうしたの?」

 

 なにやら言葉に詰まった様子の比企谷くん。小首を傾げて尋ねるも、彼は視線を逸らしバケツを床に置くだけでなにも言ってくれない。

 

「もしかして、雑巾と自分の類似性でも見出してしまったかしら。ごめんなさい、あなたに雑巾がけを頼もうと思ったのは確かだし、薄汚れたという点では似ているかもしれないけれど、そこまで他意があったわけではないの」

「おい待て。俺のどこが薄汚れてるって言うんだ。こう見えても俺がA型なの知ってるだろ。おまけに割と綺麗好きで、自分の部屋だって綺麗にしてることも」

「間違いなくあなたの性根は薄汚れていると思うのだけれど。それと、あの部屋は綺麗なのではなくて物が少ないだけよ」

「俺の性根は腐っちゃいるが薄汚れてはない。風評被害甚だしいな。てか、部屋に関してはお前も人のこと言えんだろ」

「腐っていることは認めるのね……」

 

 たしかに、薄汚れているというよりは腐っていると言った方が適当かもしれないけれど。

 それにしても、なんだかうまく話を逸らされた気がする。いえ、この場合は余計なことを言った私が悪いのかしら。彼に隙を見せたら逃げるに決まってるのは重々分かっていたはずなのに。

 久しぶりに会えたから、私も浮かれている、ということか。

 そう思うと恥ずかしいような、でも悪い気はしないような。不思議な気持ちだ。

 

「それ、使ってくれてるんだな……」

「え?」

 

 水に浸した雑巾を絞っている彼が、視線をバケツの水面に向けたままポツリと呟いた。思わず聞き返してしまったのは、その言葉が予想外だったからだ。

 彼が指しているのは、髪を纏めているシュシュのことだろう。彼からクリスマスにもらった、私の宝物。ずっとずっと大事に使っている世界でたった一つのシュシュ。

 別に見せつけたかったわけではない。彼からの反応を期待していたわけでも。いえ、気づいてくれたら嬉しいとは思っていたけれど、それでもまさか、そのことを口にするだなんて思っていなくて。

 

「あー、なんだ、俺が渡したやつだからこんなこと言うのもあれだが、あれだ。似合ってる、と思う……」

 

 ああ、あつい。本当に、全身があつくて溶けてしまいそうだ。たしかな熱の籠もったその言葉に、声に、表情に、溶かされてしまいそう。陽の光なんかよりも、よほどあつい。

 今の私は、どんな色の顔になってるのだろう。多分、あなたと同じ色。あつさに耐えきれず赤く染まってるんだろう。

 

「ただのシュシュなのだから、誰がつけても同じだと思うけれど」

「……まあ、だよな」

 

 掃除に取り掛かるフリをして、体ごと彼から背けた。そうでもしないと、このあつさにやられてしまいそうだったから。

 そして彼の目も見ないまま、言葉を紡ぐ。このあつさに、ここで会えたことに、彼の言葉に浮かされたままの言葉を。

 

「……でも、ありがとう。あなたにそう言ってもらえるなら、大切に使っていた甲斐があったわ」

 

 このシュシュも、今はケースの中で眠っているメガネも、形にならない沢山の思い出も、今はまだ明かさない秘めた想いも。あなたに貰ったその全てが、私の宝物。

 

「そうか……」

「ええ、そうよ」

 

 だから、いつまでも大事に、大切にする。いつかその宝物をあなたに見せたいから。知ってほしいから。

 

「さあ、分ったならキビキビ動きなさい。長机と窓枠、それから黒板も雑巾で拭いて、それが終わったら床を雑巾がけよ」

「へいへい、分かりましたよ部長殿」

 

 私はこんなにも、あなたのことが好きなんだって。



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Summer Song

八幡の誕生日に投稿したやつだよ


 誕生日。

 千葉にとってのそれは、小学校時代における席順の初期配置であり、俺個人にとってのそれは妹から祝われる大切な日。ここ最近は小町もやる気がなくなってきてる感が否めないが、しかしなんだかんだと毎年プレゼントやケーキを用意してくれているのだから俺の妹マジエンジェル。

 人によって個人差はあると思うが、多かれ少なかれこの日を特別視してるやつはいるだろう。いや、この世に生きとして生ける人間全てがそう思っていても過言ではないかもしれない。間違いなく過言だわこれ。

 例えば、由比ヶ浜結衣。昨年の誕生日には色々と蟠りがありつつ迎えた彼女の誕生日だったが、しかしそれでも、全てとは言わないもののその蟠りが解消した日。ついでに遊戯部連中とアホなことした日。俺と雪ノ下からプレゼントも貰い、その後戸塚やら材木座やら小町やら平塚先生やらを交えてカラオケに行ったのだ。彼女にとって昨年の誕生日は、間違いなく特別な一日になっていただろう。因みに今年も似たようなメンツでパーティした。ガハマさんガチ泣き寸前だったし。

 例えば、一色いろは。こいつの誕生日もすでに過ぎているが、その際にも比較的盛大に祝ってやったものだ。俺たち奉仕部にとって唯一の後輩であるところの生徒会長は、昨年度からあざといくらい誕生日がいつなのかをアピールしていたから。それを逃す我らが部長ではなく、部室にて奉仕部と小町とで祝ってやればとても喜んでいた。これまでのあいつの誕生日がどうだったかは知らないが、本人曰く今までで一番嬉しかったとのことらしい。いろはすガチ泣き寸前だったし。

 例えば、雪ノ下雪乃。彼女は奉仕部内で最も誕生日が遅い。早生まれというやつだ。遅いのに早生まれとはいかに、といつも思うのだが、そんな話は置いといて。彼女にとっての誕生日は、どうなのだろう。今でこそ実家とのあれやこれやを解消し、仲直りというわけではないが折り合いが悪いということもなくなったわけだが。しかしそれでも、昨年度の誕生日、当日とはいかなかったものの部室で祝った際には喜んでくれていた。俺があげたメガネ、大切に使ってくれてるし。

 このように奉仕部女子たちの誕生日はみんなで盛大に祝って来たわけではあるのだけれど。

 さて、それでは。

 比企谷八幡の誕生日はどうなのかというと。

 

「あっっっっっつい……」

 

 本日八月八日。比企谷八幡十八歳の誕生日。つまりは夏休み真っ最中だ。

 にも関わらず俺は学校へと足を運び、額の汗を拭ってプールの底にこびりついた汚れを必死にブラシでごしごしお掃除していた。

 や、なんで?

 

「分かりきった事実を一々口に出して言わないで……余計に暑く感じるでしょう……」

「んなこと言われてもどうしようもねぇだろ……殆ど条件反射だっつの……」

 

 近くには俺と同じく夏休みだというのに学校へと駆り出され掃除をさせられている哀れな被害者が。またの名を雪ノ下雪乃という。

 白い肌にはじわりと汗が滲んでおり、長い髪が首筋にべったり張り付いていた。掃除を開始してからまだ三十分も経っていないのだが、体力のない雪ノ下はすでにしんどそうだ。これ、絶対人選ミスでしょ。

 

「けれどよかったわね比企谷くん。これだけ暑くても腐敗臭がしないということは、あなたがゾンビではないということが立証されたわよ」

「立証するまでもなくゾンビじゃねぇよ」

 

 いつもの軽口を叩けるなら、実は結構余裕あったりするんだろうか。いやでも甘く見てはいけない。熱中症の恐ろしさとこいつの体力のなさを。少し早いが、もうそろそろ休憩を挟んだ方が良さそうだ。

 さて。どうして俺と雪ノ下が夏休みにも関わらず、もっと言えば俺の誕生日にも関わらずこうしてプール掃除なんてことをしているのかと言うと。一言で言ってしまえば奉仕部の仕事だ。

 本来なら生徒会主導のもと運動部が中心となり、一日の作業は無理のない範囲で収めて数日に渡り終わらせるはずのプール掃除。

 そんな案件が奉仕部に転がり込んできたのは、やはりというかなんというか、我らが生徒会長殿の仕業だったりする。

 どうやら生徒会は、今年からこの付近の夏祭りで地域活性化のために屋台を出すらしく、今日がまさしくその日。この今日のプール掃除も本当なら一色たちが担当のはずだったのだが、まさかのダブルブッキングで俺たちに泣きついてきた、ということだ。午後からはサッカー部のやつらが代わってくれるとのことだったが、さすがの平塚先生も頭を下げてお願いしてきた。まあ、俺たち受験生だしね。

 

「もう一人でもいれば結構楽になってたんだけどなぁ……」

「由比ヶ浜さんにそんな余裕があるわけないでしょう。プール掃除ごときに時間を割かれるくらいならその時間で英単語の一つでも覚えてもらわなければ困るわ」

 

 この場に奉仕部の元気印がいないのは、つまりそういうことだった。今頃塾か自宅で雪ノ下お手製問題集に苦しめられていることだろう。可哀想に。南無。

 心の中で合掌しながらも、左手に持ったホースで水を撒き、右の脇で挟んで固定したブラシで汚れを落としていく。なにが嫌って、なんの説明もなく学校に呼ばれたかと思えば一色に泣きつかれたから、俺も雪ノ下も制服で作業しているってことだ。夏休みはまだまだあるのでクリーニングに出す余裕もあるし予備の制服だってあるが、だからと言って積極的に汚したいとは思わない。着替え持ってきてないもん。

 ちらりと視線を巡らせる。真剣な顔で汚れを落としている雪ノ下も、俺と同じように制服姿だ。既にブラウスの襟部分が汗で濡れてしまっていて、常ならば感じない妙な色気を見てしまう。

 咄嗟に視線を逸らしたものの、頬には熱が集まるばかり。

 

「ちょっと、手が止まってるわよ」

「……いや、ちょい早いけど休憩にしようぜ。どうせ昼からサッカー部の連中が馬鹿みたいに頑張るんだろうし、俺らが今頑張ってもあんま意味ないだろ」

「やるからにはちゃんとやらないとダメでしょう」

「分かったから。取り敢えず休憩だ」

「ちょっとどころじゃなく早い気がするけれど。まだ三十分も経ってないわよ?」

「俺が休憩したいんだよ。んでお前一人にやらせてるのもなんかあれだから、一緒に休憩しろ」

 

 意味があるのかないのか分からない押し問答を経た後、渋々ながらも了承した雪ノ下を伴ってプールサイドへ上がる。

 荷物を置いていた日陰に腰を下ろし、あらかじめ買っておいたスポーツドリンクを一気に喉へ流し込んだ。あー生き返るー。隣を見やれば雪ノ下もコクコクと小さく喉を動かして水分補給をしている。

 

「日陰にいても変わんねぇな……」

「こればかりは仕方ないわ。直射日光を浴びるよりはマシよ」

 

 常ならば独り言で終わるその言葉に、俺ではない別の声が返ってくる。それがどれだけ嬉しいことか。俺にとってどういう意味を持つのか。隣で可愛らしく三角座りしてる彼女は理解しているのだろうか。

 実を言うと、奉仕部の仕事だと言われて呼び出された時には少しだけ嬉しかったりもした。受験生の夏休みゆえに勉強に明け暮れていたが、そんな中でこいつに会える機会が訪れたのだ。おまけにそれが俺の誕生日。ちょっと期待してしまうのは男の子の悲しい性。これがプール掃除なんて肉体労働でなければもっと喜ばしかったのだけれど。

 誰かのことを本気で好きになんてなるもんじゃない。夏休みが始まってから何度も思った。だって、会えない時間が長すぎると驚くくらいに胸が苦しくなるのだから。ラジオネーム恋するウサギちゃんの気持ちがちょっと分かっちゃった。

 でも。こうして降って湧いた二人きりの時間は、自分で思っていたよりも胸が満たされてしまっていて。

 海から運ばれてくる生ぬるい風が、この静寂をより穏やかなものへと変えていく。それでこの暑さがマシに思えるわけでもないけれど、隣に雪ノ下がいるだけでこんな肉体労働も頑張ろうと思えてしまう。我ながら単純な頭をしているけれど、ポルノだって恋するウサギちゃんにシンプルな頭でいいって言ってたのだ。ポルノが言ってるくらいなら正しい。間違いない。

 

「さて。そろそろ再開しましょうか」

「もう大丈夫なのか?」

「私は別に元から大丈夫だったわよ。疲れたから休憩しようと言ったのはあなたでしょう」

「そうでしたね……」

 

 相変わらずの頑固具合に思わず苦笑が漏れてしまう。今更その辺りを隠す必要もないだろうに。

 再びプールの中へと下りて、ブラシとホースを手に雪ノ下以上に頑固者な汚れと向き合う。ブラシでごしごし擦ってホースで流しての単純作業の繰り返し。

 

「ねえ、比企谷くん」

「ん?」

 

 しばらく会話もなくごしごししていたら、涼やかな声が横から聞こえてきた。風鈴の音のように綺麗な音が、俺の名を呼んだ。

 

「今日、あなたの誕生日だったわよね」

「……覚えてたのか」

 

 期待はしていても予想はしていなかったそのセリフに、言葉が詰まりそうになる。辛うじて絞り出した声は掠れていたかもしれない。

 

「当然よ。だって、あなたの誕生日だもの。ちゃんと覚えているわ」

「そうか……」

 

 こいつに誕生日のことを話したのは、いつのことだったか。たしか、名前の由来の話になって、八月八日生まれだから八幡なんて名前だ、と言ったくらいだったはず。それも、既に一年以上前の話。

 あるいは、小町や由比ヶ浜あたりから教えてもらったのかもしれないけれど。でも、雪ノ下雪乃は嘘をつかない。嘘をつきたくないと、今の彼女は言っていた。なら、覚えていたと言うのは本当で、誰かから教えてもらったわけではないのだろう。

 

「なに、なんかプレゼントでも用意してくれてんのか?」

 

 心の中の歓喜を悟られないために、努めていつも通りの声音で言葉を返す。掃除の手は止めずに。だから、彼女が今どんな表情をしているのかは分からない。

 

「一応、ね……」

 

 分からない、ようにしていたのに。

 雪ノ下が小さく呟いた言葉は、二人しかいないこの場所では当然のように俺の耳へと届いて。咄嗟に目を向けてしまった先の雪ノ下は、その頬を僅かに赤く染めていて。

 それがこの暑さのせいなどではないと、分かってしまう。分かってしまうから俺の顔も釣られて熱を持ってしまう。

 ああ、クソ。嬉しいじゃねぇか。日付が変わったころに届いたどのメールよりも、朝に小町から適当さ全開で言われたおめでとうよりも。

 彼女が俺にプレゼントを用意してくれている。その事実だけで。

 

「あ、後でちゃんと渡すから、今は掃除に集中しなさい」

「へいへい」

 

 顔がにやけそうになるのを必死に堪える。きっと今の俺の表情を見られたら、また特大の罵倒が飛んでくるんだろう。それくらい気持ち悪い自覚はあるから。

 視界の端で、すぐそこにいた雪ノ下が別の場所を掃除しようと移動するのが見えた。このプールの底は案外滑りやすいもので、若干警戒しながらえっちらおっちら歩いている様はなんだかシュールだ。

 が、警戒しているからと言ってそれを完全に防げるわけでもなく。

 

「きゃっ!」

 

 短い悲鳴。何故かスローモーションで動く景色の中では、足を見事に滑らせた雪ノ下が今まさしく前に倒れそうになっている。あのまま行けば顔から地面に激突してしまうだろう。冷静に状況を見る脳とは対照に、体は殆ど反射で動いていた。

 

「雪ノ下っ!」

 

 両手に持っていたブラシとホースを手放す。お陰で暴れたホースから放出されたままの水が俺にかかるが、そんなこと構っている場合ではない。

 間に合えと心の中で叫んで手を伸ばす。掴んだ腕の細さに驚く暇もなく引っ張り、安心したのも束の間。

 

「うぉっ!」

 

 その勢いそのままに、今度は俺が足を滑らせた。こんな滑りやすい場所で踏ん張りが効くはずもないのだから、当然の帰結である。

 特別運動神経がいいわけでもない俺が咄嗟に受け身を取れるはずもなく、見事に後頭部と背中を強打。腕を掴まれたままの雪ノ下も倒れてきて、その重さでダメージ増加。

 

「比企谷くん⁉︎」

「いってぇ……」

 

 なんか目の前を星が飛んでる気がする……大きな星がついたり消えたり……あれは彗星かな……違うな、彗星はもっとパーって動くもんな……。

 いや、冗談抜きにマジで痛い……。

 

「比企谷くんっ、比企谷くん!」

「でかい声出すな……頭に響く……」

 

 未だ俺の上に乗ったままの、というか馬乗りになってる雪ノ下が涙目で俺の名前を呼ぶ。さっきの涼やかな声とは全く違う、必死さを滲ませた声で。

 こんなに取り乱している雪ノ下を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。その原因が俺を心配してのことだなんて、場違いにも少し嬉しくなってしまう。

 そして目の前でこうまで取り乱されては、逆に冷静になってしまうというもので。

 暴れたままのホースは水を撒き散らし、俺だけでなく雪ノ下までも襲う。びっしょり濡れたブラウスは透けてしまっていて、その奥に隠されていた布地が見えてしまっていた。

 この状況はマズイ。色々と。

 

「とりあえず、どいてくれ……」

「大丈夫なの?」

「頭も背中も痛いしなんかちょっとクラクラするけど大丈夫だ」

「大丈夫じゃないじゃない! 保健室、いえ病院に行かないとっ……!」

「ちょっと落ち着けって」

 

 上半身を起き上がらせると、一気に雪ノ下の顔が近くなった。汗と水で濡れた肌。今にも雫が零れ落ちそうな瞳。ハッと息を飲んでしまう程の美貌に見惚れてしまう。

 視線が、絡まった。

 この距離の近さに彼女も気づいたのだろう。大きく見開いた目は俺の目を見つめていて、それでも、我を失ったかのように動かない。動けない。

 時の感覚を忘れてしまったような一瞬が、永遠に等しく思えるほど続く。

 それが終わりを告げたのは、尚も暴れ続けるホースが俺たちの顔面に向けて水を発射したからだった。

 

「ひゃっ」

「わぷっ」

 

 それに驚いた雪ノ下が、自然と俺から離れていく。よかった。本当に離れてくれてよかった。あのままだと変な気を起こしかねなかったから。八幡くんの大菩薩がフジヤマボルケイノまでのカウントダウン始めちゃってたよ。そんなことになれば間違いなくブタ箱行き間違いなしである。

 

「ちょっ、と、比企谷くん、ホースを……!」

「分かってるっての……!」

 

 地面をのたうちまわるホースは、まるで意思を持ったかのように雪ノ下を執拗に攻撃しだした。女の子を濡らしたいとかお前分かってんじゃねぇか違うけしからんやつだ。

 未だ頭が痛むのも我慢して変態ホース君と格闘。残念なことに暑さで茹で上がった俺たちの脳では水を止めればいいという判断までは下せず、死闘の末ホースをこの手に掴んだ。のだけど。

 

「捕まえた……!」

「……」

「あっ……」

 

 そのタイミングが絶妙に悪かった。矛先をバッチリ雪ノ下へと固定されたままに掴み上げたホースは、発射角度を変えて立ち上がった雪ノ下の顔を思いっきり濡らしている。

 すぐに向きを変えたものの、完全な濡れ鼠と化してしまった雪ノ下からは、夏の暑さすらも忘れてしまう冷気が。

 

「比企谷くん」

「ま、待て雪ノ下! これはホースが悪いんであって俺が悪いわけじゃない!」

「せっかく人が心配してあげたというのに、この男は……!」

 

 雪ノ下の手には、武器があった。滑りそうになった時も、俺の上に馬乗りしていた時も持ったままだった、ホースとブラシが。

 まさかブラシで殴られるのかと肝を冷やしたが、そんなことはなく。そのブラシを放り投げると俺にホースの矛先を向けた。

 

「ちょまっ……! 待て待て待て!」

「ちょっとは先のことを考えて行動しなさい! 後頭部を強打するだけで、どれだけ危険だと思ってるの⁉︎」

 

 叫びながらも俺に水をぶっかけてくる雪ノ下。しかもホースの口をギュッとしてるから勢いが増して痛い。

 おまけに言ってることはまさしくその通りだ。しかし、こちらにだって言い分はある。

 

「元を正せばお前が滑りそうになったからだろ! 俺はお前を助けようとした結果滑って転けただけだ!」

「助けてくれたことには礼を言うわ。私が滑ったのが原因なのも理解してる。でも、それであなたが怪我をする必要はないじゃない!」

「勝手に体が動いてたんだから仕方ないだろ!」

「二年前の事故のことをもう忘れたの⁉︎ あの時も、今も、一歩間違えれば死んでいてもおかしくなかったのよ⁉︎」

「言わせておけば……!」

「きゃっ……!」

 

 言われっぱなしやられっぱなしも癪なのでこちらもホースで反撃してみれば、なんとも可愛い悲鳴が。

 これは反撃のためだ。断じて雪ノ下の制服姿を濡らしたいとか、ただでさえ透けて見えてしまってる下着がもうちょいちゃんと見えたりしないかなーなんて下心があっての行為ではないことを分かっていただきたい。

 

「女性に対して銃口を向けるなんていい度胸ね……この際だから、ここで上下関係をはっきりさせておく必要があるかしら」

「いつまでも部長殿にこき使われる備品じゃないんでな」

 

 そこから先は、ただひたすらに水の掛け合い。いつも通りの罵倒と皮肉の応酬を交えながら。

 でも、いつしか俺も雪ノ下も、怒りは収まり笑顔を浮かべていて。

 

「ふ、ふふっ……」

「はははっ」

 

 今日は八月八日、俺の誕生日。そんな日に。

 本当、なんでこんなことしてるんだろうな、俺たちは。

 

 

 

 

 

 

 

「なんでそんなことをしていたんだ君たちは……」

 

 俺の隣で呆れたように呟いたのは、引退しても律儀に部活へ出ている葉山隼人。さっきまで俺と雪ノ下が柄にもなくはしゃいでいたプール内では、サッカー部員達がえっさほいさと掃除に勤しんでいる。俺と雪ノ下が呼ばれた意味を疑うレベルで。

 

「ちょっと童心に帰っちゃったんだよ、俺も雪ノ下も」

「君たち二人が子供の頃に戻っても、プールではしゃいで水の掛け合いなんてしないだろう」

「今の、雪ノ下に直接聞かせてやりたいな」

「本人も否定しないと思うよ」

 

 何故俺が葉山と並んでこの場にいるのか。そこに深い理由なんてありはしない。

 雪ノ下と二人、バカみたいにはしゃいで水を掛け合い、雪ノ下の体力が尽きかけたところで葉山に引き連れられたサッカー部の面々が登場。その場の光景を一瞬本気で驚いたような目で見た葉山だが、サッカー部の男子どもを一旦プールの外に出してマネージャーの女子を呼ぶと、雪ノ下に連れ添って更衣室へ向かうよう指示を出し、俺には持ってきていたらしい予備のジャージを貸してくれた。

 だから俺は今、葉山から借りたジャージを着てるという、海老名さんが興奮で死んじゃいそうなシチュエーションになっている。この場に留まっているのは雪ノ下を待っているからだ。

 

「なんにしても、助かった。さすがにあの格好の雪ノ下を他の男子に見せるわけにもいかんしな」

「君から素直に礼を言われると怖気が走るな」

 

 なんでだよ。礼くらい素直に受け取れや。葉山くん、そんなに俺のこと嫌いなの? いや俺も嫌いだけど。

 ただ、嫌いだからこんなやつと関わりたくないのかと聞かれると首を横に振る。葉山でなくても、他の誰かであっても。好き嫌いという感情と関わるか否かの心理は別問題だ。

 

「それに、その言い方ならまるで自分は許されているかのように聞こえるけど?」

「んなわけねぇだろ。後でどんな仕打ちにあうのか今から怯えてるっての」

「でも役得だったろう?」

「……」

「君は案外顔に出やすいから、気をつけた方がいいかもしれないな」

 

 面白そうに笑う葉山。俺はなんも面白くない。てかこの状況がもう耐えられない。マジでなんでこんな海老名さんの為にあるみたいなシチュエーションになってんの? いや俺が悪いのは分かってるけどさ。

 それきり会話もなくなり、ぬぼーっとサッカー部の連中が掃除する様を眺めていると、すぐ近くの扉が開き雪ノ下が更衣室から戻ってきた。マネージャーの女子に借りたのだろう。学校指定の、それも違う学年の色のジャージを着ている。

 

「ごめんなさい、お待たせしたわね」

「いや、いい。ちょうどいい暇つぶしの相手がいたからな」

「そう?」

「そう」

 

 コテンと首を傾げる雪ノ下が鬼可愛い。その後マネージャーの女子に礼を言ってる葉山へと向き直り、雪ノ下は彼に対して頭を下げた。

 

「ごめんなさい、葉山くん。お陰様で助かったわ。ありがとう」

 

 雪ノ下にとっては、何気ない言葉だったのかもしれない。俺も彼女も葉山がいなければ濡れたまま帰らなければならないところだったし、雪ノ下に至ってはサッカー部どもに透けた下着を見られていたかもしれないのだから。因みに葉山は紳士らしくちゃんと目を瞑って濡れた雪ノ下を見ないようにしていた。ムカつくほどにイケメンである。

 だがその葉山は、雪ノ下の言葉に一瞬、見逃してしまいそうなほどに一瞬だけ驚いた様子を見せて。

 すぐにいつもの『みんなの葉山隼人』へと戻った男は、なんでもないように言う。

 

「いや、当然のことをしたまでだよ。見て見ぬ振りは俺じゃなくて他の誰かの専売特許だからね」

「おい。今なんで俺の方を見た」

 

 雪ノ下も。それもそうね、みたいな顔で頷いてんじゃねぇよ。けれど悲しいかな、否定できないのもまた事実。そういうのは辞めにしたけれど、だからと言って過去が覆るようなこともない。

 

「ともかく、本当に助かったわ。ありがとう」

 

 そう言って葉山から視線を外した雪ノ下は、マネージャーの女子にも礼を言っている。ジャージを返す時のために連絡先交換してるっぽい。マネージャーの子、雪ノ下を見る目がハートになってるんだけど。まあ、なんだかんだで葉山レベルの有名人だしな雪ノ下。後輩の子にあんな目を向けられてもおかしくはないか。

 

「比企谷くん、そろそろ行きましょう」

「ん」

 

 会話を終えた雪ノ下がこちらに視線を寄越してくる。行きましょうと言われてもどこに行くのかを聞いていないのだが、とりあえずは平塚先生のところに向かってその後部室で一休み、と言った感じだろう。

 先程出てきた扉に向かって歩き出す雪ノ下の後ろに続こうとすると、比企谷、と背後から呼び止める声が。雪ノ下も俺と一緒になって振り返ったが、先に出てろと手を振った。

 雪ノ下は怪訝そうな顔をしながらも先にプールから出て、マネージャーの子もいつの間にか姿を消している。

 

「なに、早く涼しいとこ行きたいんだけど」

「いや、そんなに大したことじゃないんだ。今日誕生日なんだって?」

「だったらなんだよ。優しい葉山くんはプレゼントでも用意してくれてんのか?」

「まさか、あり得ないだろ、それ」

「だろうな。んで、ホントに何の用だよ」

「いや、おめでとうと言っておきたくてさ」

「虫唾が走るな」

「それは良かった」

 

 爽やかに笑いながらとんでもないことを言うもんだ。いつかこんな葉山を目撃した戸部が随分と驚いていたか。そういや今日戸部いないな。どうでもいいけど。てか誰だよ戸部。

 

「雪ノ下さんにはちゃんと祝ってもらえよ。せっかく会えたし、さっきまでいい雰囲気だったみたいだし」

「余計なお世話だ」

 

 それ以上会話を続ける意志はないと示すように、背中を向けた。かかる声はもうない。向こうも俺に背を向けていることだろう。

 あいつが彼女の言葉にどう言った意味を見出したのかは知らない。知ろうとも思わない。彼女自身も、本当に何気ない礼の言葉だったはずだ。果たしてこの高校に入って、彼女が何度あいつにその言葉を送ったのかは分からないが。

 けれど、あいつにとってはたしかに意味のある言葉だったのだろう。その仮面が剥がれてしまうほどには。

 ならそこで完結だ。あいつ自身、余人からの理解なんぞ求めていないだろうから。

 そしてなにより、葉山隼人に比企谷八幡が理解できないように。比企谷八幡に葉山隼人を理解することも不可能だ。

 プールから出て雪ノ下の姿を探していると、ブブッ、とジャージのポケットに移動させていたスマホが鳴った。二件同時にラインが届いている。片方は雪ノ下から。部室集合、とのことだ。もう片方は葉山から。無視してやろうかとも思ったが、一応ジャージの恩もあるので目を通すことに。てかなんで俺、葉山のラインとか知ってるんだろ。これも全部雪ノ下陽乃って人の仕業なんだ。

 

『いい加減雪ノ下さんとくっ付けよ』

 

 既読無視することにした。

 やっぱり嫌いだわ、あいつ。

 

 

 

 

 

 

 普段から人気の少ない特別棟だが、今日はいつもより更に人の気配がしない。当然だ。なにせ今は夏休み。この校舎を使ってるような部活はわざわざ長期連休にまで精を出すような部ではない。同級生たちは今頃問題集と向き合い、一年二年は友人と遊びに出かけたりしているのだろう。

 対する俺は、受験生にも関わらずこうして休日出勤。挙句全身びしょ濡れになって嫌いな奴のジャージを借りてる始末。自業自得と言われればそれまでなのだが、どうにも納得いかない。これも全て仕事を押し付けてきた一色が悪いのだと、後輩に全責任を負わせて思考を完結させる。

 校舎の中に入ったからと言って暑さが和らぐわけでもなく、むしろ廊下の中に篭った熱気は外よりも体感温度を上げている気すらする。あちいあちいと心の中で呟きつつもリノリウムの床を踏みしめ、通い慣れた道を歩く。

 この道を通る日が、あと何度残されているだろう。いざ数えてみようとすると嫌気が差すのは間違いないが、それでも残り僅かなことは違いない。受験が近づくということは、それだけ終わりも近づいているということだから。

 辿り着いた部室。その扉に手をかけると、やはり予想通りに容易く開いた。そこに既に、お前がいたから。

 いつもお前は、ここで待っていてくれる。俺や彼女が来るのを、たった一人で。

 

「悪い、待たせたな」

「いえ、私も今さっき来たところよ」

 

 雪ノ下はいつもの定位置に腰を下ろし、柔らかい笑顔を浮かべて俺を迎えてくれた。何故だかその笑顔が直視できなくて、咄嗟にそっぽを向いたまま俺も定位置へと腰を下ろす。

 彼女の対面。長机の向かい側。近いようで遠いこの距離が、比企谷八幡と雪ノ下雪乃の距離だ。

 その距離を、少しでも縮めたいと思った。卒業の時が来て、この部室ともおさらばする日がやって来たら、この長机一つ分の距離すらも失われてしまうから。

 これ以上、離れたくないと願った。

 

「平塚先生に事情を説明したら笑われたわ。私たちにもそういう年相応のことをする余裕ができて良かった、だそうよ」

「年相応ってか、もっとガキがやるようなもんだと思うけどな、あんなんは」

「間違いないわね」

 

 口元を手で覆って上品な笑みを見せる。彼女の笑顔はそのどれもがとても魅力的だ。短いようで長い付き合いの中で、色んな表情、色んな笑顔を見てきた。

 けれど、少し前までに浮かべていた、あんな無邪気な笑顔は初めて見た。きっとあんな笑顔、由比ヶ浜だって知らないだろう。もしかしたら、陽乃さんだって。

 小さな優越感に浸っていると、向かいからコホン、と可愛らしい咳払いが聞こえる。視線をそちらにやれば、雪ノ下はカバンの中を漁っている。やがてそこから取り出したのは、どこかで見たことのあるロゴの袋だ。

 立ち上がった雪ノ下が、それを持ってこちらへ歩いてきた。ここまで来てそれがなんなのか察せられないほど鈍くなった覚えもない。その中身は分からずとも、それがどう言った意図の品物なのかは理解できる。

 やがて俺の前で立ち止まった雪ノ下は、少し頬を赤く染めながらもしっかりと俺の目を見据えて、口を開いた。

 

「その、男性に贈り物をするのは、あまり機会がなかったから、もしかしたら気に入らないかもしれないけれど……よければ、受け取ってもらえるかしら……?」

 

 意味があるのか分からない言い訳を前置きにして、差し出されるプレゼント。

 いつもはっきりと物を言う雪ノ下にしては珍しく、幼い少女のように辿々しい言葉。声も、若干震えていたか。

 でも、そんな彼女がとても可愛らしく見えてしまって。まともに返事もできないまま、ただ差し出された袋を受け取る。

 

「中、開けてもいいか?」

「ええ。どうぞ……」

 

 袋の中に入っていたのは、メガネだった。それもどこかで見覚えのある。

 いや、見覚えのあるどころではない。だってこのメガネは、俺が彼女の誕生日に贈ったものと同じで。その用途も、フレームのデザインも。

 

「これ……」

「とっ、特に深い意味はないのよ……」

 

 まだ何も聞いてないのに、声を裏返して焦ったような雪ノ下が言葉を紡ぐ。

 

「卒業したら大学に進むわけだし、そうなるとパソコンを使う頻度も今より増えるでしょう。いえ、今だってあなたはスマートフォンをよく使うのだから、そう言う意味ではブルーライトカットのメガネはあなたにも必要になってくるはずよ。そのデザインも、ただ私が一番いいと思ったものを選んだだけ、だから……」

「そうか……」

 

 俺が彼女に贈ったものと、全く同じブルーライトカットのメガネ。けれど雪ノ下自身がそこに深い意味を持たせていないというなら、その通りなのだろう。

 雪ノ下からのプレゼントに意味がないわけでは断じてないが、このチョイス自体に意味は持たせていないと。なら、余計な詮索は無粋というものだろう。たかだかメガネひとつ、同じデザインのものがいくつあっても不思議ではない。

 んんっ、と目の前で喉の調子を確かめた雪ノ下が、身を正して改めて俺に向き直る。

 真っ直ぐこちらを見つめるその瞳は、まるでこの青空を写したように澄んでいる。力強く、美しい瞳。冷たい印象を与える整った顔立ちは、しかしいくつもの表情をそこに秘めていて。俺の知らない表情だって、まだまだ隠されているのだろう。

 その全てを知りたいと思った。他の誰でもない、雪ノ下雪乃の全てを。比企谷八幡は希い、恋願ったのだ。

 

「お誕生日おめでとう、比企谷くん。生まれて来てくれてありがとう」

 

 果たしてその小さな唇から漏れた言葉は、あまりにも大げさすぎる祝いの言葉。一瞬呆気に取られたものの、直ぐに我に返って言葉を返す。

 

「ちょっと大げさすぎるだろ、それは」

「いいえ、そんなことはないわ」

 

 優しい笑顔で首を横に振る雪ノ下は、本気でそう思っているのだろう。

 いや、誰もがわざわざ口に出さないだけで、誕生日とは本来そういうものなのかもしれないけれど。生まれて来たことを祝い、感謝する日。

 

「なにも大げさなことなんてない。だから、生まれて来てくれてありがとう。私と出会ってくれて、この部活に入ってくれて。今日、ここで一緒に、私の隣にいてくれて、ありがとう」

 

 雪ノ下は多くを語らない。その感謝の意味するところも、わざわざ大げさな物言いをしたわけも。

 それでも、たしかに伝わるものがある。俺の胸を満たすあたたかいものがある。

 不覚にも鼻の奥がツンとした。生まれてこのかた、こんな感謝の言葉を贈られたことがあっただろうか。誕生日を祝われたことなんて、人生で十八回は確実あった。

 きっと、言われた相手がこの子だから。人生で初めて、本気で好きになった女の子だから。こんなにも泣きそうになってしまう。

 

「俺の方こそ、ありがとう。こんな俺と、出会ってくれて」

 

 言葉は自分でも驚くほど素直に。それはさしもよ雪ノ下だって予想外だったのだろう。一瞬だけ驚いた顔をしたかと思えば、直ぐに元の笑みへと戻る。

 

「ふふっ、お互いにお礼を言い合うなんて、なんだかおかしいわね」

「お前が大げさな言い方したからだけどな」

「だから、決して大げさではないと言っているでしょう。私の、心からの本音なのよ?」

「そうか……」

「ええ、そうよ」

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる雪ノ下に頭が上がらない。きっと、こいつには一生敵わないんだろう。

 

 八月八日。人生に一度しかない十八回目の誕生日は、他の誰もいない二人きりのこの場所で。

 きっと俺は、今日という日を忘れない。彼女から貰った感謝の言葉を、忘れない。

 だから次は、俺の番。受験も間近になってしまうけれど、それでも。今度は、俺が雪ノ下に、感謝の言葉を伝えよう。出来れば、この胸に秘めた淡い恋心も添えて。



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さくら

c96のコピ本のやつです。


 桜の花言葉を知っているだろうか。

 種類によって様々あれど、桜全般の花言葉は「優美な女性」や「純潔」などになる。今俺の目の前にあるソメイヨシノならば、「高貴」「清純」などだ。

 まさしくお似合いだと思う。満開のソメイヨシノを見上げている彼女には。

「雪ノ下」

 名前を呼べば、振り返ってくれる。俺を見てくれる。

 風に靡く髪を手で抑えながら、柔らかくはにかんで。

「あら、比企谷くん」

「こんなとこにいたのか。由比ヶ浜たちが探してたぞ」

「あなたは探してくれなかったのかしら」

「ここにいるってことはつまりそういうことだろ」

「ふふっ、そうね」

 機嫌良さそうにコロコロと笑う雪ノ下は、その視線を再び桜の木へと向けた。風に舞う桜の花びらの中で、咲き誇る桜の花を見上げている。

 その瞳には何を映しているのか。ただ、目の前の花に心奪われているのか。それとも、その花を通して全く別の何かを見ているのか。俺には分からない。どれだけ分かりたいと思っても、その心のうちの全てを知ることなんて出来ないのだ。

 そんな俺がただ一つ、この場において分かることと言えば。

 目の前の少女が、非常識なほどに美しくて。

 まるで、此方と彼方で違う世界なのではと錯覚してしまうほどに。

 それほどまでに、俺はやはり、彼女の姿に見惚れていた。

 美少女と風に舞う桜の花びらのコラボレーションなんて贅沢すぎる。その美少女が自分の好きな子で、しかも大切な恋人であると言うのなら尚更。

「桜の木がどうかしたのか?」

 ジッと真剣な顔で桜を見つめる雪ノ下に尋ねれば、こちらに振り返らないままで答えが返ってくる。

「来年には、見れないのよね」

「まあ、そうだな」

 つい先月、城廻先輩たちが卒業した。そして今月、まさしく数日前に、小町たち新入生が入学した。時間は流れる。ここに生きる俺たちのことなんて御構い無しに。だから、次に卒業するのは俺たちの番だ。きっと三月ではまだ桜は満開になっていないだろうから、この場所でこの光景を見られるのは今年で最後。そう考えれば、たしかに。どこか感慨深いものがあるかもしれない。

「おかしな話よね。まだ三年生になったばかりだというのに、もう一年後の、卒業のことを意識するだなんて」

 それは、どうだろう。おかしいことなのだろうか。この学校の生徒、延いては全国の高校生たち全員が、三年生になるということになにかしらの意味を見出しているだろう。受験だったり、部活だったり、あるいは雪ノ下のように、卒業だったり。

 いつか訪れる終わりを意識するのは、なにもおかしなことではない。三年生になったばかりのこの節目のタイミングなら、尚更に。

「なんもおかしいことはないだろ。まあ、ほとんどの奴らが受験だなんだで卒業どころじゃないだろうし。なんなら卒業できるか微妙なやつまでいる」

「さすがの由比ヶ浜さんも、そこまでではないと思うけれど……」

 誰も由比ヶ浜のことなんて言ってねぇよ。まあ、俺の周りで卒業が危ないやつとかあいつ以外にいないけどさ。

 しかし雪ノ下も自分で言っていてその難度の高さに気づいたのか、言葉は尻すぼみになっていた。君、自分の親友のこと馬鹿にしすぎじゃない?

「そんなことより、比企谷くん」

 そんなことで済ますなよ。由比ヶ浜泣くぞ。

「あなたは、桜を見てなにを思うかしら?」

「桜ねぇ……」

 随分と唐突に思えるその問いかけに、思考を働かせる。

 パッと思い浮かぶのは、出会いと別れ。桜の咲く春を象徴する言葉だ。しかし別れの季節に桜は満開にならず、冬の寒々しさが残っている。だから、どちらかと言えば出会いを象徴しているのだろう。

 思い返されるのはちょうど一年前。あの時も、連行される道中で廊下から眺めた景色には桜の花が咲いていた。すっかり恩師と呼べる存在に連れられた先には、春の穏やかな風を受け、斜陽の中で静かに佇むお前がいた。開口一番散々馬鹿にされてこき下ろされて。それが今では一番大切な相手になっているのだから、人生は分からない。

「お前はどうなんだ?」

 出会った頃のことを思い出した。なんて素直に言うのは恥ずかしくて、桜を見つめたままの雪ノ下に問い返す。何故だかその答えは、分かってしまうのだけれど。

「私は、そうね……あなたと出会った日のことを、思い出すわ」

 ほら、やっぱり。

 俺たちの、一度目の始まり。まだ互いになにも知らなかったあの頃。あの日がなければ、俺たちは出会いもしなかった。事故の真相も闇の中。俺は今でも気取ったぼっちのままで、彼女も自分の殻の中で孤独なままだった。

 だから、俺たちにとってその答えなんて一つに決まっている。ここにはいないお団子頭の彼女もきっと、初めて部室を訪れたあの日を思い返すだろう。

「俺も、同じだな。どうしたってあの日のことを思い出す」

「あら、お揃いね」

「だな」

 ふっ、と自然な笑みが漏れる。目の前からも、クスクスと楽しそうな音が。それをもっと近くで聞きたくて。彼女が笑顔でいるなら、俺がその隣にいたくて。踏み出した足を数歩刻んで肩を並べた。

「桜、綺麗だな」

「ええ」

 なにも言わず、どちらからともなく手を繋ぐ。伝わる体温は少し低くて、けれど胸に広がるのは疑いようのないあたたかさ。雪ノ下が隣にいる。雪ノ下の隣にいる。それだけで、幸福と呼べる感情が波のように押し寄せてくる。

 たまに、怖くなるのだ。今があまりにも幸せすぎて。

 雪ノ下がいて、由比ヶ浜がいて、一色がいて。他にもあいつとかあいつとか、思い浮かぶ顔は多くあって。なんでもない平凡で幸せな日常を送れていることが、怖くなる。

 これは贅沢な恐怖なのだろうか。でも、いつか唐突にこの幸せが終わってしまうかもしれないと考えると、どうしても怖いのだ。手放さなければならない日が来るかもしれない。避けられない別れが訪れるかもしれない。

 この世の全てはいつか終わりがやってくる。終わりのないものなど、どこにも存在しない。俺たちの関係も、いつかは終わるのだ。極端な話をするならば、人生の終焉という形で必ず訪れる。

 失うのが怖いから。その時の悲しさや喪失感を経験するくらいなら、最初からない方がいい。いつかの俺はそんな言い訳を脳内でつらつら並べていた。

 でも、今は違う。

 失わないために、努力するんだ。雪ノ下と、いつまでも一緒にいたいから。そのための努力を怠ってはいけない。言い訳の余地が微塵もないほどに。少しでもその可能性を低くするために。

 だって、俺は。俺は雪ノ下のことが──

「雪ノ下」

「なに?」

「好きだ」

 ずっと桜の木に固定されていた雪ノ下の視線が、こちらに向いた。驚いて目を瞠ったのも一瞬。その顔には穏やかな笑みが浮かべられて。

「ふふっ、どうしたの突然?」

「いや、なんだ。ちょっと言いたくなっただけだ」

 今更言うようなことでもない。俺たちがこういう関係になっているということは、つまりその感情が前提にあって然るべきなのだから。

 でも、言いたかった。伝えたかった。らしくないとは分かっていても、俺の素直な気持ちを。お前への想いを。

 多分、この桜のせいだ。満開に咲き誇る桜を見ていて、妙な感傷に浸ってしまったから。俺たちの出会いを、始まりを思い出してしまったから。

「ねえ、比企谷くん」

 俺を呼んだ雪ノ下は、すでに桜から視線を外している。その瞳は俺を見つめ捕らえて離さない。空いた手で風に靡く髪を抑えて、散りゆく桜の花びらを背景に。雪ノ下は、唄うように言葉を紡いだ。

「私も、あなたのこと、好きよ」

「……そうか」

「ええ」

 真っ直ぐ見つめられながら言われると、今更に羞恥心がやってきて、ついそっぽを向いてしまう。上機嫌に微笑む声が聞こえてきたから、俺の顔は加熱するばかり。

「そろそろ行きましょうか。みんな待っているのでしょう?」

「ん、ああ。そうだな」

 隣にいる彼女と二人、手を繋いで桜の木に背を向ける。今年はもう、ここまで綺麗な満開の桜を見れないかもしれない。明日になれば散った花びらが地面を満たし、そしていつかは葉桜に。その緑すら失われて寒々しい枝だけが残るだろう。

 けれど、春はまたやって来る。

 来年、再来年、更にまた次の年。これからの人生で何度も訪れる春と、何度も咲き誇る桜の花を。ここではないどこかで、また。

 雪ノ下の隣で見れたら。



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全部好き

「八幡は、雪ノ下さんのどこを好きになったの?」

 

 夏の暑さも弱まり、海沿いに位置している総武高校では涼しい風を感じられるようになってきていた。俺のベストプレイスが本領を発揮する秋だ。

 時たま強すぎる風が吹いてくるが、それも一興。風に靡く髪を抑える戸塚の姿が見れるのだから、風よもっと吹けと念じてしまう。そんな季節。

 昼練の終わった戸塚とベストプレイスにて昼食を摂っていたのだけど、まさかそんなことを聞かれるとは思ってもいなくて。

 

「あ、八幡! 唐揚げ落ちちゃったよ!」

「あ、ああ、悪い……」

 

 箸で摘んでいた唐揚げが地面へ落下してしまった。せっかく雪ノ下が作ってくれたお弁当だというのに、なんと勿体ないことか。でも慌ててる戸塚が可愛いから許しちゃう。

 

「えっと、それで、なんだって?」

「だから、八幡は雪ノ下さんのどこを好きになったのかなーって。もしかして、聞いたらダメだった?」

「そんなことない」

 

 戸塚になら何を聞かれても素直に答えちゃう。俺の身長体重生年月日に血液型からスリーサイズまでどんと来いだ。

 が、しかし。もう一度言うが、こんな質問が飛んでくるなんてことは想定していなくて。それも、他ならぬ戸塚の口から。

 由比ヶ浜や一色あたりからなら、まあ分からんでもないが。いや由比ヶ浜から聞かれたらそれはそれで別の意味で困るけれど。それはそうとガハマさん、ここ最近ゆきのんとのゆるゆり度が増してるんだよね。もはやガチゆりなまである。いいぞもっとやれ。

 閑話休題。

 聞いたらダメなんてことは全くないのだけど、それでも返事に困る質問だ。答えが分からないのではなく、ただ羞恥心がある。多分、雪ノ下本人にも言ったことがないのではなかろうか。

 

「そうだな……どこって言われたらまあ、結構あるから一々挙げるとキリがなくなるんだが……」

「キリがなくなるんだ」

「なんで好きになったか、なら言える」

「本当? なんでなの?」

 

 こちらに身を乗り出してくる戸塚に、思わずたじろいでしまう。顔が近いし可愛いしなんかいい匂いする。

 な、なんかやたら食い気味に聞いてくるな……。戸塚にしては珍しいというか、そもそも戸塚からこんな恋バナを振られることだって初めてだ。

 いや、まあ、去年までの俺を考えると当然か。去年までの俺にこんな話を振っても碌に答えなかっただろうし、一年前の俺なんて鼻で笑い飛ばしてたまである。

 それがまさか、涼しい風を浴びる昼下がり、友人とこんな会話をしようとは。

 あいつとの関係が変化したことによる影響は、奉仕部内に留まらずこんなところにまで及んでいる。いや、それも結局、俺自身が変わったから、なのだろうけれど。

 

「ねぇ八幡、早く教えてよ」

 

 キュルンと瞳を潤ませ、頬を膨らませながらも不満そうに言われる。

 戸塚 の おねだり 攻撃!

 こうか は ばつぐんだ!

 っぶねー、変な声出るとこだった。いやちょっと出たかも。戸塚、相変わらず可愛さが天元突破してない? むしろ多元宇宙に存在している可愛いと言う概念の全てを詰め込んだのが戸塚だと言われても納得してしまうレベル。

 これをどこぞのあざとガールみたいに、計算でやってるわけじゃないからヤバイんだよな。マジヤバイ。なにがヤバイってホントヤバイ。

 

「あんまり急かさないでくれ……俺だって恥ずかしいんだぞ」

「でも、早くしないとお昼休み終わっちゃうよ?」

 

 それはつまり天使との逢瀬の時間が終わってしまうということであり、このままでは天使に不満を抱かせたまま別れることとなってしまう。

 戸塚ガチ勢として、それは許されざるべき行いだ。

 でもなぁ……やっぱり恥ずかしいんだよなぁ……。

 なるべく自分の羞恥心が煽られないよう、慎重に言葉を探りながら戸塚に向き直った。

 

「あー、あれだな。あいつが、雪ノ下雪乃だから、だな」

「雪ノ下さんが、雪ノ下さんだから?」

 

 どこを、と言う質問に対しては適切でないかもしれないが、そう言う他になかった。

 どうも上手く理解できなかったようで、戸塚は顎に人差し指を当てて小首を傾げている。可愛い。結婚したい。しよう。する。

 

「なんて言ったらいいかな。雪ノ下ってああ見えて、割と欠点やら弱点やら多いんだよ。強そうな女の子に見えるけど、でもやっぱり弱さってのはあってさ。それもひっくるめて雪ノ下雪乃ってやつで、俺はそんなあいつが好きになったんだ」

 

 上手くまとまった言葉だとは思えない。けれど、自然とそんな風に口から出ていたのだ。相手が戸塚だからか、秋の涼しいそよ風に当てられたのか。

 どちらにせよ、俺の本心には変わりない。

 弱いところも、強いところも、その全部が好きになった。

 だから、どこが好きかと聞かれても、何か一つを挙げることなんてできない。

 

「そっか。八幡は、雪ノ下さんの全部が好きなんだね」

「まあ、そういうことだな」

 

 どうやら伝わったらしい。戸塚から改めてそう言われても羞恥心が湧き上がらなかったのは、一度自分でも言葉にして吐き出したからだろうか。

 妙に胸のあたりがスッキリしている。

 

「雪ノ下さんのこと、大切にしてあげてね」

「おう」

 

 

 ◆

 

 

 戸塚と昼にちょっと珍しい話をしたその放課後。いつものようにリノリウムの床を踏みしめながら、部室へ歩く。

 窓の外に見える景色はぼんやりと夕焼け色に染まっていて、季節の移り変わりをより一層意識させた。ほんの数週間前まではこの時間も明るかったのに、秋の夜長というやつか。まだ夜じゃないけど。

 

「ヒッキー!」

 

 哀愁漂う背中に元気な声がかけられたのは、特別棟に足を踏み入れた頃だった。振り返れば、奉仕部の元気印がパタパタと駆け寄ってくる。

 

「もうっ、なんで先行くし」

「いや、別に一緒に行くとか言ってないし」

「どうせ行き先一緒なんだから、待っててくれてもいいじゃん」

「どうせ行き先一緒なんだから、先行ってても問題ないだろ」

 

 もうっ、と頬を膨らませたガハマさんを伴い、部室までの道を歩く。同じようなやり取りを、今まで何度交わしてきただろうか。これから何度交わせるだろうか。

 季節が移り変わるということは、それだけ終わりも近づいているということだ。

 この長いようで短くも感じた青春は、残り半年しか残っていない。

 けれど由比ヶ浜の方にはそんな憂いが全くないのか、もしくは高校を卒業しても、ずっと変わらぬ関係でいられると信じているのか。

 今日も今日とて、元気に他愛のない話を振ってくる。

 

「そういえば昨日、ゆきのんとさいちゃんと遊んでたんだけどね?」

「サラッと俺をハブってた報告、やめてくれない?」

「え? あぁ、そうじゃなくて。これ女子会だから」

「戸塚は男子だけどな……」

 

 物凄いナチュラルに戸塚を女子扱いするなよ。いや、気持ちは分かるけどね? 戸塚可愛いもん。とつかわいいもん。だが男だ。

 

「その時にさ、ゆきのんはヒッキーのどこが好きなのかって話になって」

「オーケーストップだ由比ヶ浜」

「なんで?」

 

 はっはーん。賢い八幡くんは全部分かっちゃったぞー? 戸塚が昼に変なこと聞いてきた理由も、この後由比ヶ浜が聞いてくるであろうことも。

 

「俺はなにも答えないからな」

「まだなにも聞いてないし!」

 

 先んじて言えば、由比ヶ浜は少し大袈裟に突っ込んでくる。まだってことはやっぱり聞こうとしてたんじゃないですかやだー。

 しかし、奉仕部一頑固な女の子がこんなことで諦めるわけもなく。

 

「いいじゃん、教えてよー。ゆきのんのどこを好きになったの?」

「言わん。教えん」

 

 ねーえー、と体を揺さぶってくる由比ヶ浜。ええいしつこいな。こうなれば仕方ない。あの必殺技を使う時が来たようだ。

 

「なら逆に聞くが、お前は雪ノ下のどこが好きなんだよ」

「んー、全部?」

「なら俺もそれってことで。ほら、さっさと部室行くぞ」

 

 これぞ俺の秘技、適当に話を合わせて適当に話を切り上げる! 必殺技か秘技なのかどっちだよ。

 だがこんな適当な返事でもガハマさんは満足してくれたらしく、素直に体を解放してくれる。よかった、さりげなく体近すぎてちょっもドキドキしてたから良かった。

 

「そっかー、ヒッキーもゆきのんの全部が好きなんだー」

「やめろそのニマニマ顔鬱陶しい」

「酷くない⁉︎」

 

 正直、理由なんてなんだっていいのだ。それが後付けだろうと構わない。由比ヶ浜にしたってそう思ってるだろう。

 だって、理由がどうあれ、俺たちがあいつのことを好きで、大切に思っているのは変わらないのだから。

 そこさえ間違えなければ大丈夫だ。

 思えば簡単な答えなのに、随分と悩み、答えに窮し、間違えを繰り返したものだ。

 今となっては、それらも愛すべき過去の思い出。黒歴史なんかとは断じて違う。

 

「そうだ、ゆきのんが昨日言ってた、ヒッキーの好きなとこ、聞きたい?」

「聞きたいけど、ここで言わない方がいいぞ」

 

 ほれ、と顎で道の先を示せば、すでに部室の目の前まで辿り着いていた。個人的には滅茶苦茶気になるけれど、こんなところで話してしまえば中まで丸聞こえだろう。

 そんな羞恥プレイを勤しむ趣味は俺にはないので、普通に部室の扉を開ける。

 まあ恥ずかしがってるゆきのんも見てみたいとは思うけどね!

 

「うーす」

「やっはろー!」

「こんにちは」

 

 今日も今日とて、部室では愛されガールな部長が待ってくれていた。俺が入部した時から変わらない光景。

 変わったことと言えば、俺たちを出迎えてくれる雪ノ下の顔に笑顔が増えたことか。

 

「紅茶、淹れるわね」

「おう」

 

 読みかけの文庫本に栞を挟み、雪ノ下は紅茶を淹れるために席を立つ。

 そんな彼女の背中を見て、ニマーと笑みを深くする由比ヶ浜。

 待て、なにをするつもりか分からないがちょっと待て由比ヶ浜早まるんじゃあないぜ!

 

「それでさヒッキー、さっきの話の続きなんだけどね?」

 

 こ、こいつ……! 親友に対して、羞恥プレイを観光しようとしているだとッ……⁉︎

 さっきの話とやらを知らない雪ノ下は、紅茶を淹れるのに夢中でこちらの会話に入ってこようとはしない。必死に首を横に振るが、由比ヶ浜の笑みが深くなるばかりだ。

 なにがダメって、これ俺も恥ずかしくなるからマジでダメ。どうしても止めなければならないが、まさか手で口を塞ぐわけにも行くまい。

 

「やっぱり聞きたいよね?」

「いい。いらん。絶対に聞かん」

「えー、さっき気になるっていってたじゃん。ゆきのんがヒッキーのどこを好きなのか」

 

 その言葉が発せられた途端。ビクッ、と猫のように体を震わせたやつが一人。

 言うまでもなく雪ノ下だ。

 彼女は錆びた機械のようにぎこちなく首を回し、由比ヶ浜の方を見やる。その表情には焦りの色が見て取れた。

 

「あの、由比ヶ浜さん? それは言わない約束ではなかったかしら……?」

「そうだっけ? 忘れちゃった。ほら、あたしバカだから! 記憶力ないから!」

 

 バカ、と言う単語を殊更に強調した気がするが、もしかして昨日の女子会でなにかあったのだろうか。雪ノ下がうっかり口を滑らせて、由比ヶ浜にバカなり記憶力ないなり言っちゃったとか。

 ありそうだなぁ……。

 雪ノ下が紅茶を各々の元に運び、椅子に座りなおしたのを見てから、由比ヶ浜は話を続ける。出来れば続けないで欲しいなぁ。

 

「でねヒッキー。昨日のゆきのん、ホントすごく可愛くてさ!」

「ゆ、由比ヶ浜さん?」

「ヒッキーのどこが好きかって聞いたら、まず最初にすごい顔赤くするの!」

「ねえ、聞いて?」

「その後に小ちゃい声で、全部愛してる、とか言ってたんだよ! もうヤバくない⁉︎」

「……」

 

 なにを言っても無駄と悟ったのか、雪ノ下は顔を赤くして俯き、プルプルと震えるのみ。

 うん、たしかに可愛い。可愛いんだけどさ、ガハマさん、本当に今日どうしたの? 魔王が乗り移ってるの?

 なにも言えずに雪ノ下を見やれば、不意に視線を上げた彼女と目が合ってしまった。途端に何故だか妙な羞恥心に襲われ、目を逸らしてしまう。

 

「その、違うの。違うのよ比企谷くん」

「ゆきのん、昨日言ってたことは嘘だったの?」

「嘘ではないわ。嘘ではないけれど、その……とりあえず、そんな目で見るのはやめてくれるかしら、由比ヶ浜さん……」

 

 おーおー、焦ってる焦ってる。こんな雪ノ下見るの初めてかもしれん。

 なんて余裕を持って楽しめれば良かったのだけれど、残念ながら俺の顔も雪ノ下の顔と同じ色になってしまっている。

 すぐ隣に座っている由比ヶ浜に懇願する雪ノ下だが、お団子頭の進撃は止まらない。

 

「じゃあじゃあ、ヒッキーは?」

「へ? 俺?」

「ヒッキーは、ゆきのんのどこが好きなんだっけ?」

「いやお前、それもさっき言っただろ」

「あたしバカで記憶力ないから忘れちゃった!」

 

 それで通すのは無理がありすぎない? ゴリ押し強行突破もいいとこだと思うんですけど。

 再び雪ノ下に視線をやれば、頬を真っ赤に染めながらも、濡れた瞳はしっかりと俺を見据えていた。

 なんと答えるのか気になる、と言うよりも、あなたも私と同じ目に遭いなさい、と言いそうな目だ。死なば諸共ってか。そう言う考えは八幡くんよくないと思うな。

 

「そうか、忘れたか。ならそのまま永遠に忘れててくれ」

「えー、だって気になるじゃん。ゆきのんも気になるでしょ?」

「ええ、まあ、気にならないといえば嘘になるけれど……」

 

 由比ヶ浜に抱きつかれながらも、雪ノ下はこちらを見続ける。

 まあ、たしかに。彼女に直接伝えたことはなかったけれど。それでもまさか、こんな展開、こんな状況で言う羽目になるなんて思っていなくて。

 実際、嬉しかったのは事実だ。直接その口から聞いたわけではないとはいえ、彼女が俺の全てを愛してくれてる、なんて。ともすれば重いくらいの気持ちを向けてくれていることが。嬉しくないわけがないのだ。

 重くて結構。俺たちはこんな人間だから、多少重いくらいの気持ちが重しになってくれないと、すぐにどこかへ飛んでしまいそうだから。いなくなってしまいそうだから。

 それに、重いだなんだは俺だって同じだ。だってこんなにも、想いが溢れてやまないんだ。

 周りからなんと思われようと関係ない。

 頭をガシガシと乱雑に掻く。視線はどうしても彼女らの方を向かなくて、黒板の上に立てかけてある時計を見てしまう。

 それから、重いため息と共に、どうしようもない想いを吐き出した。

 

「全部だよ。雪ノ下の全部好きだ」

 

 戸塚に言った時とは違って、羞恥心が湧き上がり顔が沸騰しそうになる。なんだって俺は、部室でこんな目に遭っているのか。これも全て由比ヶ浜結衣ってやつの仕業なんだ。

 とは言え、こうして本人の前で言葉にできたこと自体は、不思議と後悔していなかった。

 どこが好きかと問われて、全部と答える。

 かつての俺が唾棄していた、青春やら恋愛やらで頭悪そうな小説に出てきそうなシーンだ。けれど実際、その通りなのだからそう答えるしかないわけで。

 でもやっぱり恥ずかしさが天元突破しちゃっているのも事実なわけで。

 あまりの羞恥心から、ついに俺は机に突っ伏してしまった。

 

「だってさゆきのん」

「由比ヶ浜さんのバカ……」

 

 微笑ましいそんなやり取りが聞こえてきたから、多分雪ノ下も俺と同じ体勢なんだろう。

 全く、今日も帰りは雪ノ下と二人だというのに。どうしてくれるんだよバカ。

 

 この後、部室にやってきた一色が俺と雪ノ下に白い目を向け、由比ヶ浜に一連の成り行きを教えられた後に女子会に呼ばれていないことを知り落ち込むのは、また別の話。



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また明日

14巻はこうなる(確信


「雪ノ下。お前のことが好きだ」

「私も、あなたのことが、比企谷くんのことが好き。とても好きよ」

 

 そんなやり取りがあったのは、もう三十分は前の話。

 互いに言葉に詰まりながら、それでも伝えたい想いがあって。言葉という酷く不便なツールは、やっぱり俺の気持ちの全部なんて乗せきれずに。どこか地に足のつかない、熱に浮かされた声ではあったけど。

 伝えて、伝えられた。

 俺の想いと彼女の想いを。

 お団子頭の友人とか、あざとい後輩生徒会長とか、俺たちをずっと見守ってくれていた恩師とか、大嫌いな金髪イケメンとか。色んなやつに背中を押されて、ようやく。

 未だに現実感がないけれど、これは夢や幻ではない。俺が、俺の意思で選択した現実だ。

 

 だからその後、雪ノ下を家に送ることになったのは、まあ当然の流れなのだけど。

 

「……」

「……」

 

 自転車を学校に置いて、二人並んで歩く帰り道。雪ノ下の家まではもう後数分歩くだけ。互いの間には言葉一つなく、なんとなく気まずいような沈黙が流れていた。

 いや、なんでこうなったの?

 

「あの……」

「なあ……」

 

 勇気を振り絞って声をかければ、ご覧の通りハモってしまう始末。また妙な間が流れ、なぜか顔が熱くなる。チラリと見た雪ノ下の頬も、赤く染まっていた。

 

「そちらからどうぞ……」

「いや、お前から言えよ……別に俺は大したことじゃないし……」

「そう……なら……」

 

 ゆっくりと息を吸って、吐いて。それでもそわそわと落ち着かない様子の雪ノ下は、いじらしくもチラチラと俺の顔を見たり目を逸らしたり。

 ちょっとお嬢さん、焦らしプレイがお上手でございますね。やめろよそういうの、俺もなんか緊張増すだろうが。

 やがて意を決したのか、目尻をキリッとさせた雪ノ下が、口を開く。

 

「私たちは、その、今日から交際する、ということでいいのよね……?」

 

 まさしく俺が聞こうとしていたことと同じだ。誰だよ大したことじゃないとかほざいたやつ。俺だよ。

 俺たちは互いに想いを伝えあって、思いを重ね合わせたわけなのだけど。それでも、やはり俺も彼女も、関係の変化を口にはしなかった。

 それはどこかで恐れているからだろう。変わってしまうことを。変わらざるを得ないことを。いくらどれだけ覚悟したとは言え、やはり事ここに置いてヘタレてしまうのは、俺が俺である以上仕方のないことだ。

 だけど、俺たちはもう一歩を踏み出した。

 変わるための一歩を。変わりたいと願って、動き出したのだ。

 それに、こんなところで躓いてしまえば、またあの優しいお団子頭の彼女に怒られてしまう。

 

「そう、だな……そういうことに、なるんじゃねぇの?」

「そう……そうよね……」

 

 呟いた雪ノ下が、小さく微笑んだ。

 本当に、小さくて、ともすれば気のせいにも思える一瞬。

 夕暮れの中で見逃してしまいそうなその微笑みは、まるで幼い少女のように無垢で。普段感情表現が下手くそ雪ノ下が、それでもあらんばかりの喜びをその表情に映していた。

 正直、それは反則だ。そんな顔されたら、逆に俺がどんな顔をすればいいのか分からなくなる。

 素直なんて言葉とは程遠い人間だから、彼女のように笑うこともできない。いっそ開き直ってそうすれば、幾分か楽なのだろうけれど。

 

「なにか、変わるのかしら」

「……どうだろうな」

 

 夕暮れに染まる空を見上げる彼女は、果たしてそこになにを見ているのだろう。

 きっと、俺とは違うものを見ている。この空の色一つしたって、きっと見えている色は違うのだ。赤、朱、橙。違っていてもいい。ただ、それを共有したいから。

 春の桜も、夏の花火も、秋の紅葉も、冬の雪も。その全てを、今隣を歩く女の子と共有したいと思ったから。

 それは、その想いだけは、きっとこれからの未来でも変わらない。根拠はないのに、そう断言できる。

 

「多分、変わることもあるだろうよ。でも、しばらくはなにも変わらない。あの部屋にお前がいて、そこに俺と由比ヶ浜が来て、たまに一色とか小町とか、平塚先生もいてさ。そういう日常が、これからも続いていく。いや、続けていくんだよ」

「そうね。そうありたいと、私たちは願ったもの」

「ああ。だから、そのために出来ることをやらないといけない」

 

 なにもせずにこの日常が続いていく。そう思うのは傲慢だ。俺たちを取り巻く現実は日々目まぐるしい変化を遂げて、そんな世界に翻弄されながらも、それでも変わりたくないと足掻く。それは決して無駄なことではないはずだ。

 変わっていくものは、たしかにある。変わりたいと願った関係も。

 けれど、それでも変わりたくないと、今のままでいたいと願うことは、まちがいなんかじゃない。

 その願いが同居することは、矛盾しないはずだ。

 

「ふふっ、珍しいわね。あなたがなにかをやる気になるなんて」

「必要なことは必要なだけやる主義なんだよ、元々。なにもしなくて、後から手痛いしっぺ返しを食らうのは御免だからな」

「素直じゃないのね」

「ほっとけ」

 

 いつの間にかいつも通り。こうして交わす言葉が心地いい。それは春のそよ風にも似た、あたたかいものだ。優しく、穏やかに、俺の心を撫でる。

 だから、突然左の手を握られた時は、本当に驚いた。

 日常の中に入り込んだ非日常。いや、そもそもこうして雪ノ下と並んで帰るという時点で、日常とは乖離していたのだけど。

 それでも、いきなりなにも言われず手を握られると、誰だって驚く。俺だって驚く。

 

「……もうマンション着くぞ」

「……そうね。でも、少しだけ、だから」

 

 雪ノ下の住む背の高いマンションは、既に視界に入っていた。きっともう、十分もしないうちにその下へと到着する。

 赤くなった顔を隠したくて。でもそうすることが、何故かできなくて。

 だから仕返しとばかりに、俺からもちゃんと雪ノ下の手を握ってやる。

 少しだけ冷んやりとした小さな彼女の手に、わずかな熱を感じられた。

 これからは、望めばいつだってこの手を取れる。そういう関係に、その距離に俺はいるのだから。

 

「着いたぞ」

「ええ」

 

 マンションの下に着いても、雪ノ下はしばらく手を離そうとしなかった。

 名残惜しく感じているのは俺だって同じだ。それが、初めて手を繋いだからか、それとも時間が短すぎたからかは分からない。

 どちらにしても、もう少しだけでも一緒にいたいと、そう思った結果なのは同じだ。

 やがて後ろ髪を引かれながらも手を離したのは、マンションの中から人が出て来たから。

 さすがにご近所さんに見られている中で手を繋ぎ続ける度胸はなかったのだろう。

 それから雪ノ下は、一歩二歩とマンションへと近いて。足を止めて振り返り、自分の右手をマジマジと見つめた後に俺の目を見て。

 優しく微笑んで、その手を振った。

 

「また、明日」

 

 いつからだったろうか。別れ際の挨拶が、その一言へと変わったのは。

 いや、重要なのはそこではなくて。

 それは、彼女が明日を望んでくれている証だ。俺との明日を。なにかが少しずつ変化して、それでも変わらない明日を。

 だから、俺も同じ言葉を返す。

 

「ああ。また明日な」

 

 少しだけ喜色の混じった笑みを最後に浮かべて、雪ノ下はマンションの中へと入っていった。その背を見送り、夕暮れの中帰路につく。

 

「また明日、か」

 

 明日も、雪ノ下雪乃と会える。

 明日からは、恋人として。

 その事実を再確認するだけで、頬のにやけが止まらなかった。



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ゆきのんとこたつでぬくぬくする話

 冬、というのは明確にいつからのことを言うのだろう。世間一般の認識で言えば、恐らくは十二月なのだろうか。実際、そう答える人は多くいるのだと思う。

 冬を象徴するイベント、クリスマスというものが十二月にあるからだ。それから大晦日にお正月、バレンタインと、十二月から二月にかけて多くのイベントで賑わう。

 

 しかし、俺から言わせてもらえれば十一月だって立派に冬だ。特に下旬な。上旬まではまだ気温もそこまで下がらず、夏の暑さすら引きずる年だってあるのに、ある日を境にグッと気温が下がる。あまりにも高低差が激し過ぎて、さしものグッドストライカーでもグッと来ないだろう。

 一桁台にはまだ差し掛かっていないが、それでも連日十二度やら十一度やらのギリギリを彷徨う始末。ギリギリでいつも生きていたいのは某アイドルグループだけで十分だ。いや、彼らはギリギリを生き過ぎてる感じが否めないけど。

 

 ともあれ、未だ十一月と言えど、冬は冬。なんなら今年は秋がなかったまである日本。四季とは。

 比企谷家では無事にこたつが解禁され、今日も今日とてぬくぬくとその恩恵に預からせて貰っているのだけれど。

 

「にゃー」

「なー」

「ふふっ、にゃー、にゃー」

「うなうな」

「あら、ふふっ、擽ったいわ」

 

 冬の日常に紛れ込む、明らかな異物が。

 もしもここが部室であるなら、まあ、百歩譲っておかしな光景ではなかったいやおかしいわ。部室で猫と戯れる部長とかおかしいわ。そもそも部室にこたつはない。こたつは家にしかない。つまり家は最高。冬は引きこもるに限るでファイナルアンサー。

 

 と、いつまでも現実逃避出来たら良かったのだが、そんなわけにもいかず。

 

 まるで当たり前のように、我が家の愛猫とこたつでぬくぬくしてる美少女。雪ノ下雪乃。

 対して、これから始まるニチアサに集中出来そうもなく、頭の上ではてなマークをブレイクダンスさせている俺。

 朝の八時半。全く理解できない状況が、比企谷家のリビングに広がっていた。

 

「なあ」

「なー」

「にゃー」

「おーい、雪ノ下さん? いい加減反応してくれない?」

 

 この状況を問い質そうとしても、さっきからこんな様子。雪ノ下が俺に一瞥くれたのなんて、俺がリビングに入ってきた時くらいだ。堂々とテレビをつけてスタートゥインクルしようとしても、なにも言ってこなかった。

 いないもの扱いされるのは慣れてるどころかそれが平常運転なまである俺だが、恋人にここまで無視されると、些か心にクるものがある。

 

 そう、恋人。つまり、彼氏彼女の関係。果たしてどんな奇跡が起こったのか、俺たちはそういうものになった。まあ、どんなミラクルも起き放題ってISSAも言ってたしな。気がついたら年号変わってるし、なんか八年半くらい高校二年生だった気もするし。やだ、私の平成、醜すぎ?

 

 とまあ、そんなわけだから、俺に恋人が出来てもなんらおかしいことではないのだ。

 でもさすかに、この状況はおかしすぎると思うんですよね。朝起きてリビングに来たら恋人が猫と戯れてるって、これなんてエロゲ? いくらそろそろホワルバ2の季節だからって、現実までエロゲみたいにしなくてもいいんですよ。

 

 なんて思っていると、とうとうプリキュアが始まってしまった。こうなってしまっては仕方ない。雪ノ下がどうしてここにいるのかは気になるが、それよりもプリキュアだ。

 俺の意識はもはや完全にテレビへと向いてしまい、心の中でぷいきゅあがんばえー、と叫ぶ。最近のプリキュア、ちょっとツライシーンが多いんですよね……。やっぱり大きなお友達も意識してたりするのかしらん?

 

 三十分というのは存外にあっという間で、気がついたらエンディングのダンスに入っていた。今日も今日とて涙を堪えるのに必死だったのだが、どんなに苦しいことがあっても最後は笑顔で踊るのだから、やっぱりプリキュアって凄い。逆に戦隊シリーズに若干の狂気すら感じてしまう。仲間が死んだ直後にエンディングで踊るってお前……みたいななんとも言えない気持ちになってしまうのだ。

 スーパーヒーロータイムまでのCMの間、昂ぶった心を落ち着かせる為にも飲み物を淹れてこようと思ったのだが。

 

「最近の女児向けアニメも、中々バカに出来ないものね」

「うおっ!」

 

 突然聞こえてきた透き通る声音に驚き、つい肩まで震わせてしまった。

 そういやいたなこいつ……プリキュアに夢中で忘れてた。

 

「おはよう、比企谷くん。お邪魔してます」

「遅い。言うのが遅いよ」

 

 出来ればあと三十分は早く言って欲しかったな。いや、それも無理な相談か。猫を前にした雪ノ下が俺のことなんぞ気にかけるわけもない。なにそれ泣きそう。

 ただ、ニコリと笑顔の挨拶一つで許そうと思ってしまうのだから、我ながら随分とチョロいもんだ。

 

「で、お前なにしに来たの?」

「カマクラに会いに来たのよ」

「そこは嘘でも、俺に会いに来たって言うとこじゃねえのかよ」

「私、嘘は吐きたくないの。それにあなたとは、カマクラと違っていつでも会えるじゃない」

「まあ、そうだな……」

 

 不意打ちで放たれたのは、柔らかな微笑みと素直な言葉。それにまだ慣れない自分がいて、頬は勝手に熱を持つ。

 最近の雪ノ下さん、なんかやけに素直になっちゃって無敵感がハンパない。ハイパームテキなまである。敗者に相応しいエンディングを見せられちゃう。

 実際、俺は二年の頃のあの勝負に負けた敗者であり、けれどその先に待っていたエンディングが今なのだけど。

 

「それにしても、急に来るのはやめてくれ。せめて事前に連絡しろ」

「一応したはずなのだけれど」

「マ?」

「メール、見てないの? 小町さんがやけにあっさり入れてくれたから、返事がなくても既に話を通してあるものだと思ってたわ」

 

 スマホを開いてメールボックスを起動すれば、たしかに雪ノ下から一件メッセージが。

 金曜の夜から一睡もせずにポケモンをしていたから、昨日の夜はいつもより二時間ほど早く眠りに落ちてしまったのだが、それがよろしくなかったようだ。

 

「悪い、全然見てなかったわ。完全に寝てた」

「全く。また不健康な生活をしていないでしょうね。季節の変わり目なのだから、体調を崩すわよ?」

「おっしゃる通りで……」

 

 これにはさすがに返す言葉もない。いやでも、ポケモンが面白すぎるのが悪いのだ。イヌヌワン。可愛いよね、ワンパチ。ユキメノコにユキノってニックネーム付けそうになって必死に耐えた俺を、誰か褒めて欲しい。

 

 呆れたようにため息を漏らすユキメノコじゃなかった雪ノ下。その腕の中にカマクラはもういないのか、こたつから出て立ち上がり、キッチンの方へと向かった。よくもまあ、そんな簡単にこたつから出られるものだ。

 

「台所、借りるわね」

「いいけど、大丈夫か?」

「小町さんからどこになにがあるのかは聞いてるから大丈夫よ。紅茶を淹れるわ」

「ん、てか小町は」

「あなたが起きて来る少し前に出掛けてしまったわよ。ご両親もお仕事でいないから、好きに使っていいと言われてしまったわ」

 

 その声には少し困ったような色が見えていたが、それでも微笑み混じりてではあった。雪ノ下も、小町の多少強引なノリに慣れて来たのだろう。いや、むしろ由比ヶ浜や一色あたりで、そういう耐性が付いてしまったか。あの子たちもここ最近は押しが更に強くなってるからなぁ……ゆきのん大好きオーラが滲み出てるんだよ。由比ヶ浜はその前に勉強しろと言いたいが。

 

 オープニングの始まった仮面ライダーをぬぼーっと眺めていると、紅茶を淹れ終えた雪ノ下がカップを二つ持って戻ってきた。礼を言いつつその片方を受け取りこたつの上に置くと、雪ノ下は何故かもうひとつのカップをその隣に置いて。

 

「もう少し詰めて頂戴」

「……いや、なんで?」

 

 何食わぬ顔で、それが当然のように、俺の隣へと腰を下ろした。

 当然距離は殆どゼロに近いほど密着してしまい、なんなら普通に体は当たっちゃってる。

 サボンの香りが鼻腔を擽り、流れた髪が優しく俺の肩を撫でた。

 近い……。

 

「この方があったかいじゃない」

「そうかもしれんけど……」

「それとも、私に近づかれるのは嫌だったかしら?」

 

 微塵もそう思っていなさそうな口調。まるでこちらの心を見透されてるようで、背中のあたりがむず痒くなる。

 だが、事実として嫌なわけがないのだから、結局拒絶することもできなくて。

 

「嫌だったら無理矢理追い出してるし、なんなら俺から離れてるまである」

「ふふっ、そう」

 

 上機嫌にクスクスと微笑む雪ノ下は、視線をテレビへと向けた。俺も諦めてテレビに集中しようとしたが、まあ、出来るわけがないわな、こんなん。

 

 だって、すぐ隣に雪ノ下がいるのだ。本当にゼロ距離、触れ合ってしまうほど近くに。あれだけ恋い焦がれ、こういう関係になってもなお、強くなるばかりな想いを抱く相手が。

 隣にいてくれる。ただそれだけで、胸を満たすものがある。

 

 いやしかし、この状況本当謎だな。なんで俺、日曜の朝から雪ノ下とプリキュア観て仮面ライダー観てるの? 客観的に見たらヤバイでしょ。キラヤバでしょ。

 

「なあ、お前こんなの観て面白いのか?」

 

 気になって問いかければ、キョトンと小首を傾げる雪ノ下。可愛い。普段大人びてるくせして、こういう時だけあどけない、幼い子供のようにも見える表情をするのは、一体なんなんだろうか。俺を殺しに来てるんだろうか。多分そうなんだろうな。

 

 質問の意図がイマイチ掴めないのだろう。首の角度が戻らない雪ノ下に向けて、言葉を重ねる。

 

「や、こういうの、あんま興味ないだろ」

「ああ、そういうこと。たしかに、今まではあまり興味がなかったけれど。あなたは好きなんでしょう? この歳にもなって」

「おい、一言余計だぞ。お前マジで、今ので割と多くの人間を敵に回すことになるからな。気をつけろよマジで」

「望むところよ」

「望んじゃうかぁ……」

 

 なんでそんなに戦意高いんだよ。やっぱりこいつ、アマゾネスかなにかなのでは?

 

「人の趣味を否定するわけではないわ。そういった手合いの輩は滅びればいいと思ってるもの」

「ああ、うん。そうですね……」

 

 やけに冷たい声音で言い放ったあたり、こいつも自分の趣味を否定された経験があるのだろう。まあ、君もその歳にもなってずっとパンさんにご執心ですものね。人のこと言えないもんね。

 

「それで? 俺はこの歳にもなってこういうのが好きだけど、それがどうした?」

「どうして開き直ってるのよ……あなたが好きなものなら、私も観てみようと思っただけよ。食わず嫌いはいけないもの。あなたを始め、中高生や大人にも受けるのであれば、それ相応の理由があるはずでしょう?」

「いや、大体の大人は少年心を忘れられずに脳死で仮面ライダーカッコいいとか言ってるだけだと思うぞ」

「あなたの方こそ、多方面を敵に回しそうな発言ね……」

 

 頭が痛いとばかりに指でコメカミを抑える雪ノ下だが、いい歳した大人が仮面ライダー好きな理由なんて、大体そんなもんだろう。

 たしかにストーリーには目を瞠るものがあるし、子供に理解しがたい伏線やらが存在する。それらを楽しみにしている側面もあるとは思うが、男の子なんて結局みんな、カッコいいものが好きなのだ。

 デザイン初披露時には微妙だなんだと言いながら、動いてるところを見れば一瞬で心奪われる。そんな単純な生き物。光るそばマンとかマジでそれだった。

 

 とかなんとか適当にくっちゃべっていれば、一時間はあっという間に過ぎてしまい。仮面ライダーから戦隊シリーズまで、スーパーヒーロータイムが終了してしまった。

 

 そうなると、本格的にやることがなくなってしまう。元々今日は、ニチアサを観た後はポケモンの続きと洒落込もうと思っていたのだが、さすがの俺も今そうするほど空気が読めないわけでもない。

 

 なにより、せっかく恋人様が来てくれたのだ。もてなしの一つくらい出来なければ男が廃る。これ以上廃れようがないけど。

 

「そういやお前、カマクラに会いに来たんだったな」

「ええ」

 

 そのお猫様はどこへ行ったのやら。試しにこたつの中に突っ込んだ足を動かして探ってみれば、足先になにかが当たる感触が。

 だが、それは決してカマクラなどではない。もっさりもふもふ冬毛の感触とは、似ても似つかない。

 

「あの、比企谷くん……?」

 

 頬を薄く染めた雪ノ下が、困惑混じりの眼差しで俺を見つめる。どうやら雪ノ下も、こたつの中で足を伸ばしていたのだろう。俺の足が当たったのはそれだ。

 

 なぜか唐突に湧き上がってくるのは、羞恥心じみたなにか。別に、変なことをしているわけではない。たまたま足が当たっただけ。なんなら、上半身は殆ど密着してると言っていい。足の指先が当たっただけなのだ。

 

 だのに、自分でも分かるくらい顔が赤くなって、恥ずかしさやら照れ臭さで今すぐこの場から逃げ出したくなるのは、どうしてだろう。

 

「……悪い。中にカマクラいるかと思ってな」

「そう……」

 

 すぐ右隣にいる雪ノ下は、僅かに赤みが差した顔のまま、俯いてもじもじとしている。

 テレビからはよく知らない番組が流れ始め、けれど意識は完全に隣の恋人に向けられてしまったから、一体どんな番組なのかも分からない。

 

 そして、不意に。雪ノ下の体が、こちらに傾いてきた。肩に頭を乗せたわけではない。本当に、少し体重をかけてきただけ。

 それだけなら、まだ良かったのだけれど。今度はこたつの中に自分の手を突っ込み、その中にあった俺の手を取って指を絡める。

 

 突然過ぎる行動になにも言えずにいれば、雪ノ下は濡れた瞳で俺を見つめ、口を開いた。

 

「その、らしくないのは分かっているけれど。こうしていたい気分なの」

 

 さっきよりも紅潮した頬。その表情だけでなく、口調も。常より幼く感じられる。

 ただそれだけでダメだった。胸を射抜かれた、と言ってもいい。

 こいつは本当に、俺を殺す気なのだろうか。

 

 こんなに可愛くて、そんなに素直な言葉を吐いて。なら、俺だって。少しくらいは素直な気持ちを口にしないと。

 

「お前がそうしてたいなら、好きにすればいい。俺も、こうしてたい」

「……ありがとう」

 

 雪ノ下の隣にいる。こうして触れ合っている。ただそれだけなのに。

 まるで麻薬にも似たなにかが脳を刺激させ、幸せすぎてどうにかなってしまいそう。

 

 こたつの中でなにかがもぞもぞと動く気配がすれば、カマクラが俺たち二人の足を伝ってふてぶてしい顔を出した。そのまま雪ノ下の膝の上で丸くなる。羨ましいやつめ。

 

 そんな猫を見て、幸せそうに微笑む雪ノ下。カマクラを優しく撫でながらも、俺の手を一瞬だけ、ギュッと握る。それが繰り返されること五回。

 まさか、ブレーキランプの代わりだとでも言うまい。でもとりあえず、俺からも同じことを返す。

 細くて壊れてしまいそうにも錯覚する、小さなその手に。五回。

 

「ふふっ、私じゃなければ伝わらないわよ?」

「最初にやったのはお前だろ」

 

 この幸せな時間が、いつまでも続けば。

 永遠などないと理解していても、そう願わずにはいられない。

 

 そんな冬の、日常とは少し異なるひと時。



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はるのひ

14巻のネタバレありです。気をつけてね。


 全てが終わり、そしてまた始まった春。

 季節は巡り巡って、この部室にはまた、暖かな陽だまりがあった。今日も今日とて奉仕部は平常運転。プロムの後処理が終わればやることなんぞなく、家から持って来たラノベに視線を落としている。

 部長が変わって、顧問がいなくなって。形は変われど、結局奉仕部なんてのはこんなもんだ。依頼がなければなにもすることがない。

 

 今日も向かいで女子たちがやいのやいのと騒いでるのを尻目に見つつ、時たま振られた話題に相槌を打つ程度。三学期末から春休みにかけて、あれだけ色々なことがあったのに。こうしてまた、微笑ましい光景を眺めていることができる。うんうん、良かった良かったとベガ立ち後方彼氏面で眺めながら、いや彼氏面ってのも強ち冗談じゃねぇな、と自己嫌悪に似たなにかが湧き上がる。彼氏じゃないけどね? あくまでもパートナーだけどね?

 

 ただ、日によってはこっちの心臓に悪い話を振ってくるので、それだけは是非やめて頂きたい。

 

 ほら、今だって。こちらをチラリとみた小賢しいクズ間違えた可愛らしい後輩こと一色いろはが、口元をニタリと歪めている。

 いや、なんで君ここにいるの? お仕事は? また副会長が泣くぞ。でもあいつ、書記ちゃんとガチで付き合ってるっぽいし、どうせ今も書記ちゃんに慰めてもらってるどころか二人きりになれたぜひゃっほいとか思ってるんだろうな。舐めんな働け。

 

「そういえば雪乃先輩、先輩とはこういう場所に行かないんですか?」

 

 さっきからも話し声は聞こえていたが、その一色の声はやけに大きく、まるで俺にまで尋ねているような感じだった。

 

 聞かれたことが瞬時に理解できなかったのか、雪ノ下はキョトンと可愛らしく小首を傾げている。可愛い。対して雪ノ下の両隣を制圧、もとい挟み込んでいる由比ヶ浜と小町は、一色が指差した雑誌の記事を見て、ゆきのんなら一人で行ってそう、とか、兄も一人の方がいいって言いそうですねー、とか。なにやら好き勝手言ってるご様子。

 

 話を振られたり勝手に聞こえて来たりしていた内容から察するに、どうも彼女らは遊びに行く場所について話しているらしかった。

 らしかった、というのも、話を振られはするが別に誘われたわけじゃないからだ。いつものことである。悲しいね。

 

 ただ、一色が具体的になにを指して「こういう場所」と言ったのかは、イマイチ判別がつかない。ここからじゃ雑誌の中身なんて見えないから。

 

「行ったことはないし、行く予定もないわね」

「え、意外。ゆきのんだったら月一くらいで通っててもおかしくないのに」

「あなたは私をなんだと……」

 

 言って、しかし自分でもその言葉が苦しいと思ったのか、拗ねたようにそっぽを向く。そんな雪ノ下を見て、ガハマさんがまたゆきのん可愛いー! なんて言いながら抱き着く始末。ここ最近ゆいゆきが加速してる。もっとやれ。

 

 で、結局なんの話してるのん? とばかりに、女子の方をチラチラチラチラチラチーノしていたのだが、長机に置いていた雑誌を引ったくり、一色が俺の方へ持って来てくれた。

 

「これですよ、これ」

「……猫カフェ?」

「はい。なんか、最近オープンしたとこらしいんですけど、猫と言えばお二人じゃないですかー?」

「え、俺も? 雪ノ下だけじゃない?」

 

 俺は犬派猫派の争いに対しては中立の位置にいる。最近は猫の方が若干好きかなーと揺らぎつつあるが、それはカマクラを飼っているからだろう。それ以上の理由なんてない。

 だから、俺たちの間で猫と言えば雪ノ下。犬と言えば由比ヶ浜。カエルと言えば俺。くらいにはっきりと分かれていたはずだ。誰がヒキガエルだよ。

 

 しかし、これなら先程の雪ノ下が苦み走ったように拗ねたのも納得が行く。否定すれば自身の猫愛が揺らぐが、しかし肯定するのも恥ずかしくて憚れたのだろう。さすがゆきのん、面倒くさ可愛い。

 

「でもまあ、たしかに意外だな。雪ノ下なら週七で通ってても不思議じゃない」

「それもう毎日じゃん!」

「私も、そうしたいのは山々なのだけれど……」

「山々なんだ⁉︎」

 

 山々なんだ……。冗談で言ったつもりなのに、割とマジなトーンで返ってきたんだけど。こいつの猫愛、底知れなさすぎでは?

 

「じゃあなんで行かないんですか?」

 

 小町の発した純粋な疑問の言葉に、雪ノ下はフッと哀しそうに笑って、顔を伏せた。

 

「正気を保てる自信がないのよ」

 

 あー……まあ、猫一匹前にしただけでも、十分保ててないですもんね……めっちゃトリップしますもんね……。

 俺と由比ヶ浜はそんな雪ノ下の様子を知っているから、納得して変な苦笑いが出ていたのだけれど、それを知らない年下二人組は困惑するのみ。

 

「正気を保てないは、いくらなんでも言い過ぎじゃないです?」

「なんで先輩方はちょっと納得してるんですか」

「まあ、雪ノ下だからな」

「うん、ゆきのんだし」

「なんですかそれ……」

 

 一色が半ばドン引きした様子で、俺たち三人を見やる。相変わらず失礼な子だこと。

 だが瞬時にまた嫌らしい笑みへと変わるのは、さすがの一言だ。表情が忙しなくて見ていて飽きない。主に恐怖で。

 

「じゃあ、なおさらお二人で行かないとですねー」

「は? なんでだよ。話聞いてた? お前、猫を前にした雪ノ下がどんなんか知らないから、そういうこと言えるんだぞ」

 

 うんうん、と由比ヶ浜も強く頷いているが、そろそろ雪ノ下が居たたまれなさで縮こまって来てるから、せめてガハマさんだけは同意しないであげてね?

 

 だがそんな俺たちを前にしても、一色は引かぬ媚びぬ省みぬとばかりに畳み掛けてくる。

 

「正気失うほどでしたら、先輩が一緒にいれば安心じゃないですか。なんたって、パートナー、なんですし?」

「んぐっ……」

 

 変な声が出た。やめて、いろはすやめてその辺りはデリケートなの。ガハマさんはちょっと不服そうにこっち見ないで。それ一番反応に困るやつ。小町はなんで呑気にお茶飲んでるの? 愛しのお兄ちゃんがピンチなんだよ?

 

 なんて、そんな思いがこいつらに届くわけもなく。どうです? と頬を薄く染めた雪ノ下へと視線を送る一色。

 だが、雪ノ下が返事を返すよりも前に、下校のチャイムが部室に響いた。

 

「今日は終わりにしましょうか」

「あ、逃げた! ていうか、雪乃先輩は今部長じゃないから、終わるかどうかはお米ちゃんが決めるべきだと思いますけど!」

「そのあだ名まだ使ってたのか……」

 

 ヒッキーよりは八万倍可愛いけど、お米ちゃんってどうなの。

 

「まあまあ、今日はこのくらいにしといてあげましょうよ」

 

 むむむ、と唸りつつも、お米ちゃんこと小町からも言われてしまえば、一色も引き下がらざるを得ない。帰り支度を始め、いそいそと雑誌をカバンに詰め込む。

 だから、なんでカバンまで持ってきてるんだよ。それは本来生徒会室にあって然るべきだろ。さては君、今日は全く仕事してないな? なんだいつも通りか。さすがに副会長に同情してしまう。

 

 湯呑みやらカップやらの片付けも終え、戸締りをすれば鍵は現部長と生徒会長に任せ、残った俺たち三人は昇降口へと向かった。

 既に寒さもどこへやら。しかしそれでも、由比ヶ浜は雪ノ下にべったりくっ付き、雪ノ下も多少嫌そうにしながらなされるがままだ。

 

 その様子を眺めながら、三歩後ろを歩く俺。実に大和撫子だ。三歩後ろを歩かせたら右に出るものはいないだろう。なぜならそいつらよりも更に三歩後ろを歩くから。結局合計三歩以上後ろだなこれ。

 

 やがて校門も通り過ぎ、バス通学の由比ヶ浜と別れれば自然、二人きりになる。

 そういう時間が、自然と増えていた。

 雪ノ下と二人きり。この放課後も然り、休日も然り。なにせ、俺は残りの人生全てを捧げた身だ。あちらから呼び出しがあれば、俺に拒否する権利などない。今はそうしようとも思わない。

 まあ、ははのんからの呼び出しは丁重にお断りしたかったのだけど……。

 

 元気印がいなくなったことで言葉少なになりながらも、決して不快ではない沈黙が降りる。周囲からは車のエンジン音や同じ制服を着た男女の話し声、公園から帰る子供達のはしゃぎ声なんかが聞こえてきて。そんな光景を、紅く燃える夕陽が照らしていた。

 

「そう言えば」

 

 ふと思い立って口を開けば、雪ノ下が不思議そうにこちらを見上げてくる。幼気なその表情が、酷く愛らしい。

 

「猫カフェ、行きたいんだろ?」

「どうしたの、突然」

「いや、お前が行きたくないわけないよなぁ、って思って」

「それは、そうだけれど……」

「んじゃいつにするか決めとこうぜ」

 

 するりとそんな言葉が出た自分に、少なからず驚く。半月前の海浜公園とも、雪ノ下から休日に呼び出されるのとも違う。

 理由や建前もなく、俺からそんな提案をするなんて。

 

 いや、だからなんだという話だ。今更、そこに拘泥したって仕方ない。俺はもう、言葉としてこいつに伝えてしまっているのだから。

 関わりを絶ちたくないと。手を離したくないと。不意にフラッシュバックして悶え死にそうになるが、結局それが俺の意志であることな変わりなくて。

 

 だから、休日だろうがなんだろうが、雪ノ下雪乃と一緒にいたいと思っている。

 

「俺はいつでもいいけど、お前は?」

「私もいつでもいいわ。今週の土曜あたりにする?」

「ん、土曜な。空けとく」

「埋まる可能性なんて、万に一つもないでしょう」

「うっせ」

 

 ぐうの音も出ないほどその通りなので、せめてとばかりに口をへの字に曲げてみた。それが面白かったのか、雪ノ下の楽しそうな笑い声が、夕焼けの下に響き渡る。

 そんな彼女につられて、気づけば俺も笑顔を浮かべていた。

 

 

 ◆

 

 

「ひきがやくん」

「おう、比企谷くんだぞ」

「ねこ、ねこがたくさん」

「そうだな。沢山いるな」

 

 瞳をキラキラに輝かせ、どこか舌ったらずな物言いをするのは、目の前に広がる光景に圧倒された雪ノ下雪乃。

 可愛いが天元突破してて録音しておきたかったのだが、ここではそれも叶わない。

 

 さて、土曜日。早速正気を保ててなさそうな雪ノ下を連れてやって来たのは、最近出来たらしい猫カフェ。見事に一色の策略通りと相成ったわけだが、そこはこの際置いておこう。なんでって雪ノ下が可愛いから。

 雑誌に載ってるくらいだから、もしかしたらそれなりに人いっぱいかも、と覚悟していたのだけど。どうやら丁度空いている時間に来れたらしい。俺たち以外には二組の客がいるだけだ。

 

 その猫カフェの入り口、店員さんから説明を受けた雪ノ下を待ち受けていたのは、もちろん猫だ。一匹どころではなく、十匹近くの猫が店内を彷徨いている。

 

 キラキラというか、もはやギラギラとマジな目になっている雪ノ下の手を、ギンギラギンにさり気なく取って席へと移動した。

 この店はワンドリンクオーダー制で、少なくとも飲み物は必ず一つずつ頼まなければならないらしい。あちこちを闊歩してる猫に目を奪われてる雪ノ下に、飲み物を頼む余裕なんぞなさそうだが。

 

 代わりに適当な紅茶を二つ頼んで、改めて雪ノ下へと向き直る。今すぐにでも猫のいる場所へと飛び出して行きたいのか、ウズウズしているのは微笑ましくて大変可愛い。

 

「行ってきていいぞ」

「いいの?」

「おう」

 

 微苦笑を浮かべながら言えば、雪ノ下はてくてくと歩いて猫たちが寛いでいる一角に足を踏み入れた。

 新たな来客の気配に寝ている猫は目を覚まし、転がっているボールに夢中だった猫すら、雪ノ下の近くへ寄って行く。あれよあれよと出来上がった雪ノ下ハーレム(猫)。

 

「ひきがやくん……!」

 

 天使たちに囲まれてテンションが有頂天になったのか、その顔に感激の色を浮かべてこちらに視線を寄越す。

 自然、俺も柔らかい笑みが漏れていた。先日のプロムでは、こいつに随分と無理をさせてしまったから。これは、そのささやかな労いのようなものだ。

 

 テーブルに紅茶を二つ運んできた店員さんも、微笑ましく雪ノ下を見ながら去って行った。猫カフェの店員としては、彼女のように心底から猫を可愛がってくれる存在は大変好ましく思えるだろう。雪ノ下の見た目がいいのも、それに拍車を掛けているだろうが。

 

「にゃー、にゃー」

「なぁー」

「みぃ」

「うなー」

「ふふっ、ふふふっ、にゃー」

 

 しかし、このままでは雪ノ下のあまりの可愛さに死人が出かねない。被害者は主に俺。俺しかいないまである。

 

 猫と戯れてる雪ノ下、いい。非常にいい。尊みが深い。

 思考も語彙も遥か彼方へと捨てて、ただ雪ノ下を愛でるだけの存在となってしまった俺。限界オタクっぽさがある。まあ、俺は雪ノ下の限界オタクみたいなところあるからな。

 因みに雪ノ下限界オタクの会としては、その他にも由比ヶ浜やら一色やら小町やらが参加している。嘘、してないしそもそもそんな会はない。

 でもあいつらも雪ノ下限界オタクみたいなとこあるし……。

 

 せめて彼女らにもこの光景を見せてやりたい。そう思ってスマホを取り出し、カメラアプリでパシャリと一枚。ついでにもう一枚撮って、猫の位置が変わったので更に一枚。

 そうやって撮り続けていると止め時が分からなくなり、さすがに雪ノ下に気づかれ、カメラ越しに目が合う。

 

 ちょいちょいと手招きする雪ノ下。っべー、自分、またなんかしちゃいました? と心の中ですっとぼけながら雪ノ下ハーレム(猫)に加わると、スッと手を差し出された。

 

「写真、撮ってたのでしょう? 見せて」

「後でも良くない?」

「いいから」

「はい」

 

 有無を言わさぬ圧力に負け、スマホを差し出す。相変わらずパスワードロックなんて設定してないスマホちゃんは哀れにも容易く中へと侵入され、先程俺が激写した数枚の写真が雪ノ下の目に映る。

 うんうん頷きながら、一枚ずつ検閲しては、納得のいかないものを消して行く。その様を眺めるだけというのもなんなので、俺も近くの猫と戯れていれば。

 

「比企谷くん」

「ん?」

 

 不意に腕を絡め取られ、雪ノ下の体が一気に近くなる。あ、これ八幡知ってる! とか思った頃には、掲げられたスマホがパシャリと音を鳴らした。

 

 撮れたばかりの写真を見て、むふーと満足げに息を吐く雪ノ下。猫たちも写真に興味があるのか、はたまたスマホ自体に興味があるのか。雪ノ下の手の中を覗いている。

 

 そんな中で、ただ一人。俺はぶわっと赤くなった頬を両手で隠してうなだれた。

 

「お前マジで本当そういうところさぁ……」

 

 マジで、なんなの? 急にするの止めてってこの前言ったよね? 心臓に悪いんだってマジで……。

 しかもこの前と違って、まだ腕組んだままだし。店員さんとか客の老夫婦のお二人とかが微笑ましくこっち見てるんだよなぁ。

 

 俺の言葉と、周囲からの視線にも気づいたのだろう。ハッとなった雪ノ下はゆるゆると組んでいた腕を解く。ちょっと名残惜しそうにするのもやめてマジで今度は俺から腕組みに行っちゃいそうでしょ。

 

 僅かに開いた距離。そこに一匹の猫が入り込み、にゃーっと鳴いた。

 

「……はい、これ」

「おう……」

 

 視線はその猫へと固定されたまま、けれど赤くなった頬は隠しきれておらず、俺にスマホを返す。

 画面に表示されたままの写真を見れば、ああ、なかなかどうして悪くはない。薄く笑んだ彼女と、素っ頓狂な顔をしてる俺。そしてそこかしこに映り込むのは愛らしい猫。

 

「ダメだな、俺の目が死んでる」

「やっぱり。何度撮っても同じじゃない」

 

 言って、二人して吹き出す。不思議そうに見上げる猫には、俺たちがどう映ってるのだろう。この写真のように、不器用な二人組か、それとも。今笑い合ってるように、仲睦まじく見えてるか。

 

 俺の膝に顔を擦り付けてくる猫の小さな頭を撫でて、心の中で一人思う。

 残念ながら、前者ではなく後者だ。それも、お前ら猫が思ってるより、ずっと仲睦まじい二人だぞ。

 

 ところでそこのアメショ、お前は誰の許可を得て雪ノ下の生足に頬擦りしてるんだ? 戦争になるぞ?

 

 

 ◆

 

 

 時間制の猫カフェには、入店から二時間ほど経ってお暇となった。

 店員からそろそろ時間ですと告げられた雪ノ下の顔は、それはそれは絶望に満ちていて。あんなにも哀しそうに、諦めたように微笑んだ彼女を見たのは、いつぶりだろう。割と最近見たことあるわ。

 俺との揉め事と猫との別れがまさかの同列だったことに若干のショックを受けながらも、後ろ髪引かれる雪ノ下の手を半ば無理矢理引いて店を出た。

 

 結果、離すタイミングも上手く分からず、駅までの道のりも、電車に乗ってからも、雪ノ下を家まで送り届けている今も、ずっと手を繋いでいる。

 

 触れているところから伝わる熱が、たしかな想いを届けてくれる。

 あの時はその場の空気とかもあったから、まあ、納得できなくもないけれど。

 今、こうして二人、隣り合って歩いているだけでも。

 

 それは些か以上に照れ臭くて、表面上ではいつもの会話を交わしつつも、背中のあたりがむず痒いままだ。

 

 だって、こんなにも届けてくれるのだ。その熱が、その感触が。ならば必然、その逆も然り。彼女にだって、届いているだろう。

 決してあの一言では言い表せられない、大きな感情が。

 

 それでも、一度。言っておくべきだと思っている。そこに全てを押し込めるわけではなく。ただ、その一部を伝えたいだけ。

 言い逃げされて、それで終わりというわけにもいかない。あちらから急かされたわけではないけれど。

 

 やられたら、やり返す。

 

「ねえ、本当にお金、良かったの?」

「良かったの。どうせ親から貰った金だしな。実質俺の財布は減ってない」

「それで私が納得すると思っているのかしら……」

 

 店を出てからも一度交わしたやり取りを、こうして意味もなく繰り広げている。いつも通りの、ただのじゃれあいのようなものだ。

 

「ならあれだ。この前のタピオカの余り分。それでいいだろ」

「それだと今度は、こちらが多く受け取ることになるのだけれど」

「そのうち、また別の形で返してくれたらいいよ」

 

 そうやって、何度となく繰り返す。受け取ったものよりも余程過剰に返して、それよりもさらに多くを、また受け取って。

 そうやって、日々を紡いでいく。終わることなく。終わらせることなく。

 

 いつだか、由比ヶ浜も言っていたことだ。あれは、誕生日プレゼントのお礼だったか。それだといつまで経っても終わらないと返した俺に、彼女は終わらなくてもいいと答えた。

 今なら、その気持ちが分からないでもない。とは簡単に言えないけれど。

 

 雪ノ下とは長い付き合いになるのが確定している。俺の人生全部を使って、こいつの人生を歪めた責任を取ると。俺の意志で決めたのだから。

 捨てられない限りは、と注釈がついてしまうのはご愛嬌。

 

「まあ、それもそうね」

 

 柔らかくはにかんだ笑顔には、少しの呆れと、それ以上の喜色があったように見えた。

 

 それからしばらくもせず、雪ノ下が住むマンションの下へと辿り着く。まだ日は昇ったままとは言え、今日の目的は達した。

 なら、ここでお別れ。また月曜日。

 いつもならその筈なのだけれど、今日は少しだけ、言うべきことがあるから。

 

 なにかを感じ取ったのか、雪ノ下は怪訝そうに俺を見ている。

 繋いでいたその手を離せば、小さくあっ、と言う声が漏れ聞こえた。だからそう言うの、マジで理性がゴリゴリ削られるからやめてね? 理性の化け物も不死身じゃないんですよ?

 

「比企谷くん? どうか、した?」

「いや、ちょっとお前に言い忘れてたことがあってな」

 

 遠慮がちな問いに、つい苦笑を漏らして返す。頭をガシガシと掻いて込み上げてくる羞恥心にも似た自己嫌悪を抑えつけた。

 そんな言葉一つにしてしまっていいのか。枠に当てはめていいのか。

 相変わらず顔を覗かせてくる自意識の化け物を、己がわがまま一つで捩じ伏せる。

 

 改まったように向き直った俺を見て、雪ノ下が小首を傾げた、その瞬間に。

 

「俺も、お前のこと好きだ。雪ノ下」

 

 ボフン。そんな音が聞こえるくらい真っ赤になった顔。パチパチと目を瞬かせてはいるけれど、完全にフリーズしてしまっている。

 中途半端に開かれた口は、どこか間抜けにも見えてしまって。

 

 彼女が再起動を始めてしまう前に、俺は背中を向けた。

 

「じゃあ、また月曜な」

 

 言って、軽く駆け足で駅へと向かう。想像以上の羞恥心を誤魔化すために足を動かす。

 

 あの場で逃げてしまった面倒くさ可愛い雪ノ下の気持ちが、嫌でも分かってしまった。こりゃ逃げ出したくなって当然だ。しかも、俺は後出しのような形になってしまったが、あいつは自ら先んじて言ってみせたのだから。

 

 その覚悟たるや。そして後に襲ってきたであろう羞恥心やらなんやら。想像するだに恐ろしい。

 

 それでも、伝えた。俺の中で渦巻く巨大な感情の、その中の一部だけを切り取って。こんなセコい手を使って。

 きっと、ちゃんと分かってくれる。希望的観測などではなく、そうあって欲しいと幻想を願うわけでもない。

 

 雪ノ下雪乃なら、分かってくれると。確信めいたものが、俺の中にはあった。

 

「なんたって、パートナー、だからな」

 

 足を止めて呟いた言葉は、暖かな春の日差しの中へと溶けて消えた。

 

 さて、月曜日はどんな顔してあいつと会おうか。どんな言葉を掛けられるだろうか。

 少し楽しみになってしまってる辺り、俺も随分と歪んでしまったのだろう。



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湯たんぽのん

いい夫婦の日に書いた八雪


 最近めっきり冷え込んできた11月の朝。

 目が覚めたのは、隣にあるはずの温もりがなくなっていることに気づいたからだった。

 湯たんぽさながらの彼女を抱いて寝ていたのだが、どうやらうまく抜け出されたらしい。扉の向こうからは微かに音が聞こえる。朝食を作ってくれているのだろう。

 

 置き時計に視線を向ければ、まだ七時前。カーテンの隙間は僅かに白んでいる程度。静かに朝焼けが大地を包んでいる。土曜日、休日に起きるような時間ではないのだが、目が覚めてしまった以上仕方ない。

 体を起こして掛け布団を取れば、僅かな寒さに身を縮こませる。肌を刺すような、と言うほどでもないが、寒いものは寒い。

 やっぱりもうちょっと寝てようかな……まだ七時だし、飯出来たらそのうち起こしてくれるだろうし……。

 

 目の前にあるお布団ちゃんの誘惑をなんとか退け、部屋を出る。途端いい香りが鼻腔を擽り、自然と顔がにやけていた。

 その香りにつられてフラフラと歩く俺は、さながら誘蛾灯に誘われる虫だ。この歳になっても未だクズっぷりが健在の矮小な俺は、むしろ虫要素しかないまである。

 

 リビングを通過してカウンターキッチンまで辿り着けば、そこではエプロン姿の妻、比企谷雪乃が味噌汁を作っていた。

 

「あら、起きたのね。おはよう」

「ん、おはようさん」

「今日は随分早いじゃない」

「湯たんぽなくなって寒かったからな」

 

 くぁ、と小さくあくびをすれば、雪乃は料理の手を止めずに小さく微笑んだ。

 

「なら今度からは、もう少し早く起きることにしましょうか」

「休みの日くらいはゆっくり寝かせてくれません? てか、お前ももうちょい寝てていいんだぞ」

「目が覚めてしまうのよ。この時間に起きるの、昔から習慣だったから。それより、さっさと顔洗って来なさい」

 

 ういうい、とうめき声じみた返事をしつつ、来た道を戻って洗面所へと向かう。

 鏡台の前に立てば、そこには目が腐りに腐った男の顔が。冷や水を顔にぶっ掛ければ多少はマシになるかと思ったが、残念なことに一度腐ったものは元に戻らない。

 

 その代わり、脳内は完全に覚醒していた。冬の冷水は寝起きに効く。これを毎朝繰り返していれば嫌でも目が覚めてしまい、仕事という現実に直面することができるのだ。安易に社畜を作り出す理想的なシステム。クソじゃん。

 

 しかし、今日の俺は休日。誰がなんと言おうと休日だ。上司から電話がかかって来ても取るわけないし、仕事に関連するワードは頭の中からデリートされている。

 おしごとってなーにー? とか純粋な目で聞いちゃうまである。

 

 ふと、視線を巡らせてみた。

 たとえば、歯ブラシ。置いてあるのは二本。二人分。当然だ。だって雪乃と二人で暮らしているのだから。

 ただ、その当然のことが、俺の胸を形容しがたい感情で満たす。幸せと一言で表すには、あまりにも大きすぎるそれ。

 

 結婚生活一年目。それどころかようやく一ヶ月経ったくらい。世間一般的には、一番幸せな時期なのだろう。互いの嫌なところがまだ見えておらず、恋人同士だった頃の空気そのままに一緒に暮らして、周りの目も一顧だにせずイチャつくような時期。

 

 それは俺たちに当てはまらなかった。そもそも、世間一般から乖離することに定評のある俺たちだ。相手の嫌なところなんて、過去散々見てきた。何度もぶつかり合ったし、その度に互いを知った。

 

 そうして今がある。

 

 だから正直、新婚ホヤホヤのイチャイチャ夫婦、みたいなのは全くない。もはや熟年夫婦だよね、とか由比ヶ浜に言われてしまったまである。一方で一色からは、結婚前も結婚後も人目も憚らず普通にイチャついてるじゃないですかリア充爆発してください。とか言われたりしたから、ちょっと俺には判断できないですね。

 少なくとも、嫁を湯たんぽにして寝るのは普通なはず。普通だよね? セーフよりのセーフだよね?

 

 鏡の向こうの俺に問いかけても、答えなど返ってくるはずもない。どうやらミラーワールドの俺もコミュ障を極めているようだ。俺自身との対話すら拒むとは。

 いや、ミラーワールドの俺なら拗らせぼっちじゃなくて、葉山みたいになってんのか……なんか嫌だな……ガードベントに使われたらいいのに。そこにいたお前が悪い。

 

 などと馬鹿なことを考えながらもリビングに戻れば、朝食を作り終えたらしい雪乃は配膳に取り掛かっていた。

 思ったよりも洗面所で時間を潰してたらしい。急いで駆け寄り、それを手伝う。

 そんな俺を見て、クスリと微笑む雪乃。なんかそう言うのは未だに照れ臭いけどめっちゃ可愛いので、是非今後とも続けてもらいたい。

 

「別にいいのに」

「そう言うわけにもいかないだろ。てか、何回目だよ。朝のこのやり取り」

「さあ? 結婚してから殆ど毎日な気がするわね」

「だなぁ……」

 

 つまり、少なくとも三十回以上はしてることになる。もはや一種の通過儀礼のようになっている感も否めないが、それでも手伝おうという気持ちに嘘はない。

 亭主関白なんてこのご時世流行るわけがないのだ。夫婦は手を取り合って、などと言うと綺麗事めいて一気に胡散臭くなるけれど、それでも一種の真実であるのはたしかだろう。

 

 自分にまつわるなにかを、自分以外の誰かに任せきりにしてはいけない。手を借りるのはありだ。手を貸すのも、差し伸べるのも悪いことではない。

 それを、今は思い出の中で大切にしまってある、あの高校生活で学んだ。

 

 魚を捕まえてやるのではなく、捕り方を教える。今となっては懐かしい。八年近く前の思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消え……。

 いや、消えたらだめだろ。それもう走馬灯じゃん。俺死ぬの?

 

 結局二人で配膳して、机について頂きます。いつもいつでも絶品な朝食を平らげ、また二人で片付けと洗い物を済ませる。

 キッチンに並んで立ってるのがなんだかおかしくて、二人して意味もなく吹き出してしまったり。

 

 そうこうしてるうちに時間は八時半。これが日曜ならウキウキしながらプリキュアを見ているところだったが、残念ながら今日は土曜日だ。特にやることなんぞなく、ソファで雪乃の淹れた紅茶を飲みながら、二人でまったり過ごす。

 

「今日はどうしましょうか」

「なんも予定ないもんなぁ……外寒いから、家出る気も起きねぇし」

「あなた、今からそんなでどうするのよ。これからもっと寒くなるのよ?」

「ほんとそれな。寒いのマジ無理。人間が生きていい環境じゃねぇよ。お布団から出たくない」

 

 ジメッとした声で返せば、隣の雪乃がこめかみを抑える。うん、ごめんね? 旦那がこんなに出不精で。

 だが、寒いのが嫌なのは嫌だし、家からどころか布団からすら本当は出たくないのも本音だ。なにせヒッキーのあだ名を欲しいままにする男だからな、俺は。

 

「つーわけで、今日は一日ゴロゴロしてようぜ」

「どういうわけなのよ……洗濯とか掃除とか、やることはあるのだけれど」

「明日に回せそんなん。どうせ明日は日曜日、つまりは休日だ。時間なんぞいくらでもある」

「全く……」

 

 そうは言いつつも、雪乃は口元で微かに笑みを作っていた。俺でなきゃ見逃しちゃうね。嘘、多分由比ヶ浜とかでも気づく。この表情の変化を見破ってこそ、雪乃検定一級の資格を得ることが出来るのだ。

 

 そんな彼女の手を引いて寝室へと向かう。さきに布団に潜り込んで、はよはよとばかりに隣を叩けば、苦笑を漏らしつつもそこへ横たわる雪乃。

 

「まあ、たまにはこんな休日も、いいかもしれないわね」

「毎日こんな休日でも構わないけどな、俺は。毎日が日曜日で歯医者さんはずっとおやすみなのを夢見てたよ」

「今は?」

「現実って残酷だよなぁ……」

 

 やな宿題は全部ゴミ箱に捨てれても、やな締め切りは捨てることが出来ないのである。不思議な力が湧いてないからね。仕方ないね。

 

 クスクスと楽しそうに笑っている雪乃を胸に抱き寄せれば、やはり湯たんぽのように暖かかった。実家でもこうやってカマクラを湯たんぽ代わりにしたことあったなぁ、と思い出すが、カマクラは嫌がってすぐ抜け出そうとしていた。

 対して雪乃は嫌がる素振りなど微塵も見せず、どころか俺も湯たんぽにしてやろうと思っているのか、自分からも抱きついてくる。

 

「ここに猫がいれば完璧なのだけれど」

「俺だけじゃご不満か?」

「そうね。でも、今だけは我慢してあげる」

 

 言って、小さく唇を触れ合わせると、雪乃は目を閉じた。こいつの寝顔はびっくりするくらい可愛いから、今はともかく寝起きに見ると心臓に悪い。

 

 随分とまあ、満足そうな顔しやがって。不満なんて微塵も抱いてなさそうだ。それは俺も同じなのだけど。

 

 雪乃に倣って目を閉じる。次に目が覚めるのは、何時頃になるだろう。どちらが先だろう。何時でも、どっちが先でもいいか。

 

 思考を放棄し、腕の中の温もりを感じていれば、いつしか微睡みの中へと落ちていった。



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甘えん坊の比企谷くん

 昔、こんな俗説を見たことがある。

 曰く『長男に生まれた人は甘えん坊』だとか。当時の私はかなり首を傾げたものだ。だって、私の少ない交友範囲の中にいる長男といえば、人に甘えるなんぞ言語道断。自分のことは自分でやるべき、他の誰かなんて信じられるはずもないのだから。とか、そんな感じの男だったから。

 

 他にも色々と屁理屈を付け加えて、絶対になにかに甘えることを良しとしない。そのくせ人のことは甘やかすのだからタチが悪いのだけれど。

 

 ええ、本当に。人が頼んでもないのに甘やかしてきて……たしかに彼から頭を撫でられたりするのは、心地よくて好きだけれど……でも私にだって心の準備が必要というか、いつでもどこでもやって欲しいわけでは、まあ、あるのだけれど。

 

 閑話休題。

 以前は首が真横になるまで傾げたものだが、今となってはその俗説も、正しかったと言わざるを得ない。

 なんてことを思いながら、向かいに座って朝食を食べる男の顔をジロジロと見ていれば。さすがに居心地が悪かったのか、一度箸を置いて私に視線を返す。

 

「なあ」

「なに?」

「いや、そんなに見られてたら食いづらいんだけど……」

「気にしないで」

「無茶言うな。なに、なんか言いたいことでもあんの?」

「あったらすぐに言ってるわよ」

 

 そうだな、と簡単に納得して、彼、比企谷くんは再び箸を取った。もしゃもしゃと美味しそうに食べるその様は、作った私からすればとても嬉しいし、とても微笑ましい。

 

 だからつい、クスリと笑みが漏れてしまったのだけれど。それがいけなかったのか、比企谷くんはまるで無理矢理抱かれた猫のように身をよじる。

 それが、私の嗜虐心を煽るとも知らず。

 

「随分と居心地悪そうに食べるのね」

「元凶がなに言ってんだ……」

「もしかして、お口に合わなかったかしら……?」

「思ってもないことを聞くのはどうかと思うぞ」

 

 少し芝居掛かった口調が、あまりにもわざとらしかったのだろう。比企谷くんの顔に苦笑が浮かぶ。それにつられて私の顔にもまた笑みが。

 

 穏やかな食事風景。同棲を始めてからずっと続いている、心休まる時間。

 この時に限らず、あなたといる時の全てが、私にとってそうなのだけれど。

 

「で、マジでなんなの? 俺の顔になんかついてる?」

「ご飯粒でもついてたら取ってあげてたところだけれど」

「まあ、男子的に憧れるシチュエーションではあるな。やってくれれば八幡的にもポイント高い」

「だからと言って、わざとつけるのはなしよ」

「んなあざといことしねえよ。そう言うのは一色だけで十分だろ」

 

 どうかしら。あなたもそれなりに、あざといところがあると思うのだけれど。

 本人に自覚がない辺りが重症だ。さすが千葉のお兄ちゃん、と言うのかしら?

 

「ではなくて」

「じゃあなに」

「ちょっと思ってたのよ。あなたって、意外と甘えん坊よね、って」

「……」

 

 途端、なんとも形容しがたい表情がそこに。困惑と驚愕を綯い交ぜにして、ちょっぴり恐怖を含ませたような。ともかく、納得のいってなさそうな顔。

 

「病院行くなら付き合うぞ?」

「失礼ね。どこも悪くない健康体よ」

「なら今日の天気予報はハズレか……」

「バカにしてるでしょう」

「全く」

 

 なにがなんでも認めたくないらしい。こうして話を逸らそうと意地になってる時点で、もう認めてしまっているようなものなのだけれど。それに気づいてる様子もない。

 

「俺のどこをどう見たら甘えん坊に見えるんだよ。ロジカルシンキングで論理的に説明しろ」

「そうね、例えば……」

 

 そう、例えば。

 私は置いていた箸を取り、腰を上げて少し身を乗り出す。比企谷くんの鮭の塩焼きに箸を入れて身をほぐし、それを摘んで口へと持っていった。

 

「はい、あーん」

「……?」

 

 怪訝そうな顔をしながらも、素直にパクリと食べてくれる。餌付けしてる気分でいいのよね、これ。

 

「ほら、こう言うところ」

「……」

 

 もぐもぐしながら眉をひそめているが、反面頬は赤く染まり出している。可愛い。

 その表情を見る限り、まだ納得できないようだ。私からあーんされて素直に食べちゃうとか、十分甘えん坊だと思うのだけれど。まあ、これは彼から求められたわけではないものね。甘えた、とは言い難いかしら。

 

「まだ納得行かないようね」

「まあな。今のはお前が勝手にやっただけだし」

「なら他にも理由を提示しましょうか」

「あるとは思えないけどな」

「そう言っていられるのも今のうちよ」

 

 ふふっ、と含みのある笑みを見せ、私はご飯を食べる手を進めた。

 それを見て頬が引き攣ったような笑顔を浮かべる比企谷くん。失礼ね、そんなに酷いことはしないわよ。

 

 

 ◆

 

 

 とはいえ。

 私が彼に提示できるものは、二つしかない。その二つだけを見れば、十分に彼が甘えん坊だと分かってくれるだろうけれど、頑固な彼が認めるかはまた別だ。

 どうせ、たった二つだけでなんも証明できてないだろ、とか屁理屈にもならない言い逃れをするはず。

 

 それは分かっているけれど、せっかくの休日だ。私だって、少しくらい彼とゆっくりまったり過ごしたいという欲求がないこともないので。

 

 朝食を食べ終えてから、少し時間が経過した十時半。土曜日のこの時間は比企谷くんにとって大切な時間。あとは日曜日の八時半からとかも大切。

 何故なら、彼の大好きな女児向けアニメを観る時間だから。

 

 ……字面だけみると怪しさ満点ね。比企谷くんが好きだからと、なにも言わないでいるけれど。腐った目で女児向けアニメを観ながら涙を流してる様を初めて見たときは、さすがに通報しそうになった。

 いえ、人の趣味にとやかく言うつもりはないのよ? けれど、ねぇ? 思うところがないわけでもないし。

 

「……今日も最高だった」

「毎週言ってるわね」

「毎週最高だからな……」

 

 余韻に浸るように天井を仰ぎ見る比企谷くんは、いい……と小さな声で何度も漏らしている。曰く、この時は限界オタク? たら言う状態らしい。私にはよく分からないのだけれど、パンさんを見た後の私もこんなだとか。

 

 やがて長い息を吐き出してマッカンを煽った比企谷くんが、その身体をゆっくり横に傾ける。隣に座っていた私の膝へと、そのまま頭が着地。いわゆる膝枕と言われる状況に。

 私も慣れてしまったもので、自然と彼の髪へと手を伸ばしていた。

 

 そう、慣れたのである。それ即ち、日常的に行われているということで。

 

「こういうところよね」

「なにが」

「あなたが甘えん坊なの」

「……」

「逃げようとしないの」

 

 浮き上がりかけた身体を、無理矢理沈める。いつもは普通に心地好さそうにしてるくせに、今だけは真っ赤にして、くっ殺せ! とか言い出しそうな顔だ。

 

「いつも通り甘えておきなさい」

「いつも甘えてるつもりはなかったんだが……」

「じゃあどういうつもりだったの?」

「それは、ほら、アレだよアレ。まあ、アレだ」

「どれよ」

 

 本当にどれよ。アレ、で済まそうとすれば、結局甘えてたってことになるけれど。

 

「まあ、どれでもいいけれど。私はこうして、あなたの頭を撫でてるの、好きよ?」

「んぐっ……」

 

 あっという間に耳まで真っ赤っか。なにを今更、この程度の愛情表現で照れているのか。

 割と素直に言葉に出してきたつもりではあったけれど、どうやらまだ足りないらしい。一度、恥ずかしさで死ぬ一歩手前くらいまで追い詰めてやろうかしら。

 

「もちろん撫でられるのも好きだけれど」

「じゃあ交代だな。俺が膝枕してやるから、そろそろ解放して。マジで、なんか恥ずかしくなってきたし、ね? そろそろやめよ?」

「ダーメ。私が満足してないもの」

 

 吐き出されたため息は、諦めによるものか。はたまた別の何かか。どちらにせよ、比企谷くんは黙って私に撫でられることにしたようだ。

 

 わしゃわしゃなでなで。ふふっ。

 

 

 ◆

 

 

 夜。一日を怠惰とも取れるほどまったり過ごした後は、もはや寝るだけ。明日もお休みだし、少しくらいなら夜更かししても構わないのだけれど。

 

 夜更かししても、構わないのだけれど。

 

 ただ、そうしてしまうと彼の甘える姿を証明出来なくなってしまう。私の方が甘えてしまう始末。それではダメだ。今日は彼がどれだけ甘えん坊かを証明する日なのだから。

 

「ふぁ……そろそろ寝るか」

「ええ」

 

 結局お昼まで私の膝でうたた寝していたのに、どうやらこの男はまだ寝足りないらしい。さすがヒッキーの名を欲しいままにしていただけはある。引きこもりに関することならお茶の子さいさいということかしら。

 どうでもいいけど、お茶の子さいさいってきょうび聞かないわね……。

 

 リビングの電気を消して、二人で寝室へ。

 ダブルベッドに慣れるまでは随分と時間がかかってしまったけれど、今となっては彼の隣じゃないと眠れないほど。

 安眠効果で一家に一台比企谷八幡。ダメ、比企谷八幡は私だけのものよ。

 そもそもこんなのが複数人いたら、私でも手が余るもの。

 

 二人でベッドに横たわり、布団を被ってぴったりくっつく。すぐそこに感じられる彼の体温が、身体よりも心をポカポカさせてくれる。

 彼の大きな手が私の髪を撫でて、肩を抱いて、やさしいキスを交わす。

 いつかどこかで聞いた歌の通り。この瞬間は、いつもいつも、大切にされていると実感できる。

 

 彼の手が私の背中まで回って、ギュッと抱きしめられれば、後はおやすみをするだけなのだけれど。

 

「ふふっ」

「なに、どしたの」

「いえ、二つ目よ、比企谷くん」

「……あー、それまだ続いてたのか」

「もちろん」

 

 残念ながら、これで打ち止めだけれど。

 

「で?これのどこが甘えん坊だって?」

「言うまでもないと思うけれど」

「……」

 

 自覚があるのか、黙りこくる比企谷くん。なんだか今日はこの展開ばかりね。

 

「強いて言うなら、あなた、私を抱き枕がわりにした時は、とても可愛い寝顔をしてるわよ?」

「可愛いとか、男に使う言葉じゃねぇだろ……」

「だって可愛いもの」

 

 クスクスと笑っていれば、不満そうな息が漏れた。それが顔にかかって、少し擽ったい。

 でも、距離の近さを実感できて、嬉しい。

 

「なあ雪ノ下」

「なに?」

「俺も、今日一日で改めて分かったことがあるんだが」

「あら、それは聞かせてほしいわね」

「お前の方が甘えん坊だよな。それも、結構めんどくさいタイプの」

「……?」

 

 言われた意味がよく分からず、首を傾げる。自分が比企谷くんに甘えているのは、まあ自覚がある。だって撫でられるの好きだし、さっきのような寝る前のキスなんてもっと好き。そう言うことをする時も、私はかなり甘えてしまっていると思う。

 

 ただ、めんどくさいとは聞き捨てならない。かなり素直に甘えていたつもりだったのだけれど。

 

 私自身が面倒で重い女なのは仕方ないとして。いや、仕方なくないわよ。認めちゃったらダメでしょ、私。否定出来る材料もないけれど……。

 

「なんつーか、俺を甘やかすことで俺に甘えてる、みたいな?」

「つまり、どう言うこと……?」

「ほら、お前って結構欲求とか表に出さないタイプだろ? 猫とパンさん以外は」

「その二つも特に出した覚えは」

「その反論は今更無意味だっていい加減気づけ」

「むぅ……」

「で、だ。仕事上とか、事務的には他人にああしろこうしろって言うことあるだろうけど、自分の感情を軸にして、誰かにああして欲しい、こうして欲しい、っての、あんまり人には見せないだろ」

「ええ、まあ……」

「俺もそういうのはあんまり他人に見せないんだが、まあ、俺たちはお互いにその辺りが例外なんだろうな。たしかに俺はお前に甘えてたかもしれないけど、それはお前の態度にも原因があるってことだよ」

 

 お得意の責任転嫁かと思ったが、恐らく違うのだろう。

 つまり、私が無意識のうちに構ってアピールしていて、その結果比企谷くんも、私にだけ甘えてくれることになって、それを受け入れた私が彼を甘やかしていた。つまり、結果的には私も比企谷くんに甘えていた、ということ?

 

 え、待って。なにそれ、私、比企谷くんにそこまで甘えてたの? あれ? なぜか顔が熱く……いやでも、甘えるという行為自体は意識的にしていなわけだし、こんなに恥ずかしがらなくても……。

 

 いや恥ずかしいわよ! 意識的にやるのと無意識的にやってしまっていたのとでは全く違うわよ! 月とすっぽんどころか、月と八幡よ!

 

 ふっ、ふふっ、月と八幡……いいわね、今度から積極的に使うことにしましょう。我ながら面白い。

 

 などと現実逃避してる間にも、私は比企谷くんの胸に顔を埋めていた。

 今の顔の色は、さすがに見せられない。けれど、多分そんなことは彼にお見通しだ。

 ポンポンと、あやすように頭を優しく撫でられる。気持ちいい。

 

「つっても、俺も気づいたの今日だしな。お互い様ってことでいいだろ」

「うん……」

「うんってお前……」

 

 つい漏れてしまった幼すぎる言葉に、私の顔は更に赤くなるばかり。苦笑する気配がして、ポスンと胸を叩く。

 

「ほら、もう寝ようぜ。それとも、ちょっと夜更かしするか?」

 

 からかい混じりの言葉。

 ここは、そうね……一色さん、あなたの力、お借りします。

 

「……あなたは、したい?」

 

 甘えるような声で、瞳を潤ませて。

 視線がぶつかったと思えば、すぐに逸らされる。さすがは一色さん直伝、『これさえあればクソ雑魚ヘタレの先輩もイチコロですよの技』ね。効果抜群じゃない。

 

「お前の体調次第、としか言えないな……」

「やさしいのね。そういうところ、すきよ」

「そりゃどうも」

 

 今度は私から唇を触れあわせて。

 

 この日の夜は、結局沢山甘えてしまった。



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さりとて、今日も春の日差しは暖かく。

14巻のネタバレあります気をつけて


 四月と言えば、なにがあるだろう。

 大きな行事といえば、入学式だ。先日我が愛すべき妹、小町が総武高校に入学を果たすという、一代イベントがあった。それが過ぎてしまえば、イベントは特にないだろう。実際、学校行事は皆無。一年生は学校に、二年生は新しいクラスに慣れるための準備期間のようなもの。ただし三年生は準備期間とかなく受験勉強始めろよ。という感じが四月だ。

 もう少し三年生に、延いては受験生に優しくてもいいのよ?

 

 が、しかし。それは学校全体で見た場合であり、もう少し狭いコミュニティの中となると、話が違って来る。

 そう、奉仕部内では立派なイベントが用意されているのだ。

 

 来る四月十六日。すなわち、一色いろはの誕生日である。

 

「早く着きすぎたか……」

 

 待ち合わせ場所であり、今日の目的地でもあるららぽーと。昔、由比ヶ浜の誕プレを買いに小町と雪ノ下の三人できた場所だ。

 そして今日は、ここで一色の誕プレを選ぶことになっている。雪ノ下と二人で。

 

 そう、雪ノ下と二人で、だ。

 由比ヶ浜や小町はいない。何故かは分からない。てか、俺が聞きたいくらいだ。なんであいつらいないの? 俺と雪ノ下が二人でまともなもん選べると思ってんのか? うちのパートナー様は服を耐久性で選ぶやつだぞ。

 

 待ち合わせは十一時だが、現在時刻十時半。どう考えても早く着きすぎた。すぐそこの自販機で買っておいたマッカンのタブを開け、ゆっくり待つことにする。

 まあ、誰かを待つのは慣れている。なんなら得意まである。かつては指示された待ち合わせ場所に三時間待っても誰も来ず、諦めて帰ったら次の日そこは待ち合わせ場所でもなんでもなかったと知らされたことがある男だからな、俺は。

 

 マッカンを飲もうとタブを開け、一口目を煽ったその瞬間に。

 見慣れた姿が視界に映った。

 ぴょこぴょこと揺れる黒いツインテール。グレーのリブニットとミントのフレアスカートは、彼女の上品さを際立たせている。きょろきょろと視線を彷徨わせながらも、前髪をいじいじ。やがて俺の姿を視認すると、その表情にふわりと花が咲いた。

 

 前言撤回。全然見慣れないわ。

 なにこの子……えぇ……可愛すぎない……? 可愛すぎてびっくりしたわ……びっくりして口から心臓がまろびでるところだった……。

 

 特に足を急がせるでもなく、彼女、雪ノ下はてくてくとこちらに歩み寄り、俺の前で足を止めた。

 

「ごめんなさい、待たせてしまったかしら?」

「いや……今来たとこだ……」

 

 こんなやり取りがむず痒くて、俺の視線は行き場を失ってしまう。雪ノ下もやはり困ったような微苦笑を浮かべていて、頬も僅かに赤らんでいた。

 

 あークソ、顔熱い……なにここサウナ? たしかに俺はプロのサウナーを名乗ってはいるが、今はららぽに来たのであってサウナに来たわけじゃない。

 

「……てか、まだ時間前だろ。来るの早すぎない? まだマッカン開けたばっかなんだけど」

「あなたの方が早く着いているのだから、そう言われる筋合いはないと思うのだけれど」

「どうすんだよ……まだ十時半だぞ……」

「それ飲み終わったら、ゆっくり見て回りましょう」

 

 仕方ないわね、と言わんばかりに柔らかく微笑む雪ノ下。そこには若干の母性が感じられて、なるほどこれがバブみかと納得する。また新しい真理の扉を開いちゃいそう。

 このバブみと人を蔑んだ目で見てる時のギャップがたまらんのですよ。メガネーズにも今度教えてやろう。

 

 なるべくゆっくりマッカンを飲み進め、その間にも他愛のない話をしていても、飲み終えた頃には十分と経っていなかった。

 時間の進みが遅く感じるのは、この穏やかな陽気の仕業だろうか。

 

「なんか、春って感じするよなぁ……」

「そうね」

 

 青く澄み渡った空を見上げて呟けば、隣から短い同意の声が。

 出会いだの別れだのと騒がれる春だが、俺は存外、この季節が嫌いではない。人間関係を完全リセットやらなんやらと、そういう意味もあるのだけれど。

 このポカポカと暖かい陽気は、俺の心を穏やかにしてくれる。お陰で朝は起きるのがつらいが、それもまた春の醍醐味。

 

 なにより、雪解けと一緒に春変わり、俺を陽の満ちるあの場所へと連れて行ってくれた季節だ。

 一度ならず、二度までも。

 ならばこれから先、何度だって。いつか終わってしまったとしても。また俺を、陽だまりの中へと導いてくれる。

 

 そんな確信があるのだ。

 

「さて、行くか」

「ええ」

 

 柔らかな笑顔そのままに短い返事があって、不思議と俺も、自然な笑みが零れた。

 近くのゴミ箱で空になったマッカンを捨て、並んで歩き出す。手を伸ばせば触れられる距離を、彼女が歩いている。

 でも、流石に今手を伸ばす勇気はなくて。決して触れ合わない、けれどいつかよりも近いこの距離を心地よく思いながら、雑踏の中へと足を踏み入れた。

 

 

 ◆

 

 

 休日のららぽーとは、主に家族連れで賑わっている。夏祭りなんかと比べれば、そりゃ人混みも多少はマシではあるが、やはり混雑していることに変わりはない。

 そんな中で、雪ノ下の足取りに迷いはなかった。そのペースはゆっくりであれども、向かう先は既に決めているらしい。つまり、なにを買うのかも決めているのだろう。

 

 特にどこへ向かうのかも聞かされていない俺は、その三歩ほど後ろをついて歩くだけ。背後から見るその歩き姿は、心なしか上機嫌なようにも思える。ぴょこぴょこ揺れるツインテールは、猫が尻尾を振る様にも似ていた。

 でもツインテールだったら尻尾二つになっちゃうな。猫又じゃん。これで猫耳生えてたら完璧だった。

 猫耳なぁ……つけて欲しいよなぁ……そんなん絶対可愛いに決まってる……。

 

 と、そんなふざけた思考が筒抜けだったわけでもないだろうが、雪ノ下が不意に足を止めてこちらに振り返る。

 キッと俺を見据えて口を開いたかと思えば、直前で出てこなかったのか、なにも発することなく閉じられてしまう。やがては顔も斜め下に逸らされ、しかし視線だけはチラチラと俺を見ながら、ぽしょりと一言。

 

「そんなに離れられると……困るのだけれど……」

 

 え、は? なに今の……?

 めちゃくちゃに可愛かったんだが? やだなにこの子超可愛いんですけど。でも僕、三歩しか離れてなかったはずなんですけどね。そこまで距離が空いてたわけでもないのに、面倒くさい。そこが可愛いんだけど。

 

 あまりの可愛さになにも言えないでいると、一歩二歩と雪ノ下が距離を詰めてくる。開いた距離は、残り一歩分。けれど彼女から踏み出してくることはない。雪ノ下的には、この一歩開いた距離が丁度いいのだろう。

 

 だから、最後の一歩は。俺から踏み出した。

 それなりの人が行き交うモールの通路で、ぴったり寄り添う二人の茹で蛸。

 周囲の喧騒すら遠く感じ、雪ノ下との間には何とも言えない気恥ずかしさが漂う。

 

 それを誤魔化すように、茶化すように、俺は精一杯の言葉を吐いた。

 

「今日一日に限り、恋人として振る舞うことを許可するわ」

「……今の裏声は、誰かの真似のつもりかしら?」

 

 一瞬キョトンとした雪ノ下は、すぐに目を細めて絶対零度の声を出す。

 あれー? 今、なんとなくいい雰囲気じゃなかった? なんでこのモール、こんなに寒いの? 最近あったかくなって来たからって冷房かけすぎじゃない?

 

「全く……あなた、相変わらず無駄に記憶力がいいのね」

「無駄には余計だ」

「ぼっちは覚えることが少ない、だったかしら?」

「お前こそなんでそんなこと覚えてるんだよ……お前の方が記憶力おかしいでしょ……」

 

 なんで特に意味のない会話の中で発した言葉まで覚えてるかね。完全記憶能力の持ち主なの? 10万3千冊の魔導図書館なの?

 だがもちろん、雪ノ下はそんな特殊能力の持ち主ではなく。

 どちらからともなく歩き出した瞬間、小さな、しかし俺の耳にしっかり届く声で、たしかに呟いた。

 

「別に、なんでも覚えているというわけではないわ。大切なことは、忘れないようにしているだけ」

 

 穏やかな微苦笑を見て、つい、足を止めてしまった。数歩先に行った雪ノ下が怪訝そうに振り返るが、それになんでもないと被りを振って、もう一度隣に並ぶ。

 

 嬉しかった。俺との、俺たちとの何気ない会話のひとつひとつが、雪ノ下にとって大切なことだと、記憶に残すに足るものだったと。そう言われて。

 本当に、嬉しかったのだ。

 以前、プロムのいざこざがあった時にも、似たようなことは言われた。楽しかったと。初めてのことばかりで、本当に楽しかったのだと、まるで別れを告げるような口ぶりで言われた。

 

 けれど今は違う。別れを告げるなんてとんでもない。むしろその逆。きっと雪ノ下は、これからもずっと続く俺たちとの未来も、記憶に残し続けてくれる。

 そのことが嬉しくて堪らない。

 

「ついたわ」

「……いやまあ、なんとなく察してたけどね?」

 

 さて。そんな雪ノ下さんが足を止めたのは、もはや雪ノ下にとってホームグラウンドと言っても差し支えない店。ディスティニーショップだ。

 なーんか前にも似たような道をこいつと歩いたなー、とか思っていたら、案の定である。

 

「なにか不満でも?」

「別に」

 

 むしろ、ディスティニーショップは御誂え向きとも言える。一色がディスティニーキャラ

 を好きなのかは知らないが、プレゼントを選ぶのであれば十分な品揃えだ。実際、俺の湯呑みは恐らくここで買ったのだろうし。

 湯呑み以外にも、なにかしらの小物や雑貨は置いてあるだろう。

 

 堂々と入店した雪ノ下が向かう先は、もちろんここ。

 パンさんコーナーだ。

 だよね。知ってた。マジで足取りに迷いがなさすぎる。

 ついでに商品棚へ向けられた手にも迷いがない。手乗りサイズのパンさん人形を取り、首を傾げながらニギニギ。どうやらご満足頂けなかったのか、そのパンさんは棚へと戻される。続けて次の人形を手に取るのだが……。

 

「それ、同じのじゃね?」

「黙って」

 

 はい。八幡黙ります。

 真剣な表情でパンさんと睨めっこ。最初に取ったのと全く同じデザイン、全く同じ大きさに見えるが、どうやら雪ノ下には違って見えるらしい。違いが分からん……。

 

 待っているだけなのもあれなので、俺も店の中を物色することに。ワンチャンここでプレゼントを見繕うことが出来れば、後は自由時間。一色のプレゼントに拘束されることなく、雪ノ下とこのモールで遊べるというわけだ。

 まあ、ほら、せっかくだしね。せっかく二人で来たんだし、後輩のプレゼント買う以外にもね。

 

 ショップ内を彷徨いている俺は、おしゃまキャットメリーちゃんのコーナーに入った。ここなら猫耳置いてあるかなーとかいう浅はかな考えなのだが、やはり置いてあった。以前、クリスマスイベント前に大人数で行ったディスティニーランド、そこで雪ノ下がつけていたものと同じ猫耳が。

 なんとなしにそれを手に取り、しげしげと眺めながら想像する。猫耳つけた雪ノ下。うん、やっぱりいい。以前ディスティニーランドで見た時は不意打ちだった上にすぐ外してしまったから、実はイマイチ記憶に残ってなかったりする。おまけに俺はカメラマンだったしね。

 

 頼んだらつけてくんないかなーと考えていると、服の裾をクイっと引っ張られた。こんなことをして来るやつは一人しかいないので、特に驚くこともなく振り返る。

 それにしても、俺の服の裾やら袖やら引っ張るの、癖になってません? 可愛くていいんだけどね。

 

「買うもん決めたか?」

「ええ。とは言っても、これは個人的な買い物なのだけれど」

「そうですか……」

 

 うーんデジャヴ。一年前もここで個人的な買い物してませんでした? いやいいんだけどね。パートナーとして、君の趣味は尊重したい限りなので。

 

「ところで、それは?」

「ん?」

 

 雪ノ下が指差す先には、俺の持ってる猫耳が。怪訝そうな、というより、丸っ切り不審者を見る目を向けられる。

 

「待て、違う誤解だ待て」

「まだなにも言っていないのだけれど……」

 

 呆れたようにため息を吐いた雪ノ下は、貸して、と言って俺の手から猫耳を奪い取った。

 いきなりどしたのかしらん、と思っていると、おもむろにその猫耳を装着する。

 猫ノ下さん、爆誕である。

 え、マジでいきなりどうしたのこの子?

 

「どう、かしら……?」

 

 頬を薄く染めて、はにかんだ笑顔が浮かぶ。艶やかな黒髪の上に乗せられたピンクの猫耳は、果たして俺から理性を奪うほどの威力を誇っていて。

 

「よし、写真撮ろう」

「えっ」

「ほれ、ポーズ決めて」

「ちょ、ちょっと、比企谷くん」

「はい、ピーナッツ」

 

 スマホでパシャリと一枚。ついでに二枚目三枚目もパシャリパシャリ。撮影したばかりの画像を見ると、一枚目は焦ったような、二枚目三枚目は止めるのを諦めたのか、恥ずかしげに俯いている姿だ。

 はーほんま、舐めてんの? 可愛いがすぎるだろこんなん。

 

「……あなたもつけなさい」

「は? 俺はいいよ。お前がつけた方が可愛いし」

「かわっ……」

「いや、マジで可愛い。ツインテールに猫耳っていいな……いい……最高……」

 

 語彙力を遥か彼方へ消し去り、こんな天使を生み出してくれたこの世界に感謝の心でいっぱいになる。

 前に海浜公園でも同じことがあった気がするが、雪ノ下はその時と違い、今回は手に持っている二つのパンさん人形で顔を覆う。そんな姿もまた可愛い。

 

 ふと、不思議なことに気づいた。

 パンさん人形二つ? なんで二つ持ってんの?

 お陰で正常な思考が秒で戻ってくる。怪訝な目をパンさんに向けていたのだが、どうやら雪ノ下さん、負けず嫌いを発揮してしまったようで。

 

「あなたもっ、つけなさいっ」

「ちょ、待て待て落ち着け分かったから!」

 

 自分のつけていた猫耳を外し、それを手に持ち俺に無理矢理つけようとしてくる。身長差のせいで背伸びしている雪ノ下は、気づいているのだろうか。

 ゼロ距離まで密着している身体と、ほんの数センチ近づければ触れ合ってしまいそうな顔の距離に。

 

 自分の頬が熱くなるのを自覚する。けれど雪ノ下は離れてくれず、結局猫耳も俺の頭にパイルダーオンされ、満足そうに離れていった。さっきの近さには、気づいてなさそうだ。

 

「よく似合ってるわ」

「めっちゃいい笑顔で言うなよ……」

「ほら、写真撮るわよ」

「お好きにどうぞ……」

 

 パシャリとシャッター音が四回。俺より一回多いのは、やはり負けず嫌いなせいか。

 むふー、と満足げに息を吐くと、撮影した写真を見せてくれる。

 

「ふふっ、目が腐った猫ね」

「うわぁ、絶望的に似合ってねぇな」

「そう? 私は可愛いと思うけれど」

「男に使う褒め言葉じゃないからな、それ」

「いいじゃない。あなた、自覚がないだけで、意外と可愛いところは多いわよ?」

「やめて……可愛いって言わないで……」

 

 恥ずかしさのせいかは分からないが、なんか背中のあたりがゾクゾクする。なに、これあれなの? 仕返しされてんの? 俺が軽率に可愛いとか言ったから? それこそ可愛いとしか言いようがないんだが。本当に可愛いのは俺じゃなくてお前だよ。

 

 なんてじゃれ合いのようなやり取りを続けていると、さすがに店員さんから注意された。うん、まあこの猫耳、売り物だもんね。あんまりつけたままにしてるのもダメだもんね。

 かと思いきや、雪ノ下さん、まさかの猫耳ご購入。二つのパンさん人形とともにレジへと持っていった。

 

 いや、待って待って、それまさかだけど、俺につけさせる用? 自分でつけるやつじゃないよね? てか自分でつけてにゃーにゃーとか鳴いてもいいのよむしろ鳴いてくださいお願いします。

 

「さあ、プレゼントを選びに行きましょうか」

「おう……」

 

 ホクホク笑顔の雪ノ下を見ていると、猫耳の使用用途について聞けるはずもなく。

 俺たちは一色のプレゼントを選ぶため、ららぽーとの中を彷徨うのだった。

 

 

 ◆

 

 

 春とは言え、陽が沈んでしまえばまだ少し肌寒い。忘れた頃に冷えた風が海から運ばれ、首筋を撫でる。身体を震わせながら、でもあと一週間くらいしたらまた暑くなってくるんだろうなぁ、とめちゃくちゃになってしまった感のある日本の四季を憂いながら、隣を歩く雪ノ下をチラと見やる。

 

 現在時刻十八時過ぎ。結局、八時間近く雪ノ下とららぽーとで遊んでいた。

 というのも、プレゼント選びが思いの外難航したのだ。雪ノ下は元から決めていたみたいで、一色用のティーカップを。

 しかし俺はと言えば、全くのノープランなままに今日を迎えたから、色んな店を回って、時に休憩を挟み雪ノ下と雑談して、また店に入っては雪ノ下とじゃれ合いのようなやり取りを繰り広げ。

 なんか、そんな感じで過ごしていると、時間はあっという間に過ぎてしまった。

 

 結局一色へのプレゼントは無難なところで、なんかあざといデザインの手鏡にした。身につける系はちょっとなんかあれだし、てか雪ノ下がいる身で他の女子にそういうの上げるのってどうかなーとかも思うし。いやでも雪ノ下とはそういう関係じゃないんだけど。

 だからと言って適当な消え物にするのは、あまりに味気ない。あのあざとい後輩とは、なんだかんだとそれなりの関係だ。時に助けて、時に助けられて。そんな相手に対しての誕生日プレゼントが、保湿クリームだのいい匂いのする石鹸だのってのは人情に欠けるだろう。

 

 ということで、帰り道。できれば近付きたくはない雪ノ下家へと娘さんをお送りしているその道中。

 

「ここまでで大丈夫よ」

 

 雪ノ下の家が近くなってきた辺りで、不意にそう言われた。しかし辺りはすでに少し暗く、一人で帰すには不安だ。

 たしかに雪ノ下家に近づけば、ははのんあねのんにエンカウトしてしまう確率が跳ね上がるし、出来ればそれはご遠慮願いたいところなのだけど。それでも、万が一のことを考えればそんなこと安いもんだ。

 

「家まで送るぞ」

「あなた、うちの母にはあまり会いたくないでしょう? この前家に来た時なんて、酷い有様だったじゃない」

「やめろ思い出させるな……」

 

 数日前に招かれた雪ノ下家での食事を思い出せば、顔はげっそりして目は死んでしまう。あんな魔王の城、二度と足を踏み入れたくない。ていうか、展開が早すぎるんだよ。たしかに雪ノ下との関係は、まあ、そういうんじゃないとは言えそれなりの変化を見せたけど、だからって早速魔王城突入は無理がある。RTAやってるんじゃないんだぞ。

 

「まあ、見ている分には面白かったけれど」

「見てるだけならそうだろうな」

 

 言外に、お前も他人事じゃないぞ、と告げてみれば、深いため息が。

 そう、他人事じゃない。俺にとっては言わずもがな、雪ノ下にとっても。そうありたいと、当事者でいたいと願った、そのツケが回って来ただけのこと。

 

「つーことだから、ちゃんと家まで送る。今度お前の姉ちゃんに会った時、なんか言われても癪だからな」

「そういうことなら、仕方ないわね」

 

 素直に心配だと言えないあたりは、俺が俺である以上仕方ないこと。

 再び夕暮れの中を歩き始める。伸びた影は一つに重なり溶け合って、互いの境界線を曖昧にしていた。ほんの少し照れ臭くなって、それでも一つが二つになることはない。

 

 言葉はなく、ただ静かで穏やかな道のり。時折そばを走る車の音以外には、歩幅の違う足音が刻まれるだけ。

 そんな心地のいい時間に身を浸していた。

 

 だが、そんな時間にも終わりはやって来る。

 なんでって魔王城に辿り着いちゃったからね! もうちょっと探索とかさせてくれても良かったのよ?

 

「比企谷くん」

 

 足を止め、体ごと俺に向き直った雪ノ下に、名前を呼ばれる。空の青を写した瞳が、俺を捉えて絡めて離さない。

 ここが雪ノ下家の前だということも忘れ、彼女に魅入ってしまう。

 

 名前を呼んでしかし、続く言葉を発さない雪ノ下は、深呼吸を二度三度と繰り返し、手に持っていた袋からなにかを取り出した。

 

「これ……よかったら……」

 

 ららぽーとでなぜか二つ買ったパンさん人形、その片割れだ。猫耳騒動やらその後プレゼントを選ぶのに四苦八苦したのやらで忘れていたが、そう言えばなぜ二つ買ったのかを聞いていなかった。

 

 しかし、雪ノ下もそろそろ理解してくれてもいいと思うのだが。俺がなんの理由もなしに、他人から物を受け取るなんて。そんなの、第一声はいろはすもびっくりの丁寧なお断りに決まっているのに。

 それが仮に、なんの意味もない形式上の言葉だとしても。

 

 口を開こうとして、しかし。はにかんだように笑った雪ノ下を見てしまって、俺の声帯が震えることはなかった。

 

「その、せっかくの……デート、だったから……」

 

 言ってから羞恥心が湧いて来たのか、ぶわっと擬音が聞こえて来そうなほどに頬を赤く染める雪ノ下。

 果たして今日は、デートなんて大層なものだったろうか。ただ後輩の誕生日プレゼントを選ぶため、一緒に出掛けたに過ぎない。けれどその実態は、今日一日はどうだったろう。

 思い返そうとして、そんな必要すらないほどそれらしいことをしていたと気づき、今更ながら顔が熱を持つ。

 

 俺からの返事がないことに不安を抱いたのか、雪ノ下の表情に僅かな影がさす。差し出されていたパンさんを乗せた手は、力なく下されようとしていた。

 

 ……全く、めんどくさい。本当にそう思う。けれど同時に、そんなところがこの上なく可愛くて。愛らしくて。

 

「まあ、せっかくで、……出掛けたんだし、な……」

 

 下されかけていたその手を取り、パンさんを半ば奪うように受け取った。掴んだ手首は、あの時と同じで驚くほどに細い。力加減を間違えれば、折れてしまうのではと錯覚する。

 

 デート、と言えなかったのは、寸前でヘタれたというか、怖気付いたから。きっとその言葉を口にしていれば、あまりのおぞましさから来る自己嫌悪に耐えられなかった。

 でも、雪ノ下が今日のことをそう思ってくれていたのは、素直に嬉しくて。

 

 傾いた夕焼けよりも紅くなった彼女の顔は、驚きに染まっていたけれど。ソッと手首を離してやれば、口元は弧を描いてくれる。

 

「ありがとう」

「いや、お礼言うのはこっちでしょ……なんでお前が言っちゃうの……」

「受け取ってくれて。それから、今日、来てくれて。楽しかったから」

「……だとしても、変わらねえよ。ありがとな」

 

 互いに礼を言い合うのがなんだかおかしくて、顔を見合わせて吹き出した。

 

 さて。受け取ってしまったパンさん人形はどうしようか。部屋に飾っていれば、目敏く見つけた小町に何か言われそうだ。

 それでも、まあ、せっかく貰ったのだし。

 パンさんオタクに怒られない程度には、大切にしよう。



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なんでもない日常

こっちに投稿するの忘れてたね


 社会人になると、学生諸君が羨ましくなってしまう。それはなにも、週休二日が約束されているとか、時間的自由が多いとか、そういった話に限ったことではなくて。

 例えば、バレンタイン。直近に、というかまさしく今日がその日であるのだけれど。俺レベルの社畜となれば、職場の女性社員が男性社員全員にチョコを配っているのを見てようやく思い出したまである。こういったイベントごとでも、俺たち社畜は例外なく仕事だ。楽しむ余裕なんてのはありもしない。

 しかし青春を楽しむ少年少女たちは、チョコが貰えるかどうかで一喜一憂し、意中の相手にチョコを渡すために権謀術数を渦巻かせ、朝の机や下駄箱で無駄に期待したりする。そんなキラキラな今日を送っていたことだろう。

 イベントを楽しめることが羨ましいわけではない。楽しめるだけの余裕を持っていることこそが羨ましいのだ。

 そりゃお前、俺だって学生の頃、特に高校の頃はそりゃもうキラキラな青春を……過ごしてたような……あ、あれ? キラキラどころかキラヤバだし、なんならヤバヤバな過去しか思い浮かばないんだけど、なんで……?

 

「はぁ……」

 

 思わず漏れたため息。白いそれが夜空に消えていき、なんとなく物悲しさを感じる。

 まあ、そんなヤバヤバな過去、青春時代であっても、たしかに楽しかったのは事実なのだ。

 彼女らと過ごした、あのあたたかな紅茶の香りに満ちた部屋。

 今となっては遠い思い出の中にしかないけれど。だからこそ、時折恋しくなってしまう。紅茶の香りと、彼女らの笑い声が。

 なんて、どこかセンチメンタルな気持ちで一人暮らしのマンションまで辿り着いたのだけど。

 

「あいつ、また……」

 

 誰もいないはずの部屋に灯る明かり。再び漏れてしまうため息。裏腹に、口角は上がっていて。

 連絡の一つくらい寄越せって、毎回言ってるんだけどな。

 彼女が俺の言うことを聞いてくれないのは、もはやいつものこと。なんなら俺の言うことを聞いてくれるやつとかこの世に存在しないまである。最近は会社の後輩すらも言うこと聞いてくれなくて、いよいよ世界に居場所を失ってきた、どうも俺です。そう聞くとなろう系の主人公みたいでかっこいいな。

 

「ただいま」

 

 案の定鍵の開いていた扉を潜れば、玄関には見慣れた女物の靴がひとつ。脱いだ靴をその隣に並べていれば、てとてとと足音が聞こえてきた。

 

「おかえりなさい、比企谷くん」

 

 現れたのは、エプロン姿の美女。高校時代からその美しさに更なる磨きをかけた雪ノ下雪乃が、俺の帰りを待っていた。

 携えるのは穏やかな笑み。あの頃とは比較にならないほど柔らかな表情に、飽きもせず見惚れてしまう。

 

「ここ、俺の家なんだけどな……」

「今更じゃない。私に合鍵を渡したの、あなたでしょう?」

「うん、まあそうなんだけどね……いつも言ってるけど、せめて連絡してくれ。こっちにも準備とかあるんだよ」

「なんの?」

「心の」

「それこそ今更ね」

 

 本当に、今更だ。もう七年近くの付き合いになるというのに、心の準備なんて必要ないだろう。雪ノ下の言った通り、この家の合鍵を渡したのは俺だ。その時点で、彼女が勝手にここへ上がることへの同意は済ませている。

 

「ご飯、まだ少しかかるから。先にお風呂を済ませてきなさい」

「おう」

 

 言われた通りに着替えを用意して、風呂に向かった。ご丁寧にお湯も沸かせていて、マジで至れり尽くせりというか、通い妻が板についてきたなぁ、とか思っちゃったり。

 あいつの家、まだ千葉だし。今日も泊まるんだろうなぁ、とか。どうせ明日は仕事休みだし、なんなら泊まってくれるのは嬉しいよなぁ、とか。疲れた頭でそんなことを考え、逆上せる前に風呂から出た。

 リビングに入れば、鼻腔をくすぐる匂いに刺激され、一層空腹を意識してしまう。

 

「おお、今日も美味そうだ……いただきます」

「どうぞ召し上がれ」

 

 本日のメニューは鮭のホイル焼き。バターの味付けがしっかり聞いていて、白米を食べる手が止まらない。

 

「今日は少しあっさりした味付けにしたのだけれど、どうかと聞くまでもなさそうね」

 

 嬉しそうにクスクスと微笑む雪ノ下。その声が擽ったくて、頬にほんのりと熱が集まる。風呂上がりのせいにしておこう。

 それでもやっぱり、ご飯を食べる手は止まらず、あっという間に平らげてしまった。

 

「ご馳走さま。今日も美味かった」

「お粗末様でした」

 

 食器の片付けは俺が任され、それが終わる頃合いに雪ノ下がお茶の準備を始めた。同時に、冷蔵庫からセロハンの包みも取り出している。

 それがなにかを察して、ちょっと楽しみになってしまう。こいつの作るお菓子は美味しいからな。毎年貰ってるけど、毎年美味い。おまけに渡される時は、無防備なまでに剥き出しの感情がセットだ。それがとても嬉しくて、ありがとうなんて言葉じゃ足りなくて。

 

「はい、これ。今年のチョコレート」

「毎年すまんね」

「それは言わない約束でしょ」

 

 そんな風に茶化しでもしいと、冗談抜きで泣きそうになるから。

 リビングのソファに二人座り、雪ノ下の作ってくれたチョコと、雪ノ下の淹れてくれた紅茶を味わう。

 静かで、穏やかな時間。あの部室で過ごした時間と似て非なる、優しい場所。それはいつだって、雪ノ下雪乃の隣にある。

 

「今日、泊まってくのか?」

「もちろん」

「またベッドが狭くなるな」

「くっついて寝るのだから変わらないわよ。あったかくて丁度いいでしょう?」

 

 恥ずかしげもなく言う雪ノ下に、こちらの羞恥心が煽られる。今日はゆっくり寝れるかどうか。まあ、明日は休みなのだし、どちらにしても構わないのだが。

 肩に預けられる心地よい重さと、口に広がるチョコの甘さ。

 今日は特別な日なのかも知れないけれど。俺たちにとっては、なんでもない日常のひとつに過ぎない。



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