CLANNAD -Further Story- (いさか)
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もう一つの世界 前篇~After 5 years~

一応これで前篇は完結です(続けようと思ったら続けます)。


 既に日は落ちている。

 

 暗いアスファルトの道には家々の陰りが連なり、街灯の淡い光が闇の中に点々と現れていた。

 俺はやや急ぎ足で、職場からの家路を辿っている。

 

 渚とのあいだにできた子供――|汐≪うしお≫が生まれてから、もう五年もの月日が経過していた。

 

 不遇が重なったというべきか、はたまた渚の願いが叶えられたというべきか。結果的に自宅出産にも成功し、体調に不安のあった渚の容態もずっと安定していた。だから俺たちは、時たま古河の家に世話になりながらも、順調な育児生活を送ってこられたのだ。

 

 汐が大きくなるにつれ、古河のおっさんは俺たちに同居を勧めてくれていた。だが、俺たちとしてもそこまで甘えるわけにもいかない。確かにおっさんの言うように、いつまででもボロアパートの一間を借りて、汐を育てていくのは難が生まれてくる。汐は女の子で、そこそこ年ごろになってくれば自ずと一人部屋も欲しがることだろう。稼ぎと貯金、そして渚に相談しながら、俺たちは転居の計画を立てていたのだった。

 

 自宅にたどり着くと、いい匂いが鼻をくすぐった。……揚げものだな。豚か?

 

「ただいま」

「あ、おかえりなさいです。朋也く……じゃなくてっ」

 

 玄関のすぐ脇にある台所から、エプロン姿の渚がこちらを覗いていた。心なしか、顔を赤らめている。

 

「おかえりー、パパ」

「おー。ただいま、汐」

 

 パタパタと可愛らしく歩み寄ってきた汐を抱きかかえて、俺は慣れ親しんだ我が家の床に足を踏み入れた。

 

「旨そうな匂いだな。トンカツか?」

「は、はい! トンカツですっ」

 

 家庭で揚げものは片付けが大変なのに、渚はむしろ喜ぶように凝った料理を作りたがるのが常だった。

 

「まだ時間かかりそうですから……しおちゃんと先にお風呂に入っててください……、パパ」

 

 相変わらず「パパ」の発音が不自然だ。渚は未だにパパママ呼びに慣れていない。

 

「分かったよ、ママ」

 

 ……なんて返すのも最初は恥ずかしかった俺だが、今ではすっかり慣れてしまった。仕事の電気工事といい、人間の適応力というものは恐ろしいぐらいだ。

 

「よし汐、パパと風呂入るぞ」

「うん、はいるー」

 

 そのまま汐を抱きかかえ、俺は浴室に向かった。

 

 何故だかいまいち分からないが、汐はどうも俺と風呂に入りたがる。別段、好かれるようなことをした記憶もないのだが……いや、汐が単にあまり人嫌いなところがないというだけかもしれない。汐はおっさんを「アッキー」と呼んでいて、たまに野球に付き合わされているという。五歳児相手にあのおっさん何やってんだと内心思いながら、それでも元気よくボールを投げ、バットを振って駆け回る汐の姿は頼もしい。

 

 幼稚園では杏が汐の担任をしてくれていて、「汐ちゃんはとっても元気いっぱいなのよね~」とニコニコしながら言うのが常だった。確かに毎度迎えに来るたびウリ坊の進化系みたいな猛獣と仲良く遊んでいる。「ぼたん」とか言ったか、危なくないのかアイツ?

 

「ちょうど揚げたてが食べられるくらいに呼びますね~」

「おう、ありがとなママ!」

「ありがと!」

 

 汐の衣服を籠に入れてやりつつ、

 

「よかったな汐。カラッカラのやつが食べられるぞ」

「よかったー」

 

 

 にんわりと表情を崩す汐に、優しく笑いかける。

 温かな家族の団欒、その一片。

 親子のこんな何気ない会話こそが大切で、金よりも名誉よりも価値あるものだ。

 そしてそんな些末な幸せの積み重ねこそが、俺たちが生きていく意味だと思う。

 金はあまりないし、家もボロ。だけど俺は、この生活がとても幸せだった。

 渚がいて、汐がいて。俺たちは家族で、一緒に支え合って生きていく。時間を少しずつ、積み重ねていく。

 

 

「……パパ?」

 

 汐の呼びかけで、俺はふっと我が子の顔を見つめた。

 

 ――何故だろうか。不思議と見覚えがある。デジャヴに似た感覚ともいうべきか。

 

 ただ、それははるか遠い遠い昔のことのように感ぜられた。どれくらい遠い過去なのか。きっと俺はまだ生まれていなかった。この世界に生まれる、ずっと前の記憶だ。

 

「……なーんてな」

 

 何をバカげたことを考えてるんだ俺は。

 

「ほら、さっさと入っちまおうぜ。でないとアツアツのカツが食えなくなるぞ」

 

 きょとん? と首を傾げる汐の頭を、そっと撫でてやる。

 俺と渚の一人娘は「うん」と頷いた。

 

      *

 

 揚げたてのトンカツを三人ではふはふと頬張っていると、不意に渚が例の件についての話題を口にした。

 

「パパ、その……新居のこと、ですけど」

「ああ」

「よさそうなお家、見つかりそうですか?」

「不動産屋とか、芳野さんとか……職場の人にも色々と聞いて回った」

 

 渚はぽろぽろとポテトサラダをこぼす汐のテーブルと頬を拭いてやっている。

 

「結構、良さそうなところはあった。だが借家とはいえ、家賃もそれなりにかかることになるな……正直、ここのそれとは比べ物にならない」

 

 渚はえへへと笑って、そうですよねと頷いた。

 

「渚は、どうした方がいいと思う?」

「わたしは……やっぱりしおちゃんが小学生に上がる前までには、もっと大きいお家に住めたらって思うんです。わたしたちはいいですけど、ずっとここだとしおちゃんがかわいそうです」

「だよな。やっぱり、そろそろまともな家に移るタイミングだろうな」

 

 三人で囲む食卓、びっくりするほど狭いリビングをぐるりと見渡す。なんだか笑いが出てくるようだ。俺がもしガキだったら、こんなところに住み続けるのは御免だ。

 

「一応、貯金もある。さすがにマイホームは無理だけど……一戸建てに住むぐらいなら、なんとかなりそうだ」

 

 幸いなことに、俺の給料も年々上がっている。危険が伴う職種ということもあるし、率先して仕事を請けている成果が額面に現れていた。高卒ではあるが、おそらく大卒の数年目よりも多い額を貰っているはずだ。

 

「でも、パパの負担が大きいです。もし新しいお家に移るなら、わたしも働きたいです」

「働くって……お前、家事やらなんやらあるだろ」

「もちろんありますけど、スキマ時間を使えば生活費の足しぐらいにはできると思います」

 

 渚の献身的なふるまいには、その華奢な体躯とは裏腹のヨメたる風格がある。

 

「ママ、はたらくの?」

 

 現実的な会話に割り込んできたのは、ちょっと切なげな瞳をした汐だった。

 

 休日など幼稚園が休みの場合は、必ず俺か渚が汐の面倒を見るようにしている。古河のおっさんと早苗さんを反面教師にした……と言えば聞こえが悪いが、実際はそんなところだ。

 というのも、おっさんと早苗さんは渚が小さい頃、ほんの二時間ほど娘に目を離した隙に大変な事態に陥ってしまったのだ。家で寝ていたはずの渚がいつの間にか雪の降る屋外で倒れており、生死の境を彷徨うことになってしまった。……おっさんからそんな話を聞いてからというもの、俺は渚と共に、常に危機感を持って汐を見守っている。

 

「しおちゃんが幼稚園にいる時だけ、ママ頑張ろうと思いますっ!」

「おー」

「その方がいいな。俺が休日出勤のときは、汐と一緒に留守番頼む」

「はい、パパ」

「はーい」

 

 妻と娘の溌溂とした返事に頬を緩めて、俺はまた食事に手を付け始めた。

 やはり渚の飯は旨い。早苗さんの料理の味にどこか似ていて、それでもオリジナリティを感じられる味付けだ。こいつにパンを作らせたらどうなるのだろうか。一回試してみたい。

 

 家族で囲む食事をしみじみと楽しんでいると、

 

「どうしたんですか? パパ」

「ああ、いやさ。……あいつら、まだ家庭とか作ってないのかなーって思って」

「というと……、春原さんとか藤林さんたちとか」

「ああ。何だかんだ、卒業してからもう六年経つからな。相手見つけて結婚しててもおかしくない年頃だ」

 

 個人的な見解だが、藤林姉妹と宮沢辺りはすぐに相手が見つかりそうだ。ことねは……おそらくアメリカでも研究室に籠りきりだろう。智代はたぶん、大きな都市に出て、俺なんかが想像もつかないような頭のいい大学で何か学んでいるのではないだろうか。

 ……他にも誰かいた気がするが、思い出せない。

 

『っておい⁉ そりゃねぇだろ岡崎ぃ⁉』

 

 ……頭の中であのツッコミが完全再生されやがった。

 ああ、お前だけは天地が逆転しても海馬から抹消されそうもないぜ春原。

 

「杏さんは分かりますけど、それ以外の方は……」

「俺もちょくちょくとしか話聞かねえしな。就職したとは聞いたが……辞めねぇで上手くやってるかな」

 

 お前のことだぞ、春原。グレーの企業に引っかかったってのは辛うじて知ってるからな。

 

「……でも、皆さん立派な人です。きっと、素敵な生活を送っていると思います」

「……だな」

 

 とかなんとか言っても、一番幸せなのは間違いなく俺たちだ。

 別に皮肉じゃない。他人より自分の人生が幸福なのは当然のことだ。

 そして俺たちはその当然を、現実のものにしている。これ以上のことはないじゃないか。これ以外に何をどう望みようがある。

 

「結婚しよう」といったあの日から、俺はこの幸せだけを望んだ。

 きっと渚もそうだったのだろう。汐もパパとママがいてくれるだけでうれしいと、よく言ってくれる。とてもいい子に育った。

 

 渚と、汐と、そして俺。

 三人でいられるだけで幸せだもんな、と問いかけるように、俺は天井を仰いだのだった。

 




目を通してくださってありがとうございました。個人的にクラナドは大人になったらまた観たい、と思える名作でした。


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もう一つの世界 後篇~After 12 years~

前篇のその後のお話。汐が12歳になって、新しい道へ進むことを決意します。
アフターストーリー第二十二話挿入歌「小さな手のひら」の一節を参考に書いてみました。公式では後日談として、大きくなった汐は旅に出る決意をするようですね。
岡崎家の話は一応これで完結となりますが、できればIFストーリーも考えようかと思っています(椋編、宮沢編……etc)。



 時間というものは、俺たちが思っていたよりさらに早く、目まぐるしい速さで過ぎ去っていく。

 

 ほんの少し前まで――俺は光坂高校へ通う、不良の男子学生だったはずだ。

 高校を卒業して電気工をしながら食いつなぎ、やがて一年遅れで卒業した渚と結婚し、一年待たずに汐≪うしお≫が生まれた。貧しくはあったが、子育てをはじめとして送ってきた家族三人での時間は、とても幸福に満ちたものだったと思う。

 

 汐が生まれてから、十二年の月日が経っていた。

 

 不思議なものだ。俺は少し前まで高校生で、汐だってほんの昨日まで、しゃがみ込んでようやく目線があうぐらい小さかったはずなのに。

 

「……」

 

 地元紙を広げながら、俺は今のソファーからキッチンに立つ渚の背中へと目を向ける。

 いつの間にかあのエプロン姿の渚は遠くへ行ってしまった。

 

 汐が小学校に上がる年、俺たち家族はこの家に移った。決して広いわけでもなく、目立たないところは傷んでいて、マイホームでもない借家だったが――あのボロアパートに比べれば天国のような広さだ。転居したての頃は汐も大喜びで、家の中をよく駆け回っていたのを覚えている。

 

「パパ、もうすぐご飯できますよ~。しおちゃんに声を掛けてあげてください」

 

 せかせかと動く渚はちらりと俺の方を振り返って、そう言った。

食卓には既にほとんどの夕食が並べられている。あとは渚が煮込んでいる鍋の中の汁物、あれを注げば完成だろう。

 

「ああ」

 

 やおら立ち上がり、俺は今を出て二階へと上がる。

 

 二階には俺たち夫婦の寝室と空き部屋が一つ、そして汐の部屋がある。

 

「うしお」のナンバープレートが下がるドアをコンコンとノックして、

 

「汐ー、飯だぞ」

『はーい、お父さん』

 

 元気な返事が聞こえてくる。俺は思わずふぅとため息をついた。

 

 いつの間にかパパ呼ばわりがなくなり、代わりに俺は「お父さん」、渚は「お母さん」になった。……まあ、小学生とはいってももう最高学年だし、こういう変化も子の成長として受け止めるのが親の仕事だろう。

 

「先、降りとくぞ。お前も早く来いよ」

『はぁい』

 

 部屋の中で何やってんだか。

 

 最近の汐は、部屋の中で過ごすことが多くなってきた。

 

 俺たちの知らないところで、きっと汐は色々なことをやっているのだろう。

 

 親の俺が言うのもなんだが、汐はとても優秀な娘だ。勉強もよくできるし、スポーツも万能で、体育の授業ではどんな競技でも周りを引っ張るような存在らしい。

 通知表は何度も見せてもらったが、目を見張るほどの成績だった。不良を貫いていた俺からすれば信じられないほど、出来のいい子供だ。

 

 勉強やスポーツだけじゃない。汐は芸術や音楽関係にも強かった。

 

 渚の希望もあって、汐にはいろいろな習い事をさせた。全く違うカテゴリの教養を手あたり次第学んで、そのたびに汐は多様な技能を身につけた。――言ってしまえば「天才肌」の子供に育ったのだ。

 

 俺と渚が先に食卓に着いてから数分後、ばたばたと階段を下る音が聞こえてきて、汐が居間に顔を出した。

 

 Tシャツに短パンと、えらくカジュアルな格好だ。こうして眺めれば、いかにも普通の、ちょっと元気のいい女の子という印象である。

 

「おー、ハンバーグに、シーザーサラダに……豚汁!」

 

 目をキラキラさせながら席に座り、それを見計らって俺と渚が手を合わせる。汐もそれに倣った。

 

「いただきます!」

「「いただきます!」」

 

 合唱の合図は俺。岡崎家の掟の一つ。

 

「お汁はおかわりたくさんあります。パパもしおちゃんも遠慮せずに食べてください」

「うーい」

「それじゃ私、早速おかわりー!」

「速ぇなおい⁉」

 

 ぴょこんと席を立ち、えへへとはにかみながら汐が言った。

 

「だって、お母さんの豚汁おいしいんだもん」

 

「しおちゃんにそう言ってもらえると、ママとっても嬉しいです」

 

 笑う渚と汐の顔、傍目に見ればとても良く似ている……親子だから当然か。

 

 さて……今日も渚の旨い飯を楽しむ時間がやってきた。

 

 メインのハンバーグを箸で切り分けて口に運ぶ。デミグラスソースと絡む柔らかい肉にはまだ水分が残っていて、噛む瞬間に旨味が口いっぱいに広がっていく。

 

「……旨い!」

「パパも、いつも褒めてくれて嬉しいですっ」

「お前、本当に料理上手いよな。古河の血筋か?」

「へ? ……ど、どうでしょうか。お母さんも、料理はとってもお上手ですけど」

「早苗さんの料理も美味しいよね! 私も大好きだもん」

「お前、早苗さんの料理の味とか覚えてるのか?」

 

 汐が古河の家に世話になるのは多々あったが、それもせいぜい幼稚園の頃までだ。

 

「もちろん。私の舌はいろいろ記憶できるからね」

「なんだそりゃ」

 

 しかし、どこかの雑誌で「子供は幼いころに食べさせるもので舌が変わる」というものを呼んだことがあった。本当にいいものを食べさせていれば、その子の舌はとても敏感で、ささいな味の違いも見分けられるようになるという。

 

 少なくとも早苗さんも、もちろん渚も――悪いものは絶対に食べさせないタイプなので、汐の舌は良い育ち方をした、ということなのかもしれない。

 

「汐、お前幸せ者だぞ。小さい時から旨い飯しか食ってねえだろ」

「その件についてはとても感謝しております。お母さん、ありがとね♪」

「しおちゃん……」

 

 既にうるうるしている渚。まったく、お前もすぐ泣くの変わらねぇのな。

 

 

 変わらない、と言えば俺もそうなのかもしれない。案外、大人になったから変わるものなんてそう多くはない。子供が生まれてからは価値観の変化も多少なりにはあったが、それは然るべき変化の一つだと俺は思っている。

 

 年食っても変わらないのはみんな同じらしく、たまに会う演劇部の連中や、高校時代に付き合いのあった奴らは――やっぱり、そう変わっていない。

 

 もうみんな、俺たちと同じように家庭を持っている。

 

 春原と杏は同学年の子供を持っている。藤林も最近結婚した、ということを杏から聞いていて、宮沢もお兄さんと特に親しかったグループの一人と幸せになったらしい。

 

 智代は京都の土地で、代々権威のある富豪の婿になったと聞いた。

 

 ことねは相変わらずアメリカで暮らしているようだ。今では多世界解釈論だかなんだか、その道の第一人者に匹敵する存在らしい。結婚しているのかは不明だが、月に一度ぐらい電子メールで近況を知らせてくれている。

 

 仁科は音楽の道を進んで、今はオーケストラの一員として世界中を飛び回っているという。

 

 

 一人ひとり、選んだ道はまったく違う。それでもたまに会ったりやり取りしてみると、これが笑えるほど「変わらない」のだ。

 

 あいつも、こいつも。まったく揃ってあの頃のまま。

 

 おじいさんおばあさんになっても、俺たちはきっと、あの頃のままなのだ。

 

「……パパ? どうしたんですか?」

「あ、ああ。変わらないなって思って」

「何がですか?」

「俺たちだよ。みんな、変わってない」

 

 しばらく渚はきょとんとしていたが、

 

「そんなことありませんよ。現にしおちゃんはこんなにおっきくなってます」

 

 渚の隣に座る汐は、ちょっぴり恥ずかしそうに目を落としている。

 

「まあな。子供はこれから変わっていくんだ」

 

 ぴくっ。汐の肩が、ほんのわずかに跳ねた。

 

「ごっ、ごちそうさまっ」

 

 いつの間に食べ終えたのか、汐の皿は既にきれいさっぱり底面を晒している。

 

「しおちゃん……?」

「あは、私宿題が結構あるんだよね! 今からやんなくちゃ!」

 

 カチャカチャと食器類を流しに片付けて、汐は逃げるように居間を後にして、階段を駆け上っていく。

 

「なんだ、あいつ?」

「どうしちゃったんでしょう……ご飯、美味しくなかったんでしょうか」

「それは絶対にないから安心しろ。俺が保証する」

 

 だいたい、そこそこ量あったのにペロっと食いやがったからな、あいつ。

 

「でも、様子がおかしかったです。わたし、ちょっとお話を――」

 

 席を立とうとする渚に、俺は待ったをかけた。

 

「いいんだって。放っておけ」

「で、でもっ。わたし、心配ですし」

「……あいつも、一人で色々考えることがあるんだ。いずれ必要な時がきたら、あいつから俺たちに相談するさ」

「そ、そういうものでしょうか……」

「そういうものだ。子供はみんな、な」

 

 俺は予見していた。

 

 汐が――小さかったあの手のひらが、俺たちから離れていく日が――そう遠くはないことを。

 

      *

 

「お父さんとお母さんに、大切なお話があります」

 

 九月のある日、俺たちは汐の提案によって、家族会議を開いた。

 

 汐は、どうしてもやりたいことがあるのだ、と俺たちの前で告白した。

 

「演劇?」

「うん。アッキーも、それからお母さんもやってた、演劇」

「でも、どうしていきまり……」

「小さい時から、お母さんたちが演劇の話をしてくれたのを覚えてて。それで、ちょっと調べてみたら……すごく、惹かれたの。創られた物語の登場人物になりきって、私が伝えたいことを、お客さんに伝えること――私の声で、私の身体で、それから、私の考えた物語で――それがとてもすてきなものだって、気づいたの」

 

 それから汐は、演劇の強い中学に行きたいという希望を話した。

 

 そこは都心の中学校で、有名私立校だった。

 

 とても入学偏差値が高いので、六年生になってからは試験のための勉強に励んでいたという。

 

「演劇のために行くだけじゃ、お父さんたちを納得させられないと思って……だから私、勉強も同じぐらい頑張りたいんだ」

 

 俺たちが通っていた校区内の中学校には演劇部はないし、知っての通り、光坂高校の演劇部も今はもうない。

 町から出ることが大前提となったからには、学力的にもレベルの高いところへというのが、汐の考えだった。

 

 汐がどこからか手に入れたらしい学校説明のパンフレットを、俺はパラパラとめくっていた。

 

「中高一貫だから、六年間は寮生活……か」

「……ダメ、かな……」

「駄目とかじゃない。お前は、それでいいのか?」

 

 汐はさらりと前髪を撫でながら、自信なさげに俯いていた。

 

「正直、寂しい。私はずっとお父さんとお母さんと、一緒にいたいよ」

「しおちゃん……」

 

 既に渚は涙ぐんでいる。俺も目頭が熱くなるのをぐっと堪えながら、真剣なまなざしを汐へと送った。

 

「でもね。それでも、私は演劇をやってみたい。辛いこと、苦しいこと。たくさんあると思うけど……それでも、挑戦してみたい」

「――そこまでの決心があるなら、大丈夫そうだな。なあ、渚」

「……」

 

 俺は渚の膝に置かれた手を、横から優しく握ってやった。

 

「……はい。わたしも、しおちゃんを応援したいと思います……」

「俺も同感だ。……汐。よく聞け」

「は、はいっ!」

「子供の願いは、親の願いでもあるんだ」

 

 いつかの古河のおっさんが、こんなことを言ってたっけ。

 

 あの頃はよく分からなかったけどさ。今となっちゃ、手に取るように分かるぜ、その気持ち。

 

「お父さん……お母さん……っ!」

 

 きっと我慢していたのだろう。

 堪えきれなくなった涙のひとかけらが、汐の瞳からはらりと零れて。

 それをきっかけにして、堰を切るように大粒の涙が一つ、二つ、三つ。

 

「ほら、汐。こっちに来い」

 

 岡崎家の掟の、その一つ。

 泣くときは――おトイレか、パパの胸の中で。

 

 普段はいっちょまえに大人ぶったりする汐だったが、この時ばかりは別だった。

 

「っ――ううっ、うわぁぁっ!」

 

 席を立つと、まるで小さな子供のように、大きくなった渚が飛び込んできた。

 

 顔をぐしゃぐしゃにする汐を抱きとめる。いつかの時よりも汐はずっと――大きくなっていた。

 抱きしめて、その身体の重さが染みるように伝わってくる。もう昔のように、軽々と腕だけで持ち上げるのは難しいだろう。

 

 

 もう大人になりつつある。身体も、そして心も。

 早かった。あまりにも早かった。

 汐の手が、俺の背中をぐっと引き寄せた。

 とても力強く。俺たちの元を離れても、生きていけるという証左に他ならなかった。

 

 

「汐……」

 

 優しく、その髪を撫でてやる。

 

 きっとこうして抱いてやれるのもこれが最後だ。恥ずかしさを振り絞って、こうしていられるのも――これで最後だ。

 

 とても切なく、苦しくも――俺にとって、そして渚にとって、この辛さは同時に希望でもあり、幸せでもあるのだ。

 

「頑張るんだぞ、汐」

 

 

 いつの間にか、俺の視界は涙でぼやけたものになっていた。

 この景色。

 この感覚。

 いつかどこかで、見たことがある。

 それはとても、素晴らしい場所だった。

 黄昏の中で、小さな汐を、これでもかというぐらい抱き留めた。

 あれは、確か――汐が、何かを失くして……。

 

 

『パパ……』

 

 

 あれは――。

 

 

『初めてパパが、買ってくれたものだから……』

 

 

 いつの記憶なのか、はっきりしない。

 初めて汐がパパと呼んでくれた。

 ともすれば、これは夢の中の出来事だったのかもしれない。

 覚えているのは、ただ――泣き続ける汐を、必死に父親として抱き留めた、あの感触だけだ。

 

 

 それ以上は――思い出せない。

 

 思い出してはいけないのかもしれない。

 

 そうだ。俺には今があれば、それだけでいい。

 

「しおちゃんっ……朋也くん……っ!」

 

 渚も嗚咽を漏らしながら、汐の背中をそっと抱いた。

 きっと俺は、別の世界で、とても大切なものを失った。その記憶が断片的に、脳のどこかで残滓となって漂っている。

 

 それでも、俺はそんな記憶を認めようとは思わない。

 

 こうして、三人で同じ時を分かち合うこの世界こそが――正しい世界だということを、誰よりも信じるために。

 

 俺はそうやって二人の妻子を、いつまでも己の腕の中で感じていたのだった。

 

 




BAD世界の汐の健気さには泣かせられました。おそらく五歳の時点で、彼女は自らが「町」そのものであること、母と同様に五歳で命を終えることに気づいていたのでしょう。
このお話の汐はそういうものとは無縁の、(朋也の主観としては)正しい世界の汐なのでまさに普通の(?)女の子です。朋也と渚の良いところを継いだ、優秀な子という設定にしました。そしてその優秀さゆえに、他人より早い旅立ちをすることになった、という流れにしました。
毒にも薬にもならない無味乾燥としたお話でしたが、ここまで目を通してくださってありがとうございました。


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