ぶれない台風と共に歩く (テフロン)
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第一章 積木は、高くなれば高くなるほど崩れやすくなる
転換期


少年は、そっと過去を振り返ってみた。


 この日が、取り巻く環境の全てを変える転換日になった。

 

 

 今思えば、いいタイミングで転機がやってきたものだと思う。まさしく、この付近で変化が起こらなければ、いろんな意味で全く違った結果が待ち構えていたことだろう。

 

 おおよそ転機というものは、いいタイミングで来るものなのかもしれない。

 

 みなさんは、そんなことなかっただろうか。環境が変わる、そんなときが転換期になった経験はないだろうか。

 よくあるのは、小学生から中学生になる間が挙げられる。友好関係が広がったり、思春期ということもあって人と人との関係性が変わったりするからだろう。

 変化する=転換期という言い方ができるかもしれない。そう思わせているのは、あくまで主観ではあるけれど、客観的に見てもそうみられることが多いような気がする。

 環境ががらりと変わる瞬間―――人は大きく変わる。環境に適応する生き物、それが人間だから。そして、環境が変わり、人が変化する時期のことを転換期、そういうのだろう。

 

 

 僕の転換期は、そんなよくあるような環境の変化が起こる時期ではなかった。それに、自分自身の生き方が大きく変わるわけでもなかった。ちょっと特殊な事情も相まって、外乱を許してしまったことが転換期を作り出すきっかけになった。

 ちょうど、今まで積み上げてきた積木が突風で吹き飛ばされたようなものだ。余りに暴力的で、一方的だったことを今でも覚えている。

 結局のところ、力があればある程度のことは押し通せるものなのだと、学校では決して学ばないようなことを、僕はこの時初めて学んだ。

 

 

「貴方は、異常よ」

 

 

 それは、余りにも暴力的な言葉だったように思う。そんなことを言われて、腹を立てない人間がいるのだろうか。

 

 

 異常だ―――その言葉は、辞書を引いてみると分かるけど、正常ではない、普通ではないという意味で用いる言葉。

 

 異常だという侮辱は、バカ、アホ、死ね等の直接的な侮蔑とは、一線を引く言葉だと思う。

 直接的な言葉は、相手がどのような意味で言っているか分かる。冗談で言っているのか、蔑むために言っているのかに限らず、どの行為に対して、どの言葉に対して言われているのか分かる。

 そして、それは自分が思い返してもそうだったなと思うことが多い。喧嘩をしていて言われたり、状況も何もなく唐突に言われたりした時は分からないけれども、他の場合は分かるんじゃないかな。

 

 だけど、異常っていうのは、分からないんだよね。自分にとってはそれが普通だから。それが、通常だから。何について言われているのか、何をどうすればいいのか分からなくなる。

 

 人間は、社会性のある動物で。だから、暴力団は社会から嫌われている。

 それと同じで、異常は社会を害する要因になる。異常は、正常ではないから。正常は、異常を認めないから。異常は、隔離されて、嫌われる。そんなことをされる異常な人がいると思うと可哀想な気がしていた。

 

 だけど―――その線引きは、しなきゃいけないものなんだと常々思ってきた。だって‘普通のみんな’は言うでしょ? 人は一人では生きていけないって。

 僕もその言葉の通りだと思う。かといって二人でも生きていけない世の中だけど。

 なんて、そんな屁理屈抜きで、人間はもう孤独にはなれないようにできている。

 食べ物も他人が作ったもの、貨幣も他人が作ったもの、身につけているものも他人が作ったもの、極端なことをいえば生まれる場所ですら他人の作った場所だ。

 そんな世の中だから、そんな世界だから、そんな社会だから―――線引きをしないといけないと思うんだ。

 

 

 社会は、人間で構成されている。だから、人間と同じように怪我をしたり、病気になったりもする。怪我や病気に繋がるような部分は、できるだけ早めに取り除かなきゃいけない。

 意外とそういうことを思っているのは、異常者の方だったりする。普通の人間ではなかったりする。

 普通の人間は、そんなことを考えたりしない。異常者を排除しようなんて、社会から追い出そうなんて思わないと思う。異常者に何か直接的な被害を受けていない限りにおいては、自分の身を案じたり、世の中を憂う程度のものだろう。

 つまり、僕が言いたいのは、異常者は意外と自分のことを異常だって分かっているっていうこと。そのことを、普通の人には知っていて欲しいなって思う。

 

 

「貴方は、異常よ」

 

 

 人間は、相手に侮辱されるような言葉を言われた時、怒るか、無視するかの2択を取ることが多い。それは、あくまで日本人に限った話だけど。僕は、日本人だからそれに当てはまると思うんだけど。

 けれども、僕の中にあったのは、やっとそれを口にする人が出てきたんだなっていう、安心感にも似た安堵の感情だった。

 




少年のことが僅かでも分かってもらえると嬉しいです。
設定が割と難しく、付いていけないことも多いかと思います。
地の文が長く、面倒に感じられるかもしれません。
ですが、きっと本心が出ているのは地の文の方だと思います。

この物語が、読者の方に何かしらの影響を与えられればと思います。
面白い、面白くないに限らず
何かしら思うことがあれば、書き手としてこれ以上嬉しいことはありません。
どうぞ、この作品をよろしくお願いいたします。


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空を見上げた、世界が軋んだ

少年は、ふと空を見上げる。
空は青く澄み、雲が流れている。
少年が空に見つけた小さいもの。
空にあったのは―――少年の知らない未知のもの。


 少年は、ちょっと気になったことがあって空を見上げていた。

 

 

 変わらない日常。変わらない毎日。変わらない日々。そんな現実の世界でまた一日を過ごしていく、変わらない時間を過ごしていく、昨日とほんのり違う今日を過ごしていく。

 まさしく少年は、そんな日々を過ごす予定であった。

 

 

 少年は現在、中学生だった。彼は中学生になって間もない、まだ小学生上がりの中学一年生である。

 そんな中学一年生の少年は、この朝早い時間、午前7時から通学路である雨上がりの坂道を自転車で走っている途中だった。

 少年は自転車をこいでいる間ずっと、今日は雨上がりでじめじめしていて気分が悪い、できるだけ早くに学校に着いてのんびりと缶コーヒーでも飲もう、そんなことを考えていた。

 

 ちなみに少年は、まだ小学生上がりということもあってか、缶コーヒーしか飲めない甘党である。甘いコーヒーしか飲めない、ブラックは論外、黒いのは飲めなかった。

 それはまだ少年の舌が完全に大人になりきっていないからかもしれない。

 しかし、かといってケーキや洋菓子が大好きな甘党というわけでもなかったりする好みのよく分からない少年だった。

 

 最初にも述べたが、少年は雨上がりの通学路の途中で空を見上げていた。

 今日の天気自体はそれほど悪くない、むしろ良い方である。空にはしっかりと光り輝く太陽が昇っている。昨日の夜に雨が降り、今日の朝は晴れという天気の流れだった。

 ただ、ここで勘違いして欲しくないのは、少年は別に天気を見ようとして空を見上げたわけでも、雲を見ようとして見上げたわけでも、太陽を見ようとしたわけでも、虹が出ているのに気付いて、それを見ようとしていたわけでもないという点である。

 

 昨日と違うものを見かけた。少年は、その異様な物質を気にして空を見上げたのである。

 空中には、本来存在しないはずのものが存在している。

 それは、空を飛んでいる飛行機でも空に浮いているバルーンでもない。少年には、空中を見上げた視界に映っているそれが異物であるとすぐに判断できた。

 少年は、その空中を浮いている異物を見たのが初めてではなかった。実の事をいうと先週に2度、空中を漂う異物を見つけている。厳密には水曜日と金曜日に見かけたことがあった。その異物は、今日と同じように空中に漂っていたのである。

 

 ここで先程から言っている異物というのは―――人の上半身のことである。

 

 空中には、上半身だけの存在が浮かんでいる。まるでそこに地面があって植物が生えているような錯覚をしてしまいそうになるほど、当然のようにそこにあった。

 実際には空中から生えているというわけではなく、何もない空間から人の上半身が伸びているわけなのだが、それが自然に見えるのである。

 当然のように空中に浮かび、ごく自然に空中から顔を覗かせた存在からは、これでもかというほどの異常性が溢れ出ていた。そんな異質な存在こそが少年の顔を上に向かせた要因であった。

 

 

 少年は、天気を見るしぐさのようにさっと空を見上げた後に、何事も無かったかのように視界を下ろし、再び自転車をこぐことに専念し始める。まるで何も無かったかのように、まるでそれで普通なのだと言わないばかりに、少年は空中に浮いているそれに対して何かしらのリアクションをとることはなかった。

 少年はこういうことには基本的に関わらないと決めていた。というか、分からないものには極力関わらないというのが人生をうまく生きていくコツだと思っていた。

 そうはいっても全てを拒否しているわけではなく、それでもやらなきゃいけない事はもちろんやるし、自分に与えられている仕事はきっちりとこなしている。

 ただ、本当に触れてはならないことには触れてはならない。少年は、そこらのことについては酷く敏感だった。

 

 少年が何よりも望んでいたのは、そういう奇特で特殊で特別な出来事ではない。普通に生きるという当たり前の日常を送り続けることである。

 異常に触れるということは、少年の守ってきた日常を変える劇薬になる可能性を秘めている。どう転がるか予測もつかないことをしてしまうと未来が酷く不安定になってしまう。おそらく少年は未来永劫、宝くじというものを買うことは無いだろう。

 

 

 少年は、中学校に向かう道をひたすらに走り続ける。寄り道をすることなく、立ち止まることなく、走り続ける。景色が少年の移動速度に合わせて一定のペースで移ろいを見せていた。

 少年は決まったような未来に向かってただひたすら走るだけ、それだけを望んでいる。いつもと同じ道、みんなと同じような道、そんなありふれた道の中を進んで行く、それだけを望んで自転車をこいでいた。

 しかし―――単調に未来へと進んでいる少年に対して声がかかる。

 これが全ての始まりで

 これまでの終わりとなった。

 

 

「あなたには、私が見えているの?」

 

 

 人生において一度も聞くことがないであろう不可解な音が空間に響いた。聞いたことのない声と共に異音が木霊した。

 少年は、空間を支配した音に一瞬だけ気を取られる。動かさないと決めていた気持ちを揺さぶられ、音のした方向へと僅かに意識を持っていかれた。 

 

 

(なに、これ……)

 

 

 それでも、視線は動かさない。気持ちだけを音源へと集中させる。

 少年の意識の先には―――空間から身を乗り出している女性の姿があった。少年が先ほどまで空を見上げて視認していた上半身だけを空間から生やした女性が、なんとも形容しがたい不可解な音と共に自転車の右前に突然現れていたのである。

 

 少年から見た女性は、金髪で髪が長く変な帽子を被っていた。普段見ることがない格好の女性である。

 

 少年は心の中の動揺を押さえつけ、女性の声に対して反応しないように―――ピクリとも動かないように気を張り巡らせた。気付いていることを女性に気取らせないように何一つ反応しなかった。

 

 少年は、声をかけてきた女性のことを完全に無視するつもりだった。急に現れた女性を無表情のまま一瞬見て、離れるように自転車のハンドルを左に切る。自転車の進行方向に人が急に現れたら避けようとするのは当然のことなので、少年の行動はひどく普通の行動と言えた。

 しかし、少年が女性を避けるまでの動作は女性を避けるために十分な早さではなく、普通であれば引いてしまっているタイミングである。本来ならば、事故の加害者として裁かれるような状況であるが―――これが少年にとって功を奏する結果となった。

 なぜならば、少年が女性を避けようとする行動が早ければ女性の存在を認識していることが一瞬でばれたに違いないからである。

 

 

「ねぇってば、私のことが見えているのでしょう?」

 

 

 少年の近くを浮遊する女性は少年に声をかけたが、少年は再び無視を貫いた。少年には最初から目の前に現れた意味不明な女性と関わるつもりなど全くなかった。

 少年は、女性を引き離そうと坂道を立ちこぎで必死に登っていく。

 しかし、少年がいくら自転車をこぐスピードを上げても、目の前にいる女性の位置は変わらなかった。よくよく確認してみると、女性は少年の自転車の速度と同じ速度で進んでいた。

 どうやら少年が女性を避けるタイミングが遅くても少年と女性が接触することはなかったのは、そういう理由からだったようである。

 

 

 本当になんなのだろうか。

 

 

 目の前の女性のことが全く分からなかった。それこそ人間なのかどうかでさえも分からなかった。

 きっとこの女性の存在を知っている者は、この世の中に一人もいないだろう。そんなことを少年は思っていた。

 女性はそう思えるほどの異常性を含んでいる。少年は、関わったら人生が変わってしまうことをいやおうなしに感じ取っていた。

 女性は、空間を移動しながら自転車にへばりつくようにくっ付いてきている。それだけでも人間業とは到底思えない。これが種のあるマジックだとしたら、全く見当もついていない少年に暴くことは決してできないだろう。

 

 

 少年は、立ちこぎで自転車を進ませながらひたすらについてくる女性に対してどうすればいいのか頭を悩ませていた。

 話しかけることは論外、関わることも論外の状況で少年にできるのは、ただただ自転車をこいで学校に向かうことしかない。

 だが、無視という行動には必ず限界が来る。このまま学校まで付いてきてしまえば、さすがに無視することは難しくなるだろう。

 少年は、不安を抱えながら進むべき道を進み続けていた。

 

 

「やっぱり気のせいなのかしら。今までも何度か目線が合っている気がするのだけど……」

 

 

 女性は反応を示さない少年を見て、不思議そうに頭を傾けて少年の目を凝視する。

 少年の耳には女性の声がはっきり聞こえている。女性の言っていることは何一つ間違っていない。少年と女性は何度も目線を合わせているし、少年は女性の存在を認識している。

 少年は必死に動揺しそうになる心を押し殺し、平常心を作っていた。

 

 

「でも、境界を弄っている私の姿が見えるはずないものね。私としたことが早とちりをしたのかしら……」

 

 

 少年は、独り言をぶつぶつと呟いている女性に対して何らかのアクションを取ることは決してなく、女性を無視してひたすらに通学路を自転車で進む。女性がいてもいなくても変わらないといった様子で前進していた。

 しかし、女性の存在は確実に少年の通行の邪魔になっている。女性の存在が少年の視界の大半を奪っているため、自転車で進行するうえで大きな障害になっているのである。

 女性は、本当ならばこのまま少年の自転車に轢かれてもおかしくない位置にいるのだ。

 仮に女性が少年のこいでいる自転車の動きに合わせて動いているのだとすれば、確かに女性が轢かれることはないだろう。

 しかし、今少年の目の前に広がっている状況は、事故が起こらないのならば問題はないだろうというように単純に収まる話ではない。これは気分の問題である。自転車の進行方向に人がいるのは、危機意識が働いて気持ちが悪いのである。

 

 ただ、それでも少年は女性に対して何も言わなかった。

 

 それだけ―――女性に関わりたくない想いが強かった。人を轢き殺すかもしれないという危険性よりも、普通じゃなくなるという危機意識の方が遥かに強かったのだ。

 

 

 少年は、独り言を呟く女性に対して顔を向けることなく、無表情のまま自転車をこいでいく。一瞬たりとも女性に気付いている様子を感じさせることなく突き進んだ。

 だが―――少年が迷いなく通学路を進んでいる途中で女性がいることによる問題が発生する。

 

 少年は、道路を横断しようとしたところでどうしようもない状況になっていることに気付いた。

 

 少年の通っている中学校へ行くためには、必ず大きな道路を横断する必要がある。少年がたった今走っている道は、道路を跨いだところにある中学校へ行くために絶対に渡らなければならない道である。

 

 横断歩道まで遠いから今のうちに通っておきたい、少年の頭にあったのはそんなよくある人間の思考回路だった。

 少年が通う中学校の通学路には、横断歩道が中途半端な場所にしかなかった。その上、その横断歩道で事故が起こることの方が多かった。

 横断歩道は、決まって要所要所に存在するために事故が起こることや遠回りとなることが多いのかもしれない。

 ちなみに、少年がいつも早朝に出かけているのは、交通量が少ないという理由からである。

 

 そんな道路を渡ってしまいたい少年が道路を横断するという何の変哲もない普通の行動に対して問題が一つ発生している。通常ならば発生しない状況が、今においては発生していた。

 少年は、道の途中で進行方向を右側に変えて周りを見渡す。特に後ろと前を重点的に確認しようとした。車道を渡るための安全確認である。

 しかし、少年の視界が女性によって閉ざされているため安全確認ができなかった。少年の右前の視界は女性によって遮られているため、右側から車が来ているかどうかが確認できないのである。

 

 少年は、車が来ているのかどうかを目で判断することができないために音で判断するしかなくなった。音でしか確認できないような曖昧な安全確認で車道を渡るのは、ちょっとばかり危険である。

 

 

 この時、少年に示されている選択肢は大きく三つである。

 一つ目―――危険を承知で車道を横断する。

 二つ目―――女性に対してどいてもらうように言う。

 三つ目―――道路を渡らずに立ち止まる。

 少年は―――選択した。

 

 

「お前がいると右側から来ている車が見えないからどいてもらえるか。俺の目的地はあっちなんだから」

 

 

 少年は、道路を渡ろうとしたところで初めて、今まで無視を続けてきた女性に対して口を利いた。

 少年の右手の人差指は丘のような場所を指さしている。

 少年の通う中学校は、随分と辺鄙(へんぴ)なところにあった。土地が安いからだろうか、自転車で通学するのは不便と感じるような場所で、丘の上に建てられていた。

 

 

「やっぱり見えているんじゃない!」

 

「…………」

 

 

 女性は、少年の言葉を聞いてハッとした表情ですぐさま反応し、騙されたと言わんばかりに凄い剣幕で少年に迫った。

 しかし、少年は女性の言葉に対して返答することはなく、意味不明なものを見るような瞳で女性を静かに見つめていた。

 

 少年には、女性に向けて特に言葉を返すつもりもなく、会話をするつもりもない。相も変わらず、できればこんなのとは関わりたくない、そう思っていた。

 女性が異常者であることは誰の目から見ても明らかである、誰が見ても、誰が聞いても、おかしいと言うだろう、確信をもって言えるだろう。少年は、そんな人物と望んで関わろうとは決してしなかった。

 

 

「騙されるところだったわ。まさか貴方が元凶……いや、でも」 

 

 

 女性は、少年のどいて欲しいというお願いを聞く気が無いようで、少年の右前の位置からは少したりとも動かない。少年の目の前で視界を遮り続け、ぶつぶつと言葉を並びたてているばかりで一向に動こうという気配がしなかった。

 

 

「だから、邪魔だって」

 

 

 少年は、自転車から離れようとしない女性を見て、無表情のまま視線を向ける。そして、目の前に存在する障害物によって発生している危険を取り除くために一旦自転車から降り、女性の体を右手で視界の中心から動かした。

 

 少年の視界は、障害物を物理的に排除したことによって空間的にひらける。

 少年は、障害物が無くなり広くなった視界を存分に使い、顔を右に向けて後方から車が来ていないことを確認した。

 車は、少年の見たところ来ていないようである。

 少年は、そこまで確認したところで再び自転車に乗り、道路を横断した。

 

 少年は、安全管理に関しては律儀なところがあった。命を何よりも大事にする。だからこそ、女性に話しかけてまで身の安全を確保している。

 まぁ、そうはいっても朝だからといって車が来ないというわけではないのだから、安全確認はするべきではあるが、この行動からは―――少年の身の安全に対する優先順位の高さが伺えた。

 

 

「つれないわねぇ……」

 

 

 女性は全く取り合う様子のない少年の態度に寂しそうに言葉を漏らしたが、少年はそんな女性を無視して学校に向かって進んでいく。女性もさすがに話ができないと思ったのか、空間の裂け目に消えていった。

 

 

 少年の世界はこれでいつも通りである。いつも通りの日常に戻った。

 

 

 少年の日常は、酷く普通と言えるものである。学校に着いて、みんなが来るまでの時間をのんびりと過ごし、部活の朝練習に向かい、部活仲間と挨拶をして汗を流して、朝のホームルームを迎える。そして、いつも通りに授業を受けて、放課後が訪れて、部活に行き、帰る。

 そんないつもの一連の流れを進んでいく、何も変わらない日常を過ごしていく。その中でほんのり違うことがあったりもするが、そんなのは誤差の範囲である。そんなものは、あろうとなかろうとどっちでも変わらない。

 

 

笹原(ささはら)! また明日な」

 

「おう! また明日!」

 

 

 ここで初めて少年の名前が出たが、少年の名字は笹原である。

 

 少年は、笑顔で友達に別れの言葉を告げて帰宅する構えに入った。朝に登校したように自転車をこいで帰宅するのである。暗い夜道を爆走する、坂道を爆走する、少し間違えば事故が起こりそうではあるが、そこらへんについてはちゃんとしており、無理な所はブレーキをかけて進んでいた。

 

 平常、少年が家に帰ったころには8時過ぎである。帰ったらご飯を食べて、お風呂に入って、家族と話して、勉強をして、目覚ましをセットして眠る。そして―――再び朝を迎えるのだ。少年の日常は、そういう普通といえるものだった。

 

 

 少年は暗い夜道の中、自転車をこいで帰宅の途をたどっていた。

 

 

「ん?」

 

 

 帰宅の途中、本来であれば絶対にしないような音が聞こえた、風を切る音以外の音が耳に入ってきた。

 不可思議な音がしたと思って右を見る。すると、朝と同じように意味不明な女性が少年の右前に現れていた。先程少年が聞いた音は、朝に聞いた不可解な音と同じものだったようである。

 

 

(またか……)

 

 

 少年は、早朝と同じように1ミリたりとも動じない。そして同時に、昨日の今日で出現した女性を見て朝の通学時に女性へと告げた言葉を思い返した。

 少年は、女性に対して自分と関わるなと言ったはずである。それでも女性が少年に関わってくるということは、相手の女性はそんなことを気にしていないのだと考えられた。

 

 

「お疲れ様」

 

 

 謎の女性は少年の予測通り、朝と同じように話しかけてきたが、少年は登校の途中に出会った時と同様、相変わらずの無視を決め込んでいた。

 話すつもりなどない、一切何事についても話すつもりはない、こいつと関わってはいけない。何度も言うが、少年にはそんな気持ちがあった。

 女性と接触することによって重要なものを失うような予感があった。それは、確信めいたもので肌から伝わってくるように明確な感覚だった。

 

 

「あなた、笹原和友(ささはらかずとも)って言うのね」

 

 

 少年の名前は、女性が口にした言葉によって完全に露呈する。

 少年の名前は笹原和友である。なんともどこかに普通にいそうな名前だった。

 

 ただ、今気にするべきはそんなどうでもいいことではない。問題は、少年の名前ではなく、女性がどうして少年の名前を知っているのかということである。

 確かに少年の名前に間違いはない、少年を指す固有名詞の名前は笹原和友で間違いなかった。

 少年の名前をどこで知ったのだろうか。女性と少年の接点は無いに等しい。当たり前であるが、自己紹介をしたこともなければ、挨拶を交わしたことさえない。それはいうなれば駅の乗り換えですれ違う人ぐらいには接点がなかった。少年がこの異常者を見るのは決まって登校中であり、自転車をこいでいる時に空中に浮いているのを見かけているだけである。

 名前が漏れる他の可能性として他の人間から名前が漏れるということも考えられなくはないが、この女性に対しては考慮に値しない可能性である。

 そんな女性が―――少年の名前を知っている。

 少年は、女性が自分の名前を知っているという事実に驚いた。

 

 

「なんで知っているんだよ」

 

「今日呼ばれていたじゃない、クラスメイトから何度も。クラスの人間達と仲がいいのね」

 

 

 少年が無視の態勢を解いて心の内に湧きあがった疑問を素直に吐き出し、どこか棘がついたような言葉を女性に投げかけると、女性はひょうひょうとした様子で少年の疑問に答えた。

 女性は、知っていて当然のことのように喋っている。まるでその場にいたかのように、ずっと傍にいたというように話している。

 少年は、女性の言い草から自分が監視されていたと予測した。

 

 

「覗いていたのか?」

 

「朝からずっと見ていたわ。登校している途中に会ってからずっと見張っていたわよ」

 

「気付かなかった……」

 

 

 女性には、覗いていたことを悪びれる様子が一切なかった。どうやら悪いことをしているという認識はないらしい。

 そして、言う必要もないことかもしれないが、少年には見られていたような感覚は一切なかった。

 普通の人間は、見られていることを感じ取れるような鋭い感覚を持っていないのだから、少年が見られていることに気付かなかったのは当たり前と言えば当たり前である。

 人間というのは、誰かに見られていることを逐一把握などしていない。他人の視線を把握できるのであれば、犯罪の半分とまではいかないが、3割ぐらいは減るのではないだろうか、そのぐらいの大きな変化である。もしも、そんなことができれば人の世界観が少しばかり変わるほどの変化が見られるだろう。

 

 

「どうしよう……」

 

 

 少年は、女性に聞こえないぐらいの小さな声で、心の内側にある不安を口に出した。

 女性をこれ以上無視するのは厳しい。きっと目の前にいる女性は、少年がいくら無視し続けていても必ず付いてくる。それに、ストーカー被害は放っておくとかえって酷くなることが多い。

 それならば、対処すればいいという話にはなるのだが、残念ながらこの女性は普通のストーカーとは違う。警察も全くあてにできないだろう。

 さらには、普通であれば付きまとう理由があり、その理由は得てして分かりやすいものなのだが、女性の目的が一切分からないのだ。何せ少年と女性は会ったことがないのだから、話したことがないのだから、何を理由に少年に付きまとっているのか皆目見当つかなかった。

 

 

 必死に思考する。結局目の前の女性は何が言いたいのだろうか、何を言いたいのだろうか、少年に対して何がしたいのだろうか。

 けれども、いくら思考したところで少年には、女性が話しかけてくる意図が全く分からなかった。

 

 

「「…………」」

 

 

 お互いの間に沈黙の時間が流れる。

 少年は、分からないものは考えても仕方がないと、女性の言葉を無視して自転車をこぎ続ける。

 女性は少年の反応を待っているのか、暫くの間少年と同じように黙っていた。

 

 

「で、どうしたの? 俺になんか用があるの?」

 

 

 少年は沈黙に耐えきれなくなり、女性に向かって会話を要求するように目を向ける。女性の目がまっすぐに少年の目を見つめ返し、二人の視線が交錯した。

 お互いがお互いを縛るように視線を逸らさない。女性と少年は動くことなく、幾ばくの間、お互いの瞳を見つめ続けた。

 女性は、動き出さない時間を押し進めるように少年に向けて言葉をぶつける。少年の事を異常だと、さも当然なことのように言った。

 

 

「あなたは、異常よ」

 

 

 少年は、女性の貫くような言葉に時間が止まったかのような錯覚に陥った。

 

 

 少年は、目の前の女性に対して心が揺らぐところを見られたくなかった。気持ちが揺らげば一瞬で話の流れを持っていかれる、そんな確信があったからである。

 

 女性は、少年に探りを入れている。少年の大事な部分に対して、閉じている部分に対して手を入れてきている。

 少年は、女性の思う壺にならないように気を張り、僅かに揺らいだ心を押し殺し、平常心を保った。

 

 

「知っているよ。でも、何にも問題ないだろ? だって、どっちだっていいんだから」

 

 

 少年は、自転車をこぎながら静かに口を開く。

 少年は、決して目の前にいる女性に対して弱い部分を見せない。

 

 

「異常だろうと異常でなかろうとどっちでもいい。それに、みんな大なり小なり異常を抱えていると思うよ。ただ、それを外に出していないだけさ。あんたは、そうじゃないみたいだけどさ」

 

 

 少年は、知ったような口ぶりで言う。

 人間は、異常をどこかに抱えていると言いきった。

 

 

「異常のない人間なんていない。異常を持ち合わせていない人間なんて人間じゃない。人間って完璧な存在じゃないよ。完璧な存在だったらこんな面倒なことをしていないからさ。こんな、面倒に生きていない」

 

 

 少年は、知ったような口ぶりで言う。

 人間は、完璧な存在ではないと言いきった。

 

 

「人間は完璧な生き物ではないよ。何処を取ってもそうだ。完全な部分なんてない。どこにあるのか探してみればいい。探してみた所で見つからない。人間であるならば、あるわけがないんだから」

 

 

 女性は、少年の言葉を聞きながら表情を変えなかった。知ったような口ぶりで言う少年の言葉を聞いている間、ずっと真面目な顔のままだった。

 

 

「屁理屈を言うのは止めなさい。問題は大ありよ。あなたみたいなふざけた人間がいるなんて思ってもみなかったわ。そもそも、私を認知できるだけでも相当な異常なのよ。私とこうして喋っていること自体が、すでにありえないことなの」

 

「……あんたに言われなくても知っているよ。そんなことは、前から知っている」

 

 

 女性の言っていることは酷く正しい。そんなことは、少年もよく分かっていた。だからこそ少年も女性の言葉に対して批判を言うことができず、何一つ反論ができていない。

 

 女性が見えている段階で、少年のおかしさは証明されている。

 

 少年は、誰一人としてこんな上半身だけ生えたような女性を見たなんていうことを口にしているのを見たことが無かった。こんな話題性抜群の奴を見たのならば誰かしら言っていてもおかしくはないはずなのに、少年は一度も聞いたことがなかった。

 女性の存在は、それこそテレビで取り上げられてもおかしくないレベルなのである。

 しかし、現実に女性の存在は世間に広まっていない。それはつまり、誰も見たことがない存在だという結論に直結する。

 あくまでそれは、みんなが少年みたいに女性を見ても黙っているという可能性を省いた場合ではあるが、そんなことはありはしないだろう。人の口に戸は立てられぬということわざもあるほどに、人の口は軽々しく開くものなのだから。

 

 

「異常、異常ってさ。確かに俺は自分自身なんかおかしいなって分かっているけど、何度も言わないでくれるかな。結構傷つくから」

 

「それは嘘よ。そんな無表情で言っても駄目。あなたは、狂っていると言われることを望んでいる」

 

 

 女性の突き刺さるような言葉に、少年の無表情が少しだけ崩れた。




日常の中に異物が紛れ込む。
紛れ込んだ異物は、少年の世界を崩していく。
それはきっと偶然と呼ぶには出来過ぎた出来事。
きっとそれは―――起こるべくして起こった事。


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家に帰った、日常が崩れた

異常と言われた。
そう言われたことで―――酷く落ち着いた。

物語の始まりは、挨拶を交わす程度の些細なこと。
少年の物語りの始まりは、空を見上げたこと。
始まりはそんなもの。
きっと、終わりだって―――そんなもの。


 少年は、内心を女性に看破されて表情を崩し、心のままに追い詰められた表情を作る。

 

 

「っ……」

 

 

 少年は、女性の貫くような言葉に驚きを隠しきれなかった。女性の言葉は、少年の内包する秘密の核心を的確に突いている。

 女性の言葉によって少年の退路は完全に消し去られてしまった。少年の退路は消えてなくなり、少年の進路は崖に変わった。

 少年に残れた道は、一つしかなかった。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年は、大きく息を吐くと崖になっている前方へと進むことを決意する。後ろに進むことができない少年にとって、現在取れる選択肢は前進しかない。

 少年は、今にも壊れてしまいそうな笑顔を浮かべながら前へと足を伸ばし、自ら崖の下へと落下した。

 

 

「正直その通りだよ。みんな俺みたいなのだと思うと気持ち悪いよね」

 

(……もしかして、泣いているのかしら?)

 

 

 女性は、少年の表情に目を細める。今の少年の様子は、先程の少年の様子と明らかに異なっていた。

 先程までの無表情や読み取り難い表情とは全然違う。少年の表情は今までと違って非常に分かりやすく、女性から見た少年は泣いているように見えた。

 

 

(本当に信じられないや……)

 

 

 少年は心の動揺を抑えきれなかった。少年にとってこの一瞬での出来事は、大きな衝撃を生んでいた。今まで全くと言っていいほど内心を看破されたことが無く、少年の本心は両親にすら気付かれていないかもしれないほどに完璧に隠されている。

 それを目の前の女性は、一日で―――数十分程度の接触で少年の心の中の想いを看破したのである。

 少年は、動揺を抑えるようにハンドルを強く握った。

 

 

「みんな、そんなふわふわして生きているんだと思うと、気持ち悪くて安心する。なんか俺だけじゃないんだなって思う。でも、そんなことはないと思うんだよ。結局みんな、そんな曖昧なまま生きてはいないはずだから」

 

「やっぱり、私の予想は間違っていなかったのね」

 

 

 女性は、自虐するようなことを言う少年に自分の予測が間違っていないことを確信した。

 少年は、間違いなく何かしらの異常性を孕んでいる。何かという予測の段階から完全に脱してはいないが、何かがおかしいということが少年の前にいるとよく感じられた。

 

 

「それにしても……あなた、よくこれまで人間として生きてこられたわね」

 

「…………」

 

 

 女性は、少年の差し迫った表情とは反対に余裕のある顔で少年に告げた。

 女性の少年に対する言葉は、本当に酷い言いようだった。まるで、お前は人間じゃないと言わないばかりである。

 確かに人間という生き物の定義がはっきりしないことには、少年のことを人間だと断定することはできない。

 しかし、少年は紛れもなく人間である。妖怪や神様といった類いの生き物ではない。

 けれども、そう思ってしまうほどに女性から見た少年はどうも人間離れしているように見えていた。

 人間にしては、歪でねじ曲がっている、むしろぼんやりとしている、そんな雰囲気が少年からは感じ取れた。

 

 

(どう対処すればいいんだろう?)

 

 

 少年は暫くの間沈黙し、女性の言葉にどう反応していいのか考えていた。

 

 

 少年の心は、時間の経過とともに落ち着きを取り戻し始める。少年の表情は、落ち着きを取り戻すと同時に再び最初に会った時のように無表情に戻った。

 

 

「あんたは、とんでもないこと言っている。人間は、どこまでいっても人間にしか成れないんだよ。異常だからって、他の何かに成れるわけじゃない。成れたとしても俺は、人間でいい。昔、そう決めたんだ」

 

「決めた?」

 

 

 少年は、女性の言葉に軽く笑みを浮かべながら反論した。

 少年は、女性から人間じゃないと侮辱的なことを言われても特に怒ったりはしなかった。

 少年から言えば、人間として生きていくなんてそんな難しいことでもないはずである。難しくないのは当たり前で、‘少年は人間なのだから’むしろ人間として生きていけない方がおかしいのである。

 

 

「そう、決めたんだ」

 

 

 少年は真っ直ぐに女性の瞳を見つめると、ゆっくりと自分に言い聞かせるように今にも潰れそうな、消えてしまいそうな声で呟いた。

 女性は、少年の反論に気難しい顔をし、心に疑問を蓄積させる。女性には、人間でいることを決めたという少年の言葉の真意が分からなかった。

 

 

 

 

(無駄にしゃべりすぎたかな)

 

 

 少年は、ここまで話したところで無駄に女性と話してしまっていることに気付いた。もともと話すつもりがなかったのにも関わらず、予想以上に話し込んでしまっている。

 少年は、初心に戻ったように女性に対して距離を取ろうとし始めた。

 

 

「あのさ、これ以上俺に関わらないでもらえるかな」

 

 

 少年は、これ以上自分に関わらないようにと女性に忠告をする。朝のように無視するという方法ではなく、真正面から拒否の言葉を告げた。

 

 

「これからもずっとこのまま普通に生き続けるには、お前みたいな異常と関わっていられないんだよ」

 

「そういうわけにはいかないわ。あなたの力が暴走すれば、それこそ世界を大きく変えかねない。あなたには、幻想郷に来てもらうわ」

 

(やっぱりこうなるよね……)

 

 

 女性は、少年の明確な拒否の言葉を軽く流し、何事もなかったかのように意見を変えなかった。そして、少年も女性と同じように女性の拒否する言葉を聞いても表情を変えることはなかった。

 こうなることは、最初から何となしに分かっていたことなのである。崖から落ちる決意をした時から、こうなることを何となく予測していた、逃げることができないと何となしに分かっていた。女性の言い方が少年には最初から選択肢がないような言い方だったことから、女性には少年に選択肢を与えるつもりが微塵も無いことなど余裕で読み取れていたのである。

 

 

(どうしたらいいのだろう……でも、いくら考えても会話の中の単語の意味が分からないと何を言われているのか分からないや)

 

 

 少年は状況を打開しようと、現状を理解しようと思考を巡らせる。女性の言っている言葉の意味を把握しようと努めた。

 しかし、少年には女性の口にしている言葉の意味が分からなかった。まるで、話している言語が違うのではないかと思うぐらいの違いがあった。

 

 

(世界が大きく変わるってどういうことなんだろう? 世界が変わるっていっても、どう変わるのかさっぱり想像もつかないし……)

 

 

 かろうじて少年に分かったことは、自分自身には何かしらの力があって、世界を変えるような何かが起こるということだけである。

 そうは言っても、少年には今まで世界を変えるような力を持っている意識は全くなかったし、世界が変わるようなことってどういったことなんだ、ということも想像がつかなかった。

 

 さらにいえば、幻想郷というものも分からない。少年には、何かが起こるという以外の女性の言葉の意味が何一つ分かっていなかったといっていい状態だった。

 

 唯一女性の言葉で分かっている世界を変える何かが起こるということについても、少年にはとても大げさに聞こえた。

 世界を変えかねないと言われると、どうも嘘くさく感じてしまうのはきっと誰もが同じであろう。

 人間にとって世界が変わるということは、スケールが大きすぎて実感がわかないのである。それこそ、ニュースで海外の災害映像を見ているような感覚に陥るだけだ。ああ、すごいなぁ、ああ、やばいなぁ、と思うだけである。

 あくまで人間が認識できるのは、自分の周りを取り巻く小さな空間だけ。それ以上を認知しようというのは、基本的に無理なのである。人間の知覚は広がりに限度があるのだから、見える部分だけ、感じる部分だけ、というのが限度なのだ。

 

 

(結局、何も分からないままか)

 

 

 少年は、考えても分からない状況に思考するのが面倒になり、どうにか女性に諦めてもらうつもりで言葉を選んだ。

 

 

「死んでからでいいかな? その幻想郷という場所がどこかは分からないけど、死んでからならどこでもいいよ」

 

「あ、あなたね!!」

 

(申し訳ないけど、無視しよう……)

 

 

 少年は、女性の言葉を振りきるように自転車をこぐスピードを上げる。とても投げやりな言葉を女性に向かって放ち、疾走した。

 放り投げられた言葉はしっかりと女性に飛来し、女性は少年のぶしつけな言葉に顔色を一気に豹変させてふざけているような少年の対応に声を荒げた。

 しかし、少年は声を荒げる女性に対して何も反応せず、無視することを決めていた。

 

 

 少年は、目標地点だけを見つめて自転車をこいでいく。無言を貫き、関心を外へと向ける。外界に殻を張り、内への干渉を一切許さない。

 女性の言葉は、少年の耳に届いても心にまで到達せず、少年の意識が女性へ向くことは決してなかった。

 

 

「私の話を聞きなさいっ!」

 

(これも無視だね)

 

 

 女性は無視する少年に再び怒声をぶつけるが、少年は怒っている女性を無視して家まで一気に進んでいく。

 女性は、少年が無視している間も一方的に少年に向かって声を発し続けた。

 しかし、少年は怒りを露わにする女性のことを見向きもせずに無視を続け、そのまま自転車をこいでいった。

 

 

 暫くすると、自転車の速度が落ち始める。目的地である自宅がもうすぐそこであるためである。

 少年は、自分の家を目の前にすると自転車から降りて、自転車を引いて家に向かって歩いていく。

 自宅の前では、普段とは違う音と光が少年を出迎えていた。家に近づくにつれて赤い光の発光と騒音が大きくなっていく。

 

 

(どうして警察が家の前に……)

 

 

 少年の家の前には、パトカーが2台並んで止まっていた。

 パトカーのサイレンが煩く鳴り響いている。音と光によって何かがあったということを伝えている、犯罪が起こっていると伝えている。暗い夜の中、赤い光が辺りを照らしている。

 少年の家の周りには、その光に魅せられたのか、犯罪の臭いにつられたのか、見物をしている野次馬たちが少年の家の近くを取り囲んでいた。

 

 

「何が起こっているの? ここが貴方の家なのよね?」

 

(あれ、これ……どこかで見たことがある気がする)

 

 

 女性は明らかに普通ではない状況を見て、少年に向けて言葉を投げかけたものの、少年はこんな特殊な状況においても女性を完全に無視していた。

 女性は、返答しない少年の顔を見つめる。少年は、家にパトカーが止まっている光景を見ても無表情のままだった。あたかも日常の一部、と言えるほどに自然体だった。

 少年には、テレビでもよくあるシーンだからなのか、それが目新しいものに見えなかった。

 少年は、警察官が家にいても、パトカーが二台止まっていても何一つ驚くことはなく、いつもどおりの動作で自転車を家の指定の場所に置き、玄関へと向かう。

 隣についてきていた女性は、少年の傍から離れずに同行した。

 

 

「君、ここの家の関係者かい?」

 

「この家に住んでいる息子です。私の家で何かあったのですか?」

 

「ちょっと一緒に来てもらえるかな」

 

 

 少年が家の中に入るために家の出入り口へと近づくと当然のように玄関前で警察官に呼び止められた。

 少年は立ち止まって警察官の質問に応じ、次いで気になっていることを尋ねたが、警察官は有無を言わさずという様子で少年の手を引いてパトカーまで連れて行く。少年は、拒否することもできず警察官に付き従った。

 少年は、警察官に手を引かれながら一度振り返るように後ろを向き、遠ざかる家を眺めた。

 家の中には、複数の警察官が入り込んでいる様子が見て取れた。

 少年の家で何があったのだろうか、少年の家にパトカーが止まるほどの何かがあったのだろうか。

 少年は、家で何が起こっているのか知らない、帰るべき場所である家の中で何が起こっていたのか知らない。

 

 

「貴方、何か悪いことをしたの?」

 

 

 警察官に連れられていく少年の隣には、空間から飛び出した女性が相変わらず付いてきている。

 少年は女性に分かる程度に首を振り、女性の疑問に対して否定の意を示した。

 

 

「そうよねぇ……あなたはそういうことをやるタイプじゃなさそうだし」

 

(やっぱりこの女性は、みんなには見えていないのか)

 

 

 ここで少年は、女性を見ることができているのが自分だけだと完全に自覚した。警察官には確実に女性の姿が見えていない―――そう判断できるのは警察官が女性に対して何一つアクションを取らなかったからである。

 女性は、考え事に浸るように口を閉ざす。女性は思考している間、少年にうるさく話しかけてくることはなかった。少年が警察官に連れられてパトカーへと移動している間に話したのは、この一回だけである。

 しかし、話すことがないといって少年の傍から離れることは決してなかった。

 

 

 警察官はパトカーの前まで少年を連れてくる。少年の前には二台の並んだパトカーが異様な存在感を放っていた。

 

 

「さぁ、中に入りなさい」

 

「私以外にも誰かいるのですか?」

 

「いいや、君だけだ。さぁ、早く入って」

 

 

 警察官は、パトカーの扉を開けて少年に中に入るよう促す。

 少年は、パトカーの中へと視線を向ける。パトカーの後部座席には、既に一人の警察官が乗車していた。

 少年は、パトカーに乗車しようと足を持ち上げるために力を入れる。その時、口を閉じて少年についてきていた女性が唐突に少年に話しかけた。

 

 

「あなた、こういった場合には一人称が私になるのね」

 

「ん?」

 

 

 声をかけられた少年は、一瞬だけ持ち上げていた足を止めて女性に視線を向ける。その後少年は、何事も無かったかのようにすぐさま視界を正面に戻した。

 警察官は、立ち止まった少年を不審そうに見ると中に入るように再び催促した。

 

 

「早く入りなさい」

 

「はい」

 

 

 少年は、警察官の命令にロボットのように従順に従い、パトカーの後部座席に乗り込む。

 少年についてきていた女性は、少年に張りつくのをやめてパトカーの外で待機していた。さすがにパトカーの中には入らないようである。

 少年を引き連れてきた警察官は、少年が座るのを見ると少年の出入り口をふさぐように座りこむ。少年は、警察官二人に挟まれる形になった。

 そして、完全に封鎖された空間が出来上がると、少年の隣に入り込んだ警察官が少年に顔を向けて話しかけてきた。

 

 

「非常に言いにくいんだが、つい先ほど君の家に強盗が入ってね。近所の人から通報があったんだ」

 

「家に強盗が入ったんですかっ!?」

 

 

 少年は警察官から話を聞いた瞬間、驚いた顔をした。

 展開としては、凄くありきたりの展開である。どうやら強盗が少年の家に入ったとのことらしい。パトカーが二台止まる程の事件で野次馬が湧くのならば、その程度のことが起きていてもおかしくない、容易に予想できることである。

 しかし、大目に見ても少年の家はそこまで裕福な家庭ではない。強盗が入りこむだけの価値がある家ではなく、犯罪をしてまで手に入れたくなるような何かがある家じゃなかった。

 そんなたいそうな物など無いのに強盗は何を盗むというのだろうか、少年には疑問だった。

 犯人が少年の家の中の状態、裕福度とでもいうべきだろうか、それを知っていたとは考えられないので、少年の家に入ってしまったのは仕方がないことなのかもしれない。犯人は、そこまで下準備をして強盗に入ったわけではなさそうである。

 

 

「俺の家に盗むだけの価値があるようなものなんて何もないはずなのにっ……なんで俺の家に!?」

 

「落ち着いて」

 

「は、はい……」

 

 

 警察官は、動揺する少年の肩を抑えつけるようにして落ちつかせる。

 

 

「そこで、聞いておきたいことがあるんだけど」

 

 

 警察官は、明らかに動揺している少年に付け込むように話を聞こうとする。きっと事件にかかわることを話そうと思ったのだろう。

 だが―――警察官の思惑は叶わなかった。そこまで警察官が少年に対してしゃべったところで、パトカーの後部座席の窓をトントンと叩く音が車内に鳴り響いたのである。

 少年が音に反応して窓の外を見ると、警察官も少年と同じように音に反応して窓の外を見た。

 

 

「え?」

 

「一体何だ?」

 

 

 視線の先には、一人の男性が立っていた。

 

 少年にしゃべりかけていた警察官は、窓を叩いた男性の対応をするために少年との話を一度中断し、扉を開けて外に出た。

 少年は、座ったままパトカーの中で警察官を見送る。パトカーの扉は出て行った警察官によって閉められ、少年は再び密閉空間に取り残された。

 

 

「ちょっとだけ待っていてね。話は、加藤さんが戻ったらするから」

 

「はい、分かりました」

 

 

 どうやら先程まで少年の対応をしていた警察官の名前は、加藤というらしい。

 少年は、覗き込むようにパトカーの窓から外の様子を伺い、パトカーの内側から窓越しにのんびりと外を眺めていた。

 

 

(この状況の警察官に何の用事だろう?)

 

 

 やってきた男性は、事件の臭いに引きつけられた野次馬の一人なのだろうか。少年は、意識を完全に外の二人に集中させる。

 警察官は、パトカーを出るときに扉を閉めている。そのため、外からの音はパトカーの中へはほとんど入ってこない。さらには、サイレンが鳴っているのもあり、外で行われている会話のほとんどは、耳には届かなかった。

 

 

(やっぱり聞こえないか)

 

 

 少年は、集中して外で行われている会話を聞き取ろうとする。

 しかし、今やって来た男性と警察官の加藤さんが何をしゃべっているのか細かいところまでは聞こえなかった。聞こえてくるのは、会話のほんの僅かな部分だけで、ところどころ部分的に聞こえてくる程度である。

 

 

(きっと注意しているんだろうな。捜査の邪魔をしないでほしいみたいな話だろう)

 

 

 少年は、外から聞こえてくるおおよその言葉から話の内容を予測した。

 どうも、外に出た警察官は、今パトカーの側まで来た人物に対して注意を促しているようである。

 

 

(いつ終わるのかな……)

 

 

 パトカーの中に拘束されている少年には、待つことしかできなかった。下手に出て行っても止められるだろうし、話が何一つ進展しない。

 少年は、何もできない状況で静かに外を眺めながら話が終わるのを黙って待っていた。

 

 

「ん?」

 

 

 少年がパトカーの中から外を見ている時、唐突にある思いが少年の頭を廻った。

 脳が眼に映っている視界の情報をすでに一度取り込んだことがあると言っている。少年に備わっている脳が既存の情報であると伝達している。目の前に繰り広げられている光景に対して、すでに見たことがあるという情報を伝達してきた。

 

 

「あ、なんかこれ知っているな」

 

 

 少年は、酷い既視感に襲われていた。

 少年は、先程よりも集中して目の前に広がる景色を眺める。先ほどとは違い、目を細めて外の二人のやり取りを見つめる。

 やはり、何度見ても少年には目の前で繰り広げられている光景を何度も見た記憶があった。

 

 家に強盗が入って

 

 警察に呼び止められて

 

 なぜかパトカーに乗せられ

 

 よく分からない男性からパトカーの後部座席の窓をノックされる

 

 それに応じて警察官が外に出る。

 

 この流れを見たことがあった。

 

 そして、ここまで時間を浪費したところで―――少年は動きだす。

 

 

 

 

「知っているってどういうことなの?」

 

 

 少年の声は小さかったが、外にいた女性は少年に大きく意識を傾けていたため、パトカーの中にいた少年の言葉が聞こえていたようである。

 

 

「あの警察官、死んでしまう。ていうかここままじゃ俺も死んでしまう」

 

「何よそれ。ちゃんと話しなさい。それじゃあ何の説明にもなっていないわ」

 

「君、いきなり何を言っているんだ?」

 

 

 少年はしっかりと女性の言葉に反応を示したが、返ってきた女性の声を無視し、慌ててパトカーの後部ドアを開けた。そして、同じように疑問符を投げかけている警察官をも無視して、勢いよく体をパトカーの外へと出し、先ほどやってきた人に対応している加藤という警察官のところに飛び出す。

 少年の足は、パトカーを降りたとことで停止し、ドアから一歩出たところで止まった。

 

 

「っ……」

 

 

 その瞬間―――少年の顔に生ぬるいものが付着した。

 

 

 少年の顔には、生温かい液体が張り付いている。

 少年は、何かが顔面に付着したことによって目を閉じることはなかった。少年の視界には、はっきりと警察官の後ろ姿が捉えられていた。

 

 

「ふははは、やったぞ!」

 

 

 ゆったりと時間が圧縮された様に流れていく。

 警察官は、先ほどやってきた男に首元を切り裂かれて倒れ込む。警察官の首からは、血が滝のように流れ出し始め、生き物のように首から逃げるように流れ出る―――圧力のかかっていた血液が逃げ場を見つけて放出していた。

 警察官は、地面に伏せるように倒れた。視界を遮っていた警察官という壁がなくなる。少年の視界は、警察官の後姿を見失った。

 

 

「ははは、みんな死んじゃえばいいんだ。こうやって殺しまくっていれば俺も殺してくれんだろ? なぁそうなんだよなぁ!!」

 

(やっぱり、こうなったか)

 

 

 少年の目の前には、先程まで警察官と話していた男性―――凶器を持った殺人犯がいた。

 

 少年は、殺人犯を目の前にした状況に陥ってもひどく冷静だった。恐怖を感じていないのか、感情というものがないのではないかと思えるほどに静かだった。

 少年は、恐怖など感じていない、危機感も覚えていない。少年の中にあったのは、既視感と嫌悪感だけである。殺人犯を前にして異常者を相手にしたくないという想いだけである。その想いは、朝に意味不明な女性と会った時と寸分違わない。

 

 あくまで少年は、平常通りだった。

 

 

(異常の塊の女性、異常な雰囲気の殺人犯、異常な身を隠している僕、本当に異常だらけ……気持ちが悪い)

 

 

 現在の状況は、異常が極まった状態だった。

 少年の目の前には、意気揚々としゃべっている異常者がいる。

 そしてそんな異常者の前には、異常な少年がいる。

 異常な少年の隣には異常な女性がいる。

 実に異常な光景だった。

 

 

(僕は、どうしたらいいんだろう?)

 

 

 少年は、こういった一線を越えたような異常に関わるのをひどく嫌っている。上半身だけの女性しかり、目の前の殺人犯しかり、基本的に普通でないものに対しては無視を決め込むタイプである。触れてしまえば、火傷をするようなものに好き好んで触る者などいないだろう。

 しかし、現状は無視をして収まる状況ではなかった。

 少年は、殺人犯に対してどんな対応を取ればいいか悩んでいた。無視をしたところで目の前の殺人犯は少年を逃しはしない。殺人犯は女性と同様に、少年が無視すれば自ら離れていってくれるようなタイプでないのは誰の目から見ても明らかだった。

 

 

「家族全員ぶっ殺せば、警察官を殺せば、俺も殺してくれるんだろ!!」

 

(僕の家族も殺したのか)

 

 

 少年は、男の言動から自分の家族が殺されたことを察した。

 少年の家族は、目の前にいる男性に殺されてしまったらしい。それは、パトカーが複数止まる事件であろう。大事件だし、警察が騒音を響かせる意味がある。

 

 

(母さん、父さん、約束は守るよ)

 

 

 けれども、少年は犯人の言葉を聞いても表情を一切変えなかった。家族を失ったことを理解しても、何一つ気持ちを揺らさなかった。

 少なくとも、女性から見た少年は酷く落ち着いているように見えた。あまりに薄い少年の反応に、犯人の言っている言葉の意味が分かっていないのではないかと思えるほどだった。

 女性は、余りにも薄い少年の反応を見て少年が家族を失ったことを理解していないのではないかと疑問を募らせた。

 

 

「あなたは怒らないの? 悲しまないの?」

 

「そんなものはどっちでもいいんだよ。そんなことをしても何も変わらない」

 

 

 少年は女性へと視線を向けることなくはっきりと答え、無表情のまま女性に対して言葉を返した。

 女性は、少年の言葉で少年が犯人の言っている家族を殺したという言葉の意味を察していることを理解した。女性の心の中に、ならばなぜ、という疑問が一気に湧き上がる。

 

 

「どうして貴方は……」

 

「殺してやる!!」

 

「やっぱり、こんなのを見たことがあるね。まぁ、そんなことはどっちでもいいんだけどさ」

 

 

 殺人犯の男性は、女性の言葉をかき消すように少年に対して殺意を体現した言葉を投げつけ、少年に向かって言葉を吐いている。

 犯人は、決して女性に向けて話しているわけではない。なぜ少年に対して言っていると判断がつくのかというと、男性にも女性の姿は見えていないからである。

 つまり男性は、少年の言った「そんなものはどっちでもいい」という言葉を真に受けた。少年は、知らず知らずのうちに犯人を挑発していたのである。

 

 

 男性は、殺してやるという言葉を実行するために少年に向かって走ってくる。両足を少年に向けて突撃し、ナイフを突き立て少年を殺そうとする。

 

 

「さぁ、どうするか」

 

 

 少年は、犯人に対して抵抗しようと体に力を入れた。襲いかかってくる犯人に対してどう動けばいいのか思考する、見たことのある光景に対処する。

 犯人の持っているナイフが少年の首にめがけて伸びてくる。普通の人間であれば、ナイフの軌道見ることなど到底できない。例え、見ることができたとしても対処することは叶わないだろう。

 

 

(見える……)

 

 

 しかし、少年には犯人の持っているナイフの軌道が見えた。首に向かって伸びてくるナイフの軌道が見えた。さらに、伸びてくるナイフに対して体が自然と脊髄反射のように反応した。

 少年は、何度か経験したことがあった、こんな異常な事態に経験があった。

 少年は、その経験に従って動いていく。

 

 

(ここからの僕の選択肢は)

 

 

 少年は、絶対に次の行動をとってはならない。

 

 向かってくるナイフに対して避け、逃げ出す。

 

 犯人と自分の体格から考えると逃げるという選択肢は危険である。間違いなく逃げている途中で追いつかれる。または、逃げることすらもできずに殺される。

 逃げている間に周りの人が助けてくれる可能性はあるが、周りの人の助けを前提とする行動には大きなリスクが存在する。

 少年は、この選択肢を取った時に十中八九死んだ記憶があった。

 

 真正直に戦いを挑む。

 

 真正直に戦いを挑むとほぼ間違いなく少年は死ぬ。少年は、成熟した大人に対して勝てるような何かを持ち合わせていない。真正直に戦っていては普通に勝てない。

 少年は、あくまで普通の人間なのだから普通に戦って負けて死んでしまう。少年は、犯人に一度たりとも勝った記憶がなかった。

 

 少年は、その二つの選択肢を取らない。活路の見えない方法を選択しない。

 少年は、この状況でどうすれば生き延びることができるのか知っている。体が覚えているほどに経験している。

 

 

(同じように、何度も繰り返した行動をなぞるだけ)

 

 

 少年は、骨を切らせて肉を断つ戦法によって状況を打開する。

 少年には自身の左手がナイフに向かう途中の軌跡がスローモーションに見えていた。少年は、伸びてくるナイフに対して左手を開き、自らナイフに突き刺すように左手を前に押し出す。

 

 

「は?」

 

「俺の利き腕右手だからさ。左手一本ぐらいならいいかなって」

 

 

 殺人犯の男性は、少年の普通じゃない行動に間抜けな声を出した。犯人のナイフは少年の左手を貫き、貫通している。左手の甲からは、血に濡れて赤くなった金属がむき出しになっていた。

 少年の左手は、ものの見事につき抜かれて大きな穴を開けると共に血をしたたらせている。

 犯人は、予想外の出来事に頭が回らなくなっていた。

 少年は、予想外の行動で犯人の動揺を誘う。痛みを感じさせない表情で無表情のまま犯人へと口を開き、冗談染みたことを言いながら傷を負った左手でそのままナイフを握って相手の右手を握りしめる。少年が持ちうる限りの力を振り絞って握りしめた。

 

 

「さようなら」

 

 

 少年は、残った武器である右腕を使い、茫然としている無防備な相手の首に向かって思いっきり殴りつける。喉仏に拳を直接打ち込む―――持てる力の全てを込めて打ち抜いた。

 

 

「かはっ……ごほっ、ごほっ」

 

「あんたに謝るのは、何度目なんだろうね。聞き飽きたかもしれないけど言っておくよ」

 

 

 男性は、喉仏への一撃で呼吸困難を起こし、苦しそうに体をくの字に曲げた。

 ナイフは、少年の左手に刺さったままであり、少年の血はとどまることを知らず流れ続けている。

 しかし、ナイフを握っているはずの犯人の右手はナイフの柄には存在しない。犯人は、少年の攻撃の衝撃によってナイフを手放しており、少年の手には、ナイフだけが取り残されていた。

 力のない少年には、急所を打ち抜くことでしかダメージを与えられない。というよりも、生き残ることができない。

 少年が取れる選択肢としてはこれ以外にも、腹部に攻撃する、顔面に攻撃するという選択肢があったが、少年はその選択肢を選ばなかった。選んだ場合の生存率が零だと分かっていたから。はなから少年の選択肢には入っていなかった。

 

 

「ごめんね。ここで止めると、俺が死んじゃうからさ」

 

 

 少年は、作業的に殴打した殺人犯に対して謝る。どう見ても、誰が見ても、悪いことをした後にする謝り方をしていない。少年の顔には、自身の行動を悪いと思っている気持ちが一片たりとも見えなかった。

 確かに少年が悪いことをしているというわけではないから謝る必要はない。

 けれども、人を殴った後は謝るのが通説であると言わんばかりに、少年は‘一応’殺人犯に対して―――暴力振るった相手に対して謝っていた。

 

 

「ここで死ぬ、それだけはできない約束なんだよね」

 

 

 少年は、謝った直後に首に攻撃を受けて下がった男性の顔に向かって思いっきり膝蹴りをする。少年の膝蹴りは男性の顎にぶつかって、男性はのけぞるように地面に倒れた。

 少年の左手に刺さったナイフも犯人が倒れ込むのと一緒に落ちていく。ナイフは、殺人犯と同期したように音をたてて地面に落ちた。

 

 

 空間内に―――ナイフの金属音が残響した。

 

 

 暫くの間場を静寂が包むと周りで見ていた人間たちの時間が一斉に動き出したかのように、犯人を取り押さえはじめる。

 少年は、ピクリとも動かない犯人を見下しながらその場で立ちつくしていた。

 

 

「…………全部、終わりか」

 

 

 今にも消えそうな雰囲気で―――儚げに立っていた。

 

 

「なぁ、さっきあんたが言っていた大変なことになるって、これのことか?」

 

 

 少年は、近くにたたずんでいた女性に尋ねた。目の前で起こったこの状況が女性の言っていた大変なことの中身なのかどうかを確かめるために、話したがらなかった少年自身が女性に向けて言葉を口にした。

 女性には、少年の質問に答えるよりも知らなければならない事が山ほどあった。

 

 

「それより、‘知っている’って言っていたわね。まずそれについて答えなさい」

 

「俺が先に質問したんだから、そっちが先に答えろよ。質問を質問で返すのは駄目だと思うよ」

 

「あなたね……そんなことを言って」

 

 

 少年は、呆然と立ち尽くしたまま文句を垂れた。

 女性は、少年の返しに呆れる。あんなことがあっても何も変わらない少年の様子に驚きと呆れを感じずにはいられなかった。

 

 

 女性は、問い詰めようと声を発しようとするが、ここで中断されることになる。

 少年の腕がパトカーにいたはずの警察官に掴まれて思いっきり引っ張られた。少年は、勢いよく引きつけられた力に驚き、慌てて腕をつかんでいる警察官に視線を移した。移した少年の視線の先には、若干焦ったように見える警察官の顔があった。

 

 

「救急車を呼ぶから、病院へ行きなさい」

 

「……分かりました」

 

 

 少年は、警察官に言われて自分が怪我をしていることを自覚する。視線を左手に移すと、左手には大きな穴が開いているのが確認できた。

 

 

 警察官は、どこからか包帯を取り出して出血個所を圧迫する形で応急処置を行った。どうやら最低限の治療ができるようである。

 少年は、自分の左手から犯人に切りつけられた警察官へと視線を移す。加藤という名前の警察官は全く体を動かさず、別の警察官が一生懸命応急処置をしていた。

 

 

「救急車が来ましたね……私は、自分の足で行けます。そちらの警察官の方をよろしくお願いします」

 

 

 少年は、警察官から治療を受けた後にやって来た救急車に乗りこむ。加藤という名の警察官とは異なり、自分の足で歩き、救急車に乗り込んだ。

 救急車には、切りつけられた警察官も一緒に乗った。救急車は、うるさいぐらいにサイレンを鳴らし、病院へと走り出す。

 

 

「ふざけた子……」

 

 

 女性は、一人取り残されて救急車を見送った。いまだにうるさくパトカーのサイレンが鳴り響いている少年の家の前で、静かに少年が運ばれていった方向を見つめていた。

 

 

「早く動かないと危険ね」

 

「母さん、父さん……約束は守るから」

 

 

 少年は、救急車の中で小さくぼやいた。

 




少年の中の異常は、箱の中に収まっていた。
溢れ出た理由、そんなもの分かりきっている。
容器の中に入っている物の量が増えた。
あるいは誰かが―――穴を開けたか


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病院でテレビを見た、日常が異常に昇華した

前回のあらすじ

殺人犯は謳った。
殺してくれと言った。
それは、さながら心の中から響いてくる絶叫だと思った。


変わっていく世界があって
様変わりするような現実があって
夢のような事実があった。
それでも―――曲げちゃいけないものがあった。


 病院へ行った少年は、治療室で医師から正式な治療を受けた。

 治療の内容は、ナイフで突き刺された左の掌に開いた穴を塞ぐというものである。それほど難しい手術ではなかったようで、手術にかかった時間はあまり長くなかった。

 治療を行った医師によると、傷跡は残るが完治するらしい。完治までは2か月といったところだそうだ。

 

 

 少年は、手術を終えた後眠りにつき、病室で目を覚ましていた。

 少年のいる病室は一人部屋であり、他の人間は誰一人いなかった。

 少年は、ベッドの上に座りながら右手を上げて静かに何重にも巻かれた右腕を眺めていた。

 

 

「こんなにぐるぐる巻きにされて……ちょっと解いておこう。動かしにくいし、別にばれないでしょ……」

 

 

 少年は、巻かれている包帯の一部を解く。ただ、完全に解くことはなく、肌が露出するほどではない。血のにじんだ赤がわずかに見える程度に解いた。

 

 

「ん~」

 

 

 少年は、幾重にもまかれている包帯を動きやすい程度に解くと背伸びをする。すると、少年の背骨は気味のいい音を数回立て、空間の空気を僅かに震わせた。

 

 

「はぁ」

 

 

 少年は、ゆったりと流れる時間の中で、ただただ時間を浪費するだけ―――病室の中でのんびりと時間を過ごしていた。

 事件があってからすでに病院で一夜を明かしており、朝を迎えている状態である。

 外からは、太陽からの日差しが伸びてきていた。

 

 

「何かやっていないかな」

 

 

 少年の病室には、ベッドの隣にテレビが設置されていた。

 少年は、傍に置いてあったテレビのリモコンを手に取ると電源のボタンを押す。

 テレビは、電気の供給を受けて画面から光を放出した。

 少年の病室にテレビからの光と音が広がる。

 少年は、やる気を感じさせない表情でテレビを見つめた。

 テレビでは、すでに昨日となってしまった事件が報道されている。テレビ画面には、ちょうどタイミングを計ったように昨日起こった事件の犯人の顔が映し出されていた。

 報道によると、昨日少年の家にやってきた強盗殺人犯はすでに死亡してしまっているらしい。どうやって死んだのかは分からない。少年が見ている限り、強盗殺人犯の死について報道されることはなかった。

 少年は、どうでもよさそうにテレビの画面を見つめる。

 

 

「へぇ、犯人は死んじゃったんだ。そりゃあ良かったね。願いが叶ってさ」

 

 

 少年の声は、誰もいない部屋の中で響いた。言葉としての意味を持つ音は誰にも拾われることなく空中に拡散する。広がって拡がって、小さくなる。少年の声は特に何事もなく消えてなくなった。

 報道の内容は、加害者の犯人から被害者の少年の家族へと移る。犯人に続いて、少年の家族も全員死んでしまっていることが報道された。

 

 

「……本当に、死んじゃったんだ」

 

 

 少年は、物憂げな様子で遠くを見つめる―――テレビのさらに奥を射抜くように視線を集めた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年は、暫くの間視線を遠くに送ると静かに力なくベッドに横たわった。

 少年の視界は、真っ白な天井を映し出す。少年の視界からテレビの存在が完全に消えた。

 しかし、少年の視界からテレビが消えたからといってテレビから響いている音が鳴りやむことはない。

 少年の耳には、テレビからの事件の情報が次々と入り込んでくる。少年の家族が死んだという事実を告げる言葉が、感情のこもっていない演技じみた言葉が少年に絶え間なく降り注いでくる。

 

 

「っ……」

 

 

 テレビから発せられる可哀想という言葉が酷く耳に触った。

 少年は、ベッドのシーツを力強く握りしめる。怪我をしている左手も関係ないと言わんばかりに両手で力強く握りしめた。少年は、家族の報道が終わるまで心に渦巻く感情を必死にこらえた。

 少年の家族についての報道はものの数十秒程度で終わりを告げ、何事もなかったかのように次の話に移っていく。

 少年は、家族の話が終わると同時に苦しさが緩和したように握りしめた掌をゆっくりと開いた。

 

 

「母さん、父さん……」

 

 

 そう呟かれた声は、今にも消え入りそうだった。

 

 

 少年の耳は、塞がれることなく情報の流入を許し続ける。横になった少年の耳には、次々とテレビからの情報が送りこまれてきた。

 

 テレビは、視点を変えて事件の中身を披露する。

 

 事件の内容について報道されているものとしては、事件の概要や被害者についてよりも警察官の人間が一人死んだことの方が大きく報道されていた。

 死んだ警察官は勇敢であり、勇気を持って殺人犯に立ち向かったとか、非常に気の優しい人で市民が親しみやすい人だったとか、優秀な警察官だったとか、関係者からの悲痛な声ばかりが報道されている。

 少年は寝返りを打ち、テレビから背を向けるようにして横になった。

 

 

「相変わらずテレビはよく分からないね。マスコミは、死んだ人を取り上げて何をしたいんだろう。それはすでに終わっているのに……」

 

 

 少年は、人間は死んだら全てが終わると思っている、ただ単純にそう思っている。

 そんなことは、世間一般にも当たり前のことである。死んでしまえば全ての生命活動は停止し、終わりを迎えるのだから。

 

 けれども、そんな一般の考えと―――少年の死に対する意識は明らかに違っていた。

 

 少年の終わりというのは、生きている周りの人間の気持ちについても反映される。終わるということは文字通り、後に続かないということである。そしてそれは、誰かが引きずるものではない、死んだ人に対して悲しんだり、辛い思いをしたりするのは間違っている。少年は、そう思っていた。

 死ぬ前に苦しんでいる姿を見ていて、可哀想というのはまだ分かる。それは、まだ相手に伝わる、意味のある言葉になる。

 しかし、死んだ人は死んでしまっていて何か反応をくれるわけではないし、死んだ人がどうにかなるわけではない。

 少年は、死んだ人に対して何かをしたり、思ったりするマスコミの報道に疑問を抱えていた。

 

 

「生きている人は死んだ人をただ覚えていてあげればいいだけなのに、よく分からないや。まぁ、どっちでもいいけどさ」

 

 

 少年は、何も死んだ人のことを考えるのは無駄だから全て忘れてしまえと思っているわけではない、全てを忘れてしまうというのはあまりにも死んだ人が可哀想である。

 死んだ人が生きている人に対して望むことは―――生きていたことを覚えていて欲しいということである。

 少年は、両親からそう教えてこられた。悲しむことでも、憂うことでも、涙を流すことでもない、覚えてあげることだと。

 

 

「僕は、絶対に忘れないよ。母さん、父さん、僕は絶対に忘れない」

 

 

 両親の言葉は、少年の心に深く刻み込まれていた。

 少年は、死んだ人にできることは覚えてあげること以外にないと思っている。

 存在がそこに在ったことを覚えていてあげること、それが一番大事なことだと思っている。

 それこそが死んだ人の生きていた証になると思っていた。

 

 

 

 

「そういえば、犯人はどうやって死んだんだろう……まだ情報が出回ってないのかな」

 

 

 少年は、思考の流れるままに両親と同じ死んだ人である先程情報が流れて行ってしまった犯人のことを想う。

 

 犯人には、覚えてくれるだけの誰かがいたのだろうか。

 

 少年が犯人の死因について報道されていないと思っているのは、少年が単に聞き逃したせいかもしれない。少年はずっとテレビを点けていたわけではないのだから、報道されていないかどうかは実のところ不明である。

 

 少年は、犯人のことについて知りたいことがあった。

 

 それは、少年が口にしているように犯人がどうやって死んだのか―――ということではない。そんなことは、本当はどうでもいい。死んでしまった過程を知ることに価値などない。考えたところで犯人が死んだという結果は何も変わらないからだ。

 少年にとって本当に大事な部分はそこではなかった。

 

 

「誰か犯人のことを覚えていてくれる人は……いないのかな」

 

 

 少年は、犯人の身近な人間について考えていた。犯人には家族がいたのだろうか、友人はいたのだろうか、覚えてくれるだけの誰かはいたのだろうか。

 もしもいなかった場合、少年が犯人のことを覚えてあげる必要がある。なぜならば、この報道を聞いている人はきっと一カ月も経てば犯人のことを忘れてしまうから、少年以外に覚えてあげられる人物がいないからである。

 

 

「僕が、覚えてあげなきゃいけないのかな」

 

 

 普通であれば、襲われたことで覚えることになるはずの少年の家族は死んでしまっている。少年が覚えておいてあげなければ犯人の存在は、時間の経過とともに消えてなくなってしまう。

 少年は、それはあまりにも可哀想だと思った。

 しかし、いくら経っても、いくら待ってもテレビからは警察官のことばかりで犯人の情報が流れてこなかった。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年は、大きなため息と共にリモコンを手に取ると、指先に力を入れてボタンを押し、テレビの電源を落とした。いくら待っても送られてこない状況に、意味のない情報の流入に、テレビから情報を得ることを諦めて別の方法で情報を得ることを考えたのである。

 テレビに頼らずとも、情報を手に入れる術は山のようにある。特段テレビにこだわる必要性はない。

 

 

「また、どこかで会うだろう」

 

 

 テレビが消えたことで病室の中からは、一気に音という音が消えていく。

 テレビを消しただけなのに、部屋の中に音がなくなった。外からの音も、廊下からの音も全く聞こえなくなった。

 音の無くなった静寂の病室という空間にいるのは、少年だけである。

 

 

 少年は、音が消えたことを気にする様子もなく、天井を見上げていた。

 天井は白く、空は見えなかった。

 

 

 少年は、これからどうしようか考えを巡らせる。明日を生きていくため、普通に生活するためにはどうしたらいいのだろうかと思考していた。

 両親が死んでしまった今、少年は他の人間を頼る他ない状況に立たされている。親戚に身を寄せるのか、施設にお世話になるのか、将来について考えなければならないことは山ほどあった。

 

 

「結局、これもどっちを選んでも一緒なんだろうな。例えどちらを選んでも、どっちでもいい」

 

 

 少年がそう呟いた瞬間、静かな空間に支配された病室に―――音が入り込む。

 意味不明な、不可解な音がする。音のない部屋に音が入り込んでいる。

 少年は、一瞬にして何が起こったのか理解した。

 

 

 ―――あの女性がやってきたのである。

 

 

 

 

「あなたの口癖なのかしら。その、‘どっちでもいい’っていうの」

 

 

 少年の想像は、当然のように的中した―――間違える要素など何もなかった。

 少年は、視界の中に昨日見た異物を捉える。

 病室の静けさを打ち破ったのは、昨日出会った女性だった。間違いなく、登下校の最中に出会った女性である、少年の異常を見抜いた女性である。

 女性は、またしても気持ち悪い空間から上半身を乗り出してやってきている。

 よくよく考えてみれば、女性が少年にくっついてきているのは当たり前のことだった。女性は、昨日の午前中から午後の間、帰宅の途中まで少年にくっ付いて来ていた。それが次の日になったから、日付が変わったからといって付いてきていないというのは考えにくい。きっと今になっても監視は続いている、継続されている、そう考えるのが普通だった。

 ただ、さすがに昨日の今日でやって来るとは思ってもいなかった。猶予となる時間があると、勝手に想像していた。これほど早く、接触してくるとは思ってもみなかった。

 

 

(もう、完全に終わってしまったな……連続で異常が日常に入り込み始めた)

 

 

 少年は、今日という日に女性に会いたくなかった。少年にとって今日という日は、特別な意味を持つ日だったのである。

 少年は、この女性のことを2日連続で見かけることになった。連日見かけるというのは、今までで初めてのことである。

 これで、少年の生活の中に異常が連続して続いたことになる。連続して続くということは、異常は日常に変わるきっかけを得たということだ。

 異常は、日常への転換期を迎えつつあった。

 

 

「どうとでも思ってくれればいいよ」

 

「そう、じゃあ勝手に想像しておくわ」

 

 

 少年は、興味なさ気に女性に応え、口を動かしながら右手をゆっくりと伸ばし、何とかして女性を追い出すことができないかと画策した。

 ここは、都合のいいことに病室である。病室には、患者の容体の急変に対処するためにナースコールが必ず備わっている。

 少年は、女性を追い出すためにナースコールを押そうと右腕を動かした。

 

 

「無駄よ」

 

 

 女性は、少年の手の動きを見逃さなかった。

 しかし、言葉に反して少年の行動を物理的に止めることはない。

 少年は、ナースコールを手に持った状態で女性を見つめる。

 女性は、自信満々な表情でナースコールを押す構えを見せている少年に向けて告げた。

 

 

「この空間は、完全に隔離しているわ」

 

「音が全部なくなったのは、お前のせいかよ」

 

「ふふん」

 

 

 少年は、先ほど病室の中の音が全て消えたことを思い出す。テレビが消えただけなのに、窓の外からの音や廊下を歩く人の足音などが全て消え去ったことを思い出した。

 少年は、女性の言葉から静かな空間を作り出した原因が目の前の女性であることを察する。そして案の定、女性は少年の言葉に対して顔だけで自分が犯人だと答えた。

 少年は、女性の表情を見て自分が嵌められたことを自覚した。

 女性は、最初から準備をしてこの病室にやって来たのだ。きっと少年がこの一人部屋に入っているのも、最初から決まっていたことだったのである。

 

 

「本当に、鳴らないんだ……」

 

 

 少年は、無駄だということを分かっていながら、伸ばした右手を引くことができず、ナースコールを駄目もとで押してみた。

 だが、ボタンを押すことによる反応は何一つ確認できなかった。音が鳴ることもなければ、ランプが点くこともない。

 女性の言っていることは、まぎれもない事実だった。

 ナースコールを握った少年の手は重力に負けて落ち、小さな衝撃音とともにベッドの上に落ちこんだ。

 少年は、異常が日常に侵食するのを認めるのが嫌だった。まだ、普通のままでいたかった。少年は明らかに嫌そうな顔で女性を一度見て、視線をすぐに外す。そして、下を向きながら重くなった口を開いた。

 

 

「なんで、こうなったんだろ……」

 

「そんなに嫌そうな顔しないでよ」

 

 

 女性は、少年の露骨な嫌悪の示し方に不満げに言った。

 しかし、それでも少年は一切表情を変える様子を見せなかった。

 

 

「しょうがない子ねぇ」

 

 

 女性は、頑なな少年の態度に提言する。

 

 

「もっと愛想良くできないのかしら? こう、にこっと笑えないの?」

 

「絶対に嫌、しないからね」

 

 

 女性は、少年の様子に少しばかりの驚きを感じていた。

 少年の様子は、あまりに‘普通すぎて’異質に見えるのだ。

 

 

「別にいいじゃない、減るものじゃないし。やろうと思えばできるのでしょう?」

 

「なんで俺があんたに笑顔を振りまかなきゃいけないの?」

 

「私の気が楽になるからに決まっているじゃない。不満げな顔ばかり見ているとこっちも気分が悪くなるわ」

 

 

 女性が普通に見える少年のことが異質に見えるのも仕方がないことだった。

 

 なぜならば、少年は昨日両親を失っているのだから。

 

 女性は少年に会う前、少年の心が壊れているかもしれないと予測を立てていた。

 少年は、昨日のうちにあまりに大きなものを失っている。昨日という一日の間に両親と普通の生活を失ったのだ。女性は少なくとも少年は酷く混乱している、平静を保っていないと考えていた。

 しかし、現実に少年は守ってきたものが一気に無くなってしまっても壊れていない上に動揺している様子も見せていない。

 女性は、少年のごく普通な反応に話ができるという安心と、余りに異質な少年の様子に気味の悪さを感じていた。

 少年は、どうでもいいことを話している女性に対して大きなため息を吐いた。

 

 

「はぁ……」

 

「さてと……」

 

 

 女性は、ゆったりと黒い空間の中から体を出す。女性の全身が世界の中に介入した。少年は、ここで初めて女性の全身像を視認することになった。

 女性は、病室に備えつけられている椅子を手に持つ。椅子は軽々と浮き、少年の寝ているベッドの傍に置かれた。

 

 

「さぁ、昨日の続きといきましょうか」

 

 

 女性は、少年と真剣に話をするつもりだった。

 実際、女性は昨日とは違い、空間から上半身だけを出している中途半端な状態でいるということはない。全身を黒い空間から出し、少年に見せつけるように椅子に座っている。

 少年と女性の距離は1メートル程度で、二人の間を隔てるものは何もなく、逃げることも助けを呼ぶこともできない環境下で、二人は相対していた。

 少年は、半目の状態で側に座った女性を見つめる。少年の頭の中には、この女性のせいで全部が無くなってしまったのだろうかという責任転換にも思える考えが巡っていた。

 だが、そんなものはただのあてつけでしかない。少年は、無駄なことを考えているなという自覚と共に酷い虚無感に襲われていた。

 

 

「何かしら? もしかして私に見惚れているの?」

 

「はぁ、なんだか気分が悪いや。なんでなんだろうな、俺の日常何処に行ったんだろうな。ずっと我慢して、ずっと努力して維持してきたのに……」

 

 

 女性はニタニタとした笑顔で、胡散臭い表情で少年を見つめ、少年はそんな女性を見ながら不満そうに呟いた。

 女性は嫌そうにしないでと言っているが、少年は真面目に女性と話をするのが嫌で仕方がなかった。

 女性との話は、きっと少年にとって良くない話だ。女性は、明らかに少年の守ってきた普通というものを突き崩しにかかっている。少年は、できるものであればこの場から逃げたかった。

 しかし、少年に逃げ道は存在しない。もう、変わってしまっているのである。立場も、環境も、周りも、変わっていない少年の周りで変化が起きてしまっている。

 変わってしまったものを戻すのは、容易なことではない。特に変わってしまった原因を取り除くことが困難なこの状況では、打開することは不可能なことだった。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年は、逃げられない状況に3度目のため息をついた。

 

 

「それもどうでもいいってことなんだろうな。きっとどっちでもいいんだ。それもどっちでもいい」

 

「やっぱりその‘どっちでもいい’は口癖なわけね」

 

 

 少年の言い方は、酷く投げやりに聞こえた。全てを投げ出してしまうような、諦めてしまうような、終わりに向かっているように聞こえた。やはり、表情や言葉には出さないものの辛い気持ちになっているのではないだろうか。女性は、そんな想像して気分を落としている少年を茶化すように告げた。

 少年は、女性の疑問に対して到底応える気分にはならなかった。気持ちを切り替えるために、一度目を閉じ、僅かな間を作る。

 後ろに下がれない状況ならば前に進むしかない、腹をくくるしかないのだ、今まで守ってきたものを捨て去る覚悟をもって前に進む決意をしなければならないのである。

 少年は、ゆっくりと閉じた目を開ける。視界の中心には、女性の姿があった。

 

 

「そんな目もできるのね」

 

「どうでもいい話はよせよ」

 

 

 女性は、少年の表情に目を見張る。今の少年からは、強い意志が感じられた。

 女性は、少年と腹を割った話ができると期待する。

 少年は、すぐさま会話の本題に入ろうとしている。表情を変えて、気持ちを切り替えて前に踏み込もうとしている。

 女性は、相変わらずの笑顔を作ったままであり、内心で少年の気持ちの強さに感嘆しながらも、それを表現することはなかった。

 

 

「何しに来たんだ? どうでもいいことを話しに来たわけじゃないんだろ?」

 

 

 少年は会話の口火を切り、作られた笑顔を張りつけている女性を突き崩しにかかる。

 

 少年は、これから話される内容がとても大事な、重要性の高い話であると感じ取っていた。

 女性の話したい内容は、作られた表情でできる会話ではない。嘘を張り付けていても何も進まない。

 まさか、この場で世間話をしに来たわけではないだろう。ここまでの環境を用意しておいて、何もないということはあり得ない。女性がただの世間話をしに来たわけではないということは、昨日の話から容易に判断できる。

 女性の話は、いつだって世間離れしていて、決して逃れることができないものである。女性が今話そうとしている内容は、世間話で話を後ろに伸ばしても結局最後には、話さなければならないことなのだ。

 

 少年は、上辺だけの会話をすることが時間の無駄になると思っていた。女性も少年と同様に上面の会話を時間の無駄だと思っていたのか、軽々と少年の流れに乗った。

 

 

「そうね、口癖の話なんて‘どっちでもいい’わ。本題に入りましょう」

 

 

 女性の表情は、先程の少年を茶化していた時と比べてしっかりとしたものになる。先程のふざけたような態度ではない。

 対して、少年の顔は変わらない、相変わらずの無表情に近い真面目な顔だった。少年は、完全に気持ちを切り替えて、女性と相対していた。

 女性は、嘘は許さないといった雰囲気で真っ直ぐな視線を少年へと向ける。少年も、それに応えるように女性と視線を合わせた。

 

 

「私が聞きたいのは、昨日のことよ」

 

 

 女性は少年と話をするべく、口火を切った。

 




世界が変わって
様変わりする現実があって
夢のような事実があった。
それでも―――曲げちゃいけないものがあった。
だから―――変わらなきゃいけなかった。


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現実を知った、何も変わらなかった

「あなたが昨日言っていた、見たことがある、というのはどういうことなの?」

 

 

 女性は、昨日聞くことができなかった内容を少年に尋ねた。正確には、尋ねてはいるがそれに対して少年が答えなかったことを再び質問した。

 少年は、女性の言葉で昨日のことを思い出す。そして、昨日の出来事を思い出すと同時に頭の中に一つの疑問が浮かび上がってきた。

 昨日質問を受けていた少年は、女性と同様に疑問を女性に投げかけている。

 

 

「あ、そうだ。あの時は聞けなかったんだったな。あんたの言っていた世界を変えかねないとかいうのを聞こうとしていたんだっけ。昨日は色々あったせいで、細かい事は忘れていたよ」

 

「それにはちゃんと答えてあげるから。まずあなたから答えなさい」

 

「あの時は、俺の方が先に……」

 

「そんなもの関係ないわ。ここは私の質問を先に答えて」

 

 

 少年は、昨日の夜のように再び女性に質問しようとする。

 しかし、少年は続きの言葉を口にできなかった。女性が少年の言葉を遮ったのである。

 女性は、少年から先に情報を開示するように求める。少年は、女性の一方的な言葉に、反論に移ろうと口を開きかけたが―――それもまた女性からの言葉によって打ち消されることになった。

 

 

「あなたの答えが、あなたへの答えに関係することかもしれないの。二度手間になるのは面倒だわ」

 

「……まぁ、どっちから話してもいいのか」

 

 

 女性は、先に貴方が話しなさいとだけ少年に伝えても少年が先に言わないことは十も承知だった。

 少年の意志や我は非常に強い。思い込んだら一直線になるような、折れ曲がらない金属のようにまっすぐである。だから女性は、先に少年に答えて欲しい理由を正当性と合理性を持って形作り、告げた。

 少年は、女性の言葉を聞いて少しだけ考える仕草を見せたが、その間はほんの数秒ほどで、一瞬にして回答を口にした。

 結局どちらから話を始めても特に問題がないのだ。気になることがあれば、後から質問すればいいのである。

 それに少年の気にしていることなど、答えてもらっても答えてもらわなくても最終的には何も変わらない。少年の中の最終的な結論は、巡り巡ってどっちでもいい、という結論にたどり着くことが多い。質問の結果得られる解答に関しても例に漏れないことが予測された。

 

 

「じゃあ、まず俺から話すよ。見たことがあるって言ったのは、そのまんまの意味だ。俺は、おそらく10回以上経験があったと思う。数えていないから正確な回数は分からないけどさ」

 

「経験があった? それは、あんな目に何度も合っているという事なのかしら?」

 

「それは厳密には違う」

 

 

 少年は、強盗殺人犯に襲われるような状態になったことが10回以上あるという。それは、日常生活において致命的欠陥である。たびたび命を狙われるようなことがあったら、平穏な日常など過ごせていない。なにより、普通というものにこだわっている少年にとっての普通とはかけ離れているように思えた。

 女性が少年の言葉を聞いてすぐさま聞き返すと、少年は女性の言葉に対して訂正を入れた。

 話し合いの状況において重要なことは、勘違いをしないこと―――お互いの認識を統一することである。

 少年は、相互理解をするうえで最も必要なのは、互いに共通の認識をすることだということを分かっていた。

 共通認識ができていないと、話はどんどん変な方向へと向かっていってしまう。最終的な結論が爆発物のように破裂して飛躍してしまう。お互いを理解しようという話し合いにおいて、認識の違いは最も気を付けなければならないことである。

 少年は、女性との意志疎通を正確に取ろうと丁寧に説明する。

 

 

「あんな目に何度もあっているけど、現実であんな目にあったのは昨日が初めてだ。俺は、夢で何度も見たんだよ。あの光景を何度も見た。何度も繰り返した。何度も死んだ。何度も殺した。何度も逃げた」

 

「何度も? あなたは同じ夢をよく見るの?」

 

 

 女性は、少年の言っている意味をしっかりと理解しようと、一つ一つ尋ねて頭の中を整理していく。少年の話で気になるところを、疑問になっているところを聞いて、少年に対する知識を集めていく。

 

 

「夢の内容って大体同じだよ。定期的に見る。そして、定期的に死ぬ」

 

 

 少年は、女性の質問の意図に対して間違えないように気を付け、正確に答える。感情を出すこともなく、淡々と夢の話を口にした。

 少年の夢を見る頻度は、まちまちであり、決まった法則はなく、一定期間にいくつ見るというような周期性はなかった。

 ただ、無くなることがないという特徴、そして、夢の内容が非常に似通っているという特徴があった。

 

 

「俺の夢の9割強は自分自身の死で終わるんだ。夢の内容の半分は誰かに殺される、四分の一は高所からの転落死。後の残りは、色々ってところかな。そして、夢の中で死んで夢から覚める」

 

 

 少年の夢は、ほとんどの場合で死という結果によって終わりを迎える。終わり方は様々であり、それに至る過程には決まった法則や順路はない。

 だが、死という結論だけは変わらなかった。

 少年は、夢の中で何度も殺されそうになる体験をしている。それこそ、様々な形で何度も死んでいる。夢の中で死に、現実で生きている。

 

 

「夢の中に居る時に、途中で夢だって分かっちゃうんだけどね。夢って分かった時点で起きられないんだからたちが悪いんだ。起きることができるんだったら夢の半分以上は、死なずに済んでいるのに」

 

 

 少年は、夢の中で自分が夢の中にいると自覚できた。

 危機意識が働くような場面が存在した場合、それが全て夢であることが多いのだから、夢と判断するのはそう難しいことではない。具体的に言えば、誰かから刃物を向けられれば、それは99%の確率で夢なのである。

 

 

(なんでこんなこと、こんなあやしい人に話しているんだろう……)

 

 

 少年は、女性に向けて夢の話をしていて不思議な気分に陥っていた。自分のしている行動に、すんなりと出てくる秘密に違和感を禁じ得なかった。

 誰ひとりとして伝えたことのない夢の話を女性に対して告げる、これまで誰にも話したことのない夢の話を女性に伝える。この夢の話をするという行為をそう簡単にできると思っていなかった。

 少年が夢のことを誰にも伝えようとしなかったのは、まさしく夢の内容が普通でないとなんとなしに分かっていたからである。話してしまえば、気持ち悪がられると分かっていたからである。

 

 

(それに、どうしてこんな気持ちになるんだろう……)

 

 

 少年は、言葉を口にするたびに心がどこか軽くなるのを感じていた。溜めこんでいたものの一部が削ぎ落とされているような気持ちになった。

 実際に少年は、女性から求められてもいないのに、一人でどんどんとしゃべってしまっている。心が楽になるのに従い、少年の口は心の内を吐き出すように次々と言葉を吐き出した。

 

 

「それに、意識が目覚める時の状況も様々だけど、転落死の時は一番酷いんだ。地面にぶつかった瞬間に現実の体が跳ねるからさ」

 

 

 こんなふうにさ、そう言った少年は、今横になっているベッドの上で一度跳ねてみせた。空中に浮き上がった少年の体は、ベッドの上で一度だけバウンドして落ちる。

 実際には、人が高所から落ちる場合、少年のやったような感じで跳ねることはない。現実にはトマトがつぶれるようにべちゃっとひしゃげるだけである。少年の様子は、トランポリンの上で跳ねたような感じだった。

 少年が跳ねるまでの状況を何も知らない者が見れば、ベッドでふざけているように見えるだろう。こんなところを病院関係者に見られたならば、怒られることは必須である。

 しかし、今ここにいるのは二人だけ。周りから入ってくる音は、相変わらず一切存在しなかった。

 

 

「お目覚めだけは、ばっちりだよ。再び寝る気にはならないからね……」

 

「分かったわ。もう大丈夫。もう十分よ」

 

 

 少年は、乾いた笑顔で告げた。

 女性は、少年の表情からこれ以上夢の話をするべきじゃないと判断し、会話を打ち切る。

 少年は、女性の言葉で唐突に我に返った。少年の表情は、先ほどまでの笑顔を消し去り無表情を作り出した。

 

 

「どうして……こんなに話してしまったのだろう」

 

 

 少年は、自分自身の変化に少し驚き、自分にしか聞こえない声で静かに呟いた。無駄に話をし過ぎたと、どうしてこんなに饒舌になってしまったのだろうかと疑問を抱える。

 しかし、いくら考えたところで解答など出てこなかった。

 少年は、出てこない解答に対して一度全身の力を抜いて落ち着きを取り戻す。そして、考えるのを止めて女性に対して質問を投げかけた。

 

 

「それで……関係があることだったかな? 関係ないんだったら時間を無駄にした気がするんだけど」

 

「…………」

 

 

 少年は、女性に向けて夢の内容を話すことに不安を持っていなかった。

 きっとそれは、相手が異常者だったからだろう、自分の異常な部分の存在を看破した相手だったからだろう。

 そもそも少年は質問を断ることのできる立場ではなく、気にしている余裕などないというもの少年の口を軽くさせる一つの要因だった。

 

 

 少年は、どこかすがすがしそうに病室の外の景色を見つめる。

 外は晴れ渡り、まっすぐに太陽からの日差しが病室に入り込んでいる。少年の視線の先には、綺麗な青空が広がっていた。

 少年は、静かに目を閉じて瞼に光を浴びる。久々に自分の中に閉じ込めていた感情を吐き出したことで心を軽くしていた。

 

 

 女性は、少年から聞きたいことはこれが全部のようで、沈黙によって夢の話を完全に打ち切る。病室には、静かな音のない空間が生み出された。

 女性は瞼を閉じている。たった今少年から手に入れた情報を頭の中でまとめていた。

 

 

「関係あったわよ」

 

「そっか、それはよかった」

 

 

 女性は、暫くすると眼を開き、視線を外の方向へ向けている少年に向けて凛とした声で言いきった。

 少年は、女性の言葉で閉じていた瞳を開けて視線を女性へと送る。少年の視界には、先程と同じ真面目そうな表情を浮かべた女性の姿が映っていた。

 少年は、関係がある、という言葉にある想像をする。自分の引き起こした惨劇と夢との間に、何か関係があるということを言っているのだろうと思った。

 

 

「あなたの異常性は、何となくわかったわ。今回のこの事件に関して言えば、あなたが引き起こしたも同然よ」

 

 

 女性は、事件が起きた原因が少年にあるとはっきりと告げた。

 少年は、驚きを見せることなく受けいれるように静かに頷く。女性は、そんな受け入れるような少年の反応を見てさらに言葉を続けた。

 

 

「今回の事件は、あなたの夢の中の出来事が現実に出てきたことによるものよ。正夢が起こっていると思ってもらっていいわ」

 

「ははっ、これが正夢ってやつか、正夢が起こるのは初めてだな。正夢ってこんな感じなんだ」

 

 

 少年は、女性の言葉に少しだけ笑う、答えを見つけて喜ぶ子供のように無垢な表情で笑う。

 女性は、少年の表情に目を見張った。

 少年は、昨日女性が話していた言葉の意味を理解する、世界を変えるという大それた言葉の意味を把握した。

 

 

「あんたの言う世界を変えるっていうのは、夢が現実になることによって世界が大変になるってことか」

 

 

 少年は、少しだけ上を向いて話を続ける。そして、女性の危機迫るような物言いに対して、心配しなくても大丈夫だという意味の言葉を贈った。

 

 

「とりあえず夢が現実になっても、俺の夢で世界が大きく変わるようなことはないから安心してくれていいよ。大体は俺が死ぬだけなんだから。今回はたまたま警察官が死んでしまったけどさ」

 

 

 少年は、そこまでしゃべったところであることに納得した。昨日起こった不思議なことの連続発生の原因がどこにあったのか理解した。

 

 

「ああ、そうか。そういうことか。夢が現実になったからこんな不思議なことになっているんだな」

 

 

 少年が昨日感じていた違和感は、女性の話で綺麗に無くなった―――昨日の出来事で違和感のあった部分がすっぽりと埋まった。

 

 

「殺人犯が殺人現場である俺の家に何の気なしに戻ってくるわけがない、警察官があんなに簡単に負けるわけもない、パトカーから出る俺をもう一人の警察官が止めない道理もない」

 

 

 少年は、満たされた表情になり、僅かに見上げていた顔を降ろして女性の顔を見つめる。

 

 

「夢が現実に反映されたからっていえば、疑問はなくなるもんね」

 

 

 女性は、笑いながらしゃべる少年に対して目を合わせる。女性から見た少年は、本当に喜んでいるように見えた。疑問が解消されて喜んでいる、子供が問題を解いて喜んでいるように、表情を明るくするように、嬉しそうに見えた。

 

 

「あなたの力はそんな小さなものじゃない。あなたの異常性は、そんなものじゃないわ」

 

 

 女性は、結論を決めつけるような少年に軽く語気を強めて言った。

 女性は、夢の話を聞いて内に秘めていた想像が事実であると確信していた。少年の力の性質が夢を正夢にする程度のものではないと理解していた。

 

 

「あなたは、境界線を曖昧にしているのよ」

 

 

 女性は、言い聞かせるように少年に告げた。少年は、静かに女性の話に耳を傾けている、素直に反論も口を挟むこともなく受け入れていた。

 女性は、静かに聞いている少年に対して説明を続ける。

 

 

「今回の場合は、夢と現実の境界を曖昧にしたことによるもの。あなたの能力は物事に対する境界線を乱す。それがあなたの持ち合わせている能力よ」

 

「境界線を曖昧にする、かぁ……」

 

 

 女性は、少年の能力が境界線を曖昧にする能力だと言う。少年は、女性の口述に僅かに頷く、どこかすがすがしい顔で頷いた。

 少年は、今まで生きてきた人生を振り返る。生まれた瞬間から今を生きているこの瞬間までを回想する。

 

 

「ふーん、なるほど。そういうことか」

 

 

 少年は、この時全てを理解した。今まで起きていた異常や違和感の原因がどこに在ったのか把握した。そして同時に―――酷く安心した。

 

 

「結局俺は、一人だけ異常だったわけだ。まぁそうだよね。みんなこんなふうだったら、気持ち悪いもんね」

 

 

 少年は、自虐するような言葉を並べる。

 

 

「気持ち悪いのは結局、どこまでいっても俺だけ、俺だけか。ははっ、それでいいんだ。それで世界は回っている。その方が気持ち悪くない」

 

 

 女性は、少年がどこか安心しているように見えた。自虐をしながらも、それを心地よく思っている、納得するように頷いている。全てが終わったような、そんな顔をしているように見えた。

 女性は、余韻を残しながら今にも終わりそうになっている少年に向けてこれからの話をする。

 

 

「あなたがこれから生きていくためには、その力を制御する必要があるわ」

 

 

 少年は、表情を変えずに女性の言葉を聞く。先程の満たされた表情のまま、静かにたたずんでいた。

 女性は、どこか突っかかりがとれたような表情をしている少年に対してある提案を持ち掛ける。

 

 

「不安定なまま放置すればどうなるか分からない。あなたの力で世界が変わってしまいかねないの。分かると思うけど、それだけはやってはいけないことなのよ」

 

 

 女性は、子供に言い聞かせるように優しく丁寧に説明し、少年の取るべき選択肢を提示する。

 

 

「あなたには、力を制御できるようになってもらうために幻想郷へ来てもらうわ」

 

「ごめん、それは無理だ」

 

 

 女性は、少年の能力を制御するための手伝いをすると手を差し伸べた。少年の能力は、危険だから制御できるようにしようと、少年に分かるように説明をしたつもりだった。

 しかし、少年は女性の提案に首を横に振った。それは、女性の提案を断るという明らかな意志表示だった。

 女性は、はっきりと断る少年の明確な意思表示に目を見張る。

 

 

「どうして? 私の説明じゃ分からなかったかしら?」

 

「力を制御しなきゃいけないっていうあんたの意見は、何となく分かったよ。そんな力があったら、危ないのはよく分かる。他人に迷惑がかかるっていうのもよく分かる」

 

 

 女性が先程の説明では少年には伝わらなかったのかと優しく尋ねると、少年は女性の意見を分かっていないわけではないと再び首を横に振った。

 少年は、女性の言っていることを理解していた。自分の能力がいかに危険なのか、理解していた。

 

 

「だったらどうして?」

 

「一つ気になっていたんだけど、その幻想郷とやらに行かなきゃいけない理由は何なの? 別に能力の制御だけなら何処に居たってできることだろ?」

 

「それがそうもいかないのよね」

 

 

 女性が危険であることを理解していてどうして拒否の答えになるのか分からず少年に尋ねると、少年は女性の提案を断った理由を告げた。

 少年の言うことは、もっともなことだった。練習を行う場所は、特に大事な要素ではないだろう。

 少年には、その幻想郷という場所でやらなければいけないという理由が分からなかった。少年が女性の提案を断った理由を単純に言えば――――少年は幻想郷という場所に行きたくなかったからである。

 しかし、ことはそう簡単な話ではない。女性は、少年の疑問に対して答えるために否定の言葉から入り、自らの意見に従わない少年を説得する。

 

 

「確かにあなたの言うように、この場所で、あなたの住んでいる場所で能力の制御の練習をしていくのが一番いいのでしょうけど……私は、この世界では余りあなたに付き合っていられない。ここでは、十全に練習ができないの」

 

「やり方を教えてもらえれば、一人でやるよ」

 

 

 少年は、どうにか幻想郷に行かなくても問題がない方法がないのかと代案を提示する。

 少年は、あくまでも幻想郷という場所に行きたくなかった。それは、提案されている幻想郷という場所に問題があったためである。

 少年は、幻想郷という場所を知らない。幻想郷という言葉自体も昨日初めて聞いた単語であり、今まで親しみの全くない言葉である。

 しかし、分からないながらも幻想郷という場所がとてつもなく遠い所であると察していた。病気の治療をするためにアメリカに行くのとはわけがちがうのだと、何となく理解していた。行けば戻れなくなる、少年にはそんな予測が頭をよぎっていた。

 だが、行きたくないという気持ちを持つ少年の考えをよそに、女性は少年を幻想郷に連れて行くための説得を続ける。

 

 

「一人でやられると困るのよ。あなた一人に任せて、もしもがあると困るから」

 

 

 女性は、優しい声で説得するように少年に告げた。なんとか少年に分かってもらうために、自らの意志で幻想郷に来てもらうために理解を求めた。

 

 

「その場であなたを止める誰かが絶対にいないといけない。あなたがこれからやろうとしていることは、火を持ちながら爆発物を扱うようなものなのよ」

 

「なるほど。とりあえず、幻想郷に行かなければならない'理由は'分かったよ」

 

 

 少年は、女性の分かりやすい例えに、自分が提案したことが非常に危ないと、事の危険性を理解した。幻想郷という場所に行かなければ、能力を制御するための練習ができないということを知った。

 

 

「じゃあ、幻想郷に来るのね。良い判断だわ」

 

 

 女性は、少年の言葉に表情を崩し、朗らかな表情を浮かべる。少年の言葉をそのまま呑み込めば、幻想郷に来るという間接的な答えになっていると取られてもおかしくなかった。

 女性は、完全に少年が幻想郷に来ると思っていた。理由を納得して幻想郷に来るものだと思っていた。

 

 だが、少年は

 それでも少年は

 幻想郷に行くことを拒んだ。

 

 

「でも、幻想郷へは行かない」

 

 

 女性と少年のいる病室の空気が凍りつく。

 女性は、少年の拒否の言葉に固まったまま動かない。

 少年は流れのままに口を開く。

 

 

「だって俺は決めていたんだから、このまま普通の生活をするんだって、そう決めていたんだ。普通でいるためには、幻想郷なんていう場所に行っちゃいけない。幻想郷とかいう場所に行った時点で普通じゃない。普通からは限りなく遠ざかる」

 

 

 少年は、少しの間を作った後、はっきりとまっすぐな瞳で口を開いた。

 

 

「だから、それだけはできない」

 

 

 少年は、言葉の中に自身の意志を示す。少年の言葉は、紛れもなく交渉が決裂したと言える一言だった。

 女性は、まさか断られるとは想像すらしておらず、慌てて椅子から立ちあがった。

 

 

「どうしてっ! どうして分からないの!? あなたの能力は非常に危険で、周りの人を巻き込んで、世界を壊しかねないって、私はちゃんと説明したわよ!」

 

 

 女性は、そこまで怒声を放ったところで我に返る。大の大人が子供相手に何をムキになっているのかと一度腰を降ろし、大きく息を吐いた。

 

 

「納得できる理由もあったでしょう。子供が駄々をこねている場合ではないの、ただの意地とかそんなんだったら怒るわよ」

 

「俺はね、能力が暴走して世界がどうなったとしても別にいいよ。他人が死ぬことになっても別にいいよ。世界が滅んでしまっても別にいいよ。そんなものは、結局どっちでもいいさ」

 

 

 女性には、少年の言っている言葉の意味が分からなかった。普通がそんなに大事なのか、普通というのがそこまで重要視されるのか、女性には分からない。分からないからこそ、少年の言葉が理解できない。

 女性は、少年がまだどこかふざけているのではないかと感じ、苛立ちを覚えていた。

 そんな心を乱している女性をよそに、少年は平常心で相対している。

 女性の言葉は、少年の心には届かない。少年には、女性が怒っている理由が分かっていなかった。それに、怒っていることを気にしてもいなかった。

 少年は、声を荒げている女性に対して淡々としゃべり続ける。表情も崩すことなく、どこか遠くを見つめるように話し続ける。

 

 

「けど、自分で決めたことだけは、決めきったことだけは、曲げるつもりはないんだよ」

 

「分からないわ、貴方が何を言っているのか私には全然分からない」

 

 

 少年は、しっかりとした口調で女性に向かって答えた。貫くような視線を女性に向けて、女性に対してしっかりと返答した。気持ちを真っすぐに表現した。

 しかし、女性の言葉が少年に伝わらないように、少年の言葉も女性には伝わらない。女性は、少年の気持ちを理解できず、少年の意図しているところが分からなかった。

 女性は、少年を幻想郷に連れて行くことを諦めなかった、諦めるつもりなどみじんもありはしなかった。最初から連れて行くつもりしかなかったのだから、それ以外には選択肢が一つしかなかったのだから、それを女性は―――選びたくなかったのだから、これしかなかったのである。

 

 

「こうなったら力ずくでも連れていくわ」

 

「へぇ、力ずくね。やれるものならやってみろよ」

 

 

 少年に対して理解できないと告げた女性は、ベッドの上にいる少年の腕を掴む。少年は、挑発するような言葉を吐き出し、抵抗する体勢に入った。

 女性は、少年の言葉を聞いた瞬間から腕を引っ張り始め、顔を病室の外へと向けて進行方向を見つめる。

 

 

「…………」

 

 

 女性は、少年の腕を引っ張ろうと力を入れた所で止まった。唐突に停止した。

 少年は、腕を掴まれただけでその場からは少しも動いていない。女性は、世界が止まったように数十秒の長い間静止していた。

 少年は、動かなくなった女性にしびれを切らし、口を開いた。

 

 

「どうしたの? 力ずくで連れていくんだろう? まさか腕を掴んだだけってことはないよな? いや、俺は幻想郷には行かないけどさ」

 

 

 少年は、時間が止まったように動かない女性の様子に対して不思議そうな顔をしていた。少年も女性が動きを止めた理由が分からず戸惑い、腕を掴まれたまま静止している。

 女性は少年の声掛けにも応じずに少年の腕を掴んだまま固まっていた。少年も女性が止まった動きに合わせて止まっていた。

 時間は止まっていない、時は動き続けている。

 少年は、様子のおかしい女性に再度話しかけた。

 

 

「あの……大丈夫?」

 

「えっ……?」

 

 

 女性は、少年に話しかけられて意識が戻ってきたのか、首が取れてしまうのではないかと思えるぐらいすばやく後ろを振り向き、少年の顔を見た。

 女性の視界には、無表情から少しだけ表情が崩れ、心配するように見つめている少年の顔があった。

 女性は、思わず離してしまった手を見つめ、続いて視線を持ち上げる。

 女性の少年を見る表情は、どこか悲しそうだった。

 

 

「あなたは、いったいどんな……いえ、今は止めましょう……」

 

 

 女性は、少年に向けて再び手を差し出し、口を開く。

 

 

「それでは、ようこそ幻想郷へ」

 

 

 少年にはすでになじみになってしまっている音が病室に響いた。昨日に二度、今日に一度聞いた音である。

 

 白い病室の中に黒い絵の具が付け足され、黒く塗りつぶされる。

 

 そこは、何処に繋がっているのか分からないほど、暗い、暗い、真っ暗な場所だった。先など全く見通せない。女性の言動を信じるのならば、この先に幻想郷という場所があるらしいが、ちっとも想像ができなかった。

 

 

「うおっ、これは気持ちが悪いね。これで空間から飛び出していたわけだ。で、これを通ると幻想郷に繋がっていると……俺は、絶対に行かないからな」

 

「抵抗しても無駄よ、あなたの力は私より遥かに小さい。能力に関しても、純粋な力に関してもね」

 

 

 少年は言葉を発しながらも、女性に引っ張られないように、連れていかれないように逆方向に力を入れる。全身を使ってベッドから出ないように全身に力をいれていた。

 少年は先程の宣言通り、幻想郷に連れていかれないための精いっぱいの抵抗を見せ、自分にできるだけの力で抗っていた。

 女性は、少年の必死の抵抗に少しばかり笑みを作る。見下すような笑みではなく、どこか微笑ましいというような笑顔を作っていた。

 

 

「さぁ、耐えてみなさい」

 

「うわっ!」

 

 

 女性は、軽く少年の腕を引っ張る。すると、連れて行かれまいとする少年の全力の抵抗も空しく、少年の体はベッドから引きはがされた。

 

 

「どう? これが貴方と私との力の差よ」

 

「まだまだ、俺は諦めないぞ」

 

「精々頑張りなさい」

 

 

 女性は、少年を力ずくで引きはがすことに容易に成功する。それでも少年は、ベッドから引きはがされても諦める様子はなかったが、力の差は縮まることはなく、引きずられるようにして女性に連れていかれる。

 女性は少年の腕つかんだまま、黒い空間の中に入っていく。

 

 

「はぁ……」

 

 

 女性に掴まれたままの少年は、真っ暗闇の中に半身を突っ込んだあたりで、肺の中の空気が出尽くすほどの大きなため息をつき、何も言わなくなった。



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第二章 未知を理解するのに一番大事なのは、怖がらないこと
普通という大きな流れ


今回のお話は、各章に設けることにした俗にいう前書きと呼ばれるものです。
この話は、第2章のまえがき部分になります。



 分からないもの。理解できないもの。そういった未知のものには、嫌悪感が付きまとうことが多分にある。特に、知ってしまった未知が‘普通’とかけ離れているほど、その気持ちが大きくなる傾向があるように思う。

 ゴキブリが好きという人の気持ちが分からないように。宇宙から見た地球が汚く見えるという人の意見が理解できないように。自分の価値観とずれが生じるほど、気持ち悪さは大きくなる。

 でも、よくよく考えて欲しい。みんなは、どうしてゴキブリが嫌いなのですか、と問われた時にはっきりと答えることができるだろうか。どうして地球は綺麗なのですかといわれた時に、はっきりと誰にでも理解できるような言葉を口にすることができるだろうか。

 

 汚いから。形が気持ち悪いから。理由は、いくらでも浮かんでくるだろう。

 でも、それはゴキブリに限った話だろうか。形が気持ち悪いものなど、他にもたくさんある。ゴキブリよりも汚い生き物だっているかもしれないのに。まるで、最も汚いもののように扱われるのはなぜなのだろうか。

 ダンゴムシが大丈夫で、ムカデがダメで、カブトムシが大丈夫で、蜘蛛がダメで、蝶々が大丈夫で、蛾がダメなのは、なぜなのだろうか。

 地球が汚いという意見もおおよそ同じである。逆に、どうして綺麗に思うのか。

 色がきれいなのか、形がきれいなのか。どうしてその色が好きなのか、問われれば答えに詰まる人は多いような気がする。

 そして、そういったことは考えてみると、特に納得できる理由がないことに気付いたりする。

 

 

 僕は、不思議だった。

 みんなが好きな物は、大体バラバラで。みんなが嫌いなものは、大体一緒なのはなぜだろう。

 そして、多くの人が嫌いなものを好きだという人のことを変わった人として見てしまうのはなぜだろう。

 そういった人に対して自分の価値観と違うから、皆の価値観と違うからという理由で普通ではないという烙印を押してしまうのはなぜだろう。

 それは、自分の価値観と違うことを言う人の言葉を先入観なしに聞くこと、それ自体が難しいからだと思う。自分の常識を作ってきた普通が、その人を異常だと認識しているからだと思うんだ。

 

 

 普通って何だろう?

 

 

 みんなは、考えたことがあるだろうか。考えたことがある人はきっと、人に何かを言われた時にそう思ったのだろう。

 怒られた時だろうか。理不尽を覚えたときだろうか。その大体が、自分にとって普通じゃないような何かを突きつけられた時だったことだろう。

 

 普通―――それはこの世界の大部分を占めるものの名称だと僕は思っている。ここでいう世界っていうのは、自分を取り巻く環境のこと。

 日本の東京に住んでいれば、東京の内側の話になるかもしれない。もっと小さくて、町単位の範囲かもしれない。

 でも、多数決を取れば、いつだって多数になるもの。にぎわっているもの。孤独にならないもの―――そういうもののことをいうんだと思っている。

 

 その世界の大部分を構成している普通というものは―――大きな流れを作り出している。大きな川で、ある方向に水を運んでいるような、そんな感じの流れ。

 僕たちは魚で、その川の中を泳いでいる。そこから出てしまうと息ができなくて、苦しい思いをする。だから、頑張って、努力している。みんな少なからず、個性を落として、協調性という流れに乗る力を手に入れていく。

 

 社会って、そんな感じだと思う。

 

 流されている間は、何も分かっていなかった。こうして流れから外れたから分かる。外れたらいけなかったんだって分かる。

 中学生が何言っているんだって言われるかもしれないけど、中学生でも分かることって結構あるものなんだよね。

 

 

 思い出してみれば、思い出せるかもしれない。ただ、忘れているだけなのかも。みんな、いろんなことを考えて生きてきたはずだから。

 

 

 きっと、何かあるはずだと思うんだ。

 



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連れて行かれた、世界が変わった

大きな変化を得た。
大きな流れに乗った。
流れに身を任せることで得る物もあるだろう。
流れに身を任せることで失う物もあるだろう。
きっと、得る物と失う物の大きさは―――等価。


 病院の中にいびつな黒い空間が生まれた。真っ黒で、漆黒で、暗黒で先が全く見通せない世界がこちら側を覗いている。

 女性は、迷うことなく黒く染まった空間に向かって近づき、黒の中へと入っていく。幻想郷への扉を開けて、その扉の内側へと入りこんでいく。

 少年は女性に腕を掴まれたまま引っ張られ、少年の腕は半分近くまで闇の中に入り込んだ。

 

 

「何、ここ……」

 

 

 女性が開いた幻想郷へ渡る黒い空間のことを扉と表現するのは、正しい表現なのかどうか分からない。表現としては空間の亀裂という言い方の方が正しいように思えるが、その時の少年には、目の前の光景を上手く表現できる言葉が見つからなかった。

 

 

「真っ暗だ……」

 

 

 二人の体は完全に暗黒空間の中に入った。

 病室と繋がっていた扉は閉じられて、世界に光が無くなっていく。

 暗黒世界には名前の通り光がなく、少年の目には二つを除いてものが映らなかった。

 女性は、少年を掴んでいる個所を右腕から右手へと移し、しっかりと少年の右手を握る。少年の右手は力の抜けた状態で、女性から一方的に握られている形になっていた。

 

 

「向こうにも扉がある」

 

 

 少年は視線を動かし、進行方向を見つめる。視線の先には、近づいてくる扉の存在があった。もしも、扉がなければ進んでいるかどうかさえ分からなかっただろう。

 

 

「入ってきた扉も……なくなったわけじゃないみたいだね」

 

 

 少年は前方を確認すると、続けてこの世界に入って来た方向である後方へと視線を動かした。

 暗黒空間へと入ってきた扉は、閉じているものの確かに存在していた。

 

 

「どうなっているんだろう……体は浮いているし、真っ暗で何もない、何にもない、誰もいない」

 

 

 少年には、女性の姿と出口らしき扉、今入ってきた病室からの入口だけが見えている状態である。

 少年と女性は、ふわふわと浮かびながら進んでいく。

 目の前に広がる暗黒空間は少年の理解の到底及ばない謎の空間である。真っ暗なこの世界には重力がなく、かといって浮力がかかっているような感じは全くしない。あくまでも力が全くかかっていない状態という様相である。

 

 

「いいなぁ、こんな場所があるんだ」

 

 

 少年は、そんな真っ暗な世界でどこか安心したような表情を浮かべながら呟いた。

 この時呟いた少年の声が女性に届いているかどうかは分からない。この暗黒空間が音を伝えるのかどうかについては、まるっきり分からないのである。息ができることから空気はあるようだが、音が波として空気中を伝わるのかは分からなかった。

 とりあえず、少年の言葉が聞こえていたか聞こえていないかに関わらず、女性は微動だにしなかった。

 少年の言葉は会話にはならず、独り言となって零れ落ち、ただただ重力に従うように落下した。

 

 

「あ、新しい扉が」

 

 

 二人だけがいる真っ暗闇の中にもう一つの閉じられていた扉が開き、光のない世界に光が差し込んでくる。扉の開き方が大きくなるにつれて零れてくる光の量は大きくなった。

 

 

「あの扉を越えれば、幻想郷に着くのかな?」

 

 

 新たに出現した扉が真っ暗な世界からの出口であるということは誰の目から見ても明らかで、少年は扉の先が目的地である幻想郷へと繋がっていると一瞬で理解した。

 少年の目に出口からの光がこれでもかと言わんばかりに入りこんでくる―――少年を迎え入れるように光が差し込んでいる。

 しかし、少年は前方に出現した光の差し込んでいる出口を見るわけでもなく、逃げるようにして後ろを振り向いた。

 

 

「…………」

 

 

 少年の後ろには、あったはずのものが無くなっていた。少年の後ろあったはずの、先ほどまであったはずの病室から入ってきた扉は、もうそこにはなくなっていた。

 

 

「きっと、もう、戻れないんだろうな……」

 

 

 少年は、扉が無くなったことを確認すると悲しそうに呟き、前を向いた。

 もう、戻ることはできない。もう、元の生活に戻ることは叶わない。もう、引き返すことはできないと、心の中でできるだけの踏ん切りをつける。帰れたとしても、能力の制御ができるようになってから、世界を変えるほどの力を制御できるようになってからだと心に言い聞かせた。

 

 

「帰りたいな……」

 

 

 制御できるようになるまでどのぐらいの時間がかかることだろうか。能力の制御にどれほどの時間がかかるのか想像もつかない。

 少年は、不安を抱えながら女性の後ろ姿を見つめた。

 女性は、迷うことなく目の前の扉の方へ飛んでいる。少年の手を引いて、決して後ろを振り向かずに前を向いて進んでいる。

 

 

「手を引いてもらうのは、いつ以来だろう……」

 

 

 少年は、女性の後ろ姿にどこか懐かしさを感じながら昔に母親から手を引かれたことを思い出した。

 生きていく上で少年を導く役割を担っていたのは、大抵母親の方だった。

 父親は、導くというよりも支える、立ち方を教えるという方が多かったような気がする。それはあくまでも少年の主観であるが、おそらく客観的に見てもそうだったことだろう。

 

 

「母さん……」

 

 

 少年は記憶の中の母親に挨拶を交わし、寂しそうに下を向く。少年の声は、本当に小さな嘆きだった。

 少年は、無意識のうちにほんの少しだけ握られている右手に力を入れた、分かるか分からない程度の僅かな力を込めた。

 

 

「……っ!」

 

 

 その瞬間、返って来る力に―――はっと顔を上げた。

 

 少年は、掌から伝わる力を感じながら女性の後ろ姿を酷く驚いた表情で見つめる。

 女性は、少年が僅かに入れた力を感じ取って少年の手を握り返した。離さないといわないばかりに、一人じゃないと伝えるように、不安を取り除くように、しっかりと握りしめ返した。

 

 

「ありがとう……」

 

 

 少年は、はにかむような笑顔を作り、瞳に涙を溜めながらお礼を告げ、女性の握っている手をしっかりと握り返す。握り返した手からは、しっかりとした熱が伝わってきた。

 両者の掌は、しっかりと握られ離れる様子はない。

 女性は、少年の手を握ったまま光の差し込んでくる扉に向かって少年の手を引きながら進んでいく。

 少年は、ただただ女性に連れられる。無抵抗のまま人形のように従う。先ほどまで必死に抗っていた少年は、もはや抵抗をすることはないようで、とてもおとなしかった。

 

 

 

 二人は、扉をくぐり光の世界へ入りこんでいった。

 

 

 

「眩しいっ……」

 

 

 少年の目に、扉というフィルターのかかった光ではなく、太陽からの直接的な光が入ってくる。

 少年は、いきなりの光の量に目を細めて手をかざし、扉を出てすぐのところで顔を少し上げて足を止めた。

 

 

「……ちゃんと、地面がある」

 

 

 少年の足の下には確かに地面があり、体を引っ張る重力が存在していた。どうやら完全に暗黒空間から脱出できたようである。

 少年は、明るい世界の中で手を握っている女性の姿を捉える。女性は、少年の隣で物思いにふけるように動かず、空を見上げてたたずんでいた。

 少年は、動かない女性を無視して視線を前へ向けた。

 

 

「おっきい家……あんなの初めて見た」

 

 

 少年の視界の先には、大きな一軒家が映った。少年の見た限り、和風の家である。二階なんて勿論なく平屋で、昔の日本を思わせるような建物だった。

 

 

「なにこれ……」

 

 

 見たことのない風景に心が躍る。好奇心を刺激されて目を輝かせる。

 少年は、見たこともない風景と景観に居てもたってもいられなくなり握っていた女性の手を振り払う。そして、通ってきた扉から少しばかり前に走りだした。

 

 

「すごい、すごい!」

 

 

 少年は、感嘆の声を上げながらくるくると回り、周辺を見渡す。少年の表情は、まるで新しい物をみつけた子供のようだった。

 女性は、動き出した少年の方へ視線を向け、年相応の表情を見せる少年を微笑ましそうに見つめていた。

 

 

「すごい! 初めて見るものばっかりだ!」

 

 

 少年の目には、現代では見ることのできない、テレビでよく取り上げられるような自然の風景が映し出されている。

 

 

「こんなところもあるんだ。テレビで言っていることも間違いばかりじゃないみたいだね」

 

 

 少年のいる場所からは、いろんなものを見ることができた。周りの景色は、ほとんどが緑に埋め尽くされ、空の青さが一層際立っている。

 ここは、標高何メートルの場所だろうか、丘の上にあるのか山の上にあるのか少年には分からなかったが、分からないことが余計に少年の心をくすぐった。

 

 

「ここが幻想郷なの? なんだか思っていたよりも普通だね。もっとなんかこう……幻想の生き物がうじゃうじゃしていて、真っ暗闇の中の暗黒世界なんだと思っていたよ」

 

(どうやら悪い印象を持ったわけじゃなさそうね、良かったわ)

 

 

 少年は女性に向けて笑顔を作り、若干気持ちを高揚させたまま女性に声をかけた。感情の高鳴りを隠そうともせず、女性へと楽しさを全開に見せつけている。

 女性は、楽しそうな少年につられるように嬉しそうな表情を浮かべた。少年が思ったよりも幻想郷に悪いイメージを持たなかったことに少しだけ安堵し、同時に喜びを感じていた。あれほど来たがらなかった少年が幻想郷を見て喜んでいる、そのことに嬉しい気持ちがないわけじゃなかった。

 女性は、止めている足を動かして前方にいる少年の側まで歩き、優しい顔のまま少年の言葉に対して反論する。

 

 

「ふざけないの。そんな場所だったら、能力の練習なんてできないじゃない」

 

「まぁ、確かにそうだね。それこそ俺がさっきまでいた世界で練習した方が、よっぽど安全に練習ができるもんね」

 

 

 女性の言うとおりである。もしも少年の言うような場所であったならば、練習ができる環境とはいえない。少年は、酷く納得したようで女性の言葉に対して大きく頷いた。

 初めて幻想郷へとやってきた少年にとって'幻想郷'というのは、まさしく未開の地というイメージそのものだった。

 具体的には、人の手が全く入っていない森林、獣道しかない山、建築物のないまっさらな土地、緑と青と赤がうまく混ざり合った目に優しい色だけが広がっているイメージである。

 実際のところは、アスファルトではないが道路はあるし、建物もあるが、そんなことを少年は知っていなかった。

 

 

「貴方がそう思うのも仕方無いのかもしれないわね。幻想郷なんて言葉、初めて聞いたでしょう?」

 

「うん、初めて聞いたよ。ちなみにどう書くの?」

 

「幻惑のげんに、想像のそう、桃源郷のきょうで、幻想郷よ」

 

「げんわくのげん? とうげんきょうのきょう?」

 

「後で勉強しなさい」

 

 

 女性は、幻想郷という単語を初めて聞く少年がその言葉から摩訶不思議空間を思い浮かべてしまうのは仕方のないことだと思った。

 少年の過ごしている現代では、幻想郷という単語がそもそも存在しない。幻想郷という名前からしか世界を想像することができないのだ。その想像した結果が、少年の言っている想像になったということだろう。それは、仕方がないとしか言いようがなかった。

 それに、暗黒世界という言葉を使っていることから、どうやら幻想郷という名前だけでなく、女性が作り出した暗黒空間が少年に少なからず変なイメージを与えてしまったようだった。

 

 

「それに何を勘違いしているのか分からないけど、ここはあなたのいた世界と全然変わらないわよ。別世界に行っているわけじゃないの」

 

「えっ、そうだったの?」

 

 

 女性は少年の言葉に耳を傾けながら少年が大きな誤解をしていることを感じ取っていた。少年の言い方では、まるで世界が複数あるように聞こえるのである。

 そして、案の定、少年は女性の言葉に驚いた。

 少年は、てっきり世界が丸ごと変わっていると思っていた。見たこともない景色、見たこともない暗黒空間を通ってきたことによって別の世界に飛び込んでいたような認識でいた。

 

 

「それは意外だったな、別の世界がもう一つあるのだと思っていたよ。俺のいた世界とは別に、幻想郷っていう名前の世界があるものだと思ってた」

 

 

 前にも説明したが、少年はこれまで生きてきて幻想郷という地名を聞いたことがない。

 それに、女性が作り出した暗黒空間についても見たことがなかった。

 未知の二つの要因によって想像が飛躍しており、暗黒空間を通ることで世界を渡り、幻想郷に辿りついているのだと勝手な想像を膨らませていた。

 

 

「世界は広いといえども、そんなに沢山あったりしないわ。世界は複数あるわけじゃないのよ」

 

「なるほど、そういうものなんだ。さっきまでいた俺の世界とは違う世界になったわけじゃないってことか、なるほど」

 

「分かったのならいいわ」

 

 

 少年は、女性の言葉に二度、なるほどと言った。

 一度目は、女性が言った言葉に対しての返事である。

 二度目は、少年自身が言葉を言い換えて再び言うことによって、自己理解をしたということを伝える表現である。

 二度のなるほどという言葉は、女性が発した言葉の内容をしっかりと理解したのだという少年からの証明だった。

 女性は、少年が自分の言葉を理解したものと解釈する。

 ただし、現実問題として本当に少年が女性の言ったことを理解しているのかは判断できない。少年が分かっているのかどうかを判断するためには、今一度問題を投げかける必要がある。

 けれども、女性は再度尋ねるようなそんな面倒なことはしなかった。

 とりあえず少年は、世界の成り立ちについて理解しているかどうかは抜きにしても納得はしたということ、それだけで十分だった。世界は複数存在しないという事実だけ知っていれば、それだけでいいのだ。

 いま大事なのは―――もっと別の所なのだから。

 

 

「どう、幻想郷は気に入ったかしら?」

 

 

 女性は、今一番気になっていること―――幻想郷を気に入ってくれているのかについて少年に尋ねた。

 今最も重要なことは、少年が幻想郷という場所を好きになってくれるのかというところにある。これから生活を送る上で、自分の住んでいる場所を好きになることはとても大事なことである。

 

 

(幻想郷を好きになってくれるかは、今後に大きく影響する……そうじゃないとこの子が辛いわ)

 

 

 特に少年の場合は、外の世界へ戻れる保証がないのだ。最悪幻想郷で骨を埋めることになる。幻想郷を好きになれないということは、息苦しい生活を送り続けなければならないということと同義になるのだから。

 だが―――そんなことはあくまでも建前上である。女性は、もっと自分よりの部分で少年の返答を気にしていた。

 

 

(ふふふっ、そんなことはあくまで建前。私はただ、私の作った幻想郷を好きになってほしいだけよね)

 

 

 女性は、少年が息苦しい思いをすることなどあんまり心配していなかった。あくまで少年のためではなく自分のために、少年に幻想郷という世界を好いていて欲しいと心から思っていた。

 

 

「まだ来たばかりだから何とも言えないよ」

 

「まぁ、すぐには答えられないわよね」

 

 

 女性は、少年の端的な答えに少しがっかりした。先程の楽しそうにしている少年の様子から察するに幻想郷に対して良い言葉が返ってくると期待していたため、その落差も相まって、落胆する幅は大きかった。

 

 

「ただ、ものがうじゃうじゃしてなくていいね。建物が乱立してよく分からなくなっているよりは、よっぽどいいよ」

 

「そう……」

 

 

 女性は、求めている答えが返ってこないことに残念そうに呟いた。

 少年は、表情を僅かに暗くする女性に対して悪いことをしたかなと不思議そうに少し首をかしげる。

 

 

「俺、あんたに何か悪いことしたかな?」

 

 

 少年は暫くの間女性の顔を覗き込む。

 少年は、どうして女性がそんな顔をしているのか読みとれなかった。

 もしも、悪いことを言っている自覚があるのならなぜそんな顔をするのか分かっただろうが、少年は別段特におかしなこと言っているつもりでも、悪いことを言っているわけでもない。少年には、女性の気持ちを把握できるだけの繋がりもなかったため、想像もできなかった。

 

 

「なんでもないわよ」

 

「そっか、それなら良かった」

 

 

 女性は少年に心配されていると気付いて表情を戻すと、少年は安心した様子で言った。

 

 

「さっそくなんだけど、練習の方法を聞いてもいいかな。こういうのは早いうちにやった方がいいと思うんだ」

 

 

 少年は、幻想郷の話から事の本題へと話を向かわせる。

 もともと幻想郷に来たくなかった少年には、能力を制御するための練習をするという幻想郷に来た目的がある。明確な目的―――能力の制御をするという目的があるのである。

 

 

「早く能力の制御ができるようになって、早く帰らないといけないからね」

 

 

 少年は、能力を制御するという目的を果たさなければ幻想郷から決して出ることはできないと理解していた。

 それは、幻想郷に来ることになった経緯から容易に想像できる。間違っても途中で投げ出すことはできない。そんなことをしてしまえば、それこそ人生が終わってしまうかもしれない。誘拐されて幻想郷へと来ている今の状況が少年にそう思わせていた。

 少年は、できるだけ早くに能力の制御を可能とし、外の世界に帰りたいと思っていた、帰らなければならないと思っていた。

 

 

「どれだけの時間がかかるのか分からないっていうのもそうだし、なにより俺は気持ちのエンジンをかけるのに時間がかかるからさ。早めに能力の練習を始めたいんだ」

 

「随分とやる気ね。目標に向かっていく姿勢としては悪くないわ」

 

 

 少年は、やらなきゃいけないことは先に先に回すタイプである。食べ物の話に置き換えれば、嫌いなものは先に食べるタイプということになるだろうか。

 実のところ、少年が嫌いなものを先に食べるのかどうかは分からない、実際そんなことはどうでもいいことである。

 ここで大事なのは女性が少年のやる気を感じたという点である。やらなければならないことについてはやろうという気持ちが痛いほど伝わってきた。例え、不本意であったとしても、やらなければならないことに対して文句も言わない姿勢は立派なものに見えた。

 

 

「でも、焦らないの。焦っても能力が早く扱えるようになるわけじゃないわ。ゆっくりじっくり確実によ」

 

「ん……」

 

 

 女性は、やる気を出そうとしている少年の頭の上に掌をポンと乗せ、視線を少年から外し、家へと向ける。

 

 

「とりあえず家の中に入りましょう」

 

 

 少年は、女性の視線の動きに合わせて和風な家へと意識を向けた。女性が言葉にしたことによって、今の視界に入っている平屋で大きな家が女性の家なのだと把握した。

 女性は、少年の頭の上に手を乗せたまま話し続ける。

 

 

「話しておかなきゃいけないことがたくさんあるから、そっちの方を先に済ませるわ。練習の方法についてもその時に一緒に話すから」

 

「了解」

 

 

 少年は、女性の提案に了承の言葉を送ると、頭の上に在る女性の手の感触に自分の手を伸ばし、そのまま女性の手の上にさらに自分の両手をそっと重ねた。

 女性は、手を重ねにきた少年の意図が分からず、不可解な顔になる。

 

 

「どうしたの?」

 

「なんか、懐かしいなぁって。頭の上に誰かの手が乗っているのって、なんだか安心する」

 

(うっ、こんな子供に心を揺さぶられるなんて……私、子供好きだったかしら?)

 

 

 少年は、酷く穏やかな顔で満たされた顔をしていた。女性の心臓は、少年の子供のような表情に少しだけ強く鼓動する。

 女性は、少年に心を動かされてしまったことを恥ずかしく感じ、顔をわずかに赤く染めた。

 普段そうそうに動かない心が大きく揺さぶられている。それも、歓喜や悲しみとは異なり―――羞恥の類の動揺である。

 女性は、湧き上がる恥ずかしさという感情に内心驚きを隠せなかった。長年生きてきてこうまで恥ずかしさや動揺を掻き立てるような状況になったことがあっただろうか、自分自身にこうも簡単に揺さぶられるものがあると思っていなかった。

 保護欲というのだろうか、母性の一部というのだろうか、そういった普段揺さぶられないものが、自分の中でくすぐられている。

 女性は、不可解な感覚にドギマギしていた。

 

 

「そういうものなのかしら? 思っていたよりも子供っぽいのね」

 

「言わないでよ。気にしているんだから」

 

 

 女性は、自分の心が揺さぶられていることを少年に悟られないように、ごく自然に言葉を交わす。

 少年は、重ねている手を動かすことなく、視線だけを女性へと向けて女性の指摘に頬を膨らませた。

 女性は、昨日見なかった子供っぽい少年の反応に思わずくすくすと笑う。少年も膨らませていた頬を戻し、女性の笑いにつられて少しだけ笑った。

 

 

「でも、随分と温かい手をしているよね。うん、やっぱり心地いいよ」

 

「ふ、ふざけていないでさっさと行くわよ!」

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」

 

「恥ずかしがってない! 黙ってついてきなさい!」

 

「どう見ても恥ずかしがっているじゃないか。ああもう、そんなに急がないでよ」

 

「うるさい! その口を閉じなさい!」

 

 

 女性は、幻想郷ではあまりいないタイプの少年からの素直な気持ちに恥ずかしくなり、少年に重ねられている手を慌てて振りほどく。

 少年の手は弾き飛ばされて力なく落下した。

 

 

「ふふっ……」

 

 

 少年は、慌てふためく女性に苦笑する。いくら心地よいからと言って逃げて行く女性の手を掴むことはしなかった。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年は、ある程度の時間前を行く女性を見つめるとほっと一息つき、女性の言葉に反論一つせず、先程の子供っぽい表情を消して真面目な顔を作り一言、言った。

 

 

「分かりました」

 

 

 少年の言葉は、今までの流れを断ち切るような雰囲気を持っていた。




新しい環境に置かれた時
新しい雰囲気に取り込まれた時
勘違いしてはいけないことがある。
それは―――自分は何も変わっていないということだ


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新たな登場人物、塗り替えられた印象

大きな変化を得た。
大きな流れに乗った。
流れに身を任せることで得る物もあるだろう。
流れに身を任せることで失う物もあるだろう。
きっと、得る物と失う物の大きさは―――等価。


 二人は、靴を脱いで玄関から家の中に入った。

 家の中に入った二人は、目的地に向けて歩き始める。少年は、辺りをきょろきょろと見渡しながら女性に寄り添い、足を前に進めていた。

 

 

「随分と広い家だね」

 

「そうかしら? このぐらいの広さはざらにあると思うけど」

 

「'俺にとって'は、とても広く感じるよ」

 

 

 女性は少年の言葉にそうかしらと疑問を投げかけるが、家の中は少年の印象から判断すればとても広かった。家の中の全貌を把握していないため、実際に広いのかどうかは分からないが、少なくとも少年は学校に来ているような気分になっていた。

 もちろん少年の通っていた学校と比べるとこの家はさほど大きくない。俗に言われる豪邸と言われるレベルの大きさと言えるだろう。

 しかし、少年には学校以外に比較対象となるものがなかった。

 少年の家は一般の家と比較しても小さいため、比較してしまえば大きいという評価にしかならないし、かといって大きい建物といえば学校以外に知らず、大きな建物に入るということを故意にしてこなかったというのもあって、比べられるものが自分の家以外になかったのである。

 

 

「余りうろちょろしないで、後ろについてきなさい」

 

「はーい」

 

 

 女性は、周辺をうろちょろする少年が気になるのか、後ろについてくるように命令した。

 少年は、女性の命令に従って女性の後ろに移動し、きょろきょろと周りを見渡しながら女性に言われるがままに女性の後ろにくっついて歩く。少年の視界は、女性の背中で大きく占められた。二人の足音は完全に同期し、廊下には1つの足音が鳴り響いていた。

 今は、女性が少年に張り付いていた昨日とは違う。今度は少年が女性にくっつく番である。

 少年と女性の姿は似ていないが、その様子はまるで親子のように見える光景だった。

 

 

「へぇーこうなっているんだ」

 

 

 純和風の家―――それが少年から見たこの家に対する評価である。庭があって、池があって、部屋には畳、ふすまがある、どこをとっても和風の家だった。

 

 女性は迷うこともなく、足を止めることもなく廊下を歩き、目的地へとたどり着く。そして、部屋にたどり着くと同時に、二人が作り出していた床を踏みならす音がパタッと消えた。

 

 

「ここで話をしましょう」

 

「了解です」

 

 

 女性は、ふすまを開けて中に入る。少年は、開け放たれたふすまの奥から動く女性の姿を見つめつつ部屋の中を視認した。

 部屋は居間として使われている場所のようで、面積は広く、動き回れるだけの余裕があり、調理場も付属していた。

 女性は、部屋の中心にある炬燵に向かって歩みを進める。少年は、その場で立ち止まったまま、動いている女性の姿を目で追う。

 女性は膝を折り炬燵に足だけを入れて座り込んだ。

 

 

「えっ……?」

 

 

 少年の口から思わず言葉が出た。

 少年の足は、余りにも異質な光景に完全に止まって動かなくなった。少年は、もともと女性が移動した位置に向かうつもりの心持でおり、女性が止まり次第そこに向かうつもりだった。

 しかし、少年の足は完全に止まってしまい、気持ちが女性についていけなくなった。

 

 

「…………」

 

 

 女性の様子があまりに環境に合っていないのである。明らかに不自然だということを脳が信号として送り出している。

 少年は、視界から送られてくる情報に茫然としてしまっていた。

 

 少年は、最初に女性の姿を見た時から思っていた。ここまで一言も言わなかったが、女性の服は少年が今まで見てきたなかでも特に派手である、今まで生きてきた人生の中で一番といっても過言ではないぐらいに派手だった。

 そんな女性が―――炬燵に足を入れて座っている。少年はその光景を見て、雰囲気に合っていないと素直に思っていた。

 

 

「どうして固まっているの?」

 

 

 女性は、立ち止まる少年を見て疑問を抱えていた。

 少年は、相変わらずどこか遠い目をしながらふすまの前で佇んでいる。

 

 

「早く座りなさい」

 

「…………」

 

 

 女性は呆然と立ち尽くす少年の様子を不思議に思い話しかけたが、少年は違和感しかない光景に足を止めたままだった。

 確かに炬燵という場所で話をすれば、落ち着くのかもしれない、リラックスした状態で話ができるのかもしれない。

 けれども、それ以上に女性が炬燵で休んでいる光景が気持ち悪かった。季節が夏ということがあり、季節外れも合わさって気持ち悪さはより顕著になっている。

 少年は、心に積っている違和感の塊を吐き出すように女性に大量の質問を投げかけた。

 

 

「ねぇ……炬燵で話をするの? もっと別の場所なかったの? しかも、今は夏だよ。なんで炬燵があるの?」

 

「面倒な子ね……」

 

 

 女性は、少年の乱立する質問に面倒くさそうな顔になった。

 少年の質問は、女性にとって本当にどうでもいい内容だった。話をするのに場所など関係なく、休める場所であればどこでもいいのだ。場所によって話す内容が変わるわけではないのだから。

 

 

「文句を言わないの。ここでは、炬燵はずっと出しっぱなしなのよ。ほら、早く座る!」

 

「はーい……」

 

「最初からそうしていればいいのよ」

 

 

 女性は、少年の質問に答える気は全くなく、一言でバッサリと切り捨てる。

 少年は、女性の態度から、いくら話したところで質問の答えが得られないと思った。答えが得られないのであれば、問い詰めても時間の無駄になる。少年は、横暴な女性の態度に呆れながらも、女性の言葉に従った。

 少年は、回答を得ることを諦めて間延びした返事を女性に返し、首をかしげながらゆっくりと炬燵の側に歩いて近づく。

 女性は、少年の動きに満足した様子だった。

 

 

「そこに座りなさい」

 

「はい」

 

 

 少年はちょうど女性の正面に正座する。炬燵は正方形であるので、女性と少年はちょうど対面するように座っている形になった。

 少年と女性が座っている炬燵の大きさは足を畳んでいても深く突っ込めばすぐにぶつかってしまうレベルの大きさで、少年と女性の距離はある程度近いものになっていた。

 

 

(どうして炬燵で話し合いをするんだろう? もっといい場所があると思うんだけど)

 

 

 少年は、相変わらず炬燵で話をすることに頭を悩ませる―――心の中に残っている疑問を解消できず、頭をフル回転させていた。結局のところ、なぜ炬燵で話し合うのかは分からないのである。少年は、炬燵に座ってからも回答を得ようと試行錯誤していた。

 しかし―――暫くの間考えると、そんなのはどっちでもいいのかと曖昧な気持ちになった。

 

 

「でも、何処で話をしても話の内容は変わらないし、別にどっちでもいいのかな?」

 

「そうそう、場所なんて気にしなくていいの。どこで話しても内容は変わらないわ」

 

 

 炬燵で話し合おうが、テーブルで話し合おうが、畳の上で正座しながら話し合おうが結局のところ話す内容は変わらないのだ。

 少年は、疑問を振り払うと居間へとやってきたもともとの目的を思い出した。

 

 

「あっ、今から能力の練習方法について教えてもらうんだっけ……よし!」

 

 

 少年は、そう言った直後、一気に真面目な表情になる。女性から見た少年は、先ほどとはまるで別人のような態度に見えた。

 

 

「では、先生よろしくお願いします」

 

「先生って。ふふっ、そんなに畏まらなくてもいいわよ」

 

 

 少年は、真面目な顔をして、声を張りつめて、頭を下げて言い放った。

 女性は、少年の急激な態度の変化に思わず含み笑いをする。少年の態度はあまりにも急激に変わりすぎて、境界を跨ぐように別の領域になっていた。

 実際のところ少年が畏まる必要など一つもない。女性からすれば、少年はただ真面目に自分の言葉に耳を傾ける姿勢さえ保っていれば、何でもよかった。

 

 

「気にしないでください。目上の人に物事を教えてもらうときは、こういう気持ちでいるって決めているので。癖みたいなものだと思ってくれていいです」

 

「ふーん」

 

 

 女性は、少年の切り替えの早さに感嘆し、一言呟いた。

 少年は、少しばかり変わった人間のようで、態度を改める気が全くないようである。女性が何と言っても少年の表情は固くなった状態のまま保持されていた。

 

 

(これも、能力が一枚かんでいるのかしら?)

 

 

 女性は、少年の言葉の意味を思考する。

 少年の言葉は、これまでも素直に理解できないことがあった。

 少年の言葉には、違和感を覚える内容が稀に含まれている。少年から感じられる異質な雰囲気―――違和感を覚える原因には、きっと能力が一枚噛んでいて少年のこれまでが関わっている、女性はそう思っていた。

 

 

(人格や雰囲気が変わるほどの変化を癖と表現するのはどうなのかしら? 普通じゃありえないわよね)

 

 

 女性は、今感じている違和感を見逃さないように少年の言葉をしっかりと吟味する。

 はたして、少年が言うような癖があるのだろうか。

 

 

(この子は、話す相手によって話し方を大きく変えている。警察官と話す時も口調が変化していた)

 

 

 少年は、どうやら相手によって口調を変えているようだ。

 今、女性に対して話している口調としては、相手を先生と呼び、敬語を使うというもの―――先程までは、一人称が俺であり何処か刺々しい印象をもっていた。時々子供っぽさが出るところは見受けられたが、おおよそはそんなものである。

 現在の少年の様子は、そんなとげとげしい印象から一瞬にして様変わりしている。

 

 

「こういうときは、敬語になるのね」

 

 

 女性は、少年の切り替えがどの程度のものなのか確かめようと、別人のように切り替わった少年を茶化すように、少年の額を閉じた扇子の先で突く。ニタニタと笑らいながら少年の額をコンコンと扉を叩くように突いた。

 

 

「つたない敬語ですけど、よろしくお願いします」

 

「良い心がけだと思うわよ」

 

 

 少年は、額を叩いている扇子を手ではたくこともせず、女性からの茶化しにも動じなかった。

 女性は、全く動じる気配のない少年にかすかに笑うと、扇子で少年の額を突くのを止める。扇子で突いていた少年の額は、少し赤くなっていた。

 額を赤くしている少年は何事もなかったかのようにじっとしており、赤くなった額をさすることなく、女性を見つめている。

 

 

「それじゃあ、これからよろしくね」

 

「はい、よろしくお願いします」

 

「素直でよろしい」

 

 

 女性は、少年のことを特に気にする様子も無く、話を進めようとする。

 少年は、話を進めようとする女性に向けて静かに頭を下げて礼を示した。

 

 

「話を進める前に私の助手を呼ばせてもらうわ。あなたの教育係はその助手に任せるから」

 

「え?」

 

 

 少年は、予想しない女性の言葉に一瞬思考が停止した。

 女性は体をひねりふすまを少し開ける。開けられた空間は、ほんの僅かで人が通ることができない程度である。

 女性は、僅かに空いた隙間に口を近づけると大きく息を吸い、大声を発した。

 

 

「藍ー!! 来なさーいっ!!」

 

 

 女性は、廊下中に響き渡るような声で助手とやらを呼ぶ。ふすままで結構な距離があるのにもかかわらず、足を出すことなく寝そべりながら声を発していた。部屋が広いため、辛うじて足の先が残っているような状態である。

 

 

「普通に炬燵から出てふすままで行けばいいと思うのですが」

 

「あ?」

 

 

 そこまで炬燵から足を出すのが嫌なのであろうか。

 ちなみに言うが炬燵の中は別に暖かくない。そもそも季節は夏である。少年は、このまま中学校に通っていればもうすぐ夏休みを迎えるところだった。

 少年は、不自然な体勢になって後ろ姿しか見えない女性の姿に疑問を投げかける。

 

 

「そんなに炬燵から出たくないのですか?」

 

「うるさいっ。黙っていなさい」

 

「先生って結構横暴ですよね」

 

「何か言った?」

 

「いえ、なんでもありません」

 

 

 女性は、少年の質問に体の向きを整え、少年と向かい合った。

 少年から見た女性は、若干怒っているように見えた。

 

 女性は、少年があまりにも思い通りに動かないことに苛立ちを覚えていた。

 今まで女性が相手にしてきた人物は、いつだってその多くの者が自分に従ってきた。それは、力によってなのか、権力によってなのか分からないが、相手の多くが下手に出たり、分かりやすく反抗してきたりしたものである。

 だが、少年はその大多数とは大きく違っている。物怖じもしなければ無礼なことも言う、だがそこに悪意を感じない。無垢な子供と喋っているような気持ちになり、まぁ仕方ないかという気持ちになるのである。

 それは、女性が扱ったことのない年齢というのもあったり、性別が違ったりで上手く気持ちを制御できていないということもあるのかもしれないが、思っていた以上に自由な少年の在り方に、思い通りにいかないことにイライラを隠せなかった。

 

 

「ん……」

 

「じー」

 

 

 少年は、怒った様子を隠さない女性に対して無表情で静かに目を閉じる。女性は、不機嫌な顔を隠すこともなくただただ少年を見つめていた。

 少年は、怒っている女性に何も応じることはなく、目をつむったまま、静かに場が動くのを待っている。

 女性は、少年を見つめてはいるものの、話しかけることはしなかった。

 話しかけなかったのは、少年からの反応を待っているからなのか、単に圧力をかけるためなのか、それは分からない。ここで確かなことは、女性は先程呼んだ藍という人物を待っているということだけである。

 

 

(助手かぁ……ということは、僕の能力に付き合ってくれるのはこの人じゃないんだ)

 

 

 少年は、閉じた瞳のまま先程女性が言っていた言葉を思い返した。炬燵を出ようとしない女性の行動もそうであったが、女性が先程発した言葉も十分疑問に値する内容である。

 少年は、女性がたった今廊下に向けて声を発するまで、目の前にいる女性が能力の練習に付き合ってくれると思っていた。話の流れからも、誰だって目の前の女性が手伝ってくれると思うだろう。

 しかし、女性の言動から考えると、どうも目の前の女性が能力の練習に付き合ってくれるというわけではないようである。

 少年は、思考がある程度の結論に至るとゆっくりと瞼を開いた。

 

 

「藍というのは、先生の助手の方ですか? その人が俺の練習に付き合ってくれるということなんですかね?」

 

「おおむねその認識で合っているわ」

 

 

 女性は少年の質問に端的に答えると、声を発している途中で少年がなぜそんな質問をしてきているのか気付いた。

 

 

「私だけであなたの能力の練習を全部見るなんて、どう考えても無理なのよ。時間的な問題でね。それに、助手じゃなくて正確には‘式’だけどね」

 

「‘しき’……?」

 

 

 女性の言葉によると少年の練習に付き合ってくれるのは、助手である藍という人物らしい。そして、目の前にいる女性が少年の能力の制御の練習に付き合えないのは、時間的な問題だということのようである。

 だが、少年には女性の口にした言葉の中で理解できなかった言葉があり、首をかしげて頭を悩ませた。

 少年は、心の中で自分に問いかけ、漢字変換すらままならない‘しき’という単語に思考を止める。

 

 

(この人に聞けばきっと分かるんだろうけど……)

 

 

 少年の探している答えは、すぐ目の前に存在する。思考の答えは、確実に目の前の女性が保持している。

 けれども、少年が女性に声をかけることはなかった。

 

 

(これからの話に関係があることか分からないし、また怒らせるかもしれない。やめておこう……)

 

 

 少年は、先程女性から黙れと言われたことを気にしていた。どこまで話していいものか、これからのことに関係があるのか少年には分からないため、口にすることが躊躇われたのである。

 そして、話し出さない少年と同様に女性が悩んでいる少年に話しかけることもなかった。

 女性が説明しなかったのはごく簡単な理由で、ただ、少年が悩んでいるように見えなかったからだった。少年が頭を悩ませているといっても少年の真面目な顔は揺るがなかったから、悩んでいることに女性が気付いていなかっただけだった。

 

 

(……誰か、来てる)

 

 

 少年が疑問を告げることを悩んでいる間に、廊下の方から足音が近づいてくる。少年の目の前にいる女性に呼ばれた藍という人物がこの部屋に近づいてきていた。

 床を踏む音がふすまの近くまで来ている、音が大きくなる。そして、あるところで音が跡形もなく消え、先程女性が廊下に向かって声を発するためにちょっとだけ開いていたふすまが一気に開け放たれた。

 

 

「どうかいたしましたか、紫様」

 

「やっときたわね。昨日話していた件についてよ」

 

 

 少年は、この部屋にやってきた女性の言葉を聞いて初めて、目の前にいる意味不明な女性の名前が紫という名前であることを知ることになった。

 少年と対面している目の前の女性―――紫は、持っている扇子で少年を指し、来訪した藍という人物に少年の存在を見せつける。

 少年は、開け放たれたふすまの方へとそっと目を向けた。藍という人物が紫の指し示す扇子の先を見つめると少年と藍の視線が交錯した。

 

 

「この子が昨日話していた子になるわ。藍、この子をよろしくお願いね」

 

 

 女性が扇子で指し示している少年の顔は相変わらずの真面目な顔のままで、その視界の中には藍という人物が確実に捉えられていた。

 ふすまの奥にいたのは、大きな尻尾を複数生やした、またしても見たことのない服装をしている女性であった。尻尾はゆらゆらと揺らめいていて、見た目よりもひどく大きく見える。

 炬燵で相対している女性が言うには、どうやらこの人が藍という人物で、少年の能力の練習の手伝いをしてくれる人らしい。

 少年はその場で立ち上がり、これからお世話になる藍に対して頭を下げた。

 

 

「よろしくお願いします」

 

「はい、よろしくお願いされました」

 

 

 藍は、少年の行動に少し驚いた表情を作ったが、それを見られまいと慌てて顔を引き締めて少年に答えると、紫へと視線を向けた。

 

 

「紫様、昨日話していた内容とはずいぶん違いますね。礼儀正しい子ではないですか」

 

 

 藍は、ある程度紫から少年についての話を聞いており、少年の存在がどのような存在なのか勝手に想像していた。ただ、藍のした想像の中の少年と現実の少年は大きく違っているようだった。

 

 

(どんな話をされていたんだろう……まぁ、そんなことはどうでもいいや)

 

 

 少年は、自分の印象が悪く伝わっていることを気にすることはなかった。ずっと頭を下げて礼の形を取り、頭を下げたまま何も言わず、動こうとしない。

 紫は、黙ったままの少年に向かって扇子の先を向ける。

 

 

「この子は猫を被っているだけよ。それともこの場合は、猫を作っているっていうのかしら?」

 

 

 そう、少年が真面目な雰囲気を作り出したのは、つい先ほどのことである。猫を被っているといわれても仕方がないだろう。状況に合わせて即座に作ったといわれても仕方がなかった。

 

 

「正確には、連れてきている、っていうのが正しいかもしれないですね。いや、探してきているの方が近いかもしれないです」

 

「一体どういうことだ?」

 

「あなたがそういうのならそうなのかもしれないわね」

 

「紫様は分かっておられるのですか? 私には、何のことを話しておられるのかさっぱり分からないのですが……」

 

 

 少年は、紫の言葉を僅かに訂正した。

 藍は、二人のやり取りによく分からないといった表情になった。

 少年は、紫の言葉をわざわざ訂正したわけなのだが、そこに訂正をいれるぐらいならば、先ほどの紫から藍に流されていた情報について突っ込むのが普通に思われる。藍には、なぜ少年が猫を被るということの方を訂正したのか分からなかった。

 藍が分からなかったのはそれだけではない。少年がわざわざ紫の言葉を訂正したのはいいが、訂正している内容が意味不明だったことも藍を混乱させる一つの原因となっていた。

 紫は、少年のことについて何となく分かっているらしく、少年の言葉を否定することも問い正すこともしようとしない。

 藍は、少年と紫のやり取りを見ていて何のことだか全く分かっていない様子で、ふすまの奥でずっと立ったまま佇んでいる。藍の頭の上には、クエスチョンマークが出ているのが見えた。

 しかし、藍の悩みなど、会話の内容などどっちでもいいことなのである。表現が違うだけで、内容が変わるだけで、重要度は変わらずどうでもいい話には違いがない。

 少年流に言うならば、どっちでもいいということになるのだろう。疑問に答えはなく、分かったところで納得するかしない、そんな―――どっちでもいいこと。

 少年は下げていた頭を上げ、伸ばしていた膝を曲げて再び炬燵のそばに正座した。

 

 

「一体、どういうことなのですか?」

 

「いずれ分かるわ」

 

「いずれ分かるものなのかな? 絶対に分からないと思うんだけど」

 

「私に分かったのだから藍にだって分かるわよ」

 

「紫様がそう言うのならばそうなのでしょうけど……」

 

「今の藍が分からなくても大丈夫よ。分からないのが当然だもの。今は気にしないで」

 

 

 藍は置いてきぼりをくらっている状況を打開するために疑問を投げかけたが、紫は確信めいたようなはっきりとした言葉で藍にもいずれ分かるようになるとだけ告げた。

 少年は、嫌にはっきりと断言する紫の言葉がどこから来ているものなのか気になったが、そこまで藍という人物を信頼しているのだろうと自分の中で答えを当てはめ勝手に納得した。

 藍は、二人の会話についていけなかったが、いずれ分かるという紫の言葉を信じて、その場で質問することはしなかった。

 紫がそっと藍の表情を見ると、未だに状況を飲み込めていないといった顔をしていた。

 

 

「とりあえず、藍も来たことだし、話を進めましょうか」

 

 

 紫は、話についてきていない藍の様子を見て話題を変える、誰にでも分かる、誰にでもできる、最初にやっておかなければならない事をしようとした。

 

 

「まずは自己紹介から始めましょう。あなたは私のことを名前すら知らないほどに何も知らない。私は、あなたのことをほとんど知らない。お互いを知る所から始めましょう」

 

 

 紫は、言葉を発しながら右手の指で右手前方を指さした。

 藍と少年は、指の向けられた方向に目をやる。そこは、正方形の炬燵の入り口の一つである。

 紫は、一人だけ立っている藍が気になっていた。

 これから始めるのは、自己紹介という互いを知るための行動である。今から行われる自己紹介は、誰が上でも誰が下でもない、対等の視線で向かい合う必要がある。これから長い間、生活を共にする仲間として、家族として始める第一歩である。

 

 

「藍は、そこに座りなさい」

 

「分かりました」

 

 

 藍は、紫に座るように促されると返事をして指定された場所である紫の右前に座り、ちょうど少年の左前に座るような形になった。

 少年の正面には紫がいる。そして、少年の左前には藍がいる状態である。

 

 

「じゃあまずは……私から話しましょうか」

 

 

 紫は、藍が座ったところで目線を配り、喋りはじめる。

 ここから、3人による自己紹介が始まった。

 




新しい環境に置かれた時
新しい雰囲気に取り込まれた時
勘違いしてはいけないことがある。
それは―――自分は何も変わっていないということだ


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自己紹介、重ねられた手

分からないことがあったら尋ねればいい。
知りたいことがあれば質問すればいい。


「私の名前は、八雲紫(やくもゆかり)。種族は妖怪。ここ、幻想郷の管理人よ。これからよろしくね」

 

「妖怪……幻想郷の管理人……」

 

 

 意味不明な女性の名前は、八雲紫とのことである。

 八雲紫は、自慢げに誇らしげに自分のことを少年に紹介した。

 少年は、少し前まで話していた内容を思い出す。幻想郷というのは、世界そのものの名前だったはずである。その幻想郷という場所の管理人ということは、世界を統べる人物と言っても大きく違わないだろう。

 それに、妖怪というのはあの妖怪だろうか、少年はとんでもない人についてきてしまったと思った。

 妖怪に連れてこられたなんて正気の沙汰ではない、到底少年の中の普通の範囲に収まる内容ではなかった。

 しかし、そんな後悔はすでに遅い、もう少年は妖怪に連れ去られてしまっている。この事実は今更になって翻ることはないため、後悔などするだけ無駄な状況になっていた。

 

 

「次は藍、自己紹介しなさい」

 

「私の名前は、八雲藍(やくもらん)。種族は妖怪。九尾って言えば大抵の人間は分かってくれると思う。この尻尾が証拠だ。今は、紫様の式をやらせてもらっている」

 

 

 紫の自己紹介に続いて、先程紫に呼ばれてやってきた人物が自己紹介を始める。尻尾の生えた女性は、八雲藍というとのことである。

 九尾といえば、結構名の知れた存在である。それこそ漫画でも良く出てくるぐらいにはメジャーな存在だ。九尾という名前については、少年も勿論聞いたことがあった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、二人の自己紹介の言葉を頭の中で咀嚼し、目の前の二人がどういう存在なのか理解しようと努める。

 ただ、少年は二人からの話を聞いていて一つばかり分からないことがあったため、思考が前に進まなかった。自己紹介以前に、分からないことができていたのである。その疑問が―――少年の思考の流れを遮っていた。

 少年が少しだけ手を上げて質問をする体勢に入ると、紫と藍は手を挙げた少年に注目した。

 

 

「あの、すみません。私の自己紹介をする前に聞いておきたいのですが、‘式’って何なのですか?」

 

「式というのはだな、使役されている者を指す言葉だ。つまり、私は紫様の従者という立ち位置になる」

 

 

 少年の質問には、最初に式という言葉を使った紫ではなく、自己紹介で式という言葉を用いた藍が答えた。

 

 

「分かるか?」

 

「従者ですか。なるほど、分かりました。ありがとうございます」

 

 

 藍が少年の疑問に答えると同時に理解しているかの確認をとると、少年は藍の問いかけに笑顔を作り、理解したという旨の言葉を送った。

 少年は、藍の説明によって従者という言葉の意味を理解できたわけではなかったが、それが部下という意味に近いのだろうなと勝手に解釈していた。まだ中学生になったばかりの人間が従者なんて言葉を聞く機会がないため、言葉の響きや二人の様子から想像して、部下という理解をしていた。

 ここで少年には、再び質問をするという選択肢があった。答えが曖昧なのが嫌なのならば、単純にもう一度質問すればいいだけの話である。

 しかし、少年はそれをしようとはしなかった。従者という言葉の意味を聞き返しても、特に意味にある会話ができるわけでもなく、時間が無駄になってしまうことだろうと分かっていたからである。

 少なくとも少年の目の前にいる二人の女性は、自分よりも遥かに上の立場の人間である。分からない言葉をいちいち聞いていたのでは話が進まない。少年は、後で聞けばいい、後で覚えればいいとそんなふうに考えていた。

 幸いにも、少年の従者に対する想像は的中している。二人の関係性は、上司と部下で大きな差はなかった。

 少年が式という言葉に対して想像した内容が合っていると理解するのは、もっと後の話である。

 

 

 藍は、分かりやすい少年の返事に安心した表情を作った。

 

 

「紫様、やっぱりいい子じゃないですか。昨日おっしゃっていたようなとんでもない子ではなく、普通にいい子だと思いますよ」

 

「そういわれると照れますね。これから、よろしくお願いします」

 

「ああ、よろしく頼むぞ」

 

 

 少年は、褒められて少しだけ声を高くした。

 藍は、紫の話から想像した少年と目の前にいる少年があまりにも違うため、気持ちを軽くする。これから共に生活していく身として、比較的容易に日々を送ることができると楽観視した。

 

 

「藍は、知らないからそんなことが言えるのよ……」

 

 

 紫は、少年と藍の二人のやり取りを見てぼそぼそと呟いた。紫の声は誰にも拾われることはなく流れていった。

 

 

「では、最後に私が」

 

 

 二人の自己紹介が終わる。

 少年は、二人に向けて交互に視線を向けた。紫と藍は、少年の視線に答えるように少年の顔を見つめる。

 少年は、今度は自分が自己紹介をする番だと口を開いた。

 

 

「私の名前は、笹原和友(ささはらかずとも)といいます。種族は人間です。先程まで中学1年生をしていました。迷惑もいろいろかけると思いますが、よろしくお願いします」

 

「へぇ、貴方はちゃんと今の状況を理解しているのね」

 

 

 少年の自己紹介は、実に普通の自己紹介だった。他の二人と違って、それほど驚くような情報は何一つとしてない。

 しかし、紫は少年の自己紹介にわずかに目を細め、感嘆とした言葉を述べた。

 少年は、先程までは中学1年生をしていたと言った。それは、少年が中学生という枠には収まらなくなったということを、少年自身が理解していることを示す言葉である。

 紫は、少年の理解能力の高さに驚いた。

 

 

「藍は、知っているかしら?」

 

「何をでしょうか?」

 

 

 紫は、少年の普通の自己紹介の後、藍に向かって視線を向ける。藍は、どうしましたかと不思議そうな顔で紫を見つめ返した。

 紫は、意地の悪そうな表情で藍に言葉を吐き出す。

 

 

「中学1年生っていうのは、初等教育を終えた者が中等教育に移って、1年目の者を指す言葉よ」

 

「言われなくても知っています」

 

「ふふふっ、怒らないの」

 

「怒っていません」

 

 

 紫の言葉は、どこか皮肉のように聞こえた。少年には、少なくとも馬鹿にしているように聞こえた。少年が感じたように、言われている藍も同様に馬鹿にされているように感じたらしく、紫の挑発的な言葉を聞いて声に力を込めた。

 紫は、藍の露骨な反応に口元を隠して笑う。

 藍は、明らかに不機嫌な表情を作っており、藍が紫に対して返す言葉には、棘がついていた。

 

 

「フンッ」

 

(僕のせいなのかな……)

 

 

 藍は、機嫌を損ねてしまって紫から視線をそらしている。もはや、紫と視線を合わせようともしなかった。

 少年は、不機嫌になってしまっている藍に自分が何かまずいことをしたのだろうかと不安を抱いた。紫と藍の日常的なやり取りを知らない少年は、目の間の光景が普段からあるものなのか、自分がいるから今の状況が生まれているのか判断がつかない。

 少年は、心の中に住む不安を取り除くために藍に対して質問を投げかけた。

 

 

「怒っているのですか?」

 

「怒っていません!」

 

 

 藍は、少年の質問に肩を震わせ、湧きあがる怒りを堪えられず、少年からもそっぽを向いてしまう。

 少年は、自分の質問が怒っている藍にさらに油を注ぐことになるとはいざ知らず、ごく普通に不思議そうな顔をして藍に問いかけてしまった。

 少年に悪気など全くなかったが、藍にとってはこれもまた紫の言葉と同じようにおちょくっているようにしか聞こえない。

 藍は、完全に機嫌を損ねてしまっていた。

 

 

「ふふふっ、本当に面白い子ね。狙ってやっているとしたら相当な策士よ」

 

「狙ってなんてやっていないよ」

 

「ふふ、そうね。貴方は天然だもの」

 

「よく言われるんだけど、その天然ってどういうことなの?」

 

「天然っていうのはね、狙ってもいないのに面白い現象を作り出す者に与えられる称号よ」

 

「そんな意味で使われていたんだ……」

 

 

 少年は、不機嫌そうな表情で唸る。紫は、思わぬ二人のやり取りに笑みを浮かべた。少年は新たな事実を知って驚いているし、藍の様子は誰の目から見ても意地を張っているようにしか見えない。

 紫は、意地を張っている藍の様子を楽しんでいた。思った通りと言わんばかりに、笑顔を作り、藍を見つめている。

 紫は、一通り藍の様子を伺うと満足した様子で視線を藍から炬燵の中央へと視線を移し、何事もなかったかのように話を戻そうと場を収めはじめた。

 

 

「ふざけるのは、ここまでにしましょう。本題の方を進めていくわ」

 

「ふざけていたんですか?」

 

「紫様、ふざけるのは止めてください」

 

 

 藍は、紫の言葉で自分がおもちゃにされていたのだと気付き、紫に向かって疑問を投げかけた少年に追随し、紫の行動を咎めた。

 

 

「…………」

 

 

 紫は、藍の物言いに無表情な顔を作る。紫の表情からは得も言われぬような威圧感が放たれていた。

 紫は、無表情のまま少年と少年に乗っかるようにして文句を言った藍にはっきりと告げる。

 

 

「話を戻すのは止めてくれないかしら? 時間は戻らないのよ」

 

「「…………」」

 

 

 藍は、静かに膝の上で手を握り締め、紫の言葉に沸き立つ思いをぐっとこらえた。

 少年は、特に怒るような様子も見せず、それもそっかと納得して頷く。

 藍と少年の紫の言葉の受け取り方には、大きな隔たりがあった。

 

 藍は、紫の返しが横暴に思えて仕方がなかった。

 紫は一種の圧力を二人に対して加えてきている。それはまさしく、都合が悪いから話を戻したくないと言っているようなもので、蒸し返されたら面倒だからと言っているようなものである。

 藍は、圧倒的な上の立場から物を押し付けるような物言いをしている紫に怒りを覚えていた。

 紫は無表情のまま二人を見つめ、少年と藍は口を閉ざしまたまま黙りこくる。二人は、紫の言っていることが正論なだけに何も言い返せなかった。

 確かにここで話を戻しても、話は一向に前に進まなくなるだろう。ああ言えばこう言う、こう返せばああ返ってくる。きっとここにいる少年と藍では、紫に対して口で勝つことはできない。例え反論の言葉を返したとしても、少年や藍が紫に対してどうこう言ったとしても、実がない言葉が返ってくるだけに決まっている。

 藍は、こういった場合において紫と口げんかを始めても勝てる見込みがないことを知っていた。これまでの経験から分かっていた。

 藍は、そっと怒りに握りしめた拳を解いた。

 

 

「もういいです。話を進めましょう」

 

 

 藍は、紫に対して文句を言うことをすぐさま諦め、その心のまま諦めの言葉を口にした。少年はそもそも紫を咎める気は全くなかったので、言い争いになる状況ではなくなった。

 

 

「笹原もそれでいいか?」

 

「私は、一向に構いませんけど……というか構ってすらいないのだけど……」

 

 

 藍は、少年に対して許可を求める言い方で尋ねた。藍は、少年も何かしら紫に文句を言おうとしていると勘違いしていた。先程少年が言った、ふざけているのですかという質問が藍にそう思わせていた。

 少年は、心当たりがないと藍の言葉に不思議そうな顔をする。そうである、少年は別に紫がふざけていることに対して咎めようとしていたわけではない。

 

 

 

 一度停止した話は、少年が藍の言葉に頷いたことで前に進み出す。藍が諦めたことによって前に進み出す―――はずだった。紫が口を開き、本題に入っていくと思われた。誰もがそう思っていた―――

 ―――紫以外は。

 

 

「じゃあまず、話をする前に、はい」

 

「……なんですかこれ?」

 

 

 紫は、三人の中央である炬燵の中心にして右手を開いて差し出した。

 少年と藍は、思いがけない紫の動作にきょとんとした顔になる。

 藍は、呆然とした表情を怪訝そうなものに変えて差し出された紫の右手を見る。

 紫の手には、何も乗っていない。ただ右手が差し出されただけのようである。

 少年は、何もすることもなく、真面目な顔をして紫の顔を見つめている。真面目な話があるのだろうと身構えて紫からの反応を待っていた。

 

 

「紫様は、いつも言葉が足りません。これだけじゃ何も分かりませんよ? これは、一体何なのですか?」

 

 

 手を差し出した紫に対する藍の疑問は、もっともなことだった。いきなり手を前に出されても意味が分からないだろう。

 藍と紫の間には、手を出したらどうするかなんて決まりごとがあるわけではない。藍には、紫が何をしようとして手を差し出しているのか読み取れなかった。

 

 

「何を言っているのですか? これは手ですよ」

 

「ふふふっ」

 

「知っているよ。笹原も失礼な人だな」

 

 

 藍は、ここで予想外の返答を少年から貰うことになった。藍は、少年の対応にバカにされていると感じ、再び機嫌を悪くする。

 紫は、少年の回答に思わず含み笑いをした。

 当たり前であるが、藍の求めている答えはそういうことではない。藍は、手を出して何がしたいのですか、そういう意味で紫に対して質問したつもりだろう。

 しかし、少年は藍の質問に対して別の受け取り方をしたようである。藍の質問を―――差し出されているものが何なのですかという質問としてとらえたのである。

 少年は、大真面目に藍の質問に対して答えた。紫が差し出しているものが手であることは、誰もが分かることである。少年の答えはそれこそ、外国人に日本語を教える時のようなもの言いであった。

 

 

「藍、怒っちゃだめよ。こうやって手を出したら、手を重ねる。分かった?」

 

「……変なことはしないでくださいよ」

 

 

 紫が機嫌の悪くなった藍をなだめるために声をかけると、藍は機嫌を悪くしたまま紫の言葉に従い、よく分からないが紫様が言うのならば、としぶしぶ手を重ねた。

 紫の右手に藍の右手が乗る。

 

 

「ほら、貴方も手を乗せなさい」

 

「いや、全然意味が分からないよ。能力の練習についての話をするんじゃないの?」

 

 

 紫は、藍の手が自分の手に重なるのを確認すると少年へと視線を向けて、同じことをするように催促したが、少年は藍とは異なり紫の言葉に対して微動だにしなかった。

 少年は、不可解なものを見て理解ができていなかった。何のために手を重ねるのか、何をしようとして手を重ねるのかが分からなかった。

 少年は紫の行動に酷く警戒している。妖怪という未知の不確定な存在がアクションを起こしている。それだけでも警戒するだけの要素は十分にあった。

 

 

「これがこれからの話に何の関係があるの? 手を重ねなきゃいけない理由を教えてもらえるかな」

 

「笹原……」

 

 

 少年は、紫に向けて手を重ねる理由を問う。

 藍は、そんな紫の行動に用心するように身構える少年を見つめた。

 藍には、少年の行動が酷く正しいように見えた。幻想郷で紫と長らく一緒に生活している藍は、紫が手を差し出したのを見て自身の手を紫の手に重ねることがどれほど危ないことなのか知っている。紫という人物がどういう人物なのか知っている幻想郷の住人であれば、紫が手を出してきたときに手を重ねるような妖怪や人間など決していないだろうと容易に想像できた。

 

 

「疑問もいろいろあると思うが、ここは黙って手を重ねておけ。でないと、話が一向に進まないぞ」

 

「ふざけないでよ。そんな理由で納得できるはずないでしょ?」

 

 

 藍の場合は、紫と上下関係があるため、命令されれば従うしかないだけの話である。そこにどんな理由があろうとなかろうと関係がない。

 当たり前であるが、藍も手を重ねる理由などもちろん理解できていなかった。藍の場合はとりあえず紫に従っておこうと思っているだけである。

 残念ながら―――少年にはそんな殊勝な心掛けは存在しない。少年は、真面目な顔のまま紫の瞳を射抜くように見つめていた。

 紫は、言うことを聞かない少年に手を伸ばした。

 

 

「あーもう、面倒くさいわね。黙って手を出しなさい!」

 

「あっ、ちょっと!!」

 

 

 少年は、紫の行動に驚愕の声を上げた。

 紫は、炬燵の中心まで伸ばしてあった右手を―――すでに藍の手が乗った自分の右手をさらに伸ばして少年の右手を掴む。そして、再びその右手を炬燵の中心にまで持っていった。

 紫は、もともとの場所である藍の右手が出された炬燵の中心に持っていき、藍の右手の上に重ねた。

 

 

 紫が少年の手を握ったまま藍の手に重ねることで―――3人の手が重なった。

 




尋ねることで疑問は解消されるかもしれない
けれども知った答えが真実かどうかは分からない。
結局は、納得したかどうかでしかないのである。


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話をした、疑問が消えた

 3人の手は、重なった瞬間すぐさま離れた。3人の手が重なっていた時間は1秒もないほどだっただろう。紫が炬燵の中央で手を重ねた直後に少年の手を放したため、少年の手が中央からすぐさま離れたのである。

 紫は、ゆっくりと膝元に手を引き戻す。

 少年は、眉にしわを寄せながら素早く手を引き炬燵の中へと入れる。

 藍の手は、そのまま炬燵の上に落ち着いた。

 少年は、意味の分からない紫の行動に声を荒げた。

 

 

「何しているんだよ。貴方は何がしたいんだ!」

 

「私のやりたいことはこれで終わったわ。後は貴方と話すだけよ」

 

「話すだけなら別に手を重ねる必要はないだろ。よく分からないことをせずに話を進めてくれよ」

 

「じゃあ話しましょう。一つずつね」

 

 

 紫は、自分の唐突な行動に表情を険しくする少年に対してあくまで平常心で対応する。先程と違う真剣な表情を少年に見せていた。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、紫の真剣な表情に気押される。紫からは、沸き立つような威圧感が滲み出ていた。

 少年は、紫の真剣な雰囲気を感じて一度押し黙ると、ばつが悪そうな表情を浮かべる。紫の目は少年を逃がさないと言わんばかりに射抜くように少年を見つめていた。

 

 

「貴方の言動は、色々気になる所があった。初めて会った時からずっとおかしかったわ」

 

 

 二人は先程の手を合わせる行為がそもそも無かったように話し始める。向かい合って目を合わせ、口を開く。

 

 

「貴方には私が見えていたのにもかかわらず、どうして無視するようなことをしたの?」

 

「普通無視するだろ。どう考えてもあんたは異常だった」

 

 

 紫は、少年に無視され続けてきたことを気にしていた。まるで、一切話しかけられていないような少年の雰囲気に―――少年が自分の事を視認していたにもかかわらず、一切それを気取らせなかったその在り方に疑問を持っていた。

 見えている物を見えていないものとして扱い、相手に気取られないように振る舞うというのは意外と難しい。無視しようとするものが常軌を逸していればいるほど、平常心を保つことは難しくなる。

 そういった意味では、紫の存在を無視するという行為は凄まじく難しい行為のはずだった。

 

 

「俺は普通でいたかったから、普通で生きるって決めたから、あんたを無視した」

 

「普通でいたいから……ね」

 

 

 少年はさも当然のように答えた、無視するのが当然だと―――断言した。

 少年はもう、紫に対して敬語を使うことはない。どうやら誰かに物事を教わる時だけ敬語になるようである。

 

 

「そんなもので私の存在を無視し続けることが可能なのかしら?」

 

 

 紫は、少年の答えに納得できなかった。少年の答えには、どうやって紫を無視することができたのかの方法が提示されていない。

 

 

「確かに私が見えることは他ならぬ異常だわ。でも、よくもあれだけ気付いていることを悟らせなかったわね、本当に見えていないのだと思ってしまったわ」

 

「決めつけにかかれば、ある程度のことはできるものだよ」

 

「そういうものかしら?」

 

「そういうものだよ」

 

「……やっぱり貴方、変わっているわ」

 

「なんとでも思ってくれればいいよ」

 

 

 少年は、やればできると言わんばかりに言う。

 紫は、そんなわけがないと不思議に思っていたが、再三の確認をしても、同じように断言してくる少年に質問を重ねることを諦めた。

 

 

「じゃあ、次の質問よ」

 

 

 紫は、これ以上話しても見返りがないことを察して次の質問に移った。

 紫には、少年が異常な存在に見えている。そんな少年も、自分自身の事をどこかおかしいと、異常だと自称していた。異常だと言った紫の言葉を否定しなかった。

 しかし、少年の在り方は普通というものにこだわりを見せている、普通になろうとしている、普通を演じている。紫は、普通にこだわる少年の在り方に疑問を持っていた。

 

 

「貴方は、人間には異常があると言った、あってしかるべきだと言った。それなのに貴方は、自分自身の異常を認めようとしていないように見える、普通であろうとしているわ。それはなぜなの?」

 

「決まっているだろ? 異常にも限度がある。許容できる幅がある。俺にとっては、それが許容できなかっただけだ。あんたが見えるという異常までは、みんなが許容できないと思っただけ」

 

 

 少年は、紫の質問に的確に答えた。

 どうやら少年は普通というものの境界線を周りの人間が許容できるかどうかで基準を設けているようだった。当然であるが紫の存在が見えるというのは、周りの人間が許容できる話ではない。

 妖怪―――そんなものが見える奴は、普通ではないのだ。見えないものが見える人間というのは、普通というくくりで見られるものではないのである。

 一般の人に許容されるのは、幽霊が見えるという程度までである。幽霊が見えるという程度ならば、真偽のほどは別としてテレビでも何人か出ているレベルだろう、それならば何とか許容できる。

 だが、妖怪は無い、絶対にない。頭のおかしい人と思われるのが関の山である。

 

 

「みんなが許容できないなら、俺も許容できない、だから無視したんだ。あんたを許容するということは、普通に生きるという俺の決めたことに反する」

 

 

 少年の普通を守ろうとする意志は、相当に固かった。不可侵条約が結ばれているように、しっかりとした領域が存在していた。

 少年は、普通と異常との境をしっかりと見極めている。そして、自身が異常であることを理解していた。

 

 

「もう、ここに来た時点でぼろぼろの決まりだけどさ……はぁ、嫌だなぁ……」

 

「確かに、普通に生きたいというのなら私の存在は無視するべきでしょうね」

 

 

 紫は少年の答えに納得した。普通であるという目的があるのならば、自分の存在は無視されるべきなのだ。紫自身も少年と同様に、自分が普通とは縁の遠い存在だと自覚している。

 自分と関わっている人物が普通という範囲に入るのか。そう問われたときに、紫は即座に首を振るだろう。

 紫は、自分と関わっている人物が普通という範疇に入るなんて微塵も思っていなかった。

 

 

「でもそれは許容できる、できないというよりも信じられる信じられないだと思うわよ。妖怪は神様と同じで、許容するものじゃなく、あると信じるものだから」

 

「そんなものはどっちでもいいよ。ちょっとした表現の違いだろ?」

 

「全然違うわ。許容するというのは、否定しないということ。信じるというのは、肯定するということなのだからね」

 

「俺は、どっちでも変わらないと思うけどね」

 

 

 紫は、少年の答えに理解を示すと同時に少年の認識で誤っている部分について指摘した。

 だが、少年は紫の言葉の言い回しの意味が分からなかった。信じると許容するにどんな違いがあるというのだろうか。

 少年は思ったままを口にし、これまた興味がなさそうに軽い口調で答えた。

 確かに、許容すると信じるという言葉には大きな隔たりが存在する。

 許容するというのは、実に曖昧なものである。

 それは、許容するというのが受け入れるという意味であって、存在を認めるという意味ではないからだ。

 宇宙人の存在を許容するというは、つまり宇宙人がいてもいなくてもどっちでも構わないと言っているのと同じなのである。

 いうなれば、否定はしていないけど、肯定もしていないということと同義。

 

 対して信じるという言葉は、存在を認めるという意味を持つ。

 宇宙人の存在を信じると言えば、その人の頭の中には宇宙人の存在が確かにあって、存在が認められていることを示すのだ。

 

 

 

「……次の質問よ」

 

 

 紫は、上手く噛み合っていない会話を沈黙で打ち切り、次の質問に移った。

 

 

「貴方は、異常と言われることをむしろ望んでいるように見えた。それは、あの時言っていた、その方が世界の在り方として普通だからということでいいのかしら?」

 

「そうだよ。世界中俺みたいな奴ばっかりだったら気持ち悪いからね。というか俺みたいな奴ばっかりだったら、俺はこんなふうになっていなかったかもしれない」

 

「確かに、貴方みたいな人間ばかりだったら世界が滅んでしまうわね」

 

「事実を知ってしまっている今となっては、言い返すこともできないよ」

 

 

 紫は、自虐する少年にある確信を持つ。やはり少年は、自分自身の事をおかしいと、異常だと確信している節がある。

 紫は、冗談を言うような軽口で話しているが、紫の言葉は誇張でも過大評価しているわけでもない。少年は、夢を正夢にできるほどの力を持っている。どこかで歯車が狂ってしまえば、世界が滅ぶぐらいの事が起きてもおかしくはない。

 そして、少年も紫の言葉が冗談ではなく本当のことなのだということを理解している。病室で夢を正夢にする能力について告げられているため、紫に対して何も言い返すことができなかった。紫の言葉は意見ではなく事実なのだから、反論の余地など存在しなかったのである。

 

 

「じゃあ、次」

 

 

 紫は、少年が自分の能力の危険性を把握していることを理解し、少年の自分の能力に対する認識を把握すると、一度目をつむり、すぐさま次の質問を開始した。

 紫は、少年に向けて3つ目の質問を投げかける。

 

 

「貴方の夢が正夢になって、強盗が貴方の家に入った。貴方の家族は、強盗に殺された。その事実を知ったとき、貴方はとても冷静に見えたわ」

 

 

 紫は、少年の強盗に対する対応に疑問を抱えていた。

 夢で見ているとはいえ、強盗に襲われることが分かっていたからといって、あれほどすんなり動けるとは到底思えない。それほどに紫から見た少年は、落ち着いていたし、冷静に見えた。

 紫は、少年が冷静でいられたのには何か別の理由があるのではないかと考えていた。でなければ、おかしいと思っていた。

 

 

「それは、何度もその光景を見ていたという経験があったからということでいいのかしら?」

 

「まぁ、大筋にはそうかな。何度も見た光景だったし、慣れていたっていうのはあるんだと思う。でも、さすがに親が死んでいるとは思わなかったよ」

 

「……あなた、知らなかったの?」

 

 

 少年は、少し悩むようなそぶりを見せた後に、昨日の段階で両親が死んでいることを知らなかったと答えた。

 紫は、少年の言葉に耳を疑った。少年の言葉をそのままの意味で汲み取るならば、少年は夢の中で両親の死を知っていなかったということになる。

 それはつまり、殺人犯と相対したあの場で―――いきなり両親の死を告げられたということなのである。もしも、少年の言っていることが真実ならば、少年は両親が死んでも動揺するような心を持っていないということと同義だ。

 紫は、確認のために再度少年に尋ねた。

 

 

「親が殺されていることは、夢に出なかったの?」

 

「さすがに家の中の様子までは夢の中で見ることはなかったからね。夢で見ることができるのは、あくまで俺が見えているものだけだよ」

 

 

 少年の言う通りだった。夢というのはあくまで一人称視点で進む自分の見えている世界しか見えないものである。そんな夢の中で両親の死を知る術は、犯人との会話からか自身が家の中に入る他ないだろう。そう考えると、少年が知らないのも仕方ないことだった。

 少年は、表情を変えることなく言葉を続ける。

 

 

「でも、そんなのは別にどっちでもいいよね。親が死んでは駄目なんていう決まりはないんだからさ」

 

「え……」

 

 

 紫は、少年の物言いに動揺した。少年の言動は、あまりにも普通とはかけ離れすぎて違和感というレベルに収まらなくなってきている。

 紫は、心の動揺を押し殺して、平常心で少年の言葉を繰り返す。

 

 

「親が死んでは駄目なんていう決まりはない?」

 

「死んでは駄目ということはないんだよ。親が死んでも悲しむな。それが、両親が俺に与えた決まり事だったから、悲しまなかっただけだ、悲しんじゃいけなかっただけ」

 

「……貴方は、ずっとそう思って生きてきたの?」

 

「そうだよ? 何か変かな?」

 

 

 紫は、目を細めて少年を凝視する。

 少年の目に揺らぎは見えない。当然だと、自然だと、それが普通の事のようにしゃべっている。あくまで自然体で揺らがず、心はありのままを保っていた。

 

 

「ふーん、なるほどね。何となく分かったわ」

 

 

 紫は、少年に尋ねた質問の答えから少年の抱えている異常を把握してきていた。

 少年の言動には、普通ではありえない言葉が混じっている。なぜそんな言葉が出てくるのか、どうして今のような状況が生み出されたのか、紫は原因を特定してきていた。

 

 

「その貴方の考え方を作りだしているのは、貴方の心の中に起きている現象ってことなのね」

 

「心の中?」

 

 

 少年は、紫の言葉に疑問を持った。紫の言動は、まるで心の中を覗いたような口ぶりだった。

 少年は、疑問を口にして暫くすると何か思いついたように言う。

 

 

「あ、もしかしておまえ、病院で俺の腕をつかんだ時に俺の心の中に入ったのか?」

 

「へぇ、よく分かったわね」

 

 

 紫は、一気に答えまで飛躍した少年の質問に驚いた。

 

 

「そうよ。私の能力は、境界を操る程度の能力。貴方の心の中に入る程度、造作もないわ」

 

「境界を操る程度の能力か……」

 

 

 少年は紫の言葉を聞いてこれまでの努力が無駄であったことを理解した。

 そして同時に、過去に積み上げてきたものが一気に崩れ去ったような、どうしようもない気持ちに襲われた。

 

 

「ああ、そういうことか、そういうことだったんだ」

 

 

 ―――境界を操る程度の能力。少年は、その能力の名前を聞いてこれまでの経緯に納得した。

 少年が納得したのは何のことはない、紫の能力が本当に境界を操る能力だとして、少年の能力が境界線を曖昧にする能力であれば、紫に見つけられるのは必然のような気がしたからである。少年によって境界線が乱されれば、境界線を動かすことのできる人物のアンテナに引っかからないわけはないのだ。

 

 

「俺の普通に生きるって目標は、あんたがいる時点で最初から無理なものだったんだ」

 

 

 少年がいくら能力を使っている認識がなく、能力の発動が無意識だとしても、夢が現実に割り込むほどに境界線を揺るがしている事実は変わらない。そこまで揺らいでいる境界を、境界を操る程度の能力を持った少年の目の前にいる人物が感知しないわけがないのである。

 

 

「俺の努力とか、運によるとか……そんな曖昧なものじゃなくて初めから無理な話だったんだな」

 

「残念ながら、貴方の目標は私がいる限り達成できないでしょうね」

 

 

 少年は、普通に生きていこうとしていた。

 だが、そんなことは目の前の女性がいる限り不可能だった。どう頑張ろうが関係ない。少年が少年である限りにおいては、少年の努力は最初から無意味で、徒労だったのである。いくら努力しても、いくら願っても、どれほど祈りを捧げたところで不可能な事だったのである。

 

 

「貴方の能力と私の能力の特性はほぼ同じ。貴方が境界を歪めれば私がすぐに感知することになる。それが例え、無意識で歪めていたとしても関係ないもの」

 

「っ……」

 

 

 少年は、ここまでの無駄になってしまった出来事を思い出す、努力してきた日々を思い返す。それら全ては、紫に見つかった時に終わりを告げた、儚くも一瞬にして散ってしまった。

 少年は、唇をかみしめ、気持ちを抑え込もうと強がる。

 

 

「でも、俺の心に入ったって自信満々にしゃべっているけどさ。声をかけられるまで心から出られなかった癖に、よくもまぁ自信満々に言うよな」

 

 

 少年は、なんとか紫に意趣返しをしようと病室で腕を掴まれた際のことを話し始め、声を震わせながら必死に強がった。気分が悪いことをそのまま言葉に表現し、紫の真剣な表情とは対称的な笑顔を作って、紫に言った。

 

 

「…………」

 

「そうかぁ……俺の心の中に入ったんだ」

 

 

 紫は、押し黙ったまま一言も話さず、話している少年の目を真っすぐ見続ける。

 少年は、反応を示さない紫に肩を落として脱力し、紫の視線を避けるように大きく下を向いた。

 

 

「それなら、そんなにたくさんの質問をしなくても分かっただろうに……時間の無駄な気がする」

 

「ええ、貴方のことは心の中を覗いてある程度分かっていたわ。だけど、本当の所は貴方の口から聞きたかったの。貴方自身の言葉で聞きたかったのよ」

 

 

 少年は紫の質問の意図を把握し、落ち込む気持ちを切り替え始める。大きく息を吐き、再び顔を上げ、一度逸らした視線を紫に対して向けた。

 

 

「へぇ、そういうことだったのか。それで、聞けて満足できる結果でしたか?」

 

「ええ、満足はしていないけど妥協できるレベルだったわ」

 

「そうかい、それは良かった。じゃあ今度は俺から質問してもいいか?」

 

「何? 私が質問した分ぐらいは答えてあげてもいいわよ」

 

 

 紫は、これまでの話から少年の対するおおよその疑問を解消しており、少年の言葉に機嫌よく答えた。

 今度は、少年が質問する番である。

 普段であれば少年の質問に答える気にはならなかっただろうが、二つの要素が紫に少年の質問を受け入れさせた。

 第一に、現在の紫の心境がすがすがしかったからである。紫は、疑問が解消されて心の突っかかりが無くなり、気を楽にしていた、率直に気分がよかった。

 第二に、それ以外にもこれまで少年に対して散々質問をしてきたお詫びというのか、少年に悪い気持ちがあったためだった。あまりに一方的な尋問をしたことに対して悪い気持ちがあった。

 この二つの要素が紫に少年の質問に答える気持ちにさせていた。

 

 

「それじゃあ、お言葉に甘えて……色々と聞きたいことはあるんだけど。とりあえず、一つ目」

 

 

 少年は一言言った後、質問を投げかけ、一つ目と告げて質問を開始する。紫が自分で質問した数である3つを越えても答えてくれるか分からないなと不安を持ちながら、限りある質問のうちの一つを切り出す。現在最も重要視される問題について質問を投げかけた。

 

 

「俺、お前と話している間ずっと思っていたんだけどさ。最初に手を重ねたのって、こいつを俺の心の中に入れるためだよな?」

 

「そうよ。その方が藍にとっては説明するより分かりやすいでしょう。百聞は一見に如かずっていうじゃない」

 

「やっぱりそうだったのか」

 

 

 少年は目線をチラッと左前に動かす。少年の視線の先には、座っている藍の姿が変わらずにそこにあった。

 少年は、紫の話が始まった時から、どうして藍は動かないのだろうか、話さないのだろうかとずっと考えていた。

 

 そして、その答えは―――紫との会話の中で得られた。

 

 確かに紫の言うとおりで、その人のことを理解するために一番早い方法として、実際に心の中身を見ることが挙げられる。普通にはできない方法であるが、紫ならばできることである。

 心の中を見ることができれば、一瞬にしてその人の在りようがよく分かるのは間違いがない。最も早く、最も真実に近いものが見られるはずである。

 

 

「だけど、どうなっても知らないぞ。俺の中に他人を入れることなんて今までほとんどない……いや、今まで全くなかった」

 

 

 少年は、表情を若干重くして言葉を続ける。

 

 

「だから保障ができない。俺は、俺の中が普通じゃないって何となく分かる。だからこそ、普通でいようとした。だからこそ、みんなは俺みたいな異常ではなく、普通の人間なんだと思っていた」

 

「言っている意味が分からないわ。はっきり言いなさい」

 

 

 紫は、少年の言葉の意味が分からなかった。少年の言葉は、要点がはっきりしておらず、理解まで至らない。

 少年は、左前を右手の人差指で指さし、二回つつくように動かす。

 

 

「何よ、そっちになにかあるの?」

 

 

 紫は、少年の指さす方向に視線を向けた。

 そこにいるのは、先程紫に呼ばれて自己紹介をした人物である。先程まで怒ったような表情していた人物である。

 少年の指差した先には、少年と紫としゃべっている間、不自然に全くしゃべらなかった人物がいた。

 

 

「藍?」

 

「こいつ、死んじゃうかもしれないよ?」

 

 

 藍は、両方の瞳から涙を流しながら完全に固まっていた。

 



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心の中に入った、無秩序な世界があった

心の中は人それぞれ、形、色、中身が違っている。
心の中はA=Bは決して成り立たず、A≠Bが成り立っている世界である。


 少年の左前には、瞳から涙を流して固まっている藍の姿がある。そして正面には、動かない藍を見つめて同様に固まっている紫の姿があった。

 紫は、藍の姿を見たまま呆然としている。どうやら紫にとっても少年の心の中に入った藍がここまでの状況になってしまうことは予想外だったらしい。

 ただ、紫とは対照的に少年は目の前に広がっている異質な光景を前にしても、当然のように正座をしたまま炬燵の側に座っていた。瞳から涙を流す藍の姿を見ても、動かずに瞬きだけを繰り返し、座っている。

 そんな、時間の止まった空間の中で、数十秒の時間が経過した。

 

 

「さて、探しに行かないとね」

 

 

 止まった時間の中で―――少年が動き出す。

 唯一動きだした少年は、無表情のまま右手を前に出し、炬燵の上に力なく項垂れている藍の右手に触れようと伸ばす。狙いを定めたように一直線に目標地点に手を伸ばす。そして、藍の右手の下に潜るように右手を入れ込み、藍の右手を伸ばした右手ですくうように持ちあげていった。

 

 

「重い……」

 

 

 少年は藍の手が予想以上の重さを感じていた。

 完全に力の抜けた手は、無意識に落ちないように支えようとする藍の力を一切受けず、本来の重力に従って地球に引っ張られている。

 少年は、本来の重さになっている藍の右手を持ちあげようと力を入れた。

 

 

「うわっ!」

 

 

 少年が藍の手を重力に逆らって上に持ち上げようとすると、藍の手がするりと少年の手を離れ、こぼれ落ちそうになった。

 少年は、逃げて行くようにすり抜ける藍の手を慌ててがっしりと掴む。

 

 

「はぁ……落とすとこだったよ……」

 

 

 少年は、藍の手が落ちなかったことにほっと一息ついた。現在炬燵の中心には、藍の右手を掴んだ少年の手が浮いている状態である。

 少年は藍の手を持ち上げたままの状態で、紫に目線を向けて口を開いた。

 

 

「じゃあ、はい」

 

「……?」

 

 

 紫は、少年から言葉をかけられたことで止まっていた意識を動かし、体をピクリと動かした。

 紫の視界の中に、右手を差し出した不自然な状態で静止している少年が映り込む。

 

 

「なにこれ?」

 

「なにこれって……」

 

 

 紫は、少年の差し出された右手にチラッと視線を送るが、気持ちが動揺しているのもあり、少年が藍の手を掴みあげている意味が全く分からなかった。

 

 

「こうやって手を出したら、手を重ねる。あんたがそう言ったんじゃないか」

 

 

 少年は、紫の反応に目を丸くして不思議そうに告げた。

 思い返してみれば、3人は先程も似たようなやりとりをしている。先程は、藍が紫の伸ばされた手に対して質問したが、今は質問をした藍が固まってしまっている。

 さらには、先程これはなんですかと尋ねた藍の質問に対して答えを返した少年は、これは手ですよと紫に返答することはなかった。

 状況は少しの間にまるで別物になったかのように、大きく変化していた。

 

 

「なんか、間違えたかな……」

 

「……いいえ、何も間違っていないわ」

 

 

 紫は、少年の反応で少し前までのことを思い出す。手を差し出すという行動は、つい先程までやっていた行為である。

 だが、ついさっきのことであっても紫が思い出せないのは仕方がない。手を出したら手を重ねるなんていうルールは、つい先程紫がその場で作ったルールであって、不変的に存在していたルールではないのだから。普段から紫と一緒にいる藍が反応できなかったのを思い返せば、平常からあるルールでないことは容易に想像できる。

 紫は、自分が手を出したときに藍が反応できなかったのと同じように、唐突に少年の手が出てきても何のことかさっぱり分からなかった。先程行ったやり取りが頭からすっぽりと抜け落ちてしまっていた。

 紫は、暫く少年の手と少年の顔を交互に見ると、動揺を悟られないように声を整える。

 

 

「あなたも私のルールが分かってきたみたいね」

 

「随分と沈黙が長かったな。まぁいいや。こいつを探すために心の中に入るのなら、俺も連れていってくれ。俺の心の中に俺が入るっていうのも変な感じがするけどさ」

 

「貴方、私が心の中に入ろうとしていることを分かっていたの?」

 

「そこまでは、誰だって想像できるよ」

 

「ふうん」

 

 

 紫は、考えを読まれたことに少しだけ驚き、目を僅かに大きくする。

 少年は、紫が藍を探すために自分の心の中に入ると見抜いていた。そして、紫の思考を先読みして、自身の心の中に入ることに賛同し、自身も入ろうと試みていた。この状況下での選択肢など一つしかないのだ、少年が結論にたどり着くのは何も難しいことではなかった。

 しかしながら、紫の思っていた以上に少年の思考能力は高いように思われた。

 思考能力というより、相手の動きを読み取る能力だろうか。相手の感情や気持ち、動きを把握し、先読みする能力に長けているように思った。

 

 

「確かに私は、貴方の心の中に入ろうと考えていたわ。でも、どうして貴方まで入る必要があるの?」

 

 

 確かに紫は、少年の心の中に入り、藍を見つけ出そうとしている。

 けれども、紫には少年自らが自分の心の中に入って藍を探しに行く必要性が理解できなかった。はっきり言って藍を探す場合に、少年の存在は不要なのである。紫は、わざわざ少年が探しに行かなくても、自分ひとりだけで藍を見つけられると思っていた。

 それどころか、少年の存在は藍を探す時に足手まといになるとまで思っていた。自分一人で見つけることができるのに、飛ぶことも転移することもできない少年が来ても足手まといになるだけだと、そう思っていた。

 

 

「私の能力で、‘私だけ’が貴方の心の中に入って藍を連れ出してくればいいだけの話でしょう?」

 

「あんたは、病院で俺の心の中を見たんだよな。なら分かるはずだ。あんたじゃ俺の中でこいつを見つけられない」

 

 

 少年は、藍の発見に自信を持つ紫にはっきりと藍を見つけられないと断言した。少年が紫にそう言ったのは、自分の心の中で紫が藍を見つけるイメージが全く湧かなかったためである。

 少年は、何となしに自分の心の中がどんなものなのか理解している。心の中に入った記憶はないが、自分の心の中は自分が一番よく知っていた。自分の心の中で紫がいくら藍を探したところで、きっと探し出すことはできないと分かっていた。

 少年は、一人で行こうとしている紫を説得する。

 

 

「何も言わず、俺の言うことをひとまず聞いてくれ。俺の中は、俺が一番よく知っているから」

 

「…………」

 

 

 紫は、複雑な表情で少年の言葉を受け取った。少年の言う通り、少年の心の中は少年の箱庭であろう。

 だが、紫が見つけられないという証拠があるわけではない。見つけられないかどうかは、やってみないと分からないはずである。

 けれども、それでも少年は、紫では藍を見つけられないとはっきり断言している、迷うことなく告げている。

 やらなくても分かる。紫には、少年の言葉にそういう意味が含まれているように聞こえた。少年の言葉は、取りようによってはというか、普通に受け取ると力不足で役に立たないと侮辱ともとれるような言葉に聞こえる。

 だが、紫は少年の言葉に黙りこみ、少年の言葉に異論や訂正を求めるような、口をはさむようなことはしなかった。

 それは、成功するイメージが成り立たなかったからである。

 

 

「俺がなんとかしてこいつを見つけるから。心の中に他人が入っているっていうのも気持ち悪いからな」

 

 

 少年は、押し黙る紫に向けて藍を見つけてみせると宣言する。

 

 

「それに、問題は他にもある……あんたは、黙って覗いていてくれ。俺は、見つけることはできても、さすがに心の中から追い出すことまではできない。あんたも覗いている場所から動いてくれるなよ」

 

「分かったわ」

 

 

 心の中に入った経験を持たない少年は、心の中に入って藍を探すことにある懸念を抱いていた。

 少なくとも、人を心の中から追い出す術を持たない少年は、見つけることができても心の中から出してやる方法を持ち合わせていない。最低でも、心の中から脱出する方法が必要である。

 正直にいえば、できる限り万全の状態で心の中に入る形が望ましい。少年は、不安要素も、不確定要素も、できる限り排除しておきたかった。

 紫は、必ず見つけるという少年の言葉を信じて一度だけ頷く。少年の心の中の状況を知っている紫には、藍を見つけられるイメージが全くなかったため、もはや少年を信じることしかできなかった。

 

 

「あなたを信じましょう。私は覗いているだけにしておくわ」

 

「じゃあ、はい」

 

 

 少年は、再び藍の手を握り前に差し出すと、ゆっくりと目を閉じた。目の前が真っ暗になり、何も見えない暗い瞼の裏が映し出される。

 紫は、何もできない自分を隠すように声を強めて言った。

 

 

「これは命令よ。必ず藍を見つけてきなさい」

 

「了解したよ、必ず見つけてくる」

 

 

 少年は、強がっている紫を安心させるように言葉を返した。

 紫は、少年の言葉に満足したのか、差し出された少年の手に自分の手を重ねる。先程3人で手を重ねた時のように、先程3人で手を重ねた時とは全く違う状況で、3人は手を重ねた。

 紫は、藍を探すために少年を連れて少年の心の中に入っていく。深く、深く、少年の心の中へと入り込んでいった。

 

 

「ようこそ、俺の中へ」

 

 

 

 

  ―――少年の心の世界―――

 

 少年は、閉じていた瞳をゆっくりと開ける。

 

 

「ここが僕の心の中か」

 

 

 少年の視界には、一つの世界が広がっていた。

 少年は、どこか見慣れたような、よく知っているような景色を茫然と見つめる。

 少年の心の中には、広大な世界が広がっている、良く知っている世界が無秩序に広がっている。砂漠、荒野、高原、平原、雪原、草原、山、海、湖、川、沼、市街地、住宅地、竹林、ありとあらゆる空間が無秩序に伸びて広がっている。

 少年の心の中には大きな建物や障害物は無く、遠くを見渡すことができるため、余計に景色に隔たりがあるのが目立って見えた。

 仮に、遠くを見ることができる能力があれば、1キロ先を見るのも難しくないだろう。

 

 

「地上は……」

 

 

 少年は、自分の足が向いている方向―――前方? に意識を向ける。

 視線の先は終わりがあるようには見えず、地平線だけが見えた。

 少年の心の中の世界は、境界を曖昧にして際限無く広がりを見せており、何処で途切れているのかは分からなかった。

 

 

「空は……」

 

 

 少年は、無秩序な世界で空を見上げる。

 地上だけではなく空もまた、同様にぐちゃぐちゃだった。地上と同じで、空においても色彩がバラバラで気持ちが悪く、おおよそ空の色ではなかった。

 

 

「虹が混ざっているのか」

 

 

 少年は、様々な色彩を持っている空の景色に酷く身に覚えがあった。ぐしゃぐしゃに混ぜ込まれた色は、虹という概念が根付いた瞬間にできたもの―――虹によって色彩豊かな空になったことを思い出した。

 少年は、虹を見た時に空の色が3色ではないことを知った。空というのは、夕焼けの色、晴れ渡った青、光を失った黒、それだけではないと知った。

 虹は、別に空の一部になっているわけではないのだけれども、少年にとっては空の一部に見えた。きっかけはそんなものだ、そんなものが少年の世界を変えている。

 

 

「ぐちゃぐちゃだな」

 

 

 少年は、無秩序の心の世界で自身の足を一歩踏み出す。

 足元は、一歩踏み出せば世界が変わるように、一歩踏み出せば砂漠が湖になるほどに、様変わりするような切り替わりを見せている。

 区別が一切なされておらず、区切りが一切なされていない。そこには、一切の差別がなされていなかった。

 しかも、ただ区切りがされていないだけではなく、境目が揺らいでいる、常にゆらゆらと動き続けている。常に誰かが少年の心の中をかき混ぜているのではないかと錯覚するような光景だった。

 ここで、誰がかき混ぜているのか、なんていう疑問を持つことは大きな間違いである。誰かなんてことは、はっきりしているのだ。ここは少年の心の中なのだから、かき混ぜているのは紛れもなく少年自身に違いなかった。

 

 

「気持ち悪いな」

 

 

 少年は、自分の心の中を初めて見て率直な気持ちを述べ、自分の心の中を蔑みながら目的地が最初から分かっているかのように迷いなく足を進める。

 きょろきょろと周りを見ながらところどころに生えるようにして存在する物体に触れるように手を伸ばし、触れながら前進した。

 

 

 少年の心の中の世界には、多くの物質が存在している。

 手始めにいえば、少年の目の前には人のようなものが立っている。ここでいっている人のようなものというのは、顔が無く、配色がバラバラで人の形だけをとっているものである。マネキンのようなものだと考えてくれれば想像しやすいだろう。大きさ以外に区別できる要素は何一つなく、辛うじて男性か女性かが分かる程度である。

 少年の心の中には、人型の人形以外にもたくさん物が存在している。建物から、植物から、動物のようなものから、何でもあった。

 

 その中には、立て札と標識が不自然に多く、植物のように地面から生えているのが確認できた。

 

 標識と立て札は、うごめく境界の影響を受けることがないようで、動くことはなく、揺らがない空間の中でずっと立っている。標識の周りの空間、大体標識を中心に半径3メートルほどだけが秩序を保って境界線が揺らいでいなかった。

 立て札に関して言えば、1辺の長さが2メートルほどの真っ白な正方形に囲まれている。

 逆に、標識と立て札以外のものは、世界が移り変わるのに合わせて動き続けていた。

 先程まで目の前にあった人のようなものは、すでにどこかに行ってしまっていて、少年の目の前には存在しない。

 立て札や標識は、他のものや曖昧な世界とは違って秩序を持ってそこに立っており、はっきりとした境界線を保持して明確に存在するようである。

 

 

「それにしても……やっぱりこうなったか」

 

 

 少年は現在―――秩序を失った世界の中に‘一人で’立っていた。

 一緒に心の中へと入りこんだ紫は、少年の側にはいなかった。

 少年は、一緒に心の中に入った紫がいないことに特に驚きも動揺する事も無く、ゆったりと足を前に進める。

 

 

「手を重ねていただけで、繋いでいたわけでもないもんね。離れ離れになるのも、当然といえば当然なのかな?」

 

 

 少年は、何となしに紫と離れ離れになることが予測できていた。

 自身の心の中が曖昧というものに支配されていることは、幼稚園のときから分かっていることである。手を繋いでいたわけでもないのだ、離れ離れになることは仕方のないことだと思っていた。

 

 

「さぁて、探すか」

 

 

 少年は一言呟き、立て札と標識に近づいて行く。目的を見失わず、平常心で目標に向かって行動する。

 少年は、無秩序な自分の心の中を見ても別に驚いたり動揺したりしない。少年の心にあったのは、初めて心の中に入ったにも関わらず、どこか懐かしいような気持ちだけだった。

 まるで久々に故郷に戻ってきたみたいな感覚だった。

 

 

「なんでこんな気分になるんだろう……いや、そんなことはどうでもいいや。今やるべきことは別だ。あいつ、どこらへんにいるのかなぁ……」

 

 

 少年は、自分がやらなくてはならない、藍を見つけるということに意識を集中させていく。心の中を広く見渡し、先の見えない世界で未来を作り出す。

 

 

「俺の中に俺が入れた覚えのない、知らないものがある所に行けばいいんだよな。ははっ、まさか、心の中で生きている人を探すことになるとは思わなかった」

 

 

 少年は、藍を探そうと意識を集中させたところで思わず笑ってしまった。自身の心の中に両足を地につけて人を探すことになっている状況に、こんなことをする予定は全くなかったと、どうしてこんなことをしているのかと、笑わずにはいられなかった。

 

 

「ははっ、笑っている場合じゃないや。あいつは……多分あっちの方かな」

 

 

 少年は、足を前に進めながら標識に書かれている内容を覗き込むように見ると、内容を注視し、書かれた内容を把握して次の標識へと足を向ける。

 

 

「それに、あいつも何処にいるんだよ。ああ、広いと本当に面倒だな」

 

 

 少年は、膨大に広がる世界に文句を言いながら初めに違和感を覚えた場所に目的地を指定し、進むことを決めた。

 勘違いしてはならないのは、少年が心の中で探し出さなければならないのは、藍だけではないということである。少年は藍だけでなく、紫も探さなければならないのだ。

 

 

「一番早くここから出る方法は……分かっているところから行くのが一番早いよな」

 

 

 少年は、標識や立て札を一つ一つ確認しながら歩き、最初に感じた違和感の中心点へと向かうことをとりあえずの目的とした。

 

 

「これがここにあるってことは……ここは、あそこらへんなわけね」

 

 

 標識と立て札を確認する、これこそが少年の心の中を進んでいく唯一の手段である。移りゆく景色の中で、迷わずに思った方向に進むのは酷く難しい。適当に歩いてしまえば、方向感覚を無くして世界の中で迷ってしまい、閉じ込められてしまうのがおちである。

 少年自身はこの世界を作り出している本人であるため、このままここにいても何とも思うことはないし、影響も特にないだろう。

 しかし、紫と藍は違う。迷い続ければ、いずれ死んでしまう。精神的に疲弊して死んでしまう。

 それに―――少年が迷うことを考えることは無駄なことである。少年がここで迷うことは絶対にありえない。少年の心は―――少年の所有物であるのだから。

 

 

「うーん。ここの全体像はこんな感じか」

 

 

 少年は、標識の中身を見て現在位置を確認すると、頭の中に自分の心の中の地図を詳細に描く。方角、座標、位置を正確に描き出す。そして、頭の中に明確な地図ができあがると、一つの標識に向かって歩みを進めた。

 少年は、心の中の標識が立っている場所を全て知っていた。標識が少年の進む道を指し示している。

 少年は、標識へと辿り着くと導かれるように軸の部分に手を添えて目を閉じた。

 

 

「んー、ここ1キロ真っすぐ行って」

 

 

 言葉をつぶやいた瞬間に少年の姿が消えた。少年の姿は、ちょうど直線距離にある1キロ先の標識に現れる。

 少年は、移動したことに何一つ気にする様子もなく、続いて呟く。

 

 

「右に34キロ向かって、そこからまた3キロ右」

 

 

 少年は、標識に手を添えながらぶつぶつと呟く。その度に少年は消え、呟いた座標へと移動していく。

 

 

「真っすぐ250キロ行った後に、左に52キロ進んで、再び左に28キロ行き、右向いて79キロで真っすぐ44キロ……」

 

 

 少年は、標識を伝って移動を行う。標識を使って心の中を移動していた。

 標識は、心の中を移動するためのワープポイントといえる場所だった。

 

 少年の心の中においての移動方法は、標識を辿るという方法以外には存在しない。

 

 心の中の世界というのは、精神世界である。

 精神世界とは、簡単に言えば夢の中のようなもので、現実の世界と違い、想像で何とでもできるというのが精神世界の道理である。空を飛ぶことができると本人が自覚していれば、飛べるような世界なのである。

 つまり、移動手段としては少年のように空間を転移しようが、空を飛んでいこうが、なんでもできるはずだった。

 けれども、少年の心の中はそう単純なものではなかった。

 少年が今行っている空間転移をするためには、現在の座標と飛ぶ先の座標が分かっている必要がある。

 少年の心の中は、その広大な大きさもそうであるが、境界線が無秩序に変化をしているため他の人間では自分の位置を把握することさえもできず、自分の居場所も標識の場所も分からない状態に陥る。

 もちろんであるが、少年の心の中の世界には地図なんて存在しない。そのため、座標が分からなければ移動することができない標識を使った移動方法は少年以外には使用できない移動方法であった。

 少年の行っている標識を使った移動ができないのならば、空を飛んで探せばいいのではないかという話になるかもしれない。高速で空を飛ぶことができれば、人を見つけるのは比較的容易くなる。

 しかし、少年の心の中で空を飛ぶことはできなかった。

 おそらく理由として考えられるのは、少年の心の中には、明確なルールが存在するからであろう。心の中にある決まったルールを破ることは決してできない。

 仮に少年が空を飛ぶことができたのならば、飛ぶことは可能だったかもしれないが、現実には空を飛んだことのない少年が空を飛ぶことを許容することは無く、空を飛ぶことはできなかった。

 他には、歩いて行くという方法があるわけなのだが、目的地まで歩いて行くという手段をとった場合には、永遠ともいうべき時間がかかってしまう。それこそ少年の心は宇宙のように広がりを見せているため、歩いて行くというのは無理があるのである。

 結論として、少年の心の中において少年以外に素早い移動ができる人間は存在せず、少年の紫を動かさないという判断は非常に功を奏した形となっていた。

 

 

「いつもやっているように探せばいいみたいだね」

 

 

 少年は、初めての場所でいつもやっているような自然な動作で場所を転々と移動していった。

 

 

 

 

 

「どうしてあの子は同じスキマを通ってきたはずなのにここにいないのかしら……」

 

 

 少年が標識を使って移動をしている最中、紫は一人きりで佇んでいた。少年が目的地まで道筋を定めて進んでいた時、一人で戸惑っていた。

 そうである、紫と少年は少年の心の世界に飛びこんだ時に同じスキマをくぐって心の中に入ったはずだった。それにもかかわらず、周りを探しても少年の姿は確認できず、紫と少年は散り散りになってしまっている。

 

 

「もしかして……」

 

 

 紫は、少年の心の中の世界に入り込んだ時に自分と少年が違う場所に出てしまった理由を考え始めた。

 思考に時間などかからなかった。考えた直後にすぐに答えを見つかった。

 答えは、目の前に広がる少年の心の中に映し出されていた。

 

 

「ここの境界が揺らいでいるせいで、あの子だけ他の場所に出てしまったということなのかしら?」

 

 

 紫と少年は、完全に同時に心の中に入っているわけではない。タイムラグとしては、一秒もないだろうが、体格に違いのある紫と少年とで、ミリ秒単位の誤差が全くないとは言えなかった。

 

 

「同時にスキマに入ったわけではないから、そのタイミングの違いでずれが生じていると考えるのが適当かしらね」

 

 

 紫は、少年の心の中に入った時の時間のずれが、境界線が揺らいでいる少年の心の中において場所というずれに反映され、影響が現れたのだと解釈した。

 

 

「それにしても……2度目だというのに慣れないわ」

 

 

 紫は、少年の心の世界のどこかからどこかを覗きながら呟いた。どこかという曖昧な表現にとどまっているのは、紫がいる場所が少年の心の中のどの部分で、心のどの位置を見ているのかが分からないからである。

 

 

「いえ、こんなところに慣れる奴なんていないでしょうね。なんとも凄まじい……」

 

 

 紫は、一度病室で少年の心の中を覗いている。

 ここが少年の心の世界である、こここそが少年の心の中である。病室で少年の心を覗いた時は、少年に話しかけられるまで硬直から抜けだせなかった。あまりの光景に固まってしまった。

 

 

「一体どこまで続いているのかしら……先が見渡せないわね」

 

 

 紫の目には、移り変わりを見せている少年の心の世界が映っている。

 

 

「まるで地球だわ。地平線が広がっているだけ、空と地上が唯一境界線を作っている」

 

 

 紫は、あくまで大きなくくりで見た場合だが、少年の心の世界が現実と似通っているように見えた。無秩序なのは変わらないが、本当に大事な一線だけは引かれている。

 その姿は、まるで地球とよく似ていると思った。

 少年は、空と大地のように大事な一線を引いてこれまで過ごしてきたようである。または、引きやすいものだけ引いてあるのかもしれない。

 

 

「この子の世界は、本当に異常だわ……」

 

 

 紫には、少年の心の中が普通じゃないと‘断定ができた’。

 なぜならば紫は、別の心の中に入った経験があったからである。普通の一般人、普通の妖怪、妖怪が普通といっていいのかは分からないが、少なくとも両者の心の中は似通った構造をしていた。

 心の中は、決して少年のような世界を成しているわけではない。

 

 

「心の中は、その人1人分の世界」

 

 

 当たり前であるが心の中というのは、その本人一人だけが住んでいる世界であり、その人のためだけの世界である。それ以外の人は基本的に入れないし、入っていない。それこそ、紫のような能力を持っていなければ入ることは叶わない場所である。

 

 

「1人分の世界がこんなにバカでかいわけがない」

 

 

 1人分の世界が、少年のような大きさなわけがない。

 紫が見てきた心の中の大きさは、個人差はあるけれどもみな一人部屋の一室といったレベルの大きさしかなかった。少年のように、そんな大きなものを持つ必要もないし、持てる理由もない。

 紫は、まじまじと少年の心の中を観察することで、少年の異常性について再認識していた。

 

 

「あれは、何かしら?」

 

 

 紫は、少年の心の中の世界を眺めていると、揺らめいている世界の中に標識と立て札が動かず立っていることに気付いた。

 標識と立札は、全く動かず、確かな存在を示している。

 

 

「目印? 何か書いてあるようだけど、ここからじゃ見えないわね」

 

 

 紫は、一人きりで藍と少年の二人が戻ってくるのをひたすら待つ。少年の言われた通りにその場を動かず、静かに待ち続ける。少年と最初に話した時のように上半身だけを出して待っている。

 ただ、やって来るはずのものを待ち続けていた、待ち続けるしかできなかった。

 

 

「早く来なさい。あんまり遅いと私の方から探しに行くわよ」

 

 

 紫は、その場から動くことができないと知りながらも愚痴るように呟く。

 紫の声は、虚しく空間に散った。

 



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迷子を見つけた、二人になった

「違和感まで一番近い所の標識まで来たけど、目的地はさらに先だな」

 

 

 少年は、すでに違和感に一番近い場所まで標識を使って移動していた。具体的な距離としては、数千キロは進んでいるだろう。

 しかし、最初来た時と比べて大きく距離が離れているにも関わらず、景色は変化する様子を一切見せていない。少年の世界は、時間変化のみで距離による依存性を持ち合わせていないようだった。

 

 

「ん~誰がいるんだろう」

 

 

 少年は、変わらない心の中の景色を見つめながら違和感の中心地へと視線を送る。

 目的地となる誰かがいるところまでは、一番近くの標識からさらに400メートルほどの距離があった。

 

 

「いるのは分かるけど、誰かまでは分からないな」

 

 

 まだ少しばかり距離があるため、誰がいるのかまでは確認することができない。少年の視力では、もう少し近づかなければそこにいるのが紫なのか藍なのか確認することはできなかった。

 

 

「もう少し目がよかったら誰か分かったのに」

 

 

 少年は、愚痴をこぼしながら目的地に向かって真っすぐ歩いていく。

 この世界での交通手段は、この標識を使った移動以外を除外した場合、歩行という手段しか残らない。以前にも説明した通り、飛んだり瞬間移動したりすることはできない。

 

 ここでもう一度言っておくが、実際のところ普通の人間の心の中であれば飛ぶことが可能である。

 心の中とは精神の世界、それは―――夢の中の世界によく似ている。願えば叶う、呪えば朽ちる、想い一つでなんでも成し遂げることができるのが精神世界である。

 しかし、少年の心の世界では飛ぶことは叶わない。

 よくよく少年の言っていたことを思い出してほしい、病室での話を思い出してほしい。少年は夢の中で飛ぶことができていなかった。飛べるものならば、少年は何度も夢の中で転落死を体験してなどいない。同じ精神世界である夢の中ですら飛ぶことのできなかった少年は、心の中でも飛ぶことができないのである。

 それは、少年の世界に存在するもの全てに適用される。何も少年だけが飛べないわけではない、現在心の中に入っている藍も紫も、空を飛ぶことはできないだろう。

 そうなっているのは、少年の心の中があくまで現実に接近していることが原因であり、物理現象に逆らうようなことはできないからである。

 そういった意味では、標識が非常に特別な役割を成しているということが分かる。標識は、明確に物理現象を超越しているのだ、夢の中でできなかった瞬間移動という物理法則を無視した現象を引き起こしているのである。

 少年の心の中で行きたいところがあるのであれば、標識で一番近い場所まで移動した後に、歩いていくのがいいだろう。現代でいえば、交通手段がバスだけの状態で移動するような感覚で、バスで最寄りのバス停まで移動した後に歩いて目的地に移動するのが適切である。

 

 

「うん、僕が感じていた違和感は間違っていなかったみたいだね」

 

 

 少年は、目的地に近づいて行くと違和感がどんどん大きくなっているのが感じ取れた。距離が近づくにつれて遠目に何かがあるのが確認できるようになってくる。

 少年は、半分ほど距離を詰めたところで、目に見え始めた目標物に向かって足を一歩一歩進ませていった。

 

 

「誰だろう?」

 

 

 目標地点には、膝を抱えてうずくまった人が一人だけいるのが見えた。

 その人物は、顔をまっすぐ下に向け、膝に埋めるようにしてくっ付けている。一度たりとも顔を上に上げることもなく、呼吸をしているのかどうかですら分からないほどに微動だにしていない。

 少年は、対象の人物の顔が確認できず、それが紫なのか藍なのか判別がつかなかった。

 

 

「やっと見つけた」

 

 

 少年は、さらに半分ほど距離を詰めたところで遠目にはっきりとした人の姿を確認することができた。うずくまっている人物が誰なのか識別した。

 

 

「こっちがこいつの方か」

 

 

 少年が最初に向かったところにいたのは―――藍だった。まだしっかりと確認するまでは断定できないが、少年はその人物が藍であると判断した。

 藍の衣服や帽子はボロボロになっており、雰囲気が廃れ、随分と疲れている様子だった。

 

 

「じゃああっちは、あいつの方だな」

 

 

 少年は、ボロボロの藍を気に留めることなく、悠長に次のことに思考を巡らせる。

 少年は、別に‘藍を’探しに来たわけではない。少年の目的は、‘紫と藍’を探し出すことである。

 少年は、違和感を探してここまで辿り着いただけで、ここにいるのが紫なのか藍なのかは分からなかった。さらに言えば、違和感の原因が二人によるものではなかった場合、見つかっていたのは別のものだっただろう。

 少年は、感じていた違和感が入ってきた二人の存在であることに少しながらの安堵を覚えながら次の目的地である紫のことに気持ちを向け始めていた。

 

 

「こいつを連れてあいつの所にいけばそれで終わりか。これで一件落着だね。先にこいつが見つかってよかった、二度手間にならなくて済む」

 

 

 少年は、藍を見つけたことで少しだけ機嫌を良くした。

 もし最初に少年が探し当てたのが紫であったならば、紫を見つけた後で再び藍を探しに行き、紫のもとに戻らなければならなくなる。

 どうしてそんな面倒なことになるかというと、前提条件として不安要素を排除するために紫を動かさないという制約の下で活動しており、連絡を取る手段がない以上紫を動かすことは叶わないからである。

 そうなれば、紫のところに行く手間が1度分だけ増えて時間がより必要になる。そういった意味では、藍が先に見つかって時間の節約になった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、藍の目の前に辿り着く。藍は少年が接近しても気づいた様子もなく、うずくまったままだった。

 少年は、藍の正面で足を止めて立ち止まり、声をかけることもせず、藍に向かって手を伸ばした。

 少年の手は、うずくまった藍の頭にポンとのせられた。優しくそっと触れるように置かれた。少年の手が乗ったことによって藍の被っているボロボロになった帽子が潰れて中に入っている空気が抜けていく。

 藍は、少年の手が触れた瞬間にビクッと反応した。

 

 

「やっと見つけた」

 

「っ……」

 

「ほら、帰るよ。あいつも待っている」

 

 

 少年がなかなか動き出そうとしない藍に再び声をかけると、藍は少年の声に反応するように僅かに声帯を震わせた。

 藍は、再度にわたる少年の声掛けの後、頭の上に少年の手を置いた状態のまま泣き腫らした顔を上げ、酷くゆがんだ表情を惜しげもなく少年に晒した。

 

 

「ささはらぁ……」

 

「よしよし、もう大丈夫だからな。もう、迷子じゃない、僕がここにいるから一人じゃないよ」

 

 

 少年は、泣き腫らした藍の頭をなでながら優しい言葉をかけた。

 

 

「笹原、笹原あっ!」

 

「ほら、もう大丈夫だから」

 

「ううっ、ささはらぁ……私は、私は……」

 

「ここにいるよ。大丈夫、ここにいるから」

 

 

 藍は、唇をかみしめ流れ出る涙を堪えながら少年の名前を呼ぶ、頭に残っている少年の名を呼ぶ。

 藍は、少年から向けられる優しい言葉に湧き上がる思いを堪え切れず、勢いよく涙を流す。酷くなった顔をさらにぐしゃぐしゃにして泣きだしながら叫び出した。

 少年は、子供のように泣きじゃくる藍をただただ優しい表情で見つめていた。

 

 

「ささはらぁ!」

 

「あ、危ない!」

 

 

 藍は、声をあげながら少年に抱きつく。少年は、いきなり抱き付いてきた藍の勢いに押されて体勢を崩しそうになったものの、必死に藍を支えた。

 藍は少年に力強く縋りつき、迷子の子供が親に出会った時のように泣きじゃくる。少年と藍の身長差は10cm以上あるが、少年は立った状態で藍は膝を折っているために、藍は少年の胸に抱きつく形になっていた。

 

 

「ほら、もう大丈夫だから。何も心配しなくていい、何処にもいったりしないから」

 

 

 少年は、藍から抱きしめられた衝撃に耐えつつ、変わらぬ笑顔を藍へと向ける。

 

 

「ちゃんと帰れるから、ちゃんと連れて行ってやるから」

 

 

 少年は、優しく声をかけながら藍の頭を両手で抱きしめる。全体を包み込むようにして、できるだけ腕を伸ばして藍の頭全体を覆う。

 藍の頭は、すっぽりと少年の胸のなかに収まった。

 少年は、泣きながら抱き付いている藍の様子に過去の自分に想いをはせ、子供のころの自分を懐古する。

 少年は、今でも思い出せる記憶を懐かしみながら藍を抱きしめ返したままの状態で、優しい顔をして優しい声で藍に語りかけ始めた。

 

 

「寂しかったよな。一人でずっと我慢してきたんだもんな。何もない場所で、誰もいない場所で、たった一人で頑張ってきたんだもんな」

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 藍は、少年から優しく諭すように言葉を投げかけられて感情を爆発させる。声を張り上げ、泣き叫び、涙を隠すように、孤独を癒すようにより強く少年に抱き付いた。

 少年は、少しだけ藍を抱きしめる手に力を入れる。しっかりと離さないというように泣きじゃくる藍を抱きしめた。

 

 

「俺が見つけてやったよ。お前はちゃんとここにいる。一人じゃない。もう、一人じゃない。大丈夫だから、大丈夫だからな。もう大丈夫だから」

 

 

 少年は、子供のように大声で泣く藍を抱きしめたまま藍の涙にもらい泣きするように涙を瞳に浮かべていた。

 

 

「大丈夫、大丈夫、大丈夫」

 

 

 少年は、藍が泣き止むまで大丈夫という言葉をかけ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「ぐずっ……ううっ……」

 

 

 少年の胸で泣き続けた藍は、全ての涙を流しきったのか、少年に抱き着いていた腕を緩めてゆっくりと離れた。

 

 

「ありがとう……もう、大丈夫だ」

 

「そっか、それなら良かった」

 

 

 少年は、藍の力が抜けるのを感じて抱きしめている腕の力を抜いた。

 藍は、どこか名残惜しそうにゆっくりと少年と距離をとると、下げていた顔を上げて折っていた足を伸ばす。泣きはらした藍の目元は赤くなっていた。

 少年は藍の顔を見上げる。少年の身長は150cmほどしかなく、藍の身長は少年に比べれば高いため、藍の顔を見るのに軽く見上げる形になった。

 

 

「見苦しいところを見せたな。柄にもなく泣いてしまった……それも、笹原みたいな子供相手に泣いてしまっては面目丸つぶれだな」

 

 

 藍は、先程までの出来事を払しょくするように無理矢理に笑顔を作り、必死の強がりを見せる。しかし、本心としては子供のように泣きじゃくり少年に抱き付いてしまったことが恥ずかしく、穴に入れるなら入りたい気持ちだった。

 藍の恥ずかしさに押しつぶされそうになっている気持ちは、極自然なものである。長年生きた妖怪が若干12歳の少年に抱きしめられながら泣きじゃくるなど、恥ずかし過ぎて死んでしまうほどのことであろう。

 しかし、言いかえればそれだけ辛かったということである。恥ずかしさや体裁を気にしていられないほど、苦しかったということなのである。

 だが、少年の心の中に隠れる場所など存在しない。少年の世界は真っ平らで、逃げる場所などなかった。

 そのうえ藍は、どの道少年から離れることができないのだ。この世界から外に出るためには、少年についてかなければならないのだから。

 藍は、恥ずかしさに暴れ出す感情を必死に抑えながら少年に話しかける。

 

 

「笹原は、こんな私を軽蔑するか?」

 

「気にしなくていいよ。誰にだって弱い時があるからね。特に一人でずっといると心が寒くて弱っちゃうから」

 

「笹原、私は……」

 

「無理に何かを言おうとしなくていいよ。大体分かっているから、ちゃんと分かっているからね」

 

 

 藍から見た少年は、優しそうな雰囲気を保ったままだった。

 藍は、思わず沸き立つ思いを押さえつけ平常心を装う。

 少年の印象は、以前見た少年の印象と全く違った雰囲気で、全てを包み込むような柔らかな雰囲気を持っていた。

 

 

「それに、面目とか気にしている状態じゃなかっただろうし、こんな不気味で何もない場所で独りぼっちになるのは、大分辛いものがあるからね」

 

 

 少年は、あくまで藍に優しく、文句も不平も不満も何一つ言わなかった。

 

 

「むしろ出せるときに出した方がいいよ。無理をし過ぎるといつか壊れてしまうから」

 

「経験があるのか?」

 

「経験があるのかと言われるとどう答えればいいのか分からないけど……」

 

 

 少年はまだ12歳である。にもかかわらず、無理をし過ぎて壊れるようなことを体験しているのだろうか。藍は、すでに経験を持っているような少年の言葉に疑問を持った。

 

 

「なんとなく分かるってだけだよ。心が軋んでいるのに、それに堪えなきゃいけない辛さを知っているだけ」

 

「そうか。笹原も、いろいろあったのだな」

 

 

 少年は、少し答え辛そうにしながらも藍の質問に回答した。

 藍は、泣き腫らした目で少年の目を見つめる。少年は、相変わらず優しい笑顔を作っているだけで、特に雰囲気を変える様子もなかった。

 藍は、少年の優しい表情を見て先程までの出来事を思い返し、少年の胸の中で涙を流した時間を振り返った。

 少年との触れ合いは、壊れた心の隙間を埋めていくような、満たされるような不思議な感覚だった。そして同時に、先程のことを思い出すと少年の顔を直視できず、頬を少しだけ赤く染めて視線を逸らす。

 

 

「っ……」

 

「どうしたの?」

 

「なっ、なんでもないっ……」

 

 

 藍は、恥ずかしそうに慌てて少年の顔から目線を外す。

 少年は、視線をそらした藍を不思議そうに見つめる。藍は、視界の端に表情の変わらない少年の顔を捉えていた。

 

 

「なんで私ばかり、こんな気持ちにならなければならないのだ……」

 

 

 藍は、ドギマギする感覚に戸惑う。同時に、自分がこんな思いをしているのに少年の様子が一切変わらないことに不公平を感じていた。

 先程のような出来事があって、どうしてこうも少年が平常心でいられるのか分からなかった。

 少年は、自身が抱きついても表情を変えず平然としている、自分がこれほどに恥ずかしい思いをしているのに、少年だけが何も思っていないような雰囲気をしている。

 藍は、一方的な想いに留まっている状況が歯がゆくて仕方がなかった。

 

 

「それにしても、その、笹原は……こういうことに慣れているのか?」

 

「?」

 

 

 藍は、頬をわずかに染めたまま少年に視線を向けて恥ずかしそうに口を開いたが、少年はよく分からないといった顔をしていた。

 少年は、藍に抱きしめられたことも慰めたことも何一つ気にしてはいない様子である。

 藍は、察しの悪い少年に顔を赤くしながら説明する。

 

 

「笹原は、私が抱きついても恥ずかしがったりしなかったし、泣いている私に対する対応がすごく慣れているように感じたのだが……」

 

「ああ、そういうことか。何のことはないよ、藍の様子を見ていたら昔の自分を思い出したんだ」

 

「昔の笹原……?」

 

「さっきのは、母親の受け売りなんだよ」

 

 

 少年は、過去を思い返す。小さかった頃に抱きしめられた記憶を、懐かしい暖かさを思い出す。誰よりも優しかった母親のことを想起した。

 少年の表情は、先程の優しい表情と異なり物憂げな表情に変わっている。藍は、初めて表情を変えた少年の顔を見つめた。

 

 

「そう、母さんはいつだって探しに来てくれた」

 

 

 言葉に表すことで苦しんでいた少年を包み込んだ母親の優しさが蘇ってきた。はっきりとした感覚ではないが、確かなものがそこにある。苦しかった時、辛かった時に、包み込んでくれた優しさがそこにはあった。

 少年が藍に対して優しくできたのは、他でもない少年がこれまでに受けた母親の優しさの影響だった。受けた優しさが、少年を優しくさせた。

 

 

「俺が迷子になった時に母親が俺を探してくれて、さっきみたいに抱きしめてくれたんだ」

 

 

 少年は、噛みしめるようにゆっくりと声を発する。何度も何度も感じた温かさを思い返しながら口を開く。

 

 

「あなたはここにいるんだって。どこにもいったりしない。あなたは、ここにいるんだって。教えてくれたんだ。俺を見つけてくれたんだ」

 

 

 少年は、そこまで話すとどこか寂しそうな表情を一転させて子供っぽい表情を作った。

 

 

「俺は、それの真似をしただけだよ。効いただろ?」

 

「思い返してみるとすごく恥ずかしいが、とんでもない効き目だったよ」

 

 

 少年は、少し笑いながら言った。藍は、少年の笑顔につられるように笑う。

 

 

「母親は優しかったのだな。笹原はよい親に恵まれたな」

 

「俺の親だぞ、当たり前だろ。それに'母親は'じゃなくて父親もだよ」

 

 

 藍は、少年の母親について称賛の言葉を贈る。

 昨日の出来事を紫から聞いていない藍は、少年のことを何も知っていない藍は、少年の事情をくみ取ることもせずに、少年の親のことを褒めたたえた。藍の言葉は、少年の両親がすでに死んでいることを知らない、知らないからこそ出た言葉であった。

 少年は、嬉しそうに藍の言葉を真っ直ぐに受け取る、本心から嬉しそうに藍の両親を褒める言葉に反応した。

 少年も両親がすでに死んでいることを伝えることなく、両親について自慢した。それは、単純に伝えても何も変わらないから、話しても雰囲気がよくなるわけでも、誰かが得するわけでもないから。

 勿論、両親が死んでしまったことについて何とも思ってないわけではない。だけど、藍に対して両親が死んでいることを伝えるのは、何かおかしいような気がしたのだ。

 

 

「こんなところで足を止めたまま話をしているのもなんだし、行くよ。道中歩きながらでも話はできるからね」

 

 

 少年は、藍の言葉に訂正をいれたところで周りを見渡し、人差し指で藍を指さす。

 

 

「それにお前は、お前の家に帰らないといけないからな」

 

 

 藍は、指さす少年の指を右手でつかみ、人に向けて指をさすなと言わんばかりに物理的に下ろした。

 

 

「ご、ごめんなさい」

 

「よろしい。だが、私が気になったのはそこだけではないぞ」

 

 

 少年は、藍に対して失礼なことをしたと感づき、申し訳なさそうにする。通常の状態の藍であれば、ここで人に指をさすなと叱るだろう、礼儀知らずだと罵るかもしれない。

 だが、今の藍には、湧き上がってくる怒りなど微塵もなかった。

 

 

「私だけでなく、笹原も一緒に帰るんだからな。私たちの帰る場所は同じなのだから」

 

「あ、そっか。俺も出るんだった」

 

 

 藍は、少年の言葉に微笑みながら話を進める。

 少年は、藍に言われるまで自分が外に出なければならいことを完全に忘れていた。忘れてしまうほどに順応していた。

 普通の人間ならば、こんなあやふやな世界の中で長い時間過ごしたいなど微塵も思わないため、出たいという気持ち一色に染まっているのが普通である。

 少なくとも、ここに留まろうとはしないだろう。一刻も早くこの気持ちの悪い世界から出たいと願い、出たいという気持ちを途切れさせることはないはずである。

 しかし、それは少年には当てはまらない。

 少年は誰よりもこの世界に順応している。少年が外に出ることを忘れるほどにこの世界に適応しているのは、ここが少年自身の心の中の世界であるためだろう。

 少年はこの過酷な状況の中でも、自分の部屋にいるような感覚であり、過ごしやすい環境にいるのである。

 

 

 

「ふふっ。自分のことを忘れていたのか?」

 

「はははっ、完全に忘れていたよ。ずっと探して連れて行くことばかり考えていたから、自分のことを忘れていた」

 

 

 藍は、どこか抜けている少年を笑う。

 藍の心は早くも笑えるぐらいには気持ちが落ち着き始めていた。少年は、笑えるようになった藍を見て思ったよりも精神的に酷くないようだと少しだけ安堵した。

 

 

「そっか、俺も帰るんだな」

 

「そうだ、一緒に帰るのだぞ」

 

 

 少年が自分自身に確認をとるように僅かに呟くと、藍は少年の独り言を拾い上げた。少年は、拾われると思ってなかった言葉に反応してくれた藍に対して嬉しそうに頬を持ち上げる。

 

 

「それじゃあ、行こうか。俺がちゃんと外へ連れていくから」

 

「頼む」

 

 

 藍は、揺らがないしっかりとした表情で少年に答えた。

 少年がやらなければならないことは、単に藍を見つけることだけではない。藍を発見することができたからといってこれで終わりというわけではないのである。藍を心の中から出してやるまでは、終わりではないのだ。

 

 遠足は帰るまでが遠足、そういうことである。

 

 ここは心の中の世界―――現実には体だけが取り残されることだろう。現実に置いてきている3人の体は、動くことなく固まっているはずである。夢を見るように、皆が体を硬直させて固まっているはずである。

 まさかこのまま、少年の心の中の世界でずっと過ごしていくわけにもいかない。精神的に苦しいということもそうであるが、現実の体が壊れてしまえば心も無くなってしまう。

 ここにずっととどまっていれば、現実の肉体が死ぬことによって世界が崩壊し、中にいる3人も死んでしまうことになりかねないのだから。

 



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感覚の違い、約束の契り

 少年は、さっそく紫のいる場所へと進もうと前を向く。視界の先には、無秩序な世界が両手を広げて迎えてくれている。

 少年は、そんな曖昧な自分の世界と向かい合うと同時に口を開いた。

 

 

「あ、そういえば」

 

「どうした?」

 

「はい」

 

「ん?」

 

 

 藍は、進行方向に向けていた体を少年に向け、少年の顔を注視する。前に進むと思われた少年は、藍を見つめながら手を差し出していた。少年の右手がそっと目の前に提示されている。

 これはなんだろうか。藍は少年の行動の意味が分からず、不思議そうな表情を浮かべる。少年は、相変わらずの反応の悪さに自分の行動がやはり間違っているのではないかと不安に駆られた。

 

 

「あいつもそうだったけど、これやっぱり間違っているのかな?」

 

「ま、まさか手を繋ぐのか?」

 

 

 藍は、少年の意図を察しチラチラと手と少年の顔を交互に見つめ、動揺しながら少年になんとか言葉を返した。

 少年は―――手を繋ごうとしているのである。

 藍は、予想外の少年の申し出に顔を赤くする。手を繋ぐなど何年振りだろうか、それも異性を相手に手を繋いだことなどはるか昔にあるかない程度しかなく、心のざわつきを抑えきれなかった。

 

 

「手をつなぐのは嫌?」

 

「むむ……だが、いや……やっぱり」

 

 

 藍は、向けられた掌を見つめながら湧き上がる感情のはざまで迷っていた。

 本心を言えば、少年の手を掴みたかった。少年の申し出は、先程まで一人きりで淋しさに打ち震え、壊れそうになっていた時のことを思い出すと、すぐにでも掴みたくなるほどの甘い誘いである。

 心は、人肌という安心を求めている。藍は、一人じゃないのだという孤独感からの脱却のために、ぜひとも少年の誘いに乗りたかった。

 けれども―――羞恥心が少年と手を繋ぐことを邪魔していた。八雲藍ともあろうものが、不安に打ち震えているからといって子供のように少年の手を繋いでもいいのだろうかという体裁が藍の行動を抑制していたのである。

 

 

「その方が安心できるかなと思ったんだけどね。平気なようには見えるけど……まだ、不安を抱えているように見えたから」

 

「そ、そんなに私は分かりやすいか?」

 

「分かりやすいというか、分かっちゃうというか……まぁ、そんなことはどうでもいいんだよ。何も気にする必要はないさ。不安に思わない方がおかしいんだから」

 

 

 藍は少年の言動を聞いて、自分の心がそこまで分かりやすいのだろうかと、心を見透かされているのではないかと感じていた。

 この意味不明な世界の中でさまよっていた藍は、少年に助けられて持ち直したとはいえ、未だに不安定な気持ちを抱えている。またいつか一人になるのではないかと不安を持っている。抱きしめてもらったとはいえ、今でも体の震えは止まっていない。

 そんな中の、手を繋ごうという申し出である。藍の気持ちから言えば、願ったり叶ったりの提案だった。

 

 

「でも、本当に嫌なら止めておくよ? どうせ、標識まで行ったら繋ぐことになるから今からでも変わらないと思ったんだけど……」

 

「い、嫌とは言っていないぞ!」

 

 

 少年は、悩んでいる様子の藍を見て伸ばした右手を引こうとする。

 藍は、離れていく少年の手を見て不意にとてつもない不安に駆られた。遠くに消えてしまうのではないかと思った。

 藍は、慌てて左手を伸ばし、少年の差し出した右手を左手でがっしりと掴む。

 

 

「温かいな……」

 

 

 少年の手は、少しごつごつとしているようだったが、確かな温かさがそこにはあった。少年の掌から藍の掌へと、掌から全身へと伝わる人肌の温かさに気持ちが休まるのを感じていた。

 手から伝わる温もりとともに不安が体の中から抜けていく。温度が全身を駆け巡り、余分な力が抜けて、目の前がクリアになる。

 藍は、人の温もりがこれほどまでに気持ちを落ちつけてくれるものなのだなと感心しながら手から伝わってくる安心感に頬を緩めた。

 

 

「ん?」

 

 

 藍は、しばらくするとあることに気付いた。少年が一向に動き出そうとしないのである。

 藍は、手を握ったまま動かない少年に目をやり、どうして動かないのだろうと不信感を持った視線を送る。藍から見た少年は、ちょっとばかり表情を歪めていた。

 

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

「そんなに力入れて握らなくても、俺の手は逃げていくわけじゃないから軽くでいいよ」

 

「す、すまないっ!! そ、そのだな、これはちょっとした間違いで」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて慌てて力を抜く。どうやら力加減を間違えて、強く握ってしまっていたようである。

 藍は、恥ずかしそうに下を向き、視線を大きく逸らす。無意識のうちに少年の手を離したくないと思っていたのかもしれないと恥ずかしくなった。

 少年は、コロコロと変わる藍の様子を見て面白いものを見るかのように笑いだす。

 

 

「はははっ」

 

「笑うな!」

 

 

 藍は、少年に馬鹿にされていると感じ、恥ずかしさを打ち消すように声を大にした。それでも繋いでいる手を離すことは無く、緩めた力を少しだけ強めて逃さないように掴んでいる。顔は赤く染めながら不機嫌な顔になっている。

 少年は、藍の矛盾した様子がとても面白く、繋いでいない手を口元にあてがうと怒られているにもかかわらず、反省する様子もなく含み笑いをした。

 

 

「ふふっ、ごめんごめん。ちょっと面白くて」

 

「それ、謝罪になっていないぞ」

 

「こういうときって、どういう謝り方すればいいんだろうね。どうすれば許してくれるのかな?」

 

「笹原、おまえなぁ……」

 

「あ、こんなところで時間潰している場合じゃないね」

 

 

 藍は、先程から少年に振り回されっぱなしになっていた。少年に見つけられて泣いてしまったあの時から少年にペースを握られていた。

 少年には特に藍を意識している様子はないが、藍は泣いているところを見られて、弱い部分を見られて、少年を意識せずにはいられなかった。

 しかも、少年は藍の気持ちを分かっているかのように手を差し伸べてくれている。そんな少年の優しさが嬉しかった。

 藍は、純粋な気持ちで優しくしてくれる少年に強気に出ることができなかった。

 

 

「ここで話しをしていてもいいけど、前に進まなくなるからそろそろ行こうか」

 

「……そうだな。話すのは帰ってからにしよう」

 

「じゃあもう行くよ」

 

「あ、ああ」

 

 

 少年は、藍と一通りのお喋りをすると紫のもとへ行こうと提案し、離れない程度の程よい力で藍の手を握る。

 藍は、少年に手を優しく握られ、心臓を高鳴らせながら少年と同じ力で握り返した。今度は、力強く握ることはなく、適度に力抜いて互いの温度が分かる程度に握った。

 

 

 

「さて、どうやって行こうかな」

 

 

 二人は、手を握り直して前に歩き出す。藍は、少年の歩幅に合わせて隣を歩いている。少年より藍の身長の方が高いために歩幅が大きく、藍の方が少年の歩幅に合わせる形になっていた。

 少年は、迷うことなく先程やってきた標識に向かって歩き出す。400メートルの道を時間が巻き戻るように逆に歩いていく。

 周りには、もちろんのことながら無秩序な世界が広がっていた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、周りの変わり映えのない景色を見て、再び恐怖に駆られた。

 歩き出したことによって嫌がおうにも見たくない景色を視認してしまう。無秩序な世界をずっと彷徨っていたことを思い出してしまう。

 先程までは下を向いていたためにあまり直視していなかったが、目の前には心を折った世界が嫌がらせのように見せつけられていた。

 藍の脳内に、時が逆に巻き戻っていくようにこれまでの経緯がフラッシュバックした。歯がガタガタと震える。手のひらから伝わる温度は温かいのに体が恐怖で冷え込んでいく。

 藍は、今にも泣きそうな震える声で少年に話し始めた。

 

 

「……私は、この世界に最初に来た時、すぐに出口を探したんだ」

 

 

 そう、藍はずっと歩き回ったのである。出口を探して、希望を探して歩き回ったのだ。ありもしない出口を―――ありもしない希望を―――ひたすらに探し回った。

 

 

「でも、何も見つからなかった。出口も、入口も何も見つからなかった。よく分からないことだらけだった。出口なんてものが、あるのかどうかさえも分からなかった」

 

 

 藍は、少年の心の中で必死に出口を探した。出るための方法を模索した。

 しかし、出るための方法など思いつくはずがない。少年の心の中には、そもそも出口が存在しないのだ。出る方法は、考えても見つかるわけがなかった。

 藍は、少年と歩いている間にこれまで少年の心の中で想ったことを吐露する。悲しさと孤独を混ぜ合わせたような、弱々しい今にも泣きだしそうな声で話す。

 

 

「笹原が来るまで、もう現実の世界には帰れないと思っていた。ずっとこのままだと思ったよ……ずっとこのままで、死んでしまうのだと思った……」

 

「ずっとなんて言っているけど、まだ1時間も経っていないよ?」

 

「嘘だっ!」

 

 

 藍は、少年の言葉に驚愕した。

 藍には、確かにはっきりと思い出すことの出来る1年間の量の記憶があった。迷い続けた期間の重苦しく辛い記憶があった。思い出せば、涙が溢れそうになるほど重くのしかかる記憶があった。

 藍は、声を大にして少年に詰め寄る。

 

 

「そんなわけないだろう!?」

 

「そんなこと言われても……」

 

 

 少年には、藍の言葉が大分大げさに聞こえていた。

 藍は、少年と紫がこの世界に入ったよりも先に入っているが、時間にして30分もない差であろう。それならば、藍のところまで少年が辿り着く時間を考慮しても1時間は経っていないはずだった。

 

 

「私はここに少なくとも1年間はいたぞ! ずっと一人で……ぐちゃぐちゃの世界の中でずっと一人だった」

 

 

 藍の瞳からは、溢れ出る記憶と一緒になって涙が溢れ出していく。言葉を発していくごとにこれまでのことを思い出し、辛い想いがとめどなく心の中を流れていた。

 

 

「どこまで行っても世界の端は見えない。力も出せない、空も飛べない、だからずっと歩いて……ずっと歩いた……」

 

 

 藍は、少年の心の中を歩き回った。広大な、膨大な大きさの少年の心の中を自分の足で進んだ。たった一つの願いをもって、たった一つの希望を抱えて進んだ。

 

 

「この世界には、朝も昼も夜もない。私は、ずっと探しまわった。でも何も無かった。何も、無かった……」

 

 

 藍の歩く速度は、気持ちが重くなるのに従ってどんどん遅くなっていく。

 少年は、崩れそうになる藍の手を強く握り、速度が落ちないように手を引く。さっきまでは、藍が少年に合わせて速度を落としていたのに、今は少年が藍の手を引くようにして進んでいた。

 

 

「ううっ……ぐずっ……」

 

「おいおい、また泣くのは止めてくれ。泣くな、泣いてくれるな。大丈夫だから、ちゃんと外に出してあげるから。外に出てから泣けよ。外に出てから泣いてくれ」

 

 

 少年は、まさかの展開に藍を心配する。

 しかし藍は、少年の言葉も虚しく、泣きやむそぶりを見せない。

 少年は、それほどに自分の心の世界が苦しいものなのかと藍から視線を外し、自分の心を見渡した。

 

 

「……気持ち悪い」

 

 

 少年の視界に、無秩序に様変わりする気持ちの悪い世界が広がった。

 

 

 少年の心の中の世界は、それほどに他者の心を揺さぶるものだった。境界が揺らぐこの世界に存在していて、頭がおかしくならない奴はいないのかもしれない。

 少年の心の中に入り込んできた精神の塊は、その境界の無い世界で境界を失って死んでしまうことだってあるだろう。

 それほどに少年の心の中は、他者の精神に影響を与えるのだ。それこそ、普通の人間だったならば1週間と経たずに人生が終わってしまっているかもしれない、移りゆく環境に心がついて行けず、終わってしまっていたかもしれないのである。

 

 

 

「ここで1年間か……そりゃそうなるよな」

 

 

 少年は、自分の心の中を見つめたまま寂しそうな表情で呟く。

 藍は、どうやらそんな世界に一人きりで1年間もの間いたというのである。それを考えれば、本人が言うように柄にもなく泣いてしまうのは仕方ないと思えた。

 

 

「でも、もう大丈夫だって。俺がちゃんと連れていってやるから、な?」

 

「すんっ……ぐずっ……」

 

「何をすれば、泣き止んでくれるの?」

 

 

 少年は、再び泣きだす藍に対して成す術もなかった。何をしていいのか分からなかった。今も昔も泣いた時に対処されたことといえば、抱きしめて優しく言葉をかけられたことしかない。

 ならば、再び藍を抱きしめてあげればいいのかもしれないが、少年は再び藍を抱きしめることはしなかった。

 やっと歩き始めたのだ、出口に向けて歩いている最中でそんなことをしたくなかった。せっかく歩き出したのに、再び止まるのは嫌だったのである。

 泣く度に抱きしめて慰めていたのでは、紫の下へとたどり着くまでにどれほどの時間がかかることになるのか想像もできない。紫がじっと待っている保証などどこにもないのだから、たびたび止まるような状況に陥ることだけは避けたかった。

 

 

「行くよ? あんまり時間をかけていられないんだから」

 

「すんっ……うぅ……」

 

「…………」

 

 

 少年は、次の目的地となる紫がいる場所を見定め、ある程度藍に声をかけると無視を決め込もうとしていた。

 だが、どうしても泣いている藍が気になるようでチラチラと目を配る。

 少年は、見てられないといった様子で、優しい口調で再び話しかけた。

 

 

「今は、泣くのは止めよう。前を見ろよ。泣くのは終わってから。泣くのは全部終わってからだよ」

 

「っ……す、すまない……また、取り乱してしまった」

 

 

 藍は、諭すような少年の言葉に慌てて顔を上げ、気持ちを切り替えて、頬を伝い流れる涙を袖で拭った。

 

 

「そうだな、笹原の言う通りだ。今はどうやってここから出るかの方が大事なのだからな」

 

「お前の話だと、どうやらこの世界は人によって進む時間が違うみたいだね」

 

 

 少年は、安定を取り戻そうとしている藍の様子にひとまず安心すると藍の話から自分の心の中の性質について考察した。

 

 

「少なくとも俺は、普通の時間を過ごしていると思う。お前を探すのにそれほど時間もかかっていないし、1時間も経っていないという認識にそんな極端な違いはないはずだよ」

 

 

 少年は、自分の心の中では人によって時間の進み方が違うのだと考えていた。少年の感覚的には、藍を見つけるまでに1時間も時間をかけてはいない。それなりに時間はかかったが、少なくとも1年などという途方もない時間を過ごしてはいないと断言できる。

 しかし、藍は1年間を少年の心の中で過ごしたと言っている。藍の話を聞いていると1年間という数字は、あながちウソではないのだと窺い知れる。藍のボロボロになっている衣服を見ても、年月の経過具合が見て取れる。

 少年は、藍が再び泣きださないように言葉を選ぶ。

 

 

「とりあえず……お前は心配しなくていい。これからは俺がいるから大丈夫。心配しなくてもちゃんと外に連れて行くから」

 

「その、私のこと、名前で呼んでくれないか? 紫様と話していた時も言おうと思っていたのだが、人の名前はちゃんと呼ぶべきだと思うぞ」

 

「あー、うん……」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて気がかりなことがあった。思い返してみれば、これまで少年が二人のことを名前で呼んだことはない。自己紹介後も一切名前で呼んでいなかった。

 

 

「俺もそう思う。人の名前は間違えちゃいけないし、その人の名前を呼んであげる。そうしたいんだけど……」

 

「なんだ? なにか問題でもあるのか? 恥ずかしいとかだったら、気にしなくていいぞ。少なくとも私は笹原に名前を呼ばれて嫌な顔をしたりはしないからな」

 

 

 藍は少年の反応を伺う。

 少年は藍の言葉に唸りながら頭をひねり、どう言えばいいのか分からず言い辛そうにしていた。

 

 

 

「だけど、んー……」

 

「何を悩んでいるのだ? 名前を呼ぶだけだろう?」

 

 

 藍は、笑顔を作って隣にいる少年に語りかけた。

 藍は、少年が何に悩んでいるのか分からなかった。名前を呼ぶという行為に悩むことろなど何もない。相手を認識し、相手の固有名詞で呼ぶだけなのだから、難しいところなど何もないはずだった。

 

 

「私は笹原に名前で呼んでほしいのだ。私だけが笹原の名前を呼んでいるのは、不公平だろう?」

 

「それは、そうだね……」

 

 

 藍は、優しくしてくれる、助けてくれた少年に対して心を開き始めており、ある程度心を寄せている。それなのにもかかわらず、少年は藍に向かってお前という言葉を使っている。自分だけが少年のことを名前で呼んでいると、名前を呼んでいるだけなのに余りに一方的で、壁を感じていた。どこか疎外感を覚えて気分が良くなかった。

 少年のお前という言葉には距離感を感じるのである。少年が自分を避けているのではないかと、心の距離が遠いように感じていた。

 

 

「もしかして……私のことが嫌いなのか? どこかで私が何か嫌いになるようなことをしてしまったのだろうか?」

 

「そうじゃないよ」

 

 

 これまで曖昧な返事しか返さなかった少年は、嫌いなのかという質問に対してははっきりと否定する意見を述べた。

 少年は、決してそういう好きとか、嫌いとかで名前を呼ぶことを渋ったわけではなかった。

 

 

「気持ちはすごく嬉しいんだけど。嫌だとか、良いとか、そういう問題じゃないんだ」

 

「話せないことなのか?」

 

「明日にはちゃんと名前で呼ぶから、それで勘弁してもらえないかな?」

 

 

 少年は、目的地に向いていた顔を藍の方向へ向けてはにかみながらばつが悪そうに言った。少年には、どうも藍の事を名前で呼べない理由があるらしい。

 

 

「今日はちょっと……ごめんなさい……」

 

「そんな顔をするな。私が笹原を責めているみたいじゃないか」

 

「ごめんなさい」

 

 

 少年は、申し訳なさそうに小さな声で言う。

 藍は、どうにも納得することができなかったが、少年の様子が藍の追及を許さなかった。深追いすれば、それこそ信頼関係が壊われそうな雰囲気だった。

 

 

「何か理由があるのだろう?」

 

「うん……」

 

「名前を呼べない理由を教えてはくれないのか」

 

「……教えるのはちょっと無理かな」

 

 

 名前を呼べない理由なんて存在するのだろうか。藍には、何一つ心当たりや理由となる原因、一切の回答が思いつかなかった。

 しかし、少年は明日には名前で呼んでくれると言っている。別に藍を名前で呼ぶことに関して呼びたくないというような負の感情を抱いているわけではないようである。

 藍は、特に大きな理由は無いのだろうと判断して少年の明日には呼ぶという妥協案に乗った。

 

 

「謝るな、明日からは名前で呼んでくれるのだろう? なら明日まで待つさ。私は先に呼ばせてもらうけどな、和友」

 

「あ、名前を呼ぶって下の名前だったの?」

 

「当然だろう?」

 

 

 藍が少年を下の名前を呼ぶと、少年は藍の言葉に意外そうに口を開いた。

 少年は名字の方で呼ぶと思っていた。少年がまだ小学生であれば、名前で呼ぶと思ったのかもしれないが、少年は中学生である。平常生活するうえでは名字で呼ぶのが一般的である中学生では、そう思っていてもしょうがないのかもしれなかった。

 

 

「名字の方じゃ私と紫様で被るだろう? 私のことは藍と呼んでくれ、約束だぞ」

 

「了解しました。約束します。また明日ね」

 

「楽しみにしている」

 

 

 藍は、期待を込めて少年に告げ、嬉しそうな表情で少年を見つめる。少年は、藍の明るい表情につられるように微笑んだ。

 

 

 

 

 二人は、手を繋ぎながら標識まで着くまでの間、ずっとたわいもない話をしながら歩いた。紫と会ったときどんなことを話したのかとか、幻想郷での暮らしがどうとか、友達は多かったのか、とかそんな他愛もない話しをしながら前に進んで行く。

 

 

「紫様のいる所までは、ここからどのぐらいで着くんだ?」

 

「うーん、そうだなぁ……目算だけど、20分もかからないと思うよ」

 

 

 紫の居る場所まで、後もう少しである。



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標識の存在、思い出した罪

心の中から帰還します。


 少年と藍の二人は、約400メートルの距離を歩いて標識まで辿り着いた。

 

 

 二人の目の前には、先程少年が藍の所までやってきた時に使った標識がある。

 標識の前にやってきた少年は、藍の手によって塞がっている右手を離すことなく、空いている左手で標識に触れた。

 

 

「じゃあ、標識まで来たし、あいつの所まで移動するかな」

 

「あいつ?」

 

 

 藍は、少年が言っているあいつという人物が一瞬誰のことなのか分からず疑問を口にした。

 少年は、困った表情で藍を見つめる。どうやら、あいつと言っている人物の名前が頭から出てこないようで頭を悩ませているようである。

 

 

「…………あいつだよ」

 

「ああ、紫様のことか」

 

「そう、そいつのところ」

 

 

 少年は、藍の言葉に困った表情を一転させて頷く。幻想郷で少年が知っている名前など、藍を除けば一人しかいない。少年の反応を見るにあいつというのは、紫のことで間違いなかったようである。

 

 

「多分、向こうにいると思う」

 

「今和友が指さしている方向に紫様がいらっしゃる、ということでいいんだよな?」

 

「そうだね。はっきりとしたことは言えないけど」

 

 

 少年は一度標識から左手を離し、ある決まった方角を指差している。

 藍は、少年の指差した方角に視線を向けた。視線の先には、何一つ何かがあるようには見えない。あるのは、動き続ける人と建物、境界線だけである。

 だが、少年はどこかを確実に指さしている。

 どこかと表現するしかないのは、この世界に方角が存在しないためである。

 この世界には、東西南北を示すものは何一つないのだ。右もなければ左もない、前後もない。太陽は昇らないし、磁場があるわけでもない。ただ、上下はある、重力もある。

 ここは、少年の心の中の世界なのである。現実のものと似かよっている部分があるといっても、地球とは全く違う法則で回っている世界だった。

 

 

「見えないな……」

 

 

 少年は、揺らいでいる世界の中で揺るがない方角を指差している。どこか確信を持って指さしている。

 藍は、少年の指差している方角により注意を払ったが、人影どころか何かがある様子すらも確認することができなかった。

 

 

「俺にだって見えているわけじゃないよ」

 

「ならばどうして分かるのだ? 私には、どこに何があるとかさっぱりなのだが……」

 

「ここ、一応俺の心の中の世界だからさ。違和感ぐらいはなんとか分かるんだ。遠すぎて分かりにくいんだけど、なんとか感じ取れる」

 

 

 少年は、この世界が自分の心の中だとはっきりと答えた。

 藍は、少年の言葉に耳を疑う。この無秩序な世界が少年の心の中の世界だという事を初めて聞いて、固まってしまった。

 藍は、この心を折られそうになった世界が少年の心の中であるということを信じられなかった。少年の言葉に衝撃を受け、この意味不明な、無秩序な世界が少年の心の中だという事実に思考を凍結させられた。

 少年は、固まる藍の思考を置き去りにして話を進める。

 

 

「そこに何があるか、それがどんなものなのか、そういった細かいところまでは分からないけどね」

 

「ここが、和友の心の中……」

 

 

 藍は、これまで少年に話してきた自分の言動を思い出す。この意味不明で無秩序な世界が少年の心の中だというのであれば、先程までの自分の言動は少年の心の中を色々と罵倒していたことになる。

 藍は、知らず知らずのうちに少年を傷つけていたのかもしれないと、慌てて言葉を取り繕うように少年の心の中について擁護し始めた。

 

 

「そ、その、和友の心の中は随分と個性的な世界だな」

 

「個性的かぁ……」

 

「人の心の中は、こんなに秩序の無い世界なのか」

 

「んーどうだろうね。でも、間違いなく言えるのは―――俺の心は、こうなっているということだけだよ」

 

 

 少年は、自分の心の中の様子に対して悩む様子を見せる。

 藍は、自分が口にした暴言のような言葉に少年が傷ついているのか測りかねていた。これまで藍が吐き出してきた暴言の数々は、今更撤回することなどできない。無自覚に口にしていた言葉が本心であることは、誰の目から見ても明らかなのだ。少年もそう感じていてもおかしくなかった。

 

 

「本当に、なんでなんだろう?」

 

「和友、これまで私が言っていたことは気にする必要はないぞ? 何も聞かなかったことにしてくれればいいからな」

 

 

 藍は、少年からの印象を気にして優しい言葉を使う。

 藍は、一般的な人間の心の中というのが目の前に広がる無秩序な世界であると、普通の人間の心の中も今いる世界と同じように無秩序な世界が広がっているものだと、自身に都合のいいように、自分が望むように勝手に解釈した。

 

 

「ふふっ、そんなに気を遣わなくてもいいよ。それこそ、この世界のことを個性的だなんて無理に悪く言わずに表現しなくても。俺は、俺自身がこの世界をおかしいと思っているからさ」

 

 

 少年は、無理矢理言いくるめているような藍の発言に苦笑し、どこか悲しそうな表情で自分の心の中をおかしいと表現した。

 

 

「それに他の人の心の中がどうなっているのかについては、どうなんだろうね。俺は、俺以外の心の中を覗いたことがないから……でも、俺の中は普通の人とは違うと思う。あいつには言ったけどさ、みんな俺のような心の中をしていたら気持ちが悪いよ」

 

 

 少年は、自信を現すようにはっきりと告げる、自分の心の中の気持ち悪さについて何一つ気にすることなく、悪口をぶつける。自分の心のことなのに―――悪口を言う。

 

 

「もし、そんな奴がいるんだとしたら……会った瞬間に分かるはずだから」

 

 

 少年は、普通の人間の心の中を見たことが無くても他の人の心の中が自分の心の中と異なっているという確信があった、絶対に違うという自信があった。

 少年は、ある悩みを抱えている。心の中の様子がその少年の悩みを具現している。広すぎる心、無秩序な心が少年の悩みを表現していた。

 もしも、自分の心の中と普通の人の心の中が同様の構造をしているのならば、きっと普通の人も少年と同じような悩みを抱えているに違いなかった。

 しかし、少年は自分と同じ悩みを持っている人間を見たことがなかった。それに、同じ悩みを抱えている人間がいるとも思っていなかった。

 なぜならば、いたとしたらそれは―――会った瞬間気付くはずだから。

 出会った瞬間に―――分かるはずだから。

 きっと、そうなるはずだから。

 

 

「和友……」

 

「ああ、これも気にしないで。俺は別に気にしていないから」

 

 

 藍は、自虐する少年をどこか悲しい目で見つめていた。傷心しているように見える少年に向けて慰めや励ましの言葉を送ろうとしたが、いくら思考を巡らせても、考えを深めても、言葉は見つかず、のどに詰まって言葉が出てこなかった。

 

 

(きっと何かが和友の心を無秩序に変えたのだ……)

 

 

 少年は心の中の様子を気にしないでと言うが、藍は気になって仕方がなかった。特に原因もなく、心の中が無秩序な膨大な世界になるとは考えにくい。

 藍は、少年が自分から望んでこんな世界に成ったのではない、きっと何か事情があるのだと思った。

 

 

(私がこれから和友の心を変えていけるような何かができれば……この世界も変わるのだろうか?)

 

 

 藍は少年にもらった恩を返すために、いずれその原因を取り除くことができればと、小さな目標を自身の中に作る。

 

 

「こう、実際に見てしまうと実感しちゃうなぁ。変わらない、変わっていない。何も、変わることができない」

 

 

 少年は、藍の視線を全く気にせず、軽く上を向いてぼそぼそと呟いている。空さえも歪んでいる世界で空を仰いで感傷に浸っている。

 

 

「そんな―――変わらないものはどうでもいいんだ。今やるべきことは、別にあるんだもんね」

 

 

 少年は、言葉通り心の底から自分の心に関して深く気にしていなかった。少年にとって大事なのは、どうにもならない過去ではなく、どうにかなる未来なのである。

 少年は、空を見上げながらこれから向かうべき紫のいる目的地にたどり着くための道筋を立てていた。

 

 

「あっ、そっか。そういうことも考えられるのか、どうしよう……」

 

 

 少年は、唐突に標識にずっと触れていた左手を下ろし、複雑な表情で何かを考えているしぐさをする。

 藍は、少年の様子が気になり、質問を投げかけた。

 

 

「どうした? 何かあったか?」

 

「話していて思ったんだけど、ここで好き放題されたらどうしようもなくなるまで俺は分からないかもしれないね。何か対策がいるかもしれない……」

 

 

 少年は、藍からの心の中についての質問であることに気が付き、頭を悩ませた。自身の心の特徴である広大な世界の問題についての課題を発見したのである。

 もしも、心の中に入ってくる人物がいた場合にこれだけ広大な場所だと現場まで行くのに時間がかかるのはもちろんのこと、何かをされているのかどうかにすら気付かない可能性がある。

 少年は、知らず知らずのうちに心の中を荒らされる可能性を危惧していた。

 

 

「そのような対策をする必要はないと思うぞ?」

 

 

 藍は、少年の心配が徒労であり、酷く無駄のように思えた。少年の心配事の内容は、心の中に入ることができる人物が往々に存在するときに成立するものだからである。

 

 

「心の中に入るなんて悪趣味なことするのは紫様をもって他にはいないだろうからな」

 

「そっか、なら大丈夫かな……?」

 

「うん、うん。大丈夫だ、心配いらないさ」

 

 

 少年の心配は、はっきり言って杞憂である。心の中に入ることができる人物は、主に紫以外に存在しないのだから、心配するだけ無駄なのである。

 少年が藍に言われて険しい表情を少しだけ緩ませると、藍は少年の反応に満足するように2度頷いた。自分の意見を受け入れ、納得してくれたのだと満たされたような気持ちになった。

 しかし、少年は、時を巻き戻したかのように再び表情を硬くして小さく呟き、心配する。

 

 

「でも、ちょっと心配だな」

 

「和友は、心配し過ぎだ。何も心配することなんてない。紫様には、私から言っておくからな」

 

「でも……」

 

「もっと肩の力抜け。気を遣いすぎると疲れるぞ?」

 

 

 

 藍に何度言われても少年の表情は変わらない。藍は、少年が思いのほか心配性なのだと知った。これも少年の新しい一面である。少年は、藍から何度大丈夫だと言われても納得することができないようだった。

 確かに心を荒らされる可能性は、非常に低いものだろう。

 けれども、確率の低さと相対するように荒らされた時の被害は甚大になる。

 少年は、万が一のことを考えると気が気ではなかった。

 

 

「力を抜きたいのは山々だけど、心の中って大切なものが山ほどあるじゃないか。どうしても気になっちゃうんだよ。お前だって、心の中を荒らされたら嫌だろう?」

 

「心を荒らされる、か……」

 

 

 藍は、主である紫が心の中に入り込み、心の中を荒らしていくのを想像する。想像するのは難しいと思っていたが、笑顔のまま大事なものを蹴散らしていく主人の顔が容易に想像できた。

 藍は、紫が心の中を荒らしている様子を想像しただけで、あまりの恐ろしさに身の毛がよだち、思わず気持ち悪くなって顔が若干青ざめた。

 

 

「それは、そうだな……」

 

 

 藍は、沸き立つ恐怖を押し殺して口を開いた。

 だが、恐ろしいとしても、不安だとしても、杞憂には違いない。

 藍は、少年の気持ちを楽にさせるために言葉を投げかける。

 

 

「でも、気にしすぎも辛いだろう? 気を張り続けているといつか切れてしまう。心配事や不安は、心に対する毒にしかならないからな」

 

「俺は、大丈夫だよ」

 

「なんでそうもはっきりと……」

 

 

 少年は、藍の心配する言葉に自分には関係のないことだと言わんばかりに、はっきりと即答した。

 藍は、どこにそんな自信があるのかと少年に聞くために口を開こうとしたところで少年の屈託のない純粋な笑顔が視界に入った。

 

 

「でも、俺のことを心配してくれるんだね、ありがとう」

 

「あ、ああ」

 

 

 少年は、とても嬉しそうにしながら藍が声を発するよりも先に告げた。少年の心のこもったお礼は、藍の心の中にまっすぐ入り込み、なだれ込んで来た。

 藍は、あまりに純粋な少年の気持ちを直視できずに頬を赤く染めて顔を背ける。ついさっき言おうとしていたことも忘れて、心の鼓動を抑え切れずに目を逸らした。

 

 

「ふふっ、何でお前が恥ずかしがるんだよ」

 

「も、もしかして私をからかっていたのかっ!?」

 

 

 少年は、あまりにぶっきらぼうな藍の反応に笑う。自分が原因で藍が恥ずかしがっているなど思いもせず、屈託なく笑った。

 

 

「からかっているつもりはなかったんだ。俺は、ただ思ったままを言っただけだったのに、返ってきたお前の反応が面白くてさ、ふふっ、はははっ」

 

「そ、それは、和友があんなことを言うのが悪いのだ!」

 

 

 藍は、少年の表情に自分が遊ばれていたのかと声を大にした。少年は、動揺する藍を見てさらにおもしそうに笑う。屈託のない笑顔を浮かべる。

 藍は、不機嫌な表情になり少年に詰め寄る。少年は、距離を詰める藍を避けることもなく、笑いながら手を標識へと掛けた。

 

 

「はははっ、俺のせいか、俺のせいね。ふふっ、それでもいいや。今度から気をつけるよ。ふふっ」

 

「笑うなっ!!」

 

 

 藍はしっかりとした反論の言葉が出てこず、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま少年にぶつける、反論の形にもなっていない思ったままの言葉を、偽りのない言葉を送った。

 少年は、子供のような藍の言動にさらに笑みを深めた。

 

 

 

 

 

 少年と藍は、面白おかしく話をしながら前へと進んでいった。紫の第一印象や、幻想郷についてなど、これから共通の認識をするであろう事柄を話題として使いながら歩みを進めた。

 

 

「初めて来た幻想郷はどうだった?」

 

「初めて幻想郷に来たときは本当に驚いたよ。緑がいっぱいで、空が青くて、綺麗だった」

 

「そうだろう! 幻想郷は、紫様が崇高な願いのもとに作り出した妖怪の楽園なのだ! 幻想郷にはさまざまな種類の妖怪がいて、人間とうまく共生している。それにな……」

 

 

 藍は、1年ぶりに人と話ができて心を躍らせ、時間を忘れていた。少年も嬉しそうに話す藍につられて笑顔を作る。

 

 

「幻想郷は、あいつの願いから生まれたんだね。妖怪と人間が共生する世界……夢のような話に聞こえるけど」

 

「それでも紫様は成し遂げた。本当にすごいお方だよ。しかしだな……紫様には、優れた点もさながら、悪い点もあってだな」

 

 

 少年は、藍の話題にしっかりとついてくる、楽しそうに笑顔を浮かべて受け答えをする。

 藍は、にこやかに話に答えてくれる少年に、口を軽くした。思わず主である紫の悪口を言ってしまうほどに、少年に心を許していた。

 

 もう―――どのぐらい進んだだろうか。すでに数十分は経っているだろう。二人は、標識を使って次々移動していた。

 藍は、少年と手を繋いだまま目の前で移り変わる標識を見つめる。

 何かを忘れている。藍の頭の中で何かが引っかかっていた。標識という存在に何かしらの身に覚えがあった。

 

 

「何か、忘れている気がする……」

 

 

 藍は食い入るように標識に視線を集め、少年の心の中に刺さっている標識の性質について思考を巡らせる。

 けれども―――結局引っかかっている物が何だったのかこの時は思い出せなかった。

 思い出せたのはおおよそ十数個の標識を使い移動した時のことである。まだ目的地にたどり着くには若干の距離があり、後数回は標識による移動をしなければならない状況の時だった。

 藍は、少年に向けて唐突に口を開いた。

 

 

「すごいな、標識はこうやって移動するのに使うのか」

 

「その通りだよ。標識は移動に使うというより、目印に使うという方が正しいけどね。俺、標識の位置と立て札の位置は完璧に分かるから」

 

 

 藍は、少年の心の中にある標識の性質を把握した。標識は、移動に使う座標を特定する物、それが藍の中の標識の認識になった。

 標識には文字が書かれており、それぞれが違う標識であることを示している。これによって場所と位置を正確に把握することができるのだろう。

 藍は、標識についての情報を集めるとともに、握っている手についても憶測を立てた。

 藍は、自身の優秀な思考が導き出した答えがほんのり間違っていて欲しいと思いながらも少年に問いかけた。

 

 

「手を繋いでいるのは、一緒に移動するためという認識で間違いないか?」

 

「それで間違っていないと思う。おそらく触れていないと一緒に飛ぶことは難しいんじゃないかな。あいつとは手を繋いでいないせいで離れ離れになったんだと思うし」

 

「そうか……」

 

 

 藍は、少年の答えに残念そうに呟いた。

 頭の片隅では、少年が優しさから自分を気遣って手を伸ばしてくれたのではないかと淡い期待を持っていた、自分のために手を差し出してくれたのだと思いたい気持ちもあったが、残念ながら現実にはそんなことはなかったようである。

 期待は、少年の一言で泡となって消えた。

 藍は期待を裏切られ、少しだけ気持ちを落とした。

 

 

「どうしたの? また気分でも悪くなった?」

 

「いいや、なんでもない。私は大丈夫だ」

 

「そっか、それならよかった」

 

 

 少年は、藍からの返事に心の底から安心するようにほっと一息ついた。

 少年は、自分の心のせいで藍が気分を悪くしているのではないかと気を遣い、気落ちする藍の様子を心配していた。

 

 

(なにを和友に心配させているんだ……気持ちを切り替えないと)

 

 

 少年に心配をかけさせてはいけない。藍は、心配して覗き込んで来る少年の顔を見つめ、少年に気を遣わせてしまっている今を憂い、首を横に振って沈んだ気持ちを切り替える。大きく息を吐いて先程までの楽しい雰囲気を作ろうと話題を投げかけた。

 

 

「和友、私には先程から気になっていることがあるのだが、質問しても構わないだろうか?」

 

「ふふっ、いきなり他人行儀になったね。俺の方が圧倒的に年下だろうし、しゃべりやすいしゃべりかたで話してくれていいよ」

 

「その、これはだな」

 

 

 藍は、少年の鋭い指摘に少年への対応が急変していることに気付き、再び動揺する。どうやら少年を心配させてしまったことで意識してしまい、言葉遣いが変化してしまったようである。

 

 

「まだ、和友にどう接していいのか分からないのだ」

 

「自然なままでいいんだよ。一番楽な状態で話してくれればいいさ」

 

 

 少年は、何処にも力が入っていない状態で話して欲しいと藍に告げた。

 無駄に気を遣われてしまうと自らも気を遣ってしまう、そんな関係は疲れるだけだ。少年は、藍と力の入っている関係を作りたくはなかった。

 

 

「質問については、俺が答えられることならなんでもいいから、何でも聞いてね」

 

「……それでは、和友の言葉に甘えさせてもらうぞ。標識に書いてある文字にも意味があったりするのか? この新垣努(あらがきつとむ)と書いてあるのも意味があると……」

 

 

 少年が藍の申し出を快く受け入れると、藍は少年の一言で一呼吸入れ、先程から空回りしてばかりの心を落ち着け、少年に聞きたかった事柄について尋ねた。

 

 藍は、標識に書かれている文字について疑問を持っていた。幻想郷において看板があるとすれば、基本的に場所の地名や向いている方角などの位置情報が書かれている。

 しかし、少年の心の中にある標識には、番号や記号が書かれているわけではなく、人の名前や物の名前のようなものが書かれており、場所を指し示すような言葉は一切書かれていなかった。

 ともすれば、人の名前や物の名前が場所を指し示す言葉ということになるのだが、藍はどうして少年がこのような言葉を標識の識別に使っているのか疑問だった。

 

 

「それは、友達の名前だよ」

 

「ああ、そういうことか。毎日聞いたりする言葉なら覚えやすいな。特徴とかもあるだろうし、場所と人を関連づけて覚えれば効率がよさそうだ」

 

 

 少年は、少し気になる程度に間を空けて藍の質問に対して答えた。

 藍は少年の言葉に納得し、なるほどと頷く。友達というのは、一人一人違う個性を持っており違いが分かりやすい、場所と友達の特徴を関連付けることで記憶することは飛躍的に容易になるだろう。

 藍は、標識を識別するために友達の名前を入れるという斬新な考えに、驚きと感嘆の感情を抱いた。

 そういうことだったのか―――藍は、無秩序な世界の中で思いの他効率化された標識に意識を集中する。興味深げに穴があくほどに見てさするようにして触った。

 

 

「この感触……」

 

 

 藍は、標識を触っている途中でどこか懐かしさを覚えた。先程引っかかっていた部分に直撃する違和感である。

 

 

「私は……標識に触ったことがある……?」

 

 

 藍は、誰にも聞こえないほど小さい声で何かを確かめるように標識を触りながら記憶を探し回り、特定の情報を探る。そして、しばらくすると唐突に手の動きを止めた、喉に引っかかっていた棘が何なのか把握して固まった。

 

 

「…………」

 

「どうしたの? なんかあった? 標識に不備でも見つかった?」

 

 

 少年は、時間が止まったように動きを止めた藍に向かって疑問を口にした。

 藍は、少年に話しかけられて少年の方向に視線を移す。少年を見る藍の眼は酷く泳いでおり、心なしか手も震えているように見えた。

 少年は、不思議そうに藍を見つめている。藍は、おどおどと手を震わせながら少年から視線をそらし、後ろめたそうに口を開いた。

 

 

「ち、ちなみになのだが……この、ところどころにある標識とか立て札って大事なものだったりするのか?」

 

「当たり前だろ。これがないとこの世界で移動ができないし、迷うことになる」

 

 

 少年は、藍の標識と立て札という単語の入った言葉を聞いて目を見開いた。

 藍は、やはりそうかと申し訳なさそうな顔をする。少年は、そんな表情をコロコロと変える藍を見ていて嫌な予感がした。

 

 

「ねぇ、分かっていないようだから今はっきり言っておくけど」

 

「っ……」

 

 

 少年が真面目な顔をして藍に詰め寄ると、藍は急に近づいた少年の顔に圧迫感を覚え、少しばかり後ずさる。

 

 

「……はぁ、大事なことだから良く聞いてよ」

 

 

 少年は、まずいといった表情をしている藍が何をしたのかすぐに察し、ため息をついた。藍のしたことは、おそらく自分にとってとても大事で、とても重要なことで、とても問題になることだ。

 しかし、まだ本当に何かをやらかしてしまったのか確証が得られていない。本当のことは、藍から事実を聞くまでは分からない。

 少年は、自分の中の予測を藍に叩き付けるようには言わず、会話の中にさりげなく織り交ぜて話を進め始めた。

 

 

「標識は、大事な大事な地図みたいなものなんだよ。それに立て札はもっと重要だ。あれはこの世界の楔みたいなものだからね。標識も立て札も、誤っても壊してくれるなよ」

 

「あっ、あのだな……」

 

 

 少年は、真剣な表情で藍に話し、標識と立札の重要性を伝えた。標識の重要性については、藍も理解しているところである。藍は、少年が標識に書かれている内容によって心の中の世界の位置を確かめているのを何度も見ている。

 

 

「ねぇ、顔色悪いよ?」

 

「…………」

 

「やっぱり、もしかして……」

 

 

 藍の額には、冷や汗が浮かんでいた。

 少年は、藍の様子から先程立てた予測が当たっているような気がして、内心動揺していた。

 藍は、言い難そうに口を開いたり閉じたりしている。何かを言おうと口を開くものの、言葉が出てこず、必死に言葉を吐き出そうと声を出そうとしている。

 少年は、何かを悟ったように悲しそうに藍を見つめながら取り返しのつかない状況になっていることに気持ちを揺らしていた。藍は、悲しそうな表情をしている少年を見ると余計に言葉が出てこなくなった。

 しかし、だからといって話さないという選択肢を選べるほど、藍は不誠実でもなかった。

 

 

「すまないっ!! 標識を二つ壊した!」

 

「あ!? 壊しただって!?」

 

「うっ……」

 

 

 藍は、とても潔い性格をしていた。謝ることを躊躇することなく、悪いことをしたと頭を下げて事実を露見させている。

 少年は、予測していた最悪の状況が当たり、怒りを内に秘めたが、藍の潔さに湧き上がっていた怒りを少しだけ抑えた。

 しかし、ここでちゃんと藍に向けて怒らないと今後が心配になる。何もしてもいいのだと勘違いをされると問題である。

 少年は、怒りを少しだけ抑えた状態で藍に向けて声を荒げた。

 

「本当に壊したのか!?」

 

 

 少年が怒ると同時に放たれている威圧感が一気に上昇する。

 藍は、少年の怒りの言葉にビクッと震え、少年から放出されている威圧感に先程下がった位置からさらに後ずさった。

 

 

「逃げるな!」

 

 

 少年は、離れようとする藍を繋いである右手を引くことで逃がさないと言わんばかりに藍の体を近づける。少年と藍の距離は、一気に縮まり、体と体がぶつかるほどに近づいた。

 

 

「こっちを見ろ!」

 

「っ……」

 

 

 藍は、少年に引き寄せられて怯えながらも少年の瞳を見つめる。少年の瞳には激しい怒りの炎が宿っており、酷く逃げたい衝動に駆られた。

 藍は、何とか縮まった距離を離そうと力を入れる。

 だが、少年の体にくっつきそうになっている自身の体を離すことができない。少年は、決して藍を逃がそうとはしなかった。

 

 

「和友……」

 

 

 再び藍が恐る恐る少年の顔を確認すると、やはり少年はかなり怒っている様子だった。藍は、少年をチラチラと見て困った表情を浮かべる。

 少年に手を離してくれる様子はない。藍は逃げられない状況に陥って目線を泳がせる。実際のところ自分が悪いのである、責められて当然なのだ。

 

 

「本当にすまない! 悪意はなかったんだ」

 

 

 藍は、決意を込めて少年に対して謝罪の姿勢を示した。

 少年は、怒りの中に見えない動揺と不安を募らせていた。誰にも見えない場所に感情を隠していた。




幻想郷で最初に行くべき場所ってどこでしょうかね……。人里かな?


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おかえり、ただいま

「あの時は、いろいろあってだな……」

 

 

 藍は、標識を壊した時のことを振り返り、少年の心の中の世界で過ごした1年間を思い返す。

 1年間の間に様々なことがあった、嫌なことばかりだった、辛いことしかなかった。

 藍は、積み重なった負の感情が爆発して周りにあった標識を破壊した。何度も何度も壊した、原型が分からないぐらいに無残に破壊した。

 藍は、申し訳なさそうに少年に謝罪する。

 

 

「ちょっと自暴自棄になって周りの物に当たりたくなってな。標識以外の物は動きまわっているから、必然的に標識を……」

 

「はぁ…………」

 

 

 少年は、藍の言い訳を聞いた後に大きな溜め息を吐いた。イライラや不満、不安によって物に当たってしまうことはよくあることである。

 それに、少年の心の中の標識を破壊したということからは、藍の溜め込んだ不安や怒りがとても大きかったということが予測される。

 力を制限される少年の世界で物を壊すということは、酷く重労働である。標識は、外の世界と同じように金属製であり人の力で簡単に壊せるものではない。つまり藍は、何度も何度も破壊しようと攻撃を繰り返したということになる。

 藍は、少年の心の中でよっぽど鬱憤を溜めていたのだろう。

 

 

「まぁ、壊した物は仕方がないか。壊れた物は直らないんだから」

 

 

 少年は、藍を引き付けていた右手の力抜いて、少し距離を取る。

 藍は、少年の表情が戻ったことでほっと安心した表情になった。

 

 

「じゃあ、とりあえず新しいものを立てるのが一番いいのかな。標識を立てるのは時間がかかるから面倒なんだけど……」

 

「標識を立てるのには時間がかかるのか?」

 

「そうだね。まぁ……時間がかかるって言っても3~4時間ぐらいなんだけどね」

 

「3,4時間か。二つだから6~8時間ぐらいになるな。一応、1日あれば元には戻るのだな」

 

「簡単そうに言うけど、標識を立てるのは結構面倒なんだからね」

 

 

 少年が言うには、標識を立てるのは時間がかかることのようである。

 藍は、標識を立てるためにかかる時間が思ったよりも少ないことに安堵した。それこそ、二度と立てることができないと思っていたものと比較すれば、雲泥の差である。取り返しが利く、取り戻すことができるという事実は、藍の不安を大きく取り除いた。

 

 

「その壊した標識に書いてあった言葉が分からないと立てようもないし……壊した標識の言葉を覚えている?」

 

「…………」

 

 

 少年が標識を立てるための情報を得るために藍へと問いかけると、藍は少年の質問に少しばかり悩むそぶりを見せた。

 藍は、過去に起こしたことを思い出そうと記憶の引き出しを引いていく。

 しかし、何処を探しても壊した標識に書かれていた文字についての情報は見つからなかった。

 

 

「もしかして、分からないの?」

 

「…………」

 

 

 少年は、考え込む藍を不安そうに見つめる。

 藍と少年との間に静寂が流れた。

 藍は、必死に思い出そうと努力する。

 けれども、忘れてしまっている記憶を取り戻すことはできず、何も思いつかなかった。

 

 

「すまない……思い出せそうにない」

 

 

 藍は、少年との間に停滞する沈黙に耐えきれずに少年の質問に対する答えを返した。

 

 

「壊したのは半年以上前だからな……壊したこともさっき、話していて思い出したんだ」

 

「あー、もういいよ。どっちでもいいや」

 

 

 藍が申し訳なさそうにしながら覚えていない理由を少年に伝えると、少年は覚えていないという藍に向けて仕方ないなとぶっきらぼうにつぶやいた。

 半年以上前に壊した標識のことなど、忘れてしまっても仕方がない。覚えている方がおかしいと言えるレベルである。

 それに、藍が標識のことを覚えていられない理由は別にもある。

 標識は、立っている時はそこにはあるが、壊れてしまえばそこら辺にある有象無象の曖昧な物と同じ扱いになる。人の形をとっているものが流れるように、建物が動くように、少年の心の中の物質は世界に流される。

 藍が壊した標識は、それら有象無象と同じように壊れた瞬間に目の前から消えたはずなのである。残っているものであるならば、度々見ているうちに覚えるという事もあるだろうが、消えた標識のことを思い出せと言っても無理があった。

 少年は、藍が標識に書いてある言葉を知らない旨を聞いて藍に対して怒るでもなく、追求するでもなくすぐさま諦めた。壊れたことを気にしてもどうにもならないという現実と、特に変わっている様子のない現在に気にするのを止めた。

 

 

「こうやって俺が平常に生きていられるんならそこまで大事なことでもないんだろ。標識ならきっと大丈夫だ、きっと大丈夫なはず、きっと大丈夫なはず」

 

「そ、そこまでのものなのか? 標識が壊れてしまったら、死んでしまったりするものなのか?」

 

 

 藍は、標識について現在位置を特定し、移動するための物という認識しか持っておらず、他にも標識は山ほどあるのだから2つぐらい無くなっても問題が無いだろうと、軽い気持ちでいた。

 しかし、少年の反応を見るとそれ以上の何かがあるということが伺える。

 藍は、大丈夫という言葉を連呼する少年に不安を増長させる。標識が壊れるということが、予想以上の影響を及ぼすのだと嫌がおうにも感じ取ってしまう。明らかに自分を安心させるために大丈夫だという言葉を呟いている少年の姿を見て気が気ではなかった。

 

 

「ああ、やばいのだったら相当やばいね。それこそ、一瞬にして人生終わるぐらいにやばい。あんまり変なのじゃないといいけど」

 

「ほ、本当に?」

 

「いや、さすがに一瞬では終わらないけどさ。それでも、変なのだったら随分と苦しいことになると思う」

 

 

 少年は、追い打ちをかけるように藍の不安を増大させる言葉を吐き出した。

 人生が終わる。それは―――つまり死ぬということである。

 藍は、衝撃の事実にパニックに陥りそうになりながら責任を感じて顔を青くする。

 少年は、藍の様子を見て言いすぎたかなと言葉を選び直し、自分自身のことなのにどこまでも他人事のように言葉を使って現状を評価した。

 

 

「あ、でもどうだろう? 変なのだったら結構すぐに分かるし、むしろそっちの方がいいのかもしれないな」

 

「例えばどんなことが書かれているんだ?」

 

「標識の役割は区別だから、間違えないように区別する内容が書かれている」

 

「標識は、区別?」

 

「そう、区別」

 

 

 少年の心の中の世界に立っている標識の役割は―――区別。

 藍は、頭の中に刻み込み、決して忘れないように少年の言葉を刻み込む。

 

 

「これはキャベツでこれはレタスですよみたいな、そんなどうでもいいことだったら別に支障はないんだけど……これは黒でこれが灰色でこれが白ですよ、なんていうことが標識に書いてあると、俺は白黒が区別できなくなる」

 

 

 少年は、藍の要望に応えるように例えを交えて説明する。

 藍は、少年の説明に移動するための便利道具という軽かった標識への認識を改めた。

 

  標識の役割は―――区別である。

 

 藍は、少年の言葉を咀嚼して飲み込む。

 少年の言葉が確かだというのであれば、区別してきたものは無数にあるはずである。キャベツとレタス、果てまでは色までも区別する必要があるのならば、少年の無限に広がる世界に置かれている標識の本数は、凄まじいものがあるだろう。それこそ百本、千本でといった桁ではないのは確かである。きっと数万という単位で標識が立てられているはずだ。

 藍は、少年の出した具体例の意味をより正確に把握しようと質問を重ねた。

 

 

「それは、白い部屋にいても、白い部屋にいるのか黒い部屋にいるのか判別がつかなくなるということか?」

 

「その言葉だと、意味が二つに取れるからちゃんと区別しよう。言葉の雰囲気から察するに、それは白い部屋にいても、白い部屋と判断できずに、部屋の中が黒に見えたり、灰色に見えたりしてしまうという意味で言っているんだよね?」

 

「そのとおりだ。白い部屋にいた場合でも脳が白か黒か判別できないから、黒と判断してしまうことがあり、結果として真っ黒の視界が広がってしまうことがある、という意味で言っている」

 

 

 藍は、少年の区別ができないという意味を脳が誤変換をするという意味で取っていた。

 より分かりやすく藍の言っている意味を説明すると白と黒の区別のできない少年が白い部屋にいる。少年は白と黒が判別できないのだから、白い部屋にいても全面が黒く見えてしまうようなことがあるのではないか。もしくは全面灰色、白色に見えるということを言っているのである。入ってきた情報に脳の曖昧なフィルターがかかり、別の情報になってしまうのではないかと言っているのである。

 

 

「それは違うよ。そこまで深刻な話じゃない。ただ単に、そこが白なのか黒なのか分からなくなるんだ」

 

 

 少年は、藍の間違った認識を改めさせる。

 

 

「簡単に例えると、白い部屋にいれば、もちろん白が見えている。けれども、そこは何色の部屋ですかと問われたときに白という判断ができなくなるということなんだ。分かった?」

 

「ああ、なるほど。理解した」

 

 

 藍は、少年の言葉で標識が行っている区別というのがどういうものなのか理解した。

 少年は、判断ができなくなるというだけで誤変換が起こるわけではないのだ。AがBになったりはしない。AはあくまでAであるが、Bかどうかの区別がつかないだけである。

 

 

「本当に、すまない」

 

「もう、謝らないでよ。謝ったところで何も変わらないんだから」

 

 

 藍が想像していたものに比べれば、少年の区別の具合は良好ではあるが、壊してしまったことは取り返しがつかないことである。

 藍は、申し訳なさそうな顔をして頭を下げた。

 少年は、頭を下げる藍に対して気にするなと気を遣う。藍に謝られても、壊れてしまったという現実は何も変わらない。謝られている少年の気分は決して良くないし、謝っている藍も気分が落ち込む、何一ついいことはなかった。

 

 

「失った内容が分からないと何とも言えないよ。今はとりあえず、外に向かおう? 失ったものを気にしても何も変わらないんだし……多分、大丈夫だよ」

 

「和友はそう言うが、大事なものなのだろう? そんな簡単でいいのか?」

 

 

 少年は藍の過失を許したが、許された側の藍は少年の言葉を素直に受け止められなかった。

 自分が行った行動は決して許されることではない。藍自身が許されないことをやってしまったと自覚している。先程話していた、心の中を荒されたらどうする? という仮定の話だった状況が今実際に起こっているのである。

 

 

「それに、和友が私を許してくれたとしても私が私自身を許せないのだ……」

 

 

 藍は、相手の大事なものを壊してしまったという罪の意識に囚われていた。被害者である少年が気にしなくても、加害者である藍自身が気になって仕方がないのである。

 自分が起こした身勝手な行動によって少年が困った状況になるのを考えると気が気ではなかった。助けてもらっている側の藍が、少年に対して恩を仇で返すようなことをしていることが心苦しかった。

 

 

「じゃあさ、失ったものはお前がカバーしてくれよ」

 

「えっ?」

 

 

 藍は、少年の唐突な言葉に顔を上げる。

 

 

「失ったものが何なのか分からないけどさ。それが分かったらお前がそれを俺に教えてくれ。俺だけじゃ、気付かないこともあるだろうし……」

 

 

 少年は、自分が失った標識を藍によって埋めようとしていた。標識を失ったことによる区別を藍に任せようとしていた。

 

 

「もしもそれが生きていくために必要な区別だったら、その場で教えてほしいんだ。俺は、その場限りなら分かるから、その場だけなら言われれば区別がつくから。その場面が来た時に逐一教えて欲しい」

 

「分かった。和友が分からなくなったら私が教える。和友が、区別がつかなくなったら私が教えるよ」

 

「お願いな」

 

「ああ! 任せておけ!」

 

 

 少年は、罪の意識にとらわれている藍に贖罪のチャンスを与え、空いた穴を埋めて欲しいと藍にお願いをした。

 

 

「さて、ここからどうしようかな……」

 

 

 少年は、藍に対して出来る限りのフォローをして、次の事を考え始めた。壊れてしまった標識の事を考えるのは、後回しである。まずは、外の出るために紫を探さなければならない、ここから出られなければ区別も分別もありはしないのだ。

 少年は、気持ちを切り替えて前を見据える。

 

 

「私が、和友が失ったものを埋めてあげればいいのだな。そうだ、何のことはない。補ってやればいいのだ」

 

 

 藍は、少年を支えることを決心したところで標識を壊したことについて深く考えるのを止めた。

 少年が言うように、壊れた物はどうしようもない。何を言おうと直らない物は、直らないのである。

 それに、藍は少年から標識を壊した分をフォローしてくれと言われ、犯した罪について許してもらった気になっていた。今後恩返しすることで、壊した分を返せばいいのだと楽観的になっていた。

 

 

「まずは、和友の失ったものを調べることからだな……」

 

 

 藍は、少年が言った標識を壊した分を補完することについて考えを進める。

 藍がしなければならない仕事は、少年が判断できないことを代わりに自分が判断する、少年の違和感を見つけて、何が失われたのかを探るというものである。

 もしも、取り返しのつかないような、元に戻せないことであれば、それを少年が死ぬまで埋めてあげればいい。長寿の藍ならば、人間である少年の人生を見守ることは難しくもなんともない。

 しかし、いざ少年が判断できない場合に教えるという状況を想定すると疑問が生まれてくる。

 藍は、内から出てきた疑問をそのまま口にした。

 

 

「ちょっと気になったんだが、その場限りなら区別がつくのか?」

 

「その場だけならね。ただ、俺は区別する能力が低すぎて、次回同じ状況に陥った時には区別できなくなってしまう。だから、そのたびに教えて欲しいんだよ」

 

 

 少年は、区別する能力が非常に低い。標識で区別がなされていなければ、何であるのか判別ができない、境界が曖昧になって分からなくなる。

 だけどそれは、周りの助けによってどうにでもなる、その場で教えてもらえれば判断ができる。知ることができる。

 けれども、誰かに助けてもらうという方法には問題が一つある。そう、大前提として信頼関係が必要なのである。

 この方法を実践する場合には―――前提条件として教えてくれている人を信用しなければならないのである。ここで言うと、藍の言うことを全て鵜呑みにする必要がある。

 少年の脳では、判断することができないのだから、藍に全面的に頼るしかなかった。

 

 

「ただ、お前が嘘をつかなければという条件が入るけどね。俺は、残念ながら嘘か真実かどうかの判断はできないから」

 

「私は、嘘なんてつかないぞ。和友がそこまで信頼してくれているのに、それに応えないわけにはいかないからな」

 

「ありがとう」

 

「お礼なんていらないさ。私が悪かったのだから、私が責任を果たすのは当然だからな」

 

 

 少年は、藍の嘘をつかないという言葉に嬉しそうにお礼を言う。藍は、お礼を言うのは私の方だと複雑な気持ちを抱いた。悪いことをしたのは、あくまで藍なのである。

 藍は、そんな複雑な感情を抱えながら少年と話していてあることに感づいた。それは、先程話していた内容であり、藍が頼んだ時に少年が了承を渋った話である。

 

 

「もしかしてなのだが、名前が呼べない理由もそこにあったりするのか?」

 

「名前を呼ぶんならずっと呼べる方がいいでしょ? その場限りだけ名前を呼ぶなんて、なんか変じゃないか」

 

 

 少年が名前を呼べない理由は、区別する能力が低いことが原因だった。

 少年は名前を教えられても、人間と人間の区別がつかないためにすぐに呼べなくなる。名前を呼ぶには、毎回相手から名前を教えてもらわなければならないのである。

 少年は、会うたびに名前を教えてもらうような気持ちの悪いことをしたくなかった。だからこそ、藍の名前を呼んでほしいというお願いを断り、いずれ呼ぶという約束をしたのである。

 

 

「本当なら今すぐにでも呼んであげるべきだとは思うんだけど、きっとそれはお前の意図しているところじゃないと思うから」

 

「そうか、私の気持ちをくみ取ってくれたのだな」

 

 

 藍は、少年が名前を呼ぶことを拒否した理由を理解した。

 少年の言葉には、少年のこだわりというのだろうか、藍に対する優しさが垣間見えている。少年の言葉を読み解くと、未来まで見据えていることが理解できた。

 少年は、藍のことをずっと名前で呼ぶと言ってくれているのである。その場限りの話ではなく、未来に続く話と思ってくれているのだ。

 

 

「和友、ありがとうな」

 

「別にお礼なんていらないよ。俺がそうしたいと思っているだけだから。ただの俺のわがままだ」

 

 

 藍は少年の気持ちに応えるように頷き、少年は藍と同じように頷き返し、満足したような表情を作ると正面を見据えた。藍も少年の意識が別に向くのを確認すると、少年と同じように前を見つめた。

 

 

「さて、どのルートで行けばいいのか……」

 

 

 少年と藍は、共通の目的を持っている。二人は、紫のもとへ辿り着かなければならないという目的を持っているのである。

 少年は、暫くの間押し黙り思考する。

 

 

「無限にある道筋を考えても仕方がない、とりあえず進もう。進んでいる間にルートはできあがる」

 

 

 少年は、悩んだ末に深く考えるのを止めて足を前に進めることを決めた。

 少年と藍は再び標識を使って移動を始める。

 藍は、少年の手を握りながら一瞬のうちに移り変わる標識を見つめる。

 目の前には、次々と標識が移り変わっていくのが確認できる。周りの景色は変わっているようには見えないが、標識に書いてある文字だけは変化しているのが読み取れた。

 暫くすると、標識があるところで変化しなくなる。どうやら移動が終わったようである。

 藍がそっと標識から少年へと視線を移すと、少年は進む方角を指し示していた。

 

 

「ここから先に700メートルだ。そこにあいつがいる。さぁ、行くよ」

 

「ああ、やっと出られるのか。長かったなぁ……」

 

 

 二人は、紫のいるところまで歩き始める。

 少年は、標識を使わなくなったことで藍と握っている手を離そうと力を抜いた。藍は、力のなくなった手に不思議そうな表情を浮かべた。

 

 

「どうした? 疲れたのか?」

 

「え? そんなことはないよ」

 

「だったらどうして手を離そうとしたんだ?」

 

 

 藍は、少年の手をしっかりと握ったまま少年に問いかけた。

 藍は、手を離すという概念を失っているようで、もとから離すという選択肢がないようで、力を緩めた少年に対して疑問一色に染まっていた。

 

 

「ごめんなさい、意識が外に向いちゃって力を抜いちゃったみたいだ」

 

「そうか、体調が悪いとかではなかったのだな」

 

「俺なら大丈夫さ。それに、もうすぐ到着だよ。あともう少しで出られる、行くよ」

 

「ああ、行こう」

 

 

 少年は再び藍の手を握る力を入れ、手を繋いだまま前に進む。視界の先には、何者かが居るのが確認できた。

 藍は、きっとそれが紫様なのだと思った。藍の予測を証明するように、前に足を進めると紫の姿がよりはっきりと見えてくる、大きくなってくる。

 

 

「さすがにここまで近づくとあれが紫様だと完全に分かるな」

 

「よかった。間違えていないみたいだね」

 

 

 紫は、上半身だけを隙間から出して少年の心の中の世界に半分だけ顔を出していた。ちょうど上半身が出る程度に身体を出している。

 二人は、半分だけ身体を出した紫に向かって進んでいった。

 

 

 紫は、お互いの顔が分かる位置まで来ると、二人に分かるように手を挙げて左右に振り始める。

 紫が手を振るのを見た少年と藍は、軽く手を振り返した。

 

 

「おかえりなさい、そこそこ早かったわね」

 

「そこそこ? 来てから何分経ったの?」

 

「ここに入って、おおよそ4分といったところね。この広いなかでよくもまぁこんなに早く見つけられるものだわ。自分の心の中だからってことなのかしら」

 

 

 少年がそこそこという曖昧な言葉を避けるように具体的な数字を要求すると、紫からは驚きの回答が返ってきた。紫からの回答は、そこそこの―――4分という答えだった。

 少年が紫の立場であれば、1時間以上かかった藍探しにそこそこという言葉は使わない。

 

 

「ふーん、あんたは4分なんだな。なるほど、やっぱり個人差があるわけだ。そして、俺と出会えば俺の時間に同期するってことか」

 

 

 少年は、紫からの回答を聞いて確信した。

 やはり、少年の心の中では人によって時間の進み方が違う。少年は1時間もかからないぐらい、藍は1年間を超える時間を過ごし、紫は4分ほどであるようである。

 少年の1時間を基準に考えると紫は15倍遅く時間が流れており、藍は8750倍速く時間が流れているということになる。

 少年は、自分の心の中の世界について少しばかりの理解をした。体感時間速度が人によって大きく違い、個人差というにはレベルが違うような気がするが、そんな理不尽なほどの個体差が出る世界のようである。

 

 

「まぁ、そんなことどうでもいいか」

 

 

 藍は、一人で納得する少年の隣から一歩踏み出し、紫に詰め寄ると声を荒げた。

 

 

「紫様、今度という今度は許しませんよ!! 私、死ぬかと思ったんですから! このまま孤独死するかと思いました!!」

 

「えっ、孤独死? そこまでの状況になったの?」

 

「なりましたよっ!!」

 

 

 藍は、涙目になりながらまくしたてるように紫に詰め寄った。

 紫は、藍の言葉が大げさに聞こえて冗談交じりに言葉を返したが、藍は真面目に対応するつもりのない紫に怒りをため込む。

 

 

「そんな、藍は大げさなんだから……」

 

 

 紫は、藍がここで1年もの時間を過ごしたことなど知らない。あくまで4分間しかこの世界に滞在していない紫には、決して藍の気持ちを理解することはできなかった。

 少年は、藍が何故これほどに怒っているのか状況を説明するために紫に藍の状態について伝えた。

 

 

「こいつは、ここで1年近く過ごしたんだとさ。こいつの場合は、時間がものすごく引き伸ばされていたらしい。ちなみに俺は、一時間ぐらいかな」

 

「えっ、そんなに?」

 

 

 紫は、自分と藍が感じている時間の流れの速度の違いに驚いた。

 紫は、4分間しか少年の心の中にいないが、ここで1年もの時間を過ごすことがどれほど苦しいことなのか想像することは容易にできる。

 紫は、1年間という時間の長さを聞いてさすがに悪いことをしたと罪悪感に襲われた。そんなつもりはなかったと言えばそれまでだが、藍の気持ちを考えれば謝らなければならないという良心の呵責に襲われた。

 

 

「そ、それは悪いことをしたわね」

 

 

 紫は、藍に向けて軽く謝罪する。

 紫は、藍に対して謝ったことがほとんどなかった。そのためか、今度は謝った後に残る心のもやもやが容赦なく気分を悪くしてきた。

 紫は、気分の悪くなった気持ちを吐き出すように藍に対してちょっかいをかける。

 

 

「でもこの子とは仲よくなったみたいじゃない。仲よく手を繋いじゃってさ」

 

「こ、これはそんなんじゃないですよ」

 

 

 藍は、動揺する心と同期するように少年と繋いでいる左手をぶんぶんと動かす。

 けれども、少年と藍を繋いでいる手は開かれることなく閉じられたままだった。

 

 

「あんまりぶんぶん振らないでよ」

 

「す、すまない!」

 

「ふふふ、やっぱり仲良くなっているじゃない」

 

 

 少年は、苦しそうに揺さぶられている。標識での移動が終わった今となっては、手を繋いでいることに意味はない。

 しかし、藍は決して少年と結んだ手を振りほどこうとはせず、少年が握る手に入れた力を緩めても決して離そうとはしなかった。それは未だに不安を抱えているから心細いのか、単に離したくないだけなのか、その理由は分からない。

 分からないけど、想像することはできる。

 紫は、そんな藍の様子がおかしくて仕方がなかった。藍の腕を振る様子は、むしろ繋いでいる状態を強調しているように見えるのである。

 

 

「早く戻ろう? ここに長くいる意味はないだろ」

 

「それもそうね。さぁ、どうぞ」

 

 

 少年は、藍の手を引いて紫が上半身を出しているスキマに向かって歩く。

 藍は、少年に引き連れられてスキマの中に向かう。

 紫は、自分の体と少年の体がすれ違う瞬間、一言呟いた。

 

 

「おかえりなさい」

 

 

 少年と藍は、紫の迎え入れる言葉に笑みを作り、一言言葉を返した。

 

 

「「ただいま」」

 

 

 少年は、藍と紫と共に元いた炬燵のある居間へと戻って行った。

 



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心からの帰還、心についての議論

 紫と藍と少年の3人は、ほぼ同時刻に意識を取り戻し、少年の心の中に入るまで話をしていた場所―――居間にある炬燵を中心に帰ってきた。

 少年の心の中から出て意識を取り戻した3人は、座った状態のままそれぞれの顔を見て、全員が帰ってきていることを確認する。視線を交わし、3人とも無事に帰ってこられたことに安心した。

 

 

「「「はぁ………」」」

 

 

 3人は同時に一息つき、肩を落とす。

 

 

「戻って来たのはいいけれど……これから話を続けていけるような雰囲気じゃないわね」

 

「疲れました……」

 

 

 紫と藍の二人は、少年の心から出てきて早々に話を始めるつもりはなかった。いくら話が途中で断絶しているとしても、それを今から繋げて行く気力がなかった。

 言っては悪いがあんなところに行った後では、何かをしようという気はとてもじゃないが湧いてこない。

 この反応はごく普通の反応であり、特に藍は1年近く少年の心の中で過ごしているため、少年の心の中から戻って来てすぐに話をするのは止めておこうという意見は無理もない話だった。

 

 

「俺は、あんまり疲れてはいないけど……」

 

 

 少年は、そんな疲れを見せている二人とは違っていた。少年は、自分の中の世界ということで適性があったためか疲れてはいないようだった。

 

 

「でも、話しができる雰囲気じゃないし、この状態で話を進めていくのはやめにしておこう。こんな状況で話を進めても考えがまとまらないだろうしね」

 

「ああ、そうしてもらえると助かる」

 

「いったん休憩ね。しばらくしたら話をしましょう」

 

「うん、その方が頭もまわると思うし、そうしようか」

 

 

 少年は、疲れているわけではなかったが疲弊した顔をしている二人に合わせて話をやめるという意見に便乗した。会話というのは、独りよがりのものではない。少年が元気だとしても、相手が喋る元気が無ければ会話は成り立たないのだ。

 

 

「それに……俺はこれからやることができたからさ。部屋を一つ貸してもらえないか? それと紙と書くものをちょっと多めにくれると助かるんだけど」

 

「それは構わないけれど……紙とペンを一体何に使うの?」

 

 

 少年は、その場で立ち上がると続けて紫に視線を向けて部屋を一つと紙と書くものを要求した。

 紫は、座ったままの状態で少年を見上げて怪訝そうな表情を浮かべる。

 紫には、少年の要求の意図がつかめなかった。部屋を欲しがる理由については分からなくもない、これから生活するために自分の部屋は必要だろう。

 しかし、少年が紙と書くものを欲しがる理由が思いつかない。

 少年は、日記でも書いているのだろうか……少年との関わりが薄い紫には、思い当たる節がまるで無かった。

 

 

「部屋は空いているところが沢山あるから好きな所を選べばいいわ。ただし、私と藍の部屋は勿論駄目だからね」

 

「分かっているよ」

 

 

 少年は、紙と書くものを何に使うのかという紫の質問に答えることなく、部屋に関しての話にだけに返答した。

 紫は、答えを述べない少年にもう一度聞き返すべきか考えたが、少年が自身の質問を聞き逃したのだろうと勝手に解釈し、深くは聞かなかった。

 所詮渡すのは、紙と鉛筆のような何かが起こることがなさそうなものである。

 紫は、紙と鉛筆ならば別に何に使ってもかまわないかと一人納得し、左手をスキマへと突っ込む。そして、隙間に伸ばした手をもぞもぞと動かし、目的の物品を取り出した。

 紫の手には、ノートを4冊とHBの鉛筆6本が掴まれていた。

 

 

「じゃあこれ、使っていいわよ」

 

「ありがとう、これだけあれば大丈夫だと思う」

 

 

 紫は、掴んだノートを4冊とHBの鉛筆6本を少年に手渡す。少年は、ノートと鉛筆を受け取ると紫に対してお礼をし、すぐに行動に移った。

 

 

「それじゃあ、どこか適当な部屋を使わせてもらうね」

 

「ええ、好きな場所を選びなさい」

 

 

 少年は、紫から受け取ったノートと鉛筆を両腕に抱えるようにして保持し、足をふすまへと進める。そして、ふすまを開けて部屋を出ようとしたが、予想外の状況に陥った。

 少年は、ふすまの前でもじもじと動き、立ち往生している。両手がノートと鉛筆によってふさがっているためにふすまを開けることができないようだった。

 

 

「んっ……このままじゃ開けられないな」

 

 

 少年は、ふすまを開けるために、良心地のいいところにノートと鉛筆を持ち、両手を最大限稼働できるように位置を調整する。そのかいもあり、少年は大分ぎこちない開け方になっているが、なんとかふすまを開けることに成功した。

 紫や藍が少年の代わりにふすまを開ければいいだけの話ではあったのだが、紫も藍もおそらく酷く疲れていたのだろう。ふすまを開ける人物もいなければ、誰一人ノートと鉛筆を下に置いて開ければいいのではないかという助言も告げなかった。

 

 

「二人とも、色々ありがとうね。それから、これからよろしくね」

 

「ええ、よろしく」

 

「…………」

 

 

 少年は、お礼の言葉を残して廊下に出ようとする。

 紫は少年に生返事のような感情のこもっていない言葉を返し、藍は部屋を出ていく少年を黙って見つめていた。ただただ、部屋で座り込み少年が部屋から出ていくのを眺めていた。

 

 

「和友!」

 

 

 

 唐突に少年の名前が部屋の中に響き渡った。

 藍は、部屋を出て行く少年を見て、不意に少年が消えてしまうのではないかと不安にかられ、心を揺さぶる衝動のまま立ち上がって声をかけた。

 

 

「ん? どうしたの? なにかな?」

 

「…………」

 

 

 少年は、名前を呼ばれて廊下に足を踏み入れた所で振り返る。いつもと何ら変わらない表情を、名前を呼んだ藍へと向けていた。

 藍は、振り返った少年の顔を見て、何も言いだせなくなった。どうして、消えてしまうと思ったのだろう。何を不安に思ったのだろう。藍には、心のざわつきの原因が分からなかった。

 少年は、黙っている藍を不思議そうに思いながら立ち止まったまま静止する。

 藍は、一瞬の間に沸き立った心のざわめきを気のせいだと振り払い、少年に向かって笑顔を作った。

 

 

「ありがとうな」

 

「いいよ、どういたしまして」

 

 

 少年は、藍の笑顔につられるように笑顔を作り、部屋から出て行く。ぎこちない様子で開けたふすまをしっかりと閉めて、廊下を歩いて行った。

 少年が廊下を歩く足音が響いている―――部屋に取り残された紫と藍の耳には、少年の足音が遠ざかっていくのが聞こえていた。

 足音は、暫くすると自然消滅したかのように消えてなくなる。鳴っていたのかどうかさえも分からなくなるように、存在を打ち消した。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年が部屋からいなくなり、紫と藍が居間に取り残される形になった。静かな空間に二人きりで、沈黙が部屋の中を支配している。

 紫と藍は、何か大きな流れの中で取り残されてしまったような寂しさに襲われていた。部屋から少年が居なくなっただけなのに、取り返しがつかない物を失ったような気持ちに陥った。

 そんな喪失感の中、紫はそっと口を開いた。

 

 

「行っちゃったわね……」

 

「何か、大きな穴が開いたみたいな感覚に陥りますね」

 

「それだけ存在感があるということなのかしら。境界が曖昧になっているから、その分存在が大きく感じられるのかもしれないわね」

 

 

 紫は藍も同様の感覚に陥っていることを知り、ある仮説を立てた。少年の大きい影響力の原因が少年の持っている能力にあるのではないかという予測である。

 

 

「「…………」」

 

 

 紫の言葉は、藍には拾われることなく空中に拡散し、空間には再び静寂が訪れた。誰も口を開こうとはせず、音を出そうともせず、動き出すこともない。

 紫と藍は、再び場に静寂を停滞させる。

 

 

「ん~~」

 

 

 紫は、時間だけが過ぎていく空間の中で精いっぱいの背伸びをして上半身の筋肉を伸ばす。全て伸ばしきった後、筋肉をゆっくりと緩めて大きく息を吐く。頭の中に酸素を取り込み、気持ちを一転させて思考をクリアにする。

 藍は、背伸びをする紫の目をずっと見続け、時が来るのを、紫が話し始めるのを待っていた。

 

 

「…………」

 

 

 紫は、藍の視線に答えるように話をしようと考えて口を開こうとしたが、口を開きかけたところで言葉が出てこなかった。

 紫は、藍と二人きりになった部屋で何から話せばいいのか分からなかった。話さなければならない疑問は山積みで、処理できていない話は山ほどある。

 しかし、紫はそれを口に出すのを躊躇った。口に出そうとしているその話は、少年を否定することになる話であり、少年を批判することになる話である。

 紫は、果たして今の藍が少年の悪口を言われても、何も言わないで我慢ができるのか心配だった。

 そっと、藍へと視線を向ける。藍は、揺らぐことのない瞳で紫の瞳を見つめ返してきた。まるで逸らすことを許されていないように、ひたすらに見つめてきている。

 紫は、視線を動かさず待ち続ける藍を見て気持ちを固め、話をしようと心に決めた。

 

 

「あの子は、紙と鉛筆で何をするのかしらね?」

 

 

 結局のところ紫が沈黙を破って言い出せたのは、先程の些細なことで先程少年にした質問だった。

 少年は、先程紫の質問に対して紙と鉛筆を使って何をするかについて言及していない、そこについての疑問である。

 紫は、もともと話そうとしていた少年の心の中についての考察には触れることができていなかった。

 しかし―――会話は始まる。ここから話は前に進んで行く。きっかけを得た物語の歯車は、確かに回転し始めた。

 

 

「それは決まっています、何かを書くんですよ」

 

「ふふっ。藍、あの子の真似をする必要はないわよ。そんな当たり前のことは別に言う必要はないの」

 

「この前のお返しです」

 

 

 紫は、藍の予想外過ぎる解答に顔を綻ばせた。藍は、少年の心の中に入る前に話していた、ふざけたやりとりのことをいまだに根に持っているようである。

 

 

「それは、私じゃなくてあの子に返してあげなさい」

 

「それも、そうですかね」

 

 

 紫は、自分に返すのはお門違いだと、少年にこそ言うべきだと告げた。

 藍は、ぼんやりとした様子で紫の言葉を肯定した。

 しかし、あの時に悪意があったのは間違いなく紫であり、少年に悪意はない。藍のお返しが紫に向いているのは、何も間違ってはいなかった。

 

 

「はぁ…………」

 

「…………」

 

 

 紫は、反応の薄い藍を見つめたまま口を閉ざした。少年に繋がる話題を出したにも関わらず、またしても静寂が空間を包みこむ。冗談交じりの会話が二人の間に飛び交うような空気は長く続かない。

 紫は、少しも少年の話が展開していかないことに億劫な気持ちになった。

 

 

「どうにも慣れないわね」

 

「なにがでしょうか?」

 

「貴方との会話よ」

 

「申し訳ありません……」

 

 

 もともと紫と藍は、そこまで会話をバリバリと交わすような間柄ではない。会話をする必要がなければ、会話をする関係でないことはもちろんであるが、紫は殆どの時間を寝て過ごしているため藍との生活時間が合わず、話し合いの時間などほとんどなかった。

 

 

「藍、特に悪いことをしているわけでもないのに謝るのは止めなさい。そういうところが貴方のダメなところなのよ。もっと主体性を持ちなさい」

 

「申し訳、ありません……」

 

「だからそういうところがダメなの。確かに私たちは、そこまで親身に話をしてこなかった。私が命令して藍がそれを遂行するだけだものね」

 

「はい……そうですね」

 

 

 さらに言えば、紫が藍に向かって言葉として与えるのは、基本的に会話と呼べるものではない。

 言葉に含まれているほとんどの内容は、命令と教育である。

 紫と藍の関係は、雑談を気軽に交わしているような関係ではないのだ。あくまで紫と藍の関係は主従関係であり、横の関係になることは全くなく、どんな場合においても紫の立場は常に藍の上であり、不変なのである。

 紫にとって藍の言葉は下から湧いてくるものであり、すくい取るものである。

 藍にとって紫の言葉は上から降ってくるのであり、受け取るものだった。

 

 

「はぁ……藍は本当に融通が利かないわね。何もあの子みたいに別人になるほど切り替えろというわけではないのよ。ただ、自分というものを持ちなさいと言っているの」

 

「ですが、急に変えろと言われましても、どうすればいいのか分からないのです」

 

「じゃあ、まず藍自身が考えて動くところから始めなさい。これからする話は藍にも関係があることなのだから自ら考えて自分の気持ちをしっかり持ちなさい」

 

「はい、分かりました」

 

「はぁ……藍、良く聞くのよ」

 

 

 紫は、あくまでも従順な様子の藍に不安を抱えながらも、藍との間に立ち込める重苦しい空気を変えるために、話題を一気に変えた。

 

 

「あの子のことなんだけど……」

 

 

 二人が話すことはやはり、共通の認識を持っている少年のことである。他にも色々と共通の話題があるにはあるのだが、ここで紫が藍に任せている仕事の一つである博麗大結界の話をしても上下関係は崩れず一方的に喋ることになるだけである。

 それに、なによりも少年の話に持っていくことが難しくなる、そんなことは―――容易に想像できる。

 紫は意を決し、厳かな声で少年のついての話を始めた。

 

 

「藍はもう分かったと思うけど、あの子は異常よ。あの心の中の様相は明らかに異常だった」

 

「…………」

 

 

 藍は、紫の言葉にぴくっと反応した。

 紫の言葉で場の雰囲気が一変する。口にしている言葉の内容は先程と同じであり、少年のことで変わり無いものの、ものの質が変わった。まるで別の話をしているのではないというぐらいに変化した。

 

 

「異常だったというのは、紫様がこれまで見てきたものと明らかに違うということですか?」

 

「そうよ、あの子の心の中は明らかに普通とは違っていたわ。それは、初めて心の中に入った藍でも感じ取れたのではないかしら?」

 

「それは……そうですね……」

 

 

 藍は、真剣な表情で紫の言葉を吟味する。

 紫が口にする少年の心の中は異常だという言葉は、少年の異常性を立証している言質である。ここでは、言葉の内容というよりも紫が言っているというのが何よりも問題だ。

 他の誰かが言ったのであれば、信じるに値しない虚言や妄言になったことだろう。なぜならば、普通の心の中というものを見たことがない者は、基準となる定規を持っていないため異常性の度合いについて語ることができないからである。

 しかし、紫は少年の心に入るぐらい造作も無い、と言った言葉通りに楽々と心の中に侵入できる。少なくとも紫の言動からは、これまでに様々な人の心の中に入ってきたということが伺えた。心の中に幾度も入った経験を持っている紫がおかしいと言うのであれば、それはまさしく、少年の心の中が普通ではないということを示している事実と変わらない。

 それに、心の中に入った経験を持った者でなくても実際に心の中に入ってみれば少年の心の中が異常であることは十分に感じ取ることができる。少年の心の中に入って心まで折られた藍は、特に少年の心の中の異常性について感覚的ではあるが理解している。

 紫の言葉は、藍が少年の心の中で感じ取った異常性を確信に変える、そんな後押し―――絶妙な押し込みになった。

 

 

「藍は知らないかもしれないけど、心の中というのは、一人分しかないものなのよ。それはちょうど1人部屋のようなもの。それは、その大きさが一番適しているからよ」

 

「私は、今回が初めてなので分からないのですが……心の中は、一人部屋ほどの大きさしかないものなのですか?」

 

「厳密に言えば、一人部屋ほどの大きさが必要なのよ。大きすぎても小さすぎてもダメ」

 

 

 紫は、先程少年に渡したものと同じノートと鉛筆をスキマから取り出す。そして、流れるように炬燵の上にノートを開いておくと、今まで見てきた心の中の一般的な絵を描きながら藍に説明し始めた。

 

 

「そうね……」

 

 

 紫は、手始めにノートに四角形の箱を描き出し、箱の寸法を書きいれる。白いノートに黒い線が次々伸びていく。

 藍は、紫が書き記していくノートを見つめた。

 ノートに記された箱には、高さ3メートル、横6メートル、縦6メートルと書かれた。

 紫は、箱を書き記したノートに向かって注意を促すように鉛筆をトントンと突き立てる。

 

 

「これが一般的な大きさになるかしら」

 

「本当に一人部屋の大きさなのですね」

 

「多少の個人差はあるものの、おおよそこの位の大きさになると思ってくれていいわ」

 

 

 藍は、小さな一部屋サイズの大きさを頭の中に思い描く。それは、本当に一人が生活する場である。二人が生活するには、少しばかり息苦しくなるような―――そんな空間である。

 

 

「心の大きさが一人部屋サイズになっているのには、理由があるのよ」

 

 

 紫は、ノートに書かれている箱の中に物を描き始める。四角形、三角形、楕円の3つの図形を書き記すと説明を続け、ノートの書き記した図形の中にそれぞれ思い出、感情、記憶、と漢字を書き入れた。

 

 

「心の中には、思い出や感情、記憶が置かれているわ。人間や妖怪といった理性と感情を持っている生き物は、これらのものを取り込んだり、取り出したりして生きているの」

 

 

 紫は、これまでの経験から得ている心の中で行われている動きを分かりやすく藍に伝える。

 

 

「引き出しを引っ張るようにして思い出し、タンスにいれるようにして記憶する。人間や妖怪は、そうやって記憶のやり取りを行っているのよ」

 

「なるほど、心の中はそうなっているのですか」

 

 

 心の中は、記憶を押し留める場所であり、知識を蓄える場所である。理性や知性をもった生き物は、その中から欲しい情報を取り出すことで特定のことを思い出し、心の中の何処かへ保管することで記憶している。

 藍は、紫から得た知識を心に刻む。

 しかし、心の中に紫から得た知識を記憶したところである事実に気付いた。心の中に記憶をため込んでいるというのならば、心の大きさはそのまま容量ということになるのではないだろうかという疑問である。

 

 

「もしも、紫様のおっしゃる通りであれば、部屋が大きいほど多くの物が入れられることになりますよね?」

 

「その通りよ。覚えていられる容量は、部屋の大きさで決まっているわ。整理がどの程度できるかでも変わって来るけど、容量自体は大きさが決めている」

 

 

 藍は、新しく入った情報―――心の中という精神世界の大きさが記憶の容量を決めているという情報を心の中の同じ場所へと入れ込んだ。

 

 

「ということは、和友は無限ともいうべき記憶のための容量を持っていることになりますね……でも、紫様が言いたいことはそういうことではないのですよね?」

 

「藍は、分からないのかしら?」

 

 

 藍は、紫からの質問の意図が分からず表情を曇らせた。

 紫は、そんな表情を浮かべる藍を見てさらに問いかけるように情報を藍へと与える。

 

 

「無限に広がる空間を持っているということが、どういうことなのか……想像してみればすぐに気付くはずよ。無限の大きさを持っていることが、どういう結果をもたらすのか」

 

 

 藍は、必死に紫の意図を読み取ろうと頭の中で紫からの言葉を巡らせ、思考する。

 明らかに紫は、藍に何かを気付かせようとしている。少年の心についてあり得ないと断言できる要因を気付かせようとしている。

 

 

「大きさが無限である場合に、何が起こるのか」

 

 

 紫の言葉を全面的に信用した場合―――少年の心の中は何が異常になるのだろうか?

 藍は、実際に自身の目で少年の心の中を見ている。

 少年の心の中は、地球のように広大で無限と言える大きさを持っていた。少年の記憶できる容量は、心の大きさが無限大と想定すると無尽蔵と言えるだろう。

 しかしそれは、溜め込めるというメリットだけではない。先程紫は、心の中に記憶をため込む仕組みについて口に出している。情報は引き出しに入れている、タンスから取り出すと言った。

 

 

「欲しい情報を取り出す手順は……部屋の中でタンスの引き出しを開けるイメージですよね」

 

「それでおおよそ間違っていないわ」

 

 

 藍は、一つずつ道をたどるようにして思考する。想像するのは自身の世界が広がるイメージである、心の中の世界で欲しい情報を取り出すイメージである。

 藍は、心の中の部屋にある戸棚に向かって足を進める。つい最近の記憶を、部屋の中にある戸棚の中から見つけ出す。

 引き出しの中には、つい先日の記憶が視認できた。昨日の記憶ということもあって、細かいところまで綺麗に示されている。

 藍は、戸棚の中から昨日の記憶を取り出すことで昨日の出来事をはっきりと思い出した。

 

 さて―――これが一般的な脳内イメージである。

 しかし、少年の場合は部屋の大きさが違う。

 これを―――広げるのだ。

 

 

「これを無限の広さに拡張する」

 

 

 少年の部屋は、藍の部屋や一般の部屋と異なり地球と言えるほどに広大である。

 藍は、少年と同じ状況を作り出すために、自身の部屋の大きさを地球ほどに大きくするイメージで拡張した。

 

 

「はっ……」

 

 

 藍は、その瞬間に思考がまっさらになる感覚に襲われた。部屋の拡張を行ったその瞬間、世界がまっさらになる感覚に陥った。

 部屋の中というにはおこがましい世界の中には、何一つ見当たらない。何もない場所に、何もなくなった世界で一人きりになった。

 藍は、昨日の記憶を探すという以前に、自分がどこにいて何をしようとしているのか目的を見失いそうになり、暫くの間一人ぼっちで佇んだ。

 その世界では、いくら待っていても誰も迎えに来ることはない、誰かが方角を教えてくれるわけでもない。藍は、そんな広大な世界で一人きりになり、酷く寂しい気分になった。

 藍は、心の中が大きくなりすぎることによる弊害を把握し、少しだけ潤んだ瞳を静かに開ける。

 

 

「見つけられません……自分の部屋の大きさが地球ほどの大きさであった場合、欲しい情報を見つけることができません」

 

「そう、部屋は大きければいいというものではないわ」

 

 

 藍は、紫の期待に応えて答えへと辿り着いた。

 

 

「確かに、部屋の大きさが大きければ置ける記憶や思い出は多くなる。けれども、置いてある記憶や思い出がどこにあるのか分からなくなるわ」

 

 

 部屋の中は、大きければいいというわけではない。

 確かに詰め込む分には、大きければ大きいほどいいだろう。PCのHDDと同じである。容量が大きい方が、たくさんの物を取り込むことができる。

 しかし、物を取りだすのは、あくまで自分自身がやらなければならないのだ。コンピュータが自動的に探してくるわけではない。記録という名の記憶をレジスターから、メモリから引っ張ってきてくれるわけではない。

 あくまでも人間が蓄えた感情や想いの記憶は、自分自身で思い出さなければならないのだ。

 

 

「それもそうなのですが、部屋の大きさが大きすぎた場合、仮に置いてある場所が分かっていても見つけるまでに相当な時間がかかってしまいます」

 

「藍もあの子の心の中がどれだけ異常な状態か分かってきたようね」

 

 

 藍は、記憶や思い出が心の中のどこにあるのか分からなくなるということ以外にも、別の問題が発生することに気付き、さらなる指摘をした。

 藍の認識は、酷く正しい。記憶を置いておいた場所が分かっていても、自分のいる位置よりも遥か遠くにあったのでは取りに行くのに時間がかかってしまう。思い出さなければならない記憶が、地球の真裏にあった場合、果たしてすぐに思い出すことができるだろうか。

 答えは―――当然否である。思いだすのに数時間かかるようなことがあっては、それは忘れているのと大差がない。

 紫は、藍の言動から完全に心の中について理解したと踏み、話しを前に進める。

 

 

「心の中は、大きすぎてもダメ、小さすぎてもダメなの。小さすぎても、物を置くスペースがなくなるわ。だから心の中は、ちょうどいい大きさというものがあるの」

 

 

 部屋の中は大きすぎてもダメだが、小さすぎるのもダメである。

 小さすぎた場合、置けるものが少なくなる、大きなものが置けなくなる、すぐに何も入れ込めなくなる。

 

 

「心の大きさには個人差がある。もちろん私と藍では、心の大きさは違うわ」

 

 

 心の大きさには、個人差が存在する。どこに置いておいたのかを覚えていられるかは、記憶力に差があるように個人差があるのだ。見つけに行くスピードが速い人もいれば、置いてある場所を細かく記憶できる人もいる。

 それらの個人差は、心の大きさや整理整頓の具合に反映されている。

 

 

「それでも、個人差はあくまで個人差よ。絶対的な差があるわけじゃないわ。ある程度の物が置けて、どれもが手の届く位置にあって、すぐに取り出しやすいような部屋の形状をしている。心の中にある感情、想いを、取り出しやすい環境であるはずなのよ」

 

「でも、和友の心の中はとても広大な世界をしていました」

 

 

 藍は、1年近く少年の心の中にいて、少年の世界の中をずっと歩きまわった。どこまでも変わりゆく世界の中でずっと変わらずに歩き続けた。それこそ、無限に続いているような少年の心の中を歩き続けた。

 それでも、一向に終わりが見えることはなく、壁がある様子など一切見受けられなかった。

 

 

「それこそ、無限に続いているような錯覚を覚えるほどに……終わりが見えないほどに。感情も、想いも、何一つ見えてきませんでした」

 

「そう、あの子の世界は広がりを見せていた。正直あの子が、どうしてこれまで生きてこられたのか不思議でたまらないわ」

 

 

 少年の心の世界の広がりがどれほどのものであるかは、心の中で1年間もの間歩き回った藍自身が一番よく知っている。嫌というほどに理解していた。

 藍が少年の心の中身の異常性について把握したところで、話の中身は核心である少年の心の中の異常性に移っていく。それは、紫が話したかった少年の話である。

 

 

「あの子は、あれ程の異常性を抱えた状態で、平然と生きている。性格が異常に捻じ曲がっているわけでもないし、生活に溶け込めていないわけじゃない。現に、中学生として生活しているあの子を見たときはとても普通の子に見えたわ」

 

 

 普通を知っている紫にとって、少年の心の中は異常そのものだった。紫は、あんな無秩序世界、地球ほどの大きな心を保持して、これまで普通に生きてきている現実を信じることができなかった。

 しかし、少年が生きてきた事実は覆らない。少年は中学生として生きており、異常を保持しながらも―――普通に生きてきたのである。

 

 

「本当に凄まじいわ……どうやったらあんな子が出来上がるのかしらね。あれほどの異常を抱えて、少しも外に漏らさない。内にでかい物を抱えた状態で、外を綺麗にまとめている。矯正でもされていたのかしら……」

 

 

 紫は、少年の心の中を覗いて異常性を感じ取るだけではなく、また別の感想も抱えていた。

 あれほどまで広がっている異常性を外に漏らさないようにするのは、並大抵のことではない。

 だが、それを少年は見事に抑えこんで、内に在る異常を見事に隠し通している。

 紫は、少年の見事な隠蔽がこれまで普通の人間として生きてこられた理由なのだろうと考えていた。

 

 

「けれど、いくら上手く隠したところで話をしてみるとおかしい所が目に付くの。その在り方に目がいく」

 

 

 改めて言うが、普通に生きてきた事実が少年を普通と証明する証拠にはなりえない。紫は、普通に生きてきた少年を知っていても、それを普通と認めることは決してなかった。

 現に、今日少年と話をしていて少年の言動には異常なところがあった。少年と話した後である今ならば、少年の心に納得できる部分があった。その言動と心の中の相関性には特に矛盾もない。

 少年の異常性は、もはや見過ごせるレベルではなくなっている。心の中の世界で手を繋いでいた所から察するに、藍と少年は仲良くなったようであるが現実は受け入れなければならない。

 紫は、はっきりと少年の異常性を突き付ける言葉を藍へと告げた。

 

 

「彼は、大きな異常を抱えているわ」

 

「確かに、和友は異常でしょう……」

 

 

 藍は、表情を暗くして呟くように声を発し、少年が異常であるという言葉をゆっくりと染み込ませるように受け入れた。そして、藍紫の言葉を受け入れながらも凛とした表情でまっすぐ紫の瞳を見つめ、決意を持った顔で紫に向けて口を開いた。

 

 

「それでも、優しい―――いい子です」

 

 

 

 藍は、受け入れるばかりではなく紫の言葉に凛とした声で反論する。しっかりと目を開き、現実を目の当たりにしても視線を逸らそうともせず、紫にぶつかる。少年の異常を受け入れながらも、それを庇い立てするように擁護した。

 紫は、初めて真剣な表情で意見した藍に目を見張った。




全ての疑問が消えるまでは、オリジナルが続きます。


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与えられた温かさ、分からなくなる実体

「藍は、いやにあの子に肩入れするわね」

 

 

 紫は、予想外な藍の様子に疑問を持ち、扇子を口元に当てて心のわずかな動揺すらも悟られないようにして口を開いた。

 紫には、思っていた以上に藍が少年に肩入れしているように見えた。藍の少年に対する印象がついさっきまでと全く違うものになっているように感じた。

 

 藍の少年に対する対応は、心の中に入る前と後とで全く違っている。

 心の中に入る前の藍と少年の関係は、他人という間柄だった。これから同居人になる、これからお世話になる、そういう未来を想定していたとはいえ、関係はあくまで他人である。会話の内容も表情も固めだったといえるだろう。

 しかし、今の二人の関係は明らかに違う。藍の少年に対する声色が凛としている以上に、優しさが含まれている、表情も非常に優しいものだった。

 思えば、少年が居間から出て行くときもそうである。藍は、少年に感謝の言葉を述べている。

 そのうえ、藍は少年のことを名前で呼んでいた。他人という間柄に収まっていた関係が、他人という間柄の範疇をはみ出ていた。

 実際に今の藍の中での少年の立ち位置は、初めて出会った時とは雲泥の差がある。その差を生みだしているのは、紛れもなく少年の心の中での出来事が関係していた。

 藍に与えられた少年からの影響というのは、それほどに大きいものがあった。

 

 

「あの子の中でそれほどの何かがあったのかしら?」

 

「色々ありましたよ、色々と。和友も言っていたでしょう? 私は、和友の心の中の世界で1年近く過ごしたのですから」

 

「ああ……そうだったわね。あそこで1年、そう考えるとよく無事に帰って来ることができたわね」

 

 

 紫は、1年という言葉で心の中で少年が言っていたことを思い出した。時間の進み方が違う、それは少年が紫の下に辿り着いた時に告げた言葉である。

 紫は、少年の心の中で1年という期間を過ごし抜いた藍を心から称えた。

 

 

「私だったらきっと、すぐさま出て行ってしまっていたわ」

 

 

 紫は、きっと自分だったら逃げ出してしまっているだろうと、耐えられないだろうと、そう思っていた。

 しかし、紫のその思考には大きな間違いが含まれている。紫のこの考えには、自分の持つ境界を操る能力を使えば少年の心の中から離脱できるという前提条件が含まれている。それが―――間違いなのである。

 少年の心の中は、少年のルールによって成り立っている。少年の心の中は、少年が認めていない能力や技能の使用を許すことはない。

 紫の能力は、はっきりいうと少年の心の中に完全に入ってしまえば使えなくなるのだ。紫が少年の心の中に入れば、脱出することはかなわず、藍と同じ状態になったことだろう。

 違いがあるとすれば―――紫の場合は、流れている時間がものすごくゆっくりであるという点だけである。この点だけが唯一藍よりも条件がいいといえる部分だろう。

 ただ―――それだけである。

 

 

「和友のおかげですよ。私は、和友に支えられなかったら終わっていました。私の心は完全に折れてしまっていましたから……もう、死んでしまおうかとまで考えました」

 

「…………」

 

 

 紫は、死んでしまおうとまで考えたという藍の言葉に何も口に出すことができなかった。

 少年の心の中が藍にそれほどの影響を与えるものであるということは、紫も理解している。あんな無秩序の中に放り込まれていては、自意識を保っていられなくなるのは明白だ。何もかも分からなくなって、希望も曖昧になって無くなっていく。

 そんな世界で生きていられる方がおかしいのだから。

 

 

「心の中に有無を言わさず入れたことについては、悪いと思っているわ……でも、心の中で過ごした1年間とあの子は、関係のないことでしょう? あの子は、貴方を見つけて連れてきただけじゃない」

 

 

 1年間少年の心の中にいたことは、少年の肩を持つ理由にはなりえない。1年過ごしたことと、少年との話は直接的な関係が無いのだ。1年過ごしたということから少年と藍の間に何かがあったことを予測するのは、不可能に近いことである。

 能動的に動いていない紫は、少年の心の中で藍を見つけたわけでも、少年と藍のやり取りを見ていたわけでもないのだ。紫が藍の少年に対する変化を不思議に思うのは当然だった。

 藍は、紫の質問に目を閉じ、心の中での出来事を思い出すように静かに語りだす。

 

 

「あの子は……私を抱きしめてくれたんです。崩れそうになる私を支えてくれた。確かに和友の心の中は異常な世界でした。紫様から聞いた話の通り、和友の異常性を証明する世界でしかなかったです……」

 

 

 藍は、優しい声で語り続け、少年の異常性を受け入れてもなお少年のことを肯定する。

 

 

「それでも和友は、本当に辛い状態の相手にどんなことをしてあげればいいかを分かっています。辛い相手が一番して欲しいことがなんなのか分かっているのです。相手の気持ちを考えることができるのですよ」

 

 

 藍は、胸に手を当てて心をこめて言葉を口にする。少年からもらった温かさを少しでも紫に分かってもらおうと、少年から貰った温かい温度を、その時の想いを引っ張り出して口から言葉にして伝えた。

 

 

「和友は、他人の痛みを分かってあげられる。和友は、根はやさしい子なのです。そんな普通の子なのですよ」

 

 

 少年から受けた気遣いを思い出すだけで自然と暖かい温もりが湧き上がってくる。藍にとって少年のした行為は、それほど心の奥に深く刻まれていた。

 

 

「和友は、今までにあの子自身が辛いことを経験しているからか分かりませんが、母親の真似だと言って私のことを大事に抱きしめてくれました」

 

 

 

 

 ―――和友の心の中に入った当初―――

 藍は、少年の心の中にいた時、ずっと一人で苦しんでいた。絶望と恐怖と寂しさに支配されていた。

 

 

「ここは、どこだ? また紫様の質の悪い遊戯だろうか。紫様には、本当に振り回されるな……」

 

 

 藍は、少年の心に送り込まれた際に、まだどうにかなるだろうと安直に考えていた。これは紫様が悪ふざけでやったことだ、いずれ出られるだろうと高をくくっていたのである。

 しかし、藍のそんな予想とは違って―――紫はいつまで経ってもやってこなかった。

 

 

「いつになったら来るのだ。私は、いつまで待てばいい……ここから出る方法は……」

 

 

 問題は、紫が来ないだけではない。紫に放り込まれた意味不明な世界から出られる可能性が何一つ見つけられなかったことにもあった。

 謎の世界の外に出られる兆しは一切見えてこず、いくら歩き回っても何も見えてこない。

 藍は、そんな途方もない不安を抱えながら、途方もない世界の中で一人きりだった。誰もいない世界で、よく分からない世界で、異常な世界で、希望もなく一人きりだった。

 

 

「誰かいないのか?」

 

 

 藍の言葉に返事が来ることは無い。

 藍の言葉は、決して外には届かない。

 

 

「誰かっ!! 誰かいないのか!? どうして誰もいないのだ!! 私はここにいるのに……どうして紫様は……紫様はっ……」

 

 

 藍は、誰もいないと分かっていながらも大きな声で叫ぶ、不安を押し出すように喉を痛めるほどに叫ぶ。

 けれども、藍の叫びに対して何かが返って来る事はない。

 藍は、無力な自分と助けの来ない絶望的な状況の中で心をすり減らし始めた。少年の心の中では、能力が使えなかった。力を出すこともできなかった。

 藍は、飛ぼうと何度も挑戦した。現実の空間でやっているように霊力を使い、空を飛ぼうとする。

 しかし、体は重力に引っ張られるだけで、飛べる兆しは一切見られなかった。

 藍は、完全に少年の中のルールに沿っていた。

 

 

 ここで一つの疑問が湧いてくる。どうして紫は、少年の心の中でも能力を使うことができたのかという疑問である。

 紫は、少年の心から出る際も、少年の心の中を覗いているときも、能力を行使している。

 少年の心の中の世界で力を使う条件は2つある。紫は、その条件に適合していたために能力の仕様が可能になっていた。

 1:同じ性質の能力

 2:外の世界に体の一部が出ている

 紫が能力を行使した時、紫の体の半分は少年の心の中の世界の外に体を出していた。そのため、体の半分だけルール外になっており、能力が発動できていたのである。

 

 

「俺がなんとかして、こいつを見つけるから。心の中に他人が入っているっていうのも気持ち悪いからな。それに、問題は他にもある……」

 

 

 少年は、心の中に入る前に忠告するように紫に告げている。

 少年の言葉は、紫の能力を発動させるための一役を買っていた。

 

 

「あんたは黙って覗いていてくれ。俺は見つけることはできても、さすがに心の中から追い出すことまではできない。あんたも覗いている場所から動いてくれるなよ」

 

「分かったわ。あなたを信じましょう。私は覗いているだけにしておくわ」

 

 

 少年が完全に自身の心の中を理解していたとは思えないが、この言葉こそ紫の能力を発動させる条件を満たした要因であった。

 けれども、残念ながら藍は紫と異なり、少年の言葉を聞いてはいない。仮に聞いていたとしたら、頭のいい藍ならば能力が使えなくなった原因について把握できていたかもしれないが、そんな仮定の話はするだけ無駄である。藍はその会話をしていた時には、少年の心の中だったのだから。

 

 

「どうすればここから出ることができる? どうすれば、幻想郷に戻ることができる? 私は……本当に幻想郷に戻れるのか……?」

 

 

 藍は、力の出せない状況で、出口の見えないどうしようもない状況で、時間だけを経過させていった。

 藍の心は、少年の心の中でどんどん荒んでいった。孤独の毒と曖昧の歪みが藍の精神を蝕み、時間が経過するのに比例するようにしてボロボロになっていった。

 

 

「どうして、助けてくださらないのですか……? 私なんてどうでもいいということなのですか……?」

 

 

 藍は、主である紫に対して切実な思いを告げる。

 しかし、普段であれば地獄耳を立てている主は、決してやってこない。

 

 

「ふざけてないで出てきてくださいっ!! 私が悪かったですから、私が何かをしたというのなら謝りますっ! だから……助けてください……私を、見つけてください……」

 

 

 藍の心は、半年を過ぎるころには自暴自棄になって周りの物に当たってしまうほどに荒んでいた。

 むしろ、ここまできても耐えることができている時点で相当なものである。普通の人間であれば1カ月も生活できやしない。

 藍が少年の心の中に生えるように立っている標識を打ち壊したのは、そのころである。荒みきって、心が壊れていく最中のことだった。

 

 

「っ……いっそ死んでしまえば、幻想郷に戻れるのだろうか……」

 

 

 藍がいくら暴れても、何をしても誰も反応しない。藍は、何もかもが分からない世界の中で一人きりだった。

 藍は、ついに荒んだ心も維持することができなくなり、死んでしまおうとまで考えた。

 

 

「紫様……私は……」

 

 

 死ぬという考えを進めようとすると、両手を広げて遮るものがいた。藍の中に死のうという想いを押し留めるものがあった。死のうとは考えたが、記憶の中にある思い出たちが藍の最後の行動を押し留めていた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、最終的に自身の心を守るように俯いて待っているだけになった。体を動かす気力もなく、希望を持とうとすることもない。藍の心を支えるものは、もはや何一つとして存在しなかった。

 

 

 希望がやってきたのは―――そんな絶望に染まり切った時である。

 

 

「…………」

 

 

 藍が何もかもを諦めていた時に、生きることさえも諦めようとしていた時に、希望がやってきた。最も待ち望んだものが、最も求めていたものがやってきた。

 

 

(なんだろうか……)

 

 

 藍は、唐突に感じた頭の上に乗せられた程よい重さが気になり、目を開ける。

 頭の上には、自分のよく知っている形をしたものが優しく載せられている。頭の上から伝わって来る温かい体温が全身へと流れて込んでいく。

 

 

(あぁ、温かい……人の手……これは、人の手の温かさだ……)

 

 

 藍は、温かい人の手の感触に顔を上げた。凍えきった瞳で、塞ぎ切った心のまま数か月ぶりに頭を上げた。

 藍の瞳は、1年間とらえることができなかった人間の姿を映し出す。藍の視界に少年の姿が入り込んだ。

 

 

(ああ、ついに幻覚まで見えるようになってしまった……私は、もう終わりだな。最後に見たのが紫様ではないのが残念だ……)

 

 

 藍は、瞳に映し出された景色を信じることができず幻だと決めつけ、気持ちをふさぎ込んだまま頭を上げるために入れた力を抜こうとした。

 しかし、それを遮るように―――少年から最も欲しかった言葉が藍に向けて投げかけられた。

 

 

「ほら、帰るよ」

 

「っ…………」

 

 

 藍は、声を発した少年に注視した。手の温かさ、少年の姿、少年の声、これは夢ではない、錯覚でもない、幻覚でもない―――確かに、確実にそこにあった。

 少年は、廃れた藍のところにやってきた。藍は、意味不明な世界で一人ぼっちでは無くなった。

 藍の心が、温度をもって騒ぎ出す。久々に感じる人の手の柔らかな感触に歓喜し、人の声が鼓膜を揺らし、響いている音に心が狂喜し始める。人肌の温かさに打ち震え、思わず涙が出そうになった。

 藍は、意味不明な世界で、誰もいないと思っていた世界で―――人間と出会った。

 暴れ出す心は、枷が完全に外れたように動き回り、抑えることができずに爆発する。自然と涙がぽろぽろと溢れ出た。

 

 

「っっ……」

 

 

 藍には、溢れる涙を止めることができるだけの気力など残っていなかった、止めるつもりも無かった。

 

 

「ほら、もう大丈夫だから」

 

 

 藍は、少年の言葉が発せられると同時に大粒の涙を流し続けながら正面に立っている少年の胸に飛び込む。

 少年は、全てを包み込んでくれる暖かさで抱きしめてくれた、包み込んでくれた。少年の優しさと温かさが藍の意識を取り戻していき、荒んだ心を潤してくれた、凍えた瞳を温めてくれた。

 藍は、少年の体温と抱きしめる体から不思議と安心感や守られているような感覚を受けた。少年から伝わる温度は、ここにいるのだと、生きているのだと、一人じゃないのだと伝えてきてくれている。

 

 

「ちゃんと帰れるから、ちゃんと連れて行ってやるから。寂しかったよな。一人でずっと我慢してきたんだもんな」

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 藍は、少年から与えられるものにさらに涙腺を緩ませ大粒の涙を流した。優しい少年に弱い部分をすべてさらけ出すように涙を流した。

 少年は、物理的なものだけでなく、言葉によっても凍えて固まった藍の心を溶かしていく。泣きじゃくる藍に対してとても優しく接し、涙が止まるまで抱きしめてくれていた。

 藍の少年に対する気持ちが変わったのは、まさしくその瞬間だったといえるだろう。

 確かに藍は、この自分の心を折った意味不明な世界が少年の心の中の世界だと聞いた時は驚き、なんて言えばいいのか分からなくなった。

 しかし、少年が異常なものを持ちわせていても、それ以上の優しさを持っていることを知っている。少年の優しさは、何よりも素敵で、素晴らしいものだと分かっていた。

 それに、藍が少年を特別視するようになった理由は―――それ以外にもあった。

 

 

「俺の自慢の両親だよ」

 

 

 藍は、少年と話していても少年が異常を抱えているようには見えず、普通の子供のように見えた。名前を呼べないなんてちょっと不思議なことを言う子ではあるが、親のことを自慢し、笑っている少年に心が温かくなるのを感じたのである。

 少年は、変わっている、異常を抱えているといっても、普通の感覚を持っている人間の子供なのだ。

 藍自身が、紫から与えられた情報によって勝手に想像していた少年の印象を打ち崩すには、十分すぎるインパクトがそこにはあった。ちょっと変わったところのあるとても優しい子―――それが今の藍から見た少年の所見だった。

 

 

 ―――回想終了―――

 

 

 紫は、様変わりした藍と少年の関係を理解した。

 藍の心は完全に少年によって救われており、絶望の果てから救ってくれた少年に依存している。潤いを与えられ、手を差し伸べられ、恩を感じている。

 

 

「っ……」

 

 

 紫は、そっと唇をかんだ。少年の心の中へと放り込んだ自分の責任がいかに重いのか、今更ながらに感じ取っていた。自身の身勝手な行動で藍は苦しみ、そのしりぬぐいを少年がしたのである。

 紫は、心の中で反省し、今後無鉄砲なことをするのは止めようと、藍を巻きこむのは止めようと心に誓うと同時に、話を切り替えるように藍に尋ねた。

 

 

「……あの子は、親について何か言っていなかったかしら?」

 

 

 紫は、少年の親について気にしていた。先程の話から察するに、どうやら藍は少年と親についての話をしたような口ぶりだった。

 

 

「何でもいいの。両親に対する印象でも、思い出話でも、なんでもいいわ」

 

 

 紫は、少年の心の中に藍を探しに入るまでに少年と少しばかり話をしている。その際に少年は、不思議なことを言っていた。

 紫は、少年と少年の親について直接的な話をしたわけではなかったが、少年の言動から少年が親のことをどのように思っているかは大体予想がついていた。

 紫の予測が正しければ、藍から得られる答えは一つしかない。

 それは―――少年が両親のことを良く思っていないということである。

 藍は、ゆっくりと眼を開けて紫と目を合わせ、口を開いた。

 

 

「大事な自慢の両親だと言っていました。笑顔で、それこそ自分のことのように喋ってくれました」

 

「そう……それは、本当なのよね?」

 

「紫様、こんなことに嘘をついてどうするのですか?」

 

「……それもそうね」

 

 

 紫は藍が言っていることが信じられず、下を向く。

 藍は、うつむき暗い表情を浮かべる紫の様子の意味が分からなかった。子供が親のことを自慢するのは、酷く普通の事であり、別におかしい所はない。

 しかし、紫の反応は明らかに普通ではなく、どうも腑に落ちないという様子である。

 

 

「どうかしたのですか? 子供が親のことを自慢するのはよくあることだと思いますよ。微笑ましいことじゃないですか」

 

「確かに、それだけを聞くととても微笑ましいように思えるわ」

 

 

 紫は、下げていた視線を上げて口を開いた。

 藍は、昨日の出来事の全貌を知らない。知っているかどうかでこれほどまでに印象が変わってくる言葉もそうはないだろう。親のことを自慢し、笑顔を作る子供。その親は―――つい先日。

 

 

「でもね……藍にはこのことは言わなかったけれど、あの子の両親はすでに死んでしまっているの。昨日話した強盗殺人犯に家族みんなを殺されてしまっている。あの子の家族はもう、この世のどこにもいない」

 

「えっ……それは本当なのですか?」

 

「本当のことよ」

 

 

 紫は、意を決して藍に向けて詳しく話していなかった昨日の出来事―――昨日、少年の親が殺されてしまっていることを重苦しく口に出した。

 藍は、少年の両親が死んでしまっているという事実を聞いて動揺し、身を乗り出す。

 藍は、紫から少年が強盗に襲われて特殊な対処をしたことしか聞かされていなかった。強盗に対しての少年の対応の異常性についてしか聞かされておらず、両親が死んでしまっているなど寝耳に水だった。

 紫は、動揺する藍に追撃するように事実を突き付ける。

 

 

「あの子は昨日の夜に両親を失ったわ。あなたの言うことが本当なら、自慢だっただろう両親を殺されて、失った……」

 

「しっ、しかし!」

 

 

 事実を聞いた藍は、動揺を隠せなかった。藍から見た少年は、酷く普通で両親が昨日死んだなどみじんも感じさせなかった。

 藍は、紫の言葉を鵜呑みにできず、疑問を口にする。

 

 

「あの位の年の子が両親を失って1日後にあんなふうに過ごせるものなのですか? あんな冗談交じりのことを言えるものなのですか?」

 

「そんな訳がないじゃない」

 

 

 紫と藍は、少年がここで普通に話していたことを知っている。両親を失った少年は、普通にここで話をしていたはずである。両親が昨日死んだなんてことをおくびにも出すことなく、悲しそうな表情をすることもなく、3人で話をした、冗談交じりに話をした。

 

 

「だから、あの子はどこかおかしいのよ」

 

 

 あのちょっと不思議な少年が、ちょっと普通とはずれているような少年が、藍を抱きしめて優しくしてくれた少年が、昨日両親を失っているような様子に見えただろうか?

 少なくとも藍には、全く見えなかった。藍だけではなく紫も、少年が両親を失った直後には到底見えていなかった。両親を自慢しているときにも何一つ悲しさというものを感じさせなかったし、悲しい、重い雰囲気が全く伝わってこなかった。それほどに少年の振る舞いは、普通だった。

 

 

「最初はその現実を受け止めていないだけかと思った。気丈に振る舞っているのかと思っていたわ。でも、あの子は私にこう言ったのよ」

 

 

 ここで―――紫は、衝撃の事実を藍に告げる。

 

 

「そんなのは別にどっちでもいいよね。親が死んでは駄目なんていう決まりはないんだからって」

 

「そんなことを和友が言ったのですか!? 決まりがあるかないかなんて、関係がないでしょう!?」

 

 

 藍は、紫の言葉に気が気ではなかった。

 普通であれば泣いて悲しむはずなのに、普通であれば失ったものの大きさに立つことすら難しいはずなのに、少年はあろうことか両親が死んでもどっちでもいいと言ったのである。両親が死んでは駄目なんて決まりはないと真顔で言い放ったというのである。

 紫が両親についてあまりいいように思っていないと考えた根拠は、その少年の言葉からだった。その言葉があったから藍に少年が両親の事を自慢していたという事実を聞くまで、少年は両親の事を嫌っていると考えていた。

 

 

「ええ、そんな決まりなんてあるはずがないわ」

 

 

 藍の言う通り、親が死んで悲しまなければならない決まりなど存在しない。

 それは決まっているからどうするというものではなく、自然と感じるものであるからだ。両親が死んで悲しむのは、悲しまなければならないという決まりがあるからではない、失ったことによる喪失感が悲しみを自然と呼び起こすからである。

 決して誰かに決められて感じるわけではない。感情とは誰かに与えられるものではないのである。

 

 

「親のことを尊敬している、自慢にしている人間は、親が死んで悲しまないわけがないでしょう。それもそんな冗談交じりのことを真顔で言うなんて絶対にありえないわ」

 

「どうやったらそうなるのですか……私に見せてくれた優しさも、少し抜けているところも、和友の一部でしょう。けれども、そんな異常性も、和友の一部としてある。どうやって生きてきたらそんな、歪になるのでしょうか……」

 

「藍もそう思うわよね。あの子は、どうやってこれまで生きてきたのかしら……」

 

 

 藍は、紫から少年の異常性を語られて声をしぼませる。

 紫の話を聞けば聞くほど、少年の事が分からなくなる。不思議な子供、優しい子供、異常な子供、どれが本当の少年なのかが分からなくなっていた。

 少年は、外の世界で普通に学校に通い、普通の生活をしている。

 しかし、あまりにも目で見えるそれぞれの側面が違いすぎる。普通として生きていくためには、もっとうまく立ち回る必要があるだろう。

 紫は、少年と交わした言葉を思い返しながら口を開いた。

 

 

「あの子は、普通というものにこだわりを見せている。それなのにその普通とはかけ離れているような、そんなことを当然のように実行しているわ」

 

「もしかして、多重人格という可能性は無いのですか? それなら、いろんな側面を持っていることが理解できます」

 

「それは無いわ」

 

 

 藍は今ある情報から考えられる可能性を述べたが、紫は藍の提示した可能性を一刀両断した。

 

 

「心の中の世界を見たでしょう? あくまであの子の世界は一つしかないのよ。世界はとてつもなく広かったけど、世界が複数あるわけではないの。それこそが、多重人格を否定する証拠になっているわ」

 

「だとしたら、一体……」

 

 

 紫は、少年が多重人格という可能性を打ち消すことができるだけの証拠を保持しており、藍の言う多重人格という可能性を消し去った。

 藍は、提示した可能性を一瞬にして潰され、他に何か思いつくこともなく押し黙る。

 

 

 

「「…………」」

 

 

 二人の間に再び沈黙が訪れる。

 紫は、少年のことについて黙々と考えていた。少年がこんなふうになったのには必ず何かあるはずである、原因が全くないということはないだろう。

 ならば―――原因はどこにあるか。それは、少年の過去の何処かに置かれているはずだ。

 少年は、これまでずっと生きてきたのだから。

 暫くの間沈黙が場を支配すると、紫は座っていた状態からひざを伸ばして立ちあがった。

 

 

「藍、私はちょっとあの子の家に行ってくるわ。何か見つかるかもしれない。この子を育てた、その経過を記したものがあれば、何か分かるかもしれないわ」

 

 

 紫は、少年のことを調べるために少年の家に行こうと考えた。

 幸い、少年の家は一度少年と一緒に行ったことがある。少年が下校中について行っただけであるが、場所が分からないということはない。

 藍は、座ったまま紫を見上げ、口を開いた。

 

 

「和友がこれまで過ごしてきた経歴を探すのですね」

 

「ええ。このままじゃあの子のことがさっぱり分からないわ。あの子と話していると不思議に思うことばかり……何かあるはずなのよ。あの子がああいうふうに生きている何かがあるはずなの」

 

「紫様。絶対に、絶対に見つけてきてください」

 

「ええ、任せなさい」

 

 

 藍は、願うように言葉を口にした。

 紫は、少年が一番長い時間を過ごした場所、少年が一番長く接していた人間がいた場所、少年が一番多く学んだ地へと向かう。少年が過ごしてきた、少年が生きてきた手掛かりを探しに行くことを決意し、現場へと移動を開始する。

 

 

「行ってくるわ」

 

「いってらっしゃい」

 

 

 紫は、藍と挨拶を交わすとスキマを作ってその中に消えて行った。少年のこれまでを探すために、少年の心をさがすために、少年の家へと向かった。

 紫は、これから誰一人帰ってこなくなった家の中を探索することになる。誰一人いなくなった家で、誰かが住んでいた証拠を探していく。

 きっとそこには―――‘積み重ねられた’少年の歴史があるはずなのだから。



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家に入った、探し物が見つかった

紫と藍は、少年のこれまでを知るために少年の過去を探りはじめる。


 紫は、藍と会話をした直後、幻想郷から外の世界へと移動していた。移動方法は、少年にも見せたことのあるスキマを使った空間移動である。

 

 

「ここがあの子の家だったわね」

 

 

 紫は、少年の家のすぐそばまでスキマで移動すると少年の家へと歩いて近づく。

 もちろんではあるが、境界を弄り、他人からは見られないようにしている。これは、昨日少年と出会ったときと同じ状態である。

 

 

 紫は、少年の家を視界の正面に見据えて立ち止まる。

 少年の家は、そこまで大きくなく、こぢんまりとしているといった印象を受ける家だった。

 

 

「いつも生活していた家の大きさがこれぐらいだとすると……あの子がマヨヒガに来てはしゃいでしまうのは、無理もないことかもしれないわね」

 

 

 紫は、少年の家を見て初めて少年がマヨヒガに入った時の様子を思い出した。

 マヨヒガに入った時、少年は周りをきょろきょろと見渡し、目を輝かせていたように思う。改めて少年の家の大きさを見ると、マヨヒガを見たときの少年の行動は非常に納得できた。

 紫の目の前にある少年の家の大きさは、マヨヒガを見て楽しそうにしていた少年の様子が理解できる程度に小さい一軒家であり、見上げるほどの高さは無かった。

 紫は、もしかして周りの家も全体的に小さいのではないかと少年の家以外の周囲の家に視線を移し、ざっと眺めた。

 

 

「周りの家と比較すると、同じぐらいの大きさよね」

 

 

 大きさ的には周囲の家とさほど変わらないようには見える。

 しかし、どういうわけか少年の家は隣に並んでいる家や周りの家と比べても少しだけ小さく見えた。

 紫は、一通り周りを見渡した後、不思議そうに呟いた。

 

 

「でも、こんなに小さかったかしら……?」

 

 

 紫は、初めて少年に会った日―――少年が家に帰る時に、少年の家を一度見ている。頭の中には、昨日見た少年の家が鮮明に思い出せた。

 しかし、頭の中に想起した家の大きさと今目の前に見えている家の大きさにギャップを感じるのはなぜだろうか。

 紫には、以前少年と一緒にここに来た時より、家の大きさが少しだけ小さいように見えていた。

 

 

「気のせいかしらね。あの時は、そこまで家の方はちゃんと見ていなかったし……」

 

 

 紫は、無理やり納得して一歩ずつ少年の家へと近づいて行く。そして、歩みを進めると共に前日に来たこの場所を振り返った。

 紫が最初に少年の家に来たのは、警察車両がうるさく喚き、少年の家で何かがあったのが見受けられた時である。

 あのとき少年は、家に帰宅して、強盗殺人犯と相対して、左の掌を貫かれながら強盗殺人犯を打倒した。

 紫は、昨日のことを思い出しながらそっと家の玄関へと視線を移す。すると誰もいないはずの少年の家の前には、何者かが立っていた。

 

 

「警察官がいるのね。無人の家だというのにご苦労なこと」

 

 

 事件の現場である少年の家には、警察官が見張りをしていた。

 昨日の事件後、ずっと見張りをしているのだろうか、無人ということで空き巣に入る人物がいる可能性を考慮してのことだろうか。すでに犯人は捕まっているのに、仕事熱心なことである。

 しかし、さすがに大勢の人数がいるわけではないようだった。犯人が捕まっているのに多くの人間を割く理由はないためだろう。いるのは、若い警察官が一人だけだった。

 

 

「あの子がこれまで生きてきた記録が、警察に持っていかれていなければいいけど……」

 

 

 紫は、少年の家の前に警察官がいることに対して少しばかりの不安を抱えた。警察官がいるということは、つまり事件はまだ終わっていないということを示している。

 紫は、警察が少年の過去の痕跡を持っていってしまっている可能性を考えた。事件があった現場なのだから、家の中の物を参考資料として持っていってしまっている可能性は無視できない。

 だが、そう思ったのは一瞬だった。

 紫は、ちょっと考えたところで警察が物をとっていってしまっている可能性はないとすぐさま楽観視した。

 理由は簡単である、そんなものを持っていく意味がないからだ。

 

 

「いえ、そんなことはあり得ないわね。あの子の両親が他殺で、犯人がすでに捕まっていることを考えれば、あの子の記録が持っていかれることはまず無いわ」

 

 

 警察は、ただ体裁を守るために少年の家を守っている。

 なぜならば、家の中は無人―――少年の家族は強盗殺人犯に殺されており、その少年の家族を殺した犯人はすでに捕まって死んでしまっているのだから。少年の家の前で陣取るようにして立っている警察官には、何も守るものなどないのである。

 あるのは警察としての体裁だけであり、あくまで事件の在った場所の秩序を守るという警察官の仕事の一つを完遂するためである。決して―――事件を起こした犯人が少年であるとたどりつき、少年が戻って来るのを待っているわけではないのだ。

 

 

「さすがにあの子の能力を知っている人物が他にいるとも思えないし、事件の犯人だということにはならないでしょう。行方不明になっていても物までは取られていないでしょうし……」

 

 

 この強盗殺人事件の本当の犯人は、今―――幻想郷で普通に生きている。

 しかし、強盗殺人事件の本当の犯人は誰にも分かりはしない。一般の人間はもちろんのこと、警察官も同様に、少年が犯人であるという可能性など欠片も考えることができないだろう。

 普通の人間から見れば、少年が殺人を犯したわけでも、少年の家族が殺人を犯したわけではないのだ。殺人犯が捕まり、事件が終わりを迎えてしまっている今となっては、調査する理由も必要もない。

 少年が容疑者として挙げられないのならば、警察が少年の家から物品を取っていくことは無いと容易に推測できた。

 

 

「考えるだけ無駄ね。どうせ探すことになるのだから、考えたって仕方がないわ。さっそく探しに行きましょうか」

 

 

 紫は、考えても無駄な思考を止めて本来の目的である少年の家での物探しに意識を集中する。警察官を横切り家の敷地へと入り、警察官に気付かれないように家へと近づいていく。

 

 

「こうしていると、どうしても思い出してしまうわね」

 

 

 紫の足がふいに玄関の前で止まった。

 紫は、大きく息を吐いてちょっと前までの事を思い返す。少年を見つけるために奮闘した数ヶ月間を記憶の中から引っ張り出した。

 

 

「あの時は本当に驚いたわ……境界の揺らぎを探して外の世界に来たはいいけど、揺らぎの原因が全く分からなかったんだもの」

 

 

 紫は、境界の揺らぎを数ヶ月前から探していた。真剣に、真面目に目を凝らして探した。

 それでも、はっきりとした違和感を見つけることができず、数か月を棒に振った。それだけで少年がどれほどうまく隠していたかが理解できるだろう。

 

 

「ただ、早朝にだけは割とはっきりとした違和感を見つけることができた。そうはいっても、希薄なものだったけど……」

 

 

 紫は、早朝においてのみ異質な場所をある程度特定することができた。そのため、慣れない早起きをまでして違和感の根源を探していた。

 

 

「あの子、学校では全く違和感を出さないんだもの。まさか、この私が早起きすることになるとは思わなかったわ」

 

 

 少年の違和感は、他の人間がいる所では上手く隠せていた。早朝に漏れ出していたのは、登校の時間は一人でいるためだろう。

 紫は、かすかに漏れ出していた違和感を特定することに成功した。

 

 

「数か月間違和感の原因を探して、あの子が原因だと疑ったところまではよかったけど……あの子が私の姿が見えている様子を示さなかったら、あの子が原因だと確信できなかったでしょうね」

 

 

 それほどに少年は、上手に能力を隠しきっている。紫が注意深く観察しようとも確信が持てない程度には、隠し通すことができていた。

 

 

「あの子は、あそこで唯一の失態を犯した。見えていないはずの私に話しかけるなんて、私が原因ですと言っているようなものよね」

 

 

 そうは言うものの、上手く隠し通していた少年が見つかってしまったのは真理だったといえよう。

 少年と紫の能力は、酷似している。かたや境界を操る能力、かたや境界を曖昧にする能力―――その能力の近似が、少年を問題の特異点であると判断する要因になった。

 具体的には、少年が見えないはずの紫に対して口を利いてしまった、能力が類似しており見えたがために口を開いてしまったことが、全ての発覚の原因である。

 

 

「私がはっきりと見えていたというのなら、あの子は私の境界操作を看破してみせたということになるわね」

 

 

 本来見えないはずの紫が見えていたということはつまり、少年にとっては紫の境界操作など意味を成していなかったということになる。

 

 

「私の境界操作による不干渉を目のフィルターを通して脳内で変換しているのかしら。あの子にとって私の境界操作はあってもなくても同じ……か」

 

 

 少年に紫の姿が見えていた理由は、おおよその予想がつく。少年には紫の周りの弄られた境界が認知されなかったのだろう。

 紫の弄った境界は、少年の目というフィルターを通った時にまた別の物として脳内で変換されている。少年が紫の姿を捉えることができたのは、そのために起こった現象だと考えられた。

 

 

「あの子にとって境界とは―――曖昧なもの。不安定で揺らめいて、ふわふわとしている不確定なもの。だったら、私の境界操作がうまく働いていないのも頷けるわね」

 

 

 少年にとって境界とは、酷く曖昧なものである。

 少年の境界線の認識は、心の中の世界と同じように揺らいでいる。少年の境界線の認識が紫によって数センチずれたとしても―――もともと揺らいでいるものが数センチずれていたとしても、それは揺らいでいる誤差の範囲内で収まってしまう。

 少年は、紫の操っている境界を曖昧なものとして捉えたのだろう。

 紫は、少年に看破された理由を理解すると少しだけほほ笑んだ。

 

 

「ふふっ、私もまだまだ甘かったってことね。でも、見えないことが功を奏したという意味ではよかったと捉えるべきかしら? まぁ、私がちょっと本気を出せば見えなくなるでしょうけどね」

 

 

 紫の能力の熟練度から考えれば、紫が少年に見えないようにするという方向に意識の全てを持っていくことで、少年から見えないように対処ができるだろう。

 だが、同時にそれは他の人に見つかってしまうリスクが高くなるということを意味している。

 少年に見えないということが、必ずしも他の人に見えないということにはならない。少年から見られないようにするためだけに能力を使うのかと問われれば、昨日の状況ではNOである。

 だから紫は、少年に姿が見えていようとも、それに対して何かしら見えないようにする努力をすることはしなかったし、特殊な対応をとろうとはしなかった。その結果として、少年にだけ紫の存在が見えていたという結論が導き出されていたのである。

 

 

「ふふっ、本当に面白い子だわ」

 

 

 紫は、うすら笑いを浮かべながら少年の家の入口へ手を掛ける。紫の手に力がかかると同時に扉が音を立てて開け放たれ、中を見通すことができるようになった。

 

 

「おじゃまします」

 

 

 紫は、少年の家に入る際に律儀に挨拶の言葉を言い放った。別に声を出しても全く問題ないと言わんばかりに自信満々に告げ、隠す必要もないと言わんばかりに足音を消すことすらなく少年の家に上がり込む。

 警察官は―――家へと入る紫の存在に何一つ気付くことなく守るべき家への侵入を許した。玄関の扉は静かに閉じられ、家の中には紫だけが存在する状態となった。

 

 

 

 

 

 

「さて、どこから探しましょうか」

 

 

 紫は、扇子を開き、家の中に目を配る。

 家の内壁の色は、白で統一してあるようだった。

 

 

「ひとまず近場からね」

 

 

 紫は、ひとまず一階の探索から開始した。靴を脱ぐこともなく、足跡をつけることもなく家へと上がり込み、周りを見渡しながら廊下を歩いていく。少年が初めてマヨヒガへ足を踏み入れたときと同じようにきょろきょろと周りを確認した。

 しかし、玄関と同様に家の中も扉が全て閉まっていたため、外からでは部屋の中の様子は覗くことができない。

 紫は、ひとまず目についた家の中の一番広そうな部屋へと入り込んだ。

 

 

「思っていたよりも広い。ここがリビング……キッチンと繋がっているのね」

 

 

 紫は、外から見た少年の家の外装から家の中の部屋の大きさある程度予測していたが、少年の家のリビングは予想よりもはるかに広かった。部屋の大きさに対する予測が外れたのは、リビングがキッチンと繋がっているためかもしれない。

 紫は、リビングを見渡している最中にあるものがないことに気付いた。

 

 

「珍しいわね、あの子の家にはテレビが置いていないのね。今時テレビの無い家族なんていないでしょうに……」

 

 

 少年の家のリビングには、普通の家庭であればあるはずのテレビが存在しなかった。

 あるのは机と棚、電話ぐらいだろうか。棚には食器や小道具、おもちゃらしきものが置いてある。小学生が遊びに使っていそうな物から3~4歳の遊び道具までも飾られている。

 少年の家では、こういった思い出になるものを全て保管しているようだった。

 紫は、リビングを一通り見渡した後、ここには少年の過去を知ることのできる物はないと判断した。

 紫には、リビングに少年の過去が分かるような物が置いてあるとは到底思えなかった。

 

 

「ここには、あの子の過去について分かるものは置いていないわね。あの子の秘密がおおっぴらに置いてあるとは思えないわ」

 

 

 リビングという場所は、通常人の出入りが最も多い場所である。友達が来たときも、親戚が来たときも、おそらくリビングを使うことが推測される。

 友達が来た場合には、個人の部屋を使うことの方が多いのではないかと考える人も多いかもしれないが、少年に限ってそれはありえないのだ。

 少年のことを考えると、自分の部屋に友達を入れるということは非常に考えにくい。少年の部屋にこそ少年の異常性が詰まっているに違いないのだから、そんなところに普通の人間を入れることはしないはずなのである。異常を嫌い、普通を望んでいた少年ならば、絶対に異常の隠れた自分の部屋に入れることはしないはずだった。

 消去法的に多くの来訪者は、リビングに通されてそこで話をすることだろう。それならば、人の出入りが激しい場所に少年の秘密が隠されているとは考え難かった。

 紫は、リビングの捜索を放棄し、一階にある部屋を片っ端から覗いてみることを決める。

 

 

「他の部屋は、結構狭いわね。それに部屋数も多くない。6畳間が1つ、それにお風呂にトイレ。一階にはこれだけね」

 

 

 部屋の数は、扉の数から判断するとリビング、トイレ、お風呂場、寝室の4部屋だけのようである。

 一階の部屋は、紫が予測していた通り狭い部屋が多い。紫は、外から見た少年の家の外寸からして寝室の大きさを6畳間だと断定していた。

 紫は、トイレとお風呂場を当然のように無視して6畳間だと断定した部屋の扉に手を伸ばし、ドアノブに手をかけ回そうとする。

 

 

「え?」

 

 

 回転方向に力を入れたドアノブが回ることはなかった。ガチャガチャと鍵がかかっているということを知らせる音だけが空しく響き渡る。

 紫は、怪訝そうに眉をひそめた。

 

 

「鍵がかかっている? 家の中なのに、誰に対して何を守るのかしら」

 

 

 家の中の部屋に鍵をかける必要がはたしてあるのだろうか。玄関の戸締りがしてあるのは、分からなくもない。無人となっており決して誰も訪れる事のない場所―――それは絶好の空き巣のチャンスだからである。

 しかし、部屋に鍵がかかっているのは不自然である。家の中には誰もおらず、誰もいない部屋に鍵をかける、それだけ聞くと普通のように感じるが、中にいるはずの人は、中に戻るべき人はもう二度と戻ることは無いのである。

 それなのに、部屋には鍵がかけられている。それだけ用心深い人物だったということなのだろうか。

 

 

「警察がかけたのか、それともあの子の家族がかけたのか……まぁ私にとっては、どっちでも変わらないわ」

 

 

 紫は、ドアノブから手を離すとスキマを開いて右手を突っ込み、スキマに突っ込んだままの右手を左に90度回転させる。すると、部屋の奥の方からガチャっと部屋の鍵が開く音が聞こえた。

 紫は、‘カギがかかっていた’部屋を素通りするように中へと入りこむ。

 紫にとっては鍵がかかっているのか、かかっていないのかはさほど影響しない、一手間かかるだけの些細な問題である。

 

 

「煙草のにおいが染み付いている」

 

 

 部屋の中に入った紫は、最初に嗅覚からの刺激を感じ取った。

 扉を開けた部屋の中からは、染みついた煙草の臭いが広がってくる。煙草の匂いが部屋の中に染みついているだけでなく、男くさい汗の臭いも少しばかり鼻についた。

 

 

「ここは、どうやら父親の部屋のようね」

 

 

 紫は、体を完全に部屋の中へといれて部屋の全体を見渡す。見た限りにおいて一階の一人部屋で生活しているのは、父親のようだった。

 

 

「随分とカメラと写真が並んでいるわね。父親の趣味は、写真を撮ることなのかしら?」

 

 

 父親の趣味なのか、机の上にカメラが複数台置かれており、写真が並んでいた。さらには、リビングとは異なり、テレビが一台あった。誰かがここで生活している、そんな生活していた痕跡が見受けられる部屋だった。

 

 

「さて、この部屋にはあの子に関わる何かがあるかしら?」

 

 

 紫は、いたるところに手を伸ばし、父親の部屋の中の物品を見定める。

 今欲しいものは、カメラでもテレビでもない。今必要なものは、少年に関するものである。

 

 

「これは……」

 

 

 紫は、少年の父親の部屋を漁っていると、あるものを見つけたところで手を止めた。

 

 

「これが、あの子のアルバムかしら?」

 

 

 紫は、赤いブックカバーにアルバムと書いてある冊子を手に取ると中身を確認する。

 アルバムの中に入っていたのは、数多くの笑顔の塊だった。写真の中には、両親の間に挟まれた少年の無邪気な笑顔が写っている。

 紫は、少年の笑顔に少しだけ頬を緩めながらページをめくった。

 

 

「随分とたくさんあるのね」

 

 

 たくさんの写真が撮られている。父親は、少年が小さいころから自慢のカメラを使って多くの写真を取ってきたのだろう。アルバムの中には、少年が大きくなっていく過程がよく映し出されていた。

 

 

「こう見れば、年相応の少年に見えるわね」

 

 

 実に、微笑ましい写真である。家族みんなが笑顔で、見ているこちらまでにこやかになってしまいそうな写真ばかりがアルバムの中には存在していた。

 しかし、暫くアルバムの中の少年を見つめると先程まで緩ませていた表情が戻った。

 

 

「けれども、これを演技でやっている可能性がある。学校でのあの子の様子を見てしまうと、どうしても演技で笑顔を作っている可能性を考えてしまうわね……」

 

 

 少年と直接話をし、心の中まで見た後では、写真の中の少年の笑顔にどうしても違和感を覚えてしまう。この笑顔が本心からの表情であるのか、それともそういうふうに無理にでも笑顔になるように写真を取っているだけなのか、紫には判断がつかなかった。

 最初は、写真の中の少年の笑顔が自然に浮かんでいるものだと思えていたが、どうしてももう一方の可能性が頭の裏にちらつき、純粋に見ることができなかった。

 

 

「いいえ、こんなことを考えている場合ではないわね……」

 

 

 紫は、停滞する思考を振り払うと父親の部屋の中の探索を再開し、探し忘れが無いようにくまなく探す。タンス、本棚、机、テレビ台の中まで手を伸ばす。

 しかし、いくら探しても少年に関する物はアルバム以外には見当たらなかった。

 

 

「ここでは、アルバム以外見つからないわね。次の部屋を探しに行きましょう」

 

 

 紫は、父親の部屋での少年の手がかりの捜索を断念し、父親の部屋の探索を止めると同時に部屋の内装が入った時と一切変わらないように、元通りの状態に戻した。何事もなかったように、何一つ変化がないように、綺麗に元通りに戻した。

 

 

「私が入りこんだ痕跡は、残さないようにしないとね」

 

 

 紫は、部屋の中の全てを過去の状態に戻すと片腕にアルバムを持って部屋を出る。父親の部屋の扉を閉め、最初に入った時のように、スキマに右手を差し込み、鍵を閉めた。

 これで紫が入る前と入った後で、部屋の様相は全く変わらない。消えたアルバムを除いて全てが元通りになった。

 

 

「一階はこれで全部だから、次は二階ね」

 

 

 紫は、迷うことなく二階へと足を運び、階段を上って二階へと進む。

 階段を上りきると3つの部屋が並んでおり、それぞれの部屋に札がかかっているのが視認できた。

 

 

「部屋が三つ、あの子と、あの子の母親、そして物置部屋ね」

 

 

 左から順に少年の部屋、物置部屋、そして母親の部屋である。

 

 

「ひとまず、あの子の部屋に入ってみましょうか」

 

 

 紫は、その3つの部屋から最も少年に関わるものがありそうな少年の部屋に入ることを決めて扉を開けた。

 

 

「ここがあの子の部屋……何もないのね」

 

 

 紫は、余りにも閑散としている少年の部屋の中を見て驚嘆した。それほどに少年の部屋には物が少なく、机、ベッド、あると言えばそれだけの部屋だった。

 

 

「まるで……牢獄のよう」

 

 

 紫は、そっと部屋を見た感想を呟くと机へと意識を向ける。

 机には、小学生時代の本、中学に入ってからの本が並べられていた。

 紫は、机へと意識を向けた際に机の横にある、あるものに目を奪われた。

 

 

「これは……ノート? 一体何冊あるのかしら?」

 

 

 閑散としている部屋に異質にそびえ立っている―――目立っている物があった。それは本来であれば、決して目立たない物であり、普通にあるような物である。

 しかし、そんな普通の物が圧倒的な存在感を放ってそこにはあった。

 

 机の横に机より高くあったのは―――積み立てられた圧倒的な数のノートである。

 

 少なくとも100冊は積まれているだろう。ノートの膨大な量が少年の異質さを醸し出し、少年の異質さの度合いを表しているようで気持ちが悪くなった。

 

 

「見ても、いいのよね……?」

 

 

 意識せずとも、そのノートの中身が見てはならないもののように感じてしまう。机の横にある、机の高さを越えている、ノートの積立。まるで、積み木のように積み立てられた少年の歴史である。

 紫は、少しばかりの罪悪感を覚えながらもノートに手を伸ばす。紫の伸ばされた手は、ノートの一番上に着地した。

 紫は、一番上の一冊を手に取って中身を確認するために、ぱらぱらとページをめくり、中に書かれている文字を視界に収める。

 紫は、ノートの中に書いてあるものを把握した瞬間に驚きを含ませた様子で目を見開いた。

 

 

「これは……そういうことだったのね」

 

 

 頭の中で引っかかっていた物が全て取り除かれるような、ジグソーパズルのピースが上手くあてはまるような納得の気持ちが一気に湧き上がってくる。

 紫の目の中に飛び込んできたものは、紫が欲していた少年の情報の欠片であった。

 

 

「これは……あの子にノートと鉛筆を軽々しく渡したのは、失敗だったかしら」

 

 

 紫は、ノートをパラパラと一気にめくって中身を確認する。そして、ほんのわずかの時間ノートの中身を見つめると、すぐさま元の場所にノートを戻した。

 

 

「っ……」

 

 

 紫は、静かに唇を噛み、大きな溜息を吐く。

 

 

「はぁ……何をムキになっているのかしら。私が何を想ったところで何も変わらないのに」

 

 

 紫は、肩の力を一気に抜き、無言のまま机の隣をゆっくりと歩きながら右手をスーッと机の上でスライドさせる。すると、ある所で紫の手に違う感触が伝わって来た。

 

 

「……何かしら?」

 

 

 紫は、指先から伝わって来る新しい感触に歩みを進めていた足を止めた。違和感を伝えてきた紫の手の下には、一枚の紙があった。

 紙には、クラスメイトの名前が書かれていた。

 紫は、その自分の手の下にある紙ではなく、すぐそばにある別の紙へと意識を奪われた。

 

 

「小学生時代の通知表……」

 

 

 机の上には、クラスメイトの名前と同様にして少年の通知表が置かれていた。そこには、おそらく学校での少年の姿が映し出されていることだろう。

 紫は、通知表の中身を見る前にここには欲しい情報が含まれていないと直感的に思った。

 

 

「こういったものでは、私達の欲しい情報は書かれていないでしょうね」

 

 

 紫が見た少年の学校での様子は、まさしく普通である。異常は全く見受けられない、ただ人間があるように生きているだけ、それ以外の何物でもなかった。それ以上の何かでもなければ、それ以下でもなく、そんな様子に見えていた。そんな異常性を感じさせなかった少年のことが通知表に書かれている、それだけのことで、それだけでしかない。

 

 

「どうせあの子は、そういうところでは上手くやっていたに決まっているわ」

 

 

 紫や藍の欲している少年の深層心理というのだろうか、根元となっている部分を少年の担任ともいえる人物が把握できていたかと考えると、絶対にできていないと思われた。

 担任の先生に少年の能力を打破する術はない。だから、担任の先生が書く通知表なんてものには意味が無いと思った。

 

 

「けれども、どうしようかしら?」

 

 

 紫にとって意味のない通知表であるが、紫は通知表を持って帰るかどうかで悩んだ。本来の少年が書かれていないというのならば、逆に言えば通知表には隠している時の少年の姿が書かれているはずだ。

 紫は、ノートの存在を一緒に考えると、マヨヒガへと持ち帰った方が良いように思えた。

 それは、少年のことを何も知らない藍のためである。

 

 

「藍は、あの子が外でどんなふうに生活しているか見たことがないのよね……」

 

 

 マヨヒガには、少年のことを何も知らない藍がいる。

 紫は、少年の学校生活を覗いているため知っている、普通を守ろうとしていたことを知っている、日常を大切にしていたことを知っている。だから、少年が何を想っていて、何を大切にしているのかおおよそ理解できる。

 しかし、藍は少年の日常での顔というものを知らない、少年が普段どんなふうに生きてきたのか知らない、どういう風に生活して周りからどのように見られているのか知らない、少年が何を守ろうとしていたのか、何を大事にしてきたのかを知らない。

 少年の大事なものを理解するということは、少年自身を理解するために最も必要なことである。そのためには、通知表という外部から見た少年の姿が書かれているものは、持ち帰った方が良いように思えた。

 

 

「……持っていきましょうか」

 

 

 紫は、持って帰っても少年の本質を知ることはできないと分かっていながらも通知表をアルバムと一緒に持ち帰ることに決めた。

 これで、少年の部屋でやるべきことは全てやった。紫は、父親の部屋と同じように全てを元通りに戻して部屋を出る。次の目的地へとアルバムと重ねて持ち歩き始めた。

 

 

「次は、母親の部屋ね。物置に大事なものを置いておく人間などいないわ」

 

 

 紫は、少年と母親の部屋の間にある物置となっている部屋を無視し、真っすぐに母親の部屋の扉を開けて入り込む。

 

 

「母親の部屋は、あの子の部屋と違って普通ね」

 

 

 母親の部屋は、ごく普通のプライベート空間だった。化粧台があり、机があり、テレビがあり、ベッドがある。化粧品が並び、女性誌が置いてある。クローゼットには服がかけられており、普通の女性の部屋と呼べる場所だった。

 紫は、母親の部屋を探索するために、手を塞いでしまっているアルバムと通知表を机の上に置いて部屋を見渡す。

 

 

「さて、どこから探しましょうか……」

 

 

 紫は、部屋の隅の方から漏らす所なく探し始める。

 しかし、なかなか目につくものを発見できなかった。

 

 

「何も出てこないわね。この部屋には何もないのかしら?」

 

 

 紫は、時間をかけて様々なところを探してみたが、母親の部屋からは少年に関するものはなかなか出てこず、母親の部屋には特に少年に関する物は無いのではないかと考え始めていた。

 

 

「いえ、何かあるはずよ。アルバムだけなんてことは絶対にないわ」

 

 

 紫は、そんな沸き立つ考えを振り払うように顔を左右に数回振る。

 紫は、ここで諦めるわけにはいかないのだ。今までに見つけた物では、少年について理解するのに十分でない。少年の過去の一部はノート見て確信しているが、全貌が明らかになっているわけではない。少年の書いたノートは、ノートだけで全てが分かるような絶対のものではないのである。

 何かしらあるはず、紫は探すところがなくなる最後まで母親の部屋の探索を続けた。

 

 

「……?」

 

 

 紫は、探索の途中、あるところで停止する。

 ちょうど化粧台に付属している引き出しを一つずつ開けていた時のことである。3つの引き出しの上2つは何事もなく開いたにもかかわらず、一番下の段にだけ鍵がかかっており、開けることができなかった。

 

 

「ここだけ鍵がかかっているのね」

 

 

 紫は、一階で父親の部屋を開けた時のように、能力を用いて引き出しを開ける。そして、音を立てながら開いた引き出しの中へと目を向け、中身を確認した。

 

 

「何が入っているのかしら?」

 

 

 引き出しの中には、これまた複数のノートが入っていた。

 紫は、ノートを手元に引き寄せ、表紙に書かれている文字に注視する。

 そのノートの表紙には、ある言葉が書かれていた。

 

 

 

 

 ―――和友の成長記録―――

 

 

 

 

 

「これは、あの子の成長記録? 探していた物がピンポイントで見つかったわね」

 

 

 紫は、このノートに少年のこれまで生きてきた証が間違いなく書いてあると確信した。

 しかし、その場でノートの中身を確認することはしない。ここで読んでしまってもいいのだが、マヨヒガに藍を待たせていることを考えると、できるだけ早く戻ったほうがいいと思った。

 紫は、思考の流れのままに取り出したノート3冊をアルバムと通知表の上に置いて持ちやすいように重ねた。

 

 

「この家で見つけられるのは、こんなものかしらね。他にはめぼしいものは無いようだし、帰りましょう」

 

 

 紫は、アルバム、通知表、ノートの3冊を腕に抱えながら顔を上にあげて真っ白な天井を見つめ、ゆっくりと床につけていた足を離し、宙に浮く。そして、そのまま高度を上げて天井にぶつかりそうになると、天井にスキマを開いて壁を綺麗に通過した。

 

 

「藍は、ちゃんと待っていてくれているかしら?」

 

 

 紫は、スキマを通って少年の家から出ることに成功し、浮き上がっていく中で真下にある少年の家を見降ろした。

 紫の高度が上がっていくに従って少年の家との距離が遠くなり、少年の家が相対的にどんどん小さくなる。

 紫は、少年の家が小さくなるのを見ながら、あることに気付き、悲しそうな表情を浮かべた。

 

 

「もう、この家は……ただそこにあるだけになってしまっているのね」

 

 

 紫は、真下にある少年の家を今日初めて見たとき、なぜ小さく見えたのか分かった。

 少年の家は、守るべき存在を失ってただの塊になってしまっているのだ。

 これから誰ひとりとして入らない家、誰も戻らない家。少年の家は、存在意義を無くして何の気なしにそこに建ち続けている、ただそこにあるだけの何かになってしまっている。だからこそ、他の家よりも格段に小さく見えたのだろう。

 

 

「今までお疲れさま。あの子は、あなたの代わりに私達がしっかり見守ってあげるから安心しなさい」

 

 

 紫は、役目を終えた少年の家にねぎらいの言葉を送る。

 少年とその親子が住んでいた小さな家は、帰らない者達をその身体が朽ち果てるまで待ち続ける。これからも、ずっとひたすらに健気に待ち続けることだろう。

 唯一帰ることができる人間は少年だけで、この家に戻ってくる人間は―――少年だけしかいない。そして、少年を出迎えることができるのも―――この家だけしかいない。

 紫は、そのことを考えると少し悲しくなった。

 だが、何も無いよりははるかにましである。言い方を変えれば、少年にはまだ家が待っているという言い方ができるのだから。

 

 

「いずれあの子がここに帰ってくるまで、あなたは待っていてあげなさい。あの子がちゃんとこの世界で生きていけるように待っていてあげなさい。もう、あの子を待っていてあげられるのはあなたしかいないのだから」

 

 

 紫は、少年の小さな家に別れを告げる。

 もしも、少年がこの世界に戻ったときに―――帰る場所がありますようにと小さな祈りを込めて。

 紫の体は、スキマを通って帰るべき家に戻って行く。

 待っていてくれている人がいる幻想郷へと戻っていった。

 




帰るべき家があることはいいことですよね。


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帰る家、迎えてくれる者

 紫は、腕に少年の謎の手がかりになりそうなものを3つばかり抱えながら、少年の家の上空でスキマを開き、戻るべき家に―――マヨヒガへと帰るうとした。

 

 

「マヨヒガでは、藍が待っていてくれている。帰る家があって、誰かが待っていてくれることを幸運に思わないとね……あの子に悪い気がするもの」

 

 

 紫は、待っていてくれる存在がいること、帰る場所があることに感謝をした。

 マヨヒガでは、藍が紫の帰還を待っている。少年は、紫と異なり家に帰ることもできないし、迎えてくれる家族もいない。

 紫は、少年の境遇に同情しながら戻るべき家へと帰還を果たした。

 

 

 

 

 

 ―――マヨヒガ―――

 

 

「紫様は、いつ頃に帰ってこられるのだろうか……」

 

 

 藍は、現在進行形で紫の帰りを待っていた。すでに紫が消えてから2時間が経過しようとしているところである。紫を待ちながら同じように反応のない少年に意識を向ける。

 

 

「和友も戻ってくる気配がないし……」

 

 

 少年が出て行ったふすまは、全く動く気配もなく、変わらない状態でそこにあった。ノートと鉛筆を持って出て行った少年も紫と同様に全く戻ってくる様子が無い。

 藍は、何の変化も起きない一人きりの部屋で、肺の空気が全て出つくすような大きなため息をついた。

 居間で一人きりの藍の心の中には、不安だけがどんどん募っていく。

 

 

「はぁ、大丈夫だろうか……」

 

 

 少年の心の中から出て間もないということもあるが、なまじ少年の心を見てしまっているため、紫が本当に無事に帰って来ることができるのか確証が持てなかったのである。

 

 

「ああ……心配だな」

 

 

 藍は、少年の家の中というものを想像することができなかった。余りにも少年の心の中のインパクトが大きすぎて、まともな思考回路を構成できなかった。

 

 

「和友の家で閉じ込められたりしていないだろうか……私と同じように閉じ込められていたりしないだろうか……」

 

 

 少年の家は、もしかしたら心の中と同じように無秩序な世界が広がっているのかもしれない。脱出することができなくなっているのかもしれない。そんな不安が藍の心を襲っている。

 実際には、少年の家の中は普通の家ではあるのだが、藍は少年の心の中から戻ってきて間もない状態でそんな普通の思考ができる状態ではなかった。

 

 

「いや、紫様に限って危険な目にあっているということはないだろう……それに私が助けに行ったところで何かの役に立てるとは思えない」

 

 

 紫は、妖怪の賢者と呼ばれるほどに強力な妖怪である。当然のことながら藍よりも紫の方が強い力を持っている。

 藍は、自分が自身よりも強い紫のことを心配することがどれほど無駄なことなのか理解していた。藍が助けに行ったところで状況が好転するだろうか? 答えは確実に否である。

 

 

「しかし、今回の件は不確定で分からないことが多すぎる」

 

 

 自分よりもはるかに強い力を持っているといっても、世界の成り立ちを左右するほどの能力を持っているとしても、藍は紫の身を心配せずにはいられなかった。ずっと主と仰いできた身として、じっと待っていることができなかった。

 

 

「どうしようか、今からでも和友を連れて外の世界へ向かった方が良いのだろうか? 和友ならば、紫様を見つけられるはずだが……」

 

 

 藍の紫が大変なことになっているのではないかという不安は杞憂であるかもしれない、藍がただ心配性なだけかもしれない。

 しかし、紫が閉じ込められている可能性は完全に捨てきれない。もしかしたら、入り込んでしまえば能力が使えなくなってしまうような世界になっている可能性があるのである。

 

 

「後、1時間待とう。それで帰ってこなければ、迎えに行こう」

 

 

 藍は、暫く考えた後、迷路に入り込む思考に折り合いをつけ、結論を導き出した。1時間の様子見の後、どこかの部屋にいる少年を呼んで、博麗神社の方から紫が向かっているはずの少年の家に助けに行こうと決断した。

 

 

「まだか……」

 

 

 藍は、不安をぬぐいきれずもぞもぞと足をわずかに動かしながら紫の帰還を待つ。

 藍が待ちの体勢に入ってから時間にして数分経った頃だろうか。藍の不安を吹き飛ばす音が部屋の中に響きわたった。

 

 

「か、帰ってきた……」

 

 

 思わず、敬語が外れてしまった。

 藍は、直感的に紫が帰ってきたことを察した。藍が耳にした音は、スキマを開く音である。それは紫にしか出せない音であり、その音は紫の帰還を示すものだ。

 藍は、部屋の中にスキマが開いたことで視線を黒い空間へと向ける。藍の心の中にあった先程までの不安は、全て吹き飛んでいた。

 

 

 

 

 紫は、少年の家に向かった場所である居間へと体を乗り出し、炬燵の傍に足を降ろす。

 藍は、半身を出てきている紫を出迎えるようにして視線だけでなく顔と体を向けて出迎える体勢を整えた。

 

 

「お待ちしておりました」

 

「ふぅ……」

 

 

 紫は、大きく息を吐きながら完全にスキマから抜け切るとスキマを閉じ、藍の顔を見つめた。

 藍は、紫を頭の先からつま先まで視認し、無事を確認する。

 紫は、どうやら怪我一つなく、無事帰ってきたようである。

 

 

「怪我をしているというわけではなさそうですね」

 

「ええ、特に危険はなかったわ。あの子の家は、普通の家だったもの」

 

「そうですか」

 

 

 藍は、紫の普段と変わらない様子にほっと胸をなでおろした。

 

 

(無事帰ってきたというのならば、紫様は何を持って帰ってこられたのだろうか?)

 

 

 藍は、紫の無事の確認をすると続いてマヨヒガを出る前とマヨヒガに戻ってきた後で何かしら変化がないかと目を配った。

 紫は、少年の過去を示すものを探りに少年の家に行ったのだから何かしら持って帰ってこないと少年の家に行った意味がなくなってしまう。

 

 

(紫様が持ってこられたのは、あれか……)

 

 

 藍は、紫の脇にノートが抱えられているのを確認する。そして、紫の脇に抱えられている物が少年の過去を示すものだと、私達が欲していたものだと瞬時に察した。

 

 

「藍、ただいま」

 

「紫様、おかえりなさい」

 

 

 紫は、素直に待っていた藍を優しそうな表情で見ながら、帰ってきた家とそこにいる家族に挨拶を交わす。

 藍は、安堵の表情を作りながら無礼を働かないように気を付けて紫に言葉を返した。

 

 

「和友の過去が分かるものは、何かありましたか?」

 

「とりあえず、アルバムと小学校の通知表……そして母親が書き記した成長記録を持ってきたわ」

 

 

 紫は、藍の質問に端的に答えると藍の座っている位置を確認する。藍の座っている場所は、紫が少年の家へ行ってから一歩たりとも動いていないようで位置が変わっていなかった。

 紫は、不思議そうな顔で藍に問いかける。

 

 

「藍は、ここでずっと待っていたの?」

 

「はい、ここでずっと待っておりました」

 

「そう」

 

 

 紫は、藍が自分を信じて待っていてくれたことに―――何も心配しないで無事と確信してくれている従者に気分が良くなった。藍のどっしりと構えた様子は―――主への絶対の信頼を現すもの、信頼してくれているという証拠である。

 だが、そんなものは紫の勘違いであり、実際には不安に駆られて先程まで少年を連れて紫を探しに行こうとしていた。

 しかし、それを知る術は紫にはない。紫は、藍が不安に思うこともなくどっしりと構えていてくれたのだと勘違いをしたまま次の行動に移った。

 

 

「これが、アルバム、学校の通知表、成長記録よ」

 

「アルバム、通知表、成長記録……ですか」

 

「他にめぼしいものはなかったわ」

 

 

 紫は、スキマから出た位置である炬燵の側に立ったまま、少年の家から持ってきた物を炬燵の上のテーブルに置いた。

 藍には、紫がノートだけを持ってきたように見えていたが、それが勘違いであることに紫の言葉で気付き、目の前に並べられた3つの物品に目を向けた。

 紫は、3つの物を炬燵の上に並べた後に腰を下ろし、藍と対面する。

 紫が少年の家で見つけてきた少年の過去の手がかりとなりそうな物は、アルバム・通知表・成長記録の3つである。

 

 

「さて、どれから見ていきましょうか」

 

「あの、紫様……一つお聞きしていいですか?」

 

「何かしら?」

 

「アルバムや成長記録は家族の物なので、和友の過去が分かるような何かが示されている、というのは分かるのですが……」

 

 

 アルバムは、少年の過去を表すものであろう、欲しい情報が探せばあるかもしれない。

 成長記録については、まさに紫や藍が欲しかった情報が書かれていることが考えられる。

 この二つについては、少年の家から持ってきた理由が理解できた。

 だが、残りの一つである通知表を紫が選んで持ってきた意味が分からなかった。紫が成績表を持ってきた意図が汲み取れなかった。

 藍は、成績表を射抜くように視線を止め、通知表を手にとって疑問を口にする。

 

 

「小学校の通知表に、和友を理解することのできるような内容が書かれているのでしょうか?」

 

「十中八九書いていないでしょうね」

 

 

 肝心の通知表を持ってきた紫も藍と同じように、小学校の通知表を持ってきても意味がないと考えており、通知表の中身には絶対に欲しい情報が書かれていないと確信していた。

 

 

「あの子は、普通の人間として生活していたわ。だから、そこに書いてあるのは、あくまであの子がうまく取り繕った仮面をかぶっていた時のことだけよ」

 

 

 少年は、異常でありながら普通に生きてきたという事実がある。

 紫自身も、少年の平常の暮らしというものを見たことがあり、自身の目で少年の平常の生活を確認している。そのため、紫にとっては新しい情報など少したりとも、微量にすら含まれていないということが予測できた。

 それは、少年の家にいるときも考えたことである。

 

 

「それならば、なぜ持ってきたのですか?」

 

「成績表に書かれていることが全くの無意味というわけじゃないからよ」

 

 

 紫にとっては、必要のない物。それでも紫は、通知表を持ち帰った。

 それにはもちろん、ちゃんとした理由がある。

 紫は、少年の普通に過ごしている光景を見たことがあるからいいだろう。

 だが―――藍は紫とは違う。

 

 

「さっきも言った通り、そこには小学生時代のあの子の対外的な特徴が書いてあるわ。通知表には、学校の成績や先生からの批評が、小学校という外部との繋がりを持っているときの外部からみたあの子の様子が書かれている」

 

 

 紫には、藍に少年が普通に生活していたという事を知っていて欲しいという気持ちがあった。少年は、年相応に楽しそうに学校生活を送っているということを知っていて欲しかった。

 

 

「これからあの子の心の中の事実を知る前に、本当のあの子の内面と装飾されている外面……藍は、その両方を知っておく必要があるわ」

 

 

 紫は、少年のノートを見たからこそ通知表を持って帰ろうと考えた。きっとノートの中身を見る前であれば、持って帰るという考えまでいたらなかっただろう、少年がどれほど日常を守ろうとしていたのか理解することができなかっただろう。

 藍は、少年が守ろうとしている少年の平常の生活というものを見たことがない。少年が頑張って、努力して守ってきた普通の生活というものを知らない。

 それは、今後少年の世話を行うものとして、幻想郷へ連れてきた立場の人間として余りにも失礼である。

 少年は、大事なものを切り捨てて、大事なものを取り戻すために幻想郷へやってきたのだから、少年が求めているものを知っておくべきなのである。

 

 

「藍は、あの子がどういうふうに生活していたか知らないでしょ?」

 

「確かに、そうですね。私は、紫様から和友が普通ではないということしか伝えられていませんでしたし……」

 

 

 紫は、藍に少年の守ってきていた普通というものを知ってもらうため、小学校の通知表という外部から見た少年の評価が載っているものをわざわざ持ってきた。

 藍は、そんな紫の好意に少し戸惑いながらも応え、紫に一言お礼を告げた。

 

 

「紫様、お気づかいありがとうございます」

 

「気にしないで、私がそうしたかっただけなんだから」

 

 

 藍は、紫との会話を一通り終えて手に持っている通知表を開く。

 藍の瞳には、アルファベットや数字が飛び込んで来た。

 

 

「通知表の内容は、随分と普通ですね」

 

 

 藍が見ているそれは、ごく普通の小学校の通知表である。左に成績が乗っており、右側には、生活態度や先生からの所見が記載されている、何の変哲もない成績表だった。

 

 

「和友は、特段成績が悪い訳じゃないですし……ずば抜けて優れているというわけでもないようですね」

 

 

 少年の成績は、悪くもなく良くもない酷く平坦なものだった。

 藍は、通知表の中身を一通り確認するとある部分に注意を引かれ、暫くの間気になる部分を注視した。

 

 

「ん? これは……」

 

「どうしたの? 何か目新しいことが書いてあったのかしら?」

 

「いえ、それほどたいしたものではないのですが、ちょっと気になりまして」

 

 

 藍は、そっと通知表の右側を指さす。藍の指は、紫からは見えない位置にあり、紫には藍がどこを指さしているのか確認できなかった。

 

 

「成績は特に目立っている様子はありませんでしたが、生活態度や先生の方からの所見欄の部分は、すさまじいぐらいに褒めてあります」

 

 

 藍は、通知表のメインとなる成績ではなく、少年の通知表の一番後に記載されている先生からのコメントが気になっていた。

 通知表には、先生から見た少年の姿が必ず記載されている。そこには、少年が外部でどのように過ごしているかについて端的に書かれていた。成績の平凡さと比較すると、そこは異様に際立って見えた。

 

 

「ふむ……」

 

 

 今度は、大雑把に見渡した通知表を細かく見始め、注意を引かれた先生の所見欄に集中して読み解こうと試みる。

 紫は、徐々に一人で次々読み進めていく藍を黙って見ていられなくなった。紫だって藍と同じように成績表の中身を見ていないのだ。中身がどうなっているのか気になるのも仕方のないことである。

 

 

「どれどれ?」

 

「ああっ!」

 

 

 紫は、好奇心を抑えることなく手を伸ばし、藍の持っている通知表を引きはがす。通知表は、急に宙に浮いて飛んでいき、藍の手から離れて向かい側へと飛んでいった。

 紫は、藍の持っている成績表を右手の指先で摘んで取り上げたのである。

 

 

「まだ読んでいるところなのですから、取らないでください」

 

「別にいいじゃない。もう大体読んだでしょ?」

 

「まだ細かいところを読んでいません!」

 

「カリカリしないの。融通が利かないのは、藍の悪いところよ」

 

 

 藍は、奪い取られる成績表を追いかけるように手を伸ばすが、紫は藍の行動に反応してすばやく手元に引き寄せて藍を寄せ付けなかった。

 藍は、手を伸ばしても届かないことを悟ると前のめりの体勢を元の状態に戻して、不満げな顔で紫を見つめる。

 

 

「そういう紫様は、横暴なところが悪いところです」

 

「これは、主の特権よ」

 

「むっ……」

 

 

 紫は、不満そうな顔の藍の様子を無視しながら、手元に引き寄せた成績表の中身を読み上げる。

 

 

「ぼんやりしているところがありますが周りとの協調性に優れており、一歩引いて周りを見ることに長けています。元気もよく意見も迷うことなく言うので、委員長としてしっかりやっている……」

 

 

 紫は、やっぱりそうよね、と面白く無さそうに通知表を机の上に放り出した。

 

 

「べた褒めね。他の子も大概そうなのかもしれないけれど」

 

「どうしてですか? こういったことは正直に書かれているものではないのですか?」

 

 

 藍は、投げやりな紫の態度に疑問を持った。

 藍が聞く限りにおいては、とても良いことが書かれているように感じられる。成績の部分に比べれば、遥かに少年の特徴として際立っている部分である。

 

 

「藍は知らないかもしれないけど、今時の小学校は良いことしか書かないの。親とのやり取りに色々問題があって面倒な時代になっているそうよ」

 

「そんなことまで知っているのですか? それも外に出ている間に集めている情報なのでしょうか?」

 

 

 藍は、紫の持っている情報量に驚嘆した。

 今時の小学校が通知表でいいことしか書かないというのは、紫が外で手に入れてきた外の世界の常識の一つのようである。

 確かに紫には、外の世界の情報を多く知るという役目がある。それは、境界を操る能力を持っており外の世界と幻想郷を自由に行き来できる紫にしかできないことだ。誰かが代わりにやってくれるというものでもなく、紫がやらなくてはならない仕事である。

 しかし紫は、情報を手に入れるという役割を担っているとはいえ、外の世界の小学校の情報まで仕入れているようだった。そんな小学校の事情まで保持している紫の脳内には、想像できないほどの情報が入っていることが推測された。

 

 

「外の情報は大事よ。私達の生死に関わるのだからね」

 

「……外の非常識は、内の常識ということですね」

 

 

 紫が藍の疑問に対して当然でしょと言わんばかりに断言すると、藍は紫の言葉を聞いて思い出したように小さく呟いた。

 紫の管理している幻想郷という場所は、外の世界と結界によって隔離されている場所である。見方を変えれば、幻想郷は外の世界の一部とみなすことができる。

 

 

「幻想郷は、外の世界によって支えられている。両者の関係は、決して切り離すことのできない共同体よ。外の世界の情報を疎かにすれば、幻想郷はちょっとした拍子にバランスを崩して壊れかねない……」

 

 

 小さな幻想郷は、大きな外の世界によって支えられている。

 常識と非常識を変換している博麗大結界の効果を考えれば、外の常識によって内の非常識が守られていることがよく分かるはずだ。

 

 

「藍、このことはしっかりと心に刻んでおきなさい。決して外の世界のことを軽視してはいけないわ。幻想郷にいるからといって世界の広さを勘違いしてはいけないのよ」

 

「はい、心に刻んでおきます」

 

 

 外側の情報を知っておくという事は、幻想郷を支えるということに他ならない。唯一外の世界へと自由に出ることのできる紫には、外側の常識というものをしっかり熟知しておく必要があった。

 幻想郷を守るという目的のために―――外の世界の情報は不可欠なのである。

 

 

「しかしながら、通知表の中には特別おかしいようなことは書かれていませんでしたね」

 

 

 藍は、紫の言葉を脳内に残して成績表へと再び意識を向けるとほっとしたように胸をなでおろした。心の中があんな無秩序になるまで苦しいことがあったのではないかと想像していた悪い予感は、いい意味で外れたのだ。

 藍は、落ち着いた声で言葉を口にした。

 

 

「和友は、学校では普通の生活を送れていたようですね。よかったです、ちょっと安心しました」

 

「まぁ、あの子の事だから外では上手くやっているに決まっているわ。私が見たときも普通に学生生活を送っていたからね」

 

「それでも、外の世界で迫害されていたわけではなかったと分かっただけでもよかったです」

 

「藍、分かっていると思うけど、これはあくまでもあの子の対外的な部分よ。中身じゃないわ」

 

 

 紫は、安心するのは早いと藍を静止し、少年について安心できる要素をばっさりと切り捨てた。

 通知表に書いてあるのは‘あくまで’対外的なことで、内側の少年がどうなっているかを示すものではない。少年が異常でないということを示す証明には―――決してならない。

 だが、それでも藍は良かったと心から思っていた。

 

 

「はい、分かっています。でも、これが対外的な部分だとしても、それでも良かったと思います。和友は……一人じゃなかったのですから」

 

「そうね……」

 

 

 一人じゃなかったのですから―――そう言った言葉には今にも押しつぶされそうな重さがあった。

 

 

「成績表についてはこれで終わりね。次は、アルバムかしら」

 

 

 紫は、通知表に続いてアルバムの方に手を伸ばし、アルバムを掴むと炬燵の中心で藍にも見えるように広げる。

 紫と藍は、お互いに頭を近づけ、覗きこむようにしてアルバムを見つめた。

 

 

「こっちの方は、あの子の家で先に見させてもらったけど割と普通だったわ」

 

「そう、みたい……ですね」

 

 

 藍は、歯切れの悪い返事を紫に返す。

 アルバムに写っている少年からは、成績表と同じように違和感を感じ取れなかった。普通に無邪気な子供、どこにでもいそうな子供、写真に載っている少年からは、そんな雰囲気しか感じられない。

 

 

「こう見ると本当に普通の子供のように思えます」

 

「藍もそう思うわよね」

 

「ええ、普通に見えます」

 

 

 藍には、写真に写っている少年の姿がごく普通の少年に見えた。異常な心を持っていて、紫が異常と断言する少年が‘普通’に見えた。

 紫は、藍の反応に最初にアルバムを見た自分と同じことを感じていることを読みとっていた。

 

 

「ふふっ、可愛いものですね」

 

 

 藍は、頬を緩ませてアルバムを1枚ずつめくっていく。アルバムの中には、少年が笑顔ですくすくと育っていく過程が映し出されている。

 

 ただの普通な、幸せそうな家庭である。

 

 写真の中には、笑顔で満たされた、一つ一つ過ごしてきた家族の姿が写っている。もう亡くなってしまった両親の姿が、子どもを見守るように優しい表情をした両親が、まるで生きているように写真の中にあった。

 藍は、微笑ましい写真に頬を緩めてページをめくる。

 紫は、微笑ましく見つめる藍の様子をどこか悲しそうに見つめるとすぐに視線を逸らし、逸らした先にある時計の針を確認した。

 もうそろそろ、夕ご飯の時間である。

 紫は、少し悩むような様子を見せると視線を藍へと戻し、藍の行動を遮るようにして声を挟んだ。

 

 

「藍、そろそろ晩御飯の時間よ」

 

「もうそんな時間ですか?」

 

 

 藍は、紫の声に反応し、アルバムへと下げていた顔を上げた。そして、上げた視線を部屋にかけてある時計に移す。短針は6の字を指しており、長針は3を指していた。

 

 

「本当ですね……」

 

 

 普段、紫と藍は午後6時にご飯を食べている。すでに15分過ぎているため、すぐさま準備に取り掛からなければならない状況である。

 しかし、時間が押しているとはいえ、まだ大事な物を確認していない。

 藍は、先に中身を確認してからの方が良いのではないかと紫に提案した。

 

 

「でも、まだ成長記録を見ていませんよ? 和友を連れてくる前に見ておいた方がよろしいのではないでしょうか?」

 

「いえ、今見るのはよしましょう」

 

 

 藍が成長記録へと手を伸ばして先に成長記録の方を確認しようとしたが、紫は伸びた藍の手を優しく掴み、静止をかけた。

 藍は、紫の顔に浮かんでいる優しそうな表情に思わず胸が高鳴った。

 

 

「成長記録の方は、あの子も交えて見た方がいいでしょう。これは、あの子のための、両親の生きていた証なのだから」

 

「紫様も、なんだかんだ言って和友のことを考えておられるのですね」

 

「茶化さないの」

 

 

 紫は、少年も交えて話をするべきだと告げた。

 藍は、紫が思っていた以上に少年のことを考慮していたことに、なんだかんだ言っても紫も少年を気遣っていることに嬉しくなった。

 紫は、そこまで話すと藍の手をそっと離し、少年のことを呼びに行きなさいと藍に伝える。

 

 

「ほら、さっさとあの子を呼んできなさい。晩御飯を食べようってね」

 

「はい、それでは和友を呼んできます」

 

 

 藍は、晩御飯を食べるということを少年に伝えるために炬燵から立ち上がる。対照的に紫は立ち上がろうとはせず、炬燵に座ったままだった。

 藍は、動かない紫を気にすることなくふすまの前に移動し、ふすまを開けて廊下に出た。

 

 

「さて、和友はどこの部屋を使っているのだろう?」

 

 

 藍は、廊下を歩き、少年のいる部屋を探し始めた。

 



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ノートの中身を見た、真っ黒になった

「確か……紫様は、自身の部屋と私の部屋以外の部屋なら好きに使ってもいいとおっしゃっていたな」

 

 

 藍は、廊下を歩きながら紫と少年が話していた言葉を思い返す。紫は確か、少年に対して好きな部屋を使っていいと言っていたはずである。

 それならば少年は、マヨヒガにあるどこか空いている部屋を使っているということになるが―――

 

 

「マヨヒガには、空き部屋など山ほどあるが……和友はどの部屋を使っているのだろうか、見当もつかないな」

 

 

 ここで問題となったのは、マヨヒガの部屋の多さである。

 マヨヒガには、使われていない部屋が膨大にある。現段階では、少年がどこの部屋にいるのか判断がつけられない。

 藍は、左右を見ながら廊下を歩いて少年が使っている部屋を探す。手がかりが一つもない状態で少年のいる場所を見つけるのは、ちょっとばかり骨の折れる作業である。

 藍は、何か見つけることのできる目印でもないかと頭を回転させる。

 

 

「ああ、なるほど。ふすまが閉まっている部屋を探せばいいのだな」

 

 

 藍は、少し考えると少年のいる部屋を見つけることが予想に反して楽だという事実に気付いた。なぜならば、マヨヒガでは使わない部屋のふすまを基本的に解放しているからである。

 少年がもし部屋を使っているのであれば、そこの部屋はふすまが閉じていることだろう。ふすまが閉まっていれば、その部屋に少年がいることが判明する。

 もしも、少年がふすまを空けたまま部屋にいるというのならば、少年の姿が露見しているので、どちらにしてもいるかどうかの判断がすぐにつくはずである。

 藍は、先程思いついた方法を実践し、左右に点在する部屋を見回しながら足を進めた。

 

 

「見つけた。思いのほか近かったな」

 

 

 暫く歩くと、ふすまが閉まっている部屋を発見した。

 ふすまの閉められた部屋は居間から割と近い場所で、どうやら少年は居間から近くの部屋を選んだようである。

 

 

「和友、いるか? 今から夕食を作ろうと思うのだが、食べるよな?」

 

 

 藍は、少年がいるはずの部屋のふすまの外で足を止め、内側にいるはずの少年に向かって夕食を一緒に食べようと提案を持ちかける。決して少年の過去の経歴を見ようなんて無粋なことを言ったりしなかった。

 藍は、部屋の中へ言葉を投げかけてから少年の反応を待ち、暫くの間襖の前に佇む。

 しかし、暫く待っても少年からの返事は一向に返ってこなかった。

 

 

「…………部屋を間違えたか?」

 

 

 藍は、部屋を間違えた可能性を考える。部屋の中に誰もいないのならば、返事が返ってくる道理はないが、ふすまが閉まっている以上、少年が藍の目の前の部屋の中にいることはほぼ間違いがない。

 藍は、すぐさまありもしない考えを振り払う。

 

 

「いや、そんなはずはないな」

 

 

 もしもこれで少年が部屋にいなかった場合、少年がわざとこの部屋のふすまを閉めて、中を使わずに別の部屋にいるということになる。少年がそんな面倒なことをするだろうか。

 藍には、そんなことをする人間の思考回路が理解できなかった。

 藍は、再び部屋の中に向けて声を発する。

 

 

「和友、聞こえているのか? もしかして寝ているのか?」

 

 

 声が返ってこない理由は、色々考えられる。部屋の中にいる少年が寝てしまっている可能性、単に藍の声が聞こえなかった可能性、少年が返事を返したが藍が聞き取れなかった可能性、ちょっと考えるだけで色々出てくる。

 どの理由によるものかは分からないが、いくら待てども再度の呼びかけに答える様子は、全くなかった。

 藍は、一向に帰ってくる気配のない様子にしびれを切らし、少年の了承なしに部屋の中へと入りこもうとした。

 

 

「入るからな」

 

 

 藍は、部屋の中にいるはずの少年に一言入る旨の言葉を告げる。

 返事は、またしても返って来なかった。

 

 

 藍は、返事が返ってこないことを確認すると部屋のふすまを開ける。右足から薄暗い部屋の中へとゆっくりと入り込み、視線を部屋の奥へと向けて奥にある机の前に座っている少年の姿を確認した。

 どうやら部屋を間違えたということはなさそうである。

 

 

「やはりいるじゃないか」

 

 

 少年は、下を向いてひたすらに右手を動かし続けており、何かをしているようだった。

 

 

「集中しているから聞こえなかっただけか……」

 

 

 藍は、視界に入っている少年の姿を見て、なぜ返事が返ってこなかったのか理解した。少年は、何かに集中していたために、藍からかけられた声に気付かなかったようである。

 藍は、一人納得した様子で徐々に少年との距離を詰める。薄暗い部屋の中でぼんやりと見えていた少年の姿は、距離を詰めていくごとに徐々にはっきりとしてきた。

 

 

「和友? いったいなにをして……」

 

 

 藍は、少年の姿を見てかけようとしたところで、目に入ってきた光景に声を萎ませ、その場で固まってしまった。

 

 

「っ……」

 

 

 藍は、信じられない物を見るかのように瞳を見開き、視界に映る少年の姿に圧倒されて暫くの間言葉を失った。

 少年は、先程紫から貰ったノートと鉛筆を使い、永久的に同じような動作を繰り返している。まるである一定の動作をするようなプログラムがインプットされた機械のように動いている。

 藍は、少年の機械のような動きを見て素直に気持ち悪くなった。少年の動きは、あまりに洗練されすぎて人間味を失っている。

 藍は、暫くの硬直の後、意識を取り戻したように瞬きをすると、目の前の光景を脳内で無理やりにでも処理し、どうにかして口を開いた。

 

 

「な、何をしているんだ?」

 

「えっ?」

 

 

 藍は、沈黙を破るようにして鉛筆がノートの上を走る音しかない部屋の中に、全く違う音を投じた。

 少年は、先程ふすまの外から声を出した時とは違い、藍の声に反応して声のした方向へとゆっくり振り向いた。

 

 

「あ、八雲、藍? で合っているかな?」

 

「…………」

 

 

 少年は、部屋にやってきた存在が藍だと認識すると笑顔を作って言葉に詰まりながら藍の名前を呼んだ。ぎこちない笑顔を浮かべながら、名前が正しく合っているのか疑問符を浮かべている。

 少年の言葉は余りに不安定で藍の心を動揺させるには十分な魔力を持っていた。心の中で何かがざわついている。警戒 不安 恐怖 そのどれとも言えない感情が複雑に絡み合って未知の彩を作っている。

 藍は、複雑な表情をしながら質問をしてくる少年に向けて何も言い返すことができなかった。

 少年は、返事を返してくれない藍を見つめながら困った表情を作ると、申し訳なさそうに告げた。年相応にアルバムで写っていたような無垢な笑顔で喋りだした。

 

 

「うん、やっぱりまだダメみたいだ。いまいち区別がついていない。やっぱり名前を呼ぶっていう約束は明日でお願いね」

 

 

 藍は、少年の不自然な様子に尻尾の毛のよだつような気味の悪さを感じていた。

 

 

「多分、後3時間ぐらいは粘らないといけないかな」

 

「3時間……」

 

 

 少年は、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。

 藍は、少年の絞った声を耳にし、少年の言葉を疑う。

 3時間という数字は、どこから来ているのだろうか。少年は、後どのくらいこの作業を続けなければならないのか分かっているように、3時間という明確な時間を示している。

 藍は、些細な疑問を感じながらも、少年の言っていることが冗談ではなく本当のことだと直感的に理解した。

 

 

「あっ、そういえば、お願いしたいことがあるんだよ。後3冊分のノートと書く物をくださいと、あいつにお願いしてもらえないかな、お願い」

 

「…………」

 

 

 少年は、藍の思考を置き去りにしたまま思いだしたように言葉を並べ、ぎこちない笑顔をそのままに、両手を合わせて懇願した。

 しかし、藍は少年の言葉に頷くことができなかった。藍の瞳は、信じられない物を見るように少年を見つめたままで動く様子は無かった。

 少年は、反応を見せない藍に対して不思議そうな表情を浮かべながら疑問を投げかける。

 

 

「えっと、どうしたの? 具合でも悪いのかな?」

 

 

 藍は、恐る恐る笑顔の少年の横に置かれている物に注視する。自然な笑顔を作っている少年の横には、現在2冊分のノートが積み立てられていた。少年の手元にあるのは、3冊目のノートのようである。

 藍は、横に置いてあるノートの中身に何が書かれているのか少年の手元にあるノートの中身から察していながらも、少年に向けて疑問を投げかずにはいられなかった。

 

 

「和友……何をしているんだ?」

 

「名前を覚えようとしているんだよ。書いて覚えるのは、基本でしょ?」

 

「何を、言っているんだ?」

 

「何って言われても……」

 

 

 少年は、ふざけているように感じ取れる回答を藍へと返した。

 少年は、居間にいたときと同じような態度で藍と向かい合っている。あの時と同じように真面目に対応しているつもりのようで、何も変わっていなかった。

 藍は、足音を立てずに触れるぐらい距離―――少年のすぐ隣にまで接近する。

 少年は、近づいてくる藍に視線を上げた。座っている少年から見た藍は、非常に大きく見えた。

 藍は、少年の隣まで来ると少年の横に重ねられているノートを上から一冊手に取り、ゆっくりと開いた。

 

 

「うっ……」

 

 

 ノートの中身を見た瞬間―――中身をあらかじめ想像していたにもかかわらず、頭が真っ白になるような衝撃を受けた。

 

 

「黒……真っ黒だな」

 

 

 目の間に飛び込んできたのは―――圧倒的な黒さである。

 ノートの中身は―――真っ黒であり、真っ白なはずの紙が真っ黒になっていた。ノートには、隙間なく真っ黒になるほど何かが書かれている。もはや何が書かれているか分からないほど真っ黒になっていた。

 

 

「赤黒い跡……」

 

 

 藍は、真っ黒の中にわずかに違う色があるのに気が付いた。ノートの中のところどころには、赤黒く変色している部分も見受けられ、血が染み込んでいることが読み取れる。

 

 

「これは……」

 

 

 藍は、ノートに書かれている少年の筆跡を指でなぞる。藍の指は、ノートに堆積した鉛筆の炭素で黒くなった。

 藍は、少年のなぞった筆跡からノートに何が書かれているのか、少年が何を書いていたのかすぐに悟った。

 

 

「八雲藍、私の名前……」

 

 

 ノートの白い紙に所狭しと並べられていたのは―――八雲藍という名前、そして八雲紫という名前だった。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 

 藍は、表情を重くしながらページを次々とめくる。1枚1枚、中身の内容を確かめるように、ゆっくりと目配せする。

 藍は、予想していた展開に頭の中でふつふつと何かが煮えたぎるのを感じ始めていた。そんなつもりで少年を呼びに来たわけではないのに、ご飯を一緒に食べようと呼びに来ただけなのに、湧き上がってくるものを抑えきれなくなってきていた。

 視界から入って来るのは、当然のように書き記されている名前の羅列である。ノートの何処を見ても、自分たちの名前しか書いておらず、いたるところに八雲藍という名前と八雲紫という名前が狂気を具現するように並べられている。

 藍は、少年の狂気の一部に触れているような気になった。ノートを持つ手が、怒りからなのか、恐怖からなのか分からないが自然と小刻みに震え、持っている手に力が入り、ノートが音を立ててあらぬ方向に曲がっていく。

 少年は、そんな藍の様子を見て心配するように声をかけた。

 

 

 

「大丈夫?」

 

「これは、なんだ?」

 

 

 藍は、何も分かっていない少年に向けて怒気のこもった声でどうしてこんなことをしているのか尋ねた。正直なことを言えばそんなことを聞きたくはない、しかし―――聞かないというわけにはいかなかった。

 もう、見てしまったのだから。

 もう、知ってしまったのだから。

 藍の口は、止まることはなかった。

 

 

 ノートに名前を書いている行為は、きっと少年の異常性に関わるものである。藍は、少年から返ってくる答えがなんとなしに予測でき、間違いなく嫌な答えが返ってくると確信していた。

 それでも藍は―――少年に対して疑問を投げかけた。

 それは―――少年に助けてもらったという恩があったから。

 少年の心の中でのやり取りから少年を支えていくと決心していたから。

 どんなことがあっても少年を守ることを覚悟していたから。

 藍には、ここで引き下がるという選択肢は、最初から存在しなかった。

 少年は、そんな藍の気持ちを知ってか知らずか、投げかけられた質問にきょとんとした表情を浮かべ、当然のようなことを口にする。

 

 

「ノートだよ? あの人から貰ったノート。受け取った時に確かこたつに座って見ていたよね。ちなみにこれは鉛筆ね。これもまた」

 

「そういうことじゃないっ!! どうしてこんな事をしているんだ!?」

 

 

 藍は、平然としゃべる少年に我慢ができなくなり、少年の言葉を途中で遮ると少年の右手を掴み上げる。

 少年は、腕を不自然に上げる形となり辛そうな顔になった。

 

 

「自分の手を見ろっ! 赤くなっているじゃないか! それに、血まで出てっ……」

 

 

 藍は、苦痛に表情をゆがませる少年を気にすることもなく、声を大にして少年に向けて叫び、視線を少年の右手へと集中させる。

 少年の手は、ペンを握っている箇所が圧迫され続けて真っ赤になっていた。指先からは軽く血が流れており、ノートの赤黒くなっている部分が指先から流れた血によるものだと確証づけられる。少年の指から流れている血は、常に書き続けているため乾くことなく、とめどなくあふれ続けていた。

 藍は、指先から少年の顔へと視線を向ける。藍の位置から見た少年は、高低差もありどこか項垂れているように見えた。

 藍は、少年の落ち込んだ様子を見てさらに声を荒げる。

 

 

「どうしてこんなことになっている!!」

 

「鉛筆削りが無かったから……指でむしり続けていたんだけど、血が出ちゃって……ははっ……」

 

 

 少年は、ばつが悪そうに下を向きながら答えた。

 しかしながら、声に感情がのっていないことは誰からでも分かるような声で、それがさらに藍の心をざわつかせた。

 少年は、当然のことのように感情の波一つなく淡々と藍に対して説明している。もしかしたら下を向いているため藍からは分からないだけかもしれないが、少なくとも藍は少年が普段と態度をあまり変えていないように感じていた。

 少年は、あくまで乾いた、作られた笑顔を崩していない―――そう思った。

 藍は、少年の態度にさらに怒りの色を強くする。

 

 

「何を笑っているんだっ!!」

 

「っ……」

 

 

 少年は、藍の怒鳴り声にビクッと反応し、怯えた顔になる。

 しかし―――それもつかの間である。少年はすぐに表情を戻し、必死の笑顔を作った。まるで、呪いがかけられているように表情を頑なに変えようとはしない。

 藍は、すぐに戻ってしまう少年の表情に思わず唇をかみしめた。

 

 

「和友、どうしてそこまで……」

 

「俺なら、大丈夫だから」

 

「なにが大丈夫なのだ……何も大丈夫ではないだろう?」

 

「ほら、こっちを見て。ね、辛そうに見えないでしょ?」

 

 

 藍は、すぐに少年の表情と言葉から少年の内情を察した。

 少年は、藍が心配しないようにと笑顔を作っているのだ。藍は、少年の無理矢理の表情から少年が自分に対して気を遣っていることを理解した。

 

 

「どうして私は……」

 

 

 藍は、困ったような表情を浮かべる少年の様子を見て心を揺さぶられていた。

 どうして、こんなにも少年に対して怒っているのだろうか?

 どうして、晩御飯に呼びに来ただけなのに叱りつけているのだろうか?

 和友は、何か悪いことをしたのだろうか?

 私に対して、迷惑なことをしたのだろうか?

 

 

「どうして……」

 

「俺なら大丈夫だから、心配なんてしなくても大丈夫だよ」

 

「ふざけるな」

 

「俺は、慣れているし……大丈夫だから、ね」

 

「っ……」

 

 

 悪いことというのは―――‘誰にとって’悪いことなのだろうか?

 どうして、無理矢理に作った笑顔の和友に対してイライラするのだろうか?

 どうして、怒りを抑えることができないのだろうか?

 どうして―――和友が自分に気を遣っているのだろうか?

 藍は、自分がしていることがとても悪いことで、少年がそれに耐えているような図式に心の動揺を抑えることができず、歯ぎしりする。思わず、歯が削れてしまうのではないかというほどに力の加減ができなくなっていた。

 

 

 空間に気持ち悪さだけが充満し、状況が暗転する。

 藍は、目の前がノートと同じように真っ黒に染まっていくような感覚に陥った。

 未来が真っ暗で足元がぐらついてくる。倒れろ、倒れろと言わんばかりに外乱が心を煽ってくる。

 藍は、踏ん張るようにして少年へと言葉を吐き出した。

 

 

「そういうことじゃない! 怪我をするまでなぜ黙ってやっているんだ! ここまでしないと覚えられないのか? ここまでしないといけないのか?」

 

 

 藍は、少年に対して内に溜め込んだ怒りをぶつける。少年は、怪我をしても傷の手当てをせず、誰かに助けを求めることもせず、鉛筆削りを貸してほしいと頼みに来ることすらしていない。そのことが何よりも藍の心を深くえぐった。

 

 

「なぜ、頼ってくれなかった! どうして、言わなかったのだ!」

 

 

 なぜ、頼みに来なかったのか。

 なぜ、何も言い出さないのか。

 なぜ、誰にも頼ろうとしないのか。

 

 

「私じゃ、頼りないからか……?」

 

 

 それは、単純に考えて―――信用がないからである。

 あれば、頼りにしてくれたはずだ。

 信用していないから、言ってくれなかった。

 助けられると思っていないから、言ってくれなかった。

 

 藍は、怒りから短絡的な思考に陥っていた。少年が頼ってこなかったことが、少年が紫と藍のことをまるで信用していないからだと考えて疑わなかった。

 

 ただ、藍が怒っている理由はそれだけではない。

 藍は、自分の不甲斐なさにも怒りを覚えていた。

 少年の行動は、イコールで藍という存在が少年から秘密を喋るだけの価値がある存在ではないと思われていることに直結する。少年が藍に対して助けを求めないこと、自身の異常を告げないことの原因には、藍自身の問題もあるのだ。

 そう―――藍が少年に対して信頼を受けるだけの何かを一切できていないという現実があるのである。

 藍は、そう思うと何もできていない自分自身に怒りを覚えて仕方がなかった。

 

 

「なぁ、和友……どうして言ってくれなかったんだ……」

 

 

 藍は、まだ少年と会って1日しか経っておらず、少年のことを深く知っているわけではない。

 しかし、少年とはきっと良好な関係を築いていけると思っていた。

 それは、少年があまりにも藍に対して優しく、言葉でも行動でも優しさを示してくれていたからである。

 藍は少年の優しさに触れて、これから少年の支えになってあげようと、貰ったものを返すことを決意したばかりだった。少年の行為は少年を支えると決意した藍の気持ちを裏切るような行為に他ならない。

 藍は、少年の行為に動揺を隠せず、切実な想いを漏らす。

 

 

「和友、どうしてなんだ……?」

 

「ごめん、なさい……言わなきゃいけないなんて、思わなくて……」

 

「っっ……」

 

 

 少年は、今にも泣き出しそうな表情で藍に告げた。

 藍の心は、少年の言葉でさらにぐらつく。言わなきゃいけないと思わなかった……藍は、そう告げた少年の言葉に唇をかみしめながら掴み上げていた少年の手を離した。

 

 

「そうか、そうだったのだな……」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて全てを理解した。少年は、別に藍を信用していなかったから助けを乞わなかったわけではなかったのだ。

 

 少年にとっては―――これが普通なのである、普通のことをいつも通りやっているだけなのである。

 

 誰が息をするのに、息をしていいですかと尋ねるだろうか、そんな人間などいない。

 少年にとって書き記す行為が普通の事であるということについては、少年の洗練されたような、ルーチンワークをこなすような動きが、これまでずっと書き記す行為を行ってきた証拠になっている。

 

 

「だとしたら、和友は……」

 

 

 藍は、ここでさらに少年の行動の中に悪い部分が一切ないことに気付いた。

 少年は、ただ紫からノートと鉛筆を貰ってそれを正しい用法で使っていただけで、他に何もしていない。

 鉛筆を使ってノートに文字を書き記す―――決して間違った使い方をしているわけではない。

 少年は、誰に対していも迷惑をかけているわけでもないし、悪いことをしているわけでも、間違ったことをしているわけでもなかった。

 それなのに藍は、何も悪いことをしていない少年に対して怒鳴り散らしてしまっている。それはまさしく、少年の異常性を拒否したということに他ならない行為である。先程受けた信頼されていなかったという想い以上に、相手を拒絶するような一撃だ。

 藍は、多少の異常性は受け入れてやろうという気持ちを持っていたにもかかわらず、理由を聞くこともなく受け入れきれずに少年を叱ってしまった。

 藍は、それこそが少年に対する裏切りなのではないかと思えて仕方がなかった。

 

 

「私は、なんで……」

 

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 

 怒られた少年は、何一つ悪いことをしていないのに悪いことをした後のように声を小さくして落ち込み、泣きそうになりながら藍に向けて謝っている。

 藍は、少年の様子を見て、こんなことをするはずじゃなかったと、優しくするはずだったと、自身の不甲斐なさに苛立ちを感じた。

 藍は今からでもと思い、気持ちを切り替えようとする、できるだけ少年に対して優しく接しようと試みる。

 

 

「急に声を荒げてすまない……でも、ここまでする必要はなかっただろう?」

 

「でも、ここまでしないと……いや、これでも足りないんだ。この後さらに倍の努力が必要だよ。これまでの経験から分かるんだ」

 

 

 少年は、わずかに潤んだ瞳で藍を見つめながら言葉を吐き出す。そして、そこまで言葉を口にしたところで慌てて訂正をいれた。

 

 

「あ、違うや。二人分の名前を区別しなきゃいけないから、後4倍だね……」

 

 

 少年は、落ち込んだ様子を見せないように精いっぱいの笑顔を作った。目元に涙を溜めながらも藍を心配させないように虚勢を張っていた。

 藍は、自分をすり減らすような少年の行動が痛々しすぎて見ていられなかった。

 

 紫が少年の家から帰ってくるまでに2時間もの時間がかかっていることから、少年が部屋に閉じこもってから2時間ほどの時間が経過しているということが分かる。

 

 それの―――4倍。

 

 つまり、少年はこのまま後6時間分の作業がまだ残っているということになる。

 少年は、そこまでやってようやく二人の名前を覚えられるらしい。少年の経験というものがどの程度あてになるものかは分からないが、それはきっと正しいのだろう。

 

 

「もうちょっと待っていてくれないかな。別に、先にご飯を食べてもらっていてもいいからさ。俺は、このまま終わるまで続けるから。ちゃんと明日には名前を覚えておくから……名前を呼ぶことについては心配しないでね」

 

「どうしてそこまで、別に休みながらでもいいじゃないか……ずっとやっていては、体が持たないだろう? 休んで、それからやればいいだろう?」

 

 

 藍は、少年から提示された想像を絶する時間を聞いて、無理をして笑顔を作っているように見える少年を諭すように休息をとることを提案した。

 その提案は、これ以上自分をすり減らすような行動を見ていられないという藍の気持ちを含んだ提案だった。

 少年のしている行為が、藍のための行為だということが藍の心に強く突き刺さり離れない。藍は、名前を呼んで欲しいと頼んだことについて凄まじい罪悪感に襲われていた。

 

 

「途中でやめちゃうと……また分からなくなっちゃうんだよ。これまでの努力が無駄になる……」

 

 

 少年は、藍の想いを無視するように休憩を入れるという提案を拒否すると、作った笑顔を崩して悲しそうな表情を浮かべた。

 

 

「俺だって休みたいし、こんなことやりたくない。この作業は辛いよ。やっていて辛い」

 

 

 少年は、今行っている作業を、何も思わないロボットのように黙々とこなしているわけではない。苦痛を感じながらも、目的のために逆風の中を前に進んでいる。ひざを折ることなく、目を背けることもなく、目的地に向けて足を進めている。

 

 

「こんな事やりたくない。こんな事やりたくない。こんな事、やらなくていいならやりたくないよ……」

 

 

 少年は機械ではない、心を持った人間である。それが例え、普通というものとは異なっていても、心を持っている人間である。

 少年は、決意と覚悟をもって、突き刺さる苦痛の中を進む。どれだけ辛くても、普通という存在に成るためならば、異常に負けないためならば、少年は戦うことを選んだ。

 少年は、しっかりとした瞳で藍を見つめた。

 

 

「でも、もっと大事なことがあるんだ。お前は、俺と約束したよな。約束事は守る。お前の事は名前で呼ぶ。これは、決めたことなんだよ」

 

「和友……」

 

 

 少年の意志は絶対に曲がらない。先程まで張り付けていた笑顔を崩しても、心を崩すことはない。

 少年は、藍との約束事を守るために後ろに引くことなく、藍の瞳を一直線に見つめていた。

 藍は、少年の真っ直ぐな瞳の中に、少年の生き方の一部を見た気がした。




少年の識別維持時間は、何もしなければ、もって一日です。印象の薄いものは、その場で忘れます。


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心の揺らぎ、固まった決意

藍は、少年の区別するというものの難しさを目にする。


 藍は、目の前の少年に対して何一つ行動できなかった。

 

 

「和友……」

 

 

 少年のものを書き記す動きは、年季の入ったものを感じさせる。それは気のせいでも、勘違いでもなんでもない、熟練した動きに見えるのは当然のことだった。

 少年は、これまで相当の場数をこなしている。これまで覚えなくてはならない人の名前など、小学校のクラスメイト、近所の人間、親戚の人間、少なくとも50人はいたはずだ。

 藍は、驚愕と恐れを含んだ表情で思考し、少年に聞かれないように頭の中で疑問を呟いた。

 

 

(和友の親は、これを止めなかったのか? こんなことを、こんなことをやらせ続けていたのか?)

 

 

 少年の行為は、明らかに常軌を逸している。少年の欲している普通とは、圧倒的な距離感を持って存在している行為だ。

 そんなもの、少年の親が少年の行動を見れば―――少年を止めるはずなのである。

 しかし、少年の行っている普遍的動作は、誰かから止められて出来上がったものではない。なぜそんなことが言えるのかというと、止められていたならば、こんな熟練さは出ないはずだからだ。

 少年の親は、少年に対して書き記す行為を黙認していたか、推奨していたと考えるのが自然だった。

 

 

(和友は、両親のことを慕っていた。心の中では間違いなくそうだった。だが、かといって紫様が嘘をついているとは考えにくい……)

 

 

 藍の頭の中を、紫が告げた少年の親に対する言葉と、少年が自分に話してくれた親に対する言葉、両者の矛盾が駆け巡る。

 藍は、少年の親が少年の行為を黙認していた、あるいは推し進めていたという考えを到底信じることができなかった。

 少年の慕う親というのが、少年にとって辛い、苦しい作業を行わせるような親であり―――そんな親の事を少年が自慢に思っているのかと思うと信じることができなかったのである。

 

 

「和友の両親は、このことを知っていたのか?」

 

「そりゃ、もちろん知っているよ」

 

 

 藍が困った表情で視界を覆うように顔に手を当てながら少年に尋ねると、少年は藍の言葉をはっきりと肯定した。

 

 

「この方法を最初に考えついたのは両親だからね。両親が一緒に悩んで見つけてくれた、物事を区別して覚えるのに一番楽な方法だよ」

 

「この方法が、一番楽だって……?」

 

「そうだよ? 他にもいろいろやったけど、これが一番簡単だった」

 

 

 少年は、両親の指示に従って書き記す方法で物事を区別していると明言するだけでなく、書き続けるという行為が一番楽な方法だと断言した。

 言葉に迷うことも、言いよどむこともなく話す少年の様子だけを見ると、嘘をついているようには全く見えない。

 少年はまぎれもない本心で本当のことを口にしていると、藍は思った。

 

 

「両親は、何か言わなかったのか? 止めたりはしなかったのか?」

 

「両親は俺の事を止めなかったよ。泣いていたけど、止めることはなかった……」

 

 

 少年は、藍の疑問を聞いて過去を思い出す―――昔、初めて作業を始めた時の両親の表情を思い返した。何度も何度も見た光景を、網膜の裏に焼き付いている表情を、振り返った。

 少年は、過去を思い出しながら、わずかに震える声で言葉を絞り出す。

 両親は、少年のことを決して止めなかった。

 

 

「両親は俺にやらせながら謝ってきたよ。ごめん、ごめんなさいって謝ってきた」

 

「和友の両親は、苦しんでいたのか……」

 

 

 藍は、両親が少年に対して泣いて謝ってきたという事実から、少年に故意にやらせていたわけではなく、やらせたくなかったという想いを持っていたことを理解した。両親は、好きで少年にやらせていたわけではなかったようである。

 だが、それを認めた場合、余計に不思議な部分が生まれた。

 藍は、頭に当てていた手を下におろし、両親が少年を止めなかった理由を考える。両親には、やらせたくなくてもやらせなければならなかった理由があるのだろう。

 

 

「ならば、なぜ和友の両親は止めなかったのだ……」

 

「それが最もこれからを生きていくために楽な方法だったからじゃないかな? 俺は、今でもそう思っているよ」

 

 

 少年の言葉には、きっとそれでよかったんだという気持ちがあふれてでていた。

 

 

「どうして両親が俺に謝っていたのか、俺にはいまだに分からないけど……俺が頑張れば両親は泣かないと思って頑張ったんだ」

 

 

 少年は、これまで誰にも話したことがなかった事実を藍へと吐露していく。

 

 

「実際、小学校の6年生になるころには両親が泣くことはほとんどなくなった。このことで悩むことは無くなったんだ。ほとんどやることがなくなったからね」

 

「そうか……」

 

 

 藍は、やることがなくなったという少年の言葉の意味を理解した。

 少年は、生活する上で覚えなければならないことを一通り覚えたのだろう。長い間努力を積み重ねて、区別という作業がついに終わりを迎えたのである。

 やらなければならない内容がいくら多いといっても、始まりがあればいずれ終わりが訪れる。その終わりが小学6年生のときに訪れたのだ。

 しかし、それを聞くと同時に疑問も湧いてくる。終わりが小学6年生ならば、始まったのはいつなのだろうかという疑問である。

 

 

「終わったのが小学六年生ということは、いつごろからこんなことをやっていたのだ?」

 

「そうだなぁ、多分6歳ぐらいだと思うよ。この書き記す作業になったのは、もうちょっと後だけど」

 

「6歳から……そこからずっとやってきて、区別することがなくなったからやる必要がなくなったんだな」

 

「その通りだよ。小学6年生になるころには、努力しないと区別がつかない事はほとんど無くなった」

 

 

 藍は、少年から告げられた予想以上の期間の長さに言葉を失いそうになる。

 書き記す行為を6歳から続けていたということ―――それはつまり、少年には自由な時間が殆どなかったことを示している。

 藍は、自由な時を過ごせなかった少年を悲しそうな瞳で見つめた。

 

 

「俺が頑張ったから早く終わったというよりも、両親が覚えなきゃいけないことを選別したから早く終わったのかもしれないけどね」

 

 

 少年は、そう言うと乾いた笑みを浮かべて作業に戻ろうと行動を始め、藍に向けていた体を机へと向けて再び肩に力を入れた。

 

 

「…………もう、いいよね? 疑問は解消されたと思うし……出て行ってもらえるかな? 俺は、これから後6時間やらないといけないんだから」

 

 

 少年は、鉛筆を握る右手に力を入れて机に向かう。

 少年には、書き記す行為を止める気などさらさらなかった。少年が書き記す行為を中断したのは、あくまで戸惑っている藍を気遣っていただけであり、誰に止められようとも全てを終わらせるまで辞めるつもりなど微塵もなかった。

 藍は、目の前にいる少年が再び作業に戻ろうとしているのを見て、これから少年が行おうとしている所業にぞっとし、どうにかして止めようと少年に声をかける。迷うことなく、遮るものもなく、目の前の少年の行為で揺さぶられる心そのままに突き進み、静止をかけようとした。

 

 

「か、和友っ……」

 

「邪魔をしないで。俺は、お前たちの名前を確実に覚えて区別できるようになるまでやめる気はないから」

 

「私の名前……」

 

 

 藍の立っている位置からは、少年が書いている文字が見えた。

 ノートの上には、八雲藍という文字が勢いよく書き足されていっている。機械のように均一な速度で、同じような文字でノート上に黒が連なっていく。

 

 

「私のせいか、私の……」

 

 

 藍は、少年の行動が自分の責任だと自らを責めた。

 目の前の光景は、間違いなく藍によって引き起こされたものである。藍が少年の心の中で、少年に対して名前で呼んでほしいなどと言わなければ、少年が名前を呼ぶために苦労することはなかった。

 少年が苦しそうに、辛そうにノートにひたすら文字を書き続けているのは―――はっきり言ってしまえば藍と紫のためなのである。

 少年は、二人の名前を覚えるために一生懸命神経をすり減らして、その身をすり減らして覚えようとしている。

 藍は、見せつけるようにして行われている所業に表情を歪ませた。

 

 

「もう、やめてくれ……」

 

 

 藍は、沸き立つ想いにわなわなと体を震わせ、いまにも消え入りそうな声を出した。

 だが、少年の右手の動きが止まる様子は全く見受けられなかった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、苦虫を噛み潰したような顔を藍に見せることなく、手を動かし続ける。

 少年の耳には、藍の声がしっかりと届いている、十分に聞こえている。

 ただ―――少年は藍の言葉を無視していた。

 少年は、藍ともう話すまいと心に決め、名前を覚えるための行動をただただ遂行していた。

 

 

「そうか……」

 

 

 藍は、動きを止めない少年の横で、心の中で交わした少年との約束事を思い出した。名前で呼んでほしいと告げた時の少年の態度がふと脳裏によぎった。

 

 

「その、私のこと、名前で呼んでくれないか? 紫様と話していた時も言おうと思っていたのだが、人の名前はちゃんと呼ぶべきだと思うぞ」

 

「明日には、ちゃんと名前で呼ぶから、それで勘弁してもらえないかな? 今日はちょっと……ごめん……」

 

 

 少年は、藍に対して名前で呼ぶことを渋っていた。

 

 

「そういう、ことだったのだな。あの時、名前で呼ぶのを渋ったのは……」

 

 

 藍は、少年の今の状況を目にして心の中で言っていた少年の言葉の意味をはっきりと理解した。

 心の中で名前を呼んで欲しいと言った藍に対して、少年が答えを言い渋ったのは別に恥ずかしかったわけでもなんでもない。名前を呼ぶことができなかったから、呼ぶことが難しかったからなのである。

 

 

「和友は、ちゃんと私の名前を呼ぼうとしてくれているのだな。私との約束を、守ろうとしてくれているのだな……」

 

 

 少年には、その場で誤魔化すということもできたはずなのだ。名前を呼んでほしいと言われた時に、藍の名前を一言だけ喋るという選択もあったはずなのである。いくら区別ができない少年でも、その場限りでなら藍の名前を呼ぶことは可能だっただろう。

 しかし、少年はその場をやり過ごすためだけに藍の名前を呼ぶことはしなかった。それは―――名前を呼ぶという行為が今から未来へと繋がっていくものだと分かっていたから。藍から言われた言葉の意味がその場限りではなく、これからの未来にまで影響を及ぼす言葉なのは明白だったから。

 

 

「本当なら、断わりたかっただろうに……」

 

 

 これほどのことをする必要があるのであれば、名前を呼ぶことを断ることだってできたはずである。それなのに、少年は藍の想いを受けとめ、約束を果たそうとしてくれている。

 藍は、少年の気持ちに心を揺さぶられながら少年の抱えている問題について把握した。

 

 

「これが、和友の持っている異常性、区別ができないという特異性か……」

 

 

 人の名前を呼ぶということを行うには、その行動の過程で必要なことがある。

 相手を名前で呼ぶという行為をするためには、相手を区別する必要があるのである。それが誰なのかを理解する必要がある、見るたびに脳内でこの人は誰だと区別する必要があるのだ。

 普通の人間であれば、見えている相手が誰なのかという判別を瞬時に行うことができる。

 しかし、書き続けるという行為でしか区別が出来ない少年にとっては、人を見分けるという行為は非常に大きなものである。

 だからこそ少年は―――その場での回答を言い渋った。それでも、名前を呼んでくれている相手に対して申し訳ないという気持ちがあったから藍の要望に応えようと、明日には呼べるようにすると約束したのである。

 

 

「やめてくれ、私のためにそこまでやるのは……やめてくれ」

 

 

 藍の心は、手に取るように分かってしまう少年の行動の理由と気持ちにぐらぐらと揺れ、蝕ばれる。

 藍の口からは、思わず口から心の声が漏れ出した、出すつもりもなかった言葉が自然と溢れ出た。

 

 

「私が悪かったのだ……私があんなことを言わなければ……」

 

 

 藍は、現在進行形で凄まじい罪悪感に襲われていた。藍が名前で呼んで欲しいなんて少年に頼まなければ、少年と約束しなければ、そう思わずにはいられなかった。

 藍が名前で呼んでほしいなどと言わなければ、少年は疲れているときから、幻想郷に来た直後からこんなことをやらなければならないような状況にはならなかったのだ。

 藍の心には、そのことが酷く鋭利に突き刺さっていた。目の前の少年が辛そうにしているのは、ほかでもない自分自身の責任なのだと思うと、罪悪感を覚えずにはいられなかった。

 藍は、襲いかかってくる罪悪感に耐えきれず、涙ぐむ。

 

 

「もういい、もうやめよう? もういいよ、もうやらなくていいから」

 

「何がもういいの? 何もよくないよ。何も変わっていないじゃないか。やる前とやった後で何も変わっていないじゃないか」

 

 

 少年は、藍の震えた声にピクッと反応し、下を向いたまま唇をかみしめた。

 少年の鉛筆の動きは、藍の涙声で一瞬止まったものの、藍の想いを無視するように再び機械的な動きを開始する。

 少年は、藍の制止をかける言葉では止まらない。藍の顔を見ることもなく机に向かい、書き記す作業に戻る。

 

 

「っ…………」

 

 

 藍は、少年の何事も寄せ付けないような拒否の姿勢に挫けそうになる心を必死に支えて、瞳に力を入れる。藍が瞳に力を入れた瞬間、藍の瞳に溜まっていた涙が僅かに飛んだ。

 藍は、重くのしかかる罪悪感を跳ね除けて、涙の代わりに決意を目に浮かばせる。

 

 

「和友はこれまでもずっと戦ってきたのだな」

 

 

 少年の言葉から察するに、生活時間の殆どを書き記す作業に費やしていたことが予測される。遊び盛りの時期だったのにもかかわらず、遊ぶ時間なんて無いに等しかっただろう。

 少年は―――全てを捨てるようにして自身の異常性と戦ってきたのである。

 

 

「それでもここは幻想郷だ。幻想郷は全てを受け入れる」

 

 

 幻想郷は、異常者の集まりの場所。少年の異常性すら飲み込んでくれる優しい場所。幻想郷は―――全てを受け入れる場所。

 少年は、そんな幻想郷に来ても、異常性を封じるように、乗り越えるように努力をしている。昔の自分が判別できなかったことを判別できるようになるために、新しい自分になるために必死に行動している。必死に努力している姿が、藍の目の前にある。

 

 

「和友、別に努力して変わらなければならないわけではないだろう?」

 

 

 藍は少年を説得する、少年を傷つけないために―――自分を守るために。

 藍は、自分を追い込んで自分を殺していくような姿を黙視できず、少年に対して頑張らなくていいのだと優しく諭すように語り掛けた。

 

 

「そこまでして私の名前を覚える必要は無い。別に私の事は名前で呼んでくれなくていいから。私との約束のためにそこまでするのは止めてくれないか?」

 

 

 藍は、目の前の光景が無くなってくれるならば何でもするつもりで、奥の手とも言える行動に出た。

 少年の行動の原動力となっているものが藍との約束ならば、それを放棄してしまえばいい。藍が約束事を放棄すれば、少年が今日中に藍や紫の名前を覚える必要はなくなり、人の名前を区別するための無理な努力をし続ける必要は無くなる。

 藍は、少年との約束事を放棄しようとしだしたのである。

 少年は、約束したことを投げ出そうとする藍に対して露骨に嫌そうな顔を浮かべた。

 

 

「い、や、だ」

 

「止めてくれよ、お願いだ。止めてくれ」

 

「止めないよ、俺は止めない!」

 

 

 少年の答えは、酷く拒否の姿勢を示すもので、藍の想いを打ち砕いた。

 藍は、少年を止めることができると考えた唯一の可能性を潰され、縋りつくように少年の肩に手を置き、懇願する。

 少年は、藍が約束事を破棄しても動くことを止めない。藍は、少年のあまりの意志の固さに行動を曲げることができなかった。

 少年の右手は、感情のこもった言葉とは裏腹に機械のように動き続けている。

 

 

「その手を離せ、もう鉛筆を握らなくていい!」

 

 

 藍は、なんとかして少年の行動を止めようと肩においていた右手を伸ばす。右手を伸ばす先は、少年の握っている鉛筆である。

 藍は、最終手段―――力ずくで止めるという方法を消去法で選択した。約束を放棄するという選択肢を破棄されてしまっては、もはや力ずくというもの以外に選べる選択肢が存在しなかった。

 言葉で何を言っても納得させることができないのならば、物理的に辞めさせるしかなかった。

 

 

「これ以上やらなくていい! これ以上、努力しなくていい!!」

 

 

 藍は、少年の右手が握っているペンを掴んで少年から取り上げ、少年の行動を無理やり力ずくで少年を止めようとする。

 

 

「その手から鉛筆を離せ!!」

 

「おいっ!!」

 

 

 藍は、声を荒げながら少年の右手が握っている鉛筆を掴み、力を入れた。

 妖怪は、基本的に人間よりもはるかに強い力を持っている。藍も例外ではなく、人間よりもはるかに強い力を持っている。

 藍は、容易に少年から鉛筆を取り上げることに成功した。

 手のひらに、ほんのりとした温かさが蒸着する。藍の手のひらには、血の付着している鉛筆から伝達するように血が滴った。

 

 

「ふざけるなよっ!」

 

 

 少年の目は、怒りを宿したように細く鋭くとがり藍を睨みつける。

 

 

「これはやらなきゃいけないことなんだ。どっちにしてもやらなきゃいけないことなんだよ!! どうして分からないんだ、どうして!?」

 

 

 少年は、勢いよく立ち上がると藍の怒りに対応するように声を荒げ、叫ぶ。抱え込んでいた気持ちを一気に吐き出し、詰め寄るようにして藍に迫った。

 

 

「どうしてお前は、俺の気持ちを揺さぶるんだよ。俺は決めたんだって! 俺はお前の名前を呼ぶんだって!!」

 

「私が呼ばなくていいと言っているんだ!! 気持ちを揺さぶる!? それはこちらの台詞だ!! こっちの気も知らないで勝手なことを言うな!!」

 

 

 二人の言い争いはどんどん大きくなり、その場に悪い空気が停滞していく。逃げ場を失った怒りは、その場でぶつかり続け、時間の経過と共にぶつけ合う言葉もどんどん汚くなっていった。

 

 

「邪魔をしないでくれよ! 俺がお前に何かしたのかよっ!? 何もしてねぇだろうがっ! 俺はなぁ! 俺は……」

 

「そんなもの知らないっ!! 和友が私を揺さぶるのだ! 和友が全部悪いのだっ!!」

 

 

 少年は、藍の言葉に呆然とすると目を見開き、流れるようにして視線をそらす。それは、今までとは全く違う反応だった。

 少年は、何かを悟ったように佇み、途端に勢いを失くして暗くなる。

 

 

「……ああ、そうさ、全部俺のせいだよ!! 俺のせいだよ……全部俺のせいだ……」

 

 

 少年は、投げやりな言葉を吐き捨てて力なく座った。

 藍は、一気に豹変した少年の様子に毒気を抜かれ、茫然と見つめる。

 椅子に座った少年は、別の鉛筆を握り直し、作業に戻ろうとしていた。

 

 

「頼むから……邪魔しないでくれよ……」

 

「止めろっ、もう書くのは止めろ」

 

「あっ……」

 

 

 少年の願うような言葉は、藍に届くことはない。藍は、少年の行動を邪魔するように再び少年の持ち直した鉛筆を奪い取る。

 少年は、鉛筆を奪われて悲しそうな表情を浮かべた。

 それでも、少年は新たな鉛筆へと手を伸ばす。決して折れることなく、次の選択肢へと手をかける。

 

 

「止めろと言っているだろうっ!!」

 

「っ……」

 

 

 藍は、少年の諦めない様子にさらに苛立ち、少年の全てを吹き飛ばすように机の上に綺麗に置かれている残りの鉛筆を机から跳ね飛ばした。

 鉛筆は、力の恩恵を受けて机から落ちて地面を転がった。

 少年は、我慢できないという様子で涙目になりながら藍を睨む。藍は、睨んでくる少年をさらに威嚇するように怒りのこもった瞳で見つめ返した。

 

 

「なんでだよ……なんでなんだよ!」

 

 

 そんな一触即発という雰囲気の中―――空気が変わる出来事が起こる。

 

 

「二人とも何をしているのっ!?」

 

 

 騒ぎを聞き付け、紫が少年の部屋にやってきた。二人の言い争っている声は、近くにある居間にまで届いていたようである。

 停滞していた空気が―――紫が入ってくることで少しだけ入れ替わりをみせた。

 

 

「喧嘩……? 一体何があったのよ?」

 

 

 今この部屋にやってきた紫には、二人が争っているようにしか見えなかった。今にも殴り合いが始まりそうな雰囲気である。

 紫は、どうしてこんな状況になっているのか、全く理解できなかった。

 藍は、紫に対して少年を止めるように訴え始める。主である紫ならば、少年を止めてくれるという期待を抱き、主の行動を誘導しようとする。

 

 

「紫様! 紫様からも何か言ってあげてください!」

 

 

 藍は、紫が来たことで少しばかり落ち着きを取り戻したが、少し落ち着きを取り戻したといっても、まだ若干興奮しているのか必要以上に声が大きかった。

 

 

「藍、そんなに大声で言わなくても聞こえるわ。私の耳は、そこまで悪くないわよ。年寄りじゃないのだから」

 

「そのような冗談を言っている場合ではありません! これを見てくださいっ!」

 

 

 藍は、机の上にある少年が先程まで書き記していた名前の詰まったノートを手に取り、紫に手渡した。

 

 

「これは……?」

 

「和友が私達の名前を覚えようとして、他の人間と区別しようとひたすらに書き記す作業を行っていたものです。手を赤くして、血を流して、鉛筆が擦り切れるほどに書き記した努力の欠片です」

 

「やっぱり……」

 

 

 紫は、藍が何を言いたいのか瞬時に理解した。

 紫は、少年の家にあったノート、正確には少年の部屋の机の隣に積み立てられていたノートの束を知っている。

 紫には、藍に手渡されたノートの中身に何が書かれているのかについて、おおよその予想がついていた。

 

 

「…………ふうん」

 

 

 紫は、ノートの内容を知りながらも藍から手渡されたノートを開き、視界に入れる。紫の瞳は、予想通りの書きに書きまくって真っ黒になったノートを映し出した。

 紫は、暫くの間、ぱらぱらとページをめくるとノートを静かに閉じた。

 

 

「部屋にあったのと同じね」

 

「……紫様は、どうも思わないのですか?」

 

 

 ノートに書いてある文字はまるで呪いのようで、少年の異質さを醸し出すには十分な役割を担っている。それなのに、紫はそれを意に介さずという様子で興味なさげに閉じた。

 藍は、そんな紫の反応に戸惑った。

 紫は、戸惑う藍に目もくれずにノートから少年に視線を移す。

 

 

「ねぇ、あなたはここまでしないとどうしようもないの? 他に何かなかったの? そうなるまで……そうなっても、ずっとそうやっていたの?」

 

「質問が多いね」

 

 

 少年は、まだどこか怒っているような口調で紫の質問に回答した。

 

 

「一気に答えさせてもらって悪いけど……この行為は、どうしようもない。これは、どうしようもないことなんだ」

 

 

 少年は、どこか悟ったような顔で紫に告げた。経験から他に方法はなく、如何ともし難いということを伝えた。

 

 

「他に方法はあったけど、これが一番簡単で一番辛くなかった。そして、時間さえかければ普遍的に覚えられた」

 

 

 少年は膝を落とし、藍によって飛び散った鉛筆を拾いながら紫の顔を見ることもなく、言葉を並べる。

 

 

「ずっとそうやって過ごしてきた。これまで生きて行く中で何度も繰り返した。区別するには、基本的にそれしかない」

 

「そう……」

 

 

 紫は、少年の言葉を聞いて静かに呟いた。少年は、鉛筆を拾い直すと再び机の前に座り、下を向いて機械のように書き始める。

 紫は、再び動き出した少年に向けてある言葉を口にした。

 

 

「他の方法っていうのは、決まり事を覚える時にするあれね」

 

「え? 何で知っているの?」

 

 

 紫の言葉でこれまで藍が実力行使に出なければ上がらなかった少年の顔が勢いよく上がった。

 

 

「あれは親と俺だけの秘密で、誰にも言っていないはずなんだけど……」

 

「私は何でも知っているからね」

 

「……ははっ。そっか、知っているんだ」

 

 

 紫は、動揺する少年に向けて冗談交じりに笑顔を作った。

 少年は、紫の表情につられるように、固くなった表情を緩ませる。

 紫と少年のやり取りによって、空気が少しだけ緩んだ。

 しかし、そんな空気も長くは続かない。少年は、すぐさま無言になり書き記す作業に戻る、何一つ変わらない状況へと逆戻りした。

 

 

「あなたからそれだけ聞ければ十分だわ」

 

「紫様!?」

 

「さぁ、部屋から出るわよ」

 

 

 紫は、少年の行動を悲しそうな表情で見つめるて小さく呟くと、藍の手を掴み、部屋の外に出ようとする。少年の行為を止めようとすることを一切することも無く、少年の行動を咎めるわけでもなく、少年を止めて欲しいという藍の願いを無視した。

 藍は、紫に力強く握られ、部屋の外へと引き込まれる。

 

 

「紫様、待ってください!」

 

「待たないわ。あの子の邪魔になるもの」

 

 

 藍は、紫の行動が理解できないといわないばかりに、紫の掴んだ手を振りほどこうと暴れる。

 しかし、紫は藍の抵抗を押さえつけ、掴んだ手を離さない。藍は、力強く握られた手を振りほどくことができずに紫に引っ張られた。

 藍は、紫の行動を容認できず、紫に呼びかけた。

 

 

「紫様!」

 

「私からあなたに言えるのはこれだけよ。これまであなたは、そうやって自分の力と向き合ってきた。なら、頑張りなさい。最後の最後までその能力に抗いなさい。あなたの出来る限りを尽くして戦いなさい」

 

「言われなくてもそのつもりだよ」

 

「紫様は何をおっしゃっているのですか!?」

 

 

 紫は、藍の声を無視してちょうど部屋から出る際に少年に対して背を向けながら言葉を投げかけた。

 藍は、あんまりな紫の言葉に目を見開く。藍には、少年の行為を推し進めるような、後押しするような紫の言葉が信じられなかった。

 

 

「ふざけるのはやめてください!! 和友にこんなことをこれからもずっと続けさせていく気ですか!?」

 

 

 藍は、湧き上がる想いを流石に我慢することができず、ふざけるなと言わんばかりに声を荒げて叫び、内に溜まりに溜まった不満を紫にぶつける。

 紫は、そこではじめて存在を認識したかのように藍の怒りを宿した瞳を鋭く見つめ返した。

 藍は、どうにか分かってもらおうとようやく視線の向いた紫に向けて次の言葉を吐き出そうとする。

 その瞬間―――部屋の中に乾いた音が響き渡った。

 

 

「えっ……」

 

「ふざけているのは、あなたの方よ!」

 

 

 紫は、藍の頬を平手で叩いた。

 藍は、痛みを訴える頬をわずかにさすると状況を理解したのか、紫の事を涙ぐみながら睨みつけた。意味が分からないと、理解ができないと紫に訴える。

 紫は、藍に有無を言わさず、鬼のような形相で追い打ちをかけるように叱りつけた。

 

 

「これ以上この子を貶めるのは私が許さないわ!! こっちに来なさい!」

 

「…………」

 

 

 紫は、頬を叩かれて押し黙る藍の手を引いて部屋の外に出ようと、藍の睨むような視線を無視して藍の手を引く。

 藍は、紫の圧力を受けて抵抗する力を失い、無言のまま項垂れた。何も悪いことなどしていないのに、何も間違っていないのにというような不満を含めた後悔に満ちた顔で紫に連れられていく。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、紫と藍が部屋を出るその直前、動かし続けていた鉛筆を置いて二人に視線を送った。視線の先には、今にも崩れそうな藍の姿があった。

 少年は、そんな藍を見てその場で立ち上がる。そして、泣きそうな顔で二人の様子を見つめ、懇願するように悲痛な想いを口にした。

 

 

「二人とも、喧嘩は嫌だからね……喧嘩は、しないでね……」

 

「和友、私は……」

 

「ええ、大丈夫。あなたは心配しなくていいわ」

 

 

 藍は、少年の声にわずかに反応を示し、泣きそうになりながら少年の名を呼ぶ。

 しかし、藍が何かしら少年に伝えようというところで、紫の言葉に遮られた。

 藍は、力なく紫に連れられる。少年の部屋のふすまは完全に閉じられて、少年から二人の姿が見えなくなった。

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 

 少年は、二人の出ていったふすまを見つめると、悲しそうな表情でその場に立ち尽くした。

 




少年の話は、もうすぐ終わります。
個人的な意見ですけど、従者って基本、自分が無理するのは許容できるけど、だれかが無理するのを容認しない感じを受ける人多いですね。紫は、個人的に、きっと止めないんだろうなってイメージ。覚悟を持ってやれば、やりたいようにやればいいみたいな……。


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ぐらつく心、少年が大切にしているもの

 藍と紫の二人は、先ほどまで紫が滞在していた居間に移動していた。

 藍は、紫と一緒に廊下を歩いている間ずっと紫の事を睨みつけているだけで、黙って紫に手を引かれていた。

 紫は、黙ったままの藍に声をかけることなく、藍の手を引いて居間へと足を進める。

 藍は、移動をするだけの気力が無く、紫に引っ張られることでやっとのこと足を前に動かしている状態だった。

 

 

「和友……どうして……」

 

「…………」

 

 

 藍は、後ろ髪をひかれるように少年の名前を呼んでおり、嫌々紫に付いて行っているというのが誰の目から見ても明らかな状態だった。

 本当ならば、今すぐにでも戻って少年を止めたいと思っているのだろう。

 紫は、嫌そうにしている藍の手を黙ったまま引き続け、居間へと入りこむ。

 ここまで紫も藍も、言葉を交わすことは一度もなかった。

 

 

 紫は、居間へと入ると握っている手に入れている力を抜き、藍から手を放す。

 藍は、紫からの引力を失って速度を落とし、居間の入り口付近に停滞した。

 紫は、足を止めた藍を置き去りにしたまま中央にある炬燵まで歩き、少し強張った顔つきで座り込む。紫の鋭い瞳は、居間の入り口で佇む藍へと向けられていた。

 

 

「はぁ……藍は、いつからそんなに強情になったのよ。いつもの藍らしくないわよ?」

 

「どうして……」

 

 

 藍は、うなだれるようにその場に佇んだ後、そっと顔を上げる。藍の顔は、激しい怒りに染まっていて、瞳にはわずかに涙が溜まっていた。

 

 

「どうしてですか紫様っ!!」

 

 

 藍の口からは、部屋中に響き渡るような怒声が発せられた。力の入った腕が小刻みに震えている。掌が痛くなるぐらいに手を握りしめて心の叫びを表現していた。

 

 

「あの子は、あんなことをずっと続けてきたのですよ。ここに来た初日ぐらい、この幻想郷にいるときぐらい、休んでもいいではないですか!」

 

 

 少年に対して抱えていた悲痛な想いが、叫びとして放出される。心に募っていたものが雪崩のように押し寄せてくる。

 

 

「紫様は、何のために和友を幻想郷へと連れてきたのですか!? 和友を苦しませるためですか? 和友を追い込むためですか?」

 

「藍、冷静になりなさい」

 

「私はいたって冷静です! 私には、紫様の判断が全く理解できません!」

 

 

 藍は、少年を止めなかった紫の行動が信じられなかった。紫の行動が矛盾まみれに見えて藍の頭をひどく混乱させていた。

 藍は、紫が少年を外の世界から連れてきた理由を知っている。

 少年を幻想郷へと連れてきた理由は、能力を制御できるようにするためである。決して少年に無理をさせるために幻想郷へ連れてきたわけではないのだ。

 

 

「紫様は、気持ちが擦り切れるほど苦しいことを、これからも和友にさせ続ける気なのですか!?」

 

「藍……一体どうしたの?」

 

「私はどうもしていません! どうかしているのは、紫様の方でしょう!?」

 

 

 少年を幻想郷に連れてきた理由は、能力を制御させるためだけではない―――他にもあった。

 

 

「紫様っ!! 紫様が連れてきたのです! 幻想郷は全てを受け入れる、紫様が言ったのですよ!? あの子の異常は、幻想郷では受け入れないということなのですかっ!?」

 

 

 少年が異常を抱えていることは心の中で確認した通りである。少年は、明確な異常性―――境界を曖昧にするという異常性を抱えている。

 その異常性は、外の世界に住むような普通の人間に受け入れられるものではない。夢が正夢になるレベルに至っていることを考えれば、外の世界での生活は酷く息苦しいもので、辛い思いを沢山したということが容易に考えられるし、これからだってそうなるだろうと思われた。

 外の世界で過ごし難い少年に楽をさせてあげたい、気軽に呼吸ができる場所を与えたい。二人は、少年を連れてくる前にそのような話をして少年を連れてくることを決めていた。

 幻想郷ならば、能力について気にする必要もなく気楽に暮らせる。幻想郷は、その程度の異常性を受け入れられないような小さな世界ではない。きっと、少年の異常性を隠してくれる。

 幻想郷は―――少年にとって居心地の良い世界のはずだから。それが、少年を幻想郷に連れてきたもう一つの理由であった。

 

 

「藍、落ち着きなさい」

 

「紫様は、一体何を考えているのですか!? 私には何も分かりません! 紫様がどうして和友を止めようとしないのかさっぱり分かりません!」

 

 

 藍の心から溢れだすものの勢いは、紫の言葉では止まらなかった。

 藍は、先程まで少年との言い争いで溜め込んでいたものを別の形で吐き出していく。

 

 

「このままでは……このままでは、ダメなのです!」

 

 

 藍は、少年が無理をしてまで内包する異常を抑え込んでいるのを見ていられなかった。

 少年の自身を摩耗させるような行動は本当であればさせる必要のないこと、幻想郷という場所にいればする必要のないことである。

 少年は、幻想郷にいる限りにおいて異常性を無理に隠し通して、苦しんで、努力して過ごす必要はないのだ。少年が保有する異常性を周りに見せないように、周りに気付かれないように努力する必要は、わずかたりとも存在しないのである。

 幻想郷は、少年にとって能力の制御の練習に集中できるし、過ごしやすい環境だといっていいだろう。紫は、そういった利点があるから少年を幻想郷に連れてきたはずなのだ。

 それなのに紫は、少年の行為を止めようとはしなかった。むしろ、積極的にやらせようとしているように受け取れる。

 藍は、紫の意図が全く分からず、紫に向けて次々と言葉を放り投げた。

 

 

「このままでは、和友は何も変わらない。ずっと辛いままではないですかっ!!」

 

「っ……藍、少し黙りなさい」

 

「このまま放置しても、和友は何も変わりません! 私たちが変えてあげないと、和友は何も変わらないのですよ!!」

 

 

 紫は、藍の暴言に苛立ちを覚え、唇を噛みながら冷静さを何とか保ちつつ藍と相対する。

 藍の気持ちは、紫にだって痛いぐらいに理解できた。

 少年の辛そうな現状を考えると、確かに藍の言う通り止めた方が良いだろう。

 何かしら変えてあげなければ、少年は何も変わらない。書き記す行為は、少年が外の世界でずっと行ってきた行為で、幻想郷でなくてもいつもやっていることなのだ。これでは何の変化も得られはしない。

 しかし、それでも紫は少年を止めるわけにはいかなかった。

 

 

「早く和友を止めに行きましょう! 今からでも十分間に合います!」

 

 

 藍の心に負の感情が蓄積されていく。罪悪感が深くなってくる。

 藍の心の中では、少年に区別させるという行為をさせてしまっている罪悪感が降り積もっていた。知らなかったとはいえ、少年が努力をしているのは藍のためなのだということが、藍の心に大きくのしかかっていた。

 それに、少年の未来を想像した時に、余りに苦しい道のりが待っていると思うと酷く不憫に思えて仕方がなかった。このまま少年を放置してしまえば、何も変わらず、苦しいままの人生を送るだろう。それは、余りにも可哀想である。

 辛いばっかりで、何が楽しいことがあるだろうか。

 人生を苦しみでいっぱいに満たしてしまうなんて、未来に希望が見えないなんて、生きる目的が分からなくなりそうな人生を送らせるなんて、そんなのおかしいだろう。

 あんなに頑張ってきたのに。あんなに頑張っているのに。そういう想いが藍の心を揺さぶる。少年の未来を想うとどうしても感情が振り回され、右往左往してしまい、今すぐにでも少年を止めに向かいたい衝動に駆られていた。

 

 

「あのままではっ!! 和友が擦り切れて死んでしまいますっ!」

 

 

 藍の頭の中には、そう遠くない未来に崩れていく少年の姿が映し出されていた。確実に潰れてしまう、すり減ってしまう少年の姿が容易に想像できていた。

 藍は、今にも崩れそうな様子で紫に懇願する。

 藍の瞳には涙が浮かびあがり、今にも流れそうだった。

 

 

「お願いします、お願いですから……和友を助けてあげてください」

 

「藍っ!! 黙りなさい!!」

 

「っ…………!」

 

 

 藍が縋るように頼み込んだその瞬間―――藍の涙を吹き飛ばすように、空間に音が充満した。藍の言葉をさえぎるように紫が声を張り、藍は紫の大声に肩をビクっと動かして押し黙った。

 

 

「感情的になったら、話し合いなんてできないでしょう?」

 

 

 紫は、感情的になる藍を落ち着ける。

 藍は、紫に怒鳴られたことで自制を取り戻し、自分が主に対して何をしていたのか自覚した。

 

 

「……申し訳ありません。熱くなってしまって……」

 

「いいのよ、気にしないで。貴方の言っていることは分かるから」

 

 

 藍の言っていることは、正しさに満ち溢れている。もともと紫は、能力の制御をさせるためにここに少年を連れてきた、決して無理をさせるために連れてきたわけではなく、少年に無理がかからないような環境で練習をさせるために幻想郷へと連れてきた。

 それを考えれば、今の状況が狙ったものでないことは確かである。

 紫自身も、藍と同様に少年に休んでほしいという気持ちを持ち合わせている。

 しかし、藍と同じ気持ちを抱えていても、それに逆らってでも―――少年を止めたくないというのが紫の本心だった。

 

 

「藍の言っていることも理解できるわ。なんていったって、私は貴方の主なのだからね」

 

「紫様……」

 

「落ち着いて話をしましょう。さぁ、そこに座りなさい」

 

 

 紫は、先程までの怒気を含んだ表情ではなく、柔らかい表情で藍に接する。

 藍は、紫の雰囲気が優しくなったことで、少しだけ気持ちを楽にした。時間の経過と共に、心を震わせていた振動はゆっくりと単調減少していく。

 藍は、落ち着きを取り戻すと紫の座っている炬燵まで足を動かし、紫と視線の高さを合わせるように座った。

 

 

「一つずつ、私たちの間にある隙間を埋めましょう。気になることを一つずつ話してみなさい」

 

「はい、一つずつですね」

 

 

 最初に藍は、少年の行為を止めない真意のほどを尋ねた。

 

 

「では、最初に……紫様は、どうして和友にあの作業を続けさせるのですか? さきほども申し上げた通り、和友にこれ以上無理をさせるのには、疑問を感じます」

 

「あの子はずっと、自分のそのどうしようもない力と共存してこれまでやってきたのよ。あの子は、ああやって生きていくと決めたの」

 

「決めたって……」

 

 

 藍は、紫の言葉に違和感を覚えた。

 藍の耳には、少年の決めたことだからという理由で少年を止めることを諦めたと言っているように聞こえた。

 決めたということがどんな意味を持つというのだろうか。

 その重要度の度合いは、決まりによって異なるが―――自分の身を削ってまで守ることではないはずである。何をするにも、自分の身を守るよりも大事なことではないはずだ。

 

 

「そんなのは変えてしまえばいいではないですか。決めたことを絶対に守らなければならないってことでもないでしょう?」

 

 

 藍には、決まりというものが絶対に順守されなければならないものだという認識が無かった。

 例えば、藍に任せられている仕事の一つである、博麗大結界を守らなければならないという決まりが‘仮に’あるとする。

 しかし、幻想郷の住人が全員死んでしまうという事態に陥れば、博麗大結界を守る意味は存在しない。博麗大結界は、幻想郷を守るものであり、幻想郷の住人を守るものなのだから、幻想郷の住人が全員死んでしまえば無用の産物になる。

 中身を度外視してまで外殻を守る意味などない。藍には、そのぐらいの判断ができるだけの融通が利く、それと同じように少年も取捨選択をすればいいだけの話だと思っていた。

 

 

「人の名前を呼ぶことよりも、自分の体を大事にすることの方がよっぽど大事なことです。無理をしてまで覚える必要など、どこにもありません」

 

 

 少年が人を区別しなければならないという決まりを自身に課しているのならば、それよりも自身の体を大事にしてもらえればいいだけのこと。

 藍は、名前を呼ぶという約束を守ることよりも、自身の体をいたわって欲しかった。約束の内容が命に関わるようなことならともかく、今回の場合は名前を覚えるという命に関わらないことである。

 名前を呼ぶことと身を削ることを天秤にかければ、すぐに傾き、勢いの余り中身がこぼれるだろう。損得勘定にのっとれば、身を削るということが名前を覚えるということよりも大事であるはずがないのだ。

 

 

「どっちが大事なのかなんてことは、子供にだって分かることです。ですから、紫様。今からでも和友を止めに行きましょう?」

 

「……それは、できないわ」

 

「なぜですか? 何か理由があるのですよね?」

 

「あの子にとって決まり事は、事実にも似た揺るがないものなのよ。私達が決まりなんて軽々しく表現しているのが間違っているように感じてしまうほど、あの子の中では質が違う」

 

 

 紫は、辛そうな表情をしながら諦めの言葉を口にし、僅かに言葉に間を取ると溜めこむようにしてゆっくりと言葉を吐き出した。

 

 

「あの子の決まり事っていうのはね、彼自身を守るものなのよ」

 

「どういうことですか?」

 

 

 藍には、紫が何のことを言っているのか理解できなかった。

 現実には、決まり事が少年の身を削っている、現在進行形で擦り減っていっている。

 それなのに、守っているというのはどういうことなのだろうか?

 

 

「藍、あの子の心の中にある標識は何? あなたは、あの子から何か聞いている?」

 

「それは、何か話に関係のあることなのですか?」

 

「いいから答えなさい」

 

「…………」

 

 

 紫は、話題を少し変えて少年の心の中にあった標識の話を持ち出した。

 藍は、どうして標識の話がここで出てくるのか理解が及ばず、紫からのいきなりの質問に一瞬戸惑う。

 しかし、藍は紫の露骨な会話の誘導に少し怪訝そうな表情をするものの、紫の話題に乗った。

 

「標識ですか……」

 

 

 

 藍は、紫のことをよく知っている。紫は、相手に説明する際に自分からはっきりと解答を述べることは少なく、遠回りをするようにして最終的に全てがパズルのピースのように嵌るような話し方をすることが多い。

 紫という人物は、他者に動かされる人物ではなく―――動かす側の人物なのである。

 

 

「和友は……標識は、区別だと言っていました」

 

 

 藍は、紫の問いに対しての答えを持ち合わせていた。答えを得たのは、ついさっきの少年の心の中に入っていた時のことである。

 藍は、標識をたどって移動をしているときに標識とは何なのかについて少年から聞いていた。

 

 

「私は、ずっと疑問に思っていたわ。心の中で揺らがずにあった標識の存在は、必ず何かしらの意味を持っているはずだと……藍も思ったでしょう?」

 

「和友に聞きましたが、標識によって曖昧なものを区別しているそうです。人の名前から、色に至るまで……」

 

「それが本当だとするなら、物事の区別をするというのは、心の中に標識を打ち立てる行為ということになるわね。一度立てた標識は、壊れでもしない限り判別が可能になる」

 

 

 紫は、藍の答えから一つの仮説を提示した。

 少年が行っている書き記すという行為は、心の中に標識を打ち立てる行為である。

 標識と立て札だけは、心の中でもある領域を保持して動いておらず、世界の中に確固たる形をもって固定されていた。

 

 

「それが、今やっている書き記す作業だと?」

 

「そう考えるのが自然よ」

 

 

 紫は、大きくため息を吐き、疲れた表情をみせる。

 

 

「区別すること、それはあの子にとってとても大変なことよ。けれどね、物事の区別よりもっと大切なものがあの子の言う決まり事なのよ」

 

 

 少年は、心の中に標識として打ち込むことで、心の中に刻み込み、記憶している。だから区別の出来ない少年でも、一度努力して打ち付けてしまえば物事を間違えることなく覚えることができるのだと考えるのが自然の流れだった。

 紫は、ここでさらなる推測を提示する。

 紫は、少年にとって最も大事なことは区別することではなく、別のところにあると考えていた。

 

 少年の最も大事なもの、それは―――少年の言う決まり事である。

 

 

「疑問に思わなかったかしら?」

 

 

 紫は、藍に問題提起する。

 標識の意味が分かった今、紫の頭の中には、疑問が一つ浮かんでいた。少年の心の中に在ったもので動かなかったものは‘二つ’あるのである。

 片方は標識。

 もう一つは―――立て札である。

 

 

「あの子は、区別するのは標識だと言った。ならば立て札は何なの? 標識と同じように存在していた立て札の役割は何なの?」

 

「そういえば、立て札も標識と一緒で揺らがずに立っていましたね……」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて怪訝そうな顔をし、思い出したように口を開いた。

 心の中で少年と話した内容を思い返してみると、少年は確か立て札についても何か話していたはずである。

 藍は、暫くの間悩むしぐさを見せた後、はっとした様子で紫に答える。

 

 

「……和友は、標識は区別で立て札は楔だって言っていました」

 

「それ以外には、何か言ってなかったかしら?」

 

「それ以外のことについては、尋ねることもしなかったので……何も……」

 

 

 立て札については標識と異なり、深く触れていない。少年の心の中で交わした会話で、立て札について言及していたのは今も昔も楔だと言ったあの一言のみである。

 

 

 

「今からでも、和友に聞きに行きましょうか?」

 

「それには及ばないわ」

 

「そうですか……」

 

 

 藍は話し合いに必要な情報ならば、と紫に提案を持ち掛けたが、紫は藍の行動を制した。紫が藍の行為を止めたのは、それほど情報が必要でなかったのもあるし、おそらく藍を少年の下へと行かせたくなかったためだろう。

 藍は、そうですかと一言述べ、なぜ心の中で立て札について少年に尋ねなかったのだろうかと頭の中で思考した。すると、理由はすぐに分かった。

 タイミングが悪すぎたのだ。

 標識について少年に話しているとき―――少年に標識を壊したことを告げていた。

 それが―――藍の頭の中から立て札についての考えを吹き飛ばしたのである。

 

 

「聞いたのはあの時か……すみません、標識と一緒に聞いておけばよかったですね」

 

「聞いていないのなら別にいいわよ。今さらどうにかなるものでもないわ」

 

 

 少年は、藍が標識を壊したと告げたとき、思いのほか声を荒げて藍に向けて怒鳴った。

 その瞬間に、藍の頭の中は悪いことをしてしまったという罪悪感と申し訳なさで満たされて、その他のことについての想いを消し飛ばしてしまった。標識で与えられた印象が大きすぎて、立て札について話を聞くという意識が記憶の彼方に飛んでしまっていたのである。

 

 

「それにしても、あの子は立て札を楔と言ったのね……」

 

 

 紫は、悩むような素振りで小さく呟いた。

 紫は、立て札についてある程度の確信を持っている。標識と同じように少年の心の中の世界で揺らがずに存在しているからには、立て札にだって標識と同じような大きな意味があるに違いない、それは―――楔だという少年の言葉からもはっきりと理解できる。

 紫は暫くの考察を経て、何か確信したような顔になった。

 

 

「これではっきりしたわ」

 

「何が分かったんですか?」

 

 

 藍は、不思議そうに紫へと尋ねた。藍の思考は、紫の思考の最終地点へはたどり着いてはおらず、ある所で立ち止まっている。

 紫は、藍を自身が導いた答えへと導くために、もう一度話を最初の地点へと戻す。標識と立て札は少年にとってとても大事なものだと、もう一度藍へと告げた。

 

 

「標識があの子にとってとても大事なものなら、立て札だってとても大事なもののはずよ」

 

「あっ、そういうことですか」

 

 

 標識が区別を行っているものならば、今少年が行動に駆られている理由は何だろうか? 少年は、今何に従って右手を動かしている? 

 藍は、今までの紫との話し合いを思い返し、答えを口にした。

 

 

「和友の大事にしているもの……それが決まり事ってことですね」

 

「そういうことよ」

 

 

 藍は、紫のほんの少しの誘導によって、少年の大事にしているものについて話の流れから結論へと帰着し、頭の中にしっかりとした解答を得た。

 少年が大事にしているものは一律して普通というものである。行動の理由を決まり事を守るということに直結することで、少年の言動や行動が納得できるものになる。

 先程少年が藍に対して言った、約束事は守ると言った言葉も。

 少年が紫に対して言った、普通に生きるって決めたからと言った言葉も。

 その両方が少年の守っている大事な決まり事だと想像できた。

 

 

「おそらく立て札はね、彼にとっての決まり事なの」

 

 

 紫は、藍に訴えかけるようにして話をする。

 

 

「だってそうでしょう? はっきりと正負で別れて、表裏で明確に別れている区別ができるものはいいわよ。でもね、区別ができないものもあるじゃない」

 

 

 紫は、区別ができないものがあることを知っている。

 それは、区別してはならないものであり、判断しなければならないものである。

 

 

「区別できないものが人間にとって、一番大事なものよ。生きていくために、普通を守るために、一番必要なもの。あの子は、それを決まり事として処理してきたんじゃないかしら?」

 

「区別ができないもの……」

 

 

 紫は、悩んでいる藍に向けて決して答えを口に出すことはしなかった。

 紫は、藍に自力で分かって欲しかった。人に与えられた答えではなく、自分で答えを見つけて、少年のことを理解して欲しかった。

 

 

「道徳的なものや倫理的なものですか?」

 

「そう、道徳や倫理に関わることよ。こうするのが普通だという、そういったもの」

 

 

 紫は、藍が自分と同じ結論に至ったことに少し嬉しそうにしながら口を開いた。

 

 

「彼にとって区別できないものは、決まり事に分類される」

 

 

 少年は、物事を区別することができない。それは、区別するための境界が自身の中で曖昧になってしまうからである。人というくくりができても、誰なのかを区別することができない。黒色というくくりができても、色の濃淡までは区別することができない。

 少年は、そんな区別を―――努力でしてきたのである。

 しかし、少年の努力は万物に通用するものではない。世の中には区別できないものが無数に存在する。

 区別できないこととして代表されることは、道徳や倫理に関わる問題であり、万人で意見が分かれるそんなものである。特に善悪を見分けることについては、陪審員制度があるように明確に区別することができないということが理解できるだろう。

 

 

「おそらくその中の一つとしてあるのが普通に生きるってことね」

 

「普通に生きる、ですか……」

 

 

 紫は、少年の保持している決まり事の一つが普通に生きることだと判断していた。

 藍は、紫の言葉を聞いて困った表情を作る。

 

 

「普通に生きるって、どういうことなのでしょうね……」

 

「私には判断付かないわ。普通なんて、私にとっては縁遠いものですもの」

 

 

 藍には、普通に生きるという漠然としたものがどんなものなのか具体的に想像することができなかった。今も行われている少年の行動が対価として見合うのか疑問で仕方がなかった。

 幻想郷に住んでいる普通とは無縁の妖怪には、少年の気持ちなど理解できやしない。何不自由なく生活できている人間が困窮している人の気持ちを理解できないように、同情することはできても真に理解することは叶わない。

 藍は、少年の追い求める普通というものがどれほどの価値を持つのか分からず、弱々しい声で呟いた。

 

 

「普通……きっと私達には一生かかっても分からないのでしょうね」

 

「いえ、案外分かるようになるかもしれないわよ。これからあの子と一緒にいれば、あの子の大切にしている物が分かってくると思うわ」

 

 

 紫は、答えを求めるような藍の言葉に回答を提示することはない。紫も藍と同様に、少年の求める普通など理解の範疇に存在しないのだから。

 普通なんていうものは―――区別できるものではないのだ。普通という漠然としたものは、AとBのように真っ二つに分かれるようなことは決してない。

 紫にとっての普通と、藍にとっての普通には必ず齟齬が生まれる。きっと紫にとっての普通も普通(=A)であり、藍にとっての普通も普通(=B)には違いないのだが、A=Bには決してならないのと同じである。

 

 

「和友が普通というものにこだわっているのは、決まり事だからってことですか?」

 

「世界を繋いでおく楔っていうのは、そういう事だと思うのよ。あの子にとっての決まり事は、人間として社会に溶け込んで生きていくために重要な、倫理的なことを示すものなのでしょう」

 

「決まり事が和友の心と現実の世界を繋ぎとめておくための楔ということですね」

 

「きっと彼の心の中にささっている立て札には、普通に生きるための無数のルールが明示されているんだわ」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて少年の言っていたある言葉を思い出した。それは、藍に向けられた言葉で強い意志が込められた言葉である。

 約束は守るという言葉である。

 

 

「約束は守る……」

 

「そう、それが今のあの子を駆り立てている決まり事の一つだと思われるわ」

 

 

 暫くの間静けさが場を支配し、重い空気が地面を這う。

 藍は、静けさの中、手を伸ばしてある方向に向かって指をさした。

 

 

「もしかして……それを読んだのですか?」

 

 

 藍は、紫が少年の家から持ってきた両親の書いたと思われる成長記録を指さした。

 藍は、紫と話している際にずっと感じていた。紫と自身の間に存在する―――少年に対する大きな知識の差を。

 自身の持っている少年への知識と、紫の持っている知識との差が何から生まれているのか……考えてみれば、答えはすぐに見つかる―――それこそが藍が指さしているものである。

 紫が少年についての情報を蓄えたのが先ほどであることは、少し考えてみればすぐに分かることだ。少年にとって大事なことであるならば、教育係を任せている藍に告げていないわけはないのだから。ならば、先程藍が少年と話している間に知識を得たというのが自然だった。

 

 

「このまま待っていても時間の無駄だと思ったからね」

 

「……ということは、対処法も何もなかったのですね。今の和友を止める方法や、和友を守る方法は無く、このままやらせておくことが一番いいと……そういうことなのですね……」

 

 

 紫が成長記録を読んでいてなお少年を止めなかったのは、止めてはならなかった理由がそこにはあったから、この方法が最も少年を守っている方法だからなのだろう。

 藍は、何かないのかと必死に思考を巡らせる。

 しかし、頭の中には少年を助けるための方法が何も思いつかなかった。

 

 

「紫様……なんとか、できないのでしょうか?」

 

 

 藍は、歯がゆそうに表情を曇らせ、どうにかできないかと紫に願い出る。なんとかして、少年の行動を止めたいという想いを抱え、少年を止めることを諦め切れていなかった。

 少年が決まり事に従って今も活動しているのは理解ができる、立て札が決まり事だということも理解ができる。

 しかし、少年にこれからもあの書き記す行為をさせていくという思考に辿り着くことができなかった。その思考の軌跡が理解できなかった。

 これからも少年が苦しみ続けてなければならない理由を見つけることができなかったのである。

 紫が少年の事を投げ出してしまえば、少年はこれからどうするのだろうか。親を失った少年が、これからどうしていくのだろうか。あの異常を許容してくれる人物が、許容する世界が他にあるのだろうか。

 少年には、もう戻ることのできる世界が存在しないのだ。

 紫は、そんな少年を守ることができる唯一の人物である。まさしく少年にとってのセーフティネット(安全網)なのだ。

 藍の中には、少年に対する不安だけが存在していた。

 

 

「紫様が言ったのですよ? 似たような能力を持っているあの子を何とかしてあげたいって、何かしてあげたいって」

 

「出会う前までは、そう思っていた……昔の私みたいに、能力に振り回されているのかと思っていた。制御できずに苦しんでいるのだと思っていた」

 

 

 紫は、藍の懇願に対して今の少年に対して抱いている想いを告げる。

 紫は、少年がこれまで成し遂げた事実が、これまで外の世界で上手く生活を送ってきたことが信じられなかった。境界を曖昧にするという異常を持ちながらも、普通の人間として生きている少年が信じられなかった。

 きっと、相当な犠牲をもって、対応する代償を払って生活を送っているのだ。紫は、少年が能力に振り回されて苦しめられながらも必死にあがき、無理をして普通の生活を送っているのだと勝手に想像していた。

 しかし、それは間違いであると少年を見た瞬間に―――理解した。

 

 

「けれどね……あの子は違ったのよ」

 

 

 紫は、少年を見つけた時の衝撃と驚きを藍に伝える。

 

 

「あの子はね、私よりも酷い能力を持っているにもかかわらず、自然に生きて中学生まで辿り着いた。人間の中で普通を保ち続けた。能力を封じ続けたの」

 

 

 生まれた時から不釣り合いな大きな力を所持している場合、決まって不釣り合いな力に重心が傾き、体が力に振り回され、力の重さに支配されて制御が利かなくなる。そんな状況になるのが―――世の常である。

 紫には、自身の持つ境界を操る能力に振り回された経験があった。

 何か急に大きなものを与えられて上手くいくことなんて酷く稀なものである。紫自身も境界を操る能力を最初から使いこなせていたわけではなく、長年の間能力と付き合ってきて修得してきた。

 少年は、それと同じことをこの数十年という人生の中で行ってきたのだ。

 紫は、これまで少年が成してきた努力に賞賛を送る。驚きを含めながら感嘆の声を漏らした。

 

 

「その努力は、並大抵のことじゃないわ。人間だというのが信じられないくらいよ。とっくに押しつぶされていてもおかしくない」

 

 

 少年は、紫のように妖怪だったわけではない。妖怪のように丈夫な体、強い生命力、長寿命を持ち合わせているわけではない。

 少年はあくまで‘人間’である。そんな妖怪よりも遥かに肉体的に弱い人間が、異常な能力を抱えながらも人間社会の中で生きてきたのだ。

 

 

 

「能力によって区別できない現象を心の中に標識を打ち立てることで毎回確認して区別を行う。人として守るべきルールとして、倫理的な問題を、痛みを堪えて立て札を打ちつける。意志の強さが普通の人間とは桁外れだわ。とても人間だとは思えないほどの意志の強さよ」

 

「……立て札を立てるのには、痛みを伴うのですか?」

 

「立て札は、区別できないものを決める決まり事。そんな曖昧なものを確定するには、書き続けるだけでは駄目だったみたいね……」

 

 

 紫は、立て札の立て方を知っているような口ぶりだった。それも、成長記録に書かれていることなのだろう。

 紫は、そこまで話すと少し雰囲気を重くした。

 

 

「本当に、どうして……あの子は……」

 

「紫様、和友はどうやって立て札を立てたのですか?」

 

 

 藍は、口を閉ざそうとする紫に恐る恐る声をかけた。その答えが、酷く苦しいものであると分かっていながら聞かずにはいられなかった。

 そして、その答えは案の定、とても残酷なものだった。

 




少年の一人称の使い分け
目上 私+拙い敬語
対等 俺+相手への気遣い少々
他人 俺+排他的
家族 僕+あるがまま


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意見の対立、選ばれた答え

 藍の質問に対する答えは、想像の通り、苦しみを増長するような回答だった。

 

 

「最終的に……痛みと共に覚える方法を取ったそうよ。痛みは、確かに物事を覚えるのに適しているわ。何か気持ちの動くものが併用されると物覚えは格段に良くなるもの」

 

「痛みと共に……刻む」

 

 

 紫は、言葉に出しにくそうにしながらも、決まり事というのが痛みと共に覚えるものだと告げた。どこか悲しそうな目をして藍へと伝えた。

 

 

「紫様は、和友の成長記録を見て諦めることを決めたのですか?」

 

「そう、なのかしら……」

 

 

 紫は、藍の言葉に言い淀んだ。

 この時の紫は、確かに藍の言う通り少年を止めることを、少年を変えることができないと完全に諦めてしまっていた。

 だが、少年を止めることを諦めたきっかけがどこに在るのか自分自身でも分からなかった。どうしてこの結論になったのかと問われれば、数多くの理由が存在する。少年に同情しているから、少年の努力を認めているから、変化させることができないから、理由は他にもいくらでもある。

 でも、やはり一番影響が大きいと言える理由は、おそらく少年の両親がとっていたこれまでの少年の記録を見たからだろう。少年の生き方を目の当たりにしてしまったからだろう。

 紫は、悩める頭を振りほどき、決意を持った瞳で藍を見つめる。

 

 

「よく分からないけど、これだけは確かよ。私は、このままあの子に努力し続けて欲しいと思っているわ」

 

「そうですか」

 

 

 藍は、紫の想いを聞いて、それだけの内容が成長記録には書かれているのだと想像した。成長記録には、紫の心を動かすだけの何かが書かれている。

 しかし、それが分かっていても藍は少年を止めることを諦めなかった、諦めたら終わってしまう、何も変わらないまま終わってしまうという想いが心を占拠していた。

 

 

「紫様、紫様のお気持ちはおおよそ理解しました。しかしながら、私には聞きたいことがいくつかあります。お答え願えますか?」

 

「いいわよ」

 

 

 藍は、会話を前に進ませるために、痛みを感じながら作業を行うという不穏な言葉について追求する。

 

 

「先程の決まり事を覚える方法について、詳しく教えてもらえますか?」

 

「ノートに書いてあったことを全て信じれば、背中に刃物を突き刺して、何度も突き刺しながらあの作業を続けるそうよ」

 

「っ……背中ということは、両親がやったのですね」

 

「間違いなくそうね。背中じゃ本人では見えないし、刺し所を間違える可能性もある」

 

 

 藍は、紫の言葉で一瞬に察した。通常の人間は自分の背中に刃物など刺すことはできない、覚えるために必要だからといって軽々しく刺せるものではないのだ。

 もちろん怖いから、痛いからという理由によって行動が制限されるということもあるが、これは心の持ちようでどうにでもなることである。

 

 ここで決定的なのは―――背中が本人から見えないということだ。

 

 何処になら刺しても大丈夫なのか、何処までなら刺しても大丈夫なのかという部分が本人では見えてこない。背中に刺しながら覚えたということが事実であるならば、背中に刺していたのは少年自身ではなく、他の誰かが手伝ったのだということが予測される。

 藍は、紫がそこまで言ったところで立ちあがると、居間の出口へと足を進めようとした。

 

 

「やはり、和友を止めてきます!」

 

「待ちなさい!」

 

 

 紫は、動きだした藍の腕をすかさず掴むことで藍を静止させる。

 藍は、紫の手に掴まれた腕を見ると、続いて目線をずらして紫を見下ろした。藍の瞳は、怒りの色で一色に染まっていた。

 

 

「藍、言ったでしょう。あの子を止めては駄目よ。私達にできることは、見守ることだけなの」

 

 

 紫は、藍と視線を合わせることなく冷静を装ったまま口を開き、凛としたはっきりとした声で藍に言い聞かせる。有無を言わさないという様子で上から下へと言葉を押し付ける。

 しかし、藍は紫の言葉を意に返さなかった。今まで付き従っていただけの藍が明確に反抗の姿勢を示した。

 

 

「もう、止めるべき両親はいないのですよ。私達が止めなくて、誰が止めるというのですか? 手を離してください」

 

「私の話を聞いていたの? あの子を止めては駄目よ。それは、あの子を殺す行為に等しいわ。これからのあの子の未来を潰す行為、これまでのあの子の過去を潰す行為なのよ」

 

 

 藍は、掴まれた手を振りほどこうと激しく腕を振る。

 けれども、紫の手は藍の手を決して離さなかった。

 紫は、どうしても少年を止めたくなかった。これまで生きてきた少年の人生や、苦悩していた両親のことを考えると、とてもじゃないが少年を止めるという選択肢を選ぶことができなかった。

 しかし、藍には紫の言っている意味が理解できない。紫の言葉こそ、間違っているように思えて仕方がないのだ、このまま放置する方が異常なのである。どう考えても、このままにしておけば寿命を削ることになる、これからの未来が、狭く、苦しく、辛くなる。これから積み立てていく新しい過去が重苦しくなる。

 それは、藍に許容できることではなかった。

 

 

「いえ、分かりませんね。和友が苦しんでいてそれを助けない紫様の気持ちが分かりません」

 

 

 藍は、はっきりとした声で自身の意志を明確に紫に告げる。これまで従順を貫いてきた藍の牙が、紫へと向けられていた。

 

 

「紫様は、和友をあのまま泥沼の中に置き去りにしようとしています。私には、到底理解できません」

 

「あの子は、これまでに普通に生きて行くために無数の決まり事を作ってきた。あなたの行為は、あの子の作った決まり事を破らせる。それは、あの子の努力を潰す行為に他ならないわ」

 

 

 紫は、藍を握る手に力を入れる。紫の目には、僅かに怒りが含まれていた。

 藍は、紫の言葉を聞いた後、暫く黙りこみ、何も言えなくなった。

 紫の言っていることも理解できる。藍が今からしようとしていることは、これまで少年が守り抜いてきたものを破らせる行為である。ずっと、ずっと守ってきた決まり事を打ち砕く行為なのである。

 それでも、それでもなのだ。藍は引きたくないという強い思いを抱えていた。

 

 

「それでも、それでもです。未来のために過去を捨てる必要があるのですよ。未来へ進むためには重くなった荷物を下ろすことだって必要です」

 

 

 これは、必要なことなのだ。これからを生きていくために。これからの未来のために。少年が嫌がることだとしても、少年のこれまでを台無しにすることになったとしても、しなければならないことなのだ。変わるためには捨てることだって必要なのだと、伝えなければならないのである。

 

 

「それに、いらない決まり事なら無くなってもいいでしょう。和友は、これから別の道を歩んで行くのですから」

 

「いらない? まだそんなふざけたことを言うのっ!? 決まり事は、あの子の両親が一生懸命悩みに悩んで、あの子が人間として上手く生きていくために作ったもの。血と汗を流してできた結晶なのよ!?」

 

 

 紫は、藍の無神経な言葉に怒りを露わにして立ち上がると、すさまじい剣幕で藍へと迫った。

 紫は、これまで少年が歩んできた道のりを知っている。成長記録に書かれている言葉にどれほどの重みが、想いが乗っているのか分かっている。少年と少年の家族がどれだけ苦労をして安定を築き上げてきたのか痛いほどに理解している。少年がどれほどの努力の中で、どれほどの苦しみの中で、その生涯を送ってきたか想像できてしまっていた。

 

 

「それを簡単に捨て去れなんて、よくも言えたものね!」

 

「過去のために未来を捨てる気ですか!? 和友は、これからの方がずっと長いのですよ!?」

 

「それでもよ! あの子は、その重みに支えられて立っているのよ。頑張ってきたと、普通を追い求めて努力してきたという糧で、あそこに立っている。それがあるから、未来へと歩いていけるのよ」

 

「紫様は、何をおっしゃっているのですか。そんなものを抱えていても、これからも背負って行っても……」

 

 

 紫は、少年の努力を想うと、少年の努力を水の泡にするような行動を取ることなどできなかった、少年の両親の気持ちを裏切るような行為をしたくなかった。

 しかし、藍は紫の言葉を決して受け入れない。いつもとは違う、しっかりとした決意をもって紫と相対している。

 藍は、迫る紫に対して頑なに退くことはなかった。

 

 

「それでも、もうあの子は普通の状態には戻れないじゃないですか!」

 

「あなたねぇ!!」

 

「治らない病気に対して、血反吐を吐きながら努力して何になるのですかっ!? それが何のためになるというのですかっ!!」

 

 

 紫は、藍の言葉によって激昂し、怒りを内包した表情で藍に迫る。

 藍は、正面に対峙する紫に物怖じすることなく、紫の声の大きさに合わせるように少年を見てずっと感じていた想いを大きな声と共に吐き出した。

 藍は、紫とは違う意味で少年に対して諦めを持っていた。紫とは違い、能力と向き合っていくことに対して諦めを持っていた、少年の状況が変わることはないのだと諦めていた。

 少年の能力は、これからどんなに少年が努力をしたとしても消えてなくなることはない。少年がどれだけの時間を費やしたとしても、きっと普通と呼ばれるような状態になることはないだろう。

 ならば、努力をする必要なんて無い、それはただの徒労なのだから。

 

 少年の能力に対する努力は、不治の病を治そうとする努力に酷く似ている。決して治らない病気に対して、努力して治療を行い、生を伸ばしている作業に酷似している。

 辛かったら逃げるのもありだろう、少しだけ甘えるのもありだろう、現実から目をそむけることも大事なことである。不治の病を忘れて、どこか遊びに行けばいい。それは、自身を守るために必要なことなのである。

 少年は、きっとこのままの生活を続ければ心に穴をあけて沈んでしまうだろうから。

 そこから水があふれ出して沈没してしまうだろうから。

 藍は、だからこそ少年の行動を止めようとしている。

 しかし、紫には藍の考えが理解されない。

 紫は、別の想いをもって少年の行動を押していた。

 

 

「藍っ!! ふざけたこと言うのもこれまでよ!!」

 

「ふざけているのは紫様の方でしょう!?」

 

 

 紫は、藍の答えにどんどん声が大きくなる。

 

 

「あの子はねぇ、戦っているのよ!! 今も諦めずに現実と向き合っているの!! 貴方には分からないのかもしれないけど、それは、最も難しくて、最も辛い道。それをあの子とその家族は、これまで諦めずに歩んできたのよ!」

 

「和友には、まだまだこれからがあるのです! 過去に縋って、もういない両親の幻影に憑りついて何処に向かおうというのですか!? 和友は、どこに行けるというのですか!?」

 

 

 お互いの意見は、真っ二つに分かれている。お互いがお互いに少年の事を思って意見を述べているが、その方向性が真逆になっていた。真逆では、交わらない。交わらずに、心が離れていくだけである。

 

 

「それを今から諦めろなんて、どの口が言うのよ!!」

 

「過去のために未来を捨てろなんて、口が裂けても言わないでください!!」

 

 

 紫は、少年にこれまで通りに能力と向き合って欲しいと願っている。

 藍は、能力と向き合うのを止めて、少しだけでも自身を労わって欲しいと願っている。

 そのどちらもが正しい意見に思われるだけに、お互いが引くことはなく、自分の言っていることが正しいのだと疑わずにぶつけ合う。

 言い争いは時間の経過と共に大きくなり、ついには手が出そうな空気になる。どうにもならない空気を武力によってねじ伏せる瞬間が刻々と近づいていた。

 そんな争いの起きている場所に―――一筋の声が通った。弱弱しく、今にも消え入りそうな声が二人の耳に届いた。

 

 

「ねぇ……喧嘩はやめてって、言ったよね?」

 

「「!?」」

 

 

 紫と藍は、ハッとしたように声のした方向を向く。

 居間のふすまが半分ほど開けられており、紫と藍の視線の先には部屋で一人努力をしているはずの少年の姿があった。

 どこか悲しそうにしている少年の表情が二人の瞳に映り込む。少年の視線には、哀しみの色が見て取れた。

 二人は、少年の視線に今にも相手に向けて出しそうになっている両手を慌てて降ろした。

 

 少年は、どうやら二人が争っている間に騒ぎを聞きつけてこの部屋にやって来たようである。紫が少年と藍との争い合いの声を聴いたように、少年にも紫と藍の争い合いの声を耳にするだけの音の通りがあったようだった。

 

 

「…………」

 

「ごめんなさい、邪魔したかしらね」

 

 

 紫は、何事もなかったかのように少年に対して謝罪する。少年を気遣い、できるだけ平静を装って言葉を口に出した。

 藍は、少年の言葉に下を向いて押し黙った。気まずい雰囲気に言い訳の言葉が何一つ出てこなかった。

 少年は、二人を見くらべると、悲しそうな表情をそのままに震えた口を開いた。

 

 

「ねぇ、それもきっと僕が悪いんだよね。そうなっている原因は、きっと僕なんだよね」

 

 

 藍と紫は、余りに弱弱しい少年の声に驚いた。

 二人から見た少年の様子は、昼間とは驚くほど大きく違っている。声のトーンは、昼間に会っていた時よりもはるかに弱弱しくなっており、気持ちが弱気になっていることが嫌でも伝わってきた。

 

 

「僕のせい……ごめんなさい、ごめんなさい」

 

「ち、違うぞ。和友、それは違う」

 

「貴方……」

 

 

 紫は、少年のもうひとつの変化にも気付いた。

 

 少年の一人称が俺から僕に変わっている。

 

 紫が少年の一人称が変わるところを見たのは、これまでで二回である。警察官に対応していた時、そして教えを乞うていたとき。

 一人称が変わったというのは、相手によって一人称を使い分ける少年の性質から言うと、少年の紫と藍への見方が変わったという証明だった。

 藍は、気弱に言う少年に慌てて近づく。

 少年は、微動だにせず、ただただ謝っていた。藍は、少年へと手伸ばし、努力して真っ赤になった少年の両手を引っ張り、正面の位置で包み込むように握った。

 

 

「和友のせいではない」

 

「…………」

 

 

 藍は、必死な顔をしながら少年に対応する。優しく包み込むように少年の両手を掴んで、何も問題は無いということを必死に伝えた。

 少年は、藍の瞳を凝視し続ける。そして、暫くの間視線が交錯すると、少年は追い込まれている藍をさらに追撃するように言葉を並べ出した。

 

 

「何も、違わないよ。だって、原因が僕しかいないじゃないか……」

 

 

 少年は、二人が喧嘩していたことに責任を感じ、それを拭うことができなかった。

 周りの人に人一倍気を使い、人間として普通に生きていこうと決めて過ごしていた少年は、人の様子や感情を機敏に感じ取ることができた。

 今だって、会って間もない二人のことをよく分かっている、自分が来るまでは紫と藍は仲良く暮らしていた、それは二人の様子からもよく分かっていたことである。

 そこまで分かっているからこそ―――理解できてしまう。少年がやってきたから喧嘩が起こっているのだと理解できてしまっていた。

 

 

「お願いだよ、お願いだから……僕のせいで喧嘩をするのはやめて……」

 

 

 少年は、自分を責めたて今にも擦り切れそうな声で続ける。

 

 

「僕は、頑張るよ。だからさ、二人も頑張ってよ。僕だけが頑張るなんて不公平じゃないか……」

 

 

 少年は、自分が選ぶことのできる選択肢が全くないことを悟っていた。

 少年には、二人から離れて暮らすという選択肢が存在しない。紫は、少年が幻想郷に行くことを散々拒否しても、能力の練習をさせるために力ずくで連れて来た。

 少年は、自分がいかに無力な存在なのか紫との病室でのやり取りから把握していた。

 その事を考えれば、少年は逃げる事ができないし、仮に逃げることができても連れ戻されるのが落ちだ。

 だからこそ少年は、ここから逃げようとはしない。外に戻ることを許されるその日まで、幻想郷を出ることはしない。

 ここで、幻想郷で生きていくしかない。

 少年は、分かっていた。

 

 

「僕は、逃げないよ。僕は、頑張るよ。負けないように、勝つために努力する。最後の最後まで、折れて死んでしまうまで、戦うよ」

 

 

 少年は、瞳を潤ませながら二人に向かって訴える。

 

 

「両親は頑張ってくれたよ? 僕の顔を見ても、僕の傷を見ても、泣きそうな顔で我慢してくれていたよ。泣きながら僕と一緒に戦ってくれた」

 

 

 少年は、自分自身の弱さを自覚していた。

 少年にあるのは―――

 両親からもらった人間という繊細な身体

 母親からもらった優しさ

 父親からもらった強い意志

 ―――それだけのもの。

 両親という支えを失った少年には、新たな支えが必要だった。

 

 

「二人は一緒に頑張ってくれないの? 僕を一人にするの? 僕を連れてきたくせに、僕を一人にするの?」

 

「和友……」

 

 

 少年は瞳に涙を溜めこみ―――二人に助けを求める。今にも泣きそうな表情になりながらも必死に涙を堪え、二人を見つめた。

 藍は、少年の言葉を聞いて何も言えなくなった。少年の必死の懇願に、少年の想いに、少年の本心に、押し黙ってしまった。

 何も分かっていなかった。藍は、少年の気持ちをないがしろにしていることに今更ながら気づいた。自分の想いだけで、自分のエゴで想う通りに少年を動かそうとしていたのだと改めて感づいた。

 

 

「藍、これで分かったでしょう? 貴方の想いも分かる、でもそこには貴方の意志しかない。これからを決めるのは、この子の選択よ」

 

「はい……」

 

 

 藍は、紫の言葉に静かに頷き、しっかりと少年の手を握り締めた。

 

 

「私達も頑張るから、和友も頑張れ、最後の最後までやりきれ。私達は、和友が終わるのを待っているからな」

 

「うん、頑張ってくるよ。ちゃんと待っていてね」

 

 

 少年は、瞳にたまった涙をぬぐい、嬉しそうな顔をしながら部屋へと戻って行く。廊下を歩く少年の背中は、しっかりと伸びきっていた。

 

 

「和友は、戦うつもりなのですね。私……ずっと和友の気持ちを無視していました」

 

「私たちがあの子を支えてあげましょう。あの子の両親の代わりに」

 

「はい……」

 

「……さっきの暴言は、聞かなかったことにするわ」

 

「ありがとうございます……」

 

 

 紫が微かに藍へと微笑み藍のこれまでの暴言を許すと、藍はぎこちない笑顔で紫へと微笑み返した。

 紫と藍は、炬燵を中心に据えて静かに待つ。少年が区別するために書き記す作業を行っている間、ずっと静かに待ち続ける。少年と交わした言葉の通り、待ち続けた。

 

 

「そろそろ和友が言っていた時間です」

 

「そうね」

 

 

 時間が刻々と進む、少年が言っていた時間である6時間が経過する。

 晩御飯は作らなかった。そんな雰囲気ではなかった。

 外は真っ暗になって星が輝き、月が光る綺麗な夜である。

 紫と藍は縁側に座って空を眺め、星を数えるようにして時を過ごした。

 

 そんな静かな暗い夜の中、二人の影の付け根あたりにさらなる黒が入り込む。内側の明かりに延ばされた影が入りこんだ。

 紫と藍は、満たされたような顔でお互いの顔を見つめる。

 

 

「きたわね」

 

「そのようですね」

 

「やっと終わったよ。紫、藍」

 

 

 名前を呼ばれた紫と藍はゆっくりと立ちあがり、少年を迎えるために、影を伸ばした。

 藍と紫は、名前の呼ばれた方向へ意気揚々と向かう。待っていた疲れを感じさせない様子で、喧嘩していた時の雰囲気など微塵も感じさせない様子で、少年の元へと向かう。

 

 

「和友、お疲れ様。遅くなったけど晩御飯にしましょう」

 

 

 紫は、少年にすれ違いざまに肩をポンと軽く叩き、部屋の中に入っていく。

 少年は、紫の言葉に嬉しそうに笑顔を作った。

 

 

「さぁ、座ってくれ。私が今から作るからな」

 

 

 藍は、すれ違いざまに少年の両肩を掴んで少年を180度回転させる。少年が振り返ることで、3人が同じ方向を向く形になる。3人の視線は、同じ目的地に向かっていた。

 

 

「ほらほら、早く行くぞ!」

 

「わ、分かったから押さないで!」

 

 

 藍は、少年の言葉を無視してそのまま少年の背中を押し、部屋の中に押し込む。

 少年は、思った以上に強く背中を押してくる藍に、転ばないように気を付けながら足を前へと進ませた。

 藍は、少年をテーブルのところまで押すと、随分と時間が遅くなった晩御飯を作るためにキッチンに向かって移動しようと行動を開始する。

 少年は、藍が調理を始めるのだと察し、藍へと声をかけた。

 

 

「あ、僕も手伝」

 

「和友、座って待っていてくれ。今度から手伝ってくれればいいからな」

 

「うん、分かったよ。今度からは、僕もやるからね」

 

「いい子だ」

 

 

 藍は、少年の口元に人差し指を当てて強引に言葉をさえぎった。

 少年は、藍の言葉を素直に受け入れる。藍は、少年の回答を聞き、満足そうな顔で少年を座らせた。きっと今度から手伝ってくれればいいという言葉が少年に妥協させたのだろう。

 もしも、ここで座って待っていてくれとだけ言ったならば、無理にでも少年は手伝おうとしたかもしれない。少年はそういうやつだ、藍は少年の性格を理解しつつあった。

 

 

「未だに半信半疑だったのだけど……和友って本当に書くことで区別しているのね」

 

「そうだよ、紫。書いて覚えるなんてものすごく普通のことなんだけどね」

 

「意外と普通が一番良かったりするものなのかしら?」

 

 

 紫と少年は、料理をする藍を眺めながら雑談を交わし、食事が来るのを待った。時間が経つにつれて次々と料理が並ぶ。そして、テーブルの上の隙間が料理で埋まると、藍も椅子に座った。

 3人は、料理を囲んで座った状態になると全員が全員の顔を見渡し、目配せをしてタイミングを計る。

 

 

「「「いただききます」」」

 

 

 3人は、あるタイミングで両手を合わせて笑顔を作り言葉を合わせた。

 3人での共同生活は―――ここから始まった。

 



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少年との関係、明日への一歩

 各々は、食事の最中に言葉を交わし、笑みをこぼす。その笑顔は今までに見られなかったもので、初めて見合わせたお互いの顔だった。

 3人が口にしているその話は、本当に他愛もない話だった。明日は晴れなのかな? といった天気の話から、少年の両親の話まで色々なことを話した。

 しかし、いくら楽しくとも食事の時間は必ず終わりを迎える。食事の時間はあくまでも食事を取っている間のみの有限時間であり、増えたりはしない。

 現在の時刻は、晩御飯を食べるというには非常に遅く、俗に深夜と呼ばれる時間である。時間も時間なだけあり、食事の最中にもかかわらず少年の頭がカクンカクンと傾く場面が見受けられた。

 藍と紫は、眠たそうにしている少年の様子にくすくすと笑い合った。

 

 

「それじゃあそろそろお開きにしましょうか」

 

「そうですね」

 

 

 3人での食事は、呆気なく終わりを告げる。テーブルに並んだ料理達は、3人の胃の中に姿を移し、テーブルから消えていた。

 

 

「「「ごちそうさまでした」」」

 

 

 3人は、始まりと同様に両手を合わせて一言告げた。

 少年は、紫と藍が立ちあがるよりも先に立ちあがると3人分の食器を自分ものと重ねる。

 紫と藍は、少年が何をしようとしているのかすぐに察した。

 少年は、流し台に全員分の食器を持っていこうとしているのである。

 

 

「ありがとう」

 

「別にいいよ」

 

 

 紫は、少年に向けて笑みを浮かべ、お礼を告げた。

 少年は、紫からお礼の言葉をもらって嬉しそうに微笑み、自力で持てる分の食器だけを持って流し台へと向かう。流石に全部を持っていくことはできず、テーブルには空になっている皿がいくつか残されていた。

 

 

「残りは、私が」

 

「お願いね」

 

 

 藍は、少年に追随するように立ち上がり、テーブルに残された少年が運びきれない分の食器を流し台へと運んでいく。

 

 

「よいっと……さて、洗うか」

 

 

 少年は、持ってきた食器を流し台に置いた。少年の仕事はここで終わりではない。

 少年は、腕をまくると蛇口をひねって水を流し、食器を洗う準備を始めた。

 藍は、少年に追いつくように食器をもって流し台にたどりつく。そして、少年が食器を洗おうとしていることを確認すると食器を流し台に置き、少年の隣にそっと入りこんだ。

 

 

「私もやるぞ」

 

「ありがとう」

 

「ふふっ、本当に仲がよろしいこと」

 

 

 紫は、テーブルから動かずに頬杖をつきながらどこか面白そうなものを見るように興味深げに二人の様子を眺めていた。

 

 

「後は私がやるから、和友はもう寝ていいぞ」

 

 

 藍は、疲れているように見える少年を気遣う。

 少年にとって今日という日はあまりに大きな負担になっている。書き記す行為もそうであるが、今日あった出来事を振り返るだけでも、疲れる要素は山ほど思いついた。

 今日という日は、1週間の間にあるようなことをそのまま1日に凝縮したような内容の日である。少年は、食事の最中も眠いのか頭をカクカクさせており、疲れているのが目に見えていたし、なによりも少年の左手は包帯に包まれており水につけるわけにはいかなかった。

 

 

「ううん、一緒にやろう。二人でやればかかる時間は半分だからね。そしたら早く寝られるよ」

 

 

 少年は、藍の休んでもいいという気遣いを丁重に断り、一緒にやろうと眠そうな顔でにこやかに告げた。

 少年は、重ねてある食器をちょうど半分になるように左右に分担する。有無を言わさず、半分である。

 

 

「これで丁度二等分だよ」

 

「和友は、本当に遠慮をしないな。こういう時は、私の方の量を多めにしてもいいだろうに」

 

「そんなことしないよ。ほら、早くやろう?」

 

 

 少年はにこにこしながら食器を洗い始め、藍は少年の顔を朗らかな顔を見て笑顔を作った。

 藍は、少年の言葉にどこか嬉しさを感じていた。

 二等分という言葉は、自分を対等な存在として見てくれている証拠である。

 少年は、気を遣われるだけでなく、藍も同様に疲れているだろうから一緒に頑張ろうと気を遣ってくれている。同一作業の2等分という行動は、藍にとってそんな感情を抱かせた。

 できることならば、提案した通り休んで欲しいのだが、少年はそれを受け入れることはないだろう―――そのぐらいはもう分かる。

 藍は、今日の一日で少年の性格というのだろうか、精神性について理解してきていた。少年はとても頑固で、とても優しくて、とても自分に厳しい。

 少年の意志は―――どんなものにも曲げられない。

 

 

「何を言っても無駄だよな?」

 

「当たり前でしょ。僕は、やれることは全部やる主義なんだよ。半分にしているだけマシだと思ってね」

 

「ははっ、そうか」

 

 

 藍は、少年が何を言っても断るということを知った上で改めて尋ねた。すると、予想通りの答えが元気よく返ってきた。

 少年の意志は、迷いがなく、やるべきことを見据え、あるがままに、自分の心の赴くままに突き進んでいる。その意志が乗った少年の言葉は、容易に少年の未来を想像させた。

 少年は、駆け抜ける道がなくても、方角が分からなくても、目的地が分からなくても走り続けるだろう。心の中の世界のように何も分からなくてもとりあえず前に走り続け、これからもずっと、どこまでも走って行く。

 

 

(私ができることは、和友が道を外さないようにすること)

 

 

 少年の進む道は、必ずしも正しい道とは限らない。もしかしたら、間違っている方向へ進んでいるかもしれない、危ない方向に突き進んでいるかもしれない。

 そんな時こそが、藍の出番なのだ。

 

 

(両親を失った今、和友を制御できる人間はいない。和友は、誰かが上手く動かしてあげなければ、そのまま崖から落ちてしまいそうな危うさを抱えている。誰かが、支えてあげなければならない)

 

 

 藍は、前に進み続ける少年を軌道修正、速度調整するのが自分の役目だと昨日と今日の一日で理解した。

 少年の制御は、少年の両親がこれまでやってきたこと―――少年の左右にガードレールを敷き、少年が変な方向に行かないように、崖から落ちないように左右を並走して滑走すること。

 

 

(ふふっ、どうしてだろうか。和友と一緒なら、不思議と何処まででも行けるような気がするな。和友がそれだけ優しかったからだろうか。なんにせよ、私がやることには変わりない)

 

 

 藍は、少年との今後のことを考えると気持ちが高揚するのを感じていた。

 なぜこんな気持ちになるのだろうかと考えてはみるけれど、根源としてどこから来た感情なのかは分からなかった。嬉しい気持ちが湧いてきたのも、先程少年に認められたことが嬉しいのか、話し合いで少年のことを深く知ることができて嬉しいのか、今こうやって少年と一緒に作業ができることが嬉しいのか、分からない。ただただ、嬉しい気持ちだけが心の中に確かに残っていた。

 藍は、上機嫌な気持ちを隠す事もなく、嬉しそうに少年へと言葉を投げかける。

 

 

「だったら私は何も言わない、二人でやれば早く終わる。とっとと終わらせような」

 

「うん、早く終わらせて、早く寝ようね」

 

「見せつけてくれるわねー。私も会話に入った方が良いのかしら?」

 

 

 紫は、楽しそうに話す二人の様子をちょっと離れたところで見守るように視線を向けていた。

 食器洗いの作業は、二人で食器を洗っているためすぐに終わりを迎える体勢に入る。洗わなければならない皿は、残り2枚しかなくなっていた。

 少年は、怪我をした左手を上手く動かし、水にぬれないように食器を洗っている。

 藍は、怪我した左手を痛がるそぶりも見せず、手際良く洗う少年の様子に驚いた。

 

 

「和友は、食器を洗うのが上手いのだな」

 

「まぁ、毎日やっていたからね。食器を洗うのは結構得意なんだ」

 

 

 藍は、少年から得ようとしている回答を聞けず、自分の言い方が悪かったと反省する。藍が聞きたいことは、洗うのが得意ということではない。

 藍は、少年の包帯の巻いてある左手を指さしながら再度尋ねた。

 

 

「いや、食器を洗う方じゃなくて、怪我している左手を庇いながら洗うのが上手いと思ってな」

 

「ああ、そっちの方ね。怪我とか結構日常茶飯事だったし、慣れているんだよ」

 

 

 少年は、どうやらこういったどこかが使えない状況に慣れているようである。

 普段からどこか怪我をしたまま動かすということが多かったのだろうか。少年の能力を考えれば、それも仕方がないことのように思えた。

 道徳や倫理を身につけるまでは、相当な危険が身の回りにはたくさんあっただろうし、怪我をしながら何かをするということに慣れているのだろう。

 藍は、少年の言葉を自分の中で噛み砕いて解釈していた。

 

 

「これで、終わりだね」

 

「ああ、終わりだ」

 

 

 残り二つとなっていた皿洗いは終わりを迎え、洗い終わった最後の皿を水を切って乾燥させるために立て掛ける。

 少年は、食器洗いが終わると水にぬれた右手をタオルで拭き取り、背伸びをした。その瞬間、不意にあくびが出そうになり、あくびを噛み殺すようにして口を紡いだ。

 

 

「ふぁぁ……ふぅ……さすがにこんな時間まで起きていると眠いね。僕は、もう寝るよ。二人はいつも何時ごろに起きるの?」

 

 

 少年は、二人の起きる時間を気にした。

 それは、二人がいつも早起きをしていたというのならば、それに合わせて早起きをしなければならないような気がしたからである。これから生活を共にする間柄なのだからできるだけ生活スタイルは合わせた方が良いに決まっている。何をやるにも生活スタイルが噛み合わないと、物事は回らない。

 少年は、二人から明日の起きる時間を聞き、朝起きる時間の目安にするつもりだった。

 

 

「別に起きる時間が決まっているわけじゃないから、好きなだけ寝なさい」

 

「紫様、いい加減なこと言わないでください。それは紫様の日常でしょう」

 

 

 紫は、少年の質問に対して両手をパタパタと振りながら答えたが、すぐさま藍が適当に物言う紫を咎めた。

 紫の生活スタイルは、決まった時間を過ごすのではなく、たまたま起きた時間から活動するという形を取っているようだった。

 藍は、あまりに無責任な紫の言い方に大きく息を吐く。

 

 

「はぁ、紫様は本当にもう……和友」

 

「ん?」

 

 

 藍の手が少年の頭の上に乗る。

 少年は唐突に乗せられた藍の手に上目づかいになり、声を漏らした。

 

 

「今日は疲れただろうから、ゆっくり休みなさい。今日は、遠慮する必要は無いからな」

 

「分かったよ」

 

 

 藍は、もしも今日という日でなければ、少年に朝の8時までには起きてくれと言ったに違いなかった。

 今日は、あくまで‘特別’である。慣れないことの連続で少年の疲れも溜まっていることだろう。藍の言葉には、少年を気遣う気持ちが表れていた。

 

 

「それじゃあ、おやすみなさい」

 

「おやすみなさい」

 

 

 少年は、優しそうな藍の表情に感染するように笑みを零し、お休みの言葉を送ると、ふすまを開けて部屋の外に出た。

 藍は、暫くの間少年の後姿を見送ると、何かを思い出したように表情を変え、少年を止めるように叫んだ。

 

 

「あっ、和友待ってくれっ!」

 

 

 藍の声は少年に届かなかったようで、少年は藍の呼びかけに反応することなく、廊下を歩いて自分の部屋へと入り込んで行く。

 藍は、少年が部屋に入っていくのを確認すると慌てて少年の後ろを追いかけ始めた。

 部屋に取り残された紫は、少年の挨拶に言葉を返して二人を見送り、すでに誰もいなくなった居間で誰にも聞こえない言葉を微笑みながら口にした。

 

 

「和友、おやすみなさい」

 

 

 

 ―――数分後―――

 

 

 

 藍は、暫くすると居間へと戻ってきた。少年への用事は終わったようで、その表情は非常に満足気な様子だった。

 紫は、静かに戻ってきた藍を迎える。迎えると言っても、言葉を口に出すことは無い。少年の後を追いかけていった藍に対して何をしてきたのか尋ねることはせず、ただただ黙って物思いにふけっていた。

 藍は、すでに寝ていると思っていた紫が未だに部屋にいたことに疑問をぶつけた。

 

 

「紫様、まだここにいらしたのですね」

 

「話をするのでしょう?」

 

「……紫様に隠し事はできませんね」

 

 

 藍は、紫の返答に心を見透かされているような感覚に陥った。

 こういうことはよくあることで、紫はたびたび心を読んでいるのかと錯覚するぐらいに察しが良い。紫の察しがいいのは、何も能力を使っているからというわけではなく、藍とは付き合いが長いから少しの挙動から何を考えているのかおおよそ分かってしまうというものであるが、もはやそれは―――心を読むということに近いなにかになっていた。

 藍は、何もかも見透かしているような紫に苦笑しながら紫の座っている椅子の体面に座ると途端に真面目な表情を浮かべた。

 

 

「紫様、和友の今後のことについて話をしておこうと思うのですが、構いませんか?」

 

「構わないわ、もとよりそのつもりだったから。あの子のことについては、まだまだ色々と話しておかなければならないことがあるもの」

 

 

 少年の今後のことについての話は、できるだけ早くにしておく必要がある。

 明日から少年が新しく家族として加わる形になる―――そうなる前に二人で色々と考えなくてはならないことがある。別段、寝て起きてから話をしても構わないのだが、少年を交えて話をすることができない話もあるため、なによりも紫が起きてくる時間が読めないため、今のうちに全て済ませておくのが最も都合がよかった。

 二人は、食事の際に話していた食卓テーブルで正面を見据え、互いの顔が正面に来るような位置で相対して顔を突き合わせた。

 

 

「紫様は、これから和友をどうしていくおつもりなのですか?」

 

「どうしていくつもりって、そうね…………それは、あの子に任せようと思うわ」

 

「深くは考えていなかったのですね」

 

 

 紫は、藍の質問にお茶を濁したようにはっきりしない口調で答えた。

 藍は、そんな紫の言葉を予想していたのだろうか、知っていましたと言わないばかりにサバサバした言葉を送る。

 紫は、そんな分かったような言葉を口にする藍へと疑問をぶつけた。

 

 

「……どうしてそう思うのかしら?」

 

「紫様は、他人のことに対して行動するとき、あまり深く考えて行動することがないですから」

 

 

 藍から紫への言葉の返しからは、紫と藍が長く付き合ってきたということが容易に窺えた。

 藍は、紫とこういうやり取りを今までも散々してきた。好きにすればいいとか、任せるという答えを述べた場合、その時紫は大体何も考えていないことが多い―――これは、完全に藍の経験則である。

 

 

「仕方ないでしょう? あの子を見つけたのは最近なのよ」

 

 

 紫は、ここ最近の出来事を振り返り、少年を見つけるのに酷く苦労したことを藍へと伝えた。

 

 

「本当ならもっと早くに見つけられたと思うのだけど、両親の努力とあの子の努力のたまものね。能力と上手く向き合ってきた結果と言うべきかしら?」

 

 

 見つけるのに苦労したことは、これまで藍には伝えてこなかったことである。それは単に―――少年を見つけるまで言う必要がなかったからというのもあるが、見つけられなくて恥ずかしいという想いも一枚噛んでいた。

 だが、それももう隠す必要もない、見つけられなかった理由がちゃんとある。

 

 それが―――両親の少年のために行ってきた区別するための書き記す作業である。

 

 紫は、少年の成長記録を読んだ時、単純に驚いた。両親がまさか少年の異常性についてちゃんと対策を練っているとは思っていなかったからである。少年の両親が少年の能力を知っていたとは思えないが、異常性には気づいていたのだろう。

 両親は、少年に能力と対抗する方法を与えた。書き記し、刻み込むという方法を見つけ少年に与えた。

 そしてそれは―――明確な結果を示した。

 

 

「両親は、あの子の異常が境界を曖昧にする能力だとは認識していなかったみたいだけど、よく能力に対する対策を練ったわよね。あの子を見つけるまでに相当の時間がかかってしまったわ」

 

 

 紫にとって少年を探していた1カ月という期間は、苦い経験だった。過去にも余り無いかもしれないと言うことができる程度には苦労をした。

 探している最中は、予想以上に思い通りにいかない。違和感があることは分かっているのに見つけることができないことに不甲斐なさを感じ、イライラを募らせていた。その期間は、藍とも碌な会話をしていなかったほどである。

 

 

「紫様が外の世界でなんらかしらの違和感があると言って出かけるようになってから、1カ月以上経ってしまっています。和友は、相当上手くやっていたのでしょう」

 

「あの子を見つけるのには苦労したわよ。同じような能力を持っているのにあそこまで見つからないなんて予想もつかなかったわ」

 

 

 藍は、素直に紫の探知から逃れることができた少年のことを素直に凄いと思っていた。

 藍には、紫に全力で探されて一カ月逃げきる自信がない―――そして、きっとそれができる人物もいない。

 同種の能力を持っているという条件だけ考えれば、少年は最も紫に捕まりやすい人物なのだ。式神である藍よりもといわれると判断できない部分はあるが、少なくともいい勝負といえるだろう。

 類は友を呼ぶということわざがある。これは、性格や資質の似た者は自然に集まるという意味である。共通の趣味を持っている者は、趣味を通じて知り合う。同様の価値観を持っている者は、共通の意識で意気投合する。

 だから、紫に少年を見つけられない道理は本来ありえなかった。

 しかし、少年と同じような資質を持っている紫には、なぜか少年の事が見つけられなかった。同じ境界に関する能力を持ち、片方がその境界線に影響を及ぼすほどの能力を使っているにもかかわらず、見つけられなかった。

 もしかしたら少年にとって類は友を呼ぶということわざは、無縁のことわざなのかもしれない。本物と偽物の入り混じる少年の在りようでは、類は友を呼ぶなんていうことは起こりようもないことなのかもしれなかった。

 藍は、話が本流から流れてしまっているのを引き戻そうと、少年を見つけられなかった過去の話を打ち切り、これからのことについての話に話題を戻す。

 

 

「紫様、話を戻しましょう。あの子のこれからのことです」

 

「そうねぇ……」

 

 

 紫は、考えるそぶりを見せると唐突に手のひらを藍へと向け、右の手を出したまま親指と小指を折り、指を3本立てた。

 

 

「あの子には、3つの道があるわ」

 

 

 藍は、立てられた3本の指に意識を集める。

 少年には、これから生活していく未来に関して大きく分けて3つの選択肢が存在する。

 紫は、一つ一つ少年の未来の道の説明を始めた。

 

 

「1つ目、ここで私達と一緒に死ぬまで幻想郷で暮らしていくという道。2つ目、私達と一緒ではなく人里で暮らしていくという道。3つ目、努力して能力の制御を可能にし、外の世界に戻るという道。この3つがあるの」

 

 

 少年が取ることのできる道は、大まかに紫が言った3通りである。他に選択肢は存在しない。

 選択肢がこの3つに絞られる原因になっているのは、他でもなく少年が原因である。

 少年にとって能力の制御は―――絶対にやらなければならない必要条件、それを考えると少年にはもはや何もせずに幻想郷を出て行くという選択肢はない。どちらにせよ能力の制御ができるようになるまでは、幻想郷に滞在する必要がある。

 変わることといえば、どこで能力の練習をするか、そして―――能力の制御ができるようになってから‘どうするか’というところだけである。

 

 

「和友が幻想郷に来た第一目的は、能力の練習をして制御できるようになることです。練習さえできれば、場所はどこでもいいのではないでしょうか?」

 

「それは、能力の練習ができるのであればどの選択肢でも問題はない、ということよね?」

 

「そうです」

 

 

 藍は、少年がどの道を選んでも条件が達成されるのであれば、少年が何を選んでもいいと思っているようだった。

 少なくとも紫には、どれを選んでもいいと藍が思っているように聞こえており、藍の物言いにちょっとした違和感を覚えた。

 

 

「本当かしら?」

 

「なにがでしょうか?」

 

「あの子にとっては、どこで生活するかなんて、それこそどっちでもいいのでしょうけど……」

 

 

 紫は、藍の回答が藍の本心から来ているものには到底思えなかった。先程の微笑ましい様子を見ていれば、藍が少年に対して少しばかり特別な感情を少年に抱いていることは読みとれる。

 紫は、藍のどれでもいいという言葉に藍の気持ちが入っていないように思えてならず、藍の気持ちを問いかけた。

 

 

「藍、あなたはどうしたいの?」

 

「私は……できればここにいてもらいたいです」

 

「ふふっ、あなたはそう言うと思っていたわ。随分と仲良くなったようだしね」

 

「和友とは、色々……ありましたから。貰ったものを返すまでは、ここにいてもらいたいです」

 

 

 藍は紫の質問に少し恥ずかしそう答え、紫は藍の答えを聞いて口角を挙げて笑った。藍が口にする答えなど、藍の様子を見ていれば最初から分かっていたことである。

 やっぱり本心はそこか、と安心にも似た温かさが紫の心の中に広がる。最初からそう言えばいいのだと心のどこかで思いながらも、そんな素直じゃないところも藍らしいと微笑ましく思った。

 藍が少年にマヨヒガにいて欲しいと考える理由としては、3つの事が考えられる。

 少年に助けてもらった過去があるため、恩を感じているからなのか。

 それとも、少年に対して悪いことをしてしまったという罪悪感を持っているからなのか。

 もしくは、少年に対して好意的な気持ちを持っているからなのか。

 とりあえず、藍が少年に対して何らかしら普通とは違った想いを持っていることには違いなかった。

 

 

「まさか藍がここまで惹きつけられるとはね。あの子のどこが良かったの? どこに惚れたわけ?」

 

「ほ、惚れたわけではありません!! 和友は、なんというか、こう……守ってあげたいといいますか……守ってやらなければならないといいますか……」

 

 

 藍は、紫の茶化すような言葉に顔を赤くし、あたふたと言い訳を並べる。

 しかし、言い訳もしどろもどろで慌ただしく言葉になっていない―――それがまた紫の心をくすぐった。

 

 

「何といえばいいのでしょうか、その……」

 

 

 藍は、自身の抱いている感情がよく分からなかった。恋心ではないと断言できたが、それが明確に何であるか言い表すことができない。一番近いのが怯えている子犬を守ってあげたいという保護欲が最も近いように思える。

 だが、正確には違う気がする。

 藍は、複雑な感情を表す言葉を持ち合わせておらず、答えに行き詰まる。

 紫は、そんな戸惑うような藍の反応に満足したようで藍を茶化すのを止めた。

 

 

「ふふふ、分かっているわよ。冗談よ、冗談」

 

「からかわないでください!!」

 

 

 藍は、自分ばかりが踊らされているのが気に入らず、紫に向けて同様の質問を投げかける。

 

 

「だったら、そういう紫様は和友のことをどう思っているのですか?」

 

「えっ、わ、私?」

 

「ここには、紫様しかいませんよ」

 

 

 紫は、予想外の藍の反撃に動揺し、自身に人指さしを向ける。ここには、紫と藍の二人しかいないのだから藍の質問が紫に向けられているのは明らかである。

 紫は、唐突に投げかけられた藍の質問になんだかよく分からないという様子で少し悩む素振りを見せると、紫の口がそっと開かれた。

 

 

「うーん、あの子はなんて言ったらいいのかしら……ちょっと分からないわね」

 

「はぐらかさないではっきり答えてください。私には喋らせたのですから、紫様も」

 

「そうねぇ……」

 

 

 紫は、自分から少年に向けられた感情がなんであるか判断がつけられなかった。藍の言うように、守りたいという気持ちが湧かないわけではない。同じような能力を持っていて、努力している少年のことを擁護してあげたい気持ちは十分にある。それでいて、その努力を応援してあげたい気持ちもある。これから生きて行くための支えになってあげたい気持ちもある。

 

 しかし―――はたしてそれだけなのだろうか。

 

 紫は、心の中に湧き上がる感情の源泉を特定するために、少年の姿を脳内に映し出す。紫の脳裏には、少年の笑顔が鮮明に映り込んだ。

 紫は、頭の中に存在している少年にどこか心が引き寄せられる感覚に陥った。近くに行って抱きしめてあげたいような衝動に駆られた。

 

 

 紫は―――それが何なのか分からなかった。




これで少年のお話はひとまず終わりです。分からないことだらけですね。分かるようになるのは、結構後になります。


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心配性の二人、生まれ変わった少年

 紫は、長考した結果出てきた答えを素直に口にする。それで藍が納得することは無いと分かっていながら、それ以外の答えを持ち合わせていない紫に出すことのできる答えはない。

 紫は、心の思うまま少年に向けられている想いの総称を外へと吐き出した。

 

 

「分からないわ」

 

「分からないって……自分のことなのにですか?」

 

「得てして、他人よりも自分のことの方が分からないものよ」

 

 

 およそ一時間ほどだろうか、少年に対しての談話が二人の間で行われた。

 時間は、すでに午前3時を回ろうとしている。

 しかしながら、二人の顔には疲れは見えなかった。寝る直前の少年の顔は酷く疲れた顔をしていたが、妖怪である二人にとって深夜を過ごすということは、そこまで辛いことでもないらしい。

 藍は、一通りの会話を終えた後、紫にある提案を持ち掛けた。

 

 

「紫様、和友の様子を見に行きませんか?」

 

「藍は、心配性ねぇ……心配になる気持ちも分かるけど、そこまで心配する必要はないと思うわよ」

 

「…………そうですかね」

 

 

 藍は、少年が再び無理をしている可能性を危惧していた。

 紫は、藍が思った以上に少年を心配する様子に仕方がないなと腰を上げる。

 藍が少年を心配するのは仕方がないこと、少年の努力を見てしまえば無理をしているのではないかと想像するのは難くない。そして何よりもその行動を一番止めたがっていた藍が少年を心配するのも分からなくもないことである。

 紫は、藍の気持ちに対して譲歩の姿勢を示した。

 

 

「ほら、そんな顔しないの。さっさと行くわよ」

 

「は、はいっ!」

 

 

 二人は、居間を出て廊下を歩き、少年の部屋の前まで来た。

 

 

「さてと……あの子の部屋はここなの?」

 

「はい、ここのはずです。紫様も先程来られましたよね?」

 

「さっきは騒ぎを聞きつけただけだったからあまりはっきりと覚えていないのよ。和友は、意外と居間から近くの場所にしたのね」

 

「そのようです。近くにした理由は、特にはないでしょう。和友なら、そんなものどっちでもいいと言うはずです」

 

「違いないわ」

 

「では、開けますね」

 

 

 藍は当初の目的通り、少年が再び無理をしていないかを確認しようと戸に手をかける。

 しかし、そこで藍の手が止まった。

 

 

「さすがに寝ましたよね?」

 

「見てみるまで断言はできないわ。私達は、あの子のことをそれほど分かっていないのだもの。あの子がまだ何かを抱え込んでいる可能性は捨てきれないわ」

 

「そう、ですよね……」

 

 

 藍はそっと息をのみ、少年のいる部屋のふすまを静かに少しだけ開ける。

 部屋の中は真っ暗で、光がある様子はなく、さすがに作業しているということはなさそうだった。

 藍と紫は、暗い部屋の中に視線を向かわせ、瞼を閉じて布団の中で眠っている少年の姿を確認する。

 

 

「眠っているみたいね」

 

「そうみたいですね」

 

 

 藍は、実際に眠っている少年を直接見てようやく気持ちを落ち着けた。嫌な考えは、完全に淘汰された。少年に驚かされてばかりで、心を揺さぶられてばかりで、こうして自分の目で見るまでは嫌な考えが頭の中に浮かぶこともしばしばで、あの書き記す作業に没頭していたら、という考えが頭を離れなかったが、直接見てみればもうなんのことはない―――藍は素直に安心した。

 

 

「安心しました。どうやら心配いらないようですね」

 

「確認が終わったのならさっさとふすまを閉めるわよ。あんまりここでしゃべっているとあの子が起きてしまうかもしれないわ」

 

「はっ、早く閉めましょう」

 

「起こさないようにって言っているでしょう? ふすまはゆっくり閉めるのよ」

 

「そういう意味で言っているわけではありません」

 

「ふふふ、分かっているわ」

 

 

 紫は、ゆっくりと開けたふすまを音をたてないように静かに閉じた。

 二人は、閉じられたふすまの前で顔を一度だけ見合わせると微笑み、廊下を歩き出す。

 藍は紫に追随するように後ろを、足音を出来るだけ立てないようにして歩く。紫も同様に足音を消して歩いた。それは、少年を起こさないための配慮だった。

 

 

「本当に、良かった……」

 

 

 藍は、少年に対する不安が取り除かれたことで安心し、もう寝ようと考えていた。時刻は完全に眠る時間を越えている。

 前にいる紫もこれから寝るのだろうか。藍は、紫に問いかけた。

 

 

「私は、そろそろ寝ようと思います。紫様は、これからお休みになられますか?」

 

「私はもう少し起きていようと思うわ。私にはまだ、危惧していることがあるもの」

 

「まだ何か和友にはあるのですか?」

 

 

 藍は、紫の言葉に歩く速度を上げて紫の隣を並走し、緩んでいた顔を引き締める。紫には、まだ心配している事があるようだった。

 藍は、紫の顔を覗き込むようにして、少年の部屋を覗く前のような不安な表情を見せていた。

 

 

「藍、そんなに心配しなくても大丈夫よ」

 

 

 紫は、大丈夫だと藍の頭を軽くポンポンと軽く叩く。藍は、頭を叩かれたことで少しだけ頭を下に下げた。

 藍は、上目遣いになりながら不安そうな視線を向ける。やはり言葉だけでは安心できないようである。

 

 

「こっちの方はたいしたことはないと思うから……藍は先に寝なさい。心の中のこともそうだし、随分と疲れたでしょう? 私はもう少しだけ待ってみるわ」

 

「いえ、ここまできたら最後まで付き合います」

 

「ふふっ、ありがとう」

 

「今さらでしょう?」

 

「それもそうね」

 

 

 どうせ、このまま藍を寝かせても、眠れるはずもないのだ。これほどに心配している藍が、不安を煽られて心を落ち着けられる道理はない。藍と一緒に待つことになるのは、いわば必然だった。

 

 

 

「「…………」」

 

 

 紫と藍は、先程少年を待ち続けた居間へと移動し、眼を閉じて待ち続ける。

 再び、長時間に及ぶ待機時間である。縁側で星が見えているのに、視線を空へと向けることもなく、待ち続ける。お互い寝ているのではないかと思うほど微動だにせずに、時間だけを消費する。二人とも決して動き出そうとせず、これから何かが起こるということを分かっているように、何かが起こるのをひたすらに待ち続けた。

 

 

 時刻は、深夜三時を回る。時計の針は、固まり切っている二人と違って動くことを止めない。時間が止まったような二人の様子から、このまま一晩を明かすのではないかと思われた。

 そして―――そうなっても構わないと思っていた。

 そうなってくれればいいと―――心から思っていた。

 しかし、紫の予測は的中することになる。

 

 

「あれ……? まだ起きていたの?」

 

 

 音の無かった空間に声が入り込む。

 眼を閉じていた二人は、重くなった瞼を開けて声の主へと顔を向けた。

 二人の視界に入るのはもちろん、少年である笹原和友である。病院にいたときの服は寝間着に変わっていて、目元をこすっている少年の瞼はちょっとだけ赤くはれていた。

 

 

「紫様……」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年を見た直後に一度紫へと視線を移した。

 紫の予感が当たった―――そう思った、危惧していることがあるという紫の予測が当たったのだと理解した。藍は、予測していた紫がどう動くのか一挙手一投足に注視する。

 しかし、肝心の紫はその場から動こうとはしなかった。藍は、どうして紫が動かないのかと疑問を抱える。

 確かに、紫の予測していた内容と今現実に起こっている問題が同一のものかどうかは判断することができない。紫は、藍に向かって懸念材料があると打ち明けてはいるが、内容までは明かしていないのだから。

 しかしながら、藍は今の状況が紫の脳内想像と同じであると確信していた。

 藍は、紫へと向けていた視線を少年へと向ける。少年は、不思議そうな顔をしたまま止まっており、じっと自分達からの回答を待っていた。

 藍は、再び紫へと視線を向ける。再び藍の瞳に映しだされた紫は、相も変わらず目を塞いでいた。ならば、自分がやらなければならないことは一つである。藍は、紫から質問する役目を受けたと解釈して少年に対して質問を投げかけた。

 

 

「和友、どうしたんだ?」

 

「どうしたはこっちの台詞だよ? みんな寝ていなかったの?」

 

 

 少年は、まだ二人が起きていることが心底疑問だった。すでに、時は深夜3時を回っている。少年は、当然のように自分が寝た後にみんなもそれぞれ寝たと思っていた。

 このまま起きていたら、下手をすれば朝日が拝めてしまうような時間になる。まさか妖怪という生き物は、寝ないのではないかと思ってしまうような光景だった。

 少年の質問が飛来し、紫の閉じられていた瞳がようやく開かれた。

 

 

「あなたが来ると思っていたらから待っていたのよ。死んだ感想はどう? それも、相変わらずなのかしら?」

 

「えっ!? ……そっか、紫は知っているんだもんね」

 

 

 少年は、紫の言葉に少しばかり驚いたが、驚いた顔はすぐに何かに納得したように表情が変わった。

 紫は、最初から少年が起きてくるということを予期していた。それは、少年が病室で言っていた言葉から推測した予測である。紫の予測は、外れることなく現実のものとなった。紫の言葉によって驚いた少年の顔がそれを証明している。

 少年は、わずかに悲しそうな顔で自分に言い聞かせるように呟いた。

 

 

「家が、火事になったよ……」

 

「それで、一人で泣いていたのね」

 

「泣いてなんて、いないよ」

 

「そうね、あなたは強い子だから。きっと泣いてなんていないのでしょうね」

 

「うん……」

 

「紫様、どういうことなのですか?」

 

「この子の世界がさらに拡張したってことよ。無秩序な世界に新しい標識が2本ばかり立って、新しいことを沢山知って世界が広がった」

 

 

 藍が二人のやり取りについていけず疑問を口にすると、紫は少年のことを分かっているように次々と言葉を並べた。

 

 

「知識が増えれば増えるほど世界は広がっていく。あなたは、妖怪という新しい生き物、幻想郷、明らかに普通じゃないものにたくさん触れたものね」

 

「あんまり話していないのに色々なこと知っているんだね……」

 

「分かるわよ。あなたの心の中を見ていろんなことが分かったわ。あなたの能力は境界線を曖昧にする。あなたの能力は、あなたの心の中で一番強く効果を発揮しているわ。心の中が、最も能力の影響を顕著に表している」

 

 

 ここにいる全員が知っている―――少年の心の中は、境界を失って広がりをみせている。無秩序な境界線の中で無限に続くような世界を保持している。

 そんな場所に物を置いた場合どうなるだろうか―――想像するのは難しくない。物を置こうとした場合、無制限にどこかに飛来するのだ、飛び交って、飛び回って、走り出して、見えなくなり、分からなくなるのである。

 少年は、心の中の特定の位置に物を留めておくということができない。置けば独り歩きして、消えてしまう。だから、固定するためには何かに括り付けておく必要があった。具体的には、標識の中に刻み込む必要があった。

 少年は、そうやって無制限に広がっている境界線の無い心の中に思い出を押し留めている。

 

 

「外に出さないように塞いできた弊害で、内側が際限なく広がっていってしまっている。一つの物が増えるだけで、世界がどんどん拡張していっているのよ」

 

 

 知識を得て価値観が広がれば、少年の心の中はそれに従って広がる。これは、少年の心の中だけの特殊な現象である。

 前にも説明したことであるが、心の世界は人によって大きさが決まっている。だからこそ、価値観を広げるといってもあるところで限界が来る、相手の考えを理解できない部分が出てくる。

 心の中を広げるには、それこそ人を変えるしかない。少年は、それを地で行っているのである。

 

 

「死ぬことで拡張する世界、生まれ変わる世界」

 

 

 少年の心が広がっているのは―――まさしく人が変わっていることが原因である。

 夢の中で死ぬということは、そのまま生まれ変わるということである。少年は、夢の中で命を落とし、新しく生まれ変わるのだ。夢の中で死ぬことによって新しい自分を形成するのである。

 つまり、今少年が夢を見て、家が燃える夢を見て死んだというのは新しい知識や価値観を知ることが引き金となって起こっていることだった。

 藍は、紫の言っていることに納得したようで一度だけ頷いた。

 

 

「だから和友の世界は、あれほどに広いのですね」

 

「広いと大変でしょう?」

 

「もう、慣れたよ。どんどん広くなっていくだけなら何とか対応できる。一気に広がるわけじゃないからさ」

 

「それでもすごいと思うわよ。そうやって区別をして感情を出していける。それは、あなたの心の処理能力が高いからできることなのでしょう。標識が目印になっているのかしら?」

 

 

 少年は、紫から視線をずらして藍の方向を一度向く。藍は、何のことか分かっていないようで複雑な表情を浮かべていた。

 少年は、藍の方向に向けていた視線を紫に戻し、話しかける。

 

 

「藍が話についていけていないよ。こういう話は、時間があるときにゆっくりやろう? 紫だって今日は疲れたでしょ?」

 

「あなたの方が疲れているのではないかしら?」

 

「僕は、まだ大丈夫だよ」

 

 

 紫から見れば、むしろ少年の方が疲れているように見えた。少年は、自分で気付いていないようだが、少年の疲れは顔にしっかりと出ており、少しも休めていないのが丸分かりだった。

 

 

「和友、私たちの名前、覚えたのだな」

 

「藍と約束したでしょ? 明日には名前で呼ぶってさ」

 

「ああ、そうだな」

 

 

 藍は、少年が紫の事を名前で呼んでいることに驚き、同時に喜びを覚えていた。

 少年の文字通り血のにじむ努力は確実に実になっている、血を流してまで努力した証は名前となって口から生み出されていた。

 藍は、そのことが自分のことのように嬉しくてたまらなかった、少年の努力が無駄でなかったことを心の底から喜んだ。

 少年は嬉しそうにする藍に笑顔を作る。藍も少年の笑顔につられて自然に笑顔になった。

 紫は、二人の会話を微笑みながら傍観すると、目的を果たしたという感じでその場で立ちあがる。

 

 

「もうみんな寝ましょう。和友の言う通りよ、これ以上話していると明日に影響が出るわ」

 

「そうだね」

 

 

 紫は、少年のことを名前で呼んだ。

 少年は、紫の口から初めて名前で呼ばれたと心を躍らせる、ようやく家族の一員として認められたような気がした。

 

 

「じゃあ、僕はまた寝てくるよ。おやすみなさい。あと、誰のものか分からないけどちょっと大きい寝巻ありがとうね」

 

「おやすみなさい」

 

「おやすみ」

 

 

 少年は、迷いなく廊下に出て振り向き、大きくお辞儀をする、今日起こった全てのことを思い返しながら、自分が出来るだけの誠意を二人に対して見せつける。それはまさしく、少年からの感謝の証だった。

 

 

「本当に、ありがとう」

 

 

 少年は、しばらく頭を下げた後にゆったりと顔を上げると、笑顔のままふすまをゆっくりと閉めた。

 少年の足音は、徐々に遠のいて消える。

 紫は、少年の足音が完全に聞こえなくなると藍へと視線を向けた。

 

 

「あの寝巻……あなたの?」

 

「そうですよ。そういえば、和友には言っていませんでしたね。先程、寝るときに使うといいと言って渡しました。ここには、私と紫様のものしかありませんし、紫様のものを使うわけにもいきませんでしたからね」

 

 

 藍は、さも当然のことのように紫の質問に答えた。

 確かに、勝手に紫の使っている衣服を少年に貸し与えるわけにはいかないだろう。それは明らかに紫に対して失礼に値するし、無礼を越えて道徳やモラルの欠如に該当する。

 藍には、必然的に自分自身の衣服を貸すという選択肢以外に選べる選択肢がなかったと言っていい。

 紫は、当然のことのように話す藍を見て興味なさげに言葉を口にした。

 

 

「あっそう……それは無意識なのかしらね」

 

 

 藍は、紫の言っている意味が分からないときょとんとした様子で紫に尋ねる。

 

 

「無意識ってどういうことですか?」

 

「あなたの寝巻を和友が使っているってことは、和友はあなたに抱きしめられて眠るようなものでしょ? 自分の身の回りの物を貸し与えるなんて、よほど和友のこと気にしているのね」

 

 

 藍は、紫に衣服のことについて指摘されて顔を赤くした。どうやら藍は、そんなことまでは考えてもいなかったらしい。あくまでも、少年が寝るために衣服を貸しただけ、それ以上の何かを意識していたわけではなかったに違いなかった。

 それでも自分が普段使っているものを相手に使わせるということは、相手のこと信頼していないとできないことである。

 紫は、一連の行為から藍が少年のことをよほど気遣っているのだと理解した。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、紫の予想外の言葉に絶句したまま固まっていた。

 紫は、そんな藍が面白くて仕方がなかった。少年が来なかったら一生こんな顔を見ることができなかったかもしれないと、心のどこかで少年に感謝しながら笑みを深めた。

 

 

「ふふっ、顔を赤くしちゃって。今さら気にしてももう遅いわよ。衣服については、明日にでも買いに行ってきなさい。今日、また和友を起こすのもあれだからね」

 

「はい……そうします……」

 

 

 藍は、顔を赤くしたまま俯いて部屋を出て行こうとふすまの前まで移動する。

 紫は、それを見てくすくすと笑った。

 

 

「紫様、おやすみなさい」

 

「ええ、おやすみ」

 

 

 こうして3人の長い1日は、終わりを告げた。

 



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第三章 新しいは、いつだって不安定を連れてくるもの
新しさに対する認識


今回のお話は、各章に設けることにした俗にいう前書きと呼ばれるものです。
この話は、第3章のまえがき部分になります。
今後、第5章が終わり次第、1人称のような書き方で書いていくことが多くなると思うので、それの練習も兼ねています。何か、書き方に問題がある、おかしいところがある等のご意見がありましたらご連絡ください。


 どうして? なんで? そういった言葉は、僕に‘新しい’を呼んで来る。

 新しいもの。それは、楽しいもの。それが僕の新しさに対する認識だ。

 僕にとって、新しいものは分からないものと同義の言葉になる。

 新しいには、色がついていない。新しいには、名前もついていない。新しいは、今から自分が描くものになるんだ。自分にとっての何か、そういう何かを作る材料になる。

 環境が変わって人が成長するのは、新しいものを自分の中に取り入れるから。古い何かを捨てるから。

 人を構成する要素が変わる。そうやって自分が作られていく。

 そんな自分を作る作業が、意外と楽しかったりする。楽しさも、苦しさも、うまく判別がつかなかった僕にできることといえば、新しいを取り入れて自分を変えていくことぐらいしかなかった。

 ただ―――そのぐらいがちょうどいいようにできているみたいで、不満は感じていなかった。

 僕以外のみんなも同じように、新しいを得て、自分を変えていく。普通のみんなと同じことをしているという、普通のことだという気持ちも、僕の想いを助長しているのかもしれない。

 けれども、そんな僕の想いとは違って、新しいというものをあまり良く思っていない人もいる。良く思っていないというのは、物事の好き嫌いを言うような単純なものではない。大きい小さい、面白い面白くないのような感想を言う人とは、明らかに違うものだ。

 このタイプの意見は、僕にとって新しい価値観を植え付ける出来事になった。

 

 

 「よく分からないからやらない」

 

 「どうして変えなきゃいけないの?」

 

 

 なんて言葉を、友達から聞いたことがある。

 僕は、この言葉を聞いた時、思わず首をかしげてしまったのを覚えている。

 あれは、どんなときだっただろうか。自由時間に何して遊ぶかを決めていたときだったと思う。いつもドッチボールで遊んでいた僕たちに、友達の一人が言ったのだ。

 

 

「いつもと違う遊びがしたい。例えば、‘缶けり’とか」

 

 

 僕は、初めて聞いた缶けりという言葉に気持ちがはやるのを感じた。

 新しいもの、楽しいものがまた一つ増える。

 僕は、すぐに缶けりの仕組みについて友達から聞いた。ルールを聞いて、やってみたいという衝動にかられた。

 そこにやってきた言葉が、さっきの言葉だ。

 

 

 この時、僕は初めて新しいを知ることを嫌う人間がいるということを知った。

 いいや、ちょっと違うかな。新しいを取り入れて、変化することを嫌う人間を初めて見た。

 これまでは、好奇心に従って生きてきた子供が、ちょうど物事を考えるようになった時期だったからかもしれない。小学生になって、自分というものが出来上がってきたからかもしれない。協調性という社会で生きるための力を伸ばしていた時期だったからかもしれない。

 嫌だという友達に詳しく話を聞いてみると―――言い分としては、ドッチボールが楽しいのに何で変えなきゃいけないの? という納得してしまいそうになるほど、‘新しい’意見だった。

 

 

「変わっている気がする」

 

「変えている気がする」

 

 

 人間は、大きく二つの種類に分けられると思う。

 それは、男か女かとか。大人か子供かとか。そういう区別じゃなくて、もっと大事な線引き。周りを巻き込む人間か、周りに巻き込まれる人間かだと思う。

 そして、その二人を区別しているのは、日々の認識の違いからくるものじゃないかな。人を変える側の人間は、時間が過ぎていることを知っている。日が進んで、季節が変わって、年を越えていることを知っている。

 変えられる側は、時間の進みを実感していない。本当に今日だけを生きて、次に今日になる明日のことをほとんど考えていない。二度と来ない今日を知らない。今日は今日だけということを知らなかったりする。

 だから、新しいがやってきたときに不安になる。変わっていくことを怖がる傾向が強いように思う。

 

 

 いいや―――そんな難しいことでもないのかもしれない。

 結局、好奇心が強いかどうかになるんだろうな。そして、何かが起こるのが怖かったり、変化してしまうのが怖かったりするだけなんだろう。遊びが変わって、得意な競技から不得意な遊びに変わって、好きな人が嫌いになる。そんな変化が怖かっただけだったんだろう。

 その人にとっては、新しいは不安定を呼びつける悪魔と同じだったのかもしれない。

 

 どうしてなんだろう。

 変わらなきゃ生きていけないのに。

 それが普通なのかな。

 それが、普通なのかな。

 

 僕は、将来どういうふうに変わっていかなきゃならないんだろう。どんな普通を纏っていけばいいのだろう。

 

 新しいは、良いもの? 悪いもの? 

 

 僕には、今だって判断できていなかった。

 



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初めての朝、始まった生活

少年の過ごす日常が分かれば良いかなと思います。


 少年が幻想郷にやってきて2日目の朝がやってきた。少年が朝を迎えたという意味では、幻想郷で初めての朝を迎えたということになる。

 少年にとっては、そんなちょっと特別な日の幕開けだった。

 

 

「ふぁぁ~。んーはぁ……」

 

 

 現在の時刻は、午前7時を回る前―――朝日が顔を出し、光が眩しく差し込んでくる時間帯である。

 少年は、すでに自分の部屋から出ており、眠たい目をこすりながら居間へと向かって歩いている途中だった。

 

 

「和友の分は、どうするべきか。昨日の疲れから鑑みると朝早くから起きてくるとは思えないが……」

 

 

 まだまだ眠たそうにしている少年が向かっている居間には、すでに動いている人物が存在した。少年が起きるのもそこそこ早かったが、どうやら藍は少年のさらに1時間前ほどに起きているようで、現在進行形で朝食を作っている最中である。

 作っているのは主に自分の分の料理だけで、紫の分や少年の分は作っていない。

 自分の分だけを作っているのは、単に紫が起きてくる時間が遅いという理由からである。少年についても、昨日の疲れから考えれば朝早くから起きてくるとは考えにくく、早く起きてくる可能性を脳内から除外していた。

 藍がそんな少年のことを考えながら料理を作っているとき、少年が居間へと顔を覗かせる。

 

 

「ん? 起きるの早いなぁ……」

 

 

 少年は、居間へと入るふすまを開けて部屋の中を視認すると、流れるように調理中の藍に向けて挨拶の声をかけた。

 

 

「藍、おはよう……」

 

「噂をすれば影が差すとは、このことか」

 

 

 藍は、少年の声を聴いて一瞬驚いたようなそぶりを見せると、料理をしている手を止めて口を開いた。

 

 

「おはよう、和友」

 

「うん、おはよう……は~」

 

 

 少年は、眠たそうに眼をこすりながら藍のもとへと近づいてくる。

 昨日少年が寝たのは深夜12時を回ったころである。さらには、深夜3時に一度起きてきていることもあり瞼が非常に重いようだった。

 

 

「今日ぐらいもっと寝ていてもよかったのだぞ?」

 

「今日ぐらいとか、明日やればいいやとか、そういうのあんまり好きじゃない……」

 

「いや、そうは言うが早すぎるだろう? 昨日の疲れを考えれば、もっと熟睡できてもおかしくないはずだ。もしかして、布団が合わなかったのか?」

 

 

 昨日あれだけのことがあり、幻想郷に来て1日目ということを考えれば、もっと寝ていてもいい時間である。

 藍は、もしかしたら少年は今までベッドで寝ていたため布団に慣れておらず、寝にくかったということなのかもしれないと考えを巡らせる。

 しかし、そんなことは実際には無いようで少年は首を横に振った。

 

 

「ううん、そんなことはないよ。僕、いつもこのぐらいの時間に起きているから、目が覚めちゃっただけ……」

 

 

 少年は、ゆったりとおぼつかない足取りで藍と2メートルというとこまで近づき、その足を止めた。

 少年がこれほど朝早くから起きてきたのは、単純な理由からだった。少年の生活スタイルが朝早くから行動し、早く寝るという早寝早起きを体現したものだからである。

 起きる時間は体内時計がしっかりしている限り、変わることはない。

 けれども、今日に限っていえばその正確な体内時計が悪い方向に働いている。少年の表情は浮かないもので、明らかに疲れが取れていないようにみえる。

 藍は、とても眠そうにしている少年を気遣い、もっと寝ていても構わないと提案を持ち掛けた。

 

 

「そんなに眠たそうな顔をして言っても、何の説得力もないぞ。昨日寝たのは随分と遅かったのだし、もっと寝ていてもよかったのではないか?」

 

「ちょっと待って、少し体を動かすから」

 

 

 少年は、藍の提案に少しだけ考えるようなそぶりを見せると首をぐるりと回し、大きく背伸びをして大きく息を吐く。そして、肺にたまった空気を完全に抜くと目をぱちぱちさせて軽く腕を回した。

 腕を回し終えると、とんとんとその場で軽く飛び、肩の力を抜いて腕を重力に従わせる。

 藍は、始めてみる少年の動きを興味深げに観察していた。

 

 

「それは、朝起きたときに毎回やっている運動なのか?」

 

「そう、僕の習慣」

 

 

 藍は、少年の習慣というものが酷く目新しく見えた。

 藍には、朝起きたときにやる運動なんてそんなものはないし、やることといえば顔を洗うことぐらいしかない。藍は、自分もやってみようかなと考えながら少年の動作を見つめていた。

 少年の顔は、ほんの少しの間軽く体を動かすと先ほどよりもはるかにましなものになった。先程の疲れを見せていた顔とは雲泥の差である。

 

 

「朝起きるのだって習慣の一つだから、無理には変えられないよ。一日だらけちゃうと次の日に挽回するのにまた時間かかっちゃうしさ」

 

「紫様にも見習ってもらいたいな、と言いたいところだが……」

 

 

 少年の言葉は、どうしても主である紫の生活習慣と比較してしまう。そして、いざ比較してしまうとその差がより大きく見える。背景が真っ黒の空間に白い点があるみたいに、紫の生活のコントラストが顕著になる。まるで、正反対。正と負、表と裏のような生活習慣である。

 藍は思わずため息が出そうになる気持ちを抑えきれず、藍の口からはその思いそのままに諦めの言葉が漏れ出した。

 

 

「はぁ……紫様は、私がどうしたって何も変わらないだろう」

 

 

 藍は、紫の生活習慣を思い出すとため息しか出てこなかった。

 紫の生活スタイルは誰の目から見てもおかしく、おおよそ普通の生活とは言い難い。

 しかし、紫の生活習慣についてあれこれ言っても、不満を垂れても仕方がなかった。

 それは単純に―――変えることができないからである。

 

 

「紫様は、決して今の生活習慣を変えることはしない。私は、紫様の生活を変えることをすでに諦めている」

 

「紫の生活ってそんなに酷いの?」

 

「紫様の生活スタイルは、怠惰を体現したような生活だからな……」

 

 

 藍は、これまでに紫に対して規則性のある生活を送るように提言したことが数多あった。

 しかし、そのいずれもが紫には聞き入れられず、今の状態となっている。

 まさしく―――言うだけ無駄の状態だった。

 

 

「どういえばいいのだろうか……紫様の生活はなんというか、無秩序な感じだ」

 

 

 紫の生活習慣は、無秩序といっていいほどに散乱している。早く起きる日もあれば、一日中起きてこないときもある、どこかに出かけたと思えば何もしていないときだってある。

 言葉では表せないような生活というのは、何とも的を射ている表現だといえるだろう。

 

 

「変わっているようで変わってなくて、決まっているようで決まっていない。雲をつかむような生活をしておられる」

 

「へぇ、全然分かんないや」

 

「まぁ、一緒に生活していれば嫌というほど分かるさ。百聞は一見に如かずだ。見ていれば嫌でも理解できる」

 

 

 藍は、分かってもらえるなど最初から思っていなかった。言葉に表現できないものを相手が言葉だけで理解できるはずがないのだ。それは、目の見えない人に空の色を説明するぐらいに無理のあることである。

 藍は、後に分かるという言葉をもって紫の生活についての話を打ち切った。

 

 藍の説明できなかった紫の生活を簡単に説明すると―――紫の生活は、寝る時間が遅くなろうが早くなろうが生活には影響せず、睡眠時間が長かろうが短かろうが特に生活の流れが変化をするわけでもないというような完全無秩序型である。

 そういう意味では、少年とは全く違った普遍性があるといえるだろう。

 睡眠時間が極端に短く眠らない時もあれば、数カ月という長い時間を睡眠に使うこともある。睡眠時間が影響を及ぼす部分があるとしたら、機嫌の善し悪しに少しだけ影響を及ぼす程度だろうか、その程度のものである。

 結局のところ、起きてくる時間も眠る時間も何も分からないのだ。そんな無秩序こそが、紫にとっての平常運転である。

 

 

「朝食を作っているんだよね? 手伝うよ」

 

 

 少年は、料理をしている藍を見つめながら2メートルあった藍との距離をさらに詰める。

 藍は、近づいてくる少年に対して右の掌を少年に対して見せるように突き出した。

 

 

「和友」

 

「何かな?」

 

 

 少年の足は、突き出された藍の手前で止まった。藍は、正面で止まっている少年に向けて命令する。

 

 

「まずは、顔を洗ってきなさい。はっきりと目も覚めていない人間に調理なんてさせられない。外に水が出ている所があるから行ってこい」

 

「そっか、そうだね。うん、分かった。それじゃあ顔を洗ってくるね」

 

 

 藍は、外の水が出ている場所に向かって指さした。どうやら藍の指し示している方角に顔を洗うことができる場所があるらしい。

 少年は藍の言葉に納得し、藍に示された方角に向かって外へ出かけていく。少年の後姿はどんどん小さくなっていった。

 藍は、遠のく少年の後ろ姿を見送りながら肺から全ての空気が抜けるような大きく息を吐いた。

 

 

「はぁ……和友は、なんでも手伝おうとするところが良いところで、悪いところだな。制止をかけないと無理をしかねない」

 

 

 藍は、少年を止めるために停止させた調理を再開しながら昨日の事を思い出した。

 頭の中には、昨日の少年の姿がはっきりと浮かび上がってきた。書き記している作業の少年の無理をしているところが脳内に明確に想起された。油汚れのようにへばり付くように刻み込まれた記憶が頭の中にあった。

 

 

「本当に、あれは……」

 

 

 少年という人間はそういう生き物なのだと思えるほどに、努力している姿、生き方が様になっていた。年季が入っているというのだろうか、洗練されているように感じられた。

 少年の努力する姿は、そうあるのが普通だと言えるほどに一つの造形物に見えるのである。まるで、美術館で完成された絵画を見ているような、そんなイメージを沸かせるだけの積み立てが少年の行動には存在している。

 

 

「昨日は面を食らってしまったが、和友はきっとああいう生き方しかできないのだろうな。幻想郷にいる間ぐらい、外の世界よりも負担を減らすことができればいいが……」

 

 

 藍は、少年について考え事をしながら調理を進める。一般的に考え事をしながら調理をするのは危ないことではあるが、気にする様子もなく料理を作っていた。

 調理の際に思考するという危険なことに対して、気にする必要がないからといえばそれで全てである。悩みながらの調理に支障が出ることはないし、いつものことだというのが藍の認識だった。

 

 

「どうすればいいのか……何も思いつかないな。紫様と話し合えば、何かいい案が出てくるのだろうか……」

 

 

 とんとんと包丁がまな板に当たる景気のいい音が空間に響く。

 

 

「しかし、紫様はよく考えているようで考えていない方だから、あまりあてにはできないな。いきなり和友を放り出すということもやりかねない。やはり……私自身が和友を支えていかなければなるまい。和友には、大きな借りがあるのだから」

 

 

 藍が料理をしている最中に怪我をするなんてことは基本的にはない。そもそも、藍の右手に握られた野菜を切っている包丁が藍の左指を切断することなどあり得ないのだ。

 妖怪の体というものは、そんなに傷つきやすいものではない。最悪、包丁の方が欠けてしまうのではないだろうかというレベルの話である。

 

 

「よし、今日もいい感じだ」

 

 

 藍は、できあがりを待ち構えた料理達を見て満足そうな顔になった。

 藍が作っていた朝の料理は非常に質素なもので、ご飯に味噌汁、焼き魚に漬物、サラダである。

 藍の表情は、料理が上手くできあがってきているということが伝わる表情だった。残念ながら誰も藍の表情を見ている人物はいなかったが、数少ない藍の自然な笑顔を見ることができる貴重な瞬間である。

 藍が調理を終えて包丁とまな板を洗い、片づけようとしたそんな時―――玄関の扉が動く音が聞こえた。

 

 

「帰ってきたか」

 

 

 どうやら少年が外から顔を洗って戻って来たようである。

 この時藍は、紫が起きてきたとは微塵も思っていなかった。紫は、絶対にこんなに早く起きてこない。そんな思考回路など数百年前に捨てており、ゴミ箱にも残っていなかった。

 藍は、少年が入ってくるはずのふすまへと目を向ける。藍の耳には、小さな小さな足音が部屋に向かって近づいているのが聞こえた。

 聞こえていた足音が―――そっとふすまの前で消え、ふすまが開かれる。

 藍は、開けられたふすまの奥の人物を確認すると、思わず動揺した。

 

 

「ど、どうした? 何かあったのか?」

 

 

 ふすまが開かれて中に入ってきたのは、予想通りに少年だった。

 しかし、現れた少年の姿は予想に反して腰が老人のように90度近く曲がっており、真下を向いていた。足音が異様に小さかったのは、腰を曲げていたせいだったようである。

 

 

「タオル忘れた……」

 

「はぁ……」

 

 

 藍は、少年の言葉に大きなため息を吐く。溜め息と一緒に心配や不安が口から抜けていった。

 心配のしすぎだと思う人もいるかもしれないが、昨日あった密度の濃い時間を考えれば何が起きてもおかしくないのだ。藍の感情の起伏は、そういう意味でごく普通の反応だった。

 

 

「びしょびしょだよ……」

 

 

 少年は、わずかに目を開けた状態で軽く頭を上げる。

 藍の瞳には、ずぶぬれの少年の顔面が映った。重力に従って少年の顔面からだらだらと水滴が落ちていく。

 

 

「今着ている服で拭いてもらって構わなかったんだぞ?」

 

 

 藍は、別に濡れた顔を拭きとる程度の事ならば、貸している寝巻で拭いてもかまわないと思っていた。濡れた顔のまま部屋に戻ってくる方が、廊下に水滴が落ちたり、前が見にくいことで転んだり壁にぶつかったりと、色々と問題があるからである。

 しかし、どうやら少年は藍から借りている寝巻で顔を拭くのはどうしても避けたかったようで、明確な拒否の姿勢を示した。

 

 

「そんなことはできないよ」

 

「あーもう、しょうがない奴だなぁ」

 

 

 藍は、わずかに微笑みながら優しく声を発する。少年が寝巻をできるだけ濡らさないように腰を曲げていることからも、借りている寝巻を汚したくないという気持ちが伝わってくる。少年は、藍に対して気を遣ってくれているのである。

 藍は、少年の気持ちに表情を柔らかくしてキッチンにおいてあるタオルを手にすると、微笑ましいものを見るような様子で少年にタオルを手渡した。

 

 

「ほら、これを使いなさい」

 

「藍、ありがとう」

 

 

 少年は、濡れた顔で目が見えているのか分からない状態のまま藍に向けてお礼を言う。藍は、お礼を言う前にタオルで顔を拭かないところも少年らしいなと思った。

 

 

「ん~~~はぁ……」

 

 

 少年は、藍から両手でタオルを受け取ると濡れた顔を拭う。顔についた水滴は、タオルに吸い込まれて消えた。

 顔の水滴をふき取った少年は、目をぱちりと開けてすっきりとした表情をみせる。藍は、少年からのお礼と共にタオルを少年から受け取った。

 

 

「ありがとね」

 

「どういたしまして。もう朝ごはんができるから、そこで座って待っていてくれるか?」

 

「はーい」

 

 

 少年は、藍の言葉に一度頷いてテーブルの方へと歩き出す。そして、椅子に腰かけると明るくなった外の景色に目を向けた。

 今日の天気は晴れのようで、日差しが差し込んできている。出かけるのにはベストな天気だった。

 

 

「いい天気だ」

 

「和友、今日は何か予定を入れていたりするか?」

 

 

 少年は、藍に話しかけられて外の景色を見ていた顔を藍の方向へ向けた。

 少年の視界に入った藍は、下を向いたままで手元に視線を向けて、手を動かしている。藍は、少年の方向を向くことなく、手元に視線を向けたまま話しかけたようである。

 少年は、調理台に視線を向けている藍に一方的に視線を向けて話しかけた。

 

 

「予定なんて全然無いよ。あるっていえば、能力の制御の練習をやりたいってだけかな」

 

「それでは、朝ご飯を食べ終わったら人里に行かないか? これから和友が暮らしていくのに必要なものを買い揃えようと思うのだが」

 

「僕は全然構わないけど……」

 

 

 藍は、少年に人里に行こうと提案した。

 これから少年が幻想郷で暮らして行くためには、必要となる物がたくさんある。貸し与えている寝間着に始まり、衣服の数々、食事の時に必要な箸や筆記用具だってあった方が良いだろう。

 藍は、昨日紫から買い物に行った方が良いという提案されたこともあり、少年に必要な必需品を買いそろえるために人里に行こうと考えていた。

 少年は、買い物に行こうという藍の提案に乗ることに対して申し訳なさを感じていた。

 何かを買ってあげる、その言葉は藍から施し(ほどこし)をうけているようで悪い気がした。何かしら対価として払っているのならばともかく、何かしらの返しがあったのならばともかく、昨日からやったことといえば迷惑をかけたことだけである。

 少年は、対価を何も払わずにただただ貰うだけの存在となっていることに責任を感じていた。

 

 

「ごめん、何か対価として払えるものを持っていればよかったんだけどね。僕、なんにも持ってないし……」

 

「これから返してくれればいいさ。和友は、まだ子供なのだ。子供の時は甘えればいい」

 

 

 藍は、暗い雰囲気を作り出す少年を諭すように告げた。少年のような年の子に今すぐ何かをしろというほど藍も紫も鬼ではない。それに、返す必要すらなくなるかもしれないのだ。

 藍は、そこまで話したところで一呼吸入れると、少年に向けて心の内に秘めている自分の意志を伝えた。昨日、寝る前に考えたことを口に出した。

 

 

「それに……このままここで暮らすのだったら私たちの家族になるわけだし……お金については、別に返さなくてもいいからな」

 

 

 藍は、遠まわしにマヨヒガでずっと暮らしていけばいいと少年に告げたつもりだった。

 はっきり言って少年が外の世界に戻る選択肢には現実味がないのだ。

 なぜならば、少年には外の世界に戻っても頼りにできる両親がいないからである。

 それに、幻想郷に来ている間に外の世界で起こっている神隠しの期間をどうやって埋めるのかも分からない。

 少年が外の世界に戻るということには、色々と問題があるのである。

 

 少年はきっと幻想郷で生きることになるはずだ、藍はそう思っていた。

 少年は近々、幻想郷のどこで暮らしていくのかについても決めることになる―――近いうちに人里で暮らしていくのか、マヨヒガで暮らしていくのかを決める時がやってくる。マヨヒガに住むのかどうかは少年しだいだが、きっとマヨヒガに住むことだろう。

 他に当ての無い少年に与えられた選択肢は、無いに等しい。

 もしもこのままマヨヒガで暮らすというのならば、藍と紫と少年の3人は家族のような関係になる。家族であれば、この程度の貸しは何の問題もないし、気にするほどのことでもないだろう。

 特に藍は、お金で買えないような貸しを少年から与えられている立場であるため、余計に少年がお金を使うことを気にしていなかった。むしろ、使って欲しいとさえ思っていた。

 なにより八雲紫と八雲藍は―――人間一人を養えないほど貧乏ではないのだ。少年一人養っていくなど、藍や紫にとってはたいした問題ではなかった。

 しかし、そんな藍の意図に反して、少年は明確な拒否の言葉を吐き出した。少年が藍の意図を分かっているのかどうか分からないが、藍の言葉に対して真剣な顔で拒否の姿勢を示した。

 

 

「いや、絶対に返すよ。もらった分は返さないとね」

 

「なぜだ?」

 

 

 藍は、少年のあまりにきっぱりとした答えに少し驚いた。

 少年の言葉には、躊躇するような様子や戸惑う様子は見受けられない。はっきりとした気持ちをもって返すと言っていることが分かる。

 藍は、少年の明確な否定を示す回答に不安を抱えた。

 もしかしたら少年は、藍や紫と家族になるということを嫌がっているのかもしれない、マヨヒガにいることを嫌がっているのかもしれない。そんな嫌な想像が藍の頭の中を駆け巡っていた。

 

 

「和友は、嫌なのか?」

 

「借りた状態がってことなら、僕は嫌だよ。そんな、みんなの荷物になるようなことはしたくない」

 

「そうじゃない。私が言いたいのは、そういうことではない。私が聞きたいのは……」

 

 

 藍は、自分の言葉の意図を理解していない少年に向けて遠回しな表現を避けて再び尋ねようとしたところで―――言葉を口にしようとするところで固まった。

 少年にそのことを直接尋ねてもいいものかと良心の呵責に囚われたのである。これから聞こうとしていることは、直接的に言えば少年の両親の死についてのこと―――両親のことを引きずっているかという問いなのである。

 藍は、昨日の一件で少年が両親の死について気にしていないということを知っていながらも、そのことを口に出すことがはばかられていた。

 

 

「何を聞きたいの?」

 

「私が言いたいのはだな……」

 

 

 藍は、少しの間悩み、少年に尋ねるという結論を下す。いくら聞きにくくても、いくら質問しにくくても、少年の真意を聞いておかなければこれからどうしていけばいいか分からないのだ。

 藍は、少年にとって辛い質問をしていることを理解しながらも質問を投げかける。その質問に答えるのがどれほど難しいことなのかを理解しながらも、少年に告げた。

 

 

「和友は、ここで私達と家族として暮らすのは嫌なのか? やっぱり家族の事は忘れられないのか?」

 

「…………」

 

 

 少年は、一呼吸の沈黙を含んだ。

 藍は、問いかけに対して沈黙する少年に心臓を激しく鼓動させる。聞くべきではなかったかとさらなる不安を抱え込む。それでも、藍の瞳は真剣なままで、少年だけを見つめていた。

 少年は、しばらくの沈黙の後ゆっくりと口を開き、笑顔を作った。

 

 

「……家族のことで、ここで暮らしていくことを悩んでいるわけじゃないよ。別にここで暮らすのが嫌なわけでもない。ただ、ちょっとね。まだ決めきれないからさ」

 

「そうか……時間はあるんだ、ゆっくり決めていけばいいからな」

 

「うん……」

 

 

 藍は、少年の作られた笑顔を見て、少年に回答のための時間的な猶予を与えた。決して、せかすように少年の答えを聞いて決断を迫ることはしなかった。

 正確には、これ以上追及して少年を追い込むことができなかったと言った方が正しいだろう。藍は、少年からまたしても拒絶するような言葉が出てくる可能性に怖気づいてしまっていた。

 藍は、気持ちを切り替えて完成した朝食を運ぶ。何もかも振り切るようにして、思い出したくないものを隠すようについさっき追加した2人分の朝食を順番に机に運ぼうとした。

 少年は、藍が食器を運ぼうとしているのを見ると椅子から立ち上がった。

 

 

「藍、僕も手伝うよ」

 

「ああ、ありがとう」

 

 

 少年は、先程の重い空気を払しょくするように表情を柔らかくし、何事もなかったかのように朗らかな顔をして藍の手伝いを行った。

 テーブルには、藍の作った朝食が並ぶ。

 二人は、全ての料理が並んだことを確認すると椅子に座り、合掌した。

 

 

「「いただきます」」

 

 

 二人は、いただきますの言葉を合わせると朝食を食べ始めた。お互いにゆっくりと食べ物に手を付け、目の前の料理を消費する。

 二人の間には、わずかに重い空気が残されており、どちらとも話をしようとしなかった。

 

 

「「…………」」

 

 

 藍は、先程の問いかけに対する少年の反応が気になり、それどころではなかった。少年に気を遣わせている、昨日の今日で聞くには早すぎた質問だったと心の中で反省していた。

 少年は、明らかに悩んでいると分かる藍を複雑な表情をしたまま見つめる。藍は、困った顔で少年に視線を返す。

 そんな無言の空気の中、初めに声を発したのは―――少年だった。

 

 

「紫は、まだ起きてこないんだね」

 

 

 少年は、紫抜きで朝食を食べていることについて疑問を投げかけた。紫もマヨヒガに住んでいて、藍の家族として過ごしているのならば、食事に参加するのが普通じゃないのか、食事は家族でとるものという認識の強い少年は、朝食を二人で食べているということに違和感を覚えていた。

 藍は、少年が疑問に思うのも仕方ないと思った。少年は、紫の生活習慣を知らないのだから。

 

 

「紫様は、基本的に昼からしか活動しないよ。冬眠の時期だとずっと寝たっきりだ」

 

「その言い方だと、まるで病人みたいに聞こえるね」

 

「紫様のあれは病気みたいなものさ」

 

「はははっ、そんな病気があるんだね。初めて知ったよ」

 

 

 少年は、藍の物言いが紫を病人扱いしているように聞こえた。そして、それは何の間違いでもなく真実であることを知ると、藍の軽口に笑いを堪え切れずに笑い声を外に漏らした。

 

 

「紫は、お寝坊さんなんだね。そっかぁ、僕が紫を早朝に見つけたのは、ものすごくレアな出来事だったんだね」

 

「珍しいなんてものではないぞ。人に自慢してもいいほどだ。私ですら朝から活動している紫様をほとんど見たことがないからな」

 

 

 藍と少年は、そんなどうでもいい会話を並び立てながら朝食を頬張った。

 少年は、昨日のことを覚えていないかのように、気にすることもなく自然体で時間を流している。

 藍は、少年の明るい様子に気を楽にしていた。

 

 

 少年は、先程よりも表情を柔らかくする藍に色んなことを話した、幻想郷での話やこれまでの生活、昨日のことを気軽に口にした。

 藍は、少年との会話を楽しみ、会話に花を咲かせる。テーブルに置かれていた料理は、次々と姿を消していった。

 少年と藍は、目の前の料理が無くなってもしばらくの間会話を楽しんだ。

 

 

「それでだな、和友。もう一つ面白い話があってだな」

 

「ごめん、藍……そろそろ、後片付けをしよっか?」

 

「あ、ああ、そうだな」

 

 

 藍は、次の言葉を吐き出そうとしたところで固まり、少年に向けていた視線を下へと向ける。藍の視界には、空になった皿が並んでいた。

 藍は、時間を忘れて少年と話をしていたことに気付き、慌てて少年の提案に乗った。

 

 

(どうして私は、料理を食べ終わったことに気付かなかったのだろう? どうしてこれほどに話していたいという気持ちになるのだろうか……?)

 

 

 藍は、自分があまりに饒舌になり、時間を忘れて少年と話していたことを不思議に思った。

 少年との会話には、他では味わえないほどの高揚感と充実感、楽しさとドキドキ感がある。藍は、どうしてそのような感情が沸き立つのか、感情の源泉を見つけることができなかった。

 藍は、少年との会話を続けたい気持ちを抑えてテーブルの皿の後片付けに入る。すると、藍の行動を制止するように少年から声がかかった。

 

 

「後始末は僕がやるよ」

 

「いや、私がやるから和友はのんびりしてくれていいぞ」

 

「美味しい料理を作ってくれたお礼だよ。このぐらいは僕にやらせて」

 

 

 藍は少年にやってもらうほどのものでもないと少年の申し出を断ったが、少年は食事を作ってくれたお礼だと藍に伝えた。

 そう言われると悪い気のしない藍は、表情を柔らかくして少年の言葉を受け入れる。

 

 

「そ、そうか。ならば、お願いする」

 

「任されたよ」

 

 

 少年は、藍の答えに満足した表情で食事の後始末を開始する。

 藍は、少年の気遣いにくすぐったい気持ちに襲われていた。普段誰からも手伝ってくれる存在が身近にいない藍は、少年の善意がこそばゆかった。

 

 

「普段一人で黙々とやっていたことを誰かにやってもらうというのは、なんだか気持ちが悪いものがあるな。今後慣れるのだろうか?」

 

 

 藍は、チラチラと少年の行動を見つめながら縁側へと移動する。

 縁側には、太陽の日差しが差し込んでいる。徐々に視界の中に入り込んでくる空は青く晴れ渡っていて、まぶしいぐらいに太陽が照っていた。

 

 

「にしても、本当に今日は良い天気だな。布団も干さないと……」

 

 

 藍は、縁側に座って太陽の光を浴び、のんびりと時間を過ごした。

 しばらくの間のんびりしていると、部屋の中から聞こえてくる食器の音、水の音が完全に消える。どうやら、食器の片づけが終わったようである。

 水音が消えると、少年の足音と思われる音がどんどん大きくなった。

 

 

「隣、いいかな?」

 

「遠慮なんてしなくていいぞ」

 

「それじゃあ、遠慮なく」

 

 

 少年は、縁側でのんびりしている藍の隣に座ると、視線をはるか遠くに持っていく。

 何があるのだろうか―――藍はそう思い、視線を送った。

 だが、視線の先には空しかなかった。

 

 




和友は人間ですし、やはり最初に訪れるべきは人里ですね。


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人里への歩み、迫りくる妖精

「「…………」」

 

 

 藍と少年は、暫くの間、何もせず縁側に佇む。二人は、ただただ座って外を眺めているだけ、そんなゆったりとした時間を過ごしていた。

少年は、飽きることもなく遠くを見つめている。藍は、少年の視線を追って遠くを見つめた。

 少年の視線の先には、何もなかった。いくら目を凝らしてもそこにあるのはやっぱり空だけで、少年の視線が何に囚われているのか見当もつかなかった。

 

 

「ふむ」

 

 

 藍は、少年が何に引き付けられているのか少しだけ不思議に思いながらも口には出さず、黙ったまま目をつむる。

 視界は真っ暗になる。だけれども、真っ暗な中でも温かい光の流れが感じ取れる。ゆったりとした、ぽかぽかとした時間の流れている。隣には、少年がいて空を見上げていることだろう。先ほど目に焼き付いた光景が瞼の裏に映っていた。

 藍は、これからのことを考えた。

 今日は、何をする予定だっただろうか。穏やかな心で今日起こるはずの出来事を想像し、先程話した人里へ買い物に行くことについて少年に話した。

 

 

「もう少ししたら人里へ行こうと思うのだけど、いいだろうか?」

 

「全然問題ないよ」

 

 

 少年は、藍の申し出を受け入れると、人里に行く上で気になるところを尋ね返す。

 

 

「それまでに何を用意しておけばいいかな? 何か持っていくものとか、必要なものとかあったら教えて欲しいんだけど」

 

「特に何も持ってくる必要はないな。その身一つあればとりあえずは大丈夫だ」

 

「了解です」

 

 

 少年は、藍の言葉に一度だけ頷いて立ち上がると居間から出て行った。おそらく、自分の部屋に戻ったのだろう。

 藍は、部屋を出て行った少年に対して疑問を口にする。

 

 

「何もいらないと言ったのだが……和友はどうして部屋に戻ったのだろうか。まぁ、体だけでいいと言われて本当に体だけを持ってくる人間も稀か」

 

 

 藍は、少年に追いつくように立ち上がる。

 

 

「さて、私もそろそろ準備をしようか」

 

 

 人里に買い物に行く場合、必要となる物が複数存在する。買い物という単語から何が必要なのかは、容易に想像できるだろう。

 それは、物を買うためのお金と物を入れるための手提げカバンである。

 

 

「お金は、十分にあるな。入れ物もこのぐらいの大きさがあれば大丈夫だろう。寝ぐせもついていないし、服装に乱れはない。準備は万全だな」

 

 

 藍は自身の部屋の中に戻り、人里へ行くための身支度を済ませた。

 身支度を終えた藍は、廊下を歩き玄関へと向かう。

 玄関には、まだ少年の姿は確認できなかった。

 

 

「和友は、まだ……か。一体何に手こずっているのだ?」

 

 

 何をそんなに準備しているのだろうか―――藍はそんなことを考えながら玄関付近で少年の準備が終わるのを待った。

 

 

「来たか」

 

「ごめん、少し手間取っちゃって」

 

 

 少年は、藍が待ち始めてほんの数分が経過したところでやってきた。本来少年が人里へ行くための用意にかかる時間は、藍よりも短くなるはずだった―――藍よりも持っていくものが少ない分、時間はかからないはずだった。

 しかし、少年は現実に藍よりも遅れている。何かしら遅れる理由があるはずだ、藍はそっと少年の姿を確認した。

 

 

「ははっ、遅れた理由はそれか」

 

「これ、間違っていないよね? 最初着た時、間違えたと思ったんだけど……」

 

「いや、間違っていないさ。それで合っている」

 

 

 藍は、少年の姿を見て少年が遅れた理由を把握する。時間がかかった原因は、はっきりと少年の姿に映し出されていた。

 原因は―――少年の着ている服にあった。

 当然のことであるが、少年用の服はマヨヒガには存在しない。少年は病院服でマヨヒガに来たため、外に出るために藍か紫の衣服を着ることになるのは必然である。

 少年の今着ている服は、もちろん藍の衣服である。昨日藍は、寝間着を少年に与えると同時に、平常着る用の服を一着貸し与えた。少年が準備に時間がかかったのは、藍がこれに着替えるといいと言って手渡した服に着替えるのに時間がかかったためである。

 少年が着ている服は、藍の物であるためサイズが大きく、少年に合っていなかった。大きい藍の服をところどころ折り曲げて丈を合わせている状態である。

 藍は、少年の姿に満足したようで、深く頷いた。

 

 

「うん、良い見栄えだ。サイズがちゃんと合っていればもうちょっと良くなると思うが、そこは仕方がないか」

 

「体は急に大きくなったりしないよ」

 

 

 少年は、折り曲げていた服の袖を片側だけ伸ばしてパタパタさせる。振られる勢いに、巻くっていた袖が完全に伸びる。

 少年は、丈が合っていないことを藍に見せつけるように示した。

 

 

「飛び出ているのは10cmぐらいか? 今度丈を合わせようか? そのままというのも居心地が悪いだろう」

 

「ありがとう。でも、このぐらいだったらきっと2年ぐらいで伸びるよ。そろそろ僕も成長期だからね」

 

 

 少年は、藍の提言にお礼を述べるとともに大丈夫と返事を返した。そして、再び折り曲げて丈を合わせると、靴を履いて玄関先に出て藍のちょうど隣に並び立った。

 少年と藍が隣に並ぶと藍と少年の身長差がはっきりする、まるで親子のような身長差である。

 

 

「和友、ちょっと後ろを向いてくれ」

 

「ん?」

 

 

 藍は、少年の肩を掴んで後ろを向かせた。少年は、不思議そうな顔をしたまま藍にされるがままに背を向ける形になる。

 藍は、後ろ向きになった少年の頭を確かめるようにポンポンと叩いた。

 

 

「ん、そうだな、これからに期待だ。和友の伸長はどこまで伸びるのだろうか。170cmを超えるといいが、どうだと思う?」

 

「どうだろう……父さんも母さんもそこまで大きくなかったし、藍ぐらいの背丈で止まっちゃうかもね」

 

 

 少年は、少し考えるようなそぶりを見せながら答えた。

 藍は、程よく小さい少年を後ろから抱き締める。少年の体はすっぽりと藍に包まれ、ちょうど少年の頭の上に藍の頭が乗るような形になった。

 藍の体勢的には、非常に楽な状態である。重力によってかかっている力が程よく少年に体に伝わり、体が休めている。そして、同時に少年の体温が広がり、藍の心にまで温度が伝搬した。少年がまだ幼いからか、人間と妖怪で体温が違うからなのか、少年の方が少しばかり体温が高いように感じられた。

 

 

「私は、このぐらいがちょうどいいと思うがな。丁度いい高さで抱き心地がいいからな」

 

 

 昨日の一件で色々あった藍は、少年の存在を完全に受け入れ始め、家族の一員として扱うレベルまできていた。

 少年の存在は、藍の心に深く侵入している。少年が自分の服を着ていることもあってちょうど自分に子供ができたような感覚に陥り、余計に可愛らしく見えていた。

 少年は、冗談のように話す藍に微笑みながら言う。

 

 

「藍がいいからって、さすがにこのままっていうわけにはいかないよ。僕はちゃんと成長しているんだからさ」

 

「ふふふっ。和友は可愛い奴だな。人間なのがもったいない。和友が妖怪だったら、背丈も変わらずちょうどいい抱き心地のままだったのだがな」

 

「無理無理、僕は人間以外には成れないよ」

 

 

 少年ははっきりと明言し、人間以外には成れないと断言した、確信めいたように藍へと告げた。

 藍は、少年のばっさりした答えに首をかしげる。

 

 

「どうしてだ?」 

 

「僕は、人間だからさ」

 

「それは、どういう……」

 

 

 少年は、人間だからという意味不明な回答を残す。

 藍は、よく分からないといった顔で少年に深く尋ねようと口を開きかけるが、少年は会話を中断させるように、ごまかすようにして人里へ行こうと急かし始めた。

 

 

「藍、こんなことしていたら一向に人里へは行けないよ? 早く行こう?」

 

「おっと、時間をかけてしまったな。では、行くとするか」

 

「準備はオッケーだよ」

 

 

 藍は、少年の発言に余計に時間を消費してしまっていることに気付き、人里へ行こうと足を進めようとした。だが、その途中で少年の持ってきている物が気になり、足を止めた。

 少年は、歩くときに邪魔になる程度のある大きさの物を抱えている。それは、持ち歩くにはどうかと思うような物である。

 少年が抱えている物、それは昨日も見た物―――書き記す物である。

 

 

「ノートを持っていくのか?」

 

 

 少年の右脇には、ノートが抱えられていた。

 ノートは、昨日紫から貰ったものと同一の物のようである。

 

 

「覚えなきゃいけないことあったら、文字だけでも書いておこうと思ってさ。放置して帰ったらきっと忘れちゃうから」

 

「そうか」

 

 

 藍は、少年の言葉にそうかと一言だけ言い、さりげなく右手を差し出した。

 少年は、藍の行動に少しだけ驚いた様子を見せると、すぐさま優しそうな表情を浮かべた。

 藍は、持ち歩くことが難しそうなノートを代わりに持つと行動によって少年に伝えている。少年は、藍の気持ちを汲みとりノートをそっと手渡した。

 

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 藍は、少年からノートとお礼を受け取り、持ってきているカバンの中に入れ、玄関の扉へと足を進めた。二人は、今度こそ人里へと向かう。

 藍は、扉を開けて外へと歩き出す。

 外は晴れ渡っていて綺麗な景色を眺めることができた。

 

 

「今日は、天気の心配をする必要はなさそうだな」

 

「そうだね、太陽はいつにもまして元気そうに見えるよ」

 

「その元気に負けないように、私たちも元気を出していかないとな」

 

「うん!」

 

 

 藍は、数歩歩いたところで後ろから響く玄関を占める音を耳にした。少年が扉を閉めてきているようである。

 

 

「別に閉める必要はないのだが」

 

「一応だよ、一応。開けっ放しは気持ちが悪いからね」

 

 

 藍は、少年の几帳面さを改めて実感した。

 幻想郷には、マヨヒガを訪ねる者など存在しない。むしろ、できる者が存在しないと言った方が正しい。

 マヨヒガは、紫によって境界が歪まされており、招かれている場合は別にして、来ようと思って来ることができる場所ではないのだ。そのため、玄関を閉めてくる必要性は無いと言っても差支えなかった。

 少年は、その事実を知らないから玄関の戸を閉めたのだろうか―――いいや違う、あれは完全に少年の習慣の一部なのだろう。変わることができないと、変えることができないと言っていた、身に付いた習慣というものなのだろう。

 少年は、藍の開けた玄関の扉を閉めて藍の後を追った。

 

 

「人里ってここから結構遠いの?」

 

「そんなに遠くはない。あっという間に着くほど近くもないがな」

 

 

 目の前に広がっているのは、何処までも続いているように見える草木の生えた草原である。二人の視界には、青々とした緑が広大に広がっている。何もない緑の空間に、二人分の草木を踏み鳴らす音が絶え間なく響いている。

 少年は、藍との会話で思い出したように口を開いた。

 

 

「あっ、そうだ。ここに来た時から聞きたかったんだけど、ここって幻想郷のどこらへんになるのかな?」

 

「ここはだな……いや、口で説明しても分からないか」

 

 

 藍は、少年の質問に答えようと口頭で少年に伝えようとする。

 しかし、口頭で場所を伝えることは非常に難しいと、口を開きかけたところで気づいた。

 少年には、幻想郷の地理に関する予備知識が存在しない。予備知識のない状態の相手に対して、あれこれ言葉で伝えても決してまともに伝わらないだろう。東京駅の場所を知らないものに、東京駅から歩いて何分という情報を与えても理解できないのと同じである。

 藍は、少年に対して口頭で説明する考えを捨てて、別の方法で説明することを決めた。

 

 

「ここはマヨヒガと言われる場所だ。幻想郷のこの辺りになる」

 

「へぇ~すごいなぁ」

 

 

 藍は、聴かせるという方法ではなく、見させるという方法をとった―――百聞は一見に如かずということである。

 藍は、空中に幻想郷の簡単な地図を描き出した。線は青白く光り、主要なポイントごとに点が振ってある。

 少年は、藍の技術に見ほれるようにして目を輝かせていた。

 

 

「ここだ、ここ」

 

「おお~」

 

 

 藍の動きは、本当に見事なものだった。流れるように地図を描き出し、光り輝く図面を広げながら空中に描いた地図上の在る場所を指でトントンと叩き、現在位置を示す。

 少年は、眩しくなるぐらいの笑顔で両手を差し出し、藍に向けて合図を送った。

 

 

「お願いします!」

 

「ふふっ、分かりました」

 

 

 少年の行動を見た藍は、先程カバンに入れたノートを渡すことで少年の合図に答えた。少年は、ご機嫌な様子でノートを開いて空中に描かれた地図を模写する。

 

 

「どれどれ?」

 

 

 藍は、そっと少年の書いているノートに視線を移す。

 少年の書いている地図は、子供とは思えないほど上手かった。まるでそのまま上から書き写したみたいに見える。

 藍は、歩きながらでも正確に書くことのできる少年の技量に感嘆した。

 

 

「和友は、真似て書くのが上手いな」

 

「書くのには慣れているからね。模写するぐらい楽勝だよ」

 

 

 少年は、ノートの上の現在位置にマヨヒガという文字を大きく書き記した。そして、藍の描いた地図を描き終わると、手を止めて藍へと質問を投げかける。

 

 

「それってどうやってやっているの?」

 

「力のちょっとした応用だよ。指の先から妖力を出して空中で固定しているのだ」

 

「どういうこと?」

 

 

 少年は藍の言葉がよく分からなかったようで首をかしげる。基本的な知識のない少年には、藍の話している内容がよく理解できなかった。

 

 

「きっと、今日にでも紫様から聞くことになるさ。紫様は昼頃には起きてくるはずだから、能力の練習もその辺りでやることになるだろう」

 

「そっか、聞くならその時だね」

 

 

 藍は、首をかしげる少年を優しい顔で見つめて答えはいずれ分かると言った。

 少年は、藍の言葉に納得したのか、追及することはしなかった。

 藍は、話をつづけるように次の話題を口にし、紫の存在の重要さ、マヨヒガの在り方を少年に説明する。これは、いずれ知っておかなければならないこと、知っておくべきことである。

 

 

「ちなみにだが、私と紫様は別にマヨヒガに住んでいるわけではない」

 

「そうなの? あんなに広い家なのに?」

 

「紫様はああ見えても幻想郷の管理者だからな。命を狙われることも少なくない」

 

「そっか、そうだったね」

 

「紫様は、基本的にマヨヒガではなく別のところに住んでいる。私も何度も連れて行ってもらっているが、未だによく分からない場所だ。おそらくあそこは紫様以外には辿り着けない場所なのだろう」

 

 

 藍は、紫基本的な所在地についての情報を少年に伝えた。

 紫と藍は、基本的にマヨヒガに住んでいない。藍と紫は別の場所で寝泊まりをしている。食事のときだけマヨヒガに来る、用事があるときだけマヨヒガに来訪するような生活を送っている。

 少年は、昨日聞いた紫の立場を思い返し、記憶から消えそうになってしまっている情報を取り出す。必死に頭の中を整理して記憶を固定する。手を動かしノートに書き記した。

 

 

「でも今は、紫も藍もマヨヒガにいるよね」

 

「和友がいるからな」

 

 

 藍は、少年の質問に端的に答えた―――紫と藍がマヨヒガにいるのは、少年がいるからだとはっきり告げた。

 

 

「私も紫様も、和友が能力の制御ができるようになるまでは、マヨヒガに住むことになるだろう。和友が無理そうなら、能力の制御ができるようになった後もしばらく住むことになるだろうけどな」

 

「いや、大丈夫だよ。僕は一人でも大丈夫」

 

 

 少年は、心配するような藍の物言いに確信めいた様子で答えたが、藍は断言するように言う少年が心配でならなかった。昨日のことを考えると一人で大丈夫という言葉は信用に値しないのである。

 藍は、わずかに声に力を込めて少年に伝えた。

 

 

「無理はするなよ」

 

「…………」

 

 

 少年は―――藍の言葉に返事をしなかった。

 

 

 

 

 少年は、周りをきょろきょろと見渡す。

 草原は、ずっと続いている。目を配っても、遠くを見ても、目に入るのは草原だけである。

 藍と少年は、ここに来るまでずっと歩き続けている。マヨヒガからずっと歩きっぱなしである。

 少年の視界には、緑の生い茂っている景色、空の澄んだ青色しか映っておらず、それ以外に何も見えていなかった。

 少年は、一向に見えてこない人里に疑問を抱える。このまま歩き続けて本当に人里に到着できるのだろうか。少年は、何も変わらない景色に不安を感じて藍に問いかけた。

 

 

「何も見えてこないんだけど、このまま歩いていくの? 歩いていけば、着くんだよね?」

 

「……少し話し過ぎたな」

 

 

 藍は少年の言葉で予想以上に歩いてきてしまっていることに気付き、少年との会話に意識を取られ過ぎたと少しだけ反省する。実のところ、別にこんなところまで歩かなくてもマヨヒガを出たところで飛んで行ってもよかったのである。

 

 

「人里へは、飛んで向かう。歩いて行くと時間がかかりすぎるからな」

 

「えっ……」

 

 

 少年は、藍の飛んでいくという言葉に明らかに表情を曇らせた。

 飛ぶ―――それは少年にとって死に直結する言葉である。

 夢の半分が転落死によって終幕を迎える少年にとって、飛ぶという行為は死を連想するに十分すぎた。それに、飛行機にも乗ったことがない少年には飛ぶという言葉の意味が分からない。少年にとっては、飛ぶという言葉は、落下すると併用される言葉である。

 飛べば落ちる。それが、少年の飛ぶという認識。

 落ちれば死ぬ。それが、少年の落ちるという認識。

 少年は、不安を抱えて藍へと声を漏らた。

 

 

「僕、飛べないよ……?」

 

「和友は心配しなくていいぞ、私が抱えていくからな。こう見えても九尾の妖怪だ。人ひとり抱えて飛ぶぐらい、わけもないさ」

 

 

 藍は、少年の目の前で膝を折ってかがむ。

 少年は、顔を少し赤くして恥ずかしがるそぶりを見せた。

 

 

「ほ、本当におんぶしていくの?」

 

「空を飛ぶのは、怖いか?」

 

 

 少年は、きょろきょろと周りを見渡し、恥ずかしそうに告げた。

 しかし、藍は少年の表情に表れている羞恥心ではなく、少年の瞳の奥にある恐怖心を感じ取っていた。少年の表情と瞳は、感情が一致していない。表情は恥ずかしそうな感情を、瞳は怯えた色を映し出している。

 藍は、怯える少年をできるだけ安心させるように大きな背中を見せて、しっかりとした言葉を口にした。

 

 

「和友、大丈夫だ。私を信じてくれ」

 

「で、でも……」

 

 

 少年は、藍の言葉を聞いても戸惑いを抑えきれず、視線を泳がせる。

 藍は、少年を安心させるように再び優しい声色で少年に告げた。

 

 

「ほら、早く。心配しなくていいから。大丈夫だから、大丈夫だからな」

 

「う、うん」

 

 

 少年は、藍の言葉に押されて藍の背中に覆いかぶさる。

 藍は、少年を背負うと一度ひざを一気に伸ばして少年の位置を調整し、少年をリュックサックのようにおんぶした。

 

 

「よっと……」

 

「うわっ!」

 

「はははっ、急に持ち上げてすまないな」

 

 

 少年は一気に持ち上げられて驚きの声を上げたが、藍はそんな少年の反応が面白くて仕方がなかった。

 

 

「このぐらいがちょうどいいな。尻尾にもかかっているし、安全だろう」

 

「うう、恥ずかしいな。それになんだか……」

 

 

 藍は、背中のちょうどいい位置、尻尾の上に乗るような形で少年を安定させる。藍の背中に乗った少年は、未だに顔を赤くしたまま何かを言いかけたところで言葉を止めた。

 藍は、ここで少年が何を口にしようとしていたのか聞き返すことはしなかった。少年と話すのはとても楽しく有意義な時間ではあるが、人里へは行かなければならない。

 藍は、人里へ行く目的のために少年の言葉を無視して忠告する。

 

 

「落ちないようにしっかり掴まっていろよ」

 

「うん……」

 

 

 少年の腕が藍の首にまわり、背中にしっかりと掴まる。

 少年は、藍の背中にくっついた瞬間に頬を緩ませ、目を細めると小さく呟いた。

 

 

「あったかい……」

 

「どうした?」

 

「なんだか懐かしくて」

 

「そうか……」

 

 

 少年は、甘えるように体だけでなく頭まで藍の背中に押しつけるようにして預けた。

 藍は、少年の言葉を聞いてきっと母親のことを思い出しているのだろうと察しながら、少年の重みを感じていた。

 

 

「行くぞ」

 

 

 藍は、少年が背中にしっかりと捕まったことを確認すると、足を地面から離す。足と地面との距離はどんどん遠くなり、最終的に数百メート上空を飛行する形になった。

 飛行速度は、少年をおぶっているということを考慮して40キロ前後を維持している状態である。

 少年は、藍の背中から顔を出し、空の景色を見渡しながら口を開いた。

 

 

「空が飛べるっていいね。景色はいいし、遠くまで見える。何より坂道がない。地形に左右されないのは大きいね。楽々だ」

 

「思ったより平気そうだな」

 

 

 藍は、思ったよりも少年が飛ぶことに対して平気そうで安心した。飛ぶことに対しての恐怖は、藍の思ったほどではないようである。恐怖を感じるどころか、普段よりも声色が高く、声が若干大きくなり、実に楽しそうに周りを見渡している。

 

 

「和友もいずれ飛ぶことになるはずだ。外の世界のように移動手段が豊富ではない幻想郷で飛べないというのは、不便極まりないからな。飛べるようになれば、どこに行くのにも楽に辿り着けるようになる」

 

「交通機関が無い状態で車を持っているかどうかっていうぐらいの違いがあるわけだね」

 

 

 幻想郷の交通手段は、基本的に徒歩である。外の世界のように自動車が走っているわけでも、バスが走っているわけでも、電車が通っているわけでもなく、少年が通学に使っている自転車もない。飛べないということは、すなわち幻想郷において不便を抱えることと変わらなかった。

 幻想郷において飛べるということは、大きなメリットがあるのである。

 少年は、暫くすると楽しそうにしていた顔をひそめて複雑な表情を作った。

 

 

「それにしても、空を飛ぶかぁ……あんまり気のりはしないなぁ」

 

「どうしてだ? 空を飛べると色々便利だぞ。人里に行くのにも、妖怪から逃げるのにも、色々なところで使える技術だからな」

 

 

 少年は、先程まで見える景色に表情を躍らせていたのにもかかわらず、空を飛ぶのはあまり気のりしないらしい。

 少年は、ちょっとだけひきつった表情で藍の質問に答える。

 

 

「飛ぶのに苦手意識があってさ……僕は、高いところが苦手なんだよ」

 

「やっぱり和友は怖かったのだな。でも、飛んでいればじきに慣れるさ」

 

「そうなのかなぁ……」

 

 

 少年は、藍の言葉に一言だけ呟いた。どうやら藍の言葉を信じられないらしい。

 藍から言わせれば、高いところが苦手と言っている少年の言葉の方が信じることができなかった。先程まで楽しそうに周りを見渡していた人間が発する言葉とは到底思えなかったからだ。

 少年は、藍の言葉を頭の中で回転させながら目の前の絶景を見渡し、空中に浮いている「あるもの」を発見した。それは外の世界には、絶対に存在しないものである。

 

 

「藍、この、ところどころに飛んでいる変な生き物は何なの?」

 

「ああ、こいつらのことか」

 

「羽が動いていないけど、この生き物の羽は何のために付いているの?」

 

「それは、私にも分からないな……」

 

 

 幻想郷の上空数百メートルの所には、ふわふわと浮かんでいる生き物が点在していた。浮いている生き物の姿形は幼い子供のようであり、背中からは透き通った羽が生えている。少年が今までに見たことのない生き物である。

 少年は、謎の生き物の背中に生えている羽を見て不思議に思った。謎の生き物の背中の羽は、微動だにしていない。普通であれば、羽をはばたかせて浮いているというのが、羽を持ち空を飛んでいるものの常識だが、動いていない羽を見ていると浮くために羽がついているのかどうか判断がつかなかった。動いていないということは、要らないのではないか。ただ、そう考えると、どうしてついているのか分からない。

 少年には、今見ている生き物に生えている羽が何のためについているのか不思議だった。

 

 

「とりあえず、あれは自然現象が具現化したもので妖精と呼ばれる生き物だ。浮いているのは、さっき私が作った地図と同じような力を使って浮いている。妖精は、悪戯好きのやつが多いから気をつけろよ」

 

 

 藍は、空中に浮いている生き物は妖精だと少年に説明した。

 少年は、妖精は悪戯好きという説明を無視するように、生き生きとした表情で手を伸ばす。

 

 

「ねぇ、触ってもいい?」

 

「和友、私の話を聞いていたのか?」

 

「お願い」

 

「はぁ、仕方がないな……暴れない程度にするのだぞ」

 

 

 藍は、少年のお願いに大きなため息をつきながらも少年の想いに答えるように妖精のいる場所へと飛行した。少年は、藍の首に巻きつくように回していた片腕を振りほどき、自由になった片手を妖精のいる方向に伸ばす。

 少年は、近づいていく妖精との距離に気持ちを躍らせる。少年の片腕は、妖精との距離を徐々に詰めていく。そしてついに少年と妖精との距離が零距離になった。

 少年は、妖精をがっしりと掴みとる。妖精は羽のように軽く、妖精を掴んでいる腕に負荷を感じなかった。

 

 

「おお! (さわ)れた! すごいすごい! ちっちゃい! 軽い! こんな生き物がいるんだね!」

 

「□△○×」

 

 

 掴まれた妖精は、何事かと両足をばたつかせて声を発した。

 しかし、二人には妖精の言葉が全く理解できなかった。妖精は、人間の言葉を覚えていないのだろうか、そもそも言語そのものを持ち合わせていないのかもしれない。

 少年はもちろんのこと、藍も妖精の事については詳しい事まで把握していなかった。喋る妖精もいれば、喋れない妖精もいる、それだけのことである。

 

 

「妖精は、幻想郷中に生息している。幻想郷が自然でいっぱいな証だ」

 

 

 藍は、外の世界よりも優れているといえる、幻想郷の良い部分を少年にアピールする。これから、幻想郷で生きて行く上で幻想郷自体を好きになってもらうことは、いいことである。

 だが、肝心の少年の意識は完全に妖精に持っていかれてしまっており、少年の耳には入らなかった。

 

 

「ほいっと、しっかり掴まっていろよ」

 

「?????」

 

 

 少年は、妖精を頭の上に設置する。

 妖精は、わけも分からないまま少年の髪の毛を掴むと少年の頭にしがみつく。

 その表情は綻んでおり、風になびいて気持ちよさそうにしている。少年と妖精の顔は、同じような表情をしていた、同じように楽しそうに笑っていた。

 少年は、笑顔のまま自由になっていた片腕を再び藍の首に回す。藍は、少年と妖精の様子を気にして少年に尋ねた。

 

 

「和友、私の背中で何をやっているのだ?」

 

「ちょっとね! なっ!」

 

「△×」

 

 

 少年は、藍の質問に対して元気よくはっきりと答えた。

 藍は、少年の回答に不安になった。少年と妖精が自分の見えないところで何かをしていると思うと不安でいたたまれなかった。

 少年の能力については不透明なところが多く、少年自身が力を使いこなせているわけでもない。力を持たない少年にとっては、妖精といえども脅威に違いなく、危ない存在であることに変わりはないのだ。

 けれども、少年は藍の心配をよそに楽しそうに笑っていた。妖精も、心なしか少年の言葉に返答するように返事をしており、二人は藍の背中で楽しそうにじゃれ合っていた。

 

 

「和友、決して無茶はするんじゃないぞ」

 

「ははははっ、すごいなぁ。幻想郷ってすごい」

 

「◇◆■□○●◎」

 

「人里に着いたら覚えていろよ」

 

 

 藍は、今ここで少年に注意を促そうと一瞬考えたが、それは危険だということを理解して口を紡いだ。ここは、地上から約100メートル上空である。空中で注意をするのは、もしもが起きる可能性を考えると非常に危険だった。

 藍は、人里に着いたらきちんと注意をしようと心に決め、速度を上げる。その背中では、少年と妖精が元気いっぱいに笑っていた。

 

 

 

 

 

 ―――人里付近―――

 

 二人と一匹は、お互いに独自の気持ちを抱えながら人里が見える位置にまで飛んできた。

 少年は、藍にしがみついている右手を離し、ある方向に向ける。右手が指さす先には、建物が複数立っているのが確認できた。

 

 

「ねぇ、人里ってあれのこと? なんか色々建っているけど」

 

「そうそう、あれが人里だ」

 

 

 藍は、少年の認識が正しいことを伝えた。

 少年は、初めて行く人里に目を凝らす。その瞬間―――少年の頭の上にいる妖精から何とも形容しがたい音が発せられた。

 

 

「ん?」

 

 

 少年は、何があったのだろうかと少しだけ意識を、音を出した妖精へと向ける。

 しかし、妖精はそれ以上何かをすることは無く、声を発することも音を出すこともなかった。少年は、訝しげな表情で視線を上にあげる。視線の先には、特にも変わらない視線を人里に向けた妖精がいるだけだった。

 

 

「人里へは何度も来ることになると思うから場所を覚えておくといい」

 

「う、うん。分かったよ、頑張って覚えるね」

 

 

 少年は、妖精に気を取られていたため藍の言葉に一瞬戸惑ったものの、一度頷いて返事をした。

 

 

 

 

 ―――人里入り口―――

 

 藍と少年と一匹の妖精は、人里の入り口に降り立った。少年は、藍にしがみついていた腕を振りほどいて地面に足を付ける。

 人里の入り口には、大きな門がそびえ立っていた。門の外には人里の入り口と言うだけあって警備員らしき人達が複数人立っている。扉は、妖怪などの外敵から身を守るために厳重に閉められているようだった。

 少年は、人里への入り口に向かって歩き出し、藍を追い抜くように走っていく。

 藍は、前を進んで行く少年の後ろ姿を見て、来るまでの道中、背中で行われていた事柄を理解した。

 

 

「和友、そんなところに妖精を置いていたのか。妖精だって力を持った生き物なのだからあまり変なことはするなよ」

 

「変なこと?」

 

「§@!!」

 

 

 少年は、藍に話しかけられて動かしていた足を止めた。

 頭の上の妖精は、いきなりの急ブレーキに少年の頭から落ちないように必死にしがみつく。

 少年は、一生懸命にしがみつく妖精を頭に乗せたまま振り向き、困ったような表情で藍へと告げた。

 

 

「変なことって言われても、両手は藍にしがみついていたんだから使えなかったし、そうなると頭か背中しかないでしょ。背中だと離れた時にどうしようもないから頭に乗せたんだけど」

 

「和友……大事なところはそこではない」

 

 

 藍は、少年の弁論に自分の想っていることと少年の考えの間に齟齬があると感じた。何も妖精を頭に乗せていることに怒っているわけではないのだ。妖精と遊んでいることに対して怒っているわけでもないのである。

 

 

「力を持っているという所が大事なのだ」

 

「えっと……どういうことなの?」

 

 

 少年は、よく分からないといった様子で首をかしげた。

 藍は、余り理解できていない少年に分かってもらえるように説明する。

 

 

「妖精は、人を殺せるだけの力を持ち合わせているということだ。知識や殺意の問題で人を殺すだけの事態にはならないことが多いが、持っている物だけを見れば十分に死ぬことだって考えられる」

 

 

 妖精は、一般的に大人の人間より弱いと言われている。

 しかし、それは単純な話―――知恵がないからである。妖精には、人間に対して悪戯をしようという気持ちしかない、だからこそ無事にすんでいるだけなのだ。

 仮に、本気で妖精と人間の両者が争った場合、妖精の方に分があるのではないかと思えるぐらいに妖精は力を保持している。人間と妖精では、持ち合わせている武器が違うのだ。例えて言えば、丸腰の大人と銃を持った子供という具合だろうか。

 

 

 

「ごめんなさい、今後気をつけます……」

 

「ちゃんと反省するのだぞ」

 

「うん……」

 

 

 少年は、命の問題なのだと告げる藍に対して頭を下げて謝罪し、頭の上に乗っている妖精を持ち上げて地上に下ろした。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、無言のまま妖精を見降す。

 妖精は、不思議そうな表情をしたまま少年を見返した。身長80cmあるかどうかの妖精は、少年から見てもとても小さく幼く見えた。

 

 

「それじゃあね」

 

 

 少年はしばらく妖精を見つめた後、妖精に向けて別れの言葉を告げると、妖精に向かって手を数回振る。妖精は、少年に返事をするように手を振り返した。

 少年は、手を振り返す妖精を見て満足した笑顔を作る。

 

 

「じゃあ、行こっか」

 

「そうだな」

 

 

 藍と少年の二人は、妖精に向いていた体を180度回転させて人里に向かって歩き始める。妖精を置き去りにして、寄り添うように並列に並び、人里の門へと近づいた。

 

 

「人里はあの門を通ったところだ。先に人里に入れてもらえるように門兵と話をつけてくるから、和友はのんびり歩いてきてくれ」

 

「うん、いってらっしゃい」

 

 

 藍は、急ぎ足で人里の門にまで走っていった。

 

 

「やっぱり、すんなり人里に入れるわけじゃないんだね」

 

 

 人里の門を開けてもらうためには、開けてもらうための交渉が必要なようである。妖怪が人里に入るには、さすがに素通りというわけにはいかないのだろう。

 

 

 少年は、藍の後を追うように歩いて近づく。

 その時―――声が後方から聞こえた。

 

 

「バイバイ」

 

 

 少年は、後方からの声に反応して慌てて振り返る。先ほどまでそこにいた妖精は、跡形もなくなっていた。

 妖精は―――自然の権化である。おそらく、自然へと帰ったのだろう。

 

 

「バイバイ」

 

 

 少年は、わずかに微笑み、誰もいなくなった空間に向かってもう一度手を振った。

 はたから見れば、奇妙に見える光景だった。誰に対して向けられたものか分からない声は、静かに拡散して消えていった。

 少年は、しばらく手を振ると満足した表情で振り返る。少年の視界の先にある人里の門は、すでに迎え入れる準備を終えて開かれていた。藍が門番との交渉を終えたようである。

 藍は門の傍で少年を待っており、少年は慌てて止めていた足を前へと進めた。

 

 

「随分とゆっくりだったな」

 

「ごめんなさい。でも、もう大丈夫だから」

 

「……そうか、では行くとしよう」

 

 

 藍は、沸き立つ疑問を飲み込み、少年と人里へと歩き始める。

 少年は、藍と合流すると藍と離れないように並んで人里の中へ歩く。消えた妖精のことを忘れるように人里へと意識を向けていた。



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向けられる好奇心、会話の受け渡し

藍と少年の二人は、人里に買い物にきました。


 藍と少年の二人は、門をくぐり抜けて人里へと入る。

 門の中には大勢の人がおり、歩いている人々が狭い空間の中を行き交っていた。

 人里には、建物が所狭しと道なりに建っている。火事が起きた場合、大変なことになりそうな立地である。建物の大きさとしては、家も商店も大小関係はほとんどなく、民家としての大きさでいえば普通といえる大きさだった。

 

 

 少年は、人里の様子を見て驚いた表情を浮かべながら町中を見渡す。

 目の前に広がる光景は、少年の中にあるイメージとは程遠い。少年の中にある幻想郷のイメージは、幻想郷にやって来る前と今とで余り変わっておらず、未開の地というイメージそのままである。

 しかし、そのイメージを一新するように、少年の瞳には外の世界と変わらない人の営みが映っていた。

 

 

「人が、普通に生活している……!」

 

「ふふっ、和友は幻想郷にどんなイメージを持っていたのだ?」

 

 

 少年は、人間という毎日見ていた生き物が、非日常の幻想郷で普通に生活しているとは思っていなかった。

 

 

「僕、思い違いをしていたみたいだ。ははっ、楽しみだなぁ!」

 

「随分と楽しそうだな」

 

「それはそうだよ。初めて人里に来たんだから。ああ、どんな物があるんだろう。僕の知らない物ばかりなんだろうなぁ」

 

「楽しむのはいいが、はしゃぎすぎて迷惑をかけるんじゃないぞ」

 

「分かっているよ! でも、もしも何かしちゃいそうになったら止めてね」

 

「もちろんだ、任せておけ」

 

 

 藍は、楽しそうにする少年を見て、人里へと連れてきて良かったと思った。これほどに楽しんでくれるのであれば、連れてきた甲斐があるというものである。

 普通に考えれば、人里での買い物に少年を連れてくる必要は特にない。買い物ぐらいなら、藍一人でも十分にこなせる。少年に必要なものも藍が選べばいいだけの話である。むしろ少年がいることで移動や買い物に時間がかかったり、危険が増えたりすることもあるだろう。

 それでも藍は、少年が昨日辛いことがあったことなどみじんも感じさせない様子を見て、連れてきて良かったと心から思った。

 

 

「和友、はぐれるんじゃないぞ」

 

 

 藍は、歩く速度を少しだけ上げてそそくさと少年の前に出る。まるで、緩んでいる表情を少年に見られたくないといわないばかりに、早足で少年の前へ出た。

 少年は、そんな藍の気持ちを知ることなく藍の後ろでニコニコ笑顔を振りまきながら周りを見渡す。

 

 

「へぇ~こんな感じなんだ」

 

「和友は、本当に子供みたいだな。いや……和友は子供だったな」

 

 

 少年は、目をキラキラと輝かせて周りを見渡しながら、前を歩く藍の後ろに付いていく。藍は、後ろで感嘆の声を上げる少年の声を聞いて、さらに笑みを深めた。

 本当に楽しそうである。偽りも嘘も、そこには全く感じられない。藍は優しい顔のまま、少年が迷わないようにとカルガモの親が子供を先導するように人里を歩いていった。

 藍は、人里に来た当初の目的を果たしてもいないにもかかわらず満足感を覚えていた。

 

 

「いけない、いけない。今日は買い物に来ているのだ」

 

 

 藍は、ほころぶ顔を抑えてもともと人里に来た目的を思い出す。

 人里には、少年の生活用品を買いに来たのである。決して遊びに来ているわけではない。楽しかったから善しというわけではないのだ。大事なことを忘れてはいけない。

 藍は、最初の目的地をどこにしようかと少年へ尋ねた。

 

 

「和友は、何か欲しい物とかあるか?」

 

「とりあえず服が欲しいかな。後、書く物とノートが欲しい。今持っている分だけじゃ絶対に足りないと思うから」

 

「服と書く物とノートか……ふむ……」

 

 

 藍は、少年の言葉に考え事を始める。藍がもともと人里で買おうと思っていたのは、日々を過ごしていくための食糧。そして、少年の衣服である。

 

 

「食材を買うのは当然として……」

 

 

 藍は、人里に食料を買いに来ているわけなのだが、別に妖怪が人間の食べている食料を必要とする生き物ではないことはよく知られていることである。妖怪にとっての食べ物というのは、人が食べるような食物ではなく、人間の恐怖である。

 もちろん分かってはいるとは思うが、藍が人里に買いに来ているのは、そんな人間の恐怖ではなく、日々の朝食や昼食、夕食といったご飯である。藍や紫は、別に人間の食べている食事を口にする必要はないのだが、それでも食事を取っていた。

 これは、紫の方針で決められたことだった。

 食事というのは日々に彩りを加えるためのスパイスになる、あるのとないのとでは大きな違いがある。そんな人間じみた感覚を持っているのが、藍の主である紫と藍自身であった。

 

 

「和友の服も買わなければ……」

 

 

 藍が買おうとしているのは食料だけではない、少年の服も買いに来ている。少年にとって必要だからというのももちろんではあるが、藍にとっても買わなければならない物の一つだった。

 

 

「あ、あんなことで紫様にからかわれるのは、もう十分だ」

 

 

 藍は、昨日の夜、厳密には今日の朝に紫から言われたことを気にしていた。今思い出しても、恥ずかしくなって顔が思わず赤くなる。

 

 

「何を考えているんだ私は……」

 

 

 藍は、恥ずかしくなる思考を振り払うように首を左右に振る。いつまでも紫に弄られ続けるわけにはいかない。

 

 

「食料と、衣服……」

 

 

 藍の今日の目的は、食料と少年の衣服の二つを購入し、手に入れることである。

 買うものが食料と衣服とおおよそ決まった時、ここで忘れてはならないのは、今日人里へ来たのが藍だけではないということである。

 今日は、藍の目的だけを達成できればいいというわけにはいかない。今日は藍一人で買い物に来ているわけではないのだ。

 いつも一人で買い物に来ている藍の真後ろには、少年がついてきている。少年の気持ちを取り入れなければ、少年が人里に一緒に来ている意味が全く無い。

 

 

「後は、文房具か……」

 

 

 藍は、歩く速度を落として少年と並走する。

 少年の意見を取り入れると考えた場合、これから二人は食糧、衣服はもとより、文房具を買うということになる。

 

 

「どうするのが、最も効率がいいのだろうか」

 

 

 藍は、必要なものを買い揃えるための最適ルートを模索し始める。

 考える上で好都合なことに、人里は碁盤の目のように綺麗に区画されている。

 藍は一瞬のうちに結果を導き出し、少年の顔を見た。少年は、相変わらず色々な物に目を向けており、初めて見る物ばかりの人里で目を奪われていた。

 

 

「和友!」

 

「ん? どうしたの?」

 

「それだったら、こういう順番で回ろう。まず文房具を買って、次に服屋に行って、最後に食材を買う。いいな?」

 

「うんっ! それでいいよ! 僕は、人里の中がどうなっているのか全く分からないし、藍に任せるから!」

 

 

 少年は、二つ返事で返した。きっと藍が何を言ったところで同じ答えを返したことだろう。

 藍は、相変わらずの少年の年相応の反応を微笑ましく思った。荷物にならない物から買おうという基準で店の順番を選んだが、少年にそんなことを知る由もないだろう。

 少年は、楽しそうにしている気持ちを隠すこともなく、惜しげもなく藍に晒す。

 それほどに少年は、人里を楽しみ、それを藍に隠すつもりなんて無かった。初めて会ったときは警戒していた少年も、1日経って随分と藍に対して心を開いていた。

 

 

「ん~~」

 

「ちゃんとついてくるのだぞ」

 

「うん!」

 

 

 少年は、楽しそうに人里を歩く。藍の指示に従順に従い、藍の姿を見失わないように付いて歩く。

 

 

「初めて見るものばっかりだね。あ、あれは何だろう?」

 

「どうした? 何か見つかったか?」

 

 

 少年は、視界に気になるものがあるらしく視線を止めていた。

 藍は、少年の視線が釘付けになった先に視線を向ける。

 視線の先には、綺麗な和傘が並んでいた。

 幻想郷では、雨の日にさすのは決まって和傘である。外の世界のようなビニール傘があるわけでも、布の傘があるわけでもない。

 藍にとっては何も珍しくはない光景だが、どうやら少年にとっては非常に珍しい物のようで、視線をそらさずじっと見つめていた。

 

 

「あれは傘だよね? 骨が竹でできているみたいだけど、雨をさえぎる布は何でできているの?」

 

「あれは和紙でできている。晴れている日にさすと、ほんのりと零れるように光が透けて見える、いつか試してみると良い」

 

「へぇ~そうなんだ。でも、和紙で作られていたら雨が防げない気がするんだけど、濡れちゃわないの?」

 

「和紙に油を染み込ませることで、撥水させて防いでいるのだ。油は、疎水性だから水が侵食することを防いでくれる」

 

「そんな原理なんだ! 水と油は、混ざらないってことだね」

 

 

 藍は少年の疑問に端的に答え、少年は嬉しそうにうなずきながら遠ざかる和傘を見つめ続ける。少年の目は、未だに和傘から離れずに固定されていた。

 

 

「和傘ならマヨヒガに置いてあるから、雨の日には自由に使うといい」

 

「ほ、ほんとにっ!? じゃ、じゃあ雨の日に使わせてもらうね」

 

 

 少年は、藍の使ってもいいという言葉を聞いて嬉しそうに歩幅を少しだけ大きくする。

 視線はもう、和傘には向いていなかった。

 

 

「ん?」

 

 

 藍は、歩いている途中で少年の手がごそごそと動きたそうにしているのに気付いた。禁断症状でも出ているのだろうか、何がしたいのだろうか、答えはすぐに分かった。

 藍は、少年の行動から何かを察したようにカバンの中に手を入れてあるものを取り出した。

 

 

「はい、使うんだろ?」

 

「藍、ありがとう」

 

 

 少年は、嬉しそうに藍から手渡されたノートを受け取るとさっそくノートに和傘と書き、マヨヒガにある、雨の日に使ってもいいと書き込んだ。

 

 

「こういったことも書き込むのか」

 

「こういうことも忘れちゃうからね」

 

 

 藍は、少年の生態系について少しずつ理解し始めた。

 少年は、こうやってノートに書き記して記憶を心の中に留めるのだ。思い出として、記憶として、刻みこむのである。

 

 

「ははっ、やった。雨が降らないかなー」

 

「和友は、感情が顔に出るタイプのようだな」

 

「だって隠せないぐらいにとっても楽しいんだもん! こんなに自由で、新しいものがいっぱいあって、顔に出さないっていう方が無理だよ」

 

「ふふふ、そうか」

 

 

 藍は、思ったよりも分かりやすい少年の気分や気持ちに安心していた。

 しっかりと見ていれば、ちゃんと見ていれば、少年の気持ちが理解できる、察することができる。昨日のように何も分からずに迷うこともない。そんな安心感が藍の中を支配していた。

 少年は、ノートに書き込んだ後、機嫌よくしゃべり始める。

 

 

「人里って古めかしい感じはするけど、外の世界の様子とあんまり変わらないんだね。うん、普通な感じがする」

 

 

 少年は、口から出た言葉とは裏腹に抑揚のついた声で喋った。新しく知る世界の広がりを見て常に興奮状態にあるのだろうか。楽しい気持ちは、抜けきっていないようである。

 

 

「なんていえばいいんだろう……? もっと普通じゃないと思っていたよ」

 

 

 少年は、人里に来たときに抱えた人里に対する気持ちを藍にぶつけた。

 幻想郷の人里は、少年の想像していた人里とは余りに違っている。妖怪がいる世界にしては、酷く普通である。

 藍は、少年の言葉を聞いてもしやと思った。

 

 

「もしかして和友は、妖怪や妖精がたくさんいると思っていたのか?」

 

「うん。だって、藍みたいな妖怪でも人里に食べ物を買いに来るんだよね。それって、人里が妖怪の食事処ってことじゃないの? だから人里には、妖怪がいっぱいいるんだろうなって思っていたんだけど」

 

「和友の疑問は間違ってはいない。ただ、正解でもない」

 

 

 藍は、少年の思考能力に少しばかり感嘆した。少年の言っていることは、間違いというほど間違ってはいない。

 

 少年の言うとおり、人里に食べ物を買いに来る妖怪は確かにいる。

 しかし、それはあくまで少数である。

 仮に、少年の言うとおり人里に大勢の妖怪が食料を買いに訪れると仮定しよう。

 人里に買い物に来るという状況は―――人里に食べ物を買いに来なければ食べる物がないと言っているのと同じである。

 妖怪が人里に買い物に来るということは、妖怪の食糧が人里に依存しているということなのだ。

 

 

「妖怪は、人里において人間を襲う事を禁止されている。ある程度の知性と自制心を持っていなければ、入ることすらできないだろう。もしも仮に自制心のない妖怪が人里に入って人間を襲えば、人里の守護者か紫様にこってりと絞られることになる」

 

 

 人里に妖怪が余りいないのは、人里で人間を襲うことが禁止されているという決まりの影響が大きかった。ルールによって縛られている人里において、妖怪の誰もかれもが買い物ができるわけではないのである。

 

 

「それに、全ての妖怪が人里で食べ物を買っているわけではない。だから人里に妖怪はあまりいないのだ」

 

 

 ここで仮定した部分に戻るが、全ての妖怪が人里の食料に依存しているとしたら、妖怪の生活は成り立たなくなる。

 それは、人里が食糧を供給できなくなってしまったら妖怪は死んでしまうということになるからである。

 当然のように実際にはそんなことはなく、妖怪は自分自身で自給自足をしていることが多く、それぞれが上手く生きている。

 幻想郷で―――生きている。

 

 

「ふーん」

 

 

 少年は、藍の言葉に疑問を持った。こってり絞られるという言葉は、別に殺されるというわけではないことを示唆している。

 少年は、人間は捕食される可能性を持ちながらも、特に妖怪を殺したりはしないのだと不思議に思った。

 

 

「別に、殺されるわけじゃないんだね」

 

「もちろん、人里に入ってきた妖怪が簡単に人を殺すほどの力を持ち合わせていた場合は別扱いだ」

 

 

 藍は、より詳細な説明を開始した。

 

 

「だが、力を持った妖怪は基本的に知性を持ち合わせている。だから、力を持った妖怪は人里で人間を襲うということをやってはならないことだと分かっていることが多いのだ。つまりだな……」

 

 

 藍は、少年に説明をしている途中で口がうまく回らなくなってきていた。上手く説明しようとすればするほど、よく分からなくなってくる。少年にも分かるようにと思えば思うほど、何を喋っているのか分からなくなった。

 

 

「どう言えばいいのだろうか……」

 

 

 藍は、人に対して物を教えるということをこれまでほとんどしてこなかったため、何の前知識もない少年にどういう説明をすれば分かってもらえるのか分からなかった。

 藍は、人に上手く物事を伝えることがこれほどに難しいことなのだと初めて知った。伝える相手がまだ12歳の少年であることを考えれば、今の藍の説明では到底理解できないだろう。

 藍は頭をひねり、何とか少年にも分かるように伝えようと努める。

 少年は、そんな焦る藍に対して理解しているという旨の言葉を贈った。

 

 

「人里で人間を襲うような妖怪は、力の弱い妖怪がほとんどということだね。弱い奴が暴れても、人里の人間だけでなんとか対処ができる……だから殺されない」

 

「そ、そういうことだ。よく分かったな」

 

「なるほどね……」

 

 

 藍は、改めて少年が見た目よりも利口であることに救われたと同時に心の中にあった焦りが消えていくのを感じ、ほっと一息ついた。

 少年は、藍の説明から暴れる妖怪を何とかできるだけの能力を人里が持ち合わせているということなのだろうと把握した。確かにそうでなくては、人里の人間も妖怪が住んでいる幻想郷で生活していくことはできない。自衛能力が最低限でもないと、安心という絶対的に必要なものが得られないからである。

 しかし、どの場合においても例外というものはある。

 藍は、少年の言葉に注釈をつけた。

 

 

「だが、例外は山ほどある。何せ、人と妖怪だ。価値観も違えば力の大きさも違う。結局どうなるのかは、その場次第というところだな」

 

「絶対に死なないというわけでもないっていうことか」

 

 

 少年は、静かに頭の中へと藍の言葉を飲み込んだ。

 死んでしまう―――そんな外の世界でも当然ある普通のことが、幻想郷でもあるということを脳内に刻み込んだ。

 幻想郷は、あくまでも普通の中にある異常の一部に過ぎない。少年を取り巻く状況は、外の世界と何も変わっていなかった。




少年は、問題をたくさん抱えていますね。読者の方も考えながら読んでくれたら楽しいかと思います。


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勝負を持ち掛けられた、希望の筆を依頼した

「おっと……急に立ち止まってどうしたの?」

 

 

 人里についての話をしているところで、不意に藍の足が止まった。藍の隣で歩いていた少年は、藍よりも一歩先に進んだ位置で慌てて停止する。そして、真後ろに振り向いた。

 

 

「和友、ここだよ」

 

「ここ?」

 

 

 藍は、斜め45度というあたり指さした。

 少年は、藍が指差した方向を見つめる。そこには看板が掲げられており、蛇の通ったようなうねった文字が書かれていた。ここが、少年が必要としている文房具を買う場所のようである。

 藍は、店の看板を指さしながら口を開いた。

 

 

「ここが、文房具というか、物書きに必要なものが売られている店だ。和友はこれからよく来ることになるだろう。店の名前は筆一本。私は、あまり来たことがないな」

 

「あ、これ筆一本って読むんだ。達筆過ぎて良く分からなかったよ」

 

 

 少年は右手を上げ、筆を握るような形を作る。そして、看板に書かれた文字をたどるように空中で右手を動かした。

 空中で少年の手が躍る。それだけ見ていると奇妙に見える光景である。

 少年は、空中で文字を書き終わると上げていた腕を下ろして鉛筆を握り、ノートに店の名前を書き込む。ノートには、看板と同じような文字が描写された。

 藍は、ノートに書かれた文字を見て、はたしてマヨヒガに帰った時に名前が読めるのだろうか、ここで読めなかったのなら、マヨヒガに帰った後でも読めないのではないだろうかと疑問を持った。

 

 

「この文字、帰った後で読めるのか?」

 

「分からない。読めたらいいなぐらいで思ってる」

 

「これは、筆一本と読むのだぞ。もしかしたら今後もお世話になるかもしれないし、ノートに書いておくことを勧めておく」

 

「了解です」

 

 

 少年は、藍に再び読み方を教えてもらいノートに読み方まできっちりと記すと、これで大丈夫と言うように満足げにノートを閉じた。

 

 

「さぁ、中に入るぞ」

 

「うん」

 

 

 藍は、少年と共に店の扉を開けて中に入る。

 店の中は薄暗く、埃が被っている所がいたるところにあり、人があまり入っている様子は無かった。

 

 

「これは、別の所に行けばよかったか?」

 

「なんだか薄暗いね。今日はお休みなのかな?」

 

 

 藍は、余りに人の少ない店内の様子に違う店を選べばよかったかと若干の後悔をしながら、店の奥へと歩いていく。

 少年は、藍の後ろについていきながら周りにある物に目を配った。

 

 

「筆ばっかりだね」

 

 

 店の中にあったのは、主に筆である。筆一本というだけあって筆がそこらじゅうに展示されている。

 藍は、店の奥を見渡した。視線の先で誰かが正座している。どうやら下を向いて作業をしているようだ。

 下を向いているため顔を確認することはできず、誰なのか判別することはできなかったが、考える必要もなく作業しているのは筆一本の店主であろう。作業に集中しているようで、二人が店に来たことに気付かなかったようである。

 

 

「誰かいらっしゃいませんか」

 

 

 藍は、店の奥で作業している店主だと思われる人物に向かって声をかけた。

 藍の声が響いた直後―――相手の顔が上げる。相手の顔の様子から、まだ20代後半、30代前半だということが予測される。

 少年は、顔を上げた相手に向けて元気よく挨拶をした。

 

 

「こんにちはー」

 

 

 相手は、少年の声を聴いて正座を崩して立ちあがった。

 身長は170cmほどで、体つきは若干のやせ形、筋肉はそれほどついているようには見えない。作業着なんてものが存在するか分からないが、衣服は普段着のようで、ゆったりした服装をしていた。

 相手は、店の奥から藍と少年のいる店の中心の方へと歩いてきながら二人に向けて口を開いた。

 

 

「お、珍しいお客さんが来なさったな。今日は何を買いに来たんだ?」

 

「店主、私が買い物に来たわけではないのだ。今日は、この子の方からあなたに用があるのだよ」

 

 

 藍は、そう言って軽く少年の背中を押す。

 少年は、藍に背中を押されてもともといた位置から一歩前に出ると、店主に向かって言葉を放った。

 

 

「初めまして、笹原和友と言います」

 

「これは珍しいお客さんだ。俺は、ここの店主をやっている山本勝という。よろしくな」

 

 

 店主の山本勝は、少年に向かって右手を差し出す。少年は、店主に応えるように右手を差出し握手を交わした。

 

 

「そうだなぁ……」

 

 

 店主は、少年と言葉を交わした直後に、少年のことを足の先から頭の先までさっと見渡し始めた。

 少年は、唸るような声を出しながら自身のことを見る店主を不思議そうな表情で見つめる。

 店主は、少年を隅々まで観察すると何かに納得したようで唐突に一言いい放った。

 

 

「なぁ八雲の従者さん、この子外来人だろ?」

 

「分かるのか?」

 

 

 藍は、店主の言葉に少しばかり驚いた。それは、店主が手掛かりの特にない状況で少年を外来人だと判断したからである。

 外来人という言葉は、外の世界から幻想郷にやってきた人物のことを指す言葉である。

 外来人かどうかを判別するのに一番簡単な方法は―――服装と言葉遣いである。

 しかし、少年が今着ている服は藍の物で、服装からは外来人だという判断ができない。それに、少年の言葉遣いがおかしいというわけでもない。

 少年の言動にも、行動にも、特別外来人だと特定できるような部分はなかった。

 つまり店主は、行動や言動、見た目以外の他の所から少年が外来人であることを判断したということになる。

 藍は、自分でも判別できないことを店主が軽々しく言い当てたことに素直に驚いた。

 

 

「見覚えのない子供が来たら基本的には外来人だよ。俺は、寺子屋の方と商売をやっているからな。この人里で知らない子供は一人もいないはずだ。そんな俺が見たことないんだからこの笹原って子は、外来人で確定だろう? 簡単なことだ」

 

「外来人って外から来た人ってことだよね?」

 

「そうだ。外から来た人、そのままの意味だな。で、坊主は何の用があってここを訪れたんだ? 寺子屋に通っている子供なら習字の練習があるから筆が欲しいのだろうと見当がつくが、外来人がうちの店に来る理由は見当もつかないんだが」

 

 

 店主には、外来人である少年が自分の店に来た理由が何も思い当たらなかった。少なくとも店にやってきた外来人を一度も見たことがなかったのである。

 少年は、店主に向けて店に来た理由を告げる。

 

 

「筆が欲しいんだ。別に筆じゃないといけないわけじゃないんだけど、100年使っても壊れないような丈夫な筆が欲しい。僕はちょっと書くことが多いから指に負担がかからなくて丈夫な筆が欲しいんだ」

 

「…………」

 

「そりゃまぁ大層な願いだ。あいにく、うちではそんなとんでもない代物は扱っていないねぇ。そんなものがあったら商売が成り立たないからな」

 

 

 藍は、無理難題とも言える要求に驚いて言葉が出なかった。

 しかし、当の店主は少年の要求に何一つ動じることなく少年に目線を合わせ、続けるように口を開く。

 

 

「一生分の筆の代金で一生分使える筆を買うやつはいない。買う手間が省けていいという奴もいるかもしれないが、それはごく僅かだ」

 

 

 店主の言うように、もし永久的に壊れないような筆があったとしたら、それ一本で一生に消費する分のお金を請求することになる。人によって使用量が違うため値段設定が難しいが、相手の想定よりも高額になるのは間違いがないだろう。

 一生使える筆に、一生分の費用を全て出す人間はいるか―――そんな人間はいない。

 だとしたらどうすれば一生使える筆を買ってもらえるのか、それは―――値段を落とすしかない。

 しかし、値段を落としてしまえば、割に合わなくなる。壊れる筆を作っていた方が儲かるのである。

 

 

「買う人間を増やすには値段を落とすしかない。でも、それじゃあ割に合わないだろ? 作る労力を考えれば見返りが小さすぎるからな」

 

 

 問題は、それだけではない。一生壊れない筆を作るためには、それに見合った労力が必要となる。他の仕事を度外視して、その筆を作る必要がある。さらには、一生壊れない筆が壊れたときの店側に与えられる衝撃は考えるまでもないだろう。

 

 

「それに、他の仕事に手をつけられなくなる期間ができる。その分の損の方が大きい。さらに言えば、もし壊れた時に俺の仕事に対しての信頼がガタ落ちしてしまう。いいこと無しだ」

 

「そうですか……」

 

 

 少年は、店主の答えに仕方ないかと肩を落とす。

 店主は、露骨に気落ちする少年に向けてしょうがないなという顔をしながら少年の肩を叩いた。

 

 

「だが、客の要望に答えないわけにはいかない。客が満足するまで諦めない、妥協はしない。それが俺の誇りなんでな」

 

「店主、無理なら無理と言ってくれていいのだぞ?」

 

 

 藍は、店主の言いぶりに不安になった。

 店主は、善意から少年の要求を飲もうとしているようであるが、少年の要望は明らかに無理難題だ。100年保持できる筆など作れるわけがない。

 

 

「別に無理だとは言ってねぇだろ。割に合わないと言っただけだ」

 

 

 藍は、そんな馬鹿な話があるかと混乱する。100年もつような筆を作るにはどうしたらいいのか、どうすればそんなものを作り出すことができるのか、皆目見当もつかなかった。

 

 

「じゃあ、作ってくれるんですね。僕が必要としている筆を」

 

「おうよ。それじゃ手を出してくれるか? 採寸するからな」

 

 

 少年は、自信満々な店主の言い方に期待をしながら手を差し出した。

 店主の山本勝は、差し出された少年の手の長さを測る。最高の筆を作るために、少年に合った筆を作るために、少年の右の手のひらをところどころ触り、眼を細め、少年の指の一本一本に至るまで長さを測っていく。

 しかし、その途中で店主の手が唐突に止まった。

 

 

「なぁ、坊主……」

 

「何?」

 

「お前もそうだったんだな。どこか鏡を見ているような感覚ではあったが手を見て確信したよ。お前の手を見てはっきり分かった」

 

 

 店主は、少年の手を触っていてあることを感じていた、触っている間―――どこか似ているような気がしていた。何がそう思わせているのか考えていた答えが、少年の手を触っている途中で理解できた。

 店主は、少年の手を握ったまま不意に少年の耳元に口を近づける。そして、藍には聞こえないように声のトーンを落とし、どこか懐かしむような声色で呟いた。

 

 

「お前も、やるって決めたら最後までやりとげんだよな。どんなに無理なことでも、誰かに否定されても……最後の最後までやり続けるんだよな……」

 

 

 少年は、この時店主が何を言っているのか瞬時に理解できた。

 店主は、きっと自分のことを理解している、自分がどういう人間なのか手を見ただけで理解したのだ。

 少年は、店主はきっと同じことを考えたことのある同類で、同じ場所に立っている人間なのだと感覚的に感じ取った。

 少年は、藍には聞こえないように店主と同じく声をすぼめて、それでもしっかりとした声で意志を告げた。

 

 

「俺は、決めたら曲げる気は一切ないですよ。誰が何て言っても誰が何かをしても、俺は何一つ変わらない」

 

「そっか、なら勝負だな。俺の筆とお前の腕、どっちが持つのかの勝負だぞ。俺は絶対に負けないからな」

 

「俺は、負けないですよ。絶対に」

 

「1カ月俺にくれ。その間に作ってみせる」

 

 

 店主は、薄く笑いながら近づけていた顔を離すと、握っていた少年の手を離した。

 少年は、離された手をそっと握る。視線は、店主へと向かっている。店主の視線と少年の視線が交錯した。

 少年の瞳には、うっすらと燃え滾る炎が見て取れる。

 店主は、瞳に宿る少年の勢いを見てさらに笑みを深めると逃げるように視線を逸らし、藍へと口を開いた。

 

 

「坊主、すまないが八雲の従者さんとちょっと真面目な話があるんだ。先に外に出ていてくれないか?」

 

「うん、分かったよ」

 

「私に話?」

 

 

 藍は、店主の言葉に心当たりが一切なかったため不思議そうな顔をする。真面目な話など特にする予定はなかったし、する内容もないはずである。

 

 

「終わったら呼んでね」

 

 

 少年は、そんな混乱したままの藍を取り残して店主の言葉に従って店の外に出て行った。

 

 

「…………」

 

 

 店主は、少年が完全に店の外に出て空を見上げているのを視認する。時折目を細め、視線を少年に集中させて完全にこちらに意識が向いていないことを確認した。

 藍は、店主の様子を見て、よほど少年に聞かれたくない話なのだろうと察した。

 しかし、店主からは一向に話を切り出すような口上が述べられない。

 藍は、このまま待っていても話は一向に始まりそうな気配を見せない状況にしびれを切らして自分から店主へと尋ねた。

 

 

「店主、真面目な話とは何なのだ? 和友を店から出さなければならないほどの内容なのか?」

 

 

 店主は、藍の言葉に店の外を真っ直ぐに指さす。店主の指の先にいるのは、他でもない少年である。

 

 

「そりゃもちろんあの坊主の話だ。あの坊主には悪いが、店の外に出ていってもらわないと話ができないと思ってな」

 

「和友がどうかしたのか?」

 

 

 店主は、藍の余りにも何も感じていなさそうな素直な質問に内心驚いた。まさか、何も知らないということはないだろう。外来人ということもあり、連れてきたのが妖怪の賢者である八雲紫という可能性が高いことを考えればなおさらである。

 店主は、何も理解していなさそうな藍を見て不安を抱えながら少年の手を触って感じたこと、少年から伝わってきたことを告げた。

 

 

「あの坊主、どこから拾って来たんだ? 俺は今までにいろんな子供を見てきたが、あんなのは見たことがねぇ」

 

 

 店主は、少年の存在が不思議でたまらなかった。

 少年は、今まで見てきた子供とは明らかに一線を駕している。手を触ってこれまでやってきたことの歴史を見てしまった。その歴史が店主の中で少年の存在が異質に見えた要因になっていた。

 

 

「何をどうやって生きてきたらあんなのができるんだ? 俺は不思議で仕方ないね。あんなのが生きてこられたのが不思議で仕方ない」

 

 

 店主は、少年がこれまで生きてこられたことが不思議でならなかった。それほどに少年の手は違和感を醸し出し、おかしいということを告げている。触れば、100人中100人が違和感を覚えるはずなのだ。店主じゃなくても、誰だっておかしいと思うはずなのである。

 

 

「あんなの……本来ならどこかで終わっているはずだ」

 

「…………」

 

 

 藍の表情がみるみるうちにこわばっていく。

 店主の言葉は、少年を侮辱しているように聞こえる。まるで生きていては駄目だと言われているようだった。

 藍は、少年のことを悪く言われているような気になり、途中で我慢できなくなった。

 

 

「店主、和友を侮辱するのは止めろ。それ以上言えば私も怒るぞ」

 

「すまない!! そういうつもりで言ったんじゃないんだ」

 

 

 店主は、血相を変えて慌てて謝罪するものの話す口を止めることなくしゃべり続ける。 

 

 

「俺は坊主のことが何となく分かったから信じられなかったんだよ。あの坊主が……これまで生きてこれたことを」

 

「何となく分かった?」

 

「俺は、妥協を一切せずに努力をしてこの道を進んできた。そんな努力に憑りつかれた同族だから分かるのかもしれない、分かってしまうのかもしれない」

 

 

 少年の気質は、非常に自分に似ている気がした。

 店主はこれまで妥協というものを一切せず、無理だと言われても諦めることなく店を立ち上げた。誰も助けてくれないような状況で切り盛りしてきた。

 店主は、そんな自分の能力をこう呼んでいる――――――努力を対価とする程度の能力と。

 それは、なんてことはない普通のことなのかもしれない。努力という対価を差し出し、その分の見返りを貰う。なんてことはない、ごく普通のことである。口に出して、能力と呼ぶほどのものではないことは分かっている。

 でも、それで生きてきた。飽きることなく、諦めることなく、対価を支払い続けた。努力を対価として成果を積み上げてきたのが店主の生き方だった。

 能力としているのも誰かが口にしたからだ。貴方は、努力を対価に結果を出す能力を持っていると。なんてことのない普通のことだけど、その努力の形が普通とは違っていた、それを知った友人から言われた言葉だった。

 そんな店主だからこそ少年の異常さがすぐに分かったのかもしれない。それは、少年の纏っている雰囲気からうっすらと感じ取れる程度のものだったが、そんな曖昧な感覚は手を触ってみて確信に変わった。

 

 

「努力を馬鹿みたいにしてきた人間っていうのは、他の人間とは違った雰囲気を持っている」

 

 

 店主には、少年が自分と同じように努力をし続けてきた人間だとすぐに分かった。努力を積み重ねている者には、独特な雰囲気がある。プロのアスリートしかり、プロの演奏家しかり、何かに憑りつかれた様に努力を重ねた人間の周りにはオーラが出てくるのである。

 少年にも周りと違った雰囲気があった、少なくとも店主にはそれが感じ取れた。

 

 

「これまで坊主は、妥協をせずに努力を重ねてきたんだろう。それは、坊主の手を見ればよく分かる。あの右手から、坊主の努力に負けて朽ちていった筆の死骸が積み上がっているのが容易に想像できた」

 

 

 店主には、少年がこれまでに積み上げてきた物が見えた。高く高くそびえたった努力の結晶が見えた。

 

 

「あれは、子供の手じゃねえよ……」

 

 

 店主は、そびえ立つ残骸の頂上を、さらに伸びようとする頂上を見上げた。

 しかし、いくら見上げても頂上は欠片も見えてこなかった。それはまさしく、気狂いと言われるレベルの所業の成果である。

 

 

「なぁ、努力に取り憑かれた人間でもあそこまでの状況にはならねぇぞ。あれは、やり過ぎを通り越して擦り切れ始めている。自分自身をやすりで擦っているようなものだ。いつか摩耗して無くなっちまう、誰か止めなかったのか? 誰も止めなかったから、ああなったんだと思うが……」

 

「和友には、残念ながら止めてくれる人物はいなかった……」

 

 

 少年と店主の山本勝との違いは、そっくりそのまま周りの人間からの対応の違いだと言っていい。

 店主は少年とは違ってねじ伏せるべき能力を保持していなかったし、周りに止めてくれる人物がいた。

 少年には、止めようとする人物がいなかった。

 そこが、二人の人生に大きな違いを生み出している。

 店主は、周りに行動を止めてくれる人物がいたからこそ、努力に取り憑かれているといっても一線を越えるようなことはなかった。

 しかし、少年の場合を考えると分かるが、少年を止めることは決してできなかった。状況が、周りが、少年を後押しするしかなかった。

 二人の違いは、そこであり、そこが―――全てだった。

 

 

「坊主にはもはや、無理なことなのか無理じゃないことなのかの区別ができていない可能性がある」

 

 

 店主は、少年の所見を次々と藍へと伝える。

 

 

「俺はちゃんと分かる。できないこととできることの区別ができる。坊主は、無理かどうかの判別がきっとできていない……だから無理をして無茶をして、できないことを無理矢理できることにしているだけだ」

 

 

 店主は、先ほど少年の手を触っている時に絶句しそうになった。

 少年の手は、鉛筆の形になるように、鉛筆を持った時に綺麗にはまるように骨が圧力でへこんでいた。親指の腹、人差し指の腹、中指の側面。

 外から見たのでは分からない。触ってみて初めて分かる歪さだった。

 

 

「あんなのおかしいだろ。あんな手には、ならんだろ……」

 

 

 何本の筆が死んでいったのだろうか、何本の筆が擦り切れていったのだろうか、そこまでやりきってもまだ100年使える筆が欲しいと言うのか。

 店主は、最初に少年から100年もつ筆が欲しいと言われたときに、断るつもりだった。それを受けたのは、ただの気まぐれである。途中で無理そうだと感じたら、断ろうとするぐらいの軽い気持ちだった。採寸を図って、普通の筆を渡すことだって視野に入れていた。

 しかし、少年の手の採寸をしていてその意識は、別物に変わった。作らねばならないという決意に変わった。

 

 

「あいつは一線を超えてしまっている。もう戻ることはできないだろうさ。一度ついた傷は塞ぐことはできても、無くなることはない。あいつは、もう何も変わらない。あの状況から何も変わらない。あの位置から不変だ」

 

 

 店主の言う通り、少年は変わらないだろう。それは藍自身もよく分かっている。能力が抑えられなければどうにもならないということを理解している。

 少年は、何一つ変わることなく生きていくことになるだろう。何もかも擦り減らして、最後の最後に何もかも残らなくなるまで。

 小さな少年は心の中の広大な世界で、息を引き取るのだ。

 

 

「八雲の従者さん。あんたがあの子を変えてやれよ。このままだときっと……」

 

 

 店主は、難しい表情で藍に頼みごとをする。

 これは、もしかしたら少年のようになっていたかもしれない店主からの、切実なお願いだった。

 



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少年の気質、削れ行く少年

現在筆一本という店にいる。人里へは、買い物に来ているだけなのになぜこんなに時間がかかっているのだろうか。


 藍は、店主の想いの込められた重い言葉を、雰囲気に飲み込まれるように静かに聞いていた。

 店主の言葉は、まるで自分のことのように、事実を知っているように聞こえた。

 藍は、店主の言葉をぐるぐると頭の中で反芻する。このままだときっと……未来を暗示する言葉が頭の中を回っていく。

 店主は、黙り込む藍に対してそこまでしゃべったところで何を言えばいいのか分からなくなったのか、下を向いて押し黙ってしまった。

 

 

「…………」

 

 

 店主は、藍に向けて少年を変えてやれと口にした。もちろん、そんなことを言ったからには少年のことを他人事とは思っていなかった。

 

 

「俺は、これ以上坊主に何もしてやれねぇ。質のいい筆を作ってやるぐらいしか……」

 

 

 有言実行―――店主はすでに少年に対して1つのことを行っている。

 

 店主は、少年の性質が自分のものと類似しているということを逆手にとって、決して勝負ごとに対して途中放棄をしないという確信をもって勝負を持ち掛けた。少年に対して勝負を持ちかけることによって、暗に体を大事にしなければならないという縛りを少年の中に加えたのである。これで少年は、店主の作る筆よりも先に壊れることは許されなくなった。後は、少年の努力と体に負けないだけの筆を作るだけである。

 店主にできたのは、そんな些細なことだった。

 だが、その良かれと思ってとった行為が良い方向に進んでくれるのかどうかは分からない。もしかしたら、悪い方向に物事が進んでしまう可能性だってあり得る。

 かといって少年を止めるための具体的な案は、何一つ思い付かなかった。何をすれば、どうすれば、考えれば考えるほど分からなくなる。思考の迷路の中で右往左往するだけだった。

 

 

「和友を変える……か」

 

 

 藍の脳裏に昨日の少年の姿が映る。右手を機械のように動かし、電子制御されているような印象を受ける少年の動き―――誰も寄せ付けない圧倒的存在感、次元の違いを感じるような孤高さが思い出された。

 

 

(和友は、変わらない……)

 

 

 藍は、少年を変えることができる自信が無かった。藍がどれほど少年を変えようとしても、少年を変えることは無理なような気がした。

 私の手は、きっと和友には届かない。そう言えるだけの根拠もない自信があった。

 

 

(何をどうすれば、変えられる?)

 

 

 藍は、持ち合わせている頭を使い、思考する。少年を変えることが出来る、少年を動かすことが出来る何かを探していく。

 しかし、何をどうしようとも少年は変わらない、今いる位置から動かない、動いている手は止まらない、すり減っていく心と増大していく心は変わることはなかった。

 力ずくで止める? 理屈で説得する? 何をどうするというのだろうか、何をすれば止まるというのだろうか。

 少年の優先順位は、そんなことでは変わらない。決意を込めた瞳は、揺らがずにそこにあって、変わらずに前を向いている。止めたところでぶつかりながらも動くだけだ。

 藍は、どうしたって少年を止められる気がしなかった。

 

 

「後は、あんたらが坊主を変えてあげてくれ。きっと坊主がこれから生きていくためには、絶対に必要になるはずだ」

 

「ああ、それは分かっている。だが……何をすれば和友が変わるのか、全く分からないのだ。口で言って聞く奴じゃないことは、昨日のことでよく分かっているのだが……」

 

 

 藍と店主は、時間を忘れたかのように店の中で佇み、考える。なんとか少年を変えることができないかと思考し、お互いに無口になり、口を紡ぐ。

 空気は、時間が経つにつれてどんどん重くなっていく。

 藍は、何一つ思いつかない頭に苛立ちを感じ、唇をそっと噛んだ。

 

 そんな重い空気を打ち破ったのは

 

 

 

「まだかかりそう?」

 

 

 ―――少年だった。

 

 店主と藍の二人は、静寂の中に不意に飛び入った声を聞いて慌てて声がした方向へと顔を向けた。

 視線の先には、不思議そうな顔をしている少年の姿があった。どうやら、いくら待っても終わる気配のない二人の会話を待ち切れず、店の中へ入ってきてしまったようである。

 二人の視線が、話題の中心地点にいた少年に集中する。

 少年は、凝視してくる二人の顔を見比べて不思議そうな表情を浮かべた。

 

 

「どうしたの? 僕、何か驚かせるようなこととしたかな?」

 

「お、おう、もう終わるぞ」

 

「待たせたか? ちょっと長話になってしまったな」

 

 

 店主は、少年を変えてあげようとして考え事をしていたなど答えられるはずもなく、焦りながら作り笑いをして話を切り上げようとした。

 藍も店主と同様に、話ができる環境が崩れたことをすぐに察し、話を終わらせにかかる。

 店主は、慌てて藍の方向を向くと頭を下げて謝罪した。

 

 

「八雲の従者さん、余計なことを言ったな。すまない、忘れてくれ」

 

 

 店主は、今日初めて会った少年のことについて、あれこれ言いすぎたと反省した。いきなり見ず知らずの初めて会った人間が、知ったような口を聞いて気分のよい人間などいないだろう。

 しかし―――それでも、それでもである。店主は、少年のことを見て話さずにはいられなかった。

 店主は静かに目をつむり、唇を噛む。

 

 

(っ……)

 

 

 少年の精神は―――自分によく似ている。周りの言葉や環境に揺れ動かない姿勢、ぶれない眼、妥協しない心、まるで自分のことを見ているようだった。

 店主は、どこか親近感の湧く少年が今にも擦り切れそうになっているのを見て、何一つ言わないまま放置するということができなかったのである。

 店主の瞼の裏に想像の中の少年の姿が映る。階段を登ろうとする少年の姿が見える。

 

 

(どうして、そんなところにいるんだ……)

 

 

 店主は、少年のいる場所を見上げた。

 少年の立っている場所は、店主の立っている場所の3段ぐらい上だった。3段―――それだけ聞くととても小さい差に思えるかもしれない。

 だが、店主にとって3段という差は断崖絶壁に見えた。目の前に見える3段分の段差は、足をかけてはならない場所なのだ。本来は、存在しない場所なのだ。

 ここまで階段を登ってきた店主は、頂上を目指した店主は、少年の立っている場所が自分の登れなかった場所であり、そしてそれは―――登ってはならない場所だということを本能的に理解していた。

 

 

(どうやって、いや、どうして……?)

 

 

 少年の立っている場所は、普通ならば登れない場所だった。店主には、どうやって登ったのかも検討がつかないほどに逸脱している位置である。

 少年は、店主に見上げられているのに気付いたのか優しい表情で見下ろしながら首を横に振った。

 

 

(分かってる、分かっているさ。言われなくてもそっちにはいけねぇよ)

 

 

 店主はこれまで生きてきて、人生の階段を登りつめていた気がしていた。努力によって到達できる最終到達地点の極みまで至っていると思っていた。自分のいる所が限界なのだと理解していた。

 だが、それも今日までである。さらに3段分上に少年がいる。

 

 

(坊主は、どうしてそこまで登ってしまったんだ?)

 

 

 少年は、店主の問いに困った顔でごまかすように笑う。まるで、分かっていて踏み込んだと言わんばかりの表情だった。

 店主のいる場所のさらにもう一段先が越えてはならない一段だ。ここまでで頂点だと思っていた店主は、そこがどういう場所であるのか、理屈抜きで判断できた。

 これ以上は、化け物の領域―――越えてはならない一線――それは周りの人間が止めてくれたから分かるし、今の自分ならば理解できる。

 しかし少年は、それのさらに2段先にいる。そしてあろうことか、さらに前に進もうと足を掛けている。

 店主は、少年のやっていることが信じられなかった。誰も止めなかったのかと思うと、気が気ではなかった。

 

 

(まだ、登るのか……? まだ登りつめていないのか?)

 

 

 少年は、静かにうなずいた。先程と変わらない瞳で、変わらない決意で、はっきりと自分の意志を示した。

 店主は―――変わらない少年の意志を悟る。

 

 

(ああ、分かったよ。坊主には、それしかないんだもんな)

 

 

 店主は、少年に悟られないように、さっきまでの暗い空気がまるで無かったかのような明るい表情を作る。少年に気取られないように精一杯の厚手の仮面を被った。

 少年が頑張っているのに、余計な心配をかけるわけにはいかない。ここでやるべきは、なんでを問いかけるのではなく、階段から転げ落ちない様に背中を支えてやることなのだ。

 

 

「……くれぐれもよろしくな」

 

 

 藍は、少年のことを想う店主の言葉をしっかりと受け取った。何の自信もない、何の対策もない状態ではあるが、何とかすると自分に言い聞かせるように告げた。

 

 

「店主……忠告は受け取っておく。任せておいてくれ。筆の件は、よろしく頼むぞ」

 

「あれ? もう買うところまで話が進んでいたの?」

 

 

 少年は、すでに筆を買うところまで話が進んでいることに少しだけ驚いた。なにせ、少年が頼んでいる物は、100年もの間使うことのできる筆である。

 少年は、自分がどれほど無理なことを店主に頼んでいることを自覚していた―――100年保つような筆を作ることがどれほどに難しいのか、ちゃんと理解していた。だから、今日中に話は纏まらないだろうと、外にいた時に考えていたが、現実は思ったより少年に優しかったらしい。すでに買うところまで話が進んでいる、少年はそのことに驚きの表情を浮かべていた。

 藍は、少年の驚いている様子を見て安心していた。もしも、先程まで話を聞いていたのだとしたらこんな反応をすることはないだろう。

 藍は、何事もなかったように平然と嘘を口にする。

 

 

「一通り、話は終わったぞ」

 

「坊主の手に合った筆を作ってやるから心配するな。坊主は、しっかり待っていてくれればいい」

 

 

 安心したのは何も藍だけではなく、店主も同じだった。

 店主は、誰よりも少年に先程の話が漏れることを危惧している。心配する様子を少年に気取られてはいけない。

 それは、少年の足をさらに重くする―――前に進まなければならないのに進む足を重くする、負担をかけることに繋がる。

 それだけはあってはならないのだ。少年は、進まなければならないのだ。進まなければならないのなら、足かせになってはならない。引きずっていては、進めるものも進めない。進んでいる足が悲鳴を上げるのが早くなる。

 それが例え、自身の身を削ることであったとしても、少年自身がそれを止めようとしない限り、足は常に前を向くのだから、足を引っ張ってはならないのだ。

 

 

「ありがとうございます。筆については、よろしくお願いしますね」

 

「店主、頼んだぞ」

 

「任せてくれよ! 文句一つ出ないような、そんな筆を作ってやるからな!」

 

 

 少年は店主に向かって頭を下げお礼を言った。藍も、店主の心意気にしっかりした落ち着いた声で告げ、店主に頭を軽く下げた。

 

 

「行くぞ、和友」

 

 

 藍は、右隣に来ていた少年の左手を掴み、店の外へ向かって歩き出す。

 少年は、藍に手を引かれて体を店の外へと向ける。

 店主は、連れていかれる少年の姿を見て手を振った。

 

 

「またな、坊主」

 

「勝負だからね」

 

 

 少年は、外に向いた顔を後ろに向けた。少年の視界の中には、少し寂しそうな顔をしながら手を振る店主がいた。

 少年は、藍に掴まれていない自由な右手を店主の姿が見えなくなるまで振り返す。名残惜しい様子を感じさせない笑顔で手を振った。

 店主は、店を出て左に消えて行く藍と少年を見送り、誰もいなくなった店の中で大きなため息をつくと、ぼそぼそと呟いた。

 

 

「俺を見下ろしていた時と同じ顔しやがって……俺も、もう一段上がる覚悟をしなきゃならないかねぇ……このままじゃ勝負にすらなりはしねぇし……」

 

 

 店主の言葉は、虚空に消え、拡散する。

 店主の心の中に大きなものを残して。そして、もともとあった大きなものを無くして。

 

 

 

「次は、何処に行くんだっけ?」

 

「もう忘れたのか? 次は、服屋だ」

 

「ああ、そうだったね」

 

 

 少年は、店を出たところで藍と繋いでいた手を離し、藍の隣を歩きながら人里を進む。進む先は、次の目的地である服屋である。

 

 

「藍、聞きたいことがあるんだけど」

 

「どうした?」

 

 

 少年は、頭の中に溜めていた疑問があった。それは、藍と店主の話し合いの内容である。少年は最初、二人は筆を買うという話をしていると思った。

 けれども―――よくよく考えてみるとその考えは明らかにおかしいことに気付く。

 買うという行動の手順は、そこまでややこしい話ではない。売り手がいて、買い手がいる。商品があって、ニーズがある。それだけの話なのだ。

 まして、100年間使うことのできる筆という無理難題の商品を欲している場合は、特に普通に行われる会話というものがあるはずである。

 

 

「さっきは、何の話をしていたの?」

 

(やはり、その質問が来たか)

 

 

 藍は、少年の言葉に心臓を激しく鼓動させた。

 

 

「筆を作ってくれるかどうかについて話していたにしては、かかっている時間が短いし」

 

 

 外で待っていた少年には、二人が店の中で何について話をしていたのか分からなかった。

 しかし、筆を買う話をしているわけではないと見当をつけることは簡単にできる。少年が二人に話しかけるまでの短時間で少年の無理難題である100年の筆を買うというところにまで漕ぎ着くはずがないのだ。

 見たこともない、あるかどうかも分からない、作れるかどうかも分からない―――そんなものを簡単に作るなど言えるものだろうか。

 

 

「だったら筆を買うことをあらかじめ伝えてあったのかなと思ったんだけど……もしも、筆を買うことが決まっていたのなら話している時間にしては長すぎるし」

 

 

 買うところまであの時間内で辿り着くことができるのは、店主がすでに100年使える筆を作ることができる実力を持ち合わせているか。あらかじめ話が通っていて、買うというところまで決まっていたと考えるのが自然である。

 しかし、買うところまで意識があったのであれば、話は即座に終わる。その場合を考えると逆に話している時間が長すぎる。

 そして、なにより使用者である自分が外される理由がない。

 少年は、うちに抱えた疑問を藍に尋ねた。

 

 

「だから、何の話をしていたのかなって」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて、やはりその質問が来たかと身構えた。

 少年がこの質問をしてくるのは、少し考えれば予測できることである。特に自分だけを除け者にされていた少年が、何の話をしていたのかと聞いてくるのは、ごく自然の流れだ。

 藍は、店主と話している間に用意しておいた答えを並べた―――少年に本当のことを告げることはなく、もっともらしい嘘をついた。

 ポーカーフェイスを決め込み、少年に嘘だとばれないように、きっちりと嘘をつき通した。

 

 

「筆の値段の話だよ。要求する条件が高いと値段が張るようでな。支払いをどうするかについての話をしていたのだ」

 

「筆の値段か……」

 

 

 少年は、藍の言葉に少しだけ顔を暗くした。

 

 

「お金は絶対に返すからね。でも、長期的に見ればこの方が安く済むと思うんだよ。これから書き記すのにどれだけの本数を壊すか分かったものじゃないし」

 

「そんなにすぐに壊れるものなのか?」

 

「昨日の僕の書いている作業を思い出してみれば、すぐに想像がつくと思うよ」

 

 

 藍は、追及してこなかった少年に少しだけ安堵しながらも、昨日の少年の姿を思い返す。凄まじい勢いでノートに書き綴られる文字。憑りつかれているように進む手。終わりの見えない作業。鉛筆は、勢いよく擦り減っていく。

 

 

「僕、今までどのぐらい壊したんだろ……」

 

 

 少年は、一生使える筆のことを考えて、これまでに壊した筆記用具の数を思い返す。何度も折って、何度も擦り減らして、何度も削った存在を思い出す。もう、自分の体の一部だと言っても間違いじゃないぐらい身近にある存在を想う。

 手が鉛筆の形を覚えている。確実にフィットし、同じように消耗する鉛筆と共に、文字を書き記す。

 少年のこれまでの歴史は、書き記すものによって支えられ、綴られてきた。残骸になった鉛筆は、まさしく少年の歴史を書き記してきたものなのだ。

 少年は、もはや数えることもおこがましいほどの鉛筆の残骸に瞼をゆっくりと閉じた。

 

 

「うん、壊し過ぎてどのぐらいなんて思い出せないね」

 

「確かに……昨日の和友の様子を考えると、その方が安く済むかもしれないな……」

 

「藍もそう思うでしょ?」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて少年の要求した一生使える筆のことを再度考えてみた。少年の昨日の様子を見ていると、これから先に相当数の筆記用具が壊れることが予測される。

 それを考えると、少年が言うように壊れない筆を一本、高い値段で買った方が壊れるたびに新しい物を買うよりも相対的に安くなるかもしれない。買う手間も省ける、一石二鳥である。きっとその想像は間違ってはいないだろう。

 壊れない筆というものが本当に存在すればという限定的な話にはなるが、それを仮定すればかなりの節約になるはずである。

 

 

「お金を借りている身としては、できるだけ安く済ませたいんだ」

 

 

 藍は、聞き覚えのある言葉に耳をすませる。

 少年は、早朝と同じようにお金を払うと断言している。お金を返そうとする姿勢は今朝も見た。あの時も少年は、かたくなにお金を返そうとしていた、借りておくことを嫌がっていた。

 少年の言葉には、絶対にという言葉が前に付くような確実な意志を感じる。それはまるで、昨日言っていた約束を守る、普通に生きるのと同じような感覚と同じだった。

 

 

「お金を返すと言っているのは、それが決まり事だからなのか?」

 

「ううん、そんな決まり事はないよ。似たようなものならあるけどね」

 

 

 藍の予想とは少し違い、似たような決まり事は存在するがお金を返すという決まり事はないようである。

 似たようなものというのは―――どういうものなのだろうか?

 お金を返すという明確なものではないということなのだろうか?

 似たようなものと言うのならば、別にお金を返す必要はないのではないか?

 藍は、少年に尋ねた。

 

 

「似たようなものならあるのか。それは、一体どういうものなのだ?」

 

「そうだなぁ……必要に迫られない限り、お金は借りちゃいけないって感じになるのかな。別に決まり事でもなんでもないから、僕がそうしたいってだけなんだけどね……」

 

 

 少年は、歯切れ悪く藍の質問に答えた。

 藍は、決まり事ではないという少年の言葉に安心する。決まり事ではないということは、少年に対する強制力はないということである。そうであるならば、少年の意志を曲げるのは比較的楽だろう。

 藍は、少年の気持ちを甘く見て楽観視していた。

 

 

「そうか、決まり事ではないのか。それならば返さなければならない理由は、特に無いということだな」

 

「藍が返さなくていいっていうのなら、返さなきゃいけない理由はないね」

 

「何度も言うが、無理に払わなくてもいいからな」

 

 

 藍は、どうしても払うと言っている少年に向かって別に払わなくても構わないという言葉を送る。事実藍は、少年にかかったお金を少年に払ってもらおうなんて全く考えていなかった。

 

 

「紫様もきっと同じことをおっしゃるはずだ。紫様も、私も、別にお金が欲しくて和友を助けているわけではない。ただ、そうしたいから、そうしているだけなのだからな」

 

 

 別にお金を返さなくてもいい、そう思っているのは藍だけではないだろう。紫に関しても同様に、少年にかかった費用を払ってもらおうなど考えていないはずである。

 少年を助けたのは、紫の個人的な助けてあげたいという感情によるもの、藍のちょっとした優しさによるものだ。少年を助けたのも、少年を引き取ったのも、少年の能力の制御の練習に付き合うのも、極端なことを言ってしまえばやりたいからやっているだけなのである。

 藍や紫は、少年から助けてくれと頼まれたわけでもないのに、お金を請求するほど酷い奴でも守銭奴でもない。それに、無理に返されてしまっては、貸した方の気分が悪くなる。

 

 

「それに、お金を返すと言っても、どうやって返すつもりなのだ? あてがあるわけでもあるまい」

 

 

 正直に言ってしまえば、少年にお金を払えるだけの余裕があるとは思えないというも返さなくてもいいと言っている理由の一つだった。

 少年はまだ子供で、横に繋がりがあるわけでもなく、お金も持ち合わせていない。働くということをするにも、能力の制御を行わなければならないことを考えると時間が取れないだろう。この環境下でお金を返すということは、無理をすればあるいは、というところであろうか。

 藍は、少年が無理をしてまでお金を返そうとするのではないかと不安だった。

 

 

「私たちは、無理をしてまでお金を返して欲しくないからな」

 

「いや、これは僕の我がままだから。藍は気にしなくていいよ。僕、借りっぱなしっていうのが嫌なだけなんだ」

 

 

 少年は、藍の気遣いをよそにお金を払うことについて引かなかった。

 借りっぱなしが嫌、よくある意見ではある。それは、普通の人間がよく持ち合わせている感覚だろう。

 だが、少年の場合はあまりに意固地過ぎているように思う。

 あれほど藍が言っても―――少年の意見は変わる様子を見せない。約束事でもないのに、普通という基準の外に出るわけでもないのに―――なぜだろうか。

 

 

「どうしてだ? 何度も言うが、気にする必要はないぞ。貸している私と紫様は、気にしたりなんかしかないからな」

 

「僕が気にするのさ。気になってしょうがないんだよ」

 

 

 少年は、藍がいくら払わなくてもいいと言っても、払うことをかたくなに譲らなかった。

 藍は、何がそんなに少年の気持ちを作っているのかと少年の顔を見る。

 少年は、真剣な表情で真っすぐな目で藍に訴えていた。

 

 

「僕は、誰かに借りを作りたくないんだよ。借りたものは全部返す。何か残っていたらきっと……気になっちゃうから」

 

 

 少年は、お金を借りっぱなしでいるのが嫌だった。それはお金に限った話ではない。お金に限らず貰ったものは全て返すという気持ちを持っていた。

 それは―――決まり事だからそうするのではなく、少年自身がそうすると決めていたからである。

 少年には、幻想郷に何かを残すつもりは全くない。後腐れや後悔、そんなものを何一つ残すつもりはなかった。

 少年は、あくまで幻想郷の住人ではなく、外の世界の住人なのだ。いずれは、外の世界に戻るつもりでいる。

 少年は、外の世界に戻った時に、後ろ髪を引かれるようなことだけは残したくなかった。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、少年のかたくなな様子を見て、店主の言っていた「坊主は、無理を押し通す、できるかできないかの判断が付いていない」という言葉が頭の中をちらついていた。

 少年は、不可能なことでも無理を押し通すことで可能とする。努力に努力を重ねて、自分を擦り減らしてでも成し遂げようとする。きっとお金を返すということに関しても同じことが起こるだろう。

 藍は、少年の未来が容易に想像ができた。

 

 

「なぁ、和友……」

 

「なあに?」

 

「無理だけはしてくれるな」

 

 

 藍は、少年を静止させるように声を重くして告げた。

 少年が無理をするところだけしか想像できない―――払わなくてもいいか、なんて甘いことを考えている少年が想像できない。少年の未来に靄がかかっていく。前が見通せなくなっていく。

 この靄を払うためには、少年の絶対的な言葉が必要だった。無理をしてまでお金を返さないという言葉が必要だった。

 

 

「…………」

 

 

 少年から返事は返ってこなかった。少年の返事が返ってこないことによって、藍の頭の中にある少年が摩耗して消えるような想像が、思考にかかる靄が濃くなっていく。

 

 

「絶対に無理だけはするなよ」

 

 

 藍は少年を心配し、念を押すように二度目となる無理をするなという忠告をした。そして口から言葉を出すのと同時に、自身の声色に少しの恐怖が混ざっているのに気付いた。

 

 

「なぁ、和友……私は、和友が心配なのだ……」

 

 

 少年は、ガラスのような存在である。

 周りから見れば、非常に真の強い心を持っているように見えるが、実際は薄く引き延ばされた石英だ。少し衝撃与えれば、一瞬にしてひびが入る。より力を入れれば、すぐに崩壊するような脆さを持っている。

 鋭利なものほど欠けやすい……鋭さと脆さは比例しているのだ。少年のその尖った鋭さは、少年の脆さも同時に表している。

 

 

「私は、和友が無理をしているところを見たくない。いいや……私は無理をしてほしくないのだ」

 

 

 藍は、少年が持っている下手に扱えば一瞬で壊れてしまうような雰囲気を感じ取っていた。それはきっと、少年の書き記す作業を見なければ分からないこと、心の中を見なければ分からないことである。

 藍は、少年が壊れてしまう恐怖を感じると同時に、どうしてこんなにも少年のことを心配しているのだろうという疑問を抱えた。

 

 

(……どうして私は、会って間もない和友のことをこれほどまでに心配しているのだろうか?)

 

 

 藍は心の中で呟き、思考する。少年と会ってまだ1日しか経っていない。

 しかし少年は、確実に藍の目を惹く存在になっている。藍の頭の中は、昨日から少年のことばかりである。

 

 

(和友に助けられたから? だから和友に優しくしてあげたいと思っているのか? 私は、和友のことをどう思っているのだろうか……)

 

 

 藍は、心の中で助けられた恩があるから、とても優しくしてもらったから少しだけ心を寄せているのだろうかと考える。

 でも、それだけではない気がする。何かがある、何か違うものがある。

 

 

(私は、何を考えているのだ)

 

 

 藍は、答えの出ない思考を振り払い、少年のことを見つめる。

 少年は、困ったような表情で藍と顔を見合わせた。

 藍は、困った様子の少年に僅かに笑みを浮かべた。

 

 

(私は、和友に振り回されてばかりだな……)

 

 

 藍は、少年に心を揺さぶられてばかりである。少年が怒った昨日も、楽しそうにしている今日も、少年に心を揺さぶられてばかりだった。

 

 

(だが、不思議とそれが心地よい。それはきっと、和友の気質から来るものだろう。和友の本質から……相手を大切にする温かな心から来るものなのだろう)

 

 

 藍は、そうやって少年に振りまわされることに嫌悪感があったわけではなく、むしろどこか嬉しさというか、心地好さを感じていた。

 藍は、そんな気持ちに名前を付けることができなかった。そして、回答をなかなか口にしない少年を心配そうな顔で見つめていた。

 少年からの回答は、未だに出てくる様子がなかった。




暗いよりは、明るい方がいい。でも、暗さが分からないと明るさは理解できない。
ほのぼのとシリアスは、上手く共存できるといいかなって思います。
少年は、相手の気持ちをくみ取るのが結構うまい人間です。
藍が泣き虫になっているように見えるのはなんのことはありません、一度泣き顔を見られているというのはもちろんのこと、こういうことに慣れていないからというのが大きいです。


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約束事、決まり事

 少年は、藍の言葉に暫くの間押し黙った。無理をしないでくれという藍の言葉に何も反応を見せなかった。

 少年は、暫く沈黙の間があった後、重い口を開いた。

 

 

「次は、服屋だね。どこら辺にあるのかな」

 

 

 少年の口から吐き出された言葉は、藍の心を激しく揺さぶった。

 藍の目が少年の言葉に僅かに細まる。

 少年は、藍の無理をするなという再三の心配の言葉に対して返答しないばかりではなく、あろうことか次の服屋のことを口にした―――藍の言葉を無視するように話を切り替えたのである。

 少年は、藍と視線を合わせないように周りを見渡し、再び笑顔を作って楽しそうにしている。雰囲気を大きく変えて、よそ見をしている。

 

 

(私の言葉が聞こえなかったのか? いや……そんなはずはない)

 

 

 藍は、単に自分の言葉が聞こえなかったのだろうかと考えたが、そんなことはありえないとすぐさま考えを捨て去った。これまで普通に会話をしていて、大事なところで急に聞こえなくなることなどありえない。

 少年は、明らかに話をそらそうとしている。

 

 

(そうか、そういうことか。和友は、私の言葉を受け入れるつもりがないと、そういうことなのだな)

 

 

 藍は、確信する。少年の話をそらす行為は、藍の言葉に賛同できないと言っているに等しい行為で―――無理をするのを止める気はないと言っているのと同じだ。

 少年は、藍が何を言っても無理をすることを止めるつもりはないのだろう。紫が止めても無理をすることを止めるつもりはないのだろう。

 藍は、露骨な論点をずらす行為の中に含まれる少年の意図を飲み込むことができず、我慢ができなかった。これだけ心配しているのに、これだけ気持ちを伝えているのに、それを無視しようとする少年に怒りを覚えた。

 

 

(ふざけるな、人がこんなに心配しているのに)

 

 

 藍の足が唐突に止まる。少年の手をしっかりと握り震えを抑え込む。

 少年は、停止した藍に引きずられるように歩みを止め、藍へと視線を向けた。

 藍は、少年の目をにらむように見つめると震える心をそのままに不安の乗せた声で言葉を吐き出した。

 

 

「和友! 今ここで約束してくれっ! 無理はしないって、約束してくれないか!?」

 

 

 藍は、人里の通りで人目もはばからず悲痛な声を上げた。

 周りを歩いている人が大きな声に反応して少年と藍の二人の方に目を向ける。

 だが、妖怪ということで視線は一気に散乱していった。誰も言い争いを止めようとはしてこなかった。

 

 

「お金を返すためだけではない……無理をしてまで何かを成し遂げるということを止めて欲しいのだ」

 

 

 藍は、卑怯な手段だとは思いながらも少年と約束を取り付けようとしていた。藍のしようとしている行為は、少年のことを知っている者にとっては反則以外の何物でもない。

 

 

 約束を守るというのは―――少年の決まり事なのである。

 

 決まり事とは、少年にとって何よりも優先されること。お金を返すということは、似たような約束事があるだけで約束を守るという決まり事に比べれば優先順位的に劣るはずである。

 だったら、無理をしないという約束を結んでしまえば、決まり事の方を優先するはず―――これが藍の考えた少年を止めるための手段だった。

 藍は、少年に無理をして欲しくないという善意100%の想いで、無理をしないという約束をして欲しいと持ちかけた。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、藍の言葉を聞いてどこか遠くを見つめる。見つめる先は、藍の後方上空である。

 少年の視界の先にあったのは空だけで、雲だけで、青だけだった。

 藍には、少年が泣いているように見えた。涙なんて確認できなかったが、悲しそうな顔をしているようにも見えなかったが、なんでだろうか―――そう見えた。

 少年は、暫くすると視線を降ろして藍に目線を合わせる。

 

 

「和友……?」

 

「……無理だよ。今ここで、約束はできない」

 

「どうしてだ? そんなに難しいことではないだろう?」

 

 

 少年は、どこか寂しそうな顔をして少年を想う藍の言葉を拒否する―――約束はできないと言葉を口にする。

 藍には、少年が断る理由が分からなかった。

 無理をするなという約束は、藍のためでも、紫のためでもない、少年のための約束なのである。そしてその約束は、少年が不幸になる類の約束でもない。少年がこれから先を生きていくための支えになってくれるものなのだ。

 それをどういった理由で無理だというのだろうか。受け入れられないというのだろうか。藍の頭には疑問が湧きたっていた。

 

 

「ごめん……僕には無理なんだよ」

 

「……私は、和友に無理をして欲しくないのだ。私の気持ちを分かってもらえないだろうか。私は和友が心配なのだ……」

 

「…………」

 

 

 藍は、心から心配するように優しい声で呟いた。

 それでも少年は、藍の言葉を聞いて悲しそうな表情を浮かべるばかりで、藍の優しさを受け入れようとはしなかった。藍の気持ちは痛いほど少年に伝わっている。何も悪意から言っている言葉でないことは、少年も理解していた。

 だが―――約束することはできないのである。

 少年は、藍の言っている言葉がどれほど難しいことなのか知っている。それが、どれほどに難しいことなのか知っていた。

 

 

「藍は、簡単に言うよね。簡単に難しいこと言う……」

 

「難しい? 以前は口約束で簡単にできただろう?」

 

 

 藍は、少年の気弱な声を聞いて疑問を口にする。

 少年と藍の二人が少年の心の中で約束した時―――藍が自分のことを名前で呼んで欲しいと願った時は、簡単な口約束だった。藍が名前で呼んで欲しいと願い、少年は約束すると告げ、二人の間で約束が結ばれたのである。その時は、簡単であったがゆえに軽い気持ちで約束をしてしまい、少年が頑張らなければならない状況になった。

 しかし、今の場合はその軽さが、都合が良いといえる状況である。ここで約束をしてしまえば、少年は無理をしなくなるのだ。だからこそ藍は、少年に約束を取り付けようとしていた。

 けれども、今の少年の反応を見ていると、無理をしないという約束は難しいものであるということが読みとれる。それはなぜなのか、藍には分からなかった。

 

 

「約束事は、簡単なものじゃないよ」

 

 

 少年は、藍に向かって真剣な表情で告げる。

 少年にとって約束事を守ることは絶対のものだ。何物にも揺るがない、絶対的な掟である。破ることは許されず、守ることを義務付けられたものだ。

 約束を交わしたが最後、少年はその身が朽ち果てるまでそれを守り続けなければならない。

 少年は、約束を交わすことの重さを知っていた。

 

 

「一応聞いておくけどさ、無理をするなってどこからが無理になるの? 僕は、どこまで何をしていいの? 僕は、どこまで我慢をすればいいの? 僕は、何をどうすればいいのさ」

 

 

 無理をしないという約束は、少年にとって果たせない約束だった。

 それは、無理をしないということがあまりに不明慮だからである。

 少年は、藍の無理をするなという言葉の境界線が分からなかった。

 境界線の曖昧な約束は、受理できない。不明慮な約束をした場合、少年はよく分からないままにその約束を守らなければならなくなる。それがどんなものであっても、約束ならば守らなければならなくなる。よく分からない約束で、よく分からない状態になって、何もできなくなってしまうかもしれない。

 

 

「その無理をするなっていう約束は、何処に引くべき明確な境界線があるのかな?」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉の返答に詰まり、次の言葉がなかなか口から出てこなかった。言葉の意味が分からなかったわけではない、ただ答えが見つからなかった。

 少年は、無理をしていると判断する基準が分からないと言っている。

 だが、無理をしているという基準、無理と判断する境界線には個人差がある。藍にとって無理というのと、紫にとって無理というのに差があるように、無理という言葉には個性があるのである。

 藍は、少年の言葉に対する回答をすぐに思いつかなかった。取りようによって変わってしまう境界線を引くことができなかった。

 しかし、何も言わなかったら何も変わらないままだ。少年のすり減らすような行動を止めることはできない。

 藍は、苦悩の末辛うじて思いついた回答を、不安を含めて口から吐き出した。

 

 

「それは……例えば、怪我をしない程度にするとか……」

 

 

 藍が辛うじて考えた基準は、傷を負うということを境に無理と断定するというものである。

 簡単にいえば、少年が傷を負うようなことがあればそこからは無理をしている、という判断の基準を設けてはどうかという提案だ。もっと単純に言ってしまえば、怪我をしない程度に頑張ればいいということである。

 藍は、少年の疑問に対する答えを他に何も思いつかなかった。普通に生活していたら、こんなことは考える機会がないのだからとっさに思いつかないのも仕方がないといえる。

 そもそも、無理をするなという基準は状況に応じて決めるものだ。実際にその状況にならなければ、何処からが無理という基準に違反するのか判断がつかないし、個人差が必ず生まれてくる。

 仮に、紫が藍に対して無理をするなと言った場合、それは自身の限界を超えることをするな、危険なことをするなと、紫の言葉を受け取るだろう。

 このように―――無理というラインを判断すればいいだけの話で、どこからが自分の限界なのか、危険なことなのかどうかの判断をつけて、足を止めればいいだけのことであるのだが―――少年は藍のように普通に判断できる人物とは違う。

 昨日の少年の様子を見ていれば、嫌でも分かるだろう。境界線を曖昧にする程度の能力を持っている少年にとって判断するということがどれほど難しいのかは、考える間ものなく分かることである。 

 少年は、通常無理だと判断するものを普通だと思っている。先程店主が言った通りで、少年には無理かどうかの区別が付いていない。そうでなくては、昨日の書き記す作業は説明がつかない。

 藍は、自分の言っていることが酷く間違いであることを、心のどこかで気付いていた。

 だが、喋らずに黙っていることができなかった。

 少年は、不安を抱える藍に追撃を掛けるように疑問を口にする。

 

 

「怪我をしたらそこから無理になるの? だったら、歩いていて怪我をした場合、そこから何かをすることは無理をするってことになるよね」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉に口を紡ぎ何も言えなくなった。

 少年は完全に―――例外の存在だった。

 藍は、人里で少年にとある話をしている―――人里に妖怪が入った場合における対処の話をした。その話と同様に、何事にも例外が存在する。

 傷を負った後に何かをしようとすることが無理というのならば、歩いている途中で転び、足に怪我負った少年は、歩くことを止めなければならないのだろうか?

 妖怪に襲われて怪我負った少年は、走ると無理になるからといって妖怪から逃げるのを止めなければならないのだろうか?

 普通の人間であれば、それが無理なことなのかどうか、優先順位的にどちらが大事なのか判断がつくだろう。

 しかし―――少年は違うのである。その判断を境界線が曖昧だという理由で下すことができない。少年にとっては、無理をするなという約束自体に無理があるのである。

 

 

「藍、僕に気を遣ってくれるのは嬉しいよ。本当にありがたいと思っている。きっと僕がこれから幻想郷で生きていくことができるのは、まぎれもなく藍と紫の、二人のおかげになるんだろうね」

 

 

 少年は、口を閉ざした藍に優しく笑いかけ、藍と紫に心からの感謝を述べた。紫に無理矢理幻想郷へ連れられてきたことを考えても。もともと嫌々ながらに来た幻想郷であっても。少年の能力の制御に手を貸し、生活の援助をし、自分がこれから生きていくための手助けをしてくれる。少年は、そんな二人の存在に頭が上がらない気持ちだった。

 藍は、優しい笑顔で語りかける少年を見つめる。

 少年は、本当に嬉しそうな顔で藍へと気持ちを伝えた。

 

 

「幻想郷に連れて行かれる前は、幻想郷に来ても来なくても何も変わらないと思っていた。紫が助けてくれても助けてくれなくてもどっちも一緒だと思っていた」

 

 

 少年は、幻想郷に来る前、別に紫に助けてもらっても助けてもらえなくても、どっちでも変わらなかっただろうと思っていた。

 だけど、その評価は昨日の件で覆された。今は、幻想郷に来て良かったと心から思っていた。

 

 

「でも……今は思うんだ。二人は、とても優しかったから。こんな僕に、優しくしてくれたから。こんな僕を、理解してくれたから。だから―――藍、ありがとうね」

 

 

 気持ちが変わったのは―――まぎれもなく二人が少年に優しかったからだ。気持ちをくみ取ってくれて、理解してくれて、支えてくれたからである。

 少年は、藍と紫のおかげで何とか生きていける。二人が優しい人で本当に良かったと心の底から思っていた。

 藍の心の中に少年の言葉がしみ込んでいく、少年の想いが入りこんでいく。

 藍は、少年からの真っ直ぐな心に心が暖かくなっていくのを感じていた。

 

 

「和友……」

 

「紫が僕を幻想郷に連れていってくれなかったら、きっと僕は苦しんでいた。もしかしたら死んでいたかもしれない。言いすぎかもしれないけど、僕は二人のことを命の恩人だと思っているよ」

 

 

 もしも紫が少年を幻想郷に連れて行かず、少年が外の世界で暮らしていかなければならなかったとしたら、理解者である親を失っている少年はとても苦しい生活を送ることになっただろう。誰一人として本当の自分自身を見せることはできず、自分一人で抱え込んで生きていかなければならなくなっただろう。

 施設で生活することになっても、親戚の家に引き取られたとしても、書き記す行為を止めることのできない少年は肩身の狭い思いをしたことになったはずである。

 そのことを考えれば、紫が手をさしのべてくれたことは少年にとって救いだった。

 少年は、笑顔のまま再度藍に対してお礼を言う。

 

 

「無理をしないで欲しいという藍の気持ちは本当に嬉しかったよ。僕を大事にしようとしてくれる藍の気持ちはよく伝わってきたから……ありがとうね」

 

「っ……」

 

 

 藍は、少年のお礼に再び心を揺さぶられた。自然と目元に涙が溜まって零れ落ちそうになった。

 少年の言葉が、想いが心に入りこんでくる。優しい想いが、感謝の念が藍の心に深く入り込む。少年から告げられた言葉には、それだけの純粋さや、重さがあった。

 藍は、涙をこぼすまいと瞬きをせず、目元に溜まっていく涙を拭きとることもせず、少年の前から動く事もできず、立ちつくした。

 

 

「でもね、いきなり何かをやれって言うのは反則だよ。僕は、藍と紫に何かをやれって言われたら基本的に断れない立場なんだから」

 

 

 自分は、どうしようもない奴だ。普通のことができない。平常できるようなことができない。期待にも応えてあげられない。自分という人間は、そういう人間だ。少年は、自分自身のことを客観的に評価できている。

 藍は、そんなどうしようもない自分のことを大事に思ってくれている、心配してくれている。

 できることならば、お願いを聞いてあげたい。約束を交わして、安心させてあげたい。そういう気持ちもある。藍の言うことならば、できる限りのことを聞いてあげたかった。

 それでも、聞いてあげられないこともある。

 少年には、譲れないものが多かったのである。

 

 

(私は何をしているのだ……私のやっていることは、約束なんかじゃない。ただの上からの押し付け―――命令じゃないか……)

 

 

 藍の顔が少年からの正論にうつむく。すると、瞳に溜まっていた涙が一筋、頬を伝って落ちた。

 藍の心にあったのは、悪いことをしたという罪悪感ではない―――何も分かっていない、分かろうとしてない、何もできていないという悔しさだった。

 藍は、少年の正論に何も言い返すことができず、ただただうつむくだけになる。

 藍のしていることは、はっきり言ってしまえば上からの圧力による抑制で、親から子に与えられる命令に近いものがある。まるで、これまで紫が藍に与えてきたものと同じである。上から降って来るだけのもの。意志が与えられていないもの。無機質で、熱の感じられないもの。

 藍は、家族として接しようとしていた少年に無理やり言うことを聞かせるようなことをしたことを後悔していた。

 少年は、うつむく藍に近づき、右肩に右手を乗せると優しく言葉をかける。

 

 

「藍、帰ったらさ……無理しないような約束事、一緒に考えようね」

 

「……そうだな。私は本当に駄目だな、和友の気持ちを少しも理解できていない」

 

 

 藍は、一粒の涙をこぼし、涙を袖で拭き取って顔を上げる。顔を上げた視線の先には、優しそうにほほ笑む少年の顔があった。

 少年は、涙を流した後の残る藍に何も口にしなかった。気にしないで、泣かないでと、慰めの言葉を口にすることはなかった。ただ優しい顔をした少年がいた。

 藍は、少年のことをある程度理解した気になっていたが、それが気のせいであったのだと反省する。1日しかまだ経っていないのだ、分かった気になっていた方が間違っていいたのだと、気持ちを改めた。

 

 

「はぁ……和友にとって、いい方向に進むように色々考えてみたのだが……」

 

 

 揺さぶられた心が少年の手から伝わる暖かさで落ち着いていく。

 藍は、肩に置かれた少年の手の上に引き付けられるように自分の手を重ねた。

 

 

「私は昨日から何をやっているのだ……」

 

 

 藍の行動は昨日も今日も、少年を良い方向に良い方向に進ませようとしているのに空回りしてばかりである。少年にとって良い未来を描けるように、少年にとって一番苦しくない道を通らせるために行動してはいるが、お世辞にもあまり上手くいっているとは言えない。

 もし、上手くいっていないだけならば、悔しさもほどほどに済んだだろう。涙を流さない程度に我慢ができただろう。失敗しただけならば、次にどうすればいいかと考えればいいだけの話である。

 しかし、失敗して空回りした車輪を止め、メンテナンスをし、再出発をかけるのは藍ではなく少年だった。

 藍は、失敗するたびに少年自身に慰められるような、諭されるような状況になっていることが恥ずかしく、情けなさを感じていた。

 

 

「仕方ないんだと思うよ。僕が言うのもなんだけど、妖怪って人間の気持ちを考えて日々を過ごしているような生き物じゃないと思うし、人間同士だって相手の気持ちを理解できないんだから」

 

 

 少年は、情けなさそうに言う藍を慰め一呼吸入れ、言葉を並べる。

 

 

「ただ、言われたのが藍で良かったと思うよ。きっと藍じゃなかったら我慢できていないだろうから」

 

「……和友は、慰めるのが上手いな」

 

 

 藍は、慰めるのが上手いと思った。少年の心の中でさまよっていた時も、しっかりと芯を持って慰めてくれた、支えになってくれた。今だって、ただただ追い込むだけではなくフォローを入れてくれている。

 

 

(和友の心は、酷く温かい……)

 

 

 少年の言葉は、重みがあるというのだろうか、不思議と心にしみわたる。心に刻まれるように、まるで少年の心がそのまま伝わっているかのような錯覚を覚えるほどに、はっきりと少年の心を感じることができる。温かい気持ちがそのままの温度で伝わってくる。口にしている言葉が嘘じゃないと、本物なのだと聞かずとも感じ取ることができた。

 

 

「僕は、そういうのが上手くないと生きていけなかったから……」

 

 

 少年は、もとから慰めるのが上手かったわけではなかった。最初から誰かの気持ちをくみ取るのが上手かったわけではない。少年は、徐々に相手の気持ちを読み取るのが上手くなったのである。

 相手の気持ちを理解することは、少年が外の世界で生きていくために必要不可欠な技術なのだ。他人が何を考えているのかを把握することが上手く生きるために必要なことだったから、自然と上手くなったのである。

 

 

「みんなの作り出す普通という環境の中に僕はいる。僕がみんなのことを分からないと……僕はその環境の中で生きていけない。普通という流れから出たら、息ができなくなって死んでしまう」

 

「和友……」

 

 

 少年は、普通に生活することを目標に生きている。そのためには、他人の感情を読み取る必要がある。

 理解できなければ、普通の日常生活で他人に溶け込むことができなかった。普通の生活を送るためには、他の人の意志や心を誰よりも感知しなければならなかった。曖昧な認識では、ボロが出る可能性があった。

 みんなが悲しむ場面では、悲しむ必要がある。みんなが楽しんでいる場面では、楽しむ必要がある。普通と呼ばれるような生き方をするためには、周りの動きを読み取り行動するということが必要条件だった。

 少年が普通の生活を送るには、自分を一切見せることなく、普通の自分を見せつけるように行動することが求められていたのである。

 

 

「ううん、止めよう止めよう。もう、暗い話はお終いだ。藍の言う通り、僕は人を慰めるのが上手い人間なんだぞー」

 

「ふふっ……そうだな。暗い話ばかりでは、せっかく人里に来たのにもったいない。空も晴れ渡っているのだ。元気を出していこう」

 

 

 少年は、暗い話を吹き飛ばすように両手を上げてふざけたように振舞う。

 藍は、急に崩れた少年の投げやりな様子に一瞬心を奪われた。

 少年の様子を見ていると自然と笑みが浮かんでくる。これもまた少年の特徴ということか。

 少年の雰囲気は、周りへと容易に感染する。太陽のように人の心を突き動かす。

 藍は、先程の暗い表情がまるで存在しなかったかのように、明るい顔で前を向いた。

 

 

「さぁ、気持ちを切り替えいこー! まだまだやらなきゃいけないことがあるんだからね!」

 

「そうだな、次は和友の服を買う番だ」

 

 

 二人の次の目的地は服屋である。

 二人の進む足取りは、朝に空を見上げた天気と同じように人里に入った時と変わらないもの。

 重くなった足取りは、その姿を消していた。

 



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会話をした、心が弾けた

 少年と藍の二人は、重くなった雰囲気を置き去りにして次の目的地へと足を進める。進行方向に対して左を歩くのが藍であり、右を歩くのが少年である。

 二人が向かう次の目的地は、服屋である。人里で買い物をしていく中、様々なことがあり順調とは言い難いものの、人里に来た当初に立てた予定通りに進もうとしていた。

 現在の場所は、筆一本を出て150mほど進んだあたりである。

 

 

「これから服を買いに行くんだよね? ここから近いのかな?」

 

「ここから割と近い場所にある。見えるか? 向こうの方にあるのだが」

 

「……んー?」

 

「どうした? 見えないのか?」

 

 

 藍は、右腕を伸ばしながら指さして服屋がある場所を少年に教えた。少年は、藍が指さしている方向を見つめる。

 しかし、指の先には店や民家が並んでいるだけでどれを指さしているのか全く分からなかった。

 少年は、見ている角度が悪いのかなと考える。藍と同じ角度から見れば見えるのだろうと行動を開始し、指をさして歩く藍の隣にくっつくように近づき、角度の調整に入った。

 

 

「な、なんだ?」

 

「ちょっと、じっとしてて」

 

「お、おい、和友?」

 

 

 藍は、少年の行動に首を(かし)げる。少年と藍との距離はどんどん縮まり、その距離はやすやすとプライベートゾーンを打ち破って、さらになお短くなっていく。距離を詰めるだけだと思っていた少年との距離が予想以上に短くなる。藍の心臓は、少年との距離が身近くなるにつれて大きく鼓動した。

 少年は、藍の気も知らずに止まることなく藍にどんどん近づき、体が触れるところまで接近する。藍は、(はや)る気持ちを抑えられなくなり震える声で呟いた。

 

 

「ど、どうしたのだ?」

 

「ちょっとごめんね」

 

 

 少年は、一言告げるとくっ付くほどに近づけていた体をさらに重ねるように寄せる。

 藍は、超至近距離にまで距離を無くした少年に気が気じゃなくなっていた。

 

 

「和友っ……ち、近いぞ」

 

「鬱陶しいかな?」

 

「い、いや、そんなことはないのだが……」

 

「じゃあ、もうちょっと我慢してね。よっと……どれどれ?」

 

 

 少年は、藍の伸ばされた右腕をくぐりぬけて藍の正面に出る。ついに藍と重なるように縦に並ぶ形になった。

 正面から見るとちょうど藍が少年に後ろから抱きついているような形になっている。朝に玄関先で少年に後ろから抱きついた時と同じような体勢だった。

 

 

「ん~」

 

「な、な……」

 

 

 藍は、あまりの恥ずかしさに顔を真っ赤にする。少年と密着するような距離に、心臓の鼓動が大きくなり、速くなる。少年に聞こえているのではないかと思うぐらいにうるさく鳴り響く。

 

 

(も、もしかして私に甘えてきているのか?)

 

 

 藍は、少年の突然の行動に恥ずかしさと共に少しだけ期待を抱えた。自分が少年のことを大事に想い頼っている状況と同じで、少年が甘えてきているのではないかと、心を預けてくれているのではないかと、少しの期待を抱えた。

 

 

(抱きしめてやりたい……)

 

 

 藍は、無性に少年を背中から抱きしめたい気持ちにかられる。少年は、すぐ目の前にいて今すぐにでも抱きしめることができる位置にいる。

 藍は、そっと少年を抱きしめようとしたところで周りから向けられている視線を感じ、自分の行動を制止した。

 

 

(だが、ここは人の目が多すぎる。いくら何でもこんな公衆の面前で抱きつくなんて、私には恥ずかしすぎてできないっ!)

 

 

 実際に抱きしめた朝の時と今とでは、明らかに状況が違う。

 ここは、マヨヒガの中ではなく人里の通りのど真ん中である。TPOがなっていない。マヨヒガで甘えてくる分には受け止めるような余裕があるが、人里でそのようなことができるほど、心に余裕はなかった。

 ただでさえ人里にやってきている妖怪ということで注目を集める藍に、さらに目線が集まっている。緊張のあまりそう思ってしまっているのかもしれないが、視線がいつもより多い気がしていた。

 藍は、追い込まれていく状況に顔を赤くして口をパクパクさせると、少し遅れて声を発した。

 

 

「か、和友っ!? いきなり何をするのだ?」

 

「どうしたの? 僕は特に何もしてないよ?」

 

「いや、この状況が……」

 

「ん~~?」

 

 

 藍の眼には、抱きしめられるような形になっているのにも関わらず、特に様子の変わらない少年の後ろ姿が映っている。藍の気も知らないで、何も変わらない平常心の少年が映っていた。

 少年は、藍の指し示した方角を再び細めで見ると、藍と同じように指をさす。藍の伸ばした手と少年の伸ばした手が重なるように二人の目的地を指し示した。

 

 

「どうした? 同じ方向を指さして」

 

「こっち?」

 

 

 藍は、ほんのり赤くなった顔のまま少年の頭が傾くのを見つめる。

 少年は、指さした状態で首をひねり、できるだけ藍に向かって顔を向けた。とても困ったような顔が藍の視界に映った。

 藍は、そんな顔もできるのだなと微笑みながら少年が何をしようとしていたのか察した。

 

 

「はぁ、そういうことか……そうだな、和友が急に甘えてくるわけないか……」

 

 

 藍は、大きく息を吐いて体の中から空気と動揺を吐き出し、期待と恥ずかしさに揺らいだ心を落ち着ける。

 少年は、別に藍に対して甘えてきているわけではない。ただ、藍の指差している服屋がどこにあるのか確認したいだけなのだ。

 

 

「あれかな?」

 

「違う、それは茶屋だ。服屋は、その右側の店だよ」

 

 

 少年は、指さしている方角が合っているのか確認を取ったが、どうやら指さしている場所は狙った場所とは違っているようだった。

 藍は、目の前で歩いている少年の伸ばした右手を掴む。そして、少年の指がさしている位置を分かるか分からない程度に右側にずらした。

 

 

「ここなの?」

 

「そうだ」

 

 

 少年は、藍に動かされた自分の右手を確認する。目を凝らす、先程と同じように遠くを見つめる。

 遠くを見つめる少年の目は薄く細まり、ぱちぱちと(まぶた)が開いたり閉じたりしていた。

 

 

「この方角に服屋が……」

 

 

 少年は、遠くを見つめ、指さした先に服屋があるのかどうかを懸命に視認しようと必死になっていた。

 だが、暫くの間遠くを見つめて疲れてしまったようで伸ばしていた右腕を下げる。どうやら全く分からなかったようで、先程と同じように首を(かし)げていた。

 

 

「はぁ……僕には全く見えないや。僕もそこまで目が悪いわけじゃないんだけどな」

 

 

 少年には、先程より近づいている今となっても服屋の存在が確認できなかった。ただ、全く見えないというわけではなく、建物が建っているのはかろうじて視認できる。

 しかし、それは見えているとは言わない。区別ができなければ、服屋が見えているとは言わない。

 最初に、見えるか? と藍が少年に尋ねた時、少年には服屋など欠片も見えていなかった。

 少年があれかな? と尋ねた時に指をさすことができたのは、完全なる当てずっぽうで、ただ単に藍が示した方向に向かって指さしただけだった。

 

 

「妖怪と人間では、見える距離が違うのだろうな」

 

 

 藍は、少年が見えなかった理由を述べる。

 目で見える距離の違いは種族差によるものだ。

 妖怪と人間には、種族差と呼ばれる大きな差が存在する。力の大きさ、生命力、寿命、細かく言えば、藍の言ったような見える距離の違いまで、様々な部分で種族というものによる差が存在している。

 種族の差は、二人の間に埋まらないほどの大きな溝を作りだしている。人間と妖怪ではいうまでもなく、妖怪の中でも、鬼、天狗、河童といったように種族による違いというものが能力に大きな違いを生み出している。

 それぞれが、それぞれの特性を持ち合わせているのである。

 

 

「藍には、この指の先にある服屋がはっきり見えているんだよね?」

 

「そうだ。私の目には、はっきりと服屋が映し出されているよ」

 

 

 少年は確認するように藍にもう一度尋ねるが、返って来る答えは同じで、はっきりと見えていると告げられた。

 

 

「妖怪と人間って、どうしてこんなに見える距離が違うんだろうね。見た目はそこまで違わないのにさ」

 

「見た目も全然違うと思うぞ」

 

「僕には同じように見えるや。妖怪も人間も同じに見えるよ」

 

 

 藍は妖怪と人間をひとくくりにする少年にすぐさま突っ込みを入れたが、肝心の少年には人間と妖怪の違いが分からない様子だった。

 少年から見た妖怪の姿は、少年の知っている人間となんら変わらない。それは、尻尾の生えている藍にだって言えることである。少年には、紫はもちろんのこと、尻尾の生えている藍までも人間に見えている。

 妖怪の楽園である幻想郷で1日の間生活をした少年ではあるが、人間と妖怪との区別の仕方が全くついていなかった。

 

 

「どこが違うのか僕には、さっぱりだ」

 

 

 少年は、幻想郷に来て初めて妖怪という生き物を知った。

 少年の眼に映った妖怪は、今まで生活してきた中で見てきた心優しい人間と同じに見えている。何一つ変わっているところはない。

 妖怪には、特殊な能力があるじゃないか、空を飛べるじゃないかという人もいるかもしれないが、少年にとっては空を飛ぶことができるとか、スキマを作ることができるとか、人間ではおおよそできないことができるとか、そんなことは些細な違いである。

 大きい物差ししか持っていない少年は、何をもって妖怪というのか、何をもって妖怪と人間を判断するのか分からなかった。

 それを普通と判断するのか、異常と判断するのかは、持っている物差し(価値観)によって決まる。

 持っている物差しの長さと形状は、持っている人物によってまちまちである。

 普通というのは、自分が持っている物差しで測った値の結果である。

 異常というのは、自分の持っている物差しで測れない値の結果である。

 人によって持っている物差しが違うのだから、同じ長さを測ることはできない。

 1cmは2cmかもしれない、そんなあやふやなものが、価値観というものである。

 少年の物差しでは、妖怪と人間とでは違いなんてなかった。それが普通だった。それが、少年の価値観である。

 実際、人間と妖怪の区別が付いていない少年は、藍や紫を認識するために、人間を認識する場合と同様の方法を取って認識をしている。書き記すという行為によって識別を行っている。

 少年は幻想郷に来てから、紫や藍のことを妖怪扱いしたことは一度もない。話している時も、食事を取っている時も、飛んでいる時も、力を使っている時も偏見の目で見ることはなかった。

 少年にとっては、相手が妖怪だろうが人間だろうがどっちでもいいのだ。そんなことはどっちでも変わらない。もしも、藍が人間だとしても少年から見た藍は変わらないままであろう。

 大事なのは相手が何であるのかではない―――相手が誰であるかということ。相手が誰であるかが最も大事なことなのである。

 藍も紫も、そんな少年の偏見のない純粋な心に気を楽にしているし、心を開くことができている。特別視をされないということは、二人にとってそれだけの意味があることだった。

 

 

「まぁ、そんなのはどっちでもいいや。結局考えても答えなんて見つからないし、見つかったところで、何かが変わるわけでもない。僕は僕で、藍は藍なんだし」

 

「和友のそういうざっくりなところ結構好きだぞ。妖怪を特別扱いしない人間は酷く貴重だ。私にとっても、紫様にとっても、気が楽だからな」

 

「そういってもらえると助かるよ」

 

 

 少年は、人間と妖怪でどこが違うのか思考をした結果、終着地点であるどっちでもいいのか、という答えに辿り着いた。

 少年には、相手の立場で対応を変えるなんて器用なことはできない。例外としてあるといえば、先生と呼ばれる学校の教師、医者、警察などの制服を来ている人物に対しては、決まり事によって敬語を使う、指示に従うという区別をしている。

 そのように少年の中において決まり事で区別しているものは例外であるが、少年は基本的に差別をしない、区別もしない―――というかできない。

 少年が学校に通っている時もそうだった。少年は、学校に通っていて様々な人間と出会った。

 しかし、少年にとっては相手が大きかろうが小さかろうが、不細工だろうが可愛かろうがかっこよかろうが、そんなものは関係なかった。そのような区分は、少年の中に存在しないのだから。

 少年は、書き記す行為によって心の中に刻みこむことで何とか判別しているにすぎない。少年の視点は、常に曖昧で不確定で揺らいでいる。

 少年のどっちでもいいという結果は―――見る視点が定まらないことによる帰着だった。

 

 

「なんか話が逸れちゃったけど……とりあえず、茶屋の隣に服屋があるのは分かったよ」

 

 

 少年は、これから考えることもないであろう妖怪と人間で何が違うのかという答えを保留として話を変えた。

 

 

「話が変わるんだけど、どうして商店って隣接して建っているのかな? 僕の世界でも商店街があって店が立ち並んでいるけど、あれって理由があったりするの?」

 

 

 少年は、純粋に疑問に思ったことを藍に笑顔を向けて質問している。少年の様子は、まさに年頃の少年が好奇心であれこれ質問しているのと同じだった。

 少年は、目新しい物に触れて心を躍らせている、人里を思う存分満喫している。

 藍は、少年の楽しそうな顔を見ているだけで、朗らかな気持ちになった。

 

 

「和友、人里は楽しいか?」

 

「楽しいよ。新しいものがいっぱいあるからね」

 

 

 少年は、少しだけ前に走りだし振り向き、少年の顔が藍から見て取れるようになる。少年は、喜びをそのままに、後ろに歩きながら藍に満面の笑顔を向けた。

 

 

「藍は、楽しくないの?」

 

「いや、私も楽しいよ。こうやって誰かと人里を歩くのも久々なのだ。人里へ来るときはいつも一人だったからな」

 

 

 藍は、人里へ来てこれほどまでに楽しんだことがなかった。人里へ来るときはいつだって一人で、用事を完遂することで頭がいっぱいで、別のことなど考えたこともなかった。

 藍は、楽しんでいる少年につられるように、今までありきたりだった人里での買い物に楽しさを感じている。少年の楽しんでいる様子を見ていると、引きずられるように自分も楽しくなってくる。少年の振りまく笑顔が藍へと伝搬し、普段固くなっている藍の表情を柔らかくしてくれる。

 藍は、心の底から人里での買い物を楽しんでいた。

 

 

「いつも一人で買い物に来ていたの? 紫とは一緒に来たりとかしなかったの?」

 

「紫様は面倒くさがりな方だからな。人里に紫様が来るということは、それなりに影響があることなのだ」

 

 

 紫が人里へ来るということには色々と問題がある。幻想郷の管理人である八雲紫が人里に来るということがどういうことなのか想像すれば、分かってもらえるはずである。

 イメージ的には、国の王様が市民外に降り立つようなイメージをしてもらえばよい。もちろん種族の違いによる畏怖はあれども、大きくは違わないはずである。

 

 

「紫様は、人里の人間に群がられるのを嫌がられる。嫌がっている紫様を連れ出すわけにもいかないだろう」

 

 

 幻想郷を大きく変える力を持っている紫には、どうしても人々からの要望が飛び交ってしまう。人々からああして欲しい、もう少しこうならないかといったお願いをされることが多くなる。

 それは、紫が人里の人間から頼られているということを表しているのかもしれないし、頼ってくれる人々からの気持ちは紫からしても嫌なものではないとは思うが、買い物をする分には迷惑な話であり、答えられない要望を聞くのは気分がよくない。

 結局のところ人間に良かれと思うこと=妖怪にとって良くないことの構図になることが多いうえに、個人の意見を受け入れてしまえば、なし崩しに願いを聞き入れることに繋がってしまうため、お願いには答えられないのである。

 

 

「理由はそれだけではない。買い物に行こうにも、紫様が起きていなければ話にならないだろう? 安全の都合上、夜に買い物はできないからな。朝か昼に行くしかないのだが……起きておいでなければ連れていくことは不可能だ」

 

 

 実際のところ、藍が一人で行動しているのは買い物に限った話ではない。

 紫と藍では、生活のスタイルが違いすぎるため、ほとんどの場合において別々に行動をとることがほとんどだった。

 具体的には、紫の活動時間が完全に夜型なので、昼に動いている藍と一緒に行動する機会があまりなかった。藍が紫と一緒にいる時間というのは、主にお互いに起きている夜の時間帯だけである。

 少年は、藍の返答に素直に疑問に思う。寝ているのであれば、起こせばいいのである。

 

 

「そう言えば、紫ってずっと寝ているんだったね。紫を起こすっていうわけにはいかなかったの?」

 

「そんな畏れ多いことはできないよ。私と紫様の関係は、そんな親密な関係ではないのだ。思えば、前提条件として紫様と買い物に来て楽しいのかと問われたら頭を悩ませるところだな。息苦しくて耐えられないかもしれない。紫様も別に私と買い物をしたいなんて思っておられないだろう」

 

 

 藍は、少年の言葉に頬をかき、少し都合が悪そうな表情を作った。

 少年は、藍の言葉を聞いて意外そうな顔をする。昨日の様子しか知らない少年は、紫と藍はもっと仲が良く、言いたいことを言い合える仲だと思っていた。

 

 

「えっ、でも、昨日は結構気軽に喋っていたよね?」

 

「昨日は、その、なんというか……和友のことで色々あったからな」

 

 

 藍は、少年の質問にはっきりと答えることができずに歯切れを悪くしながら言葉を吐き出した。

 昨日は、確かに紫に対して言いたいことをバンバンと言えていたような気がする。

 会話の内容が少年に関わることだったからなのか、少年の心の中に入って1年の時間を過ごしたためにいつもの精神状態じゃ無かったからなのか、原因は定かではないが、何にせよ少年によってもたらされた変化であることは間違いが無く、少年が原因の一端を担っていたのは明白である。

 少年は、話しにくそうにしている藍に向かって、嬉しそうな顔で言った。

 

 

「まぁ、紫のことはどっちにしても、藍が楽しんでくれているのなら僕も嬉しいよ」

 

「ああ、今は和友がいるから一人じゃない。私も楽しませてもらっているよ」

 

「どこか行くときは、僕も誘ってくれていいからね。もちろん僕は、紫も一緒の方がいいけどさ」

 

 

 藍は、少年の物言いに嬉しくなった。

 少年は、ここにいない紫のことも忘れていない。少年の言うように3人でどこかに出かけるのもいいだろう。

 藍は、3人で出かけるイメージを浮かべる。藍と紫の2人だけだと息苦しくなる空気が一切見当たらない。少年がいることで一気に柔らかくなる。

 ああ、楽しそうだ。

 どこがいいだろうか。紫様のことを考えて、人が余りいない静かな場所が良いだろう。弁当を作って、皆で食事をしながらのんびりするのもいいかもしれない。

 いろんな話ができそうだ。いろんなことができそうだ。たくさん笑えそうだ。想像の中の自分は、常に笑っていた。紫様も笑顔を見せていた。その中心には、少年がいた。なんとも、楽しそうだった。少年を中心に笑顔の輪が広がっていた。

 藍は、頭の中に広がる想像に頬を緩ませた。

 

 

「そうだな。今度は3人でどこかに出かけられるといいな」

 

「うん! 楽しみだなぁ」

 

 

 少年は大きく頷き、再び前を向いて歩き始めた。

 藍は、笑顔であろう少年の後ろ姿を見つめる。

 

 

「誰かと一緒に何かをすることは、楽しいこと。本当にそのとおりだったのだな」

 

 

 藍は、いつも一人で人里を歩いていた。いつも一人で買い物に来ていた。

 だけども、現在は一人ではない―――藍の前には楽しそうにしている少年がいる。

 

 もう、一人ぼっちではなくなった。

 

 誰かと何かを一緒にすることは楽しいことである。

 藍は、よく言われている人間達の言葉が分かったような気がした。

 楽しさは、伝搬する。感情は―――伝搬するのである。

 内側にある明るい感情は、表情にも伝搬して自然と頬を緩ませる。本当に人を笑顔にするのが上手い子だ、藍は少年に対して優しい気持ちが沸き立つのを感じていた。

 

 

「あっ……」

 

 

 少年は、ふと足を止めて藍と歩幅を合わせ藍の隣に並走する。

 藍は、唐突に止まった少年の様子に質問を投げかけた。

 

 

「どうした?」

 

「そういえば、質問の答えを聞いていなかったね。それで、店が立ち並んでいる理由ってなんなのかな?」

 

「そう言えば説明していなかったな」

 

 

 少年は、先ほど話していた最初の話題をもう一度藍へと振った。確かに先程は、話がそれてしまい店が隣接することに関する話ができていなかった。

 

 

「店同士が近くに隣接しているのは、その方が便利だからだよ。人里では店同士で競合することがほとんどないからな。客を取り合うことはほとんどない」

 

 

 店が隣接している、それが人里の商店が上手くやれている理由の一つだった。

 商店は孤立しているよりも集まっている方が、都合がいいのである。

 人里には、商業区画が作られている。人里のある場所のある面積に商売人がこぞって集まっている。商業区のように売り場が一か所に集まるメリットは、集客能力の向上である。

 

 

「そんな安定した状態でついでにあれこれ買い物をできる状況が作り出されれば、ものが売れやすくなるのは自明の理だろう?」

 

 

 店が集まる利点は―――物が売れるということである。人里の人間は、商業区画に行けば欲しい物がほとんど見つかる。

 人々は、欲しい物を買うために商業地区に集まる。人が集まれば活気が出てくる。人は活気のあるところに集まる。活気があるところに来て気持ちが上がれば、いらないものを買う。来ただけで買うつもりのない人も欲しい物が見つかるかもしれない。

 人や物が集まるということは、物が売れるという相乗効果を生み出すのである。

 

 

「それってある意味、独占しているってことだよね。商売やると一生生きていけそうな気がするよ」

 

「そうなったら、誰かが同じような店を構えるのではないか? 儲かると分かれば手を出したくなるのが商人の気質だ。きっとそんなに上手くいきはしない」

 

 

 少年の意見は、非常に的を射ているように感じられる。ほとんど競合しないということは、独占しているのと変わらない。独占できてしまえば、利益を確保するのは容易である。

 しかし現実は、商売をやれば生きていけるというほど甘くはない。人がいて金が入れば、必ず競争が存在する。競争があまり存在しないといえども、需要があれば供給に走る人物は必ず出てくる。そうなれば、数少ない競合が始まる。客は、一定数しか存在しないのだから取り合いが発生するのだ。

 その中で勝つために皆、身を削っている。誰には負けたくない。あそこの店には負けたくないといった競争心が抗争を生みだす。その結果、強者が勝ち残るのみである。

 戦いで勝ったものが市場を独占する。今の状態で落ち着いているのは、技術が卓越したものだけが残っている現状が存在するからに他ならなかった。

 

 

「それに、先程の店主のようにプロ意識の高い人物が店を構えているからこそ物が売れるのだ。儲けばかりを気にして商売をやると長続きしないものだよ」

 

 

 客は、複数の店があった時、どの店を選ぶだろうか。

 幻想郷の人里では、プロ意識の高い店へと需要が集まる傾向がある。プロ意識の高いところほど、安全で快適で便利で長持ちするものを作っているところが多いからである。

 優れた物は勝ち残り、劣っている物は淘汰される。儲けを第一にして質を疎かにしてしまえば、一気に負けへと天秤が傾くだろう。幻想郷の人々は、そこまで頭が悪いわけではない。

 少年は、藍の説明にうんうんと頷き、ぼそっと声を漏らした。

 

 

「結局、何事もほどほどにってことなのかな」

 

「ふふ、はははっ。それを和友が言うのか? 和友は、ほどほどなんて言葉とは無縁だと思っていたがな」

 

 

 藍は、少年の口から出た予想外の言葉に思わず笑ってしまった。ほどほどなんて言葉は、少年から最も程遠い言葉である。

 藍は、少年がほどほどという言葉を口にできるのであれば、昨日血を流すほど努力をせず、途中で止めることができたのではないかと思えて仕方がなかった。

 少年は、それこそほどほどに努力すればよかったのである。おそらく少年がほどほどと言ったのが今ではなく昨日であれば、決して笑うことはなかったであろう。昨日ならば絶対に激怒していたはずだ。

 藍は、昨日の少年を知って―――今日の少年を笑った。

 少年は、藍に笑われて怒った表情を浮かべ、口をとがらせる。

 

 

「あーー、そういうこと言っちゃうかな」

 

「でも、その通りだろう?」

 

「……まぁ、反論のしようもないけどさ」

 

 

 少年の怒った表情は一瞬で瓦解し、降参の白旗を振った。参りましたと言わんばかりに掌をひらひらと振っている。

 藍は、少年の様子を見てさらに笑みを深めた。

 

 

「ふふふっ」

 

「ほどほどって、そんなに僕が言うとおかしいの?」

 

「おかしいさ、おかしくて堪らない。昨日の自分を思い返してみればいい。どこからそんな言葉が出てきたのかと疑うぞ」

 

 

 藍は、新しい感覚に笑いがこみあげて仕方がなかった。

 

 

「ん……難しいなぁ。だったら、僕はどこでほどほどっていう言葉を使えばいいのかな? 藍は分かる?」

 

「私は、使わないことをお勧めする。和友に何よりも似合わない言葉だ。そうだな、和友の服を伸ばしたような―――丈が合っていないと言うのだろうか」

 

「身の丈に余る言葉ってこと? 僕がまだ子供だから、ほどほどっていう言葉は相応しくないってことなのかな?」

 

「子供だからか、そうかもしれないが―――きっと和友には、一生に合わない言葉だよ。いつになっても和友には、似合わないはずだ。似合っている姿が想像できないからな」

 

「僕が大人になれないってこと? 僕だって大人になるんだよ? 後、10年も経てば立派な大人になれるんだよ。今は、藍の背丈に全然届かないけど……」

 

 

 会話がぽんぽんとリズムよく跳ねている。

 口が自然と言葉を繋いでいく。

 どうも噛み合っていないが、なんだか面白い。

 今までしたことのない言葉のキャッチボールに心がはしゃいでいる。

 藍は、そっと少年の頭に手を置き撫でた。

 

 

「ああ、期待しているさ。立派な大人になるんだぞ」

 

「んー、なんだか誤魔化されている気がするなぁ」

 

「ふふっ、本当に面白いなぁ」

 

 

 藍は、笑みを隠さずに笑う。今までに経験したことのない想いに心を躍らせる。

 藍は、基本的に紫と話すことが多く、他の人としゃべる機会なんてほとんどなかった。

 藍が他の人間と会話をしていない原因は、藍自身が会話を楽しむような性格をしていなかったのが最も大きかった。

 話をしたとしても事務的な話をすることが多く、誰かと話すときは目的を話して会話が終わるのが常である。世間話に花を咲かせることはほとんどなく、藍にとっての会話というのは紫との会話が全てだった。

 他の人としゃべる機会が少なかったのは、単に藍にとって紫と話すだけでいっぱいいっぱいだったからかもしれない。紫が良くも悪くもおしゃべりで、会話に事欠かさなかったというも原因の一端を担っているだろう。

 しかし、紫との会話といっても、紫と藍は対等な関係ではない。

 藍は、紫にいいように言われることが多く、紫の上げ足を取れた試しなんて全くなかったといってよかった。何を言っても藍の方が上手く丸めこまれる、それが藍と紫の会話の全てだった。紫との会話に不満を持っているというわけではなかったが、いささか楽しみに欠けていたといえるだろう。

 そんな味気ない会話とは全然違う。心が嬉しがっている、面白がっている。

 自分がこれほどまでに饒舌だったのかと、新しい自分を発見した。数千年もかかって見つけたもう一人の自分の姿だった。

 

 

「僕は、なんだか丸め込まれているみたいで、複雑」

 

「ははっ、それは悪いことをしたな」

 

 

 質問が飛び、それに答える。

 感情を言葉に乗せて伝えあう。

 時にふざけ合い、弄るようにして相手の反応を楽しむ。

 紫が自分を弄って楽しそうにしている気持ちが少しだけ分かった気がした。

 

 

「すぐに大人になって、ほどほどっていう言葉が言えるようになるんだからね。笑われないようになるんだからね!」

 

「ふふっ、ああ、分かっているさ。ふふふ、はははっ!」

 

 

 藍は、どこかの笑いのつぼに入ってしまったようで腹部を抑えて笑いを堪えている。

 少年は、藍の笑いを堪える姿を見てさすがに笑いすぎだと思い、藍の見上げるようにして覗きこんだ。

 

 

「ねぇ、ちょっと笑いすぎじゃないかなっ!?」

 

「はははははっ!!」

 

 

 堪えていた藍の感情は、少年の言葉に後押しされるように口から吹き出す。

 藍は、少年との新鮮なやり取りに笑いが絶えなかった。

 

 

 少年と藍は楽しく人里を歩き、濃い時間を過ごしていく。

 楽しい時間は―――まだ終わらない。



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好きな色、気を遣う少年

買い物の話しは、これにて終了です。服屋に来た二人の話になります。


 少年と藍の二人は、楽しく会話をしながら服屋へと向かっていた。

 

 

「いろんな店があるんだね」

 

 

 ここは、ちょうど人里の商業特区の中心である。商業特区には、文房具を売っている店、和傘を売っている店、服を売っている店、他にも様々な店があった。

 少年は、あちこちの商店に目をやり、藍に話を振っていく。商店には、外の世界ではもう見られなくなっている珍しい物が売られている。少年は、知らない世界が広がりを見せている光景に目を輝かせ、好奇心を躍らせていた。

 

 

「あっ、あれ! あれは何? あ、あっちのも初めて見た!」

 

「和友、あんまりはしゃぐな。ちゃんと答えてやるから」

 

 

 幻想郷は、忘れ去られた物がたどり着く場所である。当然、売られているものも時代とともに忘れ去られていった物ばかりだ。古さも極まれば、新しい物と変わらない。少年は、古さの中に新しさを見出していた。

 少年と藍の二人は、目的地である服屋へと歩みを進めながら会話に花を咲かせる。楽しい流れを決して絶やすことなく、楽しみながら前へと進み続けた。

 服屋は―――少年にも見える所まで近づいてきている。

 藍は、少年が見えるだろう位置で指をさして店の場所を示した。

 

 

「あれが服屋だ」

 

「あれか、この距離ならさすがに見えるね」

 

 

 

 ――日和日(ひよりび)――

 

 店の正面には、日和日という名前が掲げられていた。

 どこからとった名前なのだろうか。

 少年は、店の名前の由来を考えながら藍の後ろに追随する。藍は、足を止めることなく店の中へと足を進めた。

 少年は、藍が店の中へ入っていくのを見て藍の背中にくっつくように店の中に入り込む。

 

 

「ここが、服屋さん……?」

 

 

 少年の足が店の中に入ったところで止まった。

 日和日という店の中は、少年の想像していた服屋と大きく異なっていた。

 少年は、店の中を見て不思議に思う。少年が服屋と思って入った店の中には、服屋としてあるべきものがなかった。巻かれた布の束だけで服が一着も置いていなかったのである。

 

 

「布しか置いていないんだけど……」

 

「くくっ」

 

 

 

 藍は、少年のきょとんとした様子に満足げな様子でほんのりと笑う。まさに、してやったりといった表情をして、笑みを浮かべたまま店に関する情報を開示した。

 

 

「布が置いてあって当然だ、ここは生地屋だからな」

 

「……藍、僕を騙したんだね」

 

 

 少年は、不機嫌な表情で藍を問い詰めるように告げた。

 騙したといえば、その通りだろう。服を買いに行くという言葉は、外の世界においては既製品を買いに行くことを指す言葉である。もちろんそのことを藍は知っているし、自分が少年に対して意地の悪いことをしているということも自覚していた。

 それでも―――藍の心にあったのは、悪戯心を満たした喜びにも似た悦びだけだった。

 藍は、不機嫌な少年の反応を面白がり笑いながら言葉を返す。

 

 

「ふふふっ、騙したなんて人聞きの悪いことは言わないでくれ。布だって、和友の服になることには変わりないだろう?」

 

「まぁ、確かに服は布でできているけどさ……」

 

「幻想郷で服を買うと言ったら、服を作るための布を買うということなのだ」

 

「知らないよ、そんなの……」

 

 

 少年は、藍の屁理屈に押し黙る。外の世界では服を買う=完成された衣服を買うということになるが、幻想郷において服を買うという意味は布を買うことと同義である。

 

 

「ははっ、和友は本当に面白い奴だな。会話がこんなに楽しいとは……ふふっ」

 

 

 藍は、少年の反応にくつくつと笑う。表情を隠すことなく、少年に見せつけるように笑った。

 会話というアクションが藍の心を満たしている。会話がもたらしているのは、これまで幻想郷で一人きりの生活していた時には決して味わえなかった気持ちである。

 藍は、誰かと会話をすることの楽しさを知り、少年との会話に味をしめていた。

 

 

「どうして、今まで会話をしようとしなかったのだろうか。こんなにも面白いものだとは思ってもみなかったな」

 

 

 藍は、少年との会話を楽しむと同時に、今の自分が昔の自分と明らかに変化していることに気付いた。

 自分の中の変化を意識すると、なおさら笑みが深まる。何故だか分からないが、楽しさが溢れ出してくる。いい方向へ進んでいるという意識が心臓を高鳴らせていた。

 

 

「そうか……」

 

 

 藍は、口元にそっと手を当てた。口角があがっているのが分かる。

 藍は、自分の顔が笑顔でいるのを把握すると、ある人物が今の自分と同じように口角を上げていた表情をしていたことを思い出した。

 

 

「紫様がいつも楽しそうにしているのはこういうことだったのだな」

 

 

 藍は、紫が自身を弄んで笑っている気持ちが完全に理解できた。いつも、自分を言いくるめて笑顔を笑っている意味を把握した。

 藍は、初めて少しだけ主である紫のことが身近に感じられた。

 

 

「うーん、もういいよっ」

 

「ふふっ……すまなかった。私が悪かったよ。そう拗ねるな」

 

「拗ねてない」

 

 

 少年は、どこか腑に落ちない顔をして店内を見て回り始める。どうやら、弄りすぎて拗ねてしまったようである。

 藍は、少年のそっぽを向くような様子に再びくつくつと笑う。

 少年は、目の端で捉えた藍の笑う様子につられてほんのり笑った。

 

 

「生地屋さんか、初めて来たなぁ」

 

「外の世界には生地屋が無いのか?」

 

「無いのかって聞かれると分からないけど、僕は少なくとも見たことないかな」

 

 

 少年は、店内を回りながら置かれている布を見つめる。藍の言葉の言う通り、少年と藍がやってきたのは服屋ではなく生地屋である。生地屋には当然服など売っておらず、売っているのは布だけだ。

 外の世界には、どのぐらいの生地屋さんが残っているだろうか。着物屋さんならば、というところが限界ではないだろうか。

 現代の服は、会社が糸を作り出し、生地にまで仕立てあげる。それをデザイナーがデザインすることで服ができている。そのため、生地屋というもので生地を売っているところはもうほとんどないはずである。

 

 

「へぇ、いろんなものが置いてあるんだね。色もバラバラ、触り心地もバラバラ」

 

 

 少年は、店内に並んでいる様々な材質、質感、色彩を兼ね備えている布を眺める。

 店内を見回してみれば、壁にも布が立てかけられていることが分かる。店の中のどこを見ても、あるのは間違いなく、服ではなく布である。

 少年は、周りを見渡しながら不思議そうな顔を浮かべる。

 

 

「藍、ここには布しか置いてないけど、服ってどうするの?」

 

 

 少年は、服を買いに来たのであって布を買いに来たわけではないのだ。

 生地屋に来たことがない少年は、当然のように生地屋についての知識を持ち合わせていない。布だけでどうするというのか、布を巻いて過ごすのか、生地屋を知らない少年からの服はどうするの? という疑問はもっともなものだった。

 

 

「店の人が作ってくれるのかな?」

 

「もちろん私が作る。期待して待っているといい」

 

「えっ! 藍は服を作ることができるの!?」

 

 

 無知な少年の疑問に対して、藍の口から意外な言葉が飛んできた。

 少年は、藍の予想外の言葉に驚きを隠せず、表情を崩す。

 

 

「服を作るのってとっても難しいことじゃないの? 僕、一度も服を作っている人を見たことがないんだけど」

 

 

 服を作ることは非常に難しい。作ったことがないから判断できないが、作ったことがないからこそ難しいと思っていた。

 少年の服を作ることに対する認識は、専門職で簡単に手を出せるものではなく、一握りの人にしかできないというものである。

 これまで服を作っている人を見たことがなかったというのも、服を作ることに対して難しいという印象を持つ原因となっていた。

 きっと一般の人も同じことを思っているのではないだろうか。外の世界の人間ならば、きっと少年と同じ共通の認識を持っているはずである。

 もちろん簡単なところの話をすれば、小学校で行われる家庭科でやった裁縫に関しては理解している。どうやって服を作るのかという部分に関しての知識は持ち合わせている。

 しかし、服屋で売られているような品物というのは、家庭科で行っているようなエプロンづくりとはわけが違う。

 人々が着る服というのは、専門の人が作るものであって一般の人が軽々しく作ることができるものではない。それが少年の常識という名の普通の考えだった。

 だが、藍の口から出てきた言葉は、そんな少年の常識を打ち崩すものだった。

 

 

「幻想郷では、自分で服を作るのは割と一般的だぞ? 幻想郷には手先が器用な人間が多いからな。作ろうと思えば作れる人間はとても多い。何より子供の時に、作り方を親から学ぶものだからな」

 

「へぇ、そうなんだ」

 

 

 外の世界で生きてきた少年は、藍の言葉に衝撃を受けた。藍は服が作れる人で、しかも―――幻想郷の人間は一般的に服を作ることができるという。

 

 

(ああ、だからここまでずっと服屋さんがなかったんだ)

 

 

 少年は、一般の人が服を作ることができるという事実を知って、頭の中にある予測を立てた。

 それは、幻想郷にはもしかしたら服屋というものが無いのかもしれないという予測である。

 少年は、生地屋にたどり着くまでに服屋を一度も見かけなかった。見かけなかったから服を買う場所まで寄り道することなく一直線に来た。見かけていたら、きっとより道をしていることだろう。少なくとも、服屋を目標にして歩いて来た少年が何も言わないということは無いはずである。

 ただ、それはもちろん少年と藍が歩いて来た通りに無かった可能性もあるし、少年が見逃しただけかもしれない。

 だが―――数が少ないと言うのは間違いがなかった。商業区画を進んできて一つも目につかないというのはさすがに異常である。

 

 

「それに、そうでなくては生地屋はやっていけないだろう?」

 

「それもそうだね」

 

 

 少年は、藍の言葉に納得した。

 幻想郷に服を作れる人物が少なければ、生地屋は酷く生き辛くなってしまう。服屋に寄生して生きて行く道しか残らなくなってしまう。服屋が潰れれば、心中することになる。

 少年は、藍の言葉を飲み込みながらさらに情報を得るために藍へと質問をぶつけた。

 

 

「じゃあ、幻想郷に服屋はないのかな?」

 

「服を売っている店はあるにはあるが、売っているのは行事用のものだけだ。結婚式や、外の世界の服、特殊な服が売られているだけ、一般に着る服とは異なっている」

 

「なるほど、なるほど」

 

 

 事実としては―――幻想郷に服屋は存在する。

 しかし、それはファッションとして売られているだけのようである。行事で使われるような特殊な衣服だけが売られているだけで、あくまでも日常生活で着る物は自分で作るのが主流のようだった。

 

 

「ねぇ、藍」

 

「どうした?」

 

「ほ、本当に? 本当に藍が僕の服を作ってくれるのっ?」

 

 

 少年は、目を輝かせて藍を見上げる。服を作ってくれるということがよほど嬉しかったようで、期待に胸を膨らませていることが目から伝わってきた。

 藍は、見上げる少年の頭に手を置き、頭を撫でる。

 少年は、気持ち良さそうに目を細めた。

 

 

「ん」

 

「なんだ、私の言葉を疑っているのか? 心配するな、とびっきり似合うのを作ってやる」

 

 

 藍は、少年の期待に応えるようにしっかりとした言葉で少年に告げた。

 少年は、自身の服を作ってやるという藍の言葉に嬉しくなり、藍のサプライズに心からのお礼の言葉を口にした。

 

 

「ありがとう。嬉しいよ」

 

「お礼は服が出来あがってからもう一度聞くことにする。その時に、もう一度言ってくれ」

 

「了解だよ! それにしても、藍が服を作ってくれるなんて思いもしなかったなぁ!」

 

 

 少年は、嬉しそうに、楽しそうに、新しいおもちゃを与えられた子供のように笑う。

 藍は、嬉しそうに喜んでいる少年に聞こえないほど小さい声で呟いた。

 

 

「はは、私も欲張りになったものだな……」

 

 

 随分と欲張りになったものである。今まで主である紫に対しても何も求めてこなかった藍が、少年からのお礼を求めている。見返りなんて期待したことのなかった藍が、施しに対する返しを欲している。

 藍は、昔より少しばかり欲張りになった自分に苦笑した。服ができあがった際にお礼をもう一度くれと催促をしている自分の存在に思わず笑った。そんな新しく出てきた自分の一面を受け入れ、微笑んだ。

 

 

「心の底から言葉がこみ上げてくるような、とびっきりのやつを期待しているからね」

 

「ああ、言わせてみせるさ」

 

 

 少年は喜ばせる自信のある藍に負けじとハードルを上げ、藍は少年と同じような笑みを浮かべる。両者の中で、ライバル意識のような対抗意識が芽を出していた。

 

 

「ふーん、ふふふーん」

 

 

 少年は、店内をぐるぐると回り出す。初めて見る物に興味津々という様子で、落ち着きを見せず楽しそうに目を配っている。

 藍もそんな少年を見て、少年に似合う服を探すために店内を物色し始めた。

 

 

「ふむ、どれが一番和友に似合うのか……」

 

 

 藍は、動き回る少年の姿をちらちらと見ながら、少年に似合いそうな布を選別する。

 布の種類は膨大であり、様々な組み合わせが考えられる。布には、色、材質、質感、強度、柔軟性、様々なパラメーターがあり、組み合わせはそれこそ無限大に考えられた。

 藍は店内を歩き回り、一番少年似合っている布を探していく。着た時に一番違和感のないもの。一番かっこよく見えるもの。一番栄えて見えるもの。藍の頭の中で新しい服を着た少年が躍る。

 藍は、あるところで動かしていた足を止めて、壁にかけられている一つの布を取ると、少年を呼んだ。

 

 

「和友、来てくれ」

 

「いいのが見つかったの?」

 

 

 少年は、藍に呼ばれて側に寄った。

 

 

「これなんかどうだろうか?」

 

「ん、どう?」

 

 

 藍は近づいてきた少年に自身の選んだ布をあてがう。少年は、布に合わせるように若干胸を張った。

 どうしてだろうか、あてがってみるとなんだか違う気がする。どうも、少年の性質を上手く引き出せていないように感じる。

 藍は、暫く眺めると少年と布を見比べて首を振った。どうやら、少年と合っていなかったようである。

 

 

「ちょっとイメージと違うな」

 

「そっか、じゃあ次だね」

 

 

 藍は、次々と少年に対して合うと思う布をあてがい検証を行う。無限にある中から選択し、少年と見比べる。

 

 

「あっ……」

 

 

 藍は、少年に合う布を探している途中であることに気付き、店内のあるところで唐突に動きを止めた。

 

 

「和友のイメージがつかめていないのに、和友に合う服など分かるわけがないではないか」

 

 

 藍は、自分が少年に合った布を選ぶことができていない理由を悟った。

 少年に合った服を選ぶという行為は、少年のイメージに合った服を選ぶという行為である。あくまでもイメージに合わせる形になる。

 だが、肝心の少年のイメージが昨日の今日ということもあって的確に把握できていなかった、掴みきれていなかった。だから、少年に対してこの色が似合うというような感覚は基本的に無くて当然で、見つからないのも当然で―――結局藍の主観で選んでいる形になっているのだ。

 藍は、少年にはこんな色が似合うのではないかと自身で考えて、自分だけで布を選んでいるのだと気付いた。藍がしているのは、自分の好きな色を、気になる布を選んでいるだけである。

 

 

「これでは、私の好みを選んでいるのと変わらない」

 

 

 今日人里に買い物に来たのは、少年の服を買うためである。断じて藍が会話を楽しむためでも、藍が欲しい服を買うためでもない。

 藍は、少年の服を買うという行為の中に肝心の‘少年の意志’がちっとも含まれていないことに気付いた。

 藍は、昨日と同じように少年の意見を聞くことなく、押しつけるようにして服を選んでしまっている。そのことが、藍の心に黒い影をつけた。

 

 

 

「今日は、和友の服を買いに来ているのだ。和友と買い物に来ているのだ。私だけが決めていいはずがないのに。また私は、和友の意志をないがしろにするところだった……」

 

「何か言った?」

 

「いや、なんでもない」

 

 

 藍は、少年に向き直ると布に対して少年の意見を尋ねる。今度こそ、少年の意見を入れて布の選別を行おうと行動を開始した。

 

 

「和友は、好きな色とかあるか?」

 

「あっ、ううん……」

 

 

 少年は、何か答えようとして首を振り、藍の質問に悩んでいるようなしぐさを見せた。

 

 

「んーーっと、そうだなぁ……」

 

「どうした? 悩むほどのことではないだろう?」

 

 

 少年は、好きな色について悩んでいるようだった。

 藍は、なぜそれほどに少年が頭を悩ませているのか分からなかった。少年に聞いているのは、好きな色である、何も悩むような話ではない。

 少年は、暫く悩んだ後、何か思いついたような表情をする。どうやら答えが決まったようである。

 少年は、期待する藍の予想の斜め上を行くように、右手の人差し指を天上へと向けて伸ばし、口を開いた。

 

 

「さて、問題です。僕の好きな色はなんでしょう?」

 

 

 少年は、自分の好きな色について悩んだ末に問題にしたようである。

 藍は、少年からの予想外の問題提起にちょっとした驚き感じつつ、少年からの問題に回答した。

 

 

「唐突に問題が来たな。そうだな、青色か?」

 

「その心は?」

 

 

 少年は、藍の回答に対して即座に合いの手を出す。特に不思議がることもなく、特段表情を変えることなく、藍の答えである青色という回答に至った理由を尋ねた。

 

 

 

 

 

「よく空を見ているから」

 

 

 藍の答えは、とても簡素なものだった。

 

 藍が少年の好きな色が青だと想像したのは、少年がよく空を見上げているのを知っていたからというもの。空が好きならば青色が好きなのではないか、という単純な思考回路から得られた回答だった。

 他に、何も思いつかなかったから、という消去法の結果というのもある。先程も言ったが、藍はまだ少年のイメージがはっきりしていない。心の中の無秩序な光景を見てしまったからなのか、ふんわりと曖昧で明確なイメージがなかったため、少年と関連付く色が青色以外に思いつかなかっただけというのも理由としてあった。

 

 

「僕って、そんなに空を見上げている?」

 

「よく見上げていると思うぞ。無意識だったのかもしれないがな」

 

「全く自覚が無かったよ。へぇ。僕、空を見ていたんだ」

 

 

 少年が疑問に思っていようが、意識して見上げていなかろうが、藍は少年が空を見上げているのを何度も見ている。少年が幻想郷に来てから幾度となく空を見上げている光景を見ている。まるで引き付けられるように空を見ている姿を目撃している。今日の朝ご飯を食べた後、筆一本の店の外で待っている時、少なくとも2回は見上げている。

 少年は、他にも藍の知らないところで様々なところで空を見上げていることだろう。そのぐらいには、空に吸い込まれるように眺めているとは思った。

 

 

「話がそれてしまったな」

 

 

 藍は、そこまで少年と話をしていて話の論点が変わっていることに気付いた。好きな色について少年に質問したものの、少年からまだ好きな色を答えてもらっていない。

 藍は、自分の答えである青色が少年の好きな色で合っているのかの確認を取ろうとした。

 

 

「それで、和友の好きな色は青色で合っているのか?」

 

「……僕、実は好きな色がないんだよね」

 

「どういうことだ? それでは問題になっていないのではないか?」

 

 

 藍は、少年の言葉に違和感を覚えた。

 それはそうである。少年に好きな色が無いというならば、好きな色はなんでしょう? という問題は、もはや問題ではなくなる。

 答えの無い問題は、問題ではない。答えのない問題は、確率や予測の話になってしまう。答えとして「答えは存在しない」という問題であると無理矢理に取れなくはないが、答えの無い問題を出すのは嫌がらせ以外の何物でもないだろう。

 少年は、藍に対して答えの無い質問を振ったことを謝罪した。

 

 

「ごめんなさい、僕には好きな色が無いから、何て答えればいいのか分からなくてさ」

 

 

 少年には、好きな色について答え辛い理由があった。好きな色というのは、他の色との差別化を図ることで生まれる。差別化をするということは―――区別をする必要があるということである。

 

 

「好きな色が無いなんて、なんだかおかしいし……おかしいと思われるのは、やっぱり嫌だしさ。それで、好きな色が無いって言い出しにくくて」

 

 

 好きな色が無いのならば、無かったと答えればいいのかもしれないが、好きな色が無いっていうのは人間としてどうなのだろうか。普通であればどうなのだろうか、普通であれば―――好きな色がないなんて答える人間はそうはいない。

 少年は、そう考えてしまう人間で、普通を求めている人間である。

 少年は、普通ではないと認識されることに対する恐怖心があった、異常とみられることに対する危機感を持ち合わせていた。それはもはや体に染みついた癖と同じで、普通に生きるという決まり事が深く根ざしていたために起こる拒絶反応に似たものである。

 もしも、相手が全てを知っている少年の両親であったのならば、少年は好きな色が無いということを素直に打ち明けただろう。

 確かに―――家族に対してならば、少年の異常性を知っている相手にならば、嘘をつく必要性はまるでない。好きな色が無いなど―――それこそ今さらな話である。

 藍は、少年の異常性を知っていると言っても、少年から完全に家族として認識されているわけではなかった。

 まだ、少年と藍が出会って一日しか経っていないのだ。少年の中の藍の認識が家族まで至っていないことは、仕方のないことのように思えた。

 

 

「でも、下手に嘘をつくのも変でしょ? 幻想郷に連れてこられる前は、友達とかに好きな色を聞かれたら青色って答えていたんだけど、藍にそんな嘘ついても意味がないと思って……どうしたらいいか分からなくて……」

 

 

 少年は、家族として暮らしていくことになる藍に対して、どうでもいい嘘をつくのが嫌だった。どうでもいい嘘をついても意味がないと思っていた。

 

 

「藍は、僕のこと知っているんだから、素直に話せばいいんだけど……でも、やっぱり、思うところがあって……なんだか怖くて……」

 

 

 藍は、少年の異常性をすでに知っていて、どのような人間なのか大体理解している。少年の両親と同じで少年のことを色々知っている。

 少年のことを知っている人間であれば、少年がどっちなのかという疑問に対してはっきりと断言することは、決まり事に当たるものか、それに準ずるものに触れている可能性があると考えるだろう。少年を知っている人間から見ると、少年が好きな物を断言してしまえば、何かあったのかと勘ぐってしまう可能性があるのだ。

 少年は、藍にそんな無意味な気をつかわせるのが嫌だった。

 藍は、少年の告白を聞いて複雑な表情を浮かべ、諭すように少年に語り掛ける。

 

 

「和友、私に気を使わないでくれ。私は、何も気にしたりしないぞ。和友のことをおかしなものを見る目で見たりしない」

 

 

 藍は、少年が藍に気をつかって欲しくないのと同様に、少年に気をつかわれるのが嫌だった。ただでさえ多くの問題や異常性を抱えている少年に、これ以上気をつかわせたくなかった。

 二人の気持ちは―――同じところで一致していた。

 

 

「無いのなら無いと言ってくれればいい」

 

 

 少年は、藍の言葉に笑顔になる。全てを許されたような表情で落ち込んでいた様子を一変させて嬉しそうに告げた。

 

 

「うん、分かったよ。藍には、できるだけ気を使わないようにする」

 

「ああ……それでいい、それがいいのだ」

 

 

 藍は、少年の表情に朗らかな笑みを浮かべながら納得した様子で一度だけ大きく頷いた。

 

 

 

 

 

 そんな二人だけの世界に―――店の奥から声が割り込んでくる。

 

 

「まさか、八雲の従者の趣味がそんなのだったとはねぇ……」

 

「えっ?」

 

 

 二人は、声の主へと視線を向ける。視線の先には、一人のおばあさんがいた。

 少年は、こんな人いただろうかと不思議そうな顔でおばあさんを見つめる。

 藍は、いきなりの登場人物にハッとした様子で口を開いた。

 

 

「店主っ! 私と和友は、そういった関係ではないぞ!」

 

「私は、どんな関係とも言ってないんだけどねぇ……」

 

 

 藍は、おばあさんから投げかけられた言葉に恥ずかしさのあまり顔を赤くして反論するが、店の奥から出てきたおばあさんは、そんな藍を見て大きなため息を吐くようにして呟いた。

 藍は、店主の言葉に口を紡ぎ詰まってしまう。

 

 

「うっ……店主、ともかくだな……」

 

 

 藍は、今出てきたおばあさんのことを知っていた。深い関わり合いを持っているというわけではないのだが、話をしたことがある程度には知り合いだった。

 当たり前だが人里に初めて来た少年は、この人物を知らない。ただ、藍の言葉から察するに、どうやらしゃべっている相手は日和日の店主だろうと見当をつけることはできた。

 店主は、白髪交じりのちょっとだけ腰の曲がったおばあさんである。

 少年は、藍の一歩前に出ておばあさんと挨拶を交わした。

 

 

「店主さん、初めまして。八雲紫さんのところでお世話になっています。笹原和友と言います」

 

「礼儀正しい良い子だね。私はここの店主やっている明石日和(あかしひより)という」

 

 

 少年は、店主に対して頭を下げる。少年の礼儀正しい様子を見た店主は、にこやかな表情で言葉を返した。

 

 

「なんとも微笑ましいことだ。まさか、あんたが人間の子を連れてくるとはねぇ……」

 

 

 店主は、一息つくと目線を藍の方向に向けた。

 店主の日和は、八雲藍が日和のことを知っているように八雲藍のことを知っていた。藍は、これまでに生地屋である日和日に何度か来ており、すでに顔見知りの仲だった。

 

 

「時代が変わったということなのか……にわかには信じがたいね」

 

 

 日和は、八雲藍が人間の子供を連れてきたことが信じられなかった。正確には、八雲藍の主である八雲紫が人間の子供を養っているということが信じられなかった。日和が知っている八雲紫ならば、絶対にあり得ないと思ったのである。

 藍は、店主の言葉が気になり質問を投げかけた。

 

 

「どうしてそう思われるのですか?」

 

「八雲紫のところから人間がやってきているんだよ? あんな周りに人を寄せ付けないような奴が、人を一人抱えているっていうのが信じられなくてね。それもこんな子供を……天変地異でも起こるんじゃないか?」

 

 

 日和は、八雲紫という人物をよく知っていた。

 日和から見た八雲紫の印象は、他の人間や妖怪とひどく違っている。捕まえどころのない胡散臭いやつという、誰もが持つ印象ではなかった。

 

 

「あいつは嫌われるのを怖がっているふしがあるから、そんな奴が人間をそばにおくってのがねぇ……随分変わったものだなぁと思ってね」

 

 

 藍は、店主が紫の性格について理解しているところから、ある程度深い関係なのだと予測する。同時に、人里にめったに来ない紫に深い知り合いがいることに驚いた。

 

 

「紫様とお知り合いなのですか?」

 

「知り合い? まぁ、そんなところかねぇ……」

 

 

 日和は、藍の質問の答えを濁す。少なくとも紫と日和は、知り合いという間柄ではあるようである。

 藍は、店主が紫と交友があることを今日初めて知った。

 

 

「おばあさんは、今いくつなの?」

 

「今年で68になるね」

 

 

 少年は、日和の年齢を聞いて意外そうな顔をする。知り合いというのは、年齢が離れすぎているような気がしたからである。

 少年から見た紫というのは、正確な年齢は分からないが、まだ若いと言える年代である。胡散臭さは感じるものの、古臭さは感じられるものの、見た目は非常に若い。

 実際の所は、紫の年齢は人間の寿命に比べると桁が違うのだが、そんなことを少年は知らない。紫とは年齢の話をしたわけでも、妖怪の寿命の話をしたわけでもないのである。

 少年は、目の前にいるおばあさんのような年齢の人と紫がどういう関わりで知り合いになったのか見当もつかなかった。

 日和は、少年に対して怪訝そうな表情を作った。

 

 

「少年、言っておくが女性に年齢の話は振らない方がいい。私は気にしたりはしないけどね。気にするやつが多いから、特にそこの八雲のところのやつがね」

 

「確かに紫様は少し気になさるかもしれないな……私は、あまり気にはしないが」

 

 

 日和は表情を変えることなく目線を藍に向かって向け、藍は日和の視線を感じながら表情を曇らせて答えた。

 紫は、日和や藍の話によると年齢を気にする性質のようである。

 藍は、どうやら日和と同じようにもあまり年齢については気にしないようだが、余りと言っているあたり紫と同様に少し気にしているのかもしれない。藍は強がっているだけの可能性が十分にあると、少年は子供ながらに察していた。

 

 

「年齢って増えてくだけだし、気にしても仕方がないと思うけど。増えてくだけのものなんて、ゴミと一緒。自分で積み立てた物じゃない」

 

「あんたも言うね。あんたとは、気が合いそうな気がするよ」

 

 

 日和は、少年の言葉に肯定の意志を示した。少年の意見に同調するあたり、少年と同じ気質を持っているのかもしれない。

 年齢というのは―――勝手に積み重なってくるもの。コツコツと積み上げていくものでもなければ、努力してどうこうなるものでもない。

 少年は、そういうどうでもいいことは、気にしてもしょうがないと思っていた。

 そして、日和も少年とは少し違えども年齢に関して同じような気持ちを持っていた。

 死んだらどうせ全部無かったことになる。灰になって骨になるだけだ。

 

 

「年齢なんて気にするだけ無駄なのさ。どうせ増えていくものなんだからね。皺も、染みも、全部受け入れちまえばいい。どうせ、最後には全部無くなるんだからね。努力して変わるものでも、止めようと思って止まるものでもないよ」

 

 

 日和は、年齢に抗うということは酷く無意味であることを理解していた。努力をすれば、死を避けられるわけでもない。年を取るということは、人間がゴールに着実に進んでいる事実しか表していないのだ。

 それ以上でも、それ以下でもない―――それ以外でもない。

 日和は、そこまで喋ると表情を明るいものに変えて話題を変えた。

 

 

「なんだか辛気臭い話をしちまったかね、こんな話は止めて商売を始めようじゃないか」

 

 

 日和の声が凛とした音をもって店内に響き渡る。年齢を感じさせない、よく響く声だった。

 日和の表情は、商売人のものになっており、物を売る者としての矜持を感じさせる顔だった。

 

 

「さぁ八雲の従者さん、あんたは私の何を買ってくれるんだい?」

 

 

 日和は、言葉通りに、自信満々に―――大胆不敵に笑みを作り出している。

 日和の言葉は、自分の作り出した生地は日和の体の一部も同然なのだという印象を相手に与えた。少年も例にもれず、日和の言葉に重みを感じ取った。心を込めて布を作ったのだろう。自分の一部を埋め込むような気持ちで布を作ったのだろう。きっと魂を込めて布を作ったのだろうと想起させた。

 

 

「欲しいものはもう決まっている。そこにある白い生地と向こうの淡い青色の生地、そして、その隣の橙色の布を10メートルほどもらえるか」

 

「まいどあり。少し待っていなさい、すぐに持ってくるからね」

 

 

 日和は、藍の指定した布を迷うことなく見つけ、年齢に似合わず店内にある大きな布を軽々と持ち運ぶ。そんな力、何処から出ているのだろうか。とても68歳のおばあさんには見えなかった。

 

 

「力持ちなんですね」

 

「年齢を気にするなと言っただろう、あんなの無駄だよ。できることはできるし、できないことはできない。ただ、それだけなんだ、覚えておきな」

 

「……覚えておくよ」

 

 

 日和は、藍の指定した長さに切り取り、抱えられるように最適な大きさに包む。手際良く作業を行っていく。その動きは―――酷く洗練された動きだった。長年ずっと同じ動きをしてきたのだろう、少年の書き記す作業と同じような雰囲気が醸し出されている。

 日和は、全ての作業を終えると流れるように動いていた体を静止し、藍に向かって商品である布を手渡す。

 藍は、布の対価となるお金を手渡した。これで等価交換が成り立った。商売が成り立った。

 

 

「八雲の従者、しっかりしたのを作ってやんなよ。衣服っていうのは、着る人を守ってやるものだからね。心と体の両方を包んでやりなさい。この子には、特に必要になる」

 

「分かっている」

 

 

 藍は、分かっていると言わんばかりに、覚悟を持った顔で頷いた。

 

 

「「ありがとうございましたー」」

 

「また来なさい。私は、死ぬまでずっと店を続けているからさ」

 

 

 少年と藍は、同期したように頭を下げてお礼を言い、二人は店を後にする。

 日和は、店を出て行く二人の姿を見送った。

 

 

「あの子の心の中は、どこまで積みあがっているのかねぇ」

 

 

 日和は、脳内に先程の少年を思い浮かべる。どこかで見たことのあるような親近感の沸く少年を思い描く。

 

 

「積みあがれば積みあがるほど、重心が高くなって不安定になる。それに、まっすぐに積み立てることはとても難しい……あの子の積み上げたものは、直に崩れ去るだろう。その時の余波はどこまで広がるか……準備しておく必要があるかもしれないね」

 

 

 日和は、どこか遠くを見つめるような目をしながら未来を憂うように細く呟き、再び店の奥へと姿を消した。

 

 

「次は、食べ物を買いに行くぞ」

 

「次で最後だね」

 

 

 藍と少年の次の目的地は、食品店である。

 最後の目的地である。

 人が生きるために最も必要とされるもの、日々の活力を手に入れる。

 藍と少年の足取りは、重くなる荷物に反して軽いままだった。

 



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※人物紹介

とりあえず、今までで出ている人物まとめです。


 八雲の連れ子

 笹原和友 Kazutomo Sasahara

 能力 境界を曖昧にする程度の能力

 危険度 低

 人間友好度 高

 主な活動場所 何処でも

 

 外の世界から迷い込む人間のことを外来人と呼ぶ。彼も外の世界からやってきた人間であり、外来人として区別していいのかもしれないが、そう簡単に分別していいのかは私では判断することが難しい。

 彼は、八雲紫に連れられて幻想郷にやってきたという。迷い込んできたわけではなく、連れられて来たという。八雲紫がどこからか連れてきた子供、それが笹原和友という人間である。

 彼は、八雲紫が連れてきた人間である。

 だが、八雲紫に連れてこられた人間としては、突出した部分が特に見つからない。まさしく、年相応の少年といえるであろう。運動能力がずば抜けているわけでも、勉強ができるというわけでもない。

 そんな少年が八雲紫に連れてこられることとなった理由は、持ち合わせている境界を曖昧にする能力が関係しているといわれているが詳しいことは分かっていない。

 

 能力

 彼は境界を曖昧にする能力を持っているといわれているが、効果が発揮されているところは確認されていない。凡庸に使える能力ではないからなのか、彼自身が未熟であるため上手く使うことができないのか、はたまた他の理由があるのか分からない。

 もしも、彼が境界を曖昧にする能力を十全に使うようなことがあれば、世界のあり方を変えるほどの変化をもたらすであろう。境界が曖昧になるということは、存在の在り様が変わることなのだから。むしろこのまま、使えない方がいいのかもしれない。

 

 目撃報告例

 ・人里で八雲藍と買い物に来ていたよ。

 彼は、八雲藍と一緒に行動することが多いようである。彼の伸長が150cmしかないため、藍の伸長の方が10cmほど高く、彼は見上げる形となる。そのため、親子に見えることもあるようである。

 

 ・空を見上げているのをよく見るのだが、空には何もないことが多いんだ。何をしているんだろう。

 彼は、よく空を見上げているところを目撃される。空を見上げるのが好きなのだろうか。空を見上げている理由は、誰も知らない。理由なんてものは、そもそも無いのかもしれない。

 

 ・どこか消えそうで、儚げに見える。けれども芯がしっかり通っている。不思議な子だよね。

 12歳であることを考えると、非常に大人びているように見える。外の世界にいた時に何かあったのだろうか。

 

 ・妖精に群がられているのを見かけたよ。

 彼は、妖精に好かれる人物のようである。妖精に好かれているのか、ただ単にまとわりつかれているのか、理由は不明である。

 

 対策

 彼は人間であり、温和な性格のため誰かを襲うということはまずないと考えていいだろう。

 しかし、勝負をしかけられれば喜んで受ける性格のようである。そのため、勝負をすること自体はそこまで難しくはないだろう。力が強いわけでもないのでいい勝負ができるのではないだろうか。

 ただ、彼と勝負するときはルールをしっかりと明示する必要がある。彼は、諦めという言葉を持ち合わせていないらしく、きちんと勝負が決まるルールを作らなければ、彼が勝つまで(負けを認めるまで)終わりを迎えることはなくなる。ルールを問答無用にした場合は、死ぬことを覚悟した方がいい。きっと彼は、ルールに従って相手を殺しにいくだろう。

 

 

 人里に店を構えている筆一本の店主

 山本勝 Masaru Yamamoto

 能力 努力を対価とする程度の能力

 危険度 低

 人間友好度 高

 主な活動場所 人里

 

 彼は、人里で生まれて人里で育った人間である。小さいころから負けず嫌いで人里では有名だった。子供のころは、よく誰かに負け、悔しい思いをして泣いていたらしい。

 寺子屋で勉強をしていた際に、文字を書くことのできる筆の存在に感動した。何かを残すために使われる筆の存在に、何かを伝えるために使われる筆の存在に惹かれたとのことである。

 誰しもが彼の夢を達成できると思っていなかったが、その類い稀なる努力によって、誰にも教わることなく、独学で努力して筆作りの職人となった。

 

 能力

 彼は、努力を対価とする能力をもっている。努力をすれば、等価の成果を得られるという能力である。

 この能力は、誰もが持っているようなものであるが、正確には違う。彼の能力は、俗に言う才能というものに比例しない。得意なものも、苦手なものも、等価の努力が作用する。どれだけ苦手でも、努力することで一流まで上り詰めることができる。

 しかし、天才肌の人間と比べるとどうしても劣って見えてしまうことであろう。才能は、掛け算。努力は、足し算で効いてくるのだから。そんな彼は、努力という足し算の積み立てで筆職人となった。

 

 目撃報告例

 ・店の中で作業しているのをよく見かけるよ。

 彼は、店の中で筆作りに没頭してことが多い。彼のところに仕事が舞い込むことは非常に多く、多忙な日々を送っているらしい。かくいう私も彼の顧客である。

 

 ・彼の筆は、墨がよく馴染んで滑るように紙の上を移動するのに、書いている感触がものすごくある。彼こそ一流だと思うよ。

 その通りだと思う。私に異論はない。

 

 ・店主は、僕に勝負を持ちかけてきたけど、勝てると思っているのかな?

 彼が負けたという話はよく聞くが、諦めたという話は聞いたことがない。勝負を持ちこまれているのだったら死ぬまで勝負するつもりでいた方がいいだろう。

 

 対策

 彼は、人里で店を構える店主である。襲われることはまずない。勝負事は大好きなので、勝負を持ちかければ喜んで応戦するだろう。もちろん、断られることもある。彼は、無理と完全に分かっている勝負をしない。彼が勝負を断れば、それは、勝負になっていないということであると認識するといい。

 

 

 日和日(ひよりび)の店主

 明石日和 Hiyori Akashi

 能力 織り込む程度の能力

 危険度 低

 人間友好度 高

 主な活動場所 人里

 

 彼女は、人里で生地屋の店主をしている人間である。親がやっていた生地屋をそのまま継いで店主になった。おおざっぱな性格で、細かいことを気にしない。

 しかし、布に関しては厳しいところがある。仕事に関しては、厳しい人間のようだ。子供のころからリーダーとしての気質があり、商業地区を引っ張っている代表である。

 

 能力

 生地屋として生活してきた彼女には、才能と言うべき能力が生まれつきあった。織物をするうえでは、非常に役に立つ能力であり、他の色や材質の物を折り合わせることができる能力である。能力によって多くの種類の生地を作っている。

 

 目撃報告例

 ・朝早くから、運動しているのを見かける。

 どうやら毎朝の運動が日課のようである。

 

 ・幻想郷に服屋が少ないのは、彼女の作る生地を使って自分で作りたいと思う人が多いからだと思うんだ。

 そうなのかもしれない。

 

 ・100歳までは、軽く生きていそう。

 本当に元気なおばあさんである。機会があれば長生きのコツを教わってみようかと思う。

 

 対策

 怒らせるようなことをしなければ、戦いになることはないだろう。彼女が戦ったときに強いのかどうかは不明であるが、軽々と布を持ち歩く姿を見ると、体は元気で丈夫のようである。見た目はおばあさんであるが、勝てる気がしないのはその人の人柄によるものだろうか。



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食べるということ、生きるということ

やっと買い物終わります。


 少年と藍の二人は、生地を買った後、食料を買っていた。これから3人で1週間を過ごすために必要となる分の食料を買ったのである。

 マヨヒガから持ってきた袋の中には、すでに多くの食材達が入っており、買い物が終わっていることを示していた。

 藍と少年は、買い物の最中に様々な会話を交わした。

 

 

「和友は、苦手な食べ物とか、食べられないものとかあるのか? 好きな食べ物とかあったら教えてくれ」

 

「僕は……特にはないかな。好きなものもなければ、苦手なものもないね」

 

「そうか」

 

 

 藍は、買い物の最中に少年に好きな食べ物があるか聞いたり、食べることのできない食べ物があるか尋ねたりしながら買い物をしていた。

 少年は、当然のことながら藍の質問に対して、なんでもいいよ、嫌いなものは無いし、好きなものも別に無いからと答える。それは好きな色を聞いた時とは、明らかに違った反応だった。

 藍は、少年の答えに満足そうに一言そうか、と頬を僅かに緩ませて嬉しそうに答える。少年が嘘をつくことなく本心から答えてくれているのだと、先程までと違い心を開いてくれているのだと思うと、少しだけ嬉しかった。

 

 

「そういえば、妖怪って人の食べ物を口に入れないと生きていけないの?」

 

「いい質問だ」

 

 

 藍と少年は、好きな食べ物の話以外にも様々な話をした。

 例えば、妖怪が人間と同じ食事を取ることについてである。

 

 

「妖怪は、基本的に1週間絶食しても死にはしない。妖怪は、人とは違う物を捕食してその身を形成しているからな。人間の食べ物を食べなくても生きていける」

 

「へぇ、そうなんだ。藍も妖怪だから、その違うものを食べて生きているのかな?」

 

 

 妖怪の食料というのは、人間の恐怖のことである。人が食べているのと同じ食事を取って、それが血肉となって体を作っているわけではない。

 妖怪の体を維持しているのは人間の心に潜む恐怖と畏怖、信じる心である。そういった思想が妖怪の存在を支えている。

 ただ、藍の場合は特殊だった。普通の妖怪のように人間の恐怖をもとに存在しているわけではなかった。

 

 

「私の場合は普通の妖怪とは違う。私は、妖怪と言うよりは紫様の式だからな。紫様からそういったエネルギーを頂いている形になっている」

 

「藍の場合は仕組みが違うんだね。式としての役割が無くなったら普通の妖怪に戻るのかな?」

 

「おそらくな。ただ、そんなことは起こりえないと思うぞ。紫様が式神契約を破棄するなんて考えられないからな」

 

「紫が藍を捨てるわけないもんね」

 

 

 藍の場合は、そんな恐怖を糧に生きている普通の妖怪と異なっており、紫から力を大きく貰っている形になっていた。妖怪という立場よりも紫の式である立場の方が色濃いのである。

 

 

「でも、紫からエネルギーを貰っているとしたら、本来藍自身に入るはずのエネルギーってどこに行っているんだろうね」

 

「私は、一度紫様を経由して分け与えられていると思っているが……実際のところは分からない。知る必要もないといえば、それまでだ」

 

 

 ならば、藍に送られているはずの恐怖はどこに向かっているのかと聞かれれば答えようがない。消えてしまっているのか、それとも紫から送られているエネルギーに藍の恐怖が含まれているのか、それは謎である。

 恐怖や畏怖という感情は、人間でいう食料とは異なり概念的物質であるため、大幅に減ったり増えたりしない限り変化を捉えることは非常に難しい。藍の恐怖や畏怖がどうなっているのかについては、紫から与えられているエネルギーに変化がみられないため、何一つ分かっていない状態だった。

 ただ、藍は実際のところはどうなのか分からないが、紫から送られているエネルギーに本来自分が得るべきものが分け与えられていると思っていた。

 紫は、妖怪の賢者と呼ばれるほどに畏怖される存在であり、人間から恐怖されている。だからこそ、多くの力を分け与えられ、力が増大しているのだと、そう思っていた。

 

「まぁ、私にしても妖怪にしても、人が普段食べているような食事をとる必要性はないという意味では一緒だな」

 

「そうなの? だったらなんで食事をする必要があるの?」

 

 

 少年にとっては、妖怪が食事を取ることが心底疑問だった。人間が食事を取る意味は、生きていくため、明日を過ごすためである。生きるために食べ物を口にする必要がないというのならば、食事を取る意味が無い。

 少年には妖怪が食事を取る意義が見えてこなかった。

 

 

「刺激が欲しいからだよ。妖怪の一生は長い。刺激のない日々は意識を劣化させる。金属を放置していれば錆びてしまうのと一緒だ。常に磨いておかなければ心はいずれ死んでしまう」

 

「僕にはちょっとよく分からないんだけど……」

 

「寿命の短い人間には分かり難い感覚なのかもしれないな」

 

 

 藍は少年の疑問に明確な答えを示したつもりだったが、少年は藍の言っている言葉の意味が分からず首をかしげた。

 藍は、理解できていない様子の少年に分かりやすいように言い換えて説明する。

 

 

「簡単に言えば、何も食べないというのは何とも味気ない、そういうことだ」

 

「ふふっ、そういうことを聞くと、なおさら妖怪と人間との違いが分からなくなるよ」

 

 

 少年は、余りに人間味のある言葉に思わず笑う。

 味気ないなんて感覚は完全に人間と同じである。刺激が欲しくて食事をする、暇だから味覚を弄ぶ。まるで、人間のような感覚だ。

 

 

「本当に和友の言う通りだと思う。私たちは随分と人間臭い。紫様も、私も、結局人間のことが好きなのだ……」

 

 

 妖怪は、1週間絶食したところで死ぬようなことは無い。体を維持しているのが食事ではなく、人間の恐怖なのだから当たり前と言えば当たり前である。

 しかし、紫と藍は人間の食事を口にしなくても生きていけるにもかかわらず、それでも食事を取ることを選んでいる。それには、当然のことながらしっかりとした理由があった。

 藍が食事をとっている理由は、紫から聞いた言葉によるものである。紫から言われた言葉が、藍に食事をとらせていた。

 紫に妖怪にとっての食事の概念を説かれたのは、藍が紫の式になって初めての日のことだった。紫の式となって初めての夜に、紫が食事を取ると言った時のことである。

 

 

「藍、食事にするわよ」

 

「紫様、食事など取る必要はありません。人間じゃあるまいし、そんなことをしなくとも、私達の体は朽ちたりなどしませんよ」

 

 

 藍には、食事を取る理由が分からなかった。これまでに様々な国で多種多様な料理を食べてきたが、それが何の意味があったかと言えば、何一つ意味などない。かろうじて意味があるとすれば、虚無感をほんのり埋める程度の役割しかなかった。

 藍は、妖怪の必要なのはやはり人間からの恐怖で、畏怖だけで、食事のような俗物的なものは要らないと思っていた。

 

 

「意味のないことに時間を割くのは、時間の無駄ではありませんか。なぜそんな無駄なことをするのですか?」

 

 

 藍は、紫が食事を取ろうとしていることに疑問を投げかけた。不愛想な顔で、嫌々従っているのが目に見えて分かるように、ぶしつけに尋ねた。

 紫は、露骨に嫌そうな顔をしている藍に向けて優しく語りかけるように答えを口にする。

 

 

「藍、確かに貴方の言う通り妖怪に食事は必要ないわ。でも、心は食事を必要としているのよ、刺激を求めているの」

 

「心が……ですか?」

 

「そうよ。私達妖怪は、その強靭な体と生命力を持って気の長くなるような時を過ごしている。でも、心はそんな強い体と違って普通の人間と何ら変わりないわ」

 

 

 妖怪は、人間と比較して体が丈夫で生命力が強い。人間との差は、比べるのもおこがましいといわれるほどに圧倒的と言っていいだろう。

 だが、妖怪と人間との差は、心にまで当てはまることはない。妖怪は、肉体的な強さに比例しない人間と変わらない心を持っている。悪く言ってしまえば、人間よりも精神に依るところが大きく、精神状態によって大きく崩れやすい。

 はっきり言ってしまえば、妖怪の心は人間の心よりも繊細なのである。人間の感情から生まれただけあり、心の動きに酷く影響を受ける。

 

 

「心は、刺激が無ければどんどん劣化していく。最終的には獣と同じところまで墜ちてしまうわ。感情や感受性を失って本能だけになってしまうの」

 

 

 心は、放置してしまえば劣化する。植物のように水を与えられない日々が続けば枯れてしまう。心には、一定の刺激が必要なのである。一日何もせず、心に刺激を与えず、寝たきりの人間が廃人になるように、体はまだ生きているのに心が死んでしまうのである。

 妖怪の場合は、心が死んでも人間のように廃人になることはない。ただ、それは廃人にならないというだけである。妖怪は、廃人になるよりもたちが悪いことになる。

 妖怪は、心が死ぬと本能に支配されるようになるのだ。人間を捕食すること、人間から恐怖をもらうことしか考えられなくなるのである。

 

 

「私は、心が朽ち果てた妖怪のことをよく知っているわ……私達妖怪は、理性よりも本能の方がよっぽど強い生き物なのよ」

 

 

 紫は、妖怪が心を失うことの怖さを痛いほどに知っていた。100年前に顔を合わせた妖怪が理性を失って恐怖をむさぼるだけの存在になっていることなどざらにあった。

 妖怪は、健康な精神を維持し続けなければ、獣と化す。獣と化した妖怪は、例外なく人間に淘汰される。

 人間は、何も考えずに本能のまま動き回る妖怪に対して真正面から戦うような馬鹿な行動はとらない。当然のように罠を張り、待ち構えるのである。

 本能に支配されてしまった妖怪は、罠を察知できるだけの理性を持たない。妖怪は、心を朽ち果てた者からどんどん死んでいくのだ。

 紫は、そういった妖怪が死んでいくのを、人間に殺されるのを間近で見てきた。

 

 

「そう、昨日の貴方のようにね」

 

「その話はよしてください。思い出したくありません」

 

 

 藍は、昨日の紫との戦いのことを思い出して恥ずかしそうに下を向いた。

 昨日の藍の戦い方は、まさしく本能に支配されるような戦い方だった。紫に対してまさしく本能の赴くままに戦った。何も考えず前に出ることで、腕力をもって打ち倒そうとした。

 

 そして―――破れた。

 

 藍の力の強さは、確かに紫よりも勝っていたのだが、勝負というのは力の強弱で結果が決まるものではない。藍の力は上手くいなされて、紫の能力の前に、頭脳の前に敗北をきっしたのである。

 藍は、式となった今なら負けた要因が理解できた。式となったことで敗北の理由が理解できた。藍と紫の間には大きな知性の差があったのである。

 

 

「あら? もしかして恥ずかしいのかしら? 獣張りに吠えて私に向かってきたのが恥ずかしいのかしら?」

 

「む……」

 

 

 紫は、挑発するように藍の頬を扇子で突く。藍は怒気を含めた表情を浮かべるが、紫に対して服従している立場のため文句を口に出すことはなかった。

 紫に負けた藍は、紫に対して文句を言える立場ではなくなっている。失礼な言動も、無礼な行動も、制限されている。

 しかし、表情にははっきりと怒りの色が見えており、額にはぴくぴくと血管が浮いていた。明らかに怒っている。

 紫は、藍の反応を見て突いていた扇子を下げた。

 

 

「あらあら、怒っちゃったわね」

 

「私達妖怪が、肉体の強さと相反して心が弱いのは認めましょう。私達妖怪は、精神に依存する生き物です。ですが、本能に生きることが駄目なのでしょうか? 妖怪の在るべき姿は、それで正しいと思います」

 

「本能に生きる……妖怪の概念から考えれば、そうなのかもしれないわ。だけどね、それでは駄目なのよ。そんな普通の在り方では、新しいものは想像できない。今までなかったものは、生まれない」

 

 

 妖怪の在り方としては、藍の言っていることの方が正しい。人間に恐怖を与える存在、それが妖怪なのだから。人間を捕食し、人間に恐怖を与えるのが本来の妖怪の在り方なのだから。

 しかし、紫は本能に従うわけにはいかなかった。そんなふうな普通の妖怪に成ってはいけなかった。

 志が、そんなことを認めなかった。

 だから、今日まで紫は普通じゃない生き方をしてきたのだ。

 

 

「藍、しっかり覚えておきなさい! 頭に刻み込みなさい!」

 

 

 紫は、ふざけていた表情を真剣なものへと変える。紫の目には強い意志と決意が浮かび、藍は新しい主となった紫の目に引き込まれた。

 

 

「私達は、それでは駄目なのよ。私は、人間と妖怪が共存する幻想郷を作るのだから。これからの妖怪のために、妖怪の楽園を作るのだから。本能を御しきれる心が必要なのよ」

 

 

 紫の言葉は悲痛な想いを込めて放たれ、藍の心に広く響き渡る。

 藍は、紫の真剣な声音に耳をそばだて、聞き入り、意識を取り込まれた。

 紫の過去にどれほどのことがあったのかは分からない。昔どんなことがあってそう言ったのか知らない。

 だが、紫の言葉に重みを感じた―――心の中に大きく言葉が沈んでいくのを感じていた。

 

 

「誰に馬鹿にされようとも、誰からも蔑ろにされようとも、信じることができるだけの心を持つのよ! 私の想いは……虚構でも、妄想でも、幻想でもない! 本物なんだって!」

 

「紫様……」

 

「……ちょっと熱くなりすぎたわね」

 

 

 藍は、紫の捨て去るような言葉に息をのむ。

 紫は、藍の複雑な表情を見て、自分がむきになっていることに気付き、我に返った。

 

 

「食事をとる理由には、単に物足りないっていう理由もあるのだけどね。食事をしないと味気ないのよ。折角味覚があるのだから、食事を楽しまないともったいないじゃない」

 

「……はい、そうですね」

 

 

 紫は、そう言って笑った。空気が緩くなったと同時に、藍の表情も少しだけ緩んだ気がした。

 藍は、紫の言葉を胸に笑顔のまま未だかつてしたこともない料理へと手を伸ばし、調理を開始した。

 

 

 

 

 

 

 ―――1時間後―――

 

 

「藍、あなた……」

 

「しょうがないでしょう!? 今までやったことがなかったのですから!!」 

 

 

 紫の目の前には、原型をとどめない料理と言えない物質が存在していた。どのような調理したらこんなものができるのだろうか。何をどうしてこうなったのかという工程はおろか、何を作ろうとしていたのか分からないというレベルの料理である。

 紫は、もはや何かも分からない料理を見て冷や汗をかきながら真剣な表情で呟いた。

 

 

「それしてもこれは……」

 

「……分かっています。分かっていますよ」

 

「次までに食べられるものを作れるようになりなさい」

 

「はい……」

 

 

 それが―――藍の頭の中に刻まれた食事に対する最初の記憶である。

 

 

 

 

 

 少年と藍は、食材を買い終えて人里の外へ向かって歩き出していた。

 藍の表情は、食材を買い終えた時点で非常にほっこりとしており、機嫌が良いことが伺える。全ての目的を達成して満足しているようである。

 しかしながら、藍とは打って変わって少年は複雑な表情を浮かべていた。

 

 

「最後に食べ物を買ったわけなんだけど……」

 

「どうした? 何か気になるところでもあったか?」

 

「うん」

 

 

 少年には、これまでのように気になることがあったのだろう。さっき通り過ぎた場所にあったものを気にしたのかもしれない。食べ物を買っている最中で気になることがあったのかもしれない。

 藍は、これまでの少年の会話から考えて、少年が何かしら気になることがあって質問したいのだと考えていた。

 少年は、藍の考えた通りに疑問を抱えている。疑問の中身は非常に単純なものであり、藍に聞けば必ず答えが得られる確信があるものである。

 

 

「そのカバンの一番上に乗っているものなんだけど……」

 

 

 少年は、藍の言葉に甘えて質問をしようと視線を下げて藍の手提げカバンを見つめた。藍の視線も、少年の視線に引き付けられるように自らが持っているカバンに向かう。

 その視線の先には油揚げがあった。食料の入った手提げカバンの一番上に強調するように3枚の油揚げが乗っていた。

 

 

「その豆腐屋で買った3枚の油揚げの使い道が分からなくてさ。油揚げ買う時の藍の目、なんだかギラギラしていたし、他の材料見る感じ、油揚げを3枚も使う料理なんてないよね」

 

「ああ、これのことか」

 

 

 少年は、強調されたようにカバンの一番上に置かれている油揚げの枚数が不思議だった。油揚げという物の存在理由が謎だった。

 カバンの一番上に乗せられている理由自体は理解できる。単に藍の行きつけの豆腐屋で買うために全ての買い物を終えた後に買って最後に入れたからである。

 他にも、藍が油揚げを他の食材の下敷きにするのを嫌ったのではないかと予測できなくもない。ただ、下になるのが嫌というのは少年の考えすぎで、たまたま最後に買った商品だから、ということなのかもしれない。

 そんなことはどっちでも、どうでもいいのである。油揚げがカバンの一番上に置いてあることは、特段気にすることでもなんでもない。

 問題は、存在する位置の理由ではなく、3枚もの油揚げが存在する理由である。

 少年には、3枚もの油揚げをどう使うのか想像もつかなかった。味噌汁に入れるにしても、ここまでの量は使わないだろう。きつねうどんを作るとしても、うどんは買っていない。

 

 

「これはだな」

 

 

 藍は、少年の疑問を聞き、買い物袋を軽く持ち上げ、視線をカバンの方へ落とす。そして、見比べるように少年の顔を見つめた。

 藍は、そこまですると少年の質問に対して当然のことのように言葉を吐き出した。

 

 

「これは私の物だ」

 

「…………?」

 

 

 少年は、藍の回答に茫然とし、ポカンとした表情になった。

 少年が戸惑いの表情を浮かべるのは、当たり前である。少年が求めている答えは、3枚の油揚げの使い道である。藍の答えでは、私の物という、誰の物ですかという質問に答える内容にしかなっていない。

 藍は、少年の不可解な気持ちとは対照的に当たり前のことのようにしゃべっているつもりで、自分の答えに自分で満足していた。

 分かったのは、藍が油揚げに対して並々ならぬ思いを抱いているという点だけである。藍の表情には、藍の油揚げに対する執着心がこれでもかというほどに表れている。

 少年は、暫く藍の顔に視線を向けて待ってみたが、藍は答えたと勝手に自己解釈してしまっているため、少年へと再び話しかけることはなく、少年から視線を外し、進行方向へと目線を向けていた。

 少年は、いつまで経っても反応がないうえに視線まで逸らされたので、改めて藍に質問を投げかけた。

 

 

「私の物? どういうこと?」

 

「ん? なにがだ?」

 

 

 藍は、少年の質問を聞いて先程の少年の表情と同じようにきょとんとした表情を浮かべる。どうして再び質問をしてくるのだろう。藍の頭の中には疑問が湧いていた。

 

 

(なぜ、不思議そうな表情をしているのだろう?)

 

 

 藍は、改めて遅れてやってきた少年の質問に戸惑いを隠せなかった。先程の答えで少年の質問に答えたと思っており、答えを与えたのにもかかわらず、なぜ再び質問してきたのか分かっていなかった。

 これは、藍の少年に対する印象が今の不思議な雰囲気を作り出す原因の一つになっている。

 これまで少年と藍は、人里に来てから食料を買い終わるに至るまでに、多くの会話を交わしている。藍は、そのしっかりとした受け答えから、少年に対して利口な子という印象を持っていた。そんな利口な少年が、‘しっかりとした答えを返した’にもかかわらず再び質問をしてきている。

 

 

(どういうことだろうか?)

 

 

 藍は、体を前へと動かしながら少年の顔を不思議そうな顔で見つめているばかりで口を開こうとしない。藍と同様に少年も、藍を見つめたまま答えを待ち続けている。

 二人の間に、変な空気が漂う。噛み合わな過ぎて、不思議な空間が二人を中心に広がっていた。

 藍は、一向に少年の質問に対して答えようとはしなかった、というよりできなかった。意味の分かっていない藍に答えられる道理などない。

 少年は、このままでは答えが得られないと思い、しびれを切らしてもう一度藍へと尋ねた。

 

 

「油揚げを3枚も、何に使うのかなって思ってさ。さっきの藍の答えじゃ私の物ってことだけしか分からなかったから」

 

「す、すまない! 質問の答えになっていなかったな」

 

 

 藍は、少年の言葉に顔色を変えた。少年の再三の問いかけに、なぜ少年が再び質問をしてきたのか分かり、自分の説明が悪かったと気付いた。

 

 

「この油揚げは料理に使うわけではない。私個人が食すものなのだ」

 

「藍が食べるんだ。そのままの状態で食べるの?」

 

「基本的にそのままだな。たまに味付け変えたりするが、このままの方がおいしいからな」

 

 

 藍が買い物の終わりに買った油揚げは、料理で使うわけではなく、藍個人で食べる物のようである。油揚げは、藍にとっておやつのような感覚なのであろうか。食後のデザートのようなものなのだろうか。詳しいことは、藍にだけしか分からない。

 

 

「そういえば、狐は油揚げが大好きってよく聞くね」

 

 

 狐と油揚げは、切っても切り離せない関係のように語られることが多い。狐の大好物と言えば―――油揚げ。九尾である藍もその例には漏れないということなのだろうか。

 

 

「それが本当なのかどうか知らないけど……藍は、油揚げが好きなの?」

 

 

 少年は、実際のところ狐が油揚げを本当に好きなのか疑問だった。

 世間の人は、狐が油揚げを食べるところを見たことがあるのであろうか。少なくとも少年は、狐が油揚げを食べているところを見たことが無かった。

 狐は、肉食性が強いが雑食でもあるので油揚げを食べるには食べるだろう。

 だが、狐が油揚げを好きかどうかについては狐自身に聞かなければ分からないはずである。狐が油揚げを食べたとしても好きかどうかについての議論にはならない。

 このままでは、少年の好き嫌いのように曖昧なままである。議論にするためには、普段食べているネズミなどを隣に置いて確かめてみる必要があるのだ。

 そう、狐が油揚げを好きというのは本当のところは曖昧で―――単なる噂の類、迷信の類なのである。

 しかし、幻想郷はそのような迷信や噂が支配する世界であり、妖怪は幻想の生き物である。妖怪は、人間の想像や恐怖などが具現化してその身を形成している。

 

 狐は、油揚げが大好きである―――幻想郷はそういった迷信や噂がものをいう世界なのだ。

 

 藍は、九尾の狐である、9本の尾があろうと狐には違いない。藍にとって油揚げは、切っても切り離せない存在だった。

 

 

「ああ、油揚げは大好きだ。味といい、食感といい、これ以上の物はないな。素材本来の味が私の好みに合っているとでもいうのだろうか。特にあの店で買う油揚げは、格別に美味い。私が一番好きな物と言われれば、迷わずこの油揚げだと答えるだろう」

 

「へぇ……そうなんだ」

 

 

 藍は、頬を緩ませながら油揚げについて語る。

 少年には、相変わらず藍の言っていることがよく分からなかった。

 油揚げの味が好きというのはまだ分かる。好みは人それぞれだろう。人それぞれというか、妖怪それぞれだろう。好きだという境界線が曖昧になっている少年でも、油揚げの味が好きということであれば理解ができる。

 しかし、油揚げの食感が好きというのはよく分からない。油揚げは、そんなに特徴的な食感をしていただろうか。

 少年は狂信的に油揚げが好きそうな藍に対して少し引きながら言葉を口にした。

 

 

「油揚げの食感が……ね」

 

「別に私が喰い意地を張っているわけじゃないぞ。これは、ほんのちょっとした楽しみなのだ。紫様には、内緒のな」

 

 

 藍は、そこまでしゃべると覗き込むように少年の目を見つめた。

 少年は、藍と視線を合わせ、訴えかけるような藍の瞳を注視する。そして、まっすぐに突き刺さるような視線から藍の意図を察した。

 藍は、油揚げを紫に内緒にして欲しいと言っているのである。

 少年は、笑顔を藍に向けて大丈夫だと伝えた。

 

 

「はいはい、分かっているよ。僕の口はダイヤモンドより固いから大丈夫。下手なことじゃ、口を滑らせたりしないよ」

 

「ダイヤモンド……」

 

 

 ダイヤモンドは最も硬い鉱石だとテレビや学校の先生から教わった。そういった特別な情報というのは、ダイヤモンドを記憶する際に重要になってくる。何かと組み合わせることでイメージを作り、記憶しやすくするのである。

 少年は、ダイヤモンドを対象として取り出すことで藍に対して安心を醸し出そうとしていた。最も硬いことと、口が堅いことを上手く組み合わせている。

 しかし、藍は少年の言葉に安心することは全くなく、むしろ不安を感じていた。

 

 

「それって、衝撃に弱いということか?」

 

 

 藍が不安になるのも仕方がない、ダイヤモンドの特性を知っている者ならば、少年の言葉の意味がおおよそ推測できる。

 ダイヤモンドは固いことで知られている。

 だが、ダイヤモンドはあくまで擦る方向に対しての耐性が高いだけであって、ハンマーで叩いて衝撃を与えれば簡単に割れてしまう。それこそ少年の腕力でも余裕であろう。少年もダイヤモンドの性質を理解している。ダイヤモンドが衝撃に対して脆いことは、小学校の理科の先生から教わったことである。これは真似してはいけない。もったいないからと、先生から注意を受けていた。

 少年の言葉の意味を考えると、釣りには引っかからないけど直接問い詰められたら吐いちゃうかもね、と言っているも同然だった。

 

 

「そーかもね」

 

 

 少年は、一言そう言うと悪戯っ子のような顔を浮かべた。

 

 

「引っかけみたいなのだったら口を滑らして答えるなんてことはないと思うけど……紫から直接言われたら、答えちゃうと思うよ。秘密にするのはちょっと厳しいかな」

 

「そう、だな。私もさすがに直接問いただされたら答えずにはいられない……どうしたものだろうか……」

 

 

 事実、少年が紫に問い詰められれば、口を割るしかないだろう。以前少年が言ったように、立場的には少年が一番下であり紫が一番上なのだから。

 それは少年だけでなく、藍においても同様で、同じことが言えた。

 

 

「ああ、こうやって考えていることも、紫様には筒抜けになっていそうな気がする……」

 

「さすがに、そこまではないよ」

 

 

 少年は、さすがにそれはないだろうと言葉を漏らしたが、頭の中で想像できてしまう光景に徐々に勢いをなくしていく。

 紫との付き合いはかなり短いとはいえ、何処にいるかも分からない神出鬼没の妖怪であることを知っている少年としては、断言できる要素が余りに少ないことに自信が無くなっていった。

 紫が今話している会話をも聞いている可能性は捨てきれない。紫は、心の中にまで入ることができるのだ。もはや何ができてもおかしくはなかった。

 

 

「きっと……多分……」

 

 

 少年の声がどんどん小さくなる。

 

 

「「はぁ……」」

 

 

 二人の出したため息は、綺麗に重なった。




あとは、マヨヒガに帰るだけですね。


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違和感、妖精の変化

 周りに視線を向けてみれば、人里から外に出るための門はもうすぐそこまで来ていた。

 少年と藍は、お互いに顔を見合わせて苦笑すると門の外に出た。

 紫のことについては考えることを止めた。考えるだけ徒労である。なんでもできそうな紫のことを考えても、思考は一向にまとまらない。

 二人は、無駄になりそうな考えを捨てて、もともと人里に来た目的―――買うべきものを買い揃えて人里の門の外に出た。 

 門の中―――人里の内側はたくさんの人がいて賑わっていたが、外には建物も何も無く、人もほとんどいない。人里に来てから数時間の時間が過ぎているにもかかわらず、何も変わり映えしていなかった。門の外には、来た時と同じ閑散とした光景が広がっていた。

 

 

「ひとたび門を出てしまうと、随分と閑散としているよね」

 

「安全が保障されていないからな。人間は、命が危うい場所で何かできるほど恐怖に強い生き物じゃない」

 

「まぁ、そうだよね。命が脅かされているのに、それでも他に何かしたいと思う人間なんて普通はいない。居るのは守衛の人だけだし……そういう仕事でもやってない限りは、外に出たくないんだろうね」

 

「そうだな……外に出て何かしようという人物がいないことはないのだが、護衛をつけるか、安全を保障できなければ外へと出ようとする者はほとんどいないな」

 

 

 門の外には全く人がいないというわけではないのだが、あくまで守衛だけであり、門を守っている人がいるだけだった。

 人が人里の外に出る理由は、お参りに行ったり、妖怪対策のためのお札を買いに行ったり、山へと山菜取りに行ったり、様々あるにはある。

 しかし、よほどの理由がないと外に出たりしない。出る目的を達成することよりも、外へと出る危険の方が圧倒的に大きいからである。出る場合は護衛をつける、大人数で出かけるという方法を取って安全を確保していることがほとんどだった。

 

 

「さて、買う物は買ったことだし、そろそろ帰るぞ。忘れ物は無いよな?」

 

「そうだね。必要な物はこれだけだったはずだよ」

 

 

 二人は、そんな誰もいない人里の外へと出たところで立ち止まり、買い忘れがないのかの確認を取り始めた。

 買い忘れが無いかの確認というのは、買い終わった直後にやっておく必要があることである。こういった忘れ物というのは、総じて手間がかかり面倒になるような時に思い出すものだからだ。

 買い物であれば、家に着いてから思い出すということが多い。家に帰ってからあれを買うのを忘れたと気付く人は多いだろう。家に帰る前にしっかりと考えておけば、余計な労力をかけずに済む。

 

 

「一応、確認するぞ」

 

 

 藍は、買い忘れがないかの確認をするために、もぞもぞと体を動かす。その姿は、誰が見ても窮屈そうで非常に苦しそうに見えた。

 藍は、先程買った食料、さらに大量の布を抱えている。明らかに買い忘れを探すことのできる状態ではなかった。

 少年は、藍とは違ってノートだけしか持っておらず余力があったため、藍の荷物を持とうと近づき左手を差し出す。

 

 

「何か持とうか?」

 

「……気づかいは嬉しいが、大丈夫だよ」

 

 

 藍は、そっと差し出された左手を見ると少年の親切からの提案を断った。そして、両脇に持っている物を一度かき分け、忘れ物が無いか確認をし始める。買った物といえば、布生地、食料だけではあるが、念のためである。

 藍は、上手く荷物を持って一つ一つ確認する。藍の持ち方は、片腕に生地を抱え込み、もう片方に袋を持っているという形である。布生地の体積が大きく、どうしても不格好な形での確認となっており、体の重心は明らかに傾いているように見える。

 だが、それでもバランスを崩すようなことはなく、軽々と持っているように見えるのは妖怪だからということなのだろう。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、ただただ忘れ物が無いか確認する藍を見つめていた。断られた手前、何もすることがなかった。

 藍は、片手にノートだけしかもっておらず、十分何かを持つことはできた少年に対して決して荷物を持たせようとはしなかった。それは、少年が差し出した手に包帯が蒔かれていたためである。

 藍は、人里で買い物を終え、帰ろうとするまで少年が怪我をしている状態であることを忘れていた。持とうかと言われて少年が左手を差し出すまで気付きもしなかった。

 少年は、昨日の事件で左手を怪我している。少年も左手が痛くないはずは無いのだが、その性格故なのか、人里を回っている途中に痛いとは一言も言わず、表情にも出さなかった。

 藍は、何も少年のことが見えていなかったと告げられているようで、酷く悪いような気がしていた。

 

 

「よし、これで全部だな」

 

 

 藍は、買った物に一通り目を配ると、全ての物を元通りの状態に戻した。

 藍が調べた様子では、買い忘れたものは一つもない。忘れ物がないか確認したことで、気兼ねなくマヨヒガに帰ることができるようになった。

 

 

「大丈夫だ」

 

「よかった」

 

 

 少年は、藍の言葉を聞いて笑顔を浮かべる。忘れ物があれば、再び人里に戻る必要があるため、面倒にならなくてよかったと安堵した。

 もう後にやることは、マヨヒガへと帰ることだけである。

 少年は、笑顔のまま両足を動かし、もともと近かった藍との距離をさらに縮める。少年は飛ぶことができないため、人里へ来た時のように藍に乗せてもらってマヨヒガへと運んでもらう必要があった。

 

 

「藍、よろしくお願いね」

 

「ああ」

 

 

 少年は、藍の背中に乗ろうと試みる。

 人里へと来た時の状況と違うのは、藍の両手には荷物が握られており少年を載せられる体勢ではないということである。少年が乗ろうとしなければ、藍の背中に乗れない状況だった。

 藍は、少年を迎え入れるために、目の前で膝を折りしゃがむ。

 

 

「さぁ、いつでもいいぞ」

 

「それじゃあ乗るね」

 

 

 少年は、人里に来た時と同じように藍の背中に乗ろうと藍の尻尾を両手で軽くどかして尻尾の上に乗り、背中にくっついた。

 藍は、両手が上手く使えない代わりに、尻尾を上手く使って少年を安定させる。藍の背中に寄りかかるように、少年の体が密着した。

 藍は、少年の体が藍の背中にくっつくと同時に背中から少年の熱と鼓動を感じとった。そして、少年が背中に確実に乗ったのを感じ取ると膝を伸ばし、離陸体勢を取った。

 

 

「よいしょっと」

 

「おおっと……」

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫だよ。ちょっと揺れたからバランス崩しそうになっただけ」

 

「和友、しっかり捕まっていろよ。荷物を抱えているとなると、落ちたときに拾えるか保証はできないからな」

 

「分かった、しっかり捕まっておくよ」

 

 

 少年の藍に抱き付く力がほんのり強くなる。藍の体には少しだけ体に力が入り、背筋が伸びた。心なしか表情も赤く染まっている。

 藍はできるだけ平常を装い、少年に向けて言った。

 

 

「そうしてくれ、くれぐれも落ちないようにな。危なくなったら言うように」

 

「了解です」

 

「マヨヒガは……あっちだな」

 

 

 藍は、マヨヒガから人里へ来たときのように人里からマヨヒガへと帰ろうと、我が家へと帰ろうとした。今度こそ、帰宅である。

 しかし、我が家への帰還を邪魔するように―――少年の後ろから甲高い声が響いた。それは、藍が今まで聞いたことのない声だった。

 

 

「帰る。帰る、帰る~」

 

「誰の声だ?」

 

 

 声は、後方から聞こえてきた。先程も言ったが、人里の外には殆ど人がいない。人といえる者は、門の見張りをしている守衛だけである。

 ならば守衛の声かと問われれば、首を横に振るしかない。

 今聞こえてきた声は、大人の声ではなく声変わりを終えていない子供の声である。聞き間違いでも何でもない、確かに甲高い子供の声だった。守衛に子供が選ばれることはない。守衛の仕事は危険であるし、力の無い子供では役に立たないため採用されないようになっている。

 守衛ではないとしたら、誰の声だろうか。子供が外に出ているなど、大人が外に出るよりもありえない。こんな危険なところに子供がいるはずがないのだ。

 

 

「誰かいるのか?」

 

 

 藍は、声のした後方を首だけ向ける。

 藍の視界の中には、何者もいなかった。いたのは、少年だけである。

 藍は、聞き間違いかと頭をかしげた。

 

 

「ん? なんか背中に……」

 

 

 ちょうどその時、少年は背中に何かが登ってくるのに気付いた。

 少年の背中には、‘何か’がしがみついている。重さがほとんどないために、僅かに感じる程度の違和感しかないが、確実に何かがいた。

 少年は、そのわずかな違和感に向けて背中に手をまわし、背中にくっ付いている物質を掴もうと試みる。

 少年の手は―――何かを確実に掴んだ。

 

 

「ん!」

 

 

 少年は、掴んでいる手に力を入れ、背中にいる物質を引き剥がしにかかる。

 少年が力を入れた瞬間、背中にあった物質を大した抵抗もなく引き剥がすことに成功した。

 少年は、引き剥がした物質を、頭を越えるように前に持ってくる。藍に寄りかかっていた体を起して、のけ反るような形で正面に持ってきた。

 少年の背中に張り付いて声を上げていた物質がその正体を現す。少年の脳は、その物質をすでに見たことがあると信号を送信した。

 

 

「妖精? 多分、妖精だと思う」

 

「多分って……分からないのか? 来る時に見ただろう?」

 

「ん~~多分、妖精かな?」

 

 

 藍は、随分とはっきりしない少年の物言いに疑問をぶつけたが、少年は再度の問いかけにも曖昧な口調で答えた。

 ここではっきりさせておくが、少年の背中にくっ付いていたのは、少年の目の前にあるのは―――間違いなく妖精である。透き通った羽を持つ、子供のような容姿を持った生き物。それは、藍の背中に乗って人里に来るまでに見た生き物と同種の生き物で間違いない。

 

 

「本当に分からないのか?」

 

「多分だけど、妖精だと思うよ」

 

 

 少年は、藍の疑問に再び曖昧な答えを返した。

 藍は、少年の曖昧な返事を聞いて少年の能力がいかに強力に少年自身に作用しているのか思い知った。

 少年は、妖精の存在がよく分からなくなってきているのだ。少年の中での妖精は、おそらくという曖昧な認識になってしまっているのである。

 

 少年の識別能力は―――境界を曖昧にする能力が原因で極端に低くなっている。

 

 少年は、ノートに書くといったアクションを起こさなければ、すぐに認識が曖昧になってしまう。覚えようとする努力をしなければ、記憶を維持することなど到底できず、何もせずに放置して次の日を迎えるようなことがあれば、何もかも分からなくなってしまう。

 少年は、妖精という生き物の存在を知ってから、妖精について思い返すこともなく、覚えようともしていない。妖精を覚えるための行動を何一つしていなかった少年の妖精に対する認識は、非常に怪しくなっていた。

 

 

「はぁ、妖精は羽が生えていること以外、見た目が人間の子供と余り変わらないからな。和友が判別できなくても仕方がないのか……」

 

 

 妖精の見た目は、人間の子供に羽がついた程度のものである。少年にとっては、人間の子供と変わらないのだろう。妖精の定義がはっきりしていない現状で少年に識別しろというのは、酷な話である。

 ただ、ここでの藍の考えには、一つだけ勘違いしているところがあった。

 少年は、別に‘妖精だけ’を覚えていないわけではない。妖怪というものも覚えていないのだ。紫や藍を妖怪だという括りで見ていないのである。

 藍が言うように、人間の姿と変わらないのならば人間と認識される少年にとって、妖精だけでなく妖怪も人間と同様の存在として認識されている。

 そこに違いなんてない。

 少年は、ただ藍と紫の二人は妖怪だという情報を持っているだけである。それは決して―――妖怪という生き物を認識し、識別しているわけではない。

 少年が、紫と藍が妖怪だと分かっているのは、あくまで区別する際にした書き記す行為によって併用して記憶されただけで、別に妖怪がどんなものなのかを区別しているわけではなかった。

 

 妖怪と人間は何が違うのか。

 

 少年は、この問いに対して答えを持ち合わせていない。藍と紫が妖怪だと分かっていても、人間と何が違うのという問いに少年は答えを用意できない。同じように食べ、同じような生活をしている藍や紫を識別できるほどの違いを認識していない。

 だから、少年の中では妖精も妖怪も人間も全て同列の同じものとして捉えられていることを、藍はまだ理解していなかった。

 

 

「また妖精が張り付いたのか?」

 

「そうなんだけど……どうしたらいい?」

 

 

 少年は、藍の質問にどうしていいのか分からず尋ね返した。

 少年には、妖精をどうしていいのか分からなかった。妖精という生き物をつい先ほど知った少年は、妖精という生き物をどう扱っていいのか見当もついていなかった。

 

 

「くっ付いているのならば、なんとか引き剥がしてくれ。妖精はここに置いて行く」

 

 

 藍は、妖精をその場に置いて行くようにはっきりと告げた。

 こういった場合の対処法は、1つだけである。置いていく、放置する、無視するという選択しかない。構うという選択肢は、最初から無いのだ。

 今回の場合、少年が妖精を連れて行こうという意志を持っていても、議論をする余地はなかった。それは、妖精というものの存在自体が理由になっている。

 

 

「持って帰っても面倒が増えるだけだからな」

 

 

 藍は、結論が置いていくことで決まっているのだと少年を諭させるように強く言葉にして伝えた。

 妖精をこのままマヨヒガへ連れて行くわけにはいかない。妖精は、犬猫のように生きているものではなく、自然の権化なのである。

 ここで連れて帰っても、どこかに消えていなくなるだろう。少年が妖精を連れて帰りたいといっても、どうせいなくなってしまうのである。

 それに妖精は、基本的に悪戯好きの者が多く、扱いに困ることが多い。悪戯好きの妖精を飼うには、よっぽどの調練が必要になる。何をやっても、人以上に何かができるようになることは無く、面倒事ばかりを起こす妖精を連れていくメリットはほぼないと言ってよかった。

 

 

「それが、もう引き剥がしているんだけど……」

 

「どうかしたのか?」

 

 

 少年は、藍が言う前に張り付いていた妖精を引き剥がしていた。

 ただし、問題は引き剥がした後の妖精にあった。少年はどう対処していいのか迷っていた。

 妖精が今にも泣きそうな表情で少年に訴えかけてきたのである。捨てないでほしいというように悲しそうな顔で懇願してきたのだ。

 

 

「嫌、嫌、嫌。置いて行かないで、一緒に連れてって」

 

「なんか、嫌がっているんだけど……一緒に連れて行ってだってさ」

 

 

 妖精は、涙目で首を横に振り少年に訴えた。瞳に涙を溜め、今にも泣き出しそうになっている。

 少年は、泣きそうになっている妖精を見つめる。無表情で興味なさげに妖精を見つめていた。

 少年は最初から、妖精を連れて帰ろうなんて少しも思っていなかった。藍が言うのならば、少年には従う以外に選択肢が存在しないのだから、考えても仕方ないことなのである。

 少年は、ただただ訴え続けている妖精を見つめる。眺めるように、射抜くように目線を逸らさなかった。

 

 

「何がどうなっているのだ……?」

 

 

 藍は、今背中で起きている状況―――妖精が連れて行ってくれと懇願するという状況に頭が追いついていかなかった。

 妖精は、自分自身の意志で何かをして欲しいなど言うことはない。相手の都合など聞くような生き物ではないはずなのである。

 藍は、状況がただ事で無いことを悟る。

 

 

「和友、ちょっと待ってくれ。一度背中から降りてくれないか?」

 

「うん、分かった」

 

 

 少年は、藍の言葉に了承し、妖精を抱えたまま背中から降りた。

 

 

「これでいい?」

 

 

 少年は、地に足を付けて妖精を正面に抱える。

 少年の腕の中には、すっぽりと妖精がはまっていた。

 

 

「ちょっと、持っていてくれないか」

 

「うん」

 

 

 藍は、片腕を封じている食品を入れた袋を少年に手渡す。この時ばかりは、さすがに少年に荷物を渡した。

 少年は、妖精を地面に置いて袋を受け取る。生地については、持つことができないと判断してか藍が持ったままである。

 妖精は、ちょこんと地面に降り立ち、少年の足にしがみつくようにくっついた。

 藍がゆっくりと少年の足元にいる妖精に近づくと、妖精を見下すような形で口を開き、普段ならしない妖精への問答を始めた。

 

 

「なぁ、お前はどうしたいんだ?」

 

「私とこの人は、一緒。一緒だからついて行く。くっ付いて行く。一緒なものは、一緒にいる」

 

「どういうことだ?」

 

 

 妖精は、藍の質問に顔を向ける事もなく、少年のズボンに顔を埋めたまま答えた。

 藍は、妖精からの答えを聞いても、どうして今の状況が生まれているのか何一つ理解できなかった。

 

 

「…………」

 

 

 嫌な予感がした。妖精は、こんなことを言ったりしない。大きな力を持っている妖精ならいざ知らず、力の欠片も感じない妖精がここまで自我を持ち、意志を固めることは決してない。

 藍は、心に湧き上がる不安を押し潰すために少年にある提案を持ち掛けた。

 

 

「和友、すまないが……」

 

「どうしたの?」

 

「この妖精を―――殺してもいいだろうか?」

 

 

 唐突な言葉だった。

 藍は、近い未来に起こりうる異変の可能性に恐怖を覚えた。このままにしておけば、大変なことになる。早めに対処する必要がある。脳内から次々と危険信号が送られてくる。

 妖精の異常は、間違いなく少年が起こしたものだ。何がどうなってこうなったのかは分からないが、少年が原因でこうなっているということが直感的に理解できた。

 藍は、一つ間違えば、幻想郷が危なくなる可能性を予期した。

 

 

「僕の物じゃないし、別にいいよ。妖精もそれでいいよね?」

 

「嫌、嫌! 死にたくない! 死にたくない!」

 

 

 妖精は、絶叫するように叫び、死を拒絶する。妖精にあるまじき光景である。藍の心の中の不安の種は、確実に芽を出し始めた。

 

 

「なら、頑張ってね。頑張って生き残ればいいんだ。そうすれば誰も文句を言わないよ。誰も何も言わないよ」

 

 

 少年は、妖精に対して笑顔で淡々としゃべり、懇願をしてばかりの妖精に投げつけるように言葉をぶつける。

 

 

「勝てばいいんだよ。やりたいことをやるには、勝ち取るしかない。自分の想いを遂げるには、努力して掴みとらなきゃいけないんだ」

 

 

 藍は、少年の言葉が自分自身に言い聞かせているように聞こえていた。

 圧倒的説得力を兼ね備えた少年の言葉は、少年のこれまでの人生の重みによるものだろう。普通に生きたいと言った少年は、努力で普通を勝ち取ってきたのである。

 

 

「誰かに助けを求めても助けてもらえないこともある。むしろ、助けてくれないことの方が多い」

 

 

 少年にとって書き記す作業は―――戦いである、能力との勝負である。

 負ければ、区別できずに苦しむことになる。

 勝てば、区別できるようになる。

 それは、誰かがやってくれる話ではなく、自らが苦しみ成し遂げなければならないこと。

 少年の書き記す作業は、負けないという心、絶対に勝つんだという意思が心を支える唯一の存在だった。

 

 

「戦わなきゃいけないんだ、勝負に勝つために、負けないために」

 

 

 少年は、強い心と同様に力が無ければ想いを遂げることはできないことを知っていた。

 そんなことは、嫌というほど何度も体験している。例を挙げれば、病室において少年が幻想郷へ行くことを拒否した時、紫に力の大きさで負けて連れて行かれたことが挙げられる。まさしく力が足りなかったから引きずられることになった。

 自分の想いを貫くには力が必要になる。

 少年は、よく分かっていた。

 

 

「じゃないと……ぽっきり折れちゃうよ?」

 

「勝つ、勝てばいい……」

 

 

 そんな圧倒的な説得力を持つ少年の言葉は、妖精に伝搬する。

 妖精は、自分に言い聞かせるように小さく呟くと、涙目になった瞳を真っすぐ藍に向け、力強く拳を握った。藍に対して勝つ気持ちを携えて、全力を持って立ちはだかる。明確な戦う意志を藍へと示し、生きるために藍と戦うと宣言した。

 

 

「勝負、負けない」

 

「妖精如きでは、私に勝てはしないよ」

 

 

 藍は、目の前に一丁前に立ちはだかる妖精を射抜くように目に力を入れ、妖精と自分の間に存在する明らかな実力差を示す。妖力の蓋をほんのり解放し、漏れ出すように力を見せつける。

 

 力の放出に対応するように藍を中心にして放射線状に突風が吹いた。

 

 藍は、自分と妖精の二人の間にある力の差を、妖精の心をへし折るように見せつける。

 妖精は、あまりの力の差に恐怖を感じ、冷や汗をかいていた。それでも妖精の瞳は真っすぐに藍の瞳を貫いている。震える足を前に向けていた。

 妖精の心は―――折れていなかった。

 

 

「勝つっ!!」

 

 

 妖精は、一言叫ぶと藍に向かって拳を振り上げ突進する、生き残るために前に進む、障害を突破する、固い意志と少しの勇気を持って拳を振りかぶる。

 少年は、二人の様子を眺めていた。特に感傷に浸るわけでもなく、自分がけしかけた妖精がこれからすぐに死ぬと分かっていても、何一つ動こうとはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――何かがつぶれる音がした。果物がはじけるような、独特な音が鳴り響いた。

 

 

 

 藍と妖精の勝負は、一瞬でついた。妖精の拳ではなく、藍の振り切った拳で全てが終わった。少年に袋を持たせることで空いた―――右腕による一撃だった。

 妖精は振り上げた拳を振り切ることすらなく、一撃で絶命し、その姿を自然へと返す。きれいさっぱりなくなる。

 少年の目に映る景色には、藍だけしかいなくなった。

 少年は、何もなくなった景色に軽く手を振り、いなくなってしまった相手に向かって別れを告げる。

 

 

「バイバイ」

 

 

 人里に来たときと同じ別れを告げた少年の言葉に、返事は返ってこなかった。

 



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不安の芽生え、マヨイガへの帰宅

 藍と妖精による戦いがあった後、少年と藍は人里に来た時と同じように飛行して帰宅の途についていた。

 飛ぶことのできない少年は、妖精が死んでも特に表情を変えることなく、変わった仕草や様子も見せずに藍の背中に乗っている。変わらないというのは文字通りで、来たときと同じように楽しそうに周りの景色を見つめていた。

 

 

「やっぱり飛ぶのは慣れないなぁ。どうしても落ちるときのこと考えちゃうよ。この高さから落ちたら死んじゃうもんね」

 

 

 少年は、楽しそうな顔とは裏腹に不安を口にする。

 藍は、少年の表情に出ているものが本当なのか口から出ている言葉が本音なのか分からなかったが、口から出ている言葉が本心から出た言葉だろうと思った。

 

 

「絶対落ちないから心配するな。それに、例え落ちても地面に落ちる前に拾うからな」

 

「藍がそう言うのなら安心だね」

 

 

 藍の言葉を聞いた少年は、安心したように笑顔のまま目を輝かせて再び緑の生い茂った幻想郷を見つめる。いつもと変わらない様子で、いつも通りに楽しそうに、いつも通りの笑顔で、笑みを浮かべている。

 そんないつもと変わらない少年を乗せた藍は、いつもとは違った様子だった。

 

 

「死にたくない、か……」

 

 

 藍は、頭を悩ませていた。少年に聞いても分からないし、少年に聞かれたくない内容だったので決して口には出さず、頭の中だけで疑問を抱えて思考していた。

 もちろん悩んでいる中身は、先ほどの妖精のことである。

 

 

「嫌、嫌! 死にたくない! 死にたくない!」

 

「妖精は死を恐れない。死という概念がない妖精には、死に対する恐怖などありはしない。だが、あの妖精は確かに死にたくないと言った」

 

 

 妖精は、確かに死にたくないと言った。それは、藍の聞き間違えではないはずである。

 妖精は、本来であれば死を恐れることはなく、生きていたいと、死にたくないと主張をすることはない。

 生きていたいと主張しない理由は非常に簡単なもので、妖精には死という概念が存在しないからだ。

 

 

「妖精にあるのはあるがままの自我だけ……自然へと還る流れだけ……」

 

 

 妖精は自然の権化であり、死んでもすぐに生き返るという特性を持っている。生き返るというより、生まれ変わるというほうが正しい表現になるだろうか。自然から生まれた妖精は、死んで自然に還り、再び自然から生まれるのである。

 

 

「なぜだ……どうしてこんなことが起こっているのだ……?」

 

 

 藍が気になっていたのは、妖精が死を恐れたことに関してだけではない。妖精が戦う姿勢を示したことに対しても疑問に思っていた。

 

 

「妖精は私に対して戦う姿勢を示した。圧倒的な相手に対して、高圧的な威圧に対して足を前へと踏み出した。普通ならば絶対にありえないことだ……」

 

 

 力の強い妖精は別にして(例外に氷の妖精であるチルノのような存在がいる)、力の弱い妖精は圧倒的な力の差がある相手に対して立ち向かうような勇気を持っていない。

 この場合は、勇気というよりも蛮勇や猪突猛進という言葉の方が似合うかもしれないが、本質は変わらないだろう。知識がなかろうが、無鉄砲だろうが、この場合は関係ない。

 これらの気質は、死の恐怖には決して敵わないからである。生き物としての本能が死ぬということを許さないからである。だから、妖力を少しばかり解放した藍に対して妖精が立ち向かってくるということは基本的にありえないことだった。本質的に、本能的に、その選択肢が選ばれることはないはずだった。

 しかし、あの妖精は―――そのありえないことをやってみせた。

 

 

「妖精の思考は、いつだって悪戯をすることに向いている。誰かを困らせてやろうという意識が前面に出ている。もしや……私の勝負を受けることが、悪戯の一部だったということか……?」

 

 

 一般に妖精が持ち合わせている意志として挙げられるのは、人間に悪戯するというものだ。はっきり言ってしまえば、人間に悪戯しようという意志だけしか持っていないと言ってもいい。それほどに妖精の思考回路は単純である。

 そのような妖精が、‘生きるために’圧倒的に力の差がある藍に対して戦いを挑んでくるというのは、どう考えても起こりえない現象だった。悪戯のために藍の勝負を受けたという可能性を除けば―――という前提条件を入れれば、であるが可能性はゼロに近いだろう。

 だが、消去法的に悪戯心から立ち向かってきたと考えると、妖精の表情や雰囲気が釣り合わない。妖精は真剣に、真面目に、正面から向き合って、相対して、戦って、死んだ。

 あれが―――悪戯だというのだろうか。

 

 

「いや、分からないことを考えても仕方がない。分からないことは推測の域から出ないのだから。今、分かっていることを考えるんだ……」

 

 

 藍は、首を横に振り、停滞する思考を振り払う。

 こういう場合は、分かっていないところからよりも、分かっているところから考えていくべきだ。

 分からないことを考える場合には、確実に推測の類になってしまい、本質が見えなくなる。推測とは、確かな事実から導き出された予測でなければ、信じるに値しない物となる。今考えるべきは、今分かっていることである。

 

 

「原因は考えるまでもない。原因は……和友に決まっている。他にはありえない」

 

 

 妖精が強い自我を持って戦いに応戦した原因についてはすでに予測がついている。原因など分かりきっているのだ。

 原因は―――少年以外に存在しない。

 

 

「問題は、なぜ今なのかということだな……」

 

 

 藍が悩んでいる部分は事が起こった原因ではなく、なぜそのようなことが急に起こったのかについてである。

 妖精の精神を根本から変えるような影響力が少年から溢れ出ているということなのだろうか。

 

 

「紫様と話をしなければ……」

 

 

 藍は、答えを導き出すことができず、疑問と少しの不安を抱えながらマヨヒガへと向かっていった。

 

 

「あっという間についちゃったね」

 

「なんだ? もっとゆっくりの方がよかったか?」

 

「もう少しゆっくりだと色々見られたかもしれないけど、時間がかかっちゃうからこれで十分だよ。また今度連れてきてね」

 

「もちろんだ」

 

 

 マヨヒガは、もう目と鼻の先にある。

 藍は、マヨヒガの前で高度を下げて地面との距離をゼロにした。

 

 

「さぁ、着いたぞ」

 

「うん」

 

 

 少年は、乗った時と同じようにして藍の尻尾から降り、藍の前を率先して歩き出した。

 藍は、少年の後ろについていくような形で足を前に進める。少年は、マヨヒガの玄関へとたどり着き、両腕がふさがっている藍の代わりにマヨヒガの家の玄関を開けた。

 玄関の扉は音を立てて開き、二人を出迎える体勢を整える。

 

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 藍は気を遣ってくれる少年にお礼を述べ、少年は嬉しそうに返事を返した。

 少年と藍の視線が家の中へと向けられる。

 玄関の扉の向こうには、紫が笑顔で立っていた。どうやら紫は、二人の帰りを待っていたようである。

 

 

「紫様!?」

 

「二人ともおかえりなさい。いい買い物はできたかしら?」

 

「紫、ただいま。人里での買い物はものすごく楽しかったよ。やっぱり人がにぎわっている場所は楽しいね」

 

「楽しかったのなら何よりだわ」

 

 

 藍は、玄関で待ち構える紫を見て驚いた表情を隠せずに硬直する。紫を見つめる藍の瞳は信じられないものを見るような眼をしている。紫の普段の生活を知っている藍にとっては、目の前に広がる光景は妖精が自身に立ち向かってくるのと同様に異様な光景だった。

 

 

「紫は、僕たちが買い物に行っている間何をしていたの?」

 

「何もしていなかったわ。しいていえば……貴方たちが帰って来るのを待っていたということになるかしら」

 

「ふーん。だったら紫も一緒に来てくれてもよかったのに。二人より三人の方がきっともっと楽しくなったはずだよ」

 

「ふふっ、また今度の機会にでも誘ってくれればいいわ」

 

 

 少年は、気を動転させている藍を置き去りにしていつも通りの対応をする。

 少年は、幻想郷で生活して2日目なので、紫がどのような生活を送っているのかはっきりとは知っていない。藍の言っていた無秩序な、怠惰を具現したような紫の生活を見たことがない。

 藍と少年の両者の対応の違いを生み出していたのは、紫のことをどれほど知っているかの知識量の差だった。

 藍は、ここまで会話が進むと意識を取り戻したように慌てて紫に言葉を返した。

 

 

「紫様、ただいま戻りました。有意義な時間を過ごしてまいりました」

 

「そうみたいね。表情から何となく分かったわ」

 

 

 紫は、楽しそうにしている少年の表情を見て充実した時間を過ごしたのだろうと思った。少年の表情や言葉からは、人里へ行ったことに対して後悔するような印象を受けなかったからである。

 しかし、そんな少年とは対照的に藍の表情は微妙に固い。藍は、先ほどから心に沸き立つような疑問に堪え切れなかった。

 

 

「紫様、今日は起きるのが随分(ずいぶん)と早いですね」

 

 

 藍は、紫が昼前に起きてきていることに対しての驚きでいっぱいだった。通常の場合では、ありえないということができる程度に可能性が低い現象が起きている。

 

 

「いつもは、もっと後に起きていらっしゃるのに……どうかされたのですか?」

 

 

 藍は、紫が基本的に夕方に起きてくるような夜型の生活を送っていること知っている。紫が、寝ることが大好きなことも知っている。今の時間帯は、普段であればまだまだ寝ているような時間である。

 藍は、そんな夜型の生活を送っている紫が昼前に起きて買い物から帰ってくるのを出迎えてくれていることが信じられなかった。

 紫が早く起きているのは、少年が初めて外に出たからなのだろうか。藍は、そのように想像する。人里へ買い物をする状態において、普段と違うところなど少年しかない。その違いが主である紫を動かしたのだと、考えがそれ意外に思いつかなかった。

 

 

「もしや、和友が心配で起きてこられたのでしょうか?」

 

「まさか、藍に任せているのに心配なんてするわけないわ」

 

 

 紫は、笑みを崩さずに心配などしていないと告げた。

 藍は、紫の信頼を表す言葉に思わず嬉しくなった。信頼されているということが分かる紫の一言に心臓が鼓動し、微笑みが作り出される。

 けれども、藍の疑問に答える形には残念ながらなっていない。肝心の早く起きてきている理由が分からない。

 藍は、笑顔を隠すことなく尋ねた。

 

 

「ではなぜ、こんなに早くから?」

 

「今日からこの子の練習を始めるのよ」

 

「それは、別に夜からでも構わなかったのではないですか?」

 

 

 紫は、少年と能力の練習をするために早く起きてきたようだった。

 朝早くと言ってはいるが、時刻はすでに昼前である。それでも紫が起きるには、早い時間であることに変わりはない。紫にとっては、この時間帯は朝早くという時間である。

 

 

「私が無理に能力の練習をさせようというのに、私の時間に合わせるというわけにはいかないでしょう?」

 

 

 紫は、少年が嫌々幻想郷に来ていることを知っている。病室でのやり取りから、幻想郷に来たくないことも理解している。

 紫は、少年の心的状況を把握していて自分の生活スタイルに合わせろと言うほど自分本位ではない。嫌がる少年に無理やり能力の練習をさせるのに自分が少年の時間に合わせないというのはどうなのだろうと、疑問を覚える程度には良心があった。

 だから、こうやって起きる時間を早めて少年に時間を合わせる形をとろうとしている。

 しかし、それを考えても紫の起きる時間にしてはかなり早い。少年の能力の練習に何時間必要とするのかは分からないが、妖怪のような体力を持っている化け物ではない少年の体力も考えれば長時間行うことはないだろう。やはり、どう考えても昼前に起きてくる必要はないはずである。

 藍は、歯切れの悪い様子で告げた。

 

 

「それはそうかもしれませんが……ちょっと早すぎるのではないでしょうか? 後2時間ぐらいは寝ていてもらっても問題ないように思われますが……」

 

「早く起きてきたのは、何もこの子の能力の制御の練習をするためだけじゃないわ。昨日できなかったことがあったからよ」

 

「そういえば昨日は、能力について話すための時間が取れませんでしたからね」

 

「そうそう、能力の話は色々あってできなかったのよね」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて確かに昨日は色々あったためにすると言っていた能力の練習についての話を一切していなかったことを思い出した。

 少年の幻想郷に来た第一目的は―――能力の制御である。それは、何よりも優先すべき事項である。

 しかし、肝心の能力の練習の仕方や、前もって必要な知識を得る準備をしていない。能力の性質を考えると練習の方法を知らなければ、能力の練習をすることは不可能だった。

 

 

「ごめん。僕のせいかな。昨日は結構迷惑かけたもんね……」

 

 

 少年は、紫が言葉を発した後、深々と頭を下げた。紫が早く起きた理由を聞くとどうしても紫に対して悪いと思ってしまうようで、(うつむ)く少年の顔は、非常に申し訳なさそうな表情になっていた。

 

 

「別にいいのよ。昨日は私達も悪かったんだから」

 

「そうだぞ。和友は気にするな」

 

 

 紫は、頭を下げる少年を気遣い、気にしないでと少年の頭を優しく撫でる。藍も紫と同様に少年に対して気を遣った。

 昨日のことに関しては、どちらかというと少年よりも紫の過失によるものが大きい。昨日あれほどにお互い疲れてしまう結果になったのは、紫が何も考えずに藍を少年の心の中に入れてしまったためなのだ。紫と藍は、少年が謝るのはお門違いだと思った。

 

 

「……二人がそういうのなら気にしないようにする」

 

 

 少年は、二人の言葉に(うつむ)く顔をあげて笑顔になった。紫と藍は、少年の笑顔につられるように笑顔を作る。

 

 

「それじゃあ、何時から能力の練習を始めるの?」

 

「そうねぇ……」

 

 

 紫は、少しばかり悩むそぶりを見せながら僅かにしゃがみ、少年の顔の高さに合わせる。

 少年の能力に関する所見が足りない現状を考えれば、少年から能力の話を聞いたり、これまで起こってきた事例を尋ねたりして知識を蓄える必要があるだろう。少年の能力の実態が何なのか分からないまま能力の練習をしても、効率が上がらないことは目に見えている。情報が少ない現状では、能力の練習の内容についても決められないのだ。

 ただ、紫は能力の練習をするところまで今日中にたどり着きたかった。能力の練習まで行うことを前提とすると早めに話し合いを行って情報を集めた方が良いだろう。話し合いの時間は、おおよそ1時間あれば大丈夫だろうか。

 紫は、悩んだ末に少年に対して答えを出そうとする。

 しかし、紫の声がのどから出る前に、藍の声が紫に向かって投げかけられた。

 

 

「紫様、申し訳ありません。少し話したいことがあるのですが……」

 

「…………」

 

 

 紫は、少年の高さに合わせた(ひざ)を伸ばし、藍の顔を見つめる。藍の表情は非常に真剣なものであり、事の重要性がうかがわせるものだった。

 紫は暫くの間藍を見つめ、一度頷くとその場で手元にスキマを開き、中を覗き込むように視線を向ける。そして、再び少年に顔を向けて口を開いた。

 

 

「藍が話したいことがあるそうだから、能力の練習は午後2時からでいいかしら?」

 

「午後2時からだね、分かったよ」

 

 

 紫は、現在の時刻をスキマを覗いて確認し、藍の話し合いの件を考慮して少年の能力の練習を午後2時から行おうと提案した。現在の時刻は大体11時頃であるため、お昼ごはんを食べてしばらくしたら能力の練習をするということになるだろう。

 

 

「藍、話し合いは昼ご飯を食べた後にしましょう。2時までには、話し合いも終わるでしょう?」

 

「はい、それだけあれば大丈夫だと思います。ですが、昼ごはん前でも……」

 

 

 藍は、紫の提案にすぐさま肯定の意志を示すと、同時に疑問を抱えた。

 どうして紫は、昼ご飯を食べた後に話し合いをしようと提案したのだろうか。藍は、頭の中ですぐに答えを導き出すと表情を綻ばせた。

 

 

「ふふっ、そういうことですか」

 

 

 大事と言っている話よりも先に食事を取ろうとする紫の姿勢は、明らかにお腹が減っていることを指し示すもの。きっと、主である紫はお腹を減らしている状態なのだ。話し合いをする前に空腹を解消したいのだろう。

 お腹が減るという感覚は、妖怪に本来備わっていない感覚である。お腹が減っているというよりは、習慣になってしまっているから勝手にそういう気持ちになるだけである。

 妖怪は、人間の食糧を食べなくても十分に生活できる。空腹を感じるのは、恐怖や畏怖が少なくなってきているか、勘違いにも似た習慣から来るまがいものの信号によるものである。

 だったら、二人が帰って来るまでに何か食べていればよかったのではないかと思う人がいるかもしれないが、基本的に紫は料理を作ることはしない。遥か昔はしていたのかもしれないが、最近に関しては紫が料理をしているところを見たことがない。

 なんにせよ、主はお腹を空かせていて食事を待ち望んでいるようにしか藍には見えなくなっていた。

 

 

「紫様も、もう少し和友を見習って素直になったらどうですか?」

 

「なんのことかしら?」

 

「ふふふっ……分からないのならば別にいいです」

 

 

 ここで、紫の提案を断るという選択肢も藍には存在する。話の方が先ですと、ご飯は後回しですと言うこともできた。

 ただ、それをしなかったのは、お腹が減っているからご飯を先に食べるということを素直に言えない紫を微笑ましく思ったからだった。

 

 

「紫様のために、早速作りましょう」

 

 

 藍は、お腹をすかせている紫のためにと息巻いて、さっそく料理を作ることを宣言する。紫は、藍の勢いのいい声に怪訝そうな表情で見つめた。

 

 

「なんだか勘違いされている気がするわ」

 

「大丈夫ですよ。勘違いなんてしていません」

 

 

 紫は、自分と藍との間に誤解が生じていると感じて、質問を重ねる。

 

 

「本当に? 本当の本当に?」

 

「ええ、本当です。私が紫様の意図を読み取れていないわけがありません!」

 

「そ、そう……」

 

 

 紫は、藍の勢い任せの言葉に流されて曖昧な言葉を返すに留まった。

 依然として紫の顔に張り付いている怪訝そうな表情は変わらないが、このまま話しても埒が開かないと察したようである。このまま押し問答をしても、不毛なやりとりをしていても意味が無い、時間の無駄だと悟ったようだった。

 藍は、意外に頑固なところがあり、思いこむと一直線になるところがある。昔からそうだった。九尾として名をはしていたころから、どこか愚直で、気持ちに真っ直ぐで、それでも寂しがり屋な妖怪だった。

 藍は、玄関を上がると後ろについてくる少年に向かって顔を向ける。

 

 

「和友、今からご飯を作るからな」

 

「料理については僕も手伝うよ。僕にも何かできることがあると思うからさ。でも、とりあえずその前に覚える言葉だけノートに書いてから行くから少しだけ遅れるね」

 

「ああ、分かったよ。待っているからな」

 

 

 少年が発言した後、藍、紫、少年の3人はそれぞれの居場所に向かって歩き出す。玄関を上がって、藍と紫は並んで談笑しながら歩いていく。少年は、二人の後ろをくっつくようにして付属した。

 3人で廊下を歩いている間に、一人、また一人と左右の道に()れていく。()れていく時に一言、言葉を残して別れていった。

 

 

「待っているからね」

 

 

 紫は―――食事をする居間へ。

 

 

「荷物だけ置いてきます。すぐに戻りますから」

 

 

 藍は―――荷物を置きに部屋へ。

 

 

「僕もやることを終えたら、すぐに居間に向かうよ」

 

 

 少年は―――ノートに言葉を書くために部屋へと向かった。

 3人は、こうして1人になった。

 



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外への想い、帰るべき場所

 それぞれの部屋に散った3人は、暫くして居間に集合する。そして、3人が揃ったところで皆が自分の役割を理解しているように、特に言葉を交わすこともなくそれぞれが行動を開始した。

 

 

「では、料理を始めますね」

 

「僕も手伝うよ」

 

「期待しているわよ」

 

 

 集まった三人は、それぞれに動き始めた。

 藍は、これから食べるための昼食の準備を。

 少年は、料理を作っている藍の手伝いを。

 紫は、テーブルの傍の椅子に座り料理の完成を待っていた。

 

 

「和友は、料理ができるのか? かなり手馴れているようだが」

 

「いつもやっていたからね」

 

 

 藍は、料理の手伝いに入った少年の慣れた手つきに驚いた。

 少年の手は、流れるように動いている。いつもやっていたというのは、伊達ではないようである。

 少年には、両親と一緒に料理をする習慣があった。それに、人里で藍と食材を買ったときに昼食に何を作るのかを聞いていたため、次に何をするのか理解しているようで手際良く藍の料理の補助をしていた。

 少年は、皮の剥き終わったじゃがいもをまな板の上に置くと、藍に向けて質問を投げかける。

 

 

「ジャガイモの大きさって、いつもどのぐらいの大きさで切っているの?」

 

「ジャガイモは気持ち小さめに切ってくれ。それでちょうどいい大きさになるからな」

 

「了解したよ」

 

 

 少年は、藍の言葉に理解を示し、藍の要望通りの大きさにじゃがいもを刻む。

 気持ち小さめというのがどのくらいなのか具体的に判断できない少年ではあるが、普通の大きさがどの程度か判断できれば、それで十分である。いつも見ている普通より小さく見えるように切ればいいのだから。

 藍と少年の二人は、せわしなく動いて料理を作る。二人の料理をする光景は、初めて一緒に作っているとは到底思えない光景だった。

 

 

「…………」

 

 

 紫は、二人の作業している風景をテーブルから眺めている、不自然なぐらい凝視している。紫の瞳は微動だにせず、少年を静かに見定めていた。

 

 

「何か気になるの?」

 

「別になんでもないわ。ただ、微笑ましいなと思って見ていただけよ」

 

 

 紫は、料理をする少年の姿に私生活の一部を垣間見たような気がした。これだけ料理をするのが手慣れているということは、普段から両親と共に料理を作っていたことを容易に想像させる。

 だとすれば、今の藍の場所にいたのはきっと母親である。実際に、隣にいる藍と手伝っている少年は、はたから見ていると仲の良い親子のように見える。見た目が全然違うということを考慮しても、雰囲気がそう見えるのである。

 

 今、少年はどんな気持ちで料理を手伝っているのだろうか。両親が死んでまだ2日目の今―――何を考えているのだろうか、何を想っているのだろうか。

 

 紫は、少年の心境を察する。

 少年は、そんな紫の心境を理解しているわけもなく、紫の褒め言葉に表情を緩め、恥ずかしそうに言った。

 

 

「僕の家ではごく普通のことだったんだけどね。親の手伝いってさ」

 

「いい心掛けだと思うわ」

 

 

 紫は、一言少年を褒め称えた後、少年に気を遣うように言葉を投げかける。

 

 

「でも、ここでは藍が料理を作ってくれる。さっきは期待しているなんて言ったけど、和友は座って待っていてもいいと思うわよ」

 

 

 藍の立場が本来少年の母親のものだというのならば、少年の心に大きな負担をかけることになるだろう。一緒に料理をすることで、嫌がおうにも両親が死んだことを思い出してしまう。

 少年が両親を失ったのは、つい一昨日のことなのだ。藍と一緒に料理をすることは、少年に母親の影を想起させる原因になりうる。失った穴の存在を深く知ることになる。

 

 人は、失ってから知るのだ。そのものの価値を、そのものの大きさを。失ってから知るのである。

 変化が無ければ気づかない。

 それは、空気が無くなるまで空気の存在に気付かないように、当たり前となってしまっているから。それは、無くなる前の当たり前が存在の大きさを隠しているからに他ならない。

 隠された存在は、失って初めて存在感を見せつけはじめる。取り戻したくなる、取り戻せないものを取り戻したくなる。

 だが、残念なのか、僥倖なのか、能力の練習をしっかりしなければならない少年は、他のことにかまけている時間もなければ、両親の死を引きずっている時間もない。心の負担になるようなことも極力させない方が良いのだ。目的の達成のためには、足かせはできるだけ無い方がいい。

 紫は、昨日の今日で能力の練習以外のことを少年にやらせようとするのは、酷な事のように思えてしかたがなかった。だから、料理をする必要はないと提案をした。

 しかし、少年は紫の言葉に従わなかった。

 

 

「ありがとう。でも、ここにいる間は手伝わないわけにはいかないよ」

 

「どうして? 私たちは別に気にしないわよ?」

 

「気持ちの問題なんだとは思うんだけど……どうしてもやらないと気が済まないんだ」

 

 

 少年は、心の内に秘めた切実な気持ちを漏らし、何もしないということができない旨を紫と藍に伝えた。

 

 

「僕、ここだと居候の身なんだし、できることはやらないとね。何もやらないままでいたら、迷惑ばっかりかけているみたいで嫌なんだ」

 

 

 少年は、紫や藍におんぶにだっこの状態でいるのが嫌だった。

 少年にできることは、貰った恩をできるだけ返すこと、借りているものをできるだけ返すことである。

 貰ったものは、預かったものは全て返さないといけない、少年からはそんな強い意志が感じられた。

 

 

「別に返さなくてもいいのよ? 私達はお金に困っているというわけでもないし、あなたを助けているのも私達が勝手にやっていることなのだから」

 

「そうですよね。これは、私たちがしたくてやっていることなのだから和友が気にする必要はないぞ」

 

 

 紫は、少年の背負っているものに気付き、少しでも下ろしてあげようと優しい言葉を投げかけた。人里において藍が少年にかけた言葉と同様の言葉を少年へと送った。

 藍は、紫の言葉を聞いてやはり紫が少年に対して恩を着せようとは思っていなかったのだと知り、同調するように言葉を重ねた。

 だが―――少年を気遣うような二人の言葉は少年には届かない。

 

 

「いや、絶対に返すよ。絶対に、絶対にね」

 

 

 少年は、紫の好意を切り捨てるようにはっきりと告げる。動かしていた腕を止めて、視線を紫に向けて、言葉をかみしめるように紡ぎ出した。

 

 

「僕、両親が死んで分かったんだよ。嫌になるぐらい分かった。やっぱりこういうものって、忘れられないものなんだよ……忘れちゃいけないものなんだ……」

 

 

 少年から零れ落ちる言葉は―――失って気付いたこと。

 無くして―――初めて分かったこと。

 一番の頼り所だった、止まり木だった両親を失って初めて気付いたことだった。

 

 

(和友……泣いているのか?)

 

 

 藍には、少年が泣いているように見えた。少年の周りの雰囲気が、空気が変わっている。少年の周りには、重い空気が立ちこめている。

 少年は、震える声を出して必死に想いを吐き出した。

 

 

「もしも、貰ったものを何も返せずに僕の世界に帰ることになったら気持ちを引きずるじゃないか。何も返せていないことが、僕の心の中にずっと残ってしまうじゃないか」

 

 

 少年は、よく分かってしまった。

 何も返すことができない虚しさを知ってしまった。

 

 

「貰ったもの、借りたものは全部返さないと引きずったまま前に進めなくなる。これまで貰ったのが、僕の気持ちを重くする。足が重くて前に進まなくなる。後ろが気になって仕方がなくなるんだよ……その重さが僕の足かせになるんだ」

 

 

 少年は、親からたくさんのものを貰った。

 貰って、貰って、貰っただけだった。

 これっぽっちも返せていなかった。

 本来であればするはずの親孝行なんてまだ何もしていない。

 何も返すことができていない。

 そして―――返したいという想いは二度と叶うことはなくなってしまった。両親へと返すことができなくなった。

 何も両親へと返せていない。両親から貰ったものを何も返せていない。

 悲しむということを禁じられている少年は、両親のことを確実に引きずっている。

 忘れなければいいと豪語していた少年は、二人の前で素直な気持ちを吐露した。

 

 

「それは、ものすごく苦しいことだから……」

 

 

 紫は、少年の予想外に重い雰囲気に気圧されそうになった。

 少年の言葉からは、どこか経験を経ているような重みを感じる。

 過去に何かあったのだろうか。取り返しがつかなくなるようなことが、大切なことを忘れてしまったようなことが―――あったのだろうか?

 

 

「そうね……その通りだわ。外の世界には、あなたの帰るべき家があるものね」

 

 

 紫は、重くなった雰囲気を変えようと声を発した。これ以上、空気が重くなるのを避けるようにして話を前に進ませようとした。

 少年には、まだ帰ることのできる家が待っていてくれている。それは、紫が確認した通りである。しっかりと地面に立って、どこか寂しそうに家族の帰りを待っている家が外の世界には存在している。少年には、帰ることのできる場所があるのである。

 紫は、少年が能力の制御を可能とした場合、過去に藍へと提示したいずれの選択肢を取ってもかまわないと思っていた。家が待っている外の世界に帰るもよし、幻想郷に住むもよし、どちらにしても支えてあげようと思っていた。

 

 

「でも、ここに永久就職してもいいのよ? 無理して帰る必要もないわ。私は、ここに残ってくれても別にかまわないと思っているから。貴方の好きにしなさい」

 

「…………すぅ、はぁ……」

 

 

 少年は、紫の言葉に大きく息を吸う。何かを飲み込むように、気持ちを落ち着けるように一度大きく息を吐き、言葉を口にした。

 

 

「藍にも言われたんだけど、まだ決心がつかないんだ」

 

 

 少年は、ここに残ればいいという紫の提案への答えをはぐらかした。少年には、どれだけ藍と紫がいいと言っても、このまま幻想郷に住むことを簡単に決めることができなかった。

 

 

「ここですぐに決めちゃったら、きっと……後悔する……」

 

 

 幻想郷で生きるということは、少年にとって大きなことである。

 幻想郷で過ごすということは、外の世界で作った今までの思い出を全て置き去りにしなければならないということ。向こうの世界でお世話になった人物に対して何もせずに、消えるということである。

 それこそ、返すべきものを返せていないということに繋がってしまう。

 紫も幻想郷に住むということの重大性については把握していた。

 だからこそ、少年に全てを託そうと選択権を(ゆだ)ねている。後悔をしてほしくないから―――自分で選んでほしかった。決して上から押し付けるように決めさせようとはしなかった。

 

 

「まぁ、答えを急ぐ必要は無いわ。まだまだ先があるのだからね」

 

「そうですね。和友はまだ子供です。これから先があります」

 

 

 紫と藍は、少年の未来について楽観視していた。

 少年は、まだ中学生になったばかりなのである。まだ少年と言える年代の人間で、これから先の未来がある。いくらでも取り返しが利くだろうと気楽に思っていた。

 

 

「その先が来るまでには決めないとね。僕、死ぬまで悩んでいるかもしれないし……」

 

「そうなったら、ここにお墓を立ててあげるわよ。それまでここにいなさい」

 

「その時は、お願いするよ」

 

 

 紫は不安そうに言った少年にふざけるようにして言い、少年は紫の優しさに笑顔を作り、泣きそうな声で一言呟いた。

 

 

 

 

 場には―――暫しの静寂が訪れた。

 藍と少年は、少し気まずくなった空気の中で調理を再開する。紫も先程と同様に藍と少年の様子を観察する。

 気まずい空気は、わりとすぐに流れた。

 少年は隣にいる藍へと話しかけ、藍は少年の言葉に反応し、返事を返す。少年の表情は、先ほどまでの暗い表情ではなく、明るい表情になっていた。

 藍は、少年の笑顔につられるようにして笑みを浮かべる。二人の様子を見ていた紫は、二人の表情につられて微笑んだ。

 

 

 藍と少年は、談話をしながら調理を進める。

 紫は、時折少年と藍の会話に交じりながら二人の様子を眺めていた。少年はしゃべっている時も、腕を止めず動かし続けている。藍も、会話しながらも自然な流れで作業を進めていた。

 紫は、手際良く作業する少年の姿に再び疑問を抱いた。先程は、少年の未来の話になってしまったために口にできなかった疑問である。

 少年は、誰かの隣で手伝っている姿が非常に様になっている。一人で調理している姿も想像できるにはできるのだが、あまり似合っているとは言えない。あくまでも、サブであり主役にはなれない。誰かがいてこそ、少年の存在が際立っているように思う。それが一番いい位置であるような、その場所に適しているような雰囲気をかもし出している。

 紫は、少年が話しながら料理することに慣れていることを不思議に思い、尋ねた。

 

 

「和友は、さっき藍からも質問があったと思うけど料理が得意なのかしら? でも、主体となって料理をやっているという感じでもないわよね?」

 

「すごい、よく分かるね。さっきも言ったんだけど、毎日のように親の手伝いをやっていたからね。僕がメインで作ることはなかったけど、料理することに慣れているといえば慣れているのかな?」

 

 

 少年は、言葉を発し終わると紫と藍を交互に見つめる。

 紫と藍は、少年の視線の動きに疑問符を浮かべた。

 

 

「どうした?」

 

「どうしたの?」

 

 

 少年は―――はっきりと思い出すことができた。

 

 

「うん、ちょうどこんな感じだよ。隣に母親がいて、紫のいる位置から父親が話しかけてくる。僕の家庭での料理の風景は、まさしくこんな感じだった。だから、慣れているんだと思う」

 

「そうだったの……」

 

 

 紫は、少年の両親の話を出してしまったことにしまったと思い、少しばかり悪い気がした。

 先程も考えたことではあるが、少年の両親が亡くなってからまだ2日しか経っていない。少年の傷は未だ癒えていないだろう。例え、両親が死んではいけないという決まりはないのだからと言った少年であっても、先程の暗い雰囲気の会話から苦しんでいることは分かった。

 紫は、両親を失ったことによって少年が負った苦しみを想像し、表情を暗くした。

 少年は、表情を暗くした紫に対して気を遣わないでほしいと告げる。

 

 

「両親のことは気にしないでよ。別に死んで悲しいわけじゃないんだから。ただ、置いてかれちゃったなと思ってちょっとだけ辛いんだ。別に……思い出すことが苦しいわけじゃないよ……」

 

「そう……和友がそう言うのなら、もう気にしないわ」

 

 

 紫は、少年の親について気にするのを止めた。少年が気にするなと言っている以上、気にしても仕方がない。

 紫は、少年の言葉を聞いて、自分と少年の間にある遠慮というものが一つ取り払われたような、壁が一つなくなったような気がした。紫の中に存在していた少年の両親に対する同情を捨て去ったことによって、立っている位置が少しだけ少年に近くなったように感じていた。

 

 

「ふぅ……」

 

「終わったね、お疲れ様でした」

 

「ああ、お疲れ様」

 

 

 藍は、大きく息を吐く。料理が終わりを迎えて調理器具がカランと金属音を立てた。

 少年は、藍と同様に肩に入っていた力を抜いて手を洗い始める。

 

 

「はい、紫様。できましたよ」

 

「今日の料理もおいしそうね」

 

 

 紫は、藍の終わりの言葉に反応してスキマを開き、覗き込んだ。

 いつも通りのおいしそうな出来栄えである。藍の料理のスキルはそこそこに高い。ものすごく高いかといわれれば、比較対象がいないため断言することはできないが、平均しておいしいといえる水準である。

 少年は、藍が作った料理を運び始め、紫の待っているテーブルの上に料理を運ぶ。藍も少年に追随するようにテーブルに食器を並べ始めた。

 少年は、ある程度料理を運び終えると、紫に向かって告げる。

 

 

「紫、先に食べちゃ駄目だからね」

 

「わ、分かっているわよ! 先に食べたりなんてしないわ!」

 

「そっか、なら良かった」

 

 

 紫は、少年からそんなことを言われるなんて予想しておらず、慌てた様子で言った。

 

 

「…………」

 

 

 藍と少年が協力している光景が目に入る。慣れた様子で、楽しげに、時間を共有している。

 紫は、自分一人が待っているだけという状況に罪悪感を覚え始めていた。

 紫は、料理を運ぶぐらいは手伝おうとスキマを開いて料理を掴み、テーブルの上に乗せる。少年は、瞬間移動するような皿の挙動に驚きの声を上げた。

 

 

「うわっ! そんなこともできるんだ」

 

「どう? 私の能力は汎用性が高いのよ。なんでもできるわ」

 

「ふふっ、慣れないことをして皿を落とさないでくださいね」

 

 

 紫は少年の驚く様子に自慢げに口を開き、藍は普段絶対しないことをしている紫の行動に微笑んだ。

 少年が来たことでいい雰囲気が生まれている。みんなが同じ雰囲気の中、生き生きしているのが分かる。

 藍は、これから上手く生活していきそうだと安堵と期待を込めて表情に映す。

 3人は、全ての料理がテーブル上に揃うと、視線を合わせて手を合わせて同時に声を上げた。

 

 

「「「いただきます」」」

 

 

 それぞれが箸を持って、料理を口に運ぶ。

 

 

「うん、美味しい!」

 

 

 少年は、料理を口に入れて飲み込むと表情を変えて、すぐさま声を発した。いつも通りの満面の笑顔を浮かべて素直な気持ちを表現した。

 これからの生活が賑やかになる。そんな空気を生み出しながら会話の口火がここから切られた。

 



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拡がる影響、変化する二人

2日目は、あとちょっとで終わりですね。


 少年、紫、藍の3人は、仲良く会話をしながら昼食をとっていた。

 少年の前では、紫と藍の二人が隣り合わせに座っている。3人は各々にテーブルに並べられている料理を次々と口へ運んでいく。

 少年は、料理をある程度食べると食事の手を止めた。

 

 

「やっぱり藍の料理は美味しいね。僕、こういう薄めの味付け結構好きだよ」

 

「料理を作った者としては、そう言ってもらえると嬉しいな」

 

 

 藍は、作った料理を少年に褒められて素直に喜びの言葉を口にした。

 少年の味の好みは薄味が好みのようである。藍の料理は、少年の好みに酷く合致しており少年の舌によくなじむようだった。

 

 

「ほんとに、いつも食べていた味によく似ている……」

 

 

 少年から漏れた声は、誰にも聞こえないような大きさだった。

 藍の料理は、少年の母親の料理の味付けに酷似しており、これまで蓄積していた少年の記憶を徐々に掘り起こし始める。

 

 

「美味しい……」

 

 

 続けて藍の料理をほおばる。

 藍の料理は、少年の口の中で咀嚼されてのどに流れ込む。感じられる味は、やはり母親の料理の味によく似ていた。

 母親の料理は、いつも薄味で少年が味を感じる境界線ギリギリに合わせられていた。狙いすまされた様に、境界線ギリギリだった。

 それは、母親が味覚に関しても能力が発動している少年のために薄い味付けの料理を作っていたからだった。

 少年の中では、甘い、辛い、しょっぱい、苦い、そういった感覚が曖昧になっている。ある境界線を境に味を感じるようになっている。少年にとっては、味の濃い料理を食べていても、薄い味を食べていてもあまり変わりないのだ。

 しかし、かといって味が濃い方が良いというものではない。味の濃い料理は、体に悪いことが多い。それもあって、少年の母親は薄味の料理を作ることを心がけていた。

 その母親の料理の味付けに―――藍の料理の味付けは酷似している。明確な区別のできない少年にとっては、同じものなのではないかという錯覚を覚える程度には似通っていた。

 

 

「藍は、もっと自信を持ってもいいと思うよ。藍の作った料理、とっても美味しいからね」

 

「ふふっ、たくさん食べてくれていいからな」

 

「うん」

 

 

 やはり誰かのために作った料理を褒められるということは嬉しいことなのだろう。藍は、にこにこと笑顔を浮かべながら少年の食べる様子を伺う。

 少年は、藍の言葉に従うように休むことなく次々と料理を口に運んでいく。少年の食事の速度は、よく噛んでいるため早くはないが、休むことなく料理を口にしていくため非常に早く食べているように感じられた。

 

 

「そんなに美味しいのか?」

 

「美味しいよ」

 

「そうかそうか。さぁ、まだまだあるからな。どんどん食べてくれ」

 

 

 藍は、少年の回答に気をよくし、どんどん食べてくれと言って料理を少年の目の前に運ぶ。少年の前に食事が運ばれると、少年は握っている箸で藍が運んだ料理に向かった。

 藍は、少年が目の前に運ばれた料理に手をつけようとしたところで一つの不安を覚えた。

 少年は、制限をかけなければすぐに暴走するような印象がある。昨日の努力していた姿を見てしまえば、猪突猛進というかオーバーペースのイメージを抱くのは仕方がないだろう。料理をおいしそうにほおばっている少年の姿を見ていると、空腹か満腹かの区別がつかずに食べ過ぎてお腹を壊してしまうのではないだろうかと、普通なら絶対に考えないような心配をしてしまうのも致し方なかった。

 

 

「和友、いくら美味しいからって食べすぎは駄目だからな」

 

「うん。気をつけるよ」

 

「ふふっ……ゆっくり食べないとのどに詰まらせるぞ?」

 

 

 藍は、そう言いながらも食べるスピードを変えない少年を見ながら心配するどころか微笑み、言葉を漏らした。

 少年は、本当に美味しそうに藍の作った料理を頬張っている。

 藍にとって、自分の料理を美味しそうに食べている姿が見られるだけで嬉しかった。いつもだったら喜んでくれる人もおらず、ただ淡々としている食事に明るさがあることが嬉しくて仕方がなかった。

 紫は、次々と食べ物を口に入れる少年を見て、少しだけ微笑みながら口を開いた。

 

 

「和友の味の好みは、私と似ているみたいね」

 

「そうなの?」

 

 

 少年は、話すときだけは箸を止めて声の発した人物へと視線を向ける。行儀が悪いから気にしているのだろうか。きっとそれも、親から言いつけられた決まりだろう。マナー違反ということだ。

 

 

「私もこのぐらいの味付けが一番好きなのよ」

 

「これまでずっと紫様と二人で生活してきたからな。料理の味付けは、紫様の好み合わせて作っているのだ」

 

「この料理は、紫のための料理なんだね」

 

「そうだな。思い返してみれば……私の料理は、紫様のための料理だな」

 

 

 少年は、藍の料理が紫のために作られた料理なのだと深く理解する。

 紫と藍は、少年が幻想郷へとやってきた昨日まで二人で生活してきている。それを考えれば、藍の料理の味付けが紫の味の好みに合うようになっているのは、当然のことだった。藍の料理は、紫に食べさせるために作っている料理なのだから、紫の味覚に合わせているのは当たり前なのである。

 藍の料理は、まさしく、紫のために作り出された料理と言っていい。紫の胃袋は、間違いなく藍の料理にがっしりと掴まれている。

 さらに、現在進行形で味の好みが同じ少年の胃袋も掴まれつつあった。

 

 

「うん、おいしい」

 

「料理はね、素材本来の味を楽しめればそれでいいのよ。調味料を入れ過ぎると何を食べているのか分からなくなるわ」

 

 

 紫は、美味しそうに藍の料理を食べる少年を見つめながら堂々とした表情で料理に対する持論を展開する。

 味付けを薄くすれば、素材本来の味が際立つ。様々な刺激や味覚を感じたいのならば、味付けは濃くするべきではない。それは、味を濃くしてしまえば、味など分からなくなってしまうからである。

 紫は、適量よりも少しだけ少なめ、それが一番素材の味を感じることができ、最終的に味が美味しくなる料理だと考えていた。

 

 

「素材の味が少しだけ際立つ程度、ちょっとしたアクセントで入れるぐらいでいいの」

 

「うん、分かる分かる」

 

 

 少年は、紫の言葉に何度か頷き、紫の意見に同調すると藍の料理をさらに褒めたたえるように口を開いた。

 

 

「藍の料理は体に優しそうだし、食べていて安心する味だよね」

 

「ちょっと褒めすぎではないか? そこまで言われるとさすがに恥ずかしいぞ」

 

 

 藍は、少年のまっすぐな褒め言葉に恥ずかしそうに顔を赤らめる。

 紫は、そんな初々しい反応を見せる藍を見て、口角を上げた。

 

 

「藍、謙遜することはないわ。藍の作る料理がおいしいのは事実ですもの」

 

「ゆ、紫様、止めてくださいよ」

 

「ふふふ」

 

「…………」

 

 

 藍は、紫にまで褒められ、さらに恥ずかしそうに顔を赤くした。恥ずかしさのあまり声も出なくなっているようで辛うじて拒否を示す言葉を吐き出すのがやっとの状態である。

 藍は、お世辞にもこれまで紫に褒められたことがほとんどない。

 紫のために毎回料理を作っている藍だったが、紫が料理を美味しいと口に出すことはほとんどなかった。紫は、褒めるようなことを毎回口にするようなタイプではないため、美味しいものに対して逐一美味しいことを伝えるなんて面倒なことをしてこなかったのである。

 もちろん藍は、紫が美味しいと思って自分の料理を食べてくれていると思っていたが、それはあくまで藍の想像の域を出ず、曖昧で不安定な感情を抱えていた。それが、きれいさっぱり流されるように作った料理を褒めてくれている。

 藍の感情は、嬉しさと恥ずかしさでいっぱいだった。

 紫は、動揺する藍を見てさらに深い笑みを浮かべ、追い込まれている藍をさらにたたみかけるように、ほがらかな表情で藍に告げた。

 

 

「藍は本当にかわいいわね。食べちゃいたいくらいだわ」

 

「紫様! からかわないでくださいっ!」

 

「ふふっ、本当に面白いわ」

 

 

 紫は、完全に藍を茶化して遊んでいた。藍は、自分の言葉にいいように反応してくれる。素直な動きをする藍を見ていて自然に口角が上がったのが、確かめなくてもはっきりと分かった。

 

 

「またそんな顔を……私をからかって遊ぶのは止めてくださいよ」

 

 

 藍は、紫の表情を見て茶化しているのだとすぐに気付き、心を落ち着けようと大きく息を吐こうとする。

 しかし、藍の安定状態への移行を塞ぐように、さらなる衝撃がやってきた。藍に向かってさらなる攻撃が少年から飛んできたのである。

 

 

「僕も、藍はかわいい方だと思うけどね」

 

「和友もやっぱりそう思うかしら」

 

「な、な……!」

 

 

 藍は、予想外の少年からの横やりに突き刺された。顔はさらに赤くなり、藍の体は心の揺れを表現するようにわなわなと震えている。

 藍は、注意をしたことで話が逸れていつも通りの、普段通りの会話になると思っていたが、さらなる状況の悪化に追い詰められ、その場で立ちあがってあたふたと慌てふためいた。

 

 

「和友まで何を言っているのだ!?」

 

「ん? 僕、何かおかしいこと言ったっけ? 特に変わったことを言ったつもりはなかったんだけど……」

 

「そ、それはだなっ……」

 

 

 藍は、少年のよく分かっていない様子に言葉の行き場をなくして、口をもごもごさせる。

 少年は、藍の言葉にきょとんとした表情を浮かべた。

 

 

「??」

 

「和友は、別におかしいことなんて言っていないわよ。藍は、かわいいもの」

 

「そうだよね。僕、別に変なこと言っていないよね」

 

「何度も、そういうことを言うなっ!」

 

 

 少年からの言葉は、藍の気持ちを大きく揺さぶった。紫の場合は、藍を弄っているだけかもしれないと考えることができる。紫の言葉からは、冗談染みたものを感じるのだ。

 しかし少年は、これまでの言動から素直に本心から言っていると分かってしまう分、恥ずかしさを隠せなかった。

 

 

(これは面白いわ)

 

 

 紫は、たった今目の前に繰り広げられている光景に思わず笑い声を上げてしまいそうになる感情を押さえつける。二人の表情の対比は、それほどに面白かった。

 藍は、二人の言葉を聞いて食事をする余裕がなくなり、立ったまま二人の顔を交互に見つめている。二人の言葉のやりとりを、首を振って確認するだけになっている。

 少年は、自覚もなく堂々としており、特に何も感じていないようである。あたふたとする藍と少年の存在は、コントのように組みあがっていた。

 

 

「ねぇ、どうして藍はそんなに恥ずかしがっているの?」

 

「そういうお年頃なのよ」

 

「うぅ…………」

 

 

 藍の顔が下を向き、口が閉じる。

 二人の言動はずっと藍について褒めちぎるような内容で一貫している。藍は、顔に熱がこもっていくのを感じていた。

 

 

「紫、もしかして藍って褒められ慣れていないの?」

 

「そんなことはないはずよ。私が初めて藍を見つけたときは、随分とちやほやされていたように思うわ」

 

 

 実際に藍は、もともと褒められることに対して耐性があった。

 藍は、姿形の綺麗な体を持っている、造形の整った顔をしており、過去に傾国の美女とまで言われた存在である。綺麗だ、美しいと言われたことなど数えきれないぐらいあった。

 だが、現に褒められることに耐性が無くなっている。もちろん藍がここまで動揺したのには、ちゃんとした理由があってのことである。

 紫の式神になった藍は、昔に比べて人との交流が少なくなり、多くの人と関わり合うことが無くなっている。藍にとって久しくなっていた褒められるということは、昔を思い出し、非常にくすぐったい気持ちにさせていたというのが原因の一つとなっていた。

 

 

「今でも、今日も綺麗ですねぐらいは、言われることがあるんじゃないかしら?」

 

「そんなこと……」

 

「ないなんてことはないでしょう? 九尾の妖怪と分かっていても、危険がないのなら言い寄る人間もいるでしょうし」

 

 

 傾国の美女と称された藍は、今になっても周りの人から視線が集まり、注目を浴びることが多い。視線が集まるのは、藍が妖怪だからと言うこともあるのだろうが、それが全てではなかった。

 話しかけてくる人間がいると言うことは―――‘そういうこと’なのだから。妖怪であっても興味がありますと言っているも同然なのだ。

 話しかけられること、注目を浴びることが良いことであるか、悪いことであるかは分からない。

 しかし、そんな良くも悪くも人から見られることが多い藍は、現在においても人里に行って人里の男性の視線を集めることもあれば、綺麗ですねと言われることも無いわけじゃなかった。

 

 

「僕は、藍はかわいいと思うけどなぁ……」

 

「私が、かわいい……?」

 

「藍?」

 

 

 紫は、僅かに上気したような表情を見せる藍に問いかけたが、藍から返事は返ってこなかった。

 

 

「かわいい、か……ふふっ……」

 

 

 藍は、かわいいと言われることに綺麗とは違った、また特別な感じがしていた。

 藍がかけられる褒め言葉は、あくまで綺麗ですね、美しいといった類いの褒め言葉だけで、愛らしいと、かわいいと言われたことはなかったのである。

 美しいとかわいいでは、褒め言葉としての質が違う。

 一般的に美しいというのは、完璧、完全、完成といったイメージがあることが多い。

 例とすれば、美しい人は孤高の人、高根の花と呼ばれ、人を寄せ付ける雰囲気ではないことが挙げられるだろう。美しいというイメージに近寄り難いというイメージが先行するのは、そこに完全性がうかがえるためである。これは、美しいという言葉が景色や絵画にも使われることからも分かるだろう。

 景色に対してかわいい景色とは、絶対に言わないはずである。美しさには、完成されたものを見た時の憧れや尊敬が含まれるのだ。

 しかし、美しいという言葉に対してかわいいという言葉には、不完全のイメージがつくことが多い。人に対しても絵画に対しても、どこか不完全性を感じさせるものを人は、かわいいという。未熟な赤ちゃんをかわいいと言うように、どこかぎこちない様子をかわいいと言うように。「そんな失敗、かわいいものだ」なんて言葉がある程である。

 可愛い(かわいい)というのは―――漢字の通り愛されるものに人から送られる言葉なのである。

 傾国の美女と言われた九尾は、美しいと言われることはあってもかわいいと言われることはなく、かわいいという褒め言葉に新鮮な感情を誘起されていた。

 

 

「ふふふ……」

 

「一体、どうしたのかしら?」

 

「ふふふ」

 

「完全に自分の世界に入ってしまっているわね」

 

 

 藍は、一人で不気味に笑う。紫は、完全に一人の世界に没頭している藍を見て薄く笑い、続けて少年へと視線を向けた。

 

 

「和友、貴方は……」

 

「ん? なに?」

 

「っ……本当に貴方たちは噛み合わないわね」

 

 

 紫は、余りの藍とのギャップに思わず笑いそうになるのを堪えた。紫の視界に入って少年は、ひたすら藍の料理をほおばっていた。美味しそうに料理を次々と口に運んでいた。

 

 

「私がかわいい……ふふふっ、かわいいか」

 

「これ、結構面白いかも……」

 

「うん。やっぱり美味しいや」

 

 

 藍は、少年が料理を頬張っている最中、意識を外へと放り投げていた。紫は、藍の様子を見て何か面白いおもちゃを手に入れたように口角を上げている。少年は、二人の様子を気にすることなく、料理を次々と口へと運んでいた。

 3人は、この緩やかな雰囲気を壊すことなく、会話を楽しみ、食事を進めた。藍も途中から自分の世界から帰還し、通常の状態で言葉を交わした。

 少年は、料理を食べながら先程の紫の言葉を思い出す。紫のための料理を頬張っていて考えていたことがあったと、唐突に紫に向かって話題を振った。

 

 

「そうだ、紫の味の好みが僕と一緒ならさ。今度、紫の作った料理も食べてみたいな」

 

 

 少年は、紫も藍と同様に美味しい料理が作れるに違いないと思っていた。先程の紫のコメントからは料理のことをよく分かっているような印象を受ける。少年は、紫が藍に料理を教えたのだと想像していた。

 

 

「味の好みが同じなら作る料理も僕の好みと同じような味付けだろうし、紫の作った料理がどういったものか、ものすごく気になるんだ。もしよかったら、作ってくれないかな?」

 

 

 少年は、期待を込めた瞳で紫を見つめる。

 紫は、少年の期待のまなざしに対して都合が悪そうに目を泳がせた。

 

 

「こ、今度ね……」

 

「そっか、今度だね」

 

 

 少年は、笑顔のまま紫の言葉を素直に飲み込もうとする。今度作ってくれるのだと信じて紫の言葉を飲み込もうとした。

 しかし―――それを藍が許さなかった。

 

 

「紫様、頑張ってくださいね」

 

 

 藍の表情には、少しだけ意地の悪い笑顔が浮かんでいた。

 少年は、ここで話が終われば―――素直に引き下がったことだろう。紫の今度という言葉を信じて、少年は待ち続けることになっただろう。

 けれども、紫の傍には悪い笑顔を浮かべた藍が控えていた。ここで藍が紫に対して口を開いたことで会話は継続の様相を見せる。

 

 

「紫様は、きっと和友の期待に応えてくださる。そうですよね、紫様? 紫様なら、料理なんて朝飯前のはずです」

 

 

 藍の口から心のこもっていない応援の言葉が飛ぶ。

 紫は、最後のセーフティネットに見放されたように、最後の砦が壊されたように、余裕じみた表情を大きく崩した。

 

 

「藍、ちょっとぐらいは手伝ってくれても……」

 

「ダメです」

 

「藍は、私が料理できないのを知っているでしょう?」

 

「知っていますよ。作っているところなんて見たことありませんからね」

 

 

 紫の時間を稼ぐ思惑は、藍の言葉によってすんなり粉砕されることとなった。

 紫は、藍が明らかに自分をからかっているのだと察しながらも、料理ができない自分が悪いのだと強く言い出すことができなかった。もしも、ここでふざけるなと上から怒鳴れば、見捨てられることは分かり切っていたからである。

 

 

「だったら、ちょっとぐらい手伝ってくれてもいいじゃない」

 

「ダメです」

 

 

 紫は、お世辞にも料理ができない。随分と昔までさかのぼれば、やったことはあるのだが、藍に任せるようになってから料理を一回も作ったことが無く、今となっては何一つできなくなってしまっていた。

 紫は、今度という言葉で時間を稼いで、練習した後で少年に料理を作ろうと考えていた。もしくは、少年の期待に添えるために藍の力を借りて料理を作ろうと考えていた。

 だが、紫の期待は藍のとりつく島もない言葉によって無残に砕け散ることになりそうである。少なくとも、藍から助力を期待するのは不可能となりかけていた。

 

 

「そんな顔をしてもダメなものはダメです」

 

 

 藍は、泣きそうな顔で懇願する紫に向けて真剣な顔で告げる。

 

 

「和友は、紫様の料理を純粋に欲しがっているのですよ。期待に応えてあげたらどうですか?」

 

「藍、言うようになったわね」

 

「先程のお返しです。私も負けっぱなしじゃ癪ですから」

 

 

 紫は、藍の言葉を聞いて苛立ちや怒りを感じる以前に、素直に驚いた。

 昨日までの藍だったならば、ここまでのことを言うことはなかっただろう。

 藍は、紫が頼んだことを基本的に断らないし、断ったとしても最後には折れてくれることがほとんどだった。今の藍は、昨日までの藍とは明らかに違っている。

 

 

(これまで自分から何かを言うことも、意見することもほとんどなかった藍が主体的になっている)

 

 

 藍は、今までと違って自分の意見をはっきり口にしている、主に対して従うだけの存在ではないということを示している。

 藍からは、自主性というか個人としての自覚があるように感じられ、今までのどこか壁のあった藍との心の距離が縮まったような気がしていた。

 けれども、嬉しさを表情に出したりはしない。今は、喜んでいる場合ではないのだ。紫は、追い詰められている状況なのである。

 

 

「それに紫様は、こういう機会でもないと料理をしないでしょう? いい機会だと思ってやってみてはどうですか?」

 

「…………」

 

 

 紫は、絶対の味方で従者である藍に追い詰められ、口を閉ざした。

 少年は、そんな二人を見て、そっと口を開いた。



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塗りつぶされる日常、塗りつぶされる平穏

 少年は、紫の藍の料理に対する言葉から、紫は料理ができのだと勘違いしていた。先程評論家のようなコメントをしたことが少年に料理ができるような印象を与えていたのである。

 少年は、よく分かっていない表情で、言葉を失くした紫に向かって質問を投げかけた。

 

 

「紫は料理ができないの? あんなに料理の味付けについて語っていたのに?」

 

「ず、ずいぶんと直球でくるわね」

 

 

 紫は、少年の真っすぐな質問に動揺した。

 

 

「紫様、ちゃんと答えてあげてください。和友は、別に人のことを見下したり、馬鹿にしたりするような子ではありませんよ」

 

「…………」

 

 

 紫は、しばらく沈黙した後に今更少年をごまかすこともできないし、ごまかしても意味がない状況を察し、開き直ったかのような言葉を少年に吐き出した。

 

 

「そうよ、私はあまり料理が得意じゃないわ。する必要がなかったらしようなんて思わないもの。大昔に何度かやった覚えがあるけど、藍が来てからはずっとやっていないわね」

 

 

 紫は、料理をしたことがほとんどなかった。料理ができなくなった原因は酷く単純で、単に料理をしなくなったからである。

 藍を式神にしてからというもの、家事全般の面倒事を全て藍に押し付けている形になっている。料理に限らず、掃除や洗濯といった家事と呼ばれるようなものは、何一つやっていなかった。

 

 

「ごめんなさい、期待してくれているところ悪いのだけど……私は、料理ができないわ」

 

 

 紫は少年から馬鹿にされるのではないかと不安を抱えていた。

 料理に関しては、先程の少年の様子を見ていれば、自分が少年よりも劣っていることは火を見るよりも明らかである。大妖怪ともあろうものが、料理もできないのかと言われることを恐れていた。印象によって力が変わるような妖怪の存在は、人の心に酷く機敏だった。

 

 

「紫様、あの……」

 

「私は……料理に関していえば、式よりもはるかに劣っているわ」

 

 

 紫は、自分で言葉を口にしていて非常に泣きたい気持ちになった。今まで認識していなかったから考えていなかったが、少年の一言で自覚してしまった。

 

 式ができることを主ができないというのは―――とても恥ずかしいことである。

 

 あくまで式は、主の手足となるだけでそれ以上でもそれ以下にもならない。できることとしては、主以上のことができることがあるなんてことは基本的にない。それができてしまえば、主よりも式の方が優秀であると告げるようなものなのである。

 

 

「紫は、料理できないのか……そっか……」

 

 

 少年は、紫が料理をできないことを知っても、特に変わった様子を見せなかった。

 紫の落ち込む様子にも、特に何かを気にする雰囲気はない。意外というふうでも、やっぱりというふうでもなく、ただ事実を受け入れるように考え込むと、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「じゃあ、一緒に料理をしない?」

 

「え?」

 

 

 紫は、一瞬少年の言っていることが理解できずに間抜けな声を漏らす。馬鹿にされると思っていた言葉は、少年の言葉の中に一切含まれていなかった。

 藍は、少年の言葉を聞いてどこか納得したような表情を浮かべる。少年が口にした言葉は、藍の知っている少年ならば、間違いなく言うだろうと思っていた言葉だった。

 

 

「和友と一緒に料理を?」

 

「うん、駄目かな?」

 

 

 紫は、思いもよらぬ提案に少年の目を見ながら固まる。

 

 

「紫が嫌っていうなら止めておくけど? どうする?」

 

「本当に? 本当に手伝ってくれるの?」

 

「手伝って欲しいのなら手伝ってあげるよ?」

 

 

 少年は、他人が何かができなくてもそれを馬鹿にするようなことは決してしない。そもそも、馬鹿にできるほど自分ができた人物なんて思っていなかった。

 人の名前を覚えるのに3時間かかるような少年は、他人について何か言えるような立場ではないのだ。少年自身が一番よく分かっている。自分がバカにできる人間など誰もいないと知っている。

 少年が相手に何か言うことができることといえば、努力しない人間に対してどうこう言うぐらいのことである。後は、考え方の問題ぐらいだろうか。

 少年が他人に何が言えることは、頑張れば何とかなる、何とかできる、それだけしかなかった。たったそれだけが、人に胸を張って言える少年の言葉だった。

 紫は、少年の提案に嬉しそうな顔をして聞き返す。

 

 

「嘘じゃないわよね?」

 

「僕は、嘘なんてつかないよ」

 

 

 少年の意見は、最初に言った意味と変わらず、紫と一緒に料理をやろうというもので変わりないようだった。

 

 

「僕の言葉って、そんなに信用がないのかな?」

 

 

 少年は、紫から何度も聞かれている理由が分からなかった。それほどに自分の言葉が疑われているのか、それとも実は手伝って欲しくなかったのかなと、疑問を覚えてしまうほどである。

 藍は、予想通りの結果になりそうな状況に少しだけ手を入れてみようと試みる。

 少年が紫を手伝うと言い出すことは会話の最初から分かっていた。少年ならば、そういうだろうと分かっていた。それに、少年の提案が悪いことではないことも理解している。

 しかし、無性に口を挟みたくなった。理由はそんな程度の軽いもの。藍は少年が自分の提案を引くわけがないと分かっていながら、万が一の可能性にかけて少年に問いかける。

 

 

「和友、ちょっといいだろうか?」

 

「どうかしたの?」

 

「和友の提案している話だと、紫様の手料理を食べるという意味ではどうなのだ?」

 

「な、何を言っているのかしら?」

 

「だってそうでしょう? 紫様の料理を食べたいのならば、紫様個人が作るべきではないですか?」

 

 

 藍は、紫があたふたしながら料理をしている姿も見てみたい気持ちがあった。普段と違う紫の一面が見られるかもしれないという期待があった。

 確かに、紫の作った料理を食べたいという少年の言動から考えれば、少年は紫の料理を手伝ってはならない。少年が料理を手伝ってしまえば、それは合作ということになるため、少年の意に沿っている形ではなくなるからである。

 

 

「僕が手伝っても紫の料理に変わりは無いよ」

 

「ふむ」

 

 

 藍は、少年から返ってくる答えにやっぱりといった表情を浮かべた。

 こうなることは、何となしに分かっていたことだ。

 藍の知っている少年なら、そういうと思っていた。

 

 

「誰にだって得意不得意はあるしさ。僕は下手でも紫の料理を食べてみたいと思うけど、紫のプライドが下手なものを相手に出すのを許さないみたいだし……」

 

「まぁ、紫様の性格的にはそうだろうな」

 

「だよね、だったら一緒に作れればいいかなって思って」

 

「本当にいいの……?」

 

「何度も聞かないでよ。僕は、能力の練習に付き合ってもらうわけだし、おあいこだよ」

 

「……そうよね、私だって和友の能力の練習に付き合うんだもの。お互いさまよね」

 

 

 紫は、少年の手伝うという助け舟に乗り、心からの感謝を少年に告げた。

 

 

「和友、ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 最初の時点では、少年の紫が作った料理を食べたいという我儘を拒否しようとしていたのにも関わらず、いつの間にか手伝ってもらえるのならば、という条件で落ち着いた。

 紫は、予想以上に優しい少年の対応に流されている。大きな流れに飲み込まれている。

 会話を繋いで、橋渡しをする。流れを制御し、結論を導き出す。少年は、会話の流れを無意識に掌握していた。

 

 

「むっ……」

 

 

 藍は、紫が少年に心を許しているように見える光景に、何となく面白くない気持ちになった。

 なぜだろうか。どうしてこんな気持ちになるのだろうか。主である紫と少年が仲良くすることは良いことなのに。どうしてこんなに気持ちがざわつくのだろうか。紫が普段自分に見せない顔をしているからか。それとも、自分ではなく少年と仲良くしていることに嫉妬しているのか。

 考えてはみるが、何が理由でこんな気持ちになっているのか分からない。胸に手を当ててみるが思い当たる節が見当たらなかった。

 藍は、面白くない気持ちをそのまま言葉にするように、紫に対して休憩の余裕を、心の余裕を与えることなく、間髪いれずに口を開いた。

 

 

「では、明日の昼食は紫様に任せます。よろしく頼みますよ。私も楽しみにしていますからね」

 

「は?」

 

 

 紫は、藍の言葉に驚愕の声を上げる。

 藍は、紫に料理の練習をするという時間を与えず、即座に明日の昼に料理を作ってくださいと告げた。時間を指定するだけではなく、楽しみにしているというハードルを上げるような言葉も残して、紫を崖から突き落とすような言葉を放り投げた。

 

 

「明日の昼ですって?」

 

「紫様には無理ですか?」

 

「あなた、主に対して何を言っているのか分かっているのかしら?」

 

「分かっていますよ。紫様は、明日の昼に食事を作るのは無理なのですかと申しあげました。何か間違っていますか?」

 

 

 藍が煽るように紫に言葉を投げかけると、紫は苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべた。藍がここまで押しの強い性格をしていたとは、紫も計算外である。あまりにも昨日までの藍と違っており、普段の紫と藍の立場とは完全に逆転している。

 紫が一方的に弄る関係は、たった今―――終わりを告げたのである。

 

 

「っ……分かったわ。任せておきなさい。とびっきり美味しいものを作って、その減らず口をふさいであげるわ」

 

「やれるものならやってみてください。ふふっ、攻守逆転ですね。これは良い気分です」

 

 

 紫は、煽る藍の言葉を買うようにはっきりと藍に告げた。料理を作ることに不安を感じていたが、さすがに日付を伸ばして欲しいとは言えない。それは、紫のプライドが許さなかった。

 

 

「紫様は、いつもこんな気持ちだったのですね」

 

 

 藍は、自分の言葉が紫を動かしていることに少しだけ優越感を感じていた。今まで紫に言われるがまま動くことが多く、藍を動かしているのはあくまで紫であり、その逆はありえないような関係だった。

 けれども、今は藍の言葉で紫が動いている。

 藍は、紫との立場が少しだけ変わっているのが感じられて気持ちを高揚させていた。今まで立っている場所の違った紫が、少しだけ近くにいるように感じていた。

 

 

「きっと大丈夫、いくら私が料理に関しては何もできないからって、和友も一緒に料理をするのだし、そこまで酷いことにはならないはずよ……」

 

 

 紫は、料理を作ることに対して楽観視する。料理を作ることになったとしても紫一人で作るわけではなく、少年も一緒に作るのだ。そこまで酷い料理にはならないはずである。そんな余裕が―――紫の中にはあった。

 しかし、その予想を裏切るような言葉が飛んでくる。少年は、紫の心の中の想像とは裏腹に、他人行儀に期待しているという旨の言葉を口にした。

 

 

「紫、楽しみにしているね」

 

「えっ……? 手伝ってくれないの?」

 

 

 少年の言葉は、どこか他人事のように聞こえた。

 紫は、最後の砦である少年に突き放されたと思った。先程の言葉は嘘だったのかと悲しそうな顔を浮かべた。

 

 

「さっきの一緒にやろうって言葉は、嘘だったの?」

 

「ん?」

 

「…………」

 

 

 紫は、どこか一人ぼっちに、置いてきぼりにされたような寂しい気持ちになった。紫の心の中を見捨てられたような絶望感が支配し始める。

 少年は、急に思い出したかのように慌てて言葉を言い直した。

 

 

「ごめん、言い方が悪かったかな。楽しんでやろうね。一緒に美味しいものを作ろう」

 

「……ええ」

 

 

 紫は、少年の言葉に安心した顔で一度頷く。少年も紫の応答に笑顔で頷き、今度こそ不安にならないようにとしっかりと意志を交わした。

 

 

「楽しんでやりましょうね」

 

「うん、楽しくやろうね。それで、藍を驚かせよう。とびっきりの僕達の料理でさ!」

 

「そうね。藍、期待して待っているといいわ。私達の実力を見せてあげる」

 

「楽しみにしております。数千年ぶりに紫様の手料理を食べられること、従者として嬉しく思います。ただ、料理は一朝一夕で上手くなることはないと知っておくべきです」

 

「藍は、一朝一夕で変わるものだってあることを知っておくべきね。そう―――貴方みたいにね。かわいいと言われて別の世界に飛んでいた貴方の言うことではないわ」

 

「そ、その話題は卑怯ですよ!」

 

「ふふふ、私は卑怯なのよ。藍が一番分かっているでしょう? 私は、そういう妖怪なの。ほら、冷めてしまう前に料理を食べましょう。話してばかりでは口ばっかり回るだけで手が進まないわ」

 

 

 紫は、料理についての不安を払しょくし、料理を頬張っていた時の雰囲気で食事に戻る。

 少年と藍は、紫が料理に再び手を付けるのを見て顔を見合わせると、お互いに含み笑いをして再び料理を食べ始めた。

 

 

 

 藍の作った料理は、楽しく会話をしているうちにいつの間にか無くなる。時間も1時間近く経過しており、食事の時間は終わりを迎えた。

 少年は、全員の食器に料理がなくなったのを確認すると手を合わせる。音を立てることなく、静かに両手を合わせる。

 少年が両手を合わせるのを見た紫と藍は、少年に追いつくように手を合わせた。

 

 

「「ご馳走様でした」」

 

「お粗末さまでした」

 

 

 紫と少年の声が反響する。藍は、二人の言葉を聞いてから後を追うように言葉を口にした。

 3人は、それぞれ手をつけた食器を手に持ち、洗い場にまで持ち運ぶ。3人で協力して行った作業はたいした時間もなく終わり、それぞれ休憩に入った。

 少年は、そっと時計を見つめると、のんびりとしている二人に向かって口を開く。

 

 

「二人は、これから話し合いをするんだよね? 2時から練習をすると考えるとあと1時間ぐらいしかないし、食器洗いは僕がやっておくから話をしてきてもいいよ」

 

 

 能力の練習の時間が差し迫っている。時間の効率を考えれば、少年が食器洗いをするのが最も効率が良い。少年の言いたいことを理解した二人は、少年の提案に乗った。

 

 

「そう? それじゃあ和友に甘えましょうか」

 

「そうしましょうか。和友、後はお願いな」

 

「任せておいてよ」

 

 

 少年は、紫と藍の言葉に腕捲りをして答えた。

 二人は、少年を部屋に残して部屋を出ようとする。

 少年は、二人が動き出すのを確認すると食器を洗うために洗い場に向かって歩き始めた。

 紫は、ふすまを開けて廊下へ出ようとしたところで振り返り、藍へと告げる。

 

 

「藍、先に私の部屋に行ってきなさい」

 

「分かりました」

 

 

 藍は、紫の指示に従い紫の部屋に一人で向かう。

 紫は、藍を先に行かせてちょうど食器を洗おうと水を出した少年に向かって話しかけた。

 

 

「和友、藍と話してくるからちょっとだけ待っていなさい」

 

「紫、2時からでいいんだよね。のんびり待っているよ」

 

 

 紫は、少年に対して慎重だった。あくまで余計なことはするなと、待っていなさいと言葉にした。余計なことをして、余計な時間を取られたくはない。問題が起これば、能力の練習どころではなくなるのだ。

 紫は、刻み付けるように再三の注意の言葉を口にする。

 

 

「余計なことはしないように、絶対よ」

 

「分かっているよ。食器洗い以外特に何もしないから。ほら、藍が待っているよ。早く行ってあげたら?」

 

「それじゃあいってくるわ。2時までには戻ってくるから」

 

「いってらっしゃい」

 

 

 少年は紫に対して笑顔で答え、紫は同じように少年に笑顔で答えた。

 少年は紫の言葉に手を振り、紫は満足そうに軽く手を振る。紫は、ふすまを閉めて部屋の外へと消えて行った。

 少年は、一人居間に取り残された。

 

 

「さて、そうは言ったもののどうしようかな……余計なことはしないようにって言われても、僕に何ができるんだろう……?」

 

 

 

 

 紫と藍は、話をするために居間から紫の部屋へと移動していた。

 紫は、藍の話したいことが少年に聞かれてはならない話だろうと予測をつけていた。それは、人里から帰ってきたときに藍が要件を話さなかったことから理解していたことである。

 紫は、自分の部屋に入り込むと開幕一番に口を開き、先ほどの食事の最中に話していた会話についての感想を口にした。

 

 

「会話をするのがこれほど楽しいと思ったのは久々だわ」

 

 

 今までにない感覚、心を動かされるような流れ、感情の乗っている言葉、それぞれが意志を持って言葉を口にしている感覚が新しいもので心地がよかった。

 

 

「そうですね。会話が弾んでいるのがよく分かります。和友を中心にして周りに楽しい雰囲気が波及しているのが伝わってくるようです」

 

「和友が会話を回している。まるで台風の目だわ。和友は何も影響を受けていないのに、周りにいる私達が被害を受けている」

 

 

 紫は、嬉しそうな表情をしながら軽く笑った。

 会話の質が変化したのは、少年の影響以外に考えられない。変わったところは、少年がいるかいないかの違いだけしか存在しないのだから。

 紫が言うように台風の目となっている少年は、間違いなく二人に影響を与えている。少年は何一つ変わってはいないのにも関わらず、紫と藍の二人は変わりつつあった。

 

 

「ふふっ。本当に面白い子だわ。私が料理することになるなんて予想外にもほどがあるわね。藍と二人で生活していたら、永久に料理する機会なんて訪れなかったでしょう」

 

「私と紫様の会話は、良くも悪くも淡白なものでしたからね。私が紫様に対して料理をしてくださいとは決して言わなかったでしょう。そもそも何かを進言することが基本的に無かったと思います」

 

 

 藍は、これまでの紫との生活や会話を思い返す。昔の自分だったならば、紫に料理をさせるようなことはなかったと断言できた。

 誰が言うだろうか。どうして口にできようか。料理をしてくださいなど、どの口がいえようか。

 

 

「ええ、その通りだわ。でも、今は違う。和友から巻き起こっている風で私達がなびいている。藍は少しだけ図々しくなった。言いたいことを言えるようになったわ」

 

「も、申し訳ありません……生意気だったでしょうか」

 

 

 藍は、紫の言葉で先程自分があまりにも無礼なことをしていたことに気付き、慌てて謝罪した。

 藍には、故意に性格を変えて喋っているような感覚はまるでなかった。自然と言葉が出た結果が食事中の言動となっていただけで、狙ったわけではなかったのである。

 それでも、言ってしまっている事実が変わることはない。悪気がなかったから相手を傷つけてもいいということにはならないように、藍の言葉にも責任が乗っているのである。

 

 

「謝らなくていいわ」

 

 

 紫は、藍の謝罪に首を横に振った。

 

 

「私は、今の藍の方が好きよ。今の藍の方がずっと生き生きしているように見えるわ」

 

 

 紫は、そんな藍の図々しくなった変化を愛おしく思っていた。

 

 

「貴方に足りなかったのは、きっとその図々しさなのよ。今までは、私と藍の間に一枚と言わず二枚ほど壁があったように思うわ。式神と主という立場上の壁と畏怖や尊敬といった心の壁があったのよ」

 

「そうかも、しれません……」

 

「食事のときに喋っていた藍からは、壁を感じなかったわ。以前よりも近くで話している気持ちになった。物理的にではなく、心理的にね」

 

 

 紫と藍との間には、壁があった。壁というのは当たり前だが物理的にではなく心理的なものである。

 藍は、紫の式神という立場上壁を作らざるをおえなかった。主人と従者という上下関係が壁を作ったのである。

 だが―――少年の起こした風が藍と紫の間に存在した壁を破壊した。先程のやり取りから察するに、壁はすでに崩れかける寸前だろう。藍は、それほどに少年から影響を受けている。

 畏怖や尊敬という感情の壁に関しても、紫の気持ちを理解したことで楽に思ったことを口にできるようになった。身近な存在になることで、気兼ねなく心の中の言葉を口にできるようになった。

 それに、少年からの影響は何も藍に対してだけではない。紫に対しても様々な影響を及ぼしていた。

 

 

「私も紫様と話をしていて楽しかったです。なんというのでしょうか、紫様の雰囲気も変わったように思います。話しやすい雰囲気というのでしょうか。紫様も和友から少なからず影響を受けているのだと思いますよ」

 

「そうかもしれないわね」

 

 

 紫は藍の変化を感じ取っているし、同様に藍も紫の変化を感じ取っていた。

 紫は、会話の中で一拍を入れると思い出したように言葉を口に出した。

 

 

「私は、和友と話していると不思議な感覚に陥ることがあるわ」

 

「他の方と話すときとは違うものを感じるということですか?」

 

「ええ。幽々子や藍と話している時とは、違うのよ」

 

 

 紫は、少年と話していて不思議な感覚に陥ることが多々あった。普段動かないところが動くというのだろうか、普段使わない筋肉を使うような変な気分になることが多いのだ。それが気持ち悪いとかといえばそうではなく、終わってしまえばどこか気持ちが良くなっている自分がいる。

 紫は、少年と話していて感じる不思議な感覚に戸惑いを感じていた。

 

 

「気持ちが高揚すると言うのかしら、子供心が呼び起こされるという感じね。藍も感じているのではないのかしら?」

 

 

 藍は、静かに目を閉じて先程話していた時の様子、人里での買い物での少年との会話を思い出す。そして、しばらくした後、目を開けてゆっくりと紫の質問に対して答えを口にした。

 

 

「確かにそうですね。和友といると少しだけ心の動きが変わるような気がします。活発になったというか……自分では、まだ1日しか経っていないのであまりはっきりとは分からないのですが……」

 

「私の目には、藍は変わっていっているように見えるわ。先ほど言ったように、良い方向に、ね」

 

「和友が変えてくれたということですね」

 

 

 少年は、藍や紫に対して間違いなく良い方向に変化をもたらしている。

 しかし、当の本人である少年は何も変わる様子を見せていない。はっきり言ってしまえば、外の世界で過ごしてきた様子と何ら変わっていないのだ。

 あれほどのことがあったにもかかわらず少年の行動は余りに自然で気持ちが悪い。普通ならば変化があってしかるべきだ。少年の普通に見える様子は、無理をしているのではないかと心配になってしまいそうになるのである。

 紫は、そこまで話すと目に強い意志を浮かべ、内に秘めた強い想いを藍へと告げた。

 

 

「今度は、私達が和友を変えてあげないとね。今の状況から脱してあげないと、和友は生きてはいけないわ」

 

「はい」

 

 

 藍は、一言の返事で紫の意志に添える気持ちを同期させる。

 少年は、能力の制御ができなくてはこの先を生きていくことはできない。すでに能力の浸食は始まっている。12年の月日で夢が現実のものとなる程度に能力は暴走している。

 少年の未来は、決して楽観視できるものではない。変化を起こさなければ、環境に適応できずに死んでしまうところまできている。崖の直前まで足をかけている。

 

 

「それじゃあ、そろそろ話をしてもらえるかしら? あの子にとって大事な話を」

 

 

 紫は、真面目な顔を崩さず、そのままの表情で藍へと言葉を投げかけた。

 藍は、紫の言葉に一度だけ大きく息を吸い、何かを覚悟をすると静かに話し始める。今日あったこと、今日感じたこと、命が散ったこと、いつだってあると思っていた平穏が崩れる気配を感じたことを言葉にするために―――息を大きく吸った。



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相談ごと、違和感の理由

 大きく息を吸って肺に空気を送り込み、心の中に一陣の風を吹かせる。

 藍は、風に舞う吐き出したい言葉を拾い集め、素直にそのままの気持ちを口にした。

 

 

「今朝訪れました人里でのことなのですが……」

 

 

 藍が最初に語り出したのは、筆を買った直後にした少年との会話についての話である。

 

 

「和友に無理をしないようにと言ったところ、明確な基準を一緒に作ろうと言われました」

 

 

 藍は、少年に対して無理をしないで欲しいと頼んだ時に、明確な基準がなければ判断がつかないと言った少年の言葉を紫に伝えた。

 話の初めに少年にとって何かを判断することは難しいことだということを知らせることで、これから話す内容の指針を確定させる。逸れないように、逃げ出さないように、羅針盤をさし示す。

 藍は、強い意志を持って少年の話題の先陣を切った。

 

 

「和友は、能力の影響によって区別するという行為をすることが非常に難しくなっています」

 

 

 区別をするということが少年にとって難しいということは、間違いなくこれからの少年の生き方に関わってくる問題である。

 人里での少年の言葉は、明確な基準が無いと無理をしかねないということを示すものであり、それを止めるためのストッパーの存在が不可欠であることを暗示している。

 少年は、明確な基準を作ってあげなければ、判断基準を見誤り、容易に暴走するのだ。方程式の解が発散し、藍や紫の予想しないところで収束することになる。

 その結果―――世界が崩壊することだってありえる。

 境界を曖昧にするというのは、境界を操作できる紫の能力と大きく違う。境界を操作するというのは、イメージとしては境界線を動かす、繋げるという行為に近い。あくまでも境界線は、そこにあってなくなることはない。

 例えば、水たまりと地面との境界線を操作しても、水たまりは水たまりでしかないし、地面は地面でしかない。両者は、あくまでも元のままである。

 そして、なにより違うのは、境界を操作したものを元に戻すことができるということである。繋げたものを切り離す、ずらしたものを元に戻すということができるのだ。

 しかし、境界を曖昧にするというのは、先の例でいえば水たまりと地面を一緒にするということである。水でもなく、地面でもない‘何か’が生まれるということである。

 そこには、常識も理解も何もない―――未知というものができあがる。

 未知―――無限の可能性を持つものが何を起こしても不思議はない。

 それこそ世界の終わりだって作り出せるかもしれない。

 そして、境界線が曖昧になったものは、元には戻らない。どこに境界線があったのかも分からなくなる。曖昧なものを定義するには、自分で新しく境界線を引く必要があるのだ。それは少年にはできないことで、境界そのものが無くなるような状態では、紫でさえも手が出せないものだった。

 そんな取り返しのつかないことを防ぐためにも、少年を止めるためのストッパーの存在は不可欠といえた。

 

 

「和友が幻想郷で安全に暮らしていくためには、しっかりと判断しなければならないことがあります。私たちが和友にとって必要な、確実な基準を作る必要があるでしょう」

 

「それについては私も協力しましょう。できるだけあの子が、幻想郷で自由に、安全に暮らしていけるようにね」

 

 

 紫は藍の意図を理解し、二人で考えれば、よりよい基準ができるだろうと言って笑顔を作った。

 少年の決まり事には、穴の無いような網を敷く必要がある。壁に見えるような、何者も通ることができない網が必要になる。少しでも通ることのできる穴があれば、少年は容易に逸脱してしまう。そうなってからでは遅いのである。

 しかし、穴があると抜けられるからといって穴の無い網を作ればいいじゃないかと簡単に結論付けることはできない。全く抜けどころのない網を作ることは、非常に難しいことである。

 ほころびの全くない、どの視点から見ても穴が見当たらない網を作ることは、一人でやるには難易度が高すぎるのだ。1つの角度から見れば穴が無いように見えても、多角的に見れば穴は見つかる。穴は、様々な視点から見なければ、決して埋まることはない。

 そのことを考えても、紫の協力は必要不可欠だった。

 

 

「和友は、少しでも穴を作れば、そこを抜けてしまいます。しっかりしたものを作りましょう」

 

「もちろんよ。決して抜けることのできない網を敷いてみせるわ」

 

「それを聞いて安心いたしました」

 

 

 藍は、紫の明確な立場の明示に不安を取り払う。面倒くさがりな紫に一緒に思考してもらうという一番の難関を越えて一気に気持ちが軽くなった。

 

 

「話はこれだけではないのでしょう?」

 

「はい、話しておかなければならないことは他にもあります」

 

 

 藍は、一息つくと、次の話を始めた。

 

 

「和友の筆を買った際の話なのですが……」

 

 

 藍は、人里であったことを次々と言葉にする。他愛もないことから今後に関わるようなことまで、思い出すように振り絞った。

 少年の行動や言動の中には、藍が不思議に思っていないだけで重要なことが他にも含まれている可能性がある。一つ一つの何気ないサインを見落としているかもしれない。それを紫に確認してもらうためにも、どんな小さなことでも詳しく話す必要があった。

 

 

「……ということがあったのですよ。筆一本の店主は、和友のことについて何か分かっている雰囲気でした」

 

 

 藍は、思いつく限りのことを口にする。話していないことが何ひとつ残らないように蓄積した記憶を全て口に出していく。

 

 

「他にも……」

 

 

 藍は、一つ一つ話していく最中に、少年と楽しく過ごした時間を思い出し、知らず知らずのうちに笑みを深めていった。

 紫は、表情が変化していく藍の様子を興味深げに、けれどそれを悟られないように観察する。

 

 

「和友は、本当に楽しそうに笑うのですよ。人里で珍しそうなものを見つけては、嬉しそうに私に尋ねてきまして、そんな和友の顔を見ていると思わずこちらも笑顔になってしまいました」

 

 

 藍の表情は、笑顔で満たされている。少年との人里でのやり取りがよほど楽しかったのだと容易に察することのできる表情である。

 紫は、昨日の重い雰囲気を一掃し、予想以上に仲良くなっている藍と少年の関係に素直に喜びの感情を抱えた。

 

 

「私の思っていた以上に有意義な時間を過ごすことができたのね」

 

「本当に楽しかったです。和友は、今度紫様も連れて行こうと言っていましたよ」

 

 

 紫は、藍から告げられた少年の提案に静かに目をつむり、口角を上げて一言呟いた。

 

 

「考えておきましょう」

 

「本当ですか!?」

 

 

 藍は、紫が了承してくれるとは思っておらず、驚いた。

 考えておくというのは、紫にとって了承を示す言葉である。

 紫は、基本的に曖昧な表現を使う場合には肯定の意であることが多い。なぜならば、嫌であるならはっきりと断るからである。曖昧な表現をするということは、藍の経験上、肯定を示していると言っても差し支えなかった。

 

 

「なによ、疑っているの?」

 

「い、いえ、そういうわけではないのですが……」

 

「貴方がそれほど楽しかったのに、私がそれを知らないっていうのはなんだか不公平じゃない」

 

「ふふ、絶対に来てくださいね」

 

「はいはい、もうその話はいいわよ」

 

 

 藍は、紫の素直じゃない言葉に笑みを深める。

 本当はどんなことがあったのか、どんな思いを抱いたのか、どれほど楽しかったのか気になって仕方がないのだろう。普段なら決して人里での話をしない藍が、ここまで話していることに興味をもっているのだ。

 藍は紫の反応に少し嬉しくなった。できれば、このまま楽しい話をしていたいという欲望にかられた。

 だが、少年についての話をいつまでも停滞させておくわけにもいかない。話の内容は終盤に差し掛かっている。

 話は、藍が最も紫に話しておきたかった内容に入り始める。

 藍の話の内容は、ついに本題である帰り際の‘普通ではない出来事’についての話を迎えた。

 

 

「分かりました。では、話を戻しましょう。ここからが私の申しあげたいことになります」

 

 

 藍は、前置きをすぐさま放り投げて本題に入り始める。先程までの明るい声ではなく、落ち着いた声で、真剣な顔で心の中に溜めこんでいた想いを吐き出した。

 

 

「結論から言います。和友の能力が外に漏れ出していると思われます」

 

「そう」

 

「……驚かないのですね」

 

「驚くところなんて何もないでしょう? 漏れ出して当然なのよ。だって、まだ何もしていないのよ? 能力の制御の練習はおろか、練習方法も詳しく考えていないのに、和友の能力が漏れ出していなかったらそれはそれで驚きだわ」

 

「確かに、おっしゃる通りですね……」

 

 

 紫は、藍の予想に反して驚くことはなかった。

 少年の能力が漏れ出しているのは、今に始まったことではない。漏れ出しているのは、外の世界にいたときから変わらないのだ。外の世界でも夢が現実になる程度には能力が漏れ出していたのだから。

 能力の制御の練習を一切していない今の状況において、能力の漏洩が止まっている可能性は万に一つもない。それは、自然に止まることは絶対にないのだから幻想郷においても漏れ出していて当然なのである。

 

 

「漏れ出しているのは確かだけど、藍がそう思ったということは、そう思うだけの何かがあったということよね? 和友の能力が漏れ出している。藍は、どうしてそう思うのかしら? 詳しく話しなさい」

 

「人里へ移動している際に、和友が妖精に興味をもったので近づいて触らせたのですが……」

 

 

 藍は、紫に分かってもらおうと必死に両手を動かしながら事の重要性を伝えようとする。先程と同様に始まりから終わりまでを一言ずつ正確に伝わるように紡いでいく。

 

 

「大きな力を持たない妖精は、基本的に人の言葉を話せません。教えでもしない限りは、決してしゃべらないものです」

 

 

 藍が少年の能力が漏れていると考えるきっかけとなった出来事は、帰り際の妖精が起こした行動の異常性である。妖精が自我を持ち、自分に向かって戦いに応戦したことである。

 藍は、自分が感じた嫌な予感というものを紫に対しても感じてもらおうと感情を込めて声を発した。

 

 

「ですが、和友が触ったと思われる妖精は、人里からの帰り際に人の言葉を口にしたのです」

 

「藍、それだけじゃ何も伝わらないわ」

 

 

 紫は、感情の込められた藍の言葉を鵜呑みにはしなかった。

 紫の視点はあくまで第三者からの視点であり、冷静に状況の分析をする立場である。そこに感情が入って見えるはずのものが見えなくなっては元も子もない。

 紫は、感情を込めて言う藍に対して落ち着いた声色で告げた。

 

 

「和友の能力が漏れ出しているという根拠は何なの? 和友が触れたと‘思われる’妖精がしゃべりだしたという話だけなら、和友の能力が漏れだしていると考えることはできないと思うのだけど」

 

「人の言葉を何一つしゃべることのできなかった妖精がいきなりしゃべりだしたのですよ。人に悪戯することしか考えないような妖精が自我を持ったのです」

 

 

 藍は、自分と紫との間に存在する認識のギャップに焦りを感じていた。藍の話に対する紫の反応は、余りにそっけない。

 藍は、焦る想いをそのまま言葉に乗せて精いっぱいできる限りの説明を行う。あり得ないことが起きているのだと、新しい情報を並べて紫へと言葉を送った。

 

 

「妖精は、和友によく似た自我を持っていました。負けず嫌いで、意志を曲げない、そんな自我を持っていました。生きるために私に戦いを挑んでくるほどの強い意志を持っていました」

 

「何度も言うようで悪いけど―――藍、それだけでは和友の能力が漏れ出していると断言することはできないわ」

 

 

 紫は、藍をたしなめるように告げた。

 妖精が藍に勝負を挑むというのは、想像することも難しいほどにありえないことである。それが力のある妖精ならばともかく、藍の口にしている妖精が力なき普段空中に浮いている妖精のことなのは明らかであり、そんな力の無い妖精が藍に立ち向かうなど天変地異が起きても起こりえないことだった。

 紫は、藍の言葉を聞いて事の大きさにはやる気持ちが無いわけじゃなかった。藍と同じように妖精が勝負を挑んできたという情報に驚き、少年の能力の影響を心配する気持ちがあった。

 しかし、紫まで感情的になってはならない。それでは、何も見えてこなくなる。

 紫は、あくまで第三者でいる必要があるのだ。同じ思考の人間が二人いても、何も新しいものは見えてこない。見落としている情報は、違う価値観から生まれてくる、違う視点から見えてくるものなのだから。

 

 

「まだ、最初から妖精がしゃべることができた可能性、妖精の言葉が貴方たちに悪戯(いたずら)するために作られたものの可能性が捨てきれないわ」

 

 

 藍は、ハッとしたように表情を変えた。

 確かに紫の言う通りである。

 少年の能力が漏洩(ろうえい)しているという確固たる証拠は―――存在しないのだ。何かが起こった=能力が漏洩しているというイコールの式が成り立つ明確な出来事は起こっていない。妖精が最初から人の言葉をしゃべることができて、少年と藍に悪戯(いたずら)するために演技をした可能性が無いわけじゃないのである。

 

 

「確証となるものとまでは言わないまでも、後ひと押しが欲しいわね」

 

「後ひと押しですか……」

 

 

 藍は、紫の言葉に視線を下げて頭を悩ませた。

 

 

「他に、何か和友の能力が漏れ出しているところは……」

 

 

 藍は、持ち合わせている記憶を総動員して、紫の言う‘ひと押し’となる少年の違和感を探す。少年が幻想郷にやってきた昨日からのことを思い返す。

 しかし、いくら考えても少年の能力が漏れ出しているという事例が思い当たらなかった。妖精に大きな影響を与えたこと、それ以外には何も思いつかなかった。

 

 

「何か……何かないのか……」

 

 

 何度も言うようであるが、妖精は人間に対して悪戯するということ以外に意志を持たない。お腹が減ることもなければ、死の恐怖を感じることもない。

 けれども、少年に触れていた妖精ははっきりと死を拒絶した。藍は、それこそが少年の能力が漏れ出している証拠だと思った。それこそが藍にとっての少年の能力が漏洩(ろうえい)していると考える確証だった。

 だが―――それは紫に拒絶されてしまっている。唯一の出来事を抑えられてしまっている。

 

 

「見つからない……」

 

 

 藍は、あくまでこの妖精の一件で嫌な予感がしたのである。少年が妖精に与えた影響の大きさにとてつもない異常性を感じたのだ。

 しかし、言ってしまえばそれだけである。それ以外の何かがあるわけではなかった。

 

 

「先程の話だけでは、納得していただけないのですか?」

 

「無理ね。断定しかねるわ」

 

 

 藍は、苦し紛れに紫へと問いかけるものの一刀両断されてしまう。これでは、紫に事の異常性を分かってもらえない。

 紫には、なんとしても少年の能力が漏れ出していることを分かってもらわなければならない。そうでなくては、少年の将来や幻想郷の未来に多大な影響が出ることは間違いない。唯一分かっている自分が何とかしなければならない、そんな義務感というのか、責任感が藍をかりたてていた。

 

 

「あの……」

 

「私は、ただ客観的にものを言っているだけよ? 意地悪でこんなことを言っているわけじゃないわ」

 

 

 紫は、藍の意志の強さを試すように何度も否定の言葉を投げつける。

 

 

「貴方の言い草は、余りに自分よがりの憶測にすぎないわ。相手を納得させるのならば、私の反論を論破してみなさい」

 

「…………」

 

 

 紫は、あくまで感情を含めずに藍の話を聞いている。

 藍の話は、妖精が悪戯でふざけている可能性を捨て切れられない。

 紫は、藍とは違って現場にいたわけでも、妖精の悲痛な叫び声を実際に聞いたわけでもないのだ。もしも、実際に聞いていたのであれば、それが演技ではないと分かったことだろうが、今更なにを言ったところで行かなかったという事実は変わらない。

 見てきたものをそのまま伝える術があれば―――とは思うものの、そんなものはなく、藍は言葉だけで何とか事の重大性を伝えなければならなかった。

 だが、言葉だけでは妖精が立ち向かってきた状況を再現することはできない。口頭の話だけでは、妖精から感じた違和感を余すことなく伝えることができないため、紫を納得させることができないのだ。

 紫は、口を閉ざして困った顔を浮かべている藍に向かって他に何も無いのかと疑問を口にする。

 

 

「何もないの?」

 

「…………」

 

 

 藍は、紫の疑問の言葉に対して何も言い出すことができなかった。何一つ言葉が頭の中に思いつかなかった。

 しかし、何度も言うが、なんとかして紫に分かってもらわなくてはならない。

 藍は、ないものをひねり出すように表情を曇らせながらも、僅かに口を開いた。閉ざした口を強い意志を持って開けて、最後のひと押しの言葉を吐き出した。

 

 

「……私の、勘です」

 

 

 紫は、藍の言葉に一瞬、呆気にとられた。藍は、紫の他にないのかという言葉に対して自身の勘を根拠として盛り込んできたのである。

 

 

「本気で言っているの?」

 

「本気です。冗談でも何でもありません」

 

 

 紫の瞳に映る藍の顔は、真面目に真剣なものだった。藍は、ふざけている様子を微塵も見せることなく、紫の目を真っ直ぐ見つめ返している。

 藍の言葉は、苦し紛れに出てきた言葉かもしれない。けれども、藍の言葉は自分の信用を賭すだけの確証があるということを示す言葉である。他人に何と言われようとも、曲がらないという感覚に頼った言葉である。

 紫は、予想の斜め上を行く藍の言葉に表情を崩すと、笑みを浮かべた。

 




まぁ傷は無くなるよね。傷は、大抵治るものなんだから。例外はあるけど。


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漏れ出す脅威、塞がれた痕跡

 紫は、藍の押しの強い最後の一押しに雰囲気を崩し、朗らかな笑顔を浮かべた。

 

 

「ふふっ、それは素晴らしい最後のひと押しね」

 

 

 紫は、もともと少年の能力が漏れていることを知っている。なにも、ここまで追い詰める必要はなかったといえばなかったのだが、藍の覚悟を知るいい機会だった。

 藍は、本気で少年のことを助けてやろうと、能力についてどうにかしてあげようという気持ちを持っている。妖精の一件は、藍の覚悟と共に新たな事例として紫の中に刻まれる形で保存された。

 紫は、朗らかになった表情を真面目な顔に変える。スイッチの切り替えをするように瞬時に気持ちを切り替えた。

 

 

「いいわ、藍の言葉を信じましょう。私もあの子の能力が漏れ出していると思う節があるから」

 

 

 藍は、紫の言葉に即座に喰いついた。

 藍は、ここで初めて紫が少年の能力が漏れ出ていることを把握していることを知ることとなった。

 もちろん、藍も外での出来事から夢にまで能力の影響が広がっていることは知っている。それが原因で幻想郷に連れてきたのだから―――そこは共通の認識としてある。

 だけど、それ以外に何かあるのだろか。紫は、妖精の件のように傍にいる生物に直接影響を与えるほどの影響力があることを把握しているのだろうか。

 紫の言葉だけを素直に受け取れば、妖精の一件以外に違和感を見つけられなかった藍と異なり、少年の能力が露出している部分を見つけているということになる。間違いなく能力の影響が出ているのだと言っている。

 

 

「紫様にも和友の能力が漏れ出していると感じられる時があったのですか?」

 

「ええ、和友の行動には、度々不思議に思うところがあるわ」

 

「それは、どのような行動でしょうか?」

 

 

 紫は、藍に対して違和感が無いのか再び考えさせるように、少年のおかしいところが無いか質問を投げかけた。

 

 

「きっとこの違和感を作り出しているのは、和友の能力の影響だと思うのよ。藍もおかしいと思っているのではないのかしら?」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の違和感を脳内から探す。隅から隅まで、昨日今日と過ごしてきた少年との記憶をたどる。

 だが、考えても何も出てこないことに口を閉ざし、沈黙した。先程も同じような記憶巡りをしている藍に、新たな知見が見つけられる余地はなかった。

 藍は先程悩んだ時のように俯き、地面に視線を落とした。

 

 

「藍が思い当たらないのも仕方がないのかしら? あの子は、ずっと自分自身を偽って生きてきたのだから、2日程度一緒に過ごしているだけでは違和感が見えてこないのかもしれないわね」

 

 

 少年は、藍に気取らせないほどに上手く生活を送っている。特に藍は、少年の平常の様子を一度も見たことがないため、違和感を探りにくいというのも思い当たらない理由として考えられた。

 さらに言えば、妖精の一件の衝撃が藍にとって強すぎたことが少年の違和感に気付けない主な原因になっていた。

 大きな衝撃は小さな違和感を掻き消し、視野を狭窄させているのだ。標識を壊してしまって立て札について聞くのを忘れたように、大きなものは小さなものを隠してしまう。

 それもまた少年のやり口だと考えるのはいささか無理があるが、そう考えてしまう程に少年の生き方は様になっている。

 しかし、だとしてもである。そうだったからどうなるというわけでもない。紫は、思考をあるところで遮断した。

 

 

「けれども、あの子をよく見ていれば分かるはずよ。気付くはずなのよ」

 

「…………」

 

「何も思い当たらないかしら? 藍が一番和友の側で見ていたでしょう? さっきも違和感丸出しだったじゃない」

 

「先程もですか……」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いてしばらく考え込む。‘先程も’ということはこれまでもずっと違和感を醸し出しているということである。先程の少年と幻想郷に来たばかりの少年とで異なっている部分は服装以外にないのだから―――幻想郷に来てからずっと違和感があると考えるのが自然だ。

 藍は、ゆっくりと少年の全身像を脳内に描く。頭から足先まで綺麗に描き込む。描き込んだ絵に対して、情報を記載していく。頭から、下に向かって一つ一つ書き記す。

 藍は、脳内作業の途中である一つの解答を思いつき、はっと目を見開いた。

 

 

「あっ……分かりました! 左手のことですね!」

 

「正解よ」

 

 

 紫は一言、藍の答えに満足するように正解を告げ、続けて口を開いた。

 

 

「和友の左手の怪我は相当なものよ。なにせ(てのひら)をナイフで突き刺されて貫通したのだから。しかもそれはつい昨日のこと。治っているはずがないわ」

 

 

 紫は、扇子を口元で開くと、頭の中に持ち合わせている和友に対する予測を展開する。

 

 

「もしかすると和友は痛覚が無いのではないかしら。少なくとも痛覚が無いといわないまでも、あまり痛みを感じてないのは確かだと思うのよ」

 

 

 紫は、少年の痛覚が曖昧になっていると予測していた。

 少年が強盗殺人犯にナイフで掌を貫かれたのは、昨日のことである。当たり前であるが、掌を刃物で貫かれるほどの怪我が1日で治るはずはない。

 妖怪ならばまだしも、少年は人間である。痛みも残っていると考えるのが普通だろう。

 そうなると疑問になるのは、痛みがあるならば―――なぜあんなにも平然と動くことができるのだろうかというところである。

 紫は、少年が怪我を負っている様子を見せることなく行動できている理由を推測した。

 

 

「和友の持っている曖昧にする程度の能力が漏れ出して、痛みが曖昧になっているような気がするの。そうでもなければ、あれほどの怪我をしている左手を動かして痛みを感じているそぶりを一つも見せないなんてできるはずがないわ」

 

「確かに紫様の言う通りかもしれませんね。和友の左手は、怪我をしてから2日目しか経っていません。もちろん完治しているはずもありません」

 

 

 紫は、少年の能力である境界を曖昧にする能力の影響によって痛覚が曖昧になっていると考えていた。

 痛みを与え続けられれば感覚がマヒする場合もあり得る。だが、それはあまりに非現実的である。人間の精神力ではそこまでに至るまで耐え切れない。そうなる前に心が死んでしまうだろう。

 

 

「私は、和友の何を見ていたのだろう……」

 

 

 藍は、今日の少年と過ごした時をそっと思い浮かべる。少年が怪我をしていることに気付いたのは、いつだっただろうか。どんなときだっただろうか。

 藍が少年の怪我を思い出したのは、帰り際の荷物を持とうとした少年を見たときである。手を差し出されてやっと―――少年が怪我を負っていることを把握した。それまで怪我をしていることを気にもかけていなかった、気付いてさえもいなかった。

 藍は余りに少年の状況を把握できていない自分に落ち込む。

 

 

「和友が全く痛がらないので怪我をしていることを忘れそうになっていました……」

 

「昨日は食器洗いをしていた。今日は料理をしていたし……今も食器洗いの真最中だものね……任せなければよかったかしら」

 

 

 少年は、左手を怪我している状態でいくつもの行為を成し遂げている。ノートを持つときも、人里に行く時に藍にしがみつくときも、左手を使っている。

 大怪我を負っている左手は、動かすだけでも突き刺さるような痛みが走るだろう。特に食器洗いに関しては、水が流れているところに手を突っ込むような行為になる。怪我をしている手を水につけるというのは総じて痛みを伴う。それは、どうしても流れ出る水が傷口に触れるということが起こるからだ。

 紫の心の中では、痛みを伴う作業をさせてしまっているという状況を作り出し、それを察してすらいなかったということに、罪悪感が今更に湧き上がって来ていた。

 藍は、紫の言葉に認識の違いがあることに気付いた。

 

 

「紫様は、和友が実際に料理や食器洗いをしているところを見ていなかったので知らないと思いますが、和友は非常に上手く食器洗いをしていましたよ」

 

 

 昨日の少年を見れば、食器洗いをさせることに特に気を遣うべきところがないことが理解できる。

 少年は、食器洗いをしている時に左手を一切というほど使っていない。

 藍は、紫の言葉に訂正を入れた。

 

 

「私には、和友が怪我している状態で腕を動かすことに慣れているように見えました。和友は、左手を決して水につけないように食器を洗っていましたから……」

 

「和友は、そんな事が出来るのね……」

 

 

 紫は、予想外の藍の言葉に詰まるように言葉を失った。

 紫の少年に関する違和感は、食器洗いが根源である。食器洗いや料理をしている時に少年が怪我を負っている左手を使っていたという事実をもとにした仮定に過ぎなかった。

 

 

「藍の言っていることが確かなのならば、私の仮定は間違っているということになるわね」

 

 

 紫の仮定は、少年が怪我をしている状況で痛みを最小限になるように庇いながら行動ができるという前提条件が入れば、一瞬にして崩れ去る。痛みを寸分たりとも顔に出さず、何事もなく動いている理由は、能力の影響ではなく少年の特技にあるということになるからである。

 紫は、行き詰った思考の中で困った表情を浮かべた。

 

 

「これまで怪我をした時に何度も同じようにやっていたからというわけなのかしら。書き記す行為をしていたころは、右手が常にイカレている状態だっただろうし、何かを庇いながら動くことに慣れているのかもしれないわね」

 

「紫様、私が見ていたのはあくまで食器を洗っている時だけです。今朝、顔を洗っている時はどうだったのか分かりません」

 

 

 藍は、声の調子を落とした紫の話を聞いてフォローするように言葉を発した。

 少年は、今朝に顔を洗いに外に行っている。その時、両手が濡れていたのかは定かではないが、手を濡らしていた可能性は考えられた。

 

 

「私が、その場で和友が怪我をしていることに気付けばよかったのですが……そこまでは気が回らず、確認できていません。しかし、今朝顔を洗ったときは、もしかしたら手を水に濡らしていた可能性はあります……」

 

「別に気を遣う必要はないわよ。さっきは私がさんざん言ったのだから、お互い様」

 

「……そう言ってもらえると、助かります」

 

 

 紫は、藍のフォローを受けて僅かに笑顔をみせる。

 しかし、肝心の話の結論は、藍の言っている内容については推測が入り過ぎて何も議論することができないという結論で終わってしまっている。

 紫は、憶測で話が進み始めた今、これ以上話をしても意味が無いと思った。

 

 

「藍、ここらで話を一旦切りましょう。ここでこれ以上話をしても(らち)があかないわ。結論を出すことができずに時間を浪費するだけよ」

 

 

 紫は、話を収めようと藍へ提案を持ち掛け、口元に当てていた扇子を閉じる。そして、部屋の外に出るためにふすまの前まで移動すると藍へと振り返り口を開いた。

 

 

「和友の左手の傷については、居間に戻ったらすぐに確認しましょう。そろそろ巻いてある包帯も巻き直す必要があるでしょうし……」

 

「包帯はどの程度の頻度で巻き直せばよいのでしょうか? 私は、人間の手当てを長期に渡ってしたことが無いので分からないのですが……」

 

「そんなこと言われても、私も知らないわよ。今度どこぞの医者にでも聞いてきなさい」

 

 

 紫は、藍の質問に眉をひそめた。紫も人間の手当てなど、その場しのぎのものしかやったことがなかったのである。

 人間を助けるということは、妖怪にとって大きな意味を持つ行為になる。人間の敵=妖怪という構図が出来上がっていた昔から言えば、本来ありえない行為である。やってしまえば、妖怪の中から除け者にされる。かといって、人間と友達になれるわけでもない。結局のところ、手当などする者はいないのである。

 そんな妖怪の二人が、短期的ならともかく‘長期的’かつ‘人間の’怪我の手当てができる道理がなかった。

 

 

「では、今週中に聞いてきますね。代わりの包帯も買ってくる必要があるでしょうし、ついでに買ってまいります」

 

 

 紫と藍の二人は、藍の一言によって一度立ち止まった足を動かして紫の部屋を出た。

 廊下は音をなくして静まり返っており、居間からの音は何も聞こえない。

 紫と藍は、廊下を並びながら歩き始め、少年のいる居間へと一直線に足を向ける。無言のまま1分ほどの時間を浪費し、居間へと到達した。

 紫と藍の瞳は、居間に入ると真っ先に少年を探す。二人の視界に入った少年は、縁側に座って空を見上げていた。

 紫は、空を見上げている少年を見て既視感を覚え、藍へと問いかける。

 

 

「藍、和友ってよく空を見上げているような気がするのだけど……私の気のせいかしら?」

 

「いえ、気のせいではないと思います。和友はよく空を見上げていますよ」

 

 

 紫と藍は、視線を少年からそらさず、動かない少年を見つめ続ける。少年は、二人が戻ってきたことに気付いておらず、空を見上げていた。

 紫と藍の二人は、少年の視線を追うように空を見上げてみる。

 少年の視線の先には、雲があるわけでも、虹が出ているわけでもなく、何もなかった。

 

 

「和友の見上げている先の空には、別に何もないわよねぇ……」

 

「いつもと同じような空ですね、特に変わったところはないようです」

 

「和友は何に惹きつけられて空を見ているのかしら……」

 

 

 少年の視線の先には、いつも通りの迫りくるような青さだけが広がっている。ただ、それだけの普通の空だった。

 飲み込まれそうな青さが少年を惹きつけているというのだろうか。

 

 

「何もない空……何でもない空。見えているものが違うのかしら? まぁいいわ」

 

 

 紫は、考えてもわからないことを考えるのを止めて少年へと言葉を投げかける。

 

 

「和友、戻ってきたわよ」

 

「あっ、紫、藍、おかえりなさい」

 

 

 少年は、呼びかけられた声に振り返る。

 少年の両目は、空ではなく紫と藍の二人の姿をしっかりと捉えていた。

 

 

「結構早かったね。まだ約束の午後2時までには時間があるみたいだけど、話はもういいの?」

 

「ああ、もう二人で話すことは無くなったからな」

 

 

 藍は、縁側に座っている少年の隣に座り込み、紫としたかった話は全て終わったと告げた。

 少年は、藍の言葉を聞いて紫に向かって疑問を口にする。

 

 

「じゃあ、今から能力の練習をするの?」

 

 

 紫は、少年の問いかけに首を振った。能力の練習もしなければならないことなのだが、居間の紫や藍にとって能力の練習よりも大事なことは、少年の能力が漏れている証拠を見つけ出すこと、違和感を特定することである。

 

 

「いいえ、能力の練習じゃなくて今から確認作業をするわ。あなたの能力についてのね」

 

「能力について僕から話せることなんて、もう何もないと思うけど……?」

 

 

 少年は、これまでに少年自身が知りえている能力についての情報は全て開示してきたつもりだった。

 

 

「他に何か気になることでもあるの?」

 

「和友、その怪我をした左手を見せてくれないか?」

 

「ああ、なるほど。確認ってそういうことだったんだね」

 

 

 藍が話を切り替えるように少年に向かって言うと、少年はどこか納得したような表情を浮かべた。藍の言葉を聞いて何か、理解できる部分があったようである。

 少年は、包帯を巻いてある左手を藍に向かって差し出すと一言笑顔で告げた。

 

 

「はい、どうぞ」

 

「それじゃあ、解いていくぞ」

 

 

 藍は、少年の左手に巻かれた包帯を振りほどいていく。

 3重にも巻かれた包帯は、()けて(ほど)けて長く垂れ下がった。本当ならば、もっと巻かれているものなのだが、病室で少年が解いていたため、少なくなっている。

 少年は、にこやかな表情で左腕を差し出したまま動かない。紫は、揺るがない瞳で少年の左手を見つめていた。

 巻かれている包帯が終盤に差し掛かるとわずかに血のにじんだ赤が映る。少年が怪我をしていた事実が浮き彫りになってくる。

 藍は、痛々しい少年の左手を見て、少年のことを心配するように気をかけた。

 

 

「包帯を解くの、痛くは無いか?」

 

「心配してくれてありがとう。別に痛くないよ」

 

「そうか……」

 

 

 少年は、痛みを感じさせない笑顔で藍に告げる。その少年の言葉で、藍の中の先程紫が言っていた痛覚が無いのではないかという予測が確信に変わった。

 藍は、痛みを感じていないような少年の言葉にひとまず安心し、最後まで包帯を取り除く。

 そして――――最後まで包帯が取り除かれた時に見えた左の掌は、あり得ない状態だった。

 

 

「どうして……?」

 

「一体、これはどういうこと……?」

 

 

 紫は、勢いよく少年の腕を掴むと強引に引っ張り、覗き込むようにして見つめる。

 藍は、ありえない物を見たかのように驚きを隠せないでいた。

 少年は、藍と紫の理解できないといった言葉に不思議そうな顔をする。

 

 

「あれ? 少なくとも紫は知っていると思っていたんだけど?」

 

「私は知らないわよ。どうしてこんなことが……?」

 

 

 少年は、このことについて紫が知っていると思っていた。知ることのできるはずのものを紫は所持しているからだ。

 少年は、知らないということはないはずだけどと思いながらも、左手をくるくると回転させ見せつけるように動かす。

 

 

「紫は、知っているよね。僕が決まり事を覚える時にする書き記す作業のことをさ」

 

 

 見せつけるように強調されているべき少年の左手の傷は―――最初から存在しなかったかのように跡形も無くなっていた。

 



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覚えること、刻み付けること

 少年は見せつけるように何の傷もない左手を動かしながら、さも当然のことを話しているかのように平坦な表情で紫に向かって質問を投げかける。

 

 

「紫は、僕が決まり事を覚えるときの方法を知っているんだよね?」

 

「ええ、背中に刃物を突き刺して痛みと共に覚えるのよね」

 

 

 少年は、紫の意見が正しいと示すように一度だけ頷いた。

 

 

「そうだよ。やっぱり知っているんじゃないか」

 

「それを知っていることと、怪我が治っていることに何の関係があるの?」

 

「あれ? おかしいな」

 

 

 少年は、紫の言葉を耳にしてなおさら左手の怪我が消えている理由をどうして知らないのか不思議に思った。

 少年の中では、決まり事を覚える方法を知っているということは、傷が治っている理由を知っているのと同義なのだ。

 少年は、傷が完治している理由を知らないという知識の偏っている紫に向けて別の視点から質問を投げかけた。

 

 

「ちなみになんだけどさ。それってどこから得た情報なの? 別に紫が知っていたらいけないってわけじゃないんだけど……」

 

 

 少年の決まり事を覚える方法については、家族内で緘口令(かんこうれい)が敷かれている。決まり事を覚える方法は、はっきりいって法に触れているのだ。

 当然法に触れているというのだから―――人に言える内容ではなく、人に話してはならない内容である。だから、少年は今まで一度も他人に対して決まり事の話をしたことがなかった。それなのに紫が知っている。そこも、不思議に思うところではある。

 ただ、ここで勘違いしてはいけないのは、別に紫が知っていること自体に問題があるわけではないということである。紫が知っているからと言って、困ることは何もない。ここは外の世界ではなく、幻想郷である。誰かに咎められるわけでも、捌かれるわけでもない。それに、家族である紫にだったらという気持ちもあった。

 何処で知ったのかは分からないが、何かしらの方法で知ったのだろう。

 だが、そのことを知っていて、どうして左手の怪我が治っていることに疑問を持っているのか不思議だった。

 

 

「このことを知っているのは、僕と僕の両親だけだったはずなんだよね。僕は、みんなにまだ決まり事の話をしていないしさ」

 

「昨日、貴方が私達の名前を覚えていた間に、貴方の家に行って貴方の両親が書いていた成長記録を取ってきたのよ。その中に決まり事について書いてあったわ」

 

「僕の両親が取っていた成長記録……」

 

 

 少年は、紫の答えに目を見開いた。

 少年は、両親が成長記録を取っていることを知らなかった。両親は、成長記録を取っていることを少年に伝えていなかった。

 

 

「そんな物があったんだね。ちょっと失念していたよ。そうだよ、戻って探せばよかったんじゃないか……」

 

 

 少年は、外の世界から必要なものを探し出して持ってきた紫の行動にある希望を見出すと、考え込むようにして下を向き、ぶつぶつと呟いた。

 藍は、俯いてぼそぼそと呟く少年の様子が気になり少年の顔を覗き込むようにして見つめる。

 少年は、変わらず下を向いて真剣な表情をしていた。相当に何か気になることがあったようである。

 

 

「和友、どうしたんだ? 何か気になることでもあったのか?」

 

「ううん、なんでもないよ。ちょっと思うことがあっただけ……」

 

 

 少年は藍の質問に言葉を濁して答え、意識を変えるように顔を振る。物理的に左右に振ることで先程思いついたとある可能性を思考から払いのけ、本来の話題へと意識を切り替えた。

 

 

「それにしても……」

 

 

 少年の頭は、紫の最初の話である両親が記録していた自身の成長記録について考えを巡らせていた。

 怪我がすばやく治ることは、明らかな異常である。とてもではないが人間業ではない。少年は、怪我が治っていることについて両親の取っていた成長記録に何一つ書いていないことを不思議に思っていた。

 

 

「僕の両親は、このことについて書いてなかったんだね。もしかして、決まり事の話を書いておけば分かると思ったのかな?」

 

 

 少年は、そっと視線を上に向けて考えるしぐさを見せると、すぐさまいつもの言葉を口にした。

 

 

「まぁそんなことはどっちでもいいのか。結局僕が話せばいいんだもんね」

 

 

 少年は、どっちでもいいのかと一人で納得すると、二人に見せつけるように人差し指と中指の二本立てた。

 紫と藍は、少年の立てられた指に注視する。少年は、二人の視線が集まるのを確認すると両親が成長記録の中に書かれていなかったことについて話し始めた。

 

 

「決まり事を覚える際に、背中に刃物を突き刺した理由は2つあるんだよ。今の二人なら、少し考えれば分かるんじゃないかな。だって、今の二人は僕の左手の状態について認識しているわけだしね」

 

 

 紫と藍は、少年の言うように、すでに決まり事を覚える際に刃物を‘背中に’突き刺していた理由が何なのか察しがついていた。

 二人は、迷いが無いことを示すように揺らぐことなく真っ直ぐに少年の目を見つめている。

 少年は、二人の視線から答えを知っていると踏み、話を進め出した。

 

 

「一つ目の理由は、傷跡が目につきにくいからだよ。背中なら、服を着ることになるから他人からはほとんど見えなくなるよね。多分二人は、最初にそう思ったんじゃないかな?」

 

「まさしくその通りよ」

 

「うん、それで合っているよ。それが全てではないけどね」 

 

 

 紫と藍は、少年の両親は周りの人間から見られないように少年の背中に刃物を突き立てたのだと、まさしく少年の言ったことを最初に想像した。

 そして、刃物を突き刺していたのが間違いなく両親であるということも想像がついていた。

 少年の手の長さでは、切り付けるというのならばともかく、突き刺すということをするのは不可能に近い。仮に届くとしても相当な危険を伴うことが予測された。

 死なない程度に見えない位置に刃物を突き刺すことは非常に難しいのだ。少しでも力加減を間違えてしまえば、死んでしまうという大きなリスクがあるなかで刃物を刺すという行動をとるのは非常に危険である。

 少年は、もう一つの理由を告げようと次の言葉を喉から吐き出そうとした。背中を刃物で傷つけている理由は、別に’他人から’見えない場所であるからと言うだけではない。

 

 

「そう……」

 

「もう一つの理由は、和友自身の目で見えないからだな」

 

 

 少年は、最も重要な理由を言おうと口を開きかけたが、少年の言葉は先取りされるように藍の言葉で遮られた。

 そっと紫の方へと視線を向けてみると、紫も特に表情を変えず、驚いている様子は見られない。少年は、紫が特に表情を変えていないことから藍と同じ答えを導き出していることを悟った。

 

 

(紫も……分かっているみたいだね)

 

 

 少年は、今にも出そうになっていた言葉を飲み込んだ。藍も紫も容易に予測できる少年の次の言葉をすでに頭の中に宿している。両者が察しているというのならば、ここからの話は余分である。

 

 

「大正解。そこまで分かっているのなら、これ以上僕が話す必要はないよね」

 

 

 少年は、察しのいい二人にやわらかな声色で正解を告げると、再びそっと空を見上げた。

 空に昇っている太陽には雲がかかっており、影が差し迫っている。

 少年の表情は、どこか浮かない表情だった。

 紫と藍は、少年の物憂げな様子に顔を見合わせる。二人は、少年の表情から怪我が素早く治るという人間から外れているようなことを少年が話したくなかったのではないかと勘くぐった。

 

 

(いきなりどうしたのかしら?)

 

(もしかして、相当話したくない内容だったのではないのですか?)

 

(そうだったとしても、ここで引き下がる理由はないわ。いずれにせよ、このままじゃらちがあかないのよ)

 

 

 ただ、今さら少年の気持ちを気にしても遅い。話はすでに終わってしまっている。気にするのであれば、話す前に気にする必要がある。それに―――少年から話し始めたのだから、気の遣いようもないのだ。

 しかし、視界に映る少年の雰囲気からは、空気が重くなるような成分が放出されている。紫と藍の心は、重力に引っ張られるように息苦しい感情に支配された。

 紫は、気持ちが落ち込みそうになるのを無視して、先程藍と話をした際に出た可能性について問いかけた。

 

 

「和友、貴方は痛みをほとんど感じていないわよね?」

 

「そうだね。痛みについては、もうほとんどないかな。慣れてしまったのか、能力が原因なのかは分からないけど……」

 

「やっぱりそうだったのね」

 

 

 少年は視線を空から紫に向け、物憂げな表情を柔らかくして、特に隠すことなく痛みを感じていないという可能性を肯定した。痛みをほとんど感じていないという異常性を、今まで口から出したことのない事実を―――吐き出した。

 紫と藍は、少年が嘘をついている可能性も視野に入れていたが、少年の言葉を信じることにした。

 その方が今までのことについて説明がつき、納得ができるという理由で。ここで、少年が嘘をついても仕方がないという理由で。最初から決めつけにかかるように少年の言葉を信じて疑わなかった。

 仮に少年が違うと言っても、逆に信じることができなかっただろう。判断材料、状況証拠が揃いすぎている状況で少年が何を言っても、信じることはできなかったはずである。

 

 

「痛みを与え続けられて無意識に能力が発動しているのでしょう。自身を守るために、能力が防衛に走っている。痛覚の境界線が曖昧になっているのよ」

 

「そうなんだろうね。僕には、つねられているのか触られているのかの境界が全く分からない」

 

 

 紫は、少年が痛みを感じないことについて持論を述べ、能力が無意識に働いているのだと推測した。痛みという肉体に刻まれる苦痛を無意識のうちに少年が拒否しているため、能力が発動しているのだと推察していた。

 実際に、少年の痛覚は麻痺している。麻痺しているというより、判断できなくなっている。正確に表現するのならば、境界線がずれているというのが正しいかもしれない。

 

 要は―――痛みを感じるレベルの問題なのである。

 

 具体例を持ち出せば、少年は撫でられるように触られているとつねられている感覚の境界線が曖昧である。

 撫でられていることとつねられていることの差は、何が生み出しているのだろうか。それは痛みであり、触覚から得られる情報の違いによるものである。

 昨日話し合いで紫から額を扇子で突かれている時のことを思い出してみれば分かる。紫に額を突かれている少年が無表情のままだったのは、それが別に痛くもなんともなかったから。

 ただ―――それだけのことである。少年の額は、痛みを警告するように赤くなっていたのに、少年は表情一つ変えなかった。変えるだけの要素が何一つ伝わっていなかった。

 

 

「貴方の能力は、何も痛覚だけに発揮しているわけではないわ」

 

 

 そして、少年の能力が発動しているのは何も痛覚に限った話ではなかった。

 

 

「貴方の能力は、痛覚だけじゃなく、痛みを感じなくなって認識できなくなった傷までも曖昧にした。傷は、痛みを認識できなければ無いのと変わらないわ。そんなものは、あってもなくても変わらないと言わないばかりにね」

 

「…………」

 

 

 少年は紫の言葉に反論の言葉一つ言わず、沈黙によって肯定した。

 少年は、自身の能力が境界を曖昧にする能力だと分かってからいろいろ考えた。今まで生きてきていた中で起こった出来事、今まで生活してきた中で感じた他人との違いによる疎外感の原因、その他、いろいろ考えた。

 境界を曖昧にする能力は、その大半の現象を説明するのに十分な役割を果たした。

 少年は、暫くの間何か考えるように沈黙した後にゆっくりと俯き、寂しそうな表情を浮かべた。

 

 

「紫、後で両親がとっていた僕の成長記録……読ませてね」

 

 

 少年は、両親がとっていた成長記録を読ませてくれるようにお願いをする。何とも寂しそうな表情で、今にも泣きそうな瞳で訴えた。

 

 

「ええ、もちろんよ」

 

「ありがとう……」

 

 

 少年は、今にも崩れそうな笑顔でお礼を告げた。紫と藍は、惹きつけられるように少年の顔を見たまま固まってしまった。

 少年は、複雑な笑顔を浮かべたまま縁側から部屋の方へと足を進める。一歩二歩と足を前へと進ませていく。

 少年は、あるところまで歩くと、くるりと反転して笑顔を作った。そこには先程の暗い雰囲気を少しだけ取り払った少年の顔があった。

 

 

「紫、能力の練習を始めよっか」

 

「和友……」

 

 

 少年の表情からは、先ほどのずっしりとくる空気は感じられない。空気感が変わったというか、雰囲気が変わったとか、そういうレベルの変化ではなく、境界線が曖昧になってもともとのものが分からなくなる、別物になったというほどの違いがそこにはあった。

 

 

「もう、確認作業は終わったでしょ?」

 

「そうね。さっそく始めましょう」

 

 

 少年は、何か辛いと思うことがあっても、気持ちを強引に切り替えることができる人間だ。

 辛い気持ちをすぐに振り払うのは、大人でもそうそう簡単にできることではない。ましてや少年は、幻想郷へ来るまでに相当に大きいものを捨てている。両親、友達、日常を捨てている。

 物事は、連続しているのだ。不連続に感情を切り替えることなど、決してできない。それは、少年にだっていえることだろう。

 だからこそ―――少年の引きずる様子を一切見せずに強がる姿は、本当に強く美しいと思った。

 紫は、無理をするように笑う少年に合わせて笑顔を作る。決して同情からではなく、少年の笑顔につられるようにして微笑み、少年の後ろに追随して部屋の中に入った。

 藍は、紫の動きに慌てて動き出し、二人の流れに追随する。

 

 

「私も能力の練習に付き合ってもよろしいでしょうか?」

 

「もちろん構わないわよ。和友の能力の練習は、藍にやってもらうことなんだから。昨日からそういう話だったでしょう?」

 

「……そういえばそうでしたね」

 

 

 藍は、少年の能力の練習の担当が自分であることを完全に忘れていた。もともと少年の能力の制御の練習は、藍の仕事だったのだ。

 藍が能力の制御の練習を手伝うことになったのはつい最近のことで、少年が幻想郷に来る一日前に話したことである。さらには、紫は少年と藍と3人で話していた時にも、能力の練習は藍が行うと告げていた。

 しかし、藍が少年の能力の制御の練習の担当が自分であることを忘れていたのも仕方がないといえば仕方がなかった。藍には、長い空白期が存在するのである。少年の心の中に入っていた1年間という期間が、間にはっきりと存在している。

 藍は、1年も昔のこととなっている記憶を引っ張り出し、確かにそんなことを話したと自分の中で納得した。

 

 

「よろしく頼むわよ」

 

「任せてください」

 

 

 紫は藍の答え聞いてよろしく頼むと合図を送り、藍は紫の視線に応えるように一度頷いた。

 紫は、藍の返答に笑みを作ると少年の隣まで歩いて近づき、少年に視線を向ける。

 

 

「和友、ちょっと私についてきてもらえるかしら」

 

「分かったよ」

 

 

 紫は、迷うことなくキッチンの方へと歩いていく。

 少年は紫の動きに追随し、藍は二人について行った。

 少年は、これから行われる能力の制御に―――わくわくする気持ちを抑えて、外の世界に帰りたい気持ちを抑えて、自分のやるべきことを見据えていた。



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滴る水、崩壊する境界線

 紫の両脚は、流し台に到達すると動きを止めた。少年は、ちょうど紫の後ろで停止する形になる。藍は、少年の隣で静止した。

 少年は、能力の練習をすると言ってたどり着いた場所で怪訝そうな表情を浮かべた。

 

 

「流し場で何をやるの?」

 

「もちろん、能力の練習よ」

 

 

 紫は、少年の質問に端的に答えると流し台に置いてある透明なガラスのコップを掴み、水を汲んで調理台に置く。

 コップには、7割ほどの水が入っていた。

 紫は、調理台の棚に置いてある油を取り出しコップに数滴垂らす。油は、当然のことながら水の上に浮かぶ。水と油は混ざることなく、それぞれが別々の物体としてそこに存在していた。

 

 

「和友には、無意識で行っている能力の発動を意識できるようになってもらうわ」

 

「能力を意識して使う?」

 

「和友の能力の発動は、いつだって和友の気の届かないところで発動している。意識してどうこうしているわけではなく、無意識の発動なのよ。傷の完治にしても痛みを感じないことにしても、夢が正夢になることについてもね」

 

 

 紫は、無意識下で少年の能力が発動していることをまず優先的に変えていかなければならないと考えていた。

 意識して使っているのと無意識に発動しているのでは、話が全く別物である。無意識でしか発動できなければ、それこそ自然災害と同じだ。そこにいるだけで疎まれ、嫌われる存在になってしまう。

 少年には、幸いなことに善悪を判断するだけの基準があるし、良心がある。能力の制御ができるようになれば、判断を誤ることはないだろう。

 

 

「和友の能力は、万物を変えるほどの力を秘めているわ。能力の制御は、絶対にできるようならなければならない。できなければ、生きてはいけないの」

 

「そうだね、生きてはいけない」

 

 

 紫は、少年の境界を曖昧にする能力をしっかりと制御させなければならないという使命感を持っていた。

 少年の能力は、紫の能力に非常に性質が似ている。境界を操る能力とはすなわち、万物に影響を与え、真理に歪みを生じる能力である。

 少年の能力は影響力が大きすぎるため、決して使い方を間違ってはならないのだ。

 

 

「それで……僕は何をすればいいのかな?」

 

「紫様、水に浮いている油を溶かせということですよね? 水と油の境界を曖昧にして混同させる、と」

 

「そういうことよ。さぁ、指を突っ込みなさい」

 

「うん、分かったよ」

 

 

 少年は、勢いよく腕まくりをすると紫の命令に従い、右の人差し指をコップに向かって突き刺す。コップに入れられている水の水面には、少年の指が入ったことによって波紋が広がった。

 しかし、少年の動きはそこで止まる。少年は、指を入れたところでどうすればいいのか分からなくなり、紫に視線を向けて尋ねた。

 

 

「これで……どうするの? 混ぜるの?」

 

「そうよ。混ぜるのよ」

 

(なんだか、話が噛み合っていない気がするぞ……)

 

 

 藍は、二人の言葉に含まれている、混ぜるという言葉が噛み合っていないような気がした。

 紫の混ぜるという言葉は、油と水を混ぜろという意味で言っている。能力を発動させ、境界線を曖昧にしろと言っているのである。

 しかし少年が混ぜると言っているのは、かき混ぜるというニュアンスに聞こえる。文字通り、指を支柱として水面をかき回すということのように聞こえるのである。

 

 

「「「「…………」」」

 

 

 少年は、藍の予測通りに人差し指をコップの中でぐるぐるかき回し始める。水は、中央に渦巻きを作ってぐるぐると回った。

 コップの中の水と油は、混ざることなく回る。少年は、暫く回し続けて変化の見られない様子に指の動きを止めてコップから指を抜くと、コップの中を覗き込んだ。

 油は、回転する渦の中心に集まるように吸い寄せられているだけだった。

 

 

「中央に油が浮いているだけ、だよね?」

 

「そんなはず……」

 

「でもほら」

 

 

 紫と藍も少年と同様に頭を寄せるようにしてコップの中を覗き込む。3人の頭は、コップを中心にして半円に広がった。

 紫は、目の前にある事実に対して不思議そうに歯切れ悪く言葉を口にする。

 

 

「そう、みたいね……」

 

「本当なら水と油が混ざるのですか?」

 

「和友の能力が発動するのならね」

 

 

 紫は、今藍が口にした言葉通りの現象が起こるのだと考えていた。

 少年の境界を曖昧にする能力が無意識に働いているのならば、少年の意図しないところで通常運転するように能力が発動するはずである。少年が水と油の入った水に手を入れれば、自動的に境界線が曖昧になるだろうと考えていた。

 

 

「和友の能力が境界を曖昧にするのなら、油が水に溶け込んでもおかしくはないわ」

 

「でも、何も変わっていないみたいだよ? 油は相変わらず水に浮いているし……」

 

 

 少年は、コップの淵をトントンと叩きながら声を発した。紫がそう言っても、実際には水と油は混ざっていない。

 紫は、ここである可能性を思いついた。

 

 

「そうねぇ……やはり認識の問題なのかしら。和友の能力が発動しているのは、いつも無意識なのよね」

 

 

 紫は、これまでの少年の能力の発動している内容から自分の意識の外にあるものに対して働くという条件があるのではないかと推測した。

 

 

「それに、無意識に発動しているけれども、決して無作為に発動しているわけじゃないわ」

 

 

 少年の能力は、無意識で働いているとはいえ、‘無作為’に発動しているわけではない。

 触れている部分において無作為に能力が発動する場合、もっと大変なことになっていたことだろう。触れている物質から、空気に至るまで境界が曖昧になっていたら大変なことになる。そんなことが起きていないという以上―――何かしら条件があるとみるのが妥当だと思われた。

 

 

「これまでに能力が発動しているとはっきり言えるのは、夢が正夢になったこと、ものの区別ができないこと、傷が治ったことの3つ。これらは全て、和友の意識の外で働いているのよ。つまり……」

 

「……紫様、私もそう思います。さっそく試してみましょう」

 

 

 少年の能力が発動したと言えるのは、今のところ正夢の件、そして傷がふさがること、ものが区別できないことの3つである。これらは、どれも少年の意識の外で起こっている。

 正夢の件は、まさしく少年の意識が無いところで発動している。夢で見た内容が無意識のうちに現実に転写されている。

 傷が治るという件については、少年の見えない場所に付いた傷が治っている。背中に関しても、包帯の巻かれた左手に関しても、いずれも見えない位置にある傷である。痛みが鈍っている少年にとって見えない傷というのは、意識に入ることがない。もしかしたら、それも含めて少年の両親は、背中という場所に傷をつけたのかもしれなかった。

 物事を区別する件については、しっかりと書き記すことで覚えている。書き記す作業を行わなければ区別することが叶わないのは、少年の意識から物事が離れると覚えていられないからである。意識の外に出てしまえば、即座に能力によって曖昧になるということが示唆された。

 これらの3つの件は、全て少年の意識の外で起きている。

 つまり―――意識の外にあるものに対して能力が発動するのではないかと推測できた。

 

 

「和友、目を閉じて同じことをやってみてくれないか?」

 

「今度は、目を閉じてやればいいんだね」

 

 

 藍も紫と同様に少年の能力が意識の外側で働いていることを理解し、少年に目を閉じるように促した。

 目をつむれば、少年の意識からはコップの存在は消えるはずである。冷たさや液体に指が浸かっているということは分かっても、それ以外の情報は淘汰されることになる。

 つまり、液体があるということを除いて少年の意識から存在が掻き消える。

 

 

「いくよ」

 

「いつでもいいぞ」

 

 

 少年は、藍の言葉に従い再びコップの中に人差し指を差し込むと、ゆっくりと目を閉じた。力を抜き、肩を落として、夢の中に入るように呆然と立ち尽くす。指だけを不自然にコップに入れて、佇んだ。

 紫と藍は、少年に気を配りながら顔を見合わせる。

 

 

「和友が目を閉じれば、油と水の存在は和友の認識から消えるはずですから……おそらく能力が発動すると思います」

 

「和友の意識から消えれば、無意識で働いている能力が姿を現すはずよ」

 

 

 そこからの変化の前触れは―――一切なかった。

 

 二人は、変化が起こったコップに視線を集中する。暫くすると少年が指を突っ込んでいるコップの中の水には、二人の言葉通りに変化が現れた。

 まず―――油が少年の指を覆うように膜が張った。

 水面は、フルフルと震えている。

 藍はもしかしてと思い、少年の指に視線を向ける。

 

 

(和友の指は動いていないか……)

 

 

 少年の指は、全く動いていない。決して少年の指の振動が伝わっているわけではないようである。

 

 

「油が指を包んでいる……どういうことなのかしら?」

 

「普通であればありえない現象ですね」

 

 

 油が少年の指にまとわりつくという現象は、境界を曖昧にする能力と直接の関係がない。油と水の境界線が揺らいでいるわけではないのだから、能力が影響しているとは考えにくかった。

 紫は、少年の能力が発動した場合、油が水と混ざるだけで特に何かが起こるとは予測していなかった。藍も紫と同様に、目の前に起こっている出来事に対して不思議そうに見つめる。

 

 

「和友に吸い寄せられているのでしょうか?」

 

「吸い、寄せられる……」

 

 

 紫は、藍の言葉を聞いて目を見開く。紫の頭の中に、何か引っかかった。

 紫は、口元に手を当てて小さく囁き、違和感の原因を考える。何かが思いつきそうな、のどから何かが出てきそうな感覚に頭を悩ませた。

 

 

「何か……」

 

「紫様、どうかなさいましたか?」

 

「いえ、何でもないわ。今は目の前のことに集中しましょう」

 

 

 紫は、結局頭に引っかかったものが何なのか分からず、喉に魚の骨が刺さっているような感覚に気持ち悪さを覚えながらも、それを飲み込むようにして思考を振り払い、少年の指が入れられているコップの様子に目を配る。

 時間が経過していくと少年の指を覆っていた油の膜がどんどん破れていき、水の中に消えた。水の色は、油が溶け込んだ影響なのか、大きな変化を見せた。

 水の透明度が変化し、透明な水のなかに汚い水ができ上がっていく。見通せたはずの透明なガラスのコップの先が見渡せなくなるほどに光の吸収率が変化した。

 

 

「油は、完全に水の中に溶け込んだわね」

 

「でもこれは……」

 

 

 確かに少年の指を覆っていた油の膜は最終的に水の中に溶け込み、姿を消した。

 しかし、油が完全に水の中へ溶け込んでも水の変化が止まることは無かった。

 二人は、意識を夢想の中へ飛ばしている少年に気付かれないように静かに会話を交わす。

 

 

「これは、どういうことなのかしら?」

 

「分かりませんけど……なんだか嫌な予感がします」

 

「奇遇ね、私もそんな気がするわ」

 

 

 藍は、混ざり切った後の水の未来を想像する。境界線を打ち破って融合した水と油の先の世界を想像した。

 これまでの変化から―――少年の能力が指先にあるコップの中にある水と油に対して影響を及ぼすことは確認できた。

 ここで浮かぶ疑問は―――少年の能力が水と油の境界線を曖昧にした後、どうなるかである。

 水と油は融合し、‘何か’になった。少年の指の先には、名前のついてない液体が存在している。

 藍は、少年の指先を見ながら小さな声を漏らす。

 

 

「紫様、これってもしかして……」

 

「おそらくそうだと思うけど……はっきりとは言えないわね」

 

 

 紫も藍と同様の想像をした。紫と藍は、何があろうとも最後の最後まで水の変化を見届けるつもりだった。

 しかし、最後まで見ようとしていた目論みは当てが外れることとなる。紫と藍の目の前には、想像した通りの世界が広がり始めていた。

 コップの中の濁った水が―――コップを侵食し始め、最終的に‘何か’に飲まれて消えたのである。

 

 

「やはり、こうなるわよね」

 

「まぁ、そうなりますよね。和友の能力は夢を現実にするほどなのですから……このぐらいはわけないはずです」

 

 

 目の前に繰り広げられている光景は、ガラスを撃ち破るように侵入するというより、ガラスの壁が薄くなって溶け出しているように見えた。

 決してヒビが入るような分かりやすいインパルス的な衝撃突破ではない。ゆったりと侵入するような緩やかな流線形に乗った線形変化を起こしている。音を立てることも無く、守られている境界線が打ち破られ、コップの存在が消えさったのである。

 紫は、コップが何かの液体に飲み込まれる様子に驚くことなく、コップが消えていく光景を物静かに見つめていた。

 

 

「ここまでは予測済みだわ。コップもろとも水に溶けるところまでは予測がついていたもの」

 

「問題はここからですね。境界を失った水が外にあふれ出るのかどうか……」

 

 

 少年の能力によってコップを溶かし始めた水は、遂にコップの全てを飲み込んだ。

 もはや敷居を作っていたガラスの壁は存在しない。水は、境界を打ち破って外に侵食している。

 コップに液体が入っている状態でコップが破壊された場合どうなるかは、容易に想像することができる。外枠を失った水は、当然のように外へと流れ出すはずである。

 ところが、目の前に広がる光景は、両者の予想を大きく裏切るものだった。

 

 

「これは、どういうことなのでしょうか?」

 

「水が指から離れない……?」

 

 

 少年が起こしている現象は、紫と藍の想像をゆうに超え、想像していたラインをスキップするように踏み越えた。

 水は、少年のコップに突っ込んでいた人差し指の第一関節までを保持した状態で大きく滴っている。決して落ちることなく滴っている。明らかに少年の指に吸着し、離れようとしていなかった。

 水は、最も安定する球形を保ち、少年の指を中心にして提灯のように保持される。しかも、滴っている水は留まっているだけではなかった。

 藍は、安心を得ようと紫に対して顔を向ける。向けた先にある紫の表情は、藍の顔と同様に驚きに満ちており、ますます不安を抱えることになった。

 藍は、視界に入る情報が間違いではないのかと、焦る想いをそのままに言葉を口にする。

 

 

「あ、あのっ、水が大きくなっているように感じるのは、気のせいでしょうかっ?」

 

「気のせいなわけないでしょう!」

 

 

 紫は、身の危険を感じ、大声で藍へと叫ぶ。

 

 ありえないことが―――想定外のことが起こっている。

 

 紫は、どんどん大きくなっていく物質に―――もはや液体であるということ以外によく分からなくなっている溶液に対して、気持ち悪い、身の毛のよだつような感覚に支配された。

 藍は状況を打開しようと行動に移り、何を考えたのか吸い寄せられるようにして水に向かって右手を伸ばした。

 

 

「ど、どうすれば……」

 

「触れてはいけないわっ!!」

 

 

 紫は、その様子を見て慌てて藍の手に自分の手を勢いよく伸ばし、伸びていた藍の手を止めた。水に触れる間一髪のところで藍の手が止まる。

 藍は、我に返ったように紫の目を見つめる。紫の額には、冷や汗が浮かんでいた。

 

 

「ゆ、紫様っ……」

 

「気をつけなさい! 触れたらどうなるか分からないわよ!」

 

 

 少年の指に保持されている水は、どんどんその体積を増加させる。さながら爆発物のように破裂しそうになっている。

 少年は、二人の慌てふためく声に目を閉じたまま質問を投げかける。

 

 

「えっ? どうかしたの? 何か問題が起こったの?」

 

 

 目を閉じている少年には、今の状況が理解できていなかった。少年の指は、相変わらず第一関節を液体に触れているだけ、最初に指を突っ込んだ時と何一つ変わっていない。

 しかし、そうこうしている間にも少年の指から滴っている液体は、体積を大きくしている。

 藍は、少年の指に滴っている液体を処理するために少年を動かそうとした。

 

 

「和友、目を閉じたままでいい! そのままゆっくりと動くんだ!」

 

 

 藍は、改めて少年の指に滴っている液体を見て命の危険を感じた。紫に言われたことによって、余計に肌で感じとっていた。

 液体に触れれば、タダでは済まないことは考えなくても想像できる。液体には、境界線を崩壊させるだけの作用が含まれているのだ。藍の指がもしも触れていれば、指ごと溶けだしてしまったことだろう。

 藍は、謎の液体の影響をできるだけ出ないように水が飛び跳ねることができるだけ少なくなるように、隣にある流し台へと少年を移動させようとする。

 少年は、どこに動けばいいのか分からず、その場で目を閉じたまま頭を動かし、疑問を口にした。

 

 

「どこに動けばいいの?」

 

「私が誘導するからその場を動くなよ」

 

「うん」

 

 

 少年は、藍の言葉に大きく頷き、その場で藍が動くのを待つ。

 藍は、少年の腰に手を添えようと手を伸ばす。

 紫は、少年を動かそうとする藍に向かって慎重に行うようにと忠告した。

 

 

「藍、慎重にお願いね!!」

 

「分かっています」

 

 

 藍は、少年の後ろに立ち腰を両手でがっしりと掴むと、横向きに力を入れ、少年を横にスライドさせて流し場の真上に移動させる。

 少年の体は、藍からかけられている力に従うように横に移動していく。

 少年の人差し指にぶら下がっている水滴は、移動する際の振動に合わせて大きく震えた。

 

 

「できるだけ、静かにゆっくり動くのだぞ」

 

「……うん」

 

 

 少年は、ゆっくりと頷き、緩やかな動きを徹底する。少しでも衝撃が加われば、落ちてしまいそうな水滴が―――爆発物のように存在感を放っている。

 水滴は大きくなり続けて調理台の高さまで垂れ下がり、水滴の下端が台と接触した。

 

 

「すさまじいわ……境界が打ち砕かれている」

 

 

 水滴がわずかに触れた調理台の部分は、溶け出したかのように、やすりで削ったように、削り取られていく。削られた部分は液体に吸い込まれ、液体の色がさらに変色した。

 藍は、少年の移動を終えると安堵するように大きく息を吐き、紫に視線を送る。紫は、藍の視線に答えるように頷き、藍の問いかけに肯定を示した。

 

 

「和友、目を開けていいぞ」

 

 

 少年は藍の言葉に従い、ゆっくりと目を開ける。視界が光を取り入れ、色のある世界へと少年を引き戻していく。

 少年は、そこで初めて指の先で起こっていた現象の結果を目の当たりにした。

 

 

「うわっ!」

 

 

 少年は、最初にコップに入れた時と明らかに違う状況に驚きを露わにした。

 水玉は、少年が水玉を認識すると重力に従って真っ直ぐに排水溝に向けて落ち、流れ出る。少年の指先を離れた水は、周りの物を溶かすことなく真っ直ぐに流れていった。

 

 

「今のなに……?」

 

「「はぁ……」」

 

 

 紫と藍は、安堵の度合いを示すように大きく息を吐く。どうやら、あの液体は少年の手を離れれば、溶かす性質を失うようだった。

 もしも、残ったままだったとしたらそのまま全てを飲み込んでしまいかねなかった状況だけに、二人は最悪の状況にならなかったことに安心した。

 

 

「貴方の能力の練習についてなんだけど……この方法で能力を意識できるようになってもらうわ」

 

「これをもう一回やるの?」

 

「意識できるまで何度でもやるわ。今は無意識に能力が発動しているけど、意識できるようになるまでは制御なんて夢のまた夢よ。意識ができるようになったら別の練習を始めるから、心しておくように」

 

「分かったよ。頑張ってやってみる」

 

 

 少年は、笑顔で紫の言葉に応えた。

 少年の笑顔は酷く紫を心配させる。なんでもしてしまいそうな雰囲気のある少年にこれほどのことを毎日やらせることが心配でしょうがなかった。

 しかし、やらなくてもいいというわけにはいかない。少年の能力の制御は、生きていくための必要条件なのだから。

 紫は、藍に不安材料の残る少年をしっかり見張っておくようにと伝えた。

 

 

「藍には、監督をしていてもらえればいいわ。この子がとんでもないことをしでかさないようにしっかり見ていなさい」

 

「分かりました。和友、無理はしないようにな」

 

 

 藍は、紫と同様に少年のことを心配し、少年に注意する。

 少年は、藍の言葉を聞いて自分の過去の行動を顧みた。いつだって、無理と隣り合わせの所で歩いて来た人生の軌跡を振り返ってみた。

 無理をしないようになんて―――無理だ。それは、境界線の分からないものの一つなのだ。

 

 

「僕、無理しないとできないことだったら無理するかもしれないから……その時は、止めてね」

 

「ああ、任せておけ」

 

 

 少年の能力の練習は、この日から始まった。7月の下旬から始まった能力の練習が実を結ぶのは、約1年半後である。

 少年は、この後の2年の間に様々なことがあって色々な人と関わって、色々な妖怪と触れ合って変化をもたらすことになる。

 

 それはまた今度の話。ここから始まるのは―――2年後。

 異変に関わっていく少年の物語である。

 



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第四章 ‘知らない間に’いつだってそんなことを言っている
時間の流れ


今回のお話は、各章に設けることにした俗にいう前書きと呼ばれるものです。
この話は、第4章のまえがき部分になります。
今後、第5章が終わり次第、1人称のような書き方で書いていくことが多くなると思うので、それの練習も兼ねています。何か、書き方に問題がある、おかしいところがある等のご意見がありましたらご連絡ください。


 時間の流れは、誰にだって平等。

 

 誰しもがどこかで聞いた言葉ではないだろうか。時間の流れは常に一定で、誰にだって平等に流れている。

 だから、頑張れ。

 なんて言葉を聞いたのではないだろうか。格差が開き始める小学生のあたりで、通知表を貰ったあたりで、時間は平等なのだから頑張ればすぐに追いつけると。その時間をどう使うかが重要なのだと教えられたのではないだろうか。

 僕は、ちょうど小学校の高学年にあたるところで先生からこの言葉を貰った。

 

 

「時間は、誰にだって平等に流れている。1日は、24時間だ。それ以上もないし、それ以下でもない。それがみんなに与えられた1日の時間だ。それをどう過ごすか、どう使うか。勉強するもよし、遊ぶもよし、悔いの無いように過ごせ」

 

 

 僕は、この考えを聞いた時に不思議に思った。

 本当に時間の流れは、平等なのだろうか。それを決めているのは、誰なのだろうか。何が時間を平等だと決めたのだろうか。

 そもそも、時間というのは、何なのだろうか。

 みんなは、それを当たり前のように思っているようだったが、僕にはよく分からなかった。

 まず、みんなは1日の時間がどうしてこんな配分になっているのか知っているだろうか。

 なぜ、1日は24時間なのか。

 なぜ、1時間は60分なのか。

 なぜ、1分は60秒なのか。

 知っている人はいるのだろうか。

 調べてみれば、必ず分かるような内容ではあるが、そこに疑問を持つ人はすごく少数な気がする。そして、分からないままそういうものなのだと受け入れることができる人が多い気がする。

 僕も何となしに受け入れてきた人間の一人である。

 けれども、区別をするようになってから、不思議に感じ始めた。きっと、能力がなければ、区別することができないなんてことがなければ、皆と同じ普通になれたのだと思う。普通に受け入れて、普通に呑み込めたのだと思う。

 

 少し話が逸れてしまったね、時間をどういうふうに定義したのかは話の本筋とは関係がない、戻そう。

 もともと、どんな話だっただろうか。

 ああ、時間がみな平等に流れているという話だったね。

 

 僕は、時間の流れ方は人によって違うと思っている。いや、この言い方だと語弊があるかな。人によって時間の流れ方に違いがあるって言った方が分かりやすいかな。

 ストップウォッチを持って10秒を測ってみればいい。目を閉じて10秒測ってみれば、自分の中の10秒という感覚が分かる。

 きっとそれは、みんな違う数字になるはずだ。それは、時間の進む速度が人によって違うということにはならないのだろうか。世界に流れている時間はそのままでも、人間一人一人が感じている速度はみな違う。だから、1日を速く感じる人と、遅く感じる人がいる。

 

 遅く感じる人は、世界よりも時間の消費が効率的だ。

 ある算数の問題を解いているとする。集中して取り組んで、問題を一気に終わらせた。その後、時計を見てみる。その時間の進み方が遅いと感じた人は、効率的な時間を過ごしていることだろう。時間の進み方が早いと感じた人は、余計に時間を喰ってしまっていることだろう。

 ちなみに僕は、後者の人間だ。1日は、あっという間だった。知らない間に終わっていた、知らない間に過ぎていた、そんな時間を生きてきた。

 いつの間にか、時計が12時を越えて、次の日の始まりを知らせてくる。慌てて次の日の準備をして眠りにつく。そして、朝が来る。

 人によって違いが出る原因は、よく分からない。これもまた、何かしら精神的な、心の問題が関わっているのかもしれない。

 

 それは―――きっと感覚の違いによるもの。

 

 そして、そう思っている人は結構多くて、そんなもの感覚の違いだと言う人がいる。そんなもの、世界の時間は常に一定に進んでいるのだから関係ないという人がいる。

 その言い分も分からなくもない。確かに、太陽が昇って沈んで再び昇って来るまでの時間は、現在位置が同じならばみんな一緒だろう。そこを否定する気はない。そこを否定したら、世の中の時間を決めた太陽と月に申し訳が立たない。

 だけど、時間ほど感覚にとらわれた概念もないと思う。もうこんな時間と思うか、まだこんな時間だと思うか。時間の捉え方は、感覚によるものだ。

 知らない間に今日が終わっているのだって、知らない間に明日になっていたのだって、感覚の違いによるもの。そう思う人、思わない人がいる。

 

 だけど、感覚が違っても皆が口にする言葉がある。

 

 知らない間に―――そんなことを言う人がいる。知らない間にそうなっていた。分からないままこうなっていた。

 それは、時間がみな平等に流れている証拠になるだろうか。みんなも自分と同じように違う人生を送っていて、同じ時間を過ごしているのだから。

 だから、本人の知らないところで変化が起きていると、同じ時間を過ごしているから変化が起きているのだと―――そう、言うことができるだろうか。

 世界の時間の進む速度が人によって変わらないというのならば、自分以外の誰かは自分と同じ時間を過ごしている。そして、自分や他の人間に影響を与えている。自分という確かな存在で、自分の感覚で外に対して変化を与えている。時間変化ではなく、故意な力を与えて変化を与えている。

 影響は、人それぞれ。人の感覚によって、変わってくる。

 

 だったら―――時間は人間に平等ではない、そう思う。

 だって、過ごしている時間から与えられる影響の大きさは、人によって違うから。

 

 一緒だというのなら聞いておきたいのだけど

 ――――君の時間と、僕の時間は一緒かな?

 ――――君の時間と、誰かの時間は一緒かな?

 ――――君の時間は、何時間だろうか?

 

 その答えを僕に教えて欲しい。

 みんなが持っている答えを僕に教えて欲しい。

 きっとバラバラになるはずだと僕は思っている。

 だってそれが人と人とを区別する個性の一つだと思うから。



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2年もの時間経過、日常の変化

 少年は、幻想郷に来て2年経った今もしっかりと生きていた。

 幻想郷に来て2年経った現在も―――幻想郷で生活していた。

 

 少年は、外の世界に戻るという選択があったのにもかかわらずそれを選ぶことなく、幻想郷に残る選択を選び、幻想郷の中に残っている。幻想郷にやってきてから2年経って、外の世界に帰ったのは結局‘一度だけ’だった。

 しかし、帰る機会がなくとも、外の世界に帰るということを諦めたわけではなかった。帰りたいという気持ちを失くしたわけでもない。帰ってもいいと言われるのならば、帰ることができるのならば、いつだって帰る選択肢を選ぶことだろう。

 けれども、外の世界に帰ることよりも大事なものが幻想郷の中にできて、幻想郷から離れにくくなっていることは事実だった。

 

 

「初めまして」

 

 

 2年の月日の経過は、少年の見た目を大きく変化させている。

 少年の身長は、成長期ということもあり15センチほど伸びて、165センチに届くところまで大きくなった。ちょうど藍と同じぐらいの背丈になるだろうか。もう、藍が少年を見下ろすことはなくなっていた。

 

 

「今日は、どうされたのですか?」

 

 

 少年は、現在仕事の真最中である。

 少年の目の前にはお客様が存在しており、その対応を行っていた。具体的には、椅子に座った状態で同じように座っている10歳に満たない子どもと相対していた。

 子どもと対峙している少年の仕事は、当たり前であるが子どもと戦うというものではない。かといって、子守りをするというような子供の世話をするものでもない。

 

 

「どこか具合の悪いところでもあるのでしょうか?」

 

「先生、すまないねぇ。この子がどうしても薬を飲むのを嫌がってしまって。これがその薬なのですが……」

 

 

 少年の仕事は、永遠亭で行われる医療行為の手伝いである。病気になっている相手の問診をするというのが少年の役目の一つだった。

 決してメインとして手術をしたりオリジナルの薬を作ったりするようなことはしない。あくまで誰かの補助的な役割を担っているのが、今の少年の立ち位置である。

 

 

「どうにかなりませんか?」

 

 

 子供の親は、申し訳なさそうな顔をしながら永遠亭にやってきた理由を少年に告げ、原因となっている薬を手渡した。

 

 

「見たことありますね。人里では、よく使われるお薬なのですか?」

 

「そうです。体調が悪くなって熱が出てきたら飲む薬です」

 

 

 少年は、子供の親から渡された薬を手に取り、子供と視線を合わせる。

 永遠亭に来た理由は、どうやら薬が苦くて飲めないという理由が発端のようである。

 

 

「先生なら、苦みなく薬を飲ませることができると聞いたものですから……」

 

「…………」

 

 

 子供は、バツの悪い表情を浮かべたまま口を閉ざし、黙り込んでいる。嫌々連れられてきたことが見ていて分かるような顔をしていた。

 

 

「できますよ。どんな薬であれ、どんなものであれ、問題ありません」

 

「噂は本当だったのですね」

 

「その噂は、何処でお聞きに?」

 

「人里では有名ですよ。新しくここに来られた若い先生は、子供に苦みを感じさせず薬を飲ませることができると、皆が言っています」

 

 

 子供の親は、どこかから聞いたか分からないような噂話の情報を口にしている。そんな噂を少年が流すわけがない、おそらく独りでに流れたのだろう。

 事実、薬を苦みなく飲ませることができるという少年の噂は、すでに人里中に蔓延しているレベルで知られていた。

 

 

「して頂けないでしょうか?」

 

「薬を飲ませる件については、別に構いませんよ。今からやりましょう」

 

 

 少年は、ほがらかな笑顔を浮かべて、子供の親に対して気にしないでくださいと手を横に振った。

 苦みなく薬を飲ませることができる―――何ともどうでもいい理由である。診療代を取れるわけでもなく、薬代が出るわけでもない仕事内容に何とも言えない顔になっても仕方がない状況だ。

 しかし、少年は決して嫌そうな顔をすることはなかった。これが初めてならば少し表情を変えたかもしれないが、子供に薬を飲ませることができるからという理由は、少年の下へとやってくる理由の中で割とよくある理由の一つだったのである。

 

 

「ですが、わざわざ永遠亭まで来られるのでしたら、人里で歩いているときにでも私に声をかけてくださればやりますからね」

 

 

 少年は、薬が飲めないからという理由で永遠亭にやってくる人物に対して毎回のように人里で言ってくれればやりますという旨を伝えていた。

 しかし、いくら伝えても、いくら言っても、些細な理由で永遠亭にやってくる人物の数は全く減っていない。

 

 

「人里にいる際は、隣に妖怪がいることが多いですが……気になさらずに話しかけてもらえればと思います」

 

 

 些細な理由で永遠亭にやってくる人数が減らない原因は簡単なことで、人里にいる時には少年の隣にいつも藍がいるからだった。

 妖怪の隣を歩いている少年に声をかけることは非常に勇気が必要なことで、危険を顧みずに些細なことを告げる人間はほとんどいなかったのである。実際のところの原因は単純にそれだけではなかったが、少年はそう思っていた。

 

 

「そう言ってもらえると助かります」

 

 

 親御さんからのお礼の言葉を聞いた少年は、目線でお礼に対して応える。そして、問題になっている薬を飲むことができないという子供に意識を向けた。

 自分の今やるべきことは、子供に薬を飲ませることである。少年は、自らに求められている仕事に意識を集中し始めた。

 

 

「はい、口を開けてね。苦くないから大丈夫だよ」

 

「ほんとに?」

 

 

 少年が子供を安心させるように優しい声で子供に語りかけると、子供は目元を潤ませながら少年に向けて声を発した。

 少年は、泣きそうになっている子供を見て、親から渡された薬がそれほどに苦いのかと少しだけ驚く。確かに今子供に飲ませようとしている薬は、一般に作られている漢方薬であり、八意永琳(やごころえいりん)の作った薬ではない。

 一般に流通している漢方薬は、苦いものが大半である。苦い薬が多いことは、良薬口に苦しということわざがあるように、仕方が無いことなのかもしれなかった。薬は苦い物の方が良く効くという偏見が存在するため、作られる薬というのは総じて苦くなることが多いのである。

 

 

「これ、そんなに苦いんです?」

 

「ええ、少しばかり……私も子供のころは呑むのを嫌がって親を困らせたことがありまして」

 

「そんな手前、強くは出られず、ここに来たと」

 

「そういうことです」

 

「まぁ、どれだけ苦くても関係ありませんよ」

 

「本当に苦くなくなるの?」

 

「大丈夫。信用してくれていいよ」

 

 

 少年は、内心の驚きを相手に決して悟られないように、故意に表情を優しいものから少しも変化させなかった。

 先生と呼ばれる人物は、どっしりと構えている必要がある。不安や動揺は、空気を媒介に簡単に伝染する。特に身を任せられる人物は、それなりの覚悟と意志が必要とされるのだ。

 少年は、誰かから頼られている時、自分が相手に対して弱いところを見せてはいけないと考えていた。

 

 

「私は、嘘はつかないからね。ほら、あーん」

 

「……あー」

 

 

 少年が優しい表情のまま子供の口元に向けて薬を近づけると、子供は少しばかりの不安を抱えながらも少年の声に合わせて口を開けた。

 少年は、子供の口の中にそっと粉末状の漢方薬を入れる。子供の舌の上には、茶色の粉末が乗った。見るだけでも苦そうな色である。

 少年は、口に薬を含んだ子供に対して用意していた水を差し出す。

 

 

「はい、水で流し込んで」

 

「んっ」

 

 

 子供は、少年から渡されたコップを受け取ると、勢いよく水と一緒に漢方薬を飲み込む。ごくごくと子供の喉が鳴り響いた。

 

 

「ほんとだっ……苦くなかったよ!」

 

「だから言っただろう? でも、よく飲めたな。えらいぞ」

 

 

 少年が元気よく声を出す子供の頭に手を乗せてそっと撫でると、子供は安心した表情を浮かべて瞳に溜めていた涙を拭き取った。

 

 

「今度からはちゃんと嫌がらずに薬を飲むんだよ。どうしても気分がすぐれないときや飲み込めないときは、またここに来ればいいからね」

 

「うん!!」

 

 

 子供の元気いっぱいの声は病室に大きく響き、少年と子供の両親はクスリと笑った。

 

 

「お話は、以上ですかね?」

 

「はい、先生ありがとうございました」

 

 

 これで少年の仕事の一つは完了である。

 少年は、現在永遠亭で仮就職をしている。仮という表現を用いているのは、少年が永遠亭で完全に就職している状態ではないからである。

 少年の働く時間は、仮就職ということもあってまちまちであり、8時間というような長時間を働いているわけではなかった。日々の労働時間を平均すれば1日に4~5時間というところだろう。労働時間にしては非常に短く、いうなればアルバイトに近い状態である。

 ただし、受け持っている仕事の内容は少年にしかできないものが多い。

 少年の永遠亭での働きには、少年の能力である曖昧にする程度の能力が大きな意味を持っており、大きな役割を担っている。

 今、子供していたのは、苦みを曖昧にして薬を飲ませるというものである。このような応用は、医療機関である永遠亭においていたるところで役に立っていた。

 

 

「ほら、行くぞ」

 

「うん!!」

 

 

 診察の終わった子供は、椅子から立ち上がり、隣にいる親としっかりと手を握る。何とも微笑ましい光景である。こういう親子の様子を見ると、本当ならば、普通ならば、と考えてしまいそうになるが、少年はそんな考えを無理やりに排除した。

 考えても、戻ってこない。後悔しても、変わらない。失ったものは、二度と手に入らないもの。失った代わりに手に入れたものも、二度と手に入れることのできないもの。

 少年は、変わらないと知っていながらも後悔を抱えて生きている。その後悔が少年を支えていて、重りになっている。

 少年は、大きなものを背負って人生の道を歩いていた。

 

 

「ありがとう、先生!」

 

「先生、本当にありがとうございました」

 

「どういたしまして、お体には気を付けてくださいね」

 

 

 子供は、永遠亭に来た時とはまるで違う表情で、少年に向けて大きな声でお礼を告げた。

 少年の治療は、特に子供相手の医療行為に絶大な効果を及ぼしている。少年の能力は、痛みを感じさせない注射、痛み止めの低減、症状の緩和などで役に立っていた。その効果もあって、少年が診察をするようになってから、子供連れや些細な風邪の人といった軽い病状の人間が診察に来ることが多くなった。

 些細なことの例としては―――先程の薬が飲めないというようなことに関しても人が訪れるようになっている。少なくとも、永遠亭と人里に住んでいる人との距離が近くなったのは間違いなかった。

 人が訪れるようになった原因は、治療に対して痛みがないというのももちろんあるが、少年の年齢が低いことが最も大きい。年齢が低い少年のおかげで子供の患者が恐がるようなことが少なく、気軽に永遠亭に来ることができるようになったのである。

 本来ならば、重要な局面において年齢が低いということは負の方向へ働く要因になるが、少年の行っている仕事はあくまで補助であり、大きな仕事をほとんど行っていなかったため、不安を煽ることもほとんどなかった。

 八意永琳が診察を行っていた時期を考えれば、変化の程がよく分かるだろう。八意永琳が診察をしていた時は、よほどの急病でもなければ診察に訪れる者はほとんどいなかった。

 それは、八意永琳が普通の人間から見ると不気味に見えていたためである。普通の人間から見た八意永琳という人物は、何を考えているのかさっぱりで、何をしたいのかさっぱりで、対価もさして求めない様子に、どうしても気味が悪く見えて仕方がなかった。

 少年は、八意永琳と対比して見られることで大きな安心感を人里の人間に与えていた。

 

 

「お大事に。また会った時は、よろしくお願いしますね」

 

 

 少年は、手を振り部屋を出ていく親子を見送った。

 少年の診察は、大体このような軽いもので終わることが多かった。重いものは、少年の範疇ではなく、八意永琳の管轄になっている。

 

 

「ん~」

 

 

 少年は、一息ついて背伸びをし、大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。能力を使った後はいつもこうだった。

 

 

「上手くいって良かった……」

 

 

 少年は、能力を使うことに未だに不安を抱えていた。失敗したらどうしようかという想いを引きずっていた。

 少年は、自身の境界を曖昧にする能力を正確に制御できるわけではなかった。能力の制御の練習を開始してから2年もの月日が経っているにもかかわらず、完全な制御ができていなかったのである。

 少年は、能力を行使した後、いつも大きな息を吐き出し、気持ちを落ち着けている。緊張と不安は、溜まったらすぐに抜く。患者に悟られるのだけはどうしても避けなければならない少年にとって、息抜きはとても重要な要素だった。

 

 

「曖昧にした後の線引きが一番難しいんだよね。曖昧にするだけだったら何も考えなくていいけど、相手が引いている苦みの境界線を元に戻さなきゃいけないのがものすごく難しい」

 

 

 少年が曖昧にしたものは、曖昧にしたまま放置してならない。

 先程の子供を例にとっていえば、曖昧にした苦みの境界線を、再び引かなければならないのだ。そうしなければ、先程の子供はこれ以降の人生で苦みというものを感じなくなってしまう。

 曖昧にするだけなら能力で何とでもなる。適当でも何も問題ない。だけど、世の中はそうではないものが大半である。

 

 

「どれだけ曖昧にして、元の境界線を維持するか。力加減って難しい。鉛筆で引いた線を消しゴムで薄くするぐらい簡単だったらよかったのに」

 

 

 少年が行っているのは、境界線を再び引くということ。正確には、能力の効果を徐々に薄めていくことで元の境界線を浮かび上がらせるということをしている。これが何より難しい。完全に曖昧にしてしまうとどこに境界線が引かれているのか全く分からなくなってしまうので、ほどほどにして、引いている線を薄くするのである。

 

 

「あ、先生」

 

 

 少年がほっと一息ついた後、出て行った親御さんと入れ替わるように左右を赤と青に染めている変わった服を着た銀髪の女性が入ってきた。

 

 

「貴方……またどうでもいい理由で来た患者の相手をしていたのね」

 

 

 部屋に入ってきたのは、八意永琳―――この永遠亭の頭脳であり、医療行為の中心を担っている人物だった。

 永琳は、若干表情を曇らせながら先程やってきた人間について苦言を呈した。

 

 

「対応する貴方もそうだけど、患者の方もたいがいだわ。薬が苦いからってわざわざ永遠亭を訪れるなんて、本当……どうかしているわ」

 

「それも、仕方がないんじゃないですかね」

 

 

 永琳は、最近増加しているどうでもいいような、自分たちで何とかできるような理由で永遠亭を訪れてくる人里の人間に対して複雑な気持ちを抱えていた。

 薬が苦くて飲めないからなんていうのは、どうでもいい理由の中の最たる理由である。

 永琳は、苦い薬が飲めないというのならば、自身が作った薬を飲めば済む話だと言いたくなる気持ちをいつも押さえていた。

 

 

「八意先生の作った薬ならいざ知らず、薬草から作った漢方薬は総じて苦いものですからね」

 

 

 少年は、永琳の言葉に苦笑しながら先程帰って行った親御さんを擁護する。

 少年が患者の擁護に走るのは、いつものことである。いつだって患者優先で、自分のことを後回しにする。自分の負担よりも、困っている誰かを優先していた。

 

 

「子供には、辛いものがあるのではないですか? 風邪を併発しているのなら飲み込めないのも、億劫になるのも分からなくもないです」

 

「はぁ、貴方って本当に人が良いのね……」

 

 

 永琳は、予想通りの少年からの解答にため息をついた。

 永琳から言わせれば、億劫だからという理由で少年の能力に頼る方がどうかしている。不安だから誰かに頼るのか、するのが難しいから自分でできることを放棄して他人に縋るのか、一人だと心配だから誰かに手を貸してもらうのか、どれも理解できない感覚で、理解に苦しむところがあった。

 そして何より少年の能力を苦みを和らげるなんていうどうでもいいことで使っていることに思うことがあった。

 

 

「貴方の能力をこういったところで使うのは、私の意図したところではないのだけど……」

 

 

 少年の能力の使い道はもっと有意義なことに使うべきで、代替の利くような事案に用いるべきではないのだ。

 物質は必ず摩耗し、損耗する。時間が経って風化するもの、使用されて劣化するもの、損耗には様々な形があるが、例外はない。単純に木材では腐り、金属では錆びて、人間で老いるようなものである。能力だって同じだ。

 貴重なものは、丁寧に使われなければならない。代替のあるものは、それで補えばいい。永琳の考え方は、そういった合理性で構成されていた。

 

 

「苦くて飲めないなんて……漢方薬じゃなくて私が作っている薬を飲めば済む話じゃない」

 

「確かにそうですね。先生の薬は、苦みなんてほとんどありませんから」

 

「さっき、別の薬を飲ませたばかりの貴方がそれを言う? だったら私の薬を勧めなさいよ」

 

 

 永琳の意見には、反論する余地など一切無かった。八意永琳の作る薬には、ほとんど苦みという成分が存在しない。

 苦みは―――不必要だからという当たり前の理由から除去されたのである。確かに薬を飲む際に苦みは邪魔になるだけで、有意な効果を示さない。ポジティブな効果を引き起こすのは、苦いものを我慢して飲んだからきっと症状がよくなるだろうという気の迷いだけである。

 ここで簡単に苦味を取り除くことができるものだという前提で話をしているが、苦味は当たり前であるがいらないからといって簡単に取り除けるものではない。それは、勝手に付属してくるもので、水道水を飲んだら塩素成分も一緒に飲み込んでしまうのと一緒だ。簡単に分離できるものではない。

 しかし、それを容易にこなして見せるのが八意永琳という人物だった。

 

 

「私が貴方の能力を活用したかったのは、痛み止めの効果を上手く調整すること。そして、新しい薬を作ることよ」

 

「分かっています」

 

「いいえ、分かっていないわ」

 

 

 永琳が少年の能力を使いたかった部分は、痛み止めの効果を上手く調整すること、新しい薬を作ることに対してである。

 いつか―――永琳は少年に対して説明している。

 

 

「痛み止めは、何も全ての痛みを消し去ればいいというものではないわ」

 

 

 痛み止めというのは、痛みを止める境界線を引くことが非常に難しい薬である。境界線を引くことが難しい理由はいたって簡単で、痛み止めというものは痛みを全て取り除ければいいというものではないからだ。

 

 

「痛みが無くなってしまえば制御が利かなくなる。痛みは、行動を自制させ、自分が怪我をしていること、病気であることを自覚させるのにもっとも有効な信号になるのよ」

 

 

 痛みというものは病気と違い、無くてはならないものである。痛みを完全に消してしまえば、怪我をしていることや病気になっていることを忘れて無茶をする可能性がある。痛みを完全に無くしていいのは、あくまで手術中といった特異な状況下においてのみなのだ。

 痛みは―――耐えられる程度に残っているという状態がベストである。

 だが、この程よく残すということが難しい。

 永琳は、ぎりぎりの境界線を得るために、ベストな薬を作るために、少年の曖昧にする能力を必要としていた。痛みを完全に消し去る薬に対して少年の能力を適応すれば、痛みを中途半端な状態で残すことが可能となる。

 少年の境界を曖昧にする能力は、痛みを半分にする薬というような、そんな中途半端なものを作ることができない永琳にとって非常にありがたいものだった。

 新しい薬に関しては、言わずもがなである。少年の能力を使えば、作ることのできる薬の幅が増加する。決して混ざることのないものを混ぜることができる―――それだけでも可能性の広さを察することができるだろう。

 永琳は、少年に頼っている部分があるだけに、少年が意味のないところで能力を使い、疲弊するということを余り良く思っていなかった。

 

 

「私は、できればこんなどうでもいいことに能力を使ってもらいたくないのよ」

 

「すみません、私がやりたくてやっていることです。迷惑でしたか?」

 

 

 永琳は頭を下げる少年に眉をひそめた。

 少年は、永琳の意図を上手く汲み取れていない。永琳は、自分の意志がきちんと少年に伝わっていないと感じ、正確な意志の疎通を図ろうとした。

 

 

「迷惑とか、困っているとか、そういうことではないのよ。私は助かっているから別にいいのだけど……」

 

 

 永琳自身は、少年が仕事を行ってくれるおかげで随分と楽になっている。普段やらなければならない業務の一部を少年が処理してくれているため、時間的な猶予ができた。簡単な仕事を少年が処理してくれていること、偶に薬の製作を手伝ってくれることで楽をさせてもらっていた。

 永琳が気にしているのは、迷惑がかかっている云々のことではない。少年の摩耗のことである。

 永琳は、あくまで少年の仕事量が増えることで少年が疲労を溜めこむことを心配していた。

 

 

「それよりも貴方の体の方が心配よ。最近、仕事の量が増えて疲れているんじゃない?」

 

 

 実際に少年が働くようになってから、先ほどの患者のような簡単な仕事が舞い込んでくることが多くなった。月日が経るごとに少年の仕事の重みは、増している。

 

 

「貴方は、もう永遠亭に必要な人間になっているし……それに、もしもがあったら妖怪の賢者から何を言われるかわかったものではないわ」

 

 

 少年にもしものことがあれば、永遠亭に大きな損失が生じる。そして、影響があるのはなにも永遠亭だけに限った話ではない。八雲紫からの影響力も凄まじいものがあった。少年に何かがあれば、八雲紫から何を言われるか分からない。それが、少年が故意にやったことであっても、責任を追及されることは間違いないだろう。八雲紫は、それほどに少年のことを心配している節があった。

 永琳は素直に少年のことを心配していたが、少年はまたしても仕事が増えたことによって自分の行っている仕事の質が落ちているということを言っているのだと永琳の意志とは異なる意味に捉えた。

 

 

「それは、私の仕事の内容が雑になってきているということでしょうか? 先生からは、私が疲れているように見えるということですか?」

 

 

 少年は、頭を下げて永遠亭で働かせてもらっている立場だった。少年が働き始めた半年前、永遠亭は特に人を必要としておらず、永遠亭で働くためには働かせてくださいとお願いしなければならなかった。実際に、少年は無理を言って永遠亭で雇って欲しいとお願いをしている。

 つまり―――少年は無理矢理に入り込んだ存在なのだ。

 少年は、無理に働かせてもらっているという事実もあり、永遠亭で自分があまり良いように思われていないのではないか、必要とされていないのではないかと不安を抱えていた。

 永琳は、少年のそんな不安をぬぐうように首を振った。

 

 

「そうじゃないわ。あなたは、大事なことは一回でしっかりと覚えてくるし、仕事もよくやってくれている。ただ、昔の貴方を思い出すとこうやって働かせているのに抵抗があるのよ」

 

「今は、あの時とは違いますよ」

 

「何も変わっていないわ。あの時とちっとも変っていない。何が変わったというの? それは、貴方が一番分かっていることでしょう?」

 

「…………」

 

 

 少年は、約半年前に大きな病気を患っている。その時の少年の様子を知っている永琳としては、働かせるということはとてもじゃないが正気の沙汰ではなかった。少年が永遠亭で働きたいと熱心に頼みこんでこなければ、働くことを決して認めなかっただろう。

 結論として働くことができているのは、職場が永遠亭ということで、近くで見ていられる分働いてもいいと妥協したからだ。勿論熱意に押されたというのもあるが、最もそれが大きかった。

 

 

「けれども、貴方の代わりがいないのも事実……何か負担を減らす方法があればいいのだけど……」

 

 

 少年の負担が大きいというのならば、その負担を減らすために何か対策ができればいいのだが、永琳には代替案が浮かばなかった。

 永琳では、少年の替わりは務まらない。少年の代わりに患者の対応を行えば、患者の不安をあおる結果になりかねない。

 そもそも、少年を求めに来たのにもかかわらず、永琳が対応するなんて論外なのである。

 

 

「貴方の代わりに私がやるのは論外として、ウドンゲが診察できればいいのだけどね。そうすれば貴方の負担も減るでしょうし……」

 

「鈴仙に任せるんですか? それはちょっときつい気がします」

 

「そうなのよねぇ。ウドンゲは人に慣れていないから貴方の代わりにはならないわよね。結局のところ、永遠亭に貴方の代わりをできる人材はいないのよ」

 

 

 ウドンゲ―――鈴仙・優曇華院・イナバは、少年の代わりには決してなりえない。

 鈴仙には、人見知りという欠点が存在する。人に慣れていない、人と話すのが苦手、よそよそしい態度は、患者と直接対峙することになる診察において致命的な問題だった。

 

 

「どうしたらいいのかしら……」

 

「私は、別にこのままで問題ないですよ? 私なら平気です」

 

 

 少年は、自分は大丈夫ですという旨を伝えた。

 実際のところ、少年の行うべき仕事が増えても労働時間が増えることがないため、実質的には大きな負担になってはいなかった。

 人里から訪れる人間は、少年が午前中のみ対応していることを知っている。少年の活動時間や目撃時間が一緒に噂として流れているため、午後に永遠亭に来ても少年がいないことは、周知の事実なのである。少年に用事のある人里の人間は主に午前中にしか永遠亭訪れることはなく、少年の負担は実質増えていなかった。能力を使うという部分を除いて―――。

 

 

「どちらかというと私は、藤原さんに迷惑かけているようで悪い気がします。毎回、迷いの竹林の奥にある永遠亭まで人里の人間の道案内をするのも大変でしょうし……」

 

 

 少年には、自分の仕事の内容よりも気になることがあった。

 人間が永遠亭に来るためには、二つの障害がある。

 一つ目は、人里から随分と離れたところに立地しているため遠いという距離的な問題。2つ目は、永遠亭と人里の間にある迷いの竹林の存在である。

 特にこの2つ目が大きな障害だった。永遠亭にたどり着くためには、迷いの竹林を抜ける必要がある。迷いの竹林というのは、その名の通り人を迷わせる竹林のことである。

 迷いの竹林に生えている竹の成長速度は極端に早く、深い霧、緩やかな傾斜によって自分の向いている方角が分からなくなる。目印も迷いの竹林では意味をなさない。そのため、自分が今どこを歩いているのか分からなくなり、道に迷うことになるのだ。

 それは、人間でなくても妖怪でも同様に起こる現象である。飛べる妖怪はもちろんのことながら例外ではあるが、飛ぶことが出来ない者はとてもじゃないが永遠亭へとたどり着くことはできない。

 空を飛ぶことができない人里の人を永遠亭へ導くためには、地理を熟知している案内人が必要だった。

 

 迷いの竹林を案内して永遠亭にまで案内する役目を担っていたのは―――藤原妹紅(ふじわらのもこう)という人物である。

 

 藤原妹紅は、もともと人間に対して永遠亭への案内を行っていなかったが、少年が頭を下げて頼み込み、案内をやってもらっている形になっていた。

 永琳は、心配事を並べる少年に心配する必要はないと告げる。

 

 

「本当に大変ならやっていないと思うわよ。あの子もきっと、まんざらでもないのでしょう」

 

「そうならいいのですが……」

 

 

 少年は、一言呟きながら壁に掛けられている時計に目を向けた。永琳も同様にそっと時計に目をやり、時間を確認する。時計の針は、11時を指していた。

 

 

「もうこんな時間ですか……」

 

「時間の流れは早いわね。ここ最近、さらに早くなった気がするわ」

 

 

 時間を確認した少年は、マヨヒガへと帰るために身支度を整え始める。仕事をしているという割には、かなり早い帰宅である。

 永琳は、帰ろうとしている少年に対して、特に不思議そうな顔をすることはない。少年の帰る時間としては、もういい時間なのである。

 少年の労働時間は4~5時間と決まっている。

 少年の労働時間が極端に短いのには、理由があった。

 

 

「お昼ご飯までには帰らないと……藍が心配しちゃう」

 

「今から出れば十分間に合うわよ」

 

「何事もなければ、ですね」

 

「そうね。何事もなければ―――いつも通りの時間に出ればいつも通りの時間に着くはずよ」

 

 

 少年は、昼ご飯を食べるためにマヨヒガへと帰らなければならないという条件を抱えていた。より正確に言えば、マヨヒガにいる藍に顔を見せに行かなければならなかった。

 藍は、少年のことを極度に心配している。きっと今も、待ちきれない想いを抱えて少年のことを待っていることだろう。少年は、心配性な藍のためにもマヨヒガへと帰らなければならなかった。

 もしも用事がありマヨヒガへ帰ることができない場合―――普段以上の時間永遠亭にいる場合には、藍に連絡をする必要がある。

 勿論のことながら今日は、藍に遅れることは伝えていない。

 少年は、申し訳なさそうな顔をしながら永琳に向かって頭を下げた

 

 

「八意先生、ここらで失礼します。そろそろ時間なので」

 

「お疲れ様。これ、今月分ね」

 

 

 永琳は、頭を下げている少年に対して懐に片手を入れて、懐に忍ばせてあった封筒を取り出し、少年に手渡した。

 少年は、差し出された封筒を両手でがっしりと掴むと再び大きく頭を下げ御礼を告げる。

 

 

「ありがとうございます」

 

「そこまでの礼を示されるほどの量ではないわよ?」

 

「いえ、これは私のそのままの気持ちなので」

 

 

 封筒には、少年が働いた分のお金が入っていた。

 永遠亭で働いている少年は、月給をもらっている。働いているのだから、対価としてお金をもらっているのは当たり前である。

 少年がもともと永遠亭で働き始めたのは、患者を助けたいという想いがあったからではない。少年の働いている理由は―――お金のためという現金なものである。

 少年は、永琳から受け取った封筒をカバンに大事そうに入れた。少年が永琳から貰っている給料は、年齢や勤務時間からいえばそこそこの量の金額だった。

 少年の給料となっているお金がどこから出ていると言われれば、永遠亭が行っている医療行為から算出されたものであることは間違いない。

 永遠亭での資金源は大きく二つで、診療と薬によるものである。永遠亭では、人間や妖怪に対して医療行為を行っており診療や薬の処方をしている。

 それ以外に具体的に行っている仕事としては、人里の各家庭に薬箱を置くというものが挙げられる。季節の変わり目になると人里へと出向き、薬箱の中の薬の使用状況を確認する。そして、使われた足りない分の薬を補給していくというシステムである。勿論であるが、消費されて補充した分の代金は、消費した家主に要求している。その分のお金が永遠亭の主な資金源となっていた。

 当然のことながら家庭においてある薬箱で病気の全てが完結するわけではない。珍しい病気や症状、緊急を要するような病気を発症した場合には永遠亭に直接来る、または直接向かうということになっている。

 永遠亭は、利益を目的に医療行為をしているわけではないため、薬も効果の割に値段は良心的で、診療も格安で行っているが、それでも少年に十分な給料を与えることができていた。それだけ永遠亭の医療システムが人里で浸透しているということが伺える。

 それだけ浸透したのは―――少年に依るところ大きい。

 この現実が永琳にある悩みをもたらしていた。

 

 

「それにしても、こんなに少なくていいの? 貴方の貢献度から考えれば、大分少ないような気がするのだけど」

 

「いいえ、私にとってはこれで十分ですよ。十分すぎるほどにもらっています」

 

「そうはいうけれど……」

 

 

 永琳からすれば、少年に与えている給料が働きに対して少ないように思えた。

 少年の永遠亭での貢献度はかなり高い。診察に来る人も増え、人里からの評判も良くなっている。不気味がられる永琳の薬がこれほどまでに人里に受け入れられたのも、少年が仲介として入っていることが大きい。さらに、新しい薬を作る上でも非常に面白い結果が出てきており、薬の効果に幅ができていた。

 

 

「気にしないでください、昔助けてもらったお礼ですよ。無償で治療を行ってくれた、感謝の気持ちです。僕が満足するまでは、半分は貰っておいてください」

 

「……そう、それなら気にするのは止めるわ」

 

 

 永琳は、頭の中の言葉を飲み込むと少年につられるように微笑んだ。

 少年はいつだって頑固で考えが固い。永琳は、本当に頑固で譲らない人間ね、と頭の中で呟いた。決して口には出さずに心の中で言った。

 少年は、永琳の表情を見て反論が無いことを確認すると足を部屋の出口へと向ける。永琳は、その場で立ち止まったまま少年を見送る体勢に入った。

 少年は、満足げに扉の出入り口付近で足を止めると、振り返り、3度目となるお辞儀をする。

 

 

「では、お疲れ様です。お先に失礼します」

 

「お疲れ様、気を付けて帰りなさいよ」

 

「はい」

 

 

 永琳は、診察室の閉められた扉の奥をしばらく見つめると、自身の仕事に取り掛かった。

 少年は、給料の入っている封筒の中身を確認することなく、廊下を少しばかり早く歩いて永遠亭の出口へと向かっていた。

 

 

「あっ……」

 

「笹原さん、上がりですか?」

 

 

 少年は歩いている途中で呼び止められ、声を発した人物の方へと振り向く。少年の目の前には、さくらんぼを入れた籠を抱えている兎の耳が生えた女の人がいた。

 その女の人とは、数多くいる迷いの竹林の兎のリーダーである因幡てゐに指示を出している人物であり、人里の置き薬システムにおける薬の補充を基本的に担っている人物である―――鈴仙だった。

 

 

「うん、そろそろ帰らないとね」

 

「あ、あのっ」

 

「なにかな?」

 

「お、お疲れ様ですっ」

 

「うん、お疲れ様。僕は先に上がるけど、お仕事がんばってね」

 

 

 鈴仙は、八意永琳も言っていたように人付き合いが苦手だった。苦手というか避けているところがあった。

 鈴仙は、自分から見知らぬ誰かに話しかけることはほとんどなく、見知った相手だとしても、話しかけられるまで待っていることがほとんどである。今の鈴仙を見ていても、人見知りということがひしひしと伝わって来る。人見知りの傾向は、少年に対しても大きくは変わらない。

 しかし、少年に対しては話しかけるぐらいのことはできるようになっていた。もちろん永琳や永遠亭に住んでいる者達に比べれば、比較するのもおこがましいが、確実に前に進んでいる。この鈴仙の変化も、少年がもたらした良い影響の一つだった。

 

 

「こ、これっ、持っていってくださいっ!」

 

「さくらんぼ?」

 

 

 鈴仙は、恥ずかしそうに頬を赤く染めながらも少年と目線を合わせて震える口から言葉を吐きだし、昼食に出そうと考えていたさくらんぼを少年へと手渡す。

 現在6月から7月に差し掛かろうとしているこの時期を考えればさくらんぼは旬の果物である。

 少年は、鈴仙に向けて笑顔でお礼を言うと、さくらんぼを受け取った。

 

 

「ありがとう。貰っていくよ。お疲れ様、また明日ね」

 

「はい、また明日……」

 

 

 鈴仙の声は、今にも消え入りそうだった。

 少年は、鈴仙に別れを告げて永遠亭の外へと出た。

 目指すは―――家族の待つマヨヒガである。

 



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変化したもの、習慣になったもの

 少年はゆったりと上空へ上がり、高度を維持して直進する。青空の下で周りの景色を見ながら飛行を始めた。

 

 

「うん、普通に昼食の時間には間に合いそうだね」

 

 

 少年は、2年という月日の流れのなかで空を飛べるようになっていた。まだ飛ぶ際の動きはぎこちないところが多く、素早く動けるわけではないが、藍におんぶの状態だったころに比べれば明らかな進歩である。

 

 

「もうちょっと速く飛べればいいんだけど……それは、高望みかな。こうやって飛んでいるうちに速くなると思うし、我慢だね」

 

 

 少年の飛ぶ速度は非常に遅く、マヨヒガまで辿り着くのにある程度の時間がかかる。

 ただ、マヨヒガへ帰るのに時間がかかるのは、何も飛ぶ速度が遅いことだけが原因ではなかった。

 

 

「それにしても、妖精がくっついてくるのは、どうするのが一番いいんだろう……」

 

 

 そう、妖精が寄ってくるのだ。

 少年の飛行経路は、妖精がまとわりつかないように真っすぐではなく、ところどころ曲がってしまっている。

 最初にマヨヒガと永遠亭を行き来していたころは、進路が直進でないことや速度が出せないことも相まって移動に3時間以上の時間がかかったものである。

 現在では、2時間以下1時間以上の時間をかけて行き来している状態だった。

 

 

「昔よりは飛行速度が速くなっているんだから、やっぱり躱していくのが一番いいのかな?」

 

 

 少年は、答えの出ないマヨヒガまでの移動についての考え事をしながら帰り際に鈴仙に渡されたさくらんぼを食べる。そして、いつだって少年を迎えてくれているマヨヒガへと帰宅した。

 

 

「ふぅ……やっと着いた」

 

 

 マヨヒガに着いた少年は、玄関の戸を開けて一声発する。

 

 

「ただいま、帰ってきたよ」

 

 

 少年の声が建物の中を徘徊する。そして、少年の声がマヨヒガの中を走り終えた瞬間、慌ただしい足音が鳴り響いた。

 どたどたと玄関に向かって何者かが走ってきている音が聞こえてくる。音がどんどん大きくなる。廊下には、足音が単調なリズムで響き渡っていた。

 暫くすると足音を響かせている人物が少年の視界に入る。

 少年は、微笑みながらその人物を迎えた。

 

 

「和友! 帰ってきたか!」

 

 

 足音をうるさく鳴り響かせ玄関へと走ってきた人物は―――藍だった。

 少年がマヨヒガに帰ってきた時に最初に目にする人物は、玄関にすでに誰かいるという状況でない限りにおいて藍である。例外なんてほとんどない。決まって藍が1番に少年を出迎えた。

 

 

「無事に帰ってきたか? どこも怪我をしていないか?」

 

 

 藍は、すぐさま少年の無事を確認し始める。視線を上下に振り、少年の全身を見渡して心配そうな表情を浮かべる。

 少年は、心配性な藍を落ちつけるためにできるだけ優しい声で告げた。

 

 

「藍、僕なら大丈夫だから。心配いらないよ」

 

「和友を傷つける奴は、私が懲らしめてやるからな。もしもなにかあれば私に言ってくれよ」

 

 

 藍は、少年の言葉を無視するように心配するような言葉を口にした。

 ここまでが少年が帰ってきた時の藍と少年のいつもの会話の流れ―――いつものやりとりである。

 藍は2年前と大きく変わった。正確には半年の間だろうか。

 藍は、少年に対してとても過保護になった。普通の人ならば、嫌がってしまうほどに、引いてしまうほどに過保護になってしまった。以前から少年に対して保護欲を持っている節はあったのだが、その時よりもさらに心配性になった。

 

 

「藍」

 

「どうした? やっぱりなにか……」

 

 

 少年は、せわしなく詰め寄ってくる藍に対して嫌がるそぶりを見せずに優しい笑顔を浮かべる。そして、心をざわつかせている藍を落ち着けるために、優しい笑顔で再び帰りの挨拶をした。

 

 

「ただいま」

 

 

 藍は、少年の言葉にきょとんとした表情を浮かべる。

 少年の視線は藍からそれず、しっかりとした瞳で藍を見つめていた。

 

 

「ああ、おかえり、和友」

 

「ただいま」

 

 

 藍は、少年の笑顔につられるように微笑み、少年と初めての挨拶を交わした。

 

 

「さぁ、中に入ろう」

 

「うん」

 

 

 藍は手を差し出し、少年の手を握る。そして、少年の手の感触に笑みを深めて目を細めると少年の手を引いて家の中へと引き込む。少年は、藍に引っ張られないように足並みをそろえて廊下を歩き出した。

 少年と藍は、仲良く並びながら廊下を歩いていく。二つの足音は同調して一つの音になった。

 

 

「あっ!」

 

 

 そんな廊下に響く音に気付いた人物が目的地である居間から顔を覗かせる。二人の足音だけが支配する世界に声が飛来し、激突した。

 

 顔を出した人物は―――尻尾を2本はやした藍の式である。

 

 藍は、1年ほど前から式神を使役していた。紫が藍を使役しているように、藍も式神を使役するようになった。

 その新しく家族となった式神は、藍と少年に近づきながら言葉を投げかける。

 

 

「和友、おかえりなさい~」

 

「ただいま。橙は毎日元気だね」

 

 

 少年が橙と呼んだ藍の式神は、少年の腰に横からしがみついた。

 少年は藍と繋いでいない、空いている手で橙の頭を優しくなでる。

 

 

「ん~~」

 

 

 橙は、気持ち良さそうに目を細めた。

 少年は、橙にくっつかれて歩く速度が遅くなり、歩く速度の変わらない藍から手を引っ張られる形になる。

 足音は―――1つから3つに増加した。

 

 

「橙、和友が歩きづらそうにしているだろう。少し離れなさい」

 

「はーい」

 

 

 橙は、藍の言葉に従い少年に抱き付いていた力を僅かに緩める。

 しかし、力を緩めただけでくっついている状態に変わりはない。少年は藍に引っ張られるがまま、橙は少年にしがみつくまま、居間へと入りこんだ。

 

 

「紫、ただいま」

 

「和友、おかえりなさい。もうそろそろご飯ができるから。待っていなさい」

 

 

 居間には2年前までは考えられない光景が広がっていた。

 2年前と大きく変わっていたことは、紫が昼飯を作っていたことである。これまでであれば、絶対にありえない光景であるが、この光景はマヨヒガではもう当たり前のこととして定着している。

 藍は、握っていた少年の手を離して自分のテーブルに供えられた指定席に座り、橙もくっついていた少年の傍から離れて自らの指定席に座った。そして、少年も見なれたものを見るように自分の席に座った。

 

 

「今日の紫様の料理は、いかほどでしょうかね」

 

「楽しみです!」

 

「紫の料理は、日に日に上手になっているからなぁ……」

 

「期待して待っていなさい。今日こそ藍の料理を越えて見せるわ」

 

 

 食卓テーブルは四角形であり、上から見た時に少年は左下、少年の隣には橙、少年の正面に座るのが藍、橙の正面、少年の対角線上にいつも紫が座っていた。

 

 

「まだまだ紫様に越えられるとは思えませんが? 私の料理はその程度のものではありませんよ」

 

「そうやって油断しているといいわ。せいぜい今のうちに高みからの眺めを目に焼き付けておきなさい。今に地を這うことになるわよ」

 

「口でなら何とでも言えますよ」

 

「っ……本当に生意気になったわね。教育が必要かしら」

 

「武力行使は反則ですよ!?」

 

 

 いつものように繰り広げられている藍と紫の戦争が勃発している。

 紫は、料理をするようになってから藍の料理を意識するようになった。やはり、比較対象として藍の存在は大きかったのだろう。これまで藍の料理を越えることを目標に試行錯誤を重ねてきた。

 しかし、いまだに経験値が足りないからなのか藍の料理に及んでいるということはなく、悔しい想いを抱えてきた。

 紫は、今日こそ、今日こそはという想いで調理を進める。

 少年は、お互いを意識し合っている二人を見て苦笑しながらゆっくりと背中を伸ばした。

 

 

「んー……あ、そうだ」

 

 

 少年は、大きく一度背伸びをしながら大きく息を吸うと思い出したようにカバンを漁り始める。

 そういえば―――今日は藍に渡さなければならない物があった。

 

 

「はいこれ、今月分の給料だよ」

 

「ん? ああ」

 

 

 少年は、向かい側に座った藍に向かって封筒を差し出す。

 封筒の中には、永遠亭で働いた今月分の給料が入っている。

 

 

「今月分、確かに承りました。大事に使わせてもらうからな」

 

 

 藍は、少年の差し出した封筒を笑顔で受け取り、テーブルの上で封筒の中身を確認する。

 少年は、藍に対してお金を納めていた。この場合、藍に対してというより八雲家に対してという方が自然だろうか。

 少年が払っているのは、これまで借りていた過去の借金とこれからの生活費である。

 少年は、紫や藍からこれまでに貰った分の恩、筆の代金、生活費を払い切ろうとしていた。

 

 

「今日もいつも通りの金額だな」

 

「働いている時間は変わっていないからね」

 

「うむ、それでは」

 

 

 藍は、少年から手渡された封筒の中に入っている大部分のお金を抜きとると、いくらかお金の残し、封筒を少年に返した。

 

 

「これが今月分の和友の小遣いだ」

 

「ありがとう」

 

 

 お金の一部は、必ず少年に返ってくる。少年がもともと働いて手にしたお金であり、少年にだって欲しいものがあってもおかしくはないのだから貰って当然といえば当然であるが、少年はいつも藍に全額渡してからその一部を返してもらう形でお金を受け取っていた。

 少年の貰っているお小遣いの使い方は大体決まっているが、お金の使い方に関してはまた今度の話である。

 

 

「紫様は、まだ料理に時間がかかりそうだな」

 

「そうみたいだね」

 

「ふむ……」

 

 

 藍は、紫が作っている料理が完成するまでの間、少年との会話を楽しもうと考え、話題を提示した。

 

 

「永遠亭での仕事の調子はどうだ? 上手くやれているのか?」

 

「私も気になる!」

 

 

 藍は自分が見ることの出来ない、永遠亭での少年の様子を非常に気にしていた。

 

 

「上手くやっているつもりだよ。やり始めのころに比べれば大分慣れてきたしね」

 

「…………和友」

 

 

 藍は、少年の答えを聞いて頭の中にある記憶の中の光景がよぎり、次に言葉が繋がらなくなった。永遠亭、慣れている、二つの単語が半年前の光景を想起させ、頭を硬直させる。

 橙は、固まってしまった藍を置き去りにして少年と会話を進めていく。

 

 

「仕事ってやっぱり忙しいの? 大変?」

 

「そうだなぁ……忙しくはないし、大変でもないけど。何か足りない気はするかな」

 

「……よく分からない答だね」

 

「うーん……難しいなぁ。どう言ったら伝わるかな?」

 

 

 少年は、橙の質問に考え込む。

 少年の働いている時間は非常に短いため、忙しいといえば忙しくはないし、大変といえば大変ではない。仮に忙しかったとしても、それを言葉に出して言える状況ではないことぐらい少年にも分かっている。忙しいと言ってしまえば、仕事を辞めさせられる可能性があるのだから。

 でも、仕事に対して他に何か言えることがあるだろうか。やりがい? 責任感? 何を話せばいいのだろうか。少年は、なかなか取り出せない答えをひねり出そうと頭を悩ませていた。

 そして、ちょうどそのとき、藍は二人の会話を聞きながら心臓が激しく動悸するのを感じていた。

 

 

「なぁ、和友……」

 

「何かな?」

 

 

 少年は、藍の呼びかけに優しい声で答えた。藍は、平常心を保とうと必死にいつも通りの自分を演じようとする。

 しかし、少年に気を遣わせないように自分の気持ちを偽ろうとするが、心臓がうるさいぐらいに鳴り響き、胸が苦しくなる。必死に堪えても声が震えてしまう。体の震えが止まらなかった。最近ずっとこうだった。半年前から患っていた持病のようなものだった。

 

 

「和友、無理だけはしないようにな。前みたいなことになったら私は、私はっ……」

 

「藍様? どうしたのですか?」

 

 

 橙は、時折起こる藍の異変にうろたえる。こうなったときに何かできた試しがない。どうすればいいのかも分からない。

 橙は、時々見られる藍の不安そうな表情に、何もしてあげることができなかった。

 

 

「私には……耐えられない」

 

 

 藍は、心の奥底から溢れ出る想いが止められなかった。瞳に涙を溜めて悲しそうな、辛そうな表情で俯いた。

 

 

「私は、私には、無理だ。絶対に嫌、それだけは。私には、和友、お前が……」

 

「藍は、心配し過ぎだよ」

 

 

 少年は、下がってしまった藍の頭の上に手を乗せて優しく撫で、安心させるように笑顔を作り、微笑む。

 藍が心配性になっているのは、少年の責任によるところが大きい。藍が心を痛めている原因は、間違いなく少年にあるのだ。

 そんなことは少年も分かっている。だからこそ、藍を慰めるのは自分の役割で、自分が藍を支えてあげなければならないのだと思っていた。そうしてしまった自分が責任を果たさなければならないと考えていた。

 

 

「大丈夫だから」

 

「ああ……分かってはいるのだが」

 

「僕なら、もう、大丈夫だから」

 

「ん……」

 

「大丈夫だから、大丈夫、大丈夫」

 

「??」

 

 

 橙は、不思議そうな表情で二人のやり取りを眺めていた。

 橙には、毎回のように発生する主が落ち込む状況を理解できていなかった。人が変わったように悲しい顔をする藍の姿を見つめながら、傍にいることしかできなかった。傍にいる以外に何をすればいいのか分からなかった。

 橙は、少年が苦しんでいた時期を深く知らない。そもそも橙がマヨヒガの一員になったのは、少年が病気で苦しんでいた時期の終わり頃である。ちょうど、藍がこうなってしまった後のこと。

 後から来た橙には、二人がどうしてこんなやりとりをしているのか分からず、ただただ眺めることだけしかできなかった。

 藍は、少年につられて笑顔を浮かべた。少年は、藍の表情を見て手を引く。藍は、少年の手が頭から離れると同時に瞳に溜まる涙をふき取り、少年へと告げた。

 

 

「和友、信じているからな」

 

「僕なら大丈夫だよ」

 

 

 藍は、はっきりと断言する少年に一瞬複雑そうな顔を作ったが、大きく頷いた。信用性が余りあるようには思えないが、それ以上の保証ができないのも真実―――藍には少年の言葉を信じることしかできなかった。

 

 

「それにしても、随分と涙腺が緩くなったものだ。これも和友せいだからな」

 

「そうなのですか?」

 

 

 橙が藍の言葉を聞いて、少年に向けて質問を飛ばす。少年は、まさかの責任の放り投げ方に驚きの表情を浮かべながら疑問を口にした。

 

 

「えっ、僕のせいなの?」

 

「ふふふ、冗談だ」

 

「そういう冗談はやめてよ。僕もそうだけど、橙が本気にしちゃうでしょ?」

 

「すまない、以後気を付けよう」

 

 

 少年は、藍に対して責任を感じている。自分の責任で藍が涙もろくなってしまったことは、確かなことだと分かっている。

 だが、今すぐ責任を取れと言われても何もできないのが実情である。今の藍に対して心配をかけないようにするなんて、四六時中一緒にいるしかない。

 それに、涙もろくなった責任を取れなんて―――藍が本気で言うことではない。少年を困らせるために言っているのがまる分かりである。こういうことを言われて、本気でとってしまう少年だからこそ、こんなことを言うのだ。

 その証拠に―――藍は続けてこう言った。話を蒸し返すようにこう言った。

 

 

「涙腺が緩んだのが和友の責任だというのは、あながち冗談ではなかったりするが」

 

「やっぱり和友のせいなの?」

 

「だから、止めてって言ってるじゃないか」

 

「ははっ、すまない。つい口が滑ってしまった」

 

 

 藍は、嬉しそうに言った。朗らかな表情で、先程の暗い雰囲気はどこに行ったのか分からなくなるぐらいの明るさで言った。

 だが、橙から向けられる怪訝そうな視線は変わらないままだった。

 

 

「橙は、ずっとそんな目で僕を見るつもりなの?」

 

「藍様が悲しむ理由を和友が持っているのなら私が何とかしないと。和友は、本当に藍様に何もしていないの?」

 

「橙、和友は何もしていない。私が心配性なだけだ。私を心配してくれてありがとうな」

 

「私は藍様の式ですから当然です!」

 

 

 橙は、藍に褒められて嬉しそうに微笑む。

 少年は、笑顔の二人を見届けると調理場の方に目を向けた。少年の視線の先には、慣れた手つきで料理を作っている紫の姿が確認できた。

 紫の料理をしている光景は、2年前を思い出すととても不思議に思える光景である。

 

 

「それにしても紫が調理をする姿も随分と様になったね。最初のころはあんなにおどおどしていたのに」

 

「2年もやっていれば上手くもなるわ。今の私は、あの頃の私とは違うもの」

 

 

 紫は、少年の言葉に口角を上げて答えた。

 紫が料理をするようになったのは丁度2年前からである。

 始まりは少年の一言。ちょっとした場の流れが今の紫を作っている。あの時から―――少年が来た時からマヨヒガの日常には七色の色彩が彩られた。

 

 

「できたわ」

 

 

 紫は、自信満々な表情を浮かべ、テーブルの上に自分の手で作った料理を並べ始める。数分の合間にテーブルの上には紫の作った美味しそうな料理が並んだ。

 

 

「さぁ、噛みしめるようにして味わいなさい」

 

 

 紫は、不敵な笑みをその顔に張り付けながら自分の定位置に座る。

 これで4人は、いつものように定位置につく形となった。

 4人は、それぞれ目線を配ると両手を揃え、パンッと乾いた一音を響かせる。音が綺麗に重なった直後、各々一斉に言葉を吐き出した。

 

 

「「「「頂きます」」」」

 

 

 食事の形式は、バイキングの形になっている。それぞれに分けられているわけではなく、中央に置かれた料理を自分の食べる量の分だけよそうという形式を取っていた。

 

 

「うん、おいしい」

 

 

 少年は、紫の作った料理を一口食べると、料理のおいしさに感嘆し、素直に味の感想を述べた。紫の料理は、昔と比べれば、見た目もさることながら確実においしくなっている。

 

 

「紫は、本当に料理がうまくなったね」

 

「料理が上手くなったのは事実でしょうけど、藍より美味しいかどうかと言われると……まだまだよ」

 

 

 紫の目標は、藍の料理を凌駕することのようである。紫は、まだまだ藍の料理の域には至っていないと感じているようで、悔しさをにじませていた。

 

 

「藍は、随分と昔から料理をしているからね」

 

「経験が足りないなんて、見苦しいただの言い訳よ。こういうのは、センスがものを言うの」

 

「うーん、でもなぁ」

 

 

 少年は、紫の料理が藍の料理に及ばないことが、仕方がないことのように思えた。

 紫は、遥か昔から料理をしている藍と比べると、どうしても経験が足りない。センスどうこうの前に、知識も足りなければ、体の使い方も分かっていない状態なのである。

 今目の前にある紫の料理は、所詮これまで見てきた、食べてきた料理の模倣にすぎない。

 様々な料理をする中で独創し、美味しいものを作る。そういうのは、経験があってこそできることなのだ。経験がない状況で新しいものを取り入れてもよく分からないものができるだけ。

 未知のものができるという意味では確かにいいのかもしれないが、問題は味の方向性を見失うことが多いということである。そんなことでは冒険することがあっても成功することは少ないままだ。

 それは、経験が足りないから。紫の料理が藍の料理に大きく負けているのは、主にそういうところにあった。

 

 

「私も負けてられませんね。日々精進です」

 

 

 藍は、紫のライバル視するような言葉に、自分の料理が認められているのだと嬉しくなり、口角を上げる。藍の瞳には、密かに紫の料理に対して対抗心を燃やしている炎が見え隠れしていた。

 

 

「まぁ明日は、僕達の料理当番だけどね」

 

「和友、とびっきり美味しいのを作ろうね」

 

 

 少年と橙も藍の言葉に感化されたのか、同じようにやる気を出し始める。

 八雲家ではある時から料理を当番制にしており、順番に回していた。あくまで昼だけという条件のもとであるが―――藍、紫、少年+橙の3つで回っている。今日は紫だったので、次は少年と橙の番である。

 

 

「私も上手くなっているところを藍様や紫様に見せてみせます」

 

 

 ここまで話が展開されると理解できるが、橙の口調は少年と同じように相手によって使い分けられている。具体的には、少年に対してはため口で、藍や紫に対しては敬語を使っていた。

 少年に対してのみため口になっているのは、少年が敬語を使う必要はないと橙に言ったからである。そして、藍と紫に対して敬語を使うようにさせたのも少年がそうしなさいと言ったからだった。

 橙は、少年が何も言わなければ、誰に対してもため口を使ったことだろう。もともと生まれたときからそういう奴で、一緒にいたときから図々しくて、気まぐれな妖怪だった。

 4人は、次々に紫の作った食事を口に運ぶ。

 少年は、美味しそうに料理を頬張っていく。紫は、いつも美味しそうに食べてくれている少年に笑顔を向けた。

 

 

「私の料理はおいしい?」

 

「うん、おいしいよ」

 

「そう」

 

 

 紫は、少年の回答に満足げに微笑むと食事を再開する。私の料理は、という風に聞くあたりに藍に対する対抗意識が見て取れる。

 しかし、対抗意識丸出しの紫とは異なり、藍には紫を意識する雰囲気が一切感じられなかった。

 

 

「和友も橙もどんどん食べるんだぞ」

 

 

 藍は、唐突に食事中に料理を持って立ち上がる。紫は、急に立ち上がった藍に厳しい視線を送った。

 藍は、紫の厳しい視線に気付くことなく少年と橙のいる向かい側に歩き出し、二人にもっと食べるように料理を分けようと動こうとする。

 

 

「ほら、まだまだいっぱいあるんだからな」

 

「藍、止めなさい」

 

 

 紫の手が移動しようとしている藍の服を掴んだ。

 藍は服を掴んだ紫へと顔を向ける。紫の藍を見る目は、非常に厳しいものだった。

 

 

「マナーがなってないわよ」

 

「は、はい……」

 

「もともとそんなことをしないように場所を変えたのに、それでも動くということはまた別の方法を考えなければならないかしら? いっそのこと一緒に食事をとるのを止めてみる?」

 

「も、申し訳ありません……これからはないようにしますので、このままでお願いします……」

 

 

 藍は、紫から注意を受けて紫に対して深々と頭を下げて謝罪し、しょんぼりと視線を落とした。

 現在の藍の座る位置が紫の隣で少年の正面になっているのには―――大きな理由があった。たった今起こった、食事をとりわけるような行動に出るなどの軽いものから、重いものまでさまざまなことがあった。要は藍が少年や橙のことを構いすぎるため、色々と面倒が起こるということがあったのである。

 そのため、藍は少年や橙から最も遠い場所に配置されていた。

 

 

「気をつけなさい」

 

「はい……」

 

 

 紫の釘をさすような言葉によって、藍は落ち込んだ顔のまま元の位置へと座った。

 橙は、落ち込んだ藍の顔を黙って見ていられず、慌てて立ち上がり藍へと声を掛けようとする。

 

 

「藍様、私が貰……」

 

「ば、馬鹿っ!」

 

「もがっ!?」

 

 

 少年は、落ち込んでいる藍にフォローを入れようとする橙の口を慌てて塞いだ。

 橙は、少年が言葉を遮る理由が分からず、口を塞いでいる少年の腕を勢いよく引っ張る。橙の引っ張る力は少年の力よりもはるかに強く、少年の手は橙の口元から一瞬にして離れた。

 少年の手を払いのけた橙は、藍に聞こえないように少年の耳元に向かって小声でしゃべり始める。

 

(ど、どうして止めるの? 藍様が可哀そうだよ)

 

(それは藍のためだよ。ここで藍の善意を受けてしまったら座る場所を移動した意味がないからね)

 

 

 小声で橙に話しかけられた少年は、同じように藍に聞こえない程度の小さな声で橙の質問に答えた。

 現在の食卓テーブルの座る位置は、できるだけ少年と橙が藍から離れるようにという条件で紫が配置している。距離を離している理由は、まさしく藍の極度の依存度をどうにか下げられないかという試みからである。

 

 

(もともと藍がこの位置に座るようになったのは、藍の僕達に対する依存度を少しずつ小さくしようという紫の発案なんだから)

 

(そうだったのっ!? 私、聞いてないよ!)

 

 

 橙は、座る椅子の位置決めについては何も聞かされていなかった。座る位置が変わった時には「座る位置は年や季節によって変わるんだ」と一人で思っていたのである。

 

 

(どうして私に黙っていたの!?)

 

(いや、黙っていたというか、言える状況じゃなかったというか……橙は寝ていたし……)

 

 

 橙が勢いよく少年に迫ると、少年は都合が悪そうに橙から視線をそらした。

 少年は、紫が藍の席を変えようと進言した時のこと―――紫と話していた時のことを思い返す。

 その場には、当然ながら藍はいなかった。同様にして橙も二人の会話の聞こえる位置にはいなかった。さらにいえば、単に近くにいなかっただけではなく、眠っていた。

 橙は、少年を攻めるようにして怒気を強める。

 

 

(起こしてくれてもよかったじゃないっ!)

 

(んー、起こそうとは思ったんだけど……)

 

 

 少年は、紫が藍のことについて話をした時、橙にも話した方が良いだろうと橙を呼びに行っていた。別に橙を仲間外れにしようとして起こさなかったわけではない。少年が橙を呼びに行った時の状況が、それを許さなかったのである。とてもじゃないが話しかけることができない状況だったのである。

 

 

(ちょっと起こせる雰囲気じゃなかったっていうか……)

 

(その時の私はどんな状態だったの?)

 

(橙は、藍の尻尾を枕にして寝ていたんだ。それに、藍が寝ている橙を尻尾に乗せたまま別の部屋に連れて行ったから、話すにも話せなくてさ)

 

(そ、それはさすがに無理だね……)

 

 

 橙は、落ち度が自分にあるのだと自覚し、勢いを無くした。

 少年と橙は、お互いに顔を見合わせたまま固まり、茫然とする。

 一方、紫に叱られた藍は、必死に気持ちを切り替えようとしていた。

 

 

(私はいつまで気にしているのだ。これから気をつければいいことではないか。気持ちを切り替えよう)

 

 

 藍は、顔を振り先程紫に告げられた言葉を振り払う。気に病んでも仕方がないと、これから気をつけようと自分の中で折り合いをつける。すると、落ちていた視線は気持ちの立ちあがりに追随するように上がっていった。

 

 

「ん?」

 

 

 持ち上がった藍の視線の先には、こそこそと話をしている橙と少年の二人の姿があった。

 藍は、目前で聞こえないように話をしている二人の様子がとても気になり、質問を投げかける。

 

 

「二人ともどうした? こそこそとしゃべっているが、何かあったのか?」

 

「な、なんでもないです」

 

「うん。ちょっと橙が午後の練習の作戦会議をしようって言ったから、どうしようか話をしていたんだよ」

 

 

 藍に尋ねられた二人は、慌ただしく藍の方向へと顔を向け、焦りながらもそれぞれ藍の質問に対応した。橙は両手をバタバタと動かし、少年は額に汗を滲ませている。

 少年は、何とかして話題を変えようと、午後に行うことになっている弾幕ごっこの練習についての話題を提示した。少年と橙と藍には、食器を洗い終わった後に弾幕ごっこをやる予定があった。

 弾幕ごっこは―――半年前から続いている習慣の一つである。

 

 

「はぁ……」

 

 

 紫は、焦る二人の様子に溜息を吐き、二人のフォローをするために動きを見せた。

 

 

「それは結構なことね。私もそろそろ二人が勝つところが見たいもの、頑張りなさい」

 

「私は、まだまだ負ける気はありませんよ」

 

 

 少年と橙は、藍の言葉に安心して表情に安堵の気持ちをにじませる。紫は、表情を変えることなく、自分の作った料理をほおばった。

 4人は、そんなこんな会話をしながら紫の作った料理を食べ、テーブルに置いてあった料理を胃袋へと収めた。

 

 

「藍、ほどほどにしておくのよ。和友は、これが終わったら人里に行く予定があるのだからね」

 

「分かっていますよ」

 

 

 料理の後片付けを終えると―――全員が縁側を超えて草原の中央に飛び出す。紫は縁側の位置で立ち止まり腰を下ろし、残りの3人は紫の位置からから20メートルほど先の所で向かい合うように止まった。

 藍は、紫に返事を返してゆっくりと空中に浮かびあがると、地に足をつけている二人を見下ろしながら言葉を投げかける。

 

 

「さぁ、二人とも準備はいいか?」

 

「僕はいつでも」

 

「藍様、私も準備できています」

 

 

 地上に足をつけている二人は、上空で浮いている藍に向かって視線を向けて応える。

 紫は、二人の答えを聞いて大きく息を吸いこみ、3人に聞こえるように大きな声を発した。

 

 

「合図出すわよ!! スペルカードは全部で3枚」

 

 

 これから始まるのは、これから幻想郷に適応される決闘のルール、スペルカードルールの模擬戦闘である。

 

 

「よーい、始めっ!!」

 

 

 今―――開始の合図が放たれた。



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藍vs少年&橙、弾幕ごっこでの対決

弾幕ごっこが始まります。


 紫の合図が放たれる前―――少年と橙はお互いに目配せをして、藍の弾幕に立ち向かうための心の準備をしていた。

 

 

「さぁ、やろうか」

 

「はい」

 

 

 これから始まるのは、圧倒的な実力差のある戦いである。今まで一度も勝てたことの無い戦い、勝つ兆しすら、勝つ希望すら見えないような戦いである。

 

 

「二人とも、行くぞ!!」

 

 

 藍は、紫の合図とともに弾幕を張り始める。

 空中は、瞬く間に光を放つ弾で溢れかえった。

 

 

「まずは避けるところから流れを作るよ。僕たちは攻撃しながら避けるなんて器用なことを軽々とできるわけじゃないからね」

 

「はい!!」

 

 

 少年と橙は、自分たちがどうするのか声を出して伝え合う。普段ならばしない2対1での試合において、お互いの意思疎通が図れているかどうかは非常に重要な要素である。

 どちらかがどちらかの邪魔をすることは許されない。お互いがお互いの邪魔をしてしまえば、一瞬で落とされてしまう。

 視線を交錯させた二人は力強く頷き、覚悟を決めた表情で大きく第一歩を踏み出した。

 

 

(小さく、細かく、正確に)

 

(大きく、幅広く、余裕をもって)

 

 

 少年と橙は避けることに専念し、それぞれ個別に個性を持って藍の弾幕を避け始めた。

 橙は、身体能力を生かして空を飛びまわり、空間を大きく使った避け方をしている。

 対して少年は、地上に足をつけた状態のままで地面を滑走するように藍の弾幕を小さく避けていた。

 

 

「やっぱり橙はすごいな」

 

 

 少年は、激しい光をばらまく藍の弾幕を視野に入れながら、視界に入ってくる橙の動きに目を奪われていた。空中を縦横無尽に駆け回っている橙の姿は、少年から見れば羨望の対象だった。

 

 

「本当に羨ましいや。僕も橙みたいに動けたらいいんだけど……」

 

 

 橙と和友の間には、大きな身体能力の差がある。

 藍の式神である橙と人間である和友とで身体能力に差が出るのは当前のことだった。

 具体的にいえば、少年が霊力を使って運動能力を底上げした状態と橙の素のままの運動能力が同じぐらいといえば分かりやすいだろうか。それどころか、霊力で底上げをしている少年の方が若干劣っているぐらいかもしれない。それほどに妖怪と人間というのは、身体能力に差がある。

 そして、その両者の間にある身体能力の違いが、二人の避け方にも大きな影響を及ぼしていた。

 藍は、もはや見慣れたものとなっている二人の避け方を見ながら余裕そうな表情で口を開いた。

 

 

「和友は、相変わらず空を飛ばないのだな」

 

「空を飛んだ方が避けにくいんだよ。空を飛んだ時の僕の拙さ(つたなさ)は、藍が一番よく知っているだろう?」

 

 

 少年の視界の中に、藍の余裕そうな表情が入り込む。

 

 ―――両者の視線が交錯した。

 

 少年は、藍の視線に対して不敵な笑みを浮かべる。

 藍は、少年の歯切れのいい解答に機嫌を良くし、大きく声を発した。

 

 

「それもそうだっ!!」

 

「飛べないということは―――自由度を一つ下げること」

 

 

 少年の避け方は、弾幕ごっこという遊びにおいて特殊だと言わざるをおえない。どう間違えても、他の妖怪や人間は少年のような避け方をしないはずである。

 なぜならば、空中を飛ばないということは、逃げる選択肢を一つ削っていることに他ならないから―――下方向に避けるという選択肢を捨てるということになるからだ。

 

 少年は、地面からわずかに浮いて滑るようにして走っている。滑走して弾幕を避けている。

 

 少年がこの避け方になったのには、もちろん理由がある。

 単純な話である―――飛ぶことが得意ではなかったというだけの話だ。少年は空を飛ぶのが上手くないため、地上を這うような避け方になった。

 弾幕ごっこをするうえで弾幕を避けるという動作は、基本動作になる。避けるということをせずに、弾幕ごっこは成り立たない。

 弾幕ごっこに参加するほとんど全員の参加者(少年以外)が、弾幕を躱すために飛ぶという選択をしている中、飛ぶということが苦手な少年が弾幕を避けるには、滑走するという方法しかなかった。

 少年は、なるべくして滑るという避け方になったのである。

 

 紫は、静かに三人の動きを見ながら扇子を口元で開き、三人の動きを見つめる。見つめた視線は、徐々に地面へと降りていき、滑走している少年へと向けられた。

 

 

「和友は、もう少し霊力の総量が増えると動きが変わると思うのだけど……それは高望みかしらね」

 

 

 空を飛ぶということ―――それは、万有引力の働きによる重力に逆らってエネルギーを消費するということである。現実は、夢のように無償で飛べるほど甘くない。飛んでみたいという願望だけで気軽に飛べるというものではないのだ。空を飛ぶということは、空を飛ぶために必要なだけの労力が必要となる。

 具体的には、霊力や妖力といった力を使わなければならず、力を上手く制御する必要があるのである。

 

 

「和友の霊力は人里の人間の平均よりも若干少ないぐらいだし、飛ぶために割くことのできる霊力がない」

 

 

 少年は、肝心の飛ぶために必要な霊力を入れる燃料タンクそのものが非常に小さかった。人里の人間の容量がバケツ一杯であるとするならば、コップ一杯分がいいところであろう。入れられる容器が小さいため、必然的に省エネ運転を余儀なくされている。

 だから少年は、絞り出すように僅かな燃料を使って滑走していた。

 

 

「それはきっと、外の世界の人間だからということなのでしょうけど、なんともしがたいものね。霊力の器はそう簡単に大きくなったりしないわ」

 

 

 幻想郷の人間は、妖怪退治を生業としていた者の末裔である。力を継承し、内に大きな霊力を秘めている。

 しかし、少年はあくまで幻想郷の人間ではなく、外の世界の人間である。幻想郷の人里に住んでいる人間と違って、霊力という力が必要とされなくなった外来人に霊力を溜め込んでおくための器官なんて残っているわけがないのだ。

 それに、才能と言うべき霊力の総量は生まれに依るところが大きく、練習によって増加する傾向を示すが、その幅はとても小さい。才能の壁を揺るがすことはまずないと言ってよく、少年はいくら努力しても幻想郷の人間よりも霊力が大きくなることはないと思われた。

 そんな生まれながらにして霊力の少ない少年は、紫の呟きを拾うかのように自信を込めた言葉で空を飛ばないことに対しての持論を述べた。

 

 

「地面を滑走した方が下方向から向かってくる弾を気にしないでいい分、楽だと思うけどね」

 

「だが、避けることのできる方向が―――自由度が一つ下がるぞ。選択肢を放棄することは、明らかにマイナスだ」

 

「知っているよ。それでも、それでもなんだよ」

 

 

 藍は、持論を述べる少年に向けて不敵に笑う。

 弾幕ごっこにおいて飛ばないということは―――自由度を一つ下げるということに他ならない。少年も飛ばないことに対する弊害については、十分理解していた。

 それでもなお少年にとっては、飛ぶことによるメリットよりも飛ばないことに対するメリットの方が大きかった。

 

 

「避けることができるのと、全く弾が来ないのとでは全然意味が違うよ。後者の場合、全く気にしなくてもいいということなんだからね」

 

 

 下方向から入り込むようにして接近する弾幕を躱すことは、今の少年にとって難易度が高かった。

 少年は、見えない位置にある弾幕を躱すほどの感知能力を備えていないため、目視できなければ躱すことができなかった。とてもじゃないが、音で判断するとか、空気の振動を感じ取るとか、力の波動を感じるとか、他の感覚に頼ることには、無理があったのである。

 弾幕の発生源である相手を見ながら地面を滑走していれば、後ろから攻撃を受けることもないし、下から奇襲をかけられることもない。

 少年にとって地面を滑走することは、身を守る一つの重要な手段だった。

 

 

「真下から弾が飛んでくるようなことがあれば、飛んで来ているのかどうか分からないじゃないか」

 

「和友の言うことももっともだと思うが……」

 

 

 藍は、少年の言葉に少しだけ納得するような表情を見せたが、すぐに表情を元に戻した。少年の理論では、藍の考えを論破するには押し手が全く足りていない。

 藍は、即座に反論した。

 

 

「最終的には自由度の高い方が逃げ道を作りやすいはずだ」

 

「それは、そうだと思うけど……」

 

 

 少年は、藍の反論に対して否定するような言葉を吐きだせなかった。

 議論を重ねたところで、最終的には空を飛べる方が避けやすいという結論に至る。自由度が一つ増すことによるメリットとして、袋小路に陥る可能性が大きく減少するという圧倒的な有意性が存在するからだ。

 それに、少年が弾幕を感知できないというのは、単なる実力不足でしかない。弾幕ごっこをする者全員ができる技能を持ち合わせていないのは、愚かといっても差し支えがなかった。

 

 

「和友は、もう少し霊力の使い方が上手くならないとな。霊力の使い方が上手くなれば、いずれどこから弾が飛んで来ているのか、目で見なくても分かるようになると思うぞ」

 

「っ……」

 

 

 少年は、藍の言葉に悔しそうに軽く唇を噛み、言葉を飲み込む。

 霊力の使い方が上手くなれば、その分霊力やその他の力に対して敏感になる。そうなれば、どこに相手の弾幕があるのか、ある程度予測がつくようになる。

 弾幕ごっこの上手い人間や妖怪というのは、総じてそういうことに機敏に反応できる人物であることが多いのが実情である。

 

 

(僕もみんなみたいに飛びたい。みんなと同じように、みんなと同じところまで、みんなと互角に、対等なところまで行きたい……)

 

 

 少年は、飛べるものならば飛びたかった。みんなと同じように、みんなと同じ高さで勝負がしたかった。

 だが―――現実にその願いは叶わない。今の実力では、どうしようもなかった。

 

 

(絶対に諦めないぞ。いつか、同じ場所に立って勝負してやる!)

 

 

 少年は、昂ぶる気持ちを抑えて苦笑いを浮かべながら藍に対して口で勝負するのを諦め、いい訳を口にした。

 

 

「藍は簡単にものを言うけど、霊力ってすぐに拡散するから留めておくのが難しいんだよ。上手く使ってあげないと一瞬で散っちゃうからね」

 

「そうか、和友の能力が霊力の保持を阻害するのだったな」

 

 

 少年は、境界を曖昧にする能力を持ち合わせている。少年の能力が発動するのは少年が区別できないものであり、それは霊力に関しても例外ではない。

 

 

「霊力は、身に纏っても見た目何も変わらないし……僕には空気との区別ができない」

 

「和友の場合、霊力を空気中に放り出せば、空気との境を見失って拡散させることになる」

 

 

 霊力は、別にそれ自体に特殊な特徴があるわけではない。そこにあるだけではただの発光する球であり、身にまとっている際には不思議な力の源になるだけのそんなものだ。

 これがどうして区別することができないかというと、霊力を纏っている本人に対して全く影響を及ぼさないためである。

 例えば、水の中であれば水が視界に入り込む、息ができなくなる、体が動かしにくくなるという症状が生まれる。

 しかし、霊力はざっくり言ってしまえば空気と何も変わらない。息もできれば、見た目が変わるわけではない、見えている景色が発光の色と同じように薄い青色に染まることはないのである。

 特徴を持たない霊力は空気と区別することが難しい。少年は、空気と霊力の区別ができなかった。

 区別できない少年の中にある霊力は、少年の周りにまとわりつくと、空気との境を打消し、空中分解を起こしていく。つまりは、霊力を留めることができないのである。

 

 

「けれども、飛ぶことを諦めればいいというものでもないぞ。飛ぶことは、弾幕ごっこをやるうえで必須の技術になる。心配しなくても、これからも頑張り続けていれば、おのずとできるようになるさ」

 

(頑張り続ければ、おのずと……か)

 

「藍の言う通り、飛べることによるメリットはデメリットに比べて余りあるものがあるわ」

 

 

 紫は、少年と藍とのやりとりを見つめながら静かに口ずさんだ。

 何度も言うが、少年の言うように下方向を気にする必要が無くなるということはメリットであるのだが、それを押しつぶすほどのデメリットが存在する。

 それが―――藍の口にしている自由度の低下である。

 下方向を封じられた少年は、避けるための自由度が下がり、詰みに持っていかれる可能性が増大する。袋小路に追い込まれる可能性が大きくなるのである。

 

 

「でも、和友にはそれができない。和友は、霊力の総量が少ないこともそうだけど、その能力ゆえに霊力を留めておくことが非常に難しいのよね……下手に放出すれば、空気中に拡散して一瞬で霊力が枯渇するわ」

 

 

 少年だって、飛べるものなら飛んでいる。

 だが、空を飛ぶだけの霊力が無い。飛ぶだけの霊力を保持していられない。少年が弾幕を張ることなく、避けるところから弾幕ごっこを開始しているのだって、霊力を消費しないためである。

 結局―――こういう戦い方しか、今の少年にはできないのだ。

 藍は、軽快な足取りでステップしながら避け続ける少年から大きく広く躱している橙へと意識を移した。

 藍の対戦相手は、何も少年だけではない。

 もう一人の存在がいることを忘れてはならない―――橙の存在も気に掛けるべき一人である。

 

 

「橙も避けるのが大分上手くなったな」

 

「日ごろの練習のおかげですっ!」

 

 

 橙は、唐突に主である藍から褒められて嬉しそうに笑みを浮かべるが、その瞬間藍の弾幕が紙一重のところを掠めるように飛来した。

 

 

「うわっ! わわわ、危ないっ……」

 

 

 橙は、褒められてよそ見をした瞬間に霊力弾とぶつかりそうになり、慌ててブレーキを掛けた。そして極端に傾いた体勢のまま空中で一気に静止し、再びアクセルを踏む。

 藍に誉められたことで気が緩んだのだろう、普段の大きく避けている状況とは程遠く、ギリギリのところで躱した形になった。

 藍は、慌しい橙の様子に大きくため息を吐く。

 

 

「はぁ、誉めた直後にコレか……油断は禁物だぞ」

 

「ご、ごめんなさい」

 

「次から気を付けて!」

 

「はい! 分かってます!」

 

 

 橙は、舞い上がった意識を切り替えて軽快な動きで弾幕をすり抜け始める。

 少年は、落ち着きを取り戻した橙に安堵すると、対戦相手である藍を見つめた。

 藍から見た橙と少年の二人の動きは、まさしく対称的だった。

 大きく動き、躍動感のある橙。

 細かく動き、流動的な少年。

 まさしく正反対である。

 

 

「まさしく対称だな。和友も橙も自分のことをしっかりと理解している。自分のできることを把握している。さて……私も‘できること’をやらなければな」

 

 

 藍は、二人が弾幕を安定して躱しているのを確認すると、次のモーションへと移る。

 場は、二人の安定回避の様子を確認した瞬間から―――一気に加速の様相を見せた。

 

 

「そろそろ行くぞ!!」

 

 

 遂に―――藍の最初のスペルカードが宣言される。

 

 

「スペルカード宣言 式神「仙狐思念(せんこしねん)」 」

 

「ついに来たな!」

 

「はい、ここからです!」

 

 

 藍から一枚目のスペルカードが宣言された。

 勝負は―――今からである。これまでは勝負にもなっていなかった。勝ち負けがつく状況ではなかった。

 スペルカードが出てきた今からが―――試合の勝ち負けを決める段階である。

 

 

 スペルカードというのは、スペルカードルールの適応された弾幕ごっこにおいて使用されるカードのことである。

 スペルカードルールというのは、その名の通りスペルカードを使った弾幕ごっこのルールである。

 あらかじめ技の名前と技の内容を考えておき、それをスペルカードという形で保持しておく。対決を行う場合はスペルカードの使用枚数を決めておき、試合中に技を使用する際にスペルカードを宣言しなければならないという規則が設けられている。

 勝敗は、体力が尽きるか、全ての技が相手に攻略された場合に負けが確定するというものである。

 スペルカードルールの決闘は技の美しさにも重きが置かれていて、美しさを競うという面もある。

 美しさについては、どういう判定で勝った負けたが判定されているのかは不明であやふやな面があるが、ようは―――センスを競っている面もあると考えればよいだろう。

 

 藍がかざしたスペルカードは、まばゆい光を放ち、内包している力を解放する。

 少年と橙は、力の濁流に飲み込まれないように大きく息を吸い、強い気持ちを吐き出した。

 

 

「僕たちも行くよ!!」

 

「分かっています!!」

 

「「スペルカード宣言!!」」

 

 

 少年と橙は、懐から持ち合わせているスペルカードを引き抜き、藍と同様に取り出したスペルカードを空に向けて見せつけるように示す。そして、大声でスペルカードを宣言した。

 

 

「朧気「事実と記憶の不整合(じじつときおくのふせいごう)」」

 

「仙符「鳳凰卵(ほうおうらん)」」

 

「ふふふっ。いいぞ、いい意気込みだ。気迫の伝わってくるいい宣言だ!」

 

 

 宣言と同時に―――空間に光が広がる。しばらくすると光の拡散が収束へと変わり、弾幕という壁がその形を形成した。

 

 

「そのままの勢いで、私を落として見せろ!!」

 

 

 藍は、二人の藍の意志に応答するような宣言に嬉しそうに声を漏らすと、最初から橙のスペルカードを知っていたかのように躱し始めた。

 

 

 勝ち負けが決まるのは―――ここからである。



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橙という存在、思い出される過去

 空中には、お互いのスペルカードから放たれた弾幕がひしめき合っている。

 藍は、橙と少年の二人の弾幕を幽雅に躱していた。

 

 橙のスペルカード仙符「鳳凰卵(ほうおうらん)」」は、球形に広がり円を描くと、そこから回転して広がるような弾幕である。

 少年が発動したスペルカード朧気「事実と記憶の不整合(じじつときおくのふせいごう)」」は、弾幕が途中で切り替わるものである。

 一直線に壁のような弾幕がしかれて、ある位置を超えるとランダム移動を起こす。弾幕が別物になるという感じだろうか。ある境界線を通るとランダムに弾幕がずれる。速度、位置、向きが変化するというものである。

 ただ、変化をもたらす効果は自分のスペルカードにしか付加されていないため、橙の球がずれたり藍の球がずれたりすることはなかった。

 

 藍は、少年と橙の使うスペルカードを熟知している。中でも橙のスペルカードの性質は細部まで知られていた。それは、橙が藍と一緒に弾幕ごっこの練習をしているためである。

 はっきりいって、橙のスペルカードを一緒に考えたのも藍であり、その練習に付き合っていたのも藍である。藍が橙のスペルカードの性質を知っているのは当たり前だった。

 藍は、二人のスペルカードの宣言にも特に表情を変えることなく、橙の弾幕を華麗に躱す。それは―――少年のスペルカードについても同様で、藍の動きには余裕が見受けられた。

 

 

「この状況でも、藍からすればまだまだ余裕があるでしょうね。藍は、二人のスペルカードを何度も見ているわけだし」

 

「ほら、もっとだ。もっと攻めたてて見せろ!」

 

 

 藍は、華麗に二人の張り巡らせられた弾幕を綺麗に躱し続ける。

 そして―――少年と橙も同様に藍のスペルカードを躱し続けていた。何も、藍だけが二人のスペルカードを知っているというわけではない。少年と橙も藍のスペルカードについてある程度の知識を保持していた。

 もしも、二人とも藍の弾幕について初見だった場合、二人に避けるだけの技量は存在しない。事実、最初に弾幕ごっこをした時は、二人とも一枚目のスペルカードで沈んだ。1枚目で試合は勝負を決したのである。

 藍の宣言したスペル式神「仙狐思念(せんこしねん)」 は、大玉を繰り出し、破裂させ、細かい弾幕となって飛び散るというものである。さながら花火のように咲き誇り、綺麗に後を引いている。

 3つのスペルカードが展開された空間は、まさしく弾幕に満たされているといっていい状態だった。外側から見れば、何がどうなっているのか分からないほどである。

 しかし、紫には中の様子がはっきりと見えているようで、静かに状況を分析していた。

 

 

「藍は、橙の弾幕ごっこの練習を担当しているから橙のスペルカードを知っているのは当然として……和友が練習しているときも随分と熱い視線を送っていたから、知らないわけがないのよねぇ」

 

 

 藍は、あくまで橙の弾幕ごっこの担当であり、少年の弾幕ごっこの練習に付き合っているわけではない。あくまでも少年の弾幕ごっこの練習は、紫の領分である。

 しかし、藍は紫と少年が弾幕ごっこの練習をしている時に見ていなかったわけではなかった。心配性の藍は、少年が怪我をしないか心配で常に弾幕ごっこの最中ずっとじろじろと視線を送っていたのである。

 紫は、知られていないと思っている藍をよそに、見られていたことを知っている。

 

 

「やっぱりスペルカードの特徴を知っているというのは大きいわね。藍の表情からは、かなりの余裕が見て取れる」

 

 

 二人の弾幕の特徴を把握している藍は、二人の弾幕を軽々と避け続けている。紫から見ても、藍の顔には多少の余裕が見受けられた。

 紫は、視線を流れるように藍から少年と橙へと向けた。紫の視線の先には、藍とは対照的な表情を浮かべている二人がいた。

 

 

「かたや、橙と和友の二人は大分辛そうね。精いっぱい避けているのが表情から丸わかりだわ」

 

 

 少年と橙の二人は、いまだに一発も被弾していないとはいえ、藍の弾幕をぎりぎりのところで避け続けている状態である。

 そこには余裕も猶予も感じられない。ただただ、精いっぱいなだけ。確かに結果だけを見れば、弾幕の嵐の中をそれぞれが自分の意志を持って正確に避け続けているが―――あんなものは決して長続きしない。

 それでも藍は、精一杯ながらも正確に避けている二人の様子に嬉しそうに表情を緩めた。

 

 

「二人ともやるな、前回より進歩しているぞ!」

 

 

 橙と少年の動きは、藍が以前戦ったときよりも無駄がなくなっている。無駄がなくなっているように見えるのは、弾幕ごっこの経験を積んできた分だけ、二人の目が藍の弾幕の速さに慣れてきているためだろう。

 弾幕ごっこは、経験によるアドバンテージが非常に大きい遊びである。初見であるかないかでは天と地ほどの差ができる。それは、弾幕の性質にも似たようなことが言えた。瞬時に状況を判断できるだけの経験が大きな差を生み出し、動きに影響を与えるのである。

 橙と少年は、藍からの称賛の言葉に応えるようにして意気揚々と口を開いた。

 

 

「前回より避けるのが下手になっていたら落ち込むよ。前までと同じだったら何の練習していたのか全く分からないからね」

 

「藍様、私達だって上手くなっているんですよ! まだまだ負けたりなんてしませんから!!」

 

「そこまで言うなら期待させてもらおうじゃないかっ!!」

 

 

 藍は、二人の応戦するような言葉に気持ちを高揚させる。

 

 

「続けていくぞ! スペルカード宣言、式神「十二神将の宴(じゅうにしんしょうのうたげ)」」

 

「ここからね……ここが二人の鬼門。前回落とされたスペルカード」

 

 

 紫は、藍の宣言したスペルカードに目を細め、以前と同じように二人が被弾するのではないかと不安げに呟いた。

 紫の脳裏に前回行われた藍との弾幕ごっこの一幕が浮かび上がる。少年と橙は、以前に式神「十二神将の宴(じゅうにしんしょうのうたげ)」によって地上に落とされている。今回もここが鬼門になることは間違いがなかった。

 事実―――2対1での試合は、藍の二枚目のスペルカードによってすぐに終わりを迎えることになる。

 

 

「十二神将の宴は、複数の角度から切り込む多角弾幕。多角方向からの攻撃にまだ慣れていない二人には、かなり辛いものがあるわ」

 

 

 藍のスペルは、十二神将というだけあり十二個の魔方陣からそれぞれ弾幕を作り出す。弾幕は、中心に寄せるように広がっていた。

 

 

「弾幕の位置が一瞬で把握できなければ、必ず袋小路に追い詰められることになる」

 

 

 まだまだ経験の浅い二人は、一生懸命に藍の二枚目のスペルカードから発生する弾幕を避けている、なんとかくらいつくように弾幕を避け続けていた。

 しかし、二人の表情は明らかに限界を示唆している。二人の体力が別段低いわけではない、ただ二人が慣れていないだけ。圧倒的に経験が足りないのである。

 

 

「やっぱり藍と闘うにはまだ苦しいかしら? 藍の攻撃に捕まるのも時間の問題ね」

 

 

 橙と少年の目の前には、空間を埋め尽くすほどの弾幕が張られている。

 藍の弾幕は、初心者から見れば、避けることができるなんて欠片も思えないほどの密度がある。下手をすれば、光っていて見えないという人間もいるのではないかと思ってしまうほどの攻撃だ。

 

 

「練習時間が足りなかった? 実戦での練習の密度が薄かったのかしら?」

 

 

 このスペルカードルールというのは、割と最近にできた決闘ルールである。もちろん、最近できたルールに対して慣れるほどの時間があったとは到底言えない。

 それを言えば、少年や橙に限らず、藍も慣れていないと言えばそうなるのだが、どうしても種族の差、基礎能力の差があり、なにより戦闘経験に大きな差があった。戦ったことがほとんどない橙や少年にとっては、弾幕ごっこという遊びは、未知の世界に足を踏み入れているようなものだろう。

 

 

「藍の弾幕の濃さに手も足も出ていない……もう少し練習時間を増やす必要があるようね」

 

 

 橙や少年の弾幕もそれなりには密度があるのだが、躱すことが難しいと思える程度―――無理と思えるほどではない。最初から分かり切っていたことではあるのだが、藍と二人の間には、目に見えて分かるすさまじい力量差があった。

 

 

「今は何とか頭をフル回転させて、逃げ道を見つけて回避行動をとっているけど……それがどこまでもつかしらね」

 

 

 紫の言葉は―――体現するように場に出現する。

 

 

「はぁ、はぁっ……まだまだ!」

 

「相変わらず藍の弾幕はきっついな……もっと集中しないと一気に持っていかれる。一瞬の気の緩みが、全部を終わらせるきっかけになる」

 

 

 橙は、息を切らして歯を食いしばりながら速度を維持していた。

 体の中にあるエネルギーを振り絞るようにして、捻出していく。残りなんて気にしていられない。今しかないのだ。これからの未来を生きるための計算ができるほど賢くはない。

 今が全て。

 だから全てを今に注ぎ込む。

 そして、終わる。

 万物に永遠がないように。

 努力は―――永遠には続かない、必ず終わりを迎える。

 

 

「橙はそろそろ限界かな……大きく動けるのは羨ましいけど、体力が続かないのはちょっと残念なところだね」

 

 

 橙の動きは、徐々にそのダイナミックな動きを小さくさせていた。しばらく藍の弾幕を避けているうちに体に疲労を蓄積させて空中での動きを鈍くしていた。

 

 

「ふぅー、後どれだけだろう……」

 

 

 少年は、橙に対してそこまで疲れている様子は見せていない。少なくとも動きが鈍っているということはなかった。疲れていない理由は単純明快で、橙に比べて圧倒的に小さく動いているからである。

 運動量の差が、今の2人の異なった状況を作り出している。

 少年は、もともと大きく動けないという自身の能力のなさから大きく動くということをしておらず、藍の弾幕が濃いのもあって微小にしか動いていなかった。動けないからこそ必然的に小さくなっている少年の動きは、最終的に功を奏している形になっていた。

 

 

「はぁ、はぁっ」

 

 

 橙は、そんな少年に対して大きく動いている。種族による運動能力や体力の差を考えても運動量が全然違っていた。

 橙は、もともと地上を走って移動をしている。慣れない空中移動を余儀なくされていることも体力を大きく削る要因となっており、二重の重みが疲れと疲労を持ち寄っている。たった今、橙は凄まじい勢いで増加する疲労感に襲われていた。

 橙が捕まるのは―――もはや時間の問題である。

 

 

 とある一幕―――動きの鈍くなった橙の左横すれすれに藍の弾幕が通過する。

 

 

「きゃっ!」

 

 

 橙は、驚きの声を上げて慌てて足を止めた。絶え間なく動かしていた足を止めた。

 少年は、足を止めた橙に目を見開き、大きく口を開ける。

 

 

「橙っ! 足を止めるなっ!!」

 

「っっ!」

 

 

 橙は、接近する弾に怖じ気づくも少年の声にとっさに反応した。視線を前に向けて、前方からせまりくる藍の弾を避けることだけに集中し、疲れで動かなくなりつつある体を無理やりに動かし、右に避けてみせた。

 

 

「はぁ、はぁ。良かった、避けれた……」

 

「そっちは駄目だ!!」

 

 

 橙は、そっと視界を躱した先の前方へと向ける。

 橙の移動した先には、弾幕の壁が存在していた。

 光の壁が迫りくる光景が広がっている。

 逃げ場は―――どこに。

 

 

「ど、何処に逃げれば……」

 

「はぁ、橙はここで終わりね」

 

 

 紫は、小さく息を吐いた。

 橙は、首を勢い良く動かし逃げ道を探す。

 しかし、視界に映るのは藍から放たれた弾幕の嵐だけだった。他に見える光は存在しない。空からの光は一切見えず、空の青さは見えてこない。

 出口のない迷路に入った。

 あるのは、光という行き止まりだけ。

 希望の光ではなく、絶望の光だけ。

 

 

「い、いや! 落ちたくない!」

 

「今回も2枚目で終わり、か……それでも前よりは随分マシよね。初撃で沈んでいた頃を考えれば随分と良くなったわ」

 

 

 橙には、もう逃げ道が存在しなかった。周り全体が弾幕に囲まれて完全に袋小路に入り込んでしまった。

 橙は、紫の言葉と同時に叫ぶ間もなく藍の弾幕に被弾した。

 声も無く地上へと重力に従って落ちていく。ゆっくりと空中を自由落下する。

 

 

「……落ちたわね。さて、誰が拾うのかしら?」

 

 

 藍は、落ちていく橙を見て少年へと合図を送った。

 

 

「和友、橙のことは頼むぞ! このまま続けるっ!!」

 

「あいよっ! 紫っ、橙のことは頼むよ!!」

 

「はいはい、分かっているわよ」

 

「少しばかり霊力がもったいないけど、そうも言ってられないね」

 

 

 紫は、少年の投げやりな台詞を特に気にする様子もなく、提案を受けた。

 

 

(目的地は、橙が落ちてくる落下地点。進め、進め、滑走して、爆走しろ)

 

 

 少年は、藍からの合図に瞬時に反応し、先程までのゆったりした速度を一気に速め、橙の落下地点へと滑走する。少しばかり霊力を放出して意識を失い落ちていく橙の元へと駆けた。

 弾幕の嵐が視界を遮る。進行方向には、多数の障壁が待ち構えていた。

 

 

(前へ、前へ! 最短距離を結ぶ。避けるんじゃない、掠って進め! 触りながら進むぐらいの気持ちで、前に出るんだ!)

 

 

 少年の体からは霊力が吹き出ており、霊力の密度の濃さに引きずられるように色が少し変わっているのが視覚的に分かる。橙と比べるとそれでもまだ少年の速度の方が遅いが、先程までの弾幕を避けている速度よりもはるかに速い速度が出ていた。

 

 少年は、掠るようにして弾幕を躱しながら前に出る。体を捻り、隙間を縫うようにして前に出る。

 怖がったら、恐れてしまったら―――終わりだ。

 恐怖は体を硬直させる。無理だと、危ないと思った瞬間に動きが鈍り、被弾してしまう。

 進め、前に進め。目的地は視線の先にある。何もかも振り切って、何もかもを抱えて前に進め。

 少年は―――目的地まで駆け抜けた。

 

 

「ここが落下点! さぁ、来い!」

 

 

 少年は、落下地点へと間もなく落下してくる橙に視線を向け、意気込むように声を発する。

 橙は、他の弾幕に当たることなく真っ直ぐに落下していた。少年は、一瞬だけ橙へと視線を向けた後、体全体に霊力を循環させて橙の落下の衝撃に備える。

 

 

「ううう~、頭痛い~」

 

「結構きついな!」

 

 

 橙は、少年の手の中にすっぽりと入りこむ。

 少年は、勢いを殺すように円を描いて橙を抱きかかえ、痛そうに唸っている橙を抱えることに成功すると横方向へと軽く放り投げた。

 

 

「紫、頼むよ」

 

 

 当然ながらこの時の少年の声は、距離の関係上紫まで届いていなかった。

 それでも、少年が橙を放り投げた瞬間、橙の進行方向に真っ黒な空間が出現する。

 紫は、少年の言葉が聞こえていなくても橙が放り投げられた方向に向かってスキマを展開し、橙を自分の膝へと移動させた。

 紫の膝に座る形で移動した橙は、藍の妖力弾が当たった部分をさするようにして痛がる様子を見せる。

 

 

「う~、痛いー」

 

「ほら、見せてみなさい」

 

 

 紫は、橙のさすっている手をどけて痛がっている部分を見つめる。被弾した箇所は赤く腫れていた。

 しかし、見たところ大事に至るようなダメージではない。

 紫は、静かに橙の手を放して口を開いた。

 

 

「とりあえず、大丈夫そうね」

 

 

 紫は、怪我の状況を把握すると続けざまに非難の言葉を投げつける。

 

 

「橙、お疲れ様。あなたはもう少し頑張りなさい。2枚目で終わったら以前と変わらないでしょう?」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

「ほら、落ち込んでいる場合ではないわ。しっかりと見なさい。次に繋げるために今できることをしなさい」

 

「はい……」

 

 

 橙は、紫の言葉にしょんぼりとうなだれた。

 紫は、別に謝ってほしくて橙を叱っているわけではなかった。

 橙はまだまだ経験が足りないし、知恵も足りていない。紫は、落ち込むよりも今得られる経験を大事にしてほしかった。

 

 

「さっさと顔を上げなさい」

 

 

 紫は、うなだれる橙のあごに手をまわして軽く持ちあげ、視線を上げるように促す。橙は、紫の意志をくみ取り、視線を弾幕ごっこを続けている少年と藍へと向けた。

 

 

「見ていれば分かることもあるわ。橙と和友で何が違うのか。藍の弾幕は、どんなものか。外から見た景色を目に焼き付けなさい」

 

 

 紫は、橙の視線が持ちあがるのを確認すると、橙から弾幕ごっこをしている二人に視線を向ける。紫の視線の先には、藍の弾幕を先程と同じように避け続ける少年の姿があった。

 少年は、相変わらず空を飛ぶことはせず、地面を滑っている。霊力を温存し、精いっぱいの省エネを心掛けていた。

 

 

「良かったわ。どうやら橙を助けるときに被弾したということは無いようね」

 

「私のせいで当たってなくて良かったです……」

 

「以前、藍と和友が弾幕ごっこをやった時は、橙と同じく2枚目で被弾したのよね……今日は3枚目までいけるかしら?」

 

 

 少年は以前、今の橙と同じように藍の2枚目のスペルカードで落とされている。霊力切れと体力切れもあったが、なにより弾幕を避けることに慣れていなくて落とされた。

 

 

「和友の弾幕ごっこの練習には私が付き合ってあげているのだから、以前と同じところで落とされるなんて許さないわよ」

 

 

 少年の弾幕ごっこの練習は、普段から紫が一緒に行っている。

 紫が少年の弾幕ごっこの練習に付き合っている理由は、藍が少年の能力の練習をやっている分負担が大きくなると思ったから―――ではない。藍の少年に対する依存度を下げるためである。

 藍は、これ以上少年に肩入れすれば、少年と別れることができなくなってしまうと思えるぐらいに少年に依存している。それこそ、和友が死んでしまえば廃人になってしまうのではないかという不安さえよぎるレベルである。

 そうなってしまったのには―――どうしようもない理由があるのだが、今となってはどうしようもなかった。

 

 

「あんなことがなければ……いえ、考えても仕方ないことね」

 

 

 紫の頭の中に、藍が少年の大きく依存してしまった原因となっている半年前のことが鮮明に映し出される。

 今から半年前、少年は死にそうになった。死にそうになっただけならまだよかったのだが。まぁ、死にそうになったことがよいわけではないが、文字通りそれだけならよかったといえる状態だった。

 あの時の状況は、まさしく最悪だった。最悪以外の何物でもなかった。上げて落とされるというのは、こういうことを言うのだと、理解するのにもっとも良い例と成り得るほどだった。

 誰もが良い方向へ進んでいたと思っていたものが真逆だったのである。前に進んでいると思っていたら―――終わりに進んでいた。

 そんなどうしようもない状況で、全部が台無しで、全てが壊れそうになっていた。

 

 

「もしも、どうしようもなくなったらさ……僕のことは諦めてくれればいいから。僕は、どんなことがあっても二人を恨まないからね。今までありがとう、紫、藍。感謝しているよ」

 

「駄目……今それを思い出しても意味がない」

 

 

 少年から告げられた言葉が今でも思い返される。

 紫は、記憶のフラッシュバックに慌てて顔を振った。紫が今考えたことは、今考えても仕方のないことである。

 少年は現時点でちゃんと生きている。それだけで、過去については何も問題ないではないか。

 紫は、問題はこれからのことなのだと考えを改めようとするが、そんな紫の思考を引き戻すように橙の言葉が飛んできた。

 

 

「紫様、どうかなされたのですか?」

 

「……なんでもないわ。少し昔を思い出していただけよ」

 

 

 紫は、橙の言葉で一時停止を余儀なくされ、少しだけ気分が悪くなった。

 橙は、そんな紫の表情の変化にも気づくことなく、不思議そうに首をかしげながら紫に疑問を投げかける。

 

 

「前々から気になっていたのですけど、紫様の言っている昔って私のいなかった頃のことですよね?」

 

「……そうね」

 

「まだ、話してはくださらないのですか? 藍様も話してくれませんし、私にはまだ話せないことなのでしょうか?」

 

「…………」

 

 

 紫は、橙に半年前にあったことを話すべきなのかどうかについて前々から悩みを抱えていた。

 橙は、少年と紫と藍の間にあった出来事を何一つ知らない。橙が知っているのは、今の状態の3人だけである。

 ただ、紫はこれからも話さずに通せるとは思っていなかった。家族として暮らしていくのならば、いずれ必ず露見する話である。

 紫はちょうどいいと考え、過去を語ろうと気持ちを後ろに向けた。

 

 

「いえ、もうそろそろいいかしらね。このまま黙っているのも良くないでしょうし、なによりもいずれ知ることになるもの」

 

 

 最悪の場合、橙が藍の逆鱗に触れることになるかもしれない。それほどにあの時のトラウマというのだろうか、重たい感情は藍の中に強く刻み込まれている。

 そう―――そしてそれは藍だけではなく、紫の胸にも大きく突き刺さっていた。思い出しただけで、気分が悪くなるほどの思い出が詰まっていた。

 

 

「橙はあの時いなかったわ。いたけどいなかった」

 

「いたけどいなかった?」

 

 

 橙は、紫の言い回しに疑問を持つ。いたけどいなかった。それが―――どういう意味なのか分からなかった。

 

 

「あなたは、あの時のあの子を見ていない……和友の姿を見ていないのよ」

 

 

 紫は、思い出すようにしてゆっくりと口を動かす。少年がもっとも苦しんでいた時期、少年が最も努力していた時期、そして紫と藍がもっとも気落ちしていた時期のことを思い返しながら言葉を口にした。

 

 

「あなたは、和友と一緒にいたわ。和友が橙を呼んできたのか、橙が和友を見つけたのかは分からないけれどね」

 

「……?」

 

 

 橙は、身に覚えが無いことに頭が回らず、不思議そうに頭をかしげる。

 橙は、半年前のある時、いつの間にか少年のもとに現れていた。少年の膝の上で眠っていた。少年に聞いても、「いつの間にか膝の上にいたんだ」ということしか口にしなかった。それ以外のことを言葉にしなかった。

 

 

「和友はあなたをとても可愛がっていた。本当に大事にしていたわ」

 

「私の身に覚えのないところで、そんなことがあったのですか……?」

 

 

 紫は、橙のことを大事にしていた少年を知っている。いつもそばに置いて、動かせない身体で餌をくださいと他の人に懇願する程度には、大事にしていたことを知っていた。

 

 

「紫様……私が藍様の式神になったのは、なぜなのでしょうか? 紫様の言い方だと、私の主人は和友だって言っているように聞こえます」

 

 

 橙という存在は、紫の話を聞いているとどうも少年に仕えていたという雰囲気が感じられる。少年のもとで生活をしていたということが伺える。

 ならば、どうして橙は―――藍に仕えているのだろうか。流れでいえば、少年に仕えるのが自然の流れに感じられた。

 

 

「あの時はそうだったでしょうね。主従というよりは、友達のように見えていたけどね」

 

 

 少年と橙の関係は、主従と言うよりは友達という雰囲気で、互いがあるようにそこにあるだけの形を取っていた。縛られることなく、自由な関係。名前をあえて付けることで、関係性をはっきりさせることができるようになる程度の曖昧なもの。

 名前も―――橙ではなかった。

 

 

「橙の存在が藍へと渡ったのは、貴方が和友のところに住みついて1カ月経ったぐらいかしら……和友が貴方を藍へと送ったのよ。覚えていない?」

 

 

 紫は、当時はなぜ少年が藍へと橙を渡したのか分からなかったが―――今ならば分かる。

 橙は、少年から藍へと送られたプレゼントのようなものだったのである。プレゼント、贈り物。他でもなく、藍のための贈り物だった。

 橙は、身に覚えのない情報に頭を混乱させる。

 

 

「私が送られた……ですか? 覚えがありません……」

 

「やっぱり覚えていないのね。あの時は…………」

 

 

 紫は、次の言葉に詰まり、喉から出てこなくなった。暗い思い出が足を引きずるように喉を開かせようとしない。

 紫は、思い出したくないことを先送りするように話題を変えた。

 

 

「……この話は止めにしましょう。今は弾幕ごっこの方に集中するべきだわ」

 

 

 紫は、結局―――橙に半年前の出来事を話すことができず、意識をそむけるように弾幕ごっこの方へと視線を向ける。

 視線の先には藍と少年の生き生きした姿が映っており、半年前の出来事など全く想像できないような表情が浮かび上がっていた。

 

 

「そう、これで良かったのよ……」

 

「紫様?」

 

 

 紫の瞳は、静かに藍と少年を捉えていた。



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飛ぶということ、少年のとっておき

 紫は、重くなった気持ちを切り替えて少年と藍の弾幕ごっこを見つめていた。

 視界に映る少年は、紙一重のところで藍の弾幕を躱している。すれすれといえばすれすれで、一歩間違えば被弾してしまいそうな距離を丁寧に避けていた。

 

 

「和友は相変わらずギリギリのところを避けていくわね。私がそうしなさいと教えたとはいえ、見ている方が危なっかしくてハラハラするわ」

 

 

 少年の避け方は、まるでスリルを楽しんでいるように見える避け方だった。もっと安全に大きく躱してもいいだろうと思わずにはいられない気持ちにかられるが、残念なことに少年の弾幕に対する避け方は紫が教えたものである。

 紫は、少年の弾幕ごっこの練習に付き合っているため、さまざまな助言を少年に与えてきた。その中の一つが、弾幕をぎりぎりで躱し、無駄な動きを極力省くことである。

 まさに―――目の前の少年は紫の指示に従って動いている状況だった。

 

 

「戦っている時と観戦している時では、大きく違って見えるものね……」

 

 

 紫は、心配という文字を顔に浮かべるように表情を変えながら少年に視線を送る。

 練習で少年と相対する時とは見え方が全然違う。また違った視点で少年が見えている。普段少年と戦う側で少年を見ていた紫は、観戦する側になって心がざわつくのを感じていた。

 どう表現するのがよいだろうか。

 そう―――むしょうに手を出したくなるのである。守ってあげたくなるというのだろうか、保護欲が湧いてしまう。助けに出て行きたくなる。

 

 

「こうして傍観している私の立場にいるのが藍だったら、すぐにでも飛び出していきそう」

 

 

 紫は、自分の立場に藍がいたとしたら一瞬にして駆け出していく姿が想像できた。

 その想像はきっと間違っていない。藍が少年の避け方を間近で見ていたのならば、助けに出るか、もっと近くへと寄ることだろう。引き寄せられるように、少年のもとへと足を向けるだろう。

 守りたいという欲が、助けたいという気持ちが、失いたくないという想いが、行動を加速させる。その気持ちがどこから来ているのかも分からず、心が命ずるままに足を進ませる。

 藍は、少年を見ているときの心の揺らぎがどこから来るものなのか知らない。どこから、どんな想いがあって、どんな理由があって、そんなことを思うのか知らない。自覚していないから―――止まれない。

 だったら、知っていれば―――止まることができるだろうか?

 いいや、どうしたって動くに決まっている。

 藍は、あくまで藍だ。

 

 

「本当に難儀な子……」

 

 

 紫は、複雑な表情を浮かべ、はやる気持ちを抑える。少年を守りたいと思う気持ち、少年を助けてあげたいという気持ち―――それがどこから来ているのか。心のどこから湧いてくるのか、どこが源泉なのか。紫は、気持ちが湧きあがる理由を知っている。

 だから―――あえて動こうとはしなかった。動き出そうとしてしまう心の傾きを自分の力で制御していた。

 

 

「和友は、別に何も悪いことをしているわけではないのに……あの子は、何もしていないのに。ただ、必死に生きようとしているだけなのに。どうして、和友が……」

 

 

 少年を守ろうという気持ちが出てくるのは、少年が原因ではない。少年がこれまで何かをしたからこうなったという要因を持っているわけではなかった。

 紫は、こんな気持ちになるのは少年の責任ではないとはっきり分かっていたけれども、他に責任の置き所が見えないことに苛立ちを感じていた。

 少年のそれは、自然災害と同じである。誰かが引き起こしたわけでも、何かが故意に生み出したわけでもない。

 ただ、そうなってしまっただけ、時間が進むのと同じように事象としてそこにあるだけなのだ。

 台風ができた原因を誰の責任にするのだろうか。地震が起きた原因を誰のせいにするのだろうか。誰のせいでもない。あえていうのなら神という存在を呪うのだろうか、それとも地球に責任を押し付けるのだろうか。きっとそんなことを考える人間は少数派で、仕方がないと納得する人間が大部分になることだろう。

 この気持ちは―――そういった次元のものなのだ。納得する、飲み込むほかない。喉につっかえようが、飲み込むことに苦痛を伴おうが、目の前にある限り飲み込まなければならない。飲み込まなければ、前に進めなくなる、そんな類のものだった。

 

 

「…………」

 

「どうしてあんな動きをするのかな……あんなの危ないに決まっているのに」

 

 

 紫は黙り込むように口を閉ざして遠くを見つめ、橙は紫とは違う意味で少年に視線を集中させていた。

 

 

「紫様、和友はどうしてあんなにギリギリで避けているのですか?」

 

 

 少年の避け方をまじまじと見る機会は、少年と一緒に弾幕ごっこの練習をしていないためほとんどなく、これが初めてだった。

 紫は、藍から邪魔が入るのを避けるために藍と橙の弾幕ごっこの練習の時間にかぶせるように少年と弾幕ごっこの練習をしているので、橙は少年の弾幕に対する躱し方を見る機会に恵まれないのである。

 橙が少年と一緒に練習したのは、今までに3度だけ。それも、そのどちらもがほぼ同時に落とされていたので、少年の避け方をじっくり見つめることができたのは今回が初めてだった。

 

 

「大きく避けた方が被弾の心配も無くて、安心して動けると思うのですけど……あんなに小さく避けていたら、危ないと思います」

 

「和友はあの避け方しかできないのよ。霊力の総量が少ないから節約するしかないの。大きく動きまわれば、力を消費することになるわ」

 

「和友の霊力は、そんなに少ないのですか?」

 

 

 橙は少年の霊力がそこまで少ないと思っていなかったのか、驚いた表情を浮かべた。

 紫は、驚愕するような橙の顔を見てがっくりとうなだれる。

 

 

「橙、貴方はもう少し、力の波動に敏感になりなさい」

 

「えっ、でも和友は、毎日のように練習をしていますよ? 霊力を増やす練習をこれまでずっと欠かさずしています」

 

 

 橙は、毎日のように霊力を増やす練習をしている少年を目撃していた。一生懸命に努力している姿を知っていた。毎日毎日飽きもせず反復練習を行い、練習後には疲れて横になってしまうぐらいに疲労している姿を見かけている。それほどに努力しているのに、霊力が足りないとはどういうことなのだろうか。

 橙は、毎日努力を欠かさない少年の霊力が、空中を大きく動けないというほどに少ないと思っていなかった。

 

 

「あれだけ練習しているのに、そんなに霊力が少ないのですか?」

 

「全然足りないわ。和友には‘才能’がないもの」

 

 

 紫は、少年の霊力は圧倒的に少ないと即答した。そして、あまつさえ才能がないとまで言い切った。

 

 

「橙、これだけは覚えておきなさい。努力で補えるレベルも、才能に依存する。才能が無ければ、伸びるものも伸びないわ。空を飛ぶことも、霊力を使うことも、素養がなくてはできないことなのよ」

 

 

 霊力の総量は、そう簡単に増加するものではない。増加の幅も初期の量も才能に依存する。どれだけ努力しても霊力が増えない者もいるし、少しの努力で大きく増加する者もいる。

 少年は、どちらかというと前者の人間である。全く増えないということはないのだが、そこまで大きくなるような兆しはみられていない。

 爆発的に上がる可能性があるとすれば、それは能力が発動した時ぐらいだろうか。境界を曖昧にする能力が限界を突破させるような役割を成せば、あるいは才能の壁を曖昧にすることができれば、というところだろう。

 

 

「和友の才能は、それこそ博麗の巫女になった霊夢に比べれば、あってないようなもの……」

 

 

 少年の霊力は、微々たるものでしかない。博麗の巫女と比べるなんておこがましいと怒られるレベルである。

 少年の霊力の総量は、現時点で人里の人間の平均より少ない。人里の人間が退魔の一族の末裔だということを考慮したとしても、妖怪とやりあえるレベルとは到底言えない量である。

 

 

「けれども、弾幕ごっこは霊力の量で試合が決まる遊びではないわ。少ないなら少ないなりのやり方がある」

 

 

 そんなちっぽけな霊力の量でも、やりようによっては上手く立ち回ることができる。それが現在の少年のスタイルである。

 

 

「スペルカードの弾幕だって、毎日霊力を溜めこんで使っているのよ。毎日毎日、ちょっとずつ霊力を込めているの」

 

「そうだったんですか……和友の霊力はそんなに」

 

 

 橙は、努力をしても恵まれない状況の少年を憂い、細く息を吐いた。

 スペルカードルールは、まさしく霊力の少ない少年にとって僥倖の決闘ルールである。スペルカードは、あらかじめ霊力を込めておくことができる。時間をかければ霊力をどんどんつぎ込む事の出来るお札は、少年にとって非常に相性が良かった。時間をかけさえすれば、周りの人間と同じだけの霊力で戦うことができるのだから。

 

 

「それでも……」

 

「ええ、本当によく頑張っていると思うわ。気持ち悪いぐらいに素直で、愚直で、一生懸命な子。だから、手を貸してあげたくなる。そう、思いたいわね」

 

 

 少年は、藍の攻撃をギリギリのところを躱して弾幕を展開している。藍も少年の攻撃に応えるように、流れるように攻撃を避けている。

 藍は、笑顔を浮かべながら少年と闘っていた。

 

 

「和友は、地面を走るのは上手いのだから後ちょっとだ!」

 

「何が後ちょっとなんだよ!」

 

「飛ぶことは、地上を滑走するのと大した違いはない。そこまで動けているのなら飛ぶことなんて簡単にできるはずだ!!」

 

「言ってくれるね!」

 

 

 少年は、余裕のない顔で必死に躱しながら大声で藍へと叫ぶ。

 少年は、藍の弾を避けるとき―――地上を素早く移動するときは、両足に霊力をまとって移動している。霊力によって強化された足で地面を蹴ることで回避行動をとっていた。

 右足で地面を蹴るときには右足に霊力を込め、左足で地面を蹴るときには左足に霊力を込めている。交互に霊力を込め、効率的に動かしている。

 

 

「藍がああ言っても、和友は今後も決して飛ぼうとはしないでしょうね」

 

「どうしてですか?」

 

「橙は分かっていると思うけど、霊力―――それ自体はただのエネルギーの塊でしかない。霊力は、役割を与えることで意味を成すのよ」

 

「…………初めて知りました」

 

「…………」

 

 

 紫は、橙の言葉を聞かなかったことにした。

 空を飛ぶことは、霊力の運用を正確に行い、常に方向性を持たせることによって成り立っている。霊力、それ自体はただのエネルギーの塊でしかなく、何かを行うことができるわけでも、何かが起こるわけでもない。

 霊力というのは、いうなれば発電機から出てきた電力のようなものである。

 電力は、何か負荷となる物―――家電製品などに送られることによってはじめて光や音、熱となって形を成す。電気は、役割を与えられることによって初めて意味を成すのである。霊力は、電力とほぼ同じような運用の仕方をする。

 飛ぶということを霊力のエネルギーによって成しえようとするならば、霊力というエネルギーの塊に対して飛ぶという概念を与える必要がある。

 概念を与える行為は、少年が地上を滑走しているなかで、時折加速する際にも行われている。少年の霊力は、身体能力の強化という概念を与えられて、意味を成しているのだ。

 だからこそ―――そこまでできているのだからこそ、藍は少年が空を飛ぶことも別に難しくないと考えていた。

 だが、それこそが大きな間違いだった。

 

 

「霊力に対して空を飛ぶという役割を与えることと、身体能力を上げる役割を持たせることは、やっていることは一緒でも、中身が全く違う。飛ぶということは、常に役割を変える必要があるもの」

 

 

 空を飛ぶという行為は、常に意味を与え続ける必要がある。出力を変え、空を飛び回り、運動を行う。右方向、左方向、前方方向、後方方向、上方向、下方向、さらには出力の大きさ(加速力)の組み合わせのある中で役割を持たせなければならない。

 空を飛ぶには、霊力を上手く運用する必要があるのである。

 

 

「一方方向に飛ぶのがやっとの和友は、絶対に空を飛ばないわ」

 

 

 下手に使ってしまえば―――当然ながらロスが生じる。役割が役割として消費されず、無駄にエネルギーを消費し、思ってもみない結果を生み出す。そんなことになれば、霊力はあっという間に枯渇してしまう。

 霊力の総量が膨大にあるのならば、ロスを考える必要はないかもしれないが、少年の霊力の総量は非常に少ない。そのため、少年にとって弾幕ごっこの際に空を飛ぶという行為は、そのまま自殺行為と等価になるのだ。そんなことを少年がするはずがなかった。

 空を飛ぶことに比べれば、地上を滑走することは霊力の使用量が格段に減る。常備霊力を放出する必要がなく、役割を切り替える必要もない。その省エネ性能こそが霊力の少ない少年が上手く戦えている要因だった。

 

 

「はぁ……それにしても……」

 

 

 紫は、ため息をつくと不安の混じった言葉を吐きだした。

 

 

「弾幕に接触すれば酷い怪我を負いかねないのに……無謀というか、なんというか。和友の霊力を考えれば、仕方ないといえば、仕方がないことなのだけど……」

 

 

 生身の体に力の塊である弾幕がぶつかればただでは済まない。

 少年は、あくまでも人間だ。身体強化も危うい初心者である。おそらく少年の体にぶつかりでもすれば、骨が折れるのは間違いない。最悪の場合、当たり所が悪ければ死んでしまうことだってあるだろう。

 そんな命が飛んでしまうような状況で―――軽々しくぎりぎりで躱している。

 

 

「それを簡単そうにやってのける和友は、どこか壊れているわ」

 

 

 紫は、よく知っている、少年が今の躱し方になった経緯をよく理解している。

 しかし、必要になったからといってそれを簡単に実行できる少年も大概である。死んでしまうかもしれないほどの危険があるとしてもギリギリで避けるという回避行動をとるあたり、余程の自信があるのか、当たってもいいという気持ちでいるのか、どんな気持ちを抱えながらあそこで戦っているのだろうか。

 紫には―――少年の思考回路が分からなかった。

 

 

「和友は、弾幕ごっこをできるだけの霊力を持っていない。霊力を攻撃するために回すのであれば、防御に霊力を回している余裕はないわ。それぐらいに和友の霊力は少ない」

 

 

 少年は、基本的に生身の力だけで藍の弾幕を回避し、回避できなさそうな場合においてだけ霊力を溜めこんで避けている。そして、回避行動中に通常弾幕を張り、飛行する藍に向かって攻撃を放っていた。

 

 

「現に避けるのだって、ほとんど自力で行っている。足を蹴るときだけ霊力を込めているの。まさに最適化された動きだわ。まぁ、私がそうしなさいと教えたのだけどね」

 

「私も、あんなふうに動けたらなぁ……」

 

「橙はこれから妖力がどんどん増えていくでしょうし、真似するのはどうかと思うわよ? 少なくとも私はお勧めしないわ」

 

 

 橙は効率化された少年の動きを見て羨ましそうに呟いたが、紫はそれを窘めた。

 

 

「橙には橙のやり方がある。和友には和友のやり方がある。弱いものが強いものに成れないのと違って、強いものが弱いものに成ることはできてしまう。下手に手を出せば、本当に弱くなってしまうわよ?」

 

 

 少年の動きは、紫が仕込んだものである。少年の弾幕ごっこの仕方というのか、スペルカードにおける戦法は―――あくまで少年に合わせたものだ。

 だからこそ、橙が少年と同じ避け方をするのが良いのかと言われると首をかしげざるをおえなかった。

 

 

「大きく動いている方が安定する。動きやすい位置にいた方が避けるのは比較的楽でしょうしね」

 

「そうなのかなぁ」

 

 

 橙は、疑問符を浮かべながら二人の戦いを見つめる。力をある程度持っているのであれば、危険を冒してまで少年の避け方を真似する必要は全くない。

 むしろ、逆に危険に陥る可能性が上昇する。

 省エネ運転は、身を危険にさらすことで成り立っている。少年の避け方は、力があるのならばもったいないと評価を下してしまうだろう。F1カーで公道を走るぐらいもったいない。自分の力に自分で制限速度を設けているようなものである。

 

 

「だったら、どうして私だけ……」

 

 

 橙は、今の弾幕に衝突して落ちて眺めているだけの自分と、今も戦いを続けている少年との間にどんな違いがあるのか―――分かっていなかった。

 そして、紫と橙の会話の中で取り上げられていた唯一の戦法をとっている肝心の少年はというと―――苦戦を強いられていた。

 

 

「はぁ、はぁ……やっぱり当たらないか。頑張って何とかなるってレベルじゃないな」

 

 

 少年は、藍に向かって何度も霊力弾を飛ばしている。

 しかし、藍は少年から飛んでくる弾幕をものともせず、空中で縦横無尽に優雅に躱していた。

 

 

「これじゃ、どうにもならない。紫の言っていた通りだ」

 

 

 少年は、藍の余裕の様子に紫から言われた言葉を思い出した。病気で苦しんでいた時にかけられた言葉が脳内によみがえってきた。

 紫に言われたのは約半年前のこと。半年前に少年が死にそうになった時、あれも少年が頑張ればどうにかなるような問題ではなかった。

 

 

「無理をして何とかなるのは、なんとかなる程度のものだけよ。世の中、なんとかならないことは山ほどあるわ。貴方は、もうちょっと無理というものを判断できるようになりなさい」

 

「返す言葉も無かったな……」

 

 

 紫の言うとおりだった。無理をすればなんとかなる問題は、所詮その程度の問題なのだ。そんなものは、もともとなんとかできる程度の問題なのである。

 そして少年が今対峙している問題も―――無理をすればなんとかなるような問題ではなかった。藍と少年の間にある力量差は、無理をすれば埋まるというものではない。圧倒的な、絶対的な断崖絶壁が存在している。

 少年は、今の状況と半年前の状況を重ねていた。

 

 

「一定の速度で走って来る相手に対して、ずっと走り続ける。コースアウトは許されない。疲労して、足を止めれば、その瞬間に捕まる。ただの我慢レース……」

 

 

 半年前の出来事がなんとかならなかったのは、正直な話をしてしまえば、少年がその問題に対してどうにかしようとあまり真剣に思っていなかったからかもしれない。

 けれども、それはどうにもならないと分かっていたから動かなかっただけである。そう―――どうにもならないと分かっていたから。何とかならない問題だと判断したからだった。

 

 

「ただただ、耐えるだけの耐久レース……」

 

 

 今の藍と戦っている状態も半年前の死にかけた状態と同じようなもので、ここで少年が単純に頑張ったからといって、藍に対して霊力弾が当たるというわけではない。

 そんな都合の良いことは―――決して起こらない。弾幕ごっこという遊びに都合などつきはしない。

 けれども少年は、無理とわかっていることに対して諦めるということをするのが非常に嫌いな人間だった。

 唯一諦めたのは、今も昔も一度だけ。死にそうになった半年前だけだった。

 

 

「でも、誰から何と言われようが、一生懸命やったから諦めるなんてことができるほど、できた人間じゃないんだよね」

 

 

 一生懸命やったからといって負けたら悔しいものは悔しい。辛いものは、辛い。少年の中には、勝ちたいという確固たる気持ちがあった。

 負けず嫌いというものが―――能力に対しても努力を続ける力の源になっている。

 勝負に勝ちたいという想いが―――少年を支えている。

 少年の負けず嫌いには、限度という‘境界線’が無かった。

 

 

「さぁ、笑おうじゃないか。僕が勝ちたいと望んでいる戦いなんだから。何のために戦うのか―――当然、勝つためだ!」

 

 

 橙は、少年が笑顔で戦っているのを見て思わず心が躍るのを感じた。

 少年は、圧倒的劣勢の中で楽しそうにしている。それを見ているだけで、橙の心に少年ともう一度一緒に戦いたいという気持ちが湧き上がってきた。

 

 

「あ、あの、紫様っ」

 

「何かしら?」

 

「明らかに劣勢なのに和友の表情が楽しそうに見えます。私の気のせいでしょうか?」

 

「気のせいじゃないわ。あの子は、劣勢の状況を楽しんでいる。勝ちたいという気持ちに飲みこまれているのよ」

 

 

 湧きあがる楽しさに表情を崩している。勝ちたいという欲が少年の中を支配している。

 少年は、少しだけ歪んだ表情で藍にぶつかっていた。

 

 

「うふふ」

 

「紫様?」

 

 

 紫は、僅かに口角を上げて薄く笑った。

 橙は、紫の雰囲気が変化した理由が分からなかった。

 

 

「まだ甘いか」

 

「度々ひやっとする場面が出てきたな、和友の攻撃の精度が上がってきているのか?」

 

 

 少年と対峙している藍は、少年と同様に表情を崩していた。相変わらず少年からの攻撃をかわし続けており、余裕も見られる。余裕は変わらないが、表情には余裕ではなく喜びが映りこんでいた。

 少年の攻撃は、徐々に精度を上げている。徐々に藍を捉えようとしており、藍の体すれすれを飛来する弾の数は確実に増えていた。

 

 

「目で捉えてから撃ったんじゃ当たらない。先を予測するんだ。藍の軌道を予測して撃つんだ」

 

 

 少年は、息を整えるようにして一度大きく息を吐き、藍の動きを目で追う。少年の目が勢いよく藍の姿を追いかける。藍は、目でやっと追い切れるといったほどに速いスピードで空中を飛びまわっている。

 少年は、決して逃さないといわんばかりに、藍から目を離さない。藍からの攻撃をかわしながらも、攻撃の手を止めない。ほぼ全ての霊力を避けるためではなく、攻撃に回していた。

 

 

「これだけ攻撃に回すと、霊力の減りが笑っちゃうぐらいに早いね。上手く霊力を取り出せなくなっているのが手に取るように分かる。そろそろ限界かな……」

 

 

 無理矢理な攻撃は、少年に疲労をもたらす。

 少年は、動かなくなってきている体に開き直るような顔になった。

 もう、さすがにきついか。ここから勝つ可能性は、勝てる兆しは。少年の頭が精いっぱいの考えを巡らせる。

 少年は、思考を巡らしている最中に目撃した藍の動作に目を見開いた。

 

 

「ま、まさか。は、ははっ!」

 

 

 藍は、懐に手を入れて何かを出そうとしている。

 弾幕ごっこにおいて何かを出そうとする動作をする必要など―――一つしかない。

 スペルカードを取り出すためである。

 

 

「勝負をつけに来たんだね。さぁ来い! 最後の勝負といこうじゃないか!!」

 

「その意気やよし! これで決めさせてもらうぞ、和友!!」

 

 

 少年は、勝負を決めに来ている藍に向けて精いっぱいの笑顔を向ける。意を決して、最終ステージに上がる準備をする。

 藍は、少年の予測通り懐からスペルカードを取り出した。

 負けてたまるか。

 出し切っていないものが少年にもある。

 まだ、出せる力がある。

 少年は、藍がスペルカードを取り出すのを確認すると藍の動きに追い付くようにしてスペルカードを取り出す。そして、威風堂々とスペルカードをかざした。

 

 

「最後いくぞっ! スペルカード宣言 式輝(しき)狐狸妖怪レーザー(こりようかいれーざー)」」

 

「こっちもだっ!! スペルカード宣言 境符「夢と現の境界線(ゆめとうつつのきょうかいせん)」」

 

 

 ―――スペルカードが連鎖反応するように宣言される。

 これで藍は3枚目のスペルカードを使用したことになる。紫が制定したルールでは、これで最後のスペルカードの宣言である。

 藍の宣言した式輝(しき)狐狸妖怪レーザー(こりようかいれーざー)」は、弾幕が直線状に飛んでくると、その線から左右にレーザーが飛んでいくというもので、次の弾幕が張られるまでレーザーが残るのがいやらしいスペルである。

 対して少年のスペル境符「夢と現の境界線(ゆめとうつつのきょうかいせん)」は、少年を中心として弾幕が円を描き、その一部が無作為に飛んでいき、少年の張った弾幕が消えたり出たりを繰り返すというスペルだった。

 

 

「弾幕張るのも随分と上手くなったなぁっ、和友!!」

 

「そんなことを言う余裕があるってことは、まだまだってことなんだよっ!!」

 

 

 藍も少年もお互いに意識が上がっているためか声をあげて吠える。少年が非常に負けず嫌いな性格であることは、もう誰にでも分かっていることだが、和友と張り合っている藍の気持も同様に上がり続けていた。

 しかし、戦況は両者共に同じような様子を見せることはなかった。

 藍は、少年のスペルカードを苦も無く躱していく。

 対照的に少年は、苦しそうに必死の形相で藍のスペルカードを避けていた。

 

 

「二人とも気持ちがあがっているからなのか分からないけど、いつもより動けているみたいね。今日はどうやらどちらも被弾せずに終わりそうかしら?」

 

「す、すごいです……」

 

 

 紫は、なんとなしにそんなことを呟いた。橙も藍と少年の動きに見惚れるように視線を注いでいる。

 気持ちが昂れば弾幕が避けられる理由は特にはない。感情を力にする能力を持っているわけではないので、あくまでアドレナリンが大量に出ているために集中力が上がっているのだろうと考えられた。

 

 

「はぁっ、はぁっ……まだ終わってない。まだ終わっていない、まだ終わらない」

 

「和友! 本当に避けるのが上手くなったな!」

 

「はぁ、げほっごほっ! ギリギリだよ。息だって上がって、まともに呼吸できていない。こんなの、二度目は無いさ」

 

 

 少年は、息を切らしながらブツブツと呟き、藍のスペルカードの弾幕を躱していく。

 少年の集中力は、最高潮に高まっていた。目がぎらぎらと光っている。楽しそうに、苦しそうに、活きている。

 

 

「二度目はないだって? その言葉は嘘になるだろう。和友は、見事に私のスペルカードを乗り切って見せたのだからな」

 

 

 少年は咳き込み、ふらふらになりながらも藍のスペルカードを乗り切った。

 藍の発動したスペルカードは、時間経過によって終了を迎え、通常弾幕に切り替わる。少年のスペルカードもいつの間にかその効果を失っていた。

 

 

「さぁ来い、和友! まさかこれで終わりなんて思っているわけじゃないだろ! 私を落としてみせろ!」

 

「もちろん分かっているさ! これで終わったなんてこれっぽっちも思っちゃいないよ!」

 

 

 本来ならば―――スペルカードを3枚攻略された時点で勝負は決している。

 しかし、二人の勝負はまだ終わらない。なにせ、少年のスペルカードも通常弾幕も藍には一切当たっていないのだから。

 ただ、藍の方がスペルカードを先に使いきっただけのこと。それでは少年の勝ちとは到底言えない。これは―――弾幕ごっこといえども練習なのである。

 

 

「最後に僕のとっておきを出してあげるよっ!」

 

 

 少年は、最後の力を振り絞るように大声で高らかに宣言する。

 最後に残った切り札、3枚目のスペルカードを切った。

 

 

「スペルカード宣言 罔両(もうりょう)「八雲紫の神隠し―連れ去られし少年-」」

 

「なんだって!?」

 

「なんですって!?」

 

「えっどうしたの? 何が起こったの!?」

 

 

 少年は、最後となる3枚目のスペルカードを宣言した。

 藍と紫は、ほぼ同時に驚きの声を上げる。

 藍は、少年の発動したスペルカードに聞き覚えがあった。同様に紫も、見知ったスペルカードの発動に思わず腰を上げた。

 

 

「僕を捕まえてごらん。藍に僕が見つけられたらの話だけどね」

 

 

 少年は、楽しそうな笑顔を浮かべたままスペルカードを宣言し、空中に体を浮かべるとレーザーを十字に切る。そして―――球形の弾幕を飛ばすと姿を消した。

 八雲紫の神隠しは、名前の通り紫のスペルカードの名前である。きっと紫のものを模倣したのだろう。少年のスペルカードは紫のスペルカードに酷く酷似していた。名前も性質もよく似通っていた。

 紫は、少年の予想外のサプライズに嬉しそうにする。

 

 

「あの子は、いい意味で期待を裏切ってくれるわね。いつの間に使えるようになったのかしら?」

 

 

 少年は、現れては消え、現れては消えを繰り返し、弾幕とレーザーを残す。藍を追尾するように現れては消え、現れては消えを繰り返している。

 少年は、この時ばかりは今までの省エネ運転をしておらず、持ち合わせている霊力の全てを振りきり飛んでいた。

 とっくに限界を超えているだろうに、どこからそんな力が出ているのだろうか。スペルカードに込められるのはあくまで弾幕のみ。飛ぶための霊力は自分で賄う必要がある。能力でも使っているのだろうか。

 

 

「ふふっ、和友は本当に教えがいのあるというか、可愛げのある子ね」

 

 

 紫にとってそんなことはどうでもよかった。紫にとっては―――少年が自分の真似をしていること、真似できるだけ成長していることが嬉しくてたまらなかった。

 紫は、少年の成長に心を躍らせる。少年が自分のスペルを真似できるだけの技量をもったこと、さらに少年と最初に相対した時に使っていた、境界操作による姿を消すということを少年がやってのけたことに対して称賛の声を上げた。

 

 

「それに、境界を曖昧にして自身の姿を見えなくするところまでやってのけるなんて、いつの間に練習したのかしら? うふふっ、しっかりと能力の練習をやっていたようね!」

 

「紫様のスペルの真似のようだが、紫様の弾幕の密度に比べればこの程度避けるのは造作もない!!」

 

 

 藍は、驚きに打ち震える心を制御し、少年のスペルカードが紫の劣化版であると確信して弾幕を躱し始める。実際、少年のスペルカードの弾幕は、紫のスペルカードよりも薄いのは確かだった。

 

 

「これは何かが……違うのかしら?」

 

 

 紫は、少年のスペルカードに違和感を覚えた。少年がとっておきと言ったスペルがこの程度のはずがないと思わずにはいられなかった。心に沸き立つざわつきが、何かがあることを物語っている。

 紫は―――きっと何かあると思い、少年の作り出した弾幕を、目を凝らして見つめる。

 

 

「えっ!?」

 

 

 紫は、自分の使っているスペルカードだけあって違和感の原因に真っ先に気がついた。

 一定時間が経過すると、少年のスペルカードの雰囲気が変わり始めたのである。

 具体的には、放たれている弾幕に変化があった。レーザーは震えるように左右に振れて、放たれる弾幕も同様にぶれながら飛んでいる。

 紫は、初めて見るスペルカードの変化を見てできるだけ気をつけるようにと藍に向けて言葉を放った。

 

 

「藍、気をつけなさい! これは私のスペルとは違うわっ! 油断していると落とされるわよ!!」

 

「紫様、分かっています」

 

 

 少年が何かをしでかした場合、心配するべきは少年ではなく、相手側である。

 少年は、予想外の結果を導き出すことが多い。結果として現実に反映されるのは、自身に対してではなく相手であることがほとんどだ。

 少年は他人を振り回す。まるで台風のように影響を及ぼす。当の本人は知らんぷりで、周りを巻き込んでいく。

 少年には、紫と藍が作った決まり事があるのだからよっぽどのことが無い限り命が危険にさらされることが無いため、余計に藍の心配をするべきだった。

 

 

「レーザーの境界線が揺らいでいる。それに霊力弾の境界も揺らぎ始めている……だが、大きく避ければ問題はないはずだ」

 

 

 藍は、大きく避けることで少年のスペルカードに対処する。

 先程も言ったように、少年の弾幕は紫の弾幕に比べれば遥かに密度が薄い。弾幕がぶれて、範囲が広くなったとしても避ける分にはそれほど辛くはなかった。

 

 

「和友の飛行速度は、私よりも圧倒的に遅い。見てからでも十分に引き離せる!」

 

 

 それに少年の姿がいくら見えないからといって、少年が藍の速度について来られるわけではないのだ。

 藍は、少年との速度の差を生かして上手く弾幕を躱していった。

 

 

「これは、引き分けだな」

 

 

 藍は―――間違いなくそう思った。結果を決めつけにかかった。

 少年は、結果を決めつけるような藍の台詞に苛立つ。戦っている相手に対して、侮辱とも取れる言葉が普段温和な少年の心をざわつかせた。

 

 

「結果を決めつけんな。結果は、出るまで分からないんだよ」

 

 

 少年は―――昔からそうだった。諦めろという言葉が嫌いで、結果を決めつけるような言葉が嫌いだった。

 少年の境遇を考えれば―――仕方のないことと言えるだろう。無理を押し通して今まで生きてきた少年にとって、無理だと結果を決めつけられるのは―――生きることを諦めろと言われているに等しいのだから。

 

 

「僕がここにいるのに、勝手に勝負の結果を決めつけるな」

 

 

 消えている少年の声は、誰にも聞こえない。声までもが行方を失っている。

 けれども―――少年の心は確かにここにあった。少年の心は、激しく燃え上がっている。藍の勝手な物言いに猛っている。

 少年の攻撃は―――ここで終わらない。

 

 

「そして、少年は連れ去られた……」

 

「「和友?」」

 

 

 少年の言葉がどこからか聞こえてきた。音のした方向は分からない。ただ、思いの込められた言葉が頭の中に流れ込んだ。まるで頭の中で喋られたような感覚だった。

 空間には、少年の弾幕が消えて何一つ存在しなくなる。もともとあったものは、最初から無かったかのように何一つ無くなっていた。

 

 

「終わった……のか?」

 

「……どういうことなのかしら?」

 

「消えた……?」

 

 

 藍と紫と橙の3人は、3者同様に疑問を口にする。

 少年の姿は、どこにも見当たらなかった。

 



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消えた少年、思い出す過去

 藍と紫と橙の3人は、3者同様に疑問を口にする。目の前に広がる奇怪な現状に疑問しか湧いてこなかった。

 少年の姿は見受けられず、弾幕の存在も確認できない。にもかかわらず、スペルカードはいまだ力を失っておらず、力の波動は空間の中に留まっている。

 だからこそ―――意味が分からないというのが3人の見解だった。

 なぜ、勝負がまだ終わっていないのにもかかわらず少年は現れないのか。

 なぜ、スペルカードの効果が終わっていないにもかかわらず弾幕が一つも出ないのか。

 分からないことばかりだった。

 

 3人は、湧き上がり続ける疑問を抱えながら少年がいなくなった空間で視界を固定する。しかし、疑問の原因となっている少年は、待てど待てども一向に現れない。まるでこの世から消えてしまったかのように、姿が見当たらないだけでなく何一つ反応が見受けられなかった。

 

 

「和友、どこにいったのだ?」

 

 

 藍は、待つという行為をし続けることに耐えきれなくなり、消えていなくなった少年を探し始める。声を出して少年の反応を探す。

 だが、いくら探しても少年は見つからない。空間には、見渡せるだけの景色しか存在せず、影も形もない綺麗な景色だけがそこにあった。

 

 

「和友っ……消えて……」

 

 

 藍は、少年か消えてなくなった景色を見て突如として不安に襲われた。

 少年が消えた状況は、頭の中に無理矢理にしまい込んでいる思い出を引き出してくる。鍵をかけていたはずの引き出しを思いっきり力技でこじ開けてくる。

 目の前の光景が―――藍の心の中で頑丈に鍵をかけている金庫を解き放ちにかかっていた。

 

 

「っ……」

 

 

 黒い思い出が、僅かに開き始めた扉から覗いている。

 藍の心の中に産まれた不安は加速度的に増大し、藍の瞳は怯えた暗い色に染まっていく。歯を食いしばり、漏れ出そうとする想いを内に留めるも、徐々に我慢ができなくなってくる。

 せき止めている防波堤が崩れるのも時間の問題だった。

 

 

「和友っ!! どこにいるんだっ!?」

 

 

 藍は、少年を失う恐怖が頭の中を支配し始めるといてもたってもいられず、瞳に涙をためて必死に声を振り絞り、悲痛な叫びをあげた。

 しかし、藍の声は空気中を響き渡り、消えていくだけだった。

 

 

「やっぱり、こうなるのよね」

 

「藍様……」

 

 

 紫と橙は、不安をそのまま叫ぶ藍を複雑な表情で見つめていた。

 紫は、少年に対して相当依存している藍に対する不信から。

 橙は、予想以上に動揺している藍の様子から。

 

 紫は、これまでの暮らしの中で藍の少年に対する薬物依存ともいえる依存の程度を把握している。

 だが、それはあくまでも想像の中から外に出ていなかった。藍の依存の程度は、普段の振る舞い方から予測できる。離れられない、不安になる、心配する、依存のレベルを測ることはそれほど難しいことではない。

 しかし、実際の真値を知ることができるのは、それが失われた瞬間である。今のように少年がいなくなったとき、少年が失われた時―――行動に示されることで予想は真実に接近した。これは、憶測でも予測でもなく、事実なのだと理解することとなった。

 橙は、紫に言われていた依存に関わることについて目の前で見せつけられ、動揺を隠せなかった。あれ程に不安になるのか。あれ程に取り乱すのか。いつもの藍はどこにいったのか。橙は、頭の中でぐるぐると疑問をたらいまわしにする。

 藍は、若干引いている二人をよそに少年を探し、声を発し続けていた。

 

 

「和友! 和友っ!!」

 

「和友は……本当に消えたのかしら?」

 

 

 紫は、取り乱す藍を眺めながら疑問を口にした。藍が不安で押しつぶされそうになりながら叫んでいるのと同時に、紫もわずかな不安に駆られ始めていた。

 

 

「和友の存在が感じられない……」

 

 

 紫は、不安を抱えながら視線を上にあげて必死に少年の気配を探る。

 だが、いつもなら感じ取ることができる雰囲気や空気というのだろうか、そういうものは全く感じられなかった。

 

 

「まさか……また同じことが起こったというの?」

 

 

 少年は、以前にも今と似たようなことになりかけたことがあった。今にも消えそうで、まっさらになって何もかも失いそうになっていた時期があった。

 

 

「まだ半年しか経っていないというのに……何もしていないのに、そんなことあるわけが……」

 

 

 紫は、半年前の少年の姿を思い出し、不安を増大させる。不安をいくら打ち消そうとしても、頭の中にはどうしても最悪の状況が想定される。全てを消し去って、全てを曖昧にして、全てを持っていく光景がフラッシュバックしてくる。

 少年は、二人がいくら不安に襲われていても決して現れない。二人の不安をさらに増長させるように、一向に現れる気配を見せなかった。

 

 

「嫌だ、嫌だっ! もう、あんな想いはしたくないっ! またあの時みたいに、和友が擦り切れてしまったら、私は……」

 

 

 藍は、少年を失うことの不安による心の揺らぎに耐えきれず、顔を両手で隠しながら涙を流す。心が震えるのを抑えきれず、外へと吐き出し始めた。

 

 

「もう、耐えられないっ……」

 

 

 藍の心の中の少年の存在は余りにも大きい。少年の存在は藍の心のかなり深いところまで入り込んでいる。

 近しい者など一人もいなかった藍にとって、少年は愚痴を言えるような、楽しかったことを話せるような、家族としての存在を担っていた。血が繋がっていなかったとしても、種族が違っていたとしても、そんなものは関係ない。日々起こった出来事を話し、笑い、喜び、悲しみを共有できる普通の存在―――少年の存在は藍の中で余りに大きかった。

 藍がこれほどまでに心を揺さぶられているのは―――藍の心における少年の圧倒的支えと絶対的な依存が招いている結果である。

 

 

「和友、私を置いていかないでくれ……逝くのなら、私も一緒に連れて行ってくれ……」

 

「…………」

 

 

 紫は、崩れ落ちる藍を見て押し黙った。

 藍の気持ちは、痛いほど理解できる。少年を失いそうになって、それの後を追いたいという気持ちは分からなくもなかった。

 藍は、少年が幻想郷に来てから何をするにも少年と一緒に行動していた。それこそ、お風呂まで一緒に入ろうとしていたレベルだった。一緒にお風呂に入るということは、少年が明らかに嫌がったためになされることはなかったが、そのぐらいにはべったりの状態だった。

 藍は、今まで見たことのない顔で、本当に嬉しそうな楽しそうな顔で、毎日を送っていた。藍にとって少年の存在は、唯一無二の物であり、代わりのないものであり、変わらないものに成っているのである。

 

 

 少年は、何もかもを藍に与えた。温かさ、冷たさ、嬉しさ、悲しさ、形のないものを何でも与えた。

 その何もかもは―――少年がいなくなれば無くなってしまうもの。

 失う覚悟のない藍は、少年が消えていなくなってしまえば、きっと後を追いかけることになる。取り戻そうとする。そんなことは、誰の目から見ても明らかだった。

 少年は―――そんな藍の行為を認めないだろう。引きずられることを何よりも嫌い、誰かに頼ることを拒否し、貰ったものを確実に返そうとする少年は―――藍を引きずることを善しとしないはずである。

 紫は、はやる気持ちを抑えて藍の行動に目を配ることにした。碌でもない結末を迎えるのを避けるため、藍の動きをすぐ止めることのできる体勢を作り、準備していた。

 

 

(私は知っている。和友が何を欲しがっているのか、何を求めているのかを……)

 

 

 紫と藍の違いは、覚悟を持っているかどうかの違い。

 そして―――少年のことを‘知っている’かの違いである。

 少年の望んでいるもの、少年が欲しがっているもの、それらを知っているのか、これが両者の立ち位置を別っていた。

 

 

(結果論になってしまうけど、和友の世話をしていたのが私だけだったら、きっとあそこにいたのは―――私だったでしょうね)

 

 

 もしも、少年の世話をしているのが自分だったらなんていう仮定をしてしまえば、藍と紫の立場は逆転しただろう。少年の心の寄りかかり、満足し、依存していたことだろう。

 そんな一歩間違えば藍と同じになっていたかもしれない紫だからこそ、藍が起こすかもしれない行動に目を配り、状況を好転させようとしてきた。

 果てには、テーブルの座る位置に至るところまで手を出している。それは、今になっても変わらない。今だって、最善の結果に至るために試行錯誤をしている。

 紫の瞳は、確実に崩れ落ちそうになっている藍を射抜いていた。

 

 

「紫様、藍様……? どうしたのですか?」

 

 

 橙は、あまりに不安がる二人の様子に何が何だか分からなかった。二人の普段と違う様子に何が起こっているのか全く分かっていなかった。

 

 

「和友は、どこにいっちゃったの?」 

 

 

 橙は、半年前にあった少年の闘病生活の一幕を知らない。

 擦り切れながらも、全てを保持しようとして努力していた少年の姿を受け止めていない。

 変わらない意志と負けない心を持った少年の心に触れていない。

 負けず嫌いな子供っぽい笑顔を浮かべた少年の顔を見ていない。

 勝てないと分かっいても最後まで戦った少年の勇姿を見届けていない。

 こういうと、もう少年は死んでしまっているのではないかと思われるかもしれないが、少年は―――今も生きている。半年前に死んでいるわけではない。先ほどまでだって、幽霊でも何でもなく、確かに肉体と精神を持ってそこにいた。

 ついさっきまでの元気な様子を見ていると分からないかもしれないが、半年前は全てを失って死ぬ寸前だった。

 少年は、約半年前に死ぬ予定で、死ぬはずだったのである。

 

 

「私は、和友とこれからも一緒に生きていくのだ。あんなこと、もう二度と……」

 

 

 藍の脳裏には、半年前のことが鮮明に蘇ってきていた。

 

 

 

 ―――半年前―――

 

 

「和友の病気の原因が分からない? そんな……こんなに苦しんでいるのに分からないだって」

 

 

 少年が苦しんでいる原因は、不明でよく分からなかった。よく分からないまま時間を過ごし、苦しみの中に溺れていった。目のくまはどんどん酷くなり、眠ることもしなくなった。病室に誰かを寄せ付けることもなく、一人で黙々と何かをしていることが多くなった。

 藍は、日に日に弱っていく少年にいてもたってもいられなかった。自分にできるだけの看病を行い、少年のために尽くした。

 それでも、少年の病気は一向に良くならなかった。病気の原因が分からない以上、見守って看病してやることしかできず、弱くなる少年を励ますことしかできなかった。

 少年が苦しんでいる症状の原因が判明したのは―――少年が死ぬ寸前の時のことである。

 

 

「紫様! 病気の原因が分かったって本当ですかっ!?」

 

「ええ……」

 

 

 藍は、紫から少年の病気の原因について知ることになった。

 

 

「そ、そんな……私のせい、ですか……?」

 

 

 藍は、病気の原因を聞いて酷く苦しんだ。

 蓋を開けてみれば少年の死ぬ原因の多くを持っていたのは、他でもない藍だったのである。

 

 

「私のせいで、和友が」

 

 

 藍は、当然ながら意図して少年を殺そうとしていたわけではなく、死んで欲しいと思っていたから病気の原因を作ったわけでもない。むしろ助かって欲しいと心から願っている者の一人に違いなかった。

 けれども、いくら助かって欲しいと願っていても、少年が死んでしまう原因は間違いなく藍が作っていた。そこには言い訳も弁解もなにもなかった。藍にそんなつもりが無くても、少年が苦しむ原因を作ったのは他でもない藍自身だったのである。

 

 

「私は……これまで何を……」

 

 

 藍は、少年が苦しんでいる理由が自分にあるのだと、自分が作ったということをずっと知らなかった。少年が死ぬ寸前まで、知らされるまで自覚がなかった。

 だから藍は、何食わぬ顔で少年の見舞いに来ていたし、頑張れと応援の言葉も送り続けていた。

 

 

「頑張れ! 病気になんて負けるな。私にできることがあったら何でも言ってくれ。私にできることなんでも構わないからな」

 

「藍……ありがとう。僕は、最後まで頑張るから」

 

 

 そんなやり取りが日課になっていた。

 少年は、藍に対して辛い様子を一切見せずに、できる限りの笑顔を作って藍を迎えた。影でどれほどの苦痛を抱えているのかを悟られないように、精いっぱいの虚勢を張っていた。

 

 

(藍に気付かれちゃ、いけない。全部、全部飲み込んで、僕の中で留めておかないと今の状況が壊れてしまう。境界線がなくなってしまう)

 

「このまま治療を続けていれば、きっと良くなる。退院したら、人里にでも買い物に行こうか? それともマヨヒガでのんびりして過ごそうか?」

 

 

 藍は、少年の虚勢に全く気がついていなかった。もうすぐ退院できると錯覚している程度には、少年の血のにじむ努力が実になっていたといえるだろう。

 

 

「和友は、どっちがいい? 何がしたい?」

 

「僕は、僕はね……」

 

 

 いくら少年が仮面をかぶるのが上手いといっても、騙し続けるのにも限界がある。少年の努力にも、精神力にも限界があるのだ。無限に広がる心にも限界が必ずあり、境界線が引かれているのだから。

 少年は、最後の最後まで―――人生を終えるまで嘘をつき通すことができなかった。

 

 

「うっ」

 

 

 事実は―――唐突に露見する。

 唐突に喉元に異物がせりあがって来る。理性で押さえつけることは叶わない。もっと生理的な衝動に近い。

 少年は、湧き上がって来る違和感を飲み込もうと必死になった。

 喉から湧き上がってきたものとは―――内側から溢れ出した血である。

 今まで少年は、血を吐きだしそうになる度に飲み込んでいた。それはとても苦しいことだったけど、藍に見られるよりははるかにましだった。

 だけど―――今回は、今までとはレベルが違っていた。これまでも何度かあったことではあるが、いつもと比べるとごまかしのきかない量だった。喉から出ようとする血液は容易に閾値を越えた。

 

 

(や、やばい)

 

 

 少年は、湧き上がる吐き気に耐えきれずに手を口に当てる。口から吐き出された血は、しみだすように手からはみ出していった。

 少年は、これまで隠し通してきた努力もむなしく、藍の目の前で堪え切れずに今まで飲み込んで騙していた血を吐き出した。湧き上がる血を飲み込むことができなかった。

 

 

「……っっ……ごほっごほっ……」

 

「和友!?」

 

 

 藍は、血を吐き出す少年を見て目を丸くする。少年の白い服には大量の血が滴り、白い空間は真っ赤な血で染まった。

 

 

「どうしてっ!?」

 

 

 藍は、少年が血を吐き出したことで初めて少年が無理をしていたことを察した。少年の病状は決して好転しているわけではなく、悪化の一途をたどっているという事実を見せつけられた。そして―――少年が必死に隠していたという現実を知ることとなった。

 

 

「なんでこんなっ……良くなっているはずではなかったのか!?」

 

「今までごめんね。藍を心配させたくないと思ってここまできちゃったけど……もう、僕も限界みたいだ」

 

 

 少年は、藍に対してかたくなに事実を告げなかった。目の前で血を吐き出すという結果が見られてしまっても、どうしてそんなことになっているのか、どうしてそうなってしまったのかについては何も口にしようとはせず、優しい表情を浮かべたままだった。

 藍は、諦めるような雰囲気を醸し出す少年を鼓舞する。諦めるなと、頑張れと、きっと良くなると少年を励ます。

 それは、藍の心の叫びだった。

 

 

「和友、そんなこと言わないでくれ。きっと、きっと良くなる。諦めずに戦えば、きっと状況は好転する」

 

「藍の言葉は、十分なほどの支えになってくれたよ。毎日、会いに来てくれることが……毎日、励ましの言葉を送ってくれることが嬉しかったし、だからこそ頑張ろうと思えた」

 

 

 藍の言葉も虚しく、少年の口から出た言葉は完全に燃え尽きたような感謝の言葉を綴るだけだった。

 少年は、毎日のように会いに来てくれることが嬉しかった。藍が来てくれている間は、一人で病気に耐えきっているよりもはるかに気持ちが楽になった。無理をする時間よりも、藍と話している時間が楽しかった。それが、毎日を生きていくための支えになった。

 だけど、もうその支えだけでは支えられなくなっている。心は、深い闇の中に沈む寸前だった。

 

 

「和友……」

 

「ここからは、僕一人で行く。周りを巻き込んでいくわけにはいかない。僕は、一人で幻想郷に来て、一人で去っていく」

 

 

 少年は、全てを受け入れたような笑顔を藍に見せつける。

 

 

「藍、ありがとう。僕、幻想郷に来てものすごく楽しかったよ。僕は、何も後悔していないから」

 

 

 少年は、それ以来誰も病室に入れなくなった。食事もほとんど寄せ付けず、部屋から出ることもほとんどなくなった。

 

 

「どうしてだっ? 答えてくれ、和友!」

 

「僕から言えることは、もう何もないよ」

 

 

 少年は、藍がいくら病気の原因について尋ねてきても、なぜ悪くなっているのかを問われても、どうして騙していたのかと迫られても、答えを決して口にしなかった。

 藍は、いくら尋ねても答えてくれない少年に尋ねることを諦めた。少年の性格から考えて、無理に聞こうとしても答えないことは火を見るよりも明らかだったからである。

 

 

「和友は、一度決めたことを曲げるようなことはしない。和友にいくら尋ねても答えてはくれないだろう……いったい誰なら、私に答えをくれるのだろうか……」

 

 

 藍は、他に情報を持っている人物の存在を考える。別に少年自身から聞く必要はない。知っている人物なら誰でもよかった。

 

 

「紫様なら、きっと……」

 

 

 少年に向けて突き立てられていた藍の質問の矛先は、全てを知っているであろう紫に対して向けられた。

 藍は、すぐさま紫を探しに行った。そして、少年が病気になってからマヨヒガに姿を見せることが少なくなった紫を探し出した。

 この問いかけが―――藍が少年の病気の原因を知るきっかけとなった。

 

 

「紫様!!」

 

「藍、慌ててどうしたの?」

 

「和友の容体が悪くなっています! 和友は何か知っているようなのですが、私には何も話してくれません。紫様は、何か知っておいでですか?」

 

「…………」

 

「紫様っ! 紫様も答えてくださらないのですか!?」

 

 

 藍は、少年と同じように話そうとしない紫に対して声を荒げ、表情を怒りの色に染める。

 紫は、藍の表情を見て藍の問いに対して解答を告げるべきなのか頭を悩ませていた。確かに紫の頭の中には、藍の問いに対する回答が存在している。

 しかし、藍の少年に対する想いを見ていると、事実を告げてもいいのか判断できなかった。

 紫は、藍の瞳を射抜くように見つめ、問いかける。

 

 

「藍、貴方は本当に真実を知りたいの?」

 

「はい!」

 

 

 藍は紫の言葉に即答する。迷いなく、まっすぐに返答する。

 紫は、猛進するような藍の姿に不安を抱いた。

 藍のそれは明らかな愚直である。地雷原でサッカーをして遊ぶような、何も知らないから大丈夫なだけの、知った瞬間に何かを失いそうな危ない雰囲気があった。

 

 

「貴方には、真実を受け止める覚悟があるの? 和友を受け止めることができるの? あの子の心を包み込んであげることができるの?」

 

「私は、和友を助けるためなら何でもします。私は……和友に、生きていて欲しいのです」

 

 

 藍は、必死に今ある気持ちを口にした。

 しかし、紫には今の藍が少年の支えになれるとは到底思えなかった。

 藍は、少年に対して余りに独りよがりである。少年に助かって欲しいと思っている、その思いの中には少年の気持ちが一欠けらも含まれていない。生きていて欲しいという藍の言葉は、あくまで藍の願望に満ち溢れているだけ、色彩はあくまで一色淡のもの。

 そんなもので―――少年が助けられるわけがない。

 少年が求めているものは、もっと別のはっきりとした救いの形である。はっきりとしていて、空に浮かんでいる星のように決して届くことのない幻にも似た幻想だ。

 藍の想いでは、少年を決して助けることなどできやしない。

 紫は、藍の要請をきっぱりと断った。

 

 

「……駄目ね。今の貴方では、和友の重荷にしかならない。真実を受け取るだけの覚悟も無い。貴方は、和友を助ける方法の一つも思いつかないでしょう……」

 

「なぜですかっ!? 原因が分かれば、何か思いつくかもしれません。そんなことはやってみないと分からないでしょう!?」

 

 

 紫に拒まれた藍は、紫に向けて責めたてるようにまくしたてる。主である紫に対してにらみつけるように反抗した。

 紫は、表情を一切変えることなく、見下すような瞳で藍を見つめる。

 

 

「やってみなければ分からないなんて、そんな戯言を言うのは止めなさい。それは、やってみないと分からない想像力がない者が言う言葉よ」

 

「……時間が、無いのです。もう、和友に残されている時間は酷く少ない……」

 

 

 藍は、次々と思いの丈を吐き出す。

 

 

「和友は、今も苦しんでいるのです。もしかしたら、明日にでも死んでしまうかもしれないのですよ!? 何とか助けてあげたいと思うのが、家族として当たり前なのではないですか!?」

 

 

 紫は、藍の考えなしの言葉に心をざわつかせた。

 藍の言動は、まるで紫が血の涙もない冷血な人間だと言っているのと同義だった。言葉だけ聞けば、紫には少年を助けたいと思っている気持ちがまるでないように聞こえる。そして、それはきっと間違っていないだろう。藍は、そういうつもりで紫に対して口を聞いているのだ。

 紫は、悲しみを含んだ視線を藍へと送った。

 

 

「貴方は、何も知らない……」

 

 

 紫は、何も少年のことを心配していないわけではない。紫だってこの二年間を少年と共に過ごしてきた。それだけの思い入れがある。大事な存在で、家族の一人だと思っている。助けたいと、救ってやりたいと思っている。

 それなのに、どうして動いていないのか。

 それは、ただ―――少年の病気に対して何も‘できなかった’だけだった。

 少年の症状は、紫をもってしてもどうにもできない状況だったのである。

 

 

「貴方は何も知らないからそんなことが言えるのよ……あれは、どうしようもないの。どうしようも、ないのよ……」

 

「やはり紫様は、和友が苦しんでいる原因を知っていらっしゃるのですね!?」

 

 

 藍は、紫の落ち込む様子を気に掛ける余裕すらなく、近づけていた距離をさらに詰め、問いただそうとする。

 藍は、何も知らない。

 和友が苦しんでいる原因も。

 和友が藍に黙っている理由も。

 紫の気持ちも。

 何一つ―――理解しようとしていない。

 藍の心の焦りが本来であれば見えるはずの未来を見えなくしている、視野を狭くしている。少年を失う恐怖にさいなまれ、本来見えるはずのものを見逃している。

 紫は、気持ちを落ち着かせるように大きく息を吐いた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 紫は、藍に真実を告げるつもりがなかった。少年が藍に言わなかったということは、つまりは少年が藍に真実を告げることを望んでいないということに違いなかったからだ。少年の気持ちを無視して口を滑らせるわけにはいかないと思った。

 それに―――藍に何ができるだろうか。少年を助けるために、何ができるだろうか。なにもできやしない。自分にだって何もできなかったのだから。藍が何をしたところで結果は変わらない。

 何も分かっていないから、何も理解できていないから、そんなことが言えるんだ。

 紫は―――そう思っていた。

 

 

「紫様、お願いいたします。後のことは私がなんとかしますので……教えてください」

 

「藍……」

 

 

 紫の視線は、揺れ動く心を必死で保持する藍を捉えていた。

 藍は、今にも泣きだしそうな震えた声で紫に懇願する。

 

 

「もう、嫌なのです。心が擦り切れるような、こんな想いをするのは嫌なのです。和友には、ずっとそばにいて欲しい。ずっと笑っていて欲しい。ずっと……これからもずっと……」

 

 

 藍の声は、どんどん小さくなりしまいには聞こえなくなっていった。

 紫は、今目の前にいる藍のことを考えると少年が苦しんでいる原因を告げるべきだと思った。このまま黙っていて少年が命を落とした場合、藍がどうなってしまうのか。真実が後で分かった時、藍の気持ちはどうなるのか。

 それを考えると――――今、告げるべきだと考えた。

 

 

「貴方が、どうしても知りたいと言うのなら教えてあげるわ」

 

「本当ですか!?」

 

「和友が苦しんでいるのは、和友がこんな状態になったのは……」

 

 

 次に紫の口から発せられた言葉は、藍の気持ちを大きく揺さぶった。

 

 

「藍―――貴方のせいなのよ」

 

 

 一瞬で伝えられた言葉が藍の心を打ち砕く揺れを引き起こす。

 全部をまっさらにするような衝撃を伝達していく。

 後に何も残らないように。

 禍根ごと吹き飛ばすような衝撃波が、藍の心に広がっていった。

 

 

「私の、せい?」

 

「そう、和友が死にそうになっている原因を作り出したのは、貴方よ。そして、これから死んでしまうのだって、貴方が起こした要因によるところが大きいわ」

 

 

 藍は瞳を見開き、紫から距離を取るようにゆったりと後退する。告げられた言葉に押されて、心が恐怖して、体が逃げ出そうとする。

 藍は必死に気持ちを押し殺し、瞳を泳がせながら、動揺しながら紫に向けて再び問いかけた。

 

 

「紫様、質の悪い冗談を言わないでください。さすがの私でも怒りますよ?」

 

 

 藍は良く知っている。紫はこんな質の悪い冗談を言う人ではない。

 藍は―――嫌でも分かってしまっていた。紫の言っていることは真実であり、少年の病気の原因は間違いなく自分にあるということを。

 それでも、尋ね返さずにはいられなかった。

 助けようと思っている相手が苦しんでいる原因が、少年が死にそうになっている原因が自分によって作られているなど、信じられなかった―――‘信じたくなかった’。

 

 

「これは真実よ。変わることのない不変の事実。そして、貴方の欲していた答えよ」

 

「どうして私が? どうして和友が苦しんでいる原因が私になるのですか? 私が、何をしたというのですか?」

 

 

 藍は、ガタガタと揺れる心を必死に抑えながら紫に少年の病気の原因となっている理由を尋ねた。

 

 

「それは、貴方が……」

 

 

 紫は、他でもない藍が少年に与えた―――少年の崩壊のきっかけを教えた。

 紫の言葉―――震度8の巨大地震が藍の心を崩しにかかった。もともと擦り切れてヒビが所々に入っていた藍の心は、軋み崩れていく。音も立てずにバラバラになって崩れ落ちた。

 

 

「そういうことよ。これで分かったでしょう? 和友が苦しんでいる原因を作ったのは、まぎれもなく藍なのよ」

 

「……和友の病気は、私のせい……」

 

 

 藍は、心当たりのある紫の回答に頭が真っ白になった。藍の頭の中では、少年を苦しめてしまう原因になった出来事が一気に溢れ返っている。そして、その記憶のどれもが紫の言葉が真実であると進言していた。

 

 

「あ、謝らないと……私はこれまで、ずっと……」

 

 

 藍は、紫の目の前から逃げるように走り出す。勢いよく流れでる涙を止める術も持たず、真っ先に少年のところへ向かって走って行った。

 

 

「これでいいのよ。これで……」

 

 

 紫は、藍の後ろ姿を追いかけるわけでもなく静かに見送り、勢いよく少年のもとへと向かう藍を止めることはしなかった。

 

 

「これでいいの……」

 

 

 紫は、これでいいのだと、納得するように空を見上げる。空には、まばゆいほど光っている太陽と雲が優雅に飛んでいた。

 

 

「ねぇ、和友。そうなのでしょう?」

 

 

 紫の声は、空中を漂い拡散する。誰にも拾われることなく、心に宿る同じ諦めの色を付けて消えていった。

 

 

 

 

 

「和友っ! 和友!」

 

 

 少年が苦しんでいる理由を知った藍は、急いで少年のもとを訪ねた。そして、病室にいる少年の許可を得ることなく病室に入り込み、勢いのままに少年に対して頭を下げて謝罪した。

 藍の瞳には大きな涙が溜まっており、その顔は病室に来るまでに多くの涙をこぼしてきたことが分かる顔だった。

 

 

「すまないっ……私のせいだったんだな。そうなっているのは、全部、全部、私のせいだったんだなっ……」

 

「どうして……ああ、紫が話しちゃったんだね。そっかぁ……そうだよね、紫だって守りたいものがあるんだもん。仕方がないか……」

 

 

 少年は、謝罪をする藍を見て、紫が話したのだとすぐに察した。紫の口を閉ざしておけなかったのは、少年の落ち度だった。

 だが、話してしまった紫を問い詰めることはできない。誰が悪いわけでもない。話した方が良いと紫が判断したのならば、それが紫にとっての正しさに違いないのだから。

 そもそも、紫に話してしまったことが間違いだったのかもしれない。話をしてしまわなければ、そんな後悔も出てくる。

 しかし、ここで後悔しても意味がなかった。もう、伝えられてしまったものは、書き換えられない。

 少年は、事実を知った藍に対して優しい笑みを見せつける。

 

 

「藍、別にいいんだよ。これは、藍の責任でも、誰の責任でもない。ただ、あるようにあった結果がこうなっただけなんだから」

 

「違う! こうなったのは、私のせいなんだ! 私が、私があんなことをしなかったら和友はこうはならなかった!!」

 

 

 藍は、少年の言葉に心を軋ませる。気にするなと言われてその通りにできるほど器用な性格ではなかった。

 

 

「私は何をしていたんだ。和友の隣で頑張れと言うことしかできない、たったそれだけのことしかできなかった……」

 

「藍は、僕に戦う勇気をくれた。僕は、藍からもらった勇気でこれまで戦ってこられた。ここまで生きてこられたのは、藍のおかげだよ」

 

 

 少年は、病気の原因の事実が藍に露見しても、藍に対して何一つ本当のことを口に出すことはなかった。直接的に病気の原因について話すことだってしない。原因を作ってしまったことに対して後悔している素振りも、病気で辛そうな表情を浮かべることも、一切なかった。

 少年は、一度だって藍を責めなかった。

 それは―――藍の責任じゃないと本心から思っていたから。少しでも藍の責任だと思っていたら、こんな顔はできなかった。

 

 

「だから、何もできなかったとか自分を蔑むようなことを言わないでほしい。藍は、僕のために色んなことをしてくれた。僕の気持ちを支えてくれた」

 

「どうしてっ! どうして和友は私を責めないのだっ!?」

 

 

 藍は、少年の予想外の受け入れるような対応に精神的に追い詰められていた。

 少年が自分を責めるようなことを言わないことなど百も承知であったのに、少年に対して詰め寄るように叫び、懺悔を乞う。

 

 

「藍、泣かないでよ。ほらいつものように僕を応援してよ。笑顔で、僕を応援して」

 

「無理だ。私にはもう、できない……」

 

 

 少年は、悲しそうな顔で藍を見つめる。

 最初から―――事実を知ってしまえば藍が自分を追い込み、こうなってしまうということは分かっていたことだ。だから少年は、自分の病気の原因についてしゃべるのを避けていた。

 今からが正念場だ、今から変えていかなければ。過去は変えられない。未来を変える努力を今から始めよう。

 

 

「できるよ、何度だってできる。藍は、いつだって応援してくれたじゃないか。僕の努力を認めてくれていたじゃないか。だから、もうちょっとだけ僕に付き合ってよ。もっと頑張れって、笑顔で応援してよ」

 

 

 少年は、藍の悲しむ顔が―――何よりも見たくなかった。

 藍は、涙を流しながら崩れ落ちるように少年に首を垂れる。病室で寝ている少年に対して縋りつくように頭を下げた。

 

 

「何が頑張れだっ!! 悪いのは全部私じゃないかっ……」

 

「謝らなくてもいいよ……もともとこうなるはずだったんだ。どうしたところで、どこかで袋小路に入ることになっていた。ただ、それがちょっと早かっただけ」

 

 

 少年は、藍の責任だと思っていない。極端なことを言えば、誰がやったところで、どんな方法だったとしても、少年はそれについて咎めることはしなかっただろう。

 全ては、成るようになったのだ。早いか遅いか、そのぐらいが変化の幅の限界値。そんなものだ。

 

 

「それに、藍はちゃんと約束を守ってくれた。それだけで十分だよ」

 

 

 少年は、優しく語り掛けるように震える手で藍の頭をなでながら言葉を投げかける。

 

 

「後悔なんて何もない。僕は、もう十分に‘活きてきた’。ゾンビみたいに生きているだけじゃなくてしっかりと活きてきた。優しい両親に支えられて、藍や紫に支えられて―――十分に満たされている」

 

 

 少年は、自分が死ぬことについて何一つ後悔していなかった。これまで生きてきて、やり残したことなど一つも無いといわんばかりの全て終えたような顔をしていた。

 藍の心は、少年の言葉で傷ついていく。優しく撫でてくれる少年の手から伝わる温もりが、自然と涙を流させた。

 

 

「藍は、何も気にしないでいいんだよ」

 

 

 少年の優しさが藍の心を傷つけ、何度も何度も切りつけていく。藍の心は、少年と会うことでさらに荒み始めていた。

 藍は、涙で濡らした顔をそっとあげて少年を見つめる。

 死期が間近に迫ってきている少年は、どこか満たされたような顔をしていた。泣いている藍の横で、全てを終えたような、そんな表情をしていた。

 

 

「僕はただ、両親のいるところに行くだけ……僕はもとの場所に、あるべきところに帰るだけなんだから」

 

 

 藍は、少年が苦しんでいる原因を自分が作ったのだと―――最後の最後まで少年の口から聞くことは無かった。少年に改めて聞いても少年が藍の疑問に対して答えることはなかった。

 

 

「ほら、大丈夫、大丈夫だからね。よしよし、泣かないで。大丈夫、大丈夫……大丈夫だから、大丈夫だから」

 

 

 藍は、少年の母親が少年を慰める時に使っていた大丈夫という言葉をかけられ、その日ずっと少年の傍で泣きじゃくりながら眠りについた。少年の心の中で慰められた時と同じ方法で、抱きしめられるような形で少年に包まれながら、頭を撫でられながら意識を失っていった。

 

 

 

 藍は、あの時のような想いは二度としたくなかった。何もできなかった自分、何も知らなかった自分が恨めしくてたまらなかった。

 藍は、知らず知らずのうちに少年を傷つけていたと思うと耐えられなかった。

 

 

「和友から与えられてばかりの私達は、何も返してやれなかった。それどころか、毒を盛ったのが私だったなんて……」

 

 

 藍は、少年から山ほどのものをもらっている。かけがえのないものをもらっている。マヨヒガでの生活の幸福感も、人里での買い物の楽しさも、能力の練習の痛快さも、みんなで食べる食事の幸せも、少年が藍にもたらしたものである。

 藍は、楽しい生活が、暖かい生活が手放せなくなってしまっていた。

 

 

「もう、戻れないのか……あの頃に」

 

 

 藍は、今少年を失ったら同じ生活ができるとは到底思えなかった。同じ生活ができないどころか、少年と会う前の昔のような淡白な生活に戻れるかと言われれば、それもまた考えられなかった。

 少年の作った生活は、あまりにも日常に溶け込みすぎている。藍にはもはや、少年の死を受け入れ前に進むという選択肢も、少年の事を忘れて昔の生活に戻るという選択肢も取れなくなってしまっている。

 

 

「僕は、二人からたくさんのものを貰ったよ。十分埋め合わせてくれるだけのものをくれた。現に、二人と送った生活はものすごく楽しかった。本当の家族みたいで楽しかったよ」

 

「っ……」

 

 

 藍の精神状況は、少年の病気の終わり際が最も悪かった。

 藍の心は、それこそ廃人寸前になるところまで追い詰められていた。

 それでも、心が砕けることがなかったのは、少年が最後の最後で、砕け散る寸前のところで藍の心を守っていたからだった。

 

 

「でも、まだ終わっていないんだよね。僕は、まだ生きている。明日、僕には何ができるんだろう。明日は、何をしようかな」

 

「…………」

 

 

 藍は、明日という言葉を口にする少年に思わず涙をこぼした。もうすぐ死んでしまうというのに、もうすぐ終わってしまうのに、まだ明日のことを見ている。

 終わりを迎えるこの瞬間に―――明日のことを考えている。

 

 

「本当なら、貰ったものを全部返しておきたかったんだけどね。それは、もうできそうにないや。藍や紫から貰ったものを、恩返し、したかったなぁ……」

 

「そんなこと、ない。私たちは、和友から貰ってばかりだ」

 

 

 藍は、取り返しのつかないことをしてしまったことに対して悔やんでも悔やみきれないでいた。時間は決して戻ることはなく、少年の病状は悪化の一途をたどるだけである。

 もう―――あの温かな時間は戻ってこない。少年が藍を責めるような言葉を一言でも言えば少しは変わっただろうか。少しでも、気持ちが楽になっただろうか。

 いや、どちらにしても同じだっただろう。結局のところ藍を救えるのは、少年以外にはいなかったのだから。

 

 

「いいや、返さなきゃいけないのは僕の方だよ。まだ、お金も返せていない。ごめんね、かかった分の費用を返せなくてさ」

 

 

 藍は、弱っていく少年に比例するように気持ちを落としていった。少年に毎日会い、話を重ねるにつれて壊れたように下を向き押し黙るようになった。

 それでもなお、少年の所に通っていたのは、そこに救いがあることを知っていたからかもしれない。少年に追い詰められた藍を慰めたのは他ならぬ少年自身だったから。

 そして、ちょうどそのとき―――橙が少年から藍に渡されたのである。

 

 

「この子を、僕の変わりに育ててほしい。僕が大事にしてきた子だから、藍に育てて欲しいんだ」

 

 

 橙は、藍が壊れないようにと少年が考えた、死に際のプレゼントだった。

 藍は、暗い表情のままだったが静かに頷く。少年は、橙を受け取る藍を見て嬉しそうに微笑んだ。

 藍は、少しでも少年の役に立てればと少年から橙を受け取り、自分の式にした。

 

 そして藍は、ボロボロの心を壊すことなく今を迎えている。半年前の経験が今の藍を作り上げている。

 

 そして―――少年に対して依存を深めた今の藍ができあがったのである。

 こうして少年の意図しない形で、望まない形で―――少年の背中に乗る荷物が増えたのだ。




少年の通算成績
vs 藍 1勝 5敗
vs 紫 0勝 64敗
負けすぎ……


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少年への依存、これからへの不安

 紫は、藍が悲しみに暮れていた時、マヨヒガで唇を噛みしめ自分の無力さを呪っていた。一人きりで少年のことを考えていると、どうしても何もできないことに対する怒りが心の中を支配してしまっていた。

 

 

「っ……なんとかならないかしらね」

 

 

 少年を失うことに不安になっているのは藍だけではない。紫も同様である。

 紫は、少年が幻想郷へと来たことによって得られた生活の変化をとても愛おしく思っていた。

 

 

「できるものならば、ここで和友を失いたくないわ……あの子が私たちにもたらしたものは余りにも大きい」

 

 

 家族を一人失いそうになっている―――まんまそのままの感情が紫の心を圧迫している。

 紫は、藍と同様に少年をどうすれば助けることができるのか頭を悩ませていた。

 

 

「私はこの温かい生活を失いたくない。それに、昔のような殺伐していたあのころに戻れるとは思えない。なにより……昔の私に戻りたくないわ。私は、今の私が好き……」

 

 

 慣れない早起きも少しだけできるようになった。

 料理も少しだけできるようになった。

 人にものを教えるのが少しだけ上手くなった。

 少年は、長年の間変わらなかった自分の生活に変化をもたらしている。

 紫は、成長する自分、変わっていく自分に少しだけ好感を持っていた。

 

 

「藍もいて、和友もいて、私がいる。この生活がとても居心地がいい。みんなそれぞれが成長して、変わって、笑顔を浮かべている今の生活が好き……」

 

 

 マヨヒガでの3人での生活は、楽しくて居心地が良かった。さらには、毎日成長する少年の姿を見て心が温かくなるのを感じていた。

 

 

「今、和友を失ってしまえば、全てが崩れてしまうわ。いつも通りの日常も、藍の心も……私の、気持ちも……」

 

 

 少年を失ってしまえば、今まで変わってきたものが全て崩れ去ることになるだろう。少年が来る前に戻るだけじゃなく、以前の形すらも原型を留めないほどに崩壊するだろう。

 紫は、変化を失うことを、今の生活を捨てることを到底許容できなかった。

 

 

「和友はいつも私たちの中心にいた。私たちは、和友を中心に回っていた」

 

 

 今のマヨヒガでの生活を動かしているのは、間違いなく少年である。

 藍も紫も、少年と関わっていない時間の方がはるかに短い。寝ている時間を除き、プライベートな時間を省けば、ほとんど少年と一緒の時間を過ごしている。

 少年と共に―――時を過ごしている。笑顔を浮かべて、楽しそうに、幸福感に包まれて、家族をしている。

 

 

「あの子の傍は、心地良過ぎる……全てに守られているような安心感と温かさが充満している」

 

 

 皆が少年の傍にいたがる理由は、単純に少年の傍が居心地良いからだ。少年の明るさと健気さが、藍と紫の二人の心を温かくするからである。

 少年の笑顔は、他人に伝染する。嬉しそうな顔を見ているだけで笑顔になる。

 そんな少年だからこそ―――藍と紫は少年を失いたくないと思っていた。

 

 

「でも、私に何ができる? 私の能力ではもはや、和友の現状は変えられない。ならばどうすればいいの?」

 

 

 助けたい。救いたい。そう思っていくら頭を悩ませても、少年が苦しんでいる理由が分かっていても、何一つ対処ができないというのが現実である。

 紫は、自分の不甲斐なさに、妖怪の賢者と言われている自分が何一つできない状況に、必死に堪えていた。

 

 

「考えるのよ、八雲紫。きっとまだ何か手段はあるはずだわ」

 

 

 例え―――少年のもたらしているものが嘘偽りの温かさであったとしても。偽物の温かさであっても。作られた事象だとしても。藍と紫の心に少年が安らぎを与えたという事実は揺るがない。

 例え、そこにどんな理由があろうと―――紫の気持ちは変わらなかった。

 

 

「和友は、絶対に助けてみせるわ!」

 

 

 紫は、一人きりで少年を助けるための決意をする。これまで諦めてきた気持ちを捨てて、心の中に大きな目標を打ち立てた。

 

 結論を言えば、紫が奮闘して少年を助けたというのが事の終わりになった。見栄を切り捨て、立場を投げ捨て、自尊心を投げ出し、少年のために頭を下げたことで終わりを迎えた。それが良かったのか悪かったのかは分からない。良かったかどうかなんてこれから決めることである。これから私たちが良かったとできるかにかかっているのだ。

 ただ、その時に出た結果として―――今の少年が目の前にいる。

 ただ、それだけの結果が残った。

 

 ―――回想終了―――

 

 

 

 

 紫は、悲しそうな表情で崩れ落ちそうになっている藍を見つめる。紫の視線の先には、今にも泣き崩れそうな藍の姿があった。

 

 

「私達は変わらなければならないわ。これから生きていくためには、変わらなければならないの。藍、貴方にだって分かっているはずよ」

 

 

 藍が崩れそうになっている中、紫は不安に押しつぶされないように足に力を入れて力強く目線を上げていた。

 

 

「和友は、いずれ死んでしまうわ……」

 

 

 崩れている藍と立っている紫の違いは―――少年を失う覚悟があるかどうかである。

 紫は、過去の経験を経て少年を失うことを覚悟していた。半年前に少年と話をして、少年が死んでしまうということを受け入れていた。

 

 

「私達がいくら嘆いても、生きていて欲しいと願っても、人間である和友は必ず死んでしまう……」

 

 

 紫は、よく知っている。人間という生き物は、蓬莱人とかいう人外を除いて必ず死ぬのである。

 少年の場合は、それがちょっとだけ早いだけだ。仮に人間の中で長生きだとしても、妖怪のような長寿命と比べてしまえば誤差のようなものである。

 

 

「藍は、和友を失う覚悟をしなければならない」

 

 

 紫は、生き物が死んでしまうのは自然の摂理だから仕方がないのだと、そう思えるだけの覚悟を持っていた。

 半年前の当時は、持っていなかった。だからこそ当時は藍と同様に悩み苦しみ、少年を助けるために奮闘した。

 少年が病気を患った当時から覚悟を持てていれば、少年を助けることはなかったかもしれない。それぐらいに、少年の終わり方は自然の理に沿っていたというか、それが本来のあるべき形のように感じられた。

 現実には、それを無理やり捻じ曲げて助けてしまっているが、今となってそう思う。

 自然は、時間の経過と共に最も安定する形を取り戻す。いくら外部から熱を入れて部屋の温度を変えようとも、入熱が無くなればいずれ外の温度と近似する。少年の病気も同じである。

 必ず―――元の形に戻る。本来あるべき形になる。

 そう、同じ病気を発症するのである。

 

 

「あの子の病気は、まだ治っていないのだから」

 

 

 紫は、藍と違って少年の病気が完全に治っていないことを知っていた。少年の抱えている症状の原因を埋めることができていないことを理解していた。

 

 

「いくら苦しんでいる要因を取り除いたからといって再び同じことが起こらないと断言することはできないわ。むしろ、和友の病気の原因を埋めることができていないのだから、再発すると考えるのが普通よ」

 

 

 病気は、原因を取り除かなければ何度でも再発する。

 少年の病気は、痛みのもとを取り除いた状態であって、痛みを作り出す病原菌を取り除いた状態ではなかった。いうなれば、状態の初期化を行っただけだった。

 例えると、風邪を引いている状態の時に、咳や鼻水、頭痛を止めることができたが、熱が下がっていないようなものだ。熱が下がることが無ければ、止まったはずの咳や鼻水、頭痛は必ずぶり返す。

 それならば、状態の初期化を行い続ければ生きていけるのではないかという意見が出てくるかもしれない。

 この意見は、間違っていない。

 確かに少年は、初期化を行い続ければ生きていくことができる。病気を発症して、もとの状態に戻して、また病気が酷くなって、それを繰り返すことができれば、寿命が尽きるまで、誰かに殺されるまで生きていくことができるだろう。

 しかし、この考えには―――重大な問題があった。

 

 

「けれど、同様の方法で和友を助けるというのはおそらくもう無理……あいつが二度と動くとは思えない」

 

 

 痛みを止める方法―――つまりは状態の初期化というのが再び使えるような方法ではないということだ。

 おそらくだが、もう二度と同様の方法は使うことができないだろう。

 

 

「和友は、幻想郷に来て1年半であの状態になった。最悪の場合、和友の寿命は後1年と半年ということになる……」

 

 

 紫の予測では、少年の余命は最悪の場合で1年半である。少年の状況が悪化したのは、幻想郷に規定から1年と半年の期間、それならば再発までは少なくとも同じ年月がかかるだろうという計算だった。

 

 

「藍、いつまでも和友に甘えてはいられないわよ」

 

 

 少年を助けるための方法は―――二度と使えない。そして、少年の余命は1年半。この2つの認識が紫に少年を失う覚悟を持つことを促した。今の状況が、藍と紫の二人の覚悟の違いが明確に出ている状況である。

 藍は不安に俯き、紫は先を見つめて顔を上げている。

 

 

「和友は、本当は……」

 

 

 紫は、その先の言葉を口にはしなかった。今の藍が知るには刺激が強すぎる。知ったとたんに精神を病みかねない。紫は、静かに藍を見上げていた。

 

 

「ううっ……和友、私を置いていかないでくれ」

 

 

 藍は、立っていられないほどに狼狽していた。

 妖怪は精神に重きをおく生き物である。人外ともいうべき強靭な肉体を支えているのは、人間と同じ心である。肉体を支えるための精神が弱れば、立っていられないほどに疲弊することになる。

 藍は、まさしく心を折られる寸前だった。

 

 

「私を一人にしないでくれっ……」

 

 

 藍の頭の中で少年の存在が死に始める。自責と後悔と恐怖が一色淡になって混ざり合っていた。

 ちょうど永遠亭にお見舞いに行ったときに、真っ白なベッドだけが置いてあるイメージ、少年が何も残さず、全てを持って消えているイメージが頭の中を支配していく。

 

 

「私には何もない……私の欲しいものは、全て和友の傍にあった。和友のすぐ近くに、全てがあった」

 

 

 藍は、全てを失ったような気がした。持っているもの、積み上げてきたものが全てまっさらになるような感覚に陥った。

 藍の欲しいものは、少年のすぐそばにあった。

 少年には、藍の欲する全てがあった。

 

 

「いやだ、失いたくないっ……」

 

 

 孤独を癒す両手も

 心が落ち着く瞳も

 寂しさを打ち消す温もりも

 苦しみを打ち払う明るさも

 心を躍らせる声も、

 ―――何もかも少年が持っていた。

 

 

「私も、連れて行ってくれ。私は、和友と一緒に……一緒に、いたい」

 

 

 少年のもたらしたものが一瞬の間に消えてなくなっていく。

 藍は、両足を真っ直ぐに伸ばしていられず、膝を曲げて首を垂れた。心が落ちるのと同期するようにして膝を折り、体を地面へと落とそうとしていた。

 

 

「えっ……?」

 

 

 けれども―――藍は落ちなかった。重力に任せて体が下に向きそうになった時、背中に何かが触れたのである。

 

 

「なにが?」

 

 

 ―――何かが触れている。

 背中が程よく暖かくなるのを感じる。

 昔よく感じていた温もりと同じ温度が藍の背中から伝達していた。

 

 

「藍、大丈夫だって。僕はちゃんとここにいるよ」

 

「和友っ!?」

 

 

 ―――声が聞こえた。他の誰でもない少年の声が聞こえた。

 藍は、声が聞こえた方向へと慌てて顔を向ける。視線の先には、姿を見せた少年の姿があった。先程まで欠片も存在感を感じさせなかった少年が目の前に映し出されていた。

 

 

「和友っ!!」

 

「藍、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。僕は、ここにいるから」

 

 

 藍は、流れ出す涙を勢いよく袖で拭うと、少年を力強く抱きしめた。

 少年は、少し苦しそうな表情を浮かべながら藍を抱きしめ返す。2年前に心の中で抱きしめた方法と同じやり方でそっと頭を包んで撫で続けてる。大丈夫だと、ここにいるのだと伝えるように抱きしめていた。

 

 

「ああ!! 和友!! よかった、よかった!」

 

「藍、ごめんね」

 

「すん、ぐずっ。この馬鹿! 心配したぞ!」

 

 

 少年は、藍に自分を失うことを覚悟してほしかった。そのためにこの半年もの間、自分ができることはやってきたつもりだった。

 しかし、そんなもの全く効果がなかった。良くなっているなんて淡い期待でしかなかった。半年経った今ならば変わっているかもしれないという期待は、脆く崩れ去った。

 

 

「……だが、こうして帰って来てくれた。ちゃんと私の所に帰って来てくれた」

 

(何とかしなきゃ……なんとか、しなきゃ)

 

 

 少年は、これからなんとかしなければならないと心に強い意志を刻み、そう遠くない未来を見据える。このままでは共に落ちるだけ。共にいなくなるだけ。そうなってはならない。あくまでも逝くのは自分一人でなければ。重りは置いていかなければならない。

 藍は、そんな少年の気持ちを知る由も無く少年の温もりに体を預けて涙をぬぐい、気持ちを少年に伝えた。

 

 

「良かった……本当に良かった。私は、またあの時みたいになってしまったかと思って……」

 

「大丈夫だから、僕なら大丈夫だからね」

 

「心配したぞ……」

 

「心配させてごめんね」

 

 

 少年は、藍が泣きやむまで大丈夫という言葉を投げかけ、抱きしめた。

 暫くすると、少年の肩に乗せられている藍の顔が離れる。藍の潤んだ瞳には、優しい表情の少年の顔が映った。いつもと同じ表情がそこにあった。

 藍は、瞳から涙を消し、安堵の表情を浮かべた。

 

 

「戻ってきてくれたから、いい。戻ってきてくれるのなら……私はいくらでも待っていられるから」

 

「本当に藍は……仕方がないなぁ……」

 

 

 藍は、少年に再び抱きつき体を預けた。

 少年は、少し悲しそうな顔で藍を抱きしめ返す。

 藍は、抱擁してくれる少年の行動に顔を綻ばせ、少年をより強く抱きしめた。もう二度と離さないと言わないばかりに、少年が身動きできない程度に強く抱きしめた。

 

 

「和友……」

 

「大丈夫だから。僕なら、大丈夫だから」

 

 

 少年は、藍の甘えるような行動を快く受け止め、包み込むようにして大きく両手を回す。

 藍は、そんな少年の行動に対して嬉しそうな表情を浮かべながらより近くにと言わんばかりに身を寄せた。

 

 

「はぁ、あの子はいつも心配ばっかりさせて……」

 

 

 少年を失う覚悟ができている紫も、心の底から少年が無事でよかったと思っていた。失うことを覚悟しているからといって、失って悲しまないわけではないのだ。

 紫は、少しばかりの安ど感を抱えながら藍を包み込むように抱きしめる少年の姿に小さく呟く。

 

 

「本当に、何も変わらないのね」

 

 

 少年は、昔と何一つ変わっていない。誰かを包み込むことができる包容力も、誰かを心配させるところも、誰かを振り回すところも、昔と何も変わっていない。

 少年は―――悉く不変だった。少年が唯一変わったと言えるのは、身長が変わったことだけ。体だけが大きくなったことだけである。

 

 

「さて、私も行きましょうか。藍をあのままにするのも善くないでしょうし……和友をあのままにしておくわけにはいかないわ」

 

 

 紫は、少年と藍の様子を見ながらそっと体を空へと向け、少年と藍のところに移動を始める。紫の視界の中に映る少年は、いつの間にか藍を抱きしめながら片手で頭を撫でていた。

 

 

「相変わらずべったべたね。藍もそうだけど、あの子も藍を甘やかしすぎなのよね。あれでは依存は深まっていくばかりだわ」

 

 

 紫は、ぶつぶつと文句を垂れながら藍と少年のもとへと飛行する。

 橙は、紫がゆっくりと飛んで行くのをぼんやりと眺めていた。

 

 

「お帰り、和友」

 

「ただいま、紫。心配かけちゃったかな?」

 

「何を言っているの、家族を心配するのは当然でしょう?」

 

 

 紫は、二人を優しい瞳で見つめる。

 少年は、紫が来ても藍を抱きしめて離さず、頭を撫でる動作を止めなかった。藍も少年と同様に、少年を離すことはなかった。

 そんな二人を見ていた紫は、何の脈絡も無く少年の頭を撫で始める。少年が初めて幻想郷に来た時に撫でたように、柔らかく触れるように撫でた。

 

 

「…………」

 

「消えていなくなったわけじゃなかったのね」

 

「消えていなくなる時は、挨拶ぐらいするよ」

 

 

 少年は、冗談を言うように笑顔を作った。紫は、少年の笑顔につられて頬笑み、頭を撫で続ける。

 少年は、暫くなでられていると視線を上に上げた。

 

「ところでなんだけど」

 

「何かしら?」

 

「なんで僕まで撫でられているの?」

 

「え?」

 

 

 少年は、紫に撫でられていることが気になっていた。

 今の状況は、冷静に分析してみれば分かるが、非常に異質である。

 少年は、気持ち良さそうに目を細めながら頭を撫でられ続けている。そんな少年の前には、少年に全てを任せきって表情が緩んでいる藍の姿がある。

 少年は、今まで紫と藍と一緒にいる環境で生まれたことのない状況に不思議そうな顔をしていた。

 紫は、どこか視線を泳がせる。どうも少年の頭を撫でることを意識していたわけではなく、無意識のうちに手が伸びて頭を撫でていたようで、どうしてかしら? と不思議な表情で言葉に詰まりながら声を出した。

 

 

「えっと、なんとなくよ。なんとなく」

 

「ふふっ、そっか、なんとなく、なんとなくか」

 

 

 少年は、紫の様子に思わず笑った。

 唯一その場に参加していない橙は、三人の様子を除け者のように眺めていた。

 

 

「私ひとり、仲間外れにされている気がする!!」

 

 

 橙は、一人取り残されているような疎外感に襲われ、いてもたってもいられず、3人のいるところに飛び出した。先程被弾し怪我を負った様子を微塵も感じさせず、3人のいる空中まで痛む体を押してやってきた。そして、これまで抱えていた疑問を不思議そうに口にした。

 

 

「藍様も紫様も心配しすぎじゃないですか? スペルカードの性質だったんでしょう?」

 

 

 橙には、目の前に広がっている3人の状況が分かっていない。何度も言うが、橙は紫と藍の2人と違って、3人で乗り越えた過去を知らないのだ。

 藍と紫は、橙の言葉を聞いて首が取れるかと思えるほどの速度で振り向いた。

 橙の一言に、二人の表情がガラッと変わる。目に力が入り、睨み付けるように橙を凝視した。

 

 

「「橙……」」

 

「ひっ!!」

 

「さすがの私も怒るぞ!!」

 

「貴方は黙っていなさいっ!!」

 

 

 藍と紫の言葉が同時に放たれ、橙に飛来する。到着地点にいた橙は、二人の剣幕に思わず強張った。

 橙の言葉が藍と紫の二人にとって無責任な言葉に聞こえたのは間違いない。

 もし、もしも、もしかして……そんな未来を想像できるだけの実績が少年にはあるのだ。交通事故で友達が死んだ人間にとって、友達が明日いきなり死んでしまうことがあり得る可能性になるのと同じである。

 失うという意味を知っている。無くなるということがどういうことなのか知っている。失わなければ分からない。無くなってから気付く。無くなってみれば分かる。

 それは―――そんな可能性である。橙には少年が消えることを想像できないかもしれないが、紫と藍には考えなくても思い浮かぶほどの鮮明な過去を持っている。それを思えば、二人の反応は極正常だった。

 だが、そんな事情を知らない橙は怯えながら声を震わせ、理不尽な怒りに後ずさる。

 

 

「なんで私が怒られなきゃいけないの?」

 

「藍も紫も怒っちゃ駄目だよ。橙は、何も悪いことをしてないんだからね」

 

「すまないっ、橙。私が悪かった。いきなり怒鳴って悪かったな。ちょっと、気が動転していたんだ」

 

「……ごめんなさいね」

 

 

 藍と紫は、ばつが悪そうな顔で怖がっている橙に向かって慌てて謝罪をした。頭のいい二人は、少年の言葉で先程橙に対して告げた言葉が、いかに理不尽なことを言っているのか即座に理解したようである。

 橙は、謝罪する二人の顔色を伺う。謝罪の言葉通り、悪いと思っているのかどうかを目ざとく見つめていた。

 

 

「本当に大丈夫ですか?」

 

(私も、藍のことを言っていられないわね。これじゃ何も変わらないじゃない……和友のことになると甘くなるのは直していかないといけないわ……)

 

 

 紫は、橙に見つめられながら先程の自分の行動を思い返した。

 橙は、暫くの間二人を見つめると二人の怒った表情が影をひそめているようで安心した表情を見せる。

 

 

「ほら、橙もおいで」

 

「はいっ」

 

 

 少年が橙に向けて話の中に入るように催促すると、橙は満面の笑みを浮かべながら少年の背中にくっついた。

 これで3人の輪が―――4人になった。空中に広がっている4人の様子を見ていると、輪の中心になっているのが少年だということが分かる。ここ2年の流れを少年が作り上げてきたからだろう。少年が巻き起こした風で、中心に紫、藍、橙の3人が集まった。

 少年は、寄りかかる藍に視線を移す。藍の涙でぬれた衣服は、藍がどれほどに自分のことを心配したのかを否応なしに感じ取らせた。

 

 

「ごめんね。心配させるつもりじゃなかったんだけど……」

 

「いい、謝るな」

 

 

 藍は、少年の肩に乗せるように置いている顔を離し、少年と顔を合わせる。藍の瞳は、涙で少しだけ赤くはれていた。

 

 

「ちゃんと、ここに戻ってきてくれたからな。それで、十分だ」

 

「ありがとう」

 

「和友……」

 

 

 藍は、精いっぱいの笑顔を少年に見せ、甘えるように再び少年に抱きつく。少年は、困ったような顔で藍を受け入れた。

 少年は、そっと藍を抱きしめる力を強める。

 藍は、抱きしめ返してくる少年の腕の力を感じて、さらに抱きしめる両手に力を入れた。機嫌も随分と良くなり、ついさっきまで泣いていたとは思えない表情で、安心感の中で溺れている。

 

 

「藍……あなた、まさか……」

 

 

 紫は、二人の恋人のような、夫婦のような雰囲気に心を突き落とされるような感覚に陥った。別に藍が少年を独占しているような環境に不満があるわけでも、嫉妬しているわけでもない。

 ただ―――藍がもしかして少年に気持ちを寄せているのではないかと不安になったのである。

 人間と妖怪が恋に落ちるようなことは、過去にいくらでもあった。

 しかし、そのどれもが上手くいったとは言えない。少年の病気のことを考えれば、なおさら幸せに終わることがないと容易に想像できる。

 ハッピーエンドは、あり得ない。

 はっきりとしたデットエンドが待ち構えている。

 幸せなりたいという願いは―――揺らめくような蜃気楼である。そんなもの、ありはしない幻想なのだ。

 

 

「和友……」

 

 

 紫が声をかけようとしたとき、視界の中に少年の複雑な表情が映り込んだ。

 紫は、少年の表情が気になり、疑問を口にした。

 

 

「どうしたの?」

 

「僕の勝負は、まだ終わっていないから」

 

「……バカっ! そういうことはもっと早く言いなさいっ!」

 

 

 紫は、少年の言葉を瞬時に理解し暴言を吐き捨てると、すぐさまスキマを開き、もともといた位置まで転移した。

 少年は、藍の耳元に口を近づけ、囁くように言葉を口にする。

 

 

「この勝負は僕の勝ちだね」

 

 

 藍は、耳元で囁くように言われた言葉に一瞬ビクッと反応する。そのせいで、少年の言葉を理解するまでにタイムラグが発生した。

 

 

「えっ……どういう」

 

 

 藍は、どういうことだ? と言うつもりだったが、全てを言うことはできなかった。会話を継続できるような時間は、藍には与えられていなかった。

 

 

「見―つけた」

 

 

 少年の言葉と共に激しい破裂音と光が空間に満ちる。光の源泉は、先程までよく見ていた霊力の発光である。

 藍の後ろに弾幕が急に現れ、膨大な量の光が降り注ぐ。

 

「和友……?」

 

「さようなら」

 

 

 藍が少年の顔を見つめると、少年は相変わらず優しい表情をしていた。

 少年の両手が藍の体を押し出す。

 

 

「えっ……」

 

 

 藍は、離れていく少年を見て激しい虚無感に襲われた。少年から離れると同時に閉じられていた視界が一気に広がり、世界が広がり見せる。本来見えているはずだった視界が、はっきりと確認できるようになった。

 少年の近くで少年の頭を撫でていたはずの紫は、すでに少年の近くにはいない。紫ならば、少年の言葉にすぐさま反応し、即座にその場から離脱している。

 橙は、少年の後ろにくっついている。おそらく、弾幕に当たらないように橙を後ろにくっつかせたのであろう。あの位置ならば、被弾することはないはずである。

 藍は、襲い掛かるであろう衝撃を受け入れるようにゆっくりと目を閉じた。

 

 

「っつ!!」

 

 

 藍は少年の弾幕に被弾し、痛みに耐えるような声を上げ、背中に被弾した痛みに耐えながら少年に向かって勢いよくまくしたてる。

 

 

「っ……和友っ、卑怯じゃないか!」

 

「ごめんね。これが僕のスペルカードの性質なんだ」

 

 

 藍は、橙の言っていたスペルカードの性質という言葉は、まさしく的を射た言葉だった。

 少年のスペルカード罔両(もうりょう)「八雲紫の神隠し―連れ去られし少年-」は、少年の言葉がカギになって、暫くの間全てを消失させるもの。そして、一定時間の経過とともに爆発するように弾幕が現れるという初見殺しもいいところのスペルカードだった。

 

 

「スペルカードは任意に止められるような汎用性のあるものじゃないし、それに……あんなに藍が心配すると思っていなかったんだよ」

 

「それは、和友が……」

 

 

 藍は少年向けて何も言い出せなかった。

 スペルカードは、発生を途中で止めることができるものではない。蓄えた霊力と込められた規則にのっとって効果を発揮するものだから、決まった分を決まった量だけ弾幕が生成するのである。途中でやめろといっても不可能なのだ。

 それに、藍が心配し過ぎた件に関しても少年の言う通りで、いくらなんでも藍の心配性は行き過ぎだった。藍も、自分が少年を失うことでこれほどに動揺し、心を震わせ涙を流すことになるなんて思っていなかった。

 

 

「藍様……どうされたのですか?」

 

 

 橙は、先程と同様に重苦しい空気を作り出す藍を見て疑問の声を上げるものの、再び重くなる空気を察して、少年の後ろから出ることができなかった。

 

 

「和友、私は……」

 

 

 藍は、それ以上口から少年に対する想いを吐き出すことができなかった。それは、少年が静かに目を閉じ、苦しそうにゆったりと藍の方向へ倒れたからである。

 藍は慌てて倒れ込む少年を支え、声をかける。

 

 

「和友っ!? 大丈夫か!?」

 

「僕の霊力は、これで限界……」

 

 

 少年は、限界を迎えていた。全身の力が完全に抜けて、体を支えることも、空を飛ぶこともできなくなり、藍に抱きかかえられる形になった。

 橙は、藍に抱きとめられ力を感じない少年に急いで近づいて声をかける。

 

 

「和友、大丈夫!?」

 

「もう、飛んでいられない……」

 

「はぁ……無茶ばかりして。本当にお前は、しょうがない奴だなぁ」

 

 

 藍は、少年の弱弱しい声を聞いて大きく息を吐き、少年をしっかりと抱きかかえるといつものようにおんぶをする。自身の尻尾の上に乗せて少年の体を安定させ、少年が飛ぶことのできなかった頃によくしていた体勢を作った。

 

 

「ふふっ、懐かしい温かさだな……こうやって和友を乗せるのは久しぶりだ」

 

 

 藍は、背中から温かな体温が伝わってくるのを感じ、優しい笑みを作る。

 藍の背中には昔よく感じていた体温がある。少年が飛べなかった時によく感じていた温度があった。

 橙は、藍と少年の様子をどこか羨ましそうに見つめる。藍の背中からは、一定のリズムで呼吸する少年の寝息が聞こえてきた。

 紫は、距離をとっていた状態から近づき、再び藍のいるところまで移動する。そして、藍の背中にいる疲れ切っている少年の姿を確認した。

 

 

「和友は、私の見ていないところであんなスペルカードを作っていたのね。全く、とことん予想を裏切る子だわ」

 

 

 紫は、少年の疲れ切った様子を見て今後の予定を告げる。

 

 

「今日は能力の練習はできそうにないわね」

 

「そうですね。今日はお休みにしましょう」

 

「えっ? 今日は練習お休みなんですか?」

 

 

 橙は二人の言葉に期待を抱え、声を高くする。少年の能力の練習が無くなるのならば、自分の練習の時間も無くなると期待しているようだった。

 

 

「和友の能力の練習が休みになるのなら、私の妖力制御の練習も休みにならないですか?」

 

 

 橙は、少年の能力の練習が無くなるという流れにすかさず乗ろうと、目を輝かせて藍と紫にもう一度質問を投げかける。

 藍と紫は、お互いに顔を見合わせるとかすかに笑い、橙の顔を見つめ、言葉を吐き出した。

 

 

「ならないな」

 

「ならないわね」

 

「私だって頑張ったのにぃ……」

 

 

 藍と紫の二人は、あまりに簡単に橙の思惑を一蹴した。橙は、こうまで簡単に断られると思っておらず動揺しながらなんとかならないかと涙ながらに二人に訴える。

 

 

「くっくっ……」

 

 

 藍は、橙の必死な様子に笑いをこらえる。紫も、同様に笑みを浮かべている。藍も紫も、最初から橙の妖力制御の練習も休みにするつもりだった。

 

 

「冗談だよ。今日はお休みにしよう。怪我の方も悪化しないかちゃんと見なければならないからな」

 

「やったぁ! 藍様大好きです!」

 

「とことん甘いわね……」

 

 

 橙は、嬉しそうに藍に抱きついた。

 紫は、現金な橙の反応と藍と橙のやり取りに苦笑する。本当にみんな甘い。そして、それをはっきりと咎めることができていない自分も甘い。

 紫は、そっと藍の背中に乗っている少年の頭に手を伸ばす。

 

 

「どうしようかしら……」

 

 

 紫は、眠ってしまっている少年の頭をゆっくりと撫でる。先程はあった少年から反応は、何一つ返ってこない。

 紫は、反応を見せない少年から少し寂しそうに手を離すとゆっくりと地上へと降りていった。

 

 弾幕ごっこは、藍の敗北という形で幕を閉じる。

 少年は、藍から初めての勝利を勝ち取った試合となった。

 今回の弾幕ごっこは―――大きなものを紫の心に落としていった。

 

 

「これから、どうしていくべきなのかしら……和友も、藍も……」

 

 

 藍の少年に対する依存性。

 離れることができなくなるほどに、べっとりと浸かってしまっている。

 その温かさに外へと出られなくなってしまっている。

 このまま突き進んでしまえば、最悪の未来が想定される。

 それは、藍にとっても、少年にとっても。

 

 

「私も……」

 

 

 ―――紫にとっても。

 終わりは、もうすぐそこまで迫って来ていた。



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朝が来た、1日が始まった

 少年は布団の中で目を覚ますと、二三度(まぶた)をぱちぱちとさせる。重くなった瞼を開けて目から光を取り入れる。少年の目には、大量の光が差し込んできた。

 

 

「あれ? もう朝……?」

 

 

 少年は、若干重く感じる体を起こし、周りを確認するように首を左右に振る。そこには、見なれた光景が広がっていた。

 

 

「ここは、僕の部屋か」

 

 

 少年は、片手を額に当て昨日のことを想起しようと記憶をめぐり始める。どうしてこうなっているのだろうか。どうして部屋で目覚めているのか。あの時、何があったのだろうか、思い出してみる。

 

 

「弾幕ごっこをやった後、疲れてそのまま眠ちゃったんだっけ……?」

 

 

 少年の記憶は、藍と弾幕ごっこをやった後からすっぽりと無くなっていた。

 それもそのはずで、少年は弾幕ごっこの練習を終えた後、疲れ切ってそのまま寝てしまったのだから。記憶なんてあるわけがなかった。

 

 

「……明るいな」

 

 

 先程も説明したが、部屋の中にはすでに外からの明かりが差し込んでいる。

 お日様は、もう起きなければならない時間だと目に痛いぐらいに知らせてくれていた。

 

 

「考えている場合じゃない、早く居間に行かないと」

 

 

 少年は、今の自分が置かれている状況を理解すると、一度背伸びをしてから布団を抜け出した。

 

 

「寒い」

 

 

 布団の外はまだ少し肌寒い。

 少年は、軽く肌をさする。外から差し込んでくる光の量は随分と多く感じるのに、気温はまだまだ低いままである。日が昇ってから時間が余り経っていないようで、空気が温かくなっていないようだった。

 少年は、着替えることなく、布団をたたむことなく自分の部屋を出て居間へと向かった。

 

 

「今何時だろう?」

 

 

 普段通りであれば、少年の体内時計はしっかりとしているため、起きる時間が大きくずれることはない。普段通りの生活を送っていれば、同じような時間に起きるはずである。

 少年の朝は早く、いつもであれば午前六時には起床が完了していることがほとんどである。

 しかし、昨日のことを思えば、普段通りに起きることができているのか分からなかった。昨日はあいにく普段通りの生活とは言い難い。眠りに入る過程がいかんせん特殊な状況だったため、寝坊したのではないかと少年の内心は穏やかではなかった。

 

 

(昨日は特殊だったからなぁ……7時を回ってなければいいけど。どうだろうか、いつも通りに起きることができているのなら、藍が朝ごはんの準備をしているはず……)

 

 

 少年は、少しばかり寝ぼけた頭のまま廊下を歩き、居間の扉を開けて中へと入った。

 少年の視界が居間全体へと広がる。少年の瞳には、ある人物の姿が映り込んだ。

 それは―――毎日のように見かけている人物、藍の姿である。

 藍は、朝食の準備を行っている最中のようだった。

 

 

(藍が料理をしているってことは、寝坊したわけじゃなさそうだね)

 

 

 少年は、藍が朝食の準備を行っている姿を確認し、わずかにざわついていた心を落ち着けた。藍が朝食の準備をしているということは、いつも通りの時間に起きることができきているのだろう。大きな誤差は無いようである。

 藍は、早起きの少年よりも基本的に早い時間に起きている。

 少年は、藍が起きるよりも早い時間に起きたことがないので知らないが、きっと5時半ごろに起きているのだろうと思っていた。

 

 

「藍、おはよう」

 

 

 藍の顔が少年の声が届いたと同時にはっと上がる。藍は、視界に少年の姿を入れると微笑みながら挨拶を返した。

 

 

「おはよう、和友」

 

 

 少年は、いつものように藍と挨拶を交わして視線を合わせる。二人の視線は、互いの存在を確かめるように相手の瞳の奥を貫いた。

 少年は、暫く視線を合わせると満足したように後ろを振り向き、次にやるべきいつもの動作に移る。

 朝起きた後、挨拶を交わした後にしていること―――それは顔を洗いに行くことである。

 

 

「顔を洗いに行ってくるよ」

 

「和友、タオルを持っていけよ」

 

 

 少年が顔を洗うために外へと足を向けると、藍は外へと歩き出そうとする少年を引きとめるように声をかけた。

 藍は、少年に渡すためにあらかじめ用意してあったタオルを右手で掴み、少年へと放り投げる。藍が放り投げたタオルは、空気抵抗を受けながら不規則に少年のもとへと飛来した。

 少年は、体を泳がせながらもタオルをキャッチする。

 

 

「おおっと!」

 

「よく取れたな」

 

 

 藍は、少年の一生懸命な動きに笑みを浮かべていた。

 少年は、藍の言葉からタオルを取らせる気がなかったのかと勘ぐる。

 

 

「こんなの余裕だよ。というか……よく取れたなって、取らせる気なかったの?」

 

「いや、和友ならばもちろん取れると思っていたぞ。私は、最初から和友を信じていたさ」

 

「藍、顔がにやけているよ?」

 

「これは、もともとだ」

 

 

 少年は、藍の昨日のことを引きずっていない様子に少しだけ安堵した。そして、藍が分かる程度に微笑み返し、藍に向けてお礼の言葉をかけた。

 

 

「ふふっ、タオルありがとうね」

 

 

 少年は、藍からタオルを受け取って外へと向かって行った。

 藍は、少年の姿が視界から無くなるまで少年を見つめ続ける。次第に少年の姿が見えなくなっていく。

 藍は、少年の姿を完全に見送ると一人残された居間で疑問を口にした。

 

 

「なぜ、和友は毎回居間を経由して顔を洗いに行くのだろうか? タオルなど、寝る前に準備しておけばいい話だと思うのだが……」

 

 

 少年の朝起きた後の行動パターンは、おおよそ決まっている。少年の朝の行動は単純なものであり、藍と挨拶を交わしてから外へと顔を洗いに行くというものである。

 少年が最初に居間へと向かうのは、タオルを取りに行く以外にこれといった理由は見当たらない。通り道にするには少し遠回りになり、効率的ではない。しいて寄る意味があるとすれば、すでに起きている藍と顔合わせて挨拶を交わすぐらいしかないだろう。

 しかし、少年は決まって居間を訪れてから顔を洗いに行くという順番で行動している。

 藍は、そこまで考えると嬉しそうに顔を緩め、勝手な想像をしながらぶつぶつと独り言を並べた。

 

 

「ふふっ、最初に私のもとに来てくれるのは、私としてもやぶさかではないが……」

 

 

 少年が最初に居間へと来るのは、もしかしたら少年がマヨヒガで生活を始めて一番初めにタオルを忘れたことを心のどこかで気にしているからかもしれない。ワンテンポ置くことでタオルの存在を思い出すきっかけを作ろうとしているのだろうか。それとも、別の理由が存在するのか。

 それは―――少年にしか分からないことである。

 そして、藍が勝手な妄想をして笑みを浮かべているとき―――少年は、マヨヒガの家を出て外へと足を進めていた。マヨヒガの外には、相変わらず青々とした緑が生い茂っている。もう、見慣れてしまった自然の壮大な光景が少年を迎えている。

 少年は、太陽から降り注ぐ光を感じながら足を前に進めていた。

 

 

「小川までは、だいたい百メートルぐらいあるよね。近いような遠いような、微妙な距離」

 

 

 少年は、毎朝顔を洗うために川まで歩いていた。そして、その道中いつも同じ疑問を頭の中に浮かべていた。

 

 

「どうして外で顔を洗うんだろう? 体を動かして目を覚まさせるためとか、何か理由でもあるのかな?」

 

 

 少年は、毎朝行っている習慣に対する疑問を口にした。家の中に水が流れているのに、どうして顔を洗う時に外に出る必要があるのか分からなかった。

 しかし、少年はそんな疑問を抱えながらもこの二年間ずっと外へと歩いて顔を洗っている。冬の時期を除けばという限定つきではあるが、間違いなく少年の習慣の一部となっていた。

 

 

「なんでなんだろう?」

 

 

 少年はいつも同じ疑問を抱えているが、実のところ疑問の答えは非常に簡単なものである。

 結局のところ少年は―――川まで歩く過程が好きなのである。川まで歩いて顔を洗うことが好きなのである。

 人間は、好きでもないことを長続きさせることができるほど―――習慣にまで昇華させることができるほど慣れに強くない。興味がないことが続かないのは、習慣にした時に刺激が足りな過ぎて、他に目を移りするためである。

 そういう意味では、小川まで顔を洗いに行っているのは、少年に自覚はないかもしれないが、外へと顔を洗いに行くという行為が少年にとって刺激があり、好きなことだからに違いなかった。

 

 

「毎日のように考えているけど、やっぱり答えは出ないんだよね」

 

 

 毎日考えているにもかかわらず少年の疑問が解消されないのは、単純に考えている時間が少ないから、少年が他人に答えを求めないからである。

 少年がもしも、マヨヒガに戻った後も疑問を抱えたままだったら答えはいずれ出ただろう。藍や紫に聞くことがあれば一瞬で回答が示されるだろう。

 答えが出ないのは、それを引きずって歩いていないから。引きずりたくないと考えているから。少年が答えを出したくないと思っているから以外の何物でもなかった。

 

 

「さてと……」

 

 

 少年は、疑問を抱えながらも軽快に足を進めて目的地へとたどり着いた。

 目の前には、どこから流れているのか分からない水の流れがある。ここが、いつも顔を洗っている小川である。

 少年は、タオルを肩へとかけると膝を折り、体勢を低くして水の流れに手を伸ばす。

 少年の両手は流れ行く水の中に入りこんだ。水は少年の手にぶつかり、小さく流れを変える。されど、少年の手によって変わるのは小さな動きだけで大きな流れは変わらず下流へと流れていく。

 少年は、両手にぶつかる水の冷たさを感じとって思わず顔をしかめた。

 

 

「冷たっ」

 

 

 少年には、温かいと冷たいを判別する境界線が存在する。温かいと感じるか、冷たいと感じるか、そこには明確な基準があった。

 目の前を流れている水は、少年の中の判断によると冷たいと判断されるようである。

 

 

「もっと温かくならないかな」

 

 

 少年は、水の冷たさに顔をしかめたまま両手で水をすくい、顔を洗う。水はとても冷たく、少年の意識を覚ますには十分な刺激となった。

 そんな動作を複数回繰り返す。すくっては顔にかける。少年の顔には、大量の水滴が付き、前髪には僅かに水が滴った。

 顔を洗い終えた少年は、藍からもらったタオルで顔に付着した水滴をふき取る。

 

 

「はぁ……」

 

 

 目をしっかりと開ける。視界には、光あふれる世界が広がっている。

 少年は、光から逃げるように瞳を閉じて、心に刻み込むように毎日呟いている言葉を発した。

 

 

「ああ、今日も一日頑張らないと……最後の最後まで、負けるわけにはいかないもんね」

 

 

 少年は、ゆっくりと瞼を開けて来た道を遡る。行きより少しだけ重くなった足取りで。確かに大地を踏みしめて。目を大きく開けて。前を向いていた。

 少年は、マヨヒガの玄関から入って廊下を歩き、居間へと戻る。

 居間には、起きた時と変わらず朝食を作っている藍の姿があった。変わっていることは、料理が少しだけ完成していることだけで、それ以外は変化が無い。

 少年は、藍のもとへ歩き、タオルを置くと二度目のお礼を告げた。

 

 

「タオル、ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 少年はその場で振り返り、迷うことなく一直線に縁側へと向かう。

 藍は、遠くへ向かう少年の後ろ姿に視線を送ると、すぐさま少年の行動を先読みした。

 いつものことだ―――。

 少年は縁側で腰を下ろし、軽く見上げるように顔を上げ、日の昇りかけている空へと意識を向ける。外からは、眩しいほどの光が降り注いでいた。

 

 

「はぁ~。うん、今日もいい天気だ」

 

 

 今日もいい天気になりそうである。

 少年は、植物が光合成をするように日の当たる面積が大きくなるように体を大きく広げ、肺にいっぱいの新鮮な空気を吸いこむ。新しい空気が、体の中をきれいにしてくれる。心に一陣の風が吹いていく。

 そっと目を閉じ、瞼を透過してくる光を感じ取る。瞼を閉じても、少しだけ明るさを感じる。瞼一枚分の壁など関係がないというように、光は真っ直ぐに降り注いでいた。

 

 そんな静かな居間には、ゆったりとした朝を満喫している少年の様子をじっと眺めている存在がいた。

 決して動かない視線が、まっすぐに少年を射抜いている。

 少年を見つめている存在―――もちろんそれは少年を除いて唯一起きている藍である。

 藍は、不安そうに言葉を口に出した。

 

 

「和友は、今なら大丈夫だろうか……?」

 

 

 少年は、いつもと変わらない様子である。毎日こなしているルーティンワークを行っている。昨日の弾幕ごっこの疲れを全く見せていない。いつも通り―――その言葉がよく似合っている光景だ。

 だったら、大丈夫なはず。

 でも―――。

 

 

「昨日あれだけ疲れていたのだ。今頼むのはまずいのかもしれないな……」

 

 

 藍は、もぞもぞと服の中にしまい込んでいた物を取り出し、そっと見つめた。

 

 

「でも、私は和友にして欲しい……和友にやってもらいたい」

 

 

 藍は、懐から取りだしたものを片手で握り、少年から隠すように後ろに回す。藍が握っているそれは、別に見られて困るものではないのだが、藍にとっては隠しておきたい気持ちが強かった。

 

 

「和友ならば、きっと大丈夫だよな」

 

 

 藍は、一人で勝手に納得すると足を動かし、忍び足になりながら少年のもとへと進む。何かを背中に隠した状態で、足音を一切立てずに空を見上げている少年の隣にごく自然に潜り込んだ。

 藍の音をたてないように静かにゆったりと動いている動作は、傍から見れば、とても優雅に見えただろう。慣れた動きは、洗練されたものを感じさせた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の様子を横目に伺いながら隣に腰下ろして座り込む。隣といっても少年の両手は太陽の光を効率的に浴びるために左右に伸びているので、少年と藍の間には若干の距離があった。

 藍は、チラチラと少年に視線を送る。全く動こうとしない少年は、ただ佇んでいるだけで、動きを見せない。

 藍は、気付かない少年に対して、もどかしそうに僅かに声を漏らした。

 

 

「えっと、そ、その……」

 

 

 少年の隣に座った藍は、若干恥ずかしそうに視線を泳がせる。少年は、藍の声が聞こえなかったようで特に気付く様子も見せなかった。

 

 

「その、だな……」

 

 

 藍は、視線を泳がせながらも空に顔を向けている少年に意識を向ける。少年は、空に吸い寄せられるように顔を動かさない。今の少年には、藍の微かな声など聞こえていないようだった。

 藍は、ここまで全く動きを見せない少年に居てもたってもいられず、しびれを切らした。

 

 

「か、かずとも……?」

 

 

 藍は、少年に隠すようにして背中に張り付けていた右腕をゆっくりと正面に出す。そして、少年に差し出すように、ゆっくりと前まで持ってきた。

 藍が右手で背中の後ろに隠すようにして握っていたのは―――毛づくろい用のブラシだった。

 藍は、ここで大胆な行動に出る。取り出したブラシを少年の右手に握らせたのである。

 

 

「お、お願いしますっ……」

 

 

 藍は、自身の両手で少年の手を包み込むようにして少年の右手にブラシを握らせた。

 手と手が優しく触れる。血液の通っている肉体の一部が重なり合う。

 藍は、自分の手が少年の手に触れた瞬間に、あることに気付いた。

 

 

「冷たいな……」

 

 

 少年の右手は、外の水に触れていたためか僅かに冷えていた。

 藍は、少年の手を温めるように暫くの間優しく包み込む。

 

 

「今温めてやるからな」

 

 

 藍の少年の手の温め方は、肌と肌とを合わせるというよりも、空気から感染するような温め方だった。藍の両手から長く緩い温かな温度が少年の右手に伝わっていく。日の光とは違った温かさが指先から掌へ伝達された。

 藍は、少年の手の温度がある程度まで温まるのを感じると安心した表情を見せる。

 

 

「よし、これで大丈夫だな」

 

 

 藍は、伸ばした両手を静かにゆっくりと離す。少年の手には、藍の手と同じ温度とブラシが残されていた。

 その光景を見た瞬間―――藍は少年が自分の想いを受け取ってくれたのだと悟った。

 日の光をできるだけ広い面積で受けようと思うのならば、手は開いているべきだ。事実、ブラシを握らせていない少年の左手は開かれている。それに、完全に力が抜けている場合、ブラシはもれなく重力に従って右手から零れ落ちることになる。

 それなのに、ブラシは支えを得てその場を維持している。ブラシが右手から落ちないということは、少年がブラシを受け取ってくれたということ以外になかった。

 藍は、少年が自分の意志でブラシを握ってくれているのだと―――少年が自身の意図をくみ取ってくれたと解釈し、期待に胸を膨らませた。

 だが、少年は静かに何も言わずに太陽の光を浴び続けていた。ブラシを握っているという点以外、何も変わらなかった。

 藍は、反応を示さない少年の様子を見て不安を抱える。

 

 

「あ、あの、かずとも?」

 

 

 藍は、少年に対してこの先の言葉を口にしたくなかった。

 毛づくろいをして欲しいなんて、言いたくなかった。口に出すのが躊躇われた。恥ずかしかった。大のつく妖怪が、まだ15歳にもなっていない少年に何かを頼むということが恥ずかしいことこの上なかった。

 それでも藍は、してほしい気持ちには勝てないようで、顔を赤くして恥ずかしさに耐えながらも、自身の欲の赴くままに少年に向けて口を開いた。

 

 

「今日も、たっ、頼む」

 

 

 藍は、見栄や体裁、自尊心よりも少年に毛づくろいをしてもらうことを選択した。

 少年は、藍の言葉についに反応したのか、目を開けて大きく深呼吸をする。

 

 

「すぅ~~はぁ~~~」

 

 

 少年は、一度だけの深呼吸を終えると優しそうな顔を藍へと向けた。

 藍は、恥ずかしさに顔を赤くしたまま吸いこまれるように少年の顔を直視する。

 少年は、一言もしゃべらない。飲み込んでいる光を吐き出さないようにするように一切口を開かず、優しく微笑んでいる。藍は、少年の引き込まれるような視線に目を逸らすことができなくなった。

 少年の両手が膝へと下ろされる。

 

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、目線を藍へと向けた状態で自身の膝をポンポンと二度叩いた。

 

 

「ああ! 今日もよろしく頼むぞ!」

 

 

 藍は、少年のサインに満面の笑顔を浮かべると喜びの声を上げ、嬉しそうに少年に対して背を向ける。藍の後ろから生えている9本の尻尾が少年に対して平行に差し込まれた。

 藍の尻尾はとても大きいため、9本全てが少年の膝の上に収まることはない。せいぜい二本が限界である。

 藍は、すぐさま毛づくろいをしてもらう体勢を整え始めた。

 

 

「~~~~」

 

 

 藍は、鼻歌を歌いながら尻尾を少年から離すようにできるだけ縁側の外へと向ける。藍の尻尾は少年の目の前でゆらゆらとうごめき、ふらふらと移動していく。

 少年は、いつもと変わらない藍の尻尾の動きに苦笑した。

 

 

「ふふっ……」

 

 

 藍の心は、期待と緊張で暴れている。藍の尻尾は、心の動きを表すようにわらわらと動いていた。

 藍の尻尾はある規則性をもって動いている。ゆらゆらと無秩序のように見えて、それとなく動きに特徴がある。まるで、一本一本が個別の性格を持っていて、独自に動いているように見えた。

 ただ、毛づくろいの邪魔にならないようにと動いているはずの藍の尻尾は、すぐ傍にいる少年に当たらないのかというと、そんなことはなく、少年の体に引き寄せられるように近づき接触する。そして、少年の体に接触すると、尻尾はビクッと驚くように離れる。藍の九本の尻尾はそれぞれが意志を持っているように動き回り、少年にぶつかる、離れる、近づくを繰り返していた。

 少年からは、藍の尻尾が待ち遠しそうに、今か今かと順番を待っているように見えた。

 

 

「そうだなぁ、どれからにしようか」

 

 

 少年は、一本の尻尾に狙いをつける。

 

 

「まずは、これからにしようかな。特に順番に意味があるわけじゃないもんね。どうせ、全部やるんだから」

 

 

 少年は、藍から生えている9本の尻尾のうちの一本を両方の掌の甲で誘導して膝の上に移動させる。

 藍は、少年の行動に嬉しそうに言葉を投げかけた。

 

 

「和友は優しい人間だな。私の尻尾を決して手で掴もうとはしない」

 

「だって、掴んだらびっくりするでしょ? 別に僕じゃなくても、誰だって掴んだりしないよ」

 

「ふふっ、そういうことを当然のことのように言える和友だから、優しいと言っているのだ」

 

 

 少年は、決して藍の尻尾を手で掴むようなことをしなかった。初めて毛づくろいをした時から、さもそれが当然だというように行動した。

 しかし、藍の尻尾を毛づくろいする際に手で掴もうとしないというのは、意外に難しいことである。

 

 

「普通であれば手で掴む。何も気にせず、一番楽な方法を取るだろう。だが、和友は最初から違った」

 

 

 手で掴んだ方が楽なのだから―――普通であれば掌を使ってしまうだろう。それを拒否して手の甲で触れることなど、相手に気を遣わなければ絶対にできないことである。

 

 

「私は、そんな和友だからこそ毛づくろいを任せているのだからな。いつも、期待している」

 

「うん! 藍の期待に沿えるよう頑張るからね!」

 

「ああ」

 

 

 藍は、嬉しそうに呟くと少年に選ばれなかった尻尾をゆったり動かしていく。どうも自分の尾の9本の内、どの尻尾が少年に触られているのか分かるようで、少年の触った尻尾以外を毛づくろいの邪魔にならないように拡散させた。

 少年は、藍の尻尾の動きを見て思わず笑う。

 

 

「ふふっ、藍の尻尾は一本一本意志を持っているみたいに見えるね」

 

「分かっていると思うが、尻尾に意志はないからな」

 

 

 藍は、尻尾に意志はないと言う。それにしては気持ち悪いぐらいにバタバタと揺れている。

 少年は、藍の言葉を聞いて意地の悪い笑みを浮かべた。

 

 

「分かっているよ。動かしているのは、あくまでも‘藍の意志’だもんね」

 

「そう言われるとなんだか変な感じがするな……」

 

「気にしちゃ駄目だよ。特に深い意味なんてないからね。それに、間違っていることを言っているわけじゃないでしょ?」

 

「それは、そうなのだが……」

 

 

 藍は、納得できないようで頭をわずかに傾ける。

 少年はそんな藍の様子を気に留めることなく、楽しそうに声を漏らしながら膝に乗った尻尾の毛を掌で一度だけ均す。そして、ブラシの握った手を藍の尻尾に向けて下ろした。

 ブラシが尻尾に程よく沈む。

 藍は、少年が尻尾をブラシで擦る度に気持ち良さそうに目を細めた。

 

 

「どう? 気持ちいい?」

 

「ああ、やっぱり誰かにしてもらえるというのはいいものだな」

 

 

 現在の少年と藍の位置取りは、藍にとって非常にありがたいものだった。もし正面を向き合っていたらと思うと、気恥ずかしさに耐えられなかっただろう。

 

 

「和友は、優しく丁寧にしてくれるから後でやり直す必要も無くて助かるし……それに、とても心地いい」

 

「そう言ってもらえると、毛づくろいをしている側としては嬉しいね。毛づくろい、上手くできているようで安心したよ」

 

 

 藍は、少年の言葉に少年が初めて毛づくろいをした時のことを思い返した。藍の尻尾の毛づくろいは、少年の朝の日課になっている。

 毛づくろいをするきっかけは、些細な少年の一言だった。少年が毛づくろいを一度やってみたいと言ったのが始まりで、その時から続いている日課となっていた。

 

 

「やり始めたころに比べたら格段に上手くなっているぞ」

 

「そっか」

 

 

 少年は、藍に褒められて少しだけ嬉しそうに「そっか」とだけ呟く。

 藍は、少年の動きがわずかに変わるのを感じ取った。少年の動きが、心の喜びを表すようにほんのり速くなっている。

 

 

「ふふっ」

 

 

 藍は、口元を手で押さえて少年にばれないように笑う。そして、笑いを押し殺すようにすぐに飲み込んだ。

 少年の今の反応は、藍が初めて少年に会った時とは大違いの反応である。藍が最初に少年と話した時は、真面目で律儀で、どこか天然で……そんな印象を持った。

 でも、今では最初の印象は、原形を留めていないほど様変わりをしている。

 世話好きで―――頼まれると断れない優しさがあって。

 責任感の塊で―――やらなきゃいけないことをやらないと気が済まない性格で。

 頑固で―――反論されても自分の意志を曲げなくて。

 気持ちが強くて―――何かをしようとする勢いばかりが強くて。

 負けず嫌いで―――自分自身に負けることを何より嫌っている。

 

 

「本当に、年月が過ぎるのは早いな」

 

 

 藍は、毎日少年と日々を過ごしていく度に、少年の印象を変えていった。藍には、もはや少年と会ったころの印象はほとんど残っていない。残っているのは、どこか天然が入っているような気がするという部分だけである。後の部分は、綺麗に別のもので上書きされ、綺麗に、鮮やかに彩られ、藍の中に確かに座っていた。

 

 

「僕からしてみれば、結構長かったと思うんだけど」

 

「和友は人間だからな。妖怪である私にとっては、一瞬のような短さだったよ。あっという間、特にここ最近は時間が経つのが早いように感じる」

 

 

 藍は、そっと顔を上げた。

 空からは、まぶしく感じるほどの光が降り注いでいる。

 藍は、光に導かれるように過去を思い返した。

 あれは―――紫様の料理が始まった次の日からだろうか。少年が朝に毛づくろいをしていた藍に対して放った言葉が事の始まりだった。

 

 

「思えば、和友に毛づくろいをしてもらうようになって、もう2年近くになるのか……」

 

「そうだね……幻想郷に来て、2年経った」

 

 

 少年も藍の言葉で過去を思い出す。幻想郷へ来てからのことを思い返す。ここ二年の出来事を振り返り、どこか物憂げに呟いた。

 

 

「僕には、幻想郷に来て良かったのか、来るべきじゃなかったのか、未だに分からない。みんなと会えたことは確かに良かったけど……」

 

 

 少年の心の中には、未だ幻想郷へ来たことを後悔する気持ちが存在している。幻想郷に来なければ良かったという気持ちと、幻想郷に来てはならなかったという気持ち、外の世界に帰りたいという気持ち、様々な気持ちが混在していた。

 藍は、少年の言葉を聞いて心の中に沸き立つ罪悪感から視線を下げる。少年の言葉の中からは、複雑な感情が渦巻いていることが感じられた。

 

 

(和友は、外の世界に帰りたいのだろう……)

 

 

 藍は、少年が外の世界に戻りたいと思っていると考えていた。そしてその考えは杞憂でも間違いでもなく、事実なのだと心の奥底で理解していた。

 外の世界で生きてきた少年がそう思うのは、当然の帰着である。外の世界に両親の遺体があり、死んでいた場所があり、生きてきた歴史がある。そこに帰りたいという帰巣本能は、生き物ならば誰もが持っているものである。

 特に、こうして戻ることが厳しい状況に立たされる、習慣が全く違う環境に追い込まれた時―――その思いは爆発するように燃え広がる。それが分からない藍ではなかった。

 だが、少年にかける言葉が見つけられず、何ひとつ言葉が口から出てこなかった。

 

 

「…………」

 

 

 外の世界に帰りたい―――まぎれもなくその言葉は藍にとっての劇薬である。

 少年に向けて言いたい言葉はたくさんある。慰めてやりたい気持ちはしっかりと存在する。外の世界に返してあげたいという気持ちも、少年の望むとおりにしてあげたいという気持ちも、藍の中に確実にある。

 しかし、藍は、心のどこかにある言葉を声に出すことができなかった。

 

 

「和友は……」

 

「なに?」

 

「…………」

 

 

 口に出せないのは、それができないからではない。少年に対して外の世界に戻って欲しくないという気持ちが藍の中で強かったからである。

 藍は、少年に幻想郷に居続けて欲しいと思っている。それこそ、死ぬまで幻想郷にいてくれれば、とすら思っている。

 もしも、少年が外の世界に戻ってしまえば、幻想郷を出ることができない藍に少年と会う術はなくなるのだから。

 かといって、少年に幻想郷に留まってほしいと言えるだろうか。きっと、そんなことは言えない。言ったら少年が困ることが目に見えているから。迷惑をかけてしまうから。

 だから―――外の世界に戻ってもいいと口にできないのだ。

 だから―――幻想郷に居続けてほしいと口にできないのだ。

 藍は、少年に特別な感情を抱いている。心には、さまざまな感情が息づいている。守らなければならないという保護欲もあれば、家族としての家族愛もある、その他にも複雑な思いが混在していた。

 藍は、心にある黒い気持ちを必死に抑え、顔を僅かに歪めながら噛みしめるようにして口を閉ざした。

 

 

「なんでもない……」

 

「そっか」

 

 

 思っていても口にしてはならないことはある。

 藍は、少年の重荷になるようなことを―――決して口にしたくなかった。

 

 

(どうして私は何も言えないのだ。私には、ここにいて欲しいと甘えることも、帰ってもいいと和友の背中を押すこともできない。なんて中途半端……)

 

 

 藍は、出てこようとする想いを必死に飲み込む。

 藍の表情は、非常に苦しそうだった。

 少年からは、位置的に藍の表情を見ることができない。少年は、藍の様子を気にすることなく、慣れた手つきで藍の毛づくろいを進めていった。

 

 

「ん~」

 

 

 少年は、一通り綺麗にブラッシングをすると、根元の方から細かく無駄なく毛づくろいを行う。少年が尻尾の根元の部分の毛づくろいをすると、くすぐったそうに尻尾がもぞもぞと動いた。

 藍は、尻尾の敏感な部分を触られて声を漏らした。

 

 

「ううっ……」

 

 

 藍の尻尾が嫌がるように少年の膝からどんどん浮き上がる。

 藍にとって尻尾の根元部分は、デリケートな部分なのだろう。ざわつく尻尾に同期するように藍の体に力が入り、肩が上がった。

 

 

「いつも思うが、根元はくすぐったいな。自分でやっている時はそうでもないのだが」

 

「ん~」

 

 

 少年は、藍の言葉に対して何も言わない。いつものことだと、何一つ気にする様子もなく、楽しそうに尻尾の毛づくろいを進めていく。

 藍は、少年が尻尾の付け根の部分を梳いている間、ずっともぞもぞとして、打ち震えていた。

 

 

「さーさっと。すーっと」

 

 

 少年の毛づくろいには、僅かなやり残しさえも残さない、というような意志が感じられる。

 少年は、藍の毛づくろいに対して決して手を抜かない。気分が悪いときも、体調が優れないときも、決して手を抜くことはしなかった。

 手は抜かない―――それはどの場面でも適応される少年の信条である。そんな手を抜かない少年だからこそ、藍は自分の体の一部である尻尾の毛づくろいを任せたのだろう。

 少年の藍の尻尾の毛づくろいは、着実に終わりに向かって突き進む。

 そして、少年の動きと対照的に、藍の心は停滞したまま止まっていた。



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甘える、心配する

 少年は、尻尾の根元部分の毛づくろいを終えて手を止めた。

 

 

「うん、完璧だね」

 

「ふぅ、やっと終わったか……」

 

 

 藍の尻尾は、しおしおと力なく少年の膝の上に着地する。尻尾が上がるのと同時に上がっていた藍の肩は、尻尾の動きに合わせてどんどんと下降した。

 

 

「力入りすぎだよ。もっと力抜いてリラックスして」

 

「そうは言うが、くすぐったいものはくすぐったいのだ。我慢などできん」

 

 

 藍は、少年が尻尾の付け根を毛づくろいするのを嫌がるようなそぶりをするが、なんだかんだで少年の行動を止めようとはしない。それはまさしく、藍が心から嫌がっているわけではないということを示しているようだった。

 

 

「でも、根元もやってほしいんだよね? 前もなんだかんだ言って、結局全部やったしさ」

 

「ああ、根元の部分は、その……なんというのか、癖になる感覚があるというか」

 

「癖になる感覚?」

 

「ああっ、もう! いつもどうしてそういうところは察しが悪いのだ!」

 

「そんなこと言われても……僕は別に心が読めるわけじゃないんだよ? あくまで、藍の気持ちは藍にしか分からないんだからね」

 

 

 藍は、少年の言葉に押し黙ると、僅かに頬を上気させて口を開く。

 

 

「……気持ちがいい」

 

「なにかな?」

 

「根元部分も気持ちがいいから、気にせずにやってくれと言っている!」

 

「ふふっ、了解だよ。次の尻尾に移るね」

 

 

 少年は、藍の反応に少し苦笑しながら次の尻尾に手を伸ばす。同様に手の甲を使って次の尻尾を自身の膝へと動かした。

 藍は、くすぐったさで捻じ曲がっていた背中を真っ直ぐに伸ばし、同じ体勢を作って待ち構える。

 藍の尻尾には、どうやら先程の影響がまだ残っているようで、少年の膝の上にまな板のようにビンッと乗っていた。

 

 

「さぁ、次々行くよ」

 

 

 少年は、膝の上に二本目の尻尾を乗せると右手に握っているブラシをあてがう。

 藍は、少年が別の尻尾の毛づくろいを始めると一気に顔を緩め、温泉に入った時のような力の抜ける声を出して息を吹き出した。

 

 

「はぁ~~」

 

 

 藍の尻尾は一気に緊張状態が解け、力無く少年の膝に横たわる。

 尻尾に力が無くなったのを感じた少年は、はっとした様子で一度手を止めた。

 どうしてとまるのか、続きは?

 早くしてくれ。

 藍は、毛の止まった少年に催促するように声を発した。

 

 

「どうした? まだ終わっていないぞ?」

 

「藍……」

 

 

 少年は、危機迫った様子で目の前にある現実に対して今後起こるだろう未来を予測していた。

 今の状況は過去にも見たことがある。現状況に既視感を覚える。少年の頭には、過去に紫から注意されたことが頭をよぎっていた。

 

 

「絶対に寝ちゃダメだからね。そんなことしたらまた紫に怒られるから」

 

「ああ、分かっているさ」

 

 

 藍は、少年に告げられて困った表情を浮かべた。

 紫に叱られたことは、藍にとっても苦い記憶だった。

 藍が紫に怒られたのは他でもない、最初に興味本位で少年が毛づくろいをした時のことである。

 藍は、少年に毛づくろいをしてもらっている間、あまりに気持ち良くなってしまい眠ってしまったことがあった。

 

 

「和友の毛づくろいで気持ちよくなって寝てしまったときは、後で紫様にこっぴどく怒られたからな……」

 

 

 少年は、毛づくろいをしている最中に気持ち良さそうに寝てしまった藍を起こさなかった。

 寝てしまった藍は、その後も起きることはなく、時間は―――昼を回った。

 紫は、12時を回るころに起床してきた。紫が最初に向かうのは、藍の存在する居間である。

 紫は、縁側で無防備な状態で寝ている藍を見つけ、これでもかというぐらいに叱りつけたのである。

 

 

「他人に毛づくろいをしてもらうことがあれほど気持ちいいとは思ってもみなかったのだ。なにせ、誰にも任せたことがなかったからな。気付いたら寝てしまうほどに、気を休める結果になるなんて予想もしていなかった」

 

 

 普段自分で毛づくろいをしていた藍にとって、誰かにやってもらう感覚というのは新鮮なものだった。

 

 

(それにしても、どうして私は和友に毛づくろいをさせたのだろうか? 紫様にすらやらせたことがないというのに……)

 

 

 藍は、自身の尻尾の毛づくろいを誰かにさせたことはなかった。人間の中で生活していた時は当たり前だが、他の誰に対しても毛づくろいをさせたことはなかった。

 藍は、思い返してみると誰にもさせなかった毛づくろいをどうして少年に対して許したのか分からなかった。主である紫ですら触らせなかった尻尾の手入れを、なぜだか少年には任せてもいいと思ってしまった。

 結論として気持ちがよかったし、毛並みも綺麗に整えられているから問題はないのだが、どうして任せてもいいと思ってしまったのか、理由が分からなかった。

 

 

(いや、考えても仕方がないか。きっと和友がせがんだから任せた。そして、問題がなかったから続けさせている。ただ、それだけのことではないか)

 

 

 藍は、頭の中に巡る思考を止めた。昔のことを考えても仕方がない。任せていて、問題が起こっていないという事実が存在するのだから―――気持ちよかったといういい結果が出ているのだから受け入れればいいのである。

 

 

「まぁ、和友にやってもらっていたから眠ってしまうほど気持ちよかったのかもしれないな」

 

 

 藍にとって尻尾の毛づくろいというのは、人間でいうマッサージをするようなもの、耳掃除をするようなものである。

 こういったものは、自分自身でやるときと他の人にやってもらう時で酷く違う気持ちになることが多い。藍が毛づくろいをしてもらっていて眠くなったり心地よくなったりしたのは、人にマッサージしてもらっていると眠くなってしまうのと同じようなものであり、人に耳かきをしてもらうと酷く心地よい気分になるのと同じようなものである。

 藍は、心地よい感触に酔いしれていた。こういったことは、信頼のおける相手や精度のある相手に対してだけしか任されられない作業ではあるのだが、少年の場合は―――考えるのは止そう。

 少年は、藍の褒めるような台詞に笑いながら答える。

 

 

「はははっ、おだてても何も出ないからね」

 

「何も要らないよ。私は、ただこの生活が続けばそれだけで十分だ。それで私の世界は、十全なのだよ」

 

 

 藍は、朗らかな時間を過ごしている中で、先程話していた寝てしまって紫から怒られたときに不思議な感覚になったことを振り返った。紫の怒り方には、普段とは違うものがあるように思えたのである。

 

 

「和友、先ほどの話なのだが……」

 

「何? 紫が怒った時の話のことかな?」

 

「そうだ。その話だ」

 

 

 藍は、当時心に湧いた疑問を今になって口にした。

 

 

「私には、分からないのだ。紫様があれほど怒られた理由が……」

 

 

 藍は、寝ていたことに対して紫が酷く怒った理由が分からなかった。紫の怒り方は、普段の怒り方と質が違っていた。いつもの怒り方よりも、重かった。

 だからこそ、これほどに記憶の底に刻まれている。今思い出しても鮮明に思い出せるだけの新しさがある。

 

 

「確かに、寝てしまって仕事が(おろそ)かになったことは怒るに値する理由だろう。しかし、紫様の様子を見ているとそれだけではないような気がしてならないのだ」

 

 

 紫の怒り方は、どう見ても仕事を置き去りにして寝ていることに対して怒っているようには思えなかった。仕事をさぼったことで怒られたことは、これまでだって何度かある。他に気を取られていたり、邪魔が入ってい遂行できなかったりと、たびたび怒られる機会はあった。

 あれは、その怒り方とは違う。藍には、紫があれほど怒る理由に心当たりが全くなかった。

 

 

「紫様は、なぜあれほど怒られたのか……」

 

 

 藍が分からなかったことは、もうひとつある。

 紫が怒っている理由を告げなかったことである。正確には、怒っている理由は告げられたのだが、あれ程怒った理由を話してくれなかった。

 いつもより激しく怒っている理由がなんなのか分からなかったこと、それを紫が告げなかったこと、この二つが藍の頭の中で引っかかっていた。

 藍は、自分なりに考えた紫が怒った理由を少年に伝える。

 

 

「もしや、私が和友を独占しすぎているせいかとも思ったのだが……」

 

 

 最終的に藍は、唯一考えられた可能性として少年の独占を提示した。

 紫の独占欲が強いのはいつものことである。自分が目をつけている物に対して誰かが触るようなことを基本的に許さない。悪影響を与える可能性があるのならば、なおさらその傾向は酷くなる。

 藍は、紫が怒った理由が独占欲から来るものではないかと予測していた。

 しかし、少年は藍の意見を聞いた瞬間に藍の提示する可能性をバッサリと切り捨てた。

 

 

「紫に限ってそんなことは無いと思うよ」

 

「どうして言い切れる?」

 

「紫の仕事を僕がやっているわけではないから、藍が僕を独占していることに問題があったわけじゃないはずなんだ。紫は、藍に僕を独占されても特に困るわけじゃないからね」

 

 

 少年の反論は、紫の仕事を少年がやっているわけではないのだから、少年が藍に拘束されたところで何一つ問題は起きないという至極当然のものだった。

 少年は、さらに追加で持論の補強を図る。

 

 

「それに、もしも藍の言う通りだったら普段から紫に怒られることになるでしょ? 僕、大体藍と一緒にいるからね」

 

「むむむ……」

 

 

 藍は、少年の意見を聞いて唸った。確かに、少年を独占していると言えるような現在の状況に対して紫がそれほど怒っていない様子を見ると、藍の意見は間違っているように思われる。

 

 

「でも、藍はもうちょっと僕から離れた方がいいかもしれないね。昔ほどべったりではなくなったっていっても、それでもまだまだ紫に怒られることも多いしさ」

 

「そんなことを言わないでくれ。私は、これでも随分と我慢をしているのだ……これ以上は、気持ちが持たない」

 

「以前までは、お風呂にまで付いてきたもんね」

 

「あれは、体を洗ってあげようと思ってだな」

 

「親切から言ってくれるのは嬉しいけど、一人でできるから」

 

 

 少年は、会話をつづけながら尻尾の毛をすくうブラシを動かし続ける。あくまでも途中で藍の尻尾の毛づくろいを止めることはしない。まるで、現代における床屋のような雰囲気である。作業をしながらコミュニケーションを図っていた。

 

 

「僕が頼りないのがいけないのかな? だから藍が心配するんだよね?」

 

「私は、例え和友が強かろうと、紫様より優秀になろうとも、扱いを変えることはないと思うぞ。私にとっては、和友はずっと和友のままなのだからな」

 

「僕は、僕か。それもそうだね。僕が変わってしまうわけじゃないもんね」

 

 

 藍は、そこまで話すと逸れてしまった話を軌道修正し、不思議そうに少年に答えを求めた。

 

 

「それはそうと……和友は、紫様がどうしてあれほど怒ったのか分かるか?」

 

「藍は、本当に分からないの?」

 

「ああ、私には分からない」

 

 

 少年は、頭のいい藍が回答を出せないことを不思議に思った。

 藍の頭の良さは、今までにずっと見てきている。そんな頭のいい藍が、自分の考えている程度の考えが浮かばないとは思えなかった。

 しかし、少年から見た藍は本当に分からないようで頭を悩ませていた。

 

 

「紫様は、確かに怒っている理由を教えてはくれたのだが……私は、それだけではないような気がするのだ。あれ程怒られる理由が何かあるはずだ」

 

「ちなみに、紫は何て言っていたの?」

 

 

 藍は、ゆっくりと空を見上げ、思い出すように間をおいて言葉を口にした。

 

 

「おおよそになるが、和友にそれ以上甘えるのは止めなさい、私の式としての威厳はどうしたの? という感じだな」

 

「んー」

 

 

 藍は、それとなく紫のモノマネを取り入れて喋った。藍の紫のモノマネはそこそこのクオリティだった。それこそ、紫を知っている人ならば少しの感動というか、反応がおかしくなりぐらいの精度である。

 ただ、少年は何一つモノマネに対するコメントはしなかった。似ているか似てないかで言えば、似ているのかもしれない。

 だが、少年の感覚的には違っていた。

 違うもの扱いだった。

 ただ、それだけのこと。

 そんなどっちでもいいことである。

 

 

「甘えるのは止めなさい……ね」

 

 

 少年は、紫が何を思ってその言葉を口にしたのか思考する。藍の言葉を信じるのであれば、紫が藍に怒った理由は、少年に甘えていたからである。

 紫は、どうして甘えてはいけないのかについては、一切理由を告げていない。どうしてそれほど怒ったのかも告げていない。

 

 

「…………」

 

 

 少年は、何やら悩んでいるようで沈黙を作り出す。

 藍の言葉からは、藍が本当に紫の怒っている理由を分かっていないことが理解できる。同時に、紫がその理由を告げていないことも把握できた。

 

 

(多分、理由は……)

 

 

 理由は、なんとなく分かる。心当たりは確かにあった。

 ただ、紫が藍に告げていないならばその内容を安易に話してはいけないのではないかと思った。

 

 

「へぇ……紫は話さなかったんだね。なら、僕が話すわけにはいかないか……」

 

「それは、私には言えないことなのか? 私には言えないから紫様も話してくださらなかったということなのか?」

 

 

 藍は、少年の何か知っているような雰囲気が気になり、少年に向けて切実に訴えた。そして―――「言えないことなのか?」という言葉を言った瞬間に、不意に恐怖に襲い掛かかられた。

 脳内に半年前の出来事がフラッシュバックしてくる。

 言えないこと。

 知らないこと。

 隠されている。

 知らぬ間に―――大事なものが失われる。そんな恐怖にさいなまれた。

 藍は、体の震えを抑えるように自身の腕を強く掴む。

 

 

「和友、以前のような隠しごとだけは止めてくれよ。私は二度とあんな想いをしたくはないのだ……」

 

 

 少年から何かを隠されているということは、それだけで藍を不安にさせた。

 それほどに―――藍にとって昔の出来事は影響が大きく、深い傷跡を残している。それこそ、心が壊れるぐらいの影響はあった。

 少年は静かに首を左右に振り、藍を安心させるように言葉を選ぶ。藍が不安に思わないようにはっきりと断言した。

 

 

「藍に重荷になるようなことを隠しているわけじゃないよ。ただ、紫は藍のことが心配なだけ。紫は、半年前のことがあったから不安なんだよ。全部壊れてしまうのがさ……」

 

 

 事実―――紫は、藍に関して不安を抱えている。昨日の弾幕ごっこでも、心配そうに見つめていた。

 

 

「紫は、強いようで強くないから。僕と同じで隠すのが上手いから。僕と違って、諦められる人だから。だから、藍がいなきゃいけないと思うんだ。藍が紫を支えてあげなきゃいけないと思うんだ」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いて考え込む。そして、空気が固まった今、少年は頭を使っている藍に向けて思考を停止させる爆撃を放った。

 

 

「藍は、昔に比べてずいぶんと甘えん坊になったからね」

 

「あ、甘えん坊っ!?」

 

 

 藍は、少年の言葉に顔を一気に赤らめた。

 藍にとって甘えん坊という言葉は、長年生きてきて一度も言われたことも無い言葉だった。

 甘えん坊とは、「人になれ親しんでわがままな子供」「あまったれ」という言葉である。藍の顔が羞恥心で真っ赤に染まる。さすがの藍も甘えん坊と言われるのは恥ずかしいようだった。

 藍にとって救いだったのは、顔が赤くなっているのを少年に見られていないことである。藍は少年に対して背中を向けている状況のため、少年からは藍の表情を確認することができない。藍にとって、少年に見られていないのが唯一の救いとなっていた。

 藍は、少年の甘えん坊という言葉に慌てて反論の言葉を口に出そうと試みる。

 

 

「か、和友っ!! 甘えん坊はさすがに言いすぎではないか!?」

 

 

 藍は、沸き立つ恥ずかしさを象徴するように尻尾を慌ただしく動かす。少年の目の前では、九本の尻尾が縦横無尽に動き回っていた。

 少年は、動き回る尻尾を抑えるように軽く掌で尻尾を膝へと押し込み、取り乱す藍を落ち着かせる。

 

 

「ほら、尻尾をそんなにもぞもぞと動かさないでよ。毛づくろいできないでしょ?」

 

「す、すまないっ。取り乱したな」

 

 

 藍は、少年の言葉で自分が取り乱していることに気付き、すぐさま謝罪の言葉を告げた。

 確かにここで取り乱しても何一ついいことは無い。弁明は慌ててしても効果は薄い。むしろ、勘違いをさせる原因になりかねなかった。

 藍は、落ち着きを取り戻すと周りを気にするように首を回して周囲を伺う。どうやら誰もいないようである。

 藍は、この場に紫がいないことを心から良かったと思った。紫がいたら場合、今みたいに心を落ち着かせる余裕などなかったに違いなかったからである。

 

 

「はぁ……」

 

 

 藍は、紫が居たならば間違いなくそうなっただろうと予測していた。紫がいれば、弄られることは必須の状況である。

 藍はそっと心を落ち着けると、少年の言い方に口を出した。

 

 

「でも、甘えん坊はさすがに……」

 

「言いすぎだった?」

 

 

 少年は、文句を言う藍に対して優しそうな表情を作る。藍からは、もちろん見えてはいないのだが、声色から優しい雰囲気を感じ取ることができた。

 少年の雰囲気には、‘色’がついている。優しければ温かな暖色系の色が、落ち込んでいれば寒色系の色がついている。雰囲気は周りに感染し、広がる。

 少年は、親が子供に教える時のような、語りかけるような雰囲気で藍に言った。

 

 

「僕は、藍を甘えさせていると思うよ。それこそ、やりすぎといわれるぐらいには甘えさせているって自覚している」

 

 

 藍は、少年の悟らせるような言葉にこれまでの生活を思い返した。そして同時に、少年の言葉が間違っていないことを理解した。

 藍が思い返した過去には―――いつも少年がいる。プライベートなお風呂や厠といった部分を抜きにすれば、ほとんどの時間を共有している。以前は、お風呂にまで付いていっていた。厠の傍まで付いていっていた。

 極めつけは、藍が行っていた家事を少年が担っていることである。これでは、甘えていると言われても仕方がなかった。

 藍は、思い当たる節のある言葉に声を詰まらせた。

 

 

「言いすぎ、ではないかもしれないな……」

 

「でしょ?」

 

「確かに私は、和友に甘えている部分がある……」

 

 

 料理に始まり、買出しに続き、掃除に広がり、毛づくろいまで少年がやることになっている現状が存在する。少年がなんでもやろうとするため、藍の仕事は減り、少年の仕事は増えている。

 藍は、何でもやろうとする少年にどこか甘えている部分があることを否定できなかった。今やってもらっている毛づくろいなど最たるものである。

 少年にやらせているものの大半は、自分でやれば全て済む話なのだ。掃除や洗濯は、少年の分も含んでいるということも考えれば少年がやってもおかしくはないが、少なくとも毛づくろいに関しては少年が関わるべき内容ではない。

 

 

「だが、どうしても一人でやると、どこか物足りない気持ちになってな……」

 

 

 藍は、昔に比べて欲に忠実になった。欲に左右される妖怪の原点に近づいていると言ってもいい。

 藍は、少年に頼り過ぎていると言われても、自分の気持ちを止めることができなかった。自分一人で何かをやると、どこか物足りない気持ちを覚える。何か、心が満たされないような、大きな空間が空いたような感覚に陥る。

 藍の中では、二年前に来た少年の存在が居て当たり前のような存在になっていた。少年に何かをやってもらう、少年と一緒に何かをやるというのが普通となっていた。

 少年は、満更でもなさそうに、藍の言葉にどこか嬉しそうに、どこか困ったような表情を浮かべる。

 

 

「まぁ言われている身としては、頼られているようで嬉しいものがあるけどね。でも、藍も紫の言っている気持ちが分かるでしょ? 紫は、藍のその状態に不安を感じているんだよ」

 

 

 紫の不安材料は、命令や指示に反して藍が個人プレイに走っている現実にあると告げた。

 藍は、紫に怒られたあの日以降も少年に自身の尻尾の毛づくろいをさせている。紫が朝早く起きてこないことをいいことに、紫に見られないように朝早くから毛づくろいをさせている。

 藍は紫に怒られても、結局止めることができずに少年に頼んでいるのだ。

 

 

「思い当たる節は、いっぱいあると思うよ?」

 

「…………」

 

 

 藍は、自身の欲に勝てなくなっている。紫の命令よりも、自身の欲の方に重きが置かれ始めている。

 少年は、紫が怒っているのはそんな寄りかかっているような状態に不安を感じているからだと説明した。

 紫が本当にそう思っているのかは分からない。少年の言っていることは、あくまで少年の意見である。

 しかし、藍の中では少年の言葉が紫の怒った理由の答えとして刻みこまれることになった。

 少年の言葉に対して何一つ、反論や別の意見が出せない。反論のできない言葉は―――事実と等価である。異論がなければ、意見は無条件に通る。事実は事実でしかない。少年の言葉には、虚実は一切交じっていなかった。

 

 

「紫様が私に不安を……」

 

 

 藍は―――真っ先に紫に心配をかけてはいけないと思った。続いて、目的を達成するためにはどうすればいいのかを思考した。

 答えは、いとも簡単に出てくる。少年に対して距離を取ればいいのである。強く依存している現在の状況を打開すればいいのである。

 藍は、頭の中に出てきた答えを受け入れようと飲み込もうとする。

 だが、飲み込もうとした言葉は、喉の奥には通らなかった。

 藍は、すぐ後ろにいる少年の存在を感じながら困った表情を作った。

 

 

「でも……」

 

 

 藍は、紫の不安を理解していても、どうすればいいのか分かっていても、答えを飲み込む直前で紫の想いを鵜呑みにすることを躊躇した。

 少年と距離を取るということを受け入れることができない。それを心が許さない。藍の想いは紫の意志よりも強くなり、一個としての想いが強くなっている。そして、そんな自分の考えている思考そのものが紫の不安とする部分であることを理解していない。

 少年は、悩み唸る藍に大丈夫と声をかけた。

 

 

「大丈夫、分かっているよ。紫には言わない。誰に言われても急には止められないもんね」

 

 

 毛づくろいに関することは、本当であれば、紫に話さなければならないことである。紫から咎められていることだけあって、告げる必要があることである。

 しかし、少年は今の状況がいいことではないことを知りながらも、紫に黙っておくことを決めた。

 理由は―――一つしかない。

 藍にとって辛いだろうから―――たったそれだけだった。

 

 

「それに……」

 

「それに?」

 

 

 藍は、この時ばかりは少年の先の言葉が気になり、体をねじり少年の方に顔を向けて声をかけた。

 

 

「今、紫に言ったら間違いなく僕も怒られるからね。僕は、紫に黙っておくことに対してあんまり気乗りしないけど……藍が嬉しそうにしているならいいや」

 

 

 本当は、自身が怒られることなんて気にしていない。紫に怒られるからなんていうのは、藍の気持ちを軽くするための少年の方便である。紫に告げない理由として付け加えたのは、藍のためという理由だけだと藍が気にするからだった。

 少年は、ごまかすように笑顔を作る。藍も少年の笑顔に合わせてぎこちなくほほ笑んだ。

 

 

「私も、できるだけ今の状態を変えられるよう努力するからな……」

 

「うん」

 

 

 少年は、藍の言葉を信じて静かに頷く。何も変わらないことを悟りながらも、藍の言葉を信じて変わることを望む。

 藍は、静かに少年に対して背を向ける。少年の期待に背くように少年から後ろを向いた。

 少年は、何事もなかったように藍の尻尾の毛づくろいを再開する。

 藍の尻尾は、事の初めよりも元気がなくなり、動かなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 毛づくろいは、暫くして終わりを迎える。

 少年は、ブラシを床に置いて尻尾を掌で優しく撫でる。すると、ふわふわとした毛が風になびくように揺れ動いた。

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、尻尾の上を掌で二回だけポンポンと軽く叩いた。これは、毛づくろいが終わりましたという少年からのいつものサインである。

 藍は、少年から送られる合図にすぐさま気付いた。

 

 

「あっ……」

 

 

 藍は、無意識に物欲しそうな声を出す。藍の毛づくろいされていた最後の尻尾は、少年の膝から暫くの間動く気配を見せなかった。

 

 

「…………」

 

 

 少年は―――ここで藍を甘えさせたりはしない。これで毛づくろいをしてしまえば、藍の少年に対する状況が悪化する。甘えさせすぎている―――先程の言葉である。少年は、暫くの間藍の方から尻尾をどかすのを待った。

 しかし、一向に藍の尻尾は少年に膝から動かなかった。いくら待てども時が止まったように、力尽きたように動こうとしなかった。

 

 ―――ポンポン―――

 

 少年は、動かない藍に言い聞かせるようにもう一度終わりの合図を示す。もう一度、尻尾を優しく二度叩き、終わりましたの信号を送った。

 藍の尻尾は、少年の合図に僅かに動いて少年の膝からずり落ちるように床へと横たわる。まるで駄々をこねるように転がり落ちた。

 

 

「藍、終わったよ?」

 

「あ、ああ……」

 

 

 藍は、どこか元気のない返事を返し、尻尾をどかした。

 少年は、動き出した藍に少しだけ安堵の表情を見せる。今度は少年の信号をちゃんと受信できたようである。

 藍は、尻尾を少年の膝から離すと軽く後ろを向き、少年のいる方向へと体を向けた。藍の視線の先には、にっこりと微笑む少年の顔がある。

 藍は、どこか寂しそうにお礼の言葉を口にした。

 

 

「ありがとう、和友」

 

「はい、どういたしまして」

 

 

 少年は、縁側に座ったまま再び空を見渡す体勢に入る。先程やっていた光合成ではまだ足りなかったようで、光合成を再び行い始めたのである。

 少年が光を浴びている理由はごく普通の理由で、別に光合成をすることでエネルギーを蓄えるということをしているわけではない。

 少年は植物ではなく動物である。そんなことできやしない。光を浴びている理由は、朝に太陽からの光を十分に浴びておくことで体が完全に起きるということらしい。本当かどうかは、実のところ分からない。

 藍は、光合成の体勢に入った少年に向けて、物想いにふけるように、余韻に浸るように声をかけた。

 

 

「か、かずとも……」

 

 

 藍は黙ったまま暫くの間少年を見つめていた。

 しかし、いくら視線を送ったところで少年が藍へと意識を向けることはない。少年は、叶えられない想いを聞きたくはなかった。

 藍は、いくら視線を送っても少年に反応が無いことを確認すると少年に対して何かを求めるのを諦め、視線を少し下げながら立ち上がった。

 

 

「和友……私は、朝食の準備をしてくるからな」

 

 

 藍は、動かない少年とは対称的にキッチンの方へと移動する。少しだけ重くなった足取りで区切りのいいところで終えていた朝食作りの作業に戻っていった。

 

 

 

 

 少年は、藍が傍から居なくなって数分間日光浴をすると満足したようで立ち上がる。そして、その場で背伸びをした。

 

 

「ん~、充電完了」

 

 

 少年は、満足げな表情のまま後ろを振り返る。少年の視界には、料理をテーブルの上に並べている藍の姿が映った。

 少年は、ゆったりと歩きながらテーブルに備え付けられている椅子に座ると、朝食を作ってくれた藍に向けてお礼の言葉を告げた。

 

 

「お疲れ様、いつもありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 

 藍は、ちょっと暗くなった表情を明るくし、心をこめて言葉を返した。

 少年は、藍の運んできた料理を綺麗に配置する。

 藍は、自身が作った料理を全て運び終えると少年の座っている反対側に座った。

 

 

「それじゃあ、食べるか?」

 

「そうだね、食べよっか」

 

 

 少年と藍は、目を合わせ、両手を正面で合わせると声を一つにする。

 

 

「「いただきます」」

 

 

 少年と藍は、いつも一緒に朝食を食べていた。朝食の時間は、紫と橙がまだ起きていないため、椅子に座っているのはいつも藍と少年の二人だけである。

 少年と藍は、目の前にある料理を頬張り、箸を進める。

 少年は、食事の最中、即座に話題を提示した。

 

 

「相変わらず、紫と橙は朝食の時間に起きられないみたいだね」

 

「紫様と橙に早起きをしろというのは、さすがに酷なものだろう……」

 

 

 紫と橙は、いつも眠たそうにしながら短針が12時を回り始める頃に起きてくることが多い。何かしら用事が無い限り、早起きすることは無く、それこそ―――起こしに行かなければ体を起こすことはなかった。

 紫と橙は、用事があっても起きてこないことが多かったりする。二人は、それほどに睡眠というものが大好きなのである。そんな二人だからこそ、朝食は藍と少年の二人だけで取ることがほとんどであった。

 しかし、藍は二人だけの食事といっても不思議と寂しさは感じなかった。むしろ、少年と二人で食べる食事が一つの楽しみとなっている節があった。4人でワイワイと食べたいという気持ちもあれば、少年と1対1で食事をしたいという想いも抱えている。

 寂しさを感じないのは、昼食時と異なり少年との距離が近いからかもしれない。少年と話をする余裕があるからかもしれない。誰にも咎められることなく、誰にも止められることなく、好きなことを話し、好きなことをすることができる。

 藍は、少年と二人での朝食を楽しんでいた。

 

 

「私はこうして和友と二人で食べる食事というのも悪くないと思っているぞ」

 

「僕も藍との食事が好きだよ。藍の料理は相変わらず美味しいし、ゆったりしているこの雰囲気が僕は好きだから」

 

「そ、そうかっ……それなら良かった」

 

 

 藍は、動揺を隠すことができずに、言葉に詰まりながらなんとか声を出した。少年も自分との食事を好いてくれていると思うと、嬉しさがこみ上げてきた。さらには、少年の言葉を聞いているとまるで自分のことを好いてくれているのではないかと想像してしまい、顔が赤くなった。

 

 二人は、楽しそうに会話をしながら朝食を口に運ぶ。二人の間で飛び交う会話の内容は日常会話が多く、今日何をするのか、昨日何があったのか、大体はそんな話である。お互いのことをおおよそ知っている二人にとって個人的な話をすることはほとんどなかった。

 

 

「うん、藍の料理はいつも美味しいね。僕も頑張らないと」

 

「和友の料理は、もうちょっとアクセントがあればおいしくなると思うのだが……こんなのとかどうだろう?」

 

 

 藍の作った料理は、時間の経過とともに二人の口の中へと次々と放り込まれていった。

 

 

「もうすぐ食べ終わるな」

 

「そうだね」

 

 

 藍は、食事が終盤に差し掛かると声のトーンを分からないぐらい少し下げる。それも、いつものことだった。

 別れ際―――藍はいつも暗くなる。

 少年は、藍の微妙な変化を感じ取っていた。

 藍は、気持ちを若干落としながら毎日口にしている言葉を告げる。

 

 

「今日も朝食を食べたら行くのだな」

 

 

 少年は、朝食を食べた後に行く場所がある―――行かなければならない場所があった。

 藍は、正直なことを言えば、少年にマヨヒガから出ていって欲しくはなかった。それは、少年の行く場所もそうであるが、少年が行く目的も藍にとって大した重要性を持たなかったからである。

 藍にとっては、少年の安全性が脅かされることの方が重要性が大きい。怪我をして帰って来るのではないかという心配に心をすり減らす方が苦しかった。

 もしも、妖怪に襲われたら。

 もしも、事件や事故に巻き込まれたら。

 藍は、そっちの方が心配だった。

 少年は、心配そうに見つめる藍の目をしっかりとした瞳で見つめ、はっきりと言った。

 

 

「もちろんだよ。やらせてもらっている仕事を放り投げるわけにはいかないからね。無断欠勤なんて僕自身が許さないから」

 

「そうか……気をつけて行ってくるのだぞ」

 

 

 藍は、少年から返ってくる答えを知っていた。毎日のように告げている言葉に返って来る言葉は、いつだって同じである。

 少年は、必死に堪えるような表情の藍に優しくほほ笑んだ。

 

 

 

 二人は、朝食を食べ終わる。

 少年と藍は、視線を合わせると手を正面で合わせ、声を一つにした。

 

 

「「ごちそうさまでした」」

 

 

 少年と藍は、声を発した直後に同時に立ち上がる。そして、食器洗いをするために食卓に並んでいる空っぽの食器を持って流し台へと足を進めた。

 二人は流し台に辿り着くと、水を流して食器洗いを始める。いつもと同じように、二人で皿洗いを行う。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、食器洗いをしている時だけは無口になることが多かった。黙り込み、下を向いて淡々と食器洗いを黙々とこなす。そして、少年もできるだけ藍に声をかけることはしなかった。少年には藍が何を考えているのか分からなかったが、それを自分が聞いてもいいことではないように思えて仕方がなかった。

 それは、藍の頭の中を巡っている考えの中に、自分の存在が含まれているとなんとなしに分かっていたからである。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年と藍は基本を沈黙で保ち、必要最低限の会話だけで食器洗いを終えた。

 二人は、食器洗いを終えると玄関へ移動する。

 藍は、移動の途中も視線を下げたまま、口を開くことはない。

 少年は、黙り込む藍へと声をかけた。

 

 

「じゃあ、そろそろ行くね」

 

 

 少年は、自身に課せられた務めを果たすために永遠亭へと向かおうとする。時間には問題はない。今から永遠亭に向かえば、丁度いい時間になる。

 少年は、玄関で靴を履く。藍は、玄関まで少年の見送りをするために少年と一緒に玄関に来ていた。

 少年は、藍へと振りかえって笑顔で別れを告げた。

 

 

「いってきます。今日も午後には帰ってくるからね。遅くなるようならちゃんと連絡入れるから」

 

「……いってらっしゃい、しっかり務めを果たしてこい」

 

 

 藍は、覚悟を決めたような顔で自分ができる限りの笑顔で少年を送り出す。藍の声のトーンは、もとの位置まで戻っていた。

 

 

「いってきます!」

 

 

 少年は、再び「行ってきます」の言葉を藍へと送ると玄関を出てゆっくりと飛び立つ。藍の視線の先には、小さな少年の後ろ姿が映っていた。

 

 

「無事に、帰ってくるのだぞ……」

 

 

 藍の言葉は、少年には届かない。

 少年は、振り向くことなく飛んでいく。

 少年の体は、どんどん小さくなり見えなくなる。

 

 藍の心には、大きな不安が渦巻いていた。



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永遠亭での日常、少年の第二の居場所

 少年は、藍の作った朝食を食べてさよならの言葉を藍と交わし、マヨヒガを飛び出した。

 目的地は永遠亭である。目的は朝の務めを果たすため。少年は、目的を果たすために永遠亭に行かなければならなかった。

 移動方法は、もちろん飛行による移動である。幻想郷は道が整備されているわけでもないし、飛行機や電車、車といった移動手段があるわけでもない。ほとんどの人間たちが歩いて目的地まで通っている。

 少年はその例に漏れて、空を飛んでいる。地上を歩いていく場合には、妖怪に襲われる可能性があるから、迷いの竹林の存在があるからである。

 幻想郷において目的地に行くためには、飛んでいくという手段を取るのが最も効率的で安全な移動方法だった。

 

 

「相変わらず、幻想郷は自然でいっぱいだね」

 

 

 少年は、目的地である永遠亭に向けて飛行している途中であり、空からの景色が一望できる状態にあった。

 少年の視界には、自然に覆われた幻想郷の世界が広がっている。

 

 

「外の世界では、自然が少なくなっているとかで嘆いている人が多いけど、幻想郷ではどうやって維持しているんだろう?」

 

 

 幻想郷には、外の世界には無くなってきている緑豊かな世界がある。外の世界で増やさなければならないと言われている自然の塊が存在している。

 少年は、少しばかり考えると維持しているという自分の考えが間違えであることに気付き、首を横に振った。

 

 

「いや、維持しているっていう考えがそもそも間違っているんだろうな……」

 

 

 人間がいなければ、自然が成り立たないという仕組みは―――あってはならない。人口と自然が対になっているように、これらが交わることは決してないのだから。

 

 どちらか一方に偏り出せば、均衡状態を保てなくなる。

 

 自然は、人間が手を入れて維持するようなものではない。それをしてしまったら末期症状だろう。もう均衡が傾きだして、戻すのが厳しくなっている状態である。

 いつだって人間は、気付くのが遅い。失ってから知る。無くしてから分かる。

 自然だって、なくてはならないと気付いたから手を入れ始めたのだろう。そんなころには、減る方向にしか舵を切らなくなっている。自然は、そっぽを向き出したら手が付けられない。手が付けられないというか―――手が届かなくなっている。

 

 

「あるようにあれば、勝手に成長して、維持されて、大きくなる。こういうのを見ていると、外の世界でも時間をかければ何とかなりそうな気がする」

 

 

 少年は、そこまで考えたところで重力に引かれるように真下を向いた。

 

 

「だけど、あるようにあるのが一番難しいんだよね。人間は、自然の消耗で生きている。そして、自然も奪われるだけじゃなくて自分を守るために人間を減らそうとし始めている」

 

 

 人間が増え続け、自然が減り続けた結果―――自然災害のレベル、頻度が増加した。これは、自然の防衛意識なのだろう。自然が自分自身を守るために、地球が自身を守るために、動いている自浄作用なのだろう。

 

 

「一度、不便な生活に戻ってみるのがいいのかな? いや、僕みたいなのが考えたことなんて日本の偉い人ならみんな考えているよね」

 

 

 少年が思いつくようなことを他人が思いついていないわけがない。少年が考える程度のことを思考することのできない人間ばかりだったら、世の中は回らないはずだ。

 それに今となっては、外の世界の問題は少年が考えても仕方のないことだった。

 

 

「それに、僕が外の世界のことを考えても仕方がないか……僕には、もう戻れる場所がないんだから」

 

 

 少年には、外の世界へ帰ることができない理由がある。正確には、帰ることができないということはないのだが、帰る場所がないということ、帰ってはならないという気持ちがあった。

 少年の心は、自身の存在が幻想郷で完結しなければならないと決めている。外の世界に戻ることは許されず、戻る場所すらも失っているから―――終わり際の自分を想像できたからという理由から、自身の終わりを幻想郷に委ねていた。

 

 

「はぁ……暗くなるのは止めよう。僕が暗くなっても誰も得しない、むしろ損をする」

 

 

 少年は、気持ちを切り替えていつもの明るい偽りの表情を作り、心から暗い部分を遠ざけた。

 少年は、一人でいると思考が沈むことが多々あった。それは、まさしく普段の笑顔の裏返しである。

 少年は周りに人が居る時、できるだけ笑顔でいようと心掛けていた。どれだけ辛い思いをしても、笑顔でいようとしていた。

 

 

「僕はできるだけ笑顔でいないと。気持ちを切り替えるんだ。みんなを不安にさせちゃいけない。みんなを笑顔にさせてあげないと……」

 

 

 少年の影響力は、良くも悪くも周りの人間や妖怪に対して大きかった。少年が不安や怒りを露わにすると相手にも感染するように広まることが多かった。

 例を挙げれば、いろいろある。

 藍と言い合いになった時―――怒りは伝搬した。

 少年が笑顔を向ければ―――みんなに笑顔になった。

 そんな、他人に影響を与える少年は、無理をしてでも笑顔でいる必要があった。

 

 

「最後の最後まで、頑張らないと……」

 

 

 少年は、少年の周りに人が集まれば集まるほど弱音を吐けなくなり、気持ちを吐き出すことができなくなった。

 少年の想いは、誰にも受け止めることができない。外の世界に帰してほしいと言っても帰せる場所がなく、不平不満や辛さを告白しても誰にも現実は変えられない。

 少年のそれは、変えられないものだから。どうしようもないことだから。周りの人には、叶えられない願いだから。少年自身が抱え込むべきことだと思っていたから。

 少年は、周りに弱音を吐こうとはしなかった。知っている人にしか、話そうとは思わなかった。

 

 

「これまでに比べれば、後もうちょっとなんだから」

 

 

 少年だって人間だ。苦しい時もあれば、辛い時もある。弱音を口にしたいときも、愚痴をこぼしたいときもある。

 しかしながら、吐き出すことができるといっても、吐き出すことのできる量はわずかである。空気中に漏れ出した想いは、循環して体の中に戻って来る。

 少年の苦しみは―――蓄積していくだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

「いつも思うけど、マヨヒガから永遠亭まではちょっと遠いなぁ」

 

 

 少年は、気持ちを持ち上げるように視線を持ち上げる。永遠亭まではまだまだ距離があるため、視界のなかに目的地は入っていなかった。

 少年は、先の見えない光景に気を落とす。

 

 

「移動に数時間もかかっているし……僕が遅いせいなんだけど」

 

 

 少年の気持ちが暗くなるのは、マヨヒガから永遠亭までの距離が長いというのも関係していた。

 こうして一人の時間が増えると、どうしても考えてしまうことが増える。昔を思い出し、過去を振り返り、未来を思い描くと気分が落ち込んでしまう。後ろを見ても前を見ても、明るく見える要素が酷く少ない。

 少年を照らす光は、僅かなものであり、足元が酷く見づらく、先を見通すことができない程度のもの。

 少年の立場は、周りに対する影響力を考えると‘考えない’ということをするには非常に難しい立場にいたのである。

 少年は、通勤に多くの時間がかかっている状態を憂いた。

 

 

「きっと、藍や紫からしたら近所に行くような感覚なんだろうな」

 

 

 マヨヒガから永遠亭までは、少年からすれば結構な距離がある。

 人によってマヨヒガから永遠亭までの距離が遠いか近いかどうかは意見が分かれるところだろうが、少年にとっては遠かった。

 きっと藍であれば、近いというだろう。

 紫ならば一瞬で行ける距離だと思っているだろう。

 違いは、人それぞれ。

 みんな違う。

 

 

「僕も速く飛べたら……」

 

 

 少年の飛行速度は、藍や紫とは比べものにならないぐらい遅い。

 ならば、連れて行ってもらえばいいじゃないかとか、紫のスキマで移動すればとか、いろいろ方法はあるにはあるのだが―――少年は二人に助けてもらうことを微塵も考えていなかった。

 それは、少年はあくまで自分の力で永遠亭に行きたかったから、こうして練習することでみんなに少しでも追いつきたかったからという何とも意地の張った理由があったからである。

 

 

「それでも、最初のころに比べれば遥かに早くなった。このまま続けていけば、きっとみんなに追いつけるよね」

 

 

 少年は、そんなことを口にしながらも藍や紫に追いつけないことをしっかりと自覚している。どれだけ努力を重ねても届かないことを知っている。

 それでも―――みんな同じの速度で飛びたいという願望は捨てなかった。

 少年は、遥かに遠くにある見えない目的地を見定める。

 少年の顔は、前向きな言葉に反してやる気を感じさせるものではなかった。

 

 

「本当に僕はダメだな……一人になると気持ちが落ち込むや」

 

 

 少年の気持ちがころころと変わる。

 少年が億劫な気持ちになっているのは、飛行距離が長いことだけではない。少年にやる気が起こらない理由は、道中に立ちはだかってくる存在にもあった。

 

 

「お前たちは、なんでそんなに寄って来るのかな。ほんとにもう……僕に付いてきても良いことなんて何もないのに」

 

 

 視線が向けられている。そう感じたのはつい先ほどのことである。

 少年は、視界に空中を浮遊している生き物を収める。そして、空中を漂う生き物がこちらを見つけたのを確認した。

 生き物からの視線が少年に突き刺さる。空中を浮いている生き物は、少年に向けて近づいてきた。

 少年は、近づいてくる生き物を見ながら大きく溜息をついた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 少年に近づいて来る生き物は―――幻想郷に数多存在する妖精である。妖精は、少年の理解できない言語を発しながら少年との距離をどんどん縮めてきた。

 

 

「○▽□!」

 

「はいはい、寄ってこないでね」

 

 

 妖精は、ふわふわと磁石に引きつけられるように少年にくっつく。少年の背中、頭、足、お腹、何処にでもくっついてくる。

 もちろんだが、妖精にくっつかれるとその分だけ動きにくくなる。重量が重くなるのもそうだが、節々の可動範囲が狭くなる。可動範囲が狭くなると、動くことに対するエネルギーの消費が大きくなり、使っている霊力の消費がかさんで疲れてしまう。

 霊力の総量が極端に少ない少年にとっては、無駄な消費は致命傷になりかねなかった。

 しかし、妖精の1体あたりの重量はそれほど重くはないため、少年にくっ付いてくる妖精の数が一体や二体だったならば、くっついているのを無視してもそれほどの影響は無い。

 ただ、ここでの最大の問題は―――妖精の数の多さである。

 少年にまとわりついてくる妖精の数は一体や二体では無かった。マヨヒガから永遠亭という長い距離を飛行している間に、どんどん増えて数十体になることもざらにあった。

 いくら羽のように軽いと言っても限度がある。余りに多かった時は、視界すら狭まって飛行ができる状況ではなくなった時があった。

 

 

「だからくっつくなって! もうっ!」

 

「■★Δ@」

 

「相変わらずお前たちは!」

 

 

 少年は、通勤時に毎回のようにくっついてくる妖精のことが鬱陶しくて仕方がなかった。

 

 

「今日も頑張らないと遅れるかもしれないね。最初に永遠亭に行った時みたいに遅れるわけにはいかない。さすがに何度もあったら永遠亭のみんなも許してはくれないだろうし」

 

 

 初めて永遠亭に通勤した時は、妖精を無視し過ぎたため体中にくっついてしまい、途中で力尽きて中休みをとったという過去があった。

 その時は、仕事の時間に間に合わずに永遠亭の人間に頭を下げることになった。少年にとって苦い思い出である。

 

 

「◆§Θ」

 

「ごめんね。僕、お前たちに構っていられる時間がないんだ」

 

 

 妖精はどこか寂しそうにしながら少年に訴えるように叫んでいるが、少年は近づいてくる妖精をできるだけ躱しながら進んでいく。

 ただ、躱すといっても少年のスピードは‘妖精にとって’ゆっくりとしたスピードであり、追いつくのが難しくないぐらいの速度だった。

 

 

「えいっ!!」

 

「✇☮☬」

 

 

 少年は、体にくっ付いた妖精をできるだけ引きはがし空中へ放り投げる。妖精は、少年に放り投げられ距離が遠くなった。

 しかし、少年に放り投げられ遠くに離れた妖精はまた近づいてくる。ある程度距離が離れると近づいてこなくなるのだが、今回は失敗したようだ。

 少年に再びくっ付くようなことがあれば、少年は再び妖精を引きはがす。後は―――これの繰り返しである。不満たらたらの少年ではあったが、この動作も少年の飛ぶための良い練習になっていた。

 

 

 

 

 

 

「はぁ、はぁ、やっと着いた……」

 

 

 少年は、練習を兼ねた飛行を終えて永遠亭へとたどり着いた。

 少年の息は、切れ切れである。それでも少年は、足を止めることなく息を整えながら慌てて足を前へと進めた。

 

 

「いつもよりちょっとだけ遅くなったな。早く行かないと」

 

 

 少年は、急いで永遠亭の入口へと入り、中へと歩いていく。

 少年が向かう先は、永遠亭の診察室である。

 

 

(遅れてなきゃいいけど……)

 

 

 少年は、診察室へ入ると部屋の中に二人の存在が居ることを視認した。

 

 

(二人とももう準備しているんだ)

 

 

 診察室には、鈴仙と永琳の姿があった。永遠亭では、マヨヒガと同様に朝早くから起きている人間は少ないようで、基本的に起きているのは八意永琳と鈴仙・優曇華院・イナバの二人だけだった。

 永遠亭は、マヨヒガと同じように住んでいる人間が少ない。この二人以外に永遠亭に住んでいるのは、永琳が姫と呼んでいる人物と因幡てゐという妖怪兎だけである。

 

 

(あの子は、いつも通りいないみたいだね)

 

 

 少年は、永琳が姫と呼ぶ人物が永遠亭に住んでいることを知っていたが、あまり会ったことが無かった。少年と姫という存在の関わり合いは、入院していた時に数度話した程度のものである。

 

 

(そもそも会ったのなんて数回だけだし、診察室にいるわけがないか)

 

 

 少年が姫とあまり関わりを持たなかったのには、永遠亭の構造が関係している。

 永遠亭では、患者用の部屋や診察室などの場所が居住場所から別けられるようにして存在しているため、住居に生活の拠点を置いている姫と呼ばれる人物と滅多に会う機会が無いのである。

 

 

(永遠亭の人なら覚えておかなきゃいけないんだよね。お世話になっているんだし……また会ったときにでも名前を教えてもらおう)

 

 

 少年は、姫と呼ばれている人物から名前すらも教えてもらった記憶が無い。もしかしたら教えられているのかもしれなかったが、少なくとも今の少年には覚えが無かった。

 因幡てゐに関しても姫と同様で、迷いの竹林を駆け回っていることが多いため、ほとんど顔を合わせる機会が無く、存在を知っているにとどまっていた。

 少年は、そこまで考えると本日二度目となる挨拶を鈴仙と永琳と交わす。頭をしっかり下げて鈴仙と永琳に対して礼を示した。

 

 

「お二人ともおはようございます。今日もよろしくお願いしますね」

 

「お、おはようございます」

 

「おはよう。今日もいつも通り来たわね」

 

 

 鈴仙と永琳は、少年の声を聴いて視線を向けると挨拶を返した。

 少年は、いつも通り来たわねと言う永琳の言葉で自分が遅刻していなかったことを知った。

 

 

「あれ? 間に合ったんだ……」

 

「どうしたの? そんな不思議そうな顔をして」

 

「いえ、今日は途中で妖精にかなり絡まれたので遅刻したのかと……」

 

 

 永琳は、少年が時間までに来ることができた理由を思考する。もちろん少年が妖精に絡まれた事実など真偽のほどは知りもしないが、いつも通りの時間に永遠亭にやって来ることができた原因はすぐに思いついた。

 妖精に絡まれることが多かったにもかかわらずいつも通りに永遠亭に来ることができた理由―――少年が時間に間に合った理由は、実に単純である。

 

 

「それは、貴方の飛行速度が上がっているからじゃないの?」

 

「そうなのでしょうか?」

 

「貴方の起きる時間はいつも一緒でしょう?」

 

「そうですね」

 

「家を出る時間もいつも一緒でしょう?」

 

「そうですね」

 

「なら、答えは出たも同然じゃない」

 

 

 少年は、毎朝同じような時間に起きている。それならば、時間に違いが出るとすれと永遠亭への移動中以外にあり得ない。

 それに、永琳には少年の移動速度が上がっていると言うことができる理由があった。

 

 

「貴方は、毎日空を飛ぶための練習をしている。私は、貴方が一生懸命頑張っているのを知っているわ。それだけ頑張っているのに飛行速度が上がっていないということはないでしょう?」

 

 

 少年は、毎日のように空を飛ぶ練習をしている。毎日努力をしていて、何も変わらないということはないだろう。

 永琳は、何も少年に気を遣っているわけでも、お世辞でも、煽てているわけでもない。

 永琳は、努力をしっかりとした形にする少年の姿を何度も目撃してきた。自分の視覚から得た情報―――それが少年の飛行速度が上がっていると思考した最大の要因である。

 少年は、永琳からの思ってもみなかった言葉にはにかむように頬を緩めた。

 

 

「あ、ありがとうございます。本当に速くなっていると嬉しいですね」

 

「あ、あの……」

 

 

 診察室には、そんな自分の成長に疑問を持つ少年を見つめる存在が別に存在している。

 その人物は、口を僅かにパクパクとさせながらも言葉がなかなか出てこないようで四苦八苦していた。

 

 

「いや、考えるのは止めておこう。また次の機会に時間を測ればいいことだし」

 

 

 少年は、揺らいだ気持ちを落ち着けて診察室の奥へと足を進めようとする。

 その瞬間―――少年に向けて唐突に言葉が飛んできた。先程かけられた声とは違う方向から言葉が飛んできた。

 

 

「和友さんは、ちゃんと速くなっています!」

 

「え?」

 

 

 少年は、突然話しかけられたことに少し驚き、進めようとしていた足を止め、声が伝搬してきた方向へと視線を向ける。

 少年の視線の先には、僅かに顔を赤くした鈴仙が居た。

 

 

「あの、失礼でしたか?」

 

 

 鈴仙の表情に僅かな不安の色が付いている。

 鈴仙は、顔を赤くしながら少年の反応を待っている。

 少年は、少しの間沈黙すると優しそうな表情で小さくお礼を告げた。

 

 

「ありがとう、鈴仙」

 

「はい……」

 

 

 鈴仙は、少年の言葉に嬉しそうな表情で頷き、満足した様子で作業に戻る。

 永琳は、二人のやり取りを微笑ましく見つめた後、鈴仙と同じように作業に戻った。



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不満な少年、薬の調合

 少年は、永琳と鈴仙が行っている行動を改めて確認する。様子を伺っていると、鈴仙と永琳は診療室で薬品の在庫管理をしていることが見て取れた。

 

 

「今日は、薬の点検をしているんですね」

 

「薬は定期的に点検しなければならないもの。前回点検をやってから今日でちょうど1週間じゃない」

 

 

 永琳は、作業を続けながら少年に告げた。

 永遠亭では定期的に薬の点検を行っている。頻度でいえば、週に1度全ての薬があるかの点検を行っていた。

 定期的に薬品の点検を行うのには、大きく三つの理由がある。

 

 

「減っている薬があったら作らなければならないし」

 

 

 一つ目は、量が減っている薬があれば作る必要があるからである。

 いざとなった時に量が足りないということがあってはならない。

 それこそ―――患者の命に影響を及ぼす。

 

 

「薬によっては、作るのに時間がかかる物もある」

 

 

 二つ目は、作るために時間がかかる薬があるからである。

 急を要する患者が来ないということは断言できない。患者が来てからでは、薬の準備が間に合わないことが考えられる。有事には、備えておく必要があった。

 

 

「それに、薬を持ち出されている可能性があるから定期的に点検を行う必要があるのよ」

 

 

 三つ目は、薬を持ち出されている可能性があるからである。

 永遠亭で作っている薬は、他では取り扱っていないものが多く、効果も様々あり、種類も豊富である。

 人里では、非常に効果のある薬として重宝されている。いうなれば、永遠亭の薬は貴重品の類と変わらないのだ。盗られていても不思議はない。薬の置いてある場所が診察室という患者から見える場所に存在し、外の人間に明らかになっている以上、薬が盗まれる可能性は捨てきれなかった。

 さらには、使い方を間違えれば、大変なことになりかねないのも気をつけなければならない理由の一つである。

 薬は、用途と容量を間違ってはならない。

 これら3つが―――点検を行っている理由である。

 少年は、誰も聞こえない程度の声で小さく呟いた。

 

 

「僕は、何をしたら……」

 

 

 二人と同じようにすぐさま自分の仕事を始めようとするものの、少年の動き出した両手が一瞬にして停止する。

 何をすればいいのか分からない。止まった理由はそれだ。周りの人間が困っている少年に何をすればいいのか教えてくれてもいい状況ではあるのだが、永琳と鈴仙の二人は少年の声が聞こえなかったようで作業を続けていた。

 

 

(何もできないのかな……)

 

 

 少年は、視界を左右に振り頭を回転させるものの、今何をしていいのか、何をするべきなのか分からず不安を抱える。

 少年は、まだ働き始めてから半年の新米である。

 永琳は、新米の人間にあれこれとさせるようなことをしない。特に薬という複雑な危険を孕んでいる物に対して、少年に手を付けさせるわけにはいかなかった。もしもがあっては大変なことになる。あくまでも外部の人間である少年の仕事の大部分は接客や問診であり、点検の日のように診察の時間が後ろにずれている日は、特に薬品の点検を行っている日の朝の1時間はやることがなかった。

 

 

「あっ……私も手伝います」

 

 

 少年は、暫く思考するとはっとしたように思いつき、手袋とマスクをつけて仕事に取り掛かる。

 少年は、永琳と鈴仙が行っている薬の点検を手伝おうと考え、頭の中に浮かべた内容をすぐさま実行に移そうとした。

 

 

「何かやらないと……」

 

 

 少年は、やることがないことに不安を抱える傾向があった。誰の役にも立っていない状態が少年の心をざわつかせた。

 少年は、給料をもらっている立場である。ならば、給料分の働きをしなければならないだろう。そう思っていたからこそ、無駄に時間を過ごすことに嫌悪感を覚えていた。

 少年は、二人に何か手伝うことはないかと薬品庫へと近づきながら言う。

 

 

「私に何かできることはありませんか?」

 

「何もないわよ。貴方にこれ以上仕事をさせるわけにはいかないわ。座って待っていなさい」

 

「人手が必要になったら呼びますので、ゆっくり待っていてください」

 

 

 少年に向かって二人から静止を促す言葉をかけられた。

 少年は、二人から仕事を手伝うことを拒否され、取り付く島もない様子の返答に残念そうな顔をする。

 

 

「そうですか……何か出来ればと思ったのですが」

 

「ねぇ……貴方の手伝いたいという気持ちは嬉しいけれど、貴方はまだ薬にそれほど詳しくないし、下手に扱われて問題が起こる方が面倒なのよ」

 

 

 永琳は、少年の落ち込むような声色に作業を行っていた手を止め、はっきりと少年に告げた。

 

 

「もちろん、世の中に絶対の安全なんてないわ。安全は、決して100%にはならない。私達だってミスをするときはある。だけど、だからって誰が扱ってもいいというわけではないの」

 

「それは、分かっているつもりです。でも、何か手伝いたくて」

 

「つもりじゃだめなのよ。ここに置いてある薬は貴方のためのものではないと自覚しなさい。貴方が手伝いたいと思ったから置いてあるわけではないの。この薬は、病に侵されている者のためのものであって、健常者のためのものではないのだから」

 

 

 永琳の薬の中には、触れるだけで病気や怪我を引き起こす劇物が混ざっている。

 どうしてそれほどの影響が出るのか。触れるだけで影響が出るような薬を誰が飲むというのだろうか。

 その疑問に対する答えのありかは、薬の在り方にある。

 薬とは、相手に合わせて作られるものである。合わない人には合わない。

 永琳の薬は万人のための薬、種族が違う者たちをも救うための薬である。永琳の薬の中には、人間用のものだけでなく、妖怪用の薬もあった。

 

 

「私が妖怪用の薬を作っているのは知っているでしょう? そんなマスクや手袋じゃ、意味を持たない薬だってここには置いてあるのよ」

 

 

 少年は、永琳が人間用だけでなく妖怪のための薬を作っていることを知っている。だからこそ、自らマスクと手袋とはめている。

 だが、それだけでは永琳の薬を扱うには足りない。マスクや手袋は、気休め程度でしかないのである。

 ただ、少年は永琳から理詰めで問いただされるものの、不安な表情を崩さない。

 永琳は、納得できていなさそうな少年に向けて追撃をかけた。

 

 

「それに、貴方が永遠亭の人間ならばともかく、貴方は八雲紫のところの人間でしょう? 貴方が怪我を負ったり、病気になったりされると私が迷惑をこうむるのよ」

 

 

 少年は、八雲家の存在であり八雲紫の所有物である。永琳は、もしものことを考えると少年に危ない真似をさせることはできなかった。

 怪我を負ってしまえば、八雲から何を言われるかわかったものではない。特に、八雲紫の従者からの報復行動だけは、絶対に避けなければならなかった。

 

 

「師匠、そんな言い方しなくても……」

 

 

 鈴仙から見た永琳は、いつだって少年に向けてきつく当たっているように見えた。少なくとも鈴仙から見れば、そういうふうに見えた。

 

 

「鈴仙、いいんだ」

 

 

 少年は、すぐさま鈴仙を静止する。

 

 

「先生ありがとうございます。じゃあ、私はちょっとだけのんびりさせてもらいますね」

 

「ええ、ゆっくりしていなさい」

 

「え……?」

 

 

 鈴仙は、なぜ少年が永琳に向かってお礼を告げているのか分からなかった。

 

 

「ウドンゲ、固まっていないで仕事なさい。貴方まで薬に触るななんて言っていないわよ」

 

「は、はい」

 

 

 少年は、手伝おうとする気持ちを抑え、診察室に備え付けられている椅子に座ることもなく、立ったまま周りを見渡し始める。二人の邪魔をしないように、周りに置いてある物の配置を見回した。

 

 

(あれは、いつも出しているやつだから人間用で……あれは、妖怪用なのかな?)

 

 

 少年は、二人の邪魔にならないように声を出すことなく、置いてある物を確認していた。指をさしながら、棚の中に何が入っているのか視認する。

 患者が来ない日、薬を投与しない日の朝―――少年の仕事内容は殆ど何もない。

 だが、できないことを挙げても意味がない。そんなことは不毛なのである。やれることをやるのだ。少年は、できることである場所の確認や清掃を行った。

 診察室に置いてある薬品の点検が終わると外来の患者の受け入れが始まる。

 永琳は、少年に診察を任せる旨を告げた。

 

 

「点検はこれで終わりね。診察の方は任せるわよ?」

 

「はい、任せてください。困ったら呼びます」

 

「決して深追いはしないこと、いいわね?」

 

「はい」

 

 

 永琳が少年に向けて注意するように再度問いかけると、少年は微笑み頷きながら一言告げた。

 いつもの診察の始まりである。

 

 

「今日はあんまり患者さん来ないね」

 

 

 少年は、椅子に座って静かに患者の到来を待った。

 しかし、患者はいくら時間がたっても来る気配がなく、少年の視界の前には、一切の動きを見せない扉がたたずんでいるだけだった。

 

 

「こんな日もたまにあるけど……今日は一人も来ないのかな」

 

 

 永遠亭は、予約制をとっているわけではないので急に患者がやってくる場合が大半だ。そのため、いつ患者が来るのかは本当に偶然によるもので、やってこない日もざらにあった。

 今日は、患者も来客もないようで、少年の仕事がものすごく少ない日のようである。むしろ何もないと言っても過言ではない状況だった。

 

 

「不満そうね。いいじゃない、具合の悪い人が少ないってことなのだから」

 

「確かにそうなんですけどね」

 

「はぁ、しょうがない子ねぇ……」

 

 

 永琳は、少年の反応に溜息をついた。

 永琳から見た少年は、大体いつもそうだった。一生懸命で何でもやろうとする。何もしてない時間、与えている給料の対価に見合った働きができていないと感じている時間を酷く嫌っているように見えた。

 

 

「笹原、ウドンゲ、薬の調合をするわよ。手伝いなさい」

 

「はいっ! 喜んでやります!」

 

「師匠、分かりました」

 

 

 少年は役割を与えられると表情を明るくし、慌てて立ち上がる。そして、待っていましたと言わないばかりに嬉しそうに大きな声を発した。

 

 

「薬の調合をやるのは久々ですね」

 

 

 少年は、意気揚々と楽しそうに言葉を口にする。例え、薬の調合をしようとも少年の実入り(給料)が何も変わらないというのに、嬉しそうにしている。

 少年の貰っている給料は、定額の月給であるため労働時間や労働内容に依存しない。どれだけ仕事をしても、どれだけ手を抜いても同じ給料が入る。

 

 だから―――手を抜きたくなるのが普通である。その給料形態は、努力や成果が反映されないからである。

 努力しても変わらないというのであれば頑張ろうという気持ちは、‘普通は’湧かない。隣で3時間サボったように居るだけの人間と3時間真面目に取り組んだ人間で給料が同じなのだから、やる気を削ぐのもいいところだろう。

 それでも、少年は手を抜くことだけは絶対にしない。それは、ここにいる誰もが知っていることだった。

 永琳は、浮かれているようにも見える少年に向けて注意喚起を行った。

 

 

「気を抜かないようにね」

 

「それに関しては心配しなくていいです。絶対に大丈夫だと胸を張って言いますよ」

 

「ふふっ、笹原さんは絶対に手を抜きませんからね」

 

「鈴仙の言う通りですよ。私は、絶対に手を抜いたりしません」

 

 

 鈴仙は、少年が決して手を抜くということをしないことを知っていた。

 少年は、貰っているものに見合う働きをしなければならない、やりすぎて困ることは絶対にないと考えている。

 少年の考えはいつもそうだった。1を貰って、2で返すことの何がいけないのか。銀の皿を貰って、金の皿で返すことの何が悪いのか。給料以上の働きをして困る人間でもいるのか。そんなものいないはずだ。

 そして、そんな考えが周りを心配させることになろうとも、それを理解していても―――少年は決して変わらない。

 

 

 ―――薬品庫―――

 

 

 3人は薬品庫へと移動し、それぞれの机の前に座った。

 薬品庫にある薬と診察室にある薬は、質が異なるものである。頻度と危険度の掛け合わせで算出した値が一定以上の場合は、薬品庫に薬が保管されることになっている。一定以下の場合は、診察室に置かれることになる。

 薬品庫は、危険な薬、扱いに困る薬や薬の材料が保管されている場所だった。

 

 

「さっそく始めましょうか」

 

「「はい」」

 

 

 3人は、薬の調合を開始する。目の前の机に薬の材料となるものを置き、加工を施し、調合をする。

 少年は、新米ということもあって薬に関しての知識があまりないため、いつも永琳から細かく指示を貰いながら薬の調合を行っていた。

 少年は、永琳に指示されるままに薬を小分けにして色々な粉末と複合させ、間違えないように永琳の声をしっかりと聞き取り、確認をしながら綺麗に混ぜ合わせていく。

 

 

「この薬は、そこまで量が必要になることは無いから」

 

 

 少年の机の前には、材料が山ほど並んでいる。

 下手に間違えれば、何が出来上がるか分からない。患者の口に入ることを考えれば、ミスは許されない。ミスをすれば永琳が止めるだろうが、怒られることは確実で、そのためにもミスをしたくなかった。

 永琳は、そんな少年の気持ちを上手くハンドリングしながら着実に前へと進めていく。

 

 

「全体量が少ない分、分量を間違えないようにね。少しの誤差が致命的になるわ」

 

「分かっています」

 

 

 少年は、慣れたような手つきで微量の粉末を取り分けて混ぜ込む。

 永琳は、見知らぬ間に少年が上達していることに少し驚き、誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。

 

 

「上手くなったわね」

 

 

 薬の調合は、少年の領分ではないため、やった回数も数えるほどしかないはずである。

 しかし、少年の動きはとても慣れているように見える。少年の仕事ぶりは、半年の間に随分と様になっていた。

 

 

「そう……そういうこと」

 

 

 永琳には、目の前に現れている少年の薬の調合が上手くなっている原因に心当たりがあった。

 知らぬ間にでも練習したというのももちろんあるだろう。努力家という言葉がよく似合う少年のことである、練習をしていることはほぼ間違いない。

 それでも―――それだけじゃない。

 目の前で少年が行っている行為は、あることによく似ている。新しい薬を作る時に見ている少年の能力の動き。境界が乱れて、互いを分ける線が消えていく様子。目の前の光景は、それによく似ていた。

 

 

「いつもやっているものね」

 

 

 混ぜ合わせるという行為は―――境界を曖昧にする行為に非常に似ている。

 永琳は、少年の動きを見ながら一人心の中で納得した。

 そんな少年とは対照的に、鈴仙は少年の隣で永琳から指示を受けることもなく作業を進めていた。少年の仕事のペースが速くなっているといっても、長年の経験を持っている鈴仙と比較すると遅いことに変わりはない。鈴仙の偶に大きな間違いを犯す部分を除けば、鈴仙の薬の調合は少年よりも手際がよく、正確さ含めスピードも速かった。

 

 

(私の分は、もうすぐ終わり……笹原さんの方はどうだろう? もし、手こずっているようだったら私が手伝ってあげようかな)

 

 

 少年の隣で作業している鈴仙は、横目に少年に視線を向ける。視線の先には、綺麗に混合した薬が広がっていた。

 

 

「笹原さん、随分と上手くなりましたね」

 

「鈴仙さん、ありがとう。そう言ってもらえるとすごく嬉しいよ」

 

「い、いえ……」

 

 

 鈴仙は、少年に真顔でお礼を言われて思わず顔を赤くする。今の少年の顔は、普段の笑顔の表情と比べると大きなギャップがあった。

 

 

「ど、どういたしまして……」

 

 

 鈴仙は、少年の方から目を離すことができないまま、回らない口を開き、ぼーっとする。

 鈴仙は、あまり人付き合いが得意な方ではなく、もともと持っていた内向的な性格や能力の関係から、人と関わってこなかった。真正面を向いて話してしまえば、どうしても恥ずかしくなってしまう。ぶしつけな態度を取るだけ、視線を背けながら言葉を吐き出すだけならできるのだが、向かい合って話すことを苦手としていた。

 少年に対しては、少し慣れてきたこともあって随分と改善してきている。目を合わせて、面と向かって話ができている。今のように、恥ずかしくなって固まってしまう場合を除いては、対応が変わってきていた。

 永琳は、茫然としている鈴仙に鋭い視線を向ける。

 

 

「……ウドンゲ、貴方は顔を赤くして何をやっているのかしら?」

 

「えっ……?」

 

「手元を見てみなさい」

 

 

 永琳は、鈴仙に向けていた視線を横にずらす。鈴仙は、永琳の視線の先を追い、視界を正面に戻した。

 鈴仙の手元には、何が混ざったか分からなくなった膨大な量の粉末が山になっている。そして、左手に握っていた入れ物の中には殆ど何も残っていなかった。

 鈴仙は、今の状況を理解して驚愕の声を上げた。

 

 

「ああっ!」

 

 

 鈴仙は、少年の方向を向いている間、茫然と何も考えずに手を動かしてしまっていた。今の状況を見れば、明らかに分量を間違えてしまっていることが分かる。

 鈴仙は、シュンと顔を下げて落ち込んだ。

 

 

「すみません、分量を間違えてしまいました……」

 

 

 薬は、混じってしまえば分離することが非常に難しい。それは、液体同士が混ざって分離することができないのと同じである。

 例えて言えば、オレンジジュースとアップルジュースを混ぜて、元に戻してくださいと言われても戻せないのと同じだ。間違いなく鈴仙の作った薬は、廃棄されることだろう。

 少年の両手が動きを止める。

 少年は、鈴仙の狼狽する声を聞いて自分の責任を感じ、鈴仙の方向に顔を向けて手を合わせながら軽く頭を下げて謝罪した。

 

 

「ごめんね、僕が邪魔しちゃったのかな」

 

「貴方は悪くないわ。ウドンゲが集中していないのが悪いのよ」

 

「そうです……これは私の責任です」

 

 

 永琳は、少年の優しさに苛立ちを感じながら全面的に鈴仙が悪いと告げた。

 少年は、集中して薬を作っていただけで、声をかけられたから言葉を返しただけで、何も悪いことをしていない。悪いのは、集中を切らした鈴仙の方である。

 

 

「私は、大丈夫ですから。笹原さんは心配しないでください」

 

「ウドンゲが大丈夫でも私が大丈夫じゃないわ」

 

 

 永琳は、大丈夫だというウドンゲの頭を軽く叩き、辛辣な言葉を口にした。

 

 

「貴方が今作っている薬は、薬同士の調合で作っている薬よ。その材料にしている薬を作っているのはいったい誰なのかしら?」

 

「し、師匠です……」

 

 

 鈴仙は、永琳の言葉に先ほどよりも気落ちした。

 鈴仙の失敗は、そのまま永琳へと返って来る。今行っているのは、薬と薬の混ぜ合わせである。混ぜ合わせることで効果が生じる薬同士を混合させている。つまり、再び作りたい薬を作るためには、原料となる薬を作る必要があるのである。

 その薬は誰が作っているのか―――永琳が作っているのである。鈴仙のミスは、そのまま永琳の労働へと変わり、時間の浪費へと繋がる。

 少年は、怒られている鈴仙に対して悪いと思っている気持ちがあるのか、小声で隣にいる鈴仙にだけ聞こえるように声を発した。

 

 

「ごめんね、鈴仙」

 

「い、いえ、いいんですよ、ははは……」

 

 

 鈴仙の表情にでひきつったような笑いが浮かんでいる。

 

 

「ふふっ……」

 

 

 少年は、鈴仙の反応に思わず笑ってしまった。

 

 

(ありがとう)

 

 

 鈴仙は、謝ってくる少年に対してどうしゃべっていいのか分からず、とりあえずの笑顔で少年を安心させようとしている。少年は、そこまで心配しなくてもいいのにという気持ち6割と、気遣ってくれてありがとうという気持ち4割を込めて誰にも聞こえない声を漏らした。

 しかし、そんな心の声など鈴仙に聞こえるはずもない。

 鈴仙は、少年が自分のひきつった笑顔に笑ったのだと勘違いをし、馬鹿にされたと声を荒げた。

 

 

「わ、笑わなくてもいいじゃないですか!」

 

「ウドンゲ! 笹原も何しているの! ちゃんとやりなさい!! その調合が患者の命を支えているのよ!!」

 

「「ご、ごめんなさい……」」

 

 

 永琳は、ふざけているように見える二人の様子に眉にしわを寄せ、二人に向かって怒りを振り下ろした。

 少年と鈴仙は、永琳の剣幕に押されてシュンと項垂れる。そして、お互いに顔を見合わせて僅かに微笑んだ。

 少年は、そんな普通の日常が堪らなく愛しかった。

 



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鈴仙の気持ち、問診への参加

 少年は、薬を調合する作業を終えた。少年の手元には、上手く混ざり合って別のものとなった薬が存在している。

 少年はわずかに力の入っていた力を抜き、脱力した。

 

 

「はぁ、終わった……」

 

 

 少年は、薬の調合を終えた達成感に浸り、喜びを顔に表現する。そして、できあがった薬を永琳に見せつけた。

 

 

「これだけあれば十分ですよね?」

 

「そうね、それだけあれば暫くは大丈夫のはずよ。御苦労さま」

 

「上手くいって良かったです」

 

 

 薬のスペシャリストである永琳から指摘がなかったということは―――特に何も問題がないということと同義である。

 少年は、永琳からの合格をもらい、安心して小瓶の中に調合した薬を入れる。小瓶には、半分埋まるほどの薬が詰め込まれた。

 

 

「落とさないように気を付けるのよ。それから、棚の中の薬品には触れないようにね」

 

「はい、分かっています」

 

 

 少年は、しっかりと小瓶にふたを閉めると立ち上がって棚の中に薬をしまい込む。

 永琳は、僅かな動作も見逃すまいと少年の動きを目で追った。

 もしも少年が途中で小瓶を落としたり、棚にある薬に触ってしまったりすることがあれば、どうなってしまうか分からない。

 作った薬は、一応人間用であるため少年に大きな悪影響は出ないだろうが、注意は払っておくべきである。特に棚の中には危険な薬品や人間に適合しないものが沢山ある。永琳は、監督者として少年がしっかりと自分の仕事をやり遂げるのを確認しなければならなかった。

 

 

「これでいいですよね?」

 

「ええ」

 

 

 永琳は仕事を成し遂げた後、棚から離れようとする少年に接近する。

 少年は、突然距離を詰めてきた永琳に不安を抱いた。永琳が近づいてくるということが、何か間違いを犯してしまったのではないかという不安を想起させた。

 

 

「なんでしょうか? 何かまずいことでもありましたか?」

 

「そういうわけじゃないわ」

 

「そうですか、それなら良かったです」

 

 

 少年は、何かミスをしたわけではないのだと酷く安心すると同時に、続けてそれでは一体何用なのかと不思議そうに質問を投げかけた。

 

 

「では、どうしたのですか?」

 

 

 少年には、永琳が何を目的に接近してきたのか想像がついていなかった。

 永琳が話す内容は、決まって新しくやらなければならない仕事ができた場合か、ミスの指摘が主である。

 しかし、今日という日は何か特別なことを行う日というわけではない。何か特殊なことをやらなければならない日ではなく、いつも通りの仕事を行う日である。普段から永琳にミス以外で何かを言われることがあまりない少年は、永琳が話しかけてきた目的が分からなかった。

 そんな何の予想もしていなかった少年に向けて、永琳は今の状況が知りたいと要件を述べた。

 

 

「今日は、貴方のアフターケアとしていくつか質問をしたいのだけどいいかしら?」

 

 

 少年は、過去に重い病気を患っており、永遠亭に入院する形をとっていた。

 ‘永遠亭に入院していた’という事実は―――普通ならばありえないことである。なぜならば、永琳の薬によって重い症状が緩和しなかったという事実もそうであるが、永遠亭は本来入院するための設備をあまり持ち合わせていないからだ。

 永遠亭は、診療所のようなもので病気の人が入院することのできるベッドがあまりない。それにも関わらず、少年は永遠亭に入院していた。それほどに少年の病気の症状は重かった。動けないぐらい―――いつ死んでもおかしくないぐらい、重かった。

 永琳は、少年が永遠亭に入院していた時のことをよく知っている。少年が病気で苦しんでいる時のことを思い返すと、少年の経過を知っておく必要性が感じられた。

 少年は、重い症状から脱したとはいえ、いつ症状が重症化するか分からない状態である。少年の現状況を知ることは、予防や対策、受け入れの準備のためにも非常に重要なことで、問診をしておく必要は大いににあった。

 

 

「あれから病状がどうなっているのか知っておきたいのよ」

 

「いいですよ。八意先生とは入院していた時に色々話をしましたからね。気兼ねなく素直に質問に答えられます。ただ、あの時と特には変わっていないと思いますよ?」

 

「それを判断するのは、私の仕事よ」

 

「確かに、それもそうですね」

 

 

 少年は、永琳の物言いに納得し、すぐさま行動に移る。

 

 

「じゃあ、部屋を変えましょうか」

 

「いつもの場所でいいわね?」

 

「はい」

 

 

 永琳が少年に対していつもの場所でいいのか尋ねると、少年は永琳の提案に一度だけ頷いて肯定の意志を告げた。

 これから二人が話そうとしている内容は、特殊な臭いのする落ち着かない薬品庫でするような話ではない。永琳が少年と病気のことについて話す場所は、少年が闘病生活を送った病室と暗黙の了解で決まっていた。

 少年と永琳の二人は、部屋を変えようと足先を扉へと向ける。薬品庫の中に鈴仙だけを置いて扉へと近づいた。

 

 

「師匠、私も参加したいのですが、いいでしょうか?」

 

 

 少年が部屋の扉に手を掛けたとき、部屋の中に一人の声が響きわたった。鈴仙が問診するために部屋を変えようとしている二人に向かって唐突に口を開いたのである。

 

 

「…………」

 

 

 永琳はその場で振り向き、発言した鈴仙の顔を無言で見つめる。少年も永琳と同様にその場で立ち止まり振り返った。少年の視界の先には、鈴仙が決意のこもった瞳で永琳の眼を見つめ返している姿があった。

 少年は、続けて隣にいる永琳へと目を向ける。

 鈴仙を見る永琳の表情からは、僅かにだが驚いた様子が見受けられた。

 

 

「八意先生?」

 

「…………」

 

 

 永琳は、少年に対して返事を返さなかった。

 鈴仙は、内気な性格から自身の中で勝手に折り合いをつけることに長けており、自己完結で終わりを迎えることがほとんどで、周りの人にとやかく意見を言うことがなかった。

 そんな普段自分から何かをやりたいと言い出さない鈴仙がはっきりと話し合いに参加したいと言っている。半年前の鈴仙であれば、間違いなく二人の会話の中に参加しようなんてことは言わなかったはずで―――口には出さなかったはずである。

 鈴仙は、少年と出会ったことで間違いなく半年前から変わってきている。これもまた少年が変化をもたらした一つの例と言えるだろう。

 永琳は、しっかりとした視線を送る鈴仙に改めて問いかけた。

 

 

「ウドンゲは、本当に参加したいの?」

 

「はい」

 

 

 鈴仙ははっきりと一言で参加する意思を示した。

 永琳は、鈴仙の意志が変わらないのを確認すると、少年に対して合図を送る。

 

 

「こう言っているけど、どうするの?」

 

「そうですね……」

 

 

 永琳は少年の意見を仰ぎ、その意見で判断しようと考えていた。

 話の内容はあくまで少年の病気の話であって、永琳の話ではない。話を聞きたいと許可を取る相手は、あくまで少年に対してとるべきだ。少年が嫌というならば、ダメ。いいと言うのならば、良い。

 少年は、決断を下す。あえて言わせてもらうのならば――――

 

 

「私は、止めておいた方がいいと思いますけどね……」

 

「やっぱりそう思うわよね」

 

「はい……鈴仙さんは、ちょっと……」

 

 

 少年は、鈴仙が話し合いに参加することに否定的だった。そして、永琳も少年と同じように鈴仙が話し合いに参加することに否定的だった。

 少年と永琳は、鈴仙が話し合いに参加することに対して共通の懸念材料を抱えている。そもそも、普通に話せる程度の話であれば、最初から鈴仙を参加させている。話せないから、参加させていないのだ。

 これが少年以外の病気であればいいが―――少年の病気の話は別である。聞いた相手への影響がどの程度出るか分からない。

 永琳は、鈴仙に向かってはっきりと参加をしない方がいいと告げた。

 

 

「悪いことは言わないわ。ウドンゲ、参加するのは止めておきなさい」

 

「ど、どうしてですか?」

 

 

 鈴仙は、最も近くで少年の看病をしていた一人である。永遠亭に入院している間、多くの世話を行った人物の一人である。それを想えば、聞く資格はあるように思う。

 だが、それを聞くだけの覚悟があるのかといわれると首をかしげざるをおえなかった。

 

 

「私が未熟だからですか? 私では少しも役に立たないからですか!? あの時みたいに私だけ除け者にして、また蚊帳の外に置くつもりですか!?」

 

 

 鈴仙は、少年と永琳の否定的な言葉に声を荒げた。

 

 

「私は、和友さんの力になって褒められたいわけじゃない!! 手伝っている自分が優秀だって思いたいわけじゃない!! 力のある立派な存在でありたいなんて思っているわけじゃないの!!」

 

 

 鈴仙は、少年の闘病生活の一部始終を見ていて、看病をしていて何もできなかったことを酷く後悔していた。

 その後悔の大きさが今の鈴仙を作っている。あの時の重みが背中に乗っている。その重さが、言葉と表情に重さを乗せていた。

 

 

「誰かから褒められなくてもいい!! 裏切り者だって罵られてもいい!!」

 

「ウドンゲ……」

 

 

 鈴仙は、声を大にして自分の気持ちを伝えた。

 

 

「私は、何かの役に立ちたいの!!」

 

 

 鈴仙は、どうしても少年の現在を知るための話し合いに参加したかった。少年が今どんな状態で生活しているのか知りたかった。

 そしてなにより―――何かの役に立ちたかった。

 何もできず、何にも役に立っていない現状に―――耐えられなかった。

 

 

「……今からお二人が話されるのは、きっと大事な話なんですよね?」

 

 

 鈴仙の記憶の中には、少年が永遠亭に入院しているときのことを思い出すと、思わず震えてしまうほどの思い出が存在している。

 

 少年の闘病生活は、誰の目から見ても、どの角度から見ても、見ている人物に影響を与えるだけの‘何か’を発していた。

 

 少年の永遠亭での闘病生活は、人間という生き物がこれほどまで頑張ることができるのかということ―――命の輝きというものをまざまざと見せつけるような闘病生活だった。

 最後の最後まで生きようという意志と、周りの人に対する優しさを忘れない少年には、人間としての輝きが見えた。

 鈴仙も少年から影響を受けた人物の一人で、少年に対して何か力になりたいと強く思っており、何もできなかった過去に対して払拭したいと願っていた。

 

 

「私はもう……嫌なんですよ。見ているだけで何もできないのが嫌なんです。何の役にも立てていない自分が何よりも憎たらしい……あんな思いをするぐらいならいっそ嫌われてしまった方が、楽です……」

 

「…………」

 

 

 鈴仙の声が徐々に小さくなる。

 少年は、下を向いて声を震わせる鈴仙を射抜くように見つめ、しばらく沈黙した後、何かを決意したような表情で静かに口を開いた。

 

 

「鈴仙さん、貴方が本当に知りたいというのなら私は構いません。何があっても取り乱さないようにしてくれれば、話し合いに参加してもいいです」

 

「本当にいいの? 私はお勧めしないわよ」

 

 

 鈴仙は、少年の許可するような台詞に下に向けていた視線を上げて少年へと向ける。

 永琳は、少年の顔を怪訝そうに見つめた。

 永琳は、あくまで鈴仙が話し合いに参加することに対して止めた方がいいと考えている。少年の病状を聞くことで鈴仙が受ける影響を危惧している。

 少年は、永琳とは反対に自分が話すことで与える影響よりも、鈴仙の意志を尊重しようと考えていた。

 

 

「私の病気に関しては、いずれ全部分かることですから」

 

 

 少年は笑顔を作り、信頼を言葉に込めて口を開いた。

 

 

「それに、鈴仙さんがそれほどに知りたいと言っている。自分の意志を貫こうとしている」

 

 

 少年は、自己の意思を明確に示す鈴仙を見て嬉しい気持ちになった。普段自分から何かを決めることのない鈴仙が自らの道を選んでいる。

 少年は、鈴仙の想いに応えたかった。

 

 

「私は、自分の意思をはっきり示した鈴仙さんになら話してもいいと思います。知っている人が多いと隠し通すことがちょっと難しくなるけど、なんとかなるでしょう」

 

 

 少年の本心を告げれば―――自分の病気について他人に知られたくなかった。心配されるというのも話したくない原因の一つだったが、病気の内容が特殊だったのが大きな要因となっていた。

 知ってしまえば、意識せずにはいられなくなる。知ってしまえば、これまで通りにはいかなくなる。

 けれども―――少年は、今の鈴仙になら話してもいいと判断した。鈴仙の明確な意思表示に―――話しても大丈夫だと判断した。何よりも鈴仙の傍に永琳がいるという事実が少年の気持ちを軽くさせた。

 少年は、笑顔のまま隣にいる永琳に頭を下げる。

 

 

「話した後の鈴仙さんのことは、八意先生に任せます」

 

「結局そこで私頼みなのね」

 

「お願いします、八意先生」

 

「……ええ、いいでしょう。私が何とかするわ」

 

 

 少年は言い出したら諦めない。永琳は、少年が自ら折れないことを理解していた。仮にここで少年のお願いを断っても、後が面倒になるのはどちらも同じなのである。

 ここで分かりましたと了承すれば、鈴仙の後処理が面倒になる。駄目だと言っても、話すことを決心している様子の少年を抑え込むのが面倒になる。どちらの選択肢をとっても面倒なことに変わりはなかった。

 鈴仙は、2人の言葉に顔の表情を緩くする。話し合いに参加することに両者が許可を出してくれたのだと喜び、確認のために声を震わせたまま口を開いた。

 

 

「じゃ、じゃあ……」

 

「ええ、ウドンゲも一緒に来なさい」

 

「うん、一緒に話し合おう」

 

 

 少年は、静かに頷き鈴仙の参加を迎え入れる。永琳は、その場で後ろに振り返りながら隣にいる少年にだけ聞こえるように囁いた。

 

 

「本当にどうなっても知らないわよ」

 

「どうにもなりませんから、大丈夫です」

 

「はぁ……どこからきているのよ、その自信は」

 

「背負っている物が見えましたから。ふわふわ飛んでいるわけじゃない、背中に背負っている重さが地を歩かせている。鈴仙さんは、この程度で吹き飛んだりしませんよ」

 

 

 少年は、永琳と同様に囁くように答えた。

 永琳は、少年の答えにため息をつきながら扉を開けて外に出る。続いて少年と鈴仙が永琳の背中に張り付くように後ろに追随した。

 3人が出た部屋には、鈴仙が途中まで作っていた薬品だけが取り残された。

 

 

 

 

 ―――少年の病室―――

 

 3人は、話をするために部屋を変えた。

 3人のたどり着いた先は、少年が闘病生活を送っていた病室である。

 少年が闘病生活を送っていた部屋は、一人部屋でベッドが一つ、窓が一つあるだけのそれ以外に何もない牢獄のような部屋だった。

 少年は、部屋に入ると大きく息を吸い、昔を思い出すように懐かしそうに呟いた。

 

 

「すぅ~はぁ~。ああ、久しぶりだなぁ」

 

 

 少年は、病気の症状が改善した後に病室に入ったことが一度もなかった。おおよそ半年ぶりの帰還である。

 

 

「なんだか、あるべき場所にやっと戻ってきたような感じだよ」

 

「あるべき場所に戻ってきたなんて……笹原さんは病気を克服して元気にやっているじゃないですか」

 

 

 鈴仙は、少年の言葉に違和感を覚え、反論するように言葉を吐き出した。少年のあるべき場所―――それがこんな寂れた病室なんて到底思えない。少年の性格や雰囲気を考えれば、こんな場所が少年のあるべき場所など想像もできなかった。

 少年のあるべき場所は、八雲の家であって病室ではない。病室はあくまで病気と闘う場所、病気と共存する場所である。病室は、少年の今を考えれば、あるべき場所というには程遠いように思えた。

 

 

「この病室が笹原さんのいるべき場所ではないでしょう?」

 

「いや、ここが私の終着地点の一つだったから間違いではないよ。私が終わって、私が始まった場所だから」

 

「笹原さんが終わって、始まったというのは、どういう意味で言っているんですか?」

 

「そのままの意味だよ。私はここで死んで、ここで生まれ変わった。ここが原点で、最終地点。ぐるぐる回って、同じところをぐるぐる回って、原点復帰した場所がここなんだ」

 

「どういうことですか?」

 

 

 次々と質問する鈴仙を見て、永琳の顔に険しい表情が浮かんでいく。今まさに鈴仙が少年の話を聞いて疑問符を浮かべて次々と自身の穴を埋めるように質問している状況が目の前にある。そのことが―――心をざわつかせていた。

 永琳は、何も知っていない鈴仙が好き勝手に話を逸らすのが不快だった。真実を知った時の鈴仙の精神的ダメージもそうであるが、場を乱されるという意味でも鈴仙を話し合いに加えるのが嫌だった。

 

 

「ちょっと待ちなさい」

 

「師匠、なんでしょうか?」

 

「なんでしょうかじゃないわ」

 

 

 永琳は、鈴仙に対して出張るなと釘を刺す。鈴仙が逐一分からないことを質問していたのでは、時間が足りなくなる。いちいち大きいリアクションを取られて声を震わせていたのでは、話がちっとも前に進まない。

 

 

「ウドンゲ、勝手に質問しないでくれるかしら? 笹原には、ウドンゲの質問に全て答えることができるだけの時間的余裕はないのよ」

 

 

 少年には時間がない。マヨヒガに帰る時間が決まっている少年は、話し合いが途中であっても帰る必要がある。もしも遅れようものならば、八雲の式が飛んでくるだろう。間違いなく面倒事になるのは目に見えている。

 さらには、話し合いに時間がかかればかかるほど、話し合いが次の日、そのまた次の日と後ろに伸びてしまう。

 永琳は、余計な時間を使うことを酷く嫌っていた。蓬莱人という時間に縛りのない自分のためではなく、時間が限られている少年のため、あるいは鈴仙のためにも時間を節約したかった。

 

 

「ウドンゲにも分かるように話してあげるから、今は静かにしていなさい」

 

「すみません……」

 

 

 鈴仙は、師匠である永琳が不機嫌な理由をすぐさま察し、申し訳なさそうに頭を下げて謝罪した。自分が出過ぎた真似をしていること、話の主旨がずれそうになっていることを理解した。

 少年は、怒られている鈴仙に少し悪いことをしてしまったような気持ちを抱える。鈴仙が怒られている原因が自分の責任でもあるように思えたのである。

 しかし、今回は鈴仙をかばうようなことも、先ほどと同じように謝ることもしない。

 少年に今求められているものは謝罪ではない。今求められていることは、話を前に進めることである。

 少年は、話を前に進めるために口を開いた。自分の状態について、過去にあった病気について、今の現状について語り出した。



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少年への問診、露見する真実

 少年は、真剣な表情で自分の病気のことについての会話を切り出した。

 

 

「さぁ、話を始めましょうか。私が答えられることならなんでも答えますよ。八意先生は、私の能力の弊害にしっかりと気付いていらっしゃるから気兼ねなく話すことができます」

 

 

 少年は、えらく永琳のことを信頼していた。

 永琳は、幻想郷における少年の理解者の一人である。

 病気にかかっているときに一番お世話になった人で、一番心の内を明かした人で、能力の弊害について理解しながらも―――付き合ってくれる人。

 それが、少年にとっての八意永琳という人物だった。

 

 

「随分と私は貴方に高く買われているのね」

 

 

 永琳は、少年から寄せられている全幅の信頼に複雑な表情を浮かべる。

 

 

「貴方の能力の問題に気付いたのだって、貴方が言ったからでしょう? 私だって言われなきゃ気付くことはできなかったわ」

 

 

 永琳が少年の能力の副作用に気付いたのは、少年が自ら疑問を告げたことがきっかけだった。

 そもそも、少年の病気は原因が不明であり対処の仕方が全く分からないもの。原因を探るためには、少年自身から話を聞くか、少年の仕草から問題を探す必要があった。

 永琳は、病気を患っている少年自身から手掛かりを探した。同様に紫もまた、少年から病気の原因を探っていた。

 結果として、紫と永琳は同じところに答えを導き出した。

 

 

「私が気付けたのはたまたまなのよ。それこそ、妖怪の賢者と同じ」

 

「それは、どっちでもいいんですよ。知っているか知っていないかが大事なだけです」

 

 

 紫と永琳の二人だけは、少年の今の状態をよく理解している。少年の能力が何を引き起こしているのかを知っている。

 しかし、その他の知り合いたちは、少年の病気が治っている。もしくは病気になったことさえも知らない、というのが現状である。

 だからこそ少年は、病気について、能力の弊害について把握していても普通に接してくれている紫と永琳に信頼を置いていた。

 

 

「先生は、知っていらっしゃる。それだけが大事なのです」

 

「私も貴方に引きつけられているのかもしれないわよ? 貴方の事が可哀そうだと同情してしまっているのかもしれないわ」

 

「知っていてそんなことを言えるのは、大丈夫な証ですよ。八意先生がそんな簡単に傾くような人ではないのは、よく知っています」

 

「…………」

 

 

 永琳が薄く笑みを浮かべながら少年を挑発すると、少年は永琳に同期するように不敵に笑った。

 鈴仙は、分かったように話しを進める二人の様子に疎外感を覚えていた。先程分かるように話すと言っていたのに。二人が話していることが何のことなのかさっぱり分からない。鈴仙は、話についていけない状況に苛立ちを募らせていく。

 だが、不満を口に出すほど愚かではない。先ほどの永琳の注意によって口を開くわけにもいかず、黙って二人の様子を見つめていた。

 

 

「私のことを随分と信頼しているようだから、気兼ねなく話を進めさせてもらうわ」

 

 

 永琳は、手始めにと言わんばかりに爆弾が爆発するようなどでかい衝撃を与える一言を投げつけた。

 

 

「まずは退院おめでとう。もう半年も経ってしまったけどね」

 

「ははっ……悪い冗談はやめてくださいよ」

 

「そうかしら、間違ってはいないわよ? ‘退院’はしたでしょう?」

 

「それは、そうですけど……」

 

 

 少年は、不敵な笑みを作る永琳の冗談に苦笑した。退院おめでとうという言葉が、皮肉以外の何にも聞こえなかった。

 二人は、軽快な足取りで会話を繰り広げる。鈴仙は、颯爽と会話している二人を羨ましそうな眼で見つめていた。

 二人の会話の間に入っていける隙間は見当たらない。話題が固定されている会話において、会話の中に参加するためには、会話のお題について知っていることがなければ不可能な話だった。

 けれども、黙っているだけなんてことを鈴仙の心は許さなかった。

 鈴仙は、ただただその場にいるために会話に入れて欲しいと懇願したわけではないのだから。

 

 

(これじゃあ……何をしに来たのか分からない。なんとか会話に入り込まないと)

 

 

 鈴仙は、何とかして会話に加わろうと口を挟みこんだ。

 

 

「あ、あの……師匠、退院おめでとうを言うには随分と遅くないですか? もう退院から半年も経っているのですよ?」

 

 

 鈴仙は、置いてきぼりをくらっている状況を何とか打開しようと必死に言葉を吐き出した。

 鈴仙がなんとか言葉にした内容は、正直どうでもよい内容である。半年も経って退院おめでとうは遅くないですか? という質問には、会話をとどめる程度の効果しかない。

 鈴仙の質問は、あまりに内容が無く、掘り下げる価値なんて無かった。言った自分がよく分かっていた。またしても黙れといわれるのだと、そう思っていた。

 そう思われたが―――意外なことにそこから話が広がりを見せた。

 

 

「いえ、本当なら退院おめでとうなんて言うべきじゃなかったのよ。貴方は、まだ退院すべきじゃなかったのだから」

 

「え?」

 

 

 予想だにしない永琳の言葉に、鈴仙の口から呆気ない声が漏れた。

 退院すべきじゃなかった、その言葉が頭の中をぐるぐると回転する。

 退院すべきじゃない―――それはつまり病気が完治していないことを意味している。鈴仙は、永琳の言葉が余りに衝撃的過ぎて頭が真っ白になり、思考が回らなくなった。

 鈴仙は、停止する思考の中で顔色を悪くする。

 

 

「師匠、それは、どういうことですか?」

 

 

 少年の病気がどれほどに酷いものであったのかは、看護をしていた鈴仙自身がその目で確認している。

 少年の病気がまだ治っていないというのは、今の少年からは微塵も感じられなかった。目の前の少年は、少なくとも日常を送っている。辛そうなそぶりも見せないし、血を吐き出すようなこともない。少年の今の状況を見れば、治っていないと断言できるだけの材料が無かった。

 

 

「ま、まさか……まさか、ですよね?」

 

「僕の病気は、完治していない」

 

「完治して、いなかったんですか……?」

 

 

 鈴仙は、声を発した少年へと視線を向けた。少年は、真剣な表情で鈴仙を見つめている。少年の瞳が、告げている言葉が嘘ではないと物語っていた。

 それに、完治していないかもしれないというような曖昧な可能性を示唆する発言ではなく、していないと断言をしている。原因不明の病気に対して、明確に発言している。

 それは―――少年の言葉が真実であることを指し示しているように思えた。

 鈴仙は、少年の病気に対する認識を改める。少年の病気は、本当に治っていない。

 しかし、理解するうえで疑問が生じてくる。少年の病気が完治をしていないのであれば、なぜ退院をしたのか、病気の症状が治まったのかの理由が説明できない。鈴仙は、答えを得ようと疑問を口にした。

 

 

「なら、どうして退院なんてしたんですか?」

 

 

 永琳は、目に見えて混乱している鈴仙に答えを与える。

 

 

「ある程度まで病気の進行が戻ったのよ。時を戻したように病気の進行を過去の状態とおおよそ同じ状態にしたの」

 

「病状が過去の状態になった……?」

 

「だから治ったとごまかして退院した。この事実を知っているのは私と妖怪の賢者だけよ」

 

「師匠と妖怪の賢者しか知らないのですか……」

 

 

 鈴仙は、永琳の言葉の意味を想像することができなかったが、病状が後退したという事実だけを理解した。少年の病状は、レベル4の状態からレベル1に戻ったようなものなのだとイメージした。

 そして、そのことを知っているのは―――少年の病気について知っているのは紫と永琳だけだと知った。

 鈴仙は、3人目に明かされたことに事の重大さを感じ取っていた。知っているのは、妖怪の賢者と師匠である永琳のみ。その中に自分が入った。名を連ねているものの存在の大きさに、責任の大きさを感じた。

 永琳は、そこまで鈴仙に説明すると少年に向けて病気についての質問を飛ばす。

 

 

「それで、どう? 病気の進行具合は」

 

「前よりは随分マシですかね。いきなり血が喉から湧きあがってくることはないです」

 

 

 少年は、永琳の質問に対して事実を淡々と述べた。病気の症状が抑えられている現状を示し、目に見えた変化がないことを伝える。

 だが、少年はそこまで話すと重苦しい雰囲気を醸し出した。

 

 

「でも……それだけです。症状は大分ましになりましたけど、病気の進行の速度は、おそらく前とあまり変わらないです。私に空いている穴は、埋められたわけではないので」

 

「まぁ、そうよね。変わっているわけ無いわよね」

 

 

 少年の発言は、永琳の予測通りの言葉だった。永琳は、自分を納得させるように何度も同じような言葉を口にする。

 

 

「何もしてないんだから変わっている方がおかしいわ。治っているんじゃないかなんて期待するだけ無駄ね」

 

「はい、期待はするだけ無駄です。むしろ期待されると私が疲れてしまうので、期待するのは止めて欲しいかなって思います」

 

 

 病気の原因に対して何のアクションもとっていないのによくなるはずがないのである。物事には必ず原因があり、結果は原因によって生まれるのだから。大元の原因がどうにかならなければ、結果は同じものが出てくる。

 それに、残念ながら少年の病気は、時間の経過がよくなる類の病気ではないのだから。

 鈴仙は、少年の言葉に耳を疑い唖然としていた。少年が決して言わないと思っていた言葉を口にしたことに驚きでいっぱいだった。

 

 

(笹原さんがあんなことを言うなんて)

 

 

 期待されると疲れる、入院していた時には一言も言わなかったことである。いつも笑顔で苦しいところを誰にも見せずに頑張っていた少年が、期待されて疲れると言っている。確かに常人であれば、過度な期待は重圧を生み、押しつぶされるような気持ちになるだろう。

 しかし、それが少年にまであてはまるとは思っていなかった。少年は、相手の期待を背負って何かをすることが好きなように思えたからである。

 永琳は、置いていかれつつある鈴仙をしり目に、建前を交えて少年との会話を再開する。

 

 

「私は、悪くなってからの貴方しか知らないのだから、期待も何もできないわ。比較ができなきゃよくなっているかどうかなんてわからないもの」

 

 

 普通の人間であれば、治っているものと期待するだろう。少年の頑張りを見ていれば、治っているのかもしれないという希望を持ちたくもなる。

 

 

「それでも、貴方の頑張りはよく知っているわ。それを考えると少しぐらい良くなっていてもいいとは、思うけれどね」

 

「はははっ、この世の中には頑張れば変わることと変わらないものの二つがあるんですよ。これは後者の方です」

 

 

 少年は、永琳の物言いに苦笑した。永琳も少年の表情につられるように、何とも表現しがたい表情を浮かべていた。

 何をしているのか。

 場の空気感が理解できない。

 鈴仙は、二人の淡白な会話に我慢できず、声を荒げた。

 

 

「な、なんでそんな呑気に話をしていられるのですかっ!? 病気がまだ治っていないというのなら今からでも対処するべきでしょう!?」

 

「それはまさしく正論ね」

 

「だったら! 今からでも行動に移るべきです!」

 

 

 鈴仙の言う通りである。病気が治っていないと言うのなら、症状の酷くないうちにできるだけの処置をとる方が賢明である。それこそ、今から処置を行えば治るのかもしれない。治療法が見つかるかもしれない。

 鈴仙は―――そんな淡い期待を持っていた。

 

 

「あの時みたいになったら、今度こそ笹原さんは死んでしまいます!」

 

 

 鈴仙の抱いている希望は僅かな希望であり、万に一つの僅かなものである。

 あの時何もできなかったというのに、今何ができるというのだろうか。

 あの時、最善を尽くして何もできなかったのに。

 今―――何ができるというのだろうか。

 でも―――やらないよりはやった方がマシに決まっている。

 しかし、酷くまともなことを言っているはずの鈴仙に向けられる二人からの視線は非常に冷たいものだった。

 

 

「でもウドンゲ、そうは言うけれどもどう対処するというの? あなたには、何かできるというのかしら?」

 

「そ、それは……」

 

 

 鈴仙は、永琳の言葉に固まり、途中で凍ってしまったように口が動かなくなった。反論の言葉が、次に繋がる言葉が全く出てこなかった。

 師匠である永琳が「どうするの?」という質問を投げかけるということは、病気に対して何一つ打つ手がないということを言っていることと同義だ。あるならすでにやっている、そう言っているように聞こえた。

 鈴仙の口が、永琳が分からないことを自分が思いつくわけがないという潜在意識も相まって完全に閉ざされる。

 永琳は、何も言いださない鈴仙を煽るようにはっきりと告げた。

 

 

「そうよ、貴方はあの時と何も変わっていないわ。あの時と同じように何一つできることは無い。ただ、見守っていることしかできないのよ」

 

「っっ……」

 

 

 鈴仙は、永琳の言葉に歯ぎしりする。

 永琳の言葉は、酷く鈴仙の心の奥に突き刺さった。昔の見ているだけの自分が思い出される。気持ちをこれでもかと揺さぶられる。苦しんでいる人を目の前にして、何もできなかった自分が想起される。

 それでも―――鈴仙は、永琳に向かって何も言い返えすことができない。視線を泳がせながらも視線を送ることしかできなかった。永琳の言葉が真実で―――事実であるため、何一つ反論できなかった。

 鈴仙は、そんな自分が嫌いになりそうだった。

 

 

「八意先生、言いすぎだよ」

 

「笹原は、何を言っているのかしら? 甘やかしても嘘をついても、現実は変わらないわ」

 

 

 永琳の瞳が少年の台詞によってさらに鋭くなる。少年の鈴仙をかばう行為が永琳の反感を買ったようだった。

 

 

「貴方が一番現実を知っているというのに、周りには虚実を並べて、寄りかからせて……」

 

 

 少年は、まくしたてる永琳の物言いに押し黙る。

 

 

「笹原、貴方のそういうところが周りを駄目にしているのよ」

 

「……その通りです。すみません。私が甘かったです」

 

 

 少年は、申し訳なさそうに永琳に向けて頭を下げ、素直に謝った。

 少年は、痛いほど自覚していた。自分の責任で周りに迷惑が掛かっている。悪い影響を与えている。

 それなのに、何もできていない。誰よりも状況を理解しているにもかかわらず、傷つけるからという理由で事実を告げることを後回しにしている。優しい嘘を並びたてて周りを守り、傷つくのはいつも自分で、周りはそれに頼っている。

 それが悪い流れを作り出している。

 周りは優しい少年により頼る、少年はそれに応えようとする。悪い流れは、止まらない。このまま悪い方向に向かってしまえば、あるのは両者共に崖から落ちる未来だけである。

 

 

「笹原には自覚が足りない。そして……」

 

 

 永琳の突き刺さるような鋭い言葉は、少年だけでなく鈴仙にも飛び出した。

 

 

「ウドンゲも来ない方がいいと言ったのに来たということは、このぐらい言われる覚悟があったということなのよ。ウドンゲ自身が事実を知りたいと言ったのだからね」

 

 

 鈴仙は、永琳から告げられた重い言葉に覚悟が足りなかったことを痛感していた。

 しかし―――少年の病気を治すことを諦めることと覚悟が足りないことは別の問題である。

 

 

「私が甘かったのは認めます。覚悟が足りなかったことも認めます。ですが、笹原さんの病気を治すことを諦めることとは話が違います」

 

「へぇ、言うようになったわね」

 

 

 鈴仙は、少年の病気を治すことについて諦めていなかった。

 永琳は、退かずに言い返してくる鈴仙に少し嬉しそうな表情を浮かべるが、すぐさま辛辣な言葉を送った。

 

 

「それでも、言うだけの存在であることに変わりはないわ。解決策の一つも出さずに誰もが分かっている問題を提起するだけの人間は、別に要らないのよ」

 

 

 問題が起こっていることに文句を言うのは、非常に簡単だ。悪いところを探して、問題提起するだけだったら誰にだってできる。戦争反対と、人間同士の殺し合いは悪いと、犯罪が起こるのはいけないと口に出すのは、誰にだってできる。

 

 

「解決策はない。それで結論は出たのよ。探した結果がありませんでした。色々模索して全部やった結果が、何の役にも立ちませんでしたというのが、事の結末なの」

 

 

 肝心なのは、問題を解決する方法だ。

 犯罪が起こっています、社会的な仕組みを変えていかなければなりませんね―――それでは話にならない。だったら、何をどうしたら無くなるのか意見を述べなければ、問題が起こっていることを伝えただけでしかない。

 解決策を持っていない人間が、何とかしなきゃ、それじゃだめだと文句を言うだけだったら、役に立っていないどころか、場の雰囲気を悪化させるだけで、場を混乱させるだけで、邪魔である。

 逆に、こうしたらいいのではないかと具体策を出した人間に対して文句を言うだけの人間は邪魔なだけで要らない。代案を持たずに反論する人間は、他人の邪魔をしているだけで、良くしようと思っていないと思われても仕方がないのである。

 文句を言って、だったらどうするのと言われ―――それをみんなで考えるんでしょ、なんて言ったら話し合いはもう終わりである。

 

 

「ウドンゲは、何か解決策を提示できるかしら? 私たちが思いつかないような解決策を見つけ出すことができる?」

 

「……今は思いつきませんが、今からでもみんなで考えれば、何か見つかるかもしれません」

 

「だったら話は終わりね。探しても見つからないわ。現状はあの時のままで何も変わっていないもの」

 

「本当に、本当に何もできないのですか?」

 

 

 永琳は、再三の鈴仙の問いかけに複雑な表情を作る。

 鈴仙の言葉は、しばらくして永琳ではなく少年に拾われる。少年から悟ったような顔でそっと告げられた。

 

 

「そう、何もできないんだよ。この病気は、どうしようもないんだ」

 

「どうしようもないって……」

 

 

 鈴仙は、少年の言葉に耳を疑った。少年が‘仕方がない’というような「諦めの言葉」を口にしている。普段の少年からは、考えられない言葉である。

 鈴仙は、少しながらではあるが少年の性格を知っている。諦めることなく、腐ることなく、懸命に闘っていた姿を見てきた。少年の心の中には、諦めの言葉というのがないのではないかというほどに努力をしている、そんなイメージがある。

 鈴仙は、そんな少年が諦めの言葉を口にしていることに驚きを禁じ得ず、再び問いかけた。

 

 

「笹原さんは諦めるんですか?」

 

「諦める?」

 

 

 少年は、きょとんとした表情を作った後、すぐさま真剣な表情を作り、自分に語り掛けるように言葉を口にする。

 鈴仙の頭は、次に伝えられた少年の言葉に真っ白になった。少年から鈴仙に告げられた言葉は、諦めを知らない少年から聞くことは無いと思っていた言葉だった。

 

 

「いや、違う。僕は諦めたんだよ。そこをゴールに決めたんだ」

 

 

 ―――諦めた。少年が口にしたその言葉の意味は、何よりも重かった。

 

 



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能力の弊害、少年の決意

 そこから行われた二人の話は、鈴仙が思わず耳を塞ぎたくなるような話だった。

 二人の話していた内容は、一貫して少年の能力の弊害についてである。

 

 

「現状、貴方にとって悪いことではないのではないのかしら?」

 

「冗談でもそんなこと言わないでください。悪いことばかりです」

 

 

 少年は、自分の意見をはっきりと告げた。少年の能力の弊害は、視点を変えれば良い影響が起きていると取れないこともない。

 しかし、それは事の中心にいる少年が善いか悪いかを決めることである。少年は、能力の弊害について‘悪’であると感じている。どうしようもないほどの、どうにもしがたい‘悪’であると考えていた。

 

 

「何もかも曖昧で信じられないじゃないですか。罪悪感にまみれて死んでしまいますよ」

 

 

 現在進行形で、少年の能力によってある現象が起きている。

 少年の能力は、境界を曖昧にする能力である。

 少年の能力については、永遠亭に入院した当初に知らされており、鈴仙も知っている。

 少年と永琳は、次々と能力の弊害について語る。茫然とする鈴仙を置いて、次々と事実を並べていった。

 

 

「そ、そんな……そんなこと」

 

 

 鈴仙は、少年の周りで起こっていることを聞いて顔を青くした。少年の境界を曖昧にする能力が引き起こしているという別の側面について気付きもしなかった。

 境界を曖昧にするという曖昧な能力は、凄まじいほどの応用範囲の広さを誇っている。少年は、自身の持っている能力を完全に制御できているわけではないため、何が起こっていても不思議ではない。

 だが、何が起こってもの中に二人が話している内容が思いつくだろうか。いいや、決して思いつかないだろう。思いつくとすれば、それは相当に頭に切れる人物か、頭のおかしい人物だけだ。鈴仙には、少年の能力が持つ側面について考えもつかなかった。

 

 

「それは……本当のことなのですか?」

 

「本当かどうかは分からないわ。事実なんて誰にも分からないもの。いつだって笹原のことは、曖昧なままよ」

 

 

 本当のことなど誰にも分かりはしない。真実など、誰にも分かりはしない。何処にもないということは無いが、誰にも真実かどうかの判断がつけられないのだから。

 

 

「正確な原因は、どこかにあるのでしょう。きっと、それは笹原の能力が関わっているのでしょう。けれど、能力が原因という確定はできない」

 

 

 正確な答えは、きっとどこかにある。結果が出ている以上―――どこかに原因があるのだ。それこそ、少年の能力に起因することに違いはないはずである。

 だが、原因をそこだけと特定するには、証拠と根拠が足りない。

 曖昧さは、曖昧さを持って結論を煙に巻く。曖昧なものを曖昧なままにして結論を出せば、結論が一気にはじけ飛び、突拍子もない答えが出てしまうことだってありえる。

 断定して動いてしまえば、今度は小回りが利かなくなる。原因を断定して進んでしまえば、後戻りできなくなる可能性があるのである。今はここまでで議論を止めて、深入りしない方が無難だった。

 

 

「この結論だって、笹原に言われて思いついただけだから絶対にそうだなんて確証はどこにもないわ。本当じゃないかもしれないし、本当かもしれない」

 

 

 永琳は、少年の能力の弊害について憶測であることをはっきりと示すように、あくまで可能性の一つだと言葉を濁した。

 少年の特殊な状況には、色々な解釈の仕方がある。能力の弊害であると考えることもできるし、他の要因によるものだと考えることもできる。

 永琳は、少年の能力の弊害を断定することを無理な話だと思っていた。少年の能力の性質は、‘正確’を許しはしない。あくまで曖昧で、ふわりとしたものというのが境界を曖昧にする能力の本質であり、真実である。

 永琳は、曖昧な言葉を使い、はっきりとしない口調で少年の能力の弊害について語った。

 

 

「そもそも、笹原の能力によるものに事実を求めようなんて思うことが間違っているのよ。どうせ、曖昧なものしか出てこないのだから」

 

「私は、八意先生が言っていることで間違いがないと思いますよ」

 

 

 少年は、永琳の意見に対して異論をはさまなかった。永琳の言っていることが真実であり事実であると判断するだけの材料を持っているようで、疑っている様子を見せなかった。

 永琳の仮説は、少年の過去に起きていた現象の全てを理解するに足りうるもので、理解するのが容易なもの。

 少年は、完全に永琳の意見を鵜呑みにしていた。

 

 

「昔から、なんとなくおかしいなと思っていたことです。八意先生の話が本当なら全部納得できます」

 

「でも、もしかしたら、そうなっている原因が能力の弊害によるものじゃなくて、笹原さん自身の努力の結果ということも考えられますよね……?」

 

 

 鈴仙は、永琳の意見を信じる少年に向けて一つの可能性を提示した。

 少年と永琳が能力の弊害だと言っている内容は、まだ別の捉え方が存在する。少年自身が努力によって備えたものである可能性があるのである。

 今話している問題は、少年の能力による弊害によっておこされている可能性があるから問題があるのであって、それ以外であれば特に問題にはならない内容なのだ。能力の弊害で無いのならば、少年自身の努力で成し遂げた自然なものになる。

 ごく普通の―――ありふれた何かになる。

 

 

「私の考えが信じられないのかしら?」

 

「別に、師匠の考えを信じられないというわけではありません……」

 

 

 鈴仙は、二人の話を信じられなかったわけではない。話を聞いて、納得できる部分も理解できる部分もあった。

 けれども―――信じたくなかった、認められなかった。

 なぜならば、それが事実だというのならば、全てが嘘になってしまう、事実と嘘の境が曖昧になってしまう。

 鈴仙は、認めたくなかった。これまで積み立ててきたものが少年の能力の弊害によるものだと認めてしまえば、自身の中に新しく芽生えたものが嘘偽りであると断言することになる。

 鈴仙は―――心の底から真実でないことを望んでいた。

 

 

「ただ、笹原さんが頑張ったから病気の症状が後退したっていうことも、今みたいな状況になっているということも考えられます」

 

「まぁ、それもあるとは思いたいけどね」

 

 

 少年が歯切れ悪く答える。

 鈴仙は、少年の努力による変化の可能性に縋ろうとしている。少年にとっても能力の弊害でない方が都合がいい。その方が居心地がいいからいう理由にかこつけてこの可能性に頼ろうとしている。

 

 

「僕自身が頑張ったからそんなふうになったんだって、信じたいけどさ……あまりに歪すぎると思う」

 

 

 少年は、自虐するように自らを傷つける。

 気持ち悪い。普通じゃない。異常だ。

 少年は、自分の能力を心底嫌っていた。自分の力は、無意識のうちに他人に影響を与える。知らない間に、望まぬ結果を呼び起こす。

 少年は、制御の効かない能力の存在を憂いていた。

 

 

「僕が自分で言うのもなんだけどさ、おかしいと思うよ。気持ち悪いとさえ言ってもいいくらいにはね」

 

「そんなこと、言わないでください……」

 

 

 鈴仙は、今にも泣き出しそうな顔で小さな声を漏らす。少年は、泣きそうになる鈴仙に向けて笑顔を作り、語り掛けるように言葉をかけた。

 

 

「それでもその可能性が一番高いしさ、僕自身が一番納得できるんだ」

 

 

 少年は、優しい可能性を一瞬さえも考慮に入れることなく選択肢から外した。能力の弊害によって何が起こっているのかについては、真実にも似た決意を持っているようだった。

 鈴仙は、少年の躊躇なく断言する様子に目元を潤ませる。

 永琳は、悲しみに暮れる鈴仙に向けてフォローともいえる言葉を投げかけた。

 

 

「ウドンゲ、信じたくないという気持ちは分からなくもないわ。確かに、笹原が何も持っていないかと言われれば、そういうわけではないもの」

 

 

 永琳は、鈴仙の気持ちが理解できた。鈴仙が悲しんでいる理由も、少年がはっきりと自分の意見を告げている意図も理解できた。

 永琳は、優しい瞳で少年のことについて語る。

 

 

「相手の感情に敏感で、優しさの塊のようでいて、意志が強くて、戦う気持ちを持っている、諦めない心を持っている。どれも、人間として魅力的に感じる部分よ。私達に足りない部分が笹原にはあるわ」

 

 

 永琳は、少年のことをある程度知っている。どんな人間で、どんな性格なのか、ここまでの生活で分かっている。だからこそ―――普通じゃありえないと思った。普通ではないと思った。

 永琳は、半年前のことを思い出す。半年前に少年が永遠亭にやってきた時のことを頭に思い浮かべた。

 思えば―――あの時からどこかおかしかった。おかしいと思えるだけの事実があった。

 永琳の言葉は、雰囲気を変えて責めたてるような口調に変化した。

 

 

「けれども、八雲紫の式神である八雲藍を見ているとどうしても思ってしまうのよ。あれは控えめに見ても、明らかに度を越していたわ」

 

 

 永遠亭に少年が運び込まれたとき―――妖怪の賢者の式神である八雲藍が少年を連れてきたとき―――異質さが空間を支配していた。目の前の光景に思わず、言葉が出なくなった。それほどの異質さが、大手を振っていたのだ。

 

 

「笹原が病気で連れてこられた時の狼狽した八雲藍の姿を、ウドンゲも見たでしょう?」

 

 

 鈴仙は、永琳の言葉に静かに頷いた。

 

 

「子供みたいに泣きわめいて……あんなの大妖怪のすることじゃないわ。八雲紫の式神がすることじゃない」

 

 

 八雲藍が涙を流しながら助けてくれと懇願する様子は、忘れようとしても忘れられないほどの衝撃があった。

 八雲紫の式神である八雲藍が―――泣いて懇願する。

 言葉にしただけでも、とんでもないことである。大妖怪が頭を下げて、少年の存在を助けて欲しいと言う。とてもじゃないが信じられないと言わざるをおえなかった。

 

 

「私は、笹原の存在を知らなかったし、式神と長い付き合いでもあるのかと思ったのだけど、聞いてみれば出会ってまだ1年と言うじゃない。1年ほどの期間で人間と妖怪があれほどの信頼関係を築けるものかしら?」

 

 

 仮に少年の存在が遥か昔からあり、産まれたときから育ててきたというのならまだ信じることができただろうか。そこまでの条件が揃ってようやく―――八雲藍の行動が理解できるかというところである。

 永琳は、笹原の存在がたった一年前に外の世界から連れてこられた‘よそ者’とは到底信じることができなかった。

 

 

「永遠亭に笹原を連れて来た時だけの話だったらまだ分からなくもないわ。病気で今にも死にそうだったのだからね」

 

 

 百歩譲って―――少年が唐突に病気で倒れて気が動転していたのだとすれば、まだ分からなくもない。想定外のことが起こって動揺するのは、心の自然の流れである。

 しかし、最初の様子を肯定しても、その後の行動がありえないものだった。運ばれてきたときの慌てふためいた八雲藍の行動を認めたとしても、その後の対応が説明できないのだ。

 

 

「でも式神の対応は、笹原が永遠亭に入院しているときも変わらなかったわ」

 

 

 少年が入院していた時の八雲藍の行動は、常軌を逸していた。

 

 

「毎日のように見舞いに来て、頻繁に泊まっていった。笹原から来なくても大丈夫だと言われても、こちらが来ないようにと言っても、永遠亭にやってきた」

 

 

 八雲藍は、毎日のように永遠亭に来ていた。人里や妖怪たちの噂になるほどに、永遠亭に来ている姿が目撃されている。

 八雲藍は、ほぼ毎日少年の見舞いに来て、少年の傍で一緒に眠り、ほとんどの時間を一緒に過ごしていた。永琳が頻繁に来たのでは少年の気が休まらないと告げたのにもかかわらず、無視するように永遠亭にやってきた。申し訳なさそうな顔でやってきた。

 悪いことをしている自覚があるのに、止められない。そんな様子だった。

 

 

「明らかに行き過ぎている。たった1年間一緒に過ごしただけの相手に対してそこまでの執着するものかしら?」

 

「そうなんだよね。確かに藍とは色々あったけど……ちょっとそれだけじゃ説明がつかないんだ」

 

「……はい。そうです、よね……」

 

 

 鈴仙は、他ならぬ少年からの言葉に俯きながら呟いた。

 頭の中で少年と永琳の言葉が反芻される。信じなければ、理性が言う。

 それでも―――認めることができない。鈴仙は、口を閉ざして黙り込む。

 少年は、口を開かない鈴仙を一度見ると永琳の方へと顔を向けてはにかんだ。

 

 

「実の事を言うと、能力の弊害について八意先生から話を聞かされた時、紫と八意先生も結構怪しいんじゃないかと思いましたけどね」

 

「私は大丈夫よ、心配いらないわ。可能性を示唆されてなお釣り針に引っかかるほど頭が悪いわけじゃないし、私の理性はそんなにやわじゃないわ」

 

 

 少年が冗談を口にするように笑いながら永琳に言葉を投げかけると、永琳はそんな少年に対して笑顔を向けた。

 

 

「妖怪の賢者の方は知らないけどね」

 

「それだったら紫も大丈夫ですね。紫も頭がいいですから」

 

 

 少年は、自信をもって言った。

 

 

「私は、紫を信じます。今度はちゃんと諦めてくれるって」

 

 

 鈴仙は二人が会話をしている途中、袖で涙をふき取り安定感を失った両足を部屋の外へと向け、俯きながら部屋を出て行く。

 少年と永琳は、鈴仙の動きにすぐさま声を消し、鈴仙の後ろ姿を見送る。鈴仙は部屋からいなくなり、どこかに消えていった。

 

 

「やっぱり出て行っちゃいましたね」

 

「これが普通の反応ではあるわよね」

 

「まぁ、仕方ないですよね。全部が曖昧で、あるのか無いのか分からないのでは気持ちが悪いですから」

 

「あんなこと言われたら、心の中の感情が曖昧で複雑になって居心地が悪いでしょうね」

 

 

 二人は、鈴仙が意気消沈して部屋を出て行ったことに疑問を持っていなかった。

 この話は、鈴仙にとって余りにも衝撃的で、余りにも決定的な一打になることは最初から分かっていた。もともと話の途中で耐えきれなくなると思っていたことなのである。

 二人は、鈴仙の心の中の状態を容易に想像する。糸が複雑に絡まり、切断することもできない葛藤で縛られていることだろう。

 

 

「私に良い様に弄ばれていたようで気分が悪くなったのでしょう。故意にやったわけではないとはいえ、私の責任ですね」

 

「これでまた、ウドンゲも人見知りに戻っちゃうのかしら。貴方と話すようになってから随分と変わったのだけど……」

 

 

 永琳は、複雑な表情を浮かべながら小さく呟いた。

 鈴仙は、少年と関わるようになってから大きく変わった。見違えるように変わったのは、相手の顔を見て話ができるようになったことだろう。

 鈴仙は人見知りであり、人と目を合わせることはほとんど無かった。過去にそうなるだけの何かがあったのか。もともとの性格なのか。能力故なのか。原因ははっきりとは分からないが、人見知りという性格が出来上がっている。

 しかし、臆病だった鈴仙は少年と話すようになってから変わった。楽しそうに話すことも増えた。自分から意見を言うことも増えた。自身の持つ意志を示すこともできるようになった。

 永琳は、昔から鈴仙を知っているからこそ、ここまで変わったことに驚きを覚えていた。さすがに鈴仙個人が保有している能力が原因で目と目を合わせることは厳しいが、相手の顔を見ながら話ができるようになったことは、大きな進歩に違いなかった。

 だが、それももう終わりかもしれない。

 たった今、終わりを迎えたかもしれない。

 

 

「それももう終わりかもしれないわね」

 

「すみません。私には、どうすればいいのか分かりませんでした。このまま引きずることだけはしたくなかったので……私は、これでよかったと思います」

 

 

 かもしれないなんて曖昧な表現は避けよう―――これで終わりである。

 少年の事実を聞いた後にどうなるか、あまり考えたくはなかったが、以前までの鈴仙に戻るだろう。以前のようにおどおどして、人と顔を合わせられず、ぶしつけな言葉しか話せなかったあのころに戻るだろう。永遠亭の住人にしか、能力の影響を受けても問題ない人間にしか、目を合わせられないような妖怪に戻るのだろう。

 ただ、この件の問題は、少年が事実を話さなかったところで最終的に露見することになる。今話した方が、被害が少なくて済む分、幾分マシになったと言えるだろう。

 少年は、そこまで話すと悩むようなそぶりを見せた。

 

 

「でも、事実を話して突き放しても、私はここに働きに来るわけですし、顔を合わせる必要があります」

 

「そうなのよねぇ……どうしようかしら」

 

 

 永琳は、手を口元に当てて考える仕草を見せる。

 少年は、永遠亭で働いている身分であるため、必ず永遠亭を訪れることになる。永遠亭に来るということは、鈴仙と顔を合わせるということが避けられないということである。今の状態の鈴仙と少年が顔を合わせれば、碌な結果にはならないだろう。

 永琳は、やれるべき対策を無数に立てつつ、その中から取捨選択をし始める。少年が上手く永遠亭でやれる方法を模索する。

 しかし、永琳は暫くすると考えるのを止めて口を開いた。

 

 

「考えても仕方がないわね。どうしたって顔を合わせるのは避けられないもの。とりあえず……ウドンゲの事は私に任せておきなさい」

 

「お願いします。鈴仙は本当は強くて優しい人です、決して気が小さいわけじゃない。だから、大丈夫だと思います」

 

 

 少年は、鈴仙のことを強くて優しい人物だと考えていた。この状況においてもきっと立ち直ってくれるし、元の状態に戻れると思っていた。

 そんな鈴仙だからこそ―――事実を話したのだ。

 

 

「もしも、鈴仙が事実を知ったことで顔を会わせ辛くなったり仕事に支障が出るようでしたら、私が仕事を辞めます。仲良くしてもらえるのなら、私は嬉しいですけど、無理にとは言いません」

 

「貴方が原因なのだから責任を取るのは当たり前よ。私もできる限りのフォローはするけど、結果として問題が起これば、貴方が責任を負うのは当然でしょう?」

 

「ふふっ、おっしゃる通りです。私は、八意先生のそういうはっきりと言ってくださるところが一番好きですよ」

 

 

 永琳は、そんな覚悟をもって話した少年に対して、当然よと言うようにはっきりと言葉を投げつけた。

 こういうところが永琳が少年に毒されていないと言える証拠である。

 別に少年が悪いことをしようとしてそうなったわけではない。だから、少年に責任はないと考えがちになる。ここで永琳ではなく藍ならば、少年の擁護に走ったことだろう。気にしなくてもいい、お前は悪くないと言葉を並べるだろう。鈴仙が涙を流して部屋を出ていく原因になったのは少年で間違いないにもかかわらず、そこに異論を挟んだことだろう。

 永琳は、そこではっきりと少年の責任だと言える状態にある。あくまでも悪びれることも無く少年の責任だという姿勢を崩さない。

 少年は、そんな変わらない永琳の態度が嬉しかった。

 

 

「そういうことを言ってくれる人が、私の周りには少なすぎるんです。私を叱ってくれる人物が、私の周りにはほとんどいない……」

 

「貴方を甘やかしていいことなんて全くと言っていいほど無いのに。甘い人間が多いわよね。信じられないわ」

 

「ははっ、それもそうですね」

 

 

 少年は、永琳の言葉にほんのりと笑う。

 少年の周りには、永琳のように少年をしっかりと咎めてくれる人物がほとんどいなかった。だから、貴方が悪いのだとはっきりと言ってくれる永琳の事を好ましく思っていた。自分を叱ってくれる、はっきりと本心を告げてくれる、気を遣わない人間を好いていた。

 永琳は、少年の様子に少しだけ含み笑いをすると、疑問を投げかける。先程少年が語っていた鈴仙の所見についての疑問である。

 

 

「少し気になったのだけど、ウドンゲが強くて優しい人だって本人にも言ったのかしら?」

 

「確かですけど、入院していた時に話したと思います」

 

「話したのは、看病をしてもらっているときかしら?」

 

「はい」

 

 

 入院していた時に話した―――それはまぎれもなく、病気の世話をしてもらっていたときだろう。

 少年が入院していた時に、一番近くで声をかけて世話をしていたのは言うまでもなく藍である。最も依存していた藍が最も少年の傍で、少年と共に時間を過ごしていた。

 しかし、藍は病人の世話をしたことが無かったため、病人である少年にできることは限られていた。藍ができることは、怪我をしている部分に包帯を巻くことぐらいである。少年がナイフで傷ついていた時にやった治療だけだ。

 そのため、‘本当に’少年の世話をしていたのは藍ではなく―――鈴仙だったというのが実情だった。

 

 

「ウドンゲを見て強くて優しいなんてよく言えたわね。どこをどう見たらそんな言葉が出てくるのかしら?」

 

 

 鈴仙を外から見ると、とても臆病な妖怪に見えることは間違いが無い。誰に聞いても同じような答えが返って来ることだろう。

 なぜならば、鈴仙は視線を合わせようとせず、自分から意見を言うことも無いため、周りに流されるように、命令されるがままに生きているように見えるからである。

 少年は、確信をもって嬉しそうに語った。

 

 

「見ていれば分かりますよ。鈴仙は、‘意志は’しっかりしています」

 

 

 少年から見た鈴仙は、強くて優しそうに見えた。治療をしてくれていた、看病をしてくれた鈴仙は、少年の目から見たらとても強く見えたのだ。

 

 

「でも、周りの事を自分の事と同じぐらい大事に考えている。だから決断ができないだけです」

 

 

 鈴仙の意志は、誰かのためにという想いと自分を守りたいという気持ちで揺れ動いているだけで、何かをしようと思った時の意志は、抜きんでるように強い。

 本来持っている強さが発揮できないのは、誰かのため―――という気持ちで揺れ動いているから。目を合わせれば、能力の影響が出てしまうから避けているだけで、避けることに慣れすぎた心が決断を鈍らせる原因になっているだけだ。

 

 

「心の本質は鋭利な刃物です。覚悟が決まれば、何でもできる。裏側から見れば、別人に見えると思いますよ。変えようと思えば、すぐに変われます」

 

 

 ただ―――それだけの話である。

 そんなものは、すぐに変えられる。

 変われる―――本質が表に出ていないだけで、裏には本当が隠れている。

 

 少年は、能力の影響を避けるために視線を合わせようとしない鈴仙の気持ちが痛いほど理解できた。それは、少年が‘できないこと’というだけあって、嫌というほど分かった。鈴仙に足りないのは、あと一押しの次の一歩である。

 少年は、笑顔を崩さずに語った。

 

 

「人みしりだって、心の持ちようです。一歩が踏み出せてしまえば後はどうにでもなる。その程度の問題、経験が足りないだけなんですよ」

 

「ウドンゲは、その時から変わったのかしらね」

 

「私から見れば、鈴仙はあの時と何も変わっていないと思いますけどね」

 

「ふふ、そうかしら?」

 

「はい、そうですよ」

 

 

 少年の言葉は、鈴仙の心に酷く突き刺さったことだろう。背中を押す一つの力になったことだろう。

 鈴仙は、少年から見れば過去と少しも変わっていない。相も変わらず、鈴仙は鈴仙である。あの時見たまま―――そのままである。

 永琳は独特の感性を持っている少年を優しい顔で見つめ、少年は軽く微笑み返した。

 

 

「もう、現状を理解する分には十分ですよね」

 

「ええ、おおよそ分かったわ」

 

 

 少年は、そこまで話すと部屋を出て行こうと足を外へと向けた。

 話すことは全て話した。現状で分かったことは、少年の状態が入院する前と何一つ変わらないということ、病気が完治していないということ、能力の弊害についてのお互いの認識が同じであるということである。

 

 

「八意先生、もしも鈴仙が何一つ、全く態度を変えずに私と接してきた場合は、末期ですよ」

 

 

 少年は、部屋を出る直前に足を止めて振りかえることもなく告げた。

 

 

「能力の弊害の事実を知っても、そんなものは関係ないとか、問題無いとか、そういうことを言ってきたら確定だ」

 

 

 少年の口調は、重苦しい雰囲気に合わせるように変化していた。いつもの優しい感じでも、いつもの敬語でもない。

 

 

「最初によそよそしい態度をとっていたり、なんらかしらの変化が見られれば、大丈夫。その場合は、大丈夫だから。これから上手くやっていけば前に進んでいけるはずです」

 

 

 少年は、自分の能力の弊害によって相手がどんな影響を受けるのか理解していた。これまで、生活してきた経験から分かりたくなくても分かっていた。

 永琳は、少年の言葉を静かに聞き入れると、真剣な表情で少年へと問いかける。

 

 

「末期だった場合は、どうするつもりなの?」

 

「末期だった場合は……」

 

 

 少年は、考え込むように黙った後、ゆっくりと口を開いた。

 

 

「最終手段を取ろうと思っています。後戻りできない選択肢だけど、これ以外に方法がない気がするから」

 

「具体的にはどうするつもり?」

 

 

 少年は、永琳の問いに対して最終手段の内容を告げた。事細かに、どうしてそんなことをする必要があるのかどうかまできっちりと説明した。

 永琳も少年から方法を聞いて、納得できる部分が多々あった。

 それをすれば、確かに全てが丸く収まるだろう。邪魔を排除し、綺麗な円を作り出せば、何処に当たっても痛くなくなる。削ぎ落されている部分のことは考慮されていないが、致し方ないということなのだろう。

 永琳は、少年の提言を頭の中でシミュレートし、問題がないことを理解する。

 しかし―――問題がないのは相手のほうだけだ。そこに発生する少年の方へのダメージは、考慮されていなかった。

 

 

「まぁ、それなら問題は無いでしょうけど……貴方は、それでいいのかしら?」

 

「私は、それでいいですよ。誰かのためになら我慢できます。私はみんなに恩があるから、みんなの足を引っ張りたくないのです」

 

 

 永琳は、黙ったまま少年の言葉を聞く。少年の真っ直ぐな言葉―――どこか震えている声を聞いていた。

 

 

「誰かに手放したくない過去ができてしまうまでに、未来に進めなくなるまでになんとかしなければいけない」

 

 

 過去は、所詮過去でしかない。思い返して嬉しくなるのも、楽しくなるのも、悲しくなるのも、必要なことではあるし、未来のために役立てることも必要である。歩くための重りは、必要不可欠だ。

 しかし―――過去のせいで未来に進めないということがあってはならないのだ。それでは地に足をつけて歩けても、意味がない。動けなくなるほどの荷物なら捨ててしまえ。

 少年は、みんなには前を向いて、未来を向いて、歩いて欲しかった。

 

 

「私のせいで誰かが過去を捨てられずに、未来に進めずにもがき苦しむところを見たくないから。私のことは楽しかった思い出で終わらせなきゃならないのです」

 

「そんなことをすると、死んだ後に誰からも悲しんでもらえなくなるわよ? それでいもいいのかしら?」

 

「……悲しんで欲しくないと言われれば、悲しんで欲しい。何もなかったように死ぬのは、とっても怖いです」

 

 

 少年はどこか泣きそうな顔を永琳に向けて、今にも崩れそうな顔で、必死に口を動かした。

 人が死ぬ時、誰にも悲しんでもらえないというのはとても辛いことである。なぜならば、悲しんでもらえないということは、生きてきたことに意味がないような錯覚に陥るからだ。

 人生の集大成は―――死である。その瞬間にその人の人生の周りからの真価が問われることになる。誰一人として悲しんでもらえないというのは、生きていて欲しいと願っている人がいなかったということを言っているに等しいこと。

 永琳は、間髪いれずに疑問を口にする。

 

 

「だったらどうしてそんなことをするの?」

 

「僕は、そんなことよりもみんなが引きずってしまうことの方が怖いから。みんな、前に進めなくなる方が怖いから……死人は、生きている人に何も与えてはいけない。それは、返すことができない重りになる」

 

「それはその通りでしょうね。貴方が死んでしまえば、貴方を引きずって動けない状態になる者が出るわ。特に八雲藍とかね」

 

「僕は、死んだ後までみんなを引きずりたくない。そんなの僕自身が許せない」

 

 

 少年は、一人称を変えて真実の想いを永琳へと告げた。

 少年は、みんなが身動きできなくなることを恐れている。少年の命は、そこまで長くはない。妖怪のような長寿の者に比べても、同じ人間と比べてもとても短く、余命はすぐそこである。

 死は―――すでに見えるところにある。

 だからこそ―――少年は覚悟していた。

 

 

「それぐらいだったら僕が全部持っていきます。貰ったものを全部返して、与えたものも全部返してもらいます」

 

 

 少年は、全てを奪う覚悟と全てを捨てる覚悟をしていた。

 

 

「それがこの能力に選ばれた僕ができること、やらなきゃいけないことだと思うから」

 

 

 少年は、瞳に涙を溜める。決してこぼれないように、瞬き一つしないように歯を食いしばる。

 少年は―――本当は嫌なのである。

 それでも、この方法しかないから、この方法を取っているだけだ。

 永琳は、決意を示す少年の言葉を聞きながら、それが全てではないと何となしに感じ取った、まだ他に少年にこの決断をさせた要因があると何となしに感じ取ることができた。

 

 

「でも、それだけじゃないわよね?」

 

「……ははっ、八意先生には隠し事ができませんね」

 

 

 少年は、核心をついてくるような永琳の言葉に少しだけ唖然とし、目じりに溜めている涙を一粒零す。そして、必死に笑みを作って答えた。擦り切れそうな声で永琳にだけ聞こえるように小さく呟いた。

 

 

「……因果応報、そういうことですよ。八意先生なら分かりますよね?」

 

「そうだったわね、貴方は両親の事を……」

 

 

 少年は、この方法を取ろうと考えた答えを暗に示した。

 少年がこの方法を取っている理由には、少年の両親が関わっている。

 永琳は、少年から両親についてのことを聞いていた。

 

 

「どうして貴方がこの能力に選ばれたのかしらね……貴方じゃなければよかったのにと思う人も多いでしょう」

 

「そんな疑問には意味が無いんですよ。生まれた時から持ち合わせていたものです。捨てられない、捨てることができないものです」

 

 

 永琳は、これほどまでに他人に対して優しい少年が能力を持ってしまったのか、現実を呪う。別の人間であれば良かったのに、悪人であれば、善人でなければ、そんな思いが心の中を渦巻いた。そうであったのなら―――選べる選択肢がもう一つ増えただろうに。

 少年自身も同じことを考えたことがある。境界を曖昧にする能力に選ばれなければ、こんな力を持っていなければ、考えないようにしていても頭によぎってしまうことは多々あった。

 しかし、そのたびに少年は考えを振り切り、前を見てきた。前に進んできた。文字通り引きずりながら進んできたのである。

 

 

「でも、わがままを一つ言うのならあの時に両親と一緒に……一緒に……」

 

 

 少年は、ここで初めて病気になっていた時の気持ちを打ち明けそうになった。

 しかし、複雑な表情を浮かべる永琳の顔を見て慌てて口を閉じると、はっとしたように慌てて頭を下げて謝った。

 少年の言っていることは、病気を治すために努力してくれた人間に向けて言っていい言葉ではない。それは、助けてくれた紫も同様で、その努力を否定することになる言葉だからだ。

 

 

「す、すみません」

 

「謝らなくてもいいわ。ごく自然の思考だと思うわよ」

 

 

 永琳は、途中まで口にした言葉によって少年が何を考えたのか理解できた。

 少年は、つまるところ、‘もう終わりでもいい’と思っているのである。すぐ前に見えている死ではなく、今でも構わないとそう思っているのである。

 それは、少年の境遇を考えれば何もおかしいことはなく、常人ならばすぐに選んでもおかしくないこと。後追いをするのは、情のある人間ならば、誰しもが少しは考えることだろう。

 ただ、助かりたくなかった―――あの時死ねばよかったのだと。そんなことを口にできるほど、少年は‘優しく’なかった。

 

 

「一つだけ聞いておくわ」

 

 

 永琳は、少年の意志をくみ取ると、一つ尋ねた。

 

 

「その方法は貴方自身がやるつもりなの? 笹原が一人でやるには、結構難しいことのように思えるのだけど、あてはあるのかしら?」

 

「多分、紫に手伝ってもらわなきゃならないと思います。最悪私自身がやりますけど、確実性を求めるのであれば、紫に頼むのが一番いいと思います」

 

「それは、もう伝えてあるのかしら?」

 

「ええ、退院した時にそれとなく話しはしました」

 

 

 紫の許可は、半年前に得たものである。紫は、少年のすることに対して受け入れる姿勢を取ってくれていた。

 

 

「もともと死ぬまでにやろうと紫と考えたことなのです。終わった後のことを考えれば、このぐらい安いものですよ。蟻地獄から抜け出すためには、背中に背負っている荷物を捨てなければなりません」

 

 

 少年は軽い口調で言うが、この方法を取ることで少年が失うものは酷く大きい。それはまさしく、存在を削る作業―――生きている証拠を消していく作業なのである。

 永琳は、少年の覚悟を聞いて、できる限り少年が道に迷わないように背中を押してあげることを決めた。

 

 

「大丈夫、誰もかれもがそうであるわけではないわよ。少なくとも、私と八雲紫は大丈夫だと思うから」

 

「ありがとうございます。その言葉だけで、私の心はいっぱいです」

 

 

 少年は、永琳の言葉に満面の笑顔を作りながら涙をこぼすと、今度こそ部屋の外へと足を迷いなく踏み出した。永琳に背中を押されるように、体を前へと動かした。

 

 

「ちょっと早いけど、今日は帰らせてもらいます。あんまり仕事できなくてすみません。鈴仙の事はよろしくお願いします」

 

「ええ、分かっているわ。お疲れ様」

 

 

 少年は、背中を向けながらそっと飛び立ち、マヨヒガへと帰っていった。



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変わらないもの、変えられたもの

 少年は、永遠亭からマヨヒガへと飛行しながら自分の今を評価し、落ち込んでいた。

 自分は、幻想郷に来てからも―――外の世界にいたころと何も変わってない。環境が様変わりしているのにもかかわらず、周りを取り巻く人間関係も別物になっているにもかかわらず、周囲の人間だけが変わっていき、自分だけが変わっていないことを再認識し、気分を落としていた。

 

 

「結局僕はどこまで行っても、どこに行っても、何も変わっていないな。昔から何一つ変わっていない。変わることができていない」

 

 

 本来であれば、変わっていなくてはならないのだ。今の少年を取り巻く環境が変わるには、少年が変わるという道以外に無いのだから。そんなことは、少年にだって分かっている、痛いほど理解している。

 でも、それができないのである。

 

 

「はぁ……くそっ、ダメだ。こんな顔、みんなに見せられない」

 

 

 少年は、流した涙を気取られないようにしっかりとふき取りマヨヒガへと帰った。泣いているところなど見られてしまっては、マヨヒガで待っている藍や紫、橙から何を言われるか分からない。

 それに、例え泣いている理由を聞かれても、少年自身がそれに答えることができないのだから、涙など見せられなかった。

 

 

「さぁ、気持ちを切り替えよう。僕は、僕のままで、今日は良い日だったと言えるように笑顔を作っていこう」

 

 

 少年は、強くある必要がある、強がる必要があった。

 見られて困るから。

 弱さが弱さを引き寄せるから。

 不幸が不幸を呼ぶから。

 だから、笑顔を充満させて、不安を取り払って、仮面を張り付けるようにしながらも、本当の自分を作り出す。

 これでいつも通り、いつも通りの日常が進み始めるはずである。

 少年は、何一つ変わらない言葉でいつも通り元気に声を発する。いつもと何も変わらない笑顔でマヨヒガに帰った。

 

 

「ただいま、今日はちょっとだけ早く終わったよ」

 

「おかえり、和友」

 

 

 藍は、誰よりも早く玄関へと駆けつけて少年を迎え、挨拶を交わした。いつも通りの光景である。

 藍は挨拶を返した直後、少年に対して相変わらずの過保護っぷりを発揮する。全身を見渡し、怪我をしている個所を探す。表情や雰囲気から少年が辛い思いをしていないかを確認し始めた。

 

 

「どこも怪我はしていないか? 大丈夫だったか?」

 

「大丈夫だよ、心配しなくても何もなかったからね」

 

 

 どうやら、藍のチェックは通ることができたようである。特に気付かれることなく、止められることなく、玄関を上がることに成功した。

 少年は、マヨヒガの中へと入ると藍と少しばかりの談笑をしながら廊下を歩き、マヨヒガの中へと入っていった。

 少年と藍は、足を同じ速度で動かし、同調させるように前へと進んでいく。そして、居間へと入ると中にいる二人の存在を視認した。

 

 

「今日は、二人とも起きているんだね」

 

「紫様も橙も、今日はちょっとだけ起きるのが早かったな。別に何かあるわけではないのだが、珍しいこともあるものだとさっきまで喋っていたところだよ」

 

 

 藍の言葉を鵜呑みにするのならば、橙と紫の二人は普段よりも若干早い起床をしているとのことだった。

 何があったのだろうか。特に今日は何かがある日ではない。少年は、珍しいこともあるものだと二人に視線を集中させる。

 見たところ橙と紫は、縁側でのんびりとした様子で時間を過ごしているところのようである。

 

 

「二人ともおはよう」

 

「おはよう、今日は早かったのね」

 

「おはよう~」

 

 

 少年は、立った状態で縁側に座りながら話をしている二人と挨拶を交わした。

 紫は、いつもよりも早くに帰ってきた少年を少し不思議そうに見つめており、橙の方はまだ起きたばかりのようで声がしっかりと定まっていなかった。

 

 

「今日は仕事も少なかったし、早く上がらせてもらったんだよ」

 

「そうだったの。それは良かったわね」

 

 

 紫は、当然のように嘘をつく少年を疑うこともなく、少年の言葉を受け入れる。納得しているのか、嘘と見破られているのかは紫の表情からは判断できなかった。

 ただ、少年は紫が何も言ってこないことに安堵した。問い詰められてしまえば、紫の訊問から逃れる術はない。一瞬にして藍までもが少年を問い詰める側に回ることだろう。紫に問い詰められてしまったら立つ瀬がないのである。

 少年は、問い詰められる前に即座に会話を切り返し、話題を転換する。

 

 

「今日は、二人とも少しだけ起きるのが早かったんだね。橙は見た感じ、まだ起きたばっかりみたいだけど……紫も、もしかしてさっき起きたばかり?」

 

「私は、橙よりは先に起きていたわよ」

 

「へぇ、そうなんだ」

 

 

 少年は、自信満々に言う紫の言葉をそうなんだ、と一人納得するように一言呟く。

 二人の会話を聞いていた橙は、紫の顔を見て訝しげな表情を浮かべていた。

 

 

「私と紫様の起きた時間、あまり変わらないような気がしますけど……顔洗ったときにすれ違ったじゃないですか」

 

「そうなの?」

 

 

 少年は、橙の話に疑問符を浮かべる。

 橙は、顔を洗った際に紫とすれ違ったと言っている。橙の言葉を信じるのならば、橙と紫の起きている時間には大きな差はないことになる。

 だが、先程の紫は、確信をもって橙よりも早く起きていると言っていたはずである。

 

 

「さっきの紫の話から聞くと―――2人の言葉には、随分と差があるように聞こえるんだけど」

 

 

 少年は、そっと紫に視線を向ける。紫は、なにやら表情を曇らせて少年を睨んでいた。

 少年は、紫の視線をものともせずに一つの疑問を橙へと投げかける。

 

 

「みんな、顔を洗う時って外の小川でしているんだよね?」

 

「そうだよ。あの冷たい小川でするの」

 

「やっぱりそうだよね」

 

 

 少年は、橙の言葉を聞いてますます疑問に思った。

 橙と紫の間には―――認識の違いがある。朝起きてから顔を洗わない人間がいるのであれば分からないが、ことマヨヒガの妖怪(紫、藍、橙)や人間(少年)は、朝起きたときに顔を洗いにいく行動をとることが習慣になっている。起きてから顔を洗うという行動は、マヨヒガでは恒例の流れなのだ。

 さらにいえば、顔を洗いに行く場所は、決まって外の小川である。

 

 

「ねぇ……」

 

「…………」

 

 

 少年がゆっくりと紫へと顔を向けると、紫は気まずそうな顔で少年から視線を逸らした。

 少年は、都合が悪いようなそぶりをする紫に向けて声をかける。

 

 

「紫……もしかして、見栄を張っているの?」

 

「あ、あの時は、二度目の洗顔だったのよ! そう、2回目だったから!」

 

 

 紫は、誤魔化すように言葉を取り繕った。

 2回目の洗顔だったからという言い訳は、余りにも苦しい。それだったら、まだ起きてから考え事をしている間に時間が過ぎてしまい、顔を洗うタイミングが遅れたと話した方がよっぽどそれっぽく聞こえるだろう。

 ただ、今のポーカーフェイスもないもない状態では、言い訳にもならなかっただろう。心の動揺で表情が崩れていて完全に取り繕えていないことが致命傷になっている。誰から見ても、どう見ても、取り繕っているのが分かってしまう様子だった。

 

 

「ふふっ、紫、別に橙より早く起きてなきゃいけないっていう決まりがあるわけじゃないんだから意地を張らなくてもいいよ」

 

「意地なんて張っていないわよ!」

 

「じゃあ、見栄を張っているんだよ」

 

 

 少年は、紫の子供じみた言い訳に思わず笑った。

 紫は、橙より後に起きていると思われるのが余程嫌なようである。

 マヨヒガには、別に早く起きなければならないという決まり事があるわけではないので、起きる時間は自由である。特に紫や橙の場合は、朝にやらなければならないことがないだけに縛りがない。

 少年は、特にごまかす必要もないのにどうしてこれほどまでに紫が言い訳を重ねるのか分からなかった。仮に言い訳を並べる必要性が何なのか考えれば、それは―――きっと自分が原因なのだと感じながら次の言葉を口にした。

 

 

「昔までの紫だったら間違いなく橙よりも起きるのが遅かったじゃない。今更気にするほどのことでもないんじゃないかな」

 

 

 今の紫の起床時間は、昔に比べるとはるかに早くなっている。昔は、夕方から起きてくることもざらで一日中起きてこないこともあったと藍から知らされていた。

 それを変えてしまったのは、まぎれもなく外部からの外乱を与えている少年の存在である。少年という存在がマヨヒガに加わらなければ、紫の起床時間は歪まずにそのままだったことだろう。そのままの変わらない生活があったはずなのだ。

 変化が無いことが良いのか悪いのかは別にして、紫に対して変化を起こし、感情に起伏を与えていたのは、間違いなく少年の責任だった。

 橙は、余りに怠惰な生活を送っていた昔の紫の生活を知り、幻滅してしまったようで紫に辛辣な言葉を吐き出した。

 

 

「えー、紫様ってそんなにぐーたらしていたのですか? 私、ちょっとだけ見損ないました」

 

「違うわよっ! 私はぐーたらなんかしていないわ!! 橙よりも先に起きていたのは本当の事なのよ!!」

 

(きっと、紫の言っていることは半分が本当で半分が嘘だね。昔はグータラしていた紫だけど、今日に限ってはきっと橙より早く起きていたのだろう。紫は、嘘がばれれば開き直るタイプだし)

 

 

 紫は、意味のない嘘でムキになる性格ではない。意味のないことなら、だったら何? というように開き直るタイプである。

 これだけ馬鹿にするような橙の言葉を聞いて、失った尊厳を挽回しようとムキになって反論しているのを見れば、きっと事実なのだろうということぐらい一緒に生活していれば分かった。

 

 

(ただ、過去のことについては何も間違っていないからなぁ……これ以上苛めるのは何だし、ここは紫の顔を立てようかな)

 

 

 おそらく紫が橙に対して本当に分かって欲しいことは、過去にぐーたらした生活を送っていないということである。ぐーたらしていた生活が知られることを最も恐れている。年がら年中眠っていたなんて恥ずかしくて橙には話せないのだろう。

 しかし―――紫の話のもう半分は嘘でできている。紫は、分かってもらおうと真剣に言っているが、事実が半分見えていない時点で逆効果にしかならない。嘘が覆いかぶさって事実を嘘に見せてしまっている。

 

 

「分かっているって、紫の方が橙よりも先に起きていたんでしょ? 僕はちゃんと分かっているから」

 

 

 少年は紫を窘めるように場を収めようと適当に言葉を選んだつもりだったが、紫は少年の投げやりな言動ににらみつけるように視線を送り、すぐさま問いかけてきた。

 

 

「和友、絶対に分かっていないわよね?」

 

「分かっているよ? 2年も一緒にいたんだから、紫の事は大体分かっているさ」

 

「へぇ、言ってみなさいよ。貴方の理解している私を」

 

 

 紫は、自分のことを分かっていると言う少年に対して挑発的に、冗談半分で自身のことについて話せと告げた。

 

 

(どうせ、私のこと聞いたところで誰でも同じことを言うわ。橙だって、藍だって、和友だって、同じことを言う……)

 

 

 どうせ、胡散臭いとか誰もが言うようなことを言うのだろう。先ほどの話の流れからマイナスイメージになるようなことが飛んでくるだろう。

 こういった紫の印象はいつだって、プラスの印象にのみ聞こえる言葉が出てくることはない。なぜならば、正体不明、よく分からないものとしての紫の強さが、好印象を打ち消しているからである。

 

 

(よく分からないとか、掴みどころがないとか、胡散臭いとか、そんなのばかり……)

 

 

 そんな想像が紫の頭の中を支配する。紫は、どうせうやむやの言葉が出てくると想像して少年の言葉を待った。

 少年は、過去を思い返すようにゆっくりと目を閉じて、語りかけるような口調でしゃべり始めた。

 

 

「紫はいつも胡散臭くて、掴みどころがないように見える」

 

(所詮和友もそんなものよね……他の人間と何も変わらないわ。私に対する印象なんて、人間も、妖怪も、藍でさえも同じことを言うでしょう)

 

 

 紫は、少年の言葉にやっぱりと余裕の表情を作った。誰も自分のことなど分かっていないのだと、人から見たイメージがそのまま張り付いているだけなのだと、余裕の中に悲しみを抱えながら少年の言葉を耳にしていた。

 しかし―――紫は、次の言葉で顔を真っ赤にした。

 

 

「けれど、本当は誰よりも心が純粋で、みんなを大事にしている。幻想郷を心から愛している。過去も、未来も、とっても大事にしている、大切にしている、優しい人」

 

「…………」

 

「優しい紫は、僕だって助けてくれた。どうしようもない僕を、救ってくれた。紫が助けてくれたから僕は、ここに足をつけて歩いていられるんだ」

 

 

 少年は優しい口調で、優しい表情で紫に対する想いを口にし、これまで紫に対して抱いていた気持ちを吐き出した。

 

 

「僕は、誰よりも優しい紫が好きだよ。優しくて、強くて、厳しくて、見守ってくれる紫の気持ちが―――僕の心を温めてくれる。僕の心を見ていてくれている紫の優しさが、好きだ」

 

 

 紫の顔色が少年の言葉の数だけ赤くなっていく。紫の肩は少年の言葉にわなわなと震えていた。

 少年は、恥ずかしさと嬉しさで満たされている紫に追い打ちをかけるように次なる言葉を吐き出そうとする。

 

 

「紫は、いつだって」 

 

「や、やめなさいっ!! それ以上言わないで!」

 

 

 紫は、少年の予想外の言葉の羅列に黙って聞いていられなかった。少年が次の言葉を出そうとするところで勢いよく立ち上がり、顔を真っ赤にして叫びながら少年の口を塞いだ。

 少年は、急に押さえつけられて不安定になり、必死に倒れないように体を支える。紫の体勢は、少年の口を抑えるとともに体重をかけている形になっている。

 少年の体はと紫の体はほぼ密着している状態のため、少年は紫の体も支えるような形で踏ん張っていた。

 

 

「わ、はかぁったから、ははして、手をはなして」

 

「嫌よっ! 手を離したらさっきの続きを言うつもりでしょう!?」

 

「ふぁべらないから!」

 

「いやよ!」

 

 

 少年は紫に口を塞がれてもがもがとする。

 少年の言葉は紫の心には届かないようで、紫の少年の口元を抑える手に入っている力は緩まることはなかった。

 

 

「しゃべるな! もう何も言わないで!」

 

 

 紫は、少年に手を離して欲しいと言われてもなお、顔を真っ赤したまま少年の口を塞ぎ続ける。少年がいくら振りほどこうとしても、手をどけることは決してなく、恥ずかしさが消えるまでは、ずっとしゃべらせないつもりらしかった。

 橙は、じゃれ合っている二人を見て大きい声を発した。

 

 

「あ、あのっ!!」

 

 

 少年と紫は橙の唐突な大きな声に動きを止めて橙へと視線を集める。

 橙は、二人の視線が集まると同時に次に続く言葉を勢いよく並べた。きらきらと目を輝かせて好奇心を働かせ、自分の知らない紫の過去の話を知りたいと告げた。

 

 

「紫様の昔の話をもっと聞きたいです! 私がいなかった時、どんなことがあったのか、これまでのこととか、色々聞きたいです!」

 

「「…………」」

 

 

 橙鋸刃で先程までの空気が全て吹き飛ぶ。

 少年と紫は、橙の言葉にしばらく呆然と目を見合わせていた。

 橙が固まる二人をしばらく見つめると、止まっていた時間が動き出す。

 紫は、少年の口元に当てていた手をどけて橙のもとへと近づき、口を開いた。

 

 

「……そうね、ちょっと話そうかしら? 2年前のあの日から何があったのかについて、ね」

 

「はーっ! はぁ、はぁ、やっと離してくれたよっ……」

 

 

 少年は、紫の手が口から離されたことで大きく息を吸う。余りに強く押さえつけられていたため呼吸ができておらず、死にそうだった。

 

 

「これまでの話かぁ、そんな大したことはなかったと思うけどな」

 

「そう思っているのは貴方だけよ」 

 

 

 紫は、半目になりながら少年の意見に否定的な意見を述べた。

 ここ2年の話は、紫からすればかなり濃い時間だった。これまでの数千年が薄れるぐらいには、濃い月日を過ごしてきたと自負している。

 それはきっと紫だけではなく、藍もそうであり、他の少年と関わり合いを持っている人間や妖怪もきっと、同じことを思っているはずだ。

 橙は、事の始まりから聞こうと出会いの場面から問いかけた。

 

 

「最初の出会いはどのような感じだったのですか?」

 

「最初にこの子と会ったのはね……」

 

 

 紫は、橙に対して少年との関わり合いを持った時期のこと、昔あったことを話し始めた。

 紫の隣にいる当の本人は、紫の言葉に視点の違う意見を交えながら、最初から―――本当に少年と紫が会った時からの話をした。少年が学校に行く登校中に出会って紫の事を無視したこと、少年の家族が死んでしまったこと、全てを話した。

 紫や少年だけでなく、その場にいなかった橙も加えて3人が、それぞれ想い想いの言葉を口にしながら話をする。

 

 そんな楽しそうな雰囲気につられたのだろうか、3人が話している途中で仲間外れにされている気分になったのか―――そこに新たな参加者が途中から加わった。

 

 

「私も、参加してよろしいですか?」

 

 

 話の途中から3人ではなく、4人での過去語りが始まった。

 橙は、楽しそうに少年にまつわる話を聞き、紫と藍は大変だった思い出、楽しかった思い出を次々に口にする。

 少年は、時々言葉を投げ入れるだけで、目の前に広がる風景を基本的に見守っていた。

 そして、話はついに―――半年前の話に差し掛かろうとする。最初から順番に話していけば、どうしてもこの話になってしまうのは致し方がないことである。少年は今も生きているのだから、時系列順に話をするとこの時期の話は避けて通れなかった。

 この時期は、少年が最も大変だった時期、最も忙しかった時期、最も辛かった時期である。

 紫は、少しばかり雰囲気を暗くして半年前の話を始めた。

 

 

「ここまでの話は、ここから始まる苦労のおまけみたいなものよ。一番大変だったのはここからの2ヶ月間になるわ。丁度橙が生まれるあたりの時期ね」

 

「私、あんまり覚えていないのですよ。ただの化け猫だった時期の記憶が曖昧で……」

 

「覚えていないのも仕方ないのかもしれないわね……あの頃の貴方は色々と特殊だったから」

 

 

 橙は、化け猫だったころの記憶が曖昧だった。

 橙は、化け猫から藍の式になり式神となった存在である。化け猫だった時の記憶は、余り引継がれていないようで曖昧になっている。きっと頭の中にはしっかりと記憶されているのだろうが、うっすらともやがかかったように記憶を引き出すことができず、思い出すことができなかった。

 

 

「そうね、何処から話したら分かりやすいかしら?」

 

 

 少年は、そっと紫と藍を視界に入れた。

 紫はこれまでの話の勢いのまま、次の事柄について口を開こうとしている。藍も、紫が口にしようとするそれを黙って聞こうとしている。

 少年は、今の藍や橙が聞いている状況が非常に危ういと感じ、紫が丁度半年前の話を始める直前で唐突に口を開いた。

 

 

「あっ、そういえば橙。今日は僕たちの料理当番じゃなかったっけ?」

 

「えっ、あわわわ、もうこんな時間!! もっと早く言ってよ!」

 

 

 橙は、少年の言葉で我に返ったように慌てて今の時間を確認すると、声を荒げながら少年に向けて文句を飛ばした。

 お昼ご飯の時間は、大体ではあるが決まっており、おおよそ12時頃である。時間はもうすぐ12時になろうというところだった。どうやら昔話をしている間にお昼がやってきてしまったようである。

 

 

「そんなこと言われても、橙だって忘れていたじゃないか」

 

「ぐむむ……」

 

「……ほらほら、喧嘩なんてしている場合ではないわよ。早く作りなさい。話はまた今度時間がとれたときにしましょう」

 

「和友、時間がないよ! 急いで!」

 

「分かっているよ。これは本当に急がないと間に合いそうもないね」

 

 

 今の時間を考えれば、マヨヒガで食事を取る時間までに昼ごはんを作るのは厳しいものがある。

 橙は、できる限り時間を無駄にしないように慌ててキッチンの方に向かう。少年も橙に追随してキッチンの方へと向かおうとするが、その途中で紫から少年にだけ聞こえる声で話しかけられた。

 

 

「ごめんなさい、口を滑らせるところだったわ」

 

「いいさ、別に。結果オーライだよ」

 

 

 少年は、紫の言葉に素早く答えて笑顔を作ると急いでキッチンへと向かった。

 藍と紫は、二人の様子に小さく笑みを作り、テーブルまで移動を始める。そして、急いで調理を始めようとしている二人に向けて注意喚起した。

 

 

「二人とも時間が無いからって手を抜いてはいけないぞ」

 

「橙、和友、私達の食べる料理に手を抜いたら承知しないわよ」

 

「言われなくても、手は抜かないよ!」

 

「和友、言い合っている場合じゃないよ! 時間がないんだから!」

 

「それこそ分かっているって!」

 

 

 紫と藍は、挑発するような笑みを浮かべながら余裕を持った表情で焦る少年と橙の様子を遠くから見学する。

 橙と少年は、たった今気づいた料理当番という事実に対してすぐに対処ができるほど経験があるわけではない。紫と藍はどうなのか知らないが、橙と少年の二人の料理というのは、大体行き当たりばったりでその時の気分によって作ることの方が多いため、だいたい当日の料理を作る前に何を作ろうかと話し合って決めていた。

 それが今日に関しては話し合う時間もほとんどない。当然のように、橙は作る料理も決めていなかったようで慌ただしくレシピから作れそうなものを選び少年に伝える。

 少年は、橙から告げられた内容を聞いて表情を曇らせた。

 

 

「えっ、これをそのまま作るの?」

 

「悩んでいる時間なんてないよ! 遅れて怒られる方がよっぽど怖いんだからね!!」

 

 

 時計に一度目を向けると、目に映ったのは制限時間が残り30分を切っている事実だった。

 少年は、怪訝そうな表情のまま急かされるように橙の意見を受け入れ、目標を見定めて急いで動き始めた。

 結果からいえば―――料理が料理だけあって調理時間は20分程度しかかからなかった。初めて作ったとはいえ、料理当番によって実力をつけてきた橙は迷うこと無く調理をしていたし、少年も隣でサポートに徹していた。

 しかし、余裕が無かったために作っているのはこの一品だけで、付属で作ることができたのは切られた生野菜のサラダだけである。最低でも汁物を作ろうとしていたが、何を作ればいいのか判断するだけの余裕も無く、考えているうちにお互いに作るのを完全に忘れてしまったという失態を犯してしまっていた。

 橙は、数々の問題点を理解しながらも、それをごまかすように出来上がった料理に対して堂々と言った。

 

 

「できましたっ!! これぞ渾身の一作です!!」

 

「ただの親子丼なんだけどね……」

 

 

 二人が作っていたのは、なんの脚色もない親子丼である。他に何も手を加えられていない、オリジナルのままの親子丼だった。

 時間があればアレンジを加えるような工夫ができたかもしれないが、二人にはその肝心の時間が無かったし、それだけの技量もなかった。

 橙と少年は、テーブルの上にどんぶりを運ぶ。

 4人は、料理がテーブルの上に乗るといつも通りご飯を食べる態勢に入る。全員が椅子に座り、手を合わせて―――声を一色に染めた。

 

 

「「「「いただきます」」」」

 

 

 全員が開幕と同時に一口目を口に入れた。

 

 

 ―――カタ―――

 

 食べ始めて最初に行動を起こしたのは、紫だった。

 一口だけ親子丼を口にした紫が一度箸を置く。紫のその行動は、いつもの批評の時間を告げる合図である。

 少年と橙は、紫の一連の動きを見て慌てて箸をおいて両手を膝の上に置く。二人は、紫からの批評の言葉を受け入れる体勢を作った。

 

 

「批評は、甘んじてお受けします」

 

「うぅっ……どうか、怒られませんように……」

 

「批評を述べるわ」

 

 

 少年は、静かに目をつむり覚悟を固める。橙は、震えるような気持ちで恐怖している。二人は、おびえるように小さく固まり、神妙な面持ちで紫の言葉を待っていた。

 紫は、厳かな雰囲気で二人に対して料理の感想を述べる。

 

 

「可もなく、不可もなく、普通ね。スタンダードな親子丼だわ。この料理に何か言えるとしたら’これは親子丼’ということだけね」

 

 

 紫からの二人の料理への評価は、普通という何の変哲もないものだった。時間があまりにも少なかったのに、そこそこの評価に留まっているのは、時間が足りなかったことを考慮されてのものなのか、それとも二人の料理に対する技量が上がっていたためなのか、紫の好みに合致していたためなのか、二人には分からなかった。

 少年は、思ったよりも甘い評価を受けて頭をかしげたが、暫く思考すると紫がどうして普通という評価を下したのか何となしに察しがついた。

 少年は、橙の方へと顔を向けて耳元に口を寄せると小声で話しかける。

 

 

「橙、やっぱり親子丼を選んだのは失敗だったんじゃない? この料理で味に優劣を付けるのは難しいよ。材料は決まっているんだし、親子丼を美味しくする方法なんて何も思いつかないしさ」

 

 

 親子丼というチョイスは、料理のうまさを競っている状況において非常に難しい選択である。アレンジしてももともとの味がそこまで劇的に変わるわけでもなく、元の状態の方がおいしいと言われることも多くない料理であるため、アレンジが非常にしづらいのである。

 だからこそ、普通という評価が下されたのだと思われた。親子丼という選択肢は、あくまでも及第点しか出ないのである。

 二人は、紫が意外に甘いもの好きで、藍が意外に辛いもの好きであることを知っていても、両方に合わせる調理の方法を知らない。親子丼という選択肢は、明らかに選択ミスだった。

 

 

「簡単だったからってレシピ本から選んだのが失敗だったかな」

 

「あ、やっぱり簡単だから選んだんだ……」

 

 

 少年は橙の小声の返答を聞いて、やっぱりそうだったのかと落胆した。

 しかし、橙が言うように真面目に何を作るかを悩んでいる時間が無かったのも事実で、アレンジを加えるだけのアイデアが浮かばなかったのも事実である。

 紫は、橙の言葉が聞こえていたようでしっかりやりなさいと言葉を送った。

 

 

「こんなことではまだまだ私には届かないわよ。精進しなさい」

 

「そうだぞ、橙。紫様に届かないようでは、私の料理には永遠に届かないぞ」

 

 

 藍は、紫の言葉に追随するように言葉を投げかけた。紫に対して喧嘩を吹っ掛けるように、紫のことを口上に挙げて言った。

 藍の言葉は、あくまで紫の料理よりも自分の料理の方がはるかに美味しいと自慢しているように聞こえる。

 紫は、藍の言葉にすぐさま反応し、眉毛をぴくっと持ち上げた。

 

 

「藍、口を挟まないでくれるかしら?」

 

「紫様の方こそ、私より料理が下手なのに自慢げに話さないで下さい」

 

 

 藍は、勝ち誇った表情で紫に対峙している。

 こと料理に関しては、藍は紫に対して引くということはなかった。他に、紫に対して勝っていることが少なかったこともあるのかもしれないが、料理については紫に刃向うほどの意志を持っていた。

 

 

「料理だけは、料理だけは、紫様に負けたくありません」

 

「実際、藍の方が料理上手いよね?」

 

「紫様の料理の方が下手です」

 

「うぐっ……その言葉、覚えておきなさいよ」

 

 

 少年と橙は、喧嘩腰の二人を見て声を揃えた。

 藍の方が紫よりも遥かに練度の高い料理を作る。それは、間違いでも何でもない。紫と藍では経験値が違うのだ。紫が料理をし始めたのは2年前からであり、それまでずっと料理を作ってきた藍が紫に負けている要素は一つを除いて何一つなかった。

 その一つというのは、ちょっとだけ遊びが足りないところぐらいだろう。

 藍は、基本に忠実に美味しいものを作るのは上手いけども、冒険というものができないため、新しい味が生まれる、新しい料理が生まれるということが基本的に無いのである。

 対して紫の少しばかりの遊び心は、偶に新たな発見や味覚を生み出す。そこが唯一紫が藍に対して優っている部分だった。

 その紫の新しさを生み出す部分に目をつむりさえすれば、完全に藍の料理が紫の料理を凌駕していた。

 そして、対抗意識を張っている紫も藍の料理の方がおいしいことを理解している。自分より料理を作るのが上手いと自覚しているからこそ―――上に立ちたいと望んでいた。

 

 

「今は負けているかもしれないけど、私はいずれ藍の料理を超えてみせるわ」

 

「そういうのは、一度でも私の料理を超えてから言ってください」

 

 

 藍は、昔に比べて本当に紫に対して気軽にものを言うようになった。個が生きて、輪になっている。誰もが繋がって、誰もが認めている世界がここには存在していた。

 

 

「ははっ、美味しいものが食べられるようになる。僕は、それだけで嬉しいかな」

 

「ふふふっ、そうだよね」

 

 

 少年と橙は料理を口へと運びながら、より料理がおいしくなると笑う。

 4人での食事はまだ始まったばかりである。

 



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心配と本音、抑圧する想い

 少年は、暫くの間雑談を交わしていると突然料理を口に運ぶ手を止めた。

 藍は、唐突に手の動きを止めた少年を見て、少年の目の前にあるどんぶりを覗きこむ。少年のどんぶりの中にはご飯がまだ残っている。どうやら、ご飯を食べ終えたために手が止まったわけではないようである。

 なぜ、動きが止まったのだろうか。いつもだったらおいしそうに勢いよく食べるのに、今日に限ってなぜ動きが鈍いのか。

 藍は、少年が食事の手を止めた理由が体調不良によるものではないかと憶測した。気分が優れないから、食欲がないのだろう。思えば、永遠亭から早く帰ってきた理由も体調不良によるものかもしれない。そんな想像の飛躍が、藍の心に負荷をかけ始めた。

 

 

「どうしたのだ? まだ半分ほどしか食べていないようだが、どこか具合でも悪いのか?」

 

「別に具合が悪いわけじゃないよ」

 

 

 少年は、心配する藍に対して淡泊に応える。そして、少し下を向きながら、言いづらそうに口を開いた。

 

 

「ちょっと話しておきたいことがあってさ」

 

「大事な話なのか?」

 

「いや、そんな大したことではないんだけど……」

 

 

 少年は、深読みする藍が分かるように首を横に振り、はっきりと意思表示した。

 

 

「「…………」」

 

 

 少年と藍とのやり取りに、紫と橙の視線が集中する。

 また、何かが起こるのか。

 何かが起こる―――そんな雰囲気が藍と少年の周りに停滞しているのが感じられた。

 

 

「今日はご飯を食べたら人里に行こうと思っているんだけど、行ってもいいかな?」

 

「これから人里に行くのか?」

 

 

 少年は、昼ご飯を食べたら人里に行くことを考えていた。人里のある人物に会って、して欲しいことがあった。

 

 

「うん、これを食べ終わったら行こうと思っている。大丈夫かな?」

 

 

 普通であれば、「人里に行ってもいいかな」なんて許可を取るような言い方をする必要はない。それこそ、藍と一緒に人里に行こうと考えているわけではないのだから。外に出ることを禁止されている立場ではないのだから。藍の許可を取る必要は本来ないはずである。

 しかし、少年は藍に告げなければならなかった。告げなかった場合の結果を想像すると、告げなければならないと思っていた。

 藍は、少年の申し出を聞いて疑問を抱えると、少年の瞳を探るように見つめ、まくし立てるように疑問を羅列した。

 

 

「今日は買い物の日でもないのに? どうして?」

 

 

 少年が人里へ出かけるのは、決まって買い物をする日である。今日は、買出しに行く日ではないため、少年が人里に行く理由は特にはないはずだった。

 

 

「遊びに行くのか? それとも暇だからということなのか?」

 

 

 人里へ出かける目的が買い物だけというわけではない。ちょっとした暇ができたために遊びに出かけたり、外に出かけるという名目で人里に行ったりすることは確かにある。

 ならばどうして―――疑問に思ったのか。

 それは、半年前のあの日以来少年から人里に行きたいという言葉を聞いたことが無かったからである。

 

 

「どうして急に人里に行こうとを考えたのだ?」

 

 

 あの日以来―――少年は暇だから人里に行こうと、外に出たいから人里に行こうと自分から言うことをしてこなかった。

 理由は藍自身にあるのだが、それを藍は知らない。

 紫は、知っている。

 少年の気遣いを知らない藍は、少年が人里に行こうとしていることを非常に珍しく思っていた。

 

 

「和友、人里に行く理由を聞かせてくれないか?」

 

「別に何でもいいじゃない。和友は、もう子供じゃないのよ」

 

「藍様、私もそう思います。そこまで心配しなくても、和友はちゃんと帰ってきますよ?」

 

「もしもということがあります。紫様は、途中で何かあったら責任が取れるのですか? 和友は一人しかいないのですよ。半年前にあんなことがあったのです。いつ倒れてしまうか分かりません。それに、私は‘人里に行く理由’を聞いているだけです」

 

 

 紫は視線を落とし、藍の悪い癖が出たと頭を抱えた。橙も紫と同様に行き過ぎた藍の問いかけに、何とも言えない表情を浮かべていた。

 人里に行く理由を聞いているだけと言っても、内実は行く理由を知ったら自分も一緒に行くとか、自分が代わりに行くと言うだけだろう。

 心配性という病気をこじらせている藍は、少年のことを極度に心配している。橙に対する溺愛もそうであるが、少年に対するものは溺愛というレベルをとうに超えて薬物依存のレベルまで来ている。

 少年は、まくしたてるような藍の疑問に対して特に不快な顔をすることもなく、答えを口にした。

 

 

「筆の点検だけでもしてもらおうかなと思ってさ」

 

 

 少年は、筆の手入れをするために人里に行きたかった。

 少年の右腕ともなっている筆は、少年によって過酷な労働を強いられている。本当ならば、車の点検のように毎年のように見てもらうのがよいのだろうが、今のところ一度も筆一本の店主である山本さんに点検をしてもらったことはなかった。

 

 

「大分無理をさせているし、一生使えるものを作ってもらったとはいえ、壊れてしまうかもしれないと思うと不安なんだ」

 

 

 筆を作ってもらってからすでに1年と11カ月である。2年の月日が経つまで後一月というところまできている。

 店主の作った筆は、一生使える筆を作ると言っただけあり、少年が酷使を続けていても未だに機能をなしているが、酷使していることに違いはなく、劣化していることにも違いはなかった。

 

 永久に残るものなどこの世には無い。

 物質には、時間という絶対の制約が存在する。

 

 これを克服しようものなら、今を生きていない何かになる。

 人間で言えば、爪が伸びることもなく、筋肉が成長することもなく、細胞が分裂することもない状態のことだ。それは、ホルマリン漬けの標本にも劣るなにかである。

 永久に変わらない物質があるとすれば、それに価値はないだろう。形も変えられない、材料を合わせることもできない、組み合わせることができないのでは、何にも使えない、何にも応用が利かない物質である。

 生き物は、絶えず変化し続けて生きている。物質は、未来に自分という存在を運び出している。今という時間を未来に持っていくことで、新しい自分を作っている。

 少年は、一生使える筆だという店主の言葉を疑うわけではなかったが、一度見せる必要があると考えていた。今の状態を知ることは、今後に直接的な影響をもたらすはずである。

 もしも、壊れそうになっている、今後使っていけばもたないと言われれば、新しいものを買う必要がある。

 少年は、今の筆の状況を知っておきたかった。

 

 

「壊れ始めているんだったら手入れをしてもらわなきゃいけないし、使えないのなら新しいものを作ってもらわなきゃいけないでしょ?」

 

「ならば私も行こう。もしかしたら危険な目に会うかもしれないからな」

 

 

 人里で少年が危険な目にあう確率など0に等しい値である。道中を含めて5%あるかないかというところだろう。

 藍は、それでも0でない限り、少年を心配し、守ろうとする。むしろ0であったとしても守ろうとする。不安が体を動かすから。心配が震えとなって表に出るから。

 藍は、続けざまにぼそぼそと声を小さくして呟いた。

 

 

「それに、変なやつが和友の周りに寄りつかないようにしなければならないし……」

 

「心配しなくても一人で大丈夫だよ。人里に行って僕に害を与えてくる人物なんて基本的にいないし、変なやつもいないからね。いつも二人で行っている時は大丈夫だったでしょ?」

 

「私は、そういう意味で言っているわけではないのだが……」

 

 

 藍は、自分の気持ちが少年に伝わっていないことに歯痒さを感じていた。

 藍は、少年が一人で人里に行くことによって危険な目に会うのではないかと考え、そのことを危惧しているわけではない。藍の本心はもっと別の所にあった。

 ここで本心をそのまま吐き出し、行かないで欲しいと言えればいいのだが、言うだけの勇気がどうしても足りない。

 藍の心は、理性と感情のはざまで揺れ動ていた。

 

 

(私がこれほど惹かれるのだ、他の人間や妖怪が惹かれないなんてことも無いだろう。人里に一人で行けば、きっと一人ぐらいひっかけてくる)

 

 

 藍は、誰かが少年を連れて去ってしまう可能性があることを危惧しているのであり、誰かを惹き連れてしまうのではないかということを心配していだ。

 

 

(和友には、それだけの魅力がある)

 

 

 藍は、少年に惹かれている自覚があった。好きなのかと問われても、愛しているのかと問われても、その言葉を否定できないぐらいには惹かれている自覚があった。

 いつだって、そういう言葉を肯定してしまうほどに少年をいつも見つめている。視線はいつだって少年追って生活をしている。心は寄り添うように少年に寄りかかっている。

 

 

(和友と一緒にいると安心する、心が落ち着く。和友と一緒にいると楽しいし、和友の優しい笑顔に惹きつけられる。それはきっと和友自身が持つ気質なのだろう)

 

 

 藍は、冷静に少年に惹かれている自分の存在を自覚していた。

 

 

(まだ14歳の少年だというのに……でも、年齢など関係ない。きっと、何歳であっても、和友だからこそ私は、こんなにも惹きつけられているのだから)

 

 

 大人びた雰囲気を持っているからだろうか。

 なんでも許してくれるように懐が広いからだろうか。

 少年といると酷く安心できる自分が少年の隣いた。

 

 

(私は、和友のことが……好きだ)

 

 

 藍が少年に惹かれている理由は、いたって単純だった。

 少年と一緒にいると何よりも落ち着く、安心するのである。どれだけ辛くても、どれだけ苦しくても、少年と一緒にいるだけで安心できる。心配事も、不安も何もなくなる。

 ただ、自然と笑顔になる。少年が笑う、そんな普通のことで自分が笑顔になっている。ただ、それだけの理由で笑顔になれた。どうでもいい毎日が明るさを帯びた。そんな大したこともないような理由が少しだけ好きだった。理由をくれた少年の存在がもっと好きだった。

 

 

(顔も別に悪くないし、気配りもできる。なにより、優しい……意識しないという方が無理な話だろう)

 

 

 藍は、これまで少年と積み立ててきた思い出を思い返す。

 

 

(和友と一緒に料理をした……)

 

 

 少年と一緒に料理を作った時は、笑いながら料理を作った。一つの完成品を作るために、お互いに意志疎通を図り、完成品を作成した。

 

 

(時折触れ合う手にドギマギしだしたのはいつからだろうか。思えば、和友を意識しだしたのはその時だったのかもしれないな)

 

 

 藍は、少年との思い出を一つ一つ思い返す。

 

 

(和友は、いつだって疲れている私を気遣ってくれた……和友の優しさは、これまで欲しくて欲しくてたまらない優しさだった)

 

 

 紫の手足となって、働いて、働くだけの生活から脱却させてくれたのは、少年である。

 ねぎらいの言葉もなく、褒められることもなく、報酬が与えられるわけでもない関係を変えてくれたのは、少年である。

 疲れているのを察してマッサージをしてくれるのも

 毛づくろいのお願いを聞いてくれるのも

 眠る時に優しく頭を撫でてくれるのも

 ―――全てに少年の優しさを感じた。

 

 

(悪意のかけらもない、下心など全くない、善意100%の優しさが、温かかった……)

 

 

 藍は、少年から貰える優しさが、側にいてくれることが何よりも嬉しかった。

 

 

(能力の練習も一緒にやった。霊力の練習だって一緒にやった。季節に合った食べ物も一緒に食べた。掃除だって、料理だって、一緒に。一緒に家族として過ごした。一緒に時間を、季節を過ごしてきた……)

 

 

 夏の暑い日のなか、汗を流しながら一緒に能力の練習や霊力の練習をしたこと。

 紅葉の著しい秋に、落ち葉を拾い集めて一緒に焼き芋を作ったこと。

 豪雪の寒い冬に、手を温め合ったこと。

 春の満開の桜の下、お花見で少年と杯を交わしたこと。

 

 

(そのどれもが、大事な思い出になっている)

 

 

 少年と一緒に過ごした時間の全てが―――心の温まる思い出になった。

 

 

(きっと、和友の方から好きだと言われれば私はそれに応えるだろう。そして今以上に甘える、絶対に甘えてしまう)

 

 

 藍は、少年と付き合う想像をして顔を赤くしてしまう事も少なからずあった。少年の傍に寄り添い、少年のために何かをする。少年から与えられる優しさに甘える。奉仕する側と奉仕される側が反転し、交互になっている公平な関係性に満足する自分がいた。紫がいるにもかかわらず、そんな想像をしてしまうことも多々あった。

 だが、そんな想像をするたびに少年から告白の言葉が告げられることはないと悟った。

 

 

(だが、おそらく和友から私に気持ちを伝えてくることはない。あれ程までに相手に借りを残しておくことを嫌っている和友が、仮に誰かを好きになったからといって告白するとは到底思えない)

 

 

 少年が誰かに対して告白することがないと言える理由は、これまでの少年の言動から分かる。少年の目標はあくまで周りに迷惑をかけないことで、外の世界に戻ることである。

 それを考えれば、幻想郷の世界で恋人を作るような行為はおそらくしない。作ってしまったところで悲しませるだけなのに、作るわけがないのである。

 藍は、毎回のように陥る思考回路の中で、いつもと同じ仮説を立てる。少年から無理ならば、自分から言えばいいのではないかという考えである。

 

 

(でも、和友が私に告白してくる可能性が0だとしても、私が和友に好きだと言うこともできたはず……)

 

 

 藍から少年のことを好きだと言った場合、返事はどう返って来るだろうか。

 きっと悪い結果にはなるまい。優しい少年のことだから、受け止めてくれるかもしれない。

 これまでの2年間は、嘘じゃないといえるだけの重さを持っている。質量を持って心の中に降り積もっている。

 きっと答えてくれる。

 絶対に応えてくれる。

 ―――だけど、それでいいのだろうか。

 それをしたら変わってしまうのではないだろうか。

 藍は、告白することで起こる変化を思うと自分の想いを少年に伝えることができなかった。

 

 

(しかし、この想いを伝えてしまえば、マヨヒガは今の状態ではいられなくなる……)

 

 

 藍は、今のマヨヒガの空気を壊したくなかった。そのため、自分の気持ちを少年へと伝える決心がつかなかった。

 例え少年が藍の気持ちを受け入れてくれたとしても、今あるマヨヒガでの暮らしは変わってしまうだろう。

 藍は、今のマヨヒガでの生活も大好きだったから。だから、少年であれば自身の気持ちを受け入れてくれると信じつつも言い出すことができなかった。

 

 

(私は今のマヨヒガでの生活が好き。今あるこの温かさも、和友と同じぐらい好きなのだ……紫様がいて、橙がいて、和友がいて、私がいる。私は、今の生活を失いたくない)

 

 

 紫から何と言われるか分からないというのもあるが、紫と橙の見る目が変わるのは、当然で。二人がくっつけば、二人が除け者のような扱いを受けてしまうことも想定内で。それが藍にとって気がかりだった。

 それに、仮にマヨヒガでの生活が変わらないとしても、藍自身がより少年から離れられなくなることは分かり切っていることである。自分のものになったという独占欲が、周りを排除しようとしてしまうかもしれない。

 

 

(受け入れてくれなくても、受け入れてくれたとしても……きっと枷が外れて、和友を求めてしまう……)

 

 

 受け入れられれば―――恋人のように甘え。

 受け入れられなければ―――ストーカーのように付きまとうようなことになる。

 結局のところ藍と少年の関係は、外面が変わっただけで何も変わらない。

 そのうえ、二人には別の大きな問題もあった。

 

 

(問題は何もマヨヒガの雰囲気だけではない。和友と私では種族が違うから、共に生きていられる期間は限られてしまう)

 

 

 藍は、少年と一緒に暮らし続ける場合の障害を考えた。

 

 

(私は妖怪で、和友は人間だ。そこには超える事の出来ない圧倒的な壁がある)

 

 

 少年は人間で、藍は妖怪である。人間と妖怪では、寿命が違いすぎるため、いずれ別れがやってくる。

 いずれと言わずとも―――近いうちに別れが来てしまう。

 はたしてその時に自分は耐えられるのか。

 少年の死を受け入れることができるだろうか。

 藍には、少年を失った時に壊れないと言える自信がなかった。

 

 

(私は、和友と死に別れる瞬間―――耐えることができるだろうか。悲しみをこらえることができるだろうか。苦しみを乗り越えることができるだろうか。和友の死を―――受け入れることができるだろうか)

 

 

 藍は、頭の中に少年が死ぬ瞬間を想像する。その瞬間―――心が軋む音を上げた。

 

 

(いや、きっと私には耐えられない。半年前の病気の時ですらあれだったのだから、耐えられるという方が間違っているのだ)

 

 

 少年が死んでしまう。

 私を置いて死んでしまう。

 助けることも叶わず、共に居ることもできず、先に逝ってしまう。

 そんな想像をするだけで思わず涙が流れそうになる。

 鼻の奥がつんとして嗚咽がこぼれそうになる。

 感情が涙を流し始める。

 

 

(嫌だ、絶対に嫌……和友にはずっとそばで生きていて欲しいっ……)

 

 

 だったらどうするのか。

 少年の死を受け入れられないのなら、どうするのか。

 そう考えた瞬間―――してはならない想像をしてしまった。

 藍は、死ぬ間際に少年を無理やりにでも妖怪にしてしまうという可能性を想像した。

 

 

(和友を私の式にできれば、ずっと一緒にいられるのだろうか……式神にしてしまえば、私の妖力の影響を全面に受けて寿命も延びるはずだ。そうすれば、私と共に生きていけるだろうか。私の式にしてしまえば、私の傍にずっといてくれるだろうか)

 

 

 少年を自分の式にする。これまで少年と共に暮らしてきて考えた選択肢の一つである。藍の式に成りさえすれば、藍の力が少年に流れ込むことになり飛躍的に寿命も力も伸びることになるだろう。

 これは、あたかもお互いにとって良さそうな選択のように思える。お互いがお互いに得する、WIN-WINの関係のように思える。

 

 

(だが、和友はそれを許しはしないだろう)

 

 

 ただ―――それをしてしまえば、少年のことを人間と呼んでもいいのかと言われると何とも言えなくなる。

 妖力の供給を受けて長生きする人間など―――人間じゃない。少なくとも少年が思う人間の範疇には入らない。

 藍は、そこが最大の問題だと考えていた。

 

 

(和友の半年前の答えが変わっているとは思えない。和友は、簡単に言葉を曲げたりはしない)

 

 

 少年は、人間を辞めることを極端に嫌っている。半年前の少年は、人間を辞めるぐらいだったら死んでやると言わんばかりの様子だった。

 藍は、きっと少年の決まりごとの中に人間のままでいるという趣旨の決まりがあるのだろうと考えていた。

 

 

(はぁ、本当に悩ましい奴だよ。最初にやってきた時は、背もまだ私よりも大分小さくて意識するほどでもなかったのに……もう私と同じぐらいの背丈になってしまって、人間の成長には本当に驚かされるな)

 

 

 藍は、少年が自分と初めて人里へと買い物に出かけたときに玄関先で少年のことを抱きしめた。その時の少年の背丈は、藍の正面にすっぽりとはまるぐらいで顎がちょうど少年の頭の上に乗るぐらいだった。それがもう、藍と同じぐらいの背丈になっている。

 少年は、2年前と比べて大きくなった。思春期を迎えて、もうそろそろ青年と呼ばれるころである。精神とつり合いがとれていなくて少しだけ違和感があった大人びた雰囲気が様になり始めている。

 藍は、大人びていく少年を見て不安だった。もしも少年に好きな人ができてしまっていたら、そう考えると心がざわついた。

 

 

(和友にもし、すでに好きな人がいたらどうしよう……)

 

 

 少年に好きな人ができた場合―――藍の居場所はなくなってしまう。好きな人と結ばれてしまったら。そんなことになったら。

 ―――私はどうすれば。

 

 

(その時、私はどうすればいいのだろう……)

 

 

 少年に好きな人ができたら、マヨヒガを出てってしまうかもしれない。仮にマヨヒガから恋人に会うような生活を送るにしても、藍と頻繁に会うという事は難しくなるだろう。恋人から反感を買う形になりかねないし、少年にも迷惑がかかる。

 それに、これはなにも少年が好きな人ができた場合だけの話ではない。少年を好きになってしまう人が出ても同様に発生する問題なのである。

 

 

(仮に、和友に好きな人がいなくても、和友を好きな人がいる可能性が無いとは言い切れない。というよりも絶対にいるはずだ。私が惹かれている人物なのだから……)

 

 

 少年は、誰かから好かれている。

 藍には、断言できるだけの確信があった。自身がこれほどに好いているのだから、他の誰かもきっと心を寄せている人物がいることは容易に想像できた。

 

 

(和友には不思議な魅力がある。それが何なのか分からないが、心を惹きつけられる何かがある)

 

 

 少年には間違いなく誰かを、何かを惹きつけるような力がある。それが何なのか、そういう性質を持っているのか分からなかったが、間違いなく何かがあると思えるだけの自覚があった。

 少年でなければ、いくら2年間過ごしてきたといっても、大変なことを乗り越えてきたといっても、ここまで大切な存在になることはなかっただろう。

 

 

(これほど心を動かされたのは、今にも昔にも和友しかいない。この苦しみも、哀しみも、喜びも、何もかも和友がくれたものだ)

 

 

 藍は、この2年の間に様々な葛藤を乗り越えている。普段なら絶対に思わないようなことも、これまでしたようなことのない緊張も、安心感も、全て感じてきた。

 沢山の経験を経たからこそ―――少年は、藍だけではなく‘他の誰か’にも影響を与え、‘他の誰か’を惹いているということが想像できた。

 

 

(こう思っているのは、私だけではないはず。和友は、相手によって対応を変えないのだから。誰にだって同じ影響を与えていると考えるのが普通だろう)

 

 

 少年は誰にでも優しくて、自分自身に厳しく、真面目だ。そんな少年に惹かれる人物がいないとは思えなかった。

 きっと告白されることもあるだろう。自分が告白しようかと迷ったように、迷っている人物もいるに違いないと思っていた。

 

 

(心の優しい和友は、好意を寄せられてそれを告げられて断ることができるだろうか……)

 

 

 藍は、告白されたときに少年が本当に断り切れるのか判断できなかった。少年を一人で人里に行かせてしまえば、遮るものは誰もいなくなる。

 それでは、少年まで言葉が一直線に通ってしまう。

 そうなってしまえば―――どうなる?

 どうにでもなってしまうかもしれない。

 藍は、やはり少年を一人で人里に向かわせるわけにはいかないという結論に至り、異を唱えた。

 

 

(やはり、和友を一人で人里に行かせるわけにはいかない。誰かに取られるのだけは避けなければ……)

 

 

 藍は、少年と一緒に人里へ行くと声を発しようと口を開きかける。

 しかし―――藍の行動を遮る者がいた。

 

 

「藍、和友についていくのは止しなさい」

 

「えっ……」

 

「貴方にはやるべきことがあるでしょう。忘れてしまったのかしら?」

 

 

 藍は、紫の問いかけに今日やらなければならないことが何なのか思考する。頭の中にあるはずの予定を引っ張り出そうとする。

 しかし、頭の中は少年のことでいっぱいで何も出てこなかった。

 何かあっただろうか。

 少年を放置してまでやらなければならないことなど、あっただろうか。

 藍は、何一つ出てこないことに頭を悩ませた。

 

 

「…………」

 

 

 橙は場の雰囲気が変わるのを感じ取り、口を閉ざす。

 悪い流れだ。こういった時は何も言わない方がいい。橙は、これまでの経験からよく分かっていた。

 紫は、答えの出てこない藍を見てため息をつき、しょうがないわねと言うように告げる。

 

 

「今日は、博麗大結界の検査をお願いしたはずよ。それをサボろうと言うのかしら?」

 

 

 藍には、博麗大結界を検査する役割が与えられていた。

 博麗大結界は、外の世界と幻想郷を別つ境界線を作り出している結界の一つであり、幻想郷の生命線となる結界である。効果としては、外の常識を中の非常識に、内の常識を外の非常識に変換する結界となっている。

 本来、博麗大結界は博麗の巫女が管理をしているものである。

 しかし、どうにも今回の博麗の巫女は、能力に問題は全くないのだが、何分やる気に欠けていた。そのため、以前から点検を行ってきた藍が検査を行い、ちゃんと管理をしているのかを確認することになっていた。

 

 

「確かに、頼まれていましたね……」

 

 

 藍は、はっとした様子で表情を曇らせる。確かに、自分がやらなければならない仕事である。

 しかし、それはいつだってできること。少年の人里への護衛の方が、今日しかできないことである。

 藍は、何とか押し通そうと紫へと言葉を口にした。

 

 

「ですが、それはいつでもできることではないでしょうか? 和友と一緒に人里に行った後でも十分こなすことができます」

 

「何を言っているの? 私には、藍が何を言っているのかさっぱり分からないわ。自分の役割を放棄しようっていうのかしら? いつでもできるのなら―――今やりなさい。私は、今やってほしいから頼んだのよ」

 

 

 紫はそこまで言うと、視線を少年へと向ける。

 

 

「和友は一人で行ってきなさい。藍の面倒は私が見ておくから」

 

「どうしても駄目ですか?」

 

「どうしても駄目よ」

 

 

 紫は、動揺する藍に向けてさらなる一撃を叩きこむ。

 紫からやってきた言葉は―――藍の予想の斜め上を行く信じられないものだった。

 

 

「貴方は、自身に与えられた仕事を放棄してまで和友に甘えているつもりなの? 少なくとも和友に毛づくろいをさせているのを見逃しているのだから、これぐらいは我慢しなさい」

 

「ええっ!? 紫様は、毛づくろいのことを知っていらしたのですか!?」

 

 

 藍は、紫の言葉に驚愕の声を上げた。

 朝の毛づくろいは、少年と自身だけの秘密だったはずである。

 藍は慌てて少年の顔を見つめる。毛づくろいをしていることを知っているのは、それを受けている藍とそれをしている少年だけのはずである。藍から漏れていないとすれば少年から漏れたと考えるのが普通だった。

 藍は、少年に疑いの目を向けた。

 

 

「か、かずともか……?」

 

「ううん、僕じゃないよ?」

 

 

 少年は、静かにフルフルと顔を左右に振る。

 藍は、少年から毛づくろいをしている事実が少年から漏れたわけではないと瞬時に理解した。少年は口が軽い人間ではない。話してはならないことと話してもいいことをちゃんと分かっている人間である。

 ならば―――紫自らが藍の行動を見ていたということになるのだろうか。

 藍は、恥ずかしいところを見られたという羞恥心と、紫のいいつけを破って毛づくろいをしてもらっていたという事実に罪悪感を覚えた。

 紫は、顔色を勢いよく変える藍へ最後の一撃となる一言を述べる。

 

 

「注意した次の日にまたやっているのですもの、注意する気なんてなくなっちゃうわ」

 

「誠に申し訳ありませんっ!」

 

 

 藍は、その場で勢いよく頭を下げて謝罪した。紫の言葉をそのまま鵜呑みにするのならば―――毛づくろいを注意された次の日に目撃していたということである。

 藍は、甘い予想をしていた自分の考えを呪う、完全に藍の誤算である。

 最初の一回目は、寝てしまったことによる発覚だったため、朝早くから毛づくろいを行い、眠ってしまうことさえ避ければ遅く起きてくる紫にはばれることはないだろうと油断していた。

 

 

(どうして紫様はいいつけを破った私を放っておいたのだろうか? 注意する気が無くなったって、いつもの紫様ならさらに激昂して怒られるはずなのに……)

 

 

 藍は、混乱していた。紫が毛づくろいをしてもらっているという事実を知っていることに驚きを覚えたのはもちろんのこと、毛づくろいをし続けている事実を知ってなお放置していることにも驚愕した。

 朝の少年との一時である毛づくろいは―――見逃されていたのである、知らなかったわけではなく‘見逃されていた’。

 藍は、紫が毛づくろいの行為を見逃している理由が何も思い当たらなかった。紫が見て見ぬフリをしている理由など、なにかあるのだろうか。

 藍が頭を悩ませている最中―――紫の矛先は、少年へも向けられた。

 

 

「貴方もよ、和友。藍を甘やかすのはやめなさいと言ったでしょう?」

 

「でも、藍の毛づくろいに関してはこれまでもずっとやってきたことなんだよ? あの一件があった後からやり始めたことは何一つないんだし……これぐらいは……」

 

 

 紫の視線が少年の言葉が並ぶにつれて鋭くなる。少年は、紫の視線が鋭くなるたびに声を小さくさせ、委縮した。

 何を言っても認めない、紫の瞳はそう言っている。そこがダメなのだと叱責している。永琳と同じように、少年の優しさに揺れずにはっきりと告げている。

 紫は、少年に向けて棘のある言葉を投げつけた。

 

 

「和友、私の言っていること、間違っているかしら?」

 

「……ごめんなさい。すみませんでした……」

 

 

 少年は、立ちあがり頭を深く下げて謝罪をした。どこか不服のようであるが、それを全て飲み込んで我慢をしているようだった。

 少年は謝らなくてはならない。藍に対して甘やかすのは止めたほうがいいと言われたものの、藍の要求に流されてしまったのは他でもない少年の責任なのだから。色々言いたいことがあっても少年の責任は消えることはない。

 藍は、自分のせいで少年が紫に怒られていると感じ、酷く申し訳なさそうに少年に言った。

 

 

「ごめんな、私のせいだ」

 

「いや、僕のせいでもあるから謝らなくてもいいよ。僕も、藍と同じように藍に甘えていたんだよね。なんでも許してくれる、庇ってくれる藍に甘えていた。だから……怒られて当然なんだよ」

 

 

 事実を知ってしまっている今―――藍の責任は小さく、少年の責任は重大である。

 少年が、楽な気持ちにさせるから。

 少年が、許してしまうから。

 だから――少年は、自らの非を認めた。

 

 

「和友、私は別に甘えてもらってもかま」

 

「藍」

 

「いや、なんでもない。忘れてくれ……」

 

 

 紫は、発言しようとする藍の言葉を遮るように名前を呼んだ。

 藍は、紫の呼びかけにびくりと反応し、必死に口をかみしめる。

 少年は、少し悲しそうな顔で藍に向けて笑顔を作る。

 紫は、二人のやり取りに大きく溜息を吐いた。

 

 

「はぁ、なんで藍は隠せていると思ったのかしら……時々藍がよく分からなくなるわね」

 

 

 藍と少年は、紫の言葉に何も言い出せなかった。

 紫は、反論の一つも言わない二人に向けて話を終わらせる一言を告げる。

 

 

「とにかく、和友は一人で人里へ行くのよ。そして、毛づくろいもほどほどにするように、分かった?」

 

「は、はいっ! 分かりました!」

 

 

 藍は、紫の言葉を聞いて勢いよく顔を上げて元気良く返事をした。ほどほど、その言葉は決して完全に止めなさいという言葉ではない。つまりは、ほどほどであるならば毛づくろいを容認すると言っているのである。

 

 

「その代わり、しっかりやるのよ」

 

「はい!!」

 

 

 これが―――紫の藍の扱いが非常にうまいところである。紫は、2年前よりもはるかに藍の扱いが上手くなっている。

 紫は、怒るばかりではなく譲歩をしている。

 譲歩をする―――それが自我の強くなった藍の心を傷つけずに自身の存在を優位に立たせ、言う事を聞かせる方法の一つだった。紫の譲歩のおかげで藍の従者としての生活は心の負担が少ないものになっている。

 少年は、藍への気遣いが感じられる紫の対応を見て笑顔を作った。

 

 

「紫、ありがとうね」

 

「何の事だか分からないわ。お礼の言われるようなことなんて何もしていないもの」

 

「そっか、じゃあ僕からの一方的にお礼だ。ありがとう、紫」

 

 

 紫は、今度は無言のまま少年の言葉を受け入れるばかりで、視線を逸らして我関せずを貫く姿勢を崩さない。もうこの件について話すことは何もないと言った様子である。

 少年は、紫の態度に満足すると3人に向けて人里に行くことを再び宣言した。

 

 

「じゃあ、食べ終わったら早速人里に行くね」

 

 

 もう―――少年の言葉に異論を挟むものは誰もいない。

 少年は、食事をとり、後片付けを終えると、いつも使っている筆を持って人里へと‘一人で’向かう。

 向かう先は、少年の手に持っている筆の作り手である筆一本の店主のもとである。

 

 

「さぁ、今日はどんなことが起こるんだろう」

 

 

 ―――新しいものが待っている。そんな期待感が少年の心の中で渦巻いていた。

 



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久々の人里、久しぶりの再会

 少年はマヨヒガを一人で飛び立ち、人里へとやって来た。

 いつものように門を通って、門番の人と挨拶を交わして中へと入る。

 人里には多くの人々が行きかっており、活気が感じられた。

 

 

「筆一本は、向こう側だったね」

 

 

 少年は、目的地である筆一本へと足を伸ばす。肩には、いつもどおりノートと筆が入れられたカバンがかけられていた。いつでもどこでも、少年の傍にはノートと筆があった。

 今日は、その相棒ともいうべき筆の点検のために人里へと来ている。

 少年は迷うことなく、すでに区別できている店―――筆一本へと入り込んだ。

 

 

「こんにちは~」

 

 

 店の中は、外から入ってくる光の量が少ないために薄暗い。筆の劣化を避けるために直射日光を遮っているのだろうか。

 少年は、そんなことを知る由もなく、店内を見渡した。

 

 

「やっぱり誰もいないんだね」

 

 

 店の中には、2年前と変わらず人がいなかった。確か、半年以上前に顔を見せに来た時も誰もいなかった。

 

 

「人はいないけど、その代わりに埃はいっぱいだ……」

 

 

 商品である筆を入れている棚の上には、埃が積もっている所がある。本当にこれで商売が成り立っているのか疑惑が出てもおかしくない状況である。

 だが、成り立っているからこそ店主は生活できているのだ。意味のないようなことでも、なにかしら役に立ってそこにある。役に立っているからこうして、埃をかぶっていられる。

 少年は、2年前と何も変わらない店の中を見て一人呟いた。

 

 

「相変わらずだなぁ……これで暮らしていけるんだから不思議なものだよね」

 

 

 昔、店主は「寺子屋に商品を提供しているから暮らしは安定している」という旨の言葉を喋っていた。

 つまりは―――そういうことなのだろう。上手くやれば、特に商売に気をやらずとも問題がないだろう。何もしなくても、何も宣伝しなくても、何も新しいものを作らなくても、買い手は一定数確保できるということなのだろう。

 だが、店主は余裕のある状況に怠けているわけではないはずだ。そんなことをすれば、顧客が離れてしまう、同業他者との勝負に負けてしまう。

 少年は、いつか言っていた藍の言葉を思い返しながら呟いた。

 

 

「これだけ汚くても買う人が一定数いるのは、やっぱり店主の腕が良いからなんだろうね」

 

 

 長く続けていくためには、質が問題となる。上手くやりくりすることが大事になる。

 店主の技量が落ちてしまえば、抱えている顧客が他の店へと衣替えをする可能性がある。そのリスクを負っていると考えれば、ここまで何もしないことは同時に―――店主の技量が窺い知れた。

 ここまで埃をかぶっていても、見栄えが悪くても、買う人がいる。それは、店主の作るその筆が優れているからという他ないだろう。

 そこまで考えると、少年は筆ではなく店の奥の方へと視線を向けた

 

 

「山本さんは、いつものところにいるのかな?」

 

 

 店主は決まって店の奥の方で作業をしていることが多い。その例にもれず、奥のふすまに黙々と作業をしている人の影が映っている。どうやらいつもと同じように作業をしているようである。

 少年は、店主の影に向かって声を飛ばした。

 

 

「山本さん、いらっしゃいますか?」

 

「あ、なんだ? 客か?」

 

 

 少年の声が店の奥へと響くと、店主である山本がふすまの奥から姿を現した。

 店主は少年の顔を確認するや否や、まるで幽霊でも見るかのように目を見開く。

 店主が驚くのも無理はない。なにせ、少年は半年以上も店主である山本に会っていないのだから。病気を患ってから一度も会っていなかったのだから―――久方ぶりの再会である。

 

 

「おお、久しぶりじゃないか! 随分と大きくなったな!」

 

「山本さんは何も変わっていないですね」

 

「うるせぇな、もう成長期はとっくに過ぎてんだよ」

 

 

 そう言う店主の顔は、2年前とあまり変わっていなかった。

 2年で変わるわけがないだろうという人もいるかもしれないが、2年で大きく顔が変わった人がいることを少年は知っている。顔が大きく変わると、覚えた内容との一致が図れなくなり、識別に齟齬が出る。そうなったらまた覚え直しになる。

 少年は、久しぶりの再会で不安もあったが、一発で店主の顔と名前を一致させた。過去に書き記し覚えた顔と変わっていないことに安堵しながら、店主を迎えた。

 

 

「僕のこと、覚えていてくれたんですね」

 

「当たり前だろ? 忘れろっていう方が無理な注文だ。あんな注文してくる奴なんて坊主を除いていなかったからな」

 

 

 少年は、店主が自分のことを覚えていてくれたことに少しだけ嬉しそうに頬を緩ませる。

 少年は、成長期を迎えて、病気を乗り越えて、多少なりとも雰囲気が変わっている。変わったと―――そういうふうに他人から言われたこともあった。そのため、久々に顔を合わせる店主が自分のことをしっかりと覚えてくれているか不安を抱えていたが、そんな心配は杞憂だったようである。

 店主は、久しぶりに現れた少年に向けて感慨深い顔をしながら言葉を投げかけた。

 

 

「久しぶりだな。元気にしていたか? ぶっ倒れたって聞いた時は心配したぞ」

 

「僕のこと、人里にまで伝わっていたんですね」

 

 

 半年前に少年が倒れたことは、店主の耳にまで届いていたようである。

 さすがに少年の倒れたことが人里全土に伝わっていることはないだろうが、店主が知っているということは―――少年と関わりを持っている全ての人間が知っていると考えた方がいいだろう。少年の店主との関係性を考えれば、少しなりとも関わり合いがある人は全員知っていると考えるのが普通である。

 ただ、少年が病気であることが漏れる要素は余りに少ない。直接永遠亭に来なければ、情報が漏れる個所は藍や紫といった身内からの漏洩以外に無いと思われた。

 どこから漏れたのだろうか。誰から情報が開示されたのだろうか。

 そんなことを考えてみたが、そんなことはどっちでもいいと思った。隠していたのは、あくまで病気の内容であり、倒れた事実ではないのだから。

 

 

「僕、倒れている間、外に出ることがなかったですし、知られていないと思っていました」

 

「俺も人づてで聞いただけだ。俺はここから離れることができねぇし、大したことできなくてすまなかったな」

 

 

 少年は、病気の時にお世話になった一人の命の恩人に対してお礼を告げた。

 

 

「いえ、山本さんのおかげで最後の最後まで頑張れました。勝負事が無かったらもう死んでいたかもしれません」

 

 

 店主の言葉は、病気の時に、苦しんでいるときに一つの支えとなってくれた。店主の勝負事の言葉が―――心の灯を強くしてくれていた。

 死んでいたかもしれないというのは、誇張でも過大評価でもない事実なのだ。

 あの時少年は、もうすぐ死にそうになっていた。もうすぐ終わりそうになっていた。

 病気に抗い続けていられたのは、それに立ち向かい続けていられたのは、きっと店主と交わした言葉があったからだ。

 

 

「縁起でもないこと言うなよ」

 

「ははは、そうですね……」

 

 

 少年は、店主の言葉に乾いた笑いで返すことしかできなかった。

 店主は、すぐに黙り込む少年との距離を縮めると、今日の訪問の理由を尋ねた。

 

 

「今日はどうしてここに来たんだ? 別に、顔を見せに来たわけでもないんだろう?」

 

「今日は作ってもらった筆を見てもらおうと思って来たんですよ」

 

「ああ、そういう理由か」

 

「ここまで2年の間、作ってもらった筆を使ってきていますけど、一度も店の方に筆を見てもらいに来たことは無かったですからね」

 

「まぁ、俺の筆だから壊れるなんてことは無いとは思うが……」

 

 

 店主は、筆の状態の確認の必要があるようには感じていなかった。一生使える筆を作ると言った店主の言葉に偽りはないし、それだけのものができている自信もある。

 まだ、作ってから2年である。壊れているわけがない。店主の自信は、相当なものがあるようで心配するかけらも見せていなかった。

 

 

「一応ですよ、一応。店主の言葉を信じていないわけじゃないです」

 

 

 少年は、カバンの中にノートとともに入れて置いた筆を店主へと手渡す。

 2年間の激闘を共にしてきた相棒ともいうべき道具である。楽しかった思い出も、辛かった思い出もいつだって筆が線を引っ張ってきた。最後の追い込みは、デットラインは、少年と共に耐久レースを演じて見せた。

 

 

「随分と汚れてしまいましたが、今のところ問題なく使えていますから」

 

 

 筆の持ち手は血がしみ込んで赤黒く変色している。それこそが少年が筆に与えたもの。

 少年の手には筆の形がくっきりと残っている。それこそが筆が少年に与えたもの。

 それこそが、お互いの消えない傷跡だった。

 

 

「あくまでも点検です。よろしくお願いいたします」

 

「どれどれ……」

 

 

 店主は、少年に手渡された筆を左手で持つと確認し始めた。

 筆の軸の部分に血がにじんでいるのがはっきりと分かる。

 店主は、軸の部分に付着してしみ込んでいる血について何一つ驚いた様子を見せず、目を細めて視認した。やはりこうなったか、店主の中にあったのは疑問や違和感ではなく、すっぽりとはまったような納得だった。

 店主は、初めから少年が血を流すぐらいに筆を握り続けると分かっていた。初めて少年の手を見た時から、血を流すほどに努力していたことは分かっていた。今更筆に血が付着していようが対して驚くことなど何もない。

 むしろ、驚くべきは―――筆に与えられたダメージの多さだった。

 

 

「そうだなぁ……これは、ちときついか」

 

 

 店主は途中で虫眼鏡を持ち出し、より細かく隅々を見渡し始めた。

 筆に蓄えられている損耗を読み取り、一通り全体に目を通す。

 もう、耐えられません。

 もう、限界です。

 私では、無理みたいです。

 筆がそう告げているのが聞こえた。

 

 

「坊主、この筆に凄まじく負担を掛けただろ?」

 

「私はいつも通りやっていただけなんですけど、使いすぎってことでしょうか?」

 

「坊主は筆の扱いに慣れていないんだな……坊主が外来人だってことを考慮に入れていなかった……」

 

 

 店主は、言葉の意味が分かっていない少年の反応から、少年が外来人であることを改めて理解した。

 

 

「力の入れすぎだ。摩耗や摩擦によるものというより、応力による劣化だな」

 

 

 店主の作った筆は、使いすぎただけだったならば、壊れたりなどしない。使い方を間違えなければ、文字通り一生使えるものを作ったつもりだった。

 しかし、少年の使った筆は寿命を迎えようとしている。それは、少年の使い方が雑であるという可能性を考慮していなかったからだった。

 少年は、店主の言葉に申し訳なさそうな顔を作る。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 筆の使い方に慣れていないということは、筆の使い方に不備があったということ。

 少年は、学校で習った習字程度の知識しかない。筆を使って字を書く機会なんてほとんどなかったため、筆の使い方を深く知らなかった。力の入れ方から筆の立て方まで、持ち方以外のことはあまり知らなかった。

 

 

「毛が抜け始めているじゃねぇか。軸の部分は大丈夫だが、矛先の方はもう駄目だな……」

 

「何とかなりませんか? できれば、この筆をずっと使い続けたいのですが……」

 

「そうは言うが、ここまできているとなると難しいだろうな」

 

 

 この筆は、少年と共に窮地を一緒に乗り越えてきた。少年には、すでに自身の体の一部のような感覚がある。右手に馴染んで、右手の一部と思えるだけの感覚が芽生えている。

 そんな筆に対する感情があったからこそ―――筆を壊さないように店主に見てもらおうと思ったのだが、幾分遅かったようである。

 少年は、もうダメになったと言われる筆に対する想いを切り捨て、店主に向けて問いかけた。

 

 

「じゃあ、どうするのですか? 取り替えれば元に戻りますか?」

 

「いや、とりあえず新しいのを持っていけ。こうなっちまったのは俺の力不足が原因だ。一生使えるものを手渡したつもりだったんだがな……俺もまだまだだってことだな」

 

 

 店主は暫くの間、疲労困憊の筆を眺めると少年に代替案を提示した。

 少年は、どこか虚しそうに店主を見つめる。結局どうにもならないという現実に突き当たり、今まで使ってきた筆を諦めなければならない状況に後悔した。

 なぜこんなことになったのか。思い返せばいくらでも原因は見つかる。

 しかし、それをどうこうできたとは思えない。少年は、何度やっても、何度同じことが起きても、同じように筆をボロボロにしてしまうと思った。

 

 

「…………」

 

 

 知らぬ間に傷ついていた。気を遣っていなかったからボロボロになった。

 だが、それが分かったところでどうしていただろうか。

 この筆は、少年についてこられたこそ相棒に成ったのだ。気を遣わなければならないような関係ならば、相棒になど成っていない、成れていない。

 店主は、露骨に表情を変化させる少年を見て言葉を返した。

 

 

「そんな顔をするな。今度はもっといいのを作ってやるから」

 

 

 少年は、そういうことではないのです、とは言えなかった。この筆がいいのだと。この筆でなければならないのだと。言い出すことができなかった。作ってもらっている手前、壊してしまった手前、何も言えなかった。

 

 

「とりあえず、代用として簡単に作るからちょっと時間を潰していてもらえるか? おそらく3時間もかからないと思うから」

 

「分かりました」

 

 

 少年は、一緒に苦難を乗り越えた筆が新しくなってしまうこと、3時間をちょっとと表現する店主に突っ込みたい気持ちを抑え、提案に一言で答えた。

 ああ、また新しくなる。

 新しくなるって、こういうことか。

 だから、あの時、あの子はああ言ったのか。

 どうして変えなきゃいけないの。

 その言葉の意味がやっと分かった気がする。

 肯定の意を示した少年は、どこか納得した表情でゆっくりと動き出した。

 

 

「よろしくお願いします」

 

「おう、任せておけ」

 

 

 一度だけ頭を下げて店の外に出る。

 少年が筆に対してできることなど何も無い―――寂しさを滲ませて何になる。

 未練を残して何が残る。

 少年は、どうあがいても店主に任せて待つことしかできなかった。

 少年の使っていた筆はもう元には戻らない。次にはまた別の筆になっている。別の新しいものになっている。とって代わったように。代役が最初から決まっていた演劇のように元からそうだったかのようにそこに入り込む。なんだか酷く悪い夢を見ているような気分だった。

 少年は、ゆっくりと空を見上げ大きく溜息を吐いた。

 

 

「もっと早めに来ればよかったなぁ……結構気に入っていたんだけど」

 

 

 空は曇っている。どんよりと黒い雲が浮かんでいる。雨が降らないか心配である。

 

 

「でも、そんなものだよね。いくら大事に使っても、壊れる物は壊れるんだから。ずっと使っていたいと思っても、浪費して消費して削れていくのは止められない」

 

 

 少年は、頭の中にちらつく筆の存在を諦めた。

 どれだけ気を付けていようと、どれだけ気を遣っていても、どのみち形のあるものは崩れ去る。時間が経過すれば風化する。酸化して、損耗して、別の物になり、消えてなくなる。

 時間は誰にだって平等だ。

 平等な時間感覚を持っていないから、同じ速度とは言えないけれど。

 誰にだって時間が流れている。

 それぞれの時を刻んで未来を歩いている。 

 それは、少年自身にだっていえること。

 擦り減って壊れてしまうのは止められない。止まらなかった少年が、削れていっている少年が、摩耗した筆に文句を言うことは許されない。筆からお前が言うなと言われてしまう。

 少年は、さっと視線を地面へと落とし、これから先のことに思考を移した。

 

 

「さて、3時間か……結構時間があるけど、どこで潰すかな」

 

 

 店主は、ちょっと時間を潰してほしいと言っていた。

 ちょっとばかりが3時間というのは時間の感覚がおかしいと思われるかもしれないが、幻想郷で言えば3時間はちょっとした時間である。急を要する仕事に縁がなく、のんびりと動いている幻想郷の時間は、3時間をちょっとと言わしめる。

 さすがに待ち合わせをしていたり、ちょっと待っていてと言葉を使ったりする場合に3時間はあり得ないが、時間の感覚は非常に緩やかな世界だった。

 外の世界とは流れている時間の速度が違う。これもまた、時間が平等ではないといういい例になっているかもしれない。時間という概念は平等に与えられているが、速度がバラバラであるいい例である。

 

 

「ふふっ、外の世界じゃ考えられないよね。3時間をちょっと潰してなんて」

 

 

 店主の一言は、幻想郷と外の世界の時間に対する価値観の違いを如実に表している。正確には外の世界の日本と幻想郷だが。

 幻想郷の人々は時間を消費して生きている。時間というのは流れるもので、減ったり増えたりするものではないし、何かの代わりになったりもしない。

 それが幻想郷のスタンスである。時間を売って生活しているわけではなく、ただ消費していくだけ。それが、幻想郷での時間に対する認識だった。

 

 対して、外の世界の人々は時間を対価として生きている。時間はお金に変わり、楽しみに変わり、何かを得るための対価となる。

 ただただ、ぼーっとしている時間を好まないのは、この時間というものに価値があると思っているからに他ならない。

 時間を無駄にしているなど、幻想郷の人たちは決して口にしないだろう。店主の一言は、幻想郷と外の世界の感覚の違いが感じられる一言だった。

 少年は、人里の大通りを歩きながらカバンの中から昼前に藍から手渡された封筒を取り出し、中身を少しだけ見た。

 

 

「今月のお小遣いは……うん、大丈夫そうだね。じゃあ、茶屋にでも行こうかな」

 

 

 少年は、ほんの少しの給料を持って時間を‘流す’ために茶屋に向かって歩き出した。



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一人での人里、二つ目の再会

 茶屋は、外の世界でいうカフェのようなものである。軽い食事を取りながら飲み物としてお茶を楽しむ場所、緩やかな時間を流す場所である。

 少年はお茶をのみ、和菓子でも食べながら一息つくつもりだった。

 

 

「確か……茶屋は大通りに面していたはずだよね。藍と一緒に1回だけ行ったことがあるから、多分間違っていないはずだけど」

 

 

 茶屋は、人里の大通りに面して建っている。商業地区にある茶屋なので、同じ商業地区に建っている筆一本からは距離的にそこまで離れてはいない。

 随分昔になってしまうが、藍と一度来たことがある茶屋である。一時期、カフェスタイルの茶屋が人里で流行った時にその流れに便乗して一度来たことがあった。

 

 

「あの店の雰囲気は結構好きだったなぁ。外の世界にあるレストランみたいな雰囲気が良かった」

 

 

 幻想郷には外の文化が絶えず流入し、流行り廃りを起こしている。それは、外来人が稀に外の世界からやってきて文化を広める、あるいは物が流れて文化が入り込むためである。

 茶屋の雰囲気は、外の世界のレストランに酷似しており、外来人がもたらした文化の一つであることが雰囲気から感じられた。

 

 

「あれから大きく変わっていないといいけれど、どうだろう? 場所まで変わっていたら見つけられないし、残っているといいなぁ……」

 

 

 その時から茶屋の場所が移動していなければ、少年の筆がノートに書き記した場所にあるはずである。

 少年は、大通りを迷うことなく辿っていった。

 

 

「あっ、あった、あった」

 

 

 しばらく歩くと、茶屋の店が視界に入った。どうやら潰れてしまったわけでもなく、移動してしまったわけでもないようである。

 

 

「良かった、変わらずにあったみたいだね」

 

 

 少年は、目的地である茶屋に辿り着くと、外に出されている長いすに座った。

 

 

「うん、椅子に座った感じもあの時のままだ」

 

 

 座り心地はそこそこである。良くもなく悪くもない。

 座り心地はこのぐらいがちょうどいい。長く居座るには硬いように思えるし、嫌悪感が出るほど硬いわけでもないので、店で出ている椅子としてはベストの選択だろう。

 少年は、椅子に座った状態でそっと空を見上げる。

 茶屋の空気感は、まるで外の世界にいるような錯覚を覚えさせた。

 しかし、周りに見えている景色はどれも外の世界では見られないものばかりで、高い建物の全くない見晴らしのいい景色が視界を覆っている。

 少年は、そっと深呼吸をして息を吐き出すと店員を呼んだ。

 

 

「すみませーん」

 

「今行きます」

 

 

 少し遠くから店員の声が聞こえてきた。

 少年の声を聴いた男性店員は、声の源泉へと早足で歩いてくる。

 少年は、近づいてきた男性店員に対してオーダーをした。

 

 

「ご注文でしょうか?」

 

「蒸し饅頭(まんじゅう)を一つください。それと緑茶を一杯」

 

「蒸し饅頭は、粒餡(つぶあん)漉し餡(こしあん)がありますがどちらになさいますか?」

 

 

 店員は、少年の注文に対して2つの選択肢を提示した。

 少年は、前に来た時はそんなものあったかなと不思議そうな顔をする。

 前に藍と来た時には、店員から粒餡と漉し餡の提示はされなかった。あの時は、注文した段階で話が終わったはずだ。ノートに書いた情報と異なっている。

 少年は、前に来た時から新しく増えたのかと考えながら、店員の疑問に対して答えを示した。

 

 

「粒餡でお願いします」

 

「ご注文承りました」

 

 

 店員が少年からオーダーを受けて店の中へと入っていく。

 粒餡を今から作るのだろうか、それとも作ってあるのだろうか。今から作るとなると、そこそこ時間がかかることが想定される。

 

 

「どのぐらいで出来上がるのかな? 最初から作ると結構な時間がかかりそうだけど……でも、今日は時間がいっぱいあるもんね。ゆっくり待てばいいか」

 

 

 どのぐらいで品物が来るかな。少年は、3時間も余裕があるというのにそんなどうでもいいことを考えながら正面を向いた。

 少年に話しかけてくる人物はどこにもいない。いつもだったら隣にいる人物は、今日に限っては存在しない。

 一人きりで時間を流す。こんな時間がこれまであっただろうか。こんなふうに穏やかに特に何をすることもなく、時間を流すためだけに空気を吸って待っているような状態になったことが過去にあっただろうか。

 そう思うと―――これもまた新しい経験のような気がした。

 

 

「こうして一人で人里に来るのも初めてか。そう考えると、なんだか考え深いものがあるね」

 

 

 少年の目の前には人里の大通りが広がっている。人里の大通りだけあって人の行ききは激しく、目まぐるしく人が流れている。もちろん外の世界と比べるとか細いものではあるが、マヨヒガにいては決してみられない光景である。

 

 

「人がいっぱい……夜までいっぱいいるんだろうな」

 

 

 人里の商業区画の大通りは、夜が訪れるまで人が消えることは決してない。人の生活の拠点が多く存在するこの商業地区に休みは訪れない。ずっと、ずっと、人が行きかって生きている。

 

 

「夜はさすがに危険だから、みんな出歩こうとはしないけど。昼間の活気は外の世界にも劣っていないよね」

 

 

 夜が訪れると人が消えてしまうのは、外の世界の街に比べて夜の明かりが少ない幻想郷の人里を歩くという行為に対して、治安的にも気持ち的にも気分が乗らないためである。

 妖怪が住まう幻想郷において、夜という時間帯は安全地帯から危険地帯に変わることを意味している。人の姿が一気に消えていくのは、危険を孕んでいる夜においていわば必然の現象だった。

 少年は、注文の品が届くまでぼうっと視界を定めて前を見据える。流れる人のさらに奥を見渡すようにどこか焦点の合っていない瞳で遠くを見つめていた。特に理由もなく、特に意味もなく、ただ、そうしていた。

 

 

「ん?」

 

 

 少年は、不可解なものを発見した。

 視点の定まった少年の視界の中に土煙が舞うのが見える。どうやら、空中から風が降りてきたために土煙が上がっているようだった。

 少年は、特に視線を動かさず土煙が舞う情景を景色の一部として捉える。動きを見せている場所に視線を集めるわけでもなく、景色を眺めて続けていた。

 しばらくそのまま眺めていると少年の視界の中に少年の知っている人物が入り込む。どうやら空から舞い降りてきた人物が土煙を上げている原因だったようである。

 空から地へと降りてきたその人物は、迷うことなく少年に向けて足を進めてくる。少年の視界がどんどん黒く染まっていく。中心から黒が迫って来る。

 けれども、少年は近づいて来る相手に対し焦点を合わせることはしなかった。あくまで景色として認識しているだけで、それに対して反応を示さなかった。

 少年に近づいてきた人物は、どこかずれた方向に視線を向けている少年に声をかけた。

 

 

「あやややや。珍しいこともあったものですね」

 

 

 少年は、話しかけられて初めて声をかけてきた少女へと焦点を合わせた。

 少年の視界に笑顔を浮かべた一人の少女の姿が映し出される。空から舞い降りてきたのは、妖怪の知り合いの一人である射命丸文(しゃめいまるあや)だった。

 少年の視線が飛来した文は、笑みを深めて少年に問いかける。

 

 

「今日はお一人なのですか?」

 

(あや)か、久しぶりだね。今日は僕一人で来ているんだ」

 

 

 少年は、既知の相手に対して久しぶりの言葉を交わした。

 景色の色は、白と黒のモノトーンで大半を占められている。少年の視界の大半が黒く染まったのは、射命丸文の黒い翼が少年の視界を埋めたからだった。

 射命丸文の背中に生えている大きな黒い羽は―――彼女が妖怪であるという証である。

 文は鴉天狗という妖怪であり、妖怪の山に住んでいる妖怪である。天狗という種族は、外の世界においても知名度がある。妖怪としての格も高く、力も強い。

 しかし、文は力に奢ったりするタイプではなかった。気前のいい性格と人当たりしない性格が、文の表情からにじみ出ている。

 人里へもちょくちょく来るらしく、人間からの印象も悪くないようで、人が彼女に話しかけることも多々あるようである。それはきっと、文の気さくな雰囲気をみんなが感じ取っているからだろう。そうでもなければ、妖怪に対して話しかけるなど無理な話だ。

 少年は、久々に会った何も変わっていない射命丸文に向けて口を開いた。

 

 

「まさか人里で文と会うなんて思ってもみなかったよ。それこそ半年ぶりぐらいかな?」

 

「私も、笹原さんと1対1でこうして会うなんて思ってもみませんでした」

 

 

 少年は、射命丸文と面識があった。これまでに何度か会う機会があり、お互いのことはある程度知っている仲だった。

 

 

「けれど、半年ぶりではありませんね。私は、これまで何度か人里で笹原さんを見かけていましたよ」

 

「だったら話しかけてくれればよかったのに。僕、そんなに忙しそうにしていたかな?」

 

「いえ、その、話しかけようとは思ったのですが……」

 

 

 文は、歯切れ悪く言った。

 

 

「声をかけ辛かったので話せずじまいでした……」

 

「声をかけ辛かった?」

 

 

 少年は、文の真意をくみ取れず聞き返す。

 文は、話しかけづらかったようで声をかけなかったとのことだった。

 どうしてだろうか。特に忙しくしていた覚えもない。人里に来る理由は、ほぼ100%買い物のためである。

 買い物は急ぐことでもないし、焦ってこなすことでもない。むしろいつも、ゆっくりと会話を楽しみながら買い物をしている。余裕がない状態で買い物をした記憶なんて全くなかった。

 だが、少年は次に放たれる文の言葉で全てを理解することとなった。

 

 

「ええ、貴方の傍にはいつも八雲の式神がいたじゃないですか」

 

 

 ‘八雲の式神’という言葉が、後に続いていく言葉を容易に連想させる。

 文は、苦笑交じりに少年の予想通りの理由を並べた。

 

 

「いつも楽しそうにおしゃべりしていますし……話しかけようとした時に八雲の式神が露骨に表情を変えるのでちょっと話しかけにくかったのですよ」

 

「……ごめんね。多分僕のせいだ」

 

 

 少年は、自分の責任だと頭を下げた。自らの非を受け入れ謝罪した。

 この件は、少年が直接的な関与をしているわけではないのだが、間接的な関与をしている。車の運転手が事故を起こした時に助手席にいた人間に責任が‘全くない’ということがないのと同じだ。特にこの件は、隣にいた少年の影響が大きいと言わざるをおえない。

 しかし、文は少年が謝るのを見て慌てて擁護した。

 

 

「貴方のせいではないですよ」

 

 

 文は、誰の責任だとは言わなかった。少年の責任ではないことを口にしながらも、誰の責任だと追及することをしなかった。

 しかし、少年は文から責任がないと言われたことを受け入れられるほど、愚直な性格ではない。責任は自分にある。全くないなんてことはない。自分の責任ではないと事実ではないことを言われても、鵜呑みにすることはできなかった。

 ただ、反論の言葉を口にすることはない。少年は、黙ったまま文の言葉を聞き、頭の中で解答した。―――絶対に自分の責任だと。

 文は、暗くなりつつある話題を避けるため悠々とした表情で自分のことを織り交ぜながら話しを展開する。

 

 

「それに楽しい時間を邪魔されるようなことをされたら、嫌な顔するのはむしろ当然だと思いますよ? 私も誰かと楽しく喋っている時に横やりを入れられるのは嫌ですから」

 

「そう言ってもらえると助かるよ」

 

「ふふん。笹原さんには聞きたいことがてんこ盛りになっているのですから、覚悟してくださいよ~」

 

 

 文は笑顔で答えると、ごく自然に少年の座っている長いすの隣に座りこむ。そして、少年を逃がさないと言わんばかりに顔を覗きこんだ。

 少年は、がっつくような文の態度に複雑な表情を浮かべた。

 

 

「お手柔らかに頼むよ」

 

「嫌です、手加減なんてしませんから」

 

「文は昔からそうだよね。昔から強引だ」

 

「それが、私ですから」

 

 

 少年は、最初に会った時から少しも変わっていないことに笑顔を作る。強引で、強烈で、強襲で迫って来る。最初と何も変わらない文の特徴である。

 

 

「怖気づいて強引さを失ってしまうようなら、私は何もできなくなってしまうでしょう。私の心はこう見えて臆病ですから。強引さを失ってしまった私の心は、恐怖に打ち勝つ術を持っていません」

 

「恐怖に負けないように頑張ってね。僕は応援するよ」

 

「はい、頑張ります」

 

 

 少年の知っている文は、最初に会った時から何も変わっていない。文は笑顔を絶やさず崩さず、楽しそうに話をする。

 少年の認識は常に笑顔で元気な天狗の少女、そこから一歩たりともはみ出すことはなかった。

 

 

「それでは……笹原さんが応援してくれているその強引さでお聞きしますけど、色々とお話を聞かせてもらってもいいでしょうか?」

 

「いいよ、答えられることなら答えるよ」

 

「ふふ、いい心がけですね」

 

 

 文は、話題のきっかけとなった藍の話から少年の会話を開始した。

 

 

「話を戻しますが……よっぽど式神から溺愛されているのですね。あんなに楽しそうにしている姿は、昔だったら決して見られませんでした」

 

「僕は昔の藍を知らないから何とも言えないけれど、昔の藍はそんなに楽しそうにしていなかったの?」

 

 

 文は、笑顔で話しながら徐々に少年との距離をじりじりと詰める。

 少年は、なぜ文が近づいてくるのか分からなかった。より強引に聞くためなのだろうか。それとも無意識なのか。

 文は、藍の様子を見た感想から話を拡大させながら、物理的に少年との距離を徐々に詰めていく。

 

 

「私、八雲の式神があんな顔をするのを初めて見ました。いつもぶすっとした仏頂面をしていることが多いので、最初見たときは、思わず二度見してしまったものです」

 

 

 少年は、出会った後からの藍しか知らないため、文の言っている藍がどんな顔をしていたのか想像もつかなかった。

 いつも仏頂面をしているだろうか。

 むしろ、表情はころころ変わる印象がある。

 そんなこんなことを考えているうちに、文と少年との距離はわずかな空間を残すのみとなっていた。

 少年は、文が近づいていることに気付いていないのか、気にしていないのか、文が近寄ってきても動くことはない。

 文は、動かない少年をいいことに距離をじわじわと詰めていきながら、妖怪たちが少年に集まるという現象、少年に近寄って来るという現象、親しい関係になるという現象がどこに由来するのか少年へと問いかけた。

 

 

「椛も貴方に会いたがっていましたし、随分と誰かから好かれるような方なのですね。もしかして何か秘訣とかあったりしますか?」

 

 

 会話に椛という人物が新たに入っている。椛という人物は、文とそれなりの関係を持っている人物であり、少年と親しい関係にあった。文もよく二人で話をしている光景を見たことがあった。

 少年は、少し複雑な表情を浮かべながら文の質問に対して言葉を口にする。

 

 

「秘訣は無いけど、秘密はあるかもね」

 

「まさにその秘密に惹かれたということなのでしょうか? 非常に気になります」

 

 

 文は、もったいぶるような少年の言葉に楽しそうに言った。

 

 

「もしかしたら、私も知らず知らずのうちにその秘密とやらに惹かれてしまっているかもしれませんよ?」

 

 

 文は少しの悪戯心から、面白半分、少年をからかいにかかった。

 少年ぐらいの年頃ならば、美の付く少女から想いを寄せられるそぶりを見せれば、何かしら初心な反応が返ってくるに違いない。顔を赤くし、表情を一変させることだってあるだろう。心を揺さぶれば、口を軽くなり新しい情報を取れるかもしれない。

 文は、利己的な考えと個人的な感情から情報を得ようと画策した。

 

 

「ほらほら、そこのところどうなんです?」

 

 

 文は、挑発するように顔を近づけて少年の様子を伺う。

 しかし、少年の表情は赤くなるわけでもなく、恥ずかしがるわけでもなく、嫌がるわけでもなく、ただ―――虚しそうな顔をしていた。

 

 

「僕は、別にそんなものを望んでいたわけじゃないんだけどね……なんかさ……違うって言うか……」

 

(これは、まずいこと聞いちゃいましたかね……別にそんなつもりではなかったのですが)

 

 

 文は、今話している内容が少年にとって話したくない、話しにくい内容なのだと瞬時に理解した。

 少年の口調は、文の恥ずかしがらせるという意図に反してとても重い。歯切れも悪くなってしまっている。

 

 

「もしかして、聞いてはいけないことでしたか?」

 

「話しても別に構わないんだけど……」

 

 

 少年の声が言いづらそうにして萎む。

 ここで―――文に言ってもいいのか。少年が悩んでいる内容は、そこにある。

 文は新聞を書いており、幻想郷におけるパパラッチとしての役割を成している。文に伝えるということは、幻想郷中に知られることに他ならない。そんな文に伝えてもいいのだろうか。

 少年は、不安を僅かに含ませながら文へと尋ねた。

 

 

「文のそれは、取材のつもりで聞いているのかな?」

 

「いえ、個人的に知りたいと思っただけですよ。言いたくないことなら言わなくてもいいです」

 

 

 文は、明らかに迷いの見える少年に明確な答えを提示した。

 文が今回少年へと声をかけたのは、あくまで話がしたかったからであって、これを新聞に載せようとして話しかけたわけではなかった。

 

 

「少しも下心がなかったかと問われれば、言いきることはできませんが……」

 

「ふふ、正直なんだね」

 

「私は、清くて正しい射命丸文ですから」

 

 

 文は、久しぶりの再会を果たした友人と気持ちの悪い別れ方をしたくなかった。昔のように唐突に、突発的に、関係性を失うのだけは嫌だった。

 

 

「今回笹原さんに話しかけたのは、取材をしたかったからというわけではありません。あくまで個人的に話がしたかっただけです」

 

「個人的な話か……随分と会ってなかったもんね」

 

「……貴方が人里に現れなくなってから色々あったのですよ。そりゃもう、私だって色々と思うところがありました……」

 

 

 文は、少年が人里へ来なくなって少年と会う機会が‘無くなった’。そう―――完全になくなった、零になった。

 文が少年と会う機会は、非常に限られている。

 一つは―――少年が人里へと一人で遊びに来た時。

 二つは―――幻想郷の地理を覚えるために一人で各地を回っていた時。

 この2パターンしか存在しない。そして、そのどちらもが半年前に病気になって無くなったものだった。

 

 

「私は、貴方たちが住んでいると言われているマヨヒガに行くことができませんでしたから。私には、笹原さんと会って話す手段がありませんでした……」

 

 

 少年の住んでいるマヨヒガは、八雲家の人間しかたどり着けない場所である。マヨヒガは、迷い込んで来ることはあっても、狙って来ることができる場所ではない。未だに場所を特定した者がいないと言われている場所である。当然のように、文もマヨヒガにはたどり着けていなかった。

 自分で見つけることができない。会いに行くことができないというのならば、偶然何処かでばったりと出会うしかない。偶然を期待するしかないのだが……人里で少年を見つけられたとしても、話しかけることができないのが、文にとって何よりも辛いことだった。

 

 

「やっとのこと人里に笹原さんが来たのを見つけても、八雲の式神がそばにいるせいで話しかけることもできませんでしたし……私は、ずっと我慢をしていました」

 

「…………」

 

 

 少年は、文の物言いに口を紡いだ。

 文は少年の傍に藍がいれば、話しかけることは叶わない。話しかければ、どうなるか分かったものではないからだ。危害を加えられると判断されれば、もう二度と少年が人里に来なくなる可能性もある。そう思ったら話しかけることなどできなかった。

 この可能性を潰されている状況によって、文にとっての少年との接触ルートはほぼ潰えたといっても過言ではなかった。

 文は、顔を悲しみの色に染めながら、ごそごそと持ってきている手提げかばんの中から新聞の束を取り出した。

 

 

「貴方に渡せていない最速の情報をお届けする文々。新聞(ぶんぶんまるしんぶん)も少しばかり埃を被ってしまいました」

 

「僕に渡せていない分、ずっと持っていてくれたんだね」

 

「貴方は私の新聞の購読者ですからね。渡せていない分は、ずっととっておいたのですよ」

 

 

 少年は、そっと取り出された新聞に視線を向ける。

 取り出した文々。新聞には、文の言葉とは裏腹に一切埃が付いていなかった。きっと、大事に保管しておいてくれたのだろう。いつか渡せる日が来ると信じて持っていてくれたのだろう。

 少年は、文の気遣いに少し嬉しそうな顔を見せた。

 文は、そっと新聞へと視線を落とす。

 

 

「最速が聞いて呆れますよね、半年後に届く新聞なんて。酸化して色も変わってしまって……」

 

 

 少年は、文が作っている文々。新聞を購読している。主に幻想郷の情報を得る目的のために読んでいた。

 

 

「まぁ……半年も経てばそんなものですよね。いやぁ、長かったです」

 

 

 少年に渡すためには人里で出会う必要がある。それができずに、半年も経ってしまった。

 文は、そっと束ねてある新聞を少年に差し出した。

 

 

「それではどうぞ受け取ってください。これで私も、気兼ねなく新聞が書けます」

 

「ありがとう。マヨヒガに帰ってからゆっくりと読ませてもらうよ。感想についてはまた人里で会った時にでも伝えるね」

 

「分かりましたっ! ずっと待っていますからね!」

 

 

 文は、少年に向けて元気よく返事をした。ずっと待っていると返事をした。

 ずっと―――それはいつまでなのだろうか。いつまで続くものなのだろうか。新聞を渡すまでに半年待った文が言うずっととは、どのぐらいなのだろうか。

 文は、少年にとってのずっとがいかに重いものか分かっていなかった。

 

 

「うん、‘絶対に’伝えるからね」

 

 

 少年は、文の期待に対して絶対を口にした。

 



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文との会話、波及する影響力

 少年は、文から手渡された新聞を綺麗に折れないようにゆっくりとカバンの中にしまいこむ。文は、少年の動きに合わせてカバンを見つめた。

 少年が持っているカバンは筆とノートを入れるための物であるためそれほど大きくはなく、新聞を入れるとポッこりと膨らんだ。

 

 

「若干窮屈になっちゃったかな? もともとノートと筆しか入れる予定のなかったカバンだし、しょうがないのかな」

 

 

 少年の手が質量を蓄えて膨らんだカバンをポンポンと二度叩く。これ以上入れるのは、おそらく無理だという事がカバンから伝わってくる。

 ただ、これからの少年に今後の予定は存在しない。少年は筆の点検を目的に人里へと来ている。これ以上の心配は無用である。

 

 

「でも、別にこれから買い物行くわけじゃないから大丈夫だよね」

 

「買い物に来たわけではないということは、笹原さんは何をしに人里に来られたのですか?」

 

 

 文は、少年が「一人で」人里に来た理由が酷く気になった。

 少年は、いつだって八雲の式神と共にいた。文が人里で少年を見かけたときには、いつだって隣に八雲藍がいた。それに、人里に来た目的のそのほとんどが買い物をするためである。

 そんな少年が―――買い物以外の理由を抱えて一人で人里へ来ている。

 

 

「いつもでしたら八雲の式神と一緒に来ているのに……今日は特別な理由でもあったのでしょうか?」

 

 

 もしも、ここで理由がはっきりと分かれば、少年が確実に個人で人里へやって来る機会が分かる。

 人里へ一人で来る理由。それを知ることはつまり、少年と話をする機会を安定して得られるということである。理由が分かれば、狙って人里に来ることも難しくない。

 文は、そんな画策をして少年の言葉に耳をそばだてた。

 

 

「今日は、いつも使っている筆記用具の新調だね。僕も文と同じで書くことが結構多いから」

 

「笹原さんも何か書いてらっしゃるのですかっ!?」

 

 

 文は、少年の予想外の言葉に声を大にし、興味津々な様子で体を乗り出すようにして少年に迫る。

 少年は、文が勘違いしていることにすぐ気付いた。

 文は、自分が何か読み物を書いていると勘違いしている。自分と同じような趣味を持っていると勘違いしている。同じ趣味というか、趣向を持っていると勘違いをしている。

 少年が書いているというのは、誰かに何かを伝えるためのものではない。少年の書いているそれは自分のための、自分のためだけのものである。あくまで識別や区別をするための書き記す作業のみで、物書きというのには程遠い。

 文は、そんな少年の事情をつゆほども知らずに書いている物を見させてほしいと懇願した。

 

 

「もしよろしければ、拝見したいのですが!」

 

 

 少年は、気持ちを高揚させている文が想像しているような物書きではないということを苦笑交じりに伝えた。

 

 

「ふふっ、僕は物書きじゃないよ」

 

「あやや、そうなのですか?」

 

 

 文は、興奮していた表情を一転させてきょとんとする。そして、若干の残念さをにじませるように詰めた距離を離した。

 少年は、勢いのなくなった文にそっと呟くように話題を広げる。

 

 

「でも、書きやすいペンとかあったら紹介してもらいたいかな」

 

「そ、それだったらですね……」

 

 

 文は、すぐさま少年の提示した次の話題へと飛びつき、僅かに頬を上気させながら自分が使っているペンを勧め始めた。

 

 

「私の使っているペンとか、どうでしょうか!?」

 

 

 少年が物書きではないという事実を知って落胆する様子は一瞬のうちに消え去っている。先ほどの話題など露程にも残っていないように次々と言葉を少年に投げかける。

 

 

「‘私の使っている’ペンはですね」

 

 

 文は、少し興奮しながら自慢するように自分の使っているペンを賞賛する。ペンの質もさることながら、自分が使っていることをやたらと強調して話をした。

 だが、ペンを使うのに‘誰が使っているか’は重要なポイントではない。ペンに求められるのは、誰でも使える汎用性である。そういった意味では、文の勧め方は間違っていると言えた。

 そんなことは文も知っていて。

 知っていて―――強調していた。

 

 

「紙の上を非常に滑りやすくて、筆感もいいですし、インクが漏れたりもしません。なにせ、‘私が’選んだペンですからね!」

 

「そんなに勢いよく話さなくても大丈夫だよ。ゆっくり話してくれていいから」

 

「あわわ、申し訳ありません。こんなにいきなり捲し立ててもよく分かりませんよね……」

 

 

 文は、少年の困った顔を見て、興奮してしまい勢いに任せている状況を自重した。

 物を勧めている相手が話しについてこられないのでは、文字通り話にならない。記者として会話を成り立たせるのは本分のはずなのに。

 どうして、こうなるのか。

 どうして―――それは分からなかった。知らなかった。

 

 

「あははは、何やっているのでしょうか、私ったら……」

 

 

 少年は、独りでにころころと表情を変える文に複雑な表情を浮かべていた。

 どうすればいいのだろうか。こういう場合は、どうしたらいいのだろうか。頭の中にぐるぐると疑問が回っていく。

 人間関係に正解はないのにあるものとして考えてしまう。全てを放棄できればそんなことを考えなくてもいいのに。煩わしいと思ってしまえばそれで終わりなのに。純粋な少年はいつだって答えに悩んでいた。

 

 

「百聞は一見に如かずです」

 

 

 文は、少年の言葉にもぞもぞと何かを探し始める。実際に使っているペンを見せた方が分かりやすいだろうと腰の方へと手を伸ばした。

 ペンは常に取り出せる環境、すぐに気になったことを書くことのできる状態にしている。

 文は普段から腰にさしてるペンを取り出し、少年に提示した。

 

 

「実際にお見せした方が分かりやすいですよね。これが私の使っているペンです」

 

「へぇ、なんか凄そう。これって高級品だったりしない?」

 

「ふふん、凄そうでしょう? これ、見つけるのに結構苦労したのですよ」

 

 

 ペンは文の背中に生えている羽と同じ漆黒で、ところどころに刺繍の入った万年筆である。

 どこで買ったのだろうか。幻想郷には古風なものが残っているが、万年筆を見かけたことはない。少なくとも、これまで人里へ買い物に来た時に見かけたということはなかった。一応、人里の商店街で売られている物は一通りノートに記載してある。記憶にないということは、人里の商店には存在しないはずである。

 文の話に少しばかり興味をそそられて少年の体が前のめりになる。

 文は、提示したペンを片手に持ち、意気揚々と少年に語り始めた。

 

 

「これは、ある古道具屋にあった代物でして……」

 

「こちら、粒餡の饅頭と緑茶になります」

 

 

 文が少年にペンについて自慢しようとした―――ちょうどその時である。タイミングが悪く、注文していた食べ物と飲み物が少年の元へと運ばれてきた。

 文は、少年との話を遮って登場した店員に視線を向ける。

 店員は、向けられる鋭い視線に耐えきれず、文に疑問を投げかけた。

 

 

「……何かありましたでしょうか?」

 

「いえ、なんでもないわ」

 

「そうですか」

 

 

 文は、鋭い視線を保ったまま店員に答えを返した。

 店員は、文の視線を気にすることなく、いつも通りのしぐさでいつも通りの動きをする。少年の注文した商品を持ってきて、テーブルの上に置く。

 これで―――店員としての仕事は終わりである。

 少年は、商品を持ってきてくれた店員にお礼を告げた。

 

 

「ありがとう」

 

「では、ごゆっくりどうぞ」

 

 

 店員は、一度少年に向かって頭を下げると、体を反転して店の中に戻ろうとする。

 それを見た少年は、店の中へと戻ろうとする店員を引きとめるように声をかけた。

 

 

「もう一杯だけ緑茶を貰えますか? 彼女の分を一杯だけ」

 

「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

 

「わ、私の分なんて別にいいですよっ!!」

 

 

 文は、少年からの予想外の申し入れに驚き、店員に向けていた顔を勢いよく少年に向けると両手を正面でぶんぶんと振った。

 借りを作るといってしまうと大分大げさに聞こえるが、普段会うことのできない少年に何か借りができている状態というのは、借りを借り続けることになりかねない。それは、文にとって気分の良いものではなかった。

 

 

「気なんて遣わなくても大丈夫です! もともと飲み物を頂くつもりでお話を持ち掛けたわけでもありませんし!」

 

 

 それだけかといえば、それだけではない。それだけだったらここまでの動揺はしないだろう。

 本当のことを言えば―――唐突な少年の親切心に動揺してしまったからである。借りを作るなんて些細なもの。動揺して、思わず断ってしまったという理由が80%以上を占めていた。気を遣われると思っていなかった。そもそも、会えるとも思っていなかった。その心の準備のなさが、文の心に動揺を生み出していた。

 

 

「遠慮なんてしなくていいよ。緑茶ぐらい呑みなって」

 

 

 少年が文に飲み物を飲むように促しているのには、二つの理由があった。少年は理由の一つを挙げて押し切り始める。

 

 

「文はいつも元気よく喋っていてくれている、楽しそうに喋ってくれる」

 

 

 文は、いつだって楽しそうに話をしている。感情を表に出し、誰から見ても感情が読み取れる。少年は、喜んでいると分かる文のむき出しの心が好きだった。

 少年は、文に緑茶を飲ませるために「本当を8割」と「嘘を2割」こめて方便を口にした。

 

 

「僕は、そんな文から元気を分けてもらっているけど、文の喉が潰れちゃうんじゃないかって心配になるんだからね」

 

「あぅ……私から元気をですか……」

 

「うん、僕はいつも文から元気をもらっている。頑張るための気持ちを受け取っているよ」

 

 

 文の顔が恥ずかしさで赤く染まる。

 初めて知った。そんなところで役に立っていたなんて。

 文は、少年の言葉を聞いて自分の元気が少年に良い影響を与えられていることを初めて知った。

 

 

「笹原さんは、卑怯ですよ……」

 

「卑怯か……そうかもね。でも、僕の気持ちに嘘はないから。これが、そのままの気持ちだから」

 

 

 文は、顔を赤く染めたまま少年の表情を見つめる。恥ずかしさに包まれた状態の心で見つめる少年の表情には、嘘は見当たらなかった。

 少年は、文の蔑むような言葉に笑顔で応えている。

 少年がここまではっきりと恥ずかしがらずに自分の気持ちを伝えられるのはどうしてだろうか。幻想郷にいる人物は、意外と少年のようにはっきりと気持ちを伝えられない。

 それは、頑固な人間が多いから?

 それは、芯が通っている人が多いから?

 それは、誰かに頼らなくても生きてけるから?

 それは、言わなくても伝わっていると思うから?

 それは、弱さに繋がるから?

 それは、いつかは言えると思っているから?

 文は、少年の素直さに目を背けたくなった。

 

 

(本当に笹原さんは卑怯な人です……人を持ち上げるのが大層うまい癖に、それがお世辞ではないと分かってしまう……)

 

 

 文は、心を必死に落ち着ける。文の心は恥ずかしさと同時に、少年に元気を与えられていること―――役に立っているということに嬉しさや喜びを感じていた。

 

 

(それにしても……元気を貰っているのは、私だけではなかったのですね)

 

 

 文は、少年と話しているときに楽しさや充実感や安心感を得ている。

 しかし、様々なものを貰っている自分が何を少年に与えられているのかと考えると、楽しさというもの以外に何も思い当らなかった。

 ただ―――それもあくまで文の主観の話である。少年がそう思わせている可能性、演技している可能性は潰しきれない。

 きっと、楽しんでくれている。同じ気持ちで会話をしてくれている。そんな―――楽しそうにしているというのはあくまで文の主観である。少年は、確かに自分の話を楽しそうに聞いているが、本当なのかどうかは分からない。

 そう考えると、これまでの会話が嘘だったのではないか。これまで楽しく話していたのは、ただの作り笑いだったのではないだろうかと思わずにはいられなかった。

 今日、こうして出会うまで。

 今日、こうして話すまで。

 それが気掛かりで、気持ちの悪さを抱えてきた。

 

 

(それだけ聞ければもう十分な気がします。私からも何かを与えられるという事実を知ることができただけでも、笹原さんと今日話した意味は十二分にありました)

 

 

 文は、今日少年と会えて本当に良かったと思った。ずっと残っていた、心のつっかえが取れた。

 

 

(笹原さんは、いつも楽しそうに話を聞いてくれていますが……本当のところは、どう思っているのか分かりませんでしたから。私の新聞の内容が面白くて笑顔を浮かべているのか、私との会話を楽しんでくれているのか、それが分かっただけでもう十分です)

 

 

 文は、あくまで新聞の方を褒めているのだろうと勘違いしていた。そう思わないといたたまれない気持ちになったから。もしかしたらなんて思うことが心に負担をかけるから。そう思うことにしていた。

 それが―――自分自身に言ってくれていたのだと確信に変わる、そんな少年からの一言だった。

 

 

「だから、これはこれまでのお礼だよ。素直に僕の気持ちを受け取ってほしい」

 

「そんなこと言われたら、断れないじゃないですか」

 

 

 文は、気持ちを抑えきれずに声にわずかな喜びを乗せて満面の笑みを少年にぶつけた。

 

 

「では、一杯だけ、頂きますね」

 

「うん、ぜひとも飲んでよ。店員さんお願いしますね」

 

 

 少年は、文が自分の行為を受け入れてくれたことに笑顔を浮かべる。そして、先ほど声をかけて足を止めさせた店員にお願いを申し込んだ。

 店員は、どこかほほ笑みながら深く頭を下げた。

 

 

「畏まりました。すぐにお持ちします」

 

 

 店員は、少年の注文に答えようと店に戻ろうとする。

 しかし、その途中で文の隣に来ると動かしていた足をピタッと止めた。

 何か用でもあるのだろうか。文は、隣で止まった店員を怪訝そうに見つめる。

 

 

「どうしました?」

 

「いえ、ちょっと気になったことがあったもので」

 

 

 店員は、顔を文の耳元に近付けてぼそぼそと喋りはじめる。少年には、聞こえない程度に何かを文へと一方的に告げた。

 文の顔は、店員がワンフレーズほど呟くとみるみる赤くなる。そして、店員がすべてを言い終わると勢いよく突っかかった。

 

 

「ふっ、ふざけないでください!! それ以上その口を開くと怒りますよ!!」

 

「おー怖い。俺は仕事に戻りますよー」

 

「あいつ!!」

 

 

 文は、店員に向かって似つかわしくないほど大声を出した。

 店員は、顔をゆでダコのようにした文の隣をするりと通り抜け、何事も無かったかのように少年のオーダーに答えようと緑茶を汲みに向かった。

 文は、逃げて行く店員に向かって敵意をむき出しにして今にも襲いかかりそうになっている。文と店員とのやり取りからは、2人がすでにお互いを知っている顔見知りであることが伺えた。

 

 

「あれ? ここの店員と知り合いだったの?」

 

「は、はい……」

 

 

 文は、少年の問いかけに店員に向けていた意識を少年へと戻した。

 文の表情は、まだ若干動揺が隠せていないようで依然として赤い。目線は下を向き、左右に泳いでいる。

 

 

「以前、一度だけここの取材をしたのですが、その時に少しばかりインタビューをした方なのです。その時に知り合いまして……」

 

 

 文は、過去にこの茶屋でインタビューをしたことがあると言う。先程の店員とのやり取りから察するに、文がインタビューした際に対応をしたのが先程の店員で、その時に知り合ったということなのだろう。

 文は、少年の顔をチラチラと見ては恥ずかしそうに下を向く。どうも、店員の言葉が文の心を引っ張っているようである。

 

 

「あの、私とあの店員は、別にそんな大した関係じゃありませんから……」

 

「ちなみに今、なんて言われたの?」

 

 

 少年は、文に尋ねても答えてくれるとは思わなかったが、駄目もとで文に聞いてみることにした。

 

 

「随分と慌てていたけど、何か恥ずかしくなるようなことを言われたんだよね?」

 

「い、言えませんっ! 笹原さんにだけは絶対に言えません!!」

 

 

 文は、慌てた様子で少年に無理だと言った。

 少年は、内心でやっぱり話してくれないよねと思いながらも、必死な文の様子に少しだけ笑う。

 

 

「ふふふ、そんなに大きな声で言わなくても無理やり聞いたりしないよ」

 

「…………」

 

 

 少年は、文にそれ以上追及することなく引き下がると目の前に運ばれた蒸し饅頭を頬張り始めた。まるで、時が戻ってもともとそんな話などなかったといわんばかりに。視線も最初に見たときと同じように人通りを向き、遠くへと伸びている。

 気にされていない。

 二人の会話なのに。相手の方に注意を持って行っていない。

 文は不審そうに少年を見つめた。

 少年は、文の視線を流すようにして文の後ろに流れる人の動きを見つめている。文の視線を気にすることなく目の前にある蒸し饅頭を頬張っている。まるで、ハムスターがヒマワリの種を食べているように朗らかな表情でむしゃむしゃと食べ続けていた。

 

 

「もぐもぐ」

 

「…………」

 

 

 少しの沈黙が少年と文との間に流れた。

 静寂が二人の空間を包み込むのは、今までにないことであった。好奇心が強く、気になることを何でも話す少年と、探究心と好奇心の塊である射命丸文が話し出すと会話が止まらなくなる。沈黙が訪れそうになる前に、どちらかが口を開いて静けさを打ち消す。

 それが―――二人の会話の形であった。

 だが、それはどうも今日までのことらしい。半年の間に変わってしまったということなのだろうか。

 

 

(おかしいですね……笹原さんの雰囲気が前と違っているせいでしょうか、話を切り出しにくいように感じます)

 

 

 文は、ただただ少年を見つめ続ける。

 少年は、沈黙を打ち消そうとはせず、饅頭をひたすらに頬張り続ける。もぐもぐと美味しそうに食べている―――とても美味しそうである。

 

 

(それにしても、随分とおいしそうですね……)

 

 

 文は、少年が美味しそうに饅頭を食べる様子を見ていると唐突に同じものを食べたいという衝動に襲われた。

 いや、何を考えているのか。

 そんなことを考えている場合でもないだろう。

 文は、思わず食べたいという衝動に駆られる心を押さえつける。

 

 

(いやいや、ここで食い意地を張ってどうするのですか!)

 

「すみません。彼の食べている饅頭と同じものを食べたいのですが」

 

 

 店にいる客から少年に影響を受けた声が上がる。少年の姿を見て食べたいと言う衝動に駆られているのは、何も文に限った話ではなかったようである。店にいた周りの人間も少年の食べる様子に感化されて、饅頭を頼んでいる姿が現れ始めた。

 文は、少年の影響力の大きさに納得と驚きの感情を覚えた。

 

 

(……何かおかしいですね)

 

 

 遠くを見つめている少年の様子からは、違和感が立ち込めている。何かがおかしい、あったのはそんな曖昧な違和感である。

 文は半年前とは違い、少年が何かを抱えていることに気付き始めた。

 会話が続かないのは、それを気にしているからか。何かがつっかえて、次の言葉がすんなり出てこないのか。

 文は、少しだけ(いぶか)しげに声を発した。

 

 

「先程の話ですが……あっさりと引き下がるのですね。笹原さんに関係があることなのかもしれないのに」

 

 

 文は、少年が会話を打ち切って話題を出そうとしない様子を気にしていた。打ち切る理由はない、それに打ち切ったところで何も話を持ち掛けてこないことも、いつもならあり得ないことだった。

 

 

(いつもならこんなことにはならないはずです。久しぶりだからでしょうか? 昔の会話していた時の感覚が思い出せないからなのでしょうか?)

 

 

 文は、少年から感じる違和感の原因を掴めないでいた。

 少年は、視線を文に集中させると饅頭を食べる手を止めた。

 

 

「文だって同じでしょう? 文だって、自分に関係のあることだとしても相手から無理矢理聞いたりしないはずだよ」

 

「わ、私もですか? 私はそんなこと……」

 

 

 文は、少年の言葉を否定しようとした。

 文自身の性格から考えれば、自分に関係のあることかもしれないのに会話を止めて引き下がったり聞かずにいたりすることはない。相手の迷惑よりも自分の好奇心を満たす方が大事で、相手の気持ちを考えて引き下がることはしない。

 文は、続けざまに自分の性格について語りだそうと空気を呼吸器官に流し込み始めた。

 しかし―――それを遮るように少年が口を開いた。

 

 

「文は、さっき会話を打ち切ってくれたじゃないか」

 

 

 少年は、文が声を発する前に文が自分と同じだと言った理由を告げた。

 

 

「僕も文と同じように、相手が話したくないことを無理やり喋らせるようなことはしないよ」

 

「…………」

 

「聞いて欲しいのなら聞いてあげるけど、文のそれは、僕には言えないことなんでしょう? だったら僕は聞かない」

 

「……貴方は昔からそうでしたね」

 

 

 文は、出そうと喉まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。

 少年は、文が本当に聞かれたくないことに関しては自ら引き下がってくれると知っている。自ら自重し、相手を思いやる心を持っていることを知っている。

 文は、半年以上前に話していた少年の姿を明確に思い出しつつあった。少年は、相手の話したくないことを言わせるようなことは決してない。相手が勝手に話してくる分には聞くのだが、それを聞いてどうこうするような人間ではなかった。

 しかも、それでなお―――会話を続けることができる。だらだらと引き延ばすわけでもなく、楽しく会話を継続できる。

 文は、少年との会話で感じていた自分の違和感が気のせいだと思い始めた。

 

 

「笹原さんは、最初に会った時と何も変わっていません」

 

 

 少年と過去に会った人物は、揃って変わっていないと口にする。変わっていない。変わらないと言う。文も同じように、少年が変わっていないと宣告した。

 そんなものは―――大体気のせいである。文だって、半年前と比べれば明らかに変わっている点がいくつかある。それは、少年にだっていえることだ。変わらないものなどない。変わっていないと思うのは、過去のそれをはっきりと理解していないからだ。昔の記憶が上書きされて、今に被るから、変わっていないと思い込むだけである。

 少年は、無言のまま文の言葉を飲み込むようにして、両手で大事に包み込むように湯呑を持ち、お茶を一杯飲むと口を開いた。

 

 

「文も最初に会った時と何も変わっていないよ」

 

「そうでしょうか。そうだったら嬉しいですね」

 

 

 文は、少年の言葉に少しだけ嬉しそうな表情を浮かべると少年に対する所見を述べた。

 

 

「今のは少しばかり露骨でしたが……貴方は、相手の心境を察するのが非常に上手いように思います」

 

 

 少年は、いつだって相手の気持ちを先読みしたような言葉を口にする。相手の嫌がることを言わず、いつだって気分のいいまま会話が終了する。

 後味が悪いまま終わった試しなどあっただろうか。少年との会話は、いつだっていつも変わらずにそんなものだった。

 

 

「触れて欲しくないことには触れず、相手の気持ちをくみ取って会話をしてくれる。まるで相手の心が見えているのではないかと錯覚するほどです」

 

「それはまさしく錯覚だね。僕は心が見えているわけじゃない」

 

 

 少年は、文の褒めるような言葉に恥ずかしがることも無く受け答えをする。事実少年は、相手の思っていることや感じていることを判断することが得意である。

 だから、いつも相手の気持ちを先んじて言葉を伝えている。それが全てというわけではないが、相手に喋りやすい状況を作り出している原因の一つには違いなかった。

 

 

「分かっていますよ。本当に心が見えていたのならば気持ち悪さがにじみ出てしまいますからね」

 

 

 妖怪の中には、心を読める妖怪が存在するが、少年とはまるで雰囲気が違う。

 妖怪は、精神に支えられて生きている生き物である。そのため、心を読まれるということはそのまま弱点や弱み―――命を握られていることと同義になる。心を読まれるというのは、妖怪にとって恐怖心と嫌悪感を誘起させるのである。

 しかし―――少年のそれは、気持ち悪さがみじんもなく、ただ理解されているという温かさだけを感じるものだった。どこか守られているような、大きなものに支えられているような錯覚に陥るのである。

 文は、少年と話しているときに感じる想いをそのまま口にした。

 

 

「貴方の場合は、何といいますか……安心するというのでしょうか、酷く心地よいのですよ。思わずいらないことを喋ってしまうぐらいには、とても気持ちがいい。ずっと話していたくなります」

 

「ずっと、かぁ……」

 

(わ、私はなんてことを)

 

 

 文は、少年が口ずさんだ言葉を聞いて羞恥心に襲われた。こんな大通りに面した所で、取り方を間違えたらプロポーズに聞こえなくもない言葉を喋ってしまっている。

 なにを言ってしまっているのだ。顔が赤くなっているのが分かる。血が上って、体が熱くなっている。

 

 

(こ、こんなこと言うつもりじゃ……)

 

 

 文は、少年と話しているといつも余計な所まで話してしまうことが多かった。少年と話していると本音というのだろうか、心の奥底に置いておいたものを簡単に取り出してしまう、気持ちがそのまま口から出てしまう。

 文は、決して口が固い性格をしているわけではないが、簡単に自身の気持ちを漏らしてしまうほど軽い口をしていない。気を付けているのに、出してはならないこともあるのに、それなのに―――出てきてしまう。

 

 

(普段ならこんなこと絶対にないのに。どうして、笹原さんの前だとこんなに口が軽くなってしまうのでしょうか?)

 

 

 少年以外と話している時では決して取り出さない気持ちを吐きだしてしまう。それに、言いたいことが言えなくなることも多かった。

 

 

(どうして相手が笹原さんだと、ぐいぐいと聞き出せないのでしょう?)

 

 

 取材であれば、ガンガンに相手の喋りたくないことでも聞いてしまう自分が、少年が言い辛そうにしているとすぐに引き下がってしまう。嫌われることを心の奥底で怖がっているからなのか、取材という探究心や好奇心の気持ちよりも少年の気持ちの方が大事だからなのか。そんな小難しいことではなく、単純な心の問題なのか。

 

 

(どうしてこんなに、胸が高鳴るのでしょうか……)

 

 

 それは―――文自身にも分かっていなかった。



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会話に住まう一人の妖怪、揺れ動く想い

 文の表情が少年の前でコロコロと変わる。まるで百面相をしているようである。

 少年は、ころころ変わる文の様子を視界に入れながら意識を外から内へと向けると疑問を口にした。

 

 

「どうしたの?」

 

「ええ……」

 

 

 文は、少年の問いかけに我に返ったように思考を引き戻す。

 何を考え込んでいたのだろうか。話が続かないと思っていたのは、自分の方なのに。押し黙ってしまっているのは自分も同じではないか。

 文は、少しばかり反省をしながら目の前にいる不思議そうな顔をしている少年を注視した。

 

 

「私がこういうことを普通に会話の流れから言えてしまうぐらいには、貴方とのお喋りが心地よく、この時間が本当に好きなんだなと思いまして……」

 

「…………そっかぁ」

 

 

 少年は、どこかで聞いたことのあるセリフに空を見上げた。

 どこかで聞いたことがある、きっとそれは最近も聞いた言葉―――多くの人から聞いた言葉。

 少年と話している多くの人がそういう印象を抱く。話しやすい、雰囲気が心地いいと。

 相手はバラバラで、自分は一人なのに。

 印象が統一されることなどあるだろうか。

 疑問がぐるぐると頭の中を回転する。少年の視界の一面に広がる空には、雲が流れている。ぐるぐると同じように回っている。

 少年は、僅かに表情を曇らせた。

 文は、複雑な表情を浮かべる少年を見つめながら、悲しそうな笑みを作る。

 

 

「きっと、椛も同じような気持ちなのでしょうね」

 

「そうなのかもね」

 

「椛も、笹原さんとのお喋りが随分と好きなようでしたし……」

 

 

 椛という人物は、文の知り合いであり―――少年の知り合いである。

 少年は、椛という人物とも交流があった。少年にとっては、文との関わりよりも椛という人物との関わりの方が深く、会った回数も話した時間も椛の方が多い。文に関しては、指で数える程度しか会ったことがないが、椛に対しては数十回は会っているはずである。

 少年は、過去を思い出すようにそっと目を閉じる。1年前、毎日のように会っていた少女の姿を瞼の裏に浮かべる。少年の頭の中には、はっきりと笑顔を浮かべて楽しそうにしている少女の姿が映った。

 ああ、はっきりと思い出せる。

 少年は、椛のことを思い出せることに安堵し、大きく息を吐いた。

 

 

「ああ、良かったぁ……まだ、覚えている。忘れていない」

 

「どうしたのですか?」

 

「な、なんでもないよ。うん、なんでもない」

 

(何でもないなんて、嘘ですよね?)

 

 

 文は少年の安心するような様子が気になり少年へと問いかけたが、少年は文の質問に慌てた様子で声を出すだけで、質問に対して答えようとはしなかった。

 少年は安らかに、安心するように微笑んでいる。

 文は、少年が瞳の中に涙を僅かに浮かべる様子から、この半年の間に何かがあったことを察することができた。

 半年前―――人里にも来ることが無くなったあの時期。より正確には、半年前よりほんのり前の数カ月からどこにおいても見かけなくなった。人里に蔓延している噂を鵜呑みにすれば、病気にかかったからという理由ではあるが、その後人里に来なくなる理由は説明がつかない。

 絶対に何か隠している、隠されている。

 しかし、文はそれが分かっても少年を攻めきれなかった。なんでもないなんて嘘ですよね? と少年に言い出せなかった。つい先程と同じである―――露骨に話題を避けようとする少年に迫ることが悪いことのように感じる。行動に静止をかけられている。

 勢いよく突っ込むことで、拒否されることが怖いという理由で。これからの関係が変わってしまうような、自分に対する対応が変わってしまうような気がして。

 少年に聞けなかった理由は、単に良心の呵責や少年との今後の関係性を考慮したためだけではない。会話の内容にも、深く聞き出せない理由が存在していた。

 文は自分にだけ聞こえる声で、ある可能性を呟いた。

 

 

「もしかして、椛とそれほどに深い仲だった……」

 

 

 少年の様子の変化の原因は、間違いなく新しく会話の中心になった椛によって現れたものである。少年の言葉はきっと椛へと送られたもので、少年の安堵の表情はきっと椛へと向けられたものだろう。

 文は、椛に向かっている少年の意識に心のざわつきを覚えた。

 

 

(どうして、こんな気持ちになるのでしょうか……)

 

 

 文は、自身の胸の中で渦巻く感情が理解できなかった。

 こんな気持ち、今までしたことがない。性格的に誰かを妬むようなことをしてこなかったのもあるが、こんな些細なことで、原因も分からないようなことで、心がざわつくなんて思いもしなかった。少年が椛から影響を受けているという思考回路の終着点に対し、嫌だと思う気持ちが心の中で蔓延している。

 

 

(笹原さんのあんな顔、見たことありません)

 

 

 少年が先程見せた表情は、文が今までで一度も見たことが無い表情である。

 先程、文との会話から元気をもらっていると言ってくれたことから、影響を知らず知らずのうちに与えている事があると分かったけれども、誰からも影響を受けないと思っていた少年が、ごく身近にいる椛という存在から影響を受けている。

 二人の間には―――何かしら大きな絆があるのだろうか。

 

 

(笹原さんにとって、椛は特別な存在なのでしょうか……)

 

 

 文は、少年にとって椛は特別な存在なのではないか、そう思うだけで、心を締め付けられるような感覚に陥った。それが、その痛みが、不思議でたまらなかった。

 なんで、どうして。

 椛は、何も悪いことをしていない。

 特別文に対して不快に思われるようなことをしたわけでもない。

 それは少年に対しても同じだ。

 なのに、どうしてこんな気持ちになるのだろうか。

 どうして、こんなに暗い気持ちになるのだろうか。

 

 

(どうして私がこんな想いをしなければならないのでしょうか……別に椛と笹原さんがどんな関係だとしても私には関係ないはずなのに)

 

 

 考えることを辞めない頭は、悪い方向へとどんどん移行していく。

 

 

(いや、私だって笹原さんに元気を与えることができているという意味では、特別な存在と言っても過言じゃないはずです……)

 

 

 少年は、ついさっき文から元気をもらっていると言っていた。それは、まさしく少年に影響を与えている証拠である。椛もそれがあっただけ、何かあっただけ。私にだってある。

 文は、動揺する心を必死に取り繕うとする。

 今をごまかさないと。今の苦しみを取り除かないと。これから先苦しむかもしれないという不安よりも、今の苦しみをどうにかしなければ心が黒くなってしまう。

 文は、理論の成り立たない推論で塗り固めた嘘を信じようとする。

 だが、一度黒くなり始めた文の心は少年の言葉を素直に受け取れなくなっていた。

 

 

(けれども、笹原さんの言葉だって本当は嘘だったかもしれない……笹原さんは、いつもにこにこしているから判断のしようがありませんし……)

 

 

 少年は、文から元気をもらっていると言っていたが、それが本当なのかどうか見た目では判断できない。外から見ていた椛のときのように、目に見えるものではない。

 人というのは、意外と外側から見ているときは相手がどんなことを考えているのか分かるのに、いざ目の前で話していると相手が何を考えているのか分からなくなったりする。

 文には、本当に少年が自分から元気をもらっているのか調べる術など無かった。

 

 

(いや、考えるのは止めましょう……聞けば分かることじゃないですか)

 

 

 文は、顔を勢いよく思考を振り払うように左右に振り、疑心暗鬼になっていく心を振り払う。

 気になるのならば、聞けばいいのだ。答えてくれる人は、目の前にいる。必ず答えを持っている。聞けば応えてくれる。

 文は、目の前にいる少年に向けて口を開こうとした。

 だが―――口は糸で縫われているように開こうとしなかった。

 

 

(どうして!? どうして何も言葉が出てこないの!?)

 

 

 文は、目の前にいる少年に椛との関係を聞けば、全てが分かることであるのに―――それを聞き出せない自分自身に戸惑った。喉まで言葉が出てきているのに、口がそれを喋りたがらない。まるで別の生き物が滞在して、自分のものではなくなっているようだった。

 文は、まさかと別の意味で唇を震わせる。

 

 

(まさか、私が笹原さんに聞くことを怖がっている……?)

 

 

 ―――怖がっている。

 少年に答えを聞くことを恐れている。聞こうとする意志よりも恐怖による硬直の方が強かったため、口が開かないのだ。

 

 

(どうして言えないのよ! ふざけるな。私の口でしょう? 私の言う通り動きなさいよ!)

 

 

 文は、自分の不甲斐なさに怒りをため込む。ふざけるな。怖がっている? 何を怖がっているというのか。何を恐れているというのか。

 聞け、口を開け。動け、声を出せ。

 しかし、その命令系統が上手く伝わらずに、口は紡がれる。

 少年は、そんな苦悩している文を知る由もなく、椛の話題を展開した。

 

 

「椛かぁ、そういえばあれ以来会っていないな」

 

 

 文は、少年の話題の変化に目を大きくした。

 ―――チャンスである。絶好のチャンスが到来している。

 

 

「でも、文の言葉から察するに元気にはしているみたいだね。ちょっと安心したよ」

 

(これは椛との関係を聞く絶好の機会です!)

 

 

 文は、少年の話題の変化にチャンスだと思った。

 少年の方から椛の話題を広げてきたのは、文にとって願ってもない状況である。少年の話題転換は、聞き出せずに疑心暗鬼になっている思考の回答を得る絶好のチャンスに他ならない。

 文は、絶好の機会を逃がさないようにすかさず飛びつき、椛との関係を聞き出そうと会話を続けた。

 

 

「あれ以来と言うと、半年ぐらい前でしょうか? 貴方が急に姿を現さなくなったあたりです」

 

「そうそう、そのころからだね。あの頃から椛とは一度も会っていないから元気にしているか気になっていたけど、心配なかったみたいだね」

 

 

 少年は、相槌を打ちながら文の疑問に答えた。

 文は、話題がスムーズに展開する雰囲気を感じ取ると、すぐさま本題へと入り込みにかかった。

 

 

「ちなみに、椛との馴れ初めを聞いてもよろしいですか? 椛に聞いても答えてくれなかったので、非常に気になっていたのですよ!」

 

 

 文は、座っている位置をさらに少年の座っているすぐ隣まで詰める。まるで逃がさないと言わんばかりに、空間を開けないように座り、少年の顔を覗き込むようにして答えを差し迫った。

 

 

(やっと落ち着いてきました。これが本来の会話の形です。後は、流れに乗って会話を広げていけば!)

 

 

 会話を繋げていれば、それだけで気持ちが落ち着いてくる。

 話しているだけで気持ちが安定状態に落ち着いてくるのは、自分自身会話が好きだからなのか、少年の気質や雰囲気から与えられているものなのかは分からない。

 昔からそうだった―――理由も何もない、ただ少年と話しているという事実が文を安心させた。

 

 

「そんなに近づかなくてもちゃんと答えるよ。何も逃げたりしないからさ」

 

「そ、そうですよねっ!」

 

 

 文は、拒否の姿勢を示す少年に慌てて距離と取ると、乾いた笑いを漏らす。またやってしまったという想いが、落ち着いてきた心を僅かにざわつかせた。

 

 

「ははははっ……別に貴方が逃げていっているわけでもないのに私ったら何をしているのでしょうか」

 

「今日は割と時間があるから焦らなくてもいいよ。それに、別に今日じゃなくてもいずれまた話す機会もあるだろうしね」

 

(意識しているわけではないのですが、どうしても話している途中で寄ってしまいますね……意識が前姿勢になりすぎているせいでしょうか)

 

 

 文の座っている場所は、少年から離れたといっても、もともと最初に座った位置よりは若干近い位置になっている。

 文は、話している最中に少年とのどんどんと距離を詰めていく。これは、文が少年と話している時の特徴である。昔から変わらない癖のようなもの。話している内に無意識に距離を縮めていく―――性のようなもの。

 文は、この現象を自分の気持ちが前のめりになっているために起こっているのだろうと考えていた。少年と話ができる機会が少なく、この時間を有意義な時間にしたいという想いから前傾姿勢を取ってしまい、それが原因になっていると思っていた。

 

 

「それじゃあ、どこから話をすればいいのかな」

 

 

 少年は、そう言いながらもともといた位置よりも近くなっている文から少しだけ離れた。これで少年と文の位置関係は、最初に二人が話していた距離と同じである。人がちょうど話しやすい位置―――人と人がプライベートゾーンを犯されない位置である。

 少年は、自分が最も話しやすい距離というのを持っている。というよりも、誰しもが会話をする時の最適距離というものを持っている。

 

 近すぎれば―――圧迫感を与える。

 遠すぎれば―――聞こえ難くなる。

 

 もちろん人によって個人差はある。実際に文は、少年と至近距離で話していても問題なく、話ができている。違和感を覚えることなく、圧迫感を受けることもなく、話ができている。

 だが、それは少年も同じというわけではない。少年は、自分の距離を保ち文と会話をしようとしていた。

 だが、そんな少年の感覚とは違って、文は元の位置に戻った少年がとても遠いと感じた。

 

 

「そこまで離れなくてもいいのでは……?」

 

「話すならこのぐらいの距離が一番話しやすいから」

 

「そうでしょうか……? もう少し近くの方が私は話しやすいのですが」

 

 

 文は、もう少し近づこうと少年に近寄ろうとする。そっとベンチに手をかけ、横にスライドしようと力を入れる。

 その瞬間―――少年から声をかけられた。

 

 

「お願いだから」

 

 

 たった一言だった。たった一言の言葉だけだった。

 それが、全ての時を止めたような錯覚を与えてきた。

 

 文は、ピクリともせず動きを止めた。

 少年の視線は、逸れることなく文の瞳を貫いている。

 文は、心臓を撃ち抜かれたような気分に陥った。

 少年は、文が静止するのを確認するとそっと笑みを浮かべて話を再開した。

 

 

(今のは一体……体が動かせなくなった?)

 

「話を戻すね、確か椛の話の途中だったかな?」

 

 

 文は、少年に話しかけられることで一気に現実に引き戻される。

 

 

「そ、そうです、椛との慣れ始めを教えてください」

 

「椛と会ったのはちょうど一年前ぐらいかな。幻想郷の主要な場所を覚えようとしていたころだね」

 

 

 少年は、文との距離を保ったまま、一つ一つ椛との交流について話し始めた。

 少年には、幻想郷の各地の場所を覚えるために幻想郷中を駆け回っていた時期がある。ちょうど幻想郷に来て能力の練習を始めたころだ。

 正確には―――飛べるようになってからである。少年が椛と出会ったのは、そんな各地の地理を覚えようとしている時期―――1年前であり、幻想郷を回り始めたころだった。

 

 

「地理は大事ですからね。いざとなった時や用事がある時に何処に行けばいいのか分からないのでは、話になりませんから」

 

「そうだよね。それで、各地を訪れていた時にもちろん妖怪の山にも行く機会があってさ」

 

 

 少年は、一度頷いて文の言葉に同意するとジェスチャーを加えながら話を続ける。

 少年が幻想郷の地理を覚え始めた理由は文の言う通りである。きっかけは、紫から幻想郷について深く知りなさいと言われたことが始まりだ。

 地理を把握しておくことで迷うことが無くなる。困った時、何処に行けばいいのか。どうすれば家に帰れるのか。帰り道を把握することは、幻想郷に来て家が新しくなった少年の最重要課題だった。

 

 

「それで、椛と知り合ったってことですか? それだと、ほぼ1日だけで椛と知り合ったってことになりますが……あの子がそうそう人間と仲良くなるとは思えませんよ?」

 

 

 文の知っている椛であれば、1日で人間が仲良くなるのは不可能のように思えた。どうすれば仲良くなれるのか、教えてもらえるのならば教えて欲しいほどである。

 特に人間の場合は、妖怪の山を守護している椛から言えば邪魔者でしかなく、仕事上の敵のようなものだ。その人間が1日で仲良くなるなんて信じられなかった。

 

 

「1日だけなら無理だっただろうけど、覚えるのにかかった時間は1日だけじゃなかったから」

 

「どうしてです? 場所を覚えるだけならそれほど時間はかからないでしょう? ましてや妖怪の山の場合は、中に入れるわけでもありませんし、どうして時間がかかったのですか?」

 

 

 少年は、境界を曖昧にする能力を持っているが、地理が分からないということはない。地図さえあれば、間違えることもなければ迷うこともない。地名を覚えられなくても、現在位置と方角さえ分かれば目的地が分からなくなることなど決してなかった。

 境界を曖昧にする能力を保持している少年が方向音痴でないことは文でも知っている。道に迷ったという話はこれまで聞いたこともなかった。

 

 

「幻想郷の主要な場所って、基本的にしっかり塀があったり壁があったりしてはっきりと区切りがされているんだけど……」

 

 

 ただ、妖怪の山の場合は、少年が地理を覚えるにあたっての例外中の例外だった。

 

 

「妖怪の山は、場所というより空間に近かったから覚えるのに時間がかかったんだよ」

 

 

 妖怪の山が例外になった理由は、境界線が分からなかったからだった。

 人里には門がある―――門を通り過ぎた所からが人里である。

 人里のような例は、少年にとってとても分かりやすい構図だった。迷いの竹林を抜けた先にある永遠亭も、鳥居がある博麗神社も、瘴気が立ち込めている魔法の森も、はっきりと明確な境界線が分かるものは、境界線を引くのが容易く、覚える上で全く問題がない。

 しかし―――妖怪の山には、区切りが存在しないのだ。妖怪の山には敷居があるわけでも、線が引かれているわけでもないため、少年が判断できる要素が皆無と言っても過言ではなかった。

 

 

「椛が言うには、ある一定のラインがあって、そこを越えると妖怪の山になっているって言っていたけど……僕には、そのラインが分からなかったんだ」

 

「ふむふむ……」

 

「だから、妖怪の山のラインを踏み越えることもしばしばでさ」

 

「なるほど」

 

 

 文は、自慢していたペンを用いてメモ帳に少年の話を記載する。椛に対して何らかの形でからかうことができれば良し、何かしら好奇心が満たされれば上々、不安が取り除かれれば十全、記事になるような話ならば万々歳だと手を素早く動かし、少年の言葉を書き連ねていく。

 

 

「そのラインを越えるたびに哨戒天狗である白狼天狗によく注意されていたわけなんだけど。最初に注意を受けたのが椛からだったんだよ」

 

 

 少年は妖怪の山の立地を知るために―――妖怪の山へと変わる境界線を引くために妖怪の山に近づいた。当然、境界線を踏み越えずに妖怪の山の立地が分かるわけも無く、流れるように境界線を踏み越えて妖怪の山に入った。

 妖怪の山へと入った際に―――山に入るなと注意を受けたのが椛からだった、というのが、少年が椛と知り合ったきっかけである。

 

 

「最初会ったときは、随分と威嚇されたなぁ。帰れの一点張りだったし」

 

 

 もちろん椛は、少年に対し妖怪の山に入らないように注意をして少年を帰らせた。

 けれども少年は―――注意如きでやると決めたことを諦めるような、覆すような性格をしていない。

 少年は、当然のように、毎日のように妖怪の山の境界線を踏み越え、白狼天狗から注意を受けて、その場は引き下がり帰って、次の日にまたやってきた。何度も何度も少年が妖怪の山へと来るうちに、椛が折れて少年の意志を通した。椛と少年が仲良くなったのは―――そこからである。

 文は、思ったよりも薄い少年と椛の繋がりに疑問を口にした。

 

 

「それで知り合いに? 接点としては随分と薄いような気がしますが……」

 

「確かにきっかけとしては薄いかもしれないね。でも、出会いってそんなものだと思うよ」

 

「そんなものですかねぇ……」

 

 

 文の思っていた椛と少年の繋がりは、もっと濃いものだと思っていた。

 注意を受けている間に話をするようになって、仲良くなるということが果たして起こるだろうか。妖怪の山にある掟を考えれば、哨戒天狗である椛と人間である少年が仲良くなるには、非常に希薄な関係性な気がしてならなかった。しかも、少年の言い方だけを鵜呑みにすると、どうしても初めて出会ってから一気に仲良くなったように聞こえるのだ。

 椛に限ってそうなことがあるだろうか。

 人間同士ならともかく―――椛と少年の場合は種族の違いが存在するのだ。

 

 

「和友さんの話だと、最初の一回目に注意されたときに一気に仲良くなったってことになりますけど、そんなことってあるのですか?」

 

 

 文は、人と妖怪が仲良くすることがいかに難しいことなのか知っていた。

 幻想郷という場所においても、妖怪は敵意の目で見られたり、恐怖のまなざしで見られたりすることが多い。妖怪に関しても人間を同等の存在と思っている者は少なく、人間に対して上から目線で話をするのが普通である。

 椛と少年には、妖怪と人間という垣根がある以上、それほど早くに仲良くなることなどできはしないはずなのだ。

 

 

(唯一、一目惚れという線を除いては……ということにはなりますが)

 

 

 文は、そんな可能性に不安を感じつつも少年の答えを待った。

 



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待っている、見つめている

 少年は、文の物言いで勘違いされていることを理解し、謝罪する。そして、今度こそ間違いなく伝わるように、先ほどの話を訂正した。

 

 

「ごめんね、誤解を生んでいるみたいだから訂正するよ」

 

「誤解……?」

 

「一回目に妖怪の山に入った時は注意だけで終わったんだ。ただ、妖怪の山に変わる境界線を確かめるために何度も境界線を超えたんだけど……」

 

 

 文は、少年の話の流れから少年と椛の関係がどのように発展したのか悟った。

 結局のところ、少年と椛は繰り返したのだ。何度も何度も、同じことを繰り返した。薄い関係を、薄い糸を何重にも重ね合わせて強度を高めたのだ。

 

 

「その度に椛がやってきて、それで話しをしていたらいつの間にか仲良くなった感じかな」

 

「へぇ……なるほど」

 

「特にこれといった特別なことは何もしていないんだけどね」

 

(椛も、私と同じなのですね……)

 

 

 文は、椛の心情が自身となんら変わらないことを知った。

 いつもの日常のような、柔らかな日々が愛しくなったのだろう。

 安心と温かさのあるあの雰囲気が好きだったのだろう。

 居てもいいと言ってくれる居場所が心地良かったのだろう。

 そんな何もかも許された場所を手放したくなかったのだろう。

 

 

「思えば、いつも僕の対応をしていたのは椛だったなぁ。意外と担当とか決まっていたりするのかな」

 

(椛はいつだって笹原さんを探していた……毎日、毎日、晴れの日も、雨の日も、変わらずに探していた。私と同じように、探していた……)

 

 

 文は椛の気持ちが理解できた。人里で少年を探していた時期があるからすぐに理解できた。

 椛は、今でも少年を探し続けている。半年前のあの時からずっと探している。文の瞳に映っていた椛は、いつだって少年が妖怪の山に入り込んでいるのを待ち構えていた。

 

 

「妖怪の山での警戒に、各人間に対する担当などありませんよ。そんなことがなされているのは大妖怪相手だけです」

 

「そうなんだ」

 

 

 文は、少しばかり昔になった記憶を巡る。

 椛と少年が話しているところを目撃したことはこれまでに何度かあるが、その時の椛は今の自分のように非常に嬉しそうに楽しそうに話をしていた。

 いつだって、そうだった。

 どんな日も、そうだった。

 変わらずに、そうだった。

 

 

(仕事があるから、決まりがあるからって、抜け出せない場所でずっと待っていた)

 

 

 椛は、少年と会っていた頃―――妖怪の山を監視するという名目で少年を探しながら飛びまわり、少年が妖怪の山へ入るのを目で捉えながら、少年が来るのを今か今かと待ち構えていたのだろう。

 妖怪の山から出られないから。

 役割を放り投げることができないから。

 妖怪の山の外に出ることが許されないから。

 遠くを見つめて、いつかやって来ると信じて待っていたのだろう。

 いつか来ると希望を抱えて、未来を見ていたのだろう。

 文は、椛の境遇に同情した。

 

 

(今なら、椛の気持ちが少しだけ分かります)

 

 

 妖怪の山は、当たり前だが山である。そのため境界線は、山頂を中心に円を描くように広がっている。少年が境界線を確かめに来たというのならば、妖怪の山を360度回ることになるだろう。

 少年が妖怪の山へと来る度に椛に見つかり、話をするなど確率的にありえない。それこそ、少年が来る場所を常に把握していなければ、千里眼を使って少年がやって来る場所をあらかじめ知っておかなければ、毎回のように少年の対応をすることなど叶わないのだから。

 

 

(椛は、笹原さんが来るのを待ち望んでいたのでしょうね。抜け出すことのできない妖怪の山で、一人きりで、必死にこらえて、待っていたのでしょう……)

 

 

 椛は―――自らの目で少年を捉え、焦る心を抑えてただひたすらに少年が来るのを待った。

 哨戒天狗でなければ、自分のように外に探しに行くことができただろう。妖怪の山の監視などという仕事がなければ、少年に会う機会はもっと増えただろう。少年に会って話がしたいという気持ちを抑えることができただろう。

 しかし、椛はそれができなかった。それが許されていなかった。誰からでもない、なによりも自分がそれを許さなかったのだ。

 

 

「笹原さんの言葉が確かなら、これは貴方と接点を持つための椛の策略だったわけですね」

 

 

 椛が少年に対してできることは、知れている。

 少年は、妖怪の山の境界線を引きに来ているわけだから、境界線をできるだけ引けないように時間引き延ばせばよいのである。

 少年に話しかけ―――その足を止める。

 その場に留まらせ―――境界線を引かせなくする。

 時間をかけさせ―――停滞させる。

 少年を見つけるタイミングは、早ければ早い方が良い。最初に捕まえてしまえば、境界線を引く暇すら与えなくて済むからである。

 

 

「努力をして笹原さんを最速で見つけて、話をして、時間をつぶして、何度も妖怪の山へと来させた」

 

 

 しかも、これは少年の邪魔をするということだけではなく、自らの心を満たすためにも一役買う方法である。

 時間稼ぎ兼楽しみ。

 この方法が上手くいけば、少年と話ができる時間が伸びるのだから。その分、心が満たされる時間が増加することになる。

 まさに、一石二鳥である。

 

 

「椛は、自らが満足するための、満たされるための、自分ができる最低限の悪あがきをしたのですね」

 

 

 文は、心のどこかで椛に―――椛の健気さに心を打たれた。

 今でも椛は変わっていない。ずっと想いつづけている。辛いと口に出さず、苦しいと顔に出さず、待ち続けている。少年が来ることを待っている。

 文は、椛ならば仕方ないとどこか上から目線で納得した。

 

 

(椛は、笹原さんのことがそれほどに好きなのですね)

 

 

 椛は、確実に少年のことを好ましく思っている。これまでの言動から、これまでに見てきた様子からも窺い知れる。

 少年は、文の考えていることを察してか同意の言葉を口にした。

 

 

「そうかもしれないね」

 

「随分と淡白な反応ですね」

 

 

 少年は、別に察しの悪い人間ではない。相手の心に敏感な少年ならば、椛から送られている好意に気付いていることだろう。

 気付いていて、それでいて、どうしてこんなに簡単に無関係のような言葉を口にできるのだろうか。優しい少年ならば嬉しい顔をしてもおかしくないのに。嬉しそうにしてもおかしくないのに。受け入れるしぐさを見せてもおかしくないのに。

 文は、他人事のように話す少年に不思議そうに問いかけた。

 

 

「椛はかなり可愛い部類に入ると思いますよ? そんな子から目をつけられていることに、何かしら思うことはないのですか?」

 

「そりゃ、椛から好意を寄せられていることは嬉しいけどさ……なにか、違うっていうか……」

 

 

 少年は、話し始めた時にした質問と同じように言い渋った。可愛い子から好かれているという言葉の内容に比例せず、少年の表情からは嬉しさが少したりとも滲み出ているようには見えない。

 文は、少年の困った様子を見て僅かに笑みを浮かべた。

 

 

(どうして、私は笑っているのでしょうか……)

 

 

 文は、自分が笑みを作っていることに疑問を抱えた。椛に対して悪いと思っている気持ちもある。本人のいないところで少年に椛に対する気持ちを聞いていることは悪いことに違いない。事実、確かに文の心には罪悪感がもたらされている。

 しかし、その感情とは対照的に文の表情には‘笑み’が浮かんでいた。何に対して喜んでいるのだろうか。悪いと思っている気持ちがあるのに、何がそうさせているのだろう。考えても疑問は一向に晴れない。

 文は、ちぐはぐな心を抑え込み、話を進めた。

 

 

「ふふっ、まぁいいでしょう。私だってあんまり大差ありませんからね」

 

「文との出会いも、そんなものだったもんね」

 

「そんなものとは失礼ですね」

 

 

 少年と文との出会いは、劇的なものではなかった。

 少年と文との出会いは、まさしく先程の話題で上がっていた椛が発端である。椛が人間と仲良く話しているというところから交流が始まった。椛がいなくては、きっと今の関係も築けていないことだろう。

 良かったといえば、良かった。

 悪かったといえば、悪かった。

 そんな出会いの仕方だった。

 文は、先ほど抱えていた罪悪感をあっという間に振り払い、楽しそうに話を始めた。

 

 

「私は、結構嬉しかったのですよ? 私の新聞に興味を持って楽しそうに読んでくれる。感想やアドバイスまでくれたのは、貴方が初めてでしたからね」

 

 

 事の始まりは、椛が人間と仲良くなっているという噂を聞きたことである。

 

 

「噂で聞いたのですよ。椛が人間と仲良くなっているって」

 

 

 これは話題になると思った。

 

 

「私は、スクープだと思いました。新聞のネタになるって思いました」

 

 

 文は、当然のように椛と仲良くなった人間が誰なのか取材に向かうことを決意め、思い立った瞬間に飛び立ち椛のもとへと向かった。

 思ってから行動するまでに数秒もかけなかった。考えると同時に飛び出した。空へと羽ばたいた。速さこそが命の文らしい瞬発力だったといえるだろう。

 文は、椛を見つけると傍にいる人間の存在を視認した。その椛と仲良くなった人間というのが、他ならぬ目の前の少年だったのである。

 

 

「椛のもとへと向かってみれば、その仲良くなった人間というのが貴方だった」

 

「ははは、その時の椛は酷く嫌そうな顔をしていたね」

 

「あの時のことは、忘れもしません」

 

 

 あの時椛は、文の取材の申し出を嫌がった。その嫌がり方は露骨すぎて思わず笑ってしまうほどだった。今思えば、その時の椛の嫌そうな顔は、誰かが少年に近づいた時の八雲の従者の顔に酷似していたように思う。

 

 

「文!? ここに何をしに来たの!?」

 

「取材です。しゅ、ざ、い」 

 

「帰れ! お前なんかに話すことは何もない!」

 

 

 椛は、取材を申し込もうとする文に敵意を向けていた。

 相当に嫌だったのだろう。邪魔されるのが嫌だったのだろう。

 あるいは、椛が文個人を余り好きではなかったからかもしれない。これまでも、散々迷惑をかけられてきたから文のことを煙たく思っていたのかもしれない。もともと文と椛の関係は、そんなものだった。別に少年がいてもいなくても大きくは変わらない、上司と部下のようなもの、迷惑をかけるものとかけられるもの。

 文は、椛が拒否の姿勢を示す様子を見ても柳に風というようにお願いを申し入れた。

 

 

「そんなこと言わずに、少しぐらいいいじゃないですか。減るものでもないでしょう?」

 

「嫌よっ! とっとと帰って! すでに大事な時間が減っているのよ!」

 

 

 文は、少し困った顔をしながら少年へと顔を向ける。取材をするのはあくまでも椛である必要はない。この件は、相手側にいる少年に聞けば十分に機能する。

 文は椛ではなく、少年に対して催促した。

 

 

「駄目でしょうか?」

 

「??」

 

 

 少年は、不思議そうに自分を指さす。文は笑顔で頷き、取材の対象が少年であることを示唆した。

 椛は、少年に向いている文の視線に気づくことなく、今にも噛みつきそうな勢いで文のことを睨んでいる。よほど二人の間には何かあるのだろう。椛のことを考えれば、少年は取材の要請を断るべきだった。断るべき状況だった。

 だが、少年は椛の意志に逆らうように同意の言葉を告げた。

 

 

「僕はどっちでも構わないよ。何を話せばいいのか全く分からないけどさ」

 

「和友さん、本気!?」

 

「ほら、彼もそう言っているじゃないですか。本人から承認が取れれば、椛も文句はないでしょう?」

 

 

 椛は、文へと向けていた意識を一気に少年へと向ける。

 文は、驚く椛の表情を横目に、嬉しそうに少年へと迫った。

 

 

「っ……和友さんが受けると言うのなら、我慢します……」

 

 

 そんなことを―――言っていた気がする。取材をしている最中は、ずっと唸り声を上げていた。威嚇行動のつもりなのか。必死にこらえているのか。

 文は、主人のために警戒する犬のようだと思った。

 少年は、文のお願いを迷惑そうにすることも無く、椛の意見を流して文の取材を受けた。

 

 

「新聞のネタに少しだけ取材させてくださいね」

 

「えっ、新聞を書いているの!? だったらぜひ見させてもらいたいんだけどいいかな? 今まで見たことがなくて。新聞なんてあったんだね。なんだよ、みんな教えてくれてもよかったのに!」

 

「え、は、はい!」

 

 

 文は、唐突な少年の切り返しに、度肝を抜かれ勢いよく返事をしてしまった。

 少年は、文から文の書いている文々。新聞を見せてもらい、興味を持った。新しい物好きで、好奇心が強く、幻想郷の事情に詳しくない少年は、当然のように文の新聞に喰いついた。

 少年は、内包している知識欲を埋めるように、その場で文々。新聞を読み始める。1枚1枚丁寧に読んでいく

 

 

「そんなものほとんど嘘の塊だし、面白くもなんともないのに……なんでこんなことになったんだろう……時間もあんまりないのに」

 

 

 椛は、少年の読みふける様子をつまらなさそうに眺める。

 少年は、椛の言葉を気にする様子もなく、文々。新聞の記事について次々と質問を投げかけた。

 

 

「ここの記事なんだけどさ、これって……」

 

「こ、これはですね……」

 

 

 少年は、新聞を読みながら楽しそうに文に疑問を投げかけ続ける。

 文は、今まで自分の新聞を見た相手が見せたことのない少年の見せる新しい反応に、感じた事のない高揚感を覚えていた。

 

 

「自分で言うのも何ですが……私の新聞は所詮身内物です。嘘も多いし、誇張も多い。そこが他の人には受け入れられなかったのでしょうね」

 

 

 文の書いている文々。新聞は、所詮天狗の仲間内での新聞である。仲間内の天狗の他に購読者はほとんどいないし、文の新聞の売れ行きはお世辞にもいいとは言えなかった。

 文の記事には、捏造や虚偽、尾ひれのついた虚飾記事が多すぎるのである。嘘や過大評価に塗り固められたものを喜んで受け取る人物は、そうはいなかった。

 新聞の売れ行きが良くないのは、何も内容がつたないからというだけではない。幻想郷というマーケット自体が、新聞を受け付けていないというのも理由の一つとしてあった。

 

 

「それに、幻想郷ではこういった時事情報を手に入れようとする人は稀ですし、買ってくれる人なんてほとんどいませんでした」

 

 

 幻想郷には、情報を仕入れようとするような奇特な人間や妖怪がほとんどいない。そのためもあって、新聞の売れ行きは全く伸びなかった。

 例え売れることがあったとしても、相手の気持ちとしては暇をつぶす程度の目的でしかない。情報を得ようなんて思っている人物は皆無だろう。

 要は、別に文の新聞でなくてもいいのだ。誰のだっていい、文の新聞である必要性は何もないのである。

 息を吸うだけ、休憩するための時間を潰すことができるのであれば、何でも―――文の新聞はその何でもに選ばれているだけだった。

 

 

「私の新聞を楽しみに待ってくれる人なんていませんでしたし、感想を言ってくれる人もいませんでした。悪口なら、いろいろ言われましたけどね……」

 

 

 文の新聞を読んだ相手が楽しそうに話してくれることは、今まで一度もなかったし、感想についても批評ばかりで、褒められる事も認められる事も全くなかった。それを悪いとは思わないし、それでもいいと思っていた文だったが、どこか物足りない気持ちがあったのは事実である。

 少年は、文のそんな満たされない状況を理解しているかのように話をしてくれた。

 

 

「それでも笹原さんは、興味を持って読んでくれた。楽しそうに読んでくれている姿が、私にとってはとても嬉しいものでした」

 

 

 少年は、文の書いた新聞を読んで想い想いの言葉を文に告げた。

 この部分が気になると言って、本来であれば取材を申し込んだ文が尋ねる側であるのに、逆に尋ねてくる。取材の過程を聞いてくることもあった。載っていないことまで話してきた。

 読者である少年は、楽しそうに新聞を読んでくれている。

 

 

(私の新聞は、相手に分かってもらえる、楽しんでもらえる!)

 

 

 文は、少年の楽しそうに話してくれる姿に喜びを感じた。書くことが好きで始めた文々。新聞が初めて認められたような気がした。

 それが―――文の少年との出会いの馴れ始めである。

 そこから文と少年の交流は始まった。

 文は、過去を一通り思い返すと話を元に戻しにかかる。こんな思い出話をしている場合ではない。時間は限られているのだから。できる限り後悔しないように話をしなければ。いつだって会えるわけではないのだから。

 

 

「私のことを話している場合ではないですね。時間は限られています。八雲の式神がいないのは、今日がラストチャンスかもしれないのですから」

 

 

 文は、この半年近く何も話すことができなかった少年に次々質問をして会話に花を開かせた。

 時に笑い、時に悩み、時に気持ちを一つにする。一瞬たりとも無駄にしないと言わんばかりに、空間に言葉を詰めて想いを述べた。

 

 

 

 

 

 

 文が少年に声をかけてから1時間が経過するころには、届けられた緑茶も飲みほしてしまっていた。

 このぐらいが潮時である。

 文は一息入れて立ち上がると、口を開いた。

 

 

「有意義な時間を過ごせました。椛にもぜひ会ってあげてくださいね」

 

「分かったよ。まだ予定の時間までには余裕があるし、これから立ち寄ってみる」

 

 

 少年は、文が立ち上がるのを見ると同じように立ち上がりながら言った。

 これから行く? 妖怪の山に? 

 文は、これから行くと言う少年の対応の速さに疑問を投げかけた。

 

 

「え、これから行かれるのですか?」

 

「今度来るときには藍がついてくるかもしれないから、今日行くべきだと思うんだ。文と同じように、藍が来ることで話しにくくなるのは間違いないからね」

 

「確かに……」

 

 

 もしも八雲の式神が来てしまえば、椛が話せる状況は永久に訪れない。妖怪の山に近寄らせてもらえないということと、話しかけることができないという状況が作られてしまうことが接触を遮断する要因になる。文でさえ、八雲の式神が隣にいると話すのを躊躇うのである。椛であれば、口を開くことさえ叶わないだろう。

 少年は、文々。新聞の入ったカバンを持つと先程食べた饅頭の支払いに向かう。文は、少年の後ろで頭を悩ませながら張り付くように追随した。

 少年は、文が悩んでいる間に会計を済ませ、妖怪の山を目指そうと足を向ける。

 

 

「じゃあ、僕は今から妖怪の山へ向かうから」

 

「これから行くのでしたら、私も一緒に行ってもいいですか?」

 

 

 文は、久しぶりにあった少年との話を止めることを名残惜しく感じていた。もっと話しをしていたいという気持ちを抑えることなく、少年の予定までに時間があることを知り、付いていこうとしていた。

 もしかしたら、こんなふうに少年と話す機会はもう無いかもしれない。それに椛とのことも気になる。

 

 

(こうやって1対1で話せる機会は非常に少ないですし……それに椛のことも気になりますから)

 

「僕は別に構わないよ。文が来てくれると妖怪が近づいてこないし、何より話をしながら道中を進むのは楽しいからね」

 

 

 文は、予想通りに少年の許可を貰う事に成功した。

 文が少年についてくるメリットは多々存在する。道中暇な時間に話ができるというのはもちろんのことであるが、安全面において文の存在は大きな役割を果たすのだ。

 妖怪の山は、文字通り妖怪が住んでいる山である。人間である少年が一人で出歩くには若干荷が重い。もちろん空を飛んでいけば、ある程度の危険を排除することができるが、完全に排除することはできない。世の中には、完全にリスクが排除された安全など存在しない。

 だが、リスクを減らすことはできる。妖怪の中でも目に見えた強さを持っている文がそばにいれば、少年を襲ってくる妖怪は少なくなるだろう。

 少年は、不敵な笑みを浮かべて文へと問いかけた。

 

 

「それに、断ってもついてくるんでしょ?」

 

「よく分かっていますね。でも、和友さんが本当に嫌ならついていきませんよ」

 

「僕は、文がついてくるのが嫌なんて言わないよ」

 

 

 文は、少年の答えに気をよくして笑みを深めた。

 しかし―――続いて少年から飛んできた言葉が文の心の中に大きなしこりとなって残ることになる。

 

 

「ただ……椛は、どうか分からないけどね」

 

「はははっ……それは、そうかもしれませんね……」

 

「きっと、嫌そうな顔をするんだろうなぁ。あの時と同じような、あの瞬間と同じような顔をするんだろうね」

 

 

 文の脳裏に機嫌を悪くした椛の姿が映った。そんな不機嫌な椛に少年と一緒に会いに行くことを想像すると少しだけ苦笑してしまった。

 きっと、あの時のままだろう。取材を申し込んだ時のままだろう。機嫌を悪くして、表情を曇らせるだろう。

 少年と文は、少しの不安を抱えながら楽しそうに妖怪の山へと足を向けた。

 

 

「妖怪の山―――幻想郷に唯一存在する山。きっとそこで待っているはず。あの日と変わらずに……あの時のように」

 

 

 彼らは、あの時と同じように待っているはずの椛の下へと飛んだ。

 



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方向性のある想い、明確な拒絶

 少年と文は、椛に会うために妖怪の山へと向かっていた。

 文は、少年に合わせる形で飛行しながら少年に視線を集める。

 少年はゆったりとした速さで飛んでいる。少年の速度は、お世辞にも速いとは言えない速度である。

 ただ、今瞳に映し出されている少年の飛ぶ速度は、以前よりもはるかに速くなっていた。それこそ比べるのもおこがましいというほど―――雲泥の差である。あの頃は地上を走るよりも遅かった。それを思えば、半年の間に随分と上手くなっているのが見て取れる。

 文は、半年前と比べて確実に成長している少年に賞賛の言葉を送った。

 

 

「和友さん、飛ぶ速度が随分と速くなりましたね」

 

「ありがとう。でも、まだまだみんなに比べたら遅いよ」

 

 

 少年の速度は、少年が人間であることを考慮すればそこまで遅くはない。もちろん、博麗の巫女等と比べれば遅いことこの上ないが、人里で飛ぶことのできる人間と比べれば速い方だといえるだろう。

 しかし、比較の対象が妖怪となると話は別である。妖怪が平常出す速度は、今少年が出している速度の数倍になる。妖怪が平常が60-100km/hで飛んでいることを考えれば、少年の速度は10-15km/hが関の山だった。

 

 

「それはそうかもしれませんが……それは、比べる相手が間違っているだけであって」

 

「文、僕はみんなを目標に頑張っているんだよ。文の意見を聞かせて。僕の空を飛ぶ速度は、お世辞にも速いとは言えないでしょ?」

 

「……確かに‘速い’とは言えませんね」

 

 

 文は、嘘をつくこともせず、真実を語った。

 飛ぶ速度が遅いというのはまぎれもない事実である。嘘をついてどうなる話でも、嘘をついたからといって少年の速度が速くなるわけでもない。

 だが、大事なのは妖怪よりも遅いという事実だろうか。文は少年の速度が自分たちと比較して遅いかどうかというよりも、少年の速度が速くなっている事実の方が大事に思えた。

 少年は比較対象として妖怪を挙げるが、そもそも比較対象として挙げるにはかけ離れすぎているのだ。今後少年が努力し続けたところで追いつけないことは明白である。何をどう頑張っても追い付けない。何をどうしたってたどり着けない。というか、届いてはならない領域である。

 そんな比較することがしてはならない行為になっているようなことよりも、伸びているという事実―――努力が実になっているという事実の方を評価すべきだ。

 特に努力というものをほとんど一切しない妖怪からすれば、少年のその愚直な努力は輝いて見える。少年の飛ぶ姿勢からは、努力の跡が読み取れる。それがキラキラした綺麗なものに見えるのだ。

 文は少年に対し、フォローの言葉を送った。

 

 

「けれども、最初に会った時とは雲泥の差ですよ。随分と努力なされたのですね」

 

「毎日練習しているからね。これで速くなっていなかったら気落ちしちゃうよ」

 

「和友さんは、確かに速くなっています……」

 

 

 文は、少年の笑顔につられるように笑顔を浮かべたが、あることが頭の中に引っかかった。それは―――時間の問題である。

 

 

「ですが、この速度で行くとなるとそこそこの時間がかかりますよ? 時間に余裕はあるのですか? もし無いというのならば、おぶっていきますが」

 

 

 余り長い時間過ごしてしまえば、八雲の妖怪から何と言われるか分からない。あるいは、時間をかけすぎてこちらの方へ飛んでくるかもしれない。

 そうなったら最悪である。もしも時間がないのならば、恥ずかしいことではあるがおぶっていくのか、引っ張っていくのか、どちらかすればいいと文は考えていた。

 

 

「ああ、時間は大丈夫だよ。今日は割と余裕があるから。後最低でも2時間は平気なはず」

 

 

 少年が店主から告げられた時間までは、まだ2時間ほどある。普通に椛と話をして帰る分には、問題ないはずである。

 それに、時間に遅れたからといって怒る店主でもない。だからこそ少年は、時間に追われることなく安心して妖怪の山へと向かっていた。

 

 

「仮に2時間を超えたからといって遅れて何か言われるわけでもないし……‘今日は’大丈夫なはずだから」

 

「それなら良かったです」

 

 

 文は、少年の言葉に僅かに安心した様子を見せた。

 ここで、文は勘違いを犯していた。少年が言っている相手は、人里で店を開いている店主のことであって八雲の式神のことではない。藍のことについては、大丈夫かどうかなど分からないのだ。

 直接的な何かが起こる可能性は否定できない。飛ぶことのできない、力の無い店主に限ってもしもということはないだろうが、藍の場合には直接的な―――武力的な何かが起こる可能性を考えなければならないのだから。

 文は、勘違いをそのままに少しの安らぎを保持しながら少年の速度に合わせて飛行していた。

 

 

「こっちに来るのは久々だなぁ……どのぐらいぶりだろう?」

 

 

 少年は、辺りを見回しながら飛行する。視界の周りは緑に溢れている。妖怪の山への道はまさしく山道である。左右には木が茂っており、中央に山へと至る路がある。

 

 

「うーん。ちょっと記憶と違うかな。やっぱり、時の経過は何かを変えるよね。何かが変わっている。目に見えない何かから、目に見える何かまで、何かが変わっている。勿論、変わらないものもあるけどね」

 

 

 相変わらず妖精は少年に群がって来る。見つけた端から少年の方に近づき、接触を試みてくる。

 妖精が何を考えているのか、どうしてそういう行動をとるのか、未だに分かっていない。存在そのものが自然の権化というなんとも言い難い不思議な者の行動原理が理解できる時など、一生訪れないだろう。

 

 

「妖精に付きまとわれるのは、相変わらず変わりませんか」

 

「そうだね、一向に変わらないよ。ずっとこのままだと思う」

 

 

 文は困った様子の少年を見て、自分の力の無さを想う。

 妖怪ならばともかく、少年に妖精が群がるのは文の力ではどうしようもない。本能に従って生きている妖精に対して抑止力は通用しないため、文が近くにいたからといって自重することはないのだから。

 

 

「妖精相手には私の力も威嚇にすらなりませんし、役に立たず申し訳ありません」

 

「謝らないでよ。これは誰にもどうにもできないんだから。風で吹き飛ばしてくれているだけありがたいよ」

 

「そう言ってもらえると助かります」

 

 

 少年は、文の謝罪を拒否した。

 謝られるなど筋違いも甚だしい。どうにもならないことに対して謝られると虚しさに襲われる。謝るということは悪いと思っているということである。少年は、自分の責任で起こっていることに対して相手が謝罪するところなど、見たくもなかった。

 文は、ちらちらと少年を見ながら速度を抑えて飛行する。どうやら、何か気になっていることがあるようである。

 少年は、そんな文を全く気にする様子も見せず、真っ直ぐに目的地へと突き進む。

 文は、何かに決心したように少年の顔をしっかりと見つめた。

 

 

「笹原さん、妖怪の山で椛に会う前にちょっと聞いておきたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 

 

 少年は、何だろうと山の頂上に向けている視線を文に移す。先程までずっと喋っていたのにもかかわらず、まだ気になることがあるのか。これまでずっと話ができなかった分を取り返そうとする文の疑問符の羅列は、終わる気配が見えなかった。

 少年の視線が質問を投げかけた文に集中する。文は、狙いすましたような少年の瞳に少しだけ頬を赤く染めて視線を僅かに逸らした。

 聞くのを恥ずかしがっている、遠慮しているのだろうか。別に遠慮する必要はない。時間が切迫しているわけでも、暇がないわけでもないのだ。聞きたいことがあるのならば、聞けばいい。

 少年は、文に対して気軽に聞いて欲しいと想いをそのままに告げた。

 

 

「なんですか? 私に答えられる事ならなんでも答えますよ」

 

「ふふっ、急に(かしこ)まってどうしたのですか? 今まで普通に喋っていたのに敬語になりましたけど」

 

「あ、ごめん」

 

 

 文は、急な少年の口調の変化に泳いでいた視線を少年に合わせ、頬を緩めた。

 

 

「どうやら文の敬語がうつってしまったみたいだね」

 

「はははっ、私の敬語は新種の病気か何かですか? うつるわけが無いでしょう?」

 

 

 文は、冗談じみた少年の言葉に笑みをこぼした。その顔に反比例するように、少年の顔がきょとんとする。

 少年は、自分の言葉でどうして文が笑っているのか分からなかった。笑われるようなことを言った覚えがまるで無かった。

 言葉は―――伝染するもの。

 少年は、そう思っていた。

 

 

「口調は、うつりやすいものだと思うけどね」

 

 

 少年は、口調ほど相手に意識をさせずにうつさせやすいものはないと思っていた。

 風邪や感染症とは一線を引いている。口調というのは、無意識のうちに感染する―――病気のようなものだ。

 

 

「東京から大阪に行った人間が1年間も大阪に住めば、大阪弁で喋るようになっている。そのぐらいには感染力が高い」

 

 

 文には、少年の言葉に含まれる東京や大阪という言葉を理解することはできない。

 しかし―――少年の言いたいことは理解できた。話しの流れから、住むという言葉から場所の名前であることは予想がついた。

 少年が言いたいのは、「話し言葉は、環境に適応する人間の特性を鑑みれば、感染するのが道理だ」ということである。

 

 

「口調とか雰囲気って、気付かないうちに影響を与えているものなんだよ。文の元気のよさぐらいには伝搬するんじゃないかな?」

 

「でも、こんなに短時間で口調がうつったりはしないでしょう? まだ、話を始めて1時間ほどしか経っていないのですから」

 

 

 文は、少年の持論に対して笑みを浮かべ反論した。

 口調がうつるということを100歩譲ってあったとしても、これほど短時間でうつる道理はない。

 少年は、文の切り替えしに笑みを深める。

 

 

「ははっ、それは文のおっしゃる通りです。反論のしようもないね」

 

「ふふふ、屁理屈を言うのはやめてくださいよ」

 

 

 少年は、文とのやりとりの中で笑顔を作る。文も少年の笑顔に感染するように笑顔になった。

 笑顔も口調と同じである―――知らず知らずのうちに伝染する。無意識のうちに広がる。山の緑が生い茂るように、紅葉するように、見えないところで色付いていく。

 そして、その変化が昔を忘れさせていく。もともとの感情は? もともとの色は? もともとの形は? そういうものが失われる。ちょうど、文の質問の内容が消えてなくなったように。

 少年は、完全に会話の路線を変更し、妖怪の山を見ていつも感じている感想を口にした。

 

 

「妖怪の山は、本当に凄い所だよね」

 

「そうでしょうか? 私はいつもここにいるせいか分かりませんが、妖怪の山の凄さは特に感じたりしませんね」

 

 

 いつも妖怪の山で生活している文には分からないのだろう。日常的な慣れが、視野を狭くしている。感情の起伏を小さくしている。

 妖怪の山は、不思議な雰囲気を持ち合わせている。少年は、妖怪の山の大きな包容力と大きな威圧感、両方を持ち合わせている様子に感慨深いものを感じていた。

 

 

「具体的にどういうところが凄いのですか?」

 

「なんていうか……大きいよね」

 

「それはもちろん大きいですけど……あ、もしかして笹原さん考えなしに話をしていますか?」

 

「そんなことないよ。僕は、いつだって考えて言葉を口にしているよ」

 

「嘘ですよね? それ、絶対に嘘ですよね?」

 

 

 少年と文は、間を作ることなく次々と会話を交わす。空中で言葉を交わしながら飛行していく。

 少年と文の二人の会話は―――いつもこんな感じである。沈黙がやってくることはなく、言葉が常に飛び交い続ける。沈黙が嫌いなのか、沈黙を無視しているのか、それが来るのが怖いのか―――沈黙はいつだって黙殺されていた。

 

 

 

 

 話をしながら暫く飛んでいると妖怪の山にまもなく到着するという所まで至った。妖怪の山に入るまでは、もう少しの所である。

 文は、妖怪の山に入る前にふと疑問を訴えた。

 

 

「笹原さん、ちなみになのですが、椛にはどうやって会うつもりですか?」

 

「椛に会うのはものすごく簡単だよ。僕が妖怪の山に踏み入れば、例外なく、間違いなく、椛がやってくるからね」

 

 

 少年が椛と会うために手段などいらない。一つの行為が全てを引き起こす引き金になる。妖怪の山へと足を踏みいれるという行為が―――椛を引き寄せるのだ。

 少年は、妖怪の山の5合目辺りに目を向けた。

 

 

「椛は、きっとあそこから僕たちを見ている」

 

 

 妖怪の山の五合目は、椛が監視を行っている位置である。

 椛は、いつだって少年が来るのを待ち構えている。

 妖怪の山の五合目で目を光らせている。

 その場に坐して、ひたすらに待ち望んでいる。

 その時が来るのを―――ひたすらに。

 ただ、ひたすらに。

 

 

「ねぇ、そうだろう、椛?」

 

 

 ―――私は妖怪の山の五合目あたりから監視をしています。

 椛は、そう言っていたはずである。

 少年は、椛がいるであろう5合目を見たが、距離があるため椛の姿を捉えることはできなかった。

 しかし、椛はすでに自分のことを捉えている。きっと、見つけている。

 

 

「もし迷ったのなら妖怪の山の5合目へと視線を向けてください。私が和友さんを必ず見つけ出してみせます。例え、千里の距離があろうとも、絶対に和友さんを探し出して見せますから」

 

 

 椛は、間違いなく妖怪の山から自分たちを見下ろして、今か今かと妖怪の山に入り込むのを待っている。

 何処に行こうと。

 何処から入ろうと。

 椛の目に捉えられている。

 あの目から逃れるには千里の距離を保つしかない。あるいは、それを分断する必要がある。

 少年は、一点だけを捉えて視線を集中させる。少年の視線はすでに文には向けられておらず、椛に捉えられている。外から見ていると、まるで少年もすでに椛を捉えているように見える光景だった。

 文は、椛のことを確信をもって話す少年を複雑な表情で見つめていた。

 

 

「笹原さんは、本当に椛のことを信頼してらっしゃるのですね……」

 

「信頼というか、分かっているというか……そんな大層なものじゃないよ。いたって平凡な、誰でも分かるような、そんなこと。きっと僕の立場になればみんな分かるはずだから」

 

 

 文は、椛について自信をもって話す少年の言葉を聞いて気持ちが重くなった。そして、気持ちが重くなるのと同時に目線を少しだけ下げた。

 心の中に黒いものが沸き立ってくる。いくら押さえつけても、穴が開いた心には塞ぐ物などない。障害物無しに次々と黒いものが心の中に流れ込む。他に出口など、口から出る言葉しかないのに。口に出せないからどんどん増えていく。

 文は、心が徐々に苦しくなってくるのが我慢できず、少年に向かって言葉を吐き出した。最も聞いておきたかった言葉を、少年へとぶつけた。

 

 

「そうですか……一応聞きますが、気付いていらっしゃいますよね?」

 

「それって椛のことだよね? だったら分かっているつもりだよ」

 

 

 少年は、視線を山から移すことなく文の質問に断言した。文の質問の意図を読み取り、間違いを犯すことなく、愚直なまでにまっすぐに答えを明示した。

 少年は、相手の気持ちが分からないほど鈍感な人間ではない。しっかりと椛のことを理解している。

 椛は、間違いなく自分に対して好意を向けている。掛け値なしに好いてくれている。軽く依存していると言えるほどに傾いている。

 文は、少年の言葉で全てを悟った。少年は、全部を分かって何も言わないのだ。気付いていて何もしないのだ。

 文は、断言する少年の言葉に歪んだ笑顔を張り付けた。

 

 

「そうですよね、やっぱり分かっていますよね。貴方は、相手の気持ちを察せない鈍感な人ではありませんから」

 

「…………」

 

 

 少年は、口を閉ざしたまま文の言葉に対して何も言わなかった。

 文は、少年が喋らないと判断すると、不安を抱えながら続けざまに口を開く。

 

 

「それで……椛の気持ちを知った上でどうなさるつもりですか? 気持ちを受け取るのですか?」

 

「もちろん断るつもりだよ」

 

 

 少年は、迷いなく断ると断言した。

 文の心臓は少年の言葉によって激しく動悸する。まるで心臓を鷲掴みされたように胸が苦しくなった。

 文は、胸元で右手をギュッと握った。

 

 

(はは……私、嫌がっている……怖がっている)

 

 

 この苦しみは、どうして起こるのだろうか。

 分からない、分からない。

 そう意地を張れるのも、もう限界だった。

 文は、自身の胸の苦しみの原因が分かり始めていた。

 なぜそうなるのか、理解し始めていた。

 

 

 少年は、文の様子を見ながら真剣な表情で話しかける。

 文は、少年の口から出てくる言葉が椛に対してではなく、自分に対して向けられているように感じていた。

 

 

「きっぱりと諦めてもらうのが椛のためだと思うから」

 

(結局のところ、私と椛は同じ穴の(むじな)ということですね。笹原さんの明るさに集まってきた虫と変わらない……)

 

 

 少年は、迷う様子を一切見せなかった。はっきりと椛の気持ちを切り捨てるつもりだった。

 文は、苦しみを訴える心を抱えながら少年の顔を見つめる。

 少年の顔は真剣そのもので、ふざけて言っているようには見えない。

 少年は、本気で言っているのである―――切り捨てると、好意を断ると。

 

 

「どうしてですか? 椛は、いい子ですよ?」

 

 

 文は、あろうことか椛のフォローに回る。迷うことなく言う少年に向けて説得を図るように言葉を並べだした。

 普段ならば、絶対に口に出さない言葉を。

 いつもなら絶対にやらないフォローの言葉を。

 苦しみを外に吐き出そうとするように次々と漏らした。

 

 

「私は椛とあまり仲良くありませんが、そんな私の目から見てもいい子だと思います。私よりも遥かに従順ですし、犬ですし、かわいいですし……」

 

 

 文の声は、言葉を重ねる度にどんどん小さくなる。

 

 

(ああ、私はいつだって気付くのが遅すぎる……最速を謳っておきながら、自分のことを分かるのが遅すぎる……)

 

 

 文は、言葉を発する度に少年のことが好きだということを自覚していった。

 きっとそれは―――椛がいたから。

 椛がいなければ、一生分からなかったかもしれない。

 自分のことは意外と分からなくても、人の気持ちはよく分かったりする。それが、椛を見ていて、椛と自分の姿が重なったことから自分の気持ちが自覚できた。

 

 そう―――文は少年のことが好きなのである。

 

 話すのが好きで、一緒にいると落ち着くし、ドキドキする。つまらない会話でも面白く感じるのは、文が少年を好いているからに他ならない。

 文は、少年に惹かれている。そして、少年はそれさえもちゃんと理解している。きっと文の気持ちについても理解している。

 本人がよく分かっていなかったこの気持ちを知っている。

 今なら分かる―――少年はこの気持ちを知っている。

 

 

(今更自分の気持ちを自覚したところで何もできないじゃないですかっ……椛の気持ちを知った今じゃ、笹原さんの気持ちを知った今じゃ、何も、何も、できないじゃないですか……)

 

 

 先程、文の胸が苦しくなったのは―――話しの内容は椛のことであるのに自分の告白が断られたような錯覚に陥ったからだった。

 少年は、心を締め付けられている文をよそに、疑問を口にした。

 

 

「椛は、犬じゃ無くて天狗の仲間だよね?」

 

「和友さん、大事なのはそこではありませんよ」

 

 

 文は、まさかの少年の返しに笑顔を作る。

 本当にこの人は空気を読まない。読もうとしない。

 相手の気持ちを考えているのか、考えていないのか分からない。苦しみを避けるように、辛さを上書きするように、別のものを持ってくる。

 

 

(笹原さんはどうしようもない人ですね。何も変わらない、いつも通りの笹原さんです。そんな笹原さんだからこそ、私も椛も、好きになったのでしょう)

 

 

 文と椛の少年との出会いは非常に似ている。劇的ではなく、ごく自然に出会っているという点で似通っている。そして、両者とも少年と会話をすることが好きで、凄く居心地が良いと感じている点で一致している。

 

 

(笹原さんと話しているだけで満たされた気持ちになる。傍にいるだけで、気持ちが高揚する、楽しくなる。そこにずっといたいと思う)

 

 

 側にいれば落ち着き、会話をすれば楽しくなる、笑みがこぼれる。少年の傍にいたいと思う、ずっと少年と話していたいと思う。何から何までそっくりである。

 

 

(ほんと、何もかも椛と一緒じゃないですか)

 

 

 ―――文は、完全に椛と同じであると自覚した。

 

 

「椛は常識もわきまえていますし、護衛としても優秀な部類に入ると思いますよ」

 

 

 文は、まるで自分の事のように少年に向かって椛のいい所を伝える。椛と付き合ってあげたらと勧める。

 少年が椛と付き合うことになれば、自分が入り込む隙間が無くなるというのに。

 それは、椛には敵わないという諦めからなのか。知り合いとして応援したいということなのか。それとも―――椛に対して告げている少年の言葉が自分に投げかけられているような気になっているからなのか。

 それは、文自身も分かっていなかった。

 ただ、少年は文の進言に対しても首を縦に振る様子は見せなかった。

 

 

「僕は、何を言われても付き合う気はないよ」

 

 

 文は、脳内に少年が断る理由を導き出す。

 いつも一緒にいる八雲の従者とすでに付き合っているのでは?

 脳内は、鮮明に綺麗な光景を映し出した。

 違和感もない。付き合っているといわれれば―――やっぱりと思うだけだ。

 

 

「もしかして、八雲の式神とすでにできているとか?」

 

「それはない」

 

 

 だが、そんな文の想像も違うようで少年の顔は横に振られた。

 文は、誰とも付き合っている様子のない少年に詰め寄り、声を荒げる。

 

 

「だったら!」

 

「僕、こういうのは全部断ることにしているんだ。小学校のころから……大体六年前ぐらいから全部断るって決めているんだよ」

 

 

 少年は、小学校という幻想郷では伝わらない言葉を言い直して文へと伝えた。

 

 

「今まで何度も断ってきたんだ。今更変えるつもりはさらさらない。何度だって、いつだって、僕は断るよ」

 

「やっぱりそうだったのですね」

 

 

 文は、少年の言葉に納得した。やっぱりそうだったのだと納得した。

 

 

(あんな雰囲気を醸し出せる人間が他にいるはずもありませんし、笹原さんを好きになる人は大勢いたことでしょう)

 

 

 文は、少年から安心感や安らぎ、楽しさを貰っている。たくさんのものを貰っている。

 しかし―――その少年の優しさは、無料なのである。誰にでも与えられるものなのである。

 文は、椛以外にも少年を好ましく思っている人物がいるはずだと思っていた。

 

 

「笹原さんは、いろんな人から好かれていそうですからね。それはさぞかし多くの経験があるのでしょう」

 

 

 文は、心の内から沸き起こる疑問を口に出すかどうかで悩んでいた。

 この質問は、少年の内面を深く掘り下げる質問になる。もしかしたら傷つけることになるかもしれない。それは、人里で言っていた言えないことなのかもしれない。そんな思いが心の中を徘徊する。何度も何度も、ぐるぐると巡っていく。

 文は、不安の影が差す表情で少年を見つめた。

 少年は、真剣な表情を浮かべたまま文の言葉を待っているようだった。

 文は、少年の表情を見て尋ねる決心をする。答えて欲しいという気持ち、答えて欲しくないという気持ち、両方を込めて少年に尋ねた。

 

 

「ちなみに、今までに想いを告げられる事は何度くらいありましたか?」

 

「…………」

 

 

 少年は、やはり思い出したくないようなことのようで表情を暗くする。

 文は、聞いてはいけなかったかと即座に心の弱さを口にした。

 

 

「答えたくないのなら答えなくてもいいですよ」

 

「全部で6回だね……一回目は、気持ちを受け取ったんだけど色々あってさ……」

 

 

 文は、少年が表情を暗くしたまま話すのを久々に見たと思った。少年は、基本的に明るく楽しそうに話し、にこにこと笑っていることが多い。というか、そういうところしか見たことがない。

 しかし、この話については顔を下に向け、明らかに困った表情を浮かべている。

 文は、地雷を踏んでしまったかとすぐさま追求を辞め、撤退の構えを見せた。

 

 

「なにやら悪いこと聞きましたかね、すみません……」

 

「気にしないでよ。僕はもう気にしていないことだからさ。結局気にしても、後悔しても何も変わらない、反省しても取り戻せないことなんだし」

 

 

 少年は、暗い表情を一転させて微笑む。過去をどれほど後悔しても、現実は変わらない。過去を捨てろ、完全に気にするな、そんなことをいうつもりは無かったが、ある程度の切り分けが必要である。

 今を進むうえで邪魔なら捨てろ。

 何もできなくなる前に、身動きが取れなくなる前に、荷物は捨てなければならない。

 勿論―――過去から学び、未来を変えるための努力は必要であるが、未来に歩めなくなるような過去は清算すべきである。

 

 

「未来を変えるための努力は大事だけどね。同じ結末にはならないようにしないと……それは僕が頑張らないといけないことだから」

 

 

 文は、少年の雰囲気に呑まれるように重い空気を帯びた。これも、少年の特徴の一つといえるだろう。

 雰囲気が感染する、影響を受ける。

 だから、依存する。

 重さは、そのままの重さに。

 苦しみは、そのままの苦しみに。

 楽しさは、そのままの楽しさで。

 楽しさは、2倍。

 苦しみも、2倍。

 それが少年だ。

 少年は、自分の作りだした暗くなった雰囲気を打開するために、別の話題を取り出した。

 

 

「僕の事もそうだけど、文も相当好かれるタイプなんじゃないの? 誰かからアプローチを受けたりとかしなかった?」

 

 

 文は、唐突に振られた自分の話題に目を丸くした。

 

 

「い、いえ! 私なんて全然ですよ! うっとうしがられる事の方が多いですし、営業スマイルとこの口調のせいで、腹を割って話せる人なんて余りいないですから」

 

「本当? 人気ありそうな気がするけどな」

 

「本当ですって!」

 

 

 文は、慌てた様子で少年に告げる。そこには先ほどまでの暗い雰囲気は感じられない。雰囲気は、息を吸うように変化していく。

 

 

「嘘なんてついていません!」

 

 

 事実―――文は、胡散臭いと言われることも、うっとうしがられることも多く、腹を割って話せる相手はほとんどいなかった。自身が新聞屋というか、パパラッチじみたことをやっているため、相手から信用されないのである。

 本音を話さない相手に対して、本音を話すいわれもない。文の虚構の混じった話―――嘘を並び立てるような仮面をつけたような会話に返って来るのは、やっぱり嘘の並び立った虚像の言葉である。嘘をつく人間に本当のことを話して何になるというのか、嘘つきに対する扱いは総じて無視と無関心に行き着く。

 だが、少年の考えはちょっと違っていた。

 

 

「表情に付けられているのが営業の笑顔だろうと、偽りだろうと、見る人の捉え方で何とでもなるよ。嘘も本当も関係ない。見抜けないのならどっちだって変わらない」

 

 

 笑顔に嘘も本当も関係ない。少年は、大真面目にそう思っている。

 空元気も、元気を呼び起こす。

 嘘も積み重ねれば、本当になる。

 自分を騙し通せば、本物になる。

 はたから見ていて、本当かどうかなど分からないのだ。相手の思っていることなど分からないのだから、嘘も本当も存在しない。

 嘘だって―――本当で。

 本当だって―――嘘になる。

 少年は、仮に嘘の笑顔だとしても文に対する印象を変えることはなかった。

 

 

「少なくとも僕は元気をもらっているよ。文の顔を見ると、ああ、僕も頑張らないとなって素直に思う」

 

「は、恥ずかしくなることを平然と言いますね!」

 

 

 少年から文へと称賛の言葉が送られた。その瞬間、文の心の中は先程までの不安が消え、喜びが支配し、顔は沸騰するように赤くなった。

 少年が褒めてくれるだけで不安が打ち消され、嬉しくなる。一言一言が爆発物のように破裂し、心に影響を及ぼす。文に対して少年の与える影響というのはそれほどに大きかった。

 そう―――これこそが少年の良い所で悪い所である。

 文は顔をぶんぶんと振って、一喜一憂する気持ちを振り払う。

 

 

「そういうのを誰にでも言うところが貴方のダメなところです! そういうのは、本当に大事な人に言ってあげてください。聞いた人が誤解してしまいますから」

 

「……そうなんだよね。紫からも言われたけど、どこまでいっても僕は甘いみたいだから……」

 

 

 少年の優しさは、まさしく薬物である。一度服用してしまえば、辞められなくなる。

 文は、少年の近くにいると、全てが許されているような、認められているような、世界で一番安全な場所にいるような、そんな心地良さを感じてしまっていた。

 だからこそ抜け出せなくなり、居座りたくなる。その場にいたいと思ってしまう。少年と共に居たいと思ってしまう。

 それを―――少年自身が自覚している。自分の周りが、自分の影響を大きく受けていることを分かっている。

 文は、少年につられるように今にも泣きそうな顔で心の底からの言葉を絞り出した。

 

 

「間違いなく貴方は大甘です。貴方が、そんなんだから……」

 

「そうなんだよね……そんなんだから……」

 

 

 後ろに続くはずの言葉は、喉に詰まり言いだせなかった。文の瞳には、僅かに光る涙が見え隠れしている。喉まで出てきた言葉は、音もなく飲み込まれた。

 少年は、泣きそうになっている文に笑顔を見せ続ける。儚さを備えた笑顔は、一瞬にして崩れ去りそうな雰囲気を醸し出していた。

 

 

「そんなんだから、ダメなんだよ……」

 

 

 少年は、必死に崩れそうになる笑顔を保持する。

 文の泣きそうな笑顔につられて、どこか―――寂しそうに笑顔を作った。

 




椛って、犬でも狼でもなく、天狗の種族ですよね?


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8か月ぶりの再会、交錯する想い

 少年と文は、暗い雰囲気を若干引きずりながらも、妖怪の山の境界線に触れるまでもうそろそろというところまで辿り着いた。

 

 

「そろそろ降りようか?」

 

「そうですね、そうしましょうか」

 

 

 少年は高度を下げて地上に降り、山道に足を付ける。文も少年の後ろ姿の軌跡をたどるようにして地上に降り立った。

 ここまで数十分というところである。文が全速力を出せば、数秒。文が少年を抱えていけば、数十秒というところだろう。

 少年は、妖怪の山の山頂に一度目を向けた後、真下にある土の地面に視線を落とした。

 

 

「ここだね。ここからが妖怪の山だ」

 

 

 少年は、右のつま先で地面を軽くこすり、真横にスライドさせた。

 地面には、真っ直ぐな一本の線が刻まれる。境界線のない妖怪の山に境界線が引かれる。この線を越えた先からが―――妖怪の山である。

 文は、少年の行動に少し驚いた。迷いなく引かれたそれには、確信めいた少年の自信が伺える。

 妖怪の山の境界線など、誰も設けていないのに。誰かがそこを妖怪の山と定義したわけでもないのに。この線がここから先を妖怪の山と定めている。

 妖怪の山には、もちろんのことながらそうであるという境界線はない。誰もが個別に、ここら辺から妖怪の山だろうとざっくばらんに思っているだけである。

 それなのに、それを区切っている線には魔力というか、力があるのか、そこからが妖怪の山なのだと定義しているように感じられた。

 そこからが―――妖怪の山。きっとそうだ、そう思わせる何かがそこにあって、そこがそうだと思わされた。それは、少年の圧倒的な積み重ねと重みがあるからだろうか。理由は分からないが、長年妖怪の山で生活している文はそう思った。

 

 

「正解です。そこからが妖怪の山になります。本当にきっちりと覚えたのですね」

 

「僕は、やると決めたことに対して手を抜くなんてしないから」

 

「貴方はそういう人でしたね……」

 

 

 少年は、やると決めたことに対して手を抜くようなことはしない。考えてもみれば、境界線を引くという行為をするために外へと出かけた少年が、中途半端な境界線を引くわけがないのである。

 少年は、地面に向けていた視線を上げて妖怪の山の中腹である5合目あたりに目を向けた。

 

 

(あそこから椛がやって来る)

 

 

 自分が見ている妖怪の山の五合目から椛がやってくる。絶対に今も見ている。今か今かと待ち望んでいる。

 少年は、再び下を向いて先程引いた境界線を右手の人差指で指さした。

 

 

「多分椛は、このラインを一歩踏み出した瞬間に飛んでくるよ。椛の瞳はすでに僕の姿を捉えているだろうし、すぐにやってくるはずだ」

 

 

 椛は、この線に支配されている。この境界線が、椛の行動を制限する力を放っている。

 それはさながら―――檻である。いうなれば、動物園の檻のようなものである。踏み入れれば、動物は襲い掛かって来る。

 

 

「椛も大変だよね、立場上規則を破ることができないから僕がここを踏み越えないと、こっちにやって来られないんだよ」

 

「椛には、妖怪の山へ侵入する者に対する監視の任がありますから」

 

 

 椛は、妖怪の山の規則を破り、少年の所まで飛んで行けるほど肝の据わっている妖怪ではない。少年が妖怪の山の境界線を越えるまでは、決して体を動かさず、動きたくなる衝動を抑え込んでいる。椛が踏みとどまっていられるのは、自分に課せられている決まり事があるから以外の何物でもない。

 文は、凛とした声で少年に告げた。

 

 

「天狗は、ルールを破る者を許しはしません。秩序と権力が社会を作っている、それが天狗社会です」

 

 

 椛は、文の言葉通り妖怪の山で侵入者の監視を行っている。監視の任務は、秩序と権力が社会構造を作っている妖怪の山において軽々しく放棄できない責任のあるものである。

 任務を放棄するということは、天狗社会において酷く重い重罪となる。天狗社会に属している者には各々に役割があり、その役割を全うすることで社会を形成しているのだから、役割をなさない者は切り捨てられることになりかねないのだ。

 

 

「椛のような下位の存在である哨戒天狗が規律を守らなければ、一瞬で切り捨てられるかもしれません。前例が余り無いので、断言はできかねますが」

 

 

 現に、追放された妖怪は存在する。その多くが妖怪の山というテリトリーから見放され、暴走して死んでしまう。あるいは、妖怪の山へと戻してくれと懇願し、立場が悪いまま過ごすことになる。

 そんなリスクを背負うぐらいなら、面倒であっても、煩わしくとも、規則を守った方が良い。そのリスクが―――妖怪の山の秩序を守らせている。

 特に下っ端である哨戒天狗の椛が命令を無視するようなことをしてしまえば、天狗社会では生きていくことはできなくなる。文の言葉からは、そんな印象を受けた。

 

 

「私の役割は、そんな白狼天狗の監視を抜けてきた侵入者を追い返すことです。酷く稀に今後についての話し合いに参加することはありますが、まぁ滅多にあることではありませんね」

 

(天狗社会は、外の世界の社会構造と似ているのかな?)

 

 

 少年は、この時初めて天狗社会についての説明を受けた。天狗社会の情報は、椛からは一度も教えて貰っていなかった情報である。

 少年は、文から聞いた天狗社会の構造が外の世界によく似ていると思った。天狗社会というのは、外の世界と似通った社会を形成しており、権力のピラミッド構造を成している。

 だが、少年が天狗社会と外の世界の構造が似ていると思ったのは、最初だけだった。

 

 

(でも、やっぱり違うか。僕は、外の世界の仕組みの方がずっと好きだな)

 

 

 少年は、両者がよく似ていると思ったけれども、それは気のせいなのだとすぐに判断した。

 

 

(努力がみじんも認められない世界なんて、僕には耐えられない)

 

 

 少年は、椛を見ていてずっと感じていた想いがあった。努力しても、何も認めてもらえない。誰かに褒められることがなく、逆にそれを馬鹿にされる。

 真面目にやっている人間をけなすような社会―――今まで侵入されたことがなかったからという過去の流れから責任感を持って仕事をしている相手を馬鹿にするような世界のどこが、外の世界と似ているというのか。

 

 何を言っているんだ。外の世界だって同じだろうと言う人もいるかもしれない。確かに、少年が知らないだけでそんなところも外の世界にはあるだろう。少年が知らないだけで、たくさんあることだろう。「なんであいつあんなに頑張ってんだ? 馬鹿じゃないのか」そんな言葉が飛び交うことだってあるだろう。

 しかし、それだけではないことは確かなはずである。努力している人を認めてくれる、認めてくれる誰かはきっといる、どこかにきっとある。

 だが―――妖怪の山はそこしかないのだ。妖怪の山というコミュニティは、妖怪の山で完結している。

 逃げ場はなく、閉じている。

 いくら訴えても、何も変わらない。

 何も変わろうとしない。

 外を見ようとしない。

 見えていないふりをする。

 隣の芝生は青く見える―――見えなきゃ、そんなものはなくなる。そう言わんばかりである。

 妖怪の山は、妖怪の山の外を知らなさすぎるのだ。

 それが、少年の中で天狗社会と外の世界との差を生みだしている要因だった。

 

 

「なんにせよ、妖怪でこれほどの秩序を保っている集団は、他にはありません。私達は知性と理性をもって生きているのです」

 

(知性と理性……ね。天狗社会は、それほど効果的に機能しているようには思えないんだけど……)

 

 

 少年は、自慢するように誇らしげに天狗社会のことを話す文の姿を見つめる。

 一応文は、白狼天狗の監視を振りきって山を登り始めた侵入者を防ぐのが自分の役割だと言っているが、少年には何とも想像し難かった。自由奔放な文を見ていると、どうしても天狗社会が上手く機能しているとは思えなかったのである。

 少年から見た文の印象というのは、元気の塊、自由気ままというものである。その性格から文の場合は、例え白狼天狗の監視を通り抜けて山を登る者がいたとしても、その侵入者に天狗に対する完全な敵意が無ければ、侵入者の相手をしないということが容易に想像できた。

 

 

(文は、自分が言っていることがどれほど矛盾でいっぱいなのか分かっているのかな? それが悪いってわけじゃないけど、言っていることとやっていることが違うのは、説得力がないからね)

 

 

 それほどに天狗社会での秩序が大事であるならば、文はこうやって妖怪の山を出て取材や新聞を書いてはいないだろう。文の言動からは、意識の低さがにじみ出ている。

 でも、それが悪いというわけではない。それが、いけないというわけではない。

 別に遊べばいい。別に外に出ればいい。守ることが全てではない、待っていることが全部じゃない。だから、文のように飛び回ることだって問題でも何でもないし、そういうものだというものでしかない。

 ただ、言っている言葉に重みを感じないのは、きっと後悔をしていないからだ。経験をしていないからだ。行動が言動と一致していないからだ。

 

 

(言った方が良いのかな……いや、言わないでおこう。言っても何も変わりはしない。混乱させるだけになる……だからなんだという話になってしまうかもしれないし……)

 

 

 少年は、文の言葉に矛盾が介在していることにとやかく言うことはなかった。例え、嘘のように思われても、それが偽りのものでも。

 それでも少年は、文が言う天狗社会の説明の言葉を信じることにした。

 

 

(妖怪の山を守るのは、みんなの共通認識なんだよね。そうなんだよね。椛は、そう信じるって言ったんだから。僕も信じることにしよう)

 

 

 少年は、文の言う妖怪の山の秩序を守るという気持ちを汲み取った。反発せずに受け取れた理由は間違いなく、いつも頑張っている椛の姿を見たからだとここで言っておく。

 少年は、文からの話を一通り聞くと会話の中身を断ち切る。

 

 

「そろそろ行くよ? いいよね?」

 

「はい、いつでもどうぞ」

 

 

 少年は、一言掛け声を発すると、一歩ばかり妖怪の山へ変わるラインを踏み切った。

 文は、少年が境界線を越えるのを確認すると、前のめりになりながら視線を妖怪の山へと向ける。

 

 

「どれどれ?」

 

 

 文は、少年のような人間ではなく妖怪である。妖怪である文は、人間の少年では確認できないような遠い距離を見渡すことができる。間違いなく、少年よりも早くに椛の姿を確認することができるだろう。

 文は、哨戒天狗―――椛がいるであろう妖怪の山の中心付近を見つめた。

 

 

「哨戒天狗がいつもいるのは、あの辺りですかね」

 

 

 文の視界には、はっきりとは捉えられないものの、人らしきものが勢いよく山を下っているのが映った。

 

 

「おお、速い速い。椛もあんなに速く飛べたのですね」

 

「この距離でもう見えるんだ。文も目がいいんだね」

 

 

 少年は、どこかでした藍とのやりとりを再び交わした。このやりとりは、人里に買い物に来た時にした会話である。

 少年の目には、何一つ椛と認識できるものは映っていない。視界の中には、普段と変わらない妖怪の山がそびえているだけである。

 

 

「椛ほどじゃありませんよ。でも、和友さんに見えないのは仕方がないです。人間なのですから」

 

「人間だから、か……僕には妖怪も人間も同じように見えるよ」

 

 

 少年は、少し寂しそうな表情のまま山を見つめていた。

 暫くすると、少年の目にも椛の姿を捉えることができるぐらいに、椛の姿が近づいてきているのが見え始める。ものすごい勢いで遠くの方から飛んでくる人影が見えた。

 人影はどんどん大きくなり、姿形がはっきりとしてくる。近づいてくる人物は表情を明るくし、満面の笑みを浮かべて尻尾を振って飛んできているようだった。

 息を切らしながら。

 赤いマフラーをたなびかせながら。

 大きな剣を持った真っ白な存在が飛んできた。

 

 

「はぁ、はぁ……」

 

 

 少年の前にたどり着いた人物は急ブレーキをかけて停止し、満面の笑みで少年を見つめた。

 その人物こそ―――犬走椛である。

 椛は、少年の目の前で止まると息を整えるように大きく息を吸い、少年と挨拶を交わした。

 

 

「和友さんお久しぶりです」

 

「久しぶりだね、椛。半年ぶりぐらいかな」

 

「は、はいっ。半年ぶりです。もうちょっと正確に言うと8か月ぶりですけどね」

 

 

 少年は、半年前と‘少しだけ変わった少女’に向かって半年前と何も変わらない対応をした。‘何も変わっていない少年’は、何も変わっていないことを示すように正面を向いて相対した。

 椛は、少年の全身を見渡し、半年前よりも大きくなった少年の姿を視認する。体の大きさ自体は少しばかり変わったものの、相も変わらずの雰囲気を発している。椛の中の少年は、今の少年と完全に重なった。

 椛は、身長以外に何も変わっていない様子の少年に嬉しそうに声をかけた。

 

 

「お元気そうで安心しました。しばらく妖怪の山へ来てくださらなかったので心配しましたよ」

 

「ごめんね。この半年、ちょっと色々あってさ」

 

「そうだったのですか。でしたら、これからは……」

 

 

 椛は、息を整えながら胸を撫でおろして少年と会話を進める。

 妖怪の山にどうして来なくなったのかという半年に渡る疑問の回答は、色々あったという酷く曖昧なものだった。

 けれども、それも今日までの話なのだろう。たった今、少年は椛の目の前にいる。妖怪の山へと来ることができなかった理由が取り除かれたからここに来たのだろう。

 来ることができない理由が無くなったのならば、これからは妖怪の山へと来てもらえる。椛は、来ることができなかった理由が消え去った今ならば、妖怪の山へと来てくれるものと期待していた。

 しかし、少年は椛の期待を裏切るように妖怪の山に訪れなくなった理由を告げた。

 

 

「ただ……妖怪の山の立地はもう分かったから、妖怪の山に来る理由が無くなったんだよね」

 

 

 昔、少年が妖怪の山を訪れていた理由は、妖怪の山の境界線を探るためである。境界線を引くために妖怪の山に来ていた少年は、妖怪の山の境界線が分かってしまえば妖怪の山へ来る理由が無くなってしまう。

 それは、少年に会いたいという想いを抱えている椛にとって死刑宣告に近かった。

 

 

「それに、本来妖怪の山は僕みたいな余所者が入っちゃいけない場所だし、積極的に来ようとする場所じゃないでしょ?」

 

 

 妖怪の山は、本来人間が立ち入ってはならない場所である。人間の立ち入りが基本的に禁止されている場所に少年が入りこむ理由もない。

 さらには、少年の病気が表面化した時期が上手く妖怪の山の境界線を覚えた時期と重なったのも原因の一つとなっていた。

 

 

(あの頃が一番辛かった時期だったしなぁ……)

 

 

 とてもじゃないが、体を動かして外に出るなんてことをできる状況ではなかった。永遠亭からも出られないような、病室から出ることができないような人間が、どうして妖怪の山に行けるだろうか。行きたくても行ける状況になかった少年は、妖怪の山へと行ける道理がなかった。

 椛は、妖怪の山へと来る理由が無いという少年に向かって、少しだけ恥ずかしそうにしながら自らの想いを打ち明ける。

 

 

「私に会うという理由で妖怪の山へ来ていただけないのですか? 私が一番に和友さんを見つけますから。和友さんを危険な目に合わせるなんて絶対にしませんから」

 

(私には恥ずかしすぎて、あんなことを口にできませんね)

 

 

 少年の隣にいた文は、椛の言葉に思わず恥ずかしくなった。少年のことを下の名前で呼んでいることからも、親しい間柄であることは予測できていたが、椛がこれほど真っすぐに少年に向かって好意を示すような言葉を使うなんて予想外だった。

 文には、椛が言うようなことは恥ずかしくて口にできない。見栄や自尊心が邪魔をするのだ。

 誰かに好意を伝えるということは、心の奥底にある感情を打ち明けるということ。それは、自分自身を明かすということ。それをするには、その人になら心を晒してもいいと、相手の侵入を許すことが必要になる。

 文にはそんなことはできない。未だに恥ずかしさや見栄が勝っている文には、絶対にできない芸当である。

 けれども、椛は少年に会いたいのだと愚直なまでに述べている。文の心は、その椛の行動にざわついた。

 自分ができないことをやっている。

 どうして自分にはできないのか。

 そういった思いが心を揺さぶっている。

 文は、自身の心に沸き立つ恥ずかしさをごまかすように、椛に対して茶々を入れ始めた。

 

 

「うわぁ、愛の告白ですか?」

 

「……文は、なんでここにいるのよ」

 

「ふふん」

 

 

 椛は、少年の隣にいた文の存在が目に入っていなかったようで露骨に嫌な表情を浮かべると同時に声のトーンを落とした。

 椛は、明らかに文を無視しようとしている。椛の立っている位置や、少年のいる場所まで飛んでやってきた軌跡を考えると、文が見えていないということはありえない。まさか、少年だけを収める視界を保持しているわけではないだろう。椛の行動は、完全に文を置き去りにしていた。

 文は、椛を挑発するように少年の腕を抱きしめる。目の前にいる椛に見せつけるようにして、頭を少年へと寄りかけながら言葉を並べ出した。

 

 

「それはもちろんデートですよ。これから協力プレイのもと、妖怪の山へと登山に向かう途中です」

 

 

 少年は、腕を取られても特に動かなかった。少年の視線は、文に向かうことなく、椛に注がれている。

 文は、少年が動かないのを不思議がることもなく、椛を挑発するために自身のできる最大の虚勢を張る。いつもしているように顔に仮面をつけ、少年の腕にしがみついてしまっている恥ずかしさと少年の傍に寄っている嬉しさを押し殺すように平常心を装っていた。

 ここで恥ずかしがってしまったら虚偽が露見する。文は、いつもの仮面をかぶることで、椛に対する挑発を上手くやれているつもりだった。

 だが、そんな文の思惑とは裏腹に、椛は一切動揺することなく、文の言葉を嘘であると切り捨てた。

 

 

「見え見えの嘘はつくだけ無駄よ。そんな薄っぺらの嘘で騙せるのは文の数少ない購読者だけだと知っておくのね」

 

「ど、どうして嘘だと分かるのですかっ?」

 

 

 文は、張り付けていた仮面を一瞬ではぎ取られ、動揺を隠せない表情で声を荒げた。

 文が離れるのと同時に少年の腕が自由になる。少年は、目の前で繰り広げられている争いを見て遠い目をしていた。

 

 ―――なんだこれは。

 なんで、どうして。

 どうしてこうなるの。

 僕は、こんなことのために来たわけじゃない。

 少年の中に、疑問がぐるぐると血流にまぎれて回転する。

 そんな少年のことを知る由もない椛は、さらに場を荒らす。「頭が悪いのね」と言わないばかりに文を見下すようにして言葉を放った。

 

 

「言わなきゃ分からないの?」

 

(はぁ、やっぱり来なきゃよかったかな……少なくとも、文を連れてくるべきじゃなかったか)

 

 

 二人の間の空気は、今にも喧嘩が起こりそうな雰囲気に変わっていく。じわじわと黒いものが空間に停滞していく。

 少年は、二人の様子を見て小さく息を吐き出すと椛の所に来てしまったことに少しばかりの後悔をした。

 

 

「何を言い争っているのか分からないけどさ。時間が限られていることだけは言っておくからね。僕は、1時間もしたら人里に筆を受け取りに行って家に帰らなきゃならないんだよ」

 

 

 少年は、二人の間に割り込むようにして話を入れ込んだ。ちなみに、先ほども言っていたが少年に時間が無いというわけではない。話すぐらいの余裕なら普通にある。

 店主は、時間にうるさい人間ではないのだから筆を取りに行くのが遅れても大した問題にはならないだろう。例え、受け取るのが明日になったとしても特に怒られたりなどしないはずである。

 つまり―――今日一日は、フリーと言える日である。

 文は、道中で言っていた言葉と違う少年に問いかけた。

 

 

「え、でも、さっきは時間に余裕があるって」

 

「どうでもいい言い争いを聞くぐらいなら帰るよ。僕には、時間を無駄につぶしている余裕はないんだから」

 

 

 文は少年が若干怒っているのを感じ取り、ひきつった顔をした。

 普段ならば、そんなことにはならなかっただろう。ここが人里ならば、そんなことにはならかったはずである。

 妖怪の山で、椛と一緒に、そんな場であったから。だから、少年には喧嘩しているのを黙ってみているだけの心の余裕がなかった。

 本当ならば椛に会いに行くことも乗り気ではなかった。会わない方が良いとさえ思っていた。

 その通りだったかもしれない。今日会ってしまったのは、失敗だったかもしれない。少年は、そんな後悔が―――ちょっとした気持ち悪さが心の中に住んでいるのを感じ取っていた。

 

 

「あんまり時間をかけすぎると、きっと……僕を心配して連れ戻しにやって来る」

 

 

 少年は、店主から3時間という待ち時間を告げられた時、マヨヒガに一度帰ろうか悩んだ。

 藍がきっと心配している。

 帰ろうか悩む理由は―――それだけで十分だった。

 

 

(藍は、椛みたいに我慢してちゃんと待っていられるかな……藍なら、大丈夫だよね……?)

 

 

 普段少年が出かけるときには、藍がついてきている。いつでも少年の傍にいた心配性な藍は、きっといてもたってもいられない気持ちで、不安を抱えながらマヨヒガで待っていることだろう。

 少年は、今一番構ってあげなければならない相手が、マヨヒガで自分の帰りを待っているのではないかと考えると気が気ではなかった。

 

 

(藍のことを考えると、やっぱり心配になっちゃうんだよね)

 

「そうでしたか、和友さんに時間がないのなら話を進めます。折角の時間を無駄にするわけにはいきませんからね」

 

 

 椛は、無駄な時間を過ごしたくないという少年の意見に便乗する。そして、文を横目に見るとはっきりと告げた。

 

 

「文のことなんてどうでもいいのです」

 

「一応、私の方が椛よりも立場が上なのですが……」

 

 

 文は、椛から向けられる明らかな敵意に声を小さくして文句を垂れた。

 椛が文に対してのみ喧嘩腰になることは、天狗全体が知っていることであり、特に気にされていなかった。文が椛に対する態度や扱いがあまりに他の白狼天狗と違うため、椛が怒っても敵意を向けたとしても仕方がないと黙認されていたのである。

 椛は、少年の言葉に急かされるように文の言葉を無視し、少年の目を射ぬくように見つめる。少年は、真剣なまなざしで見つめる椛に視線を集めた。

 

 

「和友さんに、聞きたいことがあります」

 

 

 椛は、少年に聞きたいことがあった。そして、伝えたい想いがあった。

 椛は、話の流れを最終的に言いたいことに持っていこうと最初の話題に切りこむ。

 

 

「和友さんが妖怪に山に来なくなったのは、妖怪の山の立地が完全に把握できたからというものでよろしいのですか?」

 

「それで概ね合っているよ」

 

 

 少年は、妖怪の山へと来なくなった理由を目的が無くなったからということだと言う。

 妖怪の山は、人間にとって目的が無ければ来るような場所ではないため、少年の言っていることは何もおかしくはない。

 椛は、次なる言葉を吐き出そうとそっと息を吸った。

 その瞬間――少年から行動の割り込みがあった。

 

 

「椛は、知らない間にまた敬語に戻ったんだね」

 

「あっ……」

 

 

 少年は、これまで話していて半年前の椛と今の椛の違いに気付いた。

 椛は、最初に少年と出会ったとき、敬語ではなかった。もともと椛は、侵入者に対して尊大なイメージと近寄りがたいイメージを与えるために、厳かな口調をしていた。

 しかし、口調がうつるという話をしたと思うが、間違いなく椛は少年の口調がうつっていた時期があったのである。その時は、少年と椛は―――気軽に話せる友達感覚で話していた。

 椛は、そっと口元に手を当てながら言った。

 

 

「余りに久々だったからでしょうか、話し方を忘れてしまったみたいです」

 

「いや、良い傾向だと思うよ」

 

 

 少年は、心から椛の変化を喜ぶ。

 椛は、良い傾向という少年の言葉に儚い期待をした。

 印象は悪くない。椛は、自らの想いを遂げる可能性の上昇を感じ取ると、少年に迫るように近づき、問いかけた。

 

 

「和友さんは、敬語の私の方がお好きですか?」

 

「椛、結構ガッツリ攻めますね。肉食系女子ですか?」

 

 

 文は、椛の一言に黙っていられず言葉を挟み込んだ。

 二人の会話。

 これは、二人のための会話。

 空気をそのまま呑み込めば、文はこのまま黙っているか、この場から去るかの二択を選ばなければいけない場面だっただろう。逃げたくなる場面だっただろう。

 だが、それを許すほど、文の心は文に対して優しくなかった。文の心はここで引けとは命じなかった。逃げるなと豪語していた。

 しかし文のそんな捨て身の言葉も、場に留まらずに通り過ぎる。椛は、文の言葉を完全に無視していた。少年も同様に文の言葉を無視していた。

 

 

(文には悪いけど、これは僕と椛の問題だから)

 

 

 少年は、この時点で椛が自分に何を伝えようとしているのか察していた。

 

 

「僕は、口調に関してはどっちでもいいかな。喋り方はあんまり気にしない方だからね」

 

「そうでしたら、このままでいさせてもらいますね」

 

 

 久しぶりの少年との会話で、心の内が打ち震える。やっぱりこれが必要だったのだと体が訴えかけている。椛は、顔に笑みが浮かぶのを止められなかった。

 少年は、嬉しそうに話をしてくれる椛を見ながら口調以外変わっていない椛に対してかつて伝えた想いを再び伝えた。

 

 

「椛は、相変わらず妖怪の山で侵入者に対する見張りをやっているみたいだね。本当に立派だと思うよ」

 

 

 少年は、嘘でもなく本当に椛のことを立派だと思っていた。

 

 

(椛は、僕によく似ている)

 

 

 決まり事を破ることの出来ない少年と、天狗社会での役割を放棄することができない椛は―――よく似ている。

 

 その社会で生きていくために努力していたことも。

 努力が相手には認められないところも。

 認められなくても、自分にとっては意味があると思っていたことも。

 きっといつか、認められる時が来ると信じていたことも。

 

 少年は、椛に対して少しだけ同族のような感覚を覚えていた。

 椛は、少年に褒められたことで気恥かしそうにお礼を述べる。

 

 

「あ、ありがとうございます。でも、これが私の仕事ですから……やっていて当然なのですよ」

 

「当然のことを当然のように守れる、それが椛の凄いところだと思うよ」

 

 

 自分の役割を全うする。決まり事を守ろうとする。ルールに、規則にのっとる。

 少年は、それがどれほどに難しいことなのかよく分かっていた。決まりごとに縛られ、本人の意志とは違うことをする。やりたくないことを―――強制する。それは、心の拷問ともいうべき、悪夢のような時間である。

 少年は、素直に椛のことを称賛した。自分の決まり事よりも、椛の妖怪の山の監視の方が守ることが難しい。少なくとも少年は妖怪の山の監視の方が、難易度が高いと思っていた。

 

 

「特に、椛のやっている妖怪の山という監視の仕事は、当然のようにやることが難しいことだ。みんなのために―――そう思って心を曲げられる椛は、本当にすごいと思うよ」

 

 

 少年の決まり事を守るというルールは―――自分自身を守るもの。

 椛の妖怪の山の秩序を守るという掟は―――妖怪の山を守るもの。

 両者は似ているようで、その実似て非なる物である。妖怪の山を守ること、それは椛自身を守ることには一概に繋がらない。なぜならば、それは椛だけが頑張っていれば済む問題ではないからである。

 少年の敵は自分しかいない。外から攻撃を加えられることはなく、自分が怠けないように自制すればいいだけの話である。

 だが、椛の場合は違う。

 椛の敵は、味方にいるのだ。

 

 

「怠けていてもばれないし、大きな損害の出る仕事じゃない。さっき聞いたけど、哨戒天狗が突破されても、文みたいな上位の天狗が出てくるということなんでしょ?」

 

「はい、そうですね。私たちが突破された場合、上位の天狗が対処にあたります」

 

 

 椛の行っている任務は、妖怪の山に対して大きな影響を与えない。

 椛が仮に侵入者を見逃しても、影響はそれほど出ないだろう。文が言っていたように哨戒天狗が突破されても、上位の天狗たちが防衛に入る。椛のしている妖怪の山の監視は、あった方が良いという程度でしかない。それをずっと真面目に妖怪の山の秩序を守るために頑張っている。

 

 

「だったらなおさらだ。哨戒天狗の仕事は、普通の人間なら適度にサボってしまうと思うよ。椛は、真面目にいつも妖怪の山を見張っているし、凄いと思う」

 

「これまでずっと妖怪の山の監視をやってきましたが、こうやって褒めてくださったのは、今も昔も和友さんだけです」

 

 

 椛は、少年の言葉に照れくさそうに頬をかきながら嬉しそうにする。

 なんでなんだろう? どうしてこうなのだろうか?

 

 

(どうしてみんな褒めてあげないんだろう……みんな僕よりもすごいことをやっているのに、どうして褒めてあげる人が誰もいないの?)

 

 

 少年は、不思議に思っていた。幻想郷の人間は、褒められ慣れていない人間が多すぎる。

 みんな、初めて褒められたとか、そう言ってくれるのは貴方だけですとか、嬉しそうに答える。

 褒められることがないのは、出来て当然と思われているのか。

 それとも、褒められるほどのことでもないと思われているのか。

 藍が褒められないのは、前者だろうか。

 椛が褒められないのは、後者だろうか。

 少年には、分からなかった。

 

 ただ―――少しだけ寂しいなと、そう思った。

 



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意味のないこと、意味のあること

 文は、椛の仕事を褒める少年に唖然としていた。

 

 

(妖怪の山の監視の仕事を褒める人間なんて、初めて見ました……)

 

 

 妖怪の山の見張りというのは、それほどにスポットライトを浴びない役割であり、注目を浴びない役割である。誰からも称賛されず、誰からも注目されない、そんな仕事である。

 

 

「妖怪の山における監視なんてあってないようなもの、それが妖怪の山に住む妖怪の認識ですからね」

 

「監視をしている者としては非常に悔しい所ですが、文の言う通りです……」

 

 

 椛は、文の無慈悲な言葉に悔しそうに口を紡いだ。

 妖怪の山の監視には、意味がない。

 やっても、やらなくても、意味がない。

 だから、注目もされなければ評価もされない。

 それが、妖怪の山に住んでいる天狗社会にいる者の認識である。

 もちろん天狗社会の一員である椛にも、妖怪の山の監視という仕事には意味がないという自覚があった。

 自分のやっている仕事は―――全く意味のないものだ。自分のしている仕事は―――他人から見た場合に全く意味が無いと思われている仕事だ。

 

 

「常識が少しでもある人間であれば、妖怪の山に近づこうなんて考えません。妖怪に関しても同様です。天狗に喧嘩を売ろうという者は、ほとんどいません」

 

 

 そうである―――妖怪の山の監視など正直なところ必要がない。

 妖怪の山に侵入してはならないことは、常識を踏まえている者なら全ての者が知っている。常識を持っている者ならば、ほぼ全ての人間が妖怪の山を登ろうとはしないだろう。10にも満たない子供だって理解していることである。

 

 

「誰も登ろうとしない妖怪の山を見張るなんて、不毛なことだと言われても仕方のないことなのです」

 

 

 椛の言うように、妖怪の山に登って来る人間は少ない。

 だが、少ないというだけで全ての人間が登ってこないというわけではなかった。妖怪の山に登ってこようとする者は僅かながらに存在する。だから監視をする、追い返すという意味では確かに役に立つ瞬間はあった。

 しかし、妖怪の山に故意に登って来る人間や妖怪には、ある共通点が存在し、それによって白狼天狗の仕事は無意味と化していた。

 

 

「それに、縄張り意識を持った所で……監視をした所で、妖怪の山へ入ってくる者は入ってくるのです。妖怪の山は、入ろうとしなければ入れない場所ですから」

 

「そして、総じて妖怪の山へ入ろうとする侵入者は、見張りをしている白狼天狗よりも力を持っている者が多い」

 

 

 文は、椛の言葉にさらに上乗せするように、暗に妖怪の山の監視の仕事を貶した。

 妖怪の山に登ってはならないと知っていてもなお妖怪の山を登ろうとしてくる者は、総じて監視役である白狼天狗よりも力のある者であることが多い。

 そんなことは―――当たり前の事である。妖怪の山に登って来る人間や妖怪は―――哨戒天狗がいることを分かって登って来るのだ。そこに白狼天狗がいることを知っていてなお登って来るのだ。そんな相手が白狼天狗より強くないなんてことはない。哨戒天狗がいくら注意をしたところで、脅したところで、武力によって押し通されるだけだ。

 文は、椛の心に深く突き刺さるような言葉の槍を放り投げた。

 

 

「これではやる意味がない、価値がないと言われても仕方がありません」

 

「そういうことです……所詮、私たちのやっていることなんてそんなものなのです」

 

 

 椛は、悲しそうな表情で笑っていた。

 

 

「私たち白狼天狗は、ちょっとばかりの抑止になっている程度、あってもなくても変わらないような石ころの一つ、転んだらラッキー程度の障害物なのです……」

 

 

 白狼天狗がいることで役に立っていることと言えば、そこにいるという存在感を与えることで、妖怪の山を登ろうとする妖怪や人間の数を制限できることであろう。

 しかし、それは意味があることには繋がらない。結局侵入者を取り逃しても、見つけても、何も変わらないのだから。白狼天狗の仕事の成果が何かの変化を与えることはないのだから。いてもいなくてもいい存在―――意味のない存在であることに変わりはなかった。

 

 

「だから、真面目に監視をしている仲間なんてほとんどいません……」

 

 

 白狼天狗の見張りに対する認識は酷く低い。真剣にしなければならないという認識を持っている天狗は、椛を除けばいないと言っても過言ではないだろう。

 妖怪の山に侵入しないような抑止力に必要なことは、あくまでそこにいて監視をしているという事実だけである。見張りをしているから、危ないから、だから近づいてはいけないという中身のない虚実を真実にするためのものである。

 だから、見張りの途中に遊びだす者や誰かに押しつけて帰ってしまう者などざらにいた。

 そんな中で、椛は妖怪の山の見張りをしてきていた。

 真面目に仕事をしてきた。

 誰よりも真剣に役割をこなした。

 ただ―――それに対する見返りなんて何もなかった。

 仕事を放棄する者がほとんどでも何もおかしくなかった。むしろ、真面目にやっている自分がおかしいのだと思っていた。

 

 

「真面目にやったところで取り立ててもらえるものじゃない。やって当たり前といわれ、やらなくても罰せられることはない。取り逃しても、上が勝手に処理をする」

 

 

 真面目に妖怪の山の見張りをした所で上の階級に上がれるわけではないのだ。

 文は産まれてからずっと鴉天狗で、椛は産まれてからずっと白狼天狗である。いくら成果を出しても、いくら与えられている仕事を頑張っても何も変わらない。それ(立場)は、これからも変わらないだろう。

 

 

「こんなことにやる気を出せという方が無理な話なのです」

 

(やっぱり、外の世界とは違う……)

 

 

 少年が外の世界と似ていないと思ったのはそこが原因だった。努力が評価されない。真面目にやっていても何一つ理解されない。権力構造があるくせに、上に登れない。そこが天狗社会を外の世界と違うと思った部分であった。

 椛は酷く悲しそうな顔で笑う。今にも崩れそうな顔で笑う。

 

 

「私もみんなと同じようにサボれたらなんて思うこともありましたが……いくらそうしようと思っても、私には無理でした」

 

「椛、周りを気にする必要はないよ。椛は椛が正しいと思うことを、椛自身が決めていることをすればいい。それが正解で、間違いなんかじゃない」

 

 

 少年は、椛が抱えている気持ちが痛いほど理解できた。同じく誰からも評価されないことしてきた身として、他人から馬鹿にされるようなことを黙々とこなしてきた過去を持っているからこそ、椛の気持ちが嫌でも分かってしまった。

 

 

「正しいことは、正しいことをやろうと思わなければできないんだ。椛のそれは正しいと思っているからしているんだよね? だったらその自分を信じて。僕も、椛の正しさを信じるから」

 

 

 正しいことは、正しいと思った人間にしかできない。

 知らない間に誰かに迷惑をかけていたとか、傷つけていたということはあるが、知らない間に誰かを助けていたとか、知らない間に良いことをしていたなんてことは、基本的には起こりえない。正しいことは、正しいことをしようとして初めてできることなのである。

 椛は、正しいことをしようとしている。周りから間違っていると言われても、おかしいと言われても、正しいことをしようとしているのならば、正しいことをするべきである。

 

 

「椛には前にも言ったと思うけど、外から見ての意味なんてあっても無くても変わらないし、価値があっても無くても変わらないと思うよ」

 

 

 少年は、自分がやっている行動の他人から見た価値などどうでもいいと思っていた。自分のした行動による結果に対して他人がどう言っているとか、他人からどう思われているかとか、他人からの評価とか、他人からの価値とか、そういうものはどうでもいいと思っていた。

 

 

「やっていることに対して意味や価値を求めようとしているのは……ただ、その方が楽だからでしょ? 意味があるから頑張ろうという気になるだけだよ。たったそれだけのものでしかないんだ」

 

 

 少年は、他人から見た自分の行動の価値を気にしたらダメだと思っていた。

 気にしても価値が生まれるわけではない。気にしても気が落ち込むだけでしかない。やると決めたことに対しては、自らの意志が介在するだけでいい。そこに他人の意見は必要ない。

 

 意味がない。価値がない。

 

 その言葉にどれほど意味があるだろうか。

 その言葉にどれほどの価値があるだろうか。

 自分がある行動をした時に、それが他人から見て意味のないことのように思えても、自分の中に意味があれば十分ではないのか。

 例えば、毎日のように家の前で挨拶を交わしている人物がいるとする。その人は、毎日朝6時半から家の前を通る人に対して挨拶をしていた。

 その行動にどんな意味があるだろうか。

 その行動にどんな価値があるだろうか。

 そんなことをしてどうなるという人間もいるだろう。

 誰かが得をするわけでもない。

 鬱陶しいと思う人間の方が多いかもしれない。

 だが、その行動に本人が意味を感じていればそれでいいのである。その人が朝に挨拶をして、やったという気持ちになれば、それで十分ではないだろうか。

 行動の理由なんて些細なもので、その些細な気持ち、そうしようと思う気持ちにこそ価値がある。少年は、そう思っていた。

 

 

「行動に価値は無くても、行動に対する姿勢や意志に価値が存在することもある。そもそも、自分がそうしたいと思うことそれ自体に価値があるはずだ。それが和友さんの言い分でしたね」

 

「どういうことなんですか?」

 

「分かりませんか? 文は思ったよりも頭が回らないのですね。鳥だから仕方ないのですか」

 

「喧嘩売っていますよね?」

 

 

 文はこめかみに血管を浮きただせ、今にも殴り掛かりそうな顔で椛を見つめる。椛は、文から迫りくるプレッシャーに対して額に若干の冷や汗をかきながらも、余裕そうな表情を貫いていた。

 少年は、再び喧嘩腰になる二人を止めるように、文に例を挙げて説明し始める。

 

 

「例えば、文の文々。新聞を挙げてみようか。文の新聞には、どういう意味があってどういう価値があるの?」

 

「誰のものよりも速く届くという希少価値があります。私は、誰よりも速く情報を集めることができますから、誰よりも速く情報を届けることができます」

 

 

 文は、少年の質問に対して一瞬きょとんとするも、自身が最速であるということを、最速である価値を自慢げに話した。自分から見た文々。新聞と他の新聞との違い、自らの新聞の優れていることを口にした。

 文の話しているそれは、つまるところ他者との比較で自分が優れているところである。自分が周りよりも優れていると‘思っている’ことを話しているだけで、決して他人からここがいいねと言われた部分ではない。

 少年は、文の勢いを寸断するように問いかけた。

 

 

「でも、それは文にとっての価値だよね? 早く届けているという自己満足だけ。妖怪や人間から言えば、そんなものには価値がないと思うよ」

 

「え?」

 

「幻想郷の妖怪や住人にとっては、即座に届く新聞なんて別にいらないんだ。誰よりも早く届く新聞なんて必要ない。幻想郷の住人が情報を急いで集める理由は無いからね」

 

 

 文は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。

 少年は、文の書いている文々。新聞の価値を外の視点から批判する。外部から見て椛が妖怪の山を見張る価値が無いというのならば、文の文々。新聞が誰よりも速いということにも価値なんて無い。

 価値を決めるのは相手である。外部から見た価値というのは、あくまでも外部がつけるものである。成績表も、報酬も、外部から与えられるものである。

 椛のやっていることに価値がないという文の言葉は、そういうことなのである。椛の仕事に対して外部にいる自分が評価している内容になる。

 つまりは―――自分のやっている‘誰よりも速く届けるという付加価値がついた新聞’に対しても同じことがいえてしまう。文の新聞を読んでいる購読者が早さを求めていなければ、意味がないと言っているに等しくなる。

 

 

「文自身から見てなら価値があるよ。少なくとも自分がやっていることに満足できているんだから」

 

 

 ある人が100mを10秒で走れるからといって、それを凄いと称賛することはあれ、そこに価値があると思う人はごく少数なはずである。

 速く走れることによって得をする人は少ないのだから。同じように文の新聞は、早いなと言われることはあっても、そこに価値があるとは思われてはいない。周りから見れば、そんなものには意味がない。購読者からすれば、そこに価値があると思って購読しているわけではないはずである。

 そもそも、相手と自分の価値観が違うのに、同じ価値を持とうとするのが間違いなのだ。

 少年は、喧嘩腰ではなく、優しく語り掛けるように文に話しかけた。

 

 

「でもそれは、外から見ればたいしたものじゃない。それは、椛のしている仕事と同じだよ。椛は、外から見て価値があるから妖怪の山の監視をやっているわけじゃないんだから」

 

「……そうかもしれませんね。速く届けられることで羨ましがられる事なんて殆どありませんし」

 

 

 文は、少年の言っていることがどういうことなのか何となく理解できた。内心では、少年の言葉に苛立ちながらも、少年の言葉が自分が椛に対して言っていた言葉と変わらないと思うと怒る気にもなれなかった。

 文が新聞を書いているのは、まさしく自己満足である。自分の文章を他人が読んでくれることが嬉しくて、それで何か感じてくれていることが嬉しいからやっていることである。別に相手からしてみれば、文の新聞である必要はなく、面白ければすぐに届くような機能は特段必要ではない。そこに価値を求めているわけではなかった。

 

 

「早く届けて欲しいなんて思っている読者は、全くと言っていいほどいませんから……」

 

 

 文は、言葉の勢いをなくし、申し訳なさそうに椛を見つめる。

 今、自らの新聞を貶さたような気がして苛立っている、僅かに傷ついている。きっとそれは、先程椛に言った言葉も同じように椛の心を傷つけたことだろう。

 意味がないと言った言葉が、椛の心をどれだけ傷つけているのだろうか。文は、現在進行形で罪悪感に襲われていた。

 椛は、文の気持ちを知ってか知らずか、自分の任務に対しての気持ちを語り出した。

 

 

「私の仕事は、別に価値があると思われなくてもいいです。意味がないと言われてもいいです。私自身がそれでいいと思っているから、ずっとやってこられました。私自身が自分の仕事に価値があると思っているから、やってこられました」

 

 

 椛も文と同じである。

 やっていることに対して自己満足している。

 それをしている自分が好きなのだ。

 それをすることが好きなのである。

 それを全うしていない自分が、自分ではないと言い切れるぐらいには、自らの一部になっている。長年やってきたことが椛の中での支えになっている。

 椛は、そっと正面にいる少年を見つめ、恥ずかしそうに顔を赤くしながら言った。

 

 

「それに……私が頑張っていることを誰かが知っていてくれているから、この仕事をこれからも続けようと思いました」

 

「周りの人から見たら意味がないとか価値がないとか、そういうことが大事じゃないんだよ」

 

 

 少年は、結果ばかりを気にしても、周りから見た価値や評価を気にしてもしょうがないのだと分かっていた。他人からの評価は、自分の価値と絶対に一致するものではないし、それが本当の価値になるかは分からない。

 

 

「むしろ、価値があるのは仕事に対する姿勢の方だと僕は思うけどね。誰にでも分かるし、伝わる。一生懸命さは必ず見ている人に伝わるものだから」

 

 

 少年は、これまで区別をするために努力を重ねてきた。藍や紫の名前を覚えた時のように、常人では耐えられない努力をしてきた。

 しかし―――それは他人から言えば価値が無いと思われる行動である。覚えるためにそんなことまでするだろうか。そこまでする価値はないだろう。そんなことを思われていることは分かっていることである。

 

 

(僕のやってきた書き記す作業だって、他人から見たらひどく意味のない行動になる。物ひとつ、名前ひとつ覚えるだけで、何をしているんだと鼻で笑われる程度の話……)

 

 

 少年は、周りからバカにされるようなことをしていると重々承知で―――それでもいいと思っていた。

 

 

(けれども、僕の行動は見えていなかったけど、理解してもらえる内容ではなかったけど、行動の結果を除いた過程だけならば、他人から認められた)

 

 

 少年の書き記す努力の効果は、別の面で現れることが多かった。

 少年が区別を行った次の日、指を真っ赤にして学校に行った日のことである。

 少年の指を見た友達は、どうしたのと気にするように聞いて来た。

 少年は、勉強をしていたらこうなったのだとオブラートに包んで伝えた。

 

 

「笹原がそこまで頑張っているんだったら、俺たちも頑張らないとな」

 

 

 少年の友達は、少年の姿を見て感化され、勉強をするようになったということがあった。

 こういうように本人が成した結果よりも、その姿勢の方が相手にえてして影響力を与えるものなのである。行動にいくら意味がなくても、行動の結果が褒められたものではなくても、伝わる相手にはいいように伝わる。

 少年は、これまで椛と文から受けた影響について思い出すようにして目を閉じた。

 

 

「僕は、椛が一生懸命に仕事に従事しているのを知って、負けないように頑張ろうという気になったし、文の元気に元気づけられることもある」

 

「「…………」」

 

「僕は、行動の結果よりも、そっちの方に価値があると思う。特に椛と僕の場合はね。勿論、それが全てではないけれど」

 

 

 文と椛は、黙ったまま少年の言葉を聞き入れていた。

 しかし、少年が言うように簡単にいくものばかりではない。姿勢から相手に影響を与えるのはやはり難しいものがある。

 

 

「相手に影響を与える必要はない。相手から価値を与えられる必要はない。一番大事なのは、もっと別の所だ」

 

 

 結局、自分の行動が他人に影響を与えなければならないと考えること自体が、行動の難易度を上げているのだ。必ず成果が出る行動なんてないのに、必ず大きな結果が出る行動などないのに。それが、自らに大きなハードルを課している。

 結局一番大事なのは、自分自身で価値があると信じることである。

 

 

「結局―――本人が自分で価値があると思っていることが大事なんだと思う。だから文は、そのままでいいと思うよ。新聞を最速で届けることに、意味を、価値をちゃんと見い出している。それこそが‘変わらない’価値になる」

 

 

 文は、しっかりと少年からの言葉を聞いていた。

 

 

「文が情報を誰よりも早く届けたいと、速く飛べるようになりたいと努力している姿勢を見ていたらまた印象が変わったかもしれないね」

 

 

 少年は、昔の文を見ていたらまたイメージが変わっていたかもしれないと言った。

 文が速く飛べるという結果しか知らない少年には、そこまで至るまでの過程が全く見えてこない。努力も、悔しさも、喜びも、知らなければ何も見えてこない。

 

 

「文だって速く飛ぶために、色々頑張ったんだよね。センスや才能だけで幻想郷最速は無理だと思うから」

 

「ええ、空を飛ぶのが好きで、誰よりも速く飛べるようになりたくて練習をしました。楽しくて、楽しくて、止められませんでした。空が大好きで見える景色が好きで……」

 

 

 文は、少年の言葉で少し昔を思い出して、心がどこか暖かくなるのを感じていた。

 遥かに遠くまで広がる空と境界線を作る地平線の彼方へと飛ぶ。誰よりも早く、地の果てにたどり着きたい。誰よりも速い風を感じていたい。そんな甘酸っぱい青春のひと時。そんな時もあった。

 

 

「まぁ、新聞を書き出したのは最速になってからなので、後付けになっちゃいますけどね」

 

 

 少年は、文の笑顔をみて少しだけ安堵すると、時間が無くなってきていること、椛が少しばかり蚊帳の外になっていることに気付いた。

 もともと妖怪の山に来た理由は、椛と話すためである。文と話すために来たわけではない。

 大事なのは―――ここからである。

 

 

「っと、小難しい話はこのぐらいにして……」

 

 

 少年は、話を終わらせるために話題をそらし、本題へと入ろうと、最初に話すつもりできた椛へと顔を向ける。

 少年の視界には少しだけ疎外感を持ち、何とも言えない表情を浮かべている椛の顔があった。

 少年は、椛との会話を再開するために椛を注視する。その時、椛の服装が目に付いた。椛の首元にはマフラーが巻かれている。そして、腰には大剣だけではなく和傘も刺されていた。

 少年は、椛が身に着けているマフラーと和傘に見覚えがあった。

 

 

「椛、もう夏が来るのにまだ僕の作ったマフラーを巻いていたんだね。雨が降っているわけでもないのに、僕があげた和傘も持ってきて……」

 

 

 椛が身につけているマフラーも和傘も、少年があげた物である。

 少年は、二つの贈り物を見て椛にプレゼントをした時のことを思い出した。

 

 

(椛の妖怪の山の監視の仕事は、天候も、気温も、関係ない。寒い時も、暑い時も、雨の日も、雪の日も、嵐の日も、見張り続ける必要がある)

 

 

 椛が妖怪の山の見張りは、交代制とはいえ休みもなく、昼夜もない。それは暑かろうが、寒かろうが、晴れていようが、雨が降っていようが関係無い。天気に左右されず、気温に左右されず、日付に左右されない仕事である。

 

 

(椛と僕は、逃れられない決まりごとに縛られている……)

 

 

 少年は、椛の頑張る姿に自分を重ねていた。椛と少年には、自分の身よりも、決まり事の方が大事だという共通点がある。

 少年は、椛を何かしらの形で応援したかった。同じく努力する者として、ささやかながら支えてあげようと思った。

 

 

(椛には頑張っていて欲しい。何か椛にとって役に立つもの……何かないかな? 何かしら役に立てれば……)

 

 

 少年は、椛に対して贈り物をしようと決めた。そこで選んだのが、人里で教えてもらった和傘だった。初めて人里に行ったときに、藍に教えてもらった和傘を送ることに決めた。

 

 

(お金はこれまで溜めてきた分で買おう。余計な分のお金については、僕が持っていても仕方のないものだしね)

 

 

 さすがにマヨヒガの傘を渡すわけにはいかなかったので、まだ働いていなかった少年は渡されるお小遣いをためて和傘を買い、雨の日に使って欲しいと椛に送った。

 

 

「こんなもの、私なんかが受け取っていいの!?」

 

 

 椛は、嬉しさと同時に複雑な感情を抱えた。それは、自分自身にそれをもらうだけの価値がないと思っていたからだった。

 白狼天狗という身分、下っ端の見張り番。それはまさしく、張り込んでいる警察に贈り物をするようなものである。

 誰かから何かを貰ったのは何十年ぶりだろうか。横の繋がりで誰かが何かを与えることが基本的にない妖怪の山では、種族の違う河童から意味の分からない物を渡される程度しか物を貰う機会がない。ましてや、人間から貰う機会はなかった。

 間違いなく初めてだった。妖怪の山で初めての経験だった。

 

 

「貰ってよ。僕は、椛だからこれを渡しに来たんだよ」

 

「ありがとうっ!! 大事に使わせてもらうわ!」

 

 

 椛は、少年から渡された傘を嬉しそうに目を輝かせて受け取った。その日以降、雨の日も晴れの日も椛の背中には大剣と一緒に傘が刺さっており、たびたび開いてはニヤニヤしている様子が見られたという。

 少年は和傘だけではなく、気温が低くなってきて間もなく冬の到来が予期された頃に、寒いだろうからと椛にマフラーも送っていた。

 

 

「あったかい……ありがとう」

 

 

 椛は、傘の時とは異なり、拒否することなく少年の行為を受け取った。そんなことが―――少年と椛の中で続いている。

 椛は、そっとマフラーに手をかけ優しく撫でるように動かす。そして、どこか懐かしそうに頬を僅かに赤く染めた。

 

 

「これは、大事な思い出ですから。季節が夏でも、天気が晴れでも関係ありませんよ」

 

「そっか、大事にしていてくれているんだね。渡した僕も嬉しいよ」

 

 

 二人の間の空気は、随分と柔らかくなった。

 少年にとって椛という存在は、他の妖怪や人間に比べれば特別な存在だった。特別視していることは、少年が相手に対してプレゼントをしたということから察することができる。

 少年が誰かに対して物をあげたことなど、両親に対してと紫と藍に対してしかないのだから、その特別性が見て取れるだろう。椛の位置は、少年の中において比較的高いところにあった。

 

 

「これは好印象ですよ、椛」

 

「文はいちいちうるさいですね……」

 

 

 文が二人の空気にまたしても茶々を入れ始めると、椛は邪魔をするように入ってくる文の存在を邪険に扱った。

 少年は、ある程度の価値観を共有したにもかかわらず、変わらない二人の関係性に思わず苦笑する。

 椛は、文を軽くあしらうと笑顔を浮かべて少年に疑問を投げかけた。

 

 

「和友さんはこの8カ月の間、いつも通りだったんですか?」

 

「半年前にちょっとだけあったけど、それ以外はいつも通りだったよ。特に何も変わったことは無かったかな」

 

 

 この時、椛と質問と少年の答えは噛み合っていなかった。椛が少年に、普通とは変わった出来事がありましたか? という質問を投げかければ、少年は病気になっていたことを告げただろう。

 しかし、少年には椛の質問がいつも通り変わっていないのか? という質問に聞こえた。

 少年は幻想郷に来てから何も変わっていないのだから。変わっていないのかと問われたら、変わっていないと返す。

 2人の会話は、噛み合うことなく次へと推移した。

 

 

「あ、あの、和友さん……」

 

「何かな?」

 

 

 椛は、恥ずかしそうにモジモジと両手をこする。口はパクパクと動き、なかなか言葉を口にしようとはしない。

 少年は、少し遠くを見つめるような瞳で椛を射抜くように見つめる。

 椛の目に決意の色が浮かぶ。椛は少年に対して思いの丈を、自身の想いを全て告げようと決心して口を開いた。

 

 

「和友さん!」

 

「はい」

 

 

 少年は、できるだけ柔らかい雰囲気で椛を見つめ、安心させるように呼びかけられたことに対してゆっくりと返答した。

 

 椛は、激しく動く心臓を必死に抑え込むようにマフラーを強く握る。

 手には暑くもないのに汗がにじみ出す。

 体が震えているのが分かる。

 それでも、それでも、それでもと心が前を向いている。

 椛は、瞳を少年の視線から外すことなく、しっかりと立っていた。

 

 

「……和友さんに、お伝えしたいことがありますっ!」

 

 

 ―――その言葉は、全ての境界線を乗り越える前兆だった。




もう少しで、少年の設定が明かされます。それまでに、小説の直しも全話終わらせたいですね。


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明確な拒絶、諦めない気持ち

 少年はできるだけ柔らかい雰囲気で椛を見つめ、呼びかけられたことに対して対応する。

 決して拒否する様子を見せず。

 決して受け入れる様子も見せず。

 ただただ、そこにあるようにあった。

 

 

「僕に伝えたいこと?」

 

「和友さん。また昔みたいに、妖怪の山に足を運んでもらえないでしょうか?」

 

 

 椛は、必死の形相でこれまで抱え込んだ想いを吐き出した。

 半年以上の間溜めに溜め込んだ想いは、椛の心の奥底に停滞している。募り積もった想いは、想いを重ねて重みを増している。今が完全にそれらを吐き出す時である。

 椛は、以前のように妖怪の山に来て欲しいと、会いに来て欲しいと自らの想いを伝えた。

 

 

「私は、仕事の都合上和友さんに会いに行く余裕がありませんし、和友さんの方から来ていただけるとものすごく嬉しいのですが」

 

「…………」

 

 

 椛は、少年の中に存在する境界線に足をかけた。今にも踏み越えようと足を前に出している。椛の瞳は、まるで少年を試すように目線を逸らさず少年の反応を見つめていた。

 椛に見つめられている少年の椛を見る目つきは先程と同じでまだ優しいまま変わらず、何の動きも見られない。

 

 

「おおっ!? ズバッと行きますね!」

 

 

 文は、椛の告白ともとれる言葉を聞いて起こった自身の動揺を抑え込むために、またしても椛を茶化しに走る。

 だが、少年と椛は文の言葉を聞いても微動だにしない。文の言葉は、二人の認識の中には入らない、空気のように認知されない。もはや、ここにあるのは椛と少年の二人だけの空間だった。

 

 

「どうして椛は、僕に妖怪の山に来てほしいの?」

 

「わ、私が和友さんに会いたいからです」

 

 

 椛は、恐怖や不安、恥ずかしさをねじ伏せた。言え、伝えろ、吐き出せ。口がうまく動かないのを無理やり意志の力でねじ曲げて言葉を口にする。

 足を踏み出してしまった。もう、話さなかった時に戻ることはできない。ここは、すでに崖を飛び下りてしまった後。再び崖を登ることはできない。足を戻すことはできない場所。

 それでも―――そうしなきゃいけない。

 そうしなきゃ、そうしなきゃ。

 ―――知らない間に飛び下りていたかもしれないから。

 だったら自分の足で進みたい。

 自分から歩みを進めたい。

 椛は、自らの脚で前へと進む。誰に言われたからでも、なんとなしにやっているわけでもなく、自らの意志で―――前へと進むことを決めた。

 椛は、少年との今までの何とも言えない関係性に終止符を打ちにかかった。

 

 

「私は、和友さんと二人で気軽に喋っている時の―――心の安らげる、落ち着いた雰囲気が恋しいの」

 

 

 椛の口から放たれる言葉は、敬語ではなくなった。知らず知らずのうちに過去を思い返すうちに敬語が取れて、昔と同じ喋り方になっていた。

 あるのはこれまでの蓄積された想い。そこに敬意の言葉など必要ない。必要なのは、何よりも自分の気持ちが伝わる言葉。ありのままの言葉である。

 椛は、思い焦がれた季節の長さだけ心の中で成長した想いを少年に披露する。大きく重くなった想いを少年へ見せつけた。

 

 

「私は、和友さんと喋っていたい。一緒にいたい!」

 

「椛……」

 

 

 椛の声は、妖怪の山中に響き渡るように広がる。一緒にいたいという想いは、一気に空間に拡散した。

 文は、どこか悲しい顔で想いを打ち明けた椛を見つめる。文はすでに知っている。少年から告げられる答えは―――決まっている。文は椛を止めることもできず、なだめることもできず、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 椛は、内に秘めた想いを次々と言葉にし、形にしていく。

 

 

「いくら時間が経っても、あの時の気持ちを忘れられない……仕事中にも無意識のうちに妖怪の山から和友さんの姿を探してしまう。いつ来るのか、いつ来るのかと期待し、待ち望んでいる私がいる」

 

 

 毎日のように少年を探し、いつ来るのかと待ち望んできた。

 ある時から別れの言葉もなく消えた少年のことを、ひたすらに待ち望んできた。

 晴れの日には、絶好の飛行日和だから今日なら絶対に来てくれると。

 雨の日には少年から貰った和傘を開き、傍に少年の存在を感じながら。

 ただひたすらに―――少年の来訪を待ち望んできた。

 少年が一向に来ないことに絶望することも。

 少年に嫌われたのかもしれないと恐怖することも。

 もう二度と来ないかもしれないと悲観することも。

 それでも、それでも、ただひたすらに―――少年を探し続けてきた。

 諦めきれない気持ちが。

 行き場のない想いが。

 少年に向かっている感情が。

 椛の心の中に残り続けた。

 気持ちを伝えていれば

 想いを告げていれば

 こんなに苦しい思いをしなくて済んだのだろうか。

 会えていた時に伝えていれば。

 今の苦しみはなかったのだろうか。

 そう思わずにはいられなかった。

 

 

「もう、こんな狂おしい想いはしたくないの! 辛い想いをしたくないの! だからっ!! 和友さんに昔のように妖怪の山に来て欲しいのよっ!!」

 

 

 椛の心の壁が決壊する。

 絶叫するように感情が溢れ出す。

 流そうとも思っていなかったのに涙が自然に流れていく。

 

 境界線が―――決壊する。

 

 椛は、少年との間に引いてある境界線を確実に踏み越え、これまでの少年との関係を踏み越えた。

 

 

「好き、好き、好きっ!! 私は、和友さんが好き!!」

 

 

 椛は、はっきりと少年に対して想いを告げた。

 愛しい気持ちを、恋しい気持ちを、切ない気持ちを―――全てを少年へと送った。

 

 

「和友さん!」

 

 

 椛は、勢いをそのままに少年に迫るように距離を縮める。

 少年は、泣きながら近づいてくる椛を何も言わずにそっと受け止めた。

 もう、終わりである。これまでの想いは吐き出され、重みはなくなった。

 少年は、その大きな心で椛の想いを全て受け取る。一片たりとも逃さないというように全ての気持ちを受け止める。

 椛は、少年の胸に顔を埋めると涙を流し、心をそのままに声を上げた。

 

 

「本当なら会いに来るだけじゃなくてずっと傍にいて欲しい! 私の傍でずっと寄り添っていて欲しい! 笑顔で笑いかけて欲しい!」

 

 

 椛の心は、完全に少年に惹かれて傾いていた。

 

 

「これ以上一人きりで妖怪の山を監視するなんて無理なの……和友さんの来ない妖怪の山でただ待っているだけなんて、じっとしたまま侵入者の監視なんてできない……」

 

 

 椛の少年への気持ちは、平常心で仕事をすることが厳しいほどに大きくなっていた。

 妖怪の山で侵入者の監視をしていても、少年がやってこないかなと意識を奪われる。無意識のうちに探してしまう。いつやってくるのかと待ち遠しく感じてしまう。平常心でやっていた仕事中に、いつも真面目にやっていた仕事中に、心が揺さぶられてしまう。

 椛は、これ以上妖怪の山の監視を続けていける自信がなかった。

 

 

「待っているだけなんて……出られない妖怪の山で待ち望むだけなんて私には耐えられない。私は、このままじゃ壊れてしまう……このままじゃ……」

 

 

 椛は、待つことしかできない自分が、待っていることだけしかできない自分が酷く嫌いだった。

 これだけ想いを募らせても―――妖怪の山の見張りの任を破ることができない。破って少年を探しに行くことができない。

 なぜならば、ここから出ることを、ここから出て少年を探しに行くそんな自分を許せなかったからだ。

 椛を縛っていたのは、結局決まり事なのである。自らに課した鎖が―――自らを縛っている。

 融通の利かない性格だと言われるかもしれない。椛自身もそんなことは分かっている。破ればいいじゃないか、少年のことを諦めればいいじゃないか。理屈では分かっている。

 だけど、どちらを選ぶこともできない。どちらかを選べばいいのに、どちらも選べない。どちらを選んでも、それが自分じゃない気がしたから。どっちかを選ぶことで今までの自分が無くなってしまう気がしたから。

 ルールを破る自分も―――自分じゃない。

 かといって少年のことを諦める自分というのも、想像できないところまで来ている。

 そして、待ち続けているのも―――限界である。

 椛は、瞳に涙を溜めながら少年の顔を見上げてぼそりと呟いた。

 

 

「和友さんにとって、迷惑な話だってことは分かっているのよ……」

 

 

 一方的に想いを押し付けられている少年からすれば迷惑な話だろう。

 知らない間に好かれていて、だから傍にいて欲しいなんて。

 相手の自由を奪ってまで傍にいて欲しいなんて。

 一方的なお願いをしているってことは分かっている。

 しかし、だからといって少年への気持ちを抑えられるわけではなかった。椛の気持ちは、もう堪え切れないところまで来ていて今吐き出している途中である。

 もう―――後に引ける状況ではない。出してしまっているものは、取り返せない。

 

 

「待って、耐えて、堪えて―――頭の中が一色に染まって、他のことが消えていく。私が私じゃなくなっていく……」

 

 

 少年が空けた時間的空間は、椛の中にある少年への気持ちへの栄養となった。待ち遠しい気持ちが、大切なものを無くしたような気持ちが、少年への気持ちを大きくさせた。

 

 

「和友さんから貰った和傘とマフラーが無ければ、我慢なんてできなかった……」

 

 

 椛が妖怪の山の監視の任を守って待っていられたのは、少年から貰ったマフラーや和傘があったからこそだった。近くに少年を感じられたから、待っていられただけだった。

 

 

「ずっとそばにいて欲しいけど、ずっと一緒にいて欲しいけど……でも、それはきっと叶わない願いだから」

 

 

 今日あるものが明日もあるとは限らない。

 まだまだ話したいことがある。

 もっともっと一緒に眺めたい景色がある。

 二人で見るから見えてくる―――新しい景色、新しい世界。

 少年と話している時は、楽しいから笑うとか、嬉しいから喜ぶとかじゃなくて、笑顔が自然と湧き上がってくるのだ。

 椛は―――少年と一緒にいる時に感じるそんな雰囲気がとても好きだった。

 

 

「だから、せめて妖怪の山に来て欲しいの。だから、私に会いに来てほしいの」

 

 

 椛は―――少年に向けて全てを打ち明けた。

 椛は、涙を流した目で少年を見つめる。

 椛の瞳に映ったのは、ほんのり悲しそうな色が付いた少年の瞳だった。

 少年は、境界線を越えて入りこんできている椛に対してどこか悲しそうな目をしていた。

 

 

「椛……ごめんね。そんなに辛い思いをしていたんだね。全部僕のせいだ。きっと僕が甘かったせいだ」

 

「えっ? 和友さんのせいなんかじゃない……和友さんが責任を感じることなんて何もない。私が……私が勝手に好きになっただけ」

 

 

 椛は、少年の言葉に背筋が震えた。

 この辛い想いが―――和友さんの責任? 

 そんなわけがあるものか。

 これは私の気持ちであって、和友さんから与えられた想いではない。

 和友さんが責任を感じることなんて何もないのに。

 どうしてそんなこと言うの? 

 椛の開け放たれた心の中に不安が入り込んで来る。少年の言葉からは断られる雰囲気しか感じ取れない。椛の瞳は、少年から送られるであろう言葉を予想し、不安の余りびくびくと怯えていた。

 少年は不安を抱える椛を見て、真剣な想いを告げた椛に対して決意を固める。はっきりと言葉にして伝えようと決心した。

 

 

「椛、ありがとう。僕も覚悟が固まったよ」

 

「それじゃあ……!」

 

 

 椛は、少年の言葉に一喜一憂していた。

 ここでもまだ心を振り回されている。

 たった一言―――ありがとうと言われただけなのに。少年のありがとうという言葉から気持ちに答えてくれるという安易な期待を持ってしまっている。

 ただ、そんなものはあくまでも儚い期待である。文は知っている。少年の告げる答えは、すでに決まっているのだ。

 少年から告げられたのは、文の予想どおりで椛の期待とはほど遠い冷たい返しだった。

 

 

「もう二度と妖怪の山には来ないよ。椛はこれ以上僕に期待しなくていい。僕のことは忘れてくれていいから」

 

「ど、どうしてそんなことを言うのっ!?」

 

 

 椛は、少年から返ってきた明確な拒否の言葉に狼狽する。今の椛にとってこれほど衝撃を受ける言葉はなかった。

 どうして? なんで? 疑問ばかりが頭の中を堂々巡りしていく。

 もう二度と来ない。それは明らかな拒否の言葉である。

 断られるだけならまだ分かる。無理だと言われるだけならまだ理解できる。これはあくまでも椛の独りよがりの想いだ。受け取れないというのならまだ分からなくもなかった。

 だが、二度と来ないなどと言われるとは思ってもみなかった。

 あまつさえ、忘れてくれていいとまで言われてしまっている。

 そんな馬鹿な話があるものか。

 これまでの記憶は、これまでの思い出は、一体なんだったというのだろうか。

 椛は、心の中の思い出が急速に色あせていくのを感じていた。

 

 

「和友さんは私のことが嫌いなの……? いつも笑顔で話をしてくれたことも、いつも楽しく妖怪の山を歩いたことも、私に向けてくれた笑顔も……みんなみんな嘘だったの?」

 

 

 椛は、言葉を口にする度に涙をすっと流しながら力なくゆらゆら少年に近づき、少年の右腕を右手で掴む。力加減などしていない。相当に強く握ってしまっているため、少年の腕からは少しばかり骨のきしむ音が聞こえてきた。

 

 

「嘘じゃない」

 

 

 少年は―――それでも顔色一つ変えなかった。痛みならば、椛の感じている痛みの方が圧倒的に大きい。傷つけている側なのに、痛みを与えられて苦痛を表現するなんて許されない。

 少年は、永遠亭で働いているときのように不安な様子を見せることなく、意識を少したりとも椛からそらさなかった。

 

 

「違うよ、みんな嘘じゃない。全部本物の―――僕の‘一部’だよ」

 

「だったら!! だったらどうしてなの!? 私、そんな無理なこと言ってるっ!? 会いに来てほしいと思っている私の感情は、間違っているの!?」

 

 

 椛はさらに少年の腕を掴んでいる手に力を入れ、少年に切迫する。

 想いのやり場は失われた―――少年に気持ちを受け止めてもらえなくて。

 僅かに敵意の宿った瞳が少年を射抜くように見つめている。

 会いに来て欲しい。

 近くにいて欲しい。

 会って話がしたい。

 そんなことを望むことも許されないのか。

 そんな些細なことを叶えることもできないのか。

 椛の中の感情は、凄まじい勢いで変化していく。今にも大剣を手に取って、少年を脅そうかと考えるぐらいには思考が曲がり始めていた。

 少年は、真っすぐに椛の瞳を見つめ返し、動揺する椛に大きな声で叫んだ。

 

 

「椛!!」

 

「っ…………」

 

 

 椛は、唐突な少年の叫びに驚く。それと同時に掴んでいた右手の力が緩んだ。

 分かってもらわなければならない。

 どうしても、納得してもらう必要がある。

 これは―――初めての経験ではない。

 少年は逸れることなく、曲がることなく、椛に向けて想いを告げた。

 

 

「椛の感情は何も間違っていない! 何も間違っちゃいない! でも……僕は、その気持ちを受け取ることはできない!!」

 

「どうして? どうして私の気持ちを受け取ってくれないの!?」

 

 

 少年は、椛の切り返しに一瞬表情を歪める。他の誰にも分らない程度に僅かな瞬間、表情を苦しみで歪めた。

 どうして受け取ってくれないの?

 貴方なら応えられる力があるのに。

 私の願いを叶えることができるのに。

 どうして、私の気持ちに応えてくれないの?

 ああ、そんなことを言われたこともあった。

 

 気持ちに応えるってなんだ?

 受け取るってなんだ?

 人の想いはその人だけのもので、誰かに理解されるものではないのに。

 人の気持ちなど絶対に分からない。

 分からないと言うより、測れない。

 人は、それぞれに別々の定規を持っているから。

 その大きさで長さを測るから。

 だから、その人の本当の想いは分からないのだ。

 本当の大きさなど分かるはずがないのだ。

 それなのに、受け取って欲しいと大きさの良く分からない物を差し出してくる。

 受け取れるはずだと、よく分からない物を送って来る。

 その重さを理解されると信じて伝えてくる。

 そんなもの―――ただの願望じゃないか。

 僕の気持ちが一切入っていない。

 ただの押し付けじゃないか。

 僕の気持ちを受け取ってくれる人はいるのか。

 僕の全てを、僕の心を受け止めることなど誰にもできないというのに。

 僕にそれを受け取れというのか。

 僕に理解しろというのか。

 そんなことを思った時もあった。

 そんなことを思っている僕がいた。

 

 

 少年はすぐさま気持ちを抑え込み、冷静に椛に言葉を送る。

 

 

「椛はまだ引き返せるからだよ。ここで完全に諦めれば、椛はこれ以上辛い思いをしなくて済む。これ以上進んでしまえば戻れなくなる。だから、諦めて欲しい」

 

「分からない!! ちゃんと分かるように言ってよ! 私に分かるような理由で言って!!」

 

「も、椛……」

 

 

 文は、椛の様子にいたたまれない気持ちになった。

 二人の間に渦巻いている雰囲気が―――空気が余りにも重すぎる。

 椛は、その大きな瞳から涙を流しながら少年に泣き顔を晒し、顔をぶんぶんと左右に振る。嫌だと、体全体を使って表現している。

 文は、もはや椛のことを茶化すことも出来ず、慰めることも出来ず、声をかけることも出来なかった。

 

 

「僕がどう言えば納得してもらえるのか分からないけど……僕が何を言えば、椛が分かってくれるのか分からないけど」

 

 

 少年は一切隙を見せず、動揺しなかった。動揺していたとしても椛にそれを気取らせるつもりはなかった。

 あくまでも揺れない、どっしりとした様子で構える。それが相手の気持ちを落ち着ける方法。これまでと同じ、これからも同じだ。

 少年は、涙で酷い表情になっている顔の椛に対して落ち着いた声で話しかけた。

 

 

「僕に言えるだけのことは言うよ。椛は、これ以上僕と仲良くなって恋仲に成りたいの?」

 

「はいっ……成れるものなら」

 

 

 椛は、少年の言葉を即座に肯定した。

 

 

「妖怪と人間の関係であっても?」

 

「そんなもの関係ない……私は、和友さんを必要としているの。妖怪と人間であっても、好きであるという気持ちは何一つ変わらない」

 

 

 椛は、空いている左手で涙を拭きとる。

 少年は人間、椛は妖怪。

 そんなこと最初に会った時から知っている。

 そして、それを理解してもなお少年と一緒にいたいと思っている。

 

 

「私は、人間だから和友さんを好きになったわけじゃない! 和友さんだから好きになったの!」

 

 

 例え、少年が人間じゃなかったとしても。

 少年が妖怪だったとしても。

 魔法使いだったとしても。

 そこが椛にとっての少年を構成する要素ではない。椛が好きになったのはあくまでも少年であって、人間である少年ではない。たまたま、少年が人間だっただけだ。

 少年は、確認していくように続けて椛に尋ねた。

 

 

「椛は僕と恋仲になった後、僕が先に死んでも我慢していられる? 耐えられる?」

 

「それは、種族が違うから覚悟しているわ。それでも、そんな短い間でも貴方と一緒にいたいの……」

 

 

 椛は、例えそれが妖怪にとって僅かな時間であろうとも、それも全て受け入れたうえで一緒にいたいのだと少年に告げた。

 妖怪である椛は、人間である少年とは寿命が違う。天寿を全うするのは明らかに少年の方が早いだろう。椛は先に逝ってしまうはずの少年の死を覚悟していた。

 文は、そこまでの覚悟を持って気持ちを告げた椛の姿を見て、いてもたってもいられなくなった。

 自分にはここまで断言することはできない。そこまで言うまでにどれほどの覚悟を要しただろうか。どれほど悩み答えを出したのだろうか。道中を察するのは難しくない。

 文は、覚悟をするまでに苦悩した椛の過程を顧みて何とかならないのかと少年に訴え出した。

 

 

「ほら、椛もこう言っていることですし、ちょっとぐらい付き合ってあげてもいいのではないですか?」

 

「文……」

 

 

 椛は、突然割って入った文のフォローに驚き、目を見開いた。

 文は、椛の視線を感じたのか、苦笑する。

 

 

「ははっ……私は私なりに思うところがあっただけです、別に椛のためにしているわけではありません」

 

「……ありがとう、文」

 

 

 椛は、少しだけ文のことを見直す。これまで迷惑ばかりかけられてきたとしても、この時ばかりは庇ってくれた優しさに対する嬉しさが勝っていた。

 しかし、少年には文の言葉も届かない。少年は、一瞬にして文の言葉を切り捨て、どこか確信めいた言葉ではっきりと断言した。

 

 

「椛がこう言ってくれているから断らなきゃいけないんだよ。こう言えている間は、まだ戻れるから平気さ。だけど、ずっと一緒にいれば同じことが言えなくなる。手放せなくなってくる」

 

「そ、そんなことはありません。私はちゃんと……諦められます」

 

「ちゃんと、諦められる……か」

 

 

 椛は、少年の意見にどもりながらも反論した。少年のことを諦められると、その口から言った。

 だが、未来のことなど誰にも分からない。

 諦められる―――それはすでに諦めているから言えるのか。

 それとも―――未来ならば諦められるから言っているのか。

 未来に諦められるのならば―――なぜ今諦められないのか。

 今こうして食い下がっている間は、未来になっても諦められない。その気持ちが色あせずに残る間は絶対に引き下がれない。

 だから、諦めるならば今なのだ。

 未来でもなく、過去でもなく、今しかない。

 

 

「椛、分かってもらえないかもしれないけど諦めて欲しい」

 

 

 少年は何の迷いもなくはっきりと告げた。もう何も変わることはないのだと、何も変えられるものではないのだと明確に示し、椛に理解を促した。

 

 

「僕は、誰かと付き合う気は全くない。恋仲になる気は少しも無いし、これからの関係が変化することも決して無い」

 

 

 少年は、例え自分が誰かを好きになったとしても、誰が自分を好きになったとしても付き合う気などこれっぽっちも無かった。

 何を言われたとしても、何を求められたとしても、それには答えられない。答えてもいいが付き合うという結果には決して至らない。それは過去に経験をしたことから決めた、少年の中の決まり事であった。

 

 

「何を言われても、それで命が無くなったとしても、誰とも、誰に対しても。僕は、そういうふうにあの時からずっと決めてきた」

 

 

 きっと少年が生涯で付き合うことになるのは、外の世界で初めて告白してきた少女だけになるだろう。

 たった一回の過ち。

 過去に犯した罪の一つ。

 絶対にあれで終わりにしなければならない。

 少年ははっきりと断言し、全てを諦めさせるように告げた。

 

 

「だから、諦めて欲しい」

 

「で、でも私は……和友さんに会いたいです……」

 

 

 椛はそれでも諦めきれないようで俯き、消え入りそうな声を零す。地面には、椛の涙で濡れて水を吸った跡ができあがっていた。

 少年は、椛の様子に少し困った顔をすると椛にある情報を与える。

 

 

「椛、僕は別に今後一切会わないと言っているわけじゃないよ」

 

「え?」

 

 

 椛は、少年の言葉に顔を上げた。

 

 

「どうしても会いたくなったら人里に行けばいい。どうしても会いたくなったら妖怪の山から人里にいる僕を見つけて、僕に会いに来ればいい」

 

 

 少年の言葉は、最初に述べた二度と来ないという言葉よりも大分妥協されているように感じられた。

 椛は、そう勘違いさせられていた。

 

 

「僕は、7日のうち2回は人里に来るから1カ月に数回会えると思うよ」

 

「……はい、分かりました……」

 

 

 椛は、少年に会うことができるのならば、と縋る様に少年の意見に乗った。そもそも、先程の反応を鑑みるに椛がいくら気持ちを伝えても少年は首を縦には振らないだろう。

 椛は、これまでのやり取りでもうすでに分かっていた。少年の言葉に乗るという選択肢しか残されていないと。少年を諦めるという可能性がない以上、取れる選択肢は一つしかなかった。

 椛は、俯きながら暗い表情で震える口を必死に動かし、言った。

 

 

「‘今は’、諦めます……」

 

「そろそろ僕は帰るよ。時間も差し迫っているからね」

 

「はい……」

 

 

 少年は、椛の肩を一度ポンと叩くとその場で振り返る。

 元来た道を戻ろうと人里への道を歩き出す。ちょうど、妖怪の山の境界線を逆方向に踏み越えて歩き出す。今から戻って筆を受け取りに行けば、そこそこいい時間になっていることだろう。

 少年は、すでに次のことに対して意識を持っていき始めていた。そこに取り残される椛と文を置いて、一人歩みを進め始めた。

 

 

「…………」

 

 

 文は無言のまま、何も言うことができないまま、暗い表情の椛を見つめていた。椛の表情には、これでもかというほどの悲しさが表れている。

 あれだけ言っても何も変わらないのか。

 あれだけ必死に伝えても何も動かないのか。

 いや、何も伝わっていないということはないだろう。何も分かってもらえていないということもない。

 少年は、好いていることを理解していたし、それを含んだうえで断った。受け取ってもらえたが、それをそのまま認めてはくれなかったという形だろうか。

 文は、僅かな時間立ち止まった。

 もしかしたらこうなっていたのは自分だったかもしれない。

 少し立場が違えばそこにいたのは自分で、今の自分の立場にいたのは椛だったかもしれない。

 文は、結局椛に何一つ言葉をかけることができず、止まっていた足を動かし、少年を追いかけるように歩きだした。

 

 

「私は、絶対に諦めない」

 

 

 椛は、俯く顔を上げる。

 何も全てがここで終わったわけではない。

 椛は、諦めていなかった。

 少年は、1月に数回は会えると言っている。

 椛は、暗い雰囲気を振り切るように妖怪の山の境界線を踏み切った。

 

 

「和友さん、私は諦めないから。絶対に和友さんの心を掴んでみせるから!」

 

 

 椛は、続けざまにその場を離れて行く少年と文の後ろ姿に向かって叫ぶ。

 

 

「和友さんの了承をもらって一緒にいてやるんだから!! 覚悟して待っていなさいよ!!」

 

 

 それは―――精一杯の椛からの宣戦布告だった。

 今までになかった言葉。

 決意のこもった重い言葉。

 椛は、確実に変わり始めていた。

 少年は、嬉しそうな表情で後ろを振り向いて手を振る。

 

 

「覚悟しておくよ。“またね”、椛」

 

「はいっ! “また”!」

 

 

 椛は何かに満足したように、どこか吹っ切れたように再び山の方へと飛び去った。

 そこには、もう涙の跡はない。また、これまでと同じように妖怪の山の監視を行うことだろう。そして、これまでと違う想いで妖怪の山に佇むことだろう。

 

 

 少年と文は、椛の背中を見送ることなく人里に戻るために空を飛んだ。

 




これ、もしかして先に原作入ってから、埋めるようにして過去の話を入れていった方が面白くかけたかもしれませんね……


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募った想いの矛先、絶壁の誓いへの到達

 人里へ戻る途中―――文と少年の雰囲気は重苦しかった。暫くの間、お互いに口を開かず人里への距離だけがどんどん縮まっていく。誰も何も話そうとしない。空気は停滞し、息苦しさは増していく。

 少年は、重苦しい空気をものともせず飛びながら考え事をしていた。考え事の内容はもちろん先程の椛のことである。

 

 

「やっぱり、椛とは話さなきゃよかったかな」

 

 

 椛との接触は椛を混乱させる、椛を焚き付ける行為に他ならない。少年が椛と会ったことで、椛の想いに拍車がかかったのは間違いないだろう。

 少年は、椛と会うのは間違いではなかったのかと後悔を募らせていた。

 

 

「ずっと会わずに放置していれば、いずれ忘れると思うし……」

 

「笹原さん……」

 

「何?」

 

「どうして椛からの告白を断ったのですか? 別に笹原さんにそれほど負担がかかるような話ではありませんよ?」

 

 

 椛の提示した条件―――偶に会いに来てほしいというものでは、特に少年が縛られるようなこともない。そのぐらいならば、余裕をもってできるだろう。

 情けでも、同情があったとしても、会いに行ってあげればいい。椛ならば、憐れみの想いから来てくれてもきっと喜んでくれる。後ろめたさから少年が来たとしても、複雑な思いを抱えながらも笑顔で少年を迎えるはずである。

 それに、少年には現在付き合っている人物がいないのだから誰かに遠慮する必要があるわけでもない。

 こう思い返してみると―――少年が椛の告白を断る理由は別段存在しないことに気付くのである。

 

 

「笹原さんは、今付き合っている人がいるわけじゃなさそうですし」

 

 

 誰もいないのならば、誰かを好きになるまででも一緒にいてあげればいいじゃないか。もしかしたら一緒に過ごすうちに好きになる可能性だってあるのに。誰でも断っているのならば、誰でも付き合ってそれを理由に断ればいい。

 それを認めるだけの気持ちは椛だって、文だって持っている。

 なのに、どうして全てを断るのか。

 椛の好意を断るのももちろんだが、少年の椛に対する対応も疑問だった。

 断るにしても、わざわざ1月に1度会うことができるという妥協案まで出した意味が分からなかった。

 

 

「あんな妥協案を出すのなら、素直に付き合ってあげればよかったじゃないですか」

 

 

 断るのであれば、少年が最初に告げたように一生会わないぐらいのことを言った方が椛のためになるだろう。少年のことを完全に忘れて、次のことを考えたほうがよっぽど建設的である。少年の言い方だとどうしても少年の存在を引きずることになりかねない。

 

 

「ちょくちょく会う分にはさほど問題が無いからね。1カ月に1回ぐらいなら、ちょっと視野が狭くなる程度で済むと思うんだ」

 

「それは……?」

 

 

 文は、少年の言葉の意図が分からず、不思議そうな表情を浮かべる。

 何も分かっていないのか。文の表情からは、先程の椛とのやり取りの意味が分かっていないことが読み取れる。

 少年は、椛との間で交わされた言葉の真意を暴露した。

 

 

「‘文も’気づいていないみたいだから言っておくけど、椛は簡単に僕に会いに来ることはできないよ」

 

「どういうことですか? 椛が会い来ることができないって」

 

 

 文は、少年の言葉に露骨に反応を示した。

 もしも少年の言葉が本当ならば、少年は会いに来られないことを知っていて椛に対して妥協案を出したことになる。

 少年は、椛が簡単に会いに来ることができない理由を文に告げた。少年から告げられた理由は、とてもすんなりと文の中に入って来るものだった。

 

 

「よく考えてみてよ。妖怪の山から出られない椛は、人里にいる僕に会いに行くなんて無理な話なんだ」

 

「…………」

 

 

 文は、少年の言葉に絶句した。

 とんでもないことである。これは妥協案でも何でもない。

 これは―――詐欺行為だ。

 椛が余りにも取り乱し、動揺していたことから理解できていなかったが、少年は最初から椛と会う気がなかったのである。

 文は、椛を欺いてまで貫こうとする少年の意志の固さに驚きと畏怖の感情を抱えた。騙しても、欺いても、自分の想いを突き通す姿勢にぞっとした。

 少年は、初心を貫ききった。妥協なんて一切せずに境界線を引いた。

 文は、信じられないものを見るような瞳で少年を見つめる。

 少年の瞳は、少し悲しそうだった。

 

 

「でも、‘今の椛’なら……きっと超えてくるだろうね。境界線を越えて、僕に会いに来る」

 

「どうしてそんなことが言えるのですか?」

 

「椛は、すでに踏み越えているからさ。さっき妖怪の山の境界線を越えて僕たちに叫んだからね。椛は、もう境界線を踏み越えることにそれほどの強制力を感じていないはずだ」

 

 

 椛は、最後の言葉を発する際に妖怪の山の境界線を踏み越えた。あれほど少年が妖怪の山に入り込むまで近づきもしなかった椛が、少年が引いた線が地上に残されている状態で妖怪の山の境界線を見誤ることは絶対にありえない。その椛が境界線を踏み越えた事実が―――会いに来るという絶対の確信になっている。

 一度破られた決まりに強制力はない。抑止力など皆無に限りなく近くなっている。一度犯罪をした者の再犯率が高いのは、そういうことだ。核爆弾は、使っていないから抑止力になっているのであって、使ってしまえば抑止力にならないのと同じである。

 抑止とは、使われるかもしれないという恐怖、もっと酷い目に合うかもしれないという不安が行動を制限していることを指す。使われてしまったにもかかわらず、使われるかもしれないなど思わない、もっと酷い目に合うかもしれないなどと思わない。

 なぜならば、もうすでに抑止は失われたからだ。1度あることは2度あるからだ。1度使ってしまえば、恐怖心や怒りが抑止を押さえつけにくる。

 やったらやりかえせ。もう一発撃ってくる前に潰せ。あいつら、終わらせに来てるぞ。その前にどうにかしなければ。

 使ってしまった側は使ってしまった以上、後に引けなくなる。

 使われた側も、使われてしまった以上後に引けなくなる。

 そうなったらもう、抑止というものはあってないようなものである。

 決まり事も、約束事も、一度破られた瞬間から強制力はなくなる。

 あってないようなもの―――椛にとって妖怪の山から出てはならないという決まりは、もうすでにそんな曖昧なものになっている。

 いや、そんな曖昧なものに―――したのだ。

 椛の意志の力が、決まり事を打ち破った。

 少年は、何かを覚悟したかのような顔で呟くように声を漏らした。

 

 

「もしも仮に椛が境界線を突破して僕に会いに来たら……一つ問いかけないといけないかもね」

 

「何を聞くのですか?」

 

「それは……」

 

「それは?」

 

 

 少年が椛に問いかけなければならない質問は、椛の幻想郷での生活を破壊する。YES or NOで答えられる質問ではあるのだが、椛が少年の問いに対してYESと答えたときには、少年が椛についての全責任を負うことになる。

 

 それでいいのだろうか。

 良いか悪いか。

 単純には決められない。

 その時が来れば、尋ねることになるだろう。

 正しいことをしようとした場合に、どちらを選ぶべきなのか。

 はたまた、別の答えがあるのか。

 答えは、その時提示されることだろう。

 

 少年は、覗き込むように迫る文ににっこりと笑いかけた。

 

 

「秘密だよ」

 

「……そうですか」

 

 

 少年は、問いの内容を告げなかった。

 文は、少年の笑みに合わせるように笑い、追撃を諦めた。ここで少年に差し迫っても少年が答えてくれないことは分かっていることである。

 文は、少年との限られた時間を無駄にしないように次の話題を提示した。

 

 

「ちなみに、どうして椛は笹原さんに会ってはいけないのでしょうか?」

 

「僕は、常用してはいけない薬みたいなものだからね。どんなものか分からず使っているとどつぼにはまることになる。抜け出せなくなる……藍みたいになってしまう……」

 

 

 文は、八雲の式神と少年の関係を思い浮かべた。

 少年と藍の関係は、外から見るとよく分かるが、圧倒的な寄りかかりのもとに成り立っている。少年の視線は常に周囲に向いているのにもかかわらず、藍の視線はいつだって少年に向いている。ちらちらと常に気にして歩いているのがよく分かる。

 椛もああなるというのだろうか。

 果たしてそれは

 ―――良いことなのだろうか。

 ―――悪いことなのだろうか。

 良いか、悪いかなんて決められるものではないだろう。

 ただ、恋に落ちることで相手に依存することになるのは当然のことではないのだろうか。

 恋は盲目なんていう言葉がある。恋をすることで視野が狭くなり、その人しか見えなくなるということである。こんな言葉があるように、恋することで依存するということはむしろ自然のことのように思えた。

 

 

「依存するということですか。それは駄目なことなのですか? 好きになれば依存もするでしょう?」

 

「寄り添う形での依存ならいいだろうね。お互いに寄りかかって、支えになっている状態ならまだいい」

 

 

 好きになって依存するという形自体については、少年も特に問題視していなかった。好きなことに没頭し、視野が狭くなるのは本能ともいうべき逃れられない現象だからだ。

 少年が問題視しているのは、依存の形のことである。

 

 

「でも、僕と椛の場合は一方的に椛が寄りかかっているだけだ」

 

 

 一方的な依存の形―――そして、その依存している相手が誰なのかというところに問題の本質は存在する。

 あくまで問題は―――寄りかかる側の椛ではなく、少年自身にあった。

 

 

「それは藍の場合も同じ。僕に寄りかかっているだけ……」

 

「…………」

 

「それに、僕が椛のことを好きというわけじゃないのに、付き合うのってなんだか悪い気がするんだ……僕はあくまで友達として椛が好きなんだから」

 

 

 文は、少年の言葉に何も言えなくなった。

 よくよく思えばそうである。

 椛は少年のことを恋心から好きだと言うが、少年は椛のことを友達として好きと言っている。

 そもそもそこにすれ違いが存在するのだ。完全に少年の気持ちが無視されている。

 椛と少年の関係はあくまでも一方通行で、攻守の変わらないサッカーのようなもの。椛の想いは独りよがりのもで、それを受けた方が良いとか、断るなんておかしいと言う方がおかしいと言われても反論できなかった。

 

 

「僕の命はそんなに長くない……」

 

 

 文は、唐突に告げられた少年からの告白に度肝を抜かれた。

 そんなに長くない。それは、もうすぐ死んでしまうということである。

 そんな雰囲気は全くなかった。

 そんなこと一言も聞いていなかった。

 文の中で一気に言葉が溢れ出しそうになる。

 文は、出てこようとする言葉を飲み込み必死にこらえた。

 

 

「みんな、止まり木がボロボロになっていることを分かっていないんだ。木が倒れた時に怪我をするのはみんななんだよ」

 

 

 少年は、寄りかかって来る人や妖怪と自分との関係を止まり木に例えた。

 雨の日にお世話になり、晴れの日に涼む、そんな場所として例えた。

 

 

「僕は、木と違って喋れるからなんとかできるけど、みんなも気を付けて欲しいよね。僕一人が悪物みたいに頑張るのって結構辛いものがあるから」

 

 

 少年は、椛の告白を断るのに何も感じていないわけではない。申し訳なさは心の中で大手を振っている。

 椛と少年のやり取りを外から見ていれば、文と同じように少年が悪いように見える。少年が悪者で―――椛を苛めているように見える。別に少年が悪いというわけでもないのに、そう見える。

 そう見えるということが、意外と心に重くのしかかっている。

 それでも―――少年には椛の告白を断らなければならない理由があった。

 

 

「椛には本当に悪いことをしたと思っているけど……椛のためには断る必要があった。もし椛が……いや、やめておこう。これは次に会ったときにする質問だ」

 

 

 少年がこれまでに誰とも付き合ったことが無かったのならば、椛と付き合ったことだろう。何も知らなかった頃ならば、付き合ったはずである。

 しかし、少年は付き合わないと小学校の時に決めていた。

 文は、ここまで少年が声を発したところでようやく頭が追いついてきた。

 

 

「笹原さんの命が長くない?」

 

 

 少年はまだ14歳でこれからの人生の方が長い。人間の平均を考えれば、後50年ほど生きることができるだろう。妖怪の数千年という寿命に比べれば確かに長くないと言えるが、少年は妖怪基準で話しているわけではないはずである。あくまでも人間の中で長くないと、そう言っているのだろう。

 

 

「和友さんの年齢はまだ14歳ですよね? まだまだ先があるのではないですか? それはもちろん人間の中ではということになりますけど」

 

「僕の命は後5年も無いよ。何かしら打開策が見つからない限りは‘もって5年’というところだろうね」

 

 

 少年は、自分の寿命が後5年もないということを告白した。

 5年という数字は、上手くいけばという算段上のものである。これまで14年生きてきての経験則から出てきているものだ。

 ただ、それはあくまでも少年の見解である。紫と永琳は別の見解を示している。

 

 

「紫や八意先生は2年だと思っているみたいだけど……僕の個人的な意見は5年だね。負荷のかかりようによるけど」

 

 

 文は、またしても言葉を失いそうになった。

 八雲紫と八意永琳が治療法を見つけられないという事実が信じられなかった。少年の寿命を計算しているということは、手を出せていないということと同義である。あの二人がどうしようもないのでは、少年の状態はもうすでに手遅れだと嫌でも分かった。

 少年が嘘をついているのだろうか。あまりにも想像がつかなさ過ぎて疑わしく思える。文の中でそんな可能性が浮上してくる。

 しかし、少年はこんなことで嘘をつくような人間ではない。こんな意味のなことを、相手の嫌がらせをするような嘘をつくような人間ではない。

 文は、頭の中で衝突する想いに吐き気にも似た感情を抱えた。

 

 

「うーん、でも……やっぱり二人の言っていることの方が正しいと思うよ。二人の方が僕よりもずっと頭が良いし……」

 

 

 少年は、そこまで言葉を口にすると自信を失い、勢いを落とした。

 自分の14年の経験則よりも、頭のいい紫や永琳の言うことの方が信憑性がある。自分で下した診断よりもプロが言った言葉の方が重みがある。なによりも最悪の場合を想定した方がもしもの時に対処ができるのだから、悪い方を考えていた方が良いだろうという判断した。

 

 

「後、2年ですか……」

 

 

 2年という言葉を聞くと、椛の告白を断った理由がさらによく理解できた。

 後2年である―――何ができる? 

 もうすぐそこである―――失う覚悟はいつできる? 

 今しかない、今できていなければ、きっと2年では無理だ。

 文は、ここ半年の間少年が人里に来なくなった原因を悟った。病気にかかってそれが治らなかったから―――だから止められていたのだ。外に出ることを認めてもらえなかったのだろう。あの八雲の従者のことだ、考えなくても分かることだった。

 

 

「それがここ最近現れなかった理由ですか?」

 

「病気になったんだ。不治の病とでも言うのかな。病気になって以降、基本的に外に出ることができなくて」

 

「でも、和友さんは今ここに出てきていますよね?」

 

「病状はいったん持ち直したんだけど……結局治らなかったんだよ」

 

 

 文は、少年の言葉にそうですよねと予想していた言葉を飲み込む。少年がこうして外に出ているのならば、病気がもしかして良くなっているのではという淡い期待は一瞬にして消え去ることとなった。

 

 

「僕は、病気になっていた時期に確信したんだよ。藍の様子を見て、やっぱり何も変わらないんだなって、みんな僕の方に寄りかかり過ぎているって……」

 

「寄りかかっている……」

 

「そう、寄りかかっている」

 

 

 少年は、噛みしめるような文の呟きに一度だけ悲しそうに頷いた。

 自分の周りにいる人物が、こぞって自分に向かって寄ってきているように感じる。そう思ったのは病気になった日から。崩れ落ちる藍の姿を見てから。そして、その理由を考えて、相談して―――再び藍を見てそう思った。

 

 

「精神的に依存しているんだよ……まるで、これしかないんだとでも言わないばかりだよね。目に入っているのが、頭の中にあるのが僕のことばっかり。それだけじゃないはずなのに。みんなを作っているのは僕じゃないのに。僕が来る前から、みんなはみんなだったはずなのに」

 

 

 少年しか見えていないという意味では、藍は相当末期のところまできている。それまでの性格がどんな性格をしていたかもはや思い出せないぐらいに、深く根付いている。

 少年がいないと生きるのが苦しくなるような‘みんな’は、もともと少年がいなかった時どんな生活をしていたのだろうか。何を大事にして生きていたのだろうか。それこそが、自分自身を作っていたはずだ。

 少年を作っているのが普通に生きるという決まり事や、これまでの思い出であるように。みんなも、そんな自分を持っていたはずなのである。それはいったいどこに行ったのだろうか。

 少年は、知らない間に周りが寄りかかって来る現状がとても歪で、普通じゃ無くて、気持ち悪いと思っていた。

 

 

「椛も、藍も、もっと大事なものがあるはずなのに……僕の方を大事にしようとする」

 

 

 少年は、自分のことをそれほど大切に思っていない。もはや死んでも別に構わないぐらいの重要度だと思っている。

 あくまで少年は、両親との約束があるから死ねないだけ、普通に生きているだけで、生きたいという想いは強制された心の動きから出ているものである。

 そんなもの―――皆が大事にしていることに比べたらあってないようなもの。だからこそ、椛や藍に大事なものが何なのか履き違えて欲しくなかった。大事なことがなんなのか、守るべき優先順位を違えるようなことをして欲しくなかった。

 

 

「椛は妖怪の山の規律を守る、天狗仲間を大切にする。藍は幻想郷の安定を維持する、紫の補助をする、紫を支えてあげる。大事なことはいっぱいある」

 

 

 椛は、あくまで妖怪の規律を守って生きて欲しい。少年の命が危なくなっても、妖怪の山の方を守って欲しい。

 藍は、少年の命が危なくなっても紫のことを第一に想い、幻想郷を守るために動いて欲しい。

 しかし、そんな少年の想いはもはや怪しくなってしまっている。少年に寄りかかることを覚えてしまった二人は優先順位を入れ替え始めている。

 少年は―――それが何よりも嫌だった。

 

 

「僕の事は二の次で十分なんだよ。どうせ……どこかで糸切れて動かなくなるんだから。近いうちに力尽きるんだから……」

 

 

 少年は、もうすぐ死ぬ。あっけなく、何かできることもなく、あがきにあがいて―――死ぬ。絶対に死んでしまう―――だからこそ、自分の死を引きずって欲しくなかった。死んだ後まで、誰かを引きずり回すようなことはしたくなかった。

 少年は乾いた笑顔を浮かべる。泣かないように精一杯の表情を作り、耐えるようにみんなへの想いを言葉にした。

 

 

「僕は、死んでからも誰かを引きずるようなことはしたく無いよ。僕が倒れて、誰かが共倒れになったら嫌なんだ。悲しんでくれる分には別にいいけど……ちゃんと両足で立って歩いて欲しい」

 

 

 少年は、文に向けてお願いを申し出た。

 

 

「文も……気をつけてね」

 

「え……私ですか?」

 

「文は空が大好きだし、新聞を書くことにも価値を見い出している。大事なのは、新聞を書くことであって購読者を守ることじゃない。文は、分かっていると思うけどね」

 

 

 守るものを履き違えてはいけない。今の内からしっかり理解しておくことが今後の未来を決定する。

 これから―――堕ちるか。

 それとも、生き残るか。

 少年は、真面目な雰囲気から一転してふざけたように文に告げた。

 

 

「あんまり僕と関わりすぎると戻れなくなるから、ご利用は計画的にね」

 

「……はははっ。私は大丈夫ですよ。心配なんて要りませんから」

 

 

 文は、精一杯の少年の笑顔につられるように苦笑した。

 少年にとっては、文の笑いが演技でも偽物であっても、反応してくれたことが嬉しかった。不安を感じさせる顔だったが、少年を安心させるために強がりをみせてくれていることが、何よりも心を落ち着けてくれた。

 

 

「そう、心配なんて、いりませんから……」

 

 

 文は、心の奥にとてつもなく重いものを抱えたような気がした。寿命に関しても、告白を断ることについても、寄りかかっているという言葉にも、思うところがたくさんあった。

 少年の言葉が文の心の中に一気にあふれだして飽和していく。心の重さに比例するように足が重くなる。

 少年は、動きが鈍くなった文を置き去りにして別れの言葉を告げた。

 

 

「うん。それじゃあ僕は筆を受け取ったら帰るから。読んだ感想は今度伝えるね」

 

「はい、また今度です」

 

 

 文は、重くなった口を必死に動かして別れの言葉を交わした。何となく、これが最後の言葉になるような気がした。これが本当の別れになってしまうような気がした。

 

 

「さようなら」

 

「……さようなら」

 

 

 何かを言わなければならないと思った。

 何かを伝えなければならないと思った。

 だけど、口から出てきたのは些細な別れの言葉だけだった。

 

 少年は、空を飛行する速度を一気に上げる。

 文は、少年に追いつこうともせず、ただただその場で漂っていた。大きなものが背中に乗っている。余りに重くて、とてもじゃないが少年と一緒に飛べる気がしなかった。

 文は、随分と重くなった胸に手を当てる。

 そして、目を閉じて思考すると一言呟いた。

 

 

「私は、大丈夫。大丈夫なはずですよね……」

 

 

 文の呟いた声に答える者など誰もいない。

 聞こえているのは自分だけだった。

 唯一応えられるはずの自分自身は―――口を閉ざしたままだった。

 



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始まりの終わり、終わりの始まり

 少年は、妖怪の山で椛と会った後、人里で筆を受け取った。

 新しくなってしまった筆ではあったが、自然と手になじむようだった。そこはさすが筆を作り続けてきた職人ということなのだろう。まさに職人芸である。

 少年は、筆を受け取って少しばかり試し書きをした後、他に寄り道することも無く、真っ直ぐに帰宅した。

 マヨヒガでは、きっと藍が心配している。少年は、心残りになっていた藍のもとへと一刻も早く帰るためにできる限りの速度でマヨヒガへと帰った。

 

 

「ただいま」

 

 

 少年がマヨヒガの玄関を開けてただいまと一声発すると、足音が玄関へと近づいてくるのが聞こえてきた。

 いつもの通りである。いつ帰って来ても、何をしてきて帰ってこようとも、そこは変わることはない。そこに何一つ疑う余地はない。少年は、間違いなく藍が近付いてきていると予測した。

 少年は、廊下の先―――音が響いてくる方向へと視線を向ける。廊下の奥からは、少年の予想通りに藍が駆け付けてくるのが見えた。

 藍は、必死の形相で走りながら少年の名を叫ぶ。

 

 

「和友!! 無事かっ!? どこも怪我とかしていないよな?」

 

 

 藍は誰よりも速く少年を出迎えると、全身を見渡して怪我が無いことを確認し始める。少年の後ろにもぐるりと回り、背中に怪我を負っていないことを調べていく。

 これは本来はなかった動作である。いつもなら後ろ姿まで確認されることはないが、少年の外出が予定外のものでよほど心配だったのだろう。調べる動作が一つ増えていた。

 もしかしたら、昔から調べられていたのかもしれない。もしかしたら、廊下を歩いているときにでも確かめられていたのかもしれない。だけど、玄関先で調べられたのは初めてのことだった。

 藍は、少年の体を一通り調べると、少年が怪我を負っていないことに大きく息を吐き、安堵の表情を浮かべた。

 

 

「はぁ……良かった、怪我はしていないみたいだな」

 

「心配してくれてありがとう。でも、僕のことなら大丈夫だよ」

 

「だが、和友は人間だ。それについこの間まで病気だっただろう。大したことがなくても、知らず知らずに大きな負担になっているかもしれないではないか」

 

 

 

 普通の人間ならば―――ましてや年頃の少年ならば、藍のように過度に心配されるとうっとうしい気持ちが出てもおかしくはない。極度の心配性は行動を制限する。自由を求め出し、自我が強くなる少年の年齢からすれば面倒の一言を放り投げても何ら違和感はない状況だった。

 しかし、少年は決して心配する藍の行動を止めたり注意したりはしなかった。ここまで心配する藍を決して邪険に扱ったりしなかった。

 少年が藍の行動を止めることがなかったのは、少年が藍をいくら止めても怪我を負っているのか確認するのを止めないことを知っていたというのももちろんある。止めてと言ったところで何も変わらないのは目に見えているからという理由もある。

 ただ、止めない最たる理由は藍がこうなってしまった原因がどこにあるのか分かっていたからである。きっとそれは自分の責任だと、藍が心配する原因が他でもない自分自身の責任なのだと理解していたからだった。

 少年は、もはや形式化されたようなやり取りを何度も繰り返し、いつもと同じように藍を落ち着けようとした。

 

 

「僕は、なんともないからね。だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ」

 

「私は和友に何かあったら心配で……」

 

 

 藍は、少年の言葉を聞いてもそわそわと落ち着かない様子だった。まだ心のざわめきが収まらないようで伏し目がちに想いを訴えている。いつもと違う形での外出だったからだろうか、不安の溜まり方が違うようだ。

 

 

「またいきなり倒れてしまうことだってあるかもしれないだろう? あの時のように何の前触れもなく、唐突に……」

 

「今度は大丈夫だから。僕なら、もう大丈夫だからね」

 

 

 少年は、藍の変わらない様子に複雑な笑みを作る。しょうがないなという想いと、自分の責任でこうなってしまっているという罪悪感が心の中で渦巻いていた。

 藍は、心のざわつきが消えない気持ち悪さ抱えながら僅かに下を向く。やりすぎだという自覚はある。うっとおしくなるほどに構ってしまっていることも理解している。

 しかし、少年に何かがあったらと思うと気が気ではなかった。胸のざわつきが収まらず、心臓が激しく鼓動する。不安と恐怖が今にも襲い掛かって来る。自分の気持ちが抑えられない。やりすぎということをどこかで自覚しながらも少年を心配する気持ちを抑え込むことができなかった。

 少年は、表情を暗くする藍に向けて優しく表情をほころばせ、藍の名前を呼んだ。

 

 

「藍」

 

「和友、私は……」

 

 

 藍は、名前を呼ばれたことで視線を上げ、少年の瞳に引き込まれるように少年の目を見つめる。少年も視線を逸らさずにじっと藍を見定める。

 少年の瞳の中には、藍の姿が映っていた。

 藍は、少年の瞳に映る自分の存在を見ながら黙ったままその場で立ち尽くした。酷い顔をしている。なんて顔をしているんだ。そう思っても表情を変えられそうにない。表情筋は固まりきって歪んでしまっている。

 少年は、藍が自分へと意識を集中するのを把握すると会話に少しの間を持たせ、口を開いた。

 

 

「ただいま」

 

「……おかえり、和友」

 

 

 少年の一言が藍の心の中にすとんと落ちていく。藍の心の中からざわめきが消える。心の中の不安や怖れが一気に消滅する。そして、それを埋めるように温かい気持ちが湧きあがってきた。

 藍は落ち着きを取り戻し、自然な笑顔で少年を迎える。

 少年は一度頷いて玄関を上がると、藍と共に歩き出した。

 

 

「人里はどうだった?」

 

「そうだなぁ、相変わらずって感じだったかな。いつも通りの人里だったよ。一人で行っても二人で行っても人里自体は変わらないから」

 

「和友はいつも通りとは言うが、帰って来るのがずいぶんと遅くはないか? 何かあったのではないかと心配していたのだが……」

 

「病気になってからは行く機会があんまりなかったし、半年間分の話をしていたら遅れちゃって。それに筆の状態もあまり良くなかったから代わりにって、これができるまで待っていたんだよ」

 

 

 少年は、居間へと歩きながら今日の出来事を当たり障りの無いように話し、筆一本の店主に代わりに作ってもらった筆を手渡した。

 

 

「これは、新しい筆か?」

 

「そう、前のやつはもうガタがきているから駄目だって……また新しいのを作ってくれるってさ」

 

「そうなのか、店主も大変だな。次はもっといいものを作らなければならないと躍起になっていただろう?」

 

「うん。やる気でいっぱいだったよ」

 

 

 勿論のことながら、射命丸文と出会ったこと、妖怪の山へと出かけたこと、犬走椛と話したこと、そこで話した会話の内容は決して口には出さなかった。口に出してしまえば、藍に余計な心配をさせることになるし、ことの真実(病気のこと)を話す必要が出てくる。

 少年は、できるだけ話が逸れないように注意をし、少しだけ足早で居間へと向かう。

 その途中―――第三者の介入が発生した。

 

 

「和友~~おかえり~」

 

「橙、ただいま」

 

 

 正面からにこにこと尻尾を振りながら楽しそうに走ってきた橙は、少年を先導するように少年の前を歩き始める。少年の掌に、さらに小さな掌が重なった。

 橙は、特に急いでいる理由もないのに少年の手を引き、歩く速度を上げるよう促してくる。

 少年は、都合がいいと橙に合わせるようにさらに歩く速度を上げた。

 

 

「今日はどうだったの? 何か面白いものあった?」

 

「面白いものって……そうだな、茶屋の饅頭が美味かったかな」

 

「え~それだけなの?」

 

「それだけって。人里に行っただけなのに、そんな面白いことばかり起こらないよ」

 

「ふーん、面白くないなぁ」

 

「だったら今度は一緒に行こうか? 橙は、橙の面白いことを探した方がいいと思うよ。その方がきっと楽しいことが見つかるはずさ」

 

「え!? 連れて行ってくれるの!?」

 

 

 少年は、橙に対しても同様に妖怪の山でのことを話すことはなく、楽しかったことだけを話した。決して心に溜めこんだものを吐き出したりはしない。これを話してもいい相手は決まっている。少年の心の中に明確に区別されている。藍と橙には話せないことだった。

 

 

 橙は、少年の手を引いたまま左に曲がり、居間へと入る。少年は橙に引っ張られながら居間に入った。藍は、二人の様子を優しく見つめながら最後に居間へと足を踏み入れた。

 居間には、紫が一人でたたずんでいた。

 少年は、座って待っていた紫と視線を交わし、少しだけほほ笑む。紫は、笑みを浮かべる少年を受け入れるようにほほ笑み返し、少年の表情を見て何かを悟ったように優しい声で言葉を送った。

 

 

「おかえり、和友」

 

「ただいま、紫」

 

 

 少年がマヨヒガに帰ってきてからは、いつも通りの時間の流れだった。いつものように食事をして会話をし、時間を流す。ご飯を食べてお風呂に入る。

 

 そして―――夜がやってきた。

 

 空には綺麗な星空が見える―――そんな静かな夜だった。

 幻想郷は、外の世界と違って星がよく見える。空が澄んでいるからだろうか。見上げて数えれば、両手では数えきれないほどに光り輝いているのが確認できる。

 少年は、縁側で空に輝く星の光を見上げていた。

 

 

「そろそろ寝ましょうか」

 

 

 マヨヒガに住む4人は、紫の鶴の一声でそれぞれに動き出す。

 もう、眠る時間である。居間からは誰もいなくなり、各自が部屋の方へと移動する。

 4人は、次の日を迎えるために眠りに入ろうと、各自おやすみなさいの挨拶を交わした。

 

 

「「「「おやすみなさい」」」」

 

 

 挨拶を交わした4人は、それぞれに寝る準備に入る。

 進むべきは当たり前であるが自分の部屋である。紫は紫の部屋へ。藍は藍の部屋へ。橙は橙の部屋へ。

 そして―――少年は自分の部屋にはいなかった。

 

 

「おやすみ、今日もいい日だったね」

 

 

 現在、少年は全く明かりがない暗くなった部屋で座っている。響いている音は、少年の口から発せられる声がほとんどを占めている。辛うじてあるのは、外で虫たちが鳴いている音がいやに遠くに聞こえるだけである。

 少年には寝る前にしなければならないことがあった。皆が寝静まった夜に、誰も邪魔が入らなくなったその時に、しなければならないことがあった。少年がするべき、責任があった。

 それは少年にしかできないことで。

 少年がやらなければならないことだった。

 

 

「また明日、笑っていられるような日になるといいね」

 

「そうだな……明日も、その次も、ずっとずっと笑って過ごせるといいな」

 

 

 少年は‘藍の部屋’にいた。少年がやらなければならない夜の日課というのは、寝るときに藍の傍にいることである。

 藍はすでに布団に入って眠る態勢をとっている。

 少年は布団に横になっている藍の隣にちょこんと座っていた。

 

 

「大丈夫だよ。きっといい日になるから」

 

「…………」

 

 

 少年は、右手をちょっとばかり伸ばして顔だけ出している藍の頭を軽く撫でた。

 藍は、少年の撫でる手に気持ち良さそうにする。

 少年の優しい瞳が藍を見つめる。藍は、少年の視線を感じながら心を落ち着かせていった。

 暫くすると、撫でていた手が引っ込められて膝の上に置かれる。藍は、少年の手が離れるのを感じると目を閉じて眠る工程に入った。

 藍の視界は暗闇で閉ざされる。見えるのは瞼の裏だけ。もう視覚から何かを得ることはできない。視覚情報が遮断され、脳が休みに入る。

 目を閉じて―――数分が経った頃だろうか。

 藍は、寝苦しそうに体を回転させて少年がいるはずの方向を向いた。

 

 

「……和友、そこにいるよな?」

 

「僕はここにいるよ」

 

 

 うなされているのだろうか。悪夢でも見ているのだろうか。そもそも、眠ることができていないのだろうか。

 きっと、後者だろう。

 不安が、恐怖が、心を震わせている。

 目を覚ましたら変わっているかもしれない。

 無くなってしまうかもしれない。

 そんな恐怖が心を蝕んでいる。

 

 

「大丈夫だよ」

 

 

 その震えを止めるのは―――いつだって少年だ。

 少年は布団の中に手を入れ、藍の手を探し出す。藍の手は、何かを求めるようにそっと少年の手を掴んだ。

 少年は藍の手を優しく握り返す。そして、語り掛けるように言葉を口にした。

 

 

「僕は……どこにも行ったりしないから」

 

 

 少年は藍の手を包み込むように、決して離さないというように両手で握る。

 与えられた温もりは、何よりも藍の心を安心させた。

 

 

「だから、藍は安心して眠って。明日も会えるから……僕は、ずっとここにいるからね」

 

「和友、ありがとう。おやすみなさい……」

 

「おやすみなさい」

 

 

 藍は少年の言葉に安心したようで、全身の力が抜けていく。手が重力に従って落ちてようとする。

 少年は、藍の手が落ちないように支えた。

 藍は、さすがに眠りについたようで一定の周期で呼吸を始める。

 少年は、もはや一人では寝られなくなってしまった藍を今にも崩れそうな笑顔で見つめていた。

 

 

(僕のせいで、ごめんね……)

 

 

 藍が夜に寝られない理由は、非常に簡単なものである。

 藍は―――不安なのだ。自分が寝ている間に少年が消えてしまうような気がして、夜眠るのが怖いのである。

 

 

(藍が変わってしまったのは、僕が病気になったあの日から……あの日から何もかもがおかしくなった)

 

 

 藍は、少年が病気を患った時からおかしくなった。少年を失いそうになったことで狼狽し、狂気に満ちた。

 自分を許せなくて。

 自分を許したくなくて。

 罪に押しつぶされて。

 あって当たり前だと思っていた。

 あるのが普通だと思っていた。

 そんな大切なものを失って。

 ―――息ができなくなった。

 

 ああ、太陽はどこにあっただろうか。

 生活の中にいつだってあった太陽はどこにいったのだろうか。

 心を照らしていた存在は、どうしてこんな弱弱しくなってしまったのだろうか。

 陽だまりは、暖かさは、何処にあったのだろうか。

 毎日昇ると思っていた太陽は、もはや沈んだまま顔を見せようとしない。

 

 理由は分かっている。

 沈めた自分がここにいる。

 元凶がここにいる。

 償いは、許しは、どこにあるのだろうか。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば元に戻るのだろうか。

 そう思えば思うほど心に大きな穴が空いた。

 喪失感が心の中を支配した。

 

 

(藍の心の揺れ幅は、限界を迎えつつある)

 

 

 藍は、自分の半身を失うような圧倒的な心の振幅に耐えられなかった。それを抑えきれなかった。

 

 

(夜も眠れない、目を離していられない、怖くてたまらないんだろう。心配でしょうがないのだろう。心がざわついてしょうがないのだろう)

 

 

 藍は少年が病気を発症してから、正確には病気が発覚してから恐怖にさいなまれるようになった。寝ようと布団に入り、眠ろうと目を瞑ると恐怖で意識が冴えてしまう。目を閉じてしまえば、少年を失ってしまうのではないかという恐ろしさに頭がどうにかなりそうだった。

 そうなった当初は、少年の部屋にまでやってきていた。

 少年のことをずっと朝まで見ていた。

 眠っている少年の顔をずっと見ていた。

 深夜1時を回っても。

 太陽が昇って来る朝5時になっても。

 ―――ずっと見つめていた。

 見つめていなければ、存在を視認していなければ、存在に触れていなければ、そこから無くなってしまう気がしたから。

 藍は、眠ることを止めてしまった。睡眠を放棄した藍の身体は徐々に弱っていき、ふらふらになっていく。

 少年は、見ていられなかった。自分の責任でそうなっていると感じずにはいられなかった。

 その日から藍と少年は一緒に寝るようになった。

 そうすれば、藍が眠ることができたから。安心して眠ってくれたから。そして、最近になってようやく近くにいるだけで眠ることができるようになってきていた。

 しかし、今後症状が好転していくかは分からない。このままの調子で変わらないのかもしれない。もしかたら悪化するのかもしれない。

 なんにせよ―――後二年である。

 後二年で、全てが終わってしまう。

 時間が足りない。

 

 

(これ以上は、余りにも辛すぎる……)

 

 

 藍は、完全に追い込まれている。袋小路のさらに先へと追い詰められている。感情の出る場所もなく、拡大していく感情だけが大きさをもって心を圧迫している。少年の病気の原因を自分が作ってしまったこともあって完全に収まりきらないところにきている。

 

 

(僕にできることは何もないのかな……)

 

 

 再度、自分が藍に対してできることを考えてみる。

 藍の気持ちが揺れているのは少年が原因なのだから。少年をどうにかすれば結果が変わるはず。

 そんなことは―――分かっている。それがどうしようもできないから困っているのだ。少年は、何もできていない自分を悲観した。

 だが、藍がかろうじて気持ちを保っていられたのは、他でもない少年のおかげである。少年がもしも死んでしまっていたらもっと酷いことになっていただろう。少年がもしも藍を拒んでいたらもっと酷いことになっていただろう。

 少年は藍を受け入れた。いつものように、大きな心で受け止めた。病気を発症した際に藍を傍においた。永遠亭に居座ることを咎めなかった。それが、藍の精神を守っていた。

 藍は、少年の傍に常にいることで精神を保っている。確かに生きている少年の存在が藍の精神を繋ぎとめていた。

 

 

(あの時みたいに、何もできないのかな。何か藍のためにできないのかな)

 

 

 少年は、病気だったころを思い返した。病室に誰も入れなくなる前にした会話―――終わり際の言葉を脳内で再生した。

 藍は、弱り切っている少年に懇願するように、縋りつくように言っていた。

 

 

「和友、死なないでくれっ」

 

「藍には感謝しているよ」

 

 

 少年は、震える声を響かせて想いを口にする。

 最後の最後、話を切るために終わり際の言葉を吐き出した。

 

 

「藍のおかげで、幻想郷での生活が楽しかったよ。藍がいつも傍にいてくれたから自然体でいられたよ」

 

 

 少年の幻想郷での生活は、藍に支えられていたといっても過言ではない。能力の練習はもちろん、買い物から、料理から、家事から、生活に関わることはほぼ藍と一緒に行動している。いつも、どんなときも―――藍は優しい瞳で見守ってくれた。

 

 

「紫についても同じことが言えるけど、やっぱり藍と一緒に行動することが多かったから、藍が僕を見守っていてくれたから。藍が、約束を守っていてくれたから……」

 

 

 いつも守ってくれたのは、藍で。

 いつも支えてくれたのは、藍で。

 両親を失って支えを失った少年は、藍の愛情に包まれていた。

 

 

「僕は、藍から沢山のものを貰ったよ。もう十分なほど貰った……返しきれないぐらいのものを、抱えきれないぐらいのものを貰った」

 

 

 少年の手から次々と荷物が手放されていく。少年の心からは涙という名の湖が思い出を浸すように張っている。

 これまでの生活も。

 続くと思っていた幸せな日々も。

 ハッピーエンドも。

 それも―――もう終わり。

 

 

「藍は悪くない。何も悪くないんだ。だから……僕のことをそんなに重く考えなくてもいいんだよ?」

 

「そんなことを言わないでくれ。私は和友に生きていて欲しい……和友にずっとそばにいて欲しいっ……」

 

「ありがとう。そう言われるだけで、僕はもう、満足だよ」

 

 

 少年は、藍の崩れゆく精神を埋め合わせた。

 病室で少年に謝る藍に対して嫌な顔一つせずに会話をし、ただひたすらにお礼を述べた。

 後悔を一片たりとも見せず、落ち着いた表情で対応した。

 辛さも、恐れも、何もかもを飲み込み―――藍の気持ちをくみ上げた。

 

 

「藍、僕と約束して欲しい」

 

「約束するっ……何でもするから。だから……!」

 

「ありがとう。じゃあ、お願いだ。僕のことを覚えていて欲しい。そして、悲しまないでほしい。僕は、覚えていて欲しいだけなんだ。悲しみも苦しみもいらない。僕は、そこで生きていたい」

 

 

 藍は少年の最後を共にしたことで―――最後まで一緒にいたことで落ち着いて眠れる程度には安定した精神状態になった。ちょうど、失った心を少年の優しさで埋め合わせをしているような状態である。

 仮に少年が死んでしまっていたら致命傷になっていたことは間違いないだろう。偶々生きていたから少年が藍の喪失感を埋められているだけである。安定したというには程遠い。やはり空いた穴を埋められているのは少年の存在で変わりないのだから。そんなものは仮初の安定である。独り立ちはできない。

 そして、現状―――少年が埋め合わせたものが取りだせなくなってしまっている。抜けそうになると喪失感に襲われて少年を求めてしまっている。

 

 

(あの時……僕が優しくしすぎたから? 僕が自分の気持ちを素直に伝えたから?)

 

 

 少年は、藍への対処を間違ったのではないかと考える。別のやり方があったのではないかと想像する。

 だが、他の方法など―――今更探しても、過去に取った行動を後悔しても、何も変わらない。過去はどれだけ変えたいと願っても変えられない。

 少年の目の前で眠っている藍は、確かにそこにあるのである。変えることができるのは今からしかない。あの時のように―――半年前の自分のように―――誰かのために、藍のために今から変えなければならない。

 半年前の少年は、病室で泣き疲れて眠りについた藍の頭を撫でながら小さく呟いた。

 

 

「僕はこんなところで死ねない。このままじゃ、藍ごと連れて逝きかねない……」

 

 

 少年は、藍のために生きなければならないと意志を固めていた。

 藍を支えたのが少年ならば、そんな藍に命を繋ぎとめられていたのが他ならぬ少年である。自分が死ぬことで負の方向へと走りそうな藍が、生きなければならないと、そう思わせた。少年の生き抜くという気持ちは、決まり事もそうではあるが、藍に対する気持ちにも支えられていた。

 死んでもいいと思っていた少年は、藍に対する気持ちがあったからこそ、半年後の今も眠っている藍の隣に座っている。

 

 

「心配かけてごめんね。僕がもっと何かできればよかったんだけど……僕にできることなんて言葉に想いを乗せることぐらいしかできないから」

 

 

 少年は、藍が寝静まるまで側で手を握っていた。

 どこにもいかないよ。

 僕は、ここにいるよ。

 そう語り掛けるように手を握る。

 その言葉が永遠に続かないことを少年は知っている。

 知っていてなお、その手を緩めることはない。

 まるでその事実を拒否するように―――藍の手を固く握っていた。

 

 

「藍、ありがとう。本当にありがとう」

 

 

 少年は、藍が完全に眠りにつくまでずっと傍にいた。

 ただただ、傍らで藍を見守っていた。

 

 

「僕の体を助けてくれたのは紫だったかもしれないけど……僕の心を生きる方に向けてくれたのは藍だった」

 

 

 少年の肉体を救ったのは―――外の世界から幻想郷に連れてきた紫である。

 少年の精神を救ったのは―――生きる気持ちを支えてくれた藍である。

 少年は、ゆっくりと力の抜けた藍の手から自分の手を離し、静かに呟いた。

 

 

「僕は……藍に必要とされているんだって分かってちょっとだけ嬉しかったよ。僕が一方的に藍に頼っていたと思っていたけど、藍も僕を必要としてくれているんだって……嬉しかったんだ」

 

 

 少年は、藍の手を握っていた手でもう一度藍の頭を優しく撫でた。藍の髪の毛が僅かに力を受けて項垂れる。

 藍は、少年の行動を受け入れるようにすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。

 少年は、安らかな眠りについている藍に小さくほほ笑んだ。

 

 

「ははっ、何を言っていいか分からないや。藍とは色々あったから何から話せばいいんだろうね……」

 

 

 少年は、これまで藍と様々な言葉を交わしてきた。外の世界の人間に対して一切話さなかった話、一切見せなかった感情を見せびらかしてきた。両親以外に知られないようにしていたことも、たくさん話した。

 

 

「幻想郷は、本当に僕にとって居心地のいい場所だったよ。知っていてもらえる、分かってもらえることがこんなに嬉しいことだなんて思わなかった」

 

 

 幻想郷では、我慢する必要がなかった。普段口に出さない言葉を外に出すことができた。

 外の世界であれば、分からないということを口にすることがはばかれた。それが分からなければならないことなのか、知っていなければならないことなのか分からなかったから。それが言っていいことなのか、話していいことなのか分からなかったから。

 普通でなければならない少年は、できるだけ周りの人間と同じように生活しなければならなかった。

 

 

「思ったことを素直に口にしてもいい。区別ができないことを口に出してもいい環境は僕の心を救ってくれた」

 

 

 大きな好奇心を持っているにもかかわらず我慢していた少年は、幻想郷に来て年相応の少年に変わった。思ったことを口にして、考えたことを表現する、そんな当たり前のことが許されて生き生きと生活していた。

 

 

「それもこれも藍が一緒にいてくれたから。僕のことを守ってくれる、見守ってくれる、分かってくれている藍がいたから。だから、僕は今ここにいる」

 

 

 藍は、少年の面倒をよく見ていた。少年の親の代わりとして見守っていてくれていた。幻想郷での少年を支えてくれていた。

 少年は、これまで過ごしてきた日々を思い返す。何気ない日常を思い浮かべる。

 思い出された記憶の中には、楽しかった思い出がたくさんあった。

 

 

「一緒に料理をしたことも、一緒に買い物に行ったことも、一緒に能力の練習をしたことも、一緒に紫を茶化したのも、みんな楽しかった」

 

 

 少年が思い返した楽しかった思い出の中には―――いつも藍がいた。一緒に笑う藍の姿があった。少年が楽しそうにしている時、傍にはいつも藍がいた。

 少年と藍は、朝起きてから、毛づくろい、料理、買い物、掃除、洗濯、能力の練習……何をしている時も一緒だった。

 

 

「藍と一緒だから楽しかった……でも、それも終わりだ。全部全部、まっさらになる」

 

 

 それも―――終わらせる必要がある。終わらせなければならないところにきている。終わってしまうところまできている。

 少年は、今日の妖怪の山の一件で決断が迫られているのだと察していた。

 少年の頬に2つの筋ができる。流そうとも思っていなかった涙が頬を伝った。

 

 

「ははっ、涙なんて……僕も涙もろくなったなぁ」

 

 

 少年は流れ出るものを止めることなく、真っ直ぐに目を開いて藍の顔を見つめる。

 どうして僕は泣いているのだろう。

 どうして涙が止まらないのだろう。

 きっと、その理由は目の前にある。

 少年は握り拳を作り、唇をかみしめた。

 

 

「これまで誰にも言わなかった言葉を藍へと送るよ。最後の最後、これからもきっと言わない言葉を」

 

 

 ―――決断の時である。

 なんでこうも悲しいのか。

 そんなものは、分かり切っていることだ。

 近くにいるのに、遠くなっている。

 側にいるのに、孤独になっている気がする。

 お互いが傷つくことを知っているから。

 近づくことでお互いの心を傷つけるから。

 だから、決断しなきゃならない。

 悲しませないために、泣かないために、最後に伝えなければならない。

 その悲しませないようにという想いが、藍を悲しませると知っていながらも。

 この想いは、伝えなきゃいけない。

 後戻りできなくなってからでは遅いのだ。

 後になって気付いても遅いのだ。

 そのころには伝えられなくなっているかもしれないのだから。

 今伝えなかったらいつ伝えるというのだろうか。

 少年は、震える口を開けて生涯口にすることのない言葉を藍へと告げた。

 

 

「友達としてなのか、家族としてなのか、恋人としてなのか、僕には判断がつかないけれど……僕は、藍のこと大好きだったよ」

 

 

 藍は、寝てしまっていて少年の言葉に反応しなかった。

 逃げていく、自分が逃げていく。

 だから追いかけなきゃ。

 追いかけて、本当の自分を捕まえなきゃいけない。

 少年は、全てを打ち明けると満足そうに微笑み、静かに立ちあがった。

 

 

「おやすみ、明日もいい日になるといいね」

 

 

 少年は、一言言葉を残した後、音をたてないようにして歩き、ふすまを開けた。

 もう後戻りはできない。

 少年は決心しようとしていた。これから先の未来の形を。これからの形を。

 少年は静かにふすまを閉めると、微笑みを消して悲しそうに唇を震わせる。

 

 

「ああ、早くしないと。全てが崩れる前に、なんとかしないと……このままじゃ……」

 

 

 このままじゃ全てが終わってしまう。

 なし崩しに全てが終わってしまう。

 

 

「もう少しだけ……もう少しだけ……」

 

 

 そう言ったら涙が出てきた。

 少年の頬に2度目の涙が伝った。

 これが、本当の気持ち。

 これが、本心から思っている言葉。

 この生活が続けばいいのに。

 この生活がもっとよりよくなって、幸せに暮らせればいいのに。

 

 少年が行わなければならないことは、過去に対する清算である。これまで積み立ててきたものの破壊、重ねてきたものの放棄である。それは酷く苦しいこと、これまでの全てを失う行為である。

 やりたくない。したくない。失いたくない。放棄したくない。捨てたくない。

 それでも―――それをしなければならない理由は確かに存在していた。

 

 

「けど、結局僕が覚悟しなきゃいけないことだよね。捨てきれないのは僕が弱いからだ……藍が悪いんじゃない、みんなが悪いわけじゃない」

 

 

 この件に誰一人悪者はいない。

 ただ―――巡り合わせが悪かっただけだ。誰かがこうしたから、誰かが何かをしたから状況が悪くなったわけではない。

 あえて言うならば―――少年がいなければ何も起こらなかったという意味では、少年の責任と言えるかもしれない。少年が台風の目になっている以上、少年を止めれば巻き込む嵐は終わりを迎える。

 だからこそ少年は、覚悟を決めようとしていた。責任を果たすために、ある行動に出ることを決意しようとしていた。

 

 

「僕が全部を手放す意志を固めないといけない……僕の最後は僕が決める。全部返して、全部まっさらな状態で終わりを迎えるために、できることは全部やろう」

 

 

 少年は、流れ出る涙を手の甲で拭きとる。

 それでも、瞳はすぐに潤んで涙が流れそうだった。




次の話から、設定の本題に入っていきます。


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見ている場所、見えているもの

 少年は、流れ出る涙を拭いて藍の部屋を出ると次の目的地へと足を進めていた。

 少年には、藍を寝かせた後にもまだやることがあった。

 藍の部屋の次は―――紫の部屋である。

 

 

「次は、紫の所か……」

 

 

 少年は、ノックをすることも声をかけることもなく、紫の部屋のふすまを開ける。少年の視界は、部屋の中を見渡すように広がった。

 部屋の中央で紫が背を向けているのが確認できる。

 紫は、少年がやってくるのを静かに待っていたようだった。

 

 

(やっぱり、待っていたんだね)

 

 

 少年は、無言のまま反応を見せない紫の後ろに座り、紫の側に置いてある櫛を手に取るといつも行っている動作に移った。

 

 

(風に流すように、自然に任せるように、力を入れずに梳かす)

 

 

 左手で紫の髪をすくいとり、髪を梳く。

 紫の髪を梳くのは、少年の日課の一つである。

 どこか既視感を覚えている人もいるかもしれないが、これは藍の毛づくろいと同じような行為に当たる。そして、藍の毛づくろいが始まった時と大体同時期に始まった日課ともいうべき習慣の一つだった。

 

 

(紫の髪を梳かしだしたのは藍の毛づくろいが始まってからだから……もう、やり始めて1年半になるのかな)

 

 

 少年の手は、すでに慣れた手つきで迷うことを知らない。

 なぜこんなことが始まったのか。もともとこんなことを始めた理由は、些細な紫の一言からだった。

 

 

「毛づくろいをしてもらうというのは、眠ってしまうほどに気持ちのいいものなのかしら?」

 

「どうなんだろうね。それは藍にしか分からないよ。僕はあくまでしている側であって、されている側じゃないからね。藍に聞けば分かるんじゃないかな?」

 

 

 藍が寝てしまうなんて―――それほどに気持ちがいいものなのだろうか。紫は、湧きだした疑問を解消したかった。

 ただ、紫には尻尾のようなものはない。だったら髪の毛でも梳かしてもらおうかと、少年に髪を梳くようにお願いした。それが事の始まりである。

 少年は、先程藍の部屋で暗くなった気持ちを微塵も出さず、紫の髪を梳かしながら楽しそうに声を上げた。

 

 

「そういえばさ、毎日こうやって梳いていて不思議に思ったことなんだけど、紫の髪って伸び続けているの? 毎日やっているけどあんまり変わっていない気がしてさ」

 

 

 少年は、気持ちのスイッチを完全に切り替えていた。

 ONからOFFに、正から負に。少年は、楽しそうに紫の髪の毛について疑問を口にする。

 紫の髪の毛は、少年の知るところ―――2年前から何も変わっていない。長さも質感も、何も変わっていなかった。

 

 

「髪を切った覚えは全くないから……髪の長さは生まれた時から変わってないと思うわ」

 

「へぇ、そうなんだ。だったら髪を切ったらどうなるの? また伸びてくるのかな? それとも切れたままなのかな?」

 

「多分だけど、もともとの長さまで伸びるだけだと思うわよ。切れたことなんて無いから分からないけどね」

 

 

 紫の話によると、紫の髪の毛は形状記憶されているということのようである。

 妖怪の髪の毛は、ある一定の長さになるように固定されていると考えてもいいのだろうか。それとも、あくまで紫だけなのだろうか。

 形状記憶されていると考えると、ふと不思議に思う。それは、別に手入れをしなくても、何も変わらないのではないだろうかという疑問である。

 少年は、そんな疑問を抱えながら紫の髪の毛を一本一本綺麗に梳いていく。もともとする必要もないように綺麗に流れる髪の毛を、優しく撫でるようにして整えていく。

 少年は、結局沸き立つ疑問を抑えきれず、口に出した。

 

 

「それなら僕が髪を梳いている理由って特にない気がするね。手当てしてもしなくてもあんまり変わらないみたいだし」

 

「私の気持ちがいいからいいのよ」

 

「……ふふっ、藍に今の状況を見せたら冗談じゃ済まないよね。藍、怒っちゃうよ?」

 

 

 藍は、今日の朝に毛づくろいについて紫から釘を刺されている。

 しかし―――注意をした当の紫は、藍と同じように少年に髪を梳いてもらっている。藍と紫の状況にそこまでの大差はないだろう。藍に注意をしておきながら、自分は大丈夫だというのは一体どういうことだろうか。これでは藍に対して何も言えないのではないだろうか。

 少年は、笑いをこらえながら藍の気持ちを代弁した。

 

 

「どうして私ばかり怒るのですか、紫様も和友に甘えているじゃないですかっ! ってね」

 

「和友が藍に口外しなければ、ばれることではないわ」

 

 

 紫は全く悪びれる様子も無く、少しだけ口角を上げて言った。

 紫は、藍に気付かれていないという絶対の自信があった。疑われる立場になく、現場を目撃することでしか紫の失態を確認することができない状況において、紫の優位性は変わらない。

 そもそも紫の部屋に藍がやって来ることがほとんどないのだ。紫を呼ばなければならない状況が限りなく少ないというのもそうであるし、尋ねたところで紫が眠っていることが多いということもそうである。もちろん、部屋に来たところでいないということも訪れない理由の一つになっている。あまり動きを見せず、神出鬼没な動きを取っていた紫が部屋の中に閉じこもっていると考える方に無理があるのだ。訪れる機会は、全くないといっても過言ではなかった。

 もしも、万が一藍が紫の部屋に来たとしても、それこそ境界操作で部屋の中を見えなくすることだってできる。藍が紫の行為を知覚できる日は、限りなく遠いといえた。

 

 

「藍は全くと言っていいほどこの部屋には来ないし……藍は、こういったことに疎いから」

 

 

 紫は、そこまで言うと不敵な笑みを浮かべた。

 

 

「それに、朝の毛づくろいを見逃してあげているのだからお相子でしょう。私が藍に気を遣う必要なんて皆無よ」

 

「まぁ、そうだよね。納得はしなさそうだけど……」

 

 

 紫の意見は、もっともなものである。

 紫はあくまで藍に対して注意を行っただけで、今後一切止めろと言ったわけではない。藍の毛づくろいを認めている以上、紫の髪の手入れも止めろと言われる筋合いはなかった。

 少年はそこまで喋ると途端に静かになり、口を固く閉ざす。

 藍の毛づくろいに関しても―――自分の責任であるところが大きい。今日の妖怪の山での一件だけではなく、変化が起きているところはいたるところにあった。

 

 

(妖怪の山の件だけじゃない。藍がそうなってしまったのも、僕が原因の一因になっている)

 

 

 少年は、今日の出来事について思いつめていた。妖怪の山での一件で、覚悟を決める必要があると感じていた。

 もう―――幻想郷に来たばかりの時のような生活に戻ることはできない。全てをまっさらにでもしない限り、全てを無かったことにでもしない限り、元には戻らない。

 なんとかしなきゃ、決断しなきゃ。

 甘さが抜けていかない少年は、苦悩していた。

 紫は、口を閉ざし黙った少年に対して優しく話しかける。

 

 

「和友は、少し考え過ぎなとこがあるわよね。もう少し自分本位になってもいいんじゃないかしら?」

 

 

 フォローのつもりで言ったのだろう。

 気を遣ったのつもりだったのだろう。

 しかし、紫は言葉を口にした後、すぐに自分の言葉を訂正した。

 

 

「……と言っても、今の貴方には無理よね。貴方はきっと何を言っても何も変わらないわ」

 

「僕は、変われないね。僕は昔のように、知らなかった時のようにはなれない。きっとどう頑張っても変われないと思う……」

 

 

 少年が変わらないということは、不変の定理であるような錯覚を覚えるほどに強固な決まり事のようであった。

 少年は、一度自分の中で決めたことに対して曲げるようなことは絶対にしない。

 少なくとも紫は、たった一度だけ曲げたあの時を除いて少年が意志を曲げるところを見たことが無かった。藍が少年に対して生きてほしいと言ったあの言葉以外は何一つ知らなかった。

 

 

「僕は、昔と同じように周りに悪い影響を与えないように生きていくしかないと思うから」

 

 

 少年の言葉には、言葉の内容とは裏腹に暗さを感じない。いつもだったら感じる少年の感情の起伏が微塵も感じられなかった。

 

 今日―――何かがあった。

 

 紫は、感情が見て取れない少年の様子から悟った。今日何らかの現象に会って、心をきつく縛っているのだと思った。

 

 

「和友は、全部自分の責任だと思っているのでしょう?」

 

 

 紫は、少年が一通りの意味でしかとれないように、少年がごまかさないように、真っすぐに質問を付きつける。少年が逃れることのできないように正面からぶつかりにかかった。

 

 

「これまで起こってきたことも、これから起こるであろうことも、みんな自分の責任だと思っているのでしょう?」

 

「事実、僕が全ての原因だ……僕が台風の中心点なんだから」

 

「…………」

 

 

 紫は、少年の言葉を聞いて空気が固まった、世界が止まったような錯覚に陥った。

 少年は、ここにきて今まで我慢してきた全てを吐きだそうとしている。今まではなんだかんだで口を閉ざしていた内容を、今までは一度たりとも話さなかった本音を、全て吐き出そうとしている。

 ここが分岐点になる。

 紫は、少年の意志を肌で感じ取っていた。

 

 

「僕みたいなどうしようもないやつが周りの大切な人間を駄目にしていると思うと罪悪感で押し潰されそうになる」

 

 

 紫には、後ろにいる少年の顔を見ることはできない。

 だが、心なしか少年が泣いているような気がした。

 少年の声は、心の震えが大きくなるのに合わせるように振幅を増大させていく。

 

 

「両親が僕に死ぬなという決まり事を作らなければ、僕はとっくに死んでしまっている……約束がなければ、僕の人生は小学校で終わっていた……」

 

 

 少年は鎖で雁字搦めの状態だった。決まり事という鎖によって指一本動かせる状況ではない。手も足も何一つ動かせない。

 なのに、心臓は鼓動している。脳は、電気信号を巡らせている。

 少年は―――生きることを‘義務’づけられていた。

 

 

「ただひたすらに我慢して、耐えて、生きている。他人が平然とできていることができなくて、思ったことを口に出せなくて……」

 

 

 少年は、膝を折ることも許されず、ひたすら前に直進している。

 動けない体で未来へと進んでいる。

 それが、決まりだからという理由で。

 それが、生きるために与えられたルールだからという理由で。

 しかし、その少年を縛っている決まり事のおかげで、未来を、日常を、世界を生きていくことができているのも事実だ。少年の崩れる体を支えているのもまた決まり事なのである。

 

 

「でも、だからこそ僕は今を生きている」

 

「貴方は相手の気持ちを考えすぎよ。それが自分の首を絞めている結果に繋がっている」

 

 

 きっと、少年が苦しんでいる原因は周りの人間にある―――紫はそう思っていた。

 少年の意志は酷く強い。それはもはや歪に感じるほどに、不自然に思えるほどに強固である。

 それほどまでに意志の強い少年が書き記す行為を辛いと思っているということはないだろう。これまでだってずっとやってきたのだ。仮に辛いと思っているにしても、自分自身のための書き記す行為が死にたくなるほどの―――最も辛いことではないと考えられた。

 

 

「普段貴方がしている書き記す行為は、貴方を苦しめる直接的な要因にはなっていないわよね。書き記す行為はあくまで貴方自身のためのものだから」

 

 

 だったら考えられるのは、一つしかない。

 自分自身が傷つけているのではなく、周りに集まって来る人間たちが少年を苦しめているのだ。

 少年は、周りの人のために自分を傷つけているのである。

 

 

「貴方は、周りの人間に対して自分を犠牲にしすぎている。それが貴方自身を苦しめ、周りに余計な影響を与えているのでしょう?」

 

 

 少年は、周りのために自分を犠牲にできる人間である。これまでの少年の言動や行動を思い出せば、そう思うのは当然だった。

 そんな自己犠牲をもいとわない性格だからこそ、誰かのために自分を犠牲にできる人間だからこそ―――少年の近くに人が集まってくる。それが少年を苦しめている原因になっている。

 

 

「貴方が本当に悪い人ならば、きっと近づいてくることさえなかったでしょうに……」

 

 

 少年が悪い人間であれば、少年の周りに人が集まることはなかった。そして―――少年を助けてあげようと、周りが働きかけることもなかった。

 

 

「貴方に救われた人間が多いから、貴方と一緒にいるのが好きな人間が多いから、周りの人間は貴方が困っていると貴方がどれだけ嫌がっても助けようとする。どうしようもない貴方のことを大事にしようと思ってしまう」

 

 

 紫は、少年が苦しんでいる理由が少年の周りにいる人間が無意識のうちに少年を助けようとしてしまうことにあると思っていた。

 具体的には、自分に危険や困難が迫った時、自分の事を周りの誰かが庇うということがもっとも嫌なのだと考えていた。

 

 

「それが、貴方を一番苦しめている原因よね」

 

「確かに僕は、自分が引き起こしている状況が気持ち悪くて仕方がないよ」

 

 

 少年は、自分が起こしている状況を見ているのが苦痛だった。

 自分の起こしている事の大きさに耐えられなかった。自分の周りが余りにも歪で、気持ちが悪くて、吐き気を覚えた。それこそ、死んでしまいたいぐらいには気持ち悪さが心を支配していた。

 それは、まぎれもない事実である。

 しかし―――少年を本当に苦しめているのは、そこではなかった。

 

 

「でも、一番かと言われると違うかな」

 

「違うの?」

 

 

 少年は、別に周りの人間が自分を助けることについてどうこう思っているわけではない。

 それは、多少なりと思うところはあるが、それは自分がどうにかすればどうにかなる問題である。困難に陥っていることを悟られなければいいだけ、危険に冒されていることを周りの人間に知られなければいいだけだ。

 分からなければ、助けるも何もない。自分の努力次第で何とでもなる。

 少年が苦しんでいるのは、そんなどうにでもなることではなく、どうにもならないことだった。

 

 

「紫、僕が一番嫌なのは、僕に向かい合ってくれる人がいないことだよ」

 

「向かい合ってくれる人がいない……?」

 

「僕に向かい合ってくれる人は誰もいない。みんな僕の隣にくる。僕の後ろにくる。みんな僕の顔を見てくれない。僕の気持ちと向かい合ってくれない。寄り添うようにくっ付いてくるだけだ」

 

 

 紫の髪を梳いていた少年の手が止まる。

 少年の気持ちに真っ向からぶつかってきてくれる人は誰もいなかった。誰もが少年の隣に並ぶ、後ろに退く。意見が飛び交うことは決してない。思いが交錯することは決してなく、心が交わることは絶対にありえない。

 なぜならば、気持ちの交わしようがないのである。横にいる人間に対して何を言うというのか、交わすだけの理由も、交わすだけの意見も存在しない。意見を言っても、意志を告げても何の意味もない。

 だって、同じものしか見えていないから。同じ方向しか見えていないから。同じ景色しか見えていないから。違う方向を見ようとしていないから。

 少年が方向性を示せば、皆がそちらを向く。回れ右と号令がかかれば、皆が同じ方向転換を行う。これでは、全てが一方通行で終わってしまう。1人相撲で終わってしまう。

 少年は―――それが酷く辛かった。

 

 

「そんなのは気持ちが悪いんだよ。誰からも好かれる人間なんて気持ち悪いでしょ? だって、誰かからも好かれる人間なんていうのは存在しないはずなんだよ」

 

 

 皆が隣に来た。

 歩く方向と同じ方向に向いていた。

 いや―――その方向に向かせてしまった。

 少年は、何をしても周りから好かれるような状況が気持ち悪くて仕方が無かった。少年が起こす行動に対して批判を言う人間が誰もいない状況に吐き気を覚えた。

 いつだって。

 どんなときだって。

 障害なく意見がまかり通った。

 

 

「人間には好き嫌いがあるんだから、心があるんだから、ありえないんだよ」

 

 

 余りにもすんなりと素通りされる。あたかも無視されているのではないかと思えるぐらいには、意見が一直線で実を結んでいく。

 本来―――こんなことはあり得ない。

 1対1ならばともかく十人十色という言葉があるように、人によって価値観が違うため、意見の衝突は避けられない。休み時間に何をするかという問いに対して、全員がサッカーを選ぶことなど本来ありえないのである。

 

 

「いくら大きなことを成し遂げても、大きな変化をもたらしても、それを望まない人がどこかにはいるはずなんだ」

 

 

 少年が大きなことを成し遂げた優秀な人物であったとしても、どこかの国の大統領であっても、NOと言う人間はどこかにはいるはずである。満場一致はあり得ない。正論には反発が、そうでないならば正論が飛んでくる。

 しかし―――少年がYESと言えば、YESになる。少年がNOと言えば、NOになる。

 

 

「でも、僕の周りには僕の味方しかいなくなる。それが気持ち悪いんだよ。全部偽物で、僕が作った都合のいいものに見えてしまう」

 

 

 少年は、外の世界では嘘を塗りかためて生活していた。

 能力についても、異常性についても、何一つ他人に向けて話せていない。知らなかったというのもあるが、異常だと思われるようなことを一切話すことなく生活を送ってきた。知られないように常にある程度の距離感を保ち、1歩どころか3歩ほど周りの人間から離れて生活してきた。

 

 

「みんなは、僕の本当の気持ちに気付いていない。気付こうともしていない」

 

 

 周りの人間は、少年の本当の気持ちを察することが出来ず、勘違いをしているだけだ。嘘を張り付けた少年の側面と裏面を見ているだけ、正面から少年の心を見ようとしていない。

 そして―――知らない間にまばらに立っていた人間たちは、少年の隣や後ろに来ている。

 

 

「僕がみんなに対して気付かせようとしていないからと言えば、それまでなんだけどね」

 

 

 少年の周囲にいる人間は、少年の辛そうな顔を見ない。

 見ないというか、見えない。

 だから―――無意識に嘘をつくことが上手くなった。

 だから―――周りの人間に対して明るく振舞うことを止めなかった。

 

 

「気付かせてしまえば空気が澱む。楽しそうに振る舞えば空気が弾む。だから僕は、嘘でも楽しそうにしなきゃならなかった。そして、それを誰にも知られちゃいけなかった」

 

 

 自分が落ち込めば、沈んでいる様子を見せれば、それが感染するように周りの空気は悪くなる。どんよりと空気が淀んでしまう。

 少年の立ち振る舞いや後ろ姿は、寄り添っている人物に影響を与えるのである。

 少年は、嘘をついてでも明るく振舞う必要があった。

 しかし、そんな少年の嘘を看破する者が現れたのである。

 

 

「でも、幻想郷にはいたんだよね。気付かれるまで1年近くかかったけど……それでも早い方だ」

 

 

 幻想郷には少年と顔を合わせてくれる人物が、少年と目を合わせてくれる人物がいた。1年という時間はかかったが、これまで両親以外に誰もいなかったことを考えれば十分な早さだった。

 

 

「気付いたのは、転換期だったからだろうね。被っていると分かったのは、それまでの自由を縛って仮面を被ろうとしている僕を見たからだ。その時初めて境界線が引かれた。無理をしているって、辛いって判断されてしまった」

 

 

 幻想郷で少年が仮面をかけていた期間は、実のところ短い。苦しめられていた原因が分かって周りが妖怪や普通でない人が多かったことから、素の自分というのを出すまでに時間がかからなかった。

 

 

「本当に嬉しかったなぁ。僕の両親だけじゃなくて僕の前に立ってくれる人が、僕をしっかりと叱ってくれる人が―――僕と向かい合って引っ張ってくれる人がいたんだって」

 

 

 少年が仮面をつけていた期間は、幻想郷に来て1日目の時、そして病気になってから暫くしてからである。

 2日目以降の少年が年相応に楽しそうにしていたのは、演技でもなく本心から来ているもの。

 幻想郷初日と病気にかかった後を除けば―――ほぼ平常心で何も隠さずに暮らしていたといっても過言ではなかった。

 

 

「最初に気付いたのは、八意先生。そして、続いて紫が気付いてくれた」

 

 

 だからこそ、仮面を外した少年本来の姿から仮面をつける移行期間にいた八意永琳が変化に気付いたのは、いわば必然と言える。永琳が少年の本心に気付くのを皮切りに、紫も少年の表情を見つめ始めたというのが事の流れだ。

 

 

「それが僕にはとても嬉しかった。親がもう一度できたような気持ちになったよ。気持ちが随分と楽になった。分かってくれる人がいるんだって、理解してくれる人がいるんだって」

 

 

 少年の正面に立って泣きそうになっている少年の顔を直視して見てくれたのは二人だけだった。

 少年に手を差し出してくれたのは、少年の手を引いてくれたのは―――二人だけだった。

 

 

「僕の未来を支えてくれる。僕を望んだ未来へ引っ張って行ってくれる。僕を理解してくれる人が出てきたんだって―――嬉しかった」

 

 

 その導き手の先が―――終わりであったとしても。

 終わり―――それで良かった。

 それで十分だった。

 何よりも―――それが良かった。

 少年の未来は―――そこで決まったのだ。

 

 

「例え行く先が―――何も残らない無だとしても」

 

 

 そうなった時に―――何も残らなかったとしても。

 そうなることを―――何よりも望んだ。



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引き合う力、惹かれ合う力

「私達と貴方が出会ってから2年……色々なことがあったわ。悲しいこと、苦しいこと。それ以上に楽しいこともいっぱいあった」

 

 

 紫は、思い返すようにこれまでのことを振り返る。

 紫の生活は、少年が来る前と来た後とで大きく変わっている。

 早起きができるようになった。

 料理ができるようになった。

 よく笑うようになった。

 紫だけではなく藍も大きく変わった。

 そんな紫と藍の変化は、間違いなく少年がもたらしたものである。

 紫は、責めるように少年に告げた。

 

 

「私達はこの2年で大きな変化を遂げたわ。和友、貴方の責任よ。全部貴方が起こした変化よ」

 

「それについては悪いと思っているよ。だから、全部が終わるときには綺麗に終われるように努力する。僕の影響が無かったころの元通りに……」

 

「元通りにする必要はないわ」

 

 

 少年の言葉を遮るように紫の言葉が割って入った。

 昔よりも今が良い。今の環境の方が昔に比べて楽しい。それが作られたものであったとしても、自然にできたものでなくとも―――今の方がいい。

 

 

「和友が来てから良いことも沢山あった。早起きができるようになったし、料理もできるようになった。何より、毎日が楽しかったわ」

 

 

 少年が幻想郷に来なければ、今のマヨヒガでの生活はあり得ない。変化を与えたのは間違いなく少年である。少年の存在がマヨヒガでの紫の生活に多大な影響を及ぼしている。

 

 

「それは私に限った話じゃない。藍も大きく変わったわ」

 

 

 そう、藍だって同じである。

 

 

「藍は昔よりも壁を作らず話せるようになった。私と言い合いもできるようになった。それだけでも、ものすごい変化よ」

 

 

 今のマヨヒガでの生活を続けていくためには少年の存在が欠かせない。言い過ぎでも何でもなく、少年がいなくては成り立たない生活になっている。

 

 

「貴方が全てを変えたのよ。今のこのマヨヒガでの生活は和友が作ったの。だから―――今の生活を維持するには和友の存在は必要不可欠。ただ、あくまでもそれは私たちの独りよがりの気持ち……和友が嫌だと言うのならもちろんその意見を尊重するわ」

 

 

 少年の存在が今のマヨヒガに必要だとしても、どれほど必要だとしても、少年にマヨヒガにいて欲しいと無理強いしてまで頼むことではない。なぜならば、今の生活を手放したくないという紫や藍の気持ちの中に少年の意志が入っていないのだから。

 問題は、少年自身がどうしたいのか、どうすべきだと考えているのかだ。

 決めるのは本人である少年である。少年の意志をないがしろにしてはならない。

 少年が必要だから。今の生活を続けていくために必要だから。

 変化したものを壊したくないから―――そう思っていた。

 だけど、紫は言葉を口にしている途中で自分の中の素直な気持ちに気付いた。

 

 

「いいえ、違うわね……」

 

 

 本当に和友に言いたいのは

 元通りにして欲しくない理由は

 今の生活に必要だから? 

 藍が変わった原因だから? 

 これまでの生活を変えてくれた功労者だから? 

 ―――違うでしょう。

 そんな面倒な理由なんて後付けもいいところ。

 私の気持ちはもっと素直に叫んでいた。

 

 

「何を言ったところでそれは取り繕ったものでしかないわ」

 

 

 そんな小難しい理由ではないはずだ。

 もっと単純な想い。

 もっと簡単な、誰もが持っている気持ち。

 紫は、少し儚げな笑顔を作った。

 

 

「一番重要なのは、今の生活が楽しいからこのままがいいということだけ。私は、和友と一緒にこのままマヨヒガで生活したい。今のこの生活が大切だから和友と一緒にいたい。家族として一緒にいたい」

 

 

 紫は、大切なものを―――愛しいものを口にするように優しい声で言った。

 

 

「たったそれだけ―――そんな簡単な想いがあるからよ。そんな普通に想うような、どうでもいいような大切があるから―――手放したくないの、抱きしめていたいのよ」

 

「僕が何も悪い影響を与えていないと言えば嘘になる。それでも、そうやって言ってくれると救われるような気分だよ」

 

 

 少年は、紫の言葉に嬉しそうに笑みを浮かべる。

 変化―――変わること。

 それに善いも悪いもない。善いものもあれば、悪いものもある。当然、少年が紫や藍に対して悪い影響を一切与えていないというわけではないだろう。

 藍は心配性の程度が酷くなり、少年に依存している。精神的な異常を抱えることになった。

 紫に対しても藍程とは言わないまでも、影響がないとは言えないはずである。それは紫も知るところのはずだ。

 だけど、紫は自らが受けている影響、藍が受けている影響を考慮しても、少年がマヨヒガに来てくれて善かったと言ってくれている。それは、少年にとって何よりも嬉しい言葉だった。

 紫は、少しばかり悪戯心を見せるような表情で少年に問いかけた。

 

 

「和友は嫌なのでしょう? 自分が引き起こした善い結果を全て無かったことに変えてしまうことが。全部が全部、何もかもなくなってしまうことが。特に貴方の場合はずっと我慢してきた。ずっと耐えてきた。それなのに、人生が終わるときに自分の存在を消すようなことをしなければならないような状況に陥っている」

 

 

 紫は、人間ならば誰もが思うはずである、自分の生きていた証を、自分が起こした変化を無かったことにはしたくないという想い―――それを人間である少年が考えていないわけがないと思った。特に少年の場合は、その傾向が顕著になるはずだと思っていた。

 少年は、これまで自分を殺してきたような人生を送っている。自らの存在を隠し続けながら人生を送ってきている。そんな少年に死ぬ時まで何も残すな、何も見せるなというのは酷だろう。

 紫は、少年の気持ちの核心に迫る言葉を口にする。

 

 

「和友は、最後の最後まで生きてきた証を何一つ残せないことが怖いのでしょう?」

 

「紫……」

 

 

 どうしてこんなことになってしまったのかしら。

 どうして和友はこんなにも可哀想なのかしら。

 私がこんなことを言ったら和友は怒るでしょうね。

 そんなことないって、強がってしまうでしょうね。

 だから、心の中だけで言わせてもらうわ。

 きっとそれも伝わってしまうでしょうけど。

 相手の心に機敏な和友は、察してしまうのでしょうけど。

 それでも、和友が言わないから私が言うの。

 貴方が何もかもを抱えてしまっているから。

 苦しいくせに吐き出そうとしないから。

 私が重さに押しつぶされそうな貴方の手を取ってあげるの。

 

 和友が背負っている荷物を代わりに背負ってあげるなんて口が裂けても言わないわ。

 それは和友の抱えるべきもの。

 和友が抱えるって決めたものだもの。

 私がやるべきことは、手を引いてあげること。

 苦しんでいる貴方のために、言ってあげること。

 抑え込んでいる貴方の代わりに―――伝えること。

 

 和友は―――可哀想な子よ。

 文字通り必死の努力をしてきたのに。

 いつだって皆を大切にしてきたのに。

 誰よりも生きるのに一生懸命なのに。

 誰よりも忘れられることを恐れているのに。

 死ぬ時まで何も残らないなんて。

 生きていた証が何もないなんて。

 何も残ることがないなんて。

 誰も―――覚えていてくれないなんて。

 そんなの不公平でしょう。

 和友は、いつだって覚えてくれたのに。

 あんなに努力をして、書いて、覚えてくれていたのに。

 私達が覚えていてあげないなんて不公平でしょう。

 それは和友に対する裏切りよ。

 

 ねぇ―――そうでしょう?

 貴方の心を教えて。

 貴方の素直な気持ちを伝えて。

 和友の本当の想いを見せて。

 私は、和友の正面でいつまでも待っているわ。

 その歪んだ口が言葉を吐き出すのを、いつまでだって待っているから。

 泣いている和友の前で、ずっと待っているから。

 

 紫は、振り向いて少年の目を見つめる。

 少年の瞳は酷く潤んで、今にも涙が零れそうだった。少年は必死に言葉を吐き出そうと声を漏らすが、口からは何も出てこようとしない。まだ怖がっているのだろうか。言ってしまうことが許されることなのか不安なのだろうか。

 口元を震わせている少年の目の前で、紫は相対している。決して目を逸らさず、真正面から少年を受け入れる体勢を取っている。

 

 

「間違った感情ではないわ。死ぬ前に何かを残したいという気持ちは、本能ともいうべき根源にある感情よ」

 

 

 紫は、何も言い出さない少年に容赦なく現実を突き付ける。逃げることの出来ない少年に向かうべき道を指し示す。真剣な表情で少年に未来を提示した。

 

 

「ただ、貴方が死んだ時に皆が前を向けるようにだけはしなければならないわ。皆を引きずるようなことだけはあってはならない」

 

 

 少年が引き起こすだろう問題は、幻想郷に大きなダメージを残す可能性を秘めている。精神に重きが置かれている妖怪に与える少年の影響力は、凄まじいものがある。

 少年が死んだときにどんなことが起こるのか想像したくもない。暴動が起きるのか、追って死ぬ者が出てくるのか、精神が崩壊するのか、考えられる幅が広すぎて、起こりうる可能性が大きすぎて、想像さえもしたくなかった。

 だからこそ―――覚悟しなければならない。紫のように踏ん切りをつけることができるだけの距離を保たなければならないのである。

 

 

「私は、貴方が死んだときに折り合いをつける心の余裕ができているから大丈夫よ。距離を見誤ったりしないし、適度な距離を保っていられるわ」

 

 

 覚悟を決めている者ならば、辛くとも耐えられる。少年が死んだ時のダメージを最小限に落とすことができる。

 一番ダメージを食らうのは、前触れもなく少年が死んだ場合である。死んだことが頭の中に残らず、まだどこかで生きているのではないかと思ってしまうパターンが一番辛い。

 死んだ者は永久に戻ってこない。いくら願っても叶わない願いである。だから覚悟しなければならない。覚悟をすることで受ける精神的なダメージを最小限に抑えなければならない。そんな未来の方向に進まなければならなかった。

 

 

 

「けれども、藍は完全に貴方を手放せなくなっている。貴方の精神に完全に寄りかかってしまっている。今の状態で貴方を失ってしまえば、どうなるか分からないわ」

 

 

 藍は、一度少年を失いそうになった反動もあって、幻想郷内で最も依存している人物である。

 今少年を失ってしまえば、どうなってしまうか分からない。少年が埋めている部分が剥がれ落ちて廃人になるのか、それとも少年と共に死んでしまうのか、少なくとも良い方向に行かないのは確かだった。

 

 

「妖怪が人間にここまで依存するなんて、普通じゃありえないから想定もしていなかったわ」

 

「そうなんだよね」

 

 

 普通ならば、妖怪が人間に対してここまで依存することはない。それは、人間と妖怪では寿命が大きく違うため、どうしても深く入りこめないからである。

 失ってしまうと分かっているから深追いできなくなる。悲しむことが分かっているから、別れが来ることを知っているから付き合いが浅くなる。妖怪は、仲が深くなることが無いように―――そんなことが無いように制御されている。本能がそれを許さない。自己防衛本能がそうしているはずだった。

 しかし、現実に藍は少年に依存している。それこそ、べったりというほどに少年にくっついている。

 藍がここまで少年に依存してしまったのには大きな理由がある。

 少年が藍に対して優しかったからとか。

 藍と少年の波長が合っていたからとか。

 藍がこれまで少年のようなタイプと接してこなかったからとか。

 そんな単純なものではない理由があった。

 少年は、藍が極度に少年に依存する原因となっている要因を口にする。

 

 

「僕の境界を曖昧にする能力に限った話だったら練習して制御できるようになれば何とかなったんだけど……これまでに広がってしまった心の大きさばっかりはどうしようもないよ。質量を持った心は小さくなったりしない」

 

「私も貴方の心の中に入った時に気付くべきだったわ……あの時に気付いていれば、もうちょっと何かできたと思うのだけど……」

 

「例えあの時に気付いていたとしても何も変わらなかったと思うよ。何かをしたところで、少しばかり状況の変化が緩やかになっただけだ。僕が走るのを止めない以上、こうなることは避けられなかったと思う」

 

 

 少年は、紫の後悔するような言葉に首を横に振った。

 例え紫が気付いていたとしても、最終到達地点はきっと変わらない。マラソンに決まったゴールがあるように、歩く先に目的地がある様に、最終地点は何も変わらない。ゴールに辿り着くまでの手段が違うだけだ。車で行くか、走って行くか、歩いて行くかだけ、到達する速度しか変わらない。

 少年は、手段が何であれ進み続けているのだから、膝を折ることなくひたすらに前に進んでいるのだから、いずれ必ず終着地点に辿り着く。絶対に辿り着くことになる。

 

 

「僕も、八意先生から聞かされて驚いたよ。でも、しっくりきた。ああ、やっぱり原因があったんだなって安心した。僕のこれまでは、きっと間違っていなかったんだなと思えて少しだけ安心したよ。この生き方をしていなかったら、もっと後悔することになったに違いなかったから」

 

 

 永遠亭にて八意永琳に異常の原因を示唆された時は、酷く安心した。原因不明というわけでもなく、空気のように存在する知覚できない要因が判明し、驚きと同時に安堵した。

 これまでの外の世界での生き方は間違っていなかったのだ。そして、幻想郷に来てからの生活が間違いだったのだ。少年は悟った。そして同時に、自分の幻想郷での在り方が―――藍の今の状態に帰結していたのだと理解した。

 

 

「けれど、幻想郷のみんなには悪いことをしたね。妖怪と人間は違うっていろんな人から聞いたけど、やっぱり人間と妖怪に違いなんてなかったんだって気付くまでに随分と時間がかかった」

 

 

 藍は言った―――妖怪と人間は違うと。

 少年の中では妖怪と人間は一緒のものだったが、何も変わらない同じものだったが、その時の藍の「妖怪と人間は違う」という言葉を鵜呑みにした。鵜呑みにして、人間と妖怪を同じくくりではなく、違うものと認識してきた。

 だが―――どうやらその認識は間違っていたようだ。

 やっぱり、一緒だったのだ。

 妖怪だから大丈夫なんてない。

 妖怪は人間と違うから大丈夫なんて嘘だ。

 やはり妖怪も人間と変わらないのだ。

 そんなことを半年前にようやく遅れて理解した。

 永琳が出した答えでやっとのこと把握した。

 

 

「八意先生にもうちょっと早く会えていればよかった」

 

「私も話を聞かされた時は驚いたわ。まさか、貴方の心に万有引力があるなんて思いもしなかったもの」

 

 

 紫は、少年の心の中に万有引力があると言う。

 八意永琳は、他者に起こる依存の原因が万有引力によるものだということにいち早く気付いた。少年と出会い、藍と紫の様子を見て、少年の話を聞いて、そして自分自身の心の動きを感じて導き出した。

 紫は、少年の心の中に侵入した時のことを思い返す。

 

 

「でも、言われてみれば思い当たる節はいくつかあったわ。心の中という精神世界に本来あるはずのない重力があった時点で気付くべきだったのよ。私達の心が、貴方の心に引っ張られているってことをね」

 

 

 紫の言うように、少年の心の中では重力が働いていた。地球上にいるような重力が感じられた。

 心の中というのは精神世界である。一般的な精神世界は、質量が小さいため浮くことができる。ふわふわ浮いている、心の中はいつだって無重力に近い状態だ。何にも縛られていない。行きたいところがあれば、そこまで飛ぶことができる。ワープだってできる。

 精神世界とは思考が全てを左右する、思い込みが全てを凌駕する世界である。無重力の宇宙を漂っているようなもの。飛べると思えば、飛べる世界だ。

 しかし、少年の心の中は飛ぶどころか能力さえも使えない世界だった。

 飛べないだけならまだ少年のルールに従っているためだといえる。能力が使えないのも同様だ。

 だが、精神世界に重力があるのは飛べないことや能力が使用できないのとはわけが違う。

 人の心の大きさは約1部屋分である。個人差はあるもののそんなものだ。この部屋の中にいる人間にかかる重さというのは、万有引力の法則にのっとってざっと計算すると数グラムあるかというところである。

 このように精神世界には本来重さがほとんどない。質量が小さすぎて万有引力が働かない。当然、地球のような重力が働くわけがないのである。

 想像しにくい人はこう考えればいい。外に出てビルに引き寄せられる力を考えれば、ほとんどないことが理解できるはずである。

 だが、現実に少年の心の中には重力があった。重力があるというのは、そこに引っ張っている力が働いているためだと―――八意永琳は読んだ。

 

 

「八意先生が説明してくれたけど、万有引力って質量を持つ者同士が引き合う力のことなんだよね」

 

「そうよ」

 

 

 紫は、一言で少年の言葉を肯定すると万有引力についての説明を始めた。

 

 

「万有引力の力は、両方の物質に同じ大きさでかかる引き合う力のことよ。距離の二乗に反比例して力の大きさが変わるから、近づけば近づくほど引き合う力は大きくなる。ちょうど磁石のS極とN極を近づけたときと同じような力ね」

 

 

 万有引力というのは、質量を持つもの同士が引き合う力のことである。地球が太陽の周りをまわっているのは、この万有引力の力によるものである。もちろん地球を旋回している月も同じだ。

 同じような力で言えば、磁力による力がある。小学生の時に棒磁石を鉄にくっつけたことがなかっただろうか。あるいは、棒磁石同士をくっつける機会はなかっただろうか。磁力も距離の二乗に反比例して強くなる。くっついた瞬間に最も強い力が働く。万有引力も磁力と同じ性質を持った力である。

 

 

「庭にあったリンゴの木からリンゴが一つ落ちた。そんなものを見てよく気付いたと称賛するわ。地球とリンゴの間に万有引力の法則が成り立っているなんて普通思わないもの」

 

 

 万有引力の逸話として有名な話がある。ニュートンがリンゴが落ちるのを見て重力の存在を感覚的に理解したという有名な話があるのは、みんなが知っていることだろう。

 

 

「空にはきっと人を惹きつけるものがあったのね。色が変わり、星が動き、光輝く空には、見る人の望みがあったのでしょう。長きにわたる天体観測から人類が導き出した方程式、それが―――万有引力の法則」

 

 

 天体観測による天体の動きをデータ化して、その動きに引力が働いていることを理解する。万有引力の法則の成り立ちには、途方もないほどの先人の積み立てたデータが大いに関係している。星を見上げる人がいなければ、万有引力は発見されなかったはずである。

 

 

「そして、万有引力で大事なのは相互に力が働いているということ。庭に植えてあったリンゴの木から落ちたリンゴだって、地球を引っ張っているということ」

 

 

 そして万有引力発見の話で肝となるところは―――リンゴが一方的に地球に引き付けられているように見えるという点である。実際には両者ともに引っ張られている力なのだが、同じ力で引っ張られているのだが―――リンゴだけが動いているように見えるという事実がこの話の大事なところだ。

 

 

「私達は木にぶら下がっているリンゴで、和友は地球。地球ほどの大きさを持つ貴方の精神にとってはあるかないか分からない程度の力でしょうけど、リンゴから見ればものすごい力で引きつけられることになるわ。それこそ、元の居場所であったリンゴの木から落ちるみたいにね」

 

「実際に僕が地球に立っていて、地球に引っ張られる力は相当なものがあるけど、地球が僕に引っ張られることは無いもんね」

 

「冗談抜きで……私達と和友は、人間と地球の関係よね」

 

 

 万有引力の力は相互に働く力であるため、リンゴに地球も引き寄せられているわけなのだが、その力の相対値には遥かな開きが存在する。絶対値は一緒だが、感じる力の程度に明確な差がある。綱引きで車を動かすのと、人を動かすのでどちらが動きやすいかという話と同じだ。

 地球は外部のものに引き寄せられて動くことはほとんどないと言っていい。それこそ、太陽系の惑星クラスの大きさが必要になる。地球が太陽を中心に回っているのは、太陽が地球に比べて遥かに大きく重いために万有引力で振り回されているからだ。

 つまり、地球を動かすにはそれと同等かそれ以上のものを持ってくる必要がある。

 少年の心の大きさは、おおよそ地球ほどの大きさがある。地球クラスの心を持っている少年の心を動かす、引きずられないように振り回すにはそれ以上の大きさを持たなければならない。

 そんなもの―――精神世界上にありはしない。

 少年の心とそれ以外の心の関係は、まさしく地球と人間のような関係だった。

 

 

「人の心は普通、一部屋分ほどの大きさ。そんな小さな隕石が宇宙を漂っている」

 

 

 精神は、宇宙を浮いている星のようなものである。大きさは人それぞれで、平均すると8畳の部屋ぐらいの大きさだ。一部屋分である。質量にして1トン(=1000 kg)あるかどうかというところだろう。

 小さな部屋である星は、宇宙空間を自由に飛び回っている。ふわふわと飛んでいる。

 

 

「小さな隕石(精神)は、宇宙空間を漂っている別の隕石(精神)と万有引力の力を受けて相互作用している。引き合い、受け合い、ある速度をもって宇宙を漂っている」

 

 

 精神という名の星には、質量があるため必ず万有引力が働く。

 

 

「距離が近くなるほど強くなる引き合う力は、最終的に隕石同士を接触させる。一度傾いた力は、外部からの影響を受けない限り止まらない」

 

 

 宇宙空間を漂っている精神は、質量の持った他の精神とほどほどに引き合い、軌道を変えて進んで行く。距離が近くなれば、近くなるほどに引き合う力は大きくなる。

 分かりにくい人は、磁石で考えればいい。磁力も万有引力と同じ距離の二乗の関数で支配されている。

 一度心を近づけることを知ってしまえば、心を預けることの心地好さを知ってしまえば、気持ちが一気に近づいていくのと同じである。

 外の人間が静止をかけない限り、近づく速度は変わらない。外部からの別の力が働かなければ、決して逃れることはできない。

 

 

「懐の大きい人間が好かれるとはよく言ったものよね。それは精神的に引っ張られているだけなのに。まぁそれも良さの一つなのでしょうけど」

 

 

 万有引力の力―――引かれ合う力は、質量が大きければ大きいほどに強くなる。

 精神は、心が広い人に人が集まるというように、心の大きな人物に向かって引かれる。最終的に最も安定する相手を探し、'惹かれ合い'、接触して部屋の一部を共有したり、偶に他の力に引っ張られて離れることがあったりする。それが精神の在るべき世界である。

 そして、ここで問題になるのは―――少年の心の大きさだ。

 

 

「貴方のは大きすぎたのよ。能力を外に出さないようにと努力してきただけなのに、その結果がこれでは……どうしようもないわ」

 

 

 先程も言ったように少年の心は地球ほどに大きい。

 地球の質量はおおよそ6×1000000000000000000000000 kgである。先程の8畳間(1000 kg)と比較すればその大きさの度合いがよく分かるだろう。

 少年の周りの人間の心は、ほぼ例外なく少年の心と引き合って少年の心に寄り添うように接触する。人間が地球の上に立っているように着地する。これが、周りの人間が少年に心を寄せる原因で、周りの人間が少年に惹かれる原因だった。

 しかし、惹かれるだけの精神だったならば、まだ良かったかもしれない。精神は接触し、衝突が起こると非弾性衝突が起こるため、弾かれるのである。

 ボールが地面とぶつかった時を想像すれば分かりやすい。ボールは速度を持って地面と接触した際、反発を起こし、跳ね返って来る。精神でも同じことが起こる。精神同士の相性で反発の具合は変化する。

 

 

「衝突した隕石同士は非弾性衝突が起こるのだけど、精神は硬質なものと軟質なものがあるから、反発するかどうかはその精神次第なのよね。相性みたいなものよ」

 

 

 しかし、少年の精神の性質は―――。

 

 

「貴方のは思いっきり軟性よね。吸着するように、スポンジのようにくっつくような軟性。クッションのような性質を持っている。最近はそうでもないみたいだけど」

 

 

 少年の心に初めて入った時は、少年が二人のことを警戒していたこともあり、仮面をかぶっていたこともあり、精神が比較的硬質なものだったが、それも最初だけだ。

 幻想郷で暮らしている間は、誰でも受け入れるような軟らかい心を持っていた。軟らかい心が相手を受け止める要因になっていた。誰にでも軟らかい精神で接していたことが誰彼構わず引き寄せる原因になっていた。

 

 

「一度貴方の心と接触した精神は、生半可な力では宇宙空間へと脱出できないわ」

 

 

 精神がくっついた状態から再び飛び立つためには、相当な労力が必要となる。他の精神からの力を受けてもなかなか離れることができなくなる。

 距離が近い方が強くなる力で、引き離さなければならない相手は地球クラスの精神の大きさである。人間が宇宙空間に飛び立つのにどれほどのエネルギーと労力が必要になるのかを考えればよく分かるだろう。

 

 

「再び宇宙空間に飛び出すためには―――少なくとも第一宇宙速度に至る必要がある。けれど、宇宙に出るために必要なエネルギーを何処から供給できるのかが問題なのよ」

 

 

 第一宇宙速度は、衛星軌道をとるために必要な速度のことである。ちょうど、地球にとっての月みたいなものだ。今現在その状態にあるのが紫である。

 紫は、少年の周りを衛星が飛ぶように飛行している。決して近づかず、一定の距離を保っている。

 そこからさらに、影響を受けないレベル―――宇宙空間に飛び出るためには第二宇宙速度が必要なる。

 第二宇宙速度は、宇宙空間へと飛び出すために必要な速度なのだが、少年の影響力を小さくするには最低でも第一宇宙速度を得るためのエネルギーが必要である。

 そんなもの手に入れられるはずがない―――紫は冗談交じりに笑顔を作った。

 

 

「そんな膨大なエネルギー……どこから得るっていうのかしらね?」

 

 

 一度不時着したら飛び立つためのエネルギーを得られず、二度と飛び立てない―――少年に依存し離れることができなくなる原因である。今の少年と周りの状態は、まさしくその状態であった。

 

 

「結局、みんな和友に寄りかかるようになってしまった。それは、寄りかかって安定していてとても楽な状態だからよ。力がかかって動かない状態の方が精神にとっては居心地がいいから……」

 

 

 紫は、声のトーンを落としながらスキマの奥からピンポン玉ぐらいの大きさのボールを一つ取り出す。そして、妖力でピンポン玉が落ちない程度の穴を開けた板を作り出した。

 

 

「ボールが精神だとすると、平らな板の上でちょっとした外乱で動いてしまうよりも、風なんかでフラフラする状態よりもちょうどいい穴に入って動かない方が、気持ちが楽なのよね」

 

 

 紫は、板の上にボールを置き転がす。

 ボールはころころと転がり、穴にすっぽりとはまった。

 

 

「それが―――安定した状態だから。精神も自然界と同じように、最終的には最も安定な状態に行き着く」

 

 

 自然界は、もっとも安定な方向に進んで行く。決して不安定な状態を善しとはしない。熱い空気と冷たい空気を同じ部屋に作れば、必ず熱平衡状態になるために空気は移動を始める。そして―――最終的には両者の間の温度を取るはずである。

 

 

「特に和友から大きな影響を受けているのは、自然そのものである妖精よね。妖精は、自分で考えてどうこうするということができないから自然と貴方の方に寄りかかってくる」

 

 

 安定状態に移るという事象を最も顕著に表していたのは、妖精の存在だろう。

 妖精は、自然の権化である。妖精には、紫のような妖怪や少年のような人間と違い、自我がほとんど無い。紫や少年のように自我がある場合、故意に近づかないように努力すれば必要以上に引きつけられずに済む。自制をかければ何とか操縦ができる。

 だから少年は外の世界で心の距離を常に3歩以上離れるように努力していたし、紫は少年の心に極力近づかないような努力をしていた。

 しかし、妖精はそんなわけにはいかない。妖精には、自意識を操縦できるだけの自我が無いのだから。

 妖精が少年に寄ってくる理由は、少年の心に惹きつけられることが原因である。自然界が平衡状態を作るように、抵抗することなく勢いよくくっつき、少年と世界の一部を共有するのだ。

 

 

「そして、貴方に触れて自我を形成する。貴方の世界の一部を共有して世界を広げる。言葉を覚えて意志を示す」

 

 

 心に何も持っていない妖精が少年の部屋に入り込む。持ち物を共有する。それによって少年とよく似た自我を形成した。

 

 

「だからこそ―――妖精は藍に立ち向かった」

 

 

 それが藍と共に人里に行った時に起こった妖精の急変の原因である。

 少年は、紫の言葉に一度だけ頷き、理解を示すと同時に自分が後二年で死んでしまうことについて口にした。

 

 

「でも、僕はこの先長くない。紫、急によりどころが消えると……」

 

「落ちるしかないわね」

 

 

 紫は、少年の言葉に追随するように妖力で作った板を消し去る。

 板の上に乗っていたボールは、重力に従って畳の上に落ちた。

 

 

「寄りかかっている力に比例して無くなった時の衝撃は大きくなるわ」

 

「…………」

 

 

 少年は、何も言うことができずに黙りこくる。自分が死んだ時のことを想像すると自然と口が重くなった。

 少年の死は、腰かけ椅子の腰かけがいきなり壊れるようなものなのである。預けられている体重に比例して、その衝撃が大きくなることは容易に想像できる。今受けている力に比例して、ダメージが大きくなることは考えなくても分かった。

 

 

「さぁ、和友。貴方はどうするのかしら?」

 

 

 少年の進むべき道は示されている。

 向かわなければならない方角は目に見えている。

 しかし、足は目的を失ったように動こうとはしなかった。

 向かうべき未来が見えているのに心は動こうとしなかった。

 

 

 提示された道には―――肝心の歩き方が示されていなかった。




万有引力の法則の逸話は、非常に好きな話の一つです。
本当のことなのかどうかは分かりかねますが―――それもまた味のある話だと思います。


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少年の過去、両親への想い

 少年は口を紡ぎ、一切言葉を発しなかった。紫も少年と同様に口を固く閉ざしている。紫の部屋の中は静寂が支配しており、何も音が入る気配がなかった。

 逃げ場を完全に失った少年は動きを見せない。紫の髪を梳いていた両手は完全に動かなくなって、その場でただ呆然としている。

 

 

 紫から向けられた―――どうするのかという問いに対して、何かできることはあるのだろうか。

 少年は、紫に問われる前から随分と考えを巡らせてきた。結果として分かったことは、捨てるという行為においてのみ効果を発揮するという現実である。今までのことを無かったことにするという―――捨てる行為しか選ぶ余地がないという現実である。

 どうにもならないのだ。選択肢は一つしかなく、唯一ある選択肢を選ぶしかない。未来を見た少年の瞳には、光が宿っていなかった。

 紫は、希望も何もない少年にかける言葉が見つからなかった。余裕を取り繕った表情で疑問をぶつけたのはいいものの、少年が答えを一向に返さないことで、少年自身も自分と同じで状況を打開する術を持たず、どうにもならないところにいるのだと悟った。

 

 

「っ……」

 

 

 何もできない自分に苛立ち、静かに唇を噛む。

 確かに少年の前に立っている紫は、他の人と違って少年を導くことができる。少年の手を引いて未来に進むことができる。

 しかし―――少年には選べるだけの選択肢が無い。そもそも、進むべき道の中に選ぶことのできるものがない。

 

 

「さぁ、和友。いくわよ」

 

 

 少年の手を掴み、進むべき方角へと目を向ける。

 連れていかなければ―――迷ってしまった子供に正しい未来を指し示すのだ。指し示せる人間が僅かしかいないのなら、導くことのできる人間が案内をしなければ。そうでなくては道を失ってしまう。歩くのを止めてしまう。自分がやらなければ、他でもない自分がやらなければならない。家族である自分が―――。

 紫は、そんな使命感を持って少年の手を引いて進もうと前を向く。そして、前を向いた瞬間、目を見開いて立ち止まった。

 

 

「……なんで」

 

 

 紫の視界には真っすぐ伸びた‘一本のライン’があった。それ以外には何も見当たらない。ただただまっすぐに伸びた一本道が続いているだけだった。

 未来に至る可能性―――選択肢は一つしかない。これ以外に無いというようにはっきりと提示されている。

 

 

「なんで、進むことのできる道が一本しかないのよ……」

 

 

 紫は、力無く両腕をだらんとぶら下げると一本道の上で佇んだ。

 紫が少年の手を引いて進むことのできるラインは一本しか引かれていない。他に分岐点は存在せず、ただひたすらに真っ直ぐ伸びている一本の線だけが、存在感を放ってそこにある。

 真っすぐ伸びた先は、真っ暗で何も見えない。線路の先には希望なんて何もなく、目を凝らしたところで光は全く見えてこなかった。

 紫は、そのラインを進まなくても、ゴール地点に何があるのか無意識のうちに理解した。最終地点には、半年前と同じような終わりが待っているのだと、嫌がおうにも分かってしまった。

 紫の瞳が未来を閉ざすように、未来を見つめるのを拒むかのように閉じられる。

 

 

「すぅ……はぁ……」

 

 

 飲まれては駄目だ。

 一度大きく呼吸をする。

 そして、ゆっくりと閉じた瞳を開く。

 目の前には、先程と何も変わらない一本の線が伸びている。

 

 

「進むべき道がないのならば、作ればいい話よ。目の前の光景は、和友が一つの道しか見えていないからこその景色。和友を説得できれば、道を作ることができるはずよ……」

 

 

 紫は、強い覚悟を持って遠くを見つめる。

 未来へ至るラインが一本しかないのならば、何かしらラインを作ればいい。可能性が一つではないのだと、新しい道を提示してあげればいい。

 未来に進むべき道が一つしかないのは、それしかないと少年が思っているからだ。その未来以外に選ぶ余地がないと考えているからだ。

 だったら、それ以外を見させるだけの理由を与えられればいい。

 ―――単純な答えではある。

 だが、それが難しい。少年の意志を捻じ曲げるということの難しさは、この2年間で痛いほど分かっていた。

 

 

「けれども、和友がそう簡単に気持ちを曲げるはずもない。曲げられる理由も、根拠もない」

 

 

 少年は、間違いなくその一本を進みたがっている。どれだけ選びたくなくても、それを選ぶべきだと思っている。

 少年の意志はその一本に集約している。少年がその道しか見えていないからこそ、未来への過程が一つしか見えないのだ。その道を進むと決めたからこそ、その道しか見えていないのだ。

 何があるだろうか。何か、この道以外を選ぶことのできる選択を提示できるだろうか。

 探せば見つかる―――なんて夢みたいなことが起こるはずもない。紫は、少年の意志を曲げることができる、逸らす事が出来る材料を見つけることができなかった。

 ―――見つけられるはずがなかった。

 この道を進むことが正しいのだと―――紫自身が思っているから。

 

 

「なにより……この道が正しいことは誰の目から見ても明らか。誰もが幸せで、誰もが救われて、誰もが許される、そんな未来に繋がっている。唯一和友を除いて……」

 

 

 この道を辿れば、きっと元通りになることだろう。あの頃に戻ることになるだろう。

 この道を選ばずに放置した先のことを考えれば、この道を進む方がずっと幸せに違いない。悲しみに暮れる未来よりは幸せな日々が送れるだろう。

 しかし、そこに少年はいない。少年はそれで救われない。助からない。ハッピーエンドにはならない。

 バットエンドだと思っているのは紫だけで、少年は満足するのかもしれないが、紫はそれをハッピーエンドとは認めたくなかった。

 紫は、一度行き詰っている思考を停止し、左右に目を配る。何とかして新たな道を示すことができないかと目配せする。

 

 

「何かないのかしら。和友も助かってみんなも救われるような選択肢が」

 

 

 紫は、少年を助けることを最後まで諦めるつもりなど微塵もなかった。それこそ、失うその瞬間まで諦めるつもりはなかった。

 失う覚悟をすることと諦めることは似ているようで違っている。紫は、少年を失う覚悟を持ちつつも、最後の最後まで諦めないと心に誓っていた。

 

 

「ねぇ、和友」

 

「何かな?」

 

「昔話をしましょう。貴方の昔話を聞かせて欲しいの」

 

 

 きっと、少年を救うことができる可能性は過去の中にある。今から未来を変える手段は過去の経験の中にあるはずだ。

 紫は、少年の未来に光を灯すための可能性の欠片を少年の過去に求めた。

 ただ、それも淡い希望である。少年の過去を聞いたとしても、少年の助かる可能性は万に一つでさえ無いだろう。

 しかし、少年の過去に少年が助かる可能性が一欠けらも無くても、少年がこれまで何を思って生きてきたのか、何を考えていたのかは分かる。知ることができる。境界を曖昧にする能力という呪いのような力を授かって産まれてきた少年が、何を思って生きてきたのかを知ることができる。

 

 

(和友の過去の話を聞いても……和友を救う手立ては何も出てこないかもしれない。けれども、和友が何を感じてこれまで生きてきたのかは分かる。能力をもって産まれて、何を想って、何を求めているのか、それを理解することはできる)

 

 

 少年は、産まれてきたことを後悔してはいないのだろうか。生きていることを辛いと思ってはいないのだろうか。死にたいと思っているのではないだろうか。

 少年は、そう思ってもおかしくないものを背負っている。

 普通の人間ならば耐えられないだろう。周りに迷惑をかけている、周りに影響を及ぼしている、周りよりも劣っているという状況に我慢できないだろう。

 能力があるからなんて言い訳を知らず、人間としての性能が劣っているとしか思えない状況で周りについて行くために努力し続ける。それは、まさしく心を削っていく作業である。

 希望がなく未来を進める人間はそうはいない。少しの希望も、少しの望みもない、ただ維持しているだけ。摩耗し、擦り減っていくのを必死に耐えて維持しているだけ。

 そんなもの長く続くわけがない。そのうち具体的な何かがない希望に縋ることも止めてしまう。

 そして、その心の動きは、社会性の強い人間ほど強くなる。

 

 

(責任の重さに耐えきれずに死んでしまう人間は多い。周りを不幸にしていることを分かってなお生き続けられるほど人間は強くない。だけど、和友は生きてきた。能力を打ち消すために努力し、良かれと思った方向へと歩みを進めてきた)

 

 

 少年の普段の様子からは、そんな暗い部分は微塵も感じられない。いつも元気で、いつも笑顔で、頑張ることを止めない。心が苦しんでいるのに、そんなもの微塵も感じさせない表情で今を楽しんでいるように見える。

 なぜだろうか、どうしてだろうか。

 何が少年にそうさせてきたのか。

 何が少年を支えているのか。

 

 

(和友は、幻想郷に来て何を背負って、何を求めて、何を想っているのかしら)

 

 

 紫は、少年が産まれてからこれまで生きていく中で感じたこと、思ったこと、幻想郷で自分たちと過ごしている時の心の内が知りたかった。幻想郷で何を想って生活していたのか、何を想って生きてきたのか熟知しておきたかった。

 少年は、紫の唐突なお願いに戸惑う。

 

 

「急にどうしたの?」

 

「私は、ここまで一緒に生活してきてやっと貴方が何を考えて生きてきたのか理解できたわ。それでも、私の中の想像が本当なのか確信が持てない。和友の曖昧さが私を不安にさせるの。私が思っているだけかもしれない。私は、貴方が消えてしまう前に、貴方の本当の声が聞きたいの」

 

 

 少年の気持ちを知ることでより強い覚悟ができるような気がしたから。

 少年の想いを知ることで、気持ちに踏ん切りをつけることができるような気がしたから。

 紫は、今にも消え入りそうな声で少年に呟いた。

 

 

「そうすることで、きっと気持ちの整理がつくから。それが分かれば……私は、貴方を失う本当の覚悟を持つことができると思うから」

 

 

 少年は、どこか悲しそうな瞳で紫を見つめる。紫の瞳は、少年の視線から逃げることなく見つめ返していた。

 少年は、暫く視線を交わすと一度だけ頷く。強い意志を瞳に宿し、重い空気を振り払って笑顔を浮かべる。

 どうして笑顔を浮かべることができるのだろうか。

 どうしてそこまでして強くあろうとするのか。

 少年の本心は―――やっぱり分からなかった。

 

 

「貴方は、どうして……」

 

「僕には結局この生き方しかできないんだ。今更、どうにもならないよ。泣くことも、悲しむことも、何もかも……全部を受け入れることしかできない」

 

 

 紫は、笑顔を作る少年の強さに思わず抱きしめたい気持ちに駆られた。まるで弱弱しい生き物が必死に虚勢を張っているように見える。本当なら泣きたいはずなのに、本当ならば悲しみたいはずなのに、決して自身の弱さを見せようとしない。

 

 

「今までの生き方に対して後悔も何もないし、間違っていると思ったこともない。唯一間違っていたのは、僕みたいなやつが産まれたことだけだよ」

 

 

 少年は、笑顔のまま本心のような虚偽のような言い訳じみた言葉を並べた。

 紫は、そんな少年を見つめながらひたすらに動き出そうとする体を抑える。衝動のままに少年を抱きしめることは絶対にしたくなかった。

 言ってもらわなければ―――分からない。

 口に出さなければ―――伝わらない。

 私たちの心は離れているのだから、飛ばさなきゃ拾えないの。

 

 

「それでも良かったという点があるとするなら、この能力をもって産まれたのが僕で、僕の両親が僕に対して愛情を注いでくれたことかな」

 

 

 正面から少年を見ている紫には分かった。

 少年は必死に虚勢を張っている。猛烈な吹雪の中でひざを伸ばして立っている。苦しそうにもがいている少年の顔が見える。

 

 

「それは本心で言っているのかしら?」

 

「本心だよ。嘘のような僕の本当の気持ち。自分の心を守るための自己犠牲の気持ちだよ」

 

 

 少年は、一人ぼっちで泣いている。涙を流しながらも周りの人間から寄りかかられながらも真っすぐに立っている。泣きながらしっかりと両足で立って前を見ている。視線を落とすことなく、目的地をひたすらに見つめている、覚悟のある表情で前を向いている。

 周りにいる人間は寄り添うようにそこにいるだけで何もしようとしない、何も見ようとしない。

 紫は、必死に耐えている少年を見て助けてあげたいという感情を必死にこらえた。自分は同情してはいけない。和友の気持ちを穢してはいけない。同情してどうなる―――最も嫌いな同情がさらに少年を追い込む結果になるだけだ。

 

 

「自分を守るための自己犠牲……貴方の心は、他人のためにあることで支えられているのね」

 

「……ありがとう。僕は、幻想郷でもいい人に巡り合えた。こうやって僕の本当の気持ちを察してくれる人がいるだけで幸せ者だ」

 

 

 少年は、しっかりと前に立ってくれる紫の姿勢がものすごく嬉しかった。それだけで、これからを生きていける力を貰ったような気がした。

 

 

「僕が産まれた時からの話を一つずつ話そう。両親のとっていた成長記録を読んでみて僕が想像した部分も結構あるから、ところどころ間違っているかもしれないけどね」

 

「他ならぬ貴方に向けて書かれたものよ。間違いなんてあるわけ無いわ」

 

 

 少年は、断言するように告げる紫に対して本当に敵わないなと静かに目を閉じる。そして、思い返すようにして口を開いた。

 

 

 

 

 

 最初は―――僕の産まれた時からの話だね。勿論だけど、僕には産まれて間もない時の記憶なんて無いから両親の成長記録を読んだ内容から想像した話になるからね。

 

 

「さっきも言ったけど、それで構わないわ。貴方の世界から見た景色を教えて」

 

 

 分かったよ。じゃあ、最初から説明するね。

 ある同い年の夫婦にある一人の男の子が産まれた。その男の子は、望まれて産まれた。望まれて産まれていない子供がいるのかと言われれば、どうなのか僕には分からないけど、少なくとも望まれて産まれたことを僕は知っている。

 

 

「そうね、望まれて産まれてきていないのならとっくに貴方は死んでいるわ」

 

 

 違いないね。

 今こうして生きている事実があるからこそ―――断言できる。僕は、両親に望まれてこの世界に産まれてきたんだって。

 この記録を見て初めて知ったんだけど、母親は妊娠するまでにすごい時間がかかったみたい。

 

 

「不妊体質だったということかしら?」

 

 

 そうみたいだね。母親は、もともと妊娠しにくい体質だったようだよ。

 父親は別にそのことを責めることは無かったけど、母親は子供ができないことを非常に重く思っていたみたい。

 やっぱり愛の証として子供が欲しかったということなのかな?

 

 

「母親は、不安だったのでしょうね。もしかして愛想をつかされるのではないかって。きっと夫を繋ぎとめておく鎖が、強い絆となるものが、形のあるものが欲しかったのでしょう」

 

 

 そういうものなのかな?

 僕には分からないけど。

 

 

「そういうものなのよ。和友にはきっと、一生分からないわ」

 

 

 どうして?

 

 

「和友は勝手に築いて、勝手に崩れて、勝手に終わっているもの。自分からどうこうしようとしていない。繋がりたいと思って繋がった繋がりなんてないでしょう?」

 

 

 確かにそうだね。僕の周りはいつだってそうだった。勝手に作られて、勝手に無くなっていて、勝手に終わっていた。

 

 

「特別な誰かができれば、きっと母親の気持ちが分かると思うわよ。もしかしたら女性特有の感情かもしれないから確証を持って話すことはできないけれどね」

 

 

 分かるときが来るといいけど。

 そんな大事な何かが、繋げておきたい誰かができると―――どうなっちゃうんだろう?

 

 ううん……今話そうとしていることと関係がないね。話を戻すよ。

 

 二人はずっと、何とか子供を授かりたいと不妊治療を行ってきた。

 母親は、不妊治療の効果もあって結婚してから10年経って初めて子供を身ごもった。その子供が僕だ。

 僕じゃなかったらと思わずにはいられないけど、それは僕だった。もちろん、産まれてきたことを後悔しているわけじゃない。優しい両親の下で産まれてきて僕は幸せだったし、産まれてきたことに対して後悔も何もない。

 ただ―――産まれなかったら良かったのにとも思う。

 ただ―――両親には、生きていて欲しかったなと今でも思う。

 

 

「和友……」

 

 

 僕じゃなければ死ぬことはなかった。産まれてくる子供が自分でなければ、能力を持っていなければ、という可能性があったのかもしれないと考えると産まれなかった方が良かったと思う。

 

 

「そうね、きっと和友じゃなかったら両親が死ぬことはなかったわ」

 

 

 僕は、そうやってはっきり言ってくれる紫が好きだよ。

 慰めも同情もいらない。現実問題として、両親が死んでしまっている事実は変わらない。

 だけど、だからって何もなくなってしまうわけじゃない。死んでしまって何もかも失ってしまうわけじゃない。持っているもの全てを捨てていいわけじゃない。悲しむことが許されていなくても、後悔だけは胸にいっぱいある。

 

 

「後悔しても現実は変わらないわ」

 

 

 僕が後悔できなかったら、何が残ると思う?

 僕の心に両親の何が残ると思う?

 後悔をしなかったら―――どんな思いが残ると思うの?

 

 

「…………」

 

 

 そう、何も残りはしないさ。

 まっさらで綺麗に平らにされた大地が残るだけ。

 標識も、立て札もなく、綺麗なまっさらな記憶の消去が起こるだけ。

 僕は―――それが嫌だから。

 だから、後悔するんだよ。

 悔いはある―――ただ、それでよかったんだ。

 そうでもしなきゃ、僕が産まれたことを喜んでくれた両親に悪いだろう?

 死んだことに対して、後悔もなにもなく、何にも悲しまれない存在があっていいの?

 僕が両親のことを全て忘れてしまったら、誰が両親のことを覚えていてくれるの?

 僕は、これ以上僕の両親を消させやしないよ。

 僕が殺した強盗殺人犯と同じように、記憶にとどめて保持し続ける。

 守り続けることが僕にとっての両親に対する恩返しだから。

 自分自身を許すことができる、唯一の手段だから。

 

 

「和友、両親のことについては……」

 

 

 謝らないでよ。

 そんなものいらない。

 それこそ、貰ってもどうしようもない。

 さっきの紫の言葉じゃないけど、謝られても現実は変わらない。

 それに―――貰うとしても、それは紫からじゃないだろう? 

 だから、いらないよ。

 僕は受け取らない。

 

 

「そうね……」

 

 

 話を続けるね。

 両親は、子供を授かったことに歓喜した。やっと不妊治療の努力が実ったのだと喜びを体いっぱいに表現した。

 僕を身ごもったのは、35歳を迎える時だ。もう後がないと分かっていたのだろうね。最後の最後で両親の願いは叶った形になった。

 

 子供を身ごもった年の12月のクリスマスの冬に―――僕は産まれた。

 両親は、持ち合わせている愛情の全てを子供に対して注ぎ込み始めた。

 子供は、好奇心が旺盛でよく喋る子でなんでも質問をして、なんでも楽しそうに笑顔を振りまいた。感情をまきちらしていた。

 両親は、そんな元気な自身の子供に全てを入れ込むように満たしていった。

 

 

 少年は、淡々と両親の取っていた成長記録を読んで補間した内容をつらつらと並べる。どこか確信めいたように。どこか納得するように。どこか後悔しているような声色で語り続ける。

 紫は、少年の言葉に相槌を打ちながら、時折言葉を挟み込みながら会話を展開していく。

 紫はすでに両親の書いていた少年の成長記録を読んでいる。前知識のなさが導入を拒むことは無い。少年の言っていることはすんなりと頭の中に入ってきた。

 

 

「貴方は、産まれた時と今とで何も変わらないのね」

 

 

 成長記録をもとに話す少年の話を聞いていると、昔の少年と今の少年が何も変わっていないことに気付く。昔から好奇心旺盛でよく喋る性格は変わっていない。それについては少年にも自覚があるようで、少年は紫の言葉にそっと頷いた。

 

 

「そうだね、何も変わっていない。両親は、僕にありったけの愛情を注いでくれた。僕は、‘それだけ’は忘れないよ」

 

「和友……」

 

 

 紫は、少年の口から語られた言葉の重みに口が動かなくなった。唯一口から出てきたのは、慰めの言葉でもなく、少年の名前だけだった。

 

 

 

 

 ―――和友の成長記録抜粋―――

 1988年12月24日 和友が誕生 和友0歳

 私達に念願の子供が産まれました。これまで不妊治療をしてきてやっと産まれた子供です。子供には、和友という名前を付けました。誰とでも和気あいあい、仲良くなって友達をたくさん作って欲しいという願いを込めた名前です。

 どうか神様、私達のちょっとした我儘をお聞きください。私達の幸せの一部をこの子に与えてやってください。

 

 

  1990年4月8日 和友 1歳

 和ちゃんは何の問題もなく、元気にすくすくと育っています。好奇心が旺盛で、何でも触ってどこにでも行こうとする、そんな行動力を持っています。急に視界からいなくなると、私はとても不安になります。

 私達家族の家は、どうやら和ちゃんには小さく窮屈なようです。私達は決して裕福ではないので、和ちゃんのために家を広くしてあげたいけども、それはできません。和ちゃんはこれから多くの事を知って、こんな小さい家の中の世界だけじゃなくて、広い世界で生きていって欲しいと思います。

 パパには、いろんなところに連れて行ってもらおうね。その時は、私もいろんなことをお願いしちゃおうと思います。

 

 

「おちゃめな人だったのね」

 

「元気溌剌な人だったよ。笑顔を絶やさずに無理にでも元気を出して、周りを明るくする人だった」

 

「まるで貴方みたいね」

 

「僕と母親はほど遠いよ。性質があまりにも違いすぎる」

 

 

 そうかしら? きっとその心は母親が作ったと思うわよ。紫は、心の中でそう呟いた。

 眩しいほどに明るい笑顔。無理にでも元気を出す性質。そして、何より何事にも負けずに受け入れる強さを持っている。それは、完全に母親から受け継いだものだろう。

 

 

 いいんだ、分かっている。

 もう、十分すぎるほどに理解できる時間はあった。

 さぁ、話の続きをしよう。

 ここからは、少しだけ記憶があるからそれも交えて話をするよ。

 

 

 

 これまで何の問題もなく育ったわけなんだけど、問題が起きたんだ。小学校に入ったころに一つばかり問題が起きた。寝ている時に痙攣をおこして跳ね上がることがあったんだ。

 僕は、その時の記憶が全くなかったから、親からどうしたのと聞かれても上手く答えられなかった。記憶がないんだから、答えようにもできるはずがなかった。両親から見れば、僕はきょとんとしていて何のことか分かっていない様子だったみたいだね。

 寝ている時に唐突に痙攣し、跳ね上がるなんてことは普通ではない。両親は、絶対何か病気なのだと確信めいたものを感じて病院を訪れた。

 けれども、寝ているときに起こる唐突な痙攣の症状の原因は分からなかった。両親は原因も分からず、様子を見るという医者の言葉を飲み込んで家へと帰宅した。

 もともとこれは、僕に根付いていた能力の覚醒の序章みたいなものだから、医者にどうこうできる話じゃなかったんだよね。

 両親は、その後も病院を何度か訪ねた。不安だったんだろうね。どうしても原因を知りたかったみたい。

 けれども、一向に原因は判明しなかった。ただ、その後も何度か痙攣をおこしたけど、その症状が僕の健康状態に大きな影響を及ぼしているということは無かったから様子見という言葉を貫き、不安をぬぐうことなく僕を見守ることを決めた。

 

 

 

 紫は、少年の話から2年前に話した内容を思い出した。

 寝ている時に痙攣するという話は、少年から一度聞いたことがある。それは、少年が病院にいた時に話した内容である。記憶違いでなければ、夢の中で転落死を遂げた際の衝撃で現実の体が跳ねるというものだったはずだ。

 

 

「この話は、貴方が強盗殺人犯に左手を刺されて病院に入院していた時にした話ね」

 

「さすが、よく覚えているね。跳ねていたのは決まって転落死の時だけなんだ。地面とぶつかってドーンってね」

 

 

 少年は一度だけ頷き、昔を思い出すように語り続ける。

 

 

「心が大きくなり始めたのは、大体この頃からなんだろうね。知識を得て、夢の中で死んで、目覚めるということを延々と繰り返した。きっとそれに伴って、心が大きくなっていったんだろう」

 

 

 心が大きくなったのは、夢の中で死んでいることが原因だ。

 夢の中で死ぬということは―――生まれ変わるということ。生と死が曖昧な夢の中だからこそできる芸当である。本来変わらないはずの心の大きさは、夢の中で死に生まれ変わるという経過を経て、一回りも二回りも大きくなった。

 まるで―――蛇が脱皮するように。皮をはいで新しい皮膚を纏って、大きく成長していく。

 

 

「物事を区別できなくなったのもこのぐらいからなの?」

 

「物事を覚えられなくなったのも、このあたりからだね。人の顔とか、飲み物の種類とか、空の色とか色々分からなくなった」

 

 

 紫は、少年の心の中を思い浮かべて想起する。

 死んで生き返って生まれ変わる。

 新しいものが入るたびに、死んで生き返る。

 崩壊と生誕を繰り返す、無限ループのような終わりのない現象を。

 

 

「繰り返し、繰り返す、終わらない螺旋現象。秩序を保つために境界を引いて、標識を打ち立て制御する。そして、また繰り返す……」

 

 

 そこからさらに、今まで認識していたものの境界線を引き裂くようなイメージを頭の中に作り出す。きっと―――その世界こそが少年の見ている世界である。

 紫は、脳内に少年の見えている世界を作りだした瞬間、目の前がぐにゃぐにゃとねじ曲がるような底抜け沼に嵌っているような感覚に陥った。

 こんなところで生きているのか。

 紫には、未だに少年がこうして普通に生きていることが信じられなかった。優しい性格を維持したまま、外の世界で普通の人間に混じって生活してきた事実が信じられなかった。

 少年は、思考を停止させている紫に向けて言った。

 

 

「ただ、人の顔とか空の色だとか、そういうもともと区別されていたものって心の中に何となく置いてあったものだから、世界が広くなってどこにあるのか分からなくなっただけかもしれないけどね」

 

 

 紫は、少年の声で思考の沼から抜け出ると、首を振って停滞した考えを振り払う。

 こんなところで頭を悩ませてはいけない。少年が本当に辛かったのは小学生、中学生という普通の人間に囲まれて生活してきた時間なのである。

 ―――周りと違う状況で

 ―――周りと違う環境で

 ―――周りと違う世界を見ている。

 それを他の人間と共有することのできない少年

 決して分かり合えず

 決して理解することは叶わない。

 少年にとっての鬼門は、社会に溶け込むという絶対不可避な人間としての営みにあるのだから。

 紫は、覚悟を持って少年の話に耳を傾けていた。

 

 

 ―――和友の成長記録抜粋―――

 1994年12月22日 和友 6歳

 和ちゃんは、あれからすくすくと体も大きくなり、小学生になりました。和ちゃんは、もう小学生になったのですね。そろそろ和ちゃんと呼ぶのは不味いでしょうか……これからは和友と呼ぼうと思います。慣れるまで口に出すのは難しいかもしれないけど、成長記録の中では慣れるために和友と書くことにします。

 

 和友は、変わらず元気に過ごしています。けれども、和友の様子が他の子供と明らかに違うところがありました。和友は、寝ている時にいきなり痙攣を起こし、跳ねあがることがあるのです。

 私達は、和友を連れて病院に行きました。だけど、和友を病院に連れて行っても異常は見当たらない、原因は分からないと言われてしまいました。

 不安でたまりません。あれは、絶対に何かおかしいと私達には分かります。

 和ちゃんは、悪い事なんてしていないのに、ただ明るく生きているだけなのに。どうか……悪い病気ではありませんように。

 



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異常の発見、原因不明の症状

 子供は、自分が周りの人間と違うということを認識し始めていた。そして両親も同時に、自分の子供が周りの人間と違うということを理解し始めていた。

 お互いがお互いに曖昧な認識をしていたそんななか境界線を引いたのは子供の言葉だった。均衡を崩したのは、一言の素朴な、素直な言葉だった。

 

 

「僕は、みんなと違うの?」

 

 

 その言葉は、何気なく放たれたものだっただろう。ふと見た雲の形に、あれは何雲なのだろうと言うように、ぽっと出てきた言葉だったことだろう。

 そんなふんわりした言葉が、両親に境界線を引かせた。曖昧に浮かんでいた雲を引き裂いた。

 

 

 子供が似ているものの区別ができないと判明したのは、些細なきっかけからだった。それは、いつものように父親が働きに出て、子供が小学校へ行き、母親が家で家事をしていた普段通りの平日のことである。

 

 

 子供は、授業を終えて学校から家に帰った。そして母親と一緒に料理を始めた。

 母親と子供が料理を一緒に作るのは、毎日の日課だった。決して義務的ではなく、楽しんでやっている日課の一つだった。母親の楽しみの一つでもあり、子供の楽しみでもある料理という共同作業。他にもいろいろ一緒にすることはあったが、何か新しいものができる、何かの役に立っているという感じが強い料理は、特に楽しそうだった。

 母親と子供は、楽しく話をしながら父親の帰りを待った。

 父親は、晩御飯が完成して暫くの時間が経ったところで帰ってきた。

 母親と子供は、二人そろって玄関で父親を出迎える。

 

 

「「おかえりなさい!」」

 

「ただいま。和友、今日もいい子にしてたか!」

 

「あったりまえでしょ!」 

 

 

 父親は、嬉しそうに挨拶を交わすと家へと入る。そして、自室に入った直後に、そそくさと着替えを終え、リビングへ入った。

 そこには、すでに子供と母親が座っている。父親は、後を追いかけるように二人がいる食卓テーブルへと腰を下ろした。

 

 

「「「いただきます」」」

 

 

 テーブルに座った3人は、それぞれに目を配ると合掌し、晩御飯を頬張った。

 3人で笑顔を浮かべながら晩御飯を食べていた。

 そんな普段の1日だった。

 そんな―――普段通りの晩御飯だった。

 しかし、いつもの団らんの空気は唐突に変化する。

 それは、ある一つの質問からだった。

 

 

「和友は、学校で特に仲のいい子はいるか?」

 

 

 何のことはない、何処の家庭においてもよくされる質問の一つだろう。自分の子供が誰と仲良くて、どんな相手と友達になっていて、どんな遊びが好きなのか。小学生になれば彼氏彼女といった恋人関係を作る者もいるという現代において、仲がいい友達は誰がいるのかという質問は酷くありきたりで、一般的にみられる質問である。

 

 

「……?」

 

 

 子供は、両親からの質問に対してきょとんとしていた。そして、すぐに表情を歪ませると一生懸命に頭を抱えて考え込みだした。

 

 

「うーん……」

 

 

 両親は、悩んでいる子供の様子を不思議そうに見つめる。

 仲のいい友達を答えられないなんていうことは、普通はありえない。

 両親は、きっと誰の名前を挙げればいいのかで悩んでいるのだろう、待っていれば答えられるはずだと気楽な気持ちで子供からの回答を待っていた。

 しかし、子供はいくら経っても両親からの問いに答えられなかった。

 

 

「どうした?」

 

「和ちゃん、大丈夫?」

 

 

 両親は、唸っている子供に疑惑の視線を向ける。

 子供は、両親の視線に耐えきれずに泣き出してしまった。

 

 両親は、泣きだしてしまった子供の反応に困惑した。

 両親には―――子供が泣いている理由が分からなかった。

 

 両親が子供に聞いたことは、友達の名前である。テストの話や成績の話ではない。話すのが後ろめたくなる理由は、友達がいないという場合を除いて特にないはずである。

 

 

 両親には、子供が泣くような理由が全く見当たらなかった。

 

 

 この時点で、子供の心の大きさは市街地ぐらいには大きくなっていた。区別するには努力を必要とするレベルである。

 今まで識別するための努力なく生活できていたのは徐々に心が大きくなっていったからで、人間の環境適応能力が―――少年の適応能力がぬきんでて高かったからどうにか対応できていたと考えられた。

 だが、そんなごまかしがきいていたのもここまでである。

 市街地ほどに大きくなった心の中で、境界線がどんどん無くなっていく心の中で、物事が判別できるわけがなかった。友達の区別なんてできるわけがなかった。

 もちろん、本人に自覚はない。自覚症状など感じる間もなく、感じる余裕もなく、緩やかに推移している。

 当然、心の大きさを調べる術などない。医者が分からなくても当然である。子供は自分の心が大きくなっていることを自覚できておらず、親も子供の心が大きくなっているなど理解していなかった。

 両親は、泣きじゃくる子供の様子に何のことだか分からず、泣いている理由を問いかける。

 

 

「どうしたの? 何か辛いことでもあったの? どうして泣いているの? 和ちゃん、私に理由を話してくれないかな?」

 

 

 子供は、泣いている理由を一向に口にしなかった。

 正確には、口にできなかったのだが―――誰と遊んで、仲が良いのか分からなかったのだが。両親にはそんなことを知る由もなかった。

 

 

「どうしてだろうか。分かるか?」

 

「分からないわ。こんなこと初めてだもの」

 

 

 両親は、何度聞いても理由を話してくれない子供に理由を尋ねることを諦めた。

 答えてくれない内容をいくら待っても、時間の無駄になるだけである。無理矢理聞いて答えられる質問でもない。答えられない何かがあるから答えないのだ。いくら問いかけたところで押し問答になるだけだと悟った。

 

 

「大丈夫よ、大丈夫、大丈夫。誰も責めたりしない。誰も怒ったりしないから。だから、泣き止んで。和ちゃんが悲しくなると、私たちも悲しくなるから、ね?」

 

 

 子供は、暫く泣くと瞳から流していた涙を止める。そして、泣き疲れてしまったようで眠り始めた。

 両親の目の前には、瞳を閉じて静かに寝息を立てている子供がいる。

 両親は、先程の子供の様子を見て言いようのない気持ち悪さに襲われた。脳裏に嫌な想像が膨らんでいくのを止められなかった。

 

 

「学校で何かあったのかもしれないな。もしかしたら……」

 

「ええ、何かあったのよ。でも、ちょっとあの様子じゃ和ちゃん自身に聞くのは無理そうよね……」

 

 

 両親は、お互いの顔を見合わせる。

 父親と母親の顔には、不安の色がにじんでいた。

 

 

「担任の先生に連絡を取ってみよう。何も知らないかもしれないが、少なくとも和友と仲のいい子がいるかどうかは分かるはずだ」

 

 

 両親は、不安を抱えきれずに子供の通っている小学校へと連絡を入れることを検討した。

 もしかしたら、担任の先生ならば和友が答えられない理由を持ち合わせているかもしれないという淡い期待をもって。

 

 

「和友に限って虐められているなんてことはないよな? 和友が誰かに何かされるなんて考えられない」

 

「怪我をして帰ってきたことなんてほとんどないから、無いとは思うのだけど……」

 

 

 両親の頭の中には、子供が質問に答えられなかった原因がいくつか思い浮かんでいた。

 仲の良い友達の名前が言えない理由は、かなり限られている。

 真っ先に挙げられる理由としては、仲のいい友達がいないからという理由である。つまり、自身の子供が学校で苛められているのではないかという想像である。それならば、友達がいないということになるのだから、親に向かって言えないのもしょうがないことだと思えた。

 だが、そんなそぶりは一切見せてこなかった。虐められている痕跡一つ感じられなかった。何より苛めを受ける理由が考えられなかった。

 両親は、一抹の不安を抱えながら電話のボタンを押す。電話口からは、呼び出しのコールが鳴り始める。静かな空間に小さな呼び出し音が鳴っていた。

 

 

「すでに帰ってしまっているかもしれないな」

 

 

 父親は、壁にかかっている時計に視線を向ける。

 すでに時計の針は7時を回っている。小学校の先生たちは、すでに帰ってしまっているかもしれない。例えいたとしても、今から話し合うというのも迷惑なことなのかもしれない。

 だが、両親には明日まで待てるような心の余裕がなかった。今知らないと、今分かっておかないと、不安でいっぱいになって眠れることができそうになかった。

 

 

「あ、笹原と申します。息子がお世話になっております」

 

 

 コールの数が二桁になろうというとこで、両親は学校に残っていた先生と連絡を取ることができた。

 電話口には、子供の担任の先生がいる。どうやらまだ学校にいたようだ。

 両親は電話で話しているのにもかかわらず頭を下げて、今から子供のことで話ができないかと懇願する。

 電話先の先生は、何事かあったのだろうとすぐに察し、両親の慌てるような声色を落ち着け、優しい声で肯定の旨を伝えた。

 両親は、先生からの許しを得て再び電話の前で頭を下げた。

 

 

「許可はとった。今から行くぞ」

 

「分かったわ。和ちゃん、少しの間待っていてね」

 

 

 両親は、そっと子供の頭をなでると慌てて子供の通う小学校へと向かった。

 

 

「こんな時間に申し訳ありません」

 

 

 両親は誰もいなくなった教室に案内され、小学校の担任の先生から話を聞いた。

 しかし、担任の先生と話をした結果としては、子供が仲の良い友達の名前を口にできなかった理由は分からなかった。

 小学校の担任の先生からは、とてもいい子ですという旨の話しか聞くことができず、子供に特に問題があるという話は聞けなかったのである。

 両親は、胸に残っている疑問を飲み込む。そして、不安要素を作り出した一つの問いを担任の先生に向けて吐きだした。

 

 

「和友と仲の良い子は、誰がいますか?」

 

 

 両親は、学校に出向いた際に担任の先生に向けて、和友と仲の良い子供は誰ですか、という問いを投げかけた。

 担任の先生は、迷うことなく具体的なクラスメイトの名前を並べ出す。両親は、子ども口からではなく、担任の先生から自身の子供と仲の良い友達の名前を知ることとなった。

 しかしながら―――名前が並ぶは並ぶ。名前がどんどんと連なり、10人を余裕で超えていく。途中まで言ったところで両親が止めなければ、クラスメイト全員の名前を出したのではないかと思ってしまうほどだった。

 なんでも、仲の悪い人間などいないと。誰とでも仲良くなれるいい子ですと。

 耳触りのいいような錯覚を覚える言葉が整列してこちらを向いていた。

 

 

「そうですか……」

 

 

 両親は、疑問が解消されない気持ち悪さを保持したまま、自分の子供が苛められていないことにひとまず安心し、家へと帰宅した。

 両親が家に帰ると、泣き疲れて寝ていた子供はすでに起きており、一人で空を眺めていた。空には星が少しだけ光っているのが確認できる。

 子供は、昔から空を見上げるのが好きだった。

 

 

「仲のいい子は、いっぱいいたんだな」

 

「さっき担任の先生に話を聞いてきたんだけど驚いちゃった。沢山お友達がいるのね」

 

 

 両親は、先ほど小学校で聞いてきた話を子供に投げかける。先生から伝えられた友達の名前を並べて、だれだれと仲が良かったんだね、何で答えなかったの? と尋ねた。

 

 

「……………」

 

 

 子供は、晩御飯を食べている時と同様に困った表情を浮かべて口を紡いだ。決して両親の告げた名前を反復することもなく、肯定することもなく、ただただ泣きそうな顔をしていた。

 

 

「仲のいい子は、柴田君かな? それとも、上本さんかな?」

 

 

 両親は、聞こえなかったのか、それとも理解ができなかったのかと質問の言葉を変えて再び問いかけた。

 友達の名前は両親がすでに告げているため、子供はもはや両親の言葉に頷くだけでよかった。頷くだけで好転するような状況だった。

 しかし、子供は両親が言い変えて言葉の意味を伝えても、その友達が誰のことだか分かっていないようで両親の問いに答えることはなかった。

 

 

「「「……………」」」

 

 

 両親と子供の間に、重い沈黙が停滞した。

 子供は、両親との間に生まれた重い空気に耐えきれなくなり、答えられなかった理由を―――友達の名前が分からないという真実を告げた。

 

 

「友達の名前が分からない……」

 

 

 両親は、子供の解答に言葉を失い―――口を閉ざした。

 

 

 

 ―――和友の成長記録抜粋―――

 1996年9月16日 和友 7歳

 和友がおかしいです。寝ている時に痙攣を起こすことは相変わらず変わっていませんが、和友は私達に不思議なことを言ってきました。和友は私達に、友達の名前が分からないと言ってきたのです。

 和友は、私達と見えている世界が違うようで、空の色は何? と聞けば、首をかしげる。オレンジジュースを持ちだし、これは何? と聞くと飲み物と答えます。

 私達は、和友から欲しい答えが聞けませんでした。和友は飲み物と答えるだけで、決してオレンジジュースと答えることはありません。

 

 和友は、物事の区別ができないようです。特に似通ったもの、性質の似た物に関して判別ができていないようです。さらにいえば、概念的なあやふやなものも判断ができませんでした。

 飲み物というくくりはできても、それがどんな飲み物かの区別がつかない。空の色に関しても、移り変わりをみせるものであるためか、区別がつかないようです。

 そのうえ和友は、人の識別も一切できませんでした。大人か子供か、大きいか小さいかなどの情報は理解しているにもかかわらず、その人が誰なのかが分からないのです。

 親である私達のことは認識できているのに、学校の担任の先生も区別できているのに、友達や他人に当たるような複数の人間が当てはまるような人物に関しては区別ができませんでした。

 

 

 私達はある日、友達と遊んできたという和友に聞きました。

 和友から欲しい答えが得られないことを知りながら尋ねました。

 事実と向き合うためには、和友がこれからを生きていくためには、和友のことを知る必要があったのです。

 

 

「ねぇ、和ちゃん。今日は誰と遊んだの?」

 

「友達と遊んだよ!」

 

 

 和友は、私の質問に元気よく答えました。

 和友の解答から楽しく遊んだことが伺えます。和友の返答に思わず微笑ましくなって、問い詰める気持ちが揺らぎそうでした。

 ですが、私達が知りたいのは楽しかったことではありません。私達は、続けて和友に問いかけました。

 

 

「それは、加藤さんのところの子? それとも、佐々木さんのところの子?」

 

 

 和友の表情は、先程の元気満々な様子と打って変わり、一気に暗くなりました。

 私達は、退きたくなる気持ちを抑えて和友から答えが出るまで待ち続けました。

 暫くすると和友は、決心がついたようである答えを口にします。

 それは―――私達が望んでいないもの、そして私達が予測したものでした。

 

 

「分かんない……」

 

 

 和友は、私達の質問に誰と遊んだのか分からないと言いました。

 私達は、和友からの回答ではっきりと自覚しました。和友は人間の区別ができていない。友達と遊んでいることは分かっていても、それが誰なのか分からないのです。遊んでいる相手が誰なのか分かっていないのです。

 和友には、友達だというくくりでしかその子が見えていなかったのです。

 

 

 

 両親は、子供の物覚えが悪い原因を見つけるために奔走した。

 しかし、原因をいくら探しても、考えても一向に分かることはなかった。どの専門機関に見せても原因は不明、手がかりは一つもなかった。

 両親は、最終的に子供の異常の原因を探ることを諦めた。諦めるまでにはすさまじいほどの試行錯誤があったが、それらは何一つ効果を示さなかったため、諦めるしかなかった。

 

 

「別の方法を探そう。原因を見つけて取り除くのではなく、受け入れて乗り越える方法を探そう」

 

 

 両親は、きっぱりと切り替えの出来る人間で考えを完全に切り替えていた。

 どんな検査をしても見つからないのならば、諦めて別の方向からアプローチを掛けなければならない。そんな機転が効く人間だった。

 この両親の方向転換は、異常をもたらしている能力に対抗する対策を練り上げる結果となった。

 

 

 それが善かったのか、悪かったのか。

 それとも、どっちでも変わらなかったのか。

 それは、未だに分からない。

 善いか悪いかなど―――誰にも分からない。

 それを決めるのは、両親でも少年でもない。

 ―――世界の方である。

 

 両親は、子供が元気に生きていてくれるのならばと、この子が生きていてくれるのならどんな形でもいいと、子供を見守ることを決めた。しっかりと見守って生きることを決めた。

 

 

「神様、和友を救ってください。私たちの宝物を壊さないでください。私たちはどうなってもいい。和友さえ、和友さえ、生きていけるのなら。だから、お願いいたします。私達の命でも何でも捧げます。どうか、和友を幸せにしてあげてください」

 

「神様、どうか、和ちゃんを助けてあげてください。私達はどうなってもいいから。和ちゃんを助けてあげてください」

 

 

 両親は、神に祈ることしかできなかった。

 何者か分からない者に縋ることしかできなかった。

 そんなことしかできない自分たちが―――何よりも悔しかった。



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周りの人間、区別のできない自分

 結論を言うと、神への祈りは―――届かなかった。

 

 届いていたかもしれないが、神に叶えられる願いではなかった。両親の神への祈りは空しく響いただけだった。

 届かないだけなら良かった。

 無視されていただけなら良かった。

 現実には、嫌がらせをするように少年が内包している識別の問題は悪化の一途をたどり始めた。現状維持ではなく、悪化をし始めた。

 

 少年の状態が良くならないのは当然である。少年の心は拡張を止めることはないのだから。広がる心を抑え込めない限り、症状が良くなることは決してない。

 

 少年の物覚えは、小学校に入って1~2年経過したあたりで極端に悪くなった。もともと物覚えが悪い方ではなかったため、酷くなっているのが誰の目から見ても明らかだった。

 物覚えが悪くなった理由は明確である。

 小学校は、新しいこと、新しい知識、新しい人間関係を形成する場所だからである。人間関係の縮図とも呼ばれる学校は、少年の心の世界を広げるために大きな役割を成した。

 少年の心の大きさは―――小学校という環境に触発されるように一気に拡大した。

 小学校は、識別ができないという問題を抱えている少年にとって酷な環境である。大勢の人が一緒にいる場所で、多くの人間関係が作られ、常識の多くを学び、生きていくために必要な最低限の知識を蓄える場所。様々な一般常識や言語、数字などを覚える場所。

 小学校に上がった少年の歴史は、まさしく地獄ともいうべき苦悩の日々である。

 

 小学校に入った少年には、区別しなければ分からない内容が山ほどあった。人の名前はもちろんのこと、数字、漢字においても区別しなければならなかった。

 一番楽だったのは数字である。一番難しかったのは人の名前である。そして、一番苦しかったのは漢字だった。

 数字を覚える場合と漢字を覚える場合において、覚えやすさに違いが出たのには分かりやすい理由がある。

 数字の場合は、覚えるべき数が少ないのもあるが、似ているものというのが基本的に少なく、読み方も少ないという特徴があったからである。

 だが、漢字の場合は数字と同じようにはいかない。漢字は数が多い上に似ているものが多く、読み方が同じものがある。毎日見る漢字であればある程度の識別ができたが、毎日見る漢字以外の似たものについては区別がつかなかった。

 少年が最も苦労したのは、倫理的な区別を除けば漢字だったと言えるだろう。

 

 少年は、自身の心の拡大に伴って内包する異常性を大きくしていく。

 少年の内包している異常性は、簡単な方法で確認することができる。

 単純に―――少年に向けて質問を投げかければいいのである。

 少年に対して質問を投げかけると、内包している異常性は露骨に姿を現す。空の色を聞けば、答えられない。飲み物の名前を聞いても答えられない。

 両親にとっては、この上ないほどの驚愕の事実だった。少年には、自分たちの見えていない世界が見えている。そして、見えていなければならない世界が見えていないのである。

 

 

 少年は、時の流れに沿って年齢を重ねる。年齢を重ね、理性がしっかりしていくごとに自分のことを理解していった。

 少年は、自らの識別能力が周りの人間と比べて低いことを理性がしっかりするまで些細なことだと気にも留めていなかった。小学三年生まで自分が単に物覚えが悪いだけだと思っていた。

 何せ―――覚えようとすれば覚えられたのだ。それが、特に問題がないことだと錯覚する原因となっていた。

 しかし、理性がはっきりとしだした小学三年生あたりから自分が普通とずれていると感じ出した。自分が孕んでいる異常性を把握し始めた。

 周りを見渡してみると、距離が遠い、手が届かないような、空に手を伸ばしているような感覚に陥る。

 それは、周りの人間との人間関係について考え、距離を測りだしたあたりから感じた違和感だった。

 周りの人間と自分の間には、とても大きな境界線が引かれている。見えてもいないのに、見えない何かが線を引っ張っている。渡ることができない境界線が見せつけるように存在している。

 少年は、周りの人間との間に大きな境界線が存在しているような気がしていた。

 

 

(あれ……なにか、違う……)

 

 

 違和感でいっぱいだった。

 一度違和感を覚えてしまえば、考えずにはいられない。

 常に変化し続ける人間関係と、変化する知識が嫌でも思わせてくる。

 成長する度に周りから置き去りにされているような意識が強くなる。

 少年がその中でも特に置いて行かれている感覚に陥ったのは、クラスで飛び交っている言葉だった。

 

 そう―――人間に対する呼び方だった。

 

 人が人の名前を呼び、異なる呼び方によって相手を指し示す。名字、名前、作られたニックネーム、君、貴方、お前等の3人称で呼ばれ、それに対して的確に反応する。

 それが―――何よりの驚きだった。

 

 

(どうして人の区別がつくんだろう? どうして僕は、みんなが……みんなでしかないんだろう……?)

 

 

 周りの人間は、少年と異なり人の区別が付いている。周りの人間は、同じ友達という括りでも、それぞれを別々の存在として扱っている。違う名前で、違う存在として認識している。

 少年は、周りの人間が間違えずに呼び合っていることに関して驚きを感じていた。自分の名前が間違えられずに呼ばれていることにも驚きを覚えた。

 クラスメイトの中には、ニックネームを付けられている人間もいる。ニックネームを付けられている人間は、本名でもないのにニックネームで呼ばれてもしっかりと反応している。

 少年にそんな汎用性は存在しない。

 実例がある―――少年には一度ニックネームを付けられた過去がある。

 しかし、付けられたニックネームで呼ばれた際に自分のことであるという理解ができなかった。ニックネームで呼ばれた際に何一つ反応ができなかった。

 

 

「どうしたの?」

 

 

 少年の友人は、反応しない少年を不思議に思い、質問を投げかけてきた。

 少年は、思わず答えに詰まった。何も言うことができなかった。自分のことを指している言葉であると判別ができなかったのだと、自分のことであるとは思わなかったのだと言うこともできず、固まってしまった。

 少年には、新しく着けられたニックネームが自分のことを指していることが分からないのだ。ニックネームに反応するなど、人間の区別がついていない少年には到底できない芸当である。

 

 

(友達は友達、先生は先生でしかないのに……何が違うんだろう?)

 

 

 少年は、個別の人間の区別がつかなかった。もちろんではあるが、全く区別がつかないというわけではない。識別が難しいというだけで完全に識別できないというわけではない。完全に識別できなくなってしまえば、それこそ生きていくことすら困難になる。

 具体的に述べると、大きい括りでならば何とかなる。人間で言うならば、性別や大きさが違うということならば分からなくもなかった。大きい人か小さい人か、男性なのか女性なのか、それは見れば分かることである。

 だが―――少年ができるのはそれだけ、たったそれだけだ。

 

 

(みんな個別に名前で呼び合っているけど、どうして間違えずに言えるんだろう? あんなに似ているのに、どうして?)

 

 

 どうしてなのだろうか。

 なんでみんなは別の名前で呼び合っているのだろうか。

 なぜ、それができるのだろうか。

 なぜ、呼ばれているのが自分のことだと分かるのだろうか。

 名前が違っているのに。

 違いなんて何も無いように見えるのに。

 同じようにしか見えないのに。

 友達は友達で。

 クラスメイトはクラスメイト。

 僕は僕で。

 先生は先生だろう。

 少年は、別の物のように扱っている周りの人間が不思議でしょうがなかった。

 

 同じような体格をしている人間など山ほどいる。

 同じような性格をしている人間など山ほどいる。

 似たような声を持っている人、似たような特徴を持った人間は数多く存在する。

 どうして違いがほとんどないのに区別できるのか。

 

 結論を言えば―――能力によって少年の判別できる範囲が狭くなりすぎているのである。

 身長で言えば、10cm以上違わなければ全部同じように見えているだろうし、声の高さや足の速さといったところまで、前後左右の幅が広くなりぼんやりとしている。

 

 もしかしたら、少年の目を通してみると

 すべからく人の顔は同じ顔で

 すべからく人の声は同じもので

 すべからく人の性格は同じなのかもしれない。

 

 少年は、体の大きさを評価することができても、それが誰なのかという識別をすることができなかった。

 

 それは―――普通とは違う。

 それは―――周りとは違う。

 それこそが―――特異性で、異常性。

 

 少年は、本能によって‘群れという名の群集の集団’から除け者にされることを恐怖した。社会から追放されるということを恐れた。

 

 

「どうしたらいいのだろう? 僕は、どうしていけばいいのだろう? 呼ばれたことに反応できないなんて、誰が誰なのか分からないなんて―――おかしいよね」

 

 

 どうしてニックネームで呼ばれて反応できなかったのか。

 素直に答えれば、分からなかったからだ。自分のことを指しているなんて判らなかったから。君が友達でしかないように、君から呼ばれた名前も僕の名前と違っていたから―――なんて答えられるわけがなかった。

 だって、みんなできていることなのだ。

 だって、普通ならばできることなのだ。

 なんでできないの?

 なんで分からないの?

 そんなこと―――僕が聞きたいよ。

 少年は、群れから追い出されるという恐怖を越えてまで素直な気持ちを吐き出すことができなかった。

 他の人間がいない場合ならば伝わらないこともない。他に誰もいないのだから、呼びかける言葉は自分に向けられたものだと消去法的に導き出すことができる。

 しかし、人が複数人いるなかで、君、貴方、お前、という三人称は少年に伝わらない。ニックネームも判断がつかない。それは、あくまで別の物質に与えられている名前であり、自分ではない他の固有名詞なのだと脳が判断してしまう。

 

 

「僕のことは、名前で呼んでください。名字でも、名前でもどっちでもいいけど、そのどちらかで呼んでください。お願いします」

 

 

 少年は、その時の事もあって周りの人間に対して名前で呼んでくださいと心からお願いしていた。

 もしも分からないなんてことがばれれば、普通の人間じゃないと判断される要因の一つになることは間違いない。あらかじめ言っておけば、無理に別の呼び方をする者もいないし、仮に反応しなくても、最初に言っていたのだから嫌がっているのだと分かってもらえる。

 

 

「もしも違う名前で呼んだら反応しないかもしれませんから」

 

 

 だからこそ―――幻想郷の住人達は基本的に少年のことを名前で呼んでいる。誰一人として、1対1という状況以外で少年のことを別の呼び名で呼ぶものはいない。

 確かに初対面の相手だったり、親しい間柄の相手が別の呼び方をしてきた者も少なからずいた。例を挙げると、橙は最初少年に対して特殊な呼び方をしていた。だが、少年にとって判断がつかないからと断ったという経緯があった。

 

 

「その呼び方はやめて。呼ばれても分からないから」

 

 

 少年は、自身の持っている疑問がどこか特殊で持ってはいけない疑問のような気がしてならなかった。だから、親に人の区別がつかないことを言うことは無かったし、思うことそのものも避けようとしていた。

 けれども―――我慢はいつかできなくなる。積もるだけ積もった雪は、重さを増して屋根を突き破る。

 少年が人間の区別ができないことをはっきりと告げたのは―――自分の口で分からないことを明確に述べたのは―――自分の口からはっきりと言ったのは、小学4年生を迎える時である。

 

 

「クラスメイトの名前が覚えられないんだ。どうしてみんな、名前で呼び合えるの?」

 

「和友、どういうことだ?」

 

 

 両親は、ついにこの時が来てしまったかと思った。少年が小学生になったばかりの時に感じていた予感が的中するこの瞬間が来たのだ。仲の良い友達が誰か分からないと、答えられなかった子供の様子からいつかこうなることは分かっていたが―――それが今来たのかと身構えた。

 分かっていたのに心が勢いよくざわつき出す。覚悟していたはずなのにその先の言葉を聞きたくないと思う。

 それはきっと、覚悟なんてできていなかったからだろう。

 覚悟などしたくなかったからだろう。

 そう、思いたくなかったからだろう。

 結局―――そうではないことを望んでいたのだ。

 そうであることを―――ひた隠しにしていただけだった。

 

 

「あんなに似ているのに、友達は友達なんじゃないの? それ以外の何なの? みんな同じような顔で同じような声で同じようなことを言っているのに、みんなはどうして区別ができるの?」

 

 

 耳に入った言葉を疑いたかった。

 疑いたかったけど―――それが現実だった。

 困った顔で。

 苦しそうな顔で。

 歪んでしまった和友の顔は、何物でもない本物だった。

 

 

「僕には分からないよ。何が違うのか、何がおかしいのか……」

 

 

 人の区別がつかない。

 これまで区別ができないということは多々あったが、人間においても同様のことが起こっている。人間社会で生きていく上でこの問題は致命的である。

 横の繋がりや縦の繋がりによって支えられている人間の社会の存在は、区別なくしては成り立たない。いくら薄々気づいていたとはいえ、少年の口から出た言葉は―――動揺するなというには余りあるほどの異常性を含んでいた。

 

 

「お母さん、僕がおかしいのかな……? 僕が、やっぱりおかしいんだよね。そう、みんなができているのにできていない僕がおかしいんだよね……」

 

「「…………」」

 

 

 気持ちが一気にざわついていく。全てをつぎ込むように育ててきた、愛されるべき我が子にこれ以上ないほどの異常が見受けられている。

 少年には、'同じようなもの'は、全部同じに見えている。声が低ければ、低い人間はみな同じ声をしている。ある程度の違いなど、誤差だと言わんばかりに修正がかけられる。

 

 

「僕は……どうして。どうして周りと違うんだろう……」

 

 

 少年は、不安そうな顔で両親を見つめていた。

 母親は居ても経ってもいられず少年を強く抱きしめ、大丈夫だと言い続ける。

 

 

「大丈夫だから、大丈夫だから。大丈夫だからね」

 

「お母さん……うん……」

 

 

 少年は、母親が言葉を重ねる度に落ち着きを見せて笑顔を作った。

 

 

「僕はどうしたらいいの? 僕はどこにいて、どこに向かって歩けばいいの?」

 

 

 少年は、どうしようもなく迷子だった。先の見えない不安から周りから浮いているような浮遊感を覚えていた。

 今自分がどこに立っているのか分からない。

 どこに進めばいいのか分からない。

 希望はなく、光は見えない。

 未来に進むために一番必要な、明日を受け入れるための小さな希望がない。

 何かを見つけなければならない。

 そうでなくては、進めなくなる。

 方向が分からなくては、進む先が見えなくては、怖くて進めなくなる。

 迷子のまま、そこで終わってしまう。

 少年は、心が大きくなって自分の位置が把握できなくなったという意味でも、自分が進むべき道が見えないという意味でも、二重の意味で迷子だった。

 少年は、迷子になった時の経験を心の中で打ち明けている。

 

 

「さっきのは母親の受け売りなんだよ。俺が迷子になった時に母親が俺を探してくれて、さっきみたいに抱きしめてくれたんだ」

 

 

 そう、路頭に迷った時に抱きしめてくれたことを藍へと告げている。迷子の自分を見つけてくれたと口にしている。

 迷子になりやすい少年は、いつだって家族によって支えられていた。

 

 

「あなたはここにいるんだって。どこにもいったりしない。あなたは、ここにいるんだって。教えてくれたんだ。俺を見つけてくれたんだ」

 

 

 少年が言った迷子という言葉は、道が分からなくなったという意味ではなく、区別ができなくなったということを示すものなのだったのだろう。

 

 

「神様に祈っている余裕はない。両手を合わせて待っているだけの生活はもう終わりだ。病院に行くぞ。今度こそ、原因を突き止めるんだ」

 

 

 両親は、少年の口から心のうちに存在する不安を聞いたことで再度病院を訪れることを決めた。

 神様に祈るだけでは願いは叶わない。これはただ、神様にお願いしているだけだ。お願いしていることに努力しているだけだ。そんなものに力が貸し与えられるわけがない。

 努力とは―――必死な姿とは、それを見ている誰かを突き動かすのだ。

 その姿が、何者かに影響を与えるのだ。

 それを見た誰かが―――誰かのためになるのならばと声を上げる者が動くから助かる人間がいるのだ。

 神に頼っているだけの何かに、手を貸してくれる者などいない。

 そして、神は少年を助けない。

 神では、少年を助けられない。

 助けられるのは、少年を受け入れられる人間だけだ。

 手詰まりではあるが、行き止まりかもしれないが、進むしかない。

 時間は待ってくれない。少年の症状はむしろ悪くなっている。

 どうにかして、何とかしなければならなかった。

 

 

「先生、和友が苦しんでいるのです。原因は分かりませんか?」

 

 

 両親は、疑問と不安を抱えて病院を訪れた。

 しかし、少年が似たものを区別できない原因は分からなかった。体の隅々、頭の中、いたるところを検査しても、何をしてもはっきりとした解答は得られなかった。

 

 

「和友の症状を何とかしないと。キャベツとレタスの区別は別にできなくても構わない。だが、人間の区別ができないのは、社会で生きていく上で致命的だ」

 

「やれることを全部やってみましょう。諦めたら何も変わらないわ。何かあるはずよ」

 

 

 考えた。必死に考えた。出てこない頭でも、悩みに悩んで答えを追った。

 少年にはどうにかして、区別ができるようになってもらわなければならない。両親はとりあえずのとっかかりとして、普通ならばやらない、覚えるための勉強を少年に強要させた。

 覚えることができないのならば、識別することができないのならば、できるようになるまで努力するしかない。足りない部分は努力で補うという簡潔で単純な作業をすることで何とかならないだろうかと、努力を促した。

 そうしようとしたのは、他に何も思いつかなかったからという理由である。何とも言えない消去法だ。

 しかしながら、それしかないのだ。それこそ信じるしかない。それがもっとも効果的な方法であると信じるしかなかった。

 

 両親は、少年に書くことを強要した。

 区別するために書くことは、本来であればする必要のないこと。特に人間の区別をする際に覚える努力が必要など聞いたこともない。普通であれば努力せずとも意図してできるはずの能力である。

 少年は、本来であればする必要のないことを決行した。両親が言うのならきっとそうなんだ、誰もがきっとこうやって覚えて話しているだけなんだ、そう思いこみ努力を始めた。

 

 

「みんな、そうやって努力をして区別をしているんだね。だからみんな間違えずに区別ができるんだね」

 

 

 そんなことは―――嘘であると重々承知で。

 嘘と分かっていながらも―――騙されることを選んだ。

 クラスメイトのみんなも、きっと区別するためにやっていることだと思い込んだ。思い込むしかなかった。そうでもないと覚えるための努力などできなかった。

 

 少年は、クラスメイトの写真を持ってきて、覚えるべきただ一人だけを見つめる。そして、脳裏に焼き付けるようにして姿かたちを脳内に映し出し、紙の上にペンを走らせた。

 ただただ無心で覚えるためだけの努力を行った。

 その人が他の人と違う所を必死に探した。

 他と異なる部分に目を凝らした。

 特別な特徴を探した。

 

 

「分かった」

 

 

 覚えるための努力の結果、人間の区別ができるようになった。

 これが、後に藍と紫の名前を覚える時に行った、書き記すという行為の最初である。

 この時―――曖昧なものを区別する方法が確立した。

 

 

「これはどうだ、和友」

 

 

 勿論だが、他にも色々試してみた。書き記すという方法以外にも色々なことを試した。やれることは片端から全部試した。記憶術から、呼吸法、気持ちの持ち方から何でもやってみた。

 

 

「無理みたい。いくらやっても覚えられないよ」

 

「やっぱり書き続けるという方法しかないのか。他だと余りにも効率が落ちる……」

 

 

 結論として書き続けるという作業が最も効率が良かったため、区別するために行うことは書き記す行為に固定された。

 区別する方法は、ただひたすらに書き続けることである。思い返しながら、ただひたすらに書き続ける。何をやっているのか分からなくなるほどに書き続ける。情報を脳内に叩き込むのだ。

 幸か不幸か、書き記す行為が少年の能力である境界を曖昧にする能力を内側に封じ込める役割を担った。記憶するという努力が能力を打ち消す方向に効果が発揮された。境界を曖昧にするという能力と反対の区別をするというワクチンを入れ込むことによって抑え込んだ。

 それが―――相互的に能力を強める結果になったとしても、この時までは良かったのである。

 

 

「和友、頑張って!」

 

「和友! 最後まで諦めるなよ!」

 

「うん、頑張る……」

 

 

 両親には、必死に頑張っている子供の姿を見ていることしかできなかった。

 できることといえば、応援することだけ。苦しそうにずっと書き続ける少年を応援し、見守り続けることしかできなかった。

 これは、少年がやらなければ意味のないこと。他の誰かが代わりになることはできないことである。

 

 

「どうして和友だけが、こんな辛い目に合わなければならないのだろうか……」

 

「もう、やめましょう。和友の欠点は私たちが補えばいいじゃない。これ以上、見ていられないわ……」

 

 

 両親は、少年が苦しんでいる姿を見つめるだけという行為に慣れるまで何度も泣いた。擦り減っていく子供の姿を見ていられず、何度も止めようと考えた。

 しかし、少年は両親がそう思う度に両親の手を振り払うように口を開いた。

 

 

「僕が頑張れば、このままの生活を送ることが出来るんだよね?」

 

「「…………」」

 

 

 両親は子供の言葉に硬直した。

 子供は今の状況を分かっている。このまま進んでしまえば、取り返しのつかないことになることを分かっている。普通じゃないと、異常であると、社会から追い出されて生きていけなくなることを本能的に理解していた。

 母親は、少年の問いかけに唇を震わせながら答えた。それが子供をさらに追い込む結果になるとしても、生きてくための選択肢のない子供のために背中を押した。

 

 

「そうよ。頑張ればこれからもずっと普通に生きていけるわ」

 

「僕は、頑張るよ。これからのために頑張るよ。僕だけじゃない、周りのみんなが僕のことを間違えずに名前で呼んでくれるのに、僕だけ区別できずに名前を呼べないっていうのは不公平だと思うから……」

 

 

 父親は、子供の意志の強さに驚きを隠せなかった。確かに小さいころからしつけをちゃんとやってきた。簡単には諦めない心。他人のために頑張ること。努力することの大切さを教えてきた。

 しかし、それだけでは少年の精神力の強さは説明ができない。少年の精神的な強さは、心の拡大と共に強くなっていた。

 少年は、固い決意を持った瞳で両親の瞳を貫く。

 

 

「僕は必死に努力するよ。だからね……お母さん、お父さん……」

 

 

 両親は、少年からの言葉に固唾をのんだ。

 

 

「お母さんとお父さんも、頑張ってね」

 

 

 両親は、少年からの言葉に目を丸くしてお互いに顔を見合わせる。

 少年は、あろうことか両親が自分の行動を止めたいという気持ちと闘っているということも感じとっていた。

 戻ることができない。

 ならば、進むしかない。

 進んで進んで、見えない景色の中を進んで、何かを掴むしかない。

 

 両親は、少年の言葉で理解した。

 少年は、何処にだって行ける。

 どこまでだって走って行ける。

 両親が心配しなくても、どんなに辛くても、乗り越えることができる。

 私たちが頑張って、子供と同じように頑張って努力して擦り減ったとしても。

 それでも、信じて待っていよう。

 子供が頑張ってと言っているのだ。

 頑張らない親など、親なものか。

 信じて待ってほしいと言われれば、いくらでも待とう。

 いくらでも、いつまでも、死ぬまでも。

 父親と母親は、少年の意志に引きずられるようにして見守る意志を固めた。

 

 

「……ぁあ! 頑張るからな! 父さん達も頑張るから! ずっと待っていてやるからな。和友も、最後の最後まで諦めるなよ!!」

 

「和友、待っているからね」

 

「うん、ありがとう。僕は絶対に最後まで投げださないよ」

 

 

 両親は、少年の部屋から出て行き、階段を下りてリビングと入る。そして、流れるように食卓テーブルの椅子へと腰を下ろした。

 両親は、泣きながら心を強く持つようにして言葉を吐き出す。強がりのような、弱い心を子供に聞かせないようにと必死に堪えた想いを口にした。

 

 

「和友は、絶対に負けないっ! 和友ならきっと打ち勝てる! 和友が諦めるまで、私達が諦めちゃいけないんだ!」

 

「そうよね、私達がしっかりと最後の最後になるまで和友を支えましょう!」

 

 

 両親は、両手を握りしめて和友の作業が終わるのを待ち続けた。少年が笑顔で部屋から出てくるのを待ち続けた。

 少年は書き記し、区別する行為で毎日を送り、両親はそれを待ち続けるという行為で毎日を費やした。

 両親は、少年の苦しむ姿を見て心をすり減らしながらも少しだけ安心していた。努力をすれば補える。時間をかければ区別ができる。1日1個ずつ覚えていけば、なんとか処理ができる。それは、どうにもできない中で唯一と言っていいほどの救いだった。

 結局和友がクラスの全員の判別ができるようになるのに約1カ月かかった。漢字や他のことも含めれば、3年近くの時間を費やした。

 少年の精神は随分と擦り減って、肥大化された心だけが残った。

 それでも―――両親から与えられる温かさが、少年の気持ちを穏やかにさせていた。

 

 

 

 だが、区別する方法には大きな課題があった。

 

 少年の区別するための方法―――書き記すという方法には問題があったのである。

 確かに個別の認識ならばこの方法で用いることで、時間をかけて努力をすることで、覚えることができる。

 しかし、書き記すという方法で覚えきれなかったものが多々存在した。

 

 その代表が―――倫理的な問題である。

 

 倫理問題とは、世の中のルールである。法律的概念である。善悪の判断である。

 正解はなく―――状況に合わせた判断が必要になる。条件は無数にあり、境界線はその場に応じて引くことになる。

 倫理的な部分は、人間として生きて行くのに一番大切なことである。社会に生きている者が倫理を逸脱していることはあり得ない。逸脱している者はいつだって淘汰され、追放される。社会の秩序は、いつだってそうやって維持されている。

 人間社会で生きていくためには、善悪の区別がつけられなければならないのだ。

 だが、少年は基本的に自分のやっていることが正しいことなのか、間違っていることなのか区別がついていない。危ないことをしそうになった際に少年に向けて注意すると、言われたその場では理解を示しても次の日には分からなくなっている。物事から意識を外してしまうと途端に忘れてしまうのだ。それでは、同じ過ちを繰り返すことになる。

 今のところは問題になっていないが―――今後もずっと問題にならないという保証はどこにもない。判断がつかなくなり、正しいことなのか悪いことなのか分からなくなる可能性は捨てきれなかった。

 

 善悪は、年齢を重ねるごとに複雑になる。

 嘘をつくことは悪いことだと教わって育っても、年齢を重ねると嘘というものが必要なものなのだと理解できる。善い嘘と悪い嘘、人を守る優しい嘘と人を傷つける悪い嘘が存在していることが理解できる。

 両親は、時間の経過と共に善悪の判断ができなくなるという状況に陥ることを酷く恐れていた。

 子供がこれから普通の子として周りに受け入れられて生きていくためには、この異常をどうにか抑える。または、ごまかし続けて生きていくしかない。このままだと自分たちの子供は異常者、障害者として扱われることになる。自分達はまだいい―――子供には絶対に窮屈な思いをさせたくなかった。

 人の名前を区別できないぐらいならば、なんとかなるだろう。分からないことに対してしったかぶりをしてごまかして生きている人間なんて山ほどいる。

 しかし、道徳や倫理はどうしようもない。道徳や倫理は常識と呼ばれる曖昧なものによって支えられている。感性や自己基準によって考慮され、常識とされ、倫理となる。

 仮に、刃物を人に向けてはいけないという基準を設けたとしよう。これが針になった場合はどうなるだろうか。一般の人ならば刃物が人を傷つけることがあるから人に向けることを禁止している=針も人を傷つけるかもしれないから人に向けてはならないと応用を効かせて判断することができる。

 しかし、その考え方が少年にはできない。刃物という範疇に針が含まれていない少年は平然と人に向けるだろう。仮に少年が人を傷つけてはならないと分かっていたとしても、人間ではなく動物ならいいのかと判断してしまうことだろう。

 そういうことではないのだ。

 そういうことではないのだが―――間違ってもない。

 だから区別することが難しい。

 そんな曖昧なものなのに、これが最も人間社会で重要視される。

 

 少年の問題は、周りの普通の人間に対して隠しきれないほどに大きすぎた。

 

 異常者だ、精神障害者だと罵る声が脳内を木霊する。

 世間の目が、住民の目が、子供を貫く。

 それも仕方のないことである。善悪の区別がつかない人間ほど怖いものはない。近隣の住民は、もしかして殺されるのではないかと不安を抱えて生活しなければならなくなる。

 和友の親でなかったら―――和友のことを怖がっていたに違いない。

 そんな確証もあった。

 少年にとって、これから生きていく世界はひどく生き辛いものになる。

 何をしても、何をやっても、何を考えても、疑惑と恐怖の目にさらされることになる。

 何かをしようとするたび止められ、何かをしたいと思うたびに怖がられ、動きを始めれば拒否の姿勢を示されることだろう。

 両親は、子供の未来を想うといたたまれない気持ちになった。和友には広い世界の中で自由に生きていて欲しい。生き続けて欲しいと心から想っていた。

 

 少年が未来を生きていく場合に障害となる問題は、倫理的な部分が多くを占めている。

 勉強なんて出来なくてもいい。

 運動なんて出来なくてもいい。

 最低限人が社会で生きていくために必要最低限のものがあればいい。

 生きていてさえくれれば。

 元気に楽しそうに生きていてくれさえすれば。

 

 倫理的なものというのは―――俗にいう決まり事というものである。

 両親は、手初めに約束を破っては駄目、人を傷つけては駄目といった社会のルールを子供に対して一つずつ確認していった。

 すると、様々なことに気付いた。

 子供は、以外にもしっかりとした基準を持っていた。両親がこれまで教え続けてきた人として守るべきルールや決まりは、少年の心の中に深く根付いていたのである。それは、少年の心の大きさがそれほど大きくなかった時に大事なこととして自分が心の中に刻んだからに他ならなかった。

 しかし、心が本格的に広がり出した小学校から学び始めたような、最近学び始めたようなことに関しては認識ができていなかった。刻み込むほど時間をかけておらず、脳内に浅く残るような曖昧なものでは区別ができない。

 心が大きくなりだした小学生以降に区別をするためには、大きく見えやすい印を心に打ち立てる、心に刻みつけるような力強い傷跡を残す必要があった。

 

 両親は、子供への問答で露見した問題となりそうな残りの部分を埋める作業に入る。

 空白がないように。

 余りが無いように。

 例外が存在しないように。

 書き記す方法で覚えさせる。

 

 ただ―――1つずつ覚えさせるには、圧倒的に時間が足りなかった。

 

 倫理観を先程の区別する方法を使って識別をした場合、時間がかかり過ぎる。小学校の卒業までに到底間に合わない。

 書き記して一つずつ区別するという方法は、境界線を引くという行為であり、覚えるという行為であり、識別する行為である。

 だが、倫理的な問題は数学のように解が一定値に決まっているものではない。正確で明瞭な区別の境界線がなく、常に例外がつきまとい意見が分かれ、こういう場合は善くてこういう場合は駄目ということが起こる曖昧なもの。ある状況下において決まった行動を常に取れるわけではないのである。

 そのため少年は―――全ての可能性を頭に叩きこむしかなかった。そんなことをすれば間に合わないのは当たり前である。倫理的な問題全てを網羅しているような猶予はどこにも無かった。

 少年は、何も倫理的なものだけを覚えればいいということでもないのだ。少年が覚えなければならないことは他にも人や色、飲み物、食べ物にいたるまで無数にあるのである。

 一つずつ覚えていたのでは、少年が大人になっても覚える作業は終わらない。時間をかければかけるほど、社会への適応が遅くなる。こんなところで時間をかけて一度劣等生の名札を、異常者の名札をつけられてしまえば、それを払しょくすることは難しくなる。

 少年の覚える効率を上げることは、必要不可欠なことだった。

 

 両親は―――書き記す作業の他に覚える方法がないのかと探し始めた。

 そして、ある時感情の起伏とともに物事を覚えると覚えやすいという話を耳にした。それが本当なのか嘘なのかは分からない。

 けれども、両親にとってそれが嘘かどうかは関係がなかった。選ぶことのできる選択肢などないのだから、できることを精いっぱいやっていくしかない。

 両親は、子供を笑わせる、喜ばせるといったことをしながら決まり事を覚えさせ始めた。この方法を取り始めた当初、少年の物覚えの効率は飛躍的に高まった。感情の起伏によって得られる刺激が脳を活性化させ、イメージを固定しやすくなり、記憶の中に深く刻まれたのである。

 区別するという作業は、守りの形から一気に攻勢へと転じ、小学校を卒業するまでには全て終わるのではないかというところまで早くなった。

 だが、感情の起伏にはどうしても慣れが付きまとう。環境に適応することが得意と言われている人間という種族において、自動的な環境への適応は避けられない。同じことを何度もやっていたのでは面白味も無くなり、感情の起伏が小さくなる。少年の覚える効率は、起伏が小さくなるのと同時に著しく悪くなっていった。

 悪くなったから諦める―――そんな選択肢こそ両親にはない。当たり前である。諦めるということは少年の未来を諦めるということに他ならないのだから。

 両親は、感情の起伏で覚えるというやり方を実践している際に考えていた最後の手段を取った。最も簡単である‘痛みを与える’という方法を取ったのである。

 これが両親にとって一番の苦しみになることになった。

 

 

「僕は頑張るから。だから……」

 

「分かった。私達も最後の最後まで付き合うからね。本当の最後まで……」

 

 

 ―――壮絶だった。見ていることが苦しかった。

 目を背けたくなるような現実だった。

 子供は痛みに耐え、絶叫を堪えて血を流した。

 歯を食いしばり、涙を流して、嗚咽を堪えて書き続けた。

 それでも、助けてとは口にしない。

 その強さが、その弱さが、両親の心を蝕んだ。

 

 

「っ……」

 

 

 両親は、子供の姿を見守ることしかできなかった。他にできることは邪魔をしないようにすること、神様に祈ること、終わった後に精いっぱい褒めてやることだけである。

 両親は、苦しんでいる子供を前にしながらも無力な自分に我慢しなければならなかった。子供が頑張っているのだからと、自分のために頑張っているのだからと頑張らなくてはならなかった。

 両親は、心が絶叫をまき散らしながらも子供に刃物を突き刺し続ける。無意識のうちに子供を傷つける行為を止めようと伸びる手をお互いの手を握ることで我慢した。

 

 

「いくぞ」

 

「うん」

 

 

 子どもと同じように―――我慢しなければ。

 痛みに―――耐えるのだ。

 一緒に。一緒に、心は寄り添っている。

 子供の痛みは、親の痛み。

 和友の苦しみは、私たちの苦しみ。

 両親は、心に突き刺さる痛みを我慢し続けていた。

 

 

(ありがとう。一人だったらとっくに投げ出していた。僕は、お母さんやお父さんが頑張ってくれているから頑張れる、我慢できる)

 

 

 一人じゃない。孤独感が薄れていく。理不尽な想いが消えていく。

 少年は、痛みを負うという方法で倫理や道徳といったものを覚えていった。

 そして、その中で少年が抱える異常性が目に見える形で見つかった。両親が少年を刃物で傷つけた時、少年の異常が目に見える形で露見した。自分の子供は普通ではないということがはっきりとわかる出来事が起こった。

 

 

「これは……どういうことだ?」

 

 

 物覚えが悪いだけなら、脳の障害である可能性が考えられる。もしかしたら、遺伝上の問題があるのかもしれないと考えることができる。

 しかし、両親の目の前には異常を示す状況が広がっている。両親の視界には、子供に与えた傷がものすごい勢いで治っていく光景が見せつけるように存在していた。

 

 

「傷が治っている?」

 

 

 痛みに打ちひしがれ、その場で眠るように突っ伏した少年の左手に刻まれた傷が治っていく。普通ならばあり得ない。治るまでに一週間はかかるだろう。もしかしたら跡が消えないかもしれない。それほどの傷である。

 時間がまき戻るみたいに―――跡形もなく治っていく。

 両親には、少年が負った怪我が速く治る理由が分からなかった。覚えられないことと何か関係があるのか、それともまた別の要因があるのか、何も分からなかった。

 しかし、そんなことは両親にとってどうでもよかった。

 異常だとしても、普通じゃなくても、そんなものは関係ない。

 そんなものは、どっちでもよかった。

 そんなものよりも大事なものがあった。

 

 

「和ちゃんが異常な子供だったとしても、他の子供と違ったとしても……この子は私のお腹から産まれた子、私達の子供よ。異常なんて関係ないわ。そんなものどっちでもいい。和ちゃんは私達の子供なのだから」

 

「ああ、和友は私達が立派に育てよう。社会で生きていけるように、これからを過ごしてもらうために、私達が見守っていこう」

 

 

 両親は、子供が持っている明らかな異常性を知っても、自分の子供に対して出来る限りの愛情を注いだ。

 少年は、両親の愛情を全身に受けてすくすくと元気に育った。道徳や倫理のような曖昧なことを決まり事として、生きて行くためのルールを自分の中に記し、社会の中で―――人間の中で生きてきた。

 

 決まり事の概要としては基本的に周りの人と同じように普通に生きるというものになる。普通の中には様々なものが含まれており、他にも、自殺しない、殺されない、なにがあっても生き抜くといったものも含まれている。

 

 少年は、未来を生きていくためのルールを心の中に植え付けて生活を送ってきた。

 両親に支えられて―――寄りかかられて、寄りかかって生きていた。

 



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寄りかかる、離れる、支える

 紫の頭の中には、ある可能性が浮かんでいた。

 いくら親だからと言っても、子供にそれほどの異常があれば、嫌悪感を抱かずにはいられないだろう。人ならざる者という認識を取り外すことは難しく、疎遠になりがちになる。子供のことを見離す親もいるはずである。

 しかし、両親は少年のことを見捨てなかった。それどころか、嫌がるそぶりも気持ち悪がることもなく、大切に育ててきた。

 紫は、そんな両親の対応から少年の両親が少年に惹かれていたのではないかと推測した。

 心の大きさが心を惹く力になる。惹きつける事象の原因である万有引力の大きさは、区別ができなくなっている頃から強くなっているはずである。少年に最も近い場所にいて心を寄せていた両親が万有引力の影響を受けていないわけが無いと思った。

 

 

「…………」

 

 

 ただ―――この考えを少年に告げてもいいのだろうか。

 それは、少年にとって唯一の味方だと思われていた両親が少年の万有引力に惹かれているために優しかったのではないかという事実を示唆する。

 両親の優しさは少年が作り出したもので、都合のいいものであると言っているのと同じだ。それを知ってしまえば傷つくかもしれない。心を支えている想いを穢してしまうかもしれない。

 言うべきか。言わざるべきか。

 紫の考えは事実に限りなく近いだろう。そう考えるのが納得できる一番の近道のように思う。他に理由があるのならば、教えて欲しいほどだ。

 紫の重い口から言葉が漏れた。

 

 

「……貴方は、これを言ったら傷つくかもしれない」

 

「別にいいよ。僕は何を言われても気にしないから」

 

 

 少年は、気にしないと言う。自分の言っていることに嘘が混じっていることに自覚なく、唯一怒るかもしれない言葉が存在することを知らずに―――そんな簡単に言う。

 

 

「和友がそう言うのなら言わせてもらうわ」

 

 

 ―――話そう。少年はこんなことで逃げたりはしないし、傷つくこともない。あくまでも少年は他人に振り回される側ではなく、他人を振り回す側である。

 だったら、心配するのはむしろ自分の方だ。少年の選択による二次被害の方を警戒するべきである。

 今しなければならないことは、事実をありのままに受け止め、現実から逃げないように立ち向かうこと。正しいと思う道を突き進むことである。

 紫は、ほんの一瞬の間思考し、口を開いた。

 

 

「貴方の両親は間違いなく貴方に依存していたと思うわよ。最も貴方の近くで、最も貴方を特別視していた人間だから」

 

「そうだね。紫の言う通りだと思うよ。両親は僕の一番近くにいた人間で、一番の味方だったんだから。逃れる術はなかっただろうね」

 

 

 少年は、紫の無慈悲な言葉をぶつけられても特に変わった様子を見せなかった。紫から言われるまでもなく、両親の心が自分に惹かれていることを理解しているようだった。

 両親が自分の心に惹かれていることを誰よりも早くに理解していたのは、他でもない少年である。両親が自分の心に惹かれていることに気付いたのは、永琳から万有引力の話しを持ちだされた時だ。能力によって起こっている現象を理解した際に、最初に親が心を惹かれているのだと想像した。

 少年は、悲しむ様子もなく淡々と答えた。

 

 

「僕の両親は、僕が悩みを打ち明けたあの時にはすでに僕の大きくなった心に吸い寄せられて依存していたんだろうね。仮に心が惹かれているって分かっていても僕から逃げようなんて思わなかっただろうけどさ」

 

 

 ―――そうだと思いたい。

 心が惹かれる原因がなくても、両親であったならば逃げなかったと思いたい。

 一緒に苦しんでくれた両親を信じたい。

 

 

「だって、一緒に頑張ったんだ。いつも、どんなときも、逃げ出さずに僕と一緒にいてくれた。どれだけ苦しくても心は一緒にいた。迷った時も―――探してくれた」

 

 

 一緒に生きてきた思い出は嘘じゃない。

 どれも本物で。

 どれも真実で。

 ―――虚偽ではない。

 嘘で塗り固められた中にも確かに見える本物があったから両親のことを信じられた。

 少年の顔は、紫の予測と反して笑顔だった。

 

 

「両親は、僕を見つけてくれたんだ。いつだって隣に来て、僕の手を引いてくれた。僕を支えてくれた。気持ちが嘘だったとしても、嘘によって塗り固められた偽物でも、偽りしかない想いだとしても、それだけは本当だから」

 

 

 少年は、例え両親が万有引力で心を惹かれていたから優しかったのだとしても、別に構わないと考えていた。

 だって―――それで幸せだったから。

 きっと両親もそれで幸せだったから。

 お互いがお互いに依存して、お互いを支えていた状況を考えれば、別に後悔することも悲しむことも何もなかった。

 幸せの形は千差万別だ。誰がどう思うかは、その人が決めること。

 だから、少年がそれを幸せと呼べば幸せなのだろう。両親については死んでしまった今となっては分からないが、両親も幸せだったことだろう。

 幸せと決めつけるのは、いつだって本人だけの特権である。

 本人が幸せと言っている。

 それを否定する権利など誰も持ち合わせていない。

 

 

「両親は僕の心を支えてくれた。こんな大きな心を包んでくれた。心の中で迷っている僕を見つけてくれた。手を握ってくれた」

 

 

 少年とって両親の存在は、とても特殊な存在だった。

 今でいう椛のような一方的な寄りかかりとは違う。

 紫や永琳のような能力を把握して距離感を保っているのとも違う。

 少年と両親は、一方的な寄りかかりではい。少年は両親を必要としていたし、両親は少年を必要としていた。

 

 

「迷子になっている僕を見つけてくれたのは、今も昔も両親だけだよ」

 

 

 ―――幻想郷で最も両親と少年の関係に近いのは誰だろうか。少年は、今の生活の中で自分を支えてくれる存在が誰なのか、誰が両親の代わりをしてくれたのか、思考を巡らせた。

 その答えは―――すぐに見つかった。

 考えるまでもなかった。

 

 

「両親の立場に最も近いのは、藍だったのかな……藍には、本当にお世話になったよ。勿論紫もだけどね」

 

 

 藍は、少年の両親に非常に似ている。心配性なところも、少年が書き記す行為を行っている間、我慢して待っていてくれるところも。

 両親を失ったことで少年の心に開いた穴も藍が少し埋めてくれた。だからこそ、少年も藍のことを頼りにしていたし、心を傾けていた。

 お互いに重心を傾けている状況は―――少年と両親の構図に非常に似通っている。現在の状況でははっきりと断言することはできないが、‘半年前は’間違いなく藍だったといえるだろう。

 紫の思考は、少年の言葉から一気に少年の心の真意に接近する。

 

 

(今の和友の心を支えているものは……何もないのね)

 

 

 誰一人少年の支えに成れていない。今の少年を支えているものは何もない―――いや、2年前から少年を支えているものなど何もなかった。

 少年は、両親を失って唯一とも言えた心の支えを失っている。

 支えが失われただけならば、何とかなったかもしれない。心にひびが入っただけで穴が開いていなければ、持ち直すことは比較的容易にできただろう。

 けれども、現実にはそこからさらなる追撃があったために心の中にぽっかりと穴が開いてしまった。心にできた穴が埋められずに病気になってしまった。

 少年の体は、心に引っ張られるように悪化の一途を辿っている。誰かが支えにならなければならない。支えてあげなければ、もう崩れ落ちるところまで来てしまっている。

 後―――2年。残り2年である。

 しかし、紫は支えになることはできない。少年と距離を取って正面から様子を窺っている立場では手が届かない。永琳も同様で、少年の支えに成っているわけではなく、見つめている状況である。

 

 

(私では支えになることはできないわ。距離を取ってしまっている私は、手を差し伸べることができない……今、和友の支えになれるのは、藍ぐらいかしら)

 

 

 支えになることができるのは、少年の近くにいる人物―――藍、椛、文といった人物だけである。

 しかし、彼女たちは寄りかかっているだけだ。支えようという意思がない。

 少年の支えに成るためには、満たすべきいくつかの条件がある。

 

 一つ目に、少年のすぐ隣、または真後ろを歩くことができる人物であること。

 これは別に万有引力によって心の距離が近くなっており、少年に対して依存していなければならないということを意味しているわけではない。あくまで少年の近くにいられるかという問題である。万有引力があろうがなかろうが、少年の近くにいることができる人物でなければならない。

 紫と永琳は、この条件に引っかかっている。心が極端に惹かれるのを嫌っているため、常に少年を正面に構えて距離を測りながらある一定の距離を取っているため支えになることは叶わない。

 当然である―――正面にいる者は、前にしか進まない少年の支えにならない。支えるには、近くにいなければならない。手が届く位置にいなければならない。少年の心の近くにいなければ、触れられなければ、支えられない。少年を後押しするような、共に進んで行けるような、隣か後ろにいる人物でなければならない。

 かといって―――椛や文、そして今の藍が少年の支えに成るかと言われればそれは否である。

 

 

(藍は、いつだって和友と一緒にいた。だからといって支えに成れるとは限らない……藍は、和友の気持ちを探し出すことができていない。余りにも感情が先走りすぎて、近すぎて、和友の気持ちを見ようとしていない)

 

 

 二つ目の条件として、少年を探し出すことができる人物―――少年の本心を探し出せる人物でなければならない。広大な心を持っている少年の気持ちをしっかり見つけ、迷子になっている少年に手を差し伸べることができる人物でなければならない。

 

 藍と文と椛は、この条件に引っかかっている。

 

 どうして少年の心を見つけられないのだろうか。

 近くにいれば、見えるはずなのだ。

 そこにあるのに、どうして気付かないのだろうか?

 

 紫は、少年の心の動きが見えている。本心が何を語ろうとしているのか分かる。少年の心の影響を受けつつも、その力に流されずに見ることができている。

 何が違いを作り出しているのだろうか。藍と文と椛は、少年の心の側に寄り添っている形になっている。側にいるという条件はクリアしている。

 

 ああ、そういうこと。

 そういうことなのね。

 ―――灯台下暗し。

 紫は、それこそが少年の心を見つけられなくなっている原因なのだと悟った。

 

 

(近すぎるから……近すぎるがために和友の気持ちが見えていない。こうして和友が悩んでいることも藍はきっと知らないわ)

 

 

 少年の本心を見つけることができていないのは、距離が近すぎるからだ。地球の地上にいる限り、地球の大きさを測ることなどできやしない。

 近すぎて見えていないのだ。目の前に広がる部分しか、目に見える部分しか分からないのだ。彼女たちが見ているのは、少年の大きな心のほんの一部だけなのである。それでは、少年の本心を見つけることは到底できない。

 

 

(一度でも、一度だけでも和友を見つけることができたら……和友の存在が消えることはない。あの子の存在はそれほどに大きい。一度見つけてしまえば、絶対に見失わないわ)

 

 

 あの広大な世界で少年と対峙し、一度でも少年の顔を正面から見ることができれば、少年の本心と相対することができれば、捕捉することは比較的容易になる。感覚的に、どこに少年の本心があるのか分かるようになるだろう。少年が心の中の違和感をすぐに探せるように、少年の心の中の違和感を探し出せるようになる。

 逆に言えば―――一度も少年の顔を見ていない者は、少年の本心まで辿り着くことは難しいということである。

 少年は、一人語りをするようにして呟いた。

 

 

「正直なところ、周りの人間が僕の心に吸い寄せられているのは、小学校に通っていたころから薄々気付いていたよ」

 

 

 少年に依存しているのは、両親だけではなくクラスメイトも同様だった。少年の能力は相手を選ぶような能力ではない。無差別な台風のようなもの。国境は存在せず、境界は存在しない。逃れる術は何一つなかった。

 

 

「それは小さな違和感みたいなものだったけど、あの時に自覚するべきだった。僕に寄りかかっている節は、今思えばいくらでもあったんだから」

 

 

 クラスメイトが少年に惹かれていたと判断できる要素は全部で3つある。

 

 

「僕があれほど物覚えというか、区別ができなかったのに……周りは僕に対して酷く優しかった。苛められることも、おかしいと言われることも、人が離れることもなかった」

 

 

 一つ目は、少年が物覚えの非常に悪い人間で、人の名前を覚えるのにも苦労するような人物だったのに、少年の周りから人が離れるということが無かったことである。

 名前すら呼べない相手に対して友達でいられるほど、小学生で人間ができている人物はあまりいない。気持ち悪がられる、あるいは疎遠になる、苛めの対象になるということが起こっても不思議じゃない条件が揃っていた。

 それなのに―――少年はそうはならなかった。そうなるそぶりも、そういうきっかけも何もなかった。不自然なほど周りは少年に同調していた。

 

 

「学級委員が決まるときも、誰一人として反対意見は出なかった。僕にまとめあげる能力が無くても、周りからの信頼は冗談みたいに厚かった」

 

 

 二つ目に、クラス委員を決めるクラス内での話し合いにおいて満場一致で決まったことである。

 少年は、1学期が始まる際にクラスの委員長に選ばれた。新学期が始まった時、推薦で、満場一致で、何一つ立候補も出ずに、何一つのいざこざもなく選ばれた。

 

 

「僕が意見を言えば、それが通った。誰も文句も言わず賛成に回る。僕がやるといえばやるし、僕がやらないといえば止める方法へ動いた」

 

 

 三つ目に、話し合いの場において少年が意見を言うと、それがまかり通るということが多発したことである。

 誰も文句を言わず、誰も意見を言わない。笹原君がそういうのならそうしましょう、という流れになる。まるで、最初から決まっていたかのように誰も手を挙げる者はいない。ただただ一直線に進む。障害物が何一つない道を真っ直ぐ進む。30人を超える人間がいるのに、何にも衝突せずに結論へとたどり着く。

 

 

「本当に……あり得なかった」

 

 

 気持ち悪いぐらいに挙がった賛成の手。

 必要以上に集まる投票の数。

 文句の一つも出ない空間。

 みんな別人なのに。

 みんな心を持っているはずなのに。

 ここにはまるで僕しかいないみたいだった。

 僕だけしかいない世界だった。

 

 

「気持ち悪いんだよ。目の前に当然のように現れる極端な結果が。そんな奴がいるわけがないじゃないか。誰とでも上手くやれる、誰とでも仲良くなれる。そんな気持ちの悪い奴がいるわけがなかったんだ」

 

 

 少年は、ある時を境に自分がおかしいのだと自覚した。何か、してはならないことをしているような気になった。そういうことをしてはいけないのだと、子供心ながらに悟った。

 

 

「だから、自分から意見を言うのはできるだけ控えた。何も言わず傍観するようになった」

 

 

 だからこそ、クラスの中でもそこまで積極的に意見を言う立場ではなく、傍観するような立場を取っていた。成績表でも書かれていたように、一歩下がるようになった。

 

 

「僕は、両親から良い事と悪い事の区別をさせられていたから、自分が区別できる、みんなが間違えた方向に動こうとした時だけ意見を口にした」

 

 

 周りの存在は、少年の存在に依存している。周りが自動的についてくるような状況において、少年が間違えた方向に進むことは許されない。

 

 

「僕が間違えればみんな間違えることになる。僕は、より一層決まりごとに対して気を遣うようになった。適当なことは口にできない。多くの決まり事を覚えるために努力した」

 

 

 周りの人間は少年という船に乗っていて、少年が進行方向を決めているような状況である。それこそ、少年が間違った行動を取ればみんなも不幸に巻き込まれることになる。下手をすれば、全員が死んでしまうかもしれない。少年は、細心の注意を払って学校で生活していた。

 善悪の基準に関しては、両親が少年に対して善悪を上手く植え付けたことが功を奏した形になっていた。両親とともに立てた旗を目印に、無限に広がる大海原を上手く先導して進んでいった。社会のルールを刻みこまれた少年は、間違っていると思った時だけ宣言をしてみんなを先導したのである。

 

 

「先生は、何か手伝ってくれなかったのかしら?」

 

「僕に依存していたのは、クラスメイトだけじゃない。先生も同じだよ。成績表でも悪い事は書かれなかった。先生も、結構僕に任せっきりだったしね……」

 

 

 少年に依存していたのは、何もクラスメイトだけではない。担任の先生も少年に依存する部分があり、成績表はいつだってべた褒めだった。

 成績表に書いてあった言葉「ぼんやりしているところがありますが周りとの協調性に優れており、一歩引いて周りを見ることに長けています。元気もよく意見も迷うことなく言うので、委員長としてしっかりやっている」これは、その時の状況を的確に表している言葉である。どこにも虚偽記載はされていない。べた褒めしたいからしていたのではなく、親に気を使って書いたわけでもない、そのままの学校での少年の姿である。

 周りとの協調性に優れているように見えるのは、クラスメイトが少年に惹かれているから協調性があるように見えているだけ。一歩引いて周りを見ているのは、少年が周りに対して距離を取るようになったからだ。

 

 

「僕は、周りの人に影響を与える。何も黙っていれば全てが済むわけじゃないんだ。心の揺れは、静かにしていても傍にいる人間に伝わる。僕は、できるだけ心を偽ってでも元気を作り出す必要があった」

 

 

 少年の元気が良かったのにも大きな理由がある。少年の心の揺れが周りの心に伝染することが多かったからである。

 側にいる人間は―――他人の心は、触れている少年の心の振動に敏感に反応する。少年が揺れ動けば、周りの皆も揺れ動くことになる。

 

 

「僕が不安そうな顔をすれば、みんなが不安になる。僕が辛そうにしていれば、みんなも辛そうにする。だったら、僕は嫌でも笑顔を作らないといけないと思った。みんなの気持ちを絶対に大事にできない僕だから、みんなの気持ちを大切にしようと思った」

 

 

 本当ならば―――周りに悪い影響を与えないように心の距離を取らなければならなかったことだろう。みんなの気持ちを大事に思うのならば、不干渉を貫かなければならなかったことだろう。

 しかし、それに気付いた時にはもはやできないところまできてしまっていた。離れれば付いてくる。離れれば不安になる。それでは、離れることが正しいのかも怪しかった。判断ができなかった。何が正しく間違っているのか、境界線を引くことができなかった。周りの気持ちを大事にしたいと思う少年の気持ちは、すでに不可能に近い何かになっていた。

 だからこそ、できるだけ笑顔でいてもらうための笑顔を、明るさを押しつけるように生活をしていた。周りの気持ちを巻き込んで生きている少年は、周りの気持ちを守らなければならなかった。

 

 

「まるで、操っているみたいだ。親切にされても、好意を伝えられても―――それが僕が押し付けたもののようで気持ち悪かった」

 

 

 少年は、溜めこんでいたものを吐きだすようにして次々と言葉を口にする。

 

 

「だって、悪意のあるものが僕の周りには何一つなかったんだ。唯一あったのは嫉妬だけだったかな。僕に最初に告白してきた子の嫉妬だけだった」

 

 

 少年が最初に告白されたのは、内向的な少女だった。

 少女が少年を好きになったきっかけは些細なものである。普段あまり喋ることの少なかった子だったが、授業の時に少年と喋る機会があった。

 ―――それだけである。

 ―――少女にとっては、それだけで十分だった。

 

 

「笹原君のことが好きなの……私と付き合ってくれませんか?」

 

「……別にいいよ」

 

 

 少年は、勇気を振り絞った少女に悲しませないようにと了承の言葉を言う。よく分からないまま、付き合うことがどういうことなのか知らずに、何となしに少女の気持ちを受け取ってしまった。

 しかし―――それが間違いだったのだ。恋人というものを知らなかった少年は、これまで通りにいつも通りに友達として接していた。クラスメイトの一員として接していた。

 それが少女には気にくわなかったようで、少年に何度も特別視して欲しいと言葉を送ってきた。

 

 

「これじゃ告白しなかった時と何も変わっていない! どうして? どうしてなの? 私をちゃんと見てよ!」

 

 

 そんなことを言われても、分からないよ。

 僕に何をしろっていうの?

 

 少女の言葉は、少年には伝わらない。まるで、使っている言語が違うのではないかというぐらいに伝わらない。

 区別のできない少年にとって、目の前にいる少女とクラスメイトの少女は同一人物でしかないのだ。

 何も変わらないのは当然だ。

 何も変わっていないものを、どう変えるというのだろうか。

 少年は、少女からのお願いを聞いた時、どうしていいのか分からなかった。

 

 

「どうして告白した私とみんなとの扱いが一緒なの……? 私、どうすればいいのか分かんないよ……」

 

「僕には、無理だよ……」

 

「なんでっ!? どうして無理なの!? 私には、和友君の言っていることがさっぱり分からないよ!」

 

 

 少女は、自分と同じ扱いを受けているクラスメイトの女子に対して嫉妬していた。

 付き合うということは、関係性が変わるということだ。どこの誰とも分からない女の子に話す内容と、告白を受けた少女に対する内容が変わるということ。気持ちのかけ方に差別が起こるということ。

 少女は、嫉妬していた。少年の少女に対する受け答えと、クラスメイトに対する受け答えが変わらないことに。特別な存在に成ったはずなのに、周りと変わらないという現実に。

 少女は、少年に特別視をするように何度も懇願する。なんのために勇気を出したのか分からないというように頭を垂れて願う。

 少年は、無理だと言ってよく分からない少女に対する態度を変えなかった。

 その少年の態度を見て―――裏切られたような気持ちだったのだろう。ここから幸せな日々が始まると思っていた落差もあったのかもしれない。想いを受け取ってもらったと思っていたものが、無視されていたような気がして苛立ったからかもしれない。

 

 いや―――そうじゃない。

 少女は、絶望したのだ。

 何も変わらないことに。

 捨てられたと、弄ばれたのだと、自分の好意はどうでもいいのだと、裏切られた気持ちになったのだ。

 

 

「あの子が死んだのは、きっと僕のせいなんだろうな」

 

 

 結果として―――少女は死んだ。告白を受けたことが―――全ての発端である。少年には分からなかったが、何かの言葉が少女の琴線に触れた。

 きっと様子のおかしい少女に対して少年が距離を取ろうという旨の言葉を送ったのだろう。

 

 

「お願い。私を捨てないで……」

 

 

 少女は、少年に対して唐突に捨てないで欲しいと懇願し出した。

 自らの命を対価に。

 脅迫という手段を取った。

 屋上の金網の外で。

 ―――命をぶら下げた。

 

 

「私、私……和友君に見捨てられたら……」

 

 

 少年は、突然態度の変わった少女に戸惑い、その手を振り払った。

 今まで考えたこともなかった。区別なんてしてこなかった。

 区別のできない曖昧な少年は、少女を放り投げてしまった。

 

 

「転落死だった……学校の屋上から見せつけるように死体を残して死んだ」

 

 

 少女は、苦しそうな顔で死んでいた。痛みに耐えきれなかったのか、即死できなかったのか分からないが、瞳には涙の跡が残っていて、涙はいまだに頬に張り付いたままだった。

 

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……本当は僕が真っ先に死ななきゃいけないのに、秩序を守るために、普通を守るために僕が死ななきゃいけないのに、僕は決まりごとがあるから死ねない。死にたくても死ぬことはできない」

 

 

 自分は、きっと生きていてはならないのだ。周りを巻き込んで殺してしまうような人間はいない方がいい。そう思って仕方がなかった。生きるのが辛いとも感じていた。

 

 

「僕は逃げられないんだ。何処に行っても苦痛は僕の前にいる。何をしても、何を変えようとしても―――何も変わらなかった」

 

 

 運命からは逃れられない。そう言われているようだった。苦痛は常に付いて回ってきた。どこに行っても、何をしても、あいつらは目の前にいた。

 常に覚える作業がつきまとう、自身の気持ちを閉じ込める必要がある。好奇心旺盛な少年は、気持ちを抑え込むのに必死だった。そして、そんな気持ちの抑圧に加えて心の拡大を繰り返した。

 

 

「縛られすぎている僕には、何もかもが無理だった……そして、そんな僕が何よりも嫌いだった」

 

 

 少年の存在の善悪の区別をしてみる。両親が与えた標識が、立て札が少年の天秤となっている。

 両親の作った天秤は少年のことを悪と判断していた。少女が死んでしまっているという結論は、少年に大きな重荷を背負わせた。

 

 

「僕は、僕が嫌いだ。そして、そんな僕に全てを任せる人間が怖い。どうにかなってしまいそうで、傷つけてしまいそうで怖いんだ」

 

 

 少年には好き嫌いは無い。

 しかし、そんな少年にも唯一嫌いなものがある。他人に意見を任せる人間と、任せるように仕組んでいる自分自身―――両親の教えてくれた秩序に反している自分である。悪いことをして死刑になる人がいるというのなら、自分はなぜ裁かれないのだろうかと思わずにはいられなかった。

 

 

「僕は、生きているべきじゃない。生きているだけで周りに迷惑をかける奴は死んだ方が良い。僕なんかが産まれくるべきじゃなかったんだ」

 

 

 少年にとって一番切り捨てたいものは、自分自身である。願わくば、死んでしまいたいと思っているほどだった。

 だけど、自身を傷つけるという行動を取ることはできなかった。それを嫌がる人間がすぐそばに、少年を支えながら存在していたから。

 

 

「そう両親に告げた時、初めて泣きながら怒られたっけな……」

 

 

 両親は、少年から死にたいという気持ちを告げられた時、初めて泣きながら少年を叱った。

 

 

「僕はその時、僕の一番嫌いなものを知ったんだ。この世の中で、人生の中で一番嫌いなものを知ったんだよ」

 

 

 少年は、その時から思っているだけで決して口に出すことをしなくなった。

 両親に泣いて怒られたとき―――両親に泣かれるのが一番嫌だったのだと理解した。

 

 

「僕がこうして生きてこられたのは、両親がいたから。両親がいたから僕の命は繋ぎとめられていたんだって、失った今ならよく分かる」

 

 

 少年が幻想郷で生きてこられたのは、間違いなく両親との約束があったから。

 たったそれだけが―――少年の命を繋いでいた。

 

 

「僕を支えているのは、両親を失った今だって―――両親しかいないんだって。両親の代わりなんていないんだって。僕の心の穴は絶対に埋められないんだって」

 

 

 失った穴を埋められるものなどいるものか。

 代わりなんているものか。

 ―――いてたまるものか。

 

 僕にとっての両親はあの二人だけだ。

 藍と紫は新しい両親の形であって、代わりでもなければ模造品でもない。

 

 みんな違っているから。

 みんな同じ形じゃないから。

 だからこそ、いいのだ。

 みんな違って、みんないい。

 

 僕の心に空いた穴も、両親がいた証。

 なくちゃならないもの。

 僕が覚えていなきゃいけないもの。

 

 それが、僕を産んでくれた。

 それが、僕を育ててくれた。

 両親にできる―――たった一つのこと。




少年の過去については、このぐらいです。
本当なら、これまで張った伏線を全部回収しようと後3話分ぐらいあったのですけど、これ入れると話長くなるので切ります。
きっと原作入ってから回収していくのか、無かったことにするのかどっちかになるでしょう。


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第五章 できないことって多いけど、やれないことって基本的にないよね
仲良くすること


この話は、第5章のまえがき部分になります。
今後、第5章が終わり次第、1人称のような書き方で書いていくことが多くなると思うので、それの練習も兼ねています。何か、書き方に問題がある、おかしいところがある等のご意見がありましたらご連絡ください。


 人とは仲良くすること。

 

 皆さんは、クラスの人たちと仲良くしましょうと言われたことがあるだろうか。きっとどこかで誰とでも仲良くしましょうという意味の言葉を言われたことがあると思う。

 あの言葉は、先生が生徒を扱いやすくする言葉だったり、苦労を減らすために言われている言葉だったり、そんな偏見を持たれることもあるけど、その実―――その方が生きやすいのだからそうすべきだと僕は考えていた。

 今の今まで、そう思っていた。

 

 

 ただ、仲良くしましょうっていうのは僕にとって難しいことの一つだった。

 これもまた境界線が酷く曖昧なものの一つだからである。

 仲が良いって何だろうか。仲が良いと判断できる基準はなんだろうか。

 お話をしていれば、仲が良いと言うのだろうか。

 喧嘩をしていなければ、仲が良いと言うのだろうか。

 ―――そうじゃないだろう。

 仲が良いと思うには、何かしら特別なものが必要になると思うんだ。僕にはそんなもの何一つなかったけど。何一つ特別な何かを持っていなかったけど、最近になってそういうことを考え始めた。

 きっと、椛から告白されたからだと思う。

 きっと、藍に対して何かしら特別な気持ちを持ったからだと思う。

 だから、こんなことを思い始めたのだと思う。

 

 

 僕には、自分で言っていてどうなんだとは思うが、友達と呼べる人間がたくさんいた。今となっては能力の弊害の影響によって惹きつけられていたからなんだろうけど、仲のいい人というのは存外に多かったように思う。

 仲が良いと思っているのは、あくまでも相手からの評価だ。僕自身が仲の良さを測る物差しを持っていない以上、相手に判断してもらうしかないのだから当然のことなのだけど。

 僕は友達に聞いたことがある。僕たちは仲が良いのかな、みたいな漠然とした疑問を投げかけたことがある。仲が良いって何なのかなって、不思議な質問を放り投げたことがある。

 友達はいろんな答えを返してくれた。

 友達の答えをまとめると、結局のところ相手がどのような人間であるのかある程度分かっていて、話というかコミュニケーションがストレスなく円滑に進む関係のことを「仲が良い」と言うらしい。

 大方そのような回答だったように思う。実際のところはみんなバラバラで、いろんなことを口々に話していたけど、総括してしまえばこういうところに行きついた。

 

 このことから分かることは、仲良くなるには特別な何かが全く要らないということである。そして、仲が良い人と仲が良くない人で、必ず偏りが生まれるということである。

 

 仲良くなる過程を考えてみると、なんとなく見えてくる。

 相手のことをよく知るにはまず話をしなければならない。話をして、相手がどういう人間なのかおおよそ理解しなければならない。相手の意見を聞いたり、相手が普段思っていることを聞いたりして、どんな人間かを理解するのである。そこで、まず自分と合う人間なのか、仲良くなることができる人間なのかが判別できるようになる。

 ここで、すでに偏りができる。自分に合う人間かどうかで判別されているのである。

 合う、合わないは人それぞれだ。それぞれが特色を持って別々の形をしているのだから、接触しても問題が起こらないかどうかは「ものに依る」のである。

 

 そう考えると―――やっぱりみんな仲良しにはなれないんだなって、分かってしまった。仲良くなるための理由は特に必要ないのに、皆が仲良くなることはできないのだなって分かってしまった。

 本当に仲良くなれる人間はごく一握りで、接触しても摩擦が起こらない人だけに生まれる。あるいは、摩擦を受け入れられるぐらいに相性がいい関係だけの者だけに生まれる関係だ。

 それ以外の者は、ある程度の距離感を持って対応される。衝突しないように、激突しない位置をとる。

 

 話ができないわけではない。

 喧嘩をしてしまうわけではない。

 だけど―――やっぱり仲良くはない。

 

 でもこれって、おかしいことじゃない。

 みんな同じ生き物だけど、みんな違う活き物だから。

 みんな同じ形だけど、みんな違う容(かたち)だから。

 合うか合わないかって、バラバラになる。

 

 だけど、自分の場合はそうじゃなかった。みんなと仲が良かった。敵はいつだっていなくて、味方しかいなかった。

 戦える相手は誰もいなかった。選択を間違っても止めてくれる人はいなかった。

 世界を恐怖に陥れている魔王が勇者に倒されることはない。いくら待ってもヒーローは現れないのだ。怪人は、いつまで経っても地球を壊している。ヒーローが来るのを待ちながら、ただここにいることを証明している。

 そんなの―――寂しいと思う。

 叱ってくれる人がいないのは、興味を持たれていないのと同じだ。

 怒ってくれるだけの親しい人間が、理解してくれる人間がいないのと同じだ。

 

 普通になるには、バラバラである必要がある。

 苦手な人がいて、嫌いな人がいて、好きな人がいる。

 そんな普通になりたかった。

 そんな普通がきっと、一番生きやすかった。

 

 先生が言うように、誰とでも仲良くできれば生きやすいなんて―――嘘だ。冗談も甚だしい。

 仲が良い人間しかいないのは、仲が悪い人間しかいないのと同じぐらい孤独だ。言いたいことも言えず、自分を内側に閉じ込めることしかできなくなる。

 悪いことをしてしまえば、止めてくれる勇者の存在がいないのだから。取り返しがつかなくなる。

 悪いことをしても平気な心を持っていればよかったのかもしれない。そうだったら、苦しまずに済んだのかもしれない。

 けれど、僕が持っている両親から貰った心は、それを善しとしなかった。

 

 

 批判してくる人しかいない。叱ってくる人しかいない。

 怒ってくれる人がいない。叱ってくれる人がいない。

 両者は、真逆のようで肉薄している。

 

 そう思った時―――僕と仲のいい人間なんて、やっぱりいなかったのだと思った。

 




 主人公について、何となく分かってもらえると嬉しいですね。自分でも書いていてこんなこと考える人がいるのかなとは思いますが、主人公の気持ちになろうとすれば、なんとなく書けるから不思議です。


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紅魔館へ行った、ただひたすらに待った

 これは、紫と少年が話をした次の日のことである。

 少年は―――紅魔館にやってきていた。紫からあるお願いをされて、紅魔館まで足を伸ばしていた。

 

 

「ちょっと紅魔館に行ってもらいたいのだけどいいかしら?」

 

 

 紫の口から唐突にできてきた紅魔館という単語。

 少年は、紅魔館という名前を知っていた。紅魔館というのは、幻想郷を巡り地理を覚えた際に記憶した名前の一つである。

 紅魔館―――それは悪魔の住む館。藍からは危険な場所だと教わっている場所である。

 

 

「うーん」

 

 

 紅魔館に行くことに関しては一つだけ懸念すべき材料がある。

 それは安全面の確保の難しさ――ではなかった。

 少年には永遠亭での仕事がある。朝から行って欲しいということであれば、永遠亭での仕事を休まなければならなくなる。

 仕事とは義務である。やらなければならないことである。それを差し置いておいそれと紅魔館を訪れるわけにはいかない。

 少年は、紅魔館という危険地帯に行くことよりも、永遠亭での仕事を休まなければならないことを気にしていた。

 

 

「午前中は永遠亭で仕事をしなきゃいけないから無理だけど……午後からなら大丈夫だよ。藍にはまた心配かけることになるけどね」

 

「午後からで十分よ。別に貴方の仕事の邪魔をしようとは思っていないわ。時間もそれほどかからないと思うし、先方には貴方が行くことを伝えてあるから心配せずに行ってきなさい」

 

 

 少年は、先方に伝えてあるという紫の言葉が気になった。

 紅魔館にすでに話を通しているということは、紫が話したのでは目的が果たせなかったことを意味する。紫が話をした時には、目的が達成できなかったということを揶揄している。

 紫では駄目で、僕でなければならない理由―――そんなものあるだろうか。

 

 

「……向こうにはもう僕が行くことを伝えてあるんだね。ちなみに僕は、紅魔館で何をすればいいのかな?」

 

 

 どうして僕が行かなきゃならないのだろう。

 僕が行く意味はあるのかな。

 何か特別な理由でもあるのかな。

 当たり前であるが少年には紅魔館に立ち寄るような用事もなければ、知り合いがいるわけでもない。知り合いだから呼ばれているという線は絶無である。

 そんな少年の疑問に紫が答えた。

 

 

「今度から揉め事があった場合にはスペルカードルールを適応する、それについての話し合いよ」

 

 

 紫が言うには、今後から問題が発生すればスペルカードルールを用いて決着をつけるようにするから、それを知らせてきてほしいとのことだった。

 つまり、少年が紅魔館に行く目的はスペルカードルールを広めるための宣伝、あるいは布教ということだろう。

 目的を知った少年は、なおのこと紅魔館に行った際に紫が話せば良かったのではないかと思った。

 

 

「それって僕が行かなきゃいけないの? 僕が行くって話をつける時に一緒に話せばよかったんじゃないかな」

 

「そんなもの知らないわよ。どこで和友のことを聞きつけたのか知らないけど、向こうが貴方を指名しているのだから拒否権なんてないの。文句を言わずに行ってきなさい。これは、もう決まっていることなのよ」

 

 

 紫の回答は、少年の質問の回答になっていなかった。

 ただ、こういう場合は何を聞いても話をしてくれないどころか、機嫌が悪くなることがほとんどである。それを知っている少年は、黙って紫の命令に従うことに決めた。

 

 ―――それが昨日の出来事である。

 

 

 

 

 そして現在。

 少年は紫のお願いを了承し―――紅魔館へと向かっている途中だった。

 紅魔館までは、まだ少しばかりの距離がある。目視で遠くに見えるような状態である。

 少年は森の中で高度を落とし、地面を歩いていた。

 

 

「紅魔館って、いつ頃建てられたんだっけ? 僕が幻想郷の地理を覚える頃にはあったんだよね。一度も入った事は無いけど」

 

 

 紅魔館に入ることは、藍から止められている。危険だからという理由で止められている。

 つまり少年は、現在進行形で藍の命令に反している。現状を考えれば立ち止まらなければならないし、離れなければならない。入るなんてもっての他だろう。

 だが、藍からの命令も紫からの命令があればどうしようもない。命令系統の最上位が紫であるため、藍の意見が通用する道理はなかった。

 

 

「藍、心配しているだろうなぁ。でも、紫の命令じゃ仕方ないよね。納得できないかもしれないけど、飲み込んでもらう他ないかな」

 

 

 少年は藍の想いを無視し、ゆっくりと赤い建物に向かう。

 森には道なんてない。けもの道が僅かにある程度である。先程から草木が接触して歩きにくい。自然と歩幅が狭くなり、足並みが遅くなる。

 それでも、飛ぶよりは数段ましである。

 

 

「本当なら飛んで行けたら良かったんだけど、妖精を連れていくわけにもいかないよね。向こうが呼んだのはあくまでも僕だけだし、連れてこられても迷惑だろう」

 

 

 当初は飛んで紅魔館の正面まで行こうと思ったのだが、紅魔館へと飛行している途中でその考えを捨てた。

 少年の周りには、妖精たちが無条件に集まってくる。空を飛ぶことが苦手な少年が空中を相当数飛んでいる妖精を躱し切ることは非常に難しく、くっ付いてくる妖精を引き連れかねないのだ。妖精を連れてこられても紅魔館側としては迷惑な話だろう。

 それに、空を飛ぶよりも地上を走る方が速い。妖精に付きまとわれない速度で走ることができる。いくらけもの道だとしても、草木が邪魔しようとも飛ぶよりははるかに速かった。

 

 

「さぁ、もうすぐだ」

 

 

 少年は、妖精を引き剥がしながら紅魔館へと歩いて近づいていた。

 次第に少年の視界の中に真っ赤な建物が姿を現す。少年は、真っ赤な紅魔館を見て冗談を言うように呟いた。

 

 

「はぁ~相変わらず真っ赤だなぁ、目に悪いよ。緑とかにすればいいのに……」

 

 

 真っ赤なのは、紅魔館の人間の趣味だろうか。

 真っ赤にすると気持ちが悪くなるのではと、誰も言わなかったのだろうか。

 暮らしている家を真っ赤にしようなんて、常人には全く分からない感覚である。

 それはきっと普通ではない考えだ。

 少なくとも少年には理解できないものである。

 

 

「絶対普通じゃないよね。色彩感覚に限って言えば、僕以上に普通じゃない。真っ赤にしたら気持ちが悪い。もっと優しい色で塗り潰した方がいい―――例えば緑とか」

 

 

 少年の指摘もまたどこかずれている。常人と外れている。少年も常人と少し違った感性を持っているため、そんな指摘になってしまったのかもしれない。赤が緑になったところで目に優しいだけで、奇抜であることに変わりはなかった。

 

 

「こうしてよく見ると日本で建てられる建物ではないなぁ。世界中のどこにもこんな建物は無いと思うけど……あ、でも変なのを作る人は少なからずいるから、もしかしたらあるかもしれないね」

 

 

 森を抜け、正面から木が消えて建物だけが姿を現してくると、ますます建物の赤さが際立ってくる。視界のほとんどが真っ赤に染まる。

 少年は、真っ赤な光景にどこか圧迫感を覚えた。

 

 さて、ここからどうしようか。

 目的地には着いたが、これからどうしなければならなかっただろうか。

 何を頼まれていたのだろうか。

 薄くなりつつある記憶を掘り返してみる。

 そっと思い返してみる―――紅魔館を見据えて、やってきた目的を思い返した。

 

 

「紫は、紅魔館の人達には話をしてあるって言っていたけど、だったらなんで僕が行くことになっているんだろう? 普通にスペルカードルールの説明をすればいいのかな……僕から聞くより紫から聞いた方が絶対にいいのに」

 

 

 少年は、なぜ‘自分’が紅魔館にやってきているのか分かっていなかった。

 紅魔館の人達に自分が来るという話が通してあるというのであれば、話した時に一緒にスペルカードルールについての話をしてしまえばよかったのである。そうすれば、後から少年が紅魔館へ行くことはなかった。

 

 

「藍でも、博麗の巫女でも、僕以外に説明できる人はいっぱいいたはずなんだけどな」

 

 

 そもそもスペルカードルールの布教、普及のための説明は本来、紫自身がすべきことだ。あるいは博麗の巫女、あるいは藍がすべきことなのである。力の無い少年がやるべきことではないのは確かだった。

 

 

「だけど、お願いを受けたのは僕自身だもんね、僕にやれることを精いっぱいやろう」

 

 

 結局承諾して、目の前まで来てしまっている以上、やることをやるしかない。

 それが例え、紫がやらなくてはならないことでも。

 それが例え、藍がやらなくてはならないことでも。

 それが例え、博麗の巫女がやらなくてはならないことでも。

 誰がやっても一緒なら―――自分がやってもいいじゃないか。

 どっちでもいいじゃないか。

 

 

「結局のところ誰が行ってもいいんだから。紫が行っても僕が行ってもどっちでもいいんだよね」

 

 

 少年はそっと視線を持ち上げる。視線の先では4メートルはあろうかという大きな門と真っ赤な建物が少年を迎えていた。

 

 

「やっぱり大きいな」

 

 

 紅魔館には、入り口である門が存在する。柵が敷かれて門を開けなければ入れない作りになっている。飛んでいけば通ることは可能ではあるが、それはやってはいけないことだろう。門を飛んで超えてしまうなど無粋である。それでは門の意味がないのだから。

 

 

「どうやって内側に入るんだろう。話が通っているのなら―――門は通してくれるんだよね?」

 

 

 紫の話が本当ならば―――誰かが出迎えてくるはずだ。少年は、持ち上げていた視線を下ろし、付近に誰かいないか目を配った。

 門の傍には、一人の女性が壁に背中を預けて立っていた。服装はどこか中華風で、異国の人のような印象を受ける。

 

 

「誰だろう? 僕の知らない人だ」

 

 

 初めて見る人だ。もしかしたら以前に幻想郷の地理を勉強していた時に会っているのかもしれないが、少年にその記憶はない。きっと話しかけていないのだろう。名前を教えてもらって書き記す作業を行っていれば、覚えているはずだった。

 初対面のはずだ――――少年は決めつけた。

 

 

「でも、門の前にいるってことは紅魔館の人だよね。紅魔館の人以外であんなところにいる理由なんてないだろうし」

 

 

 門の前に立っているということは紅魔館の住人で間違いないだろう。この人が少年を出迎える人なのだろうか。だったらこの人から許可を貰えば中に入れるはずだ。

 少年はそう思い、そっと女性に近づいて話しかけた。

 

 

「すみません、紅魔館の方ですか? 私、笹原和友と言います。八雲紫の方から何か聞いていませんか?」

 

 

 少年は、不慣れな敬語を使って女性に話しかけた。

 しかし、少年の声には一向に返事が返ってこない。女性の反応は一切なく、顔を上げることも、目を開けることもなかった。

 少年は、反応のない女性を不審に思い、顔を覗き込むように顔を近づける。すると、一定の間隔で呼吸しているのが聞こえた。静かな寝息が漏れているのが耳に入る。どうやら眠ってしまっているようである。

 

 

「うーん、寝ているのか」

 

 

 こういう場合―――どうするのが正解なのだろうか。

 女性の顔を覗き込むのを止めて門の奥にある紅魔館へと目を向けてみる。

 目的地は、門ではなく奥にある紅魔館である。少年の目的を遂げるためには、門を超えて紅魔館に入る必要がある。

 少年は、目の前で寝ている女性と紅魔館を交互に見つめると困った表情を浮かべた。

 

 

「どうしよう、勝手に紅魔館に入るわけにもいかないよね。この人、間違いなく紅魔館の関係者だし、素通りしちゃ駄目だよね、きっと……」

 

 

 この場合は―――待つべきだろう。

 少年は自らの中で正解を作り出した。

 自分が正しいと思うことをしようと思った。

 

 

「しょうがない。起きるまで待つかな」

 

 

 門の手前でゆっくりと背伸びをする。空に手を伸ばし、背中を伸ばす。

 長丁場になりそうだ。

 いい、待つのには慣れている。

 我慢比べは、最も得意とするところである。

 少年は、門の前に立っている女性と同じように壁を背もたれにして空を見上げた。

 空は明るく、雲の動きが早い。

 天気は下り坂になりそうである。

 

 

「雨、降るかなぁ。降るんだったら夜にして欲しいな。それまでにはきっと……」

 

 

 女性を見つめ、起きてくることを願う。そして、その場で空を見上げたまま時間を止めた。ひたすらに食い入るように空を見上げて続けた。

 外の世界を想いながら。

 家族のことを想いながら。

 ―――時間を流した。

 

 

 ―――3時間後―――

 

 

 空を見上げたまま3時間の時を過ごした。

 雨雲ができ始めているが、雨は降ってはいない。どうやら雨が降り始めるのは夜になりそうである。待っている間に降って来るということはなさそうだ。

 門の前に立っている女性が起きたのは、ちょうどそんな頃合いだった。少年が寝ている女性をいい加減起こそうかどうかで迷っていた時だった。

 そんなとき、場に―――変化が起こった。

 

 

「呼んだはずの客人が来るのが遅いと思えば、こういうことだったのね」

 

 

 少年は、声の飛んできた方向に視線を向かわせた。

 声は、門の奥にある紅魔館の方向から飛んできている。門の奥からは人が一人歩いて門へと向かってきているのが確認できた。銀髪にメイド服を着た女性である。

 メイド服の女性は、綺麗な歩き方で真っ直ぐに門へと向かってくる。紅魔館側の人間も待っていたのだろうか。少年が来ることは伝えられているから、余りの遅さに様子を見に来たのかもしれない。なんにせよ、これ以上待たされることはなさそうである。

 少年は、少しばかりの安堵をしながら新たに現れた女性に向けて声を飛ばした。

 

 

「紅魔館の人ですよね? 門が通れなくて……開けてもらえませんか?」

 

「申し訳ありません。随分と待たせてしまったようですね」

 

 

 女性によって門が内側から開けられる。門は大きな音を立てて開いた。

 メイド服の女性と少年の視線は、改めて交わされた。

 

 

「うちの門番がこうなっていることを予測しておくべきだったわ……」

 

 

 

 メイド服の女性は申し訳なさそうに頭を下げる。

 少年は、頭を下げる女性に笑顔を作って答えた。

 

 

「大丈夫ですよ。雨も降っていませんでしたし……でも、少し安心しました。私が来ることは伝えられていたのですね」

 

「ええ、お嬢様からお聞きしています」

 

 

 メイド服の女性は、少年のことを知っているようだった。

 紅魔館には、紫の言った通り少年が来ることが伝えられているようである。門の前で待っていた人が寝ていることからもしかして来訪することが伝えられていないのではないかと不安を持っていたが、今の対応を見て安心した。

 メイド服の女性は、暫くすると頭を上げる。

 少年は、顔を上げたメイド服の女性と目線を合わせると中華風の服を着た女性を指さして言った。

 

 

「それに、やっぱりこの人も紅魔館の住人だったんですね。だったら無断で入らなくてよかったです」

 

「え?」

 

 

 メイド服の女性は、少年の言葉を聞いて物珍しそうな顔をする。少年は幻想郷にはいないタイプである。女性は幻想郷で初めて少年のような人物と会った。

 招かれたのにもかかわらず、眠っている門番のことを気にかけ、起きるまで待っている。幻想郷の住人であれば、決してしない行動ばかりだ。外の人間でもあり得ないかもしれない。

 メイド服の女性は、そんな見たことのない少年に向けて忠告する。優しさから気遣うように進言した。

 

 

「随分とお人よしなのですね。そんな性格では幻想郷を生きていけませんわよ。もっと自分本位にならなければ全てを持っていかれてしまいます」

 

「生きていけない、それだったら私は今も生きているから大丈夫ですよ。これまでこれで生きてきましたから、それを変えるつもりはありません。それに―――私には生きることよりも大事なことがありますから」

 

 

 少年は、女性の忠告に軽く笑った。この性格で生きていくことができないのならば、すでに死んでしまっている。少年の性格は昔から何も変わっていないのだから。外の世界にいたときから、小学生だった時から何も変わっていないのだから。

 生きるということはそれほど大事な要素ではないのだ。少年には、生きることよりも大事なことがたくさんある。大事なものがたくさんある。

 生きることよりも大事なこと―――決まりを守ることがそれに該当する。生きることが大事なのではない―――普通に生きることが大事なのだ。それが決まり事で、それが守るべき自分の中の秩序なのである。

 

 

「見かけによらずはっきりと物事を言うのですね」

 

 

 メイド服の女性は、少年のはっきりとした意志に驚いた。

 少年の第一印象は誰が見ても優しいだけの弱弱しい男の子というイメージだろう。外から見た少年の印象などその程度のものだ。決して大きくはない身体、柔らかな雰囲気。そこから得られるのは、か弱い動物という印象だけである。

 現実には、とても大きくて揺るがない心を持っている少年ではあるが、初対面で得られる情報は主に第一印象だけである。イメージと違っても仕方がなかった。

 女性は、自分の中の少年のイメージを突き崩し、修正して少年を相手する。

 

 

「さすがは八雲の、というところでしょうか」

 

「そこは関係がないですよ。私は、昔からずっとこうだったので」

 

「それはそれで驚きですわ。その年齢で生きるよりも大切なことがあるなんてはっきり言える人を初めて見ました。過去に相当な経験があったのでしょう」

 

 

 女性は、わずかに微笑み少年の生きるよりも大切なものがあるという言葉に同意した。

 

 

「確かに貴方の言う通りだと思います。生きることより大切なものは確かにあります。私も持ち合わせておりますから」

 

 

 メイド服の女性には、少年と同じように生きることよりも大事なことがあった。紅魔館の主を守るという、宿命にも似た絶対的な意思があった。何を犠牲にしても、自分の全てを捧げても、命を失うとしても守り通すという覚悟がある。

 それこそが命よりも大事なもの。それがなければ自分は自分ではないだろう。それは自分を作り出している最も大事な部分―――自分が自分であるための必要な要素である。

 少年は、そこまで話を聞くと門の前で眠っている女性を起こさずに本題に入ろうとした。

 

 

「そちらの女性はどうしましょうか? 起こして連れていくのもあれですし……先にスペルカードルールについての話し合いをしても構いませんが」

 

 

 あれ程にすやすやと寝ている人間を起こすのは悪い気がする。別に寝ているこの人がスペルカードルールを説明するときに必要なわけではないだろう。スペルカードルールについての説明は、紅魔館の主に対してすればいい話である。寝ている人間を起こして、無理矢理に聞かせるほどのものではない。

 ここで置いていったとしても後から聞くことになるだろう。この人には別の紅魔館の人間から話してくれればいい。今聞くのか、後で聞くのか、違いはその程度のものである。だから、別に起こしてまで連れていく必要はないように思えた。

 しかし、メイド服の女性は少年の提案を丁寧に断った。寝ている女性を起こすと明言した。

 

 

「いいえ、ここで起こしますわ。この子も大事な紅魔館の一員ですから」

 

 

 少年は、お任せしますというように何も口を出さずに黙っている。起こすかどうかを決めるのは少年ではない。決めるのは自分ではない誰かだ。

 メイド服の女性は寝ている女性の下へと歩き、頭の上に手をのせる。そして、頭をぐらぐらと揺らしながら話しかけた。

 

 

「中国、起きなさい。お客様がお見えになっているわよ」

 

 

 女性の手の動きに合わせて中華風の服を着た女性の頭が揺れ、髪の毛がバタバタと跳ねる。

 

 

(中国って名前なのか……不思議な名前。固有名詞が被っているなんて区別するのが難しそうだなぁ……)

 

 

 中国というのは、寝ている女性の名前なのだろうか。

 中国って、中華人民共和国のことだろうか。

 幻想郷に中国はないはずなんだけど。

 中華料理はあっても、中国という単語を聞く機会はないはずなんだけど。

 どうしてそんな名前なのだろう。

 

 名前を付けるには、ちょっと微妙な名前である。

 誰が名前を付けたのだろうか。

 

 小学生の時、自分の名前の由来を調べてきなさいという課題が出たことがある。名前を付けるからには付けられる名前には意味がある。それを知っておくことは、与えてくれた愛情を知る上でとても大事なことなのだ―――というところから出た課題なのだろう。

 だとしたら、中国と呼ばれているこの女性にも何かしら与えられた思惑というか、想いがあったはずだ。

 それならば中国って、どういう理由からつけるのだろうか。

 少年は、メイド服の女性と中華風の服の女性がやり取りをしているのを見ながら、そんなどうでもいいことを考えていた。

 

 

「腹が立つぐらいに起きないわね」

 

 

 暫くの間頭を揺すり続けながら声をかけたが、寝ている女性が起きる様子は微塵もなかった。ただただ手に合わせて頭が揺らめいていているだけである。

 メイド服の女性は起きない女性に対し、根気よく話しかける。

 

 

「中国、お嬢様がお怒りになられているわよ!」

 

 

 お嬢様というのは、きっと紅魔館の主のことだろう。それか主の娘なのだろう。お嬢様という単語は身分の高さを連想させる。

 そんな新しい単語が出てくるたびに少年が考え込むのと同時に、メイド服の女性も全く反応を示さず眠っている女性に疑問を抱えこんでいた。

 

 

「おかしいわね。いつもはこれで起きるのだけれど……」

 

「そうなのですか?」

 

「ええ……不思議だわ。何かあったのかしら。中国に限って夜更かししていたとかお酒を飲み過ぎたとか聞いたことないのだけど」

 

 

 メイド服の女性は手を女性の頭から離し、不思議そうな表情を浮かべる。いつもであればお嬢様の名前を告げれば起きるはず、と言わんばかりの様子だった。

 実際そうなのだろう。だから戸惑っているのだ。メイド服の女性は真剣な表情で悩み、大きく息を吐くと少年に顔を向けた。

 

 

「ちょっとお見苦しいとこをお見せすることになるかもしれませんが、よろしいでしょうか?」

 

「私は別にかまいませんよ」

 

 

 少年は優しい表情で一度だけ頷いた。目の前で何が起こるか予測がつかないが、様子を見ていようと決めた。

 メイド服の女性は少年の快い反応に笑顔で頷くと、再び眠っている女性へと視線を集中させる。

 

 

「中国、最後の警告よ。これで起きなければ、お仕置きするわ」

 

 

 メイド服の女性の口から最終手段である「お仕置き」という言葉が使われた。9割以上諦めを含みながら一抹の期待をもって最終警告がなされた。

 そしてやはりと言うべきか、眠っている女性が反応することはなかった。

 こうなれば已む無しである。メイド服のスカートの中から一本のナイフが素早く取り出される。女性がすばやく取り出したナイフは、太陽の光を反射して怪しく光っていた。

 

 

「え、まさか……」

 

「そのまさかです」

 

 

 嫌な予感がした。明確な未来が目に見えた。

 ナイフは、寝ている女性に尖った先を突きつける形で静止している。そこから想像される未来は誰が想像しても同じはずである。

 現実は、少年の脳内映像に一気に接近する。ナイフの先が寝ている女性目がけて振り下ろされる。

 ナイフは、サクッという擬音が似合うように女性の額に向けて吸い込まれるようにして突き刺さった。

 酷く気持ちが悪い光景だった。思わず顔が歪んだ。

 これは大丈夫なのだろうか。自分は見てはならないものを見ているような気がする。無防備の人間を攻撃している。まるで寝ている人間の顔面を思いっきり蹴飛ばすような行為である。

 心の中で叫んでいる。悪いことだと言っている。

 少年は、さすがに黙っていることができず、声を漏らした。

 

 

「うわぁ、大丈夫なんですよね?」

 

「平気よ、見た目じゃ分からないかもしれないけど、この子は妖怪だから」

 

 

 少年の問いに対する答えは、非常に淡泊な答えだった。

 妖怪だから平気とはいうものの、ナイフを刺された女性の額からはつらつらと血が流れ出ている。思わず見ている方が痛く感じてしまう光景である。

 ナイフが刺さっている深さは約1 cmぐらいだろうか。確かに手加減されているようである。勢いよくやっていれば、もっと深くまで突き刺さっているはずだ。

 そして、そんな異常ともいえる状況の中で―――もっと不可思議な現象が起きていた。眠っている女性はそれでも起きるそぶりを見せなかったのである。

 少年は、額にナイフが刺さってもなお反応しない女性を驚きの瞳で見つめる。もしかしてすでに死んでいるのでは、そんな予想が頭の中を循環し始めた。

 

 

「まさか、これでも起きないのですか?」

 

「いつもだったらとっくに起きているのですが、ここまで無視されるとさすがに苛立ってきましたわ。さて、どこまでやれば貴方は起きるのかしら?」

 

 

 メイド服の女性は、ナイフを刺しても起きようとしない女性に対し、怒りを感じ始めていた。ここまで労力をかけているのにもかかわらず、起きないことに苛立ちを覚えていたのである。

 徐々にナイフを握っている手に力が入れられる。刺さっているナイフが頭の中に押し込まれていく。ナイフの刃がどんどん女性の頭の中に入り込んでいく。1cmから2cm, 3cmと進んでいく。

 眠っている女性は、次第にめり込んでいくナイフに冷や汗をかき始め、ある所で目をぱっちりと開けた。

 

 

「……い、痛ったいっ! 痛い、痛い、痛いっ!!」

 

「やっと起きたわね」

 

 

 メイド服の女性は、ナイフを握っていた手を放して痛みで震える女性から一歩離れた。

 中華風の服を着た女性は、体を激しく動かしながら痛みを叫ぶ。そして、痛みの源である額に刺さったナイフの柄を握ると勢いよく引き抜いた。

 額からは、先ほどよりも激しい勢いで血が流れ出る。額からつらつらと顔を伝って顎からぽたぽたと垂れている。地面には、女性の血で染みができていた。

 

 

「何が起きたのですか!? 戦争が、戦いが始まったのですか!?」

 

 

 起きた女性は状況が呑み込めず、左右に首を振り状況を確認する。

 けれども、そんなことをしたところで見えてくるのはいつもの慣れ親しんでいる風景だけである。そして、中華風の服を着た女性の目の前には、いつも見慣れているメイド服の女性が存在していた。

 中華風の服を着た女性は、顔見知りである女性にきょとんとした表情で問いかけた。

 

 

「あ、咲夜さん、どうかしましたか?」

 

「中国、寝ぼけている場合じゃないわ。貴方……お客様を待たせて何をしているの? 今日はお客様がいらっしゃるから、案内するようにお願いしてあったでしょう?」

 

 

 メイド服の女性は、呆れた表情を浮かべていた。

 中国と呼ばれている女性は、メイド服の女性を咲夜さんと呼称した。咲夜―――それがメイド服の女性の名前のようである。

 

 

「…………」

 

 

 中国と呼ばれている女性は、徐々に顔を青くしながら慌てて空を見上げ、太陽の位置を確認した。

 日の傾きから今の時間をおおよそ推測することができる。だいたい、午後4~5時といったところだろう。

 中華風の服を着た女性は、太陽の位置からおおよその時間を把握すると視線を下した。視線を下した先には、これまで生きていて見たことのない少年がいた。

 

 

「こんにちは」

 

「こんにちは」

 

 

 少年は、苦笑しながら女性に向けて随分と遅くなってしまった挨拶を交わす。それを見た女性は、お客様というのが少年のことであり、自分が長らく眠っていたせいで待たせてしまっていたことに気付いた。

 

 

「え、ええっ!! なんで!? 起きる心持ちはしっかりしておいたのにっ!」

 

「はぁ……寝るつもりではいたのね」

 

 

 メイド服の女性は、眠っていた女性の物言いに頭を抱えたくなった。

 中華風の服を着た女性は、頭を抱えるメイド服の女性を横切って少年の目の前に来ると大きく頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません! ど、どのぐらい待っていたのでしょうか?」

 

「うっ……3時間ぐらいでしょうか、おそらくそのぐらいだと思います」

 

 

 額から血を流したまま迫ってくる女性は、思った以上に恐ろしかった。ホラーである。悲壮な表情も相まって恐怖感が増している。少年は思わずのけぞりそうになるのを押さえつけてなんとか落ち着きをもって答えた。

 メイド服の女性は、3時間と言った少年の言葉に驚いた。いくら少年がお人好しであっても3時間もの時間をただひたすらに待っていたことに驚きを隠せなかった。

 3時間、3時間である。これがレストランであれば潰れてしまっていることだろう。信用も何もない。ただ、貴重な時間をつぶしてしまっただけ。それも、体を休められる場所ではなく、外で待たせてしまっている。

 メイド服の女性は、確認のために再度問いかけた。

 

 

「3時間も外で待っていらしたのですか?」

 

「はい……」

 

 

 メイド服の女性は、動揺していた。

 どうすればいいのだろうか。

 どうすれば挽回できるだろうか。

 こちら側の失態でお客様に迷惑をかけている。

 3時間も外で待たせていたなどお嬢様になんて言えばいいのだろうか。

 何とかして許してもらわなければ。

 メイド服の女性は、すぐさま頭を下げて謝罪の言葉を述べた。

 

 

「申し訳ありません! 3時間も外で待たせてしまって……私からも謝罪します。私にできることならば何でもしますから、どうかお許しください」

 

「はい、謝罪は受け取ります。でも、あんまり気にしなくていいですよ。別に急用というわけでもありませんし、他に用事が入っているわけでもありませんから」

 

 

 少年は謝罪を受け取り、謝る二人に対して気にしなくてもいいと言った。

 メイド服の女性は少年の言葉に胸をなでおろし、顔を上げる。中華風の服を着た女性もメイド服の女性と同じように、安心した表情を見せた。

 二人にとっては、呼びつけた相手を待たせていたという事実がそれほどに重い事柄なのだろう。外の世界の企業と同じようにお客様を待たせていた事実が信用や体裁に関わるのかもしれない。それか、お嬢様と呼ばれている人物から何か責任を取らされることがあるのかもしれない。

 なんにせよ、少年のあずかり知らぬところで何かあるのは間違いななかった。

 

 

「それにしてもどうしてでしょうか。どうして起きることができなかったのでしょう?」

 

 

 中華風の服を着た女性は少年の待っていた時間を聞き、不思議に思っていた。お客様がいらっしゃるということを知っていて、起きるという気持ちをもって眠りについたにも関わらず、全くもって起きることができなかったことを懐疑的に思っていた。

 

 

「3時間も待っていてくださったのですよね……話しかけたり、呼びかけたりはしましたか?」

 

「最初来た時に何度か話しかけました。けれども、話しかけても起きなかったので起きるまで待っていようと思いまして、こうなった次第です」

 

「かなり熟睡している様子だったわよ。私が話しかけても眠っていたし……」

 

 

 少年は事実を淡々と述べる。そして、少年の言葉にさらにメイド服の女性からの捕捉が入った。

 中華風の服を着た女性は、メイド服の女性の一言で完全に自分に非があることを認めざるおえない立場に立った。まだ何もしていないと言うのならば、起きることができないのも仕方がないとも言えなくはなかったが、話しかけても眠っていたのでは反論の余地はない。

 だが、その事実が本当であるならば、話しかけられても眠ってしまうほどに深い眠りについていたということになる。

 中華風の服を着た女性は、そんなことがこれまであっただろうかと疑惑を感じながらも、再び少年に向けて頭を下げて謝った。何をされても仕方がないと覚悟をもって頭を下げた。

 

 

「申し訳ありません!」

 

 

 約束をすっぽかすことに対しては、大なり小なり罰が加えられる。それは外の世界であっても幻想郷であっても変わらないことだ。この場合は、紅魔館の主が罰を与えることになるだろう。

 それに、待たせてしまった相手も悪い。少年は八雲家の人間である。少年を待たせたという事実は八雲紫に届くことだろう。それはつまり幻想郷における紅魔館の立場が悪くなるということ、印象が悪くなるということに他ならなかった。

 自分の寝坊が紅魔館の印象を悪くする。自分の責任で誰かの印象が悪くなる。自分の責任で誰かの立場が悪くなる。これほどに罪悪感を抱えることはない。これほど気持ちが悪くなることはなかった。

 中華風の服を着た女性は、精いっぱいの謝罪の気持ちを込めて言った。

 

 

「本当にすみませんっ! 私にできることなら何でもします! ですから……」

 

「はい、今度からは気を付けてくださいね」

 

 

 中華風の服を着た女性は、あまりに予想外な少年の言葉に唖然とした様子で顔を上げた。

 今度から気を付けてください? 

 それだけ? 

 お咎めは? 

 罰は?

 女性は、きょとんとした表情で再び問いかけた。

 

 

「えっと……もう一度言ってくれますか?」

 

「次からは気を付けてくださいね」

 

 

 少年は、間髪入れずに茫然とする女性に告げた。優しい笑顔で何事もなかったかのように言った。

 中華風の服を着た女性は、待たせたことに対して罰もお咎めもないということに唖然と立ち尽くす。こんなに簡単に収まってもいいのかと自分の気持ちだけが置き去りにされた気分だった。

 メイド服の女性は、茫然と立ち尽くす女性の肩に手を乗せる。中華風の服を着た女性は乗せられた手に視線を向けた。視線に入る女性の顔は、酷く面白いものを見ているような顔だった。

 

 

「この方はこういう方のようよ。良かったわね、優しい客人で」

 

「……はい。なんだか悪いことをしてしまったという気持ちはぬぐえませんが、よかったです」

 

 

 少年は、二人の話が一通り終わるのを見届けると一歩だけ後ろに下がり二人の女性から距離をとる。そして、立ち並ぶ二人の女性の前で元気よく口を開いた。

 

 

「ここでこれ以上時間を潰すのもなんですし、話を進めましょう。雨が降り出す前には帰りたいので」

 

 

 二人の女性の視線は、声を発している少年へと集約する。

 少年は、臆することもなく、堂々と二人へと告げた。

 

 

「八雲紫の方から前もって説明があったと思いますが―――私、笹原和友と言います。今日は、スペルカードルールについてお話に来ました」

 

 

 少年は、紅魔館に来て初めて自分の名前を口にした。




やっと紅魔館へ行けましたね。ここでの話が終われば、原作に突入します。先の話を書くよりも、昔の文章を直すことの方が気になって本末転倒になってしまっていますね。更新は、気長に待ってください。


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少女を見つめた、勝負が始まった 

 メイド服の女性は、少年の自己紹介を聞いて自分がまだ名乗っていないことに気付いた。

 

 

「そういえば、私たち自己紹介をしていなかったわね」

 

 

 紅魔館の人間は、少年に対しての知識をある程度持っている。

 八雲の隠し子、独特の雰囲気を持つ子供、八雲紫に神隠しにあった外来人、様々な話を色々なところでよく耳にしている。そんな偶に耳にする噂を知っているからこそ少年が紅魔館へと呼ばれている。

 そしてもちろん私たちのことも当然のように知っているだろう。メイド服の女性は、少年が紅魔館についての前知識を持っていると勝手に思っていた。

 自分たち(紅魔館)のこともある程度噂にはなっている。むしろ、少年のことよりも情報を仕入れるのはよっぽど容易なはずである。紅魔館に来ることになった以上、知識をつけることは当然やっているはずだし、自分達(紅魔館)のこともある程度知っていると思っていた。

 

 

「私達のことはある程度知っているとは思いますが、直接こうやって話すのは初めてですし、打ち解ける意味も込めて自己紹介をしましょう」

 

(申し訳ないけど何も知らないんだよね……僕が知っているのは、危険だから近づいちゃいけないっていう藍の言葉だけだ)

 

 

 少年はそんな女性の予想と反して紅魔館のことを何も知らなかった。紅魔館についての情報なんて、危険な場所だから近づいてはいけないという情報しかない。それ以外の情報は何一つとして持っていなかった。

 普通ならばこんなことになることはない。訪れる前にあらかじめ相手側の情報を教えられるものだ。少なくとも、向かうように言った紫からは伝えられているはずだった。

 だが、誰も少年に紅魔館についての情報を伝えなかった。忘れていたわけではなく、故意に教えられていなかった。

 

 

(紫のことだ、きっと僕に気を遣ったんだろうね。昨日急に言われても僕には何もできなかっただろうし)

 

 

 紅魔館に行くことを伝えたのは昨日のことである。仮に紫が教えていたとしても、覚えるために書き記す作業を行わなければならない、覚えるために尋常じゃない時間を必要とする少年には大きな負担となる。

 紫は、少年を気遣いそのままの状態で行かせることにしたのである。

 メイド服の女性は、そんな事情から少年が紅魔館の情報を全くといっていいほど知らないことを露程も知らない。ある程度の知識は持っているだろうと考えながら、無知な少年に対して少年がしたものと同じような自己紹介を行った。

 

 

「私は、この紅魔館でメイド長をしている十六夜咲夜(いざよいさくや)よ。貴方と同じ人間で、年もそんなに変わらないんじゃないかしら?」

 

 

 メイド服の女性の名前は、十六夜咲夜という名前のようである。

 少年は、頭の中で女性の名前を数度反復させる。ここで聞き流してしまえば頭の中から記憶が流れ出てしまう。

 記憶は流動的で、せき止めなければ一気に流れて行ってしまう。

 忘れないようにしなければ。

 覚えておかなければ。

 強く頭の中で念じるように必死に頭の中に女性の名前を留めた。

 

 

「今、何歳?」

 

「今、十四歳です。今年十五になります」

 

「ほら、やっぱり同い年じゃない」

 

 

 少年の言葉にすぐさま合の手が入れられる。

 少年の年齢は現在14歳である。中学1年生の時に紫に連れ去られてから、2年の月日が経過している。

 咲夜は、同い年の少年に気を許したのか、気さくに話しかけた。

 

 

「だったら固いのは抜きにしましょう? 同い年の相手に遠慮するというのもなんですし……お互い誰かにつき従っている立場、気を遣わない相手を見つけることも必要でしょう?」

 

「咲夜さんと同じように、私もそうしていただけると助かります。門番をやっていると紅魔館以外の方としゃべる機会なんて殆どありませんから。愚痴でも聞いていただけるとありがたいです」

 

 

 咲夜は、もっともらしいことを口にする。そして、咲夜の言葉を隣で耳にしていた中華風の服を着た女性も咲夜の意見を肯定した。

 

 

(幻想郷の人間はみんな、横の繋がりが薄いのかな?)

 

 

 二人の言動からは、幻想郷の人々の繋がりの薄さが感じ取れた。

 幻想郷で横の繋がりを作ることは難しいことなのだろうか。

 友達を作ることは難易度が高いことなのだろうか。

 外の世界では考えもしなかったことである。

 ―――そもそも知り合いを作る方法って何だろうか。

 そう考えたとき―――幻想郷では知り合いというものが非常に作りにくくなっている構造をしていることが理解できた。

 

 

(幻想郷だと難しいんだね……余りにも縁が無さ過ぎる。妖怪という者の存在が人と人とを疎遠に、人と人が会うためのきっかけを遮断している。それも、どこかの勢力に属しているのならなおさらだ。妖怪との繋がりが深いほど、縁は細く薄くなる)

 

 

 人と人が繋がるには接点が必要なのだ。

 交わるための合流地点が必要なのである。

 

 

(幻想郷はどこまでも閉鎖空間だ。外に手が伸びることを嫌っている雰囲気がある。幻想郷の成り立ちを考えれば仕方ないのかもしれないけど)

 

 

 外の世界ならば学校なり、部活なり、社会に出たところで周りとの繋がりが生まれる。自動的にラインがクロスする。

 幻想郷の人里に住んでいるのならば、それこそ隣の家の人間に話しかければいいだけの話である。それで知り合いになれる。友達になれる。

 しかし、幻想郷で勢力に属している場合は別である。

 幻想郷における勢力は一か所に固まっている。僻地に追いやられているように外部にひっそりと集まっている。外に伸びているラインがほとんどなく、横に繋がるためのパイプがとても細い。隣に住んでいるような人間はいないし、周りに人が住む場所は存在しない。仮にあったとしても、どうしても勢力としての体裁があり、仕事の繋がりのような利害関係で結ばれるような間柄で終わってしまう。

 自身の勢力のことを第一に見据え、勢力のトップに付き従う。こんなことでは横の繋がりを作ることなど不可能である。

 

 

(それも妖怪がいるからってことなんだろうね。人の恐怖の対象である妖怪が、人の繋がりを寸断している)

 

 

 ましてや妖怪と関わりのある人の場合にはさらに難易度が跳ね上がることになる。妖怪が絡んだ瞬間―――人は恐怖する。それは繋がりを阻害する十分な原因になる。

 妖怪の存在は、人同士の横の繋がりを得ることを邪魔する。妖怪は恐怖の対象であるから、人同士の繋がりを構築できないのである。

 妖怪が人里を歩けば視線が集まる。妖怪という単語に危機感を覚えるような人間と、どうやったら妖怪の勢力の人間が話し合いをすることができるだろう。仮に会話ができたとしてもそれは、脅迫の類になってしまうはずである。

 

 

(藍だって紫だって、例外じゃないもんね。幻想郷はあくまでも妖怪のための楽園なんだし、おかしくないといえばおかしくないけど、なんだか―――寂しい気がする)

 

 

 考えてみれば、紫や藍も横の繋がりがあるようには思えなかった。

 

 

(……ああ、そういうことか。だからこうなってしまったのか。だからここまで依存が酷くなってしまったのか)

 

 

 少年は、幻想郷における横の繋がりの薄さがあるからこそ、自分への依存がより深くなったのではないかと思った。他にないから、少年にだけあるから、そんな特別な部分が依存の対象になっているのではないかと思った。

 そして、それはきっと間違っていない。少年みたいな人間が山ほどいたら、能力を抜きにして少年のような存在がいっぱいいたとしたらこんなことにはなっていないはずだ。代わりがいてくれたはずだ。特別感が薄れたはずだ。

 

 

(止めよう、代わりがいればなんて―――そんな考えは捨てよう。仮定することもできやしない)

 

 

 ―――そんな思考はするだけ無駄、無意味である。

 代わりなんて誰にもできないのだから。

 誰だって、誰にも成れないのだから。

 

 

(誰にも僕の代わりはできない。それは誰だって同じだ。代わりなんて誰もいない。この世の中には誰の代わりもいないのだから)

 

 

 二人は、複雑な表情を浮かべて黙っている少年に尋ねた。

 

 

「どうかされましたか? もしかして具合でも悪いのですか?」

 

「いえ……そういうわけではありません。ちょっと考え事をしていました」

 

 

 少年は、朗らかな表情を浮かべて誤魔化した。

 さて―――どうすべきだろうか。

 心の中には表情とは異なり、複雑な感情が渦巻いている。それは、二人の意見を受け入れるべきか否か―――どちらの方が良いのだろうかということについてのことである。

 何も気にすることなく好意を受け取れたらいいのだが、考慮しなければならない要素がある。二人が親しく話しかけているのは、能力の影響によってなのかもしれないのだ。

 少年の未来を考えれば、ここは絶対に断らなければならない場面である。断って、適度な距離を保つ必要がある場面である。

 しかし、断ることで相手の心象を悪くしてしまうかもしれない。これから話をしに行く前にぎくしゃくした関係を作るのもどうなのだろうか。話が円滑に進まなくなってしまうのではないだろうか。

 どうすればいいのか。

 少年はそう考えて――――目の前の目的を達成するために二人の提案に乗った。

 

 

「お二人がそういうのならば、そうさせてもらいます」

 

 

 すぐさま持ち歩いているノートを取り出す。すぐにでもノートに二人の名前を書き記さなければならない。もう一度名前を尋ねて名前をノートに記さなければ。

 少年の記憶はそう長くはもたない。特に人の名前は区別することが難しい。覚えるためには書き記す作業を行う必要がある。

 少年は忘れないために、覚えるために二人に名前をノートに書いて欲しいと頭を下げてお願いした。

 

 

「すみませんが、もう一度だけ名前を教えてください。漢字と一緒に覚えるので、できれば書いていただけると助かります」

 

「笹原は随分と律儀な性格をしているのね」

 

 

 咲夜は、少年のお願いを聞き、少しばかり呆れた顔をする。

 少年の性格は幻想郷ではめったにいないタイプである。真面目で、奇妙なぐらい優しく、律儀な性格をしている。未だかつて名前を間違えたくないからという理由で名前を書いて欲しいなど、言われたことがあっただろうか。

 そう言っている少年には、そんなことを言わなければならないような何かがあったのだろうか。何か過去に失敗でもしたのだろうか。それとも、何らかの理由から名前を大事にしているのだろうか。

 そうでもなければ、この真面目さはありえないだろう。いつか聞かせてもらえるだろうか。

 咲夜は、少年を物珍しそうな目で見ながら少年の要請に応えた。

 

 

「いいわ、貸しなさい。書いてあげるから」

 

「よろしくお願いします」

 

 

 少年は了承の言葉を聞いて、ノートと筆を差し出す。

 ノートと筆が少年から咲夜へと渡る。

 筆は今すぐに書き出せるように墨が付いたままだった。

 

 

「あっ……」

 

 

 ―――間違えた。何も考えずに墨のついている筆を渡してしまった。

 誰にも聞かれないほどの小さな声が少年の口から漏れた。

 筆という媒体は、ものを書く物で間違ってはいないのだが、上手く扱える人はそう多くない。書いている途中で墨がかすれてしまったり、墨が跳ねてしまったりして不快な思いをする可能性がある。

 少年は、こういうときのために普段から二つの書くための道具を所持している。

 それが筆とペンである。

 筆は主に少年が耐久戦をする際に使うものである。暇な時間をつぶす時、マヨヒガで物事を覚える際に使用される。

 ペンは、筆とは対照的にふとした時にメモ書きをするために使っていた。

 ここで渡すべきなのは筆ではなく、ペンだ。

 今からでも間に合うだろうか。少年は、服が墨で汚れる可能性のある筆を咲夜に渡したことを反省していた。

 

 

「あの、服が汚れるかもしれませんし、ペンで書きますか?」

 

「心配する必要はないわ。筆を扱うのはそこまで苦手なわけじゃないから」

 

 

 咲夜は、筆を手に取ったまま手にフィットする位置を探す。

 手に持った筆はいやに手になじむ。安っぽい筆だったらこうはいかないだろう。

 筆というのは、人を選ぶのである。人ではなく、道具の方が人を選ぶのである。使えない人には使えない。使える人のみ使うことができる。

 筆は、鉛筆やペンではない。あれらは誰もが使うことができるようにできているが、筆はそれらとは一線を駕している。

 特に―――少年の筆からは持ち主を選んでいるような特殊な雰囲気が感じ取れた。よほどの人物が作った筆なのだろう。

 咲夜は、湧き上がった称賛をそのまま口に出した。

 

 

「素晴らしい筆ね。私が持つにはちょっと大きいけど、いい筆であることは私でも分かるわ」

 

「はい、それについては同意します。ほんとに良い筆ですよね」

 

 

 少年は、咲夜の言葉に嬉しそうに反応する。店主にも後で伝えておこう。きっと喜んでくれるはずだ。

 咲夜は、筆を握りながら僅かに考え込んだ。こんな筆、普通だったら手に入れられない。きっと入手元は八雲紫だろう。

 ふと、今握っているのがそんな大層な筆なのかもしれないと想像すると―――指先に緊張が走った。

 指先がゆるりと震える。迷ってはいけない。迷いは鮮明に筆先に伝わる。筆とは心を表す表現器である。

 迷いを断ち切れ。流れるように書くのだ。

 咲夜は、心を制するとさらさらと流れるように自分の名前をノートの上に書き記す。真っ白なノートの中に黒い文字が浮かんでいく。

 咲夜は、最後まで名前を書き終えると少年へとノートを見せた。

 

 

「これでいいかしら?」

 

「はい、ありがとうございます」

 

 

 少年は、綺麗に書かれた文字を見て満足げに言葉を返し、ノートと筆を返して貰おうと手を出しかけた。

 しかし、ノートは少年に差し出されることはなく、新しいページに移行される。咲夜の書いた名前は真っ白なページに隠されて見えなくなった。

 どうしたのだろうか。

 まだ書き忘れがあるのか。

 名前は書いてあるのだから大丈夫なはずだけど。

 少年は、咲夜の行動を不思議そうに眺め、どうしたのかと声をかけようと口を開こうとした。その瞬間―――声が割って入ってきた。

 

 

「咲夜さん。次、私が書きますので貸してください」

 

「分かっているわよ」

 

 

 ―――慌てて伸ばそうとしていた手を引く。

 

 

(あ、そっか。もう一人も教えてもらわないといけなかったんだ)

 

 

 そうだ、もう一人教えてもらわなければならない名前がある。考え事をしていて、もう一人の女性のことを忘れていた。

 ノートは、咲夜の隣にいる女性へと手渡された。

 

 

「ではではさっそく!!」

 

 

 中華風の服を着た女性は、咲夜からノートを受け取ると楽しそうに、にこにこした笑顔でノートの上で筆を走らせる。勢いよく進む筆からは、墨が僅かに飛んだ。

 

 

「ちょっと! 墨を飛ばさないでよ! 服についたらどうするの!?」

 

「す、すみません……気を付けます」

 

 

 墨の代わりに咲夜からの叱責が飛ぶ。

 中華風の服を着た女性は、勢いを一気に減速させて名前をノートに記しながら少年に忠告した。

 

 

「私の名前はですね、ちょっと特殊な読み方をするので間違えないようにしてくださいね」

 

「笹原、分からなくなったら中国か門番って呼べばいいわ」

 

 

 咲夜は、冗談を言うように少年へ提言した。

 紅魔館では、基本的に中華風の服を着た女性のことを中国、あるいは門番と呼ぶことが通例だった。誰なのか特定できるのであれば名前の呼び方などどうでもいい。特に紅魔館においては中国や門番という名前の方が定着しており、名前で呼んでいる人の方が少なかった。

 中華風の服を着た女性は、笑顔を一気に泣きそうな顔に変えて切実な様子で訴える。

 

 

「そんな! 嫌ですよ! 折角名前を覚えてもらうチャンスなんですから」

 

「じゃあ、もしも忘れてしまった時はそのように呼ばせて頂きます。基本はちゃんと名前読みするので安心してください、中国さん」

 

 

 少年は、女性の切実な様子に誠意を込めて応えた。

 女性は、少年の物言いに裏切られたような気持ちになったのか、げっそりとした顔で落ち込む。

 咲夜は少年の回答に思わず吹き出しそうになり、手を口元に当てて笑いを堪えた。

 

 

「ふふふっ」

 

「笹原さん、酷いです……」

 

 

 少年は、二人の反応に分からずきょとんとする。

 どうして笑っているのだろうか。

 どうして落ち込んでいるのだろうか。

 中華風の服を着た女性が落ち込んでいる理由も咲夜が笑っている理由も少年には分からなかった。

 

 

「えっ? 私、何かまずい事をしましたか?」

 

「笹原は本当に不思議な人間ね。貴方みたいな人、見たことがないわ」

 

「そうですね。私も見たことがありません」

 

 

 紅魔館の二人は、少年の表情を見て苦笑した。

 少年は相変わらず不思議そうな顔をしている。本当に状況を分かっていないのだろう。

 少年の行動を見ていれば、わざと中国と呼んでいるわけではないと分かる。

 けれども、話の流れからいえば明らかにこれからも中国と呼ぶと言っているように聞こえるのだ。空気を読むことができる人ならば、冗談で場の流れに乗ってそう言ったのだろうと思うだろう。

 だが、そういったものが少年からは一切感じられない。それなのに邪気も歪さも感じない。そこに疑問もなく、狙いもなく、ただ純粋に言っているのが分かる。

 針金をぐにゃぐにゃに曲げて真っ直ぐに伸ばして、それを真っ直ぐだと言い張るような歪な気持ち悪さがない。何か変わっている。気持ち悪い方向じゃなく、綺麗な色をしている、汚しちゃいけないものに見える。

 何故そう見えるのか理由は分からない。

 少年の気質がそう思わせるのだ。

 女性は、中国と呼んだ少年に悪気はないようだし、これから覚えてもらえばいいだけの話だと前向きに考えることにした。

 

 

「何度も言いますが……私の名前、ちゃんと覚えてくださいよ」

 

「大丈夫です、覚えるのには自信がありますから」

 

「私の名前はですね。ほん、め……」

 

「来るのが遅いわ」

 

 

 女性が少年に自分の本当の名前を告げようとしたが、それは第三者の登場により行動を遮られることとなった。

 横やりが入れられたわけではない。後ろから突き飛ばされたわけでもない。

 横でもなく、後ろでもなく、前からでもなく―――上方から声が降り注いできたのである。

 

 

「何を遊んでいるのかしら?」

 

 

 一斉に3人の視線が声のする方向へと向かう。軽く上を見上げ、声のやってきた場所を目で捉える。

 視界の中には、窓から傘を出して外へと顔を出している少女が映った。室内にもかかわらず傘をさしている光景は異様だ。スペースが狭く、傘を差している事も相まって息苦しく感じられる。本当に窮屈そうである。

 窓から見下ろす少女は他の二人の女性に目を向けることなく、明らかに少年を真っ直ぐに見つめていた。どこか薄ら笑うような顔で―――面白いものを見つけたような瞳で少年を射抜いていた。

 

 

「僕を見ている……?」

 

 

 少女と視線を交わされた。

 特に何か思うこともなかった。

 特に何か感じることもなかった。

 出会いなんてそんなものだ。

 運命を感じるなんてそんな気持ちは全くなかった。

 瞳に映る少女の口角が軽く上がる。

 

 

「余りに遅いから咲夜を迎えによこしたものの、中にも入らずずっと喋り続けて……もう待ちくたびれたわ」

 

「お嬢様、申し訳ありません。すぐに向かいます」

 

「申し訳ありません。今からお連れいたします」

 

 

 咲夜は、館の中から覗いている少女に向けて慌てて頭を下げる。その行動に追いつくように中国と呼ばれている女性も同様に頭を下げた。

 少年が呼ばれてから随分と時間が経過している。少年が紅魔館を訪れてから立ち話をしている時間をトータルすれば、すでに4時間近くの時間を浪費している。相手側の主が、少年が来ないことを気にしていてもおかしくはなかった。

 少年は、視線をそらさずに主であろう少女を見つめていた。

 

 

「あの子が、ここの主か……」

 

 

 きっと紅魔館でスペルカードルールについて話さなければならない相手はあの子だろう。あの子のために自分は呼ばれたのだろう。

 館から覗く少女は視線を逸らさない。少年も同様に少女を見たまま動く様子はない。

 少女は、暫くの間視線を交わすと不機嫌な心中を吐露した。

 

 

「謝って済むと思ったら大間違いよ。私を待たせた罪は重いわ」

 

「それは、私に言っているのですか?」

 

「あなた以外に無いでしょう? 他に誰に言っているというの?」

 

 

 咲夜ともう一人の女性は、少女の物言いに露骨に表情を曇らせる。

 責任の矛先が少年に向いている。

 これはまずいことになった。

 これからさらにまずいことになる。

 少年と少女のやり取りには争いの予感しかなかった。

 そしてその予想通り―――少年は余りに横暴な少女の言葉に反論した。

 

 

「そうですか、だったら言わせてもらいます。私も随分と待たされています……遅れているのは私の責任ではありませんよ」

 

 

 少年の雰囲気が一変している。

 咲夜と中国は、少年の纏っている雰囲気に言葉が出てこなくなった。少年の表情は硬く、非常に真面目な顔をしている。先程までの優しい雰囲気は息を潜めて欠片も感じられない。まるでそんなもの無かったかのようだ。

 さすがは、八雲紫の遣いとして紅魔館に呼ばれているだけはある。

 さすがは、八雲紫に外の世界から攫われてきただけはある。

 二人は、改めて少年が八雲紫の従者なのだと認識した。

 だが、少年の責めるような言葉は風に流されることになる。少女の表情には、挑発するような笑みが浮かんでいるだけだった。

 

 

「そんなもの私には関係ないわ。遅くなったのは事実で、美鈴(めいりん)を起こせなかったのも、中に入ろうとしなかったのも貴方の判断でしょう、人間」

 

「ルールとモラルは必要ですよ。勝手に家に入るのは、私のモラルに反します」

 

 

 ルールとモラルは、少年にとって重要視されるものである。

 無断で家に入るなど、少年のルールが許さない。無断で家に入るということを容認できない。

 あの強盗殺人犯のように―――人の家に勝手に入ることは許されない、自分自身が許しはしない。それは―――少年の中のルールがそれを許さないからだ。

 そして、当然ながら揺すっても話しかけても起きない女性に対して暴力を振るったり、無理矢理に起こしたりすることもできなかった。

 少女は、少年の反論に薄く笑う。

 

 

「そうかしら? 貴方はずっとそうやって逃げているだけよ。越えられない壁に立ち向かおうとしていないだけ」

 

「どういうことですか?」

 

「ルールとモラルを破らなければ前に進めないときもあるということよ」

 

 

 引かない少年と、揺らがない気持ちを持つ少女の間で言葉が激突する。

 少女は、幻想郷でめったに見れないものを見つけた喜びを隠しながら少年と同様に持論を展開した。

 

 

「破る際にはもちろんリスクがあるけど、それを打破できるのであれば些細な問題よ。今回の場合はそうだったでしょう? 入っても客人扱いをされている貴方は、危害を加えられる対象ではなかったわ」

 

「けれど……」

 

 

 反論を口にしたかった。

 言い返したくなる気持ちが強かった。

 だけど―――必死に気持ちを抑えて口を閉ざした。

 少女の言い分はもっともなことだ。確かに、少年が紅魔館へと黙って入ったところで大した危害は加えられないだろう。紅魔館は、悪即斬を実行している勢力ではないのだから。

 しかし、そんなもの少年は知らないし、それは少年が黙って紅魔館へ入っていい理由にはならない。何一つ物を取っていかない=家に黙って入ってもいいということには決してならないのだ。

 

 

(君はそういうのかもしれないけど、僕には僕のルールがある。君の尺度で僕を測らないで欲しいって……そう言いたいけど。納得してもらえないんだろうな)

 

 

 少女の言い分にはとても納得できないが、自分の言い分を押し通して少女に自分の考えを理解してもらうことはとても難しいことである。

 自分の意見は自分の良心に従ったもので、相手の理論は時間を無駄にしないという利益を第一に考えたものである。

 

 

(僕たちの意見はどちらも間違っていない)

 

 

 お互いが間違っていないだけに意見がまとまることはない。世の中でうまくまとまらないのは、こういったどちらも間違っていない場合である。

 

 

(このまま話をしても一向に意見が交わることは無いだろう。こういう場合は、受け流すのが一番かな。そうでもしないと話が一向に進まないもんね)

 

 

 現状で最も簡単なのは少女の意見を受け入れることだろう。それが嘘であっても、受け入れるふりだけであっても、話を進ませなくてはならない。

 議論を重ねても―――きっとお互いの価値観は交わらないから。ちょっと話をした今だけでも通じ合えない部分を感じ取れるから。話を前に進ませるために取れる選択肢は、受け入れるふりをすること―――それ以外に存在しなかった。

 少年は、少女の言葉に反論せず、頭を下げて謝罪をした。

 

 

「融通が効かなくてすみませんでした」

 

「随分と素直に引き下がるのね。もっと何か言いたそうな顔をしていたじゃない。言ってくれても良かったのよ?」

 

「いえ、融通が利かなかったのは事実ですから。申し訳ありませんでした」

 

「「はぁ……」」

 

 

 咲夜と中国と呼ばれている女性はお互いに顔を見合わせ、不安を取り除くように大きく息を吐き出した。

 少年がこのまま少女に噛み付いていた場合、どうなるか分からなかった。酷く場が混乱するのは間違いないだろう。もしかしたら、ちょっとした争いが起こっていたかもしれない。

 そうなったら八雲との全面戦争になりかねない。

 それだけは絶対に避けなければ。

 今の状況は、そういう意味では場を落ち着けることのできる好機である。

 しかし、場は簡単に収束したりしない。

 少年が退けば―――少女は前に出る。

 少女は、笑みを深めて発言した。

 

 

「謝っても許さないわ」

 

 

 少年は、少女の言葉に困った表情を浮かべた。

 許さない? 誰が? 何を?

 だったら誰に何をどうすれば許してくれるのだろうか。

 

 

「お嬢様」

 

「咲夜は黙っていなさい。私はそこの人間と話をしているの」

 

 

 中華風の服を着た女性と咲夜が顔をしかめる。主の悪い癖が出ている。こうなったらどうしたって止まらない。止められた試しがない。

 少女の立場は、紅魔館の主というだけあって非常に高い。咲夜も中国と呼ばれている女性も、主の意見に進言することができなかった。この場には、少女を止められるものなど誰もいなかった。

 少年は、困った表情のまま少女に疑問を投げかけた。

 

 

「どうすれば、機嫌を直していただけますでしょうか?」

 

「そうねぇ……」

 

 

 少女は、考え込むように頭を傾ける。

 中華風の服を着た女性と咲夜は、少女の様子に嫌な予感を覚えた。こういった予感がするときは碌なことがなかった。

 

 

(僕の今の立場だと、要望を受け入れるしかない)

 

 

 少年の立場は、少女の意見を鵜呑みにしたため悪くなっている。少年の責任で話し合いが遅れている、時間を無駄にしているという事実が出来上がってしまっている。責任が少年に押し付けられた形となってしまったのだ。

 

 

(さっき、相手の意見を受け入れたのは間違えだったかな……?)

 

 

 本当ならば、責任の在りどころは紅魔館にあったというのに。

 迎える側なのに準備を怠っていた紅魔館側に問題があるというのに。

 少年が少女の意見を受け入れたことが仇となっている。

 責任を押し付けられた以上―――下手に出るしかない。

 

 

(なるようにしかならないね。僕の選んだ回答に自信を持って前に進むしか僕にできることは無いんだから)

 

 

 ここで冷静さを失ってはいけない。毅然とした態度で、胸を張って少女と相対する。弱さを見せればつけ入れられる。理不尽な要求が来るかもしれない。

 少女は、しばらく考え込むと視線を下げて少年を値踏みするように見つめる。そして、僅かに口角を上げて口を開いた。

 

 

「貴方はスペルカードルールを推し進めるために話し合いをしに来たのでしょう?」

 

「そうです。私はスペルカードルールの説明に来ました。それは、私を呼んだ貴方もご存知でしょう?」

 

「もちろん知っているわ。他でもない私が呼んだんだもの」

 

 

 少女は、もちろん少年の来た目的を知っている。知っているうえで少年に尋ねていた。

 少女は、笑みを浮かべたまま少年に向けて言葉を投げつける。

 

 

「そうね……貴方には実演してもらいましょう。この国には、百聞は一見に如かずということわざもあるようだしね」

 

 

 女性二人は、少女の言葉に固まった。

 少女が言いたいことが理解できなかった―――わけではない。その先の言葉を瞬時に理解できてしまったから固まっていた。

 ここから開催されるのは、戦いだ。

 固まる二人を無視するように言葉は降り注いでくる。

 落ちてくると分かっていた言葉の雨が3人へと打ち付けられた。

 

 

「美鈴、その人間と戦いなさい。弾幕ごっことやらで戦って見せなさい」

 

「わ、私ですか?」

 

 

 美鈴と呼ばれた女性は、少女からの唐突な指名に驚いた。内心では分かり切っていたことではあったが、実際に言葉に出して表現されると驚いてしまうものである。

 当然であるが、今日初めて客として呼ばれた少年と闘うことになるなど露程も想像していなかった。ついさっき少女の言葉が告げられる前に予見するまでは。

 咲夜は、少女の言葉を信じられず、耳を疑う。

 館から顔を覗かせている少女は、中国と呼ばれている女性―――美鈴と少年を勝負させようというのである。

 咲夜は、動揺を隠せないまま少女に言った。

 

 

「ほ、本気ですかお嬢様?」

 

「本気も本気よ。つまらない冗談は嫌いだわ」

 

 

 少女は、従者である咲夜の問いにはっきりと答えた。

 これは―――ダメなやつだ。

 どうにもできないやつだ。

 こうなったら最後―――全てを押し付けてくる。

 こちらが受け取るまで押し付けてくる。

 

 

「今のお嬢様に何を言っても無駄ね……」

 

「そうですね、お嬢様は意見を変えないでしょう……」

 

 

 従者の進言を聞かないのはいつものことである。

 主は、主の時間で動いている。主の感覚で動いている。そこに他人の意志は介在しない。あるのは、自分という究極的な個だけである。

 少女は、従者二人の意志を押さえつけると少年に対して高圧的に告げた。

 

 

「さぁ、貴方はどうなの? 八雲紫の使者」

 

「全然構いませんよ。やるのならとっととやりましょう」

 

「あら? 思ったよりもやる気なのね」

 

 

 少年の顔は真剣で、冗談を言っているようには見えない。女性二人は、少女の提案に応じると思っていなかった反動もあって驚きの表情を隠せなかった。

 二人は、驚いてばかりだ。こんなことになるなんて思ってもみなかった二人は感情を置いていかれそうになっていた。

 飲み込まれてはならない。勢いに任せて流れに乗ってはならない。冷静にならなければ、正常な判断はできない。一度―――断ち切らなければ。それこそ時間を止めるような感覚で仕切り直さなければ。

 咲夜は少年の肩を叩き、少女に向いている意識を無理やり自分へと向けた。

 

 

「笹原、止めておくべきだわ。お嬢様は私が説得するから止めておきなさい」

 

「いいよ、気遣いはいらないから」

 

 

 今から行われる勝負は、酷く一方的なものになる。美鈴と呼ばれた女性の実力を良く知っている咲夜は、普通の人間である少年では到底叶わないと知っている。ボロボロになってしまうと分かっていた。

 美鈴と呼ばれた女性が手加減をすればいいのかもしれないが、紅魔館の主である少女がそれを許さないだろう。少年のバックボーンに八雲紫がいるとしても、少年が頷いてしまえば意味をなさない。何をされても、受け入れた少年の自業自得になる。

 

 

「笹原! 私は貴方のことを心配して言っているのよ!?」

 

「私なら大丈夫だから」

 

 

 少年は、静かに首を横に振る。咲夜の提案に対して明確な拒否の姿勢を示した。

 咲夜は少年の身を案じ、必死に説得しようとする。

 

 

「何を言って……」

 

「あの子なんだよね? みんながお嬢様って呼んでいるのは」

 

「……そうよ」

 

 

 少年は視線を咲夜から少女へと戻す。少女の瞳は、相変わらず少年の瞳を貫くように見つめている。

 少年は、視線を少女に固定しながら語り掛けるように言った。

 

 

「あの子は絶対に言ったことを曲げないよ。あの目はよく知っている。あの目の人は、それこそ実力行使で止めなきゃ止まらない」

 

 

 少年は、少女と同じような目をしている人間と今までに何度か会ったことがあった。同じ目をしている人は、例外なくはっきりした意志と揺らがない心を持っていた。あの目をしている人間の意志を曲げるには、単純明快な物事の有意の差と説得力が必要となる。

 現状では、少女の言動を曲げるだけの反論も弁明も思いつかない。先程少女の主張を受け入れてしまっている少年の主張が余りに影響力が小さすぎて説得力に欠けるのだ。

 ―――打つ手なしである。

 

 

「それはそうかもしれないけど、まだやらなければならないと決まったわけではないでしょう?」

 

「一番よく分かってるのは従者である二人の方でしょ? もう遅いんだよ。こうなったらやるしかない」

 

 

 何もできないのは―――咲夜も同じだった。少年に返す言葉がなかった。

 少年の言葉は事実であり、勝負を受けるという以外の選択肢は存在しないだろう。主の意見を曲げることができる方法があるのであれば、教えてほしいほどである。

 

 

「これから話し合わなきゃいけない相手に対して武力行使に出るのはどうかと思うし、これでいいんだと思うよ。スペルカードルールの実演なんて、やってどうなるんだって話ではあるけどね」

 

 

 少年は、すでに少女のことを知っているように話す。

 咲夜は、そんな少年のことを不思議に思った。

 自分たちの名前を少年が知らなかったことは、先程の名前を教えて欲しいという流れから把握している。名前も知らないのであれは、おそらく紅魔館について何も知らないのだろう。少なくとも、八雲紫から何も教わっていないことは明白である。

 それなのに、こうもはっきりと少女のことについて断言されると昔から知っていたのではないかと変な想像をしてしまう。

 そんなわけはない。

 自分がいる間であれば、そんなことなかったはずなのだ。

 どこでそんな接点が。

 何処に共通点があるのか。

 咲夜は、少年に疑問を投げかけた。

 

 

「お嬢様のことをよく知ってらっしゃるようですね。八雲紫から話を聞いたのですか?」

 

「見れば大抵の事は分かる。声の通り方、迷いのない言葉、目つき、意識の伝わり方で大体分かるよ。私、人を見る目だけはあるから」

 

 

 少年は、人と話すだけである程度の相手の性格を読み取ることができた。それは、目から、仕草から、言動から、行動から、少年の境界線で判断されている。

 少年は、人の名前を区別する際に名前だけを覚えているわけではない。人というのは名前だけで区別できるほど簡単なものではない。

 ある人の名前が佐藤だとして、佐藤を佐藤たらしめるのは名前ではないのだ。顔、体、などの見た目である第一印象から、癖、仕草、言動、性格などの内部の印象まで全てが佐藤という人間を作っている。

 そんな区別するための努力が少年の目を肥やしている。

 見れば分かるというのは―――冗談でも何でもない。能力でも何でもない。

 経験に裏付けられた―――少年の境界線引きである。

 迷う要素は何もない。

 戸惑うことも何もない。

 自分がやらなければならないことは単純明快だ。

 美鈴と呼ばれた女性に向けて、真剣な顔で勝負を申し込めばいいのだ。

 受け入れる姿勢を示せばいいのだ。

 

 

「だから―――勝負です。弾幕ごっこで勝負しましょう。紅魔館の方々は、スペルカードルールでの対戦は初めてでしょう? 私は、初心者に負けるつもりは無いですから」

 

 

 少年の言葉は自信に溢れていた。

 まるで言葉が生きているみたいに躍動していた。

 美鈴と呼ばれた女性は、ぞくぞくするような興奮を覚えた。少年の顔は勝負師のそれである。はっきりとした意志と立ち向かう覚悟、勝つ自信を抱えて勝負を挑んできている。

 美鈴は、少年の勝負の申し入れを受けて立った。

 

 

「凄い自信ですね。では、見せてもらいましょう。この勝負、受けて立ちます!」

 

「うふふ」

 

 

 少女は、白熱する二人の様子を見降ろしながら面白いものを見るように笑う。

 機は―――熟した。

 戦いは始まる。

 始まるべくして開始される。

 少女は、戦いの合図を出すように咲夜へと言った。

 

 

「咲夜、合図を出しなさい」

 

「では、スペルカード3枚で試合を行います」

 

 

 咲夜は黙って少女の指示に従い、少年に申し訳なさそうな顔を見せて宣言を行う。

 少年と美鈴は4メートルほどの距離をとる。臨戦態勢の構えである。

 少年は、口上として美鈴を挑発すような言葉を投げかけた。

 

 

「僕は1枚も使うつもり無いけどね。弾幕ごっこは、一朝一夕で上手くなるようなそんな遊びではないことを知っておくべきだよ」

 

「とんだビックマウスですね。全てはこの勝負で分かることです!!」

 

 

 お互いの意識を高めあう。お互いに視線を交わし、相手を見つめる。

 今必要な情報は一人分だけだ。

 視界に収まるのは一人だけでいい。

 相手となっている人物だけでいい。

 それだけで十分で―――それだけが全てだ。

 

 

「…………」

 

 

 咲夜は二人に目配せし、間を測る。

 数秒が経っただろうか、咲夜は息を吸い込み―――声を吐き出した。

 

 

「始め!!」

 

 

 戦いの火ぶたは―――今切られた。




 3人称での解説はもう大体できていると思うので、1人称で書いてみたいなぁと思う今日この頃。少年の過去とか、能力についてとかいろいろ書きましたし、大丈夫だと思っています。
 完全に3人称を削ると分かりにくくなることもあると思うので、複合的に書いてみようと思っています。
 当初は、原作に入ったら1人称いってみようと思っていましたが、次々回ぐらいから準備運動的に書いていきます。


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経験の違い、弾幕ごっこの本質

 少女は、興味深げに弾幕ごっこをしている少年を見つめていた。

 

 

「ふーん」

 

 

 少年と美鈴の弾幕ごっこはすでに始まっている。美鈴が攻め、少年が守る大勢は序盤から変化していない。

 少年はひたすらに美鈴の弾幕を避け続けている。

 

 

「こうまで差があるとは思ってもみませんでした。全然当たる気配がないじゃないですか。スペルカードを出し惜しみしている余裕は全くありませんよ」

 

 

 美鈴は、避け続ける少年を追い詰める手段がなく、次々とスペルカードを宣言する。

 だが、弾幕ごっこの要ともいえるスペルカードを使っても少年に一向に当たる気配がなかった。

 自信満々だった少年の言い方からもしかしてと思わなくもなかったが―――こうも綺麗に避けられると実力の差を感じざるをおえない状況である。

 打つ手なしとはこのことだ。

 手も足も出ないとはこのことだ。

 舐めてかかったこちらの負けである。

 

 

「どうやら言葉通りのようですね。笹原さんは避けるのが上手です!」

 

「このぐらい避けられなきゃ、藍や紫と弾幕ごっこなんてできないよ」

 

「確かにそうかもしれませんね! でも、私はまだ負けるつもりはありませんよ!」

 

 

 美鈴は、スペルカードをすでに2枚消費している。この試合がスペルカードの制限が3枚の試合であることを考えれば、試合の3分の2が終わっていると言っていいだろう。

 それでも、後が無くなりつつあるのを気にしている余裕はない。スペルカードを使っても当たる雰囲気が一切ないのだ。

 勝つためには、切り札をきることを渋っている余裕なんて欠片もなかった。

 

 

「さぁ、出し惜しみなんてしません。次々行きますよ!」

 

 

 美鈴から次々と弾幕が展開される。空間が光に満たされる。

 少年の姿が軽々と美鈴の弾幕を縫うように軌跡を描いていく。今の少年の姿を見ていれば、少年の言っていた言葉―――初心者に負けるつもりはない、が誇張でも虚偽でもなく本当のことだったということが窺い知れる。

 

 これは―――実力に差がありすぎる。

 差がありすぎて、勝負になっていない。

 1:9というような見れる数字ではないのだ。

 だが、美鈴には実力の差があるからといって諦める道理はなかった。

 

 

「諦めるのは負けてしまってからでも遅くありません。私は負けるまで、負けを認めませんからね!」

 

 

 諦める理由に―――実力の差など関係あるものか。

 諦めるのは終わってしまってどうしようもなくなってからだ。

 ―――負けてから諦めればいい。

 諦めるのはそれからでも遅くはない。

 美鈴は、勝負を投げ出していなかった。

 

 

「許可を取るような言い方をしなくてもいい。そんなもの自分が決めることだ」

 

 

 少年は、劣勢でも向かってくる美鈴にどこか自分の存在を重ねていた。

 

 

「ただ、僕は諦めろなんて言わないさ。それこそ、口が裂けてもね」

 

 

 少年は、誰にも聞こえないような声で呟き、回避行動を続ける。攻撃するそぶりを一瞬たりとも見せずに、静かに目線を美鈴へと向けていた。

 

 

 

 

 

 そんな時、少女が見下ろしている部屋の中に誰かの声が響き渡った。

 

 

「様子を見に来てみれば、随分と面白いことをやっているのね、レミリア」

 

「あら? あの人間が心配で来たの?」

 

「遅すぎるのよ。もう向かわせてから4時間も経っているのよ? 心配にもなるわ」 

 

 

 来訪者は、不満の入り混じった声を響かせる。

 レミリアは視線を向けることもなく、声だけで誰が部屋に入ってきたのかを悟った。

 心配して来たのか―――確かに少年が紅魔館へやってきてすでに4時間が経過している。

 けれど、それは自分のせいじゃない。

 自分の責任もあるかもしれないが―――少年のせいだ。

 レミリアの顔に笑みが浮かんだ。

 

 

「それは申し訳ないことをしたわね」

 

 

 レミリアには、言葉とは裏腹に少しも悪びれる様子がなかった。

 

 

「でも、妖怪の賢者、貴方のところの人間も悪いのよ?」

 

 

 少年が4時間もの時間を流してしまっているのには、レミリア達―――紅魔館の人間の対応に原因の一端がある。少年が来ると分かっていたのにもかかわらず、門を開けることもなく、ただ待っていただけという対応に問題があるのだ。少年はあくまでも客で、招待者は紅魔館なのだから。呼んだ側の責任が重くなるのは当然である。

 しかし、少年が無駄に時間を失ってしまったのには少年自身にも原因がある。言われるがまま相手に気を遣い、待ち続けている方も悪いのだ。

 

 

 

「門番が寝ているからって門の前でずっと待ち続けるなんて……馬鹿みたい」

 

 

 動かなかった方が悪い。

 拒否しなかった方が悪い。

 意志を示さなかった方が悪い。

 動かなければ変わらないという現実を知っているのに。

 意志を示さなければ分かってもらえないという理屈を知っているのに。

 動かない方が悪いのだ。

 言わない方が悪いのだ。

 その善悪基準は先程少年に謝らせたことで―――線引きされている。

 

 

「やり方はいくらでもあったでしょう。考えた結果、待つという行為を選んだのかもしれないけど愚直よね。どうやったらその思考に行きつくのか理解できないわ」

 

 

 門番が寝ていることは、紅魔館へ入れないことに対する原因の本質ではない。

 無視をすれば紅魔館へ入ることができたのだから。

 門番である美鈴のことを気にしなければ入ることができたのだから。

 外の世界で言うインターホンは門ではなく、内側の紅魔館へと入る扉の方に設置されているのだから。

 美鈴が寝ていたことが問題の核ではない。

 

 

「その思考そのものが私にとっては悪いことよ。愚直で、柔和で、慎重で、無能だわ」

 

 

 内側の扉を叩かなかった―――少年の心にこそ問題があるのだ。

 来訪者―――紫は思い当たる節があり、レミリアの意見に同意した。

 

 

「ああ……あの子はそういう子だわ。和友の中は優先順位がごちゃごちゃなのよ」

 

「お互い、従者には手を焼くわね。咲夜の詰めの甘さも直ってくれればと思わずにはいられないわ」

 

 

 レミリアは、紫の言葉に同情していた。

 従者について憂うことは、主にとって絶対に避けられないことなのだろう。

 

 

「いつも何か足りない気がするのよねぇ」

 

 

 求めるものが常に先を行くから―――何かが足りなくなる。

 求める理想が常に僅かに先を行っているから―――物足りなくなる。

 何かが足りない―――そんな部分を常に探している。

 

 

「妖怪の賢者も分かるでしょう? 仕えている者がいるのならば、この気持ちが理解できるはずだわ」

 

 

 紫の下には九尾の式、そして少年がいる。

 レミリアには、咲夜と美鈴、その他の紅魔館の住人がいる。お互いに下に仕えている人間がいるという意味で紫と共通の認識がある。紫も自分同様に従者に対して悲観的になることがあるだろう。特に―――あの少年に関しては。

 レミリアは、従者の一人である咲夜の詰めの甘さを悲観した。

 

 

「咲夜が話を始める前に……いえ、遅いと思ったのならすぐに様子を見に行けばよかったのよ。そうすれば、こんなことする必要はなかった」

 

 

 レミリアは、少年を門番前で待たせてしまったことを申し訳なく感じていた。

 少年を呼んだのは、ほかでもないレミリアである。責任者はレミリアだ。レミリアが呼んだ客を待たせたのだ。弱みになるため態度には見せないが、確かに客を待たせてしまったことに対する罪悪感が心の中に息づいていた。少年が喧嘩を売って来なければ素直に謝ったのかもしれないほどの、感情が呑み込まれていた。

 いや、そんな想像をしたところで結局この少女は先程のように突っぱねただろう。それを選択したのだから。そうしたいと心が決めたのだから。きっと何度あの時に戻っても同じことをしたはずだ。

 

 

「本当に、上手くいかないものね」

 

 

 そして、少年に対する罪悪感以上に―――従者と自分の噛み合わなさ、不手際の連立に失望していた。

 咲夜は遅いと感じたときから外へと出向き、様子を見に行くべきだった。加えて言えば、紅魔館へ迎え入れるという目的を第一として話をしていれば、紅魔館の中で話をしようというだけの機転は利かせられたはずである。

 こういうことが話さずとも理解できる立場になってはくれないものだろうか。未だに考えが噛み合う様子を見せない。

 レミリアは、従者の不手際を悲観していた。

 

 

「私の従者は、完璧と言うにはまだまだほど遠い」

 

「何を勘違いしているのか知らないけど、あの子は……従者なんてそんなものではないわ」

 

「何を言っているのかしら? 貴方の下で付き従っているのだから従者で間違いないでしょう?」

 

 

 少年のことを従者でないと言うのは不自然だろう。少年の立場はあくまで紫の下であり、上になることはおろか、横になることさえもないのだから。

 少年はあくまで―――紫の下であるというのがレミリアの認識である。だったら従者。従う者だろう。

 紫は、疑問を投げかけてきたレミリアを見つめた。

 レミリアの視線は紫の視線と交わらない。少年に囚われて離れそうもない。

 紫は、自身へと目を向けようとしないレミリアに向けて少年の所見を語った。

 

 

「和友は、人に付き従うような子じゃない。誰かの後ろを歩くような人間ではないわ」

 

「…………」

 

「和友は、誰かを引きずりながら走れるような人間で、誰かを押し切れる、誰かを変えることができる人間よ。和友の心は誰にも縛れない。あんな子が私の下にいる? 従者? 馬鹿を言っちゃいけないわ」

 

 

 遂に少年に捕捉されていたレミリアの顔が真剣な口調で告げる紫へと向けられた。

 紫の言葉には、どこか重い雰囲気が漂っている。重たい空気に引かれるようにして紫に目を奪われた。

 

 

「……貴方にそこまで言わせるのね」

 

 

 レミリアは、嫌に真面目に話す紫に疑心を抱える。

 紫の話し方―――声色は本当に八雲紫から発せられているのか疑問に感じてしまうほどの色を持っている。今までにこんな紫を見たことがあっただろうか。

 レミリアと紫の関係は非常に浅い。今までも数度しか話したことがなく、雑談を交わすような間柄ではない。

 だが、こんなことを言う奴ではなかったはずだ。

 紫の印象は胡散臭く、何を考えているのか分かり辛い。よくあるみんなが抱くイメージと変わらないものである。

 今の紫の言葉は、少なくともレミリアの中の紫の印象からは程遠かった。

 

 

「ここで見ているだけでは何も感じないけれど―――それは私だから感じていないのかもしれないけれど、妖怪の賢者には別のものに見えているということなのかしら?」

 

「誰が見ても同じよ。見たまま、そのまま―――あの子は誰かを巻き込んで、変えていく大きい存在」

 

 

 レミリアは、先ほどまで視線を集めていた少年のことを考える。

 少年という人間はそれほどに特殊な人間なのだろうか。

 そこまでの何かを作り出すのだろうか。

 何かを変えるような大きな存在なのだろうか。

 レミリアから見た少年というのは変わった人間、面白そうな人間という認識でしかなく、それほど大きい影響力があるようには思えなかった。

 

 

「それはカリスマ性があるということなのかしら? 確かに見ていて面白い部分はあるけれど、それほどの影響力があるようには思えないわよ?」

 

「吸血鬼には分からないのかしら? 気付いていないとしたら、随分と図太い神経をしているのね」

 

 

 紫は口元を扇子で隠しているが、挑発するような笑みを隠せていない。

 レミリアは、紫の挑発するような言葉にむっとする。喧嘩を吹っかけているような、吸血鬼を馬鹿にするような言動に怒りを露わにした。

 

 

「馬鹿にしているのかしら?」

 

「いいえ、褒めているのよ。その言葉が来年になっても言えていればいいけどね」

 

「ふん」

 

 

 紫は怒りの表情を見せるレミリアに対し、笑みを崩さない。

 レミリアの視線は、紫との言い争いを避けるように美鈴と少年の弾幕ごっこへと向けられる。これ以上紫と話をしても不毛だ。何も生まれない。何かが起こるとすれば、それは壊れるという破壊現象だけである。

 

 

「勝負はまだついていないか」

 

 

 弾幕ごっこの試合はすでに中盤を終えて終盤戦に入っている。

 少年は未だに美鈴の弾幕を上手く避けており、当たる気配は全くと言っていいほどない。体力もそこそこあるようだ。

 美鈴の弾幕が上手く張れているとはお世辞でも言うことができないのもあるが、人間にしては随分とやれるようだと―――少年を称賛した。

 

 

「それにしてもあの人間、避けるのが上手いわね。美鈴が弾幕を張るのに慣れていないとはいえ、こうもすんなりと避けるなんて」

 

 

 スペルカードルールが幻想郷に出回り始めたのは、割と最近の出来事である。

 紅魔館へと伝わったのは約1週間ほど前のこと。美鈴が弾幕を張ることに慣れていないのは本人に適性がないというのもあるが、練習する期間が非常に短かったからである。

 しかし、それを差し置いても少年は非常に上手く避けている。美鈴の弾幕は少年に対してかすりもしない、当たる気配もない。

 雰囲気から当たる可能性が感じられないようでは、当たる確率は1%未満だろう。

 人が可能性を感じ始めるのは、数パーセントからだ。

 もしかしてを感じるのがその辺で、それは肌や目、五感で感じることができる空気感によって知ることができる。目で見て肌で感じて寸分も当たる雰囲気が感じられないのでは、もう当たらないのと同じだ。

 紫は、少年が避けることができているのは当然と言わんばかりに言った。

 

 

「それはそうよ。和友はずっと練習してきたのだもの。弾幕ごっこは一朝一夕で急に上手くなったりしないわ。貴方達とは経験値が違うのよ」

 

「確かに、スペルカードルールは人間が妖怪と闘うための仕組みだものね。人間はそうでもないと妖怪に勝てはしないわ」

 

 

 弾幕ごっこは霊力や妖力、身体能力といった基礎能力が大きく影響する勝負ではない。人間が妖怪に勝つための勝負という触れ込みがあるだけあって、人間にも妖怪に十分に対抗することができる遊びである。

 

 

 弾幕ごっこは、経験が大きな影響を及ぼす遊びである。

 

 

 

 弾幕ごっこにおいて重要なのは、以下の3つである。

 

 

 

                ・視野の持ち方

 

 弾幕が縦横無尽に広がる弾幕ごっこには、広く見ることのできる視野が必要となる。視野が広がり、情報を処理する脳が機能すれば、弾幕を避けることは容易になる。

 視野の広さは、訓練次第で拡大することができる。普段使っている生活に順応した視野の広さを、訓練によって徐々に広げるのである。

 これは、練習でのみ広がる技能である。もともとの視野は訓練をしなければめったなことでは広がることはない。

 つまり―――訓練したもの勝ちになる要素であり、弾幕ごっこのために努力できる心が必要となる。

 

 

 

        ・弾幕を見た瞬間に判断できる弾幕に慣らされた脳

 

 弾幕は、基本的に2種類に分別できる。

 1つ目は、直進運動をしているもの。

 2つ目は、円運動をするように曲がるもの。

 弾幕を見た瞬間にその弾幕がどのような軌道を描くのか、軌道を予測する脳が弾幕ごっこの回避に大きな影響を与える。これは、目が慣れれば慣れるほど、経験を積めば積むほど精度が上昇する。

 

 

 

       ・弾幕の躱し方の最適解を探し出す際に必要となる経験

 

 弾幕ごっこは、弾幕を躱し、相手に弾幕を当てるゲームである。美しさを評価する面も確かに存在するが、勝負のルールとしてはやはり相手に弾幕を当てられるか、いかに弾幕を避けられるかというところに集約されている。

 弾幕ごっこは、野球と同じように点を取られなければ負けることは決してない。負けないどころか―――勝つことができる競技である。このことから―――何よりも重要なのは弾幕を当てることではなく、弾幕を躱すことであることが分かるだろう。

 弾幕を躱す場合、躱す方法というのは無限に存在する。上下左右、3次元の動きで躱すことが可能であるため、無数の選択肢が存在する。躱し方が無限に存在するため、どれを選んでも同様の結果にたどり着くことが多いが、その場合その場合に応じて袋小路に入る可能性が僅かに含まれている。

 この袋小路に入る可能性を見極めるのは、主に経験である。弾幕ごっこをやったことがある人間、練習している人間と、練習していない妖怪とでは、袋小路に入る危険度に大きな差が発生する。

 

 

 これら3つの要素が―――弾幕ごっこにおいて人間が妖怪に勝てるという触れ込みの内容である。

 他にも、細かい技能で言えばさまざまある。

 例えば、霊力や妖力といった力を使っている以上、弾幕に力の波動を感じるため、目で見なくても弾の位置を把握することが可能である。それができると視覚に頼らなくてもいい分、避けることが比較的容易くなる。

 これは感性によるものなので、才能があればというところだろう。妖怪でできない者もいれば、人間でできる者もいる。そんな技能だ。

 

 

「ふふっ……あの人間から感じるわ」

 

 

 レミリアは、薄ら笑いながら少年を見つめる。

 少年は、‘力’を使っている。美鈴の弾幕を避ける際に薄い青色の発光が見られる。薄い青色の発光は、霊力を使っているときに発生する光である。

 レミリアは力を行使している少年を見て、少年の情報に「力が使える」という情報を追加した。

 

 

「あの人間は、力を持っている人間なのね。もしかして実際に強いのかしら?」

 

「和友は強くないわ。才能があるわけでもない、人間離れした身体能力を持っているわけでもない、ただ努力しているだけの子供よ」

 

 

 紫の顔はレミリアの台詞に不機嫌な顔になった。

 少年の実力は妖怪から見ればさほどではない。霊力の総量も、運用も、運動能力も、計算能力も、何一つ優れていない。

 

 

「妖怪と比べると人間だという評価にしかならないわ。和友はどこまでいっても人間でしかないから」

 

 

 少年は―――妖怪ではなく人間である。あくまでも、どこまでも人間でしかない。

 妖怪と比べてはいけない。それは、車と人を比べるようなもの。コンピュータと人を比べるようなもの。「人が作ったもの」と「人」を比べてどうなるというのか。何の比較にだってなりはしない。

 少年を比べるのなら、同じ人間と比べるべきだ。

 

 

「もしも、無理やりにでも比べるとするなら―――同じことをしたら絶対に勝てないという評価に落ち着くはずよ」

 

 

 仮に比べるとするなら―――妖怪が同じだけの努力をした場合、確実に負けることになるという評価にしかならない。

 人間が妖怪に勝てているのは、妖怪がやればできるのにやらないからである。だからこそ、人間と妖怪の間で勝負が成り立っていると言っていい。

 人間の中には稀に膨大な霊力を持ち、天性の才能を持っているものもいるが、少年とは無縁のものである。

 博麗の巫女のような―――化け物じみた性能を持っているわけではない。

 

 

「彼の努力の結果は、人の歩みそのもの。妖怪から見れば、1か月ほど真面目に練習すれば辿り着ける領域だわ」

 

「まぁ、今見ているとそんな感じよね。でも、実力を隠しているって可能性もあるでしょう? 能ある鷹は爪を隠す―――そうかもしれない」

 

「分かっているくせに、よくもそんなことが言えるわね」

 

「ふふ、期待するぐらいいいじゃない。理想を―――高みを見ようとしなければ、人生楽しくないわよ? 期待は、心を満たす絶妙な潤いだわ」

 

 

 レミリアの視線は、期待をかけている少年に向けられていた。

 紫は、そんなレミリアの様子を見て誰にも聞こえないような声で呟いた。

 

 

「期待なんて……そんなもの無くなってしまったわ。期待をすればするほど現実が矛先を向けてくる。絶対にたどり着けないその場所に、矛先を突き刺してくる。期待は、心に穴を空ける理想への槍よ」

 

 

 レミリアに期待され、紫に期待されていない。

 そんな普通の少年は、美鈴との弾幕ごっこに興じていた。

 




物語を早く進めていきたいですね。
弾幕ごっこの描写は、原作はいれば、霊夢や魔理沙の出番をほぼ奪わない形で数千できる気がするので、抑えています。

弾幕ごっこは、経験が大きい。
ものすごい自己解釈ですね。余り的外れではないと思います。


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賭けの条件、賭けの成立

 眼前に迫ってくる弾幕の嵐は相変わらず止むことを知らない。光り輝く星の光のような流れが、雪崩のように迫ってくる。

 だが、焦りは何もない。

 心はいつも通りの安全運転だ。

 余裕のある気持ちが視界の景色を鮮明に映し出している。

 見たことのある景色が―――平常と変わらないことを訴えている。

 

 

「弾幕ごっこで最も大事なことは、弾幕の軌道予測だ」

 

 

 弾幕ごっこのやり方は紫から学んでいる。スペルカードルールでの戦い方の基礎をみっちりと教わっている。

 少年は、圧迫するように迫りくる弾幕を躱しながら紫の言葉を思い出した。

 

 

「弾幕を避けるときに一番大事なのは、弾の軌道予測。予測が正確でかつ早ければ、全てを避けることなんて簡単よ」

 

 

 避ける際に考えることは、実に単純だ。難しく考える必要はない。

 

 物事を分解して考えれば分かる。

 例えば、歩くという動作はどう成り立っているだろうか。どうやって歩いているのだろうか。説明をしていこう。

 

 まず立っている状態――――両足が地面に対して力を放っている。重力に対して反対側への力、それで体重が支えられている。重力に対して同じ力を返して、平衡を保っている。それが立っているということだ。

 立つ―――そこから前に体重移動を行う。足の裏で蹴ってもいい、前のめりになってもいい。とにかく重心を中心の背骨から前へと移動する。重心を前へと運ぶ。

 そして、運んだ重心を追いかけるように足を前に出す。足の筋肉を引っ張って足を持ち上げ、前に移動する。移動した足を地面につけることで支えを地面に対して打ち立てる。

 こうすれば体重の重心は、再び体の中心地点にくる。

 今度は、出した足の反対側の足を前に送ればいい。これを交互に繰り返すことで人間は歩くという行為を成し遂げている。

 このようにして歩くという行為を分解したように―――弾幕ごっこでも行動の一つ一つを分解して理解すればいい。

 そうすれば、弾幕ごっこを理解することに繋がる。

 

 

「流れには必ず向きが存在する。空間を区切るの。四角い正方形で、メッシュを切るのよ」

 

 

 紫は、いつも自分が行っている弾幕処理の方法を少年へと伝えた。

 

 

「細かく切った四角形の中へと入って来る場所、出てくる場所、出てくるまでにかかった時間が分かれば、一つ一つの弾の情報が全て得られるわ」

 

「……どういうこと?」

 

「難しくて分からないかしら? 単純に言うと弾幕一個一個に対して情報を得るのよ。それができれば、どれが危険なのか一瞬で察知できるわ」

 

 

 意味が分からない。それが少年が第一に思ったことである。

 紫は自分がしている弾幕の避け方を当たり前のように話しているが、意味の分からない言葉だらけで頭がついていかない。この説明で分かったら中学生ではないだろう。分かるのはきっとその道の人だけだ。紫の言葉は、まるで扱っている言語が違うのではないかと思うほど全く頭の中に入ってこなかった。

 

 

「そうね……ノートに放物線を描いてみなさい」

 

 

 ノートを取り出し、言われるままに放物線を描いた。ノートの中心を分断するような境界線が白紙の上に描かれている。

 

 

「ざっくばらんにメッシュを切ってみなさい」

 

「メッシュって?」

 

「網の目のことだけど、逐一説明するのは面倒ね。とりあえず、正方形の箱でいいわ。方眼紙を書くみたいに上下左右に直線を引いてみなさい」

 

「はい」

 

 

 放物線を分断するように上下の線が引かれる。

 ここから何をするのだろうか。どうすれば、先程の言葉が理解できるのだろうか。放物線と網の目がかかれたノートを見ていても一向に分かる気配がない。 

 

 

「放物線を描くようにボールが飛んでいるとすると―――ボールは一つ一つの正方形の中を入って出ているわよね」

 

「うん。正方形の箱に入って出ていっているよ」

 

「この時の正方形に入る角度と出て行くときの角度、そして出るまでにかかる時間が分かれば弾の軌道は全て予測できるわ」

 

 

 難しいことを言っているように感じるかもしれないが、実のところ紫の言っていることは非常に単純である。弾幕の全ての軌道が分かれば、弾幕を避けることは容易だと言っているのである。

 空間に方眼紙をあてがうように四角の線を当てはめる。その一つ一つの四角形―――箱にどうやって入って、どうやって出て行くのかが分かれば、対象物が描いている角度が割り出せる。そして、箱を出るまでの時間が分かれば対象物の速度が計算できる。一個ずつそうした情報を仕入れていけば、弾幕一つ一つの情報が手に入る。

 しかし、紫の言っていることを実現するためには、コンピュータ並の処理速度が必要になる。それもメッシュを細かくすればするほど難しくなる。特に遠近感に頼っている前方方向は、人間の脳ではなかなか苦しい。動き回ることから角度が変わってしまうため、常に気を張らなければならないという難点もある。

 つまり、この方法は考えなければならないことが多すぎるのである。少年の現在の頭で設置できる箱は4つほどが限界で、弾幕は正面を処理するだけで精いっぱいだった。

 

 

「それは難しいんじゃないかな? 僕の脳味噌じゃついていけないよ」

 

「もちろん弾幕の全てを考えなさいなんて言わないわ。自分の所へ迫って来ているものだけでいい。横道に逸れているものまで目をかける必要はないもの。慣れれば視野が広がってできるようになるわ。人間は、環境に適応する生き物なのだから」

 

 

 紫は、優しい顔で諭すように少年に教えた。教えられる自分の知識を伝えた。

 少年は、弾幕発生の源泉である美鈴に視線を向けながら内心驚いていた。

 

 

「本当にできるようになるなんて思ってなかった……」

 

 

 少年は、紫の言葉をある程度実現していた。さすがに弾の数が増えれば増えるほど難しくなるが、ある程度の数であれば速度や角度の算出が可能となっている。

 そうでもしなければ、藍とあれほど打ち合えてはいない。即座に落とされていたはずだ。

 咲夜が心配したのが嘘のようである。少年は、余裕のある雰囲気で弾幕を躱している。

 

 

「空を飛んでもいないのに避けるのが上手いわね。人間だからって心配しすぎだったかしら」

 

 

 咲夜は、少年の危なげない避け方に感嘆し、気を使う必要はなかったと今更ながらに思っていた。

 少年は、足に霊力をまとわせて地上を走る。

 

 

「やっぱり経験の差は大きいな。藍と比べれば、はるかに余裕がある」

 

「貴方が言っていたことはあながち間違いじゃないようですね! 私は弾幕ごっこが得意ではありませんが、これほどに差があるとは思っていませんでしたよ!」

 

 

 美鈴は、自分の放った弾幕が一向に当たらないことを気にする様子もなく、嬉しそうに叫ぶ。

 少年に美鈴の気持ちを窺い知ることはできない。ただただ、視界に美鈴の嬉しそうな顔が映っているのが確認できるだけである。

 走れ、走れ、そう言い聞かせるように足に霊力を纏わせて黙々と地上を走り続ける。空に常に美鈴の姿が捉えながら足を動かし続ける。

 

 

「今はそうかもしれないけど。今に限って言えばそうなのかもしれないけど」

 

 

 美鈴の弾幕は、地上を走る少年に向けて張り続けられている。お世辞にも厚いとは言えない。紫や藍と弾幕ごっこをしている少年からしてみれば、避けることには苦労しない弾幕である。

 しかし、美鈴と自分との間に大きな差があるようには思えなかった。

 今は、少年の方に一方的に軍配が上がっている形になっているが、同じ努力を踏んでしまえば、美鈴に対して互角に立ち向かうことはできないだろう。そんなことは火を見るよりも明らかである。努力で誤魔化して、時間で補って、ようやくこの程度の差である。

 それが―――悔しくてたまらない。自分の努力など、なんてことはないと、そうやって平気で踏み越えられると、努力を踏みにじられているようで気分が悪い。

 少年は、悲しそうな顔で弾幕を躱しながら美鈴に向けて声を発した。

 

 

「すぐに埋まるような差だよ。同じだけの練習をされたら一瞬で抜かれてしまう。みんなとっても早いから、僕はいつも必死だ……!」

 

「謙遜しなくてもいいですよ! 今は貴方の方が強い、それだけが今の全てです。今戦っているのは今の私なのですから!」

 

 

 美鈴は、嬉しそうに3枚目のスペルカードを宣言する。

 

 

「スペルカード宣言、彩符「彩雨」」

 

 

 3枚目のスペルカードが宣言された。スペルカードから放たれる力が空間を支配する。

 少年は、光量の多さに僅かに目を細める。光が収縮していく様子が見て取れる。あれが弾けて弾幕となるのだ。視界が開けると虹色に彩られた弾幕の雨が空から降り注ぐのが見えた。

 そっと空を見上げ、鮮やかな色に包まれた空間を見つめる。

 やっぱりそうだ。

 みんな走るのが早すぎる。

 上手くなるのが早すぎる。

 飛ぶのが下手な僕はいつだって、先行しなきゃいけない。

 そうでもしないと―――同じゴールにたどり着けない。

 

 

「謙遜なんかじゃないんだよね。僕がみんなについていけるのは最初だけ、最初のころだけ……置いて行かれないようにフライングしていた最初だけなんだよ……」

 

 

 小さな声で呟いた言葉は、心の中の心境を正確に吐露していた。

 少年は、自分の無力さを知っている。紫や藍と同じスピードで走れないことを知っている。一緒に走れないどころか―――永久に努力しても追い付けないことを知っている。

 

 

「みんな早すぎるんだよ。どうやったらそんな速度で進んでいけるのか教えて欲しいほどだ!」

 

 

 少年から見れば、美鈴も届かない場所にいる一人である。現に、美鈴に対して弾幕を張っていないのは余裕があるからではなく、少ない霊力を温存するためである。

 藍との戦いの時は練習だったため霊力を使っただけだ。今回の場合はあの時とは異なっている。

 スペルカードルールが適応された弾幕ごっこは、スペルカードを全て使わせ、被弾しないことが勝利条件になる。別にスペルカードを一向に使わなくても、通常弾幕を張らなくても勝とうと思えば勝てるルールなのである。

 それに、少年の目的は別の所にある。ここで霊力を使って、消耗して、疲れて、それで終わってもいいわけではない。目的は戦うことではなく、スペルカードルールについての説明なのだから。

 決して美鈴が弱いから余裕があるわけではない。

 舐めてかかっているわけでもない。

 これが、少年のできる最大。

 これが―――少年の限界なのだ。

 

 

「僕は、みんなと同じ場所に立っていたいんだ。最後のその時に、みんなと勝負できるだけの何かが欲しい。戦えるだけの何かが欲しい」

 

 

 周りの人々に追いつけないかららこそ。

 同じ土台に立つことが立つことができないからこそ。

 ―――努力を積み重ねている。

 手が届かないことなど知っている。

 どれだけ頑張っても追い付けないことは分かっている。

 どれだけ努力しても追い抜かれることは知っている。

 ―――それでも努力を重ねている。

 

 

「だから頑張っているんだ。だから努力しているんだ。皆と一緒に飛んでいたいから。最後の最後に一緒に飛んでいたいから!」

 

 

 みんなのいる場所は、絶対にたどり着けない場所。

 同じところには登れない。

 同じ高さまで上がれない。

 皆ばかりが先に行く。

 自分だけが置いていかれる。

 力がないから一緒に走ることができない。

 だけど、一緒に走りたかった。

 同じところを。

 同じ速度で。

 ―――共に走りたかった。

 

 

「僕だけ置いていかれるものか。絶対に負けない。努力することだけは止めない。みんなが心配しないぐらいの、みんなの足を引っ張らないぐらいの力が―――僕には要るんだから!」

 

 

 少年の努力を重ねているのは、そんな理由から。

 ―――少年以外誰も知らないことである。

 美鈴のスペルカードである彩雨の弾幕の抜け道を探す。そして、弾幕の抜け目を見つけた。

 

 

「見つけた」

 

 

 落ちてくる弾幕に対して、隙間を縫うようにステップする。もう少し弾幕が濃ければ、避けるのは難しかったかもしれないと、無駄な想像しながら最後まで避けきることに全力を注ぐ。

 次第に弾幕の光が弱くなる。光の強度が低下していく。少年は、最後まで美鈴の弾幕を躱し切った。弾幕の雨が止んだ時、視界の奥には笑顔の美鈴の姿があった。

 

 

「完敗です。見事でした」

 

「ありがとうございました。とても綺麗な弾幕でした」

 

 

 少年と美鈴は言葉を交わし、スポーツの試合の後のように清々しい顔でお互いの健闘を讃えた。

 美鈴は、空中から地上に降りて少年のもとへと向かう。咲夜も終戦を告げるために少年のもとへと向かう。

 レミリアの表情は、笑顔で集まる3人を見て面白くなさそうな色に染まった。

 

 

「これじゃ何も面白くないわね」

 

「結果なんて分かり切っていたことよ。弾幕ごっこをするのなら、もう少し練習してからするべきだったわね。今の状態では天と地がひっくり返らない限り和友には勝てないわ」

 

「そうよねぇ……」

 

 

 紫の言葉に言い返す言葉はなかった。

 紫の言葉は誇張でも過大評価でもない。先程の美鈴と少年の弾幕ごっこの試合を見ていれば、美鈴の勝つ確率なんて1割にも満たないことは誰の目から見ても明らかだった。そのぐらい美鈴と少年の試合の内容に差が存在した。

 少年は一つの弾幕も張ることなく回避を行っており、危ない場面はほぼなかったと言っていい。圧倒的な結果である。

 レミリアは、顔を紫に向けて提案を持ち掛けた。

 

 

「……ねぇ、賭けをしない? 味気なさすぎて、ちょっとしたスパイスが欲しいわ」

 

「どうしようかしら?」

 

 

 紫の様子を見る限り、賭けの提案に対して嫌がる様子はみられていない。どうやらこのまま押し切れそうである。

 さて―――何を賭けようか。

 賭けの対象はすでに決まっている。レミリアの中に確固たる形で存在している。

 レミリアは表情を変えて紫に賭けの内容を提示した。

 

 

「そうね、お酒でも賭けましょうか。私は、紅魔館で最も美味なワインを賭けましょう」

 

「いいわ。このまま様子を見ていても暇だし、私も秘蔵の日本酒を賭けましょう」

 

 

 紫は、安直にレミリアの賭けに乗った。レミリアの顔に紫が賭けを受けたことに対する笑みが浮かぶ。レミリアのそれは―――嫌な予感のする悪だくみをしているような笑みだった。

 紫は、レミリアの顔にわずかに表情を曇らせる。レミリアが表情を変えた原因は間違いなく賭けの対象にある。紫にはそんな確信があった。

 

 

「何について賭けるの?」

 

「美鈴と貴方の隠し子、どっちが勝つのか」

 

 

 紫は、レミリアの言葉に表情をしかめた。少年と美鈴の弾幕ごっこは、今しがた終わったばかりである。どっちが勝つのか、という言葉は再び勝負をするということを示す言葉―――別の勝負をするという言葉だ。

 何を言いたいのかは分かっている。

 何をさせたいのかも分かっている。

 紫は、レミリアの考えが分かっていながらも問いかけた。

 

 

「それは、どういう意味で言っているのかしら?」

 

「分かっているでしょ、もちろんこういうことよ!」

 

 

 レミリアは、窓の外に顔を向けて大きな口を開ける。そして、お腹に力を入れて肺から大きな空気を吐き出し―――集まる3人に向けて叫んだ。

 

 

「美鈴! 八雲の使者と闘いなさい!!」

 

「えっ、今程戦いましたよー?」

 

 

 美鈴は、きょとんとし顔でレミリアに向かって叫び返す。何とも気が抜けたような声がレミリアのもとへと届いた。

 レミリアは、美鈴の応答に不機嫌な顔をする。‘何も分かっていない’と察しが悪いことに気分が悪くなった。

 

 

「はぁ、最初からこうなるとは思っていたけれども……やっぱり断ればよかったかしら……」

 

 

 紫の口から大きなため息が吐き出される。

 予想通りの展開である。レミリアの性格はおおよそ分かっている。最初に紅魔館が幻想郷に現れたとき―――最初にレミリアと話をした時からレミリアの性格はおおよそ把握していた。

 レミリアは、面白いものが好きで面白くないものが嫌い。単調なものが嫌いで、起伏があるものが好き。思考はわずかに子供寄りで、理性よりも本能や感情に従い行動する―――純粋な吸血鬼である。

 そんな彼女が、あんなもので満足するはずがなかったのだ。もっと面白くて、もっとエキサイトできそうな、そんな何かを見たいと思うのは普通の流れだった。

 レミリアは不機嫌な様子を隠すことなく、美鈴へと叫んだ。

 

 

「そうじゃないわ! そんなお遊びじゃなく、本当の勝負をしなさいと言っているのよ!」

 

「本当の勝負ですか? 止めておいた方が良いように思います……」

 

「私の言うことが聞けないの?」

 

「……笹原さんが勝負を受けるということでしたら受けましょう。ですが、本人が拒否した場合には強制できませんよ」

 

「お嬢様!? 笹原はただの人間なのですよ!? 妖怪と戦おうなんて無理です!」

 

 

 咲夜は、レミリアの言葉に動揺した。

 レミリアの言っていることは、美鈴と少年が素手で殴り合えと言っているのと等価である。人間である少年と妖怪である美鈴を戦わせようとしているのだ。

 美鈴の実力は知っている。美鈴の力量を考えれば、少年には万に一つも勝てる要素はないだろう。

 

 

「笹原では死んでしまうかもしれせん!」

 

 

 まだ―――勝つ、負けるだけの話ならばまだいい。美鈴の一撃は、少年の体を軽々と粉々にできるだけの力がある。

 勝負してしまえば、五体満足で帰ることはできないだろう。どこかが壊れてしまう。先程の動きを見ていても、あれ以上を感じられない少年に美鈴と闘って無事でいられる要素は何もなかった。

 

 

「笹原はお客様です。それも、妖怪の賢者の使者です! 待たせてしまっただけでなく、怪我までさせたとなれば私たちの立場が怪しくなります!」

 

 

 咲夜は、少年が怪我を負うことに対して2つの意味で心配事を抱えていた。

 客人である少年を待たせたあげく、勝負をする流れになってしまっていること。

 怪我をさせてしまって妖怪の賢者である八雲紫に対してどう説明をすればいいのか分からないということ。

 以上の2つである。

 咲夜は知らないが、咲夜の危惧している八雲紫に関する心配は無用の産物である。八雲紫は、たった今レミリアの部屋にいる。もちろんそのことは、咲夜、美鈴、少年、誰も知らない。

 動揺した様子の咲夜にレミリアからの冷たい視線が送られる。

 

 

「咲夜は黙っていなさい。これは貴方が決めることではないわ。私が聞いているのは、そこの人間よ」

 

 

 レミリアの視線が咲夜から少年へと向けられる。

 少年は、レミリアが美鈴と闘うことを叫ばれた時からずっと表情を変えていない。

 何を考えているのだろうか。

 何を感じているのだろうか。

 今の空気を何も思っていないのだろうか。

 少年以外の人物からは読み取れなかった。

 少年は、平常心でレミリアの問いに答えた。

 

 

「構いませんよ」

 

「正気!? その応えの意味を分かって言っているの!?」

 

 

 咲夜は、レミリアの要望に応じるような少年の答えに声を荒げた。

 少年がレミリアの提案を受け入れるということは、少年に自己責任が発生することになる。怪我をしても提案を受けた方が悪い。喧嘩を買った人間が悪いというように、少年が同意することで少年に対して容赦する必要性、八雲紫の影響力が小さくなる。

 それは、手加減という枷を外す言葉だ。例え、少年がどれほどの怪我を負おうが、それは自己責任で丸め込められる可能性が生まれることを示唆しているのだ。

 咲夜は、死んでしまう可能性まで出てきた少年の身を案じた。

 

 

「怪我だけじゃすまないかもしれないわ。それこそ、最悪―――死んでしまうかもしれない……」

 

「大丈夫だよ。僕は勝負を受ける」

 

「ほら、本人がこう言っているのだから別にいいじゃない」

 

 

 レミリアは、少年の物言いに頬を綻ばせる。

 少年は、落ち着いた様子で勝負を受けるという選択をした。少年が受けて立つというのならば、勝負は成立する。対戦相手である美鈴が断ればあるいはというところであるが、残念なことに美鈴はレミリアの命令に逆らえない。

 

 

「そう……私は止めたわよ」

 

 

 咲夜は、黙り込む。少年が容認してしまえば、咲夜が何を言っても無駄である。レミリアをたしなめられるだけの技量もなければ、権力もない。

 レミリアをトップに据える紅魔館のメンバーの中でレミリアの動きを止めるには、完璧な理(利)があるか、納得させるだけの何かを持ってくるしかない。現状況では残念ながらそういったものは保持していなかった。

 

 

「ただ、ルールは設定するわ。このまま無条件でやっても一方的になるのは誰の目から見ても明らかだもの。結果の分かっている勝負ほど面白くないものはないわ」

 

 

 さぁ、美鈴と少年の対決のルールを設定しよう。

 これから美鈴と少年が行うのは、拳と拳の殴り合いである。

 現状では、美鈴と少年には実力に大きな溝があり、能力値に大きな差があるため、ルール無しの何でも有りで試合を行った場合の結果は分かり切ってしまう。ここにいる誰もが勝敗を考えても同じ結果になるだろう。

 それでは先ほどの弾幕ごっこと全く同様で、面白味が欠けてしまう。そもそも賭けを行っている手前、同じ価値のものが賭けられていると考えると2人の勝敗の確率をできるだけ五分五分にするルールが必要である。

 

 

「人間の勝利条件は、美鈴に有効打を1発でも与えられたらでいいわ。何を使ってもいい、霊力弾でも、武器でも、何でも使っていいわ」

 

 

 少年の勝利条件は単純明快である。有効と思われる打撃を一発入れればいい。あとは何を使っても、何をしても構わないというものである。

 

 

「美鈴の勝利条件は、相手に負けを認めさせること、あるいは戦闘続行不能にさせることよ。気は使ってはいけないわ。美鈴ならば、身体能力だけでも十分すぎるほどにやれるでしょう」

 

 

 美鈴の勝利条件は、少年の負けを認めさせることである。

 美鈴には気の使用を不可としている。対して少年は霊力を使うことができるため、ある程度のアドバンテージを作ることができた。

 八雲紫のレミリアに向けられていた視線が一気に険しくなる。レミリアは、後ろからやって来る威圧感に背筋が凍るのを感じた。

 

 

「分かっているわよね、吸血鬼」

 

「も、もちろんだけど、殺しては駄目よ」

 

 

 レミリアの声は若干震えていた。レミリアしか見えていない少年と美鈴と咲夜は、レミリアの様子の変化に疑問を抱える。

 

 

「お嬢様?」

 

 

 咲夜は、疑問の声を漏らすものの何か行動に出ることはなかった。何かできることもなかった。

 

 

「これは、フェアな賭けじゃないわね」

 

 

 紫は、レミリアの試合条件の設定にぼそりと呟く。

 美鈴に気の使用を禁止させても、これでもなお美鈴と少年の間にある溝は埋まらない。本当に両者の実力差を埋めようというのならば、足は使わない、その場から動かないなどの縛りがさらに必要になる。

 

 

「これはどういうことなのかしら、吸血鬼」

 

 

 これは勝率5割の賭けではない。勝った時の商品に格差がないのに5割じゃないというのはフェアではない。

 

 

「フェアじゃないね―――それでも受けたことに変わりはないわ」

 

「そうは言うけれど、これでは不公平よ」

 

 

 これから行われる試合は、本来ならば勝率を五分五分にするべき試合だが、レミリアは条件設定として五割に持っていく努力をしていない。その理由はいたって単純で、賭けに負けたくないからである。

 レミリアは、指定した条件下での試合の勝敗を美鈴8少年2ぐらいで予測していた。

 レミリアの表情に挑発するような笑みが浮かぶ。

 

 

「今更逃げようというのかしら?」

 

「別に逃げたりなんかしないわ。ただ、余り気分のいいものではないということだけ」

 

 

 レミリアは、紫の言葉に気を良くする。紫は不利と分かっていながらも勝負を受けるつもりのようだ。

 美鈴と少年は、レミリアの提示した条件に静かに頷き、受け入れる姿勢を示した。

 

 

「「分かりました」」

 

 

 レミリアは、二人の返事にうんうんと二度首を縦に振り、振り返る。そして、部屋の中にいる八雲紫へと話しかけようとした。

 レミリアと紫の2人で行う賭け事の形式として、賭けが被ってはならない。賭けがかぶってしまえば勝負は成り立たない。もちろん八雲紫の解答はどちらであるか明白であるが、はっきりとさせておく必要があるだろう。

 賭け事には、後で何も言い訳できないような言質が絶対に必要だ。

 終わった後に私はどちらとも選択していないなど言われても困る。賭け事は賭けるものがあるだけあって、負けた言い訳を垂れる人間がいる。そんなことがあれば、興覚めしてしまうだけだ。八雲紫に限ってそんなことはありえないが、念のためである。

 

 

「さぁ、貴方はどっちに賭けるかしら、八雲紫」

 

「もちろん―――和友が勝つ方に賭けるわ」

 

「賭けは成立ね」

 

 

 八雲紫の答えは、当然のように少年に賭けるという選択だった。レミリアはもちろんのことながら美鈴の勝ちに賭けるため、賭けはここに成立する。

 レミリアは、嬉しそうな表情で賭けの成立を告げ、移動を開始した。

 

 

「テラスに移動するわ。こんな狭いところで見るのは窮屈すぎるもの。妖怪の賢者、賭けの見物に行くわよ」

 

 

 八雲紫はレミリアの言葉に応じず、その場から動かなかった。

 レミリアは、動かない紫を見て不思議に思い、問いかける。

 

 

「どうしたのよ?」

 

「これは賭けにはならないわよ。そのルールじゃ、和友は絶対に負けるはずがないもの」

 

「そんな自信どこから湧いて出てくるのかしら? 美鈴は、こと格闘戦なら負けないわ。せいぜいあなたの大事な従者がぼこぼこにならないように祈っていることね」

 

 

 紫の表情は、レミリアの挑発するような言葉を受けても変わることはなかった。

 レミリアは、無表情のまま見つめてくる紫に悪寒が走るのを感じたが、気のせいだと無視するように移動を開始する。

 八雲紫は、レミリアが部屋を出ていくのを確認して小さくぼやいた。

 

 

「何も分かっていないのね。分かっていないことは幸せなのかしら。それとも、やっぱり……」

 

 

 あの子が分かっていなければ、幸せだったのだろうか。

 あの子が知らないままだったら、幸せになったのだろうか。

 それとも、やっぱり―――不幸でしかなかったのかしら?

 

 疑問に対する答えは、どこにもなかった。



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父親の影響、燃え上がる闘争心

美鈴が起きるまで待ち続けていた少年。
始まったのは、弾幕ごっこ。
少年は、弾幕ごっこの経験の差をまざまざと見せつける。
勝負は、すぐに決着を迎えた。
しかし―――それだけでは終わらなかった。


 今、目の前で美鈴と少年が戦おうとしている。合図が出されれば、すぐにでも戦闘が始まるだろう。

 これから始まるのは、これまで練習してきた弾幕ごっこみたいなごっこ遊びではない。生き残りをかけるような、闘争本能をむき出しにするような殴り合いだ。

 そこで、少年はどんな戦いをするだろうか。

 どんな試合になるだろうか。

 どんな姿を見せつけるだろうか。

 紫は、テラスから少年と美鈴を見下ろしながら誰にも聞こえないような声で呟いた。

 

 

「和友は、自分から絶対に折れたりしないわ」

 

 

 紫は、そっと目を閉じてある時―――少年に尋ねたときのことを思い出した。ある一つの疑問を少年へと投げかけたときのことを頭の中に思い浮かべた。

 

 

「和友、貴方はいつも書き記しているとき、何を考えているの?」

 

 

 紫が質問を少年に投げかけたのは、少年が書き記す作業に従事していた時、まだ病気になる前の元気な時、書き記す作業をしていた時のことである。

 

 

「どうしてそんなことを続けていられるの?」

 

 

 紫は、書き記す作業を行っているときの少年の心境が心底疑問だった。

 書き記す作業は―――心を擦り減らす作業である。

 

 

「何を考えていれば、書き記す作業を乗り越えられるの? 周りがやらなくてもいいことを、周りより劣っていることに対してどうしてそこまで取り組めるの?」

 

 

 どうしてやらなくてもいいことをひたすらに続けることができるのだろうか。

 普通の人間ならばやらなくていいことをこれほどまでに継続することができるのだろうか。

 どんな動機があれば、こんなことを続けていくことができるだろうか。

 何が少年を突き動かしているのだろうか。

 生まれつき足が動かない。

 生まれつき目が見えない。

 だから動かせるように努力する、見えるように努力する。

 少年のそれはまるっきりそんなものだ。他の人が当然のように―――当たり前のようにできていることができず、努力する。

 そんな―――努力の形によく似ている。

 なぜできないのかと思っても現実は変わらない。

 なぜできないのかは分からないが、できないという事実は変わらない。

 そんな不平不満が顔を覗かせる―――徒労だ。

 普通の精神では、とてもじゃないがとっくに擦り減って続けていくことは難しいだろう。

 それでも、少年は続けてきた。そんな擦り減らすだけの作業と共に生きてきた。

 紫は、書き記す作業をしているときの少年が何を考えて、何を想っているのか知りたかった。

 

 

「どうしてって……」

 

 

 少年は、紫の問いかけに一瞬きょとんとした表情を作る。どうやら、そんなことを聞かれるとは思っていなかったようである。

 

 

「気になるの?」

 

「気になるわ。だって、この作業は酷く辛いでしょう? 普通の人はやらなくてもいいのに、やらなきゃならない自分の体が恨めしいでしょう?」

 

 

 少年がいつも行っている書き記す作業がどれほどに心を削るのか。どれほどに精神をそぎ落とすのか。想像するのは難しくない。

 本来能力を持っていなければ、書き記す作業を行う必要はない。その考えこそが心をさらに擦り減らす。みんなはやらなくてもいいのに、どうして自分だけがやらなければならないのだと不当に思うことが、モチベーションを下げ、心を負の方向へと突き進ませる。

 なのに、少年からはそんな感情や雰囲気が全く感じられない。幻想郷に来ても未だに書き記す作業を続けている。モチベーションを下げずに書き記す作業を行うことができている。

 少年のモチベーションを支える想いは何なのだろうか。

 何が少年を駆り立てているのだろうか。

 紫は、少年の心の動きを知りたかった。

 

 

「相変わらず紫はズバズバと言うね。うん、間違っていないよ。僕は、こんなことやりたくないし、こんな苦しいことをしたくない」

 

 

 少年は、余りに真っ直ぐに質問してくる紫に乾いた笑顔で、書き記す作業をやりたくないと、苦しいとはっきりと告げた。

 誰が好き好んでやるものか。

 不満がないわけじゃない。

 苦痛に思っていないわけじゃない。

 ただ、そう思っても変わらないのに、そんなところで感情を使うと疲れるだけだと知っているだけである。

 

 

「でも、そう思っても何かが変わるわけでもないのに、辛いなんて思っていたら余計に疲れるんだよ。何かを思うという行動をするだけで、エネルギーを使うんだ。だったら別の所で使った方が良い。その方が心にも体にも優しい。きっと環境にも優しい」

 

 

 感情は、エネルギーだ。辛いと思うことにもエネルギーを使う。苦しいと思うことにもエネルギーを使うのだ。だったら別の所に使った方が良い。少年の考え方は、そんな淡泊なものだった。

 それが少年の考えだとすると―――少年を駆り立てるものは、少年を支えている想いはどこにあるのだろうか。辛いと思うことを止め、苦しいと思うことも止めて、どんな感情にエネルギーを注いでいるのだろうか。

 どうすれば―――立ち向かっていけるのだろうか。

 どうすれば―――心を折らずに前向きに生きていけるのだろうか。

 

 

「私は気になるのよ。あの苦しい作業にどうやって立ち向かっているのか。その折れない心は何処から来ているのか。何が貴方の心を前に向かせているのか……」

 

 

 少年は、少し考えるようなしぐさ見せる。

 どう言えば分かってもらえるだろうか。

 どう表現するのが最も理解できるだろうか。

 どんな言葉を使えば気持ちを伝えられるだろうか。

 少年は、おぼつかない雰囲気で口を開いた。

 

 

「そうだなぁ……単純に―――勝ちたいっていう気持ちかな」

 

「勝ちたい気持ち?」

 

 

 紫は、少年の言葉に耳を疑った。

 はたして、勝ちたいという気持ちで血が出るような書き記す作業を乗り越えることができるのだろうか。

 いや―――そんなことできやしないだろう。書き記す作業は、勝ちたいなんて単純な感情で乗り越えられるほど軽くはない。少なくとも勝ちたいという想いだけでは無理だ。

 もっと特別な何かがあるはず。

 それが少年を支えているはずだ。

 紫は、疑問を含んだ声を再度投げかけた。

 

 

「そんなもので、あの辛い作業が乗り越えられるものなの?」

 

「そうだよ、そんなもので乗り越えられるんだ」

 

 

 少年の答えには迷いがなかった。

 勝ちたい―――それが全てなのだ。

 勝ちたいという想いが100%になることで頑張れるのだ。

 これは、家族から教えてもらった感情。

 昔のことをゆっくりと思い出してみる。

 記憶の中から消えかけた想い出の一部が語り掛けてくる。

 声色の分からなくなってしまった言葉が―――少年の口から放たれた。

 

 

「これは、父さんから教えてもらったんだけど、人間が一番頑張れるのって、闘争心が燃えているときなんだって。相手を倒して、上に登る気持ちを持っているときなんだってさ」

 

 

 心の持ち方は父親から学んだ。少年の母親が少年に優しさをもたらしたとするならば、父親は少年に心の強さをもたらしているといえるだろう。

 少年は、遥か彼方の薄れてしまった記憶を巡り始める。

 

 

「僕の父親が言っていた」

 

 

 記憶が少年の心を支える―――思い出が少年の両足を立たせる。

 

 

「確かに言っていた」

 

 

 思い返した瞬間に泣きそうになった。

 泣きたくなった。 

 でも、感情の波が押し寄せてくる感覚に耐える。

 ―――悲しんじゃいけない。

 両手で包み込むように見つけてあげる。

 記憶を引っ張り出す。

 心の中から無くなっていっているものを。

 真っ黒な見た目になってしまったものを。

 

 

「僕に教えてくれた」

 

 

 少年は、分からなくなったものを見つめた。

 

 

 父親は、不安を感じさせない笑顔で少年に告げた。

 

 

「和友、今日もがんばるぞ!!」

 

「うん……頑張ろう」

 

 

 少年の顔は酷く辛そうだった。父親は、やむをえないという雰囲気で複雑な表情を浮かべる。

 書き記す作業は―――自分の病気といえる能力の影響を認めてしまえば、受け入れてしまえば別にやらなくていいことである。つまり書き記す作業は、単純に両親のエゴなのだ。普通に生きて欲しい、普通であって欲しいという気持ちが少年に書き記す作業を強制させている。

 

 

「ほら、元気を出せ。一緒に頑張れば辛さも半分だ」

 

「うん」

 

 

 書き記す作業は、もともと少年と父親の両方が行っていた。初めの1カ月間は少年と一緒に書き記す作業をしていた。

 どうしても自分だけがと思うとやる気が無くなってしまう。他の人はやらなくてもいいのにという不平が頑張ろうという気持ちを分断するからだ。

 父親は、子供のやる気を出させるための奮発材としての役割と、子供だけに書き記す作業をさせるのは忍びないという罪悪感から一緒にやることを決めていた。仕事が終わって夜8時から夜11時まで少年と共に書き記す作業に没頭していた。

 だが、どうしても仕事の疲れもあって、眠そうに頭をカクンカクンとしてしまっている。少年は、眠そうにしている父親を見て気を遣った。

 

 

「大丈夫? 無理して一緒にやらなくてもいいよ……僕なら、ちゃんと頑張れるから……」

 

「……お、すまんな。ちょっと眠ってしまったみたいだ。大丈夫、大丈夫、まだまだいけるさ……」

 

 

 父親の心が折れるまでには、さほど時間はかからなかった。

 父親の書き記す作業を行うためのモチベーションの源泉は、隣で子供が頑張っているからというものである。隣で子供が頑張っている姿を見て、自分が休んでいる場合じゃないとなんとか必死になることができているだけである。

 しかし、そのモチベーションでは心を支えられない、体を支えられない。地味な作業が集中力を削いでいく。為にならないという思いがやる気を失わせる。仕事の疲れもありそのまま寝てしまうことも多々あった。

 そして、机の上で突っ伏して寝てしまい、起きたときに目に入る光景が何よりも嫌いだった。

 

 

「また……眠ってしまったのか」

 

 

 目覚めた後―――いつも目の前には少年の書き記す作業を終えた跡が残っていた。

 そしていつも通り、ノートの余白に「僕は大丈夫だから休んでください」と書いてある。起きたときに目に入り込む少年の努力の跡を見ることは、何よりも父親に負い目を感じさせた。

 文字から入る情報が父親に酷い虚無感と喪失感をもたらしてくる。少年が父親を気遣う文字が、父親の気持ちをさらに落とし込みにかかっていた。

 父親の視線がそっと少年が眠っているベッドへと向けられる。

 

 

「また、一人でやらせてしまった……」

 

 

 少年は、一人でベッドに横になって寝ていた。よほど疲れているのだろう。死んだような表情で眠っている。

 

 

「どうしてこんなことをやらなければならないんだ……どうしてこうなってしまったのか……」

 

 

 こうなったのは誰のせいなのか。

 なんで、私たちの子供がこんなことをやらなければならないのか。

 ぶつける先のない想いが心の中に堆積していく。

 吐き出すことができない状況に苛立つ自分がいる。

 

 

「こうなっているのは……」

 

 

 こうなっているのは

 こうして和友を苦しめているのは

 

 

「私たちのせいじゃないのか」

 

 

 ―――そういうふうに和友を産んでしまった自分たちのせいではないのか。

 そんなことを考えることもあった。

 

 

「今日も楽しかったよ!」

 

 

 だけど、いつだって少年が両親を支えた。

 楽しそうにしている少年の笑顔が両親を支えていた。

 

 

「どうして和友は続けていられるのだろう? どうして俺は、ここで堪え切れないのだろうか?」

 

 

 父親は、現状を打開するために頭の中に残っているものを全て取り払う。

 一緒に頑張ろうという意識がそもそも間違っているのだと、そもそも持っていた考えを改めようとした。

 努力できている子供と自分との間にどんな差があるのか。なぜ、子供ばかりがこうも頑張っていられるのだろうか。

 何かが違うのだ。

 何かが違っているから―――結果が違っているのだ。

 どうして子供は頑張ることができて、自分が頑張ることができないのだろうか。

 答えは、すぐに見つかった。

 

 

「そうか、これが俺自身に関することじゃないからか……所詮、俺の考えは後ろを向いている……」

 

 

 父親の書き記す作業を支える想いは、子供だけに頑張らせるのが嫌だという気負いからきている。後ろ向きな考えから子供に付き合っている形になっている。

 対して子供は、自分のことで自分の未来のために頑張っている。もちろん、両親に言われたからとか、両親に心配かけたくないからという理由もあるだろう。

 しかし、大元にあるのは―――自分のためという想いである。前に進もうという気持ちである。前に進むための感情とは―――常に持てる感情とは何だろうか。それが最も有効に働くモチベーションとなるはずだ。

 

 

「何か考えなきゃいけないな……このままじゃ、俺が和友についていけない」

 

 

 ―――考える。少年についていくために、少年の行動に付き添うために必要な心構えを思考する。

 少年の父親は、数日の思考の末にある考えにたどり着いた。

 それは―――闘争心という、勝とうという気持ちである。

 

 

「和友……この作業をやるときのコツを教える。よく覚えるんだぞ。俺が実際にやって見せるからな」

 

 

 父親は、少年に書き記す作業を行う際に持つべき心の在り方を説いた。少年の隣で実際に実演し、血走った眼をして心を律して見せた。

 

 勝負の相手は、自分ではない。

 子供である―――和友だ。

 

 少年は、最初の方では父親の表情を見て恐怖を感じていたが、それも父親の心の持ち方の真似をしているうちに綺麗に消えて無くなった。

 父親は、気持ちが持たなくなったのか書き記す作業を1か月で止めてしまった。感情はエネルギーを使う。仕事と書き記す作業を同時にこなすのは、相当な疲労を蓄積させたのだろう。

 もしかしたら少年が知らないだけで、母親がそれを止めたのかもしれない。少年が無意識のうちにもう大丈夫という言葉を送ったのかもしれない。父親が少年の様子を見てこれならいけると確信したからかもしれない。

 実際に少年は、父親が止めたその後も一人で書き記す作業を黙々とこなした。父親の教えを守り、努力し、勝負に勝つことに全身全霊をかけて作業に取り組み続けた。

 それが―――今の少年へと繋がっている。

 少年は、記憶をたどり終え、紫へと再び声を発した。

 

 

「スポーツ選手は、人より上手くなりたい、誰かに勝ちたいって想いを持つでしょ? この勝ちたいっていう気持ちが一番気持ちを盛り上げるんだ。勝つまで終わらない強い心を作り出すんだよ」

 

 

 少年の父親は、書き記す作業に立ち向かうために心の持ち方を変えた。スポーツ選手の努力する姿勢からヒントを得て、自分の中で闘争心を発達させた。

 別に努力をしている人間ならば、スポーツ選手じゃなくても構わなかったのだが、たまたま父親が見つけたのがスポーツ選手だっただけのことだ。

 スポーツ選手が努力する理由はまちまちである。誰かのためだとか、観客を満足させたいだとか、活躍したいだとか、さまざまある。

 しかし、大元にあるのは誰かに勝ちたいという想いだろう。少年の父親は、そう考えた。誰かに勝ちたい、誰かに負けたくない、誰よりもいい成績を出したい。

 

 そういう想いが努力を―――加速させる。

 想いの力を―――持続させる。

 

 紫は、少年の物言いに疑問を抱えた。よく聞く人間が頑張ることができる力があるが、少年のそれとは異なっている。

 

 

「人間は、誰かのために頑張るときが最も頑張れるって聞いたことがあるけれど、違うのかしら?」

 

 

 誰かのために頑張ろうという人間の姿勢は、妖怪にほとんど備わっていない感覚である。自分本位な妖怪にはめったに見られない感情である。

 

 

「私が見た人間たちは、みな誰かのためにという部分で大きな力を得ていたように思うの」

 

 

 紫は、自分ではない誰かのために何かができる人間の姿勢に酷く関心があった。人間のそんな姿勢がすごく好きだった。そんな人間たちだからこそ、一緒に共存できる世界が作れるというのが―――紫の幻想郷計画の根底にあったからだ。

 

 

「紫の言う通り、誰かのために頑張ろうというのもやる気の一部にはなるよ。でも、そういうのは長続きしない。火事場の馬鹿力という意味では、ものすごい瞬発力があるだろうけど、耐えるだけの書き記す作業には耐えられない」

 

 

 誰かのためにという想いは、凄まじいエネルギーを生み出す。大きなエネルギーを生み出し、凄まじい瞬発力を生む。それがその人にとって大事な人であればあるほどエネルギーは増大し、普段発揮できていなかった力を出すことができる場合もある。

 しかし、誰かのためという想いの力は、少年が行っている書き記す作業には適応されない。書き記す作業を行うことで好転する者が少なすぎるのだ。あるとすれば、両親から褒められたいから程度のものしかない。誰かのためという想いは書き記す作業に対応することのできる感情ではなかった。

 誰かのためという想いから生み出されるエネルギーは、一過性のものである。少年の書き記す作業は、これからずっと行っていかなければならないもの、すぐに終わるような簡単なものではない。

 誰かのためという想いは拷問を受けると酷く脆くなる。しかもその拷問が一生涯付きまとうと思うと、心が軋んで叫び出してしまう。擦り減り、摩耗し、擦り切れ、たちまち崩れ去ることだろう。

 

 

「それに、誰かを行動の理由に持っていくと、頑張る理由が無くなっちゃうことになるかもしれないよね? もしも僕が両親のために努力をしていたのなら、両親が死んでしまった僕の気持ちはもう動かない」

 

 

 頑張る理由を他人に持って行った場合には―――頑張る理由がなくなることも考えられる。行動の理由が他人を依代にしているというのは、行動の理由を失う危険性を孕んでいるのである。

 

 

「紫の言う通り、誰かのために頑張ろうという気持ちはとても強い。誰かのために頑張れる人間は本当にすごいと思うよ。でも、僕にはちょっと難しいかな……」

 

「どうして?」

 

 

 紫は、自信がなさそうに言葉を口にする少年を不思議に思った。

 少年は、誰かの気持ちを察することが上手い。これまでの経験も相まって、相手の感情に機敏である。誰かを傷つけるようなこともめったに口にしない。

 そんな少年から他人のために頑張ることが難しいという言葉が出るのか。

 やろうとしないだけで、きっとできるのではないだろうか。

 紫には、できない理由が特に思いつかなかった。

 

 

「貴方は誰かのために頑張れる人間だと思うわよ。人の心の動きに敏感で優しい。私は、貴方と一緒にいてまだ長くないけれども、そのぐらいは分かっているつもりよ」

 

「今はそうだね。覚えなきゃいけないことも大分少なくなったし、気持ちが楽になったから」

 

 

 少年は、今だから何とか他人のことを考えて生きていけている。小学6年生を迎えて、覚えなければならないことが減って、気持ちに余裕ができたからこそ他人に気をかけていられる。あの出来事があったから気を遣わなければならないと学んだのだ。

 もしも、現段階で覚えることが山積していたならば、少年に他人を気遣う余裕など存在しなかっただろう。人と関わる余裕すらなかっただろう。

 心の余裕があるかどうかは切実な問題なのだ。自分があっての他人という構図は、生き物である限り決して変えられない。

 

 

「紫には、知っておいてほしいんだけど。誰かのためにって……自分が満たされていないと考えられないんだ。自分が満たされていないと誰かを助けようという気持ちは、苦しさに負けてしまう」

 

 

 誰かのために何かをするということは、自分にそれだけ余裕がある場合にだけしかできないことである。

 何もないところから―――何かを捻り出すことはできない。

 水を含んでいない布をいくら絞っても、何も出てこないのと同じだ。自分に潤いが無ければ他者に与えることはできない。

 仮に、自己犠牲の精神で他人に自分の中のものを与えるとしても、その関係は長続きすることはない。

 絞り切られた布は、最終的にちぎれることになる。気持ちの崩壊と共に、ぶちぶちと分裂することになる。

 

 

「僕は、誰かのために頑張れる精神状況じゃなかったし……」

 

「闘争心……ね」

 

 

 少年の言っていることは、ものすごく説得力があった。自分自身が過ごしてきた経験から出た言葉だけあって重みが感じられた。

 

 

「人間も妖怪も同じ―――生き物ということかしらね」

 

 

 紫は、今まで持っていた人間に対する認識を改める。人間がもっとも力を長く、太く持つために必要なのは―――闘争心だと心に刻み込んだ。

 やはり、生き物というくくりは変わらないということだろうか。

 生き物がまず欲するもの―――3大欲求を満たすこと。

 食欲、睡眠欲、性欲。これらがまず先にくる。

 闘争心とは、最も根柢の生きるという部分から湧き上がる感情だ。負けたら淘汰される。負ければ根絶やしにされる。だから勝ちたいと思うのだ。

 誰かのためになんていう社会的欲求は、欲求の中では3番目だろう。

 では、2番目は何か。

 ―――決まっている。

 2番目は、安全に暮らしたいという安定欲求である。

 

 

「そう、僕は何かを区別しようとしているとき、闘争心を燃やしている。全部の思考を一直線に並べて目標地点だけを見つめるんだ。他は何もいらない。あったら邪魔になるからね」

 

 

 実際に書き記す作業を行っているときの自分の内にある感情を言葉に表す。

 紫に分かってもらえるように、正確に表現する。

 

 

「これは勝負なんだよ。僕と能力との勝負なんだ」

 

 

 勝負の相手は―――呪いのように自身に備わっている能力である。

 能力は擦り減らない。どこまでも拡大して大きくなる。それは、宇宙の果てを見つけようと万進するようなもの。

 少年は、決して勝ちの見えてこない勝負の中で、勝ちを拾おうと前を見つめている。必死に目を凝らし、自分の目標地点を見定めていた。

 

 

「絶対負けないんだって、最後までやり通すんだって、絶対に叩き潰してやるんだって。僕は、それで書き記す作業を行っている」

 

 

 少年は、能力に打ち勝つために書き記す作業を行っている。それが途方もない未来になろうとも、普通に生きていくために能力を打倒するために努力する。

 そう語る少年の目は、ぎらぎらと光っていた。

 紫は、少年の表情を見て固まった。

 

 

「和友……」

 

「心の中で闘争心が燃えるんだ。真っ赤に、真っ赤になるんだよ。勝ちたいって気持ちで心の中が満たされるんだ」

 

 

 紫は、少年が何かに憑りつかれているように見えて仕方がなかった。

 少年の目は決意をこめた眼で。少年の表情は狂気を含んだ表情で薄く笑っている。どこか壊れてしまっているように感じられる雰囲気だった。

 少年は、努力に飲まれて勝負に勝つことに捕まり―――闘争心に溺れている。

 しかし―――極論として、ここまで逸脱したところまでこなければ、書き記す作業を続けていくことはできないのだろう。これは、それほどのものだ。そうでなくては続かないものだ。

 

 

「そうなればもう終わり、最後の最後まで僕は諦められない。ちゃんと負けるまでは、僕は諦めない。勝負ってそういうものだ。勝負だから負けられない。負けたくないんだ」

 

 

 少年は、とめどなく溢れ出る心の中の想いを口にする。

 紫は、少年の話を聞いて少年がどうしてここまで努力ができたのか、何が少年の心を支えているのか完全に理解した。

 

 

「能力に関しては、僕が負けた瞬間……同時に死んじゃうんだろうけどね……」

 

 

 少年の心を支えているのは―――狂気にも例えられるような逸脱した闘争心。

 父親から教わった―――努力するために必要な心構えの結晶体。

 少年の心は―――努力の火を纏い、温度を上げる。

 真っ赤に―――真っ赤に燃えて、燃え尽きるまで、加速する。

 

 

「貴方は向かい風の中でも前に進むのね。勝ちたいという気持ちをもって、脚を前へと踏み出すのね」

 

「向かい風だから高く飛べるんだよ。逆風は、高く飛ぶチャンスだ。苦境も逆境もみんな真っ赤になって燃え尽きればいい。燃えて、燃えて、煙になって飛んでいけばいい」

 

「…………」

 

 

 紫は、少年の楽しそうな雰囲気を見て狂気に触れたような気がした。

 書き記す作業を行うための心の在り方。少年が狂気じみた想いを持ちながらも、それでもなお―――普通というレールの上を歩けているのは奇跡としか言いようがない。

 それは間違いなく少年の父親のおかげだ。

 ―――父親の責任だ。

 

 

「本当に綺麗なんだよ? 赤く燃えて、真っ赤に燃え上がるんだ」

 

 

 とても楽しそうに。

 とても無邪気に。

 そう言っていたのが心に残っている。

 紫は、過去に少年に問いかけたときの答えを思い出しながらそっと目を開けた。そして、そのまま勝負を迎えようとしている少年と美鈴を見つめた。

 少年と美鈴は、準備運動をしている最中だった。

 

 

「…………」

 

「何を黄昏ているのかしら? 興味がないの? こんなに面白そうなのに」

 

 

 レミリアは、興味なさげに遠くを見つめるような視線を送っている紫へと視線を向けた。今から楽しい勝負が始まるというのに、どうしてそんなに楽しそうではないのだろうか。仮に望んでいないとしても、望んでいないなりに何かあってもおかしくないのに。紫の表情からはそういった興味というか、関心が一切感じられなかった。

 

 

「今更勝負を止めるとか、賭けを降りることは許さないわよ?」

 

「そんなことしないわ。ただ、また見ることになるとは思っていなかっただけよ……」

 

 

 レミリアは、紫の言葉に不思議に思う。またという言葉は、以前にもあったことを指す言葉である。美鈴と少年との勝負が以前にも行われていたとでもいうのだろうか。

 またという言葉から読み取れるのは、そういうことだけだ。会話の流れからすると別の物とは考えにくい。

 

 

「また? 以前にも見たことがあるのかしら? 私は知らないのだけど」

 

「そういう意味じゃないわ。貴方もすぐに見ることになるから黙って見ていなさい」

 

 

 紫が言いたいのは、そういうことではない。またというのは、別の意味だ。

 また―――あの炎を見ることになるとは。

 また―――点火する様子を見ることになるとは。

 もう、見ることはないと思っていたのに。

 こんなに早くその機会が訪れるとは。

 そんなこと思ってもみなかった。そういう意味である。

 

 

「貴方の従者がぼこぼこにされるところをでしょ?」

 

「何とでも言うがいいわ。火種は、もう落ち始めているのだから……」

 

 

 会話を一気にぶつ切りにするように2人の口が閉ざされる。

 二人の視線は、まっすぐに勝負を行う二人に向けられた。

 

 

 勝負をすることになった少年と美鈴は、顔を見合わせていた。

 美鈴は、少年に複雑な表情を向ける。少年とこうして向き合うことになるなど、誰が予想しただろうか。きっと予測できていたのはレミリアだけである。少年も美鈴も戦うことになるなど、少しも考えていなかった。

 美鈴は、申し訳なさそうに少年へと告げる。

 

 

「さて、大変なことになってしまいましたね」

 

「そうだね。こんなことになるなんて思ってもみませんでした」

 

「っ……」

 

 

 咲夜は、今から戦うことになる二人を見て歯ぎしりをする。余りに思ってもみなかった光景に、言いたいことをそのまま喉から吐き出しそうなものを必死に飲み込む。

 咲夜が何を言ったところで二人は戦わなければならないのだ。お互いに戦うことに同意し、戦うことを受け入れている。二人には、状況的に戦うという選択肢しかないのだから。

 だが、こんなはずじゃなかったのに―――そんな思いが心の中に渦巻くのが止められない。なんで、どうして、どうにかしなければ。咲夜の心の中で想いが炸裂していく。

 そんな混乱する咲夜を差し置いて美鈴の表情が苦笑するようなものから真剣なものへと変貌を遂げた。

 

 

「笹原さん、先に謝っておきます」

 

 

 少年は、美鈴の物言いに疑問を覚える。美鈴が謝る理由が思いつかない。あるとすれば、戦いになってしまったことに対してだろうか。

 しかし、戦いになっているのはレミリアの責任であり、美鈴の責任ではない。少年はなぜ美鈴が謝るのか分からず、不思議そうに問いかけた。

 

 

「何について?」

 

「怪我をさせてしまうことを」

 

 

 美鈴は、戦いになったことではなく、戦いによって怪我をさせてしまうことについて謝罪しているようだった。これからのことを謝ろうというのか。先に謝って、後からの謝罪の分を減らそうというのか。

 

 

「ふふっ、それは面白いね」

 

 

 少年は、美鈴の言葉に薄く笑う。美鈴の目が少年の表情見て鋭く細まった。

 少年は、怪我をさせることを謝る美鈴を、表情を変えることなく見つめる。それを謝るのだったらお相子だろう。

 きっと―――そうじゃない結果が待っている。美鈴の知らないものが、そこにあるのだから。だったら、同じように謝っておかないとフェアじゃないだろう。

 僕だって謝罪すべきだろう。

 

 

「じゃあ、僕からも謝っておくよ」

 

「何をですか?」

 

「僕は、君の期待には答えられない」

 

 

 美鈴は、少年の自信の表れのような言葉に不敵な笑みを浮かべた。あの時と同じだ。弾幕ごっこの時と、少年の雰囲気は変わっていない。

 二人の気持ちは高みへと昇っていく。直ぐにでも動き出したい気持ちが先行して、腕を一旦下ろさないと力が入って仕方がなかった。今から始まる戦闘への想いが、場に停滞していく。そんな重くなった空気の中―――第二ラウンドが開始する。

 咲夜は、試合の開始の合図をした。

 

 

「両者! 構えてください、試合を始めます!」

 

 

 少年は、ゆったりとした雰囲気で両手を上げて構える。

 美鈴は、自然体で少年に相対していた。

 視線は、お互いの瞳を射抜いている。

 後は、聞こえてくる音に集中するのみ。

 

 合図はまだか。合図をくれ。

 そんな声が聞こえてくるようだった。

 

 

「よーい、始め!!」

 

 

 第二ラウンドの鐘が二人の耳に入った。




さて、そろそろ苦手な戦闘シーンに入りますね。
父親の存在がずっと浮いていたので、どこかで入れようと思っていたのですが、ずいぶん遅くなりました。母親はちょくちょく出ていたんですけど、どうしてもここまで引っ張ってしまいましたね。
書き記す作業は、どこかおかしくならないとできないことと思います。自分だったら到底耐え切れません。
少年は、美鈴に勝てるのですかね? 勝負しているイメージは……
独自設定ちょくちょく入ると思いますが、ご了承願います。


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空から落ちてくる火、点火する大地

能力を打ち消すための書き記す作業を支えていた感情。
それは―――闘争心という生物が備えている根源ともいうべき欲求からくるもの。
少年は、終われない。
終わるまで、諦めない。
少年は、強い心を持って美鈴に挑む。


 攻撃は先手必勝だ。先手を取れれば流れは自然とこっちにやって来る。

 待っていても状況は好転しない。むしろ悪くなることだろう。特に実力に開きがある場合は特に、試合が酷くなりがちだ。

 僕と相手の間にどれほどの実力の差があるのかは分からないけど……おそらく、とてつもないほどの差があることだろうけど……どちらが上かという意味でははっきりとしている。

 相手は―――僕よりもはるかに強い。僕は経験則から自分より弱い人間が少ないことを知っている。先程の弾幕勝負の時の美鈴は、上手く動けていないのは単に弾幕ごっこに慣れていないだけだってはっきり分かるような動きをしていた。

 動きだけなら僕よりも早かった。相手の方が動きが速く、飛ぶことを容易に行っている。身体能力で負けていて弾幕ごっこで勝てたのは、経験値の差があったからに過ぎない。

 そんな格上の相手に対して守りに入っては勝てるものも勝てない。少なくとも―――待っているよりはましだ。

 待っていたら相手の攻めを処理できない自分が負ける。受けに入ったら終わってしまう。何もできずに、捌くこともできずに、押し切られて、何もできずに終わってしまう。

 勝利条件は、有効打を1発入れること。

 自分の勝利条件を考えれば、前に出なければ勝ちを取ることのできない条件になっている。有効打は後ろに下がりながら、守りながら入れられるものじゃない。

 勝利条件を満たすためには―――前に出なければ。

 立ち止まっているだけじゃ、守っているだけじゃ―――勝てない!

 前に出ろ!

 

 

「先手必勝!」

 

 

 美鈴のいる場所まで一直線上に走り抜ける。霊力を必要箇所に纏わせて迷うことなく美鈴へと前進する。

 美鈴は、こちらの動きに合わせてゆっくりと受けの構えに入った。

 

 

(あ、これは……)

 

 

 おそろしく綺麗な構えである。素人の僕から見ても、はっきり分かるほどに自然な流れだった。

 

 

(あれは完全に強者の人間だよね。まるで、藍みたいな構えだ)

 

 

 美鈴の構えに至るまでの動きを見ていると―――藍の姿が思い出される。

 武術の基礎は、護身用として藍から教わっていた。美鈴の動きは酷く藍の構えと似ている。ゆったりとした動作からの構えの構築は、藍が見せてくれたものとよく似ていた。

 

 

(太極拳……内家拳だったっけ? 忘れちゃった……)

 

 

 中国拳法は大きく2つに分かれる。それは、内家拳と外家拳である。

 内家拳は、内に力が込められているもの。

 外家拳は、外に力が込められているもの。

 例えて言えば、太極拳は内家拳に該当し、練習風景ではゆったりとした動きで一つ一つの動作を確かめるように練習を行う。

 逆に少林寺拳法などは外家拳にあたり、見た目からも分かるような力強い動きをしている。

 ゆったりと動く世界の中で、脳内に藍の言葉が木霊した。

 

 

「内家拳は、全身の運動量を全て相手に伝えるための武術だ」

 

 

 少年は、藍から太極拳を‘少しだけ’教わっていた。少しだけというだけあり、学んでからまだ1週間にも満たない程度である。

 というのも、スペルカードルールが定着すれば護身術というか格闘術を学ぶ意義がなくなるためである。

 少年は、僅かにしか残っていない記憶をめぐり、定着させた知識を思い出す。

 確か藍は、なんて言っていただろうか。

 ―――こう言っていたはずだ。

 

 

「体の動きは、さまざまな筋肉や関節が連動して動いている。それを一つずつ意識するんだ。拳を振り切る動作でも、腰の回転から、背筋、肩、腕、肘、手首、手へと力が伝わっている。全部のエネルギーを無駄なく伝えること―――これが内家拳の全てと言っていいだろう」

 

 

 力は全身を流れている。その全身の力を余すことなく、先端に伝えていく。美鈴の動きからは全身の力が前へ前へと移動しているのが確認できる。余りに綺麗に流れる力の流れは相手の力量を如実に示していた。

 美鈴の動きは、太極拳を極めている雰囲気を強く感じさせる。きっと長年太極拳の修行を行ってきたのだろう。少しかじったからこそ、それが余計に目だって見えた。

 しかし、ここで引くことはできない。前に出なければ目標地点へはたどり着けない。恐れるな。実力差があるからって、たどり着けないからって、諦める理由にはならないだろう。

 

 

(思いっきり振り抜く! 僕の全部をぶつけてやる!)

 

 

 右手をテイクバックする。

 肩の関節から、腰の回転、腕の筋肉を同じ方向に力を込めていく。

 おもいっきり放り込むんだ。

 気負うな、遠慮など何もいらない。

 全力で押し切れ。

 相手の顔面に目がけて拳を振り切る。

 最短距離を結び、目的地まで真っ直ぐに伸ばせ。

 腰の回転から、肩、腕、掌へと持ちうる力の全てを注ぎ込め。

 

 

「はあ!」

 

 

 パシン―――乾いた音が空間に響き渡る。

 振りかぶった腕が、美鈴の顔面から逸れて弾かれる。

 流れるように力の向き―――ベクトルの方向が逸れる。

 それと同時に、距離の縮まった僕の瞳に相手からの鋭い視線が映りこんだ。

 

 

「思ったよりも鋭いですね」

 

「っ……」

 

 

 美鈴が呟いたその瞬間―――鈍い音が体の中から沸き起こった。

 

 何が起こった。

 どこをやられた。

 目で捉えることすらできないような速度で衝撃が体の中に伝搬する。

 歯を食いしばれ。

 ここで堪えなきゃ、終わってしまう。

 痛みの元はどこだ。

 痛みが湧き上がる源泉に目を向ける。

 すると視界に、お腹に美鈴の手のひらが添えられているのが映った。

 

 

「でもそれだけです。なんてことはありません、‘子供にしては’ってだけですね」

 

 

 腰を落とした美鈴から放たれた掌底は、全身に溜め込んだ力を綺麗に伝搬していた。

 お腹の中に力が伝わっていく。

 お腹の中が空っぽになったようだ。

 肺の中にあった空気が一気に抜けていく。

 空間が押しつぶされて居場所を失った空気が逃げ出そうとする。

 まるでサンドイッチを押しつぶしているみたいに具が外へと逃げようとする。

 

 

(出て行くな! 空気が無くなったら力が抜けるっ!!)

 

 

 何とか空気を逃がさないようにお腹に力を入れる。

 けれども、そんな努力も虚しく吐き気と共に口から空気が出て行こうとするのを止められなかった。

 

 

「ごほっ! ごほっ!」

 

 

 口から大量の空気が吐き出され、全身の力が一気に抜けていく。

 

 

 

(全く見えなかった。反応すらできなかった。息苦しい、空気が欲しい。空気が欲しいっ……!)

 

「妖怪と人間には、圧倒的な身体能力の差があります」

 

 

 休んでいる猶予は、存在しなかった。

 美鈴は、九の字に折れ曲がった少年から一歩距離を取るように左足を下げると、下げた足を宙に浮かせる。軸足となっている右足の位置は僅かにさえ動かない。

 追撃がくる。

 躱さなければと脳が命令を体に伝達する。

 だが、肝心の体から力が抜けてしまって動こうとしない。

 迫りくる凶器に恐怖がにじみ出す。

 

 

(くるっ!!)

 

 

 慌てて目を閉じ、衝撃に備えるために強く歯を噛み締める。

 ぶつかる覚悟ができていれば、耐えられる。予想外の一撃が最もダメージを受けることになる。無防備で受けちゃいけない。本能的にそう思った。

 

 

(………っ!!)

 

 

 そう思った瞬間―――顔面側部に鈍い痛みが襲いかかった。頬が砕けそうな、歯が全て折れてしまうような痛みが痛覚信号として体の中を駆け巡る。

 痛覚がほとんど麻痺しているにもかかわらず、その痛みを深く受け取った。

 

 ―――痛いなぁ。

 

 地面が熱を持って温かく感じる。もう寝てしまいたいような気持ちが僅かに顔を覗かせてくる。

 

 美鈴の軸のぶれない駒は、綺麗に回って少年のほほを貫くように一閃した。

 少年は、美鈴の振り切られた足から受けた運動量を消費するように地べたに滑り込み、うつ伏せに横たわっていた。

 

 

(口の中が切れたな、血の味がするや。鉄の味がする)

 

 

 そっと目を開けて対戦相手である美鈴に視線を向ける。

 美鈴の目は、まるで見下すような瞳をしていた。

 

 ああ、強いなぁ。

 どうやったら勝てるんだろう。

 どうやれば、一発当てられるだろう。

 何とかなるはずなんだ。

 何もないなんてこと、無いんだから。

 必死に痛みに抗うように全身に力を入れて立ち上がろうと試みる。

 その途中で美鈴から心を折るような強い言葉が振り下ろされた。

 

 

「とっとと諦めてください。貴方に勝機はありません」

 

(でも―――まだ身体を動かすだけの力は体の中に残っている)

 

 

 そうは言うけれど、まだ終わっていない。

 僕は、まだ立てる。

 体は言うことを聞いてくれる。

 前を向けという声に心が反応している。

 心の命じるままにうつ伏せになった体をゆっくりと起こす。

 体が思ったよりも動かない。美鈴から受けた打撃によるダメージが想像よりもはるかに大きいみたいである。

 

 

「そんな立つのもやっとの状態で私に勝てるわけがないでしょう」

 

 

 美鈴の言葉が深く重くのしかかってくる。

 圧倒的な実力の差があることを示している。

 だけど―――僕は諦めるということをするつもりはなかった。

 

 

(身体はまだ動く。勝機がない? 勝てるわけがない? それは嘘だよ。勝機ならいくらでもある。作り出せる)

 

 

 結果が決まっている勝負なんてあるものか。

 未来は決まっていないから。だから―――頑張っているんだ。

 勝負はまだ終わっていない。勝負の勝敗の条件は少年が諦めるか、または少年が戦えなくなるか、少年が美鈴に対して有効打を与えるというものである。

 まだ、そのいずれも満たされていない。

 まだ負けていない。まだ終わっていない。諦めない意思を示すように両足で美鈴に相対するように立つ。勝負が始まる前と同じような位置で構える。

 前に進んでいれば、どっかで何かが見えてくる。

 何も見えてこないなら、見えて来るまで行くまでだ。

 そう思った瞬間―――自然と口角が上がった。

 

 

(さぁ、笑顔を作ろう)

 

 

 僕の心はまだ終わっていない。

 まだ勝つことを諦めていない。

 だったら戦う姿勢を崩してはならない。

 一度折れてしまったら。

 一度でも穴が空いてしまったら

 心は、たちまち萎んでしまう。

 

 

(僕はよく知っているよ)

 

 

 心が折れそうになって、挫折して、負けたくなる気持ちをよく知っている。

 あんなもの考えちゃいけないんだ。

 痛みも、苦しみも、辛さも、全部一緒に連れて行けばいい。

 行く先に終わりがあるんだって。

 勝負の勝ちが見えるだって。

 そう思えば―――耐えていられる。

 背負っていける。

 

 

「僕が諦めるまでが勝負でしょ? まだ終わっていないよ」

 

「随分といこじな方ですね。死んでしまいますよ?」

 

「そしたら、僕の勝ちだよ?」

 

 

 僕の言葉に美鈴の表情が露骨に曇った。きっと面倒だって思っているのだろう。諦めない姿勢に苛立ちを感じているのかもしれない。

 だけど―――それが僕だから。

 諦めて欲しいなら、美鈴が諦めてくれないと。

 美鈴は、諦めない僕の姿勢に仕方ないというような表情でゆったりとした構えを取る。勝負が始まった時と同じ、全く同じ構えを作り出す。

 さぁ、ここから再開だ。

 

 

「いいでしょう、満足するまでやってあげます。どうなっても知りませんからね」

 

 

 どうなってもいい。どうせ―――どうにもなりはしないのだから。

 僕のできることをやるだけ。僕のやりたいことをやるだけだ。

 前に進むために一歩を踏み出す。

 何度でも、何度でも前に進む。

 きっとそこに僕の欲しい未来がある。

 勝ちたいという想いは、全てを凌駕する。

 

 

(さぁ、階段を登ろうか……)

 

 

 いつもやっている書き記す作業の時と同じ感覚だ。目の前に階段があり、それをゆっくり一歩ずつ登るイメージ。辛さを抱えて、増大する重さを背負って前に進むイメージを明確にする。

 付き合ってもらうよ。最後の最後まで、僕が登り切るまで。

 決意表明をするように美鈴へと心の内にある意志を伝える。

 

 

「僕はまだ登れる、足を前に出せる。出せなくなるまで……お付き合いよろしくお願いします」

 

「…………」

 

「いいです、返事はいりません」

 

 

 美鈴は、僕の言葉に口を閉ざしたまま何も言わない。

 いいさ、返事なんか求めていない。押し付けるだけだ。これは、僕の独りよがりの感情なのだから。誰かに同意を求めても仕方がない。

 一言吐き捨てて、全てを捨て去るように危険地帯へと飛び込む。

 腕に力を入れて、脚に力を入れて前へと進む。

 同様の結果が待つ未来へと飛び込む。

 美鈴のテリトリーへと入り込む。

 怖くないといったら嘘になる。

 だけど、このまま諦めるほうがもっと嫌だ。

 それこそ心が痛みで死んでしまう。

 視界には美鈴だけが映っている。

 美鈴は目を見開き、真剣な瞳で少年を受け止めた。

 

 

「っっ……」

 

 

 幾度となく―――鈍い音が響き渡る。

 そのたびに少年の体は地面を転がった。

 

 

(諦めてたまるか!)

 

 

 何度でも。

 何度でも。

 終わるまで。

 できるまでやるんだ。

 

 

(負けない、まだ負けていない!)

 

 

 衣服に赤黒いものが付着していく。

 土と血が混ざった、独特の色が染み込んでいく。

 それでも止まらない。止められない。

 

 

(まだ動く。まだ届く。まだ伸ばせる。まだ前進できる!)

 

 

 まだ、挑める。

 挑めるうちに諦めるものか。

 なぜ、逃げていく明日に手を伸ばさない。

 なぜ、逃げていく目標に手を伸ばさない。

 明日はいつだって逃げていくんだ。

 毎日手を伸ばして、伸ばして届かなくて、だからさらに伸ばすんだ。

 誰かから言われたからじゃない。

 誰かに命令されたからじゃない。

 狙うべき目標が決まっているのに。

 その尻尾が見えているのに。

 見逃す道理なんてないだろう。

 その尻尾を見てみぬふりをするのか。

 そうやって心に嘘をつくのか。

 そんなのまっぴらだ。

 それが例え、誰かを傷つけることになったとしても。

 そうやって誰かを傷けることになることが恐ろしくても。

 それでも前に進みたいと心が言うから―――前に進むんだ。

 傷つくことから逃げるな。

 傷つけることから逃げるな。

 逃げていたら何も変わらない。

 何も変わっていないのに。

 何が変えられるものか。

 そんなもので―――目標にたどり着けるものか。

 

 勢いよく感情が溢れ出てくる。

 感情から産まれるエネルギーが爆発的に増加していくのが感じ取れる。

 ボロボロの体を何度でも立ち上げる。辛い顔一つせずに真面目な顔で前へと進む。血を流しながら、血反吐を吐きながらも笑顔を浮かべて馬鹿の一つ覚えのようにひたすらに繰り返す。

 

 

「ははっ……さぁ、まだまだこれからだよ。これから! これからだ!」

 

 

 激痛に耐えるように歯を食いしばる少年の姿勢は、見ている人間にも伝搬していった。

 咲夜は、少年と美鈴の対決を見ている途中で少年の狂気の沙汰に耐えきれず、勝負を中断しようと叫び出す。

 

 

「もう止めてください!! これ以上することにどんな意味があると言うの!?」

 

「止めるな!! 僕はまだ諦めてもいないし、戦えなくなっているわけでもない!! これで終わりなんて僕が許さない!!」

 

 

 咲夜は、少年の剣幕に押し黙った。

 これで終わり? 

 これで諦めて終われって? 

 そんな馬鹿な話があってたまるものか。

 自分が負けていないって思っている間は―――いつだって勝っている途中だ。

 今だって勝っている途中なんだ。

 先程までの優しい雰囲気を持った少年はもうどこにもいなかった。

 

 

「意味なんて……意味なんていらない。そんなものあってもなくても一緒さ……」

 

 

 少年の衣服は、土まみれで血も付着して汚くなっている。体中にも見えない打撃痕がある。

 

 

「これ以上やれば、後遺症が残るかもしれませんよ?」

 

「そんなものどうでもいい」

 

「…………」

 

 

 美鈴は、痛々しそうに少年を見つめている。これ以上試合を続けるのは少年の今後も考えればよくない。これ以上続けてしまえば、何かしら後遺症が残ることも考えられる。

 しかし、少年が諦めない限り戦いが終わらないのも事実である。ここで美鈴が勝負を降りることもできないわけではないのだが、それは紅魔館の主のレミリアが許しはしないだろう。

 この試合を止めることは、誰の手にもできない状態だった。

 

 

 そのころレミリアは、テラスからつまらなそうに少年と美鈴の戦いを見つめていた。余りに一方的過ぎる展開に面白味が感じられなかった。興味が失われつつあった。終いには、ついに戦いの様子を見ることも止め、心の内を吐き出した。

 

 

「霊力を使うことは縛っていないのだから少しぐらいいい勝負になるんじゃないかと思ったけど、期待外れだわ。賭けには勝ったけど、これじゃ面白さ半減よ」

 

「…………」

 

 

 紫は、レミリアの煽るような台詞を聞いても黙ったまま遠くを見つめるような視線を少年に送っていた。紫の表情は、最初にテラスへと来た時から何も変化していない。

 レミリアは、変化を見せない紫に対して疑問を投げかける。

 

 

「賭けに負けてダンマリなのかしら? それともあの子がボロボロになるのを見てられない?」

 

「もうすぐ来るわ」

 

 

 紫は、レミリアの問いを無視して端的に言った。

 もうすぐ来る? 何が? 増援がか? レミリアは、紫の言っている言葉の意味が変わらず再度問いかけた。

 

 

「え? 何が?」

 

「もうすぐ灯が光を放ち始める。真っ赤な炎が燃え上がるわ……」

 

 

 紫の意味深な言葉を聞いてレミリアの視線が再び少年へと戻る。視線の先には、碌に体を動かせなくなってうつ伏せになっている少年と、苦しそうに表情を歪ませた美鈴が立っていた。

 美鈴は、少年の努力という名の耐久レースに心を削られ始めていた。何度倒しても這い上がってくる。無駄に痛みに耐性があるのか、痛みでうずくまる様子もない。意識もなかなか飛ばない。

 美鈴は、永久に続きそうな拷問の様相を呈する試合に辛そうな表情で少年へと叫んだ。

 

 

「もう、十分でしょう!? 貴方はよくやりましたっ! それでいいじゃないですか!」

 

「十分よくやった? それでいい?」

 

 

 霞みはじめている視界の中に、表情を歪めて叫んでいる美鈴が映る。

 なんて顔をしているのだろうか。

 追い詰められているのは自分の方なのに、どうして相手があんな顔をしているのだろうか。

 体を必死に起こし、立ち上がろうと全身に力を入れる。

 手に力が入る―――まだ手が動く。

 足に力が入る―――まだ足が動く。

 視界が生きている世界を映し出している。

 頭の中が気持ち悪いぐらいにはっきりしている。

 

 

(ああ、きっついなぁ。あの時よりはマシだけど……結構きつい。体が重いし、流石に痛みも残ってきた。けれど、心は生きている。勝負に生きている)

 

 

 勝負はまだ終わっていない。審判役を務めている咲夜もまだ終わりの言葉を告げていない。おそらく僕が完全に意識を失うまで、勝負の終わりを告げることはないだろう。さっきの言動がよほど効いているようだった。

 僕は、笑みを絶やすことなく美鈴へと告げた。

 

 

「ははっ、何を言っているの? 何も終わっちゃいないよ。まだ、行ける。まだ、前に進める! 僕の体はまだ動く!!」

 

「ふざけないでください!! もう終わりですよ!!」

 

 

 美鈴は、少年の駄々をこねるような物言いに表情を怒りの色に染めた。

 少年は、すでにぼろぼろの状態でとてもじゃないが、美鈴と闘える状況ではない。もともと存在する少年と美鈴の力の差を考えれば、少年の置かれている状況は絶望的である。

 そんなことは分かっている。だけど、それでも心は諦めようとしなかった。

 

 

「ふざけてなんかいないよ。ふざけているのは、あんたの方だ!」

 

 

 美鈴の言葉が心を震わせる。

 僕は、何もふざけていない。

 僕はいたって真面目だ。

 ふざけているのはお前の方だろう?

 勝負のルールを忘れているのかな?

 僕が戦闘不能、あるいは負けを認めるまで、負けになることはないという勝ち負けのルールを忘れてしまったのだろうか。

 だから言った。

 期待に応えられないって。

 何も聞いていなかったのか。

 

 

「だから言ったじゃないか、君の期待には応えられないって」

 

「諦めてくださいよ!! こんなことをしても辛いだけです! 何の意味もないじゃないですかっ!?」

 

「それだよ! 諦めろ。お前のしていることには意味がない。意味がないだって。意味がないから止めろってよ!」

 

 

 美鈴が辛そうにしながらも告げている言葉には疑問がいっぱいだ。

 美鈴の諦めろという言葉は、今までも何度か聞いた言葉である。意味がないという言葉も、さんざん自問自答してきた言葉だ。

 諦める選択肢はいつだってあった。意味がないという問いは、いつだって心の中で反復していた。

 それでも僕はこれまでやってきたんだ。そういう言葉を飲み込んでやってきたんだ。

 僕は、諦めろという言葉が酷く嫌いで、意味がないという言葉を聞くたびに心の中にわだかまりを抱えた。

 

 

「どうしてみんな同じようなことを口にするの? 諦めて何が生まれるんだよ。答えてみろよ。諦めることで何が変わるんだ? 現実を見ろよ、何も変わらない未来がすぐに見えてくる。僕には、その方が耐えられないね!」

 

 

 諦めるということは、そこで終わりにするということである。最後まで行き着く前に、自分でレールを断ち切る行為である。

 そうなって他に逃げられるのならまだいい。横道に逸れて生きられるのならば、そうするという選択肢だってあるだろう。

 けれども、僕にはそれがないのだ。諦めて選べる選択肢がない。横に道はなく、前にしか道がない。諦めれば廃棄される。社会から排除されることになる。

 現実はそういうものだ。何も変わらなかったら生き残れない。環境に適応した者だけが生き残る。それが苦手な僕が、逃げていい道理も道を諦めていい道理もない。

 みんな、前を走っているのに。諦めたらもっと差が開く。置いていかれることになる。

 それだけは――嫌だ。

 

 

「諦めたらみんなに追いつけない。諦めてしまったら、みんなから置いていかれる」

 

 

 少年は、これまで何度も諦めた方がいいと言われたことがあった。勉強もしかり、スポーツもしかり、自分よりも賢い人間、自分よりも上手な人間は必ず存在する。

 少年は、いつだって能力という不利な条件の中で努力を続けてきた。努力をしなければ人並みに何もできない少年は、人並みになるためではなく、「1番になるために」努力してきたのである。

 

 

「努力して、頑張って、やっとここまで付いてこれたんだ……」

 

 

 普通になるために―――努力をしてきた。

 容易に見える普通じゃない未来を回避するために―――努力をしてきた。

 

 

「どいつもこいつも意味がないとか適当なこと言いやがって。なんだよ、意味がそんなに大事なのか……意味がなくちゃいけないのか……意味が何を与えてくれるっていうんだ」

 

 

 意味がないことなど知っている。

 頑張る必要がないことも知っている。

 無駄だと思われていることも知っている。

 だけど―――そんなことが何になるというのか。

 意味がないだけならまだいい。

 だけど、あいつらはいつだって。

 

 

「あいつらはいつも奪っていくばかりだ!」

 

 

 意味がないということは別の何かを持っていく。無いだけで済めばいいのだが、他のもの―――特に気持ちをかっさらっていく。

 実のところ、少年はお前のしていることには意味がないなんて今まで言われたことがない。周りを巻き込んで従わせてきた少年に対して意味のないことをするな等、言う者は誰もいなかった。そもそも、少年が識別するために努力していることを知っている者がいないのに、意味がないなんて侮辱を言える者などいないのだ。

 ならばなぜ、こうまで少年が激情するのかといえば―――意味がないという言葉を誰よりも自分が言っていたからだった。意味がないという言葉は、心の中から自然発生した言葉だった。

 そしてその言葉が心の中に湧き出るたびに―――色んなものを奪われそうになった。

 

 

「あいつらは、大事なものをそぎ落としに来るだけのモンスターだ! 意味なんて――そんなもののためにこの気持ちを捨てなきゃならないのか? 僕は捨てないぞ! そんなものに、この気持ちを奪わせるつもりはない!!」

 

 

 少年は、決して諦める姿勢を見せない。少年に諦めてもらうためには、少年の意志を支えている部分をへし折る必要がある。これ以上続けたら本当に死んでしまうかもしれない。心の柱を急いで突き崩さなければ。

 美鈴は、目をぎらぎらと光らせる少年に問いかけた。

 

 

「貴方の何が体を動かすのですか? どうしてそこまで戦おうとするのですか?」

 

「そんなの、決まっているよ」

 

 

 努力する理由―――そんなものは、決まっている。

 勝負事をする際に固める意志など決まっている。

 それは―――。

 

 

「勝ちたいからさ」

 

「は?」

 

 

 美鈴は、僕の言葉に茫然とした。勝ちたいという普通すぎる理由に、思わず言葉を失っているようだった。

 だったら他に何があるというのか。

 僕が、誰かを人質にされていて負けると死んでしまうからという理由でもあげればよかったというのだろうか。

 それぐらいの理由ならば、納得したというのだろうか。

 

 

「それ以外の理由なんて何もない―――勝ちたいからこうして戦っているんだよ」

 

 

 何を想って何を成そうとするのか。

 誰かを助けたいという想い。

 誰かを殺したいという想い。

 そこにどんな違いがあるだろうか。

 行動にどれほどの違いがあるだろうか。

 大きさが変わらなければ、行動に差異などでやしない。

 何を想っても、何が理由であったとしても。

 行動の結果は同じになる。

 中でも勝ちたいという想いは何よりも純粋だ。

 とって変わったりしない。

 曲がったりしない。

 

 美鈴は、少年が諦めることはないと悟った。勝敗が明確に決まっているような今の状況を前にして、勝ちたいという想いの消えない少年の気持ちをへし折る方法は何もない。

 現に少年は、あれだけ打ち込まれても不敵な笑みを浮かべて悠然と立っている。

 

 

「勝負の鉄則だよ。勝ちたいと思うこと、それが絶対条件だ。僕は父さんから教わった。努力を積み重ねて勝利を得るんだって」

 

 

 勝ちたい、勝ちたい。

 僕にあるのはそれだけ。

 それだけで十分だった。

 父さんが教えてくれた呪いに対する唯一の対抗手段は、勝ちたいという競争心に火をつけること、負けないという強い意志を持つこと。

 僕は、父さんからそれを教わった。

 誰が負けるつもりで戦うんだ。

 勝つんだよ、勝つために戦うんだ。

 諦めれば、楽になるだろう。

 諦めれば、辛くないだろう。

 けれど―――それでどうなる?

 どうにもなりはしない。

 置いていかれる未来が、置き去りにされる自分が、すぐそこに想像できる。

 それじゃあ僕の心は救われない。何も変わらない。

 僕の見たい景色は、もっと先にあるんだ。

 歩いて、歩いて、もっと―――先

 越えて、超えて、燃える。

 全部が解き放たれて、焼かれて燃えて全部がまっさらになる。

 そんな瞬間を―――感じていたいんだ。

 

 

「さぁ、勝負の続きをしようじゃないか。僕の気持ちはやっと上り調子だよ」

 

 

 空から火種がまっさかさまに落ちる。落ちて、落ちて、心の表面と接触しようと重力に従う。

 

 

「燃えろ燃えろ、真っ赤に燃えるんだ。全てを飲み込むような赤さを、何も残らないほどの熱さを」

 

 

 探し出せ、いつも取り出しているだろ?

 書き記す時だって、病気の時だって嫌というほど探してきたじゃないか、見つけてきたじゃないか。

 さぁ、火種を見つけるんだ。

 空から落ちてくる、空から降って来る光を探すんだ。

 勝負に賭ける熱さと狂気を見つけ出す。

 見つけられなきゃ―――耐えられない。

 書き記す行為も、病気に対する対抗も、みんなについて行くだけの努力など―――できはしない。

 さぁ―――見つけ出せ!!

 熱い、近い、近いぞ! 

 光が落ちていく、真っ赤な灯が地球表面へと着地する。

 

 

「みーつけた」

 

 

 ―――Ignition(イグニッション(点火))―――

 

 地球表面が真っ赤に燃える。世界が真っ赤に染まる。

 真っ赤に染まった空と真っ赤になった大地の中で。

 ―――少年は次の一歩を踏み込んだ。

 

 

「さぁ、和友が目を覚ましたわ」

 

「さぁ、最初の一段目だ」

 

 

 少年は、燃えた地球の上で階段を登り始める。




少年は、みんなについて行くので必死です。
勉強でも、スポーツでも、区別できないことは、致命傷になります。
努力という名の狂気で抑え込んでいる少年は、並々ならぬ努力をしてきたのでしょう。諦めたら先がなくなるという恐怖を抱え込んで努力をしてきたのでしょう。狂気の沙汰ともいえる、闘争心を糧に、心を燃やしてきました。
少年は、ある時から意味を考えるのを止めました。これは、必然だったのでしょう。意味の所在なんて―――考えたら潰れてしまうと分かっていたから。

さて、次の階段に足をかけましょうか。


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探し出す、取り戻す

美鈴との殴り合い。
圧倒的能力の差を見せつけられる。
だが、諦めるという選択肢は少年にはない。
少年は、父親から貰った可燃物にそっと火を灯し始める。


 ―――Ignition(イグニッション(点火))―――

 それは―――心にともる灯の光の目覚めである。

 闘争心を燃やし、空に架かっている天井をボロボロに崩壊させる。臨界点を超えて限界を突破する。

 少年は、自らが備えている限界線を崩壊させ、心に闘争心の火を燃やしながら美鈴を見つめていた。

 

 

「さぁ、行くよ!」

 

 

 強く拳を握りしめ、先ほどと同じように美鈴へと走り出す。

 

 

「前へ、前へ!」

 

(笹原さんの動きが僅かに早くなっている? 何があったのでしょうか?)

 

 

 美鈴は、少年の変化に目を細め、距離を稼ぐように僅かに後ろに後退した。

 少年の足は先ほどよりも早く動いている。‘怪我をしている’前よりも速く動いている。疲弊し、体力が落ちていることを考えると本来ならばありえない現象である。

 迫りくる少年からは、何か限界点を越えたような雰囲気が出ている。吹っ切れているといえばいいのだろうか。力がみなぎっているように感じる。

 今までと同じと考えてはいけない。同じ人間を相手していると思っていたらイメージの落差に追い詰められることになる。

 美鈴は、とっさに頭の中の少年の情報を書き換えた。少年は―――少年以外の何かになったのだと、そう思うことにした。

 

 

(前と同じように捌いていたら間に合いませんね。さっきよりも早く対処しなければ)

 

 

 少年の右の拳が美鈴に向けて真っ直ぐ伸びてくる。少年にとっての剣である―――右の拳が迫ってくる。

 美鈴は、少年の余りに綺麗な力の流れに感嘆とした。

 

 

(下半身から上半身まで、全身の力の乗った素晴らしい攻撃です)

 

 

 左足を踏み込み全身の力を右手に伝達する。

 今ある力の源を全て右手の先に受け渡している。

 踏み切った左足から体重移動してきた力が膝に登る。

 腰の回転によってさらなる力が加算される。

 背筋から振り絞った筋肉がすばやく伸ばされ、力の脈動が指先まで響いている。

 下半身からの力が全て伝わっている鋭い拳は、真っ直ぐに襲い掛かってきていた。

 

 

(素晴らしい攻撃ですが……)

 

 

 美鈴は、少年の拳に視線を送りながら、確実に以前より早くなっている少年の動きに対応する。

 

 

「先程よりも速くなっているといっても、まだまだ私には及びません!」

 

 

 美鈴は、少年の右の拳に対して右の手の甲をすり合わせるように持ってくる。

 ―――力の向きを逸らす。

 この展開は、試合の最初に行われた行動と同じである。

 同じように受け流されて反撃が来る。そんなこと少年も分かっているはずなのに。それなのにもかかわらず、少年の行動には変化が見られなかった。美鈴の行動を特に気にする様子もなく、押し出す力を緩めなかった。

 

 何かあるのか。

 美鈴は、僅かに存在する時間の中で少年の瞳を見つめる。

 少年の瞳の中には、ぎらぎらと光り狂う炎が見て取れた。

 

 

(変わったのは意識だけですか? 速度だけですか? 何も変わってないじゃないですか)

 

 

 少年の伸びてくる右手を自分の右手で打ち払う。手の甲で外向きのベクトルを加えて拳の進む方向を外へと逸らす。

 ここまで―――最初に相対した時と同じ状況である。

 少年の右の拳が美鈴の顔面の側壁を掠るようにすり抜ける。

 少年の目は相変わらずぎらぎらした瞳を保持したままである。表情を変えることもなく、前へと突き進んでいる。

 

 

(腕が伸び切っていますよ? 勢いを殺せていません。それでは前のめりに倒れるだけです。力に振り回されているようでは、私に決定打を入れることなどできやしませんよ)

 

 

 右手を伸ばした力が少年の体ごと引っ張っている。右手が伸びるのに合わせるように少年の体も美鈴に向かって突き進んできた。

 力に振り回されている。

 制御が効かないのか。

 そこまで考えていなかったのか。

 

 

(さぁ、同じ状況です! 腹部に一発いれますよ!)

 

 

 近づいてくる少年に向けて引いていた左の掌を、体を反転すると同時にひねりながら突き出す。向かってくる少年に向けて左の掌を勢いよく押し出した。

 

 

(流れは私が作ります! そして、貴方の心を粉々に砕いて見せます!)

 

 

 美鈴の攻撃が入れば、そこからは一気に美鈴に流れがやって来るだろう。初回にいれた一撃と同じように、場の流れが美鈴の方へと移っていく。流れに乗れれば少年の勢いを殺すことができる。

 意識を変えても勝てないという雰囲気は、意識を砕くのに十分な打撃を入れられるだろう。

 

 

(手加減なんてしません―――重い一撃をお見舞いします)

 

 

 そんなことを考えながら、間違いなく自分の攻撃が少年の腹部へと入ると思った瞬間―――美鈴の瞳の中にぎらぎらと光っている少年の目が入り込んだ。

 

 

「そんなに簡単に同じ轍を二度踏むと思っているの?」

 

(まさか私と同じことを)

 

 

 肩に負担がかかっている。窮屈な力が空回りをし始めている。

 

 

(私の攻撃が逸らされている!?)

 

 

 美鈴は、自分の突き出した左手が逸らされている感覚に戸惑った。明らかにおかしな力が入り込んでいる。直線運動が捻じ曲げられている。

 目を下に落とさなくても分かる。見なくても自分がされていることを察した。

 美鈴の差し出した左手は、少年の左手によって弾かれた。

 少年は、美鈴が少年にしたことと同じことをしている。腹部に迫っていた美鈴の左手を少年の掌が美鈴の左手を押し出しているのだ。美鈴の攻撃は、少年のわき腹を掠めるように離れた。

 

 

(ただの猪突猛進というわけではないようですね)

 

 

 美鈴は、少年の技量に感嘆した。

 太極拳において力の流れを変えるということは必須の技能ではあるが―――それゆえに最も難しいことでもある。力の流れを掴みとり思うが儘に操る。全身の力を全て攻撃に流れとして伝達する。これは、八極拳において基本技術でありながら奥義となりうる技術だ。

 少年は、奥義になりうるそれを確実にやってのけた。初心者には絶対できない技能だ。どこかで太極拳を学んでいたのか。もしも何も知らずに、何も理解していないうちから見ただけでできていたとしたら驚愕である。

 美鈴は、跳ね除けられた左の手に追随するようにその場で回転し、少年の背後に回り込むと背中合わせになる。そして、驚くべきスピードで強くなった少年に称賛の言葉を送った。

 

 

「先程の動きは見事でした」

 

「なんで?」

 

 

 即座に美鈴の言葉を無視するように疑問が投げかけられる。賞賛の言葉は受け取ってもらえていなかった。少年の表情は、嬉しいと言うよりも納得がいかないといった表情である。

 美鈴は、少年の疑問の意味が分からず、尋ね返した。

 

 

「なにがですか?」

 

「さっき僕が左手を打ち払ったとき、脚を出せたでしょ? まだどこかで僕を見下しているってことなの?」

 

 

 美鈴の表情がさらに驚きに染まる。

 確かに少年の言う通り、先程の状況は振り払われ力の逸れた方向を上手く制御して脚を出すことのできる場面だった。左手を打ち払われたからといって、体をひねれば脚を振るうことができただろう。戦闘が始まった時のように脚を振るい少年を攻撃することができただろう。

 しかし、事は単純な話ではない。平常であれば出せたのかもしれないが、先程は出さなかったのではなく―――出せなかったのである。少年の余りの豹変ぶりに気持ちが追いついていなかった。脳内でイメージしていた別人の少年よりもさらに上を行かれて、頭がついていかなかったのである。

 人は、予想を上回る出来事が起こると唐突に体が硬直することがある。美鈴は、まさしくそんな状態にあった。あまりに違う―――これじゃ本当に別人である。

 

 

「見下すなんてとんでもない。ちょっと驚いてしまって脚が出なかっただけです」

 

「だったらいいけど!」

 

 

 不意に背中を押し出すように力がかかる。少年は、美鈴を撥ね飛ばしにかかった。

 美鈴は、力の流れに従うように少年との距離を開けると振り向きざまに脚を振るった。少年の言動に従うように顔面に向けて脚を振るった。

 視界に映る景色は、背景を塗りつぶすように一気に変化していく。ぐるりと回って、ぐにゃりと歪んで、空の景色が存在感を消し始める。

 見えているのは―――少年だけだ。

 

 

(えっ!?)

 

 

 心が―――驚きの声を上げる。

 振り返った美鈴の視界の中に入っていたのは、同じように振り返りざまに脚を振るう少年の姿だった。全く同じものが回るように駒が二つ回っているようだった。

 少年の脚は美鈴の脚とほぼ同じ速度で動いており、どちらの脚が先に相手に衝突するのかは判断できない。脚同士がぶつかると言うよりは、どちらかの体に先にぶつかることだろう。

 

 

(来るっ!)

 

 

 美鈴は、歯を強く食いしばり少年の脚の衝撃に備えた。

 しかし―――衝撃は美鈴を襲ってこなかった。感覚としてあったのは、自分の脚が相手に当たる感触だけだった。

 

 

「いっつ……」

 

 

 少年は、痛みをこらえるように歯を食いしばり、表情を歪める。美鈴の蹴りが当たったことによる衝撃で少年の動きがずれて脚が当たらなかったようだ。

 

 

「くそ、当たると思ったんだけどな。まだ足りないってことか」

 

「経験の差が出ましたか。慣れていない動きをするものではありませんよ」

 

 

 美鈴の視線が地面に倒れる少年に落とされる。

 少年は、地面に倒れ伏しながら悔しそうに顔を歪めていた。少しでも美鈴の方が遅ければ、勝負は決まっていただろう。有効打を取られていたに違いない。

 すぐそこから敗北が見つめている。

 そのぐらい実力が拮抗し始めている。

 美鈴は、追い詰められつつあることを感じながら少年を見つめていた。

 

 

「慣れているとか、慣れていないとか、そんなものどっちでもいいんだ。そんなものどっちだって変わらない」

 

「弾幕ごっこと一緒ですよ。経験がものを言うときもあります。私にスペルカードルールで勝った笹原さんなら分かるでしょう?」

 

「‘ときもある’所詮そういうことだ。場合によりけり、例外はいつだってある。そう―――普通とは違う例外がいつだってある」

 

 

 ぎらぎらしている。見下すようにむけられる視線にぎらぎらした瞳のままで視線を返している。少年の闘志は少しも衰えていなかった。

 

 

「諦めの悪い人ですね。どうしたら諦めてくれるのでしょうか?」

 

「僕が勝つまでって言っているでしょ? いい加減分かってよ」

 

「それだとこの勝負は一向に終わりませんよ?」

 

 

 ぎらぎらしている。

 勝負に燃えている。

 あの目のどこに諦めが見える? 

 何処まで行けば諦める方法を探し出せる? 

 どれだけ追い詰めれば―――終わりという名の崖の下を見下ろすのだろうか。

 美鈴は、燃え盛る少年の瞳が訴えかける意志の強さに苦笑いしかできなかった。

 少年は、呟くように小さい声を発する。

 

 

「やっぱり……まだ、足りないんだよね。足りないから終わるところまでたどり着けないんだよね」

 

「どういうことです?」

 

 

 意味の分からない。足りない―――何が足りないというのだろうか。美鈴の頭は少年の言葉を反芻する。足りないとは、殴られ足りないということなのだろうか。

 少年は、体をゆっくりと動かしながら言った。

 

 

「気にしなくていいよ。僕がもうちょっと登ればいいだけの話だ。そうすれば、この勝負は終わる」

 

 

 少年が声を発した瞬間に少年の雰囲気が少し変化する。何も変わっていないのかもしれない。気のせいかもしれない。だけど―――美鈴は少年の変化を感じ取った。

 少年からは、僅かに熱気で上気した雰囲気が伝わって来る。心なしか少年の体から白色光が漏れ出しているように見えた。

 

 

「僕の勝ちでこの勝負の決着はつく!」

 

 

 少年は、光り輝く瞳を見せつけるように立ち上がる。しっかりとした足取りで美鈴の前に相対する。

 先程は気迫は削げなかったが、体力や身体の機能は削ぎ落とせた。

 けれども今は―――違う。そのどちらもが落ちていく気配を感じさせない。さっきまでの試合のようにボロボロになり、体力がそぎ落とされ、弱くなっていく様子はまるでない。

 何度でも立ち上がる。

 敵に対して立ち向かう。

 何度でも足を前に向ける。

 勝ちたいという想いが―――少年を奮い立たせる。

 

 

「僕を本気で落とそうと思うのなら本気でやらなきゃだめだよ。僕が見つけ出せないぐらいに―――真っ暗な中に落とさないとね!!」

 

 

 不敵に微笑みを浮かべながら伸ばした足を前へと進める。迷うことなく、美鈴のもとへと駆け出す。内包するエンジンをフル回転させる。

 燃料を燃やし、リニアからトルクへのエネルギー変換をする。

 ピストン運動というリニア運動が―――回転力というトルクのエネルギーを生み出す。

 内燃機関を燃やし、闘争心に火をつける。

 火をつけて回る。

 止める者は誰もいない。

 次々と可燃物を放り込む。

 心にある炎は、燃料を得て燃え広がっていった。

 

 

「さぁ、もう一度だ!」

 

(さっきよりも早い!!)

 

 

 先程よりも少年の動きが早くなっている。美鈴は、加速した少年の動きに戸惑った。

 美鈴の目の前に絶対に起こりえない光景が広がっている。ダメージを受け、身体能力的には低下をしていく状況において―――‘加速している’。

 奇跡でも起きているというのだろうか。幻でも見ているのだろうか。そう思った方が納得できた。

 でも、目の前の光景は現実だ。まぎれもない五感が少年の存在を認めている。

 美鈴は、息をのみながら自らを鼓舞するように声を上げた。

 

 

「それでも、まだ私よりは遅い!」

 

「それでも、まだ僕は登れる!」

 

 

 少年の攻撃に合わせるように向きを逸らし、攻撃を行う。少年も美鈴と同様に攻撃をさばけているとはいえ、経験と身体能力に差がある。それらの差は少年の流れを確実に断ち切っていく。

 

 

「いったいな! 痛いよ、すごく痛い。けど―――まだ戦える!」

 

 

 少年は、美鈴の攻撃を受けて吹き飛ばされた。

 痛みは確かに体に刻まれている。

 疲労も体に蓄積している。

 しかし、この場を支配しているのは少年の方だ。

 

 

「僕はまだ前に進める!」

 

 

 攻撃を仕掛けているのはいつだって少年で。

 流れを作り出しているのは少年で。

 流れを持ったまま抱えているのは少年だ。

 

 

「何度でも挑む! 何度だって、何度だってね!」

 

 

 少年は、すぐさま立ち上がり美鈴へと突き進む。体から溢れ出る光の量を増加させながら、速度を増して拳を振るう。

 

 

「僕はまだ生きているんだから!」

 

 

 そのころレミリアは、戦い続けている少年に視線を集めていた。視線はもはや少年に奪われ身動き一つしていなかった。

 

 

「綺麗……」

 

 

 思わず漏れ落ちた言葉は、自分でも信じられない言葉だった。自身の声が自分の耳に返ると同時に我に返り、口元をなぞる。レミリアの手は、確実に持ち上がっている口角の情報を脳へと伝達した。

 

 

「ふふっ、欲しいわ。あれが欲しい」

 

 

 レミリアは、そのまま口角を上げて微笑みながら流れるように隣にいる紫へと顔を向け、湧き上がる想いを告白した。

 妖怪の賢者は、こんな気持ちだったのか。

 今ならば理解できる。

 レミリアは、紫の胸中を察した。

 

 

「あれは、大事にしておきたくなる」

 

 

 今まで見てきた少年は、特に変わった様子もなく、紫が匿うほどの人間には到底思えなかった。

 もしも、レミリアの下に少年がやってきたのだとしたら二日も経たずして食糧と成り果てただろう。それは少年自身に魅力も感じなければ、少年を維持するためのコストに割に合わないと思うからである。

 しかし、今目の前に広がっている光景を見れば、紫の気持ちがよく分かる。大事にしてきた意味が理解できる。ここまで手をかけてきた理由が理解できた。

 レミリアは、納得するような表情を浮かべた後、楽しそうに告げた。

 

 

「紫が気にかけるのも納得ね。あれは……欲しくなるわ」

 

 

 紫は、まるで少年のことをくれと言っているように聞こえるレミリアの言葉に大きくため息を吐いた。

 

 

「欲しいのなら奪ってみなさい。貴方ごときでは奪えやしないでしょうけどね」

 

「私は、欲しいものは必ず手に入れて見せるわ」

 

 

 レミリアは、自信満々に少年のことを奪い取ると言う。

 紫は、自信をもって告げるレミリアに対して僅かに悲しい表情を作った。

 それは―――相手の感情に機敏な少年になら気付けたかもしれない変化だった。

 

 何も分かっていない。

 見た目に騙されてはならない。

 少年という存在をはき違えてはならない。

 少年は誰の手にも収まるものではないのだから。

 紫の口からレミリアに向けて挑発的な言葉が投げつけられる。

 

 

「貴方には見えていないのかしら? 貴方の鎖では和友を縛ることはできないわよ?」

 

「紫、失ってからでは遅いわよ? 私は、一度手に入れたものを誰かに渡したりなんてしないわ。あなたも良く分かっているでしょう?」

 

 

 紫の視線が少年へと向けられる。

 これまで育ててきた―――家族の一員である和友が確かに存在している。

 

 

(あの子を奪う―――なんて笑える冗談かしら)

 

 

 和友を奪おうというのか。

 誰から奪おうというのだろうか?

 私からかだろうか?

 

 

(そもそも和友は誰のものでもない。仮に私のものだとしても、奪い取れるはずがないわ)

 

 

 残念ながら少年の存在は私のものではない。

 仮に私のものだとしても―――あんなものどうやって奪うというのだろうか。

 少年は人間だから誘拐ではないのかとか。

 人間を奪うことなんて物理的にできないとか。

 そんなことが言いたいのではない。

 あんなもの―――大きすぎて奪えないのだ。

 一部を奪うことならできるかもしれない。

 力でねじ伏せて、多くを保持することならばできるかもしれない。

 ただ、全部は無理だ。

 それは、独りで地球を独占するようなもの。

 徒歩だけで、地球の全てを統べるということ。

 

 レミリアの視線は、紫が視線が外されるのを気にするようすもなく紫へと集められている。

 視線を逸らした紫の視界に入っているのは、少年から発せられる白い発光だけだった。少年から溢れ出る発光は、輝きを増して美鈴へと向かっている。後1年で潰えてしまうであろう光が、輝きを放ってそこにあった。

 レミリアは、顔を向けようとしない紫に明言する。

 

 

「私は、一度手にしてしまえばあれを絶対に手放さないわ。誰にだってあれを明け渡したりなんてしない」

 

「…………好きにしなさい。できるものならね」

 

 

 紫は、レミリアの言葉を吐き捨てるように言った。

 できるものならね―――紫からの回答に深読みをする。紫が何を考えているのか、何を想っているのか思考する。失ってもいいというのだろうか。奪われてもいいというのだろうか。

 それとも―――奪われることはないと信じ切っているのだろうか。

 レミリアは、選択肢を頭の中に浮かべたところで考えることを止めた。

 結局―――奪うことは変わらない。ならば紫の思考を読み解いたところで意味がない。奪われたくないと言わない以上、邪魔立てしてくることもないだろう。

 レミリアは紫から少年へと視線を戻すと、うっとりするような表情を浮かべた。

 

 

「ああ、あれが欲しいわ。あの光輝く磨きかかった奇跡のような光が……」

 

 

 レミリアの視線は―――確実に少年へと引き寄せられていた。

 そして、時を同じくして―――咲夜の瞳も少年へと惹きつけられていた。

 

 

「…………」

 

 

 先程まであったはずの止めようとしていた意志はどこかに行ってしまって行方不明になっている。完全に目の前の光景に酔いしれ、少年に強く惹きつけられている。負ければ負けるほどに光り輝く少年は、まるで研磨されているダイヤのような印象を受けた。

 咲夜は、自分の口角が上がり、微笑んでいることを知らない。目の前の光景を永久に見ていたいという感情に支配され、審判としての役目を失っていることにも気づいていない。そこにあったのは―――ただの観客と化した人間が一人である。

 審判がいなくなったこの場において勝敗を決められるのは―――少年と美鈴だけである。

 

 

「まだまだ負けないよ!!」

 

 

 少年は、吠えるようにして前に脚を向け続ける。

 

 

「前へ出ろ! 前に! 前に!」

 

 

 人間は後ろ向きに歩けるようにできていない。

 前を向くんだ。前を向いて歩くのが人間の歩行の形なのだから。

 諦めるという言葉を失った少年の気持ちは、ブレーキがかかることなくアクセルを踏み続け、加速し続けていた。

 

 

「さぁ、八段目だっ!!」

 

「ははは! 何度でも来てください! 何度でも地面に叩き伏せてあげます!!」

 

 

 美鈴は、何度も立ち上がって来る少年に対して―――勢いよく成長する少年に対して劣勢に追い込まれつつあるなかで、笑顔を見せた。

 少年に影響を受けているのは、美鈴も同じである。少年の最も近くにいる美鈴は、少年の熱気に当てられて気持ちを上昇させていた。

 少年の速度や力強さは止まる気配を全く見せず、ますます増加している。倒しても倒してもより強くなって立ち上がってくる。

 

 まるで―――死を失ったゾンビのようだ。

 

 戦うのが楽しいのだろうか。

 それとも振り切れているのだろうか。

 嬉しそうに立ち向かってくる。

 体から湧き上がる白色光は、もう目立つくらいになっている。白い輝きを放って悠然と‘そこ’にある。少年がゾンビならば、この白い発光は魂とでもいうのだろうか。強くなっていく魂を削り取る手段が見つからない。

 

 

(このままじゃジリ貧ですね。倒しても倒しても意識は飛ばないし、弱くなる気配もない。咲夜さんはあんな状態ですし、止めてくれる気配はないみたいですね)

 

 

 美鈴は、隣でぼーっとしている咲夜に目を向ける。

 あれはもうだめだ。期待してもその期待が叶うことはない。見ているだけの存在に成り下がっている状態になってしまっている。オーディエンスは試合を動かすことはできない。

 

 

(これは……腹をくくりましょうか)

 

 

 完全に意識を刈り取ろう。

 少年の精神力は並大抵のものではない。

 それはこれまでの戦闘から実証されている。

 ならば少年の意識を刈り取るために―――それ相当の攻撃を打てばいいだけの話だ。

 渾身の一撃を。

 心を砕く一撃を。

 少年に打ち込むだけ。

 遠慮などいるものか。

 ここまで前に出てきてくれているのだ。

 これに応えてあげない方がよっぽど―――不誠実だろう。

 

 

(守りから攻めるのはもう終わりです。確実に意識を飛ばします!!)

 

 

 相対する少年に対して攻撃の構えを作る。迎撃から一気に攻めたてるために、全身のどこでもすぐに動き出せるような体勢を構築する。

 軽く脚を肩幅に開き、つま先に力を入れ、肩の力を抜いて手を軽く持ち上げる。

 

 

「うおおお!!」

 

 

 少年は、いつものように前へと前進してくる。さらに速度を増した足で、さらに力を増した拳で、さらに輝きを増した瞳で前へと突き進んでいる。

 レミリアは、テラスから少年を興味深げに見つめながら考えを巡らしていた。

 

 

(どうして霊力が枯渇しないのかしら……)

 

 

 少年の身体能力は、途切れることなく霊力からの恩恵を受けている。霊力の少ない少年の霊力は底をつく雰囲気を感じさせず、無限に湧いて出てきているように見える。

 

 

(無から有は生まれない。だとしたらどこかから引っ張ってきていると考えるのが普通なのだけど―――出どころが全く分からないわね)

 

 

 どこからか拾ってきているのか、どこから湧いてきているのか、全く理解できない。速度に関してだけならば霊力の増強を合わせた状態で美鈴の速度を超えているだろう。

 

 

「私だって負けませんよ!」

 

 

 だが、相手の方が早くなったからといって負けてしまう美鈴ではない。美鈴は自分よりも早くなった拳を振り払い、反撃を行っている。

 そして美鈴の迎撃を、少年は悠々と処理している。

 

 

「これも逸らしますか!」

 

 

 ここまで来ている。二人の立ち位置は、もうすぐ真横まで来るところまで迫って来ている。もうすぐ追いつく。もうすぐ追いつける。

 少年は不敵に微笑み、美鈴へと言葉を投げつけた。

 

 

「さっきより遅くなったんじゃないの?」

 

「はは、少し疲れちゃったみたいですね」

 

 

 疲弊する様子のない少年を相手にしていると、終わりのない雰囲気に集中力をそぎ落とされる。

 身体というよりも―――心が疲弊している。

 上がり調子の少年の身体能力。

 体力を削られて、下りに入った美鈴。

 その差はどんどん狭まっている。

 追い詰められている感覚が心を圧迫している。

 少年は、美鈴の言葉を聞いて最初に会った時のような優しい表情を作ると攻撃に移った。

 

 

「なら早めに終わらせないとね」

 

「っ……」

 

 

 美鈴は強く歯を食いしばり、少年の攻撃を捌いていく。

 少年は、終わらせにかかっている。もう追いついてきているということを自覚しているのだ。

 少年の動きは完全なる素人ではない。かじっている程度とはいえ、八極拳を学んでいる節がある。経験の差で優っているとしても、このまま少年の速度が上がれば、追いつかれるのは必然だ。

 だが、ここで負けるわけにはいかない。

 私にだって意地はある。

 八極拳を長年続けてきて。

 こと近接格闘なら並の妖怪にだって負けない自信もあったのに。

 こんな人間の少年に負けるなんて。

 負けられない。

 負けてなるものか。

 美鈴は、声を張り上げ、削られていく体力の中で全力を振り絞る。

 

 

「私は、絶対に負けませんっ!!」

 

 

 少年の攻撃を振り払い、腹部に掌底を決める。

 続けざまに左手の拳で顔面を殴打する。

 少年は、美鈴の攻撃に従うようにもう何度目かわからないダウンをきっした。

 そして、同じように何度見たか分からない動き―――立ち上がる様子を見せた。

 

 

「まだ、終わっていない」

 

「はぁっ、はぁっ……本当にとんでもない人ですね」

 

 

 大きく息を吐き出し、少年のもとへと駆け寄る。待つという行動に出るのはもう止めだ。倒れている少年に向けて脚を向け、攻撃を続行する。

 確実にとどめを刺す。今までと異なり、自分から攻撃を仕掛ける。倒れている少年に対し、追撃をかけようとした。

 レミリアは、美鈴の行動を見て賭けの勝ちを確信した。

 

 

「賭けの勝敗は決したわね。私の勝ちよ」

 

 

 紫は、レミリアの言動に薄く笑う。いつもの平常心の八雲紫の表情―――捉えようのない表情を浮かべていた。

 

 

「ふふっ、やっぱり吸血鬼には分からないのかしら?」

 

「私が何を分かっていないというの?」

 

「ふふふっ……」

 

 

 挑発するような笑みを浮かべたまま紫の視線が少年へと落とされる。

 紫には、少年が勝つという確固たる確信があった。少年のことを知っていれば誰もが口をそろえて言うだろう。

 少年は―――絶対に負けない。

 紫は、知っている。

 この勝負において少年の負ける確率は0であるということを。

 少年の勝率が100%であるということは、揺らぐことのない不変の真理なのだということを。

 少年は、地面に倒れながら近づいてくる美鈴を見上げる。美鈴の額からは汗が流れている。疲れている様子が見て取れた。

 少年のもとへと近づいた美鈴は、大きく息を吸って心臓の鼓動を落ち着ける。

 

 

「はぁ~」

 

(これはやばいな……)

 

 

 少年は、目の前まで来ている美鈴を見て覚悟を固めた。

 美鈴は確実に自分を倒しに来ている。

 美鈴の勝つためにはもう一段上がる必要がある。現在8段目である、まだまだ上はある。病気で苦しんでいたあの時に比べれば、まだまだ登れる。

 決意を固めろ。

 さらに一歩を踏み出せ。

 

 

(9段目……)

 

 

 次の段階へと足を進める。少年の周りから出ている白色光の輝きがさらに増す。

 美鈴は、少年の雰囲気がさらに増大するのを感じ取ると少年の真正面で僅かに腰を落とし、右手を前に出して構えた。

 ―――明らかな攻撃の構えである。

 少年は、いつもと同じようにゆったりと立ち上がりぎらぎらした瞳を美鈴へと見せつける。

 美鈴は、少年が立ち上がった瞬間に視線を合わせると、拳を少年の腹部に接触するぐらい近くに持ってくる。美鈴の拳は、一寸もないような空間を保持して少年の腹部へと添えられた。

 

 

「さぁ、もうおしまいです」

 

 

 非接触の右手を接触状態へと持っていく。全身の力を右手の先へと伝達させ、一瞬の感覚の間で破裂させるようにして加速させた。

 

 ―――紅寸勁(こうすんけい)―――

 

 美鈴の全力の攻撃が少年の腹部を貫くようにして突き刺さる。少年口から余りの美鈴の威力に空気が吐き出される。ボキボキと肋骨が数本折れる音が空間に拡散した。

 今までの攻撃とわけの違う―――確実に意識を落とし込むための攻撃に耐える。意識を保って両足を地につける。

 骨はおられても―――心は折られない。

 

 

「ぐふっ……痛いなぁ……」

 

「これでもまだ意識を飛ばしませんか!」

 

 

 意識を失わない少年に悪態をつきながらも追撃に入る。

 腹を押さえて苦しむ少年の懐に入り込み、力の振り絞った右腕を振り切る。

 確実に落とす―――強い想いと共に叩き込む。

 

 

「では、これでどうですか!!」

 

 

 ―――紅砲(こうほう)―――

 

 美鈴の低い体勢から繰り出させる、斜め方向への砲撃が少年の顎に突き刺さった。

 確実に意識が飛ぶような一撃が少年の脳を貫くように駆け巡る。

 意識が飛ぶ。体も宙へと放り投げられる。

 レミリアは、意識の失った少年を見て勝ち誇った。

 

 

「ほら、やっぱり美鈴の勝ちじゃない」

 

「……それはどうかしら?」

 

 

 紫は、意識を失って空を舞う少年を驚くことなく見つめていた。

 レミリアは、特に表情を変えることのない紫を不審がる。少年があれほどに殴られても動かない紫の真意が分からない。少年を心配してきたというのならば、今こそ駆け寄ってやるべきだろう。骨が折れて意識を飛ばしている今こそ、声をかけるべきだろう。

 しかし、紫は―――‘動こうとすら’しない。それはまるで、まだ終わっていないという宣言に聞こえた。

 

 

「紫、貴方……まさか本当に……」

 

「和友は絶対に負けないわ。私の想いは最初と何も変わらない。ここから和友が勝つのよ」

 

 

 レミリアの目は、信じられない物を見るかのような目をしていた。

 紫は、不審がるレミリアに向けて一つの問いを投げかける。

 

 

「吸血鬼、貴方は和友が入院していたことを知っているかしら?」

 

 

 レミリアは、主に噂で少年のことを知った。

 少年についての噂は良くも悪くもよく流れている。特に人里での目撃証言は、よく出回っているように思う。ただの人間なのに、よくもまぁあれほど噂になるものだと思ったものである。

 いや―――ただ人間ではないか。

 八雲紫が連れて来た人間だ。

 レミリアは、いつしか人里に八雲の連れ子がやってこなくなったこと―――死んだのではないかという噂が広まったことを知っていた。それが病気であったことは知らなかったが、紫の言葉で知ることとなった。

 

 

「いいえ、知らないわ。あの子、病気持ちなの?」

 

「病気持ち……ええ、そのとおりね。和友は不治の病を抱えている」

 

「その病気を持っていることと今の意識のない状況から勝てることに、どんな因果関係があるというのかしら?」

 

「和友は……探し物の上手い子なの。探し物を見つけるのが上手い子なのよ」

 

「それはどういう……」

 

 

 紫の言葉が何を意味しているのか分からない。それが何の関係があるのだろうか。探し物が上手いから何なのだろうか、探し物を見つけるのが上手いからなんだというのか。

 レミリアの口から疑問が放たれようとした。だが、言葉を口に出そうとしたところで外から聞こえる叫び声に言葉を押し留めた。

 

 

「ど、どうしてですか!? 先程確かに意識を飛ばしたはずです!!」

 

「うん、飛んだよ。ものすごい勢いで飛んだ」

 

「ならどうしてっ!? どうしてあなたは立っているのですか!?」 

 

 

 美鈴は、少年が立って自分に向けて物事を口にできる余裕がある事実が信じられず、目を疑った。

 確実に少年の意識を断ち切ったはずだ。

 それだけの攻撃をしたはずだ。

 手ごたえは十二分にあった。

 それは、少年も認めるところだろう。

 しかし、少年は今も足を延ばして立っている。少しのダメージを抱えている雰囲気を感じさせず、相対している。輝きを増した光を放ちながら立ち向かっている。近くには心配して近寄る咲夜の姿があったが、まだ勝負は終わっていないとでもいうように手で静止していた。

 

 そう、少年の勝負は―――まだ終わっていなかった。

 

 これでは先程と何も変わらない。決死の覚悟で打ち込んだ一撃さえも無視するように、馬鹿にするようにいつも通り立っていた。

 

 

「意識を失って立ち上がれるわけがありません! それに、意識が飛んだというのならそんなスイッチを入れるみたいに意識を取り戻せるわけがないじゃないですか!」

 

 

 意識を失いながら立つという行動は酷く難しい。かの有名な三国志の武将で立ったまま死んだ人間がいたため、前例があると考えると100%ないと断言できることではないが、限りなく難しいだろう。

 そんな可能性があると百歩譲ったとしても―――あの一瞬で意識を取り戻し、ここまで平然としゃべるというのはもはや別次元の話である。意識が飛んですぐに復活することは基本的にあり得ない。肩が脱臼して戻すのとはわけが違うのだ。数秒で立ち上がれるのだったら―――数秒で意識を取り戻すことができるのであれば、意識を失うなんて関節を外すぐらい簡単にできるはずである。 

 

 

「飛んでいく意識を探し出したんだよ。勝負の最中に寝ている暇はないからね。僕の勝負は、まだ終わっちゃいない」

 

 

 美鈴は、少年の言葉に絶句する。レミリアも美鈴と同様に悠然と語る少年を驚きの表情で見つめていた。

 

 

「ど、どうして?」

 

「あんな痛みで意識が無くなるのなら、和友も私たちもあんなに苦しい思いをしなくて済んだ……」

 

 

 レミリアの疑問に答えるのは容易である。

 その問いに対する答えを嫌というほど知っている。

 答えは、半年前の少年の闘病生活にある。

 少年は、血反吐を吐きながら病気と闘った。原因の分からない病気―――正確には原因を知っていたが原因を取り除くことができなかった病気と闘っていた。

 少年の病気は、少年に対して毎日のように襲いかかった。吐き気と共に出る血の流出、感覚のマヒがものすごい勢いで加速度的に進行していく。

 病気の進行になす術もなかった。

 ただただ、耐えるだけだった。

 

 

「和友に対して薬の類は一切の効果を示さなかったわ。私たちには、和友の境界線の曖昧になった感覚に対して、有効な手立てがまるでなかった」

 

 

 少年は―――必死に耐えた。

 苦しみに、辛さに、逃げることなく立ち向かい続けた。

 死にたいと言うこともなく。

 最後の最後まで生きることを止めなかった。

 境界線がどんどん曖昧になって。

 手が震えて。

 眼球はとどまることなく動き続ける。

 瞼を閉じることすらできなくなるような―――どうしようもない状況の中で生を望んだ。

 

 

「私の能力を使って意識を切り離すことも考えたわ。意識が飛ぶような衝撃を与えることも試してみた」

 

 

 思い出したくもない思い出を次々と引っ張り出す。

 少年の意識を吹き飛ばすために行った実験の数々―――無理な薬品の投与による意識の分離―――能力を用いた意図的な切断―――衝撃による破壊的な断絶。

 

 

「それでもあの子は、何度も何度も探してくる。見つからない場所に隠しても必ず見つけてくる。意識が飛ぶ度に、辛い現実しか待っていないというのに何度も何度も何度も……意識を取り戻す」

 

 

 少年の意識は一瞬失うものの、すぐに戻ってきた。いかなる手段を用いても、失った意識は数秒で戻ってきた。

 

 

「何があっても生きていようとする」

 

 

 意識を飛ばすために策略した周りに振り回されながらも。

 余計な負担がかかって辛くなってしまった中でも。

 さらに苦しみを見せる中でも―――病気と戦うことを止めず、生きることに対して諦めるということをしなかった。

 記憶を辿る紫の声は、今にも消え入りそうだった。

 

 

「私たちは、そんな和友を見ていられなかった……」

 

 

 レミリアは、紫の言葉を聞いて少年の特異性について把握した。目の前で美鈴と闘っている少年がどれほどに壊れていて、狂っているのか理解した。

 視線をそっと少年へと落とす。視線の先には、立ち上がり強気な姿勢を見せる―――諦める様子の欠片もない少年の姿があった。

 

 

「ほら、10段目だ!」

 

「本当に規格外の人ですねっ!!」

 

「お褒めの言葉をありがとう。でも、人には変わりないんだよね。僕はどう頑張っても人にしかなれないし、なるつもりもないから」

 

 

 少年は、ぎらぎらした瞳を一遍も曇らせることなく、前へと足を進める。驚きに打ち震える美鈴に対して攻勢に出る。

 

 

「貴方なんか人間じゃありません!」

 

 

 美鈴は、接近する少年に悪態をついた。

 どうしてこうもこの人はこうなのだろうか。今の状況を悪くないと思う自分が、心のどこかで笑っている。

 美鈴は、どこかずれている少年に苦笑すると構えを作り少年の迎撃に入る。

 これが―――最終勝負である。

 

 

「僕は人間だよ。ただの諦めの悪い人間だ」

 

「いいでしょう、最後まで付き合います! 一発で倒れないのなら何度でもぶち込むまでです!!」

 

 

 少年は骨の折れた肋骨をものともせず、美鈴へと滑走する。

 美鈴は、襲い掛かる少年の初撃を躱し、怪我を負っている腹部へと拳を突き立てる。肋骨の折れている少年の腹部はさらに嫌な音を立てた。

 

 

「これでどうですかっ!」

 

「まだまだぁっ!!」

 

 

 少年は、痛みをものともせずに反撃に移る。

 それは読めている。

 美鈴は、少年の反撃を読み切っていたように脚を後ろに下げて少年との距離を僅かに作ると、少年の攻撃をいとも簡単に防いだ。

 さぁ―――最後の最後まで付き合いましょう。

 その身が滅びるまで。

 私の拳は、貴方を貫きます。

 

 

「これでも立っていられますか!」

 

 ―――撃符(げきふ)大鵬拳(たいほうけん)」―――

 

 轟音と共に美鈴の拳が天へと向かう。紅砲とは次元の違う力が美鈴の拳に加えられている。

 ―――――――嫌な音が鳴り響く。

 少年の顎にものの見事に美鈴の攻撃が突き刺さる。顎の骨は嫌な音を立てて折れた。

 美鈴は、確実に少年の意識を刈り取るのを感覚で感じ取る。

 

 

(これで終わりですね……)

 

 

 美鈴は、二度目となる勝負の勝ちを確信した。

 少なくとも、再び少年が立ち上がってきたとしてもそれまで休憩の時間があるだろう。そのうちに審判役が勝敗を決してしまえばいい。審判を急かせば、必ず勝てるはずだ。そんな気持ちを抱えて、楽観視して気を緩めた。

 

 

(これで終わり……?)

 

 

 少年は、ゆったりと浮かび上がる中で意識を爆発させていた。ゆったりとした時間の中で走馬灯のような時間を巡っていた。

 

 

(何も変わっていないのに終わり? 勝負はもうついたのか? 未来は変わったのか? 僕は、本当に全部を出し切ったのか? 頭の先から足の先まで、出せるものを全て出し切ったのか?)

 

 

 まだ、勝負はついていない。

 あの時に比べれば楽だろう?

 この勝負は勝てる勝負なのから。

 終わりの見えている勝負なのだから。

 あの時と違って加速度的に増え続ける相手に対して耐え続ける作業ではないのだから。

 ボートに穴が開いて水が入って来る状況で、バケツで水をかきだしているような話ではないのだから。

 永久に動き続けるものに対して気力を振り絞るだけの作業ではないのだから。

 

 

(まだ燃えている。光っている。未来はまだ終わっていない)

 

 

 ほら、すぐに見つかるだろう。

 戦いの意志は―――燃え盛る意識は―――すぐそこにあるのだから。

 目の前に―――あるのだから。

 

 

「みーつけた」

 

 

 美鈴の攻撃を受けてコンマ数秒経過する前に意識を見つけ出す。

 少年の体はまだ、宙を浮こうというところである。

 少年は、吹き飛ばされるベクトルを感じながら美鈴の顔面にめがけて脚を振るった。

 

 

(そんな!? 大鵬拳で体が浮いた直度に意識を取り戻すなんて)

 

 

 信じられないほどに素早く復帰してきた少年の反撃に対応できない。美鈴には、ゆっくりと迫りくる少年の動きを躱すだけの余裕がなかった。

 凝縮された時間の中で少年の脚が美鈴の頬に接触する。

 美鈴の頬を鋭い衝撃が襲った。

 

 

「うっ……」

 

 

 美鈴の体勢が速度の乗った攻撃を受けて崩される。片手をつくような体勢で地面に膝を落とした。

 直にダメージが脳内に運ばれている。少年の攻撃によって脳が揺さぶられ立つことが難しくなっている。

 だけども、美鈴は曖昧な意識の中で視界を前へと向けた。

 視界には空中から落ちて地面に横たわり、遠くで転がっている少年が勝ち誇ったように右手をかざしている姿があった。

 

 

「ははっ、私の負けですか……」

 

「えっ、何が……」

 

 

 咲夜は、目の前の光景にハッと意識を取り戻したように状況を確認する。

 少年は確かに目を見開き、嬉しそうに表情を輝かせている。表情の輝きと反比例するように少年の周りから出ていた発光は収まっていた。

 咲夜は、動揺した心を抱えながら少年と美鈴の様子を見比べると、勝負の終わりを確信し、高らかに勝負の終わりの言葉を宣言する。

 

 

「しょ、勝負―――笹原の勝ち!!」

 

 

 ―――ここに勝負が決した。

 勝者は―――笹原和友である。

 紫は、隣にいるレミリアに挑発するような表情を浮かべる。先程までレミリアが浮かべていたような勝ち誇った表情を浮かべていた。

 

 

「美味しいワイン、楽しみにしているわ」

 

「…………」

 

 

 レミリアは、無言で少年を見つめたまま固まっている。予想外の出来事に頭が真っ白になっている。

 紫は、茫然としてるレミリアを置き去りにしてテラスを離れると紅魔館の中へ入っていった。

 レミリアは、そんな紫の動きに気付くことなく―――その場で独り、呟いた。

 

 

「やっぱり、あれが欲しいわ」

 

 

 レミリアの言葉は誰にも拾われることなく空中に拡散し消えていく。

 レミリアの視線の先には、美鈴と咲夜に支えられる少年の姿があった。




 やっと試合が終わりましたね。少年が見つけ出すのが上手いのは、心の中でのことを思い返してみればわかります。紫や藍を見つけるのと同じ要領です。自分の意識なだけあり、すぐに見つけられるということなのでしょう。階段を登るイメージは、人里でしたので大丈夫だと思います。
 少年の心を折るのは非常に難しいので、こういった勝負では、少年は負けることはまずないと思います。少年に勝つこと自体は、結構簡単ではあるのですが、勝負のルール次第ということになるのでしょうね。ダウンしたら負けだったら一瞬で勝負が付いていますし、死んでも負けとかだったら少年が負けているでしょうし。
 少年の病気の時の話に関しては、永夜異変あたりか、その辺で書けたらいいなと思っています。
 ここからちょっと独自設定が入り始めます。みなさんは、フランが495年間地下に閉じこもっていた理由をどんな風に考えているのでしょう?


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理想の終わり方、少年に繋がれた鎖

追いつくために、心を燃やす。
心を燃やして、階段を登る。
いつまでも、
どこまでも、
その階段は、続いている。

その輝きを見ていた者は、皆見入っていた。


 少年は美鈴との戦闘を終えた後、紅魔館の別室に通され、美鈴から怪我の手当てを受けていた。

 咲夜はどうしたのかと問われれば、お嬢様のところに行ったと聞かされている。

 別に咲夜が怪我の治療をやってもよかったのだが、咲夜よりも美鈴の方が怪我の治療の経験があったために美鈴が行っていた。武術をやっている関係で怪我をすること、させることの頻度が高い美鈴は、怪我の治療を上手にできるということもあり、少年の怪我の治療を行うことになったのである。

 

 

「思った以上に酷いですね」

 

 

 ベッドに座ながら美鈴からの治療を受ける。

 治療する怪我の内容は、美鈴の攻撃によって負傷した顎、あばら骨、その他複数にわたって負っているすり傷、打撲である。

 

 

「こんなになるまで続けていたのですか……信じられません」

 

 

 美鈴は、バキバキに折れてしまっている少年のあばら骨を確認する。

 顎の骨にもひびが入っている。痛みを感じている様子は見せないものの、僅かに顔が歪んでいる。絶対におかしいところがあるはずである。

 骨が折れてしまっていることに関して治療できることは何もない。できることなど、固定するぐらい―――ただ安静にさせておくことだけだ。

 切り傷や擦り傷の消毒と止血。

 骨の折れている個所に関しては固定。

 それ以外にできることは何もなかった。

 

 

「骨折した個所に関しては、無理に動かさないようにしてください」

 

「分かりました」

 

「……少し、やりすぎたかもしれませんね」

 

 

 少年の怪我が完全に治癒するまで―――四か月というところだろうか。

 こうして間近で治療していると罪悪感が襲ってくる。少年の怪我を確認していると明らかにやりすぎていることが見て取れるのだ。

 自らの手によって起こった結果とはいえ、ここまでするつもりは微塵もなかった。こうなる前に終わらせるつもりだった。

 美鈴は、手加減なしで殴ってしまったことを今更ながらに後悔していた。

 しかし、怪我を負っている当の本人は、酷い怪我を負ったことに対して気にしている様子を一切見せなかった。

 

 

「別にいいよ。怪我の程度は治るぐらいのものなんだから。取り返しが利くのなら別にどっちだっていいさ」

 

 

 少年は、どこか割り切ったような口調で言葉を口にする。治るのならばどっちでもいいと、まるで他人事のように言った。

 

 

「後悔なんて微塵もない。僕はできるだけのことをした。美鈴もできる限りのことをしてくれた、あったのは―――それだけ。そうでしょ?」

 

「……そうですね。これが、お互いにできることをした結果です」

 

 

 少年の言う通りだ。お互いが精いっぱいを出した結果がここに現れているだけで、事故があってこうなったわけではないのだ。できる限りを尽くし、全力でやった―――後悔するというよりも納得の気持ちの方が遥かに大きい。

 だけど―――それをそこまで言い切れるものだろうか。少年の物言いには、どこにも後悔の色が見えなかった。

 どうなったらこういう性格が生まれるのだろうか。

 どんな生活を送ればこうなるのだろうか。

 こういう不思議なところというか、特異なところが八雲紫を惹きつけた要因になっているのだろうか。

 そうでもなければ、八雲紫がわざわざ外の世界から攫ってくるわけがないとも言えるが―――どうにも度し難い。

 だが、あいにく今の状況においては、本人が気にする様子を一切見せないことが気を楽にしてくれる。もしも、気にすると言ったら美鈴の心は一向に休まることを知らなかっただろう。少年が全く気にしていないのなら―――自らが後悔しても意味がない。そう思うだけで美鈴の心は随分と楽になった。

 美鈴は、少年の怪我の手当てを一通り行うと申し訳なさそうに言った。怪我をさせてしまったことではなく、これからのことについて申し訳なさそうに言った。

 

 

「怪我をさせてしまった手前、非常に申し訳ないのですが……笹原さんにはまだやってもらわなければならないことがあります」

 

「何かな?」

 

 

 少年には、これからやらなくてはならないことがある。それが今日紅魔館へと少年を呼んだ目的であり、今日少年が紅魔館へとやってきた目的である。

 

 

「後数時間したらきっとお嬢様からお呼びがかかります。それまでは、この部屋で休んでいてください」

 

「了解しました。それまでここで待っていますね」

 

 

 美鈴は、少年の了承の言葉を聞くと部屋から立ち去った。

 部屋の中に少年だけが取り残される。

 ぽつりと―――独りきりになる。

 独りきりの少年は、大きくため息をついた。

 

 

「はぁ、どうしよっかなぁ……」

 

 

 腰かけていたベッドに横になり、天井を見上げる。

 天井は真っ赤に染まっている。視界の中が真っ赤な色で満たされている。部屋の中は赤一片色だ。部屋に来るまでの通りも真っ赤だったことから、館の外観と同じように館の中身も赤に統一されていることが容易に想像できる。

 何とも悪趣味というか、気持ちの悪い色彩感覚である。常識人であれば、こんな色合いにすることは決してないだろう。

 

 

「はぁ……やっぱり僕は弱いなぁ」

 

 

 一人になると―――やっぱり気持ちが落ち込んでくる。

 周りを引っ張らなくても済むからかな。

 周りに気を遣わなくてもいいからかな。

 頑張ろうという気持ちがあの時死んでしまったからかな。

 視界を真っ赤に染めながらぼうっと考え事をする。

 

 

「僕にとってのゴールは、何処なんだろう?」

 

 

 そっと額に手を当てて自分にとっての終わりを想像してみる。

 どうすれば、最も満足できて誰も悲しまない結果になるのか。

 誰もが喜ばしいハッピーエンドになるのか。

 自分が最も望む形は何なのか―――想像した。

 

 

「僕の人生の終わりは、約一年半後……」

 

 

 少年の人生の終わりはすでに予測されている。約1年半後と―――紫と永琳によって予測されている。

 それはもちろん未来予知というわけではなく、予想というものだ。予測なんて所詮外れるものだし、気にする必要もないと思ってもいいかもしれない。

 しかし、予測したのは八雲紫と八意永琳である。二人がした予測という事実は、未来予知にも似た絶対性が存在する。積み重ねてきた経験、計算がもたらした普遍性が少年の未来を予測しているのだ。

 自分が予測した五年という寿命は―――きっと外れることになる。

 だとしたら、後1年半後に何ができるだろうか。

 どうすれば、丸く収まるだろうか。

 収束して、終息するだろうか。

 無限に終わらないような思考回路を回転させる。

 人生の終わりという、決して確定することのない未来を思い描く。

 

 

「僕の終わり方は何が正解なんだろう? どこが正解になるんだろう?」

 

 

 人生の終わりに正解などない。人生に正解がそもそも存在しないのだから、正解はないという結論に異論はないだろう。

 だけれども、少年の中に存在する決まり事や人間としての倫理、規範を考えれば、正解とは言わずも模範解答があることは間違いがない。

 どこかに、少年にとって最も納得のいく答えがあるはずなのだ。

 これまで生きてきた人生の選択で、選ぶべき未来の形が。そこにはどっちでもいいという曖昧なものではなく、確固たる答えがあるはずなのである。

 少年は、人生の納め方の模範解答を、自らが最も行きたい場所、たどり着きたい場所を―――頭の中に常にある終わり際の形を想定した。

 

 

「僕が望む形……」

 

 

 少年の頭の中には、実のところ自分が望んでいる終わりの形が明確にある。こう終わりたい、こうやって人生に幕を下ろしたい、こうするのが最も自分自身が満足できて人生の終わりを迎えられるという終わり方がはっきりと存在する。

 ―――けれども。

 

 

「それは―――皆が望む形じゃない」

 

 

 時間が許す限り考えてみよう。

 みんなも、自分も、全員が望む形を。

 呼ばれるまで数時間ほどあるだろうか。

 こうして一人になる機会もめったにない。

 とことん考えようじゃないか。

 余裕のある時間を有効に使って頭をフル回転させる。

 自らの望む形になるためにどうこれからの未来を作っていくべきなのか。

 ―――考える。

 

 

「僕が望む形で終わるには、みんなに認めてもらう必要がある。僕を殺してくれるようにお願いする必要がある」

 

 

 少年が望む終わり方は、達成することが酷く難しい。当然のことだが少年の終わり方の最終地点は―――少年自らの死である。

 少年は、約1年半後に死ななければならない。それを達成するにはつまり、みんなが‘少年が死んでもいい’と思わなければならないのだ。‘みんなが’というと語弊があるかもしれないが、ベストな回答としてはみんなが少年を見殺しにしてくれるという状況が最も望ましい。

 苦しんでいる少年に対して手を伸ばさず黙っている。

 少年が辛そうにしているのを見て見ぬふりをする。

 ただ―――少年が苦しんでいるのを見ているだけという行為をしてくれる。

 それが、現状考えられる中でベターな回答だった。

 

 

「欲を言えば、僕を見つけてくれる人がいればいいのだけど。僕は、最後にみんなに追いつきたい……いや、きっとこれは僕の我儘だ。高望みしすぎだね」

 

 

 ベストな回答を思い浮かべるが、そんな理想はありえないと一蹴する。

 理想はあくまで理想である。関わっている全ての人間や妖怪が見殺しにしてくれる状況になることは、あり得ないと言えるぐらいには可能性が低い。

 人は、人それぞれ。

 妖怪も、妖怪それぞれ。

 同じ者なんてない。

 同じ考えなんてしない。

 それは、同じ考えをしていることを気持ち悪いと思った少年が最も考えたくないことの一つだった。

 

 

「今の環境的に、今の状況的に……‘全て’は難しいか。紫や永琳を除けば、僕を見殺しにしてくれる相手はいないといっても過言じゃないもんね」

 

 

 少年が死ぬことに対して「行動をとらない」という行動をすることができる人物は、今の幻想郷にほとんどいない。藍を筆頭にして、鈴仙や椛や文もきっと苦しそうに死んでいく少年を素直に黙ったまま見守ってくれはしないだろう。

 少年に惹きつけられている人物が少年を守ろうとする意志の働きは、過去に病気になった時に痛感している。少年に惹きつけられている人物は、助かってほしいと、生きていて欲しいと、行動に移るはずである。少年を助けようと奔走するはずである。

 

 

「何も、それが悪いってわけじゃないんだけど……僕がみんなの期待に耐えきれない」

 

 

 みんなから助かってほしいと思われることが嫌なわけじゃない。

 生きて欲しいと願われることが嫌なわけじゃない。

 ただ―――黙って見ていて欲しいだけ。

 生きて、死ぬところを、受け入れて欲しいだけ。

 少年にはもう、抱えている病気が最高潮に達したときに気持ちを保っていられる自信がなかった。なまじ前回にほぼ限界まで戦ってしまったがために、どう頑張っても無理だということを理解してしまっていた。

 

 

「みんな、我慢して僕のことを見捨ててくれればいいのだけど……やっぱり難しいんだろうな。僕の意志とは関係ないところでいろんなことが起こる……紫が僕を助けたように」

 

 

 そっと目を閉じて呼吸を整える。

 堂々巡りになっている思考回路を回し続ける。

 

 

「最も望む形―――僕がみんなとお別れできて、満足していられる環境……」

 

 

 自らが最も望む最高の形。

 最後の最後に追いつけなかったみんなに追いつき、これまで努力してきた成果を示す。やっと対等な立ち位置になったと、足を引っ張らなくて済むのだと自己満足に浸れる瞬間を想起する。

 頭の中に思い描く光景を見た瞬間―――起こる可能性が余りに低いことに思わず笑ってしまった。

 

 

「ははっ、まるで夢物語だ。僕が最も実現してほしいと望む未来は、僕を見つけてくれる人がいないと叶うことさえない」

 

 

 目を閉じて真っ暗な闇の中で夢の中に逃げ込む。望んだ未来が現実にならないことを知りながら、暗い闇の中に落ちていく。

 

 

「誰か、僕を見つけてよ……」

 

 

 少年は―――そっと夢の中へと入り込んだ。

 

 

 

 ―――約二時間後―――

 

 すでに夜と呼ばれる時間となった。窓の外は日が落ちて暗くなっている。月が自らの存在を強調するように淡い光を放っている。

 美鈴は、二時間ほどの時間が経過した後に少年がいる部屋へと戻ってきた。部屋の中に目を通すと―――ベッドに横になり瞼を閉じている少年を目撃した。

 

 

「休んでいてもいいとは言いましたが……まさか、寝てしまっているとは」

 

 

 静かに寝息を立てている少年を見て近づく。そして、少年の体を揺さぶり起こそうとした。

 

 

「笹原さん、起きてください!」

 

「あ、あれ……ごめん、眠っちゃったみたいだ」

 

 

 少年の瞼が美鈴に体を揺さぶられ、ゆっくり開く。

 視界がぼんやりとしている。疲れが溜まっていたせいか随分と深い眠りについてしまっていたようだ。

 

 

「うーん」

 

「大丈夫ですか?」

 

「大丈夫だよ」

 

 

 眠そうな瞳をこすり、目をぱちぱちとさせる。

 美鈴は、眠そうにしている少年を見て予想以上に時間がかかるかもしれないと焦りを感じていた。

 美鈴が少年を呼びに来たのは、お嬢様と呼んでいるレミリアから少年を呼んでくるように頼まれたためである。

 早めに行かなければ、余り辛抱強くないお嬢様のことである―――機嫌が悪くなる。機嫌が悪くなると、色々と問題が起こる。

 具体的には喧嘩のようなことが起こる。すぐにでも向かわなければならない。準備をしている余裕はあまりなかった。

 美鈴はそっと手を伸ばし、少年の体を起こす。

 

 

「私についてきてください。お嬢様が機嫌を損ねる前に早く行きましょう」

 

(お嬢様……?)

 

 

 美鈴がお嬢様と呼称する人物が誰なのだろうか。

 少年は、眠たい頭ですぐさま答えを出す。

 きっと―――先程美鈴と勝負していた時に顔を見せていた少女のことだろう。

 お嬢様―――その言葉に似合うのはあの少女だけのはずだ。あの鋭い目をした、射抜くような瞳の少女のことのはずだ。

 

 

「お嬢様って、あの窓から見ていた子のことだよね?」

 

「そうです」

 

 

 美鈴は素早く少年の問いかけに一言で答えた後、少年の腕を掴み床の上に立たせる。

 少年は、少しばかりよろけながらも何とか両の脚で地面に立った。寝ていたせいか、上手く力が入らない。疲れが残っているせいかもしれない。あれだけ動いたのだ、疲労が残っていてもおかしくなかった。

 

 

「お疲れのところ申し訳ありませんが、時間がないのです」

 

 

 美鈴は、疲れている様子の少年に少しばかり悪いという気持ちを抱えながら、差し迫っている時間に焦りを覚え、少年をせかした。

 

 

「疲れたその状態では難しいかもしれませんが、くれぐれも無礼の無いようにしてくださいね。お嬢様は結構気難しい方なので、気分を損ねると大変なことになります。気を付けてください」

 

「…………」

 

 

 少年は、美鈴の忠告に黙ったまま頷いた。

 注意するといってもできることなど何もない。気を付けてくださいと言われて少年に何ができるだろうか。近づいた時点で影響を与える可能性があると言うのに、何を気を付けろというのか。

 できることなど、近づかないという方法を取るのが最もいいというのに。それをするなと、近づいて来いと言われている現状で何をしろというのだろうか。大変なことになるのが自分しかいない現実を想えば、少年が気を付けることなど何もなかった。

 少年は、されるがままに美鈴に手を引かれ、部屋を出た。

 

 

「お嬢様は、すでに部屋の方でお待ちになっています」

 

「了解です」

 

 

 二人は、そそくさと廊下を突っ切るようにして歩く。

 紅魔館の廊下は赤という色で敷き詰められている。左右、上下、何処を見ても真っ赤に染まっている。しいてあるというのならば、外を覗くことができる窓から見える景色だけだろう。

 美鈴に手を引かれながら真っ赤な廊下を突き進む。

 そして、最終的に大きな扉の前で足を止めた。

 

 

「お嬢様は、この奥にいらっしゃいます」

 

 

 用意はできているか―――美鈴から目で問いかけられる。

 少年は、またしても何一つ口を開くことなく、頷くことで答えた。

 準備など何もない。

 何も準備するものなどない。

 まっさらな状態のまま扉の前で胸を張っていた。

 

 

「では、開けますね」

 

「はい」

 

 

 美鈴の一言が発せられると美鈴の手によって扉がゆっくりと開き始める。

 開けられた扉の奥を見つめながら―――中へと入った。

 

 そこにはやはりと言うべきか、彼女がいた。

 



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少女との会頭、明言する少年

 正面約十数メートルと長い部屋の奥に―――その人物は座っていた。紅魔館の人間がお嬢様と呼ぶ人物が、真っ赤な椅子に座って圧倒的な存在感をもってそこにいた。

 

 

(あれがお嬢様、ね。そして、その隣には咲夜さんがいるのか)

 

 

 お嬢様と呼ばれている人物の傍には、先ほどまで試合の審判をしていた咲夜が控えている。

 少年がそこまで状況を確認すると、通ってきた扉がゆっくりと閉められた。

 扉が閉まる音に反応して後ろを振り向いてみる。そこには、がっちりと閉まっている扉だけがあった。退路を断つように出入り口を塞がれた。

 

 

(門番さんは入ってこないんだね)

 

 

 少年とお嬢様―――レミリアとの会話には、美鈴は入ってこないようである。

 美鈴が会話に参加しないのは必要ないからという理由以外に無いだろう。会話を聞いていようと聞いていまいと、何かができるわけではないからだろう。

 話の結論は―――少年の正面にいる少女が決める。何の話だろうと、誰の話だとしても、少女が決めるのだ。話の結論に美鈴が口を挟みこめるような場所は全くない。だから―――いても仕方がない。それはきっと―――咲夜も同じだろう。

 扱いが違うのは、側近かどうかという部分があるからに違いない。

 

 そこまで考えたところで扉に向けていた視線を正面へと戻す。視界の中には、不敵な笑みを浮かべる少女と眠っているかのように目をつむって傍で控えているメイドがいた。

 

 

「よく来たわね、人間」

 

(この子は随分と上から物を言ってくるな。人間よりもはるかに強い妖怪にはよくある傾向だけど……)

 

 

 レミリアの物言いには、人間に対して酷く差別的な印象を受けた。

 確かに、妖怪というのは総じて人間に対して高圧的に出る者が多い。それは、能力的に妖怪の方が優れているからだ。身体能力においても、単純な特殊能力においても、人間にないものを妖怪は持っている。

 

 

(人間を捕食する立場だとよくあることなんだろうな)

 

 

 妖怪と人間では、関係性に特殊な部分が見られる。

 妖怪や化け物と呼ばれるような者たちは、人間の何かを捕食して生きている。人間から奪い生きている彼らは、人間からすれば捕食している動物や植物に対する感情と似通ったものを持っているのだろう。

 人間から見た牛、豚、鳥、魚、その他もろもろと同じような目で見ているのだろう。

 だとすれば、高圧的な態度をとってしまっても、見下しているような態度をとっていても仕方がないように思えた。

 藍からも妖怪の人間に対する想いというか、印象を知らされている。人間に対して高圧的な妖怪が多いと―――教えられている。

 妖怪の人間への感情を知っている少年は、圧倒的な存在感を放つレミリアに対して物怖じ一つせず、事務的な言葉を並べた。

 

 

「初めまして、笹原和友と言います。今日はスペルカードルールの説明に参りました」

 

「そんなことは知っているわ」

 

 

 少年の作業的な言葉に不機嫌になったのか、レミリアの表情が僅かに曇る。対して少年は特に表情を変えることなく、レミリアに視線を集めたまま動かなかった。

 

 

「貴方も理解しているでしょう? それは建前の話よ」

 

「…………」

 

 

 レミリアの質問には返答しない。「理解しているでしょう?」その言葉が本気で放たれていたとしたら答えるべき言葉は一つだけである。

 それは、「理解していない」という言葉だけだった。

 

 

(目的については最初から疑わしかったけど―――こうまではっきり言われるとそれはそれでなんだかすっきりするね)

 

 

 少年は、スペルカードルールの説明をするという目的を懐疑的に思ってはいたが、大真面目にスペルカードルールの説明をするために紅魔館へとやってきた。

 何度でも言おう―――少年の紅魔館へ来た目的はスペルカードルールの説明だ。今後問題を起こした際にはスペルカードルールを適応して戦闘を行うということを知らせる警告である。それ以外にはない。

 

 

(だとしたら僕は何のために紅魔館に来たのだろう?)

 

 

 レミリアが口にした建前の話だという言葉が本当ならば、少年は最初から嵌められていたということになる。紫の紅魔館へ行って欲しいと、スペルカードルールの説明をしてほしいという言葉は、最初から嘘に塗り固められていたということになる。

 

 

(何のために呼ばれたのだろう?)

 

 

 建前の話ということは、本質的な部分は別にあるということだ。紫が考えたのか、目の前にいるレミリアが考えたのかそれは分からないが、目的は別の所にあるということだ。

 だとすれば、本来の目的は何なのだろう。

 自分が紅魔館へと来なければならなくなった理由は何だろうか。

 自分ができることは何なのだろうか。

 

 

(紫は、僕に何をしてほしいんだろう?)

 

 

 紅魔館へと行かせた紫の意図が何なのかを考える。

 何のために自分が選ばれたのか。

 何のために紅魔館に来たのか。

 何のために―――ここにいるのか。

 そんな少年の思考回路を遮るようにレミリアの言葉が入り込んだ。

 

 

「今回は、紫が大事にしているという人間が見たかったから都合をつけただけ」

 

「あ、そうですか」

 

 

 思考を堂々巡りする疑問に対する答えは、目の前の少女から与えられた。どうやら紅魔館に来た目的―――紅魔館から呼ばれた目的は、自身の物珍しさからというもののようである。

 確かに人里でも注目を浴びているし、何よりも八雲紫の所にいる人間で傍にいつも八雲藍が控えているというのは、相当な注目を集める要因となっている。

 結果として紅魔館の人物に目をつけられたということなのだろう。

 

 

「それならば私からのスペルカードの説明は要らないということですね」

 

 

 少年は、声色に何一つ色を乗せずに無表情のまま言葉を口にする。

 紅魔館へと来た目的が無くなった今、少年が紅魔館に留まる理由は一切ない。無駄足ではなかったが、特に得る物もなかった。知り合いが増えただけ。変わったものがあっただけいい時間を過ごせたと言えるだろう。

 今日という一日には満足した。

 後は帰って、藍の相手をして、紫の相手をして眠るだけだ。

 咲夜は、無表情で怒っているようにも見える少年に謝罪の言葉を述べた。

 

 

「特に用事もなかったのにもかかわらず、お呼びたてて申し訳ありません」

 

「咲夜、謝る必要はないわ。目的なんてあってないようなものだもの」

 

 

 謝る咲夜に対して即座にレミリアから静止がかけられる。その顔には不敵な笑みが浮かび、瞳は少年を射抜くように見つめていた。

 

 

「この人間はどのみちここ―――紅魔館に来ることになっていた。来る理由なんて所詮後付け、どうでもいいことよ」

 

「来る理由がなかったということは、私の用事はないということですね。少し疲れてしまったので帰ります」

 

 

 踵を返し、部屋を出ようと後ろ向きに歩き出す。先程閉まってしまった扉を開けてマヨヒガへと帰るために足を出口へと向かわせる。

 スペルカードの説明責任が無くなった少年が、怪我を負っている少年が、マヨヒガが現在の家である少年が、これ以上紅魔館にいる理由は―――何一つない。

 レミリアは、帰ろうとする少年に慌てて椅子から立ち上がると叫び声をあげた。

 

 

「帰すわけがないでしょ!」

 

「私にまだ何か用があるのですか?」

 

 

 少年の外へと向かっていた脚は、レミリアの叫び声を聞いて止まる。そして、少年の体がくるりとその場で反転した。

 まだ、何かあるのだろうか。少年が紅魔館でやらなければならないことはもう何もない。

 レミリアは、少年があまりにもそっけない対応を取ることにしびれを切らし、単刀直入に告げた。

 

 

「人間、私の下に来なさい」

 

「君の下に?」

 

「そうよ。あんな胡散臭い奴よりはよっぽどましでしょう? 私の下につくというのなら、紫のところよりもいい待遇で迎えるわ」

 

 

 何を言っているのだろうか。

 何を知っているのだろうか。

 僕は君のことを何も知らないというのに。

 名前すら知らないというのに。

 君が僕の何を知って、紫の何を知っているのだろう。

 どうしてなにも知らないのに―――紫をけなすような言葉を平然と口にできるのだろう。

 紫に対する敵対心があるのか。対抗心があるのか。

 自尊心の強さからきているものなのかは分からない。

 

 

(知らないから何とでも言えるってことか。知らないから、何も分かっていないから―――そんな簡単に言葉を口にできる)

 

 

 紫よりも良い待遇で迎える。

 今の待遇を知って言っているのだろうか。

 きっと知らないのだろう。

 知らないから口にできるのだろう。

 知っていたら―――口が裂けても言わないはずだ。

 

 

「貴方は、何が欲しいのかしら?」

 

 

 レミリアは、とにもかくにも少年を紅魔館へと引き入れたかった。美鈴との勝負を見たときから心を動かされ、手に入れると決めていた。

 あの輝きが。

 あの美しさが。

 自分に足りない部分のような気がして。

 ないものを持っている少年を紅魔館に入れることで補完できると。

 あわよくば自分も持つことができるのではないかと。

 そんな思惑から―――手にいれようとしていた。

 少年は、勧誘をしてくるレミリアに対して明確に断る意思を示す。

 

 

「私は、貴方の下へは下れないよ」

 

「……どうして?」

 

 

 レミリアは、はっきりと答える少年に目を見張った。

 少年が紅魔館へと下ることに何の問題があるというのだろうか。少年を惹きつけるものが自分にはなくて八雲紫にはあるというのだろうか。

 少年は、八雲の連れ子というだけあって本当の両親はすでにいないはずだ。いたとしても、幻想郷の人間ではないことは容易に想像ができる。両親がいるからという理由が断っている理由になっているとは考えにくい。

 ならば、少年が八雲紫の下に留まっている理由は特にないはずである。

 あるとすれば、借りがあるからというもの―――その程度のものでしかないだろう。借りであるならば、別段紅魔館にいても返せるはずだ。さらに言えば、少年に代わりに少しばかり借りを返すこともやぶさかではなかった。

 

 

「八雲紫に借りがあるから? それとも弱みでも握られているとか? だとしたら私が何とかしてあげるわよ。紅魔館へと下るのならば、そのぐらいは肩代わりしてあげる」

 

「そうは言うけれども、私の代わりに肩代わりできるとも思えません。それに、仮に肩代わりできたとしても、私が紅魔館へと入ることはないでしょう」

 

 

 どうして、こうもすんなり提案を断るのだろうか。

 それほどに八雲紫の場所の居心地がいいというのだろうか。

 レミリアは、自らの提案を即座に断った少年に対して疑問をぶつけた。

 

 

「そんなにあいつの所が良いというの?」

 

「そうじゃない」

 

 

 少年の首が横に振られる。

 少年がレミリアの下につくことをよしとしない理由は、はっきりしていた。

 

 

「ここには、私が必要としているものがない」

 

 

 断る理由―――紅魔館に少年の思い描く未来を達成するための断片が見つからないから。

 少年の希望を実現するための要因が見当たらないから。

 喧嘩を売っていると思われるかもしれないけど。

 これだけは分かってもらわなければならない。

 少年は、自らが想っていることを口に出した。

 

 

「私は、人を見る目はある方だと思う」

 

 

 少年から見たレミリアは、確かに凄まじい存在感を放っている。きっとその感覚に違うことなく素晴らしい能力を持っていることだろう。

 

 

「君はとても優秀な能力を持っている。それは見ただけでなんとなく分かる」

 

 

 それは―――藍のような圧倒的な身体的運動能力なのかもしれない。

 それは―――紫のように世界に影響を与えるような特別な特殊能力なのかもしれない。

 それは―――永琳のように無限ともいうべき知識の連なりなのかもしれない。

 けれども、そんなものは少年にとって何の意味も持たないことである。

 息を吹きかければ飛んで行ってしまうような、そんなどうでもいいもの。

 ―――どっちでもいいものの一つである。

 

 

「僕には決して届かないような凄い力を持っているって、感じ取れる」

 

 

 少年は、長い間あるものを探していた。病気を患ってから半年間、ずっと探し続けてきた。

 少年の探しものは―――未だに見つかっていない。

 本当に存在するものなのかも分からない。

 この世界には存在しないものなのかもしれない。

 それでも、探さなければいけないものなのだ。

 必ず見つけなければならないものなのだ。

 望んでいる未来のために必要なピースの一つなのだから。

 それを持っている人を―――今も探している。

 

 

「だけど、君はきっと最後の最後まで立っていないから。君じゃ、探しものは見つけられない。僕の探しものになることもできない。君の誘いを断っている理由は、それだけです」

 

「……言ってくれるわね」

 

 

 レミリアの眉がピクリと動く。

 少年の言動は、紫の方が少年の希望に沿っている人物だというふうに聞こえた。まるでレミリアが紫よりも劣っていると告げられているように聞こえた。少年のお眼鏡に適っていないと言われているように感じた。

 

 

「私が紫よりも劣っているというの?」

 

「劣っている?」

 

 

 少年は、レミリアの疑問を繰り返した。

 それは余りにも筋違いな疑問だろう。

 先程も述べたように、少年の探しものは未だに見つかっていない。

 紫は、可能性の一つというだけであって少年の求めるものではない。

 そもそも、劣っているという感覚が間違っているのだ。

 

 

「何を勘違いしているのか分からないけど、君が劣っているなんて一言も言っていないよ。君と紫とは違うって言っているんだ」

 

 

 少年の求めているものは、能力の高さによって一概に決まるものではない。

 例えば、呼吸を意識的にできるか、無意識で行っているか程度の違いでしかない。できたところで何かの役に立つわけでも、能力として目を見張るような何かには決してなりえないものなのだ。

 

 

「君と紫の違いを言えば―――紫は、僕のことを縛ることができる。僕を自らかけた鎖から離すこともできる」

 

 

 紫にあってレミリアに無いものは、少年の行動を制御できるだけの強固な鎖である。

 紫と少年の目標地点は一致している。目標地点にたどり着くために抱えている意志の大きさはお互いに変わらない。もしも少年が横道に逸れるようなことがあれば、少年を引き戻しにかかるだろう。少年が道を逸れずに走っている間は、後ろで見守ってくれるだろう。

 そんな紫と違っているのだ。目の前の少女には少年の意志を捻じ曲げ、通るべき道を指さ示すことのできる先動力と先見性が足りない。

 目の前の少女は、自分と同じ未来を想定することができない。自分と―――紫と同じ未来を想定できない。

 少年は、レミリアに向けてはっきりと断言した。

 

 

「君じゃ、僕は縛れないって言っているんだよ」

 

「私の鎖は絶対に貴方を逃がしはしないわ。私は、欲しいと思ったものは必ず手に入れて見せる」

 

 

 挑発するような少年の物言いに苛立ちを隠せず、レミリアの声が大きくなる。

 何が少年にそうさせているのか。

 何が少年にそうまでさせるのか。

 きっと、私にとって碌でもないもののせいだ。

 そのせいで―――こんなに苛立っているのだ。

 レミリアは、高圧的な表情で見下すように自らの力を僅かに開放する。そして、相手を委縮させるような力を放ちながら口を開いた。

 

 

「そう―――運命が決めているのよ」

 

 

 ―――運命という言葉を聞いて少年の表情が悲しみに染まる。

 運命―――未来に必ず起こることを指し示すもの。

 だとすれば、すでに大きな運命の鎖に繋がれている。決して断ち切れない太い鎖によって引きずられている形になっている。

 鎖に繋がれた先へと向かう進路は、ちょっとやそっとのものでは曲がらない。少なくとも目の前の少女が繋ぐ鎖では、微動だにしないだろう。

 少女が繋ぐような鎖では、進路変更さえもできやしない。

 変えられるものなら変えてみろ。

 そうなれば―――願ったり叶ったりだ。

 

 

「運命なんて緩い鎖で僕を繋ごうとしても無駄だよ。そんなものすぐに断ち切れる。僕の縛られている鎖よりも大きい物、縛るならもっと丈夫な鎖が必要だ」

 

 

 少年の表情が真剣なものに変わる。

 

 

「それこそ、地球を縛るぐらいの大きな大きなものがね」

 

「だったら試してみる? 私の鎖がどれほど強固なのか」

 

「縛れるものならね。僕を縛ることができるほどに強固な鎖なら、僕は君の下に下るよ。僕の夢を現実に呼び出すためのきっかけになる」

 

「人間の癖によく言うわね」

 

 

 売り言葉に買い言葉を返すように言葉が飛び交う。

 レミリアは、少年の言葉に不敵に笑った。

 少年は、レミリアの下へと下るにしても、相手を利用するという立場を変えるつもりはないと明確な表現をしていた。

 妥協なんてしない。目的を達成するためにできることは全てやろう。死ぬまで後1年と半年と言われているこのごに及んで、目的のために言葉を選んでいる余裕はなかった。仮にここで紅魔館に下るとしても、目的のために使わせてもらうという意思を変えるつもりはなかった。

 

 

「さすがに紫が目を付けただけはあるということかしら」

 

 

 余りに人間離れしている。

 力を見せつけても少しもひるまない。

 まっすぐな瞳。

 曲がらない意志。

 そのどれもが先程放っていた輝かしさを覗かせる。

 さすがに妖怪の賢者に連れてこられた人間というだけあり、肝が据わっている。

 美鈴と闘っていた時からうすうすと感じ取れた部分だ。

 相手側の力が強くても諦めない姿勢は、嫌というほど見させてもらった。

 しかし、圧倒的な恐怖を前にしても、相手が殺す気で向かってくる場合においても、同じことを口にできるのだろうか。命の保証がない中、戦う姿勢を保てるのだろうか。

 レミリアは、少年の変わらない態度にある考えを思いついた。

 

 

「試してみるか……」

 

 

 レミリアの顔がそっと隣に控えている咲夜へと向けられる。そして、その口からは普段ならば絶対にしない思考回路の帰着が告げられた。

 

 

「咲夜、こいつをフランの所に連れて行きなさい。あの子に会った後でもその減らず口が叩けるか、試してみるわ」

 

 

 咲夜の目が信じられないものを見るかのような瞳に変わった。

 レミリアは、戸惑う咲夜に早く行きなさいと目線で答える。

 どうやら何の冗談でもなく、本気でおっしゃっているようだ。

 咲夜は、レミリアにだけ聞こえるように小声で問いかけた。

 

 

「何を考えていらっしゃるのですか? 妹様に会わせるなんて、下手をしてしまえば死んでしまいます」

 

 

 少年を妹様という人物に会わせることには多大な不安要素がある。

 咲夜の知っている妹様は、情緒不安定で何が起こるか分からないという人物である。結果としていつも帰着するのは破壊という結果だけなのだが、そこに少年を通す意味が分からなかった。

 ―――少年を壊すつもりなのだろうか。

 少年の態度が悪く、苛立っているせいだろうか。

 咲夜は、レミリアが少年の態度に苛立ちを覚えて妹様のところへと送ろうとしているのではないかと考えた。食料の一部、死んでもいい人間という判断を下したのならば、ありえる可能性だ。

 いや―――八雲の一員である少年にそれはあり得ない。

 これは、八雲紫への挑戦なのだろうか。

 なんにせよ、止めなくてはならない。

 従者として、明らかに間違っている道を歩もうとしている主を止めなければならない。

 咲夜は、レミリアを止めるべき言葉を口にした。

 

 

「もしも、先ほどの笹原の言葉でお怒りになられているのでしたら……」

 

「そうじゃないわ。確かに生意気なところもあるけど、私はそこまで短絡的じゃない。それこそフランじゃあるまいし……」

 

 

 レミリアは、怪訝そうな表情で返答を待つ咲夜に自身の気持ちを伝えた。

 

 

「死にそうになったら無理矢理にでも止めなさい。さすがに殺す気まではないわ。パチェにも話を通して連れて行きなさい。そして、もしもの時は手伝ってもらいなさい。そこまですればさすがに大丈夫でしょう」

 

「……分かりました」

 

 

 レミリアは、別の人物を加えることで保険の厚みを厚くする。

 パチェ―――また知らない人が出てきた。だけど、パチェという人物は相当に信頼の厚い人なのだろう。その人物が出た途端に咲夜から感じられた感情の起伏が小さくなった。

 少年は、二人の様子を茫然と眺めている。

 咲夜は少年の下へと近づき、一言声をかけた。

 

 

「笹原さん、付いてきてください」

 

「分かりました」

 

 

 拒否権などないだろう。あれば最初からここまで来ていない。断って帰ることができるのならば、とっくに帰ることができている。

 こういう時ばかりは自分の力の無さに悲しくなった。

 力が弱いから、我を押し通すことができないのだと無力さを呪った。

 だけど―――それでこそだ。

 これが普通だ。

 意見がかみ合わず、議論になって押し合いになる。

 ぶつかってぶつかって、どちらかが壊れるか。

 それとも、間を取るような折衷案が出てくるか。

 そんな普通のことが起こっている。

 そして、今は自分が力で負けているから従っている。

 そんななんてことはない―――普通のことが起こっている。

 起こることのなくなった少年の周りで―――普通の出来事が起こっている。

 それだけで―――提案を受けてもいい気がした。

 そんなどうでもいいようなことが気持ちを前に向かせていた。

 

 

「案内、よろしくお願いいたします」

 

 

 少年は、咲夜の後ろ付き従うように歩き出す。扉から部屋の外に出る際に一度レミリアに頭を下げて、新たな目的地へと移動して行った。

 少年の後姿はもう部屋からは見えない。

 

 

「あの人間がフランに会えば、何かが変わる……そんな気がするのよ」

 

 

 レミリアの口からボソッと呟かれた。

 そっと目を閉じながら。

 僅かに先にある未来を想像しながら。

 その時が来るのを―――椅子に座して待った。

 

 

 

 咲夜と少年の二人の足音が真っ赤な廊下に響き渡る。

 目的地はどこなのだろうか。会ってほしい人物がいるようだったが、その相手を少年は知らない。現状、ただついてきてくださいと言われたから、ついて行っているだけである。

 黙ったまま廊下を突き進む。そして、数十メートル進んだあたりだろうか、咲夜から少年に向けて疑問が口にされた。

 

 

「どうしてお嬢様からの誘いを断ったの?」

 

「言った通りだよ。あの子では‘最後の場所に立てない’それだけ」

 

 

 きっぱりと理由を述べる。

 思うがままの、そのままの理由を口にした。

 

 

「どういうこと? 意味が分かるように言ってもらえないかしら?」

 

「分からないってことは僕のことを知らないってことなんだよ。それだけで断る理由になる」

 

 

 咲夜には、少年の言葉の意図が読み取れなかった。

 最後の場所に立てないというのはどういうことなのだろうか。

 妖怪の賢者は、最後の場所というのを知っているのだろうか。

 お嬢様がついてこられないところ、そんな場所―――あるのだろうか。

 少年はそれが分からなかったら、前提条件を満たしていないというように言っている。

 確かに会って数時間の自分達には、理解できないことなのかもしれない。

 これ以上追及しても何も話してもらえないだろう。

 咲夜はこれとは別にもう一つ、心に中に湧き上がっている疑問を口にした。

 

 

「断るにしても、なんでお嬢様に向かって挑発するような言い方をしたのよ? 妖怪の賢者をけなされて怒っているの?」

 

「怒ってなんていないよ。僕はそんなことで怒ったりしない」

 

 

 レミリアの言葉で怒りを感じたところは何もなかった。

 例え、それが藍に向けられていたとしても。

 親に向けられていたとしても。

 ―――怒ることはなかっただろう。

 なぜならば、ものの価値が人によって違うのは当然のことだからである。

 人によって価値など様々だし、ものの見方は無数に存在する。

 少年にとって価値があるものがレミリアにとって価値のあるものとは限らない。

 同じ人間じゃないのだから―――違って当然なのである。

 

 

「僕にとっての紫とあの子から見た紫で見え方が違うのは当然なんだから。僕とあの子は違う生き物なのだから―――違って見えて当たり前なんだ」

 

 

 少年にとっての紫。レミリアにとっての紫。

 ―――違いがあるのは当然だ。

 少年にとっての藍。紫にとっての藍。

 ―――違いがあるのは当然だ。

 人によって違っている。

 それが普通で、それが当然だろう。

 

 

「妖怪に向かって人間を食べるなんておかしいって、言うかい?」

 

「……言わないわ」

 

「その考えはおかしいって言われてどう思う?」

 

「口にしている言葉と同じで頭がおかしい人もいるものね―――そう思うわ」

 

 

 妖怪に近しい人間ならば、人間を食べるのはおかしいとは口にできないだろう。

 外の人間ならば、大部分が人間を食べるのはおかしいと口にするのだろう。

 

 僕は―――どっちも間違っていないと思う。

 どっちも、それを口にしている人からすれば正しいことなのだろうと思う。

 

 イスラム教徒の人間に、豚肉を食べるのはおかしいと言うのだろうか。

 鯨を食べている人間に、それを食べるのはおかしいと言うのだろうか。

 そんなもの、見る人によって違うはずだ。

 おかしいと判断しているのは、判断している人の価値観によるもの。

 その人の感覚からしたらおかしいと思われている。

 だから、その人はそれを守っている。

 だから、その人はそれを破っている。

 ―――それだけのことではないのだろうか。

 

 

「そう、それだけでしょ? 分かってもらおうなんて別に思わない。自分と相手の見えている世界は違っているんだから。その人は、そういう考えなんだなで終わりなんだ」

 

 

 偶にはき違えている人がいる―――私達は皆同じ人間だと言う人がいる。

 僕には、この言葉が何を言っているのか理解できなかった。

 そんなわけがない。

 同じ人間のわけがない。

 僕が区別してきた人間はみな別人だった。

 みんな一人一人、別の人間だった。

 

 

「あの子にとって紫はそういう存在だった。それでいいじゃないか―――それがいいんじゃないか」

 

 

 全く同じだったら気持ちが悪いとなぜ思わないのだろうか。

 好きなものも同じ。

 嫌いなものも同じ。

 やりたいことも同じ。

 考えていることも同じ。

 まるで―――同じ人間が二人いるみたいだ。

 そんな人がいたら―――その二人を区別しているのは何なのだろうか。

 それはもう同じ人間ではないのだろうか。

 自分の隣にそんな人がいたら―――気持ち悪いとは思わないのだろうか。

 

 

「それに、理解しようとしていない相手に理解させる力なんて僕にはない。分からない人には分からなくていい。自分が大切に思っているだけでいいんだ。他人にとやかく言われても、自分が分かっていればそれでいいんだよ」

 

 

 大事にしているものが貶されても、自分が大切に思っているのならそれでいいだろう。

 自分がそう思っている―――それだけで十分じゃないか。

 それ以上の何かが必要なのだろうか。

 野球が好きだったとして、友達がサッカーの方が面白いと言った。

 その子は、野球よりサッカーが好きなんだな。

 それだけのことだろう?

 これが面白いと思った。

 友達にはそれが面白くなかった。

 ―――そっか、友達にとっては面白くなかったんだ。

 それだけのことだろう?

 何も相手には求めない。

 自分を押し付けない。

 相手は相手。

 自分は自分だ。

 ―――それに、対象が紫ということに限って言えば特別である。

 

 

「貴方もあの子も、きっと心の中では分かっているはずだから」

 

 

 咲夜は少年の言葉にハッとした。

 ‘分かっている’その言葉に心が無意識に頷いた。

 何も分かっていないのに。

 頭では何も理解していないのに。

 納得する自分が確かに心の中にいた。

 少年は、表情の変わった咲夜を見て優しそうな笑みを浮かべる。

 

 

「だから―――僕は何も言わないだけだよ」

 

 

 そんな少年の表情からは、何も読み取れなかった。



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フランに会うということ、目的への準備

未来を思い描こうとして失敗する少年。
連れられた先は、紅魔館の主であるレミリアのいる部屋。
勧誘され、それを断る少年。
得られるものがない。
欲しいものがそこにはないという理由で。
少年は、流されるようにフランと呼ばれている人物に会うために移動を開始した。



 少年の前方には常に咲夜の後姿がある。少年は、咲夜の背中を視界に収めながら廊下を歩いていた。

 目的地は、レミリアが口に出したフランという人間がいる部屋である。

 

 

(やっぱりこの真っ赤な空間は目に悪いな。目の前に咲夜さんがいなかったら頭がおかしくなりそうだ)

 

 

 廊下は相も変わらず真っ赤に染まっており、目に悪い。常に圧迫感を感じる。まるで自分が赤しかない世界に飛び込んでしまったのかと錯覚してしまいそうになる光景だった。

 目の前にいる咲夜がいなけば本当にそう思っていたかもしれないほどに―――赤しかないのだ。こんなところで生活している紅魔館の人間は凄いなと思わずにはいられない。

 そんな紅魔館の一員である咲夜は、後ろから聞こえている少年の足音を聞きながら、心の中に徐々に不安が立ち込めてくるのを感じていた。

 

 

(笹原を妹様に会わせて大丈夫かしら……)

 

 

 咲夜の経験則から言って、人間をフランに会わせるという行為は一直線に死に直結する。そこに例外があったことは今までに一度だってない。

 食料となるべき人間だったという前提条件があるものの、次の日に生きていたことが一度もない時点で、生き残ることが非常に難しいことは分かる。

 そんな場所に少年を送り出していいものか。例え、主であるレミリアの命令だとしても死ぬ可能性が高いところに送り出してもいいものか。

 今やっていることは―――少年を殺す行為を補助しているのではないのか。

 その疑問に対して否定する言葉を用意できない。

 ただ、それを考えてもどうしようもできない実情がある。主であるレミリアに対して何も言うことができてなかったという結果はさっき出ている。言い分を認めたという結果が示されている。

 これからのことを考えると気が滅入る。気持ちが重くなる。

 咲夜は、意図せずに少しトーンを落とした声で少年に話しかけた。

 

 

「笹原、妹様は……少し、気性の荒い方というか……」

 

 

 これから少年が会うことになっているレミリアの妹―――フランは、単刀直入にいうと情緒不安定な吸血鬼である。

 性格面の話をすれば、誰かの言うことを素直に聞き入れるような者ではなく、遊びたい、壊したいといった感情に支配されることが多い人物で、抑えの利かないブレーキのかからない暴走マシンのような印象を持っている人物である。

 フランが情緒不安定ということは紅魔館の人間ならば周知の事実であり、この評価をしているのも紅魔館の人間ではあるが、少なくとも危険な人物であることは、フランドール・スカーレットという人物を知っている者ならば誰もが口を揃えるだろう。

 俗にいえばそれは―――狂気に満ちているということだ。

 どんどんとフランの部屋へと近づくにつれて心に不安が募ってくる。そして、心にかかる負担を減らすように咲夜の口からは言葉が吐き出された。

 

 

「少々気難しい方なので気を付けなさい」

 

「気を付けるって……何をどう気をつければいいの?」

 

 

 少年は、咲夜の言っている言葉の詳細が分からず尋ね返した。

 

 

「それって下手に出ればいいってこと? 褒めるような言葉を並べればいいってことなのかな?」

 

 

 気を付けてくださいというのは、何ともアバウトな表現である。特にこれから会う人物がどんな人物なのか分からなければ、どう対処していいのか皆目見当もつかないし、想像することも難しい。

 気難しい方だという咲夜の口から出た言葉の万能性も、少年の判断の基準を鈍らせている。結局のところ咲夜の気を付けてくださいという説明では、実際に会ってみるまでどうもしようがなく、対処のしようがないのだ。

 咲夜は、それもそうかと思いながら少年の問いかけに答えようと口を開こうとした。

 

 

「それは……」

 

「それは?」

 

「…………」

 

 

 咲夜の頭の中にレミリアの妹であるフランのことが巡る。頭の中で必死にフランドール・スカーレットの対処の方法を模索する。

 しかし―――考えてはみたものの何一つとしてフランに対処する方法が見つからなかった。

 フランに対しては、これをすればいいというような明確な対応方法が存在しない。これまで癇癪を起こした場合に対処した方法など、癇癪を起こした原因を絶ってやるか、新しいおもちゃで発散させるか、吸血鬼の嫌う流水で動けなくする対処しかしたことがなかった。

 アイデアが出てこないのは、対処しようとも思ってこなかったから。

 対処できた試しがないから。

 できたといえば、それは―――力ずくで止めたようなことしかない。それこそ、吸血鬼の弱点をついての強制停止しかない。

 それが、少年にできるのか。

 咲夜は、困った顔をしながら少年へと視線を向ける。

 

 

「それは……」

 

 

 少年にできること。

 美鈴と闘った時に少年の実力はある程度割れている。あの姿を見て、フランドール・スカーレットに対してできること。

 ―――何があるだろうか。

 

 

「僕にできることって何かある?」

 

「笹原にできること……」

 

 

 これまで対処してきた方法があるのならば、それをやればいいという話ではあるのだが―――力を持たない少年に自分たちと同じことをやれというのは酷な話である。

 別の所にフランの矛先を持っていくことも。

 フランの力に対抗することも。

 発散させるまで踏ん張ることも。

 流水のような吸血鬼の弱点に触れる行動をとることも。

 少年にとってはどれも非常に難しい。だからこそレミリアは、パチュリーを連れて行けと言ったのだろうが、少年自身ができることはこれといってなかった。

 情緒不安定というのはつまり―――少年にとって対処のしようがないということと同義である。

 フランドール・スカーレットという人物は、決まった入力によって決まった出力が返って来るような相手ではない。Aをすれば、Bが返って来るなどありえない。そんな相手に対して少年にできることなど何もなかった。

 咲夜は、淀んだ口調で少年に向けて分からない旨を伝える。

 

 

「ごめんなさい。私には分からないわ……」

 

「そっか」

 

 

 はっきりとしない咲夜の回答に対して返されたのは、余りにそっけない言葉だった。

 何を言われても特段不安はない。今まで会ったことがない人間に対して不安を抱えても仕方がない。結局不安を抱えても、覚悟をしても、未知のことが待っていても、未来なんてそんなものである。

 

 

「まぁ、何とかなるでしょ。何とかならないことなんて―――ほとんどないんだから」

 

 

 未来なんて―――行き当たりばったりの交通事故の連続だ。

 産まれたときからずっとそうだった。

 境界を曖昧にする能力に選ばれたことも。

 能力に対する努力をしてきたことも。

 能力に対する努力が実になったことも。

 今まで能力が他の人間に対して露見しなかったことも。

 紫と出会ったことも。

 幻想郷に連れてこられたことも。

 何もかもが偶然の産物でしかない。

 そして、少年が気にするのは―――いつだって自分のことではなく相手のことである。

 

 

「ただ、みんなも気を付けてね」

 

「え?」

 

 

 少年からの思いもしない台詞に、咲夜の表情がきょとんとする。

 少年の言葉は、あまりにも場の雰囲気に沿っていない。

 これから死地に向かうというのにみんなの心配をするのか。

 これまで送られた咲夜の言葉は不安を煽るような言葉しか含まれていなかっただろう。

 先程まで咲夜の顔に張り付けられていた表情も不安を募らせる要因の一つになっただろう。

 しかし、少年の表情には僅かな不安も見えず、咲夜からの影響を受けている様子は一切見られなかった。

 

 

「貴方は怖くないのかしら?」

 

「何も怖くないよ。僕が怖いのは、みんなに被害が出ないかというところだけ」

 

 

 やはり少年は変わっている人間だ。少年の関心は、どこまでいっても外へと向かっている。内に秘めている恐怖や不安よりも、外に対する被害を気にしている。普通の人間ならば、ありえない心の動きである。

 

 

「僕はみんなに迷惑をかけたくない」

 

 

 自分のことがどうでもいいのか。

 死にたいのか。

 だが、そんな雰囲気は感じない。あるのは、自分は大丈夫だから他の方を心配するべきだという様子だけだ。

 これまで死にそうになった経験がないのだろうか。

 他に何か特殊な力でもあるというのだろうか。

 ―――こういう雰囲気が興味を引くのだろう。

 こういう様相があるから、主であるレミリア・スカーレットが興味を持ったのだろう。

 

 

(お嬢様が笹原に興味を持った理由が分かった気がするわ)

 

「これから会う子は、みんなが気を遣う程度にはどこかが特異な子なんだよね。そんな子と僕が会って何かが起こらなければいいけど……いや、何も起こらないなんてありえないか……人と人が会って何も起こらないことなんてないんだから」

 

 

 この出会いが―――何かの引き金を引くことにならなければいいけど。

 自分が会うことで刺激を受けて、何かがどうにかならなければいいけど。

 なんて、これからのことを考えても何も浮かんでくるものはなかった。

 

 

「僕には、これからその子に会ってどうなるのか想像もつかないんだ。何があっても動揺しない気持ちは持っていた方がいいよ。きっと、想像以上のことが起こるから」

 

 

 相手の心に対してどれほどの影響を与えるのだろうか。

 能力の弊害を知ってしまっている今となっては、考えなければならいことの一つだ。考慮しなければならない項目だ。

 だが、少年は相手の心の影響を与えるような状況においても、自分という存在を曲げない。結局のところ、少年自身がやるべきことだと思っていることに向けて行動することになる。いつも通り迷いなく判断し、相手を引っ張り、率先することになる。

 少年は、咲夜に向けて忠告した。

 

 

「しっかり準備をしておいてよ。どうなるか分からない、どう注意すればいいのか分からないような相手に僕が会って、普通の結果にはなりはしないから」

 

(確かにそうよね)

 

 

 咲夜は、少年の言葉に押し黙った。

 少年の他人を巻き込む力は群を抜いている。

 少年には、人を惹きつける不思議な魅力がある。

 少年の姿は、人の心を強く揺さぶるのだ。

 それは、つい先ほど体験した。

 何度も立ち上がる―――存在感に。

 迷いなく前に突き進む―――力強さに。

 命が輝いている姿に―――視線が囚われた。

 そんな少年がフランと会った時にどうなるのか、想像することは酷く難しい。

 極端なことを言えば―――どうにでもなる、どう転んでも何も疑問を持たないだろう。

 

 

「だから、気を付けてね」

 

「ええ……」

 

 

 少年の言葉が頭の中を巡っていく。結局のところ咲夜には何もできなかった。これからフランドールと会う少年と同じように、できることなど何もなかった。

 しばらく歩き続けると、当初の目的地である図書館へと入る扉の前までやってきた。咲夜の足が扉の前でぴったりと停止する。

 少年は、咲夜が止まるのと同時に足を止めて咲夜へと視線を向けた。

 

 

「ここが図書館よ」

 

「紅魔館には図書館があるんだね。幻想郷で書物を扱っているのは、寺子屋ぐらいだと思っていたよ」

 

「意外と幻想郷で本を取り扱っているのは紅魔館だけかもしれないわね。私は他に知らないわ」

 

 

 少年は、幻想郷には寺子屋を除いて書物を扱っている場所はないと思っていた。ただ、書物があるといっても国語や算数、読み書きそろばん、歴史を習う場所である寺子屋の書物は、俗に言う教科書だけである。あるのが教科書だけでは、一概に書物があるということは言えないかもしれない。

 だが、寺子屋を除いてしまえば、幻想郷に書物を扱う場所は存在しないといってもいいだろう。それこそ、稗田家が書いている書物以外にはということにはなる。

 実のところ―――貸本屋である鈴奈庵(すずなあん)があるにはあるのだが、少年はその存在を知らなかった。

 

 

「幻想郷には、書物を扱っているところがあまりにも少ないんだよね。僕が知らないだけかもしれないけど」

 

 

 そもそも幻想郷という場所は外界から遮断された土地であり、技術の進歩から隔離されている土地である。外界との接点を絶った土地において、知識を蓄えている書物を扱っている場所など本来ありはしない。外の知識はそのまま妖怪の存在の否定になりかねないため、知識の宝箱である書物を幻想郷内に留めておくことにリスクがあるからである。

 しかし、紅魔館には書物が置かれている場所がある―――目の前にあるとのことである。

 図書館か――――外の世界でもあんまり行ったことないな。

 行ってみたいな。

 少年は、少しばかり心を躍らせ、笑顔をふりまきながら言った。

 

 

「もしよかったら、今度ここに本を読みに来てもいいかな?」

 

「それはパチュリー様にお聞きください。私には、ここで決定できる権限がございませんから」

 

「じゃあ、そうさせてもらうよ。何とかして許可をもらう」

 

「頑張ってくださいね」

 

 

 咲夜は、少年の笑顔につられるように笑顔を浮かべると当たり障りのない回答を口にした。少年は、唐突に敬語を使って話す咲夜に微笑みながら扉の方向へと目を向ける。

 咲夜の両手は図書館への扉へとあてがわれる。

 扉は、力を受けてゆっくりと開け放たれた。

 

 

「うわっ、凄いな。広いし、本の量も多い」

 

 

 扉が音を立てて開かれると、そこには大きな本棚が大量に並んだ光景が一面に広がっていた。

 天井は、数十メートルありそうな高さまで伸びている。中学校の体育館よりもはるかに広い。今まで見たことがないレベルの大きさ、蔵書量である。

 少年の足は、圧倒されるような空間の広がり方を見て扉の前で止まってしまっていた。

 咲夜は、感嘆する少年を置き去りにするようにして前へと足を進める。

 

 

「ほら、立ち止まっていないで行くわよ」

 

「はい」

 

 

 駆け足で咲夜の後ろに追随する少年の顔に満面の笑みが浮かぶ。

 知らないものばかりが視界を埋め尽くす。

 見たことないものばかりが頭の中を徘徊する。

 本棚には所狭しと本が並べられており、日本語からアルファベットから見たこともない文字が並んでいた。

 知りたいなぁ。

 読めるようになりたいなぁ。

 読めたら―――何かが変わるのかな。

 パチュリーという人に聞けば、教えてもらえるだろうか。

 これから初めて会うのに、それは余りに図々しすぎるか。

 じゃあ、どうやって勉強すればいいのだろうか。

 少年は、左右をきょろきょろと見ながら前へと進む。

 そして、ある程度進むと咲夜の足が唐突に止まった。

 

 

「うわっ」

 

 

 左右に意識を奪われていたため、あわや咲夜の背中にぶつかりそうになった。

 何が起こったのだろうか。状況を確かめるために、咲夜の背中から僅かに横に逸れて視界を確保してみる。

 すると―――少年の視界の中に初めて見る人物が入り込んだ。紫色の長い髪の物静かそうな雰囲気を持った女性が椅子に座りながら読書をしていた。

 咲夜は、ゆったりとした動きで頭を下げ、相手に向けて敬意を示す。

 

 

「パチュリー様、お時間よろしいでしょうか?」

 

 

 咲夜が話しかけている相手―――パチュリーは読書をする体勢から僅かたりとも動かない。視線を動かすこともないため、咲夜の声が届いているのかさえも判断できなかった。

 相当に集中しているのだろうか。もう一度話しかけないとダメなのでは―――そう思った矢先、パチュリーは視線を本へと落としたまま静かに口を開いた。

 

 

「血相を変えてどうしたのかしら? 瀟洒なメイドなら余裕を持ちなさい」

 

「申し訳ありません、事が事ですので」

 

 

 パチュリーの視線が本から咲夜へと移る。咲夜は、申し訳なさそうな表情でパチュリーを見つめていた。

 

 

「……厄介事ね」

 

 

 パチュリーは、咲夜が訪ねてきた理由が厄介事だということを瞬時に理解した。

 そもそも、咲夜がパチュリーの下に来る理由というのは、ごく限られた状況においてだけである。

 具体的に挙げれば、咲夜がパチュリーに話しかける時は、基本的に食事の準備ができた場合と面倒事があって手伝って欲しいという場合、レミリアからの用事の3パターンしか存在しない。

 そして、普段読書をしているパチュリーに対してできる最大限の配慮は邪魔をしないことである。

 つまり、気を利かせた場合には1つ目と2つ目の要件の場合はメモを置いておくか、後々もう一度来ることになるのである。

 それを破って話しかけてくるのは、十中八九レミリアからの言葉が飛んできたときだけだ。

 

 

「また、レミィから?」

 

「はい」

 

「それは、そこの人間と関わりがあることで間違っていないかしら?」

 

 

 パチュリーの問いに対して咲夜が一度だけ頷いた。その直後、パチュリーの目線が見知らぬ少年へと向けられる。

 紅魔館からほとんど出ないというか―――図書館からほとんど出たことのないパチュリーは、今まで見たことのない人間を目の当たりにして厄介事の原因がその人間であると見当をつけていた。

 少年は、パチュリーからの視線に応じるように頭を下げ、自己紹介をする。

 

 

「初めまして、笹原和友と申します」

 

「ああ、レミィの言っていた噂の人間ね」

 

 

 パチュリーは、少年の名前を聞いて状況を察した。

 これまでに聞いたことがある名前だ。いつだっただろうか。レミリアから少年についての情報を与えられている。話をした時期で言えば、1カ月ほど前だろうか。

 言えば―――八雲紫の連れ子とのことらしい。いかにも胡散臭い噂だった。

 

 

「関わるなって言ったのに……」

 

 

 パチュリーは、少年と関わることに反対の意見を述べた立場だった。八雲紫が関わっている人間と会うなど、静かに読書ができていればいいパチュリーにとってはあまり好ましくなかった。

 しかし、パチュリーは一旦言い出したレミリアの意見を捻じ曲げることもできずに、結局のところ目の前の現実―――少年が紅魔館へと来ているという光景を作り出してしまっている。

 やはり、止められなかった。パチュリーにあったのは後悔にも似た呆れだった。

 

 

「はぁ、仕方がないわね」

 

 

 パチュリーは、内心複雑な感情を巻き上げながら少年に自己紹介する。

 

 

「私は、パチュリー・ノーレッジ。ここ―――図書館を拠点にしている魔法使いよ」

 

「はい、これからよろしくお願いします」

 

 

 少年は、パチュリーの自己紹介に対して満面の笑みを浮かべて手を差し出す。

 握手をするつもりなのだろう。差し出された手が今か今かと待ち望んでいる。

 パチュリーは、少年の反応に思わず笑みを零した。

 

 

「本当に変わった人間ね。貴方は外来人でしょう? レミィが興味を持つのもなんとなく分からないでもないわ」

 

 

 少年は、パチュリーから変わった人間と言われる理由が分からず、不思議そうな表情を浮かべる。

 今までの会話や行動で変わった人間だと思われる要素があっただろうか。まだパチュリーと会ってからほとんど言葉を交わしていないし、時間を共にしたわけでもない。

 ―――それなのに見透かされた様に変わっていると言われている。

 少年は、パチュリーの変わった人間だと評価する言葉に不思議そうに問いかけた。

 

 

「そこまで私は普通の人間と違いますか? 自分ではあまり自覚がないのですが……」

 

「貴方と人里の一般の人間とでは全然違うわ」

 

 

 自覚のない少年に思わず笑みを浮かぶ。こういう人間を天然と呼ぶのだろうか。それとも無知な奴とでもいうのだろうか。

 少年は、すでに普通とは違う点を披露している。十分なほどに人里の人間との違いを見せつけている。

 

 

「人里の人間は、人間以外の種族に対して畏怖の感情を持ち合わせているのよ。自分より強い者に対する警戒心、命を守るための臆病さを兼ね備えているものなの」

 

 

 人間には、自己を守るための防衛本能が備わっている。人間が強そうな相手に会った場合に恐怖を少しながら感じるのは、命を失うのではないか、傷つけられるのではないかという想いに駆られるからに他ならない。

 相手が―――人ならざるものならばなおさらである。

 幻想郷の人里に住んでいる人間には特に顕著に現れる。

 遺伝子に刻まれているが如く―――恐怖心に火が点く。

 

 

「人里の人間は魔法使いと聞くと拒否感を示す。それは身に沁みついた性質、簡単に取り除けるものではないわ」

 

 

 人里の人間は外の世界の人間と異なり、命を脅かされる恐怖が周りに存在していることが非常に大きく影響している。

 

 

「生まれたときからずっと危険と隣り合わせで、身に沁み込むほどの教育を受けてきたんだもの。簡単に吹っ切れるはずがないのよ」

 

 

 人里の人間がまず学ぶことは、人里の中で生きていく仕組みである。骨にまで染み渡るような徹底した自己防衛のための知識、妖怪にどれだけ出くわさないように生活できるかというノウハウだ。

 人里の人間であれば―――魔法使いという人間じゃない者に出くわした際、僅かなりとも恐怖がにじみ出るはずである。命を取られるのではないかという緊張が走るはずなのである。

 しかし、少年は少したりとも表情を変えることなく、自然体でいた。それができるのは、幻想郷の人間を除いて外来人しか存在しない。

 

 

「けれども、貴方にはそれが全くなかった。表情からも、声からも、何も感じなかったわ。緊張もしていないんでしょう? 貴方は、何よりも楽しそうだもの。何者よりも楽しそうだもの」

 

 

 パチュリーは、魔法使いという単語に対する少年の反応の無さから人里の人間ではないことを把握した。

 ただ、それはあくまでも人里の人間じゃないということを判断した要素に過ぎない。変わった人間と表現したのは、別の理由からである。

 

 

「もちろんそれだけじゃないわ。貴方は他の人間とはどこか雰囲気が違う。纏っているものが―――まるっきり違うもののように感じられるわ」

 

「纏っているもの、ですか?」

 

 

 少年は、雰囲気が違うという核心に迫るような言葉に少し動揺しながら質問を投げかけた。

 雰囲気が違うという言葉は、今までもさんざん聞いたことがある言葉である。その言葉のどれもが、おおよそ軟らかい、安心するような感覚に陥るというものだった。

 ―――心の大きさに惹かれ、寄りかかっているということから来ているものだった。

 人間も、妖怪も、例に漏れていない。

 だけど、魔法使いからはどうなのだろうか。少年は、魔法使いが見た自分の存在がどのようなものなのか非常に気になった。

 

 

「貴方の纏っているものは……そうね、どう表現するのがいいかしら……」

 

「あの、お話の途中に申し訳ありませんが……」

 

 

 パチュリーが少年の質問に答えようと口を開こうとした瞬間―――横から言葉が挟み込まれた。

 少年とパチュリーの二人の視線が口を挟み込んだ人物である咲夜へと注がれる。

 咲夜は、このまま続いていきそうな会話の流れに口を出さずにはいられなかった。

 

 

「そろそろよろしいでしょうか?」

 

 

 このまま少年とパチュリーの話が続いてしまえば、与えられた目的を果たすことができなくなる。すぐにでも終わるような雰囲気があれば、少年とパチュリーの会話が終わるまで待っていてもよかったのだが、残念ながらその雰囲気が目の前の二人から感じられなかった。

 

 

「パチュリー様がこんなに笹原と長く話をされるとは思っておらず、時間がかかることを想定しておりませんでした」

 

 

 パチュリーは、もともと人と長く話すようなタイプではない。持ち前の喘息の持病もさることながら、会話の中身に興味を持たないことがほとんどである。

 魔法使いという種族だけあって魔法を発展させる、開発することに関心がある。そのために行っている読書による知識欲の充填に喜びを感じている人物である。

 会話が継続するのは―――魔法に関することを話しているとき。

 あるいは―――レミリアと話しているとき。

 この二つしかない。

 前者は、稀に訪れる魔法使いと話しているのを目撃している。

 後者は、付き合いが長いのかレミリアのお願いであれば話を聞いたり、その話を受け入れたりすることがしばしばある。

 ただ、余計な会話はほとんどしない。対象がレミリアであったとしても、べらべらと長話になるほど喋り続けるようなことにはならないというのが咲夜の中の通説だった。

 だから―――初対面の普通の人間である少年と会話が長くなるようなことは基本的にありえないと思っていたが、その想像は脆く崩れた。

 

 

「このままですと、お嬢様の目的が果たせませんから……」

 

 

 少年と話しているときのパチュリーは嫌に饒舌である。読書をするからとか、先にレミリアからの用事を済ませるからとか、何一つ言い出す気配はない。優先順位を度外視して少年と会話をしている。

 パチュリーは、咲夜の進言に僅かにハッとしたような表情を見せると謝罪した。

 

 

「ああ……ごめんなさい。それで、何の話かしら?」

 

「お嬢様が笹原を妹様に会わせるとおっしゃられました」

 

 

 咲夜の口から単刀直入に目的が告げられる。

 パチュリーの表情は、一気に無表情になった。そして、酷くつまらなそうに疑問の言葉が口から漏れ出した。

 

 

「…………それで?」

 

「もしもの時は、パチュリー様にご助力を願いなさいとおっしゃられていたので、お願いに来ました」

 

「フランに会わせるなんて本気で言っているの?」

 

「私は反対したのですが……少なくとも、お嬢様は本気のようです」

 

 

 パチュリーは、フランと会わせるという言葉を聞いて疑心暗鬼な様子を見せる。異議があるのは咲夜も同じである。咲夜は決してレミリアの妹であるフランドール・スカーレットに少年を会わせることを善しと思っているわけではない。少年とフランを会わせていいことなど何一つ見つからないからだ。

 最悪は、少年がフランに殺される。最善で五体満足で部屋から出てくる。無傷の帰還が最上の結果だといっている時点で、少年とフランに会わせるメリットは存在しなかった。

 パチュリーは、少し考え込むようなしぐさを見せるとぼそりと呟く。パチュリーの口から小さな小さな声が漏れた。

 

 

「レミィには、何かが見えたということかしら?」

 

「今何とおっしゃいましたか?」

 

「……いえ、何でもないわ」

 

 

 咲夜はパチュリーが何を言ったのか聞き取れず尋ね返したが、パチュリーは答えなかった。

 

 

「レミィが言ったんじゃ仕方がないわね。早速行きましょう」

 

 

 パチュリーは、一旦咲夜との話を区切ると素早く行動に移り始める。レミリアが言いだしたのであれば、紅魔館に住まうパチュリーにどうこうできる話ではない。

 レミリアのお願いの手伝いを断ることもできる立場ではあるのだが、先ほど自己紹介をしたばかりの人間を見殺しにするほど根が腐っているわけでもない。自分が行けば、高確率で少年を助けることができるだろう。

 

 

「笹原と言ったかしら……」

 

「そうです。間違っていませんよ」

 

 

 パチュリーの口から少年の名が自信なさげに呼ばれる。少年の名前は笹原で間違っていないが、自信がなさそうに言うあたり、少年に対する認識はパチュリーの中では低いようである。

 パチュリーの頭はこれからのことに向けて回転する。

 これから少年がフランという人物に会えば、少年の全てが壊れる可能性がある。全てが終わる―――人生が詰む。それは誇張でも過大評価でもなく、多くの人間がその道を辿っている。今一度、聞いておかなければならないだろう。

 ここで、行かないという選択肢を選ぶことだってできるかもしれないのだ。レミリアと話し合いをして今の状況を打開できるかもしれないのだから。

 パチュリーは、少年にここから先に進むのか問いかけた。

 

 

「一応私たちが貴方のフォローをするけれども、死なないということを保証することはできないわ。それでも行くの?」

 

「私に向けてその問いかけはどうなのでしょうか?」

 

 

 少年の表情がパチュリーの問いに不思議そうなものに変わる。

 パチュリーの問いは、今からならば行かなくてもいいといえるような選択が残っているような印象を受ける。ここで嫌と言えば、行かなくてもいいのだろうか。行きたくないと言えば、マヨヒガへと帰してもらえるのだろうか。

 そんなことは―――決してありはしないのに。

 彼女―――レミリアに限ってそれはない。あの目をしている人間は、自分の気持ちを曲げない。決めたことを変えたりしない。それは目の前の二人も分かっているはずである。

 なのに―――問いかけるのだろうか。答えはもう出ているんだ。あの時、行けと言われて付いてきた瞬間に答えは出てしまっているのだ。

 

 

「逆に聞きますけど、ここで行かないと言えば帰してもらえるのですか? 彼女は行けと言ったのですよ? 説得なんて無理だと思いますよ。彼女は言ったことを曲げたりしません」

 

「聞くまでもなかったわね」

 

 

 パチュリーは、僅かに口角を上げて笑みを作る。

 よく分かっている。まるで多くの時間を共にした人間のようだ。

 パチュリーは、真面目な表情に一転させて本を腕に回し、空いた方の手で進行方向を指し示した。

 

 

「フランの部屋は、この図書館を抜けた向こう側にあるわ」

 

 

 少年は、パチュリーの指し示した方角へと足を向けて前へと進む。パチュリーと咲夜は、少年を視界に入れながら付属するように真後ろを歩き出した。

 迷うことなく一直線に進む。本棚の間を縫うように示された方角を進む。

 パチュリーは、正面に少年の背中を収めながら隣を歩いている咲夜へと声をかけた。

 

 

「ねぇ、咲夜」

 

「どうしましたか?」

 

「どうしてレミィは、この人間をフランに会わせようとしていると思う?」

 

「それは……ただの気まぐれではないでしょうか?」

 

 

 パチュリーには、咲夜に話を持ち掛けられた時から気掛かりなことがあった。これから少年をフランに会わせるということだが、会わせる理由が全く見当たらなかったのである。

 そして、残念ながら咲夜もレミリアの意図は理解できていない。人間をフランに会わせる理由なんて、ストレスの発散か食事の意味を持つ以外に今までなかったのだから。少年が八雲からの使者だということを考えれば、食べさせる、殺してしまうということはないだろう。他の用途、他の理由があるはずであるだが―――それが分からない。

 咲夜はレミリアの真意が分からず、答え辛そうにパチュリーの問いに対して言葉を並べた。

 

 

「あるいは、笹原さんの態度が悪かったので意趣返しをもくろんでいるのかもしれないです」

 

「まぁ、その可能性も無くはないかもしれないわね」

 

 

 パチュリーは、咲夜の言葉に否定も肯定もしなかった。

 パチュリーの視線が少年の後姿を捉える。少年の背中からは不安も恐怖も感じられない。楽しそうに周りを見ている様子だけが目立って見えている。嬉しそうに、楽しそうに、心から喜んでいる。

 パチュリーは、少年の様子にそっとため息をついた。

 

 

「本当に、変わった人間よね……」

 

「そうですね……本当に変わった人です」

 

 

 そこまで話すと両者の口が塞がれる。沈黙が場を支配し、足音だけが聞こえる。

 二人は、少しだけ重くなった空気を抱えながら前へと足を進めていた。

 少年をこれから傷つけることになる。もしかしたら死んでしまうかもしれない。これから大変になるというのに、気持ちが上がるわけがなかった。特に神経を使うことになるのが目に見えていると、さらにやる気が削がれる気持ちだった。

 そんな気落ちしている二人に―――少年から予想外の声がかけられる。少年は、何かを思い出したように唐突に後ろを振り返って言った。

 

 

「そうだ、聞いておきたいことがあったんですよ」

 

「何かしら?」

 

「今度この図書館に本を読みに来てもいいですか?」

 

「……別にいいわよ。本を大事に扱ってくれるのならね」

 

「やった! あ、いえ、ありがとうございます……」

 

「ふふっ、貴方に読める本があるかしら? 少し探してみないといけないわね」

 

 

 本当に変わっている人間だ。重い空気をたった一言で一掃する。さっきまでの暗い雰囲気が一気に無くなった。

 

 

「私も探すのを手伝いますよ」

 

「助かるわ。その時はお願いね。人間が読める本なんて探すのは久方ぶりで、どこに置いているか覚えていないのよ」

 

 

 場を明るくする―――これが無くなってしまうのか。そう思うと同時に悲しさが込み上げてきた。

 そんなパチュリーの気持ちを知ってか知らずか、少年は満足した顔を浮かべながら再び正面を向いて歩き始める。先ほどよりも雰囲気が明るくなっている。そんな少年の後姿を見て余計に悲しい気持ちになった。

 

 

「貴方が無事に生きて帰ってこれたら、いくらでも読ませてあげるわよ……」

 

 

 ぼそぼそと呟かれた声は隣にいる咲夜の耳にだけ届いた。咲夜は、パチュリーの言葉に複雑な表情を浮かべる。

 無事に帰る―――その前提条件を達成することが何よりも難しいことを知っている。

 だけど、成し遂げなければならない。

 少年はフランと会うだけ。そんな少年を無事に帰す役目を担っているのは―――笹原を守る役割を果たさなければならないのは、咲夜とパチュリーである。

 

 

「私達が笹原を守ればいいだけの話です」

 

「咲夜……ええ、そうね」

 

 

 真剣な表情を浮かべる二人の目の前で、少年は相変わらず楽しそうに足を進めていた。




この紅魔館での話が終われば、原作に入れます。
感想でも書きましたが、原作に入れば、細かい説明などは極力外し、おおざっぱに説明するのでストーリーが長くなることはなくなると思います。
唯一不安なのが、フランについて書くのが不安ですね。フランが495年も地下にこもっていた理由は、想像で書くしかないのでもしかしたら合わない人がいるかもしれませんね。


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信用ありき、無知の歩み

これからフランと会う少年。
心配するのは、いつだって自分の周りの人間のことだけ。
途中で、付き人としてパチュリーも参加する。
少年の印象はーーー変わった人間。
いつだって、そんなものだった。


 図書館を過ぎたあたりで階段を降り、外の光が全く入らない地下へと足を踏み入れる。

 地下といっても、地上と景観が変わる様子は全くない。真っ赤な背景はいまだ継続の状態である。

 暫く歩き続けると正面に大きな扉があるのが確認できた。

 きっとここだろう。ここが目的地だ。

 他に見える扉はない。行く手を阻むようにある扉で行き止まりである―――ここでなかったら道を間違えたことになる。1本道で歩いて来たこの道が間違っていたことになる。戻ったとしても選ぶ選択肢はないというのに、間違っていたことになる。そんなわけがないだろう。ここが正解で、たどり着くべき未来だ。

 視界に入ったその扉の奥にフランドール・スカーレットという人物がいる。

 少年は、ゆったりとした動作で振り返り、パチュリーと咲夜に問いかけた。

 

 

「私が会うべき人がいるのは、ここで合っていますか?」

 

「「…………」」

 

「そうですか」

 

 

 パチュリーと咲夜は静かに頷き、少年の問いかけに肯定の意を示した。

 少年の視線が再び正面の扉に向けられる。少年は扉の前まで足を進め、軽く手を握った。

 

 

 ―――トントントン―――

 

 

 扉を3度叩く。無断でいきなり部屋の中へと入るようなことは決してしない。これはマナーである。少年は、自分がされて嫌なことは極力しないというか絶対にしない。

 嫌なことというのがほとんどない少年でも、ある程度の拒否したい領域がある。特に書き記す作業を行っているときに無断で入られるのは、驚きと嫌悪感に包まれることになる。見た相手側にとっても、見られてしまった自分側にとっても、両方にとって喜ばしくない結果が表れてしまう。

 フランドールにとってもそんな行動があるのかもしれない。そう考えると無断で入ることはできなかった

 

 

「…………」

 

 

 暫くの間扉の前で立ち止まり、茫然とする。

 しかし、いくら待っても扉の奥からのノックに対する反応はなかった。何も反応が返ってこない。もしかして部屋の中にいないのではないだろうか。本当にこの中に会わなければならない人物がいるのだろうか。

 少年は、不思議そうに二人に問いかけた。

 

 

「私が会うことになっているフランっていう相手は、確かにここにいるんですよね?」

 

「ええ、そうよ。ここにいらっしゃるわ」

 

 

 咲夜は、確かにフランという人物がここにいると言う。咲夜が敬語を使うあたり、相手の位が高いことは何となく想像できた。

 

 

「……反応がないな」

 

 

 暫く待ったが、ノックに対する反応が全くないため部屋の中に入ることが叶わない。まさか、勝手に入るというわけにもいかないだろう。少なくとも、勝手に入ってもいいという許可が得られなければ失礼に当たる。というよりもはや無礼である。

 このまま―――待つか。

 美鈴が起きるまで待っていた時のように。あのときのように待ってみるか。

 そう思ったが、脳内にある人の言葉が木霊した。

 

 

「変わろうとするのなら動きなさい。変化を待っていても何も変わらないわよ。貴方の問題は時間が解決してくれない」

 

 

 ―――その通りだ。変化を求めるのならば自ら動かなければ。この件も、時間が解決してくれるわけでもないのだから。

 

 

「勝手に入っても大丈夫ですか?」

 

「勝手に入ればいいわよ。そもそも、ここに入るときにノックをする人間なんて初めて見たわ」

 

 

 パチュリーは、薄く笑いながら言う。

 部屋に入るときにノックをしないのか。ここにといっているあたり、‘ここだけ’が特殊な扱いを受けているのか。

 フランという人物の扱いに少しばかり戸惑う。一体全体どんな扱いをされているのだろうか。

 そんなことはどっちでもいいことだ―――心の奥底から凄まじい勢いで湧き上がる疑問を無理矢理飲み込む。今やるべきことは分からない想いを打ち消すことではない。目の前の扉を開くことである。

 

 

「では、入らせてもらいますね」

 

 

 少年は、一言断ってから目の前の扉を開く。

 扉は大きな音を立てて開かれた。少年の視界が開けて部屋の全貌が明らかになる。

 開けた扉の先はとても薄暗い。気持ちまで落ち込みそうな淀んだ空間で、全体として暗い印象を受ける部屋だった。

 しかしながら―――そんな淀んだ雰囲気の部屋の中と外とで変わらない部分が一つだけあった。

 

 

「ここも真っ赤か……」

 

 

 ここまで来るともはや称賛したくなる。したくなる気持ちもあったが―――紅魔館の赤に敷き詰められた構造にうんざりした。

 紅魔館において赤色以外の色が見られるのは図書館を除いてないのかもしれない。

 そんなことを考えながら部屋全体に目を配る。

 部屋の中央には大きなベッドがあり、人形がそこらかしこに転がっている。中身の綿が飛び出しているのもいくつかある。散らかっている様相から見る限り、部屋の清掃はあまり頻繁には行われていないようである。

 

 

「あれは……」

 

 

 視線を感じる。少年は、薄暗い部屋の中からの視線に気づいた。薄暗い中で光り輝く視線が少年に降り注いでいる。

 ベッドに腰掛けている相手―――フランドールの真っ赤な瞳は興味深げに少年を映していた。

 少年は後ろにいる咲夜に問いかける。

 

 

「あの子が?」

 

「そうです」

 

 

 少年は、咲夜の答えで視線を向けられている相手がフランドールであることを認識した。

 随分と雰囲気が暗い。閉じこもった部屋の空気のせいだろうか。向けられている視線にも力を感じない。ぼんやりと見つめているような、曖昧なものを見つめているような―――そんな瞳だった。

 顔立ちはさっき会ったお嬢様と呼ばれていた人物とそっくりだったが、血縁関係を悟ることができる要素を暗い雰囲気が粉々に粉砕している。環境が違うせいなのか。それとも、血縁関係がないのか。少年には分からなかった。

 暫く視線を送っていると、視線のもととなっている相手はゆっくりと立ち上がる。そして、ゆったりと少年の方へ近づきながら口を開いた。

 

 

「貴方は、だあれ?」

 

「私は、笹原和友という人間です。今日は貴方に会うように言われてここまで来ました。よろしくお願いします」

 

「ふふふっ、人間ってこんな感じなのね。飲み物の形でしか見たことないから初めて見たわ」

 

 

 フランは歪な笑みを浮かべながら少年にさらに近づき、不敵に笑った。

 先程から思ってはいたが、やっぱり今まで会ったことのないタイプだ。何を想っているのか、何を怖がっているのか、何があったのかさっぱり分からない。きっと自分には分からないような想いをしてきているのだろう。きっと今まで見たこともないようなことを体験してきたのだろう。

 新しい者だ―――少年は、フランという人物に新しさを感じていた。

 フランドール・スカーレットは、少年の後ろに控えているパチュリーと咲夜に歪な表情を張り付けたまま問いかけた。

 

 

「咲夜もパチュリーも、新しいおもちゃを連れて来てくれたの?」

 

 

 おもちゃという単語を聞いて少年の目が細まる。

 おもちゃ―――それは玩具のことだろう。曲がりなりにも人間に向けて使う言葉ではない。

 咲夜とパチュリーは、フランの言葉に厳しめの顔を作った。

 

 

「妹様、違います。この方はお嬢様が招いたお客様です」

 

「あいつのお客様……?」

 

 

 フランは、咲夜の言葉に怪訝そうに呟きながら少年の全身を見渡す。

 その瞬間、パチュリーの手元にある本がそっと開いた。

 これが、パチュリーの臨戦態勢なのだろうか。本から何か飛び出してくるのかもしれない。そんなことを平常時であれば平然と考える少年だったが、悠長に考えている余裕は残念ながらなかった。

 どうしたらいいのだろうか。見渡してくるフランドールに対してどうしていいのか分からず、立ち尽くす。

 フランドールは、少年を見渡した後に機嫌が悪いことを全員に示した。

 

 

「ねぇ、咲夜もパチュリーも出て行ってくれないかしら?」

 

 

 フランの纏っている雰囲気は、誰から見ても不機嫌だった。機嫌が悪くなっている原因は、先ほどの言葉に含まれている“あいつ”が元となっているということは誰の目から見ても明らかである。

 しかし、不快になっている理由が分かったところで少年にできることは何もない。

 あいつ―――それは代名詞だ、固有名詞じゃない。少年に理解できるように話すには、少年の理解できる言葉で話さなければならない。

 咲夜とパチュリーにはあいつというのが誰のことなのか分かっているようだったが、少年にはあいつが誰なのかも、どうして機嫌が悪くなっているのかも分からなかった。

 咲夜は、出て行けというフランに向かってはっきりと無理だということを伝える。

 

 

「外に出て行くことはできません」

 

「どうして? 私、何もしないよ?」

 

「それでもです」

 

 

 フランは、表情を歪めたまま何もしないと言う。何もしないから安心して出て行って欲しいと言う。

 確かに、フランが少年を傷つけないというのならば特に咲夜とパチュリーが控えている必要はない。少年の身を守るためにここにいる二人は、目的が果たされるというのならば存在価値がなくなるからだ。

 しかし、咲夜はここでフランの要望を受け入れることができなかった。部屋から出られない確固たる理由があった。

 

 

「妹様が何をおっしゃたとしても、私たちはここにいます」

 

 

 フランと少年を二人きりにしてしまったらどうなるか分からないからだ。

 つまり―――信用がないのだ。

 ここで二人が部屋から出て行ってしまえば、少年に危害を加えられそうになった場合に止めることができるストッパーが存在しなくなる。二人きりにして少年に危害が及べば、レミリアに対しても八雲紫に対してもどんな顔を向ければいいのか分からなくなる。

 フランは、全く引く様子の無い咲夜へと問いかける。

 

 

「どうしてなの? 私に信用がないからなの? 私が危険だからなの?」

 

「…………」

 

 

 フランの問いかけに咲夜の口が詰まる。

 部屋を出て行くことができなかったのは―――フランの言葉を信じれば心配無用とのことなのだが、フランの言葉を信用できなかったからで違いない。部屋を出た場合、これまでのフランの行動から咲夜の脳裏に最悪の結果が予期される。これまでのフランのイメージが咲夜の脚をその場に留めていた。

 理由はある。出て行けない理由は口にされた言葉で間違っていない。

 けれども、それを直接フランへと告げる度胸が咲夜にはなかった。それがきっかけでフランドールが力を開放してしまったらという想像が頭から離れない。ここでフランドールに暴れられられたら最悪の状況が起こりうるかもしれないという恐怖が咲夜の口を縛っていた。

 

 

「妹様、それはですね……」

 

「そうよ、貴方に信用がないから。貴方に任せるとこの人間を殺してしまう可能性があるからよ」

 

(パチュリー様! 妹様は何をするか分からないのにそんなにはっきりと言ったら……)

 

 

 咲夜は、驚きを含んだ表情を浮かべてパチュリーを見つめた。

 パチュリーは、こんなことをはっきりと言う人物だっただろうか。

 これまでは、暴れるフランに対してのらりくらりとあしらって抑え込んできたはずである。特に怒るわけでもなく、ただ作業を行うようにフランを抑え込んできたはずである。レミリアに頼まれているからという理由で、読書を邪魔されるのが嫌だからという理由で、仕方がないからという理由で抑え込んできたはずである。

 それほどこの出会いが大事なのだろうか。咲夜は、パチュリーの対応に事の重大性を感じ取った。

 

 

(パチュリー様は、危機感を覚えていらっしゃるのかしら?)

 

「っ……」

 

 

 フランは、余りにはっきりと理由を述べるパチュリーに歯ぎしりをする。こうまではっきりと信用がないと言われてしまうと誰でも気分の良いものではないだろう。

 

 

(うーん、どうしたものだろう)

 

 

 少年は、3人のやり取りを静かに眺めていた。

 少年にできることは何もない。会えとだけ言われた少年は、何かを求められていたわけでも、何かを期待されていたわけでもないのだから。少年の視界は俯瞰するように場の状況を映していた。

 そんな中、フランから今にも殴り掛かりそうな雰囲気を醸し出され、大声で叫ぶ声が空間を支配する。

 

 

「出てって! この部屋から出て行ってよ!!」

 

「貴方がなんて言ってもここから出て行くことはできないわ。ここで笹原が死んでしまったら、いろいろと問題があるのよ」

 

「だから殺さないって! 私を信じてよ!!」

 

 

 フランは、手を大きく振り下ろして体全体で拒否の気持ちを表現する。少年を殺さないということを信じて欲しいと必死に訴える。

 しかし、フランの気持ちはパチュリーには届かない。パチュリーは何と言われても引くつもりなど微塵もなかった。ただただ、困った表情を浮かべているだけだった。

 困った顔―――そう、その表現が正しい。苛立ちを感じている様子は無い。怒りを感じる要素は何もない。困った、そう表現するのが最も正確な顔だった。

 なんだというのだろうか。どうしてこうなっているのだろうか。

 分からない、分からない。

 なぜ、こんなことを話しているのだろうか。

 なぜ、こんなことを言われているのだろうか。

 なぜ、退くに引けない感情に囚われているのだろうか。

 パチュリーは、内心で戸惑いを隠せていなかった。

 少年は、終わりのなさそうな言い争いを見てそっと咲夜に耳打ちする。

 

 

(ねぇ、この二人はいつもこんな感じなの?)

 

(いいえ、そんなことはないわ……こんなパチュリー様、初めて見たもの)

 

 

 咲夜は、余りに平常と違う二人の様子にただ呆然と立ち尽くす。

 少年は二人のやり取りを、遠くを見つめるような様子で視界に収める。

 目の前で起きている出来事に二人とも介入できなかった。

 そんな均衡状態のような緊迫した雰囲気の中、パチュリーはフランに向けて火に油を注ぐような言葉をぶっかけた。

 

 

「フランの言っていることは何も信じられないわ。どこに信用できる要素があるの? レミィだって心配だから私たち二人をこの人間に付けたのよ? 私たちが出て行ったら何の意味もないじゃない」

 

「それ以上言ったら殺すわよ!」

 

 

 フランの瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。心の中に溜めに溜め込んだ感情の起伏の最終的な最高値が口から吐き出される。感情の行き着いた終着点の殺すという物騒な言葉を口に出した。

 それは―――フランにとって現実的な案で、幻想でも妄想でも何でもない。フランの殺すという言葉には、これまで行ってきた所業を考えればそれだけの真実味があった。

 フランの殺すという物言いにパチュリーの顔が呆れたものに変わる。

 

 

「はぁ、やっぱり八雲の遣いである笹原を会わせるべきじゃなかったのよ」

 

 

 パチュリーは、踵を返して部屋の外へと体を向ける。これ以上ここにいても得られるものは何も言わないばかりに、一方的な終わりを告げた。

 

 

「戻りましょう。これ以上ここにいる理由はないわ。一応お目通りはしたのだし、もういいでしょう」

 

「パチュリー様……」

 

 

 パチュリーは、完全に少年とフランを会わせることを放棄しようとしていた。もともと会わせること自体に余り賛成でなかった身としては、これで十分だと思っていた。

 会わせたことには、会わせたのである。目でお互いの存在を確認した。

 

 

「笹原、出ましょう」

 

 

 咲夜は、複雑な表情を浮かべながらパチュリーに付き従おうと考えた。何よりも自らの心を支配する恐怖と不安に従おうとしていた。こうなってしまっては早めに部屋の中から出た方が良い。このままフランの部屋にいれば命の危険がある。

 だが、そんな流れに少年だけが逆らった。

 

 

「ねぇ、二人とも出てってくれるかな? 僕も、1対1で話がしたい」

 

「「「え?」」」

 

 

 ―――少年以外の人物からの声が綺麗に重なった。

 咲夜とパチュリーは、少年の拒否の言葉に対して驚愕と動揺を含めて。

 フランは、少年の賛成の言葉に対して驚愕と動揺を含めて。

 咲夜とパチュリーの表情が一気に険しくなる。

 

 

「笹原、何を言っているの?」

 

「……冗談を言うのは止めなさい。死んでも知らないわよ?」

 

「僕は死なないよ」

 

 

 少年は、二人の問いかけに自然な笑みを浮かべる。心配している様子を見せず、不安を感じている様子を見せず、フランへと笑いかけて問いかけた。

 

 

「だって僕を殺さないんでしょう?」

 

 

 フランは、唐突な少年の質問にきょとんとした表情を作るとすぐさま動揺を隠せないまま首を縦に振った。

 

 

「う、うん……」

 

「ほら、大丈夫だって」

 

 

 呆気に取られている二人は、余りに淡泊な少年の言葉に文句を言おうと口を開きかける。大丈夫な補償など何もないと。どうしてフランを信用するのかと。喉まで出かかっている言葉を吐き出そうとする。

 しかし、二人の喉まで出かかっている言葉は少年の勢いに飲まれた。

 

 

「僕は君を信用するよ。だから、二人とも出て行ってくれないかな。もしもの時は助けを呼ぶから扉の外で待っていて欲しい」

 

(なんで……?)

 

 

 フランは、信じられない物を見るかのような目で少年のことを見つめていた。

 信用する―――初めて言われた言葉だった。

 心が何とも言い難い感情に支配されていた。

 どうしてという疑心と信じてもらえた嬉しさが混在して困惑する。

 少年は、そこまで喋るとさすがに周りから注がれている視線に耐えきれなくなったのか、途端に勢いをなくして申し訳なさそうに言った。

 

 

「それでいいかな?」

 

「ふざけないで、ダメに決まっているわ」

 

「うーん……じゃあどうすればいいの?」

 

「どうしたって駄目よ」

 

「…………どうにかならないかな?」

 

「どうにもならないわ。信用ならないもの。あなたもフランと同じで信用がないのよ」

 

 

 パチュリーは、少年の願いをばっさりと一刀両断する。

 少年は困った顔になり首をかしげて何とかならないかなと言葉を続けるが、どうしたってパチュリーに一閃されてしまい意見が通らない。

 どうすれば分かってもらえるのだろうか。

 やはり、信用がないと通してはくれないのだろう。

 だとしたら今から積み上げればいいのか。

 残念ながらそんな時間はない。

 少年はますます険しい表情になり、うなりを上げた。

 

 

「……どうにも難しいな。今すぐにでも仲良くなれませんか?」

 

「ふざけないで! 今の状況で何を言っているの!?」

 

「ふふふっ」

 

 

 フランは、少年とパチュリーのやり取りにくすくすと笑う。余りに突拍子もないことを言っている少年と常識的なことを話しているパチュリーとで余りに噛み合っていない様子は、フランの心を燻ぶった。

 

 

(妹様……?)

 

 

 咲夜は、フランの一度も見せたことのない無垢な笑顔に動揺する。

 思えば、フランの笑顔を見たのはいつ以来だろうか。もしかしたら一度も見たことがないのではないだろうか。

 咲夜は、心の中に不思議な感情が芽生えるのを感じていた。




作者にとってのフランのイメージで書いています。
あんまり、イメージと合わない人もいるかもしれませんね。


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世界の共有、開けた景色

 咲夜は一人で感傷に浸っていた。

 フランドールの顔に浮かんでいる笑みは、レミリアの笑みとは違って見える。とても無垢な笑顔に見える。そこには立場もない、尊厳もない。自然に笑う様は―――咲夜の心に色を付けた。

 

 

(妹様は、こんな笑顔で笑えるのですね)

 

 

 そして、フランの笑顔を作り出した肝心の少年とパチュリーは、フランの笑っている様子を気に留めることなく、お互いに言葉を浴びせ続けていた。

 

 

「僕なら大丈夫だから。死んだら―――それはその時だよ」

 

「貴方は死んでも困らないかもしれないけど、私たちは困るのよ」

 

 

 少年は死んではならない人間だ。少年が死んで失われるものはかなり大きく、その影響は計り知れない。

 それは、死んでしまった場合に悲しむ人間が多いとか、藍が依存しているのを知っていて死んだ後に報復を受けるなんてことを考えているわけではない。それを知っているのは少年と最寄りの人間だけだ。そんなことをパチュリー達――――紅魔館の人間は知らない。

 ただ、少年の友好関係を抜きにしても、死んでしまった場合のリスクを考えれば、少年を一人にするわけにはいかなかった。

 

 

「貴方……自分の立場を分かっているの? 貴方は八雲側からの使者なのよ? 重要人物なの、ちゃんと自覚してる?」

 

 

 少年は、客人として紅魔館に招かれている立場である。八雲側の重要人物として招かれている立場である。招かれている立場である少年に粗相をしてしまえば、どうなるかは想像に難くない。使者を殺してしまえば、友好関係を結ぶことはできなくなる。それは、戦国時代に使者が大事に扱われていた事実からも理解できることである。

 

 

「貴方を死なせてしまうということは、そのまま交流が断絶することになるのよ? 幻想郷を管理している立場の八雲紫との繋がりが完全に無くなってしまうの」

 

 

 使者を殺すことは―――国交を断行することだ。八雲とはこれ以降関係を持たないというに等しい。最悪、八雲との関係が修復不可能になる。戦争状態に陥る。

 

 

「繋がりが無くなるだけでも厳しいものがあるのに―――戦争にまで発展したら失うものが多すぎる。貴方が死んで八雲と戦争状態になるのだけは絶対に避けなければならないのよ」

 

「分かっているよ」

 

「本当に分かっているのかしら?」

 

 

 パチュリーの疑いを持つ瞳が少年へと向けられる。

 本当に事の重大さが分かっていれば、フランと二人きりになりたいなど言わないはずである。パチュリーの視線が少年を射抜くように突き刺さる。

 少年はパチュリーの視線に我慢できなくなったのか、困った表情を浮かべた。

 

 

「僕も随分と信用ないよね」

 

「当たり前でしょう? 貴方とは会って一日しか経っていないのよ。信用しろって方が無理な話よ」

 

「うふふっ……」

 

 

 まさにその通りである。理論的に考えれば、パチュリーの言っている結論に至るだろう。信用は後ろにある権力によって支えられるか、積み立てられてきた小さな出来事によって構成されている。

 銀行員が契約の話をして、信用して欲しいと言われれば、銀行員を信用するのではなく銀行を信用するだろう。これまでの銀行の素行から信用してもいいと判断するだろう。

 それは―――残念ながら八雲紫にはない部分である。だったら後者しかないわけなのだが、会って1日しか経っていない状況で信用など積み立てているわけがなかった。

 フランは、二人のやり取りにくつくつと笑いを堪える。

 少年とパチュリーは、笑いを堪えるフランを無視して話を進めた。

 

 

「でも、ここは引いて欲しい。なんなら遺書でも何でも書いてあげるから」

 

 

 遺書―――それはつまり遺言を残すという意味になる。死を覚悟しているというニュアンスになる。

 まるで死んでも良いと言っているようだ。パチュリーはそこまで言う少年を不思議に思い、問いかけた。

 

 

「そこまでして二人きりになりたいのかしら?」

 

「そうだよ」

 

「はぁ、貴方もレミィと一緒ね。一度言い出すと言葉を曲げないのは……」

 

 

 パチュリーの口から思わずため息が出た。少年の変わらない意志にレミリアのことが想起される。

 少年の意志は、どれだけ理屈を述べても曲がらない。一度決めてしまったことは変えられないと言わんばかりに真っ直ぐに意志を示している。

 パチュリーは、しばらくの沈黙の間沈黙によって間を空けると少年に条件を突きつけた。

 

 

「条件を付けるわ。私たちが部屋を出て行く代わりに監視をさせてもらう。少しでも危ない動きが見えたら即座に入るから」

 

「それでいいのなら」

 

 

 少年は、即座にパチュリーからの条件を飲み込む。そもそも少年としては、パチュリーの提示している条件を拒否する理由がない。別にここから犯罪となるようなことをするわけでも、してはならないことをするわけでもないのだから。

 パチュリーは、少年の目を睨み付けるように見ながら持ち合わせている一冊の本を手渡した。

 

 

「これを持っていなさい」

 

 

 手渡されたパチュリーの本に視線を集め、まじまじと見つめる。

 この本を持っているだけでいいのかな。この本に監視ができるような、そんな便利機能がついているのかな。

 少年は、興味深げに本に目を奪われていた。そんな少年の視界に入るように本の上に右手が置かれる。パチュリーは、ぽんと本を一度叩くと少年に告げ口するように囁いた。

 

 

「くれぐれも気を付けるのよ」

 

「気を付けてください」

 

 

 パチュリーと咲夜の二人は、置き言葉を残して外の扉の方へと歩いていく。

 パチュリーの後を追いかけると思った咲夜は、扉を出るというところで止まるとフランへと言葉を投げかけた。

 

 

「妹様も、笹原に対して粗相を働かないように気を付けてくださいね」

 

「そんなことしないわ」

 

「それなら安心です。失礼いたしました」

 

 

 フランの答えに満足そうに咲夜の顔に笑みが作られる。フランは、これまで見たことのない咲夜の表情に少し驚きながら咲夜の後姿を見送った。

 扉は完全に締め切られ、二人の姿が見えなくなる。

 フランの視線が扉から少年へと移る。そして、心の中に渦巻く不思議な感覚に戸惑いながらもフランの口が開かれた。

 

 

「ねぇ、どうして私を信用してくれたの?」

 

「どうして信用されないと思ったの?」

 

 

 フランの質問は、すぐさま少年に質問で切り返された。

 どうして信用してくれたのなんて質問は―――聞くほどのものではない。少年がフランを信用した理由など一つしかなく、言うほどのことでもないと思っていた。

 初対面の相手と話をする際に相手を信用しないということは、そのまま会話の拒絶になる。曲がりなりにもフランと会うために来ているのだから、フランのことを信用するのは当たり前で必要なことなのだ。フランの口にしている言葉を全て嘘だと思ってしまったら、会話などできやしないのだから。

 フランは、少年からの切り返しに僅かに口を紡いだ後、苦しそうな表情で声を響かせた。

 

 

「……私、みんなから嫌われているし、危ないって思われているから」

 

 

 フランには、自分が紅魔館の住人に嫌われているという自覚があった―――危険物扱いされていることに自覚があった。

 

 

「あなたも言われたでしょう? みんなから危ないって」

 

 

 周りの目が―――注がれる。

 周りの声が―――耳に届く。

 目を塞いでも。

 耳を塞いでも。

 否が応でも入って来る。

 塞いだ手を素通りするように心に直撃する。

 長い間紅魔館の中に響く情報を拾って生きてきた。紅魔館の中だけが自分の世界。部屋の中だけが自らの生きている世界。そんなフランにとってそれは、聞きたくなくても聞こえてくるもの、理解したくなくても理解できてしまうものだった。

 

 

「そんな私と二人きりになるって言い出すなんて思わないじゃない」

 

「僕は、誰かからの評価をそのまま鵜呑みにはしないよ」

 

 

 少年は、暗い表情を見せるフランにはっきりと自分の気持ちを伝える。

 少年は、他人が言っている感覚的なものをそのまま鵜呑みにすることは決してない。今まで生きてきて一度だって相手の感覚をそのまま受け入れたことはなかった。

 なぜならば、他人の評価はあくまでも他人が決めた評価であるからだ。

 

 

「周りの人はどう思っているか分からないけど、僕が理解してくれていると、気持ちを共有してくれていると思っているかもしれないけど――――僕は一度だってそのまま受け入れたことは無いよ」

 

 

 真偽のほどが分からない、程度も分からないような他人の基準を受け入れる。そんなこと少年にはできない。受け入れることができていれば、こんなふうに生きていなかった。

 基準は自分で作る。自分で境界線を引き、心に刻む。それが少年のやり方―――変えられない少年の生き方だ。

 分かってもらえたと思っているのは、相手が勝手に受け入れてくれたと勘違いしているだけだ。あるいは、いつの間にか少年に合わせている事実に気付いていないだけだ。

 

 

「僕の見えている景色とみんなが見ている景色は違うし、僕から見た世界とみんなから見た世界は違うから」

 

 

 少年の心は、境界を曖昧にする程度の能力によって独自の世界が構築されている。

 少年の特殊な心の中では誰かの評価をそのまま鵜呑みにすること=自分の中にその人のイメージを作ることになる。

 

 

「僕が見ている世界は、いつだって僕のものだ。僕だけが決めていい世界だ。良いも悪いも、僕の世界の境界線はいつだって僕が決める」

 

 

 先入観は、少年の判断基準を大きく鈍らせる。境界線が引かれている少年にとって、他人からの評価は悪影響にしかならない。勿論、世間で言われていることをそのまま受け入れることは必要なことであるのだが、そういったことは家族と相談して受け入れるという態勢を取っている。少年の両親が生きていた時ならば父親と母親に相談し、今では紫と藍に尋ねている形になっていた。

 

 

「誰かが引いた境界線は、あくまでもその人の中での話だ。僕の決めた物とは違う」

 

 

 あの人が言っているからそうなのだろうという概念は少年に迷いを生じさせる。人参がまずいという他人からの主観を受け入れれば、人参はまずいものとして分類されてしまうことになる。

 特に少年の場合は―――見えている景色が他人と全く違う。

 だからこそ―――少年は自分の世界を大事にしてきた。他人の価値観を鵜呑みにすることなく、自分の領域を守ってきた。

 

 

「当然のことだけど、みんなから見た君と僕から見た君は全然違う。僕は、あくまでも僕が見た景色の方を大事にしたい」

 

 

 少年は、そこまで話すと笑みを浮かべて最後の落としどころを作った。

 

 

「それに、幻想郷に来てしまっている以上、他人に合わせる意味はあんまりないからね」

 

「うふふ、貴方はおかしいわ。私はあんまり多くの人間と会ったことないけれど、貴方が変わっているのは分かるもの」

 

 

 フランは、少年のコメントを聞いて笑う。そして同時に余りに自然に浮かんだ笑みに疑問を抱えた。

 なぜなのだろうか、話していると自然と気持ちが落ち着いてくる。今まで会ったことのないタイプだからなのか。あくまでも平常心でいてくれるからなのか。いつも湧き上がってくる暗い感情が身を潜めている。

 少年は、そっと笑顔を浮かべるとフランへと近づき、言葉を口にした。

 

 

「そういえば自己紹介がまだだったね。初めまして―――僕は笹原和友という変わった人間だよ」

 

「初めまして。私は、フランドール・スカーレット。どこにでもいる普通の吸血鬼よ」

 

 

 フランは、視線を合わせてしっかりとお互いの存在を示す。お互いの名を交換し、お互いの存在を認知した。少年の名前を心の中に入れ込んだ。

 

 

「ずっと立ってお話しするのもあれだし、座ってお話をしましょう?」

 

 

 少年はフランの提案を飲み込み、一度だけ頷いた。

 フランは、少年の反応に満足するように一度頷くとベッドへと向かって腰を下ろす。

 フランがベッドに座ったということは、自分はどこに座ればいいのだろうか。周りを見渡し、自分の座る場所を探す。座る場所と言えるところは、ベッドとは離れたところにある机に備え付けられている椅子だけである。

 少年は、その椅子に座ればいいのかなと椅子に向けて歩き出した。

 

 

「えっと、僕は……あれに座ればいいのかな?」

 

「そっちじゃないわ、こっちに座って」

 

 

 想像通りに動かない少年に向けてフランから即座に口が挟み込まれた。フランの右手が自分の座っているベッドの隣をポンポンと叩いている。

 ―――そこに座るのか。少年は、フランの行動に自分がどこに座ればいいのか理解するとベッドへと足を進めて腰を下ろした。

 少年が座った瞬間、僅かにベッドが沈む。随分と軟らかいベッドだった。

 とても懐かしい感覚である。外の世界ではベッドだったが、マヨヒガでは布団で過ごしている少年にとってベッドの感覚は懐かしさを感じさせる。

 少年は、僅かにフランの方向へと体を向けるとフランへと声をかけた。

 

 

「フランドールは」

 

「フランでいいわ。名前長いし、呼びにくいでしょ?」

 

「じゃあ、フランって呼ばせてもらうよ」

 

「そうして」

 

 

 フランドール―――フランは少年の言葉を遮り、自分のことを略称で呼ぶように言った。少年はすぐさまノートを取り出し、フランの名前を書き込み、フランに間違っていないか確認する。

 

 

「これで合ってる?」

 

「こんなもの確認しなくても分かるでしょ? そのままよ」

 

「そっか、ありがとう」

 

 

 少年は、フランの言葉を聞いて満足するようにノートを閉じる。

 

 

「お兄さんは」

 

「ごめん、その呼び方はやめてくれないかな」

 

 

 今度は少年の方がフランの言葉を遮り、口を挟み込んだ。

 どうしてダメなのだろう。お兄さんという呼び方は拒否したくなるほど嫌な呼び方だろうか。今までこんなやり取りをしてこなかったフランには、少年が拒否する理由が分からなかった。

 ただ、例え人間とのコミュニケーションが得意だったとしても言わなくても分かることはなかっただろう。少年には少年の事情がある。嫌悪感のような感情論からではなく、事務的な理由が存在する。

 フランは、少年のことをお兄さんと呼ぶことに対して拒否の姿勢を示す少年に疑問を投げかけた。

 

 

「どうして? お兄さんと呼ばれるのは嫌なのかしら?」

 

「嫌というより、その呼び方だと誰のことを呼んでいるのか分からないからね」

 

「2人きりだから分かるでしょ? ここには、私とお兄さんの2人しかいないじゃない」

 

「そうなんだけどさ」

 

 

 フランには、意味が分からなかった。

 ここには二人しか生き物がいないのだから誰に言っているのかなんて一目瞭然のはずである。誰かが自分以外のことを指す言葉を告げれば、それはそのまま相手のことを指していることになるはずである。それなのに、分からなくなるってどういうことなのか。

 

 

「それは、そうなんだけど……」

 

 

 フランの言う通り、分からなくなるってことはない。こと二人しかいない状況では、さすがに分からないということはなかった。

 しかし、それはあくまでも二人の状況だからだ。二人以上になれば分からなくなる。もちろん今だけの関係だったら、これからも会うことのない関係だったらそれでもいいのだが―――少年はこの出会いを今日だけのものにするつもりは全くなかった。ノートに記したことから、これからも何かしら接点があるものだと思っていた。

 今はいいかもしれない。

 だけど、未来を考えたら名前で呼ぶべきである。

 

 

「これは、みんなにもお願いしていることなんだけど……」

 

 

 少年は、自分に対する呼び方に関してこれまでずっと周りの人間に対してお願いしている内容を口にした。

 

 

「僕は、名前で呼ばれないと自分のことを呼んでいるのか判断がつかなくてさ。お前も君も貴方も人間も、もちろんお兄さんも、顔を見ながら言われているから自分のことだって理解できるだけで、人がいるところで後ろから呼び止められたら反応しないから」

 

 

 少年は、抱えている境界を曖昧にする能力上、名前で呼ばれないと反応することができない。直接的に言えば、3人称で呼ばれた場合に誰のことを呼んでいるのかを識別できないのである。

 お前も、君も、お兄さんも、誰のことを指している言葉なのか理解できない。顔を見ながら話されているから自分のことなのだろうと予測できるだけであって、呼びかけに使う場合には役割を成さない言葉になってしまう。

 だから、他の妖怪や人間から呼ばれるときは、おおよそ笹原や和友といった名前を呼んでもらうようにしていた。

 ちなみに、少年から最初に名前を呼ぶように強制されたのは橙である。

 

 

「変なの」

 

「そう、変なんだよね」

 

 

 少年はフランの変なのという言葉を拒否することなく、真っ直ぐに受け取った。

 フランは、自分のことを変だと認める少年に怪訝そうな様子で尋ねた。

 

 

「……認めちゃうの? 自分が変なんだって」

 

「うん。だって事実だから。僕は、周りから見たら十分に変なんだよ」

 

 

 今までもさんざん言われてきたことだ。今までもさんざんおかしいと思っていたことだ。フランから言われて思ったのは、やっぱり妖怪や吸血鬼から見ても変に見えるのかと、納得する感情があっただけである。

 

 

「…………」

 

 

 未知の者に出会って、フランの頭の中は混乱する。

 分からない。

 分からない。

 変だという言葉は、相手を拒否する言葉だ。

 理解できないという言葉とイコールの関係だ。

 理解できないということは、拒否される、否定されているのと同じだ。

 それなのに、なんでそんなに平然と言えるのだろうか。

 それなのに、どうしてそんなに当たり前のように言えるのだろうか。

 フランは、何も感じていないように話す少年に不思議そうに尋ねた。

 

 

「……嫌じゃないの? 周りと違っておかしいんだって言われるの……」

 

「それはもちろん嫌だよ」

 

 

 以外にも嫌だという気持ちは同じようだった。

 おかしいと言われていることに対し、嫌だと感じている。

 自分と同じような気持ちを持っている。

 同じ感覚を持っている。

 そんな少年に親近感を覚えた。

 同族のような親しみを覚えた。

 

 

「私は、おかしいって言われるのが怖いの。心が悲鳴を上げるの。痛い、痛いって、ここが叫んでいるの」

 

 

 そっと胸に手を当ててみる。

 そこには忘れられない記憶が刻まれている。

 深い深い傷が隠れるように残されている。

 

 

「普通じゃないって、おかしいって言われることの恐怖は、誰よりもよく知っているわ」

 

 

 フランは、よく知っている。

 普通じゃないと言われることの恐怖感を

 周りと違うということを言われることの疎外感を

 おかしいと言われることの圧迫感を

 それは―――心の中を抉り取る言葉の槍である。

 お前はおかしいという言葉が心を殴りつけ、普通じゃないという言葉が心を削り、何も言い出せない不満と怒りだけが身に溜まっていく。

 うるさい。黙れ。それが私にとっての普通なのに、それをおかしいなんて言わないで。そういう気持ちがどんどん心の底に溜まっていく。

 

 

「僕も良く知っているよ」

 

 

 外の世界において人に合わせ、境界線を引くことを覚えた少年はおかしいと言われることはなくなった。

 それでも、常に一歩下がって周りを見つめるような環境から、孤独感から逃れられたことはなかった。フランと少年の違いがあるとすれば、自分を殺して別の自分を作ったか、自分を守って自分を保持しているかの違いだけである。

 

 

「僕は、周りと違うことで周りを乱している自分が、周りと同じじゃない自分が嫌いだった。いつだって疎外感はあったし、孤独はいつだって襲ってきた。朝も昼も夜も、いつもいつも変わらずにあった」

 

 

 フランは、自分と同じように嫌だと感じている少年に安心を得る。

 しかし、少年の言葉はフランの安心を打ち消すように次へと繋がった。

 

 

「でも、同時に安心もしたかなぁ」

 

「安心?」

 

 

 安心という言葉は、フランの眼中にない言葉だった。

 これまで普通と違うと言われて安心したことなんて一度もない。安心なんてほど遠い感情がいつも心の中に湧き上がって、どうしようもなくなることが多かった。

 どうしてそう思ったのか。不思議でたまらなかった。

 そして、疑問を口にしようとしたところで―――少年からその答えを告げられた。

 

 

「だって、みんな自分みたいなやつだと思うと気持ちが悪いでしょ? 僕は、みんな僕みたいじゃなくて本当に良かったと思うよ」

 

「……それは、うん……そうかもしれない」

 

 

 フランの視線が下に落ちる。

 少年の言っていることは、もっともらしく聞こえた。周りがみな自分のような生き物という想像を脳内に描いてみる。みんな、自分と同じ。違いなんてなくて、みんな自分みたいな生き物。

 ―――どう考えても気持ちが悪い。上手くいっているところが何一つ想像できない。秩序もなく、お互いに歯車の噛み合わないさまは見ていられなかった。

 フランは、自分がおかしいという自覚がある。気が狂っていると言われる理由も分かっている。それが他の人間にとっての普通だったら世の中が回らないことも、何となく理解できた。

 

 

「そんなこと、考えたこともなかった」

 

 

 新しい考えがすとんと胸の中に落ちていく。

 心が渇きから解放され、潤いを得ている。

 少年と出会って僅かな時間しか経っていない。

 まだ、少ししか話をしていない。

 それなのに、もうすでに随分と話したような気がする。

 

 

 それでも、何かが足りない気がする。

 心が何かを求めている。

 フランは、自分の世界がゆっくりと広がっていくのを感じていた。

 



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自由にならない想い、縛りつけた言葉

フランという少女に初めて出会った。
二人きりで話したいという少年を止めるパチュリー。
そのやり取りに笑う少女。
少年は、自分の意志を押し通し、対談に成功する。


 どうしてこんな会話になってしまったのだろうか?

 会話とは2人以上の人間で行われるもの。

 お互いがお互いの意見を交わすもの。

 それなのに、一方的に話をしてしまっている。

 自分の感覚のことばかり話してしまっている。

 今は二人で会話をしているのだ。

 お互いのことを、お互いが理解し合うための会話をしているのだ。

 相手のことを知り、自分のことを教える。

 それが相互に行われる会話の形だろう。

 先程まで何を話そうとしていたのだろうか。

 何を話している途中だっただろうか。

 ああ、そういえば自分の名前の呼び方を話しているところだった。

 少年は、会話の方向を制御しにかかった。

 

 

「話がそれちゃったな。僕のことは笹原って呼ぶか和友って呼んで」

 

「それじゃあ……和友って呼ぶ」

 

 

 名前の議論は終わりを告げた。

 次はお互いが気になっていることを、話したいことを話す番である。

 会話の内容は縛られていない。レミリアからこういう話をしなさいと言われたわけでも、こういう話をしてはいけないと禁止されているわけでもない。

 話題は何でもいい。

 気になることを何でも聞いていい。

 自由に思ったことを口から出すだけの場だ。

 少年は、差し迫るように自分の好奇心をフランへと押し付け始める。これまでの紅魔館での話から気になっていたことや、この部屋に来てから感じた疑問などをフランに向かって問いかけた。

 

 

「フランは吸血鬼なんだよね? 吸血鬼って妖怪と何が違うの?」

 

「私、外に出たことがないから妖怪については分からないけど、きっと血を吸うか吸わないかぐらいしか違いがないんじゃないかな?」

 

 

 フランは、持ち合わせている僅かな知識を使って少年の質問に答えた。

 しかし、フランの答えに納得できていないようで、少年の口から唸るような音が漏れ出す。

 

 

「んー、でも妖怪も人間の血肉を食べるから」

 

「食べるのと吸うのは違うわ」

 

「うーん」

 

 

 フランの回答に少年の頭が横に傾く。悩みこむように頭をかしげている。

 何が違うのだろうか。

 食べると吸うの間にはどんな境界線があるのだろうか。

 血を食べるという表現と血を吸うという表現は、血をお腹の中に入れるという意味では同じである。結局食べてしまえば、お腹の中に入って吸収されるのであれば、同じことではないのだろうか。

 

 

「結局のところ、お腹の中に入るという意味では同じなんじゃないの?」

 

 

 生きるために食べる。

 生きるために吸う。

 妖怪であっても、吸血鬼であっても、人間の何かをお腹にいれるという意味では同じだ。

 存在するために人間が必要という本質は変わらない。

 

 

「生きていくために人間が必要ってことなんだよね? 妖怪と同じじゃないの?」

 

 

 妖怪と吸血鬼は、同じではないのか?

 妖怪と吸血鬼は、区別するべきか、識別する必要がないのか。

 

 少年は、両者の違いが定義できずに頭を悩ませていた。

 フランは、少年にどう伝えれば理解してもらえるのか、必死に考えを巡らせる。

 こんなこと考えたことも話したこともない。ましてや、かみ砕いて説明したこともない。

 けれども、分かってもらいたい。吸血鬼と妖怪は違う生き物なのだと、分かってもらいたかった。

 

 

「そうね……こう、言っていてなんだけど蚊が血を吸うのと同じよ。血だけを目的にしていると言っていいわ。周りの肉とか骨はどうでもいいのよ。血だけあればそれでいいの」

 

 

 フランは、一生懸命身振り手振りを加えながら少年に説明する。自分の知っている数少ないことを、感じていることを、考えていることを少年へと伝達する。

 フランが言葉を重ねるたびに少年の手がノートの上で踊る。ノートにすらすらと情報を書き込んでいる。

 吸血鬼という情報とフランという存在を噛み合わせるためには、妖怪と吸血鬼の違いは絶対に必要な情報だ。

 フランが少年に説明した後―――少年の口から満足げな言葉が発せられた。

 

 

「へぇ、なるほど。吸血鬼ってそんな感じなんだ。じゃあ、妖怪は人間の肉や骨まで必要としているけど、吸血鬼は血だけでいいってことなんだね。まぁ、妖怪の場合は正確には人間の恐怖だけど」

 

「和友は、吸血鬼について何も知らないのね」

 

 

 フランの心は、満たされた笑顔を浮かべる少年を見て、えもいわれぬ高揚感に包まれていた。それはもちろん少年の能力の弊害による心の影響も確かにあるだろうが、今まで与えられることしかなかったフランにとって、他人に自分の持っているものを与えるということに対して新鮮な気持ちになったからだった。

 

 

(ふふっ、私が何も知らない和友に教えてあげるわ)

 

 

 それはいわゆる―――役に立っているという感覚である。

 フランは、少年と話すことで―――少年に自分の持っている知識を共有させることで自らが役に立っているという感情を沸き立たせていた。

 

 欲求の実現というのは、五段階のピラミッド構造を成している。

 欲求というのは、下位の欲求が満たされると次の欲求を満たそうという意識が働く。

 一段目は、生理的な欲求である。食事、睡眠、排せつなどの生活に必要不可欠なものを満たしたいという欲求が第一に働く。これは、生きるために必要な要素である。

 二段目は、安全の欲求である。一段目である生理的な欲求が満たされると、周りが安全、自分の命の保障をしたいという欲求が働く。びくびく怯えて生活することは精神上よくない。

 三段目は、社会的欲求である。自らが社会に属しているという安心感、何かのために役に立ちたいという欲求が働く。もちろんここから四段目、五段目と続くが、ここでの説明は不要である。なぜならば、フランが満たされていたのは主に二段目までだからだ。

 地下に籠り切りだったフランが達成できるのは、必然的に欲求の二段目までである。

 フランの場合は紅魔館という属に入っているといっても、住人達との繋がりは脆弱なもので、社会の一部に混ざっているという感覚は一切得られない状況にあった。

 外の世界では、この社会的欲求という三段目が達成できずに孤独感や社会的不安に襲われ、鬱状態になる人がいる。フランも外の世界の人間と同様にピラミッド構造の三段目が達成できずに、孤独感にさいなまれていたのである。

 それが今―――満たされようとしている。長年得ようとしても得られなかった感覚が心を占めていく。

 

 

(どうして私は笑っているのかな? なんでこんなに楽しいのかな? ふふふ……)

 

 

 ぞくぞくする。気持ちが高揚する。今なら何でも話せる気がする。

 この感覚のなんと心地いいことだろうか。欲に純粋な妖怪や吸血鬼は余計にその感覚が強いのかもしれない。

 フランは、少年が真面目に聞いてくれる様子にさらに口を動かし、少年が持っていない知識を披露し始めた。

 

 

「何も知らない和友に吸血鬼のことを教えてあげるわ! 吸血鬼は、’きっと’そんじょそこらの妖怪と比べると力も魔力もとっても強いの!」

 

 

 満たされた三段目の欲求がフランの心に潤いをもたらす。役に立っている、何かに影響を与えている。自分が確実にここにいて、誰かに何かを与えているという感覚がフランの意識を徐々に高めていった。

 

 

「でも、苦手なものもあってね」

 

「うん、うん」

 

 

 少年は、フランが嬉しそうに笑顔を浮かべながら自信満々に話すのを見て、同期するように優しい笑顔を作る。

 ちゃんと伝わっている。聞いてくれている。そう思わせる少年の姿勢にフランの口がさらに饒舌になる。さらに勢いを増して自分の想っている、考えている、知っていることが口から吐き出された。

 

 

「吸血鬼は、流水と日光が苦手なんだよ!」

 

「吸血鬼が苦手なものって、他にもいろいろあったよね。ニンニクとか十字架とか」

 

「ニンニクは臭いから嫌い。十字架は分かんない。あんまり効果がないかも」

 

 

 一般に吸血鬼の弱点は、多分にあると言われている。

 実際に吸血鬼の弱点を挙げてみれば分かるが、キリスト教の敵となる相手の弱点を融合したかのような弱点である。そもそも吸血鬼というのは、キリスト教が作った敵であるため、キリスト教を普及するために作られた結果、このような弱点ができたと考えられる。

 少年の言葉がフランが話しやすいように―――1人よがりにしないように間に盛り込まれる。フランは、次々と自らが体験したことから感じた気持ちを真っ直ぐに少年へと伝達した。

 

 

「流水や日光は、我慢できないほどじゃないんだけど……針で刺されたみたいに痛いし、嫌い」

 

 

 一般に言われている外の世界の吸血鬼の弱点は―――幻想郷にいる吸血鬼にとっても例外ではないようで、日光や流水は吸血鬼に対して効果的だということだった。ニンニクや十字架については不明だが、そういう言い伝えが強制力をもたらす幻想郷においては、何かしらの効果はあると思われる。

 そういう意味では、吸血鬼も妖怪も大して変わらないのだろう。あくまでも幻想の一部だという枠組みからは外れていないようだった。

 

 

「ずっと外に出ていないから、日光とか雨とかどうなのかもう思い出せないけど……そんな感じだったと思う」

 

「フランは、どうして外に出たことがないの?」

 

 

 少年の口から核心に迫るような質問を投げかけられる。きっと話したくないことなのだろう。考えたくないことなのだろう。会話の中心に添えるにはハードルが高いのだろう。少年はそう思いながらも話題を核心へと向けた。

 

 

「…………」

 

 

 案の定、フランの表情が露骨に暗くなる。

 やはり言い辛いことなのだろう―――少年はフランの表情を見て悟った。

 だが、聞いてしまったものはどうしようもない。それに、聞かなければならないと思ったことだ。この部屋に連れてこられた時からずっと気になっていたこと。聞かなければならないと思っていたことである。

 フランの視線がそっと少年の表情に向けられる。

 不安なのだろうか。口にするのが怖いのだろうか。その瞳には後ろめたさが影を差している。

 大丈夫―――何もしたりしないさ。少年の表情には相変わらずの笑みを浮かべられていた。

 フランは、少年の表情に表情を崩すとそっと口を開いた。

 

 

「みんなから聞いているかもしれないけれど……私、危険物扱いされているの」

 

「されていたね」

 

 

 少年は、遠慮する様子を一切見せずにフランの言葉を肯定する。

 ここで偽っても仕方がない―――本人に自覚があるのだから。

 それに、あんな対応を取られれば誰だって思うはずである。腫れものを扱うような態度。まるで爆発物を取り扱っているような印象。そういう雰囲気だったことがすぐに蘇って来る。

 フラン自身も、紅魔館の住人から危険なもの扱いを受けている自覚があり、外に出てはいけない理由も理解しているようだった。

 

 

「私は、外に出すと危ないから外に出ちゃいけないんだって」

 

「だから外に出られないの?」

 

「うん……‘出させてもらえないの’」

 

 

 少年の思考がフランの物言いに一瞬停止した。

 出させてもらえないという言葉は、自分が出ようと思っているが、周りの人間や環境から出るという行為を防がれているという意味である。それは監禁されているという言葉と同義だ。小さな子供が親から家に閉じ込められているのと同じである。

 

 それは―――違うだろう。

 フランの口から出た言葉は違和感の塊でしかなかった。

 

 

「フランは外に出たいの?」

 

「出たいに決まっているわ! こんなところでずっとずっとずっとずっと閉じこもっているだけなんてもう嫌!」

 

 

 少年の問いかけに対し、フランの感情が露わになる。

 フランは勢いよく立ち上がり、少年を責めるように言葉を投げつけた。

 

 

「私だってみんなと同じように外に出て、いろんなことをしたい! 空を飛んだり、妖怪と会ったり、人間を見つけたり、遊んだりしたいっ!!」

 

 

 これまでの監禁生活によって溜まりに溜まったフランの感情が爆発する。これまでずっと地下室に閉じ込められてきたのだと、理不尽な扱いをされていたのだと、少年に向けて不満を吐き出した。

 

 

「それなのに、みんなここから出ちゃいけないって言う! フランは、外に出ちゃいけないんだって! 危ないから駄目なんだって!」

 

「みんなが出してくれないの?」

 

「そう、みんなが私をここに閉じ込めているの」

 

 

 ―――みんなが閉じ込めている。

 フランは、はっきりとそう言った。

 

 

「……フラン、僕には気になることがあるんだ」

 

 

 少年には、フランの話を聞いているときからずっと気掛かりなことがあった。話していておかしいと思える部分があった。それはフランの物言いで核心に変わった。

 フランは、ただ逃げているだけだ。

 答えを出すのを怖がっているだけ。

 できるのに、やっていないだけ。

 変化を得ようとしているくせに、行動を起こしていないだけ。

 そんなもので現実は変わらない。時間の経過が解決してくれるのは、あくまでも時間が作用する問題だけだ。

 

 

「感情的にならないで、落ち着いて聞いて欲しい」

 

「……うん」

 

 

 少年は、あくまでも冷静にフランに相対する。

 フランは少年の冷静な対応に感情の行き場をなくし、伸ばした膝を曲げて力なく座った。

 少年は、自分がフランと話していてずっと感じていた想いをフランへと投げかけた。

 

 

「フランは、自分から外に出られるんじゃないの? フランは力のある吸血鬼なんでしょ? だったら、出ようと思えば自力で出られたんじゃないの?」

 

 

 少年の言葉にフランの表情が露骨に固くなった。

 少年は、フランが閉じ込められているという話を聞いてからずっと疑問を抱えていた。吸血鬼というのは、フランが説明した内容をそのまま鵜呑みにすれば、他の妖怪と比べても強い種族だということが伺える。

 ならばなぜに―――紅魔館の外へ出られないのだろうか。力づくでも、全てをかなぐり捨てる気持ちがあれば出られるはずではないのか。出られないなんてことがあるのだろうか。

 

 

「……それは、お姉さまが」

 

 

 フランから苦し紛れに、姉であるレミリアの存在が挙げられる。同じ吸血鬼である姉に留められているために出られないのだともっともらしい理由を口にした。

 

 

「だとしても、フランが外に出ることだけに全力を注げば外に出られるんじゃないの?」

 

「…………」

 

 

 フランの口が少年の反論で完全に閉ざされた。

 フランの言っていることは本当にそうなのだろうか。

 姉であるレミリアが同じ吸血鬼だから出られないというのだろうか。

 姉であるレミリアの方が力が強いから出られないというのだろうか。

 誰かのせいで逃げられないのか。

 自分が相手より弱いからできないのか。

 だから、変わらないのだろうか。

 

 違う―――そんなものただの幻想だ。

 

 そういう言い訳で逃げているだけだ。

 そういって無理だと決めつけて、何もしていないからだ。

 何もしていないのに、変わろうと努力もしてないのに、現実は応えてはくれるはずがない。

 少年は、語り掛けるように優しく言葉を紡ぎ出す。

 

 

「僕とフランは、よく似ている」

 

「私と和友が……?」

 

 

 フランは、いきなりの少年の発言にきょとんとする。

 少年と自分に似通っている部分などあっただろうか、何一つ似ていないじゃないかという気持ちがゆったりと湧き上がってきた。

 種族も違う。

 産まれた環境も違う。

 身長も、体重も。

 性別だって違う。

 外に出られるというところも違う。

 何が―――一緒なものか。

 一緒にするな。

 同じにするな。

 私たちは違う。

 違う生き物で、違う者だ。

 

 

「全然違う!! 和友は外に出ているじゃない! 私には友達もいないし……」

 

「確かに僕たちの今の状況は違っている。だけど、取り巻く環境はよく似ているよ」

 

「……和友は、私のことを慰めてくれないのね」

 

「他の人がどうだったのかは知らないけど、僕がフランを慰めることはないよ。僕には、フランが可哀想には見えない」

 

 

 フランは、少年のこれまでにない反応に戸惑っていた。

 いつもならば、自分を自虐するようなことを言えば、そんなことはないと言われ続けてきたフランからすれば、何とも言えない気持ちだった。

 

 

「僕から見たフランは、外に出たいのに―――外に出ることができるのに、外に出ていないだけに見える」

 

 

 少年から見たフランは、檻から出るためのカギを持っているのに檻の中に留まっているように見えていた。外へと出ることができるのに、家の中から出ようとしない子供に見えていた。

 

 

「手に鍵を持っているのに、その鍵が見えていないのかな……それとも、見ようとしていないのかな」

 

 

 少年は、もしかしたらフランのようになっていたかもしれない―――そう思わずにはいられなかった。

 境界線を曖昧にする能力を持っている少年の特徴を考えれば、最も良い選択肢は誰とも会わず、何もせず、閉じこもっている状態だということは容易に想像できる。フランと同じように閉じこもっている状態が周りに安定をもたらすことを考えれば、少年はフランのような生活を送っていた可能性が十二分にあったのである。

 ただ、少年の両親がそういう方針を取らなかった。能力に抗い、外に出る方向で人生の羅針盤を指し示した。

 だから現実には―――フランと少年は、全く違う人生を歩むことになっている。

 そんな指針の違いから二人の歩む道は違っている。

 

 

「鍵が見えないのはみんなに気を遣っているからなのか、他に何かあるのか知らないけど……誰かのために、何かのために自分を閉じ込めているのは分かるよ」

 

 

 フランは、何かのために閉じこもっている状態を選んだ。

 少年は、誰かのために自分を縛り続けることを選んだ。

 両者は、似通っているようで似ていない。

 閉じこもることと縛ることは、動きにくいという意味では同じであるが、周りの人から見える光景が全く違っている。

 両者をたがえているのは扉1枚分である。相手の顔が見える者と、相手の顔が見えない者では、何が違うか考えてみるとすぐに分かるだろう。

 相手の顔や雰囲気の感じられない扉を隔てた状態になる閉じこもった状態と、表情や感情が見えている縛られた状態では、周りからの対応が違ってくる。目の前で苦しんでいる人と、遠くからかすかに聞こえる呻き声で、どちらを助ける方を優先するだろうか。そんなものは、考える必要もない。

 

 

「僕にはフランの気持ちがよく分かる。誰かがそれを求めるから、自分をそこに当てはめるんだ。自分の気持ちを抑えて、周りを受け入れ、周りから求められる形にはまろうとする」

 

 

 誰からか求められた形を作り出す。

 何か必要とされる形を作り出す。

 この行動に間違いなんてない。

 心のある生き物ならば―――誰かのための自分を欲するものである。

 それが自分のためにならなくとも、誰かのために何かができる自分が欲しくなる。

 

 

「……守らないといけないことがあることぐらい、私にも分かるよ」

 

 

 フランの言うことは何も間違っていない。

 生き方も、何一つ間違っていない。

 周りから見れば、それが最も良くて。

 自分から見ても、それが最も良いと分かる。

 それでも、それが全部じゃない。

 損得勘定で全てが決まるわけじゃない。

 それだけが全てを決めるわけじゃない。

 それだけで全てが決まっていたら―――きっと生きていけない。

 

 

「でもそれって、どうなんだろうね」

 

「なにが?」

 

「それでいいのかなって思うんだよ。フランの人生ってそれでいいのかなって。一生ここで閉じこもって生活するの?」

 

「それは……嫌よ」

 

 

 少年は、フランに対して真剣な表情で問いかける。

 フランには、結局のところこのまま部屋に閉じこもったまま死ぬまで生活する覚悟がない。いつかは、この小さい部屋の中から出させてくれるという淡い期待を背負って生きている。

 少年から言えば―――そんな希望は持つだけ無駄である。

 だって、周りにとっては外に出たいと思うこと自体が間違っている選択だと思われているから。

 結局―――出たいという感情を押さえつけるだけになる。

 外に出たいなんて願望を持ってはいけないのだ。

 外に出れるなんて希望を持ってはいけないのだ。

 叶わない願いを持つことほど、心に負担を与えるものはない。

 だからこそ。

 だからこそだ。

 出たいという気持ちがあるのならば、押し出していく必要がある。いつかは出たいというのならば、出るための行動を起こすのは‘今’なのである。

 出たいと思った瞬間―――その瞬間が外に出るための最適な機会なのだ。

 

 

「なら、なおさらだよ」

 

 

 後からでも、今からでも、どっちでも構わない。

 後からでも、今からでも、どっちでも変わらない。

 待っているだけの人間に―――今も未来もない、変わらない現実があるだけである。

 待っている人間に―――変化は起こらない、変わらない景色が広がっているだけである。

 いつだって、今だって、どっちでも一緒である。

 変わるのはいつだって―――行動を起こした「今」からなのだから。

 

 

「フランは何をしているの? 膝を抱えたまま閉じこもっていて何が見えるの? 何が見通せるの? いつだってフランの両目は、真っ暗な世界を映してきたはずだよ」

 

 

 フランが閉じこもってきたこれまでの生活を想像する。いつかは外に出られると期待を持ちながらも、外へ出ることに対し、諦められない気持ちを持ちながらも、膝を抱えて耐えてきた生活を想う。

 

 

「外はあんなに明るい世界なのに。フランの中の世界は真っ暗なままだ」

 

 

 そこに光なんかなくて

 そこに希望なんかなくて

 外に対する羨望だけが心の中に残っている。

 

 

「それに、誰も光を入れようとしない。光が無い状態が安定な状態だと思っているから。フラン自身もそれが正しいと思っているから変えようともしない」

 

 

 膝を抱えて耐えているだけのフランに対して、紅魔館の住人も誰も動こうとしない。待っているだけのフランに対して、誰も手を差し伸べる者などいない。

 だって、フランから助けて欲しいという手が伸びていないから。手を出されなければ、掴みようがないのだ。

 無理矢理掴んでくれれば何か変わったかもしれないが、長年に渡って続いてきた伝統とも言うべき習慣は、歴史の重みや時間の蓄積によって崩すことが難しくなっている。

 その結果が―――今のフランを取り巻く環境になっている。

 

 

「別にそれが間違っているわけじゃない。別にそれが悪いわけでもない。誰も悪くなくて、誰も間違っていない。だからきっと―――何も変わらない、何も生まれない、何も起こらない、何も……何もかもない」

 

 

 そこには間違えもない。

 そこには悪もない。

 けれど、その代わりに―――何もない。

 

 

「何もない時間の経過に伴って、心を擦り減らしていくだけ。時間は、心を癒しはしないよ。忘却するどころか、想いは増大して肥大していくだけだ」

 

 

 辛いというのならば、辛いと言わなければならない。

 嬉しいのならば、嬉しいと言わなければならない。

 人間の心は、万能ではない。

 自分のことも分からなくなるような世界で。

 他人のことをどうでもよくなるような世界で。

 視界が狭く、遠くを見通すことが難しい世界で。

 他人の心がどれほど見えるだろうか。

 心というのは不便なもので、言葉や態度に示さなければ相手に伝わらない。真っ直ぐに伝えなければ、障害物に当たって上手く伝わらないことだってある。

 

 

「肥大した心はいつか破裂する。これまでだって、何度か小さな規模で破裂しているはずだよ」

 

 

 溜まったストレスによって暴れたことは気持ちを伝える行動になったかもしれない。気持ちを汲み取る人がちゃんといれば、理解してくれたかもしれない。

 しかし、溜まった不満を周期的に爆発させ、暴れるだけ暴れるという行為は気がふれていると言われても仕方がないし、情緒不安定と言われても仕方がないことである。周りの人間に対して勘違いをさせるような状況に陥っていることは、間違いなくフランの責任だった。

 フランは―――想いを伝える方法を間違えたのだ。

 

 

「そんなフランの心の中の世界には、何があるんだろうね。何が刻まれているんだろうね」

 

「…………」

 

「きっとフランの心の中に刻まれているのは、一言の言葉だけのはずだよ。僕と同じように、何かの言葉が自分の心に刻まれているはずなんだ」

 

 

 自分と同じだったとしたら、同じような言葉が心に刻まれていることだろう。

 外に出てはいけないという決まりを順守させている要因が。

 それが正しいと思うための言葉が。

 自分の中の決まり事が。

 

 

「ねぇ、フランを縛っている決まり事って、何かな?」

 

 

 少年は、フランの行動を縛っている一言の言葉を聞き出す。

 フランは、ゆっくりと自分を縛っている言葉を吐き出した。

 

 

「私の決まり事は……」

 

 

 




一方扉の外
「パチュリー様、笹原に本を渡していましたが、あれは?」
「中を写し取る効果を持った本よ、こっちの本と繋がっているから、見れば中の様子が確認できるわ」
「それは……」
「おかしいわね、何も見えてこないわ。魔力は入っているし、効果はすぐにでも発揮されるはずなのだけど」
「パチュリー様」
「どうしたの? 今忙しいから端的にお願い」
「笹原は、本を開いていないと思います」
「…………待つしかないわね。何も起こらないことを祈りながら」
「入らないのですか?」
「今更入るのは、どうなのかしら……」
「恥ずかしいということですか?」
「…………」

自分のフランのイメージで書いているので、違う人は結構多そうというのが今回の鬼門ですね。
495年間も地下に留まるなんて、善意や思いやりがないとできないことだと思うんですよね。当たり前じゃない状況を知る環境で、当たり前じゃない状況を受け入れるのは、難しいと思います。
フランが情緒不安定と思われているのは、きっと暴れたときのフランしか見る機会がほとんどないからだと解釈していました。
少年にとってのフランがどのような立場にあるか分かってもらえたなら、これからの話はよく分かると思います。


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似ている生き方、違った生き方

 フランの口から心を縛っている言葉がついに吐き出された。

 

 

「危険だから、外に出ちゃいけない……」

 

 

 外に出るという行動は誰かと戦って勝つのとは違う。争う相手はそんな分かりやすい相手ではない。戦う相手は自分自身だ。外に出るという行為を止めようとする、制止しようとする心との勝負になる。

 そして、フランはそこでいつも躓いている。伸びる足が重みを持っているため、前に進めなくなっている。

 

 

「フランは、いつだって外に出ることができた」

 

 

 フランが外に出ることができないのは、紅魔館の住人がフランに対して外に出てはいけないという言葉を投げかけていることが原因ではない。周りの人間がフランを縛っているのではない。周りの人間に行動を止められているから出られないわけではない。

 あくまでも―――フラン自身が外に出てはいけないのだと思っていることが自分を縛っているのである。

 

 

「フランを拘束している鎖を壊せるのは、それをかけたフランだけだよ?」

 

 

 フランが紅魔館の外に出るためには、外に出てはいけないと思っている心を解き放つ必要がある。自らを縛っている鎖を断ち切る必要がある。

 

 

「僕も手伝いはしてあげられるかもしれないけど、何よりもフランの気持ちが鎖を断ち切る原動力になる。フランはどうしたいの? フランの気持ちは、どこにあるの?」

 

「私の気持ち……」

 

「フランに繋がれている鎖は、前に出ようという気持ち―――外に出たいという気持ち次第で一瞬にして断ち切れる」

 

 

 フランは今すぐにでも外に出ることができる。出たいという気持ちを、自分を縛っている言葉を振り切れば、外に出ることができる。そんな選択ができる未来がある。

 ―――それが少年にとって何よりも羨ましかった。

 

 

「僕は、フランが羨ましい」

 

「え?」

 

 

 羨ましいという言葉にフランの表情が唖然となる。

 羨ましいという言葉は―――今まで一度も言われたことのない言葉だった。

 何が羨ましいのだろうか。

 私は、和友の方が羨ましいのに。

 そんな疑問を吐き出そうと口を開きかけたとき―――少年からその理由を告げられた。

 

 

「自分で鎖を断ち切れるフランが羨ましい。誰かのためにと思わなきゃ生きていけない自分と違って、自分のために足を踏み出せるフランが羨ましい……」

 

 

 フランは、少年と違って自分を縛っている言葉の鎖を断ち切れる。自分の力でそれを乗り越えられる。

 それは―――少年にはできないことだ。決まり事に縛られて生きている少年は、決まり事を破ることができない。

 誰かが普通に生きていくために自分を縛り続けてきた少年に、今更自分のために生きることなどできやしない。自分のために周りに悪影響を与えることが肯定できない。

 少年の進む道は一つしかない。歩む方向は決まってしまっている。

 そんな少年にとって自分の力で解き放つことができるフランの状況は、羨ましくてたまらなかった。選択肢を自分で選べるフランが何よりも羨ましかった。他人よりも自分を選ぶことができるフランが何よりも羨ましかった。

 

 

「和友にはできないの?」

 

「僕にはできない。僕はもう選んでしまったから。今更選択肢があるわけでもない。選ぼうとしていないわけじゃないけど、選ぶ選択肢が一つしかなかったから」

 

 

 自分がそうだから―――フランには自分がやりたいようにやってほしかった。

 

 

「だからこそ、フランには鎖を振りほどいて外に出て欲しい。僕ができないことを、僕のできない方法で、僕が見たことのないものを見て欲しい」

 

 

 少年は、真剣なまなざしを向けてフランの名前を呼ぶ。

 

 

「フラン」

 

「何?」

 

「もう、終わりにしない? ずっと我慢するのも、ずっと夢を見るのも、ここで終わりにしない?」

 

「でも……」

 

「フランは、きっとどこかで溢れ出る気持ちを抑えられなくなるよ。これまでだって、そうだったんでしょ?」

 

 

 フランの心は、もうそろそろ許容量を超えて感情が溢れそうになっている。フランが何年もの間ここで生活してきたのかは分からない。これからも心が堪え切れる可能性だって零ではない。

 しかし、心の動きに機敏な少年にはフランの心がもうすぐ破裂するのが見えていた。

 これまでも、心の中に溜まっていく感情の圧力を下げるために、漏れ出した怒りや鬱憤が噴出している。癇癪を起こすという形で消費している。

 しかし、どう考えても消費よりも充填の方が早い。規模はどんどん大きくなる。そして、最後には―――後悔することになる。

 

 

「みんなが危険だって言うのは、そういうときのフランしか見ていないからだよ」

 

 

 フランと密接に関わっている人物はいない。部屋に閉じこもっているフランを見に来る者はおらず、食事を一緒に取る者もおらず、基本放置の方針を取っている紅魔館において、関わり合いを持っている人物はいないと言っていい。

 見るのは―――いつだって癇癪を起こし、暴れているときだけだ。情緒不安定だと思われても仕方がない。暴れているフランしか見ていなければ、その人にとってのフランはそこで完結してしまうのだから。

 

 

「実際にこうやって話してよく分かった。フランは、僕とよく似ている」

 

 

 少年は、実際に話してみることで自分とフランがよく似ていると思った。

 選んだ選択肢が少し違っただけ。

 取り巻く環境が少し違っただけ。

 周りの人間が少し違っただけ。

 産まれてくる場所が少し違っただけ。

 少し違っただけの、同じ生き物だ。

 

 

「もう、理由をつけて鳥かごの中に閉じこもるのは終わりにしよう? フランの人生は、ここで閉じこもるためのものじゃないだろ? その羽だって空を飛ぶためのものなんだろう?」

 

 

 少年は、フランに閉じこもっている鳥かごの中から飛んで欲しいと心から懇願する。

 自分が決してできないことをできる状況にあるフランを想って。

 決して飛び立つことのできない状況にある自分を想って。

 自分の気持ちに真っ直ぐに。

 自分の気持ちに素直に。

 飛んで欲しいと―――願う。

 

 

「不自由の中で自由を探す時間はもう終わりだよ。これからは自由の中で不自由を感じるべきなんだ」

 

 

 少年は、全てが許されたような笑顔を浮かべた。

 

 

「フランは、僕と違って自ら作った檻の中から飛び出せるんだから」

 

「和友は、外に出られないの?」

 

「僕は出られない。僕を繋いでいる鎖は一本じゃないから。数えきれないほどの鎖が僕を縛っている。僕はもう、自力じゃ外には出られないんだ」

 

「そうなんだ……」

 

 

 少年には行動を縛っている約束事や、綺麗に引かれた境界線を突き崩すことができない。さらに言えば、大きくなりすぎた心を引っ張っていくことができない状況にある。行動は常に心に縛られ、身動きが取れなくなっている。

 

 

「それに、今更その生き方はできない気がする」

 

 

 誰も自分を見つけることができない。

 自ら鎖を取り外すこともできない。

 自ら助けを呼ぶこともできない。

 ――――何もできなくなってしまった。

 動いても変わらなかった。

 動いて何かが変わってしまった。

 だから、余計に動けなくなった。

 だけど―――フランはそんな自分とは違う。

 縛られているのは自分だけで。

 縛っているのも自分だけだ。

 だったら、自分を変えてあげればいい。

 飛び立つための意志があれば、いつだって飛んで行ける。

 助けを求めるために叫ぶことで、誰かが助けてくれる。

 

 

「だから、フランには外に出て欲しい。外に出た時の景色を僕に教えて欲しいんだ。その時の気持ちを僕に伝えて欲しいんだ」

 

「……分かった、私が見た景色を和友に教えてあげる」

 

 

 フランの口から了承の言葉が出てきた。自分の心に少しだけ素直になって前に足を進める覚悟ができた。

 

 

「私ができることをやってみる」

 

 

 フランは、ベッドから立ち上がり、扉の前まで移動する。小さな手が扉を開けるために取手へと伸ばされる。

 しかし、伸ばされた手はゆっくりと重力に従い地面へと落下した。

 

 

「でも、こうやっていざ外に出ようと思うとやっぱり怖いわ。いつもだったら怒りに任せて暴れているから特に何も考えてなかったけど、改めて外に出るために行動しようとすると……」

 

「怖いの?」

 

「怖いわ……きっと、こんな私を誰も許してはくれないだろうし……」

 

 

 もしも、外に出ることに失敗したら。

 もしも、外に出ることによって酷い目にあったら。

 もしも、外に出てしまったことで居場所が無くなってしまったら。

 これから起こす行動は、これまでの苛立ちを解消するだけの暴走ではない。明確な理由をもった、確かな目的を持った行動になる。突発的なものではなく、意志のある行動になる。だとすれば、何か罪に問われてしまうかもしれない。大きなものを失ってしまうかもしれない。そう思うと―――体が固まって動けなくなった。

 少年は、扉の前で立ち止まるフランに向けて声をかける。

 

 

「大丈夫、僕が君を許してあげるよ。もしも、全てを失ったら僕の所に来ればいい。責任はある程度取るから」

 

「ふふっ、ある程度というあたりに和友らしさがあるように思うわ」

 

「僕には、全部を任せてと言えるだけの甲斐性はないから」

 

「だったら、その時はお願い」

 

 

 フランは、力の抜けた表情で笑う。

 笑ったことで力が抜けた。

 目的が頭の中ではっきりしてくる。

 視界は酷く鮮明だ。

 余裕がある。

 行かなければ―――変わるために。

 ―――変えるために。

 フランの視線が向かうべき扉へと移った。

 

 

「それじゃあ、行ってくるわ」

 

 

 少年から扉の奥へと進もうとするフランへとすかさず声がかけられた。

 

 

「フラン、ちょっと待って」

 

 

 少年から見たフランの背中には、まだ鎖がついているように見えた。未だにフランの体全体から重苦しい雰囲気が溢れ出している。このままでは外に出るという行動は上手くいくような気がしない。

 気持ちと結果は、えてして比例する。

 想いの大きさと行動の大きさは、えてして比例する。

 少年は、フランの背中を後押ししようと声をかけた。

 

 

「何も一人で戦わせやしないさ。君の背中は僕が押してあげる」

 

「和友に何ができるの? これ以上私に関わると死ぬかもしれないわよ」

 

 

 フランの視線が再び少年へと戻る。怪訝そうな表情は、少年にこれ以上関わるなと言っているようだった。

 

 ―――何ができるのか。

 何度その言葉を聞いただろうか。

 僕は、何もできないかわりに何だってできる。

 他のみんなと違って、何をやれば最も成功率が高いかなんて分からないから。

 決まりきった行動がないから。

 なんだってできる。

 少年はうっすらと笑い、口を開いた。

 

 

「何をしても死ぬ可能性がつきまとうのに今さら何を言っているんだよ」

 

「それもそうね」

 

 

 少年の罪は今の時点で―――フランを外に出させようとした時点でかなり重たい。特にこれまで抑え込んできた紅魔館の住人からの怒りは凄まじいものになるだろう。だったら、これから手伝ってもそれは変わらないはずである。

 少年は、膝を伸ばして立ち上がると扉の近くにいるフランへと近づき、ある提案を持ち掛けた。

 

 

「僕はフランの味方だから。僕ができることをするよ」

 

「何をするつもり?」

 

 

 フランから見れば、これからの行動に対して少年に何ができるのか分からない。戦うにしても、人間である少年にできることなど何もなかった。

 

 

「ここに刃物ってないかな?」

 

「果物ナイフなら」

 

 

 そんなものでどうするのだろうか。まさか果物ナイフで戦おうとはしないだろうと思いながらも、地べたに転がっていた果物ナイフを少年に手渡す。

 若干刃が汚れている。放置していた期間はどのぐらいだろうか。もう、いつからあったのかも分からないほどに記憶は荒んでいた。

 少年は、フランから受け取った果物ナイフを手でさすりながらフランへと尋ねた。

 

 

「フランは、吸血鬼なんだよね」

 

「さっきも言ったけど、そうよ」

 

 

 フランは、今更どんな話をするのかと少年の言葉を集中して耳を傾ける。

 次の瞬間―――フランは耳を疑う言葉を耳にした。

 

 

「だったら、僕の血を飲み込んでほしいんだ」

 

「……正気なの?」

 

 

 フランの目が信じられないということを表現する。

 吸血鬼に血を吸われるということはそのまま眷属になるということ、人間を止めるということなのである。

 それを―――簡単に言ってくれる。

 少年は、残念ながら冗談を言うタイプではない。いつだって本気で物事を口にする。

 

 

「僕はいつだって正気だよ」

 

「……本当に変わった人間なのね。嫌だけど、あいつが和友を呼び寄せたのがなんとなく分かる気がするわ」

 

「僕の一部を連れてってくれたらと思ってさ。さすがに腕とか内臓とか持ってかれると困るけど、血ぐらいならいいかなって」

 

「うふふ、本当に変わっているわ」

 

 

 連れてってくれたら―――か。持っていく、連れていくという言葉は、一緒に行くという言葉とは異なる。つまり、少年は別段人間を止めるということを言っているのではないのだ。フランは、少年の意図を読み取った。

 

 

「よっと」

 

 

 手にしている果物ナイフで親指の先を切り付ける。切り傷の入った親指の腹に真っ赤な線が生まれた。真っ赤な血が沸騰するように溢れ出し、表面張力によって留まっている。

 少年は、フランに血を見せつけるようにして手を差し出した。

 

 

「さぁ、どうぞ」

 

「なに、これ……」

 

 

 フランの口から力ない声が漏れる。

 心臓が激しく鳴り響いている。

 口の中が異様に乾いてくる。

 目が少年の内から溢れ出す血から離せない。

 視線を逸らすことができない。

 そして、体が勝手に少年の血へと惹きつけられるようにふらふらと足が歩み始めた。

 

 

「フラン、口を開けて、上を向いて」

 

 

 フランは少年の指示に従順に従い、少年のすぐそばでひざを折り、真上を向く。そして、ゆっくりと口を開いて血を飲み込む準備を整えた。

 血の滴る親指が真下に向けられる。

 後は重力が自然に落してくれる。

 フランは、少年の言葉を耳にしながらはやる気持ちを押さえつける。今すぐにでも少年の血が滴っている親指へと飛び掛かりたい衝動を抑え込む。

 少年は、語り掛けるようにフランに言った。

 

 

「これから僕は祈りの時間に入る。困った時に、苦しい時に、神様に頼む、お願いをする。他人よがりの神様だよりかもしれないけど、きっとそれも間違っていない。あの時の僕もきっと間違っていなかった。間違っていなかったから今の僕がいる」

 

 

 そっと過去を思い返す。神様に対して必死にお願いをしたころの記憶を、誰かに助けを求めていた時の記憶を思い出す。

 

 

「強い祈りはきっと相手に届くから。強い想いはきっと伝染するから。だから―――フランには、今だけ僕にとっての神様になってもらいたい」

 

 

 少年が言い終わるのと同時に血が重力に従って空中に飛び出す。

 向かう先はフランの口の中。

 一瞬の出来事だった。

 口の中へ入り込んだ血は、フランの体の中に溶け込んでいく。

 少年は、そっと呟くように言葉を口にした。

 

 

「どうか―――僕の願いを叶えてください」

 

 

 強い願いは必ず届く。

 少年の両手が合わさった瞬間―――部屋の中が真っ白な光に包まれた。

 



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想いの力、決断の時

フランと話し始めた少年。
そこから見えてきたのは、フランの本心。
自分と同じように自分自身を縛る鎖を巻いている姿。
解き放て。
自由を手に入れろ。
少年は、フランの背中を押すために自らの血を与えた。


 閉じられた僅かにしかない扉の隙間から濁流のように膨大な量の光が溢れ出る。

 パチュリーと咲夜は、扉から漏れ出してくる光に驚きの声を上げた。

 

 

「この光は何!?」

 

「何が起こったの!?」

 

 

 ―――パチュリーと咲夜が驚きの声を上げているそのころ。

 光の発生源である部屋の中では二人の生き物が存在していた。

 

 二人の存在とは―――フランドール・スカーレットと笹原和友である。

 

 少年の血が体内に入ってくる。

 吸血鬼特有の血を吸収する器官が少年の血を分解する。

 分解した血が再び血流の中で再構成される。

 ポンプの役割を担っている心臓が血液を運ぶ。

 構成する血液の一部となって溶け込んだ僅かな血液が体の中を循環する。

 そして、脳内にまで少年の血液が届いた時―――フランの意識が一気にぶっ飛んだ。

 とてつもなく大きいものが体の中に流れてくる。

 心を守るためにある殻が突き破られる。

 中へと染み込んで、一つになっていく。

 

 

(私が、変わっていく……)

 

 

 意識を失ったフランにあったのは、遺伝子が零から書き換えられるような感覚だった。鮮明な覚醒がフランの中で起こっている。自分という存在が全く別のものになっていくような―――そんな大きな変化が生まれている。

 

 

(温かい、心地がいい……私が、私になっていく)

 

 

 気持ち悪いわけではない。

 受け入れがたい変化ではない。

 自分が本当の自分になる。

 さなぎが蝶々になるような。

 蛇が脱皮するような。

 一回り大きくなるような感覚。

 あるべき姿に戻るような感覚。

 自分の心象風景に劇的な変化が起きている。

 

 

(間違っていない。何も間違っていない。想いは変わらない。過去だって、今だって、何一つ変わっていない。外に出たいという夢が夢のままでも―――これまでとは違う!)

 

 

 元の想いは変わっていない。

 変わったのはその質だけだ。

 想いが燃えたぎり、大きく鼓動する。

 存在感を示し、生きていることを誇示する。

 

 

(和友、貴方の想いは確かに受け取ったわ)

 

 

 少年の血は、確かにフランの中で鼓動している。血の中に含まれる想いを―――少年の想いの一部が熱い熱を持っている。

 フランはゆっくりと目を開け、覚醒した意識の中でそっと目の前にいる少年に声をかけた。

 

 

「ねぇ、和友……」

 

 

 少年の首がフランの呼びかけに曲がる。まるで状況が分かっていない様子である。

 きっと、こうなることを知らなかったのだろう。あくまでも自分を連れていって欲しいとだけ言っていた少年のことだ、ここまで何かが変わるとは思っていなかったに違いない。

 フランは、余りに無防備な少年の様子に思わず笑った。

 

 

「うふふっ。和友は私がちゃんと殺してあげるから」

 

「……はは、それは大層な朗報だ」

 

 

 少年は、殺してあげるという物騒な言葉を聞いて一瞬目を丸くするものの、すぐに表情を柔らかくする。そして、そっとひざを折って祈りの姿勢を作った。

 

 

「信じているから」

 

 

 神様に祈るように、願望を一つに収集させる。

 

 

「どこまでもずっと信じているから」

 

 

 一切後悔はない。何一つ後ろ髪を引かれる想いなどない。

 仮にフランを外に出すことが悪いことだとしても。

 今こうして祈りを捧げようとしていることが悪いことでも。

 行動を遮るような思いは何もない。清々しいほどに平らな心―――起伏も凸凹もなく、あるのは真っ直ぐに伸びている希望だけ。

 少年は、フランに対して懇願するように首を僅かに垂れ、祈るように言葉を口にした。

 

 

「期待しているよ。僕は、待っている。ずっと、これからも、その時を待っているよ」

 

 

 フランは、跪いている少年の横を横切り、部屋の外へと出ようと扉へと近づく。

 少年は、部屋を出ようとするフランに声をかけた。

 

 

「いってらっしゃい、フラン」

 

「いってきます、和友」

 

 

 フランは、少年の言葉に自信満々の顔で言葉を返し、少年を置き去りにして扉の外へと足を進める。少年から貰った荷物を少しだけ余裕のできた背中に背負って、少しだけ大きくなった想いを抱えて目的を果たすための行動に移る。

 フランが部屋から外に出ようとした時、扉が外からの力によって開かれた。

 

 

「笹原! 一体何があったの!?」

 

 

 部屋の中に第三者の声が入って来た。状況を呑み込めていないパチュリーの声である。

 

 

(笹原に何かあったらまずいなんてものじゃないわ。監視にまで失敗しておいて、笹原を危険にさらした私の責任は大きすぎる)

 

 

 漏れ出している凄まじい光は、部屋の中で何かがあったことを示している。

 

 

「笹原! 生きているの!? 返事をしなさい!」

 

 

 パチュリーの焦った声が部屋の中に充満するように響き渡る。仮に監視が成功していたのならば、部屋の中の様子は筒抜けにできただろうし、今の動揺するような結果には繋がらなかったはず、という心理がパチュリーの心を揺らしていた。

 しかし、パチュリーの想いに反して返って来る声はない。

 パチュリーは、光に満たされた部屋の中へと突入しようと足を進める。そして、その途中で逆方向に歩くある人物とすれ違った。

 

 

「心配しなくても大丈夫よ。和友は生きているわ」

 

「……フラン?」

 

 

 パチュリーは、声からすれ違った人物が誰なのか判断した。

 部屋から出てきたのは―――フランだった。

 

 

「…………」

 

 

 咲夜は、悠然と出てきたフランを見つめたまま固まった。咲夜から見たフランは、いつもと雰囲気が全く違っていた。

 落ち着いているといえば、落ち着いている。

 余裕があるといえば、余裕がある。

 フランを見ていると別人を見ているような感覚に陥いる。

 別人、それは―――咲夜のよく知っている人物、主であるレミリア・スカーレットである。

 

 

(妹様の纏っている雰囲気がお嬢様に似ている? 部屋の中で何があったのかしら?)

 

 

 フランからは、主であるレミリアを相手にしているような感覚に陥るほどの雰囲気が出ている。

 一体何があったというのだろうか。

 咲夜の体は、大きく変化しているフランに戸惑いを隠せずフランを見つめたまま固まった。

 

 

「笹原!」

 

 

 パチュリーは、フランの言葉を信じることができないのか本当に少年が無事なのか確かめるために部屋の中を覗く。

 

 

「笹原!!」

 

 

 部屋の中には、少年の姿があった。ちょうど、跪いて祈りを捧げているような体勢を取っている。

 声に反応しなかったのは集中していて聞こえなかったからだろうか。

 パチュリーの口から微動だにしない少年に対して疑問が漏れ出した。

 

 

「笹原……本当に、生きているのよね?」

 

 

 少年はまるで動く気配を見せず、パチュリーの声にも反応を見せない。

 まるで時が止まったように祈りの姿勢を保って停止している少年にパチュリーの手が伸びる。ゆっくりと祈りの形をとっている少年に手が伸ばされる。

 そして、パチュリーが少年に触れようとした瞬間―――フランがパチュリーの行動を遮るように声を発した。

 

 

「咲夜、パチュリー、付いてきて」

 

 

 パチュリーの手があわや少年の体に触れるというところで停止する。

 咲夜とパチュリーの視線が声をフランへと集まる。二人の視界に入ったフランの体からは、僅かに白い光が放出されていた。

 白い光からは大きな力の波動を感じる。今まで感じたことのない力の波動だった。

 二人は、いつもと様子の異なるフランに言った。

 

 

「妹様、一体何が……」

 

「フラン、その光は……」

 

「いいから私に付いてきて、お願い」

 

 

 フランは、有無を言わさずという雰囲気で言った。反論は許さないというような物言いだった。二人は何も言い出せなくなり、そっと足先をフランへと向ける。

 二人が近づいてくるのを確認すると、フランの足が二人を引き連れるように歩き始める。少年がフランの部屋までやって来た道を逆再生するように逆戻りする。真っ赤な一本しかない道をさかのぼるように、時間がまき戻るように登っていく。

 咲夜とパチュリーは、いつもと違うフランに戸惑いながらも距離を一定に保ちつつ追随していた。

 

 

「フラン、部屋の中で笹原と何があったの?」

 

「別に何もなかったわ」

 

「……教える気はないってことね」

 

「そう捉えるのならそう思ってくれればいいわ。でも、たいしたことがなかったのは事実なの。私は和友と話をした。したことなんてそれだけなんだから」

 

 

 咲夜とパチュリーは、何もなかったというフランの言葉を信じることができなかった。

 明らかに大きな変化を遂げている。光っている以外に見た目に違いがなくとも、纏っている風格というかオーラが明らかに変わっている。それなのに、何があったのか話をしないということは、フランに教えるつもりがないということだと思った。

 パチュリーは、まるで教える気がない雰囲気のフランに部屋に戻るように忠告した。

 

 

「何もなかったのだったら早く部屋に戻りなさい。貴方は危険だから外に出てはいけないの」

 

「もう部屋に閉じこもっている理由はなくなったわ。ううん……違うわね。部屋に閉じこもることよりも大切なものができたと言った方が良いかしら?」

 

「どういうこと?」

 

 

 意味が分からない。もっと大切なものだって。フランにとって部屋にこもっているよりも大切なことがあっただろうか。フランの大切なものを知らないパチュリーは、フランの言葉に眉をひそめた。

 フランは、理解できていないパチュリーを見て勝ち誇ったような顔で挑発する。

 

 

「パチュリーは何も知らないものね」

 

「知っているわよ。貴方を外に出すと危険だから、外に出してはならないということはね」

 

「ほら、やっぱり何も知らないじゃない。ふふっ、何も知らない、何も知らないのよ。自覚した方がいいわ。こういうのを無知の知っていうのかしら。ふふふ……」

 

 

 フランの顔に笑顔が浮かぶ。

 パチュリーは、まるで別人のようになったフランに驚きを隠せなかった。今までになく口にする言葉に余裕がある。相手に気持ちを気取らせず、想いを秘めた表情で含みを持たせている。いつもの直情的で短絡的なものではなく、重い想いが言葉に乗っていた。

 

 

(まるで別人と話しているみたいだわ、何がこれほどまでにフランを変えたというの?)

 

「パチュリーは、お姉さまが私を地下に閉じ込めていた理由も、私が地下に閉じこもっていた理由も、何もかも知らないでしょう?」

 

「…………」

 

「ほらね。パチュリーは何も知らない」

 

 

 パチュリーが知っているフランを閉じ込めている理由は、外に出すと危険だからというものだ。外に出して何か起こされれば責任が紅魔館全体にかかるから外に出してはいけないのだということしか知らないし、それが全てだと思っていた。

 パチュリーの表情が暗くなる。

 普段見せることのない表情で口を紡いでいた。

 

 

(何が起こっているの? 妹様がパチュリー様に言葉で押し切っている……まるで夢を見ているみたいだわ)

 

 

 咲夜は、今目の前で繰り広げられている状況が信じられなかった。

 パチュリーに対してフランがちゃんとした会話をしていることはもちろんのこと、対等の関係ではなく、上から物言うような対話を果たしている。

 そんな姿はこれまで見たことがない―――想像すらしていなかった姿だった。

 フランは、沈黙するパチュリーに謝罪の言葉を述べる。

 

 

「意地悪を言ってごめんなさい。でも、きっとパチュリーは知らないと思ったわ。これはお姉さまと私が抱えている問題だから」

 

 

 フランは迷うことなく、図書館を抜けた。

 フランの足に迷いは一切ない。明確な目的地があるようで迷うことなく足を進めている。

 この先は。

 この先には。

 咲夜の口から質問が投げかけられる。

 

 

「これからどちらに行かれるのですか?」

 

「お姉さまの所へ」

 

「……ああ、もう! 分からないことばかりだわ! 一体何が起こっているのよ!」

 

 

 パチュリーは、先程から予想外のことが起こりすぎて頭が追いついていなかった。

 フランのいつもの行動としては、外に出ようと玄関や壁を壊しての逃走が基本だった。それなのに、今回はレミリアの所に行くと言っている。これから外に出るのかと思いきや、レミリアの下へと行くと言うのである。このまま外に出てしまえば、あれほど願っていた外の世界へと行けるというのに―――レミリアの所に行くというのである。

 

 

(これはもう、いつもの妹様と思ってかからない方が良いわね。文字通り別人、いいえ――もともとこちらが本来の姿なのかもしれない……今の妹様は、酷くお嬢様に似ていらっしゃる)

 

 

 これが本来の―――フランドール・スカーレットの姿。あの主であるレミリア様の妹。咲夜は、そう思った。

 今までの妹様の印象はもう欠片ほどしか残っていない。僅かに子供っぽい悪戯好きな笑顔を浮かべることぐらいしか、面影が残っていなかった。

 咲夜は、振り回されるパチュリーよりもいち早く冷静さを取り戻す。何より、そのレミリアに似ている雰囲気が咲夜の心に規律と緊張を与えていた。

 

 

「お嬢様の所へ何をしに向かわれるのですか?」

 

「もちろん直談判をしに行くのよ。外に出るために意固地なあいつの許可を貰うの。何を失うのか分からない、何を取られるのかは分からないけど、体が通れれば何でもいいわ」

 

 

 フランは、あくまでも外に出ようと考えているようである。

 咲夜は、外に出るという変わらない目的を持ちながら、決まった方法で外に出ようとしているフランの意図を読み取ろうとする。

 外に出るだけであれば、方法はそれこそ多数ある。外に脱走するというだけならば、壁を破壊して外に出ればいいだけの話である。

 しかし、フランの物言いからすれば、レミリアの許可なく外に出るということはしなさそうである。あくまでも、外に出る手段はレミリアに許しをもらってということなのだろう。

 

 

「ここから直接出て行くわけではないのですね」

 

「それじゃあ意味がないもの。これは、お姉さまから許しをもらってこそ意味があることなのだから。お姉さまの許しがもらえなきゃ……私が本当に自由になることはない」

 

 

 無理矢理脱出するような方法では決して長続きしない。

 ここで無断で外へと飛び出したとして、それがどれほど長く続くだろうか。追手として咲夜が送られ、パチュリーがバックアップに入り、夜にはレミリアが脱走した兎狩りへと向かうだろう。そこで3対1の状況になり連れ戻されるのが目に見えている。

 だからこその―――直談判である。レミリアの言葉でしか基本的に動かない咲夜と基本的に読書ができればいいパチュリーは、レミリアを抑えてしまえば動くことはなくなる。

 フランは逃亡者になりたいわけではない。あくまでも外に出たいだけなのだ。帰る場所は紅魔館のままなのだ。

 フランは、さながら外に遊びに行くための許可をレミリアから貰おうと考えていた。

 

 

「お姉さまの許し無しでは、永遠に私の鎖は解き放たれない。自分を縛っている鎖を取り外せば自由になれると思っていたのだけど、私を縛っている鎖は一本じゃなかったから」

 

 

 フランの心を縛っていた鎖は解き放たれている。自らを律し、抑圧してきた心は解放され、溜め込まれた想いが激しい鼓動となって木霊している。

 それでも―――まだ足りない。

 心残りとでもいうのだろうか。

 一本の鎖がフランの想いを引きずっている。

 体を縛っている。

 レミリアがフランに付けた鎖が心を離していなかった。

 

 

「お姉さまの分の鎖も取り除かないと、本物の自由は手に入れられないの。私は、本物の自由が欲しい。心に何一つ鎖が残らない、'本物'の自由が」

 

 

 目的を果たすために、レミリアに会わないという選択肢はフランにはない。レミリアから与えられている鎖を、どうしてレミリアに直接会って話をせずに解き放たれることがあろうか。

 

 

(フランの意志はまじりっけなしの本物ね……私はどうしたらいいのかしら?)

 

(これは、妹様とお嬢様が闘う流れになりそうね。どうしたら……いいえ、ここはどうしたらいいのかなんて迷っている場合ではないわ。意志を固めるのよ。私はお嬢様の意志を仰ぐだけ)

 

 

 パチュリーと咲夜は、フランの固い意志を感じ取っていた。そして、これから先に起こるだろう出来事を予期していた。

 きっと、レミリアとフランは戦うことになる。互いの主張をぶつけ合って、勝った方が意志を突き通すことになる。そうなったら、どっちに付き従うべきだろうか。

 咲夜は、主であるレミリアの意志に従うと決めた。

 パチュリーは、どうすべきなのか迷っていた。

 二人が考え込むことで会話がいったん切れる。僅かな沈黙の雰囲気が立ち込める。

 パチュリーと咲夜は、後ろめたいことを話すわけでもないのに小声で話し始めた。

 

 

(それにしてもこの変わりよう……笹原の奴、一体何をしたというの? あの一瞬の間でできること、劇的な変化をもたらすもの……咲夜は何か分かるかしら?)

 

(笹原が何かをしたのは間違いないと思います。ですが、妹様がこれほどに影響を受けるなんて……何をしたのか想像もつきません)

 

(でも、明らかに笹原からの影響よね。私達は何もしていないし、部屋の中には笹原しかいなかったのだから)

 

 

 咲夜とパチュリーのお互いの顔によく分からないといった表情が浮かぶ。

 部屋の中で何が起こったのだろうか。何を話したのだろうか。二人には分かる術もない。こうなると、あの本がきちんと作動して監視できていればと思わずにはいられないが、そこはドジを踏んだパチュリーの責任でしかなかった。

 

 

(部屋の中にいた妹様に直接聞いてみるしかありませんね)

 

 

 咲夜は、会話の中心を謎になっている部分に近づけていくために、遠回しに目に見えている変化についてフランに問いかけた。

 

 

「妹様の体から出ているその光は、笹原の纏っていたものと同じものですよね?」

 

 

 フランの体の周りには淡い白い光が存在感を放って存在している。目に優しい程度の光、少し体が温かくなる程度の光がフランの体をふんわりと包み込んでいる。

 この光は―――先ほど外で見ていたものとよく似ていた。

 

 

「妹様が体から放出している光は、外で美鈴と闘っているときに笹原の体から出ていた光と酷く似ている気がいたします」

 

 

 フランから放出されている白い光は―――少年が美鈴との戦いで体に纏っていたものと同様の色をしている。色に関していえばほぼ間違いなく一致しているだろう。

 どこからか滲み出るように、湧き出るように光が漏れ出し、空中を漂い、体にまとわりついている。

 ただ、輝かしい光を放っているが眩しいと反発されるような感覚は全くない。何となく視線が集まってしまうような不思議な光だった。

 笹原が纏っていたものと同じように見える。

 見た目に違いはほとんどない。

 だけど―――同じものではないと心が訴えている。

 

 

(確かに……妹様から出ている光は笹原の出していた光と似ている。だけど……同じかと言われると断言しかねるわね)

 

 

 咲夜は、笹原が出していた光とフランが出している光が全く同じ光かと聞かれると首をかしげてしまった。

 

 

(笹原の光は、もっと存在感があって強さとか硬さを感じるものだった。妹様の光は、硬いというより柔らかい印象が強いわ)

 

 

 フランが放っている光は、明確な存在感を放っていた少年の光とは異なり、柔らかい印象を受ける光だ。そんな曖昧な感覚に頼ったもので判断されても困るといわれるとそれまででしかないが―――心が違うと判断している。何が違うのかは分からない。見た目では分からない違いがそこにはある。

 しかし、これを作り出しているのが少年であるということだけは確信をもって言うことができた。今まで見たことがないものを放出しているフラン。その変化の中心になったのは少年で間違いないのだから。

 

 

「ああ、これのこと……?」

 

 

 フランはそっと体から出ている光に目をやり、手のひらをゆっくりと目の前に持ってくる。

 視界に手のひらから放出されている光が入る。手のひらからも、指からも、淡い白い光が放出して放射線状に伸びているのが確認できた。

 

 

「……こんなものが出ていたのね」

 

 

 フランは、自分が光を放出していることをここで初めて知った。目でしっかりと見るまで光の存在に気付かなかったのは、意識していなかったからというよりも―――意識させないほどにあるのが当然のように感じていたからだろう。

 フランは、ふと湧き上がってきた疑問を咲夜にぶつけた。

 

 

「これって私の全身から出ているの?」

 

「そうですね……足の裏とか見えない部分は分かりませんが、見える限りでは全身から出ているように見えます」

 

「……この光が和友のものと同じかどうかはちょっと分からないわね。私が和友と出会ったのはさっきが初めてだもの。和友が纏っていたものと同じかなんて聞かれても、答えられないわ」

 

 

 自分の体のことは自分が一番よく分かっている。

 自分の体に入り込んでいる力の源―――自分の体に入って来る力の大きさが、期待の大きさが手に取るように感じられる。少年がすぐ隣にいるような、話しかければ声が返って来るような気さえする。

 自分が纏っている光は、少年が纏っていたものときっと同じものだ。

 確信に近い感覚があったが―――フランは答えを濁した。

 

 

(なんて言ったけど、これは確実に和友から送られている力。それが和友の出していたものと違うわけがないわ)

 

 

 自分の今の力は和友の力と同じものだ。

 エネルギー源が同一のものなのに、エネルギーの形態が違うはずがない。同一の乾電池を使っているのに、出力される電圧や電流が違うということはあり得ないし、取り出せるエネルギーの形が電気エネルギー以外になることはない。少年の出力が似たような光ならば、それを送られているフランから放出されている光もまた、同様のものだと考えられた。

 

 

(だけど、これが和友の力だとしても一体どんな力なのかしら……温かくて力強い。何の不安も何の恐怖もない。あるのは―――目的を達成するための強い熱意だけ)

 

 

 いつも使っていた魔力による力ではない。

 人間が使っている霊力による力でもない。

 心が芯から熱される。

 温度は人肌程度だろうか。

 守られている。

 包まれている。

 不安は全くない。

 恐怖も全くない。

 視線も心も方向性をもって一直線に向かっている。

 全てが―――何もかもが、一新する。

 そんな―――温かさだった。

 

 

(それにしても……)

 

 

 それにしても、少年も同じものを纏っていたのか。

 それは直に見てみたかったな。

 今度見せてもらおうかな。

 そんなことを考えていると、自然と笑みが深まってくる。

 未来のことをこうして考えるのは久方ぶりだ。

 自分の願望がどんどん膨らんでいっている。

 今後の予定を立てるのは、こんなに楽しいことだったのか。

 

 

(私の未来を決めるのは、さぞかし楽しかったことでしょう―――ねぇ、お姉さま)

 

 

 姉であるレミリアに想いを馳せると自然と口角が上がる。普段だったら怒り狂っているところだろうが、今は酷く気分がいい。温かさが体を包み、心に安定をもたらしている。

 

 

(楽しみが無くなって残念ね。これからの私の未来は、私が決める!)

 

 

 フランは、少しだけ足早にレミリアの下へと向かっていく。

 そんなフランの後ろを歩いているパチュリーの口から咲夜へと質問が投げかけられた。

 

 

「咲夜、このフランの周りから出ている光は本当に笹原が出していたものと同じものなの?」

 

「パチュリー様は見ていらっしゃらなかったので分からないかと思いますが、私が見た限りではよく似ているように思います」

 

「信じられない……」

 

「何がでしょうか?」

 

 

 パチュリーは、咲夜の問いかけに表情をいつも通りの顔に戻し、平静を取り繕う。フランの体から放出される光、伝わって来る力の性質は自身の考えを疑うほどの真実を抱えている。

 それは―――本来吸血鬼が絶対に手に入れることのできない力。

 人々の願い、想いの結晶。

 数多の祈りの終着点に生まれる力である。

 

 

「フランの体から出ている光の源となっている力―――これは、信仰の力よ」

 

「信仰の力?」

 

 

 咲夜は、聞いたことのない単語に首を傾げた。

 信仰の力―――それは普段目にすることのない力である。

 幻想郷には信仰の力を持っている神様がほとんどいない。神社といえば博麗神社しか思いつかないほどに信仰を集めている場所がない。その唯一といえる博麗神社も信仰が集まっている場所ではないというのが、何とも悲しいところである。

 幻想郷には後に神様が外の世界からやってきたり、信仰を集めるための戦いが始まったりするのだが、それはあくまでも未来の話だ。現時点で神様といえば、紅葉の神と豊穣の神様である秋姉妹が挙がる程度だろう。咲夜が信仰の力を知らないのも無理はなかった。

 

 

「私たちが使っている力に種類があるのは知っているわよね?」

 

「もちろんです。私が使っている霊力、パチュリー様の魔力、妖怪が持ち合わせている妖力などですよね」

 

「そうよ、人間が使う霊力、魔法使いが使う魔力、妖怪が使う妖力……今、フランが纏っている力はそれらとは違うものよ」

 

 

 たった今フランから放出されている力は、霊力でも魔力でも妖力でもない。実際にフランから漏れている力に意識を集中させれば分かるが、本来吸血鬼が持ち合わせている魔力は一切感じられない。全ての力が呑み込まれ、包み込まれて一色の光になっているのが分かる。

 この力は―――

 

 

「本来神が宿している力、人間から与えられた信仰心から得られる力―――神力よ」

 

「妹様が今纏っているものが神力だというのですか?」

 

「私も実際に見たことがないし、めったに見られるものではないからはっきりとは言えないけれども、神力で間違いないと思うわ。他に力の種類があるなんて聞いたことがないし」

 

 

 パチュリーは、疑いの言葉を並べる咲夜に曖昧な言葉を返すしかなかった。なぜならば、パチュリーも咲夜と同様に神力を見たことがなかったからである。

 幻想郷で信仰の力―――神力を見ただけで確認できるほどの密度で纏っている者はいない。これほどの力の余波を感じるほどに力強さを感じる神様は、幻想郷には存在しない。ましてや、外に出る機会がほとんどないパチュリーに視認する術はないといっていい。

 唯一存在する神様―――秋姉妹という神様は、その場を大きく動かず、紅魔館へとやって来ることなどあるわけがないのだから。

 

 

「妹様に神力が……なぜなのでしょうか?」

 

 

 パチュリーの説明を聞いているとますます分からないことが増えた。

 フランが纏っている力が神力だとするならば、その源はどこにあるのだろうか。

 

 

「信仰の力というからには誰かが妹様に祈りを捧げているということになりますよね。祈っているのはおそらく笹原だけですよ? 一人の祈りでこれほどの力が集まるのですか?」

 

「フランにこれほどの力が集まっている原因は分からないわ」

 

 

 信仰の力は―――数の力。人間の個体数を全面に押し出した群集のベクトルの総合計の力である。方向性の同じ力が集まって大きな力になる―――流れる水の量が増えれば、押し込む力が増加するのと同じ要領である。もっとわかりやすく言えば、綱引きと同じ要領だ。

 フランには、少年の祈りによってものすごい勢いで力の流入が起こっている。フランに人間の知り合いが咲夜と少年を除いていないことを考えれば、咲夜が祈りを捧げていない以上、祈りを捧げているのは少年だけしかいないはずである。

 だが、少年一人の祈りでこうも力が集まるのかと問われれば、ありえないと答えなければならないだろう。

 だったらどこからだ。

 ―――どこから力が集まっているのだろうか。

 

 

「今、フランに集まっているそれは―――本来であれば、数千、数万、あるいはそれ以上の人間の想いによって集まる力の結晶なのよ」

 

 

 もしかしたらエネルギーの種類を変換しているのかもしれない。

 霊力を神力に変えるようなファクターがそこにはあって、テレビが電気エネルギーを音や光に変換しているように、他のエネルギーを変換して神力としているのではないだろうか。

 だが、エネルギーは保存されるものである。送られてきたエネルギー以上の働きはできない。少年の霊力の総量を考えると、今のフランが纏っている力の強さは説明できなかった。

 

 

「だから、おかしいのよね……」

 

 

 フランを見つめるパチュリーの目が細まる。

 力の源は間違いなく少年である。そこに異論は全くない。

 だが、問題は供給されている力の量についてである。

 信仰の力は個体数によって増減する。一人当たりの信仰の力は、人によって多少の個体差があるとは思われるが、そこまでの違いがあるとは考えにくい。

 仮に、少年の一人当たりの信仰の力が大きいとしても、少年と普通の人間とで何が違うのかが分からない。少し変わったところがあり、意志の固さは類を見ないが、他に異なる点は見当たらない。

 

 

「笹原一人の祈りだけでは、絶対にこれほどの力にはならないわ」

 

 

 パチュリーの思考が別の可能性へとシフトする。

 

 

「笹原の力は大きくはない。感じられたのは、人里の人間よりも少し多いぐらいの霊力だけだった。仮に霊力から神力へ変換をしても、決して届かないオーダーだわ」

 

 

 パチュリーの頭の中で思考がぐるぐると回る。

 そんなことを考えていると――――もうすぐ目的地に到達するところまで進んでいた。間もなく目的地であるレミリアのいる部屋へ辿り着く。

 それでまでにできるだけ状況を把握しなければならない。焦る想いと思考は、マッチングせずに不整合を叩き出す。

 咲夜は、考え込むパチュリーの反応を伺いながらフランに追随していた。

 

 

「「…………」」

 

 

 必死に考えても、いつになっても答えは出ることはなかった。答えが出るための知識がパチュリーの頭の中に足りな過ぎて想像が飛躍しすぎるのだ。想像が想像の域を出ないため、何一つはっきりとした答えが出てこなかった。

 特にパチュリーの場合は、知識や情報に上乗せされた想像以外をできるだけ省きながら思考をすることが多かったため、一向に答えが出る気配がなかった。ありえないという先入観が、答えを先回りするように潰してしまっているのである。

 フランの足がもうすぐで目的地である対外用の謁見の間に着くというところでいきなり止まった。

 

 

「ねぇ、咲夜、パチュリー」

 

 

 フランは二人の名前を呼び、二人の意識を自分に向けさせる。

 

 

「私の気持ちを、私の意志を、私の心の声を聞いて欲しい」

 

 

 今まで一度もしたことがなかった。

 自分の気持ちをはっきり相手に伝えるということ。

 今ならできる。

 今の自分ならできる。

 

 

「これから私は、お姉さまに会って話をしに行くわ。外に出るために、自由を得るために、戦いに行く」

 

 

 気持ちを真っ直ぐに表現する。

 間違えないように、明確に気持ちを示す。

 今までの子供の駄々っ子だと思われていたような表現ではない。

 曲解も、誤解も生じない真っ直ぐなストレートでストライクを取りに行く。

 フランの言葉は真っ直ぐに咲夜とパチュリーの心に直撃した。見たことのない真剣な顔で言われて思わず体に力が入った。

 

 

「別に私を止めてもいいわ。邪魔をしてもいい」

 

 

 フランは、咲夜とパチュリーから力で抑えられても構わないと思っていた。レミリアとこれから話をしに行く場面において、レミリアだけでなく二人までも相手にしても構わないと思っていた。

 

 

「きっと二人が私を止める行動も間違っていないから。私は、間違いじゃないって思うから」

 

 

 二人が自分を止める理由は、痛いほど理解できる。今からやろうとしていることを止めようとして当然で、それが間違っていないことも分かっている。

 だから、その行動を止めようなんて思わない。それぞれが正しいと思ったことをやればいい。それがその人にとっての正しさならばそれを貫けばいい。

 

 

「二人が私を止めるという選択を選ぶのなら、私はそれを受け止めるわ」

 

 

 紅魔館の党首であるレミリアに言われてしまえば、断るという選択肢を持たない咲夜はもちろんのこと。

 読書の邪魔をされたくないと思っているパチュリーにとっても、フランが好き勝手な行動をとることは望ましくないだろう。

 二人がそれを選ぶというのなら、その選択を称賛しよう。

 フランは二人の想いを汲み取りながらも、真面目な顔で言った。

 

 

「けれど、これだけは分かっていて欲しい」

 

 

 フランの表情に精いっぱいの笑顔が浮かぶ。

 

 

「私は、いつまで待てばいいのか分からない希望に縋るのはもうやめたの。495年も待って、我慢して、耐えてきたのに―――私の心にはまだ何もないわ。私には、思い返せるだけの思い出も、記憶も、何もないのよ」

 

 

 フランは、これまで積み重ねてきた想いを吐き出す。誰にも伝えられなかった気持ちを初めて二人へと伝える。

 

 

「危険だから、危ないからって―――遠くを見つめるだけ、羨望の眼差しで見ているだけなんて、もう耐えられないの」

 

 

 外に出たいと願って何年の月日が経っただろうか。

 自由が欲しいと望んで何年の月日が過ぎただろうか。

 月明かりは眩しいほどに輝いているのに。

 手を伸ばせば、すぐに届きそうなのに。

 ずっと―――遠くにある。

 

 

「決断するのが遅かったのかもしれない。もっと早くに外へ出ることを決意してお姉さまに言っておけばという想いもある」

 

 

 そっと目を閉じて過去を振り返る。今の気持ちになるまでの過程を思い返す。外に出たいと望んでいながらも、それを抑え込んできた過去を振り返る。

 もっと早くにお姉さまに気持ちを告げていたら。

 もっと前に上手く気持ちを吐き出せていたら。

 もしも、もしも、そんな過程の過去が頭の中に生まれては消える。

 それでも、今こうして意志を固めている自分を感じていると、今思えば―――それも今に至るまでの必要なことだったのだと感じる。

 積み重ねて募らせてきた気持ちは、ちっとも無駄になっていない。ちっとも間違っていない。全てが―――今という時間に解き放たれている。

 フランは、窓の外に確かにある最も見てみたかった世界を眺めた。

 

 

「でも、きっと今なのよ。今がその時なの。過去でも未来でもなく、今こそが、私が空を見上げる時なの」

 

 

 窓越しに空を見上げる。

 そこには、確かに自分が見たい世界があった。

 

 

「私の夢が夢のままでも、昔とは違うわ。私の願いが変わらなくても、望む未来は変わっている」

 

 

 フランは、空を見上げていた視線を二人へと向けて頭を下げた。

 

 

「今までありがとう。私のために、私たちの想いのために、私を抑え込んでくれていてありがとう。私からお礼を言うわ」

 

 

 咲夜とパチュリーは、時間が止まったように固まったままフランを見つめていた。

 見たことのない表情。

 聞いたことのない想い。

 心に突き刺さるような言葉。

 激しく動悸を始める心臓。

 止まった空間の中で視線だけがフランへと注がれる。

 頭を上げたフランの顔には、精いっぱいの笑顔が浮かんでいる。少年が浮かべていたような何もかもを受け入れて何もかもを許すような笑顔を見せつけている。

 

 

「でも、もう何も心配ないから。だから―――私たちの邪魔をしないで」

 

 

 二人は何も言わない。

 フランからも何も言わない。

 フランはその場で振り返り、目的地へと繋がる扉へと手をかけた。

 

 

「行ってらっしゃい」

 

 

 ―――どこかから声が聞こえた気がした。

 気がしただけで、気のせいかもしれない。

 だけど―――不思議と心が温かくなる声だった。

 

 

「行ってくるわ」

 

 

 呟いた声は、誰に向けられた言葉か。

 誰もがその言葉の向けられた方角を知らなかったが―――誰もがその言葉に頷いた。




 フランがもうフランじゃなくなっている雰囲気ありますね。正直なところこの今進んでいる話の部分が自分の一番書きたいところなので時間がかかっているのは、そのせいです。
 原作の紅魔郷、妖々夢と入っていきますと本作の主人公の活躍は、格段に減るので今が見せ場の一つですね。原作は、霊夢が主人公のお話なので、その傍らに笹原和友がしていることを書いていく形になるでしょう。


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背中を押すもの、吸血鬼の喧嘩

 そっと扉を開けて部屋の中へと入り込む。

 開かれた扉から見える部屋の奥には、ゆったりと深く椅子に腰かけたレミリアの姿があった。少年をフランの部屋へと行かせてから少したりとも動いていないようで、どっしりと構えている。

 

 

「お姉さま……」

 

 

 視界に入るレミリアの姿に恐怖が顔を出してくる。いつも見ているはずなのに、いつもと違って見える。きっと自分が大きく変わったせいだろう。自分が変わったから、相手も相対的に変わって見えるのだろう。

 フランは、悠然と構えているレミリアの姿を見て不安を抱える。思わず震えそうになる手を必死に握り潰し、高鳴る心臓の鼓動を押さえつける。

 

 

「っ……収まって」

 

 

 いくら気持ちを前に向けることができても。

 いくら外へ出ることを決心したとしても。

 いざ大きな壁を目の前にすると足がすくむのは止められない。

 しかし、今は怖気づきそうになる気持ちを押さえつけられるだけの大きな思いを抱えている。昔とは違う、そして昔と同じ想いが心の中で確かな存在感を見せている。

 

 

「私は負けない。絶対に負けないんだから!」

 

 

 想いは、別の想いで塗り潰せる。

 上から色を重ねるのだ。

 混ざってもいい、混ざりっ気のある色でいい。

 もっと強い色で。

 もっと濃い色で。

 足して足して、飲み込んでしまえ。

 もともとの色さえも、取り込んでしまえ。

 フランは、一色淡じゃない感情を抱えて前を見つめていた。

 

 

「ようやく戻って来たわね」

 

 

 レミリアの視線が扉が開いた音に反応し、扉の方向へと向けられる。視線の先には戻って来ると思っていた咲夜やパチュリーだけでなく、フランがいた。少年が本来いるべきポジションにフランがいた。

 レミリアは、フランの存在を視認した瞬間に怪訝そうな表情を浮かべた。

 

 

「……フラン、どうして部屋の外に出ているのかしら?」

 

 

 レミリアが疑問として‘最初に’抱いたのは、フランの部屋に行かせた少年の生存状況ではなかった。少年が何故戻ってきていないのかについてでもなかった。本来外に出ることを止める側である咲夜とパチュリーがそろいもそろってフランの後ろに控えていることでもなかった。

 最初に思ったのは、フランが部屋の外に出ていることに対しての疑問である。

 レミリアは、続いて湧き上がって来る疑問を一気に口にする。フランの体から出ている光を間違いなく少年のものと同一のものであると即座に断定し、力を得ているフランの姿から少年を食したのではないかとまで予測して、フランへと疑問を投げかけた。

 

 

「それにあの人間はどうしたの? その体から出ている光は何? あの人間を食べたのかしら?」

 

「……お姉様、私の話を聞いてください」

 

 

 レミリアの疑問に答えるつもりは微塵もなかった。

 少年がどうなったかなんて。

 自分が放出している光がどのようなものかなんて。

 そんなことはどうでもいい。

 そんなことはどっちでもいいことだ。

 無理矢理にでも会話を絶つ。

 持っていかれそうになっていた流れを断ち切る。

 再出発をかけようとする。

 

 

「私の話を聞いてください!」

 

(これは何かあったわね。だけど、何があろうとも、何があったとしても私には関係ないわ)

 

 

 フランの言葉遣いが変わっている、雰囲気が変わっている。

 何かがあったことは間違いがない。部屋に向かったはずの少年が引き起こしたことも間違いがない。

 だが、そんなものは今の状況を打開するために必要な情報ではなかった。

 レミリアはそんなことなどどうでもいいといわんばかりにフランを無視し、フランの後ろに控えている咲夜とパチュリーに言葉を飛ばした。

 

 

「咲夜もパチェも何をしているの? 早くフランを部屋まで連れて行きなさい」

 

「「…………」」

 

 

 有無を言わせぬといった雰囲気だった。口から吐き出される声の中に若干の苛立ちが含まれ、怒りの感情が沸々と湧いているのが感じられる。

 しかし、不機嫌なレミリアの気持ちに反するように、咲夜とパチュリーはバツの悪そうな顔をしたまま動かない。

 動きを見せない二人を見てレミリアの口から大きなため息が漏れた。

 

 

「はぁ、一体何があったというのよ……」

 

「「…………」」

 

「答えられないのなら質問を変えるわ。あの人間はどこにいるのかしら? フランの体から出ている光は、あの人間が出していたものでしょう?」

 

 

 レミリアは、自分の言葉を聞いても動き出そうとしない二人に何があったのかと考えながら、先程と同じ質問を投げかけた。今度こそ答えを得られるという確信をもって尋ねた。

 しかし、咲夜とパチュリーはそれでもなお黙したままレミリアを見つめ続けているだけだった。

 

 

「何なのよ……」

 

 

 パチュリーの視線に耐えきれず、咲夜に視線を向ける。咲夜は、レミリアの視線に対して申し訳なさそうに視線を下に向け、答える様子を見せない。

 なんだというのだ。

 何があったというのか。

 再び咲夜からパチュリーへと視線を移す。パチュリーの視線は相変わらず懐疑的な目をしていた。

 

 

(なんでそんな目で私を見るの?)

 

 

 ―――これじゃ私が悪者みたいじゃない。

 パチュリーから送られる視線に苛立ちが募る。

 

 

(どうして私がそんな目で見られなければならないの?)

 

 

 パチュリーは、レミリアにとって数少ない友人の一人である。その数少ない友達だと思っていた人物からこんな視線を向けられるとは思ってもみなかった。

 こんな気持ちになったのは生まれて初めてである。初めて会った時から今まで一度も見たことがない目だ。どうしてと疑問を持っていることが瞳の奥から伝わってくる。

 

 

(何があったというのよ……)

 

 

 どうしてと聞きたいのはこちらの方なのに。その瞳が心を見透かしてくる。そういう目で見られることが気持ちをざわつかせる。

 

 

(何があったらこんなことになるのよ)

 

 

 レミリアを苛立たせていたのは何も咲夜とパチュリーの対応だけではない。咲夜とパチュリーが現在立っている場所にも、レミリアが心を揺さぶられる要因があった。

 

 

(なんで……どうして貴方たちはそこにいるのよ)

 

 

 咲夜とパチュリーが‘自分の後ろに控えていない’だけならまだ耐えられていたかもしれない。咲夜とパチュリーが離反しただけというのならば、心を熱くさせることはなかったかもしれない。

 しかし、それ以上のものがレミリアの目の前で堂々と見せつけるように存在していた。

 

 

(どうしてフランの後ろにいるのよ!)

 

 

 レミリアが最も気に食わなかったのは―――咲夜とパチュリーがフランの後ろに控えているという事実である。本来自分の後ろに控えているはずの咲夜とパチェは―――自分ではなくフランの後ろにいた。

 それだけでこんなに心が揺さぶられる。いつもと立っている場所が違うというだけで、フランの後ろについているというだけでこれほどまでに心が熱く燃えるように昂ってくる。

 レミリアは、心の熱さをごまかすことなく、口から感情を吐き出した。

 

 

「咲夜っ! 答えなさい!」

 

 

 咲夜の肩がレミリアの声にびくりと反応する。レミリアの鋭い視線から逃げるように視線を泳がせ、恐れをなしている。

 

 

「あ、あの……お嬢様、私は」

 

 

 咲夜の口が最終的に部屋の中を取り巻いている重い雰囲気に耐えきれず、開きかける。

 咲夜は、あくまでもレミリアよりの存在だ。これまで積み立ててきた思い出が足かせになっている。いきなりフランの立場に覆ることはできない。このまま押し切れば、きっと口を割ったことだろう。

 しかし、咲夜の声を遮るようにフランが大声でレミリアへと気持ちを伝えたことで、咲夜の口は再び閉ざされることとなった。

 

 

「お姉さま、私は外に出ます! お姉さまの許可をもらって外へと行きます!」

 

「フラン、いい加減にしなさい。私がその言葉に対して首を縦に振るとでも思うの?」

 

「いいえ、今は思わないわ。‘今は’ね」

 

 

 フランの物言いにレミリアが薄く笑った。

 笑みの奥に怒りを混じえながら笑顔を浮かべた。

 レミリアから敵意を込めた瞳がフランへと向けられる。

 ふざけたことを言ってくれる。

 外に出るだって? 

 冗談もここまでくると怒りを覚える。

 視線が訴えている。

 

 

(お嬢様が、本気で怒っていらっしゃる……)

 

 

 作り出されたレミリアの表情に恐怖を感じる。

 完全に場の流れが戦闘へと移ることを望んでいる。

 自然の流れが、戦闘を起こすことへと帰着していた。

 

 

「力づくというわけ? 私に対して力で押し切ろうというのかしら?」

 

「いいえ、力はあくまでも手段よ。私は、お姉さまに許可をもらって外へと出るのだから。そうじゃないと意味がないもの」

 

 

 フランは、そっと息を吐いて真剣な眼差しでレミリアを見つめる。絶対に引かないという意思と明確な覚悟をもって、過去を全て押し潰す勢いで心に灯を点ける。

 

 

「お姉さま、行くわよ。止まっている針を動かすには誰かが回してあげる必要があった。それがたまたま和友だっただけ、いずれは回ることになる運命だったのだから!」

 

「何を言っているのか分からないけど、聞き分けの悪い妹を躾けるのも姉の役目―――やれるものならやってみなさい!」

 

 

 言葉が交わされた瞬間―――お互いの力が解放された。

 

 

 

 

「うっ……」

 

「っっ……」

 

 

 レミリアとフランが解放した力の余波は、部屋の中を凄まじい勢いで伝搬する。解放された力によって生まれた波が風を作り出し、暴風が出口を求めて吹き荒れる。いくばくかの窓を打ち破り、出口を得た流れは外へと流出していった。

 咲夜とパチュリーはその場で何とか踏み留まり、二人の動向に集中する。

 フランとレミリアは悠然と相対している。

 先手を取ったのは、乗り込んできたフランの方だった。目を見開き、レミリアに向けて宣言するように声を高らかに響かせた。

 

 

「レーヴァテイン!」

 

 

 フランが持ち出した武器は―――レーヴァテイン。北欧神話において登場する武器の名前と同じ名前を持った武器である。

 見た目は剣とも槍とも取れる形状を取っており、枝のように見えなくもない。ぐねぐねと曲りくねって、先端はトランプのスペードのような形状になっている。まるで悪魔の尻尾をほうふつとさせるような形である。

 フランは、手に馴染んだ武器を持ちながら、不思議な感覚に囚われていた。

 

 

(うふふっ、今までにない感覚だわ。何かに守られているような感覚、誰かに必要とされている感覚、全身の感覚が歓喜している、五感全てが研ぎ澄まされている)

 

 

 体から噴き出している神力は、フランを包み込むように滞留している。

 途切れる様子は全くない。

 無尽蔵に溢れ出る力。

 地下から湧き上がってくる水のような。

 無限に続いていくような。

 そんな普遍の力を感じる。

 そして、そこにはある存在が感じ取れた。

 誰からに包み込まれているような優しい雰囲気の中で確かに少年の存在を感じていた。

 

 

「ねぇ、和友……私はあなたの希望に成れているかしら? 貴方の願いを叶えることのできる神様に成れているかしら?」

 

 

 与えられている力は―――少年から送られてきているもの。

 少年の祈り。

 少年の希望。

 少年の願望。

 それらの連なりが力を繋いでいる。

 

 

「私は必ず外に出てみせる。お姉さまに許可をもらって、外の世界へと足を踏み出してみせる」

 

 

 与えられている想いは―――自分と全く同じもの。

 外に出たい、自由になりたいという感情。

 

 

「私を縛っている最後の鎖はここで断ち切る。私が自由を得ることを望んでいる人がいるから。なにより、私がそれを望んでいるから」

 

 

 二人の想いは同調し、同期する。

 心を縛る鎖を解き放ち、外に出るという目的の一致によって。

 遥か外の景色を―――自分の見たことのない景色を見たいという願望の一致によって。

 

 

「私は一人で戦っているんじゃない。私の想いは私だけのものじゃない。和友、力を貸してもらうわよ!!」

 

 

 フランは、持ち出した武器にすぐさま少年から送られている神力を注ぎ込む。

 自分の体からレーヴァテインへと神力が流れていく。

 レーヴァテインは単なる武器じゃない。体の一部だ。体全体を包み込む神力が武器と体を一体化させる。

 

 

(レーヴァテイン、貴方の本当の姿を見せて)

 

 

 神力がレーヴァテインに注がれていくと―――黒色をしていたレーヴァテインが徐々に真っ白に染まっていき、輝きを解き放ち始めた。

 

 

「レーヴァテインが、真っ直ぐな白い剣になった……」

 

「これが、本当のレーヴァテインの姿なの?」

 

 

 パチュリーは、フランの持っているレーヴァテインの変化に驚きの声を漏らした。

 咲夜は、姿を変えたフランのレーヴァテインを見て感嘆する。

 真っ白に染まったレーヴァテインは、曲がりくねった形状から真っ直ぐに伸びた鋭利な剣へと変化している。心の真っ直ぐさを表すように、素直さを表すように、真っ白な淀みのない想いを表すように、白く光り輝く真っ直ぐな刀剣となっている。

 そして、間をおかずして刀剣に炎が纏わりつき始める。刀身から漏れ出す光を受けて、本来赤い炎が若干白く燃えているように見えた。

 レーヴァテインは人を惹きつけるような、それでいて神々しいほどの存在感を放ち、フランの手に収まっている。

 レーヴァテインを持ったフランの姿は、さながらに伝説の勇者を見ているような錯覚を覚えるほどに凛々しく見えていた。

 

 

 

 レミリアもフランに対応するように―――武器を取り出す。

 

 

「グングニル!」

 

 

 レミリアが作り出した武器は―――グングニル。レーヴァテインと同様に北欧神話に出てくる武器の名前と同じ名前を冠した武器である。

 長さは、三メートル強というところだろうか。フランのレーヴァテインと比べれば2倍以上の大きさの違いがある。

 

 

「これが、お姉さまのグングニル……」

 

 

 レミリアのグングニルとフランのレーヴァテインには大きく違っている点がある。それは、レーヴァテインには武器となる質量を持った物質が含まれており、グングニルには武器そのものの存在がないということである。

 フランは、レーヴァテインと呼んでいる武器に力を注ぎこむことで炎の剣を作り出している。

 対してレミリアは、何もないところに魔力を固定し、密度を上げることでグングニルの槍を作り出している。

 フランのレーヴァテインとレミリアのグングニルで、実体があるものと実体がないものとしての違いがある。

 魔力という名のエネルギー体で構成されているグングニルは、激しく揺らめきながらも槍の形状を保っている。少しでも気を抜けば爆散しそうな危うい雰囲気があった。

 

 

「相変わらずレミィのグングニルには、桁違いの魔力が込められているわね」

 

 

 レミリアは、槍を構えて一挙手一投足を見逃さないと言わんばかりにフランへと視線を集中させる。

 自分だけを見つめているレミリアにフランが微笑んだ。

 レミリアは笑みを浮かべるフランを不思議に思い、疑問を投げかける。

 

 

「何を笑っているの?」

 

「……私、笑っているのね。やっぱりお姉さまの所に来て良かったわ。本当にいい気分、今までで一番嬉しいかもしれないわ」

 

「私は、最低の気分よ」

 

 

 レミリアは歓喜に打ち震えているフランの言葉を聞いて眉をひそめ、言葉を吐き捨てた瞬間にフランへと飛び込んだ。

 

 

「その減らず口が叩けないように、部屋の外には出てはならないと身体に刻んであげるわ!」

 

 

 吸血鬼の身体能力は人間に比べて非常に高い。力も速さも桁違いに高い水準にある。

 吸血鬼であるレミリアの移動速度は辛うじて目で追いかけられる程度で、姿はほとんど確認できなかった。グングニルから放出される光の線が伸びてくるのが分かるだけである。

 

 

(狙うは―――人体の中心線。とりあえず痛めつけて動きを止める! 吸血鬼は、急所を突き刺される程度では死なないわ!)

 

 

 フランとの距離を一気に詰める。

 手に持っている槍を伸ばし、フランを突き刺しにかかる。

 グングニルで狙うのは―――弱点の多い人体の中心線である。最も剣で防御がしづらい部分であり、最も避けにくい部分でもある。

 

 

(止められるものなら止めてみなさい!)

 

 

 レミリアは、腕を伸ばしながらフランの表情を見つめる。フランの表情には相変わらずの笑顔が浮かんでいた。

 いつもとは違う―――狂気に満ちた顔ではなく、純粋に楽しんでいるような笑顔を浮かべていた。

 レミリアのグングニルの突きに対してレーヴァテインが縦に立てられる。

 

 

(その構えじゃ私の槍は止められないわよ!)

 

 

 槍に対して剣の腹で受け止めるという動作は非常にリスクのある行動である。少しでも槍の位置と座標がずれてしまえば、そのまま直撃することになる。剣の腹の中心線からずれてしまえば、素通りするように槍が通過することになる。

 仮に、剣の中心で槍を受け止めることができたとしても、力の入らない状態での食い止めは難しいものがある。てこの原理が同時に働く状況での防御は、ほぼ不可能と言ってもいい。

 レミリアは、確実にフランの体に当たると確信をもって突っ込んだ。そして、何かに突き刺さるような感覚が手から伝わってきた。

 目の前にはグングニルの刺さったフランの体がある。そう感じた触覚に続いて視覚からの情報が脳に送られた。

 

 

「お姉さま、駄目じゃない。咲夜とパチュリーは安全な場所に移動させなきゃいけないでしょう?」

 

 

 触覚と視覚の情報には齟齬があった。そして、聴覚からの情報は何一つトーンの変わらないフランの声を伝えていた。

 レミリアは、自身の槍の先を確かめるために視線をフランの顔から槍先へと移す。グングニルの矛先は、進行を阻まれるようにレーヴァテインから広がる白い壁に突き刺さっていた。

 

 

「これは、神力? どうしてフランが……」

 

 

 レミリアは、直接的に力を目の当たりにしたことでフランが使っている力が神力であると把握した。

 神力を見る機会は余りなかったため見た目では判断できていなかったが、こうして間近で力を使っているのを見ると―――フランの使っている力が神力であると理解できる。

 レミリアのグングニルのように目に見えるほどに密度の濃い壁がレーヴァテインから盾になるように伸びている。

 

 

「咲夜、パチュリー、離れていなさい」

 

 

 フランは、レミリアのグングニルを抑えながら戦闘で固まってしまっている咲夜とパチュリーに声をかけた。

 名前を呼ばれた二人はフランの言葉で我に返ったように息を吹き返し、できるだけ被害の及ばない部屋の隅の方へと移動を開始する。

 

 

「随分熱くなっているのね。私との喧嘩に本気になってくれている―――素直に嬉しいわ。でも、二人を巻き込んではいけないわ。二人は何もしていないのだから」

 

 

 あのままだったらどうなっていたことだろうか。フランがグングニルの槍を止められず、勢いに負けていたら。フランの後ろに陣取っていたパチェと咲夜はどうなっていただろうか。レミリアは、フランの行動で自分が必要以上に熱くなっていることに気付いた。怒りで周りが見えなくなっているのは、自分の方だと気付いた。

 

 

「っ……」

 

 

 レミリアは自分が劣っていると感じられる状況に、助けられたような状況に、苛立ちを隠せなかった。そして、その苛立ちが思ってもみないことを口に出させた。

 

 

「邪魔をするのならもろともよ!」

 

「それ、本気で言っているのかしら?」

 

「本気だと言ったらどうだっていうのよ!?」

 

「お姉さまには分からないのね。無くなる前の当たり前が存在の大きさを隠しているから。失ってから知るといいわ。無くなってから存在の大きさに気付けばいい。和友のように後になって気付けばいいのよ」

 

 

 大切なものは―――後になって気付く。

 大事なものは―――失ってから気付く。

 普通になってしまった。

 当たり前になってしまった。

 そんな頭の中の普遍性が視界に靄をかけるから。

 特異性を、特別性を、普遍性が塗りつぶすから。

 だから―――色が見えなくなる。

 

 

「なんていったって私たち吸血鬼は、それからも続いていく者なのだから」

 

 

 色を失って悲しみに暮れるかもしれない。

 モノトーンの世界に心が死にそうになるかもしれない。

 それでも―――生きていかなければならない。

 色が見えなくても―――命は鼓動するから。

 失われた穴を抱えても―――血が流れるから。

 

 

「大事なものを失っても、大きなものを失っても、何もかもを失っても、生きていけるわ」

 

 

 私達吸血鬼は生きていかなければならない。

 そういうふうにできている私達は生きていくことしかできない。

 取り残されて。

 何もかもを失っても。

 変わらないものがそこにはあるから。

 変わらない関係がそこにはあるから。

 

 

「私とお姉さまは、同じお腹から産まれた姉妹(かぞく)なのだから。無くならない繋がりがあるのだから」

 

 

 独りじゃないから―――生きていけるのだ。



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力の性質、言葉の出どころ

フランの部屋から謎の光が放たれる。
出てきたフランと、祈りを捧げている少年。
フランは、少年を置き去りにして、咲夜とパチュリーを付き従える。
纏っているものは、普段使っていた魔力ではなく神力だった。
フランの目的は―――自由になること、鎖を解き放つこと。
フランの目的地は―――



 フランはレーヴァテインを振り払い、禍々しい光を放出しているグングニルを弾く。グングニルを振り払った目の前には驚きの色に染まっているレミリアの顔があった。

 

 

「くっ!」

 

「だけど、今この時に咲夜とパチュリーを死なせる気は毛頭ないわ! 私はあくまでお姉さまにお願いしに来たんだもの。これは、私達姉妹の喧嘩よ!」

 

 

 レーヴァテインに広げていた白い光を消し、光り輝く炎の剣を振り下ろす。

 レミリアは、振り払われたグングニルを全力で振り戻し、防御の体勢に入った。

 レーヴァテインは、レミリアの防御がぎりぎり間に合うかたちでレミリアのグングニルの槍によって止められた。

 そして、受け止めたその瞬間―――床が大きく凹んだ。

 

 

(っ……一撃が重いっ! こんなの何発も受け止めていられないわ)

 

 

 予想以上に重い一撃に全身に力を入れる。全ての筋肉と魔力を使って膝を落とさないように伸ばし切る。一瞬でも力を抜けば一気に持っていかれる。一度でも膝が屈してしまえば、一度でも心が折れてしまえば立ち直れなくなる。

 その後は―――折れた心を粉々に砕かれるだけだ。

 それだけは駄目だ。余裕がないことを知られてはいけない。知られれば畳みかけられる。

 レミリアは、歓喜に染まっているフランを見ながら精いっぱいの余裕を見せつけた。

 

 

「この力を……どこで手に入れてきたのかしら?」

 

「余裕があるように見せても無駄よ。歯をくいしばって耐えているのが見え見えだわ」

 

 

 つばぜり合いの状況でフランからさらに押し込む力が入れられる。

 レミリアは、必死に力を込めてフランの攻撃に耐えていた。

 ―――このままでは膝が折れてしまう。状況はかなり切迫している。息を吸う余裕もない。息を吸ったら力が抜ける。

 

 

(まだ、屈するわけにはいかないのよ!)

 

「ほらほら、どんどん行くわよ」

 

 

 フランはさらに神力を放出し、押し込む力を増加させる。

 

 

(ふざけないでこれ以上上がるって言うの!?)

 

 

 腕にかかる負荷が増大している。

 体全体が軋みを上げている。

 悲鳴を上げて今にも屈してしまいそうになっている。

 楽になりたがっている。

 余りの力の差に作っていた余裕の表情が崩れる。

 レミリアの表情は、苦痛に歪んでいた。

 

 

「っ……!!」

 

「それに力の出どころなんてどうだっていいでしょう? 私は、外に出る許可をお姉さまに貰いに来ただけなのだから。ねぇ、そうでしょう? お姉さま」

 

(フランと私でこんなにも差がつくなんて……)

 

 

 本来であれば、フランとレミリアに大きな力の差はなかった。姉妹だけあって力の大きさは拮抗している。内包している魔力についても、身体能力についても大きな差異はなかった。能力に関してだけいえば、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力を持っているフランの方が若干強そうに思える程度の差しかない。

 しかし、これまではいつだってレミリアが優位に事を運んできた。これまでレミリアの方が優位に立てていた理由は、吸血鬼の弱点を良く知っていて、フランの感情をよく知っていて、力の使い方をよく知っていたから。フランを止める術を持ち合わせていたからに他ならない。

 

 

(フランには冷静さが垣間見える。いつものように逆上して周りが見えなくなっている状態じゃない……)

 

 

 フランはいつになく冷静である。フランの防御の方法を見れば、それは嫌というほど分かった。

 いつもだったら簡単に予測できるはずフランの行動は様変わりしている。今のフランの行動は直線的ではなく、変則的に推移している。

 

 

(だけど、それで私と五分のはずでしょう!? 私たちの差はほとんどないはずでしょう!?)

 

 

 いつも優位に立っている要素である―――行動の先読みができていない。

 だが、それで五分五分のはずである。それだけであれば実力が拮抗するだけで、突き放されることはないはずだった。能力も使われていない状況で押されている理由はないはずだった。

 

 

(状況は五分のはずなのに! フランから感じられる神力の大きさは私の魔力よりも小さいのに! どうして押し込まれているの!?)

 

 

 レミリアは、押し込まれている現在の状況に動揺していた。

 フランの武器であるレーヴァテインから感じ取れる神力の大きさはレミリアが使っているグングニルに込められた魔力よりも小さい。フランの体から放出されている神力の大きさよりも自分が纏っている魔力の大きさの方が大きい。

 それなのに―――フランに力で押し負けている。

 パチュリーは、レミリアを押しているフランを見て言葉を漏らした。

 

 

「これが、神力の力なのね」

 

 

 レミリアとフランの力に差が生まれている原因は、その使用している力の性質によるものが大きい。

 力にはさまざまな種類があり、大きく4つの力に大別することができる。

 人間が用いる力―――霊力。

 妖怪が用いる力―――妖力。

 魔法使いや西洋の悪魔が用いる力―――魔力。

 神様が用いる力―――神力。

 以上の4つである。

 これらは混ぜ合わせることはできず、個別にのみ効果を発揮する。力の性質の違いから混ぜ合わせるということができないためである。

 現実に今のフランは普段使っている魔力を一切使っておらず、神力だけを使って戦闘を行っている。

 

 

 

 これら4つの力には、それぞれに特徴がある。

 

 

「霊力は自らの身を守る力、広い応用と機転の効く力、他者を退ける力」

 

 

 霊力は、霊力を作り出す器官を持っている人間ならば誰でも使うことができる力である。

 生き物全てが持っているといっても過言ではないため、先天的に霊力を作り出す内燃器官を持ち合わせているのであれば、妖怪でも身に着けることが可能である。修行すれば増えていくし、使わなければ劣化する。いわゆる技能的な要素が大きい力である。

 霊力は、妖怪に対して高い耐性を持っており、妖力を遮断する効果が含まれている。霊力で作った結界が妖怪に対して有効なのは、妖力に強いという力の性質によるものである。

 また、霊力には汎用性が高いという特徴がある。使いどころとしては、妖力に対して耐性があるということから主に結界や壁を作る際に用いられるが、様々なものに応用が利く。役割を持たせることが比較的容易で、霊力弾に追尾、貫通などの能力を付加することができるなど、高い汎用性を持ち合わせているのが特徴である。

 

 

 

 

「妖力は自らの身を保つ力、妖怪固有の特徴を持った力、他者を侵略する力」

 

 

 妖力は、妖怪であれば例外を除いてほぼ全員が用いることができる力である。

 妖力は基本的に修行をしたり、練習をしたりすることで増えることはない。内包する妖力の総量は、妖怪として産まれたときの才覚によっておおよそ固定されている。妖力の総量を増やす方法は、長生きすることと人々からの怖れを多く手に入れることぐらいしかなく、急激に上昇することはない。唐突な突然変異によって大きく妖力を上昇させる者が稀にいるが、そういった者は例外である。

 妖力の総量は、外での知名度に大きく左右される。外の世界での伝承が強ければ、そのままの強さを手に入れることができる。

 妖怪は妖力によって自分の身を保っており、妖力を全く持っていない妖怪は妖怪として生きていくことができなくなる。

 妖力は、最も力という言葉に合った性質を持っている。他者に畏怖を与え、他者を飲み込むような、粘性を感じるような雰囲気を持っている。霊力が自身を守るような遮断の力というのならば、妖力は他者を喰らう侵食の力といえる。

 ただ、その分扱いが難しい。汎用性に乏しく、決まった使い方しかできないという特徴がある。決まった使い方というのは妖怪によってまちまちであり、その存在の在り方に左右される。スキマ妖怪と言われる紫ならば、境界を作り出すような運用の仕方がメインになる。

 

 

 

 

「魔力は自らを変える力、様々な色を持った力、可能性を広げる力」

 

 

 魔力は、魔法使いや西洋の悪魔が使用する力の総称である。魔法使いの使っている魔力と西洋の悪魔が用いている魔力は厳密には違うものである。

 西洋の悪魔は東洋でいう妖怪と同じような立場であり、力の性質が妖力の性質と非常に似通っており、ほとんど違いはない。違いがあるといえば、霊力に対して弱さを持ち合わせていないという点だろう。霊力にも妖力にも均等に対処ができる。

 また、力の雰囲気としては霊力と妖力の中間をとったような場を支配しているような雰囲気が漂う力である。

 対して魔法使いの使っている魔力は、もともと人間だったものが魔法使いになることで手に入れられる力である。人間のまま魔法使いになるための条件は非常に厳しいため、現実に人間のまま魔法使いになった者はほとんどいない。

 魔力は、霊力と同じように修行によって増やすことができ、努力によって上昇させることが可能である。魔力を増大させる食べ物を毎日食べたり、魔力を増やすことのできる書物を読んだり、外部からの刺激によって増幅作用を得ることができる。

 また、汎用性も高く、魔力に属性を持たせることや力の運用に意味を持たせることもできるため、様々な使い方ができるのも特徴である。

 魔法使いは、何かを目的に魔法使いになった者が多く、目的を成し遂げるための運用の可能性の広がり方は他の力の追随を許さないほどに広い。その力に惚れて魔法使いになる人間がいるほどである。

 

 

 

 

「神力は他者から与えられた力、誰にも侵されない力、希望の連なりからなる積算の力」

 

 

 神力は神様が人々の信仰によって与えられる力のことである。

 神力は、霊力や妖力、魔力とは全く異なる性質を持っている。

 第一に、霊力・妖力・魔力が自分自身から生み出される力であるのに対して、神力は外部の人々から与えられる力である点である。当然のように修行や努力によって力が増大することはない。

 神力の総量を増やす方法は、たった一つである。信仰の力の量を増やすことである。神力の総量はより多くの人間から、より多くの信仰を得ることによってのみ増加する。その外部からしか得られないという特性上、力を集めることは非常に難しい。

 さらには、求められた方向にしか力を使用することができないという縛りが加えられている。遥か昔の神で考えてみよう。信仰をする人間たちが領地を守りたいと祈れば、領地を守るという目的にしか力を使うことができない。恵まれた生活をしたいというのならば、その目的を果たすためにしか力を使うことができなくなる。

 そんな信仰の収集の難易度や使用範囲の狭さに比例するように―――力の質は他の3つの力の質を遥かに凌駕する。

 神力は、ある目的のために使われるエネルギー効率がほぼ100%で効いてくる。

 例えば、大きな重い箱を動かすという目的があるとする。箱を動かすために霊力や妖力、魔力を使うと、押す力として取り出せる量は人にもよるが6~7割程度になる。神力は目的が限られている制約上、100%に近い力を押す力として使うことができるのである。

 それが―――魔力を使っているレミリアを押し込んでいる現状に繋がっている。

 レミリアはフランの力に押されながら、必死に声を振り絞り、咲夜とパチュリーに助けを求めた。

 

 

「咲夜、パチェ、手伝いなさい! フランを止めるわ!!」

 

「二人に助けを求めても無駄よ」

 

 

 レミリアは、バッサリと切り捨てるような言葉を吐き出すフランと視線を合わせる。

 フランの赤い瞳は逃がさないと言わんばかりにレミリアの瞳を見つめ続けている。瞳の奥に燃え滾る炎を見せつけて、白い輝きを放って、存在感を増して、目の前に存在している。

 

 

「「…………」」

 

 

 咲夜とパチュリーは、レミリアの声に答えることはない。一切動く様子を見せず、心配そうな顔でレミリアを見つめるだけだった。

 レミリアは、何の反応も見せない二人に歯ぎしりをしながら大声で叫ぶ。

 

 

「どうして!? どうして手伝ってくれないのよ!?」

 

「当然よ、咲夜もパチュリーも正しい方向を向いているわ。例え戦列に加えたところで、迷いが生じている二人を入れても戦力は増えない。邪魔をするというのなら一緒に相手にするけどね」

 

 

 咲夜とパチュリーの二人は、レミリアに助けを求められて酷く悩んでいた。

 今、何をするのが正しいのか分からなくなっている。

 フランの気持ちを真っ直ぐに受け止めて、外に出してもいいのではないかと微かでも思ってしまった時から、迷ってしまった時から足が止まってしまっていた。

 

 

「手伝ってよ!!」

 

「お姉さま、意識を外に向けている余裕なんてないわよ。相手は目の前にいるわ。前を向きなさい。じゃないと、何もかも終わってしまうわよ?」

 

 

 フランは、意識を外へと向けるレミリアに対してさらに押し込むように力を入れてきた。

 レミリアはすぐさま逸れた意識をフランへと戻す。そして、意識がそれていたことで僅かに弱まっていた力を最大まで上げて、フランの押し込みに対応した。

 

 

(このままじゃ終わってしまう。フランの言う通り、終わってしまう)

 

 

 今起こっているのはただの耐久レースだ。

 のこぎりで木の板を切っているようなもの。

 耐久値がどんどん下がって最後に真っ二つになるようなもの。

 苦しい、辛い、逃げ出したい。

 負の感情が心の多くを独占する。

 許してしまえばいい―――そんな甘い考えがちらつく。

 許可を出してしまえば今の状況から逃げられるのだろうか。

 外に出てもいいと、これまでのことを曲げてしまえば楽になるのだろうか。

 

 

(私が許せば……)

 

 

 フランに対して外に出る許可を与える。

 外に出てもいいと口にする。

 そんなこと―――できるわけがなかった。

 

 

(―――嫌! それだけはできないわ!)

 

 

 自分のために。

 自分じゃない誰かのために。

 それだけはできない。

 パチュリーは、意固地になっているレミリアにそっと声をかける。

 

 

「レミィ……私は、フランを外に出してもいいと思っているわ。今のフランなら何の問題もないと思う」

 

「ふざけないで! パチェ、貴方何を言っているのか分かっているの!?」

 

 

 レミリアは明らかに冷静さを失っている。何を言っても聞き入れる様子はない。普段であれば話を聞くぐらいの器を持っているだけに、今の状況はかなり切迫していると嫌でも分かった。

 

 

「レミィ、落ち着いて! 私の話を聞いて!」

 

 

 パチュリーは何も考えなしで、フランを外に出してもいいと言っているわけではない。出してもいいと思えるだけの材料があるから、出してもいいのではないかと言っているのだ。

 

 

「今のフランには、外に出ても問題ないほどの力がある。冷静さも持ち合わせている。それは、さっきのやり取りからもはっきり分かるわ」

 

 

 今のフランには争いに巻き込まないようにする気遣いも、機転も、力もある。

 外でも十分にやっていけるだけの能力がある。

 自由を手にするだけの条件を揃えている。

 もう十分じゃないか。

 もう許してあげようじゃないか。

 閉じこもっている理由はもうなくなった。

 もしも、問題が起これば叱ってあげればいい。

 いいことがあったら一緒に笑ってあげればいい。

 そんな誰でもできるようなことをしてあげればいいじゃないか。

 あの頃のフランは―――もうここにはいないのだから。

 

 

「もう……これまでのフランじゃないのよ。子供っぽくて、わがままで、癇癪持ちのフランじゃないの」

 

 

 フランには、とっくに外に出られるだけの力がある。それなのに、無理矢理に外に出ようとはしていない。今使っている神力と合わせて、能力であるありとあらゆるものを破壊する能力を使えば容易に外に出られるにもかかわらず、出ていない。

 それが何を意味しているのか―――分からないわけがないだろう。

 

 

「レミィだってもう気付いているのでしょう? フランは、もうあなたの手を離れている。手加減されているのは、レミィからの許可が欲しいから以外の何物でもないわ」

 

 

 フランにレミリアに対する殺意がないことはすでに確認されている。フランが話していた内容からも、レミリアから許可をもらいたいということだけで殺してまで外に出たいというわけではないことは理解できる。能力を使う様子を見せていないことからも殺す気が一切ないことが読み取れた。

 

 

「フランは、これまでずっと我慢してきた……もう、十分でしょう?」

 

 

 これまでのフランの境遇を想う。

 狂っていると思っていた。

 気がふれていると思っていた。

 だけど、それは違ったのだ。

 自分の意志で部屋の中に閉じこもっていたのだ。

 そうと考えると、パチュリーと咲夜は同情をせずにはいられなかった。自分が何をしてきたのかと考えたときに重苦しく感じた。その重たい気持ちが動きを止めていた。

 レミリアは、パチュリーのフランを肯定するような物言いに苛立ちを隠せず、表情を怒りに染める。

 パチュリーは、意地になっているレミリアを必死に説得しようとした。

 

 

「ねぇ、レミィ。フランを外に出させてあげて」

 

「っ……フランを止めるのが嫌だというのなら、あの人間を殺してきなさい! この力の出どころは間違いなくあの人間よ!」

 

 

 レミリアは、フランを止める直接的な手伝いをするのが嫌ならば、間接的に手伝ってもらおうと咲夜とパチュリーに向けて言葉を飛ばした。

 しかし、咲夜もパチュリーもお互いの顔を見合わせるだけで行動に移る気配も、言葉を返すこともない。

 

 

「行きなさい!!」

 

 

 レミリアは、二人の反応を見て完全に頭に血が上った。友達だったパチェに裏切られたという想いと、従順な従者だった咲夜が動きを見せないこと、そして庇っている相手がフランということもあって心が悲鳴を上げて絶叫のような叫びをあげた。誰にも聞こえない声を響かせた。

 

 

「行けと言っているのが聞こえないのかしら!? 私は行けと言っているのよ!!」

 

 

 パチュリーは振り返り、そっと歩き始める。行動に移り始めたのを見たレミリアは、少し嬉しそうにパチュリーの名前を呼んだ。

 

 

「パチェ、やっと分かってくれたのね」

 

「ごめんなさい。ちょっと気分がすぐれないから図書館に戻るわ」

 

「パチェ! どうしてなの!?」

 

「ごめんなさい、レミィ……私にはこの件に関して思うところが多すぎるわ。力になれなくてごめんなさい」

 

 

 レミリアの表情がパチュリーの一言で絶望に染まる。

 パチュリーは謝罪の言葉を言い残し、入ってきた扉からそっと外へと出て行く。後姿はどんどんと遠ざかり、小さくなって曲がり角を曲がったあたりで見えなくなった。

 レミリアは、最後の望みの綱になっている咲夜へと声を飛ばす。

 

 

「咲夜っ!!」

 

「っ……!」

 

 

 咲夜の肩がレミリアの大きな声にビクリと動く。

 

 

「はい……お嬢様がそうおっしゃられるのなら」

 

 

 咲夜は、悲しそうな表情を浮かべながら震える唇から声を漏らすと逃げ帰るように走り去った。

 見たことのない主の姿に恐れがなかったと言ったら嘘になる。鬼気迫るものに恐怖しなかったと言ったら嘘になる。

 だけど、別に逃げているわけでも、命令に背くつもりもなかった。向かうのはフランの部屋である。そこで祈りを捧げている少年の所である。

 咲夜は、お嬢様が‘そう命じるのならば’という想いだけを抱えて走っていった。

 しかし、レミリアから見ると走り去る咲夜が逃げていくように見えた。

 ―――裏切られた。

 そんな身勝手な想いが心の中を駆けずり回る。

 レミリアは怒りを爆発させ、全身から魔力を放出した。

 

 

「ああ、もうっ!! なんだっていうのよっ!!」

 

「きゃっ」

 

 

 レミリアの魔力の放出によって押されていたフランとの距離が僅かに開く。

 レミリアはフランの動揺を好機といわんばかりに、レーヴァテインをグングニルで振り払い、一旦フランと距離を取った。

 

 

「さすがは私のお姉さま。あのままで終わるわけがないものね」

 

「はぁ、はぁ……私は、貴方だけには負けるわけにはいかないのよ!!」

 

 

 レミリアは、圧倒的に不利な状況だと分かっていながらも自分を鼓舞するように強い姿勢を崩さない。一度弱音を吐いてしまえば、自分の心が崩れることを悟っているように、決して諦めの言葉を口にしなかった。

 

 

「それでこそ私のお姉さまよ」

 

 

 フランは、愛しいものを見るような優しい笑みを強がるレミリアへと向ける。

 そう、それでこそ私のお姉さまだ。

 そんな強いお姉さまだからこそ。

 だからこそ、こうして私は生きているのだ。

 こうして、生きていくことができたのだ。

 フランは、瞳に涙を僅かに溜めて自分の気持ちを素直に伝え始めた。

 

 

「こうしてお姉さまと闘っていて、やっと感じられた。私は、お姉さまの妹で本当に良かったわ」

 

「フラン……」

 

 

 フランは、瞳にたまった涙をふき取り、真剣な表情でレミリアへと足を向ける。

 

 

「だからこそ―――そんな強い私のお姉さまだからこそ、許してもらわなきゃいけない。私が外に出ることを許してもらわなきゃいけなのよ」

 

 

 再び強くレーヴァテインを握り直す。意志は十分に乗っている。背中に背負えるだけ背負った。

 さぁ、行くわよ。

 フランはレミリアへと襲い掛かる。

 レミリアは、苦しい状況にありながらもフランの攻撃をいなして受け流した。

 

 

「休む暇なんて与えないわ」

 

「きょ、距離が……」

 

「前に! 前に! 私は前に進むだけよ!」

 

 

 フランは、攻撃が流された端から次々とレーヴァテインを振りかざし、前へと攻め入る。一歩一歩間合いを詰めて、槍での攻撃がし辛い超接近戦闘へと移ろうとする。レミリアも負けじと、足でさばいて槍で一方的に攻撃できる距離を保とうとする。

 しかし、明らかに武器を振るっている力が違う。ぶつかり合えば、握力が削られる。振り払おうとすれば、凄まじいほどの魔力を消費する。

 レミリアは、力で優っているフランに徐々に追い詰められていった。

 

 

(このままじゃ押し切られるわ……認めたくないけど、フランの力は私の力よりも強い)

 

 

 接近戦闘に持ち込んで来るフランに対して、魔力を使った弾幕を使う余地は一切ない。現在戦っているフランとレミリアの間には、一瞬でも気を抜けば一気に勝負を決められるだけの力の差が存在する。

 武器を振り回す速度が同じでも、相手に与える重さが違う。地面に力を受け流すことで多少の緩和を起こしているが、それも気休め程度である。レミリアの手首は、力の増したフランの攻撃によって次第にいかれ始めていた。

 レミリアは、そんなフランが圧倒的に優位に進めている戦闘の中である疑問を抱えた。

 

 

(フランが圧倒的優位、それなのにどうしてフランは勝負を決めにこないのかしら? 能力を使う場面なんていくらでもあるのに、どうして……)

 

 

 今のフランの勢いであれば、能力を使うことができる場面は数えることができないほどある。剣を振り、それをレミリアが受け止めれば、レミリアの足は自動的に止まる。いうなれば、剣を振りさえすればどこでも使うポイントがあるのである。

 こうして捌けていることを考えれば、心なしかこちらに多少の余裕ができるように間を空けられているのではという疑問さえも湧いてくる。

 あれほどの力が出せるのならば、間を空けずに一気に攻勢に出れば捌き切れなくなったレミリアに対して攻撃を当てるチャンスを作ることができる。

 そう思うと、今の状況が不自然に思えてしかたがなかった。

 

 

「はぁ、はぁ……フランは能力を使わないのね。それは私に対する情けかしら? 私なんて、能力を使わなくても倒せるということなの?」

 

「…………」

 

 

 レミリアの問いにフランの攻撃が止まった。

 レミリアは、フランが攻撃の手を止めた瞬間に一定の距離を取る。その表情はいつもの余裕を持ったものではなく、息も絶え絶えに疲れを見せた顔だった。

 

 

「どうして……?」

 

 

 唐突に―――フランの纏っていた白い光が急速に萎んでいく。暫くすると光が全く見られなくなった。レーヴァテインもいつもの曲がりくねった黒い枝のような物質に戻り、赤い炎だけが変わらず残存するような形になった。

 

 

(咲夜か……)

 

 

 レミリアは、神力の力を感じなくなったフランの様子を見て確信した。先程命じた咲夜がしっかりと命令を成し遂げたのだ。

 先程逃げて裏切られたと思っていたが、咲夜はちゃんと命令に従ってくれた。レミリアは、自分の咲夜に対する信用のなさを自覚し、悪いことをした気になった。

 そんな感傷に浸っているレミリアに向けてフランからの言葉が飛来する。

 

 

「まだ勘違いをしているの? 私は言ったはずよ、許可を貰いに来たって。ここでお姉さまを壊す意味なんてないわ。私が壊したいのは、あくまでもお姉さまに繋がっている鎖だけよ」 

 

 

 フランは、体から消え失せた白い光について何か反応することなく、未だに勘違いしているレミリアにはっきりと告げた。

 レミリアと闘っている理由は、あくまでも外に出る許可をもらうためである。それどころか、レミリアを殺してしまったら許可をもらうことができなくなるのだから。

 レミリアは、フランの物言いに歯ぎしりをする。

 

 

「っ……どうして今なのっ!? どうして今、外に出たいと思ったのよっ!?」

 

「外に出たいと思っていたのはずっと前からよ。何も今になって外に出たいと思ったわけじゃない。そんなこと、お姉さまが一番よく知っているでしょう?」

 

 

 怒りの形相をしているレミリアに向けて淡々とした言葉が送られる。

 フランが外に出たいと思ったのは、何もついさっきの出来事ではない。

 昔から募らせてきた想いが今になって爆発した―――それが今だっただけだ。

 大きく膨らんだ風船を壊したのが偶々少年だっただけのことだ。

 少年が偶々今日紅魔館へとやってきて。

 偶々フランに会って。

 偶々フランの心を解放した―――それだけのことだ。

 なんてことのない―――それだけのことである。

 

 

「一番近くで一番私のことを分かっていたお姉さまが、私の気持ちを一番よく知っているはずよ!」

 

「……だったら私の気持ちだって分かるでしょう!? 私の気持ちが分かるのなら、これからもずっと部屋に閉じこもっていなさい! 貴方を外に出すのは危険なのよっ!!」

 

 

 レミリアは、駄々をこねる子供のように涙を流しながら大声で叫ぶ。

 フランは、涙を流すレミリアに対して無表情のまま歩いて近づいた。

 

 

「お姉さまは困ったらすぐその言葉を使うわね。私がそれを気にして動きが鈍ることを知っているから。それが枷になっていることを知っているから」

 

 

 外に出てはいけない。

 外に出ると危険。

 これらの言葉は、フランの心に大きな鎖を取り付けている。

 毎回のようにフランが外に出るのを失敗していたのはその言葉があったからだ。

 この言葉の意味を知っていたから。

 この言葉の重さを知っていたから。

 この言葉を守りたいと思っていたから。

 だから失敗していた。

 でもそれも―――今日までの話である。

 

 

「でも、その言葉―――もう十分じゃないかしら?」

 

「何がかしら?」

 

「もう、守る必要がないって言っているのよ」

 

 

 レミリアは、その言葉が不必要だというフランに怒りを爆発させる。

 

 

「何を言っているの!? これは、お母様とお父様が残した言葉なのよ! 貴方を守るために残した言葉なのよ!」

 

 

 ついに―――言葉の出どころが判明する。

 




 霊力・妖力・魔力・神力についての説明を書いていたら思った以上に文字数が伸びました。紅魔館編が終われば、おそらくまた設定として書くことになると思います。
 今回の話は、力の性質についてと危険だからのくだりがどこから来ているものなのかを示すものになっています。次回の話が非常に分かりやすい展開ですね。
 今主人公がどうなっているのかについては、ご想像にお任せします。


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両親への想い、捨て去られる言葉

前へと進むことを決めたフラン。
過去にしがみついているレミリア。
神力と魔力がぶつかった。
劣勢になったレミリアが、鎖となっている言葉を口にする。
その言葉の出どころは―――二人の両親だった。


 危険だから外に出てはいけない。

 

 その言葉は、レミリアとフランの母親と父親が残した言葉である。

 両親が残した―――‘最後の言葉’である。

 

 レミリアとフランの母親と父親は両者共に吸血鬼であり、すでに他界している。

 その死に方はごく普通の死に方だった。その死に様は酷く普通のものだった。人間でいう病気で死んだり、事故にあったり、老衰したりして死ぬのと同じ死に方―――人間でない者にとっての当然の死に方である。

 化け物にとっての普通の死に方―――人間からの攻撃によるものだった。

 

 

「危険だから、外に出てはいけないよ」

 

「危険だから、外に出ちゃいけないわよ」

 

 

 この言葉が送られた当時は、ちょうど吸血鬼に対する討伐の運動が活発化していた時期だった。

 なぜにその時、人間達の間でそういう動きが起こっていたのかは分からない。別の吸血鬼が何か悪さをしてしまったのかもしれない。それとも何かが起こった原因を擦り付けられたのかもしれない。

 しかし、ここでどうしてという疑問は特別な意味をなさない。考えても仕方のないことなのだ。なぜならば、人間による化け物討伐の動きというのはとってつけられたように起こるものであるからだ。

 化け物が討伐される原因など探さなくてもいくらでも見つかる。

 災害が起これば化け物の責任になる。

 疫病が流行すれば化け物の責任になる。

 人が死ねば化け物の責任になる。

 化け物というのは、理不尽を具現化した存在である。

 科学や原理の分かっていない時代では、人の死というのが理不尽によって生まれることが多かった。つまり、自然事象や疫病の類が広がればそれが討伐の理由として湧いて出てくるのである。

 化け物にとっては人間に淘汰されるのが当たり前であり、人間に殺されるのが自然の摂理のような自然法則のような印象を受けるほどに一連の流れになっている。化け物の死因の99%が人間からの攻撃によるものだ。

 吸血鬼は、基本人間の形を取っている人間と違う化け物である。生きるためには人の血を吸う必要があり、人間の犠牲なくしてその存在を保つことはできない。

 吸血鬼の性質上―――人に仇を成す存在として淘汰されるのは自然の流れだった。

 

 

「なんで? なんで? お外に出たいー」

 

「フラン、いい子だから言うことを聞いてちょうだい。後でちゃんと外に出してあげるから、ね?」

 

「いやーー!」

 

「フラン、いい子だから。お母さんの言うことを聞いて」

 

 

 レミリアとフランは、外に出てはいけないと両親から言われた当時のことをほとんど覚えていない。両親がこの言葉を送ったのは、今から遡ること450年以上前である。

 さらには言えば、その当時レミリアは十数歳であり、フランに至っては2ケタに満たない年齢だった。そこから現在に至るまでに450年以上が経過している。両親のことを覚えていないのは仕方がないことだった。

 そして、僅かに残っている記憶も時間の経過と共に随分と風化してしまっている。写真の一枚もない。記録も一切残されていない。紅魔館には両親を思い出せるような記録が何もなかった。

 心の中に残っていた僅かな記憶は、辛い現実によって消えてしまった。凍えるような吹きすさぶ心の中の風によって運ばれて消えていってしまった。もはや両親の顔も思い出せないぐらいに記憶は薄くなっている。

 しかし、記憶が薄くなっていたとしても、長い年月や辛い現実が思い出を蝕んでいたとしても、忘れていない言葉が一つだけ残っていた。

 

 忘れられなくなった言葉が―――心の中に刻まれていた。

 

 

 フランに言うことを聞かせようと母親が四苦八苦している。

 父親は、駄々をこねているフランをあやしている母親を横目で見ると二人から距離を取り、レミリアだけを呼んだ。

 

 

「レミリア」

 

「何でしょうか、お父様」

 

「これから人間たちとの戦いが始まる。お前たちは地下にこもって戦いをやり過ごして欲しい」

 

 

 父親から不安そうに見上げるレミリアに向けて真剣な眼差しが注がれる。

 人間との戦いが始まるのだ。

 レミリアは、幼いながらにも事の状況を理解していた。外ではすぐにでも人間たちが自分たちに襲い掛かろうと隊を成して迫ってきている。もうすぐ人間との戦いが始まる。

 しかし、父親にはレミリアとフランを人間たちとの戦いに巻き込むつもりは全くなかった。

 これから始まろうとしているのは苦戦もいいところの負け戦である。

 人間は知恵を持っている生き物、学ぶ生き物である。吸血鬼の多すぎる弱点を上手くついてくるだろう。いくら長生きした力の強い吸血鬼だとしても、真っ昼間から水を大量に持ってこられて、見たこともない武器を携える人間たちと戦うということがどれほど劣勢なのかは、誰の目から見ても明らかだった。

 

 

「お父様、私も戦います。私もお父様やお母様と一緒に!」

 

「……レミリア、その言葉だけで十分だ」

 

 

 レミリアの頭にそっと手が乗せられる。父親は、レミリアの言葉に嬉しそうに笑みを浮かべていた。

 一緒に戦う―――娘であるレミリアからの言葉に思わず目元が緩む。普段ならばこの程度の言葉で涙が流れそうになることはないが、今の状況で冷静さを保つことは厳しかった。

 ここから先に―――未来は繋がっていない。

 ここから見える先に―――道は続いていない。

 

 

「私は、いい娘を持った。家族想いの強くて優しい娘を授かった」

 

 

 覚悟はできている―――もうすぐ死ぬということは分かっている。父親は、これから人間たちに殺されることを受け入れていた―――受け入れるしかなかった。

 目の前にある現実と想い描く理想は違う。化け物には化け物らしい最後があって。人間には人間らしい行動がある。今起ころうとしている戦いは、そんな絵に描いたような現実だ。

 死んでしまう。人間に殺されてしまう。

 終わってしまうというのに―――不思議と拒絶したい気持ちは全くなかった。人間に殺されることを無念に思う気持ちは全くなかった。殺されることに対して何かしらの憎悪や恐怖が生まれることもなかった。

 きっとそう思うのはこれまでの思い出があるおかげだ

 これまで生きてきてさまざまなことがあった。

 辛いことも苦しいこともあった。

 しかし、それ以上に幸せでいっぱいだった。

 

 

(私はもう十分に生きた。子供までできて、愛する妻と共に死ねるのだ。これほどの幸せがあろうか……唯一心残りなのは、この子たちが成長するところを見られないことだけだ)

 

 

 父親にとって唯一の後悔は、娘であるレミリアとフランの成長を見届けられないことである。

 娘の成長を見届けて幸せに死ぬ。そんな誰しもが持つような理想を抱えていたが、誰しもが直面する現実の前に跪く結果となってしまった。

 だが、絶対にそこに娘たちを巻き込んではいけない。見れないからといって―――自分で壊すなど愚の骨頂である。

 

 

「レミリアには、別にやってもらいたいことがあるのだ」

 

「なんでしょうか?」

 

 

 レミリアは、子供っぽい表情できょとんと首を傾げた。雰囲気はもうすでに吸血鬼と呼べるだけの格の高い強者の風格を持っている。それでも、まだ子供っぽさが残っている。年相応の反応を見せる。

 ―――守らなければならない。

 そんなレミリアの表情を見て、より固い決意の炎が心に灯った。

 

 

(やはり―――レミリアをこの戦争に参加させるわけにはいかない。この子には、生き延びて幸せな未来を勝ち取ってほしい。だが、レミリアは地下に隠れろと言っても言うことを聞く子じゃない。誰に似たんだか頑固だからなぁ……)

 

 

 父親は、そっと横目にフランの懐柔に成功している母親を見た。

 レミリアの我の強さは母親譲りである。吸血鬼同士で結婚しようとまで持ちかけて、それを押し切った彼女によく似ている。世の中の流れや常識を廃し、明日を常に探してきた彼女から産まれた娘だからこそ、今のレミリアとフランがいるのだろう。

 そんなレミリアにもしもこのまま地下に隠れろと命じても頑なに命令を拒むだろう。守られているだけ、足を引っ張っているだけと分かれば、すぐにでも飛び出してきてしまうだろう。

 それではダメなのだ。レミリアには何としても生きてもらわなければならない。

 自らの幸せのために。

 レミリア自身の未来のために。

 

 

(そして、この責任感の強さは私譲りか……ははっ、成長を見届けられないのが残念だ)

 

 

 頑固さが母親譲りなら、レミリアの責任感の強さは父親譲りだろう。残念ながらまだ、フランには父親に似ている部分は見受けられていない。これから大きく成長していけば似ている部分が出てくるのだろうか。

 フランには感じられず、レミリアにすでに責任感の重みが感じられるのは、きっと次期党首の重荷を背負っているからだろう。レミリアは次の頭として強い責任感を持っており、劣勢の戦いが起こるというときに隠れてやり過ごすことを善しとしていない。

 どういえば、納得するだろうか。責任感に動かされているのならば、同じように責任を持ってもらうのが良いだろう。そうすれば動きを制御できるはずだ。

 父親は、機転を利かせてレミリアにある命令を下した。

 

 

「レミリアにはフランを、あの子を守ってほしい」

 

「フランを、ですか?」

 

「あいつは見ての通りお転婆姫だ。好奇心旺盛で、何かが気になったらすぐに飛び出してしまうような元気な私の娘……もちろんレミリアも私の大事な娘だが、フランはレミリアと違って見ていて危なっかしい。それはレミリアも分かっていることだろう?」

 

「はい」

 

「だから、レミリア。お前があの子を守ってやってほしい。お前はフランの姉なのだからな。あの子を守ってやってくれ」

 

 

 父親は、優しい笑顔を浮かべてレミリアにフランを任せると告げた。

 

 思えば―――これが全ての始まりだったのだろう。

 

 レミリアは父親のお願いを聞き入れ、フランを連れて地下へと向かった。

 地下にある部屋は館の隠された場所にあり、そうそう見つかるような場所ではない。地上の館が崩れ去っても地下だけは無事に残るような構造になっている。

 両親は、レミリアとフランの二人を地下に隠すことで人間たちの攻撃から守ろうと考えていた。

 

 

「危険だから、外に出てはいけないよ」

 

「危険だから、外に出ちゃいけないわよ」

 

 

 両親は二人を部屋に閉じ込め、外へと向かう。できる限り屋敷の中に被害を出さないために、屋敷に侵入者を入れないようにするために、日の照っている外で人間たちと闘う。

 戦闘が始まった直後―――人々の雄叫びが聞こえ始める。館の中まで聞こえてくるほどの大きな戦闘の音がこだましていた。

 レミリアの心が戦闘の音が激しくなるにつれて絶叫を上げ始める。

 

 

(いや、いや、いや! お父様、お母様、必ず生きて帰ってきてくださいっ……!)

 

 

 レミリアとフランは、地鳴りのするような人間の雄叫び聞きながら部屋の中に閉じこもっていた。外で両親が戦っているというのに、ただただ守られているという不甲斐なさを感じながら、人間たちに殺されるのではないかという不安と恐怖にさいなまれながら身を震わせて耐え続けていた。数時間という時間でありながらも、数日続いていたかのような錯覚を覚えるほどに辛い地獄の時を過ごした。

 

 

(怖い、怖い、怖い、怖い、怖い)

 

 

 寒くなんてないのに体が硬直して動かない。

 不安と恐怖で体が震えるのを止められない。

 恐怖に歯がガタガタ音を立てているのが耳に入ってくる。

 そんな真っ暗な中でくいくいとレミリアの服がひっぱられた。

 レミリアは、恐怖に染まっていた顔をそのままにフランへと顔を向けた。

 

 

「お姉さま、大丈夫?」

 

 

 フランは、穢れを知らないような無垢な表情でレミリアに声をかけた。

 レミリアの幼い心の殻はフランの言葉で容易く決壊する。僅かな時間でした決意など、僅かな時間で崩れ去るものだ。

 心の叫びは一気に外に出ようと流れ出る。

 次第に込み上げてくるものを抑えきれなくなった。

 不安と恐怖が一気に吐き出されて、涙となって溢れ出た。

 

 

「フラン……お父様とお母様がっ……」

 

 

 両親が死んでしまう。両親が殺されてしまう。

 頭のどこかで分かっていた。

 分かっていたのに分からないフリをしていた。

 大丈夫なんて気休めだと。

 どうしようもないのだと。

 自分は庇われているのだと。

 心のどこかで知っていた。

 それを知らない顔をして無視していた。

 だけど―――もう無理だ。

 フランの顔を見ていると、弱い自分が素直になってしまった。

 そして同時に強がる自分が前に出ようとした。

 フランは、普段見ることのないレミリアの弱さを目の当たりにして不思議そうに問いかける。

 

 

「お姉さま?」

 

「……何でもない、何でもないわ。私なら大丈夫」

 

 

 涙を流しながらフランを抱きしめて必死に強がる。今後、フランを支えて生きていくのだと心の中で誓いながらフランの存在を全身で守る。

 

 

「…………」

 

 

 フランは何も言わなかった。何も言わずに姉であるレミリアを抱きしめ返した。

 それは何も分かっていなかったからだろうか。何も知らなかったからだろうか。

 別に分かっていなくてもいい―――抱きしめ返してくれるフランの存在がレミリアの心を癒した。

 この時、真に支えられていたのは抱きしめられていたフランではなく抱き付いていたレミリアだったことだろう。物事を理解できているレミリアは、空きそうになった心の穴をフランで埋めたのだ。

 

 

「私なら大丈夫……大丈夫だから。フラン、貴方は必ず私が守ってみせるわ」

 

 

 レミリアは、外から聞こえてくる悲鳴のような絶叫と歓声が消えてなくなるまでフランを抱きしめていた。

 

 

 

 レミリアとフランは疲れて眠ってしまい、起きたときには次の日の夜になっていた。

 レミリアの瞼がゆっくりと開く。永い眠りからゆっくりと意識を覚まし、地下にある僅かな光を取り入れた。

 

 

「おはよーございます、お姉さま」

 

「フラン……」

 

 

 レミリアの開けた視界に、はにかんだ笑顔のフランの姿が映った。レミリアの視線が腕の中に納まっていたフランの視線と交錯する。

 フランはレミリアよりも前に目を覚ましており、レミリアの寝顔をずっと見ていたようである。

 無垢な笑顔を向けるフランの頭をそっとなでる。フランの目はくすぐったそうに細まった。

 この日以来―――フランに対する過保護っぷりは異常を極めた。

 まだ人間たちがいるかもしれないという恐怖。

 いつ襲ってくるかもしれないという不安。

 そして、両親から託されたフランを守ってほしいという言葉。

 全てが――――上手く噛み合ってしまった。

 

 

「フランを守らなきゃ。姉として妹を守っていかないと」

 

 

 二人は、深夜の真夜中に地下から外に出た。

 階段を上がり、上の階に登る。そして、地上へと繋がる扉をスライドさせて開けると―――目の前に広がったのは全てを失った後の焼野原だけだった。

 思い出も一つもなく、記憶の欠片もなかった。あるのは燃え尽きた残骸だけ。残ったのは燃え上がる思い出だけ。心の中が空っぽになる想いだった。

 フランは、ボロボロになった家を目の当たりにして大声で泣いた。

 

 

「ほら泣かないの。まだ、お姉ちゃんがいるわ」

 

 

 泣いているフランの手を強く握り、歩き出す。フランは歩いている間ずっと泣いていた。

 力なく連れられているフランの足取りはかなり重く、歩幅も小さい。レミリアはフランと歩幅を合わせ、泣きたい気持ちを抑えて前を向いた。

 それでも暫くすると―――フランの手から力が返って来る。

 歩幅も大きくなって、視線が前に向いた。

 進むべき未来へと向いた。

 鼻水をすすりながら歩き出した。

 

 

「フラン、偉いわ。それでこそ私の妹よ」

 

 

 フランが前を向いた。

 同じ方向を向いた。

 たったそれだけのことなのに。

 それだけで―――明日を生きていける気がした。

 二人でなら支え合って、立っていけると思った。

 

 

(フランを泣かせるのはこれが最後よ……二度とこの子を、フランを泣かせたりなんかしない。貴方は、私が守ってみせるから)

 

 

 レミリアは崩れそうになる心をフランに支えられながら、安全な場所を探し、さまよった。時折人間に襲われながら。時折人間に助けられながら。苦しみ、喜び、苦難を乗り越えてきた。

 その結果が―――今の紅魔館へと繋がり、フランを地下に閉じ込めている現在を迎えている。フランを地下へと閉じ込めるという結果に繋がっている。

 

 

「フランを何としても守らないと。どうすればいいのかしら……どうすれば……」

 

 

 フランを守ることを決意したレミリアがフランを地下へと閉じ込めるという行動に出るのはいわば必然だった。

 フランを地下から外へと出してしまった場合、レミリアがフランを守ることは厳しくなる。自由奔放に歩き回られてしまえば、屋敷の外へと出てしまえば、レミリアの目の届かないところに行ってしまったら守ることができなくなる。

 そもそも、まだ幼く力もそれほど強くなかったレミリアに人間が襲ってきたときにできる対処などフランを守りながら逃げることしかなかったのだ。フランを目の届かないところにおくということがどれほど危険なことなのか。それが分かっていたからこそ、レミリアはフランを常に目の届くところにおこうと考えた。

 

 

「力の無い私たちでは、襲ってくる人間に対処する方法がない。人間のいいようにされるだけだわ。お父様、お母様……私はどうすればいいの……?」

 

「お姉さま? どうしたの?」

 

「……何でもないわ。フランは、お姉ちゃんが守ってあげるから安心しなさい。フランを泣かせたりなんかしないわ」

 

 

 レミリアは、この時フランを守らなければならないという使命と人間に襲われたらどうしようという不安と闘っていた。

 休む暇などなく、寝ているときも心の安寧の時が訪れることはない。常に人間から襲われる危険と大切なものを失う恐怖にさいなまれて生活していた。

 

 

「フランを守るためには、やっぱり地下に身を隠させておくのがいいのかしら。お父様もお母様もそうしたのだから、きっとこれが正しい選択肢の一つなのよね」

 

 

 守る方法を考えていた当初―――地下へと身を隠させることによってフランの身を守ろうと考えた。

 フランを地下に隠しておけば、外からの攻撃にさらされる可能性は格段に減少する。一度人間から見逃してもらったという経験則も、その考えを助長する要因となった。

 

 

「なんとか、なんとか生き延びなければ……フランも守らないと」

 

 

 逃げているときにかかるレミリアの精神的・肉体的疲労は凄まじいものがある。

 心には大きな負担が常にかかり続けている。恐怖や不安、責任感に常に襲われている心は、安定を求めるために両親から言われた言葉を自分に都合のいいように書き換えた。

 

 

「フランを守るためには、フランを地下に閉じ込めておかなきゃ……」

 

 

 フランを守ってほしいという両親の想いは、いつの間にかフランを地下に閉じ込めなければならないという別の目的にすり替わった。

 地下に閉じ込めておけば、レミリアの心労は格段に減る。肉体的にも常に見張っておく必要はなく、食事だけを届ければ済む。

 知らず知らずのうちにフランを守らなければならいという両親の言葉の意味は変わってしまった。そして―――フランも両親の言葉を信じて疑わなかった。姉から言われた言葉を素直に飲み込んだ。

 

 その結果が―――今という現実に繋がっている。

 

 フランは両親のいいつけを守り、姉の想いを受け取り、地下へと閉じこもり我慢をしてきた。

 だが、それも今日までのことだ。

 今日全てが解き放たれる。

 フランは、これまでの過去を全てのみ込んだうえで姉妹を縛っている鎖を解き放ちにかかった。

 

 

「お父様とお母様が告げた言葉が私を守る言葉ってことは分かっているわ。分かっていたから私は地下にこもって、お姉さまは私を地下に閉じ込めた。周りから私を守るために、地下へと閉じ込めた」

 

 

 両親から与えられた言葉を律儀に守ってきた。

 両親に言われた言葉を必死に守ってきた。

 外に出てはいけないということが間違っていないと子供ながらに分かっていたから。

 それが大事なことだって子供ながらに分かっていたから。

 送られた言葉が自分を想っての言葉だと分かっていたから。

 他でもない大好きな両親が笑顔を浮かべて伝えた最後の言葉だったから。

 誰でもない家族である姉が自分の身を守ろうとしていってくれた言葉だったから。

 フランの外に出たいという想いは、両親の言葉によって押し留められ、レミリアによって抑え込まれてきた。

 

 

「私は待ち続けたわ。400年以上も許しがもらえるのを待ち続けた。それは、今だって変っていない」

 

 

 両親がいつか帰って来ると信じて、両親が外に出てもいいと言ってくれるのを待ち続けた。

 それは―――今でも変わっていない。許しがもらえる相手が両親からレミリアへと変わっただけだ。

 

 

「そして、それはお姉さまも一緒。お姉さまも私も―――いつだってその言葉に縛られてきた。400年以上も守ってきた。残された言葉は呪いのように漂って、残骸になっても残響となって影響を及ぼしている」

 

 

 両親がすでに死んでいることを悟ったのは、数カ月の間レミリアに地下へと幽閉されていたときである。いくら待っても迎えに来ない両親と、徐々に変わっていくレミリアの態度から両親が消えていなくなったことを自分一人で理解した。

 このとき、フランは縛りを解いてくれる人物を失って外に出る機会を完全に失った。

 だからこそ―――今でも許しがもらえず、立ち往生している。

 しかし―――それも全て終わりだ。

 この瞬間から始まるのだ。

 フランは、真剣な顔でレミリアへと告げる。

 

 

「でも、それも今日で終わったの。500年近く続いた伝統は今終わりを迎える。私達を縛っていた鎖は、今解き放たれるのよ」

 

「フラン! お父様とお母様のいいつけを破ると言うの!?」

 

「約束には有効期限があるのよ。一生続く約束なんてない、永遠なんてないの。捨てる時がいつかは来るのよ」

 

 

 レミリアは、未だに両親から言いつけられた言葉を捨てる様子もなく、大声を張り上げる。未練を残し、想いを残して、抱え続けようとしている。

 だが、肝心のフランには両親に言葉に対して未練が全くない。

 自分で自分を縛っていた鎖が少年によって弾き飛ばされた瞬間から。

 溢れ出る想いで鎖を弾き飛ばした瞬間から。

 フランの想いは――――外に出るという方向を向いて一直線に進んでいる。

 フランは、迷うことなくレミリアの心の中への一歩を踏み出した。

 

 

「……お姉さまも気づいているのでしょう? もう、その言葉に意味が残っていないことを」

 

「それは……」

 

 

 レミリアがフランの言葉に言い淀む。

 レミリアも両親が与えた言葉の意味が消え失せていることはうすうす感じている。

 今のフランを閉じ込めておくことに、フランを守るという意味がどれほど含まれているだろうか。

 レミリアは、フランから指摘される前から両親が口にした言葉を自分の都合のいいようにはき違えていたことをなんとなしに分かっていた。

 

 

「それでも、それでもよ! もう、私には何もないの! 私にはこの言葉しかないのよ!!」

 

 

 それでもなおフランを地下に閉じ込めることを止められなかったのは、その時すでにレミリアの心に残っているものが何もなかったからだ。

 

 

「時間の経過と辛い記憶は、両親との楽しかった記憶を根こそぎ奪っていった。忘れたくなんてなかったのに、両親のことが何も思い出せない。残された言葉―――それ以外に思い出せない。そのことを悔やんで。だから、それだけはと思って守ってきた」

 

 

 両親との思い出が荒みきって見つからなかったから。

 両親との思い出が何一つ残っていなかったから。

 思い出せる最後の残骸が―――その言葉だけだったから。

 両親の面影は時間の流れとともに風化した。数十年もの間両親と一緒だったといっても、数百年におよぶ孤独と恐怖、不安に押しつぶされて生きてきた二人である。

 記憶はより強い記憶によって、より鮮烈な記憶によって書き換えられていく。楽しかった思い出は次々と姿を消し、辛い思い出ばかりが深く刻まれる。いつだって辛い記憶が先行し、楽しかった記憶は後退していった。

 思い出の中にいた両親は姿を消して、外に出てはいけないという恐怖によって取り付けられた最後の言葉が頭に残って存在感を増した。ふと思い返そうとしてみれば、いつの間にか、思い出せる言葉がそれ以外に見つからなかった。

 いつの間にか―――両親の顔も思い出せなくなっていた。

 

 

「お姉さまの言いたいことも分かる。私達姉妹には……お父様とお母様の記憶を思い出そうとしても、その言葉しか残っていなかったから」

 

 

 全て思い出せなくなった二人だったから―――余計に言葉だけが残って残響を奏でた。

 けれども―――音はすでに鳴り止んでいる。聞こえているのは幻聴に過ぎない。

 

 

「でも、外に出ると危険という言葉には―――もう何も残っていないわ。時間が全てを無意味に変えていった。私たちはあの頃の力の無かった二人じゃない、弱かった私達じゃないもの」

 

 

 危険だから外に出てはいけないという言葉の意味は、今となっては皆無だ。

 両親の言葉は力の弱いレミリアとフランを守るためのもの。レミリアとフランは、時を経て大きな力を得ている。幼かったままのスカーレット姉妹ではない。

 

 

「もう、怖がらなくてもいいのよ。私たちは自由になれる。もっと遠くへ飛んで行けるわ。見たことのない景色を、感じたことのない想いを手に入れられる」

 

 

 怖がらなくてもいい。幻想郷には外の世界と違って人間から討伐を受けるような流れが基本的に存在しないし、紅魔館へと攻め込んでくる人間はいないといっても過言ではない。そもそもが、スカーレット姉妹を打ち倒せるだけの人数を準備できないのだから。

 

 

「それに、今だったら美鈴と咲夜とパチュリーがついている。私達は二人だけじゃない」

 

 

 そして、何よりもあの頃と違って―――二人ぼっちじゃない。分かり合える人がいないわけでも、味方がいないわけでもない。

 紅魔館は、別にレミリアとフランだけで構成されているわけではないのだ。今ならば、美鈴と咲夜とパチュリーも味方に付いてきてくれる。

 二人きりだったスカーレット姉妹には多くの仲間がついている。何も心配することなんてなかった。

 レミリアの口は堅く閉ざされ何も言葉を口にしない。

 フランは、口を閉ざし、声を出そうとしないレミリアに向けて疑問を口にする。

 

 

「……お姉さまは、本当に思い出せないの?」

 

 

 記憶に僅かに残っている両親のことを語る。何も残っていなかったはずの記憶を辿り、古びて錆びきった記憶の欠片を拾い上げる。

 

 

「自由を縛って、空を見上げて、羨望だけを募らせる。こんな生活をお母様もお父様も望んでいない。お姉さまは、そんなことまで分からなくなるほど、お母様やお父様のことを忘れてしまったの?」

 

 

 フランは、無くなったと思っていた記憶の欠片を心の中から探し出した。少年によって一新された心の中で、怒りや狂気に埋もれていた両親との優しい記憶を見つけ出した。

 フランの心の中には、確かに幼かった時の記憶がまだ残っている。両親と過ごした温かな日々が想起される。それはきっと、少年がくれた温かさが見つけてくれたものだ。あの包み込むような温かさが思い出させてくれたのだ。

 フランは、記憶の中にいる両親の面影を誇る、自慢の両親だということを誇示する。

 

 

「お母様もお父様もいつだって自由で、いつだって楽しそうにしていたわ。最後の最後だって……死ぬ間際まで笑顔だったもの」

 

 

 フランの記憶の中の両親の最後の表情は笑顔だった。

 自分を怖がらせないためだったのだろうか。

 自分を安心させるためだったのか。

 それは分からない。

 けれど―――これだけは言える。

 危険だから外に出てはいけないという言葉は、両親の‘笑顔と共に’送られた言葉なのだと。

 

 

「だからここで破るの。約束を、決まり事を―――拒絶するの」

 

 

 フランは、自らの決心と共にそっと頭を下げてレミリアに最後のお願いを申し出る。

 

 

「お姉さま、私に外に出る許可をください」

 

「嫌よ! 絶対に嫌!」

 

 

 レミリアの顔が勢いよく横に振られる。聞き分けのない子供のように、駄々をこねるように、感情的な想いからフランの要求を拒否する。

 頼まれた程度で捨てられるのならばとうに捨てている。フランとレミリアで違うのは、記憶の中の両親を見つけられているかどうかの違いだろう。

 ここで両親のいいつけを破ってしまえば、これまでが何だったのか分からなくなる。いいつけを無視してしまえば、レミリアの頭の中の両親の姿が完全に見えなくなってしまう。ここで両親の言葉を捨ててしまえば、両親との思い出が何一つ残らなくなる。

 レミリアにとって、それが何よりも耐えられなかった。

 

 

「そんなことをしたら、私には何も残らないじゃない!!」

 

「聞き分けがないわね……お姉さまは、私をこのまま地下に閉じ込めておくの? 一生? 死ぬまで? 私は何処を見て歩けばいいの? 一生地べたを見て生活するのかしら?」

 

「……それでも嫌なのよ! 何もかも残らなかったら、まるで最初からそんなものなかったみたいじゃない!」

 

 

 レミリアはここまで来てもフランが外に出ることを認められなかった。残っている最後の言葉を失ってしまったら―――何もなくなってしまう。何もないということは、最初から全部幻想で、作り話のような気がしてしまう。

 両親なんて最初からいなくて。

 優しくしてもらったことも実は嘘で。

 現実には、そんなものありはしなかったのだという虚実が心を巣食ってしまう。

 それだけは嫌だった。そうなることだけは受け入れたくなかった。

 

 

「なによそれ。そんな言い訳で私が納得できると思うの?」

 

 

 フランの表情が理由もなく嫌とだけ言うレミリアに対して怒りの色に染まる。

 レミリアの言動は余りにも自分よがりで、フランのことを何も考えていない。危険だから外に出てはいけないという言葉は、フランが行動の全責任を負うだけの一方的な言葉である。レミリアには何一つ不利益も損害も責任も苦痛もない。フランが全てを背負って、レミリアを支えているだけだ。

 それは不公平だ―――お互いを支えるはずの家族の形じゃない。

 フランは、レミリアに向けて苛立ちを隠せない様子で条件を突きつける。

 

 

「だったら私と一緒に苦しんでよ! 一人でいる孤独の毒を味わってよ! 私と同じように500年近くを地下で過ごして! それなら……きっとまた我慢できるから。一緒に苦しんでくれるのなら、きっと辛さが半分になるわ」

 

「…………」

 

 

 レミリアは、フランの台詞を聞いて言葉に詰まった。

 フランと同じ状態になるということは自由を失うということ、耐えるだけの生活を送るということである。なまじ外の世界のことを知っているがために、今の生活を知っているがために、持っているものを捨てることができない。恵まれている者は今の利便性を捨てることができない。

 フランは、答えることができないレミリアに呆れた。

 

 

「お姉さまには、そんなことできないのでしょう?」

 

「…………」

 

「いいわ、当然だもの。分かり切っている答えだったわ。別に私と一緒に苦労してくれる気持ちもない癖にいい加減なこと言わないでなんて思っていない」

 

 

 フランの口から遠慮する様子もなく毒が吐き出される。

 レミリアは、フランの余りの言い草に何も言い出せず、顔を赤くしてプルプルと震えていた。それでもなお何も言えないのは、それが正論だったからに他ならない。

 レミリアはあくまで実行者でなく、横で応援しているだけの存在で、行動に移すのはフランなのだから。自分ができないことを他人に押し付けるなという話になるのは当然のことだった。

 フランは、そっとため息を吐くと気持ちを落ち着けてレミリアに語り掛けた。

 

 

「はぁ……お姉さま、私は別にお母様とお父様のことを忘れろって言っているわけじゃないの。言葉の意味をはき違えるなと言っているのよ」

 

 

 元来の両親の言葉の意味―――危険だから外に出るなという言葉の本来の意味をレミリアへと問いかける。

 

 

「危険だから外に出るなという言葉は、何のための言葉なのかしら?」

 

「……フランを守るための言葉よ」

 

 

 力ない声が空間に響く。

 レミリアからの口から告げられた言葉は、両親の言葉の本当の意味を捉えていなかった。本来の言葉の意味としてはレミリアも含まれているはずであるのに、レミリアの口からはフランの名前しか挙げられていなかった。

 

 

(お姉さま、その言葉は―――本来私達姉妹を守るもののはずでしょう? 私たち二人を守るためのものでしょう?)

 

 

 誰に向けられた言葉なのか―――レミリアは自覚していない。言葉をはき違えているという意味がそこに現れていることを知らない。

 

 

(お姉さまは本当にはき違えてしまったのね。きっと私のせいだわ。私が弱かったから、私が守られる存在だったから……だったらそれも全部受け止めましょう。これからを歩くために―――お姉さまに私の素直な想いを伝えるだけよ!)

 

 

 フランは、レミリアの答えを聞いて声を張り上げる。

 

 

「だったらっ! お姉さまが私を守ってよ! 地下に閉じ込めるという力の無かった時の方法じゃなくて、力を持っているお姉さまが私の手を引っ張って!」

 

 

 今まで伝えられなかった思いのたけを全て吐き出す。絶叫のような心の震えを体現するように声帯を揺らして想いを伝搬させる。

 

 

「その手で私を助けてよ! 私に手を差し伸べてよ! 本当の私を見つけてよ! 私の心を救ってよ!」

 

「フラン……」

 

「もう、これ以上の我慢は無理なの。みんなが普通に生活している中で、閉じこもって、一人で、一人で―――何処まで行っても一人で……待ち続けるだけの生活なんて無理なの!」

 

 

 レミリアの視界に瞳に涙を溜めるフランが映る。手を強く握り、強がることもなく心の弱さを露呈させているのが見て取れる。

 初めて聞いた―――フランが地下にこもっていて感じていた想いを真っ直ぐに受け取った。

 瞳に映るフランの頬を涙が流れていく。悲しそうな顔で純粋な想いをこめて、涙は地を濡らした。

 レミリアは、涙を流すフランを見て完全に固まった。

 

 

「誰も手を差し伸べてくれない。誰も助けてくれない。内に溜まりはじめる狂気は、どんどん大きくなる。私が……私じゃなくなるみたいだった。もう、これ以上は無理なの。私が私ではなくなってしまうわ……」

 

 

 フランは、誰も助けてくれない状況の中で耐えてきた。耐えられたのはきっと約束があったから。約束が心を必死に制御してきた。

 しかし、大きくなってくる負担に対してフランの心が永遠に耐えられるはずもない。いつか崩壊を起こし、平常を保っていられなくなる。

 フランは心の叫びのまま、心が泣いている気持ちのままレミリアに最後のお願いをする。

 

 

「だから、お姉さまっ! 私に外の世界を教えて。外の世界に連れて行ってよ!!」

 

(なんで……私)

 

 

 レミリアは、心が完全に折れる音を聞いた。グングニルの槍が供給される魔力を失って形を保てなくなり、淡く消えていく。

 フランの瞳から流れる涙は止めどなく流れる。人間に家を焼かれてしまったあの日の夜のように、両親が死んでしまったあの時と同じように―――泣いている。

 

 

(フラン……どうして泣いているの?)

 

 

 レミリアは、今にも崩れそうになっているフランを見て過去に誓った想いを思い出した。

 

 

(あの時、フランを泣かせないって決めたのに……私は何をしているの? どうして私がフランを泣かせているの?)

 

 

 レミリアの頬を一筋の涙が流れる。妹を泣かせないと、守り抜くと誓ったあの日の誓いは破られることによって想起された。

 過去に歩いた道のりが頭の中をめぐる。姉妹で生き抜いてきた思い出が一気に思い出される。

 辛いこともたくさんあった、それでも二人だから生きてこられた。

 二人だから支え合って生きてこられた。

 フランの命はレミリアによって守られてきた。

 レミリアの心はフランによって守られてきた。

 なんで、どうして―――こんなことまで忘れていたなんて。

 レミリアは涙をふき取ることもなく、謝罪をしようと口を開いた。

 

 

「フラン、ごめんなさ」

 

「それ以上言わないで。私は、お姉さまに謝ってほしいわけじゃないわ。お姉さまには私を外へ連れ出してほしいの」

 

「……ふふっ、我儘なのは昔と変わっていないのね。昔からお転婆姫には手がかかるわ。お父様もお母様も苦労していたのよ」

 

「それでも、お姉さまは私のお願いを聞いてくれるでしょう?」

 

「もちろんよ。姉である私がフランの期待に応えないわけがないでしょう?」

 

 

 レミリアは、涙を流したまま昔と何も変わっていないフランと共に優しく笑った。

 今からでも間に合うかな。

 一緒に未来を作っていけるのかな。

 フランは許されて。

 レミリアも許された。

 お互いの顔にもう後悔の色はない。

 お互いに涙をふき取り、笑顔を浮かべている。

 レミリアは縛られていた鎖を解き放ち、穏やかな気持ちでフランへと歩み寄る。

 フランは近づいてくるレミリアに向けて掌を表にしてそっと手を差し出した。

 ああ、守るべきはこの手だった。

 この手を引いて、守っていくと決めたのだ。

 レミリアは、差し出されるフランの手を見て自分の右手をゆっくりと前に出し、重ねようとする。

 

 

「フラン、ちょっと遅くなっちゃったけど、また一緒に付いてきてくれるかしら? 私と手を握ってくれるかしら?」

 

「私は、お姉さまと一緒ならどこまでだって行けるわ。地の果てだって行ける。昔からずっとそうだったでしょう。私たちは、二人でスカーレット姉妹なのかだから」

 

 

 昔と同じようにレミリアがフランの手を引き、外を歩く。

 そんな未来がきっとまた始まる。どこまでだって未来を描いていける希望が、この手に詰まっている。

 レミリアは、心に光を持って手を取ろうとした。

 

 

 その瞬間―――爆音のような響きと共に、天井が崩れ去った。

 

 

「フラン!!」

 

「えっ!?」

 

 

 レミリアは、勢いよくフランへと飛び込むと覆いかぶさるようにしてフランに抱き付く。上から落ちてくる瓦礫からフランを守るために脊髄反射的に体が動いた。

 フランは、唐突なレミリアの行動に何も反応できず、覆いかぶさるレミリアの優しい顔を見ながら目を丸くする。眼前に映るその顔は、両親が最後に魅せてくれた顔によく似ていた。

 

 

 ―――部屋の中に轟音が響き、土煙が巻き上がった。

 

 

 

 

 

 

「……あれ? 痛くない?」

 

 

 レミリアは、痛みが襲ってこない状況に強く閉じていた瞼を開けた。

 視界から得られる情報を脳内で処理する。先程まで部屋の中央にいたのにもかかわらず、部屋の隅の方へと移動している。落ちてきたはずの瓦礫も中央にはなく、遠くの方へ飛んで行って吹き飛ばされていた。

 

 

「お嬢様、妹様、ご無事で何よりです」

 

「戻ってきて正解だったわね」

 

「咲夜ぁ! パチェ!」

 

 

 レミリアは、唐突に響いた声に反応して声の方向に顔を向けた。

 入り口付近には本を開いた親友の姿が、すぐ隣には余裕を持った表情のよく見知った顔があった。

 レミリアは、今にも泣きそうになりながら咲夜に抱き付く。

 咲夜は仕方がないですねと言わんばかりに、レミリアを抱きしめ、そっと背中をぽんぽんと叩いた。

 

 

「天井が落ちてくるなんて、一体何があったのというの?」

 

 

 パチュリーは、穴の開いた天井を見上げる。

 その時、ある人物の口から漏れた言葉が部屋の中に響き渡った。

 

 

「きれい……」

 

 

 フランは、視線を惹きつけられるように天井のある一点を凝視している。

 パチュリーは、言葉を失い固まった。

 レミリアと咲夜の視線がフランの視線に誘われるように天井へと向けられる。

 天井は、先程何かが当たった衝撃で崩れ落ちており、外の景色が見えるようになっていた。

 

 

「何よ、あれ……」

 

 

 レミリアと咲夜の視界に入ったのは―――月をバックに添えた黄金色に輝く神々しい九尾の姿だった。




今回のお話は、レミリアとフランと両親と約束の話になっています。
最初にフランが地下に閉じこもっている設定を目にした時、前話でも書きましたが、400年以上閉じこもるなんて善意や思いやりがないとできないことだと思いました。その結果が、今回の話になっていますね。
この話は、上手く少年の場合と比較してくださると面白いと思います。決まり事を破ったフランと決まり事を破れない少年。決まり事を守りたいレミリアが、より大事なもののために決まり事を破る。どちらも少年には、できない芸当です。そして、できるようにならなきゃいけないことですね。

最後に随分ともったえぶって登場した人物がいますが、次回は少年の方で何があったのかの話になります。



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主に従うもの、主に逆らうもの

危険だから外に出てはいけないよ。
この言葉の出どころは、二人の娘を心配する両親からだった。
時間の経過と共に、はき違えられた言葉。
フランとレミリアは、本来の形を取り戻す。
終わりに―――新たな戦いを呼び寄せて。


 天井に大きな穴が開いて夜空がよく見える。夜の闇には、月明かりに照らし出された金色の九尾の姿が映えるように強い存在感を放っていた。

 それは、いうなれば神々しい。

 それは、いうなれば奇跡のような光。

 フランは相変わらず空を見上げたまま固まって、目を奪われている。

 レミリアとパチュリーは、嫌でも目に入って来るような輝きを放っている九尾を見て疑問を口にした。

 

 

「何が起こっているの?」

 

「あれは一体……」

 

「あれは、八雲紫の式神です」

 

 

 二人の疑問に咲夜が答えた。

 そう言う言葉に迷いは感じられない。答える様子から、咲夜は事の状況を知っているようだと周りは察した。

 

 

「咲夜は今の状況を分かっているの?」

 

「はい……全て把握しているというわけではないですが、一部始終を見ていましたので」

 

 

 咲夜は、普段ならば絶対に見ることができないような顔をしている。申し訳なさそうな、安心しているような、よく分からない顔をしていた。

 

 

「ふうん……」

 

 

 レミリアは、咲夜の言葉を吟味する。

 一部始終を見ていた―――それは始まりから終わりまでの一部を見ていたという意味である。

 どこで見ていたのだろうか。

 いつ見たのだろうか。

 レミリアには今の状況が理解できていないし、フランやパチュリーだって理解できていない。分かっているのが咲夜だけという状況は、そのまま咲夜が別の所にいたということを想起させる。

 咲夜が一人でいた時間―――レミリアはそのことから何処で異変が始まったかすぐに察した。

 

 

「だとしたらまたあの人間が発端か。咲夜はちゃんとあの人間に会いに行ったのね」

 

「お嬢様の命令でしたから」

 

 

 レミリアは、咲夜から返って来る答えが分かっていながらも次なる問いを咲夜へと投げかけた。

 

 

「私の命令通り、八雲の使者を殺したの?」

 

 

 その質問が飛んだ瞬間に―――パチュリーの視線が咲夜へと注がれた。

 もともと、殺すなといわれていた存在。

 殺したら後が続かない存在。

 もしも殺してしまえば、後戻りできない状況に陥る。

 パチュリーの真剣な眼差しが咲夜からの答えを待っていた。

 

 

「いえ、殺せませんでした。あそこにいる九尾に邪魔をされたので……」

 

「やはりあの人間を殺すことはできていなかったのね」

 

 

 淡々と事実が述べられた。咲夜の言葉を信じるのならば、どうやら少年は死んでいないようである。

 これは、聞かなくても薄々分かっていた回答だ。空に神々しく光り輝いている九尾の姿が少年の生存を証明している。九尾の体から出ている衣は神力による鎧であり、先程までフランが纏っていたものと同類のものである。

 

 

「それにしても、あの九尾と戦闘になってよく無事に帰ってこられたわね。我が従者ながら驚きを覚えるわ」

 

 

 空に飛んでいる九尾を見ると、遭遇時に戦闘になったことも何となく察することができる。あれ程の闘気を出しているのだ。戦闘になることは必須だろう。

 しかしながら、咲夜が傷ついている様子はない。九尾がやって来て無傷で帰って来るあたりに疑問を抱えるが―――その疑問の答えが‘空に存在している’と誰しもが直感で分かった。

 

 

「八雲の式神とは笹原を殺す前に出会ったので……殺していたら私の人生は終わっていたことでしょう。それに―――途中で横やりが入りましたから」

 

「……なんにせよ、無事でよかったわ」

 

 

 横やりが入らなかったら確実に殺されていたことだろう。あるいは、少年を殺してしまっていたら、地の果てまで追いかけられ殺されていたことだろう。

 レミリアは、そっと入ってきた横やりの存在に僅かながらの感謝をしながら、生きているはずの少年のことを想った。

 

 

「咲夜があの人間を殺し損ねたというのなら、あの式神の体を包んでいる神力の衣は相も変わらずあの人間が作り出しているのでしょうね」

 

 

 レミリアは、空に送っていた視線をフランへと向ける。フランの視線は相も変わらず空に囚われて、憑りつかれたように魅せられていた。

 目の前にいるフランが先程纏っていた光は―――九尾が纏っている光と同じだ。

 

 

「フランの時も同じだったし」

 

「私の時もあんなのが体から出ていたの?」

 

 

 会話の中に自分の名前が出てきたことで、憑りつかれた様に見上げていたフランの顔が下がった。

 フランには、同じものを纏っていた自覚がなかった。自分の体から同じものが放出されたといっても、ピンと来るところがなかった。

 

 

「ええ、そうよ。少し違うような気もするけれど……」

 

「私から出ていたものと違うってこと?」

 

「私から見ると同じに見えるのだけど……レミィには違って見えるの?」

 

 

 フランとパチュリーは同時にレミリアに疑問をぶつけた。

 自分が纏っていた。フランの纏っている光を見ていた。そんな二人から見た九尾の神力の衣は、先程のものと同じように見えているようだ。

 

 

「同じかと言われたら―――同じではないと答えるわ」

 

 

 確かに九尾の纏っている光も、おおよそフランが纏っているものと同じように見える。

 けれども、それは直に対峙していない者の言葉である。

 レミリアの見たフランが放っていた光と九尾が放っている光は確かに別物だ。目に見える違いというのは僅かなものでしかないが、はっきりと違うと判断できる。

 あの光と対峙した身だからこそ分かる相違点がある。

 九尾の光とフランの光との違いが肌で感じ取れる。

 信仰の力である神力は、想いの力である。

 より具体的な、より鮮烈な、より強烈な想いはそのまま力に具現する。

 

 

「あの九尾が纏っている衣からは、フランの時よりも洗練された意志を感じるのよ」

 

 

 レミリアは、横目にフランとパチュリーを見つめる。二人はよく分からないというような雰囲気で佇んでいた。

 分かってもらうにはどうすればいいのだろうか。本当ならば、直接目の前で並べてみれば分かるはずなのだが、そんなことはできやしないし。頑張って説明するしかないだろう。

 レミリアは、二人に分かってもらえないことを予想しながら見た目から分かる違いを告げた。

 

 

「そうね……まず、輝き方の程度が違うわ」

 

「そうなの? 自分で纏っているときは特に何も感じていなかったから、そういう細かいところまでは分からないわ」

 

「レミィ、気のせいじゃないかしら? 輝度は変わっていないように思うわよ?」

 

 

 実際に光を纏っていたフランは、自分で纏っていたからなのか判断がつかないようで首をかしげる。

 パチュリーも実際に戦いにまで参加したわけでもなく、戦いの場を全て見ていたわけでもなかったため、両者の違いが判断できなかった。

 そんなことを言われても、どう説明したら分かってもらえるのだろうか。レミリアは二人に自分の感覚が伝わらないことに困惑する。

 

 

「う……なんて言えば分かってもらえるのかしら」

 

「あ、消えた」

 

 

 レミリアが唸りながら悩んでいるところに―――フランの声が響いた。

 フランの声が空間を伝わった瞬間に、全員が空を見上げる。その見上げる行動と同時に、何かがぶつかって生まれた轟音が響き渡った。

 音の源は空からのものだ。何かと何かがぶつかった音がしている。

 肉体と肉体が、力と力がぶつかって、打撃音を響かせている。

 九尾は、何者かと闘っているようだ。

 

 

「あの状態の九尾と闘うなんて、何者かしら?」

 

 

 空間全体に意識を集中させる。

 戦っている人数は、九尾を含めて二人のようである。大きく二つの力がぶつかり合っているのが感じ取れる。お互いに強力な力でぶつかり合っているためか、たいして集中しなくても力の余波を感じ取ることができた。

 ぶつかっている力の種類は、神力と妖力。

 一体何者だろうか。

 あの状態の九尾は先程のフランよりも強いはずだ。

 そんな神力を纏っている九尾と闘える人物。

 それも、互角に戦っている妖怪。

 そして、九尾と何かしらの接点がある者。

 ――――心当たりが一人だけあった。

 

 

「ねぇ、咲夜。今、九尾が戦っているのって、もしかして……」

 

 

 感じたことがある妖力の雰囲気。

 それはついさっきまで見ていた者と同じものだ。

 レミリアの脳内に今持っている情報から九尾の相手が誰であるのか解答が導き出される。

 しかし、頭の中に出てきた人物が九尾と闘う理由があるだろうか。むしろ戦ってはいけないといえるような関係が両者には存在している。

 レミリアは、答えを知っているはずの咲夜へとゆっくり顔を向けた。

 

 

「はい―――八雲紫です」

 

 

 咲夜の口から信じがたい言葉が吐き出された。咲夜の言葉でフラン以外の顔が、時が止まったように固まった。

 

 

「式神が主である八雲紫と戦っているですって!? そんなことあるわけないわ!」

 

 

 幻想郷で九尾といえば、八雲紫の従者であることが知られている。ここで問題になるのは、当然ながら八雲藍が八雲紫の式神であるという点である。

 

 

「お嬢様……あそこにいるのは確かに八雲紫とその従者です。私は、この目で見ました」

 

「分かっているわ。分かっているわよ! 戦っているのが八雲紫だってことぐらい私にだって分かるわ! でも、本来ありえないのよ。式神が主に逆らうなんてありえないことなの!」

 

 

 従者である九尾の八雲藍が八雲紫と闘うためには、式神としての性質を失わなければならない。

 式神は、主から力を提供されているため、力を貰っている相手に対しての何らかしらの形で服従の形態をとっている。従う方式は主によって異なっているが、おおよそ絶対服従であり反逆を決して許すものではない。

 つまり―――八雲藍と八雲紫が戦っているという事実は、八雲紫がそれを許可しているのか、それとも―――八雲藍が式神ではなくなった可能性しかないのだ。

 

 

「何かあるはず。何か、物事を大きく変えるような、そんな大きな影響を及ぼした存在が」

 

 

 戦うことを許した原因を作り出しているのは一体何なのか。

 戦うことができる条件を作り出した原因は一体何なのか。

 レミリアの頭の中に少年の存在が浮かび上がる。

 根拠は何もない。証拠も何もない。

 ―――だけどそう思った。

 フランをこれほどまで変えた存在だ。式神に対しても何かを変えたのかもしれない。だとしたら、変わった瞬間があるはずだ。少年と八雲藍が出会うその瞬間が、変わった瞬間のはずだ。

 それを見ていたのは―――。

 レミリアは、すぐさま咲夜に向けて答えを要求した。

 

 

「咲夜、あの人間の所に行ったときに何があったか教えなさい」

 

「はい、分かりました」

 

 

 咲夜は、ほんの少し前の出来事を思い返す。レミリアに少年を殺してくるように告げられてフランの部屋へと殺しに向かった時のことを思い出した。

 

 

「私がお嬢様の命令に従って笹原を殺しに行ったとき……」

 

 

 

 

 

 咲夜は、レミリアの怒気に押されて恐怖を感じながらフランの部屋へと走った。辿り着いた目的地にはただ一人、取り残されたように存在している者がいた。

 ―――笹原和友である。

 最後に見たときと同じように祈りの形を取っている。動いている様子は全く見受けられない。ずっと同じ姿勢のまま時を止めているかのように、造形品のような雰囲気を発していた。

 

 

「笹原……」

 

 

 少年から約4メートルの距離を取って足を止める。ここでなぜ足が止まったかは分からない。自然と足がそこで止まった。それ以上近づいてはならないというように、足が進む方向を見失った。

 

 

「祈るのを止めなさい!」

 

 

 少年の行動を止めようと大声を出す。

 祈りを止めなければ、お嬢様は助けられない。

 少年の祈りがフランへと届き、力を与えている。それが本当なのかは分からない。咲夜に力の流れを感じ取るだけの能力はない。フランに注がれている力の根源になっているのが少年の祈りであると確信を持っていたわけではなかった。

 だが、レミリアの命令を考えると少年によってフランが神力を得ていると確信して自分を送り出していることは確かだった。

 そして、主であるレミリアの命令に背くことができない咲夜に、ここで殺さないという選択をする自由は存在しなかった。

 

 

「さもなくば、殺すわ!」

 

 

 強い言葉を使わないと後ろめたさに押しつぶされそうだった。口に出す言葉とは裏腹に少年を殺すことに躊躇いがあった。

 だって、殺されそうになっている少年には非が無いのだから。

 少年は被害者側の立場であり、加害者側の人間ではない。

 勝手に紅魔館に呼ばれて。

 戦わされて。

 妹様と会わせられただけだ。

 何かしたといえば特に何もしていない。

 フランに力を与えて被害を大きくしているじゃないかと言われればそうなのかもしれないが、その肝心のフランが正しい道を進もうとしている、皆が幸せになるような道を進もうとしているように思えて仕方がなかった。

 それでも―――咲夜には主の命令に従うしかない。従者にとって主からの命令は、果たすべき約束事である。

 だから、少年が自ら祈るという行動を止めてくれればいい。祈るのを止めてくれさえすれば、命まで取らなくて済む。傷つけなくて済む。

 だが―――少年は一切の反応を示さなかった。

 

 

「これは、脅しじゃないわよ!」

 

 

 咲夜の言葉が虚しく響く。反応もしない様子から、聞こえていないのかもしれない。

 しかし、ここで無視するという行為は拒否しているのと同じである。咲夜側としては、少年には命を落としてでも祈るのを止めてもらわなければならないのだから。

 

 

「……そう、警告はしたわ」

 

 

 迷いは確かにある。だけど―――これはやらなければならないことだ。

 咲夜は、従者として正しい行動―――少年を攻撃することを決め、メイド服に常備してあるナイフを取り出し、右手に構えた。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 ナイフを一直線に少年に向けて投げつける。

 急所を避けるように右腕を狙ったナイフは重力を感じさせず真っ直ぐに突き進み、少年の右腕に突き刺さった。もしかしたらという期待をもって、こうすればさすがに気付いてもらえるだろうと望みをもって、突き刺した。

 少年の身を引き裂き突き刺さるナイフからは、ゆったりと真っ赤な血が流れ出る。

 痛みも相当なものだろう。

 刺さっている深さは数センチになるはずだ。

 神経が痛みを訴えているはずである。

 ナイフは確かに少年の腕に刺さって、赤い血を生み出している。

 

 

「なんでよ……」

 

 

 だけど―――ただ、それだけだった。

 本当にそれだけしか起こらなかった。

 ―――少年は微動だにしていない。祈りのポーズも、穏やかな表情も、何事もなかったかのように張り付いて離れていない。

 

 

「どうして何の反応も示さないの?」

 

 

 信じられなかった。明らかにおかしかった。

 自身の行動に対して少年は全く反応しない。

 これはいくらなんでもおかしすぎる。

 ナイフが刺さっているのだ。

 痛みが襲っているはずなのだ。

 なのに、少年の動きには一切の変化が見て取れない。

 まるで意識がないような、死んでいるような印象を受けるほどに微動だにしない。

 

 

(最悪の結果になったわ……)

 

 

 最悪の状況になった―――現状をそう評価する。少年がナイフを刺されても祈るという行動を止めないということは、少年を殺さなければならないということにそのまま直結する。

 

 

(殺したくなんてなかったのに……気付いてくれれば何とかできたかもしれないのに……)

 

 

 好き好んで少年を殺したいとは思わない。主からの命令だから逆らえないだけで、咲夜の心は明確な拒否反応を示している。

 少年が―――祈るのを止めてくれたら。

 少年が―――何かしらの反応をしてくれたなら。

 何かができたのかもしれない、何かが変わったのかもしれない。

 だが、現実には少年は何の反応も示さない。僅かな希望を持つ咲夜をあざ笑うかのように、ただそこにいるだけで何も動こうとしなかった。

 

 

「どうして、避けようともしないのよ!」

 

 

 咲夜の疑問に答える人物はここにはいない。少年は完全に自分の世界に入ってしまっている。

 咲夜は、独り相撲をしている感覚に苛立ちを隠せず、大声で威嚇した。

 

 

「次は、頭に当てるわよっ!」

 

 

 咲夜の叫び声が空間内に虚しく木霊する。空間に響いた音は、反応してくれと言わんばかりの悲痛な音だった。

 しかし、それでも少年は相変わらず全く反応を見せない。

 ここまできたらもう駄目である。

 安全に止まれる駅はとうに通り過ぎた。

 残っているのは終わりという名の最終地点だけである。

 咲夜は下唇をそっと噛むと二本目のナイフを取り出し、投げる構えを取る。

 

 

「ごめんなさい、私を恨んでくれていいわ。これもお嬢様の命令なのよ……私は、お嬢様には逆らえない」

 

 

 悲しい表情を惜しげもなく晒す。

 申し訳なさそうに今から攻撃する少年に向けて謝罪する。

 

 

「本当に、ごめんなさい」

 

 

 咲夜の手からナイフが少年の頭めがけて放たれた。

 殺意を持ったナイフは、確実に少年の命を奪うだろう。

 しかし―――少年は命が奪われそうになっているその時でも動かない。穏やかな表情で神に祈りを捧げるように、全てを受け入れるような雰囲気で佇んでいる。ただただ―――誰かに対して祈っている。

 咲夜は、酷い後悔の渦に巻き込まれながら無限とも思える時間の中で少年を見つめていた。

 だが―――少年はここでは死なない。運命に引き寄せられるように、物語を終わらせないといわんばかりに、少年を殺させやしない。

 咲夜から放たれたナイフが少年との距離の半分を詰めたとき―――第三者の力が介入する。咲夜と少年の間の天井の一部が崩壊し、第三者が姿を現した。

 

 

 

 ―――四重結界―――

 

 霊力を纏った力が咲夜と少年の間を隔絶する。強固に張られた結界は、咲夜のナイフを軽々しくはじき返す。少年の命を奪うはずのナイフは音もなく下に落下し、音を立てて地面へとひれ伏した。

 

 

(この力は!?)

 

 

 勢いよく天井が落ちてきた方向へと視線を向ける。

 そこには、尻尾が九本生えた妖怪の姿があった。

 

 

「八雲の式神!?」

 

「和友、大丈夫か!?」

 

 

 九尾―――八雲藍は、ここで物語に介入した。少年を助けるために、少年の窮地に横やりを入れる形で登場した。

 

 

「っ……酷い怪我じゃないか!」

 

 

 藍は、少年の全身を視認すると昨日とは全く違っている少年の様子に驚愕した。

 痛々しくその存在感を見せつけるように打撲痕が体中にある。

 昨日まではなかったはずの、赤く腫れあがった肌、骨折したような跡も見受けられる。さらには、腕に刺さっているナイフからは少年の血がつらつらと流れていた。

 

 

「……貴様がやったのか? 無抵抗の和友をこうまで傷つけたのか?」

 

 

 無傷の咲夜と傷ついた少年―――その様子からおそらく何も抵抗しなかったのだろう、ただされるがままになったと思える状況が―――藍を激昂させた。

 

 

「貴様が和友を殺そうとしたのかと聞いているのだ!!」

 

「…………」

 

「応えないということは肯定と取るぞ!」

 

 

 咲夜の目を射抜くように視線を合わせる。怒りに表情を染めて睨み付ける。

 咲夜は、藍から襲い掛かる圧倒的な怒りの感情の波に一気に飲まれそうになった。藍からの怒りはそう遠くない未来の自分の姿を、動かなくなった自分の姿を想像させるに十分すぎた。

 

 

(ここにたどり着くのが少しでも遅かったら、和友は死んでいた)

 

 

 今にも死にそうになっている少年が目の前にいる。後少しでも遅かったら少年は死んでいた。冗談でも何でもなく、死んでいたことだろう。

 藍は、少年を失っていたかもしれないという状況に陥ったことで、‘少年を失った未来’を想像してしまった。

 ナイフで刺されて少年の命が絶たれる。

 抵抗ひとつすることなく、受け入れるように突き刺されて死ぬ。

 そんな未来を

 そんな光景を

 そんな悪夢を

 藍の頭の中で少年が死を迎えた瞬間―――感情が一気に爆発した。

 

 

「認めないっ! 和友を失うなんて認めないぞ!! 和友を傷つける奴は全員殺す。皆殺しにしてやる!!」

 

 

 少年を庇うようにして少年の前方で仁王立ちする。

 絶対に守る。傷つける奴を皆殺しにする。

 それだけを考えて、持ち合わせている妖力を開放した。

 

 

「和友を傷つける奴は、私が殺してやる!」

 

 

 藍から解き放たれた妖力は、近くにあった瓦礫を吹き飛ばすほどの力を放出する。

 だが、その余波に少年は巻き込まない。藍の力が優しく少年を包み込むようにして纏わりつき、保護していた。

 

 

「和友は私が守らなければ―――私が守らなければならないのだ」

 

 

 和友は私が守る。

 傷つける奴は全員殺す。

 和友を守るのは、私の役目だ。

 

 

「和友は弱い。妖怪が少し力を入れてしまえば死んでしまうような、ちょっと間違えば誤って命を落としてしまうような―――そんな存在なのだ」

 

 

 和友は、傷つけられるべきものじゃない。

 守らなければならないものだ。

 あんなに頑張っている和友をこれ以上傷つけるな。

 一生懸命に、必死に生きている和友に負荷をかけるな。

 和友の体は、もうボロボロなのだ。

 これ以上何もしてくれるな。

 これ以上傷ついたら死んでしまうかもしれない。

 人間である和友は。

 病気だった和友は。

 死んでしまうかもしれないのだ。

 

 

「それを貴様のようなやつが傷つけて許されると思うなよ!? 頑張っている和友を、一生懸命に生きている和友を―――誰かが殺していい理由なんてないのだから」

 

 

 和友を傷つける奴は私が許さない。

 それが誰であったとしても。

 それが何であったとしても。

 例えそれが―――世界であったとしても。

 

 

「和友を傷つける奴は誰であろうと、何であろうと、それが例え世界だろうと」

 

 

 世界が和友を傷つけるのなら―――世界ごと殺してやる。

 誰にだって和友を殺させてたまるものか。

 何にだって和友を殺させてたまるものか。

 和友を殺すなんてそんなこと―――

 

 

「―――私が許さない!」

 

 

 藍の感情は、すでに心の許容量を超えて溢れ出していた。その勢いを表すように妖力も波打って体から放出されている。少年のことを大事に想い、少年の近くにいた副作用によって酷く大きくなった不安定な感情は、怒りへと切り替わり心を溺れさせている。

 しかし、その表情には、藍から発せられる言葉とは裏腹に何も映っていなかった。心の中身が常に怒りによってマグマのようにぐつぐつと煮えたぎっているのにもかかわらず、表情が無表情で感情が浮き出ていなかった。遠くを見つめるように瞳を開いたまま無感情の響きを奏でていた。

 

 

「殺してやる……殺してやるぞ」

 

(これはやばいわね。私……死んでしまうかもしれないわ)

 

 

 黄昏ているような、茫然としているような印象を受ける藍の表情からは何も読み取ることができないにもかかわらず、怒りの色がにじみ出ているように見える。

 人が怒りの沸点を一気に越えたとき、勢い余って無表情になることはよくあることである。理性によって制御できないぐらいに感情の振れ幅が大きくなればなるほど、外へと表現することが難しくなり逆に無表情になるのだ。藍は、まさにそんな状態だった。

 

 

(まさに、竜の逆鱗に触れてしまったというやつね。九尾が八雲の隠し子を大事にしているのは知っていたけど、これほどとは思わなかったわ)

 

 

 藍からは、和友を傷つけるやつは―――私の大事なものを奪おうとするやつは全て私が殺してやる!! という意気込みが見て取れる。周りからの干渉を一切排除してただ一つの意志によって塗り固められている。

 説得なんてできる気がしなかった。

 

 

「私から和友を奪おうとする奴は、全員―――殺してやる」

 

(どうする? 笹原を殺すということはもう無理……どうにかしてこの場をやり過ごす方法を考えないと)

 

 

 藍は、小さくぼやくように抑揚の無い声を発しながら拳を強く握り足に力を入れる。

 もうすぐ攻撃が始まる。何とかしなければ、何か策を立てなければ。咲夜は藍との間に感じる力の差にどうすればいいのか思考する。

 力では決して妖怪に勝つことはできない。スピードもパワーも桁違いで、一瞬のうちに全ての決着がつくだろう。咲夜の死体が転がるという結果で全てが終わるだろう。

 

 どうして、こうも上手くいかないのだろうか。

 どうして、こんな目に会っているのだろうか。

 さっきまでと全く違う空気に嫌気がさして仕方がなかった。

 現状を呪うしかなかった。

 咲夜の置かれている立場は、僅かな時間の経過によって大きく変化している。

 

 

(時を止める能力を使えば、この場からは逃れられる……けれども、状況は逃げた後でも変わらない。九尾は必ず私を追って来る)

 

 

 もはや咲夜の頭の中にはレミリアの命令は残っていない。

 レミリアの命令に従うよりも、この場をどうやり過ごすのか、どう対処すればいいのかに脳内を支配されていた。

 

 

「さぁいくぞ。悪魔の犬め。和友を傷つけた見返りをくれてやらないとな」

 

(く、くる!)

 

 

 今にも向かってきそうになっている藍に対して身構える。

 藍は、少年を痛めつけられたことによる怒りの矛先をまっすぐに咲夜へと向けて襲い掛かろうと前傾姿勢を取った。

 その瞬間―――ある人物の声が藍の耳へと入り込んだ。

 

 

「……藍? どうしてここに?」

 

「……和友っ!? 無事だったか!? 傷は痛むか!? 何をすればいい? 私は何をしたらいい? 何をして欲しい?」

 

 

 藍は、勢いよく咲夜へと向けていた体を反転させて少年の方を向いた。

 やっと口を開いた少年は、祈りの姿勢を崩してはいないものの、酷く疲れたような表情で目を半分だけ開けている。まだ意識がはっきりしないのだろう。もしかしたら寝起きに近い状態なのかもしれない。祈りを捧げるということは、それだけの集中力が必要なようだった。

 

 

「藍は、何でここに来たの?」

 

「和友が心配だったからに決まっているだろう!?」

 

 

 藍は、そっと少年との距離を詰める。

 

 

「和友はいくら待ってもマヨヒガに戻ってこないし、紫様も帰ってこない。何かあったのではないかと探しに来たのだ」

 

 

 藍は、マヨヒガに橙だけを残して外へと少年を探しに来た。

 正確に言えば、探しに出ずにはいられなかった。少年がいつまで待っても帰ってこないことに心が耐えられなかったから。待っていられなかったから―――探しに来たのである。

 

 

 

 

「どうして和友は帰ってこない……」

 

 

 いつものようにマヨヒガで少年の帰りを心待ちにしていた藍だったが、いつも決まった時間にマヨヒガへと帰ってくる少年が一向に帰ってこなかった。

 1時間、2時間と刻々と時間は過ぎていく。日が完全に落ちて星が見えるような時間になってくる。

 なかなか帰ってこない少年に逸る気持ちを必死に抑える。それこそ文字通り必死に、マヨヒガの玄関先で少年の帰りを待ち続けた。

 日が落ちて闇が支配する夜の中で月を見上げながら、心配のあまり震える体を抑えて少年の帰りを待った。

 

 

「藍様、中に入って待ちましょう? 和友なら大丈夫ですよ」

 

「こんなに遅いなんて……きっと何かあったのだ。和友が私を呼んでいるかもしれない。助けを求めているかもしれない……私は、探しに行く! 橙は、マヨヒガで待っていてくれ」

 

「藍様!!」

 

 

 途中で橙が心配して、家の中に入ろうと声をかけてきた。

 しかし、藍に橙の提案を受け入れる心の余裕はすでになく、橙の一言によって外へと探しに行くことを決意し、飛び出した。橙の叫びも虚しく、振り切るようにマヨヒガを出てきた。

 

 

「そして、探し出してみれば、案の定……」

 

 

 そして結果的に―――傷つき、死にそうになっている少年の姿を見つけた。あと少しで取り返しのつかない状況になってしまっていたところに、やってきたのである。

 

 

「和友を連れ出したのはおそらく紫様だろう。それなのに、その肝心の紫様は一体何をしておられるのだ……和友がこれほど傷つけられているというのに」

 

 

 藍は、少年が傷ついているのも信じられないことだが、同じように少年が傷ついているのにもかかわらず、少年を連れ出したと思われる紫が全くの無対応でいることも信じられなかった。

 

 

「これが終わったら、紫様とも少し話をしなければならないな」

 

 

 紫が連れ出したと断定するのは、比較的簡単な理由によって可能である。少年ならばするはずのいつもの行動がなかったからだ。いつもの行動―――少年からの連絡がなかったからである。

 帰りが遅くなる場合は何かしらの連絡が入る。霊力を使った式神だったり、直接知らせに来たり人づてに間接的に知らせてくる。

 それが今回に限っては一切なかった。

 それはつまり―――このことをすでに誰かに話しており、藍にも伝わっていると少年が思っているか、少年が想像もできない予期せぬトラブルに巻き込まれたかしかない。

 後者の場合であれば藍にはどうしようもない。予防する方法がないので、すぐさま助けに行った方がよいという判断になる。行動は早ければ早い方が好ましい。今藍がやっている行動は後者の場合の最善策である。

 前者の場合であれば、藍に伝えることができる人物―――マヨヒガを知っている誰かといえば消去法的に―――紫しか存在しないため、少年は紫に事の事情を伝えており、紫が伝えたと思っているか、紫が連れ出した可能性が考えられる。橙はマヨヒガにおり少年の所在を知らないため、一番可能性がある考え方としては紫が少年を誘ってどこかに行っているパターンだ。

 けれども紫の存在は少年の傍にはなく、少年が傷ついても紫が出てこない様子を鑑みると別の用事で出かけていると考えるのが自然だろう。

 藍は、怒りに沸き立つ頭でそこまで一気に思考した。

 少年は、続けて藍に向けて質問を投げかける。

 

 

「探しに来たって……どうしてここが分かったの?」

 

「飛んでいる途中で強い力の波動が感じられたのだ。気になって来てみれば和友がいるのが分かったから。だからすぐに駆け付けた」

 

 

 少年を見つけられたのは、少年を探して空を飛んでいる最中に力の放出を感じたからだ。その力を感じ取った時、どこかに少年の存在を感じたから紅魔館にいると当たりを付けた。この力の波動というのは―――おそらくフランとレミリアの力の放出である。とてもじゃないが少年の力の大きさでは、遠くまで力は伝搬しない。

 少年は、疲れた表情の中で優しく微笑む。

 

 

「そっか……僕を見つけられたんだね」

 

「すぐに止血をするから。それまでそこで待っていてくれ、直ぐに終わらせる」

 

 

 藍は少年に言葉を残すと再度反転し、咲夜の方向へと体を向ける。

 

 

「まずはあの悪魔の犬を殺してからだ。そうでもしなければ、私の気が収まらない!」

 

 

 一歩遅ければ少年が殺されていた。

 間に合ってなければ少年は死体になっていた。

 赤い血を流して、動かなくなって、横たわっていた。

 容易に想像できる光景に、一度冷えた頭の中が一気に再沸騰する。

 

 

「私は……」

 

「言い訳など聞きたくない。それ以上その口を開くな」

 

 

 少年に溺れている。

 少年を失うことを恐怖している。

 少年が死んでしまう事実を受け入れることができない。

 藍は、想像もしていなかった唐突な別れのきっかけに心臓の激しい鼓動を止めることができなかった。藍の頭の中にあるのは、失う恐怖を与えた咲夜への怒りだけである。

 

 

「私の大切なものを奪うというのならば、容赦はしないぞ! 和友を傷つけた代償は、その身できっちり払ってもらう!!」

 

 

 藍は、原因となった咲夜を排除しようと動き出そうとする。

 咲夜の視線が藍の一挙手一投足に注目する。これからの藍の行動次第で咲夜の命が奪われるかもしれないのである、注意しないわけにはいかなかった。

 しかし―――またしても藍を止める声が第三者から発せられる。

 

 

「藍、待って」

 

「……和友、どうした? やっぱり傷が痛むのか?」

 

 

 少年から発せられた言葉に再び藍の勢いが失われる。

 藍は少年の体を心配する。あくまでも優先順位は少年の方が高い。悪魔の犬を殺すことよりも少年の命の方が大事だ。そこをはき違えるほど藍の思考は怒りに染まっていなかった。

 少年は、藍の動きを故意に止めようとしていた。これから起こす藍の行動は、少年としてもあまり好ましくない。自分のせいで他人が傷つくことを善しとしない少年からすれば、藍の行動は止めなければならないものだった。

 

 

「応急処置だけでもしておこうか?」

 

 

 少年の傷は、想像以上に深いのかもしれない。藍は、少年の傷の手当てをしようと手を伸ばす。そして、少年の肩に触れようとしたとき―――少年が唐突に叫んだ。

 

 

「触っちゃいけない!」

 

 

 少年の言葉も虚しく―――藍の手が少年の肩に乗った。




今回の話は、藍と咲夜の対比が面白いところですね。
主に従う者と主に逆らう者。
そして、いつだって問題を引き起こすのは、少年の存在だということも。


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変化した心 見つかった希望

穴が開いた天井から見えた者は、神力を纏った九尾の姿。
そこに行きつくまでの道のりには、やはり少年が関わっていた。
咲夜に殺されそうになる少年。
そんな少年を見た藍から放たれる殺意。
少年を心配する藍は、少年の肩に触れた瞬間―――


 藍は、空中に浮遊しながらよく見知った世界を見て小さくぼやいた。

 

 

「ここは……和友の心の中だな」

 

 

 目の前には2年前に1年間もの時を過ごした無秩序な世界が広がっている。空は相変わらずの色の移り変わりをしており、地表も同じように著しい変化を遂げている。瞬きする間に切り替わる光景は、何度見ても圧倒されるような光景だった。

 ここは―――少年の心の中。

 どうやら少年に触れたことが引き金になって少年の心の中に引き込まれたようである。

 

 

「2年前に和友の心の中に入った時は紫様の能力で入ったが……今回はどうやって心の中に入ったのだろうか。何か原因があるはずだが……」

 

 

 以前は紫様に引きずり込まれたが、今回はどうやって入ったのだろうか。そんな疑問を抱えながら少年の心の中を観察する。

 原因は、視界情報からは特に見つからない。視界から入ってくる情報は瞬間的に切り替わりを見せており、役に立つ情報は一切見当たらないと思われた。

 だが、以前来た時と大きく違うところを2つばかり発見した。

 

 

「……地表が液体に覆われている?」

 

 

 地表が透明な液体に覆われていた。地球ほどに広いと口にしていた少年の心が液体に覆われている。

 水深は3メートルほどになっているだろうか。人が液体の中に入れば埋もれるほどの深さがあることが空から見てもよく分かった。

 

 

「これは水か? 調べてみれば分かるのだろうが、触るのは止めておいた方がいいだろう……何が起こるか分からない」

 

 

 液体は見たところ水っぽく感じるが、正確に何であるのかは判断がつかない。触ってみれば、飲んでみれば分かるのかもしれないが、無秩序な世界を形成している少年の心の中の水を触ろうとは決して思えなかった。

 もしかしたら触れてしまうと溶けてしまうかもしれない。何かしら毒を含んでいるかもしれない。そんな予想が液体の正体を突き止めるための様々な行動を制止した。

 

 

「ここまで変わっているとなると……和友の心の中で一体何が起こっているのだろうか。少なくとも、以前和友の心に来た時はこんな感じではなかったはずだ」

 

 

 藍は、じっと地表を覆っている液体を観察する。

 波風一つ絶たない世界で、波音ひとつ立てない世界で、見間違いでもなく確かに地表を覆っている液体がある。

 2年前に来た時はこんなに液体が溢れ出しているということはなかった。踏みしめることのできる地面が確かにあって、液体があるところといえば、湿地帯や湖、川や海などの液体が存在する地形のみだったはずである。

 

 

「……明らかにおかしい」

 

 

 少年の心の中の変化はそれだけではなかった。その地表を覆っている水よりもはるかに目立っている物が、地表から見せつけるようにそびえ立っていた。

 

 

「標識は、あんなに高かっただろうか?」

 

 

 標識が―――天に昇るようにそびえ立っていた。

 標識の高さは水よりもはるかに高く、約10メートルあるというところだろうか。少しばかり飛行して周りの景色を見てみると、標識の高さがまちまちだということが分かった。

 飛んでいる途中に標識だけではなく立て札の存在も確認できた。その特殊な立て方から数が標識よりも絶対的に少ない立て札も、標識と同じように心の中にしっかりと立っているのが確認できる。

 立て札に関して言えば、標識とは違って2年前と同じだった。1メートル無いぐらいの高さであり、1辺の長さが2メートルほどの真っ白な正方形に囲まれている。

 液体は、その領域を境に立て札の方へは入り込んでいない。守られているように、液体の侵入を許していなかった。

 

 

「考えても分からないな。幻想郷での生活によって変化が起こったということなのだろうか? だとしたら、環境が変わって和友の中の世界が変わったということか。新たな常識や世界を取り入れた結果が、こうなったと……」

 

 

 少年の心の中で何かが起こっている。

 少なくとも、見た目にはっきりとした変化が起きている。

 地表を覆っている液体。

 高さの増している標識。

 何よりも―――‘力が使えている’というのが大きな変化だった。

 

 

「何よりも大きく変わったのが、飛ぶことができるということだな。昔と違って空を飛ぶことができるのは、きっと和友自身が飛ぶことを学んだからということなのだろう」

 

 

 藍は、空を飛んで少年の心の中を探索している。

 過去に少年の心の中へと入った時と違って力が使えている。力を使い、空を飛ぶことができている。おそらく、力が使えるようになったのは少年が空を飛ぶということを学んだからだろう。

 少年の心の中はあくまでも少年の心の中のルールに従っていて、少年ができないことは基本的にできないし、少年ができることは基本的にできるようになっている。もしも、少年ができることが心の中でできなければ、少年自身が自分のやっていることを信じていないということになる。

 まさかそんなことはないだろう。自分ができることが信じられないなど、自分の存在が信じられないといっているようなものだ。人間がそんな妖怪のような曖昧な存在理由で生きているわけがなかった。

 

 

「空を飛べることは理屈で分かったとしても……この液体と標識は一体どうしてこうなっているのか……」

 

 

 いくら考えても推測の域から出ない。

 無秩序な世界を形成している少年の心の中。

 無秩序とは、理論の成り立たない世界である。

 そんな無秩序な世界で起こっている現象を理論的に理解しようとしても、理解できるかどうかなど分からないのだ。むしろ、理論的に考えた方が理解できなくなる可能性が高い。少年の世界の常識で考えなければ、郷に入れば郷に従え―――少年の気持ちになって考えなければ答えは出ないだろう。

 だが、少年の心が分かるのは少年だけだ。

 他の人間では100%を理解することはできない。

 藍は行き詰る思考に頭を掻き、考えることを止めた。

 

 

「やはり、いくら考えても憶測の域から出ないことだらけだな。そこは昔と何も変わらない」

 

 

 もう一度心の中を見渡してみる。そして、再び変わった点を探そうと思考を回す。変わったところは、他にないだろうか。

 そう考えたその瞬間―――大きく変わっている点がもう一つあることに気付いた。

 気付いて、笑ってしまった。

 

 

「ふふっ、思えば一番変わったのは私自身かもしれないな。不安でいっぱいだったあの頃と今は違う。和友の心の中と分かっていれば、何も恐れることはない」

 

 

 少年の心の中の過酷な環境に心が荒廃し、ボロボロになった藍は―――もうここにはいない。今いる場所が少年の心の中と理解できてさえいれば、何一つ動じることはなかった。

 自然に受け入れるように。

 それが普通であるかのように。

 ずっと過ごしてきた故郷のように。

 心を酷く落ち着かせることができる。

 地平線の見える中で限りある世界を感じることができる。

 心の中を脱出するということができるという保証なんて何一つないのに藍の心は安定を保っていた。

 

 

「……力が感じ取れる。和友が刻んできた決まり事に込められた力が……」

 

 

 無秩序と思える中に確かに根付いているルールが感じ取れる。おおざっぱではあるが、目を閉じれば何かが地表から伸びていることを知覚することができた。

 

 

「これが立て札か」

 

 

 おそらくこれは、立て札の存在だろう。

 四角く隔離された領域が力を放っている。標識に比べればはっきりと存在を感じ取れる。きっと、和友が込めた力が強いからだろう。より強い想いを持って刻み込んだからだろう。

 強い想いの力が体にスッと入って抜けていく。

 ああ、やはりこれが和友の努力の証だ。

 いつまでだってここにいられるかもしれない。

 不安は何も感じない。

 恐怖は何も感じない。

 あるのは、酷く落ち着いてくる鼓動の音だけ。

 視界を閉ざせば、見たい景色が見えてくるようだった。

 

 

「ずっとここに……」

 

 

 ―――駄目だ。

 ここで、ずっと待っていてはいけない。

 心の外では戦闘が起ころうとしている。

 悪魔の犬が攻撃を開始しているかもしれないのだから。

 

 

「私は何を考えているのだ……外に出る方法を探さなければ」

 

 

 なんとかして外に出なければ。

 だが、どうやって出るというのだろうか。

 そもそも、どうやって心の中に入ってきたのかも分かっていないのだ。

 どうすれば出られるかなど、分かりようがなかった。

 

 

「ここが和友の心の中ならば、やはり和友が私を引き入れたのだろうか? 2年前と違って紫様はおられなかったし……」

 

 

 心の中へと入ってきたということは、誰かが引き入れたということである。あの時側にいたのは、少年だけだったのだから心の中へと入り込む原因を作ったのはまぎれもなく少年自身だろう。

 それが意図したものなのか、意図していないものなのかは分からない。

 だが、引き入れたからには中に引き入れようとした、あるいは引き入れてしまった誰かがいるはずである。

 そんな誰かが―――少年が心の中にいるはずである。

 だったら、和友の下へと向かわなければ。

 外に出るために―――引き入れた和友の下へ。

 

 

「和友を探そう。急いでここから出なければ、外にいる和友と私が危ない」

 

 

 このままでは二人の身が危ない。

 和友と自分の身に危険が迫っている。

 だから、和友の下へ向かわなければ。

 だから、和友の所へ行かなければ。

 だから、和友を迎えに行かなければ。

 

 

 ――――本当にそうだろうか?

 

 

 今思っている感情はそれが本物だろうか?

 危険だから和友を探しているのだろうか?

 外へと出なければならないから和友を見つけようとしているのだろうか?

 それが本当だとしたら、危険がなければ探さなかったのだろうか。

 外へと出る理由がなければ、見つけようとしなかったというのだろうか。

 

 

 ―――そうではないだろう?

 

 

 和友はきっと一人で待っている。

 この心の中で独りきりで寂しがっている。

 きっと、独りで迷子になっている。

 

 ―――だから探すのだ。

 迷っているあの子を探してあげなければと、そう思うのだ。

 

 

「今、見つけてやるからな」

 

 

 大きく息を吸う。そして、膨大な大きさを誇る心の中で少年の存在を探してみる。

 

 

「和友は……」

 

 

 そっと目を閉じて神経を集中する。

 すると、自分の世界の中で自分以外の生物の存在を感じ取れた。標識や立て札とはまた違った感覚だった。温度を感じるというのだろうか、直感的に生き物だということが分かる。

 間違いなくここにいるはずだ。

 ゆっくりと開けられた目は、方角の無い世界で一点だけを見つめていた。

 

 

「あっちにいる気がする。この方角から和友の存在を感じる。待っていろ、すぐに駆け付ける。すぐに探してやるからな」

 

 

 藍は、感じ取った少年の気配に向けて飛び立った。もてる全力の速度で飛行し、できるだけ早く少年の下へとたどり着こうと自分のできることをする。

 しかし、藍の移動を邪魔するように頭痛が起こった。

 

 

「くっ……視界から得られる情報に頭が混乱してくるな」

 

 

 視界に入って来る情報量に脳がきりきりと痛みを訴えてくる。視覚情報を遮断するように目を伏せたくなる。

 周りの風景が移り変わる速度は藍の飛ぶ速度よりも若干速いために、視覚情報の混乱によって進んでいるのか戻っているのか止まっているのか分からなくなってくる。

 道路上を車で移動していて、周りの景色が車と同じ速度で動いたり、様々な方向に動き回っていたりすると自分がどこに進んでいるのか分からなくなってくるのと同じ状況である。

 あくまで飛んでいるという感覚があるから飛べているだけ―――慣性がかかって体に負荷がかかっているからその方向へ飛んでいるだけ―――何かの存在が近づいているというのが分かるから飛べているだけだった。

 藍は、パニックを起こしそうになる頭を押さえながら、早く少年の下へと辿り着かないかとはやる気持ちを抑えられなかった。

 

 

「一番速い速度でこの程度か。全力の6,7割程度ぐらいだな。確かに和友が認識しているのはこのぐらいの速度までか」

 

 

 今藍が出している最高速度は、自身が出せる最高速度の6~7割程度だった。この速度は少年や橙との弾幕ごっこで出している最大の速度である。少年が知っている藍の最高速度である。

 それでも、少年の出している速度よりは数十倍は速いだろう。どうやら少年が出せる速度までというわけではなく、少年が認知している速度までなら出せるようである。

 

 

「これで、和友が知覚しているからという私の理論が正しいという確証が一つ増えたな」

 

 

 藍は、自分の考えが間違っていなかったことに笑みを浮かべながら少年がいると思われる場所まで一直線に進んだ。

 時間にして数十分だろうか。歩いて行っていたら数日はかかるような距離を進むと遠くに人影らしきものが見えて来た。

 

 

「やはりこの方角にいたか」

 

 

 何者かの存在を見つけたとき藍の中にあったのは、良かった、間違っていなかったという安堵の感情だった。もしも間違っていたら、それこそ前回のように迷い続けることになっただろう。

 目的とする人物は、標識の前で浮きながら佇んでいる。水面との距離は4メートルあるかないかという程度である。

 藍は、徐々に速度と高度を下げながら人影との距離を詰める。

 

 

「和友だな」

 

 

 近づいていくと、その人影が少年であることが分かった。

 少年は、藍の接近に気付いていないようで藍のいる方向とは逆方向の空を静かに眺めている。少年の視線の先には小さな星が浮かんでおり、それに視線を集中させているようだ。

 ―――星? そんなものあっただろうか? 

 そもそも、この世界には夜なんてものがあっただろうか? 

 この世界の空の色は無秩序に彩られた色彩豊かな色になっている。星なんて確認できるような色じゃなかった。

 だが、今ははっきりと見えている。一個だけぽつんと寂しそうに光っている星が、行き場を失って留まっている。

 一体あれは―――なんなのだろうか。

 いや、そんなことよりも大事なことがある。

 藍は、疑問を抱えながら無防備な少年に近づき、声をかけた。

 

 

「和友! 見つけたぞ!」

 

「えっ? なんで……」

 

 

 少年は、藍の声に慌てて振り返る。少年の表情は酷く驚いた顔をしていた。まるで幽霊を見たかのように信じられないものを見たような様子だった。

 

 

「和友、話をしたいのは私も同じだが―――残念ながら私達にはここで話している余裕がない。早く戻らないといつ悪魔の犬が私の結界を越えて攻撃してくるか分からないからな」

 

 

 一刻も早く少年の心の中から出る必要がある。少年の心の中は、少年に会えば少年の時間に同期され―――外の世界と同じ時間の進み方になる。

 藍だけならば膨大に圧縮された時の中のため、何時間かかっても外の世界で数秒しかたたないだろうが―――すでに少年に接触してしまっている。

 体内時計はより強い影響力を持つ方に統一される。この場合は、心の持ち主である少年の時間に統一されることになったはずである。あの時と同じように、そうなったはずと考えるのが普通だった。

 

 

「私の張った結界も万能ではない。相手も動かない私たちに対してただただ待っているだけという行動をとることもないだろう。相手の手の内が分からない以上、早めにここから出なければならない」

 

 

 外の世界では藍の張った四重結界が機能しているだろう。

 だが、それもいつまでもつか分からない。いつ破られるか分からない。

 咲夜が何かしらの方法で、もしかしたら力技ででも打ち破る可能性がある。結界が打ち破られてしまえば、精神が心の中に入っている無防備な藍と少年は、赤子の手をひねる程度の労力で殺されてしまうだろう。

 そうなってからでは遅いのである。

 

 

「和友、ここから外に出る方法はないのか? 以前は紫様に出してもらったが、今はその紫様がおられないのだ」

 

「ちょっと待ってよ。藍は、どうやってここを見つけることができたの?」

 

「和友、何度も言うようだがここで話をしている余裕はない。私達には時間がないのだ」

 

 

 以前は紫のスキマによって出入りをしたが、今回の場合はどうやって外へと出ればいいのだろうか。藍は、少年が外へと出る方法を知らないのか尋ねた。

 少年は、藍がどうやって自分を見つけたのか非常に気になっていたようだったが、時間がないのが現状である。どうやって少年を見つけたのかなど外に出てもできる話だろう。

 藍は話を断ち切り、どうやって出るのかという議論に持っていこうとしていた。

 しかし、藍の言葉を遮るように―――少年の大声が藍の勢いを一気にかき消した。

 

 

「お願い、答えて!!」

 

「ど、どうしたのだ? 急に怒鳴ったりして」

 

 

 めったに叫ばない少年が大声を出したことで、藍はたじろいでしまった。

 少年がこれほどまでに相手の行動を遮ぎろうとしたことが今まで何度あっただろうか。思いつかないぐらいには、珍しい行動である。

 何がそんなに気になるのだろうか。

 何がそんなに気に障ったのだろうか。

 

 

「私は、何か和友の気に障るようなこと言っただろうか?」

 

「…………」

 

「わ、分かったから、そんな目で見ないでくれ」

 

 

 少年は一切理由を口にせず、真剣な表情で藍を見つめている。ひたすらに、答えるまで何も話さないという意思を感じさせる瞳で藍の目を貫くように視線を向けている。

 だが、聞かれたところで藍から少年を見つけた理由について話せることなど何もなかった。なんとなくいる気がすると思ったからその方向に飛んできた。そして、その感覚通りに来てみたら少年がいただけなのだ。どうやって見つけたのかと言われても、自分自身が分かっていなかった。

 

 

「だが、和友がいると思った理由は特にはないぞ。なんとなくここにいると思っただけで、和友がいる気配がしたからだ」

 

「僕がここにいるって感じ取れたってこと?」

 

 

 少年の目が射抜くような力のこもった瞳からいつもの優しい瞳に変わる。

 

 

「ああ、私はずいぶん遠くから飛んできたが、確かに感じた。和友の気配というか、和友の存在を感じたのだ」

 

「僕の存在を感じ取った……?」

 

 

 唐突に呟くようにして声を漏らした少年から力が抜けた。全身の力を失い跪いた。

 空中に飛んでいるため、跪いたという表現が正しいのかは分からない。

 ただ、藍はその表現が正しいと思った。全てが台無しになったような。全てが終わってしまったような。そんな悲壮感を感じるような雰囲気が醸し出されている。

 少年の体がゆっくり液体が覆っている地面に落下し始める。逆さまに体が回転モーメントを得てくるりと回り始める。

 落下する直前―――少年の表情は薄く笑っていた。

 

 

「そうか、そうだったのか、ははっ……」

 

「和友!? 大丈夫か!?」

 

 

 落下しそうになっている少年に慌てて手を伸ばす。伸ばした手が確かに存在する少年の体を支えた。

 少年の体が藍に支えられて自由落下を静止する。藍の両手には何の力も感じなかった。重みのない身体が手のひらに乗っていた。

 藍は、視線を少年の顔へと向ける。少年は笑顔を浮かべていた。

 

 

「藍、ありがとう。僕なら大丈夫だよ。むしろ、見たいものがやっと見えて分からないことがようやく分かって清々しい気分だ」

 

 

 少年から支えてくれた藍にお礼が告げられる。そして、藍の体に両手をあてがうと、ゆっくりと体を起こし、何かとっかかりのとれたようなすっきりとした表情を浮かべた。

 見たいものが見えた―――その言葉の意味は藍には分からなかった。

 何かを求めていたということなのだろうか? 

 少年は、思考を巡らせる藍を置き去りにして続けて言葉を口にする。確信を持った様子で自分のこれまでの行動を咎め始めた。

 

 

「僕のやり方は間違っていたんだよ。僕は、何も恐れることなんてなかった。怖がっちゃいけなかったんだ」

 

 

 恐れていた。

 怖がっていた。

 ―――何を?

 

 

「最初から距離を取ろうとしていた僕のやり方で僕を見つけられる存在が生まれるわけがなかったんだ。本当の僕を見つけてくれる人なんて現れるわけがなかったんだ」

 

「和友、何を言っているのだ?」

 

 

 距離を取ろうとしていた?

 本当の僕を見つける?

 和友は、本当の自分を見つけて欲しかったということなのだろうか? 

 藍には、少年の言っている言葉の意味が分からなかった。

 今少年の目の前にいたのが藍ではなく紫や永琳であれば、少年の言葉が理解できただろう。周りを引き摺り込まないように、惹きつけない様に上手く距離を取って生活してきた少年の真意を知っている二人だったならば、理解できたことだろう。

 少年の望みは―――少年の膨大な心の中のほんの一部だということを。全体を形成している決まり事や識別対象は少年の想いの本質ではなく、今藍の目の前にいるのが―――少年の本心であることが理解できただろう。

 藍は、少年の本当の気持ちを見つけてみせた。

 

 

「藍が僕を見つけられたのはいわば必然だったんだね。この膨大な、広大な、無秩序な世界で僕を見つけられたのは―――いつも藍が僕の傍にいてくれたから」

 

 

 距離を保った状態では、遠すぎて見えない。

 月や火星から地球を見て、人の姿が確認できるだろうか。

 どこかに何かがあることを知覚することができるだろうか。

 そんなもの―――分かるわけがないのだ、知ることなどできやしないのだ。

 少年の本心を見つけられる可能性は、少年の心に接して少年の心に降り立つことのできる者にしか存在しない。

 少年の心に近いところにいなければ、少年の本心を探し出すことはできない。

 月から、火星から―――宇宙空間を越えて少年に会うことなどできないのである。

 

 

「傍にいなければ、人の心には触れられない。傍にいなければ、人の心は支えられない。傍にいなければ、心は救えない」

 

 

 藍が少年の心にはいることができているのは、まぎれもなく藍の心が少年の心に接触するぐらい近くにあるからということに他ならなかった。

 少年は、再度藍へとお礼を告げる。

 

 

「藍、ありがとう。藍のおかげで大切なことに気付いたよ」

 

 

 誰にも迷惑をかけないように生きていこうと思っていた。

 誰かを引きずらないように生きていこうと思っていた。

 約2年後に病気の再発によって死ぬことがほぼ確定的担っている状況を想えば、それが正しい選択肢だと思った。

 

 

「僕は諦めていたんだ。これから先の未来を思い描くことを。唯一しかない未来に新しい可能性を探すのを」

 

 

 自分のような異常性を持っている人間が生きていること自体が間違っているのだ。

 周りに迷惑しかかけられない人間がどれほど互いを傷つけるか。それは諸刃の剣だ。迷惑をかけているという罪悪感が異常者を傷つける。迷惑をかけられている健常者が日常生活を犯される。

 そんな異常者の一人である少年は、周りを傷つけるだけの自分が恨めしくて、普通に生活できているみんなが羨ましくて、それでも助けようとしてくれるみんながいて、それが何よりも辛かった。

 

 

「これが正しい選択なんだって、唯一選べる選択肢を正しい選択だって、僕自身が望んでいる結果なんだって思い込もうとしていた」

 

 

 助かろうなんて微塵も思っていない。

 思うことすらおこがましい。

 助かりたいなんて自分が思ってはいけないのだ。

 少年は、自分自身を諦めていた。逃れられないものに立ち向かう意思があっても、勝てない相手に挑み続ける心があっても、最終的な結果を受け入れてしまっていた。

 それが正しいものだと。

 それが最も良い結果を生むのだと。

 選べる選択肢がない中で納得しようとしていた。

 助かりたい本心を無視して、無かったことにしようとしていた。

 思うこと自体が間違いだって。

 理解されるものではないんだって。

 それは間違っているんだって。

 本当の気持ちを無視しようとしていた。

 だが―――それを藍が変えてくれた。

 僕を見つけた藍が教えてくれた。

 僕の心は、こうも叫んでいるじゃないか。

 僕の心は、素直に望む未来を口にしているじゃないか。

 誰も見つけてくれないからって。

 誰も探し出せないからって。

 そんな言い訳を藍が潰してくれた。

 藍が見せてくれた可能性が希望の光を灯した。

 

 

「だけど、そうじゃなかったんだ。僕の心にはいつだって望む未来があって、それを見たがっていたんだから。僕はその気持ちに素直になるべきだったんだ」

 

 

 救いというのは何もしていない者に与えられるわけではない。

 救いを望んでいない者に救いなど訪れるはずがない。

 

 

「僕を救ってあげるには、あくまでも僕自身が救いを望まなければならない。僕自身が僕を救ってあげなきゃいけなかった。フランが自らの鎖を断ち切ったように。僕の望む場所へ至るためには、自分自身が何よりも救われることを望む必要があったんだ」

 

 

 フランを見ていてよく分かった。望めば叶う、望まなければ叶わない。

 誰が救われたいと思っていない人間を本気で救うだろうか。

 少年の場合に限って言えば、命を助けようと動いてくれる人がいるかもしれない。かもというか、確実に藍はその方向に向けて活動するだろう。

 だが、それは少年の命を救っているだけで少年の心を救っているわけではない。少年にとっての救いとは命が助かることではないのだ。

 少年の望む場所―――そこに何があるのか藍は知らない。きっと紫も知らない。永琳だって知らないだろう。それは少年だけが知っていること。そして―――少年を見つけた藍だけが知る資格のあることだろう。

 

 

「怖がらずに、僕の心が望んでいることを伝える必要があったんだ」

 

 

 理解してもらうこと。

 感情を共にすること。

 それは、誰かと共に歩くこと。

 それは、誰かと寄り添うこと。 

 分かってもらいと思うのならば。

 理解して欲しいと思うのならば。

 見つけて欲しいと思うのならば。

 救われたいと思うのならば。

 助けて欲しいと思うのならば。

 近づかれることを避けちゃいけなかった。

 傷つけられることを怖がっちゃいけなかった。

 傷つけることを恐れちゃいけなかった。

 傷つけることから―――逃げちゃいけなかったんだ。

 

 

「僕はもう―――逃げたりしないから」

 

 

 勿論のことながら藍には、少年の言葉は理解できていなかった。

 だけど、それでよかった。

 今は――それでよかった。

 

 

「藍は、心の中にいる僕の存在を感じて僕を見つけてくれた。その事実だけで僕はここから先を生きていける、これからの未来を進んでいける」

 

 

 少年は、藍が自分を見つけることができた事実に酷く勇気づけられた。

 死しかない未来の中に希望を見つけた。

 死の中に光る望みへと繋がる事実がそこにはあった。

 

 

「僕の不安や憂いはこれでなくなった。僕の望む未来は、もう決まったよ」

 

「何のことか分からないのだが……和友の望むものが決まったというのなら私も嬉しい」

 

 

 少年の話の全体像の1割も分からなかった。だが、少年が何かを得たというのならば、と藍は笑みを作った。

 今は、分かっていなくてもいい。

 最後の最後に全てが分かっていていれば、それでいい。

 

 

「僕は、もう少しだけ自分本位になろうと思う。周りの人たちを信じようと思う。藍も紫も、みんなを信じてみようと思う。みんな僕が作った鎖を断ち切ってくれるって」

 

 

 そっと、自分の未来を想起する。

 新しい可能性が新しい未来を提示している。

 二年後の自分は、何をしているだろうか。

 死の間際に何をしているだろうか。

 終わりの寸前で何を想っているだろうか。

 今の自分の望みを転写して、将来の自分自身を感じ取る。

 何もない場所で、移り変わりを見せる中で、ただただ待ち望んでいる自分がそこにはいた。

 誰かが―――自分の下へと辿り着いて物語を閉じてくれる時を待っていた。

 これが、僕の望む未来。

 叶えるべき僕の夢。

 僕の辿り着く―――世界。

 

 

「きっと約束の場所までたどり着いて、僕の望むものを見せてくれるって信じるよ」

 

「約束の場所?」

 

 

 心当たりのない少年の言葉に藍の口から疑問が漏れる。

 少年は、藍の疑問に対して優しい笑みを浮かべながら次の言葉を口にした。

 

 

「ねぇ……藍。聞いて欲しいことがあるんだ。藍には、僕から伝えておかなきゃいけないことがある」

 

「和友、何度も言うようだが私達には時間が……」

 

 

 藍と少年には時間がない。少年の心の中にやってきてすでに30分が経とうとしている。少年と会ってからの時間は数分程度ではあるが、外にいるメイドがずっと待っているとは限らない。

 仮に咲夜自身の力で藍の四重結界を壊せないとしても、増援を呼んでくる可能性は十分に考えられる。現状、精神世界の肉体が消えていないということから外の世界の体が無事なことは分かるが、これからもずっと大丈夫という保証はどこにもないのだ。その安心のない状況が、藍の焦りを増大させる要因となっていた。

 しかし、少年は後回しにしようとする藍の考えを否定した。

 

 

「今しかないんだ。今しか、僕たちに話ができる時間はない」

 

「どうしてだ?」

 

 

 藍は、少年の今しか時間がないという言葉に疑問を口にする。ここで話をするよりも外で話をする方が時間が取れるだろう。

 間違いなくそうだろうと思っていた。時間のある時に余裕を持って話せばいいと、そう思っていた。

 次に少年の口から出てくる言葉を聞くまでは。

 

 

「紅魔館での仕事が終わり次第―――藍から僕に関する記憶を消す予定になっているからだよ」

 

 

 ―――少年の言葉は、頭の中を真っ白に塗り潰した。




少年の本心を見つけられたということが、今回の話では最も大きい部分ですね。
少年の望む形―――いったい何なのでしょうか?
きっとそれは、原作に入ればすぐに分かることになると思います。


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失ったもの、失われるもの

藍は、少年の心の中に取り込まれた。
少年の存在を感じて、少年を見つけ出す。
藍が自分のことを見つけたことを知った少年は、酷く満たされたような表情を浮かべていた。
満たされた少年から告げられた言葉は―――藍の記憶を消すことになっているという未来の予定だった。


 和友の言葉が信じられなかった。

 そんなこと聞いたこともなかった。

 そんなこと想像したこともなかった。

 これまでのことが無くなってしまうなんて。

 これまでのことが失われてしまうなんて。

 そんなの嘘だと思った。

 そんなのは嘘だと思いたかった。

 だから、聞き間違えだということにした。

 

 

「ん? 今何と言ったのだ? 私の聞き間違えか、記憶を消すと言った気がしたのだが」

 

「それで間違っていないよ。藍が持っている僕に関する記憶は、今夜をもって曖昧になって分からなくなることになっている」

 

 

 少年の言葉を信じられずに聞き返したが、少年から返ってきたのは先程と何一つ変わらない答えだった。

 今夜というのは―――今のことである。もうすでに日が落ちて月が顔を出している。そして、記憶を消すことになっている時間をはっきりと‘今夜’と口にしているあたり、具体的にいつどこで何をするかも全て決まっていることが伺えた。

 

 

「どういうことだ!? 私の記憶を消す? 私はそんなこと知らないぞ!」

 

「知らなくて当然だよ。これは、僕と紫が決めたことだからね」

 

「なぜだ! なぜ、そんなことをしなければならない!?」

 

 

 唐突に告げられた言葉で頭の中がぐちゃぐちゃにかき回される。信じられないという気持ちが頭の回転を鈍くする。もはや吐き気がするほどに身の毛がよだっていた。

 

 

「私は認めないぞ! そんなことは断固として拒否する!」

 

 

 記憶を消すという話は、これまで少年や紫と共に生活してきて一切聞いたことのない話だった。少年に対する依存が過ぎるという話はされていたが、記憶を消すほどの強硬策に出るとは耳にしていない。

 何がどうなっているのか。

 何がどうなってそうなるのか。

 藍は、理不尽な状況に声を張り上げる。自分の知らないところで、自分に関する重大な事柄が決まっていたことに抵抗する。

 

 

「藍、落ち着いて。まだ話は終わっていないよ」

 

「ふざけるな!!」

 

 

 混乱する頭の中で何度も少年の言葉が反復される。

 記憶を消すことになっている。

 少年に関する記憶を今夜消す。

 僕と紫が決めたこと。

 

 

「どうして和友との記憶を消さなければならないのだ!!」

 

 

 少年の言葉から察するに、主である紫は記憶を消す案に賛同しているということが伺える。紫が賛同しているということはつまり―――この記憶を消すことはほぼ確定事項なのだ。紫も少年も一度決めたことを軽々しく変えたりしない。

 

 

「なぜ、私に伝えてくれなかった!?」

 

 

 答えは聞かなくても理解できていた。優秀な自分の頭は答えを簡単に導き出した。

 自分が知らないのは、知らせない方が賢明だと判断されたからだ。話さない方がいいと主である紫から判断されたからだ。きっと少年が話さなければ、藍は知らないうちに記憶を失っていたことだろう。

 藍は、怒りと困惑に感情を支配されながら想いを喚き散らした。

 

 

「これまでそんな話は一度もしていなかっただろう!?」

 

「随分と前に決まっていたんだよ。僕に関する記憶を消すってことはね」

 

 

 記憶を消すということは、随分と前から決まっていたこと。

 記憶を消すことが決まった成り行きは、少年に引き寄せられた心を無理やり引き離す方法を考えていた時である。このままでは共倒れになってしまう状況になっていた時のことである。

 打開策を考える中で紫は少年と共に思考し、記憶を消すという案を採択した。

 

 

「他にもいろいろあったんだよ。物理的に距離を取るとか。しばらくの間会わない期間を作るとか。そんな薬物依存から徐々に離れるみたいな案もあった」

 

 

 少年の心から解き放たれるために様々な提案がなされた。単純に距離を置く方法から、荒療治に至るまで複数の提案があった。

 その中で記憶を消すという暴力的な案に確定した理由は、効果が確実に出るということが分かっているからだ。そして何よりも、他の方法で上手くいくヴィジョンが全く見えなかったためだった。

 

 

「だけど、それじゃあダメなんだ。僕は分かっているよ。僕がどこかに攫われたら、僕がいなくなったら、藍が探しに来てくれるって。藍は探さずにはいられないんだって」

 

 

 少年と物理的に距離を取ったところで何の解決になるだろうか。距離を取るということは、今すぐ少年が死ぬことと何も変わらないのである。会えないという状況に心が暴れ出すだけで、何の解決にもなっていない。

 きっと、会いに行くだろう。

 何もかも捨てて、会いに行くだろう。

 少年の下へと―――会いに行くだろう。

 

 

「―――それじゃあ駄目なんだ! 何も変わらない! 何も進まない! 僕たちは未来に進めない!」

 

 

 それでは意味がないのだ。やはり、何かしら覚悟をして自ら少年から離れるということをやってのけるぐらいのことができなければ何も変わらない。そして、それができないからこその強硬策である。

 記憶を消すという手段は、少年が病気になった時の藍の様子を見て考えたこと、紫と話し合ってどうすれば皆が悲しまずに済むかを考え抜いた先に導き出した答えだった。

 

 

「藍にこのことを直接話す予定はもともとなかったんだけど……今の藍ならと思ってさ。やっぱり本人に何も言うことなく記憶を消すなんておかしいと思うんだ。藍の記憶のことだもん、藍が決めるべきだと思うんだよ」

 

 

 本当ならば、相手に了承を取らずにいきなり不意打ちのように記憶を消す算段だった。混乱することが、反発することが目に見えていたから。伝えるのを控えて唐突に実行する予定だった。

 だけど、少年はその予定を破って藍に話すことを選択した。

 

 

「大事なものが何なのか―――僕を見つけることができた藍ならきっと分かるはずだから。何が大事で、何が必要なのか。藍にとって大事なことが何なのか。守りたいものを決めるのは、藍自身であるべきだと思うんだよ」

 

 

 今の藍になら話してもいいと思った。

 ‘今の藍’になら選択することができると思ったから。

 自らのこれからの道を選ぶだけの意志があると思ったから。

 選ぶ―――二者択一を迫ってどちらかを選ぶことができると思ったから。

 自分の大事なものは―――何よりも自分で選ぶ必要があると思ったから。

 

 

「それに、記憶を消す理由は聞くまでもないでしょ? 藍は分かっているはずだよ」

 

 

 少年は、優しい笑顔で藍に暴力的な言葉を投げつける。分かるはずだと、理解しているはずだと藍に向かって自らの非を問う。

 

 

「…………」

 

 

 分かっている。

 痛いほど知っている。

 これまでの生活でいくらでも注意されてきた。

 これまでの生活の中でいくらでも気付く機会があった。

 自分が溺れていることに。

 無意識のうちに沈んでいることに。

 いつだって、警告はされていた。

 サイレンは常に鳴り響いていた。

 救助するための手は、常に伸ばされていたように思う。

 ただ――――全てに対して手を伸ばさなかっただけだ。

 この気持ちの良さに―――溺れていたかっただけ。

 いつまでも続くと思いたかっただけ。

 

 

「そういう流れになる理由を、藍は知っているはずだよ」

 

「私が和友に依存しているからか……」

 

 

 藍の口から弱弱しい声が漏れた。

 記憶を消される原因がどこにあるのかなど知っている。把握している。

 むしろ――そこにしかないのだ。他には特に思い当たる節はない。全ての原因が少年に起因していて、少年を中心に渦巻いている。

 少年がやって来たあの日から全ての色が変わったのだから。

 少年と会ったあの日から七色の世界に変わったのだから。

 

 

「だが、記憶を消すまでのことではないだろう? 今からだっていくらでも修正が利くはずだ。悪いところはこれから直していけばいいではないか」

 

 

 少年に対する依存が酷く深いということが、記憶を消す原因になっている全てだろうか。依存が深いからという理由で記憶を消すという極論に至るだろうか。

 記憶を消すというのは、これまでを無かったことにすることである。これまでの思い出を、これまで積み立ててきたものを全て一掃するということである。

 依存が過ぎるというのは記憶を消すほどのことなのだろうか。いくらでも修正が利きそうな話であるのに、いくらでも後戻りができそうな話なのに、どうしてそんな極論じみたことをしなければならないのだろうか。 

 藍は、依存しすぎという事象に対する対策が記憶を消すという強硬策になっていることに疑問が湧いてくるばかりで全く理解できていなかった。

 

 

「もう遅いんだ。これは決定事項で覆ることは絶対にないし、覆そうとも思わない」

 

「どうしてだ? 今からでも間に合うだろう? 私が気を付ければいいではないか……これから、依存を薄めていけばよいことだろう?」

 

「そのこれからが、もう無いんだよ」

 

 

 少年は、非常に言い辛そうにもう引くことのできる後が無いことを口にする。

 今日という日が来てしまった以上、もう後ろには何もないのだ。もともとの決行日が今日だったというのはもちろんのことであるが、藍に対して記憶を消すということを話してしまっているというのが致命傷になっている。

 

 

「話していなかったらまだ何とかできたかもしれないけれど、こうして言葉にして伝えてしまった時点で後戻りはできなくなった」

 

 

 話してしまった以上、戻れなくなっている。もしも少年が藍に話していなければ、まだ記憶を消すタイムリミットを伸ばせたかもしれないが、それももはや過去のことだ。

 

 

「いや、どちらにしても無理だったかな。伝えていても伝えてなくても、どっちでも変わらなかっただろうね」

 

 

 いや、どちらにしても無理だったことだろう。決めたのは何も少年だけではない、紫もなのである。

 少年がここから藍の記憶を消さないでおこうと提案したところで何が変わるというのだろうか。

 少年の未来は決まっていて。少年の未来には一本道しかないのだ。道を逸れるようなことをしたら―――紫が止めるはずである。正面から見つめている紫が少年の進路を修正するはずである。

 記憶を消したと嘘を突き通すことも100%不可能に近い。紫に対し、嘘をつき通してこれからも生活するなど不可能である。いつか露見し、今よりも酷くなるという予感しかしなかった。

 

 

「……紫様か」

 

 

 藍は、会話の流れから記憶を消すデットラインを決定したのが紫だと想像した。今日というリミットを設けたのが、紫の手によるものだと考えた。

 和友がそんなことを考えるわけがない。

 自分の想っている和友が自分を裏切るようなことするわけがない。

 何も言わずにこんなことをするはずがない。

 信じて疑わなかった。

 疑いたくなかった。

 紫が決めたことなのだから仕方がなく従っているのだと思いたかった。

 心が一番安定する回答に身を委ねたかった。

 

 

「記憶を消すということは紫様が考えたのだな!?」

 

「藍……」

 

「和友がそんなことを言うはずがない。紫様も困ったものだ……紫様には私の方から話をつけておくから」

 

 

 少年は、唐突に責任を全て紫へと押し付けようとしている藍を悲しそうな目で見つめる。

 こうなるのが嫌で、こうなってしまうのが分かっていて―――だから記憶を消すという結論に至ったことを藍は知らない。病気の症状が最も酷かった時期に、皆を守るために、皆が壊れしまわないように記憶を消すべきだと紫と話し合ったことを知らない。

 

 

「違うよ」

 

 

 違うだろう?

 そうじゃないだろう?

 あの頃の藍はどこにいったの?

 どうしてそんなことを言うの?

 そう―――理由なんて分かり切っている。

 原因はよく知っている。

 なんでこうなるのか。

 こうなりたくないから頑張っているのに。

 そうしたくないから我慢しているのに。

 やりたくもないことを、しようと覚悟したのに。

 

 

「そうじゃない」

 

「そうじゃないって……紫様が和友にそれを強制したのだろう? 和友がそんなことをしようとするわけが……」

 

「なんで分からないんだ!? 僕が大事にしているものが何なのかどうして分からない! そうじゃないだろう? そうじゃなかったはずだろう?」

 

 

 僕は、マヨヒガに来た当初のことを知っているから。

 もともとの紫と藍の関係を知っているから。

 仲の良かった二人を知っているから。

 だからこそ、その絆を守りたいのに。

 

 

「なんで、そんなことが簡単に言えるようになっちゃったんだよ……」

 

 

 少年の肩が藍の言い草にわなわなと震える。藍が見ている自分という存在が透けて見えて悲しくなった。

 藍にとって都合の良い存在―――本来の少年とは大きくかけ離れた幻想に涙が出そうになった。

 

 

「和友……私は何かおかしいことでも言ったのだろうか? 何か気に障ることを言ったのだったら教えてくれないか?」

 

 

 少年は、症状が最終局面を迎えているのだと表情を歪ませた。

 藍は、大きな心にある少年の本当の気持ちに気付いていない。

 少年が望んでいる物

 少年が欲している物

 少年を探し出せた藍ならば気付いていてもおかしくないのに。

 気付きたくないと言わんばかりに事実を捻じ曲げている。

 記憶を消すということを全て紫が考えたのだと自分にとって都合のいい事実に書き換えている。

 少年は、真実に立ち向かおうとしない藍に向けて大声で事実を述べた。

 

 

「これは僕自身が考えたことだ! 記憶を消すことは僕が考えたんだ!」

 

「……嘘だ」

 

 

 藍の口から微かな声が漏れた。

 

 

「藍、嘘じゃないよ。本当のことだ」

 

 

 まだ、信じられないのだろうか。

 まだ、信じたくない想いが事実を捻じ曲げようとするのか。

 逃げるな、逃げ道はないのだから。

 時間は問題を解決してくれない。

 時間が解決してくれるのは、時間が解決してくれる程度の問題だけだ。

 少年は、震える藍の両肩にそっと手を乗せる。

 藍は、不安を隠せていない瞳で少年を見つめていた。

 

 

「紫は何も悪くない。前も話したよね、紫は藍のことが心配なんだよ。戻れなくなって、壊れてしまうのが怖いんだよ」

 

 

 藍に記憶を消すことになった理由を理解させるためには、紫の想いを伝えることが最も必要な方法だと思った。紫の感じている不安を藍に分かってもらうことが、今の状態になっているのだと把握させるのに最も有効な方法だと思った。

 藍の目はいつも少年に向いている。

 紫が向けている視線に少しも気づいていない。

 紫が向けている気持ちに少しも気づいていない。

 紫は、藍のことを心配しているのだ。

 マナーがなっていないからではない。

 能力が足りないからではない。

 心配だから注意しているのだ。

 だから―――言葉をかけているのだ。

 藍は、本当の意味で紫の気持ちを理解していない。

 藍が今見つめるべきは、少年ではない。

 紫と紫の瞳に映る自分自身の存在である。

 

 

「あの時、いろいろ考えたんだよ。僕に対する記憶を消すことは、最初から案の一つにあった。僕自身に関係する記憶を曖昧にするぐらいなら僕の境界を曖昧にする程度の能力で十分にできる」

 

 

 藍の記憶を消す方法は、少年自身の能力によって果たされる予定になっていた。

 少年は、二年前から続けている能力の練習によって、自分のことならば意識して曖昧にすることができるようになっている。それは、弾幕ごっこの練習時にも見せた技能である。

 もともとは、紫の境界を操る能力によって記憶を消す手筈になっていたのだが、少年が自ら紫に打診したことによって少年の曖昧にする程度の能力によって記憶を曖昧にするという手法を取ることに変更になっていた。

 

 自分が起こした問題を解決するのは、自分であるべきだろう。

 自分が起こした罪は、自分で清算するべきだろう。

 じゃないと―――荷物を背負ったままになる。

 重い荷物を抱え続けなければならなくなる。

 自分にしか持てない重りは、自分でしか下ろせないのだから。

 誰かが代わりに持ってくれるわけでも、誰かが代わりに下ろしてくれるわけでもないのだから。

 それに、少年がやるか紫がやるか、そんなもので結果は変わらない。少年がしくじれば紫がやるだけの話だ。藍の頭の中の少年に関する記憶を曖昧にしたことによって影響が出ても、紫が何とかするだろう。

 藍は、記憶を失うという事実を受け入れなければならないのである。

 

 

「だから、藍に全てを話すなら今しかない。記憶を無くしてしまう前に話しておかなきゃならないんだ」

 

 

 そこまで藍に伝えると藍の肩から少年の手が離れる。

 藍は、茫然とした様子で少年の目を見つめている。遠くを儚げに見つめていた。まるで現実逃避をしているように見えた。

 少年は、生気の感じられない藍に向けて真剣な顔で語り掛ける。

 

 

「藍、僕の話を聞いて欲しい」

 

「…………」

 

 

 藍は、少年の言葉に何も反応しなかった。もぬけの殻になってしまったように、体から力が抜けきっていた。全てを失ったような顔で、全てを無くしたような表情で佇んでいた。

 僕は諦めないよ。

 僕の未来を諦めないよ。

 何度だって言うよ。

 何度だって伝えるよ。

 逃げないで。

 そっちに出口はないから。

 そっちは行き止まりだから。

 だから、行き過ぎて戻れなくなる前に。

 僕のことを見て欲しい。

 

 

「藍」

 

「…………」

 

「藍!」

 

「っ…………」

 

 

 藍は、少年の叫び声でハッと意識を取り戻したように眼球を動かした。

 

 

「……とりあえず、分かった。何も納得できてはいないが、和友の話を聞こう」

 

「良かった。時間が余りないし、大事なところから話していくね」

 

 

 藍は、まだ頭が混乱している状況のまま曖昧な返事を返した。

 もちろん藍がまだ事実を受け入れられていないことは分かっている。ここで受け入れられるだけの耐性がないことは理解している。そんな藍だからこそ、伝えない方針になったのだから。

 だが、あいにく時間がない。心の外には藍が張った四重結界が張ってあるとはいえ、無防備な体がさらされているはずである。

 少年は、時間がないことを考慮して、意識を取り戻した藍に向けて大事なところから説明した。

 

 

「まず、僕の寿命は後2年もないんだ。僕は半年前と同じように苦しんで死ぬ。あの時と何も変わることなく、力尽きて死ぬことになっている」

 

「…………は?」

 

 

 藍の口から唖然とした声が漏れた。

 いきなり半年前に発症していた―――治っていると思っていた病気が治っていないということを言われたのももちろんのこと、寿命が後2年もないという言葉に頭の中を白くした。

 しかし、今の藍の思考がついていけないのを考慮しても、物事を伝える順番はこれで正しい。

 少年は、ちゃんと相手に伝えなければならない大切なことというものを理解している。これからのことを理解するうえで最も大事なことは、少年の命がもう2年もないという事実を知ることである。半年前に発症していた病気が治っていないという事実を知ることである。このことを知ることで、記憶を消さなければならなくなったのがどうして今なのかということを理解する大きな要因になってくれる。

 少年の病気が治っていないことを知っているのは、少年を連れてきた紫、永遠亭で少年の治療を行った永琳、永遠亭での話し合いで知った鈴仙の3人である。

 この3人はすでに事実を受け入れ、少年の現状について把握している立場の人間になっている。その中に―――藍も入ってもらわなければならない。

 少年は、思考を停止させる藍をお構いなしに言葉を並べ出した。

 

 

「今から半年前に僕が発症した病気は完治していない。あの時と状況は何も変わっていないんだ」

 

「そんな、だったらあの時どうして病状が回復した? 今だって元気に暮らしているではないか」

 

「あの時は、元の状態まで戻してもらっただけだったから。無秩序なものを秩序立ててもらっただけで心に空いた穴は塞がっていないんだよ」

 

 

 藍は、いちいち停止しそうになる頭を動かし、少年の会話に平衡する。

 病気が治っていない?

 元の状態に戻してもらった?

 少年の口から吐き出される言葉は、意味が分からない事実が多かった。

 だが、その中でも藍の知っている内容が一つだけあった。

 それは―――心の中に空いている穴のこと。

 少年の心の中の穴というのは、藍にとっての大きなトラウマである。

 トラウマとなったのはちょうど半年前、少年が苦しんでいる時、少年が苦しんでいる理由を紫から聞いた時のことである。

 

 

「どうして私が? どうして和友が苦しんでいる原因が私になるのですか? 私が、何をしたというのですか?」

 

「それは……藍が和友の心の中の標識を2つ破壊したからよ。標識が破壊されたことによって穴が開いて、曖昧な世界に大きな溝ができた。それによって死の病に侵されているの」

 

「……それならば、もう一度標識を立てることができれば、和友の今の病気は治るのではないでしょうか?」

 

 

 藍は、最初に紫からこの言葉を聞いた時、標識を壊してしまったことによって病気を発症したことよりも、病気を治すことができるのかもしれないという希望を持った。

 自らの壊した標識が原因で病気になったことを棚に上げれば、標識が壊れたことによって病気を発症したという事実は―――病気を治す方法を把握したも同然なのである。標識が失われて病気になったのなら、元に戻せばいい。そうすれば、病気も何もかも治って元通りの生活ができる。そんな期待を持った。

 しかし、次に告げられた紫の一言で気持ちをどん底まで沈めることになった。

 

 

「じゃあ聞くけど、藍は壊した標識に書かれていた文字を覚えているのかしら?」

 

「標識に書かれている文字……ですか、それは……」

 

「分からないのでしょう? 和友もそう言っていたわ。藍には分からないと思うから聞かないでほしいって。きっとそれを聞いたら自分を責めるだろうから言わないでほしいって」

 

 

 藍は―――標識に書かれていた言葉を思い出すことができなかった。壊した標識に書かれている文字を思い出すことができなかった。これは、少年の心の中でも少年に対して謝った内容と同じである。あれからさらに2年も経過して、思い出せるわけがなかった。

 少年から決して告げられなかった病気の原因となった事象。紫から告げられた圧倒的な破壊力を持った言葉の刃が引き裂いた傷は、今も藍の心に深く刻まれている。

 藍は、紫の少年の病気の原因についての言葉を思い出すと自然と体が震えてきた。

 紫から告げられたあの夜から眠ることができなくなった。自分の責任で少年が苦しんでいると、死にそうになったのだと思うと、目が冴えて、涙が流れそうになって、唇をかみしめた。

 だから、少年がそばについていた。

 少年がそばにいて支えていた。

 眠る前に―――ずっと隣にいた。

 

 

「心に空いた穴というのは、紫様のおっしゃっていた私が壊した二つの標識によるものか」

 

「そう、藍が初めて僕の心に入った時―――2つの標識を壊したことによってできた穴だよ」

 

 

 震える体を抑えながら自らの罪を口にする。

 少年が病気になった理由は、藍が初めて少年の心の中に入った時に壊した2本の標識が原因だった。2本の標識というのは、藍が無秩序な世界から出られないことに絶望し、自暴自棄になったことで破壊した2本の標識のことである。

 少年は、心の中の標識が破壊されたことによって病に陥り、苦しみ、死に直面した。

 

 標識とは―――少年の努力の証。

 能力によって拡大していく心に対抗するために区別を行った証明。

 あくまでも、‘能力に対して’少年が行った行為である。

 

 だったら、境界を曖昧にする能力を制御できるようになった今ならば、こんなことにならないのではないかと思うかもしれない。能力が悪さをしているから病気なったのだったら、能力を制御できれば症状を抑えられるのではないかと思うかもしれない。

 だが、現実にはそんなことにはならなかった。

 ここで知っておいて欲しいことは―――少年は無意識下で発動する事象を全て制御できるようになったわけではないということである。

 少年の境界を曖昧にする能力は、ある程度扱えるようになったとはいっても少年の心の中の拡大を止めるところまでには至っていないのだ。心の中の無秩序性は保たれたままで、ずっとこの形のままだった。

 少年の努力によって心の中だけに留めていた能力は、標識の破壊によって均衡を崩した。標識の破壊によって心がぐらつき、衝撃を受けることで能力が安定を失ったのである。

 その結果として―――少年の病は目を覚ました。もともと奥底に秘めていた危うい可能性が、心にできた穴からこちらを覗きだしたのだ。

 藍は、少年の病気の原因について紫から伝えられている。だからこそ、自分に大きな責任を感じていた。もしも標識を壊していなければ少年が苦しむことはなかったと思うと、頭の中から罪悪感が抜けなかった。

 

 

「では、やはり私の責任か」

 

「違うよ。あれはみんなの責任だ。藍だけの責任じゃない」

 

 

 確かに標識を壊した直接的な原因は、藍にあるだろう。そこに異論を挟む者は誰もいないはずである。

 だが、こと少年が病気になったことに関していえば、藍だけの責任とは断言できなかった。藍が標識を壊してしまった原因を作り出してしまったのは、紛れもなく少年と紫なのだから。誰かだけの責任には決してできない。それぞれが罪とその罪の意識を抱えている。

 

 

「心の中に入れてしまった紫も、早く助けに行かなかった僕も、みんな悪かったんだよ。藍だけが悪かったわけじゃない。一人で背負う必要はないんだよ」

 

 

 少年が、藍が自暴自棄になるまでに見つけ出せていれば、こんなことにはならなかった。

 紫が藍を少年の心の中に入れなければ、こんなことにはならなかった。

 少年に心の中の無秩序性についての理解があれば、こんなことにはならなかった。

 数々の条件が揃って、藍が標識を2本破壊するという結論に至ったのだ。

 

 

「それに、藍はしっかりと約束を守ってくれた。何も気にするなというのは無理かもしれないけど、藍はしっかりと対価を払ったんだから」

 

「その、約束を守ってくれたというのは何のことなのだ? 半年前は教えてくれなかったが」

 

 

 少年の心の中に初めて入った時、藍は標識を2本壊したことを謝罪している。その際に、少年からあることを告げられた。

 

 

「もしもそれが生きていくために必要な区別だったら、その場で教えてほしいんだ。俺は、その場限りなら分かるから。その場だけなら言われれば区別がつくから。その場面が来た時に逐一教えて欲しい」

 

「分かった。和友が分からなくなったら私が教える。和友が、区別がつかなくなったら私が教えるよ」

 

「お願いな」

 

 

 確かに少年と約束をしている―――壊した標識に関することを補ってほしいという約束を交わしている。

 しかし、それに関しては壊した標識の中身が分かっていないため、穴埋めができたのか判断がつかなかった。少年は、半年前に病気で苦しんでいるときも約束を守ってくれたから気にしないでほしいと言うばかりで、肝心の中身を決して口に出して藍に教えるということはしなかった。

 少年は、藍の疑問に対して笑みを浮かべ、優しく問いかける。

 

 

「藍は、壊した標識に刻まれている言葉が何か分かった?」

 

「いいや、当時も言ったかもしれないが壊したのは随分と前だったし、自暴自棄になっていたから覚えていないのだ。意識して壊したわけではないからな」

 

 

 藍は、あれから2年経った今になっても答えを見つけられていなかった。見つけようと努力はしてきたが、思い出す努力をしたところで意識して壊していない標識に書かれている文字など思い出せるわけもなかった。それはまさしく、2年前に歩いていてたまたま蹴り飛ばした石がどれなのかと聞いているに等しい問いかけである。そんなもの、誰が分かると言うのか。

 

 

「そういう和友は、私が壊した標識に書かれていた言葉が何なのか分かっているのか?」

 

「分かっているよ。僕が藍の壊した2本の標識に書いてある文字を把握したのは、心の中から戻ってすぐだったかな」

 

「すぐだって?」

 

 

 藍は、すぐに分かったと言う少年の言葉に耳を疑った。少年はあろうことか藍が標識を壊した当日に壊した標識に書かれていた言葉を把握していたというのである。

 

 

「気づいていたのならばどうして言わなかったのだ? それが分かっていたのならば、病気だって治せたはずだろう?」

 

 

 壊した標識に書かれていた言葉が分かっているのであれば、病気の発症を止めることだってできたはずなのに。病気の症状だってもっと軽くなったかもしれないのに。今からだって治せるかもしれないのに。

 どうして少年は、標識に書かれていた言葉を口にしなかったのだろうか。標識に書いてある文字が分かっていながら、再び標識を立てようと思わなかったのだろうか。

 そう考えたとき―――藍の脳内に3つの可能性が挙がってきた。

 

 

「紫様に止められていたからか?」

 

「それも確かにあるけど、それが原因で話さなかったわけではないよ」

 

 

 1つ目は、告げてはならなかったから。

 

 紫によって口止めされているため、告げられなかったというものである。事実を知った藍が傷つかないように、混乱し暴れないようにするために告げてはならなかったという可能性である。これが最も分かりやすく、理解しやすい可能性だったが、少年の様子を見るとそうではないようである。

 

 

「ならば……和友がこのことについて話したくなかったからか?」

 

「それも少しはあるだろうね。僕は、この話題を藍に出すのが怖かったから。でも、病気を治したくなかったわけじゃないよ」

 

 

 2つめは、告げるという行為を少年が望んでいなかったから。

 

 告げないことで少年の目的が達成される、少年の願いが果たされるからというものである。

 それはつまり―――少年がそのとき死ぬことを望んでいたということに他ならない。

 それは大きく間違っていない。病気で苦しんでいた時期に死ぬことを望んでいたのは事実なのだから。そのときゴールはここでいいと思っていたのだから。ここで死んでしまうことに何一つの後悔も未練もなかったのだから。

 しかし、病気を治すことを完全に諦めていたわけではない。ここで終わってもいいと思っていただけで、病気に打ち勝とうという意思は最後の最後まで持っていた。

 ならばどうして標識に書かれていた言葉を話さなかったのか。

 

 

「だったらどうして?」

 

「藍だって分かっているんでしょ? 標識の言葉については、話しても意味がなかったからだよ。話しても皆が何もできないことを知っていたから、だから言わなかっただけ」

 

 

 少年から正解が示された。

 

 3つ目は、告げても意味がなかったからである。

 

 告げることで何も変わらないから。告げたところで誰にも何もできないから。

 それはつまり―――少年の病気が標識に書かれていた言葉を把握したからといって治ることがないということを意味している。

 この可能性は3つの可能性の中で最悪のものだ。何もできない、抗うことができないということは、諦めろということに等しい。

 

 

「ねぇ、藍は覚えているかな? 僕の心の中から出たときに僕がやっていたことを」

 

「心から出たときにやっていたこと? 私たちの名前を覚えようとしていたときのことか?」

 

「うん、そうだよ。よく覚えていたね」

 

「忘れるものか。忘れろと言われても忘れられない思い出の一つだ」

 

「僕は、心の中から出た後に藍との‘名前で呼ぶ’という約束を守るため、紫と藍の名前をノートに刻み始めた。そして、僕が名前を刻んでいる途中に藍がやってきた。そこまでは覚えているよね」

 

「ああ」

 

「じゃあ、これも覚えているはずだよ。藍は、名前を書き続けている僕に対して言ったよね、両親は止めなかったのかって……僕が失ったものに気付いたのは、その時だよ」

 

 

 少年の言葉によって藍の脳内に標識の言葉が想起される。

 失ったものに気付いたのが―――両親についてのことを聞いたとき。

 その事実に失ったものの存在が姿を現した。

 

 

「あの時はごめんね。我慢ができなかったんだ。焦っていてイライラして動揺して、随分と当たっちゃった」

 

 

 少年は、普通とはおかしいといえるほどに温厚な性格をしている。イライラしているところなどまず見たことがなかった。初めてマヨヒガに来た夜のことを除いて一度も見たことがなかった。

 それだけ、あの夜は少年にとって特別だったのである。

 あの夜、失ったものの余りの大きさに冷静さを維持していられなかった。

 紫が藍を少年の部屋の中から連れて行ってからも、少年は泣きながら二人の名前を覚えるために努力した。辛い想いを引きずりながら必死に約束を守るために名前を書き込む作業に打ち込んだ。両親の悲しまないで欲しいという言葉を飲み込み、覚えていて欲しいという約束を破って瞳に留まった涙を拭うこともせず、約束を果たすために努力をした。努力をすることで自分の気持ちを誤魔化した。

 

 

「まさか……」

 

 

 少年の言葉から標識に書かれていた言葉が何なのか理解した。

 2年越しに―――ようやく分かった。

 自分が壊したものの大きさを把握した。

 自分が犯した罪の重さを実感した。

 脳内に出てきた解答に「そんなまさか」とは思ったが、その方が辻褄が合う。藍の脳内は、混乱していた中でもしっかりと理論的な答えを導き出していた。

 答えが分かった様子の藍を見つめる少年の瞳は、少し悲しそうだった。

 

 

「私が壊した二つの標識に書かれていた文字は、和友の両親の名前か……」

 

「あれ以来両親のことを思い出せなくなった。名前も顔も思い出せない。両親の好きなものも、嫌いなものも、誕生日だって分からない。記憶の中の両親は、全ての色を失った」

 

 

 藍が壊した標識に書かれていた言葉は、少年の両親についての名前だった。

 少年は、藍が標識を壊して以来、両親のことを思い出せなくなった。

 思い出せても、そこに映る人物が両親なのかどうか判別できなかった。

 

 心の中に―――両親の姿は見当たらなくなっていた。




少年の病気の原因がここで判明することになりました。
第1話を書いていた時から決めていたことですが、第8話以降で張った伏線を回収できてよかったです。標識に書いていある文字が両親の名前だと、名前はもちろんのこと人間の中で両親と判断するすべての事柄が消えてしまうことになるので、思い出にいる両親は誰か分からないものになってしまいます。少年は、これまでずっと藍に対して伝えずに生きてきました。それを今伝えているということの意味を分かってもらえればと思います。
そこからとることができる藍の行動は、大きく二つです。
1.受け入れるか
2.抗うのか
みなさんならどちらを選ぶでしょうかね。


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燃え落ちたもの、溶け込んだもの

記憶を消すと言われて狼狽する藍。
そこに畳みかけるように少年の寿命が後2年ほどしかないという新事実を突きつけられる。
あまつさえ、その原因が―――両親の名前を冠した標識の消失によるものだった。



 失った記憶は―――両親のもの。

 失わせた原因は―――藍の苛立ち。

 少年から親の記憶を奪ってしまった。そんな罪の意識に襲われ、藍は顔をこわばらせて黙り込んだ。

 

 

「大丈夫、大丈夫だから。藍は約束を果たしてくれたよ。失ったものをカバーしてくれた。僕の両親の代わりをしてくれた」

 

 

 二人は、二年前に少年の心の中で約束を交わしている。標識を壊した藍に向けて、標識に書いてあった部分のカバーをしてほしいという犠牲に対する対価を払う約束を結んでいる。

 結局藍は、少年に告げられる今の今まで標識に書かれている文字が何なのか分からなかったが、分からない状態で少年の約束を十分に果たしてきた。共に笑い、共に苦しみ、少年の‘家族として’過ごしてきた。

 

 

「それだけで十分だよ。僕にはもったいないぐらいの償いだった」

 

 

 少年は、約束を守ってくれたことで藍の罪を完全に許していた。

 思い出してみれば、ちょうど母親の立場にあるのが藍で、父親の立場にあるのが紫だっただろう。

 少年を心配し、苦しくとも守ることに全力を注いでいた母親。心を擦り減らす少年の行動を支え、少し離れたところから無理のないように目を配った父親。それは、今の紫と藍の立場と大きく変わらない。

 本当に十分すぎるぐらいの補完だった。

 感謝してもし足りないぐらいの思い出ができた。

 少年は、心から今まで温かく接してくれた二人に感謝の言葉を送る。

 

 

「今の僕にとっての両親は間違いなく藍と紫だよ。本当にありがとう」

 

「和友はそう言うが……両親のこと失ってしまったことを忘れられるわけではないのだろう? 標識を失ってしまったことが病気の発症に繋がっていることを考えれば、心の穴を埋められていないことは確かなはずだ」

 

「心に空いた穴は絶対に埋まらないよ。僕の両親と紫と藍とでは形が違うんだから隙間ができるのは当然さ」

 

 

 何かを失って心に穴が開く。それを埋められるのはやっぱり同じもののはずである。

 誰かがそこに入ったところで同じ形ではないのだから完全に埋めることはできない。

 母親から愛されなかったからといって、他の母親に愛してもらって愛されたい気持ちを埋めることができるだろうか。

 違うだろう―――愛されたかった母親は最初の一人のはずである。

 

 

「僕の両親は二人だけだ。その代わりは誰にだってできない」

 

 

 それを違うもので埋めようとしても、必ず隙間ができることになる。

 それに、違うもので埋め合わせをするなんて色の違う土で無理矢理抑え込むのと同じで、そんなことをしたら傷跡が目立って気になって仕方が無くなる。

 忘れようと思っても、忘れられなくなる。

 あの人はこうだったとか、あの人だったらなんて考えが頭の中によぎってしまう。それでは、心の傷を一時的に塞げても自分で掘り返してしまうことだろう。

 そんなことをしたら傷は広がるばかりである。

 

 

「僕の両親の代わりなんていない。もちろん藍と紫の代わりだっていない。みんな同じようで……みんな違うんだよ」

 

「和友……」

 

「区別ができない僕にだって分かるよ。何かの代わりなんてこの世の中には存在しないんだって、同じように見えるものにだって違いがあるんだって。僕の母親は一人だけ。父親も一人だけだ。僕にとって藍の代わりがいないように。藍にとって僕の代わりがいないように。同じものなんてないんだよ」

 

 

 少年の母親はあくまでも一人しかいない。

 少年の父親もやっぱり一人しかいない。

 私が少年の母親だと藍が言っても、少年がそういうふうに認識しても、やっぱり少年の母親と藍は違うものなのである。

 いつも使っているボールペンが無くなった時、違うボールペンと見つけて最初は満足するのかもしれない。

 けれども、やっぱりそれはその場しのぎなのだ。慣れているボールペンは失った時に探そうとしていた最初のボールペンなのだから。

 多くの人は失ってしまったボールペンを探し始めるだろう。そして、見つかればきっちりと心の穴は埋まることになる。

 心の穴は埋め合わせでは埋まらない―――取り戻さなければ埋められないのだ。

 

 

「本当なら両親と過ごした記憶で、一緒に笑い合った思い出で埋めてあげられれば良かったんだけどね。同じもので埋めることになるから、穴は綺麗になくなるはずだった」

 

 

 そう―――心の穴は、失ったものと同じものを見つけてあげられれば埋めることができる。それが実際に失ったものを取り戻すことによってなのか、共に積み立てた過去の思い出なのかは分からないが、時間が心の穴を埋めてくれるという言葉があるように、その人と培った思い出が穴を埋めてくれる、背中を押してくれることは往々にあることである。そうやって同じ種類のもので空いた穴を埋めることで納得することができるのだ。

 だから―――両親のことを探そうと思った。培ってきた、積み重ねてきた歴史を探して、思い出して、両親の痕跡を探そうと思った。記憶・記録を探し出して心の穴をすっぽりと埋めようと考えた。

 だが―――

 

 

「そうなっていないということは、何か問題があったのだな」

 

「うん……顔と姿だけは何とかなったんだ。紫がアルバムをもってきてくれていたおかげだね。問題はその他の部分―――両親に対する情報を埋め込むために必要な要素が全く足りなかったんだ」

 

 

 持っている両親の情報をかき集めた。自分では何も思い出せない。住んでいた家から何かを持ってこられたわけでもない。だから、主に紫からの情報で失った記憶を補完しようとした。

 しかし、紫が持ってきた情報だけでは両親を失った穴を埋めるために十分な情報を得られなかった。

 

 

「失っていた期間が長過ぎたんだ……きっと僕の能力が要らない記憶だって判断したんだろうね。もう、思い出せる記憶もごく僅かになっている……」

 

 

 標識という刻み込んだ情報が消えて重要度が下がった両親の記憶は、次々と曖昧になっていった。

 思い出というのは感情の起伏による記憶であり、何かが起こったときの記録である。そういう記憶というものを区別しているのは誰と一緒の記憶なのか、何が関連した記憶なのかということだ。

 友達と遊んだ記憶は友達というものがいてこその記憶であり、友達が分からない人間に備えられる記憶ではない。遊んだ友達というものが分から無くなれば、その記憶はどんどん思い出せなくなり、無かったことになっていく。

 そして最終的には―――忘れたことも忘れるのだ。

 

 

「僕は、忘れてしまうことさえも忘れてしまいそうで怖いんだよ」

 

 

 両親のことを忘れてしまう恐怖もそうだったが、忘れたことも忘れてしまうような気がして恐ろしかった。

 

 

「それに……もう無理なんだ」

 

「なぜだ? 今からでも標識を立てれば、現状を維持することは可能なのではないのか? 空いた穴を埋められれば、今からでも和友の両親の記録を辿れば……」

 

 

 珍しく諦めの言葉を口にする少年に藍が今考えられるだけの提案を持ち掛ける。

 心に穴が開いていてそれが原因で病気になっているのならば、穴をできるだけ埋めることでとりあえずの延命治療になるのではないかと考えたのである。

 これは実際に的を射ていて、心の穴の面積が少なくなるほど少年の病気の遅延に繋がる。それは、蛇口からコップの中に水を入れるようなものであり、蛇口の捻りを小さくすれば水が出てくる量が少なくなり、溢れ出すまでの時間を長引かせることができるのと同じである。

 しかし、そんな提案も無意味だというように少年の首が横に振られた。

 少年の表情は酷く悲しそうだった。もう何もかも取り返しがつかないといった雰囲気で、いつもの元気や笑顔が見えてこなかった。

 

 

「だから、それがもう無理なんだ」

 

「どうしてだ? 和友の家に行けば、完全に埋めることができなくとも、もっと隙間を埋めることぐらいできるだろう? アルバムからは姿かたちしか見えてこないかもしれないが、和友の家にならば他にもいっぱいあるはずだ」

 

「うん、藍の言うとおりだよ。僕もそう考えた」

 

 

 少年の家には沢山のものがあった。紫が少年の家に行った際のことを思い出してみれば、様々なものが置かれていたことが分かるだろう。

 少年の部屋でいえば、友達の名前やその他諸々を覚えるために記載したノートが置いてあった。

 リビングには、古めかしいおもちゃが並べられていたのを思い出してほしい。

 記憶を辿る術ならば、家に戻ればいくらでも見つかるはずだった。そういう意味では、藍の提案は何も間違っていなかった。

 そういう意味では―――。

 

 

「だけど、今となってはそれもできない」

 

「どういうことだ?」

 

 

 できない―――それは不可能という言葉である。

 幻想郷の外へと出る方法がないわけではない状況下で、できないというのはどういうことなのだろうか。 

 藍は、次に少年から発せられた言葉で―――衝撃を受けることになる。

 

 

「……燃え落ちたんだ。何もなくなって、灰に変わってしまった」

 

「……え?」

 

 

 衝撃の事実に思わず言葉を失った。

 燃え落ちた―――それは家が燃えて無くなったということ。

 灰に変わった―――それはもう何も残っていないということ。

 少年の家は、もう少年を待ってくれてはいない。

 両親と同じように少年を置いて先に逝ってしまった。

 

 

「藍は覚えているかな? 僕が泣きながら帰ってきた日のことを……僕が外の世界に行ってすぐに帰って来たあの日のことを」

 

「ああ、あの泣きながら帰ってきた日か……」

 

 

 少年の言葉には心当たりがあった。

 いつだったか、少年が泣き腫らした顔で帰ってきたことがあった。決して上を向くことなく、涙を流しながら廊下を駆けて部屋へと入り込み、外へと出てこなくなったことがあった。

 

 

「和友、何があったのだ?」

 

「今の和友に話しかけるのは止めなさい。そっとしておいてあげなさい」

 

 

 理由を尋ねても何も言わず食事を取ろうともしない少年に声を何度かかけたが、主である紫に静止されて結局のところ話せずじまいに終わった。

 次の日には、いつも通りの少年に戻ったため気にしてはいなかったが、そんなこともあった。

 

 

「その日……僕は、燃えてしまった家の前で泣いていたんだ」

 

 

 自分の家に帰ったのは随分と前だ。少年がまだ幻想郷に来て間もないころである。

 外の世界にある家に戻ることを考えたのは些細なきっかけだった。紫との些細な会話から考えたことだった。

 

 

「僕の両親が取っていた成長記録……そんな物があったんだね。ちょっと失念していたよ。そうだよ、戻って探せば良かったんじゃないか……」

 

「和友、どうしたんだ? 何か気になることでもあったのか?」

 

「ううん、なんでもないよ。ちょっと思うことがあっただけ……」

 

 

 家に帰ろうと思ったのは、そう―――ちょうど紫が少年の成長記録を家から持ってきたと言われた時で、戻ればよかったのだと気付いた時である。

 それから間もなく、紫に頼み込んで家まで連れて行ってもらった。それは、紫が少年の家に行ってから1週間も経っていないころである。そして、その時にはもうすでに少年の家はなくなっていた。真っ黒な別の物になって、小さな家が全く様変わりしたように大きな存在感を放って存在していた。

 泣きそうになった。

 だけど―――誰かがいる前に泣きたくなかった。

 顔を無理やりに強制する。

 いつものような顔で声だけを震わせる。

 

 

「僕の家に残っていたのは灰だけだった。燃え落ちて、燃え尽きて、何も残っていなかったんだ。あの時は悲しくて、辛くて、涙が止まらなかった」

 

 

 完全に燃え尽きて何もなくなっていた。黒く炭化した何かが残骸になって、地表に広がっていた。まだ少しだけ温かく、まだどこかに熱があって、鼻を刺激する匂いを放って、確かに何かがあったことを示している。

 それが―――何よりも悲しかった。

 

 

「……夢を見たからか」

 

 

 藍の口からぼそりと言葉が零れ落ちた。

 藍には、少年の家が燃え落ちた原因に心当たりがあった。

 そう、少年が来てからまだ1日も経っていないその日―――少年は夢を見た。

 少年は、その日一度死んだのだ。

 

 

「あなたが来ると思っていたらから待っていたのよ。死んだ感想はどう? それも相変わらずなのかしら?」

 

「家が、火事になったよ……」

 

 

 少年の夢は、正夢になった。

 夢と現実が交錯して、夢が現実を侵食した。

 

 

 

 少年は藍の夢を見たからという言葉に頷くわけでもなく、肯定することもしない。ただただ、泣きそうな顔で静かに立っていた。

 

 

「なぁ、和友……」

 

「僕なら、大丈夫だよ」

 

 

 なんて声をかければいいのか全く分からなかった。

 慰める言葉など何一つ出てこない。聞けば聞くほど、少年が袋小路に入り込んでいることが分かるだけで、どうすればいいのかなんて何も思いつかなかった。

 少年は、それが分かっているからこれからの人生を諦めたのだろう。

 あと2年間しかないと、諦めているのだろう。

 もう―――変わらないことだから。

 もう―――変えられることではないから。

 もう―――不変で普遍の原理になってしまっているから。

 

 

「藍もやっと分かってくれたみたいだね」

 

「…………」

 

 

 少しだけ明るい表情を作る少年に、藍は応えられなかった。

 

 

「藍は、この世界を見てどう思った? 前来た時と何が違うと思った?」

 

「そうだな……」

 

 

 一度周りを見渡す。

 空には相変わらず気持ち悪い色彩が映し出されている、地上も同様に移り変わりを見せている。建物も建っている、標識も少なくなっているとは感じていたが建っている、人間もいる。

 しかし、過去に無くて現在にあるものが確かな存在感を放って目に映っていた。

 

 

「……地表を水が覆っていることだな」

 

「ふふっ、さすがに分かるよね。藍は、僕の心の中に1年間もいたんだもん。分からないはずがないか」

 

 

 藍の回答に少年が微かに笑う。

 以前の少年の心の中と明らかに異なっている部分―――それは地表を覆っている液体の存在である。建物も人間もいるにはいるのだが、液体の中を進んでいる。移り変わる地表も液体に呑まれている状況で、澄んだ海を外から見ている状態で地表が動いている―――そんなふうに見えていた。

 

 

「この水は、一体どこから産まれているのだ?」

 

 

 この水は―――どこから湧いてきているのだろうか。藍は、地表を覆う水の存在がどこからやってきたものか分からなかった。

 少年の心の中にあるものは基本的に外部から運ばれてきたものである。標識や立て札はいうまでもなく、建物や景色に至るまで外の情報から産みだされたものである。そう考えると、この液体はここ2年の幻想郷での生活の間で形成されたものであることが分かる。

 しかし、この2年間で一体どんなことがあってこのような水が現れたというのだろうか。

 少年は、紫と同じ話し方をし始める。周りから詰めていくような、本人に理解させるようなやり方で藍の外堀を埋めていく。

 

 

「この水はね、両親の標識があった場所から溢れ出てきたものなんだ」

 

 

 心の地表を覆っている水は、両親の標識があった場所から湧いてきたものだった。温泉を掘り当てて噴き出すように、湧き出してきたものだった。

 この液体は、両親を失ったこと、そして家が燃えてしまったことによって心に負荷がかかり溢れ出てきたものである。

 

 

「そうだね―――僕の心の涙みたいなものだ」

 

 

 そういう意味では、少年の悲しみを具現したものといえるだろうか。少年の悲しみから産まれた涙のようなもの。それが現在、時を経て3メートルという水深に至っていた。

 

 

「この世界には逃げる場所が、出口がないからどんどん増えてここまできた。もともとの標識の高さじゃ埋まってしまうほどの高さになったんだ」

 

「この水かさは今後も増えていくのか?」

 

「増えるよ……止まることなく増えていく」

 

 

 少年の心の中の水は今もなお増え続けている。

 水かさは、あっという間に今飛んでいる少年と藍のいる場所まで来るだろう。今ある10メートル近くまで伸びた標識までたどり着くだろう。

 それが―――問題なのである。

 

 

「そして、侵食するんだ。この世界にある物質を腐敗させ、腐食する。最後には海だけが残ることになるだろうね」

 

「それでは……」

 

「そう、何もかもなくなっちゃうんだ。これまで溜め込んだ区別の標識が、決まり事の立て札が、みんなとの記憶が―――消えていく」

 

 

 水は、物質を腐敗させる。物質は酸化反応を起こしながら水に溶け出し、その身を削る。鉄は酸化し錆になり、木材は腐り朽ちていく。そして、標識と立札が消えれば、関連する記憶も一緒に曖昧になっていく。

 キャベツとレタスのことを判別できない人間が、キャベツについての思い出を保持していることなんてまずない。それは、それが何に関わる記憶なのかがきっちりと‘区別されていない’からである。

 そんな曖昧な記憶は、すぐに消えてなくなってしまう。曖昧なものはさらに曖昧になって、あってもなくても一緒の無色の記憶になって、最後には無色という色も失ってしまう。

 

 

「病気の症状が酷くなったとき―――水位は今立っている標識より少し下のところまで来ていたんだよ。こんなものじゃない」

 

 

 水位が一番高かった時は9メートルを超えていた。

 もちろんのことだが、いくつかの標識はその時に失われた。

 

 

「あの時、僕は必死だった。病気と闘いながら必死に守ろうとしていた。だけど、やっぱり努力には限界があるんだよ。ゴールがないマラソンみたいなもの……ずっと走っても追いかけてくる。僕は、途中で追いつかれそうになって抱えている荷物を下ろしてしまった」

 

 

 思い出を守るために必死に努力した。周りから狂気じみていると思われる程度には必死だった。

 血反吐を吐いても、手を動かすのを止めない。

 忘れたくないからという一心で。

 書いて、書いて、書いて、書いて、書いた。

 その努力の結晶が今の標識の高さに現れている。

 10メートル近くの標識の高さとなって具現している。

 

 

「あの時に多くの標識が水に溶けだした。まるで、能力の練習をしていた時の水滴に触れて溶け出すように標識に書かれている文字が消えて、標識ごと無くなった。もう、友達の名前はほとんど残っていない。そして―――次は、今ある物全てが形を無くすことになる」

 

 

 必死に努力した。

 文字通り必死だった。

 積み立て、積み上げる。

 努力によってより高い標識を立てた。

 だが、全てを救うことはできない。全てに均等に時間をかけていたら全滅してしまう。標識の数が多すぎて間に合わないのだ。

 その時に犠牲になったのは、関わり合いの薄い友人たちの名前、幻想郷に来て必要が無くなった知識だった。

 だが、その残ったものも、いずれなくなってしまう。

 次が来れば、跡形もなく海の中に消えていってしまう。

 

 藍は、ここまで少年の話を黙って聞いていて、一つ頭に引っかかるものがあった。

 病気で苦しんでいた時が―――9メートル。

 今が―――3メートルである。

 この違いは、どこからきたものなのだろうか。

 水位が過去と現在とで減っているということは、そのまま水かさを減らせる方法があるということだ。

 

 

「半年前、どうやって元の状態まで戻したのだ? 同様の方法を使い続ければ、ずっと維持できるのではないのか?」

 

「僕の能力は、境界を曖昧にする程度の能力。標識の存在を曖昧にしているこの水は、僕の能力が影響している酷く曖昧なもの。だったら曖昧なものをはっきりさせてあげればいい。そうすれば、必然的に曖昧な存在の水が減って水かさが減る」

 

 

 少年の境界を曖昧にする程度の能力は、紫も言っていたように心の中で最も強い効果を発揮している。これまで能力を内に留めてきた弊害で、内側で大きな影響力を及ぼしているのだ。

 湧き上がる水は、少年の心に負担がかかったことによる能力の暴走であり、無意識下での能力の制御が利かなくなっている証である。

 水は、曖昧にする程度の能力を発揮するようにこれまで引いてきた境界線を曖昧にしていく。ちょうど曖昧なものが区別できていたものを飲み込むような形である。

 一つの曖昧さが他の正確なものを曖昧にするのである。1+1が曖昧になれば、この世の中の数式は意味をなさなくなるのと同じだ。

 そんな曖昧な存在である水を明確に区別してあげられれば、曖昧な水の存在を掻き消すことができる。曖昧さを具現している水を消し去ることができる。

 そして―――そんなことをできる人物は、藍の知る限りにおいて一人しかいなかった。

 

 

「境界線を引いて白黒はっきりつけるんだ。もちろん、その人の区分けにもよるけど、彼女はそのあたりしっかりしてそうだったかな。紫もそう言っていたし」

 

「閻魔様か……」

 

 

 そんなことをできるのは一人しかいなかった。少年の心の中を覆っている水を減らした人物は、幻想郷において一人しかいない。

 確かに閻魔である彼女であれば、白黒はっきりつける程度の能力を持っている彼女であれば、少年の曖昧なものをはっきりと区別することができるだろう。

 

 

「紫には感謝しているよ。紫がいなかったら、今の僕はいない。紫がいたから僕がこうしてここにいられるんだ」

 

 

 区別を得意とする彼女が動いたのはたまたまでもない、少年を助けるためでもなかった。

 彼女を動かしたのは、紫の懇願があったからだった。紫が彼女に頭を下げ、彼女がそれに応じて動いたのである。それを考えれば、二度と同じ方法は使えないことだろう。むしろ、1度だけでも手を貸してくれたことの方に驚くところである。

 

 

「だとすれば、2度目はないな。閻魔様は紫様の願いを二度も聞き入れるお方じゃない」

 

「これで分かったでしょ? もう二度と同じ方法は使えない。彼女は、同じ情けをかけたりはしない」

 

「では、本当にどうしようもないのか? 本当に和友が助かる術はないのか?」

 

「ないよ、僕の命が助かる方法はない」

 

 

 少年の口から自分のことなのにまるで他人事のようにはっきりと助かる方法がないと断言する言葉が出る。

 実際少年が助からないという現実は、事実だろう。助かる方法が何もないのだ、必然的に時間の経過と共に弱っていき、息絶えることになる。半年前と同じように苦しんで死ぬことになる。笑顔を見せる余裕もなく、消えていくことになる。

 

 

「半年前と同じようになるというのか?」

 

「そう、半年前と同じ状態になる。また同じことを繰り返す。同じように抗って、頑張って、引きずりながら進んで、そして―――死ぬんだろうね」

 

 

 半年前と同じことが起こる。

 また同じように必死に筆を引き、境界線を引き、抗うのだろう。

 苦しんで、辛くて、それでも頑張る。

 抗って、粘って、そして―――息絶えるのだろう。

 応援することしかできない自分が嫌いで、殺したくなるのだろう。

 

 

「……そんなもの見たくない」

 

 

 ―――そんなもの見たくもなかった。

 最も見たくないものだった。

 あの時の想いを再びすることになるのか。

 藍は、本当に人生を諦めてしまうのか問いかけた。

 

 

「和友は、諦めるのか?」

 

「諦めるというか、どうしようもないって感じかな。僕は、あの状態になってずっと耐えていけるだけの自信がない。みんなとの思い出を守りながら戦える自信がない」

 

 

 半年前の闘病生活の経験が警告している。何度やっても、何をやっても、同じ結果になると経験が物語っている。

 もう、自分にできることなんて何もないのだ。常に追いかけてくるものに対して抗うことは、ただの悪あがきでしかない。

 抗った結果、状況が好転することは決してない。追いかけてくる相手は速度を落としてくれない、止まってくれない。

 少年ができることは必死に両手に荷物を抱えて走ることだけ。そして最後には追いつかれて死んでしまう。そこまでは半年前にすでに見たヴィジョンである。

 あの時―――少年は死ぬはずだった。

 この流れに沿って死ぬはずだった。

 それを閻魔様―――四季映姫に助けられたのだ。

 そして、そんなことはもう二度と起こらない。

 奇跡でも起こらない限り、助からない。

 奇跡とは―――起こらないことを指す別称である。

 覚悟はすでにできている。

 半年前のあの時に覚悟している。

 少年は、決死の覚悟をもって藍に言葉を投げかけた。

 

 

「だから、藍には約束をしてほしいんだ。これは僕を見つけられた藍にしか頼めないこと……藍にしかできないことだ」

 

「私にできることならば、なんでもする。なんでも言ってくれ」

 

「藍には、僕の介錯をしてほしい」

 

 

 藍は、少年の言葉にまたしても絶句した。

 介錯―――それは、切腹の際の痛みを和らげるための首切りである。




この話では、家が火事になったあたりの伏線がようやく回収できましたね。他にも、約束のことや病気から復帰した理由も書くことができて満足しております。ここから、いろいろあって紅魔館編が終わるのは、後数話というところですね。


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変わったもの、変わらなかったもの

少年は、自分を見つけた藍に自らが抱えている願いを告げた。
最後に、殺してほしいという願いを口にした。
藍は、そんなことを考えたくもなかった。


 介錯をして欲しい。

 その言葉は、切腹の際に痛みを感じることなく逝かせる首切りを要求する言葉。

 私が―――和友の首を落とすのか。

 あれほど和友を苦しめたことを後悔しているというのに。

 苦しめてしまった要因を作り出した自分を責めているというのに。

 殺す役目まで私に託そうというのか。

 

 和友を殺す。そんなこと考えたこともなかった。

 和友を死なせてしまう原因を作ってしまった私だが。

 殺してしまうような要因を作り出した私だが。

 自分から殺そうと思ったことはなかった。

 殺そうと思うことさえも、思いたくなかった。

 

 

「いやだ……」

 

 

 藍は、そっと首を振って少年のお願いを拒絶する。

 

 

「……そんなこと、私にはできない」

 

「ふふっ、そう言うと思ったよ」

 

 

 思っていた通りの藍の回答に少年が苦笑した。

 今すぐに殺せるとは思っていない。これから気持ちを作っていくのだ。これから死ぬことになっている2年後に向けて、大きな花火を打ち上げ、最後を終わらせる役目を担えるようになればいい。

 それに、もしも殺す心づもりを最初から作れるようなら、少年は今こんなことをしていないだろう。今を生きていない。半年前に死んでいるはずである。

 あの時に――殺してくれたはずである。

 

 

「でも、藍なら変わることができる。変えられる力を持っている藍なら変えられる」

 

 

 ―――変わることができる。

 どんな生き物であっても。

 人間であっても。

 妖怪であっても。

 吸血鬼であったとしても。

 変わることができるのだ。

 変わりたいという想いと、前に進む気持ちが何かを変えてくれる。

 

 

「だって、僕が変われたんだから。僕が望む未来は、こうして姿を変えたんだから」

 

 

 少年は、変わる覚悟をした。

 変える覚悟を持った。

 未来の形を想像して、それが最も自分が欲するものだと分かったから。そこに繋がるための欠片を見つけたから。可能性を見出したから。最も望むべき未来を捕まえに走ることを決めたのだ。

 だが―――それは一人では辿り着けない未来だ。

 

 

「僕の夢は、僕一人では叶えられない。約束の場所に立つことのできる協力者が必要だ」

 

 

 少年の求める最終地点は、一人では辿り着けない場所にある。誰かがいなければ登れない壁がある。

 一緒に走ってくれる人が必要だ。一緒に歩幅を合わせてくれる、同じゴールを見ることができる人物が必要だ。

 少年が思い描く理想の最終地点にたどり着くためには、少年と共に走ることができる資格を持っている―――藍の存在が必要だった。

 

 

「きっと、藍なら僕と一緒に走ってくれる。目的を同じくして、同じ未来を望んでくれる」

 

 

 理想の達成のためには、藍にも一緒に走ってもらわなければならない。

 同じ方向へ。

 同じ未来へ。

 同じ理想へ。

 共に走ってもらわなければならない。

 いうなれば―――二人三脚。

 どちらかが足を引っ張ってはいけない。

 目標となるゴールは一緒だ。

 歩幅を合わせて、同じ目的地に向けて走らなければならない。

 

 

「僕はそう信じてるよ」

 

 

 きっと藍ならば一緒に走ってくれる。これは、自分を見つけることができた藍にしかできないことだ。

 藍は、弱いように見えて心の芯がかなり強い。苦しみに対しての耐性がある。耐性がなかったらとっくに終わっているはずだ。苦しみに負けて、心が終わっているはずである。

 藍なら耐えきって見せる。

 苦境を乗り越える強さは、今から手に入れていけばいい。

 涙を堪えて。

 寂しさを抱えて。

 悲しみを越えて。

 虚しさを受け取って。

 どこまでだって進んでいける。

 そんな強さを手に入れればいい。

 藍は、それができるだけの資格を得た。

 後はそれを行使するだけなのだ。

 

 

「今は決断できなくてもいい。だけど、きっと最後には僕を殺してくれると信じている。藍は、自分が思っているよりも随分と強いから」

 

「私はやらないぞ。和友を殺すなんて絶対にしない」

 

 

 藍は、勢いよく首を振って少年の要求を断固拒否する姿勢を崩さなかった。

 できないと思っているからだろう。自分では絶対にできないと思っているからだろう。藍にとって少年は心の拠り所で、太陽のような存在だ。無くなってしまえば、生きていけなくなるような―――そんな‘何か’である。

 藍は、少年を殺したくなかった。

 だが、そんな藍の想いとは無関係に少年には何の不安や焦燥感もないようだった。

 必ず―――殺してくれる。

 約束の場所で―――全てを終わらせてくれる。

 確信を持ったように自信に満ち溢れていた。

 

 

「藍は知っているでしょ? 僕が苦しんでした時期のことを。僕は、きっと力尽きる。能力の拡大に耐えきれずに死んでしまう」

 

 

 藍が介錯を務めずとも、このまま待っていても死んでしまう。それは、人間が時間の経過によって老化をして死んでしまうことと何も変わらない。逃れられない不変の自然の摂理である。

 追って来るだけの能力と逃げていくだけの少年とで永久に走り続ける耐久レースが行われる。

 少年の抱えている荷物はかなり多い。

 両手、両足、背中、頭、全てに荷物を背負っている。

 少年は、走っている最中に荷物をどんどん捨てていく。

 能力の浸食から逃れるために。

 圧倒的早さを持っている能力の勢いに負けないように。

 大切なものを一つ一つ捨てていく。

 捨てられたものは、能力に飲み込まれて消えてなくなる。

 最初からそんなもの無かったかのように消えてなくなる。

 積み重ねてきた思い出も。

 喜びも、怒りも、哀しみも、楽しみも。

 全てが無くなってしまう。

 そして、無くなったことさえも忘れてしまう。

 そんなことになったら、今まで生きていたことまで無くなったも同然だ。

 それだけは許されない、許容できない。

 だから―――藍に頼んでいるのである。

 最後の最後、何も残らなくなる前に希望を叶えて欲しいと懇願しているのである。

 

 

「僕は、みんなのことを忘れたくないんだ。何もかも分からなくなって死ぬなんて嫌なんだ」

 

「それでも、私には……できない」

 

「本当に藍は優しいなぁ……」

 

 

 少年がいくら説得しても藍の首は縦には振られなかった。

 少年を殺すことはそれほど藍にとってハードルの高いことなのである。自分の心を壊すような行為に対して心が激しく嫌がっている。不安定になることを拒否している。

 寄りかかっている少年が消えてしまえば、藍の心は解放されるだろう。寄りかかっていたものが無くなって自由に宇宙空間を漂うことだろう。

 だが、そうなったときの落差が問題なのだ。今の楽な体勢から急に動かなくてはならなくなる状況への環境の変化が大きすぎるのである。砂漠から雪原へ、ジャングルへ、高原へ、海へ。いうなればそういう変化だ。体がついていかないのである。

 

 

(それでも、藍には自ら離れてもらわなきゃいけない)

 

 

 何とかしなければ。寄りかかることに対して―――拒否を示すような何かを。寄りかかることが不自然なのだと。離れる覚悟をしなければならないのだと、自分から離れるための理由を与えてあげなければならない。

 何か―――何かないか。

 そう考えたとき、ある考えが頭の中に浮かんだ。

 

 

(そうだ、話してしまえばいいんだ)

 

 

 伝えればいいのだ、真実を。

 藍が少年に依存することになってしまった能力の弊害について、伝えればいいのである。

 鈴仙がそうなったように。

 嫌われるような。

 気持ち悪がられるような。

 そんな理由を与えてあげればいい。

 

 

(能力の弊害について話してしまえば、今の関係ではいられなくなる。これまでの関係に戻ることができなくなる)

 

 

 話してしまえば、戻れなくなる。

 あの頃の関係には、マヨヒガで生活してきた頃の関係には戻れなくなる。

 朝におはようと挨拶を交わす関係に戻れなくなる。

 お昼ご飯を一緒に食べる関係に戻れなくなる。

 夜に空を見上げて星を見る関係に戻れなくなる。

 ―――そういう優しい過去に戻れなくなる。

 

 

(……怖がることは何もない。フランだって恐怖を打ち払って前に進んだんだ。僕も、同じように前に進むだけ)

 

 

 戻れなくなる―――だから何だと言うのだろうか。

 前に進むと決めて前しか見ていない今の状況で後ろに戻ることを考える余地など何もないというのに。

 重くなる気持ちを無理やり抱える。少し重くなった足取りで、少年は何の躊躇もなく藍に向けて能力の弊害について口にした。

 

 

「それが僕の心の大きさによって惹かれているからかもしれないのに」

 

「どういうことだ?」

 

 

 少年は、間髪入れずに藍の質問に対する回答を提示する。迷う様子を一切見せずに、全く躊躇するそぶりもなく、これまでの関係を打ち壊す言葉を告げた。

 

 

「僕の心は、その大きさゆえに他人の心を惹きつける。精神世界で万有引力の法則が成り立っているんだよ。藍のその気持ちだって、そこから来ているものなんだ」

 

 

 少年は、ついに能力の弊害について藍に告げた。最も能力の弊害の影響を受けているだろう相手―――藍に向けてその言葉を口にした。

 藍の抱えてきたものは、実のところ少年が与えていたものだったのだと。能力のせいで、心が引き寄せられていたのだと伝えた。

 

 

「…………」

 

 

 藍は、事情を呑み込めていない様子だった。不思議そうな顔を浮かべているだけで、何も言葉を発しない。

 心の中に万有引力の法則が働いているなど、言われてもピンと来なかったのもあるだろう。信じたくない想いが邪魔したのもあるだろう。

 しかし、説明されて理解できないほど頭が悪いわけでもなかった。

 脳内で行われた会議は、一直線に答えを導き出す。

 

 少年の境界を曖昧にする程度の能力の効果。

 大きく拡大している少年の心。

 質量を持っている精神世界。

 何よりもこれまで惹きつけられていた想いが状況を飲み込ませる。

 自分の心は、確かに少年に引きずられているという事実を突きつけてくる。

 

 

「藍がそんな気持ちになったのも、みんな能力の弊害のせいなんだ」

 

「…………そうか」

 

 

 私の心は、境界を曖昧にする程度の能力の弊害によって作られたのだと少年は言った。

 この気持ちは、和友の都合のいいように操られていたのだろうか。

 こんなにも思い通りにならない気持ちは、作られたものだったのだろうか。

 和友の姿を無意識に追ってしまうのも。

 和友が喜んでくれると、自分のことのように嬉しくなるのも。

 和友が笑顔を向けてくれると、心が沸き立つのも。

 和友と一緒にいると、安心して落ち着くのも。

 和友が誰か別の女性といることに不安を抱えるのも。

 和友が消えてしまうことにこれほど怯えるのも。

 和友のことを―――好きになったことも。

 みんな、嘘だったのだろうか。

 みんな偽りの姿で、本当の姿は別のもので。

 本来は、こんな形にならなかったとでもいうのだろうか。

 

 

「だから、偽物なのかもしれない。能力がもしもなかったとしたらこんな思いをしていないのかもしれない」

 

「…………そうだったのか」

 

 

 ―――違う、嘘だ。

 違うと、嘘だと頭の中で叫んでいる声が聞こえる。感情が少年の言葉を嘘にしようとしている。心の声が少年の告白を偽物にしようとしている。

 あれは嘘だ。

 あれは冗談だ。

 聞き間違い、気のせいなのだ。

 心は、勢いよく少年の言葉を否定しに走る。

 だが―――理性は少年の言葉を事実だと認定する。理論が通っている。そうでなくてはおかしいのだと。つじつまを合わせようとする。

 

 

「―――みんな嘘だったのか?」

 

 

 和友の言っていることは、嘘だ。

 

 

「―――本当にそうなのか?」

 

 

 本当にそうだろうか。

 酷く辛そうな顔で、今にも泣きそうな顔で―――そんな顔で伝えている和友は、目の前の和友は、嘘で塗り固められた仮面を張り付けているのだろうか。

 

 ――――そうじゃないだろう?

 

 和友は、決して人を故意に傷つけることはしない。

 和友は、そんなことをする人間じゃない。

 自分の知っている和友は、そんなことをするような人間だっただろうか。

 私の好きになった和友は、そんなことを何も感じずにできる人間だっただろうか。

 

 ――――違うはずだ。

 

 だったら、今抱えている気持ちが嘘なのだろうか。

 

 ――――そうじゃない、そうじゃないだろう?

 

 

「みんな―――本物だろう?」

 

 

 この気持ちに嘘はない。私の心は嘘をつけるほど、使い勝手のいい心ではない。そのことはこれまで生活してきてよく知っている。

 良くも悪くも真っ直ぐだったから、苦しむ羽目になった。

 真っ直ぐ和友に伸びて、曲げることができなかったから辛かった。

 苦しんだのも。

 辛かったのも。

 

 皆―――本当の私の心。

 

 だったら、どこにも嘘なんてない。

 どこにも、偽物なんてない。

 みんな本物で、本当の自分自身の心だ。

 

 

「和友の能力の弊害によって心を惹きつけられたから。確かに、そう思うと自分の気持ちが嘘みたいに思えて気持ちが悪い。今も少しだけ、気分が悪い。だが―――それがなんだというのだ?」

 

 

 和友の能力が生んだ弊害のせいで心を惹きつけられたから。

 だから、和友を好きになったのか。

 それが和友を好きになった理由か?

 それが―――和友を好きになった理由だろうか。

 

 

「そんなものが理由だとしたらどれほど良かったことだろうか。どれほど、救われるだろうか」

 

 

 好きになった理由がそんなものだったら―――どれほどよかっただろうか。

 好きになった理由がそんな単純なものだったら―――どれほど救われただろうか。

 そんな軽いものだったら、どれだけ簡単に捨てることができただろうか。

 

 この気持ちは―――ひと言の言葉で表せるようなそんな簡単な感情じゃない。

 そんな簡単に表せるような何かだったら思った時に捨てただろう。感じたときに未練もなく捨てたはずだ。

 要らないという理由から。余計なものだという理由から。こんなことはおかしいという理由から。許されることではないという理由から。実ることは無いという理由から。そんな簡単な理由で捨てられたはずなのである。

 

 

「私にだって、まだよく分かっていないのだぞ? 私には、この気持ちがたった一言で表せるようなそんな単純なものだとは到底思えない」

 

 

 捨てられなかったのは、それがよく分からないものだったから。

 とても重いもので。

 とても理解できないものだったから。

 この想いをどう表現すればいいだろうか。どうすれば分かってもらえるような言葉に置き換えることができるだろうか。想った瞬間からずっと考えてきたが、未だに答えは出ようとしない。

 傍から見た感情は酷く分かりやすい。未来に何が起こるのか予測して理解することと同じぐらい簡単だ。なぜならば、自分が見た光景というのは自分が思いたいように解釈できるからだ。自分がそう思ったのならそうなる、決めつけることができる。

 しかし、自分がそれを抱えると途端に理解できなくなる。当事者になれば、状況を把握する際に見たいものを見ることができなくなる。それはまるで、未来を予測するよりも今何が起きているのかを理解するのが難しいのと同じだ。

 

 

「私は、確信を持って言えるぞ。私のこの感情は和友に能力がなくても抱えたものだ。だってそうだろう? 和友がくれた―――背負っている感情を捨てる理由を得た今にしても、心に残るものが多すぎる」

 

 

 少年が与えた捨てる理由で捨てられた感情は幾ばくか。

 ほとんど何も変わっていない。

 今、和友を目の前にしていればよく分かる。捨てられた荷物など―――あったのだろうかというほどに何もない。重いものがまだ心の中に残っている。相変わらず、心を苦しめている。

 

 

「だって、何もかも変わっていない。和友に対して抱えている荷物は、何一つ下ろすことができていないのだ」

 

 

 背中には同じ重みがある。

 同じ想いがある。

 他の誰でもない自分の気持ちが。

 誰かに与えることのできない自分の気持ちが。

 誰かに預けることもできない自分の気持ちが。

 自分だけが持っていたい自分の気持ちが。

 能力の弊害がそれらを捨てる理由にはならない。

 能力の弊害がそれらを抱える理由にはならない。

 確信を持って言える―――私の気持ちは、和友の能力から与えられたものではない。

 

 それに、この想いがどこから来たのかなどどうでもいいことなのである。

 一生懸命働いて得たお金が目の前にあるのと、強盗をして奪ってきたお金が目の前にあるのとで、目の前にあるものにどれほどの違いがあるだろうか。汚い金、綺麗な金、表現はいろいろある。

 だが、お金であるということは変わらない。何も偽札を偽造したわけではないのだ。偽物ではなく、本物のお金である。

 それと今ある気持ちも同じだ。

 どこから来たのか。

 どこから産まれたのか。

 誰から与えられたのか。

 誰から奪ったのか。

 そこにどれだけのことがあろうとも、‘今目の前にある気持ち’は、本物であるはずなのだ。

 

 

「私のこの気持ちがどこから来たのかなんて関係ない。どこから生まれたのかなんて関係ない。今胸の中にある気持ちは、確かに私の気持ちだ」

 

 

 これまでの生活は、嘘だったわけじゃない。

 これまでの暮らしは、偽物だったわけじゃない。

 ずっと、ずっと、一緒にいた。

 この2年間、いつだって一緒に生きてきた。

 与えられた感情は、確かに心の中に息づいている。

 この感情が与えられたものであったとしても。

 この感情が操作されていたものであったとしても。

 確かに、見えている全ての色を変えたのだ。

 今までの生活や景色が変わった。

 色のない単調な光景が虹色に輝きだした。

 何もかもが違う生活になった。

 その変わった生活が何よりも私が持っていなかったもので。

 ―――何よりも欲しかったものだった。

 

 

「一緒にいれば落ち着いて、離れれば心配になる。何かをすれば楽しくなり、傷つけば悲しくなる。今までの生活が嘘みたいだった。まるで夢のような時間だった」

 

 

 思い返すだけで、笑顔になる。

 思い返すだけで、嬉しくなる。

 かつて、そんな記憶を持ったことはあっただろうか。

 思い出せるのは、何時だって悪い時の思い出ばかりで、楽しかった思い出は薄れて消えていくというのに。和友と培った楽しかった時の記憶は、鮮明に刻まれている。

 今生きている世界は夢の中の世界なのだと言われてしまえば、信じてしまうことができるほどに現実離れしているように思う。

 今までの私だったら、和友に会う前の私だったらきっと信じた事だろう。そんなものは幻想で、夢なのだと。早く夢から目を覚ますのだと。

 だが、今の自分は違う。夢は夢ではなくなったのだ。毎日、重たい物を持って地に足を付けて歩いている。あの重い想いが体を地面に立たせているのだ。ふわふわ浮いているような夢の中とは違う。

 

 

「些細なことに一喜一憂する毎日が待ち遠しく感じたのは、間違いなく和友のおかげだ」

 

「藍……」

 

 

 少年は戸惑っていた。能力の弊害による影響を受けて気持ちが作られていると告げたのにも関わらず、何も落ち込む要素を見せず、全く傷つく雰囲気もなく、気持ちを吐き出せている藍の姿を見て。

 

 鈴仙とは―――違う。

 能力の弊害によるものだと告げられて部屋から出て行ってしまった鈴仙とは違う。

 

 藍の持ち合わせている理性は、能力の弊害を受けていることを認めている。

 そして、少年が最も危惧していた―――あってもなくても変わらないという解答を出さなかった。能力を少年の一部として取り込むようなことをしなかった。

 あくまでも、少年と能力を区別してくれている。能力の弊害によって好きにならされたのだと思っていない。あくまでも少年が好きだから好きになったのだと。そういう姿勢を崩さなかった。

 

 

「ふふっ、こうして気持ちを真っ直ぐに伝えたのはこれが初めてだな。なかなかに恥ずかしいものだ」

 

 

 自分でも分かる―――今人生で一番自然な笑みを浮かべられている。

 こうもはっきりと気持ちを伝える日がこんなにも早く訪れるとは。今までは一度だって口にできなかった言葉を、素直な気持ちを伝えることができるとは。

 未来永劫言えないのではないかと思った言葉がすらすらと出てくる。詰まることなく、溜め込んでいた想いが口から出てくる。

 恥ずかしさで顔が赤くなる。

 顔に熱が帯びてくるのが感じられる。

 それでも、心は喜んでいる。

 それ以上の歓喜を感じている。

 

 

「この恥ずかしいという感情も和友がくれたものなのだろう。和友は、沢山のものを私にくれたよ。どれもが大切で、大事で、失いたくないものだ」

 

 

 私は、和友と出会って初めて知ったのだ。

 明日を待ち望むことは、これほどに楽しいことだったのだろうかと。

 

 明日も―――良いことがあるといいね。

 

 その言葉がどれほど未来を待ち望ませたのか。

 そして、毎日を幸せにしてくれたのか。

 それは今でも変わっていない。

 新しい明日が来るのを待ち望んでいる気持ちは、苦しみが増えた今だって心に宿っている。

 これから、これからだ。

 まだまだ続くのだ。

 今日がある限り、明日はきっとくる。

 今日生きている限り、明日はきっとくる。

 明日は、いつだって今日を引っ張って行ってくれるのだから。

 

 

「私は、これからも思い出を増やしていきたい。希望を持って明日を迎えたい。和友と一緒に明日を思い出にしていきたいのだ」

 

 

 感情が表に出る度に、心が叫び出す。

 次々と抱えている想いを外に出そうとする。

 心の奥底にある根源ともいえる想いが主張し始める。

 そうなると―――もう我慢などできなかった。

 言うなら今しかないだろう。

 言えるのは、‘今’しかない。

 この気持ちを伝えられるのは今しかない。

 この想いを、抱えている気持ちを、真っ直ぐに伝えられるのは今しかない。

 

 

「和友、恥ずかしいから一度しか言わないぞ」

 

 

 嫌がっている自分は、もうどこにもいない。

 怖がっている自分は、もうどこにもいない。

 あるのは、素直になった自分だけ。本当の気持ちに向き合って自分の感情に真っ直ぐ手を差し伸べられた自分だけ。素直な気持ちを見つけることができた自分だけ。

 断られることを怖がるのは未来が暗くなるのを考えるから。受け取ってもらえなかった気持ちの矛先をどこに向けていいのか分からなくなるから。

 だけど、もう怖がる必要はない。この気持ちは永久に抱えていける。そして、ゆっくりと少しずつ降ろしていける。

 覚悟は―――決まった。

 

 

「私は、和友のことが好きだ。一生隣にいて欲しいと思っている」

 

 

 ―――言ってしまった。

 取り返しがつかなくなってしまった。

 口から一度出てしまった言葉はもう戻すことはできない。

 だけど、何の後悔も不安もなかった。

 少年の瞳が涙で潤む。声は震えていた。

 

 

「僕の一生は後2年もないよ? もうすぐ、死んじゃうんだよ?」

 

 

 少年の寿命が後2年だとしても。

 一生という言葉がもうすぐそこに来ていたとしても。

 それが逃れられない運命だとしても。

 きっとそれすら―――抱えていけるから。

 だから―――これからも背負わせてくれないか。

 だから―――和友のこれからを背負わせてくれないか。

 藍が伝えるべき言葉は決まっていた。

 

 

「それでもだ。それまでには失う覚悟をしよう。だから、それまでは和友を失わずに済む方法を探させてくれないか。私に、これからの和友を背負わせてくれないか。かつて私が和友を背負った時のように、あの重みを抱えさせてくれないか」

 

「…………」

 

 

 無言のまま少年の頬を涙が伝った。頬をそっと一筋の線が伝っていく。

 藍は、泣きだしてしまった少年を見て優しい笑顔を浮かべた。

 

 

「なんだ、急に泣き虫になったな。もう泣き顔を見せていい歳じゃないだろう?」

 

「僕を泣かせたのは、藍でしょ!」

 

「そんなに私からの言葉が嬉しかったのか?」

 

「嬉しかったさ。泣いちゃうぐらいにはね」

 

「ははっ、そうかそうか。そんなに嬉しかったのか。私は伝えられて良かったよ。私の素直な気持ちを伝えられて良かった」

 

 

 少年は、気持ちを落ち着けるように、大きな風を心の中に取り入れる。

 藍は、もう昔の藍ではなくなった。

 確かに変わった。変わった理由は分からないが、何かしら思うところがあったのだろう。何かがきっかけで何かを変えたのだろう。

 

 

「清々しい気分だ。これまで重さを感じていたのが嘘のようだよ。確かに抱えてはいるのだが、随分と整理されたように感じる」

 

 

 心の中の本当の気持ちを見つけて。素直な気持ちを見つけて。少年の存在を見つめて。藍の表情が少年に見せつけるようにすっきりとした顔になっている。優しい笑顔を浮かべている。

 藍が変わって見せたのだ。目の前ではっきりと、逃げずに前に進むことで変わって見せたのだ。フランと同じように足を前に出して、変化を恐れずに未来を変えて見せたのだ。

 だったら――今度は自分の番である。

 

 

「藍が僕に気持ちを伝えてくれたんだ。だったら、僕からも気持ちを伝えないとね」

 

 

 藍が伝えたのならば、自分も気持ちを伝えないと不公平だろう。

 不安を抱えて、恐怖を感じて、それを乗り越えて伝えてくれた藍に申し訳がない。

 ここで引き下がってしまったらこれまでと何も変わらない。

 変わると決めたのだ。

 目的のために、理想のために、変わると決めたのだ。

 藍と同じように変わって見せるのだ。

 足を踏み出して大声で叫べ。

 今抱えている想いをしっかりと伝えるために。

 少年は、藍の気持ちに同調するように自らが抱えていた想いを告げた。

 

 

「僕も藍のこと、好きだよ」

 

「……本当か!? 本当に本当か!?」

 

 

 藍は少年の言葉に一瞬唖然とするも、頬を綻ばせて真偽を問うた。

 これまで思い描いていた未来が目の前まで来ている。後は尻尾を掴むだけというところまで来ている。そういう期待感が藍の表情に表れていた。

 

 

「嘘なんてつかないよ。僕は、この気持ちを偽ったりしない」

 

 

 もう、自分の気持ちをごまかしたり、偽ったりなんかしない。

 それが例え区別できていないものであっても。

 不安がらずに伝えるのだ。

 分からないものを分からないまま伝えるのだ。

 それが受け入れられない想いでも、素直に気持ちを伝えればいい。

 心の望むままに真っ直ぐ目的地に向けて進めばいい。

 少年は、笑顔で藍へと答えを告げた。

 

 

「人に対する好きってまだいまいち区別がついていないけど、藍が特別なのは間違いないよ」

 

「……良かった、私の気持ちは一方通行ではなかったのだな。これほど嬉しいことがあるだろうか。ああっ、もう何もいらない。私は今の気持ちだけで胸がいっぱいだ」

 

 

 そっと胸に手を当てる。心臓の鼓動が少しだけ早くなっている。心は満たされた気持ちを感じている。これでもかというほどに噛みしめている。

 そんな藍を見て少年の表情が少し曇った。

 少年の好きという言葉は、境界線の引かれていない言葉である。好きという感情がどこからが好きなのか区別できていないのだ。

 カレーライスが好き。どうして? 何が理由で? それが好きだと認めた理由はなんなの? そこらへんが少年にとっては曖昧なのである。

 好きになった理由というのは人それぞれバラバラで、境界線の引かれていないもの。

 貴方は、どうしてそれが好きなのですか。少年はその質問に対してはっきりと答える何かを持っていない。

 こと―――藍のことになればなおさらだ。

 一緒に生活してきたから? 一緒に遊んだから? 一緒に時間を共にしたから? よく知っているから? よく助けてくれたから? だから好きなのだろうか。きっと違うだろう。そんな明確な基準があって選べる言葉じゃない。

 その境界線は、いつだって曖昧なはずだ。

 きっかけなんてなかったかもしれない。いつの間にかそう思っていた。そう思ったらすごく嬉しくなった。だから好きだと思った程度の、何か曖昧なもの。少年もよく分かっていない曖昧なもの。

 そこに藍の尺度を重ねてしまうと別のものになってしまう。勘違いをしてまた嘘をついてしまうかもしれない。自分の本当の気持ちが偽物になってしまうかもしれない。

 それだけは嫌だった。

 そうなって気持ちまで曖昧になってしまうのだけは嫌だった。

 

 

「喜んでくれるのは嬉しいんだけど、僕の好きっていうのは……」

 

「言うな、分かっている。和友の言う好きと私の言う好きが違うのかもしれないのだろう? 別にそれでいい。今はそれで十分だ。それ以上はこれから望むべき場所にある」

 

 

 少年の不安が最初から分かっていたというように取り消される。

 藍は理解していた―――少年と自分の言葉に齟齬がある可能性が秘められていることを。そして、それを分ったうえで望む場所を見上げている。その言葉は、本当に変わったのだということを感じさせる言葉だった。

 少年は、自分の理解者の一人となった藍に笑顔を向けると、そっと考えるそぶりを見せた。

 

 

「そっか……じゃあ、どうしようか……」

 

「どうするというのは?」

 

 

 すぐさま悩む少年へと問いが投げかけられる。

 少年は複雑な表情で藍の瞳を見つめ、口を開いた。

 

 

「これから選ぶべき道は、どっちでもいいんじゃないかと思ってさ……結果は、どっち側にいても変わらないから。僕が最後に藍に殺される終わり方を望んでいるのは、どちらにしても変わらないと思うんだ」

 

「だから、私はそんなこと絶対にしないぞ!」

 

 

 声を張り上げ、少年の願いを拒否する。そこは譲れない部分のようである。そこは変われないようである。

 しかし、いつかは変わってくれるだろう。変わらないものなどないのだから。決意が、覚悟が人を変えてくれる。

 

 

「あくまでも僕の望みだよ。そうしてくれないと僕が苦しいだけってだけ」

 

「…………必ず助けるから」

 

「期待はしないでおくよ」

 

 

 少しの沈黙の後に少年を助けるという言葉が藍の口から出た。

 その沈黙が言わずとも物語っている。どうしようもなかった過去を踏まえて、未来に何ができるのかを考えたときに―――何もできることがないのだということを。

 抗うことは、美しいことだろうか。

 逆らうことは、正しいことだろうか。

 そこの問いに気付けたときには、きっと理解してくれるだろう。

 少年を殺す道が最も正しく、最も皆が救われる決断だということを。

 これ以上を求めず、これ以外を求めない。

 そんな未来のあるべき形を知ることになるだろう。

 少年は期待を胸の内に収めて、話を元に戻しにかかった。

 

 

「話がそれちゃったね。僕が悩んでいるのは、藍の記憶を曖昧にすることに関してだよ。僕は、藍の記憶を曖昧にしても曖昧にしなくてもどっちでも変わらないと思うんだ」

 

「どうしてだ? 記憶を曖昧にしたら和友のことを思い出せなくなって、介錯などできないぞ?」

 

 

 藍は、あくまでも少年の記憶を曖昧にする案に反対の立場である。

 反対する理由は単純に忘れたくない大切なものだからという感情論からきているものだが、それを伝えても少年は記憶を曖昧にすることを承諾しないだろう。あくまでも、理性的な理屈的な理由が必要になる。だから、介錯を行ってほしいという少年の要望に応えるためには、少年の記憶を曖昧にされていては達成することができないということを盾に説得しようとしていた。

 だが、少年の意見は変わらなかった。ここで藍の記憶を曖昧にしてもしなくてもおそらく同じ結果になることを予期していた。

 

 

「藍は、僕を見つけることができたんだよ? 僕との記憶を見つけられないわけがないじゃないか」

 

「そこは私に期待しているのだな」

 

「いや、確信しているんだよ。藍なら必ず僕との記憶を取り戻すって」

 

 

 見つけられないわけがないのだ。少年を見つけた実績がそう思わせる。少年の本心を心の中から見つけ出すことができて、曖昧になった少年との記憶を探し出せないわけがない。

 少年は確信を持っていたからこそ、藍に選択を迫ろうとしていた。やってもやらなくてもどっちでもいいのなら、やって欲しいかやって欲しくないかで決めればいい。どちらが大切かで二者択一すればいい―――藍に選択を委ねればいい。

 

 

「だから、記憶を曖昧にするかしないかの判断は藍に任せるよ」

 

「私が決めるのか? 答えなど決まっているぞ?」

 

「よく考えてね。今からしようとしている選択肢の先を」

 

 

 藍は、何も考えずに少年についての記憶を曖昧にする選択肢を破壊しようとする。

 これからの選択にはきちんとしたメリットデメリットがあって、どちらかを選ぶことで、何かを捨てなければならなくなるのである。

 

 

「記憶を曖昧にした場合、僕はマヨヒガを出て行く。藍と一緒にはいられない。記憶を曖昧にした意味がないからね。これは僕に対する矯正なんだ。近づいた距離を一気に離す、起爆剤」

 

「だから、私の気持ちは決まっていると言っているだろう? 私は、和友と離れるなんて嫌だぞ」

 

 

 少年についての記憶を曖昧にするメリットは、今までの生活を一気に変えることができるところにある。依存なんてなかったかのような昔の藍に戻れる。少年のことであれこれ悩むこともなくなれば、悲しむこともなくなる。心が自然な形を取り戻すことができる。

 しかし、それはあくまでも何も知らない人間から見ればメリットになるような内容である。感情や想いを全部無視して考えれば、それがいいと分かるような話である。

 今の藍にとっては、それはデメリットとも呼べる何かに変わってしまっており、選ぶメリットが何もなかった。

 

 

「そして、記憶を維持する方を選んだ場合、僕はマヨヒガで残りの2年を過ごすことになるだろう。いつも通りの日常が後2年間続く」

 

 

 少年の記憶を曖昧にしないという選択肢を選んだ場合、少年と一緒にこれからの2年間を過ごすことができるだろう。

 2年後は、少年の言うように藍が少年を殺すことになるとは思われるが、少なくとも2年後までは今までの生活の延長線上が続いているように思える。

 しかし―――この選択肢を選ぶためには、一つの壁を乗り越えなければならない。少年についての記憶を曖昧にすることは、少年だけが決めたことではないのだから。

 

 

「だけど、この選択肢を選ぶためには紫の許可がいるんだ。記憶を曖昧にする案は紫と一緒に考えたんだから。紫は、藍の心を守るために記憶を曖昧にするという選択肢を選んだんだから」

 

 

 藍は、どっちを選ぶのだろうか。

 少年と共にいる道を選び―――紫と闘うのか。

 少年の記憶を消す道を選び―――これまでを失うのか。

 

 

「藍は、紫の命令と僕との記憶のどっちを取るの?」

 

「私は…………」

 

 

 しばらくの沈黙の後に選ばれた答えは、藍の心をほんの少し削ぎ落とした。

 




変わったフランと藍を見て、少年は変わる覚悟を持ちました。
それが悪い方向に進むのか。
それが良い方向に進むのか。
どちらになるかは変わりませんが、変わることには違いありません。


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守りたい想い、家族としての形

藍は、少年に選択を迫られた。
少年との記憶を保つために主である紫に刃を向けるか。
それとも、紫の言うことを聞いて記憶を曖昧にするか。


 少年は、きっと藍が迫られている選択のどちらを選んだとしても同じことをしただろう。紫の命令に従い少年に関する記憶を曖昧にする。あるいは、紫の命令を拒否して少年に関する記憶を曖昧にするのを阻止する。どちらを選んだとしても少年が採った選択は同じだっただろう。

 

 藍は、選択した。

 

 二者択一の問いに対して一つの答えを選択した。

 覚悟を持って選択した。

 だったら選んだ藍に僕ができることは何だろう。

 その二つの可能性を提示した僕ができることは何だろう。

 そう考えたとき―――出てきた答えは一つだけだった。

 

 

「藍、選択した未来を勝ち取るために全てを背負って戦うんだ。後悔も不安も悲しみも喜びも嬉しさも、全ての感情を背負って前に進んで。その力が藍の力になるはずだから」

 

「ああ、分かっている。何一つ落とさない。何一つ投げ出さない。私は、全部を抱えて未来へ進むと決めたのだ」

 

「藍の背中は僕が押してあげる。どんな選択をしても、どんな結論を出しても、どんな結果が出たとしても僕が応援してあげるから。心配しないで、その背中にはいつだって僕が乗っているからね」

 

 

 少年の両手が藍の背中を押す。少年との記憶を守るために戦うことを決断した藍を後押しする。抱えた重い荷物を背負って前を向いた藍を応援する。

 ここで失敗したとしても。

 負けてしまったとしても。

 応援し続けよう。

 どこまでだってついて行こう。

 

 

「いってらっしゃい。僕はいつまでだって待っているから。勝っても負けても、いつまでだって待っているから」

 

「いってきます。待っていてくれ、必ず未来に連れていくからな」

 

 

 少年は、藍の返事を聞いて満足そうな表情を浮かべ、緩やかに両膝を地につけて両手を重ねた。

 

 祈りの体勢に入る。

 祈る対象は、自らの神様になってくれる藍である。

 祈るべき思いは藍の想いを成就させること、藍が望む未来を形にすることである。

 

 実のところ―――少年は神様なんてものはいてもいなくても変わらないものだと思っている。神様なんて宇宙人と同じだ。見たことのないものに対して存在のあるなしの議論は意味をなさない。いてもいいし、いなくてもいい。そんなどっちでもいいことである。

 だけど、信じていないことが神様がいないってことの証明にはならない。あると思えばいつだってそこにいる。それが神様という存在だろう。

 神様と呼べば神に成る。願いを込めて誰かに祈りを捧げれば、祈られた人は祈りを捧げた人間にとっての神に成れる。そんな簡単なことなのである。

 いつだってそうだった。これまでだってそうだった。信じるものを信じて、正しいと思う道を突っ切ってきた。歩くたびに背負っていく荷物が増えて、どんどん重くなる足取りを無理やり前に進ませて、壁を乗り越えてきた。

 やっていることは同じである。信じる対象が自分から相手に移っただけ。願いを叶えてくれる対象が自分から相手へと変わっただけだ。

 さぁ、僕が信じる神様を信じようじゃないか。

 いつも通りに神様にお祈りを捧げよう。

 願いを成就させるために努力をしよう。

 どうか―――僕の願いを叶えてください。

 

 

「この力は……和友の力か?」

 

 

 少年が祈り始めると、神力の衣がゆっくりと藍の体に纏わりつくように展開されていく。少年の祈りによる信仰の力が静かに藍の体へと流れていく。染み込んで行くように体の芯から指先の毛細血管までゆっくりと伝搬していく。

 体の中からぽかぽかと温かくなる感覚。そして、今まで自分を取り囲んでいたしがらみが全て無くなっていく感覚に全身が支配される。

 生まれたままの、あるがままの何もなかった頃。

 誰にも縛られず。

 誰にも頼らず。

 そっと、空を見上げていたあの頃に―――戻っていく。

 唯一残っているのは、願いを叶えるという願望だけ。

 それ以外が酷く小さくなって見えなくなる。

 というより―――願いを叶えることの方が大きくなっているから相対的に小さくなっているのだろう。

 

 

「解き放たれる、何もかもから自由になる。縛られていたしがらみが全部なくなって一個の生物になるような……」

 

 

 全身を神力の衣が完全に包み込むと、主である紫が藍に対して張っていた式神の印が消えてなくなった。紫と繋がっていた妖力供給のラインも同期するように綺麗さっぱりと消えた。おそらく、少年の境界を曖昧にする程度の能力が式神の繋がりを曖昧にして切断したのだろう。

 

 

「紫様の力が感じられなくなった。繋がりが絶たれたのか? 和友の力が作用しているのか。境界を曖昧にする程度の能力が繋がりを曖昧にして断ち切ったとでもいうのだろうか」

 

 

 紫との繋がりが絶たれた瞬間に、本来持っている妖力が活力を取り戻し始める。本来の色、若干の青みを帯びた妖力が体の芯に戻って来る。

 

 

「本来の妖力の形が戻って来る」

 

 

 抑え込まれていた妖力の蓋が僅かに開かれる。

 その瞬間―――久方ぶりに感じる妖力がまるで爆発物が爆発したように膨らんだ。

 

 

「っ!」

 

 

 想像以上の力が一気に流れ込んで来る。妖力の勢いに対抗するように少しだけお腹に力を入れる。

 体内から湧き上がった妖力は一気に体内を駆け巡ると渦巻くように体の中を循環し始めた。もともと自分が扱っていた力だけあって酷く体になじむ力だった。

 

 

「ああ……そういえばこんな力だったな。私の力は、もともとこんな色をしていた」

 

 

 自分の中に本来あるべき力が戻って来た。

 そこで、一つの疑問が出てきた。

 

 

「それにしても、私の妖力はこれほど多かっただろうか」

 

 

 戻って来る妖力が全盛期である九尾として活動していたあの頃よりも大きくなっている。

 これは、過去から積み重ねてきた歴史―――約1500年分が今に重なっているから起きている現象なのだろうか。知らず知らずのうちに外部から与えられる恐怖が増えたからなのだろうか。

 そう思ったが―――それ以上に暴れまわっていた時から成長しているからだと思った。紫様の下で式神として役割を担ってきて成長したから。和友と共に生活し、心が充実していたから。だから妖力が成長したのだ―――そう思ったら頬に少しだけ笑みが浮かんだ。

 

 

「私も成長したということだな。あの頃から確かにいろんなものが変わった。環境も、関係も、時代も……」

 

 

 暫くすると戻ってきた妖力も神力に抑え込まれるように内に留まる。

 種類の違う力は決して混じり合うことはない。ガスで料理をするのとIHで料理をするのと両方を併用するぐらい無理があるといえば分かってもらえるだろうか。同じようなことができる力ではあるのだが、やり方が根本から異なっているのである。

 神力を使っている間は妖力が使えなくなる。妖力を使っている間は神力が使えなくなる。境界線を曖昧にして融合できたとしても、力を発揮する方向性を決める時に不都合が出ることだろう。

 今のところは、どっちかだけを使うということしかできない力である。

 

 

「和友の力に私の力が包まれて抑えられている。和友の力が全身を覆っている……全部抱えていくぞ。どこまでも、地の果てまでも背負って行く。嫌だと言っても連れて行ってやるからな」

 

 

 そっと空を見上げる。これからを見据えて空を見上げる。

 現在、天井は抜けている。藍が乱入したことによって落下してしまっている。屋敷の中にいながらにして外の景色を覗くことができる状況である。

 夜空には満月が神々しく光っている。若干の厚い雲が空を漂っているのもあって、月が見え隠れしているものの、月からの妖艶な光が外で踊っていた。

 この時こそ―――妖怪が最も力を得ることができる瞬間である。今のように神力を纏っている状況では余り関係がないが、妖怪にとっては最盛期を迎える瞬間だろう。今こそが最も決着をつけるのにふさわしい時、自然とそう思える瞬間だった。

 見上げた月に重なるように影ができる。黒い影が月を隠す。

 あそこにいるのは誰だろうか。シルエットは良く知っている形をしている。立ち振る舞いは自分が最も知っている人物に近似している。

 何より、向けられている視線がよく知っているものだった。

 

 

「……あれは、紫様か?」

 

 

 空中で漂っている人物は、主である紫である。間違いない―――これまで数千年を共にした仲だ、間違えるはずがない。これまで何度顔を合わせてきたと思っているのだろうか。蓄積してきた経験がその存在を紫だと認めている。

 藍は、影の正体を紫であると心の中で確定しながらゆっくりと上空へと飛び上がった。祈りの体勢の少年を置き去りにして、いなくなってしまったメイドの姿を確認することなく、自らの目的を果たすために紫の下へと近づいた。

 距離が縮まっていくと、より詳細に主である紫の姿が明瞭化してくる。

 藍から見た紫の表情に特に驚いた様子は見受けられない。ただ遠くを眺めるような視線を送ってくるだけだった。

 紫の約1メートル前というところまで近づくとその速度をゼロにする。

 目の前に主である紫が佇んでいる。何も言わずに視線を向けている。

 

 

「紫様、私は……」

 

「言わなくてもいいわ。こうなることは最初から分かっていたことだもの。こうして藍があの時のように私の前に立って刃向ってくる。これは、半年前から未来の一つの形で想像できていたことよ」

 

 

 式神である藍が主である自分に反抗してくる。強くなった我を持って、自分の意見をぶつけて押し通そうとしてくる。こうなることは半年前から、少年が病気になったあの時から予期していたことだ。

 そんな日が来ることは、あの時から分かっていたことだ。

 

 

「思えば、そうなる節は最初からあったわ。藍は、和友がマヨヒガに来てから一人の存在として独立し始めたから。そう考えると半年前に気付いたのはやっぱり遅かったのかもしれないわね」

 

 

 藍が反抗するための土台は和友が来てからの2年間で作られてきた。だんだんと自我が強くなり、言う事を聞いているだけの存在から―――一つの存在へと昇格を果たしている。

 その土台が今の藍の存在を作り出していることを考えれば、紫の予測できた時期は少年の病気に気付いた時と同じように遅かったのかもしれない。

 だけど―――分かったところで何ができたわけでもなかった。

 

 

「ただ、それを好ましく思っていた私が言えることは何もなかった。藍が私に意見してくるのを億劫に感じることもあったけど、それ以上に藍が生き生きとしているのを見るのが好きだったから」

 

 

 藍が一個の存在として気持ちを口にすることを喜ばしいこととして捉えていた紫に、言えることは何もなかった。

 

 

「藍を止めていたのはいつだって私だった。和友は藍を止めなかったし、藍は自分を止めなかった。私が藍の障害になっている自覚は常にあったわ」

 

 

 自分が藍にとって最大の障害になっている自覚はあった。藍の行動を止めているのはいつだって少年ではなく自分で―――食事の時だって、毛づくろいの時だって、行動を制限しているのは自分だった。

 

 

「藍を止めるのは私の役目なのよ。今日という日に―――今日しかない日に反発してくる藍を止めるのは私の役目なの」

 

 

 特に今日という日は―――特別な日だ。自分の想いが、藍の記憶を消さなければという想いが藍の未来を左右している。

 藍が反乱を起こすなら今日しかない。藍にとって明日は無いのと同じなのだ。今日という日を乗り越えなければ、明日は今日を連れていってくれないのだから。

 今日という日は―――記憶を消すことが決まっている今夜は、条件が整いすぎているぐらい反抗するには格好の機会だった。

 

 

「今日だって、明日だって、来年だって変わらない。私がやるべきことなのよ。藍が私の従者である限り変わらないことなの」

 

 

 藍には―――今日しかない。

 紫には―――これからしかない。

 両者がぶつかっているのは、そんな分かりやすい価値観の違いからだった。

 こうなってしまったのは、藍が少年に依存したから。

 こうなってしまったのは、少年が藍に甘かったから。

 そして、何よりもそれを止められなかったから。

 紫は、大きな責任感を持って自分の責任を果たそうとしていた。

 

 

「従者の失態は主の責任―――これは、こうなってしまうことを止められなかった私の責任。私の責任は私が果たすわ。藍の代わりに、和友の代わりに私が払ってあげる」

 

「紫様、お願いします。記憶を曖昧にする件は無かったことにできませんか? もしも今からその言葉を撤回してくれると言うのならば、ここで暴力に訴えなくて済みます」

 

「……藍はこうして私の前に立ちふさがっても、式神の繋がりが消えても、私を敬ってくれるのね」

 

「例え繋がりがなくても、私は―――紫様の式ですから」

 

 

 藍は紫のことを何とか説得しようとする。紫が折れてくれれば、この話は全て丸く収まるのだ。最も意志を曲げることが難しいと思っていた少年が崩れた今、紫を落とすことができれば話は綺麗に収束する。これからの未来を続けていける。

 

 

「私は、紫様と闘いたくありません。この手で紫様を傷つけたくはないのです」

 

 

 そして何よりも、主である紫とこのまま殴り合いに発展する―――暴力的な手段に出るのが嫌だった。

 主と式という主従の関係が無くなっていることは分かっている。契約の証が途切れた今となっては気にしても意味がないものになってしまっていることは分かっている。

 分かってはいるのだが、どうしても心がそれを善しとしない。

 いくら契約の形が無くなったとしても。

 繋がりが無くなったとしても。

 ―――それでも、私の主は紫様なのだ。

 契約が破棄されてしまっている今でも―――紫様は我が主で、その式だという誇りは失っていない。確かに心の中に、強い想いが停滞している。

 

 

「そういうところは何も変わらないのね」

 

 

 紫の表情にそっと深みのある色が浮かんだ。

 

 

「藍は、いつまで経ってもそんなことを言っているから駄目なのよ。だから私は貴方に期待できないの。だから、私が守ってあげなくてはいけないと―――そう思わされるのよ」

 

「私はこれまでも、これからも、どちらも捨てるつもりはありません。全部を抱えて飛ぶと先程決めたのです」

 

「とことん甘いわね。抱えきれなくなったものは取捨選択しなければならない。飛べない鳥はすぐに喰われて死んでしまうわよ」

 

 

 藍はどこまでいっても詰めが甘い。

 和友が来てから余計にその傾向が強くなった。

 

 

「全部を守ることは無理だということを知りなさい。守れるのはその両手で抱えられるものだけよ」

 

「私は、それでも抱え続けます! 落ちたものを拾ってでも未来に繋げてみせます!」

 

「どうして分からないのかしら? 捨てる覚悟のない者が失った悲しみに耐えられるはずがないのよ。貴方は和友を失う衝撃に耐えられないわ」

 

 

 捨てられない。

 捨てる覚悟がない。

 全てを守ろうとしている。

 少年のことも、自分のことも。

 そんなことだから―――そんなことだから腹が立って仕方がないのだ。

 そんなことだから選択できないと、障害を乗り越えられないと思ってしまうのだ。

 失う覚悟がなければ、少年の死は乗り越えられない。

 少年を失った時に現れる壁の大きさは、少年の存在の大きさに比例する、少年に対する依存度に比例する。

 その衝撃は私が死ぬことと等価だろうか。

 その苦しみは私が死ぬことよりも大きいのだろうか。

 だとすれば、今この時―――私のことを切り捨てられない時点でもう無理だと言っているも同じだ。

 いずれ抱えきれなくなる。2年後に死ぬことが決まっている少年の存在を抱えきれなくなる。

 そして、抱えきれなくなった自分を責めて押し潰されるのが目に見えている。

 こうして選ぶことができない時点で、和友の未来は支えられない。

 

 

「ここで私を殺す覚悟もできない奴に、和友の未来を抱える資格なんてないわ」

 

「どうにか分かっていただけませんか。考えを改めてもらえませんか?」

 

「藍、私の意見が変わる可能性に期待するのは止めなさい。もう―――決めたことなのよ」

 

 

 紫の鋭い眼光が藍の瞳を貫く。

 もう何も言うまい。

 これ以上の会話に意味があるようには思えなかった。

 何を言われても意見を変えるつもりはない。

 ここで―――今夜、藍の少年に関する記憶を曖昧にして少年のことを忘れてもらう。それで昔のころの藍に戻ってもらう。

 例え、それで藍の心が一度死んでしまうとしても。

 これまでの生活が大きく変わってしまうとしても。

 今から意見を変更することは全く考えていない。

 これまで悩んできた期間が自分の気持ちを支えている。そう簡単に崩されるほど適当に積んできた想いではないのだ。決断の力は想いを積み重ねてきた量に依存する。

 

 

「はははっ」

 

 

 藍は、どこかで良く聞いたことのある台詞に微かに笑みを浮かべた。

 もう―――決めたことだから。だから変えられないと。そういう言葉を使っている人間をよく知っている。頑固で頭の固い人間をよく知っている。

 

 

「決めたって―――紫様も和友と同じことをおっしゃるのですね。紫様は、どうしてそこまで頑固なのですか! 和友そうですが、紫様も頑固すぎます!」

 

 

 紫は、予想もしていなかった藍の返しに笑う。

 そうか、思えば和友も同じことを言っていたかもしれない。

 頑固なあの子のことだ。

 いつだって決めたことに対して曲げられないあの子のことだ。

 どこかで絶対に口にした言葉だろう。

 私も和友の影響を受けて大きく変わっている。

 何かに執着したのは幻想郷という場所以外に無いと思っていたけど、そうでもなかったみたい。

 意外と独占欲が強くて。

 意外と融通が利かなくて。

 頑固だったのだと言われてようやく気付いた。

 言われて変わった自分に気付いた。

 そして、そういうことを言われると怒ってしまう性格も今となっては変わってしまっている。

 私は、‘今’笑っている。

 言われて怒りが湧いてくるというより、喜びが支配している。

 ああ、本当に悪くない。

 悪くない気持ちだった。

 

 

「ふふっ、そうかもしれないわ。私は頑固で意地っ張りなのよ。だから諦めなさい。私は、選んだ道を違えることはないわ」

 

「そんな……」

 

「迷って悩んで決めたことだから。可能性を天秤にかけて選んだのがこの道だから。これが私の選んだ道だから、今から変えるつもりなんてないの」

 

 

 ここまで言えば藍も気づいてくれるだろう。いくら言っても何も変わらないことを。説得しようとすることがもう無理だということを。

 そう思っていたが、藍は紫に対しての説得を諦める様子を見せなかった。

 瞳がまだ力を持っている。最初の時から意志の形は変わっていない。最初の宣言通り、何もかもを抱えていくという決意は重いもののようで、そう簡単に放り出せないようだった。

 

 

「今の私ならば大丈夫ですから。和友を失っても生きていけますから」

 

「貴方のその言葉はあくまでも未来予想図よ。可能性の塊―――確実性なんてどこにもないわ」

 

 

 そんなものあくまでも予想でしかない。可能性の話をしているに過ぎない。

 もし、そうならなかったら。

 もし、予想通りにいかなかったら。

 予測する時間が先のことになればなるほど、可能性は曖昧な広がりを見せる。

 記憶を消すことは、今日からのことだ。ほぼ確実な結果を出すことだろう。マイナス要素は何も見えてこない。当人の藍からしたら迷惑極まりない話で認められないのかもしれないが、本人以外からすれば正しいと分かる選択肢である。

 

 

「当人からすれば堪ったものではないのでしょうけど、このまま手を付けなかったら手遅れになるかもしれないのよ。周りのことを考えてみなさい。周りを考えれば、私のことを考えれば、今のうちに原因を取り除く方が賢明だと分かるでしょう?」

 

 

 これは、ウイルスを抱えているのが藍一人で藍を生かしておく必要があるのかという議論とおおよそ同じだ。

 藍はウイルスに感染している。ウイルスの大元である少年が死んでしまえば発症する病である。

 この病は他人に感染することはないが、他人に影響を与える。少年を失った瞬間に暴走する危険を孕み、他者に危害を加える可能性がある。周りにいる人は襲われるかもしれないという危険を感じながら生活することになる。

 だとしたら、皆を守るために藍を殺した方がいい。仮に病気の発症の原因である少年が死んでしまわない、助かる可能性があるのだとしても藍を殺しておく必要があるだろう。周りを傷つけない可能性があるとしても殺しておく必要があるだろう。

 苦しみを、寂しさを、喪失感を訴える藍を殺さなければならないだろう。そして、そんな苦しんでいる藍の隣にいるだけで何もできない自分を殺したくなるのだ。

 そんなことには絶対させない。そのために未来の可能性を摘み取ることぐらい、その程度の苦しみぐらい耐えて見せる。

 その程度の苦しみだったら耐えられるから、未来のために―――‘これまで’を殺すのである。

 

 

「紫様は私の言葉を信じてくださらないのですか? 例え私が意気消沈して辛い想いをしたとしても、紫様が傍にいてくだされば―――私は生きていけます。昔のように生きていけます」

 

「ええ、私は藍を見捨てることはしないわ。藍が死にそうになったら私が止めてあげる。悲しんでいるのなら支えてあげる。絶対に、絶対に、藍を手放したりしないわ」

 

 

 傍にいてくだされば―――それはそうだろう。

 紫は、藍を見捨てない。独りで生きていけないというのならば、傍にいて支えてあげる。寂しいと言うのならいつだって隣にいてあげる。

 だが、それで課題が解決するかは全くの別問題である。

 

 

「だけどね……それで藍が立ち直れるかなんて分からないじゃない」

 

 

 傍にいたところで何も変わらないかもしれない。看病してもずっと廃人のままなのかもしれない。抜けた穴を埋められずに病気になってしまうかもしれない。

 妖怪は、肉体的損傷が原因で死ぬわけではない。心が死ぬことで死ぬ動物だ。少年の死で致命傷を受けた心を修復できるのかと問われれば、首をかしげざるをおえなかった。

 

 

「藍が失った和友の穴を私が埋めるなんて絶対に無理だもの。和友がそうであったように、心に空いた穴は別の物で埋め合わせできないようにできているのだから」

 

 

 何かを失ったことによって生まれた心の穴を、別のもので埋めることができないのは少年から学んだことである。

 少年は両親を失った穴を埋められずに病気になった。紫と藍が両親の代わりをしてくれたと言っていた少年も、やっぱり穴を塞ぐことができなかったのだ。少年の両親と紫と藍では形が違うのだから埋められるわけがなかったのである。

 同様に藍も同じことになるだろう。少年を失った穴は一体誰が埋めるというのだろうか。紫や橙が精いっぱい埋めたとしても完全に埋まることはない。

 そうなったら藍はどうなるのか。心の穴を埋められない藍がどうなるのか。

 その時の藍が想像できないから。

 だから―――未来ではなく今を選択したのだ。

 

 

「私は、未来の可能性に賭けるのは嫌なのよ。和友を失って藍まで失ったら、私はどうするのよ。今更―――私一人でどうしていけっていうのよ……」

 

 

 少年は二年後に死んでしまう。

 藍は、少年の死と共に死んでしまうかもしれない。精神が崩壊して、心に重きを持つ妖怪としての性が生を拒むかもしれない。

 藍が死んでしまえば、橙は昔の猫又の黒猫に戻ってしまうだろう。

 そうなれば―――マヨヒガに残されるのは紫だけである。

 

 

「橙はあくまで藍の式になっているからあの状態でいられるのよ。藍が死んでしまったら橙は元の猫又に戻ることになる。そうなったら残るのは私一人じゃない。私一人しか残らないじゃない!」

 

 

 どうしてこうなってしまったのだろう。

 昔なら一人でも生きていけたのに。

 昔ならこんな思いをしなかったはずなのに。

 どうしてこうも弱くなってしまったのだろうか。

 どうしてこうも一人が怖くなってしまったのだろうか。

 

 

「あの頃とは何もかもが変わってしまったのよ。和友が何もかもを壊して、作ってしまったから」

 

 

 全ては、和友を幻想郷に連れてきたことから始まった。

 和友は、様々なものを変えていった。

 生活の全てを破壊して、新しい形を想像した。

 それは、人間が育んでいる家族という形。

 人間が持っている家族という関係の構築。

 

 

「私たちに家族としての形を作ってしまったから」

 

 

 知ってしまった。

 遥か昔に憧れた人間の家族という関係を知ってしまった。

 妖怪は、基本的に独り身だ。

 家族なんていない。

 縄張り意識を持っている妖怪も確かにいるが、そこにあるのはあくまでも種族間の繋がりだけだ。

 それも、私のような独り妖怪には夢のような話。

 私は知りたかった。

 人間の‘誰かのために何かができる’その優しさの根源を。

 ―――家族のために。

 そういう強さと優しさを―――知りたかった。

 

 

「だから、こうしてあなたの前に立っている。家族のために、家族を守るためにここにいるのよ」

 

 

 そして、学んでしまった。

 少年に教えられてしまった。

 家族という形の優しさを。

 家族という形に包まれている温かさを。

 家族を知ってしまったから。

 温かさを知ってしまったから。

 居心地の良さを知ってしまったから。

 ―――家族のために。

 今、藍の前に立っている。

 今、ここで戦っている。

 知らなかった。知らなければよかった。知らないままだったらよかった。知ってしまったから戻れなくなった。

 いえ―――違うわ。

 知りたかったから。

 知って、それが嬉しいことだったから。

 これからも続けていきたいものだったから。

 だから―――守るために戦っている。

 戻れないから戦っているのではない。

 戻りたくないから―――家族のために戦っている。

 

 

「私は私の家族を、大切なものを守るためにこの選択肢を選んだのよ」

 

 

 紫は、真剣な表情で藍に伝える。

 

 

「だから―――もしも、私の想いが認められないっていうのなら殺してでも押し通しなさい。それが、貴方が唯一願いを叶えられる方法よ」

 

 

 

 心の中に紫の言葉が重くのしかかる。紫の言葉は、それだけの重さを持っていた。

 家族のために、家族を守るために戦っている。それも、守られているのは自分である。

 だが、心の中にある意志はその重さに耐えきった。紫の気遣いは素直に嬉しかったが、押し通す気持ちは全く衰えなかった。

 

 

「……分かりました。そういうのでしたら、分かってもらえるまで私の気持ちを伝えるまでです」

 

 

 ここで諦めて記憶を曖昧にする選択肢があるだろうか。

 紫がその選択を選び、他の可能性を淘汰したように。

 藍だって他の可能性を排除してこの選択肢を選択したのだ。

 お互いに引けないものがある。

 紫は少年を捨て、藍を守るという現実的な案を。

 藍は少年を救い、家族としての形を継続する理想的な案を。

 それぞれが、それぞれの案を提示した。

 それを両者が受け入れられないのならば、押し通すしかない。

 

 

「紫様が認めるまで、私の強さを、変わった私の気持ちを押し付けるまでです」

 

 

 そっと息を吐き、拳を握った。

 視線を鋭く尖らせ、僅かに力を入れた。

 未来を勝ち取るために。

 今を摘み取るために。

 両者の想いが今ぶつかる。




私としては、紫の意見も藍の意見もどちらの意見もありな気がいたします。
ただ、やっぱり現実を生きている者としては、紫の意見を採用したくなりますね。


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気持ちの伝え方、勝負の決着

紫と藍は、意見相違から衝突する。
藍は、少年を助ける未来を勝ち取るために。
紫は、藍を確実に守るために。


「さぁ、貴方の望む未来を掴み取ってみなさい。私は私が望む未来を手に入れてみせるわ。それが例え、貴方の望む未来を摘み取る結果になったとしてもね。私は容赦なんてしないから」

 

 

 紫は一旦藍との距離を広げると、持てる速度の限りを尽くして空を縦横無尽に飛び回り始める。

 紫の飛行速度はこれまで少年と弾幕ごっこをやっていたときと桁が違う。風を切る音が全てを支配するような勢いで飛行している。空気を引き裂いて行くように、紫の軌道が空間に一線を引いていく。

 

 

「貴方の未来は私が握っている。欲しかったら捕まえてみなさい。それとも諦めるかしら? 諦めるのなら早いに越したことはないわ」

 

 

 満月の夜ということもあって、紫の妖力は最大値を計測している。

 燃料は最大だ。エンジンの調子も悪くない。アクセルを精いっぱい踏み切る。ペダルが壊れるぐらいにきっちりと踏み切る。ここが正面場である。限界いっぱいまでこの身が砕けるほどに振り切った世界で、未来を掴みとる。

 紫は、持ち合わせている最大限の力で空中を疾走していた。

 

 

「明日に繋がる尻尾がそこに見えているのです。掴まない道理などありません」

 

 

 そして、最大速度で動き回る紫に対して―――藍はぴったりと付いていっていた。

 ちょうど二本の線が湾曲しながら動いているのが見える。若干の赤みの混じった紫色の妖力を纏っている紫と、真っ白な光を纏っている藍で、二つの線が被るように空中に軌跡を描いている。

 だが、若干藍の方の速度が速いようで二人の少しずつ距離が縮まっていく。5メートル、4メートル、3メートルと徐々に近づいていく。

 そのたびに紫は旋回し、距離を離した。直線速度では藍の方が早いが、先行している紫が唐突に旋回行動をして藍の追随を許さない。

 その動きはまるで藍の気持ちを煽っているように見えた。追いつきそうで追いつかない。届きそうで届かない。余裕そうな紫の表情がさらに藍の心を焦らせる。

 

 

「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」

 

 

 鬼さんこちら、手の鳴る方へ。

 遊びの一つである―――目隠し鬼と呼ばれる遊びで使われる言葉である。目隠しをした鬼が止まっている相手を見つけ、それが誰かを当てるという遊び。

 その遊びで鬼に自らの場所を伝える方法が、「鬼さんこちら、手の鳴る方へ」という言葉だ。

 

 

「貴方が掴みたい未来はここにいるわ。目隠ししている貴方に見えているかしら?」

 

 

 現時点でこの目隠し鬼という遊びと大きく違っている点が二か所ある。

 1か所目は動いてはいけない紫が空を縦横無尽に駆けていること。

 2か所目は藍が目隠しをしていないことである。

 藍は、煽ってくる紫に向けて言った。

 

 

「私の視界は良好です!」

 

「貴方は何も見えていないわ。遊びと同じで目隠しをしている。見たくないものを見ていない。見ようとしていないから見えないのよ。目の前にある断崖絶壁の壁をね」

 

 

 最終目標は確かに見えているだろう。望むべき未来の形は明確に出来上がっている。立ちはだかる壁を乗り越えた先にある景色―――少年の病気を治して家族として過ごす景色ははっきりと見えている。

 しかし、それまでの段取りが全く見えていないのだ。そこに辿り着くための階段が作られていない。そして、理想に辿り着けなかった時に迎えることになる喪失感に対する覚悟が足りない。

 

 

「そして、和友を失った瞬間にその壁も失ってしまうのよ。目指すべきものを見失って何も見えなくなるの。希望も、未来も、何もかもから目をつむることになる」

 

 

 少年を失ってしまったら同時に見えていた未来が失われる。

 目標だった壁ごと消し去られて方向性を失う。

 目的が無くなり無気力になる。

 大事なものを無くしたことによる心の穴は埋められない。

 

 

「貴方のそれは現実から目を背けた、まがいものの理想論よ」

 

 

 藍の望む形は理想論だ。

 それも、とびっきりの理想論だ。

 何の手段も講じられていない―――希望調査のようなものだ。

 どうしたいですかという問いに対して、こうしたいというような願望だけしか描けていない。

 最善は確かにそこになるだろう。みんなが幸せに過ごせる未来がそこにはあるだろう。そこに異論を挟むつもりはない。

 だが、その未来にたどり着くためには大きな壁がある。それを乗り越えなければ、望む未来を掴みとることはできない。

 

 

「しっかりと前を見なさい。ちゃんと現実を見なさい。その塞いでいる目を開けて自分の望む未来を見てみなさい」

 

 

 藍は、大きな障害に対してジャンプをして乗り越えようとしている。道具も使わず、手段も講じず、ただ手を伸ばしているだけだ。

 そこには未来にたどり着くためのプロセスの存在がない。だから、言っていることが理想論に感じてしまう。つたない希望に見えてしまう。

 どんなに難しい壁だとしても、1段ずつ登ることのできる階段を提示できるのであれば現実論になるというのに。リスクを全く侵さずに、危険を全く感じることのない階段を作り出す―――それこそが現実論になるための材料になるというのに。藍の理想には肝心の材料が―――階段の存在が足りていない。

 マラソンの大会で優勝したい。

 だったらどうするのか。

 練習をするのだ。

 優勝候補の人間は日に10時間の練習をしている。

 だったら、こちらは12時間の練習をするのだ。

 相手はこんな練習を取り入れている。 

 だったら、より効率的な練習を考えて取り入れるのだ。

 優勝という理想を叶えるために階段を作る。

 1段1段踏みしめて登る。

 そうすれば、優勝するという理想は現実に変わる。

 紫を巻き込むためには、理想論を現実論に変えるプロセスの明示が必要だった。

 

 

「そんなことありません! 私は、自分が望むものがきちんと見えています!」

 

「見えているというのなら捕まえられるわよね。証明して見せなさい。私が持っている貴方の未来を掴んで見せなさい」

 

「言われなくとも追いついて見せます!」

 

 

 藍は、紫の煽りを受けるように少しだけ速度を上げた。

 

 

(まだ速くなるのね。一体どこまで速くなるのかしら? 私も一応全力で飛んでいるのだけど……昔から腕力と速度だけは、藍の方が優れていたものね)

 

 

 紫は、すでに全力に近い速度で飛行している。

 これ以上速度を上げるのは、自らの体の状態を考えれば危険である。体が持たない。速度に引っ張られた遠心力で体が悲鳴を上げ始める。

 藍が自分よりも速く飛べているからといって、ここで無理をする必要があるのだろうか。まだ何もやっていないのに最初からトップギアにいれてエンジンに負担をかけるのはナンセンスだ。勝機はいくらでも見つけられるはず。これは、気持ちが折れなければいいだけの戦いなのだから。

 だったら―――どうするか。目的を達成するために必要な手段は何なのか。

 紫は、追いかけてくる藍に対して階段を積み上げ、手段を講じた。

 

 

「これならどうかしら?」

 

 

 紫は、真後ろをついてくる藍に向けてまき散らすように弾幕を張った。ノータイム、ノーモーションで魔方陣が次々と展開され、後続を断ち切るように妖力弾が放たれる。

 藍の正面から弾幕の嵐がやってくる。

 

 

「紫様がどれだけ行く手を遮っても、私のやることは変わりません。目標に向けて飛ぶだけです」

 

 

 藍は、積乱雲に飛び込むように妖力弾であふれた豪雨の中に飛び込んだ。

 弾幕の間を縫うように曲線を描き、全ての弾幕を躱していく。速度が落ちている様子は全くない。しかし、距離が徐々に縮まっていた関係は、躱した分飛行距離が増加することによって紫との距離は保たれている形になった。

 

 

「神力の衣―――あれを突破する方法を考えなければいけないわね」

 

 

 藍は、妖力弾と神力の衣が掠るぐらいぎりぎりのところを飛んでいる。

 神力の衣に触れた妖力弾は丸みを失って少しばかり抉られていた。どうやら神力の衣に接触したことによって妖力弾に込められた妖力が失われたようである。

 神力の衣についても対策を練らなければならない。あれ程の密度で纏っている神力を貫通するのは骨が折れる。

 そして、それ以上に弾幕をものともせずに後ろにぴったりとくっついて飛行する藍を何とかしなければならなかった。

 

 

「それにしても、全部避けていくなんて体に負荷がかからないのかしら? あの速度を維持しながら弾幕を躱していくなんて、とてもじゃないけど体がもたないはずなのに……」

 

 

 慣性の力が藍の体に負担をかけているはずなのだが、そんな様子は一切見られない。

 表情にも動きにも負荷がかかっている様子は見受けられない。

 ただひたすらに紫のもとへと飛行している。

 状態が変化するときには力が働く。

 運動の場合は、慣性と呼ばれる力が働く。

 車に乗っていて、一定の速度で走っていると何も感じないが、急ブレーキがかかると前のめりになる。ある状態であるものが形を変える時、力が働くのである。それが慣性の力である。

 藍の速度は音速に近い。それほどの速度で進んでいる進行方向を曲げ、力の方向を変える際にかかる力は想像を絶するもののはずだ。力の方向が変わることによる慣性の力―――遠心力は凄まじいもののはずだ。

 しかし、藍の様子を見ていると力がかかっている様子は一切見受けられなかった。

 

 

「慣性の力をちゃんと受けているのか疑わしくなるわ」

 

 

 予想以上に藍が強くなっているということか。紫は、次の策を考え始めた。

 考え込む紫に対して、藍は不思議な感覚に囚われていた。

 

 

(不思議な感覚だ。まだ速くなる。もっと速くなる。状態は無重力に近い。心は歓喜に打ち震えている。苦しむ余裕もなく、辛さを感じる余裕もなく、ひたすらに前だけを向いている)

 

 

 慣性による遠心力の力がかかって辛いはずなのに何一つ苦痛を感じない。辛さなど微塵も感じない。ただ、進みたい方向に進めているという実感だけが心の中を支配していた。

 ―――もう少しで追いつく。もう少しで捕まえられる。視界に入る紫の後ろ姿はどんどん大きくなっている。

 視野が狭くなっているわけじゃない。弾幕が張られていることを知らせてくる視界からの情報はどんどん膨らんでいく。

 それでも、迫ってくる弾幕の躱し方が分かる。体が前に進むための最適解が次々と導き出される。最も近く、最も早く駆け抜けることができる道、ただ一つの道が提示されていく。

 だとすれば、脳内が叩き出す答えを体現するだけだ。

 この体にはそれを達成できるだけのポテンシャルがある。

 藍は、着実に紫との距離を縮めていった。

 そんな時―――紫から次なる弾幕ではなく、言葉が放出された。

 

 

「ちなみにどうやって式神の契約を振りほどいたのかしら? あれがある限り、私には逆らえないはずなのだけど」

 

「和友が取り払いました。どうやら和友の力は、こういう契約のような決まり事と言うのでしょうか、そういうものを曖昧にして無効化する力があるようです」

 

 

 やっぱりそうだったのね。そういう言葉が紫の口から聞こえるようだった。

 式神は、力を貰っている主に逆らうことはできない。それは人間が作ったロボットが人間に反旗を翻すことを認められていないのとおおよそ同じだ。その関係には絶対性が存在し、それがある限りどうしたって刃向うことはできないようにできている。

 だが、藍はこうして紫に抵抗している。それは少年の力が原因である。藍と紫との間にあった式の繋がりを絶ったという部分でもそうだし、これまで積み立ててきた藍の自我の強さがそれを実行させていた。

 紫は、少しばかり億劫そうな表情で言う。

 

 

「だったら、後でもう一度式を定着させないといけないわね。本当に……あの子は、息を吸うみたいにやらなければならないことを増やすわね」

 

「それでも悪い気はしない。そうでしょう?」

 

「そうね、そこがまた苛立つポイントではあるのだけど。手のかかる子ほどかわいいとはよく言ったものよね。手間をかけた分だけ愛着が湧いてしまっているわ」

 

 

 そう言って藍の様子を確認しようと顔を後ろに向けた瞬間―――藍はすでに目の前というところまで接近していた。

 

 

「いつの間にっ!?」

 

 

 弾幕を張るのを忘れていたわけではない。速度を緩めたわけでもない。それなのになぜこれほどまでに藍が近づいているのか。

 答えは、酷く簡単なものだった。藍の速度がさらに上がったのである。

 急いで距離を離さなければ―――さらに密度の高い弾幕を張ろうと力を巡らせる。

 だが、紫が次の行動に移ろうとした瞬間に藍の手が紫の腕を掴み上げた。

 

 

「くっ……」

 

「やっと捕まえましたよ」

 

「離しなさい!」

 

 

 掴まれた左腕を振りほどこうと暴れる。

 しかし、いくら力を入れて掴まれている手を引きはがすことはできなかった。

 振りほどけないのならば―――攻勢に出るまでだ。紫は、そう言わんばかりに右腕を振りかぶり攻撃に移る。

 しかし、紫の攻撃はいともたやすく藍に払われ、腹部に掌底打ちを受ける。寸分違わず、すっと伸びてきた藍の掌はみぞおちに入り込んだ。

 

 

(っ……容赦ないわね)

 

 

 みぞおちは神経系が集中しており、衝撃を受けると他の比ではない痛みを生じる。衝撃が強いと呼吸困難を起こす場所である。

 紫は、襲い来る痛みに歯を食いしばって耐える。痛みはじわじわと腹部に留まっている。

 藍は、耐えている紫を見て若干の距離を取ると余裕のある顔で告げた。

 

 

「紫様は昔から格闘戦が苦手ですね。料理と違ってあの頃から上達していらっしゃらない」

 

「例え苦手でも、この状況を打開できないほど劣っているわけじゃないわ」

 

 

 藍と普通に打ち合っていたら負けてしまう。

 考えるのよ。

 何が今の私に足りないのか。

 相手よりも劣っている部分、相手より優れている部分、それを補うための方法を。

 足りない部分。

 速さは負けている。それは、先程証明された。

 重さも負けている。それは、今ほど証明された。

 戦闘技術も負けている。これは、最初から分かっている。

 優れている部分。

 境界を操る程度の能力が使える。

 これは藍にはない力。

 藍に与えられた能力は、式という枠組みを外れたことで無くなっている。そもそも藍が所持している「式神を操る程度の能力」が発揮されることは、現状無いといっても差し支えない。

 なぜならば、肝心の式神である橙がここにはいないからである。

 仮に、橙がここにやってきたら最悪の状況になる。来ない方が絶対にいい。自分にとっても藍にとっても橙の存在は邪魔にしかならないだろう。

 

 

(劣っている部分は優れている部分で覆う。それが劣勢を逆転する唯一の方法)

 

 

 劣勢を逆転する方法は、優れている部分で足りない部分を覆い隠すことだ。

 できないことに目をつむるのではない。できることにあぐらをかくのではない。優れている部分で劣っている部分を覆い隠すことができれば、状況は好転する。

 

 

(身体能力を底上げする。藍よりも優る様に設定する)

 

 

 紫は、自らが保持している能力―――境界を操る程度の能力を行使する。

 行うのは身体能力の強化。劣っている部分の向上。

 技術はどうしようもない。これは身についている癖のようなものであり、上手い下手の境界が曖昧なもの。境界線のないものは操作できない。

 だけど、力の強さは測ることができる。速さは計測することができる。境界線がはっきりしている。

 紫の能力である境界を操る能力は、こうした境界線がはっきりとしているものならば何でも適応することができる能力である。逆に言えば、境界線が曖昧なものに対しては適応することが難しい能力である。

 紫の行っている境界操作のイメージは、計測を行っている機械に表示された数字を弄るようなイメージである。例えば、握力測定で40kgと出たとする。これを80kgに書き換える。自身の持っている力を40kgから80kgに書き換えるのである。ある場所とある場所の境界線を繋げ、ワープする。これは、ある場所Aとある場所Bの距離を測って1kmだったものを0kmに書き換えるようなイメージである。計算結果の書き換え、それが境界を操る能力の真骨頂だった。

 

 

(私の能力は和友と違って何だってできるのよ)

 

 

 そういう意味では、少年の境界を曖昧にする能力とは似ているようで使い方が全く異なっていることが分かる。

 少年の境界を曖昧にする能力は境界線を崩すもの。

 例えば、握力測定で出た結果が40kgでその境界線が曖昧になったら結果はどう表示されるだろうか。また、ある場所Aとある場所Bの距離が1kmあるとして、それを曖昧にしたらどうなるだろうか。

 きっとそれは―――よく分からないものになるだろう。よく分からないものは、狙った結果をはじき出すことができない。こうしようと思った結果が予測できないのだから、応用の幅が小さくなる。求めている結果を作り出せないのである。

 紫は、そんな使い勝手の悪い少年の能力とは違う無限ともいえる幅を利かせて力の限界の境界線を操作し、上限を引き上げる。

 藍の力よりも強くなるように。

 藍の速度よりも速くなるように。

 引き出せる力の上限を突破させる。

 身体能力で上回ってしまえば、テクニックによる違いを埋めることはできる。

 

 

「逃げるだけの時間は終わりよ。藍ばかり攻めるのは不公平だもの。私からも攻めさせてもらうわ」

 

「やれるものならばどうぞ。受けて立って見せます」

 

「そう、だったら止めてみなさい」

 

 

 紫は、藍との距離を詰めて右の拳を振るう。

 紫の右ストレートは、力に任せた乱暴なものだった。技術のある人間にならばたやすく避けられる、払いのけることができる―――はずだった。

 

 

(先ほどよりも速い!?)

 

 

 藍は、急に速度の上がった紫に慌てて対応し、攻撃の方向を逸らそうとする。

 しかし、対応が遅れたこと、何よりも紫の力が強くなっていることで完全に払いのけることはできず、左肩に直撃した。

 

 

(そして重いっ……先程の紫様の力とは一線を駕している。紫様の限界値は底なしか!?)

 

 

 当たった衝撃が肩から全身に回っていく。神力の衣が体を包んでいなければ、肩の骨ごと粉々だっただろう。それほどの一撃だった。

 

 

「落ちなさい!」

 

 

 ―――第二撃が来る。

 僅かに外れかけた左肩を無理やり稼働させる。ここで止まったら終わってしまう。

 今度は、正面から暴力的な足蹴りが飛んできた。

 

 

(急所だけは避ける!)

 

 

 体の中心を守るように体をすぼめて足蹴りを両手でガードする。

 紫の足が当たった瞬間に腕の骨が軋む音が響き、攻撃に押されて藍の体が僅かに後退した。

 

 

「見事です」

 

 

 本当にお強い方だ。私が千年以上前に負けて従者になっただけはある。そして、さすが私が従者になった甲斐のあるお方だ。

 あの時よりもはるかに強くなっている自信はある。負けない気持ちも、冷静な思考も、何もかもあの時より強くなっているというのに。

 紫様は、強い方だ。

 藍は、喜びを匂わせる表情で紫に向けて言った。

 

 

「この状態の私と互角に戦えるとは。昔よりも遥かに強くなっているような感覚ではあるのですが―――さすがは我が主とでもいいましょうか」

 

「私だって千年以上も経てば強くなるわよ。私もあの頃の私ではないの」

 

 

 そんな強がりを言う紫だったが、内心は焦りでいっぱいだった。今の攻撃で右こぶしの骨にひびが入った。手首がイカれて上手く力が入らなくなっている。

 

 

(冗談じゃないわ。境界を操作して肉体に負荷がかかるレベルで底上げしているというのに同程度ですって……)

 

 

 治るまでにどれほどの時間がかかるだろうか。妖怪が全盛期になる満月の夜だとしても、完全治癒までには数時間の時間を要するだろう。

 紫は、即座に境界操作の能力で自然治癒能力を高め、一気に傷の回復を狙う。能力を行使すると、数秒も経たずに痛みが一気に引いていくのが分かった。

 これならまだ戦えそうである。

 本当ならば骨ごとくっ付けてしまいたいが、紫の能力では直接的な骨の治癒は不可能だった。

 紫の能力は境界を操る程度の能力であって境界を作り出す、消し去る能力ではない。

 境界を作り出す能力を持っているのは閻魔である四季映姫であり、境界線を消し去る能力を持っているのは笹原和友である。

 

 

(私の能力では、境界線を生み出すことと消し去ることはできない)

 

 

 骨にひびが入って境界線ができたからといって、それを消し去ることはできないのである。距離を操って零距離にしたとしても細胞が結合しているわけではない、隣り合っているだけである。再び攻撃を行えば、同じように一気に崩れるだけだ。

 

 

(このまま戦えば、私の肉体の方が持たないわ)

 

 

 このレベルを維持してどこまで戦えるだろうか。そう思うと自然と表情が歪んだ。

 ―――限界突破。境界操作による力と速さの上限のリフトアップ。それは体に大きな負荷をかける。いくら力が強くなったからといって肉体が丈夫になったわけではない。

 もちろん、体の強度を上げることでカバーはできる。肉体の強度を強くすることで、攻撃に耐えることも可能である。

 だが、それをするためにどれほどの境界操作が必要になるだろうか。

 人体の骨の数は206本である。これだけでも206の境界操作を必要とする。人体の細胞の数は60兆個あるのだ。同じ操作を行えばいいと言うのならばまだ何とかできたのかもしれないが、細胞にも若い、古いという個体差があるため、それぞれに適した境界操作を行わなければならない。これらを全て強化するのは無理があるのである。

 

 

(藍と闘いながら、身体を弄る危険と隣り合わせの境界操作は身を滅ぼしかねない)

 

 

 特に藍と闘っている現状では―――不可能だ。

 境界を操ることは酷く繊細な作業だ。多くの境界を同時に操るのはあまり得策ではない。ミスをすれば身を亡ぼすことになりかねない。部分だけでいいのならそれでもいいのだが、どこかが強くなると弱いところに負荷がかかる。

 例えば、一本の棒がある。半分から上が金属で、下がプラスチックだとしたら―――プラスチックに負担がかかるのと同じである。

 何とか時間を稼がなければ、完全に治りきるまでの時間を―――紫は時間稼ぎを兼ねて藍が纏っている神力について疑問を投げかけた。

 

 

「その身に纏っている力は和友から送られてきているもののようだけど……初めてなのにそこまで力の運用が上手くいくものなのかしら」

 

「この力は、願いを叶える気持ちさえあれば応えてくれます。抱えている重みを捨ててはいけない。後悔しないなんて言い訳で吐き捨ててはいけない。この力の強さは、想いの強さに比例します。目標を達成するために抱えているものの重さで強さが変わります」

 

 

 少年の力は、想いの強さで力の大きさが変化する。少年の信仰の厚さもそうであるが、少年の信仰を受けている本人の少年の願いを叶えようという意思が力を増大させるのである。

 後悔なんてない。

 未練なんてない。

 それらは綺麗な言葉のように思う。

 だけど、その重さがない言葉にどれほどの想いがあるだろうか。

 少年は、言っていた。

 目標を達成するために必要な重さは後悔や未練ではないのだろうか。

 昔できなかったから、できなかった過去があるから。

 だから、強く叶えたいと思うのではないのだろうか。

 何の後悔もしていない人間の言葉など何の重みもない。

 何の未練もない人間の言葉など風に吹かれて飛んでしまうぐらいに軽い。

 後悔しているから、未練があるから―――だから心にずっしりとした重さを与えるのだ。

 後悔なんてしていないなんて嘘をついて今日に置いてきてしまうのは、抱えていく覚悟がないからだ。

 未来へと持っていく、抱えていくことで地面を歩いていける。重みが地に足をつけている。未来へ向かう体に重さが加わるのだ。

 藍は後悔している。過去に少年を助けることができなかったことを。少年を苦しめてしまう結果になってしまったことを。

 それを後悔しているからこそ、未来へと繋げていこうとしている。積み重ねた思いが攻撃に重みを付け加えているのである。

 

 

「紫様も一度体験してみると良いですよ。きっと新しい景色が見えるはずです」

 

「冗談言わないで、私は信仰される対象にはなりたくないわ。私は誰かに崇められる立場じゃなくて、いつのまにか隣にいる妖怪でいたいのよ」

 

「紫様ならそう言うと思っておりましたが……残念です。一度ぐらい体験してみてもいいと思いますけどね」

 

 

 藍の提案に首を振りながら、必死に考えを巡らせる。

 これからどうすれば藍に勝つことができるだろうか。得られる情報から自分の可能性を模索する。

 

 

(引き離しにかかっても、スキマで移動しても、すぐに追いついてくる。疲れを見せている様子もないし、長期戦は明らかに私が不利だわ)

 

 

 長期戦は不利だ。無尽蔵に湧いてくる和友からの神力をどうにかしなければ、こちらの妖力が先に枯渇する。疲れている様子もないことから、体力的な低下も望めない。

 少年が疲れて倒れるまで待つことができるのならば話は変わるが、そこまでの長期戦は想定していない。書き記す作業を続けてきた少年のことだ―――夜が明けても祈り続けていられるだろう。

 

 

(妖力弾は神力の衣で打ち消される。肉弾戦は勝てる見込みがない)

 

 

 妖力弾は神力の衣を貫通することができていない。掠っていった妖力弾が抉れたことからそう考えているだけであるが、おそらくそうだろう。

 肉弾戦も無理だ。正面を切って戦うのは技術に差がある上に体が持たない。

 ならば、どうすればいいのだろうか。神力の衣に邪魔されずに確実に攻撃を当てることができる方法はないだろうか。

 そんな想像に対して即座に思考が答えを導き出す。そして、その答えを実行した。

 

 

(だったら私の特異な境界を操る能力で)

 

 

 ノータイムで境界を操り空間と空間を繋げる。繋げる空間は、これから攻撃する自身の右側にある何もない空間と、藍の顔面を捉えることができる横顔のすぐ傍である。

 空間を繋げた瞬間に右こぶしによる攻撃を放り込む。

 避けられるわけがないと思った。これは前動作が一切ない攻撃だ、虚を突いた一撃だ。先程の攻撃を躱せなかった藍に避けられる道理などなかった。

 ところが、紫の右こぶしに手ごたえは全く感じられなかった。

 

 

「この位置からの攻撃を弾くですって!? 随分と見ない間に規格外になったものね」

 

「規格外になったのはついさっきです。この力は願いを叶える力を与えてくれる。私の想いを突き通すために背中を押してくれる力が、私を支えている」

 

 

 藍は、払いのけた紫の右手をそのまま掴むと勢いよく引っ張り放り投げる。

 紫は、自らが作った境界線を跨いで藍のすぐそばまで移動させられた。そして、不安定になった体勢を立て直そうとしている紫を見て藍の笑みが深まった。

 

 

「次いで、あの時の借りを返しましょうか。今こそが遥か昔の借りを返す時です。あの時は、余りにも理性がありませんでしたから」

 

 

 千年以上前、私は紫様になす術もなく負けた。

 理性が飛んでいたからだろうか。

 あの時の私は、どちらかというと獣と呼ぶ方が近かった。

 一方的に蹂躙された。

 今が負けてしまったあの時の借りを返す時だろう。

 今があの時からの成長を見せつける時だろう。

 あの時のリベンジを―――今遂げるとしよう。

 神力がゆったりと体の中を循環する。

 意味を与える。

 役割を与える。

 久しぶりの感覚である。

 燃え広がる、燃え上がる、何もかも燃えて、空中に解き放つ。

 狐火―――私の未来を照らし出してくれ。

 

 

「久しぶりに見せますね、私の狐火。燃えて、燃えて、燃え上がる私の炎。大地を焦がすほど、空気を灰にするほど何もかもを私の色に変えて見せますよ」

 

 

 狐火―――それは怪火である。火の気のないところに立つ火のことである。

 狐火が空中を漂う。ぽつぽつとどんどん増えていく。空中を埋め尽くすように道を照らすように青白い光が暗い夜空を埋め尽くしていく。星が見えなくなるほどに明るい発光が世界を照らし出す。

 見失ってなどいない。

 未来を求める手は、確かな方角に伸びている。

 不安はある。

 怖れもある。

 だけど―――それも抱えていけるから。

 その重さが―――気持ちを支えているから。

 だから―――前に進むのだ。

 

 

「さぁ、ここからです。紫様、ここから私が紫様を追い込んで御覧に入れて見せます」

 

「やれるものならやってみなさい」

 

 

 追い込みにかかる。

 囲い込み。

 未来を包囲し、この手に掴み取る。

 逃げていくのなら出口を塞いでやればいい。

 逃げ場などないと明示してやればいい。

 そんな藍の意志をくみ上げるように狐火がギュッと集まって紫を囲う。

 

 

「そんなもので出口を塞げると思わないで!」

 

 

 脱出の方法は大きく二つある。一つ目は妖力弾による狐火の消火による出口の創出。二つ目は隙間移動を使ったワープである。

 前者である―――妖力で打ち払うという方法は得策じゃない。妖力で狐火を打ち消せば、そこが出口だと分かってしまう。

 それに、いくら炎で視界が埋もれているとはいえ、中の様子が分かっていないとは限らない。出口を複数開けてもどこから抜けようとしているのか分かってしまう可能性もある。

 紫は、即座に境界操作の能力を用いてスキマを使って脱出を図った。

 

 

「は!?」

 

 

 紫がスキマを展開し逃げようとするところに神力の塊が飛んできた。

 大きさは直径30cmあるかどうかというところである。神力弾は、激しく光輝いてその力の強さを物語っている。

 どうして気付かなかったのか。どうして探知できなかったのか。疑問に対する回答は一瞬で出てきた。

 それは、狐火で囲われていたためだと考えられた。同じく神力でできている狐火が神力弾の接近を気取らせなかったのである。

 ここで考えられる対処法は、大きく3通りである。スキマで神力弾を別の場所に飛ばすか。左右上下に避けるか。弾くかの3通りしかない。

 避けるという選択肢はあり得ない。周りが狐火に囲まれている状況で避けるという行動を取るのは危険というか、そもそも回避行動が間に合わない。

 ならば弾き飛ばすか。いや、それはできない。藍の放出した神力弾の力が余りにも強すぎる。

 紫は、逃げるために展開しようとしていたスキマを開く動作を一旦停止し、神力弾を別の場所に飛ばすためにスキマを開いた。

 

 

「冗談じゃないわよ!」

 

 

 紫は、荒々しい声を発しながらスキマを開き神力の弾を別の場所へと飛ばした。

 神力弾が全く別の所に飛んでいく。おびただしく光っていた神力弾の存在が視界から消えてなくなった。

 

 

(しまった……!)

 

「追い詰めましたよ!」

 

 

 その瞬間―――目の前には藍がいた。どうやら、自らが飛ばした神力弾と一緒に飛んできたらしい。これまた視界を覆った効果による目くらましからの接近だった。

 藍の拳が強く握られる。そして、まるでミサイルを飛ばすように一気に発射される。手加減一切なしの、紫の体を粉々に砕くほどの勢いで放り投げられる。拳に押し出される空気が爆散して大きな音を立てていく。音速を越えた拳が音を立てて飛来する。

 終わってしまう。負けてしまう。そう思って身構えた。

 

 

「あれ?」

 

 

 藍の力の無い声が空間に響く。

 力が上手く伝搬しない。拳から伝わるはずの衝撃はいくら待ってもやって来なかった。余りの手ごたえのなさに紫に向けていた視界を下に下ろす。

 すると―――右手がスキマの中に入り込んでいるのが確認できた。先程神力弾を飛ばす時に使ったスキマにそのまま入ってしまったようである。

 

 

「抜けているところも変わらないのね。スキマにわざわざ入るなんて―――もう貴方はここから動けないわ」

 

 

 紫が開いていた空間が閉じられ、藍の右腕の出口が失われる。リボンで結ばれた空間はまるで空気に溶け込むように世界から消えて無くなった。

 これで藍はここから動けなくなった。空間と空間がくっつき、ある場所で腕が出ている。そんな状況で腕を動かすことはできない。動けてしまえば、世界に同時に2つの腕が生まれることになる。そんな不整合を世界は許さない。出るのならば、腕ごと失う必要がある。腕を千切って出るしかない。

 だが、そんな状況の中でも藍の表情には不敵な笑みが浮かんでいた。

 

 

「いえ、関係ありませんよ。ここからだってできることはあります」

 

「何ができるというのかしら? 空間が閉じてしまった今となっては、貴方はこの空間から動けない。それこそ腕を千切らない限りね」

 

「できることなんていっぱいあります。なんだってできるのです。今の私ならなんだってできます。できないことなんて意外と少ないのだと、紫様は知った方がよろしいかと思いますよ?」

 

 

 内に溜まる神力を開放する。そして、神力を与えてくれる祈祷者である少年に語り掛ける。

 力を貸してほしいと。自らの望みを伝える。右腕を元に戻したいと告げる。空間を元に戻したいと告げる。

 

 

「―――願えば叶う」

 

 

 右手を右にずらす。藍の右手がゆっくりと空間から戻ってくる。微かに歪んだ空間から返ってくる。まるで境界線を曖昧にするように繋いだ空間を無視して戻ってくる。

 

 

「そんな!?」

 

 

 紫は、目の前の光景に驚きの表情をにじませ硬直した。

 そして、そんな驚きの表情で固まっている紫を逃さないと言わないばかりに拳が突き立てられた。

 決して当たってはいけなかった攻撃が紫の体にめり込む。紫の体内から空気が勢いよく吐き出されると同時に、力を受けて後方に吹き飛ばされた。

 ほどなくすると吹き飛ばされた紫の背中に何かが接触して勢いが殺される。

 紫は痛んだ体を無理やり動かしてそっと後ろを見た。そこには、狐火が形を変えて網状になっているのが見えた。

 狐火がクッションになって紫の体を捕獲していた。先程までゆらゆらと炎のように揺らめいていた狐火が、網状になって紫の体を縛っていた。

 

 

「な、なんで」

 

「言ったでしょう? 和友の能力は酷く曖昧なものなのだと。境界線を引けるものならば引いてみてください。曖昧なものに境界線が引けると言うのなら、という話にはなりますけどね」

 

 

 藍が余裕のある表情で近づいてくる。ゆっくり捕えた紫に近づいてくる。

 リベンジはおおよそ果たされた。後は紫の心を捻じ曲げるだけだと言うように、悠然と接近する。

 

 

「狐火も最近まで全く使っていなかったので形状変化できるか不安でしたが、上手くいって良かったです」

 

(こうなったら和友を狙うしかないわね……)

 

 

 紫は、圧倒的優位な状況で迫って来る藍を見ながら心の中でそう思った。

 藍の力はあくまでも少年から送られているもので、少年を潰せば力の供給が無くなり神力が使えなくなる。

 現実論で言えば、藍を倒すよりも少年を倒す方が圧倒的に楽である。すぐにでも少年を倒してそこから藍を倒せばいい。効率と可能性と考えればその案が最も適当だった。

 しかし、紫は少年を傷つける選択肢を選びたくなかった。

 

 

(本当なら和友を傷つけずに押し通したかったけど、和友を殺さずに私の望む未来を手に入れたかったけど)

 

 

 少年を倒すことができなかったのは、後2年という寿命を抱えていながらも一生懸命に未来のために頑張っている少年のことを可哀想だと思っていたからだろう。記憶を曖昧にするという自己の存在否定ともいうべき選択まで選ばせて、そのうえで少年を傷つけることが躊躇われたからだろう。

 それはいうなれば、傷だらけの小犬に向かって足蹴りをするのと大差がない。

 しかも、その子犬の飼い主は自分である。

 随分と可愛がってきた。

 随分と助けられてきた。

 家族の存在を教えてくれた。

 幸せを感じた。

 なのに、それをくれた少年を自分が殺さなければならないなんて。

 ―――選びたくなかった。

 でも、より大事なもののために別の何かを犠牲にすることは必要なことだ。

 

 

(やりたくなかったけど、選びたくなかったけど―――やらなければ私の意志を通せない)

 

 

 藍を守るために、和友を殺すことは必要なことだ。

 選べる選択肢が他にないから。

 選ぶだけの力がなかったから。

 ここで藍に勝って、藍の記憶を曖昧にする力がなかったから。

 藍を救うために、少年を殺さなければならない。

 

 私の描いていた理想は、現実論のように見えてまだ空想レベルだったようね。

 藍が思い描いているものと同じで、あくまでも理想論の一つだったということかしら。

 藍の記憶を曖昧にして。

 和友には納得した上で2年後に死んでもらう。

 そんなことさえもできないなんて。

 藍に勝つことができていない時点で、想像は息絶えてしまいそうになっている。

 登るべき階段の大きさを見誤ったのは、私が無能だったからかしら。

 これじゃあ、藍のことを馬鹿になんてできないわね。

 

 紫は、少年に想いを馳せる。

 心の中で自らの決心を少年へと告げる。

 私のやることは―――最初から決まっていた。

 

 

(ごめんなさい、和友。私には選べるものが何もなかったから。選べるだけの力がなかったから。未来を信じられる強さがなかったから。貴方の期待には応えられなかった。だから―――許してとは言わないわ。恨むだけ恨みなさい)

 

 

 強がりじゃなかった。これがこれまで決心した重さを体現した言葉だった。

 恨まれるのは正直嫌だけど。

 少年を助けられなかった、望みを叶えられなかった自分自身の力の無さに苛立つけれども。

 この選択を選ぶことに迷いはない、そう思った。

 そう思った時、少年の声が聞こえてきた。

 

 

(いいよ、紫がそれを選んだのなら。僕は受け入れるよ。だって―――他ならぬ紫が選んだ道だもん。僕は紫の背中を押してあげる。紫が僕を応援してくれたように―――紫を応援してあげるから)

 

 

 少年の声が聞こえた。

 何もなかった独りよがりの心の中に、大きなものが乗った気がした。

 独りで決めた未来像に、大きな想いが乗った気がした。

 少年の言葉に責任が重くなった。

 だが、それを負っている人が一人じゃないという感覚が心を支えている。

 背中に何かが乗っている。

 温かいものが心の中に広がってくる。

 紫はそっと目を閉じてお礼を告げた。

 

 

(……ええ、ありがとう)

 

 

 瞳から自然と溢れ出た涙が一筋の線を描いた。

 今から殺そうというこの期に及んで和友が応援してくれている。

 背中を押してくれている。

 背中に添えられた手から僅かな温かさが流れ込んで来る。

 いつだってそうだ。

 いつだって、いつだって。

 ああ、この子は本当に卑怯だわ。

 そんなことを言われたら―――絶対に負けられないじゃない。

 

 

(紫、泣かないで)

 

(これは、私が泣いているんじゃないわ。貴方が泣かないから、貴方の代わりに泣いているだけ。貴方が泣かない分の涙を私が流しているだけよ)

 

(そっか……だったら、僕の代わりに存分に泣いて。泣いて、泣いて、前を向いて)

 

 

 ああ、これがそうか。

 藍の言っていた意味が今ならば分かる。

 覚悟を決めた想いが力を与えてくれる。

 自分一人がではなく、誰かに想われていることが力になる。

 誰かに支えてもらうのも悪くない。

 家族に支えてもらうのは、もっと悪くない。

 ねぇ、和友は幸せだったかしら?

 私たちと一緒にいて幸せだったかしら?

 私達と家族に成れて幸せだったかしら?

 聞くまでもないわよね。

 私が幸せだったのだから。

 貴方も幸せだったに決まっているわ。

 ―――和友、今だけ私の背中を支えて頂戴。

 

 

(紫の両足は、前に向いている?)

 

(ええ)

 

 

 私の足は、確かに前を向いている。

 求める物を求めて前を向いている。

 過去を全て引き連れて。

 全てを覚悟して。

 前を向いている。

 

 

(自分の気持ちが向いている方向は同じ?)

 

(ええ)

 

 

 気持ちと体は、同じ方向を向いている。

 心と体は、完全に同期している。

 今ならなんだってできる気がする。

 ―――準備はできたわ。

 

 

(だったら頑張れ。負けるな。いつだって前を向いて。僕は、いつまでだって待っていてあげるから)

 

「ええ―――当然よ。私が負けるわけないわ」

 

 

 その優しさが相手を傷つけるってあれほど言ったのに、何も変わらないのね。

 きっと生まれ変わっても、貴方は変わらないでしょうね。

 誰のためにでも生きて。

 誰かのために生きて。

 自分のために生きている。

 優しさは他人に与えるもので。

 厳しさは自分に与えるもので。

 そうやって相手を引きずり回して責任を感じてしまう人間。

 そんな貴方だからこそ―――家族になれた。

 そんな貴方だからこそ―――幸せだった。

 紫が流した涙の跡は、綺麗に消え去っていた。

 

 

「今何と言ったのですか?」

 

「私は負けないと言ったのよ」

 

 

 紫の目にぎらぎらとした決意の炎が燃え上がる。

 ―――境界操作。

 妖力弾をスキマへと放り投げる。

 狙うは―――和友の命。

 さぁ、いずれまた会いましょう。

 地獄でも。

 天国でも。

 来世でも。

 心の中でも。

 どこにいたって、必ず貴方を見つけてあげるから。

 

 

「さようならの挨拶よ! またどこかで会いましょう、和友!!」

 

「紫様!?」

 

 

 紫からの凶弾が少年に向けて解き放たれた。




紫の能力は、本当に何でもできて凄いですね。
対処法が次々に浮かぶから追い込む方法を考えるのが大変です。
さて、ここからどうなるのでしょうか。


感想評価については、お気軽にどうぞ。
気になることがあれば、聞いてくだされば答えます。ただ、物語の都合上まだ明かされていない部分に関してお答えできかねますので、ご承知の程よろしくお願いいたします。
みなさまからの感想や評価は、やる気になります!


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選択の果て、見つかった迷子の心

紫からの攻撃が少年へと向かう。
藍は、余りに予想外の行動に慌てて少年へと手を伸ばした。


 紫の放った妖力弾がスキマを通ってショートカットしながら少年に接近する。

 藍は勢いよく振り返り、少年の下へと駆けた。

 

 

「間に合え! 間に合ってくれ!」

 

 

 藍は、必死に少年の下へと急ぐ。

 しかし、明らかに紫の妖力弾の方が先に少年に辿り着く。このままでは間に合わない。紫の放った妖力弾が少年に衝突する。

 紫の放った妖力弾は、人間である少年に当たれば即死すると分かるほどの力が込められている。そして、祈りの体勢に入っている少年が避けられる道理はない。確実に攻撃を受けることになる。

 

 力を使えば間に合っただろうか。

 神力を用いて結界を張れば、少年を守れただろうか。

 それは無理だっただろう。結界を張るとしても神力を少年の近くまで張り巡らせる準備に時間がかかってしまう。最も早いのが急いで少年の下へと向かうというもので、少年に向けて最速で移動していて間に合わないというのならば、間に合う方法は何一つなかった。

 

 ―――終わってしまう。

 こんな未来になるなんて想像していなかった。

 紫様は、和友を攻撃しないと無意識のうちに信じていたからかもしれない。

 思えば、和友との記憶を曖昧にする案も紫様が考えていたものだ。

 紫様は、和友と自分の依存性を薄めるために記憶を曖昧にするという極論を貫こうとしているお方だというのに―――和友に対して容赦するはずもなかったのだ。

 どうして気付かなかったのだろうか。

 そんな後悔が心の中を荒らしていく。

 

 

「届いてくれ!」

 

 

 必死に手を少年へと伸ばし、未来を守ろうとする。

 決して届かない手を伸ばし、未来へと突き進む。

 藍には少年を失う後悔を背負う覚悟が足りていなかった。

 

 

 

 

 紫と藍が空中戦を繰り広げている中―――激しい戦闘が空中で行われているのを見つめている者達がいた。

 空を見上げて視線を奪われているのは、レミリア、フラン、パチュリー、咲夜の4名である。皆の視線は、紫と藍の二人の戦いに注がれていた。

 

 

「速い、それに……綺麗。流れ星が空中に軌跡を描いているよう……」

 

「実際に自分の目で見ているというのに信じられないわね。まるで夢を見ているみたいだわ」

 

 

 レミリアとパチュリーからそれぞれに感嘆とした想いが打ち明けられる。

 いつまでも見ていられる気がする。それほどに何かを感じる景色だった。

 なんというのだろうか―――今見えている景色がまるで一枚の絵のように見えるのだ。黄金色に輝く九尾とそれに対峙する妖怪という構図が輝く月に映えている。

 そして、目の前の光景に視線を奪われている二人とは違った感想を持つ者がいた。

 

 

「あの戦いが終わったら、次は……」

 

 

 咲夜は、心に襲い掛かってくる恐怖に耐えていた。九尾の矛先が変わる可能性に怯えていた。

 これが終わったら―――次は自分の番だ。八雲藍が八雲紫を打倒してしまったら次は自分の番だという恐怖が体を震えさせる。

 殺してやると言っていた言葉が頭の中で何度も反芻される。そう思えるだけの藍との因縁が出来上がってしまっている。先程少年を殺そうとしたときに敵視されてしまっている事実関係がある。

 

 

「…………」

 

 

 両手を腕に回して震えを何とか抑えようとする。心が恐怖で凍えているのを止めようとする。

 だが、理性では抑えきれなかった。目の前で繰り広げられている光景が死を連想させた。圧倒的な力の差が殺される未来を想起させた。

 

 

(咲夜……?)

 

 

 恐怖に囚われた瞳をしている。その瞳はよく知っている目だった。何度も見た目だった。何度も鏡で見た目だった。何よりも知っている色をしていた。

 あれは、自分を見失ったときに見せる瞳だ。

 フランは、恐怖に染まっている咲夜にいち早く気付き、声をかけた。

 

 

「咲夜、大丈夫よ。私が咲夜を殺させやしないから」

 

「妹様……」

 

 

 相変わらず恐怖で染まった瞳がフランへと向けられる。

 これは、ダメである。

 人から受けた言葉では何も変わらない。大丈夫なんて何の保証もない言葉では恐怖は取り除けない。恐怖を打ち払うには約束された安全を得るしかない。もう襲われないという確約を貰うしかない。

 安全という保障を貰うためには何をすればいいだろうか。

 これは誰もが知っていること。社会で生きている者ならば、万人が知っていることをする必要がある。

 

 

「咲夜、謝りに行きましょう?」

 

 

 傷つけた人に謝りに行くのだ。悪いことをしたら謝罪する。

 そんな当然のことをやらなければならなかった。

 

 

「悪いことをしたら謝る。当然のことよ。咲夜は瀟洒なメイドなのだから当たり前のルールぐらい守れるでしょう? 和友ならきっと今からでも謝れば許してくれるはずよ」

 

「は、はい……」

 

「ほら手を出して。行くわよ」

 

 

 そっと咲夜の手を引っ張り、謁見の部屋から連れ出す。

 このまま恐怖を引きずってしまったら外に出ることを怖がるようになるかもしれない。外に出たら九尾が襲ってくる、命を狙われるかもしれない、そういう恐怖が外に出ることを躊躇させるかもしれない。そうなったら自分と同じで外に出る機会を失ってしまう可能性がある。

 そんなのは、余りに可哀想だ。余りに辛すぎる。

 フランは、そんな気持ちもあって咲夜を目的地へと先導していた。行先は、祈りを捧げているはずの少年のところである。

 迷わずに廊下を歩いていく。図書館を抜けて自分の部屋へと向かう。

 咲夜は、フランに手を引かれながら不安な気持ちを打ち明けた。

 

 

「果たして謝ったところで私のことを許してくれるでしょうか。私は、笹原の命を狙って、殺そうとまでしたのですよ」

 

「許されるのかどうか―――そんなものどっちでもいいわ」

 

 

 謝ったところで許してもらえるのか。

 フランは、咲夜が謝るということの意味を履き違えていることに気付いた。

 

 

「許してくれるかどうかが大事ではないのよ。許してもらうために謝るんじゃないの」

 

 

 謝るということは―――許してもらうことではないのだ。

 フランは、別にレミリアがこれまで自分にしてきた仕打ちを許した覚えなど微塵もない。レミリアの行為は謝って許されることではないのだ。押し付けてきた重さは無くなることはないのだから。謝ったところでなくなるものでは無いのだから。その罪を許すつもりなんて全くなかった。

 

 だとしたら、謝罪する意味とは何なのか。

 

 それは―――自分がしたことに対して反省していることを示すためである。二度と同じことをしないと、自分が悪いことをしたのだと、相手に示すことに意味があるのだ。

 

 

「悪いことをしたのだから、謝るということはしなければならない。だから謝りに行くの」

 

「…………」

 

「悪いことをしたら謝る、子供だって分かっていることだわ。許してもらうために謝るわけじゃないの。自分が悪いことをしたと―――反省していることを示すことが大事なのよ」

 

 

 フランの言葉を聞いて咲夜の口が塞がれた。別に許してくれなくてもいいなんて、咲夜の口からは口が裂けても言えなかった。

 死の恐怖が心を蝕んでいく。

 直ぐにでも救われたいという気持ちが先行する。

 かといって―――それを口にすることもできなかった。

 目の前のフランを見ていると、許してほしいという本心が醜く見えてひた隠しにしたかった。

 

 

「やっぱり祈っていたわね」

 

 

 結局咲夜の口は閉ざされたまま少年の下へと行き着いた。

 視界に入る少年は相変わらず祈りの体勢をとっており、跪いて願いを空へと送っている。

 フランと咲夜は、少年が祈っている場所の3メートル手前で停止した。

 

 

「今話しても仕方がないわ。今話しかけても何も聞こえていないでしょうし……和友が祈るのを止めたら謝罪しましょう」

 

「…………」

 

 

 そっと咲夜の手からフランの手が離される。フランの瞳は歪んだ咲夜の顔を映した。

 咲夜の顔は、緊張しているのか怖がっているのか強張っているのが見て取れる。これでは上手く謝罪できそうになかった。

 そう考えたフランは咲夜を気遣い、ある提案を持ち掛ける。

 

 

「もしも上手く謝罪できる気がしないのなら練習でもする? 今だったら練習し放題だと思うわよ」

 

「……そうします」

 

 

 咲夜は、1メートルほど少年の傍へと近づくと膝を地面について頭を下げる。俗に言われる、土下座という体勢である。

 誰も土下座を強要などしていない。誰もそこまでやれとは言っていない。それなのにそうなるということは、咲夜が自ら感じている心の形がそのまま姿勢に現れているのだと思った。

 土下座なんて知らなかったけれども。

 それがどれほどの意味を持つのか分からなかったけど。

 咲夜の少年に対して謝る姿勢はとても綺麗に見えた。

 さすがは瀟洒なメイドと呼ばれるだけのことはある。

 反省していることは、きっと歪まずに伝わるはずだ。心から許されたがっていることは伝わるはずだ。

 

 

「笹原さん……先程は、殺そうとして申し訳ありませんでした……」

 

「うんうん、後は和友が祈るのを止めてからね。和友のことだから謝れば許してくれるわよ。今度からは気を付けてくださいとでも言われる程度でしょ、どうせそんなものよ」

 

 

 咲夜の謝罪の形を見てフランの首が二度縦に振られた。

 フランの言葉を聞いて咲夜の頭が上がる。リハーサルを一度行ったおかげか、少しだけ表情に緊張が無くなり、雰囲気が軽くなった。

 

 

「妹様は、笹原のことをよく知っていらっしゃるようですね。私たちが笹原を待たせてしまって謝罪した時も妹様が口にされた言葉と同じようなこと言っていましたよ」

 

「へぇ、そうなんだ……っ!」

 

 

 唐突に力の波動を感じた。急いで力を感じる方向へと視線の向きを変える。

 視線の先には、妖力が込められた弾が少年に向けて飛来しているのが見えた。

 

 

「まずいわ!」

 

 

 フランは、すぐさま力を行使する準備に入る。自身の能力である「ありとあらゆるものを破壊する程度の能力」を実行する。

 視線を妖力弾に向け、物質の核を見るために集中する。ものの中核である目を探すのである。

 最速で―――自分ができる最高の速度で核を探し出す。妖力弾はすぐそこまできている。ミスは許されない。ミス=少年の死が結果として導き出される。

 フランは極度の緊張感を感じる中で能力を行使する。

 

 

「見えた!」

 

 

 目に力を集中すると妖力弾の目が見えた。一直線に少年に向かっている目が見える。後は、これを掌まで移動して潰すだけである。

 フランは、いつもやっている通りにいつもの台詞を心の中で呟いた。

 

 

(きゅっとしてドカーン)

 

 

 掌を握ったことによって妖力弾の目が潰される。手のひらに乗っていた目は跡形もなくボロボロと掌から落ちていった。

 握り潰したと同時に妖力弾が掻き消える。まるで、最初からなかったかのように空間から消えてなくなった。

 

 

「和友を殺そうっていうのなら、そうはさせないわよ。和友を殺すのは、‘私の役目’だから」

 

 

 フランは、妖力弾を放ったどこかの誰かに向けて言った。

 その直後、藍が少年の下へとやってきた。

 

 

「…………あ、あの」

 

 

 咲夜の足が目の前に現れた恐怖の根源によって動かせなくなる。

 さっきまで謝罪の練習をしたというのに、やはり本番になるとものが変わるように雰囲気が一転してしまった。動けなくなって、口から言葉が出てこなくなった。

 

 

「和友、無事でよかった……」

 

 

 藍の視界に咲夜とフランの姿は入っていなかった。

 一本の未来しか見えていない藍の視野は酷く狭くなっている。視野狭窄に陥っている藍の視界に入るのは、少年が無事だったという事実だけだった。

 

 

「っ……そこまでするのか! 和友を殺してまで望むものを手に入れようとするのか!!」 

 

 

 少年の無事に安堵した後―――藍の心の中に沸々と怒りが湧き上がってきた。

 怒りを込めた視線を危険を作り出した主である紫へと向ける。

 紫の表情には、自分がやったことに対して後悔している様子や罪悪感を覚えている様子は見受けられない。何の未練もない雰囲気だった。

 ふざけるな。

 何も感じていないのか。

 和友を攻撃しておいて何も想わないのか。

 辛いとも思わず、何も感じずに和友を殺せるのか。

 少年が来たことであれほど生活が幸せで溢れたというのに。

 家族として生きてきたはずなのに。

 それなのに、命を奪うことに抵抗を感じていない。

 そんな紫の態度に苛立ちが募る。これまで積み立ててきたものを簡単に突き崩すことのできる紫の選択に怒りが湧いてきた。

 藍は、少年を守るように少年の目の前で仁王立ちすると敵意を向けた視線を紫へと送った。

 

 

「今、和友を殺そうとしましたか? 本気で殺そうとしましたか?」

 

 

 確認のために質問を一つ放り投げた。

 答えなど最初から分かっている問いを投げかけた。

 それでも、その問いは藍にとって必要な問いかけだった。

 ―――自らの壁を一つ壊すために。

 ―――主である紫に対しての躊躇という障害を消し去るために。

 

 

「……そうよ、言い訳はしないわ。私は本気で和友を殺そうとした」

 

「例え紫様でも許しませんよ。和友を傷つける奴は誰だって許しません」

 

 

 紫からの回答を聞くや否や―――尻尾の中に少年を取り込む。大きな尻尾が祈りを捧げている少年を包み込むようにして球体を作り出す。

 少年の姿が尻尾にくるまれて見えなくなった。その様子は、まるで花という殻に閉じこもった実のようである。

 藍は、鋭くなった視線を紫へと向けながらゆったりと近づき、問答を繰り返す。

 

 

「紫様は、どうして和友を殺そうとするのですか?」

 

「和友がそうすることを望んでいるからよ」

 

 

 藍に対して迷いのない答えが述べられる。

 紫が少年を攻撃することを迷わなかったのは、少年自身がそれを望んでいるから。

 少年が紫の選択に対して背中を押してくれたから。

 だから、躊躇なんて何もなかった。

 だから、悩むことなんて何もなかった。

 支えてくれる、認めてくれる少年の存在があれば何も怖くなかった。

 藍の口から歯ぎしりする音が聞こえてくる。

 紫は、緩やかに距離を詰めてくる藍の歩みを止めようと妖力による結界を藍の四方に張り巡らせた。

 

 

「―――四重結界」

 

「無駄ですよ。結界の類もこの力には通じない。境界線を張ったものを根こそぎ打ち消す力です」

 

 

 紫の四重結界が蜘蛛の巣でも取り払うように引き剥がされていく。あってもなくても一緒と言わんばかりに、結界は意味をなさなかった。

 紫の表情が近づいていくたびに徐々に悲しそうな表情に変化する。

 どうしてそんな顔をしているのか。

 どうしてそんな顔を見せるのか。

 藍は、紫の表情を見て心の内に溜まり込む怒りに我慢できなくなった。

 

 

「どうして紫様は和友を殺すようなことを、そんなことをそんな顔でできるのですか!?」

 

「和友から伝えられているでしょう? あの子は殺されたがっているの。心から殺されることを望んでいるのよ」

 

 

 なぜ、和友を殺すことができるのか。

 聞いたのはさっきと同じ言葉だった。

 聞こえてきたのはさっきと同じで納得できなかった言葉だった。

 聞きたいのはそういうことじゃない。

 違う―――そうじゃないのだ。

 藍は、頭の中でぐるぐると勢いよく回って複雑になっている感情から必死に疑問を探す。そして、自分が最も聞きたいことを紫へと尋ねた。

 

 

「……和友がそう思っていたとしても、それでも、助ける方法を探そうとは思わないのですか!? 助けようとは思わないのですか!?」

 

「助けようと思わない?」

 

 

 藍の質問を聞いた紫の表情が怒りに染まる。

 紫が少年を助けることを諦めたのは、助けたくなかったからではない。少年のことをどうでもいいと思っていて助けたくなかったからではない。少年が助けて欲しいと言わなかったから助けたくなかったわけではない。

 助けようと思わないのは―――助けられないからだ。

 助けられないから―――助けようと思うことを止めたのだ。

 

 

「助けようとは思ったわよ。助ける方法がなくて、助けられる可能性がないことを知って、だったら―――和友の願いを叶えてあげようと思っただけ」

 

 

 どうして見えないものに縋ることができるのか。

 どうして手をかけるところのない壁を登れる道理があるのか。

 助ける方法がないのならば、少年が望む形を作った方がよっぽど意味があることのように思える。

 この問答は、次の問いに似ている。

 貴方は、明日死んでしまいます。

 貴方は、今からどうしますか。

 助かる方法がないか探す―――これが藍の意見だ。

 生きている間にやりたいことをやっておく―――これが紫の意見だ。

 極端な例ではあるが、今両者に問われている選択と大きな違いはない。

 こう考えると藍の意見がいかに異質か分かってもらえるはずである。藍の考えは、助かる方法を探すというもの。病気の人間が助かるために手術するという具体的なものではない。助かるために何をすればいいのかを探すというものだ。

 紫には、そんな曖昧なものに頼ろうとしている藍の考えが全く理解できなかった。

 

 

「藍、貴方は和友を助ける方法を見つけることができたのかしら?」

 

「…………」

 

「そう、‘貴方も’見つけられていない。なのに、まだあの子に期待を背負わせようとしている。重たいものをまた背負わせようとしている」

 

 

 生きていて欲しいという期待がどれほど和友に重荷を背負わせたことだろうか。

 これまでどれほどの荷物を抱えさせてきたのだろうか。

 

 

「もうこれ以上、和友を傷つけるのは止めなさい。抱えきれなくなっているあの子にさらに荷物を与えるのは止めなさい」

 

 

 和友は、もう抱えきれないところまできている。抱えきれなくなって死んでしまうところまで来ている。

 少年の代わりに背負うことができればいいのだが、それは少年だけが持てる荷物であり、誰かが代わりに持ってあげるということはできないものである。

 その荷物は、「少年だから」背負わなければならなくなったもの。生まれたときから体に不自由を抱えている人間が、最初から荷物を抱えていて他の者が代わることができないのと同じ類のものである。

 

 

「和友は、ずっと歩き続けている。死というゴールしかない道を歩き続けている」

 

 

 少年は、大きな荷物を背負って階段を登っている。

 少年が登っているのは富士山でもないし、エベレストでもない。宇宙空間の遥か果てにまで続いているように先が全く見えない場所である。

 そんな場所に進んでいる―――死ぬまで終わりが見えない耐久レースをしている。

 

 

「諦めることも許されず、投げ出すことも許されず、その重い足をひたすらに前に進めているのよ。それしかできないから―――和友は前に進んでいるの。だったらそれを止めてあげられるのは私達しかいないでしょう? 家族である私たちが止めてあげないと誰が止めてあげられるっていうの!?」

 

 

 普通の人間ならば、とっくに放り投げてしまっていることだろう。

 辛かったら逃げてもいい。

 立ち止まってもいい。

 別にそれは悪いことでもないし、異常なことではない。

 だが、そんな普通のことが少年には許されていない。普通に生きるという目的のために、死んではいけないという決まり事のために、歩みを止めることを許されていない。止めれば、心が拒否の姿勢を示す。自分自身の存在を嫌うことになる。

 逃げることを遮った両親のために、和友の背負っているものはどんどん重くなっている。そこに終わりを与えることは和友が望んでいること。そして、その方が良いと―――それが良いのだと紫も選択したこと。

 

 藍を失う選択肢を選びたくなくて―――選択したこと。

 

 紫は、例え少年が一撃で死ななくとも、何度でも何度でも殺すつもりだった。

 少年の心が生きたいと叫んだとしても。

 決まり事が死ぬことを許さなかったとしても。

 何度だって息の根を止めてあげるつもりだった。

 それだけの覚悟をしてきた。

 

 

「貴方は、そんなあの子にまた頑張れと無責任な言葉を言うつもりなのかしら? そうやって和友に重荷を背負わせるの? 冗談も大概にしなさいよ」

 

「……それでも、それでもです。諦めたくないのです!」

 

「私だって諦めたくないわよ!!」

 

 

 藍は、現実を見つめている紫とは違う。少年が苦しんでも可能性に賭けたいという「攻め」に見える「逃げ」を選んでいる。前に進んでいるように見えて後回しにしているだけの選択をしている。

 ―――それではダメなのだ。

 時間が解決してくれる話ではない。時間はむしろ選択の幅を小さくしていく。時間が少年を追い詰めていく。最終的に袋小路に追い詰められるだけだ。

 時間の制約にがんじがらめになる前に。

 出血多量で死んでしまう前に。

 今この時に選択を選ぶことが家族を守ることに繋がると―――紫は、自分の意見を信じて疑わなかった。

 

 

「だけど、どちらを選ぶかといわれたら私は藍を選ぶわ。藍が生き残ってくれる方を選ぶ! それが例え誰であっても―――藍を選ぶわ!!」

 

 

 藍の身体が紫の言葉に思わず硬直した。

 紫は言っている、少年と藍を天秤にかけたときに―――藍を選ぶと。

 

 

「だからこうして戦っているの。私は和友よりも藍が大事なのよ!! なんで分からないの!? どうして分かってくれないの!? 私は、藍にだって生きていて欲しいのよ!!」

 

「私は……」

 

「藍、貴方の望む未来って何? 貴方にはどんな未来が見えているの? 私に教えてよ。私を納得させて。私にそれを選ばせるだけの何かを与えてよ」

 

 

 紫の言葉にそっと頭の中で望む未来を想起する。

 自分が望む未来はどんなものだろうか。具体的に見える世界はどのような素晴らしい世界だろうか。

 自分が望む未来―――少年が生きている世界だろう。

 それで間違っていない。

 でも―――何だろうか。

 心の中にしこりが残っている。何か足りないものがあるような気がして、それだけで満足できない自分がいるようで、口が「少年の生きている世界」だという言葉を吐き出そうとしなかった。

 そんな足が止まっている時、思考を遮るように声が聞こえてきた。

 

 

「迷っているね」

 

「和友!?」

 

 

 藍の背中にそっと少年の両手が添えられる。

 両手から伝わってくる温かさが藍の心を落ち着かせる。それに合わせるように藍が纏っていた神力の鎧がほどけていった。

 

 

(神力の衣が消えた!? 今しかないわ!)

 

 

 少年が祈るのを止めたからだろうか。

 紫は、一瞬で状況を察して力を溜める体勢を作る。藍の意識を確実に飛ばすことのできる一撃を用意するには時間が必要になる。

 それは、神力の衣があろうがなかろうが関係ない。藍は、それ本来だけ見ても九尾の妖怪である。全力で攻撃しなければ撃ち落とすことは不可能だ。

 妖力が紫の突き出した両手に勢いよく集中していく。紫色の光を帯びて色が濃くなっていく。

 準備している紫のことを知ってか知らずか、少年から藍に向けて次々と疑問が投げかけられる。

 

 

「悩んでいるみたいだから紫の代わりにもう一度聞くよ。藍は―――どんな未来を求めているの?」

 

「私は、和友が生きていける未来を……」

 

「それだけでいいの? 藍は、僕が生きていければそれでいいの?」

 

 

 藍の望む未来は、その口から出た言葉とは違っている。

 確かに藍は少年が生きていける世界を望んでいるだろう。一緒にいる未来を欲しているだろう。間違っているのかと問われれば別に間違ってはいないのだが、足りないものがそこにはある。

 少年は、それだけではないと知っていた。

 いつも藍と一緒にいた少年は知っていた。

 いつもマヨヒガでみんなと一緒にいた少年は、藍の本当の望みを知っていた。

 

 

「違うでしょう? 藍が求めているものは、そんな程度のものじゃないでしょう?」

 

 

 藍が望むのは少年の生存ではない。

 藍が望む場所はもっともっと高いところにある。

 今ある少年を助けるという障害のさらに奥―――さらに高いところにある。

 

 

「藍の望んでいる未来は、ここで紫を倒して、紫の意志を踏みにじって、紫の想いを見捨てて、それで叶えられるものなの? 藍の心はそれでいいと言っているの?」

 

 

 迷いを持っていることは祈りを捧げているときに分かった。

 そして、迷いの原因も分かっている。

 答えは目の前にある。

 

 

「目の前の紫をしっかりと見てあげて。紫は、藍を守ろうとしている。これから続くマヨヒガの生活を守ろうとしている―――家族を守ろうとしている」

 

 

 紫の想いは真っ直ぐに伝えられている。藍が大事なのだと真っ直ぐに伝えられている。紫から少年よりも藍が大事なのだという選択の想いを受け取っている。家族というものを崩壊させたくないのだという気持ちを伝えられている。

 紫の想いは分かった。

 それを抑え込んでまで、無視してまで、藍が目指すべきが少年と一緒にいる未来なのだろうか。藍が守りたいのは少年だけなのだろうか。

 

 ―――違うはずだ。

 

 少年は、知っている。

 藍にとって大事なのは、自分の存在だけじゃないということを。

 

 

「藍が守りたいものは、何なのかな?」

 

 

 探せば見つかるはずだ。

 心はいつだって嘘をつきたがる。

 本心はいつだって迷子になる。

 探してあげて。

 嘘つきな心の、本当の気持ちを見つけてあげて。

 僕を見つけた藍なら―――絶対に見つけられるはずだから。

 

 

「答えは、いつだって心の中にあるんだ。本当の自分の気持ちを見つけてあげて」

 

「私の、本当の気持ち……」

 

 

 心の中にあるはずの答えを探す。

 今までの暮らしを思い返す。

 これまで自分が何を感じて。

 今まで何を想って。

 どうしてこうなっているのか。

 藍は、過去を振り返る。

 

 

 紫の妖力が密度を上げていく。

 一撃で落とす。動きの止まった今がチャンスであると言わんばかりに、上限を突破してさらに妖力を込められる。

 

 

「私は、私の望む未来は……」

 

 

 私は、何を守りたかったのだろうか。

 私の生活は、2年前と何が変わったのだろうか。

 何が愛しくて、何を大事にしてきたのか。

 和友が来て、皆が変わった。

 今の生活が、楽しかった。

 今の家族としての形が幸せを与えてくれた。

 ―――私は、何を守りたかったのか。

 ―――私は、何を望んでいる?

 そう心に問いかけたとき―――迷子(本心)が見つかった。

 

 

「そうだ……和友が笑っていて、私も笑っていて、橙も笑っていて、紫様も笑っていなければならないのだ。それが―――私の望む未来。それが、私の望む家族の形だ……」

 

 

 本心を見つけ出した藍の顔に優しい表情が浮かぶ。

 もうすでに発射する体勢を整えて力を蓄えた紫に向けて優しい表情を浮かべる。

 今から攻撃されるなど口ほどにも思っていない様子で。

 全てを受け入れるような顔で。

 背中に確かな重みを持って。

 両手を広げて紫に近づいた。

 

 

「紫様、紫様も一緒に笑っていられる未来が―――今の家族の形が私の願う明日の形です」

 

「藍、ありがとう。心からのお礼をあなたに告げるわ。安心しなさい、未来はいつだって私たちの手の中にある。誰かが握っているわけじゃない、私たちが未来を作っていくのだから」

 

 

 紫は、一切の躊躇をしなかった。

 構えた両手から放たれる妖力の波は、全てのものを押し流した。

 




紫の攻撃から少年が助かる方法は、これしか思い浮かびませんでした。
予測できた人も多いのではないでしょうか。

次の話で第5章は、完結する予定です。


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失ったもの、残されたもの

この話が第五章のラストになります。


 藍は、空に輝く月を見上げていた。

 雨が降ると思われた天気だったが、雲はどこかへ行ってしまって月だけが独りきりで夜空を独占している。独りきりの月は、真っ暗な寄るの中でくっきりと世界を照らしていた。

 

 

「やっと見つかった。私の本当に欲しかったものが、私が最も描きたい未来が」

 

 

 そっと月へと手を伸ばして握り締める。

 自分の欲しかったものが見えた。自分が目指すべき未来の形がはっきりした。自分が本当に大事にしていたものが何なのか分かった。

 迷子になっていた本当の自分の気持ちがうるさいほどに叫んでいる。

 見えている月のように目立って強調されている。

 二度と見失うものか。

 絶対に忘れない。必ず見つけてやるから。

 だから、少しの間待っていてくれよ。

 少しの間だけ、独りで泣いて待っていてくれ。

 私が和友の心の中でそうであったように。

 私がお前の手を握る―――その時まで。

 そんなことを考えていると、月を覆い隠すようにある人物の顔が視界を覆った。

 

 

「和友、無事か?」

 

「見ての通りボロボロだよ。怪我をしていないところを探す方が難しいぐらいだ」

 

「ははっ、紫様は容赦ないな。私も動けそうもない、喋るのがやっとだ……」

 

 

 視界に映る少年は、全身ボロボロだった。拳で殴られた傷から、ナイフで刺された傷から、たった今撃ち落された衝撃による傷で体中が傷だらけだった。

 最後の紫の一撃に限って言えば、ほとんど藍が一人で受けた形になっていたのでダメージは少ないようだが、落下の衝撃が相当大きかったのだろう。少年の瞳からは力が感じられなかった。

 そんなボロボロの少年に対して藍の怪我もかなり酷かった。口を動かして話をするのがやっとの状態である。

 藍は、本当に容赦のない方だと―――少し笑った。

 

 

「はぁ、負けた負けた。やはり紫様には敵わないな。二人ががりでこのざまだ」

 

 

 大きく深呼吸をして目を閉じる。そして、伸ばしていた手をゆっくりと落とした。

 体はあおむけで、地面に寝転がっている。

 なんとも清々しい気分だった。負けたのに、これから大きなものを失うというのに、それほど後悔の気持ちが押し寄せてこない。不思議と笑みが浮かんでくる。心にのしかかってくるものは特になく、もともとあったものだけが光を放っていた。

 

 

「次は負けませんよ。次は私の希望で紫様の覚悟を打ち破って見せます」

 

 

 未来を、将来を、希望を持って迎えられる。

 いや―――迎えに行ける。

 自分から光のある方向へと歩いていける。

 

 

「その時は僕も一緒に」

 

「ああ、その時も一緒に」

 

 

 少年の手が倒れ込んでいる藍の手をそっと握った。

 この温かさがあれば、進んでいける。

 

 

「和友の手はいつだって温かいな。安心できる温度だ。私にとってちょうどいい温度だ」

 

 

 温かい温度が藍へと伝わってくる。

 この温度を守りたくて戦った。

 この温かさを守りたくて戦ったのだ。

 本心を見つけるまでに時間がかかって後悔している部分もあるが、その後悔を背負って歩いていけるだけの力は残っている。

 いつか、その後悔が力に変わる。

 二度と後れを取らないと心に誓う。

 今度は、私から先制攻撃を。

 今度は、私の方から手を差し出すから。

 私が和友に手を差し出すからな。

 藍は、にっこりと笑って空へと微笑みかけた。

 少年は、微笑んでいる藍に向けて優しく言った。

 

 

「おやすみなさい。また明日、いいことがあるといいね」

 

「ああ、おやすみなさい。今日はぐっすり眠れそうだ」

 

 

 ここにあったのは、いつもの日常だった。

 眠っているのが自分の部屋の布団ではなく、冷たい地面だという点はもちろん違っている。ここが紅魔館でマヨヒガでないことも違っている。何一つ共通点がないように思われる状況だった。

 だが、不思議と冷たさは感じなかった。

 少年の手から伝わってくる温度がいつもと変わらなかったからだろうか。

 届いた少年の声はこれまで聞いてきた中で一番安心する声だった。

 体中が温かな温度に包まれている。

 明日も、きっといいことがある。

 今ならば、そんな希望を持って明日を迎えられる。

 そんな気がした。

 そんな気がしたことが、心を健やかにさせた。

 そんな日常の一部が、心を温かくした。

 

 

「藍……」

 

 

 紫の口から少しの戸惑いが含まれているような声が吐き出される。

 紫の瞳は藍を心配するような視線を送っていた。

 後悔しているのだろうか。

 行動の結果を見て後ろめたさを感じているのだろうか。

 藍は、僅かに後悔の色が見え隠れする紫の顔を見て黙っていられなかった。

 

 

「紫様、私はきっとみんなが笑顔でいられる未来を掴んで見せます。この手で探して掴んで見せますから。覚悟していてくださいよ」

 

 

 藍からの宣戦布告が告げられた。

 今から少年に関する記憶が曖昧になって、少年のことを忘れてしまうというのに。

 過去の重みを失ってしまうというのに。

 藍の口から出てきた言葉は、未来を掴んでみせるという希望に満ちた言葉だった。

 藍の言葉で紫の顔から暗い表情が消える。

 紫は、藍と同じ不敵な笑みを浮かべた。

 

 

「ええ、待っているわ。貴方が希望を見つけるまで、貴方が全てを取り戻して、全てを手に入れるその時を心から祈っている」

 

「……ははっ、本当に―――今日はいい日でした」

 

 

 大きく息を吐く。全身からゆっくりと力が抜けていくのが分かる。体の先端からどんどん動かなくなっていく。

 藍は、最後に残った力を振り絞って口を動かした。

 

 

「また明日です。明日も、いい日になるといいですね」

 

「「おやすみなさい」」

 

「おやすみなさい」

 

 

 その言葉を最後に―――藍の意識は完全に失われた。

 少年と紫は、満たされたような表情で眠る藍を見て、微かに笑みを浮かべた。

 

 

 

 藍が意識を失った後、さまざまなことがあった。

 

 意識を失って眠ってしまった藍をマヨヒガへと移動させ、布団に寝かせる。

 眠る藍の様子を見る紫の目は愛しいものを見つめるような瞳だった。少しだけ傷ついた手で優しく藍の頭をなで、お疲れ様とねぎらいの言葉をかける。

 その時の藍は少しだけ嬉しそうな顔をしていたように思う。眠ってしまって意識がないというのにそんなふうに見えた。気のせいだと思うけど、そう思ったんだ。

 

 藍を運んだ後、紅魔館へと再び戻り、レミリアへと事情説明をした。

 その途中で咲夜から少年へ謝罪が行われた。

 

 

「笹原さん! 誠に申し訳ありませんでした!」

 

「別にいいですよ。命を狙われるようなことをしてしまった私も悪かった、恨まれる方も悪いのです。それでも気にされるということでしたら、今度から気を付けてください。僕から言えることはそれだけです」

 

 

 少年は、特に気にしている様子もなく、今度から気を付けてくださいと言って咲夜を許した。

 フランは「やっぱり私の言ったとおりでしょ」と言いたげな様子で咲夜の背中をそっと叩く。その後、酷く安心した様子でフランと談笑を交わしている咲夜の姿が見られた。もう、恐怖に打ち震える心配はなさそうである。

 壊れてしまった紅魔館の修復に関しては、八雲紫も手伝うということで合意した。壊してしまった大半が八雲側の家族喧嘩が原因であるため、直さずに放置するということはさすがにできなかったようである。

 損害の補償問題の議論を終えると、もう紅魔館でやることは何もない。

 少年と紫は、大きな傷跡と大きな思い出を刻み付けて、マヨヒガという我が家へと帰ろうとしていた。

 

 

「それじゃあ、私たちはマヨヒガへと帰るわ」

 

「ちゃんと責任を持って直しなさいよ。これじゃあ雨風を防げないわ」

 

 

 レミリアは、紅魔館が壊れた状態であり、それを直してもらえるのかについて危惧しているようである。紫という人物にあまり信用が無いようで、本当に直してもらえるのか謎であるということも不安の要素としてあるのだろう。吸血鬼が流水を苦手としているというもの一つの要因となっているのだろう。

 紫は、レミリアの信用のない台詞に少しばかり苛立つ様子を見せながらも、喧嘩を売るような台詞を口にした。

 

 

「しっかり直すわよ。貴方こそ、とびっきりのワインを準備しておきなさい」

 

「…………もちろんよ」

 

「貴方……賭け事をしたことを忘れていたわね」

 

 

 レミリアの反応はかなり鈍かった。きっと賭け事をしていたことを忘れていたのだろう。

 紫は、少しだけ呆れた顔をしながら笑いかけた。

 

 

「今度来た時、一緒に飲みましょう。それでいいしょう?」

 

「ええ、楽しみにしているわ」

 

 

 少年と紫は、颯爽と紅魔館の人間に向けて別れの言葉を口にする。

 

 

「「さようなら」」

 

「「「「さようなら」」」」

 

 

 挨拶の言葉が八雲側と紅魔館側で確かに交わされる。それと同時にスキマが展開され、少年と紫の姿は暗闇の中へと消えていった。

 

 

 

 

 ―――マヨヒガ―――

 

 辺りはもう真っ暗闇で、空からの星と月の光が降り注いでいる。マヨヒガの部屋の中も灯りは点いていない。

 真っ暗な中で3人の姿がシルエットもなく確かにそこに存在していた。

 

 少年は、眠っている藍の傍で静かに佇んでいた。紫も佇んでいる少年の傍にいた。横になっている藍の前で二人並んで座っている。

 これから行うのは、藍の中にある少年の記憶を曖昧にする作業である。

 少年の右手がそっと藍の額に乗せられる。藍の額からは確かな熱が伝わってくる。藍の腹部は呼吸のたびに上下している。生きている、確かにここに生きていることを示している。

 もうすぐ始まる。

 これまでを消す作業が始まる。

 すぐにでも記憶を曖昧にしようとする少年の行動に紫の口から不安の声が漏れた。

 

 

「本当にこれで良かったのかしら……」

 

「良かったかどうかは、これから決まるんだよ」

 

 

 紫の視線が少年に向けられる。

 少年の表情は凄く満たされていた。

 

 

「みんな後悔するかもしれない。辛い想いをするかもしれない。だけど、それを選んだんだから。だから―――きっと抱えて進んでいける」

 

 

 藍の記憶を曖昧にするために能力を行使する。

 曖昧にするのは少年に関わる記憶である。これまで積み重ねてきた2年間の思い出を曖昧にする。

 人里へ遊びに行ったことも。

 一緒にご飯を食べたことも。

 一緒に能力の練習をしたことも。

 何もかも分からなくなって。

 あったのかなかったのか分からなくなる。

 

 

「僕の記憶だけを曖昧にする。まぁ、そもそも僕の記憶に関する部分だけしか曖昧にすることができないんだけどね」

 

 

 少年の境界を曖昧にする程度の能力は、まだ完全に制御できるようになっていない。曖昧にすることができるのはあくまでも自分に関する記憶だけである。

 

 

「もう少しだけでも上手くなっていればよかったけれど―――高望みだよね。僕ができる限りをやった結果がこれなんだから、これ以上を望むのは傲慢だ」

 

 

 2年という月日の中で能力を一人前に使いこなすようになるのには無理があったのだ。

 2年という月日は、長いようで非常に短い。中学生の時に部活動で初めての何かを始めた人ならば理解しやすいだろう。2年間で上手くなるレベルなどある程度でしかない。2年間しかやっていない人は3年やっている人に大概勝てない。それは、2年と3年は大きく違っているからである。

 身についたというのは、そういう1年ごとの格差が小さくなってきたときに言うことができる言葉である。10年と11年は余り変わらないだろう。100年と101年は、もっと変わらないだろう。身についたという言葉が出てくるのは、そういう数字に曖昧さが出てくるところに来てからなのである。

 紫ですら数100年という時間をかけて能力を習得したのだ。少年が片手間のように数時間毎日やっていたところでできるようになったことなど、触り部分だけだった。

 

 

「おやすみなさい。いい夢を見てね」

 

 

 少年は、僅かに使えるようになった境界を曖昧にする程度の能力を行使し、藍の中にある少年という存在を曖昧にする。少年という存在を定義している境界線をふわふわとした曖昧なものにする。そして、それに関連する記憶の境界線も曖昧にして、思い出せないようにする。

 何時という情報を曖昧に。

 何をしたかということも曖昧に。

 何を想ったかという部分も曖昧にしていく。

 存在が書き換えられるように少年のことを思い出せなくなる。

 紫と永琳は、この作業のことを―――存在を削る作業だと称した。

 辛い作業だろう。

 自らを消してしまうような苦しみが伴うだろう。

 だが、少年には戸惑う様子も躊躇する雰囲気も全く見られなかった。

 

 

「辛くはないの?」

 

「辛くないよ。きっと、紫や他のみんなだったら辛かっただろうけど、藍に限って言えば全く辛くない。今の藍なら全く怖くない」

 

 

 少年の口からはっきりと辛くないと断言された。

 不安などなかった。

 心配することもなかった。

 あの時のことがあったから。

 実績がすでに生まれているから。

 一度できたのだ、何度だってできるさ。

 できなければ―――できるまで待っていればいい。

 できるまでだったらきっと生きていられる。

 それまで、辛抱強く待っていればいい。

 あいにく、待つことには慣れている。

 それがこれから少しばかり続くだけだ。

 

 

「そうだよね。僕は藍を信じている。藍を信じて待っていられる」

 

 

 少年の手が僅かに発光する。

 そっと目を閉じ、体に少しだけ力を入れる。

 後は、境界線を曖昧にするだけである。

 それで―――過去が分からなくなる。

 未来しか見る必要が無くなる。

 

 

「藍なら必ず見つけられるから」

 

 

 紫は、笑顔を見せる少年を見てクスリと笑った。

 心の底から藍のことを信頼しているのね。

 藍なら見つけてくれるって。

 迷子を見つけられるって。

 貴方は、ずっと待っていたんだもの。

 救いを持ってきてくれるヒーローの存在を。

 終わりをもたらしてくれる勇者の登場を。

 心の底から願っていたのだから。

 紫は、少年が藍にかざしている右手とは逆の左手をそっと握った。

 

 

「紫、ありがとう。でも、僕はもう大丈夫だから。僕は、もう見つけられた。進む道に不安はない。迷うこともきっとない」

 

 

 藍の少年に関する記憶は、次々と曖昧になる。少年の存在を曖昧にするところから始まり、それに付属している、関連している記憶を曖昧にする。

 藍の心の部屋にある入れ物の中に存在する少年に付属しているものを、別の場所に隠しておくのである。これで思い出そうと思ってもどこにあるのか分からなくなる。

 ついで、その記憶の形を変更しておく。見つけても、それがどんなものだったのか思い出せないように原型を消しておく。

 少年の行っている行為は、そういうイメージのものである。

 

 

「僕は迷わないから。願うべき未来のために全力疾走する。走って、走って、皆に追いついてみせる」

 

 

 少年は、もう迷うことはないだろう。求めるべき未来は決まっている。はっきりと見えている。そのために何をすればいいのかも分かっている。

 そして、それに立ちはだかって来るだろう存在も理解している。

 少年の望む未来には障害が立ちはだかる。確実に、絶対に、敵対してくる者が現れる。それは藍かもしれないし、他の誰かかもしれない。そんな曖昧な予測だけど、絶対に現れる。現れると知っている。それを押し通し、突き通す。そこまでもが少年が望んでいる未来の形である。

 みんなに追いつきたい。

 みんなと肩を並べたい。

 正々堂々と同じ土俵で勝負がしたい。

 その願いも網羅した未来予想図。

 最後の最後まで見えている階段の螺旋。

 登りきるためには、到達するためには、少年だけでなく周りの協力も必要だ。

 終わりを迎えるための環境を作り出す存在が必要である。

 

 

「これからは紫たちの番だ。僕がこれだけ大事にしているみんなだから、きっと期待に応えてくれるって信じている」

 

 

 紫は、少年の意図を自分なりに解釈した。死ぬ時に周りが引きずらないようにすること、それが少年の期待しているところだと考えた。

 本当はそれだけではないのだが、現時点で分かっていることが僅かであることを考えれば、ここまでしか出てこなくて当然である。

 紫は、自信を持って少年を安心させるようにはっきりと告げた。

 

 

「ええ、必ず―――和友の期待に応えて見せるわ」

 

「みんなが全てを塗り替えて、全部を塗り潰す未来を。僕ごとまっさらに真っ白にしてくれる、そんな未来を待っているから」

 

 

 真っ直ぐな視線が紫へと向けられる。

 その口からは、心の奥底にある望みが零れ落ちた。

 

 

「僕が安心して逝ける、そんな未来を作ってね」

 

 

 紫は、少年の言葉に確かに頷いた。紫の瞳はしっかりと少年の瞳を見つめている。

 少年は、嬉しそうに笑顔を作った。

 

 

「うん、これで終わりだ」

 

 

 光っている少年の右手が藍の額から持ち上げられる。

 どうやら記憶を曖昧にする作業はこれにて終了のようである。

 もう何もすることはない。曖昧になった境界線は紫の力でも元には戻せないし、少年自身の力でなかったことにすることもできない。もう後戻りはできなくなった。少年の記憶を取り戻すには、藍が自分で見つけなければならなくなった。

 

 

「さて……」

 

 

 少年の折られていた足が伸ばされる。もうやるべきことは全て終えたとでもいうように、そっと後ろを向いて部屋を出ようとする。

 どこに行くのだろうか。

 紫は、心の中に湧き上がった疑問を口から出した。

 

 

「和友は、これからどこに行くつもりなの?」

 

 

 少年はこれからどこで生活するのだろうか。

 これから少年はマヨヒガを出て行くことになる。藍の少年に関する記憶を曖昧にしても、ずっとマヨヒガに住んでいたのでは前と同じ環境が出来上がってしまうだろう。前と同じ―――依存する関係が出来上がってしまう。

 どうしても少年は、マヨヒガの外へと出て行かなければならない。マヨヒガではない幻想郷のどこかで生きていかなければならない。

 

 

「どこに、か。どこに行こうかな」

 

 

 少年が過ごすことができる場所は、何処だろうか。

 少年が繋がりを持っているのは、人里、妖怪の山、永遠亭、紅魔館のみである。

 消去法で考えれば人里一択だろう。

 永遠亭はあくまでも職場であり、永琳が少年を受け入れるとも思えない。

 紅魔館は問題なく受け入れてくれるだろうが、レミリアに対して言った少年の一言が後ろ髪を引いている。一度誘いを断っているということも、貴方では僕を見つけられないと言ってしまった言葉も、紅魔館を選ぶための足かせになっている。

 妖怪の山は人が暮らす場所ではない。あんなところに住んでしまったら、それこそ問題になる。問題を起こしてしまった際に椛や文の迷惑になることも考えられる。

 そう考えると人里に住むという選択が人間である少年にとって最も良い選択肢のように思われた。

 

 

「そうだね……特に決まってはいないんだけど、人里に行こうかと思う。マヨヒガには住んでいられないから新しい住居を探さなきゃいけないし……山本さんに相談してみようかな」

 

 

 少年は、どうやら筆一本の店主である山本に頼るつもりのようだった。

 確かに、少年のことを気に掛けている店主ならば、少年を家に泊めるぐらいわけはないだろう。聞いてみなければわからないが嫌な顔はしないはずである。

 それに、お金は自分で稼いでいるのだ。家賃としていくらかのお金を払えば、きっと泊めてくれるだろうと予測を立てることができた。

 だが、この選択はこれまでの繰り返しになる可能性がある。少年が危惧しているのは、自分の心の大きさが誰かを惹きつけるのではないかという部分である。

 惹きつける力は、店主に対しても問答無用で働くだろう。

 第二の藍が生まれてはならない。また、こうして記憶を曖昧にしなければならなくなる。こうして関係を断ち切らなければならなくなる。

 二度と記憶を曖昧にするなんてこんなことをしないように、こんなことにならないような関係を作る。それは、少年も望んでいることだと紫は思っていた。

 

 だとしたら―――最適な人物がいる。

 

 紫の知っている人物で他人に惹かれることのない人物。その場で浮いていて誰にも引き付けられない人物がいる。

 

 

「だったらいい場所があるわ。あの子ならきっとあなたの力の影響を受けないでしょうし、和友にとって居心地のいい場所になるはずよ」

 

 

 紫は、少年の考えを聞いて一つの提案を持ち掛けた。ある人物の下へと行くことを提案した。

 少年は、これまでに何度か聞いたことのある名前に少しだけ考え込む。

 その人物は、幻想郷で相当な影響力を持っている人物である。知名度もかなり高い。どこに行っても知っている人物しか見当たらないのではないかというぐらいには、その名が幻想郷中に広まっている人物である。

 果たしてそんな人物の下へ行ってもいいのだろうか。もしも惹きつけるようなことがあれば、幻想郷に大きな影響を与えることになる。

 不安そうに少年の視線が紫に向けられる。紫は、安心しなさい、絶対に大丈夫だからとでもいうように確かな視線を返してきた。

 

 

「あの子には、私の方から説明しておくから」

 

「分かったよ」

 

 

 さて、だとするとこれからどう移動すればいいのだろうか。記憶の中から向かうべき目的地を記憶の中から引っ張り出す。

 この場所も幻想郷の要所の一つとして覚えた場所である。

 頭の中で幻想郷の地図を想像する。想像の中で地図を描き出す。過去に藍がやったように霊力を使って地図を描き出すだけのレベルには至っていない。いつかできたらいいなと思いながらも、それができるところまでにはまだ時間がかかるようである。

 方角と距離を把握する。飛んでいけば1時間程度だろうか。今は怪我も治っていないため、3時間近い時間がかかりそうだった。

 そんな少年の心配を先読みするように紫の口から自分が連れていくと告げられた。

 

 

「荷造りしてきなさい。私が連れていってあげるわ。1時間後に貴方の部屋に行くから、それまでに準備しておきなさい」

 

「了解、急いで準備をしてくるよ」

 

 

 少年は、自分の部屋へと向かった。

 

 

「何を持っていけばいいのだろう?」

 

 

 持っていくべきものは何があるだろうか。これから生活するために必要なもの。衣類や生活に使うもの、布団やタオル、歯ブラシなども必要だろう。

 それに、藍が自分の残したものを見て何かを思い出す可能性があるものは残しておくべきではないかもしれない。そうだとするならば、自分が使用していた全てのものを持っていかなければならないのだろうか。あるいは、捨てなければならないのだろうか。

 

 

「結構境界線を引くのが難しいな」

 

 

 そんなことを考えながら自分の部屋へと入り込む。

 真っ暗な中で行灯に明かりを灯した。部屋の中がうっすらと見える程度に明かりが点いた。

 部屋の中がかすかに見えるようになる。もともと暗い中にいたため瞳孔も開いており、僅かな明かりでも十分に部屋の中を見渡せることができた。

 薄暗い視界にある人物の存在が浮き出てくる。

 少年の部屋の中には―――すでに先客がいた。

 

 

「和友は、マヨヒガから出て行くの?」

 

「橙、なんで……」

 

「だって、さっき紫様と話しているのを聞いたから……」

 

「あの話を聞いていたのか……」

 

 

 少年の部屋の中には橙の姿があった。

 どうやら先程の紫との会話を聞いてしまったようで、今にも泣きそうな顔で少年を見つめている。

 藍の記憶を消したこと。

 そんなことまでして出て行くことを知ったのだろう。

 それを知った橙の瞳には、マヨヒガから出て行かないでという気持ちが込められているようだった。

 少年の手が涙を瞳に浮かべている橙の頭をポンと叩いた。

 

 

「ほら、何泣きそうになっているんだよ」

 

 

 橙の頭の上から跳ねるように少年の手が離れていく。

 少年は、流れるように部屋の中を整理し始める。必要なもの、ノートや筆、衣服からカバンや袋に次々と入れていく。

 橙は、しばらく茫然と立ち尽くすと勢いよく振り返った。

 

 

「なんでマヨヒガから出て行くの!? 藍様のため!?」

 

「藍のため、それもあるけど。僕のために出て行くんだよ。どちらにしても、病気のせいで後2年しか生きていることができないのだから。少しだけ早くなっただけさ」

 

「後、2年……? 病気……?」

 

「そう、後2年。僕は病気で死んでしまう」

 

 

 橙は少年の言葉に唖然とした。知らない情報が頭の中をかき回す。頭の中が真っ白に染めあげてられていく。

 そして、少年が伝えてくれなかった、相談してくれなかったという怒りが心の中からふつふつと湧き上がってきた。

 

 

「なんで……!」

 

 

 どうして相談してくれなかったのか。

 どうして話してくれなかったのか。

 何も知らなかった。

 何も分かっていなかった。

 何も気づかなかった。

 信用されていなかった。

 負の感情が心の中に沸き立ち、暴れている。

 

 

「なんでよ! なんでいつもそうなの!?」

 

 

 少年は、怒りに染まっている橙を無視して荷物を整理していく。

 文房具は入れた。まだ読んでいない文の新聞も入れた。衣服も入れた。そして、出しっぱなしになっていた布団を押し入れに片付けようとする。畳に敷きっぱなしになっていた布団に腰を落として抱えようと手を広げる。

 その時―――唐突に訪れた衝撃に襲われ、少年は押し倒された。

 

 

「和友はいつもそうだ! 私に黙って大事なことは何も伝えてくれない。藍様のことだって、病気のことだって、何も教えてくれない!!」

 

 

 少年を布団の上に押し倒す。少年が起寝返りを打って仰向けになると、少年を制圧するように上に覆いかぶさる。少年の両肩は、がっちりと橙の両手で押さえつけられた。

 少年の顔の前には、涙を流している橙の顔があった。

 

 

「なんで!? なんでよ!? なんでなの!?」

 

 

 少年の頬に橙の涙が付着する。流れ落ちた悲しみは少年の頬を濡らした。

 泣いている橙を見つめる少年の瞳は、酷く優しかった。その向けられる瞳に我慢できなくなる。涙が止めどなく流れる。

 その感情に抗うように、力強く少年の服を握り締める。

 橙の心の壁は、もうすぐ決壊するところまできていた。

 

 

「どうして何も教えてくれなかったの!?」

 

「橙はきっと話してしまうから。藍にこのことが漏れたら全部が台無しになるから。結局……黙っていることなんてできなくて話してしまったけどね」

 

「どうして私を信じてくれなかったの? 話さないでっていわれたら、私だって……」

 

「いいや、橙はきっと話したはずだよ。僕は、橙がきっと正しい選択をすると思ったから。橙が思う正しさが、僕の思う正しさと違うことを知っていたから。だから話さなかったんだ」

 

 

 橙に病気のことを話さなかったのは、そこから隠すべき情報が漏れてしまうと思ったからだった。

 信用がなかったわけではない。信頼がなかったわけでもない。むしろ、橙のことを信用していたから、信頼していたから話さなかった。話すべきじゃないと思った。

 

 

「橙ならきっとこんな結末を望まないから。橙の望む未来は、きっと僕とは違っているから」

 

 

 橙ならば―――話すという選択を選んだはずだ。

 橙は知らないままで放置されて、知らない間に何かが決まっていることを嫌だと思っているから。藍と同じで、事実を話してお互いが最も望む結果になることを望んだはずだから。

 そんな橙の性格だから、話さないことを決めたのだ。

 

 

「僕は、橙と一緒に生活できて楽しかったよ」

 

「っ……」

 

「僕には兄妹がいなかったから。いたらこんな感じなのかなって、毎日が楽しかった。僕と橙じゃ、性格も姿も全然似ていないけどね」

 

 

 優しい少年の言葉を聞いてさらに握っている手に力が入る。握る手に力を入れすぎて、伸びた爪が刺さっているのが痛みとして伝わってくる。

 けれど、肉体的な痛みよりも、心が痛みで泣き叫んでいた。心が絶叫している。悲しみに泣いている。優しい言葉に―――心が頷いていた。

 

 

「僕は、だてに半年間も橙と家族として暮らしてきたわけじゃないよ。橙のことは良く知っている。ねぇ……橙も僕のことをよく知っているでしょう? 僕は頑固で、意地っ張りなんだ。だから認めて欲しい。僕の決断を応援してほしい」

 

 

 少年は、マヨヒガでの生活を楽しく過ごしてきた。

 藍がいたこともそうであるが。

 紫がいたこともそうであるが。

 やっぱり橙もいたから楽しかったのだ。

 別れ際になるとそう思わされた。

 こうして面と向かっていると、その存在の大きさを感じた。

 こうして別れ際になってみると、橙の存在を愛しく感じた。

 

 

「みんながいたから楽しかった。藍も、紫も、橙も、みんなが今を作ったんだ。僕は、みんなと家族として暮らせて楽しかったよ。今までで一番楽しかった。一番……楽しかったんだ……」

 

 

 誰かが欠けてもいけない。

 みんながいたから、マヨヒガでの生活は楽しかったのだ。

 藍と紫が母親と父親の代わりだとしたら。

 橙は、妹のような存在だったことだろう。

 新しい家族の形を作ったのは、橙という存在だったことだろう。

 我儘で自分勝手な部分もあるけど。

 生意気な部分もあるけど。

 何をするにも、楽しそうにしていた橙の存在が。

 何をするにも、一緒にやってきた橙の存在が。

 少年に楽しさを与えてきたのだ。

 少年の瞳からも涙がこぼれる。

 橙の涙が伝った後を追うように流れていった。

 

 

「橙は、楽しかった? この半年……いや、この1年僕と一緒に生活できて楽しかった?」

 

「うん……うんっ……楽しかったっ!」

 

 

 泣きながら少年に楽しかったと伝える。

 間違いのない、素直な気持ちを伝える。

 マヨヒガで過ごしたこれまでの思い出を込めて言葉にする。

 楽しかったなんて、当たり障りのない言葉だけど。

 それが一番合っている気がした。

 それがマヨヒガで一緒に過ごした日々を表している言葉な気がした。

 少年は橙の言葉に嬉しそうに笑う。笑顔を浮かべると、瞳に溜まった涙がまた一粒流れていった。

 少年は、そっと体を起こして両手を広げると橙の体をぎゅっと抱きしめる。

 

 

「楽しかったよなぁ、楽しかった。本当に、もったいないぐらいに楽しかった」

 

「うん……うんっ……」

 

 

 橙は少年に応えるように腕を回し、少年を抱きしめ返す。お互いの想いを伝えあうように心を重ね合わせた。

 橙を抱きしめたまま立ち上がろうと少年の足が動く。橙は、少年の動きに反応してそっと立ち上がった。

 立ち上がった少年の両手が前に出される。橙も少年の動きに合わせるように両手を差し出した。

 二人の両手が綺麗に重なる。

 

 

「和友、私たちはずっと家族だから。どこにいったって、私たちは家族だからね」

 

「うん、ずっと家族だよ。離れていても、ずっと家族だから」

 

 

 抱きしめている腕を外して少しだけ距離を離す。

 二人は同じような笑顔を浮かべていた。

 泣きながら笑顔を作っていた。

 

 

「私達は、家族だから」

 

 

 いつだって和友は卑怯だった。

 大事なことは全部隠したままで。

 大事なところでいつも口を閉ざして。

 私は、和友の過去に何があったのか詳しく知らない。

 病気であったこともつい最近知った。

 どんな病気だったのか。

 どれだけ苦しんだのか、全く知らない。

 でも、一緒に生活してきた生活は楽しかった。

 比較なんてできる思い出は持っていないけど。

 それでも、確かに楽しかったって言える。

 意地っ張りで。

 頑固で。

 一生懸命で。

 そんな和友と一緒に過ごしてきて楽しかった。

 生まれて初めて、一緒に会話をした。

 生まれて初めて、一緒に生活をした。

 生まれて初めて、一緒に遊んだ。

 生まれて初めて、一緒に料理をした。

 生まれて初めて、友達ができた。

 生まれて初めて、家族ができた。

 生まれて初めて、人間が好きになった。

 初めては、いつだって和友と一緒に作ってきた。

 離れていても家族だよね。

 距離なんて関係ないよね。

 どこに住んでいるかなんて、どうでもいいよね。

 私たちは、これまでずっと家族だったんだから。

 私たちは、これからだってずっと家族なんだから。

 

 

「だから、またいつか家族一緒に暮らせる日を」

 

「待っているからね」

 

 

 二人の気持ちは、同じところにあった。

 同じ気持ちを重ねた。

 そこには、寸分の狂いもなかった。

 

 

 二人は会話を終えた後、一緒に荷造りをした。楽しく談笑を交えながら今が深夜の真っただ中というのに疲れを見せることなく、笑って過ごした。

 

 

 少年と橙が移動するための準備を終えてゆっくりと時間を流しているとき、紫から声がかかる。部屋の中にスキマが開き、紫が少年の部屋にやってきた。

 

 

「和友、準備はできたかしら? もうすぐ行くわよ」

 

「分かったよ」

 

「……橙もいたのね」

 

「紫様……ちょっと眠れなくて」

 

 

 紫は、橙が少年の部屋にいることに少しだけ驚きの表情を見せたが、その様子から全てが終わっていることを悟った。

 話してしまった。そして、それを納得した。橙の表情からはそのことが読み取れた。

 少年は、荷物を抱えて部屋の中に開いた紫の隙間へと入り込もうとする。

 

 

「橙、さようなら」

 

「またね、和友」

 

 

 またねという言葉に、少年の顔に笑みが浮かぶ。

 そして、スキマへと足を踏み入れるというところで振り返り、橙に向けてある言葉を告げた。

 

 

「橙、約束をして欲しいんだ。僕と大事な約束を交わしてほしい」

 

「あっ……」

 

 

 少年の言葉を聞いた瞬間―――橙の脳裏に何かがよぎった。

 以前、こんなことを話した覚えがある。

 こんな会話をしたことがある。

 頭の中でうるさく何かが泣き叫んでいる。

 どこかで聞いたことがある。

 きっとこれは大事なこと。

 大事な思い出の一つ。

 そんな気がする。

 思い出して、思い出して。

 泣き叫ぶ声が聞こえる。

 探さなきゃ、探してあげないと。

 橙は、少年の言葉を聞きながら心の中で迷子(記憶)を探し始める。

 

 

「藍のことを守ってやってほしいんだ」

 

「和友、私……」

 

 

 橙の脳内に過去の出来事が一気に想起されていく。

 思い出される記憶は少年が闘病していた時の記憶である。

 橙は、少年に惹きつけられるように現れた。

 それは、怪我をして、飢えていて、辛かった時のこと。

 まるでそこが安全な場所だと分かっていたかのように本能がそこに行けと叫んでいた。

 黒猫の猫又は、本能の赴くままに少年の病室に紛れ込んだ。

 真っ白な病室だった、何もないような寂しさが感じられる部屋だった。

 そこに、一人の少年が眠っていた。

 動かなくなってしまった足で、まだ動く腕をノートに走らせ、疲れ切った顔で眠っていた。

 黒猫は、横になっている少年のお腹の上で丸くなった。

 

 

「お前は、何処から来たの?」

 

 

 少年の居る場所は居心地が非常に良かった。

 

 

「お前なんて呼び方で呼ぶのはおかしいな。名前を付けようか。嫌なら、嫌って分かるように示してね。僕のネーミングセンスはいまだかつて誰にも評価されたことがないから」

 

 

 少年の言葉は真っ直ぐに届いた。

 話している言葉の意味は分からなかったけど。

 それでも、なんとなく優しくされていることは分かった。

 

 

「○○は、マイペースなんだね。寝て起きて、寝て起きてだけをしているような生活で暇じゃないのかな? まぁ、僕は○○がいてくれると少しだけ気が楽になるよ。○○は、どう思ってる?」

 

 

 少年の居る場所は温かくて、優しくて、安心できた。

 温かい手は、いつだって守ってくれていた。

 いつだって、優しく頭をなでてくれた。 

 いつだって、優しい場所だった。

 ずっと―――ここにいたかった。

 

 

「○○、そこにいるよな」

 

 

 和友に呼ばれた―――行かなきゃ。

 目が見えなくなって、手も上手く動かせなくなった和友が私を呼んでいる。

 いろんなものが変わってしまっていく中で。

 相変わらず、優しくなでてくれる。

 相変わらず、優しい雰囲気でいる。

 ここは変わらず、温かい場所。

 

 

「○○に、頼みごとがあるんだ」

 

 

 そう、そんな場所で頼まれごとをしたのだ。

 大事な人から、守ってくれていた人から頼まれごとをした。

 名前をくれた人が優しい顔で、今にも死にそうな顔で頼んできたのだ。

 

 

「僕の代わりに藍を守ってほしい。藍は酷く不安定だから。依代が必要になる。僕は、もうすぐ死んでしまうから、きっとこのままじゃ引きずって大変なことになる。僕の代わりに○○が藍を守ってほしいんだ」

 

 

 何て呼ばれていたのかは、思い出せないけど。

 どんな名前を付けてくれていたのか、思い出せないけど。

 一緒にいたことは、確かに思い出せる。

 あの真っ白な部屋で、二人きりだった思い出。

 

 

「頼まれてくれるか?」

 

 

 私は和友の言葉に頷き、鳴いた。

 和友は、嬉しそうに私の頭をなでてくれた。

 私は、和友に助けられて、和友と共にあった。

 辛い時も一緒にいた。

 楽しい時も一緒にいた。

 半年前に橙という新しい名前を藍から貰う以前から。

 ずっと、和友と一緒にいたんだ。

 

 橙は、少年と共に過ごした病室での出来事をおおよそ思い出した。

 しっかりと伝えなければならない。

 あの時は、声が出せなかったから言えなかったのだ。

 言葉を口に出せなかったから言えなかったのだ。

 伝えなきゃ。

 少年を安心させることのできる言葉を。

 伝えたかった言葉を。

 今なら口に出して言えるのだから。

 

 

「藍様は私が守るから。だから、和友は安心していて」

 

「ありがとう、それじゃあ行くね」

 

 

 少年がスキマの奥へと消えるというとき、さらなる一言が橙から放り投げられる。

 

 

「それと、一緒にいてくれてありがとう。頭をなでてくれてありがとう。私を救ってくれてありがとう」

 

「……ふふっ、お礼が半年ほど遅かったね。恩返しは期待しているから」

 

「任せなさい! 和友なんていなくても大丈夫なぐらい、藍様を支えて見せるからね!」

 

 

 力強い橙の返事に、少年の顔に笑顔が浮かんだ。

 少年と紫はスキマの中に消えていった。

 確かな思い出をマヨヒガへと残して。

 確かな存在感を家族に残して。

 

 少年は、望むべき未来へと足を踏み出した。

 

 

 これは、少年と幻想郷の人々や妖怪が織りなす物語。

 そして、この先訪れるのは自らが望む未来を掴もうとする少年と別の未来を望む者達との物語である。




この話で第五章は終わりです。
そして、全ての話の半分が終了となります。

本当に、ここまで長かったですね。
橙の伏線もようやく回収できましたし、上手くまとまったと思っております。

次回の更新は、人物紹介を出そうかと思っております。
一応ここで話の全体の半分なので、これまでに出ているキャラクターのキーポイントを書きます。以前書いたものと大きく変わっていないキャラクターは、書きません。
人物紹介が終わりましたら、原作の方へと入っていく形になります。
大きく雰囲気が変わる可能性もありますので、ご了承ください。

感想・評価につきましては、気軽に書いてもらって構いません。
気になったことでも
面白かったところでもおかしなところでも
反応があると、読まれているということが分かるので
非常にうれしく感じ、やる気が出ます!


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※人物紹介

ここでは、作品に登場したキャラクターの紹介を行っています。
以前紹介したオリジナルキャラクターに関しては、そこから大きく変わっていないため、記載しておりません。

後半のキャラクターになるにつれて記載情報が減るのは、これまででメインとなっていないキャラクターであるためです。

これは、幻想郷にて書かれた東方求聞史紀とは、記載方法が異なります。
あくまでも、作者が書いたものです。
お気を付けください。


 普通に成りたかった異常者

 笹原和友 Kazutomo Sasahara

 

「結局、これもどっちを選んでも一緒なんだろうな。例えどちらを選んでも、どっちでもいい」

 

 誕生日: 12月25日

 年齢: 14歳

 所属: マヨヒガ(別居)

 特技: 速く文字を書くこと

 趣味: 練習全般、料理

 

 ニックネーム

 ・八雲紫の連れ子

 ・八雲藍の隣人(人里の人間から)

 

 周りの声

 ・和友は、誰かを引きずりながら走れるような人間で、誰かを押し切れる、誰かを変えることができる人間よ。和友の心は、誰にも縛れない。あんな子が私の下にいる? 従者? 馬鹿を言っちゃいけないわ。 八雲紫

 ・和友は、他人の痛みを分かってあげられる。和友は、根はやさしい子なのです。そんな普通の子なのですよ。 八雲藍

 

 外面

 特にこだわりのない無難なファッション。奇抜なものは、和友の普通という規則に引っかかる。幻想郷に来てからは、羽織袴が基本になっている。藍が作った青を基調とした着物も気に入っている。周りから見て、おかしいと思われない程度の服装になるように気をつけている。

 幻想郷に連れられた際に150 cm程度、2年後165 cm程度。手には、書き記す作業を行った形跡が見てとれる。

 

 内面

 負けず嫌いで、頑固。一度決めたことに対して曲げるということを基本的にしない。諦めるという言葉を知らない。心が広い。人を惹きつける。軟らかい雰囲気。優しさを兼ね備えている。周りに影響を受けない。普通に成れない自分を嫌悪している。

 

 作者のコメント

 主人公は、「誰とでも仲が良い人間なんてこの世には存在しない」という考えから思いついたキャラクターです。

 仲が良くなるには、理由が必要だろう。友達が多い人、慕ってくれる人が多い性格とは……と考えて能力の設定を作り、それと相反するような子供っぽさや、負けず嫌いな性格、はっきりとものを言う自我の強いキャラクターとすることで個性を出しました。

 小説の語り部にはあまり向いていないと思われるため、感情移入はしにくいかも。ある意味3人称設定でこそ生きてくるキャラクターだと思います。

 

 FAMILY

 父と母、そして和友の3人家族である。父母ともに和友の能力によって命を落としている。和友がこれまで普通に生きることができたのは、道を指し示してくれた両親のおかげである。和友の生き方を固定したのが両親である。

 

 KYE PERSON

 ・八雲紫

 幻想郷に来るきっかけになった人物。紫がいなければ、現在の生活を送っていないと豪語できるほど多大な影響を受けた人物の一人。ある程度の距離感を持って見守ってくれていることを知っている。家族としての関係は、父親。

 

 ・八雲藍

 幻想郷における生活の大半の世話をしてくれていた人物。多くの時間を共有している。溺愛されており、極度の心配性でもあるため、自分が死んでしまったら後追いするように死んでしまうのではないかという危うさを感じている。藍がいたおかげで心の中にあった目標に手が届く気がしている。家族としての関係は、母親。

 

 ・橙

 和友が病気だった時に出会った黒い猫又。闘病生活を支えた一つの要因。病気で苦しんでいるときに藍へと渡した。その際の記憶は、思い出せなくなっている。マヨヒガでは、兄妹のように遊んでいる。家族としての関係は、兄妹。

 

 ・山本勝

 人里に住む筆職人であり、和友の最初の理解者。初めて会った時に、本質に気づいてくれた人。この人がいたから闘病生活を乗り切れたといっても過言ではない。彼の作った筆を重用している。

 

 ・八意永琳

 理解者の一人。八雲紫と同等の役割を担っている。厳しさを持って和友へと当たり、和友のブレーキ役である。距離を保って和友の位置を確認している。万有引力の法則は彼女によって見出された。

 

 ・犬走椛

 尊敬している人物。自分に近い性質を持っていると思っている。決まり事を破らない、周りの評価に我慢ができる部分を凄いと思っている。

 

 ・フランドール・スカーレット

 和友へ変化の可能性を提示した。吸血鬼だって変われるってことを示した。彼女の変化が和友の未来への可能性を考えさせた。

 

 SPECIAL ITEM

 ・山本勝が作った一生使える筆

 和友の書き記す作業に一生耐えられるように作られている。最近調子が悪く、作り手である山本勝に預けている状態。

 

 KYE WORLD

 ・外の世界

 幻想郷の外にある世界。和友がもともと生活していた場所、家があった場所、友達がいた場所、家族がいた場所。ここに帰るために、能力を抑える努力を重ねてきた。

 

 

 普通であらなければ、そう思う優しき異常者

 普通に生きる。それを人生の指針として生きてきた。曖昧な能力が顔を覗かせたころ―――死に物狂いの努力が始まった。人、物、倫理等の区別を書き記す作業によって行った。

 境界線を曖昧にする能力によって、夢が現実に侵食し出した時、大きな損失を出しながらも八雲紫と出会うことになった。

 彼がいることで、停滞していた幻想郷での物語が大きく回り出す。周りを振り回し、周りを巻き込みながら引き付けていく。

 彼が起こす問題は、他者に与える影響の大きさゆえに起こる。彼は問題を起こしていない、起こしているのはあくまでも彼と関わった誰かである。

 彼がどんな影響を周りに及ぼし、周りを変えてきたか、それは作品を読んだものは皆が知っていることだろう。これからもそれは変わらない。彼が起こす出来事が、幻想郷の人々を巻き込み、変えていく。和友自身は、変わらずに。変わらない目標へと向かっていく。

 

 

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 変えられ、受け入れ、肯定した八雲紫の式神

 八雲藍 Ran Yakumo

 

「例え紫様でも許しませんよ。和友を傷つける奴は、誰だって許しません」

 

 誕生日: ???

 年齢: 数千歳?

 所属: マヨヒガ

 特技: 計算

 趣味: 料理(紫様には負けたくない)、和友との買い物(週一)

 

 ニックネーム

 ・八雲紫の従者

 ・九尾の妖怪

 

 周りの声

 ・両親の立場に最も近いのは、藍だったのかな……藍には、本当にお世話になったよ。勿論紫もだけどね。 笹原和友

 ・藍は、いつまで経ってもそんなことを言っているから駄目なのよ。だから私は、貴方に期待できないの。だから、私が守ってあげなくてはいけないと―――そう思わされるのよ 八雲紫

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、165cmぐらい。2年後の少年とほぼ同じ身長である。尻尾の毛づくろいには、時間をかけている。

 

 内面

 真面目。利己的。理性で物事を判断する。心配性。和友に対してのみ甘える(毛づくろい時など特に)。和友のことになると性格が変わる。和友が来たことで見えている世界に色がついて、日々を楽しんでいるようである。

 

 作者のコメント

 八雲藍は、主人公に問題提起をするキャラクターとしての立ち位置です。主人公に能力の弊害について考えさせる存在です。藍が自分の中の優先順位を変化させていくことで、和友に危機感を与えてくれています。

 和友が周りにあまり影響を受けないという特性上、彼女が特に大きな変化を受けることになるわけですから、どちらかというと彼女の方が主人公のポジションに近いかもしれません。途中から藍が主人公で和友がヒロインみたいなポジションにいるなぁと思いながら書いていました。

 

 

 KYE PERSON

 ・笹原和友

 初めて好きになった人。安心できる、一緒にいると楽しくなる。毎日が楽しくなった。だけど、その分苦しくなった。辛くなった。そして、新しい景色が見えた。自分という存在が浮き彫りになった。自分の気持ちに素直になった。和友には、生きていて欲しいと願っている。

 

 ・八雲紫

 式神契約の主人。何でもできる。面倒くさがりで、眠っていることが多いため、仕事が多く回ってくる。主である八雲紫のために存在していたといっても過言ではない。そう、和友が来るまでは。

 

 ・橙

 和友から送られてきたもの。式神契約を結んだことで、人型を得ている。溺愛している家族の一人。少年と同じような立ち位置にいるが、優先順位に若干の差がある。

 

 

 心を惹きつけられ、新しい景色を見つけた従者

 八雲紫の手足となって、役割をこなすことが全てだと思っていた。言われたことに対して一定の成果をあげ続ける、命令に従い任務をこなす、それが全てだと思っていた。

 そんなモノトーンな世界の景色に色がついた。色彩は七色で、心が揺さぶられた。喜怒哀楽では足りない、もっと複雑な感情を抱えた。新たな感情は、もともとあったはずの自我を呼び起こした。

 彼女が和友に振り回される形で変化を遂げ、物語の中核を担っていく。和友に見せつけるように、良い方向へ、悪い方向へ。本人に自覚はなく、新たな想いは密やかに募っていく。

 その結果―――決まっていたはずの優先順位に変化が現れる。理性で物事を判断する性格も、真面目な性格も、従順な性格も、変化を遂げ、大事なものが増えていく。

 彼女は、少年の物語の象徴である。彼女が主人公の影響を多大に受け、変化し、葛藤し、悩み、苦しみ、自らの未来を選んでいく。選んだ選択肢は、物語を読んでいればわかる。彼女が選んだ未来を掴むことができるのか、それは今後の彼女の変化次第といえるだろう。

 

 

 

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 少年を見守る幻想郷を作りし者

 八雲紫 Yukari Yakumo

 

「私は、私の家族を、大切なものを守るためにこの選択肢を選んだのよ」

 

 誕生日: ???

 年齢: 数千歳?

 所属: マヨヒガ

 特技: 境界を操ること

 趣味: 藍弄り、料理(藍に勝ちたい)

 

 ニックネーム

 ・妖怪の賢者

 ・スキマ妖怪

 ・幻想郷の創設者

 

 周りの声

 ・本当は誰よりも心が純粋で、みんなを大事にしている。幻想郷を心から愛している。過去も、未来も、とっても大事にしている、大切にしている、優しい人 笹原和友

 ・そういう紫様は、横暴なところが悪いところです 八雲藍

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。藍と同じぐらいか少し小さいイメージ。髪の手入れに時間がかかりそう。

 

 内面

 理性的。だけど、気まぐれ。自由な言動が多い。大体が適当。時たま真面目。面倒くさがり。藍を弄って楽しんでいる。最近は、逆に弄られることも多くなった。幻想郷のことになると人が変わる。普段は何考えているのか分からない。少年が来てから分かりやすくなった。

 

 作者のコメント

 八雲紫は、主人公を見守り、導く役目を担っています。彼女が物語を動かした人物です。彼女無くしては、物語は始まりません。作品の中でも、主人公の能力の対処法、生き方を提示しています。

 さらには、主人公に大きく影響を受け、それが問題というところまでになっている藍と比べて、比較的軽度で、日々が楽しくなった程度で済んでいる彼女が、藍を助けるためにいろいろ画策するというのも、話の流れとしては重要なポイントでした。

 

 

 KYE PERSON

 ・笹原和友

 外の世界から連れてきた。似たような能力に苦しんでいる。現在の家族としての形を作り出した。日々の生活を変えた。初めて、誰かに頭を下げてまで守りたいと思った。そして、心にある一番大切なものに気付かせてくれた。

 

 ・八雲藍

 式神。遥か昔から一緒にいた存在。面倒事を全部押し付けてきた。付き従ってついてきてくれた。いつも待っていてくれた。迎えてくれた。一番付き合いの長い家族。弄ると面白い反応を示す。最近生意気。だけど……大事。

 

 ・橙

 新しくできた家族の一人。藍の式神。まるで、和友が普通に育ったらこんなふうになるのではないかと思わされる存在。和友がそうさせたのかは分からないが、いない間の穴埋めには十分な役割を成した。十分すぎて、本当の家族の一員になった。かけがえのない家族の一人になった。

 

 

 境界線を弄り、時計の針を動かしたスキマ妖怪

 只の気まぐれだった。和友を外の世界から幻想郷へと連れてきたのは、ほんのちょっとの同情からだった。

 これほど生活が変わるなんて思っていなかった。変わっていないところもあるけれど、数千年の間何も変わっていないことを考えれば、和友の存在は劇薬だったことだろう。

 和友がいることで、起こってはいけない変化が起こっていく。できることはほとんどなかったけど、できる限りを尽くした。ほとんど、何も止められなかったけど、できることは全部やった。

 彼女は、和友のストッパーの一つとなっていた。悪くない変化に、悪い変化に、何が大切なのか、選択を迫られる。

 その結果―――自分が大切にしている存在に気付く。選ぶべき、自分の未来を定め、その目標への達成を目指した。少年の意志を肯定する形で、守るべきものを守るために、戦う。

 彼女は、少年の物語における被害者の一人である。変化を受け、大切なものの優先順位を問われる。それを、客観的な視点から、感情論と理論によって選択肢を選んでいく。

 例え、それが相手に受け入れられなくとも。

 例え、それによって大事なものの一つが無くなろうとも。

 彼女の選んだ選択は、揺らがない。

 

 

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 少年の友達であり、家族の一員である藍の式神。

 橙 Chen

 

 誕生日: ???

 年齢: 数十歳? 藍の式になってからまだ半年

 所属: マヨヒガ

 特技: 駆け回ること(なかなか早い)

 趣味: 和友と家事をすること、猫たちと遊ぶこと

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、130 cmぐらいのイメージ。見た目から元気溌剌な感じが伝わってくる。

 

 内面

 溌剌としている。動き回っている。常に誰かと一緒にいる。明るく、楽しんでいる。思うがまま発言している。雰囲気に呑まれることがないのは、知らないという理由からだろうか。

 

 作者のコメント

 橙は、大きく設定を作った人物の一人です。最終話を読めばわかりますが、役割は穴埋めです。小説内に書いたように、何かを失ってできた穴は、同じものでしか埋められません。しかし、そのままでは辛いですから、代わりで埋めようとします。その代わりが、彼女になるでしょうか。家族の一員として、新しい色を付けたのも彼女の起こした変化と言えるでしょう。

 彼女を主人公に据えて、派生の小説も書けないわけじゃないと思います。

 

 

 居場所のなかった迷い猫

 苦しかった。辛かった。なんでこんなことになっているのか分からなかった。どうして生きているのか分からなかった。

 そんな時、居場所を見つけた。居心地のいい場所だった。そこには、一人の人間がいた。その人間は、優しかった。居心地の良さは、その人間が作っていた。猫又は、そっと優しい場所で丸まった。

 どんどんと人間は弱っていく。声も小さくなった。撫でてくれる機会も減った。それでも、優しさはそのままだった。ここは、居心地のいい場所だった。

 声が聞こえた。呼ばれていると思った。行かなきゃ。人間は、何か言葉を口にした。何を言っているのか分からなかったけど、相変わらず優しい声だった。

 彼女は、藍の式神となる。人間の代わりに、その場所に収まり、約束を果たしていく。その約束は、今だって続いている。人間の帰りを待ちながら、ずっと守っていく。

 

 

 

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 笹原の父

 笹原?? ????????? Sasahara

 

 誕生日: 10月13日

 年齢: 享年47歳

 所属: 外の世界(少年の家)

 特技: 周りを引っ張っていくこと

 趣味: 写真を撮る

 

 外面

 よくいるサラリーマン風。メガネはかけていない。健康そうな肉体で、体力には自信が有る。身長は172 cmである。大きいといわれることもなく、小さいといわれることもない。

 

 内面

 結構な熱血で、競争心が強い。諦めない気持ちは、強い方。優しい。

 

 作者のコメント

 父親は、少年に強さを与える存在として登場してもらいました。少年の持つ能力を抑え込む際に、抱えて生きていく際に、心の強さが必要だった。その強さを与えるのが父親の役目でした。さらには、失われた時の重みを伝える役割を担ってもらっています。やっぱり、家族って偉大ですね。

 

 

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 笹原の母

 笹原?? ??????? Sasahara

 誕生日: 4月22日

 年齢: 享年47歳

 所属: 外の世界(少年の家)

 特技: 周りを明るくすること

 趣味: 料理、日記

 

 外面

 よくいる主婦。日本人の平均のような体形。身長は157cmである。大きいといわれることもなく、小さいといわれることもない。

 

 内面

 暗いなかでも明るさを見失わない。おちゃめな一面もある。優しい。暗い道を、手を引いて前に進むだけの強さを持っている。

 

 作者のコメント

 母親は、少年に優しさを与える存在として登場してもらいました。少年が周りに対して優しさを持たなければ、あっという間に世界が壊れてしまうので、思いやりの心が必要だった。失われた時の重みを伝える役割を担ってもらっています。やっぱり、家族って偉大ですね。

 

 

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 少年を観測する月の頭脳。

 八意永琳 Eirin Yagokoro

 

 誕生日: ??

 年齢: ?歳

 所属: 永遠亭

 特技: 薬を作ること

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、170 cmないぐらいのイメージ。藍と同じぐらいの高さ。

 

 内面

 頭がいい。客観視点を崩さない。常に一歩を引く形で状況を判断する。深追いしない。必要であれば、バッサリと切り捨てることができる。

 

 作者のコメント

 彼女なくして、物語は前へと進みません。客観的な視点から導き出される少年の能力の本質と言うべきか、弊害の部分に気付いたことで起承転結の転を作り出してくれました。彼女が主人公の立ち位置を明確にし、なさなければならない道筋を指し示します。紫とはまた違ったところから少年の存在を確認して、手を引いてくれる一人となっています。少年に対して怒ってくれるのは、彼女と八雲紫だけでしょう。

 

 

 

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 命の輝きに魅せられ、惹きつけられた逃亡者。

 鈴仙・優曇華院・イナバ Reisen Udongein Inaba

 誕生日: ??

 年齢: ??歳

 所属: 永遠亭

 特技: 師匠(八意永琳)の手伝い

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、165 cmないぐらいのイメージ。ウサギ耳が高いから身長が高く見えている。

 

 内面

 内気。自分から何かを言い出すことはほとんどない。師匠の言われる通り。能力もあって、人付き合いが苦手。最近徐々に前向きになってきたが……。

 

 作者のコメント

 彼女は、少年の能力の被害者の一人である。彼女の在り方は一つの可能性であり、少年に対して結果の一つを提示する存在となっている。このタイプが一番被害者の中でダメージを受けないタイプだと考えられる。能力が与えた影響によって、周りがどんな影響を受けるのか。彼女が今後どうなるのかは、これからを読んでいけば分かるはずである。

 

 

 

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 悩み、立ち止まったカラス天狗

 射命丸 文 Aya Syameimaru

 

 誕生日: ??

 年齢: ?歳

 所属: 妖怪の山

 特技: 速く飛ぶこと

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、155 cmぐらいのイメージ。翼は、出したり消したりできる。妖力で具現化している。

 

 内面

 明るく、ゴシップ好き。誰かと話すことが好き。止まらずいつも動き回っている。人の不幸も、人の幸福も、蜜の味。変わったこと好きで、笑顔を振りまいている。

 

 作者のコメント

 彼女は、少年の能力の被害者の一人です。鈴仙と同じで可能性の一つの提示をしています。現状では迷っているというのが最も正確な回答になるでしょうか。真実を知った時、虚実である可能性を悟った時、多くの人がとる行動―――立ち止まるという行動を起こしたのが彼女です。彼女が最も、少年との関係に苦労することになるでしょう。あくまでも予定ですが、そうなるのではないかと思っております。

 

 

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 規則に縛られ、待つことを強いられた従順な天狗

 犬走 椛 Momiji Inubashiri

 

 誕生日: ??

 年齢: ?歳

 所属: 妖怪の山

 特技: 遠くを見渡すこと

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、155 cmぐらいのイメージ。文と同じぐらいか若干高いぐらい。和友から貰ったマフラーと傘をいつも持っている。

 

 内面

 真面目で融通が利かない。規則を第一に考え、感情を押し殺している。周りに対する不満も飲み込んで、頑張っている。最近は、規則という鎖のタガが外れ始めている。

 

 作者のコメント

 彼女も主人公の影響を受けた被害者の一人です。彼女は、主人公と同じ境遇の存在として登場してもらいました。破ることのできない規則があって、それを破ると自分が自分ではないような気がして、行動に移るのを躊躇っている。だけど、そこに対して決断をする力を持っている。真っ先に動きを見せたのは、彼女が最初でした。

 彼女は、これからが本番です。これから先の物語で、より苦しくなって、より辛くなって、より強くなる。そんな存在として物語に刻まれていくことでしょう。あくまでも予定ですが。

 

 

 

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 鎖から解き放たれ、自由を掴む白さを纏った吸血鬼

 フランドール・スカーレット Frandle Scarlet

 

 誕生日: ??

 年齢: 500歳ぐらい

 所属: 紅魔館

 特技: 壊すこと

 

 外面

 服装は原作そのまま。見た目も原作そのまま。身長は、130 cmぐらいのイメージ。祈りの届いた状態は、悪魔というよりは勇者のような雰囲気。

 

 内面

 周りからは狂っているといわれるが、ただの癇癪持ち。理由が分かってもらえていないため、狂気じみているといわれる。心の中には破れないルールがあり、それが孤独を強めている。きっかけを与えられ、前向きになった。

 

 作者のコメント

 彼女は、少年に対しての見せしめです。変わることができるということを示すための存在です。縛られていた鎖を解き放ち、変わって見せた彼女の姿は、和友に大きな影響を与えました。彼女がいたからこそ、今の藍がいるといっても過言ではありません。過去の設定に関しては、完全にオリジナルになります。

 彼女に今後活躍する場があるかどうかは、今のところ不明です。戦うという機会は、かなり少なくなるかもしれませんね。

 

 

 

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 現在の状況

 

 笹原に引き付けられている者

 八雲藍―――守り通す

 鈴仙優曇華院イナバ―――距離をとる

 犬走椛―――諦めず近づく

 射命丸文―――悩み中

 

 距離をとって見守る者

 八雲紫

 八意永琳

 




書いてみると、東方という作品の二次創作にしてはあんまりキャラクター出ていないですね。

人物紹介に関しては、以後再び記載することはないと思います。
紹介を書く機会があるとすれば、それは終わり際ですかね。
それとも、最後になるかというところです。

次回からは、原作の時間系列にのっとって進めます。
次回更新の日時に関しては、名古屋から帰り次第進めていくことになるので分かりません。

人物紹介について感想があれば答えますが、人物紹介で感想……ありますかね。
一応、小説全体の半分という区切りのいいところなので
これまでの総括での感想でも構いませんので、気軽にどうぞ。
感想貰えると、読者がどんなように内容をとっているのか分かって、非常に楽しみに読ませていただいています。
それでは、この作品をこれからもよろしくお願いします。


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第六章 ほら、また素晴らしい今日が始まった
新しい生活、それぞれの始まり


第6章の1話目です。
6章は、紅魔郷に入る前のお話になります。
予定では、全4話の予定です。


 新しい生活が始まった。

 

 文字通り、新しい生活である。これまでの原型なんて一つたりともなく、これまでの形跡なんて何もなく、新しい生き方の始まりである。

 今、目をつむっている。視界は黒く染まっている。真っ暗な中にふわふわと浮かんでいるような気分だった。

 畳に敷いた布団に寝転がって朝がやって来るのを待つ。もうすぐ日が昇る時間になる。もうすぐ体が勝手に起きてしまう時間がやってくる。

 

 僕は紫に連れられて博麗神社にやってきた。

 紫は、博麗の巫女である博麗霊夢と話をつけて僕のことを紹介してくれた。だけど、時間も時間だったし、訪れたのが深夜ということもあって博麗霊夢の対応は非常にずさんだった。

 

 

「あー、そういうのいいから。暗いし、明日っていうことで。奥の部屋を使って。私、眠いの。分かる? 分からなくても寝るけどね」

 

 

 取り付く島もなかった。

 酷く不機嫌な顔で奥の方を指さすと即座に布団へと戻り寝息をたてはじめた。

 噂には良く聞いていた人だったけど、随分とさばさばしている性格みたいだ。

 

 

「それじゃあ後は和友がしっかり説明しなさい」

 

「分かったよ」

 

 

 紫は博麗霊夢の対応に異議を唱えるでもなく、それじゃあねと言ってマヨヒガへとスキマを通って帰って行く。

 手を振って見送る。いずれまた、そういう意味を込めて笑顔で送り出す。紫も笑顔を浮かべて帰っていった。

 

 

「僕の部屋はここでいいのかな」

 

 

 おそらくここだろう。例え間違えていたとしても明日また移動すればいいだけだ。今日一日ぐらい問題ないはずである。

 紫と別れた後、マヨヒガから持ってきた荷物を指定の部屋へと運ぶ。まっさらで何もない畳の部屋に見知った道具たちが取り揃えられた。

 

 

「ここから新しい生活が始まるんだ。新しい……僕の未来が、夢が繋がっていく」

 

 

 これから始まる生活はどんなものになるだろうか。きっと、僕の知らない新しい世界が広がることだろう。全く予想もできない未来が顔を覗かせてくるだろう。

 

 

「楽しみだなぁ。明日もきっといいことがある。おやすみ、また明日ね」

 

 

 楽しみだなぁ。これまでも十分楽しかったけど、また知らないことがいっぱい起こる。そう思うと期待せずにはいられなかった。

 久々に何も心配することなく眠れる。

 大丈夫かなと不安に思うことももうない。

 心は晴れやかで、これから始まる新しい生活にワクワクしながら眠りについた。

 

 

 

 

 

 Next Day

 

 

「眩しい……」

 

 

 朝起きた僕を迎えたのは、外から差し込んで来る光の暴力だった。夏も近づき、光の量が一段と増えたような気がする。

 昨日は夜遅くにここに来たから睡眠時間としては全然足りていない。全く持って足りなくて体がだるいと訴えている。

 だけど起きなきゃ。もう6時だもんね。

 時間は確認しなくても何となく分かる。体が覚えている。

 

 博麗神社は、大きな部屋が3つあるだけの建物である。どれもが畳の部屋であり、和の雰囲気が感じられる。

 3部屋しかないということもあり、部屋の大きさ自体はとても広い。3人程度までならば一緒に暮らしていても不自由のない生活ができる程度には面積がある。

 宴会が開かれる際には、部屋同士を隔てているふすまを開放することで広々とした空間を作り出している。

 はなれには倉庫があり、食料や普段使わない物が収められている。厠=トイレは神社に寄り添うように存在している。

 少年の住んでいる部屋は、霊夢の部屋から一番遠い場所にあった。

 少年は、出していた布団を片付けると縁側へと出た。

 

 

「んー」

 

 

 今日もいい天気になりそう。もうちょっとで夏が来るからかな。昨日も天気が崩れると思っていたのに意外と夜は晴れていたし、天気は安定しそう。

 目を閉じる。日の光が温かい。精いっぱい手を広げて全身で太陽の光を浴びる。

 この瞬間は結構好きだ。一日の始まりが来たっていう感じがする。体から眠気が飛んでいく。もう少しで暑くなるという判断に切り替わるぐらいまで目の裏に焼き付ける。

 

 

「何をしているの?」

 

 

 そんな至福の時を過ごしている時―――唐突に声がかかった。声の出どころは後方からだ。僕は振り返ることなく、日の光を浴びながら答えを告げた。

 

 

「光を浴びているんだよ」

 

「何のために?」

 

「何のため……特に理由はないよ。ただ、そうしたいからかな」

 

「あっそう。まぁ、いいわ。それが済んだら後で私の部屋に来なさい」

 

 

 私の部屋ってどこだろうか。場所の説明は特には受けていない。

 だけど、予測することはできる。きっと昨日紫と一緒に入った部屋だろう。彼女の部屋で行う事は昨日の話の続きかな。

 分かったという返事を返そうと思って閉じていた目を開き、後ろを振り返る。

 

 

「誰もいない……」

 

 

 するとそこにはもう誰もいなかった。

 

 

 

 

 

「ふー、今日も一日頑張るぞー」

 

 

 数十分だろうか。日の光を十分に浴びて体も少しポカポカするぐらいに温まった。目覚めの時である。

 

 

「さて―――」

 

 

 ふと、少し前になってしまった先程の会話を思い出してみる。

 彼女は、光を浴びたら部屋に来いと言っていた。

 

 

「話さなきゃいけないこと、決めなきゃいけないことがいっぱいあるもんね」

 

 

 彼女とは話さなければならないことが色々ある。これから共同生活を始めることになるのだ。彼女自身の暮らしの中でのルールもあるだろうし、これから生活していくためにお互いのルールを決めるのだろう。

 これから向かうべき彼女の部屋は、参拝客が訪れる鳥居がある方向の部屋である。ちなみに僕の部屋はそこから一部屋挟んで一番奥である。

 少しばかり歩いて彼女の部屋の入口まで移動する。

 

 

「ここかな」

 

 

 目の前にふすまが閉められた部屋がある。

 ノックをしようと無意識に手を上げたところで、そっと手を下した。

 

 

「違うな、こういう場合はノックじゃないよね」

 

 

 さて、どうしようか。こういうときが一番どうしていいのか困る。

 外の世界では普通にノックできるのだけど、出入り口がふすまに限って言えば入る前にどうすればいいのか分からない。

 ノックするのは間違っている。こういう時の作法が別にあるとしたら僕の知らない方法だろう。マヨヒガでもそこらの作法は習わなかった。

 でも、作法を知らないとしてもノックをする意味は知っている。それを考えればなにをしてもいいはずだ。その意味が成せればなんでもいいはずだ。

 僕は、そっと息を吸いこんで中に聞こえるように声を飛ばした。

 

 

「すみません、笹原和友です。入っても大丈夫ですか?」

 

「あっ! 待ちなさい!」

 

「はい?」

 

「ぜ、絶対に入るんじゃないわよ!」

 

「……? はい」

 

 

 部屋の中からガサゴソと布がこすれる音がする。どうやら着替え中のようだった。随分と間が悪い時に声をかけてしまった。

 マヨヒガにいたころだったら顔を洗っていたから時間的にはちょうどいい時間になったかもしれない。

 そういえば、ここの水回りってどうなっているのだろう。これも聞いておこう。顔を洗えないと、なんだかまだ一日が始まっていない気がする。

 気がするだけ。そうかもしれないけど、そういうのが大事だと思う。こうして途切れそうになると毎回そういうふうに感じる。

 

 

「もう入っていいわよ」

 

 

 考え事をしている間に、着替えが終わったみたいだ。

 

 

「失礼します」

 

 

 そう言ってふすまを開ける。中を覗くと、彼女が部屋の中心に凛とした雰囲気を纏って正座で待ち構えていた。

 彼女の視線が正面へと突き刺さっている。

 そこに行けってことか。

 視線が向けられているポイントへと足を運び、静かに足を畳んで正座する。

 彼女の正面に立ってみると余計に視線が強く突き刺さっているような感じが強くなる。彼女の雰囲気がそう思わせているのだろうか。どうにも悪いことをしてしまっているような気がしてしまうのは気のせいだろうか。

 

 

「で……あんたは何しにここに来たの」

 

「居候になりにかな?」

 

「なんで疑問形なのよ。目的もなくここに来たってこと?」

 

 

 目的―――果たして彼女にそれを告げていいのだろうか。

 頭をかしげて少しばかり考えてみる。

 これからの僕の目的は、しっかりと頭の中にある。何をしたいのか、何をやりたいのか、何を成し遂げたいのか。その全てが頭の中に入っている。

 だけど、それを彼女に言ってしまったらダメな気がする。あくまで気がするだけなのだけど。僕の行動が止められてしまうような、邪魔されてしまうような、そんな気がした。

 僕のこれからの目的は誰かに邪魔をされても別にいい。だけど、ちゃんと最後の舞台までは整えないと、僕の夢が叶わなくなってしまう。

 最後の最後で邪魔をしてくる分にはむしろ大歓迎なのだけど、夢半ばで終わってしまう人生なんて―――それも悪くないかもしれないけど、やっぱり夢は見るだけじゃなくて叶えたいから。自分の力だけで、自分の能力抜きで叶えたいから。

 そんなことを考えて異様に黙っている僕を見かねてか、彼女の方からさらに言葉を投げかけてきた。

 

 

「黙っているということは、言いたくないってこと?」

 

「……ここに来た理由はマヨヒガにいられなくなったからです。人里に住むっていう話もあったのですが、紫がここにするといいって言ったので」

 

 

 結局ここに来た目的を話すことはなかった。あくまでもここに来ることになった理由だけを告げた。隠すように、理由だけを告げた。

 理由を告げた瞬間、分かりやすいぐらい彼女の顔が酷く歪んだ。

 

 

「あー、またあいつが面倒事を持ってきたのね。生粋の外来人にここの神社の紹介するのならまだしも、幻想郷に居づいてしまっているアンタをよこすなんて何を考えているのかしら」

 

「紫とは仲が良いのですか?」

 

「仲が良い!? 冗談言わないで。あいつはただの迷惑な妖怪よ」

 

 

 彼女は頭を抱えて言葉を口にする。

 彼女と紫との関係は今の一言でおおよそ理解できた。

 紫は相変わらず一方的な関係を作っているみたいだ。主体性の塊というか、自分本位な性格は変わっていないようで誰に対しても同じような態度をとっているみたい。

 それでも、僕だけが知っている紫の顔がある。マヨヒガにいるものだけが知っている紫の顔がある。

 対外的なものは何も変わっていないようだけど―――内的なものは様変わりしている。マヨヒガでの様子を見たら皆が驚くだろう。もしかしたら隠しているのかもしれない。紫は相手になめられたり、からかわれたりするのを酷く嫌っているから。

 

 

「あんたは、外の世界に帰りたいってわけじゃないのよね?」

 

「そうです。私はここにいたいです。ここでしかできないことがあるので」

 

「だったら、私はただ単にあんたの住む場所を提供すればいいということね」

 

「はい。住む場所だけ、お願いします」

 

 

 昔だったら喉から手が出るほどに帰りたかったけれど、今となっては外の世界に帰りたい気持ちはほとんどない。全くないということは無いのだけど、いまさら外の世界に帰っても何もできることがない。

 そう―――できることがない。

 誰かに期待できることもない。

 誰かが何かできることもない。

 外の世界に帰っても帰る場所がない。

 住んでいた家は跡形もなく燃えてしまった。違うものになってしまった。友達の名前の多くが失われてしまった。両親も死んでしまっている。

 僕の未来は、外の世界から完全に外れてしまった。

 

 

「あなたには、私が見えているの?」

 

 

 あの出会いが―――全てを断ち切って、架けていた橋を違えた。まるで境界線をずらしたみたいに別の所に架かってしまった。もう、僕の未来は外の世界には繋がっていない。

 僕にはここ―――幻想郷でやりたいことがある。幻想郷でしかできないことがあるから。幻想郷にしかないものがあるから。だから、外の世界に帰るつもりなんて微塵もなかった。

 

 

「対価は? まさか、ただで泊めてもらおうなんて思っているわけじゃないわよね? 数日ならともかく、生きるためには食べる必要がある。私には、あんたを養えるほどの余裕はないわよ」

 

「自分が生きていくための術は持っています。宿賃も払いますので、お願いいたします」

 

「そ、そう。宿賃を払うのなら泊めてあげるわ」

 

 

 何だか彼女の反応がおかしい。表情が酷く落ち着かない様子だ。お金について、契約について予想していなかったことでもあるのだろうか。

 僕は、一応マヨヒガでも働きながらお金を収めていたし、住んでいる場所に納めるぐらいは全く問題ない。これから先というものが目の前にまで来ている僕からすれば、貯蓄しておくだけのお金は必要ないのだから。

 

 

「お金の勘定は今月終わりでもいいですか?」

 

「ええ、それでいいわ」

 

 

 彼女は、崩れた表情を元に戻して僕に向かって言った。

 

 

「ここでのルールは一つ。やらなければならないことをやれ。それだけよ」

 

「よく分かりませんが……」

 

「しばらくすれば慣れるわ」

 

 

 やらなければならないことをやれ。それがここのルールだそうだ。

 抽象的過ぎてよく分からない。つまり、生きていくために必要なことは自分でやればいいということなのだろうか。

 どちらにしても、慣れれば何とかなるというのはその通りだと思う。問題があればまた言ってくるだろうし、なんとかなるはず。何ともならないことなんて何もできないことだけなのだから。

 

 

「それじゃあもういいわよ。後は好きにしなさい」

 

 

 後は我関せずという様子だった。放置しようというのがまるわかりだった。大事なことは全部やったという顔をしている。

 だけど、僕には彼女に聞いておかなければならないことが二つあった。それは、今後生活していく上で聞いておかなければならないことである。

 

 

「それでは、名前を教えていただけますか」

 

「はぁ? 私の名前を知らない? 知らずにここに来たっていうの?」

 

「知りません。覚えたことないので。なので、どこかに名前を書いて欲しいのです」

 

 

 彼女は、名前を知らないという言葉に酷く驚いた様子だった。

 僕が名前を教えて欲しいというと、幻想郷のみんなは大体同じ反応をする。特に有名な人であればあるほど同じ反応を示す。

 どうして知らないの。どうして名前を覚えていないの。どうして書かなきゃいけないの。そういう反応が返ってくる。変な人ねと書いてくれる人が大半だが、奇異の目で見られることがほとんどだった。

 僕からすれば、会ってもいない人のことを覚えることができる能力の方がおかしいと思う。自分ができないからそう思っているのかもしれないけど、やっぱりおかしいと思うんだ。

 外の世界のようにテレビなんかで顔を見て、名前を見て覚えるのはまだ分からなくもない。でも、会っていない人のこと、顔も知らない人のことを覚えられるかといったら無理だと思う。

 だって、それには覚える努力が必要なはずだから。歴史で人物の名前を覚える時のような、覚えるための作業が必要になるはずなのだ。

 そんなものを―――知らない人のためにやるほど僕は優しくないし、暇じゃない。

 僕はそっと頭を下げてお願いした。

 

 

「よくわからない奴ね。まぁ、いいけど」

 

 

 彼女は、僕のお願いに対して了承してくれたようだった。

 正座していた足を伸ばして、棚にいれていた札を取り出し、見せつけるように前に持ってくる。何も書いていない札が一枚目の前に提示された。

 

 

「お札でもいいかしら?」

 

「読めれば何でもいいです」

 

 

 僕の言葉を聞いた彼女はこれまた筆を棚から取り出し、墨をつけるとササッと自分の名前をお札に書いた。

 

 

「…………」

 

 

 自分の名前を書いた札を見て、怪訝そうな表情を浮かべている。やっぱり、なんでこんなことをしているのか分からず、不思議に思っているようだった。

 彼女の視線がしばらく札を見つめると、思考を放棄するように視線も向けずに札が差し出された。

 

 

「ほら、これでいいでしょ」

 

「はい」

 

 

 受け取った札に書かれた漢字を見つめる。

 博麗霊夢。

 それが彼女の名前だ。読み方は何度も聞いていたから覚えているけど、字まではっきりと視認したのはこれが初めてだった。

 見たことあるような気もするが、漢字で覚えたことは一切ない。覚えていないのだからきっとそのはずだ。病気の症状が酷かった時に友達の名前と一緒に飲み込まれていなければという前提条件付きではあるが。

 札を受け取った僕は、彼女―――博麗霊夢に向かって抱えていたもう一つの疑問を投げかけた。

 

 

「あともう一つ聞きたいことがあるのですが、水ってどこにありますか?」

 

「外の井戸からくみ上げなさい」

 

「分かりました」

 

 

 井戸か。

 人里だとよく見かける。外を探せば見つかるだろう。

 僕は、再び頭を下げて外へと向かった。

 

 

「周りは木々ばっかりだね。石段は長いし、道は獣道みたいに歩きにくそう」

 

 

 博麗神社の周りは、木々に囲まれている。まるで博麗神社を森の中に作ったという印象を受けるほどに木ばっかりが目立っている。飛ばなければ周りに何があるのかは分からないし、唯一見ることのできる鳥居からの景色には未開拓の道が伸び、遠くにこれまた取り残されているように湖が見えるだけだった。

 

 

「ふーん、こんな感じか……前に境界線を引きに来た時とあんまり変わりないかな」

 

 

 変わり映えしない博麗神社の周りをぐるっと回る。

 歩いていると、すぐに井戸を見つけることができた。

 井戸なんて外の世界じゃめったにお目にできない代物である。少なくとも僕は外の世界で見たことがない。こういった忘れられてしまったものが辿り着くのが、幻想郷という場所―――そういうふうに紫からは習った。

 

 

「博麗神社は桶ですくうタイプか。人里だと手押しポンプも多いんだけど……ここに誰が作りに来るかって問題もあるもんね。少しぐらい遅れていても仕方ないのかな」

 

 

 マヨヒガでは水路が通っていて、そこからくみ上げていた。

 人里では大きな手押しポンプの井戸がいくつかある。

 博麗神社では桶でくみ上げるタイプの井戸。

 桶を中にいれて少しばかりの水をくみ上げる。顔を洗うだけの量さえあればいい。そんなにたくさんはいらない。

 顔に冷たい水が付着し、頬を流れていく。

 

 

「ふぅ。今日も一日頑張るぞ」

 

 

 表情がすっきりする。

 こうして僕の今日は、ようやく始まりを迎えた。

 

 

 

 

 ―――マヨヒガ―――

 

 朝を迎えた私を襲ったのは外からの日差しではなく、とても大きな喪失感だった。

 何が足りないのか分からない。だけど、絶対に何かが足りていなかった。

 大事なものを無くしている。心が寂しがっている。理由が分からないことがさらに心を孤独にしているようだった。

 今日は何日だろうか。そんなことも忘れてしまっている。思い出せない頭は何も浮かびあげてこない。

 記憶は深い霧の中で。

 見渡せる景色は真っ白に染まっていた。

 

 

「……考えても仕方がない。思い出せないものは思い出せないのだ。いずれ分かることだろう」

 

 

 体を起こす。体に凄まじい倦怠感が襲ってくる。体が動くことを嫌がっている。

 昨日―――何かしたのだろうか。昨日の記憶もない。思い出すことができない。何をして。誰といて。どうやって一日が終わったのか。何も思い出せなかった。

 体の節々が痛い。不調を訴えている。もっと眠っていたい。朝日から逃げるように眠っていたい。主である紫様もどうせ起きてこないのだから眠っていてもいいじゃないか―――そんな甘えが頭の中をぐるぐると巡っていく。

 頭を振る。甘えを振り落とさなければ。そういったことが普段の習慣を打ち砕くのだ。

 

 

「ダメだ。そうやって惰眠をむさぼると後が続かない。気怠い程度がなんだ。気の迷いだろう。起きなければ……」

 

 

 自分の部屋を出て居間へと向かう。廊下を歩き、開け放たれたふすまを越える。

 視界が広がった居間にはまだ誰もいなかった。

 

 

「まだ誰もって……何を考えているのだ、誰かがいるわけがないだろう」

 

 

 まだって、そもそも起きてくるかも怪しいところだ。

 紫様はいつも眠っているだけじゃないか。一日起きてこないことなんてよくあること。

 橙ならば―――橙は、どうだっただろうか。いつもどのぐらいの時間に起きていたことだろうか。

 

 

「分からないな……疲れているのだろうか。こんなことも思い出せないとは……」

 

 

 おかしい。絶対に何かがおかしいと頭の中で訴えている声が聞こえる。

 だが、思い出せないのも事実だった。

 疑問を抱えた頭のまま、なんだか広く感じる居間の中で調理を開始する。材料を出して今日の朝食を作るのだ。

 朝ごはんはエネルギーの源。これを食べて今日もいつも通りの日々を送る。

 

 

「ふん、ふん、ふん、ふん」

 

 

 調理台の前で何も考えずとも体が勝手に動いていく。慣れた手つきで体が毎日行っている作業を繰り返す。決まったプログラムを与えられた機械のように、流れるように食事が作られていく。

 

 

「よしっ!」

 

 

 料理は、数十分の時間で終わりを迎えた。会心の出来だ。いつの間にか料理をするのが上手くなっている。なんだか違和感を覚えるが、上手くなっていることに問題があるわけでもない。

 出来上がった料理を盛り付ける。お皿に盛りつけていく。ご飯をよそう。料理を食卓へと運ぶ。そして椅子に座り、手を合わせる。

 

 

「いただきます」

 

 

 箸を持ち、料理に手を伸ばす。

 そして、皿にまで箸が向かおうとしたところで不意に手が止まった。目の前に広がる光景が行動を制止させた。

 ―――おかしい。

 なんでこうなっているのか。

 理由が分からなかった。

 

 

「……私はなぜ2人分料理を作ったのだ?」

 

 

 目の前にあったのは、一人分とは言い難い量の料理。丁寧なことにお茶碗も二杯ある。しかも食卓の対角線上に配置されている。一番置きにくい場所に丁寧に並べてある。

 何かおかしい。そう思うが何も出てこなかった。靄がかかったように思い出すことができなかった。

 

 

「あーもう! なんだというのだ!」

 

 

 朝からなんだというのだ。起きたときの倦怠感もそうだし、橙が起きてくる時間が分からないというのもそうだし、目の前の料理もそうだ。

 イライラする。心の中のもやもやがどんどん酷くなっていく。

 どうしてこんなに不安になるのだ。なんでこんなに気持ちが悪いのだ。

 

 

「こんなものがあるからイライラするのだ!」

 

 

 それもこれも、そこにもう一膳のご飯があるからだ。見えるから考えてしまうのだ。

 食べてしまおう。今日は疲れているのだろう。ご飯を食べたら少し休憩しよう。そうすれば、いつも通りの日常に戻るはずだ。

 最も遠い場所に配置されているご飯をとろうと手を伸ばす。そして、もうすぐ届くというところまで伸ばしたところで、またしても手が止まった。

 

 

「どうして……」

 

 

 どうしてだろうか。食べてはいけない気がする。

 これは私のものではない。私以外の誰かが食べるものだ。そう感じる。嘘でも偽りでもなくそう感じる。

 こんな時間に起きてくる者など誰もいないというのに。こんな時間に私と朝食を取る者など誰もいないというのに。

 

 

「…………」

 

 

 結局―――私は置かれた料理に手を付けらなかった。

 食卓の上には、未だに手つかずの朝食が残っている。

 自分の分だけ後片つけも済んでしまった。取り残されたご飯が寂しそうに誰かを待っていた。その誰かを私も待っている気がした。

 

 

「気を取り直そう。いつも通りの行動をしていれば、きっと調子も戻ってくるはずだ」

 

 

 そうだ、日課の毛づくろいをしよう。そうすれば気持ちも落ち着いていつもの私に戻るはずだ。いつもの流れに乗れば、いつも通りの日常が遅れるはずだ。

 部屋に戻り、ブラシをとって縁側に向かおう。いつも通りの流れに乗ろう。料理をした時のように身体が無意識に覚えている動きを再現する。

 ―――おかしい。

 

 

「縁側? 私はいつも縁側で毛づくろいをしていたか?」

 

 

 体が無意識に縁側に向かう。疑問を抱えながらも、こちらが正解だと言わんばかりに体が勝手に進んでいく。

 何故なのかは分からないが、そんなことをした記憶は全くないのだが、いつも毛づくろいをしているのは縁側な気がするのだ。自分の部屋ではなく、縁側である気がするのだ。

 縁側にそっと座る。太陽の光が眩しい。温かい光が肌に突き刺さってくる。

 尻尾を前に出して膝の上に乗せる。ブラシを置いて優しく擦る。

 擦る。擦る。位置を変える。滑らす。均す。擦る。繰り返す。

 違う。違う。これも違う。なんだ何が違う? 何が違うというのだ。

 

 

「……足りない。何か足りないのだ」

 

 

 動いていた腕が自動的に止まる。力を失ってだらんと落ちる。

 何があった。昨日何があったのだ。

 なぜ、思い出せないのだ。

 頭の中が弾けそうだった。何も出てこないことに頭の中が沸騰しそうだった。

 探せ。探し出せ。

 違和感の原因を見つけろ。

 失ったものの存在を見つけろ。

 真っ白な世界を走る。

 ゴールはどこにあるのか分からない。

 何を探しているのかも分からない。

 どんな形をしているのかも分からない。

 だけど、何かが足りないのだ。

 何かが足りないと、心が叫んでいる。

 素直じゃないと思っていた心が、素直に寂しいと言っているのだ。

 

 

「藍、おはよう」

 

「えっ……」

 

 

 考え事をしている最中、誰も来ないと思っていた居間に声が通った。余りにも自然で、余りにも違和感がなかったのに驚いてしまって、勢いよく声の出どころに向かって視線を向けてしまった。

 

 

「紫様……」

 

 

 視線の先にいたのは―――紫様だった。

 どうしてこんなに早くに起きてこられたのか。

 どうして居間に来られたのか。

 何の用事か。

 それに、いつもの紫様と雰囲気が違っているような気がして、疑問が次々と頭の中を埋め尽くしていく。

 紫様の表情には酷く優しい笑顔が浮かんでいる。今まで見たことがない顔だった。いや、見たことはあるのだが、いつ見たのかは思い出せなかった。

 

 

「大丈夫よ」

 

 

 大丈夫よ。その言葉を聞いた瞬間―――何かが頬を伝っていった。

 紫様は、優しい顔をしたまま同じ言葉を何度も繰り返す。

 

 

「大丈夫」

 

「ですが……私、何か大事なことを忘れて」

 

 

 口が勝手に言葉を話す。心が思っていることを口に出してしまう。

 こんなことを紫様に言っても仕方がないのに。心配をかけるべきではないのに。迷惑になるようなことを言うべきではないのに。

 私の口が私のものではなくなってしまったように、自制を失った心が叫んでいる。

 

 

「今朝から何だかおかしいのです。こうしている今だって、頭の中に靄がかかったみたいに何も思い出せない。私の大事にしているもの、どこかに忘れてきたみたいで。酷く不安で……」

 

「大丈夫。泣いてもいいわ。今は辛いかもしれないけど、きっと乗り越えられるから。私も藍を支えてあげる。藍は一人じゃないわ」

 

 

 心が泣いている。大声で叫んでいる。寂しいと、孤独を叫んでいる。

 紫様はゆっくりと近づいてきて、私の体を包んでくれた。温かさが体を包み込む。心の叫びは止まらない。包んでくれた優しさが寂しさをより顕著にした。

 沸き立つような寂しさはついに視界をも歪ませた。

 

 

「私の大事なものは、どこにあるのでしょうか……」

 

 

 何も始まった気がしなかった。

 失ったものが分からなくて。

 いつもの日常と違っていて。

 いつもの日常が分からなくなって。

 それでも―――私の今日は始まりを迎えた。

 




今回のお話は、主人公側と藍側の一日の始まり方の対比ですね。
ここから藍は、暫く出てきません。
少なくとも、紅魔郷が終わるまでは出てこないと思います。
妖々夢の前ぐらいで少し出る程度でしょうか。

また、書き方が少し1人称寄りになりました。
これまで読んでくださった読者の方が読みやすいかは不明ですが
できるだけこの書き方で統一いたします。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。

現在風邪をひいているため、次回更新が遅れるかもしれませんが
次回作ができて精査でき次第投稿いたします。


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霊夢との関係、少年の下に現れた妖怪

第6章の2話目です。
6章は、紅魔郷に入る前のお話になります。
予定では、全4話の予定です。


 僕の幻想郷での生活は、おおよそ決められた通りに流れている。日々の違いはほとんどなく、曜日の感覚はまるでない。

 幻想郷という場所はそういう場所である。自営業や自給自足で暮らしている者がほとんどの世界で、休みという概念などあるはずもない。

 僕だってそれは同じである。休みの日なんてものはないし、決まった曜日に何かがあるということもない僕の生活に―――色違いの日々などなかった。

 

 

「今日も一日頑張るぞー」

 

 

 僕の一日のスケジュールはおおよそ以下の通りである。

 朝起きて、顔を洗って、日差しを浴びる(30分)。

 朝食を作って、朝ごはんを食べる(30分~1時間)。

 永遠亭に行き、仕事をする(5時間)。

 正午: 博麗神社へと帰って昼ご飯を食べる(30分)。

 午後: 弾幕ごっこの練習(30分)、霊力増加の練習(1時間)、書き記す作業(3時間)、境内の掃除(1時間)、会話(~1時間(霊夢))。

 夜: 書き記す作業(3時間)、会話(~1時間(紫))、睡眠(7時間)。

 おおよそこのようなものだ。これが、毎日繰り返している僕の日常である。

 

 僕は、この生活を続けている。

 

 こんな生活を始めてから―――博麗神社に居候を始めてからすでに1週間が経とうとしていた。

 僕の日常はマヨヒガにいたときと何も変わっていない。何もと言ってしまうと語弊があるが、変わったことといえば会話をする時間帯や相手が変わったことぐらいだろうか。

 

 変わった点を説明しよう。

 昼には霊夢と少しばかり話をする。いつもだったら藍がいたポジションに霊夢が入った形になるのかな。

 ただ、藍とは違って霊夢から話をしてくれることなんて全くと言っていいほどないから自分から話しかけないと会話にならないことが多い。

 霊夢はどうしてそうなのだろう。どうして何も言わないのだろう。別に気になるわけじゃないけど。そういう人もいることは知っているから別に不思議に思うわけでもないけど。何かしら理由があるのなら知りたいという知的欲求はある。

 

 なぜ、霊夢は会話をしないのか。

 

 考えてはみたが、余りに自分が霊夢について知らないことを理解すると同時に、考えるのを止めた。

 僕は、霊夢のことを全くと言っていいほど知らない。

 これまでどうやって生きてきたのか。

 普段どんなことを考えているのか。

 何が得意で、何が苦手で、何が好きで、何が嫌いなのか。

 具体的なことは、何にも知らないと言っていいほど知らない。

 もしかしたら会話自体が嫌いな可能性もある。話しかけられることを億劫に感じているのかもしれない。

 それでも、話しかけると反応してくれるだけ、会話というものに全く興味がないということもないのだと思う。無視することもできるはずなのに。確かに、嫌な顔をするときもあるけど。なんだかんだ話をしてくれる霊夢は俗に言う良い奴なのだと思う。

 そんな霊夢との会話の内容は凄く淡泊で、質問をしたら大体が一撃で終わってしまう。題材が何であっても会話が長く続くことはほとんどない。

 霊夢と会話をしていると、会話が苦手というか、なんていうのだろうか。

 そう、会話をする意味がなければしないというような雰囲気を感じる。意味のない会話はしないっていう気持ちを感じると言えばいいだろうか。

 分かり辛いだろうし、一例を挙げようか。

 

 

「霊夢さんの趣味はなんですか?」

 

「妖怪退治」

 

 

 趣味は何ですかという問いに対して―――妖怪退治だと答えが返ってきた。

 僕には、そんな回答をする彼女に返す言葉がなかった。

 僕も妖怪退治をやってみようなんて思わないし、やったこともないから楽しいのかどうかも分からない。

 こういった答えは返しに困る。何のためにやっているのっていう質問が真っ先に頭の中に浮かんだが、何のためにやっているかなんて趣味なんて意味があってやるわけじゃないし、やりたいからやっているで十分理由足り得る。

 どんな言葉で会話を繋げていけばいいのだろうか。

 僕は会話を継続するために、次の質問を投げかけた。

 

 

「それって楽しいの?」

 

「楽しくない趣味って何なの?」

 

 

 それもそうだ。

 楽しくない趣味なんてないよね。

 うーん、難しいなぁ……会話が一向に広がらない。

 別の話題なら広がるかな。

 

 

「掃除のコツって何かあるの?」

 

「コツなんてあるわけないじゃない。真面目にやることよ。そして、邪魔されないこと」

 

 

 それは、暗に僕がしゃべりかけてくるから掃除の効率が悪くなっていると言っているのだろうか。彼女の圧倒的なあしらい方にどうしてもそんなふうに思ってしまう。思ってしまうというより、それで彼女の意図としては合っているはずである。

 

 

「いつもどうやって過ごしているの?」

 

「適当に。思ったことをやったりやらなかったり」

 

「具体的には?」

 

「だから、その日次第よ」

 

 

 分かってもらえただろうか。

 おおよそこんなものである。

 すぱすぱしている性格の彼女と行う会話は、さっぱりしすぎてすぐに死んでしまう。

 一言喋ればそれで終わり。

 キャッチボールは取れそうもない剛速球が飛んでくるばかりだ。

 

 

「「…………はぁ~」」

 

 

 ここ最近は話しかけるというよりも、お茶をすすってのんびり外を見て呆然としている時間を共有している方が楽しくなってきている。

 彼女とは頻繁に話をする間柄というより、空気を共有しているぐらいの関係の方がお互いにとって優しいというか、最も気楽な関係性なのかもしれない。

 思えば、この一週間で一番彼女が饒舌に話をしていたのは、彼女の友人である霧雨魔理沙という人物が妖怪についての情報を持ち込んだ時だけである。

 あれが盛り上がっていたのは、趣味の妖怪退治ができるからということだからなのか。

 それとも、霧雨魔理沙という人物が霊夢にとって特別な存在だからなのか。

 それとも、僕が相手の時だけ対応が淡泊になっているだけで実は饒舌なのか。

 理由は未だに分かっていない。

 夜に来る人物とは無駄に会話をしているような気がするんだけど。

 やっぱり人それぞれってことだよね。

 そう、やっぱりみんな違う人間。

 同じ人間だったら覚えるのが大変だ。

 いや、そもそも同じ人間だったら覚える必要なんてないか。

 違いがないなら―――ひとつ覚えれば十分だもんね。

 

 

「まだ作業中かしら?」

 

「いや、もうすぐ終わるから待っていて」

 

 

 夜になると、偶に紫がやってきて会話をする。

 頻度的には週に二回ぐらいのペースかな。

 会話の内容は、僕がいなくなった後のマヨヒガの様子や、僕の今の状態についてがほとんどである。

 紫から聞く限りにおいては、まだマヨヒガを出て1週間ということもあって生活の変化の幅はとても大きく揺らいでいるとのことだった。

 様々な部分が変わった。

 生活のスタイルも大きく変わった。

 関係性にも変化があった。

 そんなふうに伝えられた。

 

 

「藍のことは、私に任せなさい」

 

 

 特に藍の状態は思ったより深刻のようで、ここ2年間の記憶がほとんど曖昧になって思い出せないようだった。

 確かに僕と藍は大体の時間を共有していたし、僕の記憶を曖昧にしてしまえば、ここ2年間の記憶のほとんどが思い出せなくなってしまうのも仕方がないことのように思えた。

 

 

「私は、これで良かったと思うわ」

 

 

 悪いことをしている気分だった。

 だけど、そうしなきゃいけない理由もあった。

 紫もなんだかんだ言ってこれで良かったと笑ってくれた。

 それが、僕にとっても救いになっていた。

 

 

 

 

「うんうん、順調順調」

 

 

 この1週間で博麗神社での暮らしにも随分と慣れた。

 竹ぼうきでの掃除も随分上手くなったように思う。霊夢の真似をしているだけだけど、余計な力が入っていた当初よりははるかに楽に掃除できるようになった。

 こう、押さえつけるんじゃなくて擦って繰り返す。力ではなく、数で稼ぐイメージ。風上から風下へと移動しながら掃いていく。

 それが例え誰も来ない石畳だとしても、意味なんてなくても別にそれでいいのだ。趣味と同じで、掃除をするのに理由が必要なわけでもない。

 

 

「掃除をする理由……」

 

 

 掃除をしていて思ったけど、みんなが学校で掃除をする目的って何だろうか。

 

 みんな―――何のために掃除をしていただろうか。

 

 ―――この答えはその人を表していると思う。

 掃除をする理由って色々あると思う。

 この理由っていうのは、やらなきゃ汚くなるから、教育のために大事だからっていう学校側の思惑って意味じゃない。みんなが何のために掃除をするのかという理由である。

 それは、自分たちが汚くしたのだから、自分たちが掃除をしなきゃいけないという責任感から。

 それは、真面目に掃除をすることで誰かに褒められたいから。

 それは、やらなければならないことだから。

 それは、楽しいことだから。

 まぁ、挙げれば色々あるだろう。

 僕が掃除をしていたのは、これらとは違う理由からだ。絶対に違うって言い切れる。

 僕が掃除をしていた理由はみんなが掃除をしていたから、掃除をするのが普通のことだと思っていたからである。

 他のみんなは、どんなことを考えて掃除をしていたのだろう。

 きっとこの中で一番僕に近いのは、褒められたいからって理由だろうね。

 だって、このタイプは目的が掃除の内容と関係ないところにあるから。この理由だったら別に掃除じゃなくてもいいもんね。このタイプが一番他人の価値観に左右されて、一番他人から影響を受けて、一番僕に近い生き方をしている人だと思う。

 そんなどうでもいいことを考えていると、少しばかり集めたごみが散乱してしまっているのに気づいた。

 

 

「あっ、いけない。集中しなきゃ。下手くそだってまた霊夢に怒られちゃうからね」

 

 

 しっかりしなきゃ。すっと空を見上げて汗を拭う。空気は夏に向かってどんどん暑くなっている。

 夏は……もっと暑いんだよね。

 夏の暑さに想いを馳せたその瞬間に、普段なら話しかけてくるはずのない彼女から言葉が飛んできた。

 

 

「あんた、そんなんでいいの?」

 

 

 何のことだろうか。「そんなんでいいの?」という言葉の意味が分からなかった。

 霊夢の言葉は一言聞いただけでは分からないようなことがほとんどだ。返答も一言で全てを表してくる彼女は質問も一言であることが多く、いつだって僕は首をかしげている。

 阿吽の呼吸のように、分かり合えている関係でもない僕らでは意思疎通ができない。

 藍だったら分かったかもしれない。紫だったら分かったのかもしれない。

 だけど、付き合いの短い霊夢では分かりようがなかった。

 

 

「何がかな? 霊夢はいつも言葉が足りないよね。分かるように言わないと相手には伝わらないんだよ? それにいい加減名前で呼んで。二人だから分かるだけで反応しづらいのは変わらないんだよ?」

 

「……敬語を止めさせたのは失敗だったかしら? なんだか生意気になった気がするわ」

 

 

 霊夢は、僕が来て1日経った時に敬語を止めるように言ってきた。

 霊夢が言うには、どうにも言われ慣れていないようで気持ちが悪いとのことだった。気を遣われるのも気持ちが悪いし、気を遣う気もないし、そんな奴を居候にしたくないとのことだった。

 

 

「だったら今からでも戻しましょうか?」

 

「いえ、それはそれで小馬鹿にされている気がするからいいわ」

 

 

 勿論だが、霊夢を馬鹿にしているつもりは全くない。

 敬語は相手を敬うための言葉であって、相手を落とし込むために使う言葉ではない。

 居候という立場の僕は、特に立場が低いから気を遣っているのだけど、それがまた気持ち悪いということなのだろうか。僕にはよく分からない感覚である。

 もしかしたら、僕がまだ敬語を使い慣れていないからどこかおかしくて、言われていて気持ち悪さを感じるのかも。そんなことだったら大変だな。他の人にも迷惑がかかっているかもしれない。今から少しだけ練習しようかな。

 霊夢は、考え込む僕に凛とした表情で貫くような言葉を飛ばしてきた。

 

 

「私が言いたいのは、あんたの生き方よ」

 

「名前で呼んで。僕の名前はあんたじゃないよ」

 

「…………和友の生き方よ」

 

「声が小さいよ? 自信がないの? 僕の名前、まだ憶えられていないの? 僕は霊夢の名前をちゃんと覚えたよ?」

 

「うるさいわね! そんなことどうでもいいでしょう!?」

 

 

 何を怒っているのだろうか。

 何を戸惑っているのだろうか。

 霊夢の反応は、今まで出会ったことのないタイプの反応である。

 霊夢の瞳は怒りの色に染まっている。

 僕の言葉が不快だったのだろうか。普通のことを言ったつもりではあったのだけど、気分を害してしまったみたいだ。人の感情に機敏な僕でも、彼女の心の動きはよく分からなかった。

 

 

「私が言いたいのは、和友の生き方が間違っているってことよ」

 

「間違っている?」

 

「そう、無駄なことばかりで時間を浪費しているようにしか思えないわ。霊力なんてこれっぽっちも増えていないじゃない。弾幕ごっこだって下手くそなまま。努力なんてするだけ無駄よ。和友には才能がない。和友はこれ以上強くならないわ」

 

「ふふっ、霊夢も結構言うね」

 

 

 余りにもはっきりと言う霊夢の言葉に思わず笑ってしまう。

 努力しても無駄。それだけ聞くとなんて酷いことを言うのだろうと思う人もいるだろう。彼女の言葉は普通の人なら傷ついてしまうような言葉だ。友達には絶対言っちゃいけない言葉の一つだ。

 けれども、他の誰でもない霊夢が言っていると考えるとその言葉の伝わり方は随分と違ってくる。実際、霊夢には自分が酷いことを言っている自覚なんてこれっぽっちもないはずである。

 霊夢と知り合ったのはつい1週間前だけど、話していると持っている価値観が全然違うことだけはすぐに理解できた。そう思える彼女の仕草がいくつか見受けられた。

 

 ―――思うに彼女は。

 これまで負けたことがないのだろう。

 これまで努力したことがないのだろう。

 これまで誰かに対して劣等感を覚えたことがないのだろう。

 少なくとも僕は、彼女が努力しているところを見たことがない。

 そういう人もいると思う。

 世の中にはいろんな人がいるから、霊夢のような人がいてもおかしくはない。

 霊夢は、誰かを見下すためにこんなことを言う人ではない。

 負けたことも劣等感も持ったことがない人間がどうして誰かを見下そうなどと思うだろうか。

 負けたから勝ちたいと思うのだ。

 劣っているから優りたいと思うのだ。

 そして、それが成し遂げられたから見下したいと思うのだ。

 負けたことのない彼女が誰かを見下そうなんて思いもつかない考えだろう。

 

 彼女は、疑問なのである。

 努力しても変わらないこと―――そんな無駄なことのために時間を費やすことが、不思議で仕方がないのだ。

 見ていて時間の浪費がもったいなくて仕方がない。僕がこれだけ努力を重ねているのに余りにも変わらないからもどかしい。なんでそんな無駄なことをしているのか分からない。

 彼女には―――僕の存在が理解できないのだ。

 

 

「もっと他のところに時間を使えばいいじゃない。いくら霊力が増えなくても、弾幕ごっこが下手くそでも、他のことが全くできないってわけでもないでしょ?」

 

 

 彼女は、言っているのだ。そんなことをするぐらいならもっと別のことをやりなさいと。才能がないから別の才能があることを探せと。

 

 

「そ、そこそこだけど、あくまでもそこそこだけど、料理は美味しかったわ。料理とか、もっと別のことをして時間を使った方がいいんじゃない?」

 

 

 霊夢は、僕のことをよく分かっている。

 僕の努力を時間の浪費だってよく分かっている。

 きっと、僕の努力なんて他の人から見たらそんなものなのだろう。

 きっと、実力のある人から見たらみんなそう思うのだろう。

 霊夢じゃなくても大体の人が同じ感想を抱くのだろう。

 だって、霊力が多量にある人から見れば、少しも増えているように見えないからだ。2年間近く続けてきてようやくコップ一杯分と言われたレベルの増加である。給水タンクを複数抱えている人がコップ一杯の増加に気付くものか。

 彼女は、いつもそういう目で僕の練習風景を見ていた。遠くからどこか不思議そうなものを見るような目で僕を見ていた。

 

 

「知っているよ。霊夢は、いつもそういう目で練習している僕を見ていたもんね」

 

「和友の努力は無駄の塊よ。誰もそれを評価したりしない。誰もその力に頼ろうとはしない。誰も和友の努力を見たりしない。だって和友の努力には変化が無いもの」

 

 

 それもよく理解している。

 誰が力の無い奴の努力を評価するだろうか。

 誰が力の無い奴に頼ろうとするのか。

 誰が力の無い奴の変化しない努力を見ているのだろうか。

 結果に現れなきゃ、努力した痕跡など見つけてもらえない。

 そもそも、努力をしている本人からすれば、実にならない努力を見られるほど惨めなことは無い。

 あいつあれだけ努力したくせにこれだけかよと思われることほど、自分が惨めになることは無い。

 勝手に相手が勘違いして感化してくれる分にはいいと思うけどね。

 きっと、今の霊夢には僕の気持ちは分からない。

 こういうのは体験してみないと実感できないことだ。負けたことのない人間には、負けた人間の気持ちは分からない。努力をしても強くなれない奴の気持ちは、努力をしたことのない人間には分からない。

 

 

「霊夢はどう思うのか分からないけど、僕は誰かに努力を評価して欲しいなんて思っていない。誰にも僕の力を頼ってなんて欲しくない。僕が一生懸命やっている姿を見て欲しいわけじゃない」

 

「だったらなんでそうするの?」

 

「僕は僕のためにそうしているんだよ。目指すべき未来を掴むためには必要なことなんだ。誰かのためじゃなくて僕自身のために必要なことなんだよ」

 

 

 不思議そうな表情が霊夢の顔に張り付いている。

 やっぱり分からないか。それもしょうがないのだろう。

 僕に、記憶力のいい奴の気持ちが分からないのと同じだ。

 僕に、霊夢の気持ちが分からないのと同じだ。

 結局違う人間だから、同じ景色を見ることができていないから、共有している部分があまりに少ないから分かり合えていない。

 

 才能がないから。

 時間がもったいないから。

 だから―――霊力を増やす練習を止める。

 僕が今から違う生き方をできるのならできるだろうか。

 うん……きっとできるはずだ。

 霊夢の言っている通り。

 サッカーの才能がないから野球でもやってみるか。

 ピアノを弾く才能がないから別の楽器を試してみようか。

 そう思うだけの余裕があればいい。

 そう思えるだけの時間があればいい。

 だけど、僕にはそんな余裕がない。

 そのための―――時間的余裕がない。

 僕は、あくまでも皆の土俵で勝ちたいのだ。

 みんなと同じ舞台でみんなと同じように舞って、同格の戦いをしたいのだ。

 誰がサッカーで負けたからって、野球で勝負して勝ちたいなんて思うか。

 そんなもので勝って、なんになるのか。

 やっぱり―――負けたものと同じもので勝ちたいのだ。

 

 

「霊夢みたいな努力をしなくても強い人間には、分かりにくいことかもしれない。誰かに負けたことのない霊夢には分からないことなのかもしれない。だけど、負けると意外と悔しいんだ。悔しくて、悔しくて、勝ちたいって思うんだよ」

 

「私には分からないわ」

 

「いずれ分かるよ。霊夢にだって」

 

「なんで言い切れるのよ」

 

 

 絶対に分かる時がくる。

 自分ができないこと。誰かに負けること。悔しく思うこと。

 自分が一番やりたいことが見つかるときが必ず来る。

 だって、普通の人間はみんなそうなのだから。

 みんな、そういう世界の中で生きているから。

 人は、独りじゃ生きられないのだから。

 普通にそうなると思うんだ。

 普通じゃない僕にだってそんな普通があったのだから。

 普通に―――悔しいって思うことがあったのだから。

 

 

「霊夢だって人間だ。いつか絶対に負ける時が来る。負けない人間なんていない。きっと負かしてくれる人が現れる。もしも誰もいなかったら―――僕が霊夢を負かしてあげるよ」

 

 

 霊夢は、僕の言葉に少しだけ驚いた顔を見せると何も言わずに掃除を続行した。

 僕も、静かにいつも通りの日常の歩みを進めた。

 

 

 

 

 博麗神社の掃除も終わりに近づき、掃いて集めたゴミを一か所に集めていく。

 今日は考え事をしていたせいか少しだけ量が少ない。サボっている、力を抜いたと言われたら大ごとだけど―――今日に限っては許してくれるだろう。

 これが終わったら暫くの間博麗神社でのんびりできる時間がやってくる。

 これからどうしようか。そんなふうにこれからのことを考えながら掃いて回ったゴミを集めていると日常の流れとは違う出来事が起こった。

 

 

「ちょっと和友、こっちに来なさい!」

 

「はーい!」

 

 

 遠くから霊夢が僕を呼ぶ声が聞こえた。

 方角的には参道の方からである。

 霊夢が僕を呼ぶなんて何があったのだろうか。

 声がした方向へ足を運ぶ。

 間もなく霊夢の姿が見えてくる。

 

 

「…………?」

 

 

 視線の先には霊夢以外の人物の姿があった。

 僕は、新しく登場したその人物を見て驚きの感情が先行したが、できるだけ顔に出さないようにした。

 

 

「和友の言うことも全部が全部嘘というわけじゃないようね。本当に力の無いあんたを頼りに来た妖怪が現れたわ」

 

「和友さん、わたし、わたし……」

 

「……和友を頼りにしてきたのだから和友が何とかしてあげなさい。私があれこれやるより、きっとその方がいいわ」

 

 

 やってきた妖怪は、ボロボロの服で傷だらけだった。

 髪の毛はぼさぼさで。

 土に汚れた体で。

 つけていたマフラーはちぎれてしまいそうになっている。

 持っていた傘はボロボロで開くかどうかも分からない。

 抱えている刀剣には僅かに血が付着していた。

 霊夢は、特に何も動きを見せることなく、僕の反応を伺っている。

 博麗神社まで来た妖怪の視線は僕に送られていた。

 

 

「とりあえず博麗神社の中に入ろうか? それでいいかな?」

 

 

 霊夢と妖怪の顔を交互に見る。一応、確認のためである。

 霊夢は、僕の質問に対してまたしても何も言わず、好きにしなさいというように博麗神社の中へと消えていった。

 博麗神社は、あくまでも妖怪退治を生業としている霊夢がいる場所。本当なら妖怪が入っていくことは許されないことなんだと思うけど。こういうところが、さばさばしている彼女の一つの優しさの形なのだと思った。

 

 

「ほら、行こう?」

 

「はい……」

 

 

 そっと妖怪へと手を差し出す。

 妖怪の震える右手が僕の左手に重なる。重ねられた手は少し冷たく、力がなかった。

 一歩一歩、歩みを進める。妖怪の足取りはかなり重く、なかなか前に進まない。体調が悪いというより、怪我をしているというようなぎこちなさである。できるだけゆっくり、できるだけ負担にならないように、妖怪自身が歩ける程度の速度で左手を引いてあげる。

 妖怪は、少し嬉しそうな顔で僕を見つめてくる。僕は表面上では笑顔を浮かべたが、内心では申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 霊夢は、神社の縁側から怪訝そうな視線をこちらに向けるだけで何も言わなかった。

 

 

「横になって、楽な体勢をとって」

 

「はい……」

 

 

 自分の布団を畳の上に敷く。

 妖怪の着ている着物が土で汚いとか、布団が汚れるとか、そういうことを気にしている状況ではない。放っておけば今にも死にそうな様子なのだ。

 洗えば元に戻るのだったらいくらでも僕の布団を貸そう。

 今僕が使っている布団を本当に必要としている人は、僕ではなく目の前にいる妖怪である。

 妖怪は持っていた物を全て布団の隣に置くと、布団の上に横になった。

 

 

「晩御飯を作って来るからそれまで休んでいて。話をするのは明日でいいから。今日は体を休めてね」

 

 

 僕の言葉に対する妖怪からの答えは聞こえてこなかった。聞こえてきたのは、一定のリズムを刻んでいる寝息だけだった。

 今日の晩御飯はそうめんだった―――というかそうめんにした。食べやすいものと思って僕が作った。ほとんど霊夢に食べられてしまって作る量が少なかったと反省しつつ、自分の分を半分だけ残して食べるかなと思って部屋に持ち込んではみた。

 だが、妖怪はずっと寝たままだった。

 そう、ずっと寝たままだった。

 結局、その妖怪が目覚めて口を開いたのは、それから三日後である。僕が霊力増加のための練習をしているときに起きたようで、集中している僕へと声をかけてきた。

 

 

「すいませんでした。長い間眠ってしまったみたいで……迷惑をかけました」

 

「いいよ。受けいれたのは僕の方だ」

 

 

 そう、今思えば捨て置くこともできた。あの時、博麗神社にやってきた時―――置き去りにすることもできた。

 そして、そのまま死んでもらう、そのまま霊夢に処理してもらう―――なんてこともできないことは無かった。

 なんで受け入れたか。それはきっと妖怪が―――僕の尊敬する彼女だったから。他ならぬ彼女だったからだろう。

 

 

「もう、大丈夫なの?」

 

「はい、平気です」

 

「それじゃあ……話、できるかな? 僕の部屋でいいよね」

 

「はい……」

 

 

 尊敬する彼女とは―――犬走椛のことである。

 椛は、まだ少しだけ疲れている顔をしていた。休んだとはいっても疲れが抜けていないのがまるわかりだった。

 それでも、口が裂けても止めておこうなんて言えなかった。気を遣っても彼女が大丈夫と言って聞かないのはなんとなく分かっていたし、口に出すことでより彼女を追い詰めるような気がしたから。

 僕の部屋に入った二人の会話の始まりは、椛からの一言からだった。

 

 

「本当に和友さんと会えてよかったです。あのままだったら死んでしまっていました」

 

「あんなに追い詰められるなんて、何があったの?」

 

「口にするのも非常に恥ずかしいのですが、妖怪の山の仲間と喧嘩をしまして……」

 

「喧嘩? それは他の白狼天狗とってこと?」

 

「そうです。ちょっと我慢ができなかったので……つい手が出てしまいました」

 

 

 椛は、妖怪の山の仲間と喧嘩してああなったという。喧嘩をしてあれだけボロボロになって、死にそうなところまで追い詰められたという。

 そんなことがありえるだろうか。椛の怪我の具合を知っていると余計に強く疑問を感じるが、喧嘩というにはやりすぎである。喧嘩というレベルで納めていい話ではない。喧嘩と言うか、もう関係を修復することができないほどの争い―――殺し合いがあったと思う方が自然だ。死んでしまう可能性があったというのは、そういうことのはずである。

 それだけのことが起こる理由。

 椛がそんなことをしてしまう理由。

 何となく分かる。

 言わなくても想像できる。

 だけど、それは椛の口から聞かなければならなかった。

 

 

「どうして喧嘩になったの?」

 

「っ……」

 

 

 僕の言葉を聞いた瞬間に椛の顔が露骨に強張った。

 視線が下がる。気持ちが落ち込む。声が出なくなる。

 分かっている。言いたくないことぐらい。

 でも、聞かないと分からないのだ。

 知っていても聞かなきゃ分からないのだ。

 本心なんて、誰にも分らないようにできているのだから。

 誰にも分らないようにできているから、分かりたいと思うのだ。

 僕は、彼女がそうしてしまった理由を知りたかった。

 知っておかなければならないと―――直感的に思った。

 椛は、僅かに上目使いになりながら口を開いた。

 

 

「話さないといけませんか?」

 

「話さないと分からないよ? 僕が分からないまま、知らないままでもいいっていうのなら話さなくてもいいけど……それが何のためなのか考えてね」

 

「何のため?」

 

「椛は、何のために黙っていたいの? 自分の名誉のため? それとも僕を傷つけないようにするため?」

 

 

 何のために。目的はどこにあるのか。

 ここがしっかりしていれば、きっと続けていける。

 何となくというありもしない目的で相手を振り回すのだけは止めた方がいい。

 きっと後で取り返しのつかないことになる。

 そう、それはきっと僕にだって言えること。

 

 

「理由がはっきりしているならいいよ。もちろん話してくれてもいいし、話せる時になったらでもいいから。自分の心だけには嘘をつかないようにね」

 

「はい……」

 

 

 椛の口から力ない声が漏れ、しばらくお互いの間を沈黙が支配する。お互いに何を話せばいいのか分からなくなり、押し黙った。

 僕から聞きたいことは色々ある。

 何でここに来たのかとか。

 これからどうするのかとか。

 だけど、それは僕が知りたいことであって椛が言いたいことではない。椛が言いたくないことは、基本的に聞いても回答は得られないだろう。先程の質問に応えられないようでは、僕の質問に応えられるとは到底思えなかった。

 なんで喧嘩になったのか―――その理由に僕の質問の全てが含まれている気がしたからである。

 何も応えられない椛に対してこれ以上できることは何もなかった。あるのは、怪我の治療が終わったら博麗神社から出て行ってもらって、いつも通りの日常を送ってもらうという選択肢しかない。

 新たな選択肢を生み出すためには―――椛から話を持ち掛けてもらう必要があった。

 それを知ってか知らずか―――椛は僕に向かって頭を下げた。

 

 

「あの、もしよろしければ、私をここに置いてもらえないでしょうか。自分で言うのもあれですが、妖怪の山を追い出されて行くところがないのです」

 

「……約束をしてくれるのなら、ここにいてくれて構わないよ」

 

「えっ! 本当ですか!?」

 

 

 僕の言葉に勢いよく椛の頭が上がる。

 断られると思っていたのだろう。

 あの時、思いっきり椛の告白を断ったこともあって拒絶されると思っていたのだろう。

 実際断った方がいいのだろう。霊夢のことを考えれば博麗神社に妖怪を住まわせるべきではない。依存のことを考えれば、第二の藍を作りかねない。

 それでも受けたのは僕なりの、僕のための理由からである。

 僕が望んでいる未来は、自分一人の力だけでは到底たどり着けない場所にある。誰かの力を借りなければ成し遂げることができないのは、力の無い自分が一番よく分かっている。

 だからこれは、取り返しのつかないようなことにならないようにするために、相手を振り回すために、僕の願いを叶えるために必要なこと。

 何よりも―――僕と同じ土俵に立ってもらうために必要なことだった。

 

 

「それは、どんな約束でしょうか?」

 

「椛には僕の願いを叶えてもらいたいんだ。僕の最後の願いを―――」

 

 

 僕が願いの内容を口にした瞬間―――椛と僕の間の空気が時を止めた。

 




今回のお話は、主人公と霊夢のやり取りと犬走椛がやってくるお話です。
会話のイメージはつきましたでしょうか。
これが霊夢の全てであるわけではないですが、主人公との会話はこんなものです。
また、新しく主人公の下に犬走椛が現れました。
これからどうなるのでしょうね。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。

追記
風邪は完全に治りました。
これからは、健康に気を付けて頑張ります。


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自分を作った過去、これまでを失う未来

第6章の3話目です。
6章は、紅魔郷に入る前のお話になります。
予定では、全4話の予定です。


 僕は、椛に自らの願いを伝えた。最後の―――本当に最後に叶えたい願いを椛に届けた。どう受け取っても間違いがないように、真っ直ぐに実直に椛へと想いを受け渡した。

 ただ、椛の表情は複雑そうで、受けとった想いに対してどうしたらいいのか分かりかねている様子だった。

 

 

「私には、できません……いくら和友さんの願いだとしても、そんなことをしたくありません」

 

 

 当然だと思った。椛の反応は当たり前すぎて、僕には何も言うことがなかった。

 なぜならば、僕の願いを受け入れることには負担しかないからである。悪いものしか後に残らないからである。

 そう、僕の願いの果てに残るのは苦しみだけになってしまうかもしれないのだ。

 僕の願いを叶えても見返りを受けることはできない。

 僕の願いを受け入れても満たされることは無い。

 そんな条件の中で僕の願いを飲み込んでくれる人がどれだけいるだろうか。

 それでもやってくれるそんな人―――今のところ紫ぐらいしか思いつかなかった。未来には藍がきっと担ってくれると思っているが、どうなるかは分からない。

 僕は、願いを叶えるために力を貸してくれる人を欲していた。椛に―――その一人になって欲しかった。

 だが、椛は明らかに困った様子で今にも泣きそうな顔で僕に向かって想いを口にした。

 

 

「どうして私にそんなことを話したのですか? よりにもよって好意を寄せていると言っている私に。私は、これからどうしたらいいのですか。どう、和友さんと接すればいいのですか……」

 

「それは……」

 

 

 なんで“椛に”話したのだろうか。

 どうして“椛に”伝えたのだろうか。

 心の中を疑問が徘徊する。

 別に椛じゃなくてもいいじゃないか。君の願望の体現者は誰であってもいいのだろう?そう言われてしまったら立つ瀬がないのは確かだった。

 その質問を受ければ、そうだと答える。正直なところ誰でもいいと言えばその通りで、僕の夢を叶えるための力を貸してくれるのなら誰でも良かったといえば、良かったと言える。

 だけど、僕の抱えている願望を誰にでも話すかと言われれば、絶対にそんなことは無かった。こんなこと誰にだって話せるわけじゃない。霊夢には話せないだろう。文にも話せないだろう。

 話すと話さないには明確な違いがある―――きっとそこに“椛に”話した理由があるはずだった。

 

 

「……椛だから。僕は、椛だから話した」

 

 

 理由を探してみると、すぐにすとんと心の中に落ちてきた答えがあった。

 何も椛が僕の願望を達成するための力を持っているからとか。

 椛なら手伝ってくれそうだからとか。

 そんな理由でも何でもない。そんな損得勘定のあるような理由からではなかった。

 僕が願いを告げれば、傷つくことは分かっていた。困らせることも分かっていた。

 それでも―――心が真っ直ぐに椛に対する気持ちを口にした。そこには、椛だからこその理由があったのだ。

 

 

「僕に想いを伝えてくれた椛だから。誰よりも頑張り屋だった椛だから。誰よりも僕に近い生き方をしてきた椛だったから―――これからを生きていて欲しいと思ったんだ」

 

 

 話したのは―――椛に助かって欲しいと、そう思ったからだ。藍と同じで、死んでしまうのではないかと心配してしまうほどに依存している椛に、今にも死にそうなほどに傷ついて博麗神社へとやってきた椛に、生きていて欲しいと切実な想いを抱えていたからだ。

 椛に生きていて欲しい。これからも生きていて欲しい。ずっと、ずっと遠くまで、僕が及びもつかないところまで生きていって欲しい。僕がいけなかった場所に、僕が過ごすことのできない時間を過ごしてほしかった。

 

 

「これからなんて……私にはもう、居場所なんてないのよ。あんなことをしてしまったからには、妖怪の山には二度と戻れない。私の生きていい場所は消えて無くなっちゃったのよ……」

 

 

 椛の声は今にも死んでしまいそうだった。吹けば消えてしまうような蝋燭だった。

 言葉遣いも昔に戻っている。

 本来の形に、心のあるがままに。

 言葉は心の景色を映し出している。

 

 

「どうすればいいの? 私はどこに向かって歩けばいいの?」

 

 

 何をしていいのか分からなかった。迷いに迷って方角も分からなくなって、自分が立っているのか座っているのかさえも分からなかった。

 

 

「あげくの果てには、好きだった人からそんなお願いをされて……私はどうしたらいいの? 私のこれからってなんなのよ? 戻る場所も失ってしまった私のこれからが、どこに繋がっているっていうのよ!?」

 

 

 ―――泣いていた。

 涙が両目から止められることなく流れていた。

 力強く手が握られ、瞳には怒りと悲しみが混在していた。

 

 椛の様子は僕の心を震わせた。正面で椛の様子を見ていると、心がざわついて仕方がなかった。椛を見ていると、椛の言葉を聞いていると、どうしても昔の自分が思い出させられた。

 家が燃え落ちたとき―――僕は椛と同じ顔をしていたように思う。

 伝わってくる心の震え―――感情は余りにも似通いすぎて共振していた。

 あの時僕の心は大きなものを失った影響で大きな穴が空いて、それを埋めるように涙が流れて―――そして心に大きな海ができた。

 帰る場所が無くなって。

 迷子から逃れる術を失って。

 家への帰り方を忘れてしまった。

 帰る場所がなくなることがこれほどの衝撃を与えると思っていなかった。

 取り戻せなくなった思い出と居場所が僕にとってどれほど大事だったのかを思い知らされた。

 椛は、僕と同じように心に穴を空けてしまうかもしれない。塞ぐことができなくなって終わってしまうかもしれない。そんな不安が想像に拍車をかける。

 だけど、まだ何とかなる。椛の場合は何とかなる。僕と違ってまだ間に合う。もう何もかも間に合わなくなってしまった僕と違って取り返しが利くのだ。

 なんとか伝えなきゃ。

 椛が生きていけるように。

 椛の未来を終わらせないために。

 同じ居場所を失う気持ちを味わった僕だからこそ、伝えられることがあると思うんだ。伝えなきゃいけないと思うんだ。

 心を強く保つ。

 力強く、何よりも真っ直ぐに気持ちを伝える。

 息を吸い―――口から椛へと想いを伝える。

 僕は、心にある想いを勢いよくぶつけた。 

 

 

「椛のこれからはどこにだって繋がる! どこにだって飛んで行ける! “これから”は死ぬまで続くんだ。死んで途切れてしまうまでずっと続く。これからに繋がる橋をかけるのは椛なんだよ!」

 

「そんな続きなんて要らない! そんなもの要らないっ!」

 

 

 このままじゃ―――死んでしまう。

 このままじゃ―――終わってしまう。

 終わらせてしまうと思った。

 

 

「要らないって……本気でそう言っているの?」

 

「本気よ! 仲間から追い出されて、和友さんにそんなことを言われて、私はどこで生きていけばいいっていうの!? 私のこれまでは何処に持っていけばいいのよ!?」

 

 

 ―――苦しんでいた。

 これまで抱えてきたものを捨てることに。

 自分を殺してしまうことに。

 心が怯えていた。

 

 

「私は、私を捨てられないっ……」

 

 

 これまでを捨てれば生きていくのは簡単だ。

 妖怪の山で哨戒天狗として生きてきたこれまでを全て捨てれば生きられる。

 プライドも自信も、持っているものを全て捨てれば何処でだって生きていける。

 人里であったとしても。

 その他の妖怪が住まう場所であったとしても。

 周りにバカにされながらでも。

 痛めつけられたとしても。

 慰められることに惨めさを感じたとしても。

 どんなことがあっても生きていける意気込みでいけば、生きていけるだろう。

 だけど、椛にとってこれまでを捨てることは自分を殺すことと同義だった。

 

 

「これまでを捨ててしまったら、そんなことをしたら! 私が―――私という妖怪が死ぬの!!」

 

 

 誰よりも妖怪の山のルールを守ってきた。

 誰よりも仕事をきっちりこなしている自分に誇りを持っていた。

 それをやらなければ自分ではないというほどに自分のしていることに自信を持っていた。

 それはまさしく、自分の大部分を構成する要素である。それを、これからを生きていくために捨てなければならなくなるのだ。これまで生きていくために必要だったものを、捨てなければならなくなるのだ。

 それはつまり―――自分を殺してしまうこと、妖怪にとって自殺することと同義だった。

 椛は、これまで積み立ててきた自分の芯が強すぎて折れないところまできている。折ってしまえば、死んでしまうところまできている。

 これが、私。

 これが、自分。

 そういう答えを持ってしまっている。

 それらを捨てる―――自ら命を絶つことはできない。

 結局のところ椛の生きていける場所は妖怪の山にしかなかった。

 あるいはそれを満たせるだけの、心を満たせるだけの、穴を埋めることができる場所しかなかった。

 

 

「だから僕の所に来たの?」

 

「…………分からないの。ただ、体が勝手に動いた方向に進んで行ったらここに……」

 

 

 酷く言い辛そうに椛の答えが提示される。

 僕の所に来た理由はなんとなく分かる。心の穴を埋められると分かっていて僕の居るところまで来たのだろう。失った心を埋めるために本能的に僕の所へ来たのだろう。

 橙のように―――引き寄せられたのだろう。

 だけど、その願いは叶わなかった。僕の寿命は後2年で終わってしまう。後に続くとしても後2年の猶予である。しかも、僕の願いを叶えるとなると居場所を再び失う覚悟が必要になる。

 理想と現実の落差に椛の心が死にかけていた。

 だったら死ぬしかないのか。現在、居場所のない椛は死んでしまうしか選択肢がないのかと言ったら―――それは嘘だ。まだ椛の人生は終わっていない。

 だって、椛はまだ何も失ってなどいないのだから。

 失ったものなど、最初からなにもなかったのだから。

 

 

「椛は諦めているの?」

 

「諦めている? 違う、もう終わったのよ! 私はもう終わってしまったの!」

 

「終わってなんかないよ。椛は僕と違ってまだ帰る場所があるじゃないか」

 

 

 そう―――決定的に違うのはそこである。

 椛の居場所だった妖怪の山は、見上げればそこに見つかる。

 僕の家と違って探せば見つかる。

 帰ろうと思えば、いつだって帰れるのだ。

 僕は帰る場所を完全に失っている。今帰っても残っているものなんて何もない。何もなくて、何も思い出せなくて、取り戻せなくて、もう終わってしまっている。

 そんな僕とは―――違う。

 今は受け入れてもらえないだけだ。

 今後どうなるかなんて今後次第。

 居場所を追い出された今があるように。

 居場所を取り戻せる未来だってあるはずだ。

 じゃないと不公平だろう。

 いくら神様がいるといっても、僕みたいなのがいるとしても、そこまで不公平に未来を決めたりしないはずだ。

 

 

「椛の帰る場所は何もなくなったわけじゃない。僕と同じように燃えて、灰になって、消えてしまったわけじゃないじゃないか」

 

 

 椛が僕に一言に押し黙る。

 帰るという選択肢を考えてもみなかったのかもしれない。

 戻れるなんて選択肢を思いつきもしなかったのかもしれない。

 余りにもハードルが高すぎて、できないと勝手に決めつけていたのかもしれない。

 確かに難しいことかもしれない。だけど、それは難しいというだけでできないことではない。しっかりと階段を設置して1段1段登っていけばいい。誰だって辿り着けるような階段を作り上げれば、どんなに高い目標でも届くはずだから。

 

 

「また、取り戻せばいいだろう? 椛がそういう未来を作っていけばいいだろう? 椛が前と同じように妖怪の山で暮らしていける未来を椛が手に入れればいいだけの話じゃないか」

 

「無理よ! そんなことできるはずないわ!」

 

「できるよ、椛ならできる」

 

「どうして和友さんはいつもそうなのよ!? そうやって私のことを勝手に過大評価して、根拠も何もないのに適当なこと言わないで!!」

 

「適当になんて言っていないよ」

 

 

 適当なことを言っているつもりは全くなかった。

 僕は、何となくなんて理由で椛にそんなことを言ったわけじゃなかった。

 他の誰かだったらこんなこと言えていない。

 それは、紫であっても。

 それは、藍であっても。

 僕は―――“椛だからこそ”そう思ったのだ。

 

 

「椛は、これまでだって周りにどんなことを言われても、押し通してきたじゃないか。妖怪の山の見張りを真面目にやってきたじゃないか。誰になんて言われても、それをやっているのが自分なんだって言っていたじゃないか」

 

「これとそれとじゃ……」

 

「同じだよ。周りを押し切ってやっていたという意味で同じだ。周りに何と言われても、妖怪の山に戻るって。前と同じように生きていくって。周りの言葉なんて気にせず押し切って、そういうものなのだと受け入れさせればいい」

 

 

 妖怪の山で起こしてしまった問題に対して謝罪するなり、説明するなりして妖怪の山の仲間に理解してもらう。

 いや―――理解されずとも押し通すのだ。

 意味がないと、あいつはなんであんなに真面目にやっているのだと、馬鹿じゃないのかと言われながらも妖怪の山の監視をしたように。妖怪の山に戻ることを押し通せばいい。

 戻るたびに追い出されるかもしれないけど、追い出されたら何度でも向かって、押し通せばいい。相手が諦めるまで自分が諦めずに立ち向かえばいい。

 

 

「椛だったらできるはずだよ。諦めずに何度でも押し付けてやればいい! 自分の気持ちを真っ直ぐ伝えて、押して、押して、押して。自分の気持ちを伝えてやればいい!」

 

 

 椛だったらできるはずだ。何度だって立ち向かって自分の気持ちを伝えられるはずだ。

 これまで積み立ててきた自分が今の自分にそう言うはずだ。

 これまでを捨てられない椛なら。

 それが―――椛だというのならできるはずだ。

 もちろん、今すぐに行けなんて言わない。心の整理は必要だし、決断するまでの時間は必要だろう。椛が妖怪の山に帰るまでは、僕が死ぬまでだったらここを使ってもらっていい。部屋の大きさを考えても椛を受け入れるぐらいは余裕をもってできる。

 

 

「妖怪の山に戻れるようになるまではここにいればいいよ。僕が死んでしまうまでに椛が最も求める結果が得られれば、僕としてはこれ以上のことは無いから。僕は、僕がいなくなった後の未来に安心したいから」

 

 

 椛は、少しまだ吹っ切れていない様子だった。

 不安の在りかは分からない。妖怪の山に戻ることができるかどうか不安に思っているのか、それとも僕の願いを叶えることに抵抗があるのか、僕には何も分からなかった。

 分からなかったけど―――それでも良かった。

 それで良かった。

 それが良かった。

 悩んで、自分で決めてくれればいい。

 もしも、悩んだ結果死んでしまうことになっても僕は何も言わないから。

 僕は、椛のことを忘れずに覚えていてあげるから。

 皆が忘れても、僕が椛のことを覚えていてあげるから。

 

 

「悩めばいいよ。いくらだって悩んで悩んで、心の中に確かな答えを見つければいい。ただ、僕の気持ちはしっかりと言っておくよ。僕の気持ち―――椛に願いを託した僕の気持ちを」

 

 

 ありったけの気持ちを込める。

 言わなきゃ伝わらない。

 伝えなきゃ理解されない。

 思っていること。

 感じていること。

 素直に―――理由を言葉にした。

 

 

「僕は椛に生きていて欲しい! 僕が死んでしまった後も、椛だけの明日を進んでいって欲しいんだ!!」

 

 

 椛には、僕のことを自ら断ち切って自由な空へ飛んで欲しいと思っていたから。

 飛んだ空から僕の最期を看取ってほしいと思ったから。

 最後に安心して逝きたいと思ったから。

 だから―――椛に願いを告げたのだ。

 

 

「僕に、僕だけの明日があるように。椛にだって椛だけの明日がある。椛は椛の、僕は僕の命を全うしてその日を迎える。僕にとってのその日を椛が見送って欲しい。僕が何の心配もしなくて済むように、満足して何も引きずらずに済むように、椛が僕を終わらせる一つの原因になって欲しいんだ」

 

 

 僕が願いを叶えたい理由を伝えた後、願いを叶えてくれないかと同じ問いかけをした時―――彼女は首を縦に振ってくれた。

 椛に願いの話をする過程でこれまでのことを説明した。

 これまでっていうのは、それこそ外の世界のことからである。

 生まれて、何を考えて生きて、何を成してきたのか。

 幻想郷にやってきて、どういう生活を営んできたか。

 僕がどんな病気で、能力の弊害がどのようなものであるか。

 そして、自分がどういう終わり方を迎えたいのかということ。

 ――――ちゃんと伝えた。

 巻き込むのならやっぱり、納得して巻き込まれて欲しいから。

 自分から僕の言葉に頷いて欲しかったから。

 何もかも包み隠さずに言葉を口にした。

 

 

「分かりました、私が和友さんを―――」

 

 

 椛は僕の想いを受け取り、首を縦に振った。

 こうして僕は、椛と大切な約束を交わしたのだ。

 

 

 

 

 

 

「そろそろ行こうか。道中よろしく頼むね」

 

「はい、任せてください。私が和友さんを守りますから」

 

 

 椛はあれ以来、博麗神社の僕の部屋で一緒に過ごしている。部屋が十分に大きかったため、場所が狭いということは全くない。むしろ課題となるのは一緒に住むということを霊夢に容認してもらうというところにあった。

 僕が霊夢に問いかけたところ―――霊夢は椛を博麗神社に住まわせることに対してこう言っていた。

 

 

「その部屋は和友に貸しているんだから。使い方は和友の自由よ。好きに使いなさい」

 

 

 霊夢は、文句ひとつ言わず椛が同居することを許してくれた。霊夢が許してくれたことによって、椛は正式に博麗神社で過ごしていくことを認められた形になった。

 そして今、僕は永遠亭に向けて飛行している。椛が僕の隣を飛行している。僕を守ると言って護衛についてきてくれている。相変わらず妖精が迫って来ることはあるけれども、椛がいることで随分と数が減った。

 

 

「では、私は少し時間を潰してきますね。ここで集合でいいですか?」

 

「うん、また仕事が終わったら」

 

 

 椛は、僕が永遠亭で仕事をしている間はさすがに護衛が要らないと思ったのか、外で時間を潰すと言った。

 ここから4時間の業務があることを考えれば、そうするのが一番いいだろう。一緒にいても永遠亭の住人に嫌がられるだけである。外から来る人間に嫌がられるだけである。

 

 仕事はいつも通りの流れだった。診察をして、少しばかり薬を作って終わりである。流れは大きく変わっていない。

 昔と変わったのは鈴仙とのやりとりぐらいだろうか。かつて能力の弊害を伝えたときにぎくしゃくしてしまった関係にも随分と改善が見られていた。

 

 

「笹原さん、この前薬を人里に売りに行った時のことなんですけど、面白いお客さんがいましたよ」

 

 

 鈴仙は、以前よりも良くしゃべるようになった。能力の弊害について話す前よりも遥かに饒舌に何でも思ったことを話してくれるようになった。仕事の話から昨日会った出来事、師匠である八意永琳の悪口までいろいろ話してくれるようになった。

 

 

「笹原さん、師匠の悪口については絶対に口外してはいけませんよ。絶対、絶対ですからね!」

 

 

 ちなみに、先生の悪口に関しては口止めされている。

 鈴仙とは、そんな他愛もない話で盛り上がることもしばしばあるようになった。

 良くしゃべるようになったというと仕事をさぼっていると思われるかもしれないが、仕事に影響が出ない程度で上手く押さえている。近づきすぎず、遠すぎずというところだろうか。

 鈴仙からは、上手くやっていくコツが分かりましたと伝えられた。ぜひとも、そのコツを教えてもらいたかったが―――

 

 

「秘密です! 他の人にできるかは分かりませんから!」

 

 

 鈴仙の口からは、教えてもらえなかった。

 秘密と言われてしまえば、僕に深追いする権利はない。もしかしたら話したくないことなのかもしれないし、鈴仙が他の人にできないというのならば、そうなのかもしれない。

 

 

「私に聞いても分からないわよ。ただ―――こう言っていたわね。そういうものだと思えば、手を伸ばさないで済むって。そう思うようになってから気持ちが楽になったって聞いたわ」

 

 

 先生いわく―――何か自分の中で吹っ切れるところがあったそうである。なんでも、深追いせず、親しい人という立場で留めることを決めたとのこと。例えて言えば、一般兵士が王様に会って話をするぐらいだと言うが、どういうことなのだろうか。話ができてラッキーぐらいの手の届かない物という認識になったと思えばいいのかな。

 ともかく、鈴仙は僕との距離を測りながら関係を回していけるようになった。上手く回っていると思える関係を築くことができた。

 

 

「あっ、笹原さん、そこなんですけど」

 

「うん、どうすればいいのかな?」

 

 

 永遠亭は、僕にとって随分と居心地のいい場所になった。ここには八意永琳という理解者と、距離を測ってくれる鈴仙という親しい友人がいる。

 心が休まるようだった。気を遣う必要が無くなった。後ろめたい気持ちを持つ必要もなくなった。

 僕の顔は仕事の最中、終始にこやかだった。

 

 

「随分とご機嫌ね」

 

「それはもう、楽しいですから」

 

 

 笑顔を浮かべながら仕事中の鈴仙を見つめる。

 本当に良かった。

 みんな鈴仙みたいだったらいいのに。

 みんなそうだったいいのに。

 余りの都合のいいことだけど、僕の余りにも身勝手な想いだけど、そうだったらいいのにと思った。

 鈴仙の例は、自覚と制御が有効に機能している良い例だった。自らが近づきすぎていると思ったら自制をして、心が引き寄せられていることを感じながら、反対にかじを切る。心を制御し、浮遊する。

 難しいことだとは思うけど、それを成し遂げている鈴仙は何よりもかっこよく見えた。

 先生は、鈴仙についてここまで上手くいっているとは思わなかったようで、意外そうに言葉を口にした。

 

 

「鈴仙がここまで立ち直れるなんて思っていなかったわ。あそこからダラダラと引きずるものだとばかり」

 

「だから言ったでしょう? 鈴仙は強い人だって。でも、本当に先生は何もしていないのですか?」

 

「特に何かした覚えはないわ。あの子はあの子なりに踏ん切りをつけたのでしょう」

 

「境界線を引いたってことですかね」

 

「そうね……笹原ふうに言うならそうなるかしら」

 

 

 誰の力も借りていないとしたら本当にすごいと思う。直接はっきりと告げた時期が早かったからなのかな。

 理由を探っておけば、これからの役に立つかもしれない。全てを終わらせるとはいっても、それまでに苦しむ人の数を減らせる方法が分かれば、きっといい方向に進むはずだ。

 仕事をしている鈴仙へと視線を向ける。鈴仙の背中はとても頼もしく見えた。

 僕は、鈴仙に対して何の不安も抱えていなかった。

 先生は、僕が鈴仙へと送っている視線と同じ方向へ、僕とは違った視線を送っていた。

 

 

「境界線を引いた……本当にそうだったらいいのだけど……」

 

 

 呟くように放たれた声は、集中している僕の耳には届かなかった。

 

 

 

 仕事が終わって永遠亭の外に出る。いつもよりも楽しかったおかげか、疲れはそんなに感じていない。

 後は、一緒に来た椛とお昼ご飯を食べるために博麗神社へと帰るだけである。

 

 

「さて、帰ろうかな」

 

 

 永遠亭の玄関口に出て椛と別れた場所で周りを見渡した。見渡した―――そう、椛の姿はそこにはなかった。永遠亭の外には、椛の姿は見当たらなかった。

 ここで集合とは言ったけど。4時間という時間を潰すために、どこかに行ってしまったのだろうか。

 

 

「終わる時間は伝えてあるから、遅れるってことはないと思っていたんだけどなぁ」

 

 

 動くべきか。

 待つべきか。

 置いていくべきか。

 どれを選んでも、どっちでもいいと思った。

 結果は、やってみるまで分からない。

 動いたら動いたなりの結果が出る。直ぐに見つかって博麗神社へと帰れるかもしれない。もしくは新しい出会いがあるかもしれない。新しい出来事が起こるかもしれない。何も起こらないかもしれないし、見つからないかもしれない。そんな可能性が詰まっている。

 どれも同じだ。待っても同じ結果が出る可能性がある。置いていっても同じ結果が出る可能性がある。

 僕は、こうした選択肢を示された場合―――基本的に動くことにしている。何もなかったらとりあえず動いてみるというのは好奇心を満たすうえでは非常に役に立つ指針である。

 ただ、今に限っては動かずに待つという選択肢以外を選ぶ気はなかった。

 

 

「待つのが一番いいよね……迷いの竹林じゃ出たところで迷っちゃうし……椛は初めて来たのだから一緒の方がいいよね」

 

 

 椛が永遠亭へと来たのは今回が初めてである。

 そもそも、僕の部屋で目覚めてまだ1日しか経っておらず、まだまだ不安定なところが多い状態だ。そんな状態で僕がこの場から消えてしまえば、問題が起こる可能性が高くなる。そう思うと―――この場から動くということはできなかった。

 

 数十分だろうか。空を見上げながら椛が戻って来るのを待った。竹林の中にぽっかりと空いたように存在する青空に雲が流れているのを、ただただ見送っていた。

 すると、唐突に待ち望んだ声が耳を通過した。

 

 

「すみません、なんだか面倒くさいのに絡まれて遅れました」

 

「絡まれたのって、その人?」

 

 

 僕は、現れた椛の姿に少しだけ驚いてしまった。

 椛の肩には赤白黒のドレスを着ている女性が乗せられている。正面から見る限り、尻尾が垂れ下がっているのが確認できる。全く動いていない様子を見ると気を失っているようだった。

 そこはまだいい。もちろんそこも驚くポイントではあったが、驚いたのは別の点である。

 驚くべきは、気を失っている人を抱えている事実ではなく―――軽々しく人一人を背負っているということにあった。藍もそうだったが、やっぱり持っている力が人間と全然違うということを見せつけられているようだった。

 

 

「人と言いますか妖怪ですね。おそらく同族とでも思ったのでしょう。余りにも馴れ馴れしく近づいて来たので振り払ったら、ちょうど生えていた竹に後頭部をぶつけまして……」

 

「ふふっ、そりゃ運がなかったね」

 

 

 それは何とも運が悪い。いっぱい生えているからあり得ることなのかもしれないけど、なかなかに珍しいと思う。

 その人―――というか妖怪の運が悪いのか。

 それとも椛の運が悪いのか。

 どちらの運が悪かったのだろうか。

 僕には判断できなかったけど少しだけ笑ってしまった。不謹慎なのかもしれないけど、それだけのことで笑ってしまった。

 そんなことで笑える今の生活を少し好きになった気がした。

 

 

「意図せずとはいえ、私がやってしまったことなので放っておくのもなんだか悪い気がして、連れてきてしまいました」

 

「それで、どうしたいの?」

 

「……介抱してもいいですか?」

 

 

 椛の答えが少しだけ間を置いた後に提示された。椛の瞳が申し訳なさそうに僕を見つめている。

 このまま置いていくなんて椛にはできないよね。

 責任感の強い椛らしい答えだと思った。

 

 

「じゃあ、博麗神社まで連れていこうか。運ぶのはお願いね」

 

「はい」

 

 

 椛の嬉しそうな声が竹林に響いた。

 こうして僕たちは、博麗神社へと帰っていった。




今回のお話は、椛が決断する話です。
これまで生きてきた過去によってできた今。
未来を生きるために、過去を捨てなければならないとなったら
それは、今を捨てるのと同じです。
特に、過去に生きている妖怪の場合はその傾向が強いでしょう。
積み立ててきた歴史も膨大ですからね。


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噛み合わない、組み合わない

第6章の4話目です。
6章は、紅魔郷に入る前のお話になります。
これで、いったん日常回は終了となる予定です。


 博麗神社へと帰ってきた僕と椛は、気絶している妖怪を寝かせようと僕の部屋に向かって歩いていた。

 今のところ椛に抱えられている妖怪が動く様子は見受けられていない。起きるまでには、しばらくの時間がかかると直感的に分かった。

 早めに寝かせて食事をとろう。そして、いつも通りの流れを汲もう。新しく椛が生活の中に加わったとはいえ、流れは大きく変わらないはずだ。

 やるべきことをして。

 どうでもいいことをして。

 笑って、悩んで、苦しんで。

 それを抱えて明日へと向かう。

 僕は、そんないつも通りの日常を過ごしていく予定である。

 

 そういえば、椛はどうやって日々を過ごすつもりなのだろうか。妖怪の山とはずいぶん勝手が違うはずだし……だからといって僕に合わせる必要も全くないから、自分のペースで自分の流れに乗ってもらえばいいのだけど―――どうなることか。

 お互いの生活について話し合いをしなければならないかもしれない。噛み合わせが悪いと、色々なところに不具合が出てくる。流れの違う川同士は、ぶつかった時に氾濫を起こしてしまう可能性を秘めている。

 いつ話し合いの時間をとろうか、夜でも大丈夫だろうか。そんなことを考えていると、目の前に博麗神社の主である博麗霊夢が立ちはだかった。

 

 

「っと……どうしたの?」

 

 

 霊夢は、酷く不機嫌な顔で僕と椛を見つめている。まるで値踏みでもするように椛の足元から肩口へと視線を向けていた。

 霊夢の視線が動きを止める。霊夢は、一言こう言った。

 

 

「なによそれ」

 

 

 いつも通り一言の質問が投げかけられた。僕は、霊夢の言葉でまたしても思考の中に潜り込むことになった。

 “なによそれ”とは、どれのことを言っているのだろうか。

 霊夢は、いつも言葉が足りないから察するのに結構な努力が必要になる。何度か今までも分かりやすく言ってとは伝えてきたが、全く直る気配がないところを見ると、これ以上言っても無駄であることはなんとなく分かり始めていた。

 結局のところ―――僕が僕なりに変わらない部分を持っているように、彼女は彼女なりに変わらない部分を持っているということなのだろう。

 それにしても“なによそれ”とはなんだろうか。普段話してこない霊夢が話してくるってことは、何か気になることがあったっていうことだよね。

 変わったところ、変わったところ。僕たちが昨日と違うところ。普段と違うところ。思考がぐるぐるとこれまでに足跡をつけていく。

 

 

「和友さん、これです、これのことです」

 

「あ!」

 

 

 椛が歩き回っている僕に回答をさし示した。ちょうど肩に乗っている妖怪に向けて指をさしてくれている。

 ああ! なるほど!

 

 

「なによそれって、妖怪かな。気絶した妖怪。尻尾とか耳とか毛とか生えているのを見る感じ、獣系かな?」

 

「獣系……? 妖獣ですよ、和友さん」

 

 

 ようじゅう? ようじゅうってなんだろう? 今まで聞いたことのない言葉で漢字変換もままならない。

 妖怪の新しい区別の仕方かな。人間だって、大人、子供、外国人、日本人、色々な区別の仕方があるんだ。妖怪に無いということもないだろう。

 思えば、僕の周りにはこのタイプが最も多い気がする。妖怪にどんな種類があるのか余り詳しく知らないけど、妖怪は妖怪でしかないと思っていたけど、僕の近くには尻尾が生えている獣系が複数いることに今更ながらに気付いた。

 

 

「そういえば、なんだか僕の近くにいる妖怪って獣系が多い気がするね。藍も、橙も、椛も、鈴仙も、獣系だもんね」

 

「和友さん、ですから獣系じゃなくてですね」

 

「そういうことじゃないわよ! 昨日の今日でまた妖怪を連れてきたの!? それも獣系ですって!?」

 

「ご、ごめん」

 

「霊夢さんもですか……それに、突っ込みどころが間違っていません?」

 

 

 霊夢がものすごい剣幕で、信じられない物を見るかのような視線で距離を詰めてくる。

 僕は、余りの勢いに押されて後ずさり、思わず謝ってしまった。

 そんなにがっつかれても、獣系であることに弁論できることなんて何もない。たまたま出会ったのが獣系だっただけだ。僕がえり好みしたわけじゃないし、僕が出会おうとして出会ったわけでもないのに、獣系であることに理由づけなんてできるわけがなかった。

 この妖怪と出会ったのは偶然だ。そして、こういうことを考えていると、いつも思い出す言葉がある。それは、どこかで聞いた言葉である。

 

 

「出会いは必然で意味がある」

 

 

 僕は、この言葉を聞いたことがある。あるいは、これに似た言葉と言った方がいいだろうか。

 どこで聞いたのかも、いつ聞いたのかも覚えていないし、一字一句を覚える技量なんて持っていないから、間違えて覚えている可能性もある。なので、はっきりと断言なんてできないが―――僕はこの言葉に疑問を感じていた。

 出会いは全部偶然で、意味なんてないと思う。こう言うと語弊が生まれるから言い直そう。

 出会う相手は偶々出会った相手で、意味は出会った後に生まれた結果によって決まると思っている。

 これはあくまでも僕の価値観だ。

 僕の意見をどう思うかは人それぞれ。

 肯定する人、否定する人、中立にいる人、色々あってしかるべきだ。

 人はみんな違う人なのだから違って当然で、違っている方が普通で、違っている方が何より面白くて安心する。

 そう―――面白いと思うんだ、安心すると思うんだ。

 みんな一緒よりは、みんな違って、違う人間で、違う主張をしている方が、なんだか個性を感じるっていうと陳腐な言葉になっちゃうけど、塗り潰された一色よりも無造作な七色の方が綺麗に見える―――僕はそういう人間である。

 

 

 話を戻すけど、僕の主張を端的にまとめる。

 出会いは偶然の方がロマンがあるし、意味なんてあったら出会いというものに先入観が生まれてしまって楽しめない。

 ―――これが僕の主張である。

 分かり辛いかもしれないから具体的に説明すると、出会いが必然だったら、偶然そうなったという驚きが無くなってしまうと思うんだ。

 宝くじは、偶然当たるから驚きがある。僕だったら、驚きと喜びで大はしゃぎすることだろう。

 だけど、当たることが必然だったら驚きはなく、ちょっとばかりの喜びがたむろする程度に留まってしまう。

 それはなんだかもったいない。

 偶然だから驚いて。

 たまたまだから嬉しくて。

 奇遇だから笑顔になれる。

 偶然上手くいったことが、何かを変えるかもしれない。

 偶然出会ったことが、何かを生み出すかもしれない。

 そういう予測できない何かは、新しい何かを生み出す材料になる。

 何より―――わくわくするだろう? あくまでも僕の場合は、という注釈が入るけどね。

 それこそ、出会った意味なんて別になくてもいいじゃないかと思う。意味があるなんて常に思っていたら、最初に会った時に先入観が生まれてしまう。きっとこの出会いには、自分がこうなるための意味があるなんて思った瞬間から、その人のことをそういう人にしか見ることができなくなる。

 出会った意味なんてものは後付で十分だ。今思えばそうだったなで十全だと思うのだ。

 この気絶している妖怪と出会ったことだって、あくまでも偶然で、出会った意味なんてない。この偶然の出会いがどんな未来を見せるのか楽しみにしていればいい。

 その方がワクワクするだろう。

 たまたま出会ったことが、何かを変えるきっかけになる。

 後から思ったら意味があったことになる。

 意味のないものに意味付けをしていくのは、あくまでも未来の僕たちの役目である。

 

 

 話が大分逸れちゃったね。

 霊夢の言葉に対する返答をしないといけない。出会ったのがこの妖怪であったことには理由も意味もないけど、連れてきた理由はしっかりとある。

 連れてこようと思って何かが起こったわけではない。予想しない未来があって、未知の未来がやってきてこうなった。僕が選んだわけでも、夢で見たわけでもなかった。そんな偶然が重なってこうなってしまっているが、何も考えなしに、理由なしに連れてきたわけじゃなかった。

 僕は、言い訳も何もできない状況でありのままを話した。

 

 

「こうなる予定なんてなかったんだけど……予定外のことがあってさ。そのまま放置もできなくて」

 

「当たり前でしょ!? そんな予定があったら止めているわ!」

 

「あの……」

 

 

 椛が酷く困惑している。喧嘩になりそうな雰囲気にそうなっているのか、それとも霊夢も僕も「ようじゅう」を「獣系」と言い続けていることに対してなのか、僕には分からない。

 けれども、そんな困った表情を浮かべている椛のフォローに回る余裕はなかった。椛に対して申し訳ない気持ちはあるが、一旦椛へと割いている意識を全部霊夢へと向ける。

 僕は、目の前で問い詰めてくる霊夢への対応に全力を注ぐことにした。

 

 

「そんなに怒らないでよ。霊夢だって、あの部屋は僕の自由に使っていいって言ったじゃないか」

 

「言ったわよ。確かに言ったけどね……あんた、ここを妖怪屋敷にするつもり? ここはあくまでも妖怪退治を生業としている私がいる博麗神社なのよ?」

 

「うん、分かっているよ」

 

「妖怪退治をしている私の神社が妖怪まみれなんて……」

 

 

 霊夢が頭を抱える。

 それほど問題なことだろうか。妖怪退治をしている霊夢の所に妖怪が集まることにどんな問題があるのかさっぱりである。

 妖怪なんていてもいなくてもどっちでも変わらないだろう。僕の頭はしきりにそう訴えていた。

 このままだと思考が袋小路に入ってしまうから―――視点を変えてみよう。あくまでも状況的に、客観的に考えるから何も出てこないのだ。霊夢視点に立って主観的に考えてみよう。

 視点を変えてみると、新しい考えが頭の中に湧いてきた。もしかして、霊夢は妖怪云々ではなく、多くの存在が集まることを嫌がっているのではないだろうか。もともと一人だったところにいきなり沢山の人間や妖怪が集まることに煩わしさを感じているのではないだろうか。

 

 

「霊夢は嫌なの? 賑やかなのは嫌い?」

 

「あの、和友さん、そういう問題じゃないと思いますよ?」

 

「賑やかなのは別に嫌いじゃないけど……ってそういうことじゃないのよ! 体裁の問題なの!」

 

「体裁? 誰に対する?」

 

「参拝客よ! 博麗神社に妖怪がうようよいるなんて知られたら他の人間からなんて思われるか。参拝客がこれ以上減ったらここはもう終わりよ!」

 

 

 理由は、参拝客に対する体裁―――予想と全然違っていた。

 確かに、神社にお参りに来たら妖怪でいっぱいだったなんて、とんだ冗談だろう。博麗神社へと来た人の目的が妖怪退治の依頼や妖怪除けのお守り目的だったらもっと面白くなる話である。博麗神社を訪れた人にとっても、話のネタにはもってこいの話題性のある体験になるだろう。

 ちなみに、そんな体験をしようと思って博麗神社に来ている者はいないはずである。少なくとも僕は、そんな目的で博麗神社を訪れている者をこの1週間で1人も見たことがない。

 参拝客は、そのほとんどが人里に住んでいる人間である。いや、ほとんどなんていう曖昧な表現は止めよう。全部が人里の人間である。

 人里に住んでいる人間は、人里の外で妖怪に会うことに対して大きな恐怖感を抱えている。だから、博麗神社が妖怪まみれになってしまうと絶対に参拝客は減ってしまう。

 しかし―――減ってしまうというのは、それなりの数がいる時に言える言葉である。妖怪を怖がるような人間は、そもそも獣道しかないような道を通って遠くにある博麗神社へ来ない。

 そう、少ないのだ。参拝客が減るという言葉を使うには、少なすぎるのである。

 具体的な数字を出せば、これまでに僕が見たことがある参拝客の数は―――1人だけだった。

 

 

「ここ1週間見ていたけど、1人しかいなかったよね―――参拝客。それ以外に来たのは、空を飛んで遊びにきた人間だけでしょ?」

 

「えっ!? 博麗神社ってそんなに参拝客が少ないのですか? 一体どうやって生活しているんですか?」

 

「そうよ、そうなのよ! ただでさえ生きていくのがやっとなのに、これ以上減ったら生活苦で死んでしまうわ!」

 

 

 霊夢の言い方から、相当に切羽詰まっていることが感じ取れた。

 それにしても、本当に1人しかいなかったんだね。僕は、午前中ほとんど博麗神社にいないし、午後も練習していて集中していることが多いから、見落とした数も相当あると思っていたけど、本当に一人しかいなかったんだなと少しばかり驚いた。

 偶然やってくる程度の、雀の涙ほどの参拝客に頼った収支では、とてもじゃないが生きていくのは厳しいだろう。収入を他人の動きに頼っているというのは、とても細い綱を渡るようなものだ。その相手との関係性が薄いほど、お金の流れが細くなればなるほど、切れやすくなる。関係性を太くすればある程度安定するが―――どうしたものだろうか。

 

 

「これまでどうやって生活していたのですか。とてもじゃないですけど、そんな生活、人間だったらすでに死んでしまっていますよ」

 

「まるで私は人間じゃないみたいな言い方ね」

 

「あ……いえ、そんなつもりで言ったわけでは」

 

「何よその間抜けな“あ”って、しまったっていう文字が顔に出ているわよ」

 

 

 椛は、しまったという顔をしながらたじろいでいる。

 けれども、実際に考えてみても異常である。1週間に1人の参拝客がどれほどのお金を寄付しに来ているのかは分からないが、霊夢が妖怪だって考えた方がすんなりと受け入れられる話だ。

 僕は、解答を求めるようにじっと霊夢を見つめた。霊夢はそんな僕の視線に負けてか、口を開いた。

 

 

「……臨時の収入があるのよ。主に妖怪退治の謝礼ね。食べ物も貰えるから今まで何とかなっていたのだけど……今はそんなことを言っている状況ではないわ」

 

「まぁ、収入源が参拝客のお賽銭と臨時の妖怪退治の収入しかなかったら生きていけないよね。そんな他人任せじゃ、不安定になるだろうし……うーん」

 

 

 臨時収入が妖怪退治の謝礼か。やっぱり不安定な収入なんだよね。

 本当に、どうしたらいいのだろうか。これからを生きるために、どうしたらいいのだろうか。

 家賃として僕の稼いだお金を渡していく方法を取ってもいいが、その方法では2年ももたない。霊夢の人生は、僕と違って長く続くのだから長い期間繋げていける繋がりが必要になる。

 僕がこれからのことで何とかしようと考えていると、椛が霊夢に向かって口を開いた。

 

 

「霊夢さん、言っていて恥ずかしくはないのですか? お金がなくて生きていけないなんて惨めな気持ちになりませんか?」

 

「別に恥ずかしくなんてないわ」

 

「そこは大丈夫なのに体裁は気にするのですね」

 

「それとこれとは別よ。生活が懸かっているのよ!」

 

 

 体裁―――生活が懸かっているからとか、参拝客にどう思われるかとか。

 そんなものどっちでもいいし、どっちでも変わらないだろう。

 参拝客に妖怪まみれだと思われたくないという感情。

 参拝客によってようやく支えられている貧しい生活を送っていることを知られたくない感情。

 同じように体裁を守りたいという想いを抱えてもおかしくない。

 ただ、霊夢は前者はあっても後者はなかった。それだけのことなのだ。

 見てくれだけ整えて、綺麗に見せながら頑張るのも。

 ありのまま、自分をそのまま表現しながら頑張るのも。

 違いはあっても、優劣の差はない。

 価値観が違うのに―――違う人間なのに、そうだと思うこと自体が間違っているのだ。偶然か必然かを語る場合もそうだが、都合のいい方を選ぶのが最も賢いやり方だろう。

 なんてどうでもいいことを考えているのを見透かすように―――乾いた音が空間に広がった。

 

 

「そうよ、この手があったわ。和友の今月分の家賃の支払いを前払いにするわ!」

 

 

 それはまずい。とてもじゃないが払えない。前払いにされても、現時点では払える余裕がない。今まで貯めていたお金の大部分は、紫に渡してしまっている。これまで僕にかかった費用として、マヨヒガへと還元してしまっている。手元に残っているお金なんて、今月僕が生きていくのに必要な分しかない。

 今の状況で払ってしまったら、僕が暮らしていくのが厳しくなる。椛が増えたことを考えるときつすぎると言っても過言じゃない。何とか思い留まってくれないだろうか。

 

 

「それはちょっとやめてもらえないかな。僕のお金はほとんど紫に渡してしまったし、渡せるお金なんてないよ」

 

「だったら、今すぐ出て行きなさいよ!」

 

「そんな無茶苦茶ですよ……」

 

「うーん……」

 

 

 霊夢の意見は、掛け値なしに無茶苦茶である。

 今すぐにお金を手に入れる方法―――参拝客を一気に呼び込む方法。何かないものだろうか。霊夢がこの神社で生きていくために、お賽銭をくれる参拝客を増やす方法。

 

 あっ―――あるじゃないか。

 

 お金を手に入れる方法は、別に参拝客を呼ぶだけじゃない。

 

 

「そうだ! 霊夢も働けばいいじゃないか!」

 

「「え?」」

 

 

 霊夢と椛の声が綺麗に重なった。

 意外そうな表情をしているが、そんなに意外性のある回答だっただろうか。むしろ、周り回って正当な気がするけど。正当というか、真っ当だ。

 職を探すのは別に難しくない。今日いきなりは難しいかもしれないが、探せば日雇いの仕事なんていっぱい見つかる。人里は自営業の人が多いから、なおさら日雇いの方が多いし、僕が探した時でも色々あった。

 永遠亭に働く前に人里で職を探したことがあったので、斡旋できる場所はないにしても目処を立てることはできる。

 

 

「職は僕が探してきてあげるよ。日雇いぐらい、人里でなら見つかる見つかる」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい」

 

「何か意見でもあるの?」

 

「なんで、私が別の所で働くことになっているの?」

 

「決まっているじゃないか。霊夢を支えるのは僕じゃなくて、霊夢自身であるべきだからさ」

 

 

 自分を支えるのに、相手に頼っていちゃいけない。不安定すぎて足元がおぼつかなくなる。なにより依存の原因になりかねない。

 霊夢の世界は余りに小さい。この博麗神社から外に広がっていない。霊夢の領域は幻想郷全体ではなく、博麗神社の敷地内なのだ。霊夢が言葉を一言でぶつ切りしてしまうのも、他の人間との関係性が希薄だからかもしれない。

 きっと、外に出れば何かが生まれるはず。新しい何かが生まれるはず。僕は、霊夢が見た外の世界の話を聞いてみたかった。

 

 

「霊夢は、もっと外と関わっていくといいよ。きっと新しいものが見つかるさ。霊夢の心が動かされるような新しいものが」

 

「ここはどうするのよ!? 博麗神社の掃除や参拝客の対応は!?」

 

「僕に任せてよ。こう見えても僕は無遅刻無欠勤の優良人だよ。休みぐらい取ろうと思えば、取れるからさ」

 

「……ぐぬぬ」

 

 

 1日休むぐらいなら都合をつけられないわけでもない。先生はそこらへん厳しいけど、これまで積み立ててきたものが、きっと僕の意見を通す要素になる。休むことについては、そこまで悩むことでもなかった。

 

 

「…………」

 

 

 霊夢は、難しい顔をしてあと一歩を踏み出せないでいる。

 何も悩むことなんて無い。一回やってみて、学んでみて、理解してからでも遅くはない。できないならできないでもいい。その時また考えればいい。

 迷ったら前に出ろ。迷ったらとりあえず動いてみることだ。止まったままじゃ、新しい景色を見ることはできないのだから。

 

 

「騙されたと思ってやってみようよ。明日にでも見つけてくるから。霊夢も知ってみるといいよ。自分の働きで何かが変わる。自分が役に立っているって感覚をさ」

 

「分かったわよ、やればいいんでしょ!」

 

 

 霊夢は、怒ったような口調で捨て台詞を吐いて部屋へと戻っていった。

 

 

「ふふっ、霊夢の仕事の件はひとまず置いておいて、まずはそっちから片付けようか」

 

「そうですね」

 

 

 僕と椛は、去って行った霊夢の後姿を見てクスリと笑い、当初の目的である自分の部屋へと入った。

 まずは、気絶している妖怪のために布団を敷かないとね。椛を寝かせたときのように自分の布団を畳に敷いて、椛に妖怪を横にしてもらう。

 

 

「すみません、私が怪我をさせてしまったせいで和友さんの布団をまた占領してしまう結果に……」

 

「そうだね。このままだと僕の寝る場所がなくなっちゃう。今日は畳の上かなぁ」

 

 

 僕の部屋には、布団が2枚しかない。来客用に最初から供えられていたものだけである。妖怪を寝かせる場所として僕の布団を使ってしまうと、残り1枚しかなくなってしまう。

 残りの1枚は、さすがに椛の分だろう。昨日の出来事を考えれば、畳の上に寝させるわけにはいかなかった。

 畳の上で寝る、それも悪くないだろう。一度も試してみなかったことだ。霊夢にも言ったように物は試しである。何か新しい発見があるかもしれない。

 そんなふうに自己完結しそうになっていると、僅かに頬を紅潮させた椛が僕に向かって言葉を口にしてきた。

 

 

「あの、もしよかったら、私の布団で一緒に寝ませんか? 温かくなってきたとはいえ、畳の上で寝てしまったら風邪をひいてしまいます」

 

「ふふっ、顔真っ赤だよ?」

 

 

 そう言ったら、もっと赤くなった。

 

 

「一緒の布団で寝る……か」

 

 

 一緒の布団で寝るという方法があるのは知っている。それで、布団の数が少ないという問題を解決できるのも分かる。好意を向けられている相手ということもあって、近い距離にいたいという椛の気持ちも分かる。

 だけど―――そうしたくないと思うのは、やっぱり過去のことがあるからだと思った。

 思い返せば、一緒に寝るということをしたのは両親と藍だけだった。

 両親については言うまでもないだろう。子供の時に一緒に寝ていただけである。

 

 

 ただ、藍の場合は両親とは明らかに違う理由で一緒に寝ていた。

 藍が精神的に不安定になっていた時期、一緒に寝ていた。

 藍は一緒に寝ているといつも抱き付いて来た。前から横から後ろから、どんな体勢でも関係なく、季節関係なく、くっついてきた。

 幻想郷には暖房なんてなかったから冬は暖かくて良かったものの、暖かい日は暑すぎて苦しかった思い出が今でも鮮明に思い出せる。

 藍はいつも震えていた。そして、その震えをごまかすように強く抱きしめてきた。それは別に寒いからじゃない。表情は微笑んでいるように見えたが、藍の瞳は失うことの恐怖で染まっていた。

 藍のことを念頭におきながら椛を見つめてみる。椛からはそんな雰囲気は感じられない。ただ、そうしたいからそう言ったという様子だった。

 やっぱり違う。藍の場合は、そうしなければ死んでしまいそうだった。そうしたかったというのももちろんあるだろうけど、そういう希望ではなくて、渇望に近いものがあった。生きるために水を必要としているというレベルの問題だった。

 勿論、一緒の布団で寝たのは、僕が藍にある程度信頼を置いていたのもあるし、家族としての絆があったから、大切に思っていたからという理由もある。藍がこうなってしまったのは僕の責任でもあったし、そうしなければ死んでしまいそうだったから。そうしなければ、終わってしまいそうだったからという理由があったからだ。

 だけど、椛にはそういう理由はない。椛は、藍と同じところにいないし、藍と同じ結果になってはいけない。近づいて、近づいて、離れることができなくなったら目も当てられない。そんな結果になりたくないから今を進んでいるのに、椛までそうなってしまったらという不安が僕の中に溢れ出してくる。

 椛は僕のためにと言ってくれているが、僕は僕のために椛に遠慮してほしかった。僕はできるだけ分かってもらえるように、直接的に椛へと訴えた。

 

 

「椛……僕のために言ってくれているのなら、椛がこの妖怪と一緒の布団で寝てもらえないかな?」

 

「え?」

 

「お願い。僕は、もう誰も引きずりたくない。誰も追い込みたくない。椛は僕の気持ちを分かってくれる?」

 

「そ、そうですよね。もともと連れてきたのは私のわがままですし、和友さんはそういうことにならないようにこれから生きてくって話していましたもんね……」

 

 

 椛は、僕の意見を飲んでくれた。

 結局、その日―――妖怪は起きなかった。

 そして、口にした通り、椛がその妖怪と一緒に寝て、僕は一人で寝ることとなった。

 

 

 Next Day

 

 暑かった。体に伝わってくる熱が、体を無理やり叩き起こした。いつもの時間に起きていないことは、目を閉じている状態でも薄々感じられる。

 身体を動かそうとするが、身動きがとれない。強い力で縛られているようだった。なんだか、知っている感覚である。そっと下を見てみると、若干爪の伸びた手が腹部に巻き付いているのが確認できた。

 首を思いっきり左に回して状況を確認する。耳元で寝息が聞こえる。背中が熱い。べったりと背中にくっついているものがある。

 これは、誰か完全に抱き付かれているな。過去に藍が抱き付いてきた経験もあって、感覚的に女性が背中に抱き付いていると分かった。

 

 

「なんで」

 

「ん~あったかぁい……」

 

 

 僕は暑いよ。

 何とかして抜けないと―――そう思うがこういう場合は、大概が抜け出すことが不可能である。

 藍が抱き付いてきたときに無理矢理抜けようとして死にそうになったことがある経験を持つ僕は、そっと息を吐いて、目を閉じた。

 




今回のお話は、妖怪を連れてきたときの会話。
そして、霊夢が働くことになったという話になります。

日常回は、ここで終わらせる予定です。
この後の展開を書いて欲しい等の要望があれば書きますが
何もなければ、原作の方に突撃するつもりです。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。
最近またツイッター再開しまして、小説についての情報をメインに発信していきます。
そちらの方で、感想を書かれても構いません。
自由に発言してください。
もしよろしければ、どうぞよろしくお願いいたします。


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第七章 東方紅魔郷
夢を追いかけるもの、それを応援するもの


この話は、第7章のまえがき部分になります。


 みんなは、何をしているだろうか。

 僕の友達は、何をしているだろうか。

 

 幻想郷に来てから、そういうことを考えるときがある。何でもないとき、暇なときに、空を見上げて考えてみることがある。

 遊んでいるのかな。勉強をしているのかな。運動しているのかな。眠っているのかな。

 

 みんなは、今何をしているのだろうか。

 

 僕の友達は、外の世界にたくさんいる。僕の能力を知らない友達が、いっぱいいる。名前が分からなくなってしまった友達が、大勢いる。

 能力の弊害を知ってしまった今となっては、友達のことを純粋に友達と呼ぶことは難しいかもしれない。友達の定義なんて特にないから、解釈次第なのだろうけど。だから人によっては、僕の友達は一人もいないことになってしまうかもしれないけれども。

 

 僕には、たくさんの友達がいる。

 

 僕が友達と思っていれば、僕の中では友達である。友達の認識なんてそんなものでいい。

 人によって見え方が違うんだから、双方向から友達と思われている必要なんかない。僕が友達と思っていれば、その人は僕にとって友達。他の人から見れば、友達ではないかもしれないけど、僕にとっては友達。相手から友達と思われていなくても、友達だ。

 一方的な友達、それでも別にいいと思う。片思いが許されるなら、片友達も許されるべきだろう。

 

 友達は、相変わらず元気に日々を過ごしているだろう。

 毎日、はしゃいで、楽しんで、悲しんで、面白く過ごしていることだろう。

 僕がいなくなって、何か変わっただろうか。何も変わっていないといいな。変わっていて欲しいけど、変わっていて欲しくないと思う。そんな複雑な気持ちが僕の中にはある。

 僕の影響が悪い方向に働いていませんように。そう祈る。だけど、居なくなってしまった影響が全くないと思うとそれも寂しく思ってしまう。

 なんて天邪鬼だろうか。僕の心は思ったよりも複雑で曖昧なもののようだ。

 

 そんな複雑な心を持っている僕には、夢がある。叶えたい夢がある。

 幻想郷に来てできた夢。外の世界に戻れなくなってしまって新しくなった夢。

 僕が何故生きているのかと問われれば、きっとこう答えるだろう。

 

 ―――夢を叶えるため。

 

 僕の夢は、とても大きい。はたから見たら何を言っているのか、頭がおかしくなったのかと言われてもしょうがないと思っている。

 でも、そうありたいと、そうなりたいと思ってしまったら、我慢なんてできなかった。僕は、その届きもしなさそうな夢を手放すつもりはない。僕の夢は、僕にとっての道標であり、生きる目的である。

 僕の夢は、到底僕一人の力では叶えることができない。お世辞にも、僕には皆みたいな力はないし、叶えようと思ったらあと何十年かかるか分からない。

 だから僕は、協力者を必要としている。

 力になってくれる人は、僕の願いを受け入れてくれる人でなければならない。認めてくれて、それでなお、協力してくれる人でなければならない。最後に大事なものを捨てることのできる人でなければならない。

 今のところ椛一人だけだけど、僕にとっては協力してくれる人がいただけで嬉しかった。僕の気持ちを分かってくれるだけで、もうそれだけで、満たされるような気持ちになった。

 

 夢というのは、僕にとって生きる活力を与えてくれるものだ。

 

 そういえば、僕の友達の夢はなんだっただろうか。夢について語り合ったことは無いけど、それとなく目標を聞いたことがあった。

 どんな夢があっただろうか。

 そっと思い出して、挙げてみる。

 友達の夢は、サッカー選手になること。

 友達の夢は、看護師になること。

 まだ決まっていないっていう意見もあったかな。

 色々あったように思う。もう、誰が言っていたとか、どれが真実なのかとか、余りにも曖昧すぎて断言するのは憚られるけど、言っていたことは確かだと思う。そこまで忘れてしまったことに悲しくなるけど、僕はそう言っていたことを信じている。

 

 目標を持っている人、目的を持っている人。

 そんな彼らは、努力をすることを義務付けられている。努力をしなければならない目標を掲げれば、そうなるための努力が必要になる。僕が普通に生きるという目標を持って生きてきたように。成し遂げるための努力が、積み重ねが求められる。

 きっとそれは、厳しい道だ。辛い道だ。苦しい道だ。舗装された道なんてない。地面はガタガタで、進む先には登れないような壁だってあるだろう。

 だけどそれは、何もないよりもはるかに楽しい道だと思う。何になりたいわけでもなく、将来どうありたいかも曖昧で、何も目標や目的が無いよりもはるかにましな道だ。

 僕は、本当に苦しい想いをしているのは―――何をしていいのか分からない人たちの方だと思うんだ。僕は、椛を見てそう思った。

 椛は、迷っていた。妖怪の山を追い出されて、仲間たちに追い立てられて、自分を作ってきたこれまでを失って、何をしていいのか迷っていた。

 椛は、酷く辛そうだった。真っ暗で何をしていいのか分からないようだった。自分がどこにいるのかも、自分という妖怪が何なのかも、何を想っていて、何を感じていたのか、自分がどうやって生きてきたのか、何もかも分からなくなって、苦しそうだった。

 何とかしてあげたかった。僕の尊敬する椛だからこそ、前を向いて欲しかった。いつものように、自分のしていることを誇ってほしかった。

 別に誰かの道でもいい。誰かが通った道でもいい。誰かについていくような道だってかまわない。誰かに敷かれたレールの上でもいいじゃないか。

 僕が歩いているこの道だって、誰かがすでに歩いたことのある道かもしれない。誰かが敷いたレールの上なのかもしれない。誰かの掌で踊らされているだけなのかもしれない。

 だけど、もし仮にそうだとしても、僕には特に何も思うことは無い。僕は、初めてになりたいわけではない。僕はあくまでも、その夢を叶えたいだけなんだから。

 大きな足音で踏み鳴らせ。ここが自分の道だと胸を張って歩けばいい。そうすれば、きっとその道を自分のものにできるはず。

 後悔することもあるだろう。悩むことだってあるだろう。

 だけど、自分で選んだ―――自分の道だって、大声で叫べるだけの想いを抱えていれば、乗り越えられるはずだから。

 

 みんなの夢は、なんですか。

 みんなの目標は、なんですか。

 みんなの目的は、なんですか。

 僕の夢は、心の中に明確にある。

 僕の目標は、視線の先にはっきりと映っている。

 僕の目的は、目指すべき明日に立てられている。

 だから―――迷わずに明日を迎えられる。

 

 大事なのは、認められるかということ。

 自分の進む道に、納得できるかということ。

 後悔しないのなら、やってしまえ。

 とことん、最後までやってしまえ。

 それが例え、上手くいかずに終わってしまうことになっても。

 それさえも、後悔になりはしないのだから。

 

 ねぇ、椛の夢って何ですか。

 僕は、貴方に夢を持って付いてきてほしいと願っています。

 願わくは、椛の夢の手助けに成れたら―――すごく嬉しいです。

 

 




更新に1カ月かかったのにもかかわらず、文章短くて申し訳ありません。
主人公が空を見上げている時に考えていることが少しだけ書かれております。
各章に設けられている(6章だけない)まえがきは、主人公のことを分かってもらうために書いている短文になります。
少しでも、理解の足しになればと思います。


現在の進捗状況ですが
ようやく修正が半分を超えて、佳境に入りつつあります。
更新がまた、来月になるかもしれませんが気長にお待ちください。
修正が終わり次第、次話を投稿いたします。

小説については、ツイッターでも情報を発信しているので、もしあれでしたらご確認ください。


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赤い霧に覆われた世界、懐かしい感覚

第7章の2話目です。
7章は、紅魔郷のお話になります。
全5話になる予定です。
更新が遅くなったことに関してはあとがきに記載します。


「なんだか調子が出ないな」

 

 

 その日の目覚めは、いつもと違っていた。

 寝苦しかったからとか、誰かに抱き付かれていたからとかそんな理由ではない。絶対的なものが足りなかったのだ。朝を迎えるために必要なものがなかったのである。

 具体的には―――太陽の姿が見えなかった。

 

 

「太陽は、疲れちゃったのかな」

 

 

 縁側に出て空を見上げる。

 視界に映るのは、赤、赤、赤の色。真っ赤な世界が空間を覆っている。

 世界の色はいつから一色になったのだろうか。光の三原色。色の三原色。

 みんな太陽と同じように休みの期間に入ったとでもいうのだろうか。

 

 

「こんなの想像したこともなかった。太陽の存在まで曖昧になる日が来るなんて。太陽に休みがあるなんて―――僕、初めて知ったよ」

 

 

 いつもだったらあるはずの太陽が見えてこない。目を凝らしても、じっと見つめても、何処にあるのかぼんやりと分かる程度でその姿が隠されている。

 太陽まで曖昧になる日が来るなんて。誰がそんな日が来ることを予測するだろう。毎日姿を現すと思っていた太陽が隠れてしまった。自己意識の激しい太陽が後ろに隠れている。

 自分の五感がおかしいと感じている。

 

 

「おかしいな。絶対に普通じゃないよね」

 

 

 普通ではないと感じるのは何も光や色が足りないことだけではない。活発に空を動き回っている妖精の存在も異常を感じる一つの要因になっていた。その原因は明白で―――間違いなく目に見えている赤色の霧に間違いなかった。

 

 

「太陽はいつから休暇に入ったんだろうね。夏休みは一番の仕事場のはずなんだけど、やる気がないのかな」

 

「休んでいるというか、邪魔されているという感じですね。というか、そもそも太陽に休みなんてありませんよ?」

 

「現に休んでいるけどね。太陽に休みがないなんて誰かが決めたわけでもないんだから、文句は言えないんだけどさ。それでも、あらかじめ休むって伝えて欲しいよね」

 

 

 いつの間にか隣にいた椛が僕の言葉に反応してくれた。

 太陽に休みがないなんて言葉を全面的に肯定するつもりはないけど、椛の意見も分からなくもなかった。

 普通の人だったらそう思うのだろう。それで違和感なく飲み込めるのだろう。

 だけど、僕からすれば疑問である。太陽に休みがないなんて誰が決めたことなのだろう。太陽が言ったことなのだろうか。

 太陽は、ただそこにあるだけで何も話していない。勝手に僕たちが決めつけていただけじゃないか。そこにあるものだって勝手に思っていただけじゃないか。

 太陽の気持ちなんて分からない。僕は太陽に会ったこともないし、話をしたこともない。そこに何があって何をしているのかもよく知らない。

 だから、何があっても別に文句を言うことができないのは理解しているつもりだ。明日急に太陽が死んでも文句なんていうつもりはこれっぽっちもない。

 そもそも太陽が無くなったら誰に文句を言うのか。

 太陽の都合も考えずに文句を言うことだけはしたくなかった。

 太陽が死んだら―――僕は、ただ太陽のことを忘れずに死んでいくだけだ。

 

 

「休みがもらえない太陽は元気がないのに、妖精はなんだか元気いっぱいだね」

 

「元気いっぱいというか、力にあてられている感じですね。むしろ弱っているんじゃないですか?」

 

「弱っている、ね」

 

 

 弱っている―――か。動きはいつもより活発なのに弱っているって、病気みたいなものなのかな。それもこれも太陽が姿を現さないせいだろう。その絶対的な不変の事実が、前提条件が崩れたせいだろう。

 昇って来るのが当然だと勝手に思ってしまっていた。そういう当たり前が崩れてひ弱になっているんだ。心が足りないものを求めている。本当に大事なものが、大切なものが何なのか、心が回答している。

 僕の心だって同じように訴えている。そう思うと、心なしか僕の体調も悪くなっている気がした。

 僕にとっての太陽も、きっと大切なものの一つなんだ。

 僕の大事なものの一つ―――そう思った。

 

 

「それにしてもこの空気、嫌な感じがするね。息を吸っているだけなのに体に悪いのが分かるっていうだけでも相当な気がするよ」

 

「外に出ない方が賢明かもしれません。この赤い霧の影響が及ばないところに行った方がいいかと思います」

 

「そんなところないんじゃないかな? 見渡す限り真っ赤だし……適当に歩き回って見つけたらラッキーぐらいで考えたほうが時間を有意義に使えそうな気がするけど」

 

「確かに……私の視界が届く範囲では見当たりませんね」

 

 

 そうなると、いろいろ準備をしないといけない。この調子だと永遠亭まで行くのも厳しいだろう。健康被害にあうこともそうだが、何より妖精たちの動きが活発なのが致命傷になっている。

 動かないことを決めるのなら早い方がいいだろう。今から食料をかき集めるのはちょっと厳しいから、現状であるものでやっていくしかないけど、今ある分だけでも3日分は十分にある。

 だけど、永遠亭には行かなければならなかった。毎日行っていた場所というのもあるし、日課だというのももちろん理由としてある。そして、それ以上にこんな気分の悪くなる赤い霧が舞っている世界で体調を崩している人がいるかもしれないし、僕ができることがあるかもしれないからだ。

 僕は、そんな思いを抱えながら、さっそく動き出そうと一歩目を踏み出した。

 

 

「来てくれたところ申し訳ないのだけど、この霧が収まるまでここには来なくていいわ」

 

 

 永遠亭に頑張って行った僕を迎えた言葉は、余りにも辛らつな言葉だった。顔を見合わせた瞬間に、なんで来たのと言わんばかりの表情をされ、今の言葉が飛んできた。

 

 

「何を不思議な顔をしているのよ。今ここに来ても仕事なんてないわよ。誰もここまで来たりしないわ」

 

「今、人里では外に出ないようにと厳戒態勢が敷かれています。おそらく、上白沢さんが出したのだと思いますけど……そうなると永遠亭にまで来る人はいません。安心して博麗神社へ帰ってください」

 

 

 永琳と鈴仙―――二人にそう言われてしまっては立つ瀬がなかった。仕事がなかったら僕としても役に立ってないのに給料を貰うっていう気分の悪い形になってしまうので、そこを考慮されての結果ともいえる。

 せっかくやってきたのに―――なんて文句を言うまい。彼女たちには彼女たちの都合がある。ただただ、そういう巡り合わせだっただけである。

 

 

「それでは霧が晴れたらまた会いましょう。その時は太陽も一緒に」

 

 

 僕は、そんな言葉を永遠亭の二人に言い残して博麗神社へと帰還した。空を飛ぶことなく地上を走り、道中の妖精の対処に追われながら博麗神社へと―――今の僕たちの家に戻った。

 

 

「それじゃあ和友さん、今からどうしましょうか?」

 

「うーん、こうして急に時間ができると何やればいいか分からなくなるね。もともと仕事をやっていた時間だと考えると、午後にやっていることを前倒しにしても時間が空くだけだし……」

 

「そうですね。いつもやっていることを前に持ってきても後ろが開いてしまいます」

 

「空いた時間を埋めるには、新しいことをやり始めればいいんだけど」

 

 

 僕の時間に空間がぽっかりと空いた。無理に埋める必要は別にないけど、埋まらないと少しもったいない気がする。

 時間は有限である。特に死というゴールが差し迫っている今の状況では、こうした何もしていない時間が酷くもったいない気がして仕方がなかった。

 自分に問いかけてみる。

 Q. 何かやりたいことはあるか。

 A. いっぱいあります

 それが僕の答えだ。

 やりたいことならいっぱいある。いっぱいありすぎて何をしたらいいのかが分からないのだ。

 こういう場合は、椛と意見を交わしあうべきだ。お互いに意見を出しあってすり合わせる、もしくはどちらかの意見を採用するという形にするのがいいだろう。これからやる新しいことは椛も一緒にやることなのだからその方が後腐れなく新しいことができる。納得して新しいことを始められる。

 僕は、真っすぐに椛に質問を飛ばした。

 

 

「椛は何かしたいことある?」

 

「わ、私ですか。私は、和友さんと一緒に何かができれば何でも……」

 

「結局やりたいことは特にはないってことなんだね」

 

 

 椛の意見では一緒にできることなら何でもいいと言っているのと同じだ。それだと具体的な何かをやるという話には一向に繋がらない。

 何でもいいよというのは、選択肢を曖昧にしているだけで―――意見を言っているようで言っていないのと同じである。

 それが悪いわけではないけれども、こうして何かを決めようというときにそれを言われると考えることを放棄されているように感じてしまう。椛の場合は本当にそれでいいと思っているあたりが―――僕としては何とも言えないところだ。

 

 

「和友さんは何かやりたいこと、ありますか?」

 

「あるよ、いっぱいある。いっぱいありすぎて悩んでる。どれにしようか迷ってる」

 

 

 では、なにをしようか。いつもやっていることだと面白味が無いし、どうしようか。

 いつものように覚える作業をしてもいいし、霊力増強の修行でもいいし、弾幕ごっこの練習でもいいんだけど、それらはどうせ午後からやることになっている。

 

 

「今しかできないことをしたいよね。今だからこそできること」

 

 

 せっかくなんだし今しかできないことをやりたいな。仕事が無くなったからできた暇な時間だからこそできること。

 今しかできないことを―――

 

 

「うん、だったら外に出て、外の様子を見に行きたいんだけどいいかな?」

 

「本気ですか? 和友さんには辛いと思います。病気の悪化に繋がりかねませんし、止めておいた方がいいんじゃないですか?」

 

「僕の病気は心の病気―――体の病気じゃないよ。それに霊力を纏っていればある程度防げることはさっき永遠亭に行ったときに分かっているし、何よりも今しかできないことをやりたいから」

 

 

 そう、今しかできないことがある。

 今だからできることがある。

 こんなふうに太陽が出ていなくて。

 赤い霧が充満している今だからこそできることがある。

 

 

「赤い霧が覆っている幻想郷を練り歩く。見渡してみる―――きっといい思い出になると思わない?」

 

 

 僕の提案は受理された。納得いかない様子ではあったが、特に拒否する理由も見つからないようで押し通す形で了承された。

 現在お出かけの準備中である。

 外で食べるということはできないだろうし、簡単にお弁当を作って外で食べよう。おにぎりとかでいいよね。気分が悪いところでそんなに食べられないだろうし、鮮度が必要になりそうなものはもしかしたら腐っちゃうかもしれないから作らないほうがいいだろう。無難に塩と昆布で味付けかな。

 霊夢の分は―――どうしようか。

 きっと、僕が作ってなくても何か作るよね。これまでだって自分で作ってきたんだし、昼ごはんぐらい何とかなるよね。

 

 

「準備万端―――椛の準備は大丈夫かな?」

 

「はい。直ぐに出も出られます。和友さんは私が守りますからね」

 

 

 椛を視界に収める。

 いつも携えている大剣を背負い、ぼろぼろのマフラーを首に巻き、腰に包帯でぐるぐる巻きになった和傘が挿されている。

 これが椛の外に出るときのスタイルである。

 

 

「お願いね。僕もできる限り頑張るから」

 

「大船に乗った気でいてください! 妖精なんて私から見たら赤子の手をひねるより簡単です! こんなもの朝飯前ですから!」

 

「うん、あんまり期待しないでおくよ。期待しすぎて重くなって沈むのだけは嫌だもんね」

 

「安心してください! 私の船は重い期待を背負ったところで沈むような船じゃありません!」

 

 

 船って大きければ安心ってわけじゃないんだけど。

 大きいことが安定だと思っていると痛い目を見る。バスがタクシーより安全なんて道理はない。バイクが自転車より安全なんて道理はない。それにはそれ相応の大きさがあるはずなのだ。小さい船だと思っていた方が過信せずに危険を察知できるだろうに。自分が大きい存在だと過大評価した時点から―――事故の確率は増大している。自分は大丈夫だからなんて考えが交通事故の原因になるのだ。

 そんな軽い思考を抱えながら薄く赤く染まっている空に向かって飛び立つ。向かう方向は、赤色が濃くなっている方向だ。ちょうど湖を抜けて紅魔館へと向かう道になる。

 

 

「今日の妖精はいつもと違うね。数も多いし、速さもいつもの2倍ぐらいある気がするよ」

 

「そんな悠長なことを! 言っている余裕は! はぁ! やぁ!」

 

 

 椛が背中に背負った大きな大剣を振るい、まとわりつく妖精を掃っている。

 引き寄せられる妖精の数が桁違いに多い。余りの量に椛の額に汗が浮かんでいる。息も切れ切れになりつつある。休んでいる暇がなく、常に動き続けている状態になって余裕がないのだ。

 今の状況を見ていると、先ほどの言葉がとんでもなく薄く思えてしまう。やはりこういう言葉は実績ができてから言うべきなのだ。できるかどうかなんて、やってみないとわからないのだから。

 反省したほうがいい。椛は一度自分を顧みたほうがいい。

 それは何も恥ずかしいことではない。

 無知の知を知る。自分が劣っていることを知ることは何も恥じるべきことではないのだ。

 実力を知り、できることを知り、できないことを知る。

 そして、それを変えていける未来を創っていけばいい。

 今はできないけど―――できる自分を創っていけばいい。

 

 

「言っているそばから無理がたかってきたね。赤子の手をひねるより簡単とか、朝飯前とか―――後なんて言っていたっけ?」

 

 

 煽るような言葉に椛の顔が紅潮する。

 

 

「やめてください! それ以上言ったら恥ずかしくて戦えません!」

 

「……大変そうだし、地面に降りて進もうか? その方が速く進めるし、妖精も振り払えるからさ」

 

「そうして! もらえると! とても助かります!!」

 

 

 煽るようなことを椛に言ったが、文句を言うつもりは一切なかった。

 これは、もう少し自分が早く飛べれば無視することもできたこと―――そう考えると申し訳なさの方が勝っていた。

 何とかして速く飛べるようにならないと。

 そう思いながら高度を下げて地面に着地する。

 

 

「はぁ、やっぱり地に足をつけていると安心するね」

 

 

 地面に足がつくと安心感が心を満たす。人間は地面を歩くようにできているようで、地に足をつけている方が安心した。地に足をつけてという言葉を―――現実を見るという意味で言葉を作った理由がなんとなく分かった気がした。

 地上を高速で走る。飛ぶよりもはるかに速いスピードで滑走する。空を飛ぶよりも3倍近い速度が出ていた。

 

 

「ごめんね、僕がもっと速く飛べればよかったんだけどね」

 

「人間で飛べるということ自体が酷く稀ですし、飛べるだけ凄いと思いますよ」

 

「……うん、そうだね」

 

 

 やっぱり椛の考えと僕の考えは噛み合っていない気がした。

 凄いか凄くないかは別にどうでもいいのだ。飛べない人間と飛べる人間で比べてどうなるのか。僕の知らない誰かと比較した言葉は別に要らなかった。

 必要なのは、僕にとっての目標に足りていない事実だけだ。

 みんなと同じところに立つという目標に足りていないという現実だけだ。

 全然足りない。

 もっと努力しなければ、もっと頑張らないと。

 心の中に火を灯し、未来を想う。

 それだけで、少しだけ未来を迎えるのが楽しみになった。

 変えていける自分が――楽しそうにしていた。

 

 

「もっと速く飛びたいんだけどなぁ……最低でもまとわりついてくる妖精を無視することができるぐらいには」

 

「私が至らないのが悪いのです。私に力がなかったから和友さんに迷惑が」

 

「……お互い至らない点があるってことだね。今後の課題だ、一緒に頑張ろうね」

 

「は、はい!」

 

 

 こうして話してみると、やっぱり椛と僕の考えが噛み合わないことが分かる。

 仕事に対する認識は同じだったのに―――こうまで違ってくるのか。

 それはそれで面白いんだけど。

 それはそれで楽しいんだけど。

 こういう危険が付きまとう場所では、余りない方がいい違いである。

 妖怪の山では世間話がメインだったから、こうして真面目に自分の非について謝罪するという場面がなかったからかもしれない。気軽にしている会話での謝罪なんて、空気をリセットする程度の軽いものでしかないから分からなかったのかもしれない。

 普段の仕事に対する価値観や普段の生活の価値観はおおよそ分かっていたけど、ここまで認識が違うとは思っていなかった。

 何かが原因で―――何かの結果が出る。

 その際の原因の一つに自分の責任が入り込んでいると、自分の無力さのせいで相手に迷惑が掛かっていると思ってしまう。

 自分の無力さが全ての原因だと思ってしまう。

 全部自分の責任だと思ってしまう。

 そんな過大評価にも似た自己責任の強さがあるなんて思ってもみなかった。

 どうして、お互いの非を認められないのだろうか。

 どうして、相手の非を認識できないのだろうか。

 いつから相手の責任にすることが悪いことになった。

 いつから相手の責任を追及することが―――悪いことのような風潮ができてしまったのだろうか。

 ある結果が出たとき、それに起因する原因はお互いにあるはずだろう。

 ねぇ、椛―――僕たちは一緒に走っているはずでしょう。

 僕だけを除け者にしないでよ。

 そう思った言葉は―――口からは出なかった。

 間違い、正解という境界線のない価値観の壁が僕の言葉を遮った。

 

 

「もうすぐ霧の湖にたどり着きます」

 

 

 霧の湖―――妖怪の山の麓にある湖である。湖の近くには紅魔館がある。

 名前の由縁は周りが昼間になると霧で包まれることからきている。何故昼間だけ霧が出やすいのかはよく分かっていない。そんな不思議な場所である。

 ここまで来れば、赤い霧が最も濃い紅魔館までもうすぐである。

 視界を遠くにもっていき、紅魔館がある方角を見つめる。そろそろ見えてくるだろうか。

 そうして目を凝らした瞬間―――空中を縦横無尽に飛びながら鮮やかな光を放つ存在が目に入った。

 

 

「あ、霊夢だ」

 

「異変解決に乗り出したのでしょうか?」

 

「だと思うけど……こう実際に見ると凄まじいね。まるで怪獣が人間を蹂躙しているみたいだ……」

 

 

 圧倒的すぎる。向かっていく妖精が次々駆逐される。札と針によって次々と落とされて地面に落下してくる。

 あれが人の力なのか。紫や藍にも全く劣っていない。

 すごいとは聞いていたけど、こうまで凄いとは思ってもみなかった。

 

 

「博麗の巫女ですからね」

 

 

 博麗の巫女―――そこにそれだけの意味が込められているのだろうか。この空の光景を表すだけの理由が入っているのだろうか。

 あんなふうに飛べたら。

 あんなふうに戦えたら。

 きっと追いつける。

 そして、そこまでたどり着かないと霊夢に勝つことはできない。

 同じ空を飛ぶことはできない。

 

 

「僕は、霊夢に勝てるのかな?」

 

「勝てるかなって……戦うつもりですか? 止めておいた方がいいですよ?」

 

「どうして?」

 

「怪我をしてしまいます。撃ち落されて死んでしまうかもしれません」

 

 

 怪我をしてしまいます。死んでしまうかもしれません。

 違うだろう―――やっぱり椛とは考え方が根本的に違うみたいだ。

 怪我をするのが嫌だから挑まないなんて選択肢があるのだろうか。

 怪我が嫌だったらそもそもここにきていないということになぜ気づかないのだろうか。死んでしまうのが嫌だからなんて―――僕の願いを聞いた椛ならそんなことを言わないと思っていたけど。

 新しい椛の姿がどんどん明らかになる。

 新しい椛の姿に知的好奇心が満たされていく。

 どういう考えを持って言っているのか分からない以上、それがどういう意味で言われているのか僕に把握する術はない。心配して言ってくれているのだとしたら素直に受け止めよう。

 それでも、きっと僕が選ぶ選択肢は変わらないだろう。

 僕の答えはすでに決まっているのだから。

 霊夢の視線が地上へと落とされる。視線が交わる。

 追いついて見せるさ。だから安心して飛んでいればいい。そういう気持ちを込めて視線を送った。

 

 

「心配しなくても届くよ。見せつけて諦めるほど僕は弱くないから。見上げることを苦痛になんて思ったことないから」

 

「どうかされましたか?」

 

「いや、何でもないよ。行こうか、霊夢が妖精を打ち落としている間に」

 

 

 霊夢は悠々と僕たちを追い越して飛んでいく。まるで眼中にないというように、気づいている僕たちを置いて先を行った。

 しばらく進むと、木々の数が減って視界が開ける。

 開けた視界の先には、妖精たちの死体が浮いている赤い霧に包まれた湖があった。

 死ぬという概念がない妖精が息絶えているのを見て死んでいるなんて表現するのは間違っているのかもしれないが、ここでは死体と表現するのが正しいような気がした。

 

 

「霧の湖か―――赤い霧一色だね」

 

「死屍累々ですね。妖精がこうまで死んでいるのを初めてみました」

 

「死んでも蘇るんだけどね」

 

 

 死んでも蘇る―――自分で言って違和感を覚えた。

 

 

「違う―――生まれ変わるだね」

 

「蘇ると生まれ変わる、違いなんてありますか?」

 

「全然違うよ。蘇るはそのものの再生だ。生まれ変わるは、そのものの再誕だ。過去と繋がっているか繋がっていないか。同じものか同じものじゃないか。新しくなったか古いままか。そこには明確な境界線がある」

 

 

 蘇ることは―――死んだ者と繋がっているということだ。

 生まれ変わることは―――死んだ者と繋がっていないということだ。

 力のある妖精なら記憶を引き継げるのかもしれないが、基本的に力のない妖精は生まれ変わって新しい妖精になる。自然に取り込まれた際にこれまでの経歴を失う。

 だから、僕が一緒にいた妖精はあの妖精だけのはずだ。藍が殺したあの妖精だけのはずだ。殺して生まれ変わった妖精は同じ妖精ではないはずだ。

 少なくとも、これまで生きていてあの妖精と同じ生き物と会ったことはない。曖昧になりつつあった妖精の境界線を引くきっかけになったあの妖精と同じ生き物を見たことがない。

 まず、言葉を話せる妖精を見かけたことがなかった。

 霧の湖を見渡してみると、数十メートル先に妖精が二人うずくまっているのが見えた。動いているところを見るとまだ生きているようである。

 怪我をしているのかもしれない―――助けられるかも。なんて考えが頭の中を支配し、体が心のあるがままに行動を開始した。

 

 

「まだ生きている妖精がいる。怪我をしているみたいだ」

 

「あ! 近づいたら危険ですよ!」

 

 

 椛の静止を振り払い、怪我をしている妖精に近づく。

 緑を基調とした妖精と、青を基調とした妖精。特に青色の妖精の方は、羽が氷でできているところから随分と普通の妖精とは違うことが分かった。きっと力のある妖精なのだろう。特別性を感じるその姿から力の強さが窺い知れた。

 そんな似ていない二人の妖精は同じように体中に傷を負っていた。見た目では血は流れていない。跡が残っているという印象である。

 そもそも、妖精に血は流れていない。死ぬときは光となって消えるだけである。

 

 

「怪我をしているの? そもそも言葉が通じるのかな? 話せる? 話せるなら言葉で答えてほしいんだけど」

 

 

 言ってから気付いたが―――妖精は話せない。

 話せないというと語弊があるが―――人間の言葉を話せないのだ。意味不明な妖精の言葉は聞いたことがあるが、話せるのはあれだけである。

 大丈夫なのだろうか。話せなければ、ジェスチャーなんかで伝えてくれればいいんだけど、分かるかな。

 だが、そんな心配も杞憂のようで妖精の口から人間の言葉が出てきた。

 

 

「私のせいでチルノちゃんが……意識が戻らなくて」

 

「その子のこと?」

 

 

 緑の妖精は首を縦に振って応える。

 視線を青色の妖精に移すと、意識が完全に飛んでいるのが分かった。微動だにしていない、呼びかけにも応じない、反応が全く見られない―――息をしているだけである。

 この子を助ける―――はたしてそんなことをする必要があるのだろうか。

 このまま死んでもどうせ生まれ変わる。この子の場合は生まれ変わるというより蘇るか。放っておいてもいいのではないだろうか。助けるというのは無駄な労力になるのではないのか。

 そう思ったが―――緑の妖精の口から吐き出された言葉が僕の心を動かした。

 

 

「助けてあげたいの。死なせたくないの。死んでほしくないの」

 

「死んでも蘇るのに?」

 

「それでも! 死んでほしくないの!」

 

 

 死んでほしくないと妖精は言った。

 蘇るのに、死んでほしくないと言った。

 心が叫ぶままに言葉を吐き出した。

 

 

「ここにいれば、君も死んでしまうかもしれないのに?」

 

 

 妖精の手は震えていた。大事そうに両手で抱えている両手は死にそうになっている命を抱えて怯えていた。死ぬことに対して怯えていた。

 だけど、その眼には恐怖が感じられなかった。

 恐怖ではなく―――強い意志が宿っているようだった。

 

 

「それでも黙ってみていられないの! 私は抱えているものを捨てない!」

 

 

 妖精は、傷ついた命を守るようにぎゅっと両手で抱きしめる。

 どうしてだろうか―――懐かしく感じる。

 どうしてだろうか―――嬉しく感じる。

 どうしてだろうか―――涙が出そうになる。

 理由なんて分からなかったけど。

 見ていてこの妖精のために動きたくなった。

 この妖精を助けたくなった。

 この妖精の守るものを守りたくなった。

 力のない妖精は、傷ついた妖精を助けようとしている。

 傷ついた体で守ろうとしている。

 

 

「あなたが助けてくれないのなら私が助けるだけ! それなら誰も文句言わないでしょ!? 私の好きにさせてくれるでしょ!? 文句なんて誰にも言わせないんだから!」

 

 

 なんだか自分自身から言われているみたいだった。

 自分から言われているようだった。

 文句があるなら勝って勝ち取れ。

 勝負に勝って―――押し通せ。

 傷つくことがなんだ。

 死ぬことがなんだっていうんだ。

 もっと大事なことがあるから―――戦っているんだ。

 挑んで、戦って、求めているんだ。

 

 

「捨てないから! 諦めないから! 私は、絶対に―――諦めない!!」

 

「近づかない方がいいですよ! 襲われたらどうするのですか!?」

 

 

 椛の言葉が右から左へと流される。

 助けなきゃいけない。

 この妖精を助けなきゃ。

 僕自身を―――助けなきゃ。

 戦うんだ、守るために。

 

 

「大丈夫だよ。この子は正気を保っている」

 

「それでもです。他の妖精のように襲ってくる可能性があります。こうしているのも演技かもしれません」

 

 

 完全に椛の言葉がシャットアウトされる。

 決断はすでに下った。

 迷うことは何もなかった。

 外界を遮断し、意識を一つにする。

 

 

「大丈夫、僕は何もしないからね。その子を介抱しようか」

 

「手伝ってくれるの?」

 

「僕ができる限りのことはするよ。まずは治療からだ。ちょっとだけ触るけどいいかな?」

 

「は、はい! お願いします!」

 

 

 妖精は嬉しそうに返事を返してくる。

 いい返事だ―――大事なことが何なのかよく分かっている。

 今やるべきことが何なのか。

 何が大事で何をするべきなのか分かっている。

 目標が同じ方向を向いているのが分かる。

 さぁ、行くぞ―――求めるべき未来に向かって。

 妖精の瞳に映る未来と僕の見ている未来は一緒だった。

 

 

「和友さん!」

 

「お願い、僕のやりたいようにやらせてもらえないかな。心配してくれるのは嬉しいけど、僕なら大丈夫だから」

 

「チルノちゃんの意識が戻ってこないの!」

 

「まずは傷の治療だね」

 

「ああもう! 早くしてくださいよ! 私が寄ってくる妖精を振り払います!」

 

「お願い!」

 

 

 傷の治療って僕あんまり得意じゃないけど、できないわけじゃない。

 永遠亭で働いていたおかげで傷の治療には慣れている。

 両手を妖精に当ててゆっくりと霊力を流し込む。ごく僅かしかない霊力を惜しみなく注ぎ込む。妖精の体が暖かい光に包まれ、体に刻まれている傷が薄くなっていった。

 停止している僕たちのところに狂った妖精が寄り集まってくる。死んだ妖精が蘇るまでにはもう少し時間がかかるようだが、周りにいた妖精が治療に使っている力に反応して霧の湖に集まっているようだった。

 

 

「和友さんに近づくな!」

 

「なんで、みんな、やめて……」

 

 

 緑の妖精の口から細い声が漏れる。

 椛の大剣が次々と妖精を薙ぎ払う。

 寄ってくる妖精の体が切り裂かれ、押しつぶされる。

 次々と―――絶命していく。

 命の輝きともいうべき光が惜しげもなく放出する。

 それでも膨大な数の妖精は徐々に距離を詰めてくる。

 椛は焦りと苛立ちを抱えながらその大きな大剣を振るった。

 

 

「近づくなと言っているだろう!?」

 

「やめてよ……みんなを殺さないで」

 

 

 同族が死んでいく。

 命が打ち捨てられる。

 一緒に遊んだ友達がいるかもしれないのに。

 一緒に生きてきた仲間がいるかもしれないのに。

 生まれ変わるからって。

 蘇るからって。

 粗末にされているような命の輝きに心が絶叫した。

 

 

「私の友達を殺さないで!!!」

 

 

 その声は―――空間に綺麗に伝搬した。

 その瞬間、その場の全ての存在が停止した。

 




まず初めに、更新が遅れて申し訳ありません。
おおよその修正が終わりましたので、ここからは更新の方に集中していきたいと思います。

今回のお話は、紅魔郷の走りになります。
そして、霊夢が異変解決に乗り出し、妖精と会うところまでですね。

椛を面倒くさく感じる方もいるかもしれませんが意見なんて完全一致する方が稀だと思います。そういうものだと思ってくだされば幸いです。

読んでいて、もしかしてと思う方がいたら嬉しいですね。
しっかりと読んでくださったのだなと嬉しく思います。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。
ツイッターでは、小説についての情報をメインに発信していきます。
そちらの方で感想を述べてくださっても構いません。
感想が来るとモチベーションが上がって更新が早くなるかも―――なんてことがあるといいですが、いつも一生懸命やっているのであんまり変わらないかもしれませんね。モチベーションが高くなるのは本当なのですが、無理強いしてまでもらうものでもありませんからね。
でも、貰えたら嬉しくてはしゃいじゃうこともあるので読んで何か感じたら書いてくれると嬉しいです。
小説を読んで、なるほどなって思ってくれることがあると特にうれしく感じます。
今後とも、東方不変観をよろしくお願いいたします。


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最初の友達、忘れられない記憶

第7章の3話目です。
7章は、紅魔郷のお話になります。
全5話になる予定です。


 迫りくる妖精が一斉に動きを止めた。

 取り囲むように接近していた妖精が、時間が止まったかのように動かなくなった。

 その停止に合わせて、僕たちの動きも止まっていた。

 

 

「動きが止まった……」

 

「一体……何があったというのですか?」

 

 

 驚いた様子で回りの様子を伺う。時間は止まってはいない。声が通っていることはもちろん、視線が動いていることからもそれは理解できる。

 何があった?

 何がこの状況を作った?

 現状を把握しようと視界が縦横無尽に駆け回る。上下左右に振られて情報収集に走り回る。

 

 

「…………」

 

 

 その中で―――視界に入った情報で一番気になったのは、緑の妖精の表情だった。現状で一番驚いた顔をしていた。状況を理解できないというような顔で、まさかというような表情をしている。

 目の前に広がる光景が信じられないのだろうか。

 先ほどの叫びの直後に妖精が停止したことを考えると、今の状況を作り出したのは目の前にいる緑の妖精である。

 あの一言が―――あの声が妖精たちを止めたのだ。

 

 

「もしかして君が?」

 

「分かりません……こんなこと初めてで」

 

 

 困った顔でこちらを見つめてくる。そんな顔をされても応えられる答えを持っていない僕に言えることは何もなかった。

 なんで、どうして―――そんな質問に答えられるだけの材料がなかった。

 だって、僕は緑の妖精のことを何も知らないのだから。何も―――名前だって知らないのだ。

 それに、理由なんて実はないかもしれない。たまたまそうなったという可能性だってある。偶然が重なっただけかもしれない。

 だけど、そんな不確定な中で確かなことが一つだけあった。誰が見ても分かることが一つだけあった。

 それは、今やるべき最優先事項が妖精が止まった原因を探ることではなく、傷ついた青の妖精を手当てだということである。

 

 

「とにかく、今のうちに治療を終わらせよう。怪我を治しておけば直に目が覚めるはずだよ」

 

「和友さん、止めておいた方がいいのではないですか。霊力の総量を考えても……こんなところで時間をかけて力を浪費するべきじゃないような気がします」

 

「いいんだよ。無駄足も旅の楽しみっていうじゃないか。僕たちは何も異変の解決をするためにここまで出てきたんじゃないしさ」

 

「…………」

 

「でも、言ってくれてありがとう。なくなったら元も子もないし、気を付けるね」

 

「はい……」

 

 

 青の妖精の治療をすることが最優先であると誰の目から見ても明らかなんていったが、椛にとってはそうではなかったようである。

 心配する気持ちも分かる。霊力を使えない椛には治療することができないし、霊力の総量が少ない僕にとってここでの消費は死活問題になる可能性がある。だから、霊力の枯渇を懸念をする気持ちも分からなくもなかった。

 だが、それは霊力を相当使用するだけの目的があった場合の話だ。ただぶらぶら外の様子を見に来た僕たちにとっては、飛べるだけの霊力が残っていればいい。この赤い霧の影響を受けない程度に保護するための霊力の残量があれば、それで十分だった。

 先ほど治療を行った時のように霊力を流し込む。しばらく治療に専念すると、青髪の妖精の姿からは傷ついているところが確認できなくなった。

 

 

「さて、これで終わりだ」

 

 

 これで僕ができることは全部だ。僕にできることは外傷を消すことだけ。失われた意識まで戻すことはできない。

 真実を告げれば―――意識ごと探し出すこともできなくはないが後の影響が怖い。

 意識を探るというのは心に触れる所業である。心と心を近づける行為である。

 心に触れるようなことをしたらどうなるのか。

 妖精という我の強い生き物がどうなるのか。

 ―――想像できないわけがなかった。過去の実績がそれを如実に物語っていた。あの時の妖精のようになってしまうのが目に見えていた。

 

 

「ありがとうございます」

 

「どういたしまして。役に立てて嬉しいよ」

 

「……どういたしまして」

 

 

 お礼を言ってくる緑の妖精に笑顔を浮かべる。若干不機嫌な椛の表情が気になったが、妖精はとても嬉しそうだった。かつて見た顔と同じような笑顔を浮かべていた。

 あの妖精と同じような―――僕と同じような笑顔を浮かべていた。

 ここまで喜んでくれると、やった甲斐があるというか、やるべきことが成せたという充実感がある。満足感が心を支配する。嬉しそうな妖精の顔が何よりも嬉しかった。

 あの時に別れてしまった妖精とまた再会できたようで―――嬉しかった。

 

 

「それだけ、その子が大事なんだね」

 

「はい、私の初めての友達です」

 

 

 緑の妖精は大事なものを抱えるように青色の妖精を抱きしめる。

 ―――初めての友達か。

 思えば、僕の幻想郷での最初の友達も妖精だったのかもしれない。

 あの時一緒に空を飛んで、楽しそうに笑った妖精が最初の友達だったのかもしれない。

 緑の妖精にとって初めての友達―――青の妖精はよほど大事な存在なのだろう。

 初めての友達を殺してしまった僕と違って。

 それこそ、命よりも大事なのだろう。

 蘇ることを善しとしないほどに―――生き返ることを分かっていても認められないほどに大事なのだ。

 だが、そのとりあえず守った命の安全は保障されていない。ここは今も危険地帯のままである。

 このままここにいれば、どうなるか分からない。またしても襲われて傷ついてしまうかもしれない。妖精同士で共食いは起こらないだろうが、霊夢のような人間に撃ち落されてしまえば同じ軌跡を辿ることだろう。

 同じ轍を二度踏んではいけない。すぐにでも移動をしなければ―――安全な場所を探さなければならなかった。

 

 

「でも、このままここにいるとまた襲われるかもしれないし、どこか安全な場所を探した方がいいんじゃないかな?」

 

「あるのでしょうか、そんな場所……」

 

 

 不安そうに告げられた言葉に思考を巡らせる。

 赤い霧は、もはや幻想郷全土を覆うくらいに広がっている。椛の目で見渡しても途切れているところが見当たらないほどに拡散している。

 そもそも、安全な場所―――そんなものどこにもないから僕たちは外に出てきたのだ。

 どこにもないから、留まる理由がないから―――外に出たのだ。

 

 

「……ないかもね。この異変が終わるまではどこも安全とは言い難いか。霊夢が異変を解決するまでは、今の幻想郷に安全な場所なんてないかもしれないね」

 

「……私、あの人が怖いです。鬼みたいに怖かった。まるで興味がない顔しているのに、無表情で平然と攻撃してきて、背筋が凍るような視線が……怖いんです……」

 

 

 僕の口から出た霊夢という単語に―――妖精が反応した。

 恐怖の塊ともいうべき刻まれた記憶が一気に蘇ってくる。ついさっきのこと、つい数分前のことだ。頭の中に恐怖が顔を出した瞬間、妖精の顔色が悪くなった。青の妖精を抱える両手の力がさらに強くなった。

 まるで震えを止めようとするように、抱きしめる手を強く握った。

 

 

「霊夢も普段はああじゃないと思うのだけど……あれも霊夢の一面ってことだね。強すぎてつまらないからなのかもしれないけど―――それはまた今度聞けばいいか」

 

 

 今は、霊夢じゃなくて緑の妖精に聞いてみたいことがたくさんある。

 手始めに妖精が使ってみせた……そうだ、まず名前を聞いていなかった。

 さっきから頭の中に残っている、標識として立っている僕の初めての友達の面影を緑の妖精に見ていても仕方がない。

 あいつとは別ものなのだからしっかり区別してあげないと。

 僕が二人を同一視することは―――僕の初めての友達だった妖精を目の前の妖精に重ねるのは、僕の友達だった妖精にとっても、目の前の妖精にとっても、どっちにとっても悪いことだろうから。

 

 

「そうだ、名前を教えてくれないかな。僕は笹原和友、博麗神社に住んでいる人間だよ」

 

「私は、みんなから大妖精って言われています」

 

 

 ―――大妖精か。

 名前を聞いた瞬間に紅美鈴―――中国さんが脳内にちらついた。

 名前の由来を聞きたいところだが、特に理由なんてないのだろう。

 紅美鈴さんの中国という別称のように何となくつけられた、イメージからつけられた呼称なのだろう。

 この場合に意味があるのは、名前の由来よりも名前がついているということである。

 名前がついているあたり―――やっぱり他の個体と違って特別なのだろう。基本的に名前がない妖精に名前が付けられているということは、それだけ特別な力を持っているということと同義である。

 きっと力が強いのだろう。産みなおしが行われないほどに存在としての格が強いのだろう。記憶の引継ぎがあるほどに個体としての生き方をしているのだろう。さっきの妖精を止めた件を考えても特異性が感じられた。

 

 

「さっき妖精を止めた力は、元からあったものなの?」

 

「私、あんなことできると思わなくて、ただ必死に叫んだだけで……」

 

 

 力を使ったという自覚はないようだが、その特異性は僕にとって何よりも必要なもの。

 妖精を引き付ける僕にとって必要なもの。

 何よりも―――最後の最後を考えたときに絶対に必要となるスキルである。

 巻き込まないために、守るために、目的のために。

 ―――手伝ってほしい。

 本当なら自分自身で何とかすべきことだ。そう、自分で妖精を制御する方法を見つけるべきなのだが―――それが一番難しいことを僕は知っている。縦横無尽に駆け回り、理性よりも本能で動いている妖精を自由に動かすのはほぼ不可能といっても過言ではない。それだけに大妖精がしてみせた能力は喉から手が出るほどに必要な能力だった。

 ぜひとも僕の手伝いをしてほしかった。最後の最後にみんなを守る役目を担ってもらいたかった。

 だけど、それを無理強いする権利はない。特に出会ったばかりの大妖精に頼むことではない気がする。今日初めて会った大妖精に頼むのはおかしいような気がする。

 おかしいとは思うのだが、言っていて不思議に思うのだが、どうしてか大妖精とは初めて会った気が全くしなかった。

 どこかで会っているのかもしれない。

 どこかで見かけたのかもしれない。

 そんな区別されていない記憶が残っているとは思えない。

 そんな曖昧な思い出が残っているとは思えない。

 だとすると、やっぱりこの気持ちを作っているのは―――僕の初めての友達だった妖精がいたからだと思った。

 これも何かの縁だろう。もしかしたら僕の友達が結んでくれた縁かもしれない。案外大妖精なんて名前を付けたのは僕の友達の生まれ変わりなのかもしれない。

 そう思うと自然とほほが緩んだ。

 頼んでみよう―――断られたら断られただ。ものは試しである。

 

 

「もし良かったらなんだけど、大妖精がいいっていうのなら僕のお願いを聞いてほしいんだ」

 

「私にお願いですか? できることなんてほとんどありません……さっきも守ってもらいましたし……役に立つことなんて」

 

「いや、できることはあるよ。それはさっき証明されたじゃないか。大妖精にしかできないことがある。大妖精にやってほしいことがあるんだ」

 

 

 頭を下げて頼み込む。人にお願いをするときと同じ態度をとる。

 

 

「そんな! 頭を上げてください! 妖精に頭を下げる人間なんていませんよ!」

 

 

 椛が僕に向かって大声で叫ぶ。

 はたから見たら信じられない光景だったことだろう。人里の人間や妖怪から見たらあり得ない光景だっただろう。人に話しても信じてもらえないような話になるだろう。妖精に対して人間が頭を下げるなんて決してみられない構図だっただろう。

 妖精に頭を下げて頼み込む人間など、これまでいただろうか。ここまで妖精に対して真摯に頼み込む姿を見たことがあるだろうか。

 信じられないという気持ちが心を揺さぶる。なんで妖精なんかにという気持ちが沸き上がる。

 椛は、少年の姿にいてもたってもいられなかった。

 

 

「どうして妖精なんかに頭を下げているのですか!?」

 

「頼むときに頭を下げるのは当たり前だよ」

 

「相手は妖精ですよ!?」

 

「だからどうしたの?」

 

 

 僕の言葉を聞いた椛の表情が驚愕の色に染まる。

 そんなに驚くことだろうか。

 妖怪だからなんだというのだろうか。

 妖精だからなんだというのだろうか。

 そこにその者の本質は現れない。

 そんなものは、その者を表す言葉ではないのだ。

 例えば、笹原和友を構成する要素は色々ある。人間であること、理性を持っていること、知性を持っていること、負けず嫌いであること、区別ができないこと、14歳であること等、いろいろある。

 人間であるという区別は、その者を表す言葉を消していった際に最も早くに消える言葉のはずである。笹原和友とは何ですか―――その問いを受けたときに、真っ先に消えてなくなる言葉のはずである。もしも、人間という言葉が最後に残るようなら僕のことを区別できていないも同然だ。

 僕は―――人間だから笹原和友というわけではないのだから。

 

 

「妖精かどうかなんて関係ないでしょう。椛が妖怪だから椛ではないのと同じで、大妖精は別に妖精だから大妖精なんじゃないんだよ」

 

「いや、妖精だから大妖精って言われているのではないですか?」

 

「名前の由来はそうだろうけど……僕が言いたいのは、大妖精という生き物は妖精という成分でできているわけじゃないってこと。妖精じゃなくても、人間であっても、妖怪であっても、大妖精は大妖精なんだよ」

 

 

 人間だから僕なのではない。

 妖怪だから椛なのではない。

 妖精だから大妖精なのではない。

 

 

「妖精は、妖精ですよ……」

 

「椛から見たらそう見えるのかな? 妖精は妖精でしかないってことなのかな? それでも、文は烏天狗ではなくて文だろうし……妖精だけ特別なのかな。それとも―――特別な人だけが特別扱いされているのかな?」

 

「それが普通でしょう? 区別するのは、特別な特定の相手だけです。その他はその他でしかありません。ましてや妖精に頭を下げるなんて」

 

「椛は上下関係の厳しい妖怪の山でずっと生活していたから慣れないのかもしれないけど―――僕からしたら話ができる者は全員対等だから。悪人も善人も妖精も妖怪もなにもない。上も下もない、横しかないから」

 

 

 妖精も妖怪も人間も僕からすれば一緒である。立場なんて何一つ変わらない。偉くもなければ劣っているわけでもない。

 ここにいるのは、大妖精という個である。

 ここにいるのは、犬走椛という個である。

 ここにいるのは、笹原和友という個である。

 どちらかがどちらかを従えている立場ではない。

 どちらかがどちらかを師事している立場ではない。

 上を見ても何もない。下を見ても何もない。横にいる存在のはずである。対等な存在のはずである。

 だから、相手が何であるかなんてのは―――どうでもいいことなのだ。

 妖精であろうと、妖怪であろうと、人間であろうと、どっちでもいいことなのである。

 

 

「相手が誰であっても、相手が何であっても、お願いするときは頭を下げるんだよ。そうでなくとも、真面目にお願いするんだ。そのお願いが僕にとってでも大事なことだから。だから、それだけ真剣にお願いをするんだ」

 

 

 大事なのは、相手が誰であるかではない。

 大事なのは―――その願いをどの程度叶えたいのかという願望の強さだ。どれだけその願いを叶えたいかという気持ちだけだ。

 それが叶えてほしい願いだから。何よりも叶えたい願いだから。

 だから僕は頭を下げて頼んでいる。真摯に頭を下げて頼み込んでいるのだ。

 

 

「適当に言っても誰もお願いを聞いてくれない。誰も僕の願いに耳を傾けてくれない。僕は、僕にとって大事な願いだからその分だけ真剣にお願いしているんだよ。相手が誰かなんて関係ない。僕は願いを叶えたい思いの分だけ真剣に頼み込んでいるだけなんだから」

 

 

 椛の表情が僅かに歪む。

 椛にとっては難しいことなのだろうか。理解しがたいことなのだろうか。

 妖怪の山という場所で育った椛には、受け入れにくいことなのだろうか。

 妖怪の山に戻ろうとしている椛の立場から言えば、その感覚のままの方がいいのかもしれない。戻ろうとしている妖怪の山という場所を考えれば、その方が無難なのかもしれない。

 相手を種族で区分けし、格下格上を決めつける。

 格上には従順な態度をとる。

 格下には尊大な態度をとる。

 僕は、その考えを悪いなんて決めつけるつもりはなかった。

 それはそこでの伝統のようなものだ。生きていくノウハウのようなものだ。

 優しくすれば舐められてしまうから。

 下手に出れば反抗してくるから。

 逆らえば迫害されるかもしれないから。

 そういう経験から積み立てられたノウハウである。

 そこに悪いも善いもない。

 

 

「もちろん椛みたいな考え方でも何も問題ないんだよ? 特に妖怪の山に戻るんだったらきっとそのままの性格の方が戻り易いだろうし……」

 

 

 理解できなくても別に問題ないけれど。

 そのままでも別にいいのだけど。

 分かってほしいと思うのは僕のわがままだろうか。賛同してほしいとは思わないけど、理解してほしいと思うのは僕のエゴだろうか。

 

 

「だけど、ここでは少しだけ理解してもらえないかな。僕はこういう人間なんだ。椛と初めて会った時も対等の関係だったでしょう?」

 

「それは……そうなのですが、納得できません。妖精に頭を下げるなんて自分の格を下げるようなものです」

 

「納得はしなくてもいいから。そういう生き物なんだって分かってもらえればそれでいいよ。僕と椛は違う生き物なんだから無理に合わせる必要なんてないさ。こいつはこういう奴だってぐらいに思ってくれればそれでいい。僕は、格とかあんまり気にしない性質なんだ―――それだけ知っていてもらえれば」

 

「それでも、私が守ろうとしている和友さんが自分から格を落とすようなことをしているのを見るとぞわぞわしてしまって……気持ちが悪いのです」

 

「そこは、我慢してもらうしかないかな……」

 

 

 ここまで言われてしまうと、もはや本能的な話になってしまうので、理屈で理解してもらうことは難しそうである。難しいというか―――不可能である。

 見ただけで拒否したくなるような存在の良さを伝えたとしても無理なのと同じである。 

 仮にゴキブリが人間の役に立っていて非常に人間のためになる生物だとしても、本能的に嫌がるのを避けられないのと同じである。理性と本能が相反した場合には、ほぼほぼ本能が勝つことになっている。死のうとして水の中に潜ったが、息ができなくなって苦しくなると呼吸をしようと浮いてしまうのと同じである。本能的に生きたいという感情が、苦しみから逃れたいという願望が―――理性を押さえつける。

 そこまでいくと我慢してもらうしかない。

 我慢して歯を食いしばってもらうしかない。

 そう言われても―――僕は変われないのだから。

 

 

「ちょっと話がそれちゃったけど……大妖精、僕のお願いを聞いてもらえないかな?」

 

 

 

 

 今―――3人、いや4人で走っている。僕、椛、大妖精、そして名前を忘れてしまった青の妖精の4人である。

 目の前には赤い建物である紅魔館が見えている。どんどん大きくなるその姿は濃い赤い霧のベールに包まれている。

 近づけば近づくほどに大きくなる。大きくなる目的地を見ていると、心の中の感情も比例して大きくなっているのが感じ取れた。

 不安、焦り、期待、そういう気持ちが心の中で混ざり混ざって複雑な色彩を描いている。目の前は真っ赤な一色に染まっているのに―――それに対する心の景色は七色に輝いていた。

 ああ、面白くなってきた。

 ああ、楽しくなってきた。

 ああ、不安になってきた。

 ああ―――ぞわぞわする。背筋が震えて笑みが浮かぶ。こうした期待や不安、緊張感が心にかかるとそれに比例するように楽しさが襲ってくる。

 

 

「ふふっ、面白くなってきたね」

 

「……和友さんにとって私は特別なわけじゃなかったの? 役に立てば誰でもよかったってことなの……?」

 

 

 誰にも聞こえていないと思っているのかもしれないが、椛の口から漏れた言葉は僕のの鼓膜を揺らした。

 僕の感情とは対照的に椛が面白くなさそうな顔をしている。僕と真逆の感情を抱えているのが言葉から読み取れる。

 フォローの言葉を入れた方がいいのかもしれない。

 何か慰めの言葉でもかけた方がいいのかもしれない。

 そう思ったが―――言葉を口に出そうとした瞬間に口を閉じた。

 椛の存在は自分にとって特別だろうか―――そう問いかけたとき、自信をもって特別だと言えなかったから。椛の言う特別と自分の想う特別が違っている気がしたから。僕にとっての特別とはその人を贔屓することではないのだ。同列の中で役割が違うだけで、色が違うだけで、順位は同じである。

 役に立てば誰でもよかったのという言葉については先日言った通りである。椛だから願望を伝えた。椛だから協力してほしいと告げた。尊敬する椛だからこそ、頑張り屋だった椛だからこそ、想いを伝えてくれた椛だからこそ―――伝えた。

 あの1回では伝わらなかったのかもしれない。この異変が終わったら話をしよう。僕という人間を分かってもらうための、僕の夢を理解してもらうための会話をしよう。

 

 

 そんな思いを抱えながら紅魔館へとたどり着いた。

 紅魔館の前―――門の前には中華風の服を着た赤い髪の女性が立っていた。ぼろぼろになって土がついている服からは戦闘があったことが読み取れる。きっと先ほど僕たちを追い抜いて行った霊夢の仕業だろう。霊夢とこの女性は戦闘して、そして霊夢が勝ったのだろう。

 その女性は―――紅美鈴といった。

 美鈴は、こちらの存在に気付くと視線を向けた。

 

 

「お久しぶりですね、和友さん」

 

「久しぶり、あの時以来だね」

 

「そちらは新しい仲間か何かですか?」

 

 

 美鈴の視線が後ろの二人に向けられる。

 椛と大妖精を表現する言葉としては色々あると言えばあるが、仲間―――それが一番合っている表現だろう。付き人でもないし、護衛というにも違っているような気がする。近いのが協力者、同志、仲間という表現だろう。

 

 

「そうだよ。僕の大事な仲間だ―――椛も、大妖精も」

 

「今会ったばかりの妖精と同列ですか……」

 

 

 明らかに聞こえるように言っている椛の不平を聞いた瞬間―――背筋に悪寒が走った。

 嫌な思い出が脳内で繰り返される。

 あの時―――殺してしまった子の最後の顔が想起される。

 最後に会った時に見た顔が記憶から呼び起こされる。

 涙を流し、悲しそうな、苦しそうな顔で飛び降りた―――あの子の顔が記憶から覗いてきた。

 

 

「どうして告白した私とみんなとの扱いが一緒なの……? 私、どうすればいいのか分かんないよ……」

 

 

 病気でいくつかの標識が消えたあの時も、あの子の標識だけは消せなかった。

 忘れてはいけないと思った。

 守らなければと思った。

 

 

 その子が死んで―――お葬式に行ったときの記憶は、今でも心の中に鮮明に刻まれている。

 お葬式で両手を合わせたときの感情は心の深いところに刻まれている。

 

 

「…………」

 

 

 その子が自殺した原因は分からなかった。

 公には死んだ理由は不明になっていた。

 自殺なのに遺書も何も残っていなかった。

 飛び降りたときに屋上にいた僕を誰も咎めなかった。

 自殺を止めようとしていたということになっていた。

 確かに落とそうと思っていたわけではない。

 故意に死んでしまえと思ったことはない。

 だけど―――あの場であの子を突き落としたのは他でもない僕である。

 想いを拒絶した僕の責任である。

 何が問題だったのか、何を想って死んだのか―――知っているのは僕だけだった。

 

 

「あの子のために祈ってくれてありがとう」

 

 

 その子の両親は、祈ってくれてありがとうと言ってくれた。

 その言葉は今まで聞いた言葉の中で一番重かった。

 泣くのをこらえて、口元を抑えて、涙を瞳にためて、震えた口から出てきた力強く吐き出された言葉には―――それだけの想いが込められていた。

 

 

「あの子も、みんなを天国から見守っていると思う。あの子のことを忘れないで、これからも生きていってもらえると……」

 

 

 そこまで言ったところで、堪えていた涙が頬を伝った。

 崩れまいとするその姿勢が悲しげに見えた。

 僕は、帰れば両親が待ってくれている。

 家には団らんの時が待っている。

 今日も楽しかった―――なんて思い出話をする。

 明日もいいことがあるといいね―――なんて希望を語る。

 そんな温かい家庭がある。

 

 

「あの子が生きていたことを忘れないでください」

 

 

 あの子の両親はこれから生きていかなければならないのだ。

 僕たちと同じように生きていかなければならないのだ。

 失ったものを抱えた状態で、大事なものがなくなった家で。

 

 

(僕は、何をしにここに来たのだろう……)

 

 

 満たされた家で過ごしている僕は、失ったあの子の両親に何もできなかった。

 祈っただけだ―――何もしていない。

 満たされた場所にいる自分は、このお葬式会場で何をしているのだろうか。

 何をしにお葬式に来たのだろうか。

 そんなわだかまりを抱えながら―――何も言えなかった。

 何も言い出せなかった。

 そして、1か月後にその子の家に行ったとき、その子の家がいつの間にかなくなってしまっていた。引っ越して誰もいなくなった家を見て―――僕は何も言えなくなった。

 何もできなかった自分が、何も言えなかった自分が―――嫌いになった。

 同じ想いはしたくない。椛まで死んでしまうことになったら、そう考えるだけで心が凍り付きそうだった。

 絶対に話をしよう―――心に強く刻み込む。

 忘れないように記憶に留める。

 これが終わったら、この異変が終わったら―――

 

 

「大丈夫ですか?」

 

「あ……うん、大丈夫……」

 

 

 美鈴からの唐突な呼びかけでのめり込んでいた思考から抜け出す。

 心配されてしまった―――随分と深刻な顔をしていたのだろう。

 切り替えなきゃ―――今は異変の中心地であろう紅魔館へと入るのが先である。ここで話をしてもこじれるだけだ。もっと心に余裕があるときに、時間にゆとりがあるときにやるべきことである。

 

 

「僕より美鈴は大丈夫なの? 随分ぼろぼろに見えるけど」

 

「さっき飛んできた博麗の巫女にやられてしまいまして……弾幕ごっこも上手くなったつもりだったのですが、一瞬でしたね。本職である接近戦ならまだしも、やはり弾幕ごっこは私には合わないようです」

 

 

 先ほど僕たちを追い越した霊夢は、すでに紅魔館の中にいるとのことである。

 美鈴も霊夢には敵わなかったんだね。それも仕方がないのか、さっき上空で見た霊夢の姿を思えば―――それが当然のように思えた。

 ならば、なおさら先を急がなければ―――異変が何もしないまま終わってしまうかもしれない。

 中で何が起きているのか。

 霊夢の戦う姿はどれほどのものか。

 異変とはどういうものなのか。

 今は―――それらが分かるいい機会である。

 

 

「霊夢は先に中に入っちゃったんだね。ここ―――通してもらってもいいかな? それともまた弾幕ごっこでもする?」

 

「いえ、通っていいですよ。和友さんは通っていいとお嬢様から言われていますから」

 

「それは異変時だからってこと?」

 

「前回の件から基本的には通していいと言われています。今でも通すなとは言われておりませんから」

 

 

 初耳ではあるが、紅魔館にはあの一件から自由に出入りできるようになっているようである。通してくれるのならば、是が非でもない。

 

 

「それじゃあ、お邪魔します」

 

「はい、どうぞ」

 

 

 両足を前に向けて美鈴の前を横切る。門を抜ければ、玄関まではすぐである。扉を開けて奥へ進めば、レミリアと会った部屋まで行けるだろう。

 そして、僕に付属して椛と大妖精が門を通ろうとする。

 その瞬間―――その進行を美鈴の手が阻んだ。

 

 

「あなた方は駄目です。通すことはできません」

 

「どうしてよ。私は和友さんの護衛なのよ」

 

「そんなもの関係ありません。私が通してもいいと言われたのは、和友さんただ一人です。無理やり入ろうというのであれば実力で排除します」

 

 

 後ろで行われているやり取りに引かれるように、進行していた両足を止めて振り返る。そこには明らかに不機嫌そうな顔をした椛と、余裕そうな顔で受け流すように悠然と立っている美鈴の姿があった。

 僕の視線に気づいたのか椛が僅かに困ったような表情で笑みを浮かべる。

 

 

「……和友さん、先に行っていてもらえますか?」

 

「お言葉に甘えて行かせてもらうね」

 

 

 紅魔館の中へと向かう。その途中で後ろ向きに美鈴に言葉をかけた。

 

 

「美鈴、椛のことあんまり苛めないでね」

 

「それはご了承しかねます。どうやらこの犬は私とやる気のようですので。何も理解できていない犬にはちょうどいい躾になると思いますよ」

 

「犬、犬って―――何、私とやろうっていうの?」

 

 

 椛の鋭い視線が美鈴を射抜く。

 椛の視線を受け流すように、美鈴の表情に僅かに笑みが浮かんだ。

 

 

「そもそも、和友さんに護衛なんていらないでしょう? あの人は守られる存在ではありません。誰かを守る人です。貴方みたいな護衛対象よりも弱い存在がいてどうするのですか。守られている貴方がいて何の意味があるのでしょうか?」

 

 

 美鈴は知っている。少年と戦った美鈴は理解している。

 美鈴は、戦ったことのある少年の存在を考慮したときに―――今目の前にいる白狼天狗との関係性がいかにおかしくて間違っているのかすぐに分かった。こうしてちょっと会っただけで二人の関係性がいかに間違っているのか気づいた。

 白狼天狗の目を見ていて、白狼天狗の行動を見ていて―――侮蔑していた。

 特に門番をしている美鈴には特におかしく思えてしかたがなかった。

 美鈴は間違っても仕えているレミリアの護衛ではない―――門番である。レミリアの護衛を自分が務めるなど片腹痛い。より強い存在を守る弱者がいるだろうか。そんなもの邪魔になるだけだ。仲間ならばともかく―――護衛なんて笑ってしまう。

 少年は、確かに力は弱いのかもしれない。耐久力も低いのかもしれない。すぐに死んでしまうのかもしれない。

 だが、確実に少年は守られるべき存在ではない。少年にはどんな壁にぶつかっても前に進んでいく力がある。

 だとすれば、護衛に必要なのは何よりも投げ出さない心である。何よりも忠臣を貫く姿勢である。

 

 

「ふざけたこと言わないで! 和友さんより私の方が強いわ!!」

 

「果たしてそうでしょうか。私からすれば、貴方の方が弱く見えて仕方がありません。貴方は壁にぶつかったときにすぐに放り投げそうですから」

 

「そんなことない!!」

 

「どうでしょうか。私は貴方のことを詳しく知りませんから本当のところどうなのかは分かりません。ですが……これだけは言えます」

 

 

 護衛対象よりも先に諦める奴はいらない。護衛という任を途中で投げ出す奴はいらない。そういう奴は、障害が立ちはだかったときにすぐに放り投げる。

 

 

「もし私が和友さんの護衛だったら―――彼のしたいことを支えてあげるのが私の役目でしょうね。そして、和友さんの道を阻むものから守り通すことが護衛としてすべきことです。何もかもを捨てる覚悟で、命を賭しても彼の道を守ることです。常に側に控えて、身を挺して守ることです」

 

 

 護衛とは守る者の総称である。どんな苦境にあっても、どんな危険に曝されても、守ろうとする者―――かつての藍のような者を護衛というのである。

 常に側にいて危険から守る。

 何があっても、相手が誰であっても立ち向かう。

 そういう者を護衛というのだ。

 

 

「貴方にできますか? 妖怪の山のトップに戦いを挑むことができますか? 従属していた身を顧みず、戦うことができますか? 私にはできません。レミリアお嬢様と戦うなんて無理です。ですが―――八雲の式神である九尾はやったそうですよ。彼を守るために主に刃向かったのです」

 

 

 美鈴は門の前で見上げていた。

 主である八雲紫と戦う九尾の姿を見ていた。

 あれが、護衛としてあるべき姿である。

 

 

「貴方にはできないことです。貴方は、和友さんの護衛にはなれない」

 

「なんで言い切れるのよ!?」

 

「護衛対象を先に行かせた時点で、貴方は護衛失格だからです。護衛対象を側から離した時点で貴方は護衛でも何でもありません。自分から手放すようなやつが、護衛を名乗るなんておかしくて笑ってしまいます。貴方は―――もはや番犬ですらない」

 

 

 ―――椛はすでに護衛としての任を放棄している。

 美鈴の正論からくる反論に―――怒りのあまり椛の頭に血が上る。

 肩に背負っている大剣に手がかかる。

 それと同時に、背負っていた青色の妖精が振り落とされた。緑の妖精は、若干の恐怖をにじませながら慌てて緑の妖精が抱きかかえると距離をとる。

 

 

「あれは、通してもらえるまで待ってもらうべきだったのです」

 

 

 美鈴は、仕方がないなという表情で構えを作る。緩やかに流れるような構えを、少年と対峙した時と同じ様子で力を練る。

 そして、怒りで感情を染めている椛に向けて最後の一言を放った。

 

 

「分かっていますか? 貴方の守るものはもうここにはありません。護衛でも仲間でもない他人がここに何をしに来たのですか? ただの金魚の糞が―――ついて回っているだけの腰巾着が、見ていて目障りなんですよ」

 

 

 美鈴の言葉が空間に響いたとき―――椛の大剣が振るわれた。




大妖精が主人公についてきましたね。
そして、椛と主人公の考え方の違いが如実に表れていますね。
自分の上に立つ者がペコペコ頭を下げているのを気持ち悪く思う私としては―――堂々としていてほしい私としては、椛の意見はわからなくもありません。

みなさんはどうでしょうか?

少年の初めての友達―――妖精のこと
少年が初めて殺した―――女の子のこと。
これらが書けたことを作者として嬉しく思います。

美鈴と椛の試合。
そして、紅魔館に入った少年がどんな嵐を巻き起こすのか。
次話をお楽しみください。
感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。


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勿体ないこと、彼の者の存在

第7章の4話目です。
7章は、紅魔郷のお話になります。
全5話になる予定です。
そういう予定でしたが、怪しくなっています。1話分増えるかもしれません。


 紅魔館の中を滑走する。迷いなく目的地へと突き進む。

 最終地点への道筋は知っている。紅魔館の中の構造はノートにちゃんと書いてある。玄関口から入ると、左右にはいたるところに客間のような部屋があって、それを無視して進んでいくと図書館がある。そして、図書館を通って中央で左に曲がると目的の場所まで一本道だ。

 図書館で右に曲がるとちなみにフランの部屋がある。今回は、フランに会いに来たわけではないので図書館で左である。

 移動によって移ろっているはずの景色は全く変わり映えしない。これで明かりがついていなかったら前に進んでいるという感覚は絶無だっただろう。

 そう思ってしまうほどこの空間は同じに見える。同じ世界に見える。同じものに見える。同じ赤に見える。外とは違った赤に見える。

 外も赤い霧のせいで視界が一色に染まっていたが―――紅魔館の内壁の色濃い赤はそれとは一線を引いていた。

 

 

「こんなに早く真っ赤な世界の中に再び身を置くなんて思ってもみなかったな。来るとしても、もうしばらく時間が空いてからだと思っていたけど、それだけ僕にとって紅魔館との縁が深かったってことなのかな」

 

 

 以前紅魔館に来た時からまだ1か月も経っていない。これほど早くに紅魔館に訪れることになるなんて思ってもみなかった。来るとしても、ほとぼりが冷めてから―――紅魔館側から来なさいと、あるいはいつ来るのと言われてからだと思っていた。

 

 

「ここから―――紅魔館から始まった。僕の、僕のための物語が」

 

 

 こうして戻ってくると色々なことが頭の中に想起される。次々と記憶が戻ってくる。気持ちがシャキッとする。潤いが戻るというか、記憶が戻ることで決意が新しさを取り戻すという感じだろうか。

 ここで、僕は一歩を踏み出したのだ。

 大きな一歩を踏み出したのだ。

 

 

 

「あ、そういえば―――」

 

 

 記憶を巡っていくと―――紅魔館でやりたいことがあったことを思い出した。

 

 

「図書館に本を読みに来ることは未だにできていないけど、全ての終わりまでに1度は来たいね。何か新しいものが見つかるかもしれないし、何か新しい考えが浮かぶかもしれない」

 

 

 パチュリーさんからはすでに許可をもらっている。あの時―――フランの部屋へと向かう際に許可をとっている。

 結局一度も訪れることがなかったため借りることはできていないが、ぜひとも一度は読んでおきたかった。幻想郷では非常に珍しい存在となっている本をぜひとも読んでみたかった。

 

 

「本は僕の世界を広げてくれる。僕の知らないものを見せてくれる。作者が何を考えていて、何を知っていて、何を想っていたのか知ることができるっていうのは、なんだか世界の一部を共有しているようで気持ちがいいよね」

 

 

 本を読むことは、本を書いた著者の世界に入り込むことに等しい。

 小説でも、自伝でも、伝記でも、啓発本でも、何かの教科書でも、その中には書き手の想いが―――考えが反映されている。

 本を読むことはつまり、書き手の考えを覗くことに他ならない。書き手の想いをくみ取ることに他ならない。書き手との知識、思考の共有は新しい世界を見せてくれる。思考の一部が入った本を読むことで脳内が拡張されるのである。

 そういった思考の拡大が起こると考え方に変化が起こる。思考能力に幅が出る。課題にぶつかったときに別の発想が出てくるようになる。

 

 僕は、なるほどそういう考えもあるのか――――そう思う瞬間がたまらなく好きだった。

 

 こういうことを考えていると本が読みたくて堪らなくなってくる。じっくりとゆっくりと世界の広がりを感じたくなってくる。

 外の世界では読もうと思えばいくらでも読めた本が幻想郷にはほとんど存在しないのだ。ずっと読んでいない―――そんな禁断症状にも似た感情が押し寄せ、知的欲求がこちらを覗き始めた。

 

 

「いやいや、駄目だ、駄目―――何を考えているんだ。目的がぶれると何をしに来たのか分からなくなる。今どこを走っているのか分からなくなる。心の内側ばかり見ているからこうなるんだ―――外を見よう、そうしよう!」

 

 

 欲望を振り切るように首を振って無理やり意識を外に向ける。目的なんて実はないけれども、本を借りるという目的とすると異変に関わることができなくなる。それで満足して帰ってしまうのが目に見えている。

 それでは駄目なのだ。今日は思い出づくりにここにきているのだから。

 一度視界を閉ざして瞼を開ける。意識を一新させる。気持ちを新たにした視界には全く変わらない景色が入り込んだ。

 しかし、変化のない背景の他に―――空間に点在するように着飾られた妖精がいることに気付いた。

 

 

「ここにも妖精がいるんだね。恰好も違うし、紅魔館に住んでいる妖精なのかな」

 

 

 目視で確認する限りにおいて、妖精はメイド服を着ているように見える。メイド服の基調を考えると咲夜さんが来ていたメイド服に似ているような気がする。あくまで気がするだけであって色合いが同じに見えるということだけなのだが、紅魔館という場所もあっておそらく咲夜さんと同様に給仕として仕えているということは何となく理解できた。

 妖精は教育しても言うことを聞かないというけれど―――藍からはそう教わったんだけど、意外とできるものなのかな。藍が言っていたことを鵜呑みにすると、妖精を給仕として働かせるのは相当難しかったはずなんだけど。こうしてメイド服が様になっている様子を見ると、ちゃんと働けていることは察することができた。

 きっと育てるのに相当な苦労をしたはずである。僕があの時―――妖精と一緒にマヨヒガに帰っていたらその苦労の一部でも理解できたことだろうけど、焚き付けて見殺しにした僕には想像することしかできないが―――それでも想像することはできた。妖精に給料は出ていないだろうけど、そもそも妖精はお金を必要としないので無料だろうけど、育てる労力は無料にはならない。

 ご苦労様です―――育てた人に最大の賛美を送る。

 心の中で知らない誰かに称賛を送っていると、ゆらゆらとメイド服を着た妖精が近づいてきた。

 

 

「お前たちも近づいてくるのか……」

 

 

 いつもなら振り払ってくれる椛はここにはいないし、紅魔館で働いている妖精ならば傷つけるわけにもいかない。

 分かってもらえないだろうか、大妖精のような知性があれば―――そんな僅かな希望を抱えながら言葉を送った。

 

 

「ごめんね、僕には構っている時間がないんだ。一緒に遊びたいかもしれないけど、一緒にいたいかもしれないけど、今度の機会にね」

 

 

 メイド服を着た妖精の首が縦に振られた。まるで別にいいよというように―――笑顔で意思を示していた。

 どうしてだろうか、どうしてなのだろうか。その反応を見た僕の心の中が嬉しがっていた。反応してくれた、意思をくみ取ってくれたように感じる妖精の反応に心が騒いでいた。

 その心の喜びのまま―――口から言葉が出た。

 

 

「もしよかったら、一緒に来る?」

 

 

 妖精は、満面の笑みを浮かべて勢いよく首を縦に振る。

 本当に分かりやすかった。安心感が違った。先ほど出会った大妖精と違って、言葉を喋ろうとはしないから喋れないのだろうけど、言葉が伝わっているのは分かる。

 外にいるただただ接近してくっついてくるだけの妖精とは明らかに違う。いうなれば、大妖精と有象無象の妖精との中間地点ぐらいかな。紅魔館の妖精からは、理性があるというか節度が感じられた。

 妖精は僕からある一定の距離を保つと並行して飛行する。

 そっと見つめた妖精の表情には、楽しそうな笑みが浮かんでいた。

 それを見て―――なぜだか僕まで楽しくなった。

 

 

「よし! それじゃあついてきてね。ふふっ、楽しくなってきたなあ!」

 

 

 妖精は、滑走する僕のスピードについてくる。外の妖精の速度とは段違いである。

 速度を合わせ、同じように楽しそうな笑みを浮かべる。僕が妖精に合わせているのか。妖精が僕に合わせているのかは分からない。そんなことはどうでもよかった。今が楽しいということだけが―――心を震わしていた。

 

 

「走れ! 走れ! もっと速く!」

 

 

 先ほどよりもはるかに軽くなった足取りで未来へと駆ける。大股でハードルを越える様に飛ぶように走り抜ける。

 轟音が近くから木霊しているのが聞こえる。すぐ近く―――図書館の方角から。目の前の扉の奥から聞こえていた。

 

 

「さぁ、図書館だ!」

 

 

 音の源泉である図書館に入り込む。すでに開かれている大きな木造の扉を越えて妖精と一緒に図書館へと足を踏み入れた。

 本棚が倒れている。本が無造作に放り投げられている。燃えていないのが奇跡みたいな光景だった。

 轟音は上方から響いている。

 僕は、視界を音源である空へと移してみた。

 

 

 

「……すごいな。あの子―――確か霊夢の友達だったよね」

 

 

 空高くにまで伸びている天井付近は、花火大会の様相を呈していた。

 そこにいるのは、本を抱えた白と黒のモノトーンを基調としたエプロンドレスのような服を着ている人間と図書館の管理者であるパチュリーである。

 あの人は、霊夢と一緒にいるところを見たことがある。霊夢が普段見せない表情をしていたことが―――僕に見せたことのない顔をしていたのが印象的だったからよく覚えている。名前は知らない。区別もしていない。なのに、記憶に残っている。名前も知らないのに、覚えている。どうしてだろうか―――霊夢に友達がいるって書いたときに一緒に記憶されたのだろうか。僕の記憶力が良くなっているとしたらこれほど嬉しいことはないけれど―――きっとそういうわけではないだろうね。

 視線を疑問の相手に集中する。箒に乗って飛び回っている霊夢の友達の姿は、おとぎ話に出てくる魔法使いを見ているようだった。

 そして、その相手をしているパチュリーの戦うその姿は、これまた以前会った時よりも威厳に溢れていた。

 

 

「異変の主がここにいることは分かっているんだ! とっとと突破させてもらうぜ!」

 

「それはいいけれど、どさくさに紛れて本まで持っていかいないで!」

 

「ついでだ、ついで! そもそもこんなものここに置いておいても意味がないだろ? 本が泣いているぜ? 本は読まれてこその本だ!」

 

「もっともらしいことを言って窃盗をごまかしても騙されないわ! あの黒いのを倒す方法は……」

 

「そんなものが載っている本もあるのか!? それはぜひとも欲しいところだぜ!」

 

 

 霊夢の友達であろう彼女の速度が上昇する。その持ち前の速さでパチュリーの弾幕を強引に躱していく。パチュリーの飛行速度があまり早くないためそう見えるのか分からないが、うらやましくなるぐらいに速い。先ほど飛んでいた霊夢よりも旋回力はないようだけど、直進スピードは霊夢よりも速いように見える。

 

 

「いいなぁ、僕もあんな風に飛べたらいいんだけど」

 

 

 最低でもあのぐらいできなきゃ話にならないだろう。霊夢の近くに並び立つにはあの程度を軽々とこなさなければならないだろう。

 そうでもしなきゃ―――霊夢と戦うなんて無理だと思った。

 そして、霊夢に勝つにはもっと強くならなければならないと思った。

 

 

「霊夢の友達をやるにはあのぐらいできなきゃいけないのかな……でも、あの子と霊夢とじゃまだ霊夢の方が強いような気がするなぁ―――それでも僕より霊夢の近くにいることは確実だろうけど」

 

 

 弾幕が炸裂する音が支配する図書館を妖精とともに練り歩く。まるで景色の一部とでもいうように、轟音が鳴り響く世界の中で歩みを前に進める。

 

 

「すごいな、僕のボキャブラリーがないのもそうだけど。すごいとしか言いようがないね。僕と橙と藍が戦っていたのを外から見ていたらこんな風に見えたのかな。こうして他人の弾幕ごっこ見るのが初めてだからそう思うだけかな?」

 

 

 角度を変えながら空を見上げる。二人の戦いを眺める。

 二人の戦いの様子は―――まるで映画を見ているような錯覚に陥る光景だった。

 女性二人が空を飛び交っている。激しい光と音が空間を満たしている。

 頭の中で情報を処理しよう―――飲み込もうとすると、なんだか夢を見ているんじゃないかという感覚になってくる。これが現実だということは分かっているつもりなのに、どうも夢の中にいるような感覚になってしまう。

 

 

「そう思うのはきっと―――僕の心が外の世界に残っているからだよね。外の世界の僕がまだ、心の中に残っているからだ」

 

 

 なくなったと思っていた。

 幻想郷にきて、帰るべき場所が燃え尽きて、幻想郷という場所で過ごしてきて、なくなってしまったと思っていた。

 だけど、それは気のせいだったみたいだ。

 今の僕がここにいるように、ずっと僕を支えてきたものがなくなっているわけがなかった。僕がここにいられるのは、過去の僕がいたからなんだから。外の世界で過ごしてきた僕がいたからなんだから。

 

 

「大事にしよう。忘れないようにしよう。過去の僕を忘れてしまったら今の僕を殺すことになりかねない。僕は忘れてはいけないのは何も相手だけではないってことだね。僕自身も覚えておいてあげないと」

 

 

 誰かを覚えてあげるというのならば、自分も覚えてあげるべきだろう。自分が自分を忘れるなんて、なんて冗談みたいな悪夢だ。

 僕が僕を忘れたら―――僕が僕でなくなってしまう。

 だって僕は、過去に支えられてここにいるのだから。

 過去があるから地面を歩いていられる、大地を踏みしめていられる。

 こうして新鮮に思うのも、夢を見ていると思うのも―――きっと大切な感情で忘れちゃいけない感情だと直感的に思った。

 

 

「木&火符「フォレストブレイズ」」

 

「おいおい、もう3枚目か?」

 

「さっきからうるさいわね!」

 

 

 パチュリーのスペルカードが唱えられた。唱えられた瞬間に光が放射状に延びた。

 視界に収まりきらないほどの弾幕が空間を満たしていく。炎のような揺らめく弾幕と斜めに降り注ぐ木の葉のような弾幕が振り落とされる。

 綺麗な弾幕―――僕の歪な弾幕よりもはるかに上手く見えた。

 

 

「自信がなくなるほどの綺麗な弾幕だなぁ……ついこの前にスペルカードルールの説明をしに行ったとは思えないほどの上達速度……」

 

 

 スペルカードルールがこうして使われているのを見ていると、なんだか年寄りでもないのに感慨深いものを感じる。知らぬ間に時間が経ってしまったような―――最先端を行っていたつもりがすでに追いつかれてしまっているというか、むしろ追い抜かれてしまっているというか。

 寂しいと表現するのが当確だろうか。

 悲しいと表現するのが正確だろうか。

 空しいと表現するのが的確だろうか。

 どれでもない気がする。どれでもある気がする。

 そんな感情が入り混じった不思議な気持ちになった。

 

 

「みんな上手くなるのが早いよね。僕、もう追い抜かれているんじゃないかな?」

 

 

 ついこの間に幻想郷に広がったはずなのに―――やっぱりみんな走るのが早すぎる。僕なんて一瞬で追い抜かれちゃうじゃないか。

 もっと頑張らないと、無理がない程度に上手くならないと。最後にみんなと一緒に戦えるぐらいには強くならないと。

 最後になってもぼろぼろに負けるだけなんて想像をするだけで、それだけで悔しくて泣いちゃいそうだもんね。

 

 

「頑張らないとね」

 

 

 意気込む気持ちを抱えながら本が散乱している中を練り歩く。前に進もうとする足を邪魔するように本が散らばっている。

 踏まないように、踏まないように。そういいながら足元を見ていると自然と知らない文字や見たこともない本カバーが目に入ってくる。

 見ているとだんだんと読みたい衝動に駆られてくる。

 本の背表紙には何が書いてあるのだろうか。そもそも僕に読めるのかな。

 ―――読んでみたいな。

 本の存在を間近にするまでは、霊夢に追いついて戦いを見るまでは読むまいと思っていたが、読みたいという衝動が心の中を支配して仕方がなかった。

 

 

「○▼◇Ж?」

 

「何? 僕にあげるって?」

 

「§Θ、Ξ£◎!!」

 

 

 隣にいる妖精が見せつけるように本を持ち上げる。そして、手渡すように何て書いてあるか分からない本を渡してきた。

 なんだか―――試されているみたいだった。

 なんだか―――煽られているような気になった。

 

 

「ごめんね、今それを受け取ることはできないよ。本を借りに来たわけじゃないし……いや、別にいいのか。そうだよ―――今本を借りて行けばいいじゃないか」

 

 

 よし、借りよう。

 今借りよう。そうすればいいや。

 どうせ借りるんだし、後で借りるのも今借りるのも一緒だよね。

 どっちでもいいよね。

 一度妖精から本を受け取り、それを再び地面に降ろす。借りるにしてもその本ではないだろう。もうちょっと選んで借りないと。

 ただ、黙って借りていくのは流石に悪いし―――ひと声かけた方がいいか。

 大きく息を吸って灰の中に空気をため込む。そして狙いを定める。狙う先は、空中を飛び回っているパチュリーである。

 ―――届け!!

 

 

「パチュリーさん!! 本を借りていってもいいですか!?」

 

「笹原!? なんでこんな時に!?」

 

 

 驚いた顔が僕に向けられる。

 そして、パチュリーの顔が勢いよく左右に振られた。

 パチュリーの現在の状況は切迫している。眼前の虎(霊夢の友達)を前にしながら唐突の登場人物である。パチュリーには少年の対応をしている余裕がなかった。

 

 

「お願いしまーす!」

 

 

 忙しそうにしているところを見ると難しいのかな。やっぱり後の方がよかったかな。そんな少しばかりの反省をしつつ頭を下げる。

 

 

「そんなこと急に言われても……今はそれどころじゃ」

 

 

 パチュリーは、ちらちらと少年のことを見ながら弾幕を形成した。

 飛び回る中で視界の隅に頭を下げている少年の姿が映る。どうしても気になって視線が向いてしまう。気が散って仕方がなかった。

 

 

「ああもうっ! なんでこんな時に来たのよ! 全く仕方がないわね!」

 

 

 慌てた様子でパチュリーの両手が箒に乗った魔法使いに向けて突き出された。

 

 

「白黒! ちょ、ちょっと待って! 待ったよ!」

 

「このゲームに待ったなんてルールはないぜ!」

 

「待ったって言ってんでしょーが!!」

 

「だから何度も言うようだが―――待ったなんてないんだぜ!」

 

「っ! なんでこんなに間が悪いのよ! 土&金符「エメラルドメガリス」!!」

 

 

 パチュリーのスペルカードが宣言された。スペルカードがその効力を発揮し、空間が光で満たされる。

 ―――今しかない。パチュリーは、スペルカードの効果のタイミングを狙って少年に向けて声を飛ばす。現状で言葉を伝えるタイミングは今しかなかった。

 

 

「わ、私の机!」

 

「え?」

 

「私の机の上に笹原にお勧めしようと思っていた本があるから、それを持っていきなさい!」

 

 

 パチュリーの指がある方角に向けられる。

 僕は、視線を指さされた方向に向けた。

 そこには、未だ無事に存在している机と椅子があった。思えば、最初にパチュリーさんと会った場所もここだった。ここに座っていたのを咲夜さんの後ろ姿からのぞいたのが最初の出会いだった。

 机の横に綺麗に本が二冊重ねられている。明らかに違うものであることを示すように、表にメモ書きが書かれているのが確認できた。

「笹原に渡すもの」―――1発で、これが僕の借りる本だと理解した。

 

 

「ありがとうございます!! 読んだらまた借りに来ますね!!」

 

「……どういたしまして」

 

「なんだ、頬を赤くしやがって。熱でもあるのか? というか、あいつ霊夢のところにいたやつじゃ……」

 

 

 箒の魔法使いと視線が合ったが―――自己紹介はまた今度だと、深々と下げた頭を上げて進行方向を向く。

 

 

「あれ? 妖精が増えてる」

 

 

 ふと見返すと妖精は3体になっていた。もともといた妖精と、同じようにメイド服を着た妖精と……それと黒い服を着た赤い髪の女の子。少し格好がボロボロだけど、にこにこした笑顔でそこにいた。

 なんだか違うもののようだけど、それも個性ってことなのかな。

 そう思いながら前に進んだ。4人に増えた状態で目的地である異変の根源へと―――レミリアのもとへと向かった。

 

 

「道中見かけなかったからおかしいなとは思っていたけど、咲夜さんはここにいたんだね」

 

 

 同じように続いている赤い道。

 同じように見える景色。

 その道中の途中には―――銀髪の少女が佇んでいた。

 

 

「笹原、何でここに来たの? というか小悪魔まで何でそこにいるのよ?」

 

「なんだか楽しそうだったので?」

 

「どうして疑問形なのよ。パチュリー様はいいのかしら?」

 

「はい。私の出番は終わりました」

 

 

 黒を基調とする服を着た少女は、小悪魔という名前で咲夜さんから呼ばれていた。

 小悪魔―――またしても妖精なのにそういう名前を付けたのだろうかと疑問を抱えそうになったがそんなわけがないと疑問をごみ箱に捨てた。

 小悪魔というからには悪魔なのかな。大妖精と呼ばれている者が妖精だったように、そういう意味でつけられた名前なのかな。

 というか悪魔ってなんだ? 僕は、悪魔という単語をここで初めて聞いた。

 

 

「小悪魔? 妖精じゃなかったんだ」

 

「はい、悪魔です」

 

「悪魔って妖怪と何が違うの?」

 

「大体一緒です」

 

 

 悪魔という存在は初めて聞いたが、妖怪と大体一緒とのことらしい。大体一緒って―――それって妖怪と同じじゃないのかな。大体同じなら悪魔も妖怪も一緒なんじゃないのかな。僕には両者の違いがよく分からなかった。

 

 

「じゃあ妖怪なの?」

 

「はい、悪魔です」

 

 

 どういうことだろうか?

 妖怪なのかと聞いたはずなのに、悪魔だという答えが返ってきた。

 頭の中で疑問がぐるぐると徘徊する。ますます悪魔というものがよく分からなくなる。妖怪と悪魔は大体一緒ではなかったのか。妖怪なのという問いに対して悪魔ですというコメントが返ってくるあたりからは、明確に違うということが伺えるが―――区別されるべきものなのだろうか。

 

 

「……妖怪じゃないの?」

 

「はい、悪魔です」

 

「でも妖怪と一緒なんだよね」

 

「はい、大体一緒です」

 

「だったら妖怪じゃないの?」

 

「はい、悪魔です」

 

「ちょっと待ちなさい。会話が堂々巡りしているわ。小悪魔のことはとりあえずおいといて、笹原が紅魔館に来た理由を教えてもらえないかしら? 笹原もこの異変を解決しに来たの?」

 

 

 咲夜の言葉によって小悪魔との会話が途中で遮断される。

 紅魔館に来た理由―――この問いに答えるのは非常に簡単だ。

 なぜならば、理由なんてものは一つしかないからである。

 

 

「来た理由―――思い出づくりかな?」

 

「思い出づくり?」

 

「そう、思い出づくり。別に何かしたくて来たわけじゃない。止めに来たわけでもない。異変を止めるのは霊夢の仕事だからね」

 

 

 異変を解決するのは、博麗の巫女である博麗霊夢の仕事である。

 そして、おそらく霊夢の楽しみの一つだ。

 それを僕が奪うなんてことはするつもりはない。そもそも、僕が異変を解決できるかどうかが疑問だ。それだけの力があるって自信をもっていうことはできない。さっきの霊夢の友達とパチュリーの弾幕ごっこを見ていて思ったが、弾幕ごっこじゃ勝てる見込みがなさそうである。ルールありの勝負じゃ―――僕が熱くなるまで粘れない気がする。

 その点―――霊夢だったら心配がない。実力では申し分ない。目の前の結果がそれを示している。

 

 

「ついさっき来たでしょう? 霊夢が来たことは今の咲夜さんを見れば分かるよ。咲夜さんも霊夢に負けたからここにいるんでしょう?」

 

 

 霊夢はすでにここを通って、最終ステージに上がっている。

 目の前の光景を見れば、それはよく分かった。

 僕の言葉に咲夜の表情が僅かに歪む。

 そうそう、その顔だよね。

 負けた人間って大体そういう顔をしている。

 勝てると思っていた試合を落とすとそんな顔になる。

 よく知っている顔だ。

 

 

「……言ってくれるわね、挑発しているつもりかしら?」

 

「いや、霊夢は本当に強いんだなって思っただけだよ。弾幕ごっこじゃ敵がいない。あれじゃ、勿体ないと思わない?」

 

「勿体ない?」

 

「負けなきゃ分からないことっていっぱいあると思うだよね。僕は負け続けて、勝ち続けてきたからよく分かるけど、負けないと勝ちたいなんて思わない。勝ちたいって感覚は負けなきゃ分からない。絶対に必要というわけじゃないけど――――あった方が楽しいでしょう?」

 

 

 霊夢も味わってみればいいのに。敗北の味というものを。あれを味わうから勝利の味が分かるのだ。比べなきゃ、勝利の味の良さは分からない。

 

 

「弱い者だけが敗北の味を知っていてその敗北を糧できるなんて何だか変な感じがするけれど、負けた方が得られるものが多い気がするんだよね。負けたから勝ちたいって思うんだ。勝ちたいと思って勝つから嬉しくなるんだ」

 

 

 弱い奴だけが敗北の味を知れるっていうのもなんだか不思議なものだ。そして、何よりも弱者じゃなければ、敗北を糧に強くなれないっていうのも真理である。

 負ければ負けるほど勝ちたくなる。勝ちたい気持ちが心と体を強くする。

 そして、勝ちたい気持ちをもって戦って勝った時の喜びは格別だ。それは勝負を盛り上げるスパイス的役割を果たす。

 

 

「それを味わえないなんて勿体ないと思わない? 悔しさの味が未来の旨味になるのにさ。今なら分かるんじゃない? 霊夢に負けた今なら―――心の中の猛りが見えている今ならさ」

 

 

 僕の言葉を聞いた咲夜の表情が狂気を含んだ笑顔に染まる。

 

 

「そうそうそういう顔だよ。俄然やる気になってきたでしょ? 次への気持ちが沸いてきて、楽しいでしょう? 今の咲夜さんはあの時の僕と同じ顔をしているよ」

 

「……笹原、ちょっとばかり憂さ晴らしに付き合いなさい。あの博麗の巫女にリベンジするのは次の機会よ!」

 

 

 そう言った咲夜の表情は生き生きしているように見えた。

 

 

「僕でよければ相手になるさ」

 

 

 咲夜の表情に応える様に心の中に熱いものが落ちてくる。火種が落ちてくる。

 背筋がぞわぞわする。笑みが沸き立つように出てくる。

 

 

「ただ―――僕に負けてリベンジの相手が増えても知らないからね!」

 

 

 煮えたぎるほどに燃やせ。世界を沸かせろ。

 そして、心の表面に火種が落ちて意識が戦いへと向いたとき、開戦を告げる砲弾が―――今ここに宣言された。

 

 

「時が止まったその先で踊り狂いなさい! メイド秘技「操りドール」!」

 

「時間が止まったところで進むべき道は変わらないよ! 僕の進むべき方向はいつだって今の歩みの先なんだから! 先導「迷いなき前進」!」

 

 

 両者のスペルカードが空間に解き放たれた。

 

 

 

 少年が咲夜との戦いに興じようとしているその時、外では椛が体中を土で汚しながら地面に横たわっていた。

 かつての少年のように―――美鈴からの殴打を受けて倒れていた。

 

 

「ほら、その程度で諦めるのですか? 和友さんは諦めませんでした。あごの骨が折れても、意識が飛んでも、私に向かってきましたよ」

 

「……っ!!」

 

 

 必死に歯を食いしばる。比較として和友さんのことが口に出されているのが癇に障る。怒りがふつふつと湧き出してくる。

 だけど、だけど――――そんなことを言われても立てる気がしなかった。

 視界にあるのはほぼ無傷に近い妖怪の姿。そして、ぼろぼろになった自分の体だけ。

 勝てる望みは僅かほどもない。立っても同じことが続くだけ。

 そんな後ろめたい気持ちが心の中でどんどん存在感を増していく。諦めたいという気持ちが大きくなる。

 自分の弱い心が嫌いになりそうだった。

 嫌いで、憎くて、悔しくて。

 それでも―――諦めたい気持ちに押し切られそうだった。

 

 

「早く立てって言っているんですよ。分かりますか? そうでもしなきゃ、貴方は引きずられるだけの存在になります。和友さんにとっての足かせにしかなりません」

 

 

 何も言い返すことができなかった。

 和友さんにできたことを自分ができないという現実に反論できなかった。和友さんよりも弱い自分という事実を否定できなかった。

 

 

「自覚したらどうですか? 貴方は弱いのですよ。和友さんよりも弱い。立ち向かう勇気も、乗り越える気概もない。大きな壁があったらそれを避けようとする、見なかったことにする、立ち止まる。和友さんにとって、それは邪魔になるだけです」

 

 

 悔しさがこみ上げると同時に流したくもない涙が瞳に溜まる。

 流したくない。

 泣きたくない。

 けれども涙は、そんな私の強がる気持ちをくみ取ってはくれなかった。

 虚勢を張り続けることは無理だった。

 弱い自分がつけていた仮面は容易に引きはがされた。

 

 

「何を泣いているのですか? 自分が不甲斐ないからですか? 力がないからですか? 悔しいからですか?」

 

 

 ゆっくりと足音が近づいてくる。

 美鈴は、椛に対して振り下ろすようにして言葉を吐き出した。

 

 

「和友さんの隣を歩くとはそういうことですよ。私は、彼と戦ってそれがよく分かりました。彼の歩き方を、戦い方を、壁に挑む姿勢を、拳を交えてみて分かりました」

 

 

 美鈴は知っている。

 かつて同じ場所で、同じように戦った少年のことをよく知っている。

 諦めない姿勢。

 何度でも立ち上がる勇気。

 燃えたぎった瞳。

 勝利を渇望した表情。

 何もかもが桁違いで予想以上のものだった。

 

 

「彼は絶対に諦めない。自分が死ぬことになっても、自分が負けることになっても、納得できるまで自分を貫きます。試合が終わるまで―――決着がつくまで諦めずに勝つことを目標に突き進みます」

 

 

 本当なら言葉だけで伝えられたら良かったのですが―――私は不器用なもので……和友さんすみませんね。随分と傷つけてしまいました。大分苛めてしまいました。

 ですが、和友さんも悪いのですよ。あんな何も知らない妖怪を仲間だって言うから。何も分かっていない妖怪をそのままにしていたから。

 初めて見た瞬間に分かりました。和友さんを追いかける目に強さが無かったから。ふてくされた態度に心の弱さが滲み出ていたから。きっとこの妖怪は、和友さんが戦っているところを見たことがないのだろうと思いました。

 言っておかないと、この妖怪は大変なことになる。弱さを持っている者には、和友さんの生き方は余りにも毒です。後悔する、絶望する、ついていけない自分を殺したくなる、何もできない自分を、立ち止まる自分を許せなくなる。

 

 

「貴方のように敵わないからなんて理由で、負けてしまうからなんていう理由で勝負を諦めることはしませんでした。そもそも、そんなに簡単に諦めてしまうのならば最初から諦めてしまえばよかったのです」

 

 

 そう、諦めてしまえばよかったのです。

 途中で止めてしまうぐらいなら、最初からやらなければいい。

 途中放棄したことなど、やってないも同じです。

 

 

「貴方は、彼の護衛だと言いました。その程度の覚悟で護衛を名乗るのなら今すぐに彼の傍にいることを諦めてください」

 

 

 貴方が和友さんの護衛だなんて言わなければ、ここまでのことはしなかったでしょう。私も門番としての役割があるから―――お節介をかけたくなったのかもしれません。

 

 

「それが貴方のためになることです―――和友さんよりも弱いあなたに相応しい結果です」

 

 

 正直なところ―――仮に私が貴方の立場だとしたらついていけるか分かりません。

 自信をもって和友さんについていけるかと言われたら断言できません。 

 もちろんそれが、レミリアお嬢様の言うことであればやぶさかではありません。レミリアお嬢様が死地に向かわれるというのであれば、喜んでお供します。

 つまり、それだけの付き合いがあって、それだけの気持ちがあってようやく付いていこうと想うようになるのです。

 貴方にその覚悟がありますか?

 貴方は―――和友さんと一緒に死ねますか?

 

 

「……私は、和友さんのところにしか居場所がないのよ!」

 

「だったらひっそり暮らしていればいいでしょう? 和友さんを寝床に過ごしていればいいじゃないですか。貴方みたいな中途半端が一番迷惑をかけるのです」

 

 

 特に和友さんの場合には、その好奇心の強さから危機に陥ることが多いでしょう。危なくなったときに諦めてしまうようならば―――今のうちに護衛を辞めるべきです。逃げ出した自分を許せなくなるから。人間である和友さんを置いて見捨てて逃げ出したなんて―――自分を殺したくなるから。

 そして、それが最も迷いなく進む和友さんを鈍らせるに違いないから。

 途中で逃げ出されるほど悲しくなることはないから。

 誰にとっても不幸になる結果にしかなりません。

 

 

「どうして護衛をしているのですか? 貴方には明確な理由がありますか? 誰にでも胸を張って言えるだけの動機がありますか?」

 

「私は……役に立ちたくて、拠り所としているだけで何もできない自分が情けなくて、申し訳なくて……」

 

「和友さんはそんなもの気にしませんよ。あの人は護衛をやってほしいなんて一言も言わなかったのではないですか?」

 

「言わなかったけど―――私にできることはそれしかなかったから!! だからそうしているの!!」

 

「所詮自己満足じゃないですか。それで役に立っているつもりだったら目も当てられませんね」

 

 

 護衛という立場を作ったのは、この妖怪自身。

 求められたものでも、与えられたものでもない。

 このまま和友さんと一緒に歩いて心を殺してしまうぐらいなら、今というときに瀕死になった方がましです。

 立ち直れるうちに。

 諦められるうちに。

 自分を許せるうちに。

 自分の弱さと向き合ってください。

 和友さんの護衛を名乗るのならば―――尚更です。

 

 

「ほら、もう一度です。立ってください。護衛を諦めるというのならそのまま寝ていてもらっても構いませんが―――立ち上がるというのならば、私は貴方のために貴方の心を折ります。伝聞でしかありませんが、彼の者(かのもの)の末路を知ればこそです」

 

 

 彼の者は、和友さんの記憶を失ったという。

 最後の最後に―――そんな終わり方をしたという。

 何もなくなって。

 何も思い出せなくなって。

 歩き方を忘れたという。

 守るべきものの存在を忘れたという。

 大事にしていた理由を忘れたという。

 

 

「覚悟のないものが和友さんと共に歩こうなんて、辛いだけですから」

 

 

 それが望んでそうなったのか。

 望まない未来だったのかは分からない。

 それでも、彼の者はそれを受け入れたという。

 失うことを受け入れたという。

 そのぐらいの覚悟があってようやくだ。

 そこは―――そのぐらいの覚悟をしてようやく立てる場所だ。それだけの覚悟を持ち、それだけのことを受け入れた者がいた場所だ。

 同じ場所にいる貴方が同じだけの覚悟をするのは当然でしょう。

 そうでもないと―――立つ瀬がありません。

 

 

「そして何よりも―――大事なものを失うことを受け入れた彼の者に対しての侮辱になりますから」

 

 

 貴方は、彼の者と同じ覚悟を持てますか?

 美鈴の言葉に―――椛は動くことができなかった。

 




主人公側は、いつも通り楽しそうですね。
霊夢の友達である霧雨魔理沙は、次回の話できっちり出すつもりです。
原作に入って役者が揃ってきた感じですね。

対して、椛は辛そうですね。
ただ、ずっと主人公の傍にいた藍のことを想うと致し方ない気はします。
記憶があったころの藍が今の主人公と椛を見たら、黙っていないでしょう。
なんにせよ、早めに立ち直ってくれるといいですね。

次回の更新ですが、おそらく来週出せるかと思います。
再来週は台湾の方に出かけておりますので、執筆、投稿はできないと思います。

活動報告でコメント(質問, 提案, etc...)を募集していますのでなんでもコメントください、作者が喜びます。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。


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圧倒的な敗北、乗り越えるべき姿

第7章の5話目です。
7章は、紅魔郷のお話になります。
これが紅魔郷編の最終話になります。


 踏み鳴らせ。できるだけ大きく。できるだけ盛大に。

 先導「迷いなき前進」は、そういう意味を込めて作ったスペルカードだ。

 進め、進め、迷いなく進むんだ。

 弾幕は、そんな理想を体現するように足音をたてながら迷いなく前進する。

 

 

「随分と変わったスペルカードね」

 

「そう思われるのは僕のイメージがみんなと合っていないからかだろうね。スペルカードは自分が一番イメージしやすいものを具現しているから。これは、そうありたいという戒めというか、目標みたいなものだよ」

 

 

 僕がスペルカードを作る際にイメージするのは、そうありたいという自分の姿やこれまでの自分を表すものがほとんどだ。朧気「事実と記憶の不整合(じじつときおくのふせいごう)」も境符「夢と現の境界線(ゆめとうつつのきょうかいせん)」も罔両(もうりょう)「八雲紫の神隠し―連れ去られし少年-」もこれまでの自分を表していたもの。

 先導「迷いなき前進」は、迷っている者を引き連れて前を進む。迷うことなく進む背中が誰かの目標になる。正しい道へ。望むべき未来へ。道を作り出しながら目標へと向かう。

 それが僕のなりたい姿。今の僕がならなければならない形の一つ。それを忘れないためにも形にしただけのそんなスペルカード。そんな大切なスペルカードの一枚である。

 

 

「それでも随分と弾幕が薄い気がするわね。これだと私は落とせないわよ?」

 

「咲夜さんの弾幕が濃すぎるんだよ」

 

 

 僕が最も気にしていることを平然と言ってくれる。

 嫌なことを当然のことのように言ってくれる。

 これでも僕の全力を出しているんだけど、どうしても咲夜さんの弾幕の濃さが僕の放った弾幕の存在をかき消してしまっている。

 むしろ、なんでできるのか。なんでそれほど濃い弾幕を作り出せるのか。聞きたいのはこっちの方だ。

 いいや―――違う。答えなんて分かっている。聞いても返ってくる答えがなんなのか分かっているから聞かないだけだ。火を見るよりも明らかな答えが目の前に提示されているから聞かないだけだ。

 それは単純に霊力の総量に差があるという当たり前のような答えである。

 それに、弾幕が濃いということもあるが、弾が霊力弾ではなく“ナイフ”というところも咲夜さんの存在感を大きくしている原因で、僕の弾幕が小さく見える要因だった。

 

 

(弾幕は厚いし……しかも、弾幕がナイフってなんだよ)

 

 

 思わず心の中で突っ込みを入れてしまう。弾幕も当たったら痛いなんてものでは済まないけれど、ナイフだと痛いという感覚が鮮明に想像できるから危機意識が先行して体が勝手に強張ってしまう。特に刃物は記憶の中に根強く残っているものだから、余計に体を縛り付けてくるような魔力があった。

 でも、そんなことを気にしていたら躱せるものも躱せない。わずかに大きくなっている恐怖心も全部ひっくるめて捻り潰すように際どいところをギリギリで躱す。接触しそうなところを縫うように走る。

 余りにナイフとの距離が近いからナイフが通り過ぎることによる風圧が感じられる。

 怖がるな。恐怖を踏みつけて、色を塗りつぶせ。スリルを楽しむんだ。恐怖感からくる命の鼓動を楽しめ。飲み込んで進まなきゃ、前になんて進めないのだから。

 いつものように心の調子を整えながら疾走する。

 

 

「飛んだり跳ねたり、まるで曲芸師ね」

 

「バランス感覚だけはよくてね」

 

 

 それでも飛ぼうとしない僕の避け方だと限界がいずれ来る。弾幕が濃くなれば濃くなるほど躱すことが難しくなって、最終的には不可能な場面を迎えることになる。自由度がないことによる詰みの場面が訪れる。

 ―――そう、こんなふうに。

 

 

「……っ!!」

 

 

 眼前にナイフの塊がやってくる。

 正面は無理だ。

 横を見る―――無理。

 上を見る―――無理。

 どこを見ても体が通り抜けられるだけの隙間は存在しなかった。

 

 

(後退するか?) 

 

 

 視界を後ろに向けて後方を確認する。

 駄目だ―――後退したところで逃げ道が見つからない。これまでの弾幕ごっこで培ってきた脳内機関が一気に回答を示してくる。横から回り込むナイフを躱せられる空間的余裕がない。その選択肢だと詰んでしまう。

 勝負に勝つためにできることはもう何もない。

 勝負はもうすでに終わってしまっている。

 どこを見ても逃げ道がない。

 そう、僕の進むべき道はどこにもなかった。

 

 

(これで終わり?)

 

 

 飛べていれば躱せたのだろうか―――なんてありもしない考えが頭の中を通過して消えていく。

 飛ぶことができれば自由度が一つ増えるだけでなく、体勢も自由に変えられるから迫りくる弾幕を躱せるだろうけど、今の状況からでは不可能である。瞬発力のない僕の飛行速度では、避けることのできる位置までの移動が完了する前にナイフによる剣山が出来上がってしまう。

 最悪だ―――こんな終わり方をするなんて。

 こうなることを予期されて、藍からは止めておけと言われていた。飛べるようになれと言われていた。さんざん言われていた。

 それでも、いくら言われても、何を言われても、今の地面を滑走する方法で十分に戦えると思っていた。みんなのいる舞台で、同じ高さで戦えると思っていた。ある程度は戦えると思っていたけど、そんなものは幻想だったようだ。

 

 

(あんな大見得切っておいてこんな簡単に負けてしまうなんて―――)

 

 

 なんでできないのか。

 どうしてこうも上手くいかないのか。

 そんな悔しさで心の中がいっぱいになる。

 できると思っていたけど、そんなものは杞憂だったのだ。対等に戦えるなんて幻想で、想像で、妄想だったのだ。

 実力が足りない。力が足りない。みんなが持っているものを持っていないから。だから勝てないんだ。

 心の中の僕が鋭い刃物を突き付けてくる。

 美鈴と戦えていたのはあくまでも美鈴が弾幕ごっこに慣れていなかったから。

 藍と戦えていたのはあくまでもいつも練習していた相手でスペルカードの特性を知っていたから。

 

 

(なんだ―――やれるなんて思っていたのは僕の勝手な勘違いじゃないか)

 

 

 まだまだ足りていない。まだまだ登れていない。こうして負けてしまうことが確定してしまった状態になってようやく自分の位置を再確認する。

 僕はいつも気付くのが遅い。こうして終わるところまできてようやく、失ってからようやく理解してばっかりだ。

 頭を抱えそうになる。

 弱気な自分が視線を向けてくる。

 諦めろという声が木霊する。

 僕の目標―――約束の場所で、同じ舞台で、同じ高さで勝負をする、それを諦めろと言われているような気がした。他の誰でもない―――自分がそう言っているのが聞こえてきた。

 弱気な自分に沸々と怒りが沸いてくる。

 諦めるという嫌いな言葉を使っている自分に腹が立ってきた。

 

 

(ふざけんな! 僕が諦めたら誰が僕の願いを叶えてくれるっていうんだ! 今が弱いからなんだ。勝てないから何なんだ。僕の夢はまだ終わっていない!)

 

 

 僕は弱い。どうしようもなく弱い。勝負をすれば負けてしまう。戦えば負けてしまう。それが今の僕とみんなの関係だ。悔しいけど、思わず唇を噛んでしまうけど、それも受け入れなければならない。

 受け入れて進まなきゃ―――最後の願いに手が届かない。

 僕の人生はこれからも続くのだから、終わるその時まで諦めるな。

 これからだっていろんな壁にぶつかってそれと対峙していくのだから。

 これが現実―――いずれ超えるべき壁だ。

 超えて、未来に夢を叶えるための一歩にするんだ。

 

 

(そうと分かれば悔しがるのは後だ、今は生き残ることを考えなきゃ)

 

 

 頭の中で回答が得られたら、今度はダメージを最小限に抑えるために何をすべきか、すでに頭の中はそれでいっぱいだった。

 囲まれている状況で最もダメージを抑えて外に出る方法―――どこかに突破口を開くこと。そうすることで、ナイフの刺さる数を最低限に抑えることができる。無駄に動かないという選択をする方が危険である。

 ここで、前に出る以外の選択肢はない。

 

 

(あそこか……!)

 

 

 パッと見た感じで、感じられる霊力が最も小さなナイフの壁に向かって躊躇なく突き進む。迷いなんてない。助かるために、自分を生かすために選べる最善手なのだから戸惑う気持ちなんて何もなかった。

 左手を盾に振り払うようにしてできるだけ左手にナイフを集める。体に刺さるナイフの数を減らすため、文字通りかき集める。

 急所だけは避ける。刺さったら元には戻らなさそうな目や鼻、顔の部分を中心に体をすぼめて人体の急所が集まる中心線を防御する。

 僕はさながら“さなぎ”のようにナイフの雨へと飛び込んだ。

 

 

「……悔しいけど、僕の負けだよ。次は絶対に勝つから。だから―――その時はもう一度勝負を受けてね」

 

「え、ええ……というかそれどころじゃ!」

 

 

 勝負が決すると同時にスペルカードの効果が切れてナイフが消えてなくなる。刺さったナイフは全部で7本……多いとも少ないとも判断しにくい微妙な数字だ。

 傷ついた場所からだらだらと血が流れていく。左手に3本、右手に1本、左足に2本、右足に1本刺さっていたナイフの傷跡から溢れ出る様に血が流出する。

 わずかに残った痛覚が痛みを伝えている。

 なんだか、痺れが出てきている気がする。

 腕も足も思ったように動いてくれない。

 顔が歪んでしまうだけで力が伝搬しない。

 

 

「待ちなさい! 今すぐ治療をしないと!」

 

「止まってなんていられないよ。負けてしまったけど、僕にはいかなきゃいけない場所があるんだ」

 

 

 行かなきゃ。

 血が流れても。

 思うように足が動かなくても。

 引きずりながらでも。

 這いつくばっても。

 僕の見たいものがある場所へ行かなきゃ。

 

 

「……っ!」

 

「その体じゃ無理よ! 歩くのもやっとじゃない! そのまま動けば死ぬわよ!?」

 

 

 実のところ痛みはほとんどない。曖昧になった痛覚が正常な電気信号を伝搬していない。本来ならば激痛で悶えているところが、違和感がある程度にとどまっている。

 だけど、肝心の体が言うことを聞かない。心は前に進もうとしているのに体が心の推進力についていかない。

 一旦治療をすべきか。とりあえず血を止める方が先か。

 そっと傷口に掌を接触させる。

 これは……ちゃんと触れているのだろうか。もはや触覚が機能していない気がする。

 いや、そんなことを気にしている余裕はない。もう僅かになっている霊力を傷口に塗り込むように投入する。直接当てる方が遥かに早く傷が塞がる。これも曖昧にする程度の能力の弊害といえば弊害である。外に出した霊力が拡散してしまう悪い部分だ。

 

 

「だから、止まりなさいって!」

 

「でも、僕は先に行きたいんだ。苦しくても、辛くても、僕が越えるべき壁がこの先にあるんだよ」

 

「それって博麗の巫女のこと?」

 

「そう、僕は霊夢に言ったんだ。僕が負かしてあげるって」

 

「私に負けたあなたが何を言っているの? 私に勝てなかった貴方に勝てる道理はないわ、諦めなさい」

 

「そんなもの諦める理由にはならないよ。勝てないから諦めるの? 敵わないから諦めるの? 違うよ、届かないから目指すんだ。敵わないから勝ちたいと思うんだよ。僕は、霊夢に勝ちたいんだよ!」

 

 

 なぜ高い目標を掲げる者を信じられない目で見るのか。

 すぐ届いてしまう目標にどれだけの意味があるのか。

 できないことができるから嬉しいんじゃないか。

 やれないと思っていたことがやれたから嬉しいんじゃないか。

 スポーツでも勉強でも、できないことをできるようにするために頑張るんだ。

 何も変わらない。変わりたいと、強くなりたいと、成長したいと思うから前に進むんだ。前に進んで勝ち取りたいと思うんだ。

 

 

「今やっても負けるなんて分かっている。そんなこと僕が一番よく知っている! 誰よりも分かっているよ!」

 

 

 今の自分と霊夢の間にある差がどの程度あるのかはおおよそ分かっている。及びもしない距離がそこにはあるんだって分かっている。

 でも、実際に見てみないと分からないから。

 目指すべき場所がそこだから。

 見なきゃいけないんだ。

 霊夢のいる場所を、今の僕と霊夢の間にある距離を。

 それがいくら遠い場所だとしても。

 それが到底泳ぎ着けない場所にあったとしても。

 そこに僕の叶えたい望みがあるのならいくらだって、挑んでやる。

 

 

「それでも、諦めるなんて僕には無理だ。実力がないから、弱いからなんて理由で諦めるのは誰だってできる。それじゃ何も変われない。何も見えてこない。今いる場所から少しも動かないじゃないか。何も成長できないじゃないか!」

 

「ここから先へは行かせないわ」

 

 

 進路を塞ぐように立ちはだかってくる。

 力があれば超えられた壁だ。

 打ち負かせることができれば、こんなことにはならなかった。

 

 

「弱いのは僕が悪い。力がないのは僕の責任だ。だけどな―――僕の進む道を遮るっていうのならもう一度勝負してもらうぞ!」

 

 

 邪魔だ! どけよ! そこをどけ! 道を遮るな!

 心が煩く叫んでいる。

 そして、それがどんな理屈にも適っていないことを理性が訴えている。

 負けたから、弱いから進めないんだと理性が回答を示している。

 だけど、僕の心はその思いを口からそのまま吐き出した。

 

 

「邪魔だ! どけよ! 僕は未来を掴むために、未来を見るために、霊夢の姿を見なきゃならないんだ! 僕が進む道を遮るっていうのなら―――押し通してやる!!」

 

 

 心が叫んでいる。

 望みを訴えている。

 前に進め。大地を踏みしめろ。

 さぁ―――一段目を登れ。

 高く高く、もっと高いところ。

 みんなのいるところまで。

 

 

「っ!!」

 

 

 一歩を踏みしめる。音を立てて前に進む。

 すると相手の足が一歩下がった。

 気を抜くとよろけそうになる。

 力抜くと倒れそうになる。

 食いしばれ。負けない。絶対に負けない。諦めない。

 前に進め。進め。心の中で声が反響する。

 もう一歩を踏み出す。

 どけ、退け!

 今度は、僕の願いに反発するように相手の足は下がらなかった。

 退かないんだったら勝負だ。

 どかないんだったら勝負だ。

 

 

「さぁ、もうひと勝負だ。僕は花があるうちに辞めるんじゃなくて、落ちぶれてぼろぼろになっても生き続けようと決めたんだから!」

 

 

 強がってみせる。精一杯の想いを口にして心を奮い立たせる。

 その瞬間―――一陣の風が目の前を通り過ぎた。

 目の前に白と黒を基調とした服を着た魔法使い―――霊夢の友達が降り立った。

 

 

「よく言った! その弱さじゃ喧嘩は買えそうにはないが、心意気だけは買ってやるぜ!」

 

「何者!?」

 

「私がその場所まで連れて行ってやる。高すぎる壁に絶望しても知らないからな」

 

「望むところだよ。壁は高ければ高い方が燃える方だ」

 

「それはなによりだ!」

 

 

 箒を持った白黒の背中が咲夜を遮るように立ちはだかる。

 僕から見えたその背中は、今まで見た誰の背中の中でも特に大きく見えた。

 

 

「ほら、行け! 私がこいつを倒す前にな。そうじゃないと、お前が霊夢のところに辿り着く前に決着がついちゃうぜ?」

 

「ありがとう」

 

「さっさと行け。この分の借りはいつか奪っていくからな」

 

 

 ふふっ、本当に面白い人だ。さすが霊夢の友達というだけはある。

 痛みが僅かに残るなかで笑う。

 奪えるものなら奪ってみろ。

 心の中でそう言い返して前を向いて先に進んだ。

 

 

「さぁ! ここからの相手は私―――霧雨魔理沙だ。相手にとって不足はないだろ?」

 

「不足かどうか以前に貴方は誰よ? 貴方みたいないい加減な奴なんかすぐに撃ち落としてあげるわ」

 

 

 後ろから聞こえてくる声を聴きながら先へと進む。

 行け、進め。僕の見たい景色があるその場所まで。

 目指すべき場所―――霊夢が戦っているところまで。

 

 

 

 

 

 

 

 扉を開けた瞬間――――思わず絶句した。

 見えてくる光景があまりも壮大で。

 受ける印象があまりにも圧倒的で。

 

 

「うふふ、すごーい! 私たち姉妹にこれだけついてこられる人間がいるなんて、外の世界って広いのね」

 

「フラン、過大評価しすぎよ。人間にしてはやるようだけど、まだまだ私たち姉妹には及ばないわ」

 

「お姉さまったら強がっちゃって。どう見ても私たちが劣勢じゃない」

 

「これは手加減しているのよ!」

 

 

 空間を満たしている弾幕の密度が違う。

 魔力の込められた弾の数が違う。

 込められている力のレベルが違う。

 

 

「どうでもいいけど、本気で来るのなら早くしなさい。さもないと―――かすりもせずに終わっちゃうわよ?」

 

 

 そして何よりも、弾幕をかいくぐるその姿が。

 光の中でも存在感を放っているその姿が。

 何よりも輝いて見えた。

 

 

「お姉さま、ここまで言われてやらないわけにはいかないわよね?」

 

「ええ、準備はできているわ」

 

 

 フランの左手とレミリアの右手が握られる。

 似通った魔力は混ざり合って、一つの形を作り出す。

 掲げられたのはそれぞれ1枚のスペルカードである。

 姉妹の口が同時に開かれて言葉が発せられた。

 何を言ったのかは聞き取れなかったが―――その言葉をきっかけに世界が真っ白に染まった。スペルカードが宣言されると同時に、さっきよりも圧倒的な光が空間を満たしていく。真っ暗な世界で、真っ赤な世界で、閃光というような光が世界を支配している。

 

 

「やるじゃない。少しだけ辛いわ」

 

「すごい、すごいね! お姉さま! あれ見てよ! 辛い顔なんて全く見えないわよ!」

 

「フラン、もうすぐ負けるっていうのに随分と楽しそうね」

 

「だって、もっともっと難しくしてもいいのよ? もっともっと高くしていいの。積み木を積み上げるみたいに高いところで勝負できるのよ? そしたらもっと楽しくなるに違いないわ!」

 

「そうね―――その時はもっと楽しいでしょう」

 

 

 聞こえてくる声が遠くなる。

 僅かに残っている意識が遠くなる。

 もともとあまり見えていなかった視界がさらにかすむ。

 立て、まだ終わっていない。全てが終わるまで立っていろ。

 見上げるんだ。いつまでも、ずっと、ずっと、ずっと。

 これが目指すべき高さ。到達すべき高さ。

 

 

(登りたい、このステージに。最後の最後に―――納得するために)

 

 

 絶対にここまで登ってやるから。

 絶対にたどり着いてやる、絶対に。

 

 

「もういいのか?」

 

 

 隣には、いつの間にか先ほど助けてくれた白黒の魔法使いがいた。

 

 

「いいよ。十分だ。十分に自覚した。この心に灯る明かりさえあれば、迷わずに歩いていける。心に炎を灯していける」

 

「私から言えるのは諦めるな、折れるな―――それだけだ。そうすれば、いつか手が届くところまで行ける。ただ―――私が先にたどり着くけどな」

 

「別にいいよ、順番を競っているわけじゃない。先にたどり着いているんだったら、その時は君にも勝つだけさ」

 

「ははっ、ほんとにおもしろい奴だな。気に入ったぜ! 楽しみに待っているからな!」

 

 

 ああ、待っていろよ。

 絶対にたどり着いてやるから。

 強い、何よりも熱い気持ちを心の中に刻み込む。

 炎は延々と燃え盛っている。

 帰ろう。博麗神社へと。自分の家へと。

 この想いを連れて帰ろう。

 僕の両足は、白黒の魔法使いを置き去りにして歩き始めた。

 

 

「なんだか楽になってきた……曖昧にする能力のおかげかな?」

 

 

 心なしかだんだん歩幅が安定してきた。

 心の曇りがなくなるように視界がはっきりしてくる。

 さっきのがピークだったのかな。

 そんなことを思いながら赤い廊下を進んで、玄関から外に出る。

 外の世界はすでに本来の形を取り戻しつつある。晴れ渡っていて、赤い霧が僅かにあるだけになっていた。

 そして、目の前の景色には一人の妖怪と一人の妖怪が対比するように存在していた。

 

 

「すみません、結局心を折ってしまいました」

 

 

 美鈴が申し訳なさそうに頭を下げている。

 地面に転がったまま涙を流している椛がそこにいる。

 現場にはいなかったけど、なんとなく何があったかは想像できた。

 少なくとも―――僕と同じように椛が負けたということだけは分かった。

 

 

「なんで謝るの? 美鈴はこれで正しいと思ったんでしょ? だったら謝らないでよ」

 

「それはそうですが……」

 

「椛、帰ろう? 僕も負けちゃった。悔しくて泣きそうだ。今は一度帰って色々考えたい。これからどうするのかとか、どうしていけばいいのとかね」

 

「そのナイフの傷は咲夜さんですね。戦ったのですか?」

 

「うん、弾幕ごっこが上手くてびっくりしたよ。そして、自分が弱すぎてびっくりしちゃった。今日は驚いてばっかりだ」

 

 

 本当におごっていた。弾幕ごっこならいい勝負ができると思っていた。

 できること、できないことの中でも、できる方だと思っていた。

 そんなものは、ただの妄想だったんだ。

 力なんて何もなかった。

 無力な自分は、あの時から何も変わっていない。

 あの日から―――何も変わっていない。

 弱い僕は、まだ弱いままだった。

 それが分かっただけでも、今日の収穫は大きかったといえるだろう。

 

 

「……なんでこんなに辛いの? なんでこんな思いをしなきゃいけないの?」

 

 

 椛が弱弱しく尋ねてくる。

 なんでなんて―――そんなこと知らないよ。

 それは椛だけが知っていることだ。

 

 

「きっと、叶えたい願いがあったからかな……?」

 

 

 なんでそう思うのか分からないけど、それでもそう感じる理由は知っている。

 そうやって苦しくなる理由を知っている。

 そうやって辛くなる理由を知っている。

 そして―――こんな思いをする理由を知っている。

 

 

「私……何をしていいのか分からないの。どうすればいいのか分からないの。どうしたら和友さんの近くにいられるの? どうしたら和友さんの役に立てるの?」

 

 

 何をすればいいのか、そんなこと知らないよ。

 何をすべきかは、椛が決めることだ。

 僕から何をして欲しいと言うことは基本的にない。

 やりたいようにやって、思うことをやってくれればそれでいい。

 何をするべきか―――それは分からないけど、それでも何をしていいのか分からないと思う気持ちは分かる。

 今でも両親のことを引きずっている僕には分かる。

 

 

「そんなの分からないよ。椛が自分で納得できる理由を探さなきゃ。僕があれこれ言ったところで何にもならないよ」

 

「そんな……このままじゃ私―――寄生虫みたいじゃない。一方的に寄りかかるだけの存在じゃない。迷惑をかけてしまう。私は、そんな私を許せない……」

 

「だったら、納得できる自分を探していかないとね。自分が納得できる形を探さないと―――これから先に見つけて行かないと」

 

「これから先? そんなの辛いだけかもしれないのに? 苦しいだけかもしれないのに? どこに進めばいいのかも分からないのに、どうやって前を見ればいいの? どうやって生きていけばいいの?」

 

 

 そんなこと知らないよ。

 生きていく方法は椛がこれから先見つけなきゃいけないものだ。

 人によって生き方に違いがあるように。

 生きるために必要なものは違っているのだから。

 

 

「辛いの……心が痛くて泣いているの……」

 

「生きていれば辛いこともある。苦しいこともある。それでも、僕も椛もまだ生きている。心をもってそこにいる」

 

 

 辛くても、苦しくても、生きている。

 辛さに負けても、苦しさに屈しても、それで自分の中の大切なものがなくなっても、僕たちは生きている。

 考えていて、感じていて、想っている。

 何を考えているのかな。

 何を感じているのかな。

 何を想っているのかな。

 それらが全てあるから―――僕たちは生きていられる。

 これだけ打ちのめされても。

 これだけの差を見せつけられても。

 まだ、心が叫んでいる。

 

 

「ねぇ、僕に教えてよ。椛の気持ちを教えて」

 

 

 僕たちは、どこまでいっても感情を消すことができない。

 心の奥底にある感情はいつだってうるさく鳴り響いている。

 いくら捻じ曲げようとしても、本心からくる叫びは誰にも止められない。

 

 

「僕は知りたいよ。みんなの気持ちを。みんなの想いを。そして、僕の気持ちを分かって欲しいんだ。僕の心からの気持ちを」

 

 

 僕は、みんなに分かってほしかった。

 なんでこんなことを考えたのか。

 どうしてみんなに追いつきたいのか。

 どういう理由で―――この結末を望むのか。

 今の僕の心の奥底の気持ちを、聞いて欲しかった。

 

 

「悩めばいいよ。椛の人生は長いんだから―――悩んで決めればいい。悩んだ時間がきっと椛を支えてくれるから」

 

 

 そう、僕のように。

 僕は、積み上げてきた家族の温かさがあったからここに立っていられる。

 どれだけ辛くても。

 どれだけ苦しくても。

 どれだけ悔しくても。

 多くの記憶がなくなった今となっても―――背中を押す声が聞こえる。

 負けるなという声が聞こえる。

 背中を支えてくれた両手の温かさが残っている。

 だから、諦めずに戦っていられるんだから。

 その重さが僕の足を動かしているんだから。

 

 

「今は―――僕たちの家に帰ろう?」

 

 

 椛は何も言わずに立ち上がった。

 目には悲しみの色しかなかった。

 それでも足が動くのは、それだけの想いを支えるための記憶があるからだと思った。

 

 

「大妖精も一緒に来てくれる?」

 

「……私は、チルノちゃんを送っていくので後からでもいいですか? 笹原さんは、博麗神社ですよね?」

 

「うん、じゃあそれからね。待っているから。もちろん来なくてもいいけど、僕は待っているからね」

 

 

 大妖精と別れて、来た道を帰っていく。

 博麗神社から出たときの勢いなんて全く残っていなかった。

 速度は行きの半分もない。

 怪我をした状態での強行軍は、重い空気を纏いながらゆっくりと進んでいた。

 道中で椛が話してくることは一度もなかった。

 僕の独り言だけが空間を伝搬していた。

 溜め込んだ思いが、空気を震わせていた。

 

 

「くそっ……何度思い返しても悔しいな。惨めすぎて今すぐ引き返したいぐらいだ。相手にすらなっていなかった―――あんなの最低だ」

 

 

 脳内に負けた時の光景がフラッシュバックしてくる。

 眼前にナイフがある。

 どこを見ても躱せるポイントはなかった。

 なんだよあれは、なんだよあの勝負は―――。

 心の中で悔しさが煮えたぎっている。

 あんなんじゃだめだ。

 リベンジがしたい。

 ―――次こそは!

 

 

「次は、絶対に勝つ! 勝つ! 勝つ!」

 

 

 絶対に勝つんだ。

 僕を助けるために。僕を守るために。僕を助けられるのは、僕しかいないんだから。

 この想い、忘れるな―――絶対に、絶対に!

 そういう想いを心に針を突き立てる。痛みを感じるほどに突き刺す。容赦なく、手加減なく、突き立てる。

 心が痛いと叫んでいる。悲しみと苦しみを訴えている。

 それでも捨てちゃいけない痛みだ。

 それでも消しちゃいけない苦しみだ。

 悩んで、後悔したから、僕が今の道を進んでいけるのだから。

 

 

「あれ?」

 

 

 走っている途中で木に寄りかかっている人間が2人いるのを見かけた。

 なんだろう―――懐かしい思いに駆られる。その人物は、ひどく見慣れた格好をしている。視界に入るその姿からは、なんだか懐かしさを感じた。その恰好にどうにも視線を引き寄せられた。

 僕は、心が赴くままに進路を変えて距離を縮める。急な進路方向の変更をしたにもかかわらず、後ろには椛がついてきてくれていた。

 

 

「外の世界の人かな?」

 

 

 恰好からして外来人だった。僕以外の外来人と初めて会った。

 見たことのない制服を着ている。少なくとも僕の通っていた中学の制服ではなかった。記憶がかなり飛んでしまっているから勘違いかも知れないけれど、直感的に違う気がした。

 着ている制服は二人とも同じだった。おそらく二人は同じ中学校なのだろう。

 一人はショートカットで柔らかい雰囲気の女の子。

 そして、もう一人は長い黒髪の鋭くとがった雰囲気の女の子。両者の体にはたくさんの傷がついていた。年齢は僕と同じぐらいだろうか。

 

 

「……どうしようか」

 

 

 どうしようかと思ったけど、答えは決まっていた。

 連れていこう。ここに置いておくと妖怪に食べられる可能性もある。

 それでも別に良かったと言えば良かったが、それが自然の摂理だと言えばそうだったが、ここまで見ておいて見て見ぬふりをすることはできなかった。僕が幻想郷に連れてこられた他ならぬ外来人だったから。同じ境遇であることを想うと、放っておくことができなかった。

 

 

「椛、一人だけ抱えてもらってもいいかな?」

 

「…………」

 

 

 椛は僕の提案に一度だけ力なく頷いた。そして、僕たちは2人の外来人と共に家である博麗神社へと帰還を果たした。

 大きなものを失って、大きなものを手に入れた僕たちは、明日になるまでお互いにお互いの顔を見ることなく眠りについた。

 

 また明日―――いいことがあるね。

 

 いつもの言葉を告げて、明日の景色に思いを馳せて、意識を夢の中に置いてきた。

 




まず、更新が遅くなって申し訳ありません。
艦これの小説はざっくばらんに思いつく形で書いていますが、こちらの小説はプロットがある程度決まっており、文章量も多いため書くのに時間がかかりました。
さらに言えば、海外から帰ってきて小説を書く習慣づけをまた1から作るの大変でした。これからはもう少し進捗速くなると思いますが、次回更新はまだ未定ですね。

主人公は弱いですね。心は強いのですが、実力が足りません。
そういうキャラクターでずっと書いてきたつもりなので特に変わったところはありませんが、目指すべき高さが分かったのが一番の収穫ですね。

あと、魔理沙が男前すぎて怖いですね。
オリキャラが次の話から出るかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします。

活動報告でコメント(質問, 提案, etc...)を募集していますのでなんでもコメントください、作者が喜びます。
感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。モチベーションも上がり、更新速度が気持ち速くなる傾向があります。


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第八章 楽しさも二倍。苦しみも二倍。共有するってそういうこと
外来人との会頭、色を失った瞳


第8章の1話目です。
8章は、妖々夢の前のお話になります。


 すぐ隣から笑い声が聞こえてくる。隣の部屋では、紅魔館での赤い霧異変を霊夢が解決してから1日後となった今になって後の祭りが開催されていた。

 端的に言うと隣で宴会が開かれていた。参加しているのは、紅魔館のレミリア一行と霊夢と魔理沙である。今回の異変に関わった主要な人たちが参加しているようだった。

 僕も一応参加するように言われている。異変の際に咲夜さんと弾幕ごっこをしているわけだし、異変に全く関わっていないかと言われれば関わっている僕だったが、どんな顔をして参加すればいいのか未だに分かっていなかった。咲夜さんは申し訳なさそうにこっちを見るし、美鈴も同じような顔でこっちを見てくるから、気を遣ってしまい気分が良くなかったのである。

 僕の方も咲夜さんを見ていると悔しさが再起してくるのはもちろんあった。悔しさからくる惨めさが自分の子ことを蝕んでいく。勝ちたいという想いが前面に出すぎるのだ。

 そして、なにより煽ってくるようなレミリアとフランの言葉になんとも言えない気持ちになったのが参加を控えさせた決定的な一打となっていた。

 

 

「笹原、咲夜にコテンパンに負けたそうじゃない。霊夢はあんなに強いのに、どうして同じ人間でこうも違うのかしら?」

 

「お姉さま、仕方がないわよ。霊夢は博麗の巫女なのよ。比べられるものではないわ」

 

「弱い人間はかわいそうよね。霊夢が舞台の主役なら、笹原は舞台上にあがれない黒子のよう。見えないところで何かを起こしているけど、役者として活躍していないというか。主体となっているのはいつだってその周りの存在だわ」

 

「そんな言い方じゃないんじゃないかしら? 和友には和友にしかできないことがあるわ。別に弾幕ごっこが下手でも別にいいじゃない。和友はどっちかっていうとサポートする側だし……祈ってもらった時の温かさは霊夢じゃ出せないもの」

 

 

 どうしてだろうか。いつもだったら気にすることもない言葉が僕の心を揺さぶる。そんなおかしなことを言っているわけでもないのに、そこに悪意があるわけでもないのに、心が機敏に反応している。

 レミリアとフランの煽っているとしか感じられない言葉に苛立つ心を静止する。好きで弱いわけでも、負けたくて負けているわけでも、裏方に回りたくて回っているわけでもないのに、そうなってしまう自分が恨めしくなる。

 なんでこんなに弱いのか。どうしたら強くなれるのか。このまま同じような日々を過ごしていても同じような努力を続けていても何も変わらないような気がした。

 このままじゃ願いなんて叶えられない。届きたいところに手が届かない。そういう気持ちが握る手に力を入れさせる。

 我慢しろ。これが今の実力だ。現状を受け入れろ。最後に想いを遂げるために今は我慢すべき時だ。

 今は何とでも言っていろ。いつまでも裏方にいると思うなよ。強くなりたいと、見返したいという想いがあればきっと変われる。僕は、心の灯っている炎を両手で守りながら力強く握った両手をゆっくりと開いた。

 

 

「私が和友に負けるような日が来たら博麗の巫女なんてやってらんないわよ。それこそ、負けたらこの神社を捨てて普通の女の子に成るわ」

 

「それは無理だぜ、霊夢。仮に和友が勝ったところで、霊夢が普通の女の子になるなんて……ぷっ!」

 

「何よその笑い方は!? 喧嘩売ってんの!?」

 

「だってそりゃ……なんだ、霊夢が普通の女の子って。はははっ、笑いが止まらないぜ」

 

 

 霊夢と白黒の魔法使い―――霧雨魔理沙のやり取りからは僕に対する配慮が感じられた。

 これは感じ方の問題なのかもしれないが、無理だという言葉は二人の口から出てこなかった。諦めてしまえというニュアンスは二人のセリフからは感じられない。

 ただ、なんにせよ―――ここにいてはいけない気がするのは何も変わらなかった。

 

 

「僕、ちょっと席を外すね。休んでくる」

 

「……和友、怒っているの?」

 

 

 予想もしない霊夢の言葉に思わず絶句する。驚きのあまり霊夢の顔を真顔で見てしまった。怒っているのなんて、あの他人に関心を持たない霊夢が僕に対して言う言葉だろうか。

 

 

「な、なによ」

 

「いや、意外だなと思って」

 

「意外?」

 

「だって、霊夢が僕に気を遣ってくれたことなんて今まで一度もなかったからさ」

 

「それはあんたがいつも平気そうな顔しているからじゃない。今の顔を鏡で見てみなさい。酷い顔しているわよ」

 

「霊夢、嘘だろ。こいつは最初に会った時と何も変わっていないぜ?」

 

「全然違うわよ。ほら、さっさと確認しに行く!」

 

 

 霊夢が背中を押して無理やりふすまの奥へと追いやってくる。背中を押す力が予想以上に強く、押し込まれるようにふすまを超えて使っていない隣部屋まで引きずられた。

 隣の部屋に移ると同時に勢いよくふすまが音を立てて閉じられる。ふすまががっちりと塞がれて霊夢と僕だけが部屋の中にいる状況が作り出された。

 

 

「宴会は楽しめる人間だけでやるわ。和友、あんたは少し休みなさい。今のあんたに必要なのは休息よ。体を治して疲れが取れたら参加しなさい。それまでは絶対に安静にしているのよ。もし来たらぶっ飛ばしてでも眠らせるからね!」

 

 

 それは、霊夢なりの優しさだったのだろう。取り繕ってはいたけど、疲れているのも事実で、血が若干足りていないのも真実で、休みが必要だったのも本当だった。

 煽られることに対する耐性もいつもより低い。心に炎を灯しているせいか沸点が低すぎて些細なことで力が入る。力強く刻んだ言葉が赤い文字を作り出している。触れればやけどしそうな熱量が心の中に息づいている。

 美鈴や咲夜さんにも悪いし、今日は霊夢の言葉に甘えさせてもらった方がいいだろう。宴会に参加してまで迷惑をかけるのも心苦しい。次の機会があるのかは分からないが、その時にでも参加できれば十分だ。

 その時―――そんなつまらないことを言われない人間になれていればいい。

 

 

「ありがとう」

 

「……宴会が終わったら様子を見に来るから」

 

 

 それだけを言い残して霊夢はふすまの奥へと消えて行った。

 奥の部屋からはまたしても騒いでいる声が聞こえてくる。偶に美鈴と咲夜さんの声が聞こえることから“みんな”楽しくやれているという事実を伺うことができた。

 ああ、良かった―――安心にも似た感情が生まれた。

 そして同時にどうしてだろうか、胸の奥が暖かくなった。燃えるような熱さじゃなくて安心するような心地よさがあった。心配されることに少しだけ嬉しさを感じていた。

 

 

「心配されちゃったな……」

 

 

 久々の感覚だった。

 藍の“心配する”とは距離間が違う。なんだろうか、一歩引いたところから見守られているようだった。

 どこか温かくなった心で中部屋を通り過ぎて自分の部屋へと向かう。

 自分の部屋を見渡すと部屋が随分と狭くなったように見えた。そう見えるのはきっと新しく2人の存在が追加されたためだろう。

 部屋の中には、布団で横になっている外来人の女の子が二人。そして、服を畳に敷いて横になっている椛がいた。

 ちなみに、外来人の人には布団が足りなかったから僕の布団を使ってもらっている。僕も椛と同じように服を敷いて横になっている身分である。僕が眠る場所を確保するためにもできるだけ早く起きてもらいところだ。

 

 

「布団、買ってこないとな」

 

 

 外来人の2人は、初めて見たときから眠ったままで動きを見せなかった。呼吸をしていることから生きていることは分かるが、分かるのはそれだけでそれ以上のことは何も調べていない。勝手に服をまさぐるのは嫌だったし、持っている荷物は何も無いようだったから調べるに調べられなかった。

 どこから来たのだろうか。

 どうやってここに来たのだろうか。

 これからどうしていけばいいのだろうか。

 これからどうして生きたいのだろうか。

 

 

「どうしたらいいんだろう……分からないことだらけだ」

 

 

 分からないことばっかりで、何をしていいのか分からなくなる。

 どうすればいいのか分からなくなる。

 だけど、今心に灯っている炎は確かに存在している。

 力強く、熱いものが揺らめいて進むべき道を示していた。

 

 

「この想いだけは忘れたくないし、ノートに書いておこう」

 

 

 僕は、ノートを取り出した白紙のページに想いを綴った。

 真っ白なページが真っ黒になるまで書きなぐった。

 疲れ果てて寝てしまうまで、僕の指は止まらなかった。

 

 

 

 

 眠っている間―――不思議な音を聞いた。きっと今までに聞いたことがある声だった。

 これは、明晰夢だ。夢を見ることに慣れている僕は一瞬で夢の中にいると気付いた。

 あ、また声が聞こえた。

 なんて言っているのかは聞き取れなかった。

 何を話そうとしていたのかは分からなかった。

 もはや言葉と呼称することができるのか分からない。それが何なのか考えていると、今度は視界が霞んで周りが見えなくなった。聞こえてくる声も遠くなる。自分の体がどんどん自分の体ではなくなる。右手がどこにあるのか分からなくなって、左手がどこにあるのか分からなくなって、体が自分の意識から解き放たれる。意識が遠のいていく。それはまるで昨日の霊夢を見ている時と同じだった。

 そして―――僕は目覚めた。

 

 

「なんだろう……夢っていうにはなんだかぼんやりしている気がするけど……」

 

 

 いつも死んで生き返っていることで夢から覚める僕からすれば、珍しいタイプの夢だった。あれを死んだと言っていいのかも分からないし、夢だったのかどうかも判断がつかない。一体何を見たのだろうか。今の僕には分からなかった。

 

 

「気にしても仕方がないか。夢が正夢になって困るタイプの夢じゃないだけましだと思おう」

 

 

 考えるのを止めていつも通りの行動に移る。

 起きている時間はいつもと変わっていないはずだ。急に赤い霧がなくなったせいで時間の感覚が僅かに狂っているかもしれないが、そこまでの誤差はないはずである。

 

 

「おはよう」

 

「あ、おはよう」

 

 

 朝のストレッチをしていると不意に挨拶の言葉が飛んできた。僕の後ろを霊夢が通り過ぎていく。その声はとても眠そうで、すぐにでも惰眠を貪るのだろうと直感的に分かるような声をしていた。

 そういえば、昨日は様子を見に来てくれたのだろうか。僕は疲れて眠ってしまっていたから記憶がないけど、宴会が終わった後に来てくれたのだろうか。

 お礼を言わなきゃと思う前に、僕の口はその言葉を吐き出した。

 

 

「心配してくれてありがとうね」

 

 

 僕のお礼に対して応えるように霊夢の手がふらふらと揺れる。反応してくれた霊夢の手が少しだけ楽しそうにしていた。僕の心が楽しんでいたからそう見えていただけかもしれないけど、なんだかようやく霊夢に受け入れられたような気がした。

 霊夢が部屋の中に消えていくのを見送った後、ストレッチを終えて太陽の光を浴びる。久々の太陽の力で眠気が完全に飛んだ。

 さて、今日は永遠亭に行こうかな。いつも通りの生活に戻さなきゃ。

 そんなことを考えながら自分の部屋の扉を開けると、布団から起き上がった外来人の姿があった。先に起きたのは長い黒髪をした女の子の方だった。

 

 

「あ、あんた誰? ここはどこなの? 私……なんでこんなところに?」

 

「起きたんだね。おはよう」

 

「おはよう……ってそうじゃない! 質問に答えて!」

 

「うーん、もう一人の子が起きてからでもいいかな? 説明が二度手間になるのも面倒だしさ、まずは起きて体を動かそう? 体の調子とかもっと先に調べなきゃいけないことがあるんじゃない?」

 

「そんなことしている場合じゃ……そうだ、なごみは!?」

 

「なごみ……? あの子のことだよね?」

 

 

 勢いよく周りを見渡す女の子に指をさしてもう一人の女の子のいる場所を示す。なごみと呼ばれている彼女はまだ眠っているようで、目を閉じて横になっていた。

 寝息を立てて、呼吸に合わせて布団が上下している。その様子を確認した彼女は大きな息を吐き出した。

 

 

「はぁ、よかった。生きていたのね」

 

 

 そう言った彼女の表情からは、彼女たちの関係に僕の考えているものよりも大きなものがあるような気がした。

 彼女たちの事情を何一つ知らない僕としては、その内容を知る術は何一つない。想像すらできない。何があって幻想郷に、どうやって幻想郷に、外の世界で何があったのか。それらを知ることができれば、この後彼女たちが何をしたいのか想像することぐらいはできるけど、何も知らない今では無理な話である。

 何も知らない僕から彼女たちに言えることは何もなかった。聞いてもいいのかも分からなかった。一応助けるという行動をとった僕だが、僕が彼女たちを助けたのはただ助けたいと思ったからというもの。これからも一緒に住みたいとは思わないし、これから先の生活を保障する気は一切ない。

 選ぶのは彼女たちである。どう生きたいのか、残りの一人が目を覚ましたら尋ねよう。

 これからどんなふうに生きますか? その問いを投げかけよう。僕たちも考えあぐねているその答えを二人から聞こう。例え、答えられなくても。考えること自体に未来を変える何かがあると思うから。そこから何かが生まれると知っているから。

 その問いを投げかけるのは、もう少し後のことである。

 

 

「ご飯まで後30分ぐらいあるし、のんびり待っていて。ご飯―――おかゆとかの方がいい? 食べやすい物の方がいいかな? それとも魚料理でいいかな?」

 

「ちょ、ちょっと待って! 分からないことばっかりで頭が混乱しているの。一から説明してもらえない?」

 

「一緒に聞いた方が手っ取り早いって言ったよね? そこの眠っている子が起きてから一緒に説明した方がいいと思うよ。時間の無駄になるし、僕もこのあと仕事があるしさ」

 

「だったらなおさら今説明してくれない? その方が効率がいいわ」

 

「なんで? 一緒の方がどう考えても効率がいいでしょ?」

 

 

 別々の方がいいという彼女の意見がよく分からなかった。

 どう考えたって一緒にいるときに説明した方が手間が省ける。質問の内容が同じだったり、後になって気になることが出てこられたりすると浪費する時間が増加する。

 僕には彼女の意見を聞いて疑問でいっぱいだったけど、次に彼女の口から出てきた言葉で理由を察した。

 

 

「なごみは、耳が聞こえないのよ」

 

 

 随分と抑揚のない平坦な声が空間にこだました。

 耳が聞こえない―――その言葉で何となくこの子が言いたいことは理解できた。

 なごみという子は聴覚障害を持っているから、話ができる私に先に話した方がいいと言っているのだろう。もしかしたらこの子は手話ができて、それで意思疎通が取れるのかもしれない。僕から聞いた話をそのまま伝えてくれるのかもしれない。

 

 

「だから何なのかな?」

 

 

 だからなんだというのだろうか。

 それがなんだというのだろうか。

 それは、説明の際に二人を別ける理由にはならないだろう。

 

 

「え? だから、耳が聞こえないから私に先に話してくれた方が……」

 

「耳が聞こえないからなんなの? 一緒に聞けばいいじゃないか。何の問題もないじゃないか。情報を伝える手段が何もないのならまだしも、筆談でもジェスチャーでも伝える方法はあるよね」

 

「……私が先に聞いて手話で伝えるわ、その方が楽でしょ?」

 

「いや、同時にやった方が早いと思うよ。伝言ゲームみたいに情報が間違ったまま伝搬する可能性も大きくなるし……」

 

 

 彼女は酷く困った顔で、困惑した瞳でこちらを見つめてきた。

 そんな顔をされても僕にできることは何もない。

 僕からすれば、聞こえないからなんてどうでもいい理由で別々に説明する方が面倒で、時間の無駄だ。

 もちろん別の理由があるなら話は別だけど。例えば、そうだね。

 

 

「もちろん、君が一緒に聞きたくないっていうのならそれでもいいけど……どうしたいの? 君だけに先に話しておく?」

 

 

 僕の質問に彼女は静かに頷き、肯定の意思を示した。

 

 

 

 

 

 

 彼女にあらかたの説明を行った。

 ここがどういう場所であるか。

 どういう生き物が生きている場所なのか。

 外の世界との違いをおおよそ話した。

 

 

「まるでおとぎ話ね……」

 

「でも、真実だから変わらないよ。否定しても事実は事実からはみ出ることはないから」  

 

「誰も信じていないなんて言っていないでしょ?」

 

「いや、君は信じていないよ。君は夢の中にいるような気になっているだけだ。人は聞いただけでは何も理解できないから」

 

「知ったような口を利くわね」

 

「だって知っているから。僕だって最初ここに来たとき何も理解していなかった。説明を受けたけど何にも分かっていなかった。妖怪も、妖精も、人間も、幻想郷に生きている者、そして幻想郷という世界について何も分かっていなかったんだから」

 

 

 百聞は一見に如かずとは上手く言ったものである。

 伝聞では何一つ理解できない。特に自分の立っている位置を知るという目的の場合、人から聞いた内容では何も把握することができない。それはまるで目隠しをした状態での西瓜割りのようなものだ。目が見えていれば外れるはずのない一撃がほぼほぼ外れる。当たる可能性は非常に低いうえに、雑音に左右されすぎて真偽のほどが判断できなくなるのだ。

 

 

「というか僕が信じられないのは、料理を手伝うって言ったくせに何もできないことの方だよ。おかゆ作るのに指示待ちって何なの? ご飯を炊いたこともないの?」

 

「仕方ないでしょ!? やったことないんだもの! ちゃんと教えないあんたが悪いのよ!」

 

「逆切れしないでよ。頭が悪く見えるよ?」

 

「わ、私ってそんなに頭悪く見える?」

 

「頭悪いっていうか。張り詰めているっていうか。尖ったナイフみたいな印象を受けるかな。近寄りがたい雰囲気が出てる。結構頻繁にイライラするタイプでしょ? 当たってる?」

 

「うっ……なんで分かるの?」

 

「目つきが鋭すぎ。眉間にしわ寄せすぎ。もっとおおらかに行こうよ」

 

 

 僕がそう言った後、唸りながら目元を気にしている様子を見ていると、やっぱり女の子ってみんなこんな感じなんだと懐かしい気持ちになった。クラスメイトの女子にもこんな人がいた気がする。見た目を気にしているのって意外と男子の方が多いような気はしていたけど、女の子も気にしているんだよね。やっぱり人間誰しも容姿には気を遣うか。

 そんなことを考えながらおかゆを作り終え、料理を部屋へと運んでいく。彼女は出来上がった料理をのぞき込むと眉間にしわを寄せて口を開いた。

 

 

「結局、私何も手伝っていない……」

 

「いいよ。次の機会にでも手伝って。今はできなくても今後できる様になればいいさ。できなくても僕は全然かまわないけどね」

 

「もっと私に期待しなさいよ。こう見えて私はやれる女よ!」

 

 

 胸を張って自慢げに話す彼女に言葉を失いそうになる。その自信はどこから来るのか。その元気はどこから来るのか。その余裕はどこからくるのか。

 そして、一体どこに期待しろというのだろうか。期待というのは、できるという希望があって出てくる言葉だ。何もできないやつに期待するやつなどいない。僕が霊夢に勝つことを期待されていないのと同じである。

 

 

「えっと、期待してほしいの?」

 

「うん!」

 

「うん、じゃないよ。どこに期待するの? 僕は、無い物ねだりはしない主義なの。そのセリフは、何かを抱えられるようになってから言ってね」

 

「すでに抱えているわ!」

 

「ああ、はいはい。期待してあげるねー」

 

「そんな投げやりな期待の仕方がある!? もっとあるでしょ? ああ、(のぞみ)様! 貴方の本当の力を見せてください! 的な何かがあるんじゃないかしら?」

 

「本当の力はさっき出したでしょ? あれが君の真値だ。おかゆも作れない程度の実力が君の本当の力だよ。自覚したらどう?」

 

「そう、料理はその程度よ。でも次からは作れるわ! 私はまた一歩成長したのよ!」

 

「またっていうか。これが初めての一歩じゃない?」

 

「そんな細かいことを気にしていると嫌われるわよ?」

 

 

 最高潮に面倒くさい。何を言ってもダメ―――久々にこのタイプと会った気がする。クラスメイトに一人はいたタイプである。論理をすっ飛ばしてやりたい放題やっている。僕が一番苦手なタイプだった。

 もはや噛み合っていないとしか思えない。僕は彼女を適当にあしらいながら自分の部屋のふすまを開けた。

 そこでは一人の女性と相変わらずうつむきながら暗い表情をした椛が座って待っていた。

 

 

「あ、なごみ! 起きたんだ! 今ご飯作ってきたから食べよーよ!」

 

「それ、僕が作った料理な」

 

「だから小さいことは気にするなって言ってんでしょ?」

 

「はぁ……」

 

「あー、ため息つくと幸せが逃げていくんだぞー?」

 

 

 誰のせいだ、誰の。心の中で突っ込みが入る。

 突っ込みが出るのと同時に自然と顔に笑みが浮かんだ。心の中が僅かに喜んでいるのが感じられる。なんだろう―――とても新鮮な感覚だった。いつも振り回すのは僕だったからかな。こうして振り回されている感覚は今まで感じたことのないものだった。

 

 

「それはさておき、状況を伝えないとね!」

 

 

 黒髪の少女がなごみと呼ばれる少女に向けて手で合図する。次々と形を変えていくサインが送られると、今度は別のサインが返ってくる。二人は偶に表情を変化させながら、感情を交えて言葉を表現していた。

 

 

「それが手話なの?」

 

「そうよ。今、現状を伝えているから」

 

 

 音もなく繰り出されるサインに目移りしながら会話が終わるのを待つ。なごみという少女は特に表情が豊かで驚いたり、笑ったり、とても忙しそうだった。

 僕は二人の手での会話を見ながら、暗い表情をしている椛に目をやった。この状態を生きていると呼称していいのだろうか。心が完全に打ち砕かれて生気が感じられない。どうにかしないといけない。そう思うが、僕には昨日の落ち込んだままの椛になんて声を掛ければいいのか分からなかった。

 大丈夫という言葉だけは口にできなかった。

 だって、どう見たって大丈夫じゃなかったから。

 頑張れという言葉だけは口にできなかった。

 だって、何を頑張ればいいのか分からなかったから。

 僕にできるのは、傍にいることだけ。いつも通りに接してあげることだけだった。

 

 

「ご飯、食べよっか」

 

 

 椛は何も反応しなかった。

 でも、生きているからには何かを食べないといけない。作ったおかゆの数も4人分ある。僕は、こぼさないようにそっと椛の前におかゆを置いた。

 椛はおかゆを見て、流れるようにこちらを見つめてくる。

 

 

「ほら、食べよう?」

 

 

 そっと頭を撫でてやる。嬉しそうに見える瞳の中に暗い影が差しているのは何も変わらない。僕にできることなんて何もないかもしれない。それでも、こうなってしまった原因の一端を担っている僕が何もしてあげないというのは無責任だと思った。

 しばらく撫でてやると明らかな作り笑顔を張り付けた椛がおかゆを食べ始める。

 

 

「おいしい?」

 

「…………」

 

 

 何も言わずに。

 何も伝えようとせずに。

 言葉を失ってしまったように。

 まるでロボットみたいに黙したままおかゆを口に運んでいく。

 表情も崩れて何も感じられなくなる。

 

 

「まだまだあるから、いっぱい食べて早く元気になってね」

 

 

 落ち込んでいる椛を何とかしてあげたい。

 何かできることはないかと考えるけれども、その答えがどこにも見つからない。

 一体僕に何ができるのだろうか。

 心がボロボロになっている椛に何ができるだろうか。

 僕が椛の代わりに苦しんであげられたら……なんて考えが浮かんでは消える。

 でも、この苦しみの先に答えを見つけられたらきっと―――僕が普通を目指したように生きるための目標が見つかるかもしれない、そう思う。

 結局僕にできるのは、傍にいて手を差し伸べて待つことだけだ。

 僕を見ていた両親もこんな気持ちだったのだろうか。

 椛を見ていると何とかしてあげたい気持ちでいっぱいになる。

 何もできない自分の無力さに苛立って。

 見守るしかできない自分の不甲斐なさに悲しくなる。

 

 

「僕は、僕が諦めるまで―――椛が立ち直るのを待っているから」

 

「…………」

 

 

 椛は、僕の前で自分の罪を見せつけるように静かにおかゆを食べていた。

 




唐突にオリキャラが出ましたが、簡単な紹介は次回の話に記載します。
落ち込んでいる側もそうですが、それを見ているのも辛いものですよね。


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座って見える現在、立って初めて見渡せる未来

第8章の2話目です。
8章は、妖々夢の前のお話になります。


 僕は、永遠亭に行って八意先生と鈴仙といつも通りの仕事を行った。いつも通りとは言うけれど、いつもと違ったところが一つだけある。

 それは、道中に付き添っているはずの椛がいないことだ。怪我の容体がすぐれず、動くたびに痛みを感じるようだったので無理をさせないように博麗神社に置いてきた。本人はどうしても付いてきたがっていたが無理やり置いてきた。

 霊夢にも追いかけてこないように気を遣ってほしいと伝えたから付いていこうと思っても無理だろうけど、無理を押し通して追いかけてこないか心配だった。椛は、僕と同じで結構強情だから。走り出すと急に止まれないから。そんな心配もあって、永遠亭に行くのは後ろ髪を引かれる想いだった。

 もちろんだが、外来人の二人にも博麗神社で待つように言っている。飛べない彼女たちが永遠亭に来るのは無理だし、博麗神社の立地上人里に行くのも一苦労になることが考えられたための結論である。

 大丈夫だろうか。喧嘩になっていないだろうか。少しの不安を抱えながら帰った僕に最初にかけられた言葉は、余りにもぶしつけな言葉だった。

 

 

「あの椛ってやつどうしたの? 話しかけても何も言わないしさ。言葉が通じているのか不安になるレベルなんだけど……というか暗すぎて部屋の空気が重くてさー」

 

「…………」

 

「なごみさん、ごめんね。今の僕の知識じゃ手話は理解できないよ。できれば筆談でお願いね」

 

「なごみが言うには書いても見てもらえなかったって。目の焦点が合ってないって。なんかあったの?」

 

「うん……いろいろあった、と思う」

 

 

 嘘でもなく、本当に色々あった。

 椛がどうしていたのかは直接見ていないから実際には分からないけど、見たときの美鈴と椛の状態から何となくどんなことがあったのか察しは付いた。

 そこであったのは、きっと椛の生き方に関わるようなこと。

 これからの未来を否定するような、これまでの過去を壊されるようなことがあったのだということ。

 

 

「思うって……知らないの?」

 

「僕は現場を見ていないからさ」

 

「へー、じゃあ何に落ち込んでいるのかは分からないってわけね」

 

 

 そう言って部屋の中の隅に座っている椛に向けて歩き出す彼女―――加治屋希(かじやのぞみ)は、僕と同じ年の中学3年生である。

 今日、簡単に自己紹介したときにいろんなことを話てくれた。あくまでもさらっと話をした印象でしかないが、加治屋希という人物は思った以上におしゃべり好きで前向きな人間のようだった。

 

 

「私の名前は加治屋希。加える、治す、屋台の屋、そして希望のきって書くの。今、中学三年生。部活はテニス部よ!」

 

 

 もう一人の彼女は―――松中なごみと言った。松中なごみは、僕が手話をできないと分かってか、いつもノートを持っていてそこに文字を書くことでコミュニケーションをとってきた。

 書いてあった内容をそのまま転写すると

 名前: 松中なごみ 中学3年生。部活はやっていません。加治屋希ちゃんとは小学生以来の友達ですって書いてあった。

 それを確認した僕が、よろしく―――そういう意味を込めて手を差し出すとすごく嬉しそうに手を握り返してきてくれた。

 そこまで喜ぶことかな? そんな疑問を抱えてしまうほど反応が逐一大げさに見えるのが印象的な女の子だった。

 

 

「で、あんたの自己紹介は?」

 

「ちょっと待ってね……」

 

 

 流れで僕の自己紹介が入ることになったため、慌ててノートを取り出して自己紹介に必要な文章を構成する。こうして自分のことを文章に起こすのは本当に久しぶりだ。

 簡単でいいだろう―――名前と職業を書いて、今頑張っていることを簡単に記載した。

 

 

「僕の名前は、笹原和友。外の世界にいたら同じく中学三年生だったかな。部活は野球をしていました。今の目標はみんなに追いつくことかな。僕、弱いから」

 

「和友って思ったより優しいんだね。なんだかなごみの扱いが分かっているっていうか、もしかして友達に耳の聞こえない子とかいた?」

 

「いないよ。少なくとも僕にその記憶はないかな」

 

「そう? というか笹原和友って名前、どっかで聞いたことある気がするんだけど……思い出せないわね」

 

 

 僕の名前をどこかで聞いたことがあるという言葉に僅かな期待感が心を通過する。

 もしかしたら僕のことが外の世界でニュースになっているのかもしれない。家族はみんな死んでしまって、その子供が行方不明になっているということで全国ニュースになっているのかもしれない。

 僕を覚えてくれている人がいる。死んでしまっているような僕のことを知っている人がいる。2年も経ってまだ記憶されている。なんとなくでも、うろ覚えでも、覚えていてくれる人がいたという事実が何より嬉しかった。

 自己紹介の内容は以上である。これ以上の深掘りは特にはなかった。基本的にどんな生活スタイルで生活しているのかを話しただけである。

 見知らぬ他人から自己紹介を行っただけの顔見知りの関係に昇華した二人の外来人―――そのうちの一人の加治屋希は椛のところへ向かい、椛の目の前で止まった。

 

 

「なんでそんな辛そうな顔しているわけ?」

 

「…………」

 

「だんまりとか……見ていてイライラするって言ってんの―――分かる? 空気が悪いの。あんたが暗いせいで部屋の空気まで暗くなってんのよ」

 

 

 希の口から煽るような言葉が椛に向かって浴びせられる。いつもの椛だったら怒ってもおかしくないような言葉の雨が椛を目がけて落ちてきている。

 それでも、椛が何らかの反応を示す様子は見られなかった。動かず虚しそうな瞳を下に向けているだけだった。

 

 

「このパターンは駄目か……ちょっと和友、いい?」

 

「いいけど、何?」

 

「外に出かけない? 何でもいいわ。遊びでも、食事でも、それこそ労働でもね。ここにいたんじゃ何も変わらない。変えるなら空気から変えていかないと」

 

 

 希から外に出ようと提案がなされた。

 確かにこのまま部屋に閉じこもっていても何も変わらないだろう。通りの悪い部屋の中では何も変化しない。外界が遮断されて外との繋がりが絶たれているこの部屋では、環境を変えることはほぼほぼ不可能である。変えるなら空気から、環境から変えてしまおうというのが希の考えのようだった。

 じゃあ、どうしようか。

 どこがいいだろうか。

 そう考えた頭の中には、一つの選択肢が浮かんでいた。

 

 

 綺麗な空。

 深い緑の木々。

 清らかな川。

 空気の透き通った感じ。

 そして他に誰もいない開けた空間。

 いいね、心が落ち着く。

 

 

「私たち、なんでこんな場所でこんなことやっているわけ?」

 

「え? 空気変わったでしょ? それにやるなら後で役に立つというか、使えるものにしようかなって思ってさ」

 

 

 今、僕たちは釣りをしている。

 場所は妖怪の山から流れている川の下流のところ。ちょうど妖怪の山に入る一歩手前というところだろうか。妖怪が絶対に出ないという場所ではないが、比較的安全な釣り場である。

 川の透明度は、底が見えるぐらい綺麗だ。獲物である魚が普通に見える。狙って針を落とすことだって難しくない。そんなことをしたら魚が逃げていくから絶対にしないけど。

 釣り竿は博麗神社にあったものを借りている。もちろん人数分無かったから、釣り竿がない人はハイキングをしに来たみたいになっているけど、あくまでも目的は魚釣りである。晩御飯の確保である。

 そこまで成果にこだわっているのは、何かしら釣って帰らないと霊夢に怒られてしまうことが予測されたからだ。

 きっと期待しているだろうから少しでも多めにとって帰らないとね―――なんて息巻いているのは残念ながら僕だけだった。

 

 

「まぁ、そうかもしれないけどさ。なごみが怪我したらどうするつもりだったのよ」

 

「そうなったら椛と同じように抱えたかな」

 

「あんたね! なごみは!」

 

 

 足場の悪いところで詰めかかろうとしてくる希を遮るようになごみが割って入る。大きく腕をクロスしてバツ印を作っている。

 

 

「ん!」

 

「だって、なごみ」

 

「んっ!!」

 

 

 そこから一気に二人の争いは激化した。

 僕は、必死の形相で手話を行っている二人を差し置いてぼーっと川の流れを見つめる。水は流れるままに、止まることなく下流へと流れている。

 そっと隣を向いてみる。椛は相変わらず下を向いていた。何も見ようとしない。自分の世界だけを見つめて、心の中で戦っている。

 何が正しいのか、これからどうすればいいのか悩んでいるのだろう。

 僕は、こういうことを考えている人がいたら基本的に何も言わないようにしていた。

 だって、誰かがどうこう言ったところで雑音にしかならないから。それは自分で見つけるべき回答だと思っていたから。仮に誰かから与えられるとしても、それは後に続かない僕ではないと思っていたから。

 

 

「まぁ、なごみがそういうのなら仕方ないわね。和友、なごみが怪我したら許さないから」

 

「それは責任もって守らないとね」

 

 

 希の対応から、希の中のなごみの優先順位はかなり高いように感じられる。僕も人のことを言うことができる立場ではないけど、自分のことよりもなごみのことの方が優先順位が高いように思えて仕方がなかった。

 自分よりも大切なもの。そういうものを持っている人は割と多い。これだけは譲れないというか、それを失ったら自分じゃなくなる、それを傷つけられると自分ではなくなってしまう、そういうものを誰しもが持っていると言ってもいいほどに抱えているものである。内容は人それぞれだが、その分―――その人の性質というものが露骨に出やすい。

 僕で言えば―――普通という概念になるだろうか。

 希で言えば―――なごみになるのだろうか。

 それが生活というか、自分の生き方の指針になっている。あるいは、そういうものが大切だと分かっているのに自分が持っていないからそれを手に入れようとしている。

 僕の場合はそうだけど、希の場合は何だろうね。譲れないものが特定の人の場合には、どういうことが考えられるのだろうか。

 なんにせよ、なごみの取り扱いは気を付けないと面倒くさくなる。そんな警戒情報が脳内を駆け巡っていた。

 どう伝えたらいいだろうか。どう書いたらいいだろうか。僕はなごみとコミュニケーションを筆談とジェスチャーでしか取れないから持っているノートに頭の中に浮かんだ言葉を文字として記載し、コミュニケーションを図ろうとする。

 気持ちができるだけ伝わるように書くには、どうしたらいいのだろうか。そんなことを考えなら文字を書き連ねていく。

 文章に感情を込めるのは難しい。思った通りに書いても、そのまま相手が受け取ってくれるかは分からない。

 だから、できるだけ間違えないように。できるだけ真っすぐ伝わるように。間違えが出ないように回りくどい言葉は一切書かず、今思った気持ちをできるだけ簡単に書いてそれをなごみに見せた。

 

 

「…………っ!」

 

 

 見せた瞬間になごみの口がパクパクと開いたり閉じたりしながら顔を真っ赤に染めて俯いた。

 あれ、予想していた反応と違うな。

 

 

「ちょっと、なごみに何を見せたのよ!」

 

「変なものは見せていないよ。思ったことをそのまま書いただけだ」

 

「じゃあ見せなさいよ!」

 

「なんで希に見せなきゃいけないのさ。なごみから教えてもらえばいいじゃないか」

 

 

 ぎゃーぎゃーと騒いでいる希を無理やり抑えて、後をなごみに委ねる。なごみもまさか放り投げられると思っていなかったのか、慌てて距離を取ろうと動き始めた。逃げるなごみの後を追うように希が駆けだしていく。希の矛先は完全になごみに向いたようで、二人は動きながら手話での格闘を始めた。

 僕は、しゅぱぱぱという擬音が似合うような動きをしている二人を残して川の流れを静かに呆然と見つめている椛の元へ近づき横に座る。手を伸ばせば届きそうな距離だった。

 何も言わない椛の隣で、何も言わずに釣り竿の針に餌を取り付けて川にめがけて放り投げる。そして、呆然と魚が餌に食いつくのを待った。

 

 

「「…………」」

 

 

 川のせせらぎと風によって木々がなびく音が聞こえる。葉がこすれあってざわめいている。それ以外に聞こえてくるのは、遠くで希となごみが争っている音だけだった。

 外に出てきても椛の状況は変わっていない。相変わらず重い空気が椛から発せられている。ちょっとだけ俯いている角度が上がっているのが唯一の変化だろうか。

 それでも、それだけでも変わったということが何よりも大きく変わったということのように思えた。

 

 

「和友!」

 

 

 急に大きな声で呼ばれて勢いよく後ろを振り向く。希の手招きする様子に何だろうと立ち上がり、声の源泉へと移動した。

 顔が恐ろしく怖い。怒っているのが見ただけで伝わってくる。

 

 

「何をしているの? あの椛って子になんか話してあげなさいよ。何のために外に出たと思っているの?」

 

「僕から話すことなんて何もないよ。椛から話さなかったら僕から言うことなんて何もない。無理やり言わせるのもなんだか違う気がするし、何より悩んでいる内容はきっと椛が自分で考えて答えを出さなきゃいけない事だと思うんだ」

 

「何のんきなこと言っているの?」

 

「僕はふざけてこんなことを言っているわけじゃないよ。こうするのが一番いいと思っているからそうしているだけだ」

 

 

 僕には希が怒っている理由が分からなかった。

 大真面目に傍にいてあげるのが一番いいと思っているし、それ以上を踏み込むのは野暮だと思っている。

 何をすればいいのか。何をしていくのか。それを決めるのはあくまでも本人であるべきだ。誰かに決められたから、誰かから言われたから、そんな理由で前に進んだところで壁にぶつかって終ってしまう。

 そう―――今回のように。

 手伝ってほしいと言った僕の提案を受け入れただけ。

 特にやることがなかったから目的がなかったからとりあえず据えただけ。

 自分がやりたいからじゃなくて、何もしていないというのが嫌だっただけ。

 そんな気持ちをもって目指した目標では壁にぶつかったときに推進力を失い停止する。そして、壁を見上げた時に気力を失う。高い、厚い壁に嫌気がさす。無理だという気持ちが、意味がないという負の感情が、役に立たないという不甲斐なさが、上を向く気持ちを削いでいく。

 そんなんじゃ駄目だ。

 そんなことでは生きていけない。

 これからを進んでいけない。

 前を向くためには、先に進むためには、何よりも自分で選んだ答えが必要だ。悩んで悩み抜いた先にある答えが未来を支えてくれるはずだ。そう考えていたから、待っていようと思っていた。

 それが僕の考えだった。

 これが普通なんだと思っていた。

 こうするのが一番いいのだと思っていた。

 だけど―――希は違っていた。

 

 

「一番いいって何よ。何を分かっている気になっているの!?」

 

 

 希の右手に不意に胸倉を掴まれる。避けることも躱すこともできずに、掴まれた手によって息が苦しくなって、楽になろうと自然に足が立ち上がった。

 立ち上がった先にいた希の瞳の中には、僅かに涙が光っていた。

 

 

「そいつはこの世に一人しかいないの。そいつにとっての一番いい方法なんて分からないじゃない。何を求めているかなんてそいつにしか分からないでしょうが!」

 

 

 鬼気迫るような表情で詰め寄ってくる。

 なんでそんなに泣いているのだろうか。

 なんでそんなに怒っているのだろうか。

 なんでそんなに悲しそうなのだろうか。

 僕には分からなかった。

 

 

「聞いてもいないのに勝手にこれが正しいって、こうすべきだって決めつけているんじゃないわよ!」

 

 

 

 希の感情の在りかは分からなかったけど―――その口から発せられた声が伝えてくる言葉の意味は何となく理解できた。

 世の中の人間は、みんなバラバラだ。

 同じ人は一人もいない。

 それなのに型にはめたがる人間はいっぱいいる。血液型で、生まれ月で、世代で、クラスで、近所で、兄弟で、親子で、一括りにして見る人がいる。

 みな同じ人間だって御託を並べる人もいるけど、同じ人間なんだから協力しようなんて言う人もいるけど、君の隣にいる人は君とは違う人間だよといつも思う。

 僕の目の前にいる少女と僕は違う。僕と僕の友達は違っていて、僕と僕の両親は違っていて、誰一人として同じ人はいない。みんな違って、みんな異なって―――同じ人間なんて一人もいないんだ。

 それと同じだった。希の言う通り誰にとっても一番いいこと―――そんな選択肢は世の中には存在しないというのも真理だと思った。

 

 

「言わなきゃ伝わらないのよ! 外からこじ開けないと開かれない殻だってあるのよ! 溜め込んで内側から壊れる前に外から出してあげる、そうしてあげないと取り返しがつかなくなることだってあるかもしれない!」

 

 

 涙は頬を伝っていく。

 目線が涙を追いかけていく。

 僕を貫く瞳は変わらず僕の瞳を捉えていた。

 

 

「和友、あんたは放棄しているだけ。自分ができることを、やれることを見て見ぬふりをしているだけよ! 何を危惧しているのか知らないけど、何に怖気づいているのか分からないけど、他人に寄りかかってでも立っていないと先の景色なんて見えないの!」

 

 

 そっと後ろにいる椛に目をやってみる。

 椛は相変わらず何も言わない。

 自分のことを言われていると気付いてはいるだろうけど、何も言わず黙ったまま川の流れを見つめていた。

 

 

「私が手本を見せてやるわ!」

 

 

 勢いよく掴まれていた胸倉が解放される。

 希の右手は感情をそのままに椛へと掴みかかった。

 

 

「おら! 立てよ! 何だよその死んだような目は! 本当に生きてんのか?」

 

 

 椛の目は下を向くばかりで光が差しているようには見えない。真っ暗な瞳は、暗い闇に濁ったように何も映していなかった。

 

 

「和友だけの問題じゃない! お前も問題なんだ! そんな自分の殻に閉じこもっていたんじゃ何も分かんないんだよ! 何に苦しんでいるのか。何を悩んでいるのか。分かってやりたくても分かんないんだ!」

 

 

 椛が力任せに揺さぶられている。

 前後にバタバタと揺れる。

 力なく立ち上がるその姿に生きているという感覚は伝わってこない。

 椛は何を想っているのだろうか。

 希の言葉を受けて何を考えているのだろうか。

 伝わっていないかもしれない。届いていないかもしれない。

 それでも、希の言葉は確実に僕の頭の中をグラグラと揺さぶっていた。

 

 

「そんなこと誰だって分かっているよ。伝えようとしなきゃ伝わらないってことはみんな知っている。僕だって、椛だって」

 

「だったら言えよ! 口から出せよ! 言わなきゃ理解したくても理解できねーだろうが! お前らにはそのための口があるだろうが! 伝えるために最も簡単な方法を持っているでしょ!?」

 

「口から出すのが最も簡単だって? ふざけた冗談は止めてよ。お前こそ勝手に決めつけんなよ。なごみが話せないからって、僕が話せるからって、椛が言葉を口にできるからって、みんながみんなそうじゃないんだよ!」

 

 

 言わなきゃ伝わらない。

 外に出さなきゃ見えてこない。

 そんなもの誰だって分かっている。

 心の中は見えないから、心の中の声は届かないから。

 見えないように作られているから―――僕たちは生きていられるんだ。

 

 

「僕たちの心は見えないようにできている。見えないから―――僕たちは生きていられるんだよ。今何を想っているとか、何を考えているとか、筒抜けになっていたらきっと僕たちは生きていられない。周りが信じられなくなる。違っているということに耐え切れなくなる」

 

 

 それはまるで生きるための弊害とでもいうように、気持ちというのは心から外に出してあげないと他人には理解されないようになっている。

 僕だって分かっている。当たり前のように知っている。

 僕のこの気持ちは言葉にして伝えないと誰にも分かってもらえないんだって。

 それが分かっていても口に出せないのは、話した後に出てくる結果が怖いからだ。

 理解されなくて、分かってもらえなくて。拒絶されるのが怖いからだ。

 意味が分からないと、頭がおかしいんじゃないかと言われるのが恐ろしいからだ。

 

 

「僕は怖いよ。口に出した言葉が何かを変えてしまって、取り返しがつかなくなるのが……」

 

 

 いや、罵られるだけならまだいい。

 僕は、重い想いを一生懸命に口に出したものを周りに氾濫させられるのが怖かった。周りを巻き込んで関係のなかった人まで何かを失うことになることだけは避けたかった。

 口に出して何かが壊れてしまうのが。

 大事にしているものが、誰かにとって大切なものがなくなってしまうのが。

 ――――怖いんだ。

 

 僕が願いを口にすれば、叶えようとする人と阻もうとする人が喧嘩をすることになる。何かが生まれて、何かが壊れることになる。周りに出た僕の閉じられた言葉が―――誰かの世界を壊す。

 

 

「だから黙っているって!? だから口を閉ざして我慢しているって!? 私には理解できないわ!! 苦しくて溺れそうになっているのに、助けてほしいと心は助けを求めて手を伸ばしているのに、無理やり殻を作って伸ばせないようにしている気持ちが!」

 

 

 椛は、何も言おうとしない。文字通り外界を遮断する殻に閉じこもって一人で溺れている。

 僕はそれを見ているだけだ。

 手を伸ばしながら苦しんで溺れている椛を見ているだけ。

 いつか出てくると信じて、自分で手を伸ばしてくれると信じて手を差し伸べているだけ。

 

 

「ふざけんなっ!! それじゃ辛いだけじゃないっ……!! あんたも! 和友も! みんな辛いだけじゃない!!」 

 

 

 希の涙と共に吐き出される言葉に心が振動する。

 辛い、見ていたくない。

 そう訴える心をいつも無視してきた。

 両手を伸ばして待っているだけ、見えているのに何もできない無力感。

 自分の責任でこうなってしまったという責任感と、罪の意識。

 両親はこれに6年もの間耐えたのだと強く想いながらこの2日間を過ごしてきた。

 今も、立ち直ってくれると信じて手を伸ばし続けている。

 今も、椛の方から手を握ってくれるのを待っている。

 

 

「和友は落ち込んでいるあんたを何とかしてやりたいって思ってる。あんたが弱音を吐くまで待ってるって、元気が出るまで傍にいるって言っているんだ! 普通こんないいやついねーよ! 誰も待ってくれないし、誰も期待してくれない。そのまま知らんぷりが大半で、関わりたくないって思う奴がほとんどの世の中でこいつはすげーと思うよ!」

 

 

 希の掴んでいる右手が引き寄せられ、両者の瞳が接触するぐらいに接近する。

 そんな両者に挟み込める言葉はもはや何もなかった。

 希が口にする言葉が真実だと思ったから。

 待っているっていう言葉に―――偽りがなかったから。

 

 

「お前のやっている行為は和友に対する明確な裏切りだ。侮辱なんだよ。待たせるだけ待たせて、自分を追い込んで、そういう姿がさらに和友を傷つけるってなんで分からないの? そうやってだんまりして、今にも死にそうな顔をするのが―――頑張っている和友の負担になるんだよ! お前を待っていてくれている奴に、期待してくれている奴にこれ以上負担をかけるな!! 空元気でもいい。嘘でもいい。元気な姿でいてやれよ! 頑張っているこいつに笑顔を向けてやれよ!」

 

 

 希の言葉に昔のことが想起される。

 昔、似たようなことを考えたことがあった。

 僕が頑張っていたころ、普通を求めて駆けていたころ。

 両親と共に踏みしめた過去を思い出した。

 

 

「どれだけの失敗をしたのか知らない。どれだけの期待外れをしたのか知らないけどね。こいつはまだお前に期待してくれているのよ。待っていてくれているの! お前が自分の足で立つのを、自信をもって前を向くのを!」

 

 

 これは、待つ側(僕にとっての両親の側)の言葉だ。

 そして、現在待っている対象である僕が言ってはいけない言葉だ。

 希の言っていることは、両親と共に頑張っている時に自分で思いついたこと。

 待っている側の負担が、涙が、苦しみが見えて気付いたこと。

 

 

「自分だけの問題だと思うなよ! お前が苦しむと同じように苦しむやつがいるってこと忘れるな!!」

 

 

 希は、そこまで言うと椛が突き飛ばす。椛のよろけた脚はかろうじて体を支えていた。

 希の腕が涙をこれ以上落とさせまいと頬を伝う涙から瞳に溜まっている涙までをふき取る。その顔には航改の色が見て取れた。

 

 

「後は任せるわ」

 

「後は任せるって言われても……希はどうするの?」

 

「ちょっと自己嫌悪してくる……」

 

 

 それだけを言い残してその場を離れていく。

 希の若干丸まった背中を見て、思わず口からそのまま言葉が出た。

 

 

「希、心配してくれてありがとう、嬉しかったよ」

 

「ば、ばかっ! 私のことはいいのよ、とっとと話してやりなさい」

 

 

 希の背中が少しだけ持ち上がる。

 責任を感じることなんてない。

 ―――後は僕が。

 

 

「ねぇ、椛……」

 

 

 そっと手を伸ばして視線を落としている椛の頭を撫でる。

 できるだけ優しく、できるだけゆっくりと撫でる。

 希はここまで言い争いになったことを後悔しているのかもしれないけど、希の言うことは結構横暴なことなのかもしれないけど、色々教えられた。

 その人にとっていいことなんて―――分からないんだって。

 そして、椛のおかげで待っている側の気持ちも理解できた。

 待っているだけ。

 黙っているだけ。

 我慢しているだけ。

 それがどんなに辛いことなのか。

 そして、それで今が変わってくれる保障なんてないんだって。それで変わってくれる現実なんてないんだって。

 あの時僕が辛いと言えば―――きっと普通を求めることはなかっただろう。あの時両親が苦しいと言えば―――きっと今の自分はなかったことだろう。

 我慢しているだけで、耐えているだけだったから―――僕たち家族は変わらずに生きてきた。

 だから僕は変わらなかった。

 だから両親も変わらなかった。

 未来の形もきっと変わらなかった。

 あの夢が正夢になるまでは決まりきったレールが敷かれていた。

 それじゃ駄目なんだ。これから先の未来を変えていくためには、待っているだけ、見ているだけでは変わらないんだって―――希に教えられた。

 だったら、今の僕にできることは一つだ。

 僕の気持ちを、想いを―――恐れることなく椛に届けることだけ。

 

 

「希はああ言うけどさ。僕だってここで椛を思いっきり叩いて、無理やりにでも立たせてもいいと思うけど―――やっぱり僕は無理やりついてきて欲しいとは思わないかな。それだと希の言う通り、お互い辛くなるだけだと思うから」

 

 

 椛は何も言わなかった。

 それでもかまわない。

 

 

「だけど、あえて僕の気持ちを口から出すなら―――僕は椛と一緒に歩いていきたい。僕の願いを叶えるためなんて思わなくてもいい。どんな理由でも僕と一緒に来る道を選んでくれたらと思う」

 

 

 椛は何も言わなかった。

 それでもかまわない。

 

 

「僕は、妖怪の山の監視を毎日続けてきた椛を知っている。椛が僕の夢を叶えるのを手伝うというのを、妖怪の山を守るのと同じように考えてくれたらいいなって思っている。意味なんてないかもしれない。役に立っていないかもしれない。だけど、それをしていない自分はきっと自分じゃないから、そんな理由を持ってくれると嬉しいなって思う」

 

 

 妖怪の山で監視の任を毎日続けてきた椛だから、一緒に歩こうと思った。

 意味がないと知りながらも、役に立たないと思いながらも、努力を重ねてきた椛だからこそ、一緒に頑張りたいと思った。

 できるならこれからも一緒に頑張っていきたい。

 僕は夢を叶えるために前を進む。

 椛は僕を手伝いたいという想いで隣を歩く。

 そんな未来があると嬉しいなって思っている。

 だけど、そう思うかは椛が決めることだ。

 

 

「椛が妖怪の山に戻りたいというのなら―――少し悲しいけど全力で応援しよう。そのための努力は惜しまないよ。椛が僕の願いを叶えてあげたいと思ってくれるのなら、僕だって椛の願いを叶えてあげるためにできる限りのことをしようと思う」

 

 

 僕にできることなら何でもする。

 椛が、一緒にいられないっていうのならその意見を尊重しよう。

 共に歩けなくても。

 一緒に進めなくても。

 それを椛が自分で選んだのなら。

 僕が尊敬する椛が選んだのなら。

 

 

「もしも手伝えないっていうのならそれでもいい。辛いから、苦しいから一緒にいられないっていうのならそれでもいい。ただ、これだけは約束してほしい。椛はいつだって誰かのために生きていたから。誰かのために何かをする―――そんな自分を誇ってほしい」

 

 

 椛が進みたい道を歩んでほしい。

 大きな歩幅で。

 大きな足音で。

 自分の道なんだと示しながら。

 自分の足取りに自信を持ちながら。

 胸を張って生きてほしい。

 そして、そんな自分を誇ってほしかった。そんな自分を好きになってほしかった。

 

 

「そして、そんな自分を好きになってあげて。椛は、誰かのための存在になれる。そんな誰かのために傷つくことができる―――優しい妖怪だから」

 

「……………」

 

「椛……僕は待ってるからね。死ぬまで待ってるから。ここで、この場所で、椛のそばで待ってるから」

 

 

 待っているから―――できる限りの気持ちを込めて言葉を送る。

 思わず高ぶった気持から涙が流れそうになるのを止めることなく、拭うこともなく、僕からの気持ちを吐き出した。

 

 

「……すぐに、追いつきますから」

 

 

 その言葉は川の流れにかき消されずに僕の耳まで届いた。

 椛の瞳から音もなく涙がこぼれ落ち、頬を伝った。

 




4月になって生活習慣が一気に変化しているので
更新が不定期になるかと思いますがよろしくお願いいたします。


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再び出会った二人、新たなスタート

第8章の3話目です。
8章は、妖々夢の前のお話になります。


 魚釣りに行った後―――椛は少しだけ元気になった。少しだけなんて表現をしているのは、あくまでも前の調子と同じだけ持ち直したとは言い難いからだ。

 空元気が混じっている。まだ悩んでいる様子が見受けられる。それでも、笑顔を向けてくれること、嘘でも元気な姿を見せてくれること、それが何よりも嬉しかった。

 上手く事が運んだのも、希やなごみの後押しが大きい。彼女たちが椛に対して怯えることなく、対等の存在として話をしてくれるというのも椛が元気になるのに大きな影響を与えたことだろう。

 椛も二人と随分と打ち解けたようで、まだまだ壁を感じるところはあるけれども気さくに話しかけている姿を見かける。彼女たちは、椛の冷たい心を確実に溶かしつつあった。

 ただ、今のうちに考慮しなければならない要素が一つある。それは、外来人である彼女たちの今後の扱いである。

 外来人である彼女たちには、大きく選択肢が二つある。

 幻想郷に残るのか。それとも外の世界に帰るのか。

 これからどうしたいのか。どうするつもりなのか。

 彼女たちは、未来を大きく決める舵切りをしなければならない。

 そして、僕はそれを彼女たちに問いかけなければならなかった。

 

 

「希となごみは外の世界に帰るつもりなの? それとも幻想郷に残るつもりなの?」

 

「ここにいるわ。私もなごみもそのつもりよ。外の世界よりもここでの方が上手くやっていけるわ」

 

 

 希は幻想郷に残ると言う。なごみに限って言えば、{外の世界に戻りたくないです}とまで書かれる始末である。

 一体外の世界で何があったというのだろうか。戻りたくないというだけの嫌なことがあったのだろうか。

 外の世界に戻りたくてたまらなかった僕としては、戻るという選択肢のある二人が非常に羨ましかった。そう―――望んでも帰る場所がなく、帰ることが許されていない僕と彼女たちの状況は大きく違っている。

 逆恨みするなんて間違っている、自分の立場が悪いからって相手に文句を言うのは間違っている。だけど、それを分かっていても、どうしても僕の口は想いを吐き出した。

 

 

「本当にいいの? 君たちには家族や友達、普通の生活があったんでしょう? 戻るなら今だよ? 後から戻ろうと思っても戻れないかもしれない。何よりここは死ぬ危険性が高い。妖怪に食べられて死ぬなんていう可能性が大手を振っている世界だ。戻れる選択肢があるのなら戻った方がいいと思うよ」

 

「外の世界に戻るぐらいなら妖怪に食われて死んだほうがましよ」

 

 

 そう言われてしまっては、僕から言えることは何もなかった。なごみもぶんぶんと首を縦に振っているし、どうしてそこまで嫌がるのだろうかと疑問が沸き上がってくる。

 だけど、それは聞いてはいけない気がした。聞いても答えてくれない気がした。そしてそれ以上に僕が聞いても意味がない気がした。

 

 

「ふうん、そうなんだ」

 

「……理由を聞かないの?」

 

「聞かないよ」

 

「なんで? 私たちが答えないって分かっているから?」

 

「それもあるけど……そこにどんな理由があっても意味がないからだよ。だって、この世界に残ることを決めるのは二人で、それを納得するための理由を作るのは二人じゃないか。僕が聞いて納得できなかったからってどうにでもなるわけじゃない」

 

 

 そう―――決めるのはいつだって本人だ。他人がそれを批評、評価することはできても変化を与えることはできない。

 俗にいう動機を聞くことにどれだけの意味があるというのだろうか。テレビでやっているニュース番組でもよくあることだが、誰かが犯罪をしたとき、殺人を犯したとき―――殺人の動機を聞くことにどれほどの意味があるのだろうか。殺人を犯した動機を聞いて視聴者は何を考えるだろうか。

 そんなことで人を殺したのか。それは人を殺しても仕方がないな―――さすがにそんなことは言わないけれど、動機がどれほどのものか自分と世間の価値観から測っている。僕の経験上、番組に呼ばれているゲストもそういうところに注視することが多いような気がする。

 だけど、その評価を下すことにどれだけの意味があるだろうか。どれだけの影響力があるだろうか。

 それをすると決めたのは、境界線を引いているのはあくまでも犯人だ。

 殺人を犯した動機―――犯人にとってはそう足りえたのだ。それ以上でもそれ以下でもなく、犯人にとってはそれで十分だったのだ。犯人の人物像を把握するうえでは重要かもしれないが、動機の重さの程度を個人の尺度で測る意味は全くない。

 あれは、ただ単に―――そういうのが理由になる人もいるという幅の広さを理解する足しになるだけなのである。

 僕がそれはおかしいと言ったところで、それは十分な理由だねと言ったところで、その動機で納得したのは犯人の方である。この場合、希となごみがどういう理由で幻想郷に残ろうが、それが理由足りえれば僕の口が挟みこめる隙間はない。

 それは、僕の夢についても同じだ。

 それはおかしいなんて評価されたところで―――僕の境界線は歪まないのと同じだ。

 

 

「私たちにできること、何かない?」

 

「現状でできることは何もないよ。ここから動くこともできない君たちにできることは何もない。なごみにもそう伝えてくれる?」

 

「そんなこと、なごみも私も最初から分かっているわ。今の私たちが何もできないのなら、これからできるようになりたい。これはなごみと一緒に考えたこと―――和友、私たちに生きる術を教えてほしいの」

 

 

 二人の外来人が真っすぐな視線を向けてくる。

 できること。現状では何もない。飛べない時点で人里に一人で行くこともできないし、移動することもできない。幻想郷は、力がなければ食われてしまうような世界だ。自分の身を守ることができなければ何もできやしない。

 だとすれば、やらなければいけないことは明確だ。

 今、やらなければならないこと。

 今、できるようにならなければならないこと。

 

 

「じゃあ、やってほしいことがあるんだけどいいかな? 次から言う言葉をなごみにも伝えて」

 

 

 僕は、二人にお願いごとを告げた。二人はそれを黙って聞き、口を閉ざしたまま大きく一度だけ頷いた。

 

 

 

 頼みごとをした僕は、希となごみを博麗神社に残して人里に降りてきていた。

 人里に向かった目的は、食料の調達である。赤い霧の異変以降、食料が尽きてきていたため補充に来たというのが、今回の訪問の目的だった。

 すぐ横を見れば、そこには椛がいる。意気消沈していた椛の精神は、こうして外に出てこられるレベルにまで回復していた。

 

 

「椛は、今日は何食べたい? 希望があれば聞くよ?」

 

「……昨日は魚だったので」

 

「お肉が食べたいってことね」

 

「はい」

 

 

 椛は、魚より肉派である。例え昨日が肉料理だとしても今日だって肉料理を食べたいと言ったに違いないと断言できるほど、肉の方が好きである。

 僕は魚の方が好きだけど、霊夢もどっちかというと魚の方が好きな気がするけど、妖怪は肉食系がほとんどだ。なんだかんだ偶にやってくる影狼さんも肉派だし、人間を食べるだけあって肉を好んで食べる妖怪の方が多い。といっても、藍と紫と椛と影狼さんしか知らないんだけどね。

 

 

「あんまり贅沢な使い方はできないから肉じゃがにするかなぁ。人数が増えたせいで食費を上手くやりくりしないと。霊夢の収入も微妙だもんね……日雇いだけだとやっぱり限界があるし、希となごみがすぐに働きに出られるようになるといいんだけど……」

 

「そう簡単にはいかないと思います。というか無理ではないでしょうか?」

 

「確かに霊力を使っての飛行はそもそも力が発現していない二人には難しいと思う。けれど無理ってことはないんじゃない? 僕だってできたんだし」

 

「違います。真面目にやれば、それも素質があれば空を飛ぶなんて簡単にできるでしょう」

 

「だったらなんで?」

 

「それを指導する人間が、あの博麗霊夢だからです」

 

 

 そう―――僕は二人に向けて空を飛ぶ方法を霊夢に教われと言って博麗神社を出てきた。霊夢から霊力の使い方を習い、空を飛べるようになってくださいと言って人里までやってきた。

 僕が希となごみに課した「霊夢に教わって、空を飛べるようになる」というお題は椛にとっては無理に見えるようだ。

 だけど、果たしてそうかな―――霊夢は意外とお節介焼きだから教えてくれると思うけどな。霊夢は冷たいように見えて、意外と頑張っている人間を見捨てない。それを知っているから、僕は霊夢に教われと言ったのだ。

 このときの僕は、特には心配していなかった。

 椛の言っている意味をはき違えていた。

 それを知るのは、博麗神社に戻ってからのことである。

 

 

 

 人里にたどり着いた僕たちは、迷うことなく商業区画に向かい買い物を進めていく。持ってきたかごには次々と食材が入っていった。

 隣にいる椛は鼻が利くようでどれが鮮度が高いか教えてくれる。これを買った方がいい、あれを買った方がいいと僕にアドバイスをくれた。

 幻想郷において食材の管理を行うことは難しい事柄の一つである。理由は、外の世界に普通はあるはずの冷蔵庫がないからである。食材を空気にさらしておくと一瞬で酸化して鮮度が落ちていく。生鮮食品はもって4日が限度だ。夏の時期だともっと短くなって2日で腐敗臭がすることがある。マヨヒガでは電気が通っていたから何でもできたけど、博麗神社に来てからは買い物を行う回数が劇的に増加している。蔵に置くぐらいしか対策がないから、何かしら考えないといけないなと思っているこの頃である。

 そんなことを考えていたら―――もうすぐ買い物が佳境に差し掛かった。

 

 

「次で最後だね」

 

 

 最後に豆腐屋さんで味噌汁の具材と冷奴用の豆腐を買って終わりである。

 最初の頃は、店員はみな僕の隣にいるのが藍から椛に代わっていることを不思議に思っているようだったが、今では慣れた光景だと特に気にせずに商売してくれている。商業区画の商人は人里の中でも特に胆力が強い人が多いから、妖怪が買い物に来ても物怖じせずに接してくれる。疑問を口にしても深追いをしてこないから非常に助かっていた。

 

 

「お、今日はいつもより多いね! 家族でも増えたのかい?」

 

「家族っていうか、居候だね。沢山買うから少し安くしてくれないかな? 結構懐がきつきつでさ」

 

「だめだめ、そういうのを許すと公平感がなくなって売り上げが下がるからな。済まんがこれで我慢してくれ。ほれ、おからだ」

 

「ありがとう、これだけでも嬉しいよ」

 

「こちらこそ、いつもあんがとさん! これからもご贔屓に!」

 

 

 ここの商人たちは、本当にみんな気さくでいい人ばかりである。筆一本の山本さんしかり、日和日の日和さんしかり、いい人ばかりだ。

 

 

「おからかぁ、何にしようかな。肉団子にしよっかな?」

 

 

 

 予想外のおからの入手に頭の中でレシピが回転する。藍と豆腐屋に来た時もよく貰っていた。あのときは大体油揚げを買うついでに貰っていたわけだけど、使い道はおおよそ分かっている。

 

 

「肉団子、いいですね。肉団子にしましょう」

 

 

 椛は肉団子という言葉に期待しているみたいだ。

 帰ったら早く料理を作らないと。霊夢も希もなごみも待っている。

 

 

「あっ……」

 

 

 そんなことを考えていると前方に見知った姿を見かけた。それは、誰よりもよく知っている顔をしていて、誰よりも頭の中で区別されている姿をしていた。

 ゆらゆらと揺れる大きな9本のしっぽ、不思議な帽子、白と青を基調とした衣服を着た女性―――藍の姿が目に入った。

 視界から得た情報が脳内で処理された瞬間、体に力が入った。気付かれてはいけない。記憶は曖昧にしたはず。僕はあくまでも他人のはずだ。

 藍はこちらに向けて足を進めてくる。顔色は悪くない。どうやら前までの生活に戻れているみたいだ。目に隈はできていないし、疲れは見受けられない。

 良かった、藍が助かって。僕は心の底からそう思った。そう思ったら強張った体が弛緩した。

 ああ、もう大丈夫だ。安心して歩いていける。

 

 

「買い物も済んだし、帰ろっか」

 

「挨拶、しなくていいんですか?」

 

「いいよ、元気でいてくれるのならそれで満足だ。もちろん最後にはって思いはあるけど、今はこれで十分。そう、十分すぎるぐらいのご褒美だよ」

 

「そうですか……和友さんがそういうのなら」

 

 

 僕と椛は来た道を戻っていく。ごく自然な表情で歩いていく。

 きっと藍は、これから大好きな油揚げを買うのだろう。橙、紫、そして藍、そして個人的に食べる分―――合計4枚の油揚げを買うのだろう。

 そんな簡単に脳内でイメージできる光景に優しい気持ちになる。

 だけど、話しかけてはいけない。この気持ちを藍に伝えてはいけない。視線を進行方向に向けて藍の視線と合わないようにする。

 僕たちのすぐ隣を藍が通り過ぎる。何事もなく通り過ぎていく藍の姿を見て心の中に安堵感が生まれた。ああ良かった、紫の言った通り記憶はちゃんと消えているみたいだ。

 通り過ぎてから10メートルほど進んだところで一度立ち止まり振り返ってみた。

 藍は嬉しそうに先ほど話した豆腐屋の店員と話している。油揚げが好きなのは変わっていないみたいで、変わらない藍の笑顔に自然と顔が綻ぶ。

 さぁ、僕も前に進もう。藍も新しいスタートを切ったのだ―――僕だって。そう決心して前を向こうとした瞬間、豆腐屋の店員がこちらを指さすのが見えた。

 ―――まずい。

 そう思った時にはすでに遅かった。

 藍がこちらを見た瞬間に目線が交錯した。

 藍の目が大きく開かれる。そして、こちらに向けて走ってくるのが見えた。

 

 

「椛、少し速足で行くよ」

 

「はい」

 

 

 少しだけ速足で人の間を縫うように人里を出ようとする。椛の手を引いて、前進する。焦りが足を回していく。

 今、会ったら駄目だ。会ってしまえば、思い出してしまうかもしれない。思い出してしまったら前と同じ状況になりかねない。そうなったら何のために記憶を曖昧にしたのか分からなくなる。これからの僕の思い描く未来に暗い影が差してしまう。

 

 

「おい! そこの者、待て!! 逃げるな!!」

 

 

 後方から大きな声が響いてくる。藍の声に急かされる様に、僕と椛は勢いよく駆けた。

 だが、藍の声に反応したのか周りの人々に行く手を阻まれた。

 

 

「ちょっと君、賢者の式神が呼んでいるよ!」

 

 

 藍が妖怪の賢者の式ということもあって、人里の人間はどちらかというと藍の側の存在だ。逃げようとする僕たちを止めようと次々と手が伸ばされ、服を掴まれる。

 これは駄目だな―――確実に追いつかれる。

 僕たちの足は完全にその場に停止した。

 僕の肩によく知った温度の手が置かれる。手が置かれただけで、それだけで藍の手だと分かってしまう。よく知った感触に、思わず涙が出そうになった。

 

 

「なぜ私から逃げる!?」

 

「追いかけてくるから、です」

 

「私が追いかける前に逃げただろう?」

 

「…………」

 

「だんまりか。妖怪と一緒に人里に来ていたようだが、買い物にでも来ていたのか?」

 

「そうです」

 

「人と話をするときは目を見て話せと教わらなかったか? こっちを向け、顔を見せろ」

 

「嫌です」

 

「こっちを向け!」

 

 

 両肩を思いっきり引っ張られて正面を向けさせられる。

 藍の顔が目の前にある。よく知った瞳が僕の瞳を貫いてくる。

 ああ、本当に藍だ。藍が目の前にいる。何も変わっていない良く知った顔が、家族の顔がそこにはあった。

 久しぶりだね―――心の中にそう告げて目線を交わす。

 視界に入る藍の瞳には、動揺が見て取れた。

 

 

「……お前、私とどこかで会ったことはないか?」

 

「ありません。少なくとも私に記憶にはありません」

 

「名前を聞かせてもらえないだろうか。私は、会ったことがあると思うのだ」

 

 

 きっぱりと知らないと答えると、藍は寂しそうな表情を見せる。

 思い出せない。だけど、もうそこまで記憶は蘇りつつある。曖昧にした靄を晴らし、世界を照らす時が近づいている。

 両肩に乗せられた手に力が入っているのが伝わってくる。

 どうしたものだろうか。どうしたらいいのだろうか。想定外の状況に困っていると―――椛が明らかに怒りを込めた言葉を吐き出した。

 

 

「離れてもらえませんか?」

 

「何?」

 

「妖怪の賢者の式神が人間相手に何をやっているのです。私たちは何も悪いことはしていません。貴方に迷惑をかけたわけでもありません。その肩に置いている手を放してください。こんな力で脅すようなことをして、妖怪の賢者の従者ともあろうお方が何をなさっているのですか?」

 

「す、すまない! 痛かったか?」

 

 

 藍はそう言って勢いよく離した両手を再び肩に向けてゆっくりと伸ばしてくる。きっと優しく撫でようと思ったのだろう。昔のように、怪我をした時のように、気遣おうとしたのだろう。

 だけど、その手は僕まで届かなかった。椛が伸びてくる藍の手を叩き落としたのである。

 

 

「触れるな!!」

 

「っ……!」

 

 

 椛の明らかな敵意のこもった視線が藍に向けられていた。

 その敵意にあてられたのか、藍の表情にもじわじわと怒りが浮かび上がってくる。

 

 

「貴様……!」

 

 

 周りの人間が一触即発の空気を感じ取って距離を取り始める。

 ああ、どうしてこうなってしまうのだろう。どうしてうまくいかないのだろう。みんな仲良くできるはずなのに。どうして拗れてしまうのだろうか。

 原因は何なのだろうか。

 いいや、原因なんて分かっている。

 そう―――僕にあるって。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 二人に向かって頭を下げる。精一杯の謝罪の気持ちを込めて、頭を九十度まで下げる。

 こうなってしまう原因は、僕が作り出した。こうなってしまったのは僕の責任によるところが大きい。きっと僕がいなければ、こうはなっていなかったはずだから。

 僕は、藍の手を取って叩かれた部分を優しく擦り、謝罪の言葉を告げた。

 

 

「ごめんなさい。痛かったですか?」

 

 

 続いて、椛の頭を優しく撫でた。

 

 

「ごめんね。怒らせちゃって」

 

 

 二人は、黙ったまま何も口にしなかった。されるがままという状態だった。

 きっと突然謝ってきたことに頭がついていかなかったのだろう。どうして謝っているのか理解できなかったのもあるだろう。

 でも、きっとここで謝らなければならないのは僕で間違っていなかった。

 

 

「八雲藍さん、で合っていますよね?」

 

「あ、ああ」

 

「初めまして。私の名前は、笹原和友と言います」

 

「笹原、和友……」

 

「これからよろしくお願いいたします」

 

 

 深々ともう一度頭を下げる。

 これからかけるだろう苦労を想いながら。

 これまでの感謝を込めながら。

 名前を呪文のように繰り返し口にする藍を目の前にしながら誠心誠意を行為として表す。

 

 

「……椛、行こうか。またどこかで会った時は、声をかけてください」

 

 

 それだけを言い残して今度こそ藍を置き去りに歩き出す。椛と共に歩き出す。

 これからの未来を歩む僕の隣にいるのは藍ではない。藍と共に歩む未来はあの時消えたのだ。あの時、紫との勝負に負けて大事なものを把握した瞬間に消えてなくなった。僕と藍は、未来に向かって歩くために過去を置き去りにすることで、前に進んだのだから。

 

 

 人里から抜け出し、空を飛んで博麗神社へと帰る。

 藍が追ってくる様子は見受けられない。どうやら話をした後からついてきていないようだ。

 進行方向を向きながら、今後のことに思考を向ける。

 これからどうすべきだろうか。やらなければならないことは山ほどある。希やなごみのこと、強くなること、料理のこと、藍のこと、椛のこと―――そんな山のような思考に埋もれそうになっていると、唐突に椛から声をかけられた。

 

 

「先ほどはすみません、我慢できませんでした」

 

「何に我慢できなかったの?」

 

「なんだか、和友さんが私の前からいなくなってしまうような、八雲の式神のところに戻ってしまうような、私の居場所が奪われてしまうような気がしたから―――つい手が出てしまいました……」

 

「僕は、もうあそこには戻らないよ。ここでしかできないことがあるから。僕はずっとここにいる。死ぬまでここにいる」

 

 

 椛は、申し訳なさそうな雰囲気を醸し出しながらも嬉しそうに微笑む。

 そう―――藍の隣にはもう僕の居場所はない。藍の隣は、僕がやるべきことをするためには随分と小さすぎた。そして藍にとって僕という居場所は大きすぎた。一緒に生きていく方法もあったけど、それはお互いに破滅を選ぶ道しかなかっただろう。僕が死んだ瞬間に押し潰されて死んでしまったことだろう。

 何にせよ、今日の一件で分かったことがある。それは、記憶を曖昧にして急に記憶が戻るということはなさそうだということだ。今日の藍の反応で大分安心した。僕が行った施術は確実に機能している。それが分かったのは、食料を手に入れるよりも大きな成果だ。

 そして、そんな大きな成果を手に入れた僕を博麗神社で待ち構えていたのは、霊夢の口から発せられる怒声だった。

 

 

「真面目にやりなさい!! そんな適当じゃ空なんて飛べないわよ!!」

 

「それは霊夢の教え方が悪いんじゃん!」

 

「教え方に問題なんてあるわけないわ。この私が直々に教えてあげているのよ! なんでできないのかさっぱり! 素質ないんじゃない? 止めちゃえば?」

 

「絶対に止めないから! 何を言われようとも止める気はないわ! このままお荷物になる気はさらさらないのよ!」

 

 

 なごみも希の言葉を肯定するようにブンブンと首を縦に振る。声なんて届いていないはずなのに。心が通じているとでもいうように諦めたくないと―――目が訴えている。

 これなら大丈夫だ。

 諦めなければ、きっとできるようになる。

 できると信じていれば、できるようになる。

 僕が言うのもなんだけど、人ってそういうものだと思う。

 

 

「あっ!! 和友! いいところに来たわ!!」

 

 

 僕を見つけた希となごみがこちらに駆けてくる。

 顔には不満の表情がべったりの希がまくし立てる様に勢いよく今抱えている気持ちを吐露した。

 

 

「あの鬼巫女になんか言ってやってよ。あんな教え方じゃ永久に飛べやしないわ。フーンってやってビューン!って飛ぶって……小学生の説明かっつーの!」

 

(あんな感覚的な方法じゃ、できる気がしません。私たちに才能がないのかもしれませんが、あれじゃあんまり、かな)

 

 

 うーん、天才型の人は割と感覚でものを伝える人が多いって聞くけど、霊夢もその割合多い方の人間だったようである。

 霊夢はきっと何も考えずに最初からできていたんだろうな。飛ぶということを理論立ててやったわけじゃなくて、飛びたいなとイメージしたら飛べたのだろう。

 僕はこの時初めて椛が人里に行く途中に言っていた言葉の意味が分かった。これは、力の使い方を学ぶまでは飛ぶ練習をするのは止めておいた方がいいかもしれない。このままやっても時間の無駄になる可能性が高い。どうしたものだろうか。

 

 

「ちょっと希! 聞こえてんのよ!」

 

「聞こえているように言っているんだから聞こえるに決まっているじゃない!」

 

「せっかく善意で教えてやるって言っているのにその言い草は何なの!? 私が教えてあげているのよ!?」

 

「それだけの教える実力をつけてから言ってください。無能に言われたくありませーん」

 

「無能はどっちよ! 飛べないくせに!」

 

「それは霊夢の教え方が下手くそなせいでしょう!? そんな小学生みたいな説明しかできないようじゃ話にならないわ。あー、ものを説明できない人間は頭が悪くて適わないわ。こっちまで頭悪くなりそう」

 

「それは逆よ―――希の頭が悪いから私の話が理解できないのよ。私は、希とは次元が違うの。そんなことも分からないの? これだから愚か者は……」

 

「ああ? 喧嘩売ってんの?」

 

 

 売り言葉に買い言葉というように白熱した罵り合いが目の前で繰り広げられる。

 普段言葉数の少ない霊夢がここまで言い争いをしていると、実は仲がいいんじゃないかと思ってしまう。目の前の光景は、思わず笑みをこぼしてしまうぐらい漫才染みていた。

 

 

「和友! 希に言ってやりなさいよ! どっちの立場が上なのか!」

 

「そうそう! 言ってやりなよ! 霊夢の教え方がどれほどド下手くそなのか!」

 

 

 霊夢と希が迫るように顔を近づけてくる。

 本当によく似ている。負けず嫌いなのも。素直じゃないところも。退くに引けなくなっているところも。意固地になるところも。そっくりに見える。

 ふふっ―――目の前の光景に思わず笑ってしまった。

 

 

「何笑ってんのよ? ちゃんと話聞いてたの?」

 

 

 おっといけないけない。

 さて、どうしようか。

 ちょっとだけ思考を巡らせると、ある案が頭の中に浮かび上がった。

 

 

「なごみ、ちょっと来てもらえるかな」

 

 

 なごみと視線を合わせて手招きする。

 なごみは、意図を察することなく僕の近くまで寄ってきた。

 

 

「じゃあ、僕がなごみを教えるから。霊夢は希に教えてあげて。どっちが早く飛べるようになるか勝負ね。負けたら勝った人のいうことを一つ聞くってことで」

 

「「ちょっと待ちなさいよ」」

 

「それだけ息が合っているならすぐにできるようになるよ。分担した方が霊夢の負担も減るだろうし……それとも何かな? まさか霊夢ともあろう人が僕より教えるのが下手なの? 希もまさかなごみよりできるようになるのが遅いってことないよね?」

 

 

 煽るような言葉に、二人の顔色が赤色に染まる。

 

 

「「やってやろうじゃない!! 負けたら覚えておきなさいよ!」」

 

 

 二人は、そう言って元々練習していた場所まで歩いていく。さっきまでの邪険な空気はもはや二人の間にはない。あるのは、勝つという熱意だけだ。

 

 

「霊夢、絶対勝つわよ。なにがなんでもこの勝負、勝つわ!」

 

「当然でしょ? 下手くその称号は和友だけで十分だわ!」

 

「……アホですか、あの二人は」

 

 

 椛があきれた様子で二人を見つめている。

 ふふっ―――さてと……こっちも頑張らないとね。

 そっと、目の前にいるなごみをみていると、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

「さぁ、こっちもさっそくやろうか」

 

 

 視線が合ったなごみが深く頷く。

 

 藍―――今の僕の居場所は、ここにあります。

 どうか、藍にとってもそんな居場所がありますように。

 僕は、今あるこの居場所の中で新たな一歩を踏み出した。

 




影狼さん出したいなぁと思うこの頃です。
出したいけど、尺が足りない……センスの問題ですかね。

感想・評価につきましては、いつでもお待ちしております。モチベーションも上がり、更新速度が気持ち速くなる傾向があります。


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共有するって、そういうこと

第8章の4話目です。
8章は、妖々夢の前のお話になります。


 あれから数か月が経って冬の季節が到来した。

 雪が降り積もり、外は銀世界に様変わりしている。外の世界でも雪が積もる地域に住んでいたとはいえ、幻想郷ほど積もる場所に住んでいなかったからか雪かきの予想外の大変さに追い回されている今日この頃だ。

 

 

「狭い」

 

「そうだね」

 

「寒い」

 

「そうだね」

 

 

 何気なく希から発せられた声に僕だけが反応した。他のみんなは横になって寝そべっている。椛から霊夢からなごみまで、横になっている。

 雪が降れば雪かき―――そんな天気とのいたちごっこの毎日に嫌気がさして寝込んでいる状態である。

 

 

「こたつがあるとはいえ、電気が入ってないから仕方がないよ」

 

「それはそうだけどさ」

 

 

 どこで寝込んでいるのか―――今いる場所は、こたつだった。もちろん電気が通っているわけじゃないから人と妖怪の体温でごまかしているような状態である。

 全員が体を全部入れることができるわけでもないから足だけ入っている体勢で、上半身は服を着こんだり、毛布をかぶったりして過ごしているという状態だ。一応囲炉裏はあるけれども、どうしても隙間風が酷くて火元の傍にいないと寒さに耐えられない。

 こたつに入っている者たちの活動範囲は、冬の寒さに完全にやられてしまって数十センチ程度とかなり狭くなっていた。

 

 

「ああ、暇。こんなに雪が降ったんじゃ空を飛ぶ練習なんてできないし、雪かきはもう飽きたし、動く気力が出てこないんだけど」

 

「そうだね。僕も永遠亭には来なくていいって言われてしまったし、雪かきは不毛な争いになるだけだし、仕事やっていないとここまで暇になるんだね」

 

 

 僕も、雪が積もると永遠亭に訪れる患者がいなくなるからって、仕事をはく奪されてしまっている。本来仕事をやっていた時間は、自動的に能力の練習とコミュニケーションを図ることに回ることになった。少しずつだけど霊力の総量は増加している。それでも、まだまだ足りないというのが現状である。このままだと飛びながら戦うというのは厳しいままだ。

 みんなとのコミュニケーションも十全に図れているとは言い難い。そもそも、十全という基準が分からないわけなんだけど、やっぱり話せないことは話さないし、言えないことは言えないままの状況だ。具体的にいえば、外の世界での希やなごみのことなんて、全くというほど聞くことができていなかった。

 なんとかしなきゃいけない―――そうは思うけれど、どうしたらいいのかも分からない。焦る気持ちと迷う気持ちが僕の未来への歩みを遅くしていた。

 

 

「和友は少し休んだ方がいいよ。いつも一生懸命なのを見ていると心配。なんだか張り詰めた糸みたいで、いつかプッツンって切れてしまいそう」

 

 

 僕って、外から見るとそんな風に見えているんだ。

 毎日毎日必死にやっているのがそう見えたのかな。強くなろうとしているのがそう見えたのかな。

 でも、その在り方で何も問題はない。それで最終的に希の言うように張り詰めたものが切れてしまっても、それが僕にとっては望むべき世界の在りかただ。

 

 

「心配してくれるんだ?」

 

「当然でしょ? 私たち、もう家族みたいなもんじゃん」

 

 

 希の「家族」という言葉にハッとさせられる。

 家族―――その言葉は、僕にとって大きな意味を持つ言葉だ。僕にとってとても特別な言葉。始まりを作り、終わりを作る言葉。物語をスタートさせたのは家族である。そして、きっと物語に幕を下ろすのも家族になる。

 希がどういうつもりで家族という言葉を使ったのか分からないけど。希の言う家族という言葉にどんな意味があるのか僕には判断できないけど、僕の存在を家族として扱ってくれているのだと思うと、とても嬉しかった。

 

 

「……ありがとう。でも、大丈夫。それが僕の生き方だからさ」

 

「「「「……………」」」」

 

 

 そう言ったら、希は複雑そうな顔をして下を向いて口を閉ざした。

 いつの間にか、椛が体を起こして黙ったまま隣にいる。

 なごみも同じように体を起こしてただただ僕を見つめている。

 霊夢は、静寂の中で横になりながら天井を見つめていた。

 

 

「なんでこんなに雪が降るの!? このままじゃ凍死しちゃう! 寒い! 寒いわ! 寒いわー!」

 

 

 静寂な空気をぶち壊すように、唐突に外から絶叫というべき声が響いてきた。

 僕たちの視線が一斉に知った声が響いてくる方向に向けられる。

 時間が経つにつれてどんどん声が大きくなってくる。

 そして、しばらくすると障子に大きな影が差し、両者を隔てていた扉が開け放たれた。

 

 

「和友! 炬燵の中に入れさせて!」

 

「また来ましたよ……本当に博麗神社を都合のいい場所のように使う人ですね。ここは駆け込み寺ではありませんよ」

 

 

 顔を赤くして、耳も真っ赤で現れた人物、椛が露骨に嫌そうな顔をして見つめる相手、その存在は―――今泉影狼である。

 

 

「同族のくせに意地悪しなくてもいいでしょう?」

 

「同族ではないです。何を言っているのですか。私とあなたは違う生き物です。一緒にしないでください。そして、帰ってください。ここは満員です」

 

「別にいいわ。別に貴方に許可をとる必要なんてないもの。私は、和友に聞いているの」

 

「むっ!」

 

 

 そう言いきって、影狼さんが寒そうに体を震わせながら隣にやってくる。その様子は、とても寒いということを如実に表していて、指先の冷たさが視覚から読み取れた。

 それを椛が理解できないわけもない―――椛も鬼ではない。納得いかなさそうな顔で、明らかに不満そうな顔をして大きなため息をつきながらも、それでも了承の言葉を口に出した。

 

 

「はぁ、好きにしてください」

 

「ね、和友。お姉さんがここに入ってもいいでしょう?」

 

「いいけど……」

 

 

 影狼さんは、僕に対してなぜか年上扱いして欲しいというようにお姉さんという言葉を使ってくる。初めて僕と会ってからずっとそう言っている。あの時、一緒の布団で寝て起きてお互いにお互いの存在を認識した時からそう言っている。

 なんでそんなことを言うのか理由を尋ねたら、こういっていたように記憶している。

 

 

「和友って、なんだか守ってあげたくなる。そんな顔をしているからかな? それとも雰囲気がそうなっているのかな? 群れを成して家族を作る私たちからしたら、和友は弟分扱いになるわ。人間の中の関係で言ってもやっぱり弟ってことじゃないの?」

 

 

 人間の関係で言ったら弟にはならないよ。そう突っ込みを入れた僕だったが、結果は現状が如実に表しているとおりである。

 にしても―――守ってあげたくなる顔をしていると言っていたけど、僕ってそんな顔をしているだろうか。もしかしたら、藍と離れたばかりで少しだけ寂しかったからかもしれない。それとも、影狼さんにあくまでも自分が上位でありたいという想いがあるからだろうか。

 弟扱いしてくる理由は僕には分からないけど、ただ影狼さんは嘘をついていないんだろうなって直感的に思った。そう思わせる雰囲気と顔をしている―――それが影狼さんの僕に対する印象だった。

 

 

「外、寒くって! いつもだったら入れていた隠れ家は雪に埋もれちゃうし、どうしようもないのよ!」

 

 

 そんな素直な影狼さんは、歯をがたがたと震わせて寒そうにしている。指先なんて真っ赤で凍傷を起こしそうになっていた。

 僕はもう随分長い間暖まっているし、このままこたつにいたら何もやろうというやる気が起きなさそうだったので、影狼さんと入れ替わろうと行動を開始する。すると、それを見ていた希が声を響かせた。

 

 

「和友、やめときなって。そこを譲ったら和友の入る場所がなくなるよ? こたつの面積限られているんだしさ」

 

「ああ、それもそうね。私が入ったら和友が入れなくなるわ。それだと、和友がかわいそうよね」

 

「少しでも悪い気がするのならそのまま我慢することをお勧めするわ。現状、誰も出ようとしないでしょうし……霊夢は特に」

 

「あ? 私の神社なのになんで私が出る必要があるのよ。希が出ればいいでしょ?」

 

「ほらね、こうなる」

 

「でも、影狼さんも寒そうだしさ……僕は今まで暖まっていたから大丈夫だよ」

 

「そんなの嫌よ。私の気分が悪くなっちゃうわ。私が入ってそれで和友が押し出されるようなことになったらさすがに悪い気がするもの」

 

 

 影狼さんは、寒そうに手を擦り合わせながらその場で佇む。寒そうな影狼さんを見ていると代わってあげたいという気持ちがどんどん大きくなってくる。

 でも、周りからの視線―――特に椛や希、なごみから寄せられる視線が「動くな」と言っているようで、僕は板挟みの中で身動きが取れなかった。

 影狼さんも僕を押し出してまでこたつに入りたいということではなさそうで堪えている。

 影狼さんにとっては、我慢するのと自分が温まるのを天秤にかけた場合に、僕を追い出してまで温まるという選択肢を選べないということなのだろう。周りからの視線ももちろんあるだろうが、そこにははっきりとした優先順位が見て取れた。

 椛は、自制の利く影狼さんを見てはっきりと言った。

 

 

「だったらそこに立っていてください。外よりはこの部屋も十分暖かいはずです。本来なら入れない場所に入れるというだけでも優遇されているのですから我慢してください」

 

「……そうしようかしら。外の洞穴より暖かいのは本当だもの」

 

 

 影狼さんは、一瞬納得してこたつから少し離れた位置にある囲炉裏の方へと歩き出す。

 しかし、あるところでその両足が杭に打たれたように停止した。

 

 

「……いいことを思い付いたわ。そんなことしなくてもこたつに入る方法はあるじゃない」

 

 

 影狼さんは何かを思いついたようで僕の真後ろまで来る。そして、そっと座り込み、僕の脇に両手を差し込んだ。

 嫌な予感がする―――この場合の予感というのは、ある意味予知に近いものがあった。

 

 

「こうすればいいのよ」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ」

 

「いーや。待っていたら凍死しちゃうわ。和友の体温でぬくぬくするの」

 

 

 そう言った瞬間、影狼さんの両手に力が入った。僕の体は妖怪の力に負けていとも簡単に浮遊する。

 影狼さんは僕の体を包み込むように、僕の体が浮いた分の隙間部分に足を滑り込ませてくる。ちょうど影狼さんの正面に抱きしめられるような形になった。

 なんだろう―――とても恥ずかしかった。

 抱きしめられることはあっても、頭を撫でられることはあっても、こういう体勢になったことがなかったからなのか―――自分の顔が赤くなっていくのが見なくても分かった。

 

 

「ね、これでいいでしょう?」

 

「な、なっ……何をやっているんですか!」

 

 

 椛が炬燵から身を乗り出して影狼さんに詰め寄る。今にも手が伸びて掴み上げようとするのではないかと想像してしまうような表情がすぐそばにまで迫っていた。

 

 

「そんなに怒らなくてもいいじゃない。この方が暖かいし、和友の体温気持ちいいし……」

 

 

 影狼さんの僕を抱きしめる力がさらに強くなる。

 背中に押し当てられる柔らかさと温かさ。

 伝わってくる体温。

 まるで、赤ん坊になったみたいだ。

 守られている。

 包まれている。

 抱きしめられているのとはまた違う感覚が僕の心の中に根付いてくる。

 温かくて。

 優しくて。

 あまりにも一方的な想いが背中から温度と一緒に伝わってくる。

 影狼さんの心臓の音が僕の心臓と同期する。

 

 

「和友さんも何やっているのですか! 早く振り払ってください!」

 

「うわ、こういう和友の反応初めて見た。なんだかんだで男の子なんだねー。顔真っ赤じゃん」

 

「……影狼さん、恥ずかしいんだけど」

 

「私は恥ずかしくないよ? 温かくて気持ちいいわ。和友も気持ちいいでしょう? 私の体温で温かくてぬくぬく、背中ポカポカでしょう?」

 

 

 影狼さんの指先や足先の末端は冷たすぎて触れたら思わず離してしまいそうだけど、体の芯だけはしっかりと生きているということを示すように温度を放っている。命の炎を燃やしている。

 両者の温度が平衡状態に移行する。

 体が温まってくると、唐突に瞼が重くなり始めた。安心と疲労からくるだるさが、眠気となって襲ってくる。

 眠気に襲われているのを知ってか知らずか、さらに影狼さんが後ろからゆらゆらとゆっくり揺さぶってくる。まるでゆりかごに乗ったみたいに心地よくて、重くなった瞼にあらがうこともできずに、視界が完全に閉ざされた。

 僕の意識は、そのまままどろみの中に消えていった。

 

 

 

「あれ……」

 

 

 ここはどこだろうか。

 そっと空を仰いでみれば、色彩感覚のずれた空がうごめいている。

 地上に目をやってみれば、見渡す限りの海が広がっている。

 そして、その中には標識と立札が存在感を放ってそこにある。

 いくつかの標識が錆びた部分からボロボロになっている。

 ああ、ここは―――僕のよく知っている世界だ。

 

 

「僕の心の中か……こうして自分から入ったのはこれで三回目かな?」

 

 

 1度目は、2年前に紫と一緒に藍を探しに入ったとき。

 2度目は、紅魔館でフランに祈りを捧げていたとき。

 ただ、無意識で入り込んだという意味ではこれが初めてと言えなくもない。そういう意味では、今回の心の中に入り込んだ現象は非常に特殊な状況だった。

 

 

「確か、影狼さんの腕の中で眠っちゃったんだっけ?」

 

 

 影狼さんに包まれてこたつで一緒にいたところから記憶がぷっつりと消えている。それ以降のことを思い出そうと思っても、何一つ記憶が見つからなかった。

 だとしたら、どうして今の状況が生れているのだろうか。どうして心の中に入っているのだろうか。

 

 

「なんで僕は、心の中に来たんだろう? 心の中に入ってやらないといけない事は今のところないはずだし、何より入ろうとも思っていないのにどうやって入り込んだんだろう?」

 

 

 どうして自分の心の中になんていうと、なんとも冗談染みているように感じるけど、心の中に入るためにはある程度自分の深層に潜り込む必要がある。眠ってしまって心の中に入り込むなんてことは基本的にあり得ない。なにせ、眠ることで見ることができるのはあくまでも夢だからだ。心の中が別の形で具現化され、別の形になったものが見えるだけなのである。

 今みたいに、本当に心の中に入ろうと思ったら、深層心理に潜るということをしなければならない。

 それは、紫の境界を操る能力のように物理的に。

 それは、深い精神集中のように精神的に。

 

 

「分からないな……」

 

 

 自問自答をしてみても答えは出てこない。出てこないのも当然だ。僕個人には心の中に入る目的がないのだから。

 だとしたらどうやって僕は、心の中に入ったのだろうか。

 紫のような存在に連れられた。

 無意識のうちに心に入ろうとしていた。

 大きく二つの可能性が考えられるけど、どうなのだろうか。前者だと誰が呼び込んだのかということになる。後者だと何かしら潜在的に心の中でやらなければならないことがあると思っていることになる。

 連れられてきた方法を、あるいは入った方法を判断できる要素はこの世界に何一つない。

 連れられてきたにしても。

 自分から入ったとしても。

 そこがはっきりしたところで心の中に入れられた、あるいは入った目的は分からない。

 ただ、目的も理由も分からない状況においてこれだけははっきりしていた。

 このまま、現実の世界に戻るという案は無いということである。

 

 

「どっちにしても、理由が分からないと外には出られないかな。自分から潜り込んだのならともかく、無意識に入り込んだとすると、どう出ていいのか分からないし」

 

 

 今の僕は、心の中から出る術を持ち合わせていない。どうすれば自分の心の中から出られるのか知らない。1回目だったら紫を見つけるという方法で。二回目だったら祈るのをやめるという方法で。そのどちらもが、入った方法と同じ方法で行き来している。

 今回の場合は、入った理由や方法が分からないため、同時に出る方法が分からなくなっている。誰かに連れられてきたのなら―――その誰かを見つけて出してもらわなければならない。無意識のうちに入り込んだのであれば、その原因を取り除かなければならないのである。

 だとすれば、やらなければならないことは一つである。

 

 

「さて、とりあえず動くか」

 

 

 僕は、3度目となる心の中をさまよい始めた。

 海抜3メートルのあたりで標識の合間を縫うように飛行する。

 

 

「こうしてみると、随分と標識の数が減ったね。ごめんね、覚えてあげられなかった。だけど、覚えてあげられなかったというその後悔は最後までもっていくよ。これまでと同じように、最後まで抱えていくから」

 

 

 2年前のあの時から随分と標識の数は減った。

 守るべき記憶のいくつかは失われた。

 そして、もうすぐその全てが消失する時がやってくる。

 努力と時間をかけて積み上げた僕の歴史に幕が下りる。

 こうして標識が朽ちていくのをまざまざと見せつけられると、自分の立場がより明確化されているようだった。

 だけど、焦りの感情はなかった。急がなければならないと思いながらも、どうなっても満足して終わりを迎える自信があったから。終わりの形は何であれ、後悔だけは残らないと分かっていたから。

 

 

「最後はみんなと一緒に。これまで積み重ねてきた僕の気持ちと、みんなの記憶と一緒に眠るんだ」

 

 

 後悔を重ね、苦労をして、ここまで来たのだから。

 後悔をしたから努力をした。

 悔しかったから頑張った。

 その全ての感情を抱えて飛んできた。

 

 

「抱えてきた積み荷を降ろす―――その最後に後悔が残るわけがない」

 

 

 失った標識に、記憶に―――誓いを立てる。

 進むべき道を示し、足を進める。

 その歩む道に後悔があったとしても。

 その歩む道の最後には何も残らないのだから。

 

 

 

 

 標識の合間を縫うように飛行して約5分が経過した。

 相変わらず何も変化は見当たらない。

 このまま飛び続けてもおそらく何も見つからないことを薄々感じ始めたとき―――僕の頭の隅に何か違和感が通り抜けた。

 

 

「あっちに誰かいる?」

 

 

 それはよく知っている感覚だった。

 あの時覚えたものと同じ違和感。

 名前と一緒に刻み込んだ、記憶の断片。

 僕の頭の中は、一つの回答を導き出した。

 

 

「そっか、僕をここに呼んだのは……」

 

 

 近づいてくる。

 距離が詰められている。

 違和感が大きくなってくる。

 やっぱり―――そんな言葉が一番似合っている。

 なにせ、ここで僕を見つけることができるのは―――君だけなんだから。

 

 

「おーい!!」

 

 

 わざとらしく後ろを向いていた背中に声が届いた。

 良く知った声色である。

 幻想郷で最も多く聞いた声音である。

 僕は、声が響いた方向に振り向き、頭の中でイメージできている飛んできた存在の姿を視界に収めた。

 

 

「笹原、和友といったか。こんなところで何をしている?」

 

 

 ああ、やっぱりだった。

 やっぱり藍だった。

 

 

「藍さん……あなたこそ、ここに何をしにきたのですか?」

 

「いつの間にかこのよく分からない世界に迷い込んでしまってな。橙とこたつで寝てしまったところまでは覚えているのだが、どうにも後の記憶がない」

 

「私もこたつで寝てしまって、起きたらこんな状況でした」

 

「そうか……どうしたものだろうか。帰る方法が分からないのだが……笹原は何か分かるか?」

 

「ごめんなさい、私も来たばかりで」

 

 

 なんて嘘みたいな本当の話をする。

 ここが僕の心の中の世界だとは言わない。あくまでも、何も知らない体で話を進める。分かっていなくても、知っていなくても、ここに藍がいるという事実だけで僕は嬉しかったのだから。そこに、理解の差は関係なかったのだから。

 

 

「色々考えてみたのだが、ここは夢の世界なのではないだろうか? 居心地は悪くない。むしろ心地よい場所だ。気持ち悪さを感じるかと思ったが、思った以上に拒否感はない。それはきっと、ここが心のどこかで望んでいる場所だからだと思うのだ」

 

 

 藍は、少し嬉しそうな顔で話をする。

 僕は、藍がこの世界にいると分かった瞬間に、心の中に入ってしまった理由が分かった。

 

 

「それに、ちょうど笹原のことを考えていたときに眠ってしまったからな。人里で会ってからずっと考えていた。どこかで会った気がする笹原のことをな」

 

 

 僕をこの世界に呼んだのは、藍の方だ。

 藍が僕を呼んだんだ。

 記憶を失っても心の距離は変わらないと言わんばかりに、見せつけるような藍の笑顔が目の前にある。

 

 

「お、おい。急に泣き出してどうした? 鬼にでも追いかけられたか?」

 

 

 知らず知らずのうちに涙が流れていた。

 慌てて瞳から流れた涙を袖でふき取る。

 そんな僕にそっと藍の手が伸びる。

 藍の手は頭の上に乗り、ぐりぐりと力強く撫でられた。

 

 

「安心しろ。私が守ってやるからな」

 

 

 その言葉は、何よりも力強く輝きを放っていた。

 あの時のように抱きしめられることはなかったけど。

 あの時のように抱きしめることもなかったけど。

 そこには、確かな温かさがあった。

 

 

「最近橙の奴がな、随分と甘えん坊になって常に隣のいようとするのだ。どうしたものか私には判断がつかなくて紫様に相談したが……任せるの一点張りでどうしたものだろうか?」

 

「藍さんも、甘えられるのはまんざらでもないんでしょう?」

 

「それはそうだが……なんだか私自身も堕落しているようで、頭の片隅から声がするのだ―――依存するなと。戻れなくなるぞと」

 

「程度の問題なのかな。橙さんの方にも甘える要因があるんじゃないかな。理由というか、話を直接してみると何か分かるかも?」

 

 

 どれほど会話を続けただろうか。

 どれほどの時間を埋められただろうか。

 藍の記憶を消したあの夜から今までの穴をどれほど塞げただろうか。

 紫はあれからも情報をちょくちょく届けてくれる。

 こちらの情報もちょくちょく渡している。

 だけど、藍から見た世界もまた新鮮で、そこにいる藍が笑っているのが想像できて、僕まで楽しくなりそうだった。

 紫の話、藍の話、橙の話、そして僕の話。

 もともと家族だった一団はちょっとだけバラバラになってしまったけど、こうして繋がっている。紫とはスキマで。藍とは心で。橙とは約束で。みんなと繋がっている。

 藍が僕を呼べたのは、心が繋がったままだったからだろう。そして、僕の世界に迷い込んできたから、あるいは僕の心の中に入ってきたから。だから―――僕はこうして心の中に入ったのだろう。あるいは、無意識のうちに藍を呼んでしまったのかもしれない。なんにせよ、まるで―――夢を見ているようだった。

 

 

「橙と真面目な話……できるだろうか」

 

「できるよ。橙さんだってもう大人だよ。約束も守れる、大事なものを持っている。ちゃんとした妖怪なんだから」

 

 

 橙は、僕との約束を守ってくれている。

 今の藍の様子を見ていれば―――いいや、そんなもの見なくても橙が僕との約束を守ってくれることを疑う必要性なんてなかった。

 橙は、誰よりも家族全体が見えているのだから。1人の辛さを知っているのだから。家族の大切さを分かっているのだから。僕にとっての約束の意味を理解しているのだから。

 

 

「会ったこともないだろうに、どうしてそこまで信頼できるのだ?」

 

 

 会ったことがなかったら信頼なんてできないよ。そう答えたくなる気持ちを必死に堪える。

 会えていなかったら。出会うことができていなかったら。そんなことが想像できないぐらいに僕たちは繋がっている。

 藍はどうだろうか。

 僕たちが出会えていなかったら、どうなっていたと思う?

 橙がいなかったらどうなっていたと思う?

 みんなが出会えていなかったらどうなっていたと思う?

 僕たちが家族になっていなかったらどうなっていたと思う?

 いつか―――そんな話ができたらいいね。

 僕たちがまた同じ景色を見られるようになったら、その時全員で、縁側で空を見上げながら―――あの時のように話ができるといいね。

 僕たちが家族になったあの時と同じように。

 

 

「ごめんね、そろそろ出ようと思うんだけどいいかな?」

 

「何、出られるのか? 和友は出られる方法を見つけたのか?」

 

 

 ここから出る方法は、考えてみればすぐに思いついた。

 どうして心の中に入ったのかを理解していれば、すぐに答えが出る問題だった。

 

 

「簡単だよ。お別れすればいいんだ」

 

「どういうことだ?」

 

「僕と藍さんがお別れをすればいい。ここは、藍さんが僕に会いたいと思って作り出した空間なのだから。お別れすればきっと戻れるよ」

 

 

 僕の言葉に藍の表情が若干曇る。

 そんな顔をしないで。

 僕たちはもう出会ったのだから。

 お別れは―――また会うための挨拶だから。

 

 

「私はもう少し話をしていたいのだが……」

 

「わがまま言わないで。何も今回限りじゃないよ。また会えるから、だから今はお別れだ。今度は現実の世界で。次に会うときには、この夢が現実になっているはずだから。また今度――またね、のお別れだよ」

 

 

 そうだ、僕たちが会うべきは僕の心の世界ではない。

 少し寂しそうにする藍に向けて手を振り、笑みを浮かべる。

 

 

「またね、藍」

 

「また、な、和友」

 

 

 そういって手を振る。

 すると世界が闇に包まれて真っ暗になった。

 ああ、なんて夢みたいな時だっただろうか。

 

 

「願わくば―――これが正夢になりますように」

 

 

 今まで願ったことのない想いを言葉にする。

 少しだけ名残惜しく思いながら、きっと繋がっている真っ暗な空を見上げた。

 しばらくすると暗闇に光が差してきた。

 うっすらとぼやける視界に瞬きを繰り返す。

 そこはもう無秩序な世界ではない。

 秩序ある、境界線の区切られた世界。

 今の家族がいる―――僕の世界。

 

 

「やっと起きたわね。このお寝坊さんめ。お姉さんにあまり迷惑かけちゃいけないわよ」

 

「さっきまで一緒になって寝ていたあなたがそれを言いますか?」

 

「椛はいつも私に対して辛辣よね。同族なのに」

 

「だから同族ではありません!」

 

「犬が二人して煩いわね。今からでも妖怪退治を始めてもいいのよ? 痛めつけられたくなかったら黙っていなさい」

 

「ほらほら、和友! もう晩御飯ができるわよ。今日は私の自信作だから」

 

(ほとんど作ったのは私です)

 

 

 目の前には、湯気の上がっている鍋があった。

 周りには、いつも通りのやり取りがあった。いつも通りの景色があった。いつも通りの情景があった。

 これが―――今の僕にとっての家族。

 

 

「ねぇ、もちろん僕の分もあるんだよね?」

 

「「「「「当たり前でしょ?」」」」」

 

 

 そんな当たり前のように返される言葉に―――また目頭が熱くなった。

 




家族っていいですね。
形は変わっても、離れても、何かを共有して繋がっている。
書いていて少し優しい気持ちになれました。

次回から妖々夢に入っていきます。
妖々夢で登場するキャラを考えてみると
アリスや妖夢、そして幽々子が今まで一度も名前すら出したことのない事実にちょっと驚いてしまいます。
いずれも好きなキャラクターではあるのですが、違和感なく作品に登場させるのが難しいというのと、話が長くなるので省いたというのが、大きな原因ですね。

妖々夢では
椛が活躍する予定です。
希となごみは、もうちょっと後で活躍の場があります。

感想については、いつでもお待ちしております。


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第九章 東方妖々夢
終わりと繋がらない始まり、そんな冬の夜の小話


全6話編成になる予定の第9章の1話目です。
9章は、妖々夢のお話になります。


「和友は、幽霊の存在って信じるかしら?」

 

 

 紫が唐突にそう問いかけてきた。ちょうど真冬の寒さが極まっている季節で外に出ることも億劫になるような、そんな夜のことである。

 

 

「唐突にどうしたの?」

 

「ちょっと気になっただけよ。で、どうなのかしら?」

 

 

 紫は、スキマから上半身だけを出して前のめりに回答を迫ってくる。最初に紫を見つけたときのように、「私が見えているの?」と問いかけたときと同じような体勢で、あの時とは違う優しさが垣間見える表情で―――家族である紫が問いかけてきた。

 

 

「幽霊か……」

 

 

 幽霊を信じるか―――その質問は小学生の頃にもされた覚えがある。

 幽霊、それはよく魂と表現される。死者の魂として扱われる。ちょうど多感な時期に差し掛かるそのころに恐怖の象徴とされる存在―――それが幽霊である。

 例を挙げれば、視線を感じる、急に物音がした、寒気がする、そういうよく分からないものを説明するのに幽霊の仕業だとすることがある。恐怖心が脳内に幽霊の存在を作り出すのである。それはもはや、想像の域を超えた妄想に近いものだ。

 被害妄想ともいうべき想像から生まれる幽霊の存在。こう言うと幽霊が見えている人や見たことがある人から反感を買うかもしれないが、僕は見たことがないからここではこういう表現になっていることを許してほしい。

 ただ、この認識だけは見えている人と一致することだろう。幽霊の持つ本質は、妖怪が持つ性質に類似しているということである。見える人には見えるという意味でも。恐怖を与える存在だということも。両者の性質には共通点が多い。

 ただし、明らかに違う点が一つある。

 幽霊というのは、生まれる原因が生きていた存在が死ぬことで生まれるものだということである。そして、死んだ者に準じた特性を持っているということである。死人がいなければ、幽霊は存在しないのだ。

 妖怪の場合は、人間の恐怖や畏怖といった想像から生まれている。無からというと言い過ぎている感じはあるが、何かが変化して生まれるものではない。例外はもちろんあると思うけど、ほとんどの妖怪は何もない空間に突如として生まれているはずである。

 妖怪は無から生まれる。

 幽霊は有から生まれる。

 この両者の違いは、両者を大きく隔てていて、お互いを区別している。人間と妖怪の区別がついていない僕の中でもはっきりと別ものとして扱われている。

 さて、僕にとって幽霊の存在とはどういうものだろうか、ちょっとだけ考えてみる。これまで幽霊というものを一度も見たことがない身で考えてみる。

 僕は幽霊という存在を一度も見たことがなかったけど、見たことがあるという人の話は聞いたことがあった。テレビや友達からそんな話を耳にしたことがあった。聞くところによると幽霊のどれもが白く、人魂や人の形をしていたという。

 見たことがない僕には想像することしかできないし、存在すると断言することはできないけれども、大方の人間はきっと信じないと答えるだろう。それは僕も同じである。見たことがない者は信じることができない―――僕だってそんな普通の回答を持っていた。

 

 

「僕は信じていないかな。幽霊の存在を認めてはいるけど、信じてはいない」

 

「認めているけど、信じていない?」

 

「紫も言っていたでしょ? 信じると認めるは違うんだって。信じることはあることを肯定すること。認めることは否定しないことなんだって」

 

 

 幽霊を信じる―――それは存在を肯定する行為である。

 幽霊を認める―――それは存在を容認する行為である。

 両者は似ているようで似ていない。

 前者は、いると断言すること。その人の頭の中に確固たる存在として確定しているということ。

 後者は、いてもいなくてもどっちでもいいということ。いたとしても別に構わないし、いないならいないでいいということである。それは否定をしないということ。

 これは、幻想郷に連れてこられて紫から初めに教えてもらった事柄だ。

 

 

「ええ、確かに言ったわね。あれは和友を幻想郷に連れてきた時のことだったかしら?」

 

「よく覚えているね」

 

「忘れられないもの。これも私の大切な思い出だから」

 

 

 紫は、懐かしい記憶を取り出して少し嬉しそうな顔をする。

 そんな紫を見て僕の頬もほころんだ。

 

 

「幽霊については、いてもいいと思うし、いなくてもいいと思うんだよね。そう―――どっちでもいいと思うんだ」

 

「そうね、和友らしい回答だと思うわ……そんな和友にちょっと聞いてみたいことがあるのだけどいいかしら?」

 

 

 少しの間を置いた紫の口から疑問符が放たれた。

 普段は勢いづいてこっちの事情をほとんど気にせずに質問を投げかけてくる紫がワンクッションを入れてくる。

 こういう場合に聞かれることはいつも同じだ。

 内容はまちまちだけど、関係していることはいつだって同じもの。

 気にしなくてもいいのにと思うけど、構わないよといつも言っているけど、それでも気にしてくる。気を遣ってくる。

 だけど、僕はそれを面倒だとは思わなかった。だってそれは、紫が僕を大事に思ってくれていることの証明だから。

 

 

「いいよ。何でも言って。僕に対して遠慮することなんてないよ」

 

「そんなわけにはいかないわ。これは和友にとって大切なことなのだから。和友はもう少し、気を遣われることに慣れなさい。そうやって相手にばかり気を遣って、遣われるのは嫌なんてわがままよ。この話は、ないがしろにしてはならないことなのだから。貴方にとっても、そして―――私にとってもね」

 

「いつも気を遣ってくれてありがとう。僕は、紫の優しさに守られてばっかりだね」

 

「そんなことないわ。私たちだっていつも和友の優しさに守られてばかりだった……甘えて、寄りかかって、包まれていた。そんな和友がいたから―――私たちは家族になれたのよ」

 

「きっと僕がいなくても、みんなは家族に成れたと思うよ? なんだかんだで、みんな繋がりを持っていたし、引き付けあって、集まったと思う」

 

「……きっとそうでしょうね。和友がいなくても、私たちは家族に成れた」

 

 

 家族に成れた―――きっと僕がいなくてもみんなは家族に成れただろう。僕がいなくても紫と藍は主従関係を結んでいたし、橙とだってどこかで繋がったことだろう。家族の形は違えど、そこには確かに別の家族としての形が形成されたことだろう。

 紫もそんな僕の予想を否定しなかった。

 だけど、そこから先に紫の口から出た言葉は僕の予想を裏切る言葉だった。

 

 

「けれど、きっとそれは特別な家族だったわ。特別な私と、特別な藍と、特別な橙がいる。それぞれが特別な関係を持っていて。特別な日常を送っている。そんな家族の形だったと思うの」

 

 

 紫は、少年が来ていなかった場合の自分たちの生活を想った。2年前までの自分たちの生活を思い返しながら、そのままの生活が続いていたらなんていう想像を巡らせた。

 

 

「そうね……マヨヒガにはずっと橙だけいて。どこか分からないところに私がいて。眠っている私の代わりに藍が働いて。ただ、それだけの家族だったと思うの」

 

 

 そんな特別な家族の関係を壊したのが少年の存在である。

 誰に対しても特別扱いをしない少年の存在である。

 嬉しい時に嬉しいと言う。

 楽しい時に楽しいと言う。

 苦しい時に我慢をする。

 悲しい時に涙を流す。

 時に同じ感情を共有する。

 時に共有できない感情に苛立つ。

 そんな普通のことができるのだと、何も特別な存在じゃないと教えてくれた。

 何でもできるわけじゃない。孤高の存在でもない。何でも自分で抱え込むことはない。全てを飲み込む必要はない。誰かを頼り、誰かを信じ、誰かを想う。そんな普通の存在としての自分を見つけてくれた。

 

 

「和友が教えてくれたのよ? 和友が私のことを特別な存在じゃないと教えてくれたから。私にとっての和友だって特別な存在じゃないから。だから、私たちは普通の家族に成れたのよ」

 

 

 特別でも何でもなくて、特殊でも何でもなくて。

 どこにでもあるような、どこにでもいるような。

 ありふれた家族に。

 

 

「ねぇ、そうでしょう? 私たちは同じ景色を共有しているわ。同じ日々を過ごして、横並びで歩いて、同じものを見て、同じ方向を向いている。これはそんなただの普通の家族からのお節介なの。普通の家族の大切な和友に向けたお節介―――だから、素直に受け取りなさい」

 

 

 どうしてだろうか。

 どうしてこんなに心がざわついているのだろうか。

 僕の口からは、うん―――その一言しか出てこなかった。

 それ以上の言葉が詰まって出てこなかった。

 頷くのが精いっぱいだった。

 嬉しくて、涙が出そうで、言葉が行方を失った。

 もうすぐこぼれそうになる涙を必死に堪えて、詰まった言葉を必死に吐き出す。詰まった感情を吹き飛ばすように無理やりに話を戻した。

 

 

「それで、僕に聞きたいことって何かな?」

 

「和友は、もしも幽霊になった両親となら会えるって言われたら会いたいかしら? 会って話をしたいって思う?」

 

「幽霊になった両親と、か……難しい質問だね。今まで考えたこともなかったよ」

 

 

 両親に会いたいかと言われれば、素直に会いたいと言うだろう。

 話したいことは山ほどある。これまでのお礼もしたいし、今の自分がどうなっているのかも報告したい。あの日、強盗殺人犯が家に入った日、どんなことを想って死んだのか。僕にどうしてほしいと思っているのか。生きている人に対する―――僕に対する想いを聞いてみたいという気持ちはある。

 だけど、幽霊として現れた両親と会いたいかと言われると複雑な気持ちになる自分がいた。だって、両親はもう死んでしまっているのだから。そして、何よりも僕自身が両親のことを識別できないからである。

 

 

「僕は……会いたくはないかな」

 

「そう……てっきり和友は会いたいって言うと思っていたわ。外の世界、それも両親に関してはかなり未練があるでしょう? いきなりの別れだったでしょうし、話しておきたいこともたくさんあるのではないかしら?」

 

「それはもちろんあるけど……会ってもそれが本当に僕の両親なのか判別できないし、死人に口なしってわけじゃないけど、死人からは何も受け取れないから。ふわふわしている幽霊に動かされるほど浮足立っているわけでもないしね」

 

 

 例え、何を言われたとしても。

 例え、何を想われたとしても。

 果たしてそれを受け取ることができるだろうか。

 軽すぎるその想いを受け止めることはできるだろうか。

 死人には何もできない。死んだ人は生きている人に何も与えられない。そこには温度もなければ、重みもない。さまよっているだけの幽霊には、地に足をつけて歩いている者は動かせないのだ。重みを失い、想いだけが浮足立ってふわふわしている幽霊に心を動かされるほど、僕は重さがない想いを持っていない。

 

 

「幽霊として出てくる両親を見たくないってこともあるけどね。だって、それって何か現世に縛り付ける想いがあったってことでしょう? 僕は、死んでまで心配されたくないから。両親には死んでまで苦しんでほしくないから」

 

 

 もしも、幽霊として両親が僕の目の前に現れたらそれはきっと僕の責任なのだろう。僕が縛り付けているのだろう。生きている間も相当に縛っていたのに、死んだ後も縛ってしまうなんて考えたくもなかった。

 僕は覚えていられなくて。両親は僕を覚えていて。それで幽霊として僕の前に現れるとしたら何て酷い悪夢なのだろうと思う。

 会いたくないなんて言うと親不孝者なのかもしれないけど、やっぱり僕は幽霊として出てくる両親なんて見たくなかった。

 

 

「何も幽霊全てが後悔や未練を持っているわけじゃないわ。こと幻想郷に限って言えば、なおさらね。半人半霊なんて存在もいるぐらいだし、幽霊という存在も案外悪くはないと思うわよ?」

 

「そうかな? 僕には余りいいもののようには思えないけど」

 

「幽霊になれば、寿命とは無縁の生活が送れるわ。それまでの記憶を失ってしまう可能性は少なからずあるけど、死んだ存在として、それこそ未来永劫生き続けることができる」

 

「死んでいるのに、生きているの?」

 

「そうね。そういう意味では、幽霊って矛盾した存在なのでしょうね」

 

 

 死んでいるのに、生きている。

 寿命という運命ともいうべき枷から外れて、独り歩きする。

 それは、何て悪い冗談だろうか。

 それは、何と恐ろしいことだろうか。

 

 

「和友だったらどうする? 幽霊になってみたい? そうすれば、今みたいな苦しみを味わうこともないし、死の危険に冒されることもなくなるわ」

 

「そういう話、永遠亭でも言われたね。結局、一度しか会えていないけど……」

 

 

 紫の話を聞いて病気で入院していたとき、ふとある人に話しかけられたことを思い出した。名前も聞いていない、その場限りの一回きりの会頭だった。

 その人からすれば、ほんの戯れだったのだろう。気まぐれの一言だったのだろう。結局その人とはそれ以来会っていないけど、その時の話は酷く記憶に残っている。

 

 

「貴方は、永遠の命が手に入る薬が手の届くところにあったらどうするかしら?」

 

「見向きもしないと思うよ。僕は、ゴールテープを自分で消すようなことは絶対にしない」

 

 

 その時の僕はそう答えたはずだ。迷うことなく、詰まることなく、心に抱えた思いをそのまま吐き出したはずだ。

 紫の質問も厳密には異なるが、その時にされた質問と本質は同じだろう。

 幽霊になる―――そんな自分を想像してみる。生きていたときの記憶を持っているか持っていないかに関わらず死んで、幽霊として存在している自分を想像する。

 その瞬間、感情が騒めき出した。嫌だと、受け入れられないと。心が絶叫ともいうべき叫びを発した。

 

 

「やっぱり嫌だ。幽霊にはなりたくない」

 

「どうして? 今までの生活をガラッと一新することができるのよ? 新しい体で不自由のない生活を送ることができるのよ? 運命から解き放たれて、何にも縛られることなく真に自由になることができるのよ?」

 

「嫌だよ、そんなの。だって、それは運命から見放されただけじゃないか。生き物というものから、人間というものから、世界から見放されただけ。置き去りにされて、置いてけぼりにされただけじゃないか」

 

 

 生きているから死ぬ。

 死ぬから生きている。

 幽霊になって死ぬことを忘れてしまったら、どこに行くというのか。

 終わりを知らずに、どこに走れというのだろうか。

 そんなものただそこにあるだけだ。ただそこにいるだけ。いうなれば道端の石ころと同じ。特に何をするでもなく、特に何を想うこともない。そこにいれれば満足で、そこで時間を過ごせれば十全で、変化することなく、何物にも影響を受けない。

 そんなもの生きているなんて言わない。

 そんなものどこにもたどり着けやしない。

 

 

「そんなことになったらさまようだけだ。どこにも行けなくなる。どこにも走れなくなる。自由しかなくなって、不自由がなくなって。それで本当に自由が感じられるなんて僕は思わない。僕は、誰かに縛られているから、何かに繋がっているから―――だから迷わずにいられるんだよ」

 

 

 完全な自由が得られたら―――僕はどこに行くだろうか。どこに向かえばいいのだろうか。自由になるというのは、しがらみを捨てるということ。具体的に言えば、周りの人間と一切関係を持たず、周りの事象に関与せず、何もしないということである。

 それは、目印もなく、こちらを呼んでいる声も聞こえず、殺風景の砂漠の中心にいるようなものだ。

 繋がりがあるから束縛される。

 関係性があるから不自由が生まれる。

 誰かが繋いでくれるから。

 何かが縛っているから。

 だからこそ、僕は前を向いていられるのだ。

 だからこそ、走っていたいと思うのだ。

 

 

「人生のゴールは、生き物として死ぬことだ。それすらも失ったら前さえ向けなくなる」

 

 

 ゴールを失った走者は、そこで佇むだけ。

 スタートを切る銃声はとっくに放たれたのに、切るためのゴールテープがないなんて、進むべき方角が無いなんて、僕には耐えられる気がしなかった。ましてや幽霊ならなおさらだ。生きていない幽霊なら、なおさら生きていられない。少なくとも、僕には無理な話だった。

 

 

「死から繋がるものなんてない。もしも、そこから幽霊という存在になるのだとしたら、きっとそれは違う者だ。それまで生きてきたその人じゃなくて、別の誰かだと思うよ。別の何かになっているんだ」

 

 

 仮に、僕の友達が死んで幽霊になったとしよう。死因は何でもいい。病気でも、怪我でも、事故でも何でもいい。

 きっと、幽霊になった友達に会った僕はこう言うだろう。

 初めまして、これからよろしくお願いしますと。

 人間として生きていた友人は死んだのだ。僕の友達は死んだのだ。死んだら終わりで、文字通り後には一切続かないのだ。終わりは始まり―――何て言う人もいるけど、終わりは終わりで始まりは始まりで、両者は確かに違ったもの。

 僕には同じ者には見えなかった。同じ者として区別できなかった。

 同じ容姿で同じ見た目かもしれないけれど、目の前にいる幽霊の友人は人間として生きていた友人とは違う。

 

 

「生きている人はみんな命を輝かせている。よく蝋燭なんかで例えられるけど、命の灯って光っているんだ。大なり小なり形に差異はあるけど、みんな何かしらの想いをもって生きている。ここにいるみんなだって、色んな気持ちを抱えて命を燃やしている。そう―――生きているんだよ。もちろん紫だって、沢山の想いを抱えて“生きている”」

 

「ええ」

 

「それが全部なくなる。死んでしまって、幽霊となったときに―――紫の言う真の自由になって、繋がりという重荷を全て降ろしてしまう。俗世から離れて、守ることを忘れて、大切なものを失って、残っているのは軽くなった体だけ、魂だけだ。それはもう別人だと思わない?」

 

 

 紫はその一言に押し黙った。

 何か思い当たる節でもあるのだろうか。

 複雑な表情で、少し悲しげな瞳でこちらを伺うように佇む。

 僕を幽霊にする案でもあったのだろうか。何て、必ずあったであろう意見を思い描く。

 ごめんね、そうなったらきっと現れる幽霊は、きっと僕じゃない僕だ。

 僕に似た―――僕とは違う僕。

 

 

「死んで生まれ変わる。何て言うと僕の心の中みたいだなって思うけど、それで間違っていないんだと思う。心が死んで新しい心が生れるように。死んで幽霊になったとしたら、やっぱりそれも別の者だ」

 

 

 きっと幽霊になって出たら僕自身もそう思うはずだ。

 生きていたころの僕と重ねてほしくないと。

 同じ存在として扱ってほしくないと。

 生きていた僕は、今いる僕で。

 死んでしまって生まれた幽霊は、新しい僕で。

 きっと二人とも、区別してほしいと思うはずだから。

 

 

「紫はどう思う? 僕が幽霊になって出てきたら。今縛られている不自由を捨てて、努力もせず、変わろうとせず、もう走りたくないって、ただそこで立っているだけの僕をどう思う?」

 

「そんなの嫌よ。和友じゃないわ。私の知っている和友じゃない」

 

 

 首を振って答えてくれる紫に思わず嬉しくなる。

 そんなの僕じゃないと言ってくれるだけ、今の僕を見てくれているということ。

 そして、それは僕も同じである。

 僕も同じだけ今の紫を見ている。

 

 

「僕も嫌だよ。紫が幽霊になって出てくるなんて想像もしたくない。僕が知っているのは今の紫だから。今の家族になってくれた紫だから。死んで幽霊になって出てくるなんて言わないでね」

 

「口が裂けても言わないわ。私は今の私を捨てる気なんてこれっぽっちもないもの」

 

「だけど、もしも幽霊として出てきたら―――その時はまたその場所から始めよう? また1から。終わりを終えて、始まりを始めよう。決して終わりと繋がっていない始まりをね」

 

 

 ええ―――そう肯定してくれた紫の表情は晴れやかで。

 終わりが目の前に迫っている僕たちは、真冬の静かな夜に静かに笑っていた。




貴方は幽霊の存在を信じますか?
死んだ両親に会いたいですか?
幽霊になりたいですか?
主に三つの問いかけがありました。
何かしら想うことがあったら作者としては幸いです。

これから妖々夢に入るということで若干幽々子様を意識しているところはあります。
幽々子様は、もろにまた最初から(0から)スタートした人間ですよね。

本来この話は、各章に設けている俗にいう前書きというものです。
3000字ぐらいに収めたい話ではありましたが、ここまで長くなってしまいました。

妖々夢には、橙、藍、紫の八雲家全員が出るので楽しみで仕方がありません。
次回は、橙が出るかなってところまでは書くつもりです。
久々に出てくる橙にワクワクしますね。


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変化するものもある、だけど本質は変わらない

全6話編成になる予定の第9章の2話目です。
9章は、妖々夢のお話になります。



 異変の始まりは、まさに唐突だった。きっかけがどこにあったのかは分からない。いきなり過ぎて前触れなんて何もなかった。

 そう―――ある日、誰しもが思っていたことを霊夢が言ったのである。

 4月になっても、そして5月に差し掛かかろうとしても一向に雪がやむ気配がない。外の世界から幻想郷に来た僕、希、なごみは、幻想郷における冬についてそこまで詳しくないから「そういうときもあるのかもしれない」なんて心の中で思っていたけども、椛はしきりにふすまの向こうの雪を見上げていたけども、影狼さんはいつになっても博麗神社で寝泊まりしていたけど。

 今思えば、みんな待っていたのかもしれない。知らず知らずのうちに、無意識のうちに。

 そう思うと何となく納得できる。そう考えると何となく頷いてしまう自分がいる。

 僕たちはずっと待っていたんだ、霊夢の口からある言葉が出てくるのを。その瞬間が―――ずっと前から続いていた異変の始まりを告げる鐘だと知っていたから。

 

 

「これは異変よ」

 

 

 霊夢の口から出た言葉は、誰しもが思っていたことで誰もが心に秘めていたこと。博麗神社にいる者、誰もが季節外れの雪が降りしきる景色を見ながらその言葉を素直に受け入れ、ただ静かに一度だけ頷いた。

 

 

「行ってくるわ。こんなに寒いままじゃ食べ物に困るし、参拝客も来ないし、日雇いの仕事もできやしない。冬にあぐらをかいて寝ている春を叩き起こしに行ってくるわ」

 

 

 異変を告げた霊夢の行動は、素早かった。

 すぐさま普段着ている巫女装束の上にマフラーと手袋、そして上着を着るのかと思ったら何も着ずに4月なのに真冬のような雪の降りしきる世界へと飛び出していった。

 行く当てなんて何もないだろうに。

 行き先なんて何も考えていないだろうに。

 直感だけを頼りに、感覚だけを信じて、真冬のような春の空を飛んで行った。

 だんだんと霊夢の後ろ姿が小さくなってくる。真っ白な世界に栄える赤色が薄くなっていく。

 僕たちは、遠くなる後ろ姿に謎の存在感を覚えながら霊夢を見送り、そして後追いするように行動を開始した。

 

 

「それじゃあ僕も行ってくるよ」

 

 

 さて、そろそろ行こうか。なんて思うけど、本当なら霊夢より先に出発していないといけない立場である。

 大きくフライングをしている状況でなければ、異変を解決する場面にはとてもではないが立ち会えないかもしれないけど―――そんな普通に現実になりそうな想像を持ちながら意気込んで足を伸ばす。

 異変に参加する意味はあくまでも思い出づくりだ。別に異変を解決できるなんてそんな思いあがったことは考えていない。僕自身は異変を解決するほどの力は持っていないのだから。それは、紅魔館での一件で身に染みている。

 だけどそれは、今はできないだけのこと。それはまだ今の僕にとっての高望みなだけ。もっともっと高みに上ってからの楽しみである。

 

 

「私も行きます」

 

 

 そう言って僕の隣に立ったのは、椛である。

 僕が贈ったボロボロのマフラーを首に巻いて。天狗装束の上から一枚の着物を着こんで。覚悟を決めた表情でしっかりと両足をついている。

 この前に起こった赤い霧の異変の時とは違う。たった一言、「私も行きます」という言葉だったが、そこにあるのは義務感ではなかった。使命感でもなかった。やらなければならないという責任感でもなかった。

 そこには、自分がやりたいからやっているという意思だけが感じられた。

 

 

「行ってらっしゃい。私たちも飛べるようになったら、戦える力がついたら―――その隣を歩くから」

 

(今は私たちの前を走っていてください。私たちも直に追いつきます)

 

「二人のことは、このお姉さんに任せておきなさい。絶対に守ってあげるわ」

 

 

 希となごみと影狼さんがそれぞれの言葉を残して博麗神社に留まることを宣言する。そして、目線を合わせることなく息を合わせたように同じ言葉を口にした。

 

 

「「「無事に帰ってきて」」」

 

 

 保障なんてできない。絶対なんて口が裂けても言えない。僕の生き方を貫いたら守れそうな願いだ。

 それでも、その時はこう言った。何の説得力も、何の力もない言葉だったけど、そう言わなきゃいけない気がしたから。

 希も、なごみも、影狼さんも、きっと分かっているだろう。

 隣にいる椛も、きっと分かっているはずだ。

 僕の口から返ってくる言葉が嘘でまみれているということを。

 

 

「ちゃんと帰ってくるよ」

 

 

 僕は、無理をすることを躊躇しない、無理を押し通すことをためらわない。

 それでも、みんなは頷いて見送ってくれた。何も言わなかったけど、瞳には確かに信じているという文字が浮かんでいるようで―――僕は、その期待に応えなきゃいけないと心の中で強く誓い、椛と共に霊夢の背中を追った。

 

 

「真っ白だ……外の世界でもここまでは積もらなかったなぁ。積もっても膝ぐらいまでだったし、ここまで雪が積もっているのを見るのはスキー場にいったとき以来かな?」

 

「幻想郷でもここまで積もることは滅多にありませんよ。100年に1回あるかどうかというところです」

 

「100年に1度の瞬間に出会えるなんて、僕はいい時期に幻想郷に来たんだね。いい巡りあわせに感謝しなきゃ」

 

「感謝しなきゃって、誰にですか? 妖怪の賢者ですか?」

 

「ううん、誰にでもない。出会いにだよ」

 

 

 話していると次々と口に舞い込んでくる雪に若干の嫌気をさしながら、空から幻想郷を見渡してみると、博麗神社から見えていたものがほんの一部だということが身に染みて分かった。椛の言う通り100年に1度というべき、外の世界でもめったに見ることができないレベルの豪雪である。

 周りに生えている枯れ木の埋もれ具合から雪の多さが窺い知れる。雪の深さはゆうに2メートルを超えている。人が歩いている様子は一切見受けられず、ただただ獣が通った道だけが機能しているような状態だった。

 空はどこを見ても真っ暗で、地面は視界を広げてみても雪化粧で、まっさらな綺麗な世界が視界に映っている。無秩序という言葉が似合う僕の心の中とは真逆と言えるかもしれないが、僕はどちらかというと既視感みたいなものに囚われていた。

 

 

「なんでだろう、僕の心の中と似ている気がする」

 

 

 何もない世界―――色合いは違うけど、そういう表面上を抜いてしまえば、僕の心の世界も同じようなものだ。何もなくて、何も見当たらない世界。本質は同じだと思う。

 

 

「落ちている妖精や妖怪がいるからかな、どうしても重なってしまうね」

 

 

 そう感じるのはきっと、僕の心の中で立っている標識と重なるように、多くの者たちが力尽きていたからだろう。霊夢が先行しているため、ほとんどの妖精や妖怪が地面に臥している。まるでここに我在りというように、自らの存在の大きさを示すように、誇示するように進むべき道を指示している。

 僕たちはただただ地面に横たわる妖精や妖怪を指針に進むだけである。これは赤い霧の異変の時も同じだった。

 

 

「だけど、これって別に霊夢からしてみれば何も思っていないんだろうね。ただただ、自分が起こした行動の結果がこうなっただけって考えていそう」

 

「想像に難くありませんね。最悪、それすらも考えていなさそうです」

 

 

 そっと雲の切れ目を探すように遠くに視線を向けると、弾幕ごっこをしている2つの存在が視認できた。きっと片方は霊夢で、片方は妖怪だろう。

 間に合わない―――僕は直感的にそう思った。僕たちの飛ぶペースだと追いついたころには勝負終わっているはずだ。

 そして、その想像は僕の夢のごとく現実となった。僕たちが霊夢の後ろ姿を目の前にした時には、妖怪はまたしても有象無象の一部と化した。

 霊夢は、そこで初めて僕たちを視認したような顔で興味なさげに視線を送ってきた。

 

 

「あんたたち、付いてきたの?」

 

「うん。僕たちも異変を見てみたくてさ」

 

 

 その瞳に浮かんでいるのは疑念である。瞳が訴えている―――どうしてついてきたのか。邪魔にならないうちに帰れ。そういう意思が浮かんでは消えていく。

 だけど、それで帰るようなら霊夢の後を追っていなかった。暫く視線を逸らさずに訝しげな瞳を見つめると、霊夢は大きなため息とともに口を開いた。

 

 

「はぁ、好きにしなさい」

 

「そうするよ。霊夢、ありがとうね」

 

「なんで?」

 

「僕の気持ち分かってくれて」

 

「……私は何も分かっていないわよ」

 

 

 相変わらずの短い会話だったけど、僕たちにはそれだけで十分だった。簡単な言葉だけで何となくのコミュニケーションが成り立つ。僕たちは、最初に出会った頃のように何を言っているのか分からない関係からちゃんと進歩していた。

 霊夢はその場を立ち去り、巫女衣装をはためかせて空を飛んでいく。僕達よりも遥かに速く、それでも見失わない程度の距離間を作って、大きな背中を見せつけて飛行する。

 僕たちは、視界に映る確かな存在感を追った。

 

 

「雪が止んだ?」

 

 

 時間にして数分というところだろうか。しばらく飛んでいると突如として降りしきる雪の存在がかき消えた。それこそ、唐突に世界から消えたように見当たらなくなった。

 

 

「ここは、僕の知っている場所だ」

 

 

 よく知っている匂いがする。澄んでいて、透き通った匂い。

 よく知っている景色が見える。緑が生い茂り、遮るもののない景色。

 ここは、幻想郷で最も僕が長く生活していた場所であり、最も思い出に残っているところ。そんな思い出の場所が近づいてくる。大きな、大きな屋根の平屋の一軒家が見えてくる。

 

 

「懐かしいなぁ。そんなに離れていたわけじゃなかったんだけど、僕の記憶はもう色褪せ始めているみたいだ。ここに来ると心が温かくなる。気持ちがぽかぽかするよ」

 

「ここがあの噂のマヨヒガですか? 八雲の隠れ家と呼ばれる―――私があれほど探した和友さんがいたマヨヒガですか?」

 

「僕がいたのは間違いないけど、八雲の隠れ家かと言われると断言できないね。紫と藍は本来ここにはいなかったらしいし、噂されている隠れ家とは違うと思うよ」

 

「そうは言いますが、和友さんがいる間はここに妖怪の賢者もいて、その式もいたのですよね。だったら今はここが八雲の隠れ家でしょう」

 

「そういうものかな?」

 

「人が住んでいる建物のことを家と呼ぶのです。人が帰るべき場所を家と呼ぶのです。どんなに小さくても、どんな形をしていても、どんなにみすぼらしくても、誰かが住んでいればそこが家になります。誰かが帰ろうとしているのならそこが家になります。逆に誰も住まれていない、誰も帰ってこようとしない家は、ただの建物でしかありませんよ」

 

 

 そう言われると、その通りだなと思った。椛が発する言葉に説得力を感じるのは、きっと椛が妖怪の山という大きな場所を家としていたからだろう。

 大事なのは場所じゃなくてそこに誰がいるか、誰が帰る場所かということ。誰かが帰ろうとしている場所かということ。燃えて落ちて灰になるまで、僕の帰るべき家が僕の帰りたい場所だったように。みんなの帰る場所がマヨヒガになったというのならば、きっとマヨヒガが僕たちの家に違いなかった。

 僕たちの家―――マヨヒガの一軒家。

 紫と藍と橙と僕が住んでいる場所。

 

 

「みんないるかな? いたら、会いたいな」

 

 

 もしかしたら、スキマを通してだけではなく直接紫に会えるかもしれない。

 もしかしたら、疎遠になっている藍に会えるかもしれない。

 もしかしたら、これまでずっと会っていなかった橙に会えるかもしれない。

 そう思うと期待感に胸が膨らむ。自然と気持ちが前のめりになる。

 家族が揃っていた家に―――僕はまた帰ってきたんだ。まるで吸い寄せられるように、重力が発生しているように、僕の体はあるべき場所へと流れ込んだ。

 

 

「ううぅ~~!! あんなの反則だよぉ……」

 

 

 マヨヒガがちょうど目視できる程度のところ。そこには痛そうに頭を抱えた存在がいた。どこか既視感に襲われる光景が目に入った。

 見知った赤い服を着て。見知った猫耳をはやして。緑の帽子をかぶっている。伸びた赤い爪が特徴の黒猫―――橙の存在を。

 

 

「ふふっ、藍と弾幕ごっこの試合やったときも同じことしていた気がするよ。橙は弾幕ごっこをすると頭から当たるタイプなのかな?」

 

「なんで負けたんだろう?」

 

 

 どうやら、まだこちらには気づいていないようである。まだ視線が合うことはない。

 僕たちは、丸まった背中をした橙との距離を詰めていった。

 橙と会うのは8か月ぶりだ。あの夜に約束して別れてから初めて会う。離れても家族だと言い合ってから初めて目にする。

 どうしてだろうか、過去の記憶と照らし合わせてみると少しだけ背丈が大きくなったような気がする。妖怪が成長するのかは知らないけれど、僕から見たら確かに大きくなっているような気がした。

 橙は、流れている噂を聞く限り藍のそばにいることが多かったと聞いている。ちょうど僕のいた場所に橙が入った形になるだろうか。

 いや――この場合は、僕のところに橙が入ったというよりは、橙が本来居座っていたポジションと僕のポジションを両方を背負っていると言うべきかもしれない。甘えたがりで、わがままで、自由奔放な橙と、藍のそばで心を支える僕の両方をこなせるだけ大きくなったというべきだろう。そう――橙は僕の約束を守るために成長したんだ。

 そんな見た目よりもはるかに大きくなった橙にできることはなんだろうか。そう考えたとき、頭に思いついたのは些細なことだった。

 さぁ、気持ちを込めよう、心を注ごう。

 最大の敬意をもって。

 最高の信愛をもって。

 僕は、家族の名前を呼んだ。

 

 

「橙、久しぶり」

 

 

 声が通った瞬間に空間が一瞬で静まり返った。

 誰一人として声を出さなかった。

 椛も気を遣ってくれているのか黙ったままだった。

 声が届いてから数秒の後に橙の体がわなわなと震える。そして、橙の揺らいでいる手がそっと帽子に伸び、目元を隠すように深くかぶった。

 

 

「橙」

 

 

 もう一度、大切な家族の名前を呼ぶ。同じように、愛しさを精一杯込めて、優しさをこれでもかと込めて、大事な言葉を口にした。

 今度は、腕を目元にあてて座り込んだ。その様子は、まるで必死に感情が出てくるのを抑え込んでいるようだった。

 だが、出ようとするものを完全に塞ぐことはできず、抑え込めなくなった鳴き声が、漏れ出す嗚咽が静かな空間に響いた。

 

 

「ああ、そうか……」

 

 

 僕は、橙の反応を見て全てを察した。

 橙は一人で頑張ってきたのだ。僕の約束を守るために、藍を守ってほしいという約束を守るために、僕が抜けた穴を埋めるために必死に頑張ってきたのだ。

 簡単なことではなかっただろう。

 大変で投げ出したくなることもあっただろう。

 こんなことできないと、無理だと思ったこともあっただろう。

 だけど、僕との約束を守るために、今までの自分を変えることまでして文字通り必死に頑張ってきたのだ。

 苦しかっただろうに。辛かっただろうに。誰にも相談できず、誰にも助けを求められず、誰にも頼ることができない。なぜなら、それは僕と橙にしかできないことだから。紫にはできないことだから。

 橙だって寂しかったはずなのに。自分を作って、できる自分を作って、できない自分を捨てて。独りよがりで頑張ってきたのだ。

 本当なら叫びたかっただろう。頑張ったって、努力したって、助けてほしいって、代わってほしいって、辛かったって、きつかったって。

 それでも、優しい橙はそれを伝えられない。頑張ったんだよとは言えなかった。言ってしまえば、無理やりやっていたような形になってしまうから。無理をしてまで背負い込んだと言っているのと同じだから。僕との約束が一方的なものになってしまう気がしたから。言ってしまえば、全てが台無しになる気がしたから。

 その口は、どうやったって「約束のために頑張った」とは言えなかった。

 

 

「橙は、こうして会えた今でも僕のために頑張ってくれているんだね」

 

 

 僕は、言いたい気持ちを抑えて嗚咽を漏らしている橙を見ていると、見ているだけで何もせずにいることができなくなった。

 膝を抱える橙と同じようにひざを折る。小難しいことなんて何も考えてなかった。ただそうしなきゃいけないと思った。そうしようと心が言った。

 正面から顔を隠すように抱きしめる。そっと包み込むように、その小さな体を、その大きくなった背中を、その強く彩られた心を抱きしめた。

 

 

「橙、ありがとう。僕がいない間、藍を支えてくれてありがとう。僕の穴を埋めてくれてありがとう」

 

「…………おかえり、和友」

 

 

 決して泣き顔を見せないように肩に顔を乗せる。誰よりも孤独で、誰よりも努力家で、誰よりも寂しがりで。それでも、それを見せない強がる橙が愛しかった。

 そんな橙を肌で感じて、僕も同じように頬を何かが伝った。

 

 

 

 しばらく音もたてずに泣いて目を赤くした橙の視線が上がる。

 橙は、何も言わなかった。これまでにあった苦労話も、努力した話も、藍のために尽くしたことも、気を遣って疲れたことも、約束を守るためにしたことについては何も口にしなかった。

 そう、僕が橙に何も話さなかったように。橙も僕に何も話さなかった。これまでのことなんて何もなかったように。会わなかった期間なんて初めからなかったように。僕たちの過去は何事もなく流された。

 僕たち家族は家族のままで、何も変わらない時を共にしたのである。

 

 

「あれ?」

 

 

 橙は、そこで初めて椛の存在に気づいたように目をわずかに見開いた。そして、僕を抱きしめていた腕を解くと興味津々といった様子で椛に語り掛けた。

 

 

「あなたは誰? 和友の友達かな?」

 

「……そうです」

 

 

 先ほどから居辛そうだった椛が暗い顔のまま一言で肯定した。伏し目がちに、深刻そうに、口を何とか開いて声を出した。

 

 

「なんでそんなに暗いの? 何か辛いことでもあった?」

 

「別に、何もありません」

 

「えー、そんなの信じられないよ」

 

 

 椛に話しかけるその様子は、いつもの橙だった。この8か月の間会えなくても、変わったところもあったけど、本質は何も変わっていなかった。

 誰にでも気さくで壁を感じさせない。誰に対しても積極的になれる。馴れ馴れしく、敬語なんてもちろん使わずに心の距離を詰める。

 この分かりやすさは、橙の武器である。感情を表に出して相手を安心させる。分かりやすさが相手の心に安らぎを与える。

 橙の顔にいたずらっ子が茶化すような笑顔が浮かぶ。

 これまで橙の気質を何度羨ましく思ったことだろうか。遠慮も謙遜も一切なく、他人に関わられるその様子がどれほど眩しく見えただろうか。

 それは僕に出来なくて、することが許されなかったこと。周りを巻き込む僕が許せなかったこと。

 だけど、今の僕はあの時とは違う。自分で選択し、周りを信じることを決めた。影響を与えても、辛いことがあっても、苦しいことがあっても、それを乗り越えられるんだって―――信じることができている。

 確かに変わっている。自信をもって昔の僕に言える、僕は変わったんだって。

 そして、それと同じように橙も初めて会った時とは変わった。変わらない部分を残して、変わった部分を付け足して、成長していた。その成長の証ともいうべき変化を次の言葉で僕は知ることになった。

 

 

「また和友が何かしたんでしょ? だっていつもそうだもん! こうやって嬉しい気持ちになるのも、悲しい気持ちになったのも、全部和友がくれたんだから!」

 

 

 橙は、何か思いついたようにその顔を僕に向けた。橙の表情は、これまで一度も見たことがなかった表情だった。多分これは、普段から一緒にいた僕だけが分かった違い。いつも一緒で、いつも遊んでいた僕から分かった変化だった。

 橙は、日常の形を失い、大切なものをそぎ落とされ、必要にかられて、変化を受けいれて、成長を始めた。めげずに、挫けずに、前を向いて歩きだした。

 自分の道を大きな足音で。

 胸を張って。

 自信を見せつけて。

 望む明日に手を伸ばしている。

 

 

「全部、全部、和友のせいなんだよ!」

 

 

 こうして見知らぬ成長を見せつけられると、随分と大人になったんだなと感心してしまう。見ない間に―――この8か月の間に大きく変わった。その存在感や心の強さだけじゃない。相手を見定める、感情を推し量る、自分の価値観をもって相手をあてがうことをやってみせている。

 何のことはない。生きている者はある程度やっていることだ。

 だけど、我を通すことをほとんどだった橙がこうして相手を試すことをしていることに嬉しくなった。自分の世界に他人を入れるという感覚。自分の心に相手を近づけること。距離感を推し量ること。相手を(おもんぱか)ること。

 橙は自覚したのだ―――生きていくためには他人が不可欠だということを。相手を選び、相手を想い、相手を知り、相手と歩くことが自分の歩みを支えてくれると。

 橙の満面の笑みが表情を作り出す。感情を隠し、仮面を被る。相手に分からないように、相手に分かってもらうように、相手を動かすために。

 付き合おう―――僕も橙と同じように仮面を被る。だって、それは誰にも負けないと言えるだけの自信があったことだったから。そして何よりも試されている事柄に何の心配もなかったから。

 だって、ここにいる椛だって僕にとって家族の一人なのだから。

 

 

「違っていると否定できないところが痛いところだよね」

 

 

 僕が一言、橙の言葉に同意する。全ての事象が、全ての出来事が、全ての起こった変化が僕のせいだと受け入れるような発言をする。ような、何て言っているけど、全く思っていないと思ったら嘘になる。今でも半分は僕の責任だと思っているところはあった。

 だけど、それはおかしいのだ。全てが誰かの責任になることはない。全てを誰かが背負う必要はないのだ。なぜならば、この問題は1人だけが関わっている問題ではないからである。真に一人で、誰とも関わりがなくて孤独だったら僕だけが背負うべき問題だっただろう。僕が背負っても軽い問題だっただろう。いつでも捨てられるような、どうでもいい問題だっただろう。

 だけど、人はどうしたって真に孤独にはなれないようになっている。生まれてきたからには両親がいて、顔を知っている人がいて、すれ違った人がいる。そこにいるだけで、同じ空間の空気を吸っているだけで、そこにいるだけで何かしら相手に影響を与えている。

 それなのに、そこで起きたことが全て自分の責任だと思うことは、もはや傲慢だ。

 僕が起こした異変ともいうべき出来事も。

 橙がこれまで頑張ってきた時間も。

 椛がここに至るまでに経験したことも。

 何もかもが―――誰かと共にあった。

 

 

「そうそう、全部和友のせいだよ」

 

「違います!」

 

 

 橙の言葉が空気を伝わった際―――勢いよく出てきた椛の力強い声が僕たち二人を黙らせた。

 

 

「和友さんだけのせいじゃありません! これは私も背負うべきものです! 私の責任でもあります、和友さんだけのものじゃない!」

 

「なんで? 和友のせいだよ。何かをするのも、何かを起こすのも、いつだって和友でしょ? 嬉しかったこと、楽しかったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、みんなみんな和友のせいだよ」

 

「そうそう、大体僕のせいだ」

 

 

 誰かのせいにすることは簡単だ。

 誰かの責任にして逃げることは容易だ。

 目を背けて知らないふりをするのは甘美な誘惑だ。

 でも、それをしてしまったら当事者ではなくなる。笑えなくなる。楽しめなくなる。悲しめなくなる。苦しめなくなる。気持ちを共有できなくなる。

 

 

「違います! そんなのおかしいです! だってそれじゃあ、一緒に笑えないじゃないですか! 一緒に楽しめないじゃないですか! 一緒に涙を流せないじゃないですか!」

 

 

 そして何よりも―――責任を擦り付けるようなことをしている自分がかっこ悪いのだ。

 

 

「何より、全てを和友さんの責任にする私がかっこ悪いじゃないですか!!」

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、橙の顔に先ほどとは種類の違う笑顔が浮かんだ。

 

 

「和友は、いい家族を持ったんだね」

 

「羨ましいでしょ? 最近家族になったんだよ」

 

「うん、こんな人なら和友のこと任せられるかな」

 

 

 橙は、そっと空を飛び、僅かに潤んだ瞳をした椛の前に出る。そして、目の前の妖怪―――椛の心に訴えかけるように言葉を紡いだ。

 

 

「和友はわがままで、意地っ張りで、頑固だけど、本当に優しいから。迷惑もいっぱいかけると思うし、信じられない事も言うと思うけど、私の大事な家族だから―――だから大切にしてあげてね」

 

「はいっ、大切にします。大切に歩いていきます」

 

 

 椛から出た声は、橙の想いが伝わったように真剣なものだった。そして、そこまで言うと急に体の向きを変えて僕と視線を合わせた。

 

 

「だから、和友さんの背負っているものを、私にも背負わせてください。一緒の重さを感じさせてください」

 

 

 椛から真っすぐに告げられた言葉に思わず、恥ずかしくなった。

 真剣に聞こえるからこそ、何だかこそばゆくなった。

 意図せずに視線をそらしそうになる。あまりに直球すぎる言葉にどうしていいのか困惑した。

 喜んで―――心にとどまっている言葉がなかなか出てこない。顔にはすでに出ているけど、それを言葉に表現できない。そんな僕を見かねてか、少し痛いぐらいに橙が背中をつついてきた。

 

 

「和友も大事にするんだよ!」

 

「分かっているよ」

 

「藍様も、紫様も、大事にしてね」

 

「うん、勿論。橙だって大事にする」

 

「うん!」

 

 

 その時の橙の笑顔は―――昔と何も変わっていなかった。




環境が変わると成長という名の変化が求められます。
だけど、その人が本来持っていた本質は変わらないと思います。

本当にあと3話で終わるのか、そう思われる方もいるかもしれませんが
案外、一気に進むので終わると思います。もしかしたら、あと1話分ぐらい増えるかもしれませんが、次話には妖夢と幽々子が出てくる予定です。

また、小説のタイトルがもしかしたら東方不変観から変更になる可能性があります。
妖々夢が終わるぐらいに候補を挙げてどうするか考えてみますね。

これからもよろしくお願いいたします


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自分色の椅子、明日を迎えること

全6話編成になる予定の第9章の3話目です。
9章は、妖々夢のお話になります。



 笑顔を見せた橙は、思い出したように当然の疑問を口にした。

 

 

「それで和友はどうしてマヨヒガに戻ってきたの? 何か忘れものでもしたの? 忘れ物は特にはなかったはずだよ? 藍様もあれから何度か和友の部屋に入ることはあったけど、何かに気付いている様子はなかったし……」

 

 

 基本的にマヨヒガで使用されている部屋は決まっている。そのため、使われていない部屋に入る機会はほぼないといっていい。

 だが、藍は僕の部屋に何かしらの動機があって入ったようである。何かしらしようとして、何かしら想うことがあって僕の部屋を訪れた。何かがいた、何かがある、数多あるマヨヒガの部屋の中から僕の部屋を選んで訪れようと考える程度には違和感を覚えているのだろう。

 もうすぐ霧が晴れる。

 夜が終わる時が迫っている。

 夜明けはもうすぐそこまで来ているのが肌で感じられた。

 

 

「もしかして、マヨヒガに戻ってきてくれるの?」

 

 

 橙の表情に少しばかりの期待の色が浮かんでいる。

 けれども、残念ながらその期待に応えることができないのが現状である。マヨヒガに戻るためには、藍が自らの記憶を取り戻し、なおかつ見失うことのない確固たる自分を手に入れる必要がある。そうでないとマヨヒガを出た意味がなくなってしまう。これまでの失敗を繰り返してはいけない。

 今はまだその時ではない。その思いは、きっと橙も同じだろう。

 僕は、藍に対して僅かな期待と不安を持ちながら、橙からの質問に答えた。

 

 

「ううん、今日は霊夢を追ってきたんだ。なんでも異変が起きているみたいでさ。さすがに僕の力じゃ異変は解決できないと思うけど、何かしらできたらなと思って。うん、ちょっとした思い出づくりだね」

 

「ふーん、そうなんだ。思い出づくり……私も付き合っていいかな? 藍様も紫様も二人してどこかに行っちゃって」

 

 

 橙がそう言った瞬間、不穏な音が空間に鳴り響いた。

 それは僕たちが良く知っている音―――スキマが繋がった響きだった。

 

 

「私を呼んだかしら?」

 

「わっ!?」

 

「あ、紫様」

 

 

 紫のいきなりの出現に椛だけが驚きの声を上げる。

 僕と橙は、今や普通になった紫の出現に驚かない。紫はマヨヒガにいるときでもまるでホラー映画のようにスキマで顔を覗かせてくることがある。移動するのが面倒という理由で、びっくりする顔が見たいからなんて理由で、スキマを使って突然に現れることが多々あった。

 僕と橙にとっては、紫が神出鬼没にスキマを介して現れる光景は今やよくある日常の風景の一つだった。

 

 

「こうして橙と和友、二人が揃った状態で会うのは久しぶりね」

 

「紫様! お帰りなさい!」

 

「ただいま、橙。そして、お帰りなさい、和友」

 

「ただいま、紫」

 

 

 僕と橙と紫の3人は、忘れてしまいがちになっている日常の1部を共有する。懐かしい、嬉しい。そういった感情が心に温度を与え始めた。

 3人の視線が一つに交わる。8か月ぶりの再会は、僕たちの視線を一つにした。

 

 

「こうしてスキマ越しに会うのは3日ぶりだね」

 

「そうね、3日ぶりね」

 

 

 軽い理由で神出鬼没に現れる紫ではあるが、その出現確率は徐々に低下している。博麗神社に来た当初は毎日のように顔を覗かせてきた紫だったが、今や1週間に2回程度に落ち着いていた。そこまで話をする内容がなくなったというのもあるし、藍の精神が安定しだしたというのが最も大きい理由だろう。

 ただ、今日に限ってはいつもの紫とは違っていた。リボンが付けられた長い金髪、通常見ることのできない中央が凹んでいる日傘、紫色を基調としたフリルのついたドレスが日の下に曝される。紫の全身が、スキマをまたいで世界に降ろされたのである。

 

 

「そして、姿を見せて会うのは8か月ぶりかしら。恐ろしいものね……時間の流れはこんなにも速い。私たちが一緒にいたのがつい昨日のことのように思い出せるわ」

 

 

 こういう言葉を聞くと、時間の流れ方の違いが身に染みて分かる。

 僕の心の中に入ったとき、紫の時間と藍の時間と僕の時間が異なっていたように。妖怪と人間で時間の捉え方が違うのだと思い知らされる。

 僕の記憶はすでにモノトーンになり始めている。薄くなって希薄になっている。大事な思い出だけど、あれほど楽しかった思い出だけど、あれだけ悩んだ思い出があるけれど、妖怪に比べるとはるかに短い時を生きている僕にとっては、もう随分と前のことのように感じてしまう。

 過去が遠くに感じるのはきっと、僕が成長しているからというのもあるだろう。時間の捉え方が違うというのもあるが、あの時の生活を超えて今を生きているから。過去を振り返らずに未来を向いているから。昔の自分を塗りつぶしたから。見えている角度が変わったのだ。もう、僕の視線は過去に向けられることはない。

 だけど、記憶や思い出、気持ちの全てが変わって薄くなっていくものというわけではない。心の中には変わらないものもある。色褪せずに、むしろ色濃くなる想いがある。

 それは、僕と橙と紫の3人が持っているもの。

 そんな変わらないものを共有している紫は、感傷に浸るように昔を思い出すと、頭の中に残る残像を消し去るように首を振った。

 

 

「ごめんなさい、思い出に浸っている場合ではないわね。一度昇った太陽はいずれ落ちる。これは再び太陽を迎えるために月を見送るような―――そんな必要不可欠な時なのだから」

 

 

 僕たちはずっと待っている。

 苦難の時を超えて、幸せの時を迎える準備をしている。

 毎日、善い時ばかりが続くわけがない。

 人間、妖怪に限らず、悪い時は必ずある。

 1年の間に好不調が推移するように、人生は山あり谷ありだ。

 きっと、その谷にあたるのが今なんだ。

 だから僕たちはずっと手を伸ばしている。

 あの時を再び迎えるのを。

 新しい時間を手に入れるのを。

 僕たち家族は両手を伸ばして待ち続けている。

 

 

「いくらでも待つ覚悟はできてる。何年でも何十年でもずっと待ってる。だけど、あまりに遅かったら私たちが迎えに行く! もう待っているだけの私じゃないから! 明日の尻尾を掴みに行く準備はできてるよ!」

 

「そう、僕たちは後ろに灯る明かりを持って生きているのではなく、これから先の光を追い求めていくんだから。僕も紫も橙も―――もちろん藍だってね」

 

「夜明けを迎える、太陽は引っ張ってでも引きずり出す。世界を変える時はもう目の前よ。一回り大きくなった私たち―――八雲家が望む未来を手に入れる」

 

 

 八雲家―――その言葉を聞いた瞬間心臓が激しく高鳴った。その言葉は、誰もが今まで言ったことのなかった言葉。家族だという認識をみんな持ち寄っていても、誰一人として口にしなかった言葉。

 僕たちは、紫の八雲家という一つの存在に大きく頷いた。

 橙と僕と紫の視線が交錯する。瞳の奥に確かな意思を宿して、僕たちは再び一つになることを望んだ。

 

 

「藍がいないのは残念だけど、心配することなんて何もないわ。私たちはいずれ一つにまとまる。藍なら必ず戻ってくるわ。だって、藍も私たち家族の一員だもの」

 

 

 誰一人として異論を挟む者はいなかった。橙も僕も、皆が一堂に集う未来を疑っていなかったから。

 ここに藍がいて―――初めて八雲家は完成する。

 あと一つ欠けたピースは、すぐ傍でくすぶっている。

 僕たちは待っている。

 マヨヒガで。未来で。すぐそばで。

 帰る場所を守りながら、その時が来るのを待っていた。

 

 

「さて……久しぶりに意思確認ができたところで、3人とも今からいいかしら?」

 

 

 3人とは―――ここにいる全員である。

 橙と僕だけではなく、椛の数を入れた数字である。

 椛は、会話の中に参加する唐突な流れにきょとんとした顔で自らを指さした。

 

 

「私もですか?」

 

「もちろんよ。まさか、自分は部外者だと思っているの?」

 

「……どうしても、お三方の関係を見ていると自分の付き合いの薄さを感じてしまって。関わりを持っていない私がみなさんの輪の中に入っていいのかと考えると、気後れしてしまいます……」

 

 

 椛の顔に困惑の色が付着している。

 椛が遠慮する気持ちも分かる。椛が関係を持っているのはあくまでも僕だけだ。紫や橙とは何一つとして繋がりを持っていない。幻想郷にきてずっと僕と一緒にいた紫や橙に対して椛が気後れするのは当然だった。

 ましてや、体裁や相手の様子を伺う癖のある椛の性格からすれば避けられないことだろう。

 ただ、紫はそんな怖気づいている椛に真っすぐな視線を向けてはっきりと言った。

 

 

「付き合いの度合いなんて関係ないわ。貴方も和友の家族になったのなら自分の意志を持ちなさい。歩いている道の上に自分だけの景色を持ちなさい。貴方の道は、あくまでも貴方だけのための道だということを自覚しなさい」

 

 

 椛は、紫から告げられた言葉に目を見開いた。そして、強い意志を瞳の奥に宿して凛々しい顔で口を開いた。

 

 

「はい!」

 

 

 椛ははっきりと言った。

 はい―――と愚直なまでの真っすぐさを示した。

 

 

「貴方の代わりはいないの。自分の進むべき道を知って、自分の想いを抱えて、自分がやるべきことが見えたならそこは貴方の座るべき椅子よ。貴方の色のついた、貴方だけの居場所。誰の代わりもできない、誰も代わりのできない自分を大事にしなさい。それがちょっとだけ早く和友と家族になった私たちから言えるアドバイスよ」

 

「はい!!」

 

 

 椛は、先ほどよりも大きい声ではっきりと言った。

 はい―――と愚直なまでの真っすぐさを再び示した。

 紫は、そんな素直な椛を見て表情を歪めた。

 どうやら椛の対応が、どこか心に引っかかるものがあったようである。おそらく昔の藍と同じ空気感を察したのだろう。言われたことを素直に飲み込みすぎる性質に不安になったのだろう。

 ここで、紫のいつものやり口が炸裂した。

 

 

「貴方はそうやって元気いっぱいに答えるけど、本当のところはどうでしょうね。私の言っていることが正しいかなんて分からないわ。この世の中に正しいことなんてないように、悪いことだってないのだから。そんなもの境界を操ってしまえばすぐに変わってしまうような脆弱なもの。受け取る側が境界を引くべき問題よ」

 

 

 自分で言っておいて、それを否定するように有耶無耶にする。言っていることに対する説得力を皆無にし、うさん臭さを醸し出す。相手を引き込み、放り投げる。これは紫がよくやる相手を揺さぶる会話の流れである。

 

 

「自分の中で境界線をきっちり引いておかないと、あったのかなかったのか分からなくなっちゃうわよ?」

 

 

 紫のセリフを聞いた椛が複雑な思いを抱えているのが見た目から読み取れる。

 強い者に巻かれる性が完全に抜けきっていない椛にとって、紫のような人物は最もやり辛い相手の一人だろう。

 言っていることが二転三転繰り返される。どれも本気で思っているようで何に対してもどうでもいいと思っているように感じられる言葉。途中で何を話していたのかさえも分からなくなるような会話の流れによって翻弄されるのである。

 だけど、そんな困っているように見える椛の中に確かな答えがあることを僕は知っている。今日まで繰り返した後悔、積み立ててきた努力、固めてきた覚悟が椛の足を地につけているのを僕は知っていた。

 きっと、きっかけは紅魔館で美鈴に心を折られたことだろう。

 あの時から―――椛は変わったのである。

 

 

「明日は、まだまだ剣の威力が弱いので、体重が乗るような振り方を練習してみます!」

 

 

 何のために明日に進むのか。

 

 

「明日は、もう少し早く動けるようになるために足さばきを工夫してみようと思います!」

 

 

 明日を迎えることにどんな意味があるのか。

 

 

「明日は、和友さんに教わりながら料理の練習をします!」

 

 

 何のために明日を生きるのか。

 

 

「明日は――――」

 

 

 そんな答えのない問いを繰り返して。

 日々が終わるのを見送って。

 明日を迎え入れる。

 明日はこういう自分になろう。明日はこうしよう。

 毎日毎日、希望をもって明日を呼んだ。

 そういう日々が、自分の居場所を作った。

 誰にでも座れる椅子を自分色に染めた。

 自分だけの景色、自分だけの未来―――そこに介在する者は誰もいない。誰も入り込めない。誰の代わりでもない、誰にも代わりのできない自分だけの世界がそこに生まれたのだ。

 それを知っているのは今のところ僕だけだけど、きっと紫や橙も分かってくれるだろう。僕と家族になった椛の―――椛だけの世界をいずれ見る機会があるだろう。

 今は分からなくても、未来にきっと分かるときがくる。

 僕は、未来の楽しみの一つだと思って、フォローの言葉を告げた。

 

 

「紫、椛が困っているよ」

 

「あら、ごめんなさい。和友が来てから随分とましになったと思っていたけど、まだまだうさん臭さが抜けないようね」

 

 

 紫の言葉に、橙が酷く納得した顔で言った。

 

 

「きっと、身に染みているから抜けないのでしょう。臭いは一度つくとなかなか取れないって言いますからね」

 

「橙、後で話し合いね」

 

「え、どうしてですか? 私が何か悪いことを言ってしまいましたか?」

 

「理解力が足りないようね。これは、教育が必要かしら?」

 

 

 笑顔でほほ笑む紫に恐怖を感じる。橙も同様に何かしら逆鱗に触れるようなことを言ったと気付いたのか、肩に力が入っていた。

 僕は、恐ろしく凍った雰囲気を変えるために慌てて話題を変更しにかかる。

 

 

「ごめん、話を戻すんだけど、紫の要件って何かな? 紫の頼みだったら僕たちもできるだけ叶えてあげたいけど、余り大事な要件じゃないなら霊夢を追いかけたいんだ。もう随分と先に行ってしまっているし、早くいかないと置いていかれちゃうよ」

 

「霊夢に追いつこうとしているの?」

 

「うん、だって霊夢に追いつかないと異変の現場にたどり着けないでしょ?」

 

「ああ、だったらその心配はないわ」

 

 

 そう言った紫は、さっきとは種類の違う微笑みで―――何かを企むような表情で。

 紫の口から出てきた言葉は、耳を疑う言葉だった。

 

 

「だって、今からその霊夢よりも先を行ってもらうのだもの」

 

 

 どういうことだろうか、クエスチョンマークが頭の上に浮かぶ。そして、湧き上がってきた疑問を続けて口に出そうとしたところで、紫に巻き込まれる形でスキマを通過した。

 真っ暗な無重力の暗黒空間を通って光のある世界にたどり着く。移動時間は1秒もなかった。瞬きする間―――一瞬にして空間を渡った。

 

 

「ここ、どこ?」

 

 

 空間を飛んだ先にあったのは、何段あるのか分からない、見上げても終わりが見えないほどの急な階段だった。

 周りを見渡せば、ところどころにふわふわと浮いている白い靄のような物質が浮いている。空間は静寂に包まれ、音が全くしていないのかと思うぐらいに静かである。果てしなく続いているように見える階段の周りには春を強くイメージさせる桜がその色を染め上げていた。

 美しいという言葉がよく似合う場所だった。目線を奪われるものが多く、自然と見上げてしまう自分がいる。椛も橙も初めて訪れた場所のようで、呆然と美しい景色に酔いしれているようだった。

 そんな僕たちを現実に引き戻さんとばかりに、紫から説明がなされた。

 

 

「ここは冥界よ」

 

「冥界!? あの、死者が成仏する前に集う場所ですか!?」

 

「そうよ」

 

 

 椛は冥界についての知識を持っているようだったが、あいにく僕は行ったことのない場所の記憶は全くなかった。

 後から聞いて分かったが、冥界とは死者が成仏するまでの間を過ごす場所のようで、基本的には生きている人間が入っていい場所ではないらしい。天界と呼ばれる場所が成仏した後に行ける場所なのだが、そこが満杯であるため成仏待ちをする形で冥界に留まっている幽霊が相当数いるという。

 

 

「これが幽霊なの?」

 

「そう、その和友の目の前で白くゆらゆら揺らめいているのが幽霊よ」

 

 

 ちょうど目の前をゆらゆらと飛んでいる発光体が幽霊のようである。幽霊は、妖精と同じように僕の周りに集まってきた。

 幽霊が僕に引き寄せられるのを見た紫は、あっちに行けと言わんばかりに手首を上下に揺らす。すると幽霊たちは何かを察したのか僕から離れていった。

 

 

「しっしっ! ほんとに油断も隙もないんだから。まぁ、恐怖を感じる感情があるだけ妖精よりましね」

 

 

 本当にそうだろうか、僕からすれば五十歩百歩の違いだと思う。

 どちらにしても僕には防ぎようがないという意味では、妖精も幽霊もどっちでも変わらなかった。

 

 

「いきなりで申し訳ないけど、この階段を登ってちょうだい。そこに会ってほしい人物がいるわ。今起きている異変とも関わりがあるし、霊夢は後から追ってくると思うわよ。あの子の直感は必ずここを指し示す。もちろん、それまで和友が白玉楼(はくぎょくろう)にいるかは分からないけどね」

 

「紫が会ってほしい人?」

 

「会ってほしいというか、会いたいって言っている人かしらね。ほんとに困ったものだわ。そういうところも好きなところではあるんだけど、和友に興味があるみたいで会いたいって聞かないのよ。私もこれ以上断りきるのは難しいし、幽々子(ゆゆこ)に会わせてあげたいって思う気持ちもあったからいい機会かと思ってね」

 

 

 僕は、霊夢が後を追ってくるという紫の事実めいた予測よりも、紫が会ってほしい人がいるという事実に驚いた。

 紫はプライベートな話をほとんどしない。誰かと会ってきたとか、誰かと話してきたとか、誰かと何かをしたという話を一切しないといっていいほど登場人物が限られている。紫の口から出てくる話は、基本的に僕たちについてやマヨヒガであったことばかりだったのである。

 初めて紫の口から聞いた幽々子(ゆゆこ)という人物がどんな関係なのかは分からない。白玉楼(はくぎょくろう)という場所についても分からない。ただ、困った顔をしている割にそこから嬉しさが滲み出ていることが、その人との繋がりの深さを覗かせた。

 

 

「了解、行ってみるよ。紫の大事な友人なら粗相がないようにしないとね」

 

「普段通りの和友を見せてあげなさい。私の最も知っている、自然のままの、そのままの貴方を見せてあげて」

 

「安心して。僕にとってこれ以上もこれ以下もないから。どんな僕だって、そのままの僕だよ」

 

「ふふふ、余計な心配だったわね。それじゃあ、和友―――いってらっしゃい」

 

「いってきます」

 

 

 別れの言葉を告げて一歩を踏み出してみれば、すでに後ろには紫の姿はなかった。ただ、椛と橙が笑顔で僕を見つめていた。それを見たら僕も自然と笑顔になった。

 僕たちは、無限に続いているように見える階段を飛びながら登り始める。相変わらず音が一切聞こえないほどに静かで、風が吹いている音だけが鼓膜に響いていた。

 周りにまとわりつくように集まってくる幽霊は、椛と橙がけん制してくれている。幽霊は切り伏せられることや攻撃されるのを認識しているのか、途中から近づいてくることはなくなった。

 そして、飛び始めて数十分が経過したころだろうか―――目の前に幽霊以外の存在が映った。明らかに今まで見てきた幽霊とは違い、発光もしていなければ、輪郭線がはっきりしている。

 両手を広げて立ちふさがっているそれは、まさしく人間の形をしていた。

 

 

「止まりなさい! どうやって結界を破ってきたの? 目的は何?」

 

 

 発せられた言葉に飛ぶ勢いを緩める。そして、目の前の相手に対してちょうど3メートルぐらいの距離を確保して停止し、会話の中身に集中した。

 見た目―――立ちふさがった者の身長は145 cm程度である。橙よりは大きいが霊夢よりは小さい。身長の小ささが腰に刺さっている刀の長さを強調している。全長約200 cm、刃渡りとしても170 cmはあるだろう長い刀、全長80 cmほどの脇差、合計2本の刀が腰に刺されている。刀の鞘についている桜の装飾と黒をベースにした塗装が景色と同化して綺麗に見えた。

 珍しい髪色である、白髪のショートカットに黒いリボンがモノトーンになっていてよく栄えている。服装は緑を基調として白をちりばめた目に優しい色をしていた。

 ただ、何より目を惹きつけたのは、その少女の傍で纏わりつくように白い発光体―――幽霊の存在である。

 そんな特徴的な少女が目の前で一時停止をかけている。相手の表情を見る限り、歓迎ムードというわけではないらしい。どうも、紅魔館を訪れたときと同じように訪問のためのアポイントはとられていないようである。

 そして、あいにく僕たちは幽霊をまとった少女の質問に答えられる情報を持っていなかった。結界については何も知らないし、そんなものがあったのかどうかさえ認識できていない。きっと、紫のスキマで通ってきたから無視した形になっているのだろう。

 ただ、目的についてははっきりしていたため、僕は応えられるだけの答えを返した。

 

 

「結界については何も知らないけど、目的はこの上にいる人と会うことかな? もともとの目的は別のところにあったんだけど、家族のお願いはできるだけ聞かなきゃね。だから、邪魔しないでもらえるかな。別に危害を加えに行くわけでもないんだから」

 

「行かせません! ここは冥界、死者が住まう場所。生きている人間が来てはならない場所だ!」

 

「生きている人間は来ちゃいけないの?」

 

「そうです! 来てはいけない場所です!」

 

 

 たった一言の何気ない言葉が、僕の心の中を疑問で埋め尽くした。

 目の前の相手からの言葉を聞いていると、冥界に来るということを「全ての生きている人間」が許されていない印象を受ける。

 生きている人間が「来ることができない」場所というのならばまだ分かるが、来てはならない場所―――果たしてそんな場所など存在するのだろうか。

 これは誰かの家に不法侵入するのとはわけが違う。公共施設に忍び込むのとはわけが違う。これらは相手を選んでいるだけでちゃんと生きている人間がいる場所である。僕もそういう他者や自分のために守られているモラル的なものなら理解できた。

 だけど、今言われている言葉にはそういう意図は全く感じられない。ただ、頭ごなしに否定しているだけだ。それはそういうものだからと思考停止に陥って、決めつけているだけに聞こえる。

 そもそも何か行動を起こす時に―――何かの許可や了承が必要になるということはありえないのだ。あくまでもそれを許すかを決めているのはそれを自らに問いかけた本人自身である。

 近所に不法侵入するかを決めるのは自分だ。それを咎める法律や世間体、そして自分も同じ目に合ってもいいというところまで飲み込めさえすれば、不法侵入という行動を許可するのは忍び込まれる対象ではなく、自分自身のはずである。

 誰かに許されているから、誰かに認められているから―――そんな理由が足を踏み出す理由にはならない。

 よくよく思い出してみてほしい。前を進む理由には、目的地に向かう気持ちの根源には、いつだってそこに行きたいという欲求だけがあったはずである。

 友達が家に来てもいいと言われたから行くのではない。友達の家に行きたかったから足を前に進めるのだ。

 デパートが来てもいいですよと言われたから行くのではない。買い物に行きたかったから歩むのだ。

 工場見学にぜひ来てくださいと言われたから行くのではない。見学に行きたかったから目的地を決めたのだ。

 誰かに許されたからではない―――人は自分の気持ちの進むままに目的地を決めるのである。

 

 

「人間に来ることが許されていない場所なんてないよ。それはただ単に君たちが許していないだけだ。僕たち人類は誰に許されるわけでもなく、地球の裏側にも、深海にも、空にも、月にだって足跡を付けたのだから」

 

「屁理屈を! どうしても止まらないというのならそのなけなしの春を頂く。死人に口なし、幽々子様に殺される前に私が斬ります!」

 

 

 目の前の白髪の少女に問答無用とばかりに持論を一刀両断される。次いで、腰に差していた長い方の刀を引き抜き正面に構えた。

 月の光を浴びて(きらめ)く刀が敵意をむき出しにしている。こうして姿を現した刀身を見ていると、その長さがさらに印象的になった。

 こういう場合は、弾幕ごっこによる決着だったはずなのだけど、まだまだ普及していないということだろうか。そんなことを考えながら身構える。美鈴と戦った時のように、藍の教えを守りながら相手に焦点を合わせる。一挙手一投足に目を配り、僅かな動きに対応する。

 内部エンジンをもうすぐ点火できるところまで温める。じわじわと感覚が研ぎ澄まされていく。

 お互いの視線がもうすぐ戦いを始めることを歌いだしたとき―――それを遮るように椛が前に出た。

 

 

「和友さん、先に行ってください。ここは私が受け持ちます」

 

 

 椛の言葉は、紅魔館でも聞いた言葉だった。

 しかし、同じ言葉を口にした椛の表情はあの時とは違っていて。

 真っすぐに向けられた瞳は確かに自分の進むべき道を映し出していた

 

 

「すぐに追いつきます。これは和友さんの道であり、私の道です。自分の道を自分で切り開くぐらいしてもいいでしょう?」

 

 

 もうあの時の椛はここにはいない。

 迷って、悩んで、無理やりに納得していた。

 それしかないと、仕方がないと、現実にひれ伏していた。

 唯一の支えを失って。

 生きている意味が分からず。

 居場所が見つからず。

 どうしていいのかも決められない。

 だから、悩んできた。

 だから、苦しんできた。

 そんなこれまでの想いが今の椛を作っている。

 自信に満ち溢れて、心が満たされている表情を生み出している。

 誰に許されるわけでもなく、誰かに認められるわけでもない。

 その結果何が起きようとも、誰に咎められようとも、そんなもの関係ないと言わんばかりに、自らが決めた道を歩く。

 自分の居場所を自分で決めたのだから。今いる自分の場所を、自分だけの、自分のためだけの、自分の色に染めあげたのだから。

 椛の顔は今まで見てきたものの中で最も凛々しく―――何よりもかっこよく見えた。

 

 

「うん、先に待っているから。すぐに追いついてきてね」

 

「待っているからね。絶対に来てね!」

 

「二人からそう言われたら、急いで行かないわけにいきませんね」

 

 

 椛からの余裕の返しに笑みが浮かぶ。僕たちは笑顔のまま椛に背を向け、飛び立った。

 後ろを振り向かなくても椛がどんな顔をしているのか想像できる。そこにはくつくつと笑いをこらえるような微笑みがあることだろう。

 その微笑みは―――未来を楽しむもの。

 椛の瞳は、すでに自分の道を見据えている。自らの道を捉えている。

 それは僕が歩いている道とは違うもの。確かに僕が進んでいるものと同じレールの上かも知れないし、僕と同じ方向を向いているかもしれない。もしかしたら真後ろを歩いているのかもしれないけど、歩いている足は確実に椛の道に色を付けていっている。

 椛の色付いた歩みは、確かな足跡を付けていた。

 

 

「あっ、待て!!」

 

 

 追いかけようとする少女の道の前に椛の存在が立ちはだかる。

 

 

「だから言っているでしょう。今のあなたの道を遮るのは私です。ちゃんと前を向かないと自分の歩くべき道を見失いますよ?」

 

「妖怪の山の下っ端ごときに私が止められるものか」

 

「そうでしょうか。意外とやれると思いますよ? 試してみればいかがですか? 都合がいいことに私たちはお互いに剣を持つものですし」

 

 

 椛は背負っていた大剣を構え、臨戦態勢をとる。

 お互いにかざした武器がこれから先の未来を明示する。

 道に立ちふさがった少女は、武力行使の椛に怪訝そうな顔を見せた。

 

 

「私と剣術で対峙しようというのですか? 本当に死にますよ?」

 

「分かり易くていいでしょう? 私とあなたの格の差を知る意味でもね」

 

「格の差を思い知らせてあげます! 妖怪が鍛えたこの楼観剣(ろうかんけん)に斬れぬものなど、少ししか無い!」

 

「私たちの道は、誰にも邪魔させません!」

 

 

 自分の道は自分で切り開く。

 道を開くための剣を持った二人の少女は、弾幕ごっこを必要としない戦いの火蓋を切った。




明日を望んで迎える。
望んだ未来を追いかける。
積み立て、抱えてきたものが歩む足音を大きくする。
堂々と自分の道を歩く人って、望む明日を追いかける人だと思います。

自分の代わりは、誰にもできない。
誰かの代わりは、自分はできない。
自らの座っている椅子が自分色に染まっている人は、何より輝いて見えます。

前回のあとがきで申し上げたところまで進まなかったこと、誠に申し訳ありません。次回には、幽々子が出てきます。次話は、戦闘+幽々子登場+??ですね。

これからもよろしくお願いいたします。


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千里眼のさらに先、歩み出した歩兵

全6話編成になる予定の第9章の4話目です。
9章は、妖々夢のお話になります。


 幽霊をまとった少女が一閃、二閃と刀を振るう。空気さえも斬り裂くように振り切られる刀の軌跡は直線的な絵を描いている。

 浮遊している状態であるため足捌きなんてあってないような状況だが、そこに地面があるように体重移動が行われている。踏ん張りを利かせた回転運動がまるで花を咲かせるように舞っていた。

 

 

(上手いですね。強いとか弱いとか凄いとか、そういう表現よりも綺麗という言葉が似合う剣筋です)

 

 

 日本刀の真骨頂である―――斬り落とすという摩擦を使った擦りによる切断を現実にする。正面から真っすぐに当てるのではなく、叩き斬るというわけでもなく、当てた後にスライドさせる―――カッターで斬るようなイメージである。

 

 

(力強さに重点が置かれているわけではない、素早くとめどなく流れている―――水の流れのよう)

 

 

 少女の流派は特に速さに重点が置かれているものなのだろう。しっかりと力が入れられているのは柄だけで、その他は緊張感のない弛緩した柔らかいばねのような動きをしている。

 椛の剣技とは全く真逆である。叩き伏せる、力で押し切る、力を込めた一撃によって沈める。そういった正面衝突を基本とする椛の大剣とは種類の違った剣技だった。

 だが、戦う術としての種類が違っても、戦うためのものには違いはない。本質は同じである―――相手を斬る、相手を倒すということを原点に持った力であること、それが分かっていれば何も恐れることはなかった。

 

 

(剣の速度は私より一枚上手ですね。単純に捌いていたら追いつきません。だったら、こちらも動きを見せるまで!)

 

 

 視線の先にいる相手の両腕が持ち上がる。上段斬りのモーションが綺麗に線形変化を起こす。流線型の動きが時間の流れをゆっくりに感じさせる。

 椛は、視界から得られる情報を処理し、正面の大剣を支えている右手の握力を弱める。続いて左手で力強く柄を手前に引っ張った。それによってちょうど右手が柄の限界地点に衝突する。椛の右手はぶつかった衝撃を受けるとギュッと力強く握られた。

 

 

(長く持っていては彼女の剣速には対応できません)

 

「やぁ!」

 

 

 ゆったりと持ち上がったように見えた腕が、下に向かって急速降下する。上から重力という地球の恩恵を得た素早い一撃が振り下ろされる。

 彼女の腕が下に振り下ろされたその時、椛は左手を柄から離した。そして、できるだけ刀と大剣が接触する付近に添え、インパクトする直前を狙って力強く押し込んだ。

 

 

「せい!」

 

 

 刀と大剣―――金属と金属がぶつかり合って嫌な音が鳴り響く。ぶつかった衝撃の大きさを表すように激しい衝撃音が空間に伝搬する。

 うるさいぐらいに鼓膜が震えている。恐怖を掻き立てるような音がこだましている。これが当たっていたら―――そんな想像をさせるような嫌な音がしている。

 だが、視線はそらさない。恐怖に負けたら終わりだ。怖いと、恐ろしいと思った瞬間から斬り伏せられる。そう思っているのはお互い様のようで、衝撃音が響くのと同時に剣が離れると両者の視線が交錯した。

 

 

(この人の上手いところはここですね。力が抜けている分、腕にダメージがこない。振り払ってもすぐに次の一手を打てる)

 

 

 その間も一瞬で―――刀を持っている右手を逆手に持ち変えることですぐさま反撃してくる。腰を落とし、右足を前に擦り出し、居合のようなポーズを作り腰の回転で切りかかってくる。

 腕だけに頼った振り方ではこうはいかない。どこかに力が入っていれば、そこに大きなダメージが蓄積されることになる。それがないのは体全体をしなるように動かしているため、ばねになって衝撃が分散しているためである。

 そして何よりも厄介なのが、打ち合っても怖気づくことなく、力で負けていても身構えることなく、前に出てくることだ。

 

 

(悔しいですが、剣の技量は完全に負けていますね。剣速は私より速く、前に出る度胸もある)

 

 

 技量も速度も完全に負けている。同じと言えるのは恐怖に打ち勝つ度胸だけだろうか。勝っているのは力の大きさだけだろうか。

 居合のフォームから体重の乗った一撃が閃光のごとく放たれる。重力に負けずに水平に維持された刀の軌跡が余りに綺麗で目移りしそうになった。

 

 

(ですが、戦いで負ける気はありませんよ! あなたがそうくるなら、私も前に踏み出すまで!)

 

 

 攻撃はできるだけ正面で受ける。力点が体から離れれば離れるほど体勢が崩れやすく、力が分散しやすい。

 相手の懐に入り、体をスライドさせて正面で相手の刀を受ける。ちょうど少女の正面と椛の側面が接触する形になるように、ぶつかってもいいという気持ちで相手に接近する。

 

 

(打ち合いになれば技量と速度で負けている私が不利。ここは―――力の競り合いに持ち込む!)

 

 

 椛の体は、恐れ知らずを体現するように相手の動きに合わせて素早く懐に入り込む。すると椛の動きを追っている少女の目が驚きで見開かれた。

 少女の体と椛の寄せた体が衝突する。それと時を同じくして金属音が木霊し、ちょうど少女の刀の鍔に当たるところで椛の大剣が静止した。

 

 

「思った以上にやるようですね。ですが、このままだと先ほど上に向かった貴方の主が死んでしまいますよ?」

 

「そんな心配はいりません。それに、和友さんは主ではないです。共に歩く家族です。そういう貴方こそ、どうしてこんなことをしているのですか?」

 

「私は、幽々子様の護衛をしています。ここを通過しようとする者をせき止め、春を奪うのが私に課せられた使命」

 

 

 会話の最中に椛が大剣を押し込む力をさらに加える。すると、横薙ぎに振られた少女の剣が正面で受けた椛の剣に力負けし始めた。

 

 

「くっ、力では敵いませんか! ならば!!」

 

 

 少女は力で勝てないと悟ったのか、すぐさま手首の力を弱めて手首を折ると椛の大剣の腹を擦るようにして体ごと回転させ始めた。

 金属と金属が擦れる音が視覚情報に対して遅れて聞こえてくる。極限の集中力の高まりによって特に視覚が研ぎ澄まされているためだろうか。この至近距離では本来あり得ない音と光の速度差が生まれている。擦れている音が聞こえるのに、接触しているのが見えているのに、摩擦という概念がないのではないかと錯覚してしまうほど凄まじい速度で刀が大剣の腹を走り抜けているのが見える。もはや大剣ごと切り落とされるのではないかと思えるような光景がそこにはあった。

 椛の直感がこの先の映像を映し出す。このままだと、刀を振り切られて左腕を切り落とされることになる。

 だが、ここで椛は焦らない。刀に対してまたしても正面に来るように右足を斜め前方に踏み出し、左足を下げると、思いっきり大剣を押し出した。

 

 

「せい!!」

 

「うっ!」

 

 

 少女は、押し出される力に後方に体勢を崩される。

 

 

「さて、王手です!」

 

 

 椛は追撃と言わんばかりに前に出ている右足をさらに擦り足で前に出す。そして、何の遠慮もなく、何の躊躇もなく思いっきり大剣を振り下ろした。

 あの崩れた体勢では、椛の大剣による攻撃は防げない。防御が間に合ったところでその力に押されて刀ごと叩き伏せられるのがおちである。

 椛には、攻撃が当たる確信があった。勝負が決まる風景が見えていた。

 しかし、その確信は現実には反映されなかった。

 

 

「あれ?」

 

 

 手ごたえが全くない。大剣が空を切る音だけが空間に木霊する。

 振り切った大剣の先には、若干の冷や汗をかいている少女の姿があった。

 何があったのだろうか。絶対に当たると確信した攻撃が外れている。僅かな疑問が脳内を徘徊する。回転する脳は、すぐさま視覚情報から答えを見つけてきた。

 

 

「ああ、そういえば空中戦でしたね。足場がない以上、体勢が崩れたところで飛んで躱すことは容易―――ということですか。いやはや、こうして誰かと戦うのは久しぶりでいい勉強になりますね」

 

 

 今繰り広げられているのは、地に足を付けた地上戦ではなく空中戦である。体勢が崩れたところで、飛行すれば相手の攻撃を躱すことができる。

 もしも地上にいた場合には、体勢が崩れた状況で後方に蹴り出すとそのまま地面に倒れることになる。そうなれば、追撃を受けて終わったことだろう。

 これは、空中だからこそできる芸当である。

 

 

「貴様……」

 

 

 少女は、椛の実力を把握したのか先ほどよりも真剣な表情で正面に刀を構える。椛は、視線が鋭くなった少女を見据えながら肩の力を抜くとある疑問を投げかけた。

 

 

「護衛と門番、そして春を奪うことが使命と言いましたね。何のためにそんなことを?」

 

「そんなこと分かりません」

 

 

 椛の疑問を一刀両断するように真剣な顔で告げられた。

 その構えた刀と同じように研ぎ澄まされた瞳は、椛の視線から少しも動かない。

 その表情を見る限り、本気で「分からない」と思っているのだろう。本気で知らなくて当然だと、知らなくても問題ないと思っているのだろう。

 

 

「ああ、そういうこと……」

 

 

 似ている―――愚直に真っすぐに、むしろ愚者というべきその思考停止の様子を見ていると、昔の自分が想起される。何も知らず、独りよがりだったついこの間までの自分と重なった。

 

 

「そうか、そうだったのですか。それは怒られる、それは殴られて当然ですね」

 

 

 居場所となっている人物が何を考えているか知ろうとしない。

 主と仰いだ相手のことを盲目的に信じ、自分の中の主の偶像を信じて疑わない。

 自分の進む道を選ぶことを捨てて主に決めてもらう。

 あの人がそう言ったから。

 誰かがそう言ったから。

 行動の理由はいつだって他人にある。

 唯一選んだのは、従うということだけ。

 自分の足で道を歩いていない。

 自分の道を歩いていない。

 殴られて当然だ。諦めろと言われて当然だ。心を折られて当然だ。

 少年の隣にいようとするのなら、それではいけないのだから。

 少年の傍にいるなら、少年を支える存在になるのなら、少年と共に道を歩むのなら、台風に巻き込まれて飛ぶような存在では話にならない。台風の中でも足を地につけて歩く―――逆風でも、追い風でも、豪雨の中でも、自分の道を見失わずに進むだけの気概が必要なのだ。

 今になって理解できた。こうして目の前に自分のような存在がいるから分かった。紅魔館で門番が言った言葉が初めて理解できた。

 そう思うと、思わず笑ってしまった。

 

 

「ふふっ、ふふふふ」

 

 

 なんてことはない。あれは説教だったのだろう。あれは諭されたのだろう。

 少年の傍で生きるということの難しさを。

 少年と一緒に道を歩むということの意味を。

 門番が話した彼の者が誰なのかは未だに分からないけれども、少年と共に道を見据えることに対する覚悟を問われたのだ。

 少女は、いきなり笑い出した椛に対して怒りをあらわにした。

 

 

「何がおかしい!?」

 

「いえ、馬鹿にするつもりではなかったのですが、余りにも昔の私にそっくりで。今歩いている目的を知らず、方向性を失って彷徨っている姿はここまで滑稽なものかと。いえ、それが悪いなんて言うつもりはないのですが」

 

「べらべらと、はっきり言ったらどうですか!」

 

「ではお言葉に甘えさせていただきます」

 

 

 椛の足がゆったりと地上に降り立つ。椛は、両足をしっかり地面につけて前を向いて戦うのだと言わんばかりにその姿を大地に降ろした。

 椛に合わせるように少女も高度を落とす。お互いの目線は再び地上で交わった。

 椛は、少女の目を射抜くように見つめながら静かに歩みを進める。

 一歩目―――。

 

 

「貴方は一体誰の椅子に座っているの? 貴方が今いる椅子は、貴方が座っている場所は別に貴方でなくてもいいのよ。従うだけ、後ろについてくるだけ、そんな椅子―――誰が座っていてもいいでしょう?」

 

「ふざけるな! 幽々子様のそばにいるのは私の役目だ。これは私にしかできないことだ! そういう貴様こそ、数多いる白狼天狗の下っ端の一人だろう!? 所詮切り捨てられる歩兵だ。代わりなどいくらでもいる!」

 

「分からないのならいいわ。ただ、これだけは言わせてもらう。私の座っている椅子は私だけの特等席。私の色がついた席だ。誰にも代わりはできない。誰かの代わりでもない! ここは私が決めた、私だけの居場所だ!!」

 

 

 二歩目―――

 二人の距離が徐々に縮まっていく。

 歩みを止めて構えている少女。静かに歩みを進める椛。

 本来であれば、両者の存在は通り過ぎるだけで交わることはなかっただろう。

 椛がその足を止めないから。少女がその足を動かさないから。すれ違うことはあっても衝突することはなかったはずである。

 だけど、少女は椛の前にいた。道をふさぐように目の前にいた。

 本来交わることすらなかったはずの両者の道は、完全に正面を向き合っている。道はクロスして、平行線を崩している。

 道が重なる瞬間は間近まで迫っていた。

 

 

「貴方は明日をどんな気持ちで迎えてきたの? 答えられる? 夜眠るときでも、朝起きたときでも何でもいい。明日の自分を迎えるために、どんな希望をもって明日を望んだの?」

 

「…………」

 

「答えられない貴方は日々をただただ流しているだけよ。朝が来て、夜が来て、眠るだけ。主に全てを仰ぎ、その意思に従うだけ。今回の異変の目的を知らないのがいい証拠よ」

 

 

 三歩目―――

 椛の足がこれでもかというほどに地面を力強く踏みしめる。これまでの希望の重さを示すように。これまでの絶望の重さを示すように。積み重ねてきた想いが形になっている。

 これまで悩み苦しんだ過去が目の前をクリアにしている。

 自分で見つけた明日への架け橋が道を繋いでいる。

 椛は、堂々と我が道を歩きながら大剣を構えた。

 

 

「それに、護衛をしているという割にその護衛対象の傍にいないのがもう駄目ね。護衛は傍にいてこそ。近くにいなければ守れるものも守れないわ」

 

「それは貴様も同じだ! 貴様だって主を先に行かせている! 自分のことを棚に上げるな!」

 

「話を聞いていたの? 私は和友さんの護衛じゃない。和友さんに護衛なんていらないの。そんなもの邪魔になるだけ、足かせになるだけよ」

 

 

 心が叫んでいる。

 これまでの過去に。

 これまでの出会いに。

 ―――明日を迎えられることに感謝を告げている。

 

 

「そう―――これまでの日々が教えてくれた。これまで感じてきたものが、これまで抱えてきたものが、私に答えをくれた。みんなが私を導いてくれた。もう、私は自分の道を歩いていける」

 

 

 みんな、ありがとう―――力強い想いが心を駆け巡る。

 その瞬間、体を包み込むように一陣の風が吹いた。

 首に纏っている少年から貰ったぼろぼろのマフラーがたなびく。

 真っ赤に染まった朱色が白い世界に映えている。

 

 

(和友さん、心配しないでください。私ならもう大丈夫です。私は自分の足で歩いていけます。自分の目で―――未来を見つめられます)

 

 

 歯をかみしめ、目を見開く。

 内燃機関を燃やして、体中に妖力を込める。

 溢れるように出てきた妖力が全身をくまなく循環する。

 心臓から血液が循環するように、指先に向かって流れている。

 体全体に力が循環すると視界がさらにクリアになる。

 もともと保有している能力である「千里先まで見通す程度の能力」がさらにその効果を増していく。

 遠く、遠くへと視界と脳が呼応している。

 明日へ、未来へと叫び合っている。

 

 

「名もなき護衛失格の剣士さん。私は貴方のような人には負けないわ。私たちはずっと明日を迎えてきた。自分から明日の自分を作ってきた。毎日、毎日、明日を想って過ごしてきた。例え望んだ今日にならなくても、それでも望む明日を抱えて生きてきた」

 

 

 私の全てをここに示す。意気込む心に比例するように妖力を作り出す内燃機関がデットラインへと至る。風に流れているマフラーと同じように赤く染まった妖力が視界を切り開き始める。

 今を生きている、明日に向かって生きている。

 これは、後に繋げるための戦い。

 意識が切り替わるのと同時に見えている世界が切り替わりを見せる。

 まるでスイッチが切り替わったように様変わりする。

 周りの雰囲気までもが時に置き去りにされるほどに燃える空気感が後を引いている。

 赤い台風の目になっている椛は―――力強く大剣を握った。

 

 

「貴方は明日に何を望んだの? 貴方は何を望んで昨日を終えたの? 貴方には答えられない。なぜなら、付き従っているだけの貴方には望む明日なんてないからだ。そんな明日を望むこともしないやつに、明日を望んで迎えてきた私たちが負けるわけがないのよ!」

 

「戯言を!! これまでのはあくまでも力量を図るために手加減していたにすぎません。全力で行かせてもらいます!!」

 

 

 全力を出すと言った少女が地を駆ける。

 飛んでいた時よりもはるかに速い速度で、踏ん張りの利いた地上で風になっている。

 だけど、そんな速さは関係ない。

 速さはあくまでも時間に支配されている。

 速くなるとはつまり―――未来の先取りをすることと同義だ。

 だったら、なおさら私が負けるわけがない。

 私は知っている。

 初撃―――袈裟斬り(けさぎり)がやってくる。

 少女が走り出す直前に体を引く。左足を下げておくだけでいい。

 

 

「確かに速い。貴方の剣は羨ましいぐらいに真っすぐで綺麗だ」

 

 

 剣筋が体すれすれを通過する。

 真横を通り過ぎた姿は、速すぎてもはや見えないレベルにまで至っている。

 通過と同時に吹きすさぶ風がその速さを顕著に表している。

 少女の動きは、明らかにこちらが動けないと判断しての動きである。速すぎて制御が利いていない可能性もある。そうなってしまっているのは、おそらく少女の動きに付いてこれた者がこれまでいなかったからだろう。全力で短距離を結べば、誰もがその姿を捉えきれずにされるがままに斬られたからだろう。

 でも、私はそんな者たちとは違う。少女の動きが見えないというところは同じだけど、動き出すタイミングとその形が明確に見えている。

 少女は攻撃を躱されたことに対して僅かに驚きを表情に出す。躱されると思っていなかったのだろう。両者の距離はまたしても3メートルほど開く形になった。

 だが、少女の攻撃はそこでは止まらない。右足でグリップを利かせて反転してくる。移動が速くなってもリカバリの早さは健在のようである。すでに少女の視界には椛の姿が映っている。剣先は敵を差し示している。

 私は知っている。

 二撃目―――突きがやってくる。

 

 

「けれどね、ぶんぶん何度も振る必要なんてない。たった1度、1度っきりの一打が当たれば、全てが終わるのよ」

 

 

 少女の突きに合わせて大剣を振るう。正面1メートルまで接近してきた刀に対して逆袈裟斬りで下方から弾き飛ばす。大きな金属音を響かせた少女の刀は大きく進行方向を逸らされて、椛の肩口を通過した。

 

 

「うぐっ……!!」

 

 

 少女は、突っ込んだ勢いを殺すことができず、椛と正面衝突する。椛の肩口がちょうど少女の顔面を強打した。少女の顔が痛みに歪む。よほど痛いのだろう、歯を食いしばって耐えているのが見て取れた。

 椛は、痛みによろける少女の腹部を蹴り飛ばす。腹部を強打された少女は刀を持ったまま1メートル先で転がった。

 

 

「どれだけ貴方が速くても。どれだけ貴方が遠くても。私の目は貴方を逃がさない」

 

 

 地面に横たわる少女が悔しそうに顔を歪ませる。

 敵意の炎を燃やして、煌びやかに輝く刀を握る。

 ああ、ここまで似るものだろうか。

 悔しく思う気持ちは痛いほど理解できる。

 辛い気持ちも自分のことのように分かる。

 だけど、それでは駄目だから。

 だけど、そんな生き方じゃいずれ後悔するから。

 貴方の気持ちが分かる私だから、抱えている気持ちが理解できる私だから―――私がやらなきゃいけないと思うのよ。

 

 

「だって、貴方の未来は私の瞳の中にあるのだから」

 

 

 遥か先が見える。

 これは、自分の生き方を見つけられたときに身に着いた力。

 これは、明日を望んで迎えられるようになって発現した力。

 後悔や挫折を味わって得た―――私だけの力。

 

 

「っ……ふざけるな! 妖怪の山の下っ端なんかに! 私は、貴様なんかに負けるわけにはいかないの!! 幽々子様を守るためには貴様のような奴に負けるわけにいかないのよ!!」

 

 

 三撃目―――人鬼「未来永劫斬」

 おそらく少女の最高速度が出る技だろう。

 発動と同時に少女の姿が掻き消える。

 だけど、その軌道さえも私の目からは逃れられない。

 ここから先の5秒間の景色は、すでに見知ったもの。

 さぁ―――ここだ。

 最後の一歩を踏み出す。

 

 

「何のために守るのか。どうして守りたいと思うのか。自分が何のためにいて、どうなりたいのか、何をしたいのか。それが分からない貴方には私は倒せない。自ら動かない将なんて歩兵にすら喰われるわ」

 

 

 音速を超えるような速度で向かってくる相手に向かって大きな一歩を踏み出す。一歩を踏み出すことで少女の見ている景色を塗り替える。横を通り抜けざまに斬ろうとしている相手の道に立ちはだかる壁のように正面に構える。

 椛は、横一文に振り切られる刀に対して恐れることなく目を見開き、未来を逆算した。

 

 

「そして―――」

 

 

 4歩目―――成金「自らの道を踏み出したもの」

 

 

「歩兵だって、前に出る覚悟さえできれば金将に成れることを知っておきなさい」

 

 

 踏み出した足を軸にして足から腰にかけて捻じるように左方向に回転させる。視線は少女から一切動かさない。足から腰まで伝搬した力は腕の振りにまで到達する。力強く握った大剣は、全身の力を得て弧を描く体勢に入った。

 少女の刀が間近まで迫っている。見えない恐怖と、斬られる恐怖が心を包み込もうとする。

 だが、それ以上に燃える心が視界をクリアにしている。不安材料を押し殺し、できる自分を作り出している。

 

 

「王手!!」

 

 

 椛の大剣は、少女の刀の軌跡に合わせるように逆袈裟斬り(けさぎり)で振るわれた。火花が出るほどに力強く衝突した両者の武器は、その主張の重さを表すように結果を導き出した。

 

 

「終わりです」

 

 

 椛の全力での一刀が少女の手から刀を弾き飛ばす。まるでスローモーションで見ているかのように刀が空を飛んでいくのが見える。

 刀が遠くに飛ばされるのと同時に少女の顔が絶望の色に染まる。武器を失うと共に勢いを無くした少女は、涙を流しながら膝を折った。

 終わった―――そう思いながら空を見上げてみる。白く霞んでいるだけで何も見えてこない色が全面に広がっている。

 和友さんはどうなっているだろうか―――視線を階段の上に向けようとすると、そこに赤と白を基調とした巫女装束を着ている少女が飛んでいくのが見えた。

 

 

「あっ、もう追いつかれてしまいましたか。やはり専門家というだけあって早いですね」

 

 

 椛の千里眼が遠くにいる霊夢の表情の細部まで映し込む。どうでもよさそうに思っているように見える霊夢の視線には、僅かに安堵の表情が浮かんでいるのが見て取れる。

 こうして、何を考えているのか、何を想っているのか、何を感じているのか分かりにくい彼女とも付き合いが長くなってくるとその心中を察することができるようになった。

 椛は少しばかり微笑み、手を振る。霊夢は恥ずかしそうに頬をほんのり赤く染めながら小さく手を振り返してくれた。

 

 

「みんな、こうして変わっていくのですね。きっと、貴方も変わっていけます。私たちが変わったように、譲れない自分と新しい自分を抱えていけます」

 

 

 空を駆けていく霊夢の存在を見送り、大剣を肩に背負うと階段の遥か先を見つめる。

 纏っていた妖力を抑えて、千里眼と呼ばれる瞳を走らせる。

 遠くまで伸びた視線の先に少年と橙が誰かと話しているのが見て取れた。

 椛は、状況を把握すると倒れている少女に向けて一声放つ。

 

 

「自分の道を見つけなさい。目指すべき明日を見つけなさい。貴方だけの景色を。貴方だけの居場所を。貴方色の椅子を見つけなさい。そうすれば、貴方はもっと強くなる」

 

 

 あなたと私は似ている。

 出会った相手が違うだけで同じような道を辿っている。

 誰かのために戦っているばかりで自分が見えていない。

 誰かのためにという言葉を隠れ蓑にして、その誰かの気持ちを察しようとしない。

 少年のために。主のために。

 そこにある気持ちは嘘ではないけど、それは余りにも独りよがりで方向性を失っている。

 あくまでも、自分がいて誰かがいるのに、独りになっている。

 

 

「悔しいと思う気持ちがあるのなら、リベンジがしたいならいくらでも受けてあげる。貴方が自分の足で自分の道を歩くその時がきたら、私はいつでも挑戦を受けるわ」

 

 

 そこにいる意味はどこにあるの?

 そうしようとしている意図はどこにあるの?

 どこを向いて、どこに向かって歩いているの?

 向かうべき明日の形はどんな形をしているの?

 自分の中で答えを見つけて。

 それがきっと自分の居場所を作り出すきっかけになる。

 貴方が自分の居場所を、自分だけの椅子に座ることができたら。

 貴方が心の底から自分の道を歩くために誰かの力になりたいと思えるようになったら。

 

 

「その時は、きっと―――友達に成れると思うから」

 

 

 椛の声が空間に伝搬する。

 椛は、少女を置き去りにして階段の先へと飛び立った。

 椛の言葉に返答はなかった。追ってくる様子もなかった。

 けれども、少女の顔は泣きながらもしっかりと椛の後ろ姿を見上げていた。




戦闘回は難しいですね。
ですが、ここで椛が成長した姿が書けたかなと思います。かつて美鈴が椛に対して言ったセリフを椛が言っているというところも中々に面白いところです。
これまでの椛の軌跡を読んで何か感じ取ってくれたら嬉しいですね。
前回のあとがきで申し上げたところまで進まなかったこと、誠に申し訳ありません。戦闘回が長引いたことでもしかしたら全話で6話構成になってしまうかもしれません。そうなったら少し長引くかもしれませんがお付き合いください。

これからもよろしくお願いいたします。


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酌み交わしたもの、始まりの時

全6話編成になる予定の第9章の5話目です。
9章は、妖々夢のお話になります。


 幾分か進んでいると永久に続いていると思われた階段にも終わりが見えた。最終段の先からは淡い光が見える。終わりが近づいているという期待感からか自然と飛ぶ速度が速くなった。

 少しだけ早くなった景色の移り変わりに必死に追いつこうとするようにその先の景色が姿を現していく。僕はワクワク感を胸に抱え、空を飛行しながら階段の最上段に足をかけた。

 久々の地上の感覚に足の指先に力が入る。

 視線を持ち上げると、そこにはこの世のものとは思えない光景が広がっていた。

 

 

「ここが頂上かな?」

 

「和友! 凄いよ! あんなに大きな桜、初めて見た!」

 

「僕もあんなに大きいのは初めて見たよ。地上は冬で真っ盛りなのにここの桜は満開なんだね」

 

 

 階段の下から見上げたときに見えていた淡い光の源泉になっていたのは、どうやら大きな桜の木だったようだ。

 

 

「すごいね! ね! 和友!」

 

 

 僕の隣で橙が元気よくはしゃいでいる。

 その気持ちが分かるぐらいに僕の気持ちもワクワクしていた。見たことがない景色に心がドキドキしていた。

 圧巻である。これが、これこそが春だと言わんばかりだ。

 外は真冬で、春なんて一生来ないんじゃないかって思えるような状態だっただけに、より一層輝いて見える。これがギャップによる相乗効果だろうか。“これが春なんだ”って思えるような景色は、僕の心の雪をゆっくりと溶かしていくようだった。

 

 

「本当にでっかいなぁ。ここまで育つのにどれくらいかかったんだろう?」

 

 

 中でも正面に見える桜の木は、高さ20メートル、長さ30メートルはありそうな巨大なものである。学校に植えられている桜しか見たことない僕にとっては今までに見たことのない規模感だった。

 そして、視線を巨大な桜の周囲に向けてみれば、桜色に染まった光が蝶と共に舞っている。幽霊も浮遊している。

 

 

「この煌びやかな蝶々は何だろう? 幽霊と同じように飛んでいるし、纏わりついてくるし」

 

 

 案の定、幽霊と蝶のその両方が体に纏わりついてくる。幽霊はこれまでずっと見てきたのと変わらないようだが、光り輝く蝶は幽霊とは違った軌跡を描いていた。

 目の前や後ろ側をぐるぐる回るように旋回している。僕の周りを回っている理由は分からない。巻き込まれているのだろうか。

 そして、なんだろう――見たことも聞いたこともない形をしている。僕が見てきた他の蝶と同じだろうか。僕が見たことがあるものと同じものだろうか。モンシロチョウとか、アゲハチョウとか、いろいろ名前を持っている昆虫ではあるけれども、脳内は同じだろうと、どっちでも変わらないと言っている。

 だけど、きっと違うものなのだろう。

 肩に、頭に、次々と蝶々が不時着していく。

 右肩に乗っているもの。

 頭の上に乗っているもの。

 きっとこれらは違うものだ。

 蝶だって個別に別々に生きているはずなのだから。

 同じものなんて何もないはずなのだから。

 ゆっくりと手を桜へと伸ばしてみると、指先に別の蝶が舞い降りる。そう、今止まった蝶だってきっと違うもの。

 

 

「和友! あそこに誰かいるよ!」

 

「ん?」

 

 

 蝶に気を取られていたところを橙の声に引き戻される。橙が向けた指の先には1人の女性が佇んでいるのが見えた。

 桜の木の下で手を差し出し、その手の先では光り輝く蝶が羽を休めている。

 身長は先ほど見た幽霊を連れた少女よりもはるかに高く、紫と同じぐらいはあるだろうか。淡い水色のフリルのついたロングのスカート。特徴的な桜と同じ桃色の髪。そして、何よりも異質に見えるクエスチョンマークのような文字が書いてある三角巾が帽子についている。表情は柔らかで懐が深そうな、おおらかな雰囲気が感じられる人だった。

 もちろん僕にとって初対面の人で―――区別されていない人だった。

 

 

「あら、貴方は……?」

 

 

 視線を送っていると、その視線に気づいたのか女性が向こうから近づいてくる。一つ一つの動作が丁寧で、歩く動作に上品さが感じられる。

 僕は、できるだけ粗相のないように距離を詰めてきた相手に対してゆっくりと頭を下げて自己紹介をした。

 

 

「初めまして。私は笹原和友と言います。貴方が紫の友達ですか?」

 

「ええ、そうよ。紫は私の大事な友達」

 

「本当に紫様に友達なんていたんだ……」

 

 

 大事な友達―――どうやら紫の言葉は本当だったようである。橙も驚いていることから、紫はほとんど誰にも友人関係を告げていなかったことが分かる。知っているのは付き合いの長い藍だけかもしれない。

 疑っていたわけではなかったけど、平然と嘘を付ける紫のことだ。もしかしたらここに呼び寄せるための方便だった可能性もあった。

 でも、こうして相手の方から大事な友達と言われると疑いようもない。紫の言葉は真実だったのである。

 そんな気まぐれな紫の友達であるこの人は、どういう人なのだろうか。一応目の前にいる相手からご指名でお呼び出し貰ったということなので、何かしら僕に対して目的があったのだろうけど、僕にはそれを知る術もない。

 何にせよ、まずは相手の名前を知るところからだろう。相手が誰なのか、コミュニケーションの始まりはそこからである。

 だけど、その思惑を遮るように相手から先に会話が展開された。

 

 

「笹原と言ったかしら、貴方の周りには反魂蝶が纏わりついているのね」

 

「ハンゴンチョウ?」

 

「貴方の周りを飛んでいる蝶のことよ。死者の魂を蘇らせる、魂を呼び寄せる、その象徴のようなもの」

 

「魂を蘇らせる……?」

 

 

 死者の魂を蘇らせる。魂を呼び寄せる。

 事象の難しさに頭が混乱しそうになる。

 魂という見えないものを相手にしているからだろうか。脳が上手く情報を処理しない。

 魂とは何だろうか。思念や怨念のことだろうか。心のことだろうか。

 よく言われている幽霊というのが魂の塊だと仮定すると、大半の者が肉体が死ぬと同時に魂も死んでしまっていることになる。なにせ幽霊となる者はかなり少ないのだ、肉体が滅びるのと同時に失われると考えるのが普通だろう。

 ともすれば、肉体は器であり、魂はそれに収まっている液体と言えるだろうか。だとすると、幽霊として存在できているものは何かしら外殻を得ているとでもいうのだろうか。あの白い靄のような独特のフォルムは外を覆う膜で、それが破れると中身が出てしまうような構造になっているのだろうか。

 それが事実ならば、魂を蘇らせるって何だろう。溶液である魂を容器なしに復活させてしまえば、魂はすぐにでも失われてしまうのではないだろうか。蘇った瞬間に成仏してしまうような気がする。

 いや、そんなことはどうでもいいのだ。きっといろんな理由があって、僕の想像の及びもしない事象があって、そうなっているのだから。そんなどっちでもいいことはこの場合僕にとって大事なポイントではなかった。

 そう、ここで引っかかっているのはもっと別のところ。

 魂を蘇らせることは、生きている者からの一方的な寄りかかりではないのかというところである。

 そんなどうでもいいことを考えていると、その思考を寸断するように相手から声がかけられた。

 

 

「貴方はどうして死に抗おうとするの?」

 

 

 相手から見た僕はそう見えたのだろうか。

 死に前向きに向かっている僕を抗っていると表現されることに違和感を覚える。

 僕の最終地点は死に直結していて、それを目指して頑張っている最中だというのに。綺麗なまっさらな―――台風が過ぎ去った後みたいな光景を残すために頑張っているところだというのに。死に抗っているように見えるのだろうか、僕には疑問だった。

 

 

「抗っているつもりはないのだけど」

 

「抗っているわ、生きようとしているもの。反魂蝶が生きたいと強く願う心の輝きに集まっているのがいい証拠」

 

「生きたいと強く願う、か」

 

 

 僕の本心は、死にたがっている。これは紛れもない事実である。

 ただし、生きようとしている。それもまた間違っていない。

 死にたがることと、生きようとすることは、矛盾しているようで共存できる感情だ。

 その日を迎えるために、死ぬための日を迎えるために、僕は今生きているのだから。死ぬ準備をするために生きようとしているのだから。

 死ぬために、生きている。

 生きようと心が活動している間は死ぬことはない。そこが終わりじゃないと叫んでいる間は生きていられる。

 終わりを迎えるまでは、そう決めたのだから。

 僕の運命を僕が決めたのだから。

 

 

「だったら、まだ終わりじゃないってことなんでしょうね。僕の命がまだ終わろうとしていないってこと。運命がそう言っているんじゃないですか?」

 

「生きろと運命が言っている――随分とロマンチックなことを言うのね」

 

 

 女性は幽雅に振り返り、大きな桜の木の真下へと歩き出す。僕と橙はその後姿を追うように歩き出した。ちょうど女性の斜め後ろの位置である。

 

 

「申し訳ないわ。紫も間が悪いわよね……いえ、紫はいつもこんな感じだったわ。紫はいつだってどこにでもいる悪戯好きの妖怪だもの」

 

 

 おおよそ間違っていない認識である。

 紫に対する理解の深さがセリフから読み取れる。紫に対する思いやりが声色から聞き取れる。

 余程心を開いて付き合っているのだろう。表面上の関わり合いだけではこうはいかない。紫の表面上だけを見るとうさん臭くて何を考えているのか分からないというのが通例なのだから。

 

 

「こんな時じゃなかったらゆっくりお話ししたいところだったけど、今は手が離せないの」

 

「ちなみに今、何をされているのですか?」

 

「私は、西行妖に封印されている者を解き放ちたいのよ。本来いるべきところへ、本来あるべき姿に戻すの。私はここにいる者に聞いてみたいのよ。貴方はどうしてそこにいるのかって」

 

「それはまたロマンチックな話ですね」

 

 

 封印されている者を解き放ちたい。まるでファンタジーの世界の話のようである。それも、そうする理由が“どうしてそこにいるのか”を聞くためだなんてなんとも面白い理由だ。

 そう、面白い冗談みたいな本当だ。

 だってそこにはきっとその人の都合はないから。封印された、もしくは封印した人の意志がないから。

 

 

「でも、死者の気持ちも考えてあげてくださいね。いつだって死者と会いたいというのは生きている側の都合です。生きている人が欲しい答えを得るために、欲しいものを得るために死者に頼っている」

 

 

 仮に僕が幻想郷のどこかで封印されたとして、あるいは僕自身を封印したとして、それであるべき形にするために蘇らせると言われたらどう思うだろうか。僕自身はそれを望まないだろう。誰かが「そうしたい」と望んだとしても、僕はそれを善しとはしないはずである。

 死者は何も意思表示できない。できることは生きている間にしたことだけである。遺書なり、遺言なりを生きている間に残さなければ、自らの意思を示すことはできない。

 何も明示していない死者に対して何かを求めることは雲を掴むようなもの。死者からは決して手が伸ばされておらず、生きている側から一方的に手を伸ばしているだけ。死者に手を伸ばして掴もうとする行為は、死んでしまって終わってしまった相手にさらに寄りかかる行為になる。

 僕だったら、そんなことは絶対にしてほしくなかった。それをしてしまったらこれまでと同じになるから。寄りかかりを抑え、誰も引きずらないために準備をしている僕にとっては、これ以上ないほどの裏切りだから。

 僕は、例えどんな死に方をしたとしても、例えどんな理不尽な死を迎えたとしても、どんな不条理な死が訪れたとしても飲み込める自信がある。

 だけど、死者の死に方のそれが例えどれほど理不尽なものだとしても、いくら不通に訪れた死だとしても――その感情を読み解くのはあくまでも読み解く人の主観によるものになる。死者は本心を語れないからだ。それこそがここでの最も大きな問題である。

 

 

「死者の想いを読み解くのは勝手ですけど、それを正しいもののように押し付けるのはどうかと思いますよ?」

 

「それの何が悪いの? 何かを想い、それを押し付けるのはこうして思考する者の特権よ。死者の気持ちをすくってあげられるのは想いを巡らすことができる者だけなの」

 

 

 言われてみれば、なるほどそういう考え方もある。

 考え方は千差万別である。

 不正解はなくて、正解だけが存在している。

 死者を終わったものとする僕。

 死者を続いているものとする女性。

 両方、間違っていなくて正しい。

 正反対のように思えるようなお互いの主張だが、唯一両者が死者を想っているということだけは一致していた。何かしらの想いがあって、そこに想いを馳せているという点だけは一致していた。

 

 

「引きずらせる死者の方が悪いのよ。それに、不条理で桜の木に埋められた者は生き返りたいと思っているはずだわ。本来のあるべき形になりたいって思っているはず。こんなところで縛られていたいなんて思っていないわよ」

 

 

 死者の気持ちを想うのは、いつだって生きている人間だ。

 生きている人間の気持ちを想うのと同じで、自分の物差しで感情を推し量る。

 女性から見た桜の木に埋まっている者は違う。

 僕から見た桜の木に埋まっている者は違う。

 女性は、生き返りたいと、本来あるべき形に戻りたいと思っていると感じている。

 だけど、僕にはそうは思えなかった。桜の木の下で封印されて死ぬなんて、不慮の事故ではありえないような死に方をしていることに。そこには絶対に何かしらの想いがあったはずだと思わずにはいられなかった。

 

 

「それはそうかもしれませんが。ただ、これだけは言えます。桜の木の下で死ぬようなことを経験したその人は、きっと誰かのためにそこにいる人のはずです。誰かのためのその人が背負っているものを勝手に取り上げないでくださいね」

 

 

 そこまで言うと、唐突に女性がこちら側を振り向く。ちょうど3歩分離れた位置で女性の全身像が視界に入った。

 僕と同じぐらいの背丈の目線が真っすぐに交わる。意見を曲げるつもりはない―――視線からはそんな意志が感じられた。

 

 

「あくまでも平行線ね。私はここで引くつもりはないわ」

 

 

 女性は、ここは譲らないと言わんばかりに立ちはだかる。

 だけど、僕からすればそれはどっちでもいいことの一つである。

 僕はここに異変を解決にしに来たわけではないのだから。異変を解決するのはあくまでも霊夢の役目なのだから。

 これは僕が起こした物語ではない。

 これは僕が何かを成し遂げる物語ではない。

 これはあくまでも――僕の思い出作りである。

 

 

「そうしたいのなら僕は全然構いませんよ。僕は説得しに来たわけではありません。やるかやらないか、線を引くのは貴方です。僕が決めることではないですから」

 

「……そういうこと」

 

 

 女性はどこか納得したような朗らかな笑みを浮かべる。先ほどまで視線の中にあった鋭さはなくなり、優しげな瞳だけがそこにはあった。

 

 

「交わらないはずだわ。貴方は線を引いていない。線が引かれていない以上、平行線にすらなっていないってことね」

 

「僕は異変を解決しに来たわけではないので。異変を解決するのは、いつだって博麗の巫女の役目ですから」

 

「違いないわ」

 

 

 女性は、大きな桜の木までたどり着くとそっと手を添える。目を閉じて触れているその所作は、まるで木と話をしているように見える。

 さて、ここから僕はどうしたらいいものだろうか。

 僕がここに来た目的は。

 僕がここにいる理由は。

 僕は、どうしたものだろうか。

 

 

「一応僕は紫から貴方に会えと言われてきたんですけど、どうすればいいでしょうか?」

 

「そうね、花見でもしていったらどうかしら? こんな機会―――多分永久にないわ。きっと何よりも美味しく食べ物が食べられる筈よ。手が空いたら、またお話をしましょう。その時は、お互いが交わる線が書けるような話をね」

 

「そうですね、そうさせてもらいましょうか」

 

 

 まだ名前も聞いていないけど、手が空いたら話をするということだからその時に名前を伺おう。

 そう考えながら後ろについてきているはずの橙の顔を見つめる。橙は、不思議そうな顔で僕に問いかけてきた。

 

 

「難しい話は終わった?」

 

「うん、後の時間はお言葉に甘えて花見でもしようか」

 

「やったー!」

 

 

 橙と共に桜の木の下で静かに座り込む。

 食べ物なんて持ってきていないけれど。

 飲み物も持ってきていないけれど。

 目の前にこれでもかと咲き誇る桜が一本あって。

 そして、隣にそれと同じぐらいに咲き誇っている満面の笑みを浮かべる橙がいる。

 それだけで十分だった。それだけで十全だった。

 僕は橙の方を向いてそっと手を握り、器の形を作り出す。橙も何をしようとしているのか察したのか体の向きを変えて同様の形を作り出す。

 そこに何もなくても、大事なものは全部詰め込まれている。想いがたっぷり詰まったお互いの器は、僕たちの正面で示された。

 

 

「僕たちのこれからに乾杯」

 

「うん! 乾杯!」

 

 

 ぶつかった僕たちの器が音もなく酌み交わされる。

 のんびり、ゆったり、そんな言葉が似合うような時間を過ごす。これまで話ができなかった分を埋めるように。出会った頃―――病室で出会ったあの頃からの思い出話をする。二股の黒猫だった橙と僕が出会った、あの頃からの思い出を口にした。

 別れ際に猫又だった時の記憶を取り戻した橙との会話は、面白いぐらいに弾んだ。お互いが想っていたこと、お互いがお互いに対して感じていたこと、そのどれもが懐かしくて、涙が出てきそうだった。 

 そんなときである―――霊夢がやってきたのは。

 

 

「やっぱりここに居たのね。途中で椛とすれ違ったからまさかと思ったけど、和友はどうやってここまでたどり着いたのよ!? 私より早く着くなんて裏技でも使ったのでしょう!?」

 

 

 霊夢が文句を垂れながら重力を感じていないのではないというほどに滑らかに飛行し、目の前で着地する。詰め寄ってくる彼女の顔には怒りの色が浮き出ていた。

 先を越されて不満なのだろう。異変の中心に先に来られたことが悔しいのだろう。

 だけど、あれは正規ルートを通っていないからできた芸当である。霊夢の言う通り裏技というものに違いなかった。

 

 

「まさしく裏技を使ったよ。あれは裏道を通ってきた形になるのかな」

 

「紫様に送ってもらったの」

 

 

 橙が口を出すと霊夢の視線が一気に橙へと注がれる。凄まじく鋭い視線だった。怒っているような、呆れているような、不機嫌な色が色濃く出た瞳だった。

 橙は、霊夢の視線に耐え切れなくなったのか僕の後ろに隠れて服を両手で掴んだ。

 

 

「そっちのはさっきぶっ飛ばした猫又じゃない! なんでそんなところにいるのよ!」

 

「霊夢、橙が怖がっているから止めてあげてくれないかな?」

 

「和友はどっちの味方よ!?」

 

「決まっているでしょ。両方の味方だよ」

 

 

 そう言ったら霊夢の顔が苦虫を噛み潰したような表情になった。

 だけど、そんな顔をされても僕の本心は変わらない。

 どっちの味方なのと聞かれても――そんなもの両方の味方に決まっている。僕は霊夢の味方で、橙の味方だ。どっちの敵でもない。

 霊夢だって分かっているはずである。僕はそういう奴なのだと。そういう言葉を出さずにじっと霊夢の目を見つめ続ける。

 しばらく見つめていると根負けしたのか、霊夢は大きなため息を吐いた。

 

 

「はぁ、後で詳しい話を聞くから待っていなさい。まずはあっちの方のけりを付けてくるわ。和友、後で事情を聴くからね! 覚えてなさいよ! 絶対よ! 絶対!」

 

 

 指を指しながらプンスカと怒った霊夢が先ほど話していた女性の元へと近づいていく。おそらく戦闘を行うつもりなのだろう。今から行われるのは、当然ながらスペルカードを用いた弾幕ごっこである。

 またあの僕達とは次元の違う戦いが始まる。紅魔館で見たときのように遥か先に飛んでいる姿を見ることになる。

 だけど、そこに焦りを感じることはなかった。霊夢に勝つ―――そう告げた言葉は嘘じゃない。自信をもって何度でも口にできる。

 それはきっと、心がまだ生きているからに他ならなかった。

 

 

「貴方はお呼びではないのだけど?」

 

「今度、うちの神社で花見をするのよ。“みんな”で花見をするの。立派な桜だけど、集めた春を返してもらえるかしら?」

 

 

 桜の木の下で少女と少女が相打つ。

 真正面で背筋を伸ばして視線が交錯する。

 

 

「もう少しで西行妖が満開になる。そして同時に何者かが復活するらしいの。あなたが持っているなけなしの春があれば本当の桜が見られるわ。何者かのオマケつきでね」

 

「花見に誰かも分からない何者かはお呼びじゃないわ。花見には食べ物とお酒があって、そこに顔の知れた奴がいればそれで十分なのよ」

 

「死者は仲間はずれってことかしら?」

 

「生まれ変わって顔見知りになってから出直しなさい。幻想郷の春を返してもらうわよ。花の下に還るがいいわ、春の亡霊!」

 

「花の下で眠るがいいわ、紅白の蝶!」

 

 

 口上が述べられると一気に弾幕が展開された。桜から発せられる光なんて比較にならないほどの弾幕の光が空間を埋め尽くす。

 戦闘は開始された。時と場所を考えずに始まった戦闘に嫌な予感がビンビンする。その予感を的中させるように、女性が前面に張り出した通常弾幕は近くにいる僕達に降りかかってきた。

 

 

「和友! ちょっと離れよう!? ここにいると流れ弾に当たっちゃうよ!」

 

「異論ないよ!」

 

 

 後方から追ってくる弾幕に対して滑り込むように登ってきた階段付近まで急いで遠ざかる。弾幕ごっこの様相はかなり早い展開を見せているようで1枚目のスペルカードがきられる宣言の声が空間に木霊した。

 

 亡郷(ボウキョウ)「亡我郷(ボウガキョウ) -宿罪(シュクザイ)-」

 

 スペルカードの発動と共に光量が増加する。階段側まで避難した僕たちは、その光に立ち向かうようにして二人の勝負を眺めていた。

 縦横無尽に飛行しながらお札と針を飛ばしていく霊夢。

 幽雅に舞いながら密度の濃い弾幕を張る女性。

 前回見たレミリアとフランの二人を相手にした弾幕ごっこよりもスピード感は劣るものの、その密度は前回よりもはるかに濃いように見えた。

 

 

「今の僕では無理そうだ。戦いにすらならない」

 

 

 やはり、現状では1段も2段も遠くにいる。後数年努力をすれば何とかなるレベルにはいない。どれだけ努力しても、どれだけ走っても、たどり着ける場所ではないような気がする。

 飛行速度。旋回速度。予知にも似た弾幕予測。霊力の出力。そして、経験値。どれにも開きがある。

 だけど、諦める気持ちは不思議と湧いてこなかった。ざわつく心は、常に前に進むことを訴えていた。

 

 

「でも、私たちならいけるよ」

 

「そうだね。僕たちならやれる」

 

 

 それもこれも、苦難を共にした家族が隣にいるからだろう。台風の中を駆け抜けてきた二人だから前を向いていられる。絶壁に見えるような壁に背を向けずに、正面を向いていられる。

 しばらく花火を見上げるように視線を送っていると後方から――階段の下から何者かが上ってくる気配を感じた。よく知った気配に振り返ると、そこには椛の姿があった。

 

 

「和友さん、ただいま戻りました」

 

「おかえり、椛」

 

「おかえりなさい~」

 

 

 無事に帰ってきた椛をねぎらう。

 約束通り自分の道を歩いてきたのだろう。障害となる壁を乗り越えて、大きな歩幅で前に進んできたのだろう。

 その表情はとても清々しく、迷いの一切見えない目をしていた。

 

 

「うん、すっきりしている顔だね」

 

「そうでしょうか? 自分では分からないのですが」

 

「憑き物が取れたっていうか、凛々しくなったような気がする。うん――綺麗で、かっこよくなった」

 

「そ、そんなことないですよ!」

 

 

 僕が感じた思いを伝えると、椛の表情が僅かに高揚し、笑顔に染まった。冗談でも何でもない―――今の椛は間違いなく誰よりも綺麗でかっこいい顔をしている。

 自らの道を自分で決め、明日を生き抜く強い光の宿った瞳が未来を照らしている。

 

 

「和友、来てるよ」

 

「うん、分かっている」

 

 

 今度は、僕たちの番だ。

 やってくる――僕たちにとっての壁がやってくる。

 遠くにいても感じ取れる。

 誰よりも近くにいたから。 

 誰よりも強く想っていたから。

 誰よりも傍で寄り添っていたから。

 僕と橙は、同じところに視線を向けていた。

 

 

「え、何が来ているのですか?」

 

「ごめん、椛はここで見ていてくれないかな? さっきの戦いで疲れたでしょう? 今度は“僕たち”の番だから」

 

「ここで待ってて! 今度は“私たち”の番だから!」

 

 

 椛が自分の物語を作ったのと同じように。

 霊夢が自分の物語を進んでいるのと同じように。

 これから起こることは、僕と橙――僕たちの物語。

 

 

「これは僕たちが乗り越えるべき壁だ。これからを生きるために、自分たちの中で踏ん切りをつけなきゃいけないこと。終わりへと向かうために僕たちが戦わなきゃいけない相手なんだ」

 

「そう、ここが私たちの正念場。きっちりと立ち向かわなきゃいけない。真正面からぶつからなきゃいけない相手なの」

 

「ですが……」

 

 

 どうしても引き下がろうとしてくる椛にはっきりと告げる。

 むしろここで椛に参加されると問題が起こる。

 なにせ、椛は何も知っていないから。

 彼の者がどれほどに傷つき、苦しんだか。

 そして、その苦しみの中でどんな光を求めたか。

 最後の最後まで希望に手を伸ばした彼女の姿を。

 最後の輝きを、僕達―――八雲家だけが知っているから。

 ここを乗り越えるのは、彼女を知っている僕達だけの役目だ。

 

 

「「大丈夫だから。必ず自分の道を切り開いて戻ってくる。その眼でしっかり見ていて!」」

 

 

 僕と橙が力強く言い放つと、椛は押し黙った。

 心配そうな瞳が閉じられ、再び開かれる。そこには真剣な眼差しがあった。

 僕たち3人は時を同じくして一度だけ頷く。椛は僕たちの後ろ姿をじっと見つめ、見送ってくれた。

 僕と橙は、背中に視線を感じながら階段をゆっくりと1段1段踏みしめるようにして降りる。

 

 

「ふぅ……」

 

 

 近づいてくる。

 勝負の時か、境界線を引く時が、どんどん近づいている。

 緊張感で手が震える、肩に力が入る。

 失敗してはいけない、間違えてはいけない。

 上手くやらなければ――そういう気持ちが心の中に蔓延してくる。

 

 

「和友、緊張してる?」

 

 

 唐突に飛来した橙の言葉にハッと我に返ると、隣に視線を向ける。

 橙はちょっとだけこわばった表情でこちらを見ていた。

 

 

「ちょっとだけ。そういう橙は?」

 

「私も、ちょっとだけ」

 

「緊張で手が震えるよ。怖くなんてないのに、不安なんてないのに……」

 

「ほら、私が手を握ってあげる。これなら大丈夫だよ」

 

 

 橙が小さな手で握ってくれる。橙の手も僅かに震えているようで小刻みに揺れていた。

 橙と手を繋いだのはいつ以来だろうか。あの時よりも少しだけ小さく感じる。僕が成長したからだろうか。橙が変わったからだろうか。

 だが、確かに変わらないものもある。記憶と少しも違っていないものがある。

 ちょっとだけ小さく感じる橙の手に宿る熱は――昔と何ら変わっていなかった。

 

 

「いよいよだもんね。この8か月を見せる時だ。僕たちが進んできた道を示す時だ」

 

「うん。この8か月の間、勇気をもって歩いてきた。踏みしめて、噛みしめて、絆と約束と手を繋いで歩いてきた」

 

 

 徐々に握る手に力が入っていく。恐怖を打ち消すように、不安を抑え込むように、お互いの想いを燃やしていく。

 

 

「僕たちにとって切っても切り離せない関係の、台風の中を共に歩いてきた家族だから」

 

「どんなに苦しい時も、どんなに辛い時も、楽しい時だってずっと隣を歩いてきた家族だから」

 

「「正面からぶつかろう。気持ちを真っすぐに伝えよう」」

 

 

 橙も力強く手を握り返してくる。

 もう逃げたいとは思わない。

 もう怖いなんて思わない。

 僕たちは、戦える。

 僕たちだから戦える。

 ここが始まりだ。

 ここから全てが始まっていくんだ。

 再び―――ぶれない台風と共に歩みを進める日々が始まるのだ。

 

 

「ここがはじまりだよ」

 

「そうだ、ここからはじまるんだ」

 

 

 さぁ、物語を始めよう。

 長い停滞期から抜けて、躍動の日々を迎えよう。

 自然と顔に笑みが浮かぶ。橙も普段なら絶対にしない、笑っているような、挑発しているような顔を見せている。

 僕は、不敵な笑みを浮かべて橙に問いかけた。

 

 

「橙、準備はできてる?」

 

「8か月前からできているよ。そういう和友は?」

 

「橙が手を握ってくれた時からできてる。もう心配事はない。今度は何もかも上手くいく」

 

 

 ここにいるのは僕だけじゃない。

 これまで支え合って生きてきた。

 これまでの思い出を共有してきた。

 僕の隣には他でもない家族である橙がいる。

 そして、これから相手にする者が僕たちにとって最も近い存在だから。

 ずっと隣を歩いてきた存在だから。

 ずっと手を繋いできた存在だから。

 そんな彼女とだから。

 そんな彼女と僕たちだから――絶対に上手くいく。

 

 

「僕たちなら――上手くやれる!」

「私たちなら――上手くやれる!」

 

 

 目の前に僕たちにとっての最大の難敵が現れる。

 それは九本の尻尾を携えた妖怪。

 それは誰よりもしっかり者の妖怪。

 それは誰よりも優しかった妖怪。

 そして、僕たち家族の一員。

 

 

「お前は和友か。夢で会った以来だな。こんなところで橙と何をしているのだ?」

 

 

 そう―――八雲藍が立ちはだかるのだ。




今回は、幽々子と話をして、霊夢がやってきて、椛がやってきて、橙と会話して、最後に藍を迎えたという話ですね。
幽々子との会話からは、死者に対する考え方の違いを。
霊夢との会話からは、家族としての関係の結びつきが強くなっていることを。
椛との会話からは、一人一人別々の物語があることを。
橙との会話からは、これからの意気込みを。
それぞれ書かせていただきました。

そして、ようやく彼女が出てきました。待ちに待った登場ですね。
次回は、弾幕ごっこでの戦闘回になります。
また、話が長引いたことで全話6話構成になってしまいました。次回で妖々夢最終話です。
これからもよろしくお願いいたします。


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伸ばされた手、掴み取った手

全6話編成の第9章の6話目、最終話です。
9章は、妖々夢のお話になります。


 僕たちの家族が目の前にいる。

 九本の煌びやかな金色の毛をたなびかせて悠然とそこにいる。

 よく見知った姿に心がはじけながら叫んでいる。

 想い焦がれた存在に心臓が鼓動し、高鳴っている。

 僕は、何のためにここにいるのか。

 何のためにここに来たのか。

 何のためにこれまで生きてきたのか。

 何のためにこれから死ぬのか。

 今なら胸を張って言える。

 何のために――きっとそれは目の前の存在のため。

 僕と僕の大切な人の――今からのため。

 

 

「特に何もしていないよ。理由があるとすれば、藍と会うためかな」

 

 

 本心からの気持ちを伝える。

 僕は間違いなくここで藍に会うためにここにいる。藍と会って話をして、再び歩き出すためにここにいた。

 

 

「そう、藍と会うために今ここにいる」

 

「わ、私と会うためか?」

 

 

 素直な気持ちを告げると藍の顔が朱に染まった。好意的な言葉を貰うと恥ずかしくて顔を赤くする性格は変わっていないみたいで視線が僅かに泳いでいる。

 相変わらず、まっすぐに伝えられる好意に弱い。昔の藍のままである。そんな藍に少しだけ不安になる。何も変わっていないのかと不安になった。

 だけど、そこから口にした言葉は確かに昔の藍と違うということを示していた。

 

 

「和友から会いたいと言われるのは私としてもやぶさかではないが……すまないな。今は紫様の命令でこの先にいる西行寺殿に話をしなければならないのだ」

 

「今からじゃ駄目かな? そんなに時間をかけないから。今、僕の相手をしてくれればすぐに終わるよ」

 

「そう急かすな。和友と話したいのは私も同じだ。だが、紫様の命令をおろそかにはできないのでな」

 

 

 藍の用事は、どうやらこの階段の先にあるらしい。西行寺殿というのが誰なのかは分からないが、おそらく紫が仕向けたことなのだろう。この階段は一本道であり、他に道はない。藍をここによこせば、間違いなく僕たちと鉢合わせになる。

 必ず――出会うことになる。

 そして、こうして藍と話していると記憶を消したことによる優先順位の変化が見て取れた。昔のままの藍だったらきっと僕のお願いを聞いたことだろう。紫に頼まれたことよりも、僕のわがままを優先したことだろう。

 だが、今の藍は僕のお願いを後回しにして、紫の命令を優先させている。

 そう、これでいい。

 これが正しい形。

 この形が――僕が求めていたもの。

 そして、ここから先が――僕の求めるもの。

 

 

「そうだ、用事が済んだその後に夢の続きをしようではないか。それでいいだろう? 時間はたっぷりある。だから今はここを通してもらえないか?」

 

「ここから先には行かせないよ」

 

「和友は強情だな」

 

 

 ここを通してしまえば戦いにならない。僕たちの想いをぶつけられない。

 対決する姿勢を崩さないように、藍が逃げないようにできるだけ強く、鋭く、藍の瞳を見つめる。心の奥底で現状に満足する自分を覆い隠すために藍の瞳を射抜く。

 だが、僕の鋭い視線に対して藍から返ってきたのは慈愛に満ちた優しい視線だけだった。

 

 

「なあに、数分だ。それまで待っていてくれ。私も楽しみに待っているからな。必ず戻る――私を信じてくれ」

 

 

 頭にポンと手を置かれて優しく諭さされる。

 余裕のある顔で、おおらかな雰囲気で、優しい空気に包まれる。

 

 

「それではまたな、和友。また、だ」

 

「あ……」

 

 

 また――夢の中で言った言葉が反復される。

 心に余裕のある藍の久々な手の温かさにどうしても強く言い出せなくなる。口が閉ざされて開こうとしない。喉まで出かかっているのに、それを飲み込んでしまう。

 言わなきゃいけないのに――これでいいと思ってしまっている。

 なんで? どうして?

 なんて僕は弱いのだろうか。

 なんでこうも揺さぶられるのだろうか。

 普段なら不動でいられた心が泣き叫んでいるのが聞こえる。歓喜の感情でグラグラと揺れているのが分かる。

 これが本来の形だった。本当ならこういう距離感でずっといられると思っていた。

 望んでいた関係性に込み上げてくるものが邪魔をして声が出せなくなる。せりあがってくる想いに口が震えて何も出てこなくなる。

 

 

「和友……」

 

 

 橙は、何も言わなくなった僕を心配そうな顔で見つめていた。

 藍は僕の頭から手を放すと優しく微笑み、すぐ横を通過しようとする。藍の姿がスローモーションで真横を通り過ぎる。

 行かないでと思っているのに、手が伸びようとしない。

 目の前の現実に対する歓喜が時間の流れを引き留めようとしない。

 手を伸ばさなければならないのに。

 未来を掴みにいかなければならないのに。

 それが分かっているのに。

 手が伸びようとしない。

 未来が逃げていく。

 大切なものが通り過ぎていく。

 それを見てもなお――奥底にある気持ちが重くのしかかり、足は止まったまま動かなかった。

 

 

(動けよ、動いてくれよ……)

 

 

 手が伸びない。

 体が動かない。

 一歩が踏み出せない。

 視線が下がる。

 動かない足元を見る。

 

 

(どうして動こうとしないの? どうして、僕はここで立ち止まっているの……?)

 

 

 今まで止まったことのない足が止まっている。

 能力に立ち向かい始めてから一度も止まることのなかった歩みが止まっている。

 そんな止まった足を見ていると涙が出そうになった。

 理由もなく、どうしてか目元が熱くなった。

 瞳が潤んで視界がぼやけた。

 

 

(誰か、誰か……)

 

 

 足が動かない理由なんて分かっている。

 踏み出せないわけは、僕が一番よく知っていた。

 

 

(誰か僕の背中を押してくれ。これでいいと満足する僕を突き動かしてくれっ……)

 

 

 苦労が報われたという感覚が全身から力を抜いていく。

 膝が折れそうになる。

 徐々に体を支えていられなくなる。

 心が前を向こうとする気持ちが現状の満足に気圧される。

 明日でもいいじゃないか。

 今度でもいいじゃないか。

 今日はここまでできたのだから。

 家族から記憶を消す。

 そこまでした結果がしっかりと目の前に出ていることに安堵してしまっている。

 これまで未来を求めて歩みを止めなかった足が――止まってしまっていた。

 

 

「ここから先には行かせません!」

 

 

 橙の声に曲がった首が上を向く。

 橙は、動けない僕の代わりに必死の形相で両手を広げていた。

 

 

「橙もどうしたのだ? 私は急いでいるのだが……」

 

「私からも藍様にしなければならない話があります!」

 

「二人は知り合いだったのか?」

 

「はい、ずっと前から。1年以上前から――ずっと前から和友は私たちにとって大切な人です!」

 

 

 藍の眉間にしわが寄る。

 橙の言葉の意味が分からないのだろう。ここ2年間分の僕に対する記憶が曖昧になっている藍にとって、橙と僕の関係について理解できる余地はない。

 橙と会った時のことも。

 僕が橙を藍に送ったことも。

 僕と橙と藍の3人で共に過ごしたことも。

 そこに僕がいなくなったから、不自然な記憶だけが残っている。

 藍は思い出せない記憶に若干の苛立ちを感じながら、道をふさぐ橙に対して強く出た。

 

 

「……気になることは山ほどあるが、今は紫様の命令を優先させてもらう。そこをどくのだ!」

 

「嫌です!! 和友も何か言いなよ!? 和友はずっと待っていたんでしょ!? この時を待っていたんでしょ!?」

 

 

 力強く呼ばれる自分の名前にハッとする。

 橙の存在が諦めかけた僕の背中を強く叩く。

 共に歩いている家族からの言葉が背中を押している。

 

 

「私たちには今しかないんだよ! 今しかないの!」

 

 

 そうだ、僕たちはずっと待っていたのだ。

 この時が来るのを、全てを始めるこの時が訪れるのを。

 再び歩き出せる日を心から待ち望んできた。

 橙は藍の傍で。

 僕は藍から遠い場所で。

 「みんなで」という気持ちを持って。

 

 

「未来を待っているだけじゃ欲しい現実は手に入らない。手を伸ばすんだよ! ねぇ! 和友!!」

 

 

 大声で叫ぶ橙の顔は今にも泣きそうで、表情が悲痛な想いを訴えていた。まだ見ぬ未来に希望を持つのは止めろと。今を掴み取らなきゃ何も残らないのだと伝えていた。

 

 

(橙の言う通りだ。僕は何をしているんだ!)

 

 

 あまりにも優しい現実に、未来まで優しくなった気になってしまったのだろうか。

 苦労や努力が実った現状に、終わりまで上手くいくと錯覚してしまったのだろうか。

 いつだって望む未来は逃げていくというのに。

 いつだって手を伸ばさなければ届かないというのに。

 今なら分かる――背中を押してくれている橙の手が未来を見せてくれている。

 さぁ――掴むんだ、自分の手で。

 右手を伸ばし、藍の袖を掴み取る。

 もう視界は歪まない。涙ははるか昔に置き忘れたように、瞳が静かに燃える。

 僕はそっと藍を見上げる形で口を開いた。

 

 

「ごめん、藍。やっぱりここは通さないよ。どうしても通りたいっていうのなら僕たちと弾幕ごっこで勝負だ」

 

「本気で言っているのか? 一瞬で終わるぞ? それに僕たちではないだろう? 弾幕ごっこをするにしてもこちらが2で和友が1だ」

 

「いえ、私は和友に付きます。藍様、よろしくお願いします!」

 

「余りふざけるな。式神契約があるうちは私の命令には逆らえない。橙は私と共に戦うのだ」

 

 

 藍はいつか―――紫が言った言葉と同じようなことを言っている。式神契約とは、主従関係の象徴である。式神となった者は、主には逆らえないようにできている。主の方からエネルギーを依存しているため、行動を制限されているのだ。

 だけど、そんなものは僕にとって関係がなかった。境界を曖昧にする僕の能力は、契約や繋がりを主体とする力を打ち消すことができる。結界のように力で結ばれた境界線や式神契約等の決まり事で結ばれた関係性を曖昧にすることができる。

 そう――かつて藍と共に紫と戦った時のように、僕の力が二人の繋がりを曖昧にすることができる。

 

 

「だったら解除するまでだね」

 

「……和友、何をしようとしているのか分かっているのか? さすがの私も怒るぞ?」

 

 

 僕の言葉で鋭くなった藍の視線から逃げることはない。怒りに染まった表情を見ても退かない。

 なぜならば――前に進むと、手を伸ばすと、掴み取ると決めたのだから。

 橙と共に、望む未来を手に入れるって。

 橙と共に、藍と向き合うって。

 橙と共に――戦うって。

 藍と正面を向き合うって――心が踏み出しているのだから。

 

 

「いくよ、橙」

 

「いつでもいいよ。和友と一緒ならどこまでだっていける。この姿を保っていられなくても、黒猫に戻っても、どんな姿でも生きていける」

 

「ありがとう。僕も橙と一緒ならどこまでだって駆けていけるよ。地の果てだって、未来だってね」

 

 

 橙に触れて力を行使する。藍と橙の間にある式神契約を曖昧にする。境界を曖昧にする程度の能力を振るうと橙と藍の式神契約が解かれた。数秒もかからない、瞬きするような時間で二人の関係性が変化した。

 

 

「うっ……」

 

 

 橙の口から呻き声が漏れる。藍との契約が断ち切られた橙の体から勢いよく若干の青みを纏った藍の妖力が抜けていく。藍と契約を結ぶことで得ていた分の力が失われていく。

 最終的に残ったのは、残りかすと表現すべきほどに減衰した妖力のみである。数秒の後に僕の霊力の総量と同じぐらい――コップ一杯分の力の残骸だけになった。

 

 

「心配いらないよ。私はどこまでも駆けるから。どこまでだって。行きたいところに行くんだから。黒猫だったあの頃と同じように。この足で和友と進んで見せるから」

 

「ああ、もちろんだよ」

 

 

 力の大部分を失った橙は、かろうじて人型を保っていた。黒猫の状態を強く拒否するように人間の姿を保持していた。本来であれば、力を失った瞬間に黒猫に戻るはずだったが、この2年間が橙を成長させている。生きてきた、積み立ててきたこれまでが橙の両足を強く地面に打ち立てていた。

 瞳に宿る意志はいささかも衰えていない。僕が灯している炎と同じ色が心に着色している。僕たちの心は同じところで、同じ方向を向いている――藍へと向かっている。

 燃える視線を受けた藍は、やる気を見せる僕と橙を見比べて大きく息を吐いた。

 

 

「ふぅ……どうやら紫様が言っていたことは本当だったようだな。初めに聞いたときは正直眉唾物だったが、こう目の前で現実となって立ちはだかると嘘だと疑っていた私が恥ずかしい」

 

「どういうこと?」

 

「嘘をついてすまない。紫様からの命令は西行寺殿と話をすることではない。お前たち、和友と橙の相手をするようにとの命令だ」

 

「紫が……」

 

 

 やってくれる――通り道で鉢合わせするようになんてものではない、紫は僕たちと戦わせるために藍を向かわせたようである。

 紫も僕たちを応援してくれているのだろう。こうなることを、こうなりたいと望んでいることを察していたのだろう。

 藍の主として。

 僕たちの家族として。

 これからの家族の形を思い描いている。

 僕たちは四人で八雲家。

 紫はここにはいないけれど、確かな存在感を放って今この場にいる。

 紫と藍と橙と僕――八雲家全員の心がこの場に集っていた。

 

 

「そんなことはあり得ないと疑っていた私は死んだ。私はもう逃げないぞ。全力でぶつかってやる。これが例え紫様に仕組まれたことだとしても、そこに紫様の意思があって、お前たち二人の想いがある。そして、何よりお前たち2人と戦いたいと思っている自分がいる。戦う理由など――それだけで十分だ」

 

 

 藍から妖力が解放され、風が吹き荒れる。

 視界を閉ざしても分かる、肌で理解できるような暴力的なまでの力量差。

 僕たちの力では到底及ばない。天と地がひっくり返っても、逆立ちしても勝てないことが分かる。

 だけど、不思議と無理だとは思わなかった。

 僕一人では無理だけど。

 橙一人では無理だけど。

 二人でなら乗り越えられる―――僕たちは、誰よりも僕たちを信じていた。

 

 

「さぁ、始めようではないか。私たちの勝負を」

 

「そうだね。やろうか! 僕たちの勝負を!」

 

「うん! 私たちの勝負を!」

 

 

 僕と左手と橙の右手が固く握られる。

 さぁ、信じよう。

 僕たちの想いを。

 僕たちの未来を。

 願いを込めて、祈りを捧げよう。

 

 

「僕たちのリベンジマッチを!」

「私たちのリベンジマッチを!」

 

 

 信じる心が神を作り出す。信仰という概念が神を創造する。少年がかつて紅魔館でフランや藍に行ったのは、そういうお願いをするという形での神の創出である。

 あの時と同様に信仰を橙に対して送り込む。願いを届け、想いを伝える。

 暫くすると信仰の力である神力が橙の体を包み込んだ。

 

 

「なんだ、それは……?」

 

 

 藍は自身の目を疑った。心臓からゆったりと広がる優しい白い光が橙の全身を巡る。確かな輝きを持った橙の瞳が藍を貫いている。

 そして、橙の体を巡っていた神力が繋いでいる手を媒介にして少年の方にも流れ出していた。

 

 

(温かい、信じる心が優しく体を包んでいる)

 

 

 ゆっくりと少年の全身を信仰の力が駆ける。橙と繋いでいた左手から――心臓がポンプの役割を果たし、血流が巡るように力が循環する。

 2人の体は、まるで一つの生き物であるように同期していく。自然の流れに任せて平衡状態を生み出す。最終的に少年の体にも橙の体にも同じ量、同じ色、同じ雰囲気の神力が包み込んだ。

 

 

「どこでそんな力を手に入れたのだ?」

 

「そんなことどうでもいいでしょう? だって、ここにいるのは紛れもなく僕たちなのだから」

 

「そうです、藍様。私たちはここにいるのですから」

 

 

 二人は、数メートルほど藍との距離を開くと、手を繋いだまま持ち合わせている神力を使って空中に無数の白い神力弾の弾幕を形成する。遠くから見れば、それはまるでおびただしいほどの星が輝いているように見える光景だった。

 空間に生成された神力弾は、縦横無尽にランダムに散らばるように弾ける。音もたてず、それでも存在感のある力が花火のように爆発した。

 

 

「勝たせてもらうよ! 今度は僕たち二人で!」

 

「私たち二人で藍様に勝ってみせます!」

 

「くっ! その程度では私は負けないぞ!」

 

 

 藍はすぐさまトップスピードに乗った。目の前の二人が形成した弾幕は所狭しと敷き詰められ、そのランダム性が場を乱している。

 余裕はない。油断すれば落とされる。

 藍は、高い緊張感の中で空を疾走した。

 

 

「一方的に攻められるのは私の趣味ではない。私からもいかせてもらう!」

 

「はい、一緒に遊びましょう。藍様!」

 

 

 全力での回避を行いながら弾幕を張る。ただでさえ空間におびただしいほどの神力弾がある中に妖力弾が席を譲れと言わんばかりに入り込む。

 藍が生成した妖力弾は、確かな方向性をもって橙と少年にめがけて発射された。

 

 

「ははっ、楽しくなってきたね。楽しくなってきた! ここからだ、ここから!」

 

 

 少年と橙は相変わらず手を繋いだまま藍の弾幕を躱す。体から放出されている白い光に強弱をつけながら空を舞う。笑顔を絶やさず、じゃれている子供のように回る。

 時折、手を引き。

 時折、押し出し。

 時折、平行線を作り出し。

 踊る、舞う。

 二人は呼吸のタイミングまで一致させて、一つの生物のように動いていた。

 

 

「藍は覚えているかな? 思い出せるかな? 見つけ出せるかな?」

 

 

 手を繋いだ少年と橙が、縦横無尽に飛び回る藍に接近する。藍のトップスピードを超える速度で弾幕の迷路を飛行する。

 手を繋いだ二人の動きは、物理法則を無視するような流線型の飛行軌跡を描いている。それは神力の衣が許した、人の願いが成し遂げた。

 

 

「……!?」

 

 

 弾幕を躱している藍の正面に突然少年と橙が現れる。

 藍は二人が目の前に現れるのを知覚するのと同時に手を握られたのを感じ取った。3人の手が繋がり、輪となって掌の温度が共有される。

 両手が暖かな温度に包まれている。

 藍は、どこか懐かしさを感じる温度に心臓が高鳴った。

 

 

「あっ……」

 

 

 手を繋いだ瞬間、一陣の風が全身を包み込み、世界が一気に広がりをみせる。

 心が叫んでいる。

 ――見つけて。

 ――探して。

 そう叫んでいる声が聞こえた。

 

 

「なんだ……?」

 

 

 藍が呟いたときにはもうすでに目の前に二人の姿はなかった。時間が一瞬にして飛んだように、いつの間にかいなくなっていた。

 藍は、不思議な感覚に戸惑いながらも迷いを振り払うように強く握りこぶしを作り、再び上空を駆ける。すると、数十メートル先でスペルカードを正面に構えた二人が視界に映った。

 

 

 序章「白い病室、1人と1匹、物語の始まり」

 

 

 二つの声が一つになる。スペルカードが宣言され、込められていた力が解放される。

 手を握った少年と橙はぐるぐるとその場で回り始め、スペルカードがその身に蓄えられた効果を発揮した。

 

 

「とてつもない力だな……このままでは押し切られるか」

 

 

 先ほどの通常弾幕よりもはるかに力強い発光が空間を我が物顔で支配している。

 少年の弾幕は直線状に壁を作り出し、世界を二つに別けるように数十メートルの高い壁が左右の境界線を引いている。真っすぐな弾幕を形成している。

 橙の弾幕は、少年のそれとは対照的にうねるようにして捻じれている。藍が飛んでいる範囲――上下10メートルをカバーするように縦列駐車の光の壁が蛇行している。

 加えて、二人の弾幕が衝突しているところだけ色が変化し、方向性が変わっていた。ある時は赤に、ある時は青に、七色の変化を描きながら空間を彩っている。

 

 

「こちらも宣言させてもらうぞ! スペルカード宣言 式神「仙狐思念」!」

 

 

 二人のスペルカードに対応するために藍もすかさずスペルカードを宣言する。

 これでお互いにスペルカードを使い、状況は五分五分になる。場にいる全員が攻撃と防御を同時に行う展開になる。

 そう思っていた藍だったが、状況は好転しなかった。

 

 

(和友と橙の力に私の妖力が押されている。衝突した妖力弾が打ち消されている――相性の問題か? これでは一方的に私が守りに入る展開になるな……)

 

 

 少年と橙が形成している弾幕に藍の弾幕が打ち消されたのである。

 二人の作っている弾幕は、動く壁と表現するのが最も適している。そこに向かって力を放っても、衝突した妖力弾が消えてしまう。それでは攻撃が一向に届かない。これではもはやスペルカードを宣言した意味がなかった。

 

 

(ここは躱すことに徹するべきか)

 

 

 藍はすぐさま攻撃を避けることに専念する。避ける以外の思考を排除し、機械にインプットされたプログラムを忠実にこなすように避けるという行動を具現化する。

 少年と橙の弾幕は、お互いの力が交わったところが抜け道になっている。藍は、二人の弾幕の性質をすぐさま見抜くと合間を縫うように空を駆けた。

 

 

(スペルカードの効果は永続ではない。必ず制限時間が存在する。それまで耐え忍ぶ! そこからが私の番だ!)

 

 

 スペルカードは込められた力を放出しきるとその効果を失う。それは主に1~2分程度で消耗するというのが通常である。

 橙と少年の弾幕もその例に漏れず、1分ちょっとの時間でその効果を失った。それと同時に藍の弾幕の独壇場となり、ようやく少年と橙に弾幕が届くようになった。

 だが、二人は藍の弾幕をすでに熟知しているように余裕のある顔で藍の弾幕を躱し始める。

 

 

「藍、過去を迎える準備はできたかな?」

 

「藍様、過去を背負う覚悟はできましたか?」

 

 

 少年と橙は、藍のスペルカードをものともせずに再び藍と接触する。またしても躱すことができず、距離を取ることもできずに伸びた手に掴まれる。

 再び3人の輪が出来上がる。

 不意に繋がれた手にまたしても藍の思考が停止する。

 同じように世界が一気に広がりを見せる。

 

 

「…………」

 

 

 遥か昔から知っているような声が響いている。

 何度も聞いたことのある声。

 何度も耳にした言葉。

 何度も感じた体温。

 

 

(探さなければ……)

 

 

 私の記憶。

 奥底に眠ってしまった思い出。

 思い出せなくなった大切な過去。

 心が探してと叫んでいる。

 煩いぐらいに泣き叫んでいる。

 見つけてと訴えている。

 必死に手を伸ばしている。

 泣きはらした顔で救いを求めている。

 探さないと――。

 あの時の私を探さないと――。

 迷子の私を――迎えに行かなければ。

 

 

(私が思い出せなくなった、私が抱えてきた想いを――見つけてあげなければ)

 

 

 そう思った瞬間、藍は我に返った。

 いつの間にか藍のスペルカードは効果を失い、空は静けさを取り戻していた。藍に繋がっていた手もすでに離されている。

 

 

(私は何を……?)

 

 

 藍は、度々襲われる心の衝動に疑問符を頭の中に抱えながら少年と橙に目を向ける。

 少年と橙は、藍の視線が戻ってくるのを確認すると数メートル先で2枚目のスペルカードを宣言した。

 

 

 一章「異色で異種、誰よりも近くにいた友達」

 

 

 少年と橙から2枚目のスペルカードが行使された。

 世界がまばゆい光を放ちながら線形変化を起こしていく。

 一発の白い弾丸が放たれ、花火のように円を描きながら無数の弾丸となって弾ける。そこに食いつくように第二派の七色の弾丸が空中に軌跡を描く。ぶつかった神力弾は、さらに弾けて増殖していく。世界は瞬く間に彩られた。

 藍はもはやそこに合わせるようにスペルカードを宣言することはない。スペルカードの応酬に付き合っても神力弾に妖力弾が消されているようでは宣言する意味がない。そして何よりも、自分の心が二人に勝つことよりも別のものを欲しているからだった。

 

 

(私は、何を忘れているだろうか……?)

 

 

 思い出せ。思い出せ。

 繰り返すように、サイレンが鳴っている。

 思い出さなければ。探してあげなければ。想いと共に記憶が一気に回顧を始めていく。

 靄がかかるように霧がかかった空気を振り払い、過去から今に向かって突き進む。

 

 

「「心の中の迷子を探してあげて」」

 

 

 約3年前からの2年間、何があったのだろうか。

 何かがあったことは覚えていても、そこに映っている光景には靄がかかっている。部分的に記憶喪失になったとでもいうのだろうか。ある期間の記憶が曖昧にしか思い出せなくなった。

 3年前、主である紫様が誰かを連れてきた――それは誰だろうか。

 その者に助けてもらった――それは何から助けられたのだろうか。

 その者と外に出かけた――それはどこに出かけたのだろうか。

 その者は確かにマヨヒガで一緒に住んでいた。

 家族として一緒に生きていた。

 いつも隣で、いつも近くで、いつも楽しそうに笑っていた。

 特に例を挙げて思い出せる記憶もないが、力もないのに頑固で誰よりも優しかったことだけは覚えている。その者の両手は温かく、その者の瞳は優しく、何よりも居心地が良かったことを体が覚えている。

 頭を撫でられる感触。

 手を握られる触感。

 毛づくろいをされる感覚。

 触れられていたところが寂しいと訴えている。

 心が温かさを求めている。

 

 

(私の傍には大事な者がいたはずなのだ。大切な者がいたはずなのだ。私は、確かに告げたのだから。心の奥底に積み重ねてきた想いを。密かに募らせてきた想いを――)

 

 

 誰よりも傍にいたいと望んでいたこと。

 誰よりも近くに寄り添っていたいと思っていたこと。

 抱える想いに苦悩したこと。

 そして、悩み抜いた末――

 

 

(――好きだという想いを伝えたのだから!)

 

 

 好きなのだと――告白したこと。

 不可思議な世界で。

 二人きりで。

 閉じ込めていた想いと手を繋いで。

 心の中に押し込めていた自分と向き合って。

 未来に向かって共に歩き出したのだから。

 

 

 二章「別れの時、送られた黒猫と結ばれた約束」

 

 

 そうだ――あの時の私はどこにいる?

 あの時、手を繋いだはずの私はどこにいる?

 思考が深層心理の方へと潜り込んでいく。スペルカードが宣言されたのも聞こえないほどに意識が深いところに入り込んでいる。

 少年と橙から降り注ぐ弾幕の嵐は止むことを知らない。

 だが、不思議と当たる気はしなかった。体が無意識の中で記憶をたどるように障害物を躱していく。

 つかみ取れ。

 手を伸ばせ。

 探し出せ。

 見つけ出せ。

 手を伸ばしている存在に向けて手を差し伸べる。

 目指すべきところは決まっている。

 目標となるものは見えている。

 迎えに行こう。

 手を伸ばしている私を迎えに。

 あの頃の私を迎えに。

 手を伸ばして掴み取る。

 

 

「探したぞ。よくやく見つけた――おかえり」

 

 

 私の伸ばした手は、確かにこちら側に伸びていた掌と重なった。

 

 

「おかえり、藍」

 

「ただいま、和友」

 

 

 二度と離さない。

 私は、これまで迷子になっていた私と固く手を繋いだ。




今回は、藍と少年と橙の弾幕ごっこの話でしたね。
弾幕ごっこはあくまでも手段であって、目的は曖昧になった記憶を取り戻すことです。
3人が相対するところで、ちゃんと紫の気持ちも入っているところだけは書かせていただきました。
また、読んでいてわかった人もいると思いますが
藍と実際に手を繋いでいるのは少年です。
ですが、ここでは曖昧になっていた記憶の中の藍と手を繋いでいるという書き方をしました。
現実的に手を繋いでいるのは少年。
心理的に手を繋いでいるのは過去の自分。
そういうニュアンスがこの文章で感じ取っていただけたら嬉しいですね。

記憶を取り戻した彼女と少年が今度どうなるのか。
それは次回からのお楽しみです。
弾幕ごっこの勝敗については、読者のご想像にお任せします。
あまり勝敗が大事な試合でもありませんからね。

次回からは、永夜抄までの間章に入ります。
これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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第十章 繋いだ手、灯した光、見えてきた明日
失った半分、輝いたもう半分


全4話編成の第10章の1話目です。
10章は、萃夢想の前のお話になります。


 幻想郷中に春が戻った。異変が解決され、白玉楼に集まっていた春が幻想郷全体に還元された。

 今住んでいる博麗神社も春を手に入れ、植えられていた桜がこれでもかというほどに満開に咲き誇っている。

 残念ながらつぼみが花開く過程がなかったため、移り変わりを愛でる時間は全くなかった。一気に咲いてしまった花の寿命は全体の半分になってしまっているだろうが、その分の命を燃やすようにより濃い色合いを見せていた。

 

 

「椛、お疲れ様」

 

「和友さんもお疲れ様でした」

 

 

 今、花見という名の宴会の真っ最中である。異変が終われば、仲直りという名目で宴会が開かれる。僕からすれば、仲直りというよりは交流会に近い気がするけれども、おそらく参加者はそんなことを気にしていないはずである。

 参加者は、霊夢、異変を起こした白玉楼の主従、紫、藍、橙、椛、そしてなぜか霊夢の友人、紅魔館の主であるレミリアと咲夜さんも来ていた。

 

 

「紅魔館の人たちや霊夢の友達は、知らないところで異変に関わっていたのかな?」

 

「そうみたいですね」

 

 

 それぞれが各々に好きな場所で談笑に花を咲かせている。

 霊夢のところには紫をはじめとした八雲家の面々が、紅魔館の人たちは今回の異変の首謀者である白玉楼の者たちと異変についての対話をしていた。

 それに対して僕と椛は、ひっそりとたたずみながら近づいてきた人と言葉を交わしていた。特にこちらから話をしてみたい人がいるわけではないし、紫や藍とはまた別の機会に静かに話がしたかったというのもある。そして何よりも名前も覚えていない人に対してこちらから会話を持ち掛けるのが(はばか)られたからだった。

 

 

「和友ちゃん、こっちこっち。こっちにいらっしゃい」

 

「はい。今向かいます」

 

 

 あ、呼ばれた――不意に名前を呼ばれる。呼ばれた声の方向に視界を向けると、そこには空の器をふらふらと揺らしている女性の姿があった。

 ちゃん付けで呼ばれることに若干の恥ずかしさを感じながら、呼ばれた声に即座に反応し、置いてあるお酒を抱えて移動する。

 後方からは、椛がてくてくと足音を立てながら付いてきた。

 

 

「ここに座って。椛ちゃんは妖夢の隣に行って」

 

 

 なぜか、座る場所まで限定される。

 ただ、断る理由もなかった僕はその言葉に従い腰を下ろした。

 正面から見ると左から白玉楼の主、僕、従者、椛の並びになっている。

 僕は、持ってきたお酒を相手の手の中にある傾けられた器に注ぐ。トクトクと音を立てて器にお酒が満たされていく。そして、器に7割ほど注いだところで傾けていた酒瓶を持ち上げ、ひと声かけた。

 

 

「お疲れ様でした」

 

「ふふ、妖夢以外にこうしてお酒を注がれるのもいいものね」

 

 

 注いだお酒が一気に飲み干される。

 一気飲みはよくないってよく聞くが、大丈夫なのだろうか。そんなことを考えながら周りを見渡してみると、霊夢が顔を紅潮させながら酔っているのが確認できた。

 

 

「なんであんたは飲んでないのよ。あんたも飲みなさい」

 

「私ですか……? 藍様、私も飲んでもいいのでしょうか?」

 

「霊夢、橙にお酒を勧めるのは止めろ! 代わりに私が付き合ってやるから。それでいいだろう?」

 

「あー、あんたはそこまで飲まなくていいわ」

 

「なんだ、その言い草は……急に真面目になったな。一体何がしたいのだ?」

 

 

 藍がお酒に酔って絡んでくる霊夢の対応に追われている。そんな藍の頬も僅かに赤くなっている。赤くなる度合いには個人差があるようだったけど、僕が見てきた中では顔が全く赤くならない人は今までいなかった。

 だけど、その例外が目の前にいる。先ほど呼ばれた人の頬を見てみると、真っ白な頬はいまだに真っ白なままだった。

 

 

「お酒はいつ飲んでも美味しいわね~」

 

「私を呼んだということは、何か御用でしょうか?」

 

「あっと、お酒に気を取られて忘れるところだったわ。和友ちゃんはまだ私たちの名前を覚えていないでしょう? 書いてきたからこれで覚えてね」

 

「私からもどうぞ」

 

 

 そう言って、白玉楼に住まう二人から短冊を手渡される。

 短冊には、今まで見た中で最も綺麗な字で西行寺幽々子(さいぎょうじゆゆこ)と明記されていた。従者の方の名前は、魂魄妖夢(こんぱくようむ)と言うらしい。また難しい漢字の多い名前である。振り仮名がふっていなかったら読めなかったかもしれない。

 そう思った瞬間、疑問が頭の中に湧いて出た。

 紙に名前を表記し、手渡してきたこと。

 読めない漢字に対して振り仮名があること。

 この二つの要素が、ある可能性を示唆している。

 名前とその読み方、それは僕が人を区別するうえで必要になるものである。

 そしてそれは、普通ならば口頭で説明される内容だ。

 

 

「どうして私が名前を覚えていないと?」

 

「紫から聞いているから。物事を区別できないとか、普段どういう方法で覚えているかとか、そこらへんもろもろね」

 

 

 異変の時にも感じたが、紫との関係性は相当に深いようである。聞いている限り、僕の情報はある程度開示されているみたいだ。

 思えば、紫がこうして僕とうまく付き合えていたのは、西行寺さんのような友人がいたからだったのかもしれない。辛いこと、苦しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、そういうものを共有できる者がいるということ――それはきっと藍や椛にはなかったことだから。

 横の繋がりが心を繋ぎ止めてくれる。外の世界で生活していたときに、僕にもそういう存在がいたら何かが変わっていたのかも――そんなことを思った。

 そんな、あり得ないことを考えて、考えるのを止めた。

 

 

「それに、私のことは幽々子って呼んでくれればいいわ。気軽にいつも通りの口調で喋ってちょうだい。気を遣われるのも気を遣うのも億劫だもの」

 

 

 幽々子と呼んで欲しいと言った相手は、そこまで言うと急に右の人差し指を頬にあてて少し考えるしぐさを見せる。数秒が経過したころだろうか、悩ましげな表情は何かを思いついた顔に変わった。

 

 

「そうね、私が和友ちゃんって呼んでいるみたいに、幽々子ちゃんでもいいわ」

 

「それではお言葉に甘えて。幽々子ちゃんは幽霊なの? 冥界には死者しかいないって聞いたからそうなのかなって思ったんだけど……僕、幽霊を見るのが初めてで判断できなくて」

 

「ぷっ、幽々子ちゃんって」

 

 

 幽々子ちゃんの正面で紫が飲んでいたお酒を吹き出す。すぐさままるで何事もなかったように表情を戻すと慌てて口元を吹いているが、少し汚くなっている。

 何かおかしいことでも言ったかなと思い、とりあえず一番近くにいる左隣の魂魄さんに視線を向けてみた。魂魄さんは唖然としたまま見つめているだけで何も言おうとしない。さらには、その隣にいる椛も信じられないようなものを見るような瞳でこちらを見つめていた。

 何か失敗しただろうか――幽々子ちゃんに視線を向けてみると、幽々子ちゃんは悶々とした表情で言葉を口にした。

 

 

「……やっぱり幽々子ちゃんは止めてもらえるかしら?」

 

「どうしてですか?」

 

「何だか背中がむず痒くてぞわぞわしちゃうから。それにこのまま呼ばれ続けたら紫に弄られちゃうでしょ? 妖夢も随分と私のことを笑っているようだし……」

 

「え、ええ!?」

 

 

 いきなりの会話の対象の軌道修正で魂魄さんの顔が驚きでいっぱいになる。

 しかし、驚いていたのも束の間だった。魂魄さんは、先ほどのことなどなかったかのようにキリっとした表情ではっきりと明言した。

 

 

「私が幽々子様のことを笑うなんて、そんな失礼なことは致しません!」

 

「本当にそうかしら?」

 

 

 幽々子は、疑問をこぼしながら僕の正座している足に手を置いて妖夢の顔を覗き込む。

 どうして僕の膝に手を置いたのだろうか。並び的には仕方ないことかもしれないが、膝の上に乗った手が若干の冷たさを伝えてくる。そう、体温が奪われている。

 幽霊は体温が低いのだろうか。血が通っていないからか、死体が冷たくなるのと同じように体温が空気と同化している。ちょうど20℃程度だろうか。

 不思議だ、幽霊という存在に頭の中が活気づく。だとしたら――妖夢と呼ばれている彼女の幽霊も同じなのだろうか。それとも彼女自身もそうなのだろうか。そう思って視線を向けてみると、魂魄さんは困った表情のまま一生懸命両手をぶんぶんと振っていた。

 

 

「本当ですから!」

 

「ふーん」

 

 

 幽々子が僕の膝に手をついたまま、流し目で僕の顔を見つめてくる。そして、僕の視線が交わるのを確認すると言葉の矛先を向けてきた。

 

 

「それはそうと……私があの紅白の蝶と戦っている間に強い力の波動を感じたのだけど、あの力の大本は和友ちゃんよね? あれが噂に聞く神力ってやつなのかしら?」

 

 

 幽々子は、どうやら藍と戦っていた僕たちの様子が気になっていたらしい。強い力の波動――きっと祈りを捧げることで生まれるあの力のことだろう。そこまでは幽々子が言っていることの見当がついた。

 しかし、噂になっているのかはさておき――僕には神力という言葉にピンとくるものがまるでなかった。いつも使っているのは霊力だし、それ以外の力を使っている印象があっても、それが神力だと断定できなかった。

 

 

「あれが神力かどうかについては確かめる術がないから分からないけど、僕がやったんだと思うよ。あの時、力を使っていた者は他にいなかったから」

 

「だったらそれ、私にもできる?」

 

「できないと思う。僕は幽々子のことをあまり知らないし……条件が揃えばできるけど、多分今の状態ですぐにやろうというのは無理があると思うよ」

 

 

 祈りを捧げるという行為は簡単なようで難しい。手を合わせて信じるだけではないのかって言われると、やっていることはそれだけではあるのだが、その本質は複雑である。

 祈る――その行為の本質は願いを叶えて欲しいという想いである。

 助けてほしいのか。救ってほしいのか。どうなりたいのか。どうしたいのか。

 それらの願望を届けるのが祈るという行為である。

 そして、祈りを捧げている祈願者の想いを受け取っているのが俗に言う神様だ。

 神と呼ばれるモノは、祈りに縛られている。人間の祈りから生まれている存在のため、祈りを叶えることが存在理由になっているのである。多数の人間から祈られているのならまだ「そこにあること」それ自体を存在理由として持つこともできるだろうけど、僕一人の祈りで作られた神様は僕の願いに対して遵守する義務が生まれる。そうでなくては神として成り立たないからだ。

 つまり何が言いたいのかというと、幽々子の願望と僕の願望が一致しなければ祈りは通らないということである。僕から幽々子に対して本心から望んでいることが全くない現状で、幽々子が何をしたいのか分からない状況では、祈るという行為そのものを同じにすることは不可能だった。

 

 

「条件が揃えば、ってことはできないこともないのね」

 

 

 だがそれは、お互いの願望を聞きさえすれば、同じことができるというのと同義である。誰であろうと、何であろうと、願望が一致すれば神を作ることができる。

 それを察したのか、幽々子は僕に対して質問を投げかけてきた。

 

 

「ここで条件を満たせるかしら?」

 

「少しだけ質問、いいですか?」

 

「なんでもいいわよ。和友ちゃんの質問ならなんでも素直に答えてあげる」

 

 

 幽々子が満面の笑みを浮かべ、さらに距離を詰めてくる。角度的に少し上目使いになりながらすぐそこまで迫っている。

 死んだ相手に何を言っているのかって思われるかもしれないけど、彼女の表情には確かな色があって、瞳には感情の灯が輝いているように見えた。

 

 

「僕から力を貰って幽々子がやりたいことって何かな? そもそも、どうして僕に祈ってほしいの?」

 

「んー、そうねぇ……興味本位が9割かしら。どんな力なのか、どういう印象を感じるのか、どんな気分になるのか。祈って欲しいのは好奇心からね。やりたいことは、そうね……」

 

 

 幽々子の人差し指がゆっくりと伸びて、僕の心臓に当てられる。

 なんだか息苦しさを感じる。

 まるで心臓をわしづかみにされているような――刺された指が突き立てられているような気がした。

 そっと息を飲んで視線を落とすと、若干艶めかしく感じる視線が射抜くように僕を貫いている。膝に置かれている手は未だに退く様子を見せない。そんな少しばかり緊迫した状況の中で瑞々(みずみず)しい唇が僅かに開かれる。

 そこから放たれた言葉は――今の空気を完全に殺した。

 

 

「和友ちゃんの魂の色が見たいわ」

 

 

 一言の響きで―――全員の視線が僕に集まる。

 何かあったのか。何が起きたのか。いきなり空気が変わった空間に全員の意識が集中している。

 だが、その渦中のど真ん中にいた僕にあったのは、困惑の色だけだった。まるで今までがなかったかのように変わってしまった今に、楽しかったはずの宴会が変わってしまった現状に、集まった視線の矛先に動揺する。

 何をすればいいのだろうか。

 魂の色が見たいという願望に対して――僕は何をすれば。

 そう思っていたら、真剣な表情をした紫が正面から割り込んだ。

 

 

「幽々子」

 

 

 名前を読んだだけなのに、凄まじい威圧感がその背後から漏れ出していた。

 少しばかり震えている唇から出た声は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも聞こえた。

 けれども、幽々子は紫の言葉を気にしていない様子でさらに語りかけてくる。

 

 

「だって反魂蝶があんなに惹きつけられていたのよ。さぞかし綺麗に輝いているのでしょうね。私もその魂の輝きが見てみたいの。紫は和友ちゃんの心の中を見たことがあるみたいだけど?」

 

「幽々子!」

 

 

 紫の声が、想いが強くなるのに比例するように大きくなる。

 怒気が強まり、感情が顔に表れている。

 今にも立ち上がり、手を伸ばしそうな雰囲気を纏っている。

 それでも、幽々子は気にする様子を見せずに距離を縮めてきた。

 

 

「幽霊になるのだってそんなに悪いことじゃないわ。痛くしないから、優しくしてあげるから、いいでしょう?」

 

「そんなことをしたら、私は一生幽々子を許さないから」

 

 

 禍々しさを感じる妖力が紫の体から僅かに漏れ出している。

 幽々子はそこで初めて紫の存在に気づいたようににこやかにほほ笑むと、突き刺していた手を引き、距離を取った。

 

 

「うふふ、冗談よ、冗談。紫は一度怒らせると中々機嫌が直らないから大変なのよねぇ~」

 

 

 ふざけたように軽快な雰囲気で話す幽々子の声色に空気が息を吹き返す。相変わらず紫から送られる視線は鋭いままだが、出ていた威圧感は息を潜めていた。

 なんだったのだろうか。何が起きていたのだろうか。

 なんにせよ悪い流れだったのは間違いない――僕は、過ぎ去った威圧感に僅かに安堵すると、軽い感じの会話に潜り込み、幽々子のセリフで気になった点を問いかけた。

 

 

「死んで幽霊になると魂の色が見えるの?」

 

「色というと語弊が出ちゃうかもしれないけど、輝き方には個人差が出るわ。人前に立つ者が輝いて見えるなんて言うように、その者には独自の光り方があるの」

 

「だとしたら僕の祈りっていうのは、その人に輝きを与える力なのかもしれないね。みんな同じ色だったし、同じ力だったから」

 

 

 魂の輝き方にも個性がある。

 それはなんてことはない――当たり前のことのように思えた。

 好き嫌いがあるように、当たり前のことのように思えた。

 だとすると、僕の祈りは輝きを与えるものなのだろう。同じ色、同じ雰囲気、同じ力を与える。同調する力、同期する力だ。

 

 

「うん、うん。そっか、そっか」

 

「どうかしたの? そんなに嬉しそうな顔をして」

 

「いや、そう思うとこの能力があっていいこともあったんだなって思っただけ」

 

 

 ずっと毛嫌いしていた。

 ずっと思い悩んできた。

 こんなもの無かったらいいのにって。

 なんで僕がこんな目に合わなきゃいけないんだって。

 

 

「これまでは振り回されるだけだった」

 

 

 なんで僕だけが。

 どうして僕だけなんだって。

 ずっと思ってきた。

 考えることができるようになった時からずっと思っていた。

 そして、それを必死に考えないようにしてきた。

 

 

「周りを振り回すだけだった」

 

 

 なんで選ばれたのかを考えることに意味なんてなかったから。

 どうして自分なんだって考えたら、どうしようもなく寂しくなったから。

 考えれば考えるほど、自分が嫌いになって。

 そして、周りのみんなも嫌いになりそうだったから。

 だから、何も考えなくなった。

 

 

「僕の敵だった」

 

 

 毎日を平凡に暮らすことだけを考えてきた。

 周りにある普通という曖昧なものだけを求めて生活してきた。

 どうやったって普通には成れないから――普通に成りたくて必死だった。

 能力を打ち倒すことだけを考えて。

 能力に対抗することだけを考えて。

 はるか遠くにある、絶対に届かない普通に手を伸ばし続ける。

 遠いと感じるたびに、能力に対する憎悪が顔を覗かせる。

 能力は僕にとって、嫌悪の象徴だった。

 だけど、たった今告げられた一言が一つの光を灯した。

 

 

「だけど、今は誰かの背中を押すことができる。暗いところにいる人に明るさを届けてあげられる。そう思ったら――この能力があってよかったなって思って」

 

 

 悩んでいる人に。

 苦しんでいる人に。

 迷っている人に。

 明かりがない暗がりにいる人に。

 ――与えられる光になれるといいな。

 

 

「家族を守れる光になれたらいいなって思って」

 

 

 ――支えられる優しい人になれるといいな。

 ――大切な家族を守れる優しい光になりたいな。

 そんな願いを通して見てみると、今まで嫌悪していた境界を曖昧にする能力がほんの少しだけ好きになった。

 

 

「幽々子、ちょっと触るけど、ごめんね」

 

「どこでもいいわよ。好きなところに触りなさい」

 

 

 幽々子が自信満々に胸を張る。

 そっと手を伸ばして幽々子の心臓付近に右手をあてがう。女性特有の柔らかさに手がゆっくりと沈み、心音が手を伝って僕の中で響いた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 息を吐いて、強く念じる。フランの時のような、藍の時のような、橙の時のような力強い祈りを込めることは残念ながらできないけれど。僕自身が幽々子に対してしてほしい願望もなければ、幽々子がやりたいことに賛同できる心もないから――力の伝わり方は非常に弱くなってしまうけど、その鱗片を味合わせることならできる。

 ありがとう――感謝を込めて祈りを捧げる。

 願わくば、幽々子にも光がありますように。

 

 

「……!?」

 

 

 幽々子の体の周りから白い発光が見られ始める。

 藍や橙の時と比べると遥かに微弱な光ではあるが、確実に力を放っていた。

 幽々子は、じっくりと感触を確かめるように静かに手を開いたり閉じたりする。

 

 

「温かい……これが貴方の魂の温度なのね。とても優しくて、強くて、安心できる力」

 

 

 幽々子の声が空間に伝搬し、耳に届いた瞬間に祈るのを止める。幽々子の胸から手を引き、全身の力を抜いて笑顔を浮かべる。

 すると、幽々子も同じようにほほ笑み返してくれた。

 

 

「ねぇ、和友ちゃんが良かったらうちに来ないかしら? 住む場所ならいっぱいあるし、お世話は妖夢がしてくれる。ちょっとした私の話し相手になってくれればそれでいいから」

 

「幽々子様!?」

 

 

 まさかの提案に魂魄さんが驚愕の声を上げる。

 住む場所を変える、そういう選択肢もなくはない。

 違う場所で、違う人と、同じ生き方をする。

 新しい人のために生きていく。

 自分のために生きていく。

 それも悪くはないと思う。

 誰かのための自分に成れるって思った今なら、悪くないなって――思った。

 

 

「貴方が白玉楼に来てくれれば何かが変わる、そんな気がするのよ」

 

 

 幽々子の口から漏れた言葉は、随分と心のこもった言葉に聞こえた。ずっしりとした重さが感じられた。

 何かしら変化を求めている。足りないものを欲しがっている。

 幽々子の言葉には、そんな想いが込められているような気がした。

 

 

「おい、そこの亡霊。私を差し置いて何をしているの?」

 

 

 そんな幽々子の独壇場に黙っていられなくなったのか、ここで横からの割り込みが入った。

 声がした方向に視線を向けてみると、全てを見通すような鋭い視線が幽々子を射抜いている。黒い羽を広げ、幼い容姿ながらも貫録を備えた力強い瞳が僕たちを映していた。

 

 

「先約を取り付けたのは私よ」

 

「あら? 約束は同意のもと成り立つ契約なのよ? 赤い悪魔さん、あなたの言っているのはただの子供の我儘。決まるのは双方の意思が合致してから。私の言っている意味、分かるかしら?」

 

「そんな安い挑発には乗らないわ。私たちの本質は変わらない。どんな言い方をしたところで、どう取り繕ったところで、結局私たちはお互いに笹原を手元に置きたがっている」

 

 

 レミリアは胸に手を当て、ゆっくりと静かに語りかけるように言葉を紡いだ。

 

 

「何かが変わる気がするから。何か足りないものが埋められる気がするから。違って?」

 

「……そうね、違わないわ」

 

 

 みんな、何かを欲している。

 自分の中で満たされない感情を求めている。

 何かが足りないと感じた瞬間から。

 何かが無いと分かったときから。

 それを埋めようとしている。

 それは、幽霊でも吸血鬼でも妖怪でも人間でも変わらない。

 僕だって、変わらない。

 必死に空いた穴を埋めようとしている。

 レミリアは傍に寄ってくると、そっと足を崩した。

 

 

「で、どうなのかしら? あの時から気持ちは変わって? フランだって会いたがっているし、無礼を働いた分のもてなしはするつもりよ」

 

 

 レミリアの言うあの時――きっと始めて紅魔館に訪れたときのことだろう。

 あの時とは全然違う、優しく差し伸べられた手が物語っている。

 精一杯の譲渡を込めた表情が訴えている。

 差し伸べられるように開かれた心が求めている。

 誰かのために。何かのために。

 そんな何かに成れる可能性を知った今となってはこの手を取ってみるのもありかもしれない。新しい何かが生まれる。思ってもみないことが起こる。

 そして、きっとどんな出来事だって乗り超えていける。

 

 

「…………」

 

 

 そんな生活も悪くないと思った。予想以上の広がりを見せる想像に、即決できずに沈黙が続く。

 悪くない。

 悪くないけど。

 悪くはないと思ったけど――今の僕にとって大事なものを考えると、どうしても僕はここに留まるべきだと思った。これからの僕にとって大事になるものを考えると、ここにいるべきだと思った。これまでに大事にしてきたものを考えると、動くべきではないと思った。

 この手を取ったら、これまでがきっと付いてこないから。みんながいる、この場所にいるべきだと思った。

 

 

「1週間でもいい。いえ、3日でも構わないわ」

 

 

 迷っている僕を攻め立てるように条件がどんどん軽くなってくる。永久ともいうべき最初の条件からは程遠い。旅行で過ごすような感覚の日取りとなっている。

 そして、譲渡の幅が拡大しているのを全く気にする様子もなく、まるで催促を求めるようにさらにレミリアの顔が近づいてくる。笑みを浮かべ、距離を縮めてくる。だんだん大きくなる姿に少しざわついてくる気持ちを抑え込む。

 短い期間滞在するだけなら――3日間ならいいのかな、なんて考えが頭の中に浮かんでは消えていく。

 そのぐらいなら大丈夫だろうという気持ちが好奇心を呼び起こしてくる。

 でも、一度行ってしまえばもしかしたらそのままそこで過ごしていく可能性だってある。一度それを選べば、選ぶという選択肢がなくなってしまうかもしれない。戻れなくなってしまうかもしれない。そう考えると、やはり条件が緩和されても即座に頷くことはできなかった。

 

 

「あー、止めなさい。ほら離れる、離れる」

 

 

 僕が悩んでいると、霊夢が唐突に僕とレミリアの間を割った。レミリアの肩と僕の肩を掴み、左右に広げる形で空間を作り出す。

 無理やり引き離されたレミリアからは不機嫌を匂わせる雰囲気が出ていた。

 

 

「霊夢、どういうつもりかしら。貴方も笹原がここにきて迷惑だって思っているのではなくて?」

 

「確かに和友がいると面倒事が増えるし、頓珍漢なことも言うし、突拍子もないことをする奴だけど、迷惑なんて思ったことはないわ」

 

 

 霊夢から初めて僕についてのまともなコメントを貰った気がした。生き方が間違っているとか、おかしいとか言われることは今までにもあったけど、僕をどういう風に見ているかが分かる初めての言葉だった。

 もしかしたら嫌われているのかもしれない。迷惑って思われているのかなと考えることも多々あっただけに、こうやって直接聞く形で霊夢の気持ちが聞けて思わず嬉しく感じる僕がいた。

 

 

「和友は博麗神社に住んでいるの。本人が出ていきたいというのならまだしも、私の目が黒いうちは横から誘拐するような真似は許さないわ」

 

「だったら和友ちゃんの心を動かしてあげればいいってことね。私だって一朝一夕で仲良くなれるなんて思っていないわ。和友ちゃん、またの機会にね」

 

「まぁいいわ。考えておいて。提案に対して迷いを生じた――今はそれだけで十分よ」

 

 

 幽々子とレミリアが幽雅に手を振り、その場を離れていく。次いで、レミリアに付き従っていた咲夜さんと幽々子の従者である魂魄さんも移動していった。

 霊夢は幽々子とレミリアが確実に僕から手を引くのを見送ると、そっと僕の手を取る。離れないようにと言わんばかりに、思ったよりも小さな霊夢の手が僕の手を強く握りしめてきた。

 導かれるように手を引かれ、立ち上がる。

 

 

「どこに行くの?」

 

「和友が行かなきゃいけない場所よ」

 

 

 僕が立ち上がるのと同時に近くにいた椛も立ち上がる。それを見た霊夢は、椛に向けてはっきりと言った。

 

 

「椛、あんたはここにいなさい」

 

「どうしてですか? 私がいたら不都合なことでもあるのですか?」

 

「何を言っているの? 当たり前でしょ? そうでもなかったらこんなこといちいち言わないわよ」

 

「……いつも話していて思いますが、本当に霊夢さんは信じられない人ですね」

 

 

 予想外の返しに椛の表情が曇る。

 私がいたら迷惑ですかという問いかけは、大丈夫ですかという問いかけによく似ている。答え方にセオリー染みたテンプレートが存在するのである。

 大丈夫ですかという言葉は魔法染みているということは以前にも伝えたが、大丈夫ですかという言葉には大丈夫と言わせる魔力がある。大丈夫ではないと答えると相手に心配をかけるからという理由で、無理やりに大丈夫ですという言葉を作り出すのである。

 迷惑ですかという問いも同じだ。迷惑ですと答えると相手に失礼になる。だから回りくどくなったり曖昧にぼかしたりする。迷惑ではないけど、2人で話したいことがあるから。なんてワンクッション入れる言い方を強制する。

 だけど、霊夢の言葉にはそういう気づかいというか、容赦が一切感じられなかった。ただただ、そうだからそうなのだ。霊夢という人間はそういう性格の人間なのである。思ったことを一直線に伝える姿勢、それを全く問題視していない雰囲気に圧倒されそうになる。

 間違っていないけど、生きにくい生き方。社会の中に混じるとよく分かる。外の世界で学校に通っていた僕も、妖怪の山の天狗の社会にいた椛もよく知っていた。

 

 

「幻想郷でもここ――博麗神社にいるからそうなのかもしれませんね。そういうところがあるから霊夢さんらしいと言えばそうなのですけど」

 

「何よそれ、私に喧嘩売っているの?」

 

「いえ、褒めているんですよ。そんな霊夢さんだからきっとここもこんなにのんびり回っているんだろうなって。他の妖怪たちも自然体でいられるんだろうなって」

 

「ふーん、椛はまだ自然体っていうには程遠い気がするけど? 喋りが相変わらず敬語のままじゃない」

 

「敬語なのはただの癖ですから気にしないでください。そして、私はこれでも大分素の状態ですよ? 素じゃなきゃ、こんなふうに思ったことも言えていません」

 

「だったら後でお酒を注ぎなさいよ。私も注いであげるから私の愚痴にでも付き合いなさい。椛の愚痴も聞いてあげる。和友といると気苦労が絶えないでしょうし、溜まっているものも結構あるでしょ? もちろん私の誘いを断らないわよね?」

 

「ふふっ、断っても来るのでしょう? ここでお待ちしていますよ」

 

「そ」

 

 

 椛はくすくすと笑いながら再び膝を崩し、一人でお酒を飲み始める。

 霊夢は僕の手を引きながら部屋の外へと連れ出した。

 風が強くなっている、たなびく桜は風に煽られてはらはらと散っていく。

 風が頬を撫でる。外の空気は随分と涼しくなっていた。

 

 

「すぅ、はぁ」

 

 

 大きく息を吸い込む。すると――体の中にまで風が通ったような気がした。

 大きく深呼吸していると、唐突に背中がトントンと叩かれる。視線を向けてみると、そこにはある方向に指を向けた霊夢がいた。

 

 

「ほら、あそこにも和友をお呼びの奴がいるわ。行ってきなさい。積もる話もあるでしょ? 邪魔は入れないから」

 

 

 霊夢の指し示す先には、一人の存在が足を宙ぶらりんにさせて座っていた。視線は――何かを待ち望むように桜へと向かっている。

 僕が再び霊夢を見てみると、霊夢は薄く笑い、僕の隣を横切って部屋の中へと戻っていく。律儀にふすまを閉めて外界と内界を遮断した。

 

 

「ふふっ、ありがとう。霊夢」

 

 

 僕は、霊夢の気遣いに思わずクスリと笑うと、藍へと歩みを進めた。

 藍の元へと一歩一歩進む。そのたびに昔のことが思い出され、懐かしい気持ちが湧き上がってきた。マヨヒガで過ごした日々が蘇ってきた。

 

 

「お疲れ様でした」

 

「ああ、和友か。お疲れ様」

 

 

 僕は足と足がくっつきそうなほど、肩と肩がぶつかりそうなところまで近づき、藍と同じように腰を下ろして空を見上げる。

 夜空には輝かしいほどの星が満ちて、舞い散る桜が幻想的な光景を作り出していた。

 

 

「綺麗な桜だな。これまで見た中で最も綺麗に見える。そう思わないか?」

 

「うん、そうだね。僕もそう思うよ」

 

「きっとこれまで頑張ってきた分のご褒美なのだろうな。辛いこともあった。苦しいこともあった。大切なものを失うこともあった。だが、それを乗り越えて、それを取り戻して――私は今ここにいる」

 

 

 藍はこちらを向くこともなく、掌を僕の手に重ねてくる。藍の手は僅かに震えていた。

 僕は自分の手を藍の手の下で反転させ、力強く藍の手を握る。強く握られた感触に反応して藍の顔がこちらを向いた。

 藍はどこか物憂げな、今にも崩れてしまいそうな表情を浮かべていた。

 

 

「藍……」

 

「まだまだやらなければならないこと。解決しなければならない問題。取り組むべき課題。望む未来にたどり着くためには多くの乗り越えるべき壁がある」

 

 

 記憶を取り戻した藍は、記憶を失う前に抱えていた問いを―――苦しみを再び抱えた。

 記憶を失って分かったのは、問題に対して客観的に遠くから見る感覚だけ。

 望みを再び背負って、理想を再び目指したその先には、以前に見た時と全く同じ高さのそびえたつ断崖絶壁がある。

 

 

「まだ、和友を救う術は見つかっていない。紫様を説得する方法も見つかっていない」

 

 

 そこで自覚させられるのが、記憶を失った時と全く同じ場所に立っている自分の存在である。

 

 

「一歩も前に進めていない私には、心の中で聞いた和友の約束を結べる自信もない。その願いを叶えられるだけの覚悟もできていない」

 

 

 1年近くの月日を経て、見上げた先には全く同じ景色が見えている。一歩も進めていない自分に不甲斐なさを感じる。

 

 

「紫様に敗れて心に誓った想いを果たすには、まだ何も足りていないのだ」

 

 

 藍は、記憶を取り戻してからずっと迫りくる終わりの時間に焦りを感じていた。

 思い出したら――すでに半分が終わっていたのだ。目の前で散っている桜のように、知らず知らずのうちに半分の時を失ってしまったのである。

 

 

「やらなければならないことは山ほどある。迷っている暇なんてない。これから突き進まなくてはならない。今日からだって本当は走り出さなければならないのだろう。そんなことは分かっている、分かっているのだ……」

 

 

 藍の瞳に涙が浮かぶ。

 何も変わっていない現実に。

 何も進めていない現状に。

 光の見えない未来に。

 悲壮感と、焦燥感が心を圧迫している。

 常に少年を助けるために動いていた足は歩みを止めていた。

 

 

「だが、今だけは立ち止まっていいだろうか。なぁ、和友――今だけは、泣いてもいいだろうか?」

 

 

 そう問いかけたのは、涙を止めることが叶わなかったから。何も変わっていない自分を悔しく思ったから。そして何より、迷惑をかけると思っていたから。

 必死に涙をこぼすまいと目を開いて堪えている姿が目の前にある。瞬きをしてしまえばきっと涙を零してしまうような大粒の涙を瞳に溜めている藍の顔がある。

 僕はそっと藍の背に手を回すと、ギュッと抱きしめた。

 

 

「大丈夫、大丈夫。大丈夫だから」

 

「っ…………」

 

 

 藍は、許しを得た子供のように嗚咽を漏らす。決して声を上げずに堪えている。

 それを見た瞬間――弱音を吐いた藍を心の中以外で初めて見た気がした。

 思えば、いつだって僕の前では強がっていた。心配する時も不安を打ち明ける時もあったけど、こんなふうに弱い部分を晒しているところは見たことがなかった。

 そう考えたら――藍はいつも一人で頑張っていたことに気付いた。誰もが諦める中で、誰もが理解しない中で、唯一諦めずに動き続けた。

 

 

「ごめんね、僕なら藍の苦しみに気付けたはずなのに。藍が辛そうにしているのを僕が気付いてあげなきゃいけなかったのに。分かってあげるのが遅くなってごめんね。辛かったよね、苦しかったよね、寂しかったよね」

 

 

 僕は分かっていたはずなのに。

 この能力を抱えて生まれてきた僕なら分かったはずなのに。

 能力に対して共に戦ってきた両親を失った僕なら気付いたはずなのに。

 辛かっただろう。

 苦しかっただろう。

 共有できる者の存在がいないことが。

 隣にいてくれる者がいないことが。

 共に同じ願いを叶えようとしてくれる者がいないことが。

 孤独で、一人で戦うのは――寂しかっただろうに。

 藍は最後の最後、紫と戦う時まで僕を救うために努力してくれていた。

 今だってそれは変わっていない。ようやく動き出した時の中で、変わらない想いを抱えている。

 僕は、泣いている藍をさらに包み込むように優しく抱擁した。

 

 

「今までありがとう。これまで藍は僕のために一人で頑張ってきたんだよね。病気の時も、僕を助けようと動いてくれた時も、いつだって藍だけが諦めずに僕を救おうとしてくれた」

 

 

 精一杯の感謝の気持ちを込めて、藍の頭を撫でる。

 誰よりも僕のために頑張ってくれた藍に対して。

 誰よりも近くで応援してくれていた藍に対して。

 今だって、一人で崩れそうになる中でも前に進もうとする藍に対して。

 一人で頑張らせることは二度としないと誓った。

 

 

「だけど、心配しないで。今度からは藍の隣には僕もいるから。藍を一人で頑張らせたりしないから。今度は一人、一人じゃなくて――二人で壁を乗り越えていこう。僕達ならきっと乗り越えられるはずだから」

 

「ああっ……!」

 

 

 藍はもはや声を殺すこともなく、泣きたい感情のままに、叫びたい想いのままに、声をあげて泣いた。

 僕の瞳からも自然と涙が流れた。

 半分の時を失って、幻想郷に来て初めて――僕たちはようやく一つになった。




今回は、宴会での少年とそれにまつわる者たちとの会話でしたね。
少年が能力に対して「あって良かった」と思えたことが今回の話で最も大切なところになったと思います。
長らく能力に対して辛い思いをしてきた主人公にとってこれほどの救いはなかったでしょう。

また、最後に記憶を取り戻した藍と少年が、
初めて会ってからようやく一人と一人ではなく、二人に成れたことを作者としても嬉しく思います。

これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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少年のいる1日、少年のいない1日

全4話編成の第10章の2話目です。
10章は、萃夢想の前のお話になります。


 その日の始まりは、いつもの始まり方とは違っていた。意識がゆっくりと戻り、夢の世界から帰還する。重い瞼を開けて現実の世界を映し出す。

 見上げた先にはよく見知っている、昨日とは違う天井があった。

 

 

「おはよう。今日もまたいい日になるといいね」

 

 

 誰もいない自分の部屋で自分自身に挨拶をする。

 背伸びをして窓から降り注ぐ光を迎える。

 そして、お馴染みのふすまを開けて廊下を歩き、居間へと足をのばす。まるで導かれるように、誘われるように、考えることもなく足が進む。一歩一歩進むたびに見えてくる景色が移ろい、最終的に居間へと繋がるふすまの前で景色が止まった。

 居間と廊下を隔てる戸が静かに開けられる。境界線を失って廊下と居間が一つに繋がる。広がった世界の先には、やっぱり見知った後ろ姿があった。よく知っている背中が小気味いい音を立てて料理をしている。

 心の中が温かいモノで満たされる。僕の一日がここから始まる。この出会いから進んでいく。時計の針が動きを見せる。

 僕の今日は、この言葉から始まった。

 

 

「おはよう、藍」

 

「おはよう、和友。さ、早く顔を洗って来い。もうすぐ朝ごはんができるぞ。一緒に食べよう」

 

「うん」

 

 

 少しだけ張っている藍の声を聴き、顔を洗うために駆け足で外へと向かう。ちょうど戸を開けて居間を出ていく際に、くすくすと笑っている声が後方から聞こえてきた。

 僅かに漏れた声を聴くだけで分かる――決して振り返ることなく脳内で口元に手を当てて子供のような笑顔を浮かべる藍を想像しながら、外を流れる冷たい小川に向かった。

 いつも考えている――どうして小川まで顔を洗いに行くんだろうなんて考えることもなく、いつもと違うワクワク感を抱えて顔を洗う。顔を洗い終えて急ぎ足でマヨヒガへと帰る。数分ののちに戻ってきた場所――そこには想像通りの表情を浮かべた藍がいた。

 

 

「ほら、またタオルを忘れたのか。和友は全くしょうがない奴だな」

 

 

 下から持ち上げるようにタオルが差し出される。なんだか懐かしいやり取りに、僕と藍は共に笑顔を作った。

 できるだけ早く戻ってきたつもりだったけど、食卓にはすでに藍が作った料理が並んでいる。僕と藍はちょうど正面になるように椅子に座り、同時に手を合わせて視線を交わす。呼吸をそろえてタイミングを計る。

 僕たちの声は、綺麗に一つになって響き渡った。

 

 

「「いただきます!!」」

 

 

 藍が作ってくれた出来立てほやほやのご飯が口の中に放り込まれる。見慣れたはずの風景だった二人での朝食が始まりを迎える。

 口の中が旨味で満たされる。ご飯を食べているだけなのに、区別なんてできないはずなのに、味覚が博麗神社で食べている味とは違うと、いつもの味だと訴えていた。

 懐かしい味に頬が緩み、笑顔が自然と浮かぶ。

 

 

「やっぱり藍の作る料理はおいしいね。なんだか随分と食べていなかった気がするけど、食べた瞬間に藍が作ってくれたご飯だって分かる味だよ」

 

「そうか」

 

 

 藍からの返事は随分とそっけない返しだったが、僅かに赤く染まった頬とその頭から生えている耳がぴくぴくと動いているのが確認できた。それが何よりも藍の心に湧き上がる喜びを表しているように見えた。

 僕たちは、次々と作られた料理を運びながらいつもの日常を繰り返す。まるで昨日も同じことをしてきたかのように、同じ日々を繰り返してきたかのように談笑を始める。

 昨日あったこと。

 これまであったこと。

 藍と一緒にいなかった時のこと。

 博麗神社で過ごしている生活について話した。

 夢の中では話すことのできなかった―――僕の新しい日常を口にした。

 

 

「霊夢は、今まで見たことのないタイプでさ。ものすごく淡白で思ったことをズバズバ言うし、ぶしつけで相手の気持ちなんて全く汲んでいるように思えないけど、意外と相手のこと考えていて……」

 

 

 霊夢のこと。

 

 

「椛は、大分すれ違いがあって喧嘩をすることもいっぱいあったけど、苦労を重ねただけその分だけ強くなった。誰よりも優しくて、誰よりも強い心を持った。今では誰よりも頼もしい存在だよ」

 

 

 椛のこと。

 

 

「希は、赤い霧が出た異変の帰りに見つけた外来人だったんだけど、結構熱い子でさ。誰かが辛い思いをしているのを見て見ぬ振りができない子なんだ。外の世界で何があったのか僕は知らないけど、今の希を見ているとちょっと不安かな」

 

 

 希のこと。

 

 

「なごみは、希と一緒にいた子なんだけど、とても素直な子なんだ。純粋で子供みたいと言えばそうなるかな。あと耳が聞こえないらしくて手話ができるんだけど、これが凄いのなんのって、全く分からない暗号ゲームしているみたいでさ。まだ全く覚えられていないけど、いつかできるといいなって今練習中」

 

 

 なごみのこと。

 

 

「影狼さんは偶に博麗神社に来るんだけど、ちょうどお姉さんみたいな感じかな。気さくで軽い感じで話してくれるからなんか気兼ねしなくて楽しい人だよ」

 

 

 影狼さんのこと。

 

 

「みんな、いい人ばっかりで僕にはもったいないぐらい。本当に、もったいないぐらい……手放したくないって思うぐらい、大事な“みんな”になった。みんなのいる場所が、僕のいる場所になった」

 

 

 みんなこと。

 今、僕の周りに出来上がっている家族の形態。

 僕の今の家族のことを、今も家族である藍に告げた。

 

 藍は静かに頷いた。何かを噛みしめるように。何も言わずに。優しい表情のまま一度だけ頷き、笑った。

 喜ぶように。哀しむように。慈しむように。愛しむように。優しい笑顔を作った。 

 食事が終わり、再び手を合わせる。目を閉じて感謝の祈りを言葉にする。

 

 

「「ご馳走様でした」」

 

 

 僕たちは示し合わせたように一緒に食器を片つけた。隣り合っているけど、干渉することもなく、流れるように洗い物を済ませた。

 両手を同じタオルで拭いて、縁側へと向かう。すると、そそくさと居間を出ていく藍の足音が耳に入った。

 これから始まる1日の流れの懐かしさに表情が無意識に緩んでしまう。久々だという気持ちが心を温かく包んでいく。さらに、外から差し込む光が体の外からも温めてくれているような気がした。

 

 

「はぁ~~、ここからの太陽も、博麗神社から見える太陽も、同じ太陽から降り注いでくる光だけど、なんだかこっちの方が暖かく感じるんだよね」

 

 

 瞼を閉じ、両手を広げ、天を見上げる。

 瞼という蓋を閉めることで真っ暗になっていた世界を貫くように僅かな光が差し込んでくる。場所が変わっただけなのに、やっていることは同じなのに、差し込んでくる温度に違いを感じる。絶対に同じはずなのに、絶対に変わらないはずなのに、区別ができない僕なのに―――どうしてか心が違うと訴えていた。

 暫くすると、光合成をするように太陽光を浴びている僕の隣に不自然な影が入り込む。やっぱり来たんだねと思いながらゆっくりと蓋を開けてみると、そこには少しだけ恥ずかしそうに頬を染めている藍がいた。

 

 

「和友、毛づくろいをお願いしてもいいだろうか? 今日和友が帰ってくると聞いて一番楽しみにしていたことなのだが、迷惑でなければ付き合ってもらえないか?」

 

 

 あの時と違って、今度は素直に申し込んでくる真っすぐ伸びた両手にクスリと笑う。藍の伸ばされた両手には、いつも使っていた毛づくろい用のブラシが乗っていた。

 何も言わずにブラシを受け取り、正座で座る。横を見てみれば、藍はすでに尻尾を乗せる態勢に入っている。まっすぐで大きな背中がピンと張っている。その後姿は、何かを期待しているように見えた。

 なんだか――追い求めているものが、その背中にあった気がした。

 

 

「ふぅ……ああ、やはりこうでなくてはな」

 

「どうしたの?」

 

「いや、何でもない。私の日々はこうして始まっていたのだなと、そう思っただけだ」

 

 

 毛づくろいをしなくてもふさふさの、もふもふの尻尾が揺らめいている。踊るように、風に揺らめいているように、ゆらゆらとなびいている。

 時間もゆったりと流れていく。そっと空を見上げてみれば、太陽が元気よく光を放っている。明るい世界が僕たちを包んでいる。

 何でもないことで笑って。

 何でもないことが楽しくて。

 当たり前のような現実が嬉しくて。

 笑おうとして笑ったわけじゃなくて。

 嬉しくて嬉しがったわけじゃなくて。

 自然と口角が上がった顔がそこにはあった。

 

 

「「…………」」

 

 

 それ以上お互いに口を開くこともなかった。

 ただ、この静かな時間を愛しく思っていた。

 きっと、この時間を一度失ったから。大事なものを失った僕達だから。

 この時間を大切にできるんだって――僕たちは静かに流れる時の中で互いの温度を確かに感じていた。

 

 

 ―――ポンポン―――

 

 毛づくろいする前よりもふさふさになった尻尾を優しく2回叩く。僅かに弾力のある尻尾が僕の手を押し返してくる。

 藍は、合図を受け取るとさっと尻尾をどかして立ち上がった。僕も藍が立ち上がるのを確認してから両足を伸ばし、持っていたブラシを手渡した。

 藍は嬉しそうに両手でブラシを受け取ると胸の前に引き寄せる。その藍の仕草はとても綺麗で、可愛らしくて、思わず見とれてしまいそうだった。

 

 

「ありがとう。気持ちよかったぞ」

 

 

 感謝を述べる一言だけで心が温かくなる。

 少し遅れてどういたしましてと応えると、藍の笑みはさらに深まった。

 何だかちょっとだけ気恥ずかしくなってその場から立ち去ろうとしたが、藍に服の袖を掴まれた。

 

 

「ちょっと待ってくれ」

 

「どうしたの?」

 

「その、なんだ……今日はこちらからも何かできないかと思って準備してきたのだが、いいだろうか?」

 

 

 そう言って差し出されたのは、耳かきだった。

 まさかの展開に唖然とする。これまでなかった展開が顔を覗かせている。どう反応していいのか、どうすればいいのか、受けるにしても断るにしてもどう答えるべきなのか分からない。僕の足は完全に止まってしまっていた。

 

 

「ほら、ここだ」

 

 

 藍は、動けない僕を見かねて膝を折って正座をする。そして、膝の上に置いてあった右手をゆっくりと持ち上げると、折りたたまれた膝を二度叩いた。

 ――ポンポン――

 二度響いた音にハッとする。優しく微笑む藍の表情がどうすればいいのかを伝えてくれていた。

 

 

「ここが、和友の居場所だ」

 

 

 僕は、縁側で寝転がる体勢を作ると藍の膝に頭を下ろす。少し筋肉質で、でも女性ならではの柔らかさがあるしなやかな感触が後頭部から感じられる。

 下から見上げる藍の顔は、いつも見るものとは少し違って見えた。僕が少しだけ緊張しているからかもしれない。僕が色眼鏡で見ているだけかもしれない。だけど、僅かに潤んでいる藍の瞳は確かに何かを訴えているようだった。

 

 

「私の膝の居心地はどうだ?」

 

「うん、ちょうどいい感じだよ」

 

 

 そう告げると、藍の口から大きなため息が漏れた。

 

 

「はぁ、良かった。私の膝は和友に合っていたか。合わなかったらどうしようかと不安だったのだが、ひとまず安心したぞ」

 

「そんなこと気にしなくてもいいのに。膝が合うか合わないかって、そこまで気にするところでもなかったんじゃないの?」

 

「そういうわけにはいかないさ。毛づくろいをしてもらっている間は、和友の膝が私にとって居心地のいい居場所だったのだから」

 

 

 話しながら頭をゆっくり撫でられる。優しく包まれるように触れられる。

 

 

「この時だけでも、私の膝が和友にとって安らげる居場所に成れたらと、そう思っていたからな」

 

 

 そこまで言われると嬉しさに心が騒めき立つ。感謝の気持ちが心にすっと入り込んでくる。

 ああ、良かった。本当に良かった。

 心を込めて、精一杯の気持ちを込めて毛づくろいをしてきた想いは藍に伝わっていたのだと。毛づくろいの間だけでも心が落ち着ける、藍にとって優しい場所に成れていたのだと。そう思ったら、毛づくろいをやっていてよかったと素直に思った。

 

 

「それでは、顔を外に向けてもらえるか? 早速始めるからな」

 

「うん、これでいい?」

 

「ああ、十分だ」

 

 

 藍から外に視線が向く。もう藍の顔を見ることはできない。

 今、藍はどんな顔をしているだろうか。どんな表情を浮かべているだろうか。何を想っているだろうか。何を考えているだろうか。

 そんなことを考えながら、時が来るのを今か今かと待ち望んだ。

 

 

「ちなみに、こんなことをするのは和友が初めてだからな。上手くできるか保証はできないが、心を込めてやらせてもらうぞ」

 

 

 要らない心配である。そんな心配は杞憂である。保険を掛けなくても、僕には不安を感じるポイントは存在しないのだから。

 藍がやってくれる――それだけで心配を打ち消すには十分なのだから。

 

 

「僕は心配してなんていないよ――だってやってくれるのが他でもない藍なんだから」

 

「私の膝に和友がいるというだけで緊張するというのにそんなことを言うな。嬉しくて手が震えるだろう?」

 

「それでも上手くやってくれるでしょ? 藍は僕の期待をきっと裏切らないって信じしているから」

 

「ああ、勿論だ」

 

 

 耳かきが左耳の周りを擦り始める。

 耳かきをしてもらうのはいつぶりだろうか。両親にしてもらっていたのが最後のはずだけど、その記憶は残念ながらもう残っていない。

 そう考えたら、藍が初めて誰かに耳かきをするのと同じように、僕にとっても初めて誰かにしてもらう耳かきなんだと、そう思った。

 

 

「気持ちいいか? 痒いところがあったら言ってくれ」

 

「うん、藍の耳かき、気持ちいいよ。人にやってもらうとこんなに気持ちいいんだね」

 

「ふふっ、眠るんじゃないぞ。この後も予定がびっしりなんだからな」

 

 

 いつもの関係が逆転している。されていた側がする側に。する側がされる側に。まるで巡り巡っているように、行ったり来たりしている。

 余りに優しい時間に、温かな時の流れにうとうとしそうになる。瞼が閉じられ、夢の世界へといざなわれそうになる。すると、そうはさせまいと優しい世界へ引き戻すように一陣の風が吹いた。

 

 

「ひやぁ!」

 

「ふふっ、いいリアクションだ」

 

 

 左の耳元に直接届いた温かな風が背中をぞわぞわとさせた。

 未だに耳に残る感触が体中を巡っている。

 

 

「や、止めてよ……耳が、まだぞわぞわしてる」

 

「意外と癖になると思うぞ? 私の尻尾の根元の毛づくろいも同じようなものだ。毎日やっていたらいずれその感覚が忘れられなくなるさ」

 

 

 予想外の攻撃に耳元を擦る。ぞわぞわした背中がまだ戻らない。

 藍は、悪戯が成功した子供みたいな無邪気な笑顔を浮かべると余裕がない僕を急かすように次を要求した。

 

 

「ほらほら、次は反対だ。こちらを向いてくれ」

 

 

 こんなの慣れるはずない――そう思いながら顔を回転させて藍のお腹を向く。今度は光が全く入ってこない影側である。

 藍にちょうど包まれるような形になる。体温が直接伝わってくる側頭部と空気を間に挟んで間接的に伝わってくる正面からの温度に眠りにつく体勢に入る。柔らかな雰囲気に包まれるように再び闇を受け入れる。

 きっと僕はここで寝てしまっていたのだろう。目を覚ましたのは、次の一発が鼓膜を揺らした瞬間だった。

 

 

「うひゃあ!」

 

「ははは、さすがに二度目もここまでリアクションがいいと笑ってしまうな。私の方が癖になりそうだ。ほら、終わったぞ。起き上がってくれ」

 

 

 藍の笑い声を聞きながら若干重く感じる体を持ち上げて光の世界に戻る。少しだけ目をこすって、背伸びをする。

 僕は、藍へと体を向き直すとお礼を述べた。

 

 

「ありがとう、気持ちよかったよ」

 

「どういたしまして。こういうのもなんだか……いいものだな。私の方から和友に何かをしてあげることがほとんどなかったからだろうか、少し満たされたような気がする。また今度、耳かきをさせてくれ」

 

「あの耳に息をふぅってかけるのさえ止めてくれたら考えてもいいよ」

 

「それは私の楽しみだから和友には我慢してもらう他ないな。私のために我慢してくれ、和友は私の期待を裏切らないだろう?」

 

「その言葉――卑怯じゃないかな? そんなこと言われたら我慢するしかないじゃないか」

 

 

 言っていた側が言われる側に。求めていた側が求める側に。

 信頼の受け渡しをする。期待の交換をする。お互いがお互いに信じる相手が同じで、向かい合った表情は信頼を表していて、その瞳は確かにお互いの存在を見つめ合っていた。

 しばらく目を合わせていると、ちょっとだけ気恥ずかしくなって、頬をかきながら居間へと戻る。隣を寄り添うように歩いて、再び正面を見据えるように対面形式で椅子に座った。

 

 

「今日は仕事の方はいいのか?」

 

「今日は今のために休みをもらったんだよ。だから、今日の午前中は自由時間かな」

 

「それは僥倖だな。嬉しい限りだ」

 

 

 嬉しそうにほほ笑む藍に、今日の一日は藍のために使うつもりだなんてとてもじゃないけどクサ過ぎて言えなかった。

 

 

「昔から僕たちはずっとこうだったよね」

 

「そうだな。私たちはこうやって過ごしていた。毎日毎日くだらない話をして、どうでもいいことで笑って日々を送っていた」

 

 

 何でもないことを話して。

 どうでもいいことで笑って。

 そこにいるのが当たり前になって。

 傍にいるのが日常になって。

 始まるときも、終わるときも、共にいて。

 一人の生き物と、一人の生き物は、寄り添って。

 ただただ、生きてきた。

 

 

「ふふっ、なんだか笑っちゃう。ずっと続けてきたはずの生活だったのにね。そうなっているのが普通に思えるぐらいに平穏で。朝起きればいつだって料理を作って待ってくれている藍がいて。そんな当たり前の毎日を繰り返していた」

 

「ははっ、私もだ。朝、和友のために料理をして。起きてきた和友と朝の挨拶を交わして。優しく毛づくろいをしてもらう。そんな温かい生活を送ってきた」

 

 

 二人で息をしている。

 お互いの顔を見つめて。

 会話のキャッチボールをする。

 もう少しだけ、もうちょっとだけ。

 そんな名残惜しいような思いが胸の中に沸き立ってくるのを必死に抑える。

 

 

「ずっとは無理だと分かっていたけど、やっぱり名残惜しくて」

 

「永遠なんてないと分かっていたが、どうしても忘れられなくて」

 

「この生活を守りたかった」

 

「この温かい生活を守りたかった」

 

 

 時折悲しそうな藍の笑顔に負けないように。

 時折寂しくなる心に負けないように。

 もてる限りの精一杯の感謝の気持ちを伝えた。

 

 

「藍、ありがとう」

 

「どういたしまして。そして、こちらこそありがとう」

 

 

 お互いに抱えているものは何一つ降ろせていないけど、それで十分だった。何一つ変わっていない現状がそこにいて、大きな壁が目の前に立ちふさがっているけど、背負った荷物は他の誰でもない自分のものだから。背負っている重さが地に足を付けてくれるから。それを素でやってきた僕ら二人だから――それでいいと笑った。

 

 お昼が近づいてくるころ。マヨヒガがさらに騒がしくなる。

 二人だった世界が四人の世界に変わった。

 

 

「おはよう」

 

「おはよう~」

 

 

 二人の顔がちょっとだけ嬉しそうに見えるのはきっと気のせいではないだろう。紫と橙はそれぞれ挨拶のためだけに居間を訪れると顔を洗いに行き、僕たちは再び二人が帰ってくるのを待った。

 そして、顔を洗って戻ってくると、紫と橙は縁側でのんびりと日向ぼっこを始める。

 僕がのんびりと過ごしている二人に意識を取られていると、正面いる藍が僕に声をかけた。

 

 

「行っておいで。私はお昼ご飯の準備をするから」

 

 

 藍は、言った。自分はここにいるから。自分にはやることがあるから。自分はもう十分だから。だから、行きたいのなら行っておいでと言うばかりで動こうとしない。自らの想いを無視して、気持ちを置き去りにしてその場にいようとしている。

 ほんのり寂しさを匂わせる藍の表情が、僕に訴えていた。不慣れな想いを必死に表現していた。

 

 

「ほら、藍も行こう!」

 

「か、和友っ……」

 

 

 僕は、即座に藍の真横に移動し、藍の右手を掴む。

 ――藍も一緒に行こう。そう伝えるように強く握った手からは、驚き以上の感情の乗った力が返されていた。

 藍は僕の勢いに押されるように立ち上がり、ゆっくりと歩き出す。藍の呟いたような声は、僕にだけ聞こえた。

 

 

「本当に、和友には敵わないな……」

 

 

 紫と橙がいる縁側へ。焦るような気持ちを抑えながらゆっくりと踏みしめるように歩いていく。僕たちは二人の優しい笑顔に迎え入れられ、その足を折った。

 

 

「相変わらずイチャイチャしているのね。恥ずかしげもなく見せつけちゃってさ」

 

 

 そう言ったのは紫で。

 

 

「でも、これでいいんだと思います。なんだか安心しました」

 

 

 そう言ったのは橙で。

 

 

「「「「違いない」」」」

 

 

 笑ったのは、みんなだった。

 4人で縁側に座って冗談のような本当の話を交わす。時折空を見上げて、あの時と何も変わっていない空を見つめて。やっぱりなんでもない、どうでもいい話をする。

 

 

「あの時、藍に真面目な顔で相談されたときは年甲斐もなく言葉を失ってしまったわ。何よ、子供を授かりたいのですが大丈夫でしょうかって、そんなこと私に聞かれても困るわ。聞く相手を間違っているんじゃないかしらって思ったのは今でも忘れられないもの」

 

「子供を授かる? 藍は子供が欲しかったの?」

 

「紫様っ!! そのことは黙っていてくれるという約束だったではないですか!?」

 

 

 藍は明らかな焦りの色を見せながら、口を塞ごうと紫を追いかける。紫はスキマを駆使して藍の追随を躱している。

 僕は子供みたいに駆け回る二人を見ながら疑問を頭の中でぐるぐる回していた。

 子供を授かるって――それってつまりそういうことだろうか。僕の両親から僕が生まれたように、そういうことなのだろうか。

 そんなことを疑問に思っていると、その答えを吐き出すように紫の口から藍との秘密だったであろうことがべらべらとこぼれ落ちた。

 

 

「もう言っちゃったものは仕方ないわ。そういう気持ちになるのは分からなくもないけど、和友はまだ15歳なのよ? いささか早いのではなくて?」

 

「もう15歳ですよ!」

 

「あら? そんなことを和友がいる前で言っちゃっていいのかしら?」

 

「だって仕方がないでしょう!? 和友が死んでしまうことを覚悟したら……いなくなることを想像したら、無性に寂しくなったのですから! 子供がいればこの手に残るものになる、和友が生きていた証になる、そう思って何が悪いのですか!?」

 

「いや、悪くはないけど……ねぇ、和友はどう思うのかしら?」

 

「僕が残せるもの、かぁ……」

 

 

 藍は、顔を真っ赤にしながら目の前で何も握られていない両手を広げた。何かを抱えるように、何も乗っていない手をじっと見つめていた。

 残せるもの、残るもの。僕がいなくなったときに残るもの。考えれば考えるほど難しい問題だ。

 もともとは何も残さないつもりだった。何も残してはいけないと思った。

 だけど、今は過去とは違う。根こそぎ何もかも連れていくつもりだった台風だったあの時とは違う想いを抱えている。台風には違いないけど、残せるものがあると思っている。

 何か残せるもの。みんなに残せるもの。考えてはみるが、具体的なものは何一つ出てこない。何があるだろうか。僕がみんなに残せるもの。僕がみんなに残してはいけないもの。僕がみんなに残したいもの。僕は思考の渦の中で回っていた。

 

 

「藍様、子供ってどう授かるんですか?」

 

 

 いきなりの橙からの質問に、紫を追いかけていた藍の足が止まった。

 

 

「そ、それはだな……結婚すると自然とできるものなのだ」

 

「何言っているのよ。藍はそんな認識で子供を授かろうなんて考えていたの? そんな方法では子供なんてできないわよ? 橙、よく聞きなさい。子供を授かるのに必要なのは、男と女が……」

 

 

 藍の顔がみるみる真剣なものに切り替わる。もうすぐ沸点に近づいているというような雰囲気を出して、目を見開いている。背後に沸き立つ威圧するような雰囲気は、確実に紫へと向けられていた。

 

 

「紫様、殴りますよ?」

 

「な、なによ……急に真剣な顔をして」

 

「分かっているでしょう? それ以上を言うのは野暮というものです」

 

 

 紫の若干震える声が藍から降り注ぐオーラの大きさを物語っている。

 ただ、その程度で抑え込める紫ではない。この程度で塞げるような口ならば、これまでも弄られることはなかったのだから。

 紫は、さらなる情報を盛り込んで藍を追い込み始めた。

 

 

「お風呂に一緒に入ったことのある藍が言ってもね……より密接な裸の付き合いがしたかったのかしら?」

 

「あーもう!! 最低です!! 紫様なんて嫌いです!!」

 

 

 藍は不機嫌な様子を隠すこともなく、大声をあげてその場を離れていく。誰もその背中を追う者はいない。僕と紫と橙が揺らめく藍の背中を見送る。

 藍の姿が完全に消えると、紫は口元抑えて笑った。

 

 

「ふふっ、からかい過ぎちゃったかしら? でも、久々で加減が分からなかったとはいえ、事実しか言っていない。そこら辺の感情を整理できていない藍が悪いわ。もう少し大人になれるといいのだけど、いつまでかかるかしら?」

 

 

 突拍子もない責任転嫁をしている紫。明らかに悪いのは約束を破った紫のような気がするが、紫の言うことも一理あるような気がする。どっちも悪くなくて、どっちも正しいような気がする。

 僕がどうでもいいことで悩みを増やしていると、そんな僕をしり目に、橙が頭の上にクエスチョンマークを出しながら先ほどの質問で抱えた疑問を紫へと投げかけた。

 

 

「紫様、紫様も子供を授かることができるのですか?」

 

 

 いきなり振られた話題に紫の視線が橙へと向く。少しだけ脳内で想像を膨らませながら、あり得たかもしれない未来を口にした。

 

 

「そうね、できるんじゃないかしら? やったことがないから分からないけど、きっとかわいい子が生まれるわよ。なんていったって私の子供ですもの」

 

「なら、私でも和友の子供を授かることはできますか?」

 

「「え?」」

 

 

 場は、橙の一言で一瞬にして凍り付いた。

 僕たちの時間が解凍されるまでに数秒の時間を要した。

 

 

 

 

 そのころ、博麗神社にいる者たち――希、なごみ、椛、霊夢はそれぞれ行動を開始していた。

 朝起きてみれば、少年がいないことに何となくの寂しさを感じながら。いつもそこにいるはずの存在がなくなっていることに少しだけ違和感を覚えながら。違う朝の訪れに違う日々が来ることを予感して。違う日を送ることを決意して。少年の家族は、少年のいない日々を動き出した。

 

 

「さ! 和友がいなくても夜は明ける! 朝は来る! 私たちができることをやりましょう!」

 

 

 右手を高く突き上げる希に合わせるように、なごみの右手も天高く上げられる。

 椛は、そんな息巻く二人の人間を微笑ましそうに見つめていた。

 希、なごみ、霊夢の3人でいつもなら少年が作っていた朝ごはんの調理が行われる。これまでずっと一人で生活してきた経験のある霊夢を主導として、希となごみが手伝いに回る。椛はそれを遠くから見ていた。

 調理を開始して数分、すぐさま希と霊夢の間に静かに煙が立ち始める。

 

 

「相変わらず不器用ね。希は座って待っていた方がいいんじゃない? その方が料理もおいしくなるし、希も楽でしょ? 和友がいないんだし、別に料理ができるわけでもないアンタが手伝うことなんて何もないわ」

 

 

 霊夢の言葉は決して真っすぐではないけれども、きっと希を気遣ってのことだったのだろう。霊夢はただ思ったことを素直に言っているだけで他意はない。初めて霊夢と相対する人ならともかく、霊夢を知っている人だったら相手を馬鹿にするための、挑発するための発言ではないと分かったはずだった。

 当然、希だって分かったはずなのだが――希は誰にでも分かるような怒りを瞳に宿した。

 

 

「嫌よ! 下手くそでも、役に立たなくても、邪魔でも手伝う! 私のことを邪魔だっていうのなら、霊夢がどっか行けばいいじゃない! 和友がいない分の穴は私が埋めるの! 別に霊夢に手伝ってもらわなくても私一人で十分よ!」

 

 

 希の怒りの矛先が霊夢へと突き刺さる。

 霊夢は、希の言葉を全て聞き取ると一瞬無表情になった。何も感じていないような、何も思っていないような、無機質な顔を作った。

 希の体が意図せず震える。僅かな時間に垣間見られた霊夢の表情に怖気づく。

 霊夢は親の仇を見るような眼で、希に向かって告げた。

 

 

「あんた、何言ってんの? 邪魔なのは希の方でしょ? 和友がいないからって代わりができると思っているのならおめでたいやつね。自覚がないのかしら? 希がいたところで和友の半分にも及ばないわよ」

 

「…………っ!!」

 

 

 希の口から悔しさに歯ぎしりする音が出る。霊夢の言葉が正論すぎて、反論の余地がなくて、何も言い返せないことに悔しさがこみ上げる。

 少年がいない今日が始まって、心の中にぽっかり穴が開いたような気がした。それを埋めようとするばかり、少年がやってきた分の働きをしようと思った。霊夢には、そんな思惑を全部見透かされているようだった。

 だけど、それが分かっても、邪魔になっていると分かっていても、こうして拒否の姿勢を示されても、退くことのできない感情が希の心の中を渦巻いている。

 やるんだ、私がやるんだ――そういう気持ちを抱えて、希は何も言わずに無言のまま調理に入った。

 慣れない手つきで食材を掴み、若干震える手で包丁を握る。

 その姿を見た霊夢は、すぐさま希から包丁を奪い取ると怒りを爆発させた。

 

 

「だから希は手伝うなって言ってんでしょ!? 自分の実力をまだ把握していないの? あんたはまだ手伝うだけの技量もないの、手伝ったら料理がマズくなんのよ!」

 

「把握しているわよ! 自分ができないからやろうとしてんじゃない! やらなきゃできるようにはならないのよ!」

 

「何、和友みたいなことを言ってんの!? あんなに面倒くさいのは一人で十分なのよ! 希までそんなこと言わないで!」

 

 

 霊夢と希との間で火花が散り始める。ムキになった二人はその怒りを止める術を知らないのか、言い争っている。

 椛が見る分には、いつ火柱が立ち上がってもおかしくなさそうな雰囲気だった。

 重苦しくなりつつある雰囲気に一度背中を伸ばす。小気味いい音が鳴る。椛は内に溜まる負の感情を吐き出すために大きなため息をつくと、二人に声をかけた。

 

 

「はぁ、また喧嘩ですか。相変わらず元気でいっぱいですね。もう少し仲良くできないのですか?」

 

「「できないわ!!」」

 

 

 余りに息の合った返事にげっそりしそうになる。今にも手を出しての喧嘩が起きそうな雰囲気に呆れる。このようなことは今までも散々あった。別に今日に限った話ではなく、霊夢と希の相性が悪いのか度々火花を散らせていた。

 ただ、今日はいつも喧嘩の仲介を務めていたはずの少年がいない。この家族の核となっていると言っても過言ではない少年がいないという条件が付与されている。

 椛は、不穏な感情を抱えながら止めるでもなく、仲裁に入るわけでもなく、ただただ二人の成り行きを見守っていた。

 そんな椛に対して一人で料理を作っていたなごみは、持っていたペンでスケッチノートに急いで文字を書き、椛に提示した。

 

 

(いがみ合っているように見えるけど、二人は仲がいいから。大丈夫だよ)

 

「そうでしょうか? 何だかいつもより激しい気がするのですが……」

 

 

 椛は半信半疑で状況を静観する。

 なごみは、よく分からないと言った顔をしている椛の表情からすぐさま次の言葉を書き連ねた。

 

 

(私、耳が聞こえないから。分かるの。分かるようになったの。大丈夫か、大丈夫じゃないかって見れば分かるの)

 

 

 なごみは、何一つ心配することなく料理を推し進めていく。椛は、耳が聞こえないにもかかわらず会話が成立しているような状況になごみの相手の表情や状況から察する能力の高さに少しばかり驚きながらも、なごみの言い分がいまいち理解できずにその場でしばらくの間静観していた。

 すると、徐々にのどかな空気が戻ってくる。上がった火が落ち着いて、細々とした明かりに変わる。雰囲気はほんのり暑い夏の日のような雰囲気に変化した。

 

 

「あー! 分かったから、分かったから! やらせてあげる代わりに傍を離れるんじゃないわよ! 私が指示を出して、やり方を教えてあげるから黙って従いなさい!」

 

「やった! また霊夢が折れてくれた! お願いね!」

 

 

 希は喜びのあまり、霊夢に対してハイタッチを求める。伸ばされた手は寂しそうに霊夢に訴えている。

 霊夢は心底嫌そうな顔で手を合わせた。

 乾いた音が空間にこだまする。希の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

「霊夢、もうちょっと分かりやすい解説をお願い!」

 

「無理、これで十分でしょ。分かりなさい」

 

「ちょっと待ってよ。そんな小学生も分からないような説明じゃ無理だって!」

 

「じゃあ諦めるといいわ。私はもう知らないから」

 

「すみません、精一杯頑張りますから! だから、もう一回だけ教えて!」

 

「今度はしっかり聞くのよ!」

 

 

 なごみは、最初からこうなることが分かっていたかのように盛り上がる二人のやり取りをチラチラと見ながら嬉しそうに調理を続ける。

 椛は雰囲気が戻った光景になるほどと納得した。

 

 

「あの二人はあれで平常なのですね。喧嘩するほど仲がいい。程度は毎回違いますが、彼女たちはいがみ合っているわけではないということですか」

 

 

 目の前の3人を見ていると微笑ましく思う。

 いがみ合っているわけでもなく、釣り合っているわけでもない。だけど、寄り集まって不安定な中でも、沈まずに目的地に向かって舵を切れる。

 椛は、3人を見て微笑ましく思うと同時に――これなら大丈夫だと安心感を抱えた。

 

 

 

 朝食も終わり、日が元気よく光を降り注ぎ始めるころ。

 希となごみは、お互いに目配せするとここ最近にてらし合わせていた予定を敢行した。

 

 

「ちょっと紅魔館に行ってくるわ」

 

(紅魔館に行ってきます)

 

「え? 何を言っているのですか?」

 

 

 椛の口から唖然とした声が漏れた。

 紅魔館、そこは人の訪れるような場所ではない――悪魔の館である。

 

 




今回は、少年の存在がマヨヒガに移った1日を書かせていただきました。
少年のいるマヨヒガ
少年のいない博麗神社
そして、唐突に始まる耳かき。
当初こんな描写を入れる予定はありませんでした。
後から付け足したこのシーンが読者の目にどう映るのかは分かりませんが、微笑ましく見ていただけたらなと思います。

これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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幸せってやつ、感謝の在りか

全4話編成の第10章3話目です。
10章は、萃夢想の前のお話になります。



 「紅魔館」という単語は、本来であれば希の口からは一生聞かないような言葉である。しかも、「紅魔館に行く」という言葉に限ってしまえば、人里の人間ですら口にしない言葉になるだろう。

 何があったのだろうか。何を想ったのだろうか。何があってそうなったのだろうか。椛の意識が希へと傾けられる。

 希は真剣な表情で、決意のこもった瞳を椛へと向けた。

 

 

「私たちはいつも和友に守ってもらってばかりだった。和友にとって守るべき存在で、守られるだけの対象だった。もう、見ているだけの時間は終わらせなきゃいけない。遠くから眺めているだけの存在になっていちゃいけないと思うのよ」

 

 

 希にとって少年は、複雑な感情を抱えた初めての人だった。寝食を共にした友人であり、親愛を持った家族であり、憎悪すべき対象だった。

 見ていて楽しく。見ていて嬉しく。見ていて悲しく。見ていて憎らしく。見ているだけなのに、傍にいるだけなのに、それだけなのに――それだけの感情が沸いて出てくる。

 希にとって少年とは、今まで一人だっていなかった、今まで会ったことのなかった――そんな、変わった家族の一員だった。

 

 

「変わったやつだよね。私、あんなの見たことないよ。弱いくせにみんなを守ろうとしてさ。誰かのために自分を追い込んでさ。いつも誰かのために戦っている。私たちをこうしてここにおいてくれているのだって和友にとってはきついはずなのに、ここにいさせてくれる」

 

 

 何かがあれば傷ついて帰ってくる。

 何かがあれば全部を背負い込もうとする。

 常に一生懸命で。

 何事にも全力で。

 輝きを放ってそこにいる。

 

 

「辛くないはずがないの! 苦しくないはずがないの! 和友、夜の間ずっとみんなの名前を書いているんだよ? 仕事で疲れているはずなのに。強くなるための修行で疲れているはずなのに。忘れたくないって。覚えていたいからって、毎日毎日毎日!!」

 

 

 辛いことばっかりで。悔しく思うことばっかりで。息苦しそうに見える。

 偏見なのかもしれないけど。生きていることそのものが苦しそうに見える。

 周りから弱いと罵られ。努力なんて無駄だって思われ。普通ならば必要のないことを強要され。意味がないなんて言葉で終わりそうな生き方をしている。

 そんな生き方を見るたびに、なんで? どうして? そういう言葉が常に喉まで出かかった。

 

 

「私たちにはどうにもできなかった。和友がそれを望んでいて、想っていて、願っていたから! そうすることを心から欲していたから! 和友が傷ついているのに、和友が頑張っているのに、私たちは待っていることしかできなかった。見ていることだけしかできなかった」

 

 

 何も言い出せなかった。止めることなんてできなかった。それを支えることもできなかった。

 どこかに向かおうとする少年の姿を見るたびに心がきしむ音を上げる。

 無意識に伸びた自分の手を見るたびに涙が出そうになる。

 この手は届かないのだと――諦めなければならない状況に悔しさがこみ上げる。

 どうして、私は苦しんでいる家族の支えに成れないのか。

 どうして、私は家族と同じ道を歩めないのか。

 少年の隣を歩く椛の姿を見ていると。

 正面で向かい合っている霊夢の姿を見ていると。

 自分と同じで少年の背中の後ろに隠れているなごみを見ていると。

 自分の力の無さに胸が張り裂けそうになった。

 

 

「なごみとも話したけど、私たちは待っているだけじゃ駄目なのよ。私たちは引きずられるだけの何かになっちゃいけないの! それは和友をもっと苦しめることになる。私たち自身が苦しむことになる!」

 

 

 いつだって無力感を味わってきた。

 いつだって何もできない自分が恥ずかしかった。

 いつだって見送るだけの自分が恨めしかった。

 

 

「和友は……本当なら誰よりも幸せになれたはずよ! 誰よりも普通に生きていけたはずなの! だって、和友にはやっぱりみんなと手を繋いで笑っている姿が似合っていると思うから!」

 

「……そうですね、和友さんはそれが一番似合っていると思います。誰かと手を繋いで、誰かと一緒に笑っている姿が誰よりも輝いて見える人ですから」

 

 

 能力がなかったら――そんな“もしも”のことに想像を馳せる。

 能力を持たない普通の少年は、どんな生活を送っただろうか。普通に生きることができただろうか。

 普通を求めるなんてそんなことをしなくてもよくなって。自由に物事を選べるようになって、周りと一緒に、時には一人で、自らの指針に従って――少年は、どうやって生きていただろうか。

 能力を持っていなかったらなんていうのはきっと、何よりも甘美な囁きに違いない。

 誰よりも上手く生きられはずのあるべき姿が容易に想像できる。

 誰よりも笑顔でいっぱいの顔が思い浮かぶ。

 何者にもあったはずの幸せを享受する少年が笑っている。

 

 

「でも、能力はなくなったりしない。能力は和友を選んだんだから。他でもない和友を選んだんだから。そういう意味では、能力にも見る目があったってことなのかな?」

 

「ふふ、面白い考えですね。ですが、そうなのかもしれません。能力も和友さんに惹かれた。上手くやっていけると思ったのでしょう、そう――私たちのように」

 

「たださ、そういう能力があるからって、幸せになれないかって言ったら違うと思うのよ。辛さの分だけ、苦しみの分だけ、楽しさや嬉しさがあってしかるべきだと思うの」

 

 

 苦しんだ者には、それ相応の対価を。

 努力にはそれ相応の見返りを。

 頑張ったら褒めてもらって。

 悪さをしたら怒られる。

 苦労をした分だけ報われる。

 希は、そんななんてことはない普通のことを求めていた。そういう普通を求めていた。不公平なく、不条理のない世界を求めていた。

 椛は、そこまで話した希に対して唐突に心配そうな声音で問いかけた。

 

 

「……希さん、何かあったのですか?」

 

「え、別に何もないよ? どうして?」

 

「だって、涙が」

 

「嘘……」

 

 

 そっと手を頬に当てると指先が濡れた。

 どうして涙が流れているのだろうか。

 故意に流したつもりはなかった。感情が昂っていたとはいえ、流れる予兆は一切感じなかった。

 前を向いてみれば、心配そうに見つめる二人の瞳が向けられている。椛となごみが不安を抱えた色を見せている。

 二人の目に映る自分の表情が歪んでいる。それは怒りにも似ていて、憎悪にも似ていて、悲しみにも似ていて――複雑な感情が息巻いているのが二人を通して見えた。

 心の底から拒否の感情が湧き上がる。嫌だ、気持ち悪い、吐き気にも似た想いが顔をのぞかせてきた。

 希は、慌てて涙を拭きとると声を荒げた。

 

 

「止めてよ。そんな目で見ないで」

 

「希さん、本当に大丈夫ですか? 何か変ですよ、辛いのなら休んだ方が」

 

「止めてって言っているでしょ!? それ以上私に対して心配事を口にするようなら怒るよ!?」

 

 

 いつもより声を張り上げて、まるでこれ以上踏み込むなと言うように希の手が前に差し出される。

 ――こんなつもりじゃなかったのに。

 ――こんなことを思い出すつもりなんてなかったのに。

 ――二人に八つ当たりをしても意味がないのに。

 希の中の感情は激しく唸っていた。思い出したくもない過去が脳裏にちらついて離れない。今まで何のこともなく生活してきたのに、急に出張ってくる記憶を抑え込む。

 椛となごみは、普段と明らかに様子の違う希にお互いに目配せすると口を閉じた。

 

 

「「…………」」

 

「私なら大丈夫だから!! 話を戻すよ!!」

 

 

 希が一言で無理やり空気を引き戻す。僅かに淀んだ雰囲気が空間を漂っている。希の表情が複雑な色を彩っている。

 希は、やり場のない思いを抱えながら話を戻しにかかった。心を乱す原因になった少年のことを再び語り始めた。

 

 

「能力があったとしても、当たり前にあるはずの幸せが享受できないなんてことはないのよ。幸せっていうのは、みんなで作ることができるんだから!」

 

 

 能力があったとしても、なかったとしても、そんなもの関係ない。

 障害があったとしても、なかったとしても、そんなもの関係ない。

 人間であったとしても、妖怪であったとしても、そんなもの関係ない。

 そんなどうでもいいことは、幸せになれるかどうかに関係がない。

 正確に言えば、幸せには直結しない。

 幸せというのは、そんな単純なものではないから。

 幸せは、一つだけでは作ることができないものなのだから。

 幸せは――曖昧さでできているのだから。

 

 

「逆に言えば、幸せはみんながいないと作り出すことができないものよ! どれだけの努力をしても、願いを持っても、どれほどの苦労をしても、自分一人だけでは作り出すことのできないものなのよ!」

 

 

 頑張れば、努力すれば、幸せになれるなんて嘘だ。

 求めれば、願えば、幸せになれるなんてありえない。

 苦労すれば、対価を払えば、幸せになれるなんて保証はない。

 希はよく分かっていた、幸せについての持論があった。

 幸せは曖昧なもので、人によって見方が違っていて、定義の異なる、そんなふんわりしているモノなのだ。

 ただ一つはっきりと言えるのは、幸せというのは一人では作れないということである。幸せを感じる時、そこには必ず誰かの力が介在する。生き物の力が必ず存在する。特に人間がここまで急増した現代では、幸せを得るために人間と関わることが避けられなくなっている。例えば、火星で生まれた人間がいたとして、どんな時に幸せを感じることだろうか。想像することは難しい。

 何かを見たとき、何かを受けたとき、何かを成したとき、その時誰の存在も周りにいないということがあるだろうか。好きな映画を見ているとき幸せを感じる――その映画は誰かが作ったものだ。本だって、建物だって、お金だって、心だって、いつだってそこには誰かが存在している。幸せとは、自分が持っていないものを手に入れて満たされたときに感じるもの。心に足りない部分を埋めたときに感じるもの。

 一生懸命頑張れば与えられるものでもなければ、満たされるものではない。ある人によっては幸せになるための一つの必要条件になっているかもしれないが、それ一つで完了する十分条件にはなっていない。

 幸せとは、形のない心という曖昧なものを持った人間だからこそ望む、ふんわりした実像のない確固たる想いなのである。

 希は、持ち合わせた論理と言葉をもって訴えかけた。

 

 

「だから私たちが動かなきゃ! 私たちが和友を幸せにしてあげなくちゃ! 他でもない家族の私たちが和友を幸せにしてあげなくちゃいけないと思うのよ!」

 

 

 希が少年を幸せにしてあげなければと使命感にも似た感情を抱いたのは、少年の見た目以上に大きな背中に無数の傷があるのが見えてからである。今まで誰かを、何かを守るために頑張ってきた背中を見てからだ。

 話していれば分かる。

 周りの反応を見ていれば分かる。

 少年は――誰よりも頑張ってきた。誰よりも努力してきた。傷ついた背中が物語っている。作った笑顔に刻まれている。

 

 

「私達は和友に助けてもらったから。近くにいるのが私達だから」

 

 

 一緒に過ごすうちに、そこにいることが当たり前になった。

 時を共有することが多くなるほど、存在感はむしろ大きくなった。

 傷つくことも多くて、損をすることも多くて、それでも前を向いて歩く少年の姿を支えていかなければと思った。

 

 

「私たちは家族なんだから。困っていたら手を出してあげる。背中を押してあげる。手を繋いであげる。それが私たちがやらなきゃいけないこと。椛だってそう思うでしょ?」

 

「それはそうですけど……」

 

 

 椛には、希の言いたいことが深く理解できた。少年の近くを歩いてきたからこそ、見てきた景色が同じだからこそ、想いが共有できた。

 だが、紅魔館に行くことと少年を幸せにすることは直接結びつく言葉ではない。椛は素直に疑問を打ち明けた。

 

 

「なんでまた紅魔館に? 和友さんを幸せにすることとそれとは関係ないのではないですか?」

 

「和友が借りていた本の中に魔法の使い方が書いてある本があって、ちょっと覗いてみたんだけど……やってみたらなごみができるみたいなのよ。できるって言ってもなんか効果がありそう程度のものなんだけど……」

 

「なごみさんに魔法の素養があると」

 

「そう、だからこの本を貸してくれたパチュリーって人のところに話を聞きに行きたいなって……それに、付箋がついている内容についても聞きたいし……」

 

「付箋ですか?」

 

 

 希は少年がいつも使っていた机に置いてある本を取ると、それを椛に見せつける様に示した。

 貼られている付箋ともいうべき、紙の切れ端は全部で5つ付いている。唯一その全貌を把握できる本の正面に貼られた付箋には、「紅魔館でパチュリーさんに借りた本、汚さないように」と注意書きが残されている。

 見えない方の4つの付箋は本の間に挟まれ、本来の役目を担っているようだった。

 

 

「和友が貼ったんだろうけど、本に付箋があってさ。この挟んでいるところの内容で何をするつもりなのか、そのパチュリーって人に聞けば分からないかなーと思って」

 

「はぁ……それは和友さん本人に直接聞いたらいいのではないですか? その方が手っ取り早いでしょう?」

 

「私はそうしたらいいんじゃないかって思ったんだけど、なごみが」

 

 

 希と椛の視線がなごみに流れる。

 希は、耳が聞こえないなごみに手話で情報を伝達した。

 なごみは何度か首を縦に振ると、持っているノートに勢いよくペンを走らせて白の上に黒を縫った。

 そこに書かれた文字は、椛の思考の足を止めた。

 

 

(教えてくれればいいけど、教えてくれなかった場合が怖いから)

 

「どういうことです?」

 

 

 なごみは、椛の疑問の解消されていない満たされない表情を見るや否や、すぐさま再びノートに想いを書き込んだ。

 

 

(教えてくれなかったら、きっと私たちから隠そうとすると思う。本ごと返されてしまったら私たちにはどうにもできなくなる)

 

 

 なごみは、少年に聞いてそれを拒否された場合のことを危惧していた。もしも、この本に挟んである付箋の場所の内容が少年には話せないことで隠されてしまったら――ここにいる全員が踏み込めなくなる。誰かのために言わないという選択をする少年の口を割ることができなくなるからである。

 

 

「確かに……言いたくないと言われてしまえば、私たちはどうにも強く出られませんし、軋轢を生まずに聞き出す術もありません。何より和友さんが何かを隠そうとしている時って、大体私たちのためですからね」

 

「そういうこと、でもそれだけじゃないのよ。なごみ、言ってやりなさい」

 

(私たちで和友を守ってあげたい。和友の背中を支えてあげたい。魔法でもなんでも使えるようになりたい)

 

「そうそう、もしもこの本の中で使える魔法があるんだったら私たちもできるようになりたいと思って。使えないよりは使える方が絶対にいいわ。私たちが私たちを守るために、家族を守るために力は多い方がいい」

 

 

 そういうことか――椛は希となごみの意見に同意を示すように大きく一度頷くと、もう一つだけ質問を投げかけた。

 

 

「ちなみにどこに付箋が貼ってあったのですか?」

 

「何だったかな、ちょっと見てみるね」

 

 

 希がそう言った瞬間――なごみが目の前で広がる空気感だけで状況を把握し、すぐさま希に向かって手話を飛ばした。そして、次いでノートにも情報を書き込み、二人に示して見せた。

 

 

(付与、強化、拡散、連結)

 

「なごみ、ありがとう。付与、強化、拡散、連結、その四つだったね」

 

「付与、強化、拡散、連結……」

 

 

 椛の口から小さな声が漏れる。

 付与、強化、拡散、連結。それだけ聞いても何をしようとしているのかイメージできない。そもそも、この魔法というものでどこまでのことができるのかが把握できなければ、規模感がまるで想像できない。イメージしやすい強化に関しても、何に対して有効なのか、どこまで強化できるのか、概念的なものにまで影響を及ぼせるのか何一つ断定できない。何に対してどの程度のことができるのか――必要な情報はもっと深いところにあった。

 

 

「……やはり私には分かりませんね。魔法でどんなことができるのかも分かりませんし、確かにその道の人に聞いてみた方がいいかもしれません」

 

「でしょ? だから紅魔館に行って聞いて来ようと思って」

 

「ですが、二人で行くのは危険ですよ。妖怪が出るかもしれませんし、ようやく飛べるようになった二人だけでどうやって紅魔館にたどり着くつもりですか?」

 

 

 希となごみは、修行のかいもあって飛べるところまで成長していた。飛べるなんて言っているが、現実には地上をジョギングするような速度しか出ないうえに、距離もそこまで長くはもたない。紅魔館まで行くにしても途中で休憩が必要になるだろう。

 その程度の力しか持っていない二人が紅魔館に向かう――それはまさしく無謀に感じられる挑戦だった。

 だが、無謀だと告げられた希の顔は信じられないと言わんばかりにきょとんとしていた。

 

 

「何言っているの? 椛は私たちをここで見送るつもりだったの? 冗談でしょ?」

 

「……ああ、私も行くのですね」

 

「もちろんよ! 何を自分は関係ないみたいな顔しているのよ。なごみもなんか言ってやって!」

 

(椛も家族だから。私たちと家族だから。和友と家族だから)

 

「困ったら手を差し伸べる、背中を押してあげる、手を繋いであげる、ですか――本当に世話のかかる家族ですね」

 

 

 世話がかかる、そう愚痴を漏らしながらも、椛の顔には満面の笑みが浮かんでいた。

 

 

「ですが、それが家族ってものですよね。それが居場所ってやつですよね。貴方たち2人と出会ったから。和友さんと出会ったから気付きました。きっと私が心から求めていたもの、幸せっていうのはきっとこういう居場所だったんだって」

 

 

 自分が求めていたモノ。自分が求めていた居場所。それが何なのか、どんなものなのか。椛はこの時、はっきりと意識した。

 誰かのために自分がいて。自分のために誰かがいて。

 お互いが手を繋いで、お互いのために、自分のために、何も考えることなく行動できる関係が自分の存在を繋いでくれる。自分に得があるからなんて損得勘定じゃなくて、困っているから助けるんだって思えるような関係をもった居場所。そんなものが欲しくて、そんな居場所が欲しかったんだと――椛は少年と希となごみと霊夢がいるこの場所で、妖怪の山では一生手に入れることができないであろう居場所の大切さを心に刻んだ。

 

 

 

 

 各々が紅魔館へ行くための準備に入った。持っていくべきもの、必要になるもの、そんなものは少年が借りている本以外にありはしないが、最低限の身だしなみを整えて神社の鳥居から向かうべき方角へと目を向ける。

 せーのっ! そういう言葉が聞こえてくるぐらい希の目が合図を送っている。タイミングを見計らって同時に息を吸う。三者三様に揃えられた両足は、ゆっくりと宙に浮き、目的地に向かって飛んだ。

 道中に現れる妖精の数は少年と飛んでいる時と比較すると雲泥の差で、ほとんど襲われることはなかった。飛ぶ速度は少年より遅いもののストレスを感じるレベルではない。ゆっくり、のんびり、3人の家族は談笑しながら目的地である紅魔館を目指した。

 時折休憩を挟みながら、なごみが気を利かせて持ってきたおにぎりを食べながら、着実に進んだ。そして、1時間が経とうというところで――紅魔館へとたどり着いた。

 

 

(あの赤い建物が紅魔館かな?)

 

「そうですよ、あれが紅魔館です。私も中までは入ったことないんですけどね」

 

「噂には聞いていたけど本当に真っ赤なんだねー」

 

 

 地に足を付け、赤く染まった建物へと歩みを進める。

 徐々に存在感を増していく赤さがこちらを威圧しているように感じる。

 

 

「…………」

 

 

 椛は、無意識のうちに足取りが重くなっているのに気付いていた。

 この先には彼女がいる。心を打ち砕いた、自分を打倒した存在がいる。もしも同じように戦うことになるのであれば、今度は――。

 そういう想いが重みとなって足取りが鈍くなっている。だが、その分だけあの時とは違う想いが乗った瞳が、表情が確固たる色を見せていた。

 門がもうすぐ目の前というところに差し掛かる。すると、唐突に声が響いた。

 

 

「お久しぶりですね。一瞬見違えましたよ。顔つきが変わりましたね。雰囲気も少しだけ凛としているように感じますが、何かありましたか?」

 

 

 紅魔館の門の前には、やはりと言うべきか美鈴がいた。仁王立ちしている姿は、まるで誰かが来るのを分かっていたかのようである。

 椛は美鈴の正面まで近づくと凛とした雰囲気を纏いながら口を開いた。

 

 

「何もありませんでしたし、特に変わっていませんよ。私は私のままです。あの時の私も私、今の私も私です。そこは変わったりしませんよ」

 

「まぁ、貴方がそういうのならそういうことにしておきましょうか」

 

 

 美鈴は、椛の回答を聞いてなんとも納得できていない様子だったがすぐさま来客に向ける作られた笑顔を張り付けた。

 

 

「では、今日はどんなご用件でいらっしゃったのですか? まさかあの時のリベンジですか?」

 

「いえ、今日はこちらの本をお借りした方にお目通りしたく参りました。和友さんが持っていた本ですと、そのようにお伝えしていただければ分かってもらえるかと思います。事前に申し込んでいるわけではないのですが大丈夫でしょうか?」

 

「ああ、パチュリー様に用事ですか。ちょっと聞いてきますのでここでお待ちください。勝手に入らないでくださいね」

 

 

 美鈴の姿が紅魔館の中へと消えていく。

 椛は美鈴の後ろ姿を見送ると大きくため息を吐いた。

 

 

「はぁ……」

 

 

 溜まった緊張感が拡散していく。募った不安が一気に霧散する。

 昔何かあったのだろうか――二人の事情を知らない希は、そんな椛を見て声をかけた。

 

 

「何? 今のかっこいい人と知り合いなの? お互い知っている雰囲気だったけど」

 

「ええ、以前ちょっとありまして……まだちょっと苦手意識はありますが、彼女には私に足りないものを教えてもらった恩があります。恩人と言えば恩人ですかね。やり方はあれでしたが……」

 

 

 椛は、心の中にある複雑な感情を吐露する。

 苦手意識を持ったのは、きっと自分を全否定されるような言葉を告げられたから。自分の存在そのものを否定するような行為をされたから。

 思い出せば苛立ちを感じる。憤りを感じる。

 でも、振り返ればそれが必要だったと思うのも事実だった。

 

 

「彼女に打ちのめされなかったら、きっと私はいまだに和友さんに縋っているだけの存在になっていたことでしょう……それを想えば感謝しなきゃいけないのでしょうね」

 

 

 そう言った椛の心の内は複雑だった。果たしてあんな目に会う必要があったのかと言われれば、要らないと思う。あそこまでされるいわれはなかったはずである。もっと上手いやり方があったのではないかと思う気持ちはどうしても捨て去れなかった。

 ぼこぼこにされて、暴力的なやり方で矯正された。

 だけど――悪いのは自分だから。

 だけど――それで変われたのは事実だから。

 だけど――それが今の自分を作っているから。

 嫌がっている、不当だと言っている心を飲み込みながらも、椛はそうあったことに感謝をしていた。

 希は、そんな複雑な気持ちで感謝を述べる椛に尊敬の念を抱いた。

 

 

「椛ってすごいね……改めて思ったよ。最初はうじうじしているだけの根暗な奴だと思っていたけど、ここ最近の椛は本当にかっこよく見える」

 

「なんだかサラッと悪口を言われた気がしますが、気にしないでおきます」

 

「うん、気にしないで」

 

「なんだか、そう笑顔で言われると釈然としませんね」

 

「今気にしないって言ったばっかりじゃん」

 

「…………」

 

「何よ、急に押し黙っちゃって」

 

 

 椛は、希の返しを聞いて空を見上げた。心に残るなんとも言えない感情を抱えながら晴れ渡った空のさらに奥を眺めた。

 

 

「……ふふ、皆さんと一緒にここに来てよかったです」

 

「急にどうしたの?」

 

「私がどう思っているのか、何を想っているのか。かつて壁として対峙した彼女と会うことで、希さんとなごみさんと共にいることで、自分自身を見つめることができました」

 

 

 心が温かくなる。

 過去を乗り越えたからだろうか。

 変わる自分を受け入れたからだろうか。

 変わらないものを持ったからだろうか。

 譲れない想いを抱えたからだろうか。

 こうして言い合っていても。

 こうして憎らしく思っても。

 やっぱり、そこには感謝の気持ちがあった。

 相手に対する――ありがとうの想いがあった。

 

 

「今の私を作ったのは彼女もそうですし、和友さんもそうですが――希さん、貴方もですよ。私が変わる最後の壁を砕いてくれたのは、間違いなく希さんです。あそこまで人間に啖呵を切られたのは初めてでした。希さんには、本当に感謝しています」

 

 

 あの時、崖の上でさまよっていた私を深い暗闇に突き落としたのが――紅魔館の彼女。

 あの時、落ちていた私を拾い上げてくれたのは――和友さん。

 でも、きっと苦しんでいる私を見つけてくれたのは、暗闇の中で私を見つけてくれたのは――希さんだったから。

 椛は、込めるだけのありったけの精一杯の感謝を込めて言葉を送った。

 素直な想いを言葉にして伝えた希の視線は左右に揺れ、唇は震えていた。顔が赤く紅潮しているのが恥ずかしさを物語っていた。

 

 

「希さんって、照れ屋なんですね。そういう初心なところをもっと出していけば可愛げも出てくると思いますよ?」

 

「う、うるさい! 椛が普段と違うこと言うからじゃない! それに、初心なわけじゃなくて慣れないことをしてくる椛が悪いのよ」

 

「いえいえ、あの反応は初心なだけです。感謝されていることに慣れていない雰囲気がかなり出ていますよ。視線が泳いでいましたし、顔も赤いですし、耐性がないのでしょう?」

 

「うっ……」

 

「図星ですか、希さんはすぐに顔や態度に出るので分かりやすいですね。気を付けていないとみんなから弄られちゃいそうですね。特に私とかから」

 

「ぐぬぬ……そんなことしたらやり返すからね!」

 

 

 二人のやり取りにくすくすと笑いをこらえている声が漏れている。

 希と椛はすぐさま音が漏れているところに視線を向けた。

 

 

「なごみも意味が分かっていないのに笑うんじゃない!」

 

 

 希は、顔を赤くしたままなごみの肩を掴む。

 なごみは相変わらず笑いをこらえているようで、その口からはわずかに音が漏れていた。声が聞こえていないから何を話していたかは分からないはずだが、表情や仕草から読み取ったのであろう。なごみは希に迫られても、口元抑えて笑っている。

 椛は、初めて聞くのぞみの声音に不思議な感覚に陥りながらも、二人の微笑ましい姿を見て変わらない青空を再び見上げた。

 そんなやり取りをし始めて1分も経たず――美鈴が紅魔館の中から戻ってくる。その顔を見る限り、入ることに対して問題があるような様子は見受けられなかった。そして案の定、美鈴の口からは紅魔館にいるパチュリーへの面会の許可が取れた旨が伝えられた。

 

 

「パチュリー様からの許可が取れました。どうぞ、中にお入りください」

 

「はい、では入らせてもらいますね」

 

「お邪魔します」

 

(お邪魔します)

 

 

 椛、希、なごみと一言言葉を残し、開かれた門を通って紅魔館へと向かっていく。これからのために、前へと進む。

 ちょうど3メートルほど椛が進んだところだろうか、美鈴から唐突に呼び止められた。

 

 

「椛さん」

 

 

 椛だけでなく、希となごみの足も止まる。振り返った3人の瞳は、まっすぐ美鈴を貫いた。美鈴はその中でも椛に視線を合わせて優しく告げる。

 

 

「覚悟を決めたのですね」

 

「いえ、覚悟なんてたいそうなものをしたつもりはないですよ。私はただ、手を繋ごうと思っただけです。想いを結ぼうとしただけですから」

 

「……そうですか、それは失礼しました。どうぞ、ごゆっくり」

 

 

 美鈴は、深々と頭を下げて完全にお客様となった三人を見送った。そして、玄関の扉が閉まる音がしてから顔を上げた。

 視線の先にはもう誰もいない。自分以外誰もいないただっ広い空間に取り残されたような錯覚に陥る。

 美鈴は、僅かに視線を持ち上げると悲し気な表情を浮かべた。

 

 

「和友さんの近くにいる人は皆、高く飛びますね……嵐の中を一度ひれ伏し、それでもなお空を見上げることができるからでしょうか?」

 

 

 美鈴には、椛を見て抱えた想いがあった。

 確実に変わって見せた、大きく飛んで見せたその後姿を見てある一つの想いが芽生えた。

 

 

「視線の先に見たい景色があると知っているから。大きく力をため込んだ足は、逆風の中でも誰よりも高い空へ……いえ、逆風だからこそ飛ぶことができる、そういうことですかね」

 

 

 大きく成長した椛には、可能性が示されている。

 変われるという可能性が提示されている。

 自分はこのままでいいのだろうか。

 今の状況に満足していた自分は、これでいいのだろうか。

 本当に――目指すべき終着点はここなのだろうか。

 私の、終わりはここでいいのだろうか。

 レミリアという主に従い、門番をやり続けることが自分という妖怪の最後なのだろうか。

 

 

「私は、このまま門番をしているだけでいいのでしょうか?」

 

 

 時の流れと共に、家族と共に変わる者。

 時の流れに取り残されて、今を繋ぎ止めている者。

 二人の間――走り始めた想いが境界線を引いていた。

 




今回は、希の幸せの価値観、希となごみの決意、椛の求めていたモノ、感謝の想いの在りどころを書かせていただきました。
幸せって曖昧なもの。
家族のために強くなりたいと願うこと。
自分が求めていた居場所。
変えてくれた相手に対する感謝の念。
そして、変化していく(成長していく)者を見て、自分の立っている場所を見返すこと。
自分の大切なものを理解して、愛しく思うこと――それはきっと曖昧な幸せってやつを手に入れるための一つの手段になると思っています。
これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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溜め込むもの、溜まり込むもの

全4話編成の第10章4話目です。
10章は、萃夢想の前のお話になります。



 紅魔館へと入った3人は、案内人のいない状況で真っすぐに進み続けていた。誰一人として紅魔館の内部構造を知らないにもかかわらず、悩むこともなく進んでいた。

 

 

「私、なんだかドキドキしてきちゃった! もうすぐ魔法が使えるかもしれないんだよ! どんな魔法を覚えようかな、悩んじゃうね!」

 

「希さん、目的をはき違えてはいけませんよ。第一の目的はあくまで和友さんがやろうとしていることを明らかにすることですからね」

 

「分かっているって! 椛は堅いなぁ。ね! なごみも楽しみでしょ?」

 

(楽しみ。でも、和友の件が終わるまで我慢)

 

「なごみも堅い! もっと楽しくいこうよ!」

 

 

 談笑しながらひたすらに進む。もしかしたらどこかで右か左に曲がらないとパチュリーという人に会うことはできないのかもしれないが、3人は美鈴から何も言われなかったことから真っすぐ行けばたどり着けるのだろうと安直な考えをもっていた。そして、それを誰も疑っていなかった。隣を見れば談笑しながら真っすぐ進む誰かがいたから。間違っているなんて微塵も感じることなく、まるで誰かが分かっているんだと疑うことなく、ひたすらに直進していた。

 本来であれば、こういう流れに沿った考えではとんでもないところにたどり着いたりするものだが、幸運にもその想像は間違っていなかったようで。

 正面には、行く手を遮るかのようにずっしりとした木の扉が現れた。

 

 

「なんか……思っていたより厳かな感じだね」

 

「はい、随分と分厚い木の扉ですね。まるで誰かが入るのを拒否しているみたいです」

 

 

 厳重に閉じられた木製の扉が目の前で鎮座している。

 しかし、椛は躊躇なく一歩前に出ると古めかしい扉を押し開けた。

 扉が音を立てて開かれる。開かれた扉の先には遥か先まで続く本棚と見上げるほどに高い天井、本のにおいが充満した空間が広がっていた。

 3人は、いまだかつて見たことのない図書館のスケールに驚きの表情を浮かべた。

 

 

「うわっ、凄い! これが図書館なの!? 私たちの世界の図書館と全然違うじゃん! ていうか縦に積み過ぎじゃない? 空が飛べる人用に作ったのかな?」

 

「どうなのでしょうか、意外と後付けなのかもしれませんよ。本を集めた結果がこうなったってだけかも。最初から飛ぶこと前提で本棚を設置するなんて常識じゃ考えられませんからね」

 

「じゃあ、集めて整理したらこうなったってことかな。ね、なごみはどう思う?」

 

 

 希の視線が言葉と共になごみの元へと向かう。動いた視線の先には、この古めかしい幻想的な図書館の雰囲気に囚われているなごみの顔があった。

 なごみは耳が聞こえていないとはいえ、視線に全く気付かないことは滅多にない。耳が聞こえない分だけ周りからの反応を気にして視線を周りに向けているからである。

 しかし、今はなごみの視線は動かずに目の前の世界に捉えられている。

 希は初めて見るなごみの表情に微笑むと、話しかけることを諦めた。

 

 

「ま、いっか。楽しそうななごみの邪魔をするのもあれだしね」

 

 

 椛は視界を遮る本棚を縫うように歩く。希となごみはきょろきょろと目を泳がせながら椛の背中を追った。

 暫く図書館の中を練り歩いていると、椛の視界の隅に人影が映り込む。注視してみると赤い髪で黒を基調とした服を着ており、背中に羽が生えているのが確認できる。その身体的特徴から妖魔の類であることが推測された。

 椛はすぐさま、希となごみに対して合図を送った。

 

 

「誰かいます。もしかしたらあの人がパチュリーという方なのかもしれません。ちょうどいいですし、話しかけてみましょう」

 

「おっけー。なごみもそれでいい?」

 

 

 希からすぐさま手話での情報伝達が行われる。なごみは希から情報を貰うと、すぐさまノートに二文字を記載した。

 

 

(OK)

 

「では、話しかけてみます。襲われるようなことがあれば、すぐに私の後ろに隠れてくださいね」

 

 

 椛にはなごみの書いた二文字がどういう意味なのか分からなかったが、了承が取れたと判断して二人を引き連れ、視界に入っている人物に向かって歩き出した。

 じっと見つめていると、その人物は本の整理、あるいは清掃をしている途中のようである。埃を払ったり、拭き掃除をしていたり、本を移動している姿が確認できる。

 椛は、清掃している後ろ姿が声の届くところまで近づくと口を開いた。

 

 

「あの、すみません。パチュリーという方に用事があって参ったのですが、貴方がパチュリーさんでよろしいでしょうか?」

 

 

 声をかけた瞬間、相手の肩がビクっと持ち上がった。後ろから話しかけたため随分と驚かせてしまったようである。

 話しかけた相手――小悪魔は少しばかりの警戒心をのぞかせながらこちらを向いた。

 

 

「いえ、違いますが……パチュリー様にご用ですか?」

 

「はい。先ほど門番の方にお話しは通しましたので、パチュリーさんにも私たちが来ることは伝わっているとは思いますが、お会いできますでしょうか?」

 

「……少々お待ちください」

 

 

 小悪魔は僅かに考えるしぐさを見せた後に歩き出すと、すぐに足を止めた。そして、振り向いた後に見せた表情には今までの訝しげな表情ではなく、どこか投げやりな笑顔が張り付いていた。

 

 

「いえ、この際一緒に行きましょうか。了承を取っているというのならば私が怒られることもないでしょうし、皆様方もここでお待ちするより時間を無駄にしないはずです! ただ、責任が生じたら皆さんで取っていただく方向でお願いしますね! 私は一切責任を取りませんからね!」

 

「は、はぁ……私たちはそれでいいですが」

 

「では私の後ろについてきてください。くれぐれも本に触ったりとか、盗って行ったりしないようにお願いしますよ!」

 

 

 椛と希は、対応してくれた小悪魔に対して随分と適当な印象を受けていた。ここで待たせて再度呼びに来るというような二度手間になる可能性を排除する選択は特段おかしくはないのだが、その表情と雰囲気があたかも失敗してしまっているような空気感を醸し出している。

 3人は、なんとも言い難い感情を抱えながら不安を感じさせる背中を追う。そして、希の口からは小悪魔に対して堪えきれなくなった感情が吐き出された。

 

 

「なんか、真面目に見えて適当な人だね。言葉遣いはすごく真面目そうなのに態度が適当っていうか、ギャップがあってなんか笑っちゃう」

 

「希さん、聞こえてしまいますよ。適当なのに関しては同意ですけど」

 

「あの、聞こえていますよ?」

 

「あの羽って本物なのかな? コスプレチック過ぎて普通に取れそうなんだけど。椛の耳の方が取れなさそう。尻尾なんて取れる気が全くしないし」

 

「失礼ですね。私の耳や尻尾は生えている物なので引っ張ったところで取れるわけがありませんよ。この人のだって、きっとちゃんとくっついていますから。確かにひっぱったら取れそうな気はしますけど」

 

「お前は私に失礼になっているって気づけよ」

 

 

 そんな小悪魔の突っ込みもむなしく、椛と希のやり取りが繰り広げられる。一応気づいてはいるのだろうが、聞く耳を全く持たない二人に対して小悪魔の口からは大きなため息がこぼれ落ちた。

 

 

「それにしても広いですね。外から見た紅魔館と図書館の大きさが適合していない気がするほどです」

 

「いや、建物より明らか図書館の大きさの方が大きいでしょ」

 

 

 歩いていれば分かるが、図書館は広い。紅魔館を外から見ていると図書館の方が建物自体より大きいのではないかと感じるほどである。

 そしてそれは何も間違った認識ではなく、図書館は実際のところ紅魔館の大きさよりも大きくなっている。これには紅魔館に住む者の能力がかかわっているのだが、それを知る術は今の彼女たちにはなかった。

 小悪魔は、そんなちぐはぐで広大な図書館を迷うことなく進んでいく。

 

 

「どこに向かっているんだろ? どこかの部屋に案内されるのかな?」

 

「そうじゃないんですか?」

 

 

 2人のどこかに部屋に向かっているという認識は間違っている。

 パチュリーという人は、図書館の中を徘徊するような人ではないのである。ほとんど不動で自らが本を取りに向かうことも少なく、読書にふけっている。それを知っているのも、小悪魔自身が本を取りに行く役目を担っているからである。

 数分の後、全員の視界の中に一人の女性が入り込んだ。

 

 

「いらっしゃいましたね、あちらがパチュリー様です。くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ」

 

 

 小悪魔は3人に注意喚起を行い、本を読みながら座している主と呼称すべき存在を目の前にする。3人は、どこか触れてはならないような印象を持つ女性に息を飲んだ。

 小悪魔は、怖気づいている後ろの3人を気にすることもなく、さっと頭を下げて凛とした声を出した。

 

 

「パチュリー様、お客様がお見えです。事前に話は通してあるとのことですが、お時間の方は大丈夫でしょうか?」

 

「…………」

 

 

 小悪魔の声は確かに空間内に響いているにもかかわらず、パチュリーはまるで興味がないというように視線すら上げない。

 だけど、それもまた小悪魔にとってはいつものことだった。それは別に集中していて気づいていないというわけではない。だから小悪魔からは何も言わない。言えばうるさいと怒られるのが身に染みて分かっているから。

 その証拠にパチュリーからは少し遅れて反応が返ってきた。

 

 

「ええ、問題ないわ」

 

「それでは私は本の整理に戻ります」

 

 

 小悪魔が用は済んだと言わんばかりにその場から立ち去る。

 そして、ちょうど小悪魔の姿がここにいる全ての人間から見えなくなった瞬間、座していた魔女は口上を述べた。

 

 

「ここに客を招くのは何百年ぶりかしら。ようこそ、私の図書館へ。私がパチュリー・ノーレッジよ」

 

 

 読んでいた本を机の上に置き、視線を3人へと目配せする。視界に映る状況は、想像とは少し違っていたが、かねがね予想通りの展開である。そう、ここに少年がいないということを除いて――目の前に繰り広げられている光景は魔女が頭の中で想定した状況と同じだった。

 

 

「で、笹原に渡した本について何が知りたいの? 本人を連れてこなかったってことは、またあの子は何かやらかしそうなのかしら?」

 

 

 そう言ったパチュリーの顔は、どこか楽しげだった。

 

 

 

 

 

 椛と希からパチュリーに対して要件が述べられる。当初来た目的――少年が使おうとしている魔法はどんなものなのか、どのような用途に使われるものなのか、どういう風に使う予定なのかを予測してほしいと、情報を開示しながら問いかけた。

 パチュリーは口元に手を当てて、少し悩まし気に言葉を漏らした。

 

 

「ふうん、付与、強化、拡大、連結ね……どれも初歩というか、補助の魔法ね。メインになる術式には付箋が貼っていない、と。大体魔法を使い始める者は、メインの属性魔法と補助魔法の両方に取り掛かるものだけど……笹原はやっぱり普通じゃないのね」

 

 

 普通じゃない――何の気なしに少年が妥当な評価を下されている。そして、パチュリーの思考の輪から少年の存在が逸脱している。つまり、パチュリーにも分からなかったのだ。少年が何をやろうとしているのか、何をなそうとしているのか。少年が魔法に――何を求めているのかを。

 椛は、本を貸したパチュリーにも少年の目的が分からないことを瞬時に悟る。だが、パチュリーが分からないからといってすぐさま考えることを止めてしまうのも違うと思った。これから分かるかもしれないのだ。これから近くにいることで理解できるかもしれないのだ。

 椛は、いつか来るその時に備えて知識を蓄えておこうと補助魔法についての詳細を求めた。

 

 

「補助の魔法というのは、どういう使われ方をするのですか?」

 

「補助の魔法は、一般的に主体となる魔法の付属で使われるわ。例えば、火を起こす魔法に対して効果を付与する。出力を強化する。範囲を拡大する。複数の魔法を連結する」

 

 

 魔法は、主軸となるメインの魔法とそれを補助する魔法に大別される。

 椛はどうしてもイメージのつきにくいメインの魔法についての詳細を尋ねた。

 

 

「では、主体となる魔法というのはどのようなものなのですか? 補助の魔法は想像しやすいのですが……どうも魔法に接する機会が少なくて教えていただけないでしょうか」

 

「主体となる魔法というのは、それそのもので完結する魔法のことよ。発動させるのに術式以外のものは何一つ必要ないわ。何かのための魔法ではなく、それ単体で終わりを迎えるもの。属性を持った魔法がその最たるものかしら」

 

 

 例を挙げて説明すると、水を生み出す、火を起こす、こういった魔法は主体となる魔法である。水を生み出すのも、火を起こすのも、術式が発動すればそれで完結する。水を生み出す目的は別にあるかもしれないが、水を生み出すという結果を起こすのに必要なのは術式とその事象を起こす魔力だけである。パチュリーは、こういった術式単体で結果を導き出すものを主体となる魔法と表現していた。

 逆に補助魔法というのは、何か対象があってそれを補強する役目を担っている。分かりやすいところだと空を飛ぶ魔法だろうか。なんともそれ自身で完結する魔法のように思われる魔法ではあるが、実のところこれも補助魔法である。なぜならば、空を飛ぶという行為はあくまでも飛ばす対象物があるからだ。空を飛ぶものがあってこそ、この魔法は成り立つ。こういった何か対象を必要とする魔法を補助魔法と呼ぶ。

 椛と希はなるほどと頷く。そして、続けて希からも質問が飛んだ。

 

 

「こういう魔法って、込める魔力の量を増減することで効果の程度が変わるものじゃないの? 強化なんてしなくてもそれだけ多くの魔力を込めれば同じことができると思っていたんだけど」

 

「魔法は術式以上の効果は得られないわ。込める魔力を多くしても無駄に消費するだけよ。ただ……そうね、そういう術式を組み込めばやれないこともないわ」

 

 

 魔法は術式が全てである。準備段階で90%完成すると言っても過言ではない。術式とはレシピなのであり、数学の方程式なのである。

 場所、時間、出力等の情報が記載され、それに見合った魔力を注ぐことで効果を得る。込める魔力を増やしたところで設定されている出力は上がらない。継続時間も増加しない。場所の設定が崩れたりしない。

 

 

「白黒の盗人なんかがいい例ね。魔力を通す量を増やせば、出力が上がるように調整していたはずよ」

 

 

 希は、事の主題がどんどん横道に逸れていることに頭を傾けた。今は魔法の談義をしに来たわけではない。少年の意図をくみ取ろうと画策してきたのである。

 だが、こうして話がそれてしまっているということは暗に分からないと言っているようなものである。分かっていたのならば――こうはならないはずなのだから。そう思うだけの頭脳は希も持っていた。

 だが、希はあえて結論を言わせるように言葉を口にした。

 

 

「結局、その補助の魔法だけじゃ何をしようとしているかは分からないってこと?」

 

「分からないわ。主体があっての補助よ。本棚の形を見ただけでは納められている本の中身を当てることはできないわ」

 

 

 それもその通りか――希は唸り声をあげた。

 

 

「うーん、やっぱり本を貸した人でも分からなかったか。最初からあんまり期待していたわけじゃないけど、残念だったね」

 

 

 希の期待外れの言葉にパチュリーが若干の苛立ちを込めた声で言う。

 

 

「魔法というのは、可能性の塊なの。可能性の広がりは他の力の追随を許さないわ。組み合わせ次第で何でもできる。笹原の頭の中が読めれば話は別だけど――あの子は特別でしょう。考えても、結論はまともなところに帰着しないわ」

 

 

 希は、パチュリーが少しばかり怒っているのを気にすることもなくすぐさま思考を切り替える。魔法のスペシャリストが、本を持っている者が考えても分からないと言っている――それで希の諦める理由には十分だった。

 希は、自分が本当に求めていた目的をパチュリーに向けて懇願した。

 

 

「だったら、もう一つの方の目的! 私たちに魔法を教えてくれませんか!」

 

「嫌よ」

 

「え、なんで!?」

 

 

 ノータイムで返ってきた拒否の言葉に思わず驚愕の声が希の口から漏れた。

 椛は、希の交渉のあまりの下手くそさに頭を抱えて天を仰ぐ。幻想郷では善意で人は動かない。特に人間ではない者には顕著にその傾向がみられる。そもそも、善意で動いてもらうにはそれなりの信頼関係が必要なのである。

 当然、今の希とパチュリーにそんな大層なものがあるわけもなく――パチュリーからは辛らつな言葉が並べられた。

 

 

「貴方、図々しすぎじゃないかしら? 貴方のそれは人にものを頼む態度じゃないわ。そもそも私に会えているのは、笹原が紅魔館にとって恩人に当たる人だからよ。笹原本人が来るというのならやぶさかではなかったけれど、貴方たちは別に笹原に求められて私の元へ訪れたわけでもないのでしょう?」

 

「まぁ、そうだけど……」

 

 

 パチュリーは、笹原の関係者でなかったら3人と面会するつもりは微塵もなかった。笹原の名前を出されなかったら門番に追い返してもらう方法で話を進めたに違いなかった。

 紅魔館には、笹原に対して頭が上がらない事情がある。迷惑をかけたというのもそうであるし、レミリアとフランの仲を取り持ってもらったというのもある。そして、パチュリー自身が監視の任を成し遂げることができず、危険にさらしてしまったこと――それこそがパチュリーから笹原に送られる感情の半分を占めていた。

 そして、もう半分はいまだにパチュリー自身でも整理ができていない。知識が所狭しと詰め込まれた頭が正解を導き出せていない。パチュリーという少女の頭の中は、贖罪の気持ちと曖昧な気持ちでひしめくように占められていた。

 

 

「ついでに言っておくと、魔法っていうのはそう簡単に扱えるものではないの。こうして付箋を貼って勉強しているってことから笹原には魔力を扱う才能があるみたいだけど、貴方たちは教わる以前に最低限の才能はあるの?」

 

「最低限の才能ってどのぐらい?」

 

「魔法は、並の人間では効力を発揮しないわ。魔法を扱える者は術式を発動させようとした際にある程度の兆しが見える。逆に言えば、兆しが全く見えないようなら才能なしよ。諦めて帰りなさい」

 

 

 パチュリーは、ゆったりと椅子から立ち上がると目線を下に下げる。のんびりと持ち上がった右手の指先が淡い光を放っている。光を放つ指先は机の上に着地し、素早く魔方陣を形成した。

 

 

「ほら、ここに炎を灯す術式を描いたわ。手を触れて力を込めなさい。炎が上がったら認めてあげる」

 

 

 どうせ無理に決まっている――パチュリーの目は確実に不可能を悟っていた。

 明確に挑発しているパチュリーの言葉に空気がよどみ始める。椛と希となごみがお互いに空気を読み合っている。誰が行くのか、どうすればいいのか、迷いを示している。

 

 

「はぁ……誰もやらないの? だったら帰りなさい。読書の邪魔をしないで」

 

 

 重い空気感にパチュリーの口から小さなため息が漏れる。

 パチュリーは、誰も動かない状況に目配せすると興味なさげに再び椅子に座り本を読み始めた。

 停滞した空気の中でまず声を上げたのは――椛だった。

 

 

「ちょっと私がやってみていいですか?」

 

「別にいいけど、無理だと思うわよ?」

 

 

 椛の両手が魔力で書かれた魔方陣にかざされる。かざされた手が淡い光に包まれる。

 しかし、数十秒の時が経過しても魔法陣からは何一つ反応が得られなかった。

 椛はやっぱりかとでも言うように――少し気落ちしたような表情を作った。

 

 

「……何も起きませんね」

 

「妖力込めても術式は発動しないわよ。エネルギーの形は魔力のみ。魔力を変換して炎を出す術式なのだから他の力を使っても駄目。霊力も同じよ」

 

「今度は私がやってみるわ、あんまり自信がないけど」

 

 

 私がやってみせる――そう意気込むように希が腕まくりをしてみせた。

 希の手が魔法陣にかざされる。

 

 

「うー!! 発動しろー!!」

 

 

 唸ったところでできないものはできるようになったりはしない。気合で何とかなるようなら魔法使いはそこら中に存在することになる。

 パチュリーは、恥ずかしげもなく踏ん張る希を見て軽蔑の視線を飛ばした。

 

 

「……無能ね、諦めなさい」

 

「何もそこまではっきり言わなくてもいいじゃん! この魔女! 悪魔! もっと優しくできないの!?」

 

 

 希はパチュリーに突っかかろうとするが、パチュリーは意にも介さず、唯一動きを見せていないなごみに向けて声を飛ばした。

 

 

「そこの貴方はやらないの?」

 

 

 なごみは、自分に指を指して不自然な笑みを浮かべておどおどする。状況が読み込めていないようである。

 パチュリーは余りにも不格好なその対応に完全に興味を失う。やる気がないのならとっとと帰りなさい――そう言おうと口を開きかけたとき、希がなごみを気遣い対応を買って出た。

 

 

「ああ、なごみは耳が聞こえないから私から伝えるね」

 

 

 希から手話でなごみに事の流れが伝えられる。

 パチュリーは物珍しそうな瞳で希となごみのやり取りを観察する。手話というのは幻想郷では珍しいもので、二人のやり取りは秘密の暗号をやり取りしているような甘美な好奇心を呼び起こすものだった。

 だが、好奇心をくすぐられたのも一瞬で、そんなもの必要ないことに気づき、パチュリーの視線は再び本へと移った。

 暫くすると目の前を遮るように文字が書かれたノートが提示される。そこにはこう書いてあった――。

 

 

(よろしくお願いします)

 

「ええ、多分無理だと思うけどやれるだけやってみなさい」

 

 

 なごみが一歩前に出て、左手をおどろおどろしく魔法陣へと伸ばす。

 何を恐ろしがっているのか、どうせ発動しないのに。パチュリーはなごみの様子を見ながら完全に高をくくっていた。

 魔法とは誰にでも使えるようになる力であるがゆえに、力を得る方法や力を蓄える方法を知らなければ一向に手に入らない力である。

 魔法使いになるのは――魔法使いになると決めた者だけだ。たまたま、偶然、そんなことはこと魔法に限ってありえない。生まれたときから魔法使いだったのならともかく、後天的に魔法使いになる者は、全ての者が魔法使いになるつもりで、あるいは魔法使いにさせるつもりがあって魔法使いになるのである。

 魔法使いになる方法は、外部から魔力を取り込むしかない。魔力の最大量は外部からいかに魔力を取り込めるかにかかっている。体の内部で魔力が生成できるようになるのは外から魔力を多分に取り込み、体になじんだ後だ。体が魔力というものに慣れて、必要なものであると体が判断してから。魔力を生成する器官が機能を始めてからである。

 この魔法使いになる流れはどうしようとも崩せない。この流れを汲まない限り、魔法は使えない。だからこそ、パチュリーはここに来た全員が魔法を使うことができないと踏んでいたわけだが、その予想を裏切る者がここにはいた。激しい音と温度を空間内に生みだす者がいたのである。

 

 

「ちょ、ちょっと待って!? 嘘でしょう!?」

 

「すごいですね。これが魔法ですか。妖力じゃとてもではありませんが炎を上げるなんてできないので新鮮ですね。使い勝手がかなりよさそうです」

 

(これでいいですか?)

 

 

 机の上に炎がめらめらと上がっている。兆候が表れるなんてレベルではなく、はっきりとした形で術式が発動している。十全にその役割を放っている。

 しかも、良く注視してみれば、なごみの手は魔法陣には触れていない。十センチ程度の空気を間に挟んで魔法陣に魔力が供給されている。

 端的に説明して――手が触れる前に術式が発動し、炎が上がったと表現される状況である。

 パチュリーの目が先ほどまでのけだるい感じから一気に興味を持った目線に変わる。その目線は確実になごみへと向けられていた。

 

 

「……ええ、私に二言はないわ。魔法を教えましょう。明日の午前10時から午後5時まで、ここに顔を出しなさい。今日はとりあえずここに泊まるといいわ。部屋は私が用意してあげる」

 

「やったじゃん、なごみ! これで魔法を教えてもらえるわ!」

 

 

 はしゃぐ希に合わせて、なごみが笑顔で手を合わせる。二人の合わせた手は乾いた音を立てて空気を震わせた。

 しかし、その喜びも束の間で――パチュリーは、まるで自分のことのように喜んでいる希に向かってはっきりと告げた。

 

 

「ああ、分かっていると思うけど、貴方は来なくていいわ」

 

「なんで!?」

 

「才能がないから。魔法の練習をするよりも他に可能性を見つけたほうがいいわ。その方がお互いに時間を無駄にしなくて済むもの。不当だと思うのなら自分の才能の無さを恨みなさい。現実を受け入れなさい」

 

「っ…………」

 

 

 希は、今朝椛やなごみから心配された時に見せたような苦しそうな表情を浮かべ、唇を噛んだ。今にも血が出そうなほど噛みしめられていた。誰にも見られないように握りしめた拳は静かに震えていた。

 椛は、そんな希を見てそっと希の手を取る。椛を見つめる希の瞳にはわずかに光るものがあった。いまにも零れそうなところで堪えられていた。

 

 

「それでは、なごみさんのことよろしくお願いしますね。ほら、希さん、私たちは一旦帰りますよ」

 

(また後でね)

 

 

 なごみから手を振られる。椛は空いた方の手でそれに応じる。希はなごみに手を振り返すこともなく、椛に手を引かれてその場を去った。

 一言も話すことなく図書館を抜ける。重苦しい空気を背負って椛はひたすらに手を引く。

 そして、紅魔館から外へと向かう途中、希の口からは負の感情が漏れた。

 

 

「クソっ、なんで私ばっかり……なんでなごみなんかに」

 

「希さん……」

 

「あ、ううん、大丈夫。なごみ、上手くいくといいね」

 

 

 明らかにいつもの希ではない。いつもの明るい、はちゃめちゃな希ではない。椛はそう思いながらも何も言い出せなかった。相手から踏み出してくるまで言うことができなかった。ここに和友さんがいれば――そんな妄想をする自分が嫌いになりそうだった。

 椛は心配そうに希に付き添い、博麗神社へと向かった。

 

 

 

 

 そのころ図書館に残ったなごみは、二人が去った後も場所を変えることなくパチュリーと二人きりで話をしていた。

 

 

「貴方、変わった体質なのね。さっき術式に魔力を込める時、なにかしたのかしら?」

 

「……?」

 

「ああ、耳が聞こえないんだったわね。ちょっとこっちに来なさい」

 

 

 手招きする手に導かれるようになごみがてくてくとパチュリーへと近づく。

 パチュリーは、目の前にまで来たなごみの頭に人差し指を突き立てる。撫でるようにおでこに素早く魔法陣が描かれる。最後まで描かれた魔法陣はすぐさま淡い光を放った。

 

 

「ほら、これで私の声が聞こえるようになったでしょう? 頭の中に直接話しかけているのだけど聞き取りにくいってことはあるかしら?」

 

 

 ――パチュリーの声が脳内で響いた。

 なごみの首がブンブンと勢いよく縦に振られる。

 嬉しそうな顔は何よりも純粋で、パチュリーは素直な反応に笑顔を浮かべて見せた。

 

 

「そう、それはよかったわ」

 

 

 パチュリーはなごみの傍まで寄ると先ほど起こった事象についての質問を投げかけた。

 

 

「で、さっきの話の続きなのだけど、さっきどういう風に力を込めたのかしら?」

 

(手を近づけただけです、特に力を込めた覚えはありません)

 

「自覚がないのかしら……? もう一度見せてもらえるかしら。次はこっちの術式を」

 

(分かりました)

 

 

 今度は、水を生成する術式を机の上に形成する。

 パチュリーは本に視線を落とすこともなく、間近でなごみの手に注視した。

 なごみの手が伸ばされ、徐々に魔法陣との距離が詰められる。30センチ、20センチ、10センチ……を切ったところで魔法陣に魔力が流れ、水が一気に溢れ出した。

 パチュリーは現状が作り出されている仕組み――なごみの特性についてある程度の予測を立てた。

 

 

「……何となく分かったわ。貴方、なごみと言ったかしら?」

 

(松中なごみです)

 

「なごみは、魔法との親和性がかなり高いのね。だから力を込めるという動作なしに魔力が術式に流れ込んだ。まるでそこも体の一部というように、流そうとしなくても勝手に流れたという感じかしら?」

 

 

 パチュリーから見たなごみは、魔力との親和性が信じられないほど高かった。というか、力というものに対して親和性が高い可能性があった。今は魔力で行っているが、これが霊力であっても同じ現象が起きる可能性は十分にある。

 親和性が高いということは、溶け込むということである。弾かずに浸透するということである。要は、それそのものが魔力であることと大差がない。なごみ自身が力の塊であるのと同じなのである。

 触れることもなく術式が発動したのは、微量に体から漏れている魔力が魔法陣との間を繋いだから。お互いに親和性の高い者同士、込められた魔力で橋がかかったのだ。

 これは実に奇異な現象であり、特異な能力ではあったが、パチュリーから考えれば現状から思い至るのはメリットよりもデメリットの方が大きかった。

 

 

「だけどそれは、貴方の部屋の扉が簡単に開いてしまう状態にあるということ。外からの力の乱入にあったら部屋ごと破壊されかねないわ」

 

 

 親和性が高いことと容量が大きいことは比例しない。力の出入りが容易なのに容量が小さいのであれば、すぐに溢れてしまう。それは、容器自体の破壊に繋がる。

 なごみが最初にやらなければならないことは、自衛の手段を得ることからである。他者から攻撃を受けても自らの部屋に閉じこもることのできる術を得ることからである。

 

 

「まず、貴方は自分の扉をきちんと開け閉めできるようになるところから始めましょう。可能性を広げていろいろ手を伸ばしたい気持ちは分かるけど、まずは自分の身を守れるようになってからよ」

 

 

 パチュリーはそこまでなごみの予定を考えた後、もう一つ気になることについて思考を向けた。それは、なごみが現在保有している魔力量の大きさである。なごみが保有している魔力はパチュリーから見れば少ないと言ってもいい程度のものではあるが、逆に言えば少ないと表現できるだけの魔力を保有している。

 これは、人里の人間ならあり得ない量である。ここ最近で蓄えたとしたら――盗人であるあの白黒の魔法使いをすぐに追い抜けるのではないかと思ってしまう程度には、目を見張るものがあった。

 

 

「それにしても、この魔力量はどういうことなのかしら。魔力は五感の一つが失われているから伸びるというものでもないし……貴方、もしかして」

 

 

 魔力を伸ばすには、外部から取り込むしかない。これは変えられない不変の定理である。

 だとすると――パチュリーは、恐るべき可能性を口にした。

 

 

「―――食べて増やしたの?」

 

「……?」

 

 

 なごみは、よく分からないと言うように不自然な笑顔のまま首を傾げただけだった。




今回は、図書館を訪れ、魔法についての談義と魔法を学びに向かいました。
適性があったのは、なごみだけでしたね。

希には黒いものが溜まりつつありますが、
今後どうなっていくかは、読者の方の想像に任せます。

最後、大分勿体ぶった終わり方になりましたが
疑問に対する答えは非常に簡単ですので、あえて明記はしていません。
なんか都合がいい言葉のように使っておりますが、読者の想像にお任せしますね。

これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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第十一章 東方萃夢想
境界線の崩し方、世界の果てで見える景色


全4話編成の第11章1話目です。
11章は、萃夢想のお話になります。



 終わらないということは、永久ってことなのだろうか。

 終わらないということは、永遠ってことなのだろうか。

 終わらないということは、始まらないということ。

 終わらないということは、変わらないということ。

 今日という日が終わって次の日がやってくるのに。

 今という時間が進んで明日が始まるのに。

 毎日のように繰り広げられる宴会は、いつになっても終わってはくれなかった。

 明日も始まる今日を、誰も変えようとしなかった。

 

 

「みんな飽きもせずによく続けていられるね。僕は毎回参加しているわけじゃないし、気が向いたときに参加している程度だからいいけど、週に3回も4回もあるってそんなにお酒に余裕があるのかな?」

 

 

 ここ最近、今までは1月に1度あった程度の宴会が、週に数回は当たり前のように繰り広げられている。特に話す内容もなく、特に開く理由もない終わりを見せない宴会が開かれ続けている。

 僕は、終わりを拒むように続けられる宴会に対して疑問を抱えていた。

 

 

「余裕か……」

 

 

 そんなどうでもいいような僕の質問に対して存在感のある声が空間に響き渡る。その声は、後方から漏れ出す喧噪の雑音が溢れる中でもしっかりと僕の鼓膜を揺らした。

 声に惹きつけられるように視線を向ける。視線の先には、端正な顔立ちで澄んだ雰囲気を纏った藍がいた。背中から差し込む宴会の明かりと正面から降り注ぐ月明かりを受けたきめ細かい白い肌が僅かに光り、少しのくすみも見せない金髪が光っている。9本の尻尾が揺らめいている様はまさに妖怪であることをこれでもかと主張していて、優しく笑みを浮かべた表情は見る者を取り込むような妖艶さを表現していた。

 

 

「我々としてはそろそろ財布の紐を締めるころだろうな。宴会が頻繁に起こるようになって一月が経つ。紫様がどうするおつもりなのかにもよるが、私はここらが潮時だと思う」

 

「八雲家では相変わらず藍が財布の管理をしているんだね」

 

「ああ、紫様に任せると知らぬ間に財布が別の物に変わっていそうでな」

 

「ふふっ、あり得そう」

 

「そうだろう?」

 

 

 藍の冗談交じりの言葉にクスリと笑うと、藍もまた笑顔を浮かべた。

 

 

「そんな冗談はさておいてだ。この財布の中身にはお金以上に大事なものがいっぱい詰まっているからな。和友が残してくれたものが詰まっている。だから大切にしたいのだ」

 

 

 藍は、そう言って懐から財布を取り出すと大事そうに抱きしめた。

 僕は今も変わらず、マヨヒガにお金を収めている。相も変わらず、永遠亭で働いて得ている給料の一部をたびたび訪れてくる紫を介してマヨヒガへと送っていた。

 それは、これまでお世話になったお礼のため。これまで自分のために使ってくれた費用を返済するため。後腐れを一切なくすため。過去を清算するため。

 僕は、お金を無理やり押し付けていた。返さなくてもいいと言われても、無理やり受け取らせていた。少なくとも1年前まではそうだった。

 けれども、今の藍の様子を見る限り僕の返しているモノを大切にしてくれている。最初はいらない、返す必要はないと言っていた藍も紫もこうして受け取ってくれている。そんな二人からは、返していく僕の恩を大切にしてくれていることを感じることができた。

 藍の胸に僅かに埋もれた財布がゆっくりと離れ、再び懐に入れられる。藍は少しだけ嬉しそうに頬を持ち上げ、言った。

 

 

「ただ、こうして宴会が開かれるのは不都合ばかりではない。宴会が頻繁に開かれることで和友に会える機会が増えると考えると、それだけでも私にとっては大きな意味になるからな」

 

「藍は宴会がない日も毎日来ているでしょ?」

 

「何を言っている、宴会があることで会う機会が2回に増えるだろう?」

 

 

 藍が博麗神社へとやってくるのは決まって昼間のことである。夜はマヨヒガに居なければならない理由があるようで、お昼のどこかで時間を作っては博麗神社にやって来ていた。雨の日も、風の強い日も、例外なんて一つもなく毎日その姿を現した。

 藍が言うには、マヨヒガに居なければならないと言っても特にやらなければならないことはないとのことである。詳しく聞いてみると「夜は家族全員がマヨヒガに居ること」というなんともありがちな家族としてのルールが設けられたためだという。

 その決まりごとは、ただいることだけを求めている。そこにあることを求めている。

 きっと藍はマヨヒガにとってそういうものになったんだ。紫にとって、橙にとって、マヨヒガという場所において無くてはならないものになったということだと僕は思った。

 

 

「あー! また和友と藍がべたべたしてるー!」

 

「後はこの煩い外野が消えてくれればなおいいのだが……」

 

 

 唐突に現れた希を貫くように藍の冷ややかな視線が飛ぶ。

 希は覗き込むように僕と藍の間に首を突っ込むと、お互いの顔に目配せする。明らかに茶化しに来ている雰囲気を纏っているさまに、藍の全身から鬱陶しいオーラ―が溢れ始めた。

 最近の希はいつもこうである。人を小馬鹿にすることが多く、何かをしようとすると邪魔になるようなことをしてくる。特に僕となごみに対しての度合いが大きく、能力の練習をしている時に顕著に現れた。

 

 

「こら、希! 少しは空気が読めないのか? 今はそんな茶化す場面ではなかっただろう?」

 

「だってさぁ、こうも毎日イチャイチャしているのを見ているとムカムカするじゃん」

 

 

 希の抱えている感情の制御が利かなくなってすでに1月が経とうとしている。苛立ちというエネルギーを得た荒波が心の中でうねっている。

 僕の目から見て、感情の波は理性の防波堤をもうすぐ乗り越えるところまで来ているように見えた。

 

 

「希はその言葉遣いの悪さから直していかないとな。和友の傍にいる時の私だからいいものの、失礼が過ぎると道を踏み外すぞ? 身の程をわきまえることも生きていくために必要なことだ。力がない者は特にな」

 

「何それ、私に喧嘩売ってんの? 無力な弱者だって煽ってるの?」

 

「誰がお前なんぞに喧嘩を売るものか。私はいつだって買う立場だ。今も売っているのはお前の方だろう? 私はいつでも買ってやるぞ。とびっきりの高値でな。それこそ身を亡ぼすほどの対価を払ってやる」

 

 

 言葉が交わされるたびに二人の視線がどんどん鋭くなる。厳かな雰囲気を纏いながら静かに座る藍と、力強く拳を握った希の間で激しい火花が散っていた。

 こうした険悪な雰囲気も宴会と同じ――最近よくあることの一つだ。そう、よくあることになってしまっている。最初は大目に見て受け流していた藍も、途中から我慢の限界に来てしまったのか、希との間では売り言葉に買い言葉が横行するようになった。

 

 

「二人とも止めてよ。希も藍も落ち着いて」

 

「私はいつだって落ち着いている。特に和友の近くにいる時は私にとって最も心安らぐ瞬間だからな。余計な者がいなければもっと良くなるとは思うが」

 

「それ、私のことよね? 暗に私にいなくなれって言っているでしょ?」

 

「なんだ、自覚があったのか。弱い者は頭も弱いと思っていたのだが、思ったより頭が回るようだな」

 

「ほら、藍も止めて。今の希は切羽詰まっているんだからそんなに煽らないであげてよ。心に余裕がないと何かを受け止めるなんて無理なんだからさ」

 

 

 誰かと希が衝突するたびに――僕は緩衝材になった。固いモノと硬いモノの間を埋める柔らかいモノになった。

 そうすることで、二人の間を保てると思ったから。

 そうすることで、二人のどちらも傷つくことがなくなると思ったから。

 そうすることで、希が持っている鋭い矛先が自分に向くことを知っていたから。

 

 

「私のことを何も知らないくせに知ったようなこと言わないでよ! 何も知らない和友に私の何が分かるのよ! 私がどんな気持ちなのか和友には分かるっていうの!?」

 

 

 分かって欲しい、理解して欲しいという想い。

 分かって欲しくない、理解されたくないという想い。

 人の心はいつも表裏一体で、肯定と否定を行ったり来たりしている。

 人は――いつだって天邪鬼だ。

 

 

「僕には希の気持ちは分からないよ。分かっているのか、分かっていないのかさえも分からない。希が分かって欲しいのか、分かって欲しくないのかも分からない」

 

「何、その答え……今私がどんな思いでここにいて、どんな気持ちでこんなことを言っているのか分かっていてそんなことを言っているの? 和友も私のことを馬鹿にしているの?」

 

「馬鹿にしているつもりなんて微塵もないよ。僕はいつだって大真面目だ。大真面目にそう思っている」

 

 

 人は、不安、恐怖、怒り等の俗に言う負の感情を抱えると誰かに対して肯定を求める。心の安定を求めるために人と同じものを求める。人と同じ感覚を求める。想いを共有結合することで動じない心を手に入れる。

 しかし、感情の中でも劣等感、優越感に抱えた時にはその対象となる相手に対して否定を求める。心の安定を維持するために人と違うものを求める。あいつとは違うという特別感を守るために。同じではないという唯一感を得るために。まるで、共有されることで薄まってしまうことを避けるために、区別という名の差別を求める。

 

 

「想いは共有すればいいってものじゃない。誰かと気持ちを同じにすることはあたかも素晴らしいもののように語られることが多いけど、そうやって境界線を曖昧にすることがいつだって正しいわけじゃない。はっきりと区別して差別しなきゃいけないものだってある。ねぇ、僕に教えて。希の抱えている感情は本当に理解を求めているのかな?」

 

 

 感情を共有することの意味を如実に表した有名な言葉がある。誰もがどこかで聞いたことがある言葉――誰かと思いを共有することで喜びは2倍、悲しみは半分になるという格言染みた言葉だ。

 この言葉は、最終的に自分に残る結果だけを取ってみれば実に上手く表した言葉である。通常、大半の感情はこの法則に則ることになる。

 楽しい、嬉しい、面白い、これらの正の感情は誰かと共有することで他者の喜びが付与されて大きくなる。同じ感覚を共有してもらえることで、なんだか認めてくれたような感覚に陥るのも喜びの感情の勢いに拍車がかかる要因だろう。

 そしてもう片方である悲しみであるが、よくよく考えてみると悲しい、苦しい、辛い、これらの負の感情は、誰かと共有することで決して半分に成ったりはしないことに気付く。感情は分け与えるものではなく、共有するものだからだ。喜びが半分にならないのと同じように、悲しみも半分に成ることはない。

 だが、悲しみ、苦しみといったこれらの負の感情には必ずと言っていいほど孤独感が付属する。こう思っているのは自分だけ、自分だけがこんな辛い目に合っているという想いを抱える。その孤独感が共有することで消えるため、半分になっているような気になるのである。

 共有することで孤独感が薄れているだけ。抱えた負の感情は少しだって失われることはない。それでも結論として全体を見渡した時には、喜びは2倍、悲しみは半分になるという言葉通りの結果が導かれている。

 しかし、この格言が当てはまらない場合がある。時折、悲しみ等の負の感情に付属する孤独感が薄れることを拒否する場合がある。それが、優越感や劣等感に巣食う孤独の場合である。

 

 

「希の抱えているその感情はきっと訴えているはずだよ。分かってほしくないって、譲りたくないって、薄れたくないって」

 

 

 希が抱えている負の感情は、劣等感からくる焦燥感である。

 何をしていいのか分からない。

 どうすればいいのか分からない。

 向かうべき方角は分かっているのに。

 進むべき道は分かっているのに。

 ――どうしたら目標とする未来に進めるのか分からない。

 行かなきゃいけないのに。

 進まなきゃいけないのに。

 そうすべきだって頭では分かっているのに。

 ――前に進む方法が分からない。

 できない自分に苛立ち。

 できる周りの人間に苛立ち。

 追いつめてくる環境に苛立っている。

 

 

「理解を示されると苛立ちが湧き上がってくる。お前に何が分かるって言いたくなる。違う感情なのに、唯一の感情なのに、同列にするなって叫びたくなる」

 

 

 誰かより得意なものが見つからず、誰かより胸を張れることがない。

 横並びに見えていたはずのみんなの背中がどんどん遠くなる。周りから置いていかれる。頑張っているのに引き離される。後ろを歩いていたと思っていた人達が、振り返ることもなく追い抜いていく。努力しているはずなのに報われない。努力しているはずなのに認めてもらえない。時間をかけても、自分なりに頑張ってもいつだって誰かが前を走っている。1人置き去りにされている寂しさと不条理に対する憤りが存在感を増している。

 終いには、感情が溢れそうになって胸が苦しくなり、先に進む者に助けて欲しいと願うようになる。溺れそうな今から救い上げてくれる救世主の存在を切望する。だけど、同時に助けてくれる者の足を引っ張ってはならないと思う。最初はそう思う。そう、最初はそう思う。

 だけど、いずれそう思わなくなる。助けて欲しいと思う想い、迷惑をかけてはいけないという想い、両者の窮屈な感情の呵責に囚われて四苦八苦し、板挟みになった感情に心が削られ始めると耐えられなくなってくる。心がどんどん摩耗し、悲鳴を上げる。必死に耳を塞いでいた手に力が入らなくなって抜け落ちる。

 そして、いつしか擦り減った感情は極論を結論として叩き出す。自分を守るために、他者をないがしろにしはじめる。

 ――前を走っている人がいなくなってしまえば。

 ――道がなくなってしまえば。

 ――そうすれば自分が前にいられる。

 ――そうすれば苦しまずに済む。

 なんて考えるようになる。

 

 

「違っていたらごめん。でも、この感情に打ち勝つ方法なんてないよ。結局、僕達みたいな弱いやつは努力するしかないんだ。毎日毎日、報われない中で頑張るしかないんだ。石を投げられても、侮辱を受けても続けていくしかないんだ」

 

「ふざけないでよ! 周りに認められなかったら努力する意味なんてないじゃない! そんなものはただの徒労、無意味、時間の無駄!! それこそ頭の悪いやつのすることだわ! 勉強だってスポーツだって、誰かに認められるためにやるものでしょう!?」

 

 

 誰かに認められるために。

 誰かに褒められるために。

 誰かから羨望を受けるために。

 そんな「普通の誰か」のため努力をした。

 そんな「別格な誰か」になるために力を注いだ。

 そんな「特別な誰か」を目指して走った。

 ――そう思って努力できただけいいんじゃないかな。きっとそんな風に思うのは他でもない僕だから。僕だからそう思うだけ。誰かに認めてもらうためでもなく、誰かに褒められるためでもなく、誰かから羨望を受けるためでもなく、ただ生きていくために努力してきた僕だからそう思うだけ。

 僕は、そんな普通の誰かのために努力をしたわけでもない。別格な誰かになろうとして力を注いだわけでもない。特別な誰かを目指して走ったわけでもない。

 何でもない現実を捕まえるために全力だった僕だから。

 あくまでも自分のためにやってきた僕だから。

 あくまでもみんなにとっての普通のためにやってきた僕だから。

 そんな外れモノの僕だから――そう思うだけだ。

 だけど、そんな僕だから見えているものがあるのも事実だった。

 

 

「希にはまだ分からないかもしれないね」

 

「何が? 私は分かっているわよ」

 

「希がもう少し奥深くまで来たら分かるようになるよ。自分が引いている境界線を越えてその先の景色が見えるようになったら――もっともっと根本にある想いが見つかったら、きっと僕の言葉に頷いてくれると思う」

 

 

 ひたすらに進んだ先、周りに一人もいなくなった景色が見えるところまで来たら、重く引きずってきた足跡が――語ってくれる。

 何のために努力をして、何が足を動かしてきたのか。

 自分がどうしてここにいるのか。

 過去の自分が作った今の自分の世界が答えを見せてくれる。

 

 

「今はもう少し考えてみて。どうするべきなのか。何をするのか。どうしたいのか。そして、何のために努力をするのか。こうするんだっていう目標を立ててみて」

 

「それが分からないから困っているのよ……」

 

 

 ――うん、知っている。希には聞こえないように心の中でそう呟いた。

 今にも消え入りそうな言葉だけを残して希の背中が部屋の中に吸い込まれていく。遠くなる希の後ろ姿は見た目よりも小さく見えた。

 襖が閉じられて外界と内側が遮断される。僕は、新たに仕切られた境界線をしばらく見つめると、暗がりの外へと再び視線を向けた。

 しかし、静寂が戻ったのも数秒だけで、すぐさま神妙な表情を浮かべた隣人が閉ざしていた口を開いた。

 

 

「和友、あれでよかったのか? 和友ならば方向性を見失っている希に何か目印となるものを提示してあげることだってできただろう?」

 

 

 藍はなんだかんだ、喧嘩の一歩手前まで迫っていた希のことを心配していた。こうして希のことを気にかけてくれるのを見ると、藍が本当に心から希のことを嫌っているわけではないのだとすぐに分かる。

 藍も今にも崩れそうになっている希の行く末について一抹の不安を抱えているのである。

 だが、僕にはどうしても自ら進んで希を助けるのは間違っているような気がしていた。

 

 

「それはもちろんできるよ。魔法の勉強ができるようにパチュリーさんに取り計らうことも、霊夢にもう少し踏み込んだところまで修行を付けてもらえるように口添えすることもできる。だけど、それって他人から与えられるものでしょ? 自分で得たものじゃない」

 

「物事の始まりは基本的に誰かの力に依るものだぞ? 自分には自分の世界しかないのだから他者に広げてもらわなければ可能性は拡大しない。やってみるか? 私はその一言の問いが、閉じた世界の境界線から足を踏み出させると思うがな」

 

「うん、それも一理あるね」

 

 

 藍の言う通り、自分だけしかない世界では自分の引いた境界線を崩せる道理がない。

 物語は勝手に始まったりしない。本を開かなければ物語が読めないように。歩かなければ転ばないように。変化には必ず何かしらのきっかけがある。

 それでも、そこにはどうしたってその人自身が自らの意志で、進むという意思を持って相手の手を掴まなければならないのだ。そうじゃないと、見えてこないものがあるのである。

 

 

「だけど、誰かから手招きされて踏み越えた一歩と、自分から出そうと踏み越えた一歩じゃその足にかかる重さが違う。希は、誰かの伸ばされた手を掴むんじゃなくて、希自身が引いた境界線の外にいる僕たちに意思を伝えなきゃいけない。自分がこうしたいっていう想いを相手にぶつけなきゃいけないと思うんだ」

 

 

 希が真に変わりたいと思うのならば、希自身がそう在りたい理由を見つけて、僕たちのところまで踏み越えてこなければならない。なぜならば、誰かが希の手を引っ張って境界線を越えたとしても、境界線はいつまで経ってもそこに引かれたままだから。いつまで経っても希の中の世界は変わらないから。

 だから――自分でその境界線をかき消してしまえるような一歩が必要になる。

 希の引いた境界線の外にいる僕たちがするべきことは、希の手を取ってあげることではなく、手を差し出してあげることでもなく、希の世界の外側で姿を見せるだけが最も正しい選択なのだと、僕は思っていた。

 

 

「誰かが手を出しちゃうと、薦めたやつが悪い、教えてくれたそいつのせいだって、誰かの責任にできるでしょ? そういう状況だとどうしても僕の想うところにはたどり着けないかなって思ってさ」

 

「ふむ……それも一理あるか。なんとも難しいものだな。希の行く末は未来でしか分からない……希は自ら求めた変化の先で何を見るのだろうか。希にとって、望む結果が得られればいいが」

 

「そればっかりは分からないよ。きっと僕とは違っていて、藍とも違う景色を見るんだろうね。でも、退路をなくして、前に進むことしかできなくなって、前に進み続けて見えてくる景色は、きっとその人にとって納得のいくものだと思うよ」

 

「そうだな、それについては全くの同意だ」

 

 

 藍は、僕の言葉に大きく頷いた。

 いつかと同じように輝く月を見て、確かに頷いた。

 

 

 

 

 

 

 希は少年と話した後、思った以上に上手く回らない状況に俯きながら部屋へと戻っていた。静かに部屋の隅に座り込み、頭を抱える。分からない――不安と不満の思考が目障りになるほど頭の中をぐるぐると旋回している。

 そんな落ち込む様子を見せる希に、すでに部屋の中にいた椛が声をかけた。

 

 

「希さん、どうでしたか? 和友さんから何か有益な情報は聞けましたか?」

 

「ううん、ごめん。喧嘩になっちゃって、上手く話せなかった」

 

「そうですか……今後の方針の欠片でも見えればと思ったのですが、話せなかったのなら仕方がありませんね」

 

 

 希は、問い詰めてこない椛に向けて僅かに影の指す顔を上げた。

 

 

「怒らないの? 期待に応えられなかったのに」

 

「何を言っているのですか? まさかこれで終わりですか? まだ和友さんに聞いただけでしょう? これからですよ」

 

「……そうね。でも、どうしよう? 私、幻想郷での繋がりなんて和友となごみ、椛に霊夢しかいないし……当てなんて何もないんだけど、何をしたらいいのかな?」

 

 

 希は、これから先の未来について悩んでいた。どうやって進めばいいのかについて頭を抱えていた。どうなりたいかの想像はできているのにもかかわらず、そこにたどり着く道筋が全く見えてこない。自分一人の力ではどうしようもないことが何の気なしに理解できているのも相まって、希の未来への道程は完全に暗礁に乗り上げていた。

 そして、未来について思い悩んでいる希の状態を知っている椛も次の手を出しあぐねている状態だった。

 

 

「そこですよね……私もそこまで交友関係が広いわけではありませんし、何より妖怪の山とは絶縁状態ですから」

 

「だったら手詰まりってこと?」

 

「…………」

 

 

 希の言葉で椛の口が閉じられる。ここで椛は意地でも希の問いに対して肯定の言葉を口にしたくなかった。まだまだこれからだと口にしておきながら、諦めの言葉を口に出すことは憚られたからである。

 しかし、だからと言って他に何かできることがあるわけでもない。自らの世界の境界線を広げるには他者の力がどうしても必要で、希には世界を広げてくれる「誰か」が必要だった。本当ならば、椛がその「誰か」に成れればよかったのだが、以前に椛が強くなるための手ほどきをしようと希に声をかけた時、椛の申し出は丁寧に断られていた。

 

 

「椛は私の目標じゃない。私の目指したいところは、椛じゃないんだ。同じような劣化品が傍にいたところで役に立たないから。特別にはなれないから。でも、心配してくれてありがとう。気持ちは受け取っておくわ」

 

 

 椛の代わりは一人もいらない。同じことしかできないモノは二人もいらない。しかも、椛より強くなれる自信がなかった希には、椛の申し出を受ける要素が全くなかった。

 希が欲しかったのは、あくまでも代わりのない力なのだから。ここ――博麗神社で区別されるべき力なのだから。特別な何かになりたかったのだから。椛の申し出を受ける道理がなかったのである。

 

 

「ああ! そんなところにいたのですか! 椛さん、こっちに来て一緒に飲みましょう! ここには私の話を聞いてくれる人が全然いなくて!」

 

 

 顔を赤くした新参者が扉を開けて大声を発しながら現れる。おぼつかない足取りでやってきたのは、ついこの前に起こった異変で椛と対峙した魂魄妖夢という名の少女だった。

 おぼつかない様子からもかなり酔っていることが窺い知れる。椛は、よろけている妖夢を見て困った表情を浮かべると支えるように寄り添った。

 

 

「妖夢さん、酔い過ぎではないですか? 顔が真っ赤ですよ? これ以上のお酒は控えたほうがいいです」

 

「妖夢さんだなんて他人行儀な! 妖夢でいいですよ! それにお酒については心配しなくてもまだまだ飲めますから! 私が吐き出すまでにはあと楼観剣ぐらいの長さがですね」

 

「はいはい、言動が意味不明になっていますよ。妖夢さん、うっぷんがたまるのも分かりますし、愚痴には付き合いますからお酒はほどほどにお願いしますね」

 

「あー! また妖夢さんって呼んだ! げぷっ……」

 

「うわ! こっちに向けてゲップしないでくださいよ。はぁ、こっちも大変なんですよ。愚痴を聞いてほしいのはむしろこっちのほう……」

 

 

 妖夢の口から声と共にゲップが漏れる。戦っていたときの凛とした姿は目の前の姿からは少しも想像できない。椛は、まるで別人のように変化してしまった妖夢を見て、面倒事が横から割って入ったと大きなため息をついた。

 だが、同時にある一つの可能性が頭をよぎった。今の自分には新しい繋がりがある。椛はあのころから立ち止まっていたわけではない。妖怪の山という居場所を失くしただけではない。

 椛は自分が引いた境界線を越えて――世界を広げてきた。妖怪の山から出てからの日々が繋いだ関係が、目の前の景色を椛に見せていた。

 

 

「あ! そうです! ちょっとお願いがあるのですがいいですか?」

 

「友人である椛のお願いなら何だって聞きますよ。今の私は幽霊よりも素直な魂を見せつけていますからね」

 

「ちょっと何を言っているのか分かりませんが、これは好都合です。希さん、妖夢さんにお願いしましょう。彼女の剣の腕は確かです。きっと何か見えてくると思いますよ」

 

「なんです? 一体何の話ですか? というか、また妖夢さんと呼んでいますよ? 椛さんも酔っているんですか?」

 

 

 いきなりの急転換を見せる状況に妖夢の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

 希は、状況を理解していない妖夢に対して畳みかけるように自ら願いを告げる。酔った勢いで許可が取れないかと画策しながらも、頭を下げて精一杯の態度を示しつつ、お願いを申し出た。

 

 

「妖夢さん……私、加治屋希っていいます。私に戦う術を教えてくれませんか? 強くなりたいんです。和友の、役に立ちたいんです」

 

「ん……そうですね。少し気になったので問いますが、あなたの想い――どのぐらい本気ですか?」

 

「え?」

 

 

 妖夢からの質問に希の頭が緊急停止する。

 どのぐらい本気なのか――果たしてそれを行動する前に明示できる人間は存在するのだろうか。言葉をどれほど並べても、どれだけの想いを語っても、結局やってみなければ本気度は測れない。感情の物差しは人によって大きさが違うため、妖夢の本気と希の本気がマッチしない可能性も高い。

 そして、何よりその問いの答えを言うことを阻んでいる心の境界線が希の言葉をせき止めた。

 妖夢は、まるで電池が切れたように固まる希に向けて言葉が飛ばした。

 

 

「戦う術を身に着けることは、力を得るということです。何のために貴方は力を追い求めるのですか? そこがぶれているようでしたら止めておくことをお勧めします。どうせやったところで続きはしませんから」

 

「私、私は……和友の力になりたくて」

 

 

 希の目が揺れる。口元が震え、言葉にノイズが走る。

 妖夢は、明らかに様子のおかしい希に語るように言った。

 

 

「違いますよね? そんな見え見えの嘘は白楼剣を使わなくたって分かります。酔っている私でも分かります。そうやって自分をごまかしている間は駄目です。やったところで意味がない。意味にならない。身にならない。実らない」

 

「…………」

 

「ですが、モノは試しです。明日、やる気があるのであれば明朝、白玉楼にて待っています。その時もう一度聞かせてください。何のために力を求めるのか。貴方の素のままの魂を見せつけてみてください」

 

 

 そう言った妖夢の視線は真っすぐ、揺らいでいる希の瞳の奥を貫いていた。

 

 

 

 博麗神社の中で妖夢と椛と希が会話をしているころ、少年と藍は相変わらず空を見上げていた。星を掴むように少年の手が伸ばされ、お互いに穏やかな表情を浮かべていた。

 

 

「時は有限、永遠なんてない。この世界も、この星にだって終わりはちゃんとある。ここ最近ずっと続いている宴会もいずれ終わりを迎える。誰かの手によって、何かの手によって、何かのきっかけで終わりが届けられる」

 

「だが、終わりを何者かが届けるというならば、その終わりを先に延ばすことだってできるはずだ。誰かの手によって、何かの働きによって、その何者かが届ける終わりを先に延ばすことができる」

 

「意図して連れてこられる終わりなら先延ばしにできるかもしれないね。だけど、僕の終わりはきっと、誰かが何かをしたわけでもなく、何かが終わらせに来たわけでもない。息をしていたら急に訪れるようなそういったものだと思う」

 

「それはいったいどういう意味だ?」

 

 

 終わりが来ていると気付いたころには遅いから。特に終わらせようとしなくても、終わりを先延ばしにしようとしても、始まっていると気付かなかったら止めようがないから。

 誰かが終わらせようとして、何かが終わらせようとして意図的に仕組まれたものであるならば、その誰かや何かを止めてしまえば全てが止まるだろう。

 だけど、終わりの形はいつの間にか形成されていて。ふと、歩んできた景色を見てみるといつの間にか終わりの色が浮かんでいることに気付く。

 

 

「あの、お話し中にすみません。ほ、本当は話しかけてもいいのか悩んだのですが、随分と待たせてしまって、話しかけ辛いのがこれ以上続くのも気持ちが悪かったので、声をかけました」

 

「うん、よく来てくれたね。待っていたよ」

 

「改めて、笹原さん遅れてごめんなさい。今からでも笹原さんのお手伝いってできるでしょうか?」

 

「もちろん、これからよろしくね」

 

 

 誰よりも前を走っている者だけが終わりの景色を知っている。

 終わりを抱えて先を進んでいる者だけが知っている。

 終わりの動きが見えているのは終わりを運んでいる者だけ。

 終わりの形が見えているのは終わりを持っている者だけ。

 それ以外の者は、終わりの込められたパンドラの箱が開かれるまで終わりの姿を見ることはできない。

 少年は、頭をさげた小さな妖精の姿を見て一言だけ呟くように言った。

 

 

「ほら、終わりの形がこうして出来上がっていくんだよ」

 

 

 少年の言葉を聞いた藍は、少年の言葉の真意を悟った。

 




まず、更新が遅れて申し訳ありませんでした。
資格試験や仕事、先輩との付き合い、謎の卓球練習等あり、なかなか進みませんでした。
今後は、一定のペースでできるよう頑張っていきます。

さて、今回は萃夢想の始まりということで宴会が続いている状況です。
希が今、四苦八苦しており、どうしていいのか迷っていますね。
この萃夢想編は、どちらかというと希めいんのなごみサブみたいな形で進む予定です。

想いを共有する。
努力する意味。
自らの引いた境界線の崩し方。
終わりの形。
大体この4つについて話は進んでいたかなと思います。


これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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踏み出した二歩目、努力する意味

全4話編成の第11章2話目です。
11章は、萃夢想のお話になります。



 博麗神社では、相も変わらず宴会が繰り広げられている。飽きもせず、終わりもなく、変化を拒むように続いている。

 だけど、僕たちの中では確かな変化があった。僕のところへとやってきた妖精――大妖精を迎えるという大きな波がやってきて変化を受け入れざる負えない状況になった。

 変化の訪れに対しての反応はまちまちで、僕と椛となごみは肯定をもって、霊夢と希は否定をもって大妖精を受け入れた。

 

 

「あ、あの……笹原さんは私に何を手伝って欲しいのですか? 私、チルノちゃんを助けてくれたお礼もかねてできる限りのことをしたいと思っています」

 

「大妖精にして欲しいこと?」

 

 

 僕の疑問に対して大妖精の顔が大きく縦に振られる。

 大妖精にやってもらいたいこと――確かにそれは僕の心の中にある。こうなって欲しいというような最終的な大妖精の後ろ姿が見えている。

 だけどそれは、現時点で僕が大妖精に求めていることではなかった。僕が想像する大妖精の最後の形というのは、言ったからといってすぐになれる話ではなく、練習すればできるような話でもなく、これから先の可能性が全てを握っている話である。

 つまり、僕がここで大妖精に話すことそれ自体には何も意味がなかった。むしろ、できないことを求められることで無理に自分に追い込んでしまう可能性があることを考えると告げるべきではないと考えられた。

 だから僕は、素直に今の大妖精がして欲しいことを告げた。

 

 

「今は特に何もしなくてもいいよ。ただ、偶にここに足を運んでくれればそれで。最終的に担ってほしい役割はもちろんあるけど、それはおいおい気にしてくれればいいかな」

 

 

 そう言うと、大妖精は顔に困惑の色をつけた。ここ、博麗神社に来た目的が僕の願いを叶える、手伝うことだった大妖精にしてみれば、出鼻をくじかれた状況なのだろう。

 だが、ここは納得してもらうしか他はない。“今の大妖精”にはできることが何もないのだから。“今の大妖精”では何もできないのだから。いつかの未来にたどりついたときに、いつかの大妖精に、その時にきっと――目的を告げることになる。

 今は、その時を楽しみに待つだけである。

 

 

「ちゃんと話すから。話せる時が来たら僕の願いを伝えるから。それまで待っていてほしい」

 

 

 できるだけゆっくりと伝える。嘘じゃないことを伝えるために。想いを寸分狂わずに伝えるために。待たせる側の誠意を伝えるために。最後の終わりのために。言葉に心からの想いを乗せて飛ばした。

 僕の願いを受けた大妖精は、澄んだ瞳で静かに大きく首を縦に振った。応える目は何よりも純粋で、僕の幻想郷での初めての友達を見ているようで、思わず僕も嬉しくなった。

 その日の終わりから、一人の妖精が僕の物語の終わりの歯車の一つとして加わった。

 

 

 

 

 

 大妖精が博麗神社にやって来た次の日の朝、僕は日の光に刺されて瞼を開けた。目に光が入り、色のついた世界が目の前に広がる。頬に僅かに暖かくなり始めた空気が当たり、季節の移り変わりが感じられる。

 僕はひそかに陽気が感じられる朝の訪れに、上手く働いていない頭を軽く振って布団から体を出し、背伸びをする。大きく伸びた筋肉が心地よい痛みを訴え、血流を強く押し流した。

 

 

「んー……みんな、おはよう。今日もいい一日になるといいね」

 

 

 僕の朝の挨拶に対して返ってきた言葉は何一つ無かった。部屋を見渡してみると、希と椛の姿が見当たらなかった。帰ってしまったのか昨日来ていたはずの大妖精の姿もなかった。

 すでに希と椛の布団は仕舞われていて見る影もない。置手紙もなければ、伝言も残されていない。部屋に残っていたのは僕を除いてしまえば、なごみだけだった。

 

 

「なごみ、起きて。朝だよ」

 

「ん……んぅ~」

 

 

 希がいつもやっているのと同じように、なごみの体を軽く揺すって起こす。意外と思われるかもしれないが博麗神社に住んでいる者の中で最も朝が弱いのはなごみである。そして、これもまた意外と思われるかもしれないが、一番朝に強いのは希だったりする。

 暫く体を揺すってあげると、なごみは眠そうに目元をこすりながら体を起こした。まだまだ覚醒しきらない瞳がおぼろげで、ぼさぼさ頭のボーとした顔がこちらを向く。

 

 

「おはよう」

 

 

 顔と顔の距離が約30 cmと大分近い。眼前にはなごみの顔が大きく広がっている。半分しか開いていない瞼は、これでもかと眠さを訴えていた。

 

 

「なごみは、希と椛がどこに行ったか知らない?」

 

 

 希と椛の行方を問いかけてみると、眠たそうに半分まで閉じていた瞼がゆっくり上がっていく。最終的に1秒ほどで見開くところまで来ると勢い良く立ち上がった。

 

 

「!??」

 

 

 なごみは、その場から一気に離れた。布団から一気に飛び出し、駆け抜けるように壁際に置いてあるカバンの中から櫛を取り出す。そして、急いで櫛を取って髪を整え始めると持ち合わせているノートに素早く文字を走らせた。

 

 

「ん!」

 

 

 今度は息を切らして赤くなった顔が目の前に広がる。せわしなく表情が姿を変えている様子に思わず笑ってしまいそうになる感情を抑える。

 顔から注意を下げて顔のちょうど真下辺りに視線を向けると、無駄に力強く書かれた文字が焦りを表しているように唸るような文字が書かれていた。

 

 

(なんで和友が起こしているの!? いつも希だったのに!!)

 

 

 なごみの言葉を見たとき、僕はこれからするつもりの問いに対する答えをなごみが持っていないことを聞く前に察してしまった。動揺している雰囲気からも何一つ状況を理解していないことが理解できる。

 僕は、心のうちで「だとしたらどこに行ったのだろうか」と疑問を抱えながらノートによる筆談を図った。

 

 

「希がいないから僕が起こしたんだけど、なごみは希がどこに行ったか知らない?」

 

 

 念のため聞いてみたが、結果は予想通りで「分かりません」という文字が白い紙の上で寂しそうに今の状況を物語っていた。

 なごみも希と椛の行方を知らないということは、二人は誰一人として行き先を告げなかったということだ。

 二人はどこへ行ったのだろうか。

 二人でどこに向かったのだろうか。

 希は何をしに行ったのだろうか。

 そう考えて、考え始めて、すぐに考えることを止めた。

 

 

「ああ、そうか。見つかったのか。ついに自分の目標を探しに行ったんだね」

 

 

 迷っていた希が外に出た。あれ以来――なごみが魔法使いとしての才能を見始められてから、ここ――博麗神社から少しも外に出ようとしなかった希が自らの世界を打ち破った。

 最初の一歩目、外へと踏み出すこと。その一歩を踏み切ったんだ。

 だけど、次の一歩目だ。次の一歩が肝心だ。二歩目が本物の変化をもたらしてくれる。

 希が本当に変化を受け入れる覚悟があるのか、次の一歩目が全てを示してくれる。

 

 

「希、次の一歩が大事だよ。まだ希の片方の足は元の世界に漬かったままだ。まだ、踏み入れただけでその先が見えているわけじゃない。次が変化を受け入れる一歩になる。一つの始まりになる。戻れないモノになる」

 

 

 二歩目を踏み出すのには、とても勇気がいる。変化を受け入れるだけの強い気持ちと、恐れない気持ちが必要になる。

 けれど、一歩目を踏み出した希ならきっと見えてくるはずだ。自分が何を求めていて、何を得ようとしているのか。最後の最後に、自分が何のために努力してきたのか、何の意味があってここにいるのか、自分がここで生きている目的が見えてくるはずだ。曖昧さが姿を消したその先で、見えてくるはずだ。

 

 

「希ならきっと、見えるはずだよ」

 

 

 一歩を踏み出し、変化を求めた希に僕ができることはなんだろうか。変わろうとしている希に僕ができることは何だろうか。

 この問いに対する答えは、すぐに示された。

 それはここで見送ってあげること。

 帰る場所を作ってあげること。

 藍や紫が待っていてくれたように。

 僕の両親が待っていてくれたように。

 帰る場所を守ってあげることだと思った。

 

 

「希、いってらっしゃい」

 

 

 始まったのは、新しい一日。

 希のいない、椛のいない、一日の始まり。

 希の新しい一日の始まりは、僕に新しい一日の始まりを呼んだ。

 

 

 

 少年が挨拶の言葉を送ったその時、博麗神社から姿を消していた希は息切れしながら空を見上げるように階段の頂上を見上げていた。

 

 

「はぁ、はぁ……ここが冥界、白玉楼なの?」

 

「そうです。ここに妖夢さんがいらっしゃいます」

 

 

 額に付いた汗が頬を伝って零れる。流れた汗が染みだしてシャツが背中に張り付いている。もはや拭うことも意味をなさないほどに袖が汗ばんでいる。

 希が博麗神社から白玉楼にたどり着くまでに1時間以上の時間がかかっている。ようやく飛べるようになった程度の希では、相当に距離のある白玉楼までたどり着くだけで相当の時間と労力がかかっていた。

 

 

「…………」

 

 

 息切れを起こし、肩で呼吸する希のすぐ隣には涼しそうに控える椛が階段の先を静かに見つめている。真横ともいえるほどに近くにいる対照的な二人の様子は、二人の間にある大きな差を如実に表していた。

 

 

「希さん、少し疲れているかもしれませんが、早速行きましょう。時間が惜しいです」

 

「はぁ、はぁ……ちょ、ちょっとだけ待って。息だけ整えさせて……」

 

 

 希は、大きく息を吸って深呼吸する。周りの空気を全て吸い尽くすような勢いで体全体を使い、大きく胸を広げてこれでもかと空気を吸い込み、吐き出す。

 ここから先が本番だ――希は無意識のうちに理解していた。まだ触れたこともない世界がこの先に待ち構えている。

 希は覚悟を決めるために体の中の空気を入れ替えて、気持ちを切り替えにかかった。

 

 

「すぅーはぁ~。おっけ! いこっか!」

 

 

 体の中に新鮮な空気を入れて気持ちをまっさらにした希は、博麗神社を出る時よりも遥かに重くなった足を踏み出し、白玉楼の門をくぐった。

 足元を見てみれば、まだまだ春を感じさせる色付いた桜色が地に舞っている。希は、思わず彩られた世界に視線が囚われそうになる中で、俯瞰するように全体像に目を向ける。すると、薄いピンク色が景色を彩っている世界の中に目的とする人物を発見した。

 その人物は、箒を片手に軽やかに掃除をしている。集められたゴミたちが徐々に大きくなって存在感を放ち始めている。掃除をしている途中にもかかわらず帯刀された二本の刀が異様な威圧感を放っていた。

 希と椛が暫く立ち止まっていると目的としている人物もこちらに気付いたのか、視線を送ってきた。

 

 

「やはり来ましたか、待っていましたよ」

 

 

 石畳みの上を靴が擦る音が空気中に拡散する。距離が一歩ずつ近くなる。

 希の心臓は、白玉楼まで急いできた時よりも激しく鼓動を打ち始めた。

 

 

「では、聞かせてもらいましょうか。貴方が力を求める理由を。貴方がここに来た理由を」

 

「わ、私は!」

 

 

 大きく開け放たれた希の口から続けて大声が放たれる。最初は緊張の色を出していた表情も言葉を吐き出すたびに薄らいでいった。

 何のために強くなりたいのか。どうしてここに来たのか。自分が望むものがなんなのか。自らの想いを強く、強く、何よりも強く、素直な気持ちを届ける。心の奥底にしまっていた想いを、選手宣誓するように胸を張った言葉にして飛ばす。自らを鼓舞するように、自らの気持ちを確かめるように、精一杯の想いを吐き出すように、まるで白玉楼中に轟くように――希の気持ちが吐露された。

 椛は少し物憂げな表情で想いを打ち明ける希を見つめ、妖夢は眠るように優しい笑顔で静かに希の想いを聞き入れた。

 

 

「それが貴方の気持ちなのですね。素直でよろしい。私は受け入れます。門を開きましょう」

 

 

 きっとこのとき最も驚いていたのは、傍で初めて希の想いを聞いた椛でもなく、それを伝えられた妖夢でもなく、希だったことだろう。

 妖夢は、瞬きを忘れたように固まる希に向けて手招くように手を広げて言った。

 

 

「門は開かれました。ここから先をどう進むかは貴方次第です。立ち止まるも、突き進むも、貴方が全てを決めてください。貴方の人生は――どこまでいっても貴方のモノなのですから」

 

 

 妖夢の言葉に惹かれるように希の足が前を向く。憑き物が取れたようなすっきりした顔で次の一歩目を踏み出した。

 希は妖夢の真横まで登ると、門の外で足を止めた椛に別れの言葉を告げた。

 

 

「椛……私、強くなるから。強くなってみせるから。誰かの代わりでもなくて、誰かと比較されることのない、私だけの私になってみせるから」

 

「はい、待っていますから。博麗神社で待っていますから。私たちは、いつだって希さんを迎えます。帰ってきたくなったらいつでも帰ってきてください」

 

「うん、いってきます!」

 

「いってらっしゃい」

 

 

 椛は、遠くなる希の後ろ姿を見送った。遠くを見つめるように佇み、静かに手を振った。振り替えされる手はなかったが、それでも手を振り続けた。

 自分ができることは待つことだけ。これ以上踏み込むことは、希の気持ちを逆なですることになる。

 椛は、希の姿が完全に見えなくなっても、しばらくの間その場でいなくなった希の幻影を見つめていた。

 

 

 

 椛と別れて一人になった希は、先頭を歩く妖夢の後ろ姿を追っていた。妖夢のすぐそばで球体形状を保った白い発光体が揺らめいているのに好奇心をにじませた視線を送りながら、自分よりも小さな背中に追随する。

 澄んだ空気と木のぬくもりを保った廊下が足と接触するたびに博麗神社とは違った空気感を与えてくる。

 

 

「にしても、強くなりたい理由が区別される存在になりたいって、希さんは欲に忠実なのですね。思わず笑ってしまいそうになりました」

 

「わ、悪い!? しょうがないじゃない! これが本心なんだもの!」

 

「悪いなんて言っていませんよ。ですが、力を求める理由というものはそのほとんどが誰かを打倒したいであったり、誰かを守りたいであったり、誰か相手ありきで作られるものがほとんどですから珍しかったのですよ」

 

 

 力を求めるのは、生き物であるならば自然な欲求の一つである。端的に言ってそれは、生存本能からくる想いである。特に感情の支配が強い人間の場合には顕著に表れる。

 力が必要になるのは、外敵がいるからだ。つまるところ、突き詰めてしまえば必ずここにたどり着く。誰かと争いになるから、力が必要になるのだ。

 

 

「かくいう私も主である幽々子様を守るために力を求めました」

 

 

 力を持っていなければ、奪われるから。

 力を持っていなければ、奪えないから。

 だから、力を求めるのである。

 奪うものがなく、奪われるものがないのであれば、力を求めようという発想はそもそも出てこない。外敵がいないのであれば、天敵がいないのであれば、ガラパゴス諸島の生物のように進化を拒んだ姿になる。

 だが、希が抱えている力が欲しい理由には、明確な外敵が存在しない。自らが何かを失うわけでもない。大切なものを奪われるわけでもない。

 希の強くなりたいという欲求は、もっと上位の感情からきているものだった。

 

 

「ですが、希さんが力を求める理由は自らの心を守るためです。物理的に傷つけられる危険があるわけでもなく、危険に巻き込まれているわけでもない。周りの誰かが傷つけられるからでもない。本来必要になる状況ではありません」

 

「私に誰かのために何てそんな高尚な理由はないわ。昨日妖夢さんに言われたこと一晩中考えて、何のために強くなろうとしているかって考えていたら気付いたのよ」

 

 

 希は妖夢から強くなりたい理由を問われた昨夜、ずっと頭を悩ませていた。何のために強さを求めるのか。どうして強くなりたいのか。強さを求める理由を心の中で探した。

 問われたその時に苦し紛れに告げた「少年のために力が欲しい」というのももちろん嘘じゃなかった。少年のために力を求める気持ちはゼロではない。だけど、それが大部分を占める想いなのかと問い詰められると違うと言えてしまう。むしろ、1割もないと言いきれてしまう自信があるのも事実だった。

 希は、考えた末に自分がなぜ少年を理由に出したのか悟った。そして、自分の矮小さに気付いた。自分の醜い、見たくない部分に目が届いた。

 

 

「和友を理由に使うことで自分の中の黒い部分から目を背けていたんだって。小さい自分の存在を見ないようにしていたんだって」

 

 

 少年を理由にしたのは、誰かを理由にするのが楽だから使っただけだ。いざというときに誰かの責任にして逃げ道を確保したかっただけだ。上手くいかなかった時の理由を欲しただけだ。

 

 

「ああ、私って……本当に最低な人間なんだなって。自分本位で、自分勝手な奴なんだって。誰かに期待されたいくせに誰にも期待していない。認めてもらいたいって思っているくせに誰も認めようとしていない」

 

 

 誰かに認めてもらいたい。できる奴だって言われたい。すごいやつだって褒めてほしい。あいつよりすごいって、優秀だって、お前ならできるんだって期待してほしい。

 だけど、期待されたいという想い以上に、誰に対しても努力を認めようとしてこなかった。自分より頑張っている相手のことを、努力を積み重ねている誰かを、見ようとしてこなかった。見ないふりをして、無かったことにして、一人で勝手に決めつけていた。

 

 

「自分の頑張りが他人の頑張りに埋もれているのが耐えられなくて。頑張ってもそれよりも前を走っている存在が妬ましくて。自分より努力している人の頑張りを認めてこなかった」

 

 

 熱くなっている感情をいつも冷めた目で見ている自分がいる。元気にはしゃいでいるけど、これに何の意味があるのと問いかけてくる自分がいつも隣にいる。

 どうして悔しいのにそれを表に出さないのか。どうして妬ましいのに笑顔でいるのか。悔しいって言えよ、羨ましいって言えよ、そうやって内心が鼓動している。

 希は、外の世界で生活していたときから何も変わっていなかった。

 

 

「外の世界にいる時からずっとそうだった。努力したふりをして、負けて。それで、相手のことを貶していた。あいつらはずるいんだって。卑怯だって。私より頑張ってないくせになんでって、私だって努力しているのになんでって、いつも思っていた」

 

 

 時間が経過するごとになごみはどんどん力をつけていっている。和友も毎日努力している。椛だって変わっていっている。だけど、自分だけ何もない。悔しくて、苦しくて、どうにかなりそうだった。日に日に感情が溢れそうになるのを必死に抑え込んだ。

 不平不満を口にすることは許されないから。ひとたび口に出してしまえば疎外されるから。だから、心の中で頑張っている相手を疎外して自分の心を守った。

 

 

「何かをするたびにいつも誰かと比較されて、お前も頑張れって、なんでお前はこうも上手くいかないだって言われているようでむしゃくしゃして……本気で努力するのも、それで負けたらと思うと怖くて。挙句の果てには、自分の努力の足りなさを棚に上げて相手を馬鹿にしてた。あいつは才能があるからズルをしているんだって」

 

 

 本気で努力できなかったのは、本気で努力をして負けて、「もっと頑張れ」なんて言われてしまったら我慢できる気がしなかったから。

 才能のせいにしてしまえば、仕方ないと諦められたから。

 仕方のないことの責任にしてしまえば、自分が努力していないことを隠せると思ったから。

 

 

「頑張っても、頑張っているつもりの私の努力じゃ本当に頑張っている奴に勝てるわけがなかったのにね。何をしても、何をやっても、比較されて、拗ねて、立ち止まっている。誰かの後ろ姿が遠くに見えてばっかりで、ムカついて目を背けて。最初はそうじゃなかったはずなのになぁ……もう、誰かに喜んでもらうために努力する方法を忘れちゃった」

 

 

 自分のためじゃなくて、誰かのために努力する。自分が頑張ると誰かが嬉しそうにするから。自分が頑張ることで誰かが喜んでくれるから。遥か昔にあったはずの想いは、長年吹き荒れた嵐によって風化してしまって取り戻せそうもなかった。

 

 

「思い返してみれば、昔からそうだったのよ。私は私のためにしか頑張っていなかった。勉強もスポーツも、誰かに認めてもらうためなんて言っても、結局それは自分を守るためでしかなかった」

 

 

 勉強を頑張るのも、スポーツに懸命に取り組むのも、劣っていると指を指されるのが嫌だったから。本気を出して努力をして負けた時、もっと頑張らなきゃなと言われるのが怖かったから。ほどほどに頑張って。頑張った気になって。比べられて頑張れと言われることに耐えていただけだ。

 

 

「私ってそういう奴なのよ。ただ単にいい奴ぶっていたいだけの外面のいい、比べられることが嫌いな、自己中心的で、自分本位で、自分勝手な小心者」

 

「だから、区別される存在になりたい、ですか?」

 

「そう、比較されない存在になりたいの。自分の心を守るために。自分のために……」

 

 

 妖夢は、あごに手を当てて考えるそぶりを見せる。自分のために頑張るというのは、犠牲になる者が自分しかいないため自暴自棄になると踏ん張りが利かなくなる。どうでもいいやと思った瞬間に、糸が切れて動かなくなる。

 だが、希にはいらない心配のようだった。

 

 

「比較されない存在になりたいの」

 

 

 ―――比較されない存在になりたい。そこには言葉以上に重さが感じられた。

 これなら続けていける。この強い想いがあればきっと、乗り越えられる。

 誰かのためではなく、自分のために、乗り越えていける。

 強くなった後に、見えてきた景色の中で――大切なものがきっと見つかる。

 それが見つかるのが遅いのか、早いのか。違いなどその程度のものである。自分のために努力しようが、誰かのために努力しようが、最終的には同じところに着地するのだから。

 妖夢は希の行く末を想い、薄く笑った。

 

 

「ふふふ、結局のところ早いか遅いか。違いなんてそんなものです。自分のために強さを求めるのも、誰かのために努力するのも、たどり着く先は同じ。私が希さんをそこまで連れていきます。しっかりついてきてくださいね」

 

「うん、頼むよ、師匠」

 

「師匠ですか、なかなかいい響きです。このムズ痒い気持ちが癖になりそうですね。もう一回呼んでみてくれませんか?」

 

「私が強くなったらね。その時には心からの敬意を込めてもう一度言わせてもらうわ」

 

「ああ、それなら安心です。聞ける時が来るのを楽しみにしていますよ」

 

 

 妖夢の後ろを歩く希の足は、確かな音を立てながら前へと踏み出した。

 




またしても、更新が遅れて申し訳ありませんでした。
リアルの方がかなり切羽詰まっており、苦しい中で必死に書いているところです。
・残業
・卓球
・忘年会
・艦これのイベント
特に会社の集まりに参加することが多く、上手く休みが使えていないのが現状です。
来週も忘年会があるので、休みがつぶれてしまう予定です。誠に申し訳ありませんが、また待たせることになりそうです。ご了承ください。

さて、今回は希が大きく踏み出した話になります。
何のために努力するのか、という部分を大分掘り下げました。
いつか、希となごみの外の世界での話を書くことになるかと思いますが、その時はこの話を少し思い出していただけたらと思います。

これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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自覚と変化、近づく終わりに抱えたモノ

全4話編成の第11章3話目です。
11章は、萃夢想のお話になります。



 みんな、それぞれが自由に生きている。

 集まったり、散り散りになったりしながらも動いている。

 一人一人が、何かを願うから。

 一人一人が、何かを求めるから。

 誰かが誰かを想うから。

 未来の形はみんなの想いに合わせるように変わりながら今を作り出していた。

 

 

 今は、永遠亭から帰ってきて昼ご飯を食べた後――ちょうど日が最も高いところに昇ってきた頃。空を見上げてみれば目を細めてしまうほどに光が降り注いでいる時間帯である。

 僕は縁側で両手を広げ、体いっぱいに太陽から降り注ぐ光の恵みを浴びていた。

 

 

「今日もいい天気になってよかったね」

 

「そうですね」

 

 

 返ってきたのは、そうですね――それだけの返事だった。声に反応して視線を横に向けてみると、そこには新しく博麗神社に来るようになった大妖精が立っていた。

 大妖精は身長が120 cmもなさそうな小さな体躯の持ち主で、太陽の光が容易に透過するほどうっすらとした薄い羽を背中に備えている。大妖精の全身からは自然の代表ともいうべき緑色を基調とした優しい雰囲気が発せられていた。

 

 

「…………?」

 

 

 僕が数秒の間、大妖精の顔を見つめていると、少し不思議そうに首をかしげながら微笑み返してきた。

 ただ、それだけだった。笑顔を作るだけだった。

 大妖精は、決して次の言葉を繋げようとはしなかった。

 

 

「「…………」」

 

 

 大妖精が博麗神社に来て1週間が経とうとしている。もう博麗神社で見かけても珍しいなと思うことはなくなり、大妖精の存在が日常の一部として転化し始めている。

 僕はこの1週間の間、博麗神社で大妖精と会うたびに適当に話題を振って幾度か話をしてきた。そして、大妖精と会話をする中であることに気付いた。

 

 

「大妖精は今日、何をするつもりなの?」

 

「特に予定はないです」

 

 

 大妖精は会話をしても、問いを投げかけても、肯定するだけで特に会話の中身を広げようとはしないのである。

 会話における大妖精の反応はいつも同じで、にこやかな、微笑ましい表情で笑っているだけで、自分から何かを伝えようとしたり、話を振ったりすることはほとんどなかった。

 

 

「今日のご飯、おいしかったよね?」

 

「はい、そうですね」

 

「特に何がおいしかった?」

 

「え、えっと、全部おいしかったと思います」

 

 

 もともと内気な性格だったこともあるだろう。そして、周りの妖精が大妖精のように静かに暮らしているタイプとは大きく異なり、元気溌剌な性格をしている者が大部分を占めていることも大妖精が受け身になりがちになる一つの要因だと考えられた。

 受け側に回ることが全てのような大妖精にとって、会話というのは振られるものであって振るものではないのである。会話というものに慣れていないという雰囲気も言葉の節々から感じられた。

 

 

「「…………」」

 

 

 博麗神社にはいないタイプである。おしゃべり好きが多い博麗神社では、大変希少な部類に入る。霊夢も話好きのタイプではないけれど、大妖精のただなんとなく肯定しているのと違って、聞いているのかでさえ分からない状態だから意味合いが大きくが違う。

 霊夢は他人に興味がなく、聞き流している。そんな霊夢に対して大妖精はあくまでも飲み込まれる立場の存在だ。雰囲気に飲まれるタイプの性格だ。

 僕は、大妖精をふわふわしている不安定な足場でバランスをとるのが非常に上手いタイプだと思った。俗に言う――世渡り上手という奴だろう。棘もなく当たり障りがない、特徴的なメンツの多い幻想郷の面々からしたら面白くないと言われてしまいそうだが、それが希少と思える所以でもある。表現としては――“無難”というのが最も適切に大妖精を表した言葉だと思った。

 

 

「じゃあ今日ものんびりぶらぶらするの?」

 

「はい、そうですね」

 

「それともお友達のところに行くの?」

 

「はい、チルノちゃん達に呼ばれたら行ってきます」

 

 

 大妖精が博麗神社に来る機会が増えて一緒にいる時間が多くなったことで、普通の妖精とは異なった大妖精の本質が見えてきた。だが、そんな特徴のある大妖精も妖精本来の生き方には一般的な妖精と大きな違いは見受けられず、妖精という生き物の大枠からは外れていない。妖精本来の生き方は、ただ時間を潰しているだけという目的のないもの。博麗神社にいる大妖精も本来の生き方に倣うように特に何をすることもなく、目的のない人生を送っていた。

 僕は、いつもすぐに話が終わってしまう大妖精との会話を無理に繋げることもなく、再び視線を空へと向けた。

 

 

「今日は、何をしようかな?」

 

 

 今日は何をしようか。いつも通り霊力の強化に取り組むのはもちろんだが、修行の分を差し引いても時間にはある程度の余裕があった。

 ここまで時間が余ることになったのは、博麗神社の環境に変化があったからだった。

 

 

「希もなごみも帰ってくるのは遅いし、何かしなきゃいけない事は……」

 

 

 これまでは時間があれば家族(希、なごみ、霊夢、椛……等)と話したり、魔法の練習をしたり、書き記す作業を行ったりしていた。だけど、今は希となごみが夜までいない。それに、話をすると言っても毎日話をしていれば中身がなくなってくる。書き記す作業は新しいことがなければ書く必要がないし、魔法の練習も目的を達成する程度ならば可能というところまできている。付与、強化、拡散、連結――これらはもう一通りの実践ができる。

 僕が欲している終わりに必要な材料は、残るところ時間だけである。時が訪れれば、終わりは自然とやってくる。特に何をしなくても、特に待っていなくても、勝手に終わってしまう。

 

 

「何か新しくできることを探したほうがいいのかな?」

 

 

 僕が、今するべきことは何なのだろうか。今しなければならないことは何なのだろうか。今頃努力しているはずの希となごみに思いを馳せながら、今後のことを考えてみる。

 強さはあった方がいいけれど、絶対に必要なものではない。そもそも、強さとは何なのだろうか。強いというのは、何をもって強いと言えるだろうか。力の大きさを言うのだろうか、早く動けることを言うのだろうか、鉄壁の防御を言うのだろうか、何者にも劣らない能力のことを言うのだろうか。

 いずれも強さの一部には間違いはないだろうが、これらの強さは僕には必要のないものである。僕にとって必要な強さは、そのどれにも当てはまらない。僕に必要な強さは心の強さ、メンタル面のものだけだ。僕に直接的な強さは何一ついらない。死なない程度の強さがあれば、僕にとってはそれで十分だった。

 

 

「和友さん、それでしたら異変の解決に取り組んでみたらどうでしょうか? 霊夢さんはもう異変解決に乗り出したようです。やることがないのであれば、以前のように異変の解決の方に向かってはどうでしょう?」

 

 

 僕に問いかけてきたのは、椛だった。

 不思議そうな色を付けた視線が僕の瞳を貫くように送られている。嘘をついているのか、何を抱えているのか、何を想っているのか、透視するような真っすぐな瞳がまるで心の底まで見渡そうとしているようだった。

 

 

「いや、今回は動くつもりはないかな。僕の目的はあくまで思い出作りだし、誰かに強制されているものでもないからやらなきゃいけないってわけでもないしね」

 

「どうして今回は動かないのですか? 以前の二つの異変に対しては積極的だったのに、これほどにやる気がないというか、興味を示していないのはなぜなのでしょう?」

 

「うーん、そうだね……」

 

「答えに悩むことなのでしょうか? 最近、何かありましたか?」

 

「特段変わったことはなかったかな。いつも通りの日常だよ」

 

 

 興味がないわけではない。好奇心はいつだってアンテナを張っている。今起こっている異変についても気になっているのは本当だ。霊夢も解決に乗り出しているし、多くの人間が異変に関わっている。異変に入って行けば、しっかりとした思い出作りができるだろう。特に今回の異変は参入が難しいわけでもない。関わろうと思えば、関わることができる。物語に入ろうと思えば、いつだって入りに行ける。

 それでも、別にいいやと思ってしまうのは何故なのだろう。いつもだったらせっかくだし行こうとなるのにそうならないのは何故なのだろう。そこは僕自身もよく分からないところだった。

 わずかな沈黙が空気を止める。静かになった世界で風が通る音だけが数秒間世界を支配した。しかし、沈黙の支配を打ち破るように綺麗に透き通った一筋の声が僕の耳元から放たれた。

 

 

「椛、もういいじゃない。人間誰しもいつだってやる気があるわけじゃないわ。疲れた時は休む、やる気が出なければごろごろしたっていいのよ。働きアリじゃないんだし」

 

「それはそうですけど……なんだか和友さんらしくないというか」

 

「察してあげなさい。和友だって寂しいの。希もなごみもいないんだから」

 

 

 唐突に後方から登場した人物――影狼さんの口から放たれたのは寂しいという少しも頭の中になかった結論だった。

 

 

「寂しい……和友さん、そうなのですか?」

 

「ううん、寂しくはないよ。希やなごみも博麗神社に全く帰ってこないわけじゃない。それに、ここには椛も影狼さんも大妖精もいるし、藍だって紫だって会いに来てくれるからさ」

 

「わ! 怖いわー、和友怖いわー」

 

 

 僕のコメントを聞いた影狼さんが驚きの声を上げて口元に手を当てる。そして、次第に口角がじわじわと上がり、目が嬉しそうに細まった。

 影狼さんは、沸き上がる感情を堪えきれなくなったのか背中からギュッと抱きしめてきた。

 

 

「どうして和友はそうやってすぐに嬉しくなっちゃうようなこと言うの? ふふふ、嬉しいわー」

 

 

 影狼さんの顔には、高揚した声から見なくても想像できるような満面の笑みが表情に浮かんでいることだろう。

 背中全体から柔らかい温かいものに包まれる感覚が伝わってくる。温かい、背中から伝わる鼓動が心を落ち着けてくれる。しかし、少しだけ窮屈になった体の中にある脳はせわしなく動き回っていた。

 寂しくない――なのになぜ、こんなにも心が躍らないのか。未知のモノに対して一歩目が出ないのか。何かの重りが足に括り付けられているように足が前に出ないのか。

 僕を縛っているモノ。僕を捕らえているモノ。そのものの正体は、意外なところで頭の中に引っかかり、動き回っていた僕を止めた。

 

 

「ああ、そうか。そうだったんだ。影狼さん、僕は怖いんだ……」

 

 

 見つかった重荷は、恐怖心だ。

 終わりが来ることの恐怖が、続かないことの怖れが、終わった後に残される景色が、自分の存在を強く縛っている。

 希やなごみが強さを手に入れようとしているのを目の当たりにして。椛が大きく成長しているのを見て。霊夢の強さが身に染みて分かって。周りに終わりを迎えるための要素が集まっているのを実感して。まだ先だと思っていた終わりが見えてきて。

 僕は、終わりを集めると同時に怖さを抱え始めていたことに気付いた。

 

 

「和友?」

 

「自分だけだったならよかった。誰も周りにいない僕ならよかった。誰にも好かれない僕ならよかった。誰からも求められない僕ならよかった」

 

 

 誰も近くにいない――1人ぼっちならよかった。孤独であったのなら、誰かを巻き込むことはなかったから。誰かの力を借りることもなかったから。親しい人に僕の我儘を押し付けることもなかったから。

 

 

「孤独だったらきっとこんなに怖くなかった。恐ろしくなかった。1人だけで全部を決められたなら、僕だけで全部を決められたなら――僕は何も考えずに終わりを迎えられた」

 

 

 1人きりだったらなんて想像を巡らせてみるが、そんな想像は今となってはありえないものになっている。1人だったらそもそもこんな願いを抱えていなかったのだから。こんな終わり方を望む前に終わっていたのだから。物語はここまで続かなかったのだから。

 今の僕の命は、みんなによって支えられている。家族によって支えられて繋げられている。強く、手を取り合うように繋ぎ合って今が作られている。

 

 

「だけど、孤独だったら今の僕はここにはいなかった。みんなに支えられていたから生きることができた。みんなが強く僕との繋がりを持ってくれたから生きてこられたんだ」

 

 

 ここに生きている僕を支えている希望があるのは、今をこうして生きていられているのは、間違いなく幻想郷にいるみんなが作った希望のおかげだ。

 僕の望む終わりは僕だけでは成し遂げられないもの。僕だけでは迎えることができない結末。だから、みんなが――家族が同意してくれることが大前提になる。

 

 

(うん、みんなに聞いてみよう、頭の中のみんなに問いかけてみよう)

 

 

 問いかけてみよう。僕が願いを告げたら、みんなはどんな反応をするだろうか。僕の知っているみんなに、“頭の中のみんな”に問いかけてみる。

 家族に、みんなに――僕の願いを告げてみた。

 

 

「ええ、いいわ。最初から分かっていたことだもの。私は受け入れるわ。それで、和友は夢の終わりを受け入れる私に何を望むのかしら?」

 

 

 紫は頷いてくれるだろう。しっかりと受け止めてくれるだろう。

 全てを受け入れてくれるような慈愛の表情で抱きしめながら僕のことを受け入れてくれるだろう。

 

 

「紫に望むこと? 僕は受け入れてさえくれれば良いと思っていたから紫に特別やって欲しいことっていうのはないかな。気負う必要もないし、責任を感じる必要もない。普段通り過ごしてもらえればいいよ」

 

「ごめんなさい、こんな言い方をしてしまったら和友はそう答えるわよね。分かっていたつもりだったけど、私もまだまだ和友のことを分かってあげられてなかったみたい」

 

 

 紫は、こうなることを予測できている一人だから。終わり方を想像できている一人だから。規模感が変わるだけで、結末の展開に大きな差が見られない終わりに対して特に驚きもしなければ、拒絶反応も示さないはずである。

 悲しみはするだろうけど、静かに受け入れてくれるだろう。

 辛い気持ちはあるだろうけども、それらを飲み込んでくれるだろう。

 

 

「和友、もう一度聞いて。言い方を変えるわ」

 

 

 いや、紫だったら――きっと次に繋がる未来を口にするはずである。

 だって紫は、最初に僕が病気になったときに僕が死ぬことを受け入れたから。藍を守るために、藍の頭の中から僕の記憶を消すことを受け入れたから。よりよい未来のために――僕のために――僕を捨てられるから。

 紫なら現状を受け入れるだけじゃなくて、未来を創る一言を告げるはずだと思った。

 僕が繋げた――僕が繋がっていない未来を求める一言を口にすると思った。

 

 

「和友、私は新しい夢の始まりを迎えられるような素敵な終わりを望むわ。私は、自らの幸せのために何ができるかしら?」

 

 

 紫は優しいだけじゃなくて強い人だから。

 誰よりも家族を大切にしている人だから。

 誰よりも――未来を大切にする人だから。

 紫は、笑顔のまま素敵な別れの言葉を告げてくれた。

 

 

「……はい、分かりました。和友さんは最初からそうおっしゃっていましたよね。私が妖怪の山で告白した時にも、ここ――博麗神社に救いを求めに来た時も」

 

 

 椛も頷いてくれるだろう。

 椛にはすでに結末を伝えてしまっているから。死ぬという最後の終わりを告げてしまっているから。僕がそれを受け入れるつもりでいることを知っているから。

 例え、終わりに付属品のように僕の希望が追加される形になっても受け入れてくれるはずである。悔しい想いを抱えながらも、僕の気持ちを受け入れてくれるはずだと思った。

 だけど、僕を終わらせるという覚悟を持たない椛は、受け入れることはできても引きずらずにいることはできない。

 どこかに僕の存在を抱えていたいという想いが抜けきらない。

 僕の存在を捨てることができない。

 今の椛の口から出るのは、僕が繋がっている未来だと思った。

 

 

「ただ、まだ覚悟が決まっていないので和友さんを殺すことはできません。ですが、きっと、きっとこの物語の幕引きの時には幕を下ろせるような人に成れるように努力しますから。最低でもすぐそばで終わりを見届けられるように成りますから。それまで待っていてもらえますか?」

 

「僕は待ってはいられないよ。時間はいずれやってくる。先に伸びることもないし、止まることもない。リミットは迫ってくるだけで待ってはくれない」

 

 

 椛の覚悟が形を持つのは、何年後になるだろうか。

 確固たる想いを抱えるのは、いつになるだろうか。

 椛は悩み始めると解決するまでにかなりの時間がかかる。妖怪の山のことだって、僕のことだって、答えが見つけられずに迷った時間は相当なものになっている。

 でもいずれ、その覚悟が固まったら――思い悩み、掛けた年月の分だけ固い決意が形作られる。

 椛は、何時だって悩んだ分だけ強くなってきたのだから。

 苦しんだ分だけ、涙を流した分だけ、強く、かっこよくなってきたのだから。

 

 

「だからね、できるだけ早く追いかけてきて。僕は先に行くから。先に行ってその先で椛が追いかけてくるのを待っているから」

 

「…………」

 

 

 噛みしめた唇から言葉が漏れないのは、ここで軽々しく答えを口にすることを椛自身が良しとしなかったから。中身の伴っていない言葉ほど軽いものはないと知っていたから。

 答えられない――それが今の椛の答え。

 僕はいつか、きっとという不確定な前置きがない言葉が椛の口から聞けたとき、誰よりも強くなっているだろう椛の姿を思い描いた。

 

 

「好きにすればいいんじゃない? どうするかは和友が決めることでしょ? 私がとやかく言うことじゃないわ」

 

 

 霊夢は、肯定も否定もせず受け入れるだろう。

 霊夢は、人の生き方や人生観に深く突っ込んでくるタイプではないから。繋がりを強固に持とうとせず、常に浮いているような生き方をしているから。人がどう選択するのか、どう思うのか、そこに興味を持たないから。

 直接霊夢に影響しない限り――僕の生き方を肯定することも否定することもないだろう。僕の知っている霊夢は、そういうものだ。

 

 

「そもそも、私が何か言ったところで和友は聞かないでしょ? なんで私に聞いたのよ」

 

「霊夢にも聞いてほしかったから。霊夢だって博麗神社一緒に過ごしてきた家族だと思っているから。霊夢にも僕がどうしたいのか分かっていてほしかったんだ。お別れするときに家族に挨拶もなしっていうのは、ちょっと違うかなって思ってさ」

 

「私は、知らない……知らないから」

 

 

 それだけを言い残してどこかに行ってしまう。そこから先の言葉がイメージできない。返事が想像できないのは、霊夢が僕に対してどう思っているのか分からないからだろう。

 でも、少しぐらいサヨナラの挨拶が欲しいなと思うのは僕の我儘だろうか。そう思うのは僕にとって霊夢という存在が特別だからだろうか。

 僕は、意外と最も別れの言葉が欲しいのは霊夢からかもしれないと思った。

 

 

「和友さん、急にぼうっとしてどうしたのですか?」

 

 

 椛の手と声が肩と共に鼓膜を揺らす。すぐ目の前に椛の顔が広がっている。

 僕の意識は椛に引っ張られるように現実世界へと引き戻された。

 

 

「何だか変ですよ? 少し休んだ方がいいのではないですか?」

 

 

 おかしいと、変だと言っている椛――僕はそんなにおかしなことを言っただろうか。変なことを言っただろうか。

 おかしいところなんて何もない。変なところなんてどこにもない。これは今更なことなのだ。一番大事だったはずなのに、最も重要なポイントだったはずなのに、見て見ぬふりをして放置していたから気付くのが今になっただけの話なのである。

 

 

「ううん、何もおかしくないよ」

 

 

 今ある想いの火が消えてしまう前に伝えなければならない。ここにいる全員に、僕が抱えているモノを共有してもらわなければならない。これは僕一人で運べるものではないのだから。

 僕は、背中に密着している影狼さんの体を離し、接近していた椛と少しばかりの距離を取り、大妖精から見えやすいように少しだけ後ろに後退して全員と向き合うように太陽に対して背を向けた。

 

 

「みんな、僕の言葉を聞いてほしい」

 

 

 できる限り真剣に言葉を伝える。力を込めて想いを伝える。

 椛、影狼さん、大妖精の視線が一気に僕の瞳に集中する。誰も口を開こうとせず、僕の言葉を待っている。

 聞いて、聴いて。僕の想いを受け止めて。

 僕は抱えていた想いを吐露し始めた。

 

 

「これは先延ばしにしてきた僕の心の弱さが招いたことだ。覚悟の足りなさが招いたことだ。変わろうとしてこなかった僕の責任だ」

 

 

 椛が変だと感じるのは、きっと僕自身がこれまで自覚していなかったから。自分自身で理解することができていなかったから。

 自分が分かっていないことが相手に伝わるなんて奇跡はどうやったって起こらない。僕の中にある僕自身が気付いていないことをどうして相手が気付くことができるだろうか。

 自覚症状のない病気など、死ぬまで認知されない。死んだという結果が出てから理解することになる。

 それでは遅すぎるのである。終わってから分かるような話であってはならない。これは終わりを迎えるために必要なことなのだ。結果が出る前に理解してもらわなければならない事なのだ。

 

 

「一歩が踏み出せていなかったのは僕の方だったんだね。みんながいなかったらきっと気付かなかったよ。みんなが変わろうとしなければ、秘密を抱えてきた歪が見えるまで気が付かなかったと思う」

 

 

 いつかは話さなければならないことをここまで引っ張ってきた。いずれ告げなければならないことを先延ばしにしてきた。意味のない延命措置をしてきた。

 

 

「変わっていくみんなを見て、強くなろうとするみんなを見て、僕は――1人で変わらないものを抱えたまま変わらない自分の存在がようやく見えたんだ。みんなの存在が大きくなるのを見て自分の存在が小さくなっていくのに気づいたんだ」

 

 

 みんなの存在がどんどん大きくなることで、相対的に見えなくなる自分に気付いた。変わっていかない自分の姿がはっきりしてきた。

 絶対に変えるつもりのない終わりを告げられなかったのは、僕が弱腰だったからだ。みんなが強くなろうとする姿に怯えていたからだ。椛が、希が、なごみが、強くなろうと、強くあろうとする姿に怖気づいていたからだ。

 

 

「こうしていずれ話さなければならないことを抱えたままここまで来てしまったのは、僕がみんなを信じ切れていなかったから。“みんなを信じる”という気持ちを信じる強さが足りなかったから」

 

 

 決めよう――今日から始めよう。

 家族全員に終わりの形を告げるんだ。僕の抱えている願いを告げるんだ。そこからが僕のスタート――僕の変化の始まり。

 

 

「椛、影狼さん、大妖精、後で希やなごみにも聞かなきゃいけないんだけど……ちょっとお願いしたいことがあるんだ。いいかな?」

 

「はい、和友さんの願いならば」

 

「お姉さんにできることなら対価込みで聞いてあげるわよ?」

 

「私なんかにできることでしょうか?」

 

 

 三者三様に答えが返ってくる。

 みんなにお願いすることは、何も難しいことじゃない。

 これは、誰にだってできること。

 これは、何者にだってできること。

 “僕が信じるみんな”ならできること。

 

 

「今日の夜――家族会議をしたいんだけど、いいかな?」

 

 

 ここに変化するための一歩目を踏み切る変化点を作る。

 今を変えることで、未来を変える。

 今度は、僕が変わる番――スタートを切る番である。

 




会社の忘年会、幹事を務めまして無事終了しました。
そして、無事風邪をひき、熱を出しながら会社に出勤して、なぜか家族と旅行に行っていました。
そんなこんなリアルの状況ではありますが、小説の2週間更新はできる限り守ります。

さて、今回は主人公が周りの変化を見て、自分が変化していないことを自覚する話になります。もっと実直に言えば、終わりを形作ると同時に恐怖を抱えていたという話ですね。
前回の話で、希が一歩目を踏み出し、二歩目を歩み出したことも上手く繋がって書けたかなと思っております。

次回は、家族会議と異変解決の終幕を書けたらと思っていますが、あくまで予定ですので期待せずにお待ちください。これからもこの作品をよろしくお願いいたします。


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消えることで見えなくなるモノ、消えることで見えてくるモノ

全4話編成の第11章4話目です。
11章は、萃夢想のお話になります。



 生きていれば必ず選択を迫られる瞬間が来る。

 それは、ある提案を受けた時。

 それは、ある提示があった時。

 それは、道に迷った時。

 人生という道を進んでいればどこかで分岐点が現れる。

 

 

「みんな、僕の希望を聞いてほしい」

 

 

 今、この瞬間――ここが分岐点。

 見渡してみれば、右、左、正面に道が通っているのが見える。

 いずれの道にも先の見えない白く霞んだ景色が広がっている。

 どこに進もうか、どこに行くべきか。

 こうした人生の分かれ道の出現条件は多岐にわたっている。

 だけど、よくよく考えてみると分岐の選択肢は大きく3通りしか存在しないことに気付く。

 今の場合で言えば、話すのか、黙っているのか、それとも時間を置くのか。

 一般的に言えば、受け入れるのか、拒むのか、それとも傍観するのか、たったそれだけしかない。

 僕たちは、何をするにも、何をされるにも、何をしないにしても、必ず答えを迫られることになる。

 

 

「耳を塞がずに僕の終わりの話を聞いてほしい」

 

 

 今までどれだけの選択をしてきただろうか。

 毎日のようにしてきた選択でどんな未来が作られただろうか。

 

 

「心を閉ざさずに僕が望む終わりの話を聞いてほしい」

 

 

 選ぶ際の基準はまちまちで、人によって千差万別――自分のため、誰かのため、何かのため、何かしらの理由がある。

 そして、進むたびに訪れる分かれ道の中でも、特に人生の岐路や大きな影響を及ぼす選択の場面に決まって言われる言葉がある。

 誰しもが1度は聞いたことがある言葉ではないだろうか。

 ――後悔のない選択を。

 僕はこれまで、この言葉の意味が分かっていなかった。真に何を伝えたい言葉なのか理解できていなかった。

 僕にとって後悔とは、未来を生きていくうえで必要なものだという認識だったから。

 後悔をすることで、過去を反省することで、次に繋げていける。後悔とは、今後の生き方を見つめる時に必要なもので決して悪いものではない。そもそも、結果が出るまで後悔するかどうかが分からないのだ。後悔のない選択を意図的に選ぶことができない大前提がある以上、考えても仕方がないことだと思っていた。

 ――だけど、違ったんだ。

 僕は、この言葉が意味している本当の意図を理解できていなかった。後に繋がらない選択をする今だからこそ、後に続かない話をしてしまった後になって、思い知った。吐き出した思いの分だけ軽くなった心に残った想いが、僕に後悔の存在を気付かせてくれた。

 

 

「僕は、後1年ほどで死んでしまう」

 

 

 一言発した。普段生活している12畳ほどの博麗神社の部屋の一室に、僕の声が何者にも邪魔されることなく綺麗に通った。声が空間に響いた瞬間、聞いていた人の顔が一気にその色を変えた。変わらない者もいたが、大半の表情に雲がかった。

 僕がここに呼んだのは、霊夢、椛、希、なごみ、影狼さん、大妖精、藍、紫、橙の9人である。全員の顔が見えるように9人が僕の前で扇型に並んでいる。下を見てみれば、巨大な白い紙がひかれており、墨で描いた幾何学的な模様が描かれている。

 これはなごみが描いたものである。大事な話をしたいと告げたら、私も参加したいと場を整えてくれた。ここには、なごみが書いた魔法陣が効力によって、全員の思考が言葉なしで伝えられる環境が出来上がっている。これからする話は外に漏らすわけにもいかないし、なごみの提案を断る理由はなかった。

 

 

「生き物が死ぬのは仕方のないことだ。生きている者はどれだけ抗ってもいずれ死んでしまう。僕の場合は後が比較的短いとはいえ、それは早いか遅いか程度の問題。大事なのは、僕がそこをゴールに決めたということ。僕は、終わりを後に引き延ばすつもりは全くないし、それができるとも思わない」

 

「なぜだ、まだ終わっていないだろう。後1年の猶予がある」

 

 

 眉間にしわを寄せた藍が固まった空気を打ち壊すように喉を震わせた。後1年ある――そんな希望を口にした。あの時と同じように、紅魔館で紫と戦った時と同じように、未来を繋げていくための言葉を告げた。

 

 

「和友、諦めるにはまだ早いだろう? 時間があるのに可能性を探すことを諦めるのか? やってもいないのに両手を挙げて白旗を掲げるのか?」

 

 

 藍の瞳の奥に宿る強い光が、終わりを求める僕を断罪するように見つめている。紅魔館で紫と対峙した時よりも強くなった光が僕に諦めるなと訴えかけている。

 

 

「私は許さないぞ。また一人で苦しみの中を逝くなど、私を置き去りにして逝こうとするなど、絶対に許さないからな」

 

 

 どう答えたものだろうか。答えは決まっているが、僕はそれをどう表現していいのか分からなかった。言葉にはできないけど、眼だけはそらさず、視線だけは外さず、まっすぐな瞳だけで曲げられない想いを伝える。

 次第に空気が膠着し始める。雰囲気に重力が加わるように重さが増している。

 その重量に耐え切れなくなったのか、藍に同調するように希が大きく何度も首を縦に振りながら同意の言葉を述べた。

 

 

「うん、私も藍の意見に賛成。ちょっと唐突すぎて話が全然掴めていないけど、障害があるなら打ち破ればいいじゃん。得意の努力の積み重ねで壁を乗り越えていけばいいんじゃないの?」

 

「希の言う通り、人間やれないことなんてほとんどないと思う。耳の聞こえない私だってこうやって魔法が使えたわけだし……」

 

「希やなごみの言うように簡単に乗り越えられるほど状況は楽観視できるものではないが……それでもここで諦めることを私は認められない。そんな終わり方、私が私を許せない」

 

 

 同じように僕の問題に対して希望を持つような、未来を作っていく可能性を含ませるセリフを放った3人だったが、3人の表情は大きく違っていた。

 希やなごみはまだ現状を把握できていないのもあって、将来を楽観視している。何とかなるだろうと思っている。表情も平常と変わらず、影が差している様子は見られない。

 だが、藍はいかんともしがたい状況を知っているのもあって小難しい表情を浮かべていた。

 状況は切迫している。時間は差し迫っている。

 正解の存在しない――選択の時はもうすぐそこまで来ていた。

 

 

「でもどうするの? まだ僕が助かる方法は見つかっていないんだよね?」

 

「……そうだな。今のところ可能性の欠片すら見つかっていない」

 

「一応分かっているとは思うけど、和友の病気を物理的に治療することは不可能よ。可能性があるとすれば、精神に働きかけて心の中の穴を綺麗に塞ぐことぐらいじゃないかしら? 病気の発生源を埋めてしまえば今よりも悪化することはないと考えられるわ」

 

 

 心に空いた穴――この話を知っているのは、紫と藍と橙、椛、文、そして鈴仙と八意先生だけである。僕の病気の詳細を知らない希、なごみ、影狼さん、大妖精は話についていけず、不思議そうな顔をしている。

 だけど、実情を知らないはずの霊夢だけは僕の顔を見たまま、俯瞰するように見つめていた。

 理解が及ばない希が分からない組を率先して紫に疑問を投げかける。

 

 

「どういうこと? 心の穴を塞ぐとか言っているけど、和友の病気っていうのは精神的なものなの?」

 

「正確には能力の暴走だけど、おおよそその認識で合っているわ。心に傷を負った影響で穴が空いて境界を曖昧にする能力が漏れ出しているの。今、こうして話している間にも和友が必死に覚えてきたものが曖昧になろうとしている」

 

「だから、穴を埋められたらっていうことね……何となくイメージはできたわ」

 

「本当に? 見てもいないのに説明だけ受けて理解できたのかしら? 分かった気になる、分かったフリをするのは美徳ではないわよ」

 

 

 イメージできたという希に、紫の怪訝そうな瞳が向けられる。

 紫の鋭い指摘に希が言葉に詰まりながら言った。

 

 

「と、とにかく大変ってことは分かったからそれで十分でしょ!?」

 

「十分なわけがないでしょう。説明の手間を考えて私たちを気遣っているのなら止めておきなさい。私たちは、この件について手間暇は惜しまないわ」

 

「そうは言うけれど、いくら説明を聞いても理解できる気がしないんだけど……」

 

「そうね、それじゃあこうしましょうか。後で和友の心の中に連れて行ってあげるわ。百聞は一見に如かず、よ。私たちも見るまで信じられなかったもの。和友、それでいいわよね?」

 

「いいよ。僕の異常さを見て、感じて、何かを抱えてくれるきっかけになるのであれば、いくらでも僕は心を開くよ」

 

 

 許可を求めてくる紫に向けて静かに頷く。

 心の中に招くというリスクを考えても、ここは頷くべきだと思った。

 見なければわからない。晒さなければ見えてこない。

 異常さを認知しなければ、対処することも叶わないのだから。

 

 

「一つ聞きたいんだけど、心の穴ってどうやって埋めるの? 和友の失ったモノが何か知らないけど、普通なら家族とか身近な友達とかが埋めてくれるっていう流れが普通なのかな?」

 

「本来であればそれで十分なのだが、和友の場合は完全に埋めてやらなければならないのだ。隙間ができてしまえば、そこから能力が漏れ出すからな。だが、そのまま誰かが失った者の代わりになることはできない。失った者の完全なる代わりなんて存在しないのだから」

 

「ええ、そうね。誰が代わりをしようとしても必ず隙間が生まれる。生物は、同じ役割を担うことはできても同じ者になることはできない。両者の隙間から漏れ出す想いは止められないわ」

 

 

 藍と紫から現状が述べられる。効果的な方法は未だに見つかっておらず、どうしていいのかの具体的な案が全くないことが全員に共有された。

 諦めないと言うだけなら簡単だ。感情論だけで話ができるのならいくらでも会話が続けられる。だが、何とかしよう、頑張ろう――そんな曖昧さでは確固たる現実は動かない。

 この件には、制限時間というリミットが存在するのだから。寿命の終わりという期限の終わりがあるのだから。命の灯が消える瞬間までにどうにかしなければならないのだ。

 

 

「また閻魔様に頼むの? それでまた先延ばしにするの?」

 

「それは和友の病気を治すよりハードルが高いわよ。あの頑固な石頭の石像は二度と動かないわ。動かせる案があるのなら聞いてもいいけど、聞くだけ無駄だし、考えるだけ不毛よ」

 

「どうして?」

 

「そんなものないからよ。あいつはそういう奴なの。もう一度頼んだところでろくな結果にはならないわ。これから迎えようとしている終わりよりも酷くなるって断言できるもの」

 

「あの四季映姫様を私情で動かしたのですか!?」

 

 

 紫の口にした閻魔という言葉に真っ先に反応したのは椛だった。幻想郷における閻魔とは、四季映姫・ヤマザナドゥのこと。裁決を下す立場から常に公平を保ち、私情では動かないことで有名な者の名前である。

 

 

「彼女は助けを求めても絶対に動かないと思っていたのですが、一体どんな方法をとったのですか?」

 

「それを知ってどうするというの? 切り札はもう切った。手元には何も残っていない。大事なのはその事実だけでしょう? 興味本位なら聞かないで。その口を二度と開けなくなってもいいというのなら止めはしないけど、あなたにその覚悟があるかしら?」

 

「い、いえ……」

 

 

 紫が期限の延長を図れる唯一の実績を持った方法の行使は不可能であると断言する。言葉と同時に若干の怒りがにじんでいる瞳に椛が気圧される。何があったのか、不名誉なことがあったのか、不満があるのか――紫の瞳からは様々な感情が読み取れた。

 

 

「そもそも、あいつの協力を得られる確実な方法を提示できなければ、話す気にもならないわ。私が話すことで代案が生まれるというのなら恥を忍んで答えてあげるけど?」

 

 

 場に沈黙だけが停滞する。

 

 

「どうやら言わなくていいみたいね」

 

 

 僕も、椛と同じように紫と四季映姫に何があったのかは知らない。どうして助けてくれたのかも知らない。どうして手を貸してくれたのかも分からない。助けてくれた時、彼女は何も語らなかったから。ただ、ほんの少し寂しそうに見えた顔が記憶に残っているだけだった。

 

 

「結局、今のところ助かる方法は見つかっていないんだよね。リミットはもうすぐだよ? 探すのは全然かまわないけど、僕が死ぬ覚悟はしておいて欲しいかな」

 

 

 藍、希、なごみは希望を口にしようとするが、現実論的に僕は生き延びるのは不可能である。

 このまま何もしなければ死んでしまう。心の中が空いた穴から漏れた水で埋まり、区別するために覚えた標識と立札が朽ちる。

 普通の人であれば、心に穴が開いても辛い思いをするだけでそれ以上はないが、僕の場合は能力が暴走してしまっていることが大きな問題となっている。

 涙のような悲しみの水が全てを溶かしていく。思い出も、記憶も、過去も、未来もあったのか無かったのか区別のつかないものにしてしまう。

 大事なものが沈んだとき――それが僕の終わり。僕という存在の終わりだ。

 

 

「はぁ……聞いていられないわね」

 

 

 僕の言葉から数秒経ったとき、大きなため息が霊夢から漏れた。霊夢はゆっくりとその場で立ち上がると見下すように僕を見て言った。

 

 

「あんたの言い分を聞いていると思うんだけど、要はあんたは死にたいってことでしょ? 勝手にすればいいじゃない。死ぬのも生きるのもあんたの勝手よ」

 

「霊夢、これは前にも言ったことだけど僕はあんたじゃないよ。僕は笹原和友だから」

 

「死にたがりのあんたなんてあんたで十分よ。で、話はそれだけ? だったら私はもう寝るわ」

 

 

 誰が見ても分かるぐらい不機嫌になった霊夢が部屋を出ていく。誰も止めようとはしない。誰も口を挟まない。

 僕は霊夢の姿がふすまの奥に消えそうになるその時、いつも霊夢に送っている挨拶の言葉を投げかけた。

 

 

「霊夢、おやすみなさい。明日もいい日になるといいね」

 

「…………うそつき」

 

 

 一瞬だけ霊夢の動きが止まったが、おやすみの返事が返ってくることはなく、ふすまの閉じられる音だけが響いた。

 霊夢の姿が見えなくなった。場から一人、いなくなった。隙間ができて、穴がぽっかり空いた。そんな空虚な雰囲気が残る中で、最初に口を開いたのは希だった。

 

 

「引き留めなくてよかったの? 霊夢、相当怒っているみたいだったけど」

 

「いいよ。霊夢は引き留めたところで止まったり、話を聞いてくれたりしないと思うから。この話には関わらない――それが霊夢の選択だよ。僕はそれでもいいと思っている。関わっても得がある話じゃないし、霊夢からしたら迷惑なだけの話かもしれないからさ」

 

「それはそうかもしれないけどさ……ねぇ、なごみはどう思う?」

 

「私は、霊夢が怒るのも分かる気がする。和友の話を聞いていると、やっぱり和友は死にたいんだろうなって思うから。そういう気持ちが伝わってくるから。和友、どうして? どうして死にたいの? どうしてそこで終わりにしたいの?」

 

 

 どうして――理由を問うなごみの質問を受けた僕に全員の視線が集中する。

 僕は、ついにこの時が来たかと身構えた。

 この理由を話すために全員を集めた。

 この理由を告げるために、終わりを迎えるために、今日を作ったのだから。

 

 

「なごみはさ、自分を作っているモノって何だと思う?」

 

「それはどういう意図の質問? 和友の求めている答えって、日々の食事とか、細胞の塊とかそういうのじゃないよね?」

 

「うん。そういうのじゃなくて、自分という人間が自分だということができる必要最低限のものって何なのかなって話だよ。笹原和友は、何でできているのかって話」

 

 

 自分を自分だということのできる必要最低限のもの。

 僕は、何があれば僕だと言えるのだろうか。

 笹原和友は、何で構成されているのだろうか。

 名前が付けられて、区別されている、差別されているってことは違いがあるということ。

 その違いとは何なのだろうか。

 問いかけてみる。

 みんなに、問うてみる。

 

 

「みんなは、どうしてみんななの? 何があるからみんななの? 藍は何があるから藍なの? 紫はどうして紫なの? 希はどうしてなごみじゃないの? 椛はどうして椛として成り立っているの? 影狼さんはどうして周りの妖怪と違うって言えるの? 大妖精はどうして妖精から区別されているの?」

 

 

 横にいる者を見て、それが自分ではないと言える根拠はどこにあるのだろうか。

 目の前を歩く者を見て、それが自分ではないと言える自信はどこにあるのだろうか。

 鏡に映る自分を見て、それが自分だと言える気持ちはどこから来るのだろうか。

 隣の者と自分を隔てている境界線は何なのだろうか。

 自分という存在の境界線を引いているのは、何なのだろうか。

 あなたは――どうしてあなたなのですか?

 僕の問いは、あなたを作っているモノを問うもの。

 それは――

 

 

「人それぞれ答えは違うかもしれないけど……僕が僕であるために必要なもの、僕が僕足らしめているものを考えたら、一つの答えが出てきたんだ」

 

 

 人間だから、僕なのではない。

 腕があるから、足があるから、体があるから僕なのではない。

 笹原和友という名前が付けられているから僕なのではない。

 僕って一体どうやって区別されているのか。

 考えてみたら、その答えはこれまで積み立ててきた心の中にあった。

 

 

「僕の場合は、心の中にある旗が僕を作っているモノなんだって気付いたんだ。みんなを区別するために必死に打ち立てた標識が僕を作っている。みんなのことを覚えている僕が、覚えようとして区別してきた、みんなと違う僕が――僕なんだって」

 

 

 みんながいるから僕がいる。

 覚えてきたみんなが僕との境界線を作っている。

 区別してきたみんなが僕の存在を照らしてくれている。

 みんながいなければ、僕の存在は見えてこない。

 白いキャンパスは、どこまでいっても白いままだから。

 そこにポツリポツリと、彩が加わっているから見えるんだ。

 黒が塗られて、赤が塗られて、黄色が足されて、青が乗る。

 いろんな色が足されて、残った白が僕の世界だ。

 その残った白い部分が僕という存在だ。

 

 

「みんなという存在があるから。区別されたものがあるから。差別された記憶があるから僕がいるんだって。僕が僕でいられるんだって気付いたんだ」

 

 

 みんながなくなったら。

 僕の中のみんながいなくなってしまったら。

 心の中は不毛になる。

 なにもなくなる。

 何もない世界では、自分の居場所が分からなくなる。

 何もない世界では、境界線がなくなる。

 そこには自分も他人もない。

 あるのは空虚な世界だけだ。

 

 

「僕は僕のままで終わりたい。みんなが誰かも分からなくなった状態で、自分が誰なのか分からなくなった状態で――そんなゾンビみたいな生き方をしたくない」

 

 

 生きていれば、何とかなるというのは詭弁だ。

 生きてさえいれば、可能性があると思うのは幻想だ。

 こと僕の件に関しては、いたずらに延命措置をとることに意味なんてない。

 全てを抱えたまま未来に進めるのならいいが、大切なものを途中で下さなければならなくなるのだったらそれは死んでいるのと同じだから。区別してきたみんなを下ろして進むことは、これまでの自分そのものを消しているのと同じだから。

 みんなのことを知らない僕は、僕ではないから。

 自分と区別してきたみんながいない僕は、僕が僕ではなくなっているから。

 心の中のみんなが死んでしまったと同時に、僕という存在が死んでしまっているから。

 死んでいる僕なんて、いらない。

 生きていない僕なんて、いらない。

 そんなもの、僕はいらない。

 

 

「だから、終わりのその時を自分で区切りたいんだ。僕は最後までみんなと一緒に生きていたい。みんなと共に、生きていたい」

 

 

 想いを伝える。これまで溜め込んでいた、抱えていた想いを吐き出す。

 僕の想いを聞いた面々は、何も口にしなかった。文句の一つも出なかった。反論をすることも肯定することもなかった。

 ただ、何かしら全員がそれぞれの想いを抱えている。口には出さないけれども、心の奥では強い想いが炎を放っている。僕から見たみんなの顔はそれぞれ強い意志を感じさせるものだった。

 しばらくの沈黙ののち、優しく微笑んだ紫が言った。

 

 

「あなたの人生よ。あなたが決めればいい。ここにいる皆は、頑張ってきた和友を知っているから。家族は、あなたの生き方にとやかく口を出すほど野暮じゃないわ」

 

 

 そこまで言葉が出たところで紫の表情が不敵な笑みに変わる。

 どこか嬉しそうに、どこか挑発するような眼をして言った。

 

 

「でもね、これだけは言っておくわ。私たちもあなたと同じように生きているから」

 

 

 生きているから。後は続かなかった。続かなくても分かった。

 そう――みんな生きている。

 自分で選んで、前に進んでいる。

 何をしたいとか、どうなりたいとか、誰に指図されることもなく自分で決めている。

 自分の足で、自分の目で、自分の心で、自分が進むべき道を自分で見つけている。

 迷っても、立ち止まっても、自分の中の羅針盤に従って前に進んでいる。

 誰のためにでもなく、自分がそうしたいからという理由で前に進んでいる。

 僕は、僕のために。

 みんなは、みんなのために。

 生きるための選択を――選ぶ。

 紫の後に続くように、影狼さんが声を上げた。

 

 

「それで、和友は具体的にはどうしたいのかしら? 和友は私たちに何をして欲しいの? 選ぶのは私たちだけど願いを聞くだけは聞くわよ」

 

「ここに和友の願いをそのまま聞いてくれる者はほとんどいないと思うけど、和友の目標を達成するだけなら最後に自殺して終わるだけよね。特に私たちに話す必要はなかったんじゃない?」

 

「希、話す必要はあったよ。これは話さなきゃいけなかったことなんだ。僕はまだ終わりの話をしていないからさ」

 

「和友が死んでしまうって話で終わりじゃなかったの?」

 

「橙、死ぬだけなら今でもできるよ。死を後に伸ばすのにはそれなりの理由があるんだ」

 

 

 橙は分かっていないようだったが、まだ僕の望む終わりの形を話していない。

 終わりに向けて階段を作った僕の物語を伝えていない。

 

 

「僕は――」

 

 

 大きく息を吸う。

 ずっと考えてきた、終わりの形を。

 僕が生きる道を示す。

 僕が選んだ道――歩んだ道を更地に変えること。

 ここから先、僕が選ぶ未来は決まっていた。

 

 

「僕は、幻想郷にいる全ての人から僕に関する記憶を消そうと思っている。全部なかったことにして終わりを迎えようと思っている。かつて藍にしたように、記憶を曖昧にして思い出せないようにしようと思っている」

 

 

 僕は、幻想郷に住まう人々から僕に関する記憶を曖昧にしようと思っている。

 僕が死んでしまうその時に全てを無かったことにしようと考えている。

 まるで台風が過ぎ去った後のように、跡形もなく吹き飛ばしていきたいと思っている。

 でも、僕の願いは他者を巻き込むものだ。反発もあれば、疑問を訴えるものが必ず出る。そして、予測した通りに希が真っ先に質問を飛ばしてきた。

 

 

「え、なんで? なんで記憶まで消す必要があるの?」

 

「僕は、僕が死ぬことで僕に囚われる人がいるのが一番怖い。そんな人が出るくらいなら、全部なかったことになってもいい。その人が生きられなくなるのなら、僕という存在が死んだっていい」

 

 

 言い切った瞬間、希が勢いよく立ち上がった。握りしめたこぶしが唇と同じように震えている。

 希は、噛みしめるように紡いだ口を大きく開き、感情を吐露した。

 

 

「私は嫌だよ! 忘れるなんて嫌! 和友が死んだら悲しむとは思うけどさ。それって自然なことだよ! 大切なものがなくなって泣きたい気持ちになるのは普通のことでしょ!? 和友だって忘れたくないから死ぬって言ったじゃない!! なんで私たちにとっても和友と一緒にいた記憶が大事なものだって分からないの!?」

 

 

 分かっている。知っている。刻まれている。

 失うことの恐怖を。消えていく喪失感を。

 忘れて、思い出せなくなって、消えて、消えたことも忘れる。

 悲しくなって、苦しくなって、息が止まりそうになる。

 咎める人が誰もいないから――自分が嫌いになった。

 自分しか責められる人がいないから――自分で自分を刺した。

 でも、そうしようと思うかどうかはやっぱり人による。

 どうしたいのか、どうされたいのか。

 僕は、それをみんなに問いかけたいのだ。

 

 

「ここにみんなを呼んだのは、そこを聞きたかったんだ。記憶を曖昧にすることを受け入れるか。拒むのか。それとも答えを引き延ばすのか。どれを選ぶかは自由、どうするのかは聞いた本人が決めること。聞く権利を持った人だけが決められることだから」

 

 

 僕が知りたいのは、ここである。

 みんなの選択が知りたい。

 僕との記憶を持ったまま未来へ進むのか。

 僕との記憶を捨てて未来へ進むのか。

 それとも選択できる時まで保留にし、立ち止まるのか。

 みんなが自分で選んでほしかった。

 その選択を尊重したかった。

 

 

「僕に関する記憶は、僕の死を乗り越えて前に進める人だけに持っていてほしい。僕との記憶を踏み台にできる人にだけ持っていてほしい。未来のための礎にできる人だけに僕の存在をもっていってほしい」

 

 

 この問いに正解なんて存在しない――選んだものが全て。

 記憶を曖昧にすることを受け入れるのか、拒むのか、それとも時間を置くのか。3通りしかない答えが待っている。選択の時を待っている。

 

 

 希となごみ、紫は言った。

 背負っていくことを宣言した。

 抱えたまま未来を進むことを選んだ。

 

 

「私は忘れるなんて嫌。和友のことは一生背負っていくわ。毎年墓参りしてやる。そんで和友よりもかっこいい彼氏を見つけて幸せを報告してやるから!」

 

「私も、大丈夫です。私の背中は以前より広くなりましたから和友一人くらい背負っていけます。自分の生きたいところに、あるがままにどこまでも進んでいけます」

 

「私は言わずもがなよ。最初から覚悟していたことだわ。1年前から準備はできている」

 

「でも、助けられる可能性があれば助けるわよ! 和友が生きてみんなと共に生きられるのが一番ハッピーなんだから!」

 

 

 藍と橙は、言った。

 既存の選択以外の可能性を模索すると。

 選択の時を後に回し、他の結末に手を伸ばすことを誓った。

 

 

「私は諦めないぞ。記憶を曖昧にされる苦しみは私が一番よく知っている。最後の最後まであがいて見せる。記憶を消す、消さない以前に――和友を救って見せるからな」

 

「私も、藍様と同意見です。記憶を曖昧にするしないはギリギリでも判断できるはずです。もし、見つからなかったら。その時、選びます」

 

 

 影狼さんと大妖精は言った。

 記憶を消すことを受け入れ、軽くなった体で未来を歩むと。

 失うことで得られる自由で、自らの道を進むと言った。

 

 

「私は、消してもらえると助かるかな。私……こう見えても結構和友のいる居場所が気に入っていて、和友が消えていなくなった時に――ずっと待ってしまいそうだから。帰ってくるんじゃないかって待ってしまいそうだから」

 

「わ、私も、ずっと残りそうなら捨ててしまいたいです。多分、私自身が抱えてずっと生きていけるとは思えませんから」

 

 

 三者三様の結果が示される。

 正解の存在しない問いに対する回答を、それぞれが胸に抱えた思いが口にする。

 そう、こうなるのが普通だ。

 こうなってくれるから、僕はみんなに話したのだ。

 

 

「和友は、それで後悔しないのか。それが後悔のない選択なのか?」

 

 

 藍に問いかけられた瞬間に、脳内にある何度も聞いた言葉が轟いた。

 ――ああ、そういうことか。

 これが、後悔のない選択をという言葉の本当の意味なのだ。

 

 

「抱え込んできた想いは全て吐き出した。もう心には後悔しか残っていないよ。楽しさも、嬉しさも、苦しさも、悲しみも、すっきりしてまっさらになった世界で、ようやく僕は後悔を見つけられた」

 

 

 後悔のない選択をという言葉は、後悔を見つける言葉なのだ。

 みんながいることで区別されている僕と違って、後悔は他の感情に埋もれている。これは、本来であれば、結果が出ることで初めて見つけられる後悔の存在をあぶり出すためのもの。後悔をしないためにと心にある全ての色を吐き出し、心を白くしていく。すると、普通であれば未来で見つかるはずの後悔が最後に見つかる。白いキャンパスに一つだけ黒い点が見つかる。

 

 

「後悔だけは、僕が抱えていくよ。僕という存在が終わるまでずっと、こいつだけは持っていく。こいつは僕の未来にあるべきものだから」

 

 

 これまで溜め込んでいたものを吐き出し、誰もいなくなった心に最後に残った後悔が生涯で1度きりの鳴き声を上げた。

 

 




更新が遅くなって申し訳ございません。
リアルに忙殺されております。
何とか更新の方はしていくのでよろしくお願いいたします。

さて、今回は主人公が終わりの形を家族に話し、みんなに意見を求める話になります。
タイトルのまんまですが、消えることで見えなくなるモノ、消えることで見えてくるモノが分かってもらえると嬉しいです。


私は、割とこういう普段聞くような言葉から話を広げることが多いです。
今回は、後悔のないのない選択を、という言葉でしたが、みなさんも結構聞きなじみありますかね。
初めて聞いたとかいう人がいたら、もしかしたらこの話はぴんと来ないかもしれませんね。


次回は、萃夢想と永夜抄の間になります。
割とほのぼのした感じで書けたらなとは思いますが、次章は4話も使用しないと思います。2話程度書いて、永夜抄に入れたらと思います。
今年もよろしくお願いいたします。


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第十二章 東方永夜抄
好きの居場所、芽生えた気持ち


全6話編成の第12章1話目です。
12章は、永夜抄のお話になります。


 何もしなくても、溢れ出てくる。

 昨日の焼けつくような光の暴力が、瞼を貫通して視界を彩っている。

 余りの光景に、私は時間に置いて行かれることになった。

 

 それはつい昨日の出来事。

 見て思い知った。

 目から入ってくる光に、瞼を閉じたくなった。

 目の前に広がる現実に、眼をそむけたくなった。

 

 

「何よ、これ……」

 

 

 悲しみの溢れる世界に、いくつもの努力の結晶が立っている。

 負けずに、折れずに、生き残っているモノだけがそびえている。

 

 

「ようこそ、ここが僕の世界だよ」

 

 

 朽ちていったモノが溶け込む海の中で、少年は独りで悲しそうに笑っていた。

 こんなことがあっていいのだろうか。

 こんなことが許されるのだろうか。

 そう思わずにはいられなかったけど、これが現実なんだ。

 どれほど疑っても、これが事実なんだ。

 どうしてか、立ちはだかる壁がいつもより高く見えた。

 ――そして今、私は立ちはだかる壁を前にしながら何もせずに1日を終え、朝を迎えていた。

 

 

「圧倒されちゃった……」

 

 

 和友の心の中は、圧巻の一言だった。何も出てこなくなって、何も言い出せなくなって、吐き気だけが残った。

 ただ気持ち悪さをかき混ぜただけ。

 湧き上がってくる吐き気を抑え込んだだけ。

 表情を取り繕う余裕なんてなかった。

 

 

「なごみも同じ顔をしてたもんね……」

 

 

 そっと横を見てみれば、そこには時間を止めたかのように表情の固まった、生気の感じられないなごみの顔があった。

 多分、私の顔も同じような表情をしていたのだと思う。まるで鏡を見るようにうり二つの顔があったのだと、見てもいないのに――そう思った。

 私たちは、和友の心の中という広大な世界で独りになった。

 

 

「百聞は一見に如かずっていうか、むしろあれは論より証拠って感じだったよね。見なきゃ一生理解できない――そういう類のやつ」

 

 

 圧倒されたのは、私となごみだけじゃない。紫と藍以外はみな、一言も話すことなく夜を超えた。まるで溜め込んでいた吐き気を外に出さないように、心に想いを溜め込んだまま浅い眠りについた。

 どこに行ってしまったのか、影狼と大妖精の姿はここには見当たらない。きっと眠れなくて夜の闇に消えたのだろう。想いを上書きされたから、心を塗りつぶされたから、自分の色が見えなくなったから、見えなくなった自分の色を探しに行ったのだろう。自然とそう思ってしまうぐらいに、和友の心の中は色濃かった。

 

 

「瞼の裏が透けているみたいに見えてくる。思い出そうとしなくても勝手に見せつけてくる。焼き付いているように、離れずに残ってる」

 

 

 いくら無心を貫こうとしても、何も考えずに眼を閉じることはできなかった。眼を閉じることで瞼の裏側に浮かんでくる光景にせりあがってくるものを止められなかった。

 だけど、時間の流れに逆らうことはできない。私は、時間の流れに乗って今日を迎えた。無理矢理に夜を超えた。

 何も捨てられず、全てを抱えたまま、何も変わらない今を得た。

 

 

「ねぇ、なごみは何か思いついた? 和友を助ける方法とか、今の状況を打開する方法」

 

 

 ふと部屋の隅で力なく座っている存在に声をかけながら長年勉強してきた手話を飛ばす。

 布団をしまうこともなく、座ったまま肩を落とした状態のその者は、赤くなった目を隠すこともなく首を横に振った。

 ――だよねぇ。

 見つからない。見つかりっこない。

 だってこれは、なんの変哲もない普通のことなのだから。自然な心の作用なのだから。

 それは息を吸ったら吐くようなもの。疑問に思うような話でもなんでもなく、不思議に感じることでもなく、あるようにあればそうなるようなもの。

 大切なモノを失い、悲しむ。

 大切な人を亡くし、涙する。

 今起こっていることは、そんな当たり前のことなのだ。

 問題視することでも、解決しようとする内容でもない。

 

 

「和友の苦しみは、止めようとする方が間違っている気がするよね。両親のことを忘れるっていうのもおかしいし、どうでもいいと切り捨てるのも間違っている気がする」

 

 

 昨晩からずっと考えていた。

 何とかできないかって、ずっと考えていた。

 だけど、考えれば考えるほど、このまま終わってしまう形が最も自然なのだと感じてしまう。理性が訴える、感情が訴える、これで正しいと自分が言っている。

 この件で腑に落ちないのは、曖昧にする程度の能力を和友が抱えてしまったことだけだ。制御できない能力を持ってしまったことだけが引っかかっているだけで、他に喉を通らないものは何もなかった。

 この納得感が――さらに吐き気を呼び起こしてくる。まるで、すんなり飲み込めていることに対して心が拒否しているみたいだった。

 

 

「なんで和友なんだろう。どうして、こんなことになっちゃったんだろう……」

 

 

 なんで、和友に曖昧にする程度の能力が発現したのか。

 どうして、そんな力に選ばれてしまったのか。

 そんなふうに、結果が導かれた原因ばかりに思考が囚われる。

 

 

「ん……」

 

 

 考えにふけっていると、唐突に肩を叩かれた。トントンと二回叩かれた衝撃で思考の海から現実に戻ってくる。開かれた視界の先には、なごみの想いがつづられたスケッチブックが提示されていた。

 

 

(能力を制御する方法、消す方法を考えるのが和友の病気を治す正攻法だよ)

 

「……うん、そうだよね。なごみもやっぱりそう思ったんだ」

 

 

 両親のことを忘れるわけでもない。

 感情を捨ててしまうわけでもない。

 無関心になるわけでもない。

 あくまでも制御不能になっている能力をどうにかする。

 それが正攻法、正しい攻略方法――そう表現された言葉になごみの想いが伝わってくるようだった。かくいう私も、同じ気持ちだった。

 ――にしても、なごみは変わった。こうしてなごみと話していると、随分と変わったように感じる。学校に通っていた頃とは違って、生き生きしている。表情に生気を感じるようになった。

 

 

「話は変わるんだけど、和友のことも驚いたけどさ、なごみにも驚いたよ。随分と魔法が使えるようになったみたいじゃん! 言葉が話せなくたって、耳が聞こえなくたって、頭の中で会話できるようになったんだもんね」

 

(みんなのおかげ)

 

「そんな謙遜しなくてもいいって。なごみの頑張りがあったから今がある、そうでしょ?」

 

 

 なごみは褒められ、少し恥ずかしそうに笑う。はにかんだ笑顔で、昔と比べて大きく変わった無垢な表情を浮かべる。

 そんななごみの笑顔を見て、私の顔も自然と綻んだ。何も手にできていなかったあの頃と違う、最近見せるようになった顔が微笑みを作らせた。

 2人だけの空間に柔らかい雰囲気が包むと、なごみの右手がゆっくりと私に伸びてきた。まっすぐ伸びた手が私の頬に添えられ、なごみの温度が頬を伝う。

 

 

「どうしたの?」

 

「希には、どうしても私の言葉で伝えたかったから。私の言葉で伝えるね」

 

 

 頬に添えられたなごみの手から僅かに光が漏れ出すと同時に、頭の中になごみの声がこだまする。まだ慣れないはずのなごみの声が、なごみと同じ温度を持った言葉が、ずっと昔から聞いていたような懐かしさを呼んでくる。 

 ――抑揚が緩やかで、でも棒読みじゃない、そんな優しい声。

 

 

「今まで守ってくれてありがとう。助けてくれてありがとう」

 

「急にどうしたの? 私は別に何もしていないよ」

 

「希からしてみたら当たり前のことだったのかな? 自分がやりたいようにやっただけなのかな? うん、そうだと私も嬉しいな。希にとって私は特別じゃないほうが私にとっても嬉しい」

 

 

 私には、なごみの言いたいことがピンと来なかった。すぐにどんな話なのか理解することができなかった。

 でも、次に放たれた言葉が心の奥底に沈めた記憶を突き始めた。

 

 

「希は特別だった。希は私にとってヒーローだった。困った時に助けてくれる。苦しい時に守ってくれる。だけど、守ってもらうたびにいつも思ってた。私が、私という存在が希のことを縛っているって」

 

 

 刺激された記憶が痛みを訴え始める。

 なごみを守ってあげていたのは。

 なごみが困っていたところを助けようとしたのは。

 ――どうしてだっただろうか。

 ――どうして私は、なごみと友達になったのだろうか。

 始まりの記憶が嫌な顔をのぞかせ始める。

 私は、息が止まりそうになるのを抑えながら否定の言葉を口にしようとした。

 

 

「そんなことない、なごみは私にとって」

 

「そんなことある!!」

 

 

 初めて聞くなごみの大きな声に喉まで出かかっていた言葉が止まる。勢いの止められた私を追い込むように、なごみの想いの勢いは増して濁流のように私に迫ってきた。

 

 

「私を守ろうとしなかったら、私を助けようとしなかったら、希はこんな目に合わなかった。苦しむことはなかった。私にとってのヒーローに重荷を背負わせたのは私だよ……」

 

 

 力強く握られた手が震えている。

 声が揺れて、表情豊かになった顔が酷く歪んでいる。

 泣いちゃいけないと戒めるように、苦しみを隠すように、下手くそな微笑みが作られた。

 それは、私のよく知った顔だった。私の一番知っている顔だった。私の心に一番深く刻まれた表情だった。

 初めてなごみを見つけた時、あの時も同じような顔で、歪んだ顔で、苦しげな表情で、ハリボテの笑顔を浮かべていた。常にうつむいていた顔が、助けを訴えていた。

 

 

「私は、こんなだから。怖がりで、自信がなくて、話せないから。伝えられないから。周りから嫌われて、疎外されて、いじめられても仕方なかった」

 

 

 なごみは、教室で一人ぼっちだった。

 いつも孤独だった。

 場違いだった。

 そこにいることが間違っているような錯覚さえ覚えた。

 誰とも親しくなれず、誰にも近寄れない。

 筆記による筆談は、ちぐはぐで。

 心と出てくる言葉には大きな乖離があった。

 悪口を言われていることを雰囲気で察することができても、気のせいだとごまかしていた。

 涙目になった顔が、必死に嘘を破っていた。

 見せないようにうつむく顔がなごみの表情の全てだった。

 

 

「私には音が聞こえないから。人と違うから。劣っているから。「な、ゴミ!」と言われても分からないようなそんな奴だったから!」

 

 

 近くで見ていた私には、よく見えていた。

 毎日、苦しそうで。

 毎日、辛そうで。

 毎日、何かを探しているように見えた。

 昔と変わらない表情を張り付けたまま繰り出されるなごみの言葉が心に突き刺さる。

 そのたびに、出会いの始まりの記憶が掘り起こされる。

 どうして、なごみに近づいたのか。

 どうして、なごみを見つけたのか。

 私がなごみに接触した理由が頭の中を徘徊する。

 

 

「だから、いつも独りだった。だから、希に迷惑をかけた!」

 

 

 ああ、それ以上言わないで。

 それ以上、何も言わないで。

 心がなごみの心に共鳴するように大きく叫ぶ――絶叫のような声を上げる。

 私がなごみを選んだ理由が――心にナイフを突き立てる。

 深く、鋭く、めり込んでいく。

 

 

「そんなどうしようもない奴だから、優しい希を引っ張ってきちゃった。こんな辺境の地まで、幻想郷まで連れてきちゃった。あの時、落ちたのは私だけだったはずなのに。引きずってきちゃった」

 

 

 幻想郷に来ることになったのは、転落事故からだった。

 学校の屋上から落ちたのが、外にいた時の最後の記憶だ。

 私たちは落ちた。学校の屋上から転落した。

 落ちる直前になごみが手を掴んだ。

 掴まなきゃいけないと思ったわけじゃない。

 心が動く前に、体が動いた。

 なごみと手が繋がったころには、地面と足は繋がっていなくて。

 手を引かれるように落ちた。

 

 

「だからここに来た時、変わらなくちゃいけないって思った。和友が努力している姿を見てからその想いはもっと強くなった。変わらなくちゃ、変わらなくちゃって! 希の手を引っ張るような存在から、横を歩けるような存在になるんだって!」

 

 

 ――違う、違う、そうじゃない! 私は、なごみのヒーロ―になれるような人間じゃない! 私がなごみに声をかけたのは、私がなごみに手を伸ばしたのは――

 かつての動機を言葉に出そうとしたが、口が開かなかった。まるで怖がっているように、口が震えて言葉が出なかった。なごみの純粋な強い想いに押し負けた。

 

 

「もう、大丈夫だから。私は一人で歩いていける。だから心配しないで。希は、希の好きなように生きていいから! 困ったことがあったら今度は私が助けるからね!」

 

「…………」

 

 

 何も言えなかった。

 どういたしましての言葉さえも、出てこなかった。

 何も言わない私をしばらく見つめたなごみは、頬に一筋の線を描いたまま手を引いた。頬に触れていた温かさが消えると同時に、まぶしいほどに明るい表情が眼前に広がった。

 

 

(顔、洗ってくるね)

 

「…………」

 

 

 やっぱり何も言えなかった。

 なごみは、私を置き去りにしてふすまを開け放って外へと駆け出した。

 なごみの影が完全に見えなくなってから数秒経って、ようやく私の口は命を宿した。

 

 

「あれが、本物のなごみの笑顔……」

 

 

 故意に作ったものではなく、無理を張り付けたものではなくて、自然と顔に浮かんだもの。今までで一番綺麗な輝きを放った笑顔だった。

 その輝きが――私の影を色濃く見せた。

 

 

「なんで違うって言えなかったのかな、私……」

 

 

 私は、なごみを助けようと思って手を差し伸べたわけじゃないんだって。

 私は、なごみを救ってやろうと思って両手を広げたわけじゃないんだって。

 私は、なごみのヒーローではないんだって。薄黒く汚れたやつなんだって。

 どうして言えなかったのだろうか。

 なごみは想いを吐露してくれたのに、どうして真実を告げられなかったのだろうか。

 

 

「一旦外に出よ……太陽の光を浴びれば気分も少しは晴れるでしょ」

 

 

 薄暗い部屋の中から逃げ出すように日の光を求めて、なごみが開け放ったふすまへと移動する。降り注ぐ光の量にわずかに目を細めて大きく息を吸う。

 あーあ、何をしているのだろう。何を悩んでいるのだろう。

 

 

「おはよう。なごみもそうだったが、二人とも随分と起きるのが遅いのだな。日々の自己管理は大事だぞ? 早寝早起き――人生を節度よく生きる最初の一歩目だ」

 

 

 その嫌味ったらしい言い方と声で誰が話しかけてきたのか一瞬にして理解した。

 どうしてか、九本の黄金の尻尾を携えた妖怪――八雲藍はいつも私に対して棘のある言い方をしてくる。言っていることが正しく聞こえるのもさらに苛立ちを加速させる。

 でも、最初の頃よりは当たり障りなく関係を持てている。一時期は話せば喧嘩になっていた一触即発のレベルだったが、今となっては慣れてきているのもあって、大分マシな会話ができるようになっていた。

 

 

「遅かったのは今日だけよ」

 

「反論するのは構わないが、まずは挨拶を返すのを忘れないようにな」

 

 

 喧嘩を売っているのだろうか、相手を間違えればそう取られなくもなさそうなセリフに頭の琴線が触れる。

 こういうところだ。こういうところがなければ、なんて思わなくもなかったけど、私にとっての八雲藍という存在はそういうもの。

 でも、昔みたいにその場の苛立ちで噛みつくことはなくなった。イライラはするけど、抑えられるようになった。

 

 

「……おはよう」

 

「おはよう」

 

 

 穏やかな表情で挨拶に応えた藍の表情を見て、やっぱり違うなと思った。

 藍は私たちとは違う。私やなごみとは違う。

 藍は、昨日のことをどう思ったのだろうか。和友の心の中で何を感じていたのだろうか。和友の心の中に入った時、紫と藍だけが表情を変えずに遠くを見つめていた。遠くのどこかを見ていた。俯瞰しているわけでもなく、黄昏れるわけでもなく、ある場所に向かって視線を向けていた。

 

 

「……藍は知っていたんでしょう? 和友の心の中の状態を。あの、どうしようもない状況を」

 

「そうだな。2年ほど前から知っていた」

 

「やっぱりどうしようもないの? 和友のために何かできることって何もないのかな?」

 

「分からない。どうにかしようとは思っているが、実行できるような策がな……助けられる方法はあるにはあるのだが」

 

「え!? 助ける方法があるの!?」

 

 

 予想しないまさかの言葉に声が漏れた。

 助けられる方法がある。

 助けられる、続けられる、繋げられる。

 ずっと病気と付き合ってきた和友が無理だと言っていたから無理だと思い込んでいた。藍の言葉には、真っ暗な中に明かりを見つけたような驚きがあった。

 

 

「落ち着け。話は最後まで聞くように。そして、私に気安く触れるな。その腕、へし折るぞ?」

 

 

 細められた目に敵意を感じ、寒気が一気に背中を走り抜ける。

 私は、恐怖に引きずられるように無意識に伸びていた両手を慌てて引っ込めた。

 

 

「う、うん。ごめんなさい。ちょっと取り乱しちゃって。和友を助ける方法は無いものだとばかり思っていたから」

 

「使えない策など無いのと同じだ。私ですら思いついた策、紫様の頭には既にあるはずだろう。そして、和友もきっとな。それでも言わないのは、そういうことなのだ。それを和友が良しとしないから。それを誰かが良しとしないからだ」

 

「何それ、助ける方法があるのに助けないっていうの!? 助けられる方法があるのなら行使すべきじゃない! 助けられるのに助けないのは、それは見殺しにしているのと同じよ!」

 

「誰かが助かるのに、等価の誰かが犠牲になったら意味がないだろう? 世界の成り立ち上、何かの犠牲によって生が成り立っているとはいえ、この方法では誰も納得できない。私も、紫様も、和友も、満足できない」

 

 

 私には、藍の言っている言葉の意味が分からなかった。

 助けられる方法があるのならば、助けるべきだ。それをしないのは不義だと言ってもいい。

 満足するかとか、納得するかとか、そういうのは本来後からついて回る言葉のはずだ。行動に納得していたかという問いに対する答えは、結果論でしか語れないのだから。考えるのは、結果が出てからで十分だと思う。

 それで本人がどう思おうと、生きていさえすればいくらでも変えていける。生きていさえいれば、終わりを決められる。

 後でいくらでも謝ればいいじゃないか。

 後でいくらでも後悔すればいいじゃないか。

 終わってさえいなければ――いくらでも可能性はあるのだから。

 終わってしまえば――考えることすらできないのだから。

 

 

「満足するとか、納得できるとか、それってそんなに大事なの!? そんなもの後からいくらでも変えていけるじゃない。後付けで理由をつけてさ、振り返ってさ、反省すればいいじゃない。生きていなきゃ、何もできないんだよ? 何も、できないんだよ?」

 

 

 不思議と声が上擦った。溢れてくる感情に戸惑った。

 そうなったのは、きっと口に出した言葉に現実味があったから。

 昨日見た景色が、言葉に色を付けている。

 一度死にかけた経験が重さを着けている。

 目の前にいる藍も、どうしていいのか迷っているのか動揺している私を見て困った顔をしていた。

 

 

「ごめん。ちょっと取り乱しちゃった。気にしないで」

 

 

 私は、勢いよく頭をぶんぶんと左右に振ると目元を袖で擦った。

 

 

「そこまで言うのだったら問おうか。例えばだ、妖怪に供物を捧げるとして人間が一人選ばれた。その人を助けるために他の誰かが自分が人身御供になると言った。最初の一人は助かった。希は、これを良しとするのか?」

 

「その話は、大本の悪い妖怪を倒せばどうにかなる話だよね?」

 

「ふぅ……希には難しい話だったようだな」

 

「なにその冷めた目!」

 

 

 がっかりだと言わんばかりにため息をつく藍に勢いよく突っ込んだが、藍はそれ以上口を開くことはなかった。

 何か間違ったことを言ったかな。根源を断ち切ることがハッピーエンドを得るための方法には違いないと思ったのだけど。

 それにしても、私は和友が死んでしまいそうになっているという事実にこうも感情を揺さぶられているのに、どうして藍は平気そうな顔をしているのだろう。

 私は、少しでも昨日を思い出すと思わず泣きそうになる。和友の不憫さを想うたびに、こみ上げてくるものに耐えられなくなりそうになる。一緒に暮らしている家族が死にそうになっているという現実に、打ちひしがれそうになる。

 聞いた話だと、藍は昔から和友と暮らしていたらしい。私たちが幻想郷に来る前は、紫と藍と一緒に暮らしていたと和友は言っていた。それに、藍が和友に好意を寄せているのは見ていて一目瞭然だった。

 好きだというのならば取り乱しそうなものだけど、どうして冷静にしていられるのだろう。私の思い違いなのかな。

 

 

「……あくまで憶測なんだけどさ。藍は、和友のことが好きなんだよね?」

 

「好きだ。この世の中で一番好きだと言っても過言ではない。和友のためなら油揚げだって我慢できる。もちろん、我慢している分の対価を和友からもらえないと我慢できないが……」

 

「油揚げと比較されていることには突っ込まないとして……」

 

 

 好きだと恥ずかしげもなく告げる藍を少し羨ましく思う。素直に感情を口にできるその真っすぐな姿勢に劣等感を覚えた。

 藍のように思ったことを素直に言えたら、言えていたら。きっと、今という時間はなかった。過去という昔もああじゃなかった。ついさっきだってなごみに言えていたはずだった。

 ――私は、今の自分に後悔をする。今の無力で何もできない自分が嫌いだった。

 藍は後悔しないのだろうか。好きな人を失いそうになっている今を変える術を持っていてそれを使わないことを。好きな人ができたことのない私には好きな人の優先順位は分からないが、満足とか後悔とかそういう気持ちで助けないという選択ができるものなのだろうか。

 私は、未だに体験したことのない好きという気持ちを持っている藍に問いかけた。

 

 

「私、これまで誰かを好きになったことがないのだけど、好きってどういう気持ちなの?」

 

「質問の意図が分かりかねるが……好きという気持ちは、別の言葉で表すことはできないものだぞ? 好きという感情はあくまで好きという想いでしかない」

 

「……意味が分からないのだけど」

 

「好きも感情の一部ということだ。楽しいはあくまで楽しいという感情だろう? それ以外の言葉で表せるのか? そもそもそれ以外に言い換えたところで何か理解できるのか?」

 

「共感できる気持ちとか、納得できるものがあれば、何か分かるんじゃないの?」

 

「当たり前だが、好きという言葉をどんな言葉に直したしたところで、好きという言葉から大きく外れたりはしない。当たり前だ――好きという言葉を別の言葉にしているだけだから差異ができるわけがない。つまり、好きという感情が理解できない者に何を言っても伝わらない、私はそう思うがな」

 

 

 そう言われるとそんな気がした。

 楽しいという感情を知らない相手に、どうやって楽しいという感情を伝えるだろうか。

 感情のない人間に、どうやって心を伝えるだろうか。

 死んでいる人間に、どうやって温かさを伝えるだろうか。

 私には、分からなかった。

 

 

「……だったら、質問を変えるわ。どうして和友のことを好きになったの?」

 

「はぁ……希、お前は本当に何も知らないのだな。その問いを聞くだけで誰も好きになったことがないというのがよく分かる」

 

 

 本日二度目の大きなため息に、間違いを犯した空気が蔓延する。

 ――私、変なこと言った?

 ため息をついた藍は、やれやれと言わんばかりに告げた。

 

 

「どうして好きになったかという問いは、問われた全員が同じ答えを返すと思うぞ。私に限った話ではないだろう。誰に聞いても同じ答えが返ってくるはずだ」

 

「……ちなみにその決まった答えっていうのは?」

 

 

 私の問いに対する藍の答えは、なんともシンプルなものだった。

 

 

「好みと合致したから。後からそれが好みになったのか、昔から好きだったのかは分からないが、どうして好きになったという問いに対する答えは、自分の中の好きと重なったから以外にないはずだ」

 

「そういうものなの? 思ったより俗物的っていうか、特別感がないっていうか、随分と普通な気がするんだけど……なんか納得できない。本当にみんなそうなの? もっと、ちゃんとした理由があるんじゃないの?」

 

「希は、好きになることが何か特別なことだと思っていないか? 好きになるのなんて特定の食べ物が好きな理由と同じだ。触感が好き、味が好き。だから好き。それだけのこと。どうしてその味が好きなのかと問われたらどう答える? 好みだからとしか言いようがないだろう?」

 

 

 言われてみれば、それもそうな気がした。

 好みと合わなければ、好きになることなんてないだろう。

 というか、尋ねるべき問いを間違えた。答えてほしい内容の問いではないことに気付いた。

 私が聞きたかったのは、どうして好きになったのかではない。

 私が聞きたかったのは――好きの居場所だ。

 どこが好きになったのかという問いの答えである。

 

 

「じゃあ、和友のどこが好きになったの?」

 

「どこが、か……」

 

「やっぱり優しかったからとか、真っすぐなところに惹かれたとかそんな感じ?」

 

「…………」

 

 

 藍が僅かに顔を曇らせて悩むそぶりを見せる。口元に手を当てるしぐさをして、少しの間を開けた後に質問に対して答えた。

 

 

「ふむ、こうして考えてみると不思議なものだな。和友のどこが好きになったのかという疑問に対して浮かんでくる言葉の中にピンと来るものがない。きっと私は、和友のどこかが好きになったから好きになったわけではないのだろうな。もちろん優しいからとか、助けてもらったからとか、挙げられる理由はあるが……違うな。しっくりこない」

 

「え、違うの? 私としては優しいからとか、困っているときに助けてもらったからとか、一生懸命な姿がかっこいいからとかのほうがすごく分かりやすいんだけど……」

 

 

 女子の間で好きな男子の話をする場合、大体こういう理由がやり玉にあがる。

 スポーツしているところ、楽器を弾いているところ、一生懸命な姿に心を打たれる。たまに話す会話の中で、共通点を見つけて盛り上がる。困ったときに手伝ってもらった。手助けをしてもらった。きっかけがどこかにあって、どこかに惹かれる。そういうものだとおもっていた。

 

 

「もちろん好きな部分はある。ただ、それが全てではないからな。嫌いな部分もある」

 

「嫌いなところがあるのに、好きになるの?」

 

「嫌いなところがあることと好きになることは関係がない。自分と相手は違うのだ。相手の全てが好きになるなんてありえない。好きな相手にだって嫌いな部分は必ずある。全てが好きで構成されている奴なんていうのは、頭の中の虚像だけだろう」

 

「……そうかも」

 

「和友にも、もちろんある。書き記す作業をしている和友は狂気の沙汰だ。ない方がいい。他にも思い通りにいかないことは山ほどある。私としてはもう少し甘えさせてほしいのだが……嫌がることは余りしたくないからな。もちろん甘やかす方でも私は構わないのだが、それもまた」

 

「いや、そんなことまで聞いてないから」

 

「ただ、そういう部分もひっくるめて愛しく思う。嫌いな部分も、好きな部分も全部が和友だ。そういう存在だ。そういう存在の和友がいいのだ」

 

 

 聞いているこちらが恥ずかしくなりそうだった。

 好意を平然と口にする藍の顔は涼しげで、それに反比例するように私の顔が熱くなる。見ることはできないが、私の顔は真っ赤に染まっているだろう。

 そこまで話すと藍の視線がどこか遠くに向かう。はるか遠くの青い空の果てに視線を飛ばしていた。そして、少し考え込むしぐさを見せると――何かを思い出したのか頬を染めた。

 普段からすました顔をしているばっかりの表情しか知らない私は、初めて見た藍の女性の顔に思わずドキッとした。

 

 

「ああ、そうか……私が和友のことを好きになったのは、私がそういう私に成れたからだ」

 

「そういう私に成れた?」

 

「和友の傍にいる私が好きになったから。隣でドキドキしている私が好きになったから。自然と笑っている私が好きになったから。和友の隣が私の胸の中を一杯にできる場所だったから」

 

「それだと和友が好きっていうより、自分が好きになったからって言っているように聞こえるんだけど」

 

「そうだな。それで、間違っていないのだろう。私は、和友のどこかが好きになったから和友のことを好きになったわけではない。和友の傍にいる私が好きだから。だから、和友と一緒にいたいと思うし、和友を大切にしたいと思う。そんな私を見せてくれる和友を愛しく想うのだ」

 

 

 藍から和友を大切に思う気持ちがひしひしと伝わってくる。

 温かい好意と、素直な眩しさが光っている。

 和友を大切に想うのは――和友が好きになったのは、好きな人の隣にいる自分が好きだから。和友と一緒にいる自分が好きだから。

 こんなことを外の世界で言ったら、世間はあまりに自分よがりだと、自分勝手だと、相手のことを考えていないと笑うだろうか。

 私には、藍の自分勝手な理由を笑うことができなかった。

 なごみの傍にいることを自分の都合で選んだ私には、笑えなかった。

 

 

「だったらなおさら助けたいと思うんじゃないの? 大切な場所なんでしょ?」

 

「希は私の話を聞いていたのか? 和友の隣にいる自分が好きだから大切なのに、どうして和友を助けて後悔するような選択ができる? それをしてしまったら私は私を嫌いになるだろう。罪悪感と共存するような形になれば、私は和友の隣にいることに耐えられなくなる」

 

 

 罪悪感に耐えられなくなる。

 意識したことで芽生えた気持ちに見て見ぬ振りができなくなる。

 どうしてそんなことをしてしまったのか。

 どうして嫌われるようなことをしてしまったのか。

 どうして自分が嫌いになるような選択をしてしまったのか。

 嫌いな自分を好きな場所に置きたくなくなる。

 

 

「それでは――このまま和友を失ったのと同じだ。未来にかけて変えられることならばいいのだが、この選択はそういうわけにもいかない。一生引きずることになる。希、お前は後悔をしながらその者の隣に居続けることができるか?」

 

「……そんなの、分かんないよ」

 

 

 藍の問いかけに先ほどのなごみの笑顔が脳裏をかすめ、芽生えた罪悪感がこちらをじっと見つめていた。

 




遅ればせながら、何とか更新いたしました。

今回の話は、希視点で進んでいます。
希の迷いがうまく表現できているといいですね。
・のぞみに接触した理由、理由を話せなかったわけ。
ここを中心に考えてもらえば、話の中身が理解できるかと思います。

次回は、なごみと希の会話を挟んだ後に
日常的なところを書くかと思います。
その次から永夜抄ですね。

今後ともよろしくお願いいたします。


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見たいモノと見えないモノ、そして見えたモノ

全6話編成の第12章2話目です。
12章は、永夜抄のお話になります。


 昨日から希となごみの様子がおかしい。昨日の朝からお互いに謎の意識をしあっている。こうして暖かくなってきたお昼の陽気を打ち払うような気持ち悪さがいつもあるはずの和やかな雰囲気を打ち破っていた。

 個別に話しかけると違和感がないのに、二人が話そうとするとちぐはぐになってしまう。噛み合わないというか、噛み合わせたくないというか、どうにも意識しているのは希の方だけのようだが、その理由は分からないでいた。

 

 

「藍は、希となごみに何があったのか知っている?」

 

「残念ながら私は知らないぞ。思春期には色々あるのではないか? 悩み事も多い年ごろなのだろう」

 

 

 興味なさげに告げられた言葉に、二人の様子を眺める。部屋の中にいる希はどこか上の空で考え事をしているように見えた。

 なごみは、ぼーっとしている希に手話や魔法を使った会話など様々な方法で必死に話しかけている。だが、希はなごみの問いかけに対してひきつった笑みを浮かべるばかりで、曖昧な反応を返すだけだった。

 

 

「……生きていればなんでもあるか。僕たちは生き物だもんね」

 

 

 こうして一人で納得する。どうしてそうなったのか疑問はあるけど、どうしてそうなってしまうのかについての疑問はない。だって、全くならない方がおかしいのだから。変化をしながら生きている生き物ならば、絶対に起こりうることなのだ。

 空を見上げながら、半分が終わった今日をどう過ごすかを考えてみる。雲が流れて、風が吹いて、時間が過ぎていく。

 隣には藍がいて、後ろにはちぐはぐな希となごみがいて、目の前には昨日は見かけなかった影狼さんと大妖精が椛と一緒にいた。

 影狼さんと大妖精が笑っている。昨日は見せなかった笑顔を浮かべている。椛に家事のやり方を教わりながら、苦戦する影狼さんを大妖精が手伝っている。洗濯物を干している二人の姿はどこにでもいそうな主婦とその子供に見えた。

 

 

「穏やかだな。このまま平和な日々が永遠に続けばいいのだが……」

 

 

 隣から静かに声がこぼれた。

 永遠に続けば――僕はその声に思わず反応した。

 

 

「永遠に続くなんて僕は嫌だな」

 

「……ん?」

 

 

 不意に藍の口から疑問符が漏れ出す。

 藍は同意が得られると思っていたのだろうか――あっけにとられたような顔が固まったままこちらを見ている。

 理由を教えてくれ、藍の目が僕にそう告げていた。

 僕には、永遠というものの良さが分からなかった。

 永遠とは、終わらないということ。

 このままとは、変わらないということ。

 それは、余りにも残酷ではないだろうか。

 それは、余りにも悲しくはないだろうか。

 でも、そう思うのは僕だけだろうか。

 妖怪のように長く生きてきた者にとっては、永遠という言葉が甘美な言葉に聞こえるのだろうか。

 病気を抱えていない者にとっては、障害を抱えていない者にとっては、異常を感じていない者にとっては、永遠というものが綺麗なものに見えるのだろうか。

 僕は、藍に見つめられた視線に臆することもなく心の奥底に想いをこめて首を横に振った。

 

 

「ううん、なんでもないよ」

 

「いや、今確かに嫌だと言っただろう? 和友はこの生活が続くことの何が嫌だと―――」

 

 

 藍が再度僕に問いかけている途中で、不意に僕の肩を叩かれた。叩かれた衝撃に追いつくように後ろを振り向くと、困ったような顔の希が映った。

 

 

「希か、なにかな?」

 

「ちょっといい?」

 

 

 希の纏っている雰囲気は完全に強張っていた。固くなって、窮屈そうだった。普通なら藍と話しているところに割って入るようなことをしない希のことを考えると、相当思い詰めていることも察することができた。

 藍も希のことを想ってか、いつもなら文句が飛び出しそうなところを黙ったまま口を紡いでいる。

 僕は、了承を得るために希から藍に視線を向ける。藍は視線だけで「私の方はいい、希をかまってやれ」と言った。

 僕は、希に再度意識を向けた。

 

 

「どうしたの?」

 

「二人で話したいことがあるから、少し付き合って」

 

「二人で話したいって言われても、ここに二人きりになれるところってある?」

 

「……どこかないの?」

 

「質問したのは僕なんだけど?」

 

「霊夢の次に博麗神社のことを知っているのは和友でしょ? どこか二人になれるところってないの?」

 

 

 僕の質問に対して希が疑問を口にしてしまうほどに、博麗神社はその予想以上に広大な敷地面積に反して一人になれる空間がない。部屋の数は3つしかなく、隔てているものはふすま1枚分の薄い壁だけである。話をしようものならば、たちまち聞こえてしまうだろう。そもそも、普段使っている部屋を使用する場合は人の出入りが多い時点で無理がある。

 博麗神社において二人だけになれる場所、あるとすれば一つだけである。僕は、ありえない選択肢と思いながらその可能性を口にした。

 

 

「……あんまり気乗りしないけど、トイレとか?」

 

「冗談でしょ!? 馬鹿じゃないの!? 却下! そんなところで話したくない!」

 

 

 案の定、希が両手を振り下げて体と言葉で強い拒否を示す。

 だが、提案を拒否するだけでは話は進まない。人の意見を否定するには、否定するだけの理由とそれに代わる意見を言わなければ、会話を停止させることになる。

 この場合、断る理由は言わなくても分かるから言わなくてもいいけど、代案は必要である。そうでもなくては、無理ですねという回答で終わりだ。

 

 

「文句を言うだけなら誰でもできるよ。否定するだけなら簡単さ。人の意見を否定するのなら別の代案を出さなきゃ。そうじゃなきゃ、文句を言うだけの奴だって見限られちゃうよ?」

 

「それでも、トイレで二人は嫌よ。臭いし、狭いし、落ち着いて話なんてできないわ」

 

「うん、それには同意する」

 

 

 トイレが無理となると、いよいよもって博麗神社で二人きりになれる場所がなくなる。それではどうしようか――考えた瞬間、逆転の発想が頭の中に浮かんだ。二人になろうと思うのならば、博麗神社から出ればいいのである。

 

 

「希が良ければ遠出することもできるけど、どこかに行く?」

 

「それだとみんなに怪しまれるわ。わざわざ距離を取らないといけない内容なんだって周りに気を使われたりするのは本意じゃない。なごみには、この件をあんまり感くぐってほしくないし、あくまで些細な立ち話程度で済ませたいの」

 

「難しい注文だね。考えてはみるけど、僕からはこれ以上の意見は出ないかも」

 

「……だったら、あそこなんてどう?」

 

 

 ゆっくりと持ち上がった希の右手がある場所を指し示す。僕は、希の人差し指の先端が指示した先に視線を向けた。

 視線の先には、神社から少し離れた場所にある物置小屋があった。そこは、掃除用具や行事で使う物がしまわれている場所である。

 確かに、二人で話をする場所として物置小屋という選択肢は「ない」わけではない。だけど、あそこで話すのには致命的な欠陥がある。もちろん僕が借りている部屋を使うよりははるかにましな選択肢ではあるのだけど、話を出さなかったのには、それなりの理由があった。それだけの理由があった。

 

 

「物置小屋でするの? 僕は別に構わないけど、二人で話すには不適切な気がする」

 

「何、和友も文句を言うの?」

 

「そういうわけじゃないけど」

 

「私が構わないって言ってんだから問題ないわ! ほら! 一緒に行くわよ!」

 

 

 勢いよく手を引かれて、縁側から引き下ろされる。引っ張られながら草履を履こうとしてうまく履くことができず、引きずるような形で希に追随した。

 後ろ髪をひかれるように後方へと目を向ける。先ほどまで話していた藍はやれやれというような顔で手を振った。そして、その奥で静かにこちらを見つめるなごみの姿が、目の端に映った。

 僕がそっと微笑むと、なごみは一瞬驚いた顔を見せたが――儚げに笑った。

 

 

「さぁ、誰にも見つからないうちにさっさと入るわよ」

 

 

 もう見られているよ、しかも二人に――とは言わなかった。

 物置小屋の扉が砂をかんだ音を立てて開かれる。扉が開いたことによる風が、普段全く空気が循環しない空間内に攻め込む。風によって舞った砂埃が乾いた匂いと共に襲い掛かる。僕は思わずむせそうになる口元を手で押さえた。

 

 

「ごほっ!! ごほっ!!」

 

 

 希が喉を通ってきた埃にせき込みながら物置小屋の中央まで進む。僕は、希の足が止まるのを確認すると唯一光が入り込む入口を閉じた。

 光の出入り口を失った小屋は、完全な暗闇に支配される。

 目の前が僅かに見える程度、何かがいることは分かる。輪郭線が黒さの濃淡によって表現されている。目線が合っているのかは分からない。分からないけれども――僕は視線を希に合わせた。

 

 

「ここって、掃除されていないし、思ったよりも暗いのね。喉がおかしくなりそうだし、和友の顔が見えないわ」

 

「普段から掃除されているわけじゃない上に、明かりがないからね。本当なら入口の扉をあけっぱなしにして作業する場所だから。こうして閉めちゃったら見えなくても仕方がないかも。でも、目が慣れてくれば見えるようになるよ」

 

「そう……」

 

 

 汚れていて暗くて視界が悪い、物置小屋が話し合いの場所に適さない理由の一つである。普通であれば隙間からいくらでも光が漏れてきそうなものなのだが、保存が効くようにするためか扉を閉めると真っ暗になるのである。

 しかし、真っ暗でどんな顔をしているのか分からない希だが、声のトーンから物憂げな様子をしているのは伝わってくる。

 待てどもなかなか次の言葉が出てこない希に、それほどに言い難いことなのだろうかと、僕は背中を押すように言葉を促した。

 

 

「で、話したいことって何かな。わざわざ二人で話すってことは他の人には聞かれたくないことなんだよね?」

 

「うん、特になごみには聞かれたくない」

 

 

 特に聞かれたくないと言われると、やはりなごみとの関係のことだろう。昨日何があったのか、どんなことがあったのか。

 きっとその経験を得た話をするのだと、僕は頭に事前準備を行いつつ希が言葉を放つのを待った。

 数秒だろうか、十秒が経過しそうになるころ、希は少し困った様子で言った。

 

 

「……なごみと違う部屋が欲しいんだけど、新しく場所を設けることってできる?」

 

 

 まさかの提案――というわけではなかった。

 ちぐはぐなものを切り離すのは、十分に考えられることだ。

 噛み合わせが悪かったら、矯正するか、引き抜くかの大きく二択の選択肢がある。希はどうやら引き抜く方法を選ぼうとしているようだった。

 

 

「今のままじゃできないね。そもそも博麗神社は僕のものではないから。許可を求めるのなら僕じゃなくて霊夢に言うべきだよ」

 

 

 博麗神社は、霊夢のものだ。僕のものではない。僕の手が届くのは、借りることができている1部屋だけである。それも、借りることができているだけで僕の部屋になっているわけではない。

 

 

「でも、霊夢に言う前に和友が家の大黒柱じゃない。あの部屋で生活しているんだから、まずは和友にいうべきかなって思って。これは、相談も兼ねているのよ」

 

 

 相談という言葉が出てくるということは、悩んでいるということである。

 まだ、自分の中でなごみと別居することを決めたわけではないのだろう。

 僕は、できる限り悩みに触れないように気を付けながら会話を進めることを決めた。

 

 

「相談か……希の願いを叶える可能性としては、今考えて思いついた方法が二つあるんだけど、どっちも難しい気がする」

 

「その二つの可能性っていうのは?」

 

「まず一つ目が、霊夢に言って後一つ余っている部屋を借りる。これは結構難しいと思う。僕が想いを告げたあの日以来、僕と霊夢との関係は悪化しているから。それに大人数になっても、もう一つの部屋を使ってもいいみたいな話を一切聞かないあたり、おそらく使えない理由があるんだと思う」

 

「……私がお願いしても、多分無理よね?」

 

「やってみるだけやってみたら? 何が起こるかはやってみないと分からない。未来ってそういうものでしょ? 未来が分かっているのならやらなくてもいいけどさ」

 

 

 おそらく希から頼んでみたところで不可能だろうけど、やらなければ分からない。話してみなければ、可能性はゼロのままだ。

 ただし、もしも部屋を増やしてもらえる方向になるとしたら条件が付くだろう。霊夢のことだ、プラスでお金の請求が来るに違いない。現在借りている一部屋だってお金の力で借りることができているのだから2部屋目も同じような条件が提示されるはずである。

 仮にお金を要求された場合、正直なところ僕だけじゃ厳しくなる。家賃という名目でお金を提供している僕だが、当初の予定では自分だけが部屋を使うはずだった。それなのに、希、なごみ、椛と増えて、影狼さんに大妖精が追加されようとしているのだ。部屋の窮屈感の増加に加えて、食費にかかる費用も馬鹿にできなくなっている。

 正直言って――このままの収入では今の生活を維持できない。それは一緒に住んでいる者ならば分かってもらえるはずだった。

 部屋を借りるお金は、きっと新しい場所を必要としている希が出してくれるのだろう。僕は期待をもって言葉を投げかけた。

 

 

「僕からも頼んでみるけど、お金を出してって言われたら手伝ってくれるんだよね? 期待しても大丈夫? これ以上費用が増えるのは僕としても辛くてさ」

 

「そこはまぁ……追々かな?」

 

「今の修業が終ったら真面目に考えてね。部屋を欲しがっているのは希なんだから。自分が欲しいものはできるだけ自分で得るように努力してよ」

 

「う、うん。それで、もう一つの方は?」

 

 

 僕は、そそくさと話題を流す希の対応に、期待が持てないことを薄々感じながらももう一つの可能性を提示した。

 

 

「2つ目が、ここみたいに別に小屋を建ててそこに住むという方法だね。時間とお金はかかるかもしれないけど、一番意見が通りやすい気がする。大事なことだから2回言うけど、時間とお金がかかるよ」

 

「…………どっちにしても難しそうね」

 

 

 2つ目の可能性を提示した時の沈黙の時間は、一つ目を提示した時よりも長かった。時間とお金がかかるという部分、特に時間という部分に引っかかるところがあったのだろう。そう思うのは、希がなごみと距離を置くことを急いているように見えたからだ。

 難しいと言うなごみを静かに見つめていると、僅かに後ろの扉がガタガタと揺れた。風が強くなったのだろうか。

 僕は、嫌な予感を覚えながら静かに後ろを振り向いた。そこには変わらず年季を感じさせる木目調の扉が少しも動かずに佇んでおり、特に変わった様子は見受けられなかった。

 

 

「和友は、私がこんなことを言い出した理由を聞かないの?」

 

 

 後ろを気にしているといきなり希に質問を投げかけられ、再び前を向く。

 さすがに暗さに目が慣れてきて、表情が読み取れるようになってきた。

 

 

「何のかな?」

 

「私がこんなことを言い出した経緯とか……気にならないの?」

 

「気になるけど、聞かないよ。僕からは聞かない。聞いてほしいのなら聞くけど、僕からは聞かない」

 

「気になるって言っても、聞くほどでもないってこと? 和友って、意外と冷たい人なんだ。家族のことなのに興味ないの? 困っている人を見つけたら助けようとか思わないの?」

 

 

 怒っているようにも、軽蔑しているようにも見える瞳に暗い色を見つける。

 不機嫌な声が、苛立ちを感じていることを訴えかけてくる。

 そして、それ以上に希の目に映る僕が随分と気持ち悪く見えた。

 僕に何を期待しているのだろうか。

 僕のどこを見ているのだろうか。

 ちゃんと僕が見えているのだろうか。

 僕は、希の見ている僕を見つめながら僕のことを冷たいと表現する希に言った。

 

 

「困っている人を助けないことが冷たいの? 興味がないことと聞かないことは一緒なの? どれも希がそう見たいと思って見ているだけだよ」

 

 

 こうして真正面から「冷たい」と言われたのは初めてだった。

 これまで生きてきて初めての経験だった。

 外の世界にいた僕だったら、必死に否定しただろう。

 これまでの僕だったら、その言葉に訂正を入れただろう。

 だけど、今の僕には思い詰めるような気持ちは一切なかった。

 

 

「でも言わせてもらうと、僕はそういうのはもう止めたんだ。自分のために惰性で助けるのは止めたんだよ」

 

「自分のために惰性で助けてた?」

 

「人を助けていれば、悪い人にはならないから。浮いた人にはならないから。誰かと繋がりを持てるから。独りにはならないから。良い人でいられるから。そういう自分ありきな考えで、人を助けるのは止めたんだ」

 

 

 助けなければならないと思っていた。

 手を差し伸べなければならないと迫られていた。

 ひどい奴だと思われないように。

 冷たい奴だと思われないように。

 最低な奴だと思われないように。

 普通じゃないと思われないように。

 そう思っていたあのころとは違う。あの時とは違う。

 ここにいる僕は、変わってきた僕だ。

 

 

「自分のために誰かを助ける、惰性で手を差し伸べる――そういうのって別に悪くはないんだろうけど、相手が善意を100%の純粋なものだと履き違えることも多いから。僕の差し出した手が邪な考えの一切ない綺麗なものに見えてしまう人もいるから。僕はね、あんまり相手にそういう期待をさせちゃいけないと思うんだよ。相手のために、僕自身のためにね」

 

 

 人は、誰にかに助けられたときに恩を感じる。感謝の気持ちと頭の上がらない気持ち、借りを作ったという何かを背負ったような気になる。

 お金に困った時、時間が足りない時、人手が欲しい時、困難に陥った人は差し伸べられた手に込められた思いを見つけられない。

 手を差し伸べられた人は手しか見えていないから。苦しんでいる現状に視野が狭くなっているから。想いは手のひらに現れるのではなく表情の奥底に現れるのに、そこにまで視界が持ち上がらない。仮に持ち上がっても、切迫している状況が色眼鏡をかけてしまう。

 

 

「人の心は見えないようにできている。だから僕たちはそこに光を見るんだけど、現実と理想の相違が良心の呵責からくる気持ち悪さを呼び起こすんだよね。それもまた、そういうものだと言われればそうなんだけどさ」

 

 

 見えないものを見ようとしない。見たくないものを見ない。

 それが人間のやり方だ。それは、肯定されるべきものではないけれど、拒絶されるものでもなく、否定されることでもなく、侮蔑を受けることでもない。

 全てが見えてしまったら伸ばされた手を掴むことができなくなるのだから。手を取ることに迷いを覚えてしまったら人間として生きていけなくなる。人と人の間、それを取り持つのが人間なのだ。手を取り合えなければ、人間でいられなくなる。

 僕たち人間は、受け入れるのだ。分からないことを、見えないことを自分の中で落とし込んで享受する。相手の存在を、相手の気持ちを、自分の気持ちにくみ取って溶かし込む。

 

 

「僕の場合は、どちらかといえば上手くキャッチボールできなかったことの方が多かった。みんなが見ている僕はどんどん大きくなって、投げてくるボールは次第に取るのが難しくなった。みんなには、僕が巨人にでも見えていたんだろうね。そう見せた僕も悪かった」

 

 

 助けてくれた相手に感謝の気持ちを伝えて、助けた相手はお礼を受け取る。本来それだけのことのはずなのに――二人の関係に大きな変化を生むことになる。

 良い方向に進むのか、悪い方向に進むのか――それはその人たち次第である。その人たちの受け取り方次第である。

 僕の場合は、悪い方向に進むことの方が少しだけ多かったように思う。期待値だけがどんどん大きくなって、みんなの見る僕が本来の僕からかけ離れているように感じることも沢山あった。

 希は、僕の話を聞いて何か思うことがあったのか、少し困惑した様子で震える声で言った。

 

 

「もし、もしだよ。自分勝手な理由で誰かを助けて、その人が自分をヒーローだと思っていたらさ。和友はどう思う?」

 

「悪いと思う。申し訳ないというか、罪悪感が出てくるよ。それで相手が傷ついたらなおさらね」

 

「じゃ、じゃあ……その罪悪感を拭うためにはどうしたらいいと思う?」

 

「心の中に生まれた罪悪感を飲み込めないのなら吐き出すしかない。助けた相手に正直に告げるのがいいと思うよ。僕はこれまで飲み込めなかったことがないから飲み込んでいたけど、余り気分のいいものではないからお勧めはしないかな」

 

 

 思ったままを口にした。

 自分の中で消化できない想いは、吐き出すしかない。

 行き場を失った想いは溢れてしまうから。

 溜め込んでしまえば、壊れてしまうから。

 

 

「そんなの無理よ。なごみに正直に話したら、軽蔑されちゃう。嫌われちゃう」

 

「ふうん、じゃあ止めておけばいいんじゃないかな。頑張って飲み込むしかないよ。僕は、内に溜め込むために心の壁を堅くするのには反対だけどね。話せるうちに話した方がいいと思う」

 

 

 人は、飲み込んだ気持ちを出さないようにと心の壁を堅牢にしていくたびに弱くなる。塞いだ心は意外と脆弱で、外からの攻撃には強いのに、内から出てこようとする感情にとても弱い。

 本来受け止めるためにある柔らかいはずの外壁は、硬さを得ることで脆さを兼ね備えることになり、クッションとしての役割を失ってしまうのだ。

 もしも限りなく溜め込める心の持ち主の場合は別だが、僕はやらない方がいいと断言できた。

 でも、どれを選ぶのかを決めるのは当人である希だ。

 悩んで、苦しんで、答えを見つければいい。

 納得できる答えを、自分で選べばいい。

 それがきっと希にとって一番いい選択なのだろうから。

 これで話は終わりだ、後は希次第である――僕は、自分の中で回答を飲み込むと話を打ち切ろうとした。

 

 

「話はもう終わりだよね? 部屋についてはどうするか決まったら教えて。お金については協力できないかもしれないから、そのつもりでね」

 

「ちょっと待ってよ!!」

 

 

 言葉を残して振り返って外に出ようとすると、勢いよく肩を掴まれ引き寄せられる。僕の視界の大半が切迫した表情を浮かべた希で埋め尽くされた。

 

 

「和友ならなんとかできるんじゃないの!? なごみに話をしてくれたりとか、それとなく伝えてくれたりとか、この問題を有耶無耶にしてくれたりとか、何でもできるんじゃないの!? 和友なら私より上手くやれるでしょ!?」

 

「何を言っているの? 僕がやったって希が納得できる結果になんてなりはしないよ。だって、これは僕がやるべきことではなくて、希がやらなきゃいけないことなんだから」

 

「私には無理!! こんな不安な気持ちを抱えたまま生活するのも、ちぐはぐなままなごみと一緒にいるのも、かといって離れて生活するのも無理!!」

 

 

 希は、想いをぶちまけるように吐き出してくる。

 このまま生活することも、このままなごみといるのも、なごみと離れるのも、どれも選べないと、涙と共に声を漏らした。

 僕は希に何も言わなかった。無理だという希に何も言わなかった。

 ただただ、見つめているだけだった。

 

 

「何とかしてよ! 私を助けてよ! 手を差し伸べてよ! 私たち家族でしょ!?」

 

 

 助けてと泣き叫ぶ希に、過去の光景がフラッシュバックする。

 私を助けてと僕を呼んだあの子が、同じ目をしている。

 苦しそうに、悲しそうに、救いの手を求めている。

 

 

「私、私……和友君に見捨てられたら……」

 

 

 そう言われたとき、小学生のあのとき、僕は伸びてきた手を振り払った。怖くて、怖くて、分からなくて、突き放した。

 けれども、今の僕は違う。あの時とは違う。

 僕は、希に向けて黙ったままゆっくり右手を伸ばした。

 

 

「た、助けてくれるの!?」

 

 

 勢いよく飛びつくように右手を掴まれる。

 だが、掴まれても僕は何もしなかった。

 握り返すこともなかった。

 不信に思った希が顔を上げてこちらを見てくる。

 疑心のこもった瞳が僕の目を一直線に見つめてきた。

 

 

「ようやく僕の目を見たね」

 

 

 怯えた瞳が僕を映している。

 怯えた希が僕の瞳に映っている。

 希の見ている世界には、さっきまで見えていた僕と違う僕がいた。

 いつもの僕が映っていた。

 

 

「僕の言いたいこと、分かるよね?」

 

「私、和友に同じことさせようとしてた。昔、私がなごみにしたことと同じことを……」

 

 

 これでは同じなのだ。

 なごみが希を見ているのと同じ。

 クラスメイトが僕を見ているのと同じ。

 相手の気持ちを汲み取らず、自分の見たい世界で生きている。

 希は何かに気づいたようで、目元に溜まった涙を右手で消し去ると、瞳に強い意志を宿して力強く宣言した。

 

 

「私、なごみのところに行ってくる!」

 

「うん」

 

「もし、なごみから軽蔑されたら、嫌いだって言われたら和友が慰めてくれる?」

 

「慰めないよ。だって、そんなことになりはしないって信じているから。普段の希となごみを見ていれば分かるよ。そんなことで、二人の関係が崩れるほど適当な積立て方をしていないでしょ?」

 

「そうね、なごみは私の一番の友達――親友だから。それはこれからも変わらないわ」

 

「うん、何も心配いらないよ。頑張れ、希ならきっと繋げられる。みんなと手を繋げる。僕は待っているからね。希となごみが一緒に戻ってくるのを待っているから」

 

「うん! ありがと! 当たって砕けろ、の精神で行ってくるわ!」

 

 

 希はそう言って物置小屋から出ようと僕を通り過ぎて物置小屋で唯一の扉を勢い良く開けた。開け放たれた部屋から暗がりに慣れた目に大量の光が入り込む。眩しい――そう感じた視界の中には5つの影が映った。

 数秒もたたずに両目が瞳孔を閉じ、光を調節する。

 目の前にいたのは、藍、椛、大妖精、影狼、そして、なごみだった。

 

 

「なごみ!!」

 

 

 希は、中心に立って居たなごみに勢いよく抱き着く。その瞬間――なごみが抱えていたスケッチブックが音を立てて地面に落ちた。

 なごみは勢いに押されながらもなんとか希の体を受け止め、共に涙を流している。影狼さんが優しく希の背中を撫で、椛がなごみの傍で微笑んでいる。

 

 

「すまないな。どうしても話が聞きたいとなごみに頼まれたのだ」

 

 

 藍が謝罪をしながらこちらに近づいてくる。藍の傍には、落ちたスケッチブックを拾った大妖精が控えていた。

 

 

「ああ、そういうこと。あの時の物音は風のせいじゃなかったのか」

 

 

 大妖精が抱えるスケッチブックには大きく「希、おかえりなさい。これからもずっと親友だよ」と書かれた文字が涙の跡と共に刻まれていた。

 




見えているモノが本来の形から外れてしまうことはあります。
思い入れや過去の経験――そういうものが特に影響を与えますよね。

今回は、話を読めばどういうことだったのか分かると思いますが
物置小屋の外で藍が会話を筒抜けにしてなごみに伝えていました。

物置小屋の欠点は、主に4点。
暗がりであること。
汚れていること。
声が外に漏れてしまうこと。
外から聞かれていることに気付けないこと。
特に入っていく様子を見られていたのが致命傷でした。

今回の話で、なごみと希が和解しました。
次回から異変に突入します。
遅ればせながら、更新が遅くなって申し訳ありませんでした。


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鳥かごの扉、飛び出した者たち

全6話編成の第12章3話目です。
12章は、永夜抄のお話になります。


 風が吹き、草木が揺れる音だけが存在する空間で、いつも通り空を見上げる。

 もうすぐ夜がやってくる。風が通り抜けると露出している肌が僅かに悲鳴を上げる。昼時にはまだまだ暑さが幅を利かせているが、夜になるにつれて気温が一気に落ちて、肌寒さが感じられる。夜には上着の準備が必要になってくる――そんな季節である。

 もう、夏も終わり。山々が色を付け始め、僕らの視界を彩り始めている。そして、鮮やかに染まる世界に茜色を加えている太陽が昇っている空には、同時に白いモノが存在していた。

 ――あれは、何だろう。

 ふと気になった光景が僕の心の中に疑問符を付ける。

 普通なら疑問なんて微塵も感じるはずもない普段通りの空のはずなのに、いつもと一つだけ違って見える。寂しそうに佇んでいる存在に視線を奪われる。

 暗さが忍び寄ってくる時間、18時を通りかかる頃。空に浮かんでいるソレは、今までと違う表情をしていた。

 

 

「いつもと違うというか、別人だよね」

 

 

 僕は、空に唐突に表れた変化に真っ先に気付いた。

 真っ先に――そう断言できるのはうぬぼれでも、自信過剰でもない。区別というものと共存してきた僕には、空に朧げに浮遊するそれが本来のものと異なっていることに本能的に理解できた。

 

 

「太陽の次は月がおかしくなったの? それとも月はもともと2つあったとか? 月も世代交代するのかな?」

 

「何をブツブツと呟いているの? 何かあった?」

 

「月がね、変なんだ」

 

 

 疑問を口にする僕を不思議そうな瞳で見つめる者が3人――希となごみと椛が部屋から縁側に近づいてきた。左からなごみ、希、椛の並びである。

 今日は、影狼さん、大妖精は来ていないため、博麗神社にいる主要なメンバーとしてはこれで全員である。

 3人は、僕の視線に誘われるように三者三様に空を見上げて疑問符を掲げる。視線の先には、太陽と月の二つが浮かんでいた。

 

 

「どういうこと? 私にはいつも通りの月に見えるんだけど、和友には違うように見えるの?」

 

「うん、別物に見える。あれは新しい月だよ。これまで僕たちの上で回っていた月とは違う。毎日見ていた月とは違うモノだ」

 

「……どう見ても同じにしか見えないわよ? いつもと同じでしょ? 何が変わったの? 光り方とか、色とか?」

 

 

 希にはやはり分かってもらえないらしい。そして、なごみと椛の顔色を伺うに、二人も希と同じように僕の言っていることが理解できていないことが見て取れた。

 もしかしたら、僕の言っていることは他の誰に告げても理解されないかもしれない。誰にも分かってもらえないかもしれない。

 だけど、今見えているモノは違うモノなのだ。これまで見ていたモノと、今見えているモノは違うモノなのである。僕の心がはっきりと区別している。僕の脳が差別している。

 両者の違いは、光り方が違うとか、色が違うとか、そういう目で見て分かる違いではない。ただ、違和感を覚えるのだ。対象そのものを取り込むような覚え方をした僕には、どうしても目に映るアレがこれまであったはずの月と同じものだとは思えなかった。

 希が僕の言葉に怪訝そうな表情を浮かべていると、全員が抱えているであろう想いを椛が告げた。

 

 

「今見えているあの月は偽物だということですか?」

 

「ううん、偽物ではないよ」

 

 

 偽物――本物ではないモノ。それは、本物を決める境界線からはみ出したものに送られる称号である。

 だとすれば、今見えている月は「偽物」ではない。あれは僕の境界線に抵触しているわけではなかった。

 

 

「偽物ではないとしたら……あれも本物ということですか? 本物が二つある?」

 

「そうなるかな。本物が二つ」

 

 

 僕がそう言うと信じられないといった顔で希が言った。

 

 

「和友は何を言っているの? 本物が二つあるわけないじゃない」

 

「そうかな? 別に本物が二つあってもいいと思うんだけど?」

 

「あってもいいかどうかじゃなくて、ありえるかどうかの話よ。私には違いが分からないけど、これまで出ていた月が本物なら、もう一つの月は偽物でしょ?」

 

「そんなことないんじゃない? 僕が思うに、そもそも偽物なんてこの世にはないんだ。よく似ているモノはあるかもしれないけど、全部が別のもので、基準次第で本物か偽物か決まる実物なんだよ」

 

 

 境界線の基準は人によってばらつき、ある人が偽物だというものは、ある人にとっては本物になることが多々ある。誰かにとっての偽物は、誰かにとっての本物で。判断する境界線が曖昧なモノは、本物も偽物も定義することができない。真偽のほどは、明確な境界線があって初めて呼称できるものなのだ。

 例えば、月とは――どういう条件があれば月と呼称できるのだろうか。大きさなのか、位置なのか、色なのか、それとも他の何かなのか。何がそのものを定義しているのだろうか。

 仮に以前の月を僕にとっての本物だとして、今上空に滞在している月が本物かと問われたら偽物だと言うだろう。違うモノだと断言するだろう。

 だけど、視界に入る丸い星が月かと問われたら「そうなんじゃないかな」と答える。きっとあれは月なのだろう。月というものの定義は知らないが、あれは月と同じだと思う。

 真偽とは、設けた基準によって答えが変わる曖昧なもの。

 見る人によって、設けた基準によって、本物と偽物の区別がついているだけの不安定なもの。

 結局のところ、本物だと思う心が映っているモノを本物にしているだけなのである。

 

 

「みんながアレを見て本物だと思うのなら、それだけでアレは本物になる。僕もアレを偽物扱いするつもりはないし、両方が月、それでいいと思う」

 

「私も希さんと同じようにいつも通りの月にしか見えませんが、仮に和友さんの言うようにアレが別の月だとしたら、急に月が二つになるなんて変ですよね」

 

「変、か」

 

 

 椛の言っている「変」という言葉の意味は、ありえないという思いが強く込められたもののように聞こえた。

 月が二つになる――この事実に対して変だと思う人間がどれほどいるのだろうか。きっと僕の思う普通の人間ならば、ここに気持ち悪さを感じるのだろう。違和感を覚えて、声を荒げるのだろう。恐怖を感じて、慌てるのだろう。

 だけど、僕は月が二つになるという事象を特別おかしいとは思っていなかった。疑問が出てくることはあっても「おかしい、変だ」という感情は微塵も抱えていなかった。

 よくよく考えてみてほしい――月はこの世界に一つしかないと定義されているのだろうか。定義されているとしたら誰が定義したのだろうか。

 僕からすれば、テーブルの上にリンゴが置いてあって席を外している間にリンゴが二つになっていたぐらいの感覚である。変化はあったにせよ、誰かがもう一つ置いたのだろう程度の些細なことでしかない。

 月のことなんて、偽物と本物の議論と同じだ。どこに境界線を引いているのか――心の中にある景色が、見えているモノに色を付けているだけなのである。

 だけど、僕はこういう考え方が他者に決して採用されない感覚であることを知っている。話したところで、伝えたところで、不毛なやりとりになるだけである。

 僕は、決してお互いの受け取り方の違いが議論にならないよう、言葉を選びながら椛に言った。

 

 

「うん、変化があったという意味では変だね。もしかしたら異変かもしれない」

 

「でしたら晩御飯を食べたら外に出てみませんか? 動くなら早い方がいいです」

 

 

 すかさず出かける算段を立てる椛の対応に少し笑みがこぼれる。椛は随分と僕の対応について慣れたようだった。

 

 

「そうだね。特に行く当てもないけど行ってみようか。いたるところで知り合いに聞けば何か分かるかもしれないし、これから何か起こるかもしれないぞっていう警告になるもんね」

 

 

 出ると決まったら早速、出かける準備をしよう。夜になれば霊夢が動き出す。霊夢が動き出せば、僕たちの出番はないだろう。霊夢が出れば、一切合切に決着がつく。異変解決のために生まれたと言っても過言ではないスペルカードルールの権化――それが彼女だ。

 動き出すなら早い方がいい。霊夢の場合はやる気がない分、動き出しが遅い。付け入るスキがあるとすればそこだけである。

 僕は、縁側から放り出していた両足を畳んで立ち上がり、後ろを振り返った。するとそこには、お互いに目配せをして準備万全といった様子の真面目な顔をした希となごみの姿があった。

 

 

「それ、私たちも行ってもいいよね?」

 

(私たちも行きたいです!)

 

 

 希となごみの口から外出に参加したい旨を告げられる。これまで留守番しかしてこなかった二人が明確に行きたいと言った。率直に言えば、異変に関わりたいと言った。

 前回の春雪異変の時に言った言葉。

 

 

「行ってらっしゃい。私たちも飛べるようになったら、戦える力がついたら―――その隣を歩くから」

 

(今は私たちの前を走っていてください。私たちも直に追いつきます)

 

 

 この言葉が体現される時が来たのである。

 妖夢のところで剣の修業を積んでいる希。

 パチュリーのもとで魔法の勉学に勤しんでいるなごみ。

 ついにこの時が来た――僕は目を閉じ、思考を巡らせる。

 何のために行くのか――目的。

 どうして行きたいのか――動機。

 なぜ、今までついてこなかったのか――理由。

 どうして、僕たちが今まで連れてこようとしなかったのか――原因。

 きっとこれらの疑問の答えを希となごみの二人は持っている。二人がついていきたいと言っている想いは単なるわがままではない。それが分かっている僕には、二人の意思を拒むことはできなかった。

 

 

「いいよ、好きにすれば。選ぶのは二人だから。きっと二人なら全部分かって言っているだろうし、僕は拒まないよ」

 

 

 僕が二人の行動に許可を出すと、二人に笑みが浮かぶ。

 ところが、二人の表情とは裏腹に椛の眉間にしわが寄った。

 

 

「和友さん、待ってください。二人を異変に関わらせるのは危険です」

 

「幻想郷はどこにいても危険だよ。出かけても、ここに残っていても一緒。霊夢も出てっちゃうだろうし、守ってくれる人は誰もいない」

 

「そんな屁理屈は聞いていません。どう考えても異変の中心地に行く方が危険です。彼女たちは知らないのです。死がすぐ隣りに潜んでいる恐怖を」

 

 

 強い口調でたしなめてくる椛だが、死が身近に感じられることを交渉材料に混ぜるのは、希となごみに対しては逆効果な気がした。

 

 

「死はどこにでもついて回っているよ。感じる機会が無いだけで、いつもそばにいるものだ。椛は空を飛ぶと落ちた時に死ぬからって飛ばないなんて選択肢を選ぶの?」

 

「可能性の問題です。そんな考慮に値しない程度のことを考える必要はありません」

 

「それは、希となごみにとっても同じだよ。想像できないことや考慮に値しないことで二人は止まらないと思うけど」

 

 

 死とは人生で一度しか体験できないもの。普通に生きていれば、触れる機会も少なく、想像が広がらないものになっている。だから、死にそうになっている自分が見えてこない。死から溢れるはずの恐怖が湧いてこない。

 見えないもの、知らないものを警戒することは、恐ろしく困難である。

 

 

「和友さん! 冗談を言っている場合ではないのです!」

 

「僕は、冗談なんて言わないよ」

 

 

 冗談なんて一言も言っているつもりはなかった。

 前提として、人はリスクと共に生きている。

 歩いている途中で転んで、頭を打って死んでしまう可能性だってゼロじゃない。ただ、それでも歩くことを止めないのは死ぬリスクが余りにも小さいからである。経験的にリスクが小さいことが分かっているから歩けているのだ。

 だけど、希となごみには肝心の経験がない。異変時に外に出たことのない彼女たちにとってそれは想像できないリスクになっている。

 それは、健康に悪いからタバコを吸わない方がいいというような抑止とは異なっていて、他国から核ミサイルが飛んでくるかもしれないから外に出るのは危険だと言っているに等しい内容である。

 そんなものは――何の意味も持たない。

 

 

「和友さんが止めなきゃ、本当に二人がついてきてしまいます!」

 

「椛、止める相手を間違えているよ。僕を止めても何も止まったりしない。僕が希となごみを連れて行こうって言ったわけじゃないだからさ」

 

 

 希もなごみも、止まらないし、止められない――僕は分かっていて何も言わなかった。

 椛は、僕の言葉に納得したのか意識を僕から二人に向けた。

 

 

「希、なごみ。和友さんの言うことが本当ならば、異変の主犯は月をもう一つ作るなんてことを誰にも気取られずにやれる人です。かなりの実力者の仕業でしょう。身の安全の保障はできませんよ? それでもいいのですか?」

 

「あのさ……私の勘違いだったら申し訳ないんだけど、身の安全の保障なんて今まであったの? 誰が保証してくれていたの? 一度死んでしまっているような私の命を、誰が確保してくれていたっていうの? まさか自分たちが守っていたなんて言わないわよね?」

 

「希も屁理屈を言うのですか? 聞き分けのない子供みたいにわがままを言っている場合ではないのですよ」

 

「いえ、ここはワガママを言うべき場面、我を通す時よ。今言わなきゃいつ言うっていうのよ?」

 

 

 希の足が踏み出され、椛との距離が詰められる。

 見上げてみれば、希の表情は強張り、怒りがふつふつと存在感を示していた。

 椛は、怒りをあらわにする希に負けじと胸を張って対応した。

 

 

「ねぇ、椛から見た私達ってなんなの? 愛護動物なの? か弱くてすぐ死んじゃう、守らなきゃいけない生き物なの? だとしたら椛の目は節穴よ! 私たちのこと何にも見えていない!」

 

「間違っていないでしょう!? あなたたちは事実弱いじゃないですか! もろいじゃないですか!? すぐに死んじゃうじゃないですか!?」

 

「私たちのことちゃんと見てよ! 私たちは体だけでできているんじゃない! 心だって私たちの一部なの!」

 

「そんなこと分かっています、分かっていますよ! 行かせてあげられるものなら行かせてあげたいです! 私だって貴方たちの想いを汲んであげたい! でも、あなたたちが傷ついたら、死んだら、悲しいじゃないですか。私は二人に傷ついてほしくない。家族を危険にさらしたくないんです!」

 

「私たちのことを心配してくれるのは嬉しいわ。だけど、それだと私たちはいつまでここで待っていればいいの? いつまで立ち止まっていればいいの? 自分の意思で進めない私たちはいつまで自分を殺せばいいのよ?」

 

「それは……もっと強くなってからでもいいではないですか。強くなって心配されないようになってからでも、いいじゃないですか」

 

「っ……! さすがに冗談でしょ!? 頭おかしいんじゃないの!? 椛の言っていることは、まだ子供だからダメって言っているのと同じよ!?」

 

「いいえ、冗談ではありません! 本気で言っています!」

 

「ふざけんな! 椛は私たちの親でもなんでもないでしょーが!」

 

 

 椛の言葉に希の怒りのボルテージがさらに増加する。強く握られた手から音が聞こえてくるようだった。

 強くなってから――それはいったいいつなのだろうか。

 誰かに認められたらなのだろうか。

 誰かに理解されたらなのだろうか。

 いつになったら。

 いつになったら。

 未来の見えない光景に血が上る。

 

 

「なごみ、この分からず屋になんか言ってやってよ!」

 

 

 希は、意味分かんないと大声で叫びながらまくしたてるようになごみに手話で事の流れを伝達する。繰り広げられる手話の荒々しさに、感情が乗っているのが嫌でも察することができる。

 数秒かけて事情がなごみへと伝わると、なごみもまたスケッチブックに勢いよく鉛筆を走らせ、書き殴られた文字をマジマジと椛に提示した。

 

 

(私達は、鳥かごの中の鳥ではありません)

 

「そう、なごみの言う通りよ。出る、出ないのドアを開けるのは私たちの意思。境界線はすでに越えている。もう、出るって決めたの。ついていくって決めたの!」

 

 

 最初から行くつもりの、希となごみ。

 最初から連れていくつもりのない、椛。

 これ以上の口論は不毛である。いくらやっても平行線で、終わらない戦いが続くだけ。

 そして、最終的に二人の行動の抑止に失敗して外に出ることになるだけだ。なぜなら彼女たちは、自分の力で扉を開けることができるのだから。彼女たちは鳥かごの鳥ではなく、鳥かごの外で鳥を見ている人間の立場なのだ。選択権は二人にあり、その自由を縛ることはかなわない。

 だとすれば、共に行くのがいいだろう――感情論的にも、危険度的にも。それ以外にできることと言えば、行動の後の結果が良くなることを祈ること以外にはないのだから。

 

 

「いいよ。一緒に行こう。その方がいい」

 

「さすが和友!! 私たちのこと分かってる!!」

 

 

 僕の言葉を聞いて満面の笑みを浮かべる希を見て、椛が吼えた。

 

 

「和友さん! 二人を連れていくなんて危険です!! ようやく飛べるようになったのです。そんな二人を連れていくなんて正気の沙汰ではありません。死んでしまったらどうするのですか!?」

 

「目の届かないところで勝手に動かれる方が危険だよ。そもそも、希やなごみが外に出るのに、椛の許可なんていらないよね?」

 

 

 本来、人間が何かをするときに誰かの許可が必要になる場合など存在しない。どこかに出かけるのにも、何かをしようとするときも、誰かに許してもらう必要などないのである。

 許可とは、誰かの保護下にある、誰かに生かされている、誰かに雇われている、誰かに迷惑をかけたくない――そんな状況下においてのみ、行動をする本人が欲するモノだ。

 そういう意味では、二人は僕たちに許可を欲しているということになるが、あくまで僕たちからの許可は二人にとってあった方がいい程度のものでしかない。

 僕には、表情やしぐさ、会話の流れを見る限り、二人の本心はすでに固まっているようにしか見えなかった。

 

 

「二人が僕たちについてくるのに誰の承認もいらない。誰の認可もいらない。二人の感情はすでに外に飛び立っていて、目指す方角が決まってしまっているんじゃ、ここで止めても止まりはしないさ」

 

「最悪、縛ってでも止めればいいことです」

 

「それだと博麗神社に妖怪が来たら逃げられない」

 

「それは霊夢さんの結界で守ればいいことです」

 

 

 椛の口から流れるように霊夢の名前が出た。確かに霊夢の結界で博麗神社を包み込むことができれば、二人の生存率は飛躍的に高まるだろう。並みの妖怪では触れれば死んでしまうような結界だって彼女なら作れるはずである。

 だが、それは彼女から協力を得られればの話だ。

 そう――霊夢の心を縛れるのならの話である。

 

 

「霊夢を説得できるのならやってみればいいけど、霊夢は手を貸してくれないと思うよ。人の意思を縛って無理矢理従わせるようなことを彼女はしない。特に覚悟を持っている二人を止めたりしないと思うけどね」

 

「それはそうかもしれませんが……やはり危険です」

 

「何をしても絶対に死なないなんてないよ。100%の安全なんてこの世にはないんだ。僕だって死んでしまうかもしれないでしょ?」

 

「和友さんは最低限戦えるじゃないですか。いざとなったら私が助けますし、他の後ろ盾もあります」

 

「じゃあ、しっかりした後ろ盾があれば大丈夫なんだね」

 

 

 縁側から立ち上がり、横から椛の手を取る。唐突に手を握られた椛は驚いた様子でこちらに顔を向けた。

 両手で包み込むように手を合わせ、懇願する。

 僕は、椛に真剣なまなざしを向けた。

 

 

「えっ……きゅ、急にどうしたのですか?」

 

「だったら、椛や他の知り合いに二人を守ってもらえばいい話だ。もちろん椛だけに負担をかけさせるようなことはしない、藍にも連絡してみるよ。僕は信じている――椛ならできるよね」

 

 

 視線と視線が真っすぐに結ばれる。真剣に、真面目に想いを伝える。

 信じている――そう伝えた椛は、言葉が出なくなったようで恥ずかしそうに顔を赤らめながらコクコクと首を縦に振った。

 余程嬉しかったのだろう。これまでほとんど頼ることがなかったから久々の感覚に打ち震えているようだった。

 お願いね――そう告げて頭を撫でる。椛の尻尾は勢い良く左右に揺れ、上目遣いの眼差しには輝きが灯っているように見えた。

 

 

「和友、椛の使い方上手くなったわね……」

 

「最近、あんまり頼ることなかったからかな? 頼られるのが好きなのは昔から変わらないみたいだね」

 

「分かっていてやったんだ……」

 

 

 頼られることを嬉しく感じるのは、椛の生粋の性格ゆえである。

 そして、その後の晩御飯はテンションが高いままの椛に引きずられる形で始まった。

 

 

「さぁ、しっかり食べてください! 途中でお腹が減ったから帰るなんてことになったら元も子もないですからね!」

 

「食べ過ぎても動きにくいと思うんだけど?」

 

「希さん、そこは程度の問題です! うまく調整してください!」

 

「椛、なんかさっきとテンションが随分違わない? 若干引くぐらい勢いあるんだけど……」 

 

「私はいつも通りですよ。あっ、なごみさん! 嫌いなカボチャを会話に乗じて笹原さんの皿に移すのはダメですよ! ちゃんと食べてください!」

 

(ばれないと思ったのに……)

 

「うん、今日のご飯もおいしいや」

 

 

 いつも以上に騒がしい食卓に上がった料理は、勢いのままに胃の中に放り込まれ、消えていく。

 僕は、いつからか食事を共にすることのなくなった霊夢のことを考えながら、これから始まる長い夜に想いを馳せた。

 何も起こらないことはないだろう。

 行動をおこせば、必ず結果が出る。

 それが良いものなのか、それとも悪いものなのか。

 最後に何が残って、何がなくなるのか。

 決して想像できない未来を思い描く。

 期待と不安が入り混じる感情の中で、僕は鳥かごの扉を開ける準備をした。

 

 

「みんな、出かける前に霊夢に一言言ってくるよ。さすがに何も伝えずに行くのは霊夢に悪いからね」

 

 

 僕の告げた言葉に誰も声を出すことなく、全員が一度だけ頷いた。

 部屋を一つ隔てた先にいる霊夢。

 最近、コミュニケーションが希薄になっている霊夢。

 僕は、臆することなくふすまの前で問いかけた。

 

 

「霊夢、ちょっといいかな?」

 

「和友、晩御飯ならもう食べたわよ」

 

「いや、今日はご飯の話をしに来たんじゃないんだ」

 

「……ふすま越しに話をするんじゃなくて、早く入りなさいよ」

 

 

 入室の許可をもらって、ゆっくりとふすまを開ける。

 久々に入る霊夢の部屋に視線を通す。

 初めて会った時と同じ凛とした雰囲気を感じる少女は、静かにお茶をすすっていた。いつも俯瞰するように見つめている瞳は卓よりも下に向いており、まるで目を閉じているように見える。

 僕は、淡々とこれから出かける旨を伝えた。

 

 

「霊夢、今日は夜の散歩に行ってくるよ」

 

「勝手にすれば。でも、ちゃんと帰ってくるのよ。外で何かあったら目覚めが悪いわ」

 

「うん、分かっている。ちゃんと帰ってくるよ」

 

 

 そう伝えると、ほんのり寂しそうな目が僕の顔を見上げた。

 

 

「正直、和友の言葉は信用ならないけど、今は飲み込んであげるわ。私の気が変わらないうちにさっさと行きなさい」

 

 

 霊夢は、それ以上踏み込んでくることはなかった。

 もう、何も憂いはない。後ろ髪を引かれるような事柄はなくなった。

 最後に――マヨヒガに向けて救援要請の式神を飛ばし、準備は完了である。

 

 

「それじゃあ、行こうか」

 

「希さんとなごみさんのフォローは任せてください。二人とも決して危ないことはしないようにお願いしますよ」

 

「足手まといにならないように気を付けるわ」

 

(頑張る)

 

 

 ついに出発である。

 軽くなった心をもって、4人で鳥居を抜ける。

 目指すは――「もう一つ」を作った犯人のもとへ。

 しかし、飛び立った心を追いかけるように体が進もうと地面から足が離れた瞬間――服の裾をがっしりと掴まれた。

 

 

「待って!」

 

 

 掴まれた相手を確かめるために後ろを振り返ると、そこにはわずかに伸びた爪と少しばかりボサボサになった髪の彼女がいた。

 

 

「どうしたの?」

 

「その異変解決、私も行っていいよね!?」

 

「もちろん。断る理由なんてないよ」

 

 

 現れたいつもと違う容姿の彼女。

 僕は、こうして集まってくる家族の形に思わず笑みがこぼれそうになるのを堪えることもなく、同じく鳥かごから飛び立とうとしている者の手を強く握った。

 




リアル状況が悪く、とてもではありませんが更新できる状況ではありませんでした。
主に、無理な休日出勤(17時間労働等)のせいです。
その他、野球の練習、資格取得の勉強も並行してやっており
今後も不定期になっていくことが考えられます。

更新が遅くなり申し訳ありませんでした。
作品自体は続けていくので、小説を読んでくださっている皆様
これからもよろしくお願いいたします。


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