Fate/Unknown Order (アウトサイド)
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例えば、君が生まれたことに意味はあるのだろうか?
キチキチ、キチキチ。
何かが軋む音が聞こえている。
ミチミチ、ミチミチ。
何かが歪む音が響いている。
既知と未知。軋み歪んで、壊れる音が奏でられた。
既存の常識では太刀打ちできないような未知が襲う。
見たこともない未来が在りし日より信じられた言葉に圧迫される。
どちらもこの世の常。既知は未知により更新され、未知は既知により塗りつぶされる。
なぁに、別に難しい話をしようってわけじゃないんだ。これは当然の摂理。社会の常識。世界のあるべき姿。何もおかしなことはない。常識は非常識で、非常識な常識が蔓延するような魔術の世界の話。振るい振るわれた賽を手に、神様が笑うようなお話。
狂狂と回る歯車。
殺殺と転がる賽子。
笑い話にもなりえない喜劇のお話。
では、この物語の冒頭をこう始めよう。
――――これは、目が覚めたら、レフ・ライノールになっていた青年の物語だ。
――――――…………
「………………これってあれだよね、私が自殺を選ばなかったら、人理焼却が行われるっていう……あれだよね?」
鼻が高く、ぼさぼさの赤みがかった髪の若い男が、ベンチに腰掛けながらうなだれていた。見てくれだけなら紳士な外見という決して悪くない優男だったが、どこか死にそうなまでの陰鬱な雰囲気が、近寄りがたい印象を思わせた。
「いやいや、待て待て、そう気を急くことはない。そもそも私のことについて情報を整理しよう」
青年の名前は、レフ・ライノール。年齢は祝われることが少ないせいか、忘れた。趣味は帽子集め。最近では、シルクハットを好んでいるが、まだ若さが目立つせいか似合わないため、もう少し年齢を重ねてから似合うような男になりたいと願うジェントルメン――――というのが、つい今朝までの記憶。正直、三重人格とか、魔術師とか、ほかにも重要なところはある。
だが、それゆえに今の状態が危うい。
「で、現在。三重人格であるレフ、ライノール、フラウロスはもろもろ消えて、今しゃべっているのは、しがないフリーターだった■■■■という名前の日本人。FGOプレイ歴としては中堅プレイヤーで、プレイスタイルとしては、お気に入りのサーヴァントを中心にゆっくりと育てていくスタイル。ちな、一番のお気に入りはエウリュアレ――――だったはずだよなぁ……」
ベンチに背中を預け、鬱陶しいくらい眩しい青空を見上げる。紳士な雰囲気はどこえやら、万年休日の無職男が公園で黄昏ているかのような雰囲気すら醸し出す。もはや読者諸兄諸君には、言うまでもないだろう。この男、あのレフ・ライノールである。
「レフっていやぁ、あれだよなー。所長殺しに、裏切り者に、節穴の三重苦を背負った憐れな男……」
そして、かの王に仕える魔神柱の一柱にして、2015年担当の魔術師である。ifとして存在する可能性のある「2015年の時計塔」において、自身が自殺することで人理焼却を防ぐことに成功した――――らしいけど。
「そもそも私が自殺しただけで破綻する計画立てんなよ、魔術王……」
おそらく、魔術王的に成功率としては限りなく百パーセントに近い確率の計画だったのだろうが、逆に言えば、一つでも歯車がズレてしまえば、破綻するような物語だったというわけだ。そして、現在は2005年だったはずだ。
つまり、魔術王の計画が始まるまである程度の猶予はある。
「よし、裏切ろう。だいたい、私が自殺しただけで破綻する計画なんだし、そういう行動に移さなければ、きっと何も起きないだろう、うん」
この男、ノリが軽い。
「そうと決まれば、ロマニでもからかいにいこう。どうせあいつのことだ、研究室にでも引きこもって碌に食事もとらずに勉強しているはずだ。よし、優しい私が食事を届けにいってやろうじゃないか」
――――――…………
「やあ、我が学友。食事を届けにきたぞ」
「ん? ああ、レフ。もうそんな時間なのかい? と、確かにお腹が減ってるや。ありがとう」
レフの持ってきた食事、簡素なサンドイッチや果物を片手にいまだに手を止めない青年の名前は、ロマニ・アーキマン。レフとは学友である桜がかった髪色の優男だ。これまでのレフのロマニに対する印象としては、『凡人』という言葉につきるだろう。
己に努力と無理、無茶を強い“今”をつなぎ止めようとしている努力家であり、レフにとって数少ない友情を感じている相手だ。そして、それは今でも変わらない。たとえ、それが一方的な友情だとしても、だ。
「相変わらず汚い部屋だ。いくら君が集中力があるからといって、これはあまりいただけないな」
「いやー、ボクもわかってはいるんだけどね。どうしても仲のいい友人が片付けをしてくれるから、甘えてしまうのさ」
「おい、君はまさか私のことを体のいい家政婦だとでも思っているのか?」
「まさかまさか、ボクにとっては身に余るほどの友人だとも」
そんな軽口を投げかけながらも、レフは心の中で嘘をつけと呆れていた。ロマニが人を信じないことをレフは知っている。誰にも寄り付かず、すべてに距離を置き、己の正体を隠している男。確か、レフに対する友情もロマニにとっては仮面のうちの一つだったはずだ。
「君が開発した近未来観測レンズ・シバのおかげで、カルデアスの観測がうまくいってるんだ。教授の名前は伊達じゃないだろう?」
「そういうロマニこそ、カルデアの医療を担当しているじゃないか。聞いたぞ? 今度、医療部のトップになるそうじゃないか」
「ボクには過ぎたものだって言ったんだけど、マリスビリー当主が決めてね。やれやれ、これじゃあ、満足にマギ☆マリの更新もチェックできないよ」
「真面目なのか、怠惰なのか、君は本当に変わった男だな」
サボるのか、勉強するのかどちらかにしてほしいものだ。この男は、
時系列を整理しよう。
まず、近未来観測レンズ・シバをレフが開発したのが、1999年。つまり、この時点でレフはカルデアに所属していた可能性がある。
次に、冬木での聖杯戦争が行われたのが、2004年。ここでロマニ・アーキマンという存在が人間として誕生したことになる。だが、彼の願いは受肉と違い、人間として生きることだ。
そして、原作におけるレフのロマニに対する学友という言葉。もしかしたら、レフとロマニはカルデアにいる前に知り合いだったという過去が存在しているのではないか、というのが当時プレイヤーだった青年の考察である。もっとも、それを確認する術は存在していない。
なぜなら、今のレフ・ライノールに過去は存在していないのだから。ここにいるのは、レフの皮をかぶったどこかの世界の青年であり、その青年にこの世界での過去はないのだ。つまり、このレフは思い出らしい思い出を持ち合わせていない。
ロマニとこうして話しているのも、肉体に残った郷愁のような感覚だった。
「レフー!」
「おや?」
突然、研究室の入り口が開くと、飛び出してきたのは、銀髪の少女だった。
「レフ、今日は魔術を教えてもらう約束だったじゃない! どうしてロマニとお話しているの!?」
少女の名前は、オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィア。原作における悲劇の少女、所長であり、現在は教授であるレフの愛弟子のような立ち位置にいるアニムスフィア家のご令嬢である。根は気の弱い小心者な少女なのだが、次期当主という立場と偉大なる父という存在が、彼女の傍若無人さを作り出している。
「ああ、すまない。つい、このダメ人間の世話をしてあげたくなってね」
「レフはロマニのことを甘やかしすぎなの! ダメな人がもっとダメになっちゃうじゃない!」
「ねぇ、君たち? 当人を前にその言い方はないんじゃないかな……?」
さしものロマニも少女からのダメ扱いでダメージを負ったようだ。意外と繊細なのだろうか、ようやく研究に対する手が止まったようだ。
「マリー? 年上は労わってあげなきゃダメなんだぞ?」
「そういうセリフを自分から吐くから、ロマニはダメダメなのよ」
「クハハハッ、一本取られたな、ロマニ!」
「うっ、うるさい! ボクだって色々と頑張ってるんだぞ!?」
「いや、それは知ってるけど、あなたのダメな部分はたぶん、人としてダメな部分なんじゃないかしら? ほら、この部屋だってレフが片付けてるんでしょ? それに、今日の朝のミーティングだって寝坊したらしいじゃない、あなた」
この少女、さすがに父親がまだ生存しているおかげか、なかなかのことを口走っている。そして、それらすべてが当てはまっているのが、このロマニの残念なところだろう。
「うぅ……十歳以上年下にダメ扱いされた……」
「ふむ、では私がダメ扱いしてやろうか?」
「断る! 君のはなかなか傷つきやすいんだ! いくらなんでも言っていいことと悪いことくらい、わかってくれよ! ボクだって、凹むときは凹むんだぞ!」
この男、すでに成人ほどの年齢でありながら、泣き顔である。さしものレフも少しだけ引いた。
「もう、ロマニはいいから、レフは魔術を教えてよ、魔術!」
「ああもう、君たちはボクの邪魔をしにきたのか!? レフ、サンドイッチありがとう、おいしかったよ!」
「君は怒るのか感謝するのか、どちらかにしたまえ……」
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それでも、君と出会った日のことを忘れられない
オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィアにとって、レフ・ライノールという男は、師であり、そして一つの拠り所であった。いや、極論言ってしまえば、オルガマリーにとってレフは唯一と言ってもいい居場所であったのかもしれない。
知っての通り、オルガマリーは魔術師としては欠陥品である。魔力は豊富であり、血統は十二分に優秀。態度も勤勉であり、魔術の神髄へと至らんとする姿勢もある。だが、彼女にはマスター適正が存在せず、同時にカルデアにとって重要な要素であるレイシフトを行うこともできない。
それは、彼女にとって大きなコンプレックスであった。幼いころより浴びされた中傷は、臆病であるオルガマリーにとって傷となり、今の彼女を構成する一つの要素となっている。蔑ろにされ誰からも省みられずに生きてきた。そのために生まれたのが、承認欲求。
ゆえに、彼女は自身の存在を認めてもらうため、周囲に知らしめるために幼い身でありながらカルデアに席を置き、なんらかの形で役目を全うしようとしていた。
「マリー、君は人間という生き物をどう捉える?」
「唐突な質問ね。あまり意図がわからないわ」
いつも通り、オルガマリーがレフに魔術を教わっているときのことだった。といっても、今教わっているのは魔術とはなんの因果もないごく普通の勉強だ。むろん、オルガマリーはこんな常識めいた授業よりも魔術やそれに関するシステムについて教わりたかったのだが、レフのことだから何か考えがあるのだろうと思った末に、この質問が飛んできた。
正直、わけがわからないというのが、感想だった。
「簡単なことだよ、人は死ぬ。死んでしまえば何も残らないだろう? 人によっては思い出だの記憶だのが残るなどというが、それは数少ない人たちの話だ。魔術の家系や数百年前ならまだしも、現代の人間にとって血筋が三つ四つも離れてしまえば他人扱いだ。それなのに、私たち人間はなぜ生きなければいけないのだと思う?」
「魔術師なら、根源へと至るためだとか、血統を重んじるためだとかいろいろあると思うけど……」
「確かに、それは事実だ。では、質問を変えよう。マリー、君はなぜ生きている? 人は君を欠陥品だと呼ぶ。出来損ないだともね。君が幼いころから浴びせられた罵詈雑言は、生命活動を放棄してもおかしくないかもしれないだろう。特に、君は存外プライドが高い。それなのに、どうして君は生きているんだと思う?」
正直、まだ中学生ほどの自分に訊ねるような内容ではないと思った。まるで、自分が生きていることが不思議でならないと、そういわれている気分だった。しかし、心のどこかで理解しているのは、仕方のないことだろう。オルガマリー自身、どうしてそこまでして生きているのかという疑問がないでもない。
「わからないわ。私にはわからない。でも、それって悪いことなの?」
オルガマリーは問う。生きることの意味を、価値を、理由を、それを知らないことは悪なのだろうかと。それを聞いたレフは目を細めて笑った。
「いいや、悪いことじゃないさ。むしろ、私だってどうして自分が生きているのかわからない。そうだね……例えば、性善説と性悪説があるとする。人間を生まれながらの善とするか、悪とするかの問い。マリー、君ならどう答える?」
「…………人は悪だと思うわ。生まれながらの悪であり、それをいかに隠して、誤魔化して生きるかが賢さというものだと思う。性善説なんて、偽善者の戯言でしょう?」
オルガマリーは知っているのだ。その幼い身浴びせられた言葉は、今もこの心と身に染みて覚えている。あれを見て善を問う? 笑いごとにもほどがあるだろう。誰しもの自分を見る目も信じられない。しかし、そこに価値を求めてしまう。一番滑稽なのは、自分自身だろう。
「ふむ、もしかしてマリーは、正義とは偽善であり、偽善とは悪である。正義は存在せず、ゆえに善性は否定され、もののすべては悪であるなんて思っているのかな?」
「そうね、そう思っているわ。違うの?」
「では、マリーの言う正しさとは何だい? 存在するはずのない正義に、名前を持たせるとしたらどんな名前を付ける?」
不思議な問いかけだった。さながら、存在しない数字を虚数と呼ぶかのような問題。だが、面白いとも思った。つまり、自分の中における絶対的な善性を示せということだった。否定が存在するなら、逆説的に肯定する条件も存在するという稚拙な考え。
「ないわ。絶対的に存在しない。ありえるはずがない。あってはならない。だって、絶対的な正義の存在は、相対的にそれ以外を悪とする。つまり、絶対的な正義存在しない中、人類は総じて悪だってことになるじゃない。だったら、そんなものは机上の空論にも及ばない。言葉もおぼつかない子供に、戦争の失くし方を問うようなものだわ」
「そうかもしれない。だけどマリー、その考えは傲慢だと言えるものだよ?」
「どうして? むしろ、自分が正義だと声を張る方が、傲慢でしょう? 日本のフィクション作品で、こう揶揄する言葉があるじゃない。正義の敵はまた別の正義だと。私は違うと思うわ。誰しもが正義未満なのよ。正義には程通り存在。愚かしいったらありゃしないじゃない」
我ながら、子供ながらに捻りのある考え方だとは思う。もっと小さいころ、周囲の人間の視線や言葉の意味に気づかなかったときには、考えもしなかっただろう。あの頃は、大人になれば自分に輝かしい未来があるのだと確信していた。
だが、結果として自分は“こうなった”。
そうならざるを得ない生活だった。最初、このレフ・ライノールという男に会ったときも、胡散臭そうな目で煙たがりながら罵倒したのを覚えている。
『あなたがお父様に呼ばれた魔術師さん? どうでもいいけどそのハット、似合っていないわよ?』
『おやおや、そういう君はアニムスフィア家のご令嬢さんかい? 話には聞いているよ』
その言葉を聞いたとき、オルガマリーは敵意をむき出しにした。自分の話を聞いている。その事実だけでこの男がどんな罵倒の言葉を投げかけてもいいように、噛みつくつもりだった。だが、レフから出てきた言葉は意外なものだった。
『マリスビリー当主がよく自慢の娘だって語っていたのさ。なるほど、確かにその歳でできた娘だね』
『ふんっ、下手に媚びるのはやめてくださらない? 私に魔術師としての価値が薄いことはご存知でしょうに』
当然、レフの言葉を歯牙にもかけず、オルガマリーはそう切り返した。この時点で、レフに対する印象は名門貴族の娘に媚びを売るような陰険な男だという認識ができあがっていた――――のだが。
『うん? なんの話だい? 私が言っているのは、君が家事や料理の手伝いをやってくれる可愛い娘だという話だ。君が魔術についてどう思っているのかは知らないが、魔術師だからと言って、魔術のみで人間が構成されているわけではないのさ。そんなゴーレムみたいな人間なら、私の君に対する評価は最低だったろう。だが、君は人間だ。おそらく、この場にいる下手な魔術師なんかより、ずっと人間として輝いているだろう』
『――――――』
このとき、オルガマリーはどう答えるのが正解だったろうか? 魔術師としての価値を否定されたことを怒鳴るべきだったのか。あるいは、はじめて自分に価値を見出してくれた男に対して、感謝を述べるべきだったのか。その答えを持ち合わせていなかったオルガマリーは、その場から逃げ出した。
だが、このレフ・ライノールという男を知ろうと思って、行動に移し始めたのは翌日からだったことを思うと、後者だった可能性は高いだろう。むろん、それだけではないはずだが、それでも最初ほどの悪印象がなかったのは、確かだ。
だからこそ、オルガマリーは問う。この設問の解答を。
「じゃあ、レフにとっての正義って何?」
「決まってる。生きることだ。人は、否、生物は生きてこそ、輝きを放つ。もしかしたら、世界のどこかで人間という定命の存在を否定し、この星は神の定義すら間違えたという男がいるのかもしれないが、私は断じて否だという。人は生きなければ始まらず、死ななければ終わらない。物語というのにはね、必ずそこに至るための序章と終章があるべきなのだよ。いや、少し違うな。物語というのは、“始まり終わるものだ”。誰かが終わったからこそ、始まり、己が終わるからこそ、誰かが始まる。これは
「それはおかしいわ。それだと、いわゆる悪人、犯罪者だって放免するようなものじゃない」
「そこは少し視点が違うな。私が語るのは、生物の視点だ。だが、善と悪という考えは、人としての視点だろう? 人を裁くのは、神であってはならない。人を裁くのは、法であり、それを作った人間であるべきなんだ。それが人が人たるゆえんだろうね。例えば、親が子を殺す。そのまた逆もしかり。それを悍ましいというのは、人だからだ。人を悪とする神がいたとしても、それは神にあらず、人の視点を持ってしまった時点で、それは人の領域にある」
レフの言うことは、いわば神の立場の否定であり、人類の肯定であった。レフの言う傲慢とは、一つの生物にしか過ぎない人間にとって、本来、善も悪も些事であり、それに重きを置くのは、己が生物として優れているという証明にしか過ぎないのだと。
「マリー、人はすごいし、すごくもない。そこは視点の違いでしかない。覚えておくといい。君がたとえ世界を憎んだところで、世界はどこ吹く風なのさ。世界は私たちが思っているよりもずっと偉大で、矮小な存在なんだ。ある人間は、大海を見て偉大さを知り、ある人間は、世界を廻り、ここには己の望みはないのだと失望する。そこには、視点の違いしか存在しない。だから、世界を憎んだときはこう思うといい。“人は簡単に世界は滅ぼせない”。君の言う日本のフィクション作品と同じさ。たとえ悪の組織が一つあったとしても、世界ってやつは簡単には滅んじゃくれない。勇者が魔王を倒す旅をしている間、魔王が世界を手に入れようとしている間だろうと、世界は変わらず動いているのだからね。だから、世界を滅ぼすのは、いつだって世界自身だ」
「じゃあ、もしも世界が世界を滅ぼし始めたとき、人はどうするの?」
「さあ、抗うのか、受け入れるのか……ただ一つ言えることがある。私は存外、ハッピーエンドが好きでね。世界の終わりを迎えるとき、絶対に言いたいセリフがあるのさ」
「それは、何?」
そう問うと、レフは笑った。そして、両手を広げ、こう言ったのだ。
「ハッピーワールドエンド! 私は友と仲間と人種も国境もあらゆる価値観も超え、腹を抱えて笑いながら、世界の終わりを称えたい。そんな素敵な世界の終わりだったら、これなら滅んだっていいとは思えるような……そんなエンディングにたどりつくのもいいんじゃないか?」
「ああ――――じゃあ、その隣に私もいていいのかしら?」
「むろんだとも。そうだな、じゃあ、本当に世界がどうしようもなくなったときは私に言うといい。私とともに、この世界を滅ぼそうじゃないか。人は簡単に世界を滅ぼせない。だが、簡単じゃないだけで、滅ぼせないことはない。誰しもが笑い転げるような、肩を組んで酒を飲み交しながらいられるような世界の終わりを演出してやるさ」
「ええ、約束よ。どうしようもなくなったときは、あなたを頼るわね、レフ」
こうして私は、少しだけ自分の生きる理由とやらに出会った気がした。
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そうさ、君は眩いほどに美しいのだから
「最近、マリーの懐き具合がスゴいんだが……」
「…………なんだい、それは。もしかして、この歳でも童貞を貫いているボクに惚気ているのかい?」
レフは、いつものようにロマニの部屋にいた。ちなみに、こう言ってしまうと二人がサボっているかのように思えるが、ロマニならまだしもレフは普通に仕事をこなしたうえでの休憩時間の話だ。そんな普段の彼らの談笑のなかに、唐突にぶち込まれた話。内容は単純だ。
最近、オルガマリーのスキンシップというか言動が、危ない。
「友人として先に言っておくよ、レフ。さすがにあの歳の女の子に手を出すのはマズイと思うんだ」
「おい、話を飛躍させるな。私はあくまでも多感な時期にあるはずのマリーが、なぜかやけに背伸びをしている気がしてならない」
「いや、別にボクも思春期に思いであるわけでもないけどさ、それ普通なんじゃないの?」
多感な時期だからこそ、大人びたいという思いはあっても不思議ではないはずだ。というよりも、それを理解できるくらいの感性の持ち主であるレフがこうまでも慌てていることの方が、ロマニには不思議でならなかった。
「オーケー、じゃあまず整理しよう。仮にマリーの態度がレフの言う通り変わったとする。だけど、それにはきっかけがいるだろう? そこらへんに心当たりはないのかい?」
「ふむ……そういえば、この前共に世界を滅ぼす約束をしたな」
「レフ、ボクにわかる言葉で喋ってくれ。いや、仮に君の言っていることが直訳的にそういうことだとしても、だ。いくらなんでも話が突拍子もないだろう? ちゃんと説明してくれよ」
そこからレフはロマニに、先日の約束を教えた。誰もが笑い合えるような世界の終わりを演出するという約束だ。そして、彼女はそれを最全席で眺めることを了承したらしい。あくまでもオルガマリーがレフにそれを求めたときにのみ発動する約束だが――――。
「レフ……これは全面的に君が悪い」
オルガマリーは承認欲求が強い。彼女ための約束、彼女ための終わり、舞台。それを提供することを誓うことは、彼女にとって甘美な響きだったはずだ。彼女は、自分をオンリーワンだと思ってくれる特別性に弱い。他にも他者と目的意識の共有というのは、彼女にとっては珍しいことのはずだった。
他人が介している限り、彼女の目的はあくまでも己を認めてもらうこと。ゆえに、今回のように私事における目標というのは、大きな衝撃を与える。
今回の話で性質が悪いのは、このレフという男がそれを実感していないことだ。なお性質が悪いのは、オルガマリーがそれを承知でアプローチを仕掛けていること。
どうしよう、同年代くらいの男が、ちょうど幼女以上少女以下くらいの女の子から、好き好きアピールされて気づいていない。いや、それ以上にその相談相手になっているロマンがあまりに哀れだった。
「あのさ、レフ。悪いことは言わないから、この話は当主には説明しない方がいいよ?」
「いや、すでに説明を終えている」
「馬鹿なの!? 君は馬鹿なのか!? えっ、いや、むしろ説明をしたうえでどうして生きているんだ!?」
「君は私を殺したいのか……?」
いや、真面目な話、あのマリスビリーはオルガマリーを溺愛している。基本的に職務が忙しくて相手ができないのを悔やんでいるが、その愛情は本物のはずだ。そのマリスビリーがこの話を聞いて、何もせずに流した? どうしよう、ロマンの中にはとても悪い予感が敷き詰められている。
「じゃ、じゃあ、マリスビリー当主はなんて言っていたのさ?」
「娘をよろしく頼むだとか、なんとか……別に今更ではあると思うのだが、酒の席で大笑いしながらそう言っていた」
「あー、ちくしょーっ! そういえば、お前ら魔術師だったな! 年齢の差なんて、二の次だもんな! ていうか、君はそれでいいのかよ、マリスビリィィィ!?」
「何を吠えているんだ、うるさいぞ」
というか、真面目に考えてみるとすごいことなのではないか、これは。アニムスフィア家は魔術師の名門貴族だ。そして、魔術師というのは、一部の例外を除いて血統を重んじるものである。そこに功績はあれど、名門出身ではないレフをあてがうなど――――。
(あっ、これたぶん、ガチな奴だ)
あの親馬鹿、娘の初恋に対して本気の姿勢で挑む気でいる。
「レフ、その……これからいろいろと大変ではあるだろうけど、あーうん、頑張ってくれ」
「おい、待て。君は今脳内でどんな結論と未来を思い描いた? そしてその生暖かい視線をやめろ」
「うんうん、わかってるよ。大丈夫、ボクは君がロリコンだったとしても味方だ」
「よし、歯を食いしばれ、このもやし野郎。私のジェントルマンが伊達ではないことを教えてやろう」
――――――…………
「いてて、レフの奴……ちょっと本気出したな……と、あれは……」
レフの休憩時間が終わり、ロマニは殴られた頬を撫でながらカルデアの廊下を歩いていると、そこに曲がり角でひょこりとしている銀髪を捉えた。
「マリー」
「ひょわぁぁぁぁっ!? って、ただのロマニじゃない。脅かさないでよ」
いや、そこでなんで『ただの』という言葉が頭につくんだ? もしかして、普通じゃないロマニ・アーキマンが存在するとでも言うのか? …………カルデアなら、ドッペルゲンガー的な存在がいてもおかしくない気がした。特にロマニの場合。
「って、そうじゃないや。そこで何をしているんだい?」
「何って……別にするようなことは何もしていないわよ」
「いやいや、廊下の曲がり角でそうひょこひょこしていたら、嫌でも目に留まるさ。それで何もしていないなんてことはないだろう?」
「チッ、ロマニのくせに目ざといわねっ」
「……君の中でボクはどういった評価なんだい……?」
「聞きたいの?」
「イエ、ダイジョウブデス」
絶対に碌な評価ではない。
「で、結局のとこと、何をしていたんだい?」
「だ、だから何でもないって言ってるでしょ!?」
「んー、ここから何かを見ていたってことだよね? んーと、今いるのは……」
レフである。職員が壁になって見えにくいが、どうしようもなくこれ以上なく、レフ・ライノールその人だった。さしものロマニもこの光景が意味することに、冷や汗を流した。
「えっと、マリー?」
「いや、違うのよ!? ちょっとレフに用事があったんだけど、今大事なお話しているみたいだから、様子を見ていただけなのよ!?」
必死の言い訳である。さすがに恥ずかしいと思っているのか、顔も赤い。だが、その言い訳の内容こそが墓穴を掘っていることに少女は気づいていなかった。
「あーマリー、レフは今大事な話じゃなくて、ただ談笑しているように見えるんだけど……」
正直、オルガマリーの目的が
「え、いや、し、してたのよ! さっきまで大事なお話をして、それ今普通のお話をしてるんでしょ!? もう、それがわからないなんて、だからあなたはロマニなのよ!」
「さながらボクの名前を罵倒のように使うのは、やめてくれないかな!? ボク、結構自分の名前気に入ってるんだからね!」
あーだこうだと十歳ほど年下の少女と戯れる若干二十歳の優男。しかも、口喧嘩はもともと得意ではないのか、オルガマリーの方が優勢な状況にあるのだから、いたたまれない。そして、廊下の片隅でそんな大きな声で喚ていたら、近くにいる人間に聞こえてしまうのは当然で――――。
「二人とも、そこで何をしているのかな?」
「見たらわかるでしょ!? このノーテンキを叱ってあげて――――れれれれ、レフぅぅ!?」
「え、えっと、マリー? さすがの私でもそんなに幽霊を見たように驚かれると傷つくというか……なにもロマニの背後に隠れることはないんじゃないかな?」
「え、えっと、その……あーもう、ロマニ! 私の代わりに何か話なさいよ!」
「唐突な無茶ぶりだね!? あ、あー、レフはマリーのことをどう思って――いったぁっ!?」
「馬鹿なの!? 死ぬの!? とうとうその桜髪はお花畑になったの!? いくらんでもデリカシーなさすぎるでしょ、あなた!?」
「ごめっ、謝るから脇を抓らないでぇぇっ!」
とっさに話が思い浮かばなかったとはいえ、確かにオルガマリーの言う通りデリカシーがなかっただろう。多感な時期の少女には、この直接的な質問はタブーなはずだ。では、もう少しだけ変化球ならば……。
「いたたっ、えーっと、レフは年下の女の子についてどう思う?」
「いや、どういう質問なのだ、それは? 今の私よりも年下となるとそれなりに若いのではないかね?」
「い、いいから答えてくれ。このままだとボクの脇の肉が抉られる!」
「ふむ……まあ、真面目に答えるなら私に少女趣味はないよ」
あ、終わった。レフの言葉を聞いた二人は少なくともそう思った。いや、実際は趣味がないというだけで諦めるほどの理由ではないはずなのだが、恋愛する暇もないロマニと恋に盲目的なオルガマリーでは、そう思わざるを得なかった。
「うーむ、その様子では望んだ答えではなさそうだね。では、もう少し付け加えてみよう。私に少女趣味はない。だが、そこに魅力を感じていないわけではないのだよ?」
「ん、んー? ごめん、どういうことなのか、説明してくれるかい?」
「そうだな、例えばマリーを例に挙げてみるとしよう。君はとても勤勉だね。魔術に対する姿勢だけではなく、生きるという行為そのものに対して一生懸命だ。そこに人間的な魅力を感じないものはいないだろう?」
「あー、じゃあレフの言う魅力って言うのは、異性に対する魅力とは別なのかな?」
「それはどうだろうね? 人間的な魅力にあふれる人は、異性として見ても素敵なはずだよ。もちろん、異性としてではなく、父性、友情、師弟愛……まあ、色々な言葉があるけど、少なくとも私の見るマリーは、とても美しいからね。っと、すまない。どうやら仕事の続きだ。立ち話になってしまったが、こんな解答でよかったのかな?」
いいも悪いもないだろう。その答えを持っている少女は、先ほどからロマニの服にしがみついて顔を俯かせているのだから。銀髪の間から覗く耳が真っ赤なところを見ると、答えはわかってしまいそうなものだが。
「では、これにて失礼」
そういって、レフは立ち去って行った。レフの姿が見えなくなると、オルガマリーは崩れおちるように、ロマニにしな垂れかかった。
「とと、マリー、大丈夫かい?」
「ロマニ、どうしよう……」
「えーっと、何が?」
どうしようはこっちのセリフだ。明らかに聞いたらマズイ話になる気がするから、足早に立ち去りたいのに、無駄な善人気質がオルガマリーの体を支えて離れられない。
「わ、私、なんだか、変なの。さっきの話、なんでもない誉め言葉だったはずなのに、とっても嬉しくてちょっと泣きそうなの」
ロマニは気づいてしまった。いや、この場にいれば鈍感レフはともかく、誰しもがわかってしまうことだろう。簡単な話だ。このオルガマリーという少女、自分の恋心を自覚できていなかったのだ。それも、現在進行形という喜劇のような形で。
まあ、これまで他人との関係を承認という目的だけで築いていた少女に、いきなり恋心を自覚しろというのが、土台無理な話だったのかもしれないが――――。
「ボク、今回ばかりはお手上げかもしれない」
他人の恋路を邪魔するつもりは毛頭ないが、それでも馬に蹴られたくないは当然だ。
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まったく、君は相変わらずだな
「最近、マリーの様子がおかしいんだが……」
「微妙にデジャヴってるような気がする」
ここは例によってロマニの部屋……ではなく、今回二人が会話をしている場所は、カルデアの職員たちが利用する食堂だった。二人はたまたま利用人数の多い時間帯を避けることができたせいか、食事をしている人間はまばらにしかいない。
ちなみに、レフが注文したのはカレーライス。味覚はともかく、精神的に郷愁があるのか、定期的に日本らしさただようレトルトカレーを食べるのが意識が目覚めて以来の習慣だった。それ以外の食事と言えば、味覚に合ったパンが中心の食生活である。
対して、ロマニが注文したのはイチゴパフェのみだった。甘党であり、お菓子類を好むロマニの昼食は、決まってデザートを頼むことが多かった。本人曰く、食の好みはもちろん、適度な空腹が集中力を持続させるとかなんとか……。むろん、朝食と夕食は普通の食事になっている。
ともかく、人が少ないゆえに席はたくさん空いているにも拘わらず、二人は対面で食事をしていた。ちなみにこれは余計な補足情報になるが、カルデアの淑女たちの中では若いエリート二人に対してよからぬ妄想を抱いてることがままあるらしい。最近のトレンドは、もっぱらレフ×ロマニ方式である。だが、ロマニ×レフ方式は一部のコアなファンの間で強烈な人気を誇っているらしい。
閑話休題。
「で、一応聞きたくもないけど、友人として放っておけないボクは聞くよ? マリーの態度がどういう風におかしいのさ?」
「ああ、実は最近、マリーに避けられている気がしてならないんだ。魔術や勉強を教えているときもどこか上の空な気がする。かと思えば、唐突に筆を走らせたかと思うと口角が上がって、どこか不気味だ」
「おぉーふ……」
ロマニは頭を抱える。何がどうしてそうなっているのか、理解できているゆえになおさら頭の痛くなる話だった。なんだ? ここは少女系漫画雑誌のラブコメ空間でも発生しているとでも言うのか? というか、レフはレフでそれだけ様子見ているんだったら、気づいてやれよとも思う。
「ああいや、でも急に筆を走らせてニヤけるっていうのは、わからないな……いったい、何が書かれているんだろうね?」
「それに関しては、偶然目に入ったが、大したものではなかったぞ?」
「おいおい、年ごろの娘のノートを見るのはよくないよ? ……まあいいか、で、そこにはなんて書いてあったんだい?」
「うむ、何やら奇妙な数式が書かれていた。あれは確か……ロマニ×レフだったような――――」
「オーケー、それ以上何もいうな。そして、その数式の意味を一瞬たりとも思考するな。事と次第によっては、ボクは全力でマリーを――いや、さすがにそれはかわいそうだな。うん、じゃあ、マリーの代わりに君を殴ることにする」
それで少しでも妙な噂が減少するなら……いや、ダメだ。あの手の腐った生ものはどんな状況だろうと、凝った設定を追加して妄想を膨らませるのがオチだ。そう、普段一緒にいるロマニとレフが急に腐った生ものたちの前で喧嘩なんて始めたら――――。
『どうして!? どうしてわかってくれないんだ!? ボクは君が好きなのに!?』
『ああ、ロマニ。すまない、君の気持ちには答えられないんだ』
ここまで妄想した時点で、せっかく目の前にあるパフェにリバースするところだったので、お目汚しはここまでにして真面目な話へと取り組もう。
「いや、ロマニ、顔が青いぞ? 救護室へ行ったらどうだ?」
「だ、大丈夫。それ以上に、誰が純真なマリーにそんな知識を植え付けたのか、考えなければ!」
そう、まだ若干中学生ほどのマリーが、一人で唐突にそんな妄想を繰り広げるわけがない。というか、あってほしくない。むしろ、なくなれ。つまり、入れ知恵した誰かがいるということだ。一体、誰だ? 仮にも次期当主であるマリーに容易に近づけ、そんな彼女を簡単に染めてしまえるほどの知識を有しているのは――――。
「むろん、ダヴィンチちゃんさ!」
「やっぱり君かぁぁぁっ!?」
突然、というわけでもなく、スタンバっていました彼女こそ、かの『万能の天才』レオナルド・ダ・ヴィンチその人である。もっとも、現在英霊として現界している姿は、ダヴィンチの作品の一つであるモナリザそのものなのだが……。
ともかく、彼女が犯人であることは間違いがなかった。
「ていうか、ボクとレフのそういう噂を広めたのが君だって本当なのかい!? 言っておくが、ボクはもちろんのこと、この鈍感ボンクラ野郎にそんな毛色があるはずないじゃないか!」
「おい、この非力駄目人間、一度歯を食いしばれ。安心しろ、まったくもって話は理解できんが、君が私を馬鹿にしているということだけはわかっている」
「どーどー、落ち着くんだ、レフ。いいのさ、今回の件が私の責任だというのは、認識している。拳を向けるとするなら、私にするといい」
「いいや、ダヴィンチ女史が謝る必要はない。君が何も言わなくとも、結末は同じはずだ。ああそうだ、正直理由や道理云々を抜きして、私はこの男を殴りたい」
「いくらなんでも、支離滅裂すぎないかい!? ていうか、今の会話の流れだとボク一人が悪者扱いだよ!? いや待つんだ、レフ。そんな拳を振りかざしちゃいやぁぁぁぁっ!?」
このレフ・ライノールとかいう紳士の皮をかぶった外道、本当に殴ってきやがった。むろん、そんな予想可能な攻撃をわざわざ食らうほど馬鹿ではないのが、ロマニだ。ぶっちゃけ、問答無用で逃走をはかった。
「くっ、逃げるとは卑怯だぞ、ロマニ!」
「問答無用で殴り掛かってくる方が外道だよ! ふわぁぁぁぁっ!?」
「ちっ、すばしっこい!? 諦めて私の愛を受け止めろ!」
「待ってやめて! そのセリフを吐いたあとに殴り掛かってくるのは、さすがにアウトだから! ちょぉぉぉっ、どうしてさっきまでまばらだった人が、こんなにも腐女子で埋め尽くされてるわけぇぇっ!? 君たち仕事はぁぁぁっ!?」
「アッハッハッハ、さぁ、ロマン、諦めてレフの愛を受け止めるんだ! 安心しろ、君の雄姿は、このビデオカメラと我が同志たちによって永遠に脳内に保管されるだろう! そして! 私たちは栄光の世界へと羽ばたくのだ!」
「君たちの栄光腐りすぎだろ!? ちくしょぉぉぉっ、覚えてろよ、バーカバーカ!」
「子供か、君は!?」
稚拙な捨て台詞とともに、全力で駆け行くロマン。その姿はまさに、走れメロス。いくんだ、メロス。いずれ邪知暴虐の王、ダヴィンチちゃんを倒すその日まで――――。
第一部、完。
「って、モノローグにまで入ってネタやんないでよ! そもそもボクがレフに足で勝てるはずないでしょ!?」
「ダヴィンチ女史、捕まえたぞ。さあ、判決をどうぞ」
「ああ、ありがとう、レフ。君にはあとでダヴィンチちゃん特性、快適安眠枕を進呈しよう」
「だから、なんでボクが悪者扱いなの!? ていうか、レフが寝返ってる! あ、いや、この外道は最初から割とボクの味方じゃなかったな……ついでにレオナルド、その安眠枕、ボクにもちょうだい。割と普通にほしい」
ロマニ・アーキマン、若干二十歳。睡眠に質を求める男。できれば、質も当然だが、その無理をする癖を直して睡眠の量を上げてほしいというのが、カルデア職員の望みだったりする。
「ああ、わかってる。君にはちゃんとハートが書かれたイエス・ノー枕をあげよう。これで夜の性活、もとい生活に安息が与えられるだろう」
「その腐ったネタ、いつまで引っ張るの!? 安息どころか、夜恐ろしくて眠れやしないよ!」
「何? 確かに君の睡眠が快適ではないのは、カルデアの重役の私としても困る。では、一晩だけ子守歌を聞かせてやろう」
「ねぇ、レフ、君絶対わかってて言ってるよね!? 腐女子たちのペンの動きが摩擦で煙出てるんだけど!」
「不満か? うーむ、不服だが添い寝までなら……」
「だーかーらー!」
とうとう鼻血を垂らしながらもペンを進める女子が出始めたので、話を進めよう。
「だが、ロマン。君の睡眠に関しては私たち職員も思うところがある。君、今朝の三時半まで何をしていた?」
「えーっと、勉強?」
「君は大学生か!? いくらなんでも、生活のリズムがおかしいだろ!?」
「落ち着け、ダヴィンチ女史。確かにこの馬鹿は馬鹿だ。というか、馬鹿を通り越して大馬鹿なわけだが――安心しろ、すでに遅延性の睡眠薬をパフェに紛れ込ませた。今夜のこの男は、寝落ちするだろう」
「いい加減にしろよ、この外道腐れ紳士! せめて薬だけ渡してくれよ!」
「そうしたら、君は薬を飲むのを忘れしまうほど、没頭するだろう?」
ロマニはぐぬぬと口をつぐんだ。間違いなく、事実だからだ。ロマニはとにかく、自分を追い詰めることが得意な男だった。
「しかし、私はそんな薬にも頼らずともロマニに安眠をもたらす方法を思いついたのだ!」
「ほう、レフ教授、その方法私には教えてはくれないかね?」
「うむ、単純だ。先ほどの添い寝を実践すればよいのだ」
レフは驚きの提案をしてきた。その言葉にざわつくのは腐女子たちだけではない。
「レフ、君ってやつは本気でそっちの毛色が……」
「ん? 誰が君なんぞと一緒に寝るか」
「おい、ちょっと待て。その話の流れは嫌な予感しかしない。よし、私はラボに戻らせて――――」
「喜べ、ロマニ。君は今日からダヴィンチ女史と同室になった!」
「やっぱりかっ、この外道っ!」
予想の斜め上を行く発案だった。
「むろん、本気だとも。男女七歳にして席を同じうせずなんて、甘いことは言わせないぞ? 何しろ、君の無理や無茶は大概なところまで来ている。そこに麗しい肉体を持つダヴィンチ女史が一緒に寝泊まりするなら、君は嫌でもその母性の虜になるはずだ。とはいっても、断ることもできるがな」
「た、確かにこの私のパーフェクトボディを利用すれば、この馬鹿をバブみの虜にすることができるだろう……だがしかし!?」
「おい、レオナルド、深く考えるな。ここは素直に断ればいいんだ。ていうか、ボクは元男の君の虜になることはない」
「………………だから童貞なんだよ、お前は」
「言ったな! 君は言ってはいけないことを言ったな!? よーし、いいだろう! いくらボクに経験がないからって、君みたいな人になびくわけがないって教えてやる!」
「ほほぅ、それはこの天才に挑むと? だとしたら、私こそ君に教えよう。君は今夜、私の胸の中で『ばぶぅ』と言うだろう!」
「言うわけないだろ!?」
「いいや、言うね!」
そうして二人はダヴィンチちゃんラボへと向かっていった。その様子はどこをどう見ても、仲のいい夫婦にしか見えなかったのは、カルデアの独身率が高いせいではないだろう。
と、そこに事態についていけなかった職員が、レフに声をかける。
「えーっと、レフ教授? 本当にこれでよかったんですかね?」
「ふふっ、当然だろう。何せ、ダヴィンチ女史はマリーに変な知識を教えたんだ。これくらいの罰で済むことを感謝してほしい」
「…………え、もしかしてレフ教授、さっきまでの漫才って、そういう知識を本当に理解したうえでの……」
「さて、なんのことかな? ほらほら、君たちも仕事が残っているだろう? 仕事を再開させるぞ」
「は、はぁ……」
計画通り。つまりはそういうことだった。ヘタレロマニ×イケイケダヴィンチを美学だと思うのが、このレフという男の考えだったのだ。あと割と本気でマリーに変な知識を教えたことを根に持っていたりもするが、それを二人が知ることはないだろう。
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でも、結局君は変わらなかったね
「昨晩はお楽しみでしたね」
「離してくれ、レオナルド! こいつ殴れない!」
「まあまあ、落ち着くんだ、ロマン」
なかなかのゲス顔を全力で披露したレフに、ロマニは全力で殴り掛かろうとするが、色々と思うところのあるダヴィンチは、一応ロマニを抑える。この様子であると、レフの本当の思惑はうまくいったようだ。もっとも、そのおかげか、多少の疑心は発生しているようだが。
「それで? 説明してくれるんだろうね、レフ。どうして君はロマンの正体を知ったうえで、私をけしかけたんだい?」
つまりはそういうことだった。レフ・ライノールがロマニとダヴィンチを同室にまでさせた理由は、『ただの凡人』でしかないと思っていたダヴィンチにロマニを観察させ、その“在り方”を理解させるためのものだった。理解さえしてしまえば、『万能の天才』であるダヴィンチは、好奇心ゆえに手段を選ばないはずだ。
「簡単だよ。ダヴィンチ女史、君を味方に引き込みたかった。正直、私一人では心もとないことこの上ないからね。君が味方になってくれると心強い」
「そこでどうして私が味方になると確信していたんだい? 私は天才だ。天才ゆえに、君たちの敵側になってしまったとしてもおかしくはないだろう?」
「ああ、確かにその懸念がないとは言えなかった。正直、可能性としては現段階だと五分五分がいいところだろう。だがまあ、確信していた理由を述べるなら、そうだな……『万能の天才』レオナルド・ダ・ヴィンチが、『凡人』ロマニ・アーキマンを裏切れるはずがないと思っていただけだ」
そう、裏切れるはずがない。この世に天才は、天才であり、天才ゆえに、天才であるなんて馬鹿げた理論は存在しない。レオナルド・ダ・ヴィンチほどの天才ならば知っているはずだ。ロマニ・アーキマンのような凡人の努力と可能性を裏切るということは、ある種己の生前の否定にもつながることを。
確かに、天才ゆえにその好奇心に敵に回る可能性は十分あった。だが、その才能で人類の浪漫を追い求めた天才が、ロマンを裏切るはずがない。
「だって、君は存外お人よしだ。理詰めができてもそこには感情が発生する。だから君は、ロマニの口からとうとうその正体を
「…………完敗だ……確かに、ロマンがどういう“在り方”をしているのかはわかった。この男、私の胸に甘えるだけ甘えておいて、ついに口を割らなかったよ。まあ、いくつか推測は立てたけど、特定はできていない。そして、それをロマンの口から聞くことのリスクもわかっているさ。まったく、この私を躍らせるなんて、君はなんていう悪魔だい?」
「“嘘つきの悪魔”。その中でも特に悪魔らしい悪魔なのだろうね、私は。契約の順守にはうるさいよ」
「――――――ああ、なるほど。
「おい、そこの天才二人。凡才のボクにもわかるような言葉で話してくれ」
ロマニは一人、二人の会話についていけていなかった。わかっているのは、二人が自分の正体に当たりをつけたということ、そしてダヴィンチがロマニの味方をするということだった。だが、理解できないのがダヴィンチのいう“そういうこと”という含みを持たせた会話だ。
「何、私がわかっていればいい。いや、違うな。
「…………わかった。ボクはそのことについて一切の詮索をしない」
「おや、いいのかい? 案外、私たちが暗躍をしているかもしれないんだよ?」
「“信じる”さ。ボクが、ほかの誰でもないボクが、君たちを信頼するんだ。信じて、頼るさ」
それは、意外なことだろうか? それとも、当然のことだろうか? “原作”を知っているレフには、それを判断することはできなかった。“あの”ロマニ・アーキマンが人を信頼するといった。その人間としての生涯の多くで仮面をかぶり続け、人理焼却という絶望的な未来に対して救済を使命とした男が。
このレフ・ライノールの皮をかぶった偽物に、そう言ったのだ。
「クハッ」
ほかの誰でもない。その言葉を聞いたのは、紛れもなく、レオナルド・ダ・ヴィンチとこの“俺”だ。
「クハハハハハッ!」
いいだろう。ああ、いいとも。これ以上なく、これ以降なく、レフ・ライノールは歓喜した。だったら、話は簡単だ。
「いいだろう、ロマニ・アーキマン! 私は君のその信頼に応えるべく、奮闘し、邁進しよう!」
ロマニは訊ねなかった。どうしてレフが自分の正体を知っているのかを。ロマニは信じると言った。どうしようもなく違和感の残るそんなレフ・ライノールという男を。
彼の目的からすれば、すべてに警戒し、レフを問い詰めたところで何ら違和感はないというのに、彼はそれをしなかった。本物と偽物に残る差異を、彼は承知のうえで飲み込んだのだ。他人を信じないがゆえに、当の昔にレフ・ライノールが“違う”ということに気づいて癖に、この男はそう言うのだ。君を信じると。それに歓喜せず、何をしろというのだ? レフという偽物の存在のせいで、彼の努力は徒労に終わるかもしれない。
なぜなら、フラウロスという怪物が生まれる可能性は小さい。ゆえに、人理焼却という結末にたどりつく可能性も必然。少なくなる。
このままでは、ロマニ・アーキマンの決意も信頼も無駄に終わるだろう。
いいや、
ああそうだ、終わらせていいはずがない。人として生きるという当たり前にあるべき己の願望を叶えた彼が、それゆえに人理焼却という結末に苦難する。それを、ただそれだけの結末で終わらせていいわけがない。彼の物語が、彼の色彩が、そんな灰色という色に潰されることをレフは容赦しない。
答えは簡単だ。ここでレフがロマニに人理焼却という可能性が潰えていることを話せば済むだけの話だ。だが、それでは“面白くない”。それでは、マシュ・キリエライトは救われない。藤丸立香は成長しない。ロマニ・アーキマンは報われない。運命が物語れない。
苦難苦境なんてクソくらえだろう。この思考自体、唾棄すべきものなのだろう。本当なら、ここでこの男の幸福を祈りながら、すべてを話して終わらせるべき物語なのだろう。
しかし、レフ・ライノールはそうしない。ああそうだ、これはどこにでもある
この日、神様は己の振るい振るった賽を手に、笑った。
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ああ、君は君のままでいてくれ
「やあ、おはよう、マシュ・キリエライトくん」
「あ、レフ教授。おはようございます」
薄紫のショートカットの少女、彼女の名前はマシュ・キリエライト。原作のおける主人公の唯一無二の相棒にして、デミサーヴァント召喚のために作られたデザイナーベイビー。実験で英霊を身に宿すことに成功はするが、英霊は沈黙。そのため、長く無菌室暮らしをしていたが、ロマニによって救出されて現在に至る。
現在もその身に一人の英霊を宿しながらも、そのマスター適正の高さから、このカルデアではマスター候補Aチームとして訓練に参加する予定だ。
ちなみに生まれたのは2000年であるため、現在は小学校低学年ほどの年齢である。
「どうだい、このカルデアには慣れたかな?」
「はい、このカルデア内での生活の基本は覚えました。ただ……」
そこまで言うとマシュは言い淀んだ。そして、彼女はゆっくりと窓から空を見上げる。
「ここには……青空があまりないのが、少しだけ残念です」
カルデアは、標高6,000メートルの雪山の地下に作られた地下工房だ。天気は曖昧なところは多々あるが、それでも最近の吹雪の様子は激しかった。これでは、散歩はおろか日向ぼっこくらいの贅沢もできない。いまだ幼いマシュにとっては、世界は色彩の薄いものにしか感じられないだろう。
「ふむ、ちょうどよかった。せっかくだ、マシュもこちらについてきなさい。何、そう時間は取らせないし、君の勉強にもなるだろう」
「? はい、わかりました」
そういうと、レフはマシュを横に連れて歩き出した。しかし、マシュのカルデアの知識では、向かっている先は広いミーティングルーム。しかし、今の時間は誰も利用する理由のない部屋だった。そうこうしているうちに、ミーティングルームにたどりついた。
「あの、レフ教授? どうしてミーティングルームなんかに……?」
「何、確かに職員だけを集めるというのは、失念していた。興味のあるなしに関わらず、こういうことは大事だというのにね」
「あれ? みなさん、どうして集まっているんです?」
マシュが入った先、ミーティングルームには、カルデアの職員たちが見えた。決して少なくない数がこの部屋に集まっている。しかし、いったいどうしてなのかまではマシュにはわからない。ミーティングルームというのだから、このあと会議でもするのだろうか? それにしても職員たちが手にしているものを見ると、ポップコーンやドリンクなど、まるで映画鑑賞でも行うかのようだ。
それに、全員が椅子に座らず、床にシートを敷いて座っていた。
「あれ? レフ、マシュも連れてきたのかい?」
「ああ、ちょうどいい。マシュはあのダメな人の隣に行きなさい。大丈夫、マシュがいくら可愛いからと言って、手を出す度胸はあの男にはない」
「君、失礼すぎやしないかい!? ボクに少女趣味はないよ! ていうか、ここまで来たら幼女だよね……うん、さすがにありえないでしょ」
確かにマシュの容姿と年齢を考えれば、性欲よりも父性の方が勝ってしまうのが普通だろう。さしものロマニも真面目なトーンで容疑を否定した。
「知っている。今や君はダヴィンチ女史による調教を受け、彼女の黄金的な比率の絶妙バランスボディしか受け付けないのだろう? うむ、一応彼女も英霊なので避妊の必要性はないだろうが、あまりやりすぎるなよ? 最近、彼女の女性らしさが増していると、君に色々な容疑がかかっているからな」
「自分で同室に持ち込んでおきながら、その言い草はないよね!?」
「ひにん?」
「おっと、すまない、マシュ。今の話は大人の戯言だと思って忘れてくれ」
そういうとレフはそそくさと立ち去ってしまった。少し離れたところで、何かを弄っている。残されたマシュは、指示通り、ロマニの隣に座る。彼も彼で、その手には飴やお菓子などを持ち込んでいた。
「あの、ドクター。今日は何の集まりですか?」
「ん? レフに聞かされていないのかい? なるほど、だとしたらボクはこう言おう。見てからのお楽しみ、ってね」
「んー、内緒ということでしょうか?」
「違うさ、言葉通りお楽しみなのさ。ほら、最近は天気もよくないだろう? 天気って言うのは、意外にも人間の精神状態に影響してくるんだ。晴れなら痛快で、雨なら億劫……みたいにね。もともと今回の発案者はレフだったけど、こんなにも人が集まるとは思わなかったよ」
「では、みなさんもお楽しみなのですね」
「ああ、そうさ。ボクたちみんな、楽しみにしているよ。っと、ほら、始まるみたいだ」
ロマニがそういうと、照明が落とされた。真っ暗闇の世界。一面が黒に染まった色彩。マシュは、根は素直でいい子で、それでいて臆病な子でもある。隣にいるロマニの顔が見れないほどの暗闇というのは、幼い彼女自身としては怖い。
だが、そんな感情も次の瞬間には、吹き飛んでいた。
「わぁー! すごい、すごいです!」
真っ暗な世界に、満天の星空が浮かんでいた。
「ふふっ、気に入ってくれたかな、マシュ」
「はい、これはなんですか!? どうして、お部屋の中にお星さまがあるんです!?」
「プラネタリウム。とは言っても、今のカルデアに専用の部屋を作るために割く資金などはない。だから、部屋はここで我慢するからカルデアに広がる星空を見せろとマリスビリー当主に話してね」
「彼は魔術師らしい魔術師であり、その瞳には大きな情熱を宿している。正直、娘を溺愛しつつも研究一筋の男だからね。まあ、だから最初は反対されたけど、研究能力を向上させるためのリフレッシュだと言ったら、しぶしぶ了承してくれたよ」
「それでこれだ。思いのほか人間が集まったようでね。ほら、マシュも座っていると首が疲れてしまうだろう? せっかくだ、横になりなさい」
「は、はい!」
言われた通り、マシュは横になった。そうして目に飛び込んでくるのは、多くの眩い星々。これが本物ではないのだというから、すごいと思う。そして、これがカルデアの上にあることをマシュは気が付かなかったし、考えもしなかった。
「どうだい、きれいだろう?」
「はい、世界にはこんな景色もあるんですね……」
「そうだよ、ここは標高6,000メートルだから、星はこれ以上なく見える。特にここは雪山だから空気も澄んでいるしね。今度、晴れたときに外に出て空気を吸い込んでみるといい。勢いよく吸い込むと冷たくてむせてしまうが、なぜか呼吸をするというだけで人は感動できるものだ」
「呼吸に感動をするんですか?」
「ああ、そうだ。このカルデア内の空気は清浄だ。だが、そこには快適さはあっても変化はない。だからこそ、外の空気というものを新鮮な感動として認識することができる。実は外でゆっくり深呼吸をするというのは、私の密かな楽しみでもあってね」
「最近は、私もそれについて行ったりしているのよ」
突然、マシュの反対側から声がかかった。そこには、オルガマリーが少しだけ不機嫌そうな顔で、寝転がっていた。
「まったく……レフ、次に人を集めるときには、あまり音を立てる食べ物は持ってこないようにしてちょうだい。ていうか、ロマニ、飴を噛んで砕かないでくれるかしら、うるさいわ」
「とと、ごめんごめん。ついつい癖でね。しかし、マリー、君はこの時間、魔術について学んでいるはずじゃ……」
「レフがいないのに、学んだったって意味はないでしょ? それに、私も多少はリフレッシュをしておきたかったのよ。ハァ……お父様も研究にかかりっきりだし、少しは肩の力を抜けばいいのに」
「あの……先ほどのレフ教授のお散歩について行っているというのは……?」
「ん? ああ、最近というほど最近ではないわね。あまり晴れないけど、まあ、晴れた日にはこのカルデアって、空気が澄んでいて青空がきれいなのよ。遭難しない程度になら、散歩するのも悪くはないわ」
青空。それはマシュの見たいものだ。この灰色の空に、澄んだ空気と青空。それはきっと美しいものだとマシュは思う。これまでは、決してカルデアの外で眺めようとは思わなかったが、今は少しだけ違う。ただ眺めるだけじゃない。その空気感と、世界を感じてみたかった。
「私も……ついて行っていいですか?」
「え? あー、そうね。ああ、別にダメって言うわけじゃないのよ? ただ、ちょっと思うところがあってね……」
「まあまあ、ここは年上のお姉さんらしいところを見せて、君が譲ったらどうだい? いくらレフと二人きりがいいからって――いたい! ボクと真反対だからって、ペットボトルを投げないで!?」
「馬鹿なの、死ぬの!? とうとうその桜髪はお花畑を通り越して、天国にでも行っちゃったの!? だから、あんたはデリカシーなさすぎんのよ!?」
「あ、あのー」
「ああ、大丈夫よ。ちゃんとついてきていいわ。さすがに私もそんなお子様じゃないし」
「いえ、そうではなく、レフ教授と二人っきりがいいということについて聞きたいのですが?」
一瞬、オルガマリーの稼働が止まり、ギギとブリキの人形のような動きで、マシュを振り返った。ちょっと暗闇でそういう動作をされると怖いので、やめてほしいです。
「――――レフ、この子の教育、レフも参加していたわよね?」
「ん、ああ、マシュはまだ幼いし、この世界以外を知らない。だから、当然、私も教えているよ。それがどうかしたのかい?」
「それ、私も参加するわ。いいえ、させなさい。この子、このままだとロマニみたいな……あるいはレフみたいな子になってしまいそうで、少し怖いわ。ええ、私がみっちりと色々と教育してあげる」
どうしよう、心強いはずなのに、どうしてか不安になる。なんというか、真っ白なキャンバスに色彩が積み重なった末に色々と間違った子に成長してしまいそうな気がして――――。
しかし、そんな予感を誰しもが感じつつも、オルガマリーを止めるものはいなかった。理由? なんとなく、レフが教育し続けるとマシュの純粋さゆえに、お互いにコロッといってしまいそうなのだ。何がとまでは言わないが、強いていうなら――――イエスロリータ・ノータッチ!
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じゃあ、君は何のために――?
「レフ教授、何を書いているのですか?」
マシュはこの時間、レフとオルガマリーと一緒にいた。彼らと一緒に勉強をしているのだ。ここでいう彼らというのは、今回、レフのことも含まれる。というのも、普段は教鞭をとるレフが、机に向かってノートを広げ、何かを書き記しているからだ。
「もしかして、新たな魔術の研究でもしているのかしら?」
「ははっ、先祖が代々と研究を重ねた魔術をノート一冊完成させることはできないさ。何、ちょっと筆を動かしていただけさ。ほら、見てごらん」
マシュとオルガマリーがノートを覗くと、そこには確かにレフの言う通り、ただの言葉だったり、単語が書き詰められていた。ほかにも意味もなく、線が引かれたり、きれいな丸、様々な図形が描かれていた。なるほど、確かに“筆を動かしていただけ”という言葉がしっくり来るだろう。
「これに何か意味はあるのかしら? マシュ、わかる?」
「う、うーん、私にはさっぱりです。でも、レフ教授のことですから実はすごいことだったり……?」
「いやいや、深読みはよくない。私がやっているのは、本当にペンの感触を確かめているにすぎないんだ。ああでも、ここから絵を描くというのも面白いかもしれないね」
「絵……ですか?」
「レフって、絵が描けるの?」
オルガマリーが問うたことは、無理からぬことだろう。オルガマリーの知るレフ・ライノールという男は、生粋の魔術師だ。なんせ、魔術師らしい魔術師である父、マリスビリーと話ができるのだから。ただし、最近どこか違った印象を見せるのも事実だった。
例えば、食事に日本のレトルトカレーを食べたり、日本のことわざを引用したりする。ほかにも、以前あったプラネタリウム、これも以前のレフなら思いつくことはなかっただろう。
(いえ、ちょっと待ちなさい)
「マリーさん? どうかしましたか?」
「え、ええ、大丈夫。なんでもないわ。ええと……そう! レフは絵が描けるのかどうかって話だったわね!」
杞憂だろう。それこそ、気のせいという言葉がふさわしいのかもしれない。オルガマリーはそう思った。そう信じた。それがのちにどういった結末を呼ぶのかは、今の彼女の知るところではない。だが、一つだけ言えることがあるはずだ。
オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィアは、ここでの選択を必ず後悔をする。しかし、彼女が後悔するのは、自分が選んだ選択肢にではない。彼女が後悔するのは、ここで選択肢に“向き合ったこと”だ。あるいは、出会ってしまったこと。
違和感を違和感として認識したことが彼女の始まりだ。ここで目を逸らしたところで、ここで目を向けたところで、世界の結末は変わりはしない。この世に、後悔しない選択肢はないのだ。どれほど最良の結果を選んだところで、もう一つの結末を知りえないものに、最良という言葉はありえない。
だからこそ彼女は救われるのだろう。
ただし、今はそのときではない。今はただの過程に過ぎないのだから。
「それで、レフは絵なんて描けるのかしら? 基本的に不器用には見えないのだけど、実際どうなの?」
「ふむ、私は絵をたしなんだことはないが――まあ、物は試しだ。やってみようじゃないか」
そういうと、レフはペンを動かし始めた。本当にやったことはないのだろう、ある程度そういった教養を持つオルガマリーには、そういった拙さが理解できた。だがまあ、真剣に取り組む姿というのは、むしろ絵になっていた。
「ねえ、マシュ。ちょうど休憩の時間なんだし、少しだけ私たちも絵を描いてみない?」
「絵……私は描いたことがありません。それに、モデルもいませんし……」
「大丈夫よ、所詮は休憩時間の落書きと一緒よ。そんなに気張ることはないわ。それに、モデルならちょうど手以外、動かしそうにない男が目の前にいるでしょう? 今のうちに、ささっと描いてしまいましょう」
「は、はい!」
そうして、二人もペンを動かし始めた。題材は目の前の帽子をかぶった男。よほど集中しているのか、ペンの動きに迷いがない。負けじと二人も一生懸命やってみる。もともと記憶力のいいオルガマリーは、数度レフを見上げ、迷うことなくペンを走らせる。一方の真面目なマシュは、何度も見つめては書き足して、消して、書くということをしていた。
どれほど時間がたっただろうか、部屋には静寂が訪れていた。そして意外にもその静かな空間を破ったのは、マシュだった。
「できました! あっ、すみせん。つい……」
マシュは思わず嬉しさからそう声を出したが、周りの静けさにハッと、口をつぐんだ。
「大丈夫よ、レフも集中しているようだけど、一応私も完成したわ」
そういって、オルガマリーはマシュに自分の描いた絵を見せた。そこに描かれていたのは、まさしく人物画と言える絵であり、絵をあまり詳しく知らないマシュでも、上手だと思えた。上半身だけを写実し、丁寧にレフが描かれている。短時間で描くには、精細な絵だ。
「え、えーっと」
「言っておくけど、マシュ? ここで隠すのはなしね」
「うぅー、わかりました……」
オルガマリーが描いた絵に対して、マシュのは絵はデフォルメがされていた。特徴を特徴と捉え、それを印象強く表現する絵は、どこかマシュらしいとオルガマリーは思った。
「あら、上手じゃない。謙遜することはないわ。初めてという条件を含めても、立派な絵になっているわ」
「そうですか? でも、ありがとうござます」
「で、肝心のレフはどうなっているかしら?」
オルガマリーは、集中しているレフの邪魔にならないようにと、背後から覗き込んだ。その絵を見たオルガマリーの感想は、普通に上手だと思った。オルガマリーほどの繊細さはなくとも、可もなく不可もなく、少なくとも落第点を下すような絵ではないだろう。
だが、オルガマリーがレフの描いた絵に対して抱いた感想は、それだけではない。
「これは――なんの絵かしら?」
いや、何が描かれているのかはわかる。家族の絵だ。夕日に包まれているかのような道を、手をつないで歩く三人の家族の絵だ。
右手には母親が立っている。女性ということを計算しても背は低いが、浮かべている横顔は素敵な大人をしている。左手には父親だろう男が立っていた。こちらは横顔は映っていないが、それでもまっすぐと歩く背中は、どこか男らしさを描けている。
だが、中央にいる子供。少年の絵だけがおかしかった。
何が? と問われても具体的に答えられない。だが、どこかおかしいと感じた。オルガマリーは、違和感の正体を探る。そして、その事実に気づいた。
「――――手首が――ない?」
手は両親と繋がっている。はっきりと、間違いなくその手を両親の中になる。だが、あったはずの手首の場所が僅かに消しゴムで消されたように消えていた。いや、実際、手首を描いたあとに一度、消したのだろう。そこにはペンの筆圧だけが残っていた。
「レフ、これって――――?」
オルガマリーは、訊ねようとした。だが、言葉を止めた。レフの顔を覗いたときに、表情に浮かんでいたのは、寂しさだったからだ。
「両親がいたんだ」
「え――?」
レフが答えた。先ほどのオルガマリーの問いの答えだ。
「この絵の話さ。この子には両親がいて、それでいて手を繋いでいたんだ。だが、ある日を境に、この子は両親のもとを離れて、残されたのは手を繋いだという事実だけが残った。両親は手を繋いだことを忘れないだろう。当たり前だ、こんなにも幸せそうなんだから。だから、この手はまだ握られている。だけど、子供はそうはいかないんだ。大人になってしまえば忘れてしまう。手を繋いだことは愚か、そこに自分がいたという幸せさえも――ね」
それは、とても悲しい話だった。まるで、この子供は両親に二度と会えないと言っているようだった。そして、いつかはこの絵の子供自身が消えてしまう。思い出を忘れてしまうように、この絵の中にいる子供も消えてしまうのだ。
「じゃあ、こうすればいいんですね」
「――――マシュ?」
マシュがそういった。こうすればいいと、そういって掴んだのは、レフの手だった。
「ご家族の思い出がつなぎ止められないのは、とても悲しいことだと私は思います。でも、この子供は旅立ったんです。離れてしまったけど、忘れてしまうかもしれないけど、消えたわけじゃない。だったら、誰かが旅先で手を繋いでしまえばいい。代わりの思い出にはなれなくても、重なった思い出にはできます。その絵の中にいることだけが、子供の幸せでありません。幸せは一つじゃないと、私はそう学びました。だから、私は手を繋ぐんです。いつか、その人の誇れるような思い出になれるように、ずっと、その人のそばにいられるように。きっと大丈夫です。だから、いつかその人にこう言ってもらうんです。僕は幸せだぞーって! そう言わせられるくらい、私はその人と幸せを分かち合いたい。それが、私の願いです」
どうして――オルガマリーは思った。
たかが絵の話だ。どうして、そこまで真剣に語れるのだろう。どうして、まるで絵の中の子供に語り掛けるようにそうやって話しているんだろう。
じゃあ、
「だから、マリーさん、泣かないでください」
どうして、私はこんなにも涙が止まらないんだろう。
「ねぇ、レフ。いなくなったり――しないよね?」
「ああ、私がいなくなる? そんなことは――――」
「違うの。本当に、ちゃんと約束してほしいの」
「――――」
ああ、違うの。私はあなたを困らせたくてそう言ったんじゃない。ただ、安心したくて、ちゃんと言葉にしてほしかったんです。なのに、あなたは困ったような顔をする。難しい難題に立ち向かうわけでもなく、ただ子供のわがままに悩む大人の顔をする。
それが、その顔は私が嫌いな顔です。嘘を吐くときの、大人の顔です。
「大丈夫さ、私はいなくなったりしないよ?」
ほら、嘘を吐いた。わかっている。何がどうして、どうなるのかはわからないけど。ここにいるあなたが、これからのあなたが、約束を拒んでいることをわかっている。
「嘘よ」
だから、私はわがままを言い続ける。
「嘘じゃないさ」
だから、あなたは嘘を吐き続ける。もうやめてしまえばいいのに、私は駄々をこねる。お父様にもこんな姿を見せたことはないのに、私は失いたくないものにしがみついている。
「お願いよ、レフ。私、頑張るから! これからも頑張っていくから! お願いだから――――」
「――――――…………まいったなぁ……さすがにこいつは想定外だ」
レフの声だ。だけど、違う。違う人の声。
「あー、くそっ。やっぱロールプレイとか、無理。あれだよね、やっぱTRPGは四人以上でやらなきゃね」
「レ、レフ?」
「レフ教授?」
違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。――――ああだけど、わかっている。これが、この人が素なのだと。この人がレフで、レフはこの人じゃない。多分、もっとずっと前からわかっていた。
「で、どうするよ、お嬢ちゃんたち。“俺”はこうしたけど、おそらく、
この人はそう言う。あの人じゃない顔で、どこかお茶目な表情で。
まるで、肩の荷が下りたかのように、どこか答え合わせをするように。
この日、ようやく、私たちの
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そうか、君は間違えたのか
「おや、珍しいものを食べているじゃないか、レフ。それは、カレーライスかい?」
ロマニは、レフに食堂で話しかけた。というのも、彼が珍しいものを食べていたからだ。レフが口にしているのは、日本のレトルトカレー。紳士然とした食にうるさい彼にしては珍しく、庶民的な味の夕食だった。いや、そもそもロマニがこうしたレフの食事風景を見たのは、そう記憶にないことだった。
どちらにしろ、魔術師としてのレフしか知らないロマニにとって、彼のこういった食事はイメージにはないものだ。特にこのカレーライスに関しては、
「…………ああ、ロマニか……」
「どうしたんだい? 見たところ、元気がないように思えたけど?」
「いや…………大したことはないさ」
それは嘘だ。ロマニは、他人を信じない。破滅という未来が起きることを知り、それが自分に関わってくることを理解しているロマニにとって、レフが嘘をついていることを見破ることなど、容易いことだった。いや、特にいえば、最近のレフの動向を見る限り、ロマニは違和感を感じていた。
レフはロマニに友情を感じている。それは理解している。だが、最近のレフにはそれとは別の感情があるように思えた。まるで、
だが、ここでロマニは気まぐれにレフの相談に乗ってみることにした。
「おいおい、レフ、水臭いじゃないか。よし、このロマニ・アーキマンが相談に乗ってあげよう!」
ロマニにとっては、これは当然のことだった。ロマニのレフに対する友情は嘘偽りのものだ。だからこそ、ここでいけしゃあしゃあと相談に乗ることを選択した。
だが、それこそが悪手だった。
「――――相談? 笑わせるな、ロマニ・アーキマン。君がやろうとしているのは、ただの情報戦だ。人理焼却という未来に対応するためのあくまで伏線でしかない」
「――なっ!?」
「何を驚いている? なら、もっといってやろうか? そうだろう、魔術王ソロモンよ」
「レフ…………君はいったい……」
どうしてそれをと、続けるべきだったのか、それとも、何者だと、続けるべきだったのか。喉元まで出かかった様々な言葉が、何かにせき止められたかのように、出てこない。脳裏の先、どこか魂とでも言うべき場所が、何かを訴え叫んでいることに、言葉がつっかえる。
「君の問いはわかる。私がどうして君の正体を知っているのか、私自身の正体がなんなのか……それを知りたいのだろう? だが、悪いな。どちらを答えるにしても、“まだ”経験値が足りないんだ。今はまだそのときではない。例えばそうだな……あと数千回ほど、“世界が滅んだあと”にでも答えるとしよう」
「つまり、君は世界を滅ぼす側の人間だということか?」
「その問いには、そうでもあるし、そうではないとも答えられる。曖昧だと思うか? だが、それ以外に答えを持っていないのも確固たる事実なのだよ。ああでも、だとしたらも一つの事実を答えよう。確かに私は
滅ぼした。この男は、確かにそう言った。“過去形”でそう答えた。それはいったい、どういう意味だろうか? まるで、世界の滅亡を
「言っておくが、ダヴィンチ女史に相談をしたところで無駄だ。彼女も契約上、私とともにある」
「それは、どういうことだ?」
「簡単さ、レオナルド・ダ・ヴィンチは私の味方ではないが、決して敵になりえない存在だということだ。彼女には私の魔術で“縛り”がある。だがまあ、安心したまえ。さっきも言ったが。ダヴィンチ女史は私の味方ではない。むしろ、私の“縛り”さえないのなら、私を止めに来るだろう。彼女はそういった側の天才だ。実に人間らしく、尊敬に値するだろうね」
「一つ、君に問おう。君は、ボクの敵か? 人類の、敵なのか?」
「――――ふふっ、その問いもどこか懐かしい。だがまあ、“私”はまだ敵のままだよ。安心するといい、人理は必ず焼却される。君の努力と憂いが無為に消えることはない。では――――おやすみだ」
視界がぐらぁっと揺れるのを実感した。これはあれだ、連続徹夜明けの本気で意識が飛びに行く奴に似ている。似た感覚だからこそ、ロマニの意識は地に這いずりながらでも、辛うじてつなぎ止めることができた。地に伏したロマニをしり目に、レフは独り言を続ける。
「ここでの会話を消させてもらうよ、ロマニ。何、大したことはない。今回
魂が脳裏の先で叫ぶ。眠ってはいけないと。この男から目を逸らしては、忘れてはいけないのだと叫んでいた。だが、すまない。視界がボヤけ、意識が途切れ始める。
「ああ、大丈夫だとも。いつか、いつか必ず、勝ってみせるから。“俺”のやっていることが自己満足にすぎないんだとしても、無駄な足掻きだとわかっていても――――必ず君やみんなを、――を救うから」
誰……だ……。今、誰の名前を口にしたんだ? 忘れてはいけない。魂が泣き叫ぶ。どこか、この光景を覚えているような気がした。ああ、そうだ。ボクたちは、いや、“君”だけ繰り返しているんだ。それを理解すると同時に、ロマニの意識は、そぎ落とされるように途切れた。
――――――…………
「それで、よかったのかい?」
「ダヴィンチ女史か……すまない。また、この馬鹿を頼む」
「いや、私から言わせてもらえば、“君”の方が馬鹿だ、大馬鹿だ。“君”のやろうとしていることは、非常に愚かだ。カルデアのメンバー全員の顔に泥を塗る行為だと言ってもいい。終わったことをやり直す。そのことの愚かしさを理解していないわけではないんだろう?」
「ああ、知っているさ。でも、私はもう決意してしまったんだ。何度繰り返すことになっても、この馬鹿を救うルートを見つけ出すとね」
「じゃあ、今回はそのための踏み台なのか? それに私はふざけるなと言っているんだよ。いや、違うな。踏み台でもないのか。“君”の話が本当なら繰り返している。文字通りのやり直しだ。元あった“道”が分岐して戻るのではなく、“道”ごとなくなってやり直されている。ああなるほど、これでは踏み台どころか、犠牲ってことじゃないか」
ダヴィンチの言葉は的を得ていた。レフがやっているのは、そういうことだ。原作staynightにおいて、セイバーアルトリアが故郷を救うために選ぼうとしていた選択肢。あるいは、魔神王ゲーティアが選ぼうとしていた『逆光運河・創生光年』に似た計画だった。
ただ一つ違うのは、前者の二人はこの選択肢により、成功を願ったのに対し、レフが選んでいるのは失敗の“積み重ね”だった。
「“君”、このままじゃ失うよ?」
「ああ、それでいい。それがいい。“俺”の選んだ道の先に、“俺”はいないのだから」
ハッピーワールドエンド。いつだか、彼女と約束をしたエンディングの内容。誰しもが笑って迎える結末を迎えるために。ただ一つ、その場所に■■■■という異物はいらない。
「じゃあ、せめて名前を教えてくれよ。いつかはわからない。わからないけど、“君”のことを思い出すためにさ」
「名前? ああ、そういえばそんなものもあったような気がする。だが、もうとっくに忘れてしまったよ。だがまあ…………一度だけその馬鹿に“俺”の計画を話して殴られたとき、こう言われたよ」
それも、ずいぶんと昔の話だった。
『いいか!? 君のやろうとしていることは、最低最悪の愚行だ! ボクも、マリーも、マシュも、レオナルドも、立香ちゃんも! カルデアにいる職員やサーヴァント全員が、君の計画に反対する!』
だけど、その男は最後に泣きながらこう言った。
『――――わかった。ボクは君の計画を認めない。でも、“今の”ボクにはこれから行く君を、今更止める術はない。だから、ボクの
「“俺”の名前はアンノウン。ミスターアンノウンさ」
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うん、君は馬鹿なままだった
とある部屋。ここは普段、休憩室だったり、喫煙所として使われている部屋だった。そこに深夜、複数の人間が集まっていた。顔ぶれを見れば、そこには男だけが集まり、わざわざ雰囲気を演出するためか、ろうそくで雰囲気づくりをしているようだ。
「ロマニ、準備はいいか?」
「ああ、抜かりはないさ」
「じゃあ…………」
「ああ…………」
『第十二回! 野郎語りを開催する!』
何か始まったようだ。
「ロマニ、説明を頼む」
「オーケー、任せて! 野郎語りとは、カルデアの独身率の高さから、なんとかいい感じの雰囲気になれないかなーなんて集まりだした馬鹿たちの集まりだ! いわゆる魔術師気質じゃない人間が主に集まり、ぶっちゃけ、下種な下ネタ話をしようという企画である!」
「さあ、諸君、ここで日頃の鬱憤、主に性欲を吐き出すがいい! ここに、変態に対する制約は――――ない!」
『うおおおおおぉぉぉおぉぉぉぉっ!』
ああ、つまり、これはただの馬鹿の集まりか。
「はい!」
「よし、会員ナンバー
いや、ちょっと待ってくれ。そこは数字でナンバーを決めてくれよ。どうしてわざわざπなんて――だいたい予想できるのがひどい。
「おっぱいを、おっぱいを語らせてください!」
やっぱり予想通りかよ、ちくしょう!
「ふむ、おっぱいか……やはり、主な趣向として分かれるのは、大きいを選ぶか、小さいを選ぶか……だな。ちなみにπ、君はどうだ?」
「おっぱいを愛するものとしては、制限をするようなことは愚行、それをわかっていながら、私は巨乳を選びました! ていうか、研究職の白衣にたわわに実ったはち切れそうなおっぱいを見て、我慢できるかよぉぉぉっ!」
うわぁっ、泣いているよ……。この男、おっぱいを揉みたさに涙してるよぉ……。
「待てぇい! 白衣には、スレンダーな胸こそが美学! どうして誰もこの趣向を理解しようとしないのだ!」
「ふざけるな、会員ナンバー
「待て、その発言は私も聞き逃せないな、π。
『ハッ!?』
いやいや、どうしてそこで全員、目が覚めたみたいな顔をしているのかな? それ、一番ダメな奴だからね? せめて自分の趣味趣向は最後まで貫けよ! オールオーケーはいろいろとダメだろ! どうでもいいけど、会員ナンバーにおっぱいに思い入れあるやつ多すぎる!?
「そ、そうか……私は大切なことを忘れていたよ。女性が裸白衣になっている。その時点で、私はもうある意味イっているだろう」
「ああ、そうだとも。我々にとって重要なのは、胸の大きさももちろんだが、そもそも――――女の子とめっさイチャイチャしたいんだった!」
「どうやら、理解したようだな」
「プ、プロフェッサー! それに、ドクター!」
いや、何を君たちは驚いているのかな? そこの馬鹿筆頭二人は、さっきからずぅっとそこにいたよね?
「そうとも! 我々に必要なのは、妄想のおっぱいではない! 現実にいる揉んでもオーケーな上に、イチャイチャできる恋人おっぱいなのだ!」
「ああ、ボクたちは忘れてはならない! この場で吐き出した思いを胸に、いつか現実で掴んでみせるんだと! 妄想ではない、本物のおっぱいを!」
『おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい! おっぱい――――』
…………カルト教団か何かかな?
「静粛に! 君たちのおっぱいに対する情熱は理解した、そのうえであえて聞こう! 君たちは――誰を望む?」
「わ、私は、医療部にいる元気印の彼女がいいです! 彼女の笑顔に癒されました!」
「自分は後輩がいい。彼女の先輩思いのところに癒されました」
「あ、いや、あの後輩は俺と付き合ってるからなしで」
「貴様ぁぁぁぁぁっ!?」
いや、付き合いがあるならこういう会議に参加してやるなよ……。ああほら、場が混沌としだした。
「いつからだ!? いつからそんな羨まけしからんことになっているんだおめでとうだよどちくしょう!」
「あー、今のは俺が悪かったからとりあえず、涙拭けよ……」
実は君たちとてつもなく仲がいいんだろう? そうなんだろう?
「そういえば、プロフェッサーとドクターはそこらへんどうなってるんです?」
「ん? 私たちか? さて、とりあえずドクターは、某天才とよろしくしているようだ」
「おいぃぃぃぃぃっ!? 仕掛けた側の君がそういうこというのか!? ていうか、ボクと彼女の同室はいつ解除されるんだよ!?」
おい、まさか君は私との同室をやめたいと? 普段から私の胸に顔を埋めている君が? 冗談はいい加減にしてほしいよ、まったく。
「そういう君は、少女二人とどこまで進展したんだよ!? 言っておくが、嘘やごまかしは禁止だ!」
「――――少なくとも姉貴分の方から告白されたのは間違いない」
「お、おぉ……なんていうか、その、おめでとう。まあ、彼女に関してなら、もうそういうお年頃なのは間違いないからねぇ……」
「ああ、あそこまで堂々と告白をされると確かにまあ、嬉しいものだな」
「で、どう答えたんだい?」
「丁重にお断り――するつもりだったのだがね。どうやら私も自分が想像しているよりも彼女に惹かれていたようでね。思わず受け入れてしまったよ」
「マジか!? 朴念仁だと思っていた君が!? とうとう恋人を持ったとで言うのかい!?」
お、おー……この情報はまさかの予想外のものだね。いや、確かに最近、彼女の様子がおかしいとは思っていたが、まさかこんなことになっているとは……。
「ただなぁ……君も言ってはいたからわかっていると思うが、妹分の方がな……」
「あ、あー……彼女は純真無垢を地で行くからねぇ……なんか、この前も変なリスみたいな動物を連れていたし……」
「彼女はフォウさんと名付けたようだがね。もちろん、彼女にも伝えたが最近の様子を見るとどうにも大変なようでね。ああ、とは言っても、彼女場合は私に異性としての好意を抱いているのではなく、あくまで親しい人間の恋仲をどう処理したらいいか悩んでいる様子だった」
「へぇ……ボクとしては彼女も脈ありな感じだったけど、違うのかい?」
「少なくとも今は確実に違うと言えるよ。まあ、彼女もまだ幼いからね」
ふむ、確かにその意見には私も賛同しよう。彼女場合、彼に感じているものは父性だろうね。ただし、あくまでも“今”はという条件が付く。乙女心と秋の空。何が起こるのかわからないのが、あの年ごろの少女というものだ。ふむ、これは今後も期待できそうだ。
――――――…………
「やれやれ、気まぐれに覗いてみたけど、私の知らないところで意外な進展があったものだ」
相変わらずロマニのヘタレ具合は変わりそうにないが、レフの方が先に進んでいるとは意外だった。何より、あのレフがオルガマリーの告白を受け入れたというのだから、驚きである。あの男なら、年齢を理由にしてでも断ると思っていたのだが……。
「ふふっ、さしもの天才にも人の心は読めない……か……」
さて、あの男に訪れた変化がこれから先、どうなっていくのか……本当に楽しみだよ。
「んー、さてと! いい加減、あのヘタレにも多少は覚悟を決めてもらおうかな?」
ダヴィンチちゃんの本気、とくとご覧あれってやつさ。
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それでも、君は行くのかい?
「…………ふぅ」
「おい、ロマニ。何があったかは知らんが、わざわざ私の部屋に来てため息を吐くのはやめてもらおうか。というか、人が仕事を片付けているときに黄昏たその表情が腹立たしい」
「君、ボクに対しては問答無用でキツいよね!? 少しくらい何があったか気になる態度を見せろよ!」
ロマニは、レフの部屋に来ていた――のだが、まさかここまで辛辣な態度をとられるとは思っていなかったのか、早くも相談することに心が折れそうだ。しかし、ここでくじけてはいけない。ロマニの相談は、レフだからこそできる話だった。
「はぁ……君もなかなか面倒な案件を抱えていると見える」
「じゃあ、ボクの相談に乗ってくれるんだね?」
「だが断る!」
「断るのかよ! ここは友人として相談に乗るところだよね!?」
「冗談だ。とはいうものの、私も仕事の最中だ。少々片手間になるが、まあ、話くらいは聞いてやろう」
この「やれやれ、仕方ない」という完全に上から目線の態度に思うところがないわけでもないが、とにかく今回ロマニが抱えている問題について考えるなら、そういうことに気を取られている場合じゃなかった。
「…………ばわれた」
「は? よく聞こえん。もう少しはっきり言うんだ」
「だから! 童貞を奪われたんだよ!」
ロマニは顔を真っ赤にして脱童貞を宣言した。それを見つめるレフの表情と言ったら、笑いをこらえきれないといった今にも噴出してしまいそうな顔だった。ロマニは今更思う。この外道に相談するのって、そもそもが間違いなんじゃないか? と。
「くっ、ぷっくくっ、あーっははははっ! そ、そうか! ようやくあの天才が本気を出したか!」
「わ、笑うなよ! ボクは真剣に相談しているんだぞ!?」
「い、いや、すまない。つい、な。それで? どんなシチュエーションだったんだ?」
「…………笑わない?」
「失笑くらいはしてやろう」
「笑うこと前提じゃないか!?」
そうは言いつつも結局話すのが、このロマニ・アーキマンという男だ。ロマニは今にも頬から熱を噴出しそうな顔で回想を廻らせる。そう、それはいつものようにロマニが部屋に戻った時のことだ。
『あー、やっと終わった。レオナルドー、ちょっと話が――――』
『すぅーすー』
『って、なんだ。眠っていたのか』
ロマニが部屋に戻ったとき、ダヴィンチはソファーで眠っていた。外見は美女として間違いないが、中身は男。彼女は自分の研究のためならと自分のラボは綺麗にしたりするが、肝心の自分自身のことに関するとズボラなところは隠しきれていなかった。
『まったく、こんなところで寝ていたら風邪をひくよ』
ロマニは、寝室から毛布を持ってきてそれをダヴィンチへとかける。どうせ、自分も色々とやらなければいけないことはある。ある程度したら起こして、ベッドにでも向かってもらおうと思っていた。そう思っていたのだが――。
『――ロマン』
『……寝言……か。まったく、どんな夢を見ているんだか……』
ダヴィンチが小さく呟いた自分の呼び名に反応して、立ち去ろうとしていた足を戻した。見れば、かけた毛布が少しだけはだけていた。それを戻すついでに、彼女の顔を眺める。自分でもどうしてそうしたのかはわからない。でも、気が付けば、彼女の顔をじっと眺める機会なんてそうそうないと言い訳をしていた。
見れば見るほどに整った顔立ちだと思った。世界三大微笑にも入るモナ・リザの姿をして限界した英霊。
『…………レオナルド。ボクは君に感謝している』
手を伸ばす。均整に整ったその表情を見つめながら、優しくその頭をなでた。身じろぎもせず眠っている彼女に、ロマニは静かに感謝の言葉を告げる。でも、言葉はそれ以上続かなかった。自然と見入っていた。自分の鼓動と彼女の吐息だけが静かに流れる心地よさの中、ロマニは彼女に見惚れていた。
そして、徐々にその顔を近づけ――。
『――――いや、ダメだな』
でも、ロマニはそうつぶやくとそのまま立ち上がり、部屋を去ろうとする。自分のやったこと、やろうとしたこととの境界線の中をさまよいながら、歩くように。
だけど――――。
『なにがダメなんだい、ロマン』
彼女はそんな彼に手を伸ばす。
『寝たふりか。さすがにこれはズルいと思わないかい、レオナルド』
『別に魅了を使ったわけじゃあるまいし、そんなことを言われる筋合いはないね。でもってロマン。君は何がダメだと思って立ち去ろうとしているのかな?』
ダヴィンチは問う。何がダメで、何がいいのか。ただし、それは境界線を探るためではない。境界線を砕かんとするために、彼女は訊ねた。
『いやいや、寝ている女性に不埒な真似をしようなんて、レフじゃなくてもわかる紳士のマナーだってば』
『ほう、では君は私に何をしようとしたのかな?』
『おっぱいを揉もうとしていたんだよ』
『違うな。君は私の胸を見ていなかった。君が近づいたのは、私の顔だ』
『あー、それは君をからかうために顔に落書きをしようとね』
『でも、ペンはもっていなかっただろう?』
『ええっと、そう! きれいな頬だったから、摘まんで遊ぼうかと考えたんだ!』
『そうしたら私の目が覚めて怒ってしまうかもしれないよ?』
『そ、そうだね。でも、モナ・リザの顔にいたずらをするなんて、それくらいで許されるならいいと思うんだ!』
ああ、言い訳だ。何を慌てているのか、ロマニは焦ったようにそう口にする。でも、わかっている。自分が彼女に何をしようとしていたのかくらい、わかっている。だから、言い訳をしているんだ。目を逸らしているんだ。
『ふむ、じゃあ私はいたずらをしようとした君に怒らなくてはいけないね』
『あ、ああ! 望むところだとも! でも、できれば優しめにお願いします……』
『そうか、では――――』
――――チュッ。
唇が重なった気がした。
『――――は?』
『おい、動くんじゃない。うまくできないじゃないか』
『え、いや――――』
――――チュゥッ。
今度は、さっきよりも確かに分かる柔らかい女性の感触だ。
『ロマン、先に宣誓しておこう。私は天才だ。天才とは、強欲であり、わがままなんだ。別に嘘が嫌いだとか、なよっとしているのに腹が立つとかそういうんじゃない。ただ、私にも我慢の限界というものがある。こちらがそういう気持ちの準備をしているというのに、躱されるとイラっとくるしね』
『な、何を言って――んっ、ちょっ、まだ話してっ』
『ちゅっ、はぁっ…………まあ、正直、天才だからと言って人の心が読めるわけじゃない。先日もそういうことを知ったばかりだからね。でも、だからと言って頑張る君の姿に何も思わないわけじゃない。君の苦しみは君にしか理解できないし、君の背負っているものを私が肩代わりすることもできない。ただ――――』
ダヴィンチは言った。彼らしくない、彼女らしい女性のような表情で、こう言った。
『私は君を支えたいんだよ』
殺し文句としてはどうだろうか? 決まっている、控えめに言って――――最高の一言で片づけられるような陳腐なありふれたセリフだ。ロマニ・アーキマンの覚悟は揺るがない。彼は決して人理焼却を止めようとして生きているわけではない。彼は決して人理焼却の果て、人類を救うために孤独に戦っているわけではない。彼には彼なりの責任があった。
自分が人間になったから視えた人理焼却という未来に対し、彼は最後までともにいるという覚悟を持っていた。彼は、決して救うための戦いをしていたのではない。そもそも、救う手段があるのかさえわかからない。だから、彼の覚悟は生きることに集約されていた。
ゆえに、彼の覚悟は揺るがない。
『ハァー、まったく、レフもレオナルドも人の言うこと聞かないんだから。何? 天才っていう生き物は、そういうものなの?』
そう、覚悟が揺らぐはずはない。
でも――。
『本当、ちゃんと最後まで付き合ってよね』
新しい覚悟に変わることはあっていいはずだ。
――――――…………
「と、いうわけなんだけどさ。とりあえず、そのブラックコーヒーを笑いながら差し出すのはやめてくれないかな?」
「い、いや、なんというかもう、ごちそうさま」
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わかった、君の望んだこと
「ひっくっ――――」
声だ。涙をすすり、嗚咽をかみ殺すかのような声が響いている。哀愁を誘い、同情を買ってしまいそうになるような子供の、しかし、その子供もすでに大人として働くことのできる年齢ではあった。だが、その彼女も今はいつしかのように涙をこらえることができなかった。
マリスビリー・アニムスフィアの死。彼女、オルガマリーにとって偉大とも言って過言ではない父がこの日、命を落とした。
――――――…………
「レフ、マリーの様子はどうだい……?」
「どうだ、と尋ねられてもね。
オルガマリーのこの状態は、レフにとって意外、予想外の出来事だった。マリスビリーが死ぬのはわかる。それを防ぐ手段も、原因も知らないレフにとって、それは“本心”を除けば理解できる事象だった。救う手立ては愚か、原因はマリスビリーの自殺だ。止める手段もマリスビリーのそれに至った理由もわからない。
だが、この際それはいい。問題は、オルガマリーがここで“折れた”ことだった。
あくまで言い訳をするなら、マリスビリーの存在は、あくまで“原作”を多少かじった身としてはそう変わりない。娘を愛しながらも、それ以上に研究に没頭した魔術師。そう、オルガマリーにとってマリスビリーの存在は、そこで終わるはず
つまり、本来ここでオルガマリーがとるべき行動は、立ち上がることだったのだ。歯を食いしばり、両腕を握りしめたうえで、名門であるアニムスフィア家の舵を取り、周囲の悪意に向かって戦う。ヒステリックに、臆病なまま、前に進むことを選択するはずだったのだ。
しかし、現実は違った。オルガマリーは、研究に没頭し、非合法な実験も是とする魔術師マリスビリーの死に、心折れた。とはいえ、オルガマリーにとって偉大な父の死だ。それを不思議がるのはやや人間味に欠けるというか、想像以上に屑な感性になってしまうが、それでもレフには不思議だった。
「ねぇ、仮にも可愛い彼女の窮地に随分とドライな反応だね、レフ。それはいささか君らしくないようにボクは思うんだけども?」
「私らしくない……か……」
相変わらず鋭い男だとレフは思う。多少、肩の荷の背負い方を変えただけで、ロマニの本質的な部分は変わらないようだ。だが、同時にこうも思ってしまった。
「なあ、ロマニ。君の言う“私らしさ”とはなんだ? レフ・ライノールとは、どういう人間だと君は思う?」
「相変わらず、突然の質問だね。でもまあ、ボクなりに答えるとしたら、君らしさは人間らしさだ。君は魔術師らしくないし、レフ・ライノールは温かみを持った人間だと思ってるよ。だから、のんきにボクの部屋でコーヒー片手に談笑している姿を見ると、ぶん殴りたくはあるね」
ああ、とレフは納得した。目の前に座っているロマニは、“怒っている”のだ。優男極まりないこの男のこういう感情は、なかなかお目にかかれるものではないだろう。そして、レフはそれに
そうだ、レフ・ライノールがここにいるのはおかしい。
どうおかしい?
どうしておかしい?
どうやっておかしい?
わかっているとも。レフ・ライノールならば、恋人であるオルガマリーの窮地を支えたはずだ。そして、どうして自分がそれを行動に起こさないのかもわかっている。どうして自分がそんな風になってしまったのかもわかっている。
では、そこに至るまでの過程はどうだった?
レフには不思議だった。本当に本当に不思議だった。
じゃあ、なんで“君”はそこにいる?
「あ……れ……?」
そこで、“君”は疑問の声を上げる。レフ・ライノールの声で、ただし、疑問を発したのは誰でもない彼。瞬間、世界がズレる。
――――――…………
見上げる形でベンチに座っていた青年の上には、空が広がっていた。おそらく、カルデアにたまにある晴れの日なのだろう。それを見ていた青年の目には、ふさわしくない空虚が広がっていた。胸中に広がるのは、またか……という落胆と同時に湧き上がる情熱のような感情。
身が腐り、骨が砕け、魂が摩耗するほどに繰り返したであろう原初の日。忘れるほどに取り戻される救済の情。英雄気どり、主人公もどきの感情に反吐が出るどころか、殺意さえ覚える中、それでも青年の胸には火がくすぶる。
しかし――――、
「どうして……どうして“俺”は戦っているんだっけ?」
そこには理由はなかった。火はあっても、焚べるべき薪がなかった。もはや忘れている。何をして、何を持ってして繰り返しているのか。郷愁はある。昨日のことを覚えている。しかし、その“昨日”とはいつのことだ? だって、そうだろう?
「
ああ、ああ、あああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――――――。
キチキチ、キチキチ。
何かが軋む音が聞こえている。
ミチミチ、ミチミチ。
何かが歪む音が響いている。
既知と未知。軋み歪んで、壊れる音が奏でられた。
既存の常識では太刀打ちできないような未知が襲う。
見たこともない未来が在りし日より信じられた言葉に圧迫される。
狂狂と回る歯車。
殺殺と転がる賽子。
これは、振るい振るわれた賽を手に、神様が笑うようなお話。
だけど、“君”は止まらないんだろう?
「ああそうさ、止まらない! 止まれないんだ! “俺”に残ったのは、この火種だけだから――!」
こうして、青年はまた歩き出す。なぜ、自分が繰り返しているのか。誰を救おうとしているのか。どうして救おうとしたのか。それすらわからないまま、悪戯に残された火種を頼りに生き続ける。千年、万年、億年が過ぎたとしても青年が変わることはない。
だって、仕方ないじゃないか。
――――――これ、ただの夢の話だぜ?
――――――…………
「…………別に夢ってわけじゃないんだけどね……」
黒髪、黒目、少しだけ童顔の入った眼鏡の青年。どこからどう見ても日本人であり、名前は
「で、結局協力する気にはなったのか?」
青年は独り言ちる。まるで、本当に誰かに話しかけているかのように。
「まあ、そう思ってくれるなら、俺が過ごした……うーん、まあ果てしない繰り返しの旅にも意味はあるってもんだよ」
どこか他人事のように、それでいて宝物のように語る青年。その言葉は、何も変わってはいなかった。
「一応の確認だけど、今回が最後になるよな? ふーん、いや、別にいいさ。俺がやってきたことが変わるわけでも、俺がやろうとしていることが変わるわけでもない。というか、ここまで来たらとっくに引き返すべき道はないでしょ? じゃないとさ、これまでの“俺たち”に申し訳が立たないっていうかさー」
まあでも、それならそれでいいだけどね。
「んじゃ、行こうか、相棒。果てしない旅の終焉ってやつにさ。何、今回のお話はあっという間に終わるだろうね。それじゃ、カルデアを裏切って、マリー……所長を殺して、我らが王の願いを叶えに行こうぜ。なあ、そうだろ?」
フラウロス。
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