カップに一匙の魔法を (せきな)
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1 OPEN
OPEN
『カフェ アルテ…ミシア?』
狭い路地の壁面にすっぽりと嵌め込まれたようなドアに掛けられた、見慣れない文字列の看板を眺めていた小川奈緒は独り言を零す。
ある春の土曜日、時刻は午後。高校生の彼女は特に部活に所属しているわけでもなく、かと言ってこんな晴天の休日にわざわざ家にこもって勉強に勤しむほど真面目でもない。別段、何か予定があったわけでも無く単に気が向いたからという理由で散歩に出向いた。
歩きながら、たまには知らない道を歩いてみるのも良いかと考えて当てもなく彷徨っていた。
そして細い路地に入ったところで雲よりも白い月白色の石壁に飴色のドア、そこに掛けられた【Cafe Artemisia】と金色のインクで描かれた小さな黒い看板が目に留まる。
この辺りに住んでいるが、この店がいつからあるのか奈緒には全くわからなかった。目に入るこの看板だけ、ずっと昔からあるようにもつい最近新調した物のようにも思えてくる。
日本の閑静な住宅街のど真ん中であるにも関わらず、ここだけヨーロッパの何処かの国からそのまま持って来たような錯覚すら覚えるほどに、この店は周りの景色に不釣り合いに感じられた。
ドアの周りにはには幾つかプランターが置かれており、色とりどりの花が咲いている。手入れもきちんとされているようだ。
窓はこのドアの正面には見当たらず、奈緒が今立っている場所から店内の様子は伺うことができなかった。
『わぉ…なんかすっごい良い感じの雰囲気。お洒落なお店の予感がする。』
ぼそり、とまた独り呟いてコーヒーでも紅茶でも良いから戴こうと奈緒は考えた。散歩に出てからもう一時間程度、時刻は既に午後3時を回っており、喉も渇いている。ティータイムにはもってこいだった。
『ケーキとか置いてるかな?美味しかったらご贔屓にさせてもらお。』
こういった隠れ家的なカフェを一つ二つ知っているのは現代女子にとって大きなステータスになると考える人は多いはずであり、彼女もまたその内の一人。
彼女は高鳴る期待に胸を弾ませ、小さく口の端に笑みを浮かべた。一つ息を吐いて、真鍮製のドアノブに手をかける。
ゆっくりとドアを開けると、チリンチリンとドアの裏に付いているベルが小気味好く鳴った。
『いらっしゃいませー!お好きな席にどうぞー!』
店内から透き通った声が聞こえてくる。女性だ。しかしその姿は見えない。その事を不思議に思いながらも、ここにずっと立ちっぱなしというわけにはいかないと、近くにあった二人がけの席に座った。
どうやら他の客はいないようで、がらんとしていた。全体的に落ち着いた色調で整った店内。カウンターの上にはかなり古いものであろうサイフォンが置かれており、椅子やテーブル、柱時計なども全てアンティークなもので統一されていた。
カウンターの向かいの壁は英語であったり、見たこともない文字であるから外国の物であろう本で埋め尽くされている。窓が無いにもかかわらず、いくつかのシャンデリアの暖かい光で店内は満たされ、シーリングファンが静かに回っていた。
店の隅に置かれたこれまた古そうなレコードプレイヤーから流れるジャズを聴きながら、奈緒は確かに当たりを引いたと感じた。小さくガッツポーズをして1人思案する。
『もうこの時点で絶対良いお店だって分かるなー。』
もう暫くこの雰囲気を堪能していたいが、同時にメニューも気になるところだ。お店の雰囲気は最高点に近い、あとは料理がどれほどかを確かめるべく奈緒はテーブルの上に置いてあった呼び鈴を鳴らす。
『はーい!少々お待ちくださーい!』
先ほどの透き通った声が聞こえる。しかし近づいてくる足音や気配が一向にしない。
おかしいな、と感じながら奈緒はキョロキョロと店内を見渡した。人の姿は未だ見えない。
お店を一人で経営しているのかなと考え、それならゆっくりでもいいし、自分はこの雰囲気を楽しもうかとテーブルの上へと視線を移す。
『…え?』
奈緒は頭が真っ白になったようだった。今までテーブルの上に置いてあったのは何だっただろうか。
珍しく電子化されていないアンティークの呼び鈴、ガラスの灰皿、ケースに入った銀のカトラリー、テーブル本体の上という意味ならこの凝ったレースの真っ白なクロスもそうだろう。
しかしだ、今こうしてテーブルの上には栗色の装丁が為された冊子とキラキラと輝くオールドファッショングラスに入った水がポンと、まるで最初からそこにあったように置いてある。
『…う、うわあああ!』
反射的に女性らしさも何もなく驚きの声を上げ、椅子から飛び上がる。そのままの勢いで倒れた椅子に躓き、大きな音を立てて後ろ向きに転んだ。
『お、お客様⁉︎ 大丈夫ですか⁉︎ お怪我はありませんか⁉︎』
3度目の透き通った声が耳に届く。しかし声だけだ。未だ姿の見えぬ声は痛みに蹲る奈緒をさらに混乱させた。
一体何がどうなっているのか全く理解が追いつかない彼女の元へとようやく足音が近づいてくる。
『だっ、誰⁉︎』
理解できない状況にある為か、奈緒は普通に聞こえる足音にも警戒心を剥き出しにして叫んだ。
『エニス‼︎またやったのか君は‼︎』
先程の声とは異なり、今度は男性らしい声が聞こえてきた。
『あっ!ちっ、違うんですよマスター!これはですね!あのー何というか不慮の事故というか!久しぶりにこういうお客様だったので魔がさしたと言いますか!』
透き通った女性の声が近づいてくる男性の言葉に焦った様子で答えた。
『次やったら給料全部コーヒー豆で出すからね。全く…あー大丈夫かな?お嬢さん。』
転んだままでいた奈緒が後ろに振り向くと、白いイタリアンカラーシャツ、黒いウエストエプロンに身を包んだ黒髪の男性が手を差し出して立っていた。
キリ良く終わらせるのとか、視点とか実際書くと難しいですね
感想評価、誤字報告お待ちしております。
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2 Magical magic
別に書き溜めがあるわけではないですが、書けるうちに書いておきます。
『改めて、ようこそ【カフェ アルテミシア】へ。僕は一条 真、一応この店のマスターをやらせてもらってるよ。』
男性は手を差し出したままこう続けた。
奈緒は状況を把握しようと努めながらその手を恐る恐る取り立ち上がった。
『驚かせてしまってすまなかったね、エニスは少々お転婆が過ぎる。僕も何度も注意しているんだが一向に聞く様子が見られなくてね。』
男性は少し長めで軽くウェーブのかかった黒髪をがしがしと掻きながら困ったように笑って言った。
『えっと、大丈夫です。少し…って言うか結構びっくりしましたけど…。』
奈緒は先程の出来事で乱れていた呼吸を整えながら椅子に座り直し、少々引きつった笑みを浮かべて返す。
『少々奥に入っていたからお客様がいらっしゃったと気づかなかったよ、本当にすまない。…よし、今日のところはエニスの奢りにしよう。好きなものを好きなだけ、頼んでくれて構わないよ。』
大変良い考えを思いついたとばかりに両手をぱんと鳴らし、見とれてしまうような微笑みを浮かべて男性は言った。
『そんな‼︎ 酷いですよマスター!さっきも言ったじゃないですか!不慮の事故なんですって!ほら!久しぶりのマトモなお客様だったんですから忘れてしまうのも無理ないんですよ!』
また女性の焦ったような声が聞こえる。体感的にはすぐ隣にいるようにすら感じられているというのに、全く姿が見えず周りを見渡してしまう。
『正直君の弁明はどうでも良いのさ、エニス。お客様に謝罪するのが先ではないかな?給料をコーヒー豆にされた上、賄いを茶葉にはされたくないだろう?』
おそらくマスターと呼ばれたであろうこの男性はカウンターの方へと歩いて行きながらそう言った。
『うえー、了解でーす…。』
声が聞こえ、瞬きをした瞬間だった。自分が座っている二人がけの席の向かい側、そこに申し訳なさそうな表情を浮かべた女性が座っていた。
綺麗な人、と驚きよりも先に奈緒は思った。床につきそうなほど長いプラチナブロンドの髪に吸い込まれそうな大きな碧色の目、目鼻立ちがしっかりしていて可愛いとも綺麗とも言える。例えるならば外国製の人形のよう、だろうか。外人さんにしては日本語が上手だからハーフかもしれない。
『えーっと、ご紹介に預かりました!エニスです!』
十人いれば十人とも見惚れるような笑顔で不釣り合いにもサムズアップをした彼女はそう言った。
『エニス。』
『ごめんなさいごめんなさい!ちゃんとしますから!』
カウンターでカップを磨き始めたマスターの睨みつけるような視線を受けて、彼女はわたわたと両手を目の前で振りながら謝罪する。
『あのー、えっとそのーなんと言いますか、申し訳ありません…でした。』
顔は俯いたまま、目だけで奈緒の方を申し訳なさそうに時折ちらちらと見ている。巷の男性ならばこの仕草一つで骨抜きになってしまうだろうと奈緒は思った。
『気にしないでください。それにしてもすごいマジックでしたね。どういうトリックなんですか?』
驚いたのは事実だが、別に怒っているわけではいなかったので微笑んで謝罪を受け取る。それよりも先程の手品のタネの方が気になって奈緒は尋ねる。
『…マジック?』
まるでそんな言葉を今まで聞いたことがないかのように彼女は首を傾げて言った。
『とりあえず、だ。お客様もエニスもウチがカフェだという事をすっかりお忘れのようでございますね。エニスの奢り云々はともかくとして、本日のお代は結構だよ、お客様。お好きなものをお好きなだけご注文なさると良い。断るのは無しでね、その代わりにご贔屓にしていただけると嬉しいな。』
気がつくとマスターがすぐ隣に立っていて、ウィンクをしながらテーブルの上に置いてあったメニューの表紙を指でトントンと差してそう言った。先ほど笑顔を見た時も感じたが、こういった明るい仕草が非常にこの人に似合っているしミステリアスさも醸し出していると奈緒には感じられた。
『え、えっとありがとうございます。』
申し訳ないと少々感じながらも、せっかくの御厚意だ、受け取らせていただこうと思い直す。先程のマジックで驚かされたことを差し引いてもこの店は既に奈緒にとって大変いい雰囲気で好みだし、ここには何度も足を運ぶことになるだろうと考えながらメニューを開く。
『オススメはですねー、これ!3種のベリーのタルト!あとはですねー!あ、これ!うーんどれも美味しいんですけどねー!迷っちゃいますねー!あ!これも美味しいですよ!』
対面に座ったままのエニスが身を乗り出してメニューを指差しながら教えてくれる。椅子に膝を立てており、パタパタと足を動かす様子が子供っぽい。しかし出会ったばかりにもかかわらず、非常に申し訳ないが彼女に大変似合っていた。
『こら、はしたない。それにお客様の邪魔をしないの。そろそろお客さん方が見える時間になるよ。ほら仕事仕事ー。』
いつの間にか後ろに立っていたマスターがまるで猫を掴むみたいにエニスの首元をぐいと掴んで軽く持ち上げる。
『ぎゅえっ!ひどいですマスター!でももうこんな時間ですか!さーて働きますよー!』
ぱっと柱時計を見たエニスが元気よく立ち上がり、カウンターの奥へと鼻歌を歌いながら駆け込んでいくのを見送ってマスターは溜息をついた。
『はぁ、申し訳ないね。ゆっくり考えられもしないだろ?』
『あはは。えっと注文なんですけど、マスターさんのオススメのケーキと紅茶でっていう風にできたりしますか?』
メニューを見た限り、紅茶やコーヒーの飲み物、ケーキなどスイーツ、他にも料理の種類もかなり豊富なようだった。
だからこそ、ここで初めて頂くものはマスター本人の一押しにしたいと奈緒は思った。
『かしこまりました。少し待っててね。』
マスターはまた柔らかく微笑んでカウンターの奥へと向かっていった。
感想評価、誤字報告お待ちしてます。
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3 モンブランと見習いさん
3話です。暫くプロローグ的な話が続きます。
メニューを眺め、流れる音楽を聴き流しながら待っているとエニスが注文の品を載せた小さめのティーカートを押して来た。
『お待たせしましたー!マスターオススメのモンブランでーす!そしてお紅茶はー?アッサムでーす!』
輝くような笑顔を添えてテーブルの上にモンブランを置きながら彼女は言う。
『アッサムとモンブランってどちらも甘い香りですっごく相性が良いんですよー!アッサムは味が結構しっかりしてますからモンブランのクリームにも負けませんよー!あ、ちなみにミルクティーにするのもアリアリです!どちらになさいますか?』
『えぇっと…ミ、ミルクティーで。』
大きな声で元気良く、一息で言い切った彼女に若干引きながら奈緒は答えた。
『かしこまりましたー!じゃあ蒸らす時間ちょーっと長くしまーす!』
そう言ったエニスはまたも奈緒の対面に座った。あまりに自然に座るので奈緒には疑問を持つ暇すらなかった。
暫しの沈黙、エニスはじっと奈緒を見つめてそわそわしている。奈緒からしてみれば、決して居心地の良いものではなかった。どうにかこの沈黙を破ろうと、思いついた言葉を口にする。
『ええっと、す、凄い良いお店ですね?』
『そうでしょうそうでしょう!こーんな良いお店なんてどの世界を探しても他にありはしないですよね!マスターは少し冷たくて厳しめですけど!あ、なんだかんだ自己紹介してませんでしたね!』
ふふーんと胸を張ってそう言った彼女は、ここで一度言葉を区切って立ち上がった。
『エニス・ベルトワーズです!年は17歳です!魔法使い見習いです!よろしくお願いします!』
元気良く言い切った後、ぺこりとお辞儀をして満足そうにまた椅子に座り、「さぁ!あなたもどうぞ!」と言うように両手を奈緒の方に向け、期待するように見ている。
しかし奈緒には一つだけ聞き流そうと思っても決して耳から離れないワードが、彼女の自己紹介に含まれていた。
『…魔法使い…見習い?』
そういうキャラの人なのか、17歳になってまでもそれを貫けるのはすごいな。というか同い年か。と様々な思考が奈緒を支配した。
様々な思いが頭の中をぐるぐると巡っていくが、一先ず置いておくことにした。
『そうなんですよー!あ、見習いと言ってもあれですよ?かなりすごい部類の見習いです!ほぼ魔法使いと言っても過言ではないです!』
すごく設定がふわふわしている。へぇそうなんですかと一蹴してしまいたいが自信満々の彼女を見ているとそれも申し訳なく感じられてしまう。
『えっと、私は奈緒。小川奈緒。17歳で、普通の高校生です。よろしくお願いします。』
『ナオ!よろしくお願いします!同い年だったんですね!それなら敬語なんて不要ですよ!』
『う、うん。ありがと。えっとエニスはこの辺の出身なの?日本人っぽくないなーって思ったんだけど、あと魔法使い見習いっていうのは…?』
『日本人?私はアウロレンツィア出身ですよ!さっきナオにバレないようにメニューをテーブルに置いたじゃないですか、あれは相手から見えなくなる魔法を自分にかけてたんですよー!』
何を言っているのかさっぱりだ。アウロレンツィアとは何処だ。いや、自分が知らないだけでそういう国名か地名があるのかもしれないから保留だ。そもそもこれも設定かもしれない。と奈緒は痛む頭に手を軽く添える。
彼女は魔法をかけたと言った。魔法なら知ってる。箒に乗って空を飛んだり、カボチャを馬車に変えたりするあれだろう。しかしそれらは創作で、御伽噺にすぎない。…だんだん面白くなって来た。どこまでこのキャラなのか、いつボロが出るのかと、もう少し深く聞いてみようと考え、奈緒は口を開いた。
『魔法って____ 』
しかし彼女の疑問は別の声に掻き消された。
『自己紹介は済んだかな?なら冷めないうちに紅茶を飲むと良いよ。尤もそれが飲めるものかどうかは別だがね。』
振り返ると、彼女の後ろには先程自己紹介を受けたマスターが立っていた。
『うん?ああああ!蒸らしすぎた!ごめんなさいすぐに入れ直しますね!モンブランが乾いてしまう前に!』
『あっ…。』
マスターに声をかけられるまで、お互いに紅茶の事をすっかり忘れていた。これでは温くなってしまっているだろうし、香りも落ちてしまう。パッと立ち上がりカウンターの裏にあるだろう厨房へと駆けて行くエニスを奈緒はぼぅっと見送った。
彼女には申し訳ない事をした。戻ってきたらまた尋ねようと考えて、カトラリーケースへと視線を向ける。フォークを取り出してみると、なかなかの年代物のようで凝った装飾で飾られていた。これだけで幾らの価値がつくのか想像もできないなと考えながら、モンブランを切り取り、一口食べる。マロンクリームはしっかりと栗の風味が味わえてさらに甘過ぎない。上に乗っている栗は透き通ったゼラチンコーティングがされているようで、光沢があり、名のある宝石商が見てもトパーズの輝きと勘違いをしそうなほどだった。モンブラン自体、これ一つである種の芸術品と思えるほどであり、いくらでも食べられそうだと奈緒は感じた。
『美味しい。』
思わずぼそっと口から出る程度には自分は気に入ったらしい。
『気に入っていただけたかな?おっと、お客様がいらっしゃるね。』
カウンターへ戻るマスターを見送りながらモンブランを頂く。
少しして、チリンとドアベルが鳴った。
段落分けはほぼ考えてません。あったら書いてるうちに無意識にできてるものだと思います。
感想評価、誤字報告よろしくお願いします。
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4 風の便りに
4話です
駆け足でプロローグ終わらせたい。
ドアベルがチリンチリンと鳴り、飴色の扉がゆっくり開いて閉まる。
心地よい風が春の香りを連れて、さぁっと店内に吹き込んで来る。
『いらっしゃい。今日は随分と珍しいものを頼むんだね。』
マスターが誰かに声をかけているようだ。しかし、入り口付近には人影なんて見えやしない。それにもかかわらず、マスターは当たり前のようにコーヒーを淹れ始めた。
マスターの所作を観察していると、カウンターの奥からエニスがまたカートを押して出て来た。その上には入れ直した紅茶の入ったティーポットとカップ、ミルクと砂糖のポットが乗っていた。
『いやーすみません!お待たせしましたー!じゃあ今度こそアッサムでーす!ミルクの量はお好みで、お砂糖もご自由にどーぞ!うーんそろそろアップルパイが焼ける頃ですかねー…あっ!アップルパイは奈緒さんの所ではないですからね!あちらのお客様のですからねー!』
たはは、と笑いながら頭を掻く、人差し指を顎に当て首を傾げながらうーんと考える、わたわたと両手を動かしながら説明する。入店してからこの少女は発言よりも彼女のジェスチャーの方が情報量が多いように感じられて、自然とくすりと笑みが溢れた。ふとあることに気付き、尋ねる。
『え?注文なんていつ聞いたの?』
『そりゃあもちろん風の便りに聞いたんですよ!あ、紅茶のお代わりは自由ですからね!欲しい時は言ってくださいね!』
当たり前のようにそう言ってにこりと笑い、カウンター裏へと戻っていく。少しして、今度は丸いお皿にアップルパイが乗ったトレンチを掲げて出て来て、マスターがコーヒーを置いた席に置いてからこちらへ戻り、また当然のように奈緒の正面に座った。
焼きたてなのか湯気が立っているアップルパイからシナモンの香りがふわりと奈緒の元にも届いた。
『マスターさんもエニスも何で誰もいない席にコーヒーとアップルパイを置いたの?』
『いやいや!座ってらっしゃるじゃないですか!あの人はウチの常連さんなんですよー!』
奈緒の単純な疑問にエニスはきょとんとした表情を見せた後、当たり前のことを言うように笑いながらそう言った。
奈緒がコーヒーとアップルパイが置かれた席の方を向く。いくらを目を凝らして見ても湯気がゆらゆらと立ち上っているのが見えるだけで、人の姿は見えやしない。
『誰もいないよ。』
エニスへと向き直ってそう告げる。
『いやいや!いますって!もっかい良ーく見てくださいよ!』
カウンターの方を見る。
無い。皿の上に存在していたはずのアップルパイが消えている。
『…え?』
『ね!なかなか古風な御格好ですよね!』
『いや、いやいや。そうじゃなくて!アップルパイは⁉︎』
『え?いやいや、さっき食べてましたよ!相変わらず食べるの早いですねー!太っちゃいますよー!あっお帰りですか!ありがとうございましたー!』
さあっとまた心地よい一筋の風が店内を駆け抜ける。シナモンの香りが奈緒の前を通り過ぎ、ドアが自然に開いてベルが鳴る。
立ち上がりながらエニスはそう言って、ドアの方まで歩いて行きお辞儀をした。
『奈緒ちゃん。何が何だかって顔してるね。』
マスターが皿とカップを片付けながら笑って言った。
『…私疲れてるんですかね?あれ、自己紹介しましたっけ?』
最早何が何だかわからない。これも手品の類なのだろうか。ひょっとしたらこのお店は手品カフェみたいな斬新なスタイルのお店なのかもしれない。名前を既に知っているのもエニスと話しているのが聞こえたのかもしれない、など様々な思考がぐるぐる巡る。
一先ず落ち着こうとエニスが持ってきてくれた紅茶に手をつける。カップやポット類は白地にピンクの薔薇と葉の統一感のある装飾が施されていた。
一口飲むとほのかに香る紅茶本来のカラメルのような香りとミルクのコクが合わさって口の中で膨らんでゆく。鼻に抜ける香りが少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた気がした。ふぅと一息つくと、マスターが奈緒に話しかける。
『懐かしいなあ、僕も最初はこんな感じだったのか…。まあ見えなくて当然だよ。初来店だものね。あぁ、名前だったね。名前は風の便りで聞いたのさ。後これ、お店の名刺ね。良かったら持ってて。』
顎に手を当て、何やら感慨深そうに遠くを見つめたあと『ふむ』と頷くと、マスターは名刺を奈緒に手渡しそう言った。また風の便りかと思って苦笑いをしていると、彼は言葉をさらに続けた。
『もう暫くゆっくりしていくと良いよ。この店での時間は随分のんびり屋でね。』
そう言ってカウンターへ戻ろうとして、思い出したように振り返った。
『ああ、これもさっき風の便りで聞いたんだけどね。君みたいな子が来てるのを珍しく思って、他の常連さんにも伝えちゃったらしい。だからこれから少々人?が来るだろうけど、怒らないでくれると嬉しいな。』
申し訳なさそうに指で頬を掻きながらマスターが言ったとほぼ同時に、ドアが開いてベルが鳴った。
足音が聞こえる。背格好の逞しい人なのか、その音は大きい。
『あぁ、もう着いたのか。店の外の時間はせっかちで困るね。はーい、いらっしゃい。』
感想評価、誤字報告よろしくお願いします。
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5 新たなお客様
第5話です。よろしくお願いします。
夢を見ている。そう思った。いや、そう思わずにはいられなかった。
『いらっしゃい、エギルさん。今日は随分と早いじゃないか。風の便りに聞いたのかい?』
『よぉマコト、しばらくぶりだな。つってもどれだけぶりかはわからねえけどな。カゼノが楽しそうに言って回るもんだから、みーんな挙って来ちまうじゃろうよ。』
『カゼノさんが来た時点でそうなるだろうとは思っていたよ。ご注文は?』
『とりあえずいつものブレンドを頼む。死ぬほど熱くて真っ黒なやつをな。』
『かしこまりました。お好きな席にどうぞ。』
そう言ってエギルと呼ばれた男性は持っていた脚立を使ってカウンターの席にドスンと腰掛ける。
小さい。顔立ちは成人男性の様で口元を覆う様に長い髭を蓄えている。しかし小さいのだ。背丈は彼が腰掛けているカウンターチェアより少し高いくらいで小学校低学年程度だろうか。そしてもう一つ、彼のボサボサの頭には牛とも羊とも言えないような、つまり、奈緒の持ち得る知識では言い表せないような雄々しい角が二つ生えていた。
奈緒はぽかんとした表情で彼を見ていた。すると彼もその視線に気がついたのか椅子をぐるんと回して彼女と向き合った。
『よぉ、嬢ちゃん。どーしたそんな阿呆みてえなツラ下げやがって。ドワーフがそんなに珍しいか?』
彼は長い髭を撫でてニタァと笑い、嗄れた声でそう言った。
『ド、ドワーフ?』
『おうとも。このエギル様にかかりゃあ直せねえもんなんて無いじゃろ。ドワーフ界一番の鍛治職人にしてアルテミシアの常連とは俺のことよ。』
カッカと豪快に笑って言った彼に、マスターがニヤリと笑って返した。
『そんなエギル様もウチの柱時計は一人じゃ直せないらしいがな。はいよコーヒーお待たせ。』
『半分は俺の仕事だ。だが後の半分は鍛治職人の出る幕じゃねぇだろう。ありゃあ紫水晶の婆さんの仕事だよ。』
むすっとした表情でコーヒーを受け取りながらエギルが言い、一口飲んで『あぁ、やっぱり仕事の合間にゃこいつが良い。』と独り言を言う。
『ナオさんナオさん!紅茶のお代わりいかがです?』
『あっ、うん!頂きます。』
間が良いのか悪いのか、ティーポットを持ってひょっこり現れたエニスが次の紅茶を注いでくれている間に彼女に尋ねる。
『えっと、あの人は?』
『あぁ!エギルさんですか!あのお方はこのお店の柱時計とか家具とか金物とかを直してくれるすごいドワーフさんなんですよ!普段はああしてあっっっついコーヒーを飲んでらっしゃいますが、偶に、夜にエールの樽を持って来て、マスターや他のお客様と飲んだりもしていらっしゃいます!』
『ウチはあくまでこの時間はカフェがメインだからね。お酒は出さないのさ。』
『全く面倒なルールだよなあ。それでも夜は普通に酒出すし、この時間でも持ち込みは許すってんだからマコトは懐が広いぜ。料理も絶品だしな。』
三人ともニコニコと笑って言葉を繋いでいく。楽しそうだなあと思うが、奈緒には未だ気になることがあった。
『あ、あとカゼノさん?というのは?』
『さっきから僕らが言っている風の便りだよ。よく言うだろ?風の便りに聞くとか。どこからともなく伝わってくる噂話だよ。風聞とも言うね。あの人は風の使いさ。』
なにを言っているのかわからない。それでも当たり前のように言うマスターにさらに尋ねるのは憚られたので、もう一つ尋ねる。
『ド、ドワーフというのは…?』
恐る恐る尋ねると、エギルは目を見開き驚いた様な表情を浮かべ、エニスとマスターはああと小さく零した。
『なんだい、嬢ちゃん。本当にドワーフを見たことがないってのか?』
『すっかり忘れていたよ。僕もだいぶ毒されてきているな。エギルさん、この子はおそらく僕と同じ様な出身のはずだ。』
『いやー最近奈緒さんみたいなまともなお客様がいらっしゃってなかったですからねー!』
『ああ、それなら納得だ。初めてマコトに会った時はそりゃあもう笑えるもんだった。』
『私と初めて会った時も絶叫してましたね!マスターさん!今でこそクールな感じでかっこいいですけど!』
『エニス。』
『ごめんなさい!言い過ぎました!』
流れるような一連のやりとりの後、ふぅ、と一息ついてマスターが説明してくれる。
『ドワーフっていうのは…説明が難しいな。このエギルさんのような見た目の人たちで、鍛治が得意なんだそうだよ。あと僕らに比べて長命の方が多いんでしたっけ?そんな感じの人たちだよ。』
『な、なるほど。』
『あとは…うん、何かの縁だ。この店について話しておこうか。この店はね、どこにでもあって、どこにもない。…おや、訳が分からないと言う顔をしているね。まぁいい、続けよう。ここには、色々な所からふらっと色々な人がやってくる。ここへやってくる君のような人間なんて一握りだよ。エギルさんみたいなドワーフ、エニスみたいな魔法使い、他にも妖精やら怪物やら…果てはさっきのカゼノさんみたいなわけのわからないのまでやってくるのさ。』
奈緒は突拍子も無いマスターの話を聞いて頭にいくつもクエスチョンマークをぶら下げぽかんとしている。
マスターはそんな奈緒の様子を見て苦笑いし『失礼』と一言、胸ポケットからタバコを取り出し火をつけた。
『おいおい、客がいるのに喫煙たあ良い度胸じゃねえか。』
『許してくれよエギルさん。今度良い酒奢るからさ。』
エギルはそれを聞いてフンと鼻を鳴らし、続けるよう促す。
『ここは本来、日本のとある路地のドアから、つまり君の入ってきたドアからしか入れないはずだったんだけど、最初に来たお客様が何やらしでかしてくださったらしい。おかげで今やこのお店はモンスターハウスだよ。話している言葉も僕やエニス、エギルさんも皆恐らく違うだろうに何故か通じる。』
『そもそもどうしてこの嬢ちゃんはこの店を見つけられたんだ?お前さんは名刺があるが、随分前からお前の故郷のドアは逆に閉まっちまって新しい客なんぞ来やしなかったんじゃろう?』
ズズッとコーヒーを啜りながら、エギルがマスターに尋ねる。
『それは僕にもわからないよ。月の女神様が何かイタズラしたのかもね。』
『このカフェの店名になってるという女神様ですか!是非お会いしてみたいものですね!』
小さなお客様の質問にマスターは苦笑いをしながら返し、エニスは両手を胸の前で組んでぴょんぴょんと小さく跳ねた。マスターはさらに続ける。
『っと、すまない。話が逸れたね、このお店は先程も言ったようにどこにでもあってどこにもない。君が入ったドアから人がやってくるのは随分久しぶりだから忘れていたが、入ったとしても他のところからやって来たお客様が見えることはないんだ。カゼノさんが見えなかったのはそういう事だね。』
『私にはこのお店の神秘は効きませんよー!お師匠様様です!まぁ話を戻しますがお互い見えないお客様同士を繋げる唯一の鍵があります!それがその名刺なんです!』
そう言ってエニスは奈緒の手元を勢いよく指差す。名刺は夜のように真っ黒な紙に金色で店名と月のモチーフが描かれているだけのシンプルなものだ。
『俺達ぁこいつを持ってここに来たいと願う、そんでどこでもいいからドアを開けりゃあこの店に繋がるっちゅーわけだ。詳しいことは俺も知らん。紫水晶の婆さん____つまりこの小娘の師匠かその最初の客とやらにでも聞くんじゃな。尤も、あの2人が正しくこの現象を理解しているとも思えんがな。』
エギルが店に入る方法を説明するが、奈緒には未だに信じられるものではない。理解しようとしても、彼女の持つ常識と大きくかけ離れているからだ。情報を整理しようと思考を巡らせているとマスターがふと言う。
『この店には普通のカフェみたいな安らぎはない。けれど退屈もしない。本当にいい店だと自負してるよ。』
嬉しそうに目を細めてマスターはそう言った。彼の言葉には自信があった。奈緒にはその原理を理解することができなくとも、この店は確かに存在している。たったそれだけの事実と、マスターの言葉で彼女が考えていることがすとんと胸に落ち、頭がスッキリとするようだった。
『お客様方もお支払いが良いですしね!給料も良いので万々歳です!』
『エニス。』
綺麗に締まったとおもった矢先にこれである。しかし、誤魔化すように笑うエニスを見ていると彼女もこの店のことが大好きなんだと解る。
『皆さん、このお店が大好きなんですね。私も今日初めてお邪魔しましたけど、すっごく良いお店だと思います。これからご贔屓にさせてもらいたいです。』
正直彼らが何の話をしているかは奈緒にはさっぱりといった様子だが、雰囲気だけは伝わった。
皆がにこりと微笑み、和やかなムードが店内に漂う。しかしそれをエニスが勢いよくぶち壊した。
『あ!はい!エニスが良いことを思いつきましたよ!』
『どうせ碌でもねえ。聞くだけ無駄だ。』
エギルさんが顰めっ面を隠さずに言う。
『まあまあ!聞くだけタダですし!悪い話でもないと思うんですよー!ナオさんにもマスターにも!』
私にも?と奈緒は疑問に思う。せっかく纏まりかけていた思考がドボンとまた深みへと落ちていくようで、彼女にはエニスの提案と自分への関連性が見出せずにいた。
エニスはこほんと咳払いをしてこう提案した。
『ナオさん!ここで働きましょ!』
感想評価、誤字報告よろしくお願いします。
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6 Beyond her daily life
6話です。
よろしくお願いします。
恐らくここにいる全員がエニスの提案に絶句をしている。店内はずっとジャズが流れているが誰の耳にも届いていないようだった。
『えーっと…え?』
奈緒にエニスが言ったことは、言葉ではわかる。しかし飲み込めていない、理解はできていない。
『…エニス。君は急に何を言いだすんだ?』
マスターが疲れたように眉間を揉みながら尋ねる。
『いやいやいやいや!ほら!休日とかすっごい混むじゃないですかこのお店!その時間帯に私一人でお客様の対応するのちょーーーーっときついなーーーって思ってたんですよ!』
『ううむ。確かに毎週、太陽の日はいつも混んでいるな。わしもここに通い始めて長い、見知った顔が多いから話でもしていれば待てるものではあるが…。』
エギルも髭を撫でながら軽く上を向いて考えている。
『やはり働いている私としては待たせてしまうのは心苦しい訳ですよ!そこで!ナオちゃんを雇えばお客様も待たなくて済む!私もマスターも少し楽になる!奈緒ちゃんは払いが馬鹿みたいに良いお給料が手に入る!最高じゃないですか!』
『しかしだな…』
『しかしも何もないですよ!マスターだってお昼時は料理作るのに集中したいでしょ!ナオちゃんからも何か言ってやってください!』
ここで急に振られて奈緒は少し慌てる。そもそも彼女はまだ働くとは言っていない。
『ええ…えと、私は…』
『奈緒さんは…私と一緒に働くの嫌ですか…?』
両手で制服のエプロンをキュッと掴んで上目遣いで奈緒を覗き込む。巷の男性ならば骨抜きになってしまうであろうこの仕草は奈緒にも大きな効果があった。
『ううん、嫌って訳じゃ____ 』
『一緒に、やってみませんか…?』
ずるい。とてもずるい。自分の武器の価値を知っていて効果があるとも分かっていて使っている。奈緒は言葉に詰まった。
『ふむ…嬢ちゃん。ここでの経験は他では絶対にできん、一生忘れられんものになる。悩んだ時は飛び込んでみるのもええと思うぞ。何より、店が嬢ちゃんに来て欲しいっちゅーとる。マコトも気づいとるだろう。』
残ったコーヒーをぐいと飲み干し、エギルが言う。
『お店が、ですか?』
『随分前に閉じた扉がまた繋がったんじゃ。客か店か魔女か、はたまた神か。この内の誰かが、若しくは誰もが嬢ちゃんとの繋がりを結ぼうとした。それだけで理由になるとは思わんか?マコト。』
マスターはタバコを咥えたまま俯き、腕を組んで黙って静かに考えている。トントンと指が一定のリズムを刻む。
やがて顔を上げ、奈緒の目を見てこう言った。
『いや、本来は誰の意図でも関係ないことだ。僕としても、もちろんここで働いて欲しいと思う。せっかくの縁だからね。でもそれだけじゃ駄目なんだ。肝心なのは奈緒ちゃんがどうしたいかだよ。丸投げするように聞こえたら申し訳ないがね。』
『私がどうしたいか…。』
どうしたいんだろう。このお店はとっても素敵な所で、ご贔屓にしたいとも奈緒は思った。でも、普通の日常の中の出来事で片付けるには少し勇気がいるような場所でもあると話を聞いていて感じられる。
エギルさんが言ったように、ここで働くことは他では絶対にできないような経験になるだろうとも思える。
『何に悩んでいるんですかね、私。』
『そりゃあここが嬢ちゃんにとって未知だからだろう。』
ぼそっと呟いた私に、エギルさんがカラカラと笑って言った。
『知らない事ってのは一番おっかないもんだ。誰だってそうだろう。俺だってわけのわからんもんは怖い。』
『…ナオさん!』
ハッとしてエニスの方を見遣る。
『私のお師匠様はこう言いました!【恐れるな、行動せよ】と!私も新しい魔法を覚える時はいつだって恐怖でいっぱいです!失敗したらどうなるかがわかりませんから!でも行動しなければ、何も生まれません!未知のことを追いかけるのは次に繋げる過程です!…ええっとだからその…____ 』
両手を強く握りしめ、彼女が次に何を言おうかと決めあぐねている間に、マスターがタバコの火を消して遮った。
『奈緒ちゃん。この店に在るのは言わば、冒険のようなものだ。危険なことはないけどね。それでも君にとって、心踊るような出来事には事欠かないだろう。日常から一歩、足を踏み出してみる気は無いかな?』
今日このお店に入るまで、こんなファンタジーは想像の世界だけだと思っていた。それでも事実、ここには魔法があって、人間じゃない人たちがいて、まだ見ぬ不思議がたくさん転がっていることだろう。
奈緒だって人間だ。子供の頃には小説や絵本の世界のような不思議を、繰り返す毎日に刺激を、日常に非日常を求めたこともある。
そして、昔憧れた世界が今ここに在る。
恐怖ももちろんある。それでも、飛び込んでみたいと思わされてしまった。
人生、何が起こるかわからない、だからこそ面白いとはよく言ったものだ。
『わ、私は…普通の高校生で、別に誇れるような特技もなくて…もちろん魔法とかも使えなくて…そんな私でも、働けますか?』
やっていける自信も、確証もない。
ただ、憧れてしまった。
自分がいる所とは違う世界に。
それだけで理由は十分だろう。
恐れるな、行動せよ。
後悔は後からすれば良い。
『…勿論だ。歓迎しよう。奈緒ちゃん、ようこそ【Cafe Artemisia】へ。』
マスターが手を差し出しながら言った。
奈緒はその手を取り、ギュッと握る。手が震える。でもこれは恐怖じゃない、心の奥でどこかつまらない日常の繰り返しから離れた、こんな出来事が起こることを期待していたんだと思った。
『やりましたー!やりましたよマスター!ナオちゃんゲットです!』
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、エニスが抱きついてくる。相変わらず良い笑顔だ、と思い、奈緒もつられて笑ってしまう。
エニスを一度ギュッと抱きしめ、3人に向き直る。姿勢を正して、奈緒は改めて言う。
『小川 奈緒、17歳です。普通の高校生ですが、これからよろしくお願いします!』
お読みいただきありがとうございます。
感想評価、誤字報告等お待ちしております。
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7 只今オリエンテーション中
7話です。どうぞよろしくお願いします。
説明会です。これでようやくプロローグが終わりって感じですかね。
『さて、紹介も終わったことだ。まずは簡単にこの店について再度説明をしようか。』
マスターが一度手を叩いて続ける。
『このお店の営業は9時から22時。とは言っても時間の進み方が店内と外の世界では違うんだけどね。この辺はエニスのお師匠さんが来た時に尋ねると良いよ。奈緒ちゃんにはホールスタッフとして働いて欲しいんだけど良いかな?』
まあ色々と突っ込みたい事もあるがこのお店は今までの常識は通用しないんだと自分を納得させて奈緒は返事をする。
『はい、大丈夫です。』
『よし、シフトなんだけど土日は朝11時ごろからお客様が増え出すからそれぐらいからお願いしようかな。あ、ぴったりに来なくても良いよ。きっとお店の魔法がなんとかしてくれるさ。平日も来たかったら好きな日の好きな時間帯に適当に来てくれるかな。上がる時間も好きに決めてもらって構わないよ。時間の流れが違うからか、それとも誰かの良い悪戯かわからないけれどこの店で働いている間はあんまり疲れとかを感じないんだよね。でもある程度の時間で休憩には入ってもらおうかな。慣れるまで時間がかかりそうだしね。あ、基本的に店の外の時間が店内より遅くなることはないからね。』
シフトに関しても物凄くざっくりとしている。本当に大丈夫なのか不安になってきたが、習うより慣れろの精神だ。
『ちなみに、お昼には簡単なものになってしまうけど賄いを出させてもらうし、休憩時間もあるからね。そうだ、休憩中にはケーキをあげようか。』
『えー!良いなー!マスター私はそんな待遇されたことないですよー!』
『はいはい、エニスもこれからそうするよ。』
わーいと両手を挙げて喜んでいるエニスを見て苦笑いをし、マスターは続けた。
『そこに置いてある柱時計があるだろ?今何時だい?』
『ええっと…あれ?』
マスターに言われ、奈緒は柱時計を見る。しかし示されている時間は3時15分。体感では小一時間ほどこの店にいるように感じられているというのにだ。
『あの柱時計の時間はね、この店で流れている時間ではなくて、店の外の世界の時間だよ。魔法が働いているのさ。あいつを見ながら上がる時間を決めてくれ。』
『りょ、了解です。』
便利だな魔法、なんでもありか。そう心の中で呟いて、苦笑を隠すことのできないままに奈緒は答えた。
マスターはまたにっこりと見惚れるような笑顔で言う。
『お店のメニューは一応あるけれど、載ってないものも全然作るよ。さっきメニューを見ただろうけど、値段が書かれていなかっただろう?どうしてだかわかるかな?』
奈緒を試すようにマスターは尋ねた。奈緒はうーんと頭を捻る。
『す、すいません。わからないです。』
『なんせ俺たちゃ住む世界が文字通り違うんだ
。通貨なんて当てにならんのさ。』
エギルがそう答えた。が、それでも奈緒には腑に落ちないことがある。
『じゃあ、えと、申し訳ないんですけど…お給料は…?』
ぼそぼそと呟くように尋ねると、待ってましたと言わんばかりにエニスが答えた。
『それは心配いりませんよ!このお店のレジスターはお師匠様とエギルさん謹製ですからね!どんなお金を入れてもその人の世界の通貨になって帰ってきますよ!』
『何でお前さんが得意げなんじゃい。』
エギルがギロッとエニスを睨みつけながらそう言ってカウンター席から降りた。
『試しにこのコーヒー代を俺が払ってみるとしよう。』
ごそごそと胸元に手を入れて袋を取り出し、その中から見たことのない銀色の硬貨を2枚エニスに渡す。
『お預かりしまーす!よく見ていてくださいねー!』
硬貨を受け取ったエニスがレジスターをがしゃんと開け、無造作に硬貨をぽいと投げ入れる。
一旦閉じて、少ししてからまたがしゃんと開ける。
『じゃーん!ほらほら!ナオさんの世界の通貨ってこれですよね!』
得意げに言うエニスの手には千円札が2枚握られている。
『基本的に他のお客様の扱う通貨の価値は日本円に比べてすごく高いようでね。もらいすぎな気もしてるよ。』
少し困ったように頬をかきながらマスターが言うが、すぐにエギルがフンと鼻を鳴らして返す。
『客が値段を決めろと言うたのはお前じゃろうが。こんな上手いコーヒーを飲める場所は俺のとこにゃあ無いんだ。そちらの通貨でどれほどなのか知らんが、妥当な支払いだと思っとるよ。』
『あはは。とまあこんな風に素敵な魔法がかかっているから、お給料の支払いは安心して良いよ。お客様の代金もそのまま受け取るだけで良い。他に何か聞きたいことは?』
『今のところは無いです。また何かあったらお聞きしても良いですか?』
『勿論だとも。実際に働いて見なければわからないことも多いだろうしね。さて、後は…あぁそうだ、この店の制服についてだ。エニス、ちょっとここに立ってくれ。』
思い出したようにマスターは言って、エニスを自分の隣に立たせた。
『ウチの制服はこのエニスが着てるフォーリングカラーの白シャツに黒のウエストエプロンなんだけど、これはこっちで貸し出すからね。カウンター裏の更衣室にサイズごとに置いてあるから、好きなのを使ってくれ。下は普通にパンツでもエニスみたいにスカートでも何でもいいよ、好きなスタイルでね。』
『楽しみですねー!ナオさんの制服姿!絶対似合いますよ!』
ニコニコとエニスがこちらを覗き込みながらそう言った。
『さて、こんなところかな。さっそくだけど明日から来られるかな?あ、名刺を持ってくるのを忘れないでね?あれが無いと入れないだろうから。』
『はい、わかりました!よろしくお願いします!』
『うんうん、結構結構。こちらこそよろしく頼むよ。』
『はい!あ、じゃあそろそろ失礼しますね。かなり長居をしてしまってすみませんでした。』
『俺もそろそろ仕事に戻るとするかな。マコト、邪魔したな。』
『はーい、お二人ともありがとうございました。またのご来店をお待ちしています。』
『あ!せっかくですしお二人とも同時に出られてはいかがですか?そしたらナオさんもちゃんと魔法を認識できますよ!』
『そうだね。これからは慣れていかないといけないだろうし、試しにやってごらん?』
『よーしいくぞー嬢ちゃん。』
『え⁉︎え、ちょっと!』
トントン拍子に決まってしまい、エギルに手を引かれてドアへと向かう。かなり力強く引っ張られているし、手の位置が低くて前かがみになる。転んでしまいそうだ。
『じゃあねナオちゃん!また明日!』
『う、うん!また明日!』
『また来る、嬢ちゃんも早うコーヒー淹れられるようになるんじゃぞ。』
エギルがドアを開ける。チリンとドアベルが鳴って眩しい光が差し込む。奈緒はその光に目を顰めながら一歩踏み出した。
パタンとドアが閉まる音がした。目を開いて辺りを見渡す。散歩をしていた狭い路地だ。繋いでいた手には何も握られていない。
左腕に巻いた時計を見る。時刻は3時20分だった。
『夢、じゃないよね…?』
目をしぱしぱと瞬かせ、先程までの出来事を思い出す。後ろにあるドアをもう一度くぐれば、またあのお店に繋がるのだろうか。
確かめようとして、やめた。
お楽しみはまた明日。
これから自分を待っているであろう新たな出会いや体験に奈緒は胸が踊った。
口元が勝手に緩むのを感じながら鼻歌を歌い、奈緒は路地を後にした。
物語はここからはじまる。
思いついたものをほいほいと詰め込んだので設定に関してはガバガバです。ご了承ください。
感想評価、誤字報告等お待ちしております。
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8 初バイト
お久しぶりです。
消えた書き溜めに思いを馳せながら書きました。
楽しんでいただけたら幸いです。
『ちゃんとある…。』
夢のような出来事から一夜明けた日曜日の朝10時。奈緒は昨日と同じ飴色のドアの前に立っていた。
『本当に夢じゃなかったんだ…。』
ドアにかけられた黒色の看板に描かれた金の文字が太陽の光に照らされてキラキラと反射していた。
昨日貰った名刺もきちんと持ってきた。
昨日の話を聞く限りこの名刺がなければお店には入れないということだったがどういう仕組みなのだろうか、とぼんやりと奈緒は考える。
『いや考えてもわからないか、どうせ魔法だし…。』
昨日の出来事や店の人との会話を思い出し、奈緒は思わずくすりと笑ってしまった。
きっと自分も既に魔法にかけられているのだ。
微かに震える右手で真鍮のドアノブを掴み、ゆっくりと回して引く。チリンチリンとなるドアベルの音とともに、ドアの奥から眩い光が漏れだしてくる。その光に目をくらませながら足を一歩踏み出す。さらりと心地よい風が頬を撫でた。
光が収まるとそこには昨日と同じ光景が待っていた。
店内に流れる落ち着いたジャズ、ゆっくりと回るシーリングファン、そしてこちらを見て暖かく微笑む魔法使い見習いの顔があった。
『おはようございます奈緒さん!今日からこのお店の仲間として、よろしくお願いしますね!』
店内の掃き掃除をしていただろう彼女は箒をカウンターに立てかけ、花のような笑顔でそう話しかけた。名はエニス・ベルトワーズ。昨日話を聞いた限りでは有名な魔法使いの弟子らしく、この店で奈緒が受けたセンセーショナルなお出迎えの原因でもある。
『おはよう、エニス。こちらこそよろしくお願いします。』
奈緒も彼女の笑顔につられ自然と頬が緩んでいた。
『おはよう嬢ちゃん。随分と早いお出ましじゃの。』
後方斜め下から聞き覚えのある嗄れた声が聞こえる。声の主は昨日17年生きてきて初めて出会ったドワーフのエギルだった。小さな体躯に顔を覆うような髭、そして頭から飛び出た2本の角がチャームポイントのこの御方。奈緒は出会って2日目にして何故か少し慣れてきた自分の適応力が恐ろしかった。
『おはようございますエギルさん。いつもこの時間に?』
『おはよう奈緒ちゃん。まさかそんなことはないさ、この人がこの店に来始めて朝一での来店は初の快挙だよ。きっと君が来るのが楽しみだったのさ。』
カウンターの奥からクスクスと笑いながら話すこの男性はこのお店のマスター、一条 真さん。なんてことはないただの人間だよと昨日は言っていたけれど、他の2人を見ているとなんだかこの人も不思議な力があるのではと勘ぐっていた。
『さて奈緒ちゃんも無事に来れたことだし、早速だけど制服に着替えてもらえるかな?時間はたっぷりあるけれど、善は急げと言うしね。』
ぱちんと茶目っ気のあるウィンクをしてマスターがそう告げた。エギルがオエッと声を上げたのをBGMに、エニスに背を押され奈緒は更衣室へと入っていった。
『じゃじゃーん!!!!どうですどうです!とっても似合っているでしょう!?』
数分後、制服に着替えた奈緒のお披露目会が
ここ【Cafe Artemisia】のホールでは執り行われていた。
少し恥ずかしそうに頬を掻き、はははと笑う奈緒に、男性2人はほうと声を上げた。
『良いじゃないか、とっても似合っているよ。ねぇ、エギルさん。』
『全くだ。この阿呆女にも見習ってほしいもんじゃな。』
二人からの評判は上々な様だった。
『あー!!!酷いこと言ってますこの人!!!魔法でさらにちっちゃくしますよ!!』
『お前さんはその魔法を自分にかけちまったから脳味噌がちっちぇんじゃろうなぁ。』
『許すまじ!!!!!』
エギルの軽口にエニスはぷんぷんと口で言いながら怒ってますとアピールをする。エギルはニヤニヤと笑って、奈緒に告げる。
『こいつは阿呆だが、給仕に関しては悔しいが一流だ。困ったことがあったら何でも聞きゃあいい。』
『エギルさんそう言うのは僕の仕事だよ。』
困った様に笑ってマスターは言い、それじゃあと言葉を続けた。
『研修を始めようか。お仕事の説明をするからね。メモの準備はいいかい?』
奈緒はその声に、エプロンのポケットに仕舞い込んでいたメモ帳とペンを取り出してマスターの言葉に耳を傾けた。
『注文を聞く、届ける、お会計をレジに投げる。よし、完璧だね。研修終わり!』
『えっ。』
『えっ?』
店内には軽快なスウィング・ジャズが流れている。それが一際耳に届く程の静寂が、奈緒に寄り添った。
思わず周りを見渡せばエニスはぱちぱちと手を鳴らして『研修お疲れ様でしたー!』と褒め称え、エギルはクールに笑いながら拳を奈緒に突き出している。
バイト初日、奈緒はおそらく世界最速の15秒で研修を終えた。
『さ、まもなく開店の時間だね。折角だから奈緒ちゃん、エギルさんに初接客をしてみようか。エニスはテーブルセットをしておいてくれ、この前みたいに魔法でお皿に足を生やしたら許さないからね。』
『いやーあの時はサイコーでしたね!!自分で歩いてくれると思ったのにポジション争いでお皿同士が蹴り合い割り合いになるとは!!!!って痛い!!!』
エニスが笑って言うとマスターは軽くエニスのおでこにデコピンをした。
当たり前のように開店準備が進み出す。
信じがたい会話も聞こえた気がした。奈緒が困惑してエギルを見ると『じきに慣れる』と当たり前のことのように欠伸をしながら言ったのだった。
『えっ、本当に研修終わりですか?』
『まぁお仕事内容は普通のカフェと一緒だからね。奈緒ちゃんがよく行くカフェの流れやエニスの応対を思い出してやってみよう。困ったらエニスが指示もちゃんとくれるだろうし、大丈夫だよ。』
『普通のカフェと同じ…。』
『よし、初接客はじめるよー。』
よーい、スタート。とマスターは言い、エギルもカランカランと口でドアベルを奏で歩いてくる。
奈緒はこれまでで気づかなかっただけだが、この2人は相当性格が悪かった。
読んでいただきありがとうございます。
誤字報告等ありましたらお願いいたします。
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9 誰がための魔法
文字数が大分嵩んでしまいました
お話を上手に切るのって難しい
『いっ、いらっしゃいませ…。何名様ですか?』
『なんじゃい。他に連れがいるようにみえるのか?それともあれか、わしが____ 』
『はい、ストップー。』
『わかってましたけどエギルさんが最初のお客様は酷じゃないですかね!!』
マスターの一言により、流れるように奈緒はエギルと共に接客の練習をすることとなった。
『エギルさん。練習なんだからもっと優しいキャラ作りをしてよ。奈緒ちゃんの心が折れちゃうじゃないか。』
『ドワーフ界じゃ普通じゃぞ。』
苦笑いでエギルに向かって言うマスターに、かのドワーフはキョトンとした顔でそう答えた。
奈緒はこれからのことを思うと頭が痛み、はははと渇いた笑いが溢れた。
後ろではエニスが『クソコミュニティですね!!』と感心している。彼女の側のテーブル上では、フォークとナイフがこのテーブルの利権を巡って議論が繰り広げられているところだった。
『奈緒ちゃん、難しく考えなくていいんだよ。常識に囚われたままじゃ、このお店では通用しない。』
マスターがふわりと微笑み、少し休憩しようと言ってコーヒーを淹れ出す。
その後、エニスの方へ視線を向けて言った。
『エニスを見てごらん。勿論彼女は魔法使い見習いっていう特殊な __ 職業と言えるかはわからないが…__ 身の上だけれど、あの子の良いところはもっと別のところだと僕は思うんだ。』
奈緒は現在進行形で一触即発な雰囲気のカトラリー達に向かって、本当の敵は別にいるのではないかと投げかける少女を見る。
エニスと初めて会ったのは昨日。ほんのわずかな時間しか共にしていないのに、確かに彼女に気を許しているのを奈緒は感じていた。
『あの子はよく魔法でうちの店をボコボコにしてくれるんだけど、悪気があって…いや悪気はあることもあるんだけれど、別にうちを潰したいとかそういう訳じゃないのさ。』
マスターはそう言うと奈緒へ淹れたコーヒーマグを差し出し、タバコに火をつけながら続ける。
『彼女の行動の根底にあるのは、お客様への思いなんだよ。このお店での時間を、それこそ時間を忘れるほどに楽しんで欲しい。その素敵な時間を、自分の魔法でより素敵なものにってね。』
だから憎めないんだよね、とガシガシと頭を掻き、マスターは困ったように笑いながらそう言った。
昨日、自己紹介をした時の見惚れるような笑顔を思い出す。
今日奈緒が胸の躍るような気持ちと不安を半分ずつ抱えてこの店の扉を開いた時も同じ、太陽のような笑顔で迎え入れてくれた。
『御伽噺の魔法使いみたいだよね。お姫様のために魔法で夢を叶える様に、彼女は誰かに素敵な時間を過ごして欲しいから魔法を使う。それだけって言っても、簡単にできることじゃない。本当なら自分のためにだけ使ったっていいんだもの。』
『誰かのための魔法…。』
『ちなみに奈緒ちゃん、君にだってすぐに使える魔法があったりするよ?』
『え?』
突然のマスターの発言に、奈緒は少し驚いた表情で彼を見た。そんな様子を見てマスターはクスクスと笑ってタバコの火を消した。
『お客様のことを考えて接客する。お客様がどうすれば素敵な時間を過ごせるかを考えて行動する。それだけのことさ。料理が美味しいとか、店内が清潔で綺麗とかも勿論ある。でも居心地がいいとか、お店の雰囲気を作るのは、接客する我々の対応が大きい。お客様がこのお店で幸せを感じてくれたのなら、君の魔法もその中に混じっているんだよ。』
『私の魔法…。』
マスターの淹れてくれたコーヒーに口をつける。ほのかな甘い香りに、薄らとした柑橘のような酸味。奈緒にとって飲みやすく感じるその味。これも彼の言う魔法の1つなのだとふと思った。
『初めは勿論難しいだろう。なんてったって相手は普通の人間じゃないのばっかりだからね。それでも』
マスターの言葉が、少しずつ奈緒の心の中に溶けていく。彼はぽふ、と彼女の頭に右手を乗せて言う。
『奈緒ちゃんにならすぐ使えるさ。』
奈緒は顔を上げて、マスターの顔を見た。柔らかく微笑む彼の琥珀色の瞳は、真っ黒な髪色と相まって、夜の帷が降りた空に浮かぶ星のようだった。
『いや、魔法云々の前に、客をこんだけの時間放置はまずいじゃろ。』
メロウ・ジャズの流れる店内に飛び込んだ一言に、時間が止まる。
白い目で告げたのは、ストップをかけられていたエギルだった。彼は律儀にも立ったまま彼女らのやり取りをひた眺め、練習の再開を待ち続けていた。エニスがカトラリーの仲裁をしている時も、マスターが奈緒にコーヒーを淹れている時も、魔法とはと語っている時も、雨の日も雪の日も嵐の日も、彼はひたすらに黙って立ち続けた。
『…いらっしゃいませお客様。何名様ですか…?』
時間が動き出した。ぎこちない笑顔と辿々しい発音で奈緒が尋ねる。
エギルは朗らかに笑ったあとニタァと顔を歪めてこう言った。
『おうおう、なんじゃあぁ?他に連れが_____ 』
・
・
・
『よし、練習はこの辺でいいかな。お疲れ様、奈緒ちゃん。エギルさんもね。』
パンパンと手を鳴らしたマスターがそう告げる。カウンターには1人の女性店員と、1人のドワーフが並んで突っ伏していた。
『…お疲れ様でした。』
『お前さん…練習とはいえコーヒー15杯も飲ませる阿呆がどこにいるんじゃ…』
奈緒は疲労から、エギルは満腹感からオエっと声を漏らした。
『まぁこのお店の常連であり、最も面倒くさい客の1人であるエギルさん相手に15回も練習したんだ。他のお客さん相手なんて楽勝だよ、おめでとう奈緒ちゃん。』
『すごい疲れてるのに時間がほとんど動いていないの涙が出ます…。魔法嫌いになりそうです。』
『あはは、時の女神は気まぐれなのさ。きっとこの様子を見ながらクスクス笑っているんだろうね。』
奈緒は少しだけ時の女神とやらに苛立ちを覚えた。しかし疲労感はあるものの、やり切った充足感を確かに感じて口元に少し笑みが浮かぶ。
すると、隣でうぅ…という呻き声と共にエギルが体を起こした。彼は奈緒の方をジロリと見て告げる。
『嬢ちゃんに良いことを教えてやろう。ドワーフっちゅうんは本当に俺が演じたような偏屈なヤツもたっくさんおる。じゃが一度心を許せば気の良いヤツらなんじゃ。誤解はせんでやってくれ。』
彼は少し気恥ずかしかったのか、奈緒から顔をぷいと背けた。なんだかそれが可愛らしくて奈緒はくすりと笑ってしまう。
『なんじゃい、俺の折角の助言を笑いおって。』
背けた顔から彼の不満げな声が聞こえて来る。それもなんだかおかしくって奈緒はクスクス笑いながら答えた。
『いえいえ、助かりました。ありがとうございます、エギルさん。』
『ふん、わかりゃいい。』
そう言って、エギルはのそりと立ち上がった。マスターがくすくすと笑ってエギルに声をかける。
『お帰りですか?エギルさん。今日のコーヒー代は練習に付き合っていただいたお礼として無料ということで。』
『当たり前じゃ阿呆。拷問かと思ったわ。』
ふんと鼻を鳴らして玄関の方へ歩いていくエギルに、奈緒は見送りにその後ろをついて行く。
『また来るわい。嬢ちゃん、頑張るんじゃぞ。』
ドアを半分ほど開けて、首だけ動かしたエギルがぼそりと奈緒にそう言った。
奈緒が返事をする前に、エギルはドアの先の眩い光に飲み込まれて消えていく。飴色のドアがバタンと閉まって、ベルが鳴った。
『奈緒ちゃんはもうエギルさんのお気に入りの人だね。』
15個のカップを洗いながらマスターが笑いながら言う。
『どうなんでしょうか…。』
奈緒は苦笑いしながら答えた。
『あんな楽しそうなエギルさん、なかなか見られないよ。まぁ、まだバイト初日だ。ドワーフがどんな人達なのか、エギルさんが言ってたような人なのかもしれないし、君の目には違うように映るかもしれない。ゆっくり慣れていこう。魔法使いになる準備期間、だね。』
魔法使いの準備期間。奈緒は心の中でその言葉を反芻する。急に魔法は使えない。奈緒はまずはできることを1つずつやろうと心に決める。
『あれ?マスター、カトラリーケースの中がどれも空っぽなんですが。』
ふと目に入ったテーブルセット、どのテーブルもカトラリーケースの中に何もないことに気づいた奈緒がマスターに尋ねる。
マスターも不思議そうに首を傾けている。
『いやー!!!危なかったですねー!!休戦協定を結んだまでは良かったんですけど!!まさかあのフォークがソーサーの傀儡になっているとは!!!あの子たちが協力して立ち上がった瞬間は思わず涙が出ましたよ!!』
バァン!と厨房のドアを勢いよく開けて出てきたのはエニス。手には箒と塵取り。塵取りには粉々になった陶器とズタズタの金属片がこんもりと入っていた。
『エニス。』
『あっ!マスター!!ナオさんの練習終わったんですね!!お二人とも聞いてくださいよ!!スプーンがあれほど憎んでいたはずの _____ 』
『エニス。』
『あっ』
『正座。』
まだ魔法使いにはなれない高校生、小川奈緒のバイト初日はマスターの説教とプレイヤーから流れるビッグバンドをエンディングテーマに終わりを迎えたのだった。
お読みいただきありがとうございました。
誤字報告、感想等ありましたらお願いします。
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10 鈴の音と少女
今回もお楽しみいただければ幸いです。
奈緒が【Cafe Artemisia】で働き始めて大凡2週間が経った。
彼女が初めてこの店を訪れた際には、桜がはらはらと舞い降り、柔らかな日差しが包み込む時期だった。しかし時の流れは早いもので今となってはその桜も散り、新緑が顔を覗かせ始めている。
そんなある日のおやつ時、【Cafe Artemisia】では___
『いらっしゃいませー!!』
『いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ。』
『エニス、ケーキセットBが2つ上がったよ。運んでくれ。奈緒ちゃんは3番卓のバッシングよろしくね。』
『かっしこまりましたー!!ナオさん!カウンター裏に一応2人分セットで纏めてありますのでそれ使ってくださーい!!』
『了解です。エニスありがとう、助かるよ。』
プラチナブロンドの真っ直ぐで長い髪を靡かせながら輝く笑顔で指示を飛ばす少女。
毛先に緩くロールを描く黒髪を棚引かせながら口元に淡く笑みを称えて応える少女。
2人に増えた看板娘は、ファンク・ジャズの流れる戦場を所狭しと動き回っていた。
『いやはや、覚えが早くて助かりすぎるなあ。』
戦場の足音が遠くへと消えていった午後の4時、マスターは紫煙を肺一杯に吸い込みながら感嘆の言葉を口にした。
『本当に凄い早さでお仕事覚えていきましたねナオさん!!!流石の私も感服ですよ!!』
そう言ったエニスはカウンター席に座り、感心したように言う。カウンターチェアは彼女が座るにはは少し高いのか、ぶらぶらと足を遊ばせながらコーラの入ったゾンビグラスを指で弾いて弄んでいた。
『マスターと先輩の教え方が上手だから、かな。』
ふふ、と口の端に微笑みを湛えながら奈緒が答えた。実際マスターと賑やかな先輩は教えるのが上手く、奈緒元来の物覚えの良さと噛み合った結果として僅か2週間のキャリアとは思えない程の働きぶりを発揮していた。
『とはいえ、エギルさん以外の常連さんと顔を未だ合わせられていないんだよねえ。』
顎に手を当ててふうむと考えながらマスターが言う。事実、奈緒がバイトを始めてからこの店にやってきたのはエギルを除いて初来店客ばかりだった。
『奈緒ちゃんがやって来たことで他の世界の扉が閉じたか、或いは座標がズレたかね。』
『今のところエギルさんだけで今月の売り上げの内訳8割越えですからね!!先週7日間で10回来た時は流石に笑いました!!!』
彼のドワーフの過ごす世界の時間と奈緒たちの過ごす世界の時間にズレがあるのは奈緒も話をしているうちに理解していた。が、それにしても来過ぎであった。
『えっと…申し訳ないです…。』
自分にどうにかできる問題ではないと分かっていても、そう言われると奈緒は少し気分が落ち込み小さく溜息が出た。それを見たマスターとエニスはわたわたと弁解をし始めた。
『いやいや、奈緒ちゃんのせいじゃないんだよ。女神様がきっと奈緒ちゃんが早く慣れるように調整してくれているんだろう。そうに違いないよ。あっ、コーヒー飲むかい?ケーキもあるよ?』
『そうですそうです!!今はたくさんあのちっちゃいおじさん相手に練習してたくさん絞り取りましょう!!あのおじさん独り身だから金払いはいいんです!!ナオさんみたいに綺麗な人とお話するだけであのちっちゃいおじさんには極上の幸福ですよ!!独り身だから!!!』
マスターとエニスが下手くそな気を使う。エニスの放った"おじさん独り身"という言葉はナイフとなってマスターの心にも深く深く突き刺さった。
そんな奈緒は遠い目をしながらアリガトウゴザイマスと溢し、マスターが運んできてくれたモンブランとアメリカーノに口を付けた。
このお店で初めて食べた時から奈緒はこのモンブランに夢中だった _幸いな事に体重も今のところ増加傾向にはないようだ_ 。お客として来た時は、アッサムをミルクティーで注文していたが、最近のお気に入りは濃い目のコーヒーと一緒にいただくことになっている。
栗の風味をしっかりと残しながらも甘すぎず、飽きの来ないマロンクリームたっぷりのモンブランを深煎りのスモーキーなコーヒーで流す。彼女にとってこのコンビネーションは不動のペアリングとなっていた。
目は死んでいるが、もぐもぐとハムスターの様に止まることなく動き続ける彼女の口に笑みが浮かんでいるのを見た2人は軽くほっと息を吐く。
『さて、うちの看板娘ちゃんの機嫌も少しは治ったようだ。とはいっても、もし他の扉が繋がらない事になっているのなら、この状況をどうにかしなくてはならないね。』
やれやれと髪を掻き分けて安心したように話すマスターにエニスが『私も看板娘ですが⁉︎』とカウンターチェアから飛び降り抗議した。バンと天板を叩いた事により、驚いたゾンビグラスが勢いよく床に落ち、パリンと音を立てて砕け散る。奈緒が死んだ目のまま箒と塵取りを持って後片付けを始めた。今週4度目、通算9回目の出来事だった。ここまで来ると割れたグラスは逃げるもの、という非常識な常識が彼女の中にも芽生えていた。
『魔法を使えたり神秘を内包されている常連さんもたくさんいます!!何方かが来てくだされば道は開けるかもしれませんね!!』
奈緒の後片付けを見て、すみません!と申し訳なさそうに言って手伝いながらエニスがそう口にする。彼女が拾おうとしたガラス片は尽くワー‼︎と悲鳴を上げて散り散りに逃げ出したため、奈緒の表情がさらに死んでいった。
__ちりん、といつものドアベルではなく凛とした音が鳴ったのを奈緒は聞いた気がした。顔を上げ、きょろきょろと辺りを見回せど従業員2人と逃げ惑うガラス片以外に姿は無かった。そんな様子を見たマスターが奈緒に問いかける。
『うん?奈緒ちゃん、どうかしたかい?』
『あぁ、いえ。何か鈴が鳴ったような音が聞こえた気がしたんですが…。気のせいだったみたいです。』
マスターはそれを聞いてひどく驚いたような顔をしていた。しかしすぐに心から嬉しそうな、或いはいたずらがうまくいった子供のような表情をして奈緒とエニスに告げた。
『言霊というものはやっぱりあるんだねえ。お客様がお見えのようだ、さぁ仕事に戻ろう。』
そう言ってマスターは大きく伸びをすると、店の隅に置かれたプレイヤーまで歩いてレコードを止め、スマホを操作して曲をかけた。流れて来たのは、最近流行の子ども向けアニメのオープニング曲だった。
『マスターは、こういうのがお好きなんですか…?』
『残念ながら、僕の趣味にはこれっぽっちも合わないんだが…その常連さんがこれをかけろと煩くてね…。』
恐る恐る尋ねる奈緒に、マスターは困ったように笑って肩を竦めた。エニスは何処か合点が言ったようで、なるほど!と言い笑顔を浮かべていた。
何がなんだかさっぱりわからない様子の奈緒はとりあえず逃げ出したガラス片を集めようと立ち上がった。
その時、後頭部にガゴン!と何かが当たった。あまりの衝撃に奈緒は蹲る。彼女の真前からうぅ…と聞き覚えのない少女の声が聞こえた。
エニスの透き通るような声ではなく、先ほど聞こえた鈴を転がしたような声。
ぱっと顔を上げて前を見れば小さな女の子が、顔面を押さえて丸くなっていた。
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11 お洒落なこの子は
お久しぶりです。
どんな感じだったか忘れたところもありますが
久しぶりにかきました。
奈緒は後頭部に受けた衝撃に脳を揺らしながらも、目の前にうずくまる少女を視界に収めていた。
つい先ほどまで顔を手で覆った状態で呻いていた少女は顔を上げ、_小さなルビーのような輝きを持つ両目に大粒の輝きを溜めながら_小刻みにその体を震わせていた。
『…いたい。』
奈緒の目の前の少女が涙声で小さくつぶやいた。ほんの少しだけ、小さな鈴が転がったような声に奈緒ははっとして声をかけた。
『大丈夫!?ごめんね!!全然気づかなくて…!!』
『これはかなり効きますねえ!!即効性はもちろんのこと、これからの立ち回りにもじわじわと影響しそうな一打となりましたよ!!!』
『エニスは少し黙ろうね?すずちゃん、大丈夫?』
丸まった少女の背中をさすりながら取り乱す奈緒の隣で、握った拳に力を入れながら叫ぶエニス。それを上から押さえつけてマスターが尋ねた。
『…だいじょうぶ。すずもきゅうにきちゃったから…。』
未だその両眼は潤んでいるものの平静を取り戻したのか、ちりん、と遠くまで響く鈴のような声で少女が告げた。
マスターは押さえていたエニスの頭を一層沈み込ませるとその手を離し、カウンターの奥へと歩いていく。
ガラガラガラと音がしたあと、ドリンク用のキューブアイスが入っているであろうポリ袋を持って現れ、それを少女の鼻面に当てた。
しばらくすると落ち着いたのか、少女はほうっと息を吐いて奈緒の方を見て言った。
『すずはすず…です。よろしくおねがいします…』
ぺこりと頭を下げて告げる少女を見ても、奈緒の心は怪我の心配が多くを占めていた。_この店にやってくるということは、決して普通の "ひと" ではないということが解っていても彼女の姿はあまりに幼く普通に見えた。
『彼女はすずちゃん。座敷童子だよ。』
少女の顔面に簡易的な氷嚢をぎゅむと押し当てながらマスターが告げた。氷嚢の奥からは『ぐむ!』と錆びた鉄が擦れるような音がする。
『座敷童子…。』
呆けた様に奈緒がぼそりと反芻する。
『エニスやエギルさんみたいな西洋風の神秘を目の当たりにしてたから、すずちゃんみたいな純和風な子にはまだ慣れないよね。』
マスターは苦笑いしながら氷嚢をゴシゴシと少女の顔面に擦り付けて言った。
『いや、思いっきり白エンパイアワンピに赤バレエパンプスなんですが。』
『ざ、ざしきわらしでも…おしゃれはしたい…から…。』
『そ、そっか…。』
今時の妖怪はハイカラさんなんだなあと、ぼやっと考える奈緒。
マスターの手当てから逃れ、野良猫の様に間合いを図りながら伝える少女。
床で寝ているエニス。
混沌がそこにあった。
座敷童子だと説明された子は小学生の低学年ほどの身長に、座敷童子のイメージであるおかっぱ頭というよりはボブカットに近い髪型。髪色も濡羽色ではなく明るいピンクブラウンに近かったことも奈緒の困惑をさらに加速させた要因の一つだった。
店内に流れるチープな音質のアニメのオープニングに、気まずい雰囲気が寄り添って店内は一層摩訶不思議な雰囲気に包まれていた。
しかしここ、【Cafe Artemisia】にはそんな空気を一撫でで切り捨てることができる剣客が存在する。
『いやーすずちゃん!なんともお久しぶりですねえ!!!お久しぶりのハグはいかがですか!?今ならなんとサービスでほっぺすりすりもお付けしますよ!!!』
今まですやすやしていた当店1の看板娘を自称する魔法使い見習いが、ファッショナブル怪奇少女に突進しながら喚き散らかした。
『ひっ。』という怯えた声と共に、迫り来るスピーカーを拒む様に出された少女の掌底が、しっかりと魔法使い見習いの顎を捉えた。
思いがけず、偶然、偶々、決して図らずも。である。
どしゃっという音と共に崩れ落ちる魔法使い見習い。二度寝である。
残心を取る少女。『一本。』遠くからそんな声が聞こえた気がした。
『はい、すずちゃんおまたせ。いつものね。』
いつの間にかマスターが大きなジョッキにオレンジジュースを注いでおり、それをカウンターに滑らせながらそう語った。
『えっ!?このまま進むんですか!?』
目まぐるしく変わる状況に奈緒は目を白黒させながら声を枯らした。
『この店ではいつものことだからね。奈緒ちゃんもすぐに慣れるさ。』
フライパンに火を入れながら何のことはないようにマスターは告げた。
残心を崩さなかった少女もマスターの声を聞いて『わあ!』とカウンターの椅子によじ登る。
奈緒は彼女の傍に控え、様子を観察し始めた。
ぷらぷらと揺れる足がなんとも可愛らしいが、先ほどまでのキレのある戦闘が脳裏から剥がれ落ちることはなかった。
小さな両手で大きなジョッキを抱え、こくこくと嬉しそうに飲んでいる少女を横目にマスターが語り始めた。
『さっきも言ったけど、この子は座敷童子。妖怪、になるのかな?日本各地に似たような伝承がある超メジャーな存在だから奈緒ちゃんも知ってはいるよね?』
『それは…まぁ。』
『よろしい。ケルトやなんかではブラウニーとかが近いと思うんだけれど、座敷童子は見た人が幸福になるって話が良くあるんだ。このお店もまさしく彼女によって守ってもらってるものの一つなんだ。』
悪戯っ子ではあるけどね、と付け加えながら器用にフライパンを動かすマスターに、ほーと奈緒は声を漏らして、件の少女を見遣る。座敷童子と説明された子はオレンジジュースのジョッキから手を離さぬまま、マスターが作っている品を今か今かと待ち侘びていた。
『奈緒ちゃんが初めてこのお店に来てくれた時に、このお店は君にとって冒険の様なものだが危険なことはないって話をしたよね?本来これほどに神秘が集う場所では各々の特性がぶつかり合って摂理が歪みかねないらしいんだけど、それを上手にコントロール出来ているのはこの子が齎してくれる幸福が一因なんだよ。残念ながら、僕にはその仕組みまではわからないけれどね。』
優しい目で小さな女の子を見つめるマスターの台詞には実感が篭っているように奈緒は感じた。
『すごいんだね、すずちゃん。』
思わずというか何というか、奈緒は自然と座敷童子の少女の頭をゆっくり優しく撫でていた。
出会ってから幾許も経っていないにも関わらず、先述した通り見た目が小さな女の子であるからか神秘の類だと解っていても不思議と意識はしていなかった故の行動だった。
急に横から頭を撫でられた少女はびくっと体を跳ねさせたが、気恥ずかし気にしながらもされるがままにそれを受け止めた。
体はフライパンを動かすマスターから目を離さず、視線だけを奈緒に向けて、ころ…と零した。
『おねえさん、きゅうにはずかしい…。』
少し顔を俯かせてちびちびとジョッキに口をつける少女が奈緒には可愛く思えて、サラサラとした髪を撫でるのをは止めることができなかった。
幾らか時が過ぎた頃、奈緒ははっと我に帰りその手を離し、『ごめんね。』と苦笑混じりに告げる。
離れていく手を少し名残惜しそうに眺めていた少女だったが、コトンと言う音と共に目の前に置かれた皿の鼻腔を擽るバターの香りに意識を奪われた。
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