鉄血短編集 -FILLING BLANKS- (suz.)
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P.D.320
群れなして生きるけもの


 昔の話だ。

 かつてオルガ・イツカ以下参番組を雇っていた警備会社CGS(クリュセ・ガード・セキュリティ)は、就労の条件として阿頼耶識の適合手術成功を挙げていた。

 不定期にスラムに訪れ、仕事をしたいやつを募るのだ。思い返せばいけ好かない一軍の連中だが、MW(モビルワーカー)から降り立つ恰幅のいい大人たちは、痩せぎすの子供たちにとって希望にも等しかった。スラムで見かける大人といえば小汚い浮浪者ばっかりで、みんなよれよれの襤褸を着ている。空腹を紛らわすための古い煙草で焼けきった喉はがらがらだ。

 そんな中にジャケット姿の大人が現れ、仕事をしたいやつはいないかと太い声を張る。

 無力に打ちひしがれる子供たちは『仕事』という響きに群がった。

 おれにもできることがある。そう思えることは希望だ。過酷な手術を強いられようともスラムで野垂れ死ぬよりずっとずっとましである。

 

 阿頼耶識の埋め込みは、インプラント手術の中ではことさらシンプルだ。

 しかしながら人間の手とは、実に信用ならない。たとえばノルバ・シノのピアスホールが左右どちらも地面と水平には貫かれていないように、阿頼耶識を埋め込む針の先にも、いくばくかの誤差が発生してしまう。医者でもない素人が施術を行い、補助具もないのでは多少のずれが生じるのは当然である。麻酔というコストを削減した反動もあって成功率はすこぶる低かった。

 少年をうつぶせに寝かせ、押さえつけて、脊髄にインプラントを打ち込む。針はおおよそ正確に骨をこじ開ける必要がある。背中に突き立てられた金属芯の切っ先が、皮膚を破り、血管を引き裂いて――骨の表面を力ずくで突き抜けようとするのだ。神経を直接抉られる。強烈な痛みがある。あまりの激痛から逃れようと死に物狂いでもがく少年を手術台に縫いとめるだけでも重労働である。

 おかげで正しく刺せないばかりか、針先が脊髄を損傷させることもあった。肺に突き抜けてしまった先端が折れでもしたら最悪だ。肺腑から血液が逆流して喀血し、ひとしきり苦しんで息を引き取る。べしゃりと跳ねた赤く赤い血液に恐れおののき、手術を志願していた子供たちが散り散りに逃げ出すこともあった。

 成功率は五〇%。十人が施術されれば、ふたりは死んだ。三人は半身不随になって元いたスラムへ返品された。残った五人がCGSに残る権利を勝ち取るのだが、不衛生な手術痕が膿んで死んでしまうことも、阿頼耶識がうまく定着しないことも少なからずあった。

 CGSは民間警備会社であるが、訓練らしい訓練はない。通常、パイロットといえば高価かつ高火力の機体を乗り回す適格者として相応の教育が施される。このCGSだって社用車やMWで出かけることが許されているのは、その乗り物を破壊しないというお墨付きのある一軍の上澄み数人だけだ。クリュセには運転免許などという面倒なシステムがあり、操縦技術と交通ルールを学びましたという証明書なしには都市部に乗り付けることができない。

 そうした教育一切をすっ飛ばせるのが阿頼耶識システムだった。うまく定着すればMWを手足とまったく同じに操れる。二本の足で走りまわるように、MWの三本ローラーで駆けることができるのだ。二本の手で銃を構えて撃つように、MWのマシンガンを撃てる。わざわざ教えなくてもいいという利点が、そのままマルバ・アーケイが宇宙ネズミを参番組として飼っている理由だった。

 教えられずともやれと命じられればやらねばならない。銃火器の取り回し、地雷の設置・撤去、ドローンの準備、MWの操縦。それから雑用。仕事は山のようにある。年長の少年たちが後輩の面倒を見るのが常だった。

 兄貴分たちが仕事を教える。大人たちは礼儀を教えてやる……というが、子供だって愚鈍ではない。一軍の連中がふるう拳は教育なんかじゃない、ただ憂さを晴らしたいだけの暴力だと気づくまでに、そう時間はかからなかった。

 そして事が起こったのは、何でもない昼下がりのことだった。

 ひとりの少年が、弟分を力任せに振り払ったのである。裏拳を横っ面に食らった痩躯がやすやす吹っ飛び、食堂の床を転がった。

 

「ダンジ!」

 

 とっさに駆け寄ったタカキが抱き起こせば、口角が切れたのかとろりと血が顎に伝う。頭を打ってしまったらしく目の焦点が覚束ない。

 ダンジ、ダンジと呼びかけるさまを見て、少年はにんまりとくちびるを歪めた。つかつかとことさらゆっくり歩み寄る。あざ笑うようにタカキの腹を蹴り上げた。

 

「 っぐ……う、」

 

 みぞおちにブーツのつま先が食い込み、こみ上げる嘔吐感をぐっと飲み込む。仲間を守ろうと意識の危ういダンジを抱きしめて、次なる衝撃に身構える。

 そこへ、たまたま通りかかったユージンが食堂に足を踏み入れるなり、大股で少年に詰め寄った。

 

「てめえ、何やってんだ!」

 

 いくらか前まで参番組の頭を張っていたユージン・セブンスタークのほうがいくぶん年かさである。胸ぐらをつかみあげればわずかに踵が浮く。ところが彼は取り合わない。先刻まで要人警護の任務に出ていた年長組は不在で、この場には偶然食堂に寄ったユージンと、留守番をしていた年少組しかいないのだ。十歳になるかならないかのタカキと、もっと幼いチビたち。比較的年長にあたるダンジが真っ先に殴られたせいで、みんなラックスが盾になろうと広げた両腕にすがるように身を寄せ合って怯えている。

 飄々と笑うばかりの少年を突き放すとユージンは、ダンジとタカキに走りよった。怪我の具合を確かめると、タカキが「おれは大丈夫です」と力なくわらう。目を回していたダンジも落ち着いてきたのか、頭をさすって起き上がる。

 

「いってえ……」とこぼしたのが合図であったかのように、年少の子供たちがわらわらとラックスの影からまろびでてダンジに群がった。

 

 お前は大丈夫か、とユージンが振り返るとラックスは青白い顔をさらに青くし、生気のない声でもどうにか「はい」と強がりを絞り出す。そのジャケットにしがみついて離れない幼子が、ぐず、と洟をすすった。

 空気は重かった。銃を持たせても発砲の反動に耐えらえないからと基地に残されていた子供たちに、リーダー格にあたる年長の少年が暴力を振るったのだ。

 あいつは大人の真似事をはじめたのだと誰もが勘付いていた。

 

 

 

 次の日だった。

 夜半、交代で行っている夜警のシフトを終えたタカキが、みんなが眠る大部屋に戻るところだった。

 突如暗闇から伸びてきた手がタカキをとらえた。反射的に大声をあげようとした口をもう一方の手が塞ぐ。成長期特有の細い手足でもがいても拘束は外れず、しかし、手の大きさから大人ではないとすぐに気付いた。

 さっと血の気が引く。またか、と怯える気持ちもあった。

 ()だ。タカキよりも年上で、ユージンよりは年下で、任務に参加することもあれば年少組のまとめ役として居残っていたりもする、あの――昨日の。

 だけど今夜はひとりじゃない。足音がひとつ、ふたつ、……おそらく五人。笑いさざめく声に肌が粟立つ。彼に味方する仲間がいるということが恐ろしかった。

 ダンジは手酷く頬を張られ、タカキも腹を蹴られたのだ。今度は何をされるのかと身をこわばらせる。

 硬いブーツに追い立てられるまま暗がりに連れ込まれそうになったとき、タカキを受け止めるものがあった。

 

「何してんの?」

 

「三日月さん……!」

 

 静かな声だったが、夜を割るような力強さがそこにはあった。安堵がぶわりと押し寄せて、タカキは思わず涙ぐむ。見目こそ幼いながら三日月・オーガスは、このほど背中に二本目のヒゲをつけ、既にオルガやユージンたちとともに作戦に出る手練れだ。腕っ節も強いし、MWの操縦技術は目を見張る。タカキが憧れてやまない参番組のエースである。

 背丈の変わらないタカキを背後にかばうようにして、三日月は一歩を踏み出した。やはり静かな声音で「何してんの」と重ねられれば、青い眼光には誰もが気圧される。

 

「ありがとうございます、三日月さん」

 

 まばらに逃げ去っていく少年たちの影を見送って、タカキは知らず詰めていた息を吐きだした。驚いたせいでまだ心臓がどくどくと警戒している。

 

「何もされてない?」

 

「はい、助かりました」

 

「面倒なことになったね」

 

「……ユージンさんから、聞いたんですか」

 

「オルガがね」と三日月は短く応じ、タカキの口端についた汚れをジャケットの袖でぐいと拭った。タカキが恐縮すると、無感動な双眸でも「ひとりで戻れる?」と身を案じる。

 

「だ、大丈夫です! 三日月さんが助けてくれましたから!」

 

 そう、と、そっけない三日月だったが、どうせ通り道だからと寝息が響く部屋の前まで付き添った。

 エースの威圧が聞いたのか、その翌日には何事も起こらなかった。食堂ではタカキがいつにも増して三日月さん、三日月さんとにぎやかにさえずったが、それもいつものことである。正社員たちが小蠅を疎むような白眼を向けようとも、年長組が仕事から日常に帰ってきたなら武勇伝を聞かせてほしいとせがむのが常だった。

 年少の子供たちはそれぞれに兄貴分を慕っている。タカキが三日月に憧れているように、ダンジやヤマギはとりわけシノに懐いていた。指揮官をつとめるオルガやユージンには敬意を払うし、特に得意な役割を優先的に振ってくれるオルガには厚い信頼を寄せている。

 そうして平和な一日を終え、その翌日も平穏無事に終えることができた。

 三日が過ぎ、いつもの調子を取り戻したかに思われたが――、しかしオルガたちはふたたび仕事で基地を開ける。参番組の年長者は全員だ。今度は整備を担当するビスケットやヤマギまで同伴させる長期の鎮圧作戦ときた。

 心配だな……とこぼしたのはオルガだった。光の入らない地下格納庫ではランプの明かりが頼りなく揺れる。

 

「仲間同士でギスるのはうまくねえ」

 

「そうだね……」

 

 先日の暴力沙汰に気付けなかった自責を感じてか、ビスケット・グリフォンは苦い顔で帽子のつばを引き下げる。食堂から離れた格納庫で仕事をしていたのでは駆けつけられなくとも致し方ないのだが、同じ基地で年少組が傷つけあっていたのである。食器に毒を塗られていたかのような居心地の悪さがあった。

 CGSの参番組は今やオルガたちが最年長だ。さらに年長の少年たちは残らなかった。彼らが生きて戻れなかったのは、大人たちの理不尽な暴力を浴び、そのストレスを力の弱い子供たちにぶつける連鎖があったせいだとオルガは睨んでいる。

 事故やテロで親を亡くしたり、あるいは親に捨てられたり、売られたり、――行き場をなくした子供たちが流れ着いてここにいる。仕事という希望を見出してCGSにやってきて、麻酔もなしに背骨を抉る手術の激痛に耐えて。それでも仕事内容は、最前線に生身で整列させられるだけ。あれほど過酷な手術を乗り越えたというのに、楯より子供のほうが安価に手に入る火星じゃ、少年兵は弾避けだ。

 危険な戦場から戻ってきたときには多少の安息が必要だろう。それがなければ判断力は日に日に鈍る。大人から、兄貴分から、理由もなく虐げられていれば自然と臆病になっていく。身を守るためにと言葉数を減らすのは当然の対処と言える。そうして殻に閉じこもって、やがて誰の言葉にも耳を貸さなくなるだろう。帰りたい場所のない彼らは生に執着しなくなる。

 諦めてしまうのだろう。予期できない痛覚から逃げたいあまり頑なになり、それも無駄だと殻を叩き割ろうとされるのだからやむを得ない。

 しかし戦場では指示に耳を傾けてもらわねば困る。

 指揮官であるオルガにとっても死活問題だ。モチベーションの低下は全滅を招く。のちのちの士気にもかかわる。

 幼い弟分たちがはけ口にされるのを黙って見ていることなど当然できるわけもない。特に年少組は、術後の容態が安定しない新入りの面倒を見てやるポジションなのだ。弱ったやつを八つ当たりの矛先にしてしまうやつが出ないとも限らない。弱いものからさらに弱いものへと暴力を連鎖させないために、ヒューマンデブリ側では昭弘・アルトランドがひとりで食い止めていることをオルガは知っている。オルガだけではなく三日月、ユージン、シノもみんな仲間内に不和がないようにと可能な限り目を配っている。年少組ではタカキやダンジが兄貴分らの心を汲んでか、積極的にチビたちの世話を焼いてくれている。

 戦場に必要なのは一にも二にも連携だ。不条理にも肉盾として使われる宇宙ネズミは、仲間同士の絆を武器に戦って生き残るしか道が残されていない。

 

「……しょうがねえなァ」

 

 そして翌日、オルガたち参番組は長期任務へと旅立った。

 帰って来られなかった少年たちの名は、戦死者の名誉のために伏せておく。




初出: 03/08/2017 @pixiv
改稿: 01/23/2018


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P.D.323
屑鉄は首つり人形の夢を見るか


10〜11話の間の話
(微グロ※ブルワーズのMS隊が鉄華団襲撃にいたるまでをアストンの視点で)


 ぐったりと脱力した右腕をつかんで、左腕もたぐりよせる。背中に靴裏をあてて慎重にノーマルスーツをひきはがしていく。ずるりと現れた生身の四肢はアストンよりもずいぶん長く、無抵抗だがかすかにふるえているようだった。

 これからどうなるのか理解していれば無理もない反応だ。だが同じデブリでしかないアストンにはどうすることもできない。嗚咽を飲み込む上下動をぐっと踏みつぶすと、無重力に水滴がきらきら散った。ああ、あとで掃除を言いつけられるのだろう。ブーツの中で縮こまっていたつま先が久々の大気に触れてもがくさまが、ひどく滑稽にうつった。

 ヒューマンデブリなんて、そんなものだ。

 大人たちの粘つく視線のもと白いつなぎをはぎとると、汚れないように脇へ避ける。戦慄に縮こまる痩身からタンクトップもはがしてしまう。一部始終を見守っていた新入りに目配せをして呼び寄せると、インナーを脱がせてやるよう指示した。

 もたつく手によってついに骨と皮だけにされた()()を左右から引っ張り上げる。アストンたちよりも頭ひとつぶん以上も長身の、ヒューマンデブリだ。

 これを今から処分しなくてはならない。

 相変わらず耳障りなクダルの声が「行け」と命令する。アストンは無感動に頷いて、目を逸らすようにヘルメットをかぶった。そのままバイザーもおろしてしまう。可哀想なくらいに怯える新入りをうながしてヘルメットを着用するよう指示し、新参古参をたずさえて向かう先は整備用のハッチだ。

 〈ブルワーズ〉は宇宙海賊で、港に寄ることはまずない。物資も燃料も、人員だって輸送船や商船団を襲って調達する。それが海賊というものらしい。ナノラミネート塗料も道すがら塗り直す。そのとき艦にとりついてペイントを施すのはヒューマンデブリの仕事だった。

 命綱もなしに航行中の戦艦にへばりついて宇宙空間で作業をするのだから相当な危険がともなう。投棄されたエイハブ・リアクターがほうぼうで重力を発生させているデブリ帯では、一瞬の油断が命取りだ。慣性に流されて遭難し、戻って来られなくなるやつは少なからずいた。

 MS(モビルスーツ)を出せば探しにいけたかもしれないが、ヒューマンデブリなんかよりも推進剤のほうがよっぽど貴重で、宇宙のごみになった仲間を探しにいけるほど潤沢に与えられているわけじゃない。デブリ同士に面識があるわけでもない。

 阿頼耶識の適合手術に成功したヒューマンデブリが着せられるノーマルスーツだって一生に一着しかないのだ。

 アストンの足元でだぶついている裾がまっすぐに伸びるときにも、こうやって自分より小さなデブリの手で見せ物のようにむしりとられ、全裸に剥かれて船外廃棄されるのだろう。赤いラインのつなぎを着ていない以上、仲間なのかそうじゃないのかも判別できない。

 しにたくない、と、ヘルメットの内臓スピーカーごしに涙声がふるえている。アストンは何も聞こえていないかのように船外へと続くエアロックの前に立った。

 ひとつめの扉を開く。ふたつめの扉の前へと廃棄物を追い立てて、ひとつめの扉を閉じた。

 ふたつめの扉から一歩でも出れば、二度と息を吸えなくなる。

 

『しにたくない……っ!』

 

 今度こそ響いた慟哭が、真空に掻き消える音が聞こえた。開かれたハッチに吸い出されるように水分という水分が蒸発して、舌、口腔粘膜が冷たいまま焼けるのだ。窒息まではだいたい二〇秒かかるか、かからないか。涙が伝っていたせいで頬に延焼し、目玉がどろりと濁る前に、骨と皮だけの()()()を真空の宇宙へと蹴り落とした。

 捨ててこいと命じられれば従うほかない。ワンサイズしかないノーマルスーツが着られなくなったら着せる服などもうないし、遅かれ早かれ死ぬ運命だ。

 仲間だった産業廃棄物を遺棄し、扉を閉じる。無音の断末魔を見送ることもせず踵を返す。

 アストンのそばで『洗礼』を終えた新入りはどうすることもできずふるえていて、とにかく気密性の高いヘルメットの中で嘔吐しないようにと必死に耐えているようだった。

 目を伏せる。背ける。こうした役目がまわってくるのは、もう何度目になるのだったか。

 

 ヒューマンデブリはこうやって死んでいく。成長すれば捨てられる安い命なのだと思い知らせるように新入りに廃棄を手伝わせるのが、ここで繰り返されてきた洗礼だった。見せしめだ。ヒューマンデブリを養うには水と酸素が必要で、倉庫にはレーションやエネルギーバーが備蓄されているが、それだって数には限りがある。どんな物資も無限に手に入るわけではない。積み荷が重いほど推進剤を食うから、積載量だって限られている。

 まったくタダじゃ生きられないなんて本当にゴミクズだね! ――そうして殴られ蹴られ虐げられて、いつかノーマルスーツが着られなくなったら否応なしにお役御免にさせられる。

 だから〈ブルワーズ〉には空腹を訴えるデブリがいない。与えられた食糧も必要最低限しか口にしない。

 人でなくなるのがこわいとか細い声で嘆いた新入りは、名前をペドロといった。

 ガタガタふるえる手を引いてやりながら艦内へ戻る。産業廃棄物として暗い宇宙を漂う死体の名前を、アストンはもう思い出せない。

 

 

 

 宇宙海賊〈ブルワーズ〉は大型輸送船と二隻の強襲装甲艦、合計三隻で航行している。

 乗組員はほとんどヒューマンデブリだ。命令に従うか死ぬかの二択を迫られて、生きているやつはクルーとして便利に使われる。操舵、整備、戦闘、雑用、――どれも楽な仕事ではないが、強いて言うならアストンのいるMS隊は〈ブルワーズ〉における()()()と言えるはずだ。

〈マン・ロディ〉は高価な機体だ、自爆を命じられることはまずない。叩き付けられる暴力だって殴るか蹴るかといった肉体的なものだけだ。ブリッジからMS隊に移ってきたというペドロにとっては、およそ昇格にあたるのではないだろうか。

 常に大人の目が光る中で仕事をさせられる艦橋クルーに比べればきっと、薄暗い格納庫のすみで身を寄せ合う生活は案外悪くない。

 ……先住のヒューマンデブリを生きたまま船外投棄するという洗礼を受けさせられてショックで声も出ないペドロにそのことを言ってやるべきかと悩んだが、どこも地獄に違いない。元いた地獄よりいくらかマシな部類じゃないかとなぐさめたって何の救いにもならないだろうと、アストンは自嘲気味に目を伏せた。

 MS隊は六人一組にされ、いつでも出撃できるようにMSデッキにほど近い一室で寝起きする。あくまでも〈マン・ロディ〉の生体パーツという扱いだ。怪我をしたらさっきのやつみたいに捨てられる。病気になっても捨てられる。先日クダルの八つ当たりでパイロットが動けなくなり処分されてしまったから、その穴を埋めるためにやってきたのがペドロだった。

 四人が肩を寄せ合っているスペースに帰ってくると、アストンとペドロに視線が集まる。

「おかえり」と迎えたのはデルマだ。いくらか前に補充されてきて、そろそろ中堅どころになる。〈ブルワーズ〉に転売される前にはMW(モビルワーカー)を動かしていたらしく、MSの操縦にもすぐに慣れてしまった。

 頷き返して、奥へ進もうとすると、立ち尽くすペドロの肩が小刻みにふるえていることに気付いた。

 死の瞬間を見つめてしまったひとみに涙をためている姿に憐憫を覚えたのか、ビトーが「だいじょうぶだ」と不器用に声をかける。

 すると涙のダムはみるみる決壊し、わっと泣き出しそうになる口を、ビトーがあわてて両手でふさいだ。

 しずかにしないと、なぐられる。口のかたちだけで言い聞かせると、さっき見た光景を思い出したのかペドロの顔がさっと青くなる。

 まるで幼い子供のようで、ペドロのしぐさは何とも庇護欲をそそった。しゃくりあげる新入りを慎重になだめてやるビトーを眺めながらアストンはノーマルスーツを肩から落とし、両袖を腰もとでくくりつけると奥の廃材に腰をおろした。

 もうひとり補充されてきた少年が膝を抱えているすぐそばだ。お前は大丈夫か、という意味を込めて覗き込むと、昏い色のひとみがまたたく。表情を隠すように伸びた髪からは冷めきった双眸と、殴られたばかりの痣。

 同じ新入りなのにペドロとは相反して落ち着いた雰囲気をまとっている。

 

「まだ痛むか、昌弘」

 

「おれは平気」

 

 だからおれなんかよりもペドロを気遣えとでも言わんばかりに、昌弘は目を伏せてしまった。

 地獄から地獄へ転売されるヒューマンデブリ特有の諦観なのだろう。物心ついたころからこの格納庫の隅にいるアストンにはあまりピンとこない感傷だが、もがいたってどうにもならない環境だ。投げやりなところにはいくばくかの親近感を覚えて、アストンは「そうか」と独り言ちた。

 人間でありたいと拳を握るビトーと、人でなくなるのが怖いと泣くペドロ。あいつらはきっと相性がいい。出会ったころからビトーはああやって、憤ることで自分の心を守っていた。

 ここではどんなに肩を寄せ合って生き延びようとあがいても、ちょっとしたきっかけで命ごと奪われてしまう。失われていった仲間のために怒り、悲しみ、強い感情をぶちまけることで自我を保つ。そんなビトーに、感情を無にしなければ正気でいられそうにないアストンは寄り添えない。

 おれたちはデブリだけど、あいつらだって人間のクズだろ――そんなふうに切り捨ててしまうデルマのように強かになれればいいのにと、思うことならあるのだが。

 MS隊への配属は、まだマシなほうだとアストンは思っている。本当にそう思う。ハンガーは年中あたたかいし、常に大人の目が届くわけじゃないから文句や愚痴、戦術だって共有できる。雑談できる余裕もある。

 ここにいれば少なくとも、心まで踏みにじられることはない。

 担当が違えば別の役目が回ってくる。さっきみたいに大人の視線の前でノーマルスーツをはぎとられ、インナーまで奪われるさまを、舐めるように眺められるのだ。全裸に剥かれるところを娯楽にされる。今際のときに一度だけならまだしも毎晩のように蹂躙されるやつもいて、大人しく言う通りにすれば生きて戻って来られるのだと噂に聞けば、おぞましさに肌が粟立った。

 這いつくばって連中の靴を舐めるよりずっとマシだろ――と、新入りを励まそうとした自身の浅ましさに気付いて、アストンは頭を振った。

 反吐が出る。こんなの、もっとひどいところにいるやつを見下して自尊心を守っているだけだ。

 自責に沈むアストンの隣に、昌弘がそっと寄り添った。

「おつかれ」といたわる言葉はMSの整備中にレンチを手渡される無機質さで、それがアストンのささくれ立った感情を凪がせていく。

 昌弘は先日までこの艦のブリッジに詰めていたらしい。輸送艦のほうのブリッジからきたペドロ、いきなりMS隊に放り込まれていたデルマとは同時期に調達された転売組の一員にあたり、デルマと昌弘は顔を覚えていたようだった。

 艦橋のクルーたちは、いつ大人の汚い手が伸びてくるところかわからないところで働いている。何をされるかわからない場所だ。だから昌弘は目立たないように物静かな空気をまとっているのだろう。

 ふうと息を吐き出すと、両肩のこわばりを感じて、もう一度、細くため息を落とす。

 ペドロの『洗礼』にひどく緊張していたことを今さら自覚した。

 先住者の廃棄処分は、しくじると巻き添えになってしまうのだ。宇宙空間に放り出されるとき速攻で気絶できる幸運なやつはごくまれで、窒息しても死に到るまでは意識がある。死にたくなくてもがくから、船外へ蹴り出すときに袖や脚をつかまれてしまったら、慣性に流され、二度と船には戻って来られない。そのうちノーマルスーツ内の酸素も尽きて、全裸の死骸と一緒に宇宙のゴミになってしまう。

 ヒューマンデブリはそうやって死んでいく。

 みんな最期はああやって塵になる。ヒューマンデブリとはそういうものだ。

 声を殺して泣くペドロの嗚咽を子守唄に、アストンはそっと目を閉じた。休めるときに休んでおかなければ次の戦闘で撃墜されるのはおれかもしれない。

 危機感は、廃棄よりも戦死のほうがずっとマシだという傲慢でできている。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 アストンは、自分がどこから来たのかを知らない。

 ここにくる前どこにいたかなんて覚えていない。苗字もわからない。幼心に「傷あり」と呼ばわられた記憶はあるが、それが誰だったのか、いつだったのかも不明だ。物心ついたときには〈ブルワーズ〉にいたし、MS隊の前にくる前には別のところにいたのかもしれないが、覚えていないからわからない。

 ただ、はじめてこの格納庫にきたとき、いやに暗い雰囲気だったことだけが記憶の片隅に残っている。誰かが死んだすぐあとだったのだろうと、後になってわかった。

 ほどなくテツヤ、ビトーがやってきた。いくらか経って、元いた三人がまるきり入れ替わったころにデルマが補充されてきた。はっきりと思い出せるアストンの記憶はそのころからだ。

 宇宙海賊〈ブルワーズ〉は、デブリ帯にひそみ、通りかかる商船や輸送船を襲って積み荷を奪う。

 その戦術は実に単純だった。

 まずはMS隊が先行して護衛のMSを船から引き離す。対空砲火をかいくぐって、旗艦の艦橋をつぶすことで船団そのものの足を止める。

 ブリッジをやったら強襲装甲艦で追いつき、突撃部隊が乗り込みをかける。ノーマルスーツに爆弾を巻き付けて走り込むのだ。艦内の隔壁が封鎖される前に各エリアに浸入してシャッターを降ろさせないようにする。その任務から生きて帰ってきたやつはいない。

 続いて船内へ白兵戦部隊が突入する。乗組員たちの抵抗にあって銃撃戦の中で弾避けとなって死んでいき、こっちの任務も半数ほどしか帰ってこない。

 制圧が済んだら、転売できそうな女子供を残して全員射殺だ。殺戮。略奪。積み荷の物色が終わり、救援などもう無意味だと一目で悟れる惨状ができあがったら、直掩についていたMS隊も機体を降りろとの命令が下る。

 こまごまとした後始末はデブリの仕事だった。無重力に飛び散る血液を死体の衣類に吸わせて拭き取りながら、死体袋に詰めていくのだ。千切れた腕や足も拾って詰め込む。ヘルメットの中で嘔吐してしまったデブリは、そこで死体とともに置き去りにされるのが常だった。どうしても気分が悪くなったら死体袋の中に吐きだし、とっととファスナーを閉じてしまうしかない。

 物心ついたころからアストンは、そういう仕事をして育った。

 戦って、殺して、死体を処理する。

 一仕事終えて格納庫の片隅まで戻ってくれば、ああ、帰って来た、と実感した。MSがそばにあるからかハンガー付近はいつもあたたかい。

 このMS隊に配属されたアストンは、運が良かったはずだ。

 仲間にも恵まれている。〈ブルワーズ〉には旗艦左舷のハンガー付近に暮らすアストンたちのほかにもMS隊がいて、一度だけ、戦場で共闘したことがあるからそう思う。

 あれは確か、大型輸送船団を狙ったときのことだった。エイハブ・ウェーブの反応で味方であることはわかったが、その戦い方はアストンたちとは大きく違っていた。

 

『しっかりやれよ、使えねえ野郎だな!』――八つ当たりめいた暴言が通信機ごしに漏れ聞こえたのだ。

 

 はっと別働隊のほうをあおげば、弱った仲間の機体で対空砲をしのぎながら、口々に罵声を浴びせている。背筋が冷たくなった。まるで大人たちのガス抜きみたいだ。

〈マン・ロディ〉は装甲が硬いぶん燃費も悪く、なのに推進剤を使いすぎると殴られる。しかし対空機関砲の弾幕をかいくぐるには推進剤を多く使う。だから各部スラスターのガスを効率よく使わないと帰投できなくなってしまう。銃弾を浴び続けていれば〈マン・ロディ〉の装甲だって長くは持たない。

 だからって仲間を盾にするなんて。着弾の衝撃にゆさぶられるコクピットの中で、パイロットがどうなるか……!

 

『おれたちは何も見てない!!』 ――デルマの声がアストンを呼び戻さなければ、仲間のもとへ戻って来られたかどうかも危うかった。

 

 件の別働隊が全滅していたことを、のちにクダルの繰り言から知った。

 連携して戦ったほうが合理的だと学んだ。どうすれば効率よく飛べるのかを実戦の中で試行錯誤し、標的にした輸送船で雇われていた護衛の傭兵たちからMSの基本戦術を盗み、情報を共有しあって連携や援護を、叩き潰し方を覚えていった。

 そのうちに誰かが死んで、また誰かが死んだ。

 戦死したやつもいれば、病死、餓死、狂死したやつもいた。

 熱を出して動けなくなって、そのまま宇宙に放り出されたやつもいた。

 クダルに殴られて意識を飛ばしたまま泡を吹いて冷たくなったやつもいた。

 八つ当たりの蹴りに吹っ飛ばされた先で鉄柱にぶつかり、串刺しになったやつもいた。

 MSがよこす膨大なフィードバックに耐えられず、頭から壊れたやつもいた。――あの日は奇襲をかけるはずの商船団の足が存外速くてなかなか頭まで追いつけず、追いかけっこをしているうちに、わらわらと出てきた傭兵たちと戦闘になってしまったのだ。

 推進剤の残量に意識をすり減らしながら戦って戦って壊して壊して殺して殺して、やっと旗艦にハンマーチョッパーを叩き込んだものの、予想以上に長引いた戦闘のせいで残弾はわずか。ずっと前衛にいたデルマ機などガスが尽きてしまって、手に手を取り合って六人で帰投できたことはほとんど奇跡のようだった。

 船に戻れても、コクピットから出ることができたのは五人だけだった。呼びかけても開くことのないハッチを外からこじあけたところ、そこにはヘルメットの中をどす黒い液体でいっぱいにして、四肢をがくがく揺らす無惨な姿があった。慌てて手を握っても痙攣はやまず、体液という体液を垂れ流す。

 鼻血と吐瀉物にまみれ、脂汗で額をべたべたにさせながらもバイザーを開くことなく、アダプタを取りはずすまで意識を保っていたのは、きっと後始末をさせる仲間への気遣いだろう。阿頼耶識の接続を切り離したとき、アストンの手を最期の力で握り返して、そして涙まみれの双眸を閉ざした。ぐんにゃりと動かなくなった身体をコクピットからはがしとりながらビトーがわんわん泣いていた。

 フィードバックの負荷に耐えきれず、延髄をやられてしまったのだろう。頭蓋の内側から情報の渦に殴りつけられる感覚は阿頼耶識使いなら誰しも覚えのあるものだ。

 おれたちもいつかこうやって壊れるのかもしれない。そのときはおれも最期の最後まで仲間のために耐え抜いてやるんだ――と、残された五人、肩を寄せ合って静かに泣いた。赤くなった目元をクダルに見咎められ、弾薬と推進剤をこんなに使いこみやがってと罵られても、その日の拳はいつもより痛みを感じなかった。

〈ブルワーズ〉のMS隊はクダル・カデルによる適性検査のもとで配属される。いきなり〈マン・ロディ〉に繫がれるのだ。鼻血を噴かなかったら合格で、膨大なフィードバックに気絶してしまう新入りは後を絶たない。そのまま死んでしまうやつもいる。意識が戻っても腕や脚が動かなくなっていることはざらにあった。だから戦場で同じことが起こることも、充分に想定できた。

 ヒューマンデブリは、そうやって死んでいくものなのだ。

 運良く生き残ったアストンたちはまだ生きていて、MSに乗っている。今いる仲間と手を取り合って生きていく。死んだやつのことは忘れる。それしかできない。

 おれたちはデブリだ。どこへも行けない。――暗示をかけあって疲れた心身を休めながら、もう一度目を覚ますことができるだろうかと問いあうことはしなかった。

 漠然とした不安と焦燥を抱えたまままハンガーの片隅でまどろんで、起床できたのはアストンを含めて四人だけだった。

 

 

 

 四機じゃ頼りないねえ……などとクダルがこぼし、ほどなく連れて来られたのが昌弘だった。

 艦内にいたからすぐに連れてくることができたのだろう。〈マン・ロディ〉のフィードバックに耐えたらしい。幸か不幸かその日は戦闘がなく、五人で死体拾いをさせられた。

 一仕事終えたころにペドロがやってきた。

 輸送船のブリッジから引きずられてきたペドロは、背丈こそ同じくらいだったが、しぐさがどことなくあどけない、幼い印象を与える少年だった。戦闘を見慣れていないせいなのか柔和そうな雰囲気をまとってもいる。すれていないところが大人どもに気に入られて、ブリッジにいたのかもしれない。MS隊への異動は監視の目を逃れられたととることもできるが、ペドロにとっては捨てられたような心地だったのかもしれなかった。

 格納庫の片隅しか知らないアストンに、ペドロの気持ちはわからない。仲間の死に流す涙だってもう涸れてしまった。泣かなくていいように何とかしてやりたいと考えたって、かけられる言葉は浮かばないし、できることといえば与えられた命令の通りに戦って戦って戦って、今ある呼吸を続けていくことくらいだ。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 でかい山だ、気合いを入れろよゴミクズども! ――きぃんと耳に痛い怒鳴り声で叩き起こされ、拒否権もなしに〈マン・ロディ〉に乗り込んだのは、ペドロの涙が涸れたころだった。

 捕捉された機影は哨戒中らしき〈グレイズ〉とMWが各一機。作戦はペドロ・ビトー・アストンの三機で強襲をかけて〈グレイズ〉を撃破、MWを鹵獲するというものだ。戦艦の大型エイハブ・リアクターがいくつも投棄されているここでMSのリアクターをとらえるのは容易ではない。遮蔽物を利用しながら三人、うなずきあって接近する。

 はじめて前衛に切り込むペドロの緊張が通信機ごしに感じられ、アストンは意識の外で細く息を吐き出した。

 先日の作戦で無茶をさせられ仲間を亡くし、六人目の補充はいまだない。弟分の前で泣くに泣けなかったビトーとの三人編成に不安がないと言えば噓になった。デルマ・昌弘のほうはふたりで出ることになるだろうから、そちらも気にかかる。

 初陣を切って間もないペドロはまだ近接戦闘に不慣れで、推進剤を効率よく使えない。連帯責任でみんな殴られるよりはと今回も後衛に下げるつもりでいた。

 ところがクダルはペドロの真正面で脚を止め、毒蛇のように笑ったのだ。

「今回はお前が先行しな」と命令を突きつけられて、白兵戦が一番うまいデルマもクダルの指揮下についている。

 別にかばっていたわけではないし、盾になってやったわけでもなかった。戦闘に不慣れなやつを前衛に出したら死ぬ。そのせいで仲間を何人も失ってきた。今の五人ならばデルマやアストンが前衛に飛び出すほうが合理的だったからそうしていただけだ、ペドロを守るためじゃない。

 この三人だったらおれが……と考えて、クダルの命令に背けばペドロともども八つ当たりされるだけだと思考を投げ出す。命令通りにやらなければ余計な面倒を抱き込んでしまう。

 デブリの岩場の間を縫うようにして慎重に距離を詰めると、目標が視認できた。

 ちぐはぐな装備の〈グレイズ〉と、丸腰のMWだ。

 

 

 

「――勘付かれた、船に戻られるぞ」

 

『その前に仕留める!』

 

 ぐっと奥歯を噛みしめたのだろうペドロがバーニアをふかす。突撃の合図だ。三機編成のMS隊が連なって加速する。

 

『気をつけろよ、ペドロ!』

 

「おれたちが援護する」

 

『だい、じょうぶだ……!』

 

 サブマシンガンを構えるとペドロは勢いのまま、船に戻ろうとする〈グレイズ〉の退路に割り込んだ。相手パイロットの練度はそう高くない、MWを背負っていては回避もたやすくはないはずだ。アストンとビトーが弾幕で足を止めている、これならいける! ペドロが腰元のハンマーチョッパーを引き抜き〈グレイズ〉に肉薄した、

 

 ――はずだった。

 銀光一閃、一拍遅れて警告音がコクピットを赤く染める。アラートが鳴り渡り、エイハブ・ウェーブを検知したと今さらのように計器類が騒ぎだす。膨大な質量を感知。視界をよぎった白い機体は見たこともない得物を携え、緑色の双眸をぎらつかせる。

 

「なっ……何なんだよあいつ! どこから出てきやがった、」

 

 付近に敵影はなかったはずだ。投棄されたエイハブ・リアクター群に邪魔されて策敵が遅れることはままあるが、航行速度に限りのあるデブリ帯では高速で奇襲をかけてくる相手なんているわけがないのに。

 ありえない。こんな見晴らしの悪い岩場を一気に抜けてくるなんて、一体どうやって……! 味方に当てないためにと引き金から離していた指先が冷たくふるえる。

 

『おい、うそだろ……』

 

 茫然と取り落とされたビトーの声は、アストンとは別のものを見ていた。

 スピーカーから届くにぶい金属音。ごり、ごり、と硬い何かを削って火花を散らす音だ。その向こう側で喉をかきむしってもがく幼い嗚咽。粘膜が焼け落ちるようなそれに、アストンの意識が一気に引き戻される。

 ハッと気付いたときにはもう遅い。

 

『ひ――っあ…… うぁ、あ゙ああっあ  ぁ          』

 

 ひび割れた悲鳴がふつりと途切れ、アイセンサーが不吉に瞬いた。そのまま光が失われる。白目を剥くようにして〈マン・ロディ〉が沈黙し、ほとばしった断末魔が通信機を越えることはなかった。

 ペドロ。――弟のように新入りを可愛がっていたビトーが、声をおののかせる。

 

『ペドロッ!! てめえよくも、ペドロを……っ ペドロを!』

 

 駆け出すようにビトーがサブマシンガンを向けるが、白いMSはペドロの機体ですんなり退けてしまう。〈マン・ロディ〉の装甲に跳ね返された弾丸が散る。

 

「ビトー、」

 

 頭に血がのぼる感覚が通信機ごしに迫ってきて、アストンは浅くなる呼吸を自覚した。同胞をやられ、あまつさえ盾にされて銃口をおさめなければならず、行き場をなくした激情を今にも暴発させてしまいそうな仲間を呼び戻す。

 

「落ち着けよ!」

 

『けどペドロが!』

 

「だからだろ! 連携して、おれらで仇をとるぞ!」

 

 でなければ全滅だ、とは言わずアストンは、ビトーがコンソールに拳を叩き付ける音を黙って聞いた。直情型のビトーと組んでいる今、冷静さを失うことはできない。

 あの白いMS――見たこともない姿をぐるりと改め、操縦桿を握りしめる。怒りも恐れも封じ込める。

 これほど接近するまでアラートが出なかったことが喉奥に引っかかっていた。策敵が間に合わないほどのスピードで飛んできたということだ、〈マン・ロディ〉のリアクター出力では追いつけない。うかつに背を追えば推進剤が尽きてしまう。

 距離を取りすぎれば取り逃がしてしまう。

「あいつはこっちを敵だと認識してる」とアストンがさいわいに思ったことを、察したのか。

 緑色の眼光。目が合う。

 

「来るぞ!」

 

 脈打つ鼓動のアラートが大きくなる。

 

『おれから行く!!』

 

 脊髄反射のようにビトーが駆け出し、ハンマーチョッパーを引き抜くと、ビトーは背部スラスターから一気にガスを噴射した。おれは冷静だと示すようにアストンをちらりと振り返る。

 

『援護頼む!』

 

「気をつけろよ……!」

 

 バーニアをふかして応じる前衛に続いてアストンもペダルを踏み込んだ。サイドスカートをぱくりと開くと、手榴弾を投げ放つ。マシンガンのトリガーを絞った。着弾。煙玉が割れ、吹き出したスモークが一帯を覆う。白煙に(とざ)されてモニターが役に立たない中では、阿頼耶識をつけたヒューマンデブリが圧倒的に有利に立つ。

 脚部のスラスターを用いて出力を抑えながら接近し、視界を奪われた白い機体に後方から奇襲をかける。ビトーが一撃を食らわせたら、ナノラミネートアーマーが脆弱になったところへ弾幕を打ち込んで、とどめを。……いけるはずだ。トリガーに手をかけたまま息を詰めて状況を見守る。無防備な背中に向けてハンマーチョッパーを振り上げ、柄のスラスターを噴射――あの距離ならコクピットまで一息に叩き潰せる。

 しかし次の瞬間、敵機はビトーの射程からするりと掻き消える。振り返りざま身を反らしたのだと気付くと同時に、強烈な蹴りを食らって吹っ飛んだ。

 

「ビトーッ」

 

 援護にマシンガンを放つが当たらず、左腕、続いて右足に衝撃が走った。

 

「あいつこの距離で……!」

 

『気をつけろ! あいつもおれたちと同じ、阿頼耶識使いだ……!』

 

 深追いはまずい、危機感の警鐘と命令違反の体罰が同時に過る。

 奴の三〇〇ミリ滑腔砲は、遠距離かつ正面に食らったから殴られた程度の衝撃で済んだものの、近距離で当てられればさすがの〈マン・ロディ〉でもただでは済まない。スラスターにかすりでもしたら一発で戦闘不能になってしまう。

 それから、あの細い武器。見たところ威力増強用の噴射口すらついていないから〈マン・ロディ〉の厚い装甲を抜けるほどの威力は出ないはずだ。ただ先端が尖っていて、装甲の隙間を刺突されたら致命傷になる。

 どう戦う? どうすれば撃破できる……!

 とっさにビトーが白いMSを追おうと加速するが、目標はそっちじゃない。

 

「くそ、〈グレイズ〉が……!」

 

『おれたちが行くッ!』

 

「デルマ! 昌弘、――!!」

 

 たのむ、と短く跳ね返し、アストンは宙空に放り出されてただよう〈マン・ロディ〉を見遣った。グローブの中ではまだ仲間の仇を諦めきれない指先がふるえている。

 

「……おれたちは一旦戻る」

 

 あの白い機体を取り逃がすより、〈マン・ロディ〉を宇宙に放り出したほうが手ひどく叱られるだろう。いまだ怒りの矛先をおさめきれないビトーも、このままではまともに戦えそうにない。

 推進剤が尽きる前に、おれたちでペドロを連れて帰ってやらなきゃ。――完全に沈黙した〈マン・ロディ〉にワイヤーフックをひっかけ母船へ急ぐ。コクピットに武器を突き立てる格好でやられた以上、ペドロはもう生きてはいないだろう。エイハブ・リアクターが稼働していないコクピットから酸素は漸進的に尽きていく。万一生きていたって助からない。今この間に窒息しているかもしれない仲間の手を、いつものように引くことはできなかった。

 一体誰が悪いのだろう――考えてしまいそうになる思考を放り出す。いつまでも弟分扱いしていたおれたちにも非はあった。効率的に戦うためにとペドロを後ろに下げていたら、前へ出せと命令されて、結果失ってしまったのだ。

 だけど。現実を見れば心をやられてしまう。ヒューマンデブリをこき使う大人を恨んだって無駄だ。ごみくずが、今さら何を言ったって。

 死体を見ても何も感じないようにしていなければ。仲間が死んでも、いつものことだと思わなければ。死んだ同胞の名前は忘れなければ。そうしなければ生きていけない。

 どうにかエアロックにペドロ機を押し込んで、ふたたび飛び立とうとしたときだった。

 信号弾がまたたいた。

 クダル・カデルの〈ガンダム・グシオン〉から放たれた撤退の報せだ。仇を討てなかったビトーは慟哭し、しかしアストンはどこかで安堵してしまう自分に気付いた。

 今ここでビトーまで失ってしまったら、もう誰も生き残れないような気がした。

 遅れて帰投してきたデルマが悔しさに奥歯を噛みしめても、昌弘が顔を真っ青にしても、それまでにしなければ仲間は減っていくばかりだろう。

 人間でいられなくなるのがこわいと嘆いた新入りの顔が、アストンにはもう思い出せない。

 

「…………っ」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 見送りを済ませる間もなく次の戦場はやってきた。

 人質を逃がしてしまったせいか昌弘は浮かない顔をして、報復に燃えるビトーとは対称的だ。

 勝てるだろうか、とアストンはふと考える。

 あっちは白いMSと〈グレイズ〉、汎用機が二機と高機動型一機。それから戦艦が二隻だ。装備がちぐはぐなのは〈グレイズ〉だけで、他のパイロットは練度も高く、各機体の機動性も〈マン・ロディ〉をはるかに上回る。うまく連携して戦わなければやられてしまうだろう。先日の戦闘でMWを生け捕れなかったのは痛手だった。

 戦力差を鑑みれば今回は、アストンたちとは離れて暮らすMS隊たちも駆り出されてくるのだろう。連携できるかもわからない味方とともに戦場へ出るのは、端的に言って不安だ。白い機体には同じ阿頼耶識使いが乗っているし、あのMSは〈マン・ロディ〉よりもよほど身軽である。スラスター出力では追いつけない。こんなデブリの岩場では土地勘のあるおれたちのほうが有利に立てるはずという従来の戦法を覆すように、あいつは凄まじいスピードで動き回る。

 頭の悪いおれが何を考えたって無駄だと思考を投げ出し、コクピットに乗り込んだアストンはコンソールに触れた。ブートアップをかけると背中がじくりと熱くなる。目の奥に熱が及ぶ。阿頼耶識でつながれば、〈マン・ロディ〉のアイセンサーがとらえる光景は、そのままアストンの視界になるのだ。

 網膜投影というらしいこのシステムは、はじめはコクピット内の景色と外の景色がだぶって見えて、それは混乱したものだった。慣れてしまった今では三角形が三つ組み合わさって並ぶアイセンサーをきょろきょろさせて、あたりを見渡すこともできる。

 ハンガーではすべての〈マン・ロディ〉が既に起動していて、アストン機が最後のようだった。整備を担当するヒューマンデブリたちが無重力を漂いながら出撃前の最終確認を行っている。装甲や推進剤のチェックだろう。整備そのものはアストンも手伝うのだが、なにしろ文字が読めないので工具の受け渡しがせいぜいである。役に立てることのほうが少なく、最終チェックの段階になるとコクピットに乗り込んで阿頼耶識につなぐくらいのことしかできない。

 いけるか、と機体ごしに小声で問われて、ああと頷く。もしもアストンたちMS隊がこの船を守りきれなかったら機体を整備してくれている彼らは宇宙の塵になる。ブリッジに詰めるデブリたちもそうだ。大人たちはともかく、この船にはMS数の十倍以上もの同胞が乗っている。

 だから戦わなければならない。他にできることもない。この格納庫より他に帰る場所もない。

 整備士たちのハンドサインに見送られ、カタパルトから宇宙へ飛び立つ。

 ビトーがざわりと殺気立つ気配に、細い息を詰めた。

 

『あの白いMSだ……!』

 

 最悪の相手が斥候としてやってきていた。




初出: 2017/02/26
改稿: 2018/01/23

"Do Human Debris Dream of Pinocchio's End?"

昌弘、アストン、デルマ、ビトー、ペドロまでしか名前がわからなかったので幻の六人目は『テツヤ』にしました。


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生命の泉

20〜24話の間の話。
(地球降下組のためにイサリビが囮になってグラズヘイムに吶喊して、オセアニア連邦に匿われてからエドモントンにMWで加勢に来るまでの間の話)


 鉄華団のロゴマークを見て『魚』を連想したやつは何人かいた。

 口に出したお調子者はシノだけだったわけだが、ユージンだって魚を連想したひとりだ。CGS〈クリュセ・ガード・セキュリティ〉の社名を塗りつぶした壁面に赤い花が咲いたとき、思い起こされたものはいつぞやクリュセの市街地で見た、ビルの側面を水槽に見立てて描かれていた巨大な図画だったのである。

 地球に生息し、水中で生きるという、生き物。青く青い巨大壁画を前にユージンはぽかんと口を開けてしまって、間抜け面だとシノに笑われた。……苦い記憶だ。だが、はじめて見上げたときはそれほどのインパクトがあった。

 本物の魚だって、なんなら赤い花だってデータ以外で見たことがない。空想上の生物と変わりない。情報として知ってはいても、水資源がとかく貴重な火星では一生まみえることはないと思っていた。

 生きて、泳いでいる姿を。

〈イサリビ〉のキャットウォークで目にしたときは、胸がふるえた。

 宇宙の神秘に触れた心地であった。格納庫には水など満ちていないはずなのに、透明な空間を小さな魚たちがゆったりと泳ぐ光景に圧倒される。ヒューマンデブリ用のお仕着せだという白いノーマルスーツの赤いラインがたゆたうそのさまは、いつか見た『ニシキゴイ』なる水槽の絵よりもよほど優雅だ。

 ざわりと全身の毛穴が開く。我知らず無重力に足をとられそうになったユージンの手をつかんだのはチャドだった。

 引き戻された靴底の磁石がかつりと足場をつかまえる。思わず目をまるくすると、チャドもまたハンガーを泳ぐ魚たちをあおいだ。

 

「うまいもんだよな」

 

 推進力もないのにすいすいと無重力空間を進み、ときに手をとりあっては反発を利用してきびすを返す。互いを逆方向への加速に使うとは、よく考えたものだ。ユージンたちも伊達に阿頼耶識をつけていないので無重力空間でもそれなりに動くことができるが、陸で育ったこともあって自由自在とまではいかない。

 

「……ああ」

 

 スラスターも慣性制御システムもついていない生身の肉体でも、重心移動と呼吸によって方向を転換し、壁を蹴らずとも柔軟に格納庫を回遊している。何の支えも必要とせずに、行きたい場所へ向かっていく。

 これが()()という動作なのだと腑に落ちる。

 かたわらでヒューマンデブリだった少年たちを見守っているチャドの口元に浮かぶ淡い笑みは、郷愁にも似た誇らしさだ。

 

 

 鉄華団の主戦力はクーデリアを連れて地球へ降下し、母艦〈イサリビ〉に残ったユージンたちは今、オセアニア連邦の宇宙港に匿われている。

 ドルトコロニー群の労働者たちを月外縁軌道統合艦隊〈アリアンロッド〉の虐殺から救った英雄として歓迎を受け、いつになく贅沢な心地だ。ドルト公社、ひいてはアフリカンユニオン政府は労働者たちを劣悪な環境で奴隷のように使い潰すことで甘い汁をすすっていたとして、世間から白眼視される。そんなタイミングでオセアニア連邦は鉄華団を秘密裏に支援したわけだ。ギャラルホルンも万能ではないことがよくわかる。

〈ハンマーヘッド〉ともども燃料・食糧をたっぷり補給させてもらったから、火星への帰路くらい賄えるだろう。懐があたたかいとまでは言えないものの、評判はひとまず上々。胸を張ってオルガに連絡を入れることもできた。ビスケットの実兄――サヴァラン・カヌーレというらしい――の訃報にはさすがに面喰らったものの、預かった遺書はきっとビスケットの明るい未来を願うものだとユージンは信じている。

 宇宙海賊〈ブルワーズ〉から保護してきた元ヒューマンデブリたちにも一足早くあたたかいスープを振る舞ってやれた。温度のある食べ物に目を白黒させる微笑ましい姿を録画したから、この仕事が終わったら昭弘に見せてやろうと考えている。チャドやダンテがあれほどほっとした顔をしていたのだから、感動のあまり涙ぐんでしまうに違いない。

 宇宙海賊の『残党』と呼ぶには語弊のあるわずか十人の生き残りは、みんな素直で働き者だ。

 タービンズの姐さんたちが訪れては食事に勉強にと世話を焼いてくれるさまを見ていたせいなのか、口々におれにも仕事がほしいと言い出した。海賊船で鉄くず以下の奴隷扱いを受けてきて、まだまともに飯も食えないというに、何とも健気なガキどもである。

 あのなあ、とダンテがたしなめたが、働きもせず匿われていることに罪悪感があるらしい。

 よおし、お前ら何が得意だ? ――とユージンが意気揚々と問うたときには、なんでも……とか、目を泳がせて要領を得ない言葉をぽろぽろこぼしたくせに。ふっと笑いがこみ上げる。

 

 ――何をしたい? お前たちは何をしてると落ち着くのか、教えてくれないか。

 

 チャドが目線をあわせてたずねれば、きょろきょろと目配せしあったあとに、これまで何をしていたかを打ち明けはじめたのだ。

 MSのスラスターまわりの整備だとか、ネジしめだとか。あるいはナノラミネート塗料の塗り足しだとか。全員もれなく阿頼耶識(ヒゲ)つきだが全員が戦闘員というわけではないようで、鉄華団にはいなかった管制スキル持ちもいる。なるほど海賊船に未練はなくとも、元整備クルーたちには技術があり、機体への愛着があったらしい。こまごまとした手仕事が精神安定になるという気持ちもわからなくはない。

 さいわい〈イサリビ〉のMSデッキには〈マン・ロディ〉三機が売却されず残っていた。改修のあてがなく市場に出せなかったそれらを与えてみたところ、なんと動かせるまでに回復した。鉄華団の役に立とうと頑張ってくれたのだろう。まだタカキやライドくらいの年ごろだろうに、懸命に恩に報いようとする姿は、どこか物悲しい。

 本音を言うならばユージンだってダンテ同様、仕事なんかよりも休息を優先しろと説教してやりたい。鉄華団の年少組に比べると発育の悪さが目立つし、顔色だって土気色のままだ。痩せぎすの腕は棒切れみたいで、胸元なんて鎖骨どころか肋骨が見えている。アバラが浮いているとかそういうレベルではない。骸骨のような痩せかたはただただ痛々しい。

 食事のときも、これで一人前だと何度言っても二〜三人で分けあってしまうし、風呂に入れてもカラスの行水で、きっちり洗えと叱りつけてみたって「水は貴重だから……」と遠慮する。抑圧された育ちのせいか寡黙だし、生活音を殺す癖がついていて、亡霊もびっくりの気配のなさだ。

〈ブルワーズ〉から押収した艦を楯として使うことに了承をとったときにだって、誰も彼もがなぜおれたちに聞くのかと目を瞬かせた。

 何もかも道具として好きに使われるものだと何の疑問もなく思い込んでいる、これが『ヒューマンデブリ』という呪いなのだろう。当人たちが平然としているだけに根本から否定するのも気が退けてしまって、チャドとダンテに任せがちになっていた。(あのふたりは同じデブリだったと明かしたおかげか多少なりとも懐かれているらしい)

 ヒューマンデブリという生き方を、ユージンはあまりいいものだと思っていなかった。だってそうだろう、クソみたいな安値で一山いくらと売りさばかれる、使い捨ての奴隷なのだ。みんな病的に痩せこけていて、落ち窪んだ目をしている。

 それでも無重力の宇宙で育った子供たちは、こんなふうに自由に宙空を泳ぐのだ。

 劣悪な環境でも強く生きる知恵と勇気を勝ち得ている。

 格納庫を泰然と泳ぐ姿を見て、オルガの言った『宇宙で生まれて宇宙で散ることを恐れない、誇り高き選ばれたやつら』という言葉の意味を後馳せに反芻することになるとは。

 

 

 見上げていれば、不意に、ひとりの子供と目が合った。名前は何だったか……と記憶を手繰るより先に、チャドが「デルマだ。隣のやつがアストンな」と短く紹介した。

 麦わら色のおかっぱ頭がふわりと浮いて、隣の黒髪――アストンと短いアイコンタクトをひとつ。両者ともに方向転換しておもむろ足を縮めたと思うと次の瞬間、絶妙なタイミングで互いの靴裏を蹴り飛ばした。

 ドロップキックの要領だが、無重力では踏ん張りがきかない。ブーツの裏に仕込まれた磁石の反動を利用したのだ。アストンをぶん投げて振っ飛んでいったデルマが壁にぶつかる手前で器用に方向転換し、壁を蹴る。

 先にキャットウォークに到着したアストンは柵に靴底をあてて勢いを殺し、遅れて飛んできたデルマの手をつかまえた。

 ユージンが差し伸べた手はきれいにスルーされてしまっ……たので、手持ち無沙汰に腕組みをした。とっさに格好をつけたことを察して、かたわらでチャドが苦笑する。

 ゴホン! と咳払いで二重にごまかした。たれ目がちのグリーンアイズが場都合悪げにさまよったが、言いたいことは決まっている。

 

「〈マン・ロディ〉の整備、ありがとうな」

 

 まず礼を述べてやれば、いえ、と両者ともに首を振った。格納庫をふりあおぐのは整備を担当した同胞を探してのことだろう。ちらりと顔を見合わせてあってから、デルマのほうが口火を切った。

 

「おれらも仕事したい、……です」

 

「おう。お前らは何がしたいんだ?」

 

「ヒューマンデブリは戦うのが仕事だから……」

 

 言いよどんだデルマに、ユージンは「知ってる」とため息をつく。

 

「それは過去の話だろ? 今は別に戦わなくたって構やしねえよ」

 

 戦えと命じるつもりもない。オルガだって戦わせる気はないだろう。火星に帰れば、あるいは警護の仕事もやるのだろうから実働部隊への配属を希望するならやぶさかでないが、その前にまずガリガリすぎる痩躯をどうにかしてもらわねばならない。痩せっぽちでは見ているほうが不安になる。

 でも、と頬に傷のあるアストンが食い下がる。

 

「おれたちは戦力になる」

 

「それも知ってるっつの。タービンズのエースと戦って無事に戻ってきたんだ、戦闘練度は疑ってねえ」

 

 宇宙でのMS戦に限って言えば三日月以上の経験値だろう。武闘派で知られる宇宙海賊〈ブルワーズ〉のMS部隊として、もう何年も〈マン・ロディ〉を駆っているというのだから、くぐってきた修羅場も十や二十ではないはずだ。旧式のMWしか配備のなかったCGSではどうやったって積めない経験値を持っている、そのことはオルガも高く評価するだろう。ラフタやアジーとまともに殺し合った経験があるというだけでも並大抵ではない。

 だがな、と、ユージンは前置きする。

 

「仕事がないのがそんなに不安か?」

 

 お前らはもう鉄華団の一員なんだとチャドやダンテが諭しても、まだ『鉄華団用の肉盾になった』くらいにしか思っちゃいないのか。骨の髄まで奴隷根性がしみついているのはよくわかったが、海賊船の備品だった反動でオルガを恩人扱いしているふしがあって、身を呈して死にやしないかと心配になってくる。

 生き残ってきたぶん『生』にガツガツしているかと思いきや、ちっともそんなことはない。

 

「――よし、お前ら筋トレしろ」

 

「えっ」

 

「……は?」

 

 デルマとアストンが時間差でぽかんと小さな口を開け、きょとんと目をまるくする。ユージンのそばで成り行きを見守っていたチャドが「なるほどな」と苦笑した。

 

「地球へ加勢に行くんなら、お前らじゃ頼りないもんな」

 

「頼りない……」

 

「そうだ、地球は1Gなんだぞ? 重力の中じゃ泳げないだろ?」

 

「そーゆーことだ! 戦いたいならまず体を鍛えろ。食って、寝て、話はそれからだ!」

 

 胸を張って宣言する。英雄扱いに浮かれていたユージンは、そのたびにタービンズの女たちから背中を叩かれ、胸を張ることを覚えた。オルガが描く『本当の居場所』とやらを目指すことにもう迷いはない。クーデリアを地球に送り届ける仕事も、タービンズと交わした盃も、〈ブルワーズ〉からヒューマンデブリたちを賠償金代わりにブン取る判断だって正しかった。オルガが下した決断は鉄華団にとって利になるものであったと、悔しいが実感している。

 リーダー不在の今ここで、指揮をとるのも士気をあげるのもユージン・セブンスタークが預かったと自負している。

 戦力になることは誇りだろう。頼られることは誇らしい。自身が阿頼耶識持ちの宇宙ネズミだからユージンにだってわかる。

 今ごろ地球でエドモントンの議事堂を目指しているという本隊に合流したい、加勢したいのはユージンの本音であり、チャドやダンテの総意でもあるだろう。そこに元ヒューマンデブリの連中も連れて行けば、これ以上なく頼もしい戦力になるはずだ。

 だが、そのためには生き残って鉄華団とともに火星へ帰る心意気を見せてもらわねば。増援部隊に加えたせいで死なせてしまいましたでは、オルガよりも昭弘に合わせる顔がない。

 

「お前らが宇宙で戦えるやつらだってことはおれたちだって知ってる。けど、これから戦うんなら場所は地球だ。そこでも戦える、無事に帰って来られるんだってことを示してみせろ」

 

 できるだろうと発破をかける。鉄華団がたどり着く場所は火星だけではない。やっぱり宇宙で暮らしたいと言うなら共同宇宙港〈方舟〉に停泊させた〈イサリビ〉艦内を生活拠点にしたって構わないし、〈マン・ロディ〉で戦い続ける選択だってどうせオルガなら尊重する。

 だが、今すぐ仕事がほしいなら、その仕事内容は自分自身のメンテナンスだ。

 戦いたいと心の底から思うなら――と試す意味合いもあったが、デルマとアストンの目は雄弁に、やってやると叫んでいる。水を得た魚とは、こういうことを言うのだろう。チャドがまぶしそうに目を細める。鉄華団は戦闘力だけが取り柄だが、生命力もまた不可欠である。

 

「地上に降りたらお前らも、このジャケットを着るんだからな」

 

 アトラが厨房を預かるようになってからはCGSみたいに成長をうながす薬入りのポレンタは出なくなったから、一朝一夕で身長が伸びたり筋肉がついたりということはない。今はオセアニア連邦やタービンズの姐さんたち、本隊に合流すればアトラが振る舞ってくれる美味い飯を腹一杯食って、地道に鍛えて、それぞれのペースで成長していく。それが鉄華団のやり方だ。……と、オルガならばきっとそう言う。

 ユージンは満足げにうなずき、こいつらを連れて地球へ降りるのだと自分自身に宣言した。

 

 あいつらに合流したら言ってやらねばなるまい。華を象ったというロゴマークが『魚』のようにも見えたのは、錯覚などではなかったのだと。



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P.D.324
かの地よ


25〜26話の間の話。
(エドモントンでの戦いを終えて、火星に戻る道中の話)


 名前の洗い出しを頼みたいんすけど。

 これから火星に帰ろうというとき、列車に乗り込むメリビットを呼び止めたのはそんな依頼であった。

 洗い出し、と復唱する。自然と疑問系になった。メリビットの困惑を知ってか知らずか、オルガ・イツカは「頼めますか」と繰り返す。

 ええと。メリビットは手振りでオルガを制すると「ちょっと待って」とことわった。

 

「名前を洗い出すって、一体どういうこと?」

 

「え? だから、全員の名前がわかるようにしてほしくて」

 

 要領を得ない。少年たちばかりの環境で暮らしていたオルガの言葉は、ときどきこうしてメリビットを困惑させた。

 鉄華団には独特の観念があって、メリビットが生きてきた世界の常識はまるで意味をなさない。様々な価値観が入り乱れるテイワズに長く勤めてきたから、柔軟な対応ができるはずと自負していたメリビットでさえ理解不能な案件がこうも多いとは、さすがに予想していなかった。

 場所を移して詳しく話せないかと提案するとオルガは目を逸らしてしまい、こうして暗に嫌がるところがまだまだ子供だと改めて思う。

 だがオルガが渋ったところで詳細を問いたださねば、一体どこから「名前を洗い出す」なんて依頼が飛び出てくるのかメリビットには皆目見当もつかないのだ。組織の頭として派遣社員に何をさせたいのか明示してもらわなければならない。

 オルガをうながして車両をいくつか越え、応接間までやってくるとメリビットは「さて」と切り出した。カウチに向かい合わせて、手元のタブレットを起動させる。

 

「わたしは、誰の名前をどこから洗い出せばいいのかしら。団長さん?」

 

 はっきりと向き直ると、オルガは腹をくくったようにヘーゼルのひとみを鋭くした。

 

「IDを洗ってほしい。団員全員のフルネームを、正しく墓標に刻んでやれるように」

 

 苗字を知らねぇやつもいるから、とつたなく付け加えられて、やっと理解する。

 未就学のまま傭兵となった少年兵たちは文字を知らない。識字能力があれば整備など後衛の仕事につきがちで、最前線で散っていく戦闘員たちほど、自分自身が呼ばれる名前のスペルすら知らないでいる場合が多いのだ。団長のオルガだって読み書きは申し訳程度で、独学ゆえに正誤の判断も覚束ない。団員全員のフルネームを正しく書けるほど文字にも言語にも精通してはいないのだ。名前は文化を色濃く反映するから、三日月や昭弘、オルガ、ユージンのようにルーツの異なる名前では、綴る文字列も違ってくる。

 つくづく就学経験のあるビスケット・グリフォンは鉄華団にとって得難いブレインであったと、道中で失ってしまった参謀の面影がよぎる。ことオルガにとっては手痛い喪失だろう。気持ちの上では部外者であるメリビットにこんな大切なことを頼みたくはなかったに違いない。

 

「承りました。期限は?」

 

「できれば、火星につくまでに」

 

 およそ一ヶ月、ということか。そんなに長くはかからないだろうが、余裕を持って依頼してきたところは評価したい。メリビットが了承の意を伝えると、オルガは「頼んます」と深々頭を下げた。

 団長がいち派遣社員にやることではないだろうに。だが常のオルガならば、こうもへりくだることはなかっただろう。仲間のために必死になれる、そういう青臭さこそがオルガ・イツカの魅力だ。若きカリスマに微笑をひとつ投げかけて、メリビットは鉄華団の殉死者たちを弔うために、名前を探す旅を始めた。

 

 

 

 あとでわかったことだが、鉄華団では――いや、鉄華団の前身であったCGSにおいて、ファミリーネームとは『洗う』ものだったらしい。火星本部基地に残っていた会計のデクスターに聞かされて、メリビットはやっと噛み合わなかった会話に欠けていた歯車を拾い上げた。

 彼らはIDをたどってはじめて自分自身に与えられていた名前を知るのだ。

 でなければ、呼称しかない。はじめは団長も「ただのオルガ」だったという。マルバ・アーケイ元社長にIDを洗い出されて、彼は『オルガ・イツカ』になった。三日月・オーガスだってかつては「ただのミカ」だった。ヒューマンデブリという前歴を持つ少年兵たちもみなIDを握られて、どこへも行けないように管理されていた。

 鉄華団の語る『家族』像のいびつさは、こういったことの積み重ねなのだろう。両親のもとに生まれて、名前とともに自己を育まれるような環境に覚えのある少年たちは、ここでは少数派だ。

 それでも墓標に刻む名前はすべてフルネームにしてやりたいというオルガ・イツカの願いは、家族を慈しむ心から生まれた。

 大人として彼らに寄り添っていかねばならないと決意を新たにする。どうか鉄華団という大きくて小さな家族が平穏であるようにと、願う大人がいなくては、メリビット自身が不安でならないのだ。

 火星に戻っていくばくかで、戦没者のための慰霊碑が建てられた。黙祷を捧げるオルガの横顔は痛ましいほどひたむきに、家族みんなを愛していた。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 火星には『戸籍』というタイプのソーシャルセキュリティシステムがある。

 アーブラウや一部のオセアニア連邦加盟国で採用されている制度だ。メリビットが生まれたコロニーとは異なるが、アーブラウの植民地であるクリュセが戸籍システムを採用していることに意外性はなかった。各経済圏によって形態こそ違えど、個を識別するためシステムという点ではどれも同じである。

 オルガに頼まれた通りに名前を洗い出せば、おおむね全員の出生が届け出されていたらしい。

 全員が火星生まれというわけではなく、元ヒューマンデブリたちにはコロニー出身者もちらほらおり、木星圏や地球圏に生まれているという記録もあった。

 クリュセ郊外の娼館で働いている母親まで見つけてしまってため息をついたことも一度や二度ではないが、子供を育てるには時間も経済力も必要だ。自分ひとりが食べていくだけで精一杯の手取りでは、子供を孤児院に入れることも難しいだろう。仕方がない。(子供を生めばわずかばかりの助成金がもらえるせいで、届けさえ提出すれば不要だとばかりに我が子を手放す母親は後を絶たないのだ。IDによる管理こそ容易でも、社会保障とのつながりがあまりに希薄なシステムである)

 

 火星に戻る道すがら、戦没者のIDはすべて無事に発見できた。墓標の発注のための依頼だと判断したメリビットは生存者を後回しにしたのだが、火星に戻ってきてもなおIDが見つからない団員がふたり存在した。

 ブルワーズで保護してきた十人のうちのふたりだ。

 デルマとアストンである。

 昭弘にともなわれて事務室にやってきた両名はこれといった感慨も見せず、あまり表情を変えない。

 

「ごめんなさい。もうこれ以上、探すあてもなくて」

 

 詫びれば、オルガが慣れない事務作業のかたわら、いえ、と首を振る。前髪の奥でウルフアイを片目だけ閉ざすしぐさは彼の癖だ。できれば全員のフルネームを見つけたと報せてやりたかったのだろう鉄華団団長を前に、メリビットには忸怩たる思いがある。

 ブルワーズから()()され、悲しいことに誰ひとりとしてファミリーネームなど覚えていなかった彼らヒューマンデブリのデータは、ダンテ・モグロによってきれいに抜き取られて鉄華団の手元にある。メリビットが根気よく追えば、八人の身元は判然とした。うちのひとりは家族と再会することができ、そういえばおれ、兄貴がいたんだった――と顔をぐしゃぐしゃにして笑った姿には、昭弘が感極まっていた。惑星間航行中に消息を絶った船のクルーをさらい、行方不明者リストを手繰っていけば、出生地だけでなく年齢も判明した。

 それほど精密なデータが残っている中で、抜け落ちたように身元がわからない名前がある。

 鉄華団のジャケットをまとって顔を見合わせるふたりもまた、苗字にも家族にも覚えがないという。

 

 アストンのほうは、頬の傷――おそらくは薬品による化学熱傷――からして工業用のコロニーが疑わしいとあたりをつけたが、それらしいIDは見つからなかった。

 可能性があるのはコロニーごと打ち捨てられてしまったエリアなのだが、各コロニーは地球経済圏の植民地であるから、廃棄のさいに居住者のデータ一切が消失させられてしまうことがままある。外傷とは異なる色素の沈着具合から原因となったであろう薬品がある程度まで推測できるだけに、足取りひとつつかめないことがもどかしかった。

 

 デルマのほうは完全にお手上げだ。ブルワーズの前にはどこか別のところにいた、MWを扱っていた……など、どれも「気がする」で終わる証言からしても該当する環境が多すぎる。コロニーか、惑星巡航艦か、はたまた輸送船団か、海賊か。捜索願や死亡届のたぐいもすべて洗い出してみたが、それらしき人物は見当たらないまま。

 生まれが違法な船であれば、出生届そのものが存在しなくとも不思議はない。

 

 諦めるしかないなんて本当は言いたくはなかった。

 ところが当人らは、それが何だと言わんばかりである。ファミリーネームが不明のままだということに何の感情も垣間見せない。仲間の家族が見つかったときには一緒に喜んでやれる感情の機微がきちんとあるのに、自分自身のこととなると「ヒューマンデブリはそういうものだから」とあっさり一蹴してしまうのだ。痩せ細っていた四肢に血が通うようになってもなお、痛々しいほど物わかりがいい。

 

「あんたで見つけられねえってんならお手上げだ。仕方ねえよ」

 

 肩をすくめてみせたオルガは、そしてデルマとアストンの背後に立つ昭弘に視線を投げる。ひとつ頷いた昭弘が、メリビットに向き直った。

 

「ふたりを引き取りたい」

 

「えっ」

 

「……は?」

 

「昌弘が――弟が世話になったからな」

 

 肉親の死を乗り越えて、兄の顔で微笑する。ブルワーズのヒューマンデブリの中で、昌弘だけが苗字を覚えていたのだ。アルトランドという、家族の名前を。海賊に殺された父さんと母さんと、迎えに行ってやれなかった薄情な兄の、もう切れてしまったと諦めていたつながりを。

 かつての仲間を思い出したのか苦しそうに目を逸らすふたりの頭を大きな手がぐしゃぐしゃかきまわす。

 デルマもアストンも、自分自身の痛みはすんなり諦めてしまうくせに、失った仲間の記憶を、双肩にしっかりと背負っている。戦場で育つ少年兵の倫理は実にいびつだ。物悲しく、あたたかく、彼らの中だけで完結する世界をまっすぐに伸びている。

 

「デルマ・アルトランド」

 

 悔恨に頼りなく垂れていた眦がぱっと見開かれる。はじかれたように昭弘をふりあおぐ。

 

「アストン・アルトランド」

 

 涙を耐えるように奥歯を噛みしめ、せりあがる郷愁を飲み込む。握られた拳が白くなる。

 

「昌弘の兄弟でいてやってくれるか」

 

 おれの弟で、とは言わない昭弘もたいがいだろう。不器用で、ずるい。遠慮がちなふたりの逃げ場を塞いで、この場にいられなかった仲間のファミリーネームを背負わせる。鉄華団は家族だと言葉で諭して無駄なら、こうして縛り付けてしまえばいいのだろう。こんな残酷な気遣いで伝わるとは到底思えなくとも、そんな痛ましさがいかにも彼ららしく映る。

 

「これで全員だ」

 

 オルガの宣言はどこか晴れ晴れとしている。新しい家族を迎えて、鉄華団は前へ進むのだ。

 彼らのそばにあってメリビットは願うことしかできない。愛おしい家族の名前が墓標に刻まれてしまう日が、どうか遠い未来であるようにと。




初出: 2017/03/28
改稿: 2018/01/23


"The Altland"


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異帰路

25〜26話の間の話
(火星に凱旋した鉄華団をデルマ視点で)


“火星はいいところでもないが、ここよりはましだ。”

 

 そんなオルガの甘言を、本気で信じたわけじゃない。ヒューマンデブリはみんな、どこへ行っても地獄だと腹をくくっていた。海賊船なんて地獄の底まで蹴り落とされてきたんだから、もう先のことを考える気力は残ってない。

 デルマの場合はそうであったけれど、中にはすがりつくようにオルガの言葉を信じたやつもいた。

 目の前のものを盲目的に信じようとするのも、ひとつの心の殺し方だ。暗示でも信仰心でも強迫観念でも何かがないとやっていられない。

 信用はしなかったにしろ、疲れきった心にあたたかい言葉をかけてくれる鉄華団の気遣わしさには、デルマも心底から感謝した。このまま宇宙に放り捨てられたりはしないんだ――という安堵が、おおよそデブリたち全員に共通する感慨だったように、デルマは鉄華団に攻略された宇宙海賊〈ブルワーズ〉のころを振り返る。

 

 のちにエドモントンで鉄華団に加勢した折り、この戦いでは仲間が何人も死んだと聞いたが、十人まとめて生き残ったデルマたちヒューマンデブリは約束通り火星に()()のだというイサリビに乗艦した。大きな部屋に入れられて、ちょっと窮屈だけど我慢しろよ、と意味のわからないことを言われたけれど、元いた仲間だけになって少しだけ安心した。(お前が代わりに死ねば良かったんだとデブリを詰る団員がいないことには、わりと真面目に驚いた)

 

 一ヶ月にもおよぶ航行の末に火星の地を踏んで、改めて風呂に入れられ、全員で食事を囲まされ、揃いのジャケットも与えられて名実ともに鉄華団の一員となった。

 戦いたくないなら別の仕事もある、なんて言われて一同が揃って首を傾げてから、ひと月ほど経ったころだろうか。本当に『給料』なるものがもらえたときには驚きのあまり走ってまわった。そのときは盛大に迷ってしまった基地のつくりもすっかり覚えて、もう道に迷うこともない。

 デルマは少しずつ、鉄華団に馴染みつつある。

 

 

 そんなある夜のことだった。

 廊下の曲がり角で、偶然耳にしてしまった物騒な言葉。耳をそばだてると男がふたり。いつもの癖で足音を殺しながらそっとようすをうかがうと、シノが昭弘に何事か相談しているらしい。

 

「――、あいつよォ、マジで意地でも吐かねえんだよ。まったく」

 

 強情っつうか、なんつうか。

 

 聞こえてくる単語を拾うに尋問あるいは拷問だろう。何者かを拘束して、情報を吐かせようとしているに違いない。ふたりが風呂上がりであることからも、返り血などの汚れを落とした直後なのだろう。

 けど今の鉄華団に捕虜なんていたろうか。思い当たるふしを探してデルマは最近の出来事を振り返る。新たな仕事もはじまってはいるが、着手されているのは驚くべきことに農作業ばかりで、おれは戦うしかできないと愚痴ったデルマは「これからいろいろ覚えるんだよ」とダンテに頭をはたかれたばかりである。

 戦いなら連れて行ってくれればよかったのに。おれたちデブリはきっと役に立つのに。……いや、そうじゃない。火星に戻ってきてからずっと、MW(モビルワーカー)MS(モビルスーツ)も全機ここにあったのだ。タービンズの輸送機で新たに運び込まれる以外、機体に動きはなかった。銃を持って出たようすもない。オルガは事務作業に忙しくしているようだし、捕虜を取ってくる時間なんかなかったはずだ。

 それなら――鉄華団内部に造反の疑いをかけられているやつがいることになる。

 渦中の裏切り者は誰かとふたりの会話に聞き耳をたてていると、飛び込んできた名前が鈍器のように頭蓋を揺さぶった。

 

「……ア、ストン……?」

 

 どくどくと心臓が鳴る。背中を冷たい汗が伝う。確かにあいつは死んだって吐かないだろう。尋問されたらデブリらしく舌を噛んで死にそうでもある。

 だけど。

 このほど昭弘から『アルトランド』の苗字をもらって、少しずつ新しい環境にも慣れてきたのだ。情報なんか握ってるわけがない。吐けるものなんか、何も――。

 

 

 足音を殺して一歩、一歩と慎重にその場を離れる。じりじりと後退するとデルマは身を翻し、仲間のもとへ一目散に駆け戻った。

 疑われているなんて信じられなかった。

 アストンは空気が読めるやつだ。MWでの資材運搬ははじめてで戸惑うところもあったようだったが、戦闘になれば腕も生きてくる。戦う仕事があるならおれたちが行くとふたりで申し出たときは「頼りにしてるぜ」とシノから頭を撫でられていたはずだ。なぜか世話を焼かれているダンテには「チャドんとこのは手がかからなくていいなァ」と目の前で愚痴られた。アストンは頼りになるし、手がかからなくていい。そうだろう。

 デルマは物心つく前にMWを扱う労働力として買われ、輸送船で荷運びをしていたところを売人に下げ渡されてブルワーズに投げ売りされたから、アストンやビトーたちより少しだけ、海賊船に放り込まれたのが遅い。同期にあたるのが昌弘とペドロだが、あいつらは文字が読めたし、どうも輸送や戦闘ではなさそうな違法労働組織からの転売だったらしい。特徴的な、不思議と庇護欲を刺激するしぐさが特徴的だったと印象に残っている。

 アストンは顔の傷、ビトーは目立つ頭の色のせいで値段がつかないまま、廃棄同然であの船に乗っていた。

 海賊船時代を振り返ったっていいことなんかひとつも思い出せないが、他のやつらが次々死んでいく中を生き残ってきた同胞たちには、鉄華団の連中が繰り返す『家族』に近い仲間意識を持っている。

 仲間が殴られていたって見てみぬふりで我慢する必要はもうないはずだ。ここはいいところでもないが、直立姿勢でただ耐えさせられた今までよりはマシなのだろう――?

 

 

 みんなが眠る部屋の前までたどりつくとデルマは、一度あたりを見回した。人影はない。手早く扉を開けて部屋にすべり込む。室内は急に差し込んだ光から逃げるようにしんと静まり返って、それからゆっくりと、うかがうようにしてデルマに視線が集まった。低い位置に列になって並ぶ幌のハンモックの上、みんな所在なげに横たわっている。

 いちばんに身体を起こしたのはアストンだった。

 

「……デルマ?」

 

 すると、続くようにぱらぱらと上体が起きてくる。

 

「なんだ、デルマかよ」

 

「見回りかと思っただろ」

 

「まぎらわしい」

 

 ぶつぶつと文句を言って、めいめいに寝姿勢に戻っていく。

「悪い」と一言ことわってから、デルマ自身も手近なベッドに横になった。幌を支える鉄骨が軋む。

 目を閉じて、眠ろうとしてできなくて、また暗闇をじっと見つめてしまう。

 

 元ヒューマンデブリたちには大部屋がひとつ与えられて、待遇は『年少組』と呼ばれている十三歳以下の先輩たちと同列である。

 ただ、夕食を終えて順に入浴をさせられると、ガキはとっとと寝ろ、と部屋に押し込まれてしまう。

 宇宙暮らしが長いデブリたちは『夜』という時間帯に馴染みがなく、睡眠時間は総じて短い。眠りも浅い。なのに数時間ごとに昭弘やシノが見回りにきて、交代で起きる癖を見咎めてくるのだ。朝まで目をつぶっているだけでもいいからと寝かしつけられてしまう。

 年少組は持ち回りで哨戒を行っているのに、だ。大して眠らなくても生きていけるデルマたちこそ夜警任務に向いているのではないか? やはり違法組織で拾ってきたばかりのヒューマンデブリに基地の護衛は任せられないのか。

 確かにデブリは誰の命令にでも従うし、何だってやる。だが恩義ある鉄華団の手を噛ませられるなら弾避けになって死んでやるくらいの仕事はキッチリやるというのに。

 信用がないのは仕方がない。けど、鉄華団に害をなすようなこと、何があったってやらない。

 ぐるぐると堂々巡りの考えをまとめることもできないでいたら、部屋のそこかしこから規則正しい寝息が聞こえてくる。みんな少しずつ、夜の眠りを身体に覚えさせつつあるのだろう。鉄華団の生活リズムに順応しつつある。昼間は重力環境下を走り回らされ、慣れない紫外線にさらされるためか眠気を感じることもあって、幼いやつから眠っていってしまう。

 喜ばしいことなのだろうとは思うけれど、何年も続いた宇宙での生活を覆せるほどデルマの身体は都合よくできていない。

 

 

「……なぁアストン、」

 

「起きてる」

 

 寝たふりをする姿勢のまま、アストンがこたえた。みんな寝静まった静寂に響かないよう低くおさえた声音だ。声が筒抜けの戦艦に長くいたから、反響しにくい声を出すようになった。

 デルマが隣のハンモックを振り返ると、ごそりとアストンがみじろいで、向き合う格好になる。

 どうかしたか、と問う。緑色の目は暗闇によく目立つから、まぶたは閉じたままだ。

 

「お前、なにかされてないだろうな」

 

「何かって、たとえば?」

 

「たとえばっていうか、ほら……」

 

 さっき立ち聞きしてしまったやりとりを思い出して、アストンにふりかかったかもしれない暴力を思う。鉄華団の人たちがそんなことをするとは思わない。思わないけど。

 意地でも吐かない。――シノは確かに、昭弘に向けてそう愚痴っていた。昭弘も神妙な声で、そうか、何か考えないとな……とか、そういった返事をしていたはずだ。

 地獄から地獄へ転売されていたデルマや昌弘たちとは違い、アストンはあのブルワーズしか知らない。デルマがあの船に積み込まれたころには〈マン・ロディ〉に乗って戦っていたのだから、何か特殊なナノマシンを仕込まれていた可能性はなきにしもあらずだ。

 ふっとグリーンの双眸が灯る。非常灯にも似たその精彩は、ブルワーズではうっとうしいと因縁を付けられてよく蹴飛ばされていた。うるさいと感じたことはないが、雄弁だとは思う。

 強い視線から逃げることはせず、デルマはもごもごと、腹の中のわだかまりを言葉にしようとして失敗する。

 

「わかんないけど……でも、何かあったらおれに言えよ」

 

 なんだよそれ、とアストンは無感動に流してしまったけれど、めげずにデルマは「言えよ」と念を押す。

 

「何かあったらな」

 

「絶対だからな」

 

「わかった」

 

 そのまま目を閉じて眠ったふりに戻ってしまうアストンに、これ以上の追求はできなかった。

 夜中には二、三度扉が細く開き、シノや昭弘が交代で見回りにくる。どうして彼らは眠っているかどうかの確認なんてするのだろう。

 眠る場所を与えられて、あったかい飯も与えられて、給料だって本当にもらった。感謝している。心のないデブリにだって恩を感じるくらいできる。

 だから疑わなくたって、いいのに。

 目を閉じると、悩み疲れた意識は静かに眠りにのまれていった。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 翌朝になると、朝食の時間がやってくる。

 起床後は順番に顔を洗って、かるく外を走ったら食堂に集まって、みんな揃って飯を食う。なんと交代制じゃない。基地の食堂は半分野外だとはいえ、哨戒もなしに屋根のあるところに集合していたら、エイハブ・ウェーブで検知できないMWのミサイルランチャーで鉄華団は壊滅させられてしまうのではないか。

 そんな懸念をこぼすとヤマギに苦笑いで「さすがにないよ」と流されて、シノに絡まれながらの朝飯になった。さいあくだ。

 

「はーい、みんなー! 『いただきます』だよー!」

 

「いただきまぁーす!」

 

 アトラが張り上げた声に、年少組の歓声が続く。右隣のアストンも「いただきます」とつぶやいて、スプーンを取った。

 今日の朝食はミルクでやわらかく煮たコーンミールに、細かく刻んだ火星ヤシが混ざっている。夕食のときに出てくるコーンミールよりも甘く、どろどろしていてスープのようで食べやすい。火星ヤシも何かに漬け込んであるようだ。

 ほわりと甘いミルクの味が気に入ったのか、隣の長テーブルに集まる年少組はがつがつ平らげていく。

 

「アトラ、おかわり!」

 

「おれもおれも!」

 

「はいはい、ちゃんと並んで」

 

 和気あいあいと食事を楽しむ小さな先輩たちを横目に、デルマも朝食を口にはこぶ。不思議な気分になった。

 腹いっぱい飯が食いたいとか、どこかの星に降りてみたいだとか、そういう夢ならデブリにだって描いたことがある。生まれ変わったら……なんて軽口を叩きあうくらいの余裕はこれまでもあった。

 それが、いざ現実になってみると、おれはもう死んだのかな、とか、そんな疑問がふっと浮かぶ。そんなときデルマは決まって隣を見た。ここが死後の世界なら、そこには昌弘やビトー、ペドロが一緒にいるはずだ。でも隣にはアストンがいる。ああ、生きているんだと実感して、生きているのにあったかい飯を食っているのがひどく倒錯的で、不思議だった。

 盗み見るアストンの横顔。向こう側には昭弘がいて、その向かいにダンテ、隣にチャドと戻ってくる。デルマの正面は空席で、ひとつ開けてヤマギ。年少組をまとめているタカキよりも小柄だから年少(あっち)側かと思っていたら、彼は整備士らしい。

 ごちそうさまと席を立ったヤマギは、立ち去りがてら真正面のシノに声をかけた。

 

「今日はMSの装備いじるから、シノは新兵訓練終わったらこっちに顔出して」

 

「おうよ!」

 

「昭弘も。模擬戦が終わったら二番格納庫(ハンガー)に」

 

「わかった」

 

 昭弘も食器を持って席を立つ。食事を終えたのかと思えば、アトラのもとへ『おかわり』に行ったようだった。大盛りにされた器を持って戻ってくると、またスプーンをとる。

 あれ立派な体躯を維持するには相応の食糧が必要になるのだろう。賞味期限切れの廃棄レーションバーでその日の命をつないできたデルマたちとは明らかに肉体の完成度が違う。

 同じヒューマンデブリだと聞いても、いまだに信じられなかった。

 デブリはみんな宇宙のゴミとして暮らしていると思っていたから、もしかしておれたちは鉄くず以下の存在だったんじゃないかと自嘲がよぎる。

 使えないとか生意気だとか因縁をつけられ、人買いから人買いへ、地獄から地獄へ渡り歩くデブリ。目立つ特徴があるからと廃棄同然で海賊船に投げ渡されるデブリ。ブルワーズにいたのはそういう、いつ壊れても悔いなく捨てていけるごみくずばかりだった。まあ、足場も命綱もなしに宇宙で作業をさせたり、爆弾をまきつけて特攻させたり、肉盾に使ったり、そういった使い捨ての仕事をさせる弾避けなのだから、当たり前といえば当たり前なのだろうけど。

 ダンテはハッキングができるし、チャドもきっと何らかの特殊技能がある。読み書きができればヒューマンデブリにだって、二束三文であっても値段はつくものだった。

 

「手ェ止まってんぞ、どうした」とシノに思考を遮られて、むっとしてスプーンを動かす。

 

 器に盛られたコーンミールは年少組とほぼ同量で、それでも食事そのものに不慣れなデルマには多いくらいなのだ。もくもくとスプーンを往復させるアストンの横顔なんてすっかり疲れてしまっている。

 それでもどうにか平らげて、デルマより先に席を立った。

 

「……ごちそうさま」

 

 食器を下げに向かう背中を見送るデルマの視界に、にゅっと長い腕が伸びる。シノだ。ふりあおぐのと同時、アストンの首根っこがいとも簡単につかみあげられてしまった。

 

「その前に、ちょっと顔貸してくれや」

 

 シノの言葉に昨夜の密談がよみがえる。強情で、意地でも情報を吐かないと零されていたアストン。そいつは何の情報も握ってない、尋問したって吐けるものなんか何も持ってない!

 

「やめろ――!!」

 

 シノの腕につかみかかったのは衝動だった。

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

「はあ〰〰〰〰?」

 

 腕組みをして反っくり返ったシノは、心底わけがわからないと呆れ返る。

「まあまあ」とヤマギがなだめるが、その苦笑いがまたデルマの居心地を悪くした。

 ちんぴらじみた風体をしてシノはいい兄貴分だ。新兵として彼のトレーニングを受けているからデルマだってわかっている。

 食堂でデルマがシノに飛びかかったときにも、力でかなうわけがないことくらいわかっていた。案の定、シノはちょっと面食らった程度で、デルマも背後の昭弘にすんなりと確保されてしまった。なんだ喧嘩かとざわつきはじめる食堂からそのまま別室まで運ばれたのだ。重力環境下だというのに小脇に抱えられて、昭弘とシノ、そしてヤマギの前でデルマは沙汰を待っている。

 どうする、オルガ呼ぶか、うーん大丈夫じゃない? ――そんな会話が頭上で交わされる。アストンは新兵訓練に行ってしまった。今日の訓練教官はシノに代わってユージンがつとめるという。

 言い分を一通り聞き終えたシノは、両手を腰にあててデルマを覗き込んだ。

 

「尋問とか裏切りとか、どっからそんなブッソーなことになってんだァ?」

 

 こっちが聞きたいっての……と喉まで出かかった文句をぐっと飲み込む。シノたちがアストンを疑っているのではないかという懸念を洗いざらい吐かされたと思えば、勘違いも甚だしいと呆れられてしまったのだ。今ここで一番わけがわからないのはデルマではないか。

 この場にアストンがいればフォローくらいしてくれたろうかと思いかけて、それでは意味がないとくちびるを噛む。

 するとシノの大きな手がずずいと伸びてきて、デルマの麦わら色の髪をぐしゃぐしゃにかきまわした。

 

「ま、お前も吐かずに頑張ってんじゃん? 訓練キチィっつって、新入りはよく吐くんだぜ」

 

「食事もね。今はアトラがいるから消化にいいもの作ってもらえてるけど、食べ慣れなくて吐くやつらは見慣れてるんだよ、おれたち」

 

 目を丸くするデルマに、年長組はやっとわかったかと顔を見合わせ、肩をすくめた。鉄華団の前身であったCGS参番組時代のことを説明するかしないかと、アイコンタクトが静かに飛び交う。

 孤児を募って阿頼耶識の適合手術を受けさせて参番組に放り込む、CGSはそういう組織だった。連れてこられたスラムあがりの少年たちはもれなく慢性的な栄養不良状態にある。ずっと少量の残飯だけで我慢してきたせいで、はじめは食事ひとつまともにとれない。食べ物に目を輝かせて後先考えずにかきこんでひどく嘔吐する子供なんて、これまで何人も見てきた。

 反対に、自分自身の限界と静かに格闘するタイプには不慣れだ。前例がないぶん扱い方も慎重になる。

 CGSそのものは合法の民間企業でも、参番組はスラムで違法に調達してきた宇宙ネズミのケージでしかなかった。正社員である一軍の連中のような健康管理もされず、産業医だってガキの怪我までは診てくれなかった。(医務室から絆創膏を盗んでいく泥棒ネズミくらいに思われていたのだろう、見つかったら邪険に追い払われるのが常だった)

 その中でも奴隷同然で使われていたヒューマンデブリには給与も支払われなかったし、年少組でも屋根のあるところで眠れる! 残飯を漁らなくても食べ物がある! ――とか、そうやってスラムよりマシな環境に満足しているのをいいことに大幅に上前をはねられていたことが、のちの経理資料から判明している。

 鉄華団にそうした搾取や理不尽はない。なくすために、オルガが今頑張っている。

 しばらくはやらかいもんばっか作ってくれるか、とアトラに頼んだのもオルガだった。医療の心得を持つメリビットの助言もあって、ここ数ヶ月の食卓は胃腸にやさしいものばかりが並んでいる。そのことに年長者が不満を述べることもない。内臓機能のことなんて知らない鉄華団でも経験則なら充分すぎるほどあるからだ。どうすれば死なないかを試行錯誤して、仲間と共有して生きていく。そうやって企業としても成長しつつある。

 現場で見守るのは教官であるシノの仕事になった。食事だって訓練のひとつだし、パイロットのメンテナンスも整備といえば整備だろう。

 強くなれ。――今度は保護者の大きな手が、デルマの頭を撫でる。大きな手だ。物心ついたころからヒューマンデブリだったデルマとアストンに、昭弘は『アルトランド』の苗字をくれた。他のデブリたちには苗字があったから、もしかしたら食事の作法くらいは覚えていたのかもしれない。

 不意にノックの音が鳴ったと思うと扉が開き、アストンが顔を覗かせた。

「心配だったんだって」と添えて、続くように入室したのは年少組をとりまとめているタカキだ。訓練が終わり、模擬戦にうつるところを抜けてきたのだと語る。

 

「こっちは何があったの?」

 

 ことんと首を傾げたタカキには、ヤマギが首を横に振ってこたえた。

 

「ちょっとすれ違っただけだよ。模擬戦にはシノもデルマも戻せそうだから、ユージンにもそう伝えておいて」

 

「うん、わかった。ユージンさん張り切ってたのになぁ」

 

 肩をすくめたタカキは、ブロンドの教官代理を思い出しているのかおかしそうに笑う。部屋を出て行く鉄華団の古株たちの背中を見ていると、早とちりだったという確信が押し寄せてきて安堵とも羞恥ともつかない心地だった。

 そして振り返ったシノが勝ち誇った顔で宣言するのだ。

 

 

「腹一杯メシ食って、うめーって笑えるように鍛えてやるから覚悟しとけよォ?」

 

 

 豆鉄砲を食らったように目を白黒させるデルマの頭をまたもやくしゃくしゃと乱して、昭弘は「そういうことだ」と隣に立つ。言葉は少ないが、それだけに見守られているようでくすぐったい。

 うす、とこたえる。昭弘はひとつうなずき返して歩いていく。大きな背中を見送ると、デルマを待っていたらしいアストンが「お前も何かあったらおれに言えよ」とこっそり手渡すように告げた。

 

「……何かあったらな」

 

 ぶっきらぼうにデルマはこたえて、歩調を早める。遅れないようにアストンが並ぶ。もの言うひとみに見つめられるのがくすぐったくて俯いて、デルマは麦わら色の髪に隠れて、少しだけ笑った。

 

 なあ、うれしいことがあったときも、お前に言えばいいのか。

 

 

 火星は、いいところだ。




初出: 2017/02/09

"It could be a way home"


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ブルー・プリント

25〜26話の間の話
(鉄華団が火星に凱旋したあと、地球支部を開設するまでの話)


 相手機を射程にとらえた。

 狙いをつけて、引き金に手をかけたまま機体をランダムに左右へ。距離をつめる。距離をとる。相手の銃口がいまだとこちらを睨み据えたら、すかさず岩場を利用して急速旋回、側面を確実にとらえる。

 振り返らせる前に砲撃(ファイア)

 三〇ミリマシンガンからペイント弾がほとばしり、白い機体をべしゃりと汚す。

 

(……一発外した、)

 

 グリーンアイズを鋭くしかめる。着弾の衝撃によろめく相手機に照準を定めたまま、さらに背後へ回り込もうとするがそう簡単にはいかないらしい。MW(モビルワーカー)のコクピットで操縦桿をにぎるアストン・アルトランドはすばやく視線を走らせると一度バックステップで距離をとった。降り注ぐように落ちてくるペイントをぎりぎりで回避しながら遠ざかる。

 重力偏差を補正。慣性の影響、射程――当たらなかった理由を意識の外で処理しながら蛇行する。MS(モビルスーツ)と違って近接戦闘はできず、組み付くこともできない。空も飛べない。装備はお互い機体上部に搭載した機関砲のみで、この両目で睨みつけたからといって次の瞬間には着弾させられるわけでもない。

 重力のある火星では弾道は放物線を描いてしまう。地球でギャラルホルンのMWを相手にしたときは運良く足を狙えていたが、舗装された道路ではなく足場の悪い岩場の場合、MWの弱点は本体上部だ。重心を傾がせれば三点式の走行用ローラーは岩肌に足をとられて動きを止める。

 不安定な岩場をくぐり、荒涼の赤土を駆ける。加減速を繰り返してわずかな隙を積もらせていく。相手の照準補正を完了させない敏捷性こそ阿頼耶識使いの真骨頂である。すべての条件は相手も同じ、敵も味方もわずか三六〇度の視野だけだ。

 岩陰から顔を出した瞬間、銃口と目が合った。

 ――よし。

 せっかちなペイント弾が左舷に被弾しそうになるのを一気に踏み込んで回避する。加速。相手機の眼前へと躍り出ると、そのまま機体を横にふりきる。

 急な方向転換の衝撃で飛び散る小石と土煙の奥から、トリガーを引き絞った。

 

 

 

 

「なかなか派手にやってんなぁー!」

 

 MW同士にしては何とも大げさな土煙に、さすがのオルガも感嘆をはずませる。ここ数日で模擬戦がド派手になったという評判にたがわないスピード感あふれる立ち回りだ。

 整備を担当する年少組が出番を待っている中から、まとめ役のタカキがぱっとオルガをあおいだ。

 

「お疲れさまです! 団長も休憩ですか?」

 

「いや――ま、そんなとこだ」

 

 休憩を観戦にあてていたらしい連中がオルガの登場にざわつきはじめるので、あえて見ない振りをしてやる。デスクワークにはほとほと参っていたから、ちょうどいいガス抜きなのだ。椅子に座ってじっとしているだけでも落ち着かないというのに事務作業が次から次へと舞い込んで、模擬戦の視察だなんて名目をでっちあげて出てこないと腐り落ちてしまいそうだった。

 大部分が未開発の火星では土地の所有権なんてあってないようなもので、都市でもプラントでもない荒涼の大地にまではギャラルホルンの監視も届かない。何をしていてもどやされないのをいいことに、基地にほど近い丘陵地帯で模擬戦を行っている。

 すっかり闘技場となっている岩場を見下ろすと、浅い谷の底でMWが二機、一対一でやりあっている。なかなか面白い展開だ。娯楽にも勉強会にもなっているのだろう。

「ダンテェー!」と情けない雄叫びが漏れ聞こえたから、どうやら押されているほうはダンテ機らしい。隣のガッツポーズは、もう一方に賭けたのか。

 ペイントはいくらか付着しているのに直撃の形跡はなく、突撃と即時撤退を繰り返すヒット・アンド・アウェーの戦術――あんな戦い方をするやつは鉄華団(うち)にいたろうか。

 

「タカキ、あっちの青いのは?」

 

「アストンです! ここしばらく負けなしなんですよ」

 

「それで旧昭弘機カラーか……へぇ」

 

 気合い入ってんなあ。顔を見合わせて苦笑をこぼし、青いカラーリングのMWを見守る。照準補正がことさら早いダンテを相手に一発も食らっていないとは、なかなかよくやる。

 あっちにチャドさんがいて、向こうにはデルマが。――とタカキが説明してくれるほうへ目をやると既に沈黙している二機が目に入った。コクピットハッチを椅子にして特等席で観戦とは、ふたりともなかなかいい度胸をしている。

 ペイントの付着具合を見るに、チャドは開始早々ダンテ&デルマ組の集中砲火を食らったのだろう。なぜだかアストンに声援を飛ばしているデルマはどうやら、窪地にはまってしまったところを突かれたらしい。足元の悪い火星での模擬戦に慣れない今はしょうがないが、アストン機によるペイントがコクピットへ狂いなく四発打ち込まれているのが何とも、今すぐ楽にしてやると言わんばかりで哀愁をさそう。

 

 蒸し返すことでもないからと記憶の奥に押しやっていたが、宇宙海賊ブルワーズが『武闘派』と知られていたのは彼らMS部隊の存在があったからだ。

 タービンズだって輸送組織の中では武闘派も武闘派で、〈ハンマーヘッド〉に乗艦するエースパイロットたちの加勢によってブルワーズのMS隊は壊滅。搭乗していたヒューマンデブリは過半数が戦死した。

 そんな中、シノたちが母艦を制圧したのちに信号弾を受けて帰投した、たった二機の〈マン・ロディ〉。

 アストンはラフタと、デルマはアジーとそれぞれ交戦して無事に生還したのだ。鈍重な〈マン・ロディ〉の機体性能でテイワズ製の〈百里〉〈百練〉を相手取っただけでも尋常ではない。

 特に機動性に優れた〈百里〉、それを操るラフタの腕前を知っていればこそ末恐ろしかった。整備の行き届いた機体を駆る彼女らとまともにやりあうとはどういうことなのか、わからないほどオルガは戦場を遠く離れてはいない。

 

 急成長企業として名を上げつつある鉄華団にとって、唯一無二のセールスポイントが『戦闘力』だ。ギャラルホルンという大軍に一矢報いてみせ、地球経済圏に根を張っていた政治的癒着という腐敗を暴いた。クーデリアを地球に送り届ける道中に降って湧いた戦いの数々を糧にして武闘派組織として成り上がり、さらに大きく成長しつつある。

 子供ばかりと侮られることもいまだ多いが、反発するかのように構成員もそれぞれ前へ進んでいる。テイワズから仕入れた新型MS〈獅電〉、タービンズのエースパイロットたちによる戦闘指南もあって、戦力は確実に増強されている。

 しかし、MSでの戦闘練度となるとブルワーズの生き残りに今一歩及ばないのが現実だった。

 彼らはまさに『即戦力』だ。三日月や昭弘がタービンズのシミュレーターごしに叩き込まれ、今はシノやライドが体得しようと試行錯誤している戦術を、実戦の中で身に付けてきた強かさがある。

 今もジグザグに駆け回っているMWが豪快に砂塵をまとって、見るも凄まじいスピードを出していることがわかるのに、足取りにはまるで危なげがない。火星に来て半年も経っていないというのに地形を生かした戦い方ができるのは、さすがの一言だろう。手際がいい。反応も早い。自身を囮にしては岩場を盾にして、弾切れを狙う戦術も。

 ……腕がいい。突撃、撤退、引き際の見極めがうまい。MSの機動性あっての戦術をMWの戦いにうまく落とし込んでいる。

 俊敏な動きが在りし日の三日月を思わせ、懐かしさすら覚える光景にオルガは目を細めた。

 バルバトスに乗る前は三日月もああやって昭弘やシノ、ユージンを相手に二対二の混戦を戦ったものだった。いつもユージンが真っ先に狙われて沈黙させられ、そのうち三日月と昭弘の一騎打ちになる。そんな模擬戦を横目にどっちが勝つかささやかな賭けをしたり、年少組が戦い方を覚えたり――まだCGSの参番組だったころもそうやって笑い合った。

 ついにダンテ機までもが戦闘不能になると、わっと歓声があがる。

 オルガはああと嘆息して、賭け金の行方だけではない大喝采に苦く笑った。阿頼耶識使いの本領発揮を見るとスカッとするのは、みんな同じだ。

 結局いつも三日月だけがほぼ無傷のまま帰ってくるから賭けになんてならなかったのだけど。

 

 

 

 

「よう、お前も事務方(コッチ)に来るかダンテ?」

 

 模擬戦を終えたMWたちの補給と整備にと岩肌を滑り降りる年少の兵站部隊に続いて谷底に降り立つと、オルガは鷹揚なしぐさでダンテにからんだ。

 

「オルガまでやめてくれよぉ、おれはMS乗りにっ」

 

「つれねーこと言うなって、細けェ作業はお手の物だろ?」

 

 けらけら笑うと、ダンテはへにゃりと眉を落とした。日々デスクワークに耐えるオルガ・イツカはもはや少年兵ではない。経営者だ。社長だからこそMWなんて脆弱な機体で最前線に出ることはできないし、模擬戦を懐かしく思う気持ちもダンテには充分に推し量れた。

 こうやってMWで模擬戦ができるのも、ささやかな賭博に興じられるのも、何もかもオルガが慣れない社長業に奔走して資金を集め、仕事をもらい、信用を積み重ねているからだ。期せずして会社運営の厳しさについて触れた古株組には身にしみてわかっている。

 

「つうか、なんでオルガまで来てるんだよ?」

 

 からみつく腕から逃げ出すようにダンテがもがくと、オルガはすんなり開放して「ヤボ用だ」と肩をすくめた。

 

「アーブラウで正規軍を発足させんのに、教育係を鉄華団から寄越してくれってんでな。地球に降りてもらう面子も考えなきゃなんねえし、休憩がてら様子を見にきたんだよ」

 

「地球ぅ?」

 

「地球!?」

 

「団長、おれたち地球に行くの?」

 

「まだわかんねえよ」

 

 補給部隊に改めて配属されたエンビ・エルガー双子をあやすオルガも、実のところ明言できるほどの情報を持っているわけではなかった。

 このほど、アーブラウで新たに発足する自衛軍だか防衛軍だかに軍事教育を施す役目はどうかと、蒔苗氏の斡旋による仕事が舞い込んだのである。

 現状の鉄華団で売り物にできるものは戦闘力くらいのもので、ギャラルホルンに一発かましてやったという実績だって、遅かれ早かれ風化するだろう。火星を拠点にしていれば地球圏での知名度も時間の経過とともに下がっていく。テイワズの影響力だって圏外圏がせいぜいだ。地球圏はいまだギャラルホルンの掌中にある。

 今後テイワズの手足、そのつま先として地球に降り立つのであれば、鉄華団はテイワズの中でも有用な存在になれるだろう。

 ギャラルホルンという大軍に一矢報いた戦術というものをアーブラウの正規軍で指南するポジションにつけば、戦いの記憶を保ち、鉄華団を企業として成長させる足がかりにもなるはずだ。『正規軍の軍事顧問』という肩書きは次の信頼につながる。楔を打ち込む意味でも、テイワズと地球経済圏、双方にコネクションを持っておきたい。

 何より、駐屯地をアーブラウ側で用意してくれるというのが、鉄華団地球支部設立という話のうまみだった。

 入団希望者を可能な限り採用している鉄華団では、そろそろ宿舎が足りなくなってきている。会議室をつぶすなどして寝室を増やしてはいるものの、ひとところで食事を囲むのはもう無理だ。ふくれあがる人数と、あまりの大所帯に耐えきれない基地。増築も進めてはいるのだが、資材、工事費、施工日程もろもろを考えると余裕もない。どうすべきかと頭を抱えはじめた矢先だった。

 今ここで数十名を地球支部に移らせれば、窮屈な思いはさせないで済む。

 とはいえ地球に送るなら、向こうでの主な仕事は戦闘指南ときた。

 阿頼耶識もない、実戦経験もない職業軍人を相手に、鉄華団のやりかたを教えてやれ――そんな任務を命じられるやつはうちにいたろうか……。

 本格的に頭を抱えていたオルガだったが、模擬戦を直に見てみると、おおよその腹は決まった。

 

「なぁダンテ、片付け終わったらおれんとこ来いってあいつらに伝えといてくれねぇか」

 

 

 

 

 ▼

 

 

 

 

 地球支部の起ち上げにあたり、メンバーの選抜は消去法で始まった。

 団長であるオルガが火星を離れるわけにはいかず、整備の難しい〈ガンダム・バルバトス〉、〈ガンダム・グシオン〉も歳星から遠く離れさせたくはない。パイロットである三日月と昭弘は必然的に火星本部に残すことになる。特に『鉄華団の悪魔』として名を知られている三日月は極力手元に置いておかなければ基地が危うい。

 となればユージン、シノ――と指折り数えて、あいつらに戦闘指南ができるかどうか、という点で行き詰まった。

 鉄華団はそもそもが大人との折り合いの悪さでできている。地球で接するのは、これから兵隊になろうとする大人だ。職業軍人を相手に仕事をする。

 そこで、人当たりの良さからチャド・チャダーンが選出されるのは半ば当然の流れだった。

 チャドは思慮深く柔和な男であるし、地味ながらオルガやシノに続く長身の持ち主でもある。見た目で舐められることもないだろう。何より、チャドなら地球で揉め事を起こしてやいないかとオルガが気を揉む必要がない。

 それから、鉄華団では例外的なまでにまともな敬語が使えるタカキ・ウノ。

 かつてクーデリアと初対面のとき、オルガら参番組は「挨拶もまともにできんのか」とマルバにどやされたのだが、いざ起業してみればまともな挨拶、というのは予想以上に重要だった。タカキの快活で穏やかな人となりは、鉄華団が単なる血気盛んなチンピラ集団ではないことの証明でもある。〈イサリビ〉であれもこれもと仕事を覚えてくれたおかげで戦闘に関する備品は一通り扱えるし、タカキがいるなら年少組が見知らぬ土地ではめを外す心配もいらないだろう。

 ビスケットの妹双子と同様、タカキの妹だって学校に通わせてやりたいとオルガは常々思っていた。お誂え向きにアーブラウ側から提供される宿舎の付近には学校があって、火星からも生徒を受け入れられるという打診もついてきている。ギャラルホルンの統治を失って治安の悪化が危ぶまれる地球圏だが、それでもクリュセよりはずっと安全だ。

 ただ、チャドもタカキも、軍事教育、となると頼りない。ふたりともMS乗りではないのだ。MWを動かすぶんには問題ないにしても、MSで戦うとなると初心者同然である。

 

「そこでアストンか。なるほど」

 

 チャドが穏やかに微笑して、頼りにしてるぞ、と隣で目を丸くするアストンの背中をポンと叩いた。アストンを社長室に連れてきたタカキも納得の表情だ。チャド、アストン、タカキが三人並ぶと不思議にしっくりくる。協調性という面では問題なさそうだと、オルガもほっと一息ついた。

 

「え、でも……おれなんか」

 

「昼間の模擬戦を見たんだよ。お前すげえなァ」

 

「……いや、えっと」

 

「すごいよ、アストンは。だって昭弘さんのMWに乗り換えてから一発も食らってないんだ」

 

「それは……おれが汚すわけにはいかないから、それで」

 

「うん。それで本当に全部避けちゃうんだから、アストンはすごい」

 

 タカキの的確な援護射撃にオルガは我知らず目を細める。雑談に不慣れなアストンはまだ言葉がうまく出てこないらしいが、そのぶん慎重に言葉を選ぶ。年少組のまとめ役としてコミュニケーションに長けるタカキならうまくフォローしてやれそうだ。

 正解を探して目を伏せてしまうアストンに「あのな」とオルガが呼びかけると、鮮やかなグリーンの双眸でまっすぐにオルガを見据えた。表情に乏しくとも気持ちはしっかりと前を向いているようだ。与えられる言葉すべてを咀嚼し、噛み砕こうとする向上心は好ましい。

 模擬戦ではあれほどの強さを誇るというのに、こうしていると真面目で素直な少年だ。

 

「今のところ、MSでまともに戦えるってなるとミカと昭弘、シノ、お前とデルマしかいねえだろ? しかもウチはみんな、戦闘っつっても隙を見てガンガン行くしか戦術もねえ、オラついた無作法モンばっかりだ」

 

 言いながら頭を抱えだすオルガの言いざまにはチャドも苦笑して、「耳が痛いな」と肩をすくめた。

 MWでできることなんて、走り回って撹乱するか、遮蔽物に身を隠して突撃のタイミングをはかるかの二択だった。宇宙戦を経験して牽制して逃げ切ることを覚え、防衛戦を経験して弾幕を張ることを覚え――、戦術がちまちまと増えてはいるものの、鉄華団はいまだ『戦略』というものには疎い。

 ユージンが積極的に学んでくれてはいるのだが、実地で身に付けたサバイバル能力という点で見ればアストンとデルマが最先端だろう。

 ただ、デルマはああ見えて血の気が多い。ブルワーズでは前線戦闘員だったのだから無理もないが、顔に似合わず『ガンガン行く』タイプらしく、前衛に切り込む戦法を好むのだ。敵機を捕捉したら弱いやつから順番に集中砲火を浴びせて叩き潰していく――という至極妥当なやり方ではあるものの、手ごろな相手を見つけだし、追い込んで仕留めるには戦場で研ぎすまされた嗅覚が必要不可欠である。勘のいい年少組ならまだしも、実戦初心者に教えるのはあまりにも危険だ。

 一転して、アストンは一発食らわせては撤退して立て直し、確実に動きを封じて仕留める戦術を好んで使う。

 後衛が射撃で足を止め、前衛が鈍器でぶちのめす……というのがMS戦における基本戦術であるし、アストンは援護・白兵どちらも器用にこなす。前衛のデルマ・後衛のアストンを組ませると悪魔もかくやの連携を見せてくるので模擬戦においてはもはや禁止タッグ扱いになっているのだが、アストンを青いカラーリングの機体に乗せてみたところ、思わぬ収穫があった。

 元ヒューマンデブリたちには総じて命を投げ出すような戦い方が癖づいており、昭弘とアストンは特にその傾向が強かった。そんな戦い方を危ぶんだ誰かが、被弾を避けさせるために、MWをひとつ昭弘カラーに塗り直したのだろう。これは旧昭弘機――アルトランドの姓をくれた兄貴分の機体なのだという緊張感がいいほうに作用した。

 おかげで目を見張るほどの回避速度が明らかになり、模擬戦の砂嵐がどんどんド派手になっていく。地の利を生かし、弾切れを狙い、危なくなれば迷わず撤退して確実に仕留める。

 その三日月を思い起こさせる立ち回りには幹部組も沸き立ち、一発たりとも食らわない姿には年少組たちも大喝采だった。

 これから戦い方を覚える連中に見せてやるべき戦い方だと、オルガは直感したのだ。

 戦場に向かうにあたって最も重要なスキルは引き際の見極めだ。初心者は撤退のタイミングから覚えていかなければやられてしまう。

 

「任されてくれるか」

 

 信頼を寄せるオルガの双眸を真正面から受け止めて、アストンは「はい」と従順に首肯した。

 

 そして鉄華団地球支部は設立の日を迎える。




初出: 02/21/2017 @pixiv

"Let you be a home soon"


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P.D.325
星屑は憶えている


45〜46話の間の話
(シノがフラウロスで特攻したときに見た走馬灯)


 それは誰かの記憶だった。

 襲いくる集中砲火をかいくぐり、被弾してなお仲間のために前へ進む。今ここで犠牲になったとしても一矢報いることができれば船で待つ仲間たちには希望を残してやれるはずだ。――そんな痛ましい覚悟の記憶がノルバ・シノの脳裏に流れ込んでくる。

 考えることを別の誰かに押し付けたせいで、取りこぼしてしまった選択肢。悩み苦しむ家族を、あのとき支えてやっていたならば。ああ。後悔に継ぐ後悔が押し寄せてくる。手を伸ばさなかった希望の光が、弾けて消える。砕け残った破片には、お前のせいだと書いてある。

 まるで昨日のことのように鮮やかに追想される光景は、阿頼耶識ごしに伝わる誰かの過去だとわかった。

 

 視界がだぶって見える。膨大な情報の渦が脳髄を内側から殴りつけてくる。網膜投影と似て非なる二重のビジョンを振り切るように、シノは〈ホタルビ〉の甲板を蹴った。

 正面にはアリアンロッドの艦隊がある。何らかの妨害を受けて〈ダインスレイヴ〉を決められなかったシノは、ここで戦死しようともラスタル・エリオンとかいう総司令官の首をとらねばならない。それが無理でも、せめて〈イサリビ〉が無事に宙域を離脱できる時間を稼がなければこのまま全滅してしまう。

 ナパームの着弾により延焼する足元へ、加速のためのペダルを強く踏み込む。反動で炎が波打って押し寄せる。スラスターが残り少ないガスを吹き上げるたび引火の熱がぶわりとコクピットへ広がる。熱い。……熱い。比喩でなく身を焼かれる痛みに歯を食いしばって、シノはただただアリアンロッド艦隊に肉薄すべく死地へと急ぐ。

 家族が生きる明日のために体を張るのはおれであればいい。シノは常々そう思っていた。指示を誤って誰かを死なせるのはもうたくさんだった。仲間を失うのはうんざりだった。だけど、どうせ戦う以外にできることなど何もない。それなら前線に立って、体を張って、力を尽くして、今の自分自身がどうすれば目の前の敵を倒せるのか試行錯誤しているほうが、ずっと性に合っている。

〈ガンダム・フラウロス〉のパイロットは、やはりそのように考えるものなのか。

 焼け落ちそうな包帯を見つめてシノはうっそりと笑んだ。

 

 

 誰かの記憶の中で戦うフラウロスは、白と青で塗装された、シノに言わせればずいぶん地味な機体であった。

 

『これで、終わりだ……!!』

 

 喉が叫ぶ。がらがらに焼けてかすれた声帯はシノのものではなかったが、阿頼耶識でつながっているせいか自分のことのように感じられる。視界いっぱいの赤い峡谷は火星だ。勾配が激しく、鉱脈がエイハブ・ウェーブを遮るという特殊な地質のせいで、テラ・フォーミングを施しても地球のようにはいかなかった、荒涼の惑星。

 そこで戦っている。高出力のビームを幾度と浴びたコクピットは温度設定を誤ったサウナのように蒸されて、まるでぐらぐらと煮え立つ鍋のようだ。炎などどこにもないのに肉がじわりじわりと焼かれていくのがわかる。長きにわたる戦闘で疲弊しきった心身が軋む。

 ところが相手は疲れを知らない機械の翼で、火星に暮らす人々を理不尽に焼き尽くそうとする。

 

 MA(モビルアーマー)、機体名を『ハシュマル』。

 

 ひゅん、ひゅん、と不穏な音をたてて尾がしなる。鋭いテイルブレードの先端が砂塵にかすむ。共闘していたバエルやバルバトスの姿は見えず、視認できる範囲の友軍はプルーマに群がられる残骸ばかりだ。

 打ち捨てられた量産機たちの中にガンダムフレームがないことにいくばくかの安堵を覚えながら、襲いくるプルーマの集団をレールガンで弾き返す。急勾配の崖下へ蹴り落とすと、反動を利用してバックステップで距離をとった。

 双肩のレールガンは重力環境に適応するようショートバレルに換装されてしまった。狭い岩場での戦いを見越し、より小回りがきくように、ビームに巻き込まれてしまわないようにと専属整備士が配慮してくれたのだ。地下シェルターに民間人を残したここでは〈ダインスレイヴ〉も撃つことはできない。

 足元へと追いすがってくるプルーマを薙ぎ払い、踏みつぶす。火花が散る。弾の切れたマシンガンを鈍器に変えて殴りつける。崖の上から次から次へ飛び降りてくるから、これでは三六〇度すべてを警戒しなければならない宇宙戦と同じだ。反射的に盾にしたヴァルキュリアフレームが力任せに持っていかれて、これでまた貴重な新型が殺戮の糧にされてしまうのかと奥歯を噛んだ。

 超然と羽ばたく巨大な翼と、無限に生成されるサブユニット。人類は疲れ果てている。残存戦力がどれほどかも、ここにいてはわからない。

 地球は無事なのか。仲間は元気でいるのか。知りたくても、いちMS(モビルスーツ)でしかないフラウロスには情報を得る術がない。七十二柱ロールアウトしたはずのガンダムパイロットたちも、あと何人残っているか――。

 それでも、仲間の無事を祈るためには戦い続けるしかできない。

 被害状況を鑑みれば退路だってない。

 やつらに〈ダインスレイヴ〉を回収されてしまったせいで月面は惨憺たるありさまだ。南半球へ突き立てられたビームよりも甚大な損壊だった。MAの製造拠点が月にあったという情報も入っているから、もしもそれが真実なら今後新たな天使が起動することはないのだろう。

 真偽のほどはわからないし、それが月を砕くための大義名分だったとしても、もう確かめる術はない。

 ふたたびテラ・フォーミングを施すことも不可能なまでに抉られた月は、生き残りなどもういないのだと嘲笑うように大きく口を開けている。

 

〈ダインスレイヴ〉は、隕石と同じだ。ナノラミネートアーマーをも貫通するボウガン状の弾丸は、宇宙戦での使用も充分に危険なシロモノだが、地表に激突したとき運動エネルギーによって凄まじい被害をもたらす。

 速度×質量。そこに重力が加わる。月の引力であのざまなのだ、火星では、地球ではどうなるのかと考えるのも恐ろしい。

 発射地点が地表から離れれば離れるほど威力は増す。発射装置の威力が強ければ強いほど被害は拡大する。運良くMAに命中させて吹っ飛ばしたとしても、この〈ガンダム・フラウロス〉が搭載する二機のリアクターの出力を集約させて放つエネルギー爆撃は火星を人間の住める環境ではなくしてしまうだろう。

 陸上戦で本物の〈ダインスレイヴ〉を使用することは、惑星もろとも滅ぶシナリオに直結する。

 

 故郷に隕石など誰が激突させたいものか。威力を研ぎすました高硬度レアアロイの弾頭は地表を穿ち、地層を突き抜けて、この火星を衝撃で揺さぶり、そして爆風で覆うだろう。

 市民たちが戦々恐々と終戦を待つシェルターが無事でいられる保証はない。

 

 しかし、通常弾頭しか撃ち出すことのできない短銃身砲で巨鳥〈ハシュマル〉と渡り合うには、もはや限界が見えていた。超遠距離射撃用電磁投射砲はツインリアクターをもってしても多大な体力を消費する。推進剤、冷却剤、もろもろが今にも尽きてしまいそうだとアラートも悲鳴をあげている。

 残弾もわずか、援軍も望めないフラウロスに勝ち目はない。撤退しようにも追いつかれてしまう。背中を見せた瞬間が最後だろう。

 

 

 ――だからって、このまま餌になってやるわけにいくか。

 

 

 ペダルを踏み込み加速して、巨大な機械の翼に飛び込む。バーニアをふかして跳躍、重力に引きずられるようにして白銀の背中に落ちる瞬間に、ぐっと頭を縮めた。背中が張り出す感覚は、さながら獣の咆哮だ。

 四本の脚で腰背部にとりつくと至近距離からナパーム弾をありったけお見舞いする。ナノラミネートアーマーは熱に弱く、ビームのように拡散できない炎に直接焼かれれば、無人兵器といえどただではすまないはずだ。

 可変機構を利用してぐるりと立ち上がれば、踵を返すまでもなくフラウロスはMAの背後へと降り立つ。振り返られるよりも早く、火の手をあげる装甲に向けてアサルトナイフをぶん投げた。

 直撃。鉤爪が装甲を抉る。一拍遅れて、痛みを訴えるかのようにビームがほとばしった。

 咆哮を浴びてしまわないようプルーマの列を盾にしながら、今度こそ身ひとつとなったフラウロスのコクピットで、額に伝う血液を拭う。汗が混じる。疲労に痺れた手のひらで、操縦桿を強く握った。

 

 残弾は残り一発。――これが最後だと、決意を奥歯で噛み潰す。

 

 果敢に飛びかかってくるプルーマを打ち払って飛び退る。宙返りの着地のまま四本足で踏ん張る。

 腹はもう決まっていた。

 火星はテラ・フォーミングが半端に終わってしまった土地だ。鉱脈が縦横無尽に駆け巡る大地に草木は終ぞ芽吹かなかった。しかし実りを拒絶した特殊な地質はエイハブ・ウェーブを断絶する。

 ならば、あの翼を埋めてしまえばいい。本体と分断させればエイハブ・リアクターに呼応して動く子機は主を掘り返すこともできないまま機能を停止するはずだ。

 無理心中することになるが、それはガンダムフレームに乗っている以上、仕方のないことだった。

 MAだけではなく、このガンダムだってある意味では無人機のようなものだ。搭乗者が生体デバイスとして機体内部に組み込まれ、コクピットからの緊急脱出はおろか、降りることすらままならない。戦うためのパーツとなって、老いることもできずに戦場を渡り歩いて、仲間とも顔を合わせられないまま、もう何年が経過しただろう。

 この戦争を無事に終結させた暁には、コクピットの部品からひとりの男に戻って、仲間と抱きあうことも叶ったのだろうが。

 

 残された弾丸によって崖を崩し、MAとともに滅ぶ。――今のおれにできるのは、それだけだ。涙を失った目で未来を見据える。ここで死ぬことになっても仲間には希望を残してやりたい。

 六十四番目に〈ガンダム・フラウロス〉がロールアウトしたとき既に、いくつかのガンダムフレームは戦闘不能になっていた。装甲を破壊され、あるいはパイロットを失って、次なる生け贄を待っていた。

 戦禍に肉体を捧げたことを後悔はしていない。どうか仲間が無事であるようにと願いながら、祈りのために最後の一撃を放った。爆発のような反動に足元がぐらつくのを気力で踏ん張る。

 

 渾身の砲撃は岸壁に着弾し、崖を崩した。戦場の熱によって劣化させられた赤土がぼろぼろと崩れ落ちる。

 大空へ飛び立とうとするMAにすかさず飛びついて、逃れようともがく翼にしがみつく。行かすまいとがむしゃらに拳を打ち込む。もろとも落石に巻き込まれ、崖にぶつかりながらもんどりうって落下する。巨大な岩に弾かれて、あるいはプルーマの密集地に振り落とされて、コクピットを穿とうとするドリルを払い除けた。

 崩落に閉ざされていく視界の中、埋葬されたMAがようやく瞳の光を失うさまをとらえる。断末魔のように高出力のビームを吐き出し終えた殺戮の天使も、これでやっと、火星の土の下で稼働を止めるだろう。

 ああ。自らも落石に飲み込まれながら、逆光に霞む太陽に手を伸ばす。

 フラウロスのパイロットは祈る。

 お願いだ。次この機体に乗るやつがいるなら、お前は必ず仲間のもとへ生きて帰って、おれの代わりにあいつを抱きしめてやってくれ。




初出: 2017/03/06 @pixiv

45話リアタイ視聴後すぐに殴り書きしたもの。フラウロスかっこいいよフラウロス


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P.D.326
祈る言葉も知らないけもの


49〜50話の間の話
(ライドが地下通路の出口でメリビットを待っていた二時間以上の葛藤)


“おれの仇を取ってくれ”と言ってほしい。

 

 地下通路を越えてたどり着いてくる仲間を待つ間じゅう、ライドの脳裏をよぎるのはそんな血なまぐさい願望だった。

 団長が目の前で撃たれ、ほどなく死亡が確認された。遺体は奥の一室に安置されている。チャドは右肩を負傷し、ククビータによる手当を受けているところだ。応急処置しかできないから、できる限り早く医者に診せるようにとのことだった。

 無傷で済んだライドは伝令として、鉄華団本部基地からクリュセの発電施設へ続く地下通路のほとりで仲間の合流を待っている。

 トンネルの向こう側では今も開通作業が進められている最中だという。こちら側から確認した行き止まり地点の座標を知らせれば、何時間もしないうちに風穴を開けられるとの返事があった。歩いて二時間ほどの距離だというが、――二時間は、長い。

 

 待っている時間は、ただでさえ長く感じられるのだ。胸郭に鉄球を詰め込まれたような重みを感じ、ライドは血に汚れたジャケットの合わせをつかんで、握る。

 一刻も早い合流を待つライドの胸に傷はなく、残されたものは何もないのだと実感させられてしまう。

 

 鉄華団が大きくなって外回りの仕事が増えたオルガは、団員からの説得を受けて防弾インナーを着るようになってくれた。当初は筋が通らないだの、家族が頑張ってる中でおれだけ着るわけにいかないだの言って拒んでいたオルガも再三の要請を呑んで、スーツの下には防弾インナーを着用していた。

 ところが弾丸は無慈悲にもオルガを貫き、守られたのはライドだけだった。

 団長を失えば鉄華団は総崩れになるからと説得して説得してやっと着せた団員の願いの結果だというのに。オルガは防弾インナーを着ている自分自身を楯として使ってしまった。

 CGSでそうだった癖が今になって現れたのかもしれない。全身に根を張った自己犠牲精神がそうさせたのかもしれない。広い背中に浴びせられた銃弾は内臓を手ひどく傷つけ、いくら止血したところで体内での出血までは止められなかった。メディカルナノマシンのあてもない。とうに人払いが済んでいたという市街地のど真ん中、また撃ってくるやつらがいないとも限らない。本部基地はギャラルホルンに包囲されていて救援など呼べる状況ではない。マクギリスの協力があってどうにか包囲網を突破してきたのだ。

 

 メリビットを同伴していればオルガは助かったかもしれない、と願ってしまう心を、握りつぶすようにジャケットの胸許を握りしめる。

 医者は全員とっくに辞職していて、唯一医療行為ができるメリビットは本部にいる。先日の戦いで多くの怪我人が出たから、そいつらを基地から運び出す態勢を整える役目があるからだ。担架にも人員にも限りがある中で、全員どうにか担ぎ出して地球まで連れて行けるようにギプスをあて、包帯をまいて、ライドたちの待つクリュセ側まで逃げ出してきてもらわねばならない。全員で生き残るというオルガ・イツカの遺志を継ぐためには、まずメリビットに無事でいてもらう必要があった。

 今ごろは傷に適切な処置を施し、怪我の具合によって移送の役目を割り振るという最後の仕事をこなしているはずだ。

 

 意識が戻らない団員もいる。脚を失って動けない団員もいる。眼球が傷つき、目が見えなくなった団員もいる。

 担架が必要か、無事なやつが背負っても大丈夫か――といった繊細な判断は、医療に通じているメリビットにしかできない。

 もしも彼女をこっちに連れてきていれば、怪我人たちは助からないだろう。動けないやつらは爆破する本部基地に置き去りだなんてCGSの一軍みたいな判断を、鉄華団が許すわけがない。

 だけどオルガ・イツカが死んでしまったら、団員が何人生き残れたって一緒じゃないかと、思ってしまう。

 胸郭の中身をごっそり抜かれたように呼吸ひとつが重苦しい。喉が閊える。知らず涙があふれてくる。顔ごと袖でぐいぐい拭って、息を吐く。鼻水をすすった。

 

(……もしも団長が弔い合戦を望んでくれたら、おれたちは戦うのに)

 

 最後のひとりになるまで、ギャラルホルンの喉笛を食い破ろうとあがいてやれるのに。

 なのに、記憶の中のオルガ・イツカの声をどのようにつぎはぎしても、自身の仇討ちなど命じてくれそうにないから感情の置き場がなくて、憎しみのやり場がなくて、苦しい。

 あの声が命令してくれるなら多くの団員が命を捨てる覚悟で、最後まで戦う用意があるだろう。報復を許してくれるなら全員で討って出て、全滅したって本望だ。あの黒服の連中がギャラルホルンの手先だったかどうかはわからないが、違ったっていい。みんなで戦ってみんなで死ねば、そんなことはどうでもよくなる。オルガ・イツカの手の中には、恩義ある団長のためなら命など惜しくない兵隊たちがこんなにも多くあふれている。

 

 戦って戦って、やれるだけのことはやったと胸を張って鉄華団が潰えるなら、それはそれで悪くないはずだ――と、ライドはそう思うのに。

 あの人が戦え、仇を討てとけしかけるビジョンが浮かばなくて、余計に泣きたくなってくる。

 危険な仕事をしているという自覚のもとでも、団員が生き伸び、生き残る未来しか願ってくれない。そんな団長のもとだから命をかけて戦えるという矛盾が、彼をひとりで死なせてしまった。

 団長。――ライドは目を閉じて呼びかける。

 

(あんたがいなくなった世界で、おれたちは何のために生きていけばいいんですか)




初出: 2017/9/8
※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。別軸のアフターストーリー『弾劾のハンニバル』第6章幕間にも採用(2018/3/4更新分)


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白砂糖の悪人

50話A〜Bパートの間の話。
(バルバトス戦後のジュリエッタがガエリオと火星支部を訪れる話)


 パイロットスーツのまま歩く 火星基地(アーレス)は、ひどく静かだった。廊下に点在するベンチでは傷ついた兵士たちが点滴を受けており、空席がないほどだというのに、みんな無言だ。かすかなうめき声が漏れ聞こえるだけで、誰も、何も、口にしない。

 ずいぶんと陰気な基地だと、ジュリエッタは息苦しくなってうつむいた。遅れそうになった歩を早める。アリアンロッド艦隊のパイロットたちが硬質な靴音を響かせる一団の先頭にいるだけに、立ち止まるわけにはいかなかった。

 過激武装集団〈鉄華団〉の掃討作戦は、予期された通りにアリアンロッドの勝利で締めくくられた。

 その過程で一体何機もの〈グレイズシルト〉が悪魔の餌食にされたのか、小隊長にすぎないジュリエッタにはわからない。静止軌道上から降り注いだ〈ダインスレイヴ〉の雨が二機のガンダムを貫いていなければ、被害はもっと大きくなっていただろう。

 味方に甚大な犠牲を出しながらも悪魔たちは討ち取られ、マクギリス・ファリドの反乱も一段落ついた。

 逆賊に味方した〈ガンダム・バルバトス〉の首は晒され、〈ガンダム・グシオン〉は回収され、どちらも火星によみがえった『無人機』として報道されるのだという。少年兵もPMCも存在ごと消し去って、 勝者(ギャラルホルン)の歴史は滞りなく綴られていく。

 鉄華団という名が歴史から消え去れば、残党や関係者が責めを負うこともないだろう。取り引きのあった企業が巻き込まれる心配もない。ラスタル・エリオンの慈悲は、火星経済に与えるダメージを最小限に抑えるはずだ。どこかへ落ち延びた残党がいたとしても、今後はギャラルホルンに逆らおうなどとおろかなことは考えず、大人しくするに違いない。

 これから『悪魔を討った功績』で出世するジュリエッタは、いまだ悪魔の首級をあげた感触の残る手のひらを見下ろして、もやもやと晴れない心のうちをため息で吐き出した。ああ。悪魔討伐は本来、若きクジャン公の成長潭として語り継がれるはずだったろうに。最期の光景が、まなうらにはりついて剥がれない。赤く焼けた大地、無数の残骸が転がる戦場跡――忘れられないものになりそうだ。

 廊下をいくらか歩けば、火星支部長だという赤い軍服の男が出迎えた。

 火星支部には赤と灰色、二色の軍服が混在する。

 

「幹部候補以上は赤、それ以外がグレーだ。セブンスターズに縁のない将兵はグレーを着用する」と、先頭に立つガエリオが小声で補足した。

 

 ギャラルホルンの通常軍服は『ブルー』だ。セブンスターズが主導し、特別な任務に就く場合は月外縁軌道統合艦隊のようなエンペラーグリーン、地球外縁軌道統制統合艦隊のようなピーコックブルー、インクブルーなどの特殊色が用いられる。火星の『レッド』は、なるほどセブンスターズとの縁故か。

 

「……よくご存じですね」

 

「昔、グレーを着ていた部下がいたからな」

 

 ジュリエッタを見下ろすことなく、ガエリオは独り言めいて笑んだ。

 件の『グレー』が一体どういう経緯でセブンスターズの嫡男ガエリオ・ボードウィン卿に仕えることになったのかと、ジュリエッタは問わない。灰色だった彼がのちに赤を着たのか、着なかったのかも。

 自身もまた月外縁軌道統合艦隊に所属し、階級こそないものの『アリアンロッド・グリーン』の軍服を与えられた身だ。エリオン家当主ラスタル・エリオン公の私兵としてレギンレイズ高機動発展型のテストパイロットとなり、今は小隊長程度の指揮権を持たされている。一尉相当の待遇だろう。

 一兵卒から幹部にいたるまで同色の軍服を着用するアリアンロッド艦隊は、統制局にも監査局にも属さない特殊な部隊だから、ジュリエッタやヴィダールのようなイレギュラーも平等に戦力となる機会を得られる。

 ガエリオが進み出て、相対した赤い軍服の男は腰を折るようにして深々と頭を下げた。セブンスターズ――マクギリス・ファリド――に縁があり、火星支部長の椅子に座った幹部。

 逆賊に味方し、いらぬ犠牲を生んだ彼は、これから職を失うらしい。

 

「顔をあげてくれ、新江・プロト本部長」

 

「……いえ」

 

「そのようすだと、マクギリスに便宜を図ったというのは本当らしいな」

 

 ため息をふうとひとつ落として、ガエリオは悲しげに眉根を寄せた。

 

「腐敗は、正したつもりでいたのだが――」

 

 尖らない声が揺れる。どこか遠くを見上げるような、いくばくかの空白を経て、ガエリオは新江に向き直った。

 

「エリオン公の沙汰を待て。ギャラルホルンの膿を出し、正しい秩序を取り戻さなければならない」

 

「……ご立派になられました。ボードウィン卿」

 

「世辞はいい。監査局時代とは違うのだ、貴様がマクギリスに与したのならおれが都合をつけてやることはできん」

 

「むろん、承知の上です」

 

 そうか、――とガエリオは嘆息して、踵を返した。背後に控えていた兵士たちが道を開ける。割られた人垣、その中央を堂々と進む後ろ姿は、まるで凱旋する英雄のようだった。

 磁石が仕込まれた硬質なヒールがフロアを打つ。角を曲がった大きな背中が寂しく見えて、ジュリエッタは小走りに追いつくとガエリオの手をつかんだ。

 

「ガエリオ!」

 

 立ち止まらせれば、双眸のアクアマリンがまたたく。図鑑で見せてもらった宝石のような色彩だ。一等うつくしい石はサンタマリアと呼ぶらしい。イオク・クジャン、マクギリス・ファリド――セブンスターズの面々はみな、丹念に磨きあげられた輝石のような姿をしている。

 雲の上の公卿を呼び捨てる非礼を承知で、ジュリエッタは長身をあおいだ。くちびるを引き結ぶ。言葉をかけるのは苦手だからと言葉探しを諦めて、猫のようにするりと片腕の中にすべりこんだ。

 肩を貸す格好だ。

 

「……脚が、ふるえていました」

 

 小声で事後報告して歩き出せば、ガエリオは「ああ」と無感動にこたえる。『人でこその力』で補助していた両脚も、愛機〈ガンダム・キマリスヴィダール〉を失い、かつて親友であったというマクギリス・ファリド公への復讐を遂げて、もう限界なのだろう。

 

「きみは、案外力が強いのだな」と、ガエリオは涙声で微笑んだ。

 

「ラスタル様のため、日々鍛錬を積んでいますから。なんならおんぶしてあげても構いませんよ」

 

 突っぱねれば、かたわらで吐息がさざめいた。かわいげのないジュリエッタにできることは、子鹿のように覚束ない足元を支えてやるくらいだ。

 

「きみはいずれ、ラスタルも背負うつもりか?」

 

「当然です。ラスタル様はわたしの恩人、必要とあらば手となり足となりましょう」

 

「それが、君の強さか……」

 

 ガエリオは黙して、――どうやら歩くことに専念しはじめたらしい。肩にかかる重みを支えながら、ジュリエッタはアリアンロッドの旗艦、エリオン家のスキップジャック級戦艦〈フリズスキャルヴ〉を目指す。

 セブンスターズに縁があれば、火星という僻地に赴任しても『レッド』を着られるという。幹部候補待遇、あるいは幹部となれる。そうでない者はみな『グレー』を着用させられる。地元採用者、コロニー出身者、火星人とのハーフ、あるいは落ちこぼれ――地球の地を踏ませられない者はみんな、軍服も未来もみんな灰色だ。

 そうした出自や身分で制服を分ける悪習を、断つ決定をラスタルは下した。火星用の軍服は廃止、今後はすべて『ブルー』の標準服で統一される。火星支部そのものの規模を縮小し、地上基地は放棄して、各植民地の間接統治も行なわない方針だ。制服のカラーによる視覚的区別がなくなれば、火星支部もいずれはアリアンロッドのように平等になるのだろう。

 ガエリオが懐かしそうに追想する部下とやらが着用していた、灰色の軍服を絶やして。

 

「あなたも少しくらい泣けばいいのです。仮面をかぶる必要はもうないのだから」

 

 感傷などないかのように振る舞うのがセブンスターズの大義だとしても、思い入れのある色彩が絶えてしまうなら憂うくらいは許されるべきだ。かつての友を手にかけ、復讐を遂げた男が何を感じているのか、ジュリエッタにはわからないけれど。

 変革のときは静かに忍び寄っていて、業腹だが、マクギリスの革命は実を結ぶのだろう。

 ジュリエッタが悪魔の首を取ったことで、ギャラルホルンの血統主義は傷つけられた。みずからがMAを倒せば恩人に七星勲章を持ち帰れると思っていた在りし日のおろかさを思い知りながら、陰気な基地を抜け出そうと冷たい廊下を踏みしめる。

 生まれ育ちが悪くとも、ラスタル・エリオンの私兵としてギャラルホルンの軍人にふさわしい知識を持てるよう努力してきた。ジュリエッタはだから、歴代セブンスターズの顔ぶれを知っている。

 貴族然と柔和で、気品に満ちて、健やかな人々だ。みな清廉な目をしている。その中でただひとり、ファリド家当主となったマクギリス・ファリドだけが、底知れぬ何かを宿した、澄みきっているのに底の見えない、深く深い水面のような目をしていた。

 怪物のような、緑色。

 どこか魔性めいた美貌は、思えばイオクやガエリオの持つ無垢でまっすぐなうつくしさとは別種のものだった。

 マクギリスが死んだと知らされて、改めて背筋凍る思いだ。あの空恐ろしいほど整った顔をした男は、セブンスターズの血縁などではなく火星の生まれであったという。あんな貴族的な美貌が、あの貧困と荒涼の中から生まれ出でたことには恐怖すら覚える。不条理そのものだ。うつくしさを買われ、人身売買業者〈モンターク商会〉からイズナリオ・ファリドの稚児として地球に降り、〈ヴィーンゴールヴ〉の地を踏んだという。

 イズナリオ・ファリド公が金髪の美少年たちを囲っていたことは公然の秘密だったが、マクギリスは後継者に据えられるほどの寵愛を得ていた。

 そしてファリド家当主となり、ギャラルホルンの変革を成そうとした。

 みずからに阿頼耶識システムを搭載した野心、執念。傾城の美男子。――ジュリエッタのかたわらで足元を狂わせる男に、まだあの魔物が取り憑いているのではないかとおそろしくなる。先日ファリド家のハーフビーク級戦艦〈ヴァナルガンド〉で吶喊をこころみて、〈ガンダム・バエル〉とともに散ったはずなのに。

 脂汗を浮かべるガエリオを引きずるようにジュリエッタは帰路を急ぐ。重力の枷をふりきって、はやく、はやく戻らなければならない。アリアンロッドの旗艦へ、ジュリエッタの恩人が帰りを待っていてくれる場所へ。

 でなければ鉄の仮面をとった男は涙の渦に呑み込まれ、今にも溺れてしまいそうだ。




初出: 2017/9/8
※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。別軸のアフターストーリーである『弾劾のハンニバル』でもこの解釈をもとに話を進めています。

Knavery's plain face is never seen tin used. -- オセロ 2.1.


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違う世界の青

50話A〜Bパートの間の話。
(地球に亡命したエンビ(※ちびっこ双子のニット帽のほう)が死ぬまで生きるとはどういうことか悩む話)


 後ろ髪を引かれる心地でトンネルを駆ける。基地を爆破して、地球に亡命し、IDを書き換えればみんな助かるのだという。この地下通路を抜ければクリュセだ、ライドたちが待ってる。アジーさんたちが地球まで運んでくれる。だから今は振り向かずに走れと追い立てられて、エンビは重たい足取りを急かした。

 発電施設に到着しても再会を喜ぶ時間はなく、テイワズが支援してくれるというコンテナへ。息を殺したまま走り続けた。

 旧タービンズの面々が手配して、輸送船の積み荷に混ぜて地球へ届けてくれるという。といってもテイワズの輸送船団だ。いくつもの船が連なって、護衛を雇って、荷物を地球まで運ぶ。クルーは女ばかりじゃない。〈ハンマーヘッド〉のように単独で動ける船でもない。

 団員数が半減していたとしても全員一緒にというわけにはいかず、いくつかの船に分かれた。艦内のメディカルナノマシンをはんぶん使わせてくれるというアジー・グルミンの配慮で、鉄華団は一度ばらばらになった。

 地球までの道のりは、一月半ほどかかった。テイワズの頭領が内諾しているとはいえ、タービンズは内部抗争の結果潰えたのだから、みんな大人しくしていた。

 そしてアーブラウに到着したのは、クーデリアとアトラを乗せた客船で最後だった。

 IDを書き換える手続きが終わるまではエドモントン郊外にある古いモーテルを三棟、自由に使っていいとのことだった――が、電力供給はなく、水道も止まって久しい。ほとんど廃屋だ。あてがわれた三つの建物にもそれなりの距離があった。大きさもそれぞれ違う。

 隠れ家にはちょうどいいが、女性陣や怪我人を収容するには向かない。

 中央の棟、一番きれいな部屋を修復してアトラとメリビットにあてがうことが決定された。無傷の団員は東側、軽傷の団員は南側の二棟にそれぞれ分かれた。無傷のエンビは東、仕事をする側の棟だ。

 朝は水汲み。昼間は掃除。中央棟を優先に、じゅうたんの隙間から生えてくる雑草を抜いたり、剥げ落ちた壁のかけらを拾い集めたり、水回りの黴や苔を取ったり。夜になれば交代で哨戒。悩んだり悲しんだりしている暇はない。元地球支部の面々が中心になって、エドモントンでの生活を指南してくれる。ゴミのまとめ方、車の停め方、目立たないためにはどうすればいいのか。借宿にはタカキもちょくちょく顔を出した。アーブラウ防衛軍の軍事顧問時代に給養員として雇われていた地元の人々も、こっそりとやってきては炊き出しを手伝ってくれた。

 地球支部で食堂を世話していたおかみさんと再会して、涙を流す姿もあった。鉄華団地球支部は、ずいぶん愛されていたらしい。ちょっとだけど足しにしておくれ――と、毛布と古着の差し入れも集まった。

 鉄華団の初仕事、蒔苗氏を議事堂に送り届ける任務のときはアンカレッジで人数ぶんの防寒具が買いそろえられたが、今はそれもないのだ。団員はただでさえ慣れない気候や食事に体調を崩し、地球カゼも蔓延している。兄貴分が倒れたり、年少のチビたちがギャラルホルンの追撃に怯えたりする中で、エンビは自分自身が案外頑丈にできていることをぼんやり自覚した。

 無感動に見下ろす手のひらは冷水に晒されて赤くなっているが、爪が割れたくらいでどうということはない。あかぎれた指先を握りこんで、また働く。

 おれは怪我してないから大丈夫。腕は二本ともあるし、両足は動く。ひとりで立てるし、走れる。目も見える。飯だってちゃんと食える。吐いたりしない。だからまだ大丈夫だ。大丈夫だ。大丈夫だ。そう自分自身に言い聞かせながら、途切れそうな呼吸を続けていく。

 浅い傷だからお前は大丈夫だなと、ユージンが安堵する声は疲れている。

 弱音を吐けるうちはまだ大丈夫だと、チャドがほっと息を吐く。

 泣けるやつらは大丈夫だろうと、ダンテが目を伏せる。

 生き残りを先導する幹部たちが下す『大丈夫』のハードルは日に日に下がっていき、余裕のなさがこれでもかと伝わってくる。団長を亡くし、帰る場所を失い、慣れない地球で数十人規模の家族の面倒を見ているのだ。おれたちも負担にならないように頑張らなければと、エンビたちも奥歯を食いしばって厳しい冬に耐えていた。

 

 そうやって生活していたら、ある朝、ひとりめの死者が出た。

 

 南棟からだった。昨夜、おれはもう大丈夫だから他の連中を診てやってくれと強がってみせた兄貴分だ。朝には寝床で冷たくなっていたという彼は、驚くほど満足そうな顔をしていた。仲間を生かして、最期の最後まで生きたから、これで胸を張って団長たちに会いに行けると言わんばかりの。

 副団長が抱き起こして、床に敷いた死体袋に横たえると静かにファスナーを閉じた。

 それから数日の間、エンビの記憶は曖昧だ。せっかくIDを書き換えて生き延びられるというタイミングだというのに、まるで可能性が手のひらからこぼれていくようだった。不安は伝播して、何人か狂った。

 なんでも買い出しのため市場へ出向いた元地球支部の連中が、街中で何かおそろしいものを目にしたらしい。いくつもの戦場を駆けてきた鉄華団の一員だろうに、伝令もできないほどの取り乱し具合だった。

 何を見たのかは定かではない。みんな「ニュースで」とか、「首が」とか、意味のわからない言葉を断片的にぽろぽろこぼすだけで会話にならなかったのだ。()()を見ておかしくなってしまった連中は、日に日に目の下のクマを黒く濃くしていき、生気を失って、頭を喉を胸を掻きむしって、そのまま死んだ。

 冬の寒さは厳しく、また何人か死んだ。

 さいわいエドモントン市街でホテル住まいをしていたクーデリアは、アドモス商会からの連絡を受けて一足はやく火星に帰っている。ここで死人が出たことは彼女には内密にするよう、箝口令が敷かれた。

 遺体の埋葬を手配してくれた蒔苗先生は、この件はワシが墓の下まで持っていく――と、しわがれた声を悲しげにふるわせて、約束してくれた。ここで死んだ連中は、アーブラウ防衛軍の共同墓地で、地球支部の戦死者たちと一緒に眠りにつけるのだと。

 エンビたち生き残りは、いつまでも地球にいるわけにはいかないし、遅かれ早かれ火星に帰ることになるのだろう。桜農園や孤児院のようすも気になる。先に戻ったクーデリアは、今ごろどうしているのだろうか。

 見上げても火星は見えないが、ふと空をあおげば青空には白い月がぼんやりと浮かんでいた。

 

 ……みかづきさん。

 

 声に出して呼ぶことはできなかった。もう会えない。鉄華団はもうない。

 ギャラルホルンはもう追撃してこないと副団長から聞かされた。IDを書き換えたから指名手配もされていない。鉄華団は()()()()()し、全員の死亡届が正式に受理されたから、もう大丈夫だと。

 

(大丈夫ってなんだろう)

 

 何が大丈夫なんだろう。兄貴分を犠牲にして生き残って、それで、どうなるというのだろう。仲間の屍の上で、どうやって生きていけばいい? 三棟に分かれて生活する団員たちは、みんな疲れた顔をしている。表情を変えるような余裕もない。見渡したって貼付けたような無表情ばかりだ。――あるいは、満足そうな兄貴分の死に顔。正気を失った元地球支部メンバーの悲鳴と慟哭。

 エンビはニット帽をつかんで、ぐいと額に引き下ろした。冬の風に晒され続けた目元がつんとしみる。

 

(……ひとりじゃないって、こんなにしんどいことだっけ)

 

 家族がいることで強くなれた日々を失って、何週間が経過したのか、もうわからない。




初出: 2017/9/10

※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。別軸のアフターストーリーである『弾劾のハンニバル』でもこの解釈をもとに話を進めています。


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磔刑の魔女

50話A〜Bパートの間の話。
(クーデリアがテイワズの支援を受けて火星独立に漕ぎ着ける話)


 共同宇宙港〈方舟〉に降り立ったクーデリアを待っていたのは地獄だった。

 アドモス商会から火急の連絡が届き、急ぎ帰還したのだ。出産を間近に控えたアトラをエドモントン郊外に残し、後ろ髪を引かれる思いで火星へと戻ったクーデリアを待っていたのは、目を覆いたくなる惨状だった。

 咽喉がひきつる。どうしてこんなことに――と、色をなくしたくちびるがわななく。市街地を見晴らす大きな窓にすがるようにして、ずるずるとくずおれた。

〈方舟〉には客船や輸送船も発着するため、展望台から臨むパノラマは火星の中でも特に大きく華やかな市街地になるようにと配慮してあった。眼下に広がる光景は、言わば火星の()なのだ。宇宙港の窓側にあたるエリアは風致地区として、建設物の高さであるとか、営業できる業種職種にも制限が設けられていた。

 だから、ガラス窓の向こうに広がっている、あの廃墟がクリュセだなんて信じられない。いや、こんな空の上からでは見えるものなど限られている――、クーデリアの理性は必死に希望を持とうとするのに、一縷の望みを打ち砕くかのように爆煙が上がる。屋上の定点カメラからでもわかるほどの爆発なら、一体どれだけの市民が犠牲になったのだろう。ククビータたち社員はシェルターにいるから大丈夫だと通信では伝えられたものの、そこもきっと、安全からは遠い。

 ギャラルホルン火星支部縮小から、まだ三月と経っていないはずだ。……きっと、アリアンロッドによる鉄華団への総攻撃が始まる前から火星支部の撤退は決まっていたのだろう。各経済圏が脱植民地化に合意したという報道も、あまりにも早かった。おそらくノブリス・ゴルドンとつながって情報を操作しているのだろう。

 火星には既に独自に治安を維持できる組織が存在し、以前より独立を望んでいた――というラスタル・エリオンの痛烈な皮肉を思い返して、クーデリアは冷たいガラスに叩き付けることもできない拳を握る。

 

(こんなことが……わたしが望んだ『独立』は……っ)

 

 確かにクリュセは経済的独立を望んでいた。独立の機運は火星全土に広がっていた。開拓時代に結ばれた地球圏との協定を改め、何もかも経済圏に吸い上げられていくシステムを変えるために、アーブラウへと降り立ったのだ。鉄華団の奮闘により、蒔苗代表への直訴は叶った。フェアトレードは実現された。

 植民地の経済発展が認められていなかったわけではない。貧困に喘ぐ火星の現状が、地球に届いていなかっただけだった。問題を認知するために、火星と地球は遠すぎた。それだけだ。

 アーブラウ代表と〈革命の乙女〉の会談は、地球と火星、経済圏と植民地の対話を実現させた。火星にQCCSが配備されたのだ。アリアドネのコクーンから、この方舟を経由してケーブルがはるか地上まで根を下ろしている。

 これまで圏外圏には配備されてこなかった 量子暗号通信システム(Quantum Cryptography Communication System)の使用権は、クーデリアが火星に持ち帰ったオリーブの種だったはずなのに。

 なのに、地球との取り引きは断絶されてしまった。

 ギャラルホルン火星支部は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()に、宇宙基地アーレスまで撤退するという。

 そんな馬鹿な話があるだろうか。

 圏外圏の宇宙航路には海賊が跋扈しており、軍事力を持てない地球経済圏は各植民地域を訪問するだけでもギャラルホルンの護衛を必要とする。火星やコロニーを正規航路で行き来する定期輸送船でさえPMCや傭兵を雇う。世間知らずだったクーデリアですら、地球への旅路に警護が不可欠であることを知っていた。だからCGSを訪ねたのだ。

 そしてCGSはギャラルホルンの夜襲を受けた。発足した鉄華団は、幾度となくギャラルホルンの追撃を受けた。アーブラウは独自に自衛的戦力を保有することを決定し、正規軍を発足させたが、宇宙での演習は行なえない。SAUともども国境紛争で多くの軍備を失い、経済的にも大きなダメージを受けた。

 他の経済圏も同じだ。ギャラルホルンの力を借りなければ、植民地を視察することもかなわない。

 だから間接統治を任せていたのだ。そのギャラルホルンが事実上の撤退を決定したとしても代わりの自治組織を新規に設立するのは容易でない。時間、予算――経済的ダメージは計り知れない。多少の痛手があったとて、植民地そのものを放棄する以外にないのだ。

 そうすれば、アーブラウ領クリュセ自治区郊外を穿った無数の禁止兵器の爪痕も、経済圏の人々には何も知らせないまますべてを終結させられる。

 

 目隠しをしたトカゲの尻尾を切るように、故郷は見捨てられた。

 

 無政府状態に陥った火星で、今はどれだけの人々が無事でいてくれるのだろう。クーデリアは祈るように、冷たくなる両手を握りしめる。色褪せた指先を握り込む。

 この状況ではバーンスタイン邸も、両親の安否さえも不明だ。孤児院は、学校は。桜農園はどうなっているのだろう。寄宿学校に通うクッキーとクラッカは? 無事でいてくれるだろうか。みんなシェルターにいるから大丈夫だとクーデリアを励ましてくれたアドモス商会の社員たちだって、QCCSで話をしたのはもうひと月も前のことだ。

 絶望のふちで、クーデリアはしかし、希望を捨てない。

 方舟で通信施設を借りると、連絡をとったのはノブリス・ゴルドンだった。

 

 ――歳星に向かう、手配をしてほしい。

 

〈革命の乙女〉の決断を、ノブリスは面白いものを眺めるようにして承諾した。

 そして半月あまりの道のりの末、クーデリアは対話の体裁を整えるとマクマード・バリストンの前に立った。

 ソファを勧められ、向かい合うなり頭を下げた。

 

「どうか、わたしの故郷を助けてください」

 

 深々と(こうべ)をたれ、火星の現状を訴えればマクマードは「ふむ」とみずからのあご髭を撫でた。

 テイワズは木星圏をおさめる大企業であり、アドモス商会は火星圏に数ある零細企業のひとつだ。テイワズ直参組織であったタービンズと鉄華団が兄弟分でなければ、面会すらかなわない相手だった。〈革命の乙女〉だなんて知名度も、もはや何の意味もない。

 マクマードが話を聞いてくれるのは、彼の厚意によるものだ。

 

「うちも後継者のことで頭を悩ませていたところだ」

 

 名瀬・タービンとジャスレイ・ドノミコルスの不在を突きつけられて、クーデリアは顔を伏せたまま細い肩をふるわせた。テイワズの後継者問題を生んだ原因の一端は鉄華団にある。直参企業同士がいがみあって、親であるテイワズを苦しめたのだ。

 

「後釜には()()()を据えようと思ってるんだが、今のままじゃあうまくいかねえ。利口なお嬢さんなら、言いたいことはわかるだろう」

 

「……わたしがロールモデルになれ――と?」

 

「なに、過不足なくやってくれりゃいい」

 

 あんたもよく知ってる女だ。――と、マクマードは背を向けた。

 

 アジー・グルミンの怜悧な相貌がよぎる。くちびるをひきつらせたクーデリアに、正解を告げるようにマクマードは上から笑う。ぞっと肌が粟立った。

 

「狼の群れを飼いならすには、まずは頭に轡をはめなきゃならねえからな」

 

 この男は、復讐の連鎖を封じるためにアジーを後継者にしようとしているのだ。

 テイワズはギャラルホルンとも取り引きがあり、事を構えたくはない。マクマードはだから、アジーに『テイワズの後継者』という肩書きを与えることによって、タービンズ残党を束縛しようとしている。鉄華団の密航を許可したのも、彼女らから仇討ちという選択肢を奪う目的があったのだろう。弟分の生き残りを腕いっぱいに抱え、絆という鎖につながれた雌犬たちは自由に動くことができなくなる。

 木星圏を牛耳るテイワズは国家ほどの規模を有する巨大なマフィアだが、あくまでもコングロマリッド、多様な企業の集合体だ。もしもギャラルホルンがテイワズを壊滅させる作戦に出たなら、テイワズは傭兵という傭兵を動員して我が身を守らなければならない。軍隊まがいの組織も営業しているとはいえ、仕事だからこそ強権には降服が賢明と判断するだろう。

 ギャラルホルン相手の戦争にだって雇われてくれるような鉄砲玉どもは、近ごろギャラルホルンに滅ぼされてしまったばかりである。残りの連中はみな、どんなに金を積まれたって命は惜しいと裸足で逃げ出す。

 

「……おれも、もう永くはねえ」

 

 この先、テイワズが存続するためには。いつかギャラルホルンに叛逆を企てるかもしれないアジー・グルミンという女狼に手枷足枷をはめ、復讐の牙をおさめさせる必要がある。彼女を飼いならすための()として、マクマード・バリストンはテイワズの後釜という役目を選んだ。

 しかし、木星圏には男性主体の社会構造として成長してきた歴史がある。テイワズがこれほどの財を築き、国家と遜色ない自治を行き届かせているのも、その社会制度に由来している。

 企業のトップには父権的リーダーが立ち、弟子を養育し、女子供を囲って、テイワズは栄えてきた。生産、加工、流通、――いずれにしてもそうだ。リスクの高い仕事はすべて、男に隷属したがらない女が追いやられるようにして担っている。

 そんな男尊女卑社会において、女性クルーと旅をともにし、対等な婚姻関係のもとハーレムを形成した男がひとりだけいる。

 名瀬・タービンだ。

 ギャラルホルンの強制査察によってタービンズは失われたが、落ち延びた彼の妻子はみな教育を受けており、器量がよく聡明で、仕事もよくできる。

 だが安全を得るため情婦になるか、危険な仕事に従事して死ぬか――そんな二者択一こそが正しい女の人生である木星社会において、仕事のできる雌犬は都合が悪い。女である、イコール男よりも劣っている、という()()が深く根を張っているのだ。事実有能な彼女らに実在されては、価値観が根底から揺らいでしまう。プライドを傷つけられた男たちの矛先はアジー・グルミンに向けられ、遅かれ早かれ、テイワズを内部抗争によって瓦解させる。

 もしもクーデリア・藍那・バーンスタインが女頭領の有用性を全宇宙に示してくれれば、いずれ木星世論も女性の人権を認める方向へと傾かせられるかもしれない。テイワズが泰然と存続するための地盤作りに、クーデリアは使()()()()だ。

 そのためならテイワズは、火星に投資してやってもいい。

 

 ……利害は一致している。

 

 クーデリアは、故郷を救いたい。火星の人々をしあわせにしたい。貧困を是正し、孤児院を建て学校を運営して、教育を行き渡らせたい。そのためには教師や保育士、医師、看護師、事務職員など教養ある人員を『どこか』から招く必要がある。

 マクマードの申し出を呑まない理由はなかった。

 

「わかりました。その仕事を是非、わたしに任せてください」

 

 

 

 話がまとまれば、すぐだった。あとはこちらで都合をつけるとマクマードはことわって、クーデリアに退室をすすめた。

 丁寧に頭を下げて応接室を辞す細い背中にぶつかった男の声は、まるで呪いだった。

 

「あんたが火星に戻るまでにはケリがつくだろうよ」

 

 マクマードが何を手配するのかは理解できた。だが、察しがついたところで今のクーデリアには何もできない。儀礼的な会釈をひとつ、圏外圏で最もおそろしいと謳われた男の部屋を出る。

 足に合わないローヒールがふらつかないよう、必死にカーペットを踏みしめた。

 

 

 

 

 そして歳星を発ったクーデリアが、ふたたび方舟に降り立つまで半月あまり。

 見渡すまでもなく、すべては終わっていた。

 

 共同宇宙港〈方舟〉の展望窓から望見する景観に爆発はない。……人影もない。クリュセの町並みに残されていたのは弾痕や血痕だけだった。火星において水資源は貴重であるから、洗い流されないまま残ったのだろう。

 地上へ降り、マクマードの息のかかった護送車で廃墟を走り抜ければ、暴動が鎮圧された経緯が手に取るようにわかった。

 

「ああ、社長! よくぞご無事で……!」

 

「あなたたちも。無事でいてくれてありがとう」

 

 アドモス商会が所有する地下シェルターを訪れ、ククビータのハグを受けながら、クーデリアは社員たちとの再会を喜ぶ。束の間の安寧を抱きしめて、ククビータの肩口に頬を埋める。

 

 意を決して、「子供たちは」と問うた。

 

 長く長いシェルター生活で豊満な両腕をやつれさせたククビータが、言葉を選ぶための沈黙。迷いと恐れが、時間をじりじりと食いつぶしていく。

 

「……生き残ったのは、八割ほどです」

 

 アドモス商会が運営する孤児院および小学校の児童たちは、地下シェルターに退避させていた。地球経済圏との流通が断たれ、食糧の新規供給はなくなったが、さいわい桜農園がすぐそばにある。工場がストップし、大量のとうもろこしを備蓄することになったために飢えることはなかった。季節的にも寒さはない。

 しかし桜農園のとうもろこしはバイオエタノールの原料用だ。収穫したてを大鍋で煮て食べることはこれまでもあったが、食糧として保管するための備蓄庫が、桜農園にはなかった。通気性、気温、どういった条件が重なったのかも定かではない。毒性の高いカビの発生に気付くことができず、アフラトキシンによる急性中毒で――。

 

「手は、尽くしたんですが……」

 

「ありがとう、ククビータさん。今は助かった子供たちと、これからのことを考えましょう」

 

 大きな犠牲を目の当たりにして、指先がこわばる。血の気が失せて、白く褪せていく。だが死者が二割で済んだのは、不幸中のさいわいだ。もっと多くが犠牲になる前に対処できた。……そう思わなければと、ふるえるくちびるを噛みしめる。

 孤児院や小学校の地下シェルターで息を潜めているしかできず、生き残った子供たちも強いストレスに晒され続けており、みな健康体とは言えない。

 けれどまだ命がある。どうにかして救わなければ。彼らを救えるのはクーデリアしかいないのだ。

 

「テイワズにかけあって、支援の約束をとりつけました。わたしと同じ船で食糧と遺体袋が届いています」

 

「社長……?」

 

「先日、大きな武力介入があったと思います」

 

「ええ、ありました……けど、まさか」

 

 ククビータが大きく目をみはる。

 

「そんな……」ととりこぼしたくちびるは、信じられないと血色をなくす。

 

 有能な秘書の狼狽にも、今のクーデリアに返せる言葉はなにもない。

 マクマードの手配で動いたのはアリアンロッドだろう。この火星で鎮圧作戦を行ない、何の報道もないのだからラスタル・エリオンとノブリス・ゴルドンが動いたことは明白だ。火星基地に残っていた残弾を処分するかのように、在庫をすべて吐き出していったに違いない。

 ああ、さすがテイワズは大企業だけあって、決断から実行までのタイムラグがとても少ない。

 遠い目をして市街地を思い返し、焼き払われた人々を思う。クーデリアが歩いた道にはどうしてか、いつも愛した人々の亡骸が転がっている。みずからの感情が死んでいく音を聞くようだった。

 シェルターを持たない人々は、食糧の備蓄がない人々は、みずからの手で奪い合うという選択肢しか与えられなかった。クリュセ市街では略奪が常態化していたのだろう。ギャラルホルンに抵抗したのだろう武器の残骸も転がっていた。怪我を負っても傷を洗う水はなく、学のない労働者たちは適切な処置も学んではいない。治安、衛生環境ともに最悪だった。

 命を失った人体は、体内細菌によって蝕まれ、腐敗がはじまる。バクテリアが繁殖すれば遅かれ早かれ感染症を蔓延させる原因となる。公衆衛生対策がまず必要だ。遺体を片付け、汚染された食糧を廃棄してから配給の体制をととのえなければならない。それが終わったらインフラの整備だ。地球に逃れている鉄華団の生き残りたちが故郷に帰ってこられるように、宿舎も手配しなければならない。やることはいくらでもある。

 ククビータさん。――つとめて明るく呼びかければ、秘書は怯えたようにびくりと肩を跳ねさせた。青ざめた褐色肌には鳥肌が浮かんで、本能的にクーデリアを拒否していることが伝わる。

 いくらかやつれたクーデリアは、それでもなお華やかに、微笑んで。

 

「わたしの願いだった火星の経済的独立が、やっと実現しそうなの!」

 

 作り物の笑顔からはらりとひとすじ、涙が落ちた。大粒の涙がいくつも伝い、こぼれては晴れやかに取り繕いたい仮面を悲しみで汚していく。

 クーデリアは、子供たちが不当に搾取されない世界を実現したい。力なき子供たちが笑って生きていける社会を作りたい。ずっと、ずっと願ってきたことだ。〈革命の乙女〉として掲げてきた火星の非植民地化も叶う。学校を建てる資金も約束された。教師や医師を雇う目処も立った。

 そうやって目標を実現していくクーデリア・藍那・バーンスタインは、女性指導者の有用性を体現するだろう。

 たとえテイワズがアジー・グルミンを後継者に据えるための布石だろうが、ギャラルホルンがジュリエッタ・ジュリスに跡目を託すための前座だろうが、火星の人々をしあわせにしたいと願う力を手に入れた。

 男尊女卑が根付く木星圏において、女性の雇用機会均等は難しい。名瀬・タービンが疎まれたのも、彼が()()()()()()()()()()()()()()たちに等しく教育と仕事を与え、情婦でも低賃金労働者でもなくビジネスパートナーとして起用していたせいだ。

 社会のシステムによって組み敷かれてきた女性たちは、思慕や愛情だけではないさまざまな感情で、それぞれに名瀬・タービンを慕った。名瀬は、健やかに育つという立派な仕事をこなす赤ん坊たち、女の連れ子も、彼女らの母親まで残らずメンバーとして数え、タービンズは構成員五万人という巨大な組織になった。

 教養のある女、学歴のある女、仕事のできる女――彼女たちは、木星圏をああも発展させたテイワズの価値観に背く『異端者』だ。まとめてどこぞに移民させたいという思惑がテイワズには以前からくすぶっていた。

 タービンズの残党たちを安全に働かせてやれる環境として、火星に白羽の矢が立った。火星支部を撤退させてなお火星を傀儡政権とできるならギャラルホルンにも不利益はない。

 残酷にも利害は噛み合い、悪化しきっていた火星の治安をアリアンロッドが()()

 人口を大幅に減らして、安寧はもたらされた。

 

 

 

 ほどなくして火星に暫定政府が発足した。行政の長は四人とも無事だったのだ。みなシェルターに逃れていたらしい。富裕層は安全な場所で息を潜めて、解放のときを待っていた。バーンスタイン邸にも頑丈なシェルターと食糧の備蓄があったらしく、復帰した政府関係者の中にはアーブラウ領クリュセ自治区を治めていたノーマン・バーンスタイン元首相の姿もあった。

 クーデリアを初代議長にまつりあげて、火星連合は独立を宣言した。

 表向きこそ民主制ながら、その実体はテイワズの資本とギャラルホルンの軍事力を背景に持つ軍事独裁だ。〈革命の乙女〉の知名度を利用して矢面に立たせただけの傀儡政権でもある。

 むろん、議会においてはクーデリアのやり方に異を唱える議員もいた。疑問を投げかける議員もいた。そして無惨な姿になって発見された。テイワズから派遣されていた()()の仕業だろう。

 女性指導者のロールモデルたるクーデリア・藍那・バーンスタイン連合議長のイメージを損なう者は銃弾によって排除されるという、見せしめだった。

 

 クーデリアは魔女だ! ――誰かが叫んだ。そして遺体で発見された。

 

 死神だ。悪魔が憑いている。さまざまな悪評がクーデリアにつきまとったが、テイワズからはヒットマンが派遣されている。バックには報道を意のままに操るノブリス・ゴルドンがついている以上、どのような黒い所業も善良な市民に知られることはありえない。都合の悪いことは誰の目にも触れないよう、誰の耳にも入らないよう、歴史の闇に葬られていく。

 いつかクーデリア自身が邪魔になれば、同じように消されるのだろう。テイワズに、あるいはギャラルホルンに。マクマード・バリストンに、あるいはラスタル・エリオンに。

 そうなる前に、セーフティネットの整備を終わらせてしまわねばならない。

 どんなに汚れた資金であろうと構わず、クーデリアは孤児院を建てた。学校増やし、病院を改築させた。木星圏から移民してきた女保育士、女教師、女医たちを雇い、火星の総人口の三割近くは木星出身の女性に取って代わられた。火星に生まれ育った無教養な女性たちが場末の娼館に追いやられてしまっても、クーデリアは歩みを止めるわけにはいかない。

 マクマードの支援、ラスタルの権力、ノブリスの情報統制のおかげで学校の建設・運営は軌道に乗っている。アドモス商会が行なってきた社会福祉事業は実を結んでいく。鉄華団の子供たちみんなを学校に通わせたいという夢が、このほど叶ったばかりなのだ。働きたいという団員には仕事を斡旋できた。火星は経済圏の支配から独立した。少年兵が戦う必要もなくなる。力なき子供たちが搾取されることはもうないだろう。どんなに禍々しいかたちであれ、クーデリアの願いは着実に叶っていく。

 独裁の乙女は、清廉な仮面をつけて微笑する。

 屍を積みあげて築かれた、イエスマンだけの足場の上で。

 どれほどの血にまみれ、どれほどの死を踏みにじってでも、わたしが火星の人々をしあわせにしてみせる――と。




初出: 2017/9/10 @pixiv

※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。別軸のアフターストーリー『弾劾のハンニバル』でもこの解釈をもとに話を進めています。


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P.D.329
世界があなたを弔わずとも


50話A〜Bパートの間の話。
(ボードウィン家に出戻らされたアルミリアが火星に留学を決める話)


 母は慎み深い女性だったので、私室を出ることは少なかった。

 アルミリアもまた、母とメイドたちだけで過ごす幼少期であったと記憶している。今になって思えば、後妻である母が大きな顔をして屋敷内を出歩くわけにもいかなかったのだろう。膝に広げたアルバムの中に、母の姿はどこにもない。

 ふとアルバムをめくる手を止めて、アルミリアは高い天井をあおいだ。

 ここは、兄が生まれた日からの記録を丁寧にたくわえた森の中だ。

 ボードウィン邸、地下書庫。本棚が壁一面にそびえ、この一角には長男ガエリオの成長をおさめたアルバムがずらり並んでいる。古い紙のにおいが満ちていて、書籍を守るための温度はアルミリアの肌には少しばかり冷ややかだ。

 だが日に焼けないじゅうたんはやわらかく、ひざまずくアルミリアを芝生のようなやわらかさで受け止めてくれる。

 アルバムの中の緑も、こんなふうであったのだろうか。

 膝の上に広げた遠く遠い思い出に、アルミリアはただ思いを馳せる。

 兄と、夫と、友人と。もう戻らない、夢のような過去だ。記録されたやさしい日々の中に、アルミリアはいないけれど。

 幼馴染みが三人いっしょに笑い合う日常風景は、きっとイシュー家の執事が撮影したのだろう。長らく病に伏していたイシュー公は、一人娘カルタのお転婆をそばで見守れないのが残念だと、最期まで悔いていたという。

 七家の合議制によって三百年間の平和と秩序を守ってきたギャラルホルン。その堅牢な壁は、革命の風が吹くことを許さなかった。

 もしも、もっと早くに『人が人らしく生きられる世界』が、『誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる世界』が実現されていたなら、イシュー家が絶えることはなかったろうに。

 セブンスターズには長子相続の慣習があり、このボードウィン邸も、ここで働く使用人もすべて、当主ガルスと嫡男ガエリオのための家具だ。屋敷のいたるところに飾られた花瓶も、テラスから臨む庭園も、すべてガエリオの両親が愛した花々が飾られている。長女アルミリアにも相続権はあるが、それもいつかガエリオに子供が生まれ、彼が当主となるまでの中継ぎでしかない。

 女性当主の存在こそ認めていても、セブンスターズは女系の当主を認めていないのである。席次の低い夫を迎えることが許されないギャラルホルンにおいて、イシュー家は兄妹婚でしか存続できない。

 イシュー公の妻は、イシュー公の妹だ。夫人は第一子に長女を生んでしまったことから精神を病み、一人娘カルタが目も開けないうちに嘆きの海に飛び込んで、命を擲ったのだという。

 残された選択肢は、父娘の近親婚で永らえるか、滅びるかの二者択一だ。イシュー公は心労から床に臥せった。

 カルタ・イシューは最後の当主となる運命を受け入れ、それでも高潔にあろうと最期まで軍人として、イシュー家の誇り高き一人娘として戦い続けた。

 だけどもし、もしも『誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる世界』だったなら?

 カルタは死なずに済んだかもしれない。すきな人に恋をして、愛するひとと子供をもうけて、笑っていてくれたかもしれない。地球外縁軌道統制統合艦隊のピーコックブルーを翻して凱旋する姿をまた見られたかもしれない。軍服姿のカルタの勇壮なうつくしさを、アルミリアは慕っていた。親友にも紅茶を淹れてあげたかった。

 なのにカルタは戦死し、愛娘を失ったイシュー公も先日ついに息を引き取った。

 マクギリス・ファリドが『逆賊』として断罪され、イオク・クジャン公が戦場にて討ち死にした、その翌日のことだった。

 ボードウィン家次期当主――ガエリオ・ボードウィン――は無事凱旋を果たしたものの、戦場で負った傷の治療のため、家を空けることが多い。

 やさしかった日々はもうどこにもない。

 マクギリスの裏切りを知らされ、戦死を告げられてもなおファリド邸を動こうとしなかったアルミリアを連れ戻すために、イズナリオ・ファリドが亡命先から〈ヴィーンゴールヴ〉に連れ戻されたのだ。あの家はもうアルミリアの暮らす場所ではないのだと見せ付けられて、胸が張り裂けそうだった。

 

(……マッキー、カルタお姉さま……どうしてなの、お兄様)

 

 古いアルバムの扉をようやく閉じて、アルミリアは十七歳年上の異母兄が過ごしたあたたかい日々を抱きしめる。

 伝説によれば、英雄アグニカ・カイエルは最も多くMA(モビルアーマー)を討ち取った戦友を称え、イシュー家を第一席としてセブンスターズを発足させたという。

 ならばどうして、カルタ・イシューは称えられなかった? マクギリス・ファリドは殺害されて、遺体を処分されてしまった? これが人が人らしく生きるということなのか。誰もが等しく競い合える、誰に反対されることもなく愛するひとを愛せる、そんな世界のためにギャラルホルンは生まれた――あの『伝説』は噓なのか。

 

(わたしの居場所は、やっぱりここにはないのだわ)

 

 愛する夫と親友を悼んでいられる時間すら、ここでは得られない。ここではないどこか遠いところ、〈ヴィーンゴールヴ〉の外の世界へ逃げ出したいアルミリアは、火星への留学を決めた。春からは火星で最も大きな都市〈クリュセ〉にある寄宿制の私立学校に通う予定だ。

 父には猛反対され、母にもいい顔をされなかったが、兄だけは「いいんじゃないか」とアルミリアの味方をしてくれた。どこまでも旅路をともにしてくれるというメイドだけを連れて、今週末にも〈ヴィーンゴールヴ〉を出立する。

 アルミリアはおもむろに立ち上がって、アルバムを本棚に戻した。

 この書庫にはガエリオ・ボードウィンが生まれて、育まれ、健やかに成長する日々をおさめた写真の数々がずらりと収まっている。

 ここでは、アルミリアはガエリオに見守られる姿しか存在しない。嫡男とその妹。ガエリオの幼馴染みに手を引かれる妹。ガエリオの親友と婚約した妹。

 そんな『妹』が『アルミリア・ボードウィン』になったのは、マクギリスとの婚約がきっかけだった。親同士が決めた政略結婚にすぎなかったというのに、十八歳も年の離れた彼はアルミリアをひとりの人間として扱ってくれた。立派なレディになりたい、マッキーにふさわしいお嫁さんになりたいというアルミリアの願いをまっすぐなひとみで聞き届けてくれた。子供の婚約者がいると揶揄されても、子供と結婚したと嘲笑されても。セブンスターズの慣習に従っただけで本意ではないと言い訳してくれたってよかったのに。彼は決してそうしなかった。

 ボードウィン邸に連れ戻されてまた『妹』にされてしまったけれど、今後は自分自身の足で立って、『アルミリア・ファリド』として生きる道を探しにいく。

 火星はこのごろ独立し、教育と社会福祉の推進を掲げて圏外圏の識字率回復を目指しているという。男女の雇用均等、子供が搾取されない社会を謳う初代連合議長クーデリア・藍那・バーンスタインの声は凛と力強くて頼もしい。

 ギャラルホルンの目の届かない場所へ行きたいアルミリアには、うってつけの環境だ。火星はマクギリスが生まれた地だとも聞いている。愛する夫の故郷を見てみたいという強い気持ちが胸にはあった。現地にはトド・ミルコネンという男がいるはずで、面識はないながら、顔ならよく覚えている。特徴的なちょび髭の、遠目に見てもわかる風体だから探せばきっと会えるだろう。

 アルミリアは、親友カルタが大好きだった。夫マクギリスを心底から愛していた。ふたりは幼いアルミリアを対等なレディとして扱ってくれた。今はまだ背が低いけれど、今はまだ言葉数も多くないけれど、だから子供だと切り捨てるようなことは絶対にしなかった。

 だから今度はわたしが、愛したひとたちのために生きられる世界を探しにいく。

 親友が生まれながら奪われていた生き方が、今のアルミリアにはできる。そうある未来を、マクギリスが遺してくれた。

 

(今度はわたしがあなたに会いに行くわ)

 

 マクギリス・ファリドの足跡をたどるために遥か遠く、火星へ。

 失われたしあわせを探して。




初出: 2017/9/10

※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。


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きみが蘇ることのないように

50話A〜Bパートの間の話。
(ガエリオがジュリエッタと一緒にアインの墓参りに行く話)


 ボードウィン家の墓のかたわらに、アイン・ダルトンの墓はある。

 歴代セブンスターズが眠る墓地だ。いくつかの家は取り潰しになったため七家ぶんの墓はないが、歴代ボードウィン公が眠る墓に寄り添うように、小さな墓が作られた。

 墓標に名前はない。火星人との混血児が地球に降り立っただけでもギャラルホルンの歴史に傷がつくのだ。彼を地球に連れてきたガエリオが責を負うことはないが、ギャラルホルンの理念を辱めた〈グレイズ・アイン〉には数々の批判が降り注いだ。

 アインを眠らせてやることはエゴだと感じたのは、そのせいだ。このまま『ギャラルホルンの忌むべき恥部』でいさせていいのかとガエリオは自問した。アイン・ダルトン三尉は、戦犯であるため二階級特進もできなかった。悲願であった上官クランク・ゼント二尉の仇討ちもかなわなかった。

 名誉回復のために今一度、戦わせてやりたい――! ガエリオの切なる願いをアリアンロッドは叶えてくれた。

 肉体はなくなってしまったが、焼き切れた臓器のかけらだけでもやっと眠らせてやることができた。

 

「終わったぞ、アイン。お前のおかげだ」

 

 車いすのブレーキを引いて立ち止まると、ガエリオは部下を懐かしむ。ジュリエッタが進み出て、膝の上から花束をとりあげると、墓標に捧げた。大輪のアングレカムを惜しみなく使った花束だ。純白の岩百合はガエリオの愛のように大きく清らかに、墓標をいろどった。

 鉄華団に復讐を遂げたかったアインの願い通り、宇宙ネズミは滅んだ。仇である〈ガンダム・バルバトス〉の首は全宇宙に晒された。残党がギャラルホルンに牙を剥くことはもうないだろう。経済圏と結託して地球にやってくるなどという暴挙も、今後はアリアンロッドが徹底的に阻止するはずだ。腐敗していた火星支部も縮小された。

 

「平和な世界を今度こそ守ってみせると約束しよう」

 

 悲しみを乗り越えるように、ガエリオは宣言する。

 事の始まりは、ギャラルホルン火星支部が任務に失敗したことだった。ちょうどガエリオがマクギリスとともに火星を訪ねたから、当時の本部長コーラル・コンラッドは事実を隠蔽しようと功を焦った。

 その結果、クーデリア・藍那・バーンスタインの地球侵攻を許してしまった。アフリカンユニオンのコロニーに武器を送り、アーブラウと交渉して軍事力を持たせた、死神のような女だ。経済圏が武装などしたらいつか大きな戦争になる、だからギャラルホルンが軍備を占有し、争いが起こらないよう見張っているというのに。クーデリアは宇宙ネズミを使い、火種を全世界にふりまいた。

 

 世界は、とても平和だったのに。

 

 圏外圏の有象無象どもがギャラルホルンの許可なく地球の青を穢し、ギャラルホルンの威光を曇らせた。

 こんなことがなければアインの上官が尊い命を奪われることもなかっただろう。カルタだって生きていてくれたはずだ。マクギリスだって馬鹿なことは考えず、セブンスターズの一員として誇り高く生きていてくれた。そうすればアルミリアだってしあわせになれたろうに。

 人にはみな、それぞれ生きるべき場所があるのだ。暴力によって境界を踏み越え、他者の領域を侵すなどあってはならない。

 大義も理想もなく、ただ金のために動くだなんて汚いやつらだと、ガエリオは今も苦々しく思う。金さえあれば何でもできるという幻想にとらわれた亡者の姿が、ただただおぞましく見えてならないのだ。

 だからこそ誇りのために戦ったアイン・ダルトンの生き様が、ことさらまぶしくうつった。

 

(お前の名誉はおれが守る。だからゆっくり休んでくれ、アイン)

 

 目を閉じて、祈りを捧げる。同伴するジュリエッタには聞かせられない願いだった。

 真実を知ったガエリオは、戦わず生きると決意した。それは脊髄に埋め込んだインプラントを切除し、阿頼耶識システムによる歩行補助を捨てるということだ。アインとともに戦うためだけにあったプラグであるから、アインの臓器がひとつ残らず焼けてしまった今、切除そのものに思い入れはない。

 ガエリオはこれから百年、二百年という長い時間をかけて、〈グレイズ・アイン〉のテストパイロットであったダルトン三尉が()()()()()()()()()()()()()()()()()の余生を送る。

 セブンスターズはそうした『失伝』を守るための番人なのだ。

 あるいは忘却、風化。伝説の機体〈ガンダム・バエル〉がふたたび稼働することのないように仕向けることこそがギャラルホルンの存在意義だ。冷たい土の下で眠るMA(モビルアーマー)が二度と目覚めることのないよう、火星を貧しく保つこともまた、ギャラルホルンが果たすべき義務なのだ。

 

 戦争を知らない人々を守るために。

 

 忘れさせなければならない。記憶から消し去って、二度と蘇ることのないように。

 阿頼耶識システムもそのひとつだった。あれは、まやかしの夢を安易に叶えてしまう悪魔の力だ。だから意図して失伝させたはずだった。

 パイロットになりたいという夢を、文字が読めない子供にまで与えてしまう。操縦技術が拙くとも凄腕のパイロットになれてしまう。ガエリオが真っ向から勝負を挑んだところでマクギリスには到底かなわないが、阿頼耶識タイプEとなったアインがガエリオのために力を尽くし、勝利をもぎとってくれた。

 己が生まれ持つ役割を忘れ、見果てぬ理想を追い求めようとする亡者に、おそろしいほど都合のいいシステムだろう。

 ガエリオはだから、もう戦わないと決めた。戦場を捨てる決意を胸に抱き、今後百年以上にもわたってギャラルホルンによる阿頼耶識システムの運用を隠蔽するためだけに生きる。風化させ続けることによってアイン・ダルトンの名誉を守る。

 そうすれば、カルタにも報いることができるだろう。今はアインの故郷に留学しているアルミリアにも。

〈忘却の番人〉ガエリオ・ボードウィンは愛する人々との絆のために、永く永い余生を生きていく。

 

 

 

 

 透明な涙をひとすじ落とした男の横顔を、女騎士は静かに見つめる。

 

(……わたしは、幸運だったのでしょうね)

 

 諦観のため息をひっそりと落として、ジュリエッタは目を逸らした。

 芝生の青のまぶしさに、ブルーグレーの双眸を眇める。閑静な墓地は広々としてうつくしく、遠い潮騒が静謐な空気をあたたかく保っている。

 アフリカンユニオンの片隅に生まれたジュリエッタがここにいるのは奇跡のようなものだ。貧しい労働者の家に生まれ育った、あのころの姿ならば、足を踏み入れただけで海に放り捨てられていたに違いない。

 ところがラスタル・エリオンの私兵となって戦い、ガエリオ・ボードウィンにとっての()()()()とやらとは違う存在だと認識されている。

 ついには『凛々しき女騎士』だ。

 ギャラルホルンの大義とは一体なんなのか、いくばくかの疑問がくすぶりはじめていた。




初出: 2017/9/22

※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。


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P.D.330
天国にはいけない


50話A〜Bパートの間の話。
(ユージンとチャドがクーデリアのSP業に馴染むまでの紆余曲折)


「ユージン、ちょっといいか」

 

 コン、と開きっぱなしのドアをノックして、チャドはあたりを気にしながら呼びかけた。何事かと顔をあげれば、静かについてきてくれ、と身振り手振りで伝える。

 ここでは言いづらい話なのかと察し、ユージンは仕事中だったタブレットにロックをかけると腰を上げた。

 オフィスビル内は静かながらささやかに音楽が流れており、話し声がノイズにならないよう配慮されている。……と思っていたが、こうしたBGMには内緒話をかき消す意図もあるのかもしれない。ある程度のボリュームがないと聞こえない。

 ふたりして廊下に出ると、男子トイレに場所を移した。ユージンとチャドにとって、ここで聞かれたくない相手といえば雇い主たるクーデリア・藍那・バーンスタイン連合議長様ただひとりだ。

 それでもあたりを警戒した上で、チャドがスーツの内ポケットから取り出したのは小さな白い袋だった。よく見ればパッケージ自体は透明で、中に白い粉末が入っているらしい。

 受け取って開封しようとしたユージンを、チャドが慌てて止めた。

 

「ヤバい薬だ。間違っても嗅ぐなよ」

 

 取り上げてから、呆れ半分、びっくり顔のままため息をつく。対象的に、ユージンは胡乱げな顔になった。

 

「クスリ……? なんだってそんなもん」

 

「それはおれにもわからねぇ。なんでも『天国にいける』っつって出回ってるらしい」

 

「天国だぁ?」

 

「死んだ奴が行く場所……って信じられてたところだな。浄土とか、ヴァルハラとか……地獄とか、まぁ、バリエーションはあるけど」

 

 厄祭戦以前に存在した『宗教』なるものは、もはや出がらししか残っていない。ユージンにはまったく馴染みのない観念だろう。

 チャドはヒューマンデブリとして売られるときに阿頼耶識のピアスとともに〈知識〉を補助するチップを植え付けられたからデータとしては知っているが、精神性まで理解しているわけではない。

 頭蓋に埋め込まれたマイクロチップに記録されている厄祭戦当時のデータの中には、生前に何らかの行動を起こせば、死後にもっといい場所へ行ける――という信仰がある。

 天国というのはそのひとつだと、チャドは手短かに解説した。

 

「火薬でラリってるやつとか、ユージンも見たことあるだろ」

 

 鉄華団にはさすがにいなかったが、CGS時代はさほど珍しい光景ではなかった。一軍の大人たちにとっては安く手に入る鎮痛剤、参番組の子供たちにとっては戦場の恐怖を紛らわす興奮剤だ。一時的なトリップはなけなしの救いになる。オルガがやってきて、薬をキメてふらつく大人を反面教師にしはじめたせいか、参番組ではいつの間にか見なくなっていた。

 とはいえユージンもチャドも、オルガより古株だ。CGS時代がそれなりに長いせいで、ちょっと記憶をたどるだけでも苦々しいほど覚えがある。

 どうやって生きればいいかわからない連中が使うものだったのだろうな――と、仕事で危険がともなわない今になってユージンは他人事のように嘆息した。

 

「……ラリったら、天国にいけるってのかよ」

 

「いや。天国ってのは、死んだやつがいくところだ」

 

 目を伏せたチャドは一旦言葉を切って、

 

 

「あいつらに会えるわけじゃない」

 

 

 ――としめくくった。

 死んだやつらには死んだらまた会えると、かつてオルガ・イツカは言っていた。だから急いで会いに行かなくていい、といったニュアンスだったのだろう。生きろと命じたい言葉のバリエーションをオルガはいくつか持っていたから、きっとそのひとつだ。葬式をすれば『苦痛を忘れ、生まれ変われる』という観念がメリビット・ステープルトンによって持ち込まれ、いつの間にか取って変わられていた。

 それが、このごろ復活したようなのだ。『死ねば死んでいったやつらに会える』というニュアンスに変質した上で。

 天国にいきたい連中の中で、オルガの『言葉』はオルガの『遺志』とは別の方向にねじ曲がってしまっている。オリジナルが死んでしまっているから、もはや修正もきかない。

 

「……そりゃあ、やべえな」

 

 何がどうしてそうなったのか、察しがつくだけにどうしようもない。ユージンはブロンドに手を突っ込むようにして顔を覆った。議長に恥をかかせないようきちんとセットしているので、苛立ちまぎれに引っ掻き回すわけにもいかない。

 そもそもオルガ・イツカとメリビット・ステープルトンは思想の面から真っ向対立することが多かった。オルガの通したい『筋』とメリビットが説く『正論』はいつだって噛み合うことなく、今になって思えばオルガはひどくストレスを溜めていたに違いない。後生大事に抱きしめていた鉄華団という家族を、ぽっと出の女に引っ掻き回されるのだ。テイワズからお目付役として派遣されてきた彼女は才色兼備で手厳しく、団長のメンツを守ってくれるような『やさしい女』ではなかった。

 メリビットと同様のスペックを持つ才媛たちが教師や医師、管理職といった待遇で大量に移民してきて以来、火星では年配の男性を中心に自殺者が増加している。労働環境改善という名目で会社を乗っ取られた心労、人員削減による失職などが主だった背景にある。

 そこへ漬け込む格好で、ドラッグのご登場だ。

 依存性があり、摂取量によっては中毒症状を起こして死に到る。火星ハーフメタルの採掘場など肉体労働の現場を中心に出回っており、転落による死傷者まで出はじめているという。

 それが事故だったのか自殺だったのかは、わかっていない。

 

「死んだ連中に会いたいっつーより、生き続けんのに疲れたのかもしれねぇな」

 

「否定できないな……。死ぬような危険な仕事はなくなったってのに、皮肉なもんだぜ」

 

「働いても働いても金がねぇってのもキツいだろ。頭のひとつもおかしくなっちまう」

 

 自嘲めいて肩をすくめたユージンにも、理解できる気持ちだった。

 同姓同名の別人として無事火星に帰ってきたユージンたちだが、アーブラウでIDを書き換えてもらう間にも仲間を次々失った。怪我が祟ったり、冷たい冬に晒されたり、バルバトスが討伐されたという報道を聞いて気が狂ったり。さまざまな理由で命を落とし、故郷に帰ってこられなかった連中も多い。

 いざ帰ってきても、クーデリア・藍那・バーンスタイン連合議長様が斡旋してくれる仕事には『戦闘以外』という条件がつく。

 十六歳未満の子供は一律学校へ、それ以上の年齢なら就学か就職どちらか自分で選ぶように――という方針により、年少組のチビどもはまとめて学校に入れたが、選ばなければならなかった年長者の心労は身に余る。

 生き伸びるためにと必死に耐え忍び、やっと故郷に帰ってこられたと一息つく間もなく仕事を「選べ」「考えろ」「学べ」と追い立てられるのだ。全力疾走の延長、延長、また延長。休む暇も与えられず繰り返させられたら、さすがに精神的にくる。

 傭兵としてしか生きてこなかったから他に何ができるかなんて知らないし、わからない。今から文字を勉強して、使い物になるまで何年かかるか……なんて考えるのも億劫だ。だから阿頼耶識システムがあったのだろう。読み書きも計算も何もできない子供でも、背中のヒゲさえあればMW(モビルワーカー)MS(モビルスーツ)を動かせる。戦うことで鉄華団に貢献し、戦って生き残れば、つきまとう無力感から解放された心地になれた。

 それが今では、新しい仕事に適合するために頑張って「学ぶべきだ」。

 木星圏から大卒者が大挙し、求められるスキルレベルが大幅に釣り上がった現状でそれなのだ。相対的に無知無学な地元出身者は肩身が狭い。

 仕事で疲れきった精神に、天国へいけるという誘惑。頑張って稼いだ金をはたいてでも楽になりたい気持ちは、理解――できてはいけないとわかりつつも――できてしまう。

 ユージンだって、鉄華団副団長という立場があったからこうして連合議長SPという仕事を得られただけだ。

 同僚のチャドのように秘書を兼ねられるほど博学ではない。ヒューマンデブリ時代に埋め込まれたマイクロチップによるものとはいえ、チャドには知識があるのだ。四大経済圏の言語がすべてわかるので通訳にもなる。今さら劣等感も何もないが、ユージンの中の疲れた部分は天国への逃避行とやらに言い知れぬ魅力を感じてしまう。

 

「……この件、お嬢には?」

 

「まだ何も。報告すべきか迷ったから相談にきた」

 

 天国にはいけない粉を、チャドはユージンから隠すようにスーツの裡ポケットにしまいこんだ。宇宙で、地球で、火星で、生き残りの数は日に日に減っていく。戦死でもなく病死でもなくドラッグ中毒で死んだだなんて、クーデリアに報告するのは気が引けた。

 

「なら対策が先だな。お嬢に伝えんのはそれからでいいだろ」

 

「わかった。ひとまず、学校組のバイト禁止から手を打っていく」

 

「任せた。頼りにしてるぜ、チャド」

 

「ああ。それじゃ、おれも仕事に戻る」

 

 うなずきあって、時間差で廊下へ出る。頭脳労働のできるチャドは、ユージンと仕事内容が異なるのだ。調子に乗ったウィングチップのつま先を見下ろして、ああと肺腑の底からため息をつく。ダークスーツが映えるだの、ネクタイが洒落ているだのと見栄えを褒められるのはユージンなのに、重要な仕事を任されるのはいつもチャドだ。

 

(……能力がねえっつーのは、キツいわな)

 

 劣等感以上に、生きられる場所の少なさに愕然とさせられる。インテリ女史の大量参入の煽りを食って、肉体労働はますます価値を落としてしまった。大なり小なり頭脳労働ができないと稼ぐに稼げない。戦いのなくなった新しい火星社会は、ダンテのようなハッキング技能、ヤマギのような整備スキルがある連中にばかりやさしい。

 今のところ、一番うまく馴染んでいるのは学校に通う年少組だろう。読み書きも計算もできるし、体力もある。小学校のほうからは「トロウが怪我してる」「心配だ」とヒルメが何度か直訴に来たが、どうせ成長痛だ。夜になると膝が痛みだすらしい、手のひらがぼろぼろになるほど握りしめている――というヒルメの話は、ユージンにも覚えがあった。昼休みに覗きにいけば当のトロウはけろっとして、三人で元気そうに談笑していたので、学校でもうまくやっているのだろう。出来のいい子供たちは手がかからなくて助かる。

 成績のいいやつに限りアルバイトの許可を出してきたが、今後はそれもできなくなっていくのだろう。

 ふと腕時計を見やれば、仕事のあとに少し時間がつくれそうだ。ユージンはタブレットを開くと、今夜にでも少し話がしたいとメールを作成した。送信ボタンを押し、虚ろなため息をついて、仕事に戻る。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 午後八時半、外で適当な夕食を済ませたユージンが訪ねたのはカッサパファクトリーの隣、カッサパ宅だった。

 客間にて、客人用のティーカップを出されて頭を下げる。白く細く、芳醇な香りを乗せた湯気を吸い込んでからメリビット・ステープルトン・カッサパに向き直った。

 

「あんたなら、鉄華団の内情も知ってるからと思ったんだが――」

 

 切り出したはいいが、続く言葉を見失って言いよどむ。木星圏から移民してきたという女たちは、鉄華団のお目付役としてテイワズから出向してきたあんたの後輩にあたるのだろう? ――と、本人に言っていいのか悩んだのだ。

 メリビットは高学歴で、キャリアもある。男尊女卑社会ではキャリアを伸ばせなかった木星移民たちよりよほど高位の存在なのかもしれない。

 

「いいのよ、ユージンさん。本題をどうぞ」

 

「……悪ぃ」

 

 カッサパファクトリーは営業時間を過ぎているし、長居するわけにもいかない。

 

「就職組のやつらがクスリやってることが判明しました。主にハーフメタル採掘現場のほうで」

 

「ドラッグ……!?」

 

「ああいや、ここを疑ってるわけじゃなくて。どうすればいいのかと」

 

 社員での流通を疑っているわけではない。怪訝そうなメリビットには言い訳じみて聞こえたかもしれないが、ここはヤマギやザックも務めている工場だ。工学系の専門職は、現状の火星でも()()()部類の職業である。細かい作業も多い仕事だけに、ドラッグの使用は百害あって一利なしだ。

 肉体労働か単純作業しかできない連中の間で『天国にいける薬』は広がっている。どこにも居場所のなかった孤児たちにも食事と寝床を与えたいと願ったオルガ・イツカはいなくなり、できる仕事をできる限りで頑張っただけでは生活していけなくなった。

 その手に技術を宿してきた専門職、身ひとつで戦ってきた戦闘職の間には、今や大きすぎる溝がある。

 就職組は二分化され、学のない元戦闘職が居場所を失って苦しんでいる。

 

「あんたを見込んで、教えてほしい。人並みのしあわせ……っつーのになるには、おれたちはどうなればいいんだ?」

 

 どんな顔をすればいい。どんな生活をすればいい? どんなふうに生きれば、人並みのしあわせを手に入れたことになるのか。鉄華団でそれなりに恵まれた青春を過ごしてきたから、クーデリアの言う『火星の人々をしあわせにしたい』という願いがわからなくなってきているのだ。

 ああ、だからお嬢には相談しづらいと思ったのか――と、ユージンは後馳せながら自覚した。

 オルガの言う『家族』のかたちに反発したのはメリビットだけだった。家族とはこういうものだ、幸福とはこういうものだとオルガを導こうとした彼女だから、ユージンは教えを乞おうと思ったのだ。

 

「人並みのしあわせになるには……。そうね、とても難しい問題よね」

 

 メリビットはしかし、かつてのように正論を展開することもなく繊細な指先でティーカップを包んだ。

 言葉を探して、いくばくかの沈黙が降りる。まだ青かった当時のメリビットなら、人並みのしあわせとはこういうもので、あなたたちもこうなりなさいと諭せただろう。そうすれば年少の子供たちが「はーい!」と元気よく返事をして、オルガが面白くない顔をする。メリビットは勝ち誇ったそぶりも見せず、余裕ぶって微笑するのだ。「団長さんもどうですか」とでも。

 弱冠十七歳のリーダーに嫌味を言うなんて、なんて大人げなかったのだろう。嫌な女だ。薄化粧のくちびるが、自嘲気味にほどける。

 あのころのメリビットは、少しだけイライラしていた。女だからというだけの理由で出世レースへの参加権を奪われ、邁進したかったキャリア街道を進めなくなってしまったことに。テイワズの銀行部門にいたのに、ある日突然出向を命じられて、それがタービンズよりさらに格下の新参者だなんて――と。

 自身の半分の年齢で子供たちを率いていたオルガに嫉妬する気持ちもあったかもしれない。

 何より、オルガ・イツカを誤解していた。彼を宗教的煽動者だと思っていたのだ。

 

 ――ふざけないで! 囮になる? 命を賭ける? この子たちを死なせたいの!?

 

 ――こんなの間違ってる!! ビスケットくんだってフミタンさんだってこんなの望んでない、絶対に間違ってる……!

 

 命をチップにするだなんておかしい。こんなに素直で働き者で、真面目な子供たちなのに。このままではオルガにけしかけられて悪魔の生贄にされてしまう。当時は本気でそう危惧した。

 でも違ったのだ。

 

「あたたかい家族がいて、守りたい人たちがいて……、人として当たり前のしあわせを、あなたたちは持っていたもの」

 

 確かに『人並み』とは形の違うしあわせだったかもしれない。『家族』と呼ぶには異様に見えた。

 だが明日をも知れぬ幼い命が肩を寄せ合い、惰性ではなくひたむきに、今日を生き残ろうと明日を目指していた。誰も騙されてなんていなかった。煽動されてもなかった。

 ただ、夜が明ければ朝を迎える生活しか知らなかったメリビットには想像もできなかった、鉄と血でできた絆のかたちだった。

 本当の家族とは何なのかをメリビットが説いたところで、絵本の読み聞かせ程度の距離感でしかとらえてはもらえなかったに違いない。新しいことを知りたいという学習意欲から話を聞きたがるだけなのだ。物語の続きをねだるきらきらとしたまなざしを賛同と勘違いしたのはメリビットの未熟さであり、承認欲求だった。

 安心したかったのだろう。不安だった。先行きも何もかも不安でしょうがなかったから、オルガのやり方は『間違っている』と切り捨てた。『正しい』幸福の定義を子供たちに教えてあげて、やさしさで溶かして、メリビットの知っている金型に流し込んでしまおうとした。わからないものはおそろしいから、わかるものに作り替えてしまえばいいのだと、無意識のうちに。

 理解者の顔をして、全否定していた。

 

「しあわせの形って、人の数だけあるものよ。心のままに生きるのが『しあわせ』なんじゃないかしら」

 

「それで『人並みのしあわせ』ってやつになれるのか?」

 

「人並みでなくてもいいの。しあわせかどうかは、自分自身の心が決めることよ」

 

「……それじゃあ、おれらは一体どうなればいいんだ?」

 

 掘りの深い顔立ちに、にわかに陰が落ちた。ユージンは今、迷いの中にいるのだろう。何か助言をすれば、彼はメリビットの言葉に真摯に耳を傾ける。

 

(団長さんなら、なんて声をかけるのかしら)と考えて、メリビットはくちびるを(とざ)した。

 

 オルガなら、きっとメリビットのお説教など聞こうともしない。彼は正論がときに人を傷つけることを知っていたし、だからこそ効率化や合理性によって居場所を追われた孤児たちのシェルターであり続けた。

 戦闘職の下っ端ばかり増やして、一体どういうつもりなのかと詰め寄っても、オルガは行き場のない連中は全員迎え入れると言って聞かなかった。後方支援とは兵站業務ばかりではない、医者を優先的に雇うべきだ、看護師も事務方も圧倒的に足りていない――どれだけ叫んでも、事務方をスカウトしに出向くこともない。どうしても必要なのだから優遇すべきだとメリビットが説いても、オルガは頑として、大人だろうが子供だろうが、大卒だろうが独学だろうが同じ仕事をする以上は給与形態も同じでなければ『筋』が通らねぇと譲らない。

 来るものは拒まず、去るものは追わず、来たくないなら来なくていい。そればかりか『報酬は仕事内容で決める』『全員一律正規雇用』という方針をオルガが覆さないせいで、年長者ほど苦い顔で背を向けてしまっていた。

 火星では格段に払いのいい職場だとしても、大人には大人のプライドというものがある。子供たちと同じ給与形態では失礼にあたると説得しても、こうだ。

 

 ――ガキと同じ手取りじゃやってられねーなんてヤツは鉄華団にはいらねえ。

 

 就学経験や免許にはちゃんと資格給をつけているのだから、年齢による便宜を図ることは絶対にしない。オルガ・イツカの語る『筋』は、青臭くて、潔くて、平等で、だからこそ子供たちから憧憬と信頼を集めたのだろう。

 渡世の足枷でしかない思想を頑なに手放さなかった団長とは対象的に、元副団長ユージン・セブンスタークは、みずからの哲学を持たない。そんなものを持っていたら、刻一刻と変化する現状に適応しきれないからだ。そうした性質がユージンを〈イサリビ〉の艦長たらしめていた。

 

「誰かの作ったレールの上を進まなくてもいいの。自分の生き方も、自分のしあわせも、自分自身で選べばいいのよ」

 

 それができる時代になった。そうでしょう? メリビットの言わんとするところを理解して、ユージンは「ええ」と低く相槌をうった。

 

(だから、おれはそのレールについて聞きたいっつってんだけどな)

 

 選ぶこと、考えること、学ぶことに疲れた連中に示せる(レール)さえわかれば、ドラッグを使って天国に逃げなくたって済むだろうと思ったのに。戦闘職に戻る道を選びたい連中は、鉄華団の残党だというだけで二度と傭兵にはなれないのだ。『戦わなくてもいい世界』なんて言えば聞こえはいいが、戦うという選択肢を選ぶ権利が奪われている。ここは『戦いたくても戦えない世界』だ。

 だがメリビットの言葉はいつも正論で、ユージンでは太刀打ちできない。

「ありがとうございました」と礼を述べて、カッサパファクトリーを辞した。

 

 

 

 

 吹きすさぶ夜風に逆らいながら、ユージンが歩くのは帰路というレールだ。今のユージンには家がある。だから帰れる。もしも帰る場所がなければ、夜通しさまようハメになるのだろう。帰りたい場所は自分自身で決めていいと助言を受けたって、たどり着いたその先から歓迎されるとは限らない。実在するかもわからないゴールまであてどもなく走り続けるのは困難だ。

 だからせめて、この道を進めば生活に困ることはないのだというレールが一本あればと考えた。

 そうすればきっと、金の使い道だって間違えない。天国にはいけない薬に蝕まれることも、採掘現場で足を滑らせて転落死することもないはずだ。

 もう誰も死なせないための道筋をメリビットに問いたかった。戦い以外にどんな未来があるのか、標を示してほしかった。

 戦場でなくとも命はもろくて、ちょっとした傷が化膿して、いとも簡単に死んでしまうから。

 

「お嬢に何て言やいいんだよ……」

 

 頭を抱える。金髪をかき乱す。向かい風に打ち据えられても、ユージンは革靴の傷みを悟られる明日を危惧してしゃがみこむことができない。ああ。

 ふたたび死人が出れば、今度こそクーデリアに伏せておくことはできないだろう。

 

 なあ、オルガ。

 教えてくれ、オルガ・イツカ。お前は一体どうやって、『ここじゃないどこか』へ続く道を目指し続けていたんだ。

 その道は、どこへ続いてるはずだったんだ。




初出: 2017/09/22

※連載『鉄血のオルフェンズ 雷光』回想集に収録。別軸のアフターストーリー『弾劾のハンニバル』でもこの解釈をもとに話を進めています。


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P.D.331
ドラグーンの絵筆


50話A〜Bパートの間の話。
(ノブリス暗殺に踏み切るライドと見送るタカキ)


 高級なカーペットの赤に、革靴がそっと沈む。今朝ちゃんと磨いたはずのつま先はすっかりくすんでしまっていて、ライドはおもむろに足を止めた。さすがクリュセで一番いいホテルの廊下だけあって、ディープトーンの落ち着いた毛足の絨毯は、こんなにも赤いのに血液を連想させることがないから不思議だ。

 火星を訪れているラスカー・アレジ代表の警護任務が終わりを迎え、我知らず詰めていた息を細く吐きだす。護衛だけなら慣れたものだが、秘書の親友だからと過ぎる歓迎を受けることには、どうにも抵抗があった。

 アレジさんはいい人だし、元鉄華団のよしみでよくしてもらっているのもありがたい。ただ、無作法なままのライドを叱りもしないタカキの目が何とも言えず居心地悪くて、せっかく飲めるようになった酒の味もわからなかった。

 無事に送り届けたホテルの部屋から退室して、ひと心地つく。やっと帰れると思ったのに、今度は要人秘書である旧友が割り当てられた扉に手をかけながらライドを振り返った。

 

「ライドとお酒が飲める日がくるなんてなぁ。大丈夫? 酔ってない?」

 

 さも寄っていくだろうと言わんばかりの顔である。タカキは昔からこういう、人をぐいぐい引っ張ろうとする強引さがあった。

 大仰にため息をついてやれば、何かおかしなことでも言ったかと、相変わらずキャンディみたいな双眸がころりとまたたく。こいつのお節介には慣れっこだ。いいやと首を横に振って、ライドはカーペットが地続きの部屋に足を踏み入れた。

 重たいドア、厳重なオートロックの鍵が落ちる。見渡せば天井は高く、大きな窓はクリュセの夜景の一等きれいな部分を広々と切り取っている。品のいい調度品といい、壁に架けられた大きな絵といい、代表の泊まる一室よりワンランク落としてなお格調高くうつくしい。

 そんなスイートルームに馴染む男に、タカキは成長しつつある。

 柱のように直立するカーテンをほどいて夜景を向こう側へ追いやると、ライドは上着を脱ぐタカキを肩越しに振り返った。もともと上背だけはあったからスーツを着たってそれなりに見栄えはしたろうが、立ち振る舞いがもう少年兵のそれではないと見てわかる。無知蒙昧な子供であった過去とは違う。ジャケットから袖を抜いてハンガーにかける手つきも、ネクタイをゆるめる指先も。

 武ではなく智で戦う、大人の男になった。

 ライドを見守るときはいまだに飴玉のような色をしているひとみも、盗み見る横顔はブランデーじみた鋭さと華やかさを混在させている。髪が短くなったから、真面目な印象にもなった。目線が近づいただけに見えてくる差異は大きい。

 明日の朝には地球へ帰る手筈だからか、当たり前のような顔をしてライドを引き止めたタカキは、やはり自然なしぐさでソファをすすめた。ローテーブルにグラスを並べる。慣れた手つきで氷を砕く指先は、隔てた時間を表すように上品である。

 そして注がれた酔い覚ましのミネラルウォーターは凛と透き通って、ぷかぷかと浮く透明を軽やかに揺らした。

 繊細なカッティングが施されたグラスの底が光を集めて反射させ、隣り合わせてふたつ並んだグラス同士がきらきらと助け合うように輝くさまは、いつか打ち上げた氷の花に似ている。きれいだと、心底から思う。

 なのにライドは不純物の沈殿がないことに違和感を覚えてしまう。風の強い火星では砂塵がどこかで混ざって、グラスの底にはいくばくかの砂が沈んでいるものだったからだ。

 

「ライドも身長伸びたけど。暁くんも、ずいぶん大きくなってたよ」

 

 先日訪ねたのだという三日月の忘れ形見を思い返してか、タカキは甘い色彩の双眸を細めた。

 ライドとは向かい合うようにソファにかけて、ゆったりと長い足を組む。大きな双眸をやわらかく細める笑い方は、年少組をまとめていたころとはいくぶん違う色彩で、それを父性と呼ぶのだとライドは知らない。

 会いに行けばいいのにとうそぶくけれど、ライドは横に振る。やんわりと、しかし強い拒絶を示すとタカキは長い睫毛をななめにして、写真を見せようとしていたのだろうタブレットの画面を黒くした。

 暁・オーガス・ミクスタ・バーンスタイン。三日月の忘れ形見の話は、ユージンやチャドにも会うたび聞いている。しあわせになってほしいと思う。だから、だめなのだ。

 部屋に監視カメラのたぐいがないことを確認してから、声のトーンを落とす。絞り出すように打ち明けた。

 

「おれは団長の仇を討ちいく」

 

 ノブリス・ゴルドンが火星にやってくるという。この仕事を終えたら、その足でエンビたちとともに蜂起する。クーデリアからは離れるつもりだ。鉄華団やタービンズにつながりそうな関係も全部断って姿を消す。そのためにライドはあくまでもフリーランサーとして仕事をしてきた。

 いつか仇を取りたくて、ライドは今日まで生き延びてきたのだ。三日月にもアトラにもよく似ているという子供に会ってはいけない気がした。やんちゃな少年と聞けば年少のチビたちの記憶と重ねてしまう。あのクーデリアが一心に愛する忘れ形見に復讐者の顔を見せるのも気が引ける。だから絶対に会わないと誓った。

 

「だめだ、ライド」

 

 鋭く息を呑んだタカキがソファを立つ。長身のせいでライドをはるか高みから見下ろす目線になって、「だめだ」と諭すように繰り返した。

 

「団長は復讐なんか望んでない」

 

「何でそんなことがお前にわかるんだ」

 

「わかるよ! 団長は、おれたちみんなが平和に暮らしていける未来を目指してたはずだろ?」

 

「それなら、」

 

 口角をいびつに歪めて、ライドは笑った。嘲笑だ。つり上がるくちびるが、自傷のようにふるえる。

 

「なおさら仇を討たなきゃ。やり返せずに生きてたら、おれはずっと苦しいまんまだ」

 

「ライド……!」

 

「団長は進み続けろって言ったんだ」

 

 止まるなと、オルガは最期にそう言った。石造りの路面を染めた鮮血の赤がライドのまなうらには今も強く激しく焼き付いている。倒れてなおオルガは、その指先で未来を示した。追従するように血液が流れて、道を作った。

 あんな鮮烈な絵をライドは知らない。オルガほど鮮やかな未来図を、今のライドは描けない。

 タブレットに溜め込んだ落書きを見つけて、価値を見出してくれたのはオルガだった。鉄華団のシンボルをデザインするという大役を与えてくれたのも。自由に描けと、カンバスを与えてくれたのも。

 

 絵を描くことは、夢の実現と同じなのだと教えてくれたのはオルガなのだ。

 

 オルガ・イツカという男が語った夢があって、みんなで実現したくて動き出した。それが鉄華団だった。宇宙ネズミの寄せ集めでしかなかったCGSの参番組が、独立して、ひとつの家族になる。そんな夢をオルガが見てくれたから、みんなと共有してくれたから、明日の夢も見られなかった宇宙ネズミは未来のほうを見始めた。三日月が先頭を切って走り出したから、おれたちも続けと走って走って、夢を叶える夢を見た。家族という大きな夢の中で、みんな、オルガが語る言葉の中に未来を見た。

 そんなオルガが、褒めてくれた。頭の中にある漠然としたものを出力できる力を。絵という表現を。文字の読めない子供にも、阿頼耶識を介さずとも伝えることのできるメッセージだと。

 お前はスゲー能力を持ってんだぞ、好きなだけ描け――そう言ってオレンジ頭をわしわし撫でてくれた。筆もペンキも惜しみなく与えてくれた。

 あの手のぬくもりでライドは生きている。シノに守られ、団長に庇われて、そうまでして生きながらえた命の意味を探している。

 

「おれは止まれない。おれが前に進むために、必要なことを果たしにいく」

 

 これ以上ここにいても諌められるばかりだろうとライドは腰を浮かせた。

 明日の朝、共同宇宙港〈方舟〉まで車を出すメンバーにライドは含まれていないから、タカキに会うのは今夜が本当に最後だろう。対峙を避けるように踵を返す。

 最後の仕事でタカキと話せてよかったと思う。CGSに入ったころから仲間で、ライバルで、かけがえのない友人だった。

 それももう終わりだ。明日にもライドはエンビたちとともに動き出す。

 レジスタンスにしてはあまりに小さく、立派な理想も志もない、チンケな一団だ。ただ、五年前から生き方を決めていた連中がライドとエンビを中心にして砂鉄のようにひとつになった。

 基地から脱出するための戦いで双子の兄弟を失ったというエンビは、いつの間にかライドよりもでかくなって、声だって大人の男になっていた。しかし、団長の仇がわかるかもしれないと示唆された瞬間、さっと目の色を変えたのだ。復讐鬼のそれだった。古戦場に置き去りのエルガーを今も忘れていない、手負いの獣の目をしていた。

 そのときライドは、自身の賊心を肯定されたような気がした。家族を失った痛みを悲しみを、乗り越えて強く生きるばかりが救いじゃない。生き残った仲間だけが希望じゃない。

 仇討ちがしたい。

 天啓は矢のようにライドの胸に突き刺さった。ノブリスを殺したところで喪失を埋めることはできないだなんて、嫌というほど知っているけれど、それでも。

 

「……ねえ、ライド。落ち着こう? 今は頭に血がのぼって、周りが見えなくなってるだけだ。もっとたくさんのことを知って、たくさんの選択肢を見て、考えれば――」

 

「そのために!!」

 

 吠える。犠牲を背負う苦しみを、乗り越えるためのきっかけが欲しいのだ。ローテーブルががたんと揺れて、ふたつ並んだグラスのひとつが倒れて転がった。繊細なガラスに稲妻が走る。細い亀裂を踏みつけるようにテーブルを広がる水面に、緑色の双眸がうつる。水鏡の中のライドは、どうしようもなく子供だ。

 背が伸びても見た目がいくら大人になっても、年齢を重ねたってライドは大人の男になんかなれない。オルガを目の前で失った夕闇の中に取り残されて、前に進むことができないままいる。

 

「生きたい場所も、選びたい道も、仇を取らなきゃなんにもないんだ……!!」

 

 血を吐くような慟哭が、大人になりきれない声帯を裂く。きつく握りしめられて白くなる拳をタカキがそっとほどくと、ライドは小さく、大声を出してしまったことを詫びた。

 ごめん、と重ねる。タカキが「いいよ」と許して、まだいくらか小柄なライドを抱きしめた。仲間同士の抱擁だ。スーツを着てしまえばもう肩を組んで笑い合うことはできないけれど、心だけはずっと戦友でいたかった。

 緑色の双眸を覆った涙が一滴あふれて、頬を伝って、タカキの白いシャツに染みをつくる。足元では真水が絨毯に染みて赤を濃くし、それも朝には何もなかったかのように乾くのだろう。最後の涙を流し終えるとライドは、なあ、とかつての友を呼んだ。

 

「おれ、絵がすきでよかったよ。団長の依頼で鉄華団のマークも、〈イサリビ〉のにぎやかしだって描けた。文字も、勉強してよかったよ。死んだ仲間の名前、ちゃんと刻んでやれたから」

 

 墓標に手向ける名前も花も、すべて学びがくれたものだ。やってきたことは何一つ無駄にはならなかった。それはみんなが無駄にしないための生き方を選んでいるからだ。

 絵という未来図を描ける力をオルガが褒めてくれたから、ライドが絵筆を捨てることはないだろう。きっと一生。永遠に。頭の中の空想をアウトプットする力を持つライドを、オルガが愛してくれたから。

 オルガ・イツカの未来図を、おれたちで形にしてやろうと動き出したのが鉄華団だった。団長が夢を見て、それを語って、はじめて夢を見ることができた。オルガは明日の夢を見せてくれた。家族という夢を見せてくれた。

 だけど。ライドの中にある絵は、オルガの最期を越えられない。

 あたたかい手が、冷たくなっていく指先が最期の最後に描いた赤く赤い血潮の流れ。あれを越えるイメージを、ライドは今も描けていない。心は今もあの夕暮れに置き去りのまま、倒れたオルガが差し示すひとすじの赤い絵の具をなぞるように、座り込んで涙を流し続けている。

 今のままの世界では、後世に鉄華団の存在を残す絵を描く権利すらまともにないのだ。

 前に進みたい。いつか光の当たる絵を描きたい。そのためにライドは鉄華団が遺した銃を取る。鉄華団が戦った日々を風化させないための力を求めて、無謀とわかってライドは危険な道を行く。

 

 だからさよなら。どうかお前はしあわせに。




初出: 2017/04/03 @pixiv

最終回直後の殴り書き。これを原形に『鉄血のオルフェンズ 雷光』を書いたので、思い出深いSSです。どんな形であれライドには本懐を遂げてほしい。

短編集の更新はこれでおしまいです。ここから各アフターストーリーに分岐するので、あわせてどうぞ。
お付き合いありがとうございました。


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