軽井沢アフター~ごとしの小咄~ (かず軍曹)
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1話
あの~しのぶさん。
弱々しい後藤の問いかけ。
しのぶは聞こえているのか、仕事に集中しているのか分からないが返事をしない。
再び
あの~しのぶさん。
ぱたん。
読んでいたファイルを閉じ、立ち上がりながら、きびすを返す。
流れるような動作、無駄も隙もない。
何ですか、後藤警部補。
表情は険しく、口調も事務的だ。
それから、勤務中は『さん』ではなく階級をつけて呼んで下さい。『南雲警部補』って。
え~、今更。
面倒臭そうに頭をかきながら、つぶやく後藤。
今更じゃなくて『親しい仲にも礼儀あり』でしょう。それに・・・。
最初は毅然とした口調のしのぶ。後半、何かを想い出したように、はにかみながら呟く。
それに?
後藤はオウムのように小首を傾げながら返す。
それに・・・
言葉に詰まるしのぶ。段々と赤面していく。
しばらくの静寂の後
ああ、あの日のことか。
後藤は思い出した。研修終わりに帰るに帰れなくなった状況で、成り行きでラブホで一夜を過ごした日のこと。
後藤は辺りを見回し、誰もいないことを確認しつつも、小声でしのぶの耳元でつぶやいた。
俺、何にもしてないし。気にもしてないよ。
赤面しながらも、きっとした表情で後藤に言い返す。
あなたは、そうかも知れないけど、私は・・・。
私は?
今度は、いたずらっ子っぽい表情で後藤が聞き返す。
たのし、じゃなくて、恥ずかしかったの!
後藤の目には、ほっぺたをプックリと膨らませながら、言い切ったように見えた。
そう、恥ずかしかったの。
後藤の表情が段々とにやけていく。
だから、馴れ馴れしく私に言い寄ってこないで!
しのぶは、左手を腰に当て、右手人差し指をピッと後藤の鼻先を差しながら言い切った。
はいはい、わかりました。後藤警部補は今後、南雲警部補に馴れ馴れしく言い寄りません。
後藤は姿勢を正し、しのぶに対して敬礼をした。しかし、口角はヒクヒクと小刻みに震えている。
分かっていただいて安心しました。以降、その調子でお願いします。
しのぶは、安心した表情で踵を返し、椅子に腰掛け、読みかけのファイルを開いた。
ああ、誘いそびれちゃった。
後藤は、残念そうにその場を後にした。
ポーン。
しのぶのPCから通知音が鳴った。
あら、何かしら。
後藤喜一さんからメッセージ
・・・削除っと♥
シュタッ。
しのぶは、後藤からのメッセージを開く前に削除した。
南雲警部補。
目の前にファイルケースを抱えた進士が立っていた。
何かしら、進士巡査。
課長報告用のプレゼンをまとめていたしのぶは手を休めた。
後藤隊長から、取り扱い注意の回覧文書を預かってきました。
ご苦労様、ありがとう。
しのぶは進士が自分の視界から消えてから、いかにも、という感じの赤いファイルケースを開けて中を確認する。
目の前に座っているのに。また、何を企んで・・・
紙が1枚出てきた。こう書いてある。
俺の話を聞いてちょうだい。
しのぶは、表情を変えることなく、後藤からのメモをシュレッダーに掛けた。
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