その名は忍耐 (おかぴ1129)
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1話

 港から出て数分歩いたところにあるコンビニの喫煙所でタバコを吸っていたら、俺の足元に黒毛のミニチュアダックスがとことこと歩いてきた。俺の靴の匂いを興味深そうにクンクンと嗅いだそいつは、顔を上げて俺を見上げる。

 

 口からモクモクと煙を吹き出していた俺の顔を見た途端、そいつはしっぽを元気よく左右にふりふりと振りまくり、犬のくせに『あ、笑顔だ』と分かる人間臭い表情で、俺の宮城来訪を歓迎してくれた。

 

「こんばんは」

 

 続いて姿を表したこのミニチュアダックスの飼い主と思われる、妙齢の女性の丁寧な挨拶を受け、俺も反射的に頭を受け下げた。

 

 季節は冬で時刻は夕方五時。東北と言っても差し支えない宮城のこの地は、海沿いということもあって風が冷たく、そして寒い。女性はオレンジ色のジャージを着ていたが、服がもこもこと盛り上がっていて、赤の他人であるはずの俺から見ても、何枚も重ね着しているであろうことが見て取れた。

 

「こんばんは。この子の名前は何ですか?」

「はなといいます。女の子です」

「へぇ〜。はなちゃ~ん。おいで~」

 

 俺は、咥えていたタバコを灰皿に投げ入れ、片膝を付いてしゃがみ、タイミングよく『ワン!』と自己主張してくれたはなちゃんに両手を差し出した。左手の手の平の匂いを興味深げにすんすんと嗅ぐはなちゃんを見て、『ヤニ臭い右手じゃなくてよかった』と安堵し、女性との会話を続ける。

 

「聞きたいんですが、中野栄駅はこのそばですか?」

「少し離れてます。今からなら、あっちのタクシー乗り場からタクシーで行ったほうがいいですね。観光ですか?」

「ええ。静岡からです。フェリーで来ました」

「へぇ〜……わざわざ静岡から……」

「はい」

 

 俺の左手の匂いがお気に召したのか、はなちゃんは俺の左手をぺろぺろと舐め回し始めている。犬とじゃれつくのは大好きだけど、すでに夕方のこの時間。ぐずぐずしていては、ここに来た目的の一つ、ヤツに会う時間がなくなってしまう。

 

 はなちゃんから左手を離し、俺は立ち上がった。はなちゃんが俺の左足にしがみついているが、気にしない。そんなはなちゃんの様子を微笑ましく見つめる女性に別れを告げ、俺は先ほど教えてもらったタクシー乗り場へと足を運び、人のいい運転手に中野栄駅へと運んでもらうことにした。

 

 

 2年ほど前、俺は、当時プレイしていたオンラインゲームで、ヤツと出会った。

 

 本名は知らない。そいつがゲーム内で使ってた名前も、俺が元ネタを知らないキャラクター名だったから、まったく興味がわかなかった。そのオンラインゲームも今ではサービスが終了していて、確認することもできなければ、思い出すこともできない。

 

 でも、そいつのアダ名はよく覚えている。なぜなら、ヤツのアダ名の名付け親は俺だから。

 

 そいつは、アダ名を『忍耐』といった。

 

 そのオンラインゲームは、自分のアバターの頭上に、簡単なメッセージを看板のように表示させることが出来る。例えば誰かに回復して欲しい時は『回復してください』とか、探しているアイテムがあるときは『〇〇を譲ってください』と言った具合だ。ちょっとした自己主張をしているやつもいるし、その看板をのれん代わりにして、売店を開いているヤツもいた。

 

 そんな中、ひときわ異彩を放つ看板を掲げるヤツがいた。

 

 当時、そのゲームは大盛況で、街の大通りに出れば、それこそたくさんのアバターたちが所狭しと並び、たくさんの看板が目に入った。『Lv120剣士募集!!』『ギルメン募集中!!』『薬草1つ100ゴールド〜』などなど。それこそあの時は、たくさんのアバターたちとその看板で、画面の八割は埋め尽くされるほどだった。にも関わらず、その看板は、その奇妙な字面と雰囲気で、俺の目を釘付けにした。

 

――Lv13忍耐

 

 画面の片隅で、そんな意味不明な看板を掲げて佇んでいる奴がいた。アバターの服装を見るに、職業は俺と同じ魔法使いで、レベルは俺よりも高い。俺のアバターと同じ青いローブを身にまとい、黒いとんがり帽子を被って、魔王が持ってそうな杖を装備している、傍目で見てとてもいかついアバターだった。服こそ俺と同じだったが、帽子ではなくひまわりの花飾りを装備していた俺とは、根本的にアバターに求める方向性が異なっていたようだった。

 

 だからこそ、悍ましいアバターと『Lv13忍耐』のギャップに、俺は違和感を感じずにいられなかった。端的に言えば、その看板を見た瞬間、俺は画面に向かって、飲んでいたコーヒーを盛大に吹いていた。

 

『あ、あのー……』

『はい』

 

 気がついた時、俺はフラフラとキーボードを叩き、そいつにコンタクトを取っていた。普段は誰ともパーティを組まず、一人でこのゲームを楽しむことが多い俺だったが、魅惑の『Lv13 忍耐』の意味不明さには、好奇心を抑えることができなかった。

 

『え、えーと……その“Lv13 忍耐”てのは……?』

『忍耐ほしいんですか?』

『いや、そういうわけではないですが』

『では何か?』

 

 当たり前ではあるが、ファーストコンタクトの忍耐はこんな感じで、非常に素っ気ないものだった。当たり前か。いきなり意味不明なやつに話しかけられたんだから。

 

 その後、本人に詳しい話を聞いてみたところ、『忍耐』というのは、アイテム『忍耐の輝石』のことだそうだ。このゲームでは『〇〇の輝石』というアイテムが数種類ある。ある程度レベルが上がったキャラクターは、自身のジョブに合った輝石を持つのが必須らしく、『忍耐の輝石』というのは、そのアイテムの一つだそうだ。そんなこと、このゲームをやってて初めて聞いたのだが……忍耐が言うには、常識レベルの知識だったらしい。

 

『そんな話、初めて聞いたんだけど……』

『いやwikiを見ましょうよw』

『はい……』

 

 後に俺に『忍耐』という妙なアダ名をつけられる運命にあったそいつは、そう言って、笑うアクショングラフィックを表示させていた。

 

 その後、プレイ歴が長くなっていくにつれ、ソロプレイがメインの俺に、少しずつ仲間ができはじめた。高校の同級生らしい二人の男の子『黒猫』と『ヒカル』……本人は男だと豪語しているが、その発言内容から女であることがバレバレな中学生の『チエ』……年長者にして社会人の俺と、同じく社会人の忍耐……気がつくと、この五人で、ゲーム内でつるむことが増えてきた。

 

『やっべーwww 昨日2時間しか寝てねぇからつれーwww』

『だから授業中に寝てたのか……』

『ウチ、今年高校受験なんだけど、ゲームやってていいのかなwww』

『お前らちゃんと勉強しろー』

『若いって素晴らしいね爺様』

『次それ言ったら張り倒すぞ忍耐』

 

 夜な夜なそんなくだらない会話で盛り上がり、気が向けば狩りに出かける……そんな日々が続いた。ゲーム外のメッセンジャーのIDも交換しあって、ゲーム外でも連絡を取り合うこともあった。

 

 ちなみに“爺様”というのは、忍耐から俺につけられた、俺のアダ名だ。本人曰く、『忍耐とかいうケッタイなアダ名をつけられた仕返し』らしい。冗談で『俺は年金生活を営んでいる』と言ってみたら、忍耐のやつが『爺様』と呼びはじめ、それがみんなに定着した。

 

 特に忍耐とは年齢が近いこともあって、話をする機会も多く、仲間の中でも特に仲が良かった。そんな中で少しずつ、忍耐の人となりを知ることができた。

 

『んじゃ、私はそろそろ落ちるね』

『忍耐はいつも落ちるの早いよねー』

『マジwww たまには俺みたいにwww 夜通しプレイしようぜwww』

『私と爺様は仕事あるし、朝5時に起きて朝ごはん作らなきゃいけないから』

『なんでwww そんな朝早くwww』

『おじいちゃんがその時間に起きてくるからねー』

 

 まず、忍耐は自分の祖父を大切にする奴だった。聞けば、毎朝早起きの祖父のために、朝5時に起きて朝食を作っているらしい。詳しい話は聞かなかったが、家族は祖父だけらしく、長生きしてもらうためにも自分が食事を作っている、と忍耐は言っていた。

 

 次に、忍耐はとても真面目な奴だった。

 

 ある時から俺達はギルドを立ち上げ、俺がギルマス、忍耐がサブマスターになっていたのだが……ある日、黒猫が強引に他のギルドからメンバーを引きぬこうとし、ギルマスの俺のもとに苦情が入ったことがあった。その話を聞きつけた忍耐は、黒猫を俺と自分の元に呼びつけ、黒猫に対して説教を食らわせた。ギルマスの俺は、その様子を横から眺め、ひたすらに茶化しているだけだった。

 

『まったく……他のギルドに迷惑かけたらダメだよ?』

『そうだーいいかげんにしろー』

『すみませんwww』

『ちゃんと反省してる?』

『そうだー反省をしろ反省をー』

『マジでwww ごめんなさいwww』

『黒猫が悪さをしたら、ギルマスの爺様のところに苦情が来るんだからね?』

『そうだー。もっといってやれーにんたーい』

『ちょっと爺様は邪魔だから黙ってて』

『すみません忍耐様』

『爺様ももうちょっとギルマスとしての威厳を出してよ……爺様がそんなんだから、私がしっかりしなきゃいけないんだからね?』

『はい。頼りないギルマスで申し訳ございません忍耐様』

『ちょwww ギルマスwww マジでかっこわるいwww』

 

 ギルマスでありながら無責任な俺と違い、忍耐はサブマスターとしての重責を全うしようとがんばっていた。いまいち頼りない俺や、中高生の他のメンバーをたしなめ、時には大人の威厳を出して苦言をいい、悩んでるメンバーには的確な助言をする……まさに、大人のお手本のような奴だった。

 

 やがて過疎化の一方だったそのオンラインゲームはサービスが終了したのだが……それでも俺達五人の関係は続いた。時には五人でメッセンジャーで夜通しチャットで話をする機会もあったが……

 

『んじゃ、私はそろそろ落ちるねー』

『はーい』

『おやすみwww 忍耐www』

『また明日ねー』

 

 それでも忍耐は、相変わらずメンバーの中で一番大人で、相変わらず誰よりも早くログアウトしていた。

 

 ある日の夜のことだった。進学する高校も決まり、部活は何をやろうかと悩んでいたチエに誘われ、俺はチエと二人でメッセンジャーでチャットをしながら、ミニゲームのジグソーパズルを二人でプレイしていた。年明けも近い、12月の下旬のことだった。

 

『ねー爺様』

『ほいほい?』

『忍耐ってさ。男の子なの? 女の子なの?』

 

 難易度最上級のジグソーパズルを二人で解きながら、チエがそんな疑問を俺に投げかけた。ジグソーパズルはまだ、四分の一しか出来上がってない。角っこすら、まだ4つ揃ってない状態だ。

 

『知らんなぁ』

『忍耐と一番仲いいのに?』

『聞いたことないし』

『ふーん……』

 

 チエが動かしていると思われるピースがひとりでに動き、パズルのピースの山から弾かれた。そういや、忍耐は以前に『好きなゲームはアーマードコア』と言っていた。あんな硬派なゲームが好きな奴なんて、男以外にありえないだろう。いや、ありえなくはないが、男の可能性の方が高いはずだ。

 

『一番仲いいかどうかはしらんけど、俺は多分あいつは男だと思う』

『そうなの? でも、お菓子作りが趣味って言ってたよね?』

 

 『多分やつは男』の俺の予想を聞き、チエがそう切り返す。確かに、忍耐は以前『お菓子作りが好き』だと言っていた。チーズケーキやマドレーヌ、スコーンといった洋菓子の話題がよく出てくるし、『昨日はいちごショートを作った』とうれしそうに、自作ショートケーキの写真を見せてくれたこともあった。

 

『まぁなぁ』

『男の人でお菓子作りが趣味って珍しくない?』

『んなこと言ったら、好きなモビルスーツはゾックとかいう女子もそうはいないと思うぞ?』

『でも私もジム・ストライカー好きだけど』

『ありゃスタイリッシュだから、わからんでもない』

 

 二人でパズルを組みながら、互いに忍耐への疑問を口走る。パズルは少しずつ形をなし、だいたい半分ほどが組まれていた。

 

『でも女の人だったら、爺様とお似合いだね』

『そか?』

『うん。だって私たちの中で一番仲がよかったもん。二人ともすごく楽しそうだったし』

『ほーん……』

 

 選んだピースがハマる場所がないことに小さな憤りを感じつつ、チエからのメッセージを再び読み返す。今まで忍耐の性別なんて気にしたことなかったが……言われてみれば、会話の中で性別がわかりやすかったチエやヒカル、あからさまに女性アバターのケツを追っかけていた黒猫と違い、忍耐の性別は見破ることが出来なかった。

 

『私は、忍耐って女の子だと思うけどなぁ……』

『なんで?』

『なんかね。お母さんって感じがするから』

『それ、絶対に本人に言うなよ』

 

 言われてみれば妙に気になる話だ。その時おれは仕事の退職が決定していて、年明けには少しフリーな時間が出来る。会いに行こうと思えば、行けなくはない。

 

 ジグソーパズルは知らず知らずのうちに、四分の三ほど組み上がっていた。

 

『だったら、ちょっくら忍耐に会いに行ってみっかな』

『おっ。まじで?』

 

 チエのそんな発言と共に、パズルの最後のピースがハマり、上空から見た東名高速道路の景色という、ニーズがどこにあるのかよくわからないパズルが完成していた。

 

 

 次の日、俺は忍耐に携帯のメールで連絡を取ってみた。この頃になると、すでに俺と忍耐は互いに携帯のメルアドを交換していて、時々下らない話題で盛り上がることもあった。

 

『ねー忍耐?』

『うん?』

『年明けにさ。忍耐に会いに行こうと思うんだけど、いいかな?』

『え!? 爺様は静岡じゃなかったっけ?』

『いえーす』

『私が住んでるのは宮城だけど? 遠いよ?』

 

 予想外の返答を送ってきた忍耐。きっと首都圏近郊だと勝手に思っていたのだが……予想が外れた。

 

 改めて、ネットで静岡から宮城への行き方を調べてみた。新幹線……いやそれは大変だ……飛行機で……いやそこまで大げさじゃなくても……

 

 忍耐への返事をそっちのけで、俺は宮城への行き方を調べる。パチパチとキーボードを叩き、一つ、面白そうな道順を見つけた。

 

「……名古屋からフェリーが出てる……だと?」

 

 静岡から見た名古屋は、同じく静岡から見た宮城の、ちょうど反対方向になる。それに、静岡から名古屋に向かうには、新幹線を使うしかない。本末転倒もいいところだ。宮城への陸路が大変そうだから、他の道順を探していたのに。それなのに、わざわざ新幹線で一度名古屋に向かい、そこからフェリーで一晩かけて移動するなど、非効率すぎる。体力も使うし、金もかかる。

 

 だが『フェリー』という単語が、俺の心を掴んで離さなかった。俺には、移動手段の中で唯一、フェリーに乗った経験が無い。別に乗り物が好きだと言うわけではないが、今まで乗ったことのない乗り物には乗ってみたい。そんな、小学生男子のようなワクワクが、俺の胸に去来しつつあった。

 

『行く』

『ホントに?』

『うん。行く。だから忍耐の最寄り駅を教えて』

『石巻だけど』

 

 忍耐の最寄り駅の情報をメモし、仙台港からの移動手段をパソコンで検索する。仙台港のそばには中野栄という駅があり、そこから仙石線の電車で一本で行けるようだ。

 

 中野栄から石巻までの所要時間は約一時間……イケるっ。充分現実的な時間だ。俺は心の中で、自分でも意味がよく分からないガッツポーズを決めていた。

 

『大丈夫。イケる』

『ホントに来るの?』

『行く!』

『うわーw 爺様に会うのかー緊張するなーwww』

『俺もーwww』

『当日はよろしく爺様―w』

『おーうw』

 

 忍耐とのやりとりを終わらせた後、俺はその日のうちに、急いでフェリーの予約を取り、宮城の旅館を調べた。宮城の土地のことがまったく分からない俺は、その時、一泊1万円の秋保の旅館に2泊の予約を入れた。

 

「到着予定日……2007年……2月……11日……そこから2泊……よし取れた」

 



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2話

 中野栄から乗った仙石線の電車は、俺が普段よく乗っている電車に比べ、かなり乗客の少ない路線のようだった。目的地の石巻までの一時間の間、初めて見る景色を眺め、のんびりと電車に揺られる。その間、外の景色はどんどん暗くなっていったが、不思議と降る雪の白さは、くっきりと見えていた。

 

 ……ぁあそうそう。途中の駅から電車が逆走し始めるという、今までの人生では起こりえなかった珍事にも出くわした。

 

「ちょ!? 待て!? 聞いてないぞ!?」

 

 電車の扉が閉まり電車が逆走し始めた時は、こんなセリフが口をついて出た。急いで立ち上がりドアの前に向かうが、時すでに遅し。動き出した電車のドアが開くはずもなく、俺は今までとは反対の方向に流れていく雪景色を、ただ呆然と見守ることしか出来なかった。

 

「プッ……」

「クスクス……」

 

 俺の向かいの席に座っていた女子中学生らしきふたり組が、くすくすと笑っているのが見えた。その失礼な振る舞いに大した憤りを覚えなかったのは、紺色のセーラー服を着てマフラーを巻いたその二人の鼻が妙に赤くて、なんだか素朴な印象を受けたからかもしれない。

 

 まぁいい。旅の恥はかきすて。相変わらずクスクスと笑う女子中学生たちに苦笑いを向けた後、俺はポリポリと鼻をかいて、元いた席に再び腰を下ろした。少々顔が熱くなったから、紅潮していたのかも。いい年した大人の男が。

 

 そうして不測のアクシデントに襲われながらも、電車に揺られること一時間。ついに俺は石巻に到着。車両の自動ドアの前に立ち、電車が止まってドアが開くのを待つ。着ているダウンジャケットの胸ポケットから携帯を取り出し、この駅で俺の到着を待ちわびているであろう忍耐に、俺はメールを送った。

 

『にんたーい。駅ついたよ〜』

『了解。私も到着して待ってるよ』

 

 忍耐の返信が心持ち早い。俺の到着を、胸をときめかせて待っていたのか。……いや、ないな。車両から外に出ると、すでに周囲は真っ暗。夜の空に真っ白い雪が舞っていて、静岡住まい故になかなかこういう光景が見慣れない俺のテンションが、妙に高まる。

 

 忍耐からの返信によると、奴は、駅の出入り口にある、フリーペーパーのスタンド前にいるという。俺の到着予定時刻よりかなり早めに着いてしまった忍耐は、フリーペーパーの立ち読みというエコロジー極まりない暇つぶしで、俺の到着を待っているのだとか。

 

 改札を抜け、駅の出入り口に到着し、俺のテンションが上がる。果たして忍耐は男か女か……男だったらイケメンだろうか……ドキドキ……女だったら可愛い子だろうか……ワクワク……どうでもいい期待が俺の頭を駆け巡る。

 

 駅の出入り口を抜け、屋根のある通路を歩いた。フリーペーパーのスタンドらしき物が見える。そして、その前には、ちょっと背が小さめで、ロングコートを羽織った人物が一人、フリーペーパーを立ち読みしていた。

 

「おっ。あの人が忍耐か?」

 

 胸が一瞬ドキンとした。サイボーグ009の立て看板の前を通り、逸る気持ちを抑え、一歩一歩、その人物に近づいていく。

 

 近づくにつれ、その人物の様相が見えてきた。髪型はどうみてもスポーツ刈りで、俺と比べてかなり短い。メガネをかけている。それもおしゃれメガネではなく、どちらかというと無骨な雰囲気に分類される、ティアドロップみたいな形をした大きなメガネ。背は低く華奢だが、骨格はどう見ても男。歳は20代の俺にかなり近い。確かに小柄だが、顔つきからはいろんな経験を積んだヤツ特有の渋さが漂ってる。……いや待てそれじゃかっこよすぎる……俺と同程度に、老けている。

 

 ……なるほど。今、俺の目の前で、フリーペーパーを読み漁るこの同年代っぽい男が、件の人物、忍耐のようだ。

 

 念の為確認してみる。俺は携帯を手に取り、忍耐にメールを送ってみた。

 

『おーい忍耐』

 

 送信した直後。

 

「……ん」

 

 俺の目の前にいる男が、コートのポケットに手を突っ込んで、自分の携帯を確認しはじめた。やはりこの男が忍耐か。意を決し、目の前の男に話しかけてみることにした。

 

「忍耐さんですか?」

 

 初対面同士の第一声としては、相当変なセリフだろう。だけど目の前の男は、ちょっときょとんとした顔を浮かべ、俺をしばらく見つめた後、

 

「爺様?」

 

 とつぶやき、ニッコリと微笑んでくれた。

 

「そうです。爺様です。はじめまして」

「はじめまして。忍耐です」

 

 互いに妙な自己紹介をした俺達は、次の瞬間、同時にブフッ! と吹き出していた。

 

 忍耐は男だった。安心したようなちょっとガッカリしたような……ちょっぴり複雑な気分だったというのは、忍耐には秘密にしておこうと心に誓った。

 

 

 その後忍耐の案内で、俺達はすぐそばにある飲み屋に入った。新築なのか、飲み屋に入ると、俺の鼻に白木の香りがプンと届く。店内は白木がキレイで、清潔感溢れる明るい店内だった。

 

「爺様は何飲む? ビールでいい?」

「すまん。俺甘ったるいのしか飲めないんよ」

「チャットでそう言ってたもんね。安心した。確かに爺様だ」

 

 席につくなり、忍耐が店員にドリンクの注文をしてくれた。気を利かせた忍耐が注文してくれたのは、カシスオレンジ。そういやメッセでそんな話もしてたなぁ。覚えててくれたなんて、忍耐はイケメンだなぁ。

 

 ほどなくして俺達の前には、実にうまそうな、身がキラキラと輝いている刺し身の盛り合わせとビール、そして場違いなカシスオレンジが届いた。

 

「じゃあ私と爺様の出会いに」

「俺と忍耐の運命の出会いに」

「なにそれ」

「カンパーイ!!!」

 

 二人でガチンとグラスをぶつけ、二人でビールとカシオレを煽る。仙石線の電車内にいたときから、ずっと暖房が効いた室内にいたからか、思っていた以上にのどが渇いていたみたいだ。今まで飲んだどのカシスオレンジより、この店のカシスオレンジをうまいと感じた。

 

「うまいっ」

「よかった。ここは魚が美味しいんだよ」

 

 ……もうね。食べなくてもわかる。ここの料理絶対にうまいよ。だってエビなんか、絶対さっきまで生きてたやつだもん。身がキラキラと透き通ってて、弾力が視覚から伝わってくる感じ。他の魚も身がキラキラしてて、俺が普段食ってる刺し身に比べると、なんだか宝石みたいに見える。

 

 ここはもう、一番うまそうなものからいくしかないっ。俺はまっさきに目を奪われた、殻が剥かれたキラキラと輝くエビを手に取り、頭を落として身にかじりついた。

 

「うまーい!!」

「気に入ってくれてよかった」

「忍耐も早く食べよう!」

「うん」

 

 その後はもう、普通に野郎二人の飲み会へと変貌を遂げる。かつてみんなで楽しんでいたゲームの話や、まだ会ったことのない黒猫やヒカル、チエの三人がどんな奴らなのか……もしあいつらと酒を飲む機会があったら、みんなはどんな風に酔っ払うのか……

 

「黒猫はなんか酔っ払っても変わらなさそうだよね」

「チエは笑い上戸になってるぞ絶対。ケラケラ笑いながら甘ったるいの飲んでそうだ」

「ヒカルはどうだろうね?」

「あの子はおちょこ一杯でくたばってそう」

「女の子より女の子じゃないかっ!」

「んで、チエがそんなヒカルを膝枕して、ゲラゲラ笑いながらデコをバッシンバッシンひっぱたいてそう」

「チエに何の恨みがあるんだよ爺様はっ!」

「このメンツの中で一番若いというだけで許せん」

「とんだ年長者だよ」

 

 こうしてひとしきりケラケラと笑いながら、うまい魚に舌鼓を打っている最中。俺の手元に置いてある携帯から着信音が鳴った。

 

「お?」

「電話?」

「うんにゃ。これはメッセの通知音」

「そっか」

 

 メッセージアプリを立ち上げ、誰からのメッセージなのか見てみることにする。

 

『爺様www 暇すぎるwww メッセ付き合えwww』

 

 俺にメッセージを飛ばしてきたのは、女のアバターのケツを追いかけるという分かりやすい思春期を見せていたその傍らで、美容師の夢を捨てきれず日々悶々と過ごしていた黒猫だった。なんだこの年長者に対する遠慮のなさは。別にいいけれど。

 

「黒猫だ」

「ほんとだね」

「せっかくだから、忍耐と会ってるってメッセ飛ばそうか」

「そだね。大人二人で飲んでるって飛ばしてよ」

 

 と、大の大人の男二人、顔を見合わせてニシシと笑った。『おい爺様www マジで暇だから付き合えwww』とメッセを飛ばしまくる黒猫に対し、ポチポチとテンキーを押して俺はメッセを飛ばした。

 

『うるせえ黒猫。俺は今忍耐と飲んでるんだから邪魔をするなっ』

 

 俺がメッセを送るやいなや、『なにっ!?』と黒猫からのリプライが届く。その後ものの数分で『爺様と忍耐が会ってる!?』『マジで!? 爺様と忍耐が!?』とヒカルとチエもチャットルームに入室し、いつものメンバーでのチャットが始まってしまった。

 

「携帯だと打ちにくそうだね爺様」

「こういう時はやっぱりパソコンの方がいいな……ふぬっ」

 

 小さいテンキーでメッセを飛ばすのはいささか大変だったが、それでも食らいついていく。

 

『ねーねー爺様! 忍耐は女の子だった? それとも男の子?』

 

 チエからのメッセが届いた。続けてヒカルも『あ、それ気になる!』とメッセを飛ばし、黒猫も『マジでwww 忍耐が女子だったらマジウケるwww』と意味のよくわからない煽りメッセを飛ばしていた。

 

「うん? 私が女の子? なんで?」

 

 俺の隣に来て、一緒に俺の携帯の画面を覗き見る忍耐が、みんなのメッセを読んで首を傾げる。その時の忍耐の顎の下あたりに、ひげの剃り残しがあるのを、俺は見逃さなかった。もう夜だし、忍耐はひげが伸びるのが早いのかもしれんなぁと、心の中で妙に納得した。

 

「ぁあ、実は忍耐の性別って、忍耐の知らんところでいろいろと話題に上がっとったのよ」

「へ? なんで?」

「いやほら。俺も今まで直接聞いたことなかったけど、忍耐ってゲームの時性別を言わなかったじゃん?」

「そだね。言われてみれば、言ったことないね」

「それがあいつらの好奇心をくすぐってたらしい。俺は忍耐とアホなことができればそれでよかったから、気にしたことはなかったけど」

「ふーん……」

「どうする? 忍耐は男だったって言ってもいい?」

 

 俺の隣の席でコップに残ったビールを煽り、白い口ひげをぺろっとなめた忍耐は次の瞬間、さっきも見せたいたずらっぽい笑みを浮かべ、俺を見た。

 

 忍耐の、ニヤニヤとほくそ笑む眼差しが告げていた。『秘密にしとこう』

 

 俺もニヤリとほくそ笑む。いい年をこいた大人二人が、思春期真っ盛りの若い中高生をだまくらかしてけむにまく。こんな面白いことが他にあろうか。

 

「よっしゃ。んじゃとりあえず適当なこと言ってけむにまくか!」

「さすが爺様! 頼りになるギルマス!」

「あの頃はさんざん『頼りにならないギルマス』とかいって俺のこと煽ってたくせに……クックックッ……」

「若い子をけむにまいて翻弄するんだよ爺様……こんな楽しいことはないねクックックッ……」

「お主も悪よのう忍耐……名前が忍耐なだけに……クックックッ……」

「爺様ほど悪人じゃないよクックックッ……」

 

 というわけで、忍耐の性別は若造共には秘密にしておくことにした。俺は携帯のテンキーをポチポチと押し、今画面の向こう側で、俺のレスポンスを胸をときめかせて待っているでろう、三人の若造共にメッセを飛ばした。

 

『よくわかんない。忍耐見えない』

『見えないってwww 何だよwww』

『忍耐自体は目の前にいるんだけどさ。なんかモザイクかかっててよくわかんない』

『なにそれー! 爺様ばっかり忍耐に会ってずるい! ウチも会いたい!!』

『いやそれが会えないんだよ。位相がズレてて因子がたまらない』

『何その厨ニ病!?』

 

 忍耐に携帯を渡すと、忍耐もノリノリでメッセを飛ばす。

 

『クックックッ……私は君たちには見えないんだよ……』

 

 俺に比べて少々小柄な身体をさらに縮こませて、必死に小さいテンキーをポチポチと押し、真剣な眼差しで画面を見ながらメッセを飛ばす忍耐。

 

「……よっ」

 

 その顔はとても真剣で、仕事に集中している奴特有の『今は話しかけるな』オーラが全面に出ているというのに……

 

「ふっ……よっ……」

「……」

「……よしっ。はい爺様、携帯返すよ」

「……」

「……?」

 

 小さな身体を小刻みに揺らして、メッセを飛ばす忍耐の姿は妙におかしく、そして今、満面の笑みで俺に携帯を返す忍耐は、妙に可愛く見えた。

 

「……ぷっ」

「なんで笑うの?」

「いや忍耐かわいいなぁと思って」

「なにそれ」

 

 そうして若造どもとのチャットを強引に終わらせたあとも、俺と忍耐は絶品の飯をくい、そして酒を飲み、大いに時間を満喫した。そうしてお会計の時間になったとき。

 

「さて。俺の分はいくらかな?」

「いいよ。爺様はせっかく静岡から来てくれたんだ。私が出すよ」

「え? いいよー。俺も出すよ」

「いや。ほんとに奢らせて。今日はとても楽しかった。それは爺様がここまで来てくれたおかげだから。そのお礼だから」

 

 と上機嫌でケラケラと笑う忍耐に言われ、俺は素直にその好意に甘えることにした。ここまで言ってくれるのなら、逆にこっちが意固地になって断っても、それは忍耐に対し失礼だ。俺は忍耐に会計を任せ、店主に『ごちそうさま! 美味しかったです。また来ます!!』とお礼を告げて、店を出た。

 

 

 店のドアをくぐる。空を見上げると、真っ黒な空から、夜の闇に妙に映える大粒の雪が、静かに、だけど空を覆い尽くす勢いで降っていた。暖かい室内にいたからか、それともここが宮城だからか、ほっぺたを刺す寒さが厳しい。だけれども、ついさっきまでゲラゲラと笑い旨い酒と食事を楽しんでいた俺には、その冷たさがとても心地いい。

 

 しばらく待っていると入り口ドアが開き、はじめて見たときと同じ姿の忍耐が姿を見せた。

 

「ごちそうさま。寒いねー」

「爺様は静岡住まいだから余計に寒いでしょ」

「そだね。雪も一年に一回降ればいいほうだし……だからこっちに来てから、ずっとテンション上がりっぱなしだ」

「そっか。よかった」

 

 周囲を見回す。屋根のある通路以外は、降りしきる雪に埋もれていた。店は俺達がいたところ以外の電気は消えていて、すでに周囲を照らす光源は街灯だけになっている。

 

「……なー忍耐?」

「うん?」

「忍耐はこっちにこないの?」

 

 特に深い意味があって聞いたわけではない。九割冗談で、ほんのちょっとだけ本気の、なんでもない、他愛無い質問だった。

 

「……」

「あの若造どもは西日本だし、俺は静岡だから、こっちに遊びに来たら、みんなで会えるよ?」

 

 確かに忍耐が東海地方まで遊びに来たら、西日本に近い位置に住んでいるあの若造どもとも集合しやすい。でも、本気で質問したわけではなかった。多分『んじゃ行くよ!!』と明るく冗談めかした返事をするか、『いつか行きたいねー』と遠い目で空を見上げるか、そのどっちかの反応を忍耐はするのだろう……そう思ったのだが。

 

「……爺様」

「んー?」

 

 忍耐と別れたあと、俺は再び仙石線の電車に乗って、中野栄まで戻る。そこからタクシーに乗り、予約していた秋保の旅館に到着した。時間はすでに夜中12時近くになっていた。

 

「お待ちしておりましたノムラ様」

「遅くなってすみません! ……あ、温泉はまだ大丈夫ですか?」

「大丈夫です。当ホテルの温泉は24時間入れますから」

「助かります」

 

 こんな日付が変わるギリギリの時間に到着するなんて迷惑な客なのに、ホテルの従業員の方は、こんな俺にとても丁寧な接客をしてくれた。俺は凍えた身体を温めるために、部屋に荷物を置いてすぐに露天風呂に直行した。あのイケメン従業員が言っていた通り、露天風呂は人が一人もいなかったがキチンと湯は張られていて、寒空の元、俺は格別な気分で露天風呂を堪能することができた。

 

 

 翌日は、ホテルのロビーで観光案内を眺めて行き先を決めた後、タクシーを捕まえて目的地へと向かう。途中タクシーの運転手と交渉し、一日貸し切りにしてもらうことにした。酒が飲めないにもかかわらずウイスキーの醸造所に行ってウイスキーの試飲をしてむせたり、運転手おすすめの豆腐屋に立ち寄って、その場で絶品の豆腐を味わったり、無理を言って寄ってもらった、何でもない街角の神社で狛犬を撮影したり……

 

「よっ……ほっ……ほっ……」

 

 タクシーと別れたあと、散歩がてらちょっと離れた万華鏡博物館に行って、古今東西いろんな万華鏡を覗いて、一人で大騒ぎしたりした。大の大人の男が一人旅……旅行先で、好きなことして、好きなものを食べ、好きなようにふらつき、好きなように過ごす……。

 

 そうしてクタクタにくたびれた後、ホテルに戻って夕食に舌鼓を打ち、雪が降りしきる中、露天風呂に浸かる。

 

「おほほほほほほ……たまらん……」

 

 露天風呂の湯に浸かる俺の頭を冷やしてくれる、冷たい風が心地いい。一日中歩いて、年甲斐もなくはしゃぎまくった今日の疲れが、温泉の中に溶けていってしまうようだ。

 

「……」

 

 心地いい温泉の熱さを堪能しながら、俺は夜の空を見上げる。夜空から静かに降る雪の白は、露天風呂の光源に照らされ、真っ黒な空にとても映えていた。

 

 この宮城旅行の中で、何度夜の空を見上げただろう。

 

 この、夜に映える真っ白な雪が降りしきる、静かで冷たく、とても綺麗な空を見上げたのは何回目だろう。

 

 俺はきっと、この光景を生涯忘れることはないだろう。心地いい温泉につかり、風の冷たさに頭を冷やしながら眺めた、雪が降りしきる静かな夜空を。

 

 そして、俺はきっと、生涯忘れることはないだろう。この静かに降りしきる真っ白な雪の中、九割冗談、一割だけ本気の俺の戯言に対し、真摯に、誠実に向き合ってくれた、忍耐のあの、まっすぐな眼差しを。

 

「……爺様」

「んー?」

「私は、おじいちゃんと二人で住んでる」

「そうだね」

「だから、おじいちゃんをほっとくことはできない」

「そっか」

「ごめん爺様」

「謝ることじゃないだろうに」

 

 そう答える忍耐は、確かに、俺が知っている、あの忍耐だった。



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3話

 今日は四半期に一度の合同ミーティングの日だ。一昨日から準備していたパワポのデータが入ったUSBメモリをポケットに入れ、俺は自分の部屋のドアを力なく開き、憂鬱な気分を抱えながら出勤した。

 

 あのとてつもなく楽しかった宮城旅行から、今年でちょうど四年になる。あのあと俺は1年弱の勉強期間を経て、東京のIT企業へと就職し、営業マンとしての毎日を過ごしていた。

 

 と言っても、俺は元々技術畑からの転職だし、前職はITとはまったく関係のない職種。ついでに言うと人付き合いは決して得意な方ではなかったため、営業という仕事にまったく馴染めず、日々キツい思いをしながら仕事をこなしている。

 

 あの宮城旅行のあとも、相変わらず俺と忍耐は、時々連絡を取り合って近況報告をしていた。俺が東京に出てきた後は、俺はとてもじゃないがネットをしている余裕がなかったため、黒猫やチエ、ヒカルといった面々と交流している時間はなくなり、正直その三人とは疎遠になってしまっていたが……

 

『やー爺様。久しぶり。元気?』

『おーう。忍耐も相変わらず元気?』

『元気だよ。最近ちょっと忙しいけどね』

 

 こんな具合で、決して頻繁にではないが、年に数回ぐらいは連絡を取り合い、とりとめない話題で盛り上がることがあった。元々お互いいい歳だったし、そのへんの波長も似ていたのかもしれない。

 

 そんなことをフと思い出しながら、埼京線の電車にゆられ、戸田から都内の五反田に向かう。窓の外を見ると、車窓のはるか遠くの方に、うっすらと富士山が見えた。懐かしい光景に、ほんの少しだけ目頭が熱くなった。

 

 

 今日は、三ヶ月に一度開催される、会社での全社員出席ミーティングの日だった。俺がいる会社では、三ヶ月に一度、社員とアルバイト、重役全員が集まって、各人一人ひとりが、四半期の目標達成率と所感、そして次期の目標の発表を行う。今期は、この3月11日に行われることになっていた。

 

 正直、俺はこのミーティングが好きではなかった。パワポの資料を作成する際、どうしても売上という名前の数字を目の当たりにする。俺はハッキリ言ってしまえば底辺社員だったから、この数字と対面するということが、苦痛でしかない。前期の自分のダメっぷりを、イヤでも実感してしまう……。

 

 かといって、ならばイヤな結果を残さないように頑張るかとも思えず……要はアレだ。ダメ社員だ。結果は出せず、かといって結果が出せるように頑張るわけでもなく……頑張る精神的余裕もなく……仕事だけが溜まる一方で、ろくに眠ることも出来ない……ダメだとは分かっていたが、もう日々生きるのに精一杯で、とても仕事を頑張る気になれない……そんな感じだった。

 

 そして今回も、苦痛以外の何者でもないミーティングがスタートする。他の社員のやつらの目標達成率や来期の抱負などを聞きながら、俺は自分の番が来るのを、イヤイヤながら待ち続けた。

 

 やがて自分の番が来る。自分のパソコンをプロジェクターに接続し、俺が作った見栄えの悪いパワポの映像が会議室いっぱいに映しだされた。俺のパワポの資料は、他の社員のそれと比べて数字が多い。他の社員以上に数字に関わる立場なわけだから、それは当たり前なわけなのだが……パワポ一面に細かい数字が並び、俺自身、正直画面の数字がとても読み辛い。それはおそらく、俺以外のみんなも思っていたことだろう。

 

「では、はじめます」

 

 自分の売上一覧を写し、一つ一つ説明を行っていく俺。特に著しく数字が変動した部分に関しては、詳細な説明を加えていく。

 

「ねぇ。この資料、数字が小さくて見辛いよ」

「そうですか?」

「うん」

「……すみません」

 

 発表中、俺の上司がそう口をはさみ、俺は反射的に頭を下げた。『数字を乗せろ。グラフじゃダメだ。一枚に全部乗せろ』といい、このドラフトを見て『よしこれでいい。明日はこのパワポでプレゼンやれ』と言ったのは他ならぬあんただよね……という言葉は、回転がストップしてしまって久しい俺の頭からは、出てこなかった。

 

 その後は上司からのお小言に近い質疑応答に四苦八苦しながら答え、俺のプレゼンは終了した。あとは他の奴らのプレゼンを聞いていれば、このミーティングも終わる。何事もなかったことにホッと胸をなでおろし、俺は自分のパソコンからプロジェクターのケーブルを抜いた。

 

 その後、数人の社員のプレゼンが終わり、ミーティングも最後に差しかかる。最後は社長が来期の方針とかいうのを話す。

 

「来期の我が社の目標は、『ワクワクする仕事』でいこうと思う」

 

 俺としては真剣に社長の話を聞いているはずなのだが……ぶっちゃけ、何も頭に入ってこない。今の業務内容に即したものだけでなく、楽しそうな仕事、面白そうな仕事には積極的に関わっていこうという趣旨なようだが……正直、早く終わらせて、会議室を出て外の空気を吸いたいと思い始めたその時だった。

 

「……あれ」

 

 少し、部屋が揺れた気がした。

 

「……?」

 

 天井からぶら下がった照明に目をやる。俺の気のせいではなかったようで、ぶら下がった4本の照明は、小さく揺れていた。どうやら地震が発生しているらしい。

 

 まぁいい。これぐらいの揺れなら、すぐにおさまる。他のみんなも同じことを考えているようで、社長は揺れも気にせずプレゼンを続け、他の社員も真剣な眼差しでプレゼンを聞いている。俺も同じく、社長のプレゼンに再び集中しようとした。

 

「だから、これからは今の仕事だけでなく……」

 

 揺れが収まらない。

 

「幸いうちは、系列会社にweb制作会社もあるから……」

 

 まだ収まらない。長いな……

 

「これからはそっちも積極的に巻き込んで、新たな職種を開拓していくのも……」

 

 揺れが大きくなってきた。

 

 次第に社長の声に動揺が見え隠れし始め、社員たちがガヤガヤとしはじめる。そうしている間にも、揺れはひどくなる一方。天井の照明の揺れも大きくなってきた。

 

 俺自身も、はじめはノンビリと構えていたが、次第に焦り始めていた。地震そのものは慣れている。今の揺れにしても、思ったより大きいという以外に感想はない。今のところは。

 

 だが長すぎる。揺れも時間が経過するごとに、弱まるどころか強くなる一方だ。

 

「……よし。外に出よう」

 

 プレゼンの最中ではあったが、流石に社長もマズイと思ったようで、俺達に外に出るように促した。その声を受け、俺達は静かに立ち上がり、一人、また一人とビルの外に出る。俺は皆が外に出た後、最後に会議室を出た。

 

 外に出たあとも、揺れは体感出来る程度の強さを保ち続けている。『地震』という現象は、『地面が震える』から『地震』なんだということを今更ながら実感する。ほんの少しの恐怖とともに。

 

「……なんかやばくない?」

 

 社員の女の子の一人がそう口ずさんだ。周囲を見る。乱立するビルの中からは、たくさんの人間が姿を見せていた。皆がこの揺れを感じ、外に出てきたようだ。皆騒然とし、携帯でどこかに電話をかける人や、携帯でネットに接続し、地震速報を見る人もいた。

 

 次第にことの重大さがわかりはじめた時だった。

 

「……ビル、揺れてる」

 

 誰かがそうつぶやいた。反射的に俺は、俺達の視界の遠くにそびえ立つ、高層ビルに目をやった。

 

 俺は、特撮映画やSF映画が好きだ。怪獣映画を小さい頃からよく見ていたし、生まれて初めて見た映画はスターウォーズだ。現実的ではない世界がスクリーンいっぱいに映しだされるその様は、見ていてとても楽しい。今は大人になり、歴史物やサスペンスなんかにも面白さを見出すことができているが、それでも俺は、特撮やSFのジャンルの映画が一番好きだ。

 

 だが、そんな映画でしか見たことのないような光景を、まさか直に見る機会がくるとは思わなかった。俺達の視界のどまんなかにそびえ立つ、巨大な高層ビルが、ぐらりぐらりと上下左右に揺れていた。

 

「……!?」

 

 巨大な高層ビルが、今にも倒れそうに、ぐらりぐらりと揺れてはなんとか持ち直す……そんな、ディザスタームービーでしか見た事無いような光景が、今、目の前で繰り広げられている。少しつつけば、そのままガラガラと崩れてしまいそうに……無理なバランスを保ち続けるジェンガのように、巨大なビルがぐらりぐらりと、不安定に揺れていた。

 

 やがて、次第に地震が収まってきた。揺れが完全に収まったことを確認し、俺達は再びビルに戻り、自分たちの会社に戻る。事務所の中は以外にも何事もなく、サーバーも止まらず、倒壊したものもない。被害は何もないようで何よりだ。

 

 今日はお得意さんへのデータ納品の予定がある。俺は自分のパソコンで交通情報を確認しようと、YAHOOへとアクセスしたのだが……都内の鉄道網はすべてが運転見合わせの様子だ。俺が思っていた以上に、地震の規模は大きいらしい。

 

 お得意さんに電話をかけるが、やはり回線が混雑していて繋がらない。念の為、先方には今の内にメールを送信しておく。『今日の納品はどうしましょうか?』我ながら間抜けな相談ではあるが、こっちの独断で納品中止にするわけにはいかないし……。

 

「ちょっとテレビつけるか……」

 

 そんな俺の背後では、さっきのミーティングで俺のパワポにケチをつけた上司が、業務で扱う50型のテレビにアンテナ線をつなげ、電源を入れた。

 

「思ったより大きい地震だったみたいだね……」

 

 チャンネルをNHKに合わせたようだ。ニュースキャスターが『地震』『震度7』『津波』『避難』と、物騒この上ないキーワードを、動揺を隠し切れない声で、必死に俺達に伝えようといている。俺も少し気になり、テレビ画面をチラリと見た。

 

 テレビ画面には、特に被害のひどかったらしい現地の様子が映されていたのだが……そのテレビ画面の右上隅に、『中継:宮城県石巻市』という表記があった。

 

――爺様?

 

 俺は、その画面を見るまで、地震は東京が震源地だと勝手に思っていた。でもそれは俺の勘違いだったらしい。鉄道網がすべてストップしてようが、東京駅でたくさんの人たちが救急車で運ばれていようが、東京は決して震源地ではなく、一番震源地に近い場所は……被害が大きい場所は、実は東北だったそうだ。

 

『宮城県は午後3時、波の予想の高さは6mとなっています』

 

 ニュースキャスターが、少し熱の篭った声色で、それでも努めて冷静に、大津波警報だなんて聞き慣れない警報が発令された地域を読み上げている。お台場ではビルから黒煙が上がっているようだ。見慣れたフジテレビの建物の周囲に、黒煙が立ち込めていた。

 

 自分のパソコンに目をやる。新しいメールの受信を知らせるアイコンが点灯していた。慌ててパソコンを見、メーラーを確認してみる。相手は今日データ納品する予定だったお得意さん。『今日は納品は結構です。お互い身の安全を第一に』極めて簡潔に、メールはその言葉のみで締められていた。

 

 メールが届いたのなら、電話も生きているかもしれない……そう思い、電話の受話器を耳に当てる。……生きていない。やはり無理か。

 

「ぇ……」

「ひでぇ……」

 

 社員の何人かが小さく声を上げた。お得意さんに『落ち着いたらまた、連絡いたします。お気をつけ下さい』と返信し、俺もテレビに目をやった。

 

『こちらは、現在の岩手県釜石市の様子です』

 

 俺は岩手県釜石市には行ったことがない。テレビで見たことはあるかもしれないが、その記憶がないぐらい、まったくもって興味を持ったことがない街。それが岩手県釜石市だ。

 

 そんな俺でも、これが異常事態だということがわかる。テレビに映る岩手県釜石市では、サイレンが鳴り響き、たくさんの車やトラック、大量のゴミクズを巻き込みながら、大量の水が海から押し寄せていた。

 

「これがどこなのかわかりません。海岸なのか港なのか……」

 

 必死に感情を殺して、明確な発音でそう話すキャスターの声が、会社内に響いていた。映像を見る。まるで出来の悪いディザスタームービーのような映像が、淡々と映っている。水の中にポツリと浮かぶ建物の屋根がある。その建物の周囲にはたくさんの工業用パレットや箱、大きな船やたくさんの車が、海水の激しい波にもまれ、おもちゃのように流されていた。

 

 画面が変わり、宮城県気仙沼の様子が映しだされた。

 

――若い子をけむにまいて翻弄するんだよ爺様……

  こんな楽しいことはないねクックックッ……

 

 これは映画じゃない。『映画だぜ』と言っても、きっと誰も信じない。それぐらい、ディザスタームービーにしてはあまりに陳腐で盛り上がりのないシーン……でも、だからこそ、確実に現実に起きていると実感出来る光景が、テレビに淡々と映しだされている。

 

 気仙沼では、すでに巨大なビルの中腹あたりにまで海水が押し寄せていた。流されたと思しき桟橋が、ビルの壁にぶち当たっていた。音はない。定点カメラの映像だから、音声までは拾ってないんだろう。なんてチープな映像だ。盛り上がるためのBGMもなければ、轟音もない。あまりに静かで、淡々とした映像だ。

 

「石巻は……石巻は?」

 

 俺の口が、意志の乗らない言葉をポツリと口ずさんだ。石巻の映像は、さっき映されたその後は、まだ映されてない……

 

 4年前に使っていたものと同じ携帯を使って、俺は忍耐にメールを送った。

 

『忍耐、無事?』

 

 だが、メールが送信されて数秒後、『送信できませんでした』というメッセージが無情に表示される。携帯は今、使えない……。

 

――いや。ほんとに奢らせて。

  今日はとても楽しかった。

  それは爺様がここまで来てくれたおかげだから。

  そのお礼だから。

 

「……忍耐は? 忍耐は?」

 

 テレビで仙台の様子も映された。ビルのてっぺんから煙が上がってる。『津波の観測情報が届きました』とキャスターが地名と津波の高さを読み上げ、画面では『津波警報が追加されました』と宮崎や鹿児島の地名まで表示されている。

 

 やきもきしていると、石巻の中継が映った。

 

――うん? 私が女の子? なんで?

 

 あの楽しかった宮城旅行で何度も見た、真っ白い雪が降りしきっていた。その向こう側で、ゆっくりと漁船が後ろ向きに流されているのが見えている。その間も、キャスターは必死に俺達に映像の状況を伝え、同時に『厳重に警戒をして下さい』と繰り返し伝えていた。

 

 一瞬、俺の携帯が鳴った気がした。ハッとして携帯の画面を見る。着信履歴が一件残っている。番号を見ると、母親からの電話のようだ。無事を伝えたいが、折り返し電話をしようとしても繋がらない。

 

「こりゃ今日は帰れないな……」

 

 社長がそう口ずさみ、財布から一万円札を出して、社員数人にコンビニで食べ物を買ってくるように指示を出した。それを受けて女性社員の何人かが、食料買い出しのために会社を後にする。

 

 外出する社員たちを背中で見送り、俺はただひたすら、50型のテレビに映されている特番のニュース番組を見る。

 

「石巻は?」

 

 画面の中継は、女川に切り替わっていた。

 

「女川はいい。石巻は?」

 

 『石巻を映せ』という俺の小さな小さな叫びとは裏腹に、テレビ画面は女川から再び気仙沼へと切り替わっていた。巨大な船が沖に流され、荒れ狂う海上で、湯船に浮かべた子供向けの船のおもちゃのように、グラグラと揺れていた。

 

 

 その日は会社で一晩明かし、翌日の午前五時に会社を出た。夜通しネットで情報を収集して、六時に大崎駅から埼京線の電車が出るという情報を見つけたからだ。最寄りの五反田から大崎までは距離にしてひと駅分。それぐらいなら十分歩ける。

 

 大崎駅に到着したのは五時半。その後大崎駅の構内で八時まで待ち、準備された電車の中で出発まで2時間ほど待つ。動き出したら出したで、歩いたほうが速いようなスピードで電車は走り続け、家に着いた頃、腕時計は午後1時を過ぎていた。

 

 自分の部屋の中は、思った以上に被害が少ない。引っ越してからできるだけものを置かないようにしていたのが、功を奏したのかもしれない。そんなことを考えながら、普段は自宅では見るのもイヤになっていたノートパソコンを開き、電源を入れる。

 

「石巻は? 石巻はどうなった?」

 

 Googleでどれだけ『石巻』で検索をかけても、津波の被害に遭った以上の情報は見つからない。

 

 少し疲れた……何かほっとするものが飲みたい……そう思い、駅からの帰り道でまだ稼働しているのを確認した外の自販機に、暖かいコーヒーを買いに出た。部屋に戻ると、コーヒーの缶の蓋を開けながら、反射的にテレビの電源を入れる。テレビでは相変わらず、地震や津波の被害を、ニュースキャスターが淡々と伝えている。昨晩から徹夜だった俺の頭も温かいコーヒーで緊張が溶けたのか、少しずつ眠気に包まれてきたのだが……

 

『それではここで、宮城県石巻市の津波の瞬間の様子をご覧ください』

 

 テレビからのその一言で、俺の心臓がドキッとし、全身の血管が波打った。

 

――チャットでそう言ってたもんね。安心した。確かに爺様だ

 

 食い入るようにテレビを見る。以前に一度だけ訪れたことがあるだけの石巻駅が、白黒の映像の中、ぼんやりと映っていたのだが……

 

――さすが爺様! 頼りになるギルマス!

 

 しばらくして、その石巻駅に、大量の海水が襲いかかった。水だけじゃない。たくさんの木片やゴミ、コンクリートの塊、ベコベコにひしゃげた車……いろいろなものが、俺の思い出が詰まった石巻駅に淡々と迫り、無表情で石巻駅を飲み込んでいた。

 

――うん? 私が女の子? なんで?

 

 たくさんの木材や車に、見覚えのあるものが飲み込まれていた。あれはあの日、俺を待つ忍耐が暇つぶしをしていたフリーペーパーのスタンド。あの時、忍耐の暇つぶしに付き合ってくれたスタンドは、たった数秒で水に飲まれ、倒され、ひしゃげ、ゴミと一緒に流された。

 

「忍耐……」

 

 携帯で忍耐に『返事くれ』とメールを送る。次の瞬間、画面には『送信出来ませんでした』と表示された。

 

 テレビの映像が切り替わった。俺の記憶にひっかかる、飲み屋と思しき建物が映された。なんだか見覚えのある立て看板が建てられたその店は、まだ何の被害にも遭ってないように見えたが……

 

――よかった。ここは魚が美味しいんだよ

 

 次の瞬間、やはり津波がその店にも襲いかかった。店の入口にたくさんの木材が流れ着き、無言で立て看板をなぎ倒し、入り口のドアをこじ開け、店内に流れ込んでいた。

 

「……」

 

 携帯を見た。着信はない。メールもない。何もない。

 

テレビに目をやる。俺と忍耐が酒を飲み飯を食って若人どもを煙に巻いた、あの白木の匂いが香るキレイな店に、津波で流されてきた、ぐしゃぐしゃに壊されたトラックがぶち当たった。飲み屋がその衝撃に必死に耐えるシーンを最後に、テレビの画面はスタジオに切り替わった。

 

 俺は、ただテレビを呆然と眺めることしかできなかった。

 

――ごめん爺様

 

 もはや何も感じることが出来なくなっていた俺の耳には、あの日、俺のどうでもいい質問に、真摯に、真剣に答えてくれた忍耐の声が聞こえていた。まっすぐな表情の忍耐の声が、何度も、何度も、何度も届いていた。

 

 俺は、この震災で、友を一人失う覚悟をした。だが、涙は流れなかった。

 



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4話

 自宅で仕事のさなか、仕事用PCのメーラーがピロンと音を立て、新しいメールを受信したことを告げた。ポップアップウィンドウをクリックし、受信したメールを開く。送信者は、今回俺にwebサイトの構築を発注したクライアントだ。

 

「いつもお世話になっております。田所です」

 

 そんな決まり文句でメールは始まり、今回のwebサイト構築に関する確認事項が、いくつか記述されている。

 

 そのメールの文面に無言で目を通し、機械的に『全員に返信』ボタンを押した。返信先はクライアント一人だけだから、別に『全員に返信』ボタンを押さずとも、ただの『返信』ボタンでいいのだが……習慣というのは恐ろしい。CCに誰も入ってなくとも、俺の右手は『全員に返信』のボタンの上にマウスポインタを持っていく。

 

 相手の質問事項一つ一つに丁寧な返答を記述し、最後は『以上、よろしくお願いします』と締めくくった。

 

「……つまらん」

 

 あまりにビジネス然のメールに、いささかの不満を抱いた俺は、最後に余計な追伸を付け加えた。

 

追伸:田所様でもいいけれど、忍耐って呼んだらダメでしょうか?

   田所様も私のことを爺様と呼んでいただいても結構ですから

   あ、あと、いい加減忍耐お手製のケーキ食べたいです

 

 途端にビジネスメールがおかしなことになる。突っ込みを待つボケ担当の気分ってこういうものなのかと思いながら、俺は送信ボタンを押した。

 

 

 あの震災から3ヶ月ほど経過した頃の話だ。震災当日から時折メールを送っているが、忍耐からの返事はない。そんな状況だから、俺は、もはや忍耐のことは諦めていた。

 

 これだけ時間が経っても本人からのメールの返事がないということは……信じたくはないが、そういうことなのだろう。俺はそう思っていた。ただ、一縷の望みを託し、時折メールを送っては、返信がないことに気を落とす……そんな日々が、ずっと続いていた。

 

 そんな俺が気を紛らわせる為にやっていたこと。それは募金だ。コンビニに立ち寄り募金箱が目に入った時、俺は常に募金箱に小銭を入れていた。『ひょっとしたら、この小銭が忍耐の元に届き、力になるかもしれない』そう思い、俺はコンビニに寄る度に、財布の中の小銭を入れ続けた。本当は太っ腹に札を突っ込みたかったが、俺の生活も決して裕福ではない。小銭を入れるのが精一杯だった。

 

 そんなふうに日々過ごしていた、震災から三ヶ月ほど経過したある日のこと。退職のあいさつ回りに出ていた俺のスマホに、一通のメールが届いた。

 

『爺様、久しぶり。なんとか無事だよ。心配してくれてありがとう』

 

 そんなメールが、機種変更した俺のスマホに届いていた。慌てて送信者の名前を見る。送信者の項目には、これみよがしに『忍耐』の名前が光り輝いていた。

 

 心持ち、手が震える……うまくフリック出来ない右手で懸命にメールを打ち、俺は忍耐に返信をした。

 

『よかった! 無事だったんだ!! 返信がないから心配してたんだよ!!』

 

 力が入らない右手の親指で、送信ボタンをタップした。俺のメールは、無事に忍耐に届いたようだ。画面に表示されたメッセージは『送信できませんでした』ではなく、『送信しました』だった。

 

 

 忍耐曰く『まだしっかりとネットが出来る状況ではない』らしく、その日はそれでメッセージのやり取りは終了。次に忍耐と連絡が取れたのは、それからさらに数カ月後だった。その時にはすでにネットも開通していて、PCのメッセンジャーで忍耐とチャットを行うことが出来た。

 

『心配したぞ忍耐ぃいいいい!!』

『ごめんね。爺様のメールが受信出来たのが、メールを送ったあの日だったんだ』

『マジかい……』

『うん。ずっと大変だった。携帯も使えなかったし、一ヶ月ほど風呂にも入れなかった』

『そっか……やっぱ大変だったんだなぁ……』

『うん』

 

 あの地震で、忍耐の家は半壊したそうな。そのため、忍耐はおじいちゃんと共に避難生活を余儀なくされたのだとか。忍耐のことを気遣って詳しい話や避難生活の最中のことをあまり詳しくは聞かなかったが……

 

『でも爺様、一ヶ月ぶりの風呂ってのはめちゃくちゃ気持ちよかったよ』

『そら気持ちいいだろうなぁー』

『と言っても、身体を拭くだけみたいなものだったけどね』

『湯船には浸かれなかったのか……それは残念だ……』

『でもね。今までの人生の中で、一番気持ちよかった風呂だった!』

 

 明るくそう答える忍耐に、震災で苦しめられたという影は感じられなかった。思った以上に前向きに語ってくる忍耐に、俺は心底ホッとした。

 

 もちろん、忍耐はここ数ヶ月の避難生活の中で、俺の想像を絶する辛い目に遭っているのは承知の上だ。

 

 まず、あれだけ大切に思っていた祖父を亡くしたそうだ。オンラインゲームで知り合っていた頃から、忍耐は自分の祖父を大切にしていた。俺の『忍耐もこっち来なよ』というほとんど冗談な申し出に対し、『おじいちゃんをほっとけない』と真面目に答えるほど、忍耐は祖父を愛していた。

 

 その祖父は、あの震災の影響で亡くなった。その時の忍耐の悲しみは、想像に難しくない。

 

 それに加えて忍耐は、あの震災の影響で職を失ったらしい。勤めていた会社が無くなったそうだ。

 

 忍耐との付き合いも長くなったが、俺は、忍耐の口から仕事のグチというものを聞いたことがない。『大変だ』とは聞いていたが、『やめたい』というセリフを聞いたことがない。つまり忍耐は、その仕事に慣れ親しみ、ずっと続けるつもりでいたということになる。少なくとも、退職なんか考えてなかったはずだ。

 

 そんな人が、慣れ親しんだ仕事を失ってしまった時の失意は、どれだけ大きかったことだろう。

 

『大変だったなぁ忍耐……』

『でもね。その代わり、私も新しいことを始めたんだよ』

 

 だが忍耐は折れなかった。震災からの失意と絶望に負けず、新しいことをはじめた。

 

 職を失った忍耐は、かねてから考えていたお菓子職人の道を歩み始めたそうだ。住居を確保し、衣食住の心配がなくなった忍耐は、調理師専門学校の門を叩いて、パティシエになるためのコースを受講しはじめたのだそうだ。

 

『まじか!』

『そうだよー。今までは趣味だったお菓子作りを、これからは仕事にしていくのさ!』

『前から忍耐はお菓子作りが好きだったもんなぁ!』

『そのうち自分の店を持つから! それまで私はがんばるよー!!』

 

 奇遇なことに、静岡に戻った俺は、この頃ちょうど個人事業を始めていた。元々訓練校でプログラミングを教わっていた俺は、静岡に戻った後、地元の友人のつてでwebシステムの構築をセレクトショップから個人的に依頼され、受諾開発をした。

 

 それをキッカケにしてIT全般に関するコンサルタントとシステム開発をメインとする個人事業を開いたのだ。

 

 俺と忍耐の二人が、奇遇にも、似た時期に新しいことを始めていた。そのことが、俺は妙に嬉しかった。

 

『じゃあ爺様も新しいことをはじめたんだ』

『おう。奇遇にも』

『じゃあ私の店のサイトを作るときは、爺様に頼むよ!』

『どんとこい!』

 

 忍耐の店のwebサイトを俺が作る……そんな将来の約束が、いい歳をこいた俺の胸をワクワクさせた。

 

 そして同時に、身が引き締まる思いがした。忍耐が自分の店を作るまで、俺も個人事業をやめるわけにはいかない。忍耐のサイトを俺が作る……そんな夢を実現させるため、俺は絶対に個人事業を軌道に載せなければならない。

 

 あの震災を、歯を食いしばってくぐり抜けた忍耐のことだ。きっと奴は、そう遠くないうちに自分の店を持つ。それまで、俺がギブアップすることは出来ない。いつの日か忍耐のサイトを作る、その時まで。

 

 年甲斐もなく胸を高鳴らせ、俺は忍耐にメッセージを飛ばした。

 

『んじゃ約束だ。忍耐は自分の店を作れ。俺はそのwebサイトを作る』

 

 忍耐の返事も即座に飛んでくる。

 

『了解したよ。爺様もがんばって』

『忍耐もがんばれー!』

『おーう!!』

 

……

…………

………………

 

 そうして五年後。しんどいながらも軌道に乗りつつある個人事業だけでなく、パソコンの先生もやりはじめた俺の個人事業のwebサイトに、一通の問い合わせメールが届いた。

 

 

お問い合わせの種別:見積もり希望

お名前:田所製菓店

代表者様のお名前:田所

お電話番号:0225-XXX-XXX

メールアドレス:nin-tai@XXX.com

その他、ご質問等:

 

突然のメール失礼いたします。

この度、宮城で新しく製菓店を開くことになりました田所と申します。

 

ぜひとも御社に当店のwebサイトの構築をお願いしたいと思い、

以前よりずっと御社の連絡先を探しておりましたが、やっと見つけました。

 

尽きましては、御社でサイトの構築をお願いした際のお見積りをお願いいたします。

 

追伸:やっと爺様のサイト見つけた!

   約束を果たそうと思って、ずっと探してたんだよ!

 

 

 見た途端に血が沸騰した。一目見て、忍耐からの問い合わせだと分かった。やっぱり奴は、自分の店を建てたんだ。忍耐が約束を守ってくれた。俺を選んでくれたんだ。

 

 それにしても律義な奴だ。俺の本名は随分前に教えていたから、そこから辿って俺のサイトを見つけたのかもしれない。直接俺に連絡をくれればいいのに……でもそんなところが、律義でまじめな忍耐らしい。

 

 胸のドキドキが抑えきれない。気が逸る。うまいこと返信の文面が考えられない。顔がにやける。

 

「忍耐……忍耐……ウヒヒヒ……オホッホッホッホォオウッ……」

 

 気を抜くと変な声が出る。自分の部屋で一人で仕事をしてるから、客観的に見ると、今の自分が気持ち悪くて仕方ない。いい年したおっさんが、ニタニタと笑いながらメールの文面を考える……こんな気持ち悪いシーンがあろうか。

 

 ふざけたくて仕方ない……クソたわけた文面のメールを送って、また忍耐に『爺様がそんなんだから、私がしっかりしなきゃダメなんじゃないかっ』て文句言われたい……そんな衝動をなんとか押さえ込んで、俺は、新しいクライアントからのメールに返信した。

 

 

件名:お問い合わせありがとうございます

本文:

田所製菓店 田所様

 

お問い合わせいただき、ありがとうございます。

ノムラ事業所、ノムラと申します。

 

お見積りをご希望ということですので、

より詳しいお話をお伺いしたいと思います。

 

尽きましては、お手数をおかけしますが、

下記点に関してお答えいただければ幸いです。

 

①デザインやイメージ等はお決まりでしょうか。当方にお任せいただけますでしょうか。

②予算観があればお聞かせ下さい

③ご希望の機能、参考にしたいサイトはございますでしょうか。

④製菓店ということですが、具体的なメニューは何でしょうか。

⑤一体いつになったら私にお菓子を食べさせてくれるのでしょうか。

⑥私はチーズケーキが好きです。

⑦でもショートケーキもマドレーヌも好きです。というか甘いモノ全般が好きです。

⑧お支払いに関してですが、ケーキ1ホールを請求してよろしいでしょうか。

⑨お支払いの際は、請求書を送付ではなく、直接取りに伺ってもよろしいでしょうか。

⑩その際に、また魚の美味しいあの店に連れて行ってもらってよろしいでしょうか。

 

以上、ご教示いただければ幸いです。

特に⑤〜⑩に関しては、確実にお答えいただけますよう、お願いいたします。

 

以上、ご返信お待ちしております。

 

追伸:忍耐久しぶり! すんごいワクワクする!!

 

 

 無理だった……色々と我慢できなかった。送信ボタンを押した後、俺はワクワクしながらメーラーの送受信ボタンを繰り返し押し続け、忍耐からの突っ込みメールを待った。

 

「……早く返事よこせ。ケーキ食わせろっ」

 

 数分後に届いたメールには、俺からの質問に対する詳細な回答の最後に、『まったく……とんだプログラマーだよ爺様はっ!!』という突っ込みが入っていた。

 

終わり。

 

 



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