目を覚ますと、揺れるバスがちょうど停まる所だった。
「奥花、奥花。お降りの方は・・・」
最後まで聞くこともなく、寝ぼけ頭でバスから降りた。
風が揺らす名前も知らない深緑の樹々。
木陰の外には目に染みるほどの日差し。
ミンミンゼミの合唱が、徐々に遠くなるエンジン音と響き合って余韻を残す。
見慣れた景色がそこにあった。
いや、そんなはずはない。ここに来るのは初めてだ。
既視感か。田舎なんてどこもこんな風景だ。
田舎のバスなら5つも停留所を過ぎれば見知らぬ土地にたどり着く。
もっとも今日は寝ていたからいくつバス停を過ぎたかなんてわからない。
飾り気のない腕時計を見ると、短針は2を指していた。
1時間以上は乗っていた事になる。
見知らぬ土地に一人。
あてもなく散策する。
誰とも関わらなくていいこの時間が僕は好きだった。
とはいえ帰れないのは困る。
田舎のバスは、1時間に1本なんてのはザラだ。
小道の反対側にあった停留所の時刻表を見て、帰りのバスの時間を決める。
今日はあと2本通るらしい。最終は18時。
あてもなく歩く。
といっても車がすれ違うのは難しそうな道が一本、森に入る獣道がたまに伸びているだけ。
バスが進んでいった先へとまっすぐ歩く。
8月の日差しは強い。
今年は風が強く、乾燥して冷え込むのが早いと天気予報は言っていたが、今のところは夏真っ盛りだ。
木陰を歩いたって暑い。
ミンミンゼミの声が鬱陶しくもあるが、地元でだって鳴いている。
そう考えると、知らない地に響くこの声は、また新鮮で心に染み入る。
どれくらい歩いただろうか。
段々耳障りな音が大きくなってくる。
地面から足に伝わる振動。
200メートルほど離れた所で、道路工事をしていた。
「うるさいなあ。」
思わず呟いてしまった。
土木関係の人は嫌いなのだ。
もっとも人が嫌いなのだから、目の前の働く兄ちゃん達に限った話ではないのだが。
その人たちと目も合わせずに通り過ぎ、更に歩く。
バス停を出て1時間は歩いただろうか。
少し先の左手側、続いていた樹々が途切れ、ログハウスが建っていた。
飾り気のない簡素なログハウスだ。
玄関に向かう数段の階段の手すりはささくれ立ち、全体的に少しくすんだ雰囲気の茶色い木の壁。
入口ドアの上に看板がかかっていた。
― Café Memory House ―
心臓がトクンと跳ねた。
吸い込まれるように看板を、そしてログハウスを見つめ続けた。
セミの声と樹々の揺れる音は溶け合い、ここまで歩いてきた道を埋め尽くしていた。
でもここだけは別の世界かのように、その慣れ親しんだ音もどこか遠く、小さく・・・。
もちろん知らない店だ。
けれども入るのに躊躇はなかった。
ぼうっとした頭を一振りし、そのログハウスの階段に足をかける。
ギィと小さく軋む音が僕を招くかのように。
足早に数段の階段を上り、木でできたドアの取っ手に手をかける。
ドアは音もなく静かに開いた。
「うわぁ。」
思わず声が漏れてしまった。
暖色系の明かりで薄暗い店内に、扉から一筋の光と影が差す。
光差す正面の壁にはアンティーク調の調度品が並んでおり、壁に掛けられた振り子時計がゆったりと時間を刻んでいる。
吸い込まれるように一歩、店に入り込む。冷たい空気が汗ばんだ体を通り抜けていった。
紙とインクの匂い、それと珈琲の香りが混ざり合って僕に届く。
扉を閉めて店内を見回すと、左手には壁を覆いつくすほどの本、本、本。
古ぼけた本棚に、ぎっしりと大小様々な本が並ぶ。
本棚の前には深い木目調の机が並び、本棚と融和していた。
右手にはカウンターがあった。
透明なグラスや色とりどりなお酒の瓶、使い道は全く分からないが、恐らく珈琲を入れるのであろう器具が並び・・・そこに一人の女性がいた。
光を弾く黒い髪、黒いワンピース、透き通った白い肌。
にこやかに微笑む女性と目が合った。
「いらっしゃいませ。」
彼女の声をきいた僕の目からは、一筋の涙がこぼれた。
外との光量の差に目が染みたのだろうか。
柔らかい女性の声に導かれるまま、僕はカウンターの椅子に座った。
カウンターに置いてある1枚ペラのメニュー。
目を通すものの、知らない名前が並んでいる。生憎と珈琲には詳しくないため、そのままメニューとのにらめっこが続く。
「外は暑そうですね。冷たい珈琲でよろしかったですか?」
とカウンター越しに声が届く。
「あ、はい。」
としか答える事が出来ない。顔を上げると、女性と目が合った。
流暢な日本語だが、よく見ると鼻が高く西洋風の顔立ちをしている。ハーフだろうか。
彼女は薄い朱のひかれた口元でにこりと笑うと、グラスを取りに行った。
歩く姿を思わず目で追ってしまう。
七分袖の黒いワンピースを纏い、同じ色をした髪はまっすぐ肩下まで伸びており、まるで静謐な滝のようだった。
グラスを差し出され、どうぞと促されるままに口をつける。
ひとくち、ふたくち。冷えた珈琲が胃に落ち、よく効いている空調と共に体を冷やしてくれる。
机にグラスを戻すとカランと氷が音を鳴らす。
店の中にお客さんは誰もいない。音楽も流れていない店に、その音はよく響き多少の照れくささを感じた。
隠すかのように、彼女に伝えた。
「美味しいです。」
僕は人は嫌いだ。
高校生の時に、いじめを受けた。きっかけはただそれだけ。
逃げるように見知らぬ土地の大学に進学。いじめは無くなったものの、自分からは声をかけられなかった。
1ヶ月が経つ頃には、いつのまにかコミュニティが出来上がっていた。
1人でいるのに慣れてしまったからか、最近は誰かと関わろうなんて、考えもしなくなった。
でもたった今、その考えが変わるのを感じた。
目の前の彼女に目を奪われてしまった。
勧められるがままに珈琲を数杯飲む。飲みながら、他愛もない話をする。
名前、出身、誕生日、趣味。こんな他愛もない話で盛り上がったのはいつぶりだろう。
彼女は「私のことは魔女と呼んで」と微笑んだ。
珍しいあだ名だが、これ以上似合う名前もないとも思った。
こんな辺境の地だから話し相手が欲しいのか、魔女さんは僕に色々な話を聞いてきた。
人と話すのは久しぶりなのでしどろもどろになりつつも、楽しい会話の時間が流れる。そんな空気の中に重い鐘の音が響いた。
ゴーン――ゴーン――
4度鳴った。壁掛け時計に目をやると、やはり4時を指し示していた。
人と話していて時を忘れる。いつ以来だろうか。
名残惜しくも店を後にする。
出る前にさりげなく振り向けば、魔女さんは変わらない微笑みを投げかけてくれた。
扉を開ける。薄暗い静かな優しい世界から、暑苦しく鳴り響く現実の世界へ。
店の静かさに慣れた耳にはミンミンゼミの声はうるさく響き、今日の工事を終えたのであろう休憩中の兄ちゃん達からは煙草の匂いが届いてきた。
それらを振り払うようにバス停へと歩を早める。
今はあの店で感じた声を、香りを、世界を邪魔されたくない。
乗客がただ一人のバスに乗り、魔女さんとの時間を思い出しながら帰路についた。
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