新米風紀委員の活動日誌 (椋風花)
しおりを挟む

第一部一章:風紀委員ってなんですか
運命は突然に


___________

 

 ――その頃の私は、とてつもなく不機嫌で、とてつもなく苛立っていた。味方なんてだれもいなくて、居場所なんてどこにもなくて、お父さんとお母さんが嫌いで、そしてなにより、流されるだけの、なにもできなかった自分が、一番大嫌いだった。

 

 散々泣いて、散々叫んで、それでも現実は変えられなくて。すっかり不貞腐れた私は、一人きりの世界に閉じこもることを選んだ。 今だったら、思春期ならではの自己嫌悪と思い込みだったと思えるし、まさしく若気の至りだったけれど。

 その時の私は、そうすることでしか不満を訴えられなかった。

 

 学校の昼休み。一人ぼっちだった私は、弁当箱の包みを片手に、行くあてもなくふらふらと廊下を歩いていた。昼休みは始まったばかりで、廊下は賑やかにざわついている。

 

(あー、どうしよう)

 

 私はお弁当を食べる場所を探していた。教室で一人食べるお弁当はなかなかに鉛の味で、おなかの下のほうに変なたまり方をしてしまう。嫌いなものが入っていたら、より一層。

 

 開いていた窓から顔を出して、校庭を覗きこむ。

 まだ人の姿はないけれど、のちのちグラウンドを使いに生徒が下りてくるだろう。それに、あんな土埃が舞いそうなところで、ご飯なんて食べられない。

 

(どうしよっかなあ。図書室だとご飯食べられないし、空き教室使うのも、ちょっとハードル高いよね)

 

 悩みながら窓の外を眺めた。

 外は風が強くて、木の葉がざわざわと音を立てて揺れている。差し込む日差しは柔らかで、晴れ晴れとした青空は爽やかだった。

 

(……やっぱり外に出てみようかな。いい天気だし)

 

 強風でも、場所を選べば被害に遭わずに済むかもしれない。探してみれば、人目につかない場所が見つかるかもしれない。少なくとも、校舎の中よりは圧倒的に人が少ないはずだ。

 

 そうと決まればと階段の踊り場に出ると、数人の男子がたむろって談笑をしていた。まさかもう食べ終わったわけじゃないだろうだから、だれかを待っているか、どこで食べるかを相談しているのだろう。

 目立たないよう、ひっそりと脇を抜けていく。

 

「なあ、屋上って上がれたんだっけ?」

「屋上? 鍵は閉まってないって、先輩に聞いたけど」

 

 聞き捨てならない単語が聞こえて、危うく振り返りそうになる。ここにきて、屋上という選択肢が増えるとは。

 

「え、屋上って入れんの!? だったら今から行ってみようぜ」

「馬鹿、お前知らねえのかよ。屋上には、ほら――」

「あっ」

 

(な、なに?)

 

 気になりすぎて、階段の途中で立ち止まる。

 階段を下りた先なので彼らからは見えないが、こちらも彼らの表情が読めない。黙り込まれてしまうと、なにが起きているのかまったく分からなくなる。

 

 仕方ないから、私は来た道をもう一度引き返した。今度は正面から顔を見ると、男子たちはみんな、ひきつった顔をしているところだった。

 すぐに戻ってきた私は不自然極まりなかっただろうに、気にも留めずに彼らは続ける。

 

「うっわ。それ、あそこだったっけ」

「そうだよ。だから不良たちもあそこには近づかないんだって。出た瞬間、咬み殺されるって噂」

「怖えー!」

 

(……犬?)

 

 この学校では、屋上で闘犬でも飼っているのだろうか。

 

「この前は、校舎裏でたむろってた三年生が片っ端からやられたらしいよ」

「群れると音もなく現れるっていうよな」

「昨日も体育館に出たらしいぜ」

 

(しかも放し飼い!?)

 

 一体なんなんだこの学校は。そんな危険な動物を野放しにしているのか。

 まだまだ気になるところがあったけれど、男子たちはぞろぞろと階段を下っていく。追いかけたらさすがに気付かれるだろう。諦めた私は天井を見上げた。

 

 この天井の上の上。屋上に、得体のしれない化け物がいるのだろうか。

 

(まさか、そんなのが本当にいるわけないよね。学校の怪談とか七不思議なのかも)

 

 ――そのときの私は、彼らの話を噂話だと受け止めていた。そして、どうしても屋上に行きたくなってしまった。

 怖がり方が大げさで現実味を感じなかったし、屋上という響きに、あらがえないときめきを感じていたのだ。

 今までの学校の屋上は使用禁止だったから、屋上で食べるお弁当と、屋上から見る眺めに、強い憧れが芽生える。

 

(ちょっと行ってみよっと。人がいっぱいいたら戻ればいいんだし)

 

 それに、あんな噂が出ているくらいだ。この学校の生徒なら、さっきの男子たちのように怖がって避けているかもしれない。

 

 決心した私は、軽快に階段を上る。学校の構造はまだよく覚えていなかったけれど、階段を上ってればいいのだから簡単だ。すぐに屋上へと辿り着いた。

 解放されているのは本当らしく、鉄製の扉の前に、立ち入り禁止の張り紙やバリケードなどはない。

 扉の取っ手を握って、少しだけ押してみた。わずかに開いた隙間から風が吹き込み、髪が後ろになびく。

 

(……だれか、いるのかな)

 

 人が少なかったら少なかったで気まずいものだ。カップル一組しかいない空間に飛び込みでもしたら大惨事なので、私は注意深く扉を押していく。

 隙間から外の音が入ってくるけれど、そのなかに人の話し声は混ざっていない。

 今度は顔を扉に近づけて屋上を覗く。見える範囲にあるのは遠くにあるフェンスだけで、人の姿はない。――それなのに。

 

(……なんだろう、この感じ)

 

 ジワリと嫌な感覚が胸に広がっていく。覗いているのは私なのに、まるで私が見つめられているような感覚。このまま屋上に出てしまったら、なにかとんでもないモノに襲われてしまいそうな、そんな不安。

 

 ――あれは第六感だと察せるほど、当時の私は鋭くなかった。

 

(もしかしたら本当にナニかいるのかも、なんて)

 

  扉を半開きにしたまま逡巡する。行くか、戻るか。戻るとしたらどこに向かえばいいのか。

 考えている間にも下からは賑やかな喧騒が聞こえるし、開いた扉からも校庭で騒いでいる生徒の声が聞こえてくる。もう食べ終わった生徒がいるらしい。

 他に行くあてもないし、このままだと昼ご飯を食べる前に昼休みが終わってしまう。

 

(一回。一回、まず出てみよう。そんで、なにかいたらダッシュで逃げよう!)

 

 ――引くという選択肢は、私にはなかった。

 

 悩むだけ悩んだ私は、覚悟を決めて扉を開ける。外の風が勢い良く吹きこんで、私はぎゅっと口元を結んだ。周囲を見渡しても、さっき見た通り屋上にはだれもいない。嫌な予感とは裏腹に、屋上は貸し切り状態だ。

 

 見上げた先にある青空と太陽に猜疑心を吹き飛ばされ、ほっとしながら足を踏み出した、その瞬間。

 

「ひゃっ!?」

 

 ドアノブを握っていた腕が悲鳴を上げる。だれかに、右腕を掴まれていた。

 咄嗟に引き戻そうとしても無駄で、勢いよく屋上へと引っ張り出される。そしてそのまま、扉の隣の壁へと叩きつけられた。打ちつけられた背中の痛みに目を瞑ると、首元に固い感触。

 

(な、なに? なにが起きてるの!?)

 

 顔を上げようにも、首を圧迫されているから動かしようがない。私は恐る恐る目を開けてみた。

 顎の下にあるせいで、押さえつけている物の形は目では見えなかった。でも、肌に伝わる感触から、円筒状の棒のようなものであることがわかる。

 棒の端に持ち手があるのは、視界の端でかろうじて確認できた。黒い持ち手を、白い手がしっかりと握っている。カンフー映画に出てくる二本セットの武器――名称はなんだったか。

 

 いや、道具の名前なんかはどうでもいい。問題は、いきなり首に棒状のものを押しつけてきた不届き者はだれなのか、である。

 正面に立っているのが男子生徒だということは制服でわかるが、喉をこんなもので圧迫されていては、目前の顔なんて確認できるはずもない。

 

「君、だれの許可を得てここに来たの?」

 

 こんなことをしておきながら、問いかけてくる声はやけに落ち着き払っていた。淡々としているが、声音には不穏な気配が漂っている。

 

「……っ」

 

 声が出せないうえに、圧迫された喉では呼吸もままならない。答えられるわけのない状態なのに、彼は答えを待っていた。

 

(こ、殺される……!)

 

 冗談ではなく、本気でそう思った。酸欠と恐怖で気を失いそうになったところで、ようやく喉元から武器が下ろされた。

 

「ハッ……ケホ、ゴホ、ゴッホ! うえ」

 

 息ができるようになった途端、激しく咳きこんで涙が出る。

 逃げなければと思うものの、後ろは壁で、前には男。丸まった背筋を伸ばす間もなく、先ほどと同じ棒が私の顎を押し上げた。今度は、強制的に目を合わせられる。

 

 目が合った、という言葉で済ませていいのだろうか。それほどまでに強い衝撃が脳を揺さぶった。

 これまでに見たどの瞳よりも、その瞳は強い色を宿していた。これまでに見たどの瞳よりも、その瞳は私に恐怖を抱かせた。

 

(――ヤバい。コレハホントウニヤバイ)

 

 本能が全力で危険を告げていた。あの嫌な感覚がこの人の殺気のせいだと気づいても、もう遅い。

 

「……ねえ」

 

 相手の瞳しか見えていなかった私は、やっと顔全体を見るだけの余力を取り戻した。本来なら顔の近さに狼狽えるところだけれど、この状況でそんな余裕あるわけがない。

 

「僕の眠りの邪魔をしたら、どうなるか知ってるかい?」

 

 どうやら、彼はひどく怒っているようだ。口の端はわずかに持ち上がっているが、機嫌が悪いことは、雰囲気からも伝わってくる。そしてこのタイミングで思い出すのもどうかと思うけれど、武器の名前はトンファーだ。

 私がなにも言えずにいると、彼は切れ長の瞳を細めた。

 

「君、咬み殺すよ」

 

 ゾクリと肌が粟立つ低音に、それでも私はまだ状況が理解できずにいた。

 

(な、なにこの人! なんでこんなことされなきゃいけないの!?)

 

 私はただ、屋上に出ようとしていただけである。どこにも立ち入り禁止なんて書いてなかったし、ここはこの人の私有地でもない。

 それなのに、どうしてこんな目に遭わされなければならないのか。

 

「……君、女だからって僕が手加減すると思わないほうがいいよ」

 

 理不尽に対する憤りが表情に出ていてしまったのか、彼はそう言いながらトンファーを持つ腕に力を込めた。

 

(そんなの期待してるわけないじゃん!)

 

 こんなことをしてくる相手に期待する人間が、どこにいるのだろう。息苦しさを感じながらつま先立ちで彼と対峙する。このままだと、咬み殺される前に窒息してしまう。

 

(こうなったら――)

 

 追い詰められた私は、拘束されていない足で彼の足を蹴飛ばした。

 

「ワオ」

 

 予備動作も付けられなかった拙い蹴りは、彼の足をほんの少しかすめるだけに終わる。

 しかし彼は驚いたように目を瞠ると、なにを思ったか、私を解放した。力が抜けた足が崩れて、その場にへたり込む。

 

「――ゲホッ!」

 

 またもや酸欠で顔が熱い。呼吸を整えるべく口を開けるが、吐く量が多くてなかなか空気が入らない。

 

 私が呼吸を整えている間、目の前の黒い靴は微動だにしなかった。

 見下ろされているのが分かるし、早く逃げ出したいのはやまやまだったけれど、体はまだ動かせない。

 

「反撃、するんだ」

 

 落とされる声。先ほどまでの不穏な空気は感じないものの、顔を上げる勇気はもちろんなかった。

 

「君、名前は?」

 

 もう危害を加えるつもりはないらしい。しかし、トンファーの先端が視界に入って、私の気持ちを落ち着かなくさせた。

 

「名前」

 

 視界の隅でトンファーが揺れる。

 

「……相沢」

 

 やっと会話が成立した。そういえば、彼は何度も問いかけを寄こしていた。答えてほしかったのなら、答えられるように配慮してほしかったけれど。

 

 しゃがみこんだ彼が、私と目を合わせる。反射的に体が強張るが、彼は気にしていない。

 

「僕は雲雀恭弥」

「……はあ」

 

 自己紹介のような声のトーンに少し力が抜ける。先ほどまでの振る舞いを、忘れてしまっているのではないだろうか。

 

(っていうか、なんでこの人、制服違うの)

 

 並盛中学校の制服はブレザーなのに、彼は学ランを肩に羽織っていた。

 

「君の名前はなに?」

「……え、相沢利奈?」

 

 なぜ二度聞かれたのかわからず、自分の名前なのに疑問系で答えてしまう。

 しかし、恭弥はどこか納得したような顔で立ち上がった。

 

「そういうこと。僕の睡眠を邪魔する人は許さないんだけど、今回は特別に大目に見てあげるよ」

 

 ――もうすでに、十分痛い目を見た気がするのだけれど。彼の基準からしたら、まだ手ぬるいほうだったらしい。

 

「次に一歩でも入ったら、容赦なく咬み殺すから」

 

 振り子のようにトンファーを振りながら、彼は言った。

 トンファーの本来の使い方を思い出して、腕が震える。トンファーは、首を絞めるための道具ではない。相手を殴りつけるための武器だ。

 

「……わかった」

 

 本当はなにもわからないけれど、こう答える以外の術がない。

 彼は何者なのか。どうしてこんなことをされたのか。一切合切まるで見当がつかないけれど、とにかくこの場から逃げ出さなければならない。

 

 立ち上がった私は、ドアノブを引っ掴むと彼の視線から逃がれるように体を滑り込ませた。

 

 ――それが私、相沢利奈と、彼、雲雀恭弥の最初の出会いだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

早すぎる再会

_____________

 

 雲雀恭弥は、風紀委員長であるらしい。

 担任の先生に翌日尋ねてみたところ、そんな情報を得ることができた。

 

 なにかしでかしたのかという問いにははぐらかしたけれど、先生の態度で、教師からも恐れられている存在だとわかった。闘犬どころではない、もはや地獄の番犬だ。

 

(風紀委員、か。じゃあ、屋上は本当は立ち入り禁止で、私が勝手に入っちゃったから注意――ううん!  あんなの注意ってレベルじゃない!)

 

 口頭で一言言ってくれれば済む話だ。だいたい、学校にトンファーを持ち込むこと自体が校則違反だろう。校則なんて知らないけれど。

 

 しかし、恭弥の行為は正当であると認められているらしい。

 この学校の風紀は風紀委員に一任されているらしく、多少、いや、どんなに荒い手段を使っても許されるそうだ。

 あまりの独裁政権ぶりに疑問を抱いていると、先生が苦笑した。

 

「この学校だとそうなんだよ。転校生だから、わからないかもしれないけれどな」

 

 ――それを言われると、なにも言えなくなってしまうけれど。

 

 私が並盛町に引っ越してきたのは、春休みに入ったばかりの頃だった。

 父の転勤で引っ越すことになった私は、最後の最後の日まで転校なんてしたくないと泣き叫んだ。ずっと一緒だった大切な友達、大好きな町並み、それらを思い出にして知らない町で暮らすなんて、どうしても耐えられなかったのだ。

 無念ながら、お父さんに無理やり車に押し込められてしまったが。

 

 こうなってしまった今、新しい町でも頑張ろう、なんて殊勝な心がけは持ち合わせていなかった。私は新しい環境に馴染む努力の一切を放棄することにした。親に対する力いっぱいの抵抗である。

 引っ越してきたばかりの頃は説得しようとしていた親も、今では諦めたように私のことを放置している。そして、私はますます荒むのである。

 

「そんでね、二人で噂のお店に行ったんだ。すっごく安くって、びっくりしたよ」

「えー!  ズルイ、今度は私も一緒に誘ってよ!」

「みんなで行こっか。隣のクラスのも誘ってさー」

 

 女子の声がやけに大きく聞こえる。

 私の抵抗は学校でも継続されていて、人付き合いはまったくしていない。前の学校の友達が見たら、性格が変わってしまったんじゃないかと思うだろう。

 自習時間の教室内は賑やかで、私は息苦しさを感じていた。

 

(一人になりたい)

 

 先生のいない教室から出るのは、とても簡単だった。温度差を感じながら、ふらふらと廊下を歩く。

 このまま家に帰ろうかなんて考えて、不良みたいで、一人笑う。笑って、肩を落とした。

 

(……わかってるけどさ、こんなことしても意味ないって)

 

 ――引っ越してから何ヶ月も経っているし、今更、元の町になんて戻ってはくれないだろう。仕事だって大事だし、もう両親にとってこの町は、新しい場所じゃない。居場所なのだ。

 わかっていたって、揺れる感情は抑えられない。

 

 意味もなくトイレで手を洗って、教室に戻る。他のクラスは静かだけど、私のクラスはずいぶんと騒がしい。

 

(……私なんて、いてもいなくてもおんなじ)

 

 手にかけた扉を引けずにいると、偶然教室にいる男子と目が合った。きょとんとした顔の、背の高い――

 

「……っ」

 

 いたたまれなくなって、私は逃げるように駆け出していた。

 

 

――

 

 

 目の合ったクラスメイトが、身を翻した。続く足音は小刻みに遠ざかっていく。

 三秒くらい、見つめ合っていただろうか。無理やり剥がされた視線に、なんだか置いて行かれてしまった気になる。

 

(今のは――相沢だったか)

 

 クラスメイトの顔と名前はだいたい把握している。同じ教室で一学期近く過ごしていれば、話したことのない相手でも、なんとなく覚えてしまうものだ。

 

(なんで逃げちまったんだ?)

 

 目が合ったから逃げたのだ。でなければ、背ける寸前に歪められた顔に、説明がつかない。

 表情の意味はわからないが、彼女が逃げ出した理由が自分にあることに、困惑する。一度も会話した記憶がないのに、どうして。

 

「どうした、山本」

 

 黙り込んでいるのに気付いた友達が、声をかけてくる。だれにも、相沢の姿は見えていなかっただろう。

 

「いや、なんでも」

「なあ、山本聞いた? 昨日さ――」

 

 友達が、昨日あった面白話を、身振り手振りを交えて話す。それに相槌を打っている間に、いなくなった相沢のことは、いつのまにかすっかり忘れてしまった。

 

__

 

 

(……また、ここに来てしまった)

 

 うんざりした気持ちで、私は天を見上げる。

 

 下に下にと下りていって、先生に鉢合わせしそうになって。反対に上へ上へと上がってきたものの、気付けば行き止まりだ。駆け下りてから駆け上ってきたものだから、足が震えている。

 早鐘を打つ胸が縮こまっているのは、昨日の出来事のせいだ。屋上の扉を見ただけで、体が拒否反応を示している。

 

(授業中だし、いないはず……なんだけど)

 

 荒い息を収めつつ、階段を上る。今度は慎重に段を上がっていくが、彼がいるかどうかは、扉を押してみなければわからない。

 もちろん扉に手をかけるつもりはなかったが、教室に引き返すこともまた、できなかった。抑えようと努力していたけれど、もう涙は頬を伝い始めている。

 

(……ここなら、だれも来ないし)

 

 屋上にいる怪物の存在が、私を守ってくれる。怪物がいる檻に近づく物好きなんて、私くらいだろう。奇妙な安堵を抱きながら、階段に腰を下ろす。

 

(絶対、変に思われたよね)

 

 目が合った男子生徒の名前は覚えている。よりにもよって、クラスで一番のムードメーカーだ。だれにも言わないでくれていればいいけれど、そんなことより、涙の止め方を考えなければならない。

 拭えば拭うほど落ちてくる仕組みなのか、制服の袖のシミが見る間に大きくなっていく。

 

(私、なにやってんだろう)

 

 クラスメイトの視線にすら、怯えてしまうなんて。

 こんなところで居場所なんて作らなくていいと思っていたけれど、やっぱりさみしい。だれかと話したいし、友達が欲しい。でも、そんなことをしたら、前の学校を忘れてしまうみたいで、抵抗していた私を裏切るみたいで、できない。

 一人でいたいわけじゃないのに。こんなことがしたいわけじゃないのに。私はただ、戻りたいだけなのに。

 

 だれにも言えない気持ちを涙に溶かしながら嗚咽を漏らしていると、わずかにきしむ物音が、後ろから聞こえた。

 

「なにやってるの」

 

 息が止まった。

 

「さっきから音立ててたのは君?」

 

 続けて投げかけられる背後からの声。

 振り返りたくはないけれど、振り返らなければ待っているのは死である。私は観念して首をひねった。

 昨日と同じく、剣呑な瞳をした恭弥が、扉に背を預けて立っている。

 

「……なんで、聞こえたの?」

 

 まず疑問がわいた。扉はちゃんと閉まっていたし、泣き声だってあげていない。しゃくりあげる声だって押し殺していたし、たとえ扉が開いていたとしても、外まで聞こえるような音量ではなかったはずだ。

 私の素朴な問いに、恭弥はけだるげに欠伸をこぼした。

 

「僕は、葉の落ちる音でも目を覚ます体質なんだ」

 

(すごい……っていうより、面倒そう)

 

 そんな体質では、夜もろくに眠れなさそうだ。

 しかし今、わりとさらっと、恭弥自身が授業をさぼって昼寝をしていたと暴露された気がするが、気に留めたほうがいいのだろうか。 

 反応に困る私を見ている目は眠たげに落ちているが、肌を刺す威圧感は昨日とさほど変わっていない。

 

「君ってさ」

「っはい」

「学習しないタイプ?」

「……はい?」

「昨日言ったばかりだよね、僕」

 

 問答すら億劫なのか、やたらと文言を区切ってくる。

 どうやら、制裁を加えるために、わざわざ昼寝を中断してここまでやってきたらしい。

 

「えっ、でも……」

「なに」

 

 私はひたすら困惑していた。

 

「ここ、屋上じゃないですよね?」

 

 ――そう、ここは屋上ではなく階段である。目と鼻の先の距離とはいえ、階段は階段で、屋上は屋上だ。屋上に近づくなと言われていたらもう少し考えていたけれど、屋上に入るなとだけ言われたのだから、階段はセーフだろう。彼に文句を言われる筋合いはない。

 もっとも、恭弥の耳がずば抜けて鋭いと知っていたなら、移動していたと思うけれど。

 

 まさかそう切り返されると思っていなかったのか、恭弥は少し目を開き、それから唇を尖らせた。

 

「それが、僕の眠りを妨げておいての言い訳?」

「え!? あ、その、べつにそんなんじゃないんですけど!

 ただ、言われたことはちゃんと覚えてましたよっていうか、だから見逃してくれると嬉しいですってだけで――」

「君、結構いい根性してるね」

 

 紛れもなく皮肉である。でも、私の言い分にも一理あると認めたのか、組んだ腕を解きはしなかった。しかし、屋上に戻ろうともしない。

 

(邪魔だからさっさと帰れって意味だよね)

 

 私も、自習中とはいえ授業を抜け出してきている身だ。おとがめなしで済むのなら、さっさと戻ったほうがいい。

 

「じゃあ、私は教室に――」

「今年の春に引っ越してきたんだって?」

 

 どうやら読みが外れたらしい。浮かそうとしていた腰を沈め、私は頷いた。

 

「部活動、委員会への所属はなし。成績は並。問題は起こしていないけれど、素行は――」

 

 刺さる視線を横に受け流す。

 

「――まあ、一般生徒の範囲内。群れにも所属していないし、模範生だ」

「アハハ……」

「それで、君が泣いてたのはどれが原因?」

 

 いきなり涙の理由を指摘され、相槌が止まる。見えてないことにしてくれると思っていたけれど、見逃すつもりはなかったらしい。

 答えられずにいると、だいたい察しはついているけどねと恭弥は息を吐いた。一人で屋上に出ようとしていたのが、もう答えだろう。

 

「僕も、個人個人の悩みはどうでもいいんだ。風紀さえ乱していなければね。

 でも、そういう小動物が群れを作って増長するのは嫌なんだ。群れ固まってなければなにもできない雑魚たちがのさばると、ムカムカする。咬み殺したくなる」

 

 声に険を孕ませながら、恭弥は私を見る。見ているのはおそらく、違うものだろうが。

 

「で、君は? 君も僕の憂鬱の種になるのかい?」

「……」

 

 私は恭弥から顔をそむけた。座り直して、膝を抱える。

 

「……私は、そんなことできない。なにもできない」

 

 このままじゃ、寄り集まるカラスにもなれないだろう。流されるのが嫌でふんじばっている私は、どこにも行けなくてただ膝を抱えている。

 

「私は、戻りたいだけ。もういたくないの、こんなところ」

 

 膝頭を見つめながら呟く。思い出だけがきれいに輝いていて、学校にいても家にいても灰色で、つまらない。現実を受け入れてしまえば楽になれるとわかっていても、意地っ張りの私が邪魔をする。

 

「ほんとに、最悪。もう、こんな学校、大っ嫌――」

 

 ――私は、一番重要なキーワードを先生から聞き損ねていた。

 雲雀恭弥の過剰なまでの愛校心を知っていたら、口が滑ってもこんな発言はしなかっただろう。でも、私は知らなかったから、一番言ってはいけない禁句を、いとも簡単に弾き出していた。

 

「ひっ」

 

 背後で急速に膨らんだ怒気に気付く間もなく、私の体はぶん回された。襟首を掴んだ手に、力いっぱい壁へと放り投げられたのである。

 跳ね返された私は、足を滑らせて勢いよく階段に打ち付けられたが、突き飛ばされなかっただけマシなのだろう。さすがに死ぬと判断されたのか、あるいは、突き飛ばすだけでは済まないほどの怒りを彼が抱いていたか。

 

(な、なに? 本当に怒らせた?)

 

 痛みよりも混乱で身動きが取れずにいると、昨日とどこか似た構図で、恭弥の上履きが視界に入った。

 

「本当に頭が悪いんだね、君は」

 

 声に込められた怒りは昨日の比ではない。押さえつけられてもいないのに、顔を上げられなかった。

 

「どうしようもないから、ひとつだけ教えてあげる。君がそうなってるのは、君のせいだよ」

 

(そんなの――)

 

「知ってるとは言わせない」

 

 思考に被さる声に目を見開く。

 

「君がいた町のことは知らない。でも、たとえ君の町がどんなに素晴らしくても、僕は並盛が一番好きだ。それはどこへ行こうが、なにが起きようが、変わらないし変えるつもりはないよ。並盛は、僕の誇りだから」

「誇り……?」

「誇りさ。君も、君の町が好きなら、それを誇ればいい。僕も、人の考えまで洗脳するつもりはないよ。だけど、未練がましくしがみついているようじゃ、町に失礼だ」

 

 確固たる信念を持った恭弥の声は、不安定に揺れていた私の心を掴んで、引きずり出す。過去にすがるのではなく、過去を誇る。そんな考え方、一度だってしたことがなかった。

 

「雲雀……先輩は、どうして――」

 

 そんなに、この町を。そう続けたかった私の声を、チャイムの音がかき消す。

 そのチャイムが鳴り終わると同時に、恭弥が身を引いた。

 

「じゃあ、僕も暇じゃないから。後は自分で考えて」

「え」

 

 戸惑う私をしり目に、恭弥はあっさりと階段を下っていく。

 あっけない解放に驚きながらも、私は痛む体をゆっくりと起こして立ち上がった。階段に打ち付けた足と腕がズキズキと痛む。

 

「……誇り」

 

 私は、並盛町のことをなにも知らない。知ろうともしていなかった。でも、恭弥がここまで大切に思うなにかが、きっと存在しているに違いない。

 

(どんな、町なんだろう)

 

 私はこの日初めて、並盛町のことを知りたいと思った。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

並盛町観光 ~癒着の匂いを添えて~

______________

 

 屋上――いや、階段での一件以来、私は誇りという言葉を胸の中に転がしていた。軽はずみな言動のせいで痛い目を見たけれど、なぜか気持ちはすっきりしている。ぐしゃぐしゃに絡まった心の糸を、すっぱりと切り捨てられたようだった。――全身に青あざを作って、お母さんの顔まで青く染め上げてしまったのは、悪かったけれど。

 

(誇り、かあ……)

 

 恭弥は、後は自分で考えろと言っていた。彼に従うわけじゃないけれど、行動を起こさない限り、ずっと自分の内側に引きこもったままになる。

 

(手紙……書いてみようかな)

 

 思えば、この町にきてからずっと、現実逃避にいそしんでばかりいた。友達に手紙でも書けば、少しは自分を見つめられるかもしれない。

 そんな思いでチマチマと書き続けた手紙は、土曜日になって、ようやく書き上げられた。うっかり切手を用意し忘れてしまったたけれど、郵便局に行けばそのまま手紙も出せるから、問題ないだろう。

 

(ついでに、この町のいいとこ探しでもしよっかな。引きこもってたから、どこになにがあるか全然知らないし)

 

 ――ウキウキ気分で外に出た私は、ひとつ、重要な問題点を忘れていた。

 学校の登下校以外、ろくに外に出てなかったから、気付けなかったのだ。自分が、筋金入りの方向音痴だったことに。そして、そんな人間が好き勝手に歩いて、目的地に辿り着けるわけがないということに。

 

「郵便局ってどこ……!」

 

 家を出てから、一時間は経っているだろうか。行き方をお母さんから聞いていたにもかかわらず、私は郵便局を見つけられずにいた。

 おそらく、言われたとおりに歩いていればすぐに辿り着けたのだろう。でも、ついつい知らない道に入り込んで寄り道をしているうちに、気付けば全く知らない場所に来てしまった。

 

「……さっきも、ここ来たよね?」

 

 同じところをぐるぐると回っている気がして冷や汗が流れる。曲がる道を毎回変えてみているのに、なぜか来たような道に戻ってきてしまう。迷路だったら、壁に手を当てて歩けばゴールに行けるのに。

 

「ああもう! こんな町、本当に嫌い」

 

 どこぞの委員長に聞きつけられればまたひどい目に遭うセリフを吐きながら、また歩く。今度は、思い切ってまっすぐに道を歩いた。曲がってだめならと半分自棄になっていたけれど、運よく人通りのある商店街に出られた。

 

(知ってるような、知らないような……もう歩くの疲れたし、無茶しないで一回学校に行こう)

 

 すでに、二時間は経過している。やみくもに進んでも埒が明かないし、投函は諦めて、家に帰るのを優先しよう。問題は、学校がどこにあるのかがわからないというところだけど。

 とりあえず、通りに沿って歩いてみる。――そこを直感で歩き出すのが、無自覚方向音痴なのである。

 

(あ、なんか学ラン着たすごい髪型の人がいる。……って、うちの学校だ!)

 

 そう、風紀委員である。並盛町の制服は薄い黄色のブレザーなのに、なぜか彼らは黒い学ランを着用しており、しかも髪をがっちりとリーゼントに固めている。風紀委員自身が服装から風紀を乱している気もするが、これも認められているのである。

 あのあと聞いた話によると、風紀委員は町のなかでも特別な存在として扱われているらしい。花見場所を風紀委員が独占していたとか、病院の院長が恭弥に頭を下げていたとか、黒い噂や目撃証言も絶えない。

 

(それがなくても、あんな怖そうな恰好している人たちとは、関わり合いたくないよね……)

 

 どうやら彼らは町の見回りをしているようだ。風紀委員たちが視界に入ると、みんながみんな避けるように道を開けていく。私も同じように避けたけれど、ふと天啓がひらめいた。

 

(この人たちについていったら、学校に行けるんじゃ?)

 

 並盛中学校の委員会として活動しているのなら、解散前には学校に戻るだろう。後ろをついていけば、道を間違わずに学校に辿り着ける。

 

 ――いつ学校に戻るかもわからない風紀委員の後を追うより、そこら辺の店で学校までの道を聞いたほうが早いのだが、道に迷ってへとへとになっていた私に、その選択肢は出なかった。まあ、道を聞いても間違える可能性があるから、正解になるかはわからないけれど。

 

 とりあえず、気付かれないようにこっそりと三人の後を追う。三人とも同じ服装同じ髪型でほとんど見分けがつかないけれど、前だけを見つめて先頭を歩いている人が、あの三人の中では一番偉いのだろう。後ろの二人は、それとなく左右に視線を走らせている。

 

(あんなのに目をつけられたら怖いだろうなあ。雲雀先輩も恐いけど、こっちは見た目の恐さが半端ないし――)

 

「そこでなにしてるの?」

 

 電信柱の影にいるところを見咎められ、呼吸が止まる。言い訳を考えながら振り返ると、恭弥の姿があって思考も停止した。

 

「ひ、ひひひ雲雀先輩」

「僕、そんな面白い苗字じゃないんだけど」

「うあ、えっと、雲雀先輩、こんにちは」

 

 なんとか気を持ち直そうとするものの、この状況はかなりまずい。どうしてこの人は都合の悪い時に限って現れるのだろうか。

 

「だれかの尾行? ターゲットに見つからないようにするのはいいけれど、周囲から浮いてたら意味がないよ。もっとうまく隠れなきゃ」

「は、はあ」

「それより――」

 

 恭弥がわざとらしく私の背後を見る。生きた心地がしなくて、私は拳を握り締めた。

 

「君が追ってるの、風紀委員だよね」

「い、いえ、そんなことは!」

「そうなの? ちょっと前から君の後ろにいたんだけど、ずっと彼らを見てたよね」

 

(私もつけられてた!?)

 

 彼らを観察するのに夢中になっていたせいで、完全に後ろを見逃していた。真っ青になっている私を、恭弥は面白がって見つめている。

 

「風紀委員に興味があるの? それとも、なにか彼らに用があるのかい?」

「あ、いえ、全然」

「でも、いい根性してるよね。あれだけ痛い目見ておいて、まだ物足りないなんて」

「……!」

 

 駄目だ、完全に遊ばれている。なんとか起死回生の一手を思いつきたいところだが、相手が並盛町の絶対支配者では勝ち目がない。

 

「ところで、それ、いいの? もうグシャグシャになってるみたいだけど」

「え?」

 

 ハッとなって手を見ると、握りしめた拳の中で手紙がしわくちゃになっていた。

 

「わああ、やっちゃった!」

 

 恭弥と対峙するプレッシャーで、うっかり両拳を握り締めてしまった。あわてて広げるが、一度ついたしわはもう取ることができない。

 

(やってしまった……! 封筒変えなきゃだめだよね……。ああでも、便箋も折れちゃってるだろうから、全部書き直さなくっちゃ……はあ)

 

 結局振り出しで打ちひしがれる。

 

「切手が欲しいのなら、そこにコンビニがあるけど」

 

 コンビニの存在もすっかり忘れていた。今となっては、手遅れだが。

 

「いえ、大丈夫です……書き直しますから」

「わざわざ書き直すんだ」

「友達に出す手紙だから……きれいな方がいいじゃないですか」

「前の町に?」

「はい」

 

 肯定すると、恭弥はわずかに顔をしかめた。どうせまた、未練がましいとか、成長できてないとか言うのだろうと身構えていると、恭弥は思ってもいなかった提案を出した。

 

「なら、手紙に書く内容を増やしてあげようか」

「……はい?」

 

 いきなりなにを言い出すのだろうか、この人は。

 

「言ってたでしょ。こんな町、大嫌いだって。その気持ちをそのまま手紙に書かれて、並盛町の評価が落ちるのは癪だ。だから、この町のいいところを僕が教えてあげる。

 その手紙、僕が声をかけたから折れたんだろうし」

「えっと――」

 

 原因は間違っていないが、なんというか、有難迷惑だ。恭弥の言う通り、手紙にはこの町で起きた出来事として恭弥の所業も書いてはいるが――まさか、透視したわけではないだろう。さりげなく手紙を後ろ手に隠す。

 

「言っておくけど、君に拒否権はないよ。決めたからね。その口から二度と並盛の悪口が出せないよう、これからたっぷり教え込んであげる」

「い、言い回しが恐い……」

 

 どうやら、もう逃げ道はないようだ。ただでさえ歩き回ってくたくたなのに、厄介な人に捕まってしまった。

 

「雲雀先輩、見回りとか行かなくていいんですか? さっきの人たち、もう遠くに行っちゃいましたけど」

「そうだね。でも、こそこそと隠れて後をつけてる小動物がいたら、そちらを優先するのが妥当だよ」

「……」

「まあ、どうせ道に迷ったかなにかで、彼らに道案内させようとしていたんだろうけど」

「なんでわかったんですか!?」

 

 驚きのあまり素のテンションで聞き返すと、恭弥はまじまじと私の顔を見つめ――

 

「……君、本当にバカなんだね」

 

 呆れすら混じっていない声音で、そう結論づけた。

 

 

__

 

 

 並盛町の観光スポットでも回るのかと思いきや、並盛市役所や並盛中央病院など、公共施設を順に案内される。もちろん中に入ったりはしていないから、なんというか、引っ越し前の地元調査みたいな感じである。

 

「有名な場所なら僕が連れていく必要はないし、店なんていつでも変えられるからね。重要なのは、地域に根ざした場所だよ」

「そうですか」

 

(雲雀先輩が行く場所全部、壮大なお出迎えとお見送りがあったけど、突っ込まないぞ……!)

 

 どれほど恭弥に影響力があるかを見せつけられている気分だが、本人にその気がなさそうなので、突っ込まないでおく。それに、場所の紹介をするつもりではあるようで、施設の説明は簡潔で分かりやすかった。――さらりと病院の地下に研究施設があると言われた件については、全力で忘れるつもりでいるけれど。

 

「ここは夏になると祭りで屋台が出るんだ。毎年盛況でね」

「雲雀先輩、祭りに行ったりするんですか?」

「毎年来てるよ。ショバ代の徴収があるし、祭りで騒ぐ群れを咬み殺せば、いいストレス発散になる」

「……なるほど」

 

 祭りを祭りとして楽しんでいないことはわかった。ショバ代という単語は初めて聞いたけれど、とりあえず意味を調べないほうがよさそうな単語ではある。

 

(足疲れたな……。それに、おなかも空いたし。さっきからすごくいい匂いがしてるんだけど、ここかな)

 

 フワンと薫るおいしそうな香りに、足が止まった。ガラス越しに、何種類ものパンが並んでいる。

 

「そこはパン屋だね」

 

 言わずもがなのことを言いながら、恭弥も足を止める。

 

(どれもおいしそう。お金あったら買って行けたのにな。もっとお金持ってきてればよかった)

 

 道すがら案内された郵便局で、既に切手を買ってしまった。

 後悔しながらパンを眺めていると、店の店員がこちらを見て、体を強張らせた。恭弥の存在に気付いたのだ。すぐさま店の奥へと行ってしまった店員は、すぐさま店長らしき男性を連れて戻ってきた。来店を告げるための鐘が、けたたましく鳴り響く。

 

「恐れ入ります、ヒバリさん! 私どもが、なにか問題を起こしましたか!?」

 

 中年の店長が、中学生の恭弥に頭を下げる。異様な光景に怯む私の横で、恭弥は興味のなさそうな顔をしていた。

 

「別に。その子が見てたから、止まっただけ」

 

 恭弥の言葉で二人の視線がこちらに向く。まさか足を止めただけでこんなことになるなんて思ってなくて、私はしどろもどろに頭を下げた。なんというか、申し訳ない。

 

「で、ここ入りたいの?」

「え? いやあ――」

「どうぞどうぞ! こんな店ですがぜひ!」

「焼きあがったばかりのパンもございます、ごゆっくり!」

 

 見ていただけだという隙も与えられずに、店の扉が開けられる。さらには、なにを思ったか恭弥が先に店に入ってしまった。居心地が悪いことこのうえないけれど、こうなっては入るしかない。

 

(お金ないのに。これじゃ冷やかしだよ……)

 

 私は途方に暮れていたが、初めて入った店なのか、恭弥は店内を見渡している。パン屋にいる恭弥というのも、だいぶ違和感があった。

 

「さあ、こちらにどうぞ」

 

 どこからともなく椅子と机が用意される。

 

「こちら、よろしかったらお飲みください」

「悪いね」

 

 メニューなんてないはずなのにコーヒーが机に置かれる。

 

「メロンパンが焼きあがりました。ご試食どうぞ」

 

 焼きたてのメロンパンがいくつも提供される。

 

(す、すっごくVIP対応……!)

 

「ほかにも好きなものを召し上がってください! お代は結構ですので!」

「コーヒーもおかわりはありますので!」

「あ、あの、おかまい、なく」

 

 本当に、とんでもないことになってしまった。私はひたすら恐縮していたけれど、恭弥はまるでここが自宅であるかのようにくつろいでいる。こんな扱いにも慣れているのだろうけれど、こちらは生きた心地がしない。

 

「食べないの?」

「雲雀先輩は?」

「僕はいらない」

「じゃあ、頂きます」

 

 食欲に負けて手を伸ばす。熱を持ったメロンパンは、頬張ると生地のモチモチさと外側のカリカリ具合が絶品だった。おいしさに頬が緩んでしまう。

 

(おいしーっ。今度絶対買いに来よう)

 

 とりあえず、店員が私の顔を忘れてくれるまでは近づけないけれども。

 

「これ、すっごくおいしいですよ」

「そう」

 

 甘いものはさほど好きでないのか、恭弥は関心を示さない。私が上機嫌でメロンパンを頬張っているあいだ、無言でコーヒーを啜っていた。

 

 

__

 

 

「今日はありがとうございました」

 

 結局、学校まで案内してもらってしまった。手紙を出しに行くとだけ行って出てきたから、帰ったらお母さんにあれこれ言われてしまうだろう。

 

「手紙に書くことは増えた?」

「はい。とりあえず、おいしいパン屋さんがあることは絶対書きます」

「君らしいね」

 

 まだ三回目だけど、もうキャラを掴まれてしまったらしい。こちらは全く掴めてないが、とりあえず、恐いだけの人ではないことはわかった。今日は首を絞められても突き飛ばされてもいない。

 

(道がわからなくなったときはどうしようってなったけど、なんとかなってよかった。雲雀先輩のおかげかも)

 

 恭弥と別れて、ホクホク気分で家に帰る。並盛町のいいところも、なんとなくわかってきた。これでもう、彼の手を煩わせることもないだろう。

 

(風紀委員の世話になるようなこと、私がするわけないけどね。非行に走るつもりないし、普通にしてれば問題ないし)

 

 ――しかし、そのときの私は、またもや思い違いをしていた。

 自分にその気がなかったとしても、事件に関わってしまうケースはある。事件には加害者と被害者が存在して、被害者になる可能性はけしてゼロにはならない。

 そしてこれから起こる事件が、私――相沢利奈と、風紀委員を強く結びつけることになるのであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

因縁と摩擦

―――――

 

 並盛中学校の偏差値は、優なく不可なく良である。私がいた学校に比べると少し低いくらいで、授業についていけないなんて悩みはなかった。平均点は余裕で越えられたし、先生の覚えもいい。なので私は、特に気を張ることなく、ほかの同級生たちと同じくらいのペースで、ゆったりと授業を受けていた。

 

 それが、この日はよくなかったのかもしれない。ただでさえおなかいっぱいで眠たくなる午後。間延びした先生の声。おまけに窓際のうららかな日差し。チャイムの音で目が覚めると、いつの間にか授業が終わっていた。

 

(うわああ、私、いつから寝てたの!?)

 

 動揺する私をよそに、みんなが次々と席を立っていく。運悪く、六時間目の授業は移動教室だった。椅子を引く音が重なるなか聞こえる、先生の声。

 

「えー、ここはテストに出ますからね。みなさん、しっかりと復習しておいてくださいね」

 

(よりによって!)

 

 重要事項に、寝ぼけていた脳が一気に働き出す。とにかく、黒板に書いているぶんだけでも、写しておかなければならない。ノートを見せてくれる友達なんて、いないのだから。

 黒板を消す係の子にお願いして板書を残してもらい、ギリギリ読めるレベルの雑さでノートに写し取る。腕がものすごく痛くなったけれど、終わったら黒板を消して、音楽室まで走るだけだ。

 

(おっと、楽譜忘れないようにしなくちゃ)

 

 先週に出された大量のプリントを小脇に抱える。教室にはだれもいないし、残り時間ももうわずかだ。こうなったら、先生が行く前に音楽室に滑り込むしかない。

 私は大急ぎで教室を飛び出した。授業開始のチャイムが鳴るなか、階段を使う人もいなかったので、一段とばしに駆け上がる。息を切らして折り返しを半回転したところで、下りてきていた生徒とぶつかってしまう。

 

「きゃあ!」

 

 声が重なった。ぶつかる直前でなんとかブレーキはかけられたものの、撥ね返された拍子に、私が抱えていたプリントが全部、階下へと流されていった。白い紙が宙を舞う。

 

(ヤッバ、拾わなきゃ!)

 

 プリントを拾うために、慌ててしゃがみ込んだ。ただでさえ授業に遅れると焦っていた私は、目の前のことでいっぱいいっぱいになっていて、ぶつかった相手にまで気が回らなかった。まずいと気付いたのは、盛大に舌打ちを浴びせられてからだ。

 

「ちょっとあんた、なにしてくれてんの?」

 

 棘のある声に顔を上げると、見るからにギャル系の女子生徒たちが、私を見下ろしていた。しかも、最上級生である。

 

「あんたのせいで飲み物こぼしたんだけどー。どうしてくれんの?」

「ってか、ぶつかっといて謝りもしないってなに?」

「階段走ってんじゃねえよ」

 

 ぶつかったと思われる女性の手には、紙パックの飲み物が握られていた。階段に数滴、ピンク色の雫が垂れている。

 

「ご、ごめんなさい」

「ごめんなさい? 謝って済むと思ってんの?」

「ぶつかってきたのそっちだよね。ちゃんとジュース弁償してよ」

「そうそう、私たちのぶんもよろしく」

「えええ!?」

 

 こぼした飲み物を弁償しろと言われるならわかるが、全員分となると話が違う。そもそも学校にお金は持ってきていないから、弁償するにもお金がない。

 

「今、ちょっとお金持ってなくて。それに、そのジュースは弁償しますけど、それ以上は無理――」

「はあ!?」

 

 頭上から凄まれて言葉が切れる。床に座り込んでしまったせいで、彼女たちの迫力が三割くらい増していた。

 

「え、弁償できないの? それで許されると思ってる?」

「っていうか、あんたのせいで私たち授業遅れてんだけど。そこんとこ、わかってる?」

「あーあ、遅刻になっちゃったなー。下級生にぶつかられたせいで」

「そんなこと言われても……」

「ああ? 先輩に口答えする気?」

 

 そもそも、こんな時間に教科書も持たずにうろついていたってことは、最初から授業をサボるつもりでいたのだろう。それを私のせいにして、お金をタカるつもりなのだ。

 

(……あれ、これってもしかして私、強請られてる?)

 

 やっと気付いたけれど、どうにもならない。授業が始まっている今、だれかが通りかかってくれる可能性はほとんどないし、上級生五人を相手に逃げ切れる自信はない。授業に遅刻してしまう件など、気にしている場合ではなかった。

 

「ちょっと場所変えよっか」

 

 もっと人目に付きにくい場所で脅そうと考えたのだろう。嫌な笑顔で上級生がそう提案した。

 

「おら、立てよ」

 

 彼女たちに従ったら終わりだ。でも、この状況で反抗する術はない。私はぎゅっと唇を噛む。

 

「聞こえてんだろ? さっさと――」

「そこ、なにをしている」

 

 階下からの声に、全員一斉に顔をそちらへと向けた。黒に身を包んだ風紀委員が三人、階段の下から険しい表情でこちらを見上げていた。その視線は主に上級生たちに向いていて、上級生グループがわかりやすく身を怯ませる。

 

「あ、いや、なんでも……」

 

 リーダー格の上級生が、先ほどとは打って変わった小さな声で応じる。さすがの彼女たちも、風紀委員という名の強面集団には弱いのだろう。年齢は同じくらいなのに、年季と格の違いを感じさせられる。

 

「授業が始まっているはずだ。全員、教室に戻れ」

 

 真ん中に立っている風紀委員は、とてつもなく渋い声だった。声変わりしているにしても、電話だったら確実に父親と間違えられる声音である。――いや、顔も父親側だが。

 私にとっては願ってもない命令だが、上級生たちはそうではない。一様に顔を見合わせた。

 

「うちら、この子に――」

「俺たちに二度言わせるのか?」

 

 喧嘩っ早そうな一人が一歩だけ足を踏み込む。彼はまだなんとか高校生くらいの声音だ。有無を言わせない態度に、上級生たちが我先にと階段を上っていく。

 

「あんた、覚えてなさいよ!」

 

 ――利奈に、捨てゼリフを残して。

 

(助かってないけど、助かった……)

 

 女豹の群れに襲われている最中にライオンがやってきたものだ。しかし、あんな無茶苦茶な要求をする人たちよりは、こちらのほうが筋は通っている。

 

「おい、お前もさっさと教室に戻れ」

「はいっ!」

 

 彼らは授業に出なくていいのだろうか。そんな余計な疑問が頭に浮かぶけれども、それどころではない。私もさっさと戻らなければ。

 

(あー、プリント落っことしてたんだった!)

 

 ぶつかった拍子に落とした楽譜が、階段の下まで散らばってしまっている。私がオロオロと彼らと楽譜を見比べているのを見て、風紀委員の一人が、足元のプリントを拾い上げた。

 

「お前のものか」

 

 やっぱり彼の声が一番低い。私は控えめに頷いた。するとなんと、彼がプリントを拾い始めるではないか。

 

(し、親切! 顔に似合わず!)

 

 余計なことを思いながらも、私もプリントを拾う。

 

「大木さん、俺たちが」

 

 この人に拾わせてはいけないとばかりに、ほかの二人がフォローに入った。どうやら、大木という人が、このなかでは一番偉い人らしい。さっさと私を授業に向かわせたいだけだというのはわかっているけれど、声をかけてくれたり、プリントを拾ってくれたり、風紀委員も意外と親切だ。

 

 ――委員長は、問答無用で襲いかかってくるというのに。

 

「それで、今のはなんだったんだ?」

 

 比較的、話し方が恐くない人が声をかけてきた。残る一人はほとんど声を出していないものの、ちゃんとこちらの様子は窺っている。なんとなく、物騒な目つきをしていた。

 

「えっと――私が先輩にぶつかってしまって」

 

 これはちゃんと伝えておかないとならないだろう。無茶な要求をされたとはいえ、初めに問題を起こしたのは私だ。まさかこのタイミングで人が下りてくるなんて思ってなかったけれど。

 

「その、風紀――みなさんは、授業大丈夫なんですか?」

「風紀委員だからな」

「そ、そうなんですかー」

 

 答えになっていない。しかしそこを突っ込む余裕はないので、さらりと受け流した。

 

「さっきの連中はお前の知り合いか?」

 

 今度は大木に尋ねられる。

 

「いえ、全然」

 

 正直言って、顔ももう忘れている。五人とも同じような顔だったし、どうやってあの場を切り抜けるかに神経を使っていたせいで、あまり顔をちゃんと確認してなかった。あちら側も同じように私の顔を忘れていてくれれば助かるのだけれど、さすがにそれは難しいだろう。五人もいたのだし。

 

「そうか」

 

 彼らは彼女たちを知っているようだ。階下で交わされている意味深な目配せが怖い。初対面の私にあれだけ高圧的な態度をとる人たちだったのだから、普段から素行が悪いに決まっている。嫌な人たちに目をつけられてしまったものだ。

 

「お前の名前は?」

 

 風紀委員に名前を聞かれるのはこれで二度目になる。悪目立ちするのは避けたいけれど、答えないわけにはいかない。

 

「相沢です」

 

 拾ってもらったプリントを受け取りながら答える。枚数は数えていないけれど、見えるところになければ漏れはないだろう。

 

「そうか。では、相沢。速やかに授業に戻るように」

 

 お咎めはないらしい。私は改めてお礼を言うと、遅刻が確定してしまっている音楽の授業を受けるため、階段を駆け上がった。

 

 ――階段の裏に上級生が潜んでいて、一部始終を盗み聞ぎされていたことに、私はまったく気が付かなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

零れた水は戻らない

____________

 

 彼女たちの行動力には、目を瞠るものがあった。音楽室までついてきて知っている後輩を見つけると、呼び出して私の情報を探り、私が三年生に顔馴染みがいないのがわかると、放課後すぐに捕まえに来た。

 

「ちょっと、いいよね」

「……」

 

 あのままでは済まされないとわかったいたけれど、まさか当日、それも直接に来るとは。心の準備ができていない。しかも、連れてこられたのは、漫画などでおなじみの体育館裏だ。

 

(それに、人数多くない?)

 

 倍どころか、三倍はいる。一年生と二年生も混ざっていたが、彼女たちは見張り役なのか、少し離れたところで人目を窺っていた。この慣れた様子からすると、何度もこうやって後輩を呼び出しては虐めているのだろう。風紀委員たちの意味深な目配せの意味が、いまさらわかった。

 

(……逃げ場、なし)

 

 体育館の裏なんて、呼び出しか告白でもなければだれも寄り付かないだろう。もう一度偶然に風紀委員が通りがかるのを願うしかないが――

 

「言っとくけど、風紀委員は今、見回りでいないから」

 

 心中を読まれたか、先を越される。きちんと風紀委員の動向まで調べている念の入れようだ。彼女たちがどれだけこの行為を繰り返してきたかがよくわかる。

 

 壁を背にして囲まれている状況というのは、なかなかに絶望的だ。もし、ほんの四日ほど前に、これと似た、それでいてもっと恐ろしい目に遭っていなければ、もう泣きだしていたかもしれない。

 

「さっきは風紀委員に邪魔されちゃったけどぉ……今回はそうはいかないから。たっぷりかわいがってあげるね、利奈ちゃん」

 

 作った声が恐い。ぶつかった彼女は、かなりお怒りなようだ。あれだけでどうしてここまで怒れるのかとも思うけれど、多分、きっかけがあればなんでもいいのだろう。周りの上級生たちも、ニヤニヤと笑みを深めている。

 

「あのあと、風紀委員にプリント拾わせてたでしょ。私たち、ちゃんと見てたんだからね」

「え、なにそれ、聞いてないんだけど」

「うっわ、風紀委員に拾わせるとか……あんた、常識ないんじゃないの?」

「私たちと同じ部だったら、即でボコだからね」

 

 ――この人たちがいる部活動なら、仮入部もせずに逃げ出していたと思う。

 

 体育館裏だから、体育館での足音ははっきりと聞こえている。キュッキュとこするような音は、おそらくバスケ部だろう。わずかに聞こえる打球音は、キーンと高く澄んでいる。こっちは校庭の野球部に違いない。

 声でない音に耳を澄まして、私は現実逃避に勤しんでいた。

 

「ねえ、聞いてんの? あんた、生意気だって言ってんのよ」

「返事しろよ」

 

(どうせ、なに言ったって怒るくせに)

 

 大人数いるとはいえ、相手は女子生徒だ。暴力を振るわれたりはしないだろうし、ここは彼女たちの気が済むまで、おとなしくしているしかない。下手に口答えして逆上させたら、今後の学生生活が終わってしまう。私はそう思って黙り込んでいたが、それで済むほど、現実は易しくもなかった。

 

「とりあえず、これからあんたの家に行って、お金持ってきてもらおっか。今日はあんたの奢りね」

 

(は?)

 

「うちら、利奈ちゃんのせいでおなかペコペコなんだよね。ケーキくらい奢ってくれるでしょ?」

「私、ハンバーガー食べたーい」

「うちはアイスかなー」

 

 なにやら、とんでもないことを言い出し始めた。この人数に食べ物を奢り出したら、すぐに貯金までなくなってしまう。それに、一回で済むわけがない。

 

(ど、どうしよう、マジでやばくなってきた……!)

 

 私が顔色を変えるほど、彼女たちは面白がる。ぐっと距離を詰められ、きつい香水の匂いが鼻についた。

 

 ――こうなっては、グズグズしてはいられない。一刻も早く、ここから逃げなければ。

 

「ちょっと、なに動こうとしてんの」

 

 ほんの少し前に体重を預けただけで、体を押された。

 やっぱり、逃げるなんて不可能だ。しかし私は、彼女たちに屈するわけにはいかなかった。こんなことで、この学校を――並盛町を嫌いになるわけにはいかない。

 私は軽く息を吸い込んだ。

 

「――だれかっ!」

 

 すぐさま腕を掴まれた。それを振りほどきながら、同じ言葉を繰り返す。体育館にも校庭にも生徒はいる。声を張り上げていれば、そのうちだれかの耳に届くかもしれない。

 

「だれか来て! 助けて!」

「うっさい、だれも来ないよ!」

「助けて! やめ、放して! この――!」

「いったい!」

 

 敵意をもって足を踏みつけてやると、相手が悲鳴を上げた。しかし、すぐさまほかの上級生に蹴りを入れられてしまう。

 

「ちょっと手伝って! この子の口塞いで!」

「放して! 放してよ! いっ、いたたたたたた、このっ、なにその顔、かわいいとでも思ってんの!?」

「ちょっと、あんた今なんてった!?」

 

 数人がかりで押さえつけられ、ずるずると体が沈み込んでいく。髪を引っ張られて悪態をついているうちに、地面に額を打ち付けた。それでももがくが、上に乗られてはどうしようもなかった。抵抗むなしく地べたに押さえつけられる。

 

「はあ、はあ、やっとおとなしくなった」

「ねえ、この子ヤバくない? 目がヤバいよ」

「ほんとだ、ヤッバ」

「これはちょっと、痛い目見てもらわなきゃダメみたいね」

「……やっちゃおっか」

 

(え、なにを?)

 

 不穏な発言だが、頭を押さえつけられているので彼女たちの顔色が窺えない。近づいてくる足音と一緒に、ずるずるとなにかを引きずるような音が聞こえた。それがなんなのかわからないうちに、合図でもあったのか、上級生たちが一斉に飛びのいた。首を動かしてすぐ、正面に映る丸い銃口。

 

「なっ、な!」

 

 大きく開いた口に、勢いよく水が放射された。

 

「キャハハハハハ!」

「すご、口に入った、うまいうまい」

 

 口どころか、顔全体に猛烈な勢いで水を浴びせられる。どこから持ち出したのか、ホースで水をぶっかけられた。

 夏間近の温暖な気候でよかった。冬だったら、命に関わっている。

 

(と、とんでもないことしてくるな、この人たち!)

 

 水鉄砲から逃げようとなんとか身を起こすも、そうはさせるかと、すかさず手を足で払われる。水で泥になった土に、思い切り顔を打ち付ける。彼女たちが盛り上がる。

 

「ねえ、制服もびしょびしょにしちゃってよ。もうシャツとかドロドロだけどさ」

「やっぱ全身にかけなきゃね。下着までやっちゃって」

「えー、それはかわいそうだよ。家に帰ったら怒られちゃう!」

「そうだね。じゃ、もう逆らえないようにそろそろ写真撮ってあげよっか」

「――楽しそうだね」

 

 キンキンと耳障りな嘲笑が渦巻くさなか、最後の声が一瞬で場を支配した。

 

 ――放水を受けていた私には声なんて聞こえなかったから、明後日を向いたホースと、静まり返った場の空気をよそに、喘ぐしかなかったけれど。

 

(だれか、いる?)

 

 ポタポタと雫が落ちる髪の隙間から見えるのは、足だけだ。肌色の足が幾対もあって、その向こうに――黒い足が、もっとたくさん見えた。

 

(……だれ?)

 

 うまく頭が働かない。地べたに横たわる私をよそに、彼――恭弥が続けた。

 

「バスケ部員から、体育館裏に女子生徒が集まっているって報告が来たんだ。

 暇だったから僕も来たんだけど――いい群れを見つけたね」

 

 距離があるにもかかわらず、恭弥の声は私にも聞こえた。それほどまでに、彼の存在は周りのすべてを飲み込んでいた。

 

「ち、違うんです!」

 

 リーダー格、つまり利奈がぶつかった上級生が、真っ先に声をあげた。

 さすがリーダー。あの恭弥相手に正面切って反論できるなんて、まともじゃない。

 

「この子が礼儀をわきまえないから、ちょっと反省させようと思っただけなんです。この子が反省しないから、ちょっとやりすぎただけで――」

「それ、この前転校した子にも同じこと言ってる?」

 

 上級生の反論は、恭弥のたった一言で幕を閉じた。

 いじめで転校までさせているのかと、ゾゾっと背筋に寒気がよぎった。

 

「君たちについては、いろいろと聞いているよ。大規模な群れを組んで、好き勝手やってくれてるみたいじゃない」

 

 表情は愉悦に歪んでいるが、声は凍りつくほど冷えている。

 

「いつか尻尾を踏んづけてやろうと思ってたんだけど、なかなか見せてくれなかったからね。ずっと待ってたんだよ。

 今日、やっと新しい獲物を見つけたところに出くわせた。――ご苦労様」

 

 労われた風紀委員が、深く頭を下げる。大木だ。

 

「それにしても――」

 

 恭弥の視線を受けて、上級生が一斉に左右に分かれる。そんな彼女たちの間を縫って、恭弥が歩いてくる。

 その先にいた私は、口に入った土を手で拭いながら、身を起こした。

 

「君も懲りないね。この数日で、何回僕の前に出てきてると思ってるの」

「……今日は、雲雀先輩から来ましたけどね」

 

 言い返すと、ギョッとしたように上級生たちが、無礼な女だという顔で風紀委員たちが、私を見た。

 恭弥は気分を害していないようで、むしろ面白そうに目を細める。

 

「今までで一番ひどい格好だね。この前も変な格好してたけど」

「っ!」

 

 道に迷っていた時の私服を言っているらしい。ボッと顔に血の気がのぼる。

 

「あれは、ちょっと家を出るだけだったから、適当な服着てただけです。

 ……それより、そっちいいんですか」

 

 間抜けなやり取りの間にも、風紀委員たちは彼女たちを包囲していた。あとは恭弥の一言で、彼女たちの頭上にギロチンが取り付けられるのだろう。

 

「ああ」

 

 恭弥は興味がなさそうな顔で彼女たちを振り返る。

 尻尾を掴んだから、もう目的は達成されてしまったのだろう。彼女たちが相手では、トンファーを振るう意味もない。

 

「君はいいの?」

 

 聞き返され、私は雫の落ちる前髪をかきあげた。

 

「なにがですか」

「僕に、頼みたいことがあるんじゃないかって」

 

 背後では、上級生たちが身を寄せ合って震えている。とくに思い入れはないので、気の毒とも、ざまあみろとも思えないけれど、とりあえず、助かったことはありがたい。

 

「君が彼女たちをうまく苛立たせてくれたから、首尾よく捕まえられたよ。今なら、君の頼みをひとつくらい聞いてあげてもいいけれど」

「ええ……」

 

 いきなり言われても困る。多分、彼女たちをボコボコにしてくださいとか、そういう負の頼みを期待しているのだろうけれど、私の口から言わせようとしないでほしい。そもそも、そんな回りくどい手を使わなくても、やりたければ勝手にやってくれればそれでいいのに。

 そう思った私は不機嫌に顔を拭ったけれど、上級生たちが息を殺して私を見ているのに気付いて、ハッとした。

 

 彼女たちの顔に、反省の色はない。むしろ、なにか余計なことを言ったらたたじゃ済まさないと、ドロドロとした負の感情を覗かせている。

 

 ここで私が彼女たちを懲らしめてくださいと言えば、のちのち彼女たちから報復を受けることになるだろう。かといって、なにも言わずにいたら、またこっそりと同じことが繰り返されるに違いない。

 彼女たちが改心しないのなら、私の身の安全は、保障されないのだから。

 

 恭弥は、それがわかっているから、私に決定権を与えたのだ。

 

(で、でも、なんて言えばいいの? どうしたって私は恨まれるだろうし――)

 

「なに? 聞こえないんだけど」

 

 まだなにも言っていないのに、私の声を拾うために、恭弥がしゃがみこんだ。

 いや、違う。これは、私の話を聞くために屈んだんじゃない。私の反応を隠すための芝居だ。つまり、最初から私が頼む内容は決まっていて――

 

「え? ――風紀委員に興味がある?」

 

 ――言ってない。しかし、決定事項であることは、恭弥の目を見ればわかる。

 上級生の嫌がらせから逃れるには、彼女たちには手を出せないほど遠くに――あるいは、高い場所まで行かなければならない。

 そう、例えば、悪名高い風紀委員に所属するとか。

 

(……それ、しかないんじゃ、仕方ない)

 

 わかりやすく広がる動揺の輪のなか、私は覚悟を決めて立ち上がった。恩人の決定事項ならば、従わなければならない。

 

「……とりあえず、話を聞かせてもらえますか。校舎の中で」

 

 いつまでもここにいたくはない。それに、水を吸った制服が重くてたまらない。

 

「着替え、ありますか。なんでもいいので、お願いします」

 

 私の頼みなんて、それくらいだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒に染まる

 

 着替えをくださいと言ってみたものの、まさか、本当に用意されるとは思っていなかった。

 しかも、ちゃんと女子制服。サイズもぴったり。タオルとワイシャツまで渡されたけれど、どこで買ってきたのだろう。

 

 濡れた格好で校舎に入るわけにはいかなかったので、プールの更衣室で着替えを済ませる。

 泥の付いた顔を洗い、濡れた体もしっかりとタオルで拭う。髪は濡れたままになってしまうけれど、雫さえ落とさなければ大丈夫だろう。靴下は水を掛けられずに済んだので、はたけばなんとかなった。

 

(はあー、すっきりした)

 

 もう、あんな目に遭うのはこりごりだ。

 

 着替えが入っていた袋に自分が着ていた制服をしまって、更衣室を出る。

 委員長は風紀委員の一人と先に応接室に行っていると言っていたけれど、応接室が活動拠点なのだろうか。応接室なんて行く機会もないので、何階にあるのかすらわからないのだけど。

 

 とりあえず靴を履き替えに昇降口に行くと、私の靴箱の前で、風紀委員が一人待ち構えていた。体格のせいで、腕を組んでいるだけなのに、仁王立ちしているように見えてしまう。

 

「来たか」

 

 歴戦の猛者を思わせる佇まいに、つい頭が低くなる。

 そういえば、恭弥が彼の名前を口にしていた気がするけれど、確か名前は――そう、草壁だ。

 

「お待たせしました――あの、応接室で待ってるって言われませんでしたっけ?」

 

 待ち構えさせるほど待たせていただろうかと問うと、草壁は無表情のまま、口を開いた。

 

「委員長からの指示だ」

「指示?」

「ここでお前を待てと。どうせ一人では応接室まで辿り着けないだろうから、案内してやれとな」

「……っ」

 

 ――間違ってはいない。でも、見抜かれたのが悔しい。

 ムググと口元を歪めるが、草壁相手に文句を言えるわけもないので、おとなしく靴を履き替える。

 

 あれからあっちはどうなったのだろう。上級生たちはすっかりおとなしくなっていたから、あれ以上、あの場でどうこうすることはないだろうけど。

 私が風紀委員になると聞いた、彼女たちの表情はすごかった。明日には話を広められそうだけど、私は本当に風紀委員になるのだろうか。いや、そもそもなれるのだろうか。

 

(不良集団、並盛のルール、並盛の支配者。うーん、歩み寄れる気がしない)

 

 噂ばかりが先行しているが、実態もおそらくろくでもない。委員長を務める雲雀恭弥があれだけ傍若無人なのだから、従う側も同じくらい破天荒なのだろう。

 それでも今回助けてくれたのはほかでもない彼らで、私はその恩に報いる義務があるのだけれど。はっきりいって、お荷物になる予感しかない。

 

(雲雀先輩の提案も、成り行きっていうか、勢いみたいな感じだしね。私も切羽詰まってたし。

 なかったことにしちゃったほうがいいのかも)

 

 とりあえず、先を行く草壁の背に声をかけてみる。

 

「ちょっといいですか」

「なんだ」

「私って、風紀委員になっていいんでしょうか」

 

 横目に表情を窺われて、私は背筋を少し伸ばした。

 

「雲雀先輩はそんなふうに言ってくれましたけど、私、風紀委員どころか、この学校のこともよく知らないし……。春に転校してきたばっかで。

 それに、風紀委員の人たちってみんな、なんていうか、勇ましいじゃないですか。私なんかじゃ全然だめっていうか、雲雀先輩は――」

「委員長」

 

 押し込むように草壁が言葉をかぶせる。

 

「ヒバリさんのことは、委員長と呼べ」

 

 ――どうやら、彼のなかではもう、私は風紀委員に格上げされているらしい。

 有無を言わさない声音に、ヒッと息を飲み込みながらも、彼の言葉を復唱する。

 

「い、委員長――は、とにかく。草壁さんは、どう思います? 私が風紀委員って」

「……それを、お前が俺に聞くのか」

「決まっちゃう前に聞かないと、意味ないから……」

 

 ほかに人のいない今なら、多少ぶっちゃけた話をしても大丈夫だろう。彼なら恭弥と違って、うっかりなにか口を滑らせても、ある程度までは許してくれそうな気がする。思慮深い目をしていた。

 

「俺たちは、委員長の決定に従うだけだ」 

 

 草壁の返事はかたくなである。お前もじきにそうなるとでも言いたげな間に二の句が継げずにいると、草壁が立ち止まった。もう目的地である。

 

「あとは直接、委員長に聞け。くれぐれも失礼のないようにするんだな」

「……あの、私だけ?」

「……」

 

 無言の圧力。男は黙って背中で語るを、実践しないでいただきたい。

 仕方なく、ノックをしてからドアを開ける。

 

「……失礼しまーす」

 

 応接室に入るのは初めてで、つい視線をあちこちに向けてしまう。

 来賓客用の革張りのソファ。ガラス棚に飾られたトロフィーの数々と、棚の横に飾られた校旗。これで、部屋の奥に座っているのが校長なら、完璧だっただろう。

 しかし実際にいるのは恭弥で、落ち着けない態度の私を、無表情に眺めている。

 

「早く入りなよ」

 

 今まで二人っきりになったことは何度かあるけれど、個室で顔を合わせるのは初めてになる。失言したらそのまま吹っ飛ばされると、よくよく頭に刻み付けておかなくちゃいけない。

 後ろ手にドアを閉めながら、自分に念押しした。気分は、野生動物と対峙するハンターである。

 

「お待たせしました」

「迷わず来れた?」

「……おかげさまです」

 

 からかわれているのだろうけれど、失言は避けたいから、言い返さないでおく。

 机が間にあってよかった。いきなり掴みかかられる恐れがないぶん、緊張が和らいだ。

 ――もっとも、恭弥ならば、一息の間に飛びかかってこられるけれども。

 

 机の上には事務用具と書類、それから、風紀委員の腕章が置かれている。

 風紀委員の腕章は金色に縁取りされた赤い布で、風紀委員という文字も金色だ。学ランの黒には映えるだろうけれど、普通の制服には合わない気がする。

 

「それが君の腕章」

 

 だと思っていた。書類と違って、腕章は私のほうにある。

 

「……あの、いいですか」

「なに」

 

 草壁にしたのと同じ質問をしようとしたが、恭弥の返事の速さについ目をそらす。やっぱり、直球では聞きづらい。

 まずは会話を試みようと、私は急いで話題を探した。

 

「えっと、風紀委員って――ふ、風紀委員になったら、学ラン着なくちゃだめですか?」

「は?」

 

(いきなりミスったー!)

 

 前からずっと考えてた疑問だけど、このタイミングで聞くことではなかった。

 自分でもわかっているから、そんな蔑むような目で見ないでほしい。

 

「あ、ああいや、そうじゃなくて! ほら、風紀委員ってみんな学ランでリーゼントじゃないですか! だからつい気になっちゃって、つい」

 

 焦りのままに言葉を重ねるが、恭弥の眉間のしわは消えない。こいつはなにを言ってるんだという目の圧力に、わたわたと手が動く。

 

「えと、学ラン? 私も学ラン着るのかな、とか思って。できれば普通の制服着たいなとか、そうじゃないと風紀委員にはなれないなーとか、そんな」

「そのままでかまわないよ」

 

 遠回しに、学ランでなければならないと断ってくれてもいいですよと言ったつもりだが、恭弥は寛容にそう答えた。

 

「それに、リーゼントは義務じゃない。違う髪型の人もいるしね」

「あー……知りませんでした」

「風紀を乱してなければ、そこまで細かく指定してないよ。校則でも、髪色の規定もないし」

「はあ」

 

(校則、けっこう緩かったっけ。銀髪の人もいるもんな、この学校)

 

 しかも、その生徒は私のクラスにいる。外人とはいえそれが地毛だというのだから驚きだ。初めて見たときは、ついまじまじと観察しそうになった。

 

「聞きたいことはそれだけ?」

 

 恭弥が見上げてくる。

 それだけですと答えたら話が終わりそうな気配だ。粛々と事務処理が終わっていっている。

 

(どうしよう、言わなきゃ)

 

 なんて言えば角が立たないだろう。――向いてなさそうだから、断りたいんですけど?

 駄目だ、そんなことを言える雰囲気ではない。私のぶんの腕章はすでに用意されている。

 恭弥から目線を外すために腕章を注視していると、恭弥の指が腕章を押し出した。

 

「つけてみなよ」

 

 ――これをつけたら、もう後戻りはできない。

 いや、もうとっくに逃げ道はなくなっているのだけれども。

 

(私が、風紀委員)

 

 少なくとも数日前、いや、一昨日に恭弥と出くわした時には、想像もしていなかった。それはおそらく恭弥も同じだろう。

 この町を嫌いと言っていた私が、この町を守る風紀委員になるなんて。

 

 おずおずと手を伸ばして、腕章を取る。ずっしりと重いのは、生地の厚みのせいではないだろう。

 腕に通してから、安全ピンを外す。借り物の制服に穴を開けるのは気が引けるけれど、針を刺してしっかりと固定させた。

 腕に留まった腕章に慄く私を、恭弥は静かに見つめていた。

 

「あの、ひ――委員長」

 

 草壁の注意を思い出して、恭弥を委員長と呼ぶ。

 

「委員会に入るときの紙とかはありますか。入部届みたいな」

「ない」

 

 ないらしい。

 そういえば、一学期初めの委員会決めのさいにも、風紀委員の項目はなかった。もしかしたら、学校とは関係なく、勝手に委員会を立ち上げたのかもしれない。

 またも黒い面を見つけてしまった私にかまわず、恭弥は話を進める。

 

「君には、明日から働いてもらう。朝八時に屋上に集合」

「屋上……」

 

 トラウマの場所である。

 

「朝は遅刻者の取り締まりがあるからね。具体的な指示は草壁に聞いて。君をここまで連れてきた男だ」

「副委員長ですよね」

 

 恭弥が頷いた。 

 

 遅刻者の取り締まりくらいなら、私にもできそうだ。思ってたより簡単な仕事を振られてホッとするけれど、まだ安心はできない。

 これから、風紀委員の仕事を覚えていくのだから。

 

「それじゃ、もう帰っていいよ」

「……はい、わかりました」

 

 頭を下げて、応接室を出る。外にはだれも待っていなかったから、本当にこのまま帰っていいのだろう。がらんとした廊下で呼吸を整えて、私は踵を上げた。

 

 

 こうして私は――いや。私はもう個人ではない、風紀委員の相沢利奈だ。

 こうして相沢利奈は、風紀委員としての一歩を踏み出した。

 

 




こちらで一章終了です。
二章からは三人称になります。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章:風紀委員に入りました
遅刻者の取り締まり


 

 ――もう二度と訪れるまいと思っていた屋上に、こんなに早く来ることになろうとは。

 屋上に集った黒一色のなか、紅一点の利奈はぼんやりと感慨にふけっていた。

 

 扉を開けて強面たちの視線が集まったときは、そのまま閉じてしまおうかとも思ったけれど、混ざってしまえば、意外と恐怖は感じなかった。昨日散々顔を見たあとだから、慣れてしまったのかもしれない。

 

 点呼を取る草壁の隣で、正面に整列する風紀委員の顔を確認していく。

 恭弥の言ったとおり、普通の髪型の風紀委員もちらほらといた。しかし、副委員長の草壁が常識外に長いリーゼントにしているからか、だいたいはリーゼントだ。

 真っ黒な学ランも相まって、見ているだけで暑い。ズボンも幅広の不良スタイルだが、ひょっとして、夏でも着るつもりだのだろうか。

 じりじりと照らす太陽に背中を焼かれつつ、利奈はそんなどうでもいいことばかり考えていた。

 

 昨日体育館裏に現れた風紀委員はこの半数くらいだったと思うけれど、通達が行き届いているのか、どう見ても場違いな利奈を、みんな受け入れている。

 恭弥は委員長なのに、この場に出席していない。真面目に点呼を取っていたら、それはそれで違和感があったけれど。

 

「昨日、風紀委員に入会した、二年生の相沢利奈だ」

 

 点呼が終わり、草壁が利奈を目線で示した。

 朝礼の間は、委員長か副委員長に許可された場合にのみ、発言が可能らしい。なので利奈は、全員の視線を受け止めながら、深く頭を下げた。

 

(……すごく息が詰まる)

 

 そこらへんの不良などでは、太刀打ちできないほどの迫力がある人たちに、凝視されているのだ。できれば、視界に入っている扉から、全力で逃げ出したい。

 

「相沢には、校門の見張りに入ってもらう。校門担当の班長、前へ」

 

 その言葉に応えて、一人の男が前に一歩出た。どうやら、列の先頭が班長になっているようだ。

 運良く、利奈が名前を知っている人に当たってくれた。階段で出会った風紀委員、名前は大木だ。

 

「本日は五班に新人の教育を任命する。

 相沢、五班の列に並べ」

「はい! ――あっ」

 

 うっかり返事をした利奈を、すさまじい殺気が襲った。

 

 

 そんな失敗に首をすくめながらも、校門前までやってきた。

 

 これから行われるのは、遅刻者の取り締まりだ。遅刻してきた生徒を片っ端から捕まえて、名前と遅刻理由を控えていけばいいらしい。

 ――生徒の遅刻回数はカウントされていて、一定回数を超えると、なんらかの処置が下されるそうだ。どんな処置かは、教えられていないのでわからない。

 

 遅刻回数は内申にも影響するからか、この取り締まりから逃れようとする生徒もいるらしい。見つけ次第、強制確保だそうなので、校門でじっとしていればいいというものでもない。

 校門以外にも、裏門、校庭、校舎外周にも風紀委員は配置されている。どうりで、登校途中にやたらと風紀委員を見かけたわけだ。

 

 今回初参加の利奈は、大木に見学を言い渡された。見学という名の放置に思えるけれど、風紀委員に混ざって仁王立ちするのはまだ気が引けていたから、ちょうどいい。風紀委員と話しているだけでも、一般生徒からの視線が集まっている。

 利奈はこれ幸いと校門から出て、ほかの風紀委員の仕事を見学することにした。

 

 時間が経つにつれて、登校する生徒たちの歩みが早くなっていく。遅れている自覚のある人は小走りになっているし、いつもこの時間に通っているらしき人は、歩幅を変えずに歩いている。チャイムが鳴り終わる前に校門を通過していればセーフなので、この時間に校舎付近にいる生徒は安全圏内だろう。

 利奈は余裕をもって登校する側の生徒なので、この時間にはすでに着席している。病気で欠席になるのはいいけれど、寝坊とかで遅刻するのは、なんとなく癪に感じるのだ。

 

 風紀委員仲間――と呼んでいいかはわからないけれど、ほかの班の様子を遠巻きに観察しながら、校舎の外をぐるりと回る。

 風紀委員の腕章の効果で、すれ違う並中生はもれなく利奈の左腕と顔、交互に視線を送っていた。

 効果はそれだけに留まらず、三人組で歩いていたガラの悪そうなお兄さんたちも、食い入るような目で見ながらも、遠巻きに利奈を通り過ぎていく。虎の威を借る狐の気分である。

 

(これ、教室入るの恐いなー)

 

 授業中も、腕章は嵌めてなければならないのだろうか。聞く勇気がないから、しばらくはつけっぱなしにするつもりだけれども。

 

 生徒の数が減ってきたところで、チャイムが鳴った。これから見かける生徒は、おそらく全員遅刻扱いになるだろう。間に合わないのは確定していても、みんな走って校門に向かっている。

 

(私もそろそろ戻らなくっちゃ)

 

 これから、チェックのつけ方を教わらなければならない。

 

 引き返す前に、学校を囲うフェンスを見上げる。

 先ほどすれ違ったほかの委員に聞かされたが、このフェンスを乗り越えて補導を逃れようとする生徒もいるらしい。確かに、運動神経が良ければ、こんなフェンス簡単に乗り越えられるだろうけれど――

 

(女子には無理っと)

 

 スカートの下にズボンを履けばなんとかなるけれど、そこまでする女子はいないだろう。

 そもそも、フェンスの向こうはそのまま校庭なので、校庭を見張っている別の班に捕まるだけだ。

 

「あっ、やめたほうがいいよ!」

 

 フェンスを見上げていたら、声をかけられる。振り返ると、遅刻確定の並中生が走り寄ってきていた。

 

 茶色っぽいツンツン頭。気の弱そうな顔つき。

 同じクラスの男子生徒だとはわかったけれど、名前が出てこない。

 

(あだ名は出てきたんだけどなー)

 

 どう考えても、いいあだ名ではなかったので、口には出さないでおく。

 

「乗り越えるのはやめたほうがいいよ。そこ、登っても捕まっちゃうし、危ないから」

 

 そう言われて、遅刻した生徒と間違われたのだと気付く。

 腕章をちゃんとつけているのに、目に入っていないみたいだ。

 

「うん、やらないけど。やったことあるの?」

「いや、俺じゃなくて――前に踏み台にされたくらいかな、ハハ」

 

 遠い目でつぶやく様子を見るに、しっかり風紀委員に捕まったらしい。踏み台にされたうえに捕まるなんて、自業自得とはいえ、気の毒に思えてくる。

 

(どんな人だったっけ。話すの、これが初めてだよね)

 

 駄目という単語があだ名に使われるほど、駄目なところが目立つ男子なのだが、一緒にいる友達がクラスでも抜きんでた人たちだからか、みんなからはなぜか一目置かれている。

 一目置かれている理由のほとんどは、四月に転入してきた利奈にはわからなかった。

 

 校門に戻るだけなのでのんびり歩く利奈と、遅刻確定とはいえ急ごうとする彼。ずれてくる歩幅に、同級生は焦り顔で利奈を振り返った。

 

「君、遅刻初めて?」

 

(……今も遅刻じゃないんだけど)

 

 鞄を持っていない時点でわかると思うけれど、そもそも腕の腕章も目に入っていないのでは仕方がない。

 

「風紀委員ってすっごく怖いんだよ、ほんと。遅刻届けも早く書けって目で急かしてくるし、見られてると迫力半端ないし。だから、遅刻しててもみんな急ぐんだよ」

「そうなんだ」

 

 聞かされていなかったけれど、遅刻届けも風紀委員が書かせているらしい。それなら遅刻が確定していても、大急ぎで校門に向かうだろう。時間がかかればかかるほど、受ける圧も大きくなるに違いない。

 

 しかしそれを聞かされても、利奈に焦る理由はない。むしろ今行ったって、人が多くて教わるどころではない。だから置いていってくれてもいいのだけど、人がいいのか、同級生は利奈に歩調を合わせている。

 風紀委員であることを明かせば済む話だが、風紀委員がいかに怖いかを語っている彼に、私がその風紀委員ですとは伝えづらい。これでもかと、腕章が腕で光っているのに。

 

「ほら、俺は結構慣れてるんだけど、初めてでそんなの嫌でしょ? 急ごうよ、じゃないと――」

「おい」

 

 後ろ歩きで歩いていた彼の背中。つまり利奈の視点では正面から、野太い声がかかる。

 

「ひいいいい! 来たー!」

 

 お化けが現れたようなリアクションで彼が慄いた。悪いけれど、そのお化けの正体は、五班の竹澤だ。

 竹澤はまず同級生に注目したが、後ろに利奈をいたので訝しげに首をかしげた。

 

「なんだ? こいつは遅刻者か?」

 

 その質問は利奈に向けられたものである。

 しかし同級生は、恐怖の対象である風紀委員に声をかけられたと思い込み、完全にパニックに陥った。

 

「ひいいいっ。俺、はい、でもこの子は、あー、どうしよう……!」

「お前、うるさいぞ」

「すすすすみません、命だけは!」

「うるっせえつってんだよ! 黙れ!」

「ひゃー! 勘弁してくださいー!」

「だから喋んなつってんだろうが、ボケ!」

「ごめんなさーい!」

 

 もはや言葉の意味もわかっていないようだ。恫喝されて、ガクガクと震えている。

 チグハグなやり取りについ噴き出した利奈は、一歩前に足を踏み出し――

 

「その人、遅刻者じゃないです」

 

 彼を、かばうことにした。

 今日は見学だけだと言っていたし、少しくらいズルをしてもいいだろう。

 

「私が呼び止めたら時間になっちゃって。だから、遅刻者じゃないです」

「……へ?」

 

 彼はポカンと口を開けている。

 風紀委員相手に物怖じしない利奈を、キョトンとした瞳で見つめている。

 

「なんだよ、手間取らせやがって。今度からは、ちゃんと時間を気にしろ」

「はい、気を付けます」

「それと、もう取り締まりは始まってるからな。ふらふらしないでちゃんと見ておけよ」

「はい、すぐに」

 

 一足先に風紀委員が校門へと戻っていく。

 

「えーっと?」

 

 あとに残され、事のなりゆきがまったくわかっていない彼に、利奈は腕章を引っ張ってみせた。

 

 ―――赤地に金文字の腕章。

 書かれている文字を読んで、彼は目を瞠った。

 

「心配してくれてありがとう。私、今日は見学だったの」

「君が風紀委員!? えー!?」

 

 開いた口が全くふさがっていない。

 言いたいことは目で伝わってくるから、利奈は苦笑いで受け流した。さすがに理由を一から説明してはいられない。

 

「じゃ、私も行かなくちゃだから。次は見逃せないと思うから、気を付けてね」

 

 ひらりと手を振りながら追い抜くと、なにか言いたげな顔をされた。

 なんて思われたかをを知りたくはなかったから、振り返らずに校門をくぐる。

 

 どうせ、教室でまた会うのだけれど。

 

(そういえば、苗字思い出せなかったな)

 

 ――どうせ、すぐに知ることになるのだけれど。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

取り締まり依頼

 先輩風紀委員に、遅刻者の取り締まり方を教わっていく。

 教わると言っても、見学の利奈にわざわざ手順を説明してくれるわけではない。目の前で、粛々と取り締まっているだけ。技術は目で盗めと言わんばかりの、厳格な職人体制だ。

 それで声をかけるのを躊躇うような利奈ではなかったが、遅刻者の関心をこれ以上引きたくもないので、おとなしく観察していた。

 

 既に、昨日の一件にかかわっていた女子生徒から、幽霊を見たかのような反応をされたあとである。

 利奈からすれば、主犯格の女子生徒以外の顔はろくに覚えていないのだけど、あからさまに狼狽されれば、いくらなんでも察しがつく。気まずいことこのうえない再会だ。

 今日が見学でよかったと、ひっそり胸を撫でおろす。

 

 そんなわけで、仕事を覚えるためにも、風紀委員の周りをちょろちょろ動き回って、仕事内容を学んでいく。メモを取れればよかったけれど、ノートも筆記用具も机のなかだ。

 明らかに目障りな行動をとっている利奈だが、だれも邪険にしないうえに、覗き見ようとしたら、見えやすいように手元を下ろしてくれる。おかげで、見ているだけでも大雑把にはやり方を覚えられた。

 

(遅刻者を捕まえて、出席番号と名前を聞いて、遅刻届けを書かせる。

 そんなに難しくないけど、これ、絶対遅刻したくないな)

 

「おい、書いたか」

「はいぃ! すぐに!」

 

 自分の目で見て実感したが、あの同級生の言った通り、風紀委員の圧力は恐ろしい。

 遅刻届けを書く生徒たちは、風紀委員の催促に、がりがりと鉛筆を走らせては、逃げるように走り去っていく。

 これなら、大体の生徒は二度と遅刻しなくなるだろう。逆に言うと、生徒指導室に連れていかれるほど遅刻してくる生徒のほうがどうかしている。

 

「いやー、ちょっと家で内乱があってさー。そしたら教科書とか黒焦げでー、アハハ、ヤバいっしょ?」

「うるさい、いいから行け!」

 

 無慈悲に連れられて行く遅刻常習犯を見送って、職員室に遅刻届けを渡しに行く。

 ここだけは、普通の委員活動の雰囲気で、逆に薄ら寒かった。普段の行いが、学校ぐるみの凶行であることが証明されている気分である。

 

「これで取り締まりは終わりだ。あとは追って指示するから、お前は教室に戻れ」

「はい。ありがとうございました、大木班長、えっと、竹澤さん、近藤さん」

 

 先輩と呼ぶのが一般的だが、彼らは目上の人をさん付けで呼んでいるので、新入りの利奈もそれに合わせた。

 考えてみれば、草壁を草壁先輩と呼ぶのはだいぶ違和感がある。利奈はあっさり郷に従った。

 

(となると、雲雀先輩もヒバリさんか。まっ、呼びかける機会もそんなにないと思うけど)

 

 正式に風紀委員に入った以上、風紀委員長である恭弥は、もはや絶対の存在だ。

 おいそれと声をかけられる立場ではなくなるし、なにか指示を仰ぎたいときも、副委員長の草壁か、これから配属する班の班長に頼むだろう。

 ――だからこそ、うっかり間違えないように頭に刻まなければならないのだが、利奈は楽観的にそう捉えていた。

 

 職員室で時計をちらりと確認したけれど、もう授業は始まってしまっている。

 戻れと言われたから教室に戻らなければならないが、授業中の教室に入るのは、なかなかに気が引ける。風紀委員の腕章をつけているから、余計に億劫だ。

 

(外していいか、聞いとけばよかったな。多分、駄目なんだろうけど)

 

 制服を着ている間は、つけておいたほうが無難だろう。体操着に着替える場合は、汚す危険もあるし、外しても怒られなさそうだ。

 

 そーっと、教室の後ろ側のドアを開ける。

 先生含めて大多数の視線を浴びつつ、利奈はこそこそと自分の席に着いた。

 

「――なあ、あれ」

「風紀委員!?」

「やっぱりあれ、うちのクラスの相沢だったんだ」

「え、なんで風紀委員になってんの? どういうこと?」

「はい、静かにー。授業中だぞー」

 

 ひそひそとざわめく教室を、先生が鎮めていく。

 利奈には一言もないあたり、風紀活動での遅刻は容認されているのだろう。とはいえ、それと成績は別問題だろうから、頑張ってついていかなくてはならない。

 既に何ページ分か進んでいる板書を、利奈はせっせと写した。

 

 おそらく、さらに教室で浮いた存在になってしまうだろう。

 得体のしれない転入生が、何の前触れもなく、突然風紀委員に入ったのだ。腫れ物どころか、爆弾扱いされるに決まっている。間違っても声をかけてくる子なんて――

 

「ねえ、相沢さん」

 

 ――いた。

 授業が終わった直後だ。驚きのあまり、勢いよく振り向いてしまった利奈は、気を取り直すように息を吐いた。

 

「なに? 笹川さん」

 

 ――笹川京子。

 話したことはないけれど――と、この前置きはもういらない。どうせだれともろくに会話してこなかったのだから、無意味だ。

 とりあえず簡単に言うと、顔がかわいいうえに性格もいい、男女問わず人気の高い女子生徒だ。ふわふわした色素の薄い髪と、クリっとした垂れがちの瞳が印象的である。

 

 そんな京子が、口元に優しい笑みを浮かべて利奈を見ていた。

 その後ろには、彼女といつも行動を共にしている黒川花が、ツンと澄ました顔で立っている。彼女はもとからクールでおとなびた雰囲気だったから、牽制しているわけではないはずだ。

 

「これ、貸してあげる!」

 

 そう言って京子が差し出したのは、さきほどあった国語の授業のノートである。表紙にはケーキのシールが貼ってあって、どこにでもありそうなノートを、かわいく自分仕様に仕上げていた。

 

「相沢さん、途中から教室に入ったでしょ? ノートがないと困ると思って」

「……え、いいの?」

「うん!」

 

 京子は屈託ない笑顔で利奈にノートを手渡した。

 思わず後ろの花に視線を送ってしまうけれど、花は軽く肩をすくめるだけだ。

 

「ありがとう。写したらすぐに返すね」

「ゆっくりでいいよ。今日返してくれればいいから」

 

 話し方も、彼女らしくおっとりしている。なるほど、これは人気が出るわけだ。

 変なところで納得していると、一歩下がっていた花が、グイっと身を乗り出した。

 

「ねえ、あんた、マジで風紀委員に入ったの?」

「え」

 

 ここに入っての直球である。

 周りの同級生たちもこっそり様子を窺っていたようで、視線がグッと利奈に集まった。おそらく、立てられた耳はそれ以上だろう。

 

「ねえ、なんで? いつの間にそんなことになってんの?」

「ええっと――」

「もー、花。いきなりそんなこと聞いたら失礼でしょ?」

「だって気になるじゃない。あそこ、今まで厳つい男ばかりだったし」

 

 京子がたしなめるが、花は歯牙にもかけない。

 利奈としては、焦るしかなかった。まさか初日にこんなぐいぐい聞かれるとは思っていなかったので、答えを用意できていない。

 

「ね、いつ?」

「昨日、かな」

「昨日!?」

 

 利奈の言葉を繰り返したのは、花でも京子でもなく、聞き耳を立てていた同級生の一人だった。

 

「なんで? なんでそんないきなり」

「えっと、いろいろあって――風紀委員長と縁があった、っていうか」

「風紀委員長って、ヒバリさんと!? マジかよ!?」

 

 男子生徒まで混ざり、もはや、だれと会話しているのかわからなくなってくる。

 

「ヒバリさんと話したことあるの? え、なに話すのあの人」

「あー……そんなたいして話してないかも」

「風紀委員ってどうやって入るの!? あ、別に入りたいわけじゃないよ!」

「……成り行き?」

「え?」

「ううん、なんでもない」

 

 脈絡のない質問に答えていくうちに、みるみるみんなとの距離が縮まっていく。利奈の返答態度があまりにも普通だからか、風紀委員のイメージとのギャップで、親近感がわいたようだ。

 友好的な態度に喜んでいいのか、拍子抜けていいのか。とりあえず、受け入れられたようでなによりだ。

 

「なあ、相沢が風紀委員ならさ。あいつ、どうにかしてもらったほうがよくない?」

「あいつ? ……ああ、あいつか」

 

 男子二人がそんなことを言う。

 

「なんかあるの?」

「ほら、あいつ。……獄寺」

 

 教室に姿がないのを確認してから、男子が名前を告げる。 

 

(あー。いたな、ヤバいのが)

 

 ――獄寺隼人。このクラス唯一の不良である。

 一目でわかる外見的特徴は、異国生まれのやや長めな銀髪だが、そのギロリとした目つきの悪さも印象的だ。

 授業態度は悪いのに成績は良く、すぐに手を出す性格なために、先生たちもかなり手を焼いている。吸っているところを見たわけではないが、喫煙を隠すつもりはないらしく、すれ違った時に、煙草の残り香が香ったこともある。

 言われるまでもなく、風紀委員の取り締まり対象だ。

 

「えー、別によくない?」

「そうだよ、今までなんにも言われなかったんだから、いいじゃん」

 

 弁護するのは女子生徒だ。それを聞いて、男子が一斉に苦い顔をする。

 

「いや、だからってさ。あいつ感じ悪いじゃん」

「すぐ因縁つけてくるし」

「ダメツナの前だけ態度変えるの謎だし」

「そんなことないよ! 獄寺君すごく頭いいし!」

「成績いいんだから、ちょっとくらいいいじゃない。運動もできるし」

「そうそう、なんでもできて、万能だよね、獄寺君」

 

 女子の擁護の熱の入りようで察しがつくだろうが、隼人は抜群に容姿がいい。

 クラス分けの際、過剰に喜ぶ女子が多数いたので、利奈もそれで名前と顔を覚えた。

 

 ちなみに、もう一人女子人気が高い同級生もいるのだが、そちらは爽やかスポーツマンである。さらにつけくわえると、その男子と隼人、それからさっき遅刻を免れた男子は、なぜか仲が良くて一緒につるんでいる。

 不良優等生と、スポーツ万能爽やか男子と、落ちこぼれ男子。バランスはとれているが、不思議な組み合わせだ。

 

 とにかく、女子人気は高く、男子人気は低い。そして先生からは受けが悪い。

 そんな隼人をめぐって、女子対男子の争いが巻き起こる。渦中の利奈は目を白黒させるばかりだ。

 

「だから、獄寺君はいいの! かっこいいから!」

 

 もはや潔さすら感じる女子のえこひいき。不良っぽい男子は、根強い支持があるらしい。

 

「いや、あれは風紀上良くないだろ! なあ、相沢!」

「そもそも今話してんのはあいつの態度だろ! 絶対風紀乱してるって!」

 

 かたや男子は、風紀を強調して利奈を味方につけようとしている。

 女子の論点のすり替えよりはいいけれど、だからって、女子である利奈に隼人を取り締まらせようとするのはいかがなものか。

 日頃から気に入らなかった隼人を成敗する、ちょうどいい機会だと思っているのだろう。

 

(うーん、私も獄寺君はアウトだと思うけどー。でも私、風紀委員入ったばかりだし、いきなりそんな難しいことできないよー!)

 

 不良の更生は、委員会ではなく先生方にお願いしたい。

 それに、最強の不良に率いられている不良の集まりのような風紀委員が、不良の更生に乗り出すのも、なんだか妙な話だ。

 

 しかし、こうやって話題に上がった以上、無視してしまうわけにもいかない。風紀委員が不良を野放しにしているなんて噂が立ったら、風紀委員の威信にかかわるだろう。

 ――利奈としては、それによって受けるであろう、鉄拳制裁のほうが恐ろしいのだが。

 

「わ、わかった。ちょっとだけ、注意してみるね」

 

 結局、そう答えるしか利奈に道はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不良生徒の取り締まり

 教室に戻ってきたところを迎撃するのも悪いので、利奈は教室を出て隼人を探した。

 みんなに見られている状態だとなにか口走った時に繕いようがないし、授業前なら分が悪くなってもチャイムの音で逃げ出せる。なにが起きるかわからないんだから、作戦の立て方が小賢しくなるのは仕方ない。

 

(あ、ちょうど戻ってきた)

 

 ポケットに手を突っ込んで歩く姿は、顔の良さを鑑みても十分に柄が悪い。

 利奈は心の中で何度か深呼吸して、隼人の前で足を止めた。

 

「ねえ、獄寺君」

「あ?」

 

 返事まで柄が悪い。

 頭のてっぺんからつま先まで見下ろした隼人の目が、左腕の腕章を捉えてすがめられる。

 どうやら、風紀委員に悪印象を抱いている側の生徒らしい。畏れを抱いていてほしかったが、それは望みすぎだったか。

 

「なんの用だ」

 

 高圧的な声に、怯みそうになる。

 潜在的に感じる恐怖は恭弥がはるかに上回るが、隼人も十分に恐怖対象だ。

 恭弥は次になにをしでかすかわからない危うさで、隼人は目に見えるわかりやすい脅威である。

 わかりやすく例えるなら、いつ引っ掻いてくるかわからない家猫と、だれ相手でも噛みついてくる野良犬。

 

「ちょっと、お願いがあって」

「断る」

 

 なにも言ってないうちから断られ、取り付くしまもない。しかし、ここでめげたら、クラスメイトになにを言いふらされるか、わかったものではない。せめて、風紀委員が口頭で注意していたという既成事実を作っておかなければ。

 利奈はそう決意して、眉間に皺の寄っている隼人を見据えた。

 

「とりあえず、真面目に授業受けてくれないかな」

「……」

 

 隼人はなにも言わないまま、利奈の横を通り抜けた。利奈はあわててそのあとを追う。

 

「ちょっと待って! 少しだけ、話聞いてもらえない?」

 

 後ろから声を投げるも、隼人は振り向きもしない。足を止めさせなければと気が急いた利奈は、とんでもないことを言い放つ。

 

「獄寺君、前から態度が悪いよね!」

「ああん!?」

 

 ――授業態度が悪いと言いたかったのだけど、うっかり大事なところを端折ってしまった。

 そのせいでただの暴言を吐いただけの利奈に、隼人はぐるりと振り返った。その凶悪な表情に、自分が喧嘩を売ってしまったと気付いても、今更だ。

 

「なんだてめえ! やる気か、果たすぞ!」

「うわわ、ごめん、間違えた! そういうんじゃなくて、授業中すっごく柄悪いよねって話で――」

「ああ!?」

 

 自分の言い繕いの下手さに嫌気がさす。

 しかし、隼人の授業態度の悪さは折り紙付きだ。机に足を引っかけて授業を受けていたりするし、別に間違えたことは言っていない。でも、言い方というものがあった。

 

「なんでてめえにそんなこと言われなきゃなんねえんだ、喧嘩売ってんのか!?」

「あああ違くて! 私、風紀委員で!」

「ってことはヒバリの差し金か!? 上等だ、あいつ呼んで来い!」

「うええええ……」

 

 話を飛躍され、利奈は女子にあるまじきうめき声をあげる。

 呼びに行っても恭弥は喜びそうな気がするけれど、物事を大きくしたくない。それに、これだとまるで、風紀委員から戦闘を仕掛けたみたいになってしまう。

 

(多分、ヒバリさんの圧勝になるけど――クラスメイト、しかも獄寺君ボコボコにさせたら、女子に一生恨まれちゃうって!)

 

 なるべく穏便に解決したいのだけれども、既に隼人は戦闘モードに入っている。放っておいたら、勝手に応接室まで行って恭弥に戦いを挑みそうだ。

 善良な一般生徒はすぐさま教室に引っ込んでいて、顔だけをこちらに覗かせている。

 

(ど、どうしよう)

 

 そんな一触即発の空気のなか。なにも知らずに教室から出てきた男子生徒が、利奈の腕章に目を止めて声をあげた。

 

「相沢さん、ちょっといい?」

 

(どこが!?)

 

 どこにそんな要素があるのかと振り返るが、目が合った男子はホッとした顔で歩み寄ってきた。ガンを飛ばす隼人が、視界に入っていないのだろう。

 どうしたものかと横目に隼人を見るが、その隼人が驚愕の表情で固まっていたので、ギョッとする。

 

「じゅ、十代目!」

 

(十代目? なんの?)

 

 疑問に思う利奈が眉を顰めるが、そんな利奈は眼中にないのか、隼人は近づいてくる男子生徒に視線を釘付けにさせている。

 

(そういえば、仲がいいんだっけ、この二人)

 

「君、朝助けてくれたよね! 本当にありがとう!」

 

 隼人の存在には気づかないまま、男子生徒は利奈に礼を言った。

 つい一時間ほど前に、遅刻をごまかしてあげた相手だ。

 

「えっと、同じクラスの……」

 

 申し訳ないが、名前はまだ思い出せていない。

 

「あっ、俺は沢田綱吉。ずっとお礼言いたかったんだけど、話しかけるタイミングがなくって!」

 

 どうやら、ほかの生徒に囲まれている間、ずっと機会を窺っていたらしい。

 三百六十度囲まれていたからか、まったく気付けてなかった。

 

「あー、やっと言えた。朝からずっと気にしててさ。

 その、なにか言われなかった? 大丈夫?」

「うん、大丈夫だった。わざわざありがとう」

「いやいや、本当に助かったから。ちゃんとお礼言えてよかったよ」

 

 ほっとしたように言う綱吉に表情が緩むが――今はそれどころではなかった。

 恐る恐る振り返るが、うつむく隼人の表情は探れない。

 

「……十代目」

 

 うめき声に近い声音で隼人が声を出す。

 それで綱吉も隼人の存在、それとこの場を包んでいたピリピリとした空気に気が付いて、困惑気味に表情を曇らせた。

 

「え、なに? 獄寺君、どうしたの?」

「……その女に助けられた、とは?」

 

 ギギギと持ち上げられた顔は、眉間に皺が寄っているものの、威圧感は皆無だった。

 なぜだろう。地を這うような低い声なのに、まったく恐くない。利奈はすぐにその理由に思い至った。

 

(これ、怒られそうになってる子供と一緒だ)

 

 攻撃ではなく、防御の構え。

 そんなこととは露知らずに、綱吉は利奈を掌で示し、

 

「今日の朝、この子に助けてもらったんだ。本当に、ギリギリ助かったよー」

 

 安堵の声とともに、満面の笑み。

 その表情を見せられた隼人は、ショックを受けた顔で思考を張り巡らせた――かと思うと、いきなり床に両手両膝をつけて頭を落とした。

 

「申し訳ございませんでした、十代目ー!」

 

(土下座!?)

 

 予測してなかった隼人の行動に、利奈と綱吉は同時に身を引いた。綱吉のほうがリアクションはでかい。

 

「え? え!? ど、どうしたの、獄寺君」

「俺は、俺は――十代目の右腕だというのに、命の危機にその場にいなかったなんて! 右腕失格っす! 面目ない!」

 

 ダンっと床を殴りつける隼人。

 

 状況についていけない利奈は、疑問符を浮かべているしかなかった。

 さっきまで抱いていた隼人のキャラが、高速で塗り替えられてしまっている。

 

「いやいや、命の危機とかじゃないから! ただの遅こ――」

 

 綱吉が事情を説明しようとするが、それを待たずに隼人は立ち上がり、油断しきっていた利奈の手を掴んだ。いや、両手を握りしめた。

 女子の悲鳴が響くが、隼人の顔がグッと迫っていなければ、利奈だって悲鳴を上げている。

 

「お前、十代目の命の恩人なんだな!?」

「えっ――いや、そんなんじゃ」

「恩人なんだな!?」

「……たぶん?」

 

 念押しに負け、控えめに認める。

 風紀委員に捕まったあとのことを考えると、まったくの出鱈目というわけでもないのかもしれない。さすがに、命のとまでは言えないけれど。

 しかし隼人は目を大きく見開かせると、利奈の手を離して、数歩下がった。

 

「ちょ、ちょっと獄寺君! どうしたの一体」

 

 状況が呑み込めないなりに、綱吉が間に入ってくる。利奈だって呑み込めていないのだから、二人のやり取りを見ていなかった綱吉には、まったくもって意味不明な状況だろう。

 すると今度は、間に入った綱吉に向けて、隼人が腰から上を四十五度に折り曲げた。

 

「申し訳ございませんでしたー!」

 

(最敬礼!?)

 

 教科書に載せてもいいレベルの、完璧なお辞儀である。

 

「実は俺、十代目の命の恩人とは露知らず……っ! こいつに、とんでもない真似を!」

「えー!?」

 

 なにされたの!? という顔をされるものだから、利奈は正直にありのままを伝える。

 

「注意して――逆ギレされた?」

 

 とんでもない真似と言っても、たったそれだけである。

 しかし綱吉は大げさに驚いて、アワアワと周囲の壁に目をやった。まるで爆発物でも取り付けられているかのような反応だ。

 

「すみませんでした! 十代目の顔に泥を塗るなんて、俺はなんてことを!」

「獄寺君が風紀委員に喧嘩売ったあ! 相沢さん、大丈夫!? 怪我してない!?」

「あ、うん、大丈夫だけど」

 

 むしろ、二人に大丈夫かと問いたい。

 隼人はひたすら綱吉に詫びているし、綱吉は利奈の背後にある風紀委員会に怯えている。心配しなくても、告げ口をするつもりはないから、安心してもらいたい。

 

 収拾がつく前にチャイムが鳴って、話の続きは次の休み時間に持ち越された。

 隼人がすっかりおとなしくなったので、称賛と畏怖の視線が利奈に降り注ぐ。

 どうやら、さきほどのやりとりで、利奈が隼人を改心させたという誤解が生まれたらしい。

 

(あれ、ただ落ち込んでるだけなんだけど……)

 

 授業中なので、誤解を解くこともできない。

 ちなみに綱吉も、動揺のあまり授業を聞いていなかったのか、先生に指されて見事に声を裏返らせていた。 

 

(んー、つまり、どういうこと?)

 

 友達の恩人に暴言を吐いたから、と捉えるには隼人の態度は大仰すぎた。あれだと、綱吉との力関係に差がありすぎる。

 

 疑問を抱えたまま、授業終了とともに、三人で人気のない空き教室へと移る。

 廊下で話してもよかった気がするのだけれど、綱吉が非常ボタンを見てなぜか首を振ったので、こうなった。話が漏れ聞こえないように、ちゃんとドアも閉める。

 

「――つまり、授業態度を注意したら、獄寺君に逆ギレされたってこと?」

「そうなるかな。簡単に言ったら」

 

 利奈も失言しているのだが、隼人が一切触れないので、なかったことにさせてもらう。

 

「十代目の恩人とは知らなかったからな。悪かった」

「う、うん」

 

 素直に告げられた謝罪の言葉に、利奈は曖昧に頷いた。

 時間を置いたおかげですっかり元通りになったようだが、塗り替えられたイメージはもう戻らない。土下座が脳裏に色濃く焼き付いてしまっている。

 

「うーん。でも、相沢さんの言う通り、獄寺君はもう少し普通に授業受けたほうがいいと思うよ。も、もちろん俺は強制しないけど」

「いえ、十代目がそう思われるのでしたら、俺は従います」

 

(……子分?)

 

 ずっと気になっていたけれど、どうして隼人は綱吉に敬語を使っているのだろう。見た目だと、綱吉のほうが子分なのに。

 

「いや、俺はそんな。

 相沢さんはどうなの? 風紀委員、だよね」

「私も入ったばかりだから……。

 とりあえず、普通に座って、普通に授業受けてくれれば文句はないんだけど」

 

 もともとは、クラスメイトたちに焚きつけられただけなのである。

 だからつい、機嫌を窺うような口調になってしまうが、隼人は鷹揚に頷いた。

 

「十代目の命の恩人だからな。今回ばかりは、従ってやる」

 

(だから、命の恩人とかじゃないんだけど……)

 

 ここだけは、綱吉が一から十まで説明しても理解してもらえなかった。もうめんどくさいので、そのまま通している。

 かなり思い込みの強い性格をしているらしい。

 

 隼人があっさりと要求を呑んでくれたので、利奈と綱吉は安堵の息をついた。

 

「あー、よかった。獄寺君がなにしたのかって、ヒヤヒヤしてたよ」

「ごめんね。本当になんでもなかったの。……まあ、沢田君が来てなかったらわかんなかったけど」

「間に合ってよかったー!

 ヒバリさんの恨みなんて買ったら、もう二度と学校になんて来れないところだったよ」 

「いやいやいや」

 

 利奈をどうにかしたところで、恭弥は眉ひとつ動かさないだろうが、風紀委員会との全面戦争に発展する事態を、綱吉も恐れていたらしい。余計な心配をさせてしまったのは、申し訳なく思っている。

 

「じゃ、教室戻ろうか」

「了解っす! バシッと張り切って授業受けますんで、見ててくださいね!」

「いや、そんなに張り切らなくてもいいと思うけど」

 

 早口で呟く綱吉をしり目に、気合十分といった顔で隼人が教室に戻っていく。

 利奈がその姿に呆然としていると、慣れた様子の綱吉が乾いた笑みを漏らした。

 

「あんな感じだけど、獄寺君、そんなに悪い人じゃないんだ。

 ちょっと怒りっぽいとこあるけど、根は正直っていうか、まっすぐだし」

「うん。さっきの見たらわかった」

 

 態度の急変っぷりを思い出して、笑いながら答える。

 人は見かけによらないというけれど、ここまで相手によって態度を変える人も珍しい。

 

「ところで、なんで獄寺君は沢田君にあんななの?」

「え!? あ、それは、その――」

「十代目ー! どうかされましたか?」

「なんでもないよ! すぐ行くね!」

 

 高速で目を泳がせた綱吉が、隼人の呼びかけに応えて、逃げるように去っていく。

 

(どうしてなんだろう)

 

 疑問は残ったけれど、とりあえず、風紀委員としての矜持は果たせた。

 風紀活動一日目にして波乱を呼ぶところだったと胸を撫でおろした利奈だが、撫でおろしたのは、明らかに早計だった。

 

 一日は、まだ半分も残っていたのだから。

 




誤字報告ありがとうございます。すべて訂正いたしました。
それと、昨日の日刊ランキングで三位になりました! ひゃっほい! 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

町内の見回り

「ヒバリさんと見回り!?」

 

 叫んだ利奈の頭に、後方から拳が振り下ろされた。

 垂直に落とされた拳は脳天に当たり、利奈の視界に星が飛ぶ。

 

「いっ――たーい!」

 

 あまりの痛みにしゃがみこんだ利奈は、恨みがましい目で犯人を振り返った。

 近藤は素知らぬ顔で前方を向いている。

 

 ――ぶしつけに大声を出したのは悪かったけれど、だからって問答無用で拳骨を食らわせるのはなしだと思う。

 

 痛みに耐えてよろよろと立ち上がった利奈は、滲んだ涙をぬぐい、気を取り直して同じ内容を繰り返した。今度は、言葉遣いに気を配って。

 

「ヒバリさんと、二人だけで見回りに行くんですか?」

「そうだよ」

 

 正面に座る恭弥は、日誌から顔も上げずに答えた。

 

(そうだよって――)

 

 話が違う。

 振り向ける状態ではないが、おそらく、後ろの二人も渋い顔をしているだろう。

 

 ――時計の針を二周ほど巻き戻したお昼頃。

 副委員長からの伝言を携えて、風紀委員が利奈の教室へとやってきた。

 

「通学路の見回り、ですか?」

 

 風紀委員の来襲。昼休みの弛緩した空気が一瞬で吹き飛ばされたわけだが、それを気にしたら話もできないので、利奈はあえて無視をした。

 

「お前には、三班とともに見回りに参加してもらう。放課後、校門前に集合だ」

 

 そのうち名前を知るだろう彼は、それだけ言って帰っていった。

 

(見回り、かあ。

 そういえば、初めてちゃんと風紀委員を見たのも、見回りしてるところだったな)

 

 直後に恭弥と遭遇してしまったために、記憶にはほとんど残っていないけれど。

 

 見回りというと、学校帰りに校則違反をしていないか、素行不良の生徒がいないかを調べるのだろうが、並中の校則はじつに緩い。

 制服での買い食いも、下校時の寄り道も禁じられていないし、拘束する校則がひとつもないのだ。

 

 ゆえに見回りなんて、風紀委員の存在を誇示するだけの行為に思えるのだが、並盛中学校の風紀委員は、一味違った。

 取り締まり対象が、並中生だけでなく、道行くすべての人々にまで広がっているのだ。

 

(これもう町ぐるみでやればよくない!?)

 

 いっそ並盛中学校風紀委員ではなく、並盛町風紀協会などに肩書を変えるべきなのだが――メンバーが全員並中生のためか、まだ委員会活動の枠に収まっている。

 というよりも、中学校の風紀委員だからこの程度で済んでいるという状態で、町ぐるみの組織にしてしまうと、暴力団と遜色ない集団になってしまう。

 恭弥の卒業後の動向が気になるところではあった。

 

 学校外での活動ということもあって、危険度は朝の取り締まりの比ではない。

 並盛町で幅を利かせている風紀委員に反感を持ち、逆転の期を狙っている組織も少なくはないそうだ。なんの組織かはあえて聞いていない。

 いつどこで襲われるかわからない。しかし、風紀委員である以上、負けることは許されない。たとえなにがあっても倒れてはならない。

 

 そんな戦場さながらの指導を、三班班長の吉田から聞いている際に、五班の近藤から招集があった。

 そこからの予定変更で恭弥と二人で行けと言われたのだから、オーバーリアクションになるのも無理はなかっただろう。

 周囲の敵に気を配るはずが、身近にいる味方に注意しなければならなくなったのだから。

 

「君は一番弱いんだから、一番強い人と組むべきでしょ」

 

 書類仕事が終わったのか、使っていたペンを卓上のホルダーに差して立ち上がる恭弥。

 部下の焦りも知らずに、悠々としている。

 

「……相沢」

 

 後ろからの声にビクッと背中が跳ねる。

 このドスの利いた声は、戦場の風紀委員こと、吉田の声だ。

 

「わかっているな?」

 

 その一言で、言わんとしていることはわかった。

 

 ――雲雀恭弥の足を引っ張ったら、容赦はしない。

 

 どうやら、味方はだれ一人存在していないようだ。

 

 

__

 

 

 恭弥に続いて校門を出る。

 神出鬼没の風紀委員長の姿にみんなが釘付けになったおかげで、後方の利奈には一切視線が向かなかった。しかし、利奈の気は晴れない。

 

(ヒバリさんと二人っきりかあ。なんかあったら恐いし、やだなー)

 

 平社員と社長が外回りをするようなものだ。

 しかもその社長は、ミスをしたら即切り捨てるであろう、ワンマン社長である。

 

「ねえ」

 

 振り返った恭弥が、訝しげに眉を落とした。

 

「遠くない?」

「そ、そうですか?」

 

 恭弥の気まぐれを警戒するあまり、つい距離を空けすぎていた。五メートルは離れすぎたか。

 慌てて近づくも、隣なんて歩けないし、真後ろにいるのもどうかと思うので、結局、二、三歩分、引いてしまう。

 なにもしがらみがなかったぶん、町を案内してもらっていた時のほうが、まだ気を抜けていただろう。

 

(ダメダメ、これじゃ胃がもたない。もうちょっと気を楽にしよう)

 

「日によって場所が違うって聞いたんですけど、今日はどのあたりを見回りするんですか?」

「裏通り」

「裏……通り」

 

 響きだけで嫌な予感が膨れ上がってくる。

 

「三班は表通りを巡回してるからね。小動物がはびこるなら、裏通りでしょ」

「ね、狙いに行くんですね」

 

 もはや気を抜くどころではない。

 

「裏通りと言っても、路地裏に入ったりはしないよ。それだと見回りじゃなくなるし。

 今日のところは君の世話もあるから、普通に見回るだけにしておくよ」

 

 ガチガチに肩に力を入れる利奈を見て、恭弥が訂正を入れた。

 一応、新米の面倒をちゃんと見てくれるつもりでいるらしい。

 

「そうだ、先に言っておかないといけないことがあった。

 僕の邪魔をしたら容赦なく咬み殺すから、そのつもりで」

 

 ――先行き不安どころの騒ぎではなくなった。

 

 それでも、見回りしていた裏通り自体は平和だった。

 下校する並中生は恭弥に気付くとそそくさと通り過ぎるし、道の往来で事件が起きることもなく、町内の人は普通に商売をしている。

 恭弥がちょくちょく店に入っては、怪しげな雰囲気で会話をしてたり、封筒を受け取っていたりしていたけれど、似たようなことはこの間もやっていたので、特筆事項ではない。

 

(疲れた……!

 病院の人に頭下げたり、店の人に頭下げたり、すっごく緊張したし、心臓に悪かった!)

 

 しかし、そんな見回りももうすぐ終わりである。

 家に帰ったら堪えていたぶんを発散しようと、ガラス越しに恭弥を見つめていると、後ろから肩を押さえられ、すぐわきの細道に、無理やり引っ張り込まれた。

 

(も、もう!?)

 

 声を出そうとするより前に、口を手で塞がれる。

 その手がジワリと汗ばんでいて気持ち悪かったので身じろぎをすると、それを抑え込むように抱きすくめられた。非常に気持ち悪い。

 

「じたばたするなっ!」

「おとなしくしろ」

 

 複数人に囲まれて、抵抗ができない。足は半分宙を浮いていて、利奈はなすすべなく路地裏へと飲み込まれた。

 

「捕まえたか!?」

「ああ、あいつの女だ」

 

 興奮したようなささやき声。その上擦った声に、利奈は心の中で突っ込みを入れた。

 

(ちっがーう!)

 

 あれよあれよと空き地まで連れて行かれ、集まっている輩のリーダーであろう男の前へと引き渡される。

 いかにも悪いことしてますといった顔つきの男は、利奈の顔を検分して、つまらなそうに身を引いた。

 

「これが雲雀恭弥の女か。……ガキだな」

 

 どうやら、期待にはそぐわなかったようだ。あの恭弥の彼女ということで、相当に高い理想を抱いていたのだろう。ほかの人も似たような反応をしている。

 それなら、一目見た瞬間に違うとわかってほしいのだけれど、口をテープで塞がれていてはなにも喋れない。

 

「それより、あいつはまだ気付いていないんだな?」

「まだ店にいる。間違いない」

「しっかし、まさかあの雲雀恭弥に女がいたとはな」

 

(だから違うんだけどね)

 

 それにしても、どれだけ不良たちの恨みを買っているのだろう。

 どうせ手当たり次第ボコボコにしているんだろうけれど、風紀委員に入って昨日の今日でここまでされるとは思っていなかった。

 

 そもそも、彼らはいつ利奈の存在に気付いたのだろう。

 まさか、ついさっき知ったばかりで、こんな大胆に動けるとは思えない。

 

「で、何人集まる?」

「あと十人。武器も用意してるところだ」

 

 まだ声は上擦っているが、先ほどの緊張からの震えではない。

 瞳は興奮でぎらついているし、口元から覗く歯は獰猛だ。

 

 この並盛町を支配している恭弥を倒せれば、並盛町での立場は一変する。

 恭弥の彼女(勘違い)を人質にすれば、楽に天下が取れると思っているのだろう。

 

(卑怯な手口……)

 

 そもそも、恭弥に彼女がいたとして。その彼女を人質にとれたとして。

 あの恭弥が、恋人の身を案じて戦えなくなるなんてことが、はたしてありえるのだろうか。

 

(いやー、ないな。部下にすらあれだもの)

 

 認識のズレを正してあげたくても、声が出ないのだから仕方ない。

 

 若干冷めた気持ちでいる利奈の前で、徐々に人が増えていって、空き地に展開していく。

 やはりリーダーは最奥に位置するようで、利奈は拘束係の男とともにその隣に立たされた。

 ここからだと、路地の先まで見えるはずなのだが、男たちで視界を塞がれている。

 

 息をひそめた静寂のなか、重量のあるものが壁に激突する音が聞こえた。

 

「来たか」

 

 声に緊張はあれど、怯えはない。準備が万端に整っている証だろう。

 

 近づいてくる打撃音。それにともなって聞こえてくるうめき声。

 

「がはっ!」

 

 恭弥に吹っ飛ばされた男が、路地から空き地まで滑り込んでくる。その男から目を上げると、トンファーを血で染めた恭弥がゆっくりと現れた。

 仲間だけど、登場の仕方が物騒なのでそんなに喜べない。

 

「おっと、そこまでだ」

 

 隣の男が利奈の肩に手を置いた。

 後ろの男が腕に力を籠めるので、利奈は痛みを逃がそうと身をよじる。

 

「それ以上近付くなよ。わかっているだろうがな」

 

 金属音が鳴ったので利奈は下を向いて、そして見なければよかったと顔をそむける。

 男はナイフをちらつかせていた。

 

「お前の女だろ? 傷をつけられたくなかったら、おとなしく俺たちの言うことを聞いてもらおうか」

 

 ――だれが。恭弥の口がそう動くのはわかったが、男たちには聞こえなかったようだ。

 一斉に恭弥を取り囲む。

 

「ほら、お前もなにか言えよ」

 

 もう意味のないガムテープをはがし、男が利奈に初めて声をかけた。

 ひりひりと痛む口を拭いたいけれど、両腕の拘束は解けていない。

 

「雲雀恭弥が来たんだぜ? 助けを求めたらどうだ」

 

(……助け、ねえ)

 

 声を出す許可が与えられたので、利奈はまっすぐに恭弥を見た。恭弥もまっすぐに見返してくる。その目は、黒く澄んでいた。

 

「……僕が最初に言ったこと、覚えてるよね」

 

 ――覚えている。

 

「邪魔したら咬み殺す、ですよね」

 

 答えた利奈の声は、おそらく恭弥には届いていなかっただろう。

 

 利奈が口を開いた瞬間。

 どんな返答が出るのかと待っていた男たちの油断を突く形で、恭弥が足を踏み込んだ。

 横一線にトンファーが空間を切り裂き、容赦なく喉元をえぐられた男たちが、喉を押さえて後退る。

 

「なっ!?」

「てめえ!」

 

 動揺する男たちのなかで、いち早く恭弥に飛びかかった男が、次の犠牲者だ。

 掬い上げるようにトンファーで顎を砕き、通り過ぎざまに肘鉄でトンファーを叩き込む。

 

「ぐあっ!」

 

 やり方がえぐい。

 うわあと内心で引いている利奈をしり目に、男たちは戦闘態勢に入る。

 

「おい! こいつがどうなってもいいのか!?」

 

 ナイフをちらつかせて脅しても効果はない。恭弥はこちらを一切見ていなかった。

 ここにきて作戦ミスに気付いたって、もはや手遅れだ。

 

 振り下ろされた鉄パイプをなんなく受け止め、がら空きな腹に靴のつま先で蹴りを入れる。転がった男に蹴躓いた男も、眉間にトンファーを打ち込まれて昏倒した。

 次々に男たちの屍が転がっていく。

 

 そんな光景を目の当たりにする利奈の表情に、怯えはない。

 まだ男たちは半分残っているし、ナイフは胸元で光ったままだが、すっかり落ち着き払っていた

 なぜそこまで落ち着いていられるかというと――

 

(二度目だとインパクトがなくなるよね)

 

 ――そう、もう二回目なのである。

 

 今は復路だが、往路でも利奈は男たちに絡まれた。

 その男たちは、風紀委員にしては弱そうな利奈が一人でいたので、これ幸いとちょっかいをかけにきたのだ。しかし、それだけでも容赦なく恭弥に屠られた。

 救急車を呼んだのも利奈だし、救急隊員に頭を下げたのも利奈だ。ついでに、男が店に突っ込んで窓を割ったので、店の店員にも謝らなければならなかった。

 

(またヒバリさんにケータイ借りて呼ばなくちゃ。……病室、埋まっちゃわないかな)

 

 遠い目をする利奈に、自身と他人の心配をする余地はない。

 

「この野郎!」

「おらあ!」

「はい、おやすみ」

 

 雑魚は何人集まっても雑魚だと言わんばかりに、圧倒的実力差で薙ぎ散らす恭弥。

 男たちの流した血が道路を汚し、大量殺人のあった現場みたいになってきている。

 

「さて」

 

 しばらく暴れまわった恭弥は、ふと動きを止めて残り人数を数えた。

 といっても、あとはリーダーと、利奈を捕らえている男のみである。最初の場所からまったく動いていなかったので、ほかの連中と一緒にやられずに済んだ。それだけだ。

 

「あと二匹か」

「そ、それ以上近づいたら――」

 

 もう恭弥は足を踏み込んでいる。

 リーダー格の男は利奈に向けていたナイフを握り直すと、迫ってくる恭弥の顔面に向けてナイフを投擲した。

 

「ヒバリさん!」

 

 恭弥は顔を傾けるだけでナイフを避け、そのまま男の鳩尾にトンファーを叩き込んだ。

 

「――っ! グハッ!」

 

 唾を飛散させ、首謀者は気を失う。

 

 残るは――

 

「ひ、ひいいい!」

 

 最後の標的となった拘束係は、自棄になって利奈を突き飛ばした。

 

「へ?」

 

 まさか、最後の最後で人質を捨てるなんて。

 突き飛ばされた先は恭弥の動線で、丸くなった恭弥の瞳に、自分の顔が映った。恭弥の腕は、既に弧を描いている。そのまま円を描けば、利奈の横顔を打ち抜けるだろう。

 そしてそのまま男に襲いかかれば、それで終了だ。

 

(――!)

 

 覚悟を決めた利奈の体に、衝撃が走る。地面にしりもちをついたが、顔に痛みはなかった。

 突き飛ばした男の足音が遠ざかっていく。

 

(ヒバリさんは!?)

 

 なんと、恭弥も地面に膝をつけていた。

 舌打ちとともに立ち上がった恭弥は、すぐさま男に追いついて、その短い逃走劇に幕を下ろす。

 

「いつまで座ってるつもり」

 

 あれだけの乱闘を終えた後なのに、恭弥の息は一切乱れていなかった。

 なにもしていない利奈だって、こんなに鼓動が早まっているというのに。

 

「す、すみません」

 

 戦闘中は落ち着いていられたけれど、終わってから震えがやってきた。最後の最後で、危ない目に遭ったからだろう。

 辺りを見渡すが、とんだ惨状である。もしかしたら、一人ぐらい死んでいるかもしれない。

 

「はい。また救急車呼んであげて」

 

 携帯電話を渡され、リダイヤルで総合病院に電話をかける。

 搬送人数を伝えると電話口から悲鳴が漏れ聞こえたが、無理もないので聞こえなかったことにしておいた。

 

「五分ほどで、来てくれるそうです」

「そう。じゃあ、行こうか」

 

 襲撃犯がどういった人間なのかは、興味がないらしい。

 それでも、恭弥の声はどことなく弾んでいた。

 

「まさか、一日で二回も釣れるなんてね。久々に運動できたよ」

「そうですか……」

 

 不良たちは、大きな思い違いをしていた。

 

 利奈は決して、人質にはなりえない。

 なぜなら利奈は、不穏分子たちへの餌でしかないのだから。

 

『僕に歯向かう小動物は多いんだけど、襲いかかる勇気もない小物揃いでね。そんな小動物が、裏でちょろちょろ動いているのは不愉快だ。

 だから、きっかけを作って誘い出そうと思ってる』

 

 恭弥は、気まぐれで利奈の世話役を担当したわけではなかった。

 恭弥は利奈の脆弱さを利用して、自分に歯向かう輩を集めようとしたのだ。

 まさか、ここまで早く効果を発揮するとは思っていなかったようだが。

 

(聞いたけどさ! 邪魔したら咬み殺すからねとか言った後にさらっと言ってたけどさ!

 本当にこんなの来るんだったら、もうちょっと念押ししてほしかった!)

 

 もはや隼人に声をかけたときの緊張など、鼻で笑えてしまうほどの修羅場をくぐってしまった。

 

 ――ちなみに、これに味を占めた恭弥によって、利奈の見回りは恭弥と二人で行われることになった。

 それは利奈が五班に配属するまで続いたが、その間、何回攫われ、何人を病院送りにしたかについては、機密事項として伏せておく。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

遺失物捜索(非公式)

 六月に入ってから、利奈の風紀委員ライフは多忙を極めた。

 新しい学級に慣れた影響か。それとも衣替えの解放感からか。風紀を乱す生徒が目立つようになってきたのだ。

 

 六月でこれなら、夏休みに入ったらどれだけ増えるのだろう。

 早くも夏休みの委員会活動が憂鬱になってくる。そもそも、夏休みに委員会活動がある委員会ってなんなのだろうか。そこも含めて億劫である。

 

(部活動も塾も入ってないし、暇といえば暇だけどさ。

 だけど、騒動に巻き込むのはやめてほしい……)

 

 どちらかというと、外の敵のほうが厄介だ。

 配属が決まってやや落ち着いたものの、校外に一人でいると、たびたび絡まれてしまう。

 絡んでくるだけならまだいいけれど、捕まってしまうと手間が増える。利奈の携帯電話の着信履歴は、ほとんど並盛中央病院の電話番号で埋まってしまった。

 

 携帯電話は、一週間前に買ってもらったばかりだ。

 おねだりしていないのに買ってもらえたけれど、おそらく委員会活動が原因になっている。腕なんか、プール開き前になっても長袖を脱げないくらい、あざだらけだ。

 委員会で柄の悪い人ともめるからと説明したので、嘘はついていない。

 

「相沢さん、ジャージ着てて暑くないの?」

「あー……冷え症で」

「顔の汗がひどいけど。それに、なんでそんな隅でこそこそ着替えてんのよ」

 

 花の鋭い指摘に息を呑んだ利奈は、ごまかすように笑みを浮かべた。

 

「し、思春期だから?」

「なに言ってんだか」

 

 風紀委員活動初日にノートを借りて以来、授業に遅れたときは、京子にノートを写させてもらっている。その縁もあってか、なんとはなしに話すのはいつもこの二人だ。

 

(長袖着てれば怪我はわからないんだけど、着替えてたら見えちゃうもんね。

 生傷なんて、見せたくないし)

 

 でも、もうすぐ水泳の授業が始まる。

 水着だと肌が隠せなくなるし、いざとなったら、見学するしかない。

 

(体育の成績落ちちゃうかなー。

 打撲の痕が消えてくればいいんだけど、どうせまたすぐできちゃうし。湿布貼っても、水に濡れたら剥がれちゃって――ってあれ)

 

 半袖シャツ、長袖セーター、スカートと順に着ていって、手提げの中身が空になった。

 すべてを身につけた利奈は、左腕に顔を向けて、手提げ袋にまた戻した。

 

「……ない」

 

 手提げ袋を持ち上げて、畳んだジャージを広げてみても、なにも落ちてこない。

 一か月半くらい前ならそれでよかったけれど、今の利奈は風紀委員だから、もう一つ残っていなければならなかった。つまり、風紀委員の腕章がなくなっていた。 

 

(お、落ち着こう。もしかしたら、教室で外したかもしれないし)

 

 わざわざ腕章だけ教室で外した覚えなんてないけれど、見てみないとわからない。

 そもそも、セーターから腕章を外した記憶すらないのだけど、調べてみなければ、あるかないかはわからない。

 

(ありませんでしたー!)

 

 机の中。ロッカーの中。さらには教室中を歩き回ってみたけれど、腕章はどこにも落ちていなかった。

 

 朝来たときにはあったはずだ。

 遅刻者の取り締まり時になかったら、班員のだれかが気付いて注意してきていただろう。

 だけど、そこから先、いつまで腕章があったかなんて、覚えていない。

 

 どこで落としたのだろう。絶望が利奈の頭を染め上げる。

 風紀委員の証である腕章は、風紀委員の命といってもいい。なくしたなんて委員長に知られたら――利奈の命もなくなってしまうに違いない。 

 

(どうしよう……!)

 

 もしかしたら、焦りすぎて見逃していたのかもしれない。物が勝手にどこかへ行くはずはないのだから。

 見直そうと、机にぶら下げていた体操着袋に手を伸ばしたら、通り過ぎろうとしていた男子の足とぶつかった。

 

「あ、わりっ!」

「ごめん」

 

 二人して体を引く。

 

「よく見てなかった。大丈夫か?」

「うん、全然。私もいきなり手伸ばしたから」

 

 焦りすぎて周りが見えなくなっていた。落ち着かなくちゃと、顔にかぶさった髪を耳にかける。

 

「なにかあったのか」

 

 利奈の顔は、よほど青くなっていたのだろう。

 男子は利奈の机の前にしゃがみこむと、その長い腕を机の上で組んで、利奈を見上げた。

 

 この生徒の名前は山本武。だれからも慕われている、クラスの人気者だ。

 ろくに接点のない異性の同級生――しかも風紀委員――相手でも、分け隔てなく接してくれるのだから、好感を持たれるのも当然である。

 ついでに、野球部エースで爽やかイケメンでもあった。マイナスポイントがどこにもない。

 

(……ひょっとしたら、腕章のこと知ってたりするかな)

 

 男子は教室で着替えていたのだし、腕章が落ちているのを男子が見つけて、拾ってくれている可能性は高い。

 交友関係の広い武なら、拾った男子から話を聞いている可能性もある。

 

「あ、あのさ」

「ん? どうした?」

 

 聞き返されて、ハッとする。

 今のところは、利奈が腕章をなくしたことはだれも知らない。武に話してしまったら、そこからみんなに伝わってしまう。

 

(ないのは事実、なんだけど。広められたら困るし、隠しておいたほうがいいよね。

 でも、聞いてみないと落ちてたかもわからないし――でもでも、落としたなんて言っちゃったら、クラス中で笑い者に――)

 

 目を泳がせながら葛藤する。

 とりあえず、この場はごまかしてしまおうと視線を合わせたら、武がニカッと歯を見せた。

 

「言うだけならタダだぜ?」

 

 ――さすが、クラスの人気を二分する男だ。圧倒的頼もしさを感じる。

 屈託のない笑顔に後押しされ、利奈は恐る恐る口を開いた。

 

「私、腕章を落としたの」

「腕章?」

「――風紀委員の」

 

 付け足すと、武は利奈の左腕に目を向けた。いつも腕にあるはずの腕章が、そこにはない。

 

「どこで落としたんだ?」

「それがわからなくて。気付いたのが今さっきで」

「ああ、体育でか。それでジャージ見ようとしてたのな」

 

 納得する武。

 

「いつ落としたかはわからないんだけど、学校来るときにはあったはずなんだ。

 山本君、知らない?」

「んー、俺は見てねえな。

 ちょっとみんなに聞いて――」

 

 それはいけない。

 利奈はすんでのところで、身を起こそうとする武の腕を押さえた。

 

「だ、駄目! 待って!」

「どした?」

「もし、なくしたのが先輩たちに知られたら……!」

 

 その先は考えるだけで恐ろしい。

 反省文で済むのなら、原稿用紙何枚だって書けるけれど、肉体言語を操る彼らが、そんな反省で許してくれるとは思えない。

 

 必死な顔で縋る利奈に、武は苦笑交じりで頬を掻いた。

 

「あー……そうだな。腕章なくしたなんて言ったら、ヒバリ怒るよな」

「そう! だからこっそり――あれ?」

 

 利奈は目を丸くした。

 

「山本君、ヒバリさんと知り合いなの!?」

 

 これまで恭弥を呼び捨てにしてきた人間は、みな恭弥の敵であった。

 それなのに、武の呼び方には親しみが感じられる。

 

「んー、知り合いっていうか、顔見知りだな。

 なんかちょくちょく出くわすっていうか――」

「へえ、そうなん――」

「よく戦うっていうか!」

「へええええ!?」

 

 聞き流せずに思いっきり声を上げてしまった。

 まだ勝ったことないんだよなー、なんて晴れやかな笑顔で続けられて、困惑してしまう。

 

(や、野球勝負ってこと? いやでもヒバリさんが野球なんてやらないだろうし、でも山本君がヒバリさんと戦うのも変だよね? そりゃ友達多いけど、それを群れてるっていうのはいくらなんでもあんまりだし。じゃあ一体なんの勝負を――)

 

「んじゃ、俺も腕章探すの手伝うぜ。

 みんなには、なにか落ちてなかったかさりげなく聞いてみるからさ」

 

 思考が追い付いていない利奈を置いて、武が話を進める。

 恭弥との接点は謎のままだが、利奈の窮地に協力してくれるようだ。

 

「ありがとう。助かる!」

「困ったときはお互いさまだって。見つかったらこっそり渡すな」

 

 そう言い置いて、武はさっそく仲のいい友達に声をかけにいく。

 

「なあ、ちょっとその辺に布落ちてなかったか? 輪っかの形の」

「輪っかあ? リストバンドか?」

 

 聞き方がだいぶ直球だけど、贅沢は言っていられない。

 武が手伝ってくれるのは心強かった。

 

(私もあとで職員室とかに行ってみよっと。落とし物で届けられてるかもしれないし。

 それでも見つからなかったら――ごまかさなくちゃ)

 

 授業を受けながら、これからの予定を立てていく。

 風紀委員に出くわしたら一発でバレるから、今日のところは顔を合わせないようにしておこう。幸い、今日の放課後に委員会活動は――

 

(あーー!) 

 

 バンッと机を叩いてしまい、全員の視線が利奈へと集まった。

 先生もギョッとした顔で振り返る。

 

「どうした、相沢」

「なんでもないです……」

 

 消え入りそうな声を出しながらも、利奈の脳内は荒れ狂っていた。

 

(お昼になったら、絶対に会うじゃん! 忘れてた!)

 

 風紀委員に入ってから数日後には、風紀委員仲間たちと一緒に昼食を食べるようになっていた。

 風紀委員の会議も兼ねて、みんなで食事を食べる習慣があったのだ。なんとなく班ごとに固まるので、いかに失言を減らし、はたかれる回数を減らすかが、勝負のカギとなっている。

 

(必ず一緒に食べろとかは言われてないけど、今日は夏に向けていろいろと計画立てたりするって言ってたよね……。行かなかったら、サボりだって思われるだろうし……)

 

 夏になると町内でのイベントが増える。

 なにか問題が起こらないよう、風紀委員は町内のイベントすべて把握し、風紀を守るために活動しなければならない。

 ――包み隠さずありのままにいうと、厄介事がおきないよう監視する代わりに、ショバ代として風紀委員が活動費の徴収をするわけで、今日はその会議があった。

 

(どうしよう。会議休むにも、休むって連絡するためには風紀委員のだれかに会わなきゃいけないし。腕章なくしたのバレないように、風紀委員とは絶対に顔合わせられないし。

 いっそジャージで参加――って絶対怪しまれる!)

 

 もはや授業などそっちのけで頭を抱える利奈。

 しかし、時計の針は利奈にはお構いなく、秒針を進めていくのであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迷子の保護

 なにもいい案が浮かばないまま、三時間目が終了してしまう。

 あと一時間後に迫った処刑時間に震えていたら、さりげなく肩を叩かれた。

 

「相沢、ちょっと」

 

 小声での呼びかけに応じて立ち上がる。

 バツの悪そうな表情からすると、腕章が見つかったわけではなさそうだ。

 武に従って廊下までついていくと、廊下の隅で綱吉と隼人が待ち構えていた。

 

「腕章がなくなったって聞いて。俺たちも探すの手伝うよ」

「十代目が協力してくださるんだ、感謝しろ!」

 

(……秘密にしてって言ったのに)

 

 批判を込めて見上げると、武はすまんと手刀を切った。

 どうやら、あの直球な聞き方でバレてしまったらしい。

 

「ヒバリさんにバレたらなんて、想像するだけでおっかないよね。

 どのへんで落としたかわかる?」

「それが全然……。家に置き忘れたとかは、多分ないと思うんだけど」

「なんだよ、あてになんねえな」

 

 返す言葉がない。

 

「まあまあ。とりあえず探してみようぜ。ひょっこり出てくるかもしれねえし」

「ありがとう。私はもう一回更衣室探してみようと思ってるんだけど」

「俺たちは教室を探すよ。見つかったら呼びに行く」

「どっちが見つけられるか勝負だ! 勝ったほうが十代目の右腕だからな!」

「ん? おお、頑張ろうな」

「またどさくさ紛れに獄寺君が張り合ってるー!」

 

 教室を三人に任せて、利奈は更衣室で腕章を探した。

 着替えている子にも落とし物がなかったが聞いてみたけれど、有益な情報は得られない。腕章がなければ風紀委員だとはわからないようで、いつものような注目は浴びなかった。

 女子生徒の利奈は、学ランもリーゼントもない。腕章がなければ、ただの一生徒でしかないのだ。

 

(全然ダメダメってことだよね。……はあ)

 

 休み時間ギリギリまで粘ったものの見つからず、すごすごと教室へと戻る。

 こうなったら、腕章を見つけるまで風紀委員との接触を断つしかない。

 

(とりあえず昼休みは捨てなくちゃ。教室にいるの見つかったら終わりだし。

 授業終わったあとなら人がいなくて探しやすいし、うん、放課後にまた探そう)

 

 四時間目が終わると同時に、利奈は雲隠れするべく図書室へと向かった。

 武にはちゃんと伝えておいたから、腕章が見つかったら知らせに来てくれるだろう。

 三人に探させて自分だけ隠れるなんてズルいけれど、見つかったら一発でゲームオーバーなのだから、逃げるしかない。

 

(行けなくなったって連絡しとかなくちゃ)

 

 司書の先生がいないのをいいことに、携帯電話の通話ボタンを押す。

 

『なんの用だ?』

 

 相手に選んだのは竹澤だ。班のなかでもっとも騙し――もとい、話しやすい人柄である。

 

「ちょっと具合が悪くなっちゃって……」

 

 必殺、仮病。体調不良を演出するために、声のトーンを数段落とす。

 

「だから、大木さんに昼休み行けなくなったって、伝えてもらえますか」

『なんで直接大木さんに電話せずに俺にかけた』

「うっ」

 

 鋭い指摘に言葉に詰まる。

 班長の大木は騙せそうにないと避けたのだが、言われてみればかなり不自然だ。

 

『それに、朝はピンピンしてただろ。それがなんで急に』

「いきなり! い、いきなりおなかが痛くなったんです。ア、アイタタタタタ……」

 

 おなかを押さえながらうめき声をあげる。

 昼休みが始まったばかりで、利奈のほかにだれもいないのが幸いだ。

 

『そこ、保健室か? やけに静かだが』

「え? あ、違います!」

 

 竹澤の着眼点が鋭すぎる。

 保健室にいるなんて言ってあとで調べられたら困るので、利奈は必死に頭を働かせた。

 

「トイレにいます。出られそうにないです。だから今日はそっちには行けないです」

 

 さすがに、女子トイレに入ったりはしないだろう。

 あとは司書の先生が現れる前にと早口でまくしたて、強引に押し切る形で通話を切った。

 やはり、困ったときはごり押しに限る。

 

(はあー、駄目かと思った)

 

 まさか、腕っぷしのほかに洞察力まで兼ね備えているとは。

 電話だったからなんとか乗り切れたけれど、顔を合わせていたら、表情変化ですぐに嘘がバレてしまっていただろう。さすが並盛町最強の不良集団の一員、侮れない。

 

 それに、問題自体はまったく解決していない。

 今日一日ごまかせたとしても、明日にはさすがに会わざるを得なくなるだろう。今日中に腕章を見つけなくてはならない。

 

(更衣室にも教室にもなくて、だれに聞いても知らないって言われるし、もう探すとこないよね。

 あとは新品の腕章をこっそり借りちゃうとか――)

 

 それは無理だと首を振る。

 新米の利奈は腕章の保管場所すら聞かされていないし、知っていたとしても成功する確率は極めて低い。

 なくなったことが判明したら、第二の紛失事件が発生してしまう。

 

 つまり、もう打つ手がない。

 

「お困りのようですな、お嬢さん」

 

 利奈はびくっと体を震わせた。

 まだだれも入ってきていないのに、どこからともなく声が降ってきたのだ。慌てて見回しても、人の姿はない。

 

「あっれ?」

「上ですぞ、ほら」

「上……? ヒッ――」

 

 謎の声の指示に従って上を見上げた利奈は、悲鳴を飲み込みながら椅子を倒した。

 

 本棚の上に、見知らぬ老婆が座っていたのだ。

 いつから利奈を見下ろしていたのか、ベールの下の瞳は利奈の挙動をしっかりと捉えている。

 

(なにこの不審者!? 占い師!? なんでそんなとこに!?)

 

 窓にべったりと張りつく利奈が、あまりに怯えた顔をしていたのだろう。

 占い師風の老婆はふむと漏らすと、あろうことか利奈の身長よりも高い本棚からひょいと飛び降りた。

 

「危ない! ――ってあれ?」

 

 着地点に老婆の姿はない。そのかわり、スーツを身にまとった赤ん坊がそこにはあった。

 小さな指で帽子のツバを押して、利奈を見上げながら手を上げる。

 

「ちゃおっス」

「……ん、んん?」

 

 老婆が消えて、赤ん坊が出てきた。まるで手品だけど、ここは学校の図書室で舞台上ではない。

 

 混乱している利奈の前で、赤ん坊は利奈が使っていた一人用の机へと飛び乗った。身長からみてかなりの高さがあるはずなのに、赤ん坊はなんなく着地してしまう。もちろん、ワイヤーなどが仕込まれているわけではない。

 

(だれかの弟? 今日って授業参観あったっけ)

 

 母親とはぐれて迷子になったのだろうか。

 それなら職員室に連れて行って、呼び出しの放送をかけてもらわなくてはならない。

 風紀委員らしくそう考えた利奈は、倒れた椅子を戻して、目線を合わせるべく座り直した。

 

「どうしたの? お名前言える?」  

「俺はリボーンだ」

「リボーン?」

 

 あだ名だろうか。幼いから本名がわからなくても仕方ない。もう少し話を聞いてみよう。

 

「リボーン君ね。お母さんがどこにいるかわかる?」

「ママンか? ママンなら、家で食器を洗ってる」

 

 ママと言いたいのだろうか。年のわりに話し方がちゃんとしている。

 でも、母親と一緒じゃないのは問題だ。

 

「あっ、もしかしてお父――パパと来た? お兄ちゃんかお姉ちゃんの名前言える?」

「一人で来た。それと、個人情報はトップシークレットだ。

 ツナにも話したことねーからな」

「ツナ? ――ああ、沢田君のこと」

 

 どうやら、綱吉の弟のようだ。

 それにしては髪の色とか声とかが似ていないけれど、兄弟がわかると話が早い。外に出るのは危険だけど、赤子を放置するわけにはいかない。

 

「それと、早合点してるようだがオレは迷子じゃねーぞ。お前に会いに来たんだ」

「え?」

「お前が相沢だろ? ツナの命の恩人の」

 

 そろそろ、うんざりしていたネタである。

 

「だから違うってば。――ああ、えっと、それは誤解っていうか、間違いだよ」

「獄寺がそう言ってたぞ」

「獄寺君……」

 

 赤ん坊にまでそんな話をしていたのかと脱力する。それはどうでもいいのか、リボーンはペタンと机に座り込んだ。

 

「俺はツナの家庭教師だからな。生徒の恩人は覚えておくし、困ってるなら協力してやらねーこともない。」

「協力?」

「腕章が見つからねーんだろ」

 

 ――だから、なんで秘密を喋ってしまうのだろう。

 利奈はうなだれるが、リボーンは協力すると言った。まさか、心当たりがあるのだろうか。

 

「腕章がどこにあるのかは知らねーが、見つかるまでの間、代わりになるものを用意することもできるぞ。

 身分証明書の偽造なんかは、マフィアの十八番だからな」

「マフィア? 偽造?」

「ああ。その気になりゃ一日で作れる。俺としても、ヒバリの部下に貸しができるのは大歓迎だ」

「ヒバリさんのことも知ってるんだ……」

 

 どうやら、ごっこ遊びに巻き込まれているらしい。今日の服装も、マフィアごっこのための衣装だとしたら納得だ。

 

「どうする? 腕章を用意してやろうか?」

「いいよ。どうせヒバリさんはわかっちゃうだろうし」

 

 ほかの誰が気付かなくても、恭弥ならすぐに見分けられてしまうだろう。根拠はないけれど、そんな気がしている。

 それに、風紀委員の誇りを偽造なんかしたら、風紀委員の資格がなくなってしまう。

 

「……やっぱり、素直に言うしかないか」

 

 こんな子供にまで知られてしまっているのだ。これ以上問題を先延ばしにして、事態をややこしくするわけにはいかない。もうすでに竹澤を騙しているので、罪は重くなっているけれど。

 こうなったら明日なんて待たずに、今日中に告白してしまおう。正直に謝って、許してもらえなかったら制裁を受けるし、見回り連チャンでも甘んじて引き受ける。なくした自分が悪いのだ。

 

「そうか。潔い奴は嫌いじゃねーぞ」

「ありがとう。でも、さすがに今すぐには言う勇気ないかな。放課後探して、どうしても見つからなかったら言いに行くよ」

「その必要はねーみてーだぞ」

 

 リボーンが窓を開けた。風に押し上げられたカーテンがリボーンの体を隠したと思ったら、次の瞬間にはリボーンが消えていた。

 

「また!? え、リボーン君、どこに――」

 

 姿を探そうと身をひねった利奈は、本棚からタイミングよく姿を現した恭弥に体を硬直させた。

 

(なんでこんなタイミングでここに!?)

 

 昼休みは屋上か応接室、もしくは群れの殲滅に向かっているはずなのに。

 恭弥は探るように視線を辺りに漂わせたが、目当てのものが見つからなかったのか、最後に利奈の顔に向けた。

 

「彼は?」

「はい!?」

 

 利奈は勢いよくカーテンに左腕を突っ込んだ。

 話しに行くとは決めたけれど、心の準備ができていない。

 

「赤ん坊、いたでしょ」

「あ、ああ、リボーン君。どこ行ったんでしょう、どっか行っちゃいました」

 

 ダラダラと背中を嫌な汗が伝う。

 最後に窓を開けていたけれど、まさか窓から飛び降りたわけではないだろう。念のために下を見るが、もちろんそんな恐ろしい展開にはなっていなかった。

 

「ヒバリさんは、なんでここに? 図書室に来るなんて珍しいですね」

 

 恭弥の読書歴は知らないが、今はこの場をごまかすのが先決だ。

 しかし利奈は蛇を出す達人だった。

 

「なんでここには僕の質問じゃない? 会議欠席してる委員が、どうしてこんなところにいるの」

「……!」

 

(終わった……)

 

 委員会をサボったうえに、腕章をなくしているなんて知られたら、間違いなく咬み殺されてしまうだろう。

 思えば短い人生だった。最後の一ヶ月が濃厚すぎて走馬灯に偏りが出ているけれど、あっという間の人生だった。

 

 諦めたせいで震えも出ず、利奈は正面切って恭弥を見据えた。

 

「あの、ひとつ言わなくちゃいけないことがありまして……!」

「腕章のこと?」

 

 覚悟を決めて切り出したのに、あっさりと話題を先回りされた。真っ暗になっていた視界が真っ白に染まる。

 

(まさかだれかが!? いやいや、さすがにないよね)

 

 尋問されたのならともかく、わざわざ自分から密告する人はいないだろう。恭弥に話しかけること自体、ハードルが高いのだから。

 あの三人も、協力してくれると言ったのだから、簡単には話さないだろう。

 

 ではどうしてという利奈の疑問に、恭弥が指先で答えてみせる。

 恭弥の人差し指は、カーテンに隠れている利奈の左腕を示していた。

 

「……あ」

 

 腕はちゃんとカーテンで隠せている。しかし、梅雨時にしては珍しい快晴のために、薄地のカーテンからはっきりと腕の輪郭が浮き出ていた。長袖シャツのシルエットに、腕章の影はない。

 

 わかりやすい答えと自分の浅はかさに脱力したくなるけれど、力を抜いている場合ではない。

 恭弥から殺気の類は感じないが、場所柄を考慮して隠している可能性もある。人がいないとはいえ、ここは騒音厳禁の図書室だ。

 外に出た途端、ガツンとやられるのは避けたい。

 

「その、いろいろと事情がありまして。どっかに置いてなくしたとか、家に忘れたとか、そういうんじゃなくて、事故というか事件というか、よくわかってないんですけど、とにかく私が落としたとかじゃないと思うんで、それはわかってほしいなというか、できれば痛くない方法で――」

「いいから来て」

「……はい」

 

 言い訳を一刀両断され、死刑台に上がる囚人の面持ちで利奈は俯いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

窃盗犯の取り締まり

 連行された先は、当然応接室。

 迫る恐怖に押しつぶされそうになりながら中に入った利奈は、数十秒後、押し殺せなかった悲鳴を存分に上げた。

 

「え!? もうヒバリさんにバレちゃったの!?」

 

 教室に戻った利奈は、げっそりとした顔で自分の席に座った。

 よほどひどい顔をしていたのだろう。三人はすぐさま事情を察して席に集まってきた。 

 ぼさぼさになった髪を手櫛で整えながら、利奈は頷く。

 

「今日に限って図書室に来て。すぐに見破られちゃったよ」

「ヒバリさん恐るべし……!」

 

 そういえば、すぐに応接室に移動してしまったけれど、恭弥はどの本を借りに図書室に来たのだろう。恭弥の読みそうな本なんて、まったく思い浮かばない。

 

「あ、そうだ。リボーンっていう子も見かけたんだけど、沢田君もう会ってる?

 迷子になってたみたいなんだけど」

「ブフッ! り、リボーン!?」

「沢田君の弟でしょ? いつの間にかいなくなっちゃって」

「い、いや、あいつは弟とかじゃ! 親戚の子っていうか、ちょっといろいろと事情があって!」

「それと獄寺君、だれかれ構わず恩人の話しないでよ。誤解だっていちいち言うのめんどくさいんだけど」

「あ? なに指図してんだ、風紀女」

「風紀女……」

「とにかく、俺とあいつは無関係だから! なにかあっても俺には一切関係ないし! あんなのと一緒に――いってー!」

 

 あだ名付けが安直すぎる。それと、綱吉の狼狽具合がひどい。手を机の角にでも打ち付たのか、一人で悶絶している。

 

「ところで、その弁当なんだ? うまそうだな」

 

 一人能天気な発言をするのは武だが、平然と弁当を食べ始めた利奈も、相当能天気に見えただろう。しかし、休み時間には限りがあるので、さっさとおなかをいっぱいにしなければならない。

 

「ヒバリさんにもらったの。なんか食欲なくなったから、欲しかったら持ってけって。

 いらないなら処分しといてって言うし、遠慮なく」

「ははっ、なんかヒバリらしいな」

 

 高そうな箱に入った、高そうな幕の内弁当だ。――それはこの町でも五本の指に入る老舗懐石料理店の品で、利奈の思ってる数倍は値段の張るものだが、利奈は知らない。

 

 おなかが空いていたからついチラチラ見てしまったけれど、そんなに飢えた目をしていたのだろうか。なんにせよ、せっかくもらったのだから、今食べてしまおう。

 俵型に整えられたご飯を箸でつまみ、口の中に運ぶ。ごま塩も振ってあるし、ご飯だけでもとてもおいしい。

 

「やっぱり、ヒバリさんには怒られた?」

「んー。ヒバリさんはなにもなかったけど、ほかのみんなが恐かったかな」

 

 とくに竹澤、と脳内で付け足す。

 騙す相手に選ばれたのがよっぽど気に障ったのか、応接室に入ってすぐに制裁を与えられた。思い出すだけで痛みが蘇ってくる。

 

「ヒバリさんに殴られなかっただけましだけど、やっぱり痛いよね。とんでもなくひどい目に――っ、思い出しただけで頭が」

「そ、そんなに!? 女子相手でも容赦なー!」

 

 こめかみを押さえる利奈を見て、三人が顔を青くする。

 

 頭の上に手を置かれて、そのまま万力のように締め付けられたのだ。そのうえ親指と小指でこめかみをぐりぐりと圧迫されたものだから、威力は絶大だ。

 大声で喚き散らして、もう絶対やりませんと誓いを立てて、やっと放してもらった時には、涙と鼻水で顔がぐちゃぐちゃになっていた。

 そんな状態で事情聴取をさせられたのだからたまったものではないが、それを見せられた側も相当だろう。恭弥の食欲がなくなったのは、利奈の痴態が原因なのかもしれない。

 それはそれとして、茄子のお浸しが信じらないほどにおいしい。

 

「いろいろとごめんね、迷惑かけちゃって。ずっと腕章探してくれてたんでしょ?」

「うん。でも、全然見つからなくて――力になれなくてごめん」

「っ、十代目が頭を下げることはありません! そもそも、そんな大事なものを簡単になくしたこいつが悪いんですから!」

「おっしゃる通りです……」

 

 腕章をなくして、見つけられなくて、関係ない三人を巻き込んだ挙句、ごまかすために風紀委員に嘘までついたのは紛れもなく自分の所業だ。言い訳もできないし、穴があったら入りたいくらい申し訳なく思っている。

 

「気落ちすんなって。学校でなくしたんなら、きっとそのうち出てくると思うし。

 ほら、探し物って探してない時に見つかるだろ? 大丈夫だって!」

 

 しょんぼりと肩を落としていると、武が慰めてくれた。前向きな言葉にちょっとだけ元気づけられる。

 

「で、ヒバリの野郎はなんて? 腕章なくすような奴は、風紀委員には必要ないってか?」

「ううん。私もそう言われちゃうかなーっとか、思ったりしたんだけど――」

 

 なくした経緯を伝え、いったいどんなキツい言葉がくるのだろうかと身構えていたけれど、恭弥は驚くほど淡白だった。

 

「新しい腕章は渡さないけど、そのまま活動していいって。

 あと、なくした腕章はほかの風紀委員たちで見つけるから、探す時間あるなら委員活動に精を出せって――あ、それは大木さんだった」

 

 あまりの寛大さにほかの人の顔色まで窺ってしまったが、不服を抱えていそうな人はいなかった。利奈が探し回ると目立つからおとなしくさせておこうという考えなのかもしれないが、それにしても優しすぎる。

 こうなると、あとでなにを要求されるかわかったものではないけれど、少なくとも、今日一日分の寿命は延びた。

「だから、山本君たちももう探さなくて大丈夫。本当にありがとう」

「見つけられなかったのに礼言われるのもあれだよな。でも、無事にカタついてよかった」

「ほんとそれだよね。ヒバリさん、本当におっかないし」

 

 綱吉は実感のこもった言い方をする。みんなからダメツナと呼ばれてしまうほどダメダメな彼だが、いったい恭弥になにをしたのだろうか。

 

(肩の荷は下りたけど、ほんと、いったいどこ行っちゃったんだろう)

 

 腕章がなくても、委員会活動には支障がない。それどころか、目印となる腕章がないほうが利奈にとってはありがたいのだが、自由な時間は、そう長くは続かなかった。

 

 彼らはなんと、わずか一時間足らずの間に、腕章を見つけ出してしまったのだ。

 自主的に日誌を書いていた利奈は、頭に乗せられたそれを見て感嘆の声を上げた。

 

 どこにあったのかと聞けば、外に落ちていたと大木が答えた。

 それならいくら校内を探したって見つからないけれど、外で落ちていたわりに、腕章は汚れていなかった。昨日の雨の影響で、午前中は校庭もぬかるんでいたのに。

 

(昇降口入る前に落としてたってことだよね。腕章落とすタイミングなんてなかったんだけどなあ。

 まっ、戻ってきたからいいけど)

 

 いそいそと腕章をつけようとした利奈は、指先に感じた引っ掛かりに手を止めた。

 よく見ると、腕章の縁部分の刺繍糸が、ほつれてしまっている。

 さらによく見ていたならば、生地にも切り込みが残っていたし、匂いを嗅いでいたら不自然な香料の匂いがしたのだが――利奈は深く考えずに、腕章を嵌めた。

 

 ――そう、話は一時間前に遡る。

 

 利奈にとってはまたもやトラウマの場所、体育館裏。

 そこに集まっているのは、利奈が風紀委員に入る要因となった上級生たち。利奈が不在であることと、彼女たちの表情がくすぶっていることを除けば、先日の出来事を再現したような構図になっている。

 

「は? あいつ、風紀やってんの?」

 

 偵察係である二年生の報告を受けた三年生女子が、一斉に眉を顰めた。しっかりとメイクを施しているおかげで底上げされた顔面偏差値が、中身の汚さに比例して下がっていく。

 

「見た感じだと、普通に委員会活動していました。ほかの風紀委員とも普通に話してて、罰とかもなかったみたいです」

「なにそれむかつく! それじゃこれ盗んだ意味ないじゃん!」

 

 そう言って、三年生が右手の腕章を掲げた。言うまでもなく、利奈の腕章である。

 

「腕章なくしたら絶対ボコにされると思ってたのに、マジありえないわ。

 あいつ、ガチでひいきされてんじゃね?」

「でもさ、それ探してオロオロするあの子超ウケたじゃん。バレたらヤバいから、あんまりちゃんと見らんなかったけどさ」

「うんうん」

「そうだけど……あいつ全然堪えてないんでしょ。だったら意味ないし」

 

 更衣室で腕章を盗むのは簡単だった。

 クラスメイトから避けられているのか、一人離れたところで着替えていた利奈の衣服を特定するのは容易であり、盗んだ腕章は、三年生が自分のバッグに隠してしまえば、絶対に見つからない。

 

 本当ならもっと早く復讐するつもりだった。

 しかし、風紀委員に入った利奈に手を出すのはリスクが高く、どう貶めてやろうか考えている間に、一ヶ月が経ってしまった。

 そして、せっかく間接的に利奈に危害を加える方法を思いついたのに、この結果である。腹が立たないわけがなかった。風紀委員に入って調子に乗っている二年生を、痛い目に遭わせなければ気が済まなかった。

 ――その二年生は二年生で十分に痛い目に遭っているのだが、学校外での出来事を彼女たちは知らない。

 

「どうする、これ。持ってたらヤバいでしょ」

「捨てちゃう? ゴミ箱入れちゃえばわかんないよ」

「……いいこと思いついた」

 

 一人が筆箱から小さなハサミを取り出すと、全員が察した顔で笑みを浮かべた。笑っているはずなのに、その顔は先ほどよりもずっと醜悪であった。

 

「バラバラにしちゃってさ。あの子の机の上に置くのはどう?」

 

 名案だとみんなして笑う。

 

「きっと必死こいて隠すと思うよ、ウケる」

「そこ写真撮っておこうよ。それバラまいたら、委員会にいられなくなるんじゃない?」

「天才! じゃ、切り刻んじゃおっか」

 

 そうと決まればと腕章をハサミに挟む。手始めに、風紀の文字を真っ二つに――

 

「痛っ!」

 

 風を切る音とともに、ハサミを持つ手に痛みが走った。

 ――その拍子に腕に力が入り、腕章の端がわずかに切れたが、それはだれにも気付かれなかった。もし彼に気付かれていたら、彼女たちの辿る末路は、もっとひどいものになっていただろう。

 武器を投げた彼は、世界で一番、その腕章に価値を見出していたのだから。

 

「……やあ」

 

 恭弥は微笑む。いっそ人を惹きつけられるほどに優美な笑みだが、だれひとり見惚れはしなかった。それでいて、顔をそらせないほどに、凄みを帯びていた。

 

「毎回同じところで群れるんだね。わかりやすくていいよ」

 

 恭弥は、ブーメラン代わりに使ったトンファーをくるりと回した。

 そして、草むらに落ちた腕章に視線を移すと表情を一変させる。

 

「それ、返してもらおうかな」

 

 怒気のこもった声を合図に、どこからともなく風紀委員が現れる。

 既視感のある光景に恐怖がフラッシュバックしている女子生徒たちの間を縫って、風紀委員の一人――近藤が、腕章を確保した。

 

「どうぞ」

 

 差し出された腕章を見た恭弥が、目を細めた。無事に取り戻せた安堵からか、それとも、奪われたことへの怒りか。

 

「やっぱり、君たちが犯人だったね。――大木、これは相沢に渡しといて」

 

 恭弥の言葉に頷いて、大木がその場をあとにする。

 

「さて」

 

 唇を舌で舐め、恭弥は女子生徒たちをねめつけた。

 恐怖で固まるさまは草食動物と同じだが、彼女たちは草食ではない。強さもないくせに、数の力で小動物を支配しようとする。そんな小手先だけの動物を狩るのはつまらないが、放置して数が増えるのも気に食わない。

 

「言わなくてもわかると思うけど」

「――あっ」

 

 恭弥が手を上げると、風紀委員が一糸乱れぬ動きで女子生徒たちを囲みこんだ。

 ここも前回と似ているが、違う点がまたもやふたつ。ここに恭弥が残っていることと、彼らの表情に、一切の容赦がないことだ。

 

「せっかく、見逃してあげたのに。風紀委員に手を出した罪は重いよ」

 

 円が、縮まっていく。関節を鳴らす風紀委員たちにじわじわと追い詰められ、三年生たちが身を寄せ合う。しかし今回は、どうあがいても地獄が待っていた。

 

「い――いやあぁぁぁぁ!」

 

 彼女たちの最後――いや、最期の悲鳴は、校庭にまで響き渡った。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章:風紀委員の仕事ですか?
ショバ代の徴収


改稿前の長編にはない話ですが、せっかく原作で風紀委員が出ていたので、新しく書いちゃいました。前後編です。


 

 

 並盛町では、八月に神社の敷地内で夏祭りが行われている。

 朝のうちから屋台が並び、夜になると花火も打ち上げられるので、例年たくさんの人で賑わうらしい。

 利奈もその祭りに来ていたが、その表情は澱んでいた。

 

「なんで祭りでまで学校の仕事してんだろ……」

 

 利奈は祭りに遊びに来たわけじゃない。

 その証拠に夏休みだというのに制服を着ているし、腕にはファイルと帳簿を抱えている。

 ついでに言うと集まった時間帯も早い。屋台の準備は整っているが、人もまばらで、祭りの雰囲気は漂っていない。

 

「お金の回収は売り上げの貯まる午後からですよね。だったらこんな早くに来なく――ふわ、ねむ」

 

 目じりをこすりながら苦言を呈する。

 祭りは昨日も行われていたため、連日の集金業務だ。

 昨日は初めてで不慣れだったのもあり、やたら動き回って体はくたくたである。そのうえ回収後すぐに中学校に戻ったので、花火も拝めなかった。やさぐれるのも無理はない。

 

「何件か報告があがっていたんだが、俺たちがショバ代を回収したあと、夕方ごろに、ひったくりが多発したようでな」

「え」

「屋台の店主を狙った犯行だ。売り上げを全部持ってかれたやつもいるらしい」

「ええ!? なんて気の毒な……!」

 

 ただでさえ、風紀委員に五万円徴収されたあとなのに。いや、徴収前に盗られるよりはましだったのかもしれない。ショバ代を払わなかった屋台は、容赦なく屋台を破壊されてしまうのだから。

 

(しかも今日も徴収するんでしょ。二日屋台出してるとこ、十万も払わなきゃいけないじゃん)

 

 とんだぼったくりだが、それでも屋台の申請は満員なのだから、よほど利益があるのだろう。風紀委員会も、集めたお金は活動費にするらしいけれど、そんな大金どこに使うつもりなんだろうか。癒着の二文字が頭をよぎる。

 

「俺たちがショバ代を回収している以上、ここは俺たちのシマだ。それを荒らすコソ泥は、徹底的につぶす」

「シマって言っちゃいましたね……」

 

 いよいよ暴力団と肩を並べてきているが、考えるのはやめておこう。利奈はあくまで、委員会活動に勤しんでいるだけだ。それは憤怒している仲間たちも同じだ。きっとそうだ。

 それに耳あたりよく言い換えれば、祭りで犯罪を犯す不届き物を、我々風紀委員で捕まえようという話である。

 

(だから祭り会場に早く集まったってことか。風紀委員がいれば、抑制力になるし)

 

 その弊害で一般の祭り客が恐がりそうなものだが、昨日の反応を見る限り、問題ないだろう。

 昨日まで忘れていたけれど、並盛中学校の風紀委員の実態は、並中生とこの町で商売をしている人以外には伝わっていない。それどころか、校外の見回りまでする熱心な委員会だという評判も、少なからずあるらしい。

 夏休みでも部活帰りに祭りに来る生徒もいるだろうし、顔と髪型にさえ目をつむれば、そこまで浮く存在ではないのだ。

 

(髪型がめちゃくちゃ柄悪いけどね。制服もほかの生徒と違ってズボンが変に膨らんでるし)

 

 いずれにせよ、窃盗犯には気を付けなければならない。風紀委員が回収したお金を狙うのはかなりリスキーだが、そのぶん高額だ。

 そして、狙われるとしたら、標的は利奈だ。考えるまでもない、むしろ自分以外が襲われる可能性など、これまでの委員会活動を踏まえれば、ゼロパーセントだった。

 

「そんなわけで、私は帳簿づけ頑張りますね。お金はどっちかが持っててください」

「わかった。昨日も言ったが、遊びじゃないんだから気を抜くなよ」

「了解です」

 

 家に帰って私服に着替えるまでが委員会活動である。腕章を腕に巻いている間は、常に人の目が向いていると思わなければならない。だから、縁日の屋台ではしゃぐなど、もってのほかなのだ。わかっている。わかってはいるが――

 

(浴衣着た同級生見ると荒む)

 

 こればっかりは仕方がない。夏休み真っただなかの縁日で委員会活動をしていると、心の中のなにかのメモリが減っていく。

 

 それでも、一日目にはたくさん食べ物をもらえたので、まあまあ満足はできた。

 お金を徴収したうえで商品までもらっているわけだが、圧力はかけていない。むしろ、食べ物は視界に入れないように頑張っているつもりだ。それなのに声をかけられたのが自分だけだったのは、腑に落ちていないけれど。

 

 早く来たものの、徴収の仕事は午後からで、牽制の見回りをするには利奈では力不足。

 そんなわけで、利奈は別作業として、回収先の調査役を仰せつけられた。

 

 事前に知らされた屋台順がちゃんと書面通りに並んでいるか、抜けている屋台はないか、屋台の営業許可は出ているか。そのあたりの調査である。

 それくらい祭りを管理する町内会でも確認しているだろうが、ショバ代を徴収するのだから、こちらでも調べておいたほうがいいだろう。とくに、屋台の配置などは客の入り具合にも影響する。勝手に配置換えをしていないかも見ておきたい。

 

(食べ物屋さんが多いな。人気なのは焼きそばとかかき氷だけど、最近は鳥皮餃子に電球みたいな飲み物もあるし、変わり種も試したくなっちゃう。それに金魚すくいや射的も遊べて楽しいし――ってあ)

 

 ちょうど射的がある、と思って目をやった利奈は、店主を見てギョッとした。

 祭りの朝にもかかわらず、まるで祭りが終わったあとのような暗い表情で商品を並べているのだ。客が来なくて落ち込むにしても、稼ぎ時はこれからだ。

 なにがあったのか聞いておきたいところだけど、昨日ここで回収をしたのは利奈の班である。ショバ代を思い出させるのも悪いので、そそくさと屋台の前を通り過ぎた。

 そしてチョコバナナの屋台に通りかかった利奈は、屋台で働く二人を見て声を張り上げる。

 

「山本君に獄寺君!?」

「ゲッ」

「おお、おはよ。早いな相沢」

 

 箱を抱えていた隼人が顔をしかめ、バナナの皮をむいていた武がにこやかに挨拶をする。

 

「どうしたの二人とも! なんで屋台に!?」

「んなこと、どうでもいいだろうが」

「ハハッ、この前、公民館の壁に穴開けちまってよ。その修理代稼がなきゃならねえんだ」

「なっ――言うんじゃねえ、このバカ!」

「そうなんだ……」

 

 屋台の責任者名は、町内会長になっている。町内会長の許可が出ているのなら、中学生が手伝いとして働いていても問題はないだろうが――

 

「なんで壁に穴開けたの? ボールでも当てた?」

「お、すげえな、当たり!」

「当たりなんだ……」

 

 武が打った打球なら、かなりの威力があっただろう。大会に向けて猛練習をしているところは校舎からも見えていたし、秋の大会が楽しみではある。

 

「そんなわけで、売上出さなきゃなんなくてさ。相沢も一本買ってかねえか? 四百円」

「え。ちょっと待って、財布あったかな……」

 

 屋台で遊ぶなと厳重注意されていたために、財布は持ってこなかった。それでももらったおつりとかをバッグのポケットに入れたりしているから、小銭ならあるものの――

 

「百三十円……」

「ありゃ」

 

 バッグをひっくり返しても、飲み物が一本買えるくらいしか入っていなかった。

 そもそも、チョコバナナ一本で四百円はちょっと高額だ。並んでいるバナナの大きさも普通だし、売れ行きが伸びるか微妙なところである。

 

「じゃ、それでこれ買ってくれよ」

 

 そう言って武が台の下から取り出したのは、先が少し欠けてしまったチョコバナナだ。

 バナナの断面が見えるし、チョコチップもついていない。

 

「失敗したのがあってさ。このチョコバナナ、百円で買ってくれよ」

「え、いいの!? ほとんど完璧なのに」

「普通には売れねえし。獄寺が失敗したやつだから、もらってくれよ」

「てめっ、なんで俺がやったって付け足すんだよ! お前だって折ってただろうが!」

「ん? でもこれお前が折った奴だろ?」

「わざわざ言うなって言ってんだよ! 自分がやったやつ全部食ったくせに!」

「見た目より難しいよな。味は変わんねえけど、出来栄えも大事だし」

 

 なんだか論点がずれている。

 

 ありがたくチョコバナナをもらおうとしたけれど、この状態で客に渡すわけねえだろうがと隼人が引っ込めてしまった。意外とちゃんとしている。

 リベンジのごとく隼人が念入りにチョコを塗り直し、その上からチョコスプレーを振っていく。

 

「チョコバナナひとつください」

「はい、毎度!」

 

 ちょうど注文が入ったので、隣の武も同じ工程を行って、お客さんに手渡した。塗ったチョコレートが棒を伝っている。

 

「チョコレート、固めないんだね」

「そう、うちの売り。イギリス産の生チョコを頼まれてから塗ってんだ」

「違う、ベルギー製だ。おら、できたぞ」

「わーい」

 

 隼人のほうが時間はかかったが、そのぶんチョコにムラがなく、チョコスプレーもきれいに散らされている。

 一口頬張ると、生チョコがトロッと口の中でとろけて、噛むたびにバナナと混ざり合う。ベルギー製だけあって、チョコレートの味わいも上品だ。このおいしさなら、四百円も納得できる。

 

「おいしいね、これ! これなら完売しちゃうんじゃない?」

「だといいんだけどな。俺も行きたい屋台あるし」

「目標は五百本だが、十代目も来られるし、なんとかなるだろ」

「沢田君も来るんだ」

 

 壁を破壊したメンバーだとすると、三人で野球でもしていたのだろうか。綱吉は打つのも投げるのもド下手だったはずだが。

 

「ところで、なんで相沢は制服着てるんだ? 委員会行くのか?」

「うっ」

 

 唐突に仕事を思い出して胸が詰まる。

 

(そうだ。山本君たちが屋台やってるってことは、あとでここにもお金もらいに来なきゃいけないんだ)

 

 この辺りは昨日担当したから、違う班に回されるだろうが、それでもなんだか申し訳ない気持ちになってくる。

 彼らの売り上げ目標が、徴収される五万円分も含まれていることを願う。

 

(そもそも、二人はここのショバ代システム知ってるのかな? ハッ! もし知らなかったら、大変なことに……!)

 

 武はともかく、隼人が問題だ。彼がショバ代の支払いを拒否したら、縁日での戦闘が勃発してしまう。

 屋台は当然取り壊され、売り上げ目標を達成するどころか、屋台の弁償でさらなる借金を負うことになるだろう。

 同級生二人が借金地獄に喘ぐのは見たくない。

 

「あ、あのさ、ちょっとクイズなんだけど。ショバ代って言葉、知ってる?」

「ん?」

 

 キョトンとする武。

 知らないのなら納得してもらえるよう伝えなくてはと身構えると、ああっと武が声を漏らす。

 

「あれだろ、なんか屋台やるのにお金かかるってあれ」

「そう! ……あ、知ってた?」

「長老たちから聞いたぜ。な、獄寺」

「並盛の伝統らしいな。イタリアのバーでもそんなのがあったから、驚きはしなかったが」

「イタリアでもあるんだ……」

 

 イタリアのどこに住んでいたのだろう。治安は大丈夫だったんだろうか。

 それはともかく、知っているのなら話が早い。

 

「えっと、ちなみに獄寺君は払う予定だよね?」

「まあな。場所を借りてやってんだ、そこんところはスジを通す」

「そ、そう? へえ、そっか、よかった」

「なんで相沢がうれしそうなんだ?」

 

 どうやら、この場所を取り締まっているのが風紀委員だとは知らないらしい。

 どうせ、すぐに知ることになるのだけれど。

 

「私行くよ。二人とも頑張って稼いでね」

「ん」

「おう、またな」

 

 そろそろ町内会本部に戻って支度をしたほうがいいだろう。

 値引きしてもらったチョコバナナを齧りつつ、利奈は元来た道を引き返した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ひったくり集団の殲滅

 祭りの本部テントに戻ると、そこにはたくさんの貢ぎ物を前に鎮座する恭弥の姿があった。恐々としている周囲の人たちと相まって、邪神が祀られているようにしか見えない。

 

「おはようございます」

「……」

 

 挨拶をするが、返事はまばたきひとつである。ひょっとしたら、今の今まで惰眠をむさぼっていたのかもしれない。

 

「飲み物、もらいますね」

 

 一応断りを入れて、恭弥の前に並べられていた缶飲料を手に取った。

 お茶よりもジュースが飲みたかったけれど、奪い合いになるのを考慮してか、同じ緑茶でそろえられていた。ひんやりと冷たい手触りが気持ちよくて、つい頬に当ててしまう。

 

 昨日も――そう、昨日も恭弥はショバ代の回収作業に参加していた。

 わざわざ委員長が出てくる必要はなさそうなものだが、恭弥自らも活動資金の調達に回っている。おそらく、拒否された際、非合法的に屋台を破壊できるのが目当てなのだろう。

 群れを嫌っているわりに祭りは許容するのだから、彼のいう群れの基準は難しい。恭弥がいるとお供え物が目に見えて増えるので、利奈としてはうれしいところではあるが。

 

「朝はどうだった?」

 

 綿あめの袋を開けていたら、ようやく恭弥が声をかけてきた。

 ほかの風紀委員はだれ一人戻ってきていないので、まだ見回りをしているのだろう。被害者や目撃者に聞き込みをしているのかもしれない。

 

「なにもありませんでしたよ。どの屋台も設置終わってましたし、問題ありません」

 

 唯一変わっている点といえば、同級生が働いていたことくらいだろう。

 町内会長から許可を得ていたのだから、わざわざ恭弥に話す必要はない。なので、大口を開けて綿あめにかぶりついた。甘いものばかり食べていると口がだるくなるので、次に食べるものも着々と品定めしていく。

 

「出るんですかね、ひったくり。昨日あったばかりだから、屋台の人たちも警戒してると思うんですけど」

「来るよ」

 

 やけにきっぱりと恭弥は言い切る。

 

「ああいう手合いは、一度うまくいったら、失敗するまで繰り返すから。今日はそれも楽しみだね」

「泥棒を捕まえるのが、ですか?」

「捕まえて咬み殺すのが」

 

 ですよねと利奈は心の中で呟いた。

 念のために、携帯電話の短縮ダイヤルの順番を確認しておく。一番が病院で、二番が警察だ。襲撃されたときには一番しか使わないけれど、今回は窃盗事件でもあるので、捕まえたら警察に引き渡さなければならなくなる。

 

「本当に楽しみだよ。カモがネギしょってやってくるんだから」

「……んん?」

 

 微笑みすら浮かべている恭弥に、引っかかりを覚える。カモはひったくり犯で、ネギは――

 

「あの、ひったくり捕まえたら、そのお金って――」

「もちろん、活動資金として風紀委員が頂くに決まってるじゃない」

「……」

 

 横暴を通り越して、もはや王の暴挙である。

 どうせなにを言っても無駄だろうから、利奈は一般人としての倫理観ごと、苦いお茶を一気に飲み干した。

 

 

 

 二日目ということもあって、回収作業は順調に進められた。

 晴天で客入りもいいからか、ショバ代を出す店主の顔は明るい。必要経費として割り切ってくれているのだろう。

 そして、昨日ひったくりにあった屋台はわかりやすい。文句は言わないが、顔がしょげている。

 

「次で最後だな」

「はい。あそこのイカ焼きで最後です」

 

 昨日は率先してお金を回収していた利奈だが、今日は班のメンバーの後ろに付き従い、なるべく目立たないように行動していた。前に出ると屋台の食べ物に目がいってしまうからとか、そんなくだらない理由ではない。店主のためである。

 

(だれだって、自分の子供みたいなのに、お金持ってかれたくないよね……)

 

 並盛町において、風紀委員の権力は絶大だ。ゆえに、執行する側である利奈たちは疑いもせずにその権力を振りかざすのだが、ごくまれに反発されることもある。

 従うべきだと頭ではわかっていても、実際に自分に牙が向けば、争いたくなる人もいるのだろう。その結果どうなるかなんて、考えもせずに。

 

 昨日もそうだった。利奈を見て風紀委員を侮った店主は、ショバ代の支払いを拒否して屋台を失った。あの時の、祭りの雰囲気が一瞬にして台無しになった情景を、利奈ははっきりと思い出せる。

 ほかのことでは役に立てないからと張り切って、努力が見事に裏目に出たのだ。利奈は大いにショックを受けた。

 だから今日こそは、無事に仕事を終わらせたい。そう意気込んでいたのだが――

 

(結局、逆らう人は逆らうんだよなあ)

 

 ほかの班で、またもや支払い拒否があったらしい。利奈相手ならばともかく、ほかの風紀委員を相手に歯向かったその勇気は、称賛に値する。値しうるが――壊された屋台は元には戻らない。世の無常さにため息しか出ない。

 

「はい、これで回収全部です。お疲れさまでした」

 

 表に赤チェックを入れて見せるが、ちらりと一瞥されるだけである。

 

 今日は担当場所で犠牲者を出さずにすんだ。お祭り会場のそこかしこで屋台が破壊されていては、観光客も楽しめないだろう。一台壊されていれば、二台三台と続いても同じだろうけれども。

 

「終わったー。今日って、すぐには中学校に戻りませんよね。ひったくり警戒するって言ってましたし。夜までここにいるんですよね」

「ああ。それがどうした」

「花火、見られますよね?」

「だろうな」

「やった!」

 

 腕に持つファイルを高々と上に掲げる。

 

 祭りの醍醐味、夏の風物詩、打ち上げ花火である。

 夏に入ってからずっと委員会活動しかしてこなかった利奈にとって、花火は重要な思い出材料だ。

 八月中旬に転校前の友達と遊ぶ約束をしているので、せめて学校の人と花火を見たくらいのエピソードは披露したい。委員会活動の大半は、他言無用の灰色な思い出である。

 

(さすがにそこは見栄張りたいよね。友達がいないってだけでも悲惨なんだから……!)

 

 友達ができなかったのはひとえに自分の行いのせいだが、それは黒歴史として闇に葬り去りたい。

 

 神輿が担がれる時間だからか、屋台の周辺は人が少なくなっている。昨日は神輿を見られなかったけれど、回収の終わった今なら、見に行けるかもしれない。

 

「ちょっと神輿見てきてもいいですか?」

「あ?」

「ちょっとだけ! すぐ戻りますから」

「お前……。せめてそのファイルを持ってったあとにしろよ。どうせそんな早くには終わんねえんだし」

「……はーい。ファイルくらい別に――」

 

 そのとき、小学生が走ってきた。大きく振るった腕がぶつかりそうで慌てて避けるが、男の子は振り返りもせずに走り去っていく。手に持っている荷物が重たいのか、少し走り方が乱れていた。

 

「あっぶな。人混みでぶつかったら危ないのに」

 

 文句を言う利奈を、またもや一人の少年が抜き去る。

 今度は中学生で、走り方は必死だが、さっきの小学生よりもずっと足が遅い。そして、見覚えのある背格好だった。

 

「ん? 沢田君?」

 

 綱吉には今日初めて会うけれど、名前は武たちとの会話で出ていた。確か、借金返済のために、チョコバナナを売っていたはずだ。

 振り返って屋台を確認するが、屋台は無人で、武たちの姿もない。視線を戻すが、綱吉は走っていったきり、戻ってこない。あの先にあるのは神社だけだ。

 

「え、どういうこと?」

「あの屋台、無人だな。管理者は」

「あ、えっと、町内会長ですけど――走ってた沢田君たちが店番してるはずなんですよね」

「チッ、不用心なやつらだ。あれじゃ売り上げ盗まれても文句言えねえぞ」

「ですよね。なんであんな慌てて走って――」

 

 利奈の脳裏に、先ほどの光景がフラッシュバックする。

 綱吉の必死な形相。だれかを追いかけているようなまなざし。直前に利奈の横をすり抜けた小学生。その腕に抱かれていた荷物――あれは、小型の金庫ではなかったか?

 

「あー!」

 

 すべてがつながった利奈は、勢いよく大木の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張った。

 

「あれ! 今のがひったくり犯ですよ! ど、どうします!? 警察呼びます? それともヒバリさん? どうすればいいですか、大木さん!」

「落ち着け」

 

 ビシリと腕をはたかれる。

 

「竹澤、すぐに本部に戻ってほかの連中にも伝えてこい。相沢はヒバリさんに連絡。おそらく神社だ」

「はい」

「わ、わかりました!」

 

 すぐさま携帯電話を取り出して、短縮ダイヤルの三番を押す。もちろん、恭弥の携帯番号だ。

 

 ――そこから先は早かった。

 

 ひったくりは複数人での犯行だったらしい。そのうえ、最初から恭弥をおびき寄せるつもりだったのか、人数と武器までそろえて待ち構えていた。祭りで見張りをしていた風紀委員が邪魔だったのだろう。

 余計なことはしないでと恭弥に言われたため、風紀委員は犯人たちを取り逃がさないように、神社一帯を取り囲んで恭弥の合図を待った。だれひとりとして、恭弥が負ける心配をしていない。

 

 ひったくり犯を追いかけてしまったために、不運にも綱吉が巻き込まれた。おまけに、綱吉を助けに武と隼人が追っていったので、彼らも参戦する羽目になった。止めたけれど聞かなかったのだ。

 彼らが混ざって爆発音が入るようになったが、花火でも持っていたのだろうか。

 利奈は一般客が巻き込まれないように階段の下で規制線を張っていたが、怒号や打撃音が絶え間なく響いていたので、ずっとヒヤヒヤした。

 

「で、どこに行っちゃったんです? その三人」

「自分たちの取り分を持って逃げていったよ。邪魔されたついでに咬み殺しておこうかと思ったのに、残念」

「ええ……」

 

 言いがかりにもほどがある。

 

 それにしても、五十人以上いたチンピラ連中を、よく四人で片付けたものである。綱吉は戦力にならないだろうから、実質三人だったのに。

 五十人と聞いて救急隊員が悲鳴を上げていたけれど、人数が多かった分、一人一人の傷は深くない。手当だけしてくれれば、あとは警察に引き渡すだけで済むだろう。

 

 ――そして、警察への通報と事情聴取。

 警察も風紀委員の配下に回っているので、事情聴取はさらりと表面をなぞるだけで終わった。個室に連れて行かれてもないし、奪ったお金の行方について聴取もされていない。あちらも心得ているのだろう。

 

 そんなこんなを終えて利奈が解放されたのは、日もどっぷり暮れた夜のことであった。

 当然、花火も終わっている。

 

「うそでしょ……。祭りの最後がこれ?」

 

 こんな血なまぐさい思い出、友達に話せるわけがない。

 がっくりと肩を落とした利奈は、むすっとした顔で星空を睨んだ。花火の音すら聞けていない。

 

「ひどい! こんなのってない! 花火見たかったー!」

「騒いだって仕方ないだろ」

 

 最後尾で叫んでいたら、竹澤にたしなめられる。

 

「そんなこと言ったって、初めての祭りがこれですよ? 神輿も見てないし、病院に連れて行かれるし、警察署で取り調べ受けるし。こんなひどい夏休みってあります?」

「お前、荒れすぎだろ」

 

 どうせこのあとの夏休みも、攫われたり襲われたり救急車呼んだり不良捕まえたりしかないのだ。今日くらい、夏休みらしいことがしたかった。

 

「携帯の履歴、救急車とパトカーばっかり! もっと違う履歴が欲しいです! 暴力団も却下で!」

「おい、静かにしろ」

「違う番号打ちたいです! もういっそみんなのでいいです、番号ください、番号」

 

 やけになって携帯電話を取り出すと、最前列を歩いていた恭弥が振り返った。

 

「そんなに電話したいの?」

「ひっ」

「だから言っただろうが……おとなしくしとけ」

 

 小声で言われ、こくこくと頷く。

 

 恭弥はそれを同意と取ったのか、数字を一音ずつ唱えて始めた。そうなると利奈は打つしかなくて、言われるがままに電話番号を入力する。最初の四桁からすると、このあたりの家の電話につながるはずだ。

 

「か、かけましたけど……」

「なら耳に当てて」

 

 これで恭弥の両親が出てきたら、なんて言えばいいのだろう。

 戦々恐々としながら電話を耳に押し当てると、威勢のいい声が耳元で響いた。

 

「はい毎度! 竹寿司です」

「……寿司屋さん?」

「はい?」

 

 番号を間違えただろうか。しかし、大木に予約だと耳打ちされ、利奈は電話を持ち直した。

 

「あ、あの、予約。予約って、入ってます?」

「予約? ……ああ、本日八時予約の風紀委員一行様で!」

 

(え、ほんとに予約入れてるの!?)

 

 恭弥を見るが、背中しか見えない。

 

「これから来られるんですか? 寿司ならもう準備できてますよ」

「は、はい。もうすぐ着きます」

「あいよ、お待ちしてます!」

 

 通話が切れ、利奈は目を輝かせながら先頭へと急いだ。

 横顔を覗き込むが、恭弥は一切利奈を見ようとしない。

 

「ひ、ヒバリさん。お寿司、お寿司ですか、今日」

「不満?」

「いえ――いいえ! やったお寿司! これからも委員会頑張ります! ありがとうございます」

 

 単純極まりなく利奈は大はしゃぎした。

 この寿司代はひったくり犯からかっぱらったお金から払われるのだろうが、もはやそんなことはどうでもよかった。利奈も、立派な風紀委員会の一員である。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

囮デート大作戦

 晴天に蝉の雨が鳴り注ぐ、真夏の応接室。革張りのソファは触れたところからジワリと熱を持つので、否応なしに背筋が伸びる。

 そうでなくても、背もたれに寄りかかることはできなかっただろう。正面に恭弥が座っていては。

 

「……私で、いいんですか?」

 

 かすれた声が喉を通る。夏の暑さのせいで聞き間違えたのではと、疑いが脳をよぎった。あるいは、期待が。

 

「君以外に、だれがいるの?」

 

 足を組んだ恭弥が、利奈の願望を吹き飛ばす。

 

 わかっている。利奈が適任だ。むしろ、利奈以外の風紀委員には絶対にできない役回りである。だがしかし――

 

(とうとう直球で囮役がきた……!)

 

 ついでと本命では、解釈が大きく変わるのである。

 

 ――近頃、並盛町近辺で、高校生カップルが複数人の不良に絡まれる事案が多発している。

 海や動物園などでデートをしていると、どこからともなくやってきた不良が、夏の思い出を台無しにしていくらしい。それだけならまだよくあるというか、めずらしくもない。

 しかし昨日、不良に立ち向かった男子高校生が、暴行されたうえに財布まで盗まれ、警察沙汰になったらしい。

 

 事件化したとあっては、並盛町の風紀を取り締まる恭弥が、黙って見過ごすはずもない。

 そして、犯人を取り締まるにあたり、囮役として利奈に白羽の矢が立った。

 

「一般の生徒にやらせるわけにはいかないし、風紀委員に女子は君しかいないでしょ」

「わあ、消去法」

 

 妥当な人選ではある。日頃から不良、チンピラ、ヤクザと関わっていて免疫があるうえに、同じ風紀委員なので、怪我を負わせても責任問題に発展しない。いつもどおり、使い勝手のいい餌役である。

 

(あれ、いつものほうがひどかったっけ。刃物突きつけられたり、車に引きずり込まれたり……ん? どっちがマシだ?)

 

 思考がまとまらないのは、暑さで脳が鈍っているのか、度重なる襲撃に神経が麻痺しているからか。

 

 カランと恭弥の手元のコップで氷が音を立てるが、利奈の手元にはなにもない。ついででも、自分の飲み物を一緒に用意するのは躊躇われたのだ。これが終わったら、冷たい麦茶を一気飲みしよう。

 

「わかりました。やるからには頑張ります」

 

 高校生に知り合いがいないので、いまいちやる気は上がらないが、迷惑行為を繰り返す不良は討伐すべき存在である。今回も、短縮ダイヤル一番が火を噴くだろう。

 

「それで、ほかにだれが手伝ってくれるんですか? 恋人役がいりますよね。うちの班はみんなリーゼントだから、一班とか?」

「そこなんだけど」

 

 恭弥の表情に、嫌な予感がよぎる。こういう予感は、たいてい外れない。

 

「風紀委員で、その役をやれる人間がいない」

「なんで!? あっ」

 

 言ったあとで、反射的に頭をかばった。この反射神経は、日々の鉄拳制裁の賜物である。さいわい、恭弥はソファから動かなかったが。

 

「えっと、なんでですか? みんな老け顔で高校生に見えないからですか?」

「君って素で失礼だよね」

 

 違ったらしい。

 

 油断すると思ったままに喋ってしまうのは悪い癖だけど、恭弥は意外と目くじらを立てない。並盛町と風紀委員会にさえ言及しなければ、寛容ですらある。そのかわり、地雷を踏んだときの制裁が恐ろしいのだが。

 

「狙われた高校生を一通り確認しての印象だけど。どうやら、弱そうな小動物だけを狙って襲ってるみたいなんだ、この群れは」

「気の弱そうな人を?」

「そう。数人で脅せば抵抗しないだろう相手だけ狙ってる。狡猾にもね」

 

(そっか。だから今まで話題にならなかったんだ)

 

 絡まれてデートとの邪魔をされたくらいで済んだなら、彼女の手前、大事にはしないだろう。

 昨日襲われた高校生は、見た目のわりに度胸があったらしい。そのせいで痛い目を見てしまったが、代わりに風紀委員が腰をあげるきっかけになった。

 

「だから風紀委員じゃ駄目なんですね? どう見ても弱くは見えないから」

「そういうこと」

 

 風紀委員の半数以上は、歴戦の猛者を思わせるオーラをまとっている。どう頑張っても一般人のふりをするのは難しいだろう。

 

「えっと……じゃあ、どうするんですか? 私ひとりじゃなんにもならなさそうですけど」

「今、そこで悩んでる」

 

 恭弥の眉間に皺が寄った。

 

「相手は違う町からわざわざ来てるみたいで情報がない。この時期、群れを組んでうろつく小動物たちはたくさんいて見分けもつかないし。

 それに、街中ならともかく、建物内や園の敷地内で見回りをさせるわけにもいかないから、探すのも手間だ」

 

 すでにいろいろと手を考えたあとなのだろう。

 利奈を使っておびき寄せる作戦も、相手の出没先が何箇所もある以上、非効率だ。

 

(もしかしたら長期戦になるかも。まずは協力してくれる人を見つけなくちゃいけないし)

 

 利奈に高校生の知り合いはいない。それに、いたとしても不良をおびき寄せる餌役なんて、頼めるわけがない。

 

「ヒバリさん、だれか知り合いにいないんですか?」

「いたら悩んでない」

「ですよね……」

 

 早くも難題に直面した、そんなとき。

 

「どうやら、俺の出番だな」

 

 応接室の扉が開いたと同時に、そんな声が二人にかけられた。

 恭弥は目線だけを入口に向けたが、びっくりした利奈は体ごとそちらに向ける。だれもいない。

 

(じゃなくて、下)

 

 幼い声に既視感を覚えて目線を変えると、案の定そこにはリボーンの姿があった。カメレオンの乗った帽子を被った、お洒落な赤ん坊だ。

 

「その話、俺たちも参加させてもらうぞ」

「やあ、歓迎するよ――そこの三人を除いて」

 

 幾分柔らかかった声が一転、冷たく釘を打つ。

 その声に反応して、ドアの背後に隠れていたらしい武がひょいと顔を覗かせる。

 

「よっ!」

 

 片手をあげた挨拶は、どちらに向けられたものなのだろう。恭弥相手なら、大した度胸だ。

 さらにその背後にいるのは綱吉と――おそらく隼人だろう。特徴的な銀髪が、武の肩越しに見えている。

 

「こいつらも一緒で頼む。お前にとっても、有益な話になると思うぞ」

「……ふうん。まあいいよ、君には興味がある。相沢、通して」

「はい」

 

 ソファから腰をあげて四人を迎え入れる。

 恭弥が通せと言ったからには、彼らは客だ。利奈は恭弥の部下らしくソファにみんなを促し、飲み物を用意するために応接室を出る。そのさい、リボーンにコーヒーを所望された。赤ちゃんのうちからコーヒーを飲んで、大丈夫なのだろうか。

 

(あと、ヒバリさんとどんな関係なんだろ? 他人に興味のないヒバリさんにしては、珍しく食いついてたし)

 

 まさかの子供好き――はありえないとして。対等どころか、リボーンのほうがやや上から口調になっているのがとても気になる。

 そもそも、なんで綱吉は学校に乳幼児を連れてきたのだろう。今更すぎて口に出せなかったが、そこも謎だ。

 

 恭弥の麦茶を淹れ直し、ちゃっかり自分の飲み物も用意して応接室に戻る。

 熱いコーヒーを希望されたのでお湯を沸かすのに時間がかかったが、そのおかげで事件の説明がちょうど終わっていた。

 

「つまんねえことしてんな、こっちの不良はよ」

 

 そう言いながら麦茶を手に取った隼人が、眉をしかめてグラスから手を離す。

 六つも飲み物が乗ったお盆を運ぶのは困難で、応接室の入り口を開けてもらうところから、綱吉に手伝ってもらった。引き受けてもらうときに中身が多少零れてしまったけれど、綱吉がやったからか、隼人は文句を言わない。

 気を利かせてティッシュを置き直すも、無視される。

 

 ソファは三人掛けなので、弾き出された利奈はソファの横に立った。恭弥の隣に座る度胸はない。

 ちなみに、リボーンはソファの背もたれ部に座っている。かわいい。

 

「話を続けようか。その三人を囮に使わせてくれるってことでいいんだよね」

「ええ!?」

「さすが読みが早いな」

 

 悲鳴をあげた綱吉を無視して、リボーンが頷く。

 

「ちょ、ちょっと待てよ! 囮ってなに!?」

「鈍いぞツナ。カップルが狙われてるっていうんだから、偽装カップルを作っておびき寄せるのが定石だろ」

「そんな定石知らないよ! えー!? てっきりちょちょっと手伝うだけだと思ってたのに!」

「そんな感じで来たの?」

 

 どうやら、綱吉は軽い気持ちで手伝いに来たらしい。残念ながら、風紀委員がかかわる案件で、その思い違いは命とりである。

 

「ちょっと俺からも疑問いいですか、リボーンさん。そもそも、俺たちがなんでこいつの活動手伝わなきゃなんねーんすかね」

 

(おおっと、リボーン君にも敬語なんだ)

 

 隼人の敬語の使い分け基準がわからない。とりあえず、恭弥に対しての当たりがやけに厳しい。

 

「だいたい、ここはお前が頭下げて頼むところだろうが! なにふんぞり返ってやがる!」

「文句あるの?」

 

 毛を逆立てる隼人を、じろりとねめつける恭弥。

 そもそも、リボーンから協力すると言ってきただけで、こちらからはまだなにも要求していないのに。

 

「まあまあ、落ち着けって獄寺」

 

 武が場を取りなすように声をあげる。

 

「ヒバリは悪さする連中を捕まえようとしてるだけだし、協力するくらい別にいいだろ? 最初はノリノリだったじゃねえか」

「あ、あれは十代目の株が上がると思ったから張り切ってただけで! こいつが関わってるとなったら話は別だ!」

「だからヒバリはなにもしてないだろ? 俺たちで不良捕まえるより断然楽だし、ここは一緒に頑張ろうぜ。ツナも心配すんなよ、こんだけいればなんとかなるって」

「う、うーん」

「ちょっと。群れるつもりはないんだけど」

 

 両者の代表の反応は渋い。

 恭弥はこういう性格なので仕方ないが、綱吉は明らかに怖じ気づいている。

 綱吉がやめると言い出したら、隼人も間違いなく席を立つだろう。武は一人になっても協力してくれそうだけど、そうなると武の負担が大きすぎる。

 

「情けねーこと言ってんじゃねえぞ、ツナ。町の平和を守るのはファミリーの務めだろ」

 

(家族?)

 

 リボーンの言葉に首をひねる。

 

「だから俺はマフィ――そういうのはいいんだって! そりゃあ、平和なほうがいいけどさ」

「平和のために一肌脱げ。それにお前だって、獄寺と同じくらいノリノリだったじゃねーか。うまくいけば京子にいいとこ――」

 

(今日このいとこ?)

 

「わあああああ!」

 

 リボーンの口を塞ごうと飛びかかる綱吉だが、リボーンに顔面を蹴られて弾き飛ばされた。

 子供に蹴られた反応にしてはオーバーだが、自分の勢いが乗算されて破壊力が増したのだろう。なんて運の悪い。

 

「十代目、大丈夫ですか!? これで患部冷やしてください!」

「ありが、イタ、獄寺君、押しつけないで痛い!」

「こういうのは初期治療が大事なんで! 十代目の顔になにかあったら!」

「コップの縁が当たってるから! イタタ、俺が持つから獄寺君離して!」

 

 綱吉に言われ、隼人がグラスを手放す。すると表面の水滴で綱吉が手を滑らせ、グラスは革張りのソファへ――

 

「おっと!」

 

 飛び込む前に武がグラスを掴んだ。

 しかしグラスの中身は飛び散り、幸か不幸か、綱吉の体にぶっかけられた。

 

「ひいいい、冷たっ!」

「この野球バカ! なんてことしてくれてんだ!」

「悪い、ツナ!」

「いや、山本は悪くないし――って獄寺君、ボムしまって! ここで暴れたらヒバリさんが恐いから!」

 

(もう十分に恐いけど――)

 

 恐る恐る様子を窺う。

 思ったとおり、わちゃわちゃと騒ぐ三人に苛立って、組んだ腕の先で指先が拍子を刻んでいた。表情も凍りついているし、いつ爆発するかわからない状態だ。なんとか場を収めなければ、話がすべて飛んでしまう。

 

「うんと、とりあえずみんな手伝ってくれるってことでいいよね? ね、沢田君」

「えっ」

「手伝ってくれるよね」

 

 こうなったらもう綱吉の意思は関係ない。力尽くでも頷かせなければ、無用な戦闘が始まってしまう。

 

「どっちみち拒否権はねーと思うぞ。ヒバリのところまで来て、これだけ騒いだんだ。このまま帰ったら、確実にあとがヤベーな」

 

 そう、そのとおりである。応接室から無傷で出ることすら厳しいだろう。

 リボーンの言葉で恭弥を見た三人が、危機的状況にあることをようやく理解した。次に騒いだ人間が餌食となる。それが確定した空間だ。外の蝉時雨すら耳に入らなくなるほど、緊迫した静寂が場を満たす。

 

「最初から」

 

 目をつむった恭弥が、久方ぶりに言葉を発した。隠しきれない苛立ちをそれでも抑えつけようとしていて、それがかえって恐ろしい。

 

「最初からそう心得てくれていれば、時間を潰さずに済んだんだ」

 

 恭弥が薄目を開いて睨みつけると、三人は相談していたかのように、同じ動きで座り直した。殺気に当てられていない利奈までも背筋を伸ばす。

 

「で、まだなにか言いたいことある?」

「いえ、いいえ、滅相も! お、俺たち、ヒバリさんに従います! ね!」

 

 ――結局、最後には力でねじ伏せてしまった。

 一人涼しげなリボーンがグッと親指立てるが、利奈は応えられずに視線を外す。これでは、協力してもらうのか、協力させようとしているのか、わからなくなる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

スタイリストは負けず嫌い

 なにはともあれ、これでやっと本題に進めるだろう。

 綱吉が濡れたままだが、これ以上進行を遅らせると恭弥がなにをするかわからない。気の毒だけど、話が終わるまで我慢してもらう。

 

「ええっと、それで、俺たちが囮になるって話ですけど。具体的になにをすればいいんでしょうか」

 

 綱吉はやたらかしこまっていた。逆鱗がどこにあるかわからない以上、下手に出るのが一番の安全策だ。少し前の自分を見ているみたいで、利奈の目が遠くなる。

 

「そうだね。囮は一人いれば十分だから、あとの二人は確保側に入ってもらおうか。咬み殺すのは僕一人で十分だけど、一斉に散られても厄介だし」

「あれ捕まえるのめんどくさいですもんね。お店に入られると損害が増えますし」

 

 実感をもって同意すると、三人が一斉に利奈を見上げた。が、だれも掘り下げようとはしない。リボーンは苦いコーヒーを楽しんでいる。

 

「囮が一人と護衛が二人。場所柄、護衛は一緒に行動したほうがいいだろうな。

 どうせヒバリは単体で動くんだろ?」

「まあね。人が群れてるところにいるのはごめんだから」

 

 となると、恭弥と顔を合わせるのは、不良が姿を現したときだけになる。圧力を受けずに済むのは助かるが、指示が仰げないのは困りそうだ。

 

「その辺りは心配ねえぞ。ちゃんと連携が取れるように、インカムを用意しておく。

 ほかにも必要そうなものはこちらで手配させてもらうが、いいよな?」

「かまわないよ。どう動くかもそっちに任せるから、相沢も好きに使って」

「え」

 

 しれっと差し出され、目が点になる。

 不良が出るまでは普通に遊んでいればいいだけとはいえ、こうも簡単に受け渡されると複雑だ。

 

「場所、どこにする? せっかくだから、夏休みにまだ行ってないところに行こうぜ」

「遊びじゃねえんだぞ! それに決めるのは十代目だ!」

「えええ、俺!? いやいやいや、そこはヒバリさんでしょ」

 

 綱吉が機嫌を窺うも、恭弥は無反応だ。多少の騒がしさには目をつむることにしたらしい。

 

「なに言ってんだ、ヒバリはこっちに任せるって言ったんだぞ。ここはボスであるお前が責任を持って決めるべきだろ」

「俺、ボスじゃないし!」

「いえ、ボスはどう考えても十代目しか!」

「よくわかんねえけど、俺はリーダーなんて柄じゃないし、ツナでいいんじゃねえか? 獄寺もこう言ってるし」

 

(リーダー、沢田君なんだ……。どう見ても下っ端にしか見えないけれど)

 

 しかし、だからこそ都合がいい。綱吉がいなかったら、話が進まない。

 

「あ、そういえば」

 

 思い出したように綱吉が声をあげる。

 

「囮役って、だれがやるの?」

 

 ――その問いに疑念を抱かなかったのは、隼人だけだっただろう。

 隼人を除いた四人の表情を見て、綱吉がさっと顔を青ざめさせた。

 

「え、お、俺!?」

「沢田君が自分じゃないと思ってたのがびっくりだよ……」

「むしろ、ほかにだれがやると思った」

「や、山本とか?」

 

 苦し紛れに綱吉が呟く。

 

 ――話を聞いていなかったのだろうか。不良が襲うのは、気の弱そうな高校生だけである。

 

「だ、だって俺、高校生には見えないでしょ!? さすがに小学生には間違われないけどさ……」

「いや、俺も高校生に見られたことはないぜ? 野球だと高校生級? とかは言われたことあるけど」

 

 自覚なしに、しれっと自慢が入る。

 

「山本君は無理だよ。だってどう見てもスポーツできる顔してるもん。それに、隣に並んだら私が浮いちゃう……」

「あ? おい、十代目を馬鹿にするつもりか? このお人はなあ、爪を隠す鷹なんだよ!」

「獄寺君、意味わかんないから!」

 

 因縁をつけようとする隼人を、綱吉が腕を掴んで引き留めてくれた。とりあえず、隼人には絶対無理だろう。わざわざ隼人に絡む不良がいたら、それは無謀というものだ。

 

「で、でも、囮ってったって――こ、恋人のふりするんだろ? そんなの無理だよ!」 

「大丈夫です! 十代目なら!」

「いや、そうじゃなくてさ。ほら、相沢さんだって俺なんかと一緒に歩いて、もし知ってる人に見られたら困るでしょ」

「気にしないで。そういう係だって諦めてる」

「潔い! と、とにかく俺には無理だよ! 絶対失敗するし!」

 

 ここにきて綱吉が消極的だ。よほど囮役になりたくない理由があるようだが、言いたくはないようで、かたくなに首を振っている。これで相手が利奈だから嫌だとかいう理由だったら、立ち直れなくなるので、違う理由であってほしい。

 

「いいからやれ」

「ゴフッ!」

 

 業を煮やしたリボーンに頭を蹴られ、綱吉がつんのめった。赤ん坊なのに、リボーンはやたら攻撃的だ。将来が心配になる。

 

「えと、そもそもなんだけど、私も大丈夫かな? 高校生、やれると思う?」

「無理だな」

「いけるんじゃね?」

 

 そろそろと手を上げると、正反対の意見を同級生に告げられた。どちらがどちらかなんて、説明しなくてもわかるだろう。綱吉の意見も聞きたかったけれど、まだ頭を抱えて悩んでいるのでやめておく。

 恭弥に聞くのも気が引けるのでリボーンを見ると、赤ん坊特有の読めない表情で見上げられる。口元が、にやりと上がった。

 

「心配無用だ。ちゃんと助っ人を呼んであるぞ」

「助っ人?」

「今から呼んでもいいか」

「いいよ」

 

 恭弥が許可を出したと同時に、ドア越しにくぐもった声が響いた。

 

「その必要はないわ」

 

 ドアが開き、抜群なスタイルの美女が颯爽と足を踏み入れる。

 

(が、外人さん?)

 

 彼女が助っ人なのだろうか。

 ピンクブロンドの髪をなびかせたその美女に引き付けられたが、次の瞬間、足元に転がってきた人物に、強制的に視線を剥がされた。

 

「う、ぐああっ……!」

「獄寺君!?」

 

 なんの前触れもなく苦しみだした隼人に驚き、屈みこむ。歯を食いしばって脂汗を流す隼人は、痛むのかおなかを押さえている。

 

「獄寺君、おなか痛いの? 大丈夫?」

 

 腕を掴んで呼びかけても返事がない。悪い物でも食べたのだろうか。

 

「ビアンキに援護を頼んだ。これで利奈のほうは大丈夫だ」

「話は聞かせてもらったわ。その子を大人っぽくすればいいんでしょう? 化粧なら任せてちょうだい」

 

(そんなことより、獄寺君……)

 

 依然、隼人は苦しんでいるのだが、リボーンはお構いなしに話を続けている。日常的によくおなかを痛めているのだろうか。

 

「と、とりあえず、ビアンキ外に出て! じゃないと獄寺君がもたないから!」

「あら、ずいぶんな言い草ね。隼人、どうしたの? 夏バテ?」

「ひっ」

 

 ビアンキが近づこうとすると、隼人は大慌てでソファの影に隠れてしまった。ずるずると這う姿に、普段の威勢は感じられない。

 

「まあ、照れちゃって。隠れてないで出てらっしゃい。せっかく会えたんだから」

「ストップ、ストップ!」

 

 机の下を覗き込もうとするビアンキの前を綱吉が塞ぐ。よくわからないけれど、隼人はビアンキに会いたくないらしい。机の下で、ガタガタと体を震わせている。

 

「ほら、続きは外で話そう! 獄寺君にはあとで俺から伝えるから!」

「なによ、乱暴ね」

 

 綱吉に背中を押され、ビアンキが強制的に退席させられる。リボーンもソファから飛び降りた。

 

「利奈と武も一緒に来い。これから二手に分かれて二人をプロデュースするぞ」

「え、でも獄寺君が――」

 

 這いつくばる隼人を置いていくわけにもいかないだろう。不機嫌な恭弥がいるのだから、なおさら。

 

「よくあることだから気にすんなって。ちょっとしたら治るしさ」

「ほんとに? 相当辛そうだよ?」

「平気平気。じゃ、落ち着いたら来いよ、獄寺」

「……うっせー」

 

 やっと返事できるだけの元気を取り戻したらしいが、声音がうめきと同類である。

 足元でそんな声がするものだから、恭弥がより一層不快そうに頬を歪めた。

 

「ねえ、僕はいったいなんの茶番を見せられてるの?」

「おおお、お騒がせしましたー!」

 

 半ば強引に応接室を押し出される。

 恭弥と隼人の組み合わせには不安しか感じられないけれど、あとはなるようになってもらうしかない。

 

 そして勢いに乗せられたまま二手に分かれ、ビアンキとともに空き教室へと放り込まれた。放り込まれたとしか言えないぐらいの押し込まれ方だった。だれかが呼びに来るまで、絶対に教室から出るなと言われるほどの念の押しようだ。

 

 男子と女子に分かれたほうがいいとはいえ、初対面の人と二人っきりにされるとは。

 いきなり雑になった扱いに不満を覚えながらも、ビアンキに身を委ねる。初対面の人と話すのは慣れているので、緊張はしなかった。

 

「え、獄寺君のお姉さんなんですか!?」

「そうよ」

 

 隼人に姉がいたなんて。しかもその姉が、こんなに大人っぽい美女だなんて。

 驚く利奈の頬を、ビアンキがパフで撫でる。

 

「あの子、昔からああなの。体が弱くてね。学校でも、倒れたりしてない?」

「いえ? 今日初めてああなったの見ましたけど……」

「あら、そう」

 

(獄寺君、体弱かったんだ……)

 

 そのわりには喧嘩っ早すぎると思うのだが、実の姉が言うのなら、本当は体が弱かったのだろう。そのわりには威勢がいいけれど。

 

(にしても――)

 

 化粧をしてもらっている特権として、ビアンキの顔を観察する。

 垂れ目といい、厚めな唇といい、隼人とはあまり似ていない。髪の色はお互い染めているとして、顔にほとんど共通点がなかった。

 

(獄寺君はハーフだから、お姉さんもハーフだよね? だからそんなに似てないように見えるのかな)

 

 ほかの国の人は、みんな同じ顔に見えるという現象がある。そういうことなのかもしれない。

 

「貴方、隼人とは仲がいいの?」

「そんなには。クラスは同じですけど、話すようになったのも最近で」

「ふふ、あの子シャイだから」

 

(シャイねえ……)

 

 シャイという言葉で片付けるのは難しいけれど、姉のビアンキから見たらそうなのだろう。素直でないという点では、その表現でもいいのかもしれない。

 

 目を閉じるように言われたのでつむると、ビアンキの指がまぶたを撫でた。目をつむったり、開いたり、唇を尖らせたり、笑ったり、思ってたより化粧は顔を動かすものらしい。

 その間に取り留めのない話をして、ビアンキと交流を深めていく。ビアンキは弟思いのようで、会話の節々で隼人との思い出話を聞かせてくれた。人前で発表できるほど、ピアノが弾けるなんて知らなかった。

 

「リボーン君ってどんな子なんですか? 大人みたいな子ですよね」

 

 ついでに、リボーンについても尋ねてみる。

 あの恭弥が一目置いているほどの赤ん坊だ。綱吉の親戚であるという以上の情報が聞けるかもしれないと期待する利奈に、ビアンキはとんでもない情報を暴露した。こともなげに。

 

「ああ、私のフィアンセよ」

「へ?」

「式はもう済ませたわ。 さ、後ろ向いて」

 

 ブラシを片手に促されて座り直した利奈は、数秒遅れで意味を理解し、勢い良く振り返った。

 

「フィ、フィア、フィアン――」

「動かないで」

「あ、ごめんなさい……」

 

 たしなめられて姿勢を戻すけれど、頭のなかでは嵐が吹き荒れていた。

 

(許嫁!? フィアンセって言ったよね!? 式って結婚式のことだし――うん、リボーン君は結婚できないけど。え、あんなちっちゃいのにもう婚約者がいるの!?)

 

 海外では珍しくもないことなのだろうか。外国だと未成年でも飲酒できる国もあるし、いろいろと進んでいるのかもしれない。

 丁寧にブラシがけをされながら、脳内であれこれと思考する。いったい、何歳差のカップルなんだろう。

 

(……あれ? あっ、だから獄寺君が敬語なんだ! リボーン君、お姉さんと結婚するから!)

 

 雷が落ちたような衝撃とともに、不自然だったところが一気に解決していく。

 

 義理の兄にあたる人なのだから、敬語を使ってもおかしくない。むしろ、当たり前だ。

 さらに、綱吉はリボーンの親戚だから、筋を通すために、綱吉にも敬語を使っているのだろう。そう考えると、いつも気になっていた不自然な上下関係にも説明がつく。

 

(なるほど、そういうことだったんだ。これじゃ沢田君も説明しづらいよね。うん。納得)

 

 利奈が一応の――勘違いとはいえ、納得を終えたところで、教室のドアが遠慮がちに開いた。

 

「お、終わった?」

 

 綱吉の声だ。

 

「うん、もう終わるよ」

「まだよ。髪をセットしてないわ」

「あ、そっか。ごめん、まだ終わって――」

 

 体をひねった利奈は、驚きのあまり椅子から滑り落ちそうになった。背もたれを掴んでなかったら、危うかっただろう。それほどびっくりしたのは利奈だけでなく、ビアンキも虚を突かれた顔で固まった。

 

「ど、どう? 変……かな?」

 

 照れた顔で髪をすく綱吉。その見違えた姿に、利奈は顔を輝かせる。

 

「すごい! すごいよ、似合ってる! どうしたのその髪!」

 

 いつもはツンツンと無造作に跳ねている髪の毛が、ウェーブを描いている。それだけでまるで別人のように様変わりした綱吉に、利奈の驚きが止まらない。

 みんなにやってもらったんだと話す綱吉は、照れくささからかいつもよりずっと声が小さかった。

 

「いつもと全然違う! あれ、背も高くなってない?」

「それはリボーンが用意した靴で……」

「え、全然わからない! すごい、すっごくかっこよくなってる! 獄寺君のお姉さんもそう思いますよね!」

 

 同意を得ようとビアンキに話をふる。すると、ビアンキは手にしたブラシを強く握りしめ、キッと綱吉を睨みつけた。

 

「……やるわね」

「えっ」

「え、あの?」

 

 グッと肩を掴まれ、椅子に座り直させられる利奈。なにやら、背後からものすごい重圧を感じる。

 

「プラン変更よ。これからとびっきりのいい女にしてあげる。ツナをギャフンと言わせてやりましょう」

「は、はい……?」

 

 どうやら、綱吉の変わりようが、ビアンキの闘争心に火をつけてしまったらしい。

 ブラシがけの手つきからしてもう本気だ。

 

(だ、大丈夫かな。やり直しになりそうな予感しかしないんだけど……)

 

 いったいここからどう変化させられてしまうのかと怯える利奈だが、こうなったら、ビアンキにすべてを委ねるしか術はない。

 待ちくたびれた男子勢が覗きに来るまで、利奈は沈黙に耐え続ける羽目になった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

仕組まれた順路

 綱吉たちと学校で解散した利奈は、ビアンキとともに、再集合場所である並盛町駅に到着した。私服に着替えるために各自家に帰ったのだけど、どうやら、男子勢は一人も来ていないらしい。

 

(けっこう時間かかったのにな。私たちのほうが早いって、なんか不思議)

 

 高校生らしい服装どころか、デートに似つかわしい服すら手持ちになかったくらいだ。そもそも、スカートだって制服でしか履いていない。もともと私服だったビアンキにスタイリストとして家までついてきてもらったたけれど、服選びはなかなか難航した。

 

(スカート、今度買ってもらおう)

 

 足元を見下ろして、慣れないひらひらに足を閉じた。

 この長いスカートは、母のおさがりだ。タンスをひっくり返して途方に暮れていたら、様子を見に来た母が、若い頃の服を何着か持ってきてくれたのだ。さすがにウエストサイズは合わなかったので、見えないようにベルトで固定している。

 サンダルは綱吉と同じくさりげなく高いヒールで、発育途上の利奈の身長をそれとなく伸ばしてくれている。ちょっと捻りやすくなっているけれど、つま先はきつくないから、靴擦れの心配はなさそうだ。さすがビアンキが用意しただけある。

 

「急に友達のお姉さん連れてきたと思ったら、そんなおめかしして。イベントにでも行くの?」

「うん、まあ、そんなとこ」

 

 これから不良をおびき寄せるために囮デートをするところ、なんて言えるわけもない。

 

「来たわ」

 

 ビアンキの声に顔をあげると、綱吉たちが商店街からやってくるのが見えた。

 

「ごめん、遅くなって」

「ううん、いいよ」

 

 謝る綱吉は、やはり別人に見える。

 ボサボサでツンツンだった髪の毛は、ワックスでガチガチに固められ、帽子の中にしまわれている。それだけで印象が全然変わるから、髪型はやはり重要だ。

 服装もきっちり固められていて、全体的にスマートな雰囲気に仕上がっている。洒落た薄青のシャツは綱吉の体よりも少し大きくて、袖が肘に届いていた。

 

「その上着、獄寺君のだったりする?」

「うん。やっぱりわかっちゃう?」

「なんか、獄寺君が着そうなデザインだったから」

 

 服装には当人の趣味特徴が色濃く出てくる。武はTシャツにジーパンとラフな服装だし、隼人はアクセサリーが多くて、パンクな格好だ。綱吉はデートに見合う服装ということで、本人の趣味がほとんど入っていない。もっとも、それは利奈にも言えることなのだけれども。

 

「俺、いつもトレーナとかパーカーとか着てたからさ。こういう時、なに着ればいいのかわかんなくて」

「わかる。私もこれ、お母さんに借りたの。変じゃない?」

「うん、似合ってるよ。高校生みたい」

 

 ビアンキが気合を入れてくれたおかげで、今日の利奈は特別仕様である。髪は巻いたうえに編み込んでもらったし、手どころか、足までネイルをしてもらった。爪の形がきれいでないからちょっと恥ずかしいけれど、黒いサンダルから覗くつま先は、薄ピンクのグラデーションで彩られている。

 

「獄寺君、大丈夫? よくなった?」

「ああ」

 

 若干顔色が悪いけれど、腹痛は収まったらしい。おっかないのか、チラチラとビアンキの顔を見ている。ビアンキは服装を変えていないけれど、色の濃いサングラスがきまっていて、かっこいい。

 

「お前たちにもこれをつけてもらうぞ」

 

 リボーンがずらりと眼鏡とサングラスを広げた。どれも色やデザインは違っていたが、耳に掛ける部分だけは同じように幅広くなっている。

 

「眼鏡型インカムだ。骨伝導式になっていて、つるの先から音が出る」

「なんかスパイグッズみたいだな!」

 

 テンションが上がったのか、武が嬉しそうに四角いフレームの眼鏡を手に取った。

 

「右のつるを押さえると、マイクが入る。押さえながら喋れば、半径三百メートル以内に声が届くぞ」

「へえ、けっこう遠くまで大丈夫なんだね。これ、どこで売ってるの?」

「お、おもちゃだよ、おもちゃ! こいつ、こういうおもちゃが大好きでさ!」

「ハイテクだねー。私これにしようかな」

 

 ふちが花柄になっている眼鏡を掛けた。視界の隅に映るふちが気になるけれど、今日一日くらいは我慢しよう。

 隼人はサングラス、綱吉は赤いふちの眼鏡を選んだ。そして、しれっと現れた恭弥が、残った眼鏡を装着する。

 

「じゃ、試すぜ。あーあー、本日は野球日和なり! どうだ?」

「声でかくて無線使う意味がねえんだよ! もっと音量下げるか離れろ!」

『えー、こちら相沢。獄寺君が今日もうるさいです』

「おっ。聞こえたぜ、相沢」

 

 ボソッと流したら、武が親指と人差し指でオッケーマークを作った。隼人は毛を逆立てている。

 

「どさくさ紛れに! 喧嘩売ってんのか!?」

「テストだから。試しに思ってること言っただけだよ」

「それが喧嘩を――クソ、姉貴の後ろに隠れやがって!」

 

 そそくさとビアンキの背中に回る利奈に、隼人は舌打ちした。

 

「隼人。女の子をいじめるのはやめなさい」

「……クッ」

 

 隼人が姉に頭が上がらないのは、この短時間で学習済みである。

 険のある視線をやり過ごしながら、ついでにと恭弥を陰から観察した。

 

(うわあ、制服じゃないヒバリさんだ)

 

 直接見つめるのが憚られるほど、レアな絵面である。白と黒の二色使いなので色味は同じだが、ポロシャツとチノパンだと風合いが変わる。

 さらに、物珍しそうな顔で眼鏡のつるを押さえている姿は、成績優秀な理系男子にも見えた。リボーンの用意したスパイグッズ――綱吉が言うには子供向けのおもちゃは、どうやら恭弥の興味を引いたようだ。

 

「これ、もう実用化してるの?」

「まだ試験段階だ。だが、モニターになるっつうんなら、格安で用意してやってもいいぞ」

「ワオ、頼むよ。とりあえず、風紀委員全員分もらおうか」

 

 ――このあいだ徴収した活動費の使い道が決まったようだ。

 

 そんなやりとりを挟みながら、電車に乗って遊園地へと向かう。

 今回は委員会活動の一環なので、入園料、食事代、グッズ代などはすべて風紀委員会の活動費から賄われることになっていた。

 一万円札を預かったせいで、しきりにバッグを確認してしまう。綱吉も同じようで、そわそわと落ち着きなくズボンのポケットをいじっていた。なくしたりなんかしたら、それこそ処罰対象になってしまう。

 

「ツナと利奈は、こちらから指示を出すまで、自由に園内を散策。怪しい不良連中を見つけたら伝えるから、そいつらの前でそれとなくいちゃつけ」

「い、いちゃ!?」

 

(無茶言うなー、リボーン君)

 

 本当に付き合っているのならとにかく、そんなに簡単に同級生といちゃつけるはずもない。子供にはそんなのわからないよねと、利奈は生温い目になったが、綱吉はやたらあわてた顔でリボーンに文句を言っている。小さい子の言ったことを、そんな真剣に受け止めなくてもいいのに。真面目なのだろうか。

 

「じゃ、俺たちは後ろからついてけばいいんだな。アトラクションとかも乗っていいんだろ?」

「勝手にしなよ」

「チッ、なにが楽しくてこんな奴と――十代目! なにかあったときは俺が馳せ参じますので、心配なく!」

「う、うん」

 

 リボーンとビアンキはデートを楽しみながら待機で、恭弥は作戦のついでに遊園地を視察して、お偉いさんと会談するらしい。

 それぞれがどうするかを確認しあって、電車から降りると同時に、彼らとは他人になった。

 

『がんばれよ、二人とも!』

 

 武の声が、二人の耳元で響いた。

 

__

 

 建前として綱吉にチケットを買ってもらい、二人で遊園地に入園する。もう昼の時間帯なので、園内は人でごった返していた。

 同級生がいないか気になるけれど、こうなったら覚悟を決めるしかない。いざとなったら、武と隼人も一緒に来ているという体にしてしまおう。――それはそれで、不興を買いそうではあるが。

 

「えと、どこか行きたいところ、ある?」

 

 入口でもらった園内地図を開く。綱吉は緊張した声でそう言った。

 この遊園地に来るのは初めてで、どんなアトラクションがあるかもわからない。パッと目についたのは大きな観覧車だけど、一番最初に観覧車に乗るのもどうだろう。

 

「とくにこれといって――私、ここ来るの初めてだから、よくわからないんだよね」

「そうなんだ。あっ、そういえば、今年転校してきたんだよね」

「そうそう。だから動物園とかも行ったことなくて」

 

 反抗期真っただなかだったため、休日も部屋に引きこもっていた。なので、並盛町の娯楽施設には一回も足を運んでいなかった。

 

「遊ぶの、今日が初めてなの。沢田君のおすすめは?」

「俺は……トロッコとか、ゴーカートかな」

 

 綱吉は乗り物系が好きらしい。

 利奈としては絶叫系が外せないけれど、一番の混雑時である昼時は、どこもかしこも行列だらけだろう。いきなり長い行列に並ぶのもつまらないし、ここはメジャーなものは避けたほうがいい。

 

(トロッコに行こうかな。派手なアトラクションじゃないから、そんなに混んでなさそうだし)

 

 対象年齢が低いから、平坦なレールの上を走るだけのトロッコだろう。手始めにはちょうどいいと地図から顔を上げたところで、正面からマスコットキャラクターと思われる着ぐるみが歩いてくるのが見えた。

 

「見て! ゾウが来たよ」

「えっ――ってリボーン!」

「ぱおっス」

 

 ゾウの着ぐるみが、片腕をあげて挨拶をする。こんなに早くマスコットキャラクターに会えるなんてと感動する利奈をよそに、綱吉がマスコットキャラクターに詰め寄った。

 

「なにやってんだよ、リボーン! そんな目立つ格好して!」

「ちげーぞ。俺はこの遊園地のマスコットキャラ、ゾウのマンモー君だ」

「はあ!?」

「ゾウなのにマンモスなんだ。面白いね」

 

 この遊園地のマスコットキャラクターは喋ってもいい設定らしい。手には色とりどりの風船が握られていて、子供たちを集めていた。

 

「いや、だからなんでここにいるんだよ! お前、ビアンキと一緒に待機してるんじゃなかったのかよ!」

「ちょ、ちょっと沢田君!」

 

 なぜか綱吉はマンモー君に攻撃的である。マスコットキャラクター相手に、その言動は問題だ。

 

「なに? 中の人、沢田君の知り合いだった?」

「そうだけど――わからない?」

「なにが?」

 

 知っている人だったら声でわかるだろうけれど、本物のゾウを思わせる深みのある声に、聞き覚えなんてまるでない。綱吉は最初にリボーンと間違えていたけれど、どう見たって別人だ。

 心当たりがなくてきょとんとしていると、なぜか綱吉は脱力した顔をする。

 

「お二人でデートですかな。さあ、この風船をどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 風船を差し出され、笑顔で受け取った。黄緑色の風船は、ほかの風船と違って形がややゆがんでいる。空気が少ないのか、風に吹かれてうぞうぞと形が変わった。

 

「その風船は特別優待チケットとなっておりましてな。乗り物すべて、待ち時間なく乗れるのです。」

「え、ほんとに!?」

「はい。今ですと、ジェットコースターが乗り放題ですな」

「はあっ!?」

「えー、すごい!」

 

 綱吉が素っ頓狂な声をあげているが、ジェットコースターに並ばずに乗れるなんて、めったにあることじゃない。しかも乗り放題。響きがいい。

 

「どれでも乗れるんならジェットコースターじゃなくてもいいんだろ! なんでわざわざジェットコースター指定するんだよ!」

「それが、ただいまジェットコースターフィーバータイムでして。このフィーバータイム中に乗られると、なんと記念撮影の写真が無料で手に入れられるのです」

「うっそ!? あれ無料になるの!」

 

 最後の急降下で取られる記念写真はやや高額で、気軽に買えるものじゃない。それが無料になるのなら、今すぐジェットコースターへ向かうべきだ。

 今考えただろその企画と綱吉が叫んでいるが、スタッフの人がそんな急造でキャンペーンを作れるわけがないので見当違いだろう。

 

「ね、行こ。せっかくだしもったいないよ」

「え、まだ心の準備が!」

「お早いほうがいいですぞ。ちなみに、ジェットコースターまでの道のりは、その風船が教えてくれますぞ」

「すごい、風船が矢印型になった! すごいハイテクだね、この遊園地!」 

「ってレオンじゃんかー!」

 

 わけのわからない突っ込みをする綱吉を引っ張って、利奈は意気揚々と歩き出す。

 その後、乗り終わった絶妙なタイミングで再登場を続けるマンモー君に従い、絶叫系巡りをする羽目になるのだが、このときの綱吉はまだ知らなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鉢合わせ×2

 利奈はすっかり遊園地を満喫していた。

 顔見知り程度の同級生と二人だけで行動、それも囮役としてだから、そんなに楽しめないだろうと思っていた。けれど、そんなことはなかった。楽しすぎて笑いが止まらなかった。

 ノンストップで絶叫系が制覇できたのだ。楽しくないわけがない。次々と刺激的なアトラクションを体験し、ベンチに座った今は、冷めやらぬ興奮で体が熱い。

 それでも連れのことを忘れてしまうほどには夢中になっていなかったので、隣で放心している綱吉の様子をそれとなく窺った。

 

「沢田君、落ち着いた?」

「……」

 

 絶叫フルコースを味わって、綱吉は精が尽き果ててしまったようだ。目がどこか遠くを見つめているし、魂が肉体からわずかに浮き上がっているように見える。

 絶叫系が嫌いだとは言っていなかったけれど、こんなに連続で乗ったら気分も悪くなるだろう。そのわりには、最後までいい悲鳴をあげていたけれど。

 

「……ちょっとね」

 

 根気強く返事を待っていたら、やっと一言返事を返してくれた。しばらく休んだほうがよさそうだ。

 余談だけど、隼人が絶え間なく無線を送ってくるので、二人とも眼鏡を外してしまっていた。具合の悪そうな綱吉が心配なのはわかるけれど、限度というものがある。綱吉は帽子も脱いでいるので、半分くらい元の綱吉に戻っている。

 

「いっぱい乗ったから疲れたよね。私は絶叫系大好きだから、すっごく楽しかったんだけどさ」

 

 途中から綱吉の様子がおかしかったのには気付いていたけれど、マンモー君が言葉巧みにアトラクションに案内するものだから、ついそちらを優先してしまった。

 最初にもらった風船も、最後に行ったお化け屋敷の入り口で黄色の風船と交換された。奇しくも、園内最後の絶叫スポットだった。

 

(怖かったなあ、お化け屋敷。いきなり出てくるのもびっくりしたけど、ずっとついてくるのも不気味で怖かったし)

 

 お化け屋敷は締めを飾るのにふさわしいクオリティのもので、ずっと叫びっぱなしだった。とくに綱吉の絶叫はすさまじく、もし隼人に聞かれていたなら、作戦をかなぐり捨てて駆けつけてきただろう。風紀委員に追い詰められた人間でも、なかなかあんな声は出せない。

 

 ちなみに、綱吉が一番大きな悲鳴をあげたのは、出口付近にいた女性を見たときだった。出口の明かりが逆行になって女性の顔はあまりよく見えなかったが、両手にあった皿の中身――食べ物とはいえないものが、生々しく蠢いていたのは、利奈も恐ろしかった。普通の恰好で、先に入った客かと思わせておいてのこれだ。やられた。

 

「お化け屋敷でも写真もらったよ。驚いた顔、全部撮られてるみたい」

 

 綱吉が全部の仕掛けで驚いていたので、綱吉の顔のアップがかなり多い。こうして写真で確認してみると、綱吉の驚き顔はバリエーションがたくさんあって、見ていて飽きない。

 

「サービス満点だったよね。あっ、もしかしたら、ヒバリさんが裏から手をまわしてくれたのかも! じゃなきゃ、あんなに私たちばっかり特別扱いされないし」

 

 遊園地の責任者と会談してくると言っていたから、それとなく圧力をかけておいたのかもしれない。そう思えばあのひいきも納得できたのだが、なぜか綱吉は考えもしないで首を振って否定した。

 

 綱吉の体調はなかなか戻らなそうだ。目星のアトラクションはあらかた回れたので、別に不満はない。それに、これ以上はしゃいでいたら、囮であることを忘れてしまいそうだ。

 

「ちょっと飲み物買ってくるよ。沢田君、なに飲みたい?」

 

 冷たい飲み物を飲めば少しは楽になるだろうと声をかけると、綱吉がわずかに腰をあげた。

 

「いいよ、私が買ってくるから。ついでにトイレにも行っておきたいし。

 で、なにがいい?」

「ありがとう。冷たい炭酸あるかな」

「あるでしょ。じゃ、炭酸ね。並ぶかもしれないから、気長に待ってて」

 

 ついでに軽食も買っておこう。いっぱい声を出したから、小腹が空いた。それか飲み物だけ買って、綱吉の体調が戻ったらランチを食べてもいい。

 そんなことを考えていたら、遠くから利奈を呼ぶ声が聞こえた。

 

「相沢!」

 

 聞き覚えのある声に目を向けると、武が右手を振りながら、左手で眼鏡をつついた。

 

(いけないっ、眼鏡外しっぱなしだった!)

 

 慌てて掛け直すと、耳元で武の声がささやく。

 

『ちょっとこっち』

 

 手招きをして辺りを窺う武に、利奈はさりげなさを装いつつ近づいていく。

 

 武がいるのは、奇しくも利奈が立ち寄ろうとしていたカフェスペースだ。テーブルに二人分の飲み物とお菓子があるけれど、隼人の姿はない。

 

「よっ」

「ごめん、呼んでた? 全然気付かなくって」

「ううん。それより、ツナは大丈夫か?」

 

 遠めに見ても、綱吉の体調不良は伝わっていたのだろう。苦笑交じりに武が尋ねる。

 

「ちょっと酔っちゃったみたい。休んだら治ると思うから、しばらくは乗り物に乗るのやめておくよ。そっちはどう?」

「俺たち? 俺たちは交代で行列に並びながらそっち見てるけど――って、ああ、不良か。今のところ、カップル狙ってそうな奴らは見てないぜ」

「だよねえ」

 

 こんな明るくて賑わっているところで因縁をつけてくる輩もそうそういないだろう。経験則からいくと、暗がりで人気の少ないうらぶれた雰囲気のところが狙われやすいのだが――娯楽施設である遊園地に、そんな場所はない。高校生がどのあたりで襲われたのか、もっと詳細なデータを調べておくべきだった。

 

(相手は高校生ヤンキーらしいから、そこまで考えてないかな? むかついたらすぐ突っかかってきそうだし、見つけ次第、目の前でいちゃつけば――って無理だけど!)

 

 囮役が自分だったことを思い出して我に返る。いくらお芝居とはいえ、そんなこと、できるわけもない。

 

「そろそろ戻るよ。獄寺君にもよろしくね」

「ん。ほい」

「うん?」

 

 武がテーブルに置いていたチュロスを差し出してくる。チュロスは紙コップに入っていて、表面に粉砂糖がちりばめられていた。

 

「おなか空いたろ? これ、二人で食べてもらおうと思って買っておいた。コーラも」

「えっ、ありがとう! いいの?」

「俺たちも適当に食うからさ。獄寺がなに食いたいかわかんねえから、乗り終わったら一緒に買うよ」

「ありがとー! ちょうど飲み物買おうとしてて。沢田君も炭酸飲みたいって言ってたの!」

「ん、ツナはそうだろうって思ってた」

 

 そう言って武は笑った。

 チュロスとコーラを受け取って、意気揚々、綱吉の元へと戻る。自分で思い出したのか、綱吉も眼鏡を掛け直していた。

 

「お待たせ。買ってきたよ」

「ありがとう。あ、お菓子も買ってきたんだ」

 

 綱吉の視線がチュロスに注がれる。顔色はだいぶ良くなっていた。

 

「山本君が先に買っててくれたの。だから私はもらっただけなんだけど。

 山本君すごいよ、沢田君がコーラ飲みたがってたの当てたから」

「へー。さすが山本」

 

 綱吉がコーラをぐびぐびと飲み始める。それを見届けて利奈もベンチに座り、ストローを咥えた。そして一口すすったところで、綱吉の視線と利奈の視線が、ある一点で交差した。

 

「げっ」

 

 声を漏らしたのはどちらだったか。どっちもだったかもしれない。

 

「あれ? 沢田ちゃんじゃん!」

 

(内藤ロンシャン――!)

 

 こちらに気付いたのは、同級生の内藤ロンシャンだ。よりにもよって同じクラスの、しかも口がとてつもなく軽そうな人物である。そのうえ、目が合った彼はずんずんとこちらに近づいてきた。

 

(ど、どうしよ、大変だ!)

 

 今のところロンシャンが気付いたのは綱吉だけだ。無関係を装うべきだと判断して、利奈は綱吉から若干距離を取って顔をそむけた。

 

「うっわ、全然気づかなかったよ。 今日の沢田ちゃんチョーきまってんじゃん! なになに? デート?」

「あ、えっとこれは――」

「お洒落眼鏡なんて掛けちゃってー! 髪もワックス塗った? イメチェン?」

「いや、これは別に!」

 

 ロンシャンの指摘にいたたまれなくなった綱吉は、わしゃわしゃと髪を崩して眼鏡を外した。それでもロンシャンは止まらない。

 

「こんなばっちりお洒落してデートじゃないとか嘘っしょ! 隣、彼女?」

「っ!」

 

 他人のふりもむなしく、セットで扱われた。回り込んできたロンシャンに至近距離で見つめられ、言葉が出ない。

 

(最悪。どうしてこのタイミングで)

 

 クラスではかかわりがないが、風紀委員として、何度かロンシャンの遅刻を取り締まったことがある。見覚えくらいはあるだろう。

 

「あれ、この子――」

「ああああ! じ、実は俺たち、風紀――」

「チョーかわいいじゃん! だれ? 沢田ちゃんの知り合い?」

「え?」

 

 綱吉と利奈の声が揃った。

 

「うちの学校の子じゃないよね。それとも三年生? え、もしかして高校生だったりする? ヒャー、沢田ちゃんおっとなー!」

 

(え、まさか本当に気付いてない?)

 

 ロンシャンの目は好奇で輝いていて、本当に利奈の正体がわかっていないようだった。

 初対面じゃないのに。同じ教室で授業を受けているのに。

 

(せ、セーフ!)

 

 どうやら、大人っぽい格好が功を奏したらしい。

 落ち着いて考えてみれば、髪型を整えて眼鏡を掛けただけの綱吉と違い、利奈は化粧をしたうえに髪型もがらりと変えている。利奈を利奈だと思って観察しない限り、見透かされはしなかっただろう。女の子同士だったらともかく。

 

 危なかった。下手に喋っていたら、声で正体がばれてしまうところだった。さすがに声音は変えられない。

 

「で、名前は? 俺、内藤ロンシャン! 沢田ちゃんの友達で、トマゾファミリーの――」

「ストップストップ! 自己紹介始めなくていいから!」

 

 紹介されなくても知っている。一学期始業式の日に、みんなの同情を買って学級委員になったのも覚えている。

 

 綱吉がロンシャンの不毛な自己紹介を止めてくれたものの、ロンシャンが空気を読んで立ち去ってくれない以上、ピンチなのは変わらない。そして、ロンシャンは友人の連れに興味津々である。

 

「ね、どこの学校? 沢田ちゃんとはどこで知り合った感じ? 告ったのは沢田ちゃん?」

「……」

「焦らしちゃってー、教えてよー」

 

 利奈が答えなくても、しつこく話しかけてくるのだから質が悪い。

 

(ずっと黙ってたら怪しまれるよね。でも、声出したらバレちゃうし……)

 

 それに遠目から見たら、この現状が不良に絡まれているようにも見えてしまう。隼人に見つかったら、十中八九、綱吉を助けに来てしまうだろう。そうなったら、事態がより面倒になってしまう。

 

 早くロンシャンを追い払わなくてはならない。

 迷った末、利奈は大胆な手を打つことにした。

 

「っ!?」

「ありゃー、恥ずかしくなっちゃった?」

 

 しがみつくようにして綱吉の背中に顔をうずめる。合図なしの行動に綱吉が背をのけぞらせたが、利奈はかまわずに顔を押しつけた。ついでに眼鏡のつるを押し、通信を入れる。

 

『同じクラスの内藤君に見つかりました』

 

 恭弥も聞いていることを考慮して、現状を事務口調で伝えておく。とりあえず、これで隼人の暴走は防げるだろう。

 

「内気な彼女さんだねー、かわいいねーいいねー沢田ちゃん!」

「あ、いや……」

 

 盛り上がっているところ悪いけれど、うずめた顔は完全に真顔だ。こうしていれば、口をきかなくて済むし、ついでに顔も見られないで済む。代わりにやり取りすべてを綱吉に任せなければならなくなるが、うまく対処してもらうしかない。

 

「そ、そういえば、ロンシャンはだれと来たの? ファミ――いつものみんなと?」

「まっさかー! 彼女と来たにきまってんじゃん! 今ちょっとお化粧直しにいってるとこだけどさ」

 

(あー、そういえば、すっごい体型の人と付き合ってたっけ、内藤君)

 

 しかし、彼女と来ているのなら好都合だ。その彼女が戻ってきたら、ロンシャンも立ち去ってくれるだろう。そう思って安心した利奈だったが、現実というものは、いつだって一筋縄ではいかないものであった。

 

 バシャッと液体が零れた音がしたと思ったら、顔を押しつけていた綱吉の背中が、ピシッと硬直する。それと同時に、ロンシャンが爆弾を放り投げた。

 

「あれ? あの子、沢田ちゃんの彼女じゃん」

「!?」

 

 すぐさま利奈は綱吉から距離を取った。

 

 その子は、離れた場所に立っていた。友達と来ていたようで、周りの子が不思議そうな顔で彼女と利奈たちを見比べる。その足元には紙コップが転がっていて、ほとんど解けていない氷とジュースが、乾いた地面に大きなシミを描き始めていた。

 

「ハル……!」

 

 綱吉が顔面蒼白になりながら相手の名前を口にした。

 

(ま、まずいんじゃないかな、これ)

 

 恋人がいるなんて聞いてなかったけれど、さっきの体勢はどう頑張っても言い訳ができない。

 

「ツナさん、これはどういうことですか。 まさか、まさか――!」

 

 数歩踏み締めた彼女が、なにかを察した表情でまた数歩後ずさりする。

 まるで舞台女優のような大げさな動きに気を取られていたら、女の子はみるみるうちに目に涙を浮かべた。そして、辺り一面に轟かせる声量で叫ぶ。

 

「ハルというものがありながら、浮気ですかあああ!?」

「なっ――」

 

 綱吉が息を呑んだ瞬間、こらえきれずにといった様子で女の子が走り出す。スポーツでもやっているのか、無駄にフォームがきれいだった。あっというまに背中が小さくなっていく。

 

「あらら、これって修羅場? ってか、沢田ちゃん、もしかして浮気?」

「い、いや、全然。そもそも俺たち付き合ってなんか――」

「いいから早く追いかけなよ! こっちはいいから、早く!」

 

 綱吉が弁明すべき相手は利奈たちではない。

 早く誤解を解かなければ、二人の関係に大きな溝が生まれてしまう。

 

「本当に違うからね!? 付き合ってないからね!?」

 

 念を押しつつも、綱吉は彼女を追った。なんとか誤解が解ければいいけれどと背中を見送っていた利奈は、ロンシャンと二人きりな現状に気付くのに時間がかかってしまった。

 

「……なんか、聞いたことある声のような」

 

(あっ)

 

 綱吉を促すためとはいえ、うっかりロンシャンの前で声を出してしまった。

 利奈は咄嗟に口元を手で覆ったが、ロンシャンは疑惑のまなざしで利奈を見つめる。

 

「どっかで見たことある顔の気もするんだよね。俺と会ったことない?」

「っ……」

 

(お願い、気付かないで!)

 

 彼女はまだ戻ってこないのだろうか。武たちはどこにいるのだろうか。

 

「んー、だれだったっけ、あとちょっとで思い出せそうなんだよね。えーっと――」

「思い出さなくていいよ」

 

 背後から伸びた手が、利奈を覆うようにベンチの両側に置かれた。

 

(ひ、ヒバリさんっ!)

 

 見なくてもわかる。やっと助けに来てくれたらしい。

 安堵しかけた利奈は、ロンシャンの顔があまりにもひきつっているのを不審に思って顔を見上げて――凍りついた。

 

 度重なるイレギュラーは、綱吉と利奈を苦しめるだけでは終わらなかった。恭弥の顔を、夜叉のものへと変容させていた。

 

「次から次へと邪魔が入って、今度は逃亡? どういうことなのか、一から説明してもらおうか」

「……はいっ」

 

 自分に落ち度がないことを素早く確認してから、利奈は頷いた。作戦が失敗に終わりそうな予感を、考えないようにして。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

Wデート(現地解散)

 ――瞬きをしているあいだに、舞台は遊園地から動物園前に移動していた。

 正しくは、利奈が瞬きしかできずにいるうちに、話がまとまってしまっていた。

 

「じゃ、俺たち先に入るけど……その……頑張って」

「一緒に頑張りましょうね! さ、ツナさん、まずは腕を組みましょう! なんてったってデートですから!」

「やだよ!」

 

 恋人同士がじゃれて戯れているかのようなやり取りを見せながら前を行く二人の背を、呆然と見つめる。

 

(あれ、なんでこうなったんだっけ?)

 

 さっきまで遊園地にいたはずなのに。あの二人は、さっきまで喧嘩していたはずなのに。

 

「なにぼうっとしてるの」

 

 耳朶を打つ声に、反射的に背筋が伸びる。隣にいるのは、まったく知らない顔の人だ。

 

(行くしかない)

 

 足を踏み出すまでのほんの数秒で、利奈はこうなった経緯を思い返していた。

 

 

 ――あの女の子が現れてから、状況は激変してしまった。

 綱吉は女の子を追いかけて不在。利奈は同級生に絡まれて万事休す。利奈のほうは恭弥がやってきたことで解決したが、肝心の綱吉が戻ってこなければ意味がない。

 

「あちゃー、呼ばれちゃった! そーいえば彼女戻ってきてないね」

 

 どうやらロンシャンは迷子だったようで、呼び出しの放送とともに退場した。どうりで、いつまでたっても彼女が登場しなかったわけだ。

 

 一方その頃、綱吉は修羅場を迎えていた。

 

「だから誤解だって言ってるだろ! クラスの子と遊んでたらロンシャンに誤解されただけで! 別にデートしてたわけじゃないから!」

「嘘です! 絶対嘘です! だってあの子、ツナさんの背中にピッタリくっついてたじゃないですか!」

「あ、あれは……ちょっとふざけてただけで――」

「そんな言い訳、信じるわけないですかあああ!」

 

 紛れもなく修羅場だった。綱吉は女の子が逃げないように腕を掴んで弁明していたが、女の子はわんわんと泣きながら首を振っている。遠目にも二人がわかるほどの目立ち具合だった。

 第三者的な視点から見たら、どうあがいても綱吉が悪者扱いされるだろう。事情を知っていても綱吉の言い訳の苦しさがすごい。残念ながら、その原因は利奈だが。

 

(えー。どうしよう、近づきたくない)

 

 下手に近づくと女の子が逆上してしまうというのもあるけれど、周囲の好奇の目が痛い。ここで参加すると、浮気相手登場という、一番の見せ場が出来上がってしまいそうだ。火に油を注いでしまう。

 かといって、綱吉一人ではいつまで経っても誤解は解けないだろう。

 女の子は激昂しているし、状況証拠は綱吉の黒を示していた。つまり、どうあがいてもお手上げだ。――この場に、もう一人の人物がいなかったならば。

 

 炎に少量の水を入れたところで効果はない。しかし、炎は酸素がなくなればたちまち消滅する。炎を飲み込んでしまうほどの、酸素が消えうせるほどの、重圧があれば。

 

(あ、これはやばいやつ……)

 

 無言で歩を進める恭弥の背に、利奈はひやりと肝を冷やす。

 

 ――青い炎は、赤い炎よりも温度が高い。

 

「さあ、どうしてくれるのかな?」

 

 数分後には、恭弥の足元に座る二人の姿があった。もちろん、地面に正座である。二人とも頭を垂れ、ガタガタと体を震わせている。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい! ほら、ハルも謝れって!」

「うぐっ、ひぐっ、す、すみませんでしたっ……!」

 

 二人とも目に涙を浮かべている。女の子――ハルのほうは最初から泣いていたけれど、半泣きが号泣になっていた。綱吉が囮役をやっているなんて知るはずもなかったのだから、今回一番の被害者だ。

 第三者であるビアンキが当事者に代わって説明してくれたおかげで、彼女の誤解は完全に解けていた。利奈と恭弥以外はみんな知り合いだったようで、全員が集まったら驚くほど早く自分の勘違いを認めてくれた。

 

「うっ、ツナさんがそんな使命を担っていたとは露知らず……っ! ハル、ツナさんのお嫁さん失格です……!」

「なっ! そういうの挟むのやめろ!」

「うるさい」

「ひい、すみません!」

 

 ハルは他校に通う同い年の女の子で、いつも綱吉に猛烈アタックしている面白い子だそうだ。綱吉と付き合っていないのならばさっきのは浮気にならないと思うのだけど、綱吉のお嫁さん志望の彼女にとっては、そうではなかったらしい。頑なな態度からして、思い込みが強い子なのだと思う。

 

(沢田君の知り合いはみんな変わってるなー)

 

 自分のことは完全に棚に上げておく。所属している委員会が異質なだけだから、数には含めない。

 

 正座を免れたので、利奈は三人の横顔を見ながら、武と一緒に隼人を挟み込んでいる。

 綱吉が正座させられていることに隼人は青筋を立てているが、ここで割って入られると面倒なことになるので、なんとか我慢してもらいたい。なにかあったら二人で抑え込めるようにと、利奈と武は隼人に警戒を配っていた。

 

「君たちのせいで計画は台無し。この落とし前、どうつけてくれるつもりなんだい?」

 

 舐る声音は完全に悪役のものだ。その筋の人がいたら、小指に別れの挨拶をしていただろう。小刻みに震えていた二人の肩がビクッと跳ね、それからまたガタガタと震えだす。

 

 これだけ騒ぎが大きくなってしまっては、もう作戦の続行は不可能だろう。

 綱吉とハルが騒いでいるのをカップルの喧嘩だと思って見物していた野次馬たちは、恭弥の登場で霧散した。しかしその代わり、大きく円を描いた外周で観衆が固唾を呑んでいる。男女二人を正座させて集団で睨みを利かせている図はとても目立つのだ。

 おかげで、遊園地だというのに利奈たちの周りに人の姿はない。アトラクションの前だったら、営業妨害で追い出されていたところだ。

 

「それくらいで勘弁してやれ」

 

 恭弥の不興を買うことを恐れず声を出したのは、もちろんリボーンだった。ズゾゾゾと音立ててコーラ――いや多分、コーヒーフロートを啜り、全員の注目をさらに集める。

 

(……クワガタムシ?)

 

 リボーンのぷくぷくとしたほっぺに、一匹のクワガタムシが止まっている。追い払うことなくコーヒーフロートを飲み干したリボーンは、自分に横目を向ける恭弥を見上げ、言葉を続けた。

 

「俺の子分たちの情報だと、園内にそれらしき集団はないそうだ。どうやら、ハズレみたいだな」

 

 子分とは、クワガタムシのことなのだろうか。それともほかにも手伝いをしている人がいるのだろうか。聞いてみたいけど聞ける雰囲気ではない。

 

「作戦に誤算はつきものだぞ。ここは新たな戦力が増えたと思って、割り切っちまえ」

「戦力、ね」

「はひ?」

 

 恭弥の視線がハルに流れると、隣の綱吉がギョッとする。

 

「え!? まさか、ハルにも手伝わせるつもりなのか!?」

「囮役が増えるんだ。合理的だぞ」

「どこが!?」

「ツナさんのお手伝いができるんですか!? 私、やります! やらせてください!」

 

 ――確か、そんな流れだったと思う。

 

 想い人の綱吉と恋人役がやれると浮足立つハルと、気圧される綱吉。

 

「ま、待てよ! そしたら相沢さんはどうするんだよ! 獄寺君も山本も駄目なんだろ、そしたらもうだれも――」

「いるじゃねえか、ピッタリなのが。一番長く接していて、お互いに気心が知れてるやつが」

 

 ――そこから利奈はあまり覚えていない。驚きのあまり意識が吹っ飛んでしまったらしい。

 

「ヒバリさん!? いや、無理だろ、ヒバリさん狙う不良とかいるわけないじゃん! そもそもヒバリさんはそういうの無理だろ」

「ヒバリとわからなければいいんだろ。ちょうどこういうアイテムがある」

「眼鏡?」

「変装用に屈折率を調節した眼鏡だ。これを掛けると目の形や大きさが変わるから、パッと見別人に見えるようになるぞ」

「もらおうか」

「ヒバリさんが興味津々だ!?」

「ほかにもいろいろあるが、よそから来る連中を欺くくらいならそれで充分だろ。どうせ学ランと風紀委員の腕章くらいでしか認識してないだろうしな」

 

 あれよあれよという間に計画が修正され、利奈は言われるがまま、恭弥と組んで動物園に来ることになった。あまりの急展開に心が追いつけていない。

 

『ツナたちは右に行った。お前たちは左のルートに行ってくれ』

 

 通信が入って、利奈の回想を打ち切った。

 一騎当千の恭弥が囮役なので、武と隼人は綱吉たちについている。通信を送るリボーンは、眼鏡に内蔵された発信機を頼りに指示を送ることになっていた。

 

『左だね、了解です』

 

 返事をすると、恭弥が身じろぎをした。

 

「赤ん坊がなんだって?」

「沢田君たちは右にいるから、左に行けだそうです」

「わかった」

 

 恭弥の眼鏡は変装用のものに掛け替えられているので、通信機能はついていない。だから利奈が伝達を担わなければならなくなっている。

 責任重大だ。ただでさえ緊張で脈拍が上がっているのに。

 

 眼鏡の効果は絶大で、今のところ恭弥を恭弥だと気付いている人はいない。つり目がたれ目になっているので顔を見るたびに違和感があるけれど、いつもの恭弥が隣にいるよりはマシだ。身構えなくて済む。

 

 今回は囮が二組なので、固まってしまわないよう、リボーンに指示を出してもらいながら動くことになっている。遊園地よりも動物園のほうが団体連れが多いらしいので、園内まんべんなく回って釣り糸を伸ばす予定だ。時間帯も夕方に近づいてきたし、そろそろ出没してもいい頃合いでもある。

 リボーンとビアンキはデートをしながら園内を散策するそうだ。ほかのカップルが襲われていたら、すぐに報告してくれるだろう。

 

「とりあえず、どこに行きましょうか」

 

 なるべく平静を装って声をかける。油断していると、両手両足の動きが連動してしまいそうだ。

 

「静かなところ」

 

 すでに恭弥は人の多さにうんざりとした顔をしている。

 群れを嫌う恭弥にとっては、ある意味一番苦手な場所だろう。動物は群れを作る生き物だし、動物の檻の前には人が群がっている。こんな機会でなければ、絶対に訪れないはずだ。

 

『リボーン君、人が少ないところってどこ?』

『西側だな』

『ごめん、西側ってどっち?』

『ヒバリの指図だな! てめえ役割忘れてんのか! 人がいないところ歩いてどうすんだよ!』

『右に進め。ライオンの檻をまっすぐ行ったところに爬虫類館があるぞ』

『爬虫類? うー、わかった。ありがと』

『おいヒバリ! 無視してんじゃねえ』

 

 恭弥の眼鏡に通信機能がついていないことを知らないのか、隼人がわめいている。利奈は情報の取捨選択ができる部下だったので、爬虫類館に行きましょうとだけ恭弥に声をかけた。早くもマニアックなコースを選択してしまったけれど、定番のデートコースは綱吉たちに任せよう。

 

『お二人が爬虫類館に行くんでしたら、ハルたちは反対方向に行ったほうがいいですよね! リボーンちゃん、私たちはどこに向かえばいいですか?』

『好きに動いていいぞ。バカップルらしくイチャついてろ』

『はひぃ!? そ、そそそんな、イチャつくなんて――が、頑張りましょうツナさん!』

『や、やらないぞ!? ちょ、しがみつ――』

『おいバカ女! 十代目にくっつきすぎだ離れろ!』

 

 向こうはかなり騒がしい。恭弥には聞こえてなくてよかった。あまりのうるささに眼鏡を壊しかねない。やたら入る通信音声を聞き流しつつ、足を進める。

 次こそはハプニングが起こりませんようにと祈りながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ふれあい時間は続かない

 これから向かう爬虫類館は、亜熱帯を意識した内装で、大蛇やワニ、大トカゲなどの迫力満点な爬虫類を臨場感たっぷりに眺められる施設らしい。毎度おなじみパンフレットにそう書かれている。

 

(爬虫類か。そんなに好きじゃないんだけどなあ)

 

 薦められて決定したものの、利奈は爬虫類を好んでいなかった。

 見るのもいやというほどではないけれど、近づきたいとは思えない。大きければなおさら。

 

(ヒバリさんも苦手だったり――とか。しないよね、しないな、うん)

 

 パンフレットから顔をあげて恭弥の表情を確認するが、無だ。嫌がってもいないし、期待してもいない。恭弥にそんな弱点があるとは思っていなかったから、期待はしていなかったけれど。

 

(任務だし、仕方ないよね。蛇に触れとか、脱走したワニを捕まえろ! とかだったら絶対無理だけど。まっ、ヒバリさんが一緒だからって、そんな変な展開はないでしょ)

 

 ――自分の発想を否定する利奈は知らない。利奈が引っ越してくるほんの少し前に、この動物園でライオンの脱走騒ぎがあったことを。でなければ、ライオンの檻の前をのんびりした足取りでは歩けなかっただろう。

 やたら真新しくなった檻に恭弥も目をやっているが、そこまで興味がなかったのか、そのまま目をそらす。

 

『リボーンちゃん、前方に高校生と思われる方々がたくさんいらっしゃいます! どうしましょう!』

『よし。さりげなく前を通ってそいつらを刺激しろ。手段は問わない』

『はい!』

『無責任なこと言うな!』

 

 どうやら、ハルはノリノリで仕事をしてくれているらしい。

 付き合わされている綱吉の心労を思うと素直に頑張れとは言えないものの、人数の多いあちらに当たってほしいという気持ちはある。しかし、慣れでいうと暴力沙汰が日常茶飯事になっているこちらのほうが有利だ。犯人たちはもれなく病院送りになるけれど。

 とりあえず、新しい情報を恭弥に伝えなければ。

 

「沢田君たちの組が高校生を見つけたから、さりげなく刺激するそうです。沢田君いやがってたからそんなにしないかもですが」

「ちゃんとやってって言って」

 

 すかさず眼鏡のつるを押す。

 

『ヒバリさんがちゃんとやってって言ってます』

『だそうだ。やらなきゃ咬み殺されるぞ』

『無茶言うなよ!』

『え、それヒバリさんに言っちゃっていいの……?』

『ちがっ、違うよ!? リボーンに言っただけだから! ヒバリさんにじゃないから!』

『だよね。びっくりした』

 

 遊園地で一緒に遊んだおかげで、綱吉とはだいぶ気さくに話せるようになった。教室内ではおとなしい綱吉だが、友達の前だと面白いほど反応がいい。

 

『わざわざ十代目が行かなくても、俺が一発そいつらをのしてやればいいんじゃないっすかね。そのほうが早いと思いますよ』

『ダメダメ! 普通の人だったら大変だよ! 獄寺君が指名手配されちゃうって!』

『十代目……! 俺のことを思ってくれてるんすね! ありがとうございます!』

『そういうわけじゃないけど……』

『前に獄寺やらかしたもんな。次は出禁になるかもしれねえし』

 

 前回になにをやらかしたのだろう。聞きたいような、聞いてはいけないような。直接言い合っているのか、そこで通信は途切れる。

 

 そんな一幕のうちに、爬虫類館が見えてきた。リボーンが言っていた通り、爬虫類館は人気がないのか、前を素通りしていく人が多い。みんな同じ方向に足を進めていて、にぎわっている先には、ふれあい広場の看板が立っていた。そう、動物たちとのふれあいコーナーである。

 

 爬虫類館が空いている理由が分かった。爬虫類コーナーとふれあいコーナーが並んでいれば、大多数の人はふれあいコーナーに向かうだろう。実際に子供たちなんかは爬虫類館に見向きもしないで走っていくし、この配置で決定してしまった人は、よほど商才がなかったのだろう。捕食者と被食者を横に並べるなんて。

 

(ふれあいコーナーじゃ駄目かな。ヒバリさん、気が変わってくれないかな)

 

 作戦内容を考えれば、人が多いうえにカップルが行きそうなふれあいコーナーに向かうべきだ。作戦を盾にすれば、恭弥も拒絶はしないだろう。

 

 しかし恭弥は、人嫌いで群れ嫌いの孤独を愛する風紀委員長である。人が少ない場所を望んでいた恭弥を無理やり連れて行ったらどんな反応をするかわからないし、変更には利奈の私情が大いに含まれている。個人的な感情で動物たちを危険にさらすのはためらわれた。ここは上司の要望を通すべき場面なのだろう。

 そう決意した利奈は爬虫類館の扉に手をかけたものの、隙間から漂ってくるむわっとした熱気に腕を止めた。

 

「……」

 

 真夏の炎天下に、亜熱帯地方を再現した展示に入りたがる人はいない。人が少ない理由がまたひとつ判明した。

 

「ヒバリさん」

「なに」

「……目的地変更って今からでも可能ですか?」

 

 目線を合わせずに振り返った利奈に、恭弥が目をすがめた。

 もっと早く言えという言外の圧力が突き刺さるけれど、すぐ近くにふれあいコーナーがあるのが悪い。楽しげな声がここまで聞こえてくる。

 

「で、どこに行くの?」

「あ、いいですか? だったらふれあいコーナー……に……」

「……」

「無理だったらいいんですけど……」

「……」

 

 なにも言わないまま、恭弥が踵を返す。NGが出てしまったかとヒヤヒヤしたものの、恭弥が足を運ぶ先は利奈の望む場所だ。利奈は目を輝かせながら後ろに続く。

 

「うっわー、かっわいいー!」

 

 もふもふとした動物が集合しているさまは、控えめに言っても天国だった。ウサギにヒツジ、モルモットにヒヨコと、触り心地が良くて瞳がつぶらな動物がそろい踏みである。

 さっそく利奈はウサギを抱き上げ、ふかふかとした感触を楽しみながら膝に乗せた。人に慣れているウサギは、鼻先をひくひくと動かしながらも抵抗はしなかった。あまりのかわいさに頬が緩んでしまう。このまま連れて帰りたい。

 

(あっ、そうだヒバリさん)

 

 危うく任務とともに恭弥の存在まで忘れかけた利奈は、慌てて辺りを見回す。

 隅から探し始めたせいで見つけるのに間ができたが、恭弥は広場の中央にあるガラスケースの前に立っていた。後ろ姿だから表情は確認できないけれど、その背に不穏な空気は漂っていない。ひとまず胸を撫でおろす。

 

 よくよく思い起こしてみれば、恭弥が群れている動物――ハトや猫などに危害を与えたことはない。彼が狩るのは人の群れだけだ。人間の群れは許せなくても、本物の動物の群れならば許せるのかもしれない。

 

 恭弥がなんの動物を見ているのかが気になり、利奈はウサギを放して恭弥の背後に立った。できるだけそっと近づいたけれども、どうせわかっているだろう。グッと身を乗り出してガラスケースを覗き見る。

 

 ガラスケースのなか、縦横無尽に動き回るふわふわした黄色い小鳥。ヒヨコだ。

 ニワトリの子供であるヒヨコは、黒々とした瞳をぱちぱちと動かしながら、その小さな足でガラスケース内を走り回っている。手のひら大の鳥が元気いっぱいさえずっているさまは、見ている人から、かわいい以外の言葉を根こそぎ奪っていく。

 

「かわいい」

 

 思わず口にすると、恭弥が半歩横にずれた。入る隙間がないから後ろにいると思われていたらしい。

 

 恭弥に甘えて一歩進んだ利奈は、すぐさま腕を伸ばしてヒヨコの捕獲にかかった。

 上から掴むとヒヨコが恐がるからと、係の人からは掬い取るように抱き上げてくださいと推奨されている。でも活きのいいヒヨコは、捕まえようとする人の手からすぐにすり抜けてしまう。ここだけふれあいコーナーではなく、ヒヨコ掴みコーナーになっていた。みんなゲーム感覚でヒヨコを捕まようとしている。

 

「う、逃げる、ああっ! よいしょ、それ、あー、だめだ、えいしょ!」

「楽しそうだね」

 

 皮肉なのか、ただの感想なのか、恭弥がぽつりと呟いた。

 やっきになって追い回して、なんとかおてんばなヒヨコを一匹手に入れることに成功した。

 

「やってやりましたよ、ヒバリさん!」

 

 ふんと胸を張る。

 

「ここ、そういう場所だったっけ」

 

 これは完全に皮肉である。

 

「だってすごく逃げるんですよ。ヒバリさん、捕まえられます?」

「おとなしいのを捕まえればいいでしょ。ほら」

「い、いとも簡単に……」

 

 さすが恭弥とでもいうべきか、恭弥は一掬いでヒヨコを手中に収めてしまった。あまりの早業にヒヨコが困惑気味に首をひねっている。かわいい。

 またもや顔が緩む利奈だったが、ヒヨコを見る恭弥のまなざしも、普段より幾分柔らかくなっているように感じられた。意外と動物好きなのかもしれないと思いつつ、それは胸に秘めて――

 

「こういう動物好きなんですか?」

 

 秘めたはずの感想が、質問になっていた。

 その瞬間、たれ目に矯正する眼鏡越しにも関わらず恭弥の目がつり上がり、利奈は本日最大のやらかしに自分を罵倒する。どう考えても、地雷だった。

 

「なーんて! だったらなって! ヒヨコかわいいですもんねー、ヒバリさんの持ってる仔もかわいいですし! なんでもないです、聞かなかったことにしてください、ちょっとその眼鏡のせいで見間違えたみたいです! アハハ、あー、かわいいなーヒヨコ」

 

 わざとらしく自分のヒヨコを溺愛して場をごまかそうとするけれど、空回りしているのは否めない。じたばたするヒヨコをなだめながら恭弥から視線を外し、なんとかやり過ごそうとすること十数秒、その手はいきなり伸びてきた。

 

 身構えてヒヨコを落としたりしないですんだのは、恭弥の動きが遅かったからだろう。伸ばされた両手の先にヒヨコが乗っているので、利奈は反射的に自分の両手を差し出した。そこに、ヒヨコが降ろされ、利奈の手のひらの上で二匹のヒヨコが対面する。

 

「どうだろうね」

 

 恭弥の声を受け、利奈は顔を上げた。声を出そうと口を開けた。しかし――

 

『大変だ! ツナたちが連れて行かれた!』

 

 切羽詰まった武の声が、利奈の思考回路を日常から非日常へと切り替えさせた。

 

『当たったかもしれない! みんなこっちに来てくれ!』

『場所はどこだ?』

『サイがいる場所だ! 水のなかにいる動物エリア!』

『わかった。ヒバリたちの組も、山本たちの組に合流しろ。わかったな』

「了――」

 

 答えかけて言葉を止める。眼鏡のつるを押さないと、声が向こうに届かない。ヒヨコを手から降ろさないと。

 

「――」

 

 名前を呼ぼうとした利奈の右耳に、恭弥の指が触れていた。先ほどとは比べ物にならないほどの速さで利奈の顔に触れた恭弥は、眼鏡のつるを押しながら自分の手の甲に唇を押し当て、言葉を吹き込んだ。

 

『了解』

 

 恭弥の声が、イヤホン越しに耳に入る。

 

(……!? っ!?)

 

 思考回路が断線した。

 突然の超至近距離に固まる利奈などには目もくれず、恭弥が音もなく走り出す。恭弥の鋭敏な聴覚は、利奈の耳元で響いた音さえも拾い切っていたようだ。

 

『当たりみてーだな。ヒバリからもらった資料に一致する奴が何人かいる。隼人、まだ行くなよ。ツナが一発食らってからじゃねーと、こっちがボコボコにする理由がなくなる』

『クッ! 十代目、申し訳ございません!』

 

 そんなー! と、綱吉が全力で叫んでいる幻聴が聞こえた。

 通信を聞いてなんとか平常心を取り戻した利奈は、手にしたヒヨコをケースに戻すと、すでに姿のない恭弥のあとを追うために走り出した。

 恭弥が動物好きかどうか聞く機会は、完全に失われてしまったのであった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

予想外の助っ人

 そのあとの展開は、これといって取り上げるものでもない。

 不良高校生が五人十人集まったところで恭弥どころか、武たちの敵でもなかった。それだけだ。武器を持った大学生数十人相手に戦えてしまう人たちなのだから、当然と言えば当然の結果だけど。

 

 おかげで風紀委員の出る幕はなかったのだが、そこに大いに不満を抱いてしまうのが恭弥だった。恭弥が駆けつけてきたときにはもう勝負がつきかけていたそうだが、彼は逃げ腰の高校生たちを蹂躙し、それだけでは飽き足らず、新たな群れを狩りに動物園を飛び出していった。たった一人で。

 

 そんなわけで、高いヒールに手間取って遅れた利奈が辿り着いたときには、すでに恭弥の姿はなく、満身創痍一歩手前の高校生たちが至る所に転がっていた。

 それだけでだいたいの事情は察せたが、どうしても、ひとつだけ、言っておきたいことがあった。叫ぶように。あるいは、避けるように。

 

「なんで沢田君、裸なの!?」

 

 綱吉は服を着ていなかった。いや、下着は履いていたし、上着を肩に掛けているから全裸ではないけれど、それが逆に変態っぽさを醸し出していた。

 

「あ、えっと、これはいろいろと事情があって……! そのっ、わざとじゃないっていうか、勝手にこうなるっていうか――」

「露出狂!? ええ、今それ言うの!?」

「そうじゃなくて!」

 

 半裸で興奮されると、より変態度が増す。

 ビアンキの背後に隠れて視界から遠ざける利奈と違い、同性であるはずのビアンキとハルを含めて、みんなは平然としている。友達にはすでに性癖を暴露しているのだろうか。

 

「だからそういうことじゃなくてっ! 俺、そんな変態趣味ないから! これには深いわけが!」

「あー、相沢は初めて見たんだっけ」

 

 言い募れば募るほど綱吉のガチ度が増すのだが、友人の窮地は見過ごせないとばかりに武がフォローに入る。

 

「最初はびっくりするよな。でも、ツナって全力出すときはいつもこうだぜ」

「いつも……?」

 

 それはそれで問題だ。

 

「ほら、ボクシング部とか似たような格好でリングに上がるだろ? そんな感じで、ツナも本気で戦うときは服を脱ぐんだよ。この格好のツナはすっごく強いんだぜ!」

「そ、そんなもの、なの?」

 

 ボクシングと同じだと言われると、なんだか納得してしまいそうになる。プロの選手なんかは試合の前に決まった動作――ルーティンなんかがあるらしいから、そういうものなのだろうか。それならば、そこまでおかしな行動ではないようにも――

 

「今、ボクシングと言ったな!」

「うわぅ!」

 

 綱吉の奇行を受け入れかけた利奈の思考を邪魔するように、なぜかこの場に増えていた了平が声を張り上げた。

 

「やはり、その戦闘スタイルはボクシングだったんだな、沢田!」

 

 ビクッと反応した綱吉が、尋常ではない速度で首を振る。

 

「いえいえ! 偶然です偶然!」

「偶然!? 狙ってやっているのでないというなら、それこそお前は極限にボクサーだ! 今すぐボクシング部に入るしかないだろう!」

「けっこうです!」

 

 了平が前のめりになって綱吉を勧誘する。

 

「……で、なんで笹川先輩がいるの?」

「今かよ」

 

 隼人に悪態をつかれるが、顔見知りの三年生が増えているのと、同級生が突然半裸になっているのとで、先に了平に突っ込みを入れる人は稀有だと思う。

 

「あいつは俺が呼んでおいた」

 

 利奈の疑問に答えるのはリボーンだ。

 

「夏祭りのときみたいに仲間がいたら面倒だったからな。念には念を入れておいたぞ」

「へー、わざわざ来てくれたんだ」

「ところで、動物園主催のボクシング大会はどうなったのだ! 対戦相手が全員ダウンしてしまっているではないか!」

「……騙したね?」

「テヘペロっ」

 

 百点満点のテヘペロを決めるリボーン。かわいらしい仕草だけど、嘘をついてまで保険をかける用意周到さに、利奈の本能は警鐘を鳴らしている。風紀委員たるもの、見た目で騙されてはいけない。

 

(まあ、それは置いといて。とりあえず、笹川先輩にもお礼言っておこうかな。京子のお兄さんだし)

 

 笹川というありふれてはいない名字でわかるとおり、了平は京子の兄である。

 ほわほわした京子と熱血系の了平を見て、兄妹であると見抜ける人はなかなかいないだろうが、きっと神様がバランスを重視して性格を調整したのに違いない。

 二人が京子寄りの性格だったら天然すぎて収拾がつかないし、逆に了平寄りの性格だったとしても、うるさすぎて手に負えなくなる。二つに分かれているから、なんとか釣り合いがとれているのだ。

 京子があの性格だったら、絶対にこんな仲良くなれなかったわと辛口なご意見は、花からである。利奈も同感だ。京子は怒ったふりをして笑っていたけれど。

 

「あの、今日は来てくださってありがとうございます」

「ん? おお、相沢か! ヒバリもいたが、今日の大会は風紀委員がセッティングしていたのか?」

「えーっと、……そんな感じで考えてくれればオッケーです」

 

 大会を作戦に置き換えれば間違ってはいない。

 

 利奈からすれば了平は京子の兄であるが、了平からすると利奈はあくまで風紀委員の一人である。初対面が委員会活動中でなければ、妹の友達でいられたのだけれど。 

 

(ボクシングの活動費でけっこうもめてたからな……。春から始まって夏まで引っ張るなんて、笹川先輩もかなり強情だよね)

 

 部員が少ないのだから、活動費が前年度より少なくなるのは仕方ない。

 委員会活動中は軋轢があるせいでろくに会話もしていないけれど、こうしてみると、さっぱりとして好感の持てる性格である。しかし、活動費は増やせない。

 

 そして、了平の招集もまったくの無駄でもなかったそうだ。

 高校生たちはハルを囲むようにして綱吉を脅したそうだが、そのタイミングに了平が到着したおかげで、ハルに逃げるきっかけが訪れたらしい。ついでに、武たちが助太刀に入るきっかけも。

 

「そのあとは、私を捕まえようとした男の人をツナさんがドーンと突き飛ばしてくれて! それであとはビュッビュッシュパって感じで、もう最高にかっこよかったんですよ! ああ、見せたかったです、ツナさんの雄姿……!」

 

 うっとりした顔で両手を組むハル。

 惚れ直しましたと蕩けるのはいいけれど、その綱吉が服を破いて半裸なので、いまいち共感ができなかった。

 

 ――そんな感じで、風紀委員主導の捕り物劇は、盛り上がりどころもなく解決した。ハルが出てきたところが一番の見せ場だっただろう。

 

 捻った足が痛んだら大変だからと武に家まで送ってもらったり、リボーンに発注した眼鏡を受け取ったり、他県の高校生すら屠ったことで県外にまで恭弥の名が広がったり、恐いもの知らずの不良たちが報復に訪れて全滅させられたりしたけれど、ひとしく夏の思い出だ。夏休みはそうやって終了した。

 

 最近起こった小さな事件をあげるとすれば、傘をなくしたことだろう。

 白い水玉模様のついた青い傘。お気に入りの傘だったのに、いつの間にかどこかにいってしまったのだ。通り雨の予報があった日に持って行ったのは覚えているけれど、そのあと、いつなくしたのかを覚えていない。雨は降っていない。

 店を出てからの記憶がないから、もしかしたら店の傘入れに置き忘れて帰ってしまったのかもしれない。晴れていると傘の存在をうっかり忘れてしまうのだ。雨は降っていない。

 

 そんなことより、二学期が始まった学校では、もっと重大な事件が起きた。雨は降っていない。

 それはとても大きな事件で、それは風紀委員になった利奈にとってもっとも重要な事件だったのだが、雨は降っていないし、利奈にできることなどなにもなく、いつの間にか事件は終わっていた。雨は降っていない。

 

 雨は降っていない。快晴続きである。

 雨は降っていない。それなのに、ずっと、雨の気配が続いている。青空なのに。雨は降っていないのに。雨が、雨は、あの日の空は――

 

「本当に、思い出せませんか?」

 

 ――雨は、降っていない。 

 

 




日常編終了です。ここからが本編。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章:風紀委員長、なにがあったんですか
雨の邂逅


 雨はまだ降っていない。空を見上げて思うのは、そんなことばかりだ。

 憂鬱を体現するかのようなどんよりとした曇り空に、利奈は深いため息をついた。ため息をついたって、悪態をついたって、ここにはだれもない。応接室に、主の姿はない。

 机の上には書類が山積みになっている。これでも、一週間前に比べればだいぶ減ったほうだ。一週間前まではほぼ手付かずだったものが、少しずつではあるものの、処理されるようになってきたところなのだから。

 

(そろそろ、元通りになってくれるかな)

 

 近頃の恭弥は、校外を頻繁に出歩いていた。外に出て、手当たり次第に群れを咬み殺している。それだけならいつも通りに見えるだろうが、いつもと違うことを、風紀委員たちだけはわかっていた。もちろん、利奈も。

 彼は苛立っているのだ。苛立ちを周囲にぶつけている。そして、なにかを探している。もしくは、だれかを。

 

 ぼんやりと窓の外を眺めていた利奈は、チャイムの音で頬杖を解いた。ぼうっとしているあいだに、もう下校しなければならない時間になっていた。

 

 ――半月ほど前。並中生が次々と闇討ちされる事件が発生した。

 

 最初のほうは被害者が風紀委員だけだったので、これは並中風紀委員に対する宣戦布告だとか、今までの暴挙に対しての報復だとか、そんな噂が町内でひそやかに立てられたのを覚えている。

 風紀委員たちも当初はその線で調べたものの、町内の敵対組織をいくら洗っても犯人が見つけられなかったうえに、次第に風紀委員ではない生徒も襲われ始め、捜査は振り出しに戻った。それではと方向性を変え、並盛町の外へと捜査の手を伸ばしたら、隣町の黒曜町にある、黒曜中学校の生徒の仕業だと判明した。

 判明したと同時に恭弥が動き、この件はあっさりと幕を閉じる――と思われたのだが。

 

(雨、降りそうだな) 

 

 雨は降っていない。けれども、すぐにでも降り出しそうな空模様だ。傘をなくしてしまったから、雨が降ると困る。新しい傘を買えばいいのだけど、返しに来るかもしれないし――と考えたところで、ふと我に返る。

 

(……返すって、だれが?)

 

 傘はなくした。持っていかれた。なくなった傘が勝手に戻ってくるわけないのに。

 

 気を取り直して昇降口を出る。最終下校時間ということもあって、この時間にいるのは部活動をやっている生徒ばかりだ。集団のなか一人、足を進める。

 

 ――あの日から数日間、恭弥は戻ってこなかった。

 恭弥が敵を屠りに向かったあとにもかかわらず副委員長の草壁哲矢が襲われたため、最悪の事態が頭をよぎったが、恭弥は戻り、並盛町は平穏を取り戻した。――少なくとも、表面上は。

 

「もう、終わったよ」

 

 恭弥はただ一言そう言った。しかし、すべてが終わったわけじゃないのは、その目を見ればわかる。

 それを裏付けるように、戻ってきた恭弥は荒れに荒れた。学校にはほとんど寄り付かずに町を出歩き、手当たり次第に群れを咬み殺しては屍の山を積み上げた――のが、戻ってきてから一週間ほどのあいだの出来事。最近になって落ち着いてきたものの、それでも普段に比べれば負傷者は多い。

 

 今が夏休みでなくてよかった。夏休み真っただなかだったら、隣町の病院を足してもなおベッドが足りなかっただろう。

 

(ヒバリさんを襲った黒曜生たちは病院送りになったけど、主犯格のメンバーは全員逃亡して、消息も不明。ヒバリさんからはなにも話してくれないし、手詰まりだなあ)

 

 かといって、こちらから蒸し返して、恭弥の不興をわざわざ買うわけにもいかず。

 恭弥の調子が完全に元に戻ってから情報を得ようということで委員会内では話がまとまったけれど、事態が停滞している状況は、利奈にとっても好ましくなかった。今までがうまく行き過ぎたからか、こういう後味の残る終わり方はどうも落ち着かない。快刀乱麻・完全勝利・一件落着が理想である。

 

 校門前に差し掛かって、利奈はふと顔を上げた。前を歩く生徒たちの動きが、同じ場所で大きく乱れていたのだ。

 彼らはギョッとした顔である一点に目をやり、チラチラと視界の隅で窺いながら通り過ぎ、恐々と振り返って小声でひそめきあっていた。

 

 校門の前に他校生が立っていた。

 白シャツ姿なら他校生だとすぐには判別できなかっただろうに、彼は九月にもかかわらず冬服を着こんでいる。そのせいで、最終下校時刻過ぎに帰るわずかな生徒たちの注目を一身に集めている。

 注がれる視線に含まれているのは、興味、関心、好奇心――だけではない。人によっては、ギョッとした顔で足を止める人もいる。警戒の表情を浮かべる人も。

 

(わかっててやってるのかな。……だとしたら、だいぶ悪趣味だけど)

 

 利奈は眉をしかめる。

 普通の感性を持っていたら、あの格好で並盛中学校の校門前には立たないだろう。着替えるまでいかなくても、制服を脱ぐくらいの気遣いはあってもいいはずだ。あんな事件があったあとなのだから。

 

(――わざわざ、黒曜中の制服で来るなんて)

 

 不良同士の諍いで片付けられてはいるものの、黒曜生が並中生を襲ったのは紛れもない事実である。これが一般生徒の下校時間の出来事だったら、すぐさま風紀委員が追い出していただろう。こちらだってピリピリしているのだ。

 

 そんな利奈のモヤモヤした感情はさておいて、他校生はじつに涼しい顔をして佇んでいる。校門に寄りかかることなく、身じろぎをすることなく、堂々と。周囲の視線に気付かないはずがないから、よほど神経が太いのだろう。あるいは、注目を浴びることに慣れているのか。

 横顔でもわかる顔立ちの良さに、もしかしたら後者なのかもしれないと思ったが、苛立つ利奈にはどうでもいいことだった。さすがに風紀委員の名前を振りかざして追い出したりはしないけれど、不快なものは不快である。その制服に罪はないのだけど。

 

(あっ)

 

 待ち人来たり。そんな顔で、彼は背筋を伸ばした。すらりとした長躯に近くにいた女子生徒がどよめいたが、彼はそちらを気にすることなく歩いてきた。――利奈のもとへと。

 

「待ってました」

 

 横顔がきれいな人は、正面から見てもきれいな顔をしているものらしい。口元に浮かべられた笑みの意味のなさを考えながら、利奈は胡乱な目を向けた。

 

 ――こうなる可能性はちゃんと考えていた。

 並中生と問題を起こした黒曜生が制服――挑発する服装で訪れたのならば、目的は風紀委員と接触するためだろうと。

 それなのに引き返さなかったのは、今が最終下校時刻で、校内に数人しか風紀委員がいなかったためだ。思い過ごしであってほしいという願望も含まれてはいたものの。

 

「雲雀恭弥に会いに来たんですが、会えますか?」

 

 挨拶もそこそこに、男はそう言った。

 利奈は警戒心を隠さず、しかし表情には出さずに答える。

 

「風紀委員長はいません。いたとしても、会わないほうがいいと思いますけど」

 

 これは本当だし本心だ。恭弥の機嫌にもよるが、運が悪ければ黒曜中の制服を見ただけで戦闘モードに入る可能性もある。

 

「そうですか。せっかく会いに来たのですが」

 

 いないのだから仕方ない。時間的にもうすぐ戻ってくるだろうけれど、それをわざわざ伝える必要もない。彼の素性がわからない以上、下手に会わせるのは危険だ。――おもに校舎が。

 

「では、伝言をお願いできますか? 貴方は……風紀委員ですよね」

 

 念押しの視線が利奈の左腕に落ちた。

 この腕章だけが、利奈を風紀委員だと認識させる符号になっている。つまり、この腕章がなければ、だれも利奈を風紀委員だとは思わない。彼だって。

 

「わかりました、あとで伝えます。なんて言えばいいですか?」

 

 断る理由もないので、素直に応じた。

 

「そうですね……。僕が来た、とだけで十分でしょう」

 

 随分と簡素な伝言だ。他人には知られたくない話があるのかもしれないと頷きかけた利奈は、すんでのところで頭を止めた。

 

「あの、お名前は?」

 

(危ない危ない、大事なことを忘れるところだった)

 

 訪問者の名前を失念したら、引き継ぎ役失格だ。あとで恭弥に怒られてしまう。

 

「名前、ですか?」

 

 そこで彼はなぜか、おかしそうに唇を歪めた。おどけたような顔で微笑む。

 気安げな態度は初対面にしてはあまりにも馴れ馴れしく、不快感はないものの、利奈に違和感を抱かせた。――彼と会うのは、本当にこれが初めてなのだろうか。

 

 その疑問に拍車をかけるように、彼は自分の喉元に手を当て、人差し指で唇を撫でた。もったいぶるような動作はやけに洗練されていて、うっかり見惚れてしまいそうになる。

 一度見たら忘れない顔だ。一度見たら、忘れない。だから、会ったことなんて――

 

「貴方はもう、知っているでしょう?」

 

 後退りしたくなる体を理性で押しとどめる。風紀委員が逃げるわけにはいかない。

 

(なにを言ってるの、この人)

 

 緩く爪を立てるような声に、聞き覚えなんてない。紺色の瞳に、見覚えなんて。

 

 地面を突く音に、利奈は思わず視線を落とした。彼が、手に持っていたもので地面を突いたのだ。視線を逃すことに成功してわずかに気が緩んだ利奈だが、すぐにそんなことはどうでもよくなってしまった。

 

 彼の左腕に握られていたものは。彼が背後に隠していたものは。

 

「本当に、思い出せませんか?」

 

 ――水玉柄の、青い傘。

 

 雨が、降り始めた。

 

 

――

 

 

「うわー、降り出しちゃったか」

 

 自動ドアが開いたと同時に、利奈はうんざりとした顔で空を見上げた。

 店に入る前の薄い雲のまま、音を立てて大雨が降っている。天気予報は曇り、ところによって通り雨が降ると言っていたけれど、どうやら、ところに当たってしまったようだ。バーゲンをやっているからと、張り切って隣町まで遠征してしまったがゆえの悲劇である。

 

 念のために傘を持ってきていてよかった。せっかく、もらったばかりのお小遣いで買い物に来たのに、いきなり雨で台無しにしてしまうところだった。両手に荷物を持ちながら傘を差さなければいけないけど、そこだけは助かった。

 

 急な雨のせいで、店先では多くの人が利奈と同じように空を見上げている。この雨のなか、紙袋を持って家に帰るのは無謀だろう。通り雨だろうから、傘がなければ雨がやむまで店内で待つのが得策だ。傘を持つ利奈は、家に帰るために傘を開く。

 

(……ん?)

 

 潔く駆け出す人や、店内に引き返す人のなかで、同じ年頃の子がわかりやすく狼狽えているのが目にとまった。軒から顔を出して空模様を確認して、行くのは無理だと諦めて、でも帰らなくてはとまた空を仰いでいる。利奈と同じく、いや、利奈以上に多くの買い物袋を持っているから、この天気では帰れないだろう。

 切羽詰まった顔で何度も同じ仕草を繰り返す彼女に、利奈は自然と声をかけていた。

 

「ねえ、急いでる?」

 

 隣町で、知らない子相手だからこそできたのかもしれない。あとくされがないから、気兼ねなくお節介ができた。

 

「急いでるんだったら、入れてあげよっか? コンビニなら傘売ってると思うし」

 

 いきなり話しかけたせいか、女の子は面食らってしまっている。大きな瞳が探るように利奈を見ているけれど、もちろん面識はない。女の子もそう判断できたのか、間をおいてから、控えめに首を振った。

 

「……大丈夫」

 

 か細い声だった。雨音に呑み込まれてしまいそうなほど、小さな声。

 

「本当に? 別に遠慮しなくてもいいよ」

「だ、大丈夫。気にしないで……」

 

 今度は強めに首を振られる。

 おどおどとした態度からして、かなりの人見知りだったようだ。利奈に対して見えない壁を幾重にも張っている。

 

(んー、嫌がっているっていうよりも、とにかく断っておこうって感じだよね。控えめな子なんだな)

 

 もらえるものはありがたくもらっておく利奈とは違って、なんでも遠慮してしまう性格なのだろう。損をする性格でもある。

 

「でも急いでるんでしょ? 時間平気なの?」

 

 利奈の問いに、少女はわかりやすく黙り込んだ。早く帰らなければならない用事があるだろうという利奈の読みは当たっていたようだ。

 

「傘売ってるところまで送ってあげるって。いつやむかわかんないけど、傘あったら一人で帰れるでしょ?

 あ、でも私、ここ来たの初めてだ。売ってる店はわかんないから、それは教えて?」

 

 人見知りの子相手なので、利奈は普段よりかなり馴れ馴れしい態度を取った。押して押して押す作戦である。

 利奈の積極的なアピールに警戒心がほどけてきたのか、あるいは断るのも骨が折れると判断したのか、女の子はもう首を振らなかった。

 

「……えっと」

「よし、行こ。そうだ、名前は?」

「……」

「え?」

「……凪」

 

 伏し目がちに、彼女はそう答えた。

 

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

立つ鳥跡を濁す

「凪さんね。私は利奈。中学二年生」

「……私も」

「あっ、やっぱり! だと思ったんだ。よかった、これで三年生だったらどうしようって思って」

 

 雰囲気でおおよそ察しはつけていたものの、間違っていたら大事だ。距離を縮めるための行動が裏目に出なくてよかったと、利奈は全力で胸を撫でおろす。

 

 家がどこにあるのかを聞いてみたところ、店からそんなに遠くはないそうだったので、このまま凪を家まで送ってあげることにした。このあとに予定もないし、家が近くにあるのに傘を買わせるのももったいない。凪はひたすら恐縮しているが、乗りかかった舟である。

 

「夏ってこういうことあるから嫌だよね。なんだっけ、夕立ち?」

 

 たいして大きくない傘を傾けながら、とりとめもない話をする。とはいっても凪は頷くばかりなので、利奈が一方的に喋り続けた。委員会仲間たちも無口だから、いつもとそんなに変わりはない。

 

「もうちょっとで私も傘忘れるところだったし。バス来るまで雨のなか待たなきゃだから、ほんと困るよ」

 

 傘の柄は利奈が握っている。最初は凪が傘を持とうとしたけれど、両腕いっぱいに袋を抱えながら支えるのは不可能だった。 

 あまりにも大荷物だから、ひとつくらい持ってあげようかとも声をかけたけれど、そこは断固拒否された。よほど濡らしたくないようで、自分の体よりも袋を優先して傘の中に入れている。

 

(すっごく重そうなんだけどな。……どんだけ買ったんだろう)

 

 胸元で組み合わされた手は、袋の重みで震えている。傘に入れてもらったうえに荷物まで持ってもらうわけには、という凪の気持ちもわかるのでおとなしく引き下がったけれど、とても一人で持つ荷物量ではない。

 

 ブランドは詳しくないからわからないけれど、袋の地味な色合いからして、男性ブランドの店で買ったものだろう。モノクロな色調と表情の少なさが相まって、凪の幸の薄そうな雰囲気に拍車をかけていた。

 

(お父さんへの誕生日プレゼント? それとも、おつかい?)

 

 聞いてみたいけれど、さすがにそれは踏み込みすぎだろうか。万が一、凪が着るつもりの服だった場合、うまく返せる自信がない。今でさえ、ほとんど会話になっていないのに。

 

「……あ、あの」

「時間? ちょっと待ってね」

 

 両手がふさがった状態で携帯電話を取り出すのはなかなか至難の業で、利奈はゴソゴソと腕を動かしながらズボンのポケットから引っ張り出す。

 バッグがあるのにわざわざズボンの尻ポケットに携帯電話を入れているのは、落としたバッグを拾えない事態になったときでも、連絡手段を失わないようにするための工夫だ。これなら、いざというときにバッグを投擲しても問題がなくなる。――いや、問題はあるけれど。

 

「待ち合わせしてるの? なんなら、待ち合わせ場所まで送ってあげるけど」

 

 凪はしきりに時間を気にしている。急ぎの予定があるのなら、このまま目的地に向かうのもひとつの手だ。その場合、荷物が邪魔になるだろうけれど。

 

「ううん、違う。でも、家で待ってる人たちがいて……早く戻らないと」

 

 今までで一番長く喋って、より一層表情を曇らせる。

 濁すような口ぶりからすると、家にいるのは家族でも友達でもないのだろう。

 

「そうなんだ。じゃあ、今頃きっと心配してるね」

「……心、配?」

「え、なんでそんな顔?」

 

 考えてもみなかったかのように凪が目を丸くするので、素の声音になってしまった。

 

 よそのお宅にお邪魔しているときに通り雨が降ったとして、買い物に出掛けた子が戻ってこなかったら、心配になるに決まっている。人によっては傘を持って迎えに行くかもしれない。

 

「心配……」

 

 利奈は当たり前のようにそう考えていたが、凪は利奈に言われて初めてそんなふうに考えたのか、うつむきがちに同じ言葉を繰り返す。

 

(まあ、例外もあるけれど)

 

 つい数日前のことだ。前の学校の友達に会いに行ったとき、各駅停車に乗るはずが、うっかり快速に乗ってしまった。そのせいで目的の駅を通り過ぎ、待ち合わせには大幅に遅れ、お前は何年ここに住んでいたんだと、出合い頭に罵倒されたけれど、それは極めて稀なケースだろう。保育園からの友人だったからこそである。

 

「そうだ、先に電話しとく? 連絡があれば家の人も安心するだろうし」

 

 家の電話番号なら覚えているだろうし、電話は利奈のものを使えばいい。遠慮がちな性格なのに何度も時間を聞いてきているところから、凪は自分の携帯電話は持っていないと推察できた。

 

(このままだと電話しづらいから、屋根のある所に行かなくちゃ。どっかにお店ないかな)

 

 傘で上半分が遮られた視界のなか店を探すが、住宅街に差しかかったせいで、見えるのは家の塀とマンションばかりだ。凪に言われるがままに歩いてきたから周囲をあまり気にしていなかったけれど、いつのまにか高級住宅街に突入している。このなかに凪の家もあるのだろうか。

 

「あ……」

 

 場違いな空気にそわそわしながら雨宿り先を探す利奈だったが、先に見つけたのは凪だった。――雨宿り先ではなく、目の前の人物たちを、だが。

 

「あっ! いたびょん!」

 

(びょん? え、びょん?)

 

 語尾にしてはおかしいから、聞き間違いだろうか。

 傘を軽く上げると、まだ話しかけるには遠い位置に、三人組の男の子がいた。前は一人、後ろは二人でひとつの傘に入っているが、後ろの二人は利奈たちと違い身体をくっつけていないので、きれいに半身ずつ濡らしている。

 声を発したのはどうやら後ろの傘の金髪少年のようで、凪を無遠慮に指さしている。――髪色で判断するわけじゃないけれど、柄の悪そうな少年だ。

 

(友達? 同級生? まさか、この人たちが待ち合わせ相手じゃないよね……)

 

 利奈の心配をよそに、凪は心底安心したように息をついて、そのあと、自分が遅刻していることを思い出したのか、口をぎゅっと引き結んだ。どうやら、彼らが待ち合わせ相手で間違いないらしい。

 会話できる距離まで近づくのが待ちきれなかったのか、金髪少年は傘を隣の少年に押しつけて、こちらにずかずかと歩み寄ってきた。利奈は立ち止まりかけたものの、凪が歩き続けようとするので、慌てて傘を傾ける。 

 

「このクソ女! 遅すぎて待ちくたびれたびょん!」

 

(聞き間違いじゃなかった!?)

 

 開口一番――いや、二言目に罵声を発しているけれど、独特な語尾が独特すぎてそれどころじゃない。衝撃のあまり息を呑む利奈には気付かずに、凪はシュンとうなだれた。

 

「ごめんなさい……」

「ったく、これだからのうのうと生きてるやつは……。骸さんになんかあったらどうしてくれるんら!」

 

(くれるんら?)

 

「つか、こいつられら?」

 

(られら?)

 

「この子は、さっき……困ってたら、傘に入れてくれたの」

「はあ!? お前、このタイミングで他人と接触するなんて、なに考えてんらよ!?」

 

(あ、もうこれ突っ込めないやつだ)

 

 男の子はものすごく滑舌が悪いようで、ダが全部ラになってしまっている。そのせいですごんでいてもどこか間抜けに感じてしまうのだけど、ここで笑うと第一印象から躓いてしまうので、利奈は努めて平静を装った。凪は男の子に圧倒されて、ますます縮こまっている。

 

「いいか、俺たちは逃亡中でなるべく人目に触れないようにしてるんだ! それなのに、匿ってるお前が軽はずみにほかのやつと話したりなんかしてどーすんだよ!

 なにか余計なこと言ってねーだろうな。俺たちのこととか、復讐者のこととか!」

「う、うん……」

 

(むしろ君が言ってる……)

 

 わざとなのではと疑うほど、わかりやすく男の子が墓穴を掘っている。すかさず帽子を被った子が金髪少年の頭を叩くが、もはや手遅れだ。

 ――逃亡中のわりに大騒ぎしているけれど、それはいいのだろうか。

 

「すみませんね、騒がしくして」

 

 彼らのなかで一番年嵩そうな男の子が、利奈に向けて柔らかな笑みを浮かべた。

 ほかの人はみんな中学生だと思うけれど、彼は高校生だろうか。なかなかの長身である。

 

「犬――彼は、今ちょっと中二病を患ってまして。すぐにあることないことを口にするんです。ですから、気にしないでください」

「はあ」

「骸さん!? なんれそんなことひどいこと言うんれすか!?」

「犬、空気読んで」

「気にしないでください」

「……はあ」

 

 二回言った。

 犬という少年へのいじり方からすると、彼もかろうじて中学生なのかもしれない。声変わりしきった声は落ち着き払っているものの、かたくなに犬を見ようとしない姿には意地の悪さを感じる。

 

 突然現れた三人組のキャラの個性に圧倒されていると、骸はすいと視線を凪に移した。それを受けて凪が怯んだように身じろくが、骸は安心させるように目を細める。

 

「凪も気にしなくて大丈夫ですよ。僕たちはただ、貴方を迎えに来ただけですから」

「……」

「急に雨が降ってきたでしょう? ですから、貴方が帰ってこれなくなってるんじゃないかと心配で」

「心配……あっ」

 

 凪が勢いよくこちらを向いたので、利奈は危うく傘を取り落としそうになった。

 驚きに満ちた凪の瞳は利奈の予想が当たったと言いたげだけれど、ごく普通のことを言ったに過ぎない利奈としては、凪の反応のほうが驚きである。

 

(でも、びっくりしてる凪さんはかわいいかも)

 

 憂いや陰りのない年相応のあどけない表情だと、凪の元来の顔の良さが輝き、なかなかに美少女だったのだと気付かされる。やっと真正面から見つめ合えた紺色の瞳は、名前のとおり凪いだ夜の海を思わせる色合いだ。

 そんな感想を抱きながら、微妙に噛み合ってない目配せを終えると、骸が利奈に頭を下げた。

 

「彼女を助けてくださって、ありがとうございます。凪の知り合いですか?」

「いや、通りすがりです。凪さんにも遠慮されたんですけど、濡れたら大変だからって強引に誘っちゃって」

 

 だから、後ろから睨むのはやめていただきたい。凪に見えないよう、さりげなく骸が壁になっているものの、凪の隣にいる利奈からは、歯を剥き出しにしている犬の顔がばっちりと見えていた。隣にいる少年は諦めてしまったのか、めんどくさそうな顔で傍観している。

 

「そうなんですか。僕たち、上京したばかりでこの辺りには疎くて」

「……え、じゃあ、凪さんの家に泊まってるんですか? 三人とも?」

 

 凪は家にいる人を気にしていたから、彼らは凪の家で待っていたはずだ。見たところ親戚ではなさそうだし、血も繋がってない男の子三人を家に泊めるなんて、なかなかできることではない。

 露骨にびっくりする利奈に、骸は一瞬だけ頬の筋肉を動かしたが、すぐに利奈の言葉を否定すべく首を振った。

 

「いえ、凪のご家族の好意で今まで家にあげてもらっていただけですよ。ねえ、凪。そうでしょう?」

 

 凪が頷いたが、どうも骸に合わせているようにしか見えない。

 怪訝には思うものの、人の事情をあれこれ詮索するのもよくないので、利奈はそれ以上追求しようとはしなかった。骸が話を切り上げたがっていたのもある。

 

「さて、では帰りましょうか。千種、犬。荷物を持ってあげなさい」

 

 やんわりと命令口調だったが、犬と千種はすぐさま骸の言葉に従った。犬は見るからに嫌々と受け取っていたけれど。

 

「それでは、お世話になりました。縁があったらまた」

「あ、はい」

 

 やや性急さを感じるけれど、予定もあるだろうし仕方がない。凪も名残惜しそうな顔をしたものの、骸に従う形で頭を下げる。

 

「じゃあ、バイバイ」

「バイバイ。……あの、本当に、ありがとう」

 

 消え入りそうな声に利奈は満面の笑みで応える。困ったときはお互いさまだ。

 

(いいことすると気持ちいいしね。さて、私も帰らなきゃ。バスの時間は――って、あっ)

 

「あー!?」

 

 素っ頓狂な声が出てしまって慌てて口を閉じるが、背中を向けて歩き出していた彼らが一斉に振り返った。凪はびっくりした顔で。ほかの三人は警戒するような顔で。それでも、骸は紳士的に利奈に声をかけた。

 

「どうかしましたか?」

「――そのっ」

 

 緊急事態発生である。

 利奈は自身の弱点を十二分に理解していた。それがこの見知らぬ地では、より一層際立ってしまうことも。

 

 困っているときはお互いさま。しかし、助けた側がすぐさま窮地に陥るなんて、とんでもなく滑稽だ。

 だからこそ利奈は言葉を詰まらせたものの、どうしようもなくなっているのは事実なので、おずおずとこう切り出した。

 

「……だれか、ここから駅までの道順知ってる人いませんか」

 

 すぐさま骸たちの表情が渋くなったのは、言うまでもない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蝕む霧

 できるなら、あのままさよならしたかった。

 手を振ったところで終わっていれば頼りになる女の子でいられたのに、このざまである。つくづく詰めが甘い。

 

(もう、ほんとかっこ悪い。金髪の人は睨むし、帽子の人にはため息つかれるし……)

 

 責任を感じた凪がバス停までの道のりを教えてくれようとしたものの、彼女もほとんどバスを利用していなかったようで、言葉の詰まった説明はうまく頭に入らなかった。この辺りの地理に疎い利奈が相手で、建物などを目印に使えなかったのも原因だ。

 

「この先の道をまっすぐ行って、右? 信号を渡ってちょっと行ったとこ?」

「右に行ったら、信号は渡らないで道沿いに歩くの。それで……横断歩道があって……そこを渡っていったらバス停が見える……はず」

「こう行って、こう行って、横断歩道渡ったらこう?」

「うん、こう行って、こっちに曲がって……こうじゃなくて、こうかな」

「こっち? こんな感じ?」

「えっと……そう、かな?」

「もっと簡単な方法があると思いますよ」

 

 身振り手振り、下手なジェスチャーゲームでもやっているかのようなやり取りに痺れを切らされ、こうして骸にバス停まで送ってもらうことになった。三本しか傘がなかったから、二人でひとつの傘に入っている。

 残る内訳は千種と凪、犬と大荷物だ。彼らは一回家に帰ったあと、骸を迎えにバス停まで戻ってくるという。利奈のせいでいらない手間を増やされているのだから、睨まれてもため息をつかれても文句は言えない。

 

(帰るときのこと全然考えてなかったからなー。ちゃんと道を覚えておけばよかった)

 

 失敗に肩を落としながらも、利奈は自分の傘を持つ骸をこっそりと見上げた。

 人を見上げるのには慣れているけれど、面識のない人相手だと、少し緊張してしまう。相手が美形ならばなおさらだ。右目がほとんど前髪で隠れてしまっているので、ミステリアスに感じられる。

 彼も利奈の失態には呆れているとは思うけれど、ほかの二人と違って、顔に出したりはしなかった。

 

(これ、距離近いよね。なんかいいにおいするし、無駄に緊張しちゃう……)

 

 小柄な凪と入ってたときも手狭に感じていたから、骸と二人だとより一層小さく感じてしまう。利奈お気に入りの水玉模様の傘は、大人びた容姿の骸にはまるで似合っていない。

 

「そういえば、骸さん――は、凪さんとどういう知り合いなんですか?」

 

 黙っていると変に意識してしまうので話を振ると、骸は緩慢に首を傾けた。

 

「そうですねえ……どう見えます?」

 

 質問を質問で返されたけれど、こういうクイズ形式は嫌いじゃない。利奈はボケるか真面目に答えるかで一瞬悩み、それから真面目に答えた。

 

「んー、部活動の先輩後輩ですかね。クラリネットとか吹いてるの似合うと思います。凪さんはフルート」

「木管系ですね。では、あとの二人は?」

「あ」

 

 あとの二人は見た目からして吹奏楽部ではない。こうやって面白半分に聞かれているあたり、骸も吹奏楽部ではないのだろうけれど。

 

「ちょっとイメージ違いましたね。どっちかっていうと、あとの二人は軽音楽部な感じがします。犬さんはボーカル――だとバンドが解散しそうだから、ギター?」

「フッ」

「で、帽子の人はドラム! ああみえてめっちゃ高速でドラム叩くんですよ! 無表情で!」

「クフッ」

 

(面白い笑い方……)

 

 利奈のネタがツボに入ったのか、クスクス――ではなくクフクフと笑い声を噛み殺している。言った本人なのに面白くなってきて、同じ傘の下で笑い合った。

 

「で、正解は?」

「もちろんハズレです」

「デスヨネー」

 

 第一印象に反して、なかなか冗談に理解のある人らしい。身の回りは無表情で面白みのない人があふれているから、こうして反応してもらえるとうれしくなってしまう。

 

「貴方はどうしてあの店で買い物していたんですか? この辺りに来るのは初めてだと言ってましたが」

「新聞にチラシが入ってたんです。今日までのバーゲンセールのチラシで、しかもチラシ持ってったらさらに五パーセントオフって書いてあって! これはもう一人でも行くしかないって思ったんです」

「そうですかそうですか。それで慣れない場所で迷子になったんですね」

「うっ」

 

 勢いづいて話していたのに、突然小さな棘で突つかれた。やっぱり気に障っているらしい。

 

「冗談ですよ。凪を送っていたせいでわからなくなったんでしょう?」

 

 骸はそう言ったけれど、利奈は引きつり笑いをするに留めた。

 

 のんびりと歩いていると、凪の言っていた信号機が遠目に見えてきた。曲がる回数は少なかったものの、やはり住宅街は目印がなくてわかりづらい。

 

(骸さんもこの辺には詳しくないって言ってたのに、全然迷わなかったな。やっぱり、頭のいい人は覚えが違うんだろうなあ)

 

 少なくとも、夏休みの宿題は余裕をもって終わらせているタイプだろう。利奈と違って。今年は風紀委員である手前、頑張って最終日までに終わらせたけれど、そこに一切の余裕はなかった。

 

「もうすぐバス停につきますよ」

 

 夏休みの苦行を思い出していると、骸に声をかけられる。何はともあれ、これで本当にさよならだ。

 

「送ってくれてありがとうございます。バス停に屋根ってありましたっけ?」

「どうですかね。……ああ、なかったと思います」

「え、じゃあ――」

「いえ、近くに本屋があるのでそこで彼らを待ちます。ご心配なく」

「……? そうですか」

 

 骸の言動にやや違和感があるものの、はっきりとはわからないので利奈は頷いた。あまり人のことを根掘り葉掘り聞くのもよろしくない。

 

 ――ここで別れられていれば、再び交わる時期はもう少し遅くなっていたのだろう。

 もしかしたら、十年後になっても会わずにすんだのかもしれない。

 

 しかし利奈と凪を結びつけた雨――いや、気運の風は、二人をただの中学生のままでは終わらせてくれなかった。

 

「キャッ」

 

 背後から突風が吹き、利奈は思わず悲鳴をあげた。空を切り裂くような風に傘が傾いたものの、骸はすぐさま風をやり過ごす。

 道行く人も同じように傘を押さえていたが、視界の隅で転がりだした円に、二人の視線は吸い寄せられた。

 

「あー! 待って待って! ちょっと待ってー!」

 

(あれ?)

 

 逃げた傘を追いかける男の子の声に、聞き覚えがあった。雨の攻撃を防げずに濡れていく男の子に、急いで自分の傘を差しだす男の子にも。

 

(あそこにいるの、沢田君と獄寺君じゃない?)

 

 綱吉はともかく、銀髪の少年なんて、この辺りでは隼人しかないだろう。となれば武の姿もありそうなものだけど、武は秋の大会に向けて猛練習中だ。こんなところまで遊びに来る暇はないだろう。

 なんで二人がこんなところに――とは思ったものの、それは利奈も同じだ。休日なんだから、どこにいたっておかしくはない。

 

 思いがけぬ同級生の登場に意識が持っていかれていた利奈は、隣に立つ骸の存在を思い出してハッとした。

 

(いっけない、完全に忘れてた)

 

 別れ際にうわのそらになるなんて、失礼極まりない。理由を説明しようと首を上げた利奈は、その瞬間、ヒッと息を呑み込んだ。

 

 利奈と同じように。いや、利奈などとは比にもならないほどに、骸は彼らを凝視していた。その瞳の色が揺らぐほどの、凝縮された殺気を持って。

 

(殺気――なんで――)

 

 何度も――今まで、何度も感じてきた利奈だからこそ、それが紛れもない殺意を伴ったものだとわかった。一時の感情の乱れで生まれたものではなく、それこそ、長い年月で培った、純度の高い殺気。恭弥に向けられるものではなく、恭弥が向けるもの。屠り続けた人間が発する、強者の圧力。それが綱吉たちに向けられている状況に、利奈は混乱した。

 

「っ」

 

 ――とにかく、骸の視線を剥がさなければ。このままだと、綱吉たちが危険だ。

 

 そう判断した利奈は、すぐさま骸の持つ傘の柄を掴んだ。そして、今は委員会活動中ではないこと、相手が何者なのかまるでわかっていないことも忘れて、声を発する。

 

「やめてください」

 

 叫ぶのではなく、凛とした声で。怯えるのではなく、挑む目で。

 

「沢田君たちに、なにをするつもりですか」

 

 利奈が綱吉の名字を口にした途端、骸の目がギョロリと動いた。人形じみた動きにビクッと震えるものの、利奈は骸から目が離せなくなった。

 

 骸の前髪が風に吹かれ、右目があらわになっていたからだ。

 その色合いは左目の青とまるで違う、深紅の――

 

「貴方は、沢田綱吉をご存じなんですね」

 

 利奈がどこを見ているかなんて、考えなくてもわかるだろう。彼はオッドアイを隠そうとはせず、むしろ、見せつけるように前髪をかきあげた。表情の変化とともに、声の硬さ、雰囲気までも変化していて、利奈の本能が警鐘を鳴らす。

 

「……貴方、なんなの」

「それは僕の言葉です。どうして貴方は僕にそんな目を向けるんですか?」

「それはっ」

 

 骸が、綱吉に殺意を向けているからだ。彼が、並中生に害を及ぼす存在だと、認識してしまったからだ。

 

「わ、私は――」

 

(落ち着いて。こんな時はいつもみたいに、風紀委員らしくしてればいい)

 

 恐怖心を押さえつけ、いつものように胸を張る。そうすれば、いつものように声が出せた。

 

「私は、並盛中学校風紀委員です。風紀を乱すなら――」

「つくづく運がありませんねえ――お互いに」

 

 口上を遮られ、傘を掴む手を上から骸に握りこまれる。反射的に身を引こうとした利奈だったが、それは素早く傘を手放した骸の右腕に阻まれた。肩に食い込む指に悲鳴をあげそうになるが、悲鳴をあげている場合ではない。

 

「怖がらなくても大丈夫ですよ。どうせ忘れますから」

「っ!?」

 

 ――なにを言っているのだろうか。こんなことをされて、忘れるわけがないのに。

 

 手のひらの力が抜け、だれも持つ人がいなくなった傘は頭上へと舞い上がる。雨粒が利奈の顔に落ち、涙にも似た筋を作った。

 

「まさか、こんなにも早くボンゴレと再会するとは思っていませんでした。……ああ、こんなところで雲雀恭弥の手下に会うとも、ですね」

「なんで……ヒバリさんを――」

「忘れませんよ。彼はなかなか興味深い人物ですしね」

 

 視界が霞む。なにも飲まされていないのに、嗅がされてもいないのに、ぐらぐらと地面が揺らいで、力が抜けていく。

 

「いずれ、また顔を合わせることがあるかもしれません。君が彼のそばを離れなければ、ね。でなければ、ここで本当にお別れです。雨は降っていないし、僕たちは出会わなかった」

「雨は……」

 

 降っているはずだ。だって、雨の音が、雨の匂いが、空は――

 

「せいぜい、よい休日を。それでは――」

 

 あとの言葉は、利奈の耳には届かなかった。

 

 ――雨は、降り続いている。

 

 

――

 

 

 雨がやんだ。そう感じた利奈は、しかし、すぐさま自分の感覚を否定した。

 

 雨なんて、最初から降っていない。それなのに、傘が目に入った瞬間、降り続いていた雨が、ようやく止んだかのような錯覚があったのだ。

 額に浮かぶ脂汗を手の甲で拭う利奈を、骸は口元を緩めて見つめていた。

 

「思い出していただけましたか?」

 

 軽薄な声だ。おどけて笑うピエロみたいな仕草で、骸が肩をすくめる。

 

(って、なんで私、この人の名前が骸だって――)

 

 記憶が浸食されているかのような齟齬に、眩暈を覚えそうになる。

 まるで思い出せてなんかいないのに、彼の態度が、手元の傘が、自分の感情が、ないはずの記憶を刺激する。

 

「少々暗示が強すぎたみたいですね。才のない人は簡単にかかってくれるものですが、あのときは僕も切羽詰まっていたもので」

 

 ――この人はなにを言っているのだろう。

 

 ただひとつわかっているのは、骸を応接室に連れて行くわけにはいかないということだけだ。

 彼は危険だ。下手したら、学校全体が彼に呑み込まれてしまう。なにも思い出せていないけれど、それだけは確かだった。

 

「そこまで警戒しなくて大丈夫ですよ。僕は心から彼の心配をしているだけですから。――折れた骨は戻っても、折れた心はなかなか元に戻りませんし」

「――貴方!」

 

 骸が襲撃事件の首謀者であると利奈が断定すると同時に、利奈の気勢を制すかのように骸が傘を放り投げた。槍のように投げられたら避けることすらできなかっただろうが、山なりに投げられた傘は、骸の思惑通り、利奈の両腕にちゃんと収まった。

 

「お返しします。おかげで、クロームは元気ですよ」

「……?」

 

 まったく聞き覚えがない名前が出てきて、利奈は眉を顰める。ペットの名前だろうか。

 

 そんな利奈の反応には構わずに、骸は背中を向けて悠々と歩き出す。利奈があとを追ってくるとは、露ほども思っていない足取りだ。

 

(なんなの、いったい……!)

 

 わからないことばかりである。しかし今は、理解に時間を割いている場合じゃない。利奈は傘を持つ両腕に力をこめると、体を反転させて走り出した。

 

 ――過ぎ去った危機を、近づいてきた脅威を、委員長に告げるために。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

揺れる既視感

 靴を替えるのももどかしいくらいだったけれど、上履きの踵を潰して恭弥の前に出るわけにもいかないから、よろけながら履き替えて、一段飛ばしで階段を駆け上がる。

 校内を走り回るのは厳禁だけど、今は緊急事態なので緊急車両と同じ扱いを願いたい。どうせこの時間に校内にいる生徒も校則違反なのだ。――風紀委員を除いて。

 

(つ、ついたあ!)

 

 校門からの全力疾走はなかなか体に堪えて、息はあがるし足もガクガクだ。倒れ込むようにして体を応接室のドアに押しつけた利奈は、息を整える暇も作らずに声を張り上げた。

 

「ヒバリさん、大変です! 緊急事態です!」

 

 同時にドアに拳を打ちつけるが、中からはなんの音沙汰もない。静まり返った校内で、打撃音だけが波紋を立てる。

 

「ヒバリさん! あの、いらっしゃいませんか!?」

 

 これだけ大声でわめいていればなにかしらの反応があるべきだが、まだ戻ってきていないのだろうか。考えてみれば、利奈が応接室を出てからまだ十分も経っていない。

 

「とりあえず、一旦だれかに知らせなくちゃ……」

 

 ドアはまだ施錠されていないようで、ドアノブを捻るとわずかに内側に開いた。鍵は恭弥がかけることになっているから、応接室で待っていればそのうち恭弥に会えるだろう。それまでのあいだに、班長の大木に事のあらましを伝えておけばいい。

 

(名前言って通じるかな――っていうか、結局教えてもらえてないし……)

 

 浮かんだ名前はあるけれど、それが正しいものなのかはかなり疑問だ。間違っていたら、とんだ赤っ恥である。でも、外見の特徴を恭弥に伝えれば、あるいは通じるかもしれない。

 

「うん、そうしよ。骸って人が来たっていうよりは、よっぽど――」

 

 ドアが開いた。いや、開けようとしたドアが、利奈の意思とは関係なく内側へと引っ張られた。

 

(こんなの前にもあった――!)

 

 ドアにもたれかかっていたせいで、体が前方へと倒れ込む。しかしすぐさま足を出したおかげで、何度か下手なステップを踏んだものの、転倒は避けられた。

 安堵しながらも利奈は傘を握り締めて振り返る。いたのなら、返事くらいしてほしい。

 

(うっわ、不機嫌顔)

 

 ここ最近の恭弥はずっと機嫌が悪かったが、今日は一段とひどい顔だ。

 見慣れたせいでさして危機感を抱かなくなってしまったが、それでも鋭い双眸で睨まれるとひやりとする。両手で握りしめた傘が心の盾だ。

 

「……今、だれが来たって言った?」

 

 声もだいぶ低かった。声変わりしているのだから低いのは当たり前だけれど、それを差し引いても今日の声は低すぎた。機嫌がいいときはたいして高くならないのに、悪いときは地に落ちるのはどういった理論だのだろうか。あまりもったいぶっていると、攻撃的手段で尋問されそうだ。

 

「骸さんです。ご存知――ですね、はい」

 

 肌で感じる殺気が答えだ。恭弥が歓迎しそうにない人物だとは思っていたけれど、この様子ではそれ以上の存在だろう。もしかしたら、恭弥に怪我を負わせた犯人も骸だったのかもしれない。

 

(ヒバリさんに怪我負わせるなんて、不可能だと思ってたのに。ひょっとして、あの人が黒幕?)

 

 並中生たちを次々と襲い、そして恭弥にまで重傷を負わせた首謀者。それならば、恭弥がここまで怒るのも無理はない。

 

「どこ? どこにいるの?」

「も、もう帰りました!」

 

 詰め寄る恭弥を傘で制する。

 

「今さっき校門で声かけられて――って、ちょっと!?」

 

 場所を聞くや否や、恭弥は動き出した。廊下へではなく、窓へと向かって。

 

「ヒバリさ、待って!」

 

 利奈が呼び止めるも、恭弥は窓の枠に足を置いた。その目に躊躇いはなく、利奈は青ざめた。手を伸ばすが、届くはずもない。

 

「待ってください! そんな――」

 

 懇願もむなしく、恭弥は軽やかに窓から飛び降りた。落下音に利奈は膝をつく。

 

 ――応接室があるのは一階ではない。窓の外にベランダはなく、下は地面だ。それなのに恭弥は飛び降りてしまった。

 

(な、なんてことを)

 

 呆然としながら、利奈は呟く。

 

「そんなところから出て……だれが新しい上履き用意すると思ってるんですか……!」

 

 ――当然、利奈である。

 恭弥が戻ってくるまで靴を持って待機しなければならなくなった現状に、利奈は一人悲嘆にくれた。

 

 

 

 そんなことなど知る由もなかった恭弥だが、想定よりもずっと早く学校に戻ってきた。

 学校近辺だけ探してすぐに戻ってきたのだろう。夜が差し迫ったこの時間帯だと人探しは困難だ。

 

「それで、あの男はなにしに来たの?」

 

 壁にもたれかかりながら恭弥が問う。苛立ち交じりの声には、警戒と疑問が渦を巻いていた。

 

「ヒバリさんに会いに来たって言ってましたよ」

 

 上履きの靴底を水で流しながら質問に答える。乾いた土が少しついた程度だから、軽く洗って乾かすだけで十分だろう。屋上なら日当たりもいいから、明日の夕方までには乾かせそうだ。

 

「ヒバリさんがいなかったからいないって言ったんですけど、僕が来たとだけ伝えてくださいって。ちょっと変な感じがしたから、すぐヒバリさんに伝えに来たんです」

「伝言はそれだけ?」

「はい」

 

 怪我は治っても心の傷は――云々言っていたけれど、それは託っていなかったので割愛した。もし伝えてしまったら、骸を見つけて咬み殺すまで学校に戻ってこなくなりそうだ。

 それに、骸が利奈の傘を持っていて、利奈とどこかで会っていたかのような発言をしていたことも、黙っていたほうがいいだろう。なにせ、当事者である利奈が、まったく覚えていないのだから。

 

「クロームってなんのことだかわかりますか? クロームは元気だとか言ったんですけど」

「……さあ、知らないな。それ、人の名前なの?」

「さあ……」

 

 水気をきって振り返るが、本当に覚えがないようだ。襲撃犯がいちいち名乗りを上げるわけもないから、もしかしたらメンバーのコードネームかなにかだったのかもしれない。

 恭弥もクロームがなにを現しているのかを考えているようだったが、やがて興味をなくしたのかゆるりと腕を解いた。

 

「まあ、いいや。もし六道骸を見つけたら、力づくでいいからここまで連れてきて」

 

(あの人、六道骸って言うんだ……)

 

 苗字を聞いてもまったくピンと来ない。

 

 それはそれとして、力づくでも連れてこいと言われても、風紀委員のなかでもっとも力のない利奈には過酷すぎる。命令だから頷きはしたけれど、どう頑張っても達成できそうになかった。

 

「えっと、見つけたら応接室に通しちゃっていいんですか? ヒバリさんと連絡取れなくても?」

「うん。それと、今後もし僕に会いに来たなんて言う人間がいたら、かまわないから連れてきて。どうせ普通の人じゃないんだから」

「……はあ」

 

 遠回しの自虐なのか、事実を述べているだけなのか、判断しづらい。恭弥と仲が良いリボーンもただものではなかったし、類は友を呼ぶというやつなのだろう。

 

 指示を与えているうちに気持ちが落ち着いてきたのか、最初に比べれば表情の険が取れてきた。ピリピリとした空気をまとってはいるが、暴走しない程度には冷静だ。夕暮れの茜色が、彼の心を静まらせたのかもしれない。日の落ちかけた校舎内はどこも夕焼けの色に染まっている。

 話は終わっただろうと靴を持って屋上へと移動しようとすると、恭弥が後ろをついてきた。

 

「ほかには?」

「ほか? ……なにもなかったですよ」

 

 恭弥への伝言は、と脳内で付け足す利奈だが、疑いの眼差しを背中に感じた。そうなると元来うそが下手な利奈の動きは、あからさまにぎこちなくなってしまう。

 

「君が直感だけであんなに急いで僕を呼びに来るわけないでしょ。いいから、なにがあったのか全部話して」

 

 隠してもお見通しだったようだ。若干馬鹿にされているような気もするけれど。

 

(っていっても、あの人そんなに喋ってないんだよな)

 

 含みのある話し方だったから、混乱させられただけで。

 引っかかっているのは、骸の親しげな態度と、しきりに利奈に自分を思い出させようとした点だ。思い出すもなにも、初対面だというのに。

 

(ずっと前――この町に来る前に会ってたんならわかるんだけど。ちっちゃい頃に会ってたんなら、忘れちゃっても仕方ないし。でも、それだと傘が……)

 

 そう、傘が問題なのだ。

 あの傘は中学生になってから買ったものだし、なくしたのも先週――いや、先々週だったか。とにかく、ここ半月のあいだになくしたものだ。二週間以内に骸に出会っていたとして、完全に忘れてしまうなんてことがあるだろうか。ただでさえ、人目を引く容姿だったのに。

 

 自分でもわかっていないことを人に説明するのは難しく、思っていることを並べ立てているうちに、屋上に到着した。

 振り返ると、不快をあらわにした顔で恭弥が押し黙っている。

 

(あ、呆れられた!?)

 

 利奈の説明の下手さにか、それとも利奈の説明の根拠の薄さにか。語彙のない自分が恨めしくなる。

 

「本当に変だったんですよ!? 渡してないのに私の傘持ってたし、知らないのに知ってる感じがしてきたし、ひ、ヒバリさんの怪我の話してたし! そのときは絶対おかしいって思ったんですって! 証拠もないのに決めつけたのは、その、あれですけど!」

「わかった」

「でも、私は本当にそう思って!」

「わかったって言ったでしょ。君がおかしいとは思ってない」

 

 しかし恭弥の表情は変わらない。

 さすがに全部は信用してくれていないのだろうと利奈は思っていたが、恭弥の思考はまた別にあった。骸と戦った恭弥には、話を信用する根拠がすでに存在しているのだが、利奈は知らない。

 

「で、君が傘をなくしたのって、いつ? あの事件の前?」

 

 なんの事件なのかは、聞くまでもなかった。

 

「あとです! どこでなくしたかは全然覚えてないですけど、事件のあとなのは間違いないと思います」

「……そう」

 

(あれ、落とした場所がわからないのもちょっとおかしくない?)

 

 休日に傘を持って出掛けて、登校時に紛失したことに気付いたのは覚えている。買い物をした店に傘立てはなかったから、置き忘れたりもしていない。それに、あの日は雨なんて――雨は――

 

(……まただ)

 

 雨を連想すると、必ず、『雨は降っていない』という言葉が脳裏をよぎる。

 CMのキャッチコピーを思い出したときのように。だれかに言い聞かせられているかのように。

 

(きっと、会ってるんだ。それなのに私が忘れて――忘れさせられて? でも、そんなのどうやって――)

 

 不意に恭弥が首を動かしたので、利奈もそちらに視線を向けた。

 屋上の柵越しに、沈む太陽が見えた。紫の空の端で燃えあがる、最後の残り火が。

 

 ――またいつか、彼と対峙する時が訪れる。

 

 そしてそれはきっと、遠くない未来――いや、数秒後にやってくるかもしれない脅威であった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

傍若無人な訪問者

 骸が現れたその翌日から、風紀委員の見回り範囲が広がった。具体的に言うと、黒曜町付近が警戒区域に指定された。

 並中生を襲ったあの事件のあとに、首謀者がわざわざ風紀委員長に接触しようとしてきたのだ。宣戦布告だと捉えて臨戦態勢に入るのが妥当というものだろう。

 

(例によって私はお留守番だけど――)

 

 見回りに人手を割くぶん、事務や雑務がおざなりにならないよう、いつもより多く仕事をこなさなければならない。したがって利奈の仕事量が膨れ上がっていくわけだが、骸をあっさりと帰してしまった負い目があるので、文句は言えなかった。朝早くに登校して作業に手をつけないと、放課後に居残らなければならなくなる仕事量だ。

 そこまでしないと片付かないのは、恭弥が仕事をおざなりにしていたことも関係するのだが、それを指摘できるほど利奈も豪胆ではない。せいぜい、いないところで軽口をたたいて、鉄槌を食らうくらいだ。

 

 そんなわけで今日も、大会前の野球部員しか学校にいないような時間帯に登校している。朝食時だから、よその家の煮物や味噌汁の匂いに食欲を刺激されるのが悩みだ。おなかが空いてくる。

 

(……カレーの匂い。カレーも食べたいな)

 

 できるだけ早く家を出たいからと、最近はおにぎりとサンドイッチばかり作ってもらっている。サラダも食べなさいという母の小言を流し続けたせいで、野菜ジュースがセットでついてくるようになってしまった。食べ終わってから一気飲みしているけれど、地味に苦行だ。

 

 登下校の時間が変わった点については、風紀強化期間が始まって、委員会活動に使う時間が増えたからだと母には報告してある。見回りを強化した結果なのだから、出鱈目というわけでもない。

 並中生が襲われた事件があったからすぐに納得してもらえたけれど、貴方も気をつけなきゃだめよという心配の言葉には、もう少しで噴き出すところだった。

 風紀委員に入った時点でもう手遅れなのを、母は知らない。どうか、並中風紀委員の実態を知らないままでいてほしい。

 

 にしても、早朝の通学路は驚くほど人がいない。ジョギングしてる人とか、犬の散歩をしている人とかはまれに見かけるけれど、いつもと違って本当にまばらだ。一人で行動している人ばかりだから、よけい寂しく感じられるのかもしれない。鳥のさえずりばかり聞こえてくる。

 

(野球部の人たち、夏休みからずっとこんな時間に学校来てるっていうけど――よくバテないなあ)

 

 秋になって涼しくなってきたとはいえ、朝から夕方まで運動して、よく体がもつものだ。武はどんなに暑くてもケロリとしているイメージがあるけれど、ほかの部員はそうもいくまい。オーバーワークで倒れたりなんかしたら、元も子もないのに。

 

(意地でも立ち上がるだろうけどね。ヒバリさんも注目してるし)

 

 意外に思われるかもしれないが、恭弥は野球部を応援している。とはいっても野球が好きなわけではなく、野球部の活躍によって並盛中学校の評判があがることを期待しているのだ。愛校心の塊である彼らしい理由ではある。

 

 野球部にはぜひとも頑張ってもらわなくてはならない。野球部員たちにはなんの憂いもなくその日を迎えてもらわなくてはならない。そのために、異分子は排除しておかなければならない。

 

 もしまたあんな事件が起こったら。その被害者のなかに、野球部員が混ざっていたら。今度こそ骸の命はないだろう。本当の意味で。

 だからこそ、恭弥を殺人者にしないためにも、骸を被害者にしないためにも、風紀委員が総力をあげてたくらみを阻止しなければならないのだ。きっと、次に骸が姿を現すときこそが、新たなる戦いの幕開けなのだから。

 

「おはようございます」

 

 ――戦いの幕が上がったというにはずいぶんと爽やかに、スズメの鳴き声をバックに、そのときは訪れた。

 

「え、今?」

「はい、今ですけど……朝なので間違ってないのでは?」

 

 あまりの驚きに素の声音を出した利奈の反応に、訝しみながら骸が答える。骸が歩いてきているのは視界に入っていたけれど、あまりにもありえない光景だったから理解が追いつかなかった。

 

(嘘でしょ!? こんな普通に来るの!? え、私たちの努力ってなに!?)

 

 ある意味、一番逆撫でする形での再登場だ。奔走した風紀委員たちの労力を、もっとも単純な手で無に帰すやり方だったのだから。

 

「そんなに驚かなくてもいいじゃないですか。また会う機会もあるかもしれないと言っておいたんですから」

「言われてませんけど……?」

「おっと、これは前に言った言葉でしたね」

「前!? やっぱり会ったことあるんですか!? どこで!?」

「まあ、そんなことはさておきまして」

 

 さらりと流して、骸は挑発的に微笑んだ。

 

「今回は、雲雀恭弥に会わせてもらえますね?」

 

(全然さておけない……)

 

 利奈個人としては骸の発言を追及しておきたいところだが、風紀委員としての最優先事項は骸の捕獲、および連行である。機嫌を損ねて踵を返されても困るので、利奈は自分の欲求にとりあえず蓋をしておくことにした。

 具体的には、前を歩いてもらうべく、手で先を譲った。通学路で利奈を待ち伏せできたのだから、学校への道筋くらい頭に入れてあるだろう。

 

(……なんで私の通学ルート知ってるのかは、聞かないけど)

 

 帰宅する利奈を尾行すれば通学路なんて簡単に割れるだろうし、登校時刻も学校で張っていればおおよそ見当がつくだろう。

 驚いたり怯えたりしたら、それこそ骸のペースにはまってしまう。ここは隙なく構えて様子を窺うべきだと、利奈は骸の背中を見据えた。

 

「どうして後ろを歩くんですか?」

「気にしないでください。こうやって歩くように指導されているので」

 

 背後にいれば両手含めて全身が見えるから、隣を歩くよりもずっとリスクが低い。アクション映画でも、銃を突きつけて相手に前を歩かせているシーンがある。

 

「なるほど。僕が貴方に危害を与えると疑っているんですね。それで僕を後ろから見張っていると」

「そんな感じです」

「否定すると思ったんですけどね」

 

 並中生襲撃事件の犯人がなにを言う。

 

 そんなに恐いのでしたら両腕を拘束しておきますかとも提案されたけれど、それは断った。

 人が少ない時間帯とはいえ、他校生を縛りあげて学校に連行していくさまを見られたら、また風紀委員の悪評が追加されしまう。それに、風紀委員に女子は一人しかいないので、利奈自身への悪評も増える。ほどけにくい紐の結び方は教わっているけれど、今回は使うべきではない。

 

 そのあとも骸は気さくにいろいろと話しかけてきたけれど、口車に乗って機密事項を話してしまったら命がなくなるので、ほどほどに相槌を打つだけに努めた。骸も利奈程度が持っている情報などたかがしれていると思ったのか、探っている様子はまったくなかったけれど。

 

「荷物持ってませんけど、学校行く前に家に帰るつもりなんですか?」

 

 気になったことを聞きながら、来賓客用のスリッパを渡す。下駄箱まで行くとほかの生徒の目に留まってしまうので、職員用の昇降口から人目を気にしながらこっそりと入った。

 

「そもそも、学校に行ける時間に帰してもらえるんですか?」

「うっ」

 

 痛いところを突かれた。恭弥があのテンションのままだったら、学校に行ける身体で外に出してもらえるとは思えない。ひょっとしたらそのまま病院送りになってしまうかもしれなかった。

 気まずさで目をそらすが、骸の攻撃は終わらない。

 

「だいたい、僕が学校に通ってるわけがないと、少し考えればわかるでしょう。あんな事件を起こした生徒が、おめおめと学校に通い続けられると思っているんですか? どうせ退学させられてますよ」

「そうでした……!」

 

 あまりにも理路整然とした正論に、利奈は両手で顔を覆った。

 普通の学生なら、他校生と問題を起こしただけでも停学させられる。次々に人を血祭りにあげていてもなんの罰も受けていない人がすぐそばにいるせいで、感覚が麻痺してしまっていたらしい。

 

「あれ、じゃあ、なんでまだその制服着てるんですか? もう黒曜生じゃないのに」

「これですか? 気軽に外を出歩くためのものですよ。学生が平日に私服でいると目立ちますから」

「なるほど!」

 

 この辺りに私服で通える中学校や高校はないし、骸が小学生や大学生のふりをするのは無理があるだろう。しかしこの前は他校の制服を着ていたせいでかえって目立ったのだから、ままならないものだ。

 

「それに、この制服は気に入ってるんです。なかなか他校にはないデザインですからね」

「軍服みたいですよね。女子のもかわいいって聞きました」

「ええ、とてもかわいいですよ」

 

 それは制服がだろうか。それとも、制服を着ただれかがだろうか。

 いつのまにか気軽に雑談してしまっていたけれど、応接室が見えてきたので、利奈は腕章を摘まんで気持ちを切り替えた。ここからが本番なのだ。

 

「ここが応接室です。ヒバリさんに確認を取りますので、少々お待ちください」

「かまいませんよ」

 

 骸はそう言いながら瞳を動かして周囲を確認する。逃げ道でも探しているのだろうか。

 

「先に言いますけど、振り返ったらいないとかはナシですよ。そしたら一生恨みますからね」

「クハハ、そんな手の込んだ嫌がらせはしませんよ。僕だって暇じゃありませんから」

「学校ないのに……?」

 

 つい口から出してしまった言葉だが、骸が無表情になったので利奈は慌てて顔をそらして応接室のドアを叩いた。今度は絶対にいるはずだ。

 

「ヒバリさん、今、いいですか?」

「なに」

 

 今回はすぐに返事があった。不機嫌ではなさそうだし、この前よりはまともに会話ができそうだ。そう考えて利奈は来客を告げようとしたが、そんな利奈の段取りはすぐさま水泡に帰した。

 

「おはようございます、雲雀恭弥」

 

 ――背後にいた人物に、体を押しのけられて。

 

(なっにしてくれてんの、この人は――っ!)

 

 せっかく人が気を遣って穏便に事を運ぼうとしていたのに。

 傍若無人な行いに目を剥く利奈だったが、それはおそらく恭弥も一緒だった。自分の領域を侵そうとする不届き者を排除すべく、机を踏み越えて跳躍する。

 

「おっと」

 

 すぐさま骸はドアを閉めて盾にしようとしたが、それを読んでいた恭弥はトンファーから鎖を出して扉を強引に引き寄せ、その勢いも利用して骸の顎に一撃を浴びせるべく、腕を振り上げる。武器を持たない骸にその攻撃を防ぐ術はない――と思われたが。

 

「チッ」

 

 骸が構えていた得物を見て、恭弥は舌打ちした。骸にダメージは与えられなかったが、盾となった得物は恭弥の攻撃に耐えられずに曲がっている。それなのに恭弥は、恨みのこもった瞳で骸を睨みつけていた。

 

「え、ええ?」

 

 廊下にいた利奈は、一連の攻防の半分しか見えていなかったし、ほんの一部しか判別できていなかった。なので二人の駆け引きは一切わからず、目に見えていたものだけで状況を判断するしかできない。

 

 一番単純な結末――恭弥がトンファーで攻撃し、骸がモップでそれを防いだという、結果だけを。

 

「それ、学校の備品!」

 

 こんな隠しようのないもの、いつのまに用意しておいたのだろう。

 利奈の疑問に答えるように、廊下のすみでロッカーが軋んだ音を立てた。利奈がドア越しに恭弥に声をかけている隙に、ロッカーから拝借してきたらしい。

 

(廊下見てたのって、このため!? たったそれだけで武器見つけたの!?)

 

 恐ろしいほどの機転の速さである。おまけに、掃除用具のなかでもっとも耐久性のある、金属製のモップを選び取っている。

 

「出会い頭にずいぶんな応対ですね。ここではこれが歓迎の挨拶なんですか?」

「六道骸……!」

 

 骸の涼しげな反応が気に障ったのか、恭弥は続けざまに何発も打撃を加えた。それらをすべて器用にモップで受け止めながら後ろに下がった骸が、歪んだモップに目を落とす。金属製とはいえ、床を水拭きするための道具なので耐久性は高くない。もう何発か食らったら使い物にならなくなるだろう。

 

「壊れてしまいますよ? 貴方、風紀委員でしょ」

「備品備品!」

 

 利奈も慌てて叫ぶが、恭弥はまるで意に介さない。それどころか、トンファーを構え直してこう言った。

 

「僕が壊すぶんにはいいんだよ」

「ええ! ちょっと、雲雀さん!」

 

 無慈悲な一撃を食らい、モップが真っ二つに折れる。しかし骸はモップをためらいなく手放すと、半開きになっていたドアから応接室に入っていった。恭弥もあとを追い、なぜかドアが勢いよく閉まる。

 

(た、大変なことになっちゃった……!)

 

 応接室のなかから聞こえる破壊音に慄くが、放ってはおけない。利奈は意を決してドアを開けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勝者:小鳥

 ほんの数十秒で、応接室は見るも無残に変わり果てていた。

 ソファは背もたれが下になっているし、テーブルの上に横倒しになったシュガーポットからは角砂糖が零れてしまっている。ソファの向かい側にあった棚のガラスは割れていて――これは恭弥の犯行だ、トンファーで割った痕があって――中のトロフィーがドミノ倒しになっている。棚の隣に飾ってあったはずの校旗は骸が握っていて、いつも恭弥が使っている値の張りそうな机はまだ無事だったが――今まさに、使用者の足によって踏みつけられ、落下した花瓶が砕けた。

 

(ひどいことになってる……!)

 

 高価な物はあらかた無事だが、それも時間の問題だろう。骸が避けるたびに被害額が嵩んでいく。

 

 それにしても、よく骸は無傷でいられるものだ。地の利は当然恭弥にあり、武器が武器なだけあって防戦一方、なのに周りの物をうまく利用して恭弥の意表をついていく。ガラス片を恭弥に投げつけたときは悲鳴をあげたが、恭弥は顔をほんのわずか動かしただけで躱してしまうし、お返しだと言わんばかりにそばにあった観葉植物を蹴り飛ばす。

 

 ドアから顔を覗かせてハラハラしていると、肩にわずかな重みがかかり、のけぞった。

 

「ふひゃぅ! って、なんだ鳥か……」

 

 肩に乗っていたのは一羽の小さな鳥だった。奇声を発したバツの悪さもあって、ジト目になってしまう。

 

 ヒヨコみたいに黄色いその鳥は、先日から恭弥の周りに顔を出すようになった新入りだ。

 野生の鳥に懐かれているのか、それとも放し飼いのペットなのか。本人に聞いたところ飼ってはいないそうだが、餌をあげているところを見たことがあるので、もう恭弥の鳥ということにしてもいいと思う。

 

「ごはんもらいに来たの? でも今は無理かな」

 

 あいにくと恭弥は訪問者の応対で手いっぱいだ。

 

「ミードーリータナービクー」

「餌持ってないんだ。ヒバリさん終わるまでちょっと待ってて」

 

 なんとこの鳥、歌うのである。喋ったり歌ったりするのはインコだけだと思っていたけれど、この鳥はなんと、並中の校歌を音程つきで歌えるのである。

 校歌を教えたのはもちろん恭弥で、上手に歌えていたらご褒美に食べ物をあげていた。その現場をこっそり目撃したので知っている。

 

「ダーイナークーショオーナクー」

「おなか空いてるの? でも私持ってないから……」

 

 校歌を歌ってアピールされても、利奈は餌を持っていない。一回くらいあげてみたいけれど、勝手に餌をあげるのはよくないだろうし、飼っていないと言っている人に許可を取るのもはばかられたので、あげたことはなかった。

 ちなみに、肩に乗られたのも初めてだ。恭弥がそんな場合じゃないから見知った顔の利奈におねだりしているのだろうが、こんな状況じゃなかったら思う存分かわいがっていた。

 

「ひっ!?」

 

 またもやガラスの割れる音がして室内に目を戻すと、今度は窓ガラスが割られていた。割ったのは恭弥で、骸は恭弥と距離を取るために後ろ、つまり入り口側まで下がってきた。

 

「貴方の主は、人の話をまったく聞きませんね」

 

 恭弥から視線を外さないまま、骸が呟いた。戦闘のさなかに骸は何度か恭弥に話しかけていたようだが、恭弥はすべてを無視していた。骸を行動不能にするのが最優先事項なのだろう。

 

「相手にもよると思いますけど」

 

 人の話を聞かないという点には同意するけれど、骸は骸で、自身の行いをまずは反省してほしい。風紀委員を何人も病院送りにしておいて、無傷で話を聞いてほしいなんて、都合の良すぎる話である。

 

「なるほど。貴方もあっち側なんですね」

 

 利奈の反応を見て骸はそう言うが、むしろ、この状況で骸側につく人がどこにいるのだろうか。たとえ恭弥の目がなかったとしても、骸を擁護するのは不可能だ。行き過ぎてはいても、正義は恭弥にある。

 

(でもいい加減止めなくっちゃ。このままだと応接室が使えなくなる)

 

 すでに半壊しているとはいえ、なんとかして二人を止めなければならない。彼らが応接室を飛び出して校内で戦闘を始めたら、それこそ学校崩壊の危機である。

 

「ひ、ヒバリさん」

 

 声が震えてしまう。蚊の鳴くような声が恭弥に届くはずもなく、利奈は強く唇を噛みしめると、大きく口を開いた。

 

「ヒバリさん!」

 

 ついに校旗が折れた。

 恭弥がトドメを刺そうとしたが、目くらましに旗を投げつけられ、忌々しげに振り払う。

 

「骸さん! 二人ともやめてください! ストップ! やめ!」

 

 声は確実に届いている。しかし部外者の利奈の叫びなどなんの意味もなく、二人は戦いを続行する。

 

「いい加減にしてください! もう、もう落ち着いて!」

 

 恭弥のトンファーが弾き飛ばされ、またもや窓ガラスが砕けた。しかし恭弥は目で追うことなく前に突っ込み、骸が武器にしていた折れた校旗を弾き飛ばした。

 

「おや」

「そろそろ終わらせるよ」

 

 無防備な骸に恭弥が必殺の一撃を放とうとするが、骸はためらいなく後ろに倒れ込むと、ソファをクッションにして恭弥の攻撃を避けた。猛烈にいやな予感がする。

 

「ちょっと! ヒバリさん、それは――」

 

 利奈は叫んだが、恭弥が聞き入れるはずもなく。

 倒れ込んだ骸に振り下ろされたトンファーは、案の定、骸ではなく革張りのソファを引き裂いた。――高額品の損傷に、積み上げられていた利奈のフラストレーションがとうとう爆発する。

 

「だぁから、やめろって言ってるでしょうがぁあああ!」

 

 室内に響き渡る怒声に押されて、肩の鳥が勢いよく飛び立った。

 声に驚いて逃げた先にたまたま骸がいたのか、骸をなんとかしなければ餌はもらえないと判断したのか、骸の無防備な後頭部に、小鳥の頭突きが御見舞いされる。

 

「っ!?」

 

 予想外の方向から攻撃を食らった骸は、すさまじい顔で利奈を睨みつけようとしたが――自分にぶつかってきたものの正体に気付き、思考を停止させる。床の上でクルクルと目を回しているその鳥には見覚えがあった。

 なぜこんなところにと、戦闘中にもかかわらず疑問を抱く骸は隙だらけだったが、恭弥もまた、小鳥の介入に面食らっている。

 その隙を突く形で、利奈は声を張り上げた。

 

「二人とも、馬鹿じゃないの!」

 

 自分の所属する組織の長と襲撃犯を一緒くたにしながら、利奈は戦場と化していた応接室に足を踏み入れた。ガラス片や土片が飛び散っている床をスリッパで踏みつけて、二人に迫る。

 

「なに考えたらこんなことできんの!? なにやったらこんな滅茶苦茶になるんですか、学校壊す気ですか!?」

 

 ほかの委員がいたならば、後頭部が陥没するレベルで殴られていただろう。しかしここには委員長と傷害事件の犯人しかおらず、その二人は利奈の剣幕にあっけに取られていた。

 頭が茹だって判断力のなくなっている利奈は、歯止めがないのをいいことに骸をねめつける。

 

「ヒバリさんが悪いですよ。いきなり襲いかかったのはヒバリさんですよ! でも、だからってなんでノリノリで戦っちゃうの!? そりゃこうなるかもって思ったけど、こんなに物壊すって思わないじゃないですか、普通!」

 

 ――普通がなんだったのかすら、もうわからなくなっているけれど。

 

 こうなったらもう、言いたいことは全部言ってしまおうと、恭弥へと向き直る。

 

「雲雀先輩はいつも通りだけど! いっつもこうだけど、これはひどすぎます! だれが片付けると思ってるんですか!」

 

 あまりに腹が立っているせいか、呼び方が風紀委員所属以前のものに戻っていた。しかしそれを恭弥が指摘するはずもなく、気付かないまま利奈は怒った。

 

「見てくださいよ、割れた窓! 壊れた棚! 散らばった書類! これ全部私たちが片付けるんですよ!」

 

 修理代は活動費で賄えるだろうが、業者の手配やら代替品の準備やら、やることは山積みだ。まだ授業も始まっていないのに。

 そのうえ利奈には、こうなった経緯を全員に説明する義務がある。恭弥の指示があったからとはいえ、他校生を校内に入れた結果の出来事なので、利奈の不用意だという誹りは避けられない。理不尽だが。

 

「とにかく! まだやるっていうんなら、ここじゃなくてどっか人の邪魔にならないところで勝手にやってください! それなら止めません! どうぞ!」

 

 ビッと人差し指でドアを指差すが、二人は武器を交えたまま動かない。素に戻ったら負けなので、利奈は強く唇を噛みしめて二人の出方を待った。

 

「……どうします?」

 

 口火を切ったのは骸だった。からかうような声音は挑発ととれなくもなかったが――

 

「……もういい」

 

 鳥の介入と利奈の乱入にすっかりやる気が削がれてしまったのか、恭弥は仏頂面でトンファーを下ろした。骸もそれに合わせて、いつのまにか手にしていたボールペンを投げ捨てた。

 利奈はひそかに胸を撫でおろす。

 

「それで」

 

 いつもの椅子に座ろうとした恭弥だが、椅子は応接室の隅に転がっている。空気を読んで回収しにいこうとした利奈だが、恭弥はなにくわぬ顔で机に座った。

 

「それで、なんの用があってここまで来たの?」

 

 それは利奈も気になっていた。身構えて骸を見るが、骸はあっけらかんと肩をすく。

 

「いえ、これといった用事はとくに。わずかばかり暇ができましたので、制約の隙を突いて経過を観察しに来たんですよ。このあいだはだいぶ骨を折ってしまいましたから」

 

 恭弥の眉がわずかに動いた。その反応で、骸の言葉が比喩でないことを察する。

 

「それに、そちらでもいろいろと探りを入れていたみたいですからね。

 借りた物を返すついでに僕は無事だと知らせておきたかったんですが、かえって周辺が騒がしくなってしまって。だからこうしてもう一度足を運んだんです。周辺をうろつかれるのは迷惑ですから」

 

 ――ようするに、探りを入れる風紀委員が目障りだから、やめるように言いにきたらしい。

 

 ならば最初から顔を出しにこなければいいのにとも利奈は思ったが、骸は借りた物を返すついでに来たと言った。話のついでに傘を返したのではなく、傘を返すついでに顔を見せにきた。つまり、とどのつまり、こうなった原因は利奈にあるのだ。

 

(まったく身に覚えがないのに!)

 

「暇つぶしにはちょうど良かったですけどね。

 あまり目立つなと指示されていますし、僕がこうしてなんの咎もなく出歩いているというのは、貴方たちにとっても都合が悪いでしょう?」

 

 表向きは、犯人は全員捕まったことになっている。首謀者がこうしてのうのうとしていると知られたら、町は大騒ぎになるだろう。

 

「なので、どうです? もう互いに干渉しないということで、この件は手を打ちませんか?」

「……それ、僕が呑むとでも思ってるの?」

「呑まなくてもかまいませんよ。どうせすぐにそれどころじゃなくなりますから」

「え、それって?」

「クフフ」

 

 聞き返しても、意味ありげな笑みでごまかされる。

 

(なんかその変な笑い方、聞き覚えある……)

 

 思ってもみなかったところで記憶が疼いたが、近づいてくる複数人の足音に利奈の思考は持っていかれた。

 階段を駆け上るような足音からして、おそらく異常に気付いた風紀委員が駆けつけてきているのだろう。校舎を仰げば、応接室の窓ガラスが割れているのがまるわかりのはずだ。

 

「さて、そろそろ僕は退場させていただきましょうか。あまりおおっぴらに人前に立てる立場ではありませんので」

 

 そうはいうけれど、足音はもう間近なうえに出入り口はひとつだ。残る脱出口は窓だけど、ここは一階ではないし、外に足場もない。恭弥なら躊躇いなく飛び降りるが、骸には――

 

「委員長!」

 

 ドアが開く。と同時に、いつもの恭弥と同様に骸は窓から飛び降りた。その後ろ姿が別人のように見えたものの、目を凝らす間もなく視界から消えてしまう。

 恭弥は一切振り返らなかった。

 

 

 

 ――後日。新品の来賓客用スリッパとともに、どこでどうやって調べたのか、モップ、校旗、窓ガラス一枚分の代金が利奈宛に届けられることになるのだが、それは応接室が元通りになってからの後日談であった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

事後処理が終わらない

 本日最初の委員会活動は、応接室の後片付けだった。ほかの委員たちがソファを起こしたり窓ガラスを外したりしている横で、利奈はガラスや花瓶の欠片などを箒で集めた。

 地味に面倒だったのが、恭弥の蹴飛ばした観葉植物の後始末だ。湿った土は箒だと集められないし、雑巾でちょっと拭ったくらいだと、絨毯についたシミはまったく取れない。絨毯も買い替える必要がありそうだ。

 

 恭弥は二言三言指示を出したきり、どこかに行ってしまった。

 応接室が片付くまで静かなところで待つつもりなのか、はたまた落としたトンファーを拾いにいったのか。それはわからないけれど、当事者である恭弥がいなくなってしまうと、水が向くのはもちろん利奈だ。状況説明を求められた利奈は、目を泳がせた。

 

「えっと、黒曜生がヒバリさんに勝負を挑みに来まして……それでヒバリさんが応戦して、こんな感じです」

 

 窓からの脱出を選ぶほど目撃されることをいやがってたのを踏まえて、黒曜生による御礼参りというていで、みんなには伝えておいた。退学したとはいえ骸は黒曜生だったし、恭弥も黒曜への警戒を解くと言い残していたから、矛盾はない。

 明言を避けたせいで説明がざっくりしてしまったけれど、侵入者に動揺していると判断されたのか、詳細は追及されなかった。利奈が侵入者を庇う道理がないというのもあっただろう。

 

(骸さんに気を遣う必要はないんだけど、勝手に喋ったらあとが怖そうだし……。なにかあったらヒバリさんがなんとかするから、うん、いいよね)

 

 早い時間の出来事だったから、目撃者もほとんどいなかっただろう。

 野球部はグラウンドで活動していたけれど、応接室は校舎の正門側にあるから、グラウンドにいた彼らからだと、応接室の窓は見られない。教室に戻っても、だれもそんな話はしていなかったので、利奈はひそかに安堵した。

 

 ――骸が来たのが早朝で助かった。この前と同じく放課後の訪問だったら、目撃情報多数で大騒ぎになっていたはずだ。今から思えば、あのとき骸を校内に入れなかったのは英断だったと思う。

 

 それはそれとして、昼休み。利奈はプリントを抱えて東奔西走していた。乱闘でぐちゃぐちゃになったプリントを再発行してもらうためだ。汚れたプリントはもう使い物にならないので、担当の先生を探して、もう一度印刷してもらわなくてはならない。

 ひどいものは水で濡れて文字が読めなくなっていて、内容すら確認できなくなっている。どうしてもわからないものは、あとで恭弥に聞いてみるしかないだろう。それに、担当の先生がわかっても、その担当の先生を見つけるのも骨だった。

 

(職員室にいてくれればいいのに、みんな全然違うところにいるんだもん! ほかの先生にどこにいるか聞いても、どっか行っちゃってたりするし)

 

 壊れた備品の運び出しなどの力作業はほかの班員がやっているので、非力な利奈にはこういっためんどくさい作業ばかりが割り当てられる。適材適所という言葉があるけれどおかげで変なスキルばかり上がっている気がする。刑事のスキルを上げたところで、授業には全然役立たないのに。

 

「おっ、相沢」

 

 階段を下っていたら、武とばったり出くわした。武が立ち止まったので、利奈も合わせて足を止める。

 

「朝、大丈夫だったか? 応接室の窓ガラス、割れてたよな」

「……あー」

 

 どうやら、知り合いに目撃者がいたらしい。

 

「ちょっといろいろあってね。ヒバリさんがやっちゃった……」

「やっぱそっか! 走り込みしてたらいきなりパリーンってなって、上見たら窓が割れてるだろ? そんときは走ってたから通り過ぎたけど、そういえば応接室だったなって思い出してさ」

「そうなんだ」

「それに、グラウンドで投球練習やってたときも、またパリーンって聞こえたし。朝からなんかあったのか?」

「えーっとね……ちょっと、ほんとにいろいろあって……」

 

 心配してくれている武に嘘をつかなければならないのは心苦しいが、仕方ない。

 

「ひ、ヒバリさんに恨みを持ってる人が突然押しかけてきて……そのまま応接室で喧嘩始めちゃったんだ」

 

 話をするたびに、どんどん侵入者の人物像がぼやけていくけれど、他校生と言ったら、この前の事件と結びつけられてしまうだろう。

 それに、武も黒曜生に襲われた被害者の一人だ。恭弥が敵陣に乗り込んだ日に運悪く武も襲われ、半月ほど入院していた。利き腕ではないとはいえ、ピッチャーの要である腕を負傷した武に、本当のことなんて言えるはずもなかった。

 

「だから風紀委員があんなに集まってたのな。さっき、あっちで風紀委員が壊れたソファ運んでたぜ」

「う、うん」

 

 利奈も風紀委員だから知っている。

 ソファは表面を張り替えればまだ使えると修理業者が言っていたから、修理代だけで済みそうだ。威圧して値切らなければいいけれど。

 

「相沢は大丈夫だったのか? 最近は俺たちと同じ時間に学校来てたよな」

「平気、応接室の外にいたから。でも、応接室がめちゃくちゃになって、後片付けが大変なんだよね」

 

 いつもと違う高低差が落ち着かないので、利奈は階段を下りきってプリントを見せた。ビリビリに破けたプリントに、武が苦笑を浮かべる。

 

「ヒバリってわりとそういうとこあるよな。後先考えないっていうか、手加減しないっていうか」

「そう! だからいつもすっごく大変なんだよ」

 

 ――おもに、咬み殺された不良たちの後始末なんかが。

 邪魔な者は何人たりとも容赦なく地面に沈めてしまうので、救急車が何台あっても足りないくらいだ。あの悪癖さえなければまあまあ優秀な上司だが、風紀委員のほとんどはあのブレない性格――信念というべきかを崇拝しているので、咎める人がまったくいない。むしろ、陰で苦言を呈する利奈のほうが異端者扱いである。納得できない。

 

「風紀委員って大変そうだよな。

 そういや、相沢はなんで風紀委員に入ったんだ? 入ったの、夏前だったよな」

「……それもいろいろあって」

 

 利奈にとってはただの思い出になっているが、人によってはトラウマ案件だろう。あれ以来、三年生の一部の女子とはぱったり出会わなくなった。

 

「夏休みも祭りでショバ代の回収とかしてただろ? 見回りもあるし、一番忙しい委員会なんじゃないか?」

「かもね。でも、野球部に比べたら全然じゃないかな」

「そうか?」

「そうだよ。だって毎日朝から放課後までずっと練習してるでしょ。私たち、そんなに運動はしてないもん」

 

 それに、武はスタメンのピッチャーだから、試合にはずっと出ずっぱりだ。だれよりも負担が大きいし、プレッシャーも強い。

 

「んー、俺たちは好きでやってるから、そんなにつらくないぜ? 今は秋の大会があるから部活ばっかだけど、大会なければ普通だし」

「そうなんだ。大会、今週の土曜日だっけ」

 

 動向を恭弥が気にしていたから、利奈も日付を覚えてしまった。

 

 野球部の成績次第で恭弥の機嫌も変わるだろうから、ぜひとも野球部には頑張ってもらいたい。なんなら、風紀委委員一同を引き連れて応援団を結成してもいいくらいである。恭弥が指揮を取れば、みんな熱を入れて応援してくれるだろう。――それで武たちの士気が上がるかどうかはわからないけれど。

 

「頑張ってね! 風紀委員はみんな応援してるから! ヒバリさんも!」

「おう! あ、そうだ」

 

 キリのいいところで話を終わらせようとしたけれど、階段を上っていた武に呼び止められる。

 

「せっかくだし、相沢も観にこないか?」

「え?」

 

 突然のお誘いに動揺しつつ、体を捻る。顔を上げると、武が手すりから体を乗り出して利奈を見下ろしていた。

 

「観客はたくさんいたほうが盛り上がるしさ。笹川も誘ってるから、相沢も来いよ」

「京子も?」

 

 夏休みが明けて、とうとう京子たちと名前で呼び合う仲になった。再来週の日曜日には、京子おすすめのケーキ屋さんで、三人でケーキを食べる約束もしている。

 

「あと、ツナと獄寺な。獄寺はツナが来るなら行くっつってたけど、最近こっそり野球のルール勉強しててさ。素直じゃないよなー」

「そ、そうなんだ」

 

 それは指摘しないであげたほうがよさそうな情報だ。隼人が知ったら、怒り狂うだろう。

 

(んー、私も野球は詳しくないんだけどな。体育でやったから簡単なルールはわかるけど、スクイズとかそういう用語は全然わかんないし)

 

 わからないことがあったら隼人に聞いておけばいいのだろうか。――いや、駄目だ。隼人が勉強していることを知っていたとバレてしまう。

 

「試合って何時から? 委員会が昼まであるんだよね」

「昼までか。試合は一時からだぜ」

「あー、始まっちゃうか」

「いや、一試合二時間ぐらいかかるから間に合うぜ。野球は途中からでも見ごたえあるだろうし」

「そう? じゃあ応援しにいっちゃおうか――」

「そりゃっ」

「なっ」

 

 頭に緩く手刀が入り、利奈はびっくりして後ろを向いた。

 忍び足で近づいてきていたのか、花がチョップしたままの体勢で立っている。

 

「え、花?」

「なーにこんなところで青春ごっこしてんのよ。やるんなら人目につかないところでやりなさい」

「青春ごっこって……」

 

 うっかり笑いそうになった利奈だが、言葉の意味に気付き、体を硬直させた。あわてて階段の下を覗き込むと、目が合った女子生徒たちが一斉に逃げ去っていく。かなりの人数だった。

 

(うわー、見られてた……!)

 

 話しこんでいたせいで、自分に向けられていた嫉妬の視線にまるで気付かなかった。

 女子生徒に人気のある武と長話したうえに、野球の試合にまで誘われたのだ。恨まれないわけがない。

 

「ん? どした? だれがいるのか?」

「い、いいいいないよ! なんもないよ!」

「ん?」

「あー、いいからいいから。ほら、早く行っちゃって、この子のためにも」

 

 戻ってこようとする武を、花が雑に手で追い払う。

 

「よくわかんねえけど……じゃ、あとでな!」

「う、うん、じゃあね」

 

 手を振り返すのもはばかられて頷くだけにしておいたけれど、これみよがしな花のため息に、利奈は手をこすり合わせた。

 

「花、ありがとう……!」

「どーいたしまして。まあ、わざわざあんたに因縁つける女子もいないと思うけど、念のためにね。こんなんでシカトされんのもつらいでしょ」

「神様……!」

 

 風紀委員の腕章がある限りイジメられることはないだろうけれど、無視されたりするのは心が痛い。花の機転にひたすら感謝だ。日曜日にケーキをいっこ奢っておこう。

 

「あっ、いた。花、お待たせ……って、利奈も一緒?」

 

 階段の下から、京子が顔を出してきた。手には花柄のハンカチが握られている。

 

「もー、先行っちゃうなんて。探しちゃったよ」

「ごめんごめん、なんか利奈が青春ごっこしてたからさ」

「青春ごっこ?」

「なんでもないから! ちょっと花!」

「間違ってないでしょ。大会観にこないかってって誘われてたんだから」

「大会?」

「花!」

 

 利奈は焦ったが、京子はおっとりと両手を顔の前でくっつける。

 

「あっ、利奈も山本君に誘われたの? 私も応援しに行くんだー」

「……」

 

(……なんでだろう。京子だと、だれにもやきもち焼かれない気がする)

 

 かわいらしい顔立ちか。ほんわかした雰囲気か。それとも彼女の人徳か。はたまた全部か。いずれにしろ、虎の威を借りた利奈では、絶対に辿り着けない境地である。

 

 なんとなく敗北感を抱いていたら、階下からドタドタと音を立てながら綱吉が階段を駆けのぼってきた。

 

「あれ、ツナ君」

 

 京子が名前を呼ぶと、一段飛ばしで駆けのぼっていた綱吉が、ぴたりと足を止める。

 

「きょ、京子ちゃん!?」

「どうしたの、そんなに急いで。退院したばかりなんだから、無理しちゃだめだよ」

「あ、うん! ありがとう!」

 

 ――綱吉も、黒曜生に襲われた被害者の一人だ。

 体格のせいか、襲われた生徒のなかでもっとも入院期間が長く、一ヶ月ほど入院して、今日やっと登校してきたところだ。

 

(ヒバリさんみたいに、骨折れたのに数日で戻ってくるほうがおかしいんだけどね。そのせいで、草壁さんまで無理やり退院したし)

 

「で、どうしたの沢田。補習受けたくないからってもう帰るつもり?」

「違うよ!」

 

 現実は非常なもので、退院した綱吉を待っているのは、入院しているあいだに受けそこなった授業の補習である。武の口ぶりからすると、綱吉と隼人も土曜日の補習は免除してもらえたらしい。

 

「今ちょっとリボーン探してて……見なかった?」

「げっ、あんたまた子供連れてきたの? いい加減やめてよね、迷惑だから」

「勝手についてくるんだよ!」

 

 花は大の子供嫌いだ。鳥肌の立った腕をこすっている。

 

「で、京子ちゃん、見なかった?」

「うーん、見てないよ? 心配だよね、探すの手伝おっか?」

「あ、ううん、大丈夫! どうせろくでもないこと計画してるだけだから……」

 

 最後にボソッと呟かれた言葉を、利奈は聞き逃さなかった。

 リボーンが綱吉から離れて行動しているとしたら――

 

「もしかしたら、ヒバリさんのとこかも」

「え」

「よく応接室に来てたから、リボーン君」

「えええ!?」

 

 階段に響き渡る声で綱吉が叫ぶ。今更だけど、階段に居座り続けて、ほかの生徒の妨げになっていないだろうか。

 

「応接室、覗いてみる? 沢田君一人だと咬み殺されるだろうけど、私と一緒なら開けても大丈夫だと思うよ」

「……うーん」

 

 綱吉が葛藤するのもわかる。利奈だって、風紀委員に入ってなければ、わざわざ恭弥のいる場所に近づいたりはしないだろう。――いると知っていたならば。

 

 綱吉はしばらく考え込んでいたけれど、心配そうな顔をした京子に見つめられたからか、決心したように頷いた。

 

「……俺、行くよ! 相沢さん、一緒にお願い!」

「あ、うん」

 

 もしかしたら、応接室で恭弥に襲われた過去があったのかもしれない。そう思わせる、強い決断だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不憫な訪問者

 死地に赴くかのような顔で唇を引き結ぶ綱吉を、応接室へと連れて行く。ドアの前で振り返ったら、綱吉は今にも死にそうな顔をしていた。気持ちはわからないでもないけれど、日常的に使っている場所をそこまで恐がらないほしい。

 

「そんなに恐い?」

「え? あ、いや、その……」

 

 あまりにもびくびくしているから声をかけると、綱吉はひきつった笑みを浮かべた。まったく取り繕えていない。

 

「なにもしなければなにもしないよ。なかに入ったらあれだけど、外からちょっと声かけるくらいなら大丈夫だから」

「いやあ……初めてヒバリさんと顔を合わせたのがここでさ。なにも知らないでなかに入ったら、前触れなくいきなり襲われて」

「あ、それ私と一緒だ」

「はいっ!?」

 

 期待通りの反応を返してくれる綱吉にかまわず、ドアを叩く。

 恭弥、あるいは風紀委員のだれかがいれば返事か物音が答えになると思ったけれど、壊れたの備品の運び出しで出払っているのか、手応えはない。

 念のためにもう一度叩いて耳を澄ましていると、綱吉があることに気がついた。

 

「ね、ねえ。ドア、へこんでない?」

「……ほんとだ」

 

 室内の惨状にばかり目をやっていたけれど、ドアの真ん中、腰あたりの位置で歪んでいる。そんなに目立ったへこみではないものの、直すか直さないか、あとで哲矢あたりに相談したほうがいいだろう。

 

「ありがとう、全然気づかなかったよ」

「うん」

 

 利奈があまりにあっけらかんとしているから、たいしたことではなさそうだと綱吉は表情を緩める。しかし、もし事の詳細を聞かされていたら、驚愕しただろう。――二重の意味で。

 

「だれもいないみたい。一人くらいいると思ったのに」

「俺としてはいないほうがありがたいけど……じゃあ、リボーンはいったいどこにいるんだ?」

 

 綱吉は頭をひねるが、利奈には恭弥以外の心当たりはまるでない。

 

(先生が見つけたら職員室に連れて行くと思うけど……さっき入ったときに見なかったしな)

 

 これ以上綱吉に無駄足を踏ませるのも気が引ける。駄目押しに応接室のドアを開けてみたが、やはりだれの姿もなかった。

 

「やっぱいないや。別のところだね」

「……なんか、物減ってない?」

 

 夏休みに一回、綱吉は応接室内に足を踏み入れている。そうでなくても、二脚セットのソファが一脚減っているから、なにかが欠けたような印象を受けただろう。

 トロフィー入っていた棚と校旗がないから、学校らしさも感じられなくなっている。

 

「前入ったときは、ソファふたつあったよね?」

「ヒバリさんが壊しちゃったから」

「あれ、そういえば窓も……」

「ヒバリさんが割っちゃったから」

「……なにがあったんだ?」

 

 と小声で呟きながらも、知りたくはないのか利奈には尋ねてこない。尋ねられても、武にしたように適当にごまかすしかなかったから、助かったけれど。

 

「んー、どうしよっか。とりあえず職員室に行ってみる?」

 

 そのとき、だれもいないはずなのにガタリと音が響き、利奈は身をすくめた。驚いた拍子に手を離してしまい、ドアが閉まる。

 

「えっ……ええ?」

「どうかした?」

 

 今の音が聞こえていなかったのか、綱吉は不思議そうな顔をしている。

 

「今、なかで音が……」

「……え?」

 

 沈黙がおりる。綱吉が乾いた声を出すものだから、利奈は数歩後退して綱吉と顔を見合わせた。

 

「き、気のせいじゃない? 風でなにか倒れたとか」

「……じゃあ、沢田君なかに入れる?」

「無理無理!」

 

 ブルンブルンと首が外れてしまいそうな勢いで綱吉が首を振る。ホラーだったら真っ先に襲われる人の反応だ。大げさな態度に冷静さを取り戻した利奈は、ドアノブにしっかりと手をかけた。

 

「ええ、開けちゃうの!?」

「だって開けなきゃわかんないじゃない」

 

 綱吉が言ったように物が倒れたのなら、元通りにするべきだし、不審者が侵入しているのなら、だれかに知らせにいかなければならない。

 物音がしたけど怖くて調べられませんでしたなんて言ったら、それこそ恐ろしい目に遭わされるのだから。疑わしきは排除である。

 

「……あー」

 

 ドアを半開きにしてざっと室内を検分した利奈は、後悔に満ちた声音で嘆息した。

 

「なにかあった?」

「……ううん、なにもなかった」

「それなら……あ」

 

 安堵しかけた綱吉だが、利奈の反応の理由に合点がいったのか青ざめた。

 

 ――そう。なにも倒れてなかったということは、不審者が侵入している可能性が高まったということにほかならない。しかも、その不審者は応接室のなかでいまだ息を殺している。

 

 応接室で隠れる場所といったらソファの後ろか、奥にある机の陰だ。見当をつけるべく、利奈は目を凝らした。部屋の最奥にある椅子が、わずかに動いた気がする。

 

「……沢田君、お願いがあるんだけど」

「いやだよ!?」

 

 この状況でお願いされることなどひとつである。即座に断られた。

 

「大丈夫、ちょっと見てくるだけだから! ほら、リボーン君かもしれないし!」

「ちょ、やめ、痛いから、ちょっと!」

 

 病みあがりの綱吉が悲鳴をあげたが、聞こえないふりをして応接室に押し込んだ。せめてもの良心で、ドアは閉めないでおく。

 

「なにかあったらすぐに先生呼んでくるから! お願い!」

「俺一人にする気!? ちょっと待って、せめてもう一人くらいだれか呼んで――ってぎゃあああああ!」

「わあっ!」

 

 椅子が後ろの壁まで滑り、綱吉が絶叫した。もはや疑う余地はない。

 

(沢田君がこんなに叫んでんのに出てこないなんて……やっぱり、リボーン君だったりするのかな)

 

 茶目っ気があるうえに綱吉に対してシビアなリボーンなら、こっそり隠れて綱吉を驚かせようとしていたとしても、おかしくはない。恐がっている綱吉には悪いが、犠牲になってもらおう。

 

 もう行くしかないと覚悟を決めたのか、綱吉はじりじりと机ににじり寄っていった。及び腰なので、猛獣に近づこうとしている新人飼育員みたいだ。

 利奈は利奈で、綱吉に気取られないように携帯電話を取り出す。万が一、潜んでいるのが不審者だった場合、即座に仲間に連絡を取らなければならないからだ。綱吉が知ったら、絶対に見に行ってくれないだろうから、ひっそりと。

 

「り、リボーンなのか? 驚かそうったって、そうはいかないぞ」

 

 虚勢なのか、単なる呼びかけなのか、そんなことを言いながら綱吉が机に手をついて身を乗り出した。しかし姿が見えないのか、思いっきり体を傾けている。このままだと頭から向こうに落っこちそうだ。

 

「沢田くーん。多分、机の下だよ」

 

 背中にアドバイスを投げかける。

 恐怖心がなくなったのか、綱吉は戸惑うことなく回りこんで、机の下に顔を入れた。そして小さく声を上げる。

 

「え、なんでこんなところにいるんだ!?」

 

 戸惑う綱吉の声。そろそろと近づいた利奈は、立ち上がった綱吉の手に抱かれた黄色い小鳥に、目を丸くした。そしてふにゃっと表情を和らげる。

 

「なーんだ、君かあ」

 

 掃除中には見かけなかったけど、窓が開きっぱなしだったから入ってきてしまったのだろう。お騒がせした犯人はくりくりと首を動かして、愛嬌を振りまいている。

 

「ごめんごめん。その子ね、ヒバリさんに懐いてるの。勝手に入っちゃたみたい」

「……バーズの鳥、だよな?」

「え?」

「ああいや、なんでも!」

 

 綱吉が机の上に鳥を乗せると、数歩歩いてみせてから、窓の外に飛び立ってしまった。まったく、おちゃめな鳥である。

 

「よかったあ、鳥で。あ、リボーン君じゃなかったのは残念だったけど」

 

 結局リボーンの行方はわからずじまいになっている。

 

「気にしないで。もうとっくに戻ってるかもしれないしさ」

「そうだね。昼休みも終わるし」

 

 リボーンの捜索をしていたから仕事を終わらせられなかったけれど、続きは放課後にやっておけばいいだろう。どうせ何枚かは恭弥に聞かないと内容すらわからないのだ。

 

「じゃ、教室戻ろっか。だれか来たら大変だし」

「そうだね。こんなとこ見られたらヒバリさんになにされるか――」

 

 なんて、軽口をたたこうとした綱吉の顔がノック音で凍りついた。利奈も動揺しながら振り返るが、ドアは閉まっている。

 

「失礼します」

 

 そんな声とともにドアノブが捻られ、利奈は転がるように走り、ドアにしがみついた。

 

「ど、どうも、お疲れさまです!」

 

 挨拶の言葉とともに閉めようとするが、片腕ひとつですぐに押し返される。

 

「なあに閉めようとしてんだ、相沢」

「あ、いえ、そんなわけじゃ! ヒバリさんならいませんよ!」

「わかったから、どけ。なかに入れないだろ」

 

 ――まずい。綱吉が見つかるのはまずい。

 恭弥だったら問答無用で咬み殺しにいくだろうし、風紀委員の場合はやるかやらないか半々な代わりに、許可なく入室させた利奈が罰せられる。

 

(なんとかしないと……!)

 

 勢いよく振り返ると、利奈の意思が伝わったのか、綱吉がすぐさま机の下に身を隠す。それを確認してからドアを開くが、よりにもよってまっすぐ机に向かうので、利奈はすかさず体を挟みこんだ。

 

「おい、さっきからなんの真似だ」

 

 目障りだとでも言いたげな顔で睨まれて、利奈は縮こまった。

 これでまだ怒っていないのだから驚きだ。並の人間なら裸足で逃げ出す威圧感なのに。

 

「なにが必要なのかなーっと。もしかしたら探し物はこっちにあるんじゃないかなって思いまして!」

 

 ここぞとばかりに紙の束を掲げると、利奈の行動に納得がいったのか、班員はやや表情を緩めた。それでも仏頂面に変わりはないが。

 

「べつになにも探してねえよ。運び出し作業が終わったから、ヒバリさんに伝言を残しておこうと思っただけだ」

「あ、ああ、そういう! じゃあせっかくなんで私が書きますね! ほら、現場にいた責任がありますし!」

 

 有無を言わさずに卓上からペンとメモ用紙を取りあげ、接客用の机の前に膝をつく。

 

「やけに殊勝な態度だな。ま、字はお前のほうがマシか」

 

 狙いどおり、班員も利奈に合わせて机の前にしゃがみこんだ。綱吉にはわからないだろうけれど、見つかる可能性を減らせたから作戦成功だ。

 やっぱりこういうときはヤンキー座りなんだななんて感慨を抱きつつ、業者の名前と電話番号を聞いたとおりに記していく。利奈も特別文字がきれいなわけでもないけれど、丸みのある文字は彼らには新鮮に映るらしい。

 

「こんな感じでいいですか?」

「ん。あとは机に――」

「やります! 私が!」

 

 伸ばされた手から逃げるようにしてメモを掴み、そそくさと机の上に乗せる。風に飛ばされないように重石を置くのも忘れない。

 

「はい、終わりました」

「おう」

 

 やたら機敏に動く利奈を訝しみながらも、用事が済んだ班員はのそのそと立ち去ろうとする。見届けないと安心できないので、利奈は背後にピッタリとくっついて追い出しにかかった。

 

「なんだ、お前は出ないのか?」

「ヒバリさん待とっかなって。読めないプリントどうすればいいかわからないですし」

「それはあとにして、お前もそろそろ教室に戻ったほうがいいぞ。授業に間に合わなくなるだろ」

「はい、プリント置いたら戻りますね! またあとで!」

「ああ」

 

 高めなテンションでごまかして、班員がいなくなると同時に、利奈は後ろを振り返った。もちろん、うかつに顔を出したりなんかはしていない。

 

「……行ったよ、沢田君」

「……ハー……」

 

 ため息をつきながら、綱吉が這って顔を出した。気配を隠すために息まで止めていたのか、顔が真っ赤になっている。

 

「怖かった、どうなるかと思った……。相沢さん、今の人とは仲いいの?」

「ううん、全然。四班の人とは全然喋んないから」

「それなのにあんな感じで喋れちゃうんだ……」

 

 呆れてるのか感心してるのか、いまいちわからない。嘘をついても見抜かれそうだから、テンションで乗り切っただけなのだけど。

 

「早く行こ、授業始まっちゃう」

 

 持っていた書類の束をテーブルの上に置き、重石代わりになるものを探す。いつもなら灰皿が置かれているのだけど、ヒビでも入って撤去されたのか見当たらない。棚に入っているファイルで代用しようと、利奈は下段の棚を開けた。何年か前の物なら使っても問題ないだろう。

 

「そうだね。さっさと出なくっちゃ。まただれか来たら大変だし」

「だれが来たら困るんだい?」

 

 ――そのとき、心臓は止まっていたのかもしれない。

 先ほどなどとは比べ物にならない恐怖が、二人のつま先からつむじまでを駆けのぼり、落ちて、血の気を引かせた。

 この部屋にノックも声かけもなく入ってくる人物は一人しかいない。いや、そんな前提条件がなくても、利奈が恭弥の声を聴き間違えるはずがなかった。

 

 錆びついた機械を無理に動かしたようなぎこちない音を立てながら首を動かすと、死刑執行人がゆっくりと室内に入ってきた。この場合、死刑囚は綱吉で利奈は――判決待ちの罪人だろうか。いずれにしろ、綱吉の処刑は決まっている。

 

「ひ、ヒバリさん……」

「こんなところでなにしてるんだい? 見たところ、相沢が通したみたいだけど」

 

 すでに綱吉は机の下から出てきているが、まだ机のそばにいる。一方で利奈はファイルを取り出すために綱吉とは反対の壁側にしゃがんでいて、すぐには綱吉を庇いにいけそうにない。

 

(庇った私ごとやられそうだけど……)

 

 なんて考えながら、恭弥の出方を窺う。

 恭弥は思案するように目の前の綱吉を眺めていたが、ふと視線を利奈に移し、その目元を細めた。

 

「……なるほど? 今度は彼が訪問者か」

「……へ?」

 

(訪問者……?)

 

 意味がわからずに言葉を反芻させた利奈は、過去の指示を思い出して、目を見開いた。

 

 ――何者かが恭弥を訪ねてきたら、だれでもいいから自分のもとへ連れてこい。

 

 今、恭弥は綱吉を訪問者――自分に挑んできた挑戦者として捉えた。利奈が否定しようが制止しようが、もう止まらない。これから待っているのは、勝負という名のリンチである。

 

 綱吉がじりじりと後ずさる。応接室の外にベランダはなく――それでも二人飛び降りた人物を知っているが、綱吉がやったらただの飛び降り自殺になってしまう。窓枠にぶつかって逃げ場を失った綱吉は、恐怖に身体をわななかせながら執行の秒読みをしていた。

 

(だ、だめ。どうしようもない……)

 

 利奈はパクパクと口を動かし、自分がだれに、なにを言うべきかを考え――標的を定めた。

 

「――沢田君」

 

 聞こえているだろうか。聞こえていたとしても綱吉にこちらを見る余裕はないだろうが、聞こえるように利奈は声を張り上げた。

 

「――ごめんっ!」

「ぎゃーーー!」

 

 悲鳴をあげて綱吉が逃げようとするが、やる気になった恭弥から逃げきれるわけがない。すかさず背後に迫られ、振り返ってしまった綱吉が瞠目する。

 

「ひ、ひぃ――グハッ!」

「ほんとにごめんなさーい!」

 

 恭弥の右アッパーで宙を舞った綱吉に、利奈は両手を合わせながら全力で謝罪した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

罪の報いは自覚なく

 もしかしたら、綱吉はトラブルに巻き込まれやすい体質なのかもしれない。

 

「おう、久しぶりだな、ダメツナ」

 

 いや、トラブルを引き寄せる体質だろうか。

 

「久しぶりついでに、むしゃくしゃしてんだ。軽くボコらせてくんね?」

 

 今日だけで、何回危機に瀕しているのだろう。ここまでくると、なにかに憑かれているのではと勘ぐりたくもなる。巻き込まれたのは、はたして綱吉だったのか。それとも――

 

「後ろの子は、俺たちが遊んどいてやるからさー」

 

 ――利奈のほうだったのか。

 

 放課後の通学路で綱吉に声をかけたら、柄の悪い三年生三人組に絡まれてしまった。

 そのままあれよあれよと公園まで追い込まれ、気が付けば後ろには木、前には綱吉、右左正面には上級生という、逃げ場なしのこの状況。

 身体を震わせる綱吉の後ろで、利奈は一人、場にそぐわないテンションで、こう思った。

 

(いやいや、沢田君不幸体質すぎるでしょ!?)

 

 応接室では恭弥に襲われ。そのせいで遅刻した授業では、意地の悪い先生に目をつけられて恥をかかされ。退院したばかりの綱吉になんたる仕打ちと憤った隼人が先生に掴みかかって、授業どころではなくなり。隼人を止めようとしたのに転んで、隼人とともに先生にのしかかったところを、駆けつけたほかの先生に目撃され。同級生からの証言でなんとか誤解は解けたものの、連帯責任で隼人とともに反省文を書かされて。

 

 挙句の果てに三年生に絡まれているという、どう考えても前世でなにかやらかしていたのではというレベルの不幸度合いである。

 

 ちなみに、利奈はこれをピンチだとは思っていない。胸に当てた手にほんの少し力を籠めるだけで、助けは呼べるのだ。

 まだ押していないのは、相手を脅威と判断していないからであって、ついでにいうと、だいぶ前に買い物に出たくせに、なんでまだそんなところにいるんだと余計な詮索を受けたくなかったからである。

 

(花瓶と花買ってくついでに、沢田君にジュースでも買ってあげようって思ってたんだけど……ついてないなー)

 

 綱吉に話しかけてすぐに上級生たちが現れたけれど、彼らは綱吉にばかり話しかけているから、利奈が巻き込んだわけではないだろう。いきなり黒い車に引きずりこまれたのなら、原因は利奈だろうけど。

 

「おいおい、震えてたらかっこ悪いぜ。女の子守るんだったらかっこよく守ってみろよ」

「女の子怯えてんじゃーん。そうだ、俺に一発入れられたら見逃してやろうか?」

「無理だって、ダメツナにそんな勇気あるわけねえだろ!」

「だな!」

「ハハハハハ!」

 

 綱吉は怖がっているけれど、利奈は一切怖がっていない。身を縮めているのは、胸に手を当てている動作を自然に見せるためのフェイクだ。ついでに、怯えたふりをして調子に乗らせておけば、暴力を振るわれずに済む可能性が高まる。

 

(にしても、この人たち風紀委員の腕章見えてないのかな)

 

 綱吉の背後に隠れているとはいえ、だれか一人くらい気付いてもよさそうなものだ。頭が足りていない人たちなのか、それとも綱吉を怖がらせるのが楽しくて、後ろの利奈にあまり注目していないのか。

 綱吉も綱吉で、後ろにいるのが最強不良集団に属する人間だということをすっかり忘れている。利奈の盾になるよりも、利奈を盾に彼らを牽制するほうがよっぽど賢いのに。

 

(腕章見せて風紀委員だって言ったら、逃げてくれるかな。……でも、この人たち頭悪そうだから、あんまり効果ないかも)

 

 利奈自身はあくまで非力な存在だ。のちの報復など考えずに襲いかかってくるかもしれない。権力は馬鹿には効かないのだ。

 

(……まあ、考えなくていっか)

 

 少し肩の力を抜いた。

 

「どーする? タイマン張って泣かすか? それとも、フツーにボコボコにする?」

「せっかく女連れなんだから、もっと楽しくいこうぜ」

「お、なんだ?」

「よく聞けよ。まず、三人でダメツナをボコボコにするだろ? んで、服を脱がせて俺たちに土下座させる。そんで、ツナに幻滅した女連れて、そっからカラオケ! そのあとも――」

「おい、もう一度最初から聞かせろ」

「ああ? だからまずダメツナを――」

 

 二度は言わせないとばかりに、隼人の回し蹴りが男の顎を砕いた。

 利奈たちには彼らの背後から近づいてくる隼人の姿が見えていたけれど、彼らからしてみれば、青天の霹靂だっただろう。逃げるどころか許しを乞う余裕すら与えられずに、彼らは地面に倒れ伏す。

 

(つ、強い。ヒバリさんと比べなかったら、最強レベルなんじゃ?)

 

 伊達に並盛中学校の問題児の看板を背負っていない。

 

「ご無事でしたか、十代目」

 

 隼人に問いかけられた綱吉は、やっと感情が追いついてきたのか、へなへなとその場にへたりこむ。安堵で腰が抜けてしまったようだ。

 

「十代目、どこかお怪我を!?」

 

 慌ててた様子で隼人が腕を引こうとするが、綱吉は緩く首を振る。

 

「ち、違う。ホッとしたらなんか力が抜けて……」

「大丈夫?」

 

 後ろから覗きこむと、綱吉は弾かれたように顔をあげて利奈を見た。

 

「そっちこそ大丈夫!? ごめん、俺のせいで怖い目に――」

「遭ってない遭ってない。慣れてる慣れてる」

「ええ……」

 

 ケロッとした顔で手を振ると、ドン引きの視線を向けられた。

 武器を持っていない男三人、そのうえ、公園なんて人目につきやすい場所で絡まれたくらい、事件にも数えられない。班長に伝えても鼻で笑われるだけだろう。

 

「うーん、気にしてないならよかった……よな、うん」

 

 あっけらかんとした態度を見て、ようやく利奈が風紀委員だったことを思い出したらしい。守ろうとしていた相手がまったく頓着していなかったと知り、脱力感にうなだれている。

 

 なんだか、悪いことをしてしまった。上級生三人から女の子を守ろうとした姿勢は、称賛されるべきものだったのに。

 

(今度、京子に伝えといてあげよう。そしたらチャラだよね)

 

 綱吉が京子に片思いをしているのは明白なので、おつりが返ってくるくらいのナイスアシストになるだろう。実際に助けたのは隼人だったが。

 

「ところで、なんで獄寺君がここに? ダイナ――宅配物は受け取れたの?」

「はい、ちょうど家に入ろうとしたところで。それで用が済んだので、十代目をお迎えしようと引き返していたら、こいつらが」

 

 忌々しげに砂をかける隼人。三人とも気を失っていて、みんなの憩いの場である公園の雰囲気をどす黒くしている。

 

「俺がついていればこいつらに口を開く暇すら与えなかったんですけどね……面目ないです!」

「いやいや、おかげで助かったよ!」

 

(獄寺君がいたら近づきもしなかっただろうけどね)

 

 邪魔なのがいないあいだに綱吉をいじめようなんて、せせこましいことを考えているから逆襲にあうのだ。

 

(っていうか、そんなことより――)

 

「ねえ、獄寺君」

「ああ? 礼の言葉ならいらねえぞ、俺は十代目をお守りしただけだからな」

「そうじゃなくて。……ありがとうは言うけど。じゃなくて、その子」

 

 利奈が隼人の手元を指差すと、綱吉も今気付いたような顔で声を張った。

 

「ランボ!?」

 

 ――そう。隼人が足だけで不良を沈めているあいだも、綱吉と受け答えをしているときにも、その右手には、襟首を掴まれた子供がぶらさがっていた。緊張感もなにもあったものじゃない。

 

「こいつが俺の家の近くで迷子になってやがったんで、お迎えついでに十代目にお渡ししようと。おら、お前もなんか言え」

「迷子じゃないもんねー! ランボさんはー、ちょうちょとちょっと追いかけっこしてただけなんだもんね! そしたらー、そしたらー。知らない場所にいた」

「それを迷子って言うんだろ……」

 

 拙い言い訳に、綱吉は呆れた顔になっている。

 

 襟首を離された男の子は地面に着地すると、見知らぬ利奈が気になったのか、トコトコと近づいてきた。それに合わせてしゃがみこむ。

 

「ツナー、ツナー、こいつだれー?」

「こら、こいつじゃないだろ!」

 

 すぐさま綱吉がたしなめる。まるで兄のような態度だが、男の子と綱吉では、髪も目も色が違う。

 

「この子、ランボっていうんだ。俺の親戚で――まあ、リボーンみたいなやつだって思ってよ」

「へー。沢田君、親戚の子多いんだね」

 

 綱吉の口ぶりだと、リボーンの兄弟というわけでもないらしい。

 もじゃもじゃ頭にピッタリと体にくっついた牛柄のシャツ。飾りなのかおもちゃなのか、両耳の上あたりに角をくっつけている。大きな目で興味津々に見つめてくる姿は見た目相応で、抱きしめたくなるくらいには愛嬌があった。

 

「私は利奈。沢田君――ツナ君のお友達」

 

 優しい声で自己紹介すると、ランボはパッと顔を輝かせた。どうやら、お眼鏡にかなったらしい。

 

「俺っち、ランボ! いつかー、リボーン殺してー、世界一のマフィアになんの!」

「えっ」

「冗談だから気にしないで!」

 

 綱吉があわてて否定するが、ランボはムッと唇を尖らせた。

 

「冗談じゃないもんね! 俺っちはいつか絶対リボーンを殺るんだもんね!」

「無理に決まってるだろ、いつもやられてるくせに!」

「やるったらやるんだもんね!」

「ケッ、この身の程知らずが」

 

 常識的にたしなめる綱吉と違い、隼人は大人げがない。

 

「……えっと……元気な子だね」

 

 利奈はそれしか言えなかった。

 

「で、利奈はダメツナの愛人か?」

 

(またすごいの突っ込んできた……!) 

 

 ちっちゃい子の口から出てきた、愛人という響きに打ちのめされそうになる。見た目はこんなにかわいらしいのに、いったいどこでそんな言葉を覚えてきたのだろう。

 綱吉も顔を真っ赤にしている。

 

「こ、こ、こいつ、昼ドラとかよく見てて! ほ、ほんと気にしないで!」

「なーなー、利奈はツナの愛人? それとも獄寺のー?」

「なっ!?」

「あはは……」

 

(獄寺君は獄寺呼びなんだ……)

 

「おい、十代目に失礼だろ! 謝れ!」

「んん? 獄寺君、それ私に失礼じゃない?」

「んじゃーあー、お前の愛人?」

「ああ!? だれがこんなの選ぶかよ!」

「ちょっと!」

 

 いくらなんでもこんなの呼ばわりはあんまりだが、隼人は利奈の抗議をまったく聞いていない。

 

「じゃーあーじゃーあー……あむっ」

「あーあーあー! はい、この話終わり! 終了ー!」

 

 これ以上被害が増えないようにと、綱吉は無理やりランボの口を押さえた。むごごごと無意味な声が聞こえる。

 

「ご、ごめん! ほんとごめん! こいつ、ちょっと外国育ちでさ」

「そうなんだ。じゃあ仕方ないね、うん」

「イタリアだもんねー!」

 

 黙っていられない体質なのか、綱吉の指を引きはがしながらランボが叫ぶ。リボーンも名前からして外国の子だけど、外国の子供はみんな、こんなに小さい頃からませているのだろうか。

 

「リボーンは愛人いっぱいいるんだー! 俺っちもリボーンに負けないくらい増やすから見とけよ!」

「だから、余計なこと言うなって!」

 

(……友達って意味だよね、きっと。そう思おう)

 

 綱吉がランボをなだめているあいだに心を落ち着かせる。リボーンならもしかしてと思わせるあたりがすごい。

 

「いい加減にしろよランボ! 言うこと聞けないんだったら今日のお菓子抜きだからな!」

「うっさーい! ランボ様に指図するなーい!」

「ランボ!」

 

 綱吉が強い口調で怒鳴る。するとランボの目がウルウルと潤み始めた。

 

「うー、馬鹿にすんなダメツナぁ! 俺っちが一番なんだぞぉ、ひっく。うう、ツナの、ツナのばかぁ、おたんこなすー! ウン――コッ」

「十代目を侮辱すんなっ」

 

 とうとう、我慢の限界を迎えた隼人の拳骨が、ランボの脳天に叩き込まれる。

 手加減の感じさせない一撃は容赦なくランボのもじゃもじゃを二分し、鈍い音を立てた。

 

「ちょっと、ちっちゃい子にやりすぎじゃ……」

「いいんだよ、こいつはこれくらいやらねえとわかんねーんだ」

「う、ううっ」

「泣いちゃってるよ!?」

「ランボ、落ち着け、ほら泣くなって」

 

 じわりと滲んだ涙が、膨らんだ頬からポロリと落っこちる。あとを追うように大粒の涙が落下して、ランボが大声で泣きだした。

 

「う、が、ガマ……ン――できないんだもんね!」

「わああ、ランボ、ちょっとタイム! ここじゃマズいって!」

 

 火がついたみたいに号泣しているランボを止めるのは、もう不可能だ。

 

 ぎゃあぎゃあとわめきながら、ランボは頭に手を突っ込む。巻き毛のなかをもぞもぞと探ったかと思ったら、そこから巨大な筒が出てきた。

 

(え、えええ!? そんなのどっから!?)

 

 その筒は、ランボの身長の何倍も大きかった。それが頭から出てくるなんて、手品でもなければ、ありえない光景だ。

 

「だあー!? とりあえず相沢さん、ちょっとあっち向いてて!」

「ちょっ、ランボ君が持ってるのってあれ、バズーカーじゃ――」

「いいから!」

 

 綱吉に強引に体を反転させられた、次の瞬間。

 爆発音とともに背後から煙が立ちのぼり、視界が白に染まる。

 

「なに、なんなの……ひゃっ」

 

 足元に転がっていたなにかに躓いて、尻もちをつく。

 

「いたたた……」

「大丈夫ですか?」

 

 綱吉でも隼人でもない低い声に顔をあげると、煙の向こうから手が差し伸べられていた。充満している煙のせいで、だれの手なのかはわからない。

 

「あ……どうも、ありがとうございます」

 

 手を拝借して立ち上がる。もうなにがなんだかわからなくなっていた。

 

「こんなところに座りこんで。なにかあったんですか、かわいらしいお嬢さん」

「……え、あっ、転んじゃって」

「おや、それは大変だ。怪我はしていませんか?」

「な、ないです」

 

 グッと引き寄せられ、利奈は上擦った声をごまかすように首を振った。

 

(い、イケメンに手を握られてる……!)

 

 煙はもう晴れていた。

 話し方から、ある程度は顔面偏差値の高さを予感していたものの、想像以上に顔が整っている。慣れたイケメンは耐性がつくから緊張しないけれど、慣れないイケメンには抗体がない。とくにこんな、たれ目で色気駄々洩れなイケメンには。

 

 手を離してもらうタイミングを計る利奈だが、それはすぐそばで転がっている綱吉のおかげで解決した。

 素早く手を引っこ抜き、おそらく転んだ拍子に頭を打ったのであろう綱吉の頭のそばに膝をついた。

 

「沢田君、大丈夫?」

「……ったあ……」

「おや、そこにいるのは若きボンゴレ。……なるほど、また十年前に来てしまいましたか」

「大人ランボ……じゃなくて!」

 

 綱吉が跳ね上がるように立ち上がる。

 

「その人、沢田君の知り合い? ……あれ、そういえばランボ君は?」

「あー……いー、うーん、えーっと」

「おー?」

「お――俺の友達!」

 

 嘘だ。隼人以上にギャップがありすぎる。

 

「ボンゴレ、このお嬢さんの名前は?」

 

(沢田君、また変なあだ名つけられてる……)

 

 しかも本名にまるでかすっていない。

 

「相沢さん。クラスの子だよ」

 

 うっとうしそうに綱吉が答えると、ランボは小さく首を傾げた。

 

「アイザワ? 変わった名前ですね、聞き覚えないです」

「当たり前だろ! 相沢さんは俺たちとは関係ないんだから!」

「うっ」

 

 唐突に突き放すのはひどいと思う。関係ないなんてはっきり言われたら、いくらなんでも傷つく。

 かなりのダメージに肩を落としていると、利奈の反応を見て綱吉があわあわと首を振った。

 

「あああ、そういう意味じゃなくて! その、リボーンが仕掛ける遊びの被害者じゃないっていうか、ただの友達っていうか――」

「ボンゴレ、女性を傷つけてはいけませんよ。彼女たちはガラスのように繊細なんですから」

「お前は黙ってろ!」

 

 なるほど、仲はいいらしい。友達相手だとわりと強気な綱吉がこんな態度をとっているのだから、相当気心が知れているのだろう。

 それはそれとして心が痛い。

 

「……私、行くね。今日のお詫びは、また今度ちゃんとするから」

「待って――あー、ごめん、また明日!」

「うん……」

 

 罪には罰が与えられるのだろう。自業自得。因果応報。利奈は報いを受けたのだ。

 このあと、いつまで買い物に時間をかけているんだとこってり絞られ、満身創痍の状態で帰宅した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章:風紀委員長、ヘルプです
掛け違えたボタン


 みんなが待ちわびていた秋の野球大会。

 委員会活動の関係で序盤は見逃したものの、終始並盛中学校の優勢で進んだ試合は、素人の利奈が見ても面白いものだった。

 

 なにより、友達が活躍していると気分がいい。

 エースである武は打っても投げても絶好調。武の打った白球は、何度放物線を描いただろう。武の投げた白球は、何度ミットに収まっただろう。

 もしかしたら、並盛中学校からプロ野球選手が生まれてしまうかもしれない。

 

 それと、みんなで応援するのも最高に盛りあがった。

 投げるときは息を詰めて、打つときは大いに騒いで。手を打ち鳴らしたり、大声で叫んだり、ときには興奮しすぎてか場外で乱闘が発生しそうになったけれど、それもまあ、思い出だ。京子の兄に掴みかかっていた隼人は、姉の登場でひっくり返った。

 

(この前のハルちゃんにまた会えたし、綱吉君は近所の子たくさん連れてきてたし)

 

 面倒見がいいところは、学校では見られない一面だ。いつも周りに振り回されているぶん、年下には優しく接しているのだろう。

 

 最後の最後に武がダメ押しのホームランまで打っていたし、本当に見ていてストレスのない、楽しい試合だった。

 それに、いっぱい叫んだおかげで気分も爽快になって、夜はぐっすりと熟睡できた。夢も見なかったくらいだ。

 

「その試合なら僕も観戦しましたよ」

 

 ――いっそ、これが夢であればいいのに。

 

 ソファの上でぎこちなく笑う利奈の左右は、二人の男子でしっかりと固められていた。

 

 

――

 

 

 事の始まりは、ただの勘違いだった。

 思いこみというものは恐ろしいもので、相手の挙動をことごとく曲解し、誤認した挙句、誤解だと気付いたときには、もう手遅れになっていたりもする。それに、胸にやましいものを抱えている人ほど墓穴を掘りやすい。

 

 野球大会の翌日、つまり日曜日。

 私服で街を歩いていた利奈は、正面から歩いてくる黒曜中学校の生徒に目を奪われた。

 

(わー……)

 

 隣町なのだから、並盛町に黒曜生がいてもおかしくない。休日に制服姿なのも普通だろう。

 利奈が注目したのは黒曜生の制服ではなく――いや、制服なのだが――その改造具合だった。

 

(制服でへそ出しとか……やる人いるんだ……)

 

 利奈が注目したのは、三人組のうち、紅一点の女子生徒だった。

 ほかの二人は普通の制服なのに、女の子だけは上着を短くしてへそを出していて、おまけに、おしゃれなのか医療目的なのか判断をつけづらい髑髏の眼帯をつけている。ライブ会場でギターを真っ二つに折っても違和感のない格好だ。

 

(なんでバンドで例えてるのかわからないけど)

 

 いずれにしろ、同年代、しかも隣町にこんなパンクな子がいることに、利奈は少なからずショックを受けていた。並盛中学校なら一発で校則違反だが、黒曜中学校はそのあたり規則の規制はないのだろうか。

 

 ことさら目を引くのは、その女子がゴリゴリのギャル系というわけでもなく、いたって普通、いや、むしろ大人しそうな印象の子だった点だ。左目は伏し目がちだし、背中もどことなく丸まっていて、引っ込み思案そうに見える。それに、前を歩く二人の後ろをおずおずとついていっている様子からは、彼らとの距離が感じられた。

 違和感が多すぎて、ほかの通行人たちの目も女の子に向いている。

 

(休みだから気合入れてるとか、イベントがあったとか? 並盛町以外のイベントはさすがに覚えてないし、そんな感じなのかも)

 

 物珍しさからしげしげと見つめる利奈。そのまますれ違おうとしたところで女の子が目線を動かし、利奈の顔を見て声をあげた。

 

「あっ」

「え?」

 

 か細い声に反応して立ち止まると、同じように立ち止まった女の子が、驚いた顔で利奈を凝視する。

 

(あ、あれ? 知ってる子だった?)

 

 黒曜生に同性の知り合いはいない。女の子の顔をまじまじと見つめてみるけれど、見覚えのある顔ではなかった。

 

「……なに、どうしたの」

「ああ? なにやってるんら、行くぞ」

 

 前を歩いていた二人が、立ち止まってしまった女の子に気付いて、足を止める。女の子はハッとした顔で利奈から視線を逸らした。

 

「な、なんでもない」

 

 そのまま、なにもなかったように立ち去ろうとしたが、その判断はわずかに遅かった。

 人の流れに沿わずにいた利奈に気付いた二人の目が、女の子と同様に大きく見開かれる。 

 

「そこの女、まさか!」

「ひっ」

 

(うわわ、この人絶対ヤバいタイプの人だ!)

 

 女の子にばかり目がいっていたけれど、男の子も見るからに普通じゃない。鼻の中心横一線に走った傷跡はあきらかにただの怪我ではないし、目つきも顔つきも、利奈が今まで携わってきた排除者たちとよく似た、物騒なものだった。

 背後の眼鏡を掛けた少年もひどく澱んだ眼をしているし、関わってはいけないと本能が告げている。

 

(逃げよ!)

 

 四の五の考えずに退散しようと身を翻すが、走り出す間もなく肩を掴まれた。見た目通り運動神経はいいらしい。

 

「お前、この前の女だな。なんれ俺たちの前に」

「え、え?」

 

(この前っていつ!? 全然知らない人なんだけど!?)

 

 人違いなのか、彼にも彼女にもまったく心当たりがない。こんな特徴的な人たち、会ったことがあれば、すぐ思い出せるだろうに。

 

(まさか、委員会活動の話? だったら覚えてなくてもおかしくないけど――ってか痛い! 爪食いこんでる痛い!)

 

 積みあがった有象無象の顔をいちいち確認してはいないから、そのなかのだれかなら辻褄は合う。私服姿を見てすぐにわかるくらいに恨まれているのならすぐさま逃げ出さなければならないが、そんなことより肩が痛い。力はそこまでこもっていないけれど、伸びた爪が刺さって地味に痛い。

 

「離して。痛いから」

「だれの差し金だ! まさか、あのアヒルの命令か!?」

「アヒル? だれ、それ。いいから離してってば」

 

 相手を刺激しないようにできるだけ声を小さくしているけれど、わめきたいくらいには痛い。慣れていたって痛いものは痛いのだ。

 

「犬、その子、記憶ない!」

 

 痛みに耐えている利奈を見かねてか、彼の味方であるはずの女の子も利奈を庇う。

 沈黙を守っていた眼鏡の人も、目を左右に動かしてから犬という少年の肩に手を置いた。

 

「犬、離して。ここだと目立つ」

 

 昼の往来だけあって、人通りは多い。今は遠巻きにしている住人たちだって、利奈が騒げばそれなりに対処はしてくれるだろう。こういう時の利奈のなりふりの構わなさは天下一品だ。ほかの班員たちにも褒められている。

 犬も分が悪いと感じたのか、掴んだときと同じように乱暴に離した。

 

「いったあ……なんなの、もう」

 

 棘をこめて睨みつけるが、犬も同じような目で見ているので効果はない。いや、あってもいい効果ではないだろうから、それでよかったのだけど。

 

「本当に覚えてねーのか?」

「なにを」

 

 思い出してほしいのなら、せめて具体的な出来事を話してほしい。もしくは、咬み殺された場所や日時を。

 腕をさすりながら聞き返すけれど、返事はこない。

 

(変なの。どこで会ったかぐらい言ってくれたっていいのに。それとも、思い出してほしくないとか? ……ん?)

 

 正解に触れた手応えがあった。

 思い出すといえば、つい先日、似たような問題が発生して、頭を悩ませていたような――

 

 ヒントもなく正解を引き当てようとした利奈の思考を助ける、あるいは強引に結びつけるように、眼鏡の男子が口を開いた。

 

「めんどいから、早く帰ろう。骸様が対処したんだから、大丈夫でしょ」

「え、骸さん?」

 

 今まさに思い描こうとしていた人の名前を出され、利奈は素の声音で反応した。――反応してしまった。

 その瞬間、男子二人の殺気と女子一人の困惑の気配を察知し、利奈はすぐさま表情を消す。

 

(ヤバい。これはヤバい、口滑らせた!)

 

 こうなったら、察しの悪い人でも彼らが骸の関係者だとわかるだろう。そして、彼らがそれを隠したがっていたことも。

 でも、知ってる人の名前を口に出されたら、反応してしまうに決まっている。委員会活動中ならともかく、今は非番なのだから。

 

「……柿ピー、こいつ」

「うん。思い出してるね」

 

(ううん、全然思い出してないよ!?)

 

 下手に名前に反応してしまったばかりに、どうやら彼らに誤解させてしまったようだ。

 圧力に屈してなにも言えずにいると、またもや女の子が二人に水を差した。

 

「待って。骸様がかけた幻術が、そんなに簡単に解かれるわけないと思う。だから――」

「うるせー、クソ女! 勝手に口開くなびょん!」

「……ごめん」

 

 犬に噛みつかれたせいで、女の子は口を噤んでしまった。

 

(うっわ、最低)

 

 女の子と反比例して犬の評価が落ちていく。

 

「犬、言いすぎ。骸様に怒られるよ」

「ケッ」

「あのとき、骸様は手負いだった。術がうまくかからなかった可能性がある」

「……」

 

 女の子は否定しなかったけれど、肯定もしなかった。

 

「まあ、それはそれとして」

 

 帽子の男子が、品定めするような目で見つめてくる。

 

「このまま放置するのは危険だ。骸様の判断を仰がないと」

「なら、アジトまで連れてけばいーんじゃね? どうせまた記憶消すことになるだろうし」

「……記憶を消す?」

 

(なにそれ。記憶消すって。え、じゃあ私、前も記憶消されたの?)

 

 具体的な手段に見当がつかないけれど、とりあえず危害を加えられそうになっているのはわかった。ならば選択肢は逃げる一択なのだが、彼らが骸の仲間なら、捕まって情報を得るのもひとつの手かもしれない。

 三対一で逃げ切るのは難しいだろうし、男子二人は、目的のためなら手段を選ばない顔をしている。やたら磨かれた防衛本能がそう告げている。

 

(下手に刺激しても危ないし、ここはおとなしく骸さんの家に連れていってもらおっと。骸さんに話せば誤解は解けるかもだし。

 ……なにがあったのか、よけい気になってきてるけど)

 

 彼らがここまで恐れている利奈の記憶とは、いったいどんな記憶なのか。

 

 まさかバスで廃墟まで連れていかれるなんて夢にも思っていなかった利奈は、男子二人に挟まれながらも、危機感なくそんなことを考えていた。

 

 

 ――

 

 

 ――そして、現在に至る。

 

「頭が痛いですね、まったく」

 

 このあいだと違って、実感のこもった声である。表情はなんとか取り繕えているが、来たばかりのときは感情がそのまま顔に出ていた。

 

 会いたくてきちゃった、みたいなノリで笑いかけたのが原因かと思ったけれど、利奈をここまで連れてきてしまった彼らへの苛立ちだとわかったので、利奈はのほほんと構えていた。

 そのかわり、両隣は居心地悪そうにしている。

 

「本当によけいなことをしてくれました。

 ……雲雀恭弥に接触したと告げたときに、彼女に傘を返したことを伝えなかったのは僕の落ち度ですが。ここまで連れてくるというのは、いささか短絡的でしたね」

「申し訳ありません。犬がどうしてもと言ってきかなかったもので」

「なっ!? お、俺だけのせいじゃねーびょん! 柿ピーだって反対しなかったじゃん!」

「……そうだっけ」

「くっ、このバーコード眼鏡!」

「やめなさい。客人の前で見苦しい」

 

 一応、客人として扱ってくれているらしい。お菓子の入った皿をソファに置いてもらった時点で、ひどい扱いはされないと思っていたけれど。

 

(それにしても……)

 

 だれにも注目されていないので、こっそりと部屋の惨状を観察する。

 割れた窓に、散らばったままの窓ガラス。破れたカーテンに、汚れた室内。まごうことなき廃墟である。

 

 閑散とした場所にぽつんと立っていた、商業施設の跡地。

 なんの施設だかは知らないけれど、ここに来るまでに、いろいろと建物があった。半分くらい土に埋もれていたから、土砂崩れかなにかで廃業してしまったのだろう。

 

(地面にぽっかりと穴が開いてたりもしてたし、本当に廃墟だよね。なんでみんな、こんなところにいるんだろう)

 

 物思いに耽っていた利奈は、いつのまにか骸に見つめられていたことに気付いて、姿勢を正した。骸は仕方なさそうな顔で微笑む。

 

「やれやれ。察しのいい人は面倒ですね」

「あ、いえ。なんにも察してないですけど」

 

 そういう意味で買いかぶられても困る。どの洋画でも、重大な秘密を知ってしまった者から始末されるのだから。

 

「こうなったらどうしようもありません。

 せっかくここまでやってきたのですから、僕たちの話をお土産代わりに聞いていってください」

「……ヒバリさんへの伝言ですか?」

「いえ。貴方への手土産です。失くした記憶も気になるでしょう?」

「……まあ、はい」

 

 細かくいうと、記憶を消した方法も気になっている。SF小説でもあるまいし、人の記憶をそんなに都合よく消せるわけがないのだから。

 

 では、と前置きをして骸が指を組む。そして、利奈の反応を一ミリたりとも見逃さないといった目で、利奈を捉えた。

 

「前提条件として、ひとつだけ伝えておきますね。

 僕たちはイタリアの脱獄囚で、日本へはマフィアのボス候補の体を奪いにやってきました。ちなみに、そのボス候補というのは沢田綱吉です」

 

 ――前提条件が、まったく理解できそうにない。

 利奈はまず、骸の発言を常識に当てはめようとするのをやめた。

 




まとめると、

利奈「わー、すごい格好」→クローム「あ、あのときの子!」→犬「こいつ、俺たちを探りにきたな!」(勘違い)→千種「骸さんの幻術が解けるわけないでしょ、めんどいから帰ろう」→利奈「え、骸さん?」→犬・千種「まさか、幻術が解けたのか!?」(勘違い)

犬・千種「――というわけで連れてきました」

骸「頭が痛い」

という展開です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空気は吸うもの

 人間、許容範囲を超えたものを無理に詰め込もうとしても、うまくいかないものらしい。

 

 ボンゴレファミリーというイタリア最大規模のマフィアがあり、そこの有力候補者が次々と亡くなった結果、創設者の子孫である綱吉が選ばれた――と、一文にまとめてしまえばすんなりと頭に入る出来事も、つらつらと淀みなく話されたら、かえってわかりづらくなる。

 

 先生が教科書を読みあげていくのを、ノートも取らずに聞いているのと一緒だ。情報量に押し流されて、脳が理解を拒んでしまう。

 骸もそれを狙っているのか、利奈が口を挟まないのをいいことに、どんどん説明を先に進めていく。聞き流しながらも、聞き逃さないようにするのが精いっぱいだ。

 

 利奈の集中力が盛り返したのは、骸たちが並中生を襲ったくだりからだった。

 いろいろあってボンゴレファミリーの次期後継者を探していた彼らは、最有力後継者候補が並盛中学校に通っているという情報を手に入れて、わざわざ海を越えて、隣町の黒曜町までやってきたらしい。

 

 ――死刑執行前に脱獄したという話が先にあったけれど、死刑が確定してしまうほどの大罪というと罪状が限られるので、そこはさらりと話を流した。少なくとも、本人たちに囲まれているあいだは知らないままでいたい。

 

 そんなわけで先に黒曜中学校を制圧した骸たちは――そこも突っ込まないように聞き流したけれど――ボンゴレを炙り出すため、並盛中喧嘩の強さランキングに載っている人を、下から順に襲撃し始めたらしい。

 

「……ごめんなさい、その喧嘩の強さランキングってそもそもなんですか?」

「極秘で手に入れた機密文書です。見たいですか?」

「いや、大丈夫です」

 

 真面目な顔で冗談を挟んでこないでほしい。そんな変な名前のランキングが、機密文書として存在するわけがない。

 

 とにかく、並盛町で腕っぷしの強い人を順位づけて、順番に襲っていたらしい。そうなると、半数以上が風紀委員だったのも頷ける。

 利奈としては風紀委員がランキングを総舐めしてもいいのではと思うものの、風紀委員全員が一騎当千の猛者というわけでもないし、一対一での勝負なら、ボクシング部のほうが分があるだろう。そんなわけで、運動部のエース選手などもランキングに加えて、下位から襲撃したらしい。

 

 どうせやるのなら、下からなんてまどろっこしい真似しないで一位から狙っていけばいいのではと言ってみたけれど、それでは主旨が変わると骸は答えた。

 ボス候補者の息の根を止めたいのではなく、ボス候補者を意のままに操りたいのだからと。

 

(まあ、上からいってたら最初のヒバリさんで話が終わっちゃってたか)

 

 それと、ボンゴレには腕のいい家庭教師がついていたため、不用意に手を出せば逆に手玉に取られてしまう可能性があったらしい。

 

(家庭教師――リボーン君、よくそんなこと言ってたような……)

 

 一を聞いて十を知るということわざがあるけれど、八まで聞いて、ようやく一から八までが理解できた。途中経過が理解できれば、前提条件もなんとか受け止められるようになるらしい。

 

 そもそも、答えは最初からその辺に散らばっていた。

 リボーンは常日頃から綱吉を叱咤していたし、恭弥はリボーンに一目置いていたし、隼人は普段からわかりやすく十代目だの右腕だの、それらしい言葉を連呼していた。

 ――隼人の言動に関してはもう少し隠しておくべきなのではと思わないでもないが、綱吉相手だとキャラが変わる性格だから、手の施しようはないのだろう。

 ここにいる人たちのうち、一人でも綱吉といるときの隼人を目撃していれば、無駄な犠牲者は出なかったのだが。

 

(ってか、普通に並中に転校してくるのは駄目なの? 各学年に一人ずつ入ればすぐわかったんじゃ?)

 

 利奈はまたもや元も子もない感想を抱いたが、あとからならなんとでも言えるので、言葉にはしないでおいた。言ってしまったら、綿密な計画を立てて頑張った彼らを鼻で笑ってしまうことになる。

 

「そして、計画が功を奏し、獄寺隼人がマフィアの一員であることを――」

 

(ほら、やっぱり獄寺君からじゃん!?)

 

 それ見たことかと思いながら、利奈は初めて皿に盛られていたチョコレートを手に取った。

 食べるタイミングか? と三人の視線が問いかけてくるけれど、お菓子でも食べてないと余計な口を挟んでしまいそうだ。

 隼人の日頃の言動を彼らは知らないのだから、知らないままでいさせてあげるのが優しさだろう。でないと、恭弥の逆鱗に触れてまで探り当てた彼らが気の毒になってくる。

 

 そこまで饒舌に話した骸だが、ボンゴレ一行、つまり綱吉たちがこの黒曜センターへと訪れたところから、かなり端折って説明を終わらせた。また監獄に入れられそうになったところを逃げ出し、眼帯の女の子――クロームに助けられたのち、現在にいたるそうだ。

 

 ここで燻っているのが結果なので、経過をわざわざ突っ込んだりはしない。しないけれど、なんというか、いたたまれなさを感じる。並中生を襲い始めたあたりから、じわじわと感じていたけれど。

 

(そりゃ、負けたくだりなんて話したくないよね。

 動けなくなったヒバリさんを一方的にボコボコにしたあたりは、わりと饒舌に喋ってたんだけど。私が風紀委員なの知ってて言うんだって、かなりドン引きしたけど)

 

 恭弥があれだけ荒れた理由も、説明がつくものである。 

 常日頃、群れる連中を散々屠ってきた恭弥が、手も足も出せない状況で、同じように好き勝手いたぶられたのだ。その屈辱たるや、想像もつかない。

 

(ううん、そんなことよりも――)

 

 今回の事件の顛末を始めから終わりまでどころか、序章から終章まで首謀者の口から聞かされたわけだけど、聞けば聞くほどわけがわからなくなってきた。

 綱吉がマフィアのボスになるというのも眉唾だけど、応接室で恭弥と互角の実力を見せた骸にあの綱吉が勝ってしまったというのがなにより信じられない。

 

(だって、あの沢田君だよ? 勉強も運動も全然ダメ、いつも逃げ腰で臆病者の沢田君がだよ? あの沢田君が風紀委員散らした骸さんに喧嘩で勝って、しかも、マフィアのボス? 獄寺君とかリボーン君とかはまだわかるけど沢田君が――駄目だ、信じらんない)

 

 まだ恭弥がマフィアのボスの隠し子だったと言われたほうが納得できる。そしたら、そんな気はしてましたと真顔で答えられただろう。

 

「……本当に、沢田君なんですか? 勘違いだったとかじゃなくて?」

「疑い深いですね。まあ、僕も最初は疑問だったので、気持ちはわかりますが。初代ボンゴレの血を引いてるだけあって、潜在能力は底知れないものがありますよ」

「はあ……」

 

 それにしても、当事者でもない利奈が綱吉への評価を聞いているこの状況も謎である。マフィアをいくつも壊滅させたとか言っている骸の評価だから、信憑性はあるのだろうけれど。

 

「あの、骸さんにとどめ刺したのも沢田君なんですか? 獄寺君が代わりに戦ったとかじゃなくて?」

「……」

「……銃使った、とか?」

 

 銃ならば、当てさえすればだれが撃っても同じ威力である。

 その場合、綱吉を見る目が明日から大きく変わってしまうけれど、もうすでにだいぶ変わっているので、大差はない。狙われている以上、正当防衛と言えるのかもしれないし。

 

 予想は外れているようで、骸は黙りこんだままだ。骸が追い詰められていると思ったのか、犬はわざとらしく足で床を打ち鳴らした。

 

「なんだ、骸さんに喧嘩売ってんのか? だったら俺が買ってやるびょん、外に出ろ外!」

「売ってないよ! だって沢田君が喧嘩で勝てるわけ――」

「はあー!? お前、負けた骸さんを侮辱するつもりかよ!?」

「だから違くて……」

「犬、それ逆に骸さんに失礼だから」

「柿ピーは黙ってろ! 俺はこの礼儀知らずの馬鹿女と話してるんら!」

 

 無遠慮に親指で指差され、利奈はムッと唇を尖らせた。

 

「馬鹿って……だってそんなの見なきゃわからないじゃん! みんなは骸さんが負けちゃったところ見てるからいいけど、まさか沢田君に負けちゃう人がいるなんて、そんなの――」

 

 キュッと音が鳴った。

 それが失言に気付いた自分の心臓の音なのか、犬の瞳孔が開いた音なのか、場の空気が凍った音なのかはわからない。けれど、いつのまにか視界には天井が広がっていて――

 

「犬!」

 

 骸の声とともに、倒れこんでいた利奈の体が支えられた。ソファから落とされかけた利奈の背中に、千種の細い腕が回されている。そして利奈の眼前には、あと数センチで首元に届きそうな犬の顔があり――ひゅっと喉が鳴る。

 犬は喉元に噛みつこうとしていたのだ。一切躊躇せずに。

 

「犬、どいて。どかないと離せない」

「犬。離れなさい」

「……」

 

 湿った息が首筋に当たっている。身をよじらせたくなるのを耐えていると、ゆっくり、ゆっくりと犬の顔が離れていった。千種が身を起こすのを手伝ってくれたけれど、利奈は千種に身体を寄せて犬から距離を取った。犬の目は、まだ獲物を狙う目のままだ。

 

「驚かせてしまって申し訳ありません。名前の通り、犬は僕の忠実な犬ですので。どうか気を悪くしないでください」

「……」

 

 いぬと書いて、けんと読むらしい。

 

「駄目ですよ、客人に乱暴をしては。――雉も鳴かずば撃たれまいということわざがあるとはいえ」

「……!」

 

 じわりと傷口に毒を塗られて震えあがる。怯えようを見ているうちに留飲が下がったのか、犬は座り直してそっぽを向いた。その途端、全身から汗が噴き出してくる。

 

(こ、怖かった……! やられるかと思った……!)

 

 ドクドクと音を立てる心臓を落ち着かせようと押さえるけれど、向けられた殺意の強さに息が止まりそうだ。骸が制止していなかったら、どうなっていたか。

 

 今まで、何度も危ない目には遭ってきた。でも、明確な殺意を持って襲われたのは初めてだ。口は禍の元というけれど、ここまで大きな禍を招いたのは初めてだった。

 

「……あの、ちょっとトイレ行ってきていいですか?」

「かまいませんよ。クローム、ついていってあげなさい」

 

 骸が声をかけると、一人だけ離れたソファーに座っていたクロームが立ち上がる。骸もクロームも、席を中座するための口実だとわかっているだろう。快諾をありがたく思いながら利奈はいそいそと出口に近づき――

 

「ああ、携帯は置いていってくださいね」

 

 骸の言葉に絶望した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

穴を埋める

 部屋を出た利奈は、クロームに続いて廊下を歩いた。

 

(はあ……。隙がない)

 

 あわよくば恭弥に救援信号を送ろうと思っていたけれど、見透かされていたのでは仕方ない。犬に怯んだのは演技じゃなかったから、いけると思ったのに。

 

 にしても、建物内はずいぶんと荒れ放題である。

 瓦礫は撤去されずにいたるところに転がりっぱなし、窓も割れっぱなし、おまけに上へと続くはずの階段は途中の段がすべて崩れていて、用をなさなくなっている。倒壊の恐れもあるのではと思わなくもなかったけれど、今のところ変な亀裂音なんかは聞こえていないから大丈夫だろう。今のところは。

 

「ねえ」

 

 手持ち無沙汰だからと声をかけると、クロームはビクリと体を震わせた。

 

「あ、ごめん」

「……」

 

 恐る恐るといった表情でクロームが振り返る。見たところ年は同じくらいなのだから、そんなに怯えないでほしい。

 

「貴方も私と会ってるんだよね? まだ骸さんから聞いてなくて」

「……」

 

 話がとんでもない方向に進んでいったせいで、記憶消去云々の話はまだできていない。いや、もうしなくてもいいような気がしている。さっきまでのトンデモ話のあとでは、どんな話も霞んでしまうだろう。

 

 二人になったタイミングで話しかけられると思っていなかったのか、クロームはおどおどと視線をさまよわせている。あんな血生臭い彼らと行動を共にしているにしては、ずいぶんと弱腰だ。なんだか親近感がわいてきた。

 

「っ!?」

 

 隣に並んだら、クロームが身構えるように両手を胸元に寄せた。野生の猫みたいな反応だ。あまり脅かすと逃げられそうなので、利奈は邪気なく笑いかけるに留めた。部屋に戻ってほかの人と交替されても困る。異性にトイレの前に立たれるのは気まずい。

 

 クロームは右目に眼帯をつけているので、利奈は左側を選んで並んだ。正面から見ると服装も相まって底知れなさが醸し出されるけれど、眼帯のない横顔はいたって普通の女の子だ。

 

(普通の子……だよね?)

 

 クロームが三人を助けたくだりもさらりと流されてしまったけれど、最初から彼らと面識があったのだろうか。それとも、有無を言わさずに協力させられたのだろうか。いやいや従っているようには見えないけれど、犬や千種とは距離があるように見えたから、なんともいえない。

 

(わかんないけど、この子はいい子そうなんだよね。雰囲気的に。

 それに、こうやって一緒に歩いてるのもなんか安心できるっていうか――前にもあったような気がするっていうか。うん、この子は悪い子じゃないと思う)

 

 内心で結論づけていたら、クロームが歪んだ扉をぎこちなく指差した。看板の塗料も剥がれかけているけれど、女性用トイレであることは伝わってくる。

 

「ありがとう。……水、流れるんだよね?」

 

 不安になって尋ねると、クロームは小さく頷いた。

 こんなにボロボロなのに水道が止まっていないのは不思議だけど、今はありがたい。さすがに電気は通っていないだろうから、暗くなる前には帰してもらいたいが。

 

(ってか、帰れるよね? 秘密を知ったからにはとか、そんなのないよね?)

 

 あまりにもあっけらかんとこれまでの経緯を話されたせいで、いやな想像が止まらない。生きて帰すつもりがなければ、なにを知られても、なにを言われても、なんてことないだろう。

 

(なんてね。勝手に向こうからペラペラ喋ったんだし……あっ、それを理由に監禁するつもりだったりとか……)

 

 恭弥は骸に未練がある。また風紀委員がちょっかいをかけられたとなれば、必ずここにやってくるだろう。そして利奈を人質にして恭弥を倒し、並盛町の秩序の座を――

 

(まさかまさか、そんなまさか。そもそも、私を人質にしたってヒバリさん止まらないし!どうせなら私ごと咬み殺すし!)

 

 いやな想像を首を振って追い払う。利奈の動きに合わせて鏡の利奈も首を振るけれど、細かく割れているせいで動きがずれて見える。

 

(私ってば考えすぎ! 大丈夫! 普通に友達の家で遊んでるだけ! 携帯没収されたりしてるけど大丈夫! うん、行こう!)

 

 決意を固めたところで、いつまでたっても出てこない利奈を不審に思ってか、扉の隙間からクロームが顔を覗かせた。拳を握っている利奈と目が合って、ぱちくりと目を瞬かせている。

 

「あ、その……ちょっと考えごとしてて」

「考えごと?」

「う、うん、いろいろ……」

 

 一人で気合を入れていたのを見られただけでも恥ずかしいのに、理由を突っ込まれたりなんかしたらもっと恥ずかしい。しどろもどろになってごまかすと、なにを思ったのか、クロームは躊躇いがちに口を開いた。

 

「……私のことなら、多分、思い出せないと思う」

「え?」

「……私、あのとき全然違う格好してたから」

 

 どうやら、クロームとどこで会ったかを思い出そうとしているように捉えられたらしい。そんな話をさっきしたばかりだ。

 

(まあ、その恰好で出歩いてたら目立つもんね)

 

 ぽっかり空いたおなか周りに目がいってしまう。

 私服もこの系統なら話は別だけど、上に跳びはねさせるようにして束ねた髪を下ろして、眼帯を医療用のものに変えて、服装を性格に合わせたおとなしめなものに変えれば、まるで別人になるだろう。眼帯と細い手足が相まって、病弱な薄幸少女が出来上がりそうだ。

 

 女性用トイレから出た利奈はまた隣に並んだけれど、今度は身構えられなかった。距離を詰められるのが嫌いなわけじゃなさそうだ。

 

「どんな話したの? 私と貴方」

「……」

 

 さっきと同じように黙りこまれるかと思ったら、クロームは横目で利奈の表情を窺ってきた。話してくれそうだから無言で話を促すと、少しずつ話し始める。

 

「私が雨で困ってたら、貴方が助けてくれたの。傘がなくて、みんなの服が濡れちゃうから帰れずにいたら……貴方が声をかけてくれた。傘に入れてくれた」

 

 二人とも、同じビルのなかで買い物をしていたらしい。一人で服を買いにいった自分の精神状態はわからないけれど、知り合いでもない女の子を傘に入れてあげるなんて、そのときの自分はなんて親切だったのだろう。バーゲンで欲しかった服でも手に入れたのだろうか。

 

(そういえば、なんかたくさん服買ってたような。……言われてみれば買ったあとの記憶全然ない。なにこれ、怖い……)

 

 記憶を消された直後の自分は、どうやってその失った時間を埋めたのだろう。今まで信じてきた記憶が、あまりにももろいものだったのだと思い知らされて愕然とする。改めて、骸が怖くなった。

 

 そしてどうやら、利奈は最悪のタイミングでクロームと接触してしまったらしい。

 クロームは匿った彼らに着せるための服を買いに来ていたのだ。間接的にとはいえ、恭弥の敵を助けてしまったことに頭が痛くなる。

 

「それで、そのあとは?」

「みんなが、迎えにきた。突然降り出したから、帰れなくなってると思って、心配したって……」

 

 そこでクロームが目を輝かせて利奈がを見つめた。

 

「貴方の、言ったとおりだった」

「私の?」

「うん」

 

 嬉しそうなクロームの顔が、利奈の記憶の端をふわりと撫でた。この笑顔は、前にも見たことがある。思い出せなくても。

 

 二人が一緒にいたのはそこまでで、クロームは迎えに来た千種たちと帰ってしまったらしい。

 ただ、骸は親切にも利奈をバス停まで送ってくれたらしく、そこから先をクロームたちは知らない。おそらくは、会話中に利奈が風紀委員であることを知ってしまい、自分たちの正体を隠すために記憶を消した――そんなところだろう。

 そんな話をしながら戻った利奈を待ち受けていたのは、先ほどと同じ場所に座り、カードを切る骸だった。

 

「トラ、ンプ?」

 

 慣れた手つきでトランプを切りながら、骸が顔をあげる。その顔も先ほどまでと同じ本心の読めない表情のままだが、トランプを切っているからか不穏さは感じない。

 

「長い話で退屈したでしょう。気分転換にカードゲームでもと思いまして」

「はあ……」

 

 ソファの前には低いテーブルまで用意されている。そのうえに金塊のように積まれているのは、菓子受けにあったものと同じ、金色の包みにくるまれたチョコレートだった。塊の数はいつつで、ちょうど人数分だ。

 

「これはチップです。なにか賭けたほうが盛り上がりますからね。

 さあ、そんなところで立ってないで座ってください。ほら、犬。クロームが座ってた席に移動して」

「え、なんでれすか?」

 

 虚を突かれたように声を漏らす犬を横目に、骸がカードを配っていく。その手札の数はよっつで、一人分足りていない。

 

「お前は見学です。我慢のできない犬にはお仕置きが必要ですから」

「なっ!?」

 

 あからさまに仲間外れにされて犬がショックを受ける。しかし骸は犬にかまわず手札を配り終えるし、千種も容赦なく手札を取っていく。

 

「まずは大富豪から始めましょう。あ、ルールわかりますか?」

「はあ……」

 

 そんなことより犬がショックを受けている。

 

「そんな、あんまりです! 俺も混ぜてください!」

「そもそもお前は最弱じゃないですか。手がわかりやすすぎるんですよ」

「グフッ」

「お菓子はちゃんとあげますから、おとなしくしててください。ほら、貴方もこっちに」

「ええー……」

 

 骸は視線でかまわなくていいと言っているけれど、客人である利奈を襲った罰なら、利奈にも責任がある。目が合った犬は忌々しそうに歯を剥いたけれど、骸に見つかる前に目を逸らして立ち上がった。せめてもの反抗なのか、席には座らずに壁に寄りかかる。

 

「さ、どうぞ」

 

 これで気兼ねもないでしょうと言わんばかりの骸の顔を、利奈はじっと見つめた。

 そこに策略の匂いは一切感じられない。

 

(……本当に、お客さん扱いするつもりなんだ)

 

 カードゲームも、委縮した利奈を和まそうとしての提案なのだろう。あれくらいで縮こまるような利奈ではないけれど、彼らも気を遣ってくれているようだ。もしかしたら、いないあいだにいろいろと相談していたのかもしれない。

 

(だったら、私もいつもどおりでいいかな)

 

 拉致された風紀委員として判断するのではなく、利奈個人として動くのなら。

 

 ようやく動いた利奈は、ソファではなく、壁に寄りかかった犬の前に足を進めた。訝しそうに眉を顰める犬に、にんまりと口元を緩める。

 

「一緒に勝たない?」

「はあ?」

「骸さん、犬……君の持ってるチョコもチップに使えますか?」

 

 名前で呼ぶのは違和感があった。振り返って問うと、利奈の意図に気付いた骸が、これまたわざとらしいくらい爽やかな笑みを浮かべた。

 

「そうですねえ……まあ、共闘したいというならかまいませんよ。チップも倍で結構です」

「だって。さ、一位とるよ」

「ああ!? なんで俺がてめーなんかと――おい!」

 

 グイっと引っ張ると不服そうに犬が唸るけれど、こんなの、ごつい仲間たちに比べればかわいらしいものだ。反抗は無視して連れて行く。

 ソファは三人掛けなので、犬にはソファの背もたれに寄りかかってもらうことにした。上から覗いてもらえば手札は見えるだろうし、大富豪なら手札を指差すだけで意思は通じる。

 

「報酬は半々ね。言っとくけど私も弱いからヘルプよろしく!」

「だから俺はそんなのやんねーって言ってんじゃん。お前馬鹿なの?」

「犬、こっちの手札見ないでよ」

「見ねーよ。いや、だから俺はやらねーって」

「犬、僕に勝てたら夕食は犬の好きなものを用意していいですよ」

「マジで!? おい、ぜってー勝つぞ!」

「変わり身はやっ」

 

 急に本腰を入れた犬に若干呆れながらも、手札を揃えていく。クロームは表情を消しながらもチラチラと利奈を見てくるし、千種は犬に勝たせたらめんどくなると言いながら姿勢を正した。骸は足を組んで、強者の笑みを浮かべている。

 

「よっしゃ、絶対骸さんに勝つぞ! いいな!」

「お、おー!」

 

 しかし、当然のように結果はボロ負けだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一難去ってまた一難

 

 チップが倍あったにもかかわらず、大富豪は利奈と犬の完敗だった。

 そもそも、ポーカーフェイスが二人いる時点でこちらに勝ち目はなかったように思う。掛け金代わりのチョコレートは大貧民になるたびにみるみる減っていって、最後にはたったの二枚しか残っていなかった。さすがに最後の一枚を取り上げるのはかわいそうだからと、最後の惨敗とともにゲームは終了となった。

 

 一位は圧倒的な戦略差で勝ち切った骸で、金塊、もとい、チョコレートの山を見下ろしてご満悦だ。勝負中も余裕の表れなのかチップのチョコレートを食べていたし、見た目通り、相当カードゲームは強いようだ。

 

 二位は千種だけど、三位のクロームとの差はわずか一個で、最後の勝負までどちらが勝つかわからなかった。二人とも堅実な戦い方をしていたので、実力差はわからない。

 

 そして最下位の利奈と犬コンビは最悪の組み合わせだった。どちらも直感でカードを出してしまうタイプなので、すぐに強いカードが底をつき、かといって最後まで残していれば二枚出しされてあえなく撃沈するという、どうしようもない負け方をしていた。

 

「ポーカーのような、運も切り札になるゲームのほうが、まだ勝算がありましたね」

「それでも骸さんには勝てない気がします……」

「クフフ、僕に勝つには、最低でも七回は輪廻を回る必要があると思いますよ」

「来世でも無理って!?」

 

 アドバイスは辛辣だけど、あまりにもいい負けっぷりに感動したからと、チョコレートをひとつ分けてくれた。理由のせいか、もらったチョコレートだけが苦い。クロームもひとつくれたけれど、こちらは純粋な好意からのお裾分けなので甘くておいしかった。

 

「ケッ、だからこんなのと組むのはいやだったんら」

「ほとんど出そうと思ったの一緒だったじゃん。気が合ってたよ、私たち」

「はあ!? 気持ち悪いこと言い出すんじゃねーびょん!」

 

 悪態をつく犬だが、利奈がケロッとした顔をしているからか、それ以上の追撃はなかった。余裕がないときの犬は、普段の隼人とそっくりだ。そう思うとますます怖くなくなる。

 

「次はどうしましょうか。神経衰弱なんてどうです?」

「ええ、それ絶対骸さんが得意なやつじゃないですか……」

「そうだよ。犬は一枚も当てられないから、いつも三人での勝負になる」

「柿ピーうるさい。そんなのいちいち覚えてらんねーっての」

「……あ、でも……犬が札を開けてくれると次の人が当てやすいから……」

「お前は黙ってろ!」

「ごめん……」

 

 フォローしようとして失敗したクロームに、つい生温い視線を向けてしまう。とりあえず、神経衰弱だけはやらないほうがいいだろう。場の空気が濁りそうだ。

 

「それじゃババ抜きしません? 途中までだいたい運ですし」

「かまいませんよ。では、カードを切ってください」

 

 さりげなくカードを集めてくれていた骸がカードを差し出してくる。負けた人が配るルールだ。

 

 利奈の手のひらにカードを乗せようとした骸の手が、中途半端なところで止まった。利奈が顔をあげると、骸は利奈の肩越しに外に目を向けた。青い瞳につられて振り返るけれど、窓の外にだれかの姿はない。

 

「骸さん?」

「……どうやら、お迎えが来たようです」

 

 利奈が出した手を無視してカードをテーブルに置いた骸は、三人に緩く目配せを送った。それに応えて動き出す三人とは対照的に、利奈はソファに座ったまま戸惑いの視線をさまよわせる。

 

「え、なに、どういうことですか?」

「さあ、行きますよ。忘れ物はありませんね。――ああ、そうだ」

 

 立ち上がった骸は、今思い出したような顔で上着のポケットからある物を取り出した。持ち主である利奈でさえすっかり忘れていた携帯電話だ。

 

「危うく返し忘れるところでした。どうぞ」

「あ、はい」

 

 あっさりと返却された携帯電話を受け取る。

 

(そうだ、今何時だろ)

 

 鞄にしまう前に側面のボタンを押した。しかし表示画面に時間は表示されず、それどころか、まったくの無反応。壊れてしまったのかと動揺して開くと、待ち受けにしていたはずのウサギも登場せず、黒一色の画面が利奈を待ち受けた。

 

「……」

 

 いつのまにか電源が切られていた。だれがやったかなんて、明白だった。

 

「さあ、外に出ますよ」

「あの、骸さん。私の携帯――」

「時間がありません。話はまた次の機会に」

 

(とぼける気だ、この人!)

 

 背中に回った腕が、利奈の言論を封じるようにぐいぐいと押し出してくる。

 急かされるようにして建物の入り口まで誘導された利奈は、むすっと顔をしかめた。

 

「また記憶でも消すつもりですか」

「まさか。そんな物騒なことはしませんよ」

「……一回やったくせに」

 

 ぼそりと呟いても、骸は聞こえないふりをして前方を見つめている。

 

 前方にあるのは、土砂ででこぼこになっている道と、なんの変哲もない林だけだ。

 人の手を離れた自然は秩序が乱れ――とかなんとか理科の先生が言っていたけれど、ここの林はまだ秩序とやらを失ってはいなかった。骸たちが管理しているとは思えないから、植物が暴走するほどの年月はまだ経っていないというだけだろう。

 

 骸はなにを待っているのだろう。空には雲ひとつ飛んでいないし、林も木々がざわめいているだけで人影は――いや。

 

(車の音?)

 

 低く唸るエンジン音。気付いてしまえば、かなりの速さでこちらに近づいてきているのがわかって、利奈は隣の骸を見上げた。

 

「お迎えです。さしずめ、魔王から姫を取り戻しにきた騎士――と言ったところでしょうか」

「それって……」

 

 予想する間も与えられず、唸るバイクが林の影からスライドして出現した。斜めに滑るようにして現れたバイクに面食らう利奈だが、骸はどこか楽しそうな顔で運転手を見ている。

 

(えええええ!? やだ、こっち来るやつ! っていうか、乗ってるの――)

 

 砂利を跳ね散らかしながら爆走するバイクは、減速することなく一直線にやってくる。怯んだ利奈は本能的に逃げようとするが、肩を骸に抑えられているせいで身動きが取れない。

 バイクは二人の目前で大きく弧を描き、円を作って停止した。

 

(うわ、砂が!)

 

 風圧とともに飛んできた砂に目をやられた利奈は、手でこすりながら運転手がバイクを降りるのを見守る。

 滲んだ視界に映るのは、風紀委員長その人の姿だった。あんなに風の抵抗を浴びていたのに、髪型はまったく乱れていない。

 

(っていうか、顔が滅茶苦茶怒ってらっしゃる! 顔が恐い! どっち!? どっちに怒ってるの!?)

 

 攫われた利奈か。攫った骸か。

 あまりの威圧感に骸の背中に隠れたくなったものの、ここで攫った側の人間にすがるわけにもいかないので、我慢する。恭弥の機嫌を損ねるのは、いつなんどきたりとも得策ではない。

 

「思っていたよりも遅かったですね。もう始まっていましたか?」

 

 骸が意味ありげに尋ねると、恭弥はズボンに手を伸ばす。

 

「おっと、構えないでください。今回の件、僕はまったく関わっていませんよ」

「どうだか」

「信用されないのも無理はありませんが、僕はずっとここで彼女と遊んでいましたから。ねえ?」

「え? あ、まあ、ほどほどに……」

 

 楽しかったと言っても、楽しくなかったと言っても、どちらかに失礼になるこの状況。利奈はそう答えるしか手がない。

 そんな利奈をしばし無言で見つめた恭弥だが、利奈の態度に異常がないのを確認すると、いつものように小言を吐いた。

 

「相沢。君はここでなにをしているんだい?」

 

(そんなの、私が聞きたい)

 

 答えられずにいると、恭弥ははあ、とわざとらしくため息をつく。

 

「携帯の電源、ちゃんと入れときなよ」

「へっ」

 

 慌てて電源を入れただけの携帯電話を確認すれば、一時間ほど前に恭弥からの着信が入っていた。折悪く、電源を切られたあとに恭弥からの連絡があったらしい。その前にもいくつか班員からの電話が入っていて、顔が青くなる。

 

「す、すみません、以後気を付けます……じゃなくて、これは骸さんが――」

「なに、そんな呼び方してるの?」

「いいえっ!? 六道骸に取り上げられました!」

 

 あまりの動揺に声が裏返る。

 

「君、彼の言いなりなんですね」

 

 面白そうに言ってるけれど、怒らせている原因は骸にある。もはや睨みつけるのがデフォルトになってきた利奈を見て骸は楽しそうにしているが、恭弥は変わらずに仏頂面のままだ。

 

「いや、失礼。本当になにも企んではいないんです。

 これから面白くなるところなのに、よけいな手を加えるような無粋な真似はしませんよ」

 

 意味深長な発言に、恭弥の眉間のしわが深くなる。

 

(なにか、あったの……?)

 

 非番にもかかわらず入っていた着信。なにより、恭弥がこうして駆けつけてきたこと自体が異例でもある。並盛町で、なにか事件が起きたのだろうか。

 

 恭弥に戸惑いの視線を送ってみるも、恭弥の注意は骸に向けられたままだ。骸の真意を読み取ろうと探る眼差しは、しかし、骸の胸中を読み取るまでには至らない。なぜなら、骸にとっても、この状況は予想外のアクシデントだったのだから。

 

「いろいろと行き違いがありましてね。僕の仲間が、うっかり彼女をここまで連れてきてしまったんです。来ていただいたからにはおもてなしをしなくてはいけませんから、今まで雑談ついでにゲームを少々」

「ゲーム?」

「トランプです! 普通に大富豪とかやって遊んでました」

 

 その前にマフィア云々のくだりがあったけれど、それを話し始めると長くなってしまう。大事なところを省いたせいで、なんで敵陣で遊んでたのみたいな顔をされたけれど、今は説明している暇はない。

 

「ふうん、君の仲間がね。仔犬? メガネ?」

 

 なんてわかりやすいあだ名だろうと利奈は心の中で噴き出した。ちなみに答えは両方である。

 

「答えてもろくなことにならないので、黙秘させていただきます」

 

 そういえば、クロームの名前が出ていない。戦えるようには見えなかったから、恭弥が襲撃しにきたときには、いなかったのかもしれない。そう考えると、利奈とクロームは案外立ち位置が似ている。――仲間に対する態度は、正反対ではあるものの。

 

「早く戻るよ」

 

 これ以上話しても、埒が明かないと判断したのだろう。有無を言わさずに腕を引かれ、利奈は戸惑いながら振り返った。

 骸はゆるりと腕を上げる。上げられた腕は横には振られずに、大きな手のひらが結んで、開かれた。

 

「では、また今度」

「あ、はい」

「次はないでしょ」

「はい!」

 

 すかさず入った指摘にまたもや声が裏返る。

 

「おやおや。部下を恐怖で縛るのはどうなんですかね」

「……」

 

 恭弥は答えずにバイクにまたがる。エンジンをかける様子をしげしげと観察していると、恭弥がわずかに腰をひねった。

 

「早く乗って」

「……へ?」

 

 これに、乗れというのだろうか。恭弥のバイクはよくある普通のバイクではなく、体を前に倒して乗る、本格的なものであった。

 

(そもそもこれ、どうやって乗るの? 掴まるとこないよね? ヒバリさんに掴まるの? ヒバリさんにしがみつけとか、それどんな罰ゲー――)

 

「早く」

「はいっ!」

 

 かといって、こんなところに置きざりにもされても困るから、命令に従って後ろにまたがる。こういうときは、ズボンを履いていてよかったと思う。

 

「掴まってないと落ちるから」

「え?」

 

 バイクの音が大きくなった。先ほどの爆走を思い出し、いやな予感が胸を騒がせる。

 

「あの、ヒバリさん。できるだけゆっくり――」

「腕」

「あ、はい。ううん、ちょっと待って、心の準――びぃぃいいいいいいやああああああああああぁぁぁぁアグッ」

 

 ――来たときと同様、超速で去ったバイクを骸は見送る。

 遠ざかっていく利奈の絶叫は、バイクが弾んだ拍子に途絶え、エンジン音も風にかき消されていく。

 

「これで、やっと静かになりますね」

 

 しかし、その静けさも仮初のものだ。

 もうすぐ、この町は戦場になるだろう。町を守る自警団を謳っていたはずの、ボンゴレファミリーの手によって。

 

「やはりマフィアはマフィア。内部紛争なんて、くだらない」

 

 顎に添えた手の指先で、唇をなぞる。その目に、二人の姿はもう映っていなかった。

 

 

―――――

 

 

 爆走したバイクは、一度も止まることなく終点へと到着した。

 滑り落ちるようにしてバイクから降りた利奈は、レンガ模様を描くタイルの上にへたりこんだ。

 

(し、死ぬかと……殺されるかと思った)

 

 いきなり最高速で走り出したときは死を覚悟したし、曲がるとき地面すれすれまで顔が近づいたときは死を覚悟したし、段差でバイクが弾んで、恭弥の背中に額を打ちつけたときは死を覚悟した。

 口を開いたら舌を噛みそうだし、腕を離したら落とされそうで、でも腕に力を籠めすぎてもいけないので、頭のなかはずっとパニックだった。動いていないのにすっかり疲れ果ててしまっている。

 

 よく恭弥は平然としていられるものだ。乗り物酔いになったことのない利奈でも、気分が悪くなりそうな速さだったのに。

 顔をあげると、周囲を見渡していた恭弥が、しゃがんだままの利奈を見下ろして口を開いた。

 

「いつまでそうしてるつもり?」

「うへえ……」

 

 スパルタな態度に音をあげたくなってくる。

 運転していたのは恭弥だけど、しがみついているだけでも重労働だったのに。内腿も力を入れすぎたせいで悲鳴をあげている。

 

「もうちょっと休ませてください……。あんな早いの、無理です」

 

 あんなの、どう考えたって反則だ。思い返して震える利奈だったが、ふとあることに思いいたって表情を変えた。

 

(……あれ? これって法律違反なんじゃ?)

 

 常軌を逸したスピード。止まることなく走り続けたバイク。乗っているあいだはまったく頓着できなかったけれど、通った道のすべての信号が青であった確率は、どれほどのものだろう。

 

 疑問を本人にぶつけてみると、恭弥はまったく意に介していない顔で首を傾げた。

 

「僕を取り締まれる人間が、この並盛にいるとでも思ってるの?」

 

 それが答えである。

 

(――いると思えないのがとても怖いです)

 

「でも、風紀を守る風紀委員が風紀乱すっていうのはちょっと……」

「乱してないよ。だれも止めなかったし」

「止める前に通り過ぎてたからじゃ」

「……うるさいな。言っておくけど、その場合、君も同罪だから」

「えっ、そうなんですか!?」

 

 恭弥は呆れた顔でため息をついた。

 

「同乗者も処罰されるんだよ。君、ノーヘルだったでしょ」

「えっ……ああ、ほんとだ! 被ってなかった! で、でも、あれはヒバリさんが急に走り出したからで」

「そうだったっけ。それを取調室でどう証明するのか、楽しみにしておくよ」

「くう!」

 

 もはや利奈に勝ち目はなかった。骸と同じく、恭弥も簡単には言い負けてはくれない。

 

「そんなことより、腕章は持ってる?」

「腕章ですか? はい、いつも肌身離さず持ってますけど」

 

 紛失事件でかなり肝を冷やしたので、家にいるとき以外は、絶えず持ち歩くようにしている。今日もズボンの後ろポケットにちゃんと入れてあった。

 

(腕章を持ってるか聞いたってことは……委員会活動、だよね)

 

 瞬時に気持ちを引き締める利奈。へたりこんではいられないと立ち上がるけれど、どうしても足元がふらついてしまう。

 

(そういえば、ここどこだろう。並盛町に入ったのはわかったけど……広場?)

 

 いったいどこにある広場だろう。広場なのに人気はまったくないし、そこかしこに瓦礫や壊れたテーブルなんかも積まれている。それに、建物の壁も大きく破損していて、先ほどまでいた廃墟とそんなに変わりがない。町はずれにでも来たのだろうか。

 

「……え」

 

 きょろきょろと辺りを見渡した利奈は、周囲にある建物で現在地を把握すると同時に、戦慄した。

 

 ――町はずれなんかじゃなかった。ここは、並盛町の中心部。しかも、犬たちと会う前、利奈が通ったはずの広場だった。

 

「嘘、でしょ……」

 

 すでに広場にあのときの面影はない。休日で人があふれかえっていたはずなのに、今は無人だ。壊れたビルや、亀裂の入った地面が現実味を失わせる。

 遠くで聞こえるサイレンの音が耳に入って、利奈は茫然と呟いた。

 

「なんで、こんなことに」

 

 その答えは、恭弥ですら握っていなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

壊された日常

「昨日、商店街近くのビルで水道管の爆発があった。そばを通るぶんには問題はないとのことだが、補修工事はしばらくかかるだろうから、用がなければあまり近づかないように。保護者向けのプリント配るぞー」

 

 朝のホームルームで担任の先生はそう言っていた。

 昨日の話は、もう学校中で触れ回られている。休日の出来事だったとはいえ、並盛町の中心街で起きた事故だ。その場にいた人も、いなかった人も、プリントを回しながら興奮気味に事故の話をしている。

 

(ううん、事故なんかじゃない)

 

 事故当時はその現場にいなかった利奈だが、事故の形跡はこの目で確認している。あれはどう見ても事故の現場ではなかった。

 

 ――そもそも、水道管が爆発したのなら、現場は水浸しになっていなければおかしいのだ。それなのに現場に水漏れの形跡はなく、ただただ建物の壁や道にあった物なんかが吹っ飛ばされていただけなんて、どう考えても不自然すぎる。

 

 そして、共通する目撃者たちの証言。

 事故当時あの場にいた人たちは、口を揃えて爆発したビルの上に人の姿があったと証言している。しかも、その人物が広場を荒らしていたというのだ。

 

(刀を振り回す、長い銀髪の黒ずくめな外国人――特徴多すぎて特定余裕すぎない?)

 

 幾人かはその男性がものすごい大声で叫んでいたとも言っていたけれど、その人たちも避難の最中だったので、なにを叫んでいたかまでは聞き取れなかったらしい。テロリストだったのではないかとの見解もあった。

 

 避難時の証言だから、ある程度はブレが生じるかもしれない。それでも、目撃情報が何件もあって、そのすべてが一致しているのなら、信憑性があると断言してもいいはずだ。

 

(それなのにニュースだと水道管の爆発……これって、やっぱり裏でなにかあったとしか思えないよね。なにかっていうか――マフィア絡みの、陰謀が)

 

 利奈は後ろを振り返った。その席に、人は座っていない。その次に見た席も。そのまた次も。

 

 ――あのあと。利奈が腕章をつけたあと。

 事故、あるいは事件の情報をかき集めている風紀委員のあいだを縫うようにして、リボーンが恭弥のもとを訪れた。

 

「悪いが、この件は俺に預けてくれねーか」

 

 いつものように、恭弥相手でも一切物怖じせず、リボーンはそう言った。

 

「この件については、あとでちゃんと説明する。だから今は下がってくれ」

 

 利奈は骸の話を聞いたあとだったからこそ、口を挟まなかった。話を聞いていなかった恭弥も、よけいな疑念を挟みはしない。ただし、上から睨みつけた。

 

「君がそう言うのなら……なんて、僕が引き下がると思う?」

 

 声にはうっすらと怒気がにじんでいた。

 恭弥は並盛町を愛している。そんな恭弥が、町を破壊されて、黙って引き下がるわけがない。リボーンもそれはわかっていただろう。なぜかリボーンは恭弥の本質を見抜けている。

 

 恭弥はリボーンに襲いかかろうと一歩を踏み出したが、それすらも見抜かれていたのか、リボーンは目にもとまらぬ速さで、恭弥になにかを投擲した。

 

「っ!」

 

 近距離から顔めがけて投げつけられたにもかかわらず、恭弥は右手で投げられた物を受け止める。そのわずかな時間にリボーンは後ろに跳躍し、恭弥の射程圏内から逃げ出した。

 

「この場で説明してやりてーところだが、今はやらなきゃなんねーことが山積みなんだ。明日にでも代わりの奴をお前のところに寄こすから、そいつに聞いてくれ」

「へえ、君の代わり。なら、その人を君の代わりに咬み殺してもかまわないんだよね」

「好きにしろ」

「ええ……」

 

 代理人のあずかり知らないところで勝手に話が成約しているけれど、代理人はそれで大丈夫なのだろうか。もし綱吉だったら、口を開く前にボロボロになってしまうけれど。

 

「言っておくが、そいつもなかなかつえーぞ? ヒバリでもそう簡単には倒せねーかもしれねーな」

「……へえ」

 

(ああ、リボーン君が火をつけたから、ヒバリさんがめちゃくちゃ悪い顔して笑ってる……!)

 

 そんな不穏なやりとりをもって、昨日の調査は終了したのである。

 そして学校に来てみれば、あの騒ぎは水道管の爆発事故として片付けられているうえに、関与している疑いのある三人は無断欠席しているわけで。これで納得しろと言うほうが無理があるだろう。

 

(リボーン君は説明するって言ってたけど、説明ってどこからするんだろう。……マフィアの話とかするのかな)

 

 信じるかどうかはともかく、マフィアが関わっていようがヤクザが関わっていようが、恭弥はしっかりと落とし前をつけさせるだろう。この町では恭弥が絶対だ。

 またも血を見る争いが始まるのかと一人途方に暮れていると、後ろからもたれかかるようにして花が顔を出した。

 

「なーにぼんやりしてんのよ、朝っぱらから」

 

 いつのまにかホームルームが終わっていた。

 利奈の手に握られたままのプリントを見て、花は体を引いた。

 

「あー、それね。なんかすごい騒ぎだったって聞いたわ」

「うん。見に行ったんだけど、けっこうひどくてさ。重傷者はいなかったからまだよかったんだけど」

「ふーん」

「え、怪我してた人、いたよ?」

 

 増えた声は、京子のものだった。二人して顔を跳ねあげさせる。

 

「京子、あそこにいたの!?」

「うそ、マジで? あんた、大丈夫だったの!?」

「待って待って、怪我してた人って!? 沢田君とか?」

「なんでそこで沢田が出てくんのよ」

「あ、ちょっとね……」

 

 花の指摘に口を滑らせてしまったと気付く。しかし、綱吉の名前を聞いた京子は目を丸くした。

 

「すごい利奈、よくわかったね。昨日はツナ君たちとお出掛けしてたんだけど、いきなり爆発があって……」

 

 なんと、大当たりである。

 ほんの少しだけ考えていた、『じつはすべて綱吉たちの仕業説』が消えてうれしい半面、あの場に綱吉たちがいたのなら、なおさら事件のきな臭さが増してくる。

 

「爆発があったときに、ビルの上から男の子が落ちてきたの。それで、ツナ君とぶつかっちゃって――」

「はあ!? なによそれ、大事故じゃない。沢田休んでんのってそのせい?」

「うーん、違うと思うよ。リボーン君たちを連れて避難したから、ツナ君とは離れ離れになっちゃったんだけど、電話したら無事だって言ってたし」

「あんたまたあのちびっ子たちの子守り手伝ったの。お人よしねー」

「ほかの学校の子も一緒だったよ。ほら、ハルちゃん」

 

 どうやら、野球観戦のときのメンバーで出掛けていたところ、運悪く騒ぎに巻き込まれてしまったらしい。綱吉に巻き込まれたのか、綱吉も巻き込まれたのか、そこはわからないけれど。

 

 どちらにしろ、京子が見たのはそこまでで、そこから先、綱吉たちになにがあったのかはわからない。知りたければ、本人に聞くしかないのだろう。学校に来ていない以上、聞けるわけもなく、話はそこでおしまいになった。

 

「利奈も気をつけなさいよ。あんたは事件に首突っ込まなきゃいけない側の人間なんだから。変なことに巻き込まれそうになったらちゃんと逃げること」

 

 ――すでに手遅れになってしまってるとは、言えなかった。

 

 

――

 

 

 リボーンが約束を守ってくれるなら、今日は恭弥のもとに代理人がやってくるはずだ。風紀委員の一人にすぎない利奈ではその席につかせてもらえないかもしれないけれど、しつこくせがめば内容くらいは教えてもらえるだろう。それか、飲み物を用意してしれっと入りこめばいい。姑息な予定を立てながら身支度を整える。

 

 来るなら多分放課後だろうと思っていたから、そわそわしながらずっと待っていたのだ。勝手に巻き込まれるのはいやだけど、自分から乗りこむぶんには問題ない。むしろ、起承転結の結だけ聞かずにいられる人が、どこにいるのか。

 

 意気揚々と応接室に入りこもうとした利奈だが、そうはいかないとばかりに帰り際、同級生に引き留められた。

 

「ねえ、相沢さん。校門のところにスーツ着たおじさんがたくさんいるんだけど、どうにかならない?」

 

 どうも、同級生からの扱いが、腫れ物から便利屋に変わったような気がする。問題があっても利奈に伝えておけばたいてい解決するのだから、お手軽に使われてしまうのだろう。

 いやだとは思っていない。壊れた備品の発注手配をしたりするのは、委員会業務から逸脱していると大木に注意されたけれど、恭弥が壊した物もこっちで手配しているし、似たようなものである。

 

 そんなことより、不審者の対処だ。

 本当に不審者なら委員のみんなを呼んで蹴散らしてもらうけれど、誤解だったならば穏便に引き払ってもらおう。中学校の校門近くでたむろするのは、よろしいことではない。

 窓から校門を確認した利奈は、うわっと体をのけぞらせた。

 

(ほんとにたくさんいる……外国人だ……しかも絶対カタギじゃない……)

 

 いやに眼光の鋭い、貫禄のある、黒服集団。利奈でなくてもヤクザかマフィアを連想するだろう。しかも、そんな彼らが校門の外から生徒を検分して、ぼそぼそと何事かを呟き合っているのである。これなら、風紀委員の利奈に声がかかるのも当然だ。

 

(たぶん、リボーン君の言ってた代理人だよね。こんなに多人数で来るなんて聞いてないんだけど!)

 

 これでは目立ちすぎる。風紀委員は裏で黒い組織とつながっているという噂が、より一層、信憑性を帯びてしまうではないか。――実際は、白い組織(病院・警察)と癒着しているのだけれど。

 

 慌てて階段を下りて校門へと走る。

 下校する生徒は黒服一団に怯えながら通り過ぎているけれど、悲しいかな、朝の登校風景とそんなに変わりがない。そういえば、学ランも黒服といえば黒服だ。

 

「あの、どなたかの保護者の方ですか?」

 

 臆することなく声をかけると、全員の目が利奈に向き――声をかけてきた相手が女子生徒だとわかったからか、わかりやすく目元を緩めた。――その一瞬前は、完全にあっちの世界の人の顔をしていたけれど。

 

「ああ、おかまいなく。ちょっと野暮用があってな」

「まあ、ある意味、保護者なんだがな」

「違いねえ」

 

 ケラケラと笑い合う彼ら。毒気を抜かれる朗らかさだけど、おかまいなくしていられる立場ではない。話が通じそうな雰囲気だったので、利奈は仲間を呼ばずに説得を試みた。

 

「申し訳ないですけど、ここに立っていられると下校時の……えー、妨げになりますので。場所を変えていただけませんか」

「おおう、折れないな、この嬢ちゃん」

「心配しなくても、ボスが来たらどうせ……お、来たぞ来たぞ」

 

 彼らの視線がまたしても一方向に向き、利奈もそれにつられて顔を右に向けた。あきれ顔の金髪青年男性と、これまたあきれ顔の黒服中年男性が、ゆっくりとこちらに近づいてきていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

真っ当な訪問者

「おい、お前ら。なんで先回りしてんだよ」

 

 声を発したのは青年のほうだった。眼鏡の男性は黒服の人たち寄りの立場なのか、青年に見えていないのをいいことに、仲間と楽しげに目配せしあっている。

 

「なんでって、そりゃあボスの動向はチェックしておきますよ。なあ?」

「そうそう。俺たちボスが心配で」

「ボスがとうとう弟子を取るなんてなあ。ついこの前まで、リボーンにボコボコにされてたっていうのに」

「で、どこのどいつがボスの弟子になるんですか? 舐められないよう、いっちょ総出でガンつけでも――」

「か、え、れ!」

「そりゃないぜボス」

 

 一文字一文字区切るようにして、ボスと呼ばれた青年が後ろを指差した。利奈に言いかけていた通り、青年の言動が予想できていたのか、男たちはわざとらしく肩をすくめる。一人は利奈に向かってウインクまでしてみせた。陽気なおじさんたちだ。

 

「んで、このお嬢さんは?」

 

 添え物のようにその場で佇んでいた利奈を示して、青年が問いかける。表情に険はなく、眼差しは穏やかだ。

 

「いや。ボスの弟子はどいつかとここから探してたら、この嬢ちゃんが帰り道の邪魔になるって注意しにきてな」

「お前ら、そんなことまでしてたのか……! 悪いな、すぐにこいつらは追い返すから」

「えっ、貴方は?」

「おっと、俺も同じ扱いか!」

 

(あっ、つい)

 

 自分を棚に上げた発言に、うっかり素で返してしまった。

 青年は両手を顔の横に上げ、危害は加えないとばかりに大きく一歩後ろに下がる。

 

「俺はこの学校に通ってる生徒の兄貴分だ。ちょっとわけあって、ある生徒を探しててな」

「ヒバリさんをですか?」

「おう。……ん?」

 

 なんでそれをとばかりに疑問符を飛ばすに、恭弥について調べてきてはいないらしい。調べていれば、風紀の腕章であらかた推察できただろう。

 

「ヒバリさんが風紀委員長で、私は風紀委員なんです。昨日リボーン君が来たとき、私もそばにいて」

「そういうことか。そいつは話が早い」

「俺らのおかげですぜボス」

「お前らまだいたのか。さっさと帰れよ」

 

 すかさず手柄を自慢する彼らだが、にべもなく追い払われる。黒服集団はやはり異質で、通行人たちは壁に張りつくようにして距離を取っている。だれだって関わり合いになりたくはないだろう。

 

「後輩なら、ヒバリの居場所知ってるか? リボーンはだいたい応接室にいるって言ってたけれど」

「はい。応接室にいると思いますよ、今の時間なら」

 

 だいたい応接室、ときどき屋上、ただし気が向いたらどこへでもという、フットワークが軽いんだか重いんだか、よくわからない分布図が出来上がっている。

 気ままに出歩く恭弥の現在地を把握するのは骨だけど、最近では利奈も、ほかのみんなと同じくらいには行き先に見当がつけられるようになっていた。何事も、経験がものをいうらしい。

 

「よかったら、私が応接室まで案内しましょうか?」

「いいのか?」 

「はい!」

 

 恭弥を訪ねてきたのなら、風紀委員に入っている利奈が案内するのが筋というものだろう。

 それに、部外者たちに校内を自由に闊歩させるのもよろしくない。――人目をくぐり抜けられるリボーンは、特別に例外にしておくけれど。

 

「そんじゃ頼むぜ。――っとそうだ、自己紹介。俺はディーノ。で、こいつは部下のロマーリオだ」

「ディーノの部下だ。よろしくな」

 

(ロマーリオさんが部下なんだ……)

 

 上司と部下というよりも、御曹司とお付きの人みたいな雰囲気がある。さっきの人たちもわりと気さくだったし、アットホームな職場らしい。

 

「利奈です。二年生で沢田君と同じクラスなんですけど……沢田君もご存知ですよね?」

「ああ! ツナは俺の弟分だ」

 

 またも新たな情報が入ってきた。

 これは応接室に辿りつくまでにいろいろ聞かなければと、利奈は決意を固める。

 

 骸のときと同じように職員用の出入り口を通ろうとしたけれど、今回は校内に生徒がたくさんいるので、正式な手段で校内へと入ってもらう。受付で名前を書いてもらい、校内を歩く権利を得た。

 利奈がいなければ勝手に入るつもりだったらしいけれど、それだと校内が大騒ぎになってしまう。綱吉も、兄貴分が騒ぎを起こしたとあとから知らされたら、頭を抱えてしまうだろう。

 

「へえ、ディーノさんもリボーン君の教え子だったんですか」

「ああ、心得なんかを一からいろいろ教えてもらった。厳しかったけど、いい家庭教師だったぜ」

 

 ディーノは印象通り気さくな人で、あっさりとリボーンとの関係、そして綱吉との関係を話してくれた。ディーノも昔、半ば無理やりリボーンにスパルタで教えを叩き込まれたらしい。同じ先生に教わっていた縁から、綱吉を弟のようにかわいがってるそうだ。住所はイタリアだから、頻繁には会えないそうだけど。

 

「ツナはどうだ? 学校でうまくやれてるか?」

「まあ、そこそこだと」

 

 弟想いのいいお兄さんだ。なにかしらリップサービスをしたいところだけど、綱吉の学校生活はどう贔屓目に見てもだめだめで、フォローのしようがなかった。現実が厳しい。

 

「あ、でも、この前、委員会の仕事手伝ってもらいました。沢田君のおかげですごくはかどったんです」

 

 ――不良狩りが。

 

「そうか。あいつはなかなか面倒見がいいからな」

 

 内心で付け足した言葉は当然気付かれず、嬉しそうにディーノが頷く。

 

(面倒見がいい……? まあ、ちっちゃい子の面倒よく見てるか)

 

 積極的にではないけれど、人の面倒を見るのは嫌いではないようだ。いつも一人一人ちゃんと世話を焼いているし、小さい子に慕われているのもよくわかる。同級生が見たら、普段の頼りない姿からのギャップに驚くだろう。

 

(ディーノさんもリボーン君の弟子だなんて、なんか変な感じ。だってこんなに違うし。……あれ、リボーン君って今いくつ?)

 

 うっかり聞き流してしまったけれど、リボーンは赤ん坊だ。リボーンに昔なんてものがあるはずがなく、あったとしても一年程度。しかしディーノは、まるで何年も前からリボーンに教えを乞うていたかのような発言をしている。赤ん坊が大人の家庭教師をしている点については今更指摘したりはしないけれど、そこのところはどうなっているのだろう。

 

(会ったばかりのディーノさんに聞くのもちょっと踏み込みすぎだし、リボーン君に直接聞くのはなんかホラーな答えがきたら怖いし、どうしよう。聞かないほうがいいよね、絶対)

 

 骸の言葉をそのまま信じるなら、リボーンは凄腕の殺し屋で、綱吉はファミリーのボス候補。そして、その流れでいけば、ディーノはファミリーのボスである。下手に突っ込んだら戻れなくなる。

 

(それに、病気で見た目が変わらないとかだったら聞くのも失礼だよね。うん、神様には触らないでおこう)

 

 ――うっかりで蛇に噛まれたくはない。

 

 葛藤を終えたタイミングで、ちょうどよく応接室についた。いつものようにドアを叩く。

 

「相沢です。お客さんを連れてきました」

「通して」

 

 リボーンから予告されていただけあって、返事が早い。この時点で利奈は昨日のリボーンの言葉を思い出さなければならなかったのだが、残念ながら、そこまで機転は回らなかった。

 

「どうぞ」

 

 戸を横に引いて二人に入室を促す。

 骸との乱闘があったからか、内開きのドアは、横開きに変更されている。このドアなら、体重をかければドアごと相手側に倒れるだろう。

 応接室で乱闘しなければいいだけの話だけど、恭弥に正論が通じるわけもなく。利奈の苦言を拾う人は一人もいなかった。

 

 恭弥はソファに座っていた。日誌を読んでいたところだったようで、組んだ足の上に活動日誌が置かれている。

 

(あっ、リボーン君が投げてきた指輪……)

 

 恭弥の指先には、リボーンの指輪がつままれていた。

 あのときは、恭弥の動きを制するために石でも投げたのかと思っていたけれど、まさかの指輪だった。見せてと手を伸ばしても無視されたから、まじまじとは観察できなかったけれど、風変わりなデザインだとは思った。物足りないというか、なんというか、作りかけではないけれど、完成してもいないみたいな。

 

(ペアネックレスみたいなデザインだよね。カップルで持ってて、二つ合わせたらハートになる、みたいな。……それだと、リボーン君がプロポーズしたみたいになるか)

 

 あのときに思いつかなくてよかった。絶対笑ってしまう。今も少し笑ってしまいそうになるのを、場の雰囲気でなんとか耐える。一触即発の空気を、くだらない思いつきで壊してしまうわけにはいかない。

 

「雲雀恭弥だな。リボーンの代理人として、昨日の件と、それからその指輪についての話をしにきた」

 

(指輪?)

 

 指輪を回収しに来たというのならわかるけれど、指輪の話とはいったいどういうことだろうか。恭弥を確認するも、恭弥の顔に疑問の色はない。だが、これは見当がついているからというわけではなく、たんに別のものに興味を引かれているからだった。

 

(あ、これヤバいやつ……)

 

 利奈がひやりと汗を流しているのを知ってか知らずか、恭弥はゆるりと立ち上がった。

 

「君が赤ん坊の言っていた強い人、ね。来るのを楽しみにしていたよ」

「ん?」

 

 話がずれているのを察知したのだろう。ディーノが目配せを送ってきたけれど、利奈はたったいま、リボーンの台詞を思い出していた。

 

(そうだった! ヒバリさん、咬み殺す気満々だったんだった!)

 

 リボーンが無駄に煽って帰ってしまったせいで、恭弥は事件への関心をなくし、強者との対戦に心を躍らせてしまった。事件? 赤ん坊がなんとかするんでしょ? くらい、事件のことはおざなりになっている。

 

「赤ん坊もいいって言ってたからね。遠慮なくやらせてもらおうか」

「なっ、あいつそんなこと言ってたのか!?」

 

 どうやら、ディーノは聞かされていなかったらしい。リボーンのことだ、面白がってわざと言わなかったに決まっている。事情を察したディーノは、仕方ないかと言いたげに頭を掻いた。

 

「まあ、そっちがそれでいいなら、手間が省けて楽だけどよ。とりあえず、部屋出ようぜ。どこか広い場所はないか?」

 

 その言葉だけでディーノに対する好感度は爆上げしたのだが、残念ながら、利奈は二人の戦いを見届けることはできなかった。戦闘中に怪我をしたら大変だからと、やんわりと同行を断られたのだ。

 今更普通の女の子扱いされても困惑するけれど、戦闘に興味があるわけでもなかったので、おとなしく引き下がった。見届け人として哲矢がついていったので、問題はないだろう。

 

 これで一安心と一息ついて離脱した利奈だが、活動を終えて家に帰ってから、とんでもない失態に気がついた。

 

「結局、事件の理由聞けてない!」

 

 この日の夜は、なかなか寝つけなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

巻き添えはお手の物

 ディーノが現れたその日から、風紀委員会はまたしても組織の長が機能しなくなった。風紀委員長が、またもや委員会活動に手をつけなくなったのだ。そろそろ暴動を起こしてもいいと思う。

 

 リボーンが太鼓判を押すだけあって、ディーノはとんでもない戦闘能力を持っていた。あの恭弥を相手にして、軽症程度で済んでしまったのである。

 

(おかげでヒバリさんが食いつくこと食いつくこと。少し前までは骸さんだったけど、今はディーノさんが一番の獲物だよね)

 

 哲矢によると、ディーノはまだまだ余力を残しているようだ。

 はたから見ていた哲矢が見抜けたのなら、恭弥が見抜かないはずがない。プライドが高い戦闘狂である恭弥は、なんとかディーノから本気を引き出そうと、あの手この手でディーノに襲いかかっているらしい。

 

(ディーノさんはこの前の件とか、いろいろ話したいことがあるみたいなんだけど。そんな時間があるなら咬み殺させてよみたいなテンションだから、無理だよなあ)

 

 ディーノにとってはいい迷惑だろうと思っていたけれど、恭弥と戦うのは渋々ではない――というより、むしろそれが目的で毎日来ているという。恭弥の格闘センスを見こんで伸ばそうとしているそうだが、恭弥をこれ以上の化け物に育てて、どうしようというのか。日を追うごとに、両者とも生傷が増えているというのに。

 

(まあ、一番迷惑被ってんのは私なんだけどね!)

 

 恭弥は今、校内にいない。というか、ここ数日は学校に戻ってきていない。

 それまでは屋上で戦っていたのに、一昨日から突然ディーノは恭弥を連れ出し、山だの海だので修行とやらを行っている。本当に、ディーノは恭弥をどうするつもりなのだろうか。

 

 そのせいで、一日の活動報告書を毎日わざわざ届けに行かなくてはいけなくなった。例によって戦力外の利奈にその仕事が課せられてしまったせいで、放課後にわざわざ辺鄙な場所まで向かわなければならなくなっている。

 

「お待たせしましたっ」

「おう、乗りな、お嬢さん。今日のドライブは海だぜ」

「わあい、季節外れ」

 

 行かなくてはいけないといっても、気を利かせてくれたディーノが、校門に送迎車を用意してくれた。しいて難点をあげるなら、黒塗りの車に乗るときの周りの視線が重苦しすぎるところだろうか。初回は次の日に先生から注意されたけれど、恭弥絡みだと知ると話は切り上げられ、自前のお菓子を何個か渡された。あれは口止め料だったと思う。

 

(一昨日は二人が休むまで待ってたせいで帰りが遅くなっちゃったけど、昨日は私が行ったらすぐにこっちに来てくれたな。今日も早く帰れるといいけど)

 

 一昨日は、運転してくれた人がほかの仕事で行ってしまったから、代わりにロマーリオが家まで送り届けてくれた。その道中に、ロマーリオを早く返してと恭弥から連絡が来たけれど、見届け人がいなくて気分が乗らなくなったのだろうか。

 

 そんなわけで、委員会活動は多少支障をきたしていたものの、利奈以外の風紀委員はおおむねこの件に関して不満は抱いていなかった。最初は渋い顔をしていたはずの哲矢も、いつのまにかロマーリオとすっかり意気投合してしまったようで、味方はいなくなった。みんな風紀委員長の決定に簡単に従いすぎだと思う。

 

(またなにか起きるんだろうな……)

 

 いや、もう起きているのだろう。

 数日間学校を休んでいた綱吉たちは、二日前に一度登校してきたものの、また学校に来なくなった。それに、昨日登校してきた京子の兄は、右腕を三角巾で吊っていたうえに、左腕にもぐるぐると包帯を巻いていた。

 骸の話に了平は出てきていなかったはずだが、花にこっそりと二日前の夜の出来事について耳打ちされている。

 

 深夜、京子宅に泊まっていた子供が家を抜け出し、京子と一緒にその子を探していた花は、学校にて了平と怪しい外国人がリングで戦っているところに出くわしたらしい。しかも、その場には綱吉たちの姿もあったという。

 

「山本とかは相撲大会って言ってて、京子は天然だからそのまま信じたんだけどさあ……どう考えたっておかしいでしょ。夜中の学校で、いかにも怪しげな黒服集団と相撲してるなんて」

 

 利奈もその意見には賛同する。そもそも、学校で行われるイベントなら、風紀委員が把握できていないはずがないのだ。

 しかし利奈は花の疑念に、それはおかしいねと共感するだけでとどめておいた。それ以上の発言は、花の身を危険に晒してしまう可能性があったからだ。

 

(町を荒らした黒服の外国人――黒服外国人集団――集まってた沢田君たち――突然来てヒバリさんを鍛え始めたディーノさん……全部つながってそう)

 

 ついでに言えば、骸の発言も。これから面白くなるというのは、このことではないだろうか。

 

(マフィアが関係してるっていうのなら、私は関わり合いになるべきじゃないけれど……ヒバリさんが勝手に組みこまれてるのなら)

 

 恭弥のことだ、どうせディーノの話はまだ聞いていないのだろう。

 

(ヒバリさんは、むしろ喜ぶのかな。いろんな強そうな人と戦えて。でも、ヒバリさんは風紀委員で、マフィアじゃない。沢田君のファミリーに入れられちゃったら、ますます委員会どころじゃなくなるかもしれない。……それは、困る)

 

 風紀委員長は恭弥にしか務まらない。彼がいなくなったら、並盛中学校どころか、並盛町の秩序も乱れていってしまうだろう。それほどまでに恭弥は絶対的存在なのだ。

 

 車が止まる。利奈は降りる。

 今日も恭弥たちは海にいる。吹きつける潮風が利奈の髪をもてあそび、利奈の心を冷やしていく。

 

 ――綱吉たちは今、なにをしているのだろう。利奈の葛藤なんか知りもせず、なにを。

 なんて考えて、肩をすくめる。なにも知らないのはお互い様だ。

 

 車を降りた利奈は、海岸へと足を向ける。海辺と言っても、人がまったく訪れることのない奥まった入江だ。この前の場所とは違うし、どんどん並盛町から離れてきている気がする。

 サクサクと砂を踏みしめながら歩いて、波打ち際にいる、もう見慣れてしまった金髪の青年に声をかけた。

 

「ディーノさん!」

 

 風に負けじと大声をあげると、座りこんでいたディーノが、勢いよく振り返った。その顔に浮かぶのは、あふれんばかりの喜色だ。

 

「おう、利奈! もうそんな時間か!」

 

 ディーノも利奈と同じぐらい声を張る。

 

 教え子の後輩だからか、利奈が来れば休憩が挟めるからか、ディーノはいつも好意的に接してくれている。

 大人にしか見えない顔の人はたくさんいても、大人としてかわいがってくれる人がいなかったから、利奈もディーノが好きだった。同じ理由でロマーリオも好きだ。二人合わせると伯父と従兄に見えてくる。

 

「ヒバリさん、いないんですかー?」

 

 ディーノは一人きりだった。利奈は周囲を見渡しながら尋ねたが、答えは返ってこなかった。近づく利奈に合わせて立ち上がろうとしたディーノが、足を滑らせて顔から砂に突っ込んだのだ。

 

「ブフッ」

「っ!? ディーノさっ」

 

 さらに間の悪いことに、打ち寄せてきた大きな波がディーノの体を呑み込んでしまう。

 

「わーわーわーっ! ディーノさん、大丈夫ですか!?」

 

 惨状を目の当たりにした利奈は、取り乱しながらディーノの腕を引いた。ブルゾンのジャケットは見るも無残に海水まみれになっていて、裾は砂でざらざらしている。ディーノの顔はもっとひどく、せっかくの整った容姿が、砂で台無しになっていた。

 

「ぶえっ、ペッ、うえっ」

「大丈夫ですか!? えっとハンカチ、ハンカチ……」

 

 舌を出して咳きこむディーノに大急ぎでポケットを探るけれど、なぜかハンカチが見つからない。

 

「あれ? あれ!? やだ、忘れたんだっけ!?」

「あー、だいじょぶだ。ハンカチくらい持って――ってびしょ濡れか……」

「あった!」

 

 鞄に入れていたハンカチを発見した利奈は、今なお顔中を砂まみれにしているディーノにハンカチを渡した。長いまつ毛が仇になって、まつ毛にまで砂を積もらせている。海水で顔は洗えないだろうし、とんだ災難だ。

 

(ディーノさんが足滑らせるなんてレアだよね。私来てないのに休憩挟んでたくらいだし、相当ハードな特訓だったのかも)

 

 三日目ともなれば多少は慣れてくるけれど、今日もディーノは傷だらけだ。さぞかし海水が染みたことだろう。しかも、今日はよりにもよって頬に怪我を負っていて、痛さのあまり目に涙を浮かべている。

 成人男性の涙を見るのは気が咎めて、利奈はそれとなく海に視線を向けた。利奈にだって、読める空気はある。

 

「いったいなにをしているの」

 

 海とは逆のほうから声をかけられ、利奈はそむけた首を反対側に回した。

 二人して騒いでいたからまるで気付かなかったけれど、いつのまにか恭弥がすぐそばに立っていた。一部始終を目撃していたのか、呆れ顔だ。

 

 家庭教師として見せてはいけない姿を見せてしまったディーノに同情するとともに、もう少し声をかけるタイミングを考えてあげればいいのにとも利奈は思う。もちろん、恭弥にそんな優しさがあるわけないのだけれど。

 

「おお、恭弥! 戻ってきたのか。いやあ、聞いてくれよ、今――」

 

 しかし、ディーノが続きを口にすることはなかった。 

 一度あることは二度あるのか、またもやきれいに足を滑らせたディーノは、その長い肢体の自由を失い、前方へとよろめいた。

 

「えっ」

 

 ――無防備だった利奈のほうへと。

 

「うおっととと!?」

 

 さすがに利奈は巻きこむまいと踏んばるディーノだが、重心を失った体をつま先だけで支えられるはずもなく、倒れこまないようにしようとした利奈も、長身なディーノを支えられるわけもなく、二人の体が大きく傾ぐ。

 そのまま倒れこめば二人して砂まみれの大惨事だったのだが、利奈にとっては幸いにも、そうはならなかった。

 

「……さっきからなにやってるの、君たちは」

 

 呆れ声が頭の上から零れ落ちてくる。

 

「すみません……!」

「悪い悪い!」

 

 避けようと思えば、避けられただろう。しかし恭弥はその場から動かず、あえて利奈を受け止めた。おかげで砂浜に飛びこまなくてすんだものの、背後からかかるディーノの体重でつぶれそうになっていた。利奈の体重も加わっている恭弥は、さらに負担を感じているだろう。表面上はわからないけれど、筋肉が強張っているのが服越しに感じられた。

 

「……重い」

 

 幾分声が低くなった。と思ったら、恭弥が強く体を揺すった。すると、利奈の上にのしかかっていたディーノの体だけがするりと下へと落っこちる。いきなり振り落とされるとは思っていなかったのか、ディーノは体勢を立て直せずに、砂浜へと両手をついた。そして顔を上げる。

 

「一言くらい言えよ、恭弥」

「さっさと離れないからでしょ」

 

 にべもなく突き放す恭弥に、ディーノは苦笑気味だ。

 ちなみに利奈は、後ろの重石がなくなった瞬間に距離を取っていた。気まぐれに助けられて、気まぐれに殺されたくはない。鞄から本日分の日誌を取り出して恭弥に渡す。

 

「ちょうど休憩中でしたか? だったら間がよかったんですけど」

「……あの人がいないから」

 

 日誌を開きながら恭弥が答える。

 この場合のあの人とは、ロマーリオのことだろう。前にもロマーリオを気にしていたけれど、ひょっとして、恭弥もロマーリオを気に入ったのだろうか。風紀委員長と副委員長を手懐けられるのなら、もういっそロマーリオがマフィアの首領になってしまえばいいと思う。たぶん、だれも勝てない。

 

「そういや、ロマーリオ遅いな。ちょっと連絡してみるか」

 

 そう言ってディーノは電話を取り出し、利奈たちから距離を取った。

 一人手持ち無沙汰になった利奈は、日誌に目を落とす恭弥をしばし眺め、それに飽きると壮大な海原を眺めて思いを馳せ、それにも飽きたら恭弥に話しかけた。

 

「最近ずっと外で戦ってますけど、なにかあるんですか?」

 

 文字を目で追う恭弥は口を開かない。

 しかし利奈は答えが返ってくるのを待つ。ちゃんと待ってさえいれば、時間はかかっても恭弥は返答してくれるのだ。立ち去ったとき以外。

 

「知らない」

 

 たっぷり一分ほど待った返事は、予想の範囲内の答えだった。

 今まで二人が死闘を繰り広げていた屋上は、おもに恭弥のせいで壁や床がボコボコになってしまっている。修理費はディーノが払ってくれるそうだけど、これ以上ボロボロにされると修理に時間がかかってしまう。なにより、屋上だと万が一のときに危険だろう。恭弥ならば、屋上から誤って落ちてもなんとかしてしまいそうなところがあるけれど。

 

「なんか、どんどん学校から遠くなってますよね。みんな学校で戦ってるのに」

 

 そのとき、利奈は電話するディーノに視線を向けていた。だから、ページをめくろうとしていた恭弥の指が止まり、恭弥の目が細まり、自分が伝えてはいけない情報を伝えてしまっていたことに、利奈は気付かなかった。

 

「はい、目を通したよ」

 

 日誌を返され、利奈は目を瞬いた。えらく早く読み終わったものだ。

 とはいっても目新しい話はなにもないから、ざっと目を通せばそれですんだだろう。恭弥からしてみれば、ディーノと戦っているほうがよっぽど有意義な時間なのだろうし。

 

(じゃあ仕事終わったし帰ろっかな。ディーノさんの電話が終わったらさよならしよっ)

 

 タイミングを見計らうけれど、ディーノは電話相手と話しこんでいるから、まだまだ終わりそうにない。声は聞こえないけれど、仕事の話をしているからか、表情はやや険しかった。

 

「相沢、ちょっと」

「はいっ」

 

 声をかけられ、利奈は条件反射でかしこまった。

 恭弥はディーノがこちらに注意を払ってないのを確認して、利奈にあるものを差し出した。リボーンからもらった、歪な形の指輪だ。

 

「これ、預かっといて」

「……? いいんですか、私が持ってて」

 

 結局ディーノから説明を受けていないけれど、大事な物なのだろう。受け取ってしまっていいのだろうか。

 有無を言わさずに恭弥が指輪を突きつけてくるので、利奈は仕方なく手を出した。思っていたよりも軽かったそれを、視線に促されて制服のポケットに入れる。失くしてしまいそうで、すさまじく不安だ。

 

(戦ってる最中に落としちゃったら大変だから、私が持ってるほうが安心なのかもしれないけど……。これ、失くしたらすごく怒られるんだろうなあ……)

 

 高級品だったら、とても弁償できそうにない。絶対に落とさないようにしなければ。

 

「やっと彼が戻ってくるみたいだね」

 

 ディーノに横目を送る恭弥。距離が離れているうえに絶え間なく波の音がしているのに、よく聞き取れるものだ。さすが慎重に開けたドアの音で目を覚ます人は違う。

 その直後ディーノが電話を切り、ロマーリオの帰還をもって彼らの休息は終わった。

 

 ――だれもが、これから訪れる禍の種に気付きもしないまま。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

火種は首元に

 学校に戻って日誌を片付けた利奈は、ほかの委員たちと少しだけ言葉を交わして、学校を出た。今日の業務はこれで終了である。

 

 ディーノの部下が家まで送ると言ってくれたけれど、遠慮しておいた。向こうの都合を考えたのもあるけれど、車から降りるところを近所の人に目撃されても困るからだ。学校での評判はもうとっくに諦めたけれど、せめてご近所ではよからぬ噂が広まってほしくない。

 

(昨日はお願いしちゃったけどさ。あれは仕方ない。雨だったし、夜なんて雷まで鳴ってたし。

 ……そういえば、学校にも落ちてたって聞いたけど、なんもなかったな)

 

 天災はさすがに管轄外とはいえ、落雷の影響はなかったらしいのでホッとする。

 となると、当面の問題は、恭弥に預かった指輪だけである。

 

(……ちゃんとあるよね?)

 

 何度触ったかわからないポケットの表面をまたなぞり、指輪の無事を確認する。固い生地を通して伝わってくる感触はひどく頼りない。

 

(これ、ヒバリさんに返すまで、ずっと持ってなきゃいけないんだよね? それまでポケット入れっぱなしはキツイなあ……)

 

 そもそも指輪は持ち歩きに適していない。小さくて軽いのはいうまでもなく、転がりやすい形状なうえに厚みもない。そのくせ値段は給料三ヶ月分だったりするのだから、とんでもない代物である。

 そう考えると、指輪を入れる箱が正方形なのにも納得だ。指輪の大きさや形とまったく見合ってないと思っていたけれど、あれならどこかに紛れこんでしまう心配がないし、安心感も桁違いだ。渡すときのドラマチックさを演出するためだけだと思っていたけれど、男性側の視点で考えると表彰ものの設計である。

 

 それはさておき、制服のポケットに入れておくのもそろそろ限界だ。このままだと気になって気になって仕方ないし、触りすぎて壊してしまう可能性もある。

 

(指に嵌めちゃうのが一番楽なんだけど、風紀委員がつけるのはアウトでしょ。これ、かわいくないし。

 バッグも教科書いっぱい入ってるから傷つけちゃいそうで怖いし……うーん、どうしよっか)

 

 紺のバッグに目を落としたら、黄色のキーホルダーが大きく揺れた。それを見て利奈は妙案を思いつく。

 

(そうだ、このキーホルダーに一緒につけちゃお!)

 

 ――無知というのは恐ろしいもので、利奈はその思いつきを、こともあろうにその指輪で試そうとした。

 出自と由来を聞いていればまずありえない行動だったのだが、利奈にとってその指輪は、恭弥から預かった物だという以上の価値はなかった。無事に返せれば、それでよかったのだ。

 

(キーホルダーにつけてればなくさないし、みんなもキーホルダーの一部だと思ってくれるよね。ふふん、ナイスアイデア!)

 

 自分で自分を褒めながら、利奈は嬉々としてキーホルダーを取り外した。

 

 このキリンのキーホルダーは、あの任務のさいに動物園で購入したものだ。

 ぬいぐるみだから少し高かったけれど、お土産代も必要経費であると言い張ったらなぜか通った。自分でも無理がある言い訳だと思っていたから、目を白黒させて恭弥を見たのを覚えている。

 

(キリンの首に通そうかな。首輪みたいにしたらちょっとかわいいかも……入らない)

 

 フリーサイズの指輪だからキリンの首の太さはなんとかなりそうだけど、頭部が邪魔になっている。ぐいぐいと顔をへこませて無理やり引っ張った苦戦の末、なんとか指輪を首輪へと進化させた。

 これならば、目を落とすだけで指輪の無事を確認できるし、いつのまにかどこかに転がってしまう心配もない。

 

 やっと憂いがなくなったと安堵する利奈だったが、それは長くは続かなかった。

 因果というものは、すぐさま巡り巡ってくるものらしい。

 

 気がついた時にはもう車の中に――なんて状況には慣れすぎて今さら怯えもしないけれど、同じ年頃の男の子に通り過ぎざまに腕を掴まれたら、さすがに驚く。その人が外国人なら、なおさら。

 

(外国の人……だよね?)

 

 切りそろえられた金色の前髪が顔を半分隠しているせいで、鼻から下しか顔が確認できない。それでも相手は前がちゃんと見えているようで、利奈は突き刺さる視線に身を竦ませた。

 道端ですれ違った人が、突然身を翻して腕を掴んできたのだ。同年代ということもあって、警戒より先に困惑が出てくる。

 

「なにをやってるんだい、ベル」

「ひゃっ!」

 

 見かねたような声に目線を下げた利奈は、思わず悲鳴をあげた。足元に、黒いフードを被った子供が立っていたからだ。

 

(い、いつから!? さっきはこの人だけだったのに!)

 

 黒いフードを目深に被ったその子供は、リボーンと同じくらいの背格好で、ともすれば踏んづけてしまいそうになる小ささだった。それでもリボーンと同じような――いや、リボーンよりももっと危ういオーラが赤ん坊を包んでいて、利奈の不安は加速する。

 腕を掴んでいる少年より、この赤ん坊のほうがよっぽど怖かった。

 

「なにってマーモン、見てわかんねーの?」

 

 出てきた日本語に驚く利奈には頓着せず、シシッと彼は笑った。

 

「ま、気付くの俺くらいか。だって俺、王子だし?」

 

 そう言いながらベルと呼ばれた彼は手を伸ばし、利奈のキーホルダーを掴んだ。状況についていけない利奈は、身動きすらできない。

 

「これ、ボンゴレリングじゃん?」

 

 人差し指が、ついさっきつけたばかりの指輪をなぞる。

 

(ボンゴレリング? ……! ボンゴレって、確か――)

 

 綱吉のファミリー名と同じだ。それに、これはもうトドメだが、彼らの来ている上着の色は、黒だった。

 そこから導き出される答えに思い至った利奈は、すかさず脳内で恭弥を罵倒する。なんて物を預けてくれたのだろう。

 

(え、これあれでしょ? ファミリーの人だけが持つことを許された指輪だとかで、黒ずくめの人たちが狙ってるとかそんな感じでしょ? それで私また絶体絶命なんでしょ!? あー、ヒバリさんめーっ!)

 

 呪詛を吐きながら携帯電話に手を伸ばすが、挙動に気付かれ、すかさず左腕も捕まれる。やはり、一筋縄ではいってくれないらしい。

 

「なに、やんの?」

「ひっ」

 

 目が見えないから、口元でしか表情が判断できない。その口元が一文字になって、利奈は息を呑みこんだ。答えようによっては、この場で命を奪われかねない――本気で、そう思った。

 

「守護者との私闘は禁じられてるよ。こんなことでリングを没収されたらバカみたいじゃないか」

「そーだったっけ? んじゃ、やめとこ」

 

 そう言って、彼はあっさりと殺気を消した。もし利奈が殺気に慣れていなかったら、今ので取り乱していただろう。いつも本気の殺気を肌で感じさせてくれている委員長に感謝しなければならない。――いや、彼のせいでこんな状況になっているのだが。

 

「それで、どの守護者なんだい。雲? 霧?」

「んー」

 

 マーモンの言葉に合わせて、ベルがキーホルダーを引っ張り上げる。奪われたらたまらないのでバッグの持ち手を両手で掴んだけれど、抵抗とは取られなかったのか、気にも留められなかった。

 

「へー、雲か。いっがーい」

「雲ならモスカの相手だね。同じような匂いがするから、僕と同じ霧だと思ってたんだけど」

 

 見えない二人の目に射抜かれ、利奈はぐっと唇を噛みしめる。

 

 どうやら、恭弥と間違われているようだ。どう見たって戦えそうにないと、わかりそうなものなのに。マフィアの指輪を持ち歩いていたから誤解されたのだろうけれど、この勘違いは訂正すべきなのか、すべきでないのか、判断に迷う。

 その利奈の迷いを見抜いてか、またもやベルに顔を覗きこまれた。

 

「お前、ほんとに雲の守護者? 全然そんな感じしないんだけど」

「……っ」

「そのリング持ってるってことは、あいつらの仲間だよな。雲の守護者の手下?」

 

 その通りである。しかし、ここで迂闊に口を開けば恭弥の情報を売ることになってしまう。一音でも漏らすまいと唇を引き結んでいると、それが気に入らなかったのか、ベルの指が利奈の首に回った。肌を滑る指の感触に鳥肌が立つ。

 

「雑魚にあんま無駄に時間割きたくないんだよね。さっさと答えないなら、永遠に答えられなくしてやろうか?」

「……!」

 

 首を、絞められた。じわりじわりと指に力がこもっていく。抵抗のために左手で彼の腕を掴むけれど、引きはがせるほどの力は利奈にない。

 

「殺すのはマズいよ」

「守護者じゃないんなら殺しても問題ないんじゃね? さっきのやつらにやられたことにしちゃえばいいんだし。それに対戦相手の情報は多いほうが、あとあと楽でしょ」  

「まあ、それはそうだけどね。ほどほどにしときなよ」

 

 マーモンが引き下がったせいで、首を絞める手の力が強まっていく。

 

(ん……ぜ、絶対……喋るもんか……!)

 

 いやらしい力の入れ方が、利奈の反骨精神に火をつけた。

 音をあげるのを待っているのだろうが、そうはいかない。情報を得るためだけにこんな手段を取る、理不尽で卑怯な奴に屈するわけにはいかない。

 

 利奈のそんな気概は、歯を食いしばる仕草で伝わったのだろう。ベルは不服そうに口元を歪めた。

 

「うわ、こいつ生意気。マジで殺すよ?」

「ぅんぐっ、ガッ、アハッ」

 

 ギリギリと締め上げられ、口を閉じていられなくなる。しかし口を開けたところで気道を塞がれた状態ではなんの効果もない。

 

「ベル」

「わかってるって」

 

 しかし力は緩まない。反対に、利奈の力はどんどん抜けていく。死んでも離すものかと思っていたバッグも手から滑り落ち、もう駄目かと思ったそのとき――

 

「おっと」

 

 突然、息が吸えるようになった。

 ベルの頭があった場所を空気が切り裂き、利奈の体が解放される。

 

(な、に……?)

 

 思考が現実に追いついていかない。膝から崩れ落ちそうになった利奈の体は、だれかに下から掬い上げられる。

 

「――ッハ、ハッ、はあ、ゴホッ」

 

 脳の命令通りに息を吸い込もうとするけれど、うまくいかない。ゼーゼーと喉が鳴って、利奈は目に涙を浮かべながら息を吸おうと躍起になる。そのとき、利奈を支えていた何者かが、ようやく利奈に声をかけた。

 

「気絶しないでよ。めんどいから」

「あ……」

 

 体を支えていたのは、千種だった。色のない目は、利奈ではなく正面のベルを油断なく睨みつけている。どうしてここにと、利奈は思わずにはいられなかった。

 

「お前、だれ? 邪魔すんなよ」

 

 どうやら、ベルを引き離してくれたのも千種らしい。千種の手には、円盤状のなにかが握られていた。それを見て、マーモンがわずかに距離を取る。

 

「まさか、雲の守護者?」

「……訂正するのもめんどい」

「千種君……」

「黙ってて。事情はだいたいわかるから」

 

 理解が早いのは助かる。ゆっくりと地面に降ろされて、利奈はへたりこみながらもバッグを手繰り寄せ、きつく抱きしめた。

 

(盗られなくて、よかった……!)

 

 これだけは、どうしても奪われるわけにはいかなかった。

 制裁が恐いからじゃない。この指輪は、利奈が恭弥から預かったものだ。初めて、恭弥に託されたものだ。無事に返せればそれでいい、それだけの価値――逆に言えば、無事に返せなければどうしようもない――それだけの価値があった。 

 

「柿ピー、どうした!?」

 

 千種に遅れて、犬も駆けつけてくる。不穏な雰囲気に表情を険しくさせるものの、臆することなく千種の隣に並んだ。

 

「急にいなくなるからなんだと思ったびょん。で、なんでこいつ庇ってるんら?」

「説明すんのめんどい」

 

 そう言いながらも、千種は庇うようにして利奈の前に出た。これで足手まといを除いても、数は互角だ。

 

「お前ら、なに? あのお遊び集団よりはましな顔してるけど。俺とやる気?」

「あ? 余裕ぶってんじゃねえよ! やんならそっちから来いっての!」

「犬、煽んないで。……さすがにヴァリアー二人は厳しい」

 

 冷静に犬をなだめながらも、千種はぼそりと弱音を呟いた。

 それを聞いた利奈は、ベルたちはヴァリアーファミリーの人なのだと勝手に納得をする。

 

 互いに互いを牽制しあう静寂の時間。一食触発の空気を破ったのは、意外にもベルのほうだった。

 

「やめとく。俺、スタミナ温存しときたい派だから」

 

 ヘラリと笑って両手を広げるベル。予測できていたのか、マーモンは小さくため息をついている。

 

「そうだよ。今日が出番なのに、ここで手の内晒したら馬鹿みたいじゃないか。だからずっと止めてたのに」

「だって、あいつは弱かったじゃん。ちょっと痛めつければペラペラ話してくれると思ったからさ」

「あの状況で取り乱さなかったのを見てそう思えるなら、それでいいけど。あてが外れて残念だったね」

 

 苦言を呈しながらマーモンが飛んだ。――宙に、浮かんだ。

 

「……!? っ!? えっ!? はっ!?」

「見間違いじゃないよ、だから足叩かないで」

 

 二度見して思わず千種のふくらはぎを叩いてしまった利奈を、鬱陶しそうに足で追い払う千種。地味にひどい仕打ちだけど、先に全力で叩いたのは利奈なので文句は言えない。

 

(だって目の前で赤ちゃんが飛んで――男の子の肩に乗って一緒に消えたとか、手品じゃん!?)

 

 そう、彼らは消えた。宙に浮いたマーモンがベルの肩に乗ったと思ったら、二人の姿がぶれて、そのまま跡形もなく消え去ってしまったのだ。

 

「ほ、本当に? なにあれ、うそでしょ、信じらんない……」

「お前、骸さんに幻術かけられただろ。なに今さら、あれぐらいで驚いてんらよ」

「かけられてないよ! ……え? え、私、幻術もかけられたの? うそ、聞いてないけどっていうか、骸さんもあれできるの? うそでしょ、あんなのもう超能力じゃん!」

「うるさ」

 

 興奮しきりな利奈に、きわめて冷淡に千種が呟く。

 

「なにあれ、ほんとになんなのあの人たち、じゃなくてあの人! 普通にヤバいじゃん、殺されるかと思った、死ぬかと思った、駄目かと思った。よかった、ほんとにありがと、来てくれて。今回はほんとに駄目かなって思った。まあ、いっつもそう思ってるんだけどさ」

 

 張り詰めていた緊張の糸が切れて、なにか喋っていないと落ち着かない。喋るのをやめたら、泣いてしまいそうで、震えてしまいそうで、利奈は平常心を取り戻そうと躍起になっていた。それがわかっているからか、千種は利奈を止めようとはしなかった。

 

「お前、うるさいびょん! ちょっと黙ってろ!」

 

 犬には怒鳴られてしまったけれど。

 

(よし、もう大丈夫。大丈夫だったんだから、忘れちゃおう、うん)

 

 ようやく気を持ち直した利奈は、ゆっくりと立ち上がってみた。首を絞められただけだったからか、ふらついたりもしなかった。

 

「それで、二人はなんでこんなとこに? あそこからすごく遠いじゃん」

「銭湯入りにきた。あそこ、ガスないから」

 

 わりと現実的な理由が返ってきた。利奈の身になにかありそうだったからとか、そういう運命的な答えが欲しかったところだが、それはそれで怖いので、よしとしておこう。

 

「二人だけ? クロームはいないの?」

「別行動。別にいつも一緒に行動してるわけじゃないし」

「あんな陰気なのと一緒にいたら、陰気が移るだろ」

「……そう?」

 

 無口さで言えば千種もいい勝負だし、そんな千種と一緒にいても一向に無口になってないのだから、移ったりはしないと思う。

 

 ともあれ、二人が遠出をしてくれたおかげで、なんとか危機は脱せた。もし千種が見つけてくれていなければ、利奈はあのまま気を失っていただろう。最悪、本当に殺されていたかもしれない。

 

 家まで送ってくれるという二人――千種の好意に甘えたおかげで、そのあとは何事もなく帰宅することができた。二人には明日、お礼の品を届けに行こうと思う。

 恭弥には――明日、なにかしらの報復ができたらいいなと思った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

付け焼き刃な知識ほど危険なものはない

 翌日の早朝。まだ目覚まし時計も鳴らないような時間に、携帯電話の着信音が鳴り響いた。

 昨日の疲れでぐっすりと寝入っていた利奈は、すぐには目覚めない。しかし着信音は絶えず鳴り続けて、とうとうまぶたを動かした。

 

「……」

 

 いつもよりずいぶん早い時間に起こされた利奈は、寝起きの不機嫌顔でもぞもぞと布団から顔を出す。

 カーテンを閉めきった室内はまだ薄暗く、空気もひんやりと冷たくなっている。朝の静寂を壊した件の携帯電話はベッド横、低いテーブルの上で、寒さに震えているかのようにブルブルと振動していた。寝る前に充電器に差しておいたおかげで、もうランプは点滅していない。

 

(……だれ? こんな時間に)

 

 依然鳴りやまない電話に欠伸をこぼし、ベッドから滑り降りる。

 知らない番号からの着信だけど、ほかの班にいる班員たちの番号はほとんど登録していないので、別段不思議でもない。

 

「もしもし」

 

 もひもひに近い発音で利奈が応じると、電話口からホッとしたような声が聞こえてきた。

 

「利奈! よかった、ちゃんと無事だな!」

「……ディノさん?」

 

 そういえば、ディーノの番号も登録していなかった。

 

「どしたんですか、こんな時間に」

 

 言いながら時計を確認したら、まだ六時にもなっていなかった。よく起きられたものだと自分でも思う。

 

「ああ、悪い。いてもたってもいられなくてな。昨日電話したかったんだが、夜遅くにかけるのも悪いから朝にした。まだ寝てたよな」

「はい……」

 

 やけに早口なのは、焦っているからだろうか。なにを焦っているのか考えながら、とりあえずカーテンを開ける。今日も雨の心配はなさそうだ。

 

「昨日の件で話がある。できるだけ早く学校に来てほしい」

「学校に……?」

「ああ。迎えの車はもう出してある」

「……ほんとだ」

 

 窓の下、塀の向こうに見知った黒い車が停まっている。よほど火急な要件があるに違いないと、利奈はバッグに手を伸ばした。

 

(……あれ? 昨日の話って、もしかして――)

 

 徐々に機能し始めた思考回路に、ディーノの声が差し込まれる。

 

「学校に着いたら、応接室に来てくれ。……例の指輪の話がしたい」

 

 バッグへと目を落とす。件の指輪は、もうそこにはなかった。

 

 

__

 

 

 今日出さなきゃいけない宿題を学校に忘れたからと、嘘をついて家を出た。

 朝ごはんも食べないまま車に乗りこんでくるのは予測されていたようで、シートベルトをつけたら、サンドイッチとジュースが入ったコンビニの袋を運転席から渡される。おかげでまあまあ上機嫌になった利奈だが、応接室の戸を開けた瞬間、笑みは引っ込められた。

 

(うわ、すごく険悪な雰囲気……)

 

 ディーノと恭弥は、向かい合わせにソファに座っていた。

 恭弥が険悪な顔をしているのはもはや日常茶飯事だが、ディーノまでもが表情を冷たく凍らせていた。恭弥との戦闘時でも、ここまで硬い表情はしていなかったのに。

 

「思ってたよりも早かったな。いや、急かして悪かった」

 

 戸惑っている利奈に気付いてか、ディーノは口元を少しだけ緩める。しかし雰囲気は変わらずで、利奈は曖昧に頭を下げた。

 

「大切な話があるんだ。そこに座ってくれ」

 

 恭弥の隣に座るよう促されて、利奈は困惑しきりに恭弥のそばに寄った。

 普段の立ち位置を考えれば、隣に座るなんて恐れ多すぎて遠慮したいのだけど、有無を言わせないディーノの態度に、縮こまりながら腰を下ろす。恭弥の反応はない。

 

「利奈。指輪は持ってるか?」

「はい、ここに」

 

 ブレザーに手を差し入れて、ワイシャツの胸ポケットから指輪を取り出した。

 あんなことがあったから、家に帰ってすぐにキーホルダーから外してある。

 

 つけっぱなしだったらどんな反応をされただろうかと、怖いもの見たさで利奈は考えたものの、ひどく安堵した顔のディーノに、不埒な考えを打ち捨てる。そもそも、恭弥が怒るだろう。

 

 机の上に置くように促され、二人に見えやすいように机の真ん中に置いた。恭弥は相変わらず指輪には興味がないようで、軽く一瞥しただけである。

 

「いいか。大事な話だから、心して聞いてくれ。

 本来なら、一番最初に恭弥に伝えておかなくちゃいけないことだったんだ。……それに、利奈には伝えたくなかった。今も本当は言いたくない」

 

 ディーノの表情は依然として硬い。知らない一面を見せられている気がして、落ち着かない。いや、落ち着かない原因はほかにあるのだけど。

 

「だが、言わなかったせいでお前を危険な目に遭わせた。俺の落ち度だ。許してくれとは言わないが、謝らせてほしい。すまなかった」

「そんな……」

 

 悔恨の念を吐き出しながら頭を下げるディーノに、利奈は困惑してしまう。じわじわと罪悪感がこみあげてくる。

 

「いろいろ聞きたいこともあるだろうが、順を追って話させてもらう。俺たちがどういう人間で、あいつらが何者で、お前たちがなにに巻きこまれているのか」

 

 そんな前置きをして、ディーノは顔を上げた。

 

「改めて自己紹介させてもらう。――俺は、キャバッローネファミリーのボス。ディーノだ」

 

 覚悟を決めた顔で告げるディーノに、利奈はなにも言えなかった。

 言えるわけがなかった。険しい顔でマフィアの話をするディーノに。葛藤しながら、ボンゴレファミリーのボス候補がだれかを告げようとするディーノに。

 

 言えるわけもなかった。――その話、この前聞きましたなんて、そんなこと。

 

(ヒバリさんが一緒でよかった……。いなかったら、絶対リアクションでバレてた……)

 

 恭弥が一切なにも口を挟まないので、利奈もそれに合わせている体で沈黙を通すことができている。

 

 空気を読む読まないにかかわらず、利奈は悟られるわけにはいかなかった。

 聞かされたからと言えばだれから聞いたか尋ねられるだろうが、そうなると、骸の名前を出さなければいけなくなる。それだけは避けなければならない。出したが最後、今度は骸たちに命を狙われるだろう。受けた恩を、仇で返してはならない。

 

「利奈、お前……知ってたのか?」

 

 しかし利奈の都合など知る由もないディーノは、反応の薄さで気付いてしまう。部下をたくさん従えているだけあって、人の機微には敏いのだろう。

 

「あ……その……」

 

 こうなったら、多少無理やりにでもごまかすしか方法はなかった。

 リボーンは常日頃マフィアがどうのこうのと言っていたし、黒曜生との衝突やこの前の街中での騒ぎでも綱吉の名前は出ている。そのうえ、深夜にあった黒ずくめ集団との対決シーンを同級生が目撃していた。それらを結び付けて、真相に至る人もいるだろう。利奈にはできない芸当だが。

 

「――で、そうなんじゃないかなーって、思ってました。あ、でも、ディーノさんもマフィアのボスだったってのは初耳――じゃなくてっ、全然考えてなかったです!」

「……そうか。

 ははっ、どうやら俺はお前を見くびってたみたいだな。それだけでわかったのならたいしたもんだ。さすが、恭弥の部下だな!」

「いえ……」

 

 急場しのぎの言い訳のせいで、ディーノに優秀な人物であると思われてしまったのが心苦しい。さっきまで子供を見るような目だったのに、もう一人前の大人を見るような目になってしまった。大変心苦しい。

 

 そして話は、やっと利奈の知らない――ヴァリアーの話に移る。

 利奈はヴァリアーを別のマフィア組織だと思っていたけれど、実際はボンゴレファミリー内の暗殺部隊であり、ヴァリアーというのは呼称らしい。会社の営業部や総務部のようなものだ。

 

(暗殺部隊じゃ人前で口に出せないか。ヴァリアーって名前なら言いやすいし――って暗殺!? あの人たち殺し屋だったの!?)

 

 さすがにそこまでは予想しておらず、頭が真っ白になる。

 どうせ脅しだろうからと強気に出ていたけれど、今思えば、相当危ない橋を渡っていたようだ。千種たちが来なければ殺されていたかもしれないどころか、間違いなく殺されていた。

 胸やけのような感覚を抱き、利奈は胸をさすった。

 

「ところで、ディーノさんは、どうやって昨日のこと知ったんですか?」

「ああ、ヴァリアーの守護者が、雲のリングを持った女を見たとか言っててな。それですぐさま部下をお前の家に向かわせた」

「え!?」

 

 確かに一番に浮かぶのは利奈だろうけれど、まさか家までディーノの部下がやってきていたなんて。

 

「さすがに深夜にお前を呼び出すわけにもいかなかったからな。

 家の外で様子を見てもらったが、家族が騒いでいる様子もないし、子供部屋だと思われる部屋に明かりがついたから、家にいると判断した。念のため見張りはつけておいたけどな」

「そうだったんですか……」

 

(……あれ。もしかして、ずっと車あそこに停めてたの?)

 

 迎えの車を思い出す。

 少し前に迎えに来たのだろうと思っていたけれど、利奈の無事を見届けるために、昨日からあそこにいたのかもしれない。ディーノとディーノの部下の気遣いに胸が熱くなる。

 

 ちなみにその場には恭弥もいたらしい。

 学校で戦いが行われていることを、恭弥は今まで知らされていなかったそうだ。

 そのせいで、並中へと引き返そうとする恭弥を止めるための死闘が繰り広げられたものの、なんとかバトルへの乱入だけは避けられたという。ただ、相手側の部下は何人も屠られたそうだけど。

 

「ご、ごめんなさい……話したの私です」

 

 情報を漏らしてしまった負い目を感じながらおずおずと白状すると、ディーノが苦笑した。

 

「あー……いや、言わなかった俺が悪いから」

「でも……」

 

 言い募ろうとしたら、恭弥がスッと目を細めた。

 

「なんで君が謝ってるの。君はその人の部下じゃないでしょう」

「そうですけど……」

「けど?」

「部下じゃないです!」

 

 これ以上この話題を続けると不穏な空気になりそうなので、話題を本筋に戻してもらう。

 

「それで、この指輪はいったいなんなんですか?」

「これは――」

 

 利奈の予想通り、指輪はボンゴレファミリーのボスに代々受け継がれる、由緒正しき代物であった。――おもちゃ感覚でキーホルダーに嵌めてしまった件については、墓場まで持っていこうと思う。

 

「これはハーフボンゴレリングって言うんだけどな。同じ物がもうひとつあって、それを合体させるとボンゴレリングになる。

 ボンゴレファミリーのボスになる男は、先代と門外顧問から指輪を譲り受けて、それでやっと正式な後継者と認められるんだ」

「それが、今は半分半分になってるんですか?」

 

 先代ボスと門外顧問、その二人の意見が割れたせいで、ふたつは揃わなくなってしまった。

 つまり、彼らの現状を簡単にまとめると、暗殺部隊のボスが、自分こそボンゴレファミリーのボスにふさわしいと言い出し、本来の最有力候補である綱吉に喧嘩を売ってきて、リングを賭けた熾烈なバトルを繰り広げている――ということになる。

 

(いや、それ勝っちゃダメなやつじゃない? 勝ったらもうマフィアのボスになる以外の道なくならない?)

 

 などと思ったものの、裏社会というものは危険分子は根絶やしにするのが基本で、この勝負に勝つ以外に、綱吉が生き残る術はないそうだ。口頭で説明されたから実感なく利奈は受け入れてしまったけれど、綱吉には強く生きてほしい。

 

「それなのに恭弥にリングの在り処聞いたら、利奈に持たせたって言うんだもんな。あんときはみんなヒヤヒヤしたぜ」

「貴方が隠し事をしていたせいでしょ」

「だからってよ」

 

 恭弥が指輪を利奈に預けたのは、どうやらディーノへの当てつけだったようだ。その当てつけの煽りを食らった利奈からすればたまったもんじゃないけれど、指輪の価値を恭弥が知らなかったのなら、情状酌量するべきなのだろう。もちろん、ディーノにも罪はない。

 

「それでそっちは? 利奈はどうしてあいつらに?」

「えっと……」

 

 ここで話題を振られると思っていなかったので、利奈はわずかにたじろいだ。しかしそのうち聞かれるだろうと思っていたので、考えておいた当たり障りのない筋書きを口にする。

 

「指輪を持って歩いてたら、ベルって人に見つかって。それで、ヒバリさんのことを話せっていうから黙ってたら……首を絞められまして」

「なにっ!? それで、怪我は!?」

 

 ディーノが身を乗り出したので、利奈は隣を見てからリボンを外した。

 校則ではボタンを開けるのは禁止されていないけれど、今日の利奈は一番上のボタンまで留めている。なぜなら――

 

「……ちょっと、痕ついちゃいました」

「……っ」

 

 顔を歪めたディーノに罪悪感を抱く。首元までボタンを留めて髪を垂らせば目立たないものの、入浴後に見つけたときは利奈もゾッとした。

 

「ほかにはだれがいたの?」

 

 珍しく恭弥からも質問が飛んできた。不快そうな目線に促され、リボンを付け直す。

 

「ちっちゃな子がいました。フード被ってて、マント羽織ってて……えっとなんてったかな……お酒の名前みたいな。……なんとかモン?」

「マーモンだな。霧の守護者だ」

「あっ、それ! そんな名前の子! ……霧?」

 

 さっきも雲の守護者という言葉が出てきていたけれど、守護者とはどういう意味なのだろう。

 

「リングはそれぞれデザインが違っててな。ボスのリングは大空で、ほかにも晴れとか雨とか全部で七つある。ボンゴレのボスと側近はそれぞれ、自分に合った指輪を持つ習わしなんだ 」

「へーえ。じゃあ、その指輪持ってる人が沢田君の守護者ってことになるんですね」

「……」

「あ、ヒバリさんは除いて!」

 

 無理やり付け足すも、恭弥は不機嫌そうに頬杖をついてしまう。

 戦いに釣られて勝負に乗っていたけれど、先にこの説明を受けていたら、絶対に引き受けてはいなかっただろう。リボーンもそれを見越してあえて煽ったに違いない。

 

「ヒバリさんは雲……じゃあ、あのベルって人は?」

「ベルフェゴールは嵐だ。試合は昨日終わってる」

「どっちが勝ったんですか?」

「……」

 

 聞かなければよかったと、返ってきた沈黙に利奈は後悔する。

 

「あ、なら、ヒバリさんはいつ?」

「ヒバリはまだだ。試合のあとに次の対戦相手が発表される形になってるから、いつかはわからない」

「急に呼ばれる感じなんですね」

「僕はさっさとあいつらを咬み殺したいんだけど」

「まあまあ! 楽しみはあとにとっておくって言うだろ?」

「……ふふ、そうだね。それまでは貴方で退屈をしのいであげるよ」

「お、おう……」

 

 複雑そうな顔をするディーノに、心の中でご愁傷さまですと頭を下げる。彼の生傷はこれからも増えていきそうだ。

 

 そういえば、話がわき道にそれてくれたおかげで、千種たちに助けられたところまで話さずにすんだ。千種たちの名前も出せないから、人が来たらいなくなったとごまかすつもりだったけれど。

 

(お礼しとかないとなー。なにがいいかなー。お菓子でも買って持っていこうかな、放課後に)

 

 もう恭弥を外に連れ出す理由はないだろうから、日誌を届けに行く必要もない。それならば、帰り道に多少寄り道しても、帰りが遅くなることはないだろう。

 重大な話を聞かされたにもかかわらず、利奈はいつもどおりの思考回路でそんなことを考えた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最安値の情報料

 千種と犬に会いに行くにあたり、懸念事項がひとつだけあった。言うまでもなく、六道骸の存在である。

 

 風紀委員長の雲雀恭弥は骸のことを蛇蝎のごとく憎んでおり、名前を出すだけでも機嫌を損ねるし、骸から訪ねてこられたときなんか、問答無用で襲いかかっている。自分の配下に属する人間が連れ去られたときも、自慢の愛車で連れ戻しにくるほどの念の入れようだ。

 ――法定速度をぶっちぎった大爆走。もう二度と体験したくないアトラクションである。

 

 会いに行くのはあくまで仲間の二人であり、骸ではない、と言ってみたところで、二人は骸と行動を共にしているし、恭弥からすればさほど変わりはないだろう。組織の長ならばもう少し柔軟性を持ってほしいところだけど、風紀を守る側の人間としては模範的な思想なのかもしれない。

 

(でもでも、私が会いたいのは本当に二人だけだし――こっそり行っちゃえば、わからないよね)

 

 人が聞けばあからさまに失敗する前触れだと思うだろうが、利奈も風紀委員の人間だ。恭弥の情報収集能力を侮るつもりはないし、油断も過信もない。つまり、こっそりというのは、持てる力を使い切って最善を尽くすという意味合いの言葉である。

 風紀委員の見回りルートは把握しているし、やや読みにくい恭弥の行動パターンも、今ならディーノのおかげで考慮しないで済む。修行中の今が絶好の機会なのだ。そこまでしてお礼が言いたいのかと聞かれたら、ちょっと考えてしまうけれど。

 

(ヒバリさんへの腹いせもあるからね。あんな危険な物、ポイって人に渡すんだもの)

 

 滞りなく委員会活動を終えて家に帰った利奈は、すぐさま私服に着替えて外出準備を整えた。窓から見下ろして、車がないことを確認する。

 

 昨日の件があったからと、帰りも車で送ってもらっている。

 それなのに外出しようだなんて、本当になにかあっても文句は言えないのだけれど、あちらの守護者に狙われる確率は低いとディーノは言っていた。

 昨日のあれも、彼らからしてみたらほんの挨拶程度、おふざけのようなものらしい。さすが暗殺部隊、おふざけのレベルが桁違いである。

 

(手土産にお菓子買ってこうっと。この前もお菓子たくさんあったし、適当に袋菓子見繕っていけばいいよね)

 

 とりあえず、チョコレートは外せないだろう。向こうで出されたお菓子は半分くらいチョコレート菓子だったし、ゲームのチップもチョコレートだったし、骸は何度かチョコレートを口に運んでいた。もちろん、しょっぱいものもセットで買っていくつもりだ。

 

(飲み物とか持ってくと気が利くんだろうけど、二リットルのペットボトルはさすがに重くて持ってけないし……いっか)

 

 お菓子を買うなら商店街の激安スーパーが狙い目なのだけど、人目は避けるべきだから、除外するべきだろう。そうなるとコンビニが入りやすいけれど、コンビニは値段が高いうえに大容量パックの品揃えも少ないので、これも除外。

 

(お菓子屋さんも商店街のほうにあるから行けないなあ。……病院近くのスーパーにしようか)

 

 病院近くを通る路線には黒曜行きのバスもあったので、なおさら都合がいい。

 風紀委員が選ばないだろう道を悠々と歩いて、利奈は難なくお菓子を買い揃えた。

 

(チョコとスナック菓子と……おまけにビスケット。四人分ならこんなもんだよね。

 でもこの前、クロームさんだけ全然お菓子食べてなかったような……)

 

 クロームは見るからに小食そうだし、ほかの人に遠慮してお菓子に手をつけない可能性もある。お菓子以外にもなにか持って行ったほうがいいかもしれない。

 

(せっかくならクロームさん……クロームのほうがしっくりくるか。クロームが喜んでくれそうなものも買っていこうかな。お花とか)

 

 病院が近くにあるからか、通りにはちらほらと花屋が点在している。

 見舞いに持っていくような花は無理でも、ミニブーケくらいなら手が届く。あの陰惨とした廃墟の雰囲気も、少しはマシになるかもしれない。

 

 店員のいらっしゃいませという声を受けながら花を物色する。店頭には小さな鉢がいくつも並んでいて、そのどれもが花を咲かせているから、ついそちらに目を向けてしまう。

 

(この青い花きれいだなあ……クロームのイメージにピッタリって感じ。

 あ、でも、植木鉢の花ってお土産にはよくないんだっけ。病院に持ってくんじゃなかったらいいのかな)

 

 早くも方向性に迷いが出てきて、花をじいっと凝視する利奈。

 そうしているうちに、隣の店で自分と同じように熱視線を送っている人影が目の端に止まった。

 

(隣の人もすごく集中してる……なに見てんだろ)

 

 何気なくそちらに顔を向けた。

 

「あっ」

 

 うっかり零した声を拾って、相手もこちらに顔を向けた。

 

「……あ」

 

 まったく同じ反応をした彼――マーモンと、ばっちり目が合った。フードで見えなくても、視線の向きくらいはなんとなくわかる。

 

(な、なんでこんなところに?)

 

 シチュエーションからして、これがまったくの偶然であることは明らかだ。しかし、このタイミングでの遭遇はなかなかに間が悪かった。なにせ、彼の連れから守ってもらったお礼に持っていく品を買いに来ている最中なのだ。バツが悪すぎる。

 

 そして、それはどうやらマーモンも同じだったようで、同様に動揺の気配を見せながら商品棚から身を引いた。――お菓子を物色しているところを、敵に見られたくはなかっただろう。

 これが利奈の警戒心を解くための作戦なら大したものだが、そうでないことはへの字に結ばれたマーモンの口元でわかる。それがより、利奈から警戒心を取り去ってはいたけれど。

 

 見られてしまった者と、見てしまった者。この気まずい沈黙を打ち破ったのは、見てしまった者のほうだった。

 

「……一人?」

 

 とりあえず、買い物内容には触れずに無難な質問を口にする。

 

「君こそ、一人なのかい?」

 

 気を取り直した声で、マーモンは同じ質問を利奈に返した。

 正直に答えてしまっていいものか一瞬考えたものの、あからさまな嘘をつくのもどうかと思ったので、一人だと答える。

 

「昨日あんなことがあったのに、一人でフラフラうろついているなんて不用心すぎない?」

 

 おっしゃるとおりである。忠告してきたのが加害者側の人間でなければ、素直に頭を下げていただろう。そんな利奈の複雑な心境を読み取ってか、マーモンは小さくため息をつく。

 

「言っておくけど、僕は一人じゃないからね。ベルを待ってるんだ。

 ほら、あそこで診察を受けているのさ。ルッスーリアほどじゃないにしろ、かなり傷を負ってるし」

 

 ベルと聞いて露骨に顔を強張らせた利奈にかまわず、マーモンは病院を顎でしゃくった。 それでも警戒の眼差しを解かない利奈に、マーモンは訝しげに首を傾げる。

 

「……そんなに怯えなくても、あの状態じゃ、ちょっかいかけてこないと思うよ。それとも、昨日のあれがそんなに怖かったのかい?」

「違うけど……え、そんなにひどい怪我してるの?」

 

 キョトンとする利奈にマーモンは二度目のため息をつき、

 

「……昨日のあいつらの反応で、そうじゃないかと思っていたけど。君はボンゴレとは無関係みたいだね。

 じゃあ、僕らが何者なのかも――」

「ヴァリアー」

 

 先んじて答える。

 

「今日聞いた。ボンゴレも知ってるし、なにも知らないわけじゃない」

「……ふーん」

「……っていっても、勝負のことは全然わからないんだけど。

 あっ、そうだ。せっかくだから、どんな戦いだったのか教えてくれない? 聞きづらくって聞けなかったの」

「君、神経太いって人に言われない?」

 

 呆れ顔をされるけれど、そんなふうに言われたのは今回が初めてだ。神経を疑われたことは何度もあるけれど。

 マーモンは見た目には子供だし、敵意もなさそうだったから聞いてみただけなのに。

 

「……そういうところは雲の守護者と似るのかな。そっちの雲の守護者も空気読まない破天荒な奴だったよ。まあ、終わった試合の話だから構わないけどさ」

 

 恭弥と一緒にされたのは心外だけど、話してくれるつもりになっているところに水を差すわけにもいかないので、文句は呑みこんだ。

 

「あ、先に買い物する? お菓子見てたよね」

「べ、別に眺めてただけさ。ベルが来るまで暇だったからねっ」

 

 わかりやすく動揺を見せるマーモン。やはり見られたくない姿だったらしい。気を遣ったつもりが逆効果になってしまったようだ。

 

「どれ見てたの? 私もさっきお菓子買ったんだけど、駄菓子ってあんまり食べたことなくて」

 

 隣に並んで、マーモンの目線の高さに合わせるようにしゃがみこむ。お菓子は棚のガラス瓶のなかに種類別に分けられていて、ガムやらラムネやら、小さいものがたくさん、くじのように詰め込まれている。

 

「どれって、だからただ暇つぶしに眺めてただけだよ。そもそも持ち合わせがないし」

「じゃあ、なにか気になるのある?」

「……強いてあげるなら、そのコインチョコは面白いと思ったよ」

「これ?」

 

 しつこい追及に折れたマーモンが指差したのは、十円玉にそっくりな十円チョコだった。

 遠目に見たら、ひとつだけ貯金箱が混ざっているように見えただろう。よくあるコインチョコはチョコが銀紙に包まれているけれど、十円チョコはプラスチックの外装だから、開けないと本物の十円らしくはならない。

 

「へー、十円のもあるんだ。私、五円のなら前に見たことあるよ」

「ふーん、五円もあるのかい?」

「うん。でも五円のはちょっと大きかったし、色が違うから本物っぽくなかった。十円なら色似てるから完璧かも」

「ふーん」

 

 最初のふーんはただの相槌だったけれど、二回目のふーんはだいぶ熱がこもっていた。もちろん、利奈はそれを指摘しなかったし、内心抱いた母性じみたものも、顔には出さなかった。

 

「せっかくだから買ってこっかな。ちょっと待っててね」

 

 適当にひとつかみ取って会計してもらう。ひとつ十円だから、ひとつかみでも百円ちょっとしかかからなかった。

 袋をもらわずに手で持って店を出ると、マーモンは店の前のベンチに座っていた。

 

「はい」

 

 十円チョコレートを差し出す。

 

「いらないよ。タダより高い物はないってね」

「私だけ食べるの変じゃん。もらってよ」

「……しかたないな。情報料として受け取っておくよ」

 

 小さな手が、チョコレートを掴んだ。頭の上に乗っていたカエルが、物珍しげな顔で利奈を凝視してくる。

 

「ところで、そのカエルって本物? 毒ありそうな色だね」

「ファンタズマいいよ、襲って」

「待って!? 待っ、飛んだ! 待って!」

 

 そんな一波乱がありながらも、利奈はマーモンと肩を並べた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

リング争奪戦ダイジェスト

 チョコレートを食べながら、リング争奪戦の簡単なあらすじを教えてもらう。ベルが来るまでの時間しかないから、まずは戦った守護者の名前から。

 

 晴れの守護者はボクシングの使い手こと笹川了平と、ルッスーリア。

 雷の守護者は牛みたいな子供ことランボと、レヴィ。

 嵐の守護者はスモーキン・ボムこと――それだけだとわからなかったので身体的特徴を教えてもらって――獄寺隼人とベル。

 

「ランボ君も戦ったの!? だってあの子、まだ小学生でもないでしょ!?」

「でも善戦したよ。時間がもっとあったら負けてたのはレヴィだった」

「そうなの!?」

 

 ちびっ子恐るべし。いや、考えてみれば赤ん坊のマーモンも守護者なのだから、マフィアの人を年齢で決めつけるのはよくないのかもしれない。そもそも、中学生だって十分子供なのだから。

 

 次に戦闘フィールド。

 学校の施設をそのまま使うのではなく、装置などをいろいろと持ち込んで戦場に仕立てあげたらしい。

 

 晴れの守護者はライトで照らし出された特設リングでの戦闘。雷の守護者は避雷針を使った屋上フィールドでの戦闘。そして昨日の嵐の守護者は、校舎を一階層まるまる使っての戦闘だったそうだ。

 しかも昨日は時間制限があって、制限時間になったらハリケーンタービンに仕掛けられた時限爆弾が作動し、三階層をまるまる吹き飛ばすという内容だった。嵐だけ条件が厳しすぎる。

 そもそも、教室の机を吹き飛ばすほどの威力を持つハリケーンタービンを持ち出してきた時点でどうかしている。そんなことをしたら――

 

「ヒバリさん、ものすごく怒りそう……」

 

 勝手に学校で戦っているだけでも取り締まり案件だったろうに、校舎を破壊するなんて、とんだ自殺行為である。校舎は壊れていなかったから、爆弾は作動しなかったのだろうけれど。

 

「レヴィの部下が全員やられたよ。ついでにレヴィも転ばされた」

「あー……」

 

 相変わらず容赦のない人である。いや、この場合、主催者側に問題があるのだけれど。

 学校を舞台に選んだと聞いたときにも思ったけれど、校風に反した並々ならぬ愛校心を抱いている恭弥の逆鱗に、どうしてわざわざ触れていくのだろう。彼の場合、たとえ守護者に選ばれていなくても、無理やり戦闘に参加しただろう。場の空気を読まないことにかけてはずば抜けている。

 

「昨日はベルが勝ったんだよね。その前の試合は?」

「晴れがそっち、雷がこっちの勝利で三勝一敗さ」

「笹川先輩が勝って、ランボ君が負けて……二勝一敗じゃないの?」

 

 三回しか戦っていないのに、ヴァリアーの勝ちが多い。

 

「言うと思った。雷でそっちのボスが戦いに乱入したんだよ。だから、ペナルティで大空のリングはこちらの物さ」

「ボス――は、沢田君か。沢田君が乱入……」

 

 乱入のイメージはどちらかというと隼人だけど、戦っていた守護者がランボだったことを鑑みると、納得がいく。ランボの面倒をよく見ていた綱吉なら、我慢できずに飛びこんでしまってもおかしくない。

 

「……三回負けてるって、こっちヤバくない?」

「もう負けは秒読みだね。今日はスクアーロだし」

「スクアーロ……」

 

 当然聞き覚えがない名前だ。マーモンの態度からして、強い人なのだろうけど。

 

(リングは七個だから今日負けたら――終わり?)

 

「どうだろうね。普通に考えたらこっちの勝ちだけど。

 まあ、ボスのことだ。きっとなにか理由をあつらえてそちらの守護者をみなご――完膚なきまでにやっつけるんじゃない?」

「皆殺しって言おうとした……」

「言い直したでしょ」

 

 チョコレートをもらっているからか、やや表現を控えたマーモンだけど、残念ながら真意は伝わってしまっている。

 

「スクアーロが選ばれた時点でそっちの負けは確定だけど、できれば僕の番が来るまで粘ってほしいね。そちらの術者には興味がある」

「術者……?」

 

(……なんかその響き、心当たりがあるけど)

 

 まあ、彼ではないだろう。脱獄囚だし。綱吉に負けた人だし。

 もやもやと頭の中でシルエットを思い浮かべていると、マーモンが首を動かして、病院のほうに目をやった。

 

「終わったみたいだね」

 

 目を向けると、病院側からこちらに歩いてくるベルの姿が見えた。松葉杖をついていて、動きはゆっくりだ。

 

(包帯でぐるぐる巻き……ミイラ男みたい)

 

 なるほど、確かにあの状態でちょっかいはかけてこないだろう。

 しかし、勝ったベルがあそこまで重傷だと、負けた隼人が心配になってくる。

 

「ねえ、獄寺君はどれくらい怪我してるの?」

「どうだろうね。重症なのは間違いないよ。ベルも爆弾と爆発をもろに浴びたけれど、そっちはワイヤーナイフに切りつけられて出血多量状態だったからね。今頃、病院で輸血してもらってるんじゃない?」

「……そう」

 

 今日、隼人は学校に来なかった。戦いの終わった了平は右腕を三角巾で吊るしながらも学校に来ていたけれど、隼人は学校に来れないほどの重傷なのだろう。

 

「……私、行くね」

 

 重傷状態とはいえ、ベルとは顔を合わせたくはない。

 ベンチから立ち上がった利奈は、残っていたチョコレートを全部マーモンの足元に並べた。

 

「これ、あげる」

「多いよ」

「たくさん話してもらったから。お釣りは取っといて」

 

 ベルに声をかけられる前にと、利奈はそそくさとその場を立ち去った。

 

 

 

 そんな利奈の後ろ姿を、マーモンは見つめ続ける。

 

「……少しだけど、ファンタズマが反応していたね」

 

 見たところ、術者としての才能は皆無だろう。しかしうっすらと立ちのぼる霧のようななにかが、彼女の体をじんわりと覆っていた。

 

「変な奴に目をつけられてるみたい。まあ、どうでもいいんだけどさ」

「なに独り言言ってんの、マーモン」

 

 ようやくここまで歩いてきたベルフェゴールは、もう見えない背中を追って背筋を伸ばした。

 

「さっきの、昨日の女?」

「偶然遭遇してね。なにか有益な情報でも持ってないかと思ったんだけど、あてが外れたよ」

「ふーん。なにそれ、チョコ?」

「あげないよ」

 

 ベルフェゴールが手を伸ばしてきたので、マーモンはすかさずチョコレートをしまいこんだ。

 

「うわ、ケッチー」

「ふん」

 

 ベルフェゴールの文句もなんとやら、マーモンはにべもなくそっぽを向いた。頭の片隅で、今後の算段を立てながら。

 

__

 

 

 ベルから逃れるためにマーモンと別れた利奈は、現場をだいぶ離れてから、自分の失敗を悟ることとなった。

 

(バス停あっちだったし、花買うの忘れた……)

 

 ベルのせいと言えなくもなかったけれど、これは自分の落ち度だろう。

 来るのはわかっていたのだから、ベルが来るまでに花を買ってさっさとバスに乗ってしまえばよかったのだ。それなのに、マーモンと呑気にチョコレートなんて食べていたから。

 

(勝負の話聞けたから無駄ってわけじゃなかったけど……花買ってから聞けばよかったなあ……)

 

 おまけにやみくもに歩き回ってしまったせいで、最寄りの黒曜ランド行きのバス停にまったく見当がつかない。大通りに出ればわかるだろうけれど、ベルと再会する危険性もあるし、当初の懸念材料であった風紀委員との鉢合わせだってありえてしまう。ここは予定を変更すべきだろう。

 

(銭湯に行くって言ってたよね。だったら、銭湯の入り口で待ってたら会えるかも)

 

 昨日もこれくらいの時間帯だったから、運が悪くなければ出会えるはずだ。

 すでに帰っている可能性も少なからずあるけれど、そこは中に入って番台で確認すればいい。友達を待っている風を装って、見た目で目立つ犬かクロームの特徴を言えば通じるだろう。ただでさえ、黒曜中学校の制服は目立つのだし。

 

 そんな計画を立てながら並盛町唯一の銭湯に向かった利奈だったが、物事が計画通りに進むのは、それこそ計画のなかだけの出来事であると、思い知らされた。

 もっとも、今回はいい意味でだったけれど。

 

「おはよう!」

「……おはよう?」

 

 なぜここにと問いたげな顔で、クロームが挨拶を返した。その手にあるのは風呂桶――ではなくバッグだけど、目的地は銭湯で間違いないだろう。なぜなら、ここは銭湯の入り口だ。

 着いたと同時にクロームを見つけたときは駆け寄りそうになったけれど、どう考えても怯えられるだろうからと、我慢してここで待っていたのだ。おかげでクロームは不思議そうな顔をしながらも、逃げ出したり通り過ぎたりせずに立ち止まってくれた。

 

「よかったー、会えて。ほかの三人ってもう中に入ってる? 千種君と犬君に用があるんだけど」

 

 もし入っているようなら、クロームにお菓子を渡して伝言を頼めばいい。

 

「千種と犬? 千種だったら、あっちに……」

「そう、ありがとう!」

 

 お礼を言ってクロームが指差した方へと歩くと、交差点の向こう側に見慣れた白い帽子が見えた。赤信号に捕まっているようで、行き来する車のあいだから、断続的に姿が見える。

 

(千種君とむく――六道さん、だけか。まあ、どっちかに渡せればよかったからいいんだけど)

 

 それでいくと、千種に当たったのは幸運だ。愛想がよくないのは一緒だけど、犬よりは当たりが弱い。

 

 信号が変わり、二人が近づいてくる。それに合わせて利奈も近づくが、そこで奇妙なことが起きた。

 

「あれ?」

「あ゛あ゛? ……なんら、またお前か」

「……犬君?」

 

 いなかったはずの犬がいて驚くと同時に、さっきまでいたはずの骸が消え失せていて、利奈は目を白黒させた。犬と骸を見間違えるわけがないのに。

 

「六道さんは? 今いたよね?」

「あ? 骸さんなら忘れ物を取りに――って、なんで呼び方変わってるんら?」

 

 どうやら骸は信号待ちをしているあいだに引き返してしまったらしい。

 

「名前で呼ぶとヒバリさんが怒るからさ。まあ、名前のほうが言いやすいから呼んでただけだけどね」

「別に今あいついねーんらからいいだろ。その呼び方癪に障るからやめろ」

「それで、なに? 骸様になにか用?」

「ああ、そうだった。骸さん――じゃなくて! 二人に渡したいものがあってさ。

 ほら、昨日助けてもらったお礼にお菓子」

 

 千種に促されてビニール袋を掲げると、犬がパッと目を輝かせた。

 

「うまそうな匂いがしてると思ったびょん。チョコは入ってんのか?」

「あるよー。……あれ、犬君チョコ好きなの?」

「犬じゃなくて、骸様がね」

 

 補足を入れながら、千種が受け取った袋の中身を覗く。――彼のあだ名にちなんで、柿の種を入れるかどうかちょっと考えたけれど、お礼の品でおちょくるのはやりすぎだと思って自重しておいた。今度お菓子を持っていく機会があったら、柿チョコをこっそり忍ばせようとは思っているけれど。

 

「……ありがと。もらっとく」

「うん。昨日は本当にありがとう、二人とも。おかげさまでなんとかなりました」

「リングはどうした」

「ああ、あれはヒバリさんに返した。まさかあれのせいで襲われるなんて思ってなかったけど……うん」

「相変わらず短慮だよな、雲雀恭弥は。自分が渡されたものの価値くらい、ちゃんと理解しとけっての」

「まあ、そだね。……あれ、二人は知ってるの? あの指輪のこと」

 

 やたら辛辣な犬の言葉に軽く同意しつつ、質問してみると、犬になにを言っているんだという目で見られた。千種ではなく、犬にそんな目で見られたことに若干の憤りを感じる自分がいる。

 

「そんなの知ってんにきまってんだろ。俺たちをだれだと思ってるんだ」

「脱獄囚」

「そういうことじゃねえよ!」

 

 わかっている。マフィアを壊滅させようとしていた彼らが、ボンゴレファミリー内部での抗争を知らないはずがない。リング争奪戦が始まる前、おそらくは事が表層化する前から、こうなることを予見していただろう。それらしいことを骸は口にしていたし。

 結果論で言えば、綱吉に勝たなくて正解だったわけだ。勝っていたら、骸たちがヴァリアーと戦う羽目になっていたのだから。

 

「千種君たちはどうするの? まさか戦いに乱入したりしないよね……?」

「そんなめんどいことするわけないでしょ。一応、結果は見届けるけど」

「へー。結果わかったら教えてくれる?」

「だれがそんなめんどーなことするか! 自分で調べろびょん!」

「えー」

 

 それができたら苦労はしない。いや、恭弥が駄目でもディーノがいるけれど、彼は利奈を戦いに携わらせないようにといろいろ気を揉んでくれているのを知っている。こちらからあれこれ尋ねるのは、どうも気が進まない。

 

「……それにしてもお前、よく普通にしてられるよな」

「え?」

「マフィアの抗争始まってんのに呑気な顔してるのが信じらんねーっつってんの! あっちの奴らに襲われたくせに、どんな神経してんだか」

 

 噛みつくようにそんなことを言われても、身に降りかかった火の粉はあれだけで、あれすらベルたちからすれば悪戯の範疇だというのだ。それを聞かされたら、怯えているのも馬鹿らしくなってくる。

 

「もう慣れちゃったもの。それに、そんなこと言い出したら六道さんが一番ひどかったからね?」

 

 人の記憶を勝手に弄くるなんて非人道的手段を選んでる時点で、物理的に脅迫してきたベルの数段上を行く蛮行である。

 骸を庇うために突っかかってくるかと身構えるが、犬は痛いところを突かれたという顔で固まった。犬にしては珍しい反応だと思っていると、遮るようにして千種があいだに割り入る。

 

「話はもう終わったでしょ。帰りが遅くなったら犬が――食事が遅れるから、そろそろ」

「ああ、ごめん。じゃあまたね」

「ケッ!」

 

 どうも犬とは友好な関係が築けそうにない。それでも突っかかってきてくれるだけ話は続くから、気まずさを感じなくて済むのだけれど。

 とにかく、これで今日の予定は無事終了なので、日の落ちそうな夕暮れのなか、利奈は帰路についた。

 

 

 

「……どうでしたか?」

 

 利奈がいなくなったのを見計らって、千種は隣に立つ人物に声をかけた。先ほどより二人の距離は空いている。

 

「思ったとおり、敵の術者と接触したみたいですね。独特の匂いがします」

 

 術者というのは、マーモンのことだろう。モスカと同じく、経歴不明の要注意人物である。

 

「こちらの情報を漏らされた可能性は?」

「それはありえません。そうならないように、わざわざ糸を切らずにいるのですから。

 ……手繰り寄せようとすれば千切れてしまうほど、か弱い糸をね」

 

 そう言ってにこりと笑ったその瞳は、顔つきに見合わぬほどの深淵を秘めていた。

 

「さて、早く入って帰りましょう。犬がおなかをすかせて遠吠えを始めたら大変です」

「はい。……この前、棚のお菓子をこっそり食べてました。板チョコを数枚」

「おや、それはそれは。帰ったらきちんと躾なければいけませんね」

 

 ――楽しげな言葉とは裏腹に、その声はひどく真剣な色を帯びていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本能が逃げろと言っていた

 夜の学校ではマフィアの跡目争いが行われているけれど、昼の学校はなんの影響もなく生徒が通っている。利奈も生徒会に入っていなければ――骸やらベルやらのちょっかいがなければ、知りもしないで学校生活を満喫していただろう。風邪を理由に休み続けている綱吉など気にも留めずに。

 

(大丈夫なのかな、沢田君。学校来てる場合じゃないってのはわかるけど。

 ただでさえ、この前の事件で入院して補習まで受けてたのに)

 

 このままだと留年になるかもしれない。出席日数は補習を受ければなんとかなるだろうけれど、このまま進級したところで授業についていけなくなるだろう。進学せずにマフィアのボスになるというのなら、話は別だが。

 

 それはさておき今は昼だ。利奈は中学生らしく、委員会活動に勤しんでいた。

 今日は、来る文化祭に向けて、部活動ごとの出し物調査をしているところだ。模擬店などは部ごとに毎年恒例のものがあるそうだから被る心配もないけれど、体育館や視聴覚室を使うような出し物は、ほかの部やクラスとの兼ね合いも必要になってくる。

 

(私は見回りとか向いてないから、特別教室の時間調整とかかな。頑張らなくっちゃ)

 

 本来なら風紀委員が出張る案件でもないけれど、恭弥の愛校心を甘く見てはいけない。

 体育祭と違って地元の人も招き入れるから、並盛中学校の名誉のためにも、文化祭はなにがなんでも成功させなければならないのだ。

 

 ともあれ、放課後は各部長がみんな活動場所にいてくれるから楽でいい。今日活動していない部は、活動日のこの時間に回ればそれで済むし、文化祭までまだ余裕があるから、そんなに焦る必要もない。

 のんびりと廊下を歩いていたら、保健室から出てきた人物とばったり出くわした。

 

「獄寺君?」

「あ゛? ……なんだ、お前か」

 

 一瞬、眉間にものすごく皺を寄せた顔をされたけれど、顔見知りだとわかってか、ある程度マシになった。

 

「学校来てたんだ。授業出てないから、てっきり今日も来れないと思ってた」

 

 保健室で治療を受けていたのか、顔中にガーゼが貼られている。空いた胸元から覗く肌にも包帯が巻かれているし、マーモンに聞いたとおり、満身創痍なのは間違いないだろう。てっきり入院しているものだと思っていた。

 

「獄寺君、無理しないで病院行った方がいいよ。保健室じゃ輸血とかできないしさあ」

「あ? ……ああ、ヒバリが話しやがったのか。これくらい大したことねーよ」

「ん……?」

 

 どうして恭弥の名前が出てきたのだろう。ひょっとしたら、隼人はマーモンの話を聞いていなかったのかもしれない。

 

「保健室も手当て受けてたんじゃなくて、シャマルの手伝いやらされてただけだからな。

 めんどくせーけど、約束は約束だ」

「手伝い……? えっと、保健室の先生の?」

「ああ。男は診ねーっつうから、俺が代わりに」

 

 怪我をしても応接室備え付けの救急箱を使っているから、保健室とはまったく縁がない。だから養護教諭とは面識がないけれど、隼人に手伝いをさせられるだけの人物ということは、ただものではないのだろう。

 

「でも、なんでかすぐに出てっちまうんだよな。女はたくさん来てるのによ」

 

(獄寺君のせいだよ……)

 

 知らないあいだに保健室でそんなことが起こっていたとは。事件というものは日常のなかに潜んでいるものらしい。

 

「えと、それじゃ、山本君はどうしてるの? 戦い、昨日だったんだよね。大丈夫だった?」

「あいつなら病院だ。俺ほどじゃないにしろ、そこそこ奮闘してたしな」

「そっか……」

 

 隼人の口ぶりからすると、そこまで深刻な怪我でもないようだ。とはいっても、本来なら入院するべき怪我を負っている隼人の見解だから、参考にしづらいところがあるけれど。

 

「それより、ヒバリはどうなんだ? 今夜は霧戦だけど、その次はあいつなんだからな。今日勝ってもあいつが負けたらそれで終わりなんだぞ」

 

 昨日の勝敗はまだ聞けていない。でも、昨日の試合前でリーチがかかっていて、まだ負けていないということは――

 

「……あっちがまだ勝ってないってことは、昨日の試合は勝てたんだね」

「喧嘩売ってんのか!?」

「え? あ、違う、そういう意味じゃなくて!」

 

 なにも隼人は負けたと強調したかったわけではないし、そんな言い方もしていない。

 それでも噛みついてきたのは、隼人が武に強いライバル心を抱いているからだろう。自分が負けたのに武は勝って、そのうえそのおかげで首の皮がつながっているのだから、面白いわけがない。

 

 あわあわとなだめようとしていたら、保健室の扉がゆっくりと開いた。そして中から、けだるげな顔をした養護教諭が顔を出してくる。

 

「おい、うるせーぞ隼人。帰るんだったらさっさと――おお?」

 

 養護教諭のシャマルと目が合った。

 シャマルは表情をヘラリと緩ませると、利奈に身構える間を与えずに肩を抱き寄せた。

 

「こんなところにかわいこちゃん! 俺に会いに来てくれたのか?」

「えい!? ち、違いますけど……」

「かーくさなくっていいって! 俺に会いにわざわざここまで来て、それなのに恥ずかしくて入れなかったんだろ? かわいーなー、チューしてあげる」

「ふうええい!?」

 

 脈絡なく尖らせた唇を近づけられ、咄嗟に持っていたノートで顔を庇う。

 

(え、なにこの人!? こわっ!?)

 

 彼とは初対面で、こんなふうに迫られる謂れはなにもない。それなのにシャマルは、そんな利奈の動揺すら都合よく解釈して迫り寄ってくるのだから、もはや恐怖しか感じない。

 

「なんだ、照れ屋さんか。怖がらなくても優しくてしてあげるよー」

 

 ノート越しに感じる熱い視線に、ついに利奈は音を上げた。

 

「獄寺君獄寺君、助けて! 助けてえー!」

 

 もはやチンピラに絡まれたときよりも強い危機感に臆面もなく助けを求めると、今まで呆気に取られていた隼人がガッとシャマルの額を掴んで押し戻した。

 

「お前、いい加減にしろ! 生徒に手を出す気か、変態教員!」

「学校物のロマンだろ。禁じられた恋ほど燃え上がるっての知らねーのか、お子様は」

「一人で燃え上がって果ててろ! 問題起こしてんじゃねー!」

 

 隼人の態度からすると、どうやら常習犯のようだ。二人がギャアギャア騒いでいるあいだに、利奈はなんとか冷静さを取り戻す。依然、肩は抱かれたままだけど、女たらしなだけだとわかったので、気に留めないでおく。

 

(獄寺君とこんな感じに喋ってるってことは、前からの知り合いなんだよね? 普通に話してるし、手伝いもしてるって言うし)

 

「獄寺君とはどういう関係なんですか?」

 

 言い合いの合間を縫って尋ねてみる。

 

「ん? ああ、昔こいつの家で働いててな。今は俺に弟子入りしてきたから、こいつが子分になった」

「だれが子分だ! いい加減に手を離せ。そいつ、風紀委員でヒバリの部下だぞ!」

 

 わずかな親切心か、あるいは手を離させる口実か。わかりやすく利奈の立場を告げた隼人だが、シャマルはそれを鼻で笑った。

 

「彼氏が恐くて彼氏持ち口説けるか。いい女ってのはたいていだれかのモノになってんだよ。それを奪い取るのが腕の見せどころなんじゃねえか」

「わあ、ろくでもない」

 

 そして恭弥は彼氏ではない。

 

「いいからやめろ! 師匠がそんなじゃ弟子入りした俺まで馬鹿にされんだろうが!」

 

 そもそも、どうして隼人はシャマルに弟子入りしたのだろう。こう見えて、実は凄腕の殺し屋だったりするのだろうか。

 あながち間違っていない予想を立てる利奈だったが、ずっと抱き寄せられているわけにもいかないので、引いていた身を寄せてするりとシャマルの腕から抜け出した。うまくいったのは、隼人が注意を引きつけてくれていたからだろう。

 

「私、行くね。獄寺君お大事にー」

「おう」

「あーあー、邪魔者のせいで逃げられちまったじゃねーか」

「懲りねえな、てめえは!?」

 

 予想外なところで時間を取られてしまった。まさか保健室の先生があんな人だったとは。委員会活動以外では怪我も病気もなかったことを神様に感謝しよう。

 

(レスリング部と剣道部は終わったから、次はあそこのボクシング部にしよう。ボクシング部は京子のお兄さんが部長やってたっけ)

 

 公立の学校にもかかわらず、この並盛中学校ではボクシング用のリングやレスリング用のマットが備えつけられている。利奈が前に通っていた中学校にも土器を焼くための窯があったりしたけれど、並中ではスポーツ方面に力を入れているらしい。

 

 利奈が部室に入ったら部員たちが大いにざわついたものの、風紀を取り締まりに来たわけじゃないと知ると、各自トレーニングを再開した。

 部長の了平は怪我のせいもあってトレーニングには参加しておらず、話を聞くのにはちょうど良かった。そしてボクシング部今年の文化祭の出し物はというと――

 

「極限に! タイトルマッチだ!」

 

 天高くこぶしを突き上げて了平が叫ぶ。

 びいんと空気が振動した感覚に利奈は気圧されたが、ほかの部員たちは一人として、手を止めたりこちらを見たりはしなかった。部長の奇行には慣れているのだろう。慣れていない利奈は、最後の一音の余韻がなくなるまで口を閉じていた。

 

「……タイトルマッチって、なんですか?」

「おお! よくぞ聞いてくれた!

 タイトルマッチというのは、王者の座を賭けてチャンピオンと挑戦者が熱く拳を交わし合う極限に熱い試合でな!」

 

 長くなりそうなので、とりあえず近くのパイプ椅子に腰を下ろす。

 

「チャンピオンが勝てば防衛! 王者は変わらん! 挑戦者が勝てば王者交代! 挑戦者が次のチャンピオンになる! 引き分けの場合はチャンピオンの防衛になるが、やはり勝負は白黒はっきりつかんと締まらんな! とはいえ、やはりプロの戦いは熾烈に壮絶で極限に燃える! お前も一度、試合を観戦してみればボクシングに夢中になるだろう! 興味はないか!?」

「スポーツはやる方が好きなんで」

「む! そうか! 俺もそうだ!

 それなら女子ボクシングを作るといい! リングは貸すぞ! お前も一緒に汗を――」

「委員会活動で忙しいんで!」

「そうか。それなら仕方ないな」

 

 トントン拍子に話を進められそうになって、利奈は慌てて了平の言葉を切った。意外とすんなり引き下がったのは、利奈が風紀委員だからだろうか。

 

「話ズレましたね。えっと……タイトルマッチ? はわかりましたけど、文化祭でタイトルマッチって、細かく言うとなにするんですか? 部員同士で戦い合うんですか?」

 

 利奈はそこまでではないけれど、スポーツ観戦を好む人はそれなりにいるだろう。保護者、とくに在校生の父親ならばけっこう食いついてくれるかもしれない。しかし了平は首を振り、

 

「それでは普段の部活動と変わらん。俺は血沸き肉躍る戦いがしたいのだ。極限に燃える試合を!」

 

 拳を胸元で握りしめながら、目にともした炎を燃え上がらせる。――文化祭の話だというのを、忘れてしまっていないだろうか。

 

「簡単に言うと?」

「俺と挑戦者の一騎打ちだ! 俺が負けたそのときは、ボクシング部部長の座を挑戦者に譲ろう!」

「おお……」

 

 なかなか盛り上がりそうな設定だ。試合前に放送をかければ、かなりの集客が見込めるかもしれない。

 

「面白いですね。先輩が勝ち続けてれば、ボクシング部の実力も知らしめられますし」

「だろう! 負けた者は俺が責任をもって一人前のボクサーになれるように育ててやろう! そうすればボクシング部は安泰だ!」

「……んん?」

 

(あれ、それって挑戦してきた人、勝っても負けてもボクシング部に入部させられない?)

 

「校外の人が挑戦してきたときはどうするんですか? その人がもし勝っちゃったらどうします?」

「心配いらん! 熱意さえあるなら、並中ボクシング部は並中生でなくても受け入れる! 来るもの拒まず、去る者許さずだ!」

「勝手に受け入れないでください!」

 

 たかが部長の一存で、学校の在り方を勝手に捻じ曲げないでほしい。あと、去る者許さずは普通に恐い。

 

「そんなルールじゃ認められません! ルールの改定を要求します!」

「なんだと!? お前にはこの男のロマンがわからんのか!?」

「わかります! わかるけど好き勝手するのはNGです! 私が決めるわけじゃないですけど、そんなんじゃ文化祭に参加できなくなりますよ!?」

「なにぃ!? それは困る! ちょっとヒバリに直談判を――」

「部長、それは駄目ですって! ボクシング部ごと咬み散らされますよ!」

「だから言ってるじゃないっすか! そんなの無理に決まってるって!」

 

 さすがにそこは聞き逃せなかったのか、ほかの部員が次々と了平の行く手を遮り始めた。

 いつもの了平ならたやすく突破できただろうが、負傷した今の彼では難しいだろう。それこそ、仲間であるはずの部員たちを、本気で床に沈めるつもりにならなければ。

 

「無理と決めつけてはいかん! 何事もやってみなければ――」

「やる前に終わりますから! だいたい、そんな怪我だらけであの暴君委員長に勝てるわけないっしょ!」

「そうですよ! 風紀委員に目をつけられたら草すら残らないってもっぱらの――」

「馬鹿、やめろ! そこにいんだぞ風紀委員!」

 

 ハッとしたような顔で向けられた幾対もの眼差しを、利奈はすかさずサッと逸らした。

 

「……あー、そろそろほかの部に行かなきゃですね」

 

 露骨に聞こえてないふりをしてあげたら、部員たちが全力で肩の力を抜いた。

 とりあえず、部員全員でもう一度案を練り直していただきたいとだけ告げておく。

 

 ――後日。タイトルマッチ式は取りやめになり、部長に勝った者に賞状を渡すという、非常にシンプルなものに変更されるのだが、その報告を利奈が聞かされることはなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夕方のお茶会

 昼の学校に脅威はない。あるといえばあるのかもしれないけれど、日常化された脅威は脅威と呼ぶのにふさわしくないので、あえて除外する。今では、脅威と呼べるほどの畏れは抱いていないのだし。

 

 日常を踏み外すような真似をしなければ、夜の脅威も利奈を爪先に引っかけようとはしてこない。箸にも棒にも引っかからないような、取るに足らない利奈を歯牙にかけるほど、彼らも暇を持て余してはいないだろう。マフィアのボスであるディーノですらそう言っていたくらいだ。

 

 ――と判断するには、利奈はいささか、自分の行動に対しての認識が足りていなかった。特異点を勘定に入れ忘れていた。それを思い知ったのは昼と夜の境目、夕暮れどきの一幕である。

 

 起承転結の転を述べるなら――なぜか、利奈はホテルについていた。

 

(うん? ううん? な、なんでこんなことになったんだっけ?)

 

 拘束されたわけでも、脅迫されたわけでも、ましてや洗脳されたわけでもない。ただ、あまりにも自然な流れで連れてこられたもので、心が追いついていないのだ。

 危機感を抱いた覚えもあったけれど、シャマルに迫られたときに比べればほんの微細なもので、だからこそ、こんなに簡単についてきてしまったのかもしれない。それに、衝撃度でいえば、直前にハルと再会した出来事のほうが大きかった。

 

(そう、三浦さん。三浦さんに会ったんだ)

 

 ハルは夏休みの囮デート作戦のさいに知り合った子だ。

 あれ以来、顔を合わせたことがなかったから、思い出すのに少し時間がかかった。校門の前で彼女が出待ちをしていなかったら、道端ですれ違っても気付かなかっただろう。

 あちらもあちらで、利奈が話しかけるまでまったく反応しなかった。あのときは大人っぽくするために化粧を施されていたうえに髪型も変わっていたから、わからなくても仕方がないけれど。

 

 彼女が並盛中学校に来た理由を聞いた利奈は驚いた。なんと彼女は、綱吉ではなく、隼人たちのために差し入れを持ってきたというのだ。

 

「はひ!? ち、違いますよ!? 浮気とかじゃないですよ!?

 本当はツナさんに持っていこうとしたんですけど、今日はいつもよりデンジャラスな修行をするから絶対に来るなってリボーンちゃんに言われまして。

 ですが、せっかく作った差し入れですので、代わりにほかの皆さんに食べてもらおうと思って持ってきたんです。まだどなたか、いらっしゃいますよね」

「山本君は休みだけど、獄寺君はいたよ。……ただ」

「ただ?」

「……獄寺君たちの試合、もう終わってるのは知ってるんだよね?」

「へ? ……ええええ!?」

 

 どうやら、リング争奪戦の概要は知ってるものの、試合の順番や結果までは教えてもらえていなかったらしい。がっくりと肩を落とした彼女は、そのままトボトボと家へと帰っていった。

 

(ヒバリさんはまだだったけど、ヒバリさんに差し入れするつもりはないだろうしね……。

 あんなに叱られたんだし)

 

 ――まあ、そんなことが直前にあったのもあって、利奈は現在の状況を、ある程度冷静に受け入れてしまっていた。

 軟禁されてるわけでもなく、隔離されてるわけでもなく、いたって普通の――いや、むしろ厚遇されている。

 

 利奈はホテルにいた。ホテルのレストランの椅子に座っていた。椅子に座る利奈の前にはケーキがあった。そのケーキは自分で選んだものだけど、色とりどりのケーキを前に、利奈は茫然としていた。

 

「取りすぎじゃね?」

 

 正面のベルは行儀悪くフォークを振っている。その手元の皿には、利奈ほどではないにしろいくつかのケーキが乗せられている。

 

「こーいうのってやっぱ育ちが出るよな。その点、俺は王子だからバランスとか心得てるけど」

「取り方なんて自由だと思うよ。いくつ食べても値段が変わらないなら、食べられるだけ食べてった方がいいし。人のお金で食べるのなおさら」

 

 そういうマーモンは、ひとつしかケーキを取っていない。小さいから、あまり数は食べられないのだろう。

 

「……本当に、食べていいんだよね? あとでなんか要求とかあったりしない?」

 

 うまい話には裏があるという。

 この前奢ってあげた十円チョコ数枚の借りを返したいから――と言われてついてきたのはいいものの、まさかこんな高級ホテルのデザートビュッフェに連れてこられるとは思っていなかった。

 しかもベルと偶然――本人はそう言い張っていたから偶然にしておくが、レストランの前で鉢合わせて、気付けばこんな高そうな店に入ってしまった。

 私服だったら間違いなく逃げだしていただろう。制服姿でも浮いているというのに。

 

「お返しの見返りを求めるほど強欲じゃないよ。遠慮しないで好きなだけ食べて」

「ってか、ビビりすぎじゃね?」

「だって私があげたの、十円チョコだったし……お金で返してくれてもよかったし……」

「マーモン、超守銭奴だから。金渡すとかないって」

「人聞きが悪いよ、ベル。小銭を渡すより、こうしてご馳走したほうが喜ばれると思っただけさ。

 君だってこっちのほうが嬉しいでしょ?」

 

 マーモンに問われ、利奈は曖昧な笑みを浮かべた。喜びたいところだけど、相手の職業を考えたら発言をそのまま鵜呑みにはできない。マーモンが守銭奴だというのならなおさら。

 

「ああ、それなら心配には及ばないよ。ホテルの代金はヴァリアー持ちだから、僕の懐はまったく痛まないんだ」

「……それ、経費の不正利用になるんじゃ」

 

 ボソッと呟くも、そのあたりの概念はないのか、二人ともキョトンとした顔をしている。そもそもこんなホテルに泊まっている時点で羽振りのよい会社――もとい、部隊なのだろう。これくらいものともしないのならと、利奈はようやくケーキを口に入れた。

 

「おいしいかい?」

 

 フォークを口に入れた途端、固まった利奈を見て、マーモンが問いかける。

 

「……! っ! ……っ!」

「喋れよ」

 

 ベルからの容赦ないダメ出しを浴びながらも、利奈はケーキのおいしさに目を白黒させていた。

 

(なにこれ!? なにこのケーキ、今まで食べてきたなかでいっちばんおいしい……!)

 

 これまでのものとは格が違うとしか言いようがなかった。

 ムースは舌の上でしっとりと蕩けるし、ケーキの表面でツヤツヤ輝いていた赤色のソースは甘酸っぱさが際立っているし、下のスポンジ生地まで、舌の上でふわりと存在感を示している。百点満点で採点して千点をつけたくなるほど、別次元の食べ物だ。

 

「……すっごくおいしい!」

 

 ありあまる感動を一言に詰めて伝える。はっきり言って、この一口でお返しが成立してしまうほどの味だった。

 

「気に入ったのならなによりだよ。ほら、遠慮しないでどんどん食べて」

「うん!」

 

 こうなったら全種類制覇するしかない。

 警戒心皆無でケーキを頬張る利奈に、ベルは呆れ顔で肘をついた。

 

「こいつ、じつは別人じゃね? この前はあんなに警戒してたのに、普通に俺の前でケーキ馬鹿食いしてんだけど」

「どうだろう。まあ、神経が図太いのは間違いないけれど」

「今なら簡単に情報引き出せそうじゃん。なに聞いてもペラペラ喋りそー」

「そうだね。だからこそ最初に言質を取ったんだろうね」

 

 わりと失礼なことを言われているけれど、ケーキがおいしいからどうでもいい。どのケーキもおいしくて小ぶりだったから、ペロリと一皿平らげてしまった。

 

「お代わりしてくる。マーモンの分も取ってきてあげるよ、同じのでいい?」

「よろしく」

「しれっとマーモン呼び捨てにしてるし」

「ベルは? お代わりいる?」

「俺もかよ。んじゃ、適当に取ってきて。まずかったら殺す」

「どれもおいしいから平気だね。じゃ、行ってくる」

 

 今度はシュークリームやエクレアなんかにも手を伸ばしてみる。

 シュークリームは生地を横に割ったところにクリームが挟まれているし、エクレアなんて、チョコの上によくわからないトッピングがちりばめられている。わかるのは、どちらもおいしいに違いないということだけだ。

 

(あー、幸せ。まさかこんないいことがあるなんて! ベルに首絞められたときはもう二度と会いたくないって思ってたけど、こんなおいしいケーキ食べられるんなら別だよね。ケーキ食べ終わったら速攻で帰るけど!)

 

 利奈だって馬鹿じゃない。ケーキをご馳走になったからといって、彼らとの距離を詰めるつもりは毛頭なかった。本当に危ない人は、優しい笑みを浮かべて紳士的に近づいてくるものだ。だれとは言わないけれど、前例がある。

 食べ物を食べているおかげで今のところ会話をせずに済んでいるけれど、油断したところでポロっとなにかを引き出される可能性もある。こうなったら、ひたすらケーキを食べ続けるしかない。

 

 椅子に座り直した利奈は、いそいそとまたケーキを口に運んだ。高級ホテルのビュッフェだけあって、ケーキの種類は豊富で、同じケーキを選ぶ余裕はなさそうだ。甘いものは別腹というけれど、このままだと別腹がいっぱいになってしまう。

 幸せを顔に張りつけながらケーキを頬張る利奈だったが、その幸せは、突如現れた巨漢によってぶち壊された。

 

「ここにいたのか、マーモン」

 

 ぬっと背後から影が差したと思ったら、威圧感のある声が響いて背筋が凍った。

 

「どうしたの、レヴィ。こんなところに来るなんて意外だね」

 

 マーモンの声には牽制が滲んでいた。

 おそらく暗殺部隊の仲間なのだろう。ベルも姿勢を正そうとはしていないし、後ろの人がボスである可能性は低い。しかし、利奈の立場からしたら、相手がだれであろうと窮地に変わりはなかった。

 

「その顔でこんなとこ来んなよ。目立って雰囲気最悪になるじゃん」

 

 ベルが毒づいた。間違いなく、ボスではない。

 

「入り口からマーモンの姿が見えたからな。見物料を入れる銀行口座の番号を聞き忘れていた」

「わざわざ聞きに来るのがレヴィらしいね。そんなの勝手に調べてくれていいのに」

「……それで、こいつはなんだ」

「!?」

 

 ビクゥッと体が跳ねた。

 声だけで顔が想像できている。きっとものすごく怖い顔つきの人であるはずだ。その証拠に、周囲のテーブルの人がさっきからこちらを見ようとしていない。

 

「ああ、紹介しておこうか。この子は僕の情報屋の一人さ。あだ名はミル」

 

(ミル?)

 

 しれっと嘘をつかれたけれど、本名にかすりもしていないあだ名のほうが気にかかった。まだ名前を名乗っていないはずだから、もじられていたら恐怖を感じただろうけれど。

 利奈の視線に気づいたマーモンが、フォークの先で控えめに利奈の手元を指し示した。利奈の皿にはシュークリームとエクレア、それから――ミルフィーユが残っている。ザッハトルテだったら、ザッハになったのだろうか。

 

(と、とりあえず自己紹介――絶対恐い顔の人だけど、リアクションしないように……!)

 

 意思を強く固めて、利奈は体をひねった。そして思い切って顔を上げると、想像の何倍も厳つい顔の男に見下ろされていて、一瞬怯んでしまった。強面に耐性のある利奈でさえこうなのだから、普通の女性だったら悲鳴を上げるどころか、泣き出していただろう。

 威圧するような眼光の鋭さに、眉と口元につけられたピアスのあいだを通る長い紐。よく見たら下唇に稲妻のようなタトゥーまで入っているし、まったくもって忍ぶ気配が見受けられない。暗殺者というよりも、ただの殺人鬼の容貌だ。

 

「ミ……ミルです。初めまして」

「……レヴィだ」

 

 声が岩のように固い。ここまでマフィアらしいマフィアに会ったのは初めてで、どこか感慨深さまで湧き上がってくる。この顔でヴァリアーのボスじゃないというのが、とても信じられない。

 

「ミルは中学生に扮装してあいつらの情報を探ってる。でも学校には姿を見せてないそうだから、あまり有益な情報は得られてないね」

「そうか」

「ゲッ、おっさんも座んのかよ」

 

 隣の椅子を引かれ、利奈も内心で悲鳴を上げた。真正面でないだけマシとはいえ、こんな、今まで何百人も人を殺してきましたみたいな顔の人に隣に座られたくはない。――実際に殺しているのだろうから、なおさら。

 

「入ったからには食べていく。無駄金になるからな」

「じゃあ最初っから入んなきゃいいじゃん」

 

 ベルはだれに対しても同じ態度を取るらしい。いや、むしろレヴィに対してのほうが当たりは強いか。こんな強面の人によくこんな態度が取れるなと、自分のことを棚に上げて利奈はひやひやした。

 

「……いい? レヴィには幻術で君の姿を別人のように見せてるから、君はできるだけレヴィの気を引かないように黙ってて」

 

 レヴィがケーキを取りに席を立っている隙に、作戦会議が開かれる。ベルが言っていた通り、ケーキを選んでいる姿はとてつもなく周囲から浮いていた。

 

「そのケーキ食べ終わったら、なにも喋らなくていいからそのまま帰って。

 いい? 気付かれたら最後だからね」

「……う、うん」

 

 気付かれたらどうなるのかを聞きたくなったけれど、聞かなくてもわかっていることをいちいち聞くのも無意味なので、利奈は質問を呑みこんだ。あの顔は、躊躇いなく人を殺す。

 

「シシ、なんか面白くなってきた」

「ちょっかい入れたりしないでよ。ボスにバレたら僕たちだってヤバイんだからさ」

「わかってるって。俺があのおっさんの味方するとかないし」

「……」

 

 いまいち信用ならないけれど、今はベルの気紛れが悪い方に向かないのを祈るしかない。

 戻ってきたレヴィに視線を向けないようにして、利奈はオレンジジュースを飲み干した。

 

「それで、マーモン。お前の対戦相手はわかったのか?」

 

(いきなりその話題!?)

 

 利奈は反応してしまわないようにと苺を口に放りこむ。残るはシュークリームとエクレアだけど、これは手で掴んでもいいものなのだろうか。目立った行動を取るわけにもいかず、利奈はまごついた。

 

「粘写してみたけど駄目だったよ。妨害されてるみたいで」

「妨害だと?」

「敵も術者みたいでね。何度やっても結果は同じ」

 

(あ、この流れは……)

 

 話がよろしくない方向に進んでいるのがわかるけれど、口を開くわけにはいかないから黙っているしかない。そして、ここでちょっかいを出してくるのがベルだった。

 

「紙にはCDって出てたよな。CDってなんの意味だと思う?」

「CD? 知らんな。潜入しているこの娘には聞いたのか?」

「……まだだよ」

「なあ、お前はなんだと思う? ミル」

「……」

 

(この人は……っ!)

 

 こちらの事情を知らないレヴィに乗っかって、情報を引き出そうとしてくるなんて。マーモンもそれには気付いているだろうけれど、下手に庇うと怪しまれるからか、割って入ったりはしなかった。いや、もしかしたらマーモンもベルと同じ考えなのかもしれない。

 利奈はむすっとした顔で首を振ると、喋らなくてもいいようにエクレアを口いっぱいに頬張った。隣にレヴィがいるせいで、味がほとんど感じられない。

 

(まあ、どうせ全然心当たりなんてないんだけど。術者になんて、全然心当たりがないんだし)

 

 ――このとき、利奈は本気でそう思っていた。

 

「まあ、いいさ。相手がだれだろうが、本気を出した僕に勝てるわけがないからね」

「ヒュー、マーモンやる気満々」

「けして抜かるなよ。昨日はスクアーロのせいで足踏みすることになったが、今日こそはボスに勝利を捧げたい」

「とか言って、スクアーロがやられたから機嫌がいいくせに」

「ふん。所詮あいつはその程度だったというだけだ。ボスの右腕にふさわしいのはこの俺」

 

 どうもヴァリアーは仲間内でもギスギスとしているらしい。暗殺部隊で仲良しこよしやられてもびっくりだけど、人が甘いものを食べているときに生々しい話はしないでもらいたい。余計美味しくなくなってくる。

 あと、マーモンがこちらをしきりに窺ってくるのも気にかかった。機密情報を二人が漏らすのではと、ひやひやしているようだ。

 

 なんとか全部食べ切った利奈は、打ち合わせ通り、なにも言わずに椅子を引いた。レヴィの視線を感じるが、意識を椅子に集中させておく。

 

「タクシー呼んでおくから、ホテルの入り口で待ってなよ。報酬の話はまたあとで

 

 わずかに頭を下げて、レストランを出る。エレベーターに乗って一階まで降りて、ホテルを出て、タクシーの窓から暗くなった空を眺める。いよいよ夜の領分だ。

 

(……また会ったりするのかな)

 

 彼らが負ければ、そんな機会もあるのかもしれない。でも、彼らが勝ったら――勝ってしまったら、どうなるのだろう。昼と夜は、交わってしまうのだろうか。利奈の友人たちは、昼の世界に戻ってこられるのだろうか。

 

 タクシーから降りた利奈は、思考を一区切りするべく背伸びをした。

 まずは、夕食が食べられなくなった言い訳を考えなくてはいけない。満腹になったおなかをさすって利奈は家路を急ぐ。――夜の迫った、並盛町で。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

場外ホームラン

 とうとう、雲の守護者である雲雀恭弥の対戦日がやってきた。

 蓋を開けてみれば、恭弥の出番は最後の最後。焦らしに焦らされただけあって、今日の恭弥の雰囲気はピリピリとひりついていた。

 

 それにしても、一敗したら終わりのあの状況から、よく最終戦まで持ち越せたものである。

 本当に、試合がなくならなくてよかったと思う。もし綱吉たちが負けていたら、血が滲んでいたあの修行は無駄になり、鬱憤を持て余した恭弥による無差別乱闘が始まっていただろう。学校が崩壊せずにすんだのを、とても喜ばしく思っている。

 

「今まで、お疲れさまでした」

 

 ぺこりと頭を下げてコーヒーを差し出すと、眉を下げてディーノが微笑んだ。

 

「お前もな。いろいろと迷惑をかけた」

「いえいえ……って言いたいですけど、はい、頑張りました」

 

 胸を張っておどけてから、ディーノの隣に座りこむ。屋上は風が吹きつけてくるけれど、手の中のカフェオレの熱のおかげでまったく寒さは感じなかった。

 

 屋上にいるのは利奈とディーノだけで、恭弥はいない。対戦当日ということもあって、今日は修行を行わないらしい。

 賢明な判断だ。恭弥に手加減という三文字はないし、本番前に修行で体力を削ってしまう可能性がある。ただでさえ毎日生傷をこしらえていたのだから、本番前くらいはおとなしくしてもらわないと。

 

(屋上もボロボロ……。修理はなんか、審判の人……えっと……チェンベロ? って人たちがやってくれるって言ってたな。修理代もその人たちが出してくれるっていうから、ラッキーだよね)

 

 でなければ、こんなに心穏やかにカフェオレを飲んではいられなかった。

 一時期、海やら山やらで修行されたときは、わざわざ修行場所まで報告書を見せに行くのが手間だったけれど、校舎をボロボロにされるのも困る。それが今日で終わりだと思えば、解放感もひとしおだ。

 

「ディーノさん、今日はこのまま帰るんですか?」

 

 今日のディーノの訪問目的は、恭弥に集合時間と場所を念押しするという簡単なものだ。ディーノ本人が行ったら恭弥の闘争心が刺激されかねないので、部下のロマーリオが伝言を伝えに行っている。さすが、ここ最近ずっと恭弥につきっきりだっただけあって、恭弥の行動パターンをよくわかっている。この戦いが終わったら一旦お別れになってしまうのがもったいないくらいだ。

 

「やることが山積みだからな。今日の戦いが終わったら、向こうに戻って自分のファミリーの仕事もやらなきゃなんねーから、それまでにこっちでできることは全部終わらせときたい。サボった分、ちゃんと働かねえと部下もうるさいし。

 時間があったらおいしいものでもご馳走してやりたかったんだが、悪いな」

「いえ、また今度……」

 

 昨日さんざん甘くておいしいものを食べさせてもらったあとなので、なんとなく罪悪感を覚えてしまう。

 それはそれとして、利奈はディーノの口ぶりについ口元を緩めてしまった。

 

「ディーノさんは、ヒバリさんが勝つって確信してるんですね」

「ん?」

「だって、全然心配してないんですもん。ヒバリさんが負けるって」

 

 恭弥の負け、すなわち綱吉陣営の敗北である。そうなると、ボンゴレファミリーと同盟を結んでいるキャバッローネファミリーとしても大事だろうし、敗北したら通常業務どころではなくなるだろう。それなのに部下の顔色なんて気にしているディーノに、利奈はにっこりと笑みを浮かべた。

 

「私もヒバリさんが勝つって思ってます。だって、ほかのみんなが勝ててるのにヒバリさんが負けるなんて、ありえないですから」

 

 今のところの勝率は五分五分だけど、その均衡を恭弥が崩すとは考えられない。万全の状態の恭弥を倒せる人がいたら、それこそ化け物だ。

 

「ヒバリが勝つさ。なんたって、この俺が直々に育て上げた自慢の生徒だからな」

 

 修行中、ディーノはたびたび恭弥の才能を褒め称えていた。

 底が知れない。未知数。どこまでも強くなる。今までの恭弥が完成形でなかったことにも驚いたけれど、そんな恭弥をしっかりと鍛え上げてきたディーノの実力も、利奈からすれば超人級である。

 並盛町の人間では絶対に為しえないであろう風紀委員長雲雀恭弥の教育を、彼は一週間程度でやり遂げてしまった。そんな彼が太鼓判を押しているのだから、恭弥の勝利は確実視してもいいだろう。

 

「とはいえ、あいつらがおとなしく引き下がるかどうかは別だ。その辺りは用心しておくに越したことはない」

「……え?」

「ハハ、大丈夫。お前たちが心配することはなにもない。マフィアってのは抗争に一般人は巻き込まねえからな。

 あいつらがルール無用で来るようなら、俺たちもそれ相応の反撃をさせてもらうってだけさ」

 

 ようするに、いざというときはファミリーの垣根を越えて綱吉たちを援護すると言いたいのだろう。今はルールが定められているから手は出せないけれど、相手がそれを破るようならこちらも守る必要はないと。ディーノが援護してくれるなら、これほど心強いことはない。

 

「ところで、それはなんだ? いつもと違うよな」

 

 話に一区切りついたところで、ディーノがお盆に乗っている牛乳パックを手に取った。いつもは小さな容器に入ったミルクを使っているから、相当目立っていただろう。

 

「給食の残りの牛乳です。なんかコーヒーのミルクが切れちゃってて」

 

 コーヒーは職員用のものを使って淹れているから、ほかの職員が使い切ればなくなってしまう。運悪く在庫もなかったので、こっそり給食用の冷蔵庫から牛乳を持ち出したのだ。どうせ廃棄されるものだから、人目を気にする必要もなかったのだけど。

 

「利奈は甘くないと飲めないんだったな。それでか」

「はい。でも、そのおかげですっごく美味しいカフェオレが作れました。牛乳に粉入れてチンしたから、もうほとんどコーヒー牛乳です」

 

 全部はカップに注ぎきれなかったので、カフェオレを飲んだあとに飲み切ろうと思って、一緒に持ってきた。

 ディーノが揺すると、チャプチャプと音が鳴る。

 

「牛乳入れるとかなり甘くなるよな。徹夜してたら、ロマーリオがほとんど牛乳でできたカフェラテ持ってきたことがあったっけ」

 

 子ども扱いされたことを思い出してか少し唇を尖らせているけれど、ディーノの眼差しは優しいものだった。

 

「せっかくだから淹れてみます? あ、でも、冷めちゃいますね」

「いや、もらおうか。熱いからちょうどいいだろ」

 

 ディーノが牛乳を注いでいるあいだにと、利奈は携帯電話で時間を確認した。そろそろロマーリオが戻ってくるとして、ディーノが帰ったら見回りの報告をまとめなければならない。

 

(今日が終われば、またみんな学校に来れるのかな……。獄寺君は一回入院したほうがよさそうな格好だったけど)

 

 ここ最近姿を見ていないのは、武と綱吉の二人だけだ。武の怪我の具合は隼人から聞いているし、綱吉も修行で学校に来ていないものの、勝負に参加していないから大丈夫だろう。指輪を取られた時点で出場権はなくなっているような気もするけれど、一番弱そうな綱吉が戦わずにすんだのは幸運だった。

 

(……そういえば、引き分けってあるのかな。ヒバリさんが負けるとか絶対ないけど、また変な条件の勝負だったら引き分けになっちゃう可能性も少しは……)

 

 ディーノに尋ねてみるべきだろうか。いやいや、さっき勝つと信じてますアピールをしたのに、ここで引き分けの話を出してしまったら格好付かない。恭弥が勝って試合終了、それでいい。

 

 さて、そろそろ牛乳を入れたコーヒーの感想をとカップを覗いた利奈は、中の液体の色が黒なままなのを見て、目をしばたいた。

 牛乳を注ぐ音がしているのになぜ――と身を引いた利奈は、次の瞬間、瞬きすらできなくなってしまった。

 

(零れてる! しかもなんかカメに全部かかっちゃってる! え、このカメはどっから!?)

 

 糸のように細く伸びた牛乳は、コーヒーカップのわきをすり抜けて、どこからともなく現れたカメの甲羅にビシャビシャと降り注いでいる。

 ディーノはというと、牛乳パックを傾けたまま、ぼんやりと空を見上げていた。憂いを帯びた横顔は見た人の心を虜にする美しさだったものの、いかんせん、状況がシュール過ぎた。

 

「ディーノさん! 手元手元!」

「え? ……あ、うわ! エンツィオ!?」

 

 利奈の呼びかけで、ようやくディーノは自分がしでかしていることに気付き、声を張り上げた。動転のあまり手のひらを開いたせいで、牛乳パックが下に落ちてしまう。

 

「立って! 立って、ディーノさん! 服濡れちゃいますから!」

「お、おおう、悪い」

 

 服を汚しては一大事と、いち早く立ち上がった利奈が腕を引っ張れば、動揺したままディーノも立ち上がる。その拍子にカップが倒れ、先に水たまりを作っていた牛乳と混ざり合い、カフェオレが完成した。

 カメはというと、ディーノが落とした牛乳パックを頭から被ってしまい、窮屈そうにじたばたと体を動かしている。

 

「このカメ、なんですか? ディーノさんの?」

「ああ、俺のペットのエンツィオだ。いや、それより早く――」

「ひい!?」

 

 視界を塞がれて混乱しているのか、カメが勢いよく動き出した。手のひら大のカメが足元で暴れるものだから、利奈は大慌てでディーノの背後に避難する。

 

「エンツィオ、落ち着け! 今それ取ってやるから!」

 

 牛乳パックを取ろうとディーノが手を伸ばすものの、視界を塞がれたカメはジグザグと出鱈目に逃げ惑う。

 

(……あれ、なんか、さっきより大きくなってない?)

 

 最初に見たとき、牛乳が上から注がれていた時には、利奈の手のひらに収まる大きさのカメだったはずだ。それがディーノの手のひらくらいの大きさになって、今では手を広げたくらいの大きさになっている。しかも、どんどん動きが荒くなっている。

 

「ディーノさん、そのカメ、なんか変じゃ――」

「よし、捕まえた! ――ううおっ」

 

 飛びかかるようにしてカメをひっつかんだディーノだったが、捕獲した場所が悪かった。先ほど自分が零した牛乳に足を滑らせて、ディーノの体が後ろへと倒れ込む。

 

「ぐあっ!」

「ディーノさん!?」

 

 派手にしりもちをついたディーノの手から、エンツィオが勢いよくすっぽ抜けた。

 

(た、大変だ!)

 

 カメには甲羅があるけれど、コンクリートに叩きつけられて無事でいられる保証はない。こうなったら爬虫類が苦手なんて言ってられず、利奈は頑張ってエンツィオを受け止めた。

 

「や、やった!」

 

 しかし、今度は両手を広げたくらいの大きさに変わっていた。そんなエンツィオの顔を間近に見た瞬間、ぶわっと鳥肌が広がり、利奈の忍耐は呆気なく限界を迎える。

 

「ひいい……! ディーノ、ディーノさ、早く! 早く取って! 取ってえぇぇ……!」

 

 なけなしの根性でなんとか落とさずにいられているものの、逃げ出そうと身をよじるエンツィオに腰が引けてしまう。しかも、首をひねって利奈の指を噛もうとしているのだからたまらない。

 一刻も早く飼い主に引き渡したいところだが、ディーノとは微妙に距離が開いていた。

 

「落ち着け! 落ち着いて地面に――」

「いやああ! 噛む! 噛もうとしてる! ディーノさぁん!」

「くっ、わかった、もういい! 利奈、こっちに投げろ!」

「う、はい」

 

 もうこうなったら自棄である。それでもなんとか優しく放り投げると、ディーノが鞭を取り出した。

 

「せっ!」

 

 掛け声とともに勢い良く伸びた鞭が、エンツィオの甲羅に巻き付いた。そして勢いを殺すために反対側へとしなり――そのまま柵の向こうへと飛んでいく。

 

「エンツィオー!?」

 

(またすっぽ抜けた!? 嘘でしょ!?)

 

 叫びながら手を伸ばすディーノだが、エンツィオははるか上空を飛んでおり、ディーノの手は届かない。

 学校の屋上から落ちてしまったらさすがに助からないだろうと、これから起こる悲劇に目をつむりたくなった利奈だったが、そこは幸運が味方をしてくれた。

 

 放物線を描いて飛んで行ったエンツィオ――また大きくなっている――は、そのままなんの抵抗もなく落ちていき、水の溜まっていたプールへと着水した。

 

(せ、セーフ? 助かった?)

 

 水の中に落ちたのなら、無事でいてくれているかもしれない。身を乗り出してエンツィオを見つけようとする利奈とは対照的に、ディーノは大きく体を仰け反らせた。

 

「こ、これは大変なことになったぞ……!」

「ディーノさん!?」

 

 青ざめながら屋上を出ていくディーノ。ついていく前にまずは安否をと、なお目を凝らした利奈だったが、プールに浮かぶ黒点を見つけ、安堵の息をついた。

 

(よかった、動いてる。……んん?)

 

 黒点が、みるみる大きくなっていく。目を凝らしてやっと見える程度の大きさだったはずの黒点、もといエンツィオが、じわじわと水の中で面積を増していた。

 

(……幻? 勘違い? でもなんか、どんどんおっきくなって――)

 

 エンツィオの顔が水面に浮かぶ。プールが水槽のように見えてきたけれど、屋上との距離を考えれば、それがどれほど異常なことかわかるだろう。実際、利奈は悲鳴を上げた。

 

(と、とにかくディーノさんに――ううん、まずは報告! ヒバリさんに報告!)

 

 ここにきてようやく緊急事態であると判断した利奈は、手すりで反動をつけて勢いよく飛び出した。一足遅れて戻ってきたロマーリオが、血相を変えた利奈の姿に目を見開く。

 

「どうした、そんなに慌てて」

「はな、話はあとで! プール! プール見てください!」

「はあ?」

 

 走り去る利奈を見送りながら、ロマーリオは首をひねる。なにはともあれボスに事情をと見渡しても、屋上で待っているはずのディーノの姿はどこにもない。

 

「なんなんだ、いったい……。プールって、プールになにが――」

 

 その十秒後、ロマーリオは驚きの叫び声をあげるのだが――その叫びを聞く者は、どこにもいなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

控えめな救世主

 転がるように階段を駆け下りて、ノックもせずに応接室のドアを横に押しのける。侵入者じみた音に恭弥が不快そうに眉をひそめたが、しかし、そんなことはどうでもいい。

 

「しつっ、失礼します! ディーノさんはカメで、プールが落っこちて大変で、だから来てください! 早く!」

「もう一回言って」

「ええっとえっと、カメがおっきくなった!」

 

 簡潔に伝えようとしたあまり、中身がなくなった。それでも、利奈の尋常ではない様子で緊急性のあるものと判断したのか、恭弥は問答をあきらめて立ち上がる。――校庭での叫び声がわずかに耳に届いていたのも、要因のひとつではあったのだろうが。

 

 かくして、恭弥を引っ張り出すことには成功したものの、自分が目にしてきたものの現実味のなさに、内心ではひそかに不安が渦巻いていた。

 なんたって、手のひらサイズだったカメが、まるでプールのほうが小さくなったかのように、急速に巨大化していったのだ。ディーノが仕掛けた手の込んだ悪戯なのではと、疑心暗鬼に陥っても無理はない。――もっともそんな現実逃避も、校庭での騒ぎで、いやでも現実に引き戻されたのだが。

 

「ま、また大きくなってる……!」

 

 もはやエンツィオの大きさは、動物の域を超えて恐竜レベルになっていた。プールの横幅に収まりきらなくなったのか、水面から体が半分はみだしている。湯船に浸かっているような恰好は、大きさが大きさだったら愛嬌を感じられただろうけれど、大きさが大きさだけにそんなゆとりもなかった。

 

「なにあれ、怪獣!?」

「ねえ、あれこっちに来るんじゃ――」

「お前ら、早く逃げろ! そこの馬鹿、近づくんじゃない!」

 

 突如出現した巨大生物に、学校はパニックに陥っていた。校庭の生徒は散り散りになってしまっているし、校舎の生徒は窓から身を乗り出してあれはなんだと騒ぎたてている。

 先生たちは生徒を誘導しようとしているけれど、みんなエンツィオが本当に本物なのかを気にしていて、避難ははかどっていない。

 

「避難訓練を徹底したほうがよさそうだね、一度」

 

 校庭の様子を見て、恭弥が呟く。

 この状況を想定した避難訓練は実用性がないのではと思うけれど、今まさに有事だったので、口には出さなかった。

 

 それにしても、あのエンツィオを目の当たりにしておいて、よく校庭のほうに意識を持っていけるものだ。今回くらいはさすがに驚くだろうと思っていたのに。

 

「あの、そろそろあっちに行きません? 私は行きたくないですけど、なんとかしないと学校がめちゃくちゃに……」

 

 プールには柵があるけれど、あの大きさなら簡単に乗り越えられてしまうだろう。放課後とはいえ、学校内には部活動をしている生徒が多く残っていて、とても危険な状況だ。エンツィオが動き出して学校を滅茶苦茶にする前に、なんとか動きを封じないと。

 

「それは飼い主がなんとかするんじゃない? あそこにいるみたいだし」

「え、どこに……? あ、ああ! いた!」

 

 上ばっかり見ていたから、エンツィオの足元にいるディーノにまるで気付かなかった。

 いや、気付けなかったのは、今まで彼がプールの中に沈んでいたからだろう。遠目でもコートがびしょ濡れになっているのがわかる。エンツィオに水の中に引き込まれたのか、それともプールサイドで足を滑らせたのか。――後者の可能性が高いのが残念だ。

 

 さらに周りを見てみたら、騒ぎを聞きつけたディーノの部下たちが、続々とプールのそばに集合していた。柵越しに様子を窺っている彼らの中には、屋上に置いてきたはずのロマーリオの姿もある。どうやら、恭弥を呼びに行っているあいだに追い抜かれていたようだ。

 駆け寄ると、ロマーリオは苦虫を噛み潰した顔で利奈を見下ろした。

 

「来ちまったか。危ないから離れてたほうがいいぞ」

「ロマーリオさんだって」

 

 ディーノの部下たちは、だれ一人として避難しようとしていない。それどころか、臆することなく、ずぶ濡れのディーノを囃したてている。

 

「……わりとこういうことあるんですか?」

 

 じっとりとした視線を向けると、ロマーリオはさらに苦々しい顔で目を逸らした。どうやら、一度や二度ではないらしい。どうりでみんな、慣れたような顔をしているわけだ。

 

「お前ら!」

 

 上から降ってきた声に顔を上げると、髪から水を滴らせているディーノが、鞭でエンツィオの足を指し示した。

 

「今からこれを巻き付けてそっちに投げるから、思いっきり引っ張ってくれ! とにかく水から出したい!」

「オッケー、ボス!」

「任せとけ!」

「引きずりこまれて水に沈むなよー、ボス!」

「うるせー!」

 

 彼らはワイワイと緊張感なく、しかし一糸乱れぬ動きで一列に並び出した。先頭のロマーリオがオッケーサインを出すと、ディーノはすかさず鞭をしならせた。

 水面からわずかに出ている後ろ足を縛り上げて、ディーノがこちら側に鞭を放る。それをロマーリオが受け取り、部下たち全員が力を込めて後ろに引っ張っていく。

 

(……大きなカブ?)

 

 うんとこしょ、どっこいしょ、みたいな掛け声がかかっていればまさしく童話そのものだったけれど、この場に響いているのは怒号のような雄叫びだ。黒服の男たちが鞭を引っ張っているという絵面もなかなかにシュールで、気迫に呑まれていなかったら笑い転げていたかもしれない。

 そして、それでもカメは――とはならず、片足を取られたエンツィオは、ものの見事にひっくり返った。甲羅が水面に打ち付けられ、水しぶきが飛んでくる。

 

「やりましたね!」

 

 歓声をあげてみるも、恭弥はまったくもって無表情である。

 

「それで、このカメはどうしてくれるの?」

「あ、聞いてきます!」

 

 ひっくり返ったものの、エンツィオが動きを止めるわけでもなく、むしろ、起き上がろうとしてジタバタと足を動かしている。そのせいで、ディーノの部下たちはいまだに鞭から手を離せていない。

 

「ディーノさん!」

「おお、利奈か! 危ないから離れてたほうがいいぞ」

「それ、さっきやりました! それより、そのカメは――」

「ああ、お前は見たことなかったか。

 こいつは俺のペットのエンツィオ。スポンジスッポンって種類で、水を吸うと巨大化して狂暴になるんだ」

「スッポン? カメじゃなくて? 巨大化――って、いくらなんでも大きくなりすぎじゃないですか!? おかしくないです!?」

「んー、まあそうなんだが。でも、あのリボーンがくれたカメだからな。なにがあっても不思議じゃねえよ」

「……えー」

 

 ディーノはとくに疑問を抱いていないようだけど、リボーンが関わっていれば、なにがあっても不思議ではないという理屈はどうなのだろうか。最近理科の授業で習ったばかりの、質量保存の法則が早くも覆されている気がする。

 

「えっと、じゃあこのカメはどうしたら小さくなるんですか? ヒバリさんが早く片付けろって言ってたんですけど」

「あー……」

 

 気まずそうに頭を掻くディーノに、利奈はいやな予感を覚えた。ひょっとして、完全に乾くまではこの大きさのままなのだろうか。

 

「いや、乾いたぶんだけ縮んでいく。でも、この空模様じゃな……」

 

 ディーノにつられて空を仰ぐ。太陽にはうっすらと雲がかかっていて、日差しの恩恵はあまり期待できそうにない。雨でないだけマシといった程度の空模様だ。

 

「時間、かかります?」

 

 プールの水を抜けば巨大化は収まるだろうけど、縮めるにはエンツィオの体を乾かす必要がある。こんな大きな生物、学校中のタオルを搔き集めて拭ったところで、焼け石に水だろう。

 

「せめておとなしくさせねえとな。このままじゃ、俺の部下が持たない」

 

 いまだにエンツィオが暴れ続けているから、ディーノの部下たちは躍起になって踏んばっている。下手したら、支点になっている柵が引っこ抜かれてしまいそうだ。

 

「なら、動かないようにすればいいんだね」

 

 後ろから聞こえた声に振り向くと、いつのまにか後ろにいた恭弥が、物騒な目をエンツィオに向けていた。聞き慣れた展開音を辿れば、見慣れたトンファー。

 

(……この人、エンツィオを殺す気だ!)

 

 ディーノも利奈と同じ感想を抱いたらしい。柵越しにアワアワと首を振っている。

 

「恭弥、落ち着け! こいつは俺の相棒なんだよ! だから、わかるよな?」

「風紀を乱すなら関係ない」

「落ち着け! 話せばわかる!」

「ワオ、あの亀喋るの?」

「そうじゃねえよ!」

 

 このままでは埒が明かない。ほかに解決法も見つからないし、多少乱暴でも、恭弥の力を借りてエンツィオをおとなしくさせるしかないのではないだろうか。エンツィオにはかわいそうだけど。

 どっちつかずに狼狽たえる利奈だったが、視界の端をよぎった白い欠片に目を瞠る。

 

(……え?)

 

 まさかと思い、勢いよく空を仰ぐと、天上から同じものが大量に降り注いできていた。

 

「雪? なんで、この季節に――」

 

 独り言とともに吐き出した息が、白く染まっていた。それを目にした途端、足元からとてつもない寒気が這いあがってくる。利奈は即座に腕を組んで身を震わせた。

 ディーノと部下たちも、突然の天候の変化に戸惑っている。ずぶ濡れだったディーノなんて、わかりやすく歯を打ち鳴らしていた。

 

「な、なんなんだ、いったい。どど、どうしてこんないきなり寒く……」

「ボス、風邪引くぞ! 服を脱げ!」

「いや、そんなことより見ろ! ボスのカメが動かなくなったぞ!」

 

 部下の言う通り、エンツィオの動きが緩慢になってきた。雪も水分のはずなのに、体の大きさは変わっていない。

 

「な、なんで? 死んじゃった?」

「寒さで動かなくなっただけでしょ。前に見たときも、同じように動かなくなってた」

「前にも!?」

 

 恭弥は以前にも巻き込まれたことがあったらしい。どうりで、エンツィオを見て平然としていられたわけだ。

 

(あれ、でもディーノさんとはこの前初めて会ったみたいなリアクションを……んん?)

 

 とにもかくにも、エンツィオが動かなくなったのなら、恭弥の出番は必要ない。

 つまらなそうな顔でトンファーをしまった恭弥に、ディーノと一緒に胸を撫でおろす。暴れん坊のカメ相手でも、動物虐待は気が進まなかったところだ。

 

「にしても、なんで突然雪なんて降りだしたんだ? 雨すら降りそうになかったのに」

「わかんないですけど、おとなしくなってよかったです。これで一件――」

「いったいどういうことなんだ、これは!」

 

 落ちが着かなかった。

 カメが動かなくなってようやく近づく気になったのか、運動部顧問の先生が揃ってやってきたのだ。彼らはエンツィオに怯み、黒服集団に怯み、それから雲雀恭弥に怯みながらも、一番害がないと判断したのか、ディーノに詰め寄った。

 

(一番駄目なとこ行った!)

 

 ディーノは黒服集団のボスなので、その選択は大間違いである。見た目は一般人と同じだから、先生たちが標的に選ぶのも無理はなかったけれど。

 

「貴方、いったいなんなんですか! 学校にこんな大きな生き物を持ち込むなんて!」

「そもそも、部外者がなんで校内に!」

 

 鼻息荒く詰め寄る先生たち。柵で隔たられてはいるものの、ディーノは冷や汗をかいていた。

 

「あ、ああ、悪い。これにはちょっと事情があって――」

「事情!? 事情ってなんだよ!」

「貴方のやってることは犯罪ですよ! だれか、警察に通報を――」

「ま、待ってくれ! 恭弥、なんとかしてくれ!」

「……」

「ヒバリさん、めんどくさがらないであげてください。騒ぎになっちゃいます」

「もうなってるよ」

 

 今や学校に残った全生徒、および職員の注目の的である。エンツィオがおとなしくなったことで、生徒たちの声が鮮明に聞こえてきて、頭が痛い。このままだと、もっと面倒なことになりそうだ。

 

「……どうしよう。なんとかならないかな、これ」

 

 ぽつりと弱音を吐いた、その時。

 

「任せて」

 

 だれもいないはずの右隣から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 

「え……?」

 

 隣を確認する。だれもいない――いなかったのに、空間を縫って一人の警察官が姿を現した。

 

「教職員の皆さん!」

 

 警官が声を張った。すると、ディーノに詰め寄り、逆に黒服集団に囲まれてタジタジになっていた教師陣の視線が集まる。ほかの一同も。

 利奈はというと、なにもなかった空間から人が出てきた驚きで、腰を抜かしてしまった。

 

「大変お騒がせして申し訳ございません!

 じつはこのカメは、密輸入された絶滅危惧種のカメで、たったいま、そちらにいらっしゃる動物学者の先生の協力のもと、捕獲したところであります!」

 

(……はい?)

 

 おそらく、この場にいただれもが首をひねっていただろう。

 その間隙を縫って警官は教師陣に歩み寄り、すらすらと淀みなく、しかしどこにも真実の含まれていない虚言で彼らを説得してみせた。

 

(なに? この人なんなの?)

 

 ディーノたち一行も、どういうことだと目配せしあっている。しかし、警官のおかげで事なきを得たのは事実だ。警官の言葉を信じて頭を下げる教師陣を前に、密輸を追っていた国際組織の人風に胸を張ってみせる。意外と様になっていた。

 

「……利奈、あいつがだれか知ってるか?」

 

 やっとこちら側に回ってきたディーノが、へたりこんだままの利奈を引っ張り上げてくれた。

 

「いえ。……でも」

「でも?」

 

(さっきの声は……うん、間違いない)

 

 警官の出した指示で、校庭から人はいなくなっている。校舎からこちらを見ている人影もまばらになってきているし、もうだれも警官に注目はしていないだろう。

 だから利奈は、知り合いとは似ても似つかない後ろ姿に、遠慮がちに呼びかける。

 

「……クローム?」

「……」

 

 振り返った彼――いや、彼女は、控えめに視線を合わせてきた。

 

「……うん、私」

 

 警官が女の子になったことで、周囲からどよめきが溢れた。さすがの恭弥にもこれには驚いたのか、わずかに体を強張らせている。

 

 かくいう利奈も、ひそかに驚嘆していた。

 マーモンが同じような幻術を使っていたからもしやとは思ったものの、いまいち実感できていなかったのだ。なるほど、あのときはこんな感じになっていたらしい。

 

「どうして、ここに?」

「利奈に顔見せてきなさいって、骸様が……。昨日の試合を気にして、様子を見に来たら大変だからって」

「クロームが戦ってたの!?」

 

 どうやら、策士策におぼれたようだ。気安く訪ねてこられたら厄介だからと気を回したのだろうが、先回りしてしまっている。霧の守護者がクロームだったなんて、利奈はまったく知らなかったのに。

 

「学校に来たら、騒ぎになってて。利奈がいるのがわかったから、ここまで来たの。

 それで、あのカメをおとなしくさせたいって言ってたから、幻覚で雪を作って――」

「え、あれもクローム!?」

 

 そういえば、雪もやんでいるし寒さも感じない。エンツィオが眠っているから、もう幻覚は必要ないと判断したのだろう。

 

「利奈が、困ってたみたいだから。……迷惑、だった?」

 

 瞳を揺らすクロームにブンブンと首を振った利奈は、勢いあまって飛びついた。

 

「っ!?」

「ありがとー! ほんっとに助かったよ、どうしようかと思ってたの! ありがとう、クローム!」

「う、うん……」

 

 きっとクロームは困った顔をしているだろう。それでも、この感情を伝えきるにはこれしかないと、抱き着きながら飛び跳ねる。

 ふと視線を感じたと思ったら、恭弥がなんともいえない顔でこちらを見ていた。喉の奥で音が鳴る。

 

(うっ、怒られる!)

 

 いや、そもそも恭弥はクロームを知っているのだろうか。知らなかったとしても、クローム自身が骸の名前を出したのだから、ごまかしようがないのだけれども。

 

「その子、誰?」

 

 声はまだ、普通だった。感情を押し殺しての声なのかは判断しかねたものの、すぐさま手をあげることはないだろう。いや、なにもしていないうえに、窮地を救ってくれたはずのクロームに手をあげるつもりなら、身を挺してでも庇い立てするつもりだけど。

 

「……友達です」

 

 だから、なにかするつもりなら私を倒してからにしてもらいますと、身を離しながら牽制の眼差しを送る。

 恭弥はそれを意に介さないまま、クロームにも問いかけた。

 

「今の、全部君がやったの?」

「……ええ」

 

 ややかしこまった態度で、クロームが答える。すると、恭弥は小さく息を吐き出した。

 その場に緊張が走ったが、恭弥は足を踏み出さなかった。

 

「……助かったよ。茶番じみた馬鹿騒ぎにイライラしていたところなんだ」

 

(おおっ……! あのヒバリさんがお礼言った!)

 

 どうやら、骸の関係者であるという点よりも、騒ぎを治めた功労者という点のほうが勝ったらしい。恭弥が人にお礼を言うのは非常に珍しいことなのだけど、それを知らないクロームは控えめに頭を下げるだけだった。

 

「それじゃ、溜まってる仕事があるから僕は行くよ。相沢、後処理はよろしく」

「はい!」

「悪かったな、恭弥! 今度、埋め合わせするから!」

「……楽しみにしておくよ」

 

(あっ、ディーノさんが言質取られてる)

 

 修行が終わっても、戦いは続きそうだ。

 

 そのあと、利奈は恭弥の指示に従い、ディーノたちとともに事の後始末に尽力した。

 亀の甲羅干しを全力で手伝う日が来るとは思わなかったけれど、これはこれで貴重な体験ができたと考えるしかない。この一件のせいで爬虫類がより一層苦手になったのだけど、それはもはや、どうしようもないことだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章:風紀委員長、助けに参りました
傍観者ではいられない


 走り続けた。ただただ走り続けた。

 痛みから逃れるように、恐怖から逃れるために、必死になって走り続けた。

 

 ――全部が全部夢だったなら、どんなによかっただろう。死闘を繰り広げる彼らに当てられただけの、ただの悪夢だったなら、どんなに。

 

 それでも、走るしかなかった。

 夢の中での出来事だったとしても、できることなんてなにもなかったとしても、それでも、見捨てるという選択肢を選ぶことはできなかったから。

 

 なにも選べない人間だったら、最初からこんな場所には立っていなかっただろう。

 だから、最後のそのときまで選び続ける。――たとえ、だれにも望まれない結末が待っていたとしても。

 

 

________

 

 

 携帯電話の着信音で目が覚めた。寝落ちする直前まで見ていた雑誌には、くっきりと折り目がついている。頬を撫でれば、同じように線の跡が残っていた。

 

(……あーあ、寝ちゃった。寝るつもりなかったのに)

 

 食後にゴロゴロしていたらこのありさまである。だらしない体たらくはさておいて、着信画面を確認する。

 最近、電話帳にパスワードを設定することを覚えたので、風紀委員の電話番号と名前は全員分登録してある。そのなかの一人の名前であることを寝転がったまま確認してから、通話ボタンを押した。

 

「はい」

『相沢利奈ですか?』

 

(……んー?)

 

 想像していたものよりもずっと高い声が聞こえ、利奈は首を傾げた。

 中学生どころか、小学生みたいな声だ。声変わりをとうに終えた仲間たちの声とは似ても似つかない。

 

(弟、とか? でもそしたら私の名前なんて知るわけないし……なんだろう。それに、ほかの音が全然聞こえない)

 

 質問に答えられずにいた利奈は、電話越しに伝わってくる静寂にまたもや違和感を覚えた。

 風の音がしているから、外にいるのはわかる。しかしほかの人の気配がまったくしないのだ。時計を確認するが、時刻はもう夜の十時を回っている。そんな夜遅くに小学生が一人で外にいるなんて、どう考えても尋常ではない。そして、そんな利奈の予想は見事に的中した。

 

『相沢利奈ですよね? 違うのならば、ほかのお仲間の電話をまた拝借しますが、よろしいですか?』

「ええ……!?」

 

 声に似合わない言葉遣いに脅迫され、思わず飛び起きる。その反応で利奈本人だとわかったのか、電話口から苛立ったようなため息が聞こえてきた。

 

『あいにく駆け引きをする時間がないので、単刀直入に話を進めさせてもらいますね。僕は六道骸です』

「骸さん!?」

 

 これ以上驚かされたらベッドから落ちかねない。利奈はベッドから立ち上がった。

 

『はい。君に火急で頼みたい用件があったので、少々無理を』

「本当に骸さんですか? なんか声が――」

『時間がないと言ったはずです。いいですか、この電話を粉々に砕かれたくなければ、すぐに外に出てきてください。家人には見つからないように』

「……」

 

 この情け容赦なさは骸に違いない。声が違っても、この抑揚のつけ方は骸のものだ。

 

『ついでにそちらの住所を教えてください。黙りこむのは勝手ですけど、どうせ千種と犬に聞けばわかることですから、隠しても無駄ですよ』

 

 もはや脅迫の嵐である。

 もってまわって勿体ぶった普段の様子と大きくかけ離れた性急さに疑問が膨らむものの、利奈は自宅の住所を告げた。

 

『では、通学路を歩いて学校に向かってください。僕も合流します』

「学校……? 学校って、今ヒバリさんが戦ってる学校に!?」

 

 時計を見てみるも、まだ十一時前だ。昨日と同じ時間に試合があるのなら、これから試合が始まるところだろう。そんなところに骸と一緒に行ったりなんかしたら――考えるだけで恐ろしい。

 

「無茶言わないでくださいよ! そんなことしたらどうなるか――だいたい、なんでそんなこと!」

『ええ、僕もできれば彼らに協力なんてしたくはありませんよ。ですが、クロームの命がかかっているとなれば、話は別です』

「……クロームの?」

『説明は会ってからします。報酬も君が望む金額を用意します。とにかく急いでください、手遅れになるかもしれない』

「……」

『では、またのちほど。……言っておきますが、今回の試合は守護者全員の命がかかっています。もちろん、雲雀恭弥もね』

「っ!」

 

 電話を切られた。言いたい放題言われて放心しそうになるけれど、そんな暇もないのだろう。考えるのはあとにして、利奈は制服に手を伸ばした。罠だろうがなんだろうが、恭弥の命を盾にされてはどうしようもない。

 

(……今ならまだ、ヒバリさんに電話できるかもしれないけど)

 

 恭弥の場合、骸の名前を聞いただけで試合を放り出してしまう可能性があった。この最終決戦で戦力を削らせるわけにもいかないし、連絡は控えるべきだろう。骸が狙ってこの時間にかけたのかはわからないけれど、だれかに助けを求める時間はなかった。

 

(それに、クロームの命がかかってるって言ってた)

 

 利奈を誘い出すための出まかせでなければ、骸がリング争奪戦にかかわろうとする最大の理由になるだろう。仲間の命がかかっていれば多少強引な手にもなるし、なにがなんでも助けようと思うはずだ。――今の利奈と同じように。

 

 身支度を整えた利奈は、両親に見つからないように注意を払って家を抜け出す。指示通り通学路を早足で歩いていると、自転車のベルが聞こえた。振り返ると、自転車を漕いでいた小学生が地面に足をつけた。

 

「話が早くて助かります」

「……骸、さん?」

「はい」

 

 疑問形になったけれど、骸だろうとは思っていた。電話の声の持ち主だろうということは、その見た目でわかっていたのだから。

 

(よくわかんないけど、骸さんが幻術で子供になってるって思っておこう。うん、不思議なことはだいたい幻術)

 

 でないと、いちいち驚かなければならなくなってしまう。

 そうとう頑張って自転車を漕いできたのか、小さな額には汗が浮かんでいた。住所を聞いてから、急いでこちらに向かってきたのだろう。無駄話をしている余裕はなさそうだ。

 

「それで、なんで学校に? 今日は最後の戦いですよね、今度こそ」

「ええ。真の最終決戦、大空戦の日ですよ」

 

 ――昨日の雲戦は雲雀恭弥の勝利だった。

 にもかかわらずもう一戦行われる件について、詳しい事情は聞いていない。ディーノは学校に来なかったし、こちらから結果を聞く前に勝敗を教えてくれた恭弥も、本日の最終決戦に呼ばれているという旨だけ告げて、あとは黙り込んでしまった。

 

 詳細を聞かずとも、なにかとても気に障る方法で延長戦を申し込まれたであろうことは、恭弥のふてくされた顔で見当がついた。おおかた、恭弥の行いにケチをつけて無理やり引き分けにしたとか、そんなところだろう。さすが暗殺部隊、やり方が汚い。

 

「そんなところに行ってどうするんですか? そもそも骸さんは人前には――あっ、だからその恰好」

「ええ。僕はあの場所から肉体を出すことを禁止されているので、苦肉の策で。精神までは縛られてませんでしたから」

「はー」

 

 骸だからこそ使える屁理屈である。とすると、身体は本当に男の子のものなのだろうか。となると他人の身体を勝手に使っているわけで犯罪の匂いしかしないものの、突っ込むのも野暮だ。今日のところは気付かなかったふりをしておこう。

 

「それで、いったいなにを?」

「まだ詳細がわかってないのでなんとも。ただ、チェルベッロの動向を観察していた限りでは、守護者全員の命を危険に晒すルールを適用しようとしているようでしたから。ようするに、君は保険ですね」

「保険」

「守護者全員分の腕時計が用意されていて、そのなかには致死性の高い猛毒。そして学校のいたるところに設置されたポール。上には解毒剤を乗せるのにちょうどよい受け皿。どう考えても、ただの総力戦とは思えないでしょう?」

「……いっちばん滅茶苦茶なルールになりそうですね!」

 

(そもそも毒ってなに!? マフィアのボス候補とその幹部候補に毒を仕掛けるってなにがしたいの!? チェルベッロ、本当はボンゴレ潰すつもりなんじゃないの!?)

 

 血で血を洗い、それでも立ち上がっているものだけがボンゴレファミリーにふさわしいとでもいうのだろうか。ヴァリアーはともかく、綱吉たちはまだ中学生なのに。利奈は早足で歩くのをやめて、小走りに駆け出した。

 

「おや、助けに行くつもりでいるんですね。てっきり臆して逃げ出すかと思ってました」

「そしたら記憶奪うって脅すんでしょ? それか体を操るか」

「……」

「図星なんだ!?」

 

 どうせ拒否権は用意されていないのだから恐ろしい。恭弥とは違うタイプで脅威な存在だ。

 

「それに、ヒバリさんとかみんなの命がかかってるんなら――まあ、手伝えることは手伝いますよ。クロームだって、私の友達だし。昨日もすごく助かったし」

「……そうですか」

「学校、もうすぐです」

「では裏門へ。正門はポールが設置されているので目立ちます」

「了解!」

 

 住宅街はいたって静かなままだ。またあのなんでもありな幻術のおかげなのか、それともまだ試合が始まっていないのか。こんな時間に外を走ったことなんてないから、なんだか夢のなかにいるような心持ちだ。

 

「……すみません、少し集中します」

 

 そう言って骸が視線を下げる。通行人はいないから、多少前方に注意を払わなくても、危険はないだろう。

 速度が緩まったので、息が上がってきた利奈はこれ幸いと早足に戻した。

 

「……どうやら、おおむね想像通りのようです」

 

 骸が顔をしかめた。

 

「今、神経を麻痺させる毒薬が守護者に投与されました。三十分後には死に至る劇薬が」

「三十分!?」

 

 携帯電話で時間を確認する。時刻は十一時ちょっと過ぎなので、このままでは日付が変わる前にみんな絶命してしまう。

 

「解毒するにはリングを時計に嵌める必要があるみたいです。なるほど、だからポールを用意したわけですね」

「ま、まさかその上に指輪を……?」

「ええ」

「いやいやいや……」

 

 指輪は指に嵌めるものだと思ってたのだけど、海外では違うのだろうか。

 

「毒を投与された守護者がリングを取れるとは思えませんから、彼らの命はボスに握られたということですね」

「ボスって……」

 

(沢田君次第ってこと?)

 

 頼りない綱吉の顔が浮かび、血の気が引いた。追い打ちをかけるように骸が続ける。

 

「彼は彼でXANXAS、敵側のボスと戦わなければならないので、すぐには動けないでしょう。片手間に倒せるほど、ヴァリアーのボスは安くない」

「えっとえっと、じゃあ、私はどうすれば? まさか、戦ってるところに行けってわけじゃないでしょう……?」

 

 言いながらも語尾が震えた。なぜなら、それが目的で呼ばれたのだとわかってしまったからだ。

 

「もちろん、骸さんも一緒ですよね?」

「いえ、僕は校内に入れません。ほかにやることもありますし、なにしろこの姿ですから」

「嘘でしょ!?」

 

 遠回しに死ねと言っているのだろうか、この人は。

 骸が操っている体はなんの関係もない男の子の身体だから、危険に晒すわけにはいかないことはわかる。でもだからって、一人で戦地に乗りこめなど、受け入れられるわけがない。

 

「無理ですよ! だって、あっちの人たちもいるんでしょう!? そんなところに私が行ったってなんにもならないし、こ、殺されちゃうかもしれないじゃないですか!」

 

 守護者ではないとはいえ、利奈は綱吉たちの級友であり、恭弥の手先だ。戦場で彼らが見逃してくれるとは思えない。

 

「落ち着いてください。毒で苦しんでいるのは敵も同じです。それに、君は運がいい」

 

 そう言って骸がパーカーのポケットから小さな物体を取り出した。暗いからはっきりとは見えないけれど、手のひらサイズの黒い物体だ。

 

「……爆弾のスイッチかなにかですか?」

「いえ、爆弾そのものです」

 

 叫ばなかった自分を褒めたい。裏門で叫んだりなんかしたら、関係者に気付かれかねない。

 

「君のするべきことはひとつだけ。これを校庭のポールに仕掛け、爆破するだけです」

「だ、だからそんなの――」

「それで、雲雀恭弥の命が助かります」

 

 その言葉に、利奈は彷徨わせていた視線を骸の瞳へと向けた。そして、少年の目の色が骸と同じオッドアイになっていることに、遅まきながら気がついた。

 

「ひ、ヒバリさん? ヒバリさん、校庭にいるんですか?」

 

 校庭と言ったら、フェンスを挟んだすぐ向かい側だ。すぐに目を凝らすけれど、やはり術が施されているようで、ここからはポールどころか恭弥の姿も見えない。

 

「なかに入れば君でも見えると思いますよ。

 沢田綱吉たちは反対側にいるようなので、今なら戦闘には巻き込まれずに済むでしょう。さいわい、向こう側の雲の守護者はもう存在しないので、解毒を妨害されることもありません」

 

 畳みかけるように骸は利点を述べる。それなら自分でも出来そうだと、利奈が考えるのを見計らってだ。

 

「欲を出せばクロームの解毒もお願いしたいところですが……相手側の守護者も術師ですからね。惑わされて敵側の守護者を助けかねませんし、そこはほかの守護者に期待しましょう。お人好しな彼らなら、クロームの命を見捨てたりはしないでしょうから」

「……信じるんですね。敵だったのに」

「クフフ、今も敵ですよ」

 

 それでも骸は、彼らがクロームを見捨てはしないと信じているのだ。自由になった恭弥が、彼らを放ってはおかないということも。

 骸にとって、これは賭けなのだろう。本来なら、真っ先にクローム救出を頼まれてもいいところだ。しかし骸は、利奈の最低限の安全も考えて、一番難易度の低い恭弥救出の指示を出した。

 

 爆弾を渡そうとしてくる骸に、利奈は恐る恐る手を差し出した。思っていたよりも軽いけれど、それがかえって恐ろしい。

 

「ここから見張ってはおきますが、すぐに指示を出せるように電話をつないでおきましょう。念のため、爆弾の起動操作も僕がやります」

「……はい」

「雲雀恭弥を救出したあとは、すぐに校内から脱出してください。チェルベッロが取り押さえに来るかもしれませんが、おとなしくしていれば命までは取られないでしょう」

「……今さらですけど、これって反則になりませんか? 前みたいに負けになっちゃうんじゃ……」

「君はボンゴレの関係者じゃありませんから。偶然学校に入ったら雲雀恭弥を見つけ、事情を知らぬまま助けてしまったと言えば、なんとかなるでしょう」

 

(爆弾を偶然持ってる女子中学生がどこにいるんだろう……)

 

「心配しなくても、雌雄が決するまでXANXASは戦闘をやめませんよ。リング争奪戦などあくまで建前で、自分が継承者にふさわしいと誇示できればそれでいいんですから」

「……」

 

 どうしてそこまでしてマフィアのボスになりたがるのだろう。そんなに焦って手に入れなければならないものなのだろうか。

 

(こんな馬鹿みたいなことやる人がボスになるくらいなら、弱くても沢田君がボスになったほうがいいに決まってる。うちもたいてい無茶苦茶してる人だけど、人の命を弄んだりはしないもん)

 

 強者が上に立つのは当然の理だけど、それだけでは組織は立ち行かない。暴力で手に入れた玉座に意味はないのだと、綱吉がXANXASに示せれば。

 

(負けないで、沢田君。――私も頑張ってみるから)

 

 もはや一秒たりとも無駄にできない。吐き出しそうになる息を吸って、利奈は学校への一歩を踏み出した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

挫かれた出端

 裏門から足を踏み入れたとき、それは起こった。

 キィンと耳の奥で響く耳鳴りとともに視界が歪んで、利奈は体をふらつかせた。

 

(なに、これ……)

 

 前にも味わったことがある感覚だ。ただし以前と違うのは、歪んだ視界が元に戻ると同時に、やけに五感が鮮明になったところだろう。今までが異常だったのだと言わんばかりに、利奈の五感に劇的な変化が起こった。

 

 まず、匂い。空気の匂いがまるで違う。ひりつくような焦げた匂いに肌が粟立つ。

 次に衝突音。鮮明ではないけれど、どこか遠くで壁の崩れる音がした。

 そして目に映っていた光景。校庭にはポールが、校舎裏には幾人かの人影が出現した。一瞬前には、なにもだれも存在しなかったというのに。

 

『圧倒されてる場合ではありませんよ』

 

 耳元から聞こえた声にハッとした。骸の言うとおり、ここで立ち止まっている時間はない。事態は一刻を争うのだ。

 

『幻術で貴方の姿は彼らから見えないようにしてあります。この身体ではあまり力が使えないので、さっさと校庭に向かってください』

「はいっ」

 

 骸の指示に従って校庭へと走る。夜なのにやたら明るく感じると思ったら、校舎の屋上にモニターが設置されていた。

 映っているのはなんの変哲もない校舎の外観だけど、衝突音はまだ続いている。音の響き方からして、校内ではなさそうだ。中庭か、校舎を挟んでさらに奥、体育館のほうで戦っているのだろう。気にはなるけれど、今はただ無事を祈ることしかできない。

 

 ぼんやりと見えるポールを目印に走っていた利奈だったが、近づくにつれて鮮明になってきた光景に、戸惑いを隠せなくなった。念のためにと足を止めて目を凝らしてみるも、やはり目の前のものは変わらない。携帯電話を握る腕に力がこもる。

 

「あの……、骸さん? 私の目がおかしくなかったら、なんか――ヒバリさん、動いてるみたいなんですけど」

 

 毒に苦しんで倒れ伏していると思っていた恭弥が立ち上がっている。

 それだけでも十分驚きだったのに、恭弥は現在、ポールを破壊するためにトンファーを振るっていた。

 

『ええ、僕の目にもそう見えてますよ。

 ……デスヒーターは、大型動物ですら行動不能にする劇物だったはずなのですが』

 

 骸にとっても想定外だったようで、歯切れの悪い返事が返ってくる。

 投与された量が少なかったのか、その毒に耐性があったのか、それともまったく違う理由で動けるようになったのか。よく見れば動きに精彩はないし、足元もだいぶふらついている。しかし、強烈な打撃音がその威力を物語っていた。この調子なら、じきにポールも破壊されるだろう。

 

(……私、いらなかったんじゃ?)

 

 手のなかの爆弾に目を落とす。こんなものなくても、恭弥は自分で指輪を手に入れられそうだ。そもそも、恭弥を助けようなんて考え自体がおこがましかったのかもしれない。だれかの助けが必要になる人ではないと、風紀委員なら一番に理解していたはずなのに。

 

「……どうします? 戻ります?」

『……いえ、とりあえず彼を手伝ってください。一秒でも早いほうがいいですから』

 

 なんだか気まずい雰囲気になってきた。早ければ早いほうがいいに決まっているけれど、骸の言葉には利奈へのフォローも入っているような気がした。こんな夜中に連れ出しておいて、やっぱり必要なくなりましたなんて、口にできるわけがないだろう。

 気乗りはしないものの、利奈は恭弥との距離を詰めた。

 

 ポールは真ん中に一本、三角錐の形に三本の合計四本の柱で構成されていて、すでに二本が恭弥の手によって破壊されている。

 三本目、真ん中の柱に手をつけようとしていた恭弥だが、利奈に気がついて腕を止めた。

 

「……こ、こんばんは?」

 

 据わった眼をする恭弥に臆しそうになりながらも、利奈は片手を上げる。

 言いたいことがいろいろあるのか、恭弥はすぐには口を開かなかった。利奈が逆の立場だったとしても、どうしてここに来たのかと責めたてていただろう。しかし恭弥は小さく嘆息し――

 

「下校時間、もう過ぎてるよ」

 

 そう呟くだけに留めた。

 

 おそらく、余裕はほとんどないのだろう。なんでもないように表情を装ってはいるものの、額からは大粒の汗が滑り落ちているし、呼吸も荒い。暗くてはっきりとは識別できないけれど、なんとなく頬が上気しているようにも感じられた。

 それに、普段の恭弥なら、ここまで接近しなくても存在を感知できていたはずだ。こんな、あと数歩で届くような距離まで近づかせるような真似、するわけがない。

 

(やっぱり毒が効いてるんだ……。早くしないと)

 

 恭弥でこれなら、ほかのみんなはもっと苦しんでいるだろう。毒の回り方にも個人差があるだろうし、急がなければみんなの命が危ない。

 ポールの柱はあと二本。爆弾を使えば、すぐにでもポールを倒せるかもしれない。

 

(でもこれ、爆弾使わなくてもなんとかなりそう)

 

 外側二本の柱がへし折られていて、真ん中の柱もかなり歪んでいる。二本の柱を二人掛かりで揺すれば、上の台に乗ったリングを簡単に落とせるかもしれない。

 

「ヒバリさん、二人で柱を押してみましょう! せーので一緒に――」

 

 利奈の提案を一考もせずに、恭弥は無傷だった柱にトンファーを振り下ろした。金属製のポールが細かく振動する音が耳に木霊する。

 

(……えー)

 

 いっそ清々しさを感じてしまうくらい、きれいに意見を無視された。毒のせいで余裕がなくなっているのか、ただたんに、他人の意見に聞く耳を持たないだけなのか。後者の確率が高いところが空しい。

 

(いいもん、私も勝手にやるから)

 

 なにもするなと命じられていないのをいいことに、利奈は両手でポールを押してみた。高さが仇になっているのか、ちょっと体重をかけただけでポールの上部が揺れた。これならなんとかなりそうだ。

 

(よし、あとはヒバリさんとタイミングを合わせて――ていやあ! ……いったあ!)

 

 振り上げた足で、ポールを思い切り踏みつけた。足の裏から伝わるジンとした痺れに飛び跳ねながらも、利奈はポールを見上げる。

 二点から衝撃を与えられたポールの頂点は大きくぐらついて、円形の台座から、銀色の欠片が零れ落ちた。

 

「っ、ヒバリさん! 落ちました!」

 

 なおもポールに攻撃を繰り出す恭弥を止めて、利奈は転がった指輪を拾う。これを恭弥のリストバンドに装着すれば、毒を打ち消せるはずだ。

 

「失礼します」

 

 有無を言わさずに恭弥の腕を取った利奈だったが、シャツ越しに伝わってくる熱の高さに驚いた。軽く握っているだけなのに、脈拍まで感じてしまう。

 恭弥は抵抗する力もないのか、されるがまま、浅い呼吸を繰り返す。

 

(ここに指輪を嵌めればいいんだよね)

 

 リストバンドには液晶画面がついていた。夜空を映した画面の下に、指輪のヘッド部分と同じ形の溝がある。そこに拾った指輪を押し当てると、いやな音とともにリストバンドが振動した。解毒剤が撃ちこまれたのだろう。

 

「どうですか、ヒバリさん」

 

 まず、手を振り払われた。かなり失礼な態度ではあるものの、利奈も許可を取らずに腕を掴んだので文句は言わない。

 

「あの、体調は?」

 

 恭弥は返事もせずに額の汗を服の袖でぬぐう。どうしても質問に答えたくないようだ。頬の赤みは消えているから、解毒は成功しているのだろう。ひとまずこれで一安心だ。

 

(えっと、あとはヒバリさんに任せて私は帰ればいいんだよね。そうだ、念のためにヒバリさんにクロームの居場所を――っきゃあ!)

 

 利奈の思考は銃声に引き裂かれた。続けざまに響いたもう一発の銃声に身をすくませる利奈だったが、かたわらの恭弥は一切身構えずに屋上のモニターを見上げている。利奈も頭を両手で押さえながら、目だけをそちらに動かした。

 

(あ、やっと人が映った)

 

 屋上のモニターには、見覚えのない男の全身が映されていた。毒に苦しんでいる様子もないし、彼がヴァリアーのボスであり今回の戦いの仕掛け人、XANXUSなのだろう。傷跡だらけのその顔は前方を見据えていて、その両手には一丁ずつ拳銃が握られていた。

 

(銃使うの!? しかもふたつ!?)

 

 手にしている武器に意外性はまるでない。むしろ、マフィアの武器として真っ先に連想されるのは銃だろう。しかしここは日本で、しかも、深夜とはいえ市街地である。聞きつけた住民が駆けつけてきたら、いったいどう始末をつけるつもりなのだろう。

 

(じゃなくて! さっきの銃声、まさか!)

 

 画面に綱吉は映らない。血の気が引きそうになるけれど、XANXUSの視線が一点に固定されているということは、その先に綱吉の姿があるのだろう。XANXUSの目に勝利の色は映っていないし、きっとまだ無事でいてくれているはずだ。

 それに綱吉も、さすがに素手で戦ったりはしていないだろう。おそらく、XANXUSと同じように銃かなにかを武器に使っているに違いない。でなければ、一瞬で勝負がついているはずだ。

 

「……って、あれ? あ、ヒバリさん!」

 

 モニターに釘付けになっていたら、いつのまにか恭弥は校舎に向かって歩き出していた。毒の効果は完全に消え失せたようで、足取りはまっすぐ安定している。

 

(えっと……見送って大丈夫、だよね? 私、このまま帰っていいよね?)

 

 放っておいても恭弥は相手の守護者を倒してくれるだろうし、ほかのみんなも救出してくれるだろう。唯一の懸念は守護者の救出より先にXANXUSに勝負を仕掛けかねないところだったが、そこは恭弥の良心――ではなく、愛校心を信じるしかない。校内で死者を出したりなんかしたら、学校の評判はガタ落ちだ。

 

(私が行ってもどうせ人質にされるだけだし。骸さんの指示通り、みんなに任せて早く帰ろう)

 

 そう判断して踵を返した利奈だったが、手に残っていた小物の存在を思い出して、悲鳴をあげた。あろうことか、守護者の証である指輪を恭弥に渡し忘れてしまっていたのだ。

 

(ああ、もう馬鹿! これ持ってたら私も狙われるのに!)

 

 今ならまだ、恭弥がだれかに接触する前に追いつけるだろう。利奈は大急ぎで恭弥のあとを追った。

 

 ――もしこのとき、リングを返すのを諦めて校外に出ていたら、利奈と彼らのその後はまったく違うものになっていただろう。少なくとも、利奈の今夜分の災難は終わっていたはずだ。

 

 とはいえ、どちらにしろ大差はなかったのかもしれない。今夜の出来事がどうなろうと、迎える未来は――絶望は、変えることができないのだから。

 

「ヒバリさん!」

 

 恭弥の背に呼びかけたところで、上空から発砲音が聞こえてきた。

 ギョッとして見上げた先にわずかに見えたのは、宙を浮く人影。しかし、利奈の注意はすぐさま他所へと向いてしまう。

 

 XANXUSが撃ったのは、屋上のポールだったのだ。

 塔のようにそびえたっていたポールが倒壊し、地震のように地面が揺れる。屋上と、それからなぜか校舎の三階から煙があがり、利奈は大慌てで恭弥のもとへと駆け寄った。

 

「なにしに来たの」

「あ、その――」

「やっぱりいい。ちょっと黙ってて」

「はあ!?」

 

(聞いたのヒバリさんなのに!)

 

 さすがに理不尽が過ぎると今度こそ文句を言おうとした利奈だったが、トンファーを構える恭弥に、キュッと唇を引き結んだ。

 

 そして、利奈は一部始終を目撃した。

 三階から飛び降りる人影を。音もなく距離を詰めて襲いかかった恭弥の背中を。恭弥が弾いた指輪が三階へと吸いこまれていくさまを。

 

「君……天才なんだって?」

 

 敵を見下ろす恭弥の表情は見なくてもわかる。張りつめた緊張感のなか、利奈は行き場を失った指輪をぎゅっと拳に握りしめた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

切り裂かれた絆

R-15タグを追加しました。


 三階から飛び降りてきたのは、ヴァリアー嵐の守護者、ベルだった。

 恭弥と同様に解毒済みのようで、その表情に陰りはない。しかし、恭弥越しに利奈を見るその顔には、疑問の色がありありと浮かんでいた。

 

「お前、なんでここにいんの?」

「うっ」

 

 ベルの指摘はもっともだった。ファミリーの継承権を賭けたこの総力戦に参加していいのは、ボス候補者とその守護者のみ。ファミリーに所属していない利奈には、出場権どころか見学権すら与えられていなかっただろう。

 本当は関係者に見つからないうちに退散する予定だったけれど、想定外なところからベルが現れたために、逃げ遅れてしまった。まさか、上から降ってくるとは。

 

(よりによってベルに見つかるなんて……)

 

 はっきりいって、一番遭遇したくなかった相手である。

 ほかのヴァリアー守護者に見つかったのなら、巻き込まれた一般生徒を演じることができた。マーモンだったとしても、見逃してくれる可能性があった。しかし、ベルは駄目だ。交渉が決裂する未来しか見えない。

 

(最悪……)

 

 もっとも、だれに遭遇したところで結果は同じなのだが、それは当事者である利奈にわかるはずもなかった。

 

 ――そう、現在の状況は、観戦席のモニター、および、睨み合う綱吉たちの眼前のモニターにしっかりと放映されている。

 綱吉陣営の人間は一般人の利奈が混ざっていることに驚き、第三者に興味のないXANXUSはベルと対峙する恭弥を睨み、チェルベッロ陣営はいつのまにか這入していた第三者の存在に動転していた。事情を知る者が一人もいないために、動揺の輪は広がるだけ広がって、戻らない。

 

 自身が話題の渦中にいることなど露知らぬまま、利奈はベルから目を逸らす。そんな利奈の態度からなにかしら後ろめたさを感じ取ったのか、ベルは口元に笑みを張りつけた。

 

「へえ、なんかありそうじゃん。そこんとこ詳しく――おっと」

 

 さりげなく距離を詰めようとしたベルに、恭弥が片腕を上げた。利奈も拒絶の意味をこめて恭弥の陰に顔を隠す。

 

「そんなに警戒しなくていいって。俺、別に戦うつもりないし」

 

 警戒をあらわにする二人に、ベルはおどけた様子で両手を上げた。

 

「任務だからリングは集めるけど、まずは仲間の解毒が先だからさ。そっちだってそうだろ? それに、ハンデ抱えて俺に勝とうとか、無謀も甚だしいし」

 

 ハンデという言葉に、利奈はぎゅっと拳を握り締めた。手のひらの指輪が熱を持つ。

 

(むかつくけど、ベルの言うとおりだ……。私がいたら邪魔になる)

 

 ベルの実力を目にしたことはないけれど、利奈の存在が恭弥に味方する可能性は限りなくゼロに近い。いや、皆無と言い切っていい。間違いなく足手まといだ。

 

(見逃してくれるって言うんなら、それに越したことないけど……でも)

 

「……それが僕から逃げるための言い訳かい? 案外弱気なんだね」

 

 恭弥がそんな提案に乗るはずもなかった。むしろ挑発する始末である。

 

「強がんなよ、エース君。足怪我してんのバレバレだし」

「君だってそうだろ? あの松葉杖が君の武器だっていうのなら、話はべつだけど。拾いに行くの、待っててあげよっか?」

「……うっざ。なあ、お前も黙ってないでなんか言えよ」

 

 とりあえず、部外者の利奈にも発言権は与えてくれるらしい。

 恭弥を説得してほしいのだろうが、あいにく、それは不可能だ。その申し出を受けるくらいなら、彼は自分の手でお荷物の利奈を屠るだろう。そういう人間だ。それがわかっているからこそ、利奈は天を仰いだ。

 

 もちろん、お手上げの合図ではない。喋っていいと言われたから、声を出させてもらうだけだ。遠慮なく。全力で。

 

「獄寺くーん!」

 

 声を張り上げた途端にベルがギョッと身じろいだが、もう遅い。盾にされている恭弥も利奈の行動に眉をしかめはしたが、無言のまま、諦観のため息をついた。

 

「そっちに指輪いったー! 落ちてるから、早く使ってー!」

 

 ベルの対戦相手が隼人だったことは知っている。今もなお、三階にいるであろうことも。

 せっかく恭弥がうまく指輪を弾いてくれたのに、気付かれずに間に合いませんでしたでは笑えない。どうせのちのちバレるのならと、利奈は盛大に隼人に呼びかけた。

 

(ふう、これでよしっ。……あー)

 

 満足した利奈は、急激に下がった場の温度と、自分に向けられた殺気の鋭さに目を丸くした。そして口元に手を当てる。惚けた顔で、わざとらしく。

 

「あ、ごめん。うるさかった?」

 

 殺気が増した。しかし、それがなんだというのだろう。そんなもの、敵からも味方からもさんざん浴びせられてきたのだ。今さら怯む動機にはならない。

 

「……さあ、そろそろ始めようか」

 

 茶番はここまでとばかりに恭弥がトンファーを構えると、ベルは俯きながら肩を震わせた。小刻みな震えは堪えきれない笑みのようで、彼の底知れない不気味さをより助長する。

 

「あーあ、せっかく見逃してやろうと思ったのに。――なんて、最初から全然思ってなかったけど」

「え」

「だろうね」

 

 ベルの手元からナイフが現れる。一本、二本、三本――。

 

「え? ……うええ!?」

「曲芸でもするつもりかい?」

 

 ――五本、十本、五十本、百本。

 

 どこからともなく現れたナイフたちは、ベルの手から離れ、空中で二重の円を描く。寸分のずれもなく回っているナイフは、時計に刻まれているメモリのようで、まるで手品だ。思わず魅入ってしまった利奈だが、先日の話を思い出し、ハッと叫ぶ。

 

「ワイヤー! ヒバリさん、ワイヤーです!」

 

 隼人はワイヤーナイフで重傷を負ったと言っていた。つまり、今ナイフが宙を飛んでいるように見えているのは、見えないワイヤーで操られているからに違いない。

 今度こそベルは苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをした。

 

「先にネタバラシしてんじゃねえよ。お前、マジでウザい、なっ!」

 

 最後の一音とともに、ベルの周りを取り巻いていたナイフが一斉に放射される。ナイフによる波状攻撃を、恭弥は難なくトンファーで弾き飛ばした。

 

(ひっ! ……怖っ)

 

 放たれたナイフは、恭弥に弾かれた箇所だけ空白を空けて、校舎の壁に突き刺さった。

 恭弥の背後にいる利奈には当たらなかったものの、手を伸ばせば届く距離にナイフが刺さっているのを目にして、平然としていられるわけがない。ナイフはコンクリートに深々と刺さっている。

 

 そして、戦闘前にベルが言っていたとおり、利奈は恭弥の足を引っ張っていた。

 飛び道具を使うベルから利奈を庇いながら戦うには、つねに背後に利奈がいる状態にしておくか、相手の注意を絶えず引いておく必要があり、それが恭弥の動きに制限をかける。ベルもそれを見越して、利奈を射程に入れた攻撃を繰り返し、恭弥はそれを弾くために余計体力を削られている。

 このまま長期戦に持ち込まれたら、こちらが不利だ。恭弥が猛攻を繰り広げているあいだに、物陰に隠れるしかない。

 

(タイミング見計らって……うん、今! って、わっ!)

 

 逃げ出そうとした体が、見えないなにかに弾き飛ばされた。そのまま後ろに転倒してしまう。

 

「なに、これ……」

 

 手のひらが切れて血が滲んでいる。そして、見上げた虚空に、一本の赤い線が見えた。

 利奈の血で浮かび上がったその線の先にあるのは、先ほどから投げ続けられているベルのナイフ。ナイフの持ち手の先端には、ワイヤーを通すための穴が開いている。

 

(ま、まさか、刺さってるナイフ全部に――)

 

 身動きも取れないまま戦慄する利奈と、只事ではない利奈の様子に注意をひかれる恭弥。その間隙を見逃すベルではなかった。

 

「隙あり!」

 

 それはどちらに投げかけられた言葉だったのか。

 言葉のあとを追うようにして投げられたナイフは、二人の体を容赦なく切り裂いた。

 

「あ゛あっ!」

「っ」

 

 利奈に向けて投げられた三本のナイフ。一本は恭弥に弾き飛ばされ、一本は恭弥の肩を裂き、残りの一本が利奈の左腕に突き刺さった。

 

「い、あ、ううっ……」

 

 傷口から血が滴り落ちていく。腕に刺さったナイフが、小刻みに揺れている。

 ドクドクと脈打つ自分の心音は、同じように血を滴らせる恭弥を目にした瞬間、より一層強く早鐘を打った。

 

(やだ……やだやだやだ!)

 

 耳鳴りがする。震える唇からは、なにも紡げない。

 

「へえ、やるじゃん。今のでどっちか殺せると思ったのに。でも、どっちも深手負ったみたいだし、結果オーライ的な? やっぱ王子は一味違うわ」

 

 ベルの声が頭に響く。自分のせいで恭弥が深手を負ったという事実が脳を侵し、ガタガタと体が震えた。

 

(わ、私が追いかけたから……指輪を返してたら、こんなことにならなかったのに)

 

 自分のせいでという罪の意識が、いとも簡単に利奈の心をへし折った。怯えきった顔で涙を流す利奈に気をよくするベルとは対照的に、恭弥は据わった目でベルを睨みつけた。

 

「よく喋るね。勝ってもいないのに」

 

 恭弥がトンファーを握り直す。肩に怪我を負ったにもかかわらず、その構えに隙はない。

 

「だってこれ、実質王子の勝ちじゃん? その女見殺しにするつもりで来るんならべつだけど、そしたらそいつは確実に殺すよ?」

「……っ!」

 

 人質に取られている。かつてないほど追い詰められたこの状況で。

 それがあまりにも惨めで、いっそ見捨ててほしいと言いたいけど言えなくて、利奈は唇を噛みしめた。

 

「おっ、あっちも派手にやってるみたいじゃん」

 

 屋上では、派手な爆発音が鳴り響いていた。しかし、そちらを気にかける余裕はない。

 

「相沢」

 

 恭弥の呼びかけに利奈は応えられなかった。嗚咽を堪えるだけで精いっぱいだった。そんな利奈には構わずに、恭弥は続ける。

 

「校舎B棟に生徒がいる。君はそっちに行って」

 

 いつもどおりの声で、いつもどおりに命令が下される。だから利奈は、いつもどおりに頷いた。

 

「……了解っ、しました」

 

 ――たとえ、不可能だとわかっていても。

 

「ししっ、ウケんだけど。俺がそいつ逃がすわけないじゃん」

 

 状況は依然、絶望的だ。二人とも怪我を負っているし、周囲にはワイヤーが張り巡らされている。障害物がないこの場所で、ベルから逃げきれるはずがない。しかし恭弥は微笑みを浮かべながら言い放つ。

 

「それは僕のセリフだよ」

「っ!?」

 

 空から大量に物が降ってきた。その物体の形状がそれぞれの目に入る前に爆発が始まり、瞬時に周囲一帯が煙に包まれた。

 

(何事!?)

 

 もはやだれの姿も見えなくなったなか、聞き覚えのある声が最後に降ってくる。

 

「借りは返したぞ、お前ら!」

 

 隼人の声だ。どうやら解毒が終わったらしいが、煙のせいで姿は確認できない。視界を覆うのは灰色の闇だけだ。

 

(今のうちに逃げないと……。あ、もしかして)

 

 気力を振り絞って立ち上がった利奈は、壁に刺さったナイフの束に手を伸ばした。思ったとおり、爆発の影響で切れたらしく、ワイヤーは緩んでいる。

 

「相沢! まっすぐだ、そのまま走れ!」

 

 全体が見えているであろう隼人の声に、利奈は勢いよく走り出した。

 

「させるかよ」

 

 利奈の足音を拾い、ベルが行く手にワイヤーナイフを放つが――

 

「させないよ」

 

 ベルの位置を音だけで正確につかみ取った恭弥が、煙の中から躍り出た。

 

「やべっ」

 

 不意を突く恭弥の奇襲に反応しきれず、ナイフを持った右腕がトンファーで弾かれる。手のなかに残っていたナイフは音を立てて地面に落ちた。

 

「逃がさないよ」

 

 離れる隙を与えずに猛攻を繰り広げる恭弥。それを音声だけで感じながら、利奈は行く手を邪魔するワイヤーに向けて、腕を振るった。

 

(よし、いける!)

 

 ワイヤーが切れた手応えを感じながら利奈は走る。

 最後の最後で利奈を助けたのは、皮肉にも、ベルに与えられた血塗れのナイフだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

共犯者失格

 そこからは走って走ってひた走った。

 足を止めずに走りきれたのは、立ち止まったら終わりだという強迫観念のおかげだろう。ひたすらに足を動かしているうちに、B棟まで辿りつけた。

 

(っ、ヒバリさんは……)

 

 息を切らしたまま、来た道を振り返る。

 ただでさえ暗いのに煙まで立ちこめているせいで、二人の姿は肉眼ではまったく捉えきれない。しかしモニターには恭弥の姿が捉えられていて、トンファーから玉鎖を展開させている場面が確認できた。どうやら、戦える状態ではあるようだ。隼人もいつのまにか屋上に移動している。

 結末を見届けたいけれど、生徒を救出しろと命令を受けている以上、グズグズしてはいられない。後ろ髪を引かれながらも利奈はモニターから視線を剥がした。

 

 校舎B棟の窓や出入り口は、なぜか厳重に封鎖されていた。

 窓は強化ガラスのようなもので覆われているし、ドアには金属製の板が打ち付けられている。どちらも頑丈なボルトで固定されていて、絶対に開けさせないという強い意志を感じた。一か所だけ板が打ち付けられていないドアが残されていたものの、こんなに差し迫った状況でなかったら、開けるのを躊躇していただろう。

 

 全力疾走したせいか出血のせいか、体がとても重たい。フラフラする体を気合で制しながら腕を伸ばした利奈は、視界に入った自分の手のひらに顔を歪めた。

 

(うえっ、気持ちわるっ!)

 

 二の腕の傷口を押さえ続けていた右手は、手のひら全体が真っ赤に染まりきっていた。これではまるで、殺人犯の手のひらである。

 

(……これ、ヤバいのかな。ヒバリさんにボコボコにされた人もたくさん血出てたりするし、意外と大丈夫だったり……?)

 

 鼻血と刺し傷では緊急性がまるで違うのだが、頭に霞がかかっているので、利奈はその点にまで思考が回らない。刺さった瞬間と抜いた瞬間が強烈に痛かったのもあって、痛みの感覚も麻痺していた。冷たい唇を引き結びながら、ドアを開ける。

 

(そういえば、だれがいるか聞いてなかったな……。クロームは体育館で、獄寺君じゃないから、山本君? ヴァリアーは、だれがいるのかな……)

 

 彷徨う校舎B棟は、内装も大きく様変わりしていた。

 簡単に言うと、一階層分まるごと内壁が取り払われていて、おまけに天井の大部分が吹き抜けになっていた。重傷を負っていなければ、三度見ぐらいして反応していただろうが、今は瓦礫に躓かないよう気をつけるので精いっぱいだった。

 

(いた! 山本君!)

 

 見晴らしがよくなっていたおかげで、倒れた武を見つけるのは容易だった。

 小走りで駆け寄った利奈は武の目前で膝をついたが、毒に苦しむ武は利奈に気付くことなく歯を食いしばっている。額には汗の粒がいくつも噴き出していた。

 

「山本君! 山本君、大丈夫!?」

「……ッ、あ?」

 

 武の目がわずかに開く。もう一回呼びかけると、武は汗まみれになった顔をゆっくりと上に向けた。

 

「……あい、ざわ? なんで、こんなとこに……っ」

 

 声を出すのもつらいのか、武はそれだけ言って、痛みをこらえるために拳を強く握り締めた。グズグズしている暇はなさそうだ。

 

「待っててね、すぐにリング持ってくるから!」

 

 しかし、ここにひとつ問題が生じた。

 屋内だからポールも低くなっているだろうと思っていたのに、吹き抜けになった空間を活かすようにして、屋外とまったく同じ高さのポールが設置されていたのだ。まさか、このために天井をぶち破ったのだろうか。

 

 一瞬途方に暮れそうになった利奈だったが、ポケットにしまいっぱなしにしていた二つの箱を思い出す。

 

(そうだ、プラスチック爆弾――と、ケータイ! 通話してたのに忘れてた!)

 

 恭弥の強靭な精神力の前にお役御免になった爆弾と、途中から気にかける余裕がなくなった携帯電話。気まずさを感じながら携帯電話を開くと、電話はちゃんと通話状態のままになっていた。それがかえって後ろめたさを膨らませる。

 

「……あの、聞こえますか?」

 

 恐る恐る問いかけてみる。今ほど、電話口の相手の顔が見えなくてありがたいと思ったことはない。

 返事は即座に返ってきた。

 

『聞こえてますよ。いつになったら合図が来るのかと、ずっと待ちわびていました』

 

 声の温度が冷たすぎる。不釣り合いな子供の声で、不気味さまで演出されている。

 

「アハハ……ちょっといろいろありまして。お待たせ、しました……?」

『ええ、本当に。いっそ勝手に爆弾を起動させてなにもかも吹き飛ばしたほうが早いのではとも考えましたが、今でも遅くないですかね』

「ごめんなさい! 申し訳ございません!」

 

 やはりごまかすのは得策でないようで、利奈は全力で謝罪した。

 さっさと戻って来いという指示を破ってのこの惨事だ。見放されても文句は言えないけれど、見捨てられては困る。

 

『まあ、経緯はだいたい把握してますし、今回は大目に見ておきましょう。それで、今はどこに?』

「B棟です。なかに同級生がいて」

『雨の守護者ですね。なるほど、それで彼を救うために爆弾を使いたいと』

「そうです。お願いします!」

 

 理解が早くて助かる。

 爆弾は恭弥を助けるために用意されたものだけど、それも必要なくなった今、ほかの人のために使ったとしても文句はないだろう。クローム救出だって、人手が多いに越したことはない。

 

『ところで、腕の怪我はどうなってるんですか? 手当は?』

 

 どうやら、腕にナイフが刺さった場面も目撃されていたようだ。

 

「まだできてないです。でも、先に山本君どうにかしないと」

『では、雨の守護者を解毒したらすぐに応急処置をするように。やり方はわかりますか?』

「はい、慣れてます」

『頼もしいですね。わかっているとは思いますが、ナイフを抜いたりなんかしないでくださいよ』

 

 付け足された言葉に、利奈はピシリと固まった。件のナイフは、ほとんど動かせなくなってしまった左手に収まっている。そして、利奈のわずかな動揺を骸は見逃さなかった。

 

『……は? まさか、もう抜いてしまったあとですか?』

 

 含みのない声に素で驚愕されているとわかり、見えてもいないのに利奈は首を振った。

 

「ち、違うんです! うっかり抜いたんじゃなくて、仕方なくて!」

『そこまで愚かだったとは……。出血多量で死にたいんですか、君は』

「ちがっ、仕方なかったんです! 誤解です!」

 

 ナイフを抜いたのは爆発があったあとだから、肉眼で見ていた骸には事の次第が伝わっていないのだろう。そのままにしておくべきなのは重々承知していたけれど、ベルが張ったワイヤーに迅速に対処するためには、このナイフがどうしても必要だったのだ。躊躇していたら、また恭弥の足を引っ張るところだったのだから。

 

『まあ、無益な言い合いはやめましょう。時間が惜しい』

「……はい、そうですね」

 

 絶対に誤解されたままだけど、くだらない諍いを続ける余裕はない。毒に侵されている武がそばにいるのだから、なおさらだ。

 

(えっと、まずケータイをスピーカーにして――)

 

 左手が使えないから、携帯電話を持ったままだと作業ができない。汚さないようにするのは早い段階で諦めたので、拇印を押すようにスピーカーボタンを押した。

 骸の指示に従って爆弾をポールに取り付ける。失敗して自分たちのいるほうに倒れたら一大事なので、何度も確認して慎重に作業を行った。

 

「えっ!? もう切るって、なんでですか!?」

 

 骸の発言に利奈は狼狽えた。爆弾を爆発させたら電話を切ると骸が言い出したのだ。

 恭弥と別行動になってしまったこの状況で放り出されるなんて。

 

『現場にいない僕にできることはありませんから。君の存在が全陣営に知られてしまった以上、その戦いが終わるまで校外に出るのは不可能だ」

「そんな……」

『だからさっさと出てくるようにと言ったのに』

 

 そう言われては、ぐうの音も出ない。指示に反して恭弥を追いかけたのは利奈なのだから。

 

『それに、僕が貴方の行動にかかわっていたことを、ボンゴレ側に知られるわけにはいかないので。あくまで貴方は、偶然戦いに巻き込まれたことにしておかなければ』

「……あの、ずっと思ってたんですけど。その設定、無理ないです……?」

『君が自白しなければどうにでもなります。自白されたとしても僕はしらを切りますが』

「うえー……?」

 

 ようは自分の保身のためのようだ。利己的な理由のほうが納得しやすいとはいえ、人を無理やり戦場に送りこんでおいて、ずいぶんな言い草である。

 とはいえ、武たちの前で堂々と骸と連絡を取るわけにもいかないし、充電残量にも限りがある。遅かれ早かれ、骸との通信は切られる定めにあったのだろう。

 

(それなら、なおさらヒバリさんのところに急がなくちゃ。ヒバリさんといればなんとかなりそう――って、ヒバリさんと一緒にいたから、こんなになったんだった……)

 

 いまだ血が止まらない左腕。恭弥も手傷を負っている。負傷したときの場面を思い出すと胸が強く痛むけれど、今は過去を振り返っている場合ではない。

 

「わかりました、とにかく頑張ります」

『その意気です。当面はボンゴレ側の人間と行動してください。彼らといれば、とりあえずの安全は保障されます』

「わかりました。クロームも、絶対助けます」

『お願いしますよ。では、ご武運を』

 

 間を置かずに、爆弾が起動した。

 先ほどの爆発と比べれば規模が小さいが、ポールを破壊するには十分な威力だった。爆風で真ん中のポールもひしゃげ、台がゆっくりと傾いていく。校庭のときと同じように指輪が零れ落ち、利奈は倒れきるのを待たずに指輪を回収した。

 

「う、あっ……!」

「手、出して!」

 

 二回目の解毒を試みるべく声をかけるが、武は左腕を出そうとはしない。そのままだと指輪を嵌められないので、利奈は無理やり武の腕を引っ張りだした。

 

(すごい汗……)

 

 がっしりとした左腕は、強張っているうえに、ひどく熱を持っている。リストバンドに指輪を押しつけて、強く握りしめられた拳を両手で包む。

 

「すぐ、よくなるから……」

 

 恭弥のときと同様、効果はすぐに訪れた。

 固く結ばれた手のひらが緩み、強張った体から力が抜けていく。落ち着いてきた呼吸に合わせてゆっくりとまぶたが開き、武はやっと苦しみから解放された表情でまばたきを繰り返した。

 

「具合、どう?」

「……相沢、だよな」

「うん」

 

 武はゆっくりと体を起こす。利奈も握っていた手を離そうとしたのだけど、武の手の甲にできた赤い手形に、ギョッとして身を引いた。

 うっかり忘れていたが、右手も左手もいまだ止まらない出血のせいで赤く染まったままになっている。そんな手で触ったものだから、武の左手どころか、腕を引っ張り出すために掴んだ上着の左腕までがっつりと利奈の手形がついてしまっていた。これではまるでホラー映画だ。

 

「ご、ごめん、汚しちゃった! 拭く物……ああ、ティッシュしかない!」

「ん? ……うわっ、なんだこれ、血!?」

 

 武も手形を見て驚いたが、利奈の左腕の出血を目にして顔色を変える。上着の袖を躊躇うことなく引き裂いて、利奈の左腕を取った。

 

「……っ!」

「悪い、痛いよな。でも我慢してくれ」

 

 痛さのあまり涙目になる利奈に謝りつつも、武は手慣れた動きで布を縛りつけた。力をこめられるたびに激痛が走って、利奈は甲高い悲鳴を上げた。

 

「これ、ベルにやられたのか?」

 

 近くに転がっているナイフを視界に入れながら、武が問いかけてくる。聞いたことのないような真剣な声に、利奈はぎこちなく頷いた。

 

「ヒバリさんと一緒にいて……ベルと会っちゃって」

「そうか。ところで、なんで相沢がこんなところに?」

「それは……」

 

 もっともらし言い訳を考えるべく、一瞬思考を巡らせる。

 

「今日の戦いのこと知って……ヒバリさんが心配になって、来ちゃったの。そしたらこんなことに」

 

 間違ってはいない。間違ってはいないけれど、大事なところを端折りすぎて違う話になっている。

 しかしこの説明で納得したのか、武はそれ以上追求しようとはしなかった。なんで爆弾を持っているのかくらいは突っ込まれると思ったけれど、杞憂だったようだ。

 

(……もしかして、風紀委員なら爆弾持ってそうって思われてたり? それはそれで複雑だけど)

 

「それで、ヒバリは?」

「すぐそこ、校庭でベルと戦ってる。私は山本君を助けろってヒバリさんに言われて」

「そうか。じゃあ、ヒバリの助太刀に……っと」

「山本君!?」

 

 立ち上がろうとした武が、よろめいてへたりこむ。

 

「……はは、わりい。もうちょっと時間かかりそうだ」

「無理しないで。治ったらでいいから」

 

 まだ完全に回復したわけではないようだ。

 武の様子を見ていると、立って動いていた恭弥の超人度合いがより一層際立って感じられてくる。とても同じ毒を投与されていたとは思えないし、あの人はもう、人ではないのではないのだろうか。

 

(山本君をベルのところに連れて行くのはやめた方がいいよね。まだ辛そうだし……たぶん、目じゃないところも怪我してる)

 

 さっきまでは左半身しか見えていなかったら気付かなかったが、武は右目に眼帯をつけていた。長袖を着ているから判断できないけれど、雨戦でほかにも傷を負っているだろう。

 

(ヒバリさんは一人でも大丈夫。だから、ほかのみんなを助けにいこう)

 

 毒が全身に回るまで三十分。残り時間も半分を切っているし、今はとにかく時間が惜しい。とはいえ、深手を負った状態で、一人で校内を動き回るのは無謀である。もどかしいけれど、武が動けるようになるまで待たなければ。

 

「よし、もう大丈夫だ。行こう」

「え、もう?」

 

 まだ一分も経っていない。しかし武は、武器が入っていると思われる長い袋を支えにして、ゆっくりと立ち上がった。

 

「ほんとに平気? 待つよ?」

「時間がないからな。早くみんなを助けねえと……」

 

 どうやら、武も利奈と同じことを考えていたらしい。恭弥を助ける余裕がない以上、一刻も早く仲間を助けにいくべきだと判断するのは妥当である。

 

「獄寺君はもう大丈夫だよ、ヒバリさんが助けてくれたから」

「そうか」

 

 武がゆっくりと足を踏み出す。利奈も付き添うように右隣についた。

 

「俺もヒバリに助けられたようなもんだよな。相沢のおかげだけど」

「ヒバリさんのおかげだよ。あ、それで、獄寺君にも助けられたの。屋上から爆弾投げてくれて」

 

(そうだ、獄寺君もいたんだった。なら、もう決着ついてるかも)

 

 二対一なうえに、隼人は屋上にいるから安全に援護攻撃を行える。こちらに有利な陣形だ。

 

「屋上――ってことは、牛の小僧を助けたあとか。ならあとは、笹川先輩と霧の――」

「クロームだね」

「ああ。……ん? あいつ知ってるのか?」

「え、あ、うん! じつは友達で」

「そっか。ははっ、案外みんな繋がってんのな」

「あはは、そうだね」

 

 うっかり口を滑らせてしまったけれど、武が細かいことを気にしない性格で助かった。骸との関係はなんとしてもバレるわけにはいかない。話がややこしくなってしまう。

 

「んじゃ、開けるぜ」

 

 外を警戒しながら、武がゆっくりとドアを押し開ける。

 先ほどまで煙が立ち込めていた校庭には、今はただ、暗闇だけが広がっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

拳を握って

 白煙が収まった校庭に残っているのは、へし折られたポールと飛び散ったワイヤー、そして無数のナイフのみ。肝心の二人の姿はどこにもない。

 

「……いないみたいだな」

 

 周囲に警戒を払っていた武が、袋の口から手を離す。なかに入っているのはバットかと思いきや竹刀のようで、剣道の経験もあったのかと感心した。

 

「どっか行っちゃったみたいだね」

 

 勝敗はついていないだろう。恭弥が勝っていればベルの身体が転がっているだろうし、逆にベルが勝っていればナイフくらい回収していったはずだ。等間隔に並んだナイフはどれも鋭利で美しく、使い捨てるような代物には思えない。

 せっかくだからと、利奈は自分が持っている血に汚れたナイフを、散らばっているナイフの一本と交換した。どうせ持ち歩くのなら、きれいなほうがいい。

 

「場所を変えたか、どっちかが逃げたか――どちらにしろ、追いかけるのは得策じゃねえな。行こうぜ」

 

 竹刀の入った袋を背負い直した武に従い、了平がいるという校門へと向かう。

 クロームのいる体育館は校舎を挟んで反対側にあるので、校門で了平の解毒をしてからクロームを助けに行けば、無駄なく二人とも助けられる。だが問題は、ヴァリアー側の守護者だ。雲と雨はヴァリアー側の守護者が運よく不在だったものの、霧のマーモンはクロームと一緒にいるはずだ。それに、校門には晴の守護者がいるかもしれない。

 

「ねえ、笹川先輩のとこにはヴァリアーの人っているの?」

「ああ。ルッスーリアがいるはずだ」

「ルッスーリア……」

 

 聞いたことがあるような、ないような。利奈が顔を知っているヴァリアーメンバーでまだ会っていないのは、このあいだホテルで遭遇したレヴィだけである。消去法を使って考えれば彼は雷の守護者だろうが、屋上の隼人がこちらに加勢できた点を踏まえると、すでに行動不能に陥っている可能性が高い。  

 となると、今現在自由に動き回っているであろうベルは、ルッスーリアかマーモン、どちらかの救出に向かっているだろう。そしてまずいことに、ベルは利奈たちよりも早く動き出している。

 

(もしベルが獄寺君やヒバリさんよりも先に校門についてたら、仲間の解毒をして指輪を持ってっちゃうよね。そうなったら、笹川先輩の解毒ができなくなる……)

 

 最悪の場合を想像して焦る利奈だったが、それは今の段階では杞憂であった。利奈は、ルッスーリアがどのような状態でこの戦いに参加しているかを知らなかった。

 

「ううーん、だめ……もうだめ……、うー、痛いわ。あーっ、助けてー」

 

 ベットに括りつけられた長身の男がうなされている。それだけならば度肝は抜かれなかっただろう。しかし現状、ベットはなぜか縦向きに倒されていた。そのせいで、そこで横たわる、いや、立たされている彼に、異様な存在感を与えていた。

 

「……なんで?」

 

 妖怪ぬりかべを連想させるシルエットに、近づくことすら躊躇っただろう。その前で腕を組む人物に、心当たりがなかったなら。

 

「笹川先輩!」

 

 武が声をかけると、ピクリと肩を動かして了平が振り返った。

 

「おお! 無事だったか!」

 

 信じられないことに、了平はピンピンとしている。

 恭弥という前例があるとはいえ、いくらなんでも元気すぎだ。いや、了平なら毒に苛まれていても動き回れそうな性格をしているけれど。

 

「……先輩、毒は?」

 

 恐る恐る尋ねると、了平はぱちぱちと瞬きをした。

 

「毒? ああ、毒ならヒバリが治してくれたぞ!」

「ヒバリ? ヒバリが来たんですか?」

 

 どうやら、ベルより先に恭弥がここに来たらしい。周囲を見渡してみるけれど、恭弥の姿はどこにもない。

 

「ああ。つい先ほど現れて、そこのポールを壊していった。怪我を負っていたようだから呼び止めたのだが、聞かずにふらりと行ってしまった」

「そうですか……」

 

 助けるだけ助けて去ってしまうなんて、いかにも恭弥らしい行動だ。いや、普段なら救いの手を伸ばしたりはしないが。さすがに校内で死者は出したくないのだろう。

 

「ところで、ルッスーリアを助けてやってもいいだろうか? 一人で判断するのもどうかと思って、だれか来るのを待っていたんだが」

「えっ?」

 

 うずうずと体を動かす了平の後ろで、今もなお魘されているルッスーリア。このままだと毒が全身に回って命を落とすだろうが、相手は暗殺部隊の人間だ。見殺しにしていいとは思わないけれど、助けたあとに襲いかかってくる可能性もある。それなのに了平は、まっすぐな目でルッスーリアの命を救おうとしていた。

 

「敵ではあるが、一度拳を交えた相手だからな! お互いの怪我が治ったら、再戦を願いたいとも思っている」

「ううー……そんなのいくらでもするわ、だからお願い、助けてちょうだい……もうへとへとなのよー」

 

(面白い喋り方……)

 

 掛け布団のせいで首から上しか見えないけれど、そこだけでも十分に個性的だ。縁がオレンジ色のサングラスをしているし、刈り込んだ頭から垂らされた長髪は蛍光気味の緑髪に染められていて、布団の下の服装を目にするのが怖くなってくる。

 

「俺はいいと思いますよ。どっちみち、この格好じゃ動けないだろうし」

「そうか! ではまずベルトを解いて――」

「それだと自由に動けちゃうじゃないですか! 任せてください、私がやります」

 

 持ってきたナイフが役に立つときがきたと、利奈は手に持っていたナイフを前に突き出した。ちょっとした犯罪者のようなポーズに、ルッスーリアが悲鳴を上げる。

 

「ちょっとなにする気!? だいたい、貴方だれなの!?」

 

 ナイフを手に距離を詰める利奈に、ルッスーリアが拒否反応を示す。しかし敵にどう思われようが関係ないので、利奈は仲間たちに説明すべく振り返った。

 

「これで布団裂いて、手だけ出せばいいんですよ。そしたら、縛ったまま解除できますし」

「おお、そうだな! 任せた!」

 

 了平から指輪を受け取る利奈だが、ルッスーリアはいやいやするようにくねくねと体を動かした。

 

「やめてちょうだい、間違えて刺したらどうするの! ただでさえ全身ボロボロなのよ!」

「大丈夫、気をつけるから」

「信用ならないわ! やめて! 助けて! アー!」

「ちょっと! もう、動かないで」

 

 暴れないでほしい。本当に刺してしまう。

 しかしルッスーリアはヒステリーを起こしていて、利奈の言葉を聞いてくれそうにない。

 

「どうしよう、これじゃできないよ」

「なら、俺がやるか? そこだけきれいに斬ればいいんだろ?」

「ヒイイ! やっぱりいいわ、貴方がやってちょうだい! ひと思いに!」

 

 武が竹刀を取り出そうとすると、ルッスーリアはさらに体をくねらせた。

 毒でつらいはずなのに、よくこんなに体を動かせるものである。あまり動くと毒が早く回るから、やめたほうがいいと思う。

 

「はい、切りまーす」

 

 利奈としても人の体を切りつけたくははないので、胴体から離れたところに切れ目を入れた。その隙間から手を突っ込んで、ルッスーリアの腕を外に引っ張りだす。

 念のためにと武が竹刀を構えていたおかげか、ルッスーリアは一切利奈に手出しはしなかった。重傷なのは本当らしい。

 

「これで一安心だな! よかった!」

「あとはあの娘か」

「そうだね。……あ!」

 

 ルッスーリアの解毒が済んで一段落ついたところで、隼人が現れた。片腕にランボを抱いて、もう片方の腕でボンベを持っている。

 

「獄寺!」

「おお、獄寺! お前も無事か!」

 

 二人が喜びの声を上げている。しかし隼人は二人の呼びかけには応えず、ズンズンと靴を砂にめりこませ、利奈の眼前へと迫ってきた。そしてクワッと目を見開く。

 

「なんっでお前がこんなとこにいるんだ! この風紀女!」

「……っ!」

 

 耳鳴りと突かれた図星に怯む利奈。まさか出合い頭にそこを突っ込まれると思っていなかったので、とっさの言い訳が出てこない。

 

「む? ……はっ! 言われてみればそうだ! なぜお前がここにいる!?」

 

 隼人の指摘を受けて了平も愕然とした顔をする。どうやら、今までまったく気にかけていなかったらしい。

 

「ははっ、先輩、今さらですって」

「へらへらしてんじゃねえ、野球バカ! お前らそろいもそろって馬鹿だな!」

「なにぃ! 馬鹿と言うやつが馬鹿なんだ! つまりお前も馬鹿になるんだぞタコヘッド!」

「なるわけねえだろ!」

「ま、まあまあ……。私が言うのもなんだけど、落ち着いて。獄寺君、その話はまた今度。今はクロームを助けないと」

 

 こうしているあいだにも、時間は着々と過ぎていく。残り時間の短さを思い出したのか、隼人は渋々矛を降ろした。

 

「しゃあねえな……。で、お前らがこいつ助けたのか?」

「いや、俺らじゃなくてヒバリだ。先に来てたらしいぜ」

「ゲッ。あいつ、俺たちに貸し作ってどうするつもりなんだ……?」

 

 そういえば、回りまわってここにいる全員が恭弥に救われた形になっている。隼人が薄気味悪そうに眉をしかめているけれど、たぶん、恭弥は見返りなど期待していないだろう。

 

「ところで、ランボは大丈夫なのか?」

 

 ランボは隼人に抱かれたまま、目を開かない。隼人の持つボンベは酸素ボンベだったようで、ランボの口には酸素マスクがつけられていた。

 

「ランボ君、どうかしたの? まさか――」

「なんでもねーよ。寝てるだけだ」

 

 隼人の言っていることは本当のようで、眠るランボの表情は安らかだった。しかし、こんな小さな体で毒に苦しんでいたのかと思うと、胸が痛くなってくる。

 

「それで、どうする? 残りは体育館のドクロなんだろ?」

「うん。でも、もしかしたらベルが先回りしてるかもしれない」

 

 いや、間違いなく先回りしているだろう。ここに恭弥以外の守護者が集結しているのだから、ベルが向かう場所は限られている。

 

「よし! 極限に正面突破だ! こちらは五人! 死角はない!」

「ランボを数に入れんな、馬鹿!」

「私も入ってるし……」

 

 ナイフを持っていたところで所詮ただの女子中学生。戦力ではなく、お荷物として数えてほしい。一緒に乗り込んだところで邪魔にしかならない。

 

「ランボと相沢はここで待機だな。なにがあるかわからないし、危ない目には遭わせらんねえ」

「賛成」

 

 武の言葉に即座に同意する。ここで待っていれば校舎のモニターでみんなの様子も確認できるし、ルッスーリアも見張っていられる。もっとも、ルッスーリアがなにを企んでも、利奈に防ぐ手立てはないのだが。

 

「となると、三人のうち一人はここに残す必要があるな。こいつらを放っておくのも危険だ」

 

 隼人にしては珍しい意見である。隼人ならば、二人の安全よりも綱吉の勝利を優先すると思ったのに。

 

「十代目とXANXUSの戦いに巻き込まれて死なれても、寝覚めが悪いからな。そうなったら十代目が気に病むだろうし」

 

(あ、やっぱり沢田君のためなんだ……)

 

 そういえば戦いはどうなってるのだろうとモニターを仰いだ利奈は、空を舞う綱吉の映像に、無言で目を逸らした。ちょくちょく視界に入ってきていたからわかっていたけれど、きっと、深く考えてはいけないのだろう。学校がこんなになってるくらいなのだから。

 

「じゃあ、だれを残す? 俺は行けるぜ」

「俺もだ!」

 

 武と了平が手を上げて名乗りを上げる。

 

「傷口開いてんの見えてんぞ、野球バカ。それにお前も、利き腕ボロボロじゃねえか」

「問題はない! あと一発は打てる!」

「それ言ったら獄寺もギリギリだろ? 血色悪いぞ」

「あ、ほんとだ。白い」

「うっせえ、生まれつきだ!」

 

 ようするに、全員ギリギリらしい。

 

「やっぱり、私も行くよ。体育館入らないで、どっかに隠れてればいいんでしょ?」

「いや、それもやめた方がいい。近くにいたらあいつらに捕まるかもしれねえだろ」

「あ、そっか」

 

 ここだったら、体育館の状況次第では逃げ出すこともできる。それに、あまり効き目はないかもしれないけれど、ルッスーリアを人質にとることもできるだろう。手段を選ぶ余裕はない。

 

「……っ、ちょっと貴方、今、私のこと変な目で見たでしょ!」

 

 さすが暗殺部隊、勘が鋭い。

 

「こうなったらジャンケンで決めんぞ。恨みっこなしの一回勝負だ」

 

 話し合いでは埒が明かないと判断したのか、隼人がボンベを地面に置いた。そしてランボは、ジャンケンに参加する必要のない利奈が引き受ける。ちっちゃいからか、体温が高くて温かい。そしてジャンケン勝負はわずか一回で決着した。

 

「くっ、なぜだ! 俺の極限グーが!」

「単細胞は楽でいいよな」

「んじゃ、二人を頼みます、笹川先輩!」

 

 走り去る二人と、崩れ落ちるようにしてその場に膝をつく了平。ジャンケンの結果は、パー二人にグー一人。

 

(二人ともこうなるのわかってたんじゃ……)

 

 了平は単純そうだし、最初はグーの勢いでまたグーを出しそうな性格だ。それに、三人の中では一番怪我が目立っている。利き腕を怪我しているのも分が悪い。

 

「こうなったら仕方ない! 二人の面倒は俺が見よう!」

「先輩。あんまり大声出すとランボ君、起きちゃいますよ」

「むっ、それはすまない……」

 

 了平は律儀に声の音量を抑えた。

 頭上のモニターには、明滅するオレンジ色の炎が映っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

当事者は気付かない

 それにしても奇妙な組み合わせだと思う。

 年端のいかない眠った子供と、両腕を負傷したボクシング部部長に、風紀委員唯一の女子メンバー。ついでに、ベッドに括りつけられた派手な格好の暗殺者。悪夢、もしくはゲームのキャラクター編成みたいな、奇天烈なメンバーである。

 

「ねえ、ちょっといいかしら?」

 

 ルッスーリアが声を上げたので、利奈はしゃがんだままルッスーリアを仰いだ。長身なので、二段階に首を動かす必要があった。

 

「この体勢、結構きついのよ。ベッドを倒してもらえないかしら」

 

 毒はもう完全に抜けているようで、声に震えはない。顔だけ出している姿は、見れば見るほど着ぐるみを着ているみたいに思えてくる。白くて四角いから、はんぺんの妖怪だろうか。

 

「駄目。倒したらそのまま抜け出すつもりなんでしょ」

 

 手に持っているナイフを揺らす。牽制の道具として役に立っているけれど、鞘がないのでしまえないのが厄介だ。左腕が自由に使えれば、ランボを支えたままでも楽にナイフを構えられるのだけど。

 

「なにもしないわよ。私、見てのとおり重傷なの。貴方たちをどうこうする余力なんて残ってないわ」

「……本当ですか?」

 

 ルッスーリアではなく了平に問う。

 

「銃で何発も撃たれていたからな。俺なんかよりよっぽど重傷なはずだ」

「ほら。だから寝かせてちょうだい」

 

 ルッスーリアの催促に、利奈は束の間考えたあとで首を振った。

 

「……私が同じ立場だったら、どんなに重傷でも最後まで抗うと思うので。このままにしておきましょう。不安要素は作らないほうがいいです」

「……あんた、どんな修羅場くぐってきたのよ」

 

 暗殺部隊の人に比べれば、ほんのお遊び程度である。そのはずだ。そうであってほしい。少なくとも、この戦いが一番の修羅場であることは間違いない。

 

 利奈の態度に交渉はできそうにないと諦めたのか、ルッスーリアは大きくため息を吐いた。

 つらいのは嘘じゃないだろうけれど、敵相手に気を遣う余裕はない。彼らは命を懸けた戦いに参加しているのだから、乱入者の利奈が勝率を下げるわけにはいかない。ただでさえ、取り返しようのない失敗をしでかしてしまったあとなのだから。

 

「こうやってじっとしているのは落ち着かんな」

 

 立ったままの了平が、焦れた顔でモニターを見やる。だれもいない校庭が映されているけれど、銃声は絶えずここまで聞こえてきている。

 

「すみません、私のせいで……」

「あ、いや、そういう意味ではない! 待っているのが性に合わないだけだ!

 その、子供の様子はどうだ?」

 

 頭を下げた利奈に了平はワタワタと慌て、ごまかすように膝を落とす。

 

「よく寝てますよ。気持ちよさそうに」

「そうか。……いや、じつは、ずっと寝たままだったので心配でな。この戦いにも、あの仮面をつけた女たちが無断で連れてきたのだ」

「そうなんですか!?」

「そうよー。私もこんな格好で連れてこられて。まったく、失礼しちゃうわよね」

 

 ルッスーリアまで会話に入ってくるので、利奈はそちらを一瞥だけして視線を落とした。腕の中のランボはすやすやと寝息をたてていて、昏睡状態とは程遠い寝顔である。

 

「ところで、仮面の女って何者なんですか? 私、細かくは知らなくて」

「ああ、あいつらは――いや、違うぞ!? あれはその、相撲大会の審判で、俺たちもただ相撲を――」

「あ、そこまでわかってないわけじゃないです。命懸けの戦いしてるってのはわかってますから」

「そそそ、そんなことは!」

「大丈夫ですよ、京子に言ったりしませんから」

 

 妹に話されるわけにはと急に下手な嘘をつき始めた了平に、利奈は悪戯っぽく笑ってみせた。こちらだってこんなところにいることを家族に知られたくはないし、お互い様だ。

 

 することもないので、ランボの身体をゆっくりと叩く。幼い体はとても柔らかくて、そうしていると小動物を抱いているような、温かな気持ちになれた。牛柄の服を着ているから、よけい動物っぽく思えるのかもしれない。

 

「よく寝てるね。……寒くない?」

 

 声をかけてみたら、ランボの口がふにゃりと開いた。

 

「……ランボ君? 起きた?」

「ん? どうした?」

「ランボ君が……」

 

 確認のために、ほっぺたを摘まんでみる。そのまま引っ張ってみると、餅みたいにほっぺたが伸びて、なんともいえない手触りについ目的を忘れてしまいそうになる。

 何度か伸び縮みさせていたら、ランボの緑色の目が、ゆっくりと開かれた。

 

「おお! 目を覚ましたぞ!」

「……んあ?」

「起きて大丈夫? 痛いとこない?」

「……んん」

 

 ブルリと体を震わせてランボが体を伸ばす。完全に目が覚めたようだ。腕の中のランボは不思議そうな顔で利奈を見つめ返す。

 

「あれー? なんで俺っち……ここどこー?」

「学校だよ」

 

 もう必要ないだろうと、口に嵌められていた酸素ボンベを了平に外してもらう。

 

「お前はあの戦いのあと、ずっと眠っていたのだぞ。覚えていないのか?」

「先輩、寝てたんだから覚えてるわけないじゃないですか。ランボ君、屋上に行ったときのことは覚えてる?」

「んー? 俺っちねー、昔のことは振り返らないからー、わかんない!」

「そ、そっか」

 

 思い出す努力すらしていないけれど、幼児だから仕方ない。それに痛めつけられた記憶なんて、忘れてしまったほうが本人のためだろう。

 

「ところで、あんただれ? えっと、そっちのチクチクした草みたいなのは見たことある!」

「ち、チクチク……」

 

 了平が地味にダメージを受けた。

 

「チクチクじゃなくて笹川先輩ね。私は――」

「あ! 獄寺のアホだ!」

 

 利奈の言葉を遮って、ランボが利奈の背後を指差した。ちょうどよく、校舎のモニターに体育館の映像が映り、そこに隼人と武の姿が映っていた。

 

「うん、獄寺君もいるよ。でも今はちょっと忙しいからまたあとでね」

「えー。じゃあーじゃあー、獄寺のアホがいるんならツナもいる? ツナどこ?」

「うん、沢田君もいるけど、沢田君もちょっと……ランボ君、人のことアホって言っちゃいけないよ。みんな忙しいから、ここでじっとしてようね」

「なんで?」

「……えっと」

 

 現在の状況をどう説明しようかと言い淀んだ利奈だったが、了平の呼びかけでその問題は棚上げとなった。

 

「おい、相沢! 二人とも様子がおかしいぞ!」

 

 モニターを見ていた了平が、切羽詰まった声を出して立ち上がる。利奈も一瞥だけしたモニターに再度目をやり、映し出されていた光景の異様さに口を引き結んだ。

 

 モニターに映し出されているのは五人。救助に向かった二人と、霧の守護者であるクロームにマーモン、そして恐れていたとおり、ベルの姿があった。

 やはりベルに先を越されていた。そのうえ、解毒を済ませたマーモンと二人で、解毒されていないクロームを人質にとっている。思い描いていた、最悪の展開だ。

 

 ――いや、問題はそこじゃない。それだけなら、異様とは言えない。異様なのは、武と隼人のほうだ。

 

「あいつら、いったいだれと会話をしているのだ……? 敵はあっちだぞ」

「アハハ、獄寺、壁に話してやんのー、間抜け」

 

 隼人たちは、なぜかだれもいないはずの壁を睨みつけていた。まるで、そこにベルたちがいるかのように。

 利奈にはその理由がすぐにわかった。

 

(マーモンの幻術! 二人とも、幻術にかかってる!)

 

 あるものをないように見せ、ないものをあるように見せるのが幻術だ。隼人たちの目には、あそこにベルたちがいるように見えているのだろう。

 しかし実際のベルたちは九十度ずれた安全圏にいて、二人の持つ五つの指輪を狙っている。そして二人は、そのことにまるで気がついていない。

 

「これは極限にマズいのではないか!?」

「マズいです。どうにかしなくちゃ……」

 

 ベルがクロームの顔にナイフを突きつけている。さらにマーモンは、指輪を渡さなければクロームの皮膚を剥がすと二人を脅した。ただでさえ残り時間が少なくなっているのにそんなことを言われたら、交渉を急がざるを得なくなるが――

 

(こんなの交渉じゃない! 指輪を受け取ったって全員殺そうとするに決まってる!)

 

 綱吉側の守護者三人を術中に収めておきながら、なにもせずに立ち去るわけがない。悟られる前にここで皆殺しにしてしまえば、ヴァリアーを邪魔する者はいなくなる。

 

「行くぞ相沢! みなを助けねば!」

「えっ」

 

 怪我をしたときの光景がフラッシュバックして、利奈は硬直した。

 

「私が行ったら迷惑に……」

 

 自分が刺されてしまったらという恐怖もある。でももっと怖いのは、自分を守るためにだれかが傷ついてしまうことだ。利奈がついていったせいで了平が怪我を負ったら。いや、それどころか、そのまま死んでしまったら。

 

(そんなの、耐えられない……)

 

 きっと、一生後悔する。京子のことを想えば、ここに残るのが一番だろう。しかし了平は揺らぐ利奈の瞳を捉え、力強くこぶしを握った。

 

「心配するな! 面倒を引き受けた以上、お前たちは俺が必ず守る! 極限にな!」

「でも……」

「どうしてもというなら、担いででも連れていくぞ! 妹の友人と小さな子供を見捨てるわけにはいかんからな!」

 

 了平は本気だった。両腕に包帯を巻いていて、右手なんて三角巾で吊っているのに、それでも利奈ににじり寄ってくる。本気だというのなら、利奈が折れるしかなかった。

 

「……わかりました。私も行きます」

「俺っちも!」

 

 利奈の腕の中にはランボもいる。ここに残っていたせいでランボが襲われては、元も子もない。

 

「よし、では向かうぞ! 極限ダッシュだ!」

 

 ――なにより、ボクシング部部長の腕を再起不能にするわけにはいかない。

 そんなことをしたら、この学校を愛する委員長になにをされるかわかったものではなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逃れられない未来

 体育館に着いたときにはもう遅かった。ヴァリアーを出し抜こうとした彼らは、そのとき初めて、すでに出し抜かれていたことを知るのである。

 

『うわああ!』

 

 隼人の悲鳴がモニターと壁の向こう側、両方からこだました。画面のなかの隼人と武の身体に変わった点は見当たらない。しかし二人は恐怖に顔を歪めながら、なにかを振り払おうと必死にもがいていた。

 

「ねえー、ねえー、あれなーにー? なんの遊び?」

 

 外にいる利奈たちは幻術の範囲から外れているようで、悲鳴以外はなにも聞こえない。そしてモニターにも映っていないから、どんな幻覚を見せられているのか、利奈たちにはわからない。わからないからこそ、恐ろしかった。

 

「パントマイム? なにしてるか当てる遊び? あれはねー、大きな蛇にぐるぐる巻きにされてるカエル!」

 

 ランボの予想はほとんど正解だろう。首に巻き付いているなにかを外そうと隼人が懸命に両手で宙を引っ張っているが、実体のないものを力尽くでなんとかしようとしても無駄だ。そこになにもありはしないのだから。

 

(どうしたら――どうすればいいの!?)

 

 幻術をかけられた経験はあるけれど、幻術を解いた経験はない。こういうときは術者であるマーモンを倒すべきなのだろうが、体育館に入れば幻術の餌食だろうし、あちらには中距離攻撃可能なベルがいる。了平は近距離攻撃型だから、どうやったって先手は取れそうにない。

 

 こうなると、クロームの解毒が終わっているのが唯一の救いである。交渉を終える前に死なれてはどうしようもないという打算の上でだろうが、それでも、命を取り留めたことに変わりはない。しかし、それですら希望の光にはなりえなかった。

 クロームは腕を縄で拘束されているし、彼女もまた幻術をかけられているのか、苦悶の表情で身をよじっている。このままだと、せっかく助かった命が彼らの手で無残に散らされかねない。

 

(このままじゃ……!)

 

 戦況は圧倒的に不利。膝をつきたくなるような絶望感のなか、ただひとつの希望が、頼もしく利奈の頭を叩いた。

 

「下がっていろ。俺がなんとかする」

 

 そう言って足を踏み出した了平は、しかし体育館の入り口へとは向かわなかった。体育館側面の壁に歩み寄りながら、腕の三角巾やギプスを外していく。

 

(……壁を叩くの?)

 

 敵の注意は逸らせるだろう。外からの呼びかけで隼人たちの意識が正気に戻る可能性だってゼロとは言い切れないし、なにもしないよりはずっといい。

 

(でも、ベルたちがこっちに来たら私たちまで――ううん、うまくいくかわかんないけど、笹川先輩を信じよう)

 

 ランボを抱きしめる腕に力を込め、指示通り後ろに下がる利奈。

 

「極限太陽――!」

 

 しかし、了平がそんなまどろっこしい手に出るわけがなかった。

 黄金に輝く了平の拳が体育館の壁にめりこみ、まず、壁にヒビが入った。それだけなら驚きもしなかっただろう。

 しかしヒビは放射状に際限なく伸びていって、それが壁の端に届く前に中心部から穴が広がる。そのうち天井までもが崩壊していき、利奈が本格的な危機感を抱いたときには、体育館は元の形を残さず瓦礫の山と化してしまった。――なかにいた五人を巻きこんで。

 

「ヒャー! ぺったんこ! ぺったんこだもんね!」

 

 興奮した顔で身を乗り出すランボ。

 利奈はというと、なにも言えないまま体育館だった場所を呆然と見つめることしかできなかった。そして心のなかで叫ぶ。

 

(笹川先輩は普通だと思ってたのにっ……!)

 

 いっそこれこそが幻術であってほしいというのが本音である。ボクシング部の部長だから実力があるのはわかっていたけれど、拳で建物を崩壊させられるレベルの腕だったなんて聞いていない。これならまだ恭弥の方が人間寄りだ。常人離れした毒耐性を除いては。

 

「ランボさんも! ランボさんもやる!」

 

 アトラクションかなにかだと思ったのか、利奈の虚を突いてランボが腕から飛び出した。

 

「駄目だよ、危ないから!」

 

 軽率に体育館――だった場所へと近づこうとするものだから、利奈はランボの肩を掴んで引き留めた。

 右手だけでもなんとかランボの動きを止められたものの、利奈の手はわずかに遅れていた。

 

「あれ? ランボ君、なに持って――」

 

 ランボの両手にあるのはピンの抜かれた手榴弾。それに気付いた利奈が大口を開けたときには、ランボはそれを放り投げていた。――体育館だった瓦礫の山へと向けて。

 

「ああー!」

 

 利奈の絶叫を合図にして手榴弾が爆発する。そして恐ろしいことに、ランボは次弾を補填しようと髪の毛をまさぐってしていた。

 

「ランボ君、駄目、もう駄目! あそこに獄寺君とかいるから! 死んじゃうから!」

「獄寺? おっちんだ?」

「死んじゃうから!」

 

 一文字ずつ区切るようにして言い含める。

 予想より小規模な爆発だったものの、爆発物は爆発物だ。おおかたリボーンの用意したスパイグッズの類似品だろうが、分別の付いていない子供にこんな物を持たせるなんて、マフィア関係者はどうかしている。

 

「とにかく駄目! ああいうのは終わり! もう駄目! わかった!?」

 

 ランボはキョトンとしていたけれど、利奈の必死さが伝わったのか、つまらなそうに頬を膨らませた。まったく、無邪気なだけに恐ろしい。

 それにしても、本当にチェルベッロは学校を元通りに復元させられるのだろうか。

 彼ら――いや、彼女たちも、ここまでの崩壊は予期していなかったに違いないので、その点では同情の余地がある。

 

 咳きこむ音ともに瓦礫の一部が崩れ出した。

 ベルたちではと身構えた利奈だったが、下から出てきた馴染みのある顔に、ホッと肩の力を抜いた。ランボは興味がなさそうな顔で指を差す。

 

「ゾンビだ」

「獄寺君ね」

 

 どうやら二人とも無事だったようだ。

 突然の崩壊に目を白黒させているけれど、拳から血を流す了平を見ておおよその事情は察したらしく、安堵の表情を浮かべている。拳ひとつで建物を壊したことについての疑問はないようで、利奈は自分のなかの常識の物差しを真っ二つに折っておいた。少なくとも、級友が空を飛んでいることよりは現実的である。

 

「っ、アホ牛! お前、目が覚めたのか!?」

 

 ランボが起きていることに気付いた隼人が、掴みかかるようにしてランボを抱き上げる。驚いたランボは暴れるけれど、それにはかまわずに隼人は乱暴に髪の毛を掻きまわした。

 

「やめろ馬鹿! 痛いぞこらー!」

「お前、今まで意識がなかったくせに平然としてやがって! 十代目がどんだけ心配していたと思ってんだ!」

「うるさい離せー!」

「うっせー! あと、今お前が爆弾投げつけたのはわかってんだからな! 殺す気か!」

「ビクゥッ! ラ、ララランボさんがやったんじゃないよ! 勝手に爆発したんだもんね!」

「んなわけあるか!」

 

 なんだか、とても楽しそうだ。同じ目線に立てている分、隼人はランボとの相性がいいのかもしれない。

 

「ランボ、目を覚ましたんだな」

 

 武がゆっくりと瓦礫を踏み分けてやってくる。崩壊前に庇ってくれていたのか、その腕はクロームを支えていた。クロームはぐったりとしている。

 

「クローム大丈夫なの?」

「ああ、無事だ。怪我もなさそうだし」

 

 武がゆっくりとクロームを地面に降ろす。

 座りこんだクロームはつらそうに息をしていたけれど、利奈の声に反応して目を動かした。

 

「……利奈」

 

 意識はあるようだ。骸からあらかじめ聞かされていたのか、なぜ利奈がここにいるのかという問いはない。毒の余韻が残っているせいか顔色は悪いけれど、ほかのみんなと同じように、時間を置けばよくなるはずだ。

 

「怪我、痛い?」

 

 クロームの視線が、利奈の左肩の負傷に注がれる。

 

「全然! ――痛いけど、大丈夫。それよりクロームは? 痛いとこない?」

「うん」

「よかった……」

 

 これで守護者全員が集合した。一息つきたくなるところだが、そんな余裕は彼らには与えられていない。戦いはまだ続いているのだから。

 

「おい、お前ら! ベルたちを見たか」

「俺は見ていない。相沢、どうだ?」

「見てません。……瓦礫の下とか、いたりしないよね? 気絶してたりとか」

「あいつらが呑気に気絶してるわけねえだろ。チッ、崩れる前に逃げ出したか」

 

 おそらく、反対側の出入り口から脱出したのだろう。

 暗くて遠くがまったく見えないし、あのときは轟音が鳴り響いていた。暗殺部隊の彼らが素人相手に見つかる可能性のほうが稀有だ。

 

「獄寺、指輪は? 指輪はあるのか?」

「……触手に巻き付かれたときに落としちまった。あいつらが拾わずに逃げるわけがねえ」

「えっ、それじゃ指輪一個もないの!?」

 

 すべての指輪がヴァリアーに渡ってしまったということは、この勝負、綱吉たちの敗北である。いや――

 

「まだだ! リングがXANXUSの手に渡る前に奪い返せば!」

「そうだな。ツナが戦っている限りすぐには渡せないだろうし」

「ならば極限に沢田のもとへ向かわねばならぬな! ドクロ、走れるか!」

「待ってください、クロームはまだ――」

「大丈夫」

 

 クロームの手から槍が出現した。それを支えにして立ち上がったクロームの顔はまだ白かったが、強い意志を瞳に宿していた。

 

「相沢はここでランボを見ていてくれるか? 終わったら迎えに来る」

「うん、任せて」

 

 ランボを戦場に出すわけにはいかないし、利奈も部外者だ。もう襲われる心配もない以上、ここで戦いが終わるのを待っていた方が安全である。

 

「いいか! 絶対動くなよ! そこでじっと待ってろ!」

「えー、俺っちもツナんとこ行きたーい」

「ハハッ、またあとでな!」

 

 ただをこねられたけれど、こればっかりはどうしようもない。

 どうやってなだめようかと思ったけれど、ランボは腕に嵌められたリストバンドに興味を持ったようで、上機嫌に液晶を眺め始めた。少しのあいだはおとなしくしてくれるだろう。そう判断して息をついた利奈だったが、視界の隅にちらついた槍の柄にギョッとして顔を上げた。

 

「クローム? どうしたの?」

 

 みんな走り去っていったのに、クロームはなぜかこの場に残ったままだった。だれも気付いていないようで、足音が止まる様子はない。

 

「利奈。聞いて」

「な、なに?」

 

 緊迫した声に、緩みかけていた緊張の糸が引き結ばれる。

 やはりまだ体調が戻っていないのだろうかと不安になるが、クロームが去らなかった理由は別にあった。

 

「今なら、校門から脱出できるの。だから、このまま逃げて」

「……え?」

 

 それは彼らとの打ち合わせと違う。逃げられるものなら逃げたほうがいいけれど、今はランボがいるし、そもそも、校門を出たらチェルベッロに――

 

「今なら大丈夫。みんなボスの戦いに注目しているし、もう外に危険はないって、骸様が言ってるから」

「骸さんが!? え、いつの間に」

「骸様と私は繋がってるの。だから、利奈がどんな目に遭ったのかも知ってる。今なら逃げられるから、早く」

 

 どうやら骸は、利奈が指示を破ってからも突破口を探してくれていたらしい。指示に従う限り身の安全は保障するという言葉を、反故するつもりはないようだ。

 

「待って、ランボ君はどうするの?」

「その子には幻術を見せてる。多分、もうすぐ寝る」

「え」

 

 なんとランボは親指を咥えてうとうとと微睡んでいた。たぶん、これも幻術によるものなのだろう。手際のよさに感心してしまうけれど、これも骸の指示なのか。

 

「行かなくちゃ。利奈、早く」

 

 だいぶ回復したのか、クロームの頬には赤みが戻ってきている。これなら、さっきみたいな目には遭わないだろう。友達が苦しんでいるところはもう見たくない。

 

「……わかった。骸さんにありがとうって伝えて」

「うん」

「頑張ってね。私、信じてるから」

「うん」

 

 校門を出てしまえば、もうなかの様子はわからなくなる。

 できれば決着の場面か勝負の結果を目にしたかったし、それが駄目ならせめて、恭弥が無事であるかどうかくらいは確認しておきたかった。彼のことだから、最後の最後には顔を出していただろう。

 しかしクロームを助け出した今、利奈がここに残る必要はないし、ここで退場するのが一番正しい選択だ。あとのことは当事者である彼らに任せるしかない。

 

(みんな揃ってるんだから、どうにかなるよ。うん、どうにかなる。それに、明日になったらわかるんだし)

 

 ――そう、明日になれば。

 明日になれば戦いの結果も、みんなの安否も、学校が直っているかどうかもすべてわかるのだ。

 

「うん……」

 

 明日さえ来ていればわかったのに――

 

 迫りくる脅威に利奈は気付かない。まだ渦中から逃れてはいないことに、利奈は気付けない。

 

 相沢利奈に明日は来ない。永遠に。なぜなら、明日の日付に変わる前に、利奈は――

 

「……え?」

 

 なにも見えない暗闇。なにも聞こえない静寂。完全なる黒。完全なる無。

 

 そのなかで利奈は、ただ目を瞬いていた。

 




第一部最終章、最終話終了です。

目標通り一年で第一部を改稿し終えられたのですが、十万字も字が増えるなんて思っていませんでした。改稿するだけだから余裕でしょと思った自分の見通しの甘さ。

お気に入り登録、評価付与、感想、どれも想定以上の量で、アワアワ驚いたり小躍りしたりガクブルしたりしていました。応援がそのまま力になるタイプなので、本当にうれしいです。
応援ありがとうございました!

第二部は未来編ですが、ヴァリアー編をハードモードとすると、エクストリームモードになります。
作者が胃を痛め続けることになると思いますが、これからもよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編:夢幻に揺蕩う
救われることのない夢のなかへ


 クロームの意識が回復したことで、骸はクロームの視点で校内を見られるようになった。

 まさか最初に見る光景が全壊した体育館になるとは思わなかったが、ここまできたら想定外もすべて想定内である。とりあえずは、混ぜこんだ異分子の除去――もとい、クローム救出のために送りこんだ利奈を離脱させるべきだろう。

 

『行かなくちゃ。利奈、早く』

 

 戦場から逃げていいと言われたにもかかわらず、利奈は戸惑いの瞳でこちらを見ていた。この期に及んでも、まだ他人の身を案じる余裕があるようだ。解毒を終えたクロームよりも、ずっと血の気のない顔をしているというのに。

 

『……わかった。骸さんにありがとうって伝えて』

 

 礼などいらない。最初から逃がすつもりだったのだ。もっとも、暴走の尻ぬぐいへの感謝というならば受けつけるが。

 

『頑張ってね。私、信じてるから』

「……クフフ」

 

 骸は一人廃墟で乾いた笑みを漏らした。

 

 信じるなんて言葉を、ずいぶんと簡単に使ったものだ。笑う彼女の瞳は、痛々しいと言ってもいいほどに揺らいでいた。それでもなにも言わずに走り出したのは、言葉どおりの信頼が半分と、痛感したであろう己の無力さが半分。力のない人間は、自分で選ぶことすら許されない。

 

 いっそ、けろりと受け流してしまえばよかったのだ。

 自分は無力な一般人であると。脅されて放りこまれただけなのだと。そう割り切ってしまえば。

 

 しかし、彼女はそうはしなかった。最後までその場に立ち続けようとしていた。

 その根底にあるのは信念であり、結局はだれかに対する信頼だ。きっと彼女は、術者には向いていないだろう。霧の本質は疑うこと。目の前のものをありのままに受け入れていては、いずれ手ひどい裏切りにあう。眼前の、この男のように。

 

(やはり、リングに拒まれたか……)

 

 血を噴き出しながら昏倒したXANXUSを、骸はどこか他人事のように眺めていた。

 

 こうなることは最初から分かっていた。ボンゴレリングの力はブラッド・オブ・ボンゴレなくしてはけして手に入らない。だからこそ、ほかのだれでもない沢田綱吉の身体を骸は欲しているのだから。

 

 茶番といえば茶番である。本人も薄々こうなるとわかっていただろう。だれよりも、ボンゴレファミリー後継者としての素質があった彼ならば。

 結局、全員踊らされていたのだ。母親の妄執に。息子の憤怒に。親子の確執に。くだらぬ掟に。それでも己の気迫のみで部下を従わせたXANXUSはなるほど、地に落ちても支配者であったが、残念ながら相手が悪かった。

 

 霧の本質は疑うこと。目の前にあるものがすべてと思わず、何重にも策を施し、場を完全に掌握する。彼らの弄した最後の策は、骸が用意したかつての影武者――ランチアの手によってあっけなく水泡に帰した。

 ――とはいえ、霧戦で力を使いすぎたせいで、予定よりかなり時間がかかってしまった。おかげで利奈を逃がすのも遅くなったが、絶えずボンゴレ守護者のそばにいてくれたおかげで、事なきを得た。契約は守る主義である。

 

(にしても――だいぶ力をつけてくれましたね。この娘も)

 

 クロームの幻術がマーモンを襲う。たいしたダメージは与えられていないものの、あのアルコバレーノ相手に攻撃を当てられただけでも褒めていいだろう。ほんの数週間前までは、幻術の存在すら知らないただの小娘だったのだから。

 

 もうこれ以上見る価値のあるものはないだろうと、骸は閉じていたまぶたをゆっくりと開いた。

 音が消え、匂いが消え、視界に映るのは見慣れた廃墟の荒れ果てた一室。組んだ脚の上に乗せていた手は、退屈そうに膝を叩いている。

 

 感じるけだるさは退屈のせいではないだろう。利奈と接触するために長時間子供に憑依していたせいで、だいぶ体力を消耗している。いっそ彼女の身体を奪って操ったほうが手っ取り早かったのだが、ボンゴレの超直感が働いても面倒だったので、早々に諦めた。まったく、そんな才能だけは一端なのだから恐れ入る。

 

(才能、か)

 

 最後に感じたクロームの潜在能力。自分ほどとは言わないが、うまく育てれば相当優秀な手足になるだろう。おまけにクロームは、骸に対して全幅の信頼を寄せている。術者としては危ういが、操るぶんには都合がいい。出会ったときにはまさかこんな関係になるなんて思ってもいなかったが、どこに原石が転がっているかわからないものだ。

 

(あれがなければ利奈に接触することもなかった。……本当に、出会いというのは必然なのか偶然なのか、面白いものだ)

 

 うつらうつらと意識が微睡んでいく。

 三人が戻るまでまだ時間はあるだろう。骸は過去を反芻しながら、ゆっくりと意識を手放していった。

 

_______

 

 

 死に物狂いの逃走だった。

 沢田綱吉に敗れ、復讐者たちに連行された骸たちは、収監前の隙をついて鎖から逃れた。

 監獄から脱獄するより、収監前の逃走のほうが勝率が高いだろうという算段だったが、その考えは無理があったようだ。

 

「ハッ、ハア、ハア……!」

「……っ、ゲホ、ハア……!」

 

 ここは住宅街だろうか。深夜のために周囲に人影はなく、街灯の明かりだけがやけに明るく三人を照らし出す。

 周囲を窺う余裕があるのは骸だけで、あとの二人は、背中を丸めて苦しそうに息を吐き出していた。

 

「二人とも、まだ行けますか?」

「……も、もちろん!」

 

 犬は声を張り、千種は無言でうなずいた。しかし、二人とも出血量が多かったせいか、夜の暗がりでもわかるほどに顔色が悪かった。

 

(やはり、事を急ぎすぎたか……)

 

 檻に入れられてからでは時間がかかると、こうして捕まったその日のうちに脱獄を試みたものの、このありさまだ。怪我の治療を受けている最中に逃げ出したものだから、処置は止血を終わらせた程度。体を無理に動かしたせいで、二人の身体からは血が滲んでいる。

 骸自身はほとんど外傷がなかったために余裕があるが、それでも重症の人間二人を連れて逃げるのはいささか条件が悪い。ここが銃の禁止されている国の住宅街でなかったら、もうとっくに取り押さえられていたことだろう。

 

(このままでは捕まって終わりか……。二人がこの状態では、僕が囮になったところで効果はない)

 

 二人を置いていけば骸は逃げおおせられるだろうが、それでは意味がない。こんなところで仲間を切り捨てているようでは、憎きマフィアとなにも変わらない。もう、失うわけにはいかないのだ。

 

(なにか手を考えなければ……。このままでは見つかってしまう)

 

 助けが必要だ。だが、救援を求めるにも、骸が用意していた手駒はすべて檻のなか。新たな手駒を手に入れるにも、こんな状況では依頼する手立てもない。

 使える駒は、己を含めてたったのみっつ。しかもふたつはほとんど使い物にならない。まるで、あの頃に戻ったかのようだ。

 

(いっそ、この辺りの住人を盾にして脅してみましょうか。それであの復讐者の連中が手を緩めるとは思えませんが……)

 

 諦めるという選択肢は存在しなかった。最後の最後まで、抗い続けるのだ。でなければ、女神は微笑まない。そうしなければ、また――

 

「……いた」

 

 わずかに耳に届いたか細い声に骸は顔を上げた。

 

 暗がりに紛れて、線の細い娘が佇んでいる。

 こちらを見つめる瞳は零れ落ちそうなほど大きく、肩にかかった黒いショールは夜の帳と混ざって娘をより一層小さく見せている。

 

 追手でないことは一目でわかった。復讐者はみな一様に同じ格好をしていたし、手負いの逃亡者を捕まえるためにわざわざ擬態する必要もないだろう。その証拠に、ほかの二人は少女の存在にすら気付けないほど弱りきっている。

 

 では、この娘は何者なのか。

 通りすがりというわけでもないだろう。ショールの下は上下セットの寝間着だったし、高価そうな靴も裸足で履いている。それに、娘の視線はいまだに剥がれていない。

 見ず知らずの怪しげな人間と目が合ったら、普通は目を逸らすだろう。しかし彼女は、いかにも怪しい傷だらけの三人から逃げようとはしていない。むしろ、なにか言いたげな顔で骸の反応を窺っている。

 

 骸はしばし考え、その表情を柔和なものへと変えた。そして、いまだ見つめ続ける娘に、真っ向から声をかける。

 

「こんばんは。こんな時間に一人で出歩いては危ないですよ」

 

 ようやく二人が娘に気付いたが、骸は娘に微笑み続けることで二人の動きを牽制した。余計な火種を作っている余裕はない。

 

「……その。声が、聞こえたから……」

 

 言葉を探すように口ごもる娘の言葉に、骸はうっすらと瞳を細めた。

 先ほどの二人との会話が、この娘に届いていたわけがない。あのときは周囲に気を配っていたし、人影は一切存在しなかった。しかし、虚言で片付けてしまうには娘の態度が気にかかる。娘が最初に漏らしていた独り言は、まるで骸たちをずっと探していたかのような口ぶりだった。

 

(過去の関係者……あるいは、どこぞの組織の人間か)

 

 復讐者以外にも、骸たちの行方を捜している人間は相当数存在している。報復を企んでいる者もいれば、利用価値があるからと助力を願い出る者もいるだろう。

 しかし、この娘の瞳に図り事の色はない。人を見る目があるとは言わないが、淀んだ色を見分けるくらいは造作もなかった。彼女の瞳は、藍に澄んでいる。その瞳を揺らめかせながら、彼女は続けた。

 

「貴方の声が、聞こえたの。助けが必要だって――頭のなかで、貴方の声が」

 

 今度は骸が瞳を揺らす番だった。

 それは、声に出していなかった言葉で、しかし、骸が始終脳内で巡らせていた言葉である。

 

(頭……まさか)

 

『僕の声が聞こえるのですか』

 

 目の前の娘へと、思念をぶつける。すると娘は、戸惑ったような顔で小さく頷いた。

 

 そこからは、トントン拍子で話が進んだ。

 夢の中で聞こえただけの声に応えて家を出た彼女は、その声の主である骸たち三人をなんのためらいもなく自宅へと連れて帰った。

 素性も知れぬ男三人を深夜に自宅へ招くという行動には警戒心、および常識の欠如を感じさせられたが、そのおかげでこうして安全な場所で眠りにつくことができた。二人の怪我の手当てもできたし、言うことなしである。

 

(にしても――)

 

 用意されたトーストを齧りながら、骸はそれとなくリビングの内装に目をやった。

 広いリビングに備わっている家具はどれも高級品だ。飾られている調度品も洗練されていて、家主のセンスを感じさせる。たが、この家には生活感がない。よくできたモデルルームを見せられている気分である。

 

 そもそも、目につくところに娘以外の住人が生活している形跡がまるで存在していない。食器棚に食器が揃っていても、台所にあるのは娘の使った食器のみ。玄関に出ていたのも娘の靴だけで、母親、父親の存在を匂わせる物はあっても、生活している気配がまったくと言っていいほど感じられない。

 

(両親が仕事で不在――だとしても、ここまで気配が希薄なのは不自然だ。どちらも、ろくに家に帰っていないらしい)

 

 他人の家庭事情など本来はどうでもいいが、目の前の娘は窮地を救ってくれた恩人でもある。そんな娘が、得体のしれない男三人に一切警戒を抱かず、それどころか、世話を焼こうとしているのだから、気にかけるなというほうが無理な話である。

 

 千種は娘にさほど注意を払っていない。犬は最初こそ警戒心をむき出しにしていたが、たしなめたら少しはマシになった。しかし険を孕んだ視線は変わらずで、娘は視線を合わさないようにうつむきがちにソファに座っていた。食卓は殺伐としている。

 

「そろそろ、名前くらいは教えあいましょうか」

 

 三人の視線が集まった。

 

「僕は骸といいます。こちらが犬で、千種」

 

 千種だけが頭を下げる。応えるように頭を下げた娘が、おずおずと口を開く。

 

「私は凪」

「凪ですか。お似合いの名前ですね」

 

 ――波風を立てずに黙りこんでいるあたりが。などとはおくびにも出さず、無難な誉め言葉を口にした。これからが本題だ。

 

「では、凪。貴方にお願いがあるのですが、いいでしょうか」

「お願い……?」

「ええ。これだけ世話になっておいてさらに頼みごとをするのは心苦しいのですが、お互いのためでもあるので」

 

 逃走経路はすでに計画済みである。運よく今日は休日だ。街中の人通りは多いだろう。ほかの人間と同じように公共機関を使ってこの町から離れてしまえば、復讐者たちに追跡する手立てはない。

 ただ、そのためには新しい衣服を用意する必要があった。服には血の痕が残っているし、黒曜町から離れた町で黒曜中学校の制服を着て出歩くなど、早く見つけてくれと言わんばかりの蛮行である。

 三人分となるとそれなりに揃える必要になるから、凪の父親の服を拝借するのも無理がある。家に寄りついていない人間でも、自分の服が複数なくなっていればさすがに気付くだろう。それに、デザインは妥協するとしても、せめて自分に合ったサイズの服を着たい。

 

「ですから、貴方には僕たちの服を用意してもらいたいのです。

 今は持ち合わせがありませんが必ずお返ししますし、なんでしたら契約書も書きますよ」

 

 凪は頼みを断らないと踏んでいた。助けを求められれば、血に染まっている人間でも助けるような娘なのだ。真摯に頼めば、難色も示さずに引き受けるだろう。

 骸の読み通り、凪は言われるがままと言った様子で外に出て行った。

 

「……あいつ、なにを考えてるかわかんねーから気持ち悪いびょん」

 

 窓越しに凪を見下ろしながら吐いた犬の言葉は、三人の内心を代表した言葉だったろう。しかし千種は同意せず、骸は困ったような笑みを浮かべてわざとらしくたしなめた。

 

「駄目ですよ、恩人にそんなことを言っては」

 

 そんなことを言いながら、窓の外に目をやった。外は曇りのようで、空は白一色に染まっている。

 雨は降っていない。しかし――今にも降り出しそうな天気でもあった。

 

「――骸さん?」

 

 ――犬の声に、目を開く。

 ここはいつもの廃墟である。いつの間にか三人とも帰ってきていたようだ。

 

「ああ、お帰りなさい」

 

 わずかに身を起こして三人に視線を向ける。三人とも、出たときとさほど変わりのない格好だ。

 

「その様子だと、首尾よく終わったようですね。今回はちゃんとクロームを連れ帰ってきたようですし」

「ウグッ」

 

 痛いところを突かれた犬が小さく唸った。

 前回の霧戦ではこともあろうに功労者のクロームを置いて帰ってきたので、容赦なく二人分の食事を抜いた。一人で食べる肉の味は美味だったとだけ言っておく。

 

「お疲れ様です、クローム。よく頑張りましたね」

「ありがとう、ございます」

「千種たちも。クロームを見守ってくださってありがとうございます」

「……いえ」

 

 これでしばらくは安泰だろう。

 XANXUSを倒した綱吉はほかのファミリーなどからより一層狙われることになるだろうが、知ったことではない。どうせあの家庭教師がなんとかするだろう。

 

「今日はもう疲れたでしょう。三人とも、早く就寝してしまいなさい」

「え、もうれすか!?」

「犬、さっさと行くよ。骸様もお疲れなんだから」

 

 体力が有り余っているらしい犬を、千種が引きずり出していく。クロームもお辞儀をして退室しようとしたが、ふと、足を止めた。

 

「おや、どうかしましたか?」

「……利奈のこと」

「ああ。そういえば、前もっては言ってませんでしたね」

 

 なにせ彼女は予測不能だ。クロームと違って従順ではないし、金や脅しに屈するような性格でもない。勇敢かと思えば急に臆病になる。もし臆病風に吹かれて逃げ出されていたら、もう骸に打つ手はなかった。そう伝えると、クロームはわずかに微笑んだ。

 

「利奈は、逃げないと思う」

 

 あとから言うのは簡単だ。しかし、クロームの言葉はどこか真実味を帯びていた。

 

 そう、彼女は自分の役割から逃げなかった。彼女は自分に与えられた使命を、けして投げ出そうとはしない。今までもそうだったし、きっとこれからもそうなのだろう。

 

 それは彼女という人間の芯の強さ――というよりは、彼女が芯に据えている人物――雲雀恭弥への忠誠の厚さにほかならない。

 ただひたすらに妄信しているのなら手懐けようもあったが、彼女の信頼は信仰ではない。彼女が信じているのは、雲雀恭弥ではなく、雲雀恭弥の生き方なのだ。

 

(カリスマ性――とでも言うんですかね、これは)

 

 雲雀恭弥は、彼女の信頼に応え続けてきた。彼が自身の生き方を裏切らない限り、彼女もまた、彼を裏切りはしないだろう。おそらく、その他大勢の賛同者たちも。

 自分を裏切るのは、他人を裏切るのと同じくらい容易である。しかし、自分を裏切るということは、自身のあり方を捻じ曲げるということである。

 捻じ曲げてしまったものは、完全には元に戻せない。針金を曲げてまた戻そうとしても、わずかな歪みが残るのと同じように。どう取り繕ったところで、芯の歪みは直せない。

 

セイも?」

 

 少女の声が囁く。

 

 骸の意識は、すでに廃墟から遠ざかっていた。肉体を有さなくなった精神は、肉体には辿ることのできない過去への道を遡っていく。

 

 もはやそれは――

 

セイの怖いもの、私が消してあげる

 

 悪夢と言って差し支えなかった。

 




二部に続くと見せかけての番外編前編です。
後編は骸の過去話。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

白は染まらない

後編と言いながら、骸の過去短編です。
時系列はエストラーネファミリー壊滅後で、ランチアのファミリーに入る前の出来事。

勘のいい方は時系列で察知されると思いますが、あえて先に言いましょう。シリアスであると。


 その組織は、エストラーネオファミリーとともに禁弾を開発していた。

 その組織は、エストラーネオファミリーが崩壊したあとも、秘密裏に禁弾の研究を続けていた。

 標的に選んだ理由は、それで十分だろう。

 

 情報屋から仕入れた情報によると、研究所はボスが所有している別荘の地下にあり、そこに入れるのは研究員を除けば幹部とその配下のみ。全員を始末するだけなら造作もなかったが、研究データの保存場所、および、関わった組織の情報を得るためには、組織に潜入して自分で情報を入手する必要があった。

 

 とはいえ、禁忌とされていた禁弾を研究している組織が、新入りの人間、それも子供を研究所内に出入りさせるわけがない。骸は数週間かけて組織の情報を集め、作戦を練った。その甲斐あって、組織に入ってわずか数日で、骸は地下への階段を降りることになる。

 

 鍵になったのは、ボスの娘である。

 ボスには骸と同じ年頃の娘がいて、彼女の教育係を探していた。そこに年が近く、教養のある新入りが組織の門を叩いたのだ。彼にとって、渡りに船だったろう。それは骸にとっても同じだった。

 

(僕は運がいい。娘が普通の人間だったならば、僕はだいぶ遠回りをさせられていたかもしれない)

 

 娘の部屋は研究所と同じく地下にあった。

 茶色の壁に赤い床。窓がない代わりに壁に絵画が飾られているが、廊下が薄暗いので絵の輪郭がぼやけて見える。長い廊下を歩いていると、案内役の男が振り返った。

 

「これからボスの娘と対面するわけだが。いいか、娘の前でボスの名前は出すなよ。娘はなんも知らねえんだ」

「はい」

「それと、娘がなにをしでかしても声荒げたり手をあげたりするんじゃねえぞ。ボスの娘なんだからな」

「了解です」

「それと……あー、先に言っておくが、あいつは相当変わってる。ボスの娘でなければ、イかれてるって言ってたところだ。奇妙な声あげながらしょっちゅう廊下を出歩いてるし、なんつーか、もうあれはどうしようもねえんだろうな」

 

 幾度となく手を焼かされたのだろう。見下ろす男の視線には骸への同情が滲んでいた。それには気付かないふりをして、骸は実直な少年に見えるように表情を引き締めた。

 

「役目を全うできるように頑張ります。えっと、意思の疎通は可能なんでしょうか?」

「どうだろうな。話そうとしたこともねえ。使用人の呼びかけには応えてたし、ある程度はできるんじゃねえか?」

「そうですか」

 

 それならば問題ない。意思疎通が可能ならば、まだ使いようがある。

 

「お待ちしておりました」

 

 ドアの前で使用人のメイドが頭を下げる。

 

「んじゃ、俺は戻るわ。あとは頑張れよ、新入り」

「はい、頑張ります」

 

 手を振って去っていく男に深く頭を下げ、そしてメイドに向き直る。佇まいからして、彼女もこの組織の一員なのだろう。

 

「お嬢様はぬいぐるみ遊びの最中です。今日は機嫌がいいみたいですから、ぬいぐるみが飛んでくることもないでしょう」

 

 娘の気質を匂わせながら、メイドが部屋のドアを開ける。地下の薄暗さに慣れていた骸の目に、一面の白が突き刺さった。

 

 部屋のなかは白一色で塗りつぶされていた。

 壁や床はもちろん、調度品もすべて白一色。ソファに散らばっているぬいぐるみの色はさすがに白ではなかったが、そこにばかり目が引きつけられてしまったせいで、その横の白い少女の姿に、束の間骸は気付かなかった。

 

 少女はソファでひっくり返っていた。

 白い肌に金色の瞳。波打つ白金の髪は、細く柔く絨毯にたなびいている。体を覆うドレスはレースが幾重にも広がっていて、少女の身体をこれでもかと白で塗りつぶしていた。そして、少女の目はこちらを捉えていない。彼女からすれば目の前にあるだろう天井の明かりを、うつろな瞳で見つめている。

 

 メイドはなにも言わない。一歩下がって骸の入室を待つ。

 試されているのだとわかって、骸はすぐさま室内に足を踏み入れた。乳白色の空間に、一点の黒が混ざりゆく。

 

(言葉は理解できるはずだ。ならば、正攻法で)

 

 絨毯に膝をついた。それでも少女の顔は骸よりも低かったが、これ以上は頭を床にこすりつけねばならなくなる。

 

「はじめまして。お嬢様」

 

 瞳が揺れた。いや、音に反応しただけで声として捉えられていない。

 どうしたものかと考えていたら、膠着を予期したメイドが骸の背後に立った。

 

「お嬢様」

 

 今度こそ、少女の目がこちらに向いた。どうやら、聞き馴染みのある声は声として認識しているらしい。

 

「お嬢様。こちらはお嬢様の教育係です。これからお嬢様の勉強を見てくださる方ですよ」

 

 メイドに促されて少女の焦点が骸に定まった。人というよりは野生動物の目つきである。

 

「お嬢様、はじめまして。お目にかかれて光栄です」

 

 少女の瞳が骸の左目に向いた。次いで右目へと視線がずれる。

 手術痕がはっきりと残っているために眼帯をつけているのだが、それが気になるようだ。

 

「僕はセイと言います。以後、お見知りおきを」

「……セイ」

 

 口が動いた。喉に張りついた声は抑揚がなく、彼女の不気味さを駆り立てる。まったく動かない表情筋と伴って、機械人形を相手にしている気分になってくる。

 

(これはなかなか手強いが――操り人形にはちょうどいい。白なら何色にでも染められる)

 

 黒い心情を隠しながら膝をつく骸は、見目だけならば姫に傅く騎士そのものであった。

 

__

 

 それから骸は、毎日その部屋へと通い始めた。

 

「お嬢様、おはようございます。……お嬢様」

「……」

 

 一応は教育係なのだが、初めの頃は反応してもらうだけでも一苦労だった。言葉がまったく届かないどころか、存在すらも認知されない。いきなり席を立って徘徊を始めるし、一日中奇声をあげ続ける日もあった。

 

「あーあー、うー」

「……」

 

 人体実験で気が狂ってしまった子供たちを何人も見てきた骸でさえ厄介だと思ったのだから、大人たちはもっと面倒に感じていただろう。ボスの愛娘でなければ、すぐさま病院送りになっていたに違いない。

 

「これが花。これは草。あれは木。お嬢様が手にしてらっしゃるのは花ですね」

「はあーな」

「そう、花です」

 

 一般常識を身に着けさせるにあたって、赤子程度の知能を幼児程度にまで引き上げるべきだと、骸は次々と物の名前を娘に教えこんだ。

 娘は鍵のかかっていない部屋ならどこにでも入れたのだが、地下庭園が好きなのか、自身の部屋にいないときはだいたいそこにいた。

 

「それはレモンですね。食べるととても酸っぱいです」

「すっぱ……?」

「今度、それを使ったお菓子を用意してきます。楽しみにしていてください」

「お菓子」

「好き、でしょう?」

「好き」

 

 そんな娘の関心を引いて、なおかつ物の名前を覚えさせるのには、並々ならぬ忍耐力が必要とされた、しかし、これも犬を――動物の犬をしつけるようなものだ。

 

「お嬢様、おはようございます」

「ごきげんよう。あれはなに?」

「あれは……薔薇ですね。ようやく咲いたようで」

 

 つぼみの頃を覚えているのか、娘は不思議そうに薔薇を見つめた。そして別の場所に咲いている花を見やって、こくりと首を傾げる。

 

「花みたい」

「花ですよ。薔薇の花です」

「薔薇? 花?」

「薔薇であり、花です。僕は人ですが、セイという名前も持っているでしょう? 薔薇という名前の花なんです」

「……わかりません」

 

 彼女は自分の名前を知らない。

 物の名前を教えるにあたって、真っ先に覚えさせるべきは彼女自身の名前だったのだが、骸も彼女の名前は知らなかった。知っているのはボスだけで、そしてボスは娘の名前をけして口にしないという。

 

 構成員たちもわざわざ好き好んでボスの機嫌を損ねようとはしないし、そもそも彼らはボスの娘にそこまでの関心を持っていない。娘が使用人以外に一切興味を示さなかったのも、自分が同じ扱いを受けていたからなのだろう。

 下手に一人称を覚えさせてそれを名前だと思われても困るので、骸もうまい手を思いつけずにいる。

 

「……おっと、いけませんよ」

 

 隙をついて薔薇に近づこうとするので、娘の手を取って制止した。

 さすがにもう手当たり次第に花を引っこ抜こうとはしないだろうが、薔薇の花には棘がある。一緒にいたのに怪我をさせてしまったら、骸の評価にも関わってしまう。

 

「あれは棘があります。痛いですよ」

「いい」

 

 少女にも痛覚はある。痛みを避ける本能は備わっているのに、娘はその白い腕を薔薇へと伸ばしていた。その腕には、骸が贈った銀製の腕輪が巻かれている。

 

「駄目です。お嬢様が怪我をしたら僕の責任になりますから」

「いい」

「お嬢様」

 

 言葉尻を強くしながら体を押さえつけると、彼女はやっと諦めて腕を下ろした。従わなかったら、担いで部屋まで運ばなければならなかったところだ。

 

「棘はとても痛いんですよ」

「……痛いの、いい。薔薇触る」

「貴方はいいでしょうけど。僕が困るんです」

「こま?」

「困ります」

「困ります」

 

 いろいろと苦労があったが、意思の疎通が言葉でできるようになったのは大した進歩である。まだ不完全ではあるものの、オウム返しに言葉を繰り返していただけの頃に比べれば雲泥の差だ。

 

「貴方は怖いものがなくていいですね。うらやましいくらいです」

 

 自身を脅かすものがなければ人はここまで愚鈍になれるのかと、無表情な少女を見下ろした。

 そのうち表情も覚えさせなければ――と思ったところで、その必要はなかったかと思い直す。彼女の教育係も、あと少しで卒業だ。

 

「怖い、ない」

 

 骸の独り言を質問と捉えていたのか、少女が首を振る。そして反対に、丸い瞳で骸の顔を覗き込んだ。

 

「セイはありますか? 怖い」

「……どうでしょう」

 

 醜いものはいくらでも目にしてきた。恐ろしいものも、いくらだって。

 しかしそれらに恐怖を抱いたことはないし、これからも抱くことはないだろう。骸の歩むべき道は、それらを蹂躙し、踏みつぶしていく道なのだから。

 目の奥に澱んだ光を宿す骸を見てなにを思ったのか、娘はいつになく真剣な顔で骸の腕を掴んだ。そして宣言する。

 

「私がしてあげます」

 

 ――それは、初めての一人称だった。

 

「私が、します。セイの怖いもの、私が消してあげる。怖いないから、セイの怖い、壊してあげる」

 

 彼女がこんなに長く喋ったのも初めてだった。まっすぐな瞳と引き結ばれた口元からは意志というものが感じられ、骸は言葉を失った。

 人形だと思っていた少女が、ここにきて人間らしさを覗かせたのだ。動転しながらも骸はなんとか表情を取り繕う。

 

「ありがとうございます。では、そのときはお願いしますね」

 

 彼女は人形だ。都合のいい、操り人形だ。人形に心を乱されるわけにはいかない。

 

「でしたら、お礼に名前を差し上げましょう」

 

 彼女は駒だ。番外に打ち捨てられていた、白色の駒。駒にも、名前がいるだろう。

 

「僕の名前を差し上げます。今日から、貴方がセイです」

 

 Sei――『六』

 数字でしかないその偽名を、名前もない駒へと刻みつける。骸の言葉に、少女は瞳を光らせた。

 

「セイが、名前? 私の?」

「ええ。でも、人に言ってはいけませんよ。二人だけの秘密です」

「秘密」

 

 言ったところでだれも気に留めないだろうし、名前なんてつけたところで、なんの意味も持たないだろう。彼女たちにもう時間は残されていないのだから。

 

__

 

 仕込みの時間が長かったからか、終わりはあっというまに訪れた。思っていたとおりに物事が進みすぎたせいで、物足りなさすら感じてしまう。

 

「……ジュ、リア?」

 

 だからだろうか。もてあました時間を消費するように、骸は少女を弄んでいた。

 いつもの地下庭園で、いつものように骸は少女――セイを見下ろしていた。

 いつもと違うのは燃え盛る炎の音と、ここまで届く煙の臭い。そして――真白なドレスを染める、真紅の血。その血は今しが息絶えたメイドの胸から流れ落ちていて、その胸に打ち込まれた弾丸は、骸の手にした銃から放たれたものであった。

 

「……?」

 

 ゆさゆさとメイドの身体を揺するセイには、彼女の死すら理解できていないだろう。当たり前だ、教えていないのだから。

 

「……セイ」

 

 呼んだのは骸のほうだった。

 油断なく銃の照準をセイの頭に合わせながら、セイが振り返るのを待つ。血と土で汚されたドレスのせいで、いつもの人形らしさは感じられない。

 

「セイ、僕を見なさい」

「……」

 

 骸を見上げるセイの目に、非難の色はなかった。いつもと同じ、ガラス玉の色合いだ。

 

「改めまして、ご挨拶を。僕は六道骸。マフィアを心から憎む者です。なにが起こっているかは、わかってますか?」

「……わからない」

「そうでしょうね」

 

 骸は口元に笑みを張りつけながら、操り人形を見下ろした。

 地下に幽閉されていた、憐れな娘。だれにも知られずにひっそりと生かされ、そして死んでいくだけだった娘。

 

「貴方は、じつにいい玩具でしたよ」

 

 彼女に『せい』を与えたのは骸だ。ならば、奪うのも骸であってしかるべきである。

 

「本当に素晴らしい働きでした。貴方がいなければ、こんなに簡単に事は起こせなかった」

 

 セイの腕に腕輪はない。だれからも警戒されない彼女は、情報収集役にはうってつけだった。与えた腕輪に仕込んでおいた盗聴器のおかげで、計画は速やかに進められた。この場にいない犬と千種は、研究の犠牲になろうとしていた被験者たちを解放している。

 

「これで僕の野望にまた一歩近づいた。貴方には感謝しないといけませんね」

 

 生き残っているのは一人だけ。引き金を引けば、もうだれもいなくなる。メイドの死体に縋りついていたセイは、ゆっくりと首を傾けた。

 

「……なんで?」

「なんで?」

 

 彼女からすれば、骸の意図なんてまったくわからないだろう。

 わからなくていいのだ。わかったところで、死ぬことに変わりはないのだから。

 

「理由なんてありません。憎いだけですよ。マフィアも、この世界も」

「違う」

 

 セイの声が響く。迫ってきた火の手に瞳の光をちらつかせながら、セイは骸をまっすぐに見つめ続ける。

 

「どうして、泣いているの?」

「は?」

 

 もちろん泣いてなんかいない。そもそも泣くなんて言葉、教えた記憶がない。

 

「泣いてなんかいません。見間違いですよ」

 

 しかしセイの瞳は骸を逃がさない。

 

「……なんで? なんで、泣く?」

「だから」

「なんで?」

 

 セイが身を乗り出した。そのまま這って近づこうとしてくるものだから、耐えられずに骸は叫んだ。

 

「動くな!」

 

 銃を構えるが、その行為が意味をなさないことはわかっていた。彼女は銃を知らない。死を知らない。恐怖を知らない。ならば、脅したところで無駄である。

 

 しかしセイは、骸の指示に従って動きを止めた。彼女は賢く、そしてどこまでも愚かだった。信じてはいけない相手を信じ、すべてを失った。彼女の存在を知っている人間は、もうどこにもいない。骸を除いて。

 

 腕の震えは興奮のせいだ。骸の顔を知っているセイを始末すれば、ほかのマフィアに追われることもないだろう。始末しなければ、憂いが残る。それなのに、引き金を引けない自分がいて、骸は大いに戸惑った。その動揺が、銃を持つ腕を重くさせる。

 

「……怖いの?」

 

 身じろぎひとつせずに尋ねるセイの声に憂いはない。平坦で、機械みたいで、それでも、人間の声だった。いつから、人形を人間に育て上げてしまったのだろう。

 

「骸が怖いの、セイ?」

 

 その問いに、骸はとうとう視線を逸らした。白い少女は、それだけですべてを理解したようだ。

 

「……わかった」

 

 乾いた発砲音が響き、骸は顔を跳ね上げた。

 

 まるで悪夢のようだった。

 後ろに倒れこんでいくセイの身体も、伸ばした自分の腕も、すべてがゆっくりと動いて――

 

「セイ!」

 

 ――すぐに、動かなくなった。

 

 広がる赤が、もう一度白を汚す。呆然としながら、骸はセイの傍らに膝をついた。その手に握られているのは、金色の拳銃。

 

「……護身用」

 

 いつから身に着けていたのかはわからない。しかし、彼女が自分自身を撃った原因はわかっている。わかっているからこそ、骸は立ち上がれずにいた。

 

 彼女は約束を守ったのだ。生まれて初めて自分から口にした約束を、躊躇いもせずに。

 

「……お前は本当に愚かでしたね。セイ」

 

 後悔はない。どうせ、だれからも必要とされていなかった人間なのだ。ここで生き残ったところで、彼女の未来に光はなかっただろう。

 それでも骸は立ち上がれずにいた。何色にでも染められるだろうと思っていた白は、何色にも染まらないまま、消えてなくなった。――骸の心に、一点の白を残して。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二部一章:ボンゴレアジトにて
最初は暗闇


 

 見上げても黒。振り返っても黒。

 眉間に皺ができるくらいギュッと目をつむってから開けてみても、見える色はただ一色、黒だった。

 

(……なんで?)

 

 素足に触れている地面はひんやりと冷たく、そしてつるつると硬い。

 先ほどまで歩いていたコンクリート道路の感触でないことは明らかだった。

 

(なに? どういうこと?)

 

 戦いから抜け出して自宅――ではなく、病院に向かっていたはずの利奈は呆然とする。

 右腕に大怪我を負っている状態で家に帰れるわけがない。だから、日頃から懇意にしている病院で治療してもらおうと思っていたのに。気付いたらどこかの室内だ。

 

(部屋のなか、だよね? なにも見えないけど)

 

 視界は役に立たないが、ほかの知覚は残っている。

 空気の動きが感じられないし、かすかに匂うよそよそしい匂いは自然のものではない。

 

「あ、あー。……声は聞こえてる」

 

 自分の部屋と同じくらいの空間だろうか。病院特有の匂いはしないから、意識を失って病院に担ぎ込まれたというわけでもないだろう。そもそもその場合、目覚めるのはベッドの上であるはずだ。

 

(じゃあいつも通り、だれかに捕まったとか……でも、手も足も縛られてないな。

 外にだれかがいる気配もないし、襲われた記憶も――そういえば後ろからなにかぶつかったような?)

 

 背中に衝撃を受けた記憶はある。気を失っているあいだに、どこかに運び込まれたのだろうか。

 

 いずれにしろ、座りこんでいては埒が明かない。

 立ち上がった利奈は、右手を前にさまよわせながら、ゆっくりと前進した。

 明かりのスイッチはだいたい壁面に備えつけられているだろうし、この部屋から出るにはドアを見つけなければならない。どうせ外側から鍵をかけられているだろうけれど、スイッチはたいていドア近くに設置されている。

 

(おっ、ここが壁だ。物に全然ぶつからないけど、この部屋なにもないのかな?)

 

 蹴躓いて転ばないので済むのはうれしいけれど、いざというときに武器にできるものがないのは心細い。

 

(……って、あれ? 私、携帯持ってるじゃん)

 

 今さらながら持ち物を確認したら、制服のポケットに携帯電話が入ったままになっていた。拉致されたのなら当然没収されていると思っていただけに、うれしい驚きだ。

 

(あー、圏外だからか。でも、携帯があれば)

 

 携帯電話を操作して、カメラ部分から光を出す。おまけの機能だけあって心もとない光だけど、暗闇のなかではまさしく光明である。

 利奈は携帯電話を振って部屋の全体を確認した。

 

(やっぱり普通に部屋だ。上の方に配管があるから、工場かどこか?)

 

 壁は真新しく、配管にも汚れはついていない。

 ついでに床も照らした利奈は、反射した銀色の光に目を丸くした。

 

(ベルのナイフ! 私が持ってたやつ! なんであるの!?)

 

 何者かが利奈を監禁したのなら、ナイフなど、真っ先に取り上げるべき代物だろう。

 携帯電話を没収しなかった理由はここが圏外だったからだとしても、隠してもいなかったナイフを没収せず、そのうえわざわざ気を失っている利奈のそばに置いておくなんて、行動が理解不能である。

 

 様々な疑問を抱きながらも、利奈は薄明かりに見つけた部屋のドアへと近づいた。鍵がかかっていると思っていたドアだが、利奈がそばに寄ると同時に勝手に左右へと動いた。

 

「うわっ」

 

 不意の電灯光に目を焼かれた。白に眩んで目をつぶった利奈は、数秒耐えてからゆっくりと目を開けた。

 

 外は長い廊下になっていた。

 こちらも壁や床が真新しいうえに、鉄材やら段ボール箱やらが至る所に置かれている。もしかしたら、建築途中のビルなのかもしれない。

 

(まだできてない建物だったら、監禁場所にちょうどいいだろうけど……近くに工事中のビルなんてあったっけ?)

 

 相変わらず人の気配はない。この時間では、働いている人もいないだろう。

 だれかが現れる前に逃げ出しておくべきか、それとも状況把握に努めるべきかと逡巡する利奈の耳に、硬い足音が聞こえてきた。

 

(だれか来る!)

 

 部屋に引き返すべきか、それともこのまま逃走するべきか。

 迷った利奈は、部屋のすぐそばに積まれていた段ボールの陰に隠れた。大量に積まれている段ボールは、しゃがんで身を潜めるには絶好の隠れ場所である。

 

(怪しい人だったら、すぐに逃げよう。怪しくなかったら……うー、やっぱ逃げなきゃ)

 

 自分の意思で侵入したわけではないにしろ、今の利奈は不法侵入者である。これから現れる人物がまったく無関係の人だった場合、なおさら見つかるわけにはいかなかった。

 

(来た……!)

 

 身を縮めて、情報を得ようと耳をそばだてる。

 

 足音は複数人のものだった。カツカツと鳴る音は革靴のもので、音の重なり方からして二人。

 

「ここもだいぶ工事が進んだね。ジャンニーニの話だと六割くらいって話だけど」

「どうですかね。あいつは大げさに話しますから」

 

 声音は成人男性のものだが、そこまで低くはない。声のトーンからして、馴染みの関係であることが窺える。

 男性二人の髪色は片方が銀色で、片方が茶色である――というのは、さすがに音では判断できなかったけれど、段ボールから半分顔を出して目視した後ろ姿でわかった。

 

(工事の関係者さん……?)

 

 黒いスーツを着た二人は、どう見ても土方の人間には見えなかった。

 こんな深夜に工事の進捗を見に来たのだろうか。

 

 だとしたら、利奈を攫った連中は、ビルの関係者が来たことに気付いて逃亡したに違いない。

 不法侵入者であるうえに中学生を誘拐している最中だと知られたら、かなりの大事になるだろう。騒ぎになる前に、どうせ風紀委員が揉み消すのだが。

 

(よかった、これなら普通に逃げられそう。あの人たちが角を曲がったら反対側のほうに――)

 

「そうだ、ちょっとジャンニーニに明日の確認を――」

「え」

「……」

 

 茶髪の男性が踵を返そうと体を捻ったところで、ばっちり目が合った。

 不自然な体勢で止まった彼に反応して、もう一人の男も利奈の存在に気付いてしまう。

 

(み、見つかっちゃった……!)

 

 これは利奈の落ち度ではない。

 顔を引っ込めようとしたところで片方が引き返そうとするなんて、予想できるわけがなかったのだから。

 

 見つかってしまった以上、頭を引っ込めるわけにもいかず、利奈は慌てて立ち上がった。

 あとから考えれば完全に悪手だったのだが、そのときの利奈は、事情を説明して穏便に済ませてもらわなければという使命感で頭がいっぱいだったのだ。

 警察に通報されるだけならまだしも、家に連絡が行ってしまったらもう取り繕いようがない。最悪、学校を辞めさせられてしまうだろう。

 

「あ、あの、私――」

「動くな!」

 

 段ボールから抜け出そうとする利奈に、鋭い制止の声が突き刺さった。

 銀髪の男が、もう一人の男を庇うように前に出て腕を構えている。その表情は殺気立っていて、殺気慣れしている利奈でも体を震わせる凄味があった。

 

(え、なになに、怖いんだけど! そんな怖い顔しなくても!)

 

 深夜に建築途中のビルに子供が入りこんでいたのだから、驚いたり怒ったりするのは当然だ。しかし、それにしても態度が物騒である。子供相手にしては大げさすぎた。

 

(私が入りたくて入ったんじゃないんだし、そんな怒らなくたって……そりゃ、血だらけだしナイフ持ってるけどさ……って、それじゃん!?)

 

 そう、立ち上がったことで、鞘がなく手に持ったままになってにいたナイフが彼らの目に入ってしまったのである。

 深夜にナイフを持った人間が物陰に隠れていたら、それが子供であろうと脅威に感じるのは当然だ。

 

(そっか、これのせいか! それじゃ拳銃向けられたって仕方ない……って銃!?)

 

 ここにきて利奈は自分に向けられていた銃口を二度見した。

 先ほどまで校庭でザンザスがばかすかと銃を撃っていたためにうっかり違和感なく受け入れてしまっていたが、銃を携帯している男も、立派に銃刀法違反の犯罪者である。

 

(どど、どういうこと!? やっぱりこの人たちが私を拉致したってこと!?)

 

 二人の視線は利奈の左腕に集中していた。

 銀髪の男は手に握られたナイフに。茶髪の男は利奈の左肩の傷に。

 

(とにかく、ナイフを捨てなくちゃ!)

 

 ナイフを持ったままでは、言い訳をしてもろくに聞いてもらえないだろう。

 放り投げることもできないのでそのままナイフを下に落とすと、銀髪の男がジリジリと距離を詰め始めた。

 

「お前、どうやってここに入った。お前は何者だ」

 

 低く囁くような声に利奈は応えられない。

 その問いで彼らが利奈を攫った人物ではないことが確定したけれど、どうやって入ったかなんて聞かれても困る。

 それに、まだ距離があるとはいえ、銃口を向けられたままでは生きた心地がしなかった。

 

「答えろ。さもなくば――」

「待って、獄寺君」

 

 いつの間にか、庇われていたはずの男が銃を構えていた男の隣に並んでいた。そして右手を銃の上に乗せ、ゆっくりとその銃を降ろさせる。

 銃口から解放された利奈はその場にへたりこみたい衝動にかられたが、まだ危機は脱していないと気を引き締める。

 

(……あれ? 今、獄寺君って言った?)

 

「あの子はどう見ても一般人だ。それに、怪我をしている」

「ですが、ナイフを所持しています。それに、ただの一般人がここに入れるわけが――」

「心当たりがある。ここで待ってて」

「っ、十代目!」

 

(え、十代目?)

 

 聞き覚えのある固有名詞に首を傾げているあいだに、男がゆっくりと歩み寄ってきた。

 警戒心を解くためにか、表情は柔らかく穏やかで、銃を持った男の仲間だというのに利奈は緊張しなかった。その顔にどこか見覚えがあったのも、緊張感を解く要因だったのかもしれない。

 

「君、その怪我はどこで?」

 

 彼は利奈の素性を尋ねなかった。応急手当しかされていない左腕を見て、痛ましそうに目を細めている。

 

「がっ、学校で。……ちょっと、事件があって」

 

 学校でいじめられてできた傷だと思われたら大変だと言い募ったが、これはこれで語弊があった。どうせリング争奪戦の痕跡は消されてしまうのだから、事件なんてなかったことにされるのに。

 

「事件?」

 

 ふと、彼の瞳に思念の色が浮かぶ。

 なにかを思い出そうとしている動作に疑問を抱きながらももう一人に目をやると、そのもう一人は驚愕の瞳で利奈を見つめていた。

 茶髪の男の身体が利奈の左側半分を隠しているので、もう一人には利奈の右半身しか見えなくなっている。そして彼は、利奈の右半身を見て、心底驚いた表情で唇を震わせた。

 

「お前、まさか……!」

「ひっ」

 

 ずかずかと足を進める男に身を引くが、男はかまわずに利奈の右腕に巻かれていた腕章を摘まんだ。

 

 ――普段は左腕に巻かれていた腕章だが、止血のさいに邪魔になったので、今は右腕に付け替えられている。

 ナイフが刺さった箇所がわずかに上だったために流血で汚れてしまっているが、生地はまったく傷んでいない。むしろ腕章に刺さってくれていた方が怪我も浅くてすんだのだろうが、そんなことを言ったら恭弥に処罰されそうなので、絶対に口には出せなかった。

 

「十代目、これは……」

「そう、俺もそう思った。彼女はおそらく――」

 

(え、なに?)

 

 二人の強い視線に、利奈はたじろいだ。

 

「お前、名前は」

「え……」

 

 彼らはどうやら、並盛町風紀委員の素性を知っている側の人間らしい。それならば、風紀委員会唯一の女子である利奈の名前など、聞かずともわかりそうなものでもあるが。

 それにしても――

 

(似てる……)

 

 二人とも、利奈の知人によく似ている。

 とくに銀髪の男性なんて、背の高さを除けば声も含めてほとんど隼人である。隼人の兄であると言われたら納得するくらいそっくりだが、しかし、利奈はそうは思えなかった。

 茶髪の男を十代目と呼んだ彼の声のトーンが、利奈のよく知る隼人のものと瓜二つだったからだ。

 

 だから利奈は、自分の名前を口にするために開いた口を、わずかに縦に動かし、

 

「……獄寺、君?」

 

 と、首を傾けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

生じる齟齬

 

「嘘だ」

 

 治療のためにと連れられた医療室にて利奈は嘆いた。

 医療室といっても高度な医療器具などはなく、学校の保健室とそんなに変わりがない。ベッドや棚、座っている丸椅子なんかも、いたって普通の市販品だろう。

 

「嘘だ」

 

 腕の治療のためには、どうしても服を脱ぐ必要があった。でも、いくら怪我の手当てのためといったって、男性二人の前で下着姿になんてなれるわけがない。

 しかしそこは綱吉も考慮していたようで、医療室に入ると同時に彼はベッドのシーツを抜き取って利奈に差し出した。

 

 なので利奈は今、素肌の上にシーツをまとい、左肩から先だけを外に出している。

 肩紐は見られてしまうけれど、隠すために紐を外して露出を増やすのも変だったので、そこは妥協した。

 それに、気にしているのは利奈だけで、大人になった二人は礼儀として気を遣っているだけだ。その証拠に、振り向いた二人の表情は、まったくもって平静そのものだった。

 

「嘘でしょ」

 

 包帯を巻いてくれたのは隼人だが、彼の手際は見事なものであった。消毒液はかなり染みたけれど、包帯の巻き方は迅速なうえに均一で、彼の元来の几帳面さがにじみ出ていた。

 

「嘘に決まってる」

 

 ――初対面に思えた彼らが成長した隼人と綱吉であるということは、もう受け入れていた。受け入れるしかなかった。

 

 隼人は顔も声もそっくりそのまま本人が成長した姿だったし、なにより、利奈の負っている怪我の原因と、利奈が戦いに参加した本当の理由まで言い当てたのだ。

 

 怪我の原因は、あの戦いを見ていればだれでもわかるだろう。

 しかし、戦いに参加した理由――クロームの救出という骸からの依頼は、だれにも話していない。あの時点ではだれも知らなかったはずの情報だ。それを一発で言い当てられてしまえば、未来の隼人であると認めざるを得なかった。

 

 そして、目の前の人物が隼人であると認めてしまえば、もう一人が綱吉であると受け入れるしかない。

 声も顔つきもまるで別人とはいえ、隼人が十代目と呼ぶのは綱吉だけだろう。教室で見慣れていた隼人の態度だけが、綱吉を綱吉だと認識させていた。それを聞いたときの綱吉のなんともいえない表情は、少し面影を感じたけれど。

 

 しかし、そこからが問題だった。

 利奈は彼らに、二人はどうして過去に来たのかと尋ねたのである。

 この時代にタイムマシンはないし、技術の進化を考えれば、未来の彼らが利奈の時代に来たと考えるのが筋である。なにせ、利奈はタイムマシンになど乗っていないのだから。

 

 しかし彼らは、気まずそうに顔を見合わせ、そして、同情の眼差しを利奈に向けたのである。そのときからいやな予感はしていたが、よくよく思い出してみれば、おかしな話だったのだ。

 

 夜道を歩いていたはずなのに、いつのまにか真っ暗な部屋に移動していて。

 利奈はここがどこだかわからないのに、二人はこの場所を知っている。

 

 つまり、逆なのだ。彼らが利奈の前に姿を現したのではなく、利奈が彼らの前に姿を現した。

 つまり、時空を超えたのは――

 

「嘘だって言って……!」

 

 続く沈黙に堪えきれなくなって頭を抱えようとしたが、上げようとした左腕に激痛が走り、あえなく悶絶する。かといって、右手をシーツから離したらとんでもないことになってしまう。

 頭を抱えることすら許されないのかと利奈はまた嘆いた。

 

「残念ながら、ここは君にとって十年後の世界だ」

 

 利奈は口元を引きつらせながら顔を上げるが、綱吉はまじめな顔で利奈を見つめ返す。

 

(……頼むから、そのまじめな顔のままでもいいから、実は嘘ですドッキリですって言って)

 

 そうだ、これはなにかの罠だ。

 風紀委員の利奈に目をつけた何者かが、利奈を利用するためにたちの悪い罠を仕掛けたに違いない。

 利奈の同級生に似た人物を二人用意し、ここは十年後だと嘘をついて利奈を監禁――したところでいったいなんの利があるのか。それに、目の前の二人は利奈の知っている二人に間違いないと、認めたばかりではないか。

 

(信じられない。信じたくない。もう全部夢だったらいいのに……)

 

 いっそ、骸から電話がかかってきたあたりから、すべてが夢であったなら。

 しかしこれが夢でないとわかっている以上、願えば願うだけ虚しくなるだけだ。そんな利奈の心情を汲んでか、綱吉は同情の眼差しを送る。

 

「相沢さん、ランボにはもう会ってる?」

「ランボ君? 知ってるよ、さっきも一緒にいたし」

 

 なぜランボの名前がと首をひねりつつ、利奈は頷いた。頷きながら、十年後のランボの姿を思い描いてみる。あの天然パーマはそのままの毛量なのだろうか。

 

「ランボが持ってる武器に、撃った人を十年後のその人に入れ替える武器があるんだ。十年バズーカって言うんだけど」

「十年バズーカー」

 

 語尾を伸ばしながら復唱した。なんというか、そのままズバリな名前をしている。

 

(えっと、だからつまりあれで、その十年バズーカってのに撃たれて私が入れ替わったってこと? じゃあ、あっちには十年後の私が行ってて、私は十年後の世界に来てるってわけで――)

 

「ちょっと待ってください」

 

 しばらくぶりに隼人が口を開く。

 十年のあいだに右腕役がすっかり板についたらしく、今の今まで、完璧に綱吉の補佐に徹していた。

 

「十年バズーカに当たったのなら、もうとっくに元のすが――元の世界に戻っているのでは? あれの入れ替わり時間は、五分間でしたよね?」

「え!?」

 

 つい時計を探してしまったけれど、時間を確認するまでもなく、とっくに五分以上経過しているだろう。あの部屋から出るだけでも五分くらいかかっていたのだから。

 

「俺もそれは考えたけど、あれしか考えられないよ。

 もしかしたら、十年バズーカが故障していたのかもしれない。ほら、獄寺君、体だけ小さくなったことがあったでしょ」

 

 隼人が苦虫を潰したような顔をする。

 

「そういや、そんなこともありましたね……。となると、今回もそんな感じで」

「そうかもしれない。俺は相沢さんがリング争奪戦のときに学校にいたことも知らなかったから、なんとも言えないけど」

「そういえば話してませんでしたね。いや、確か利奈が話すなと――」

 

(……なんか、眠くなってきたかも)

 

 二人の声がだんだんと遠くなってきた。

 日付はとっくに変わっているし、普段なら絶対に眠っている時間帯だ。

 ここが未来であるというショックで眠気はある程度吹き飛ばされたものの、学校で動き回ったせいもあって、かなり疲労も溜まっている。未来でも過去でもどうでもいいから、早くベッドに横になって休みたい。

 

 うつらうつらと意識が遠ざかっていくなかで、ドアの開閉音がわずかに耳に届いた。

 重たいまぶたを押し上げた利奈は、そこに立つ同じ年頃の少年の姿に、目を丸くする。

 

(男の子だ。こんな夜中にどうしたんだろう――って、わっ、やだ!)

 

 少年の視線が利奈の顔から下に移ったのを見て、利奈はバッと前かがみになった。

 大人二人が真面目に話し合っていたから忘れていたけれど、今の利奈はとても人に見せられる格好ではなかった。一瞬で頬と耳が熱くなる。

 

「ランボ。お前、こんな時間にどうした」

 

 綱吉が庇うように前に立ったのが気配で感じられた。

 さすが大人、さりげない気遣いである。

 

「水を飲もうと部屋を出たところ、侵入者の話を聞きましてね。まあ、すぐにボンゴレの顔見知りの少女らしいと判明したのですが。

 ボンゴレの顔見知りなら、俺も知っている人物かと思って様子を見に。……予想ではイーピンだったのですが」

 

 迫る足音に利奈は身を震わせた。初対面の人に来ないでなんて言えないけれど、今は近づかないでほしい。

 

「ああ、怯えないでください。これを渡そうと思っただけなので」

 

 床しか見えていなかった利奈の視界に、黒い服が映りこむ。

 

「ありあわせで申し訳ないですが、とりあえずはこれを。そんな恰好でいたら風邪を引いてしまいますから」

 

 少年が着ていた上着だろう。利奈はもぞもぞと右手をシーツから出して、ほのかに体温が残るそれを受け取った。

 

「あ、ありがとう……ございます」

「どういたしまして。お嬢さん」

 

 お礼を言うために顔を上げたけれど、少年はすでに背を向けていた。それに倣ってほかの二人も再び背を向けたので、利奈は左腕を庇いながらもなんとかジャケットを着用した。片手でボタンを留めるのは手間だったけれど、これでようやく体を起こせる。

 

「着たよ」

 

 三人が向き直り、改めて少年と対面を果たす。

 パッと目を引いたのは緑色のたれ目だ。彫りの深い顔立ちをしているし、日本人ではないのだろう。

 そして次に目を引いたのは肌の露出。着ている服は普通だけど、胸元のボタンを二、三個多く開けすぎている。寝間着代わりに着ていたのならおかしくはないけれど、男性の身体を見慣れていない利奈には刺激が強かった。なんというか、色気がすごい。

 

(……あれ、なんかこの前会った人に似てない?)

 

 十年後の世界の住人と面識があるというのもおかしな話だが。十年前の世界では彼は子供だったはずなのに。

 

(十年、前?)

 

 利奈はもう一度目の前の人物を観察した。

 緩い天然パーマ。緑色の瞳。牛柄のシャツ。十年前では幼児だった。

 

「あー! わかった!」

「あ、俺もわかりました」

 

 利奈は勢い良く立ち上がったが、彼は軽い調子で手を鳴らす。

 

「利奈さんですよね。雲雀氏の部下の」

「大きくなったランボ君でしょ! 私だよ、私! この前会った! ……って、え?」

「……え?」

 

 二人のあいだにはかなりの温度差があった。

 ランボがあまりにも他人行儀だったので、前のめりになっていた利奈は引っ込みがつかなくなる。

 

「私、ヒバリさんの部下になってるの……? じゃなくて、この前も会ったよね? ほら、何日か前に」

 

 たった今思い出したけれど、骸が応接室で好き勝手やってくれた日に、利奈はこのランボと対面を果たしている。

 あのときの綱吉は自分の友人だとごまかしていたけれど、そういえば、そのちょっと前に子供のランボが頭の中からバズーカを取り出していた。あれが十年バズーカなら、この十年後の世界で、あのときの彼が現れたことにも納得できる。

 

(やっぱりここ十年後なんだ! すごい、漫画みたい!)

 

 だが、ランボには忘れられている。

 

「転んだ私に手を貸してくれたでしょ? 覚えてない?」

「はて……。こんなかわいいお嬢さん、一度見たら忘れないはずなのですが」

「忘れてるじゃん……」

 

 十年前の世界での出来事とはいえ、入れ替わった彼自身にとっては何日か前の出来事であるはずだ。それなのに、ランボは利奈を顔を見てしきりに首をひねっている。

 

「そもそも、ここ最近は十年前には行っていませんよ? 夏ごろに肝試しに巻き込まれたくらいで」

「夏!? うそ、だってあれ数日前だよ」

「おい」

 

 いまいち繋がらない二人のやり取りに痺れを切らしたのか、隼人が会話に割って入ってきた。

 

「お前が十年前に行ってないわけないだろ。リング争奪戦はどうなってんだよ」

「リング争奪戦……? いえ、記憶にございませんが」

「ああ? お前、寝ぼけてんのか? すぐに二十年後に変わったからっていくらなんでも――」

「ちょっと待って」

 

 混乱してきた場を収めるように、綱吉が右手を上げる。

 

「細かい話は明日にしよう。もう夜も遅い」

 

 このまま話していたら、夜が明けかねない。

 疲労の貯まっている利奈にとってはありがたい提案である。一も二もなく頷くと、隼人がこれ見よがしにため息をついた。今は二人に比べれば子供なんだから、そこは大目に見ておいてほしい。

 

「とりあえず、相沢さんには空き部屋を使ってもらおう。服を用意してあげたいけど……相沢さん、今日のところは我慢してもらえないかな」

「うん、大丈夫」

 

 部屋を用意してもらえるだけでもありがたい。なんなら、すぐ横にあるベッドでもいいくらいだ。

 

「それなら、俺の服を貸してあげますよ。その恰好でいるよりはましだと思います」

「ほんと? ありがと」

「それなら、あとはランボに任せるよ。隣の部屋が空いてただろうし、俺たちもいろいろと話があるから」

「二人ともまだ寝ないの?」

「お子様と違って大人は忙しいんだよ。ほら、ランボ、連れてってやれ」

「わかりました。さあ、どうぞ」

 

 同級生から子ども扱いを受けながらも、ランボのエスコートで医療室を出る。

 ドアが閉まる前に振り返ったときの二人の顔には、とても複雑そうな表情が浮かんでいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沈黙は語らない

 

 医療室を出てからの記憶はおぼろげだ。

 眠気と疲労でいっぱいいっぱいだったし、とにかく一日のあいだにいろんなことがありすぎた。ランボに借りたシャツに着替えた利奈は、ベッドに潜りこむと同時に深い眠りへと沈んでいった。

 身動きひとつせずに熟睡できたのは幸運だろう。

 無造作に寝返りを打ったりしたら、激痛に苛まれて飛び起きることになっていたに違いない。

 

(……ん)

 

 ぱちりと目を開けた利奈は、寝る前とまったく同じ部屋の暗さに驚いた。

 ぐっすりと寝入ったつもりでいたのに、室内にはまったく日の光が差しこんでいない。

 

(今、何時だろ……うわっ)

 

 目覚まし時計を手に取ろうと伸ばした手が、棒状の柵に触れる。

 冷たい鉄の感触に驚きながら手を引っこめた利奈は、昨日の出来事を鮮明に思い出して、顔を枕にうずめた。

 

(……そうだ、ここ、家じゃなかった)

 

 現実はいつだって非情である。今は現在ではなく、未来だ。それを裏付けるように、左腕がズキズキと痛みを主張し始める。

 利奈はため息をついてベッドから起きあが――る前に二段ベッドの下段にいたことを思い出し、滑るようにしてベッドを降りた。床の冷たさが直に伝わってくる。

 

(ケータイ、どこ置いたっけ。真っ暗で全然見えない……)

 

 寝る前のことだからはっきりとは覚えていないけれど、そんなに広い部屋ではなかったはずだ。昨日と同じように暗闇をさまよった利奈は、見つけた携帯電話で視界を照らして、無事に明かりのスイッチを入れた。

 

(六時。いつもと同じ時間)

 

 寝間着代わりのシャツを脱いで、新しいシャツに着替える。両方ともランボから借りたものだ。

 ランボはシャツとズボンのふたつを貸してくれようとしたけれど、ズボンはサイズが合いそうになかったから断った。制服のスカートもそこまで汚れていなかったし、だぼだぼのズボン姿をみんなにさらすのも気が引けたからだ。

 シャツも大きかったけれど、長い袖をまくり、余った裾をスカートに押しこんで着替えを終える。前開きのシャツは片腕が使えなくても着られるから楽でいい。

 

 ランボは幼いころ同様牛柄が好きなようで、借りた服はどちらも白地に黒の牛柄の服だった。同じように見えて微妙に差異があるあたり、彼なりにこだわりがあるのだろう。

 

(朝になったら部屋に来てって、昨日言ってたっけ……)

 

 時間の指定がなかったということは、利奈の起きた時間に合わせるということだろう。

 そんなわけで、利奈はランボの部屋の前に立った。

 

「ランボ君、おはよう! 起きてる!?」

 

 物が落ちる音がした。いや、音の重さからすると、ランボがベッドから落ちた音だろう。

 出てくるのを待っていたら、機械式のドアが左右に開いた。まだ覚醒しきっていない顔のランボが、うつろな目を利奈に向ける。

 

「……朝、早いんですね」

「朝型なの」

 

 早朝の委員会活動に慣れてしまったせいで、すっかり朝型人間になってしまっている。いや、前の学校でも運動部に入っていたから、朝練のために早起きしていたけれど。

 

 ランボはイメージ通りに夜型の人間だったようで、眠たげに頭を掻いている。

 大胆にはだけられた胸元と、けだるげな眼差し。さらには寝起きの低音ボイスという色気駄々洩れなランボだったが、利奈の心はまったく乱れなかった。

 どうしても子供のランボが脳裏にちらついてしまうからだ。なんというか、時の流れは恐ろしい。

 

「まだ寝る? 寝るんだったら部屋で待ってるけど」

「いえ、女性を待つことはあっても待たせることは……ふわぁ。

 大丈夫、ちゃんと起きてますよ。すぐに着替えますので、ここにいてください」

 

 やけに口調がゆったりとしている。

 

「うん。ごめんね、ゆっくりでいいから」

「いえ、すぐに済ませます。女性を待つことはあっても、待たせることは……」

 

 同じ言葉を繰り返すランボに若干の不安を抱いたものの、ランボは言葉通り、手早く着替えを済ませて部屋から出てきた。

 

「さて、ボンゴレに朝の挨拶をしに参りましょうか」

「沢田君の部屋に行くの?」

「いえ。最近は自室で休む時間すらないようで」

 

 とても重要な案件を抱えているらしく、ここにいるときはほとんど作戦室に閉じこもっているそうだ。

 マフィアの抱える重要案件という響きにきな臭さを感じながらも、利奈はランボとともにエレベーターに乗りこんだ。そして、上部に表示されている階数表示の文字に目を丸くする。

 

「え、B……? 地下なの!? ここ」

「そうですよ」

 

 なんで今さら、みたいな顔をされるけれど、あの二人から聞いていないのだから仕方がない。もっとも、ここが未来であるという発言のあとでは、なにを言われても耳をすり抜けたかもしれないが。

 

 ランボがB5Fのボタンを押す。

 奇しくも、その階層は一番初めに利奈がいた階層だったのだが、当人は知らずに光る階層ボタンを眺めていた。

 

「地下五階には、風紀財団に通じる通路もあるんですよ」

「……風紀財団」

 

(なんだろう、初めて聞く名前なのにものすごく聞き馴染みを感じる……)

 

 ランボに説明を求めるまでもない。間違いなく恭弥が設立した会社だろう。そして、十年後の自分はそこで働いている。

 

(ちょっと待って! 昨日はスルーしちゃったけど、私、そんなわけのわからない会社で働くの!? わけのわからないっていうか、なにしてるのかはだいたいわかるけど! え、ほんとに!?)

 

 名前からして、風紀委員でやっている後ろ暗い仕事を、そのまま引き継いだ会社なのだろう。しかし、それはもはや暴力団と遜色ないのではないだろうか。

 マフィアの会社と通路がつながっている時点で、紛れもなく黒であり、裏である。裏会社を牛耳るボスとしての雲雀恭弥が脳裏に浮かび、利奈は顔を青くした。

 

(未来のヒバリさんがそんな仕事してても違和感ないけど……でも私もやってるんでしょ!? なんで!? 馬鹿なの!?)

 

 ――未来の自分の正気を疑う利奈だが、それは現在の利奈にも言えることであった。

 今の仕事を会社として行うのは犯罪だというのなら、中学校の委員会活動で同じことをやっている今のほうが、よほど犯罪なのである。しかし、利奈はその点に思い至らない。

 

「通路があるといっても、使ったことは一度もないそうです。お互い、相手には干渉しないというスタンスだそうで」

「なんで作ったの……」

 

 使わない通路になんの意味があるのだろうか。いざというときの避難経路にでもするつもりなのか。

 

(……それよりも、地下にそんなのたくさん作っちゃっていいの? ヒバリさんは許されるだろうけど、沢田君はいったいどんな取引を……。

 そうだ、地下っていったら地下商店街の工事が始まってるんじゃ)

 

 話が過去、つまり利奈にとっての現在に飛んでしまうが、並盛町では、地下商店街を作る計画が始まっている。並盛町の活性化になると恭弥も賛同していたけれど、まさか、そのときから地下組織を作る計画を練っていたのだろうか。帰ったら、それとなく聞いてみるのもいいかもしれない。

 

 エレベーターを降りて、資材が置かれたままになっている廊下を歩く。工事中のわりには作業員の姿が見当たらない。

 

(……そもそも、工事終わってないのにもう使ってるのも変だよね。

 工事終わるの待つ時間もないとか?)

 

 とても重要な案件があるとランボが言った。

 マフィアの抱える重要案件なんてなにかの取引か抗争しか思い浮かばないけれど、そうでないことを祈るしかない。すくなくとも、元の世界に戻るまでは。

 

「広いね、ここ。部屋いっぱいで迷子になりそう」

「慣れればそこまででもないですよ。作戦室は大きいからわかりやすいですし……ああ、そこです。そこに財団の通路……が……」

「あれ?」

 

 ランボの言ったとおり、廊下の角には別の場所に通じる通路が存在していた。

 しかしこの場合、通路が通路であると認識できること自体が異常なのである。通路は閉じていればただの扉で、通路とは認識されないのだから。

 

「通路、開いてるね?」

「開いてますね……」

 

 ごつごつとした扉の奥に、こことはまるで違う様式の廊下が広がっていた。

 日本人の利奈にとっては馴染み深いはずの純和風な廊下だが、庶民の利奈には縁遠い、高級旅館のような佇まいをしている。点在している欄間はひとつひとつ細かい細工が施されているし、障子の張られた丸窓は空間に奥行きを与えていて趣深い。さらによくよく見ると、壁の下部には模様まであしらわれていた。なにひとつ妥協を許さない、匠のこだわりが感じられる和の空間だ。

 

 そして現状、その完璧さが見事に仇となっていた。

 工事中とはいえ、デザインには力を入れていないこちらの建物とつながっているせいで、なんともいえない不自然さ、でこぼこさ、歪さを感じてしまう。名画を質素で安っぽい額縁が縁取っているような残念さだ。開けっぱなしにしただれかの代わりに扉を閉めたくなってしまう。

 

「変ですね。ボンゴレがあちらに出向くときすら、開けることのなかった扉なのに」

「じゃあ、あっちからだれか来たんじゃないかな。ヒバリさんとか」

 

 縄張りを侵食されるのは嫌うけれど、他人の縄張りに踏みこむぶんには抵抗はないだろう。となると、恭弥が綱吉を尋ねにこちらに来ているのかもしれない。

 

(十年後のヒバリさん……想像つかないな)

 

 隼人と同じく声変わりは済んでいるから、声に変化はないだろう。しかし、どれだけ身長が伸びて、どれだけ容貌が変わったかは、実際に対面してみなければわからない。せっかく未来に来たのだから、恭弥の顔くらいは拝んでおきたいものだ。

 

(ほかのみんなだったら意味ないんだけどね! 元から老け顔だから!)

 

 ほかの仲間たちも全員在籍しているだろうことを確信しながら、前を歩くランボの天然パーマを見つめる。幼少期は肩幅よりも広がっていたモジャモジャ頭も、十年経ってかなり落ち着いたようだ。

 

「……おや」

 

 ノックするまでもなく開いた作戦室の扉だが、期待した人物の姿はなかった。

 恭弥どころか綱吉もいない。というか、室内にはだれの姿もなかった。

 

「いませんね」

「いないね」

 

(なかにいたのが沢田君でもヒバリさんでもなくて、まさかの山本君! ……とかだったら面白かったのに)

 

 だれもいませんでしたでは、肩透かしもいいところだ。

 

「先にご飯食べに行っちゃったとか?」

「その可能性もありますね。

 食堂に行きましょうか。朝食を用意しますよ」

「ほんとに? ありがとう」

 

 ほどほどにおなかも空いてきていたところだ。

 元来た道を引き返そうと下がった二人だったが、なにかが倒れたような音に、足を止めた。

 

「……?」

 

 音は作戦室から聞こえたものではなかった。二人のすぐ後ろにあるふたつの部屋、その左右どちらかの部屋から聞こえた音だ。

 

「今、なにか落ちた?」

 

 どちらの部屋も扉は完全に閉まっている。それでも落下音が聞こえたのだから、それなりに大きな物が落ちたに違いない。

 

「えっと……そこには応接室がありますね」

「応接室……」

 

 利奈にとっては馴染みのありすぎる室名である。

 風紀財団との連絡通路といい、応接室といい、先ほどから委員長の顔が浮かぶ単語ばかり出てきている。

 

「沢田君、接客中なのかな。お客さんっていうか、こう、黒服着た強面の人と」

「こんな時間に? それに、アジトによその人間入れていたらアジトの意味がなくなると思うんですが」

「それもそっか」

 

 しかし、物音がしたからには人がいるに違いない。

 

「見ていきましょうか。もしかしたら、ソファで仮眠をとっているのかも」

「かもね。ヒバリさんもときどき寝てた」

 

 ランボの予想通りなら、今の音は綱吉がソファから転がり落ちた音だろう。抜けたところがあるからやりかねない。

 軽い気持ちで応接室の扉を開けた二人だったが、その予想は、思ってもみない形で裏切られた。

 

 応接室の扉が開く。

 黒いスーツを着た男が、背中を向けて立っている。その髪色は茶色ではなく黒色で、立ち姿からも綱吉とはまるで違う雰囲気をまとっていた。

 すらりと伸びたその体躯に見覚えはない。見覚えはないが、既視感はあった。本能か直感か、利奈は後ろ姿だけでその人物がだれなのかわかった。しかし、そんなことはどうでもいい。

 

「ヒッ」

 

 隣のランボが息を呑んだ。利奈も驚きのあまり、身を引いた。

 

 この世界で四番目に出会った人物――雲雀恭弥は、ボンゴレファミリー十代目ボスである沢田綱吉の背中を、革靴で踏みつけていた。

 

(なに……どういうこと!?)

 

 衝撃的な光景に固まる二人をよそに、恭弥は足を振り下ろす。容赦なく靴の踵を落とされ、綱吉がくぐもった声をあげた。

 一度、二度、三度。機械のように足を動かす恭弥に恐怖を覚えるが、声をかける隙はないし、ランボも完全に怖じ気づいてしまっていた。床に伏した綱吉に反撃の機はなく、恭弥の暴力にただただ蹂躙されている。

 

「……っ」

 

 体重はあまりかかっていないが、いくらなんでもやりすぎだ。

 これ以上は見ていられないと、利奈は勇気を振り絞って口を開いた。

 

「ひ、ヒバリさん!」

 

 一瞬、恭弥の背が揺れたような気がした。

 三拍ほど間をおいてから、彼がゆっくりと振り返る。隣のランボはそれだけで悲鳴をあげた。

 

「……」

 

 無表情な目を向ける彼は、紛れもなく恭弥だった。

 髪は多少短くなっているけれど、顔かたちはほとんど変わっていない。隼人と同じく、順当に成長したらしい。

 そして十年経っても変わりのない――いや、以前より冷めた瞳に、利奈は困惑した。恭弥にこんな視線を向けられる覚えはない。

 

(私がだれかわかってない……?)

 

 いや、それはないだろう。彼の眼差しに疑念はない。

 それなら、咬み殺すのを邪魔されたからだろうか。違う、それなら敵意を利奈に向けるはずだ。こんな、無機質な瞳にはならない。

 

「……あ、あの」

 

 なにか言わなければという衝動に駆られるが、言葉が出てこない。

 綱吉を踏みつけていたときの恭弥は、ただただ恐ろしかった。苛立ちをぶつけているようにも、享楽に耽っているようにも見えなかった。

 暴力をふるっている恭弥に恐怖を感じたのは久しぶりで、利奈は戸惑いを覚えていた。

 

 不意に、恭弥が目を逸らす。利奈から目を逸らして、短く息を吐く綱吉を見下ろす。

 

「……また来るから」

 

 それだけ言って、恭弥は部屋を出た。

 

 物問いたげな利奈にはなにも言わず。視線すら向けず。まるで赤の他人であるかのように無関心に。

 そこに強い拒絶の意思を感じた利奈は、追いかけることもできずに立ち尽くす。――委員会に入る前の二人に、戻ったかのようだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

薄氷の幸福

 

 朝食の席の空気は、きわめて重苦しいものだった。みんなして、ただただ食事を口に運ぶ。

 

 恭弥が部屋を出てから入れ替わりで隼人が現れたが、その表情はなかなかに鬼気迫っていた。

 無理もない。綱吉の顔は殴られたのか赤く腫れていたし、何度も踏みつけられたせいでスーツも乱れていた。今思えば最初の物音は、綱吉が倒れこんだときの音だったのだろう。

 

「あの野郎……っ」

「待って」

「っ、ですが!」

 

 すぐにでも恭弥に報復しに行こうとする隼人を制しながら、綱吉は服装の乱れを正した。

 

「いいんだ」

 

 それ以上、綱吉はなにも言わなかった。

 それだけで通じるものがあったのか、隼人も言葉を重ねようとはしなかった。

 

(……私のせい、なのかな)

 

 斜め向かい側の綱吉の顔をちらりと窺う。

 腫れた頬には湿布が貼られている。口の中も切ったのか、コーヒーには一切口をつけていない。

 その隣の隼人は判然としていない顔でトーストを齧っている。一口一口が大きくて、だれよりも早く二枚目を手に取っていた。

 

(私のせいだよね、たぶん)

 

 恭弥に踏みつけられた件について、綱吉は理由を説明しなかった。

 機密情報が関わっているのならば話せなくても仕方ないのだけど、二人の態度を見るに、そういうわけではないのだろう。

 

 人は自身に向く視線に敏感であると同時に、わざと逸らされる視線にも敏感なものだ。

 あのときの二人は、意図的に利奈を意識から外そうとしていた。原因が利奈であることを、本人である利奈に悟らせないように。

 

 この世界の住人でないのだから、心当たりはない。と言いたいところだけど、ひとつあった。ほかでもない、この時代の利奈のことだ。

 

(私がここに来ちゃったってことは、未来の私は今、過去にいるんだよね。

 だから、未来の私は連絡なしで行方不明になってるわけで……)

 

 おそらく、その件で恭弥は腹を立てていたのだろう。

 恭弥のもとで働いていた利奈がここに来ていたのなら、なんらかの任務を抱えていたはずだ。その任務を放置したまま帰ってこない利奈に痺れを切らして、恭弥は乗りこんできたに違いない。

 

(だったら、沢田君ものすごくとばっちりなんだよね……。私が悪いわけでもないんだけど)

 

 十年バズーカの事故なのだから、だれが悪いわけでもないのだが、それが通じる相手ではない。いや、たとえ通じたとしても恭弥は拳を振るっただろう。八つ当たりで人を攻撃するのも珍しくは――

 

(……あれ? 殴ったのは、手?)

 

 今さらながら違和感を抱く。

 恭弥は攻撃にトンファーを使う。よっぽどの理由がない限り、拳で殴りつけたりなんかしない。

 それに、利奈を見るときの冷徹な目。十年経っているとはいえ、あの顔はあまりにも冷え切っていた。

 

(なんで、あんな顔されたんだろう。全然わかんない)

 

 今の利奈では、恭弥の真意がまるで推し量れない。十年という見えない壁に隔たれてしまったかのようだ。

 

「デザート、いかがですか」

 

 机の一点に向けられていた利奈の焦点のなかに、果物を載せた籠が挟みこまれる。

 びっくりして顔を上げると、いつのまにか席を立っていたランボが、利奈に果物を差し出していた。

 

「考えごとには甘いものが一番です。一房どうぞ」

「……あ、ありがとう」

 

 お言葉に甘えて、たわわに実ったブドウを一房つまみ上げる。満足そうに微笑んだランボはそのまま隣に座り直して、正面の二人を見据えた。

 

「それで、彼女はいつごろまでこちらに滞在されるんですか?」

 

 朝食の席の話題にでもといった、さりげない口調。雰囲気の重さで当人が後回しにしていた疑問に、綱吉と隼人は横目で視線を送り合う。

 口を開いたのは、意外にも隼人のほうだった。

 

「十代目とも話し合ったが、期間は未定だ。

 今日の朝にでも戻っていることを期待していたが、このぶんだとすぐには戻らないだろう」

 

 思ったとおりだった。五分で効果が切れるものが、何時間経っても変わらないのなら、そう判断せざるを得ないだろう。口の中のブドウが苦くなる。

 

「だが、ずっとこのままってこともないはずだ。いや、ない。

 向こうの十年バズーカが故障してるなら、それを直せば問題は解決する。メカニックを呼んで修理を始めて――早くて数日、長くて一ヶ月ってところか」

「一ヶ月も!?」

 

 利奈がこうしているあいだにも、向こうの時間は同じだけ進んでいる。一ヶ月も行方不明になっていたら、大変な騒ぎになってしまう。

 

「あくまでも最長の話だ。原因がわからなくて、修理するためのパーツが手に入らなければ、それくらいかかることもあるってことだよ」

「な、なんだ……。じゃあ、パーツがあって、原因がわかったらどれくらい?」

「メカニックのスケジュールもあるだろうけど、一週間ってところじゃないかな。

 だから、相沢さんには悪いけど、元の世界に戻るまではここにいてもらいたいんだ」

 

 綱吉は申し訳なさそうな顔をしているが、むしろ利奈からお願いするべき話である。この世界の自宅には帰れないし、今の利奈には住むところもお金も当てもまるでなかった。

 

(ヒバリさんも、なんか怖かったし)

 

「うん、わかった。よろしくお願いします」

「それなら、俺が彼女のお世話係に立候補しますよ」

 

 ランボがすかさず手を上げた。

 予測が立っていたのか、正面二人の眼差しは生温い。それを賛同と取ったのか、ランボは椅子をずらして利奈に身体の向きを合わせた。

 

「食事が終わったら、新しい服を買いに行きましょうか。荷物持ちを務めますよ」

「ほんと? あ、でも、私一人でも買いにいけると思うよ。ランボ君も仕事とかあるだろうし」

「ありません」

 

 気を遣ったつもりがやけにきっぱりと答えられ、二の句が継げなくなる。本当に仕事がないのか、気遣ってくれているのか、微妙なところだ。

 

「一人で出歩くのは危険だからやめた方がいいです。ほかにも必要なものはいろいろあるでしょうし、遠慮なく連れ回してください。女性の買い物に付き合うのは慣れています」

「そ、そう?」

 

 本当に連れ回して大丈夫なのかと、横目で綱吉の表情を窺う。すると綱吉は柔らかく微笑みながら懐から財布を取り出した。意図を悟り、利奈は高速で首を振る。

 

「違う違う! 催促したんじゃなくて!」

「どっちみちお金は必要だからね。はい、迷惑料だと思って遠慮しないで使って」

「そんなにいらない! そんなにもらえないから!」

 

 財布から抜かれた一万円札は、どう見ても十枚以上あった。服どころか、靴やバッグを買い揃えたって使いきれないだろう。利奈が手を伸ばさずにいると、代わりにランボが受け取った。

 

「無駄遣いすんじゃねえぞ」

 

 言われなくても使い切るつもりはない。ただほど怖いものはないのだ。何日で帰れるかわからないから、とりあえず数着買って着回そうと思う。

 

 雰囲気が和やかになったなか、突然、アラームのような音が室内に響いた。ビーッ、ビーッと鳴った警告音は、音のけたたましさのわりに、わずか四回でぴたりと止まる。

 

「なに、今の?」

 

 火は使っていないから、火災やガスのアラームではなさそうだ。

 

「ジャンニーニ」

 

 綱吉が耳に手を当てながら、誰かの名前を口にした。通信機で連絡を取っているようだ。

 

「おい、また不調か!?」

 

 隼人も通信機を耳に当てている。

 ランボは利奈にも聞こえるようにと、通信機をスピーカーモードにして二人のあいだに置いた。

 

『違いますよ! これはちゃんとした警報です!』

 

 甲高い声がスピーカーから響く。ジャンニーニの声だろう。

 

「じゃあ、侵入者が現れたってこと?」

『い、いえ……』

 

 表情を引き締めた綱吉が立ち上がりかけるが、ジャンニーニはどうも歯切れ悪く否定する。

 

『警報が鳴ったあとに正式に解除されましたので、侵入者ではありません。入られたのは守護者の方ですし……』

 

 機械越しの声はやたらと早口で、動揺と混乱が伝わってくる。隼人が拳を握り締めた。

 

「また山本か!? あいつ、何回言えば――」

『あ、いえ、山本さんでは……』

 

(あ、山本君いるんだ)

 

 聞き馴染みのある名前に親しみを感じる。

 緊急事態ではなさそうだったので、利奈は食事を再開させていた。とはいっても、残りは飲み物とブドウ数粒である。

 

「じゃあどいつだ、あの芝生頭か!」

 

(……芝生?)

 

 だれのことなのかわからない。消去法だと残るは恭弥かクロームか了平で――となると、了平だろうか。

 

『あ、それもはずれです……。その、大変言いにくいのですが……』

「骸か……」

 

 綱吉の言葉に隼人が目を丸くする。

 

「骸っ!? そ、そうなのか、ジャンニーニ!」

 

 正解ですというジャンニーニの言葉にかぶせて、綱吉が頭を抱えた。

 

「ヒバリさんといい骸といい、なんで連絡してからこんなに早く……どんな交通手段使ったら、数時間でイタリアからここまで……」

「骸さん、ここにいるんですか?」

『はい。どうやらわざと警報音を鳴らされたようですが、今はエレベーターの前に』

 

 利奈の言葉に顔の見えない相手が律儀に答え、

 

『……ところで貴方はどなたです?』

 

 と、続けた。

 

「ああ、もう! 作戦放り出したりしてないだろうな! あいつは!」

 

 頭を抱えていた綱吉が、机を叩いて腰を下ろす。さっきまでの余裕溢れた姿が嘘のようだ。

 

(……むしろ、こっちが素?)

 

 利奈の手前、大人ぶっていたのかもしれない。その努力も、予想外の事態の前に崩れ落ちてしまったけれど。

 

 それはさておいて、骸もこのアジトに来ているらしい。

 綱吉によると、利奈が入れ替わった話を聞いて、イタリアからわざわざやってきたらしいが、物好きなものだ。もしかしたら、日本に辿り着く前に、元に戻ってしまっていたかもしれないのに。

 

(ん?)

 

 ドアの開閉音が耳に入り、利奈はくるりと振り返った。と、同時に何者かにいきなり抱きつかれ、視界が埋まる。

 

「ゆむっ!?」

「……っ!」

 

 柔らかい感触が顔を覆う。背中に回された腕が、弱々しく利奈を抱きしめた。

 利奈に飛びついただれかは、利奈の頭の上で利奈の名前を呟いた。か細く震えた声は、今までに何度も聞いたことのある、友達の声だった。

 

「ク、クローム?」

 

 意外に思いながらもその名前を呼ぶと、クロームがまた利奈の名前を呼んで、腕の力を強めた。それでも、振り払おうとしたら簡単に振りほどけてしまいそうな力加減である。引きはがすのは躊躇われて、利奈は恐る恐るクロームの背中を叩いた。

 

「あの、放そ?」

「……」

 

 呼びかけてみるものの、クロームはなにも言わずに体を震わせている。耳元から、鼻を鳴らす音が聞こえた。

 

(な、泣いてる……!?)

 

 どこに泣く要素があったのか。

 助けを求めて視線を動かすも、ほかの三人はクロームの行動に戸惑っていて、助けてくれそうにない。

 

「クローム、あまり困らせてはいけませんよ」

 

 骸の声だ。

 ジャンニーニはクロームのことをなにも言わなかったけれど、二人で一緒に行動していたのだろう。利奈としてはうれしいサプライズだけど、こんなに熱烈なハグを受けるとは思っていなかった。

 

 たしなめる骸の声で冷静になったのか、クロームはゆっくりと腕を解いて、利奈の顔を見つめてきた。

 右目の眼帯は相変わらずだけど、髪も伸びているし、化粧もしている。大人っぽくなったクロームに感慨深さを覚えてしまいそうになるけれど、大きな左目からは、いまだに涙が零れ落ちていた。潤んだ眼から落ち続ける雫に利奈は慌ててしまう。

 

「ど、どうしたの? びっくりしちゃった? えっとじつは、十年バズーカーっていうのに当たっちゃってね――」

「なんでクロームまで……!」

 

 綱吉のさらなるうめきが聞こえたが、泣いているクロームが先決である。感極まって泣き続けるクロームの肩を、後ろから骸が引き寄せた。

 

「すみません、クロームは涙腺が脆いので」

「……おお」

 

 十年後の骸の姿に、利奈は感嘆の声を漏らした。

 前から高かった身長がさらに高くなっているうえに、元から整っていた顔立ちがより美しくなっていた。やはり、海外勢は容貌の進化がえげつない。特徴的な髪型は変わりなし――と思いきや、後ろで揺れる髪の束が見えた。どうやら、長い後ろ髪を縛って垂らしているらしい。

 

 気遣わしげにクロームの肩を叩いていた骸だったが、ふと表情を消して利奈を見つめる。

 

「……本当に、十年前の相沢利奈ですね」

「お前、いったいなにしに来たんだよ!」

 

 ようやく隼人が口を挟んだが、骸はまるで意に介さない顔で綱吉に目を向けた。

 

「これがどういうことかくらいは教えてもらえますか。沢田綱吉」

 

 その瞳は剣呑で、いつものようにランボが縮こまった。かっこつけているくせに、やたらと小心者である。

 

「おい、無視してんじゃ――」

「わかった、あとで話す」

「うっ……」

 

 あっさりと綱吉が了承してしまい、隼人がやり場のない拳を降ろす。

 クロームは少し落ち着いたようで、おどおどしながら利奈の顔を覗きこんだ。

 

「利奈、元気?」

「うん、元気だけど……クロームは?」

「元気だよ」

 

 そう答えるクロームはうっすらと微笑むが、涙の膜のせいで儚さが強調されてしまう。言葉のままに受け入れられない。正直、ここまで驚かれるとは思っていなかった。

 

「それにしても、ボンゴレはこれしか服が用意できなかったのですか? さすがにあんまりなのでは?」

 

 サイズの違う服を着せられている利奈に、骸が苦言を呈す。

 

「僕たちなら、もっといい服を与えられてましたよ。やはりボンゴレは――」

「うるっせえ! 夜中だったんだ! いきなりだったんだ! 

 子供の服なんかすぐに用意できるか!」

「むっ」

 

(子供服って……そりゃ子供だけどさ)

 

 十年経った隼人には、中学生の利奈など子供のように見えるのだろう。それでも同級生子供扱いされると、不満を通り越して不愉快である。

 

 むすっとしながら大人たちの言い合いを眺めていたら、息をひそめていたランボが利奈の袖を引いた。

 

「さあ、今のうちに買い物に出掛けましょう」

「え、でもまだ……」

「感覚でわかります。これは長くかかるやつです」

 

 確かにすぐには終わらなそうだ。

 このままランボについていってもいいものかと綱吉に視線を送ると、気付いた綱吉が隼人の肩を叩いた。

 

「ごめん、二人を外まで連れて行ってあげて。商店街に近い出入り口をランボは知らないから」

「……わかりました」

 

 一瞬、骸を気にしたけれど、隼人は否定を呑みこんで席を立った。

 

「そうだ、ついでにお菓子とかも買い出ししてもらえないかな。そういうの用意してなかったから」

「えっ、いや、それは別に……」

「そのあいだに骸とは話をつけておくから。日本に来る余裕があるのなら、任務も順調なんだろうし?」

 

(皮肉だ! 沢田君が皮肉言った!)

 

「クフッ、これは手厳しい」

 

(まだ笑い方変わってなかった!)

 

「おい、さっさと行くぞ」

 

 こうなったらさっさと仕事を片付けようとしてか、隼人が急かす。骸にガンを飛ばすのも忘れていない。

 隼人に従って席を立った利奈は、ドアの前で控えめに頭を下げて退室した。

 

 

__

 

 

 ――三人が退室したその瞬間、室内の空気が変容する。

 ランボがいれば、その変圧に耐えられずに腰を抜かしていただろう。

 

 綱吉の正面の席に骸が腰を落とし、今まで利奈が座っていた席にクロームが座る。二人ともその眼光は強く、また、迎え撃つ綱吉の瞳にも一切の隙はなかった。束の間の沈黙は、わずかながらの牽制だ。

 

 今回は恭弥のときと違い、心の準備ができている。まさか、出合い頭に殴られるとは思っていなかった。いや、ある程度の制裁は覚悟していたけれど。

 

「邪魔者もいなくなったところで、さっそく説明してもらいましょうか。いったいどういうことなんですか、これは」

「説明もなにも、その目で見たとおりだよ。十年前の相沢利奈が、この世界に来てしまった」

 

 言葉に含みをもたせる綱吉に、クロームが俯く。骸は反対に身を乗り出して綱吉を見据える。

 

「見たまま、ね。僕は貴方の目的を知りたいのですが。それとも、雲雀恭弥の意向で?」

「まさか。ついさっき、思いっきり殴られたところだよ」

「ああ、それでですか。どうもご愁傷さまで」

 

 まったくそうは思っていない顔で、骸がお悔やみの言葉を口にする。綱吉は苦笑いで受け流した。

 

「残念です。その現場に居合わせたかったくらいだ。

 彼、元気にしてます?」

「……会いに行くなよ。機嫌最悪だろうから」

「でしょうね。相沢利奈が突然現れるなんて、怪奇現象でしかない。

 ところで――」

 

 背後を気にするように骸は瞳を動かす。

 

「彼女本人には言ってないのですか。あのことは」

「……言う必要ないだろ」

 

 言わなかった。いや、言えなかった。

 綱吉の前に現れた利奈は、疲れ果てていたうえに、予想もしていなかった大怪我を負っていたのだから。そんな彼女に、どうして真実が言えるだろうか。

 

(いや……違うな)

 

 口にするのが怖かっただけだ。口にして思い出すのも、それを聞いた彼女がどんな反応を見せるのかも。

 そんな綱吉に、骸は蔑みの視線を投げる。クロームは、ただただ肩を震わせていた。

 

 幼い彼女の笑顔はまぶしかった。くるくると変わる表情はとても微笑ましかった。

 だから、言えなかった。彼女の身に降りかかった火の粉が、そのまま彼女を焼き尽くしてしまったことなんて。

 

 そう、彼女は。彼女の未来は――

 

「伝えておくべきでしょう。この時代の相沢利奈は、すでに死んでいるということを」

 

 とうに、消え失せていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

願わくば、夢であってくれればと

 相沢利奈。享年二十四歳。

 

 あの日のことは、よく覚えている。

 彼女が襲撃されたのは、ボンゴレファミリーがミルフィオーレファミリーの標的になった矢先の出来事だった。

 

 ボンゴレ本拠地があるイタリアでは抗争が始まっていたものの、日本ではまだ衝突は起きていなかった。ましてや、厳密にはボンゴレに所属していない、そのうえ非戦闘員の利奈が襲撃を受けるなど、だれが予想できただろう。

 

 相沢利奈死亡の知らせを聞いた瞬間、綱吉は全身が凍りついたような感覚を味わった。

 まさか、最初の犠牲者が中学生時代からの付き合いの彼女になるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

 

「襲撃者は二名。どちらもこちらの隊員が現場に到着する前に、始末されています。

 素性を探るには時間がかかりそうですが、ミルフィオーレの人間であることには間違いないかと」

 

 報告を持ちこんできた部下は、殺された利奈が綱吉の顔馴染みであることを知らなかった。だから、淡々と必要な情報だけを綱吉に伝えていく。

 

 隼人が仕事に出ていてよかった。でなければ、こんなに早く気持ちを立て直せなかっただろう。部下の報告を受けながら、車に乗って彼女のもとへと向かう。

 

 犯行場所は並盛町商店街近くの河原。

 騒ぎを聞きつけてこちらの部下が駆けつけたときには、後処理すら終わっていたそうだ。残っていたのは、草むらが焼かれた痕跡と、夥しい量の血の痕のみ。

 それを聞いたときはさすがに平静を保てず、綱吉は膝の上で拳を握り締めた。

 

 遺体は並盛中央病院に運ばれていた。

 この病院は、十年前から恭弥の息がかかっている。病院に到着すると、すかさず現れた看護師によって、霊安室へと案内された。

 

 霊安室のドアを開けた綱吉は、思いもよらない人物の姿にわずかに身じろいだ。しかし、それ以上の反応はせずに後ろ手でドアを閉める。

 

 霊安室には、利奈のほかに二人の人物がいた。

 どちらも綱吉がよく知る人物だったが、この二人が同じ空間にいて、互いを牽制しあっていないのを初めて見た。それだけ、失ったものは大きいのだろう。途方にくれたあとの虚無感がその場を覆いつくしていた。

 

 ドアを閉めたきり動けずにいた綱吉に、二人のうち一人、骸が顔を上げた。その顔に表情はない。

 

「お早いおつきですね。ボンゴレのボスが自ら来られるとは」

「お前もな。どうしてここに?」

 

 利奈と個人的な交友があるのは知っている。しかし、それにしても到着が早すぎる。

 

「聞いてないんですか? 僕も騒ぎを聞きつけてその場に行ったんですよ。彼の部下よりは遅くなりましたがね」

 

 そう言って骸は恭弥に目を向けた。その瞳に宿っているのは憎悪であり、その憎悪を受けてなお、恭弥は顔を上げなかった。恭弥は、ただ一点のみを視界に入れている。

 恭弥と骸のあいだを遮るように置かれた白いベッドの上には、顔に布を掛けられた利奈が横たわっていた。

 

 ゆっくりと近づいて、その全身を検分する。服装に乱れはなく、身体に傷も見当たらない。骸が顔の布を外しても、外傷は見当たらなかった。

 死因はまだ聞いていなかったが、現場の血痕は襲った側のものだったのだろうか。

 

「到着したときには、もう手遅れでした。この僕でさえ、手の施しようがないほどに」

 

 骸がそう言うのなら、ほかのだれがその場にいても彼女は救えなかったのだろう。幻術にも限界があるし、晴の炎も万能ではない。

 

 ミルフィオーレの二人は匣を所持していたが、匣の制御すらできないレベルの人間だった。匣から噴き出た炎は、周囲を完全に焼き払ったそうだ。

 だから、その場に駆けつけた骸が、恭弥の部下に代わってその二人を屠った。命乞いすら許さずに。

 

「二人とも殺してしまったのは僕の失態です。言い逃れるつもりもありません」

「……」

「……今更、反省しています。じわじわと嬲りながら、生まれてきたことを後悔させてやればよかったと」

 

 恭弥は利奈を見つめたまま、まったく体を動かさなかった。もしかしたら、綱吉が室内に入ってきたことさえ、気付いてなかったのかもしれない。

 

 あのときの沈黙の重さは、まだ肌に残っている。

 

 当然、その件についてはミルフィオーレ側に抗議文を送っている。

 しかし、『隊員が独断で行動した結果であり、その隊員を処罰しようにも、そちらで片をつけてしまったのならどうしようもない。そもそも、当事者が全員死んでいるのでは事実確認もできないではないか』などと書かれた回答文が返ってきただけだった。

 

 のちの調査によると、その隊員二人は、本当に独断で行動していたらしい。手柄を得ようと欲を出して、引っ込みがつかなくなった結果があれだ。

 彼女の死に理由はなく、彼女の死に意義はなかった。それがなにより彼女を侮辱している。

 

(言えるわけ……ないじゃないか)

 

 感傷を抜きにしても、今の利奈に伝えられるはずがなかった。

 骸も口ではああ言っていたが、実際に利奈に伝える段階になれば、考えを改めたに違いない。未来に夢を持った、屈託のないまっすぐな瞳を前にしてしまえば。

 

 骸たちが去ったあと、綱吉は応接室で一人、客人を待っていた。

 

 実際に利奈を見たことで満足したのか、骸たちは驚くほどあっさりと帰っていった。もしかしたら、これから来る人物に見当がついていたのかもしれない。

 

 あの事件以来、二人は一度も顔を合わせていないはずだ。どちらもこれからの戦いに備えて準備を重ねていたし――会ってしまえば、失った空白をいやでも思い出してしまうだろう。過去の利奈が現れたところで、彼らの隙間は埋まらない。

 

「待ってましたよ、ヒバリさん」

 

 ドアが開き、綱吉は立ち上がった。

 ソファを薦めようと伸ばした手を無視して、恭弥が綱吉の正面に立つ。今度は戦闘の意思はないようで、両手は胸元で組まれていた。

 

「で、言いたいことは?」

 

 睨めつける瞳は、朝とは打って変わって冷え切っている。しかし込められた圧に変わりはなく、綱吉は慎重に口を開いた。

 

「……すみません、独断でやりました」

「……」

 

 そんなことは聞いていないとばかりに恭弥が眉を動かす。組んだ腕が解かれそうになったが、思い直したようでまた組み直される。

 

「……なんで、相沢を連れてきたの」

 

 恭弥の質問は真っ当なものだった。

 計画では、利奈は連れてくるメンバーに含まれていない。十年前の段階では、守護者のだれにとっても守るべき存在ではなかったからだ。

 

「君の計画では、最初がリボーン。次に君自身だったはずだろう。それがなんで」

 

 よりにもよってという言外の抗議を感じながら、綱吉は笑みを浮かべた。それが恭弥の苛立ちに火をつけるとわかっていながら。

 

「相沢は僕の組織の人間だ。君が勝手に使っていい人間じゃない」

「亡くなっていてもですか?」

 

 視点が回転する。恭弥の足が、綱吉の足を薙ぎ払ったのだ。

 さすがに何度も崩れ落ちるわけにもいかないので、すぐさま体勢を立て直す。

 恭弥は腕を解いて追撃を入れようとはしなかったが、じっとりとした目で綱吉を睨んだ。

 

「よけいな挑発はやめてくれる? 話が進まない」

 

 どうやら朝よりも冷静さを取り戻しているらしい。

 いっそ好戦的であってくれた方がよかったのだが、それはそれで綱吉の身体が持たない。こんなところで匣を開匣されでもしたら。工事日程が大幅に延びてしまう。

 

「で、どうなの。僕に恩を売っておきたかったとか?」

「違います。それは絶対に」

「じゃあ、なに」

「……」

 

 納得のいく理由は挙げられそうにない。納得するつもりもないのだろうから。

 それならば、こちらはもっともらしい口実を口にするしかない。

 

「本番前の実験です。死んでしまった人間でも、正確に召喚できるかどうか。

 リボーンはどうしても失敗できないので、相沢さんで実験させてもらいました」

「……」

 

 結果は大成功。死んだ人間でも任意の場所に召喚できることが証明された。

 リボーンは外の世界では生きられない。なんとしても、転送先はここでなければならなかった。

 

「彼女なら失敗しても問題がありませんからね。おかげで、計画の不安要素が払しょくされました」

「……」

「もちろん、あちら側の許可は取ってあります。同じ条件での実験は必須でしたから、反対はされませんでした」

 

 利奈は単なる実験台で、それ以上の意味はない。リボーンと同じ状態にあったから利用しただけ。

 その言葉に恭弥の腕が動き、綱吉はひっそりと身構えた。しかし、恭弥はその手を上にあげず、むしろ下に降ろした。

 

「赤点」

「……はい?」

 

 呆れ顔でため息を漏らす恭弥に、綱吉は目を瞬いた。

 

「もうちょっと捻りなよ。そんな理由で人を好き勝手扱えるほど面の皮厚くないでしょ、君」

「……」

 

 見透かされてしまっている。挑発に乗ってくれればうやむやにできたのだが、仕方ない。

 

「俺、前に言いましたよね。人は守るべき存在があれば、限界をたやすく超えられるって」

「それはあくまで君の持論だ。だれにでも当てはまるわけじゃない」

「ええ。だから彼女はメンバーに入れていませんでした。でも――」

 

 感情は理屈通りにはならない。

 十年前の恭弥にとっては取るに足らない存在だろうが、この時代の――今の恭弥にとっては、特別な存在であったはずだ。でなければ、綱吉を殴るためだけに、あの扉が開くことはなかっただろう。

 

 続きを言わない綱吉に、恭弥はむすっと口元を引き上げ、背を向けた。

 

「戻る。あとは勝手にやっといて」

「相沢さんはどうします? そちらに――」

「本気で言ってる?」

 

 本物の殺意を感じ、綱吉は反射的に身を引いた。これ以上は危険だと、本能が信号を出している。意趣返しのつもりはなかったが、逆鱗に触れてしまったらしい。

 

 どうしたものかと冷や汗を流していたら、通信機から信号が流れた。綱吉はすぐさま起動させる。

 

「どうした、ジャンニーニ」

『っ、大変です! 大変なんですっ!』

 

 声が聞こえたのか恭弥が振り返る。

 ジャンニーニの大変のレベルは知っているが、この声色は最大級の緊急事態だ。

 

「……どうした」

 

 相当の覚悟をして問いかけると、ジャンニーニのひび割れた大声が耳の中で響いた。

 

『ランボさんが! ランボさんが、ミルフィオーレの襲撃を受けています!』

 

 綱吉の手から、通信機が滑り落ちた。

 その反応でランボの同行者に合点がいった恭弥が、落ちた通信機をひったくる。

 

『ど、どうしましょう! まさか襲撃を受けるなんて! しかもですよ、精製度の高さからいって、ミルフィオーレの――』

「場所は」

『はい!? あ、貴方はどなたで!?』

「場所だけ言って。早くしないと咬み殺す」

『ひいっ!? ば、ばばば場所はですね』

 

 パニックに陥ったジャンニーニを恫喝して、恭弥がランボの居場所を聞き出していく。

 投げ返された通信機を手に、綱吉は強く唇を噛みしめた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小さな希望は手のひらに

 

 それは、帰り道での出来事だった。

 アジトに戻るべく人気のない道を歩いていたら、隣のランボの歩調が緩くなっていく。それに合わせて歩幅を狭めると、正面を向いたまま、ランボが一言囁いたのだ。

 

「つけられています」

 

 利奈は聞き返さなかった。後ろを見ようともしなかった。

 背後から聞こえてくるザリザリとした足音に耳を立てながら、ゆっくりと息を吐き出す。

 

(……なんて運が悪い)

 

 ここが十年後の世界で、十年後のランボがマフィアの一員になっているのなら、こういった奇襲も珍しくはないのだろう。肩書上はただの風紀委員だった利奈でさえ、あんなに狙われたのだから。――と当人は考えたが、マフィアから見ても異常であろうことは言うまでもない。

 

「わかった。私はどうしたらいい?」

 

 動揺を抑えながら声を出すと、横目のランボと目が合った。

 

 幸か不幸か、人に尾行されるのには慣れている。なんなら、攫われるのも、縛られるのも、押さえつけられるのも、監禁されるのにも慣れている。

 さすがに目でそれを伝えらるのは無理だったけれど、利奈の態度に落ち着きを感じてか、ランボはわずかに口角を上げた。

 

「さすが、雲の守護者の部下ですね。話が早くて助かります」

 

 厳密にいえば、まだ部下ではない。しかし、先輩と後輩よりは、上司と部下の方がしっくりとくるのはなぜだろう。

 

「とりあえず、二手に分かれましょう。狙われてるのは俺です」

「そうだよね」

 

 いくらなんでも、過去から来たばかりの利奈を狙う輩はいないだろう。今の利奈は、この世界には存在しない人間なのだから。

 

「利奈さんは人通りの多い場所へと向かってください。商店街にまた戻るのは不自然なので、それ以外で」

 

 唇を読まれないためにか、ランボは正面に向き直って小声で囁いた。利奈もそれにならって正面を向く。

 

「駅がいいかな。改札で待ち合わせしてるふりするとか」

「それでいいです。では、そこの角を俺は右に」

「私は左に」

 

 ランボが持っていた買い物袋を受け取って、数秒後に備える。

 十字路に差し掛かったところで歩幅を乱した二人だったが、その作戦は一歩遅かった。

 

「あっ」

 

 角を曲がろうとした利奈は、正面に立つ男たちの姿に足を止めた。

 黒服の男が数人突っ立っているのだ。後ろの尾行犯と無関係であるはずがない。

 

(待ち伏せされてた!)

 

 先頭に立つ長身の男の手には細長い棒が握られており、男はすでにこちらに照準を定め終えていた。棒の先端には光を放つ球があって、男が後ろに引いていた右腕を押し出せば――

 

「危ないっ!」

 

 声とともに腕を引かれ、そのまま体が後ろに放り出される。そして、小さな球が閃光の尾を引きながら、利奈を庇ったランボの身体にめりこんだ。

 

「ぐあっ!」

「った!」

 

 静電気を数倍強くしたような鋭い痛みに、利奈は脊髄反射で腕を引いた。しかし、攻撃を直接受けたランボは電気を逃がせず、バチバチと嫌な音を立てながら、その場に膝をついた。

 

「ランボ君!」

 

 名前を呼んだものの、手を伸ばすことはできなかった。触れたらまたあの痛みがと思うと、触れられなくなったのだ。

 それに、ゆっくりと近づいてくる男からは目を外せない。

 

「おっと、挨拶を忘れていたな」

 

 睨みつける利奈などまったく意に介さずに男が口を開く。

 

「俺はγ。ミルフィオーレのブラックスペル……って言えば通じるか?」

 

 男――γは、どちらに問いかけているのかよくわからない態度でそう言った。

 

(ミルフィオーレ……ってなに? ブラックスペル?)

 

 少なくとも、利奈にはまったく通じなかった。

 十年後の情勢をまったく聞いていなかったゆえの無知だったが、この場合、それが功を奏することになる。

 利奈の表情変化を窺っていたγの目が、利奈を会話対象から外したのである。

 

「見たところ、そちらの娘さんはボンゴレの人間ではないみたいだな。

 巻き込んで悪かったが、そっちのボーイフレンドに用があってね。話が終わるまで、そこでおとなしく待っててくれ」

 

 そこで、γの仲間たちが距離を詰めてきた。

 後ろを尾行していた人たちは黒いスーツ姿だったが、正面の人たちはみな同じ、真っ黒な制服を身に纏っている。ブラックスペルという名前に合わせた配色なのだろう。

 前後を塞がれてしまっては、γの言う通りにおとなしくしているしかなかった。

 

「やれやれ。俺としては男に囲まれるなんてごめんですが」

 

 そんな軽口を叩きながらランボが立ち上がる。

 

「だ、大丈夫なの?」

「ええ、もちろん」

 

 脇腹を押さえてはいるけれど、そこまでダメージはなかったのか、声には余裕があった。

 γが片眉を上げる。

 

「へえ。俺のショットプラズマを喰らったわりには元気だな。彼女の前だからかっこつけてるのか?」

「男相手にいつまでも膝をついてはいられないからな。膝をつくなら女性にがいい」

 

 ランボが腕で合図を送ってきたので、利奈はランボの陰に隠れるように背後に回った。しかし、この人数差では打つ手がない。

 

(……ヒバリさんに連絡できれば)

 

 利奈は購入したばかりの服に着替えていた。

 上着のジャケットには、女性ものには珍しく内ポケットがついており、そこにはもちろん、携帯電話がしまわれている。

 

 いつもならこのタイミングでダイヤルを押すが、利奈は押さなかった。

 この時代の恭弥が番号をそのままにしているとは限らないし、連絡したところで助けに来てくれるかもわからない。そしてそれ以前に、致命的な問題があった。この携帯電話で通話ができるかどうかも微妙なところだ。

 

「……そういえば、ボンゴレ雷の守護者は特殊体質だと聞いていたな。電撃皮膚(エレットゥリコ・クオイオ)、だったか」

 

 納得がいったという顔で聞きなれない言葉を口にするγ。

 言葉の意味はわからないけれど、γの攻撃はランボ相手だと効果が薄くなるのだろう。周りの敵たちの表情が険しくなった。

 

「どうやら、あんたとは相性が最悪のようだ。だが、ダメージはゼロじゃない」

 

 にやりと笑うγにランボの肩がわずかに強張る。

 

「死ぬ気の炎のダメージは逃がせても、球のダメージは減らせない。電気が通じなくても、加速した球が何発も当たれば痛いだろ?

 それに、こんな狭い場所じゃ逃げ場もない」

 

 その通りなようで、ランボの身体が小刻みに震え始めた。

 表情は後ろからは見えないけれど、おそらく、見ないほうがいい顔をしているだろう。思っていたよりも、ランボは戦闘が苦手なようだ。

 

「そんなに怯えるなよ。俺たちだって、寄ってたかって弱い者いじめをするつもりはないさ。功を焦ってあの世に行った馬鹿どもとは違うんでね。

 ただ俺の質問に、イエスかノーかで答えてくれればいい」

「な、なに?」

 

 ランボの声が裏返りそうになる。

 もったいぶるように棒で肩を叩いたγは、ランボの一挙手一投足を見逃すまいと、目を細め、そして尋ねた。

 

「ボンゴレリングはどこにある?」

 

 前置きのないその言葉に真っ先に反応したのは利奈だった。

 

(なんでここで……!?)

 

 ボンゴレリングを巡る争いに昨日巻き込まれたばかりの利奈にとっては、あまりにも衝撃的な質問だった。

 彼らもヴァリアーと同じくボンゴレリングを狙っているのだろうか。それも、綱吉が十代目を継いだあとになって。

 

 露骨に驚きの表情を浮かべてしまう利奈だったが、それにはだれも気がつかなかった。

 最初にボンゴレ関係者でないと判断したために、だれ一人利奈に注意を払っていなかったからだ。

 それはγも例外ではなく、黙ったままのランボの顔をただ一心に見つめている。しかし、表情だけではなにも読み取れなかったのか、話を続ける。

 

「噂では、穏健派の十代目が争いの火種にならないように処分したという話だったが――最近になって、それがデマだったっていう噂も出ていてな」

 

 そこでやっとγの目が利奈にも向いたが、そのときにはすでに表情を引き締め終えていた。

 感情がすぐに顔に出てしまう性格とはいえ、出しっぱなしにしておくほど馬鹿ではない。

 再びγの注意はランボへと向けられた。

 

「普通に考えれば、こんなに強力な武器を簡単に捨てるわけがない。どこかに隠しておいて、いざというときに使うものだろう。なあ?」

 

 これみよがしに右手の中指に嵌めた指輪を見せつけるγ。身を引いたランボの身体がぶつかったが、利奈は動かなかった。

 

(指輪が武器って……どういうこと?)

 

 まるで、指輪自体になにか強大な力が隠されているかのような口ぶりだ。

 利奈は十年前の世界で何度かボンゴレリングに触ったことがあるが、とくにこれといって変わった点はなかったはずだ。ディーノだって、ボンゴレリングに隠された力があるなんて話はしなかった。

 十年のあいだに、なにがあったのだろう。

 

(あっ! そういえば、この人が打ったボールが光ってたの、おかしかったよね!? ボールも空中に浮いてたし! って、なんでわかんなかったかな……!)

 

 突然のピンチでそれどころじゃなかったといえば、それまでだが。我ながら遅すぎると、利奈は自己嫌悪に陥った。

 

「し、知らない。俺は知らない」

「本当か? とぼけても無駄だぞ?」

「本当に知らないんだって! ボスが壊すっていうから渡して……そっからは知らない」

「……ほう」

 

(……あれ、なにか)

 

 腰のあたりに違和感を抱いた利奈は、ちらりと視線を下に落とした。

 そこには、ランボの尻ポケットがあった。そしてその尻ポケットは、中に入っている物のせいで不格好に膨れ上がっていた。形はそう、今まさにγが話題にしている、指輪の形になっていた。

 

(……! う、嘘でしょ!? 持ってるの!?)

 

 うれしくない誤算だった。どんなに強力な力を秘めていても、敵に囲まれていてはどうしようもないだろう。指に嵌める前に取り押さえられて終わりだ。

 

 そして気付いてしまった以上、利奈はその指輪を守る義務が生まれてしまった。

 敵の狙いはボンゴレリングであり、これを取られたら利奈たちに生き残る目は残らない。

 いや、もしかしたら利奈は見逃されるかもしれないが、ランボが殺されたら意味がない。そんなことになったら、十年前の子供のランボと綱吉たちに顔向けができなくなる。

 

(ど、どうにかしなくちゃ)

 

 打開策を考えるにも、時間はあまり残されていない。γが尋問から拷問に切り替えようと、棒を構えたからだ。

 よく見ると球はビリヤードの球で、棒は球をつくためのキューだった。

 色とりどりのボールが空中に浮かび、白い球がキューの先端にセットされる。その奥のγは、不敵な笑みを浮かべながら最後通告を出した。

 

「そろそろ、そちらさんのお仲間が駆けつけてくるだろうからな。

 手っ取り早く行かせてもらうぜ」

「ひいっ!」

「離れてな、娘さん。一緒に感電したくはないだろう」

「……いや」

 

 利奈はむしろランボとの距離を詰めてγを睨みつけた。

 仲間が駆けつけてくれるのなら、それまで時間を伸ばすのが利奈の役目だろう。触れたランボの背中はガタガタと揺れているし、服越しに伝わってくるほど心音が大きくなっている。見殺しにはできない。

 

「麗しい愛情だな。だが、本当に離れたほうがいい。俺の電撃は、一般人のお嬢さんには刺激が強いぜ。一発で天に召されるかもしれない」

「……」

 

 ランボの服を強く掴む。震えというものは感染するものなのか、なぜか利奈の体までもが震え始めていた。

 

「頑固なお嬢さんだな。

 まあ、いいだろう。一回味わえば考えも変わるだろうさ」

 

 妥協するといわんばかりの態度でγがキューを球に当てた。

 攻撃に巻き込まれないようにと、周囲の輩たちはγの背後に回る。もうγを阻むものはなにもない。

 

「待ってくれ!」

 

 ランボが叫んだ。

 

「なんだ、命乞いか? それとも、素直に話す決心がついたか?」

「そうじゃなくて……その、彼女だけは見逃してほしくて」

「そんなの駄目だよ! だって私は――」

「相沢さん!」

 

 振り返ったランボの顔を見て、利奈は仰天した。

 いつからこんなに泣いていたのか、ランボの顔は涙と鼻水でべしょべしょになっていた。険しい顔で怒鳴りつけられると思っていたから、こんなときなのに力が抜けてしまう。

 

「俺は大丈夫。痛いのには慣れてるから。

 でも、君はそうじゃない」

「……」

 

 利奈も痛みには慣れているのだが、ここでそれを口にするのはあまりにも野暮だろう。きっと痛みの度合いが違うのだから。

 

 利奈は無言のまま数歩、ランボから距離を取った。そして、慎重に間合いを測る。

 ようやく策が浮かんだのだ。

 

「甘酸っぱいな。若い頃を思い出してむずがゆくなる」

 

 そんなことを言いながらも、γは躊躇わずに球を打ち出した。

 白い球がほかの球にぶつかり、そこからまたほかの球に当たって、速度と威力の増した球が数個、ランボの身体にめり込んでいく。悲鳴とともに雷のようにすさまじい閃光がランボの身体から立ちのぼり、目が眩んだ。しかし、怯んでる暇はない。

 

(今だ!)

 

 血を流しながら倒れこんでくるランボに、利奈は怯えながらも手を伸ばした。触れた瞬間に強烈な痛みが走ったが、自分を鼓舞してさらに一歩、足を踏み込む。

 

「きゃっ!」

 

 支えられずに下敷きになってしまうが、利奈の目的は、ランボの身体を支えることではない。必死に手を動かして、目当ての物を探り出す。

 

(あった!)

 

「おいおい、大丈夫か?」

 

 からかいには答えない。ランボの下から抜け出して、一目散に走り出した。

 γの仲間たちが退いたことで空間のできた斜め後方、十字路の先へと向かって。

 

「なっ!? 待て!」

「いや、逃がしてやれ。あの娘はただの――いや」

 

 γの眉間に皺が寄った。

 傷ついた恋人を見捨てて逃げるような娘なら、痛みをこらえてまで男を支えようとはしないだろうと気がついたのだ。

 すぐさまγはランボの身体を足で裏返し、そして叫んだ。

 

「お前ら、絶対にあいつを捕まえろ! あの娘が持っていった!」

 

 その言葉で、γの部下たちは血相を変えて走り出す。γもランボを置いて部下に続いた。その口元に歪んだ笑みが浮かぶ。

 

「読み違えた。あの娘もボンゴレの人間だったか」

 

 意識を失ったランボのそばには、だれも残っていない。そのズボンのポケットには、指輪の跡だけがはっきりと残っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

影を落とす赤

 

 細い路地を、利奈はウサギのような俊敏さで逃げ回った。

 右に左に、あるいはまっすぐ。一瞬たりとも迷わずに、一瞬たりとも気を抜かずに。

 まるで辿るべき道のりが決まっているかのような動きだったが、その実、逃げ道についての計画はなかった。捕まらなければそれでいい。

 

 振り返ってみるも、追手の姿はまだ見えていない。そもそも、風紀委員に並盛町で鬼ごっこを挑む方がおかしいのだ。

 

(挑んだのは私だけどね! 陸上部やっててよかったあ!)

 

 正確には元陸上部だが、走り込みの経験が活きているのは間違いないだろう。

 とはいえ、さすがに長くは持ちそうにない。こうなると知っていたら、長距離走を選んでおくべきだった。

 

(商店街の近くだったら、逃げ切れたのに……! この辺、店とかないし、そのうち見つかっちゃう!)

 

 逃げ切れるとは思っていなかった。

 そもそも、ここをうまくやり過ごしたところで利奈に戻れる場所はない。アジトは厳重なセキュリティーで守られているために、ランボがいなければ中には入れない。そもそも、最初の出入り口は、ここからあまりに離れすぎていた。

 

(おなか痛い。腕も痛い。やっぱやるんじゃなかったかな……)

 

 早く走るために大きく腕を振るったせいで、左腕の傷口が開いてしまった。買ったばかりの服に赤いしみが滲んでいる。

 もともと突発的な行動だ。

 あのとき、ランボの持つ指輪に気付いていなかったら。γの仲間たちがわかりやすく退かなかったら。こんな無鉄砲な行動には出られなかっただろう。

 窮地に立たされていたから、降って湧いたチャンスに飛びついてしまった。それだけだ。

 

(とにかく、ボンゴレリングを隠して、あの人たちに盗られないようにすれば大丈夫なはず。私が隠しちゃえば、もうランボ君は攻撃されないし。

 私が狙われるのもいやなんだけどね、本当は!)

 

 しかし、あのまま奪われてしまうよりははるかにマシだ。奪われたら厄介なことになるのは目に見えている。

 それに、昨日あんなに苦労して手に入れた指輪を、今日あっさり盗られてしまうのはどうしても我慢できなかった。たとえ、十年後の世界であろうとも。

 

 その代償として現在追われているわけだが、なにも命まで取られはしないだろうと、利奈は高をくくっていた。

 γは利奈に危害を加えることに消極的だったし、隠したボンゴレリングの場所を知っているのは利奈だけだ。となると、尋問、あるいは拷問のために利奈を生かしておく必要がある。

 さらに言えば、彼らにはあまり時間がない。

 

(沢田君たちが来たら、きっとランボ君は見つけてもらえる。ランボ君は大丈夫。

 私はたぶん無理だけど)

 

 助けてもらうには、あまりにも動きすぎた。

 さすがにブラックスペルの人間のほうが先に利奈を見つけるだろう。もう、彼らの足音まで聞こえてきている。

 一方、利奈は足がもうほとんど動かなくなってきていた。頬を流れる汗に冷や汗が混ざる。

 

 指輪はブラックスペルの人間に見つかってはいけない。一般人に拾われてもいけない。

隠し場所がわからなくなってもいけない。すぐ取れる場所にも置いてはいけない。

 

(捕まったら終わりだと思ってたけど、手はまだ残ってる。私が指輪の在り処を言えなくなればいい。尋問するまでに時間がかかればいい)

 

 できれば使いたくない手だったが、仕方ない。

 利奈は覚悟を決めて口を開いた。

 

__

 

「標的確保!」

 

 隊員の声に、γは小さく息を吐き出した。

 日本には窮鼠猫を噛むということわざがあるが、まさか追い詰めたネズミの逃げ足がここまで早いとは思っていなかった。

 おかげで雷の守護者を拷問する時間が無くなってしまった。

 

(雷の守護者はボンゴレの連中に保護されちまうだろうが、リングさえあればこっちのものだ。マーレリングと同等の力を持つボンゴレリング。その存在が確認できたとなれば――)

 

 しかし、事態は思うようには運ばなかった。

 

「おい、どうした。まさかトドメを刺したのか?」

 

 捕まった少女の四肢からはぐったりと力が抜け切っていた。娘を拘束していた隊員は、γの問いに勢いよく首を振る。

 

「いや、俺はなにも! 捕まえた途端、急に崩れ落ちちまって」

「なんだと?」

 

 動揺する隊員を押しのけて少女の顔色を確認する。

 顔にはびっしりと汗が浮かんでいるうえに、その顔色は蒼白だ。荒い呼吸を繰り返していて、意識もない。

 そして、その手にボンゴレリングは握られていなかった。

 

「チッ、また面倒なことに……」

 

 捕まった恐怖で気を失ったのか、薬でも飲んで昏倒したのか、わざと自身を失神まで追いやったのか。なんにしろ、これでは尋問はできそうにない。

 

 標的が持っていた紙袋は部下たちが漁っているが、出てくるのは買い物袋に入った衣服のみ。

 こうなると、彼女が気絶したのも偶然ではないのだろう。

 

(逃げているあいだにボンゴレリングを隠して、自らの意識を絶ったか。ずいぶんな念の入れようだな)

 

 標的の持ち物には匣やリングはおろか、武器すらも含まれていなかった。

 ボンゴレの構成員ならば、それらしい武器や道具のひとつくらい持っていそうなものである。体つきも、そこら辺を歩いている子供となんら変わりがない。

 そして、どうやら最初から負傷していたようで、少女の指からは血液が滴り落ちていた。服の左袖に血が滲んでいる。

 

「どうする隊長。そろそろ撤退しねえとボンゴレの連中が」

 

 ボンゴレの日本支部はこの並盛町にある。

 雷の守護者が奇襲を受けたとなれば、ほかの守護者がすぐさま駆けつけてくるだろう。雷の守護者も発見されているころに違いない。

 

「撤退するか? ガキがこれじゃ、リングがどこにあるのかわかんねえし」

「呑みこんでんじゃねえのか? 吐かせてみたらわかるだろ」

「とにかくさっさとずらかろうぜ! 大事になるとあとが面倒だ!」

 

 独断で動いている以上、事を荒立てすぎるわけにはいかない。

 ここで抗争を起こしたりなんかしたら、ミルフィオーレ内でのブラックスペルの立場も危うくなってしまう。

 

(ボンゴレリングの在り処を知っているのはこの娘だけ……。ボンゴレ連中よりも先に俺たちが見つけ出せれば、今後の戦いが有利に運べる)

 

 γは標的の少女を抱き上げた。

 せめてもの情けで、腕は心臓よりも高い位置に上げておく。

 

「ずらかるぞ。もたもたしていたら他の守護者が来るかも知れねえ」

「その娘も連れて行くのか?」

「腹に隠してる可能性もあるんだろ? 基地に戻ってからじっくりと調べればいい。

 娘の荷物もすべて回収しとけよ」

「おう!」

 

(さて。ホワイトスペルの連中に嗅ぎつけられる前に、事を終わらせねえとな。

 この嬢ちゃんが簡単に口を割ってくれればいいんだが……本当に面倒なことになったもんだ)

 

 思わぬ拾い物に嘆息しながらも、γ率いる第三部隊はその場から撤退した。

 

__

 

 γたちの撤退から間もなく、綱吉たちは現場に到着した。

 

 傷だらけの状態で倒れ伏したランボと、姿を消した利奈。

 そこから推測できる最悪の展開に、綱吉はきつく拳を握り締める。どうしていつも間に合わないのか。

 

「十代目」

 

 隼人の声に、綱吉は右手の拳を解いた。今は後悔に打ちひしがれている場合ではない。

 

「ランボの容態は?」

「わりとマシな方です。骨も折れてないようでしたし、意識が戻るのを待つだけだと」

「そっか、よかった」

「ただ、持たせていたリングがなくなっていました。敵に強奪された可能性が」

 

 そこで隼人は綱吉を慮るように眉を下げた。

 

「利奈は、見つかりましたか?」

「……いや」

「そうですか……。でも、大丈夫ですよ。あいつ、なかなかしぶといですから」

「うん、そうだよね」

 

 元気づけるための笑みを浮かべる隼人に、綱吉は頷いた。

 

 まだ希望はあるはずだ。

 彼女が殺されたのならその死体が残るはずで、死体がこの付近で見つからなければ、利奈の生存度が高くなる。

 こちらの陣営の人間がいつ駆けつけてくるかわからない状況で、守護者でもない利奈を殺害していくメリットはないだろう。

 

「ちょっといい?」

 

 姿を現した恭弥に二人は身を固くした。

 状況確認のために出遅れた綱吉たちとは違い、恭弥は一人先行してこの場に訪れている。

 

「見つかったのか?」

 

 利奈が無事な姿で見つかったのか、それとも、違う姿で見つかったのか。

 身構える二人に恭弥は緩く首を振った。

 

「相沢は見つかってないよ。でも、痕跡を見つけてね。こっち」

 

 恭弥の言葉に従って、閑散とした道を歩く。

 ランボを発見したところからずいぶんと離れたところで、恭弥がその歩みを止めた。

 

「ここ。血がついてる」

「なんだと!?」

 

 言われてみれば、道路の真ん中に真新しい血痕が残っていた。靴かなにかでこすられてはいるが、紛れもなく血の痕だ。

 

「これ、相沢のじゃない? 分析してみないとわからないけど」

 

 恭弥の声は冷静だ。自分の部下、それも、一度失った部下の窮地にもかかわらず、微塵も揺らぎが感じられない。

 

(ここに相沢さんの血がついてるってことは、ここまで逃げて、捕まったってことか……)

 

 それならば彼女の身柄は今、ミルフィオーレにあるに違いない。

 

 しかしここで重要なのは、結果ではなく経過である。

 彼女がなぜ彼らに追われ、そして攫われたのかを考えなければならない。ミルフィオーレの人間はなぜ、いま再び彼女に価値を見出したのか。

 

「もしかして、相沢さんが攫われたのは……」

「なにか心当たりが?」

「もしかしたら、あの噂のせいかもしれない」

 

 いつのまにか、まことしやかに囁かれていたあの噂。

 途中からは意図的に流していったが、あの噂を信じてミルフィオーレがランボを襲ったのだとしたら。

 

「ボンゴレリングの噂を!? だからって、なんで利奈まで狙われるんですか!?」

「それは……」

 

 眼差しで恭弥を追うと、恭弥が仕方なさそうに口を開いた。

 

「相沢がリングを持って逃げた。そうとしか考えられない」

「あいつが!?」

「うん。アジトに逃げるつもりなら方角が違うし、なにも持たずに逃げたのなら、ミルフィオーレが拉致していった理由に説明がつかない」

「でもあいつはリングのことを知らないはず――いや、リング争奪戦のあとなら、知ってるか」

 

 この世界でのリングの扱いは知らないだろうが、十年前の世界のボンゴレリングについては知っていたのだろう。

 どういったやり取りがあったかはわからないものの、彼女はリングを守ろうとして、そしてここで捕まった。

 

「それなら、どこかにリングが隠されているかもしれないってことですね。

 利奈がリングを持っていなかったから、在り処を吐かせるために拉致したと」

「そういうことだと思う」

 

 リングは小さく、その気になればどこにでも隠せる。敵も、ボンゴレリングがかかっているとなれば、目の色を変えて探し出そうとするはずだ。

 そんな物、とうになくなっているというのに。ボンゴレリングにまつわる噂は、紛れもなくデマであった。

 

「リングを隠した。あるいは、目の前で呑みこんでみせたか。

 さすがに十年前の相沢じゃ、そこまではできないだろうけど」

「いえ、リングを持って逃げただけでもすごいですよ」

 

 ランボがそんな指示を出すとは思えないし、利奈が自分で考えて行動したのだろう。さすが、中学生とはいえ風紀委員に属しているだけある。

 

(リングは、ランボがいた場所からここまでのあいだに隠されているはず。おそらく、だれにも見つからないようなところに)

 

 早急に見つけなければならない。でないと、利奈から隠し場所を聞き出したミルフィオーレの人間に先を越されてしまう。

 ボンゴレリングの偽物として用意しただけあって、あのリングの精製度はそれなりに高い。なにより、利奈が体を張って隠してくれたリングを、おめおめと敵に渡すわけにはいかなかった。利奈の努力が水の泡になってしまう。

 

(でも、いったいどこに隠したんだろう。どんなルートを辿ったかもわからないし)

 

 きょろきょろと辺りを見渡してもヒントはない。

 しかし恭弥が動き出したので、綱吉は隼人と目配せをしあってそのあとに続いた。

 

「おい、なんか心当たりあんのかよ」

「……」

 

 スタスタと歩く恭弥の足取りに迷いはない。風紀委員ならではの符号でもあったのだろうか。

 

「相沢が隠しそうな場所はいくつか見当がついてる。彼女は物に頼ることが多い」

「物?」

「これとか」

 

 そう言いながら恭弥は自動販売機の口に手を入れた。じっくりと中を探るが、見つけられずに手を引き抜く。

 

「それに、わりと用心深い。念には念を入れた行動を取るから、かえってわかりやすいくらい」

「なら、さっさと見つけろよ」

「獄寺君」

 

 やはり、逃げた道のりがわからないと時間がかかりそうだ。犬の匣をだれかが持っていれば手っ取り早いのだが、そんなに都合よく事は運ばない。

 恭弥は束の間立ち止まって考えこみ、そして顔を上げた。

 

「……もしかしたら」

「うおっ」

 

 くるりと踵を返した恭弥に隼人が驚くが、それには構わずに恭弥は隼人と綱吉の間をすり抜ける。

 その表情の険しさに、恭弥がこの世界の利奈を思い出しているのだと綱吉は察した。

 

「これ。この中に入ってる」

 

 立ち止まった恭弥が、確信を持った声でそう告げた。

 その眼前には、鮮やかな赤色のポストがあった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

挿話:煉獄の炎
続かない日常


 

 私の未来は、いつ決まったのだろう。

 

 あの扉を開いたとき?

 

 ずぶ濡れで助けを求めたとき?

 

 春の教室で歩む道を決めたとき?

 

 そのどれもに貴方がいたから、私はここにいるのだろうか。なら、どれかひとつでも貴方がいなかったなら、私は今、ここにいなかったのだろうか。

 

 ならば、私の運命を決めたのは、貴方なのだろう。その結果がこれなら、仕方がない。

 

(嘘です。あんなの、冗談に決まってるじゃないですか……。

 恨まないですから、私のことを思い出したら、貴方は)

 

____

 

 

 今日も今日とて仕事のラッシュ。

 ボンゴレがどんな緊急事態に陥っていても、それで財団の仕事は減りはしない。むしろ、ピリピリした空気のせいか、小競り合いが増すばかりだ。

 

「おらあ! さっさと出てけやこらあ!」

 

 耳元でとてつもない怒鳴り声が響く。耳を防ぎたいが両手は塞がっており、利奈はうんざりとした顔で仲間を見上げた。

 仲間も負けじと怒鳴り返す。

 

「その前に出すもんがあんだろが!」

「うっせえ! 早く契約書持ってこいや! じゃねえと、この女がどうなってもしらねえぞ!」

 

 

(……日に日に荒んできてる気がする)

 

 この女呼ばわりされた利奈は、目前でちらつくナイフに目を落としてそんなことを思った。切れ味の鋭そうなナイフの表面に、疲れ顔の自分が映る。

 

 本日だけで取立て七件。相変わらずの激務なうえに、この今日最後の取立てで利奈は暴力団の下っ端に見事に捕まってしまった。

 下っ端に捕まったというと体裁が悪いが、ここにいる団員の中では一番格上の人間だ。スーツもそれなりに質がいい。

 

 そのそれなりのスーツは現在、利奈のファンデーションで袖のところが白くなってきていた。スーツが汚れていくのは心苦しいが、利奈の顔に腕を回しているのは男自身である。よって、利奈に責任はない。

 

「いいか! さっさと部屋を出ろ。そしたらこいつを放してやる!」

「……」

 

 金を払うと言われて、いざ受け取ろうとしたらこのありさまである。

 どうも最初からそのつもりだったらしく、事務所総出の団員たちは、全員手に武器を構えていた。木刀にナイフに鉄パイプ。もはやどれもおなじみの凶器であった。

 

 対するこちら側は武器を所持しておらず、人数も利奈を除いてたったの三人。しかも風紀財団所属歴は全員、利奈よりは浅い。

 そして彼らは現在、利奈の身を一切案ずることなく睨みを利かせていた。いつもどおりすぎて、泣けてくる。

 

 思えば、十年前からこの調子だ。

 法外な給料をもらっているとはいえ、そろそろ危険手当を別につけてもらいたくもなる。

 もはやナイフくらいでは動じなくなっている利奈は、恐怖で凍りついたふりをしながら、そのじつ、そのときが訪れるのを待ちかまえていた。

 そのとき、というのはもちろん――

 

「グアバッ!?」

「ひゃぐふっ!」

「なっ……!?」

 

 仲間たちの攻撃開始のことである。

 

「な、なんだお前ら! こいつがどうなってもっ」

「うっせえ!」

 

 脅しの言葉は、顔面に拳がめりこんだ団員の吹っ飛ぶ音で掻き消された。

 怯んだ隙を狙うようにほかの同僚が木刀を投げつけてきたが、男に当たることなく、利奈の頭上を通り過ぎていった。

 

「あっぶな……!」

 

 一歩間違えば大惨事である。視線で訴えかけると、それに気付いた同僚が小さく手刀を切った。ほかの仲間は、同じ手刀で団員の意識を刈り取っている。

 

「いいい、いい加減にしろよ!? この女が――」

「四の五の言ってんじゃねえ! 出すもん出さねえってんなら、その女より先にお前ら全員生き埋めにすんぞゴルラァ!! 死にてえ奴からかかってこいや!」

 

 悪役顔負けの啖呵である。とても人質を取られた人間の台詞とは思えない。

 

(ほんっといつも通り)

 

 口元をひくつかせながらも、利奈はわずかに笑みを浮かべていた。

 

 人数差があったにもかかわらず、団員たちは屈強な風紀委員に次々とのされていく。くぐってきた修羅場の数が違うのだ。

 早くも勝敗が見えてきたところで、利奈を捕らえる男がナイフを捨て、懐へと手を伸ばした。どうやら、銃も秘密裏に所持していたらしい。

 

(銃はやりすぎでしょ……!)

 

 こんな逃げ場のないところで銃なんか使われたら、シャレにならない。利奈は強く唇を引き結んだ。

 

 ――すべてがいつもどおりだった。

 捕えられて、脅されて、仲間は利奈の身の安全よりも任務を優先して。

 男の注意は仲間たちに向いていて、腕の中にいる利奈のことなど露ほども考えていない。

 当たり前だ。そうなるように、じっと息を潜めていたのだから。

 

 非日常も、繰り返せば日常に変わる。

 こんな日常を十年近く繰り返していれば、普通の中学生だって、普通ではない社会人に変貌を遂げるのだ。

 

 利奈は男の鼻っ柱めがけて、力いっぱい頭突きをお見舞いした。

 

「いっ!?」

「たっ!」

 

 利奈の後頭部にも激痛が走ったが、男の痛みはその比ではない。懐から手が抜けた拍子に拳銃が床に落ちたが、それにもかまわずに鼻を押さえる。

 その機を見逃すはずもなく、利奈は床に両手と片膝をつくと、膝を軸にして男の膝裏めがけて回し蹴りを食らわせた。

 

 的確に狙いすました躊躇ない攻撃は、非力な女性のものであっても著しい効果を発揮する。

 攻撃を仕掛けた利奈が一回転してしまうほど、思い切りよく打ちこんだ蹴りは、男を転倒させ、なおかつ、戦意を奪い取った。

 しかし、仕上げはここからである。

 

「動くなっ!」

 

 高い声は怒号のなかでもよく響き、団員たちの視線が一斉にこちらに向いた。委員たちは腕を降ろす。

 

 攻守は完全に逆転していた。

 利奈を人質にとっていた男は、床にしりもちをついた状態で両手を上げており、人質に取られていた利奈は、男の胸元に照準を定めた銃を両手で握りしめている。

 もちろん、拾ってから突きつけるまでの動作のなかで、安全装置は外し終えていた。

 

 団員たちがどよめくなか、委員の一人がわざとらしく咳をする。

 

「言い忘れていたが、このなかで一番格上なのはその相沢だ。くれぐれも、甘く見ないように」

 

 もう手遅れだがという付け足しの言葉に、団員たちは揃って両手を上げた。

 

__

 

「お怪我はありませんか、相沢さん」

 

 団員たちを取り押さえ、事務所の差し押さえ担当の班と入れ替わった利奈たち一行を乗せた車が発進する。

 その車内で、さっきとは打って変わって下手に出る班員に、利奈は曖昧な笑みを浮かべた。

 

「うん、大したことないと思う。頭突きしたせいで頭にコブができたみたいだけど」

「申し訳ありません。俺たちがもっと手早く対処できればよかったのですが」

「ううん、気にしないで。私が焦っただけだから。

 銃を持ってるとは思っていなかったわ」

 

 おなじみのメンバーがいれば、油断していたお前が悪いと、一言で切り捨てられていただろう。

 しかし、ここにはできた後輩たちしかおらず、みんなして利奈を気遣う素振りを見せた。

 

 仕事中はあえて一番下っ端のふりをしているが、実際の役職は利奈の方がはるかに高い。

 それなのに外では雑に扱わなければならないのだから、班員たちからしたら、たまったものではないだろう。しかし、ほかならぬ財団委員長直々の命令ではどうしようもない。

 

「にしても、ヒバリさんはいつ帰ってくるんだか。……絶対逃がさないんだから」

 

 窓ガラスを睨みつけながら、利奈は呟く。

 頬杖をつきながら見る外の景色は、見慣れたいつもの風景だ。

 

 財団委員長からの辞令を目にした利奈は、すぐさま直訴すべく、委員長室へと乗りこんだ。

 しかしそれを見越してか、あるいは偶然か、恭弥はその数時間前にイタリアへと飛び立っていた。

 

 それまで利奈は総務部に所属していた。地下にある研究施設と地上にあるビルを行き来し、ときにはボンゴレやヴァリアーなど、ほかの組織との橋渡し役なども務めていた。

 それがいきなり、並盛町での地域活動に回されたりなんかしたら、文句のひとつどころか、異動についての異議申し立てをしたくもなるだろう。事実上の降格処分である。

 

(そりゃあ、私は死ぬ気の炎を点せないから、使い勝手はよくなかったでしょうけど。

 だからって、いきなり仕事外すなんて!)

 

 怒り心頭の利奈に、運転席の委員が口を開く。

 

「え? ヒバリさんなら、もうこちらに戻られているのでは?」

 

 予想もしていなかった発言に、手から頬が滑り落ちた。前のめりになって運転席の横に顔を出す。

 

「日本戻ってるの!? あの人!?」

「あっ、はい。今朝こちらに戻ってくると、副委員長から連絡があったようで。外回りに出る直前に自分は知りました」

「ありがとう」

 

 すぐさま通信端末を取り出した利奈に、ほかの委員たちが身を固くする。

 彼らにとって恭弥はまだ雲の上の人物であり、身構えずに連絡を取ろうとする利奈もまた、畏れるべき相手なのである。コール音が全員の耳に入るほど、車内が静まり返った。

 長いコールのあと、無造作な声が利奈の耳元に届く。

 

『なに?』

「今、どこにいます?」

 

 この日を十数日も待っていた。抑えきれない怒りが声にこもる。

 

『委員長室。来るの?』

「行きます」

 

 それで通信は終わった。

 息すら止めていた仲間たちに気付いた利奈は、場を和ますためににっこりと笑い、

 

「じゃ、早く戻ろっか」

 

 穏やかな口調で運転席の仲間に発破をかけた。

 

__

 

 地下の研究施設は恭弥の趣味が色濃く反映された造りになっているが、財団の所有するビルは、一般企業とそう変わりない造りになっている。

 匣なんてものが現れるまでは研究施設など造られていなかったので、それなりに立派なビルだ。こちらではおもに並盛町に関わる事業と財団の運営に携わる業務が行われており、普通の会社員同然の社員もいれば、女性社員も多い。

 

 最上階最奥の委員長室に赴いた利奈は、ノックもせずにその扉を開く。

 約束を取り付けていたからか、恭弥はガラス越しの風景を眺めながら机に寄りかかっていた。

 

「早かったね」

 

 無礼な態度を咎めもせずに恭弥はそう言った。

 久しぶりに並盛町に戻れて、機嫌がよくなっているのかもしれない。

 

「お久しぶりです」

 

 まずは一礼。

 

「早速ですみませんが、人事についてご相談が。時間ありますか?」

「その前に、君にこれ」

 

 利奈の気を削ぐように、恭弥は懐から一通の封筒を取り出した。それをひらひらと横に振って、利奈に取りに来るように促してくる。

 訝しむ利奈だったが、宛名に書かれた“a rina”の筆跡で、すぐさま差出人が特定された。

 

「ディーノさんに会ってたんですね」

「ずっとだよ」

 

 イタリアではディーノとともに仕事をしていたらしい。

 人事の話はいったん保留することにして、利奈はいそいそと封筒の封を切った。

 利奈の現金さに慣れ切っている恭弥は、イタリアでの出来事を思い出してか、憂鬱のため息をつく。

 

 ディーノの手紙は利奈への私信であり、仕事内容については一切触れていない。

 言うことをまったく聞かない雲雀にすっかり疲れてしまったというディーノの愚痴を目で辿っているあいだにも、しょっちゅうディーノに口を出されて鬱陶しかったという雲雀の文句が耳から入り、利奈は口をすぼめて笑いを噛み殺した。

 

『――今度は利奈も一緒に来てくれよ? そのときはイタリアのいい店、また案内するからさ。

 また会えた日には、とびきりの笑顔が見れますように』

 

 そんな言葉で手紙は締めくくられていた。

 全文イタリア語で書かれた手紙を読み終ると、封筒を腰のポケットにしまう。

 

「ディーノさん、元気みたいですね。よかった」

「うるさかったよ。こっちの状況確認ばかりしてきたし」

「そりゃあ、そうですって。敵の主力が日本に来るって情報も入ってますし」

 

 相槌を打つ利奈を、恭弥は虚を突かれたような顔で凝視した。

 それで口を滑らせてしまったことに気付いた利奈は、すぐさま口元を手で押さえた。

 

「あ、いえ、なんでも」

「なんで君がそんなことを知ってるの?」

「うっ! ちょっと小耳に……」

「最新の機密情報がそんな簡単に耳に入る? 君が情報に触れられたのは、僕がイタリアに立つ前日までのはずだよ」

 

 ジリジリと距離を詰められ、利奈は咄嗟に顔を逸らした。

 先ほど頭突きした団員よりも顔が近い。

 

「どこで知ったか言ってごらん?」

「……っ」

 

 ――言えない。

 総務部の端末から勝手にアクセスしましたなんて。

 自分の権限が剥奪されたから、同僚の識別番号をこっそり拝借しましたなんて。

 

 恭弥は心底呆れたという顔で利奈を見つめていたが、その件について処罰を与えるつもりはないのか、あっさりと身を引いた。

 

「それで、用件は? 人事についてだっけ」

「は、はい」

 

 本題に入り、利奈はスッと気持ちを引き締めた。

 

「異動の理由を教えてください。春でもないのに人事異動、しかも総務から営業なんて、納得できません」

「べつにおかしくもないでしょ。総務は人が足りているし、風紀活動はいつでも人不足だ。炎を点せる委員たちはみな、地下の方で働いてるからね」

「そうかもしれないですけど……いえ、そうだとしてもおかしいです。

 だいたい、私が取り締まりに参加するとどうなるか、ヒバリさんならよくご存じですよね」

 

 中学時代からの付き合いだ。知らないとは言わせない。

 適材適所という言葉があるが、これでは無駄に火種を生み出すだけだ。

 

「無事にやってるみたいだけど」

「無事じゃないです! 今日だって危ないところだったんですから」

「でも今日だって生きてるでしょ。給料分、ちゃんと働きなよ」

「無理です! 今日生き残ってても明日死んじゃいます!」

 

 必死になって訴えるが、恭弥は時計を気にして視線を落としている。

 わざわざこちらのビルにやってきたということは、面会の予定を入れているのかもしれない。残念ながら、今の利奈の権限では、それがだれであるのかどころか、その予定すら事前に知ることはできないのだが。

 

「……わかりました。今日のところは引き下がります。

 明日なにかあったら恨み続けてやりますからね」

「そのとき君は墓の下だろう? 目障りにすらならないから、べつに困らないよ」

「……前言撤回。とことん話し合いましょう」

 

 臨戦態勢に入った利奈の背後でノック音が響いた。もう訪問者が現れてしまったらしい。

 恭弥の目が利奈を透過する。

 

「どうぞ」

 

 利奈はすかさず秘書然として身構えたが、それは無駄に終わった。

 現れたのが、骸とクロームだったからである。

 

「お邪魔しますよ」

 

 骸が部屋に入ろうとすると、恭弥から強い殺気が迸った。

 

(え、どうぞって言ったのに?)

 

 考えてみれば、恭弥が骸を通すわけがない。骸の後ろで、クロームが申し訳なさそうな表情を浮かべていた。

 

「……君、だれの許可を得てここにきたの? 僕が通すように指示したのは、そっちのクローム・髑髏だけなんだけど」

「おや、一人ずつアポイントメントを取る必要があったのですか? それは知りませんでした」

 

 十割十分、ただの建前である。自分の名前では通されないと踏んで、クロームを盾にしたのだろう。

 空気がひりついてきたので、あいだを取り持つべく利奈は二人に微笑んだ。

 

「久しぶりですね、お二人とも。ずっと海外に行ってたんじゃなかったでしたっけ?」

「ええ、イタリアへ。あちらの戦いは白熱していましたよ」

「そうですよね。……あ、いえ、そうなんですね」

 

 イタリアにはボンゴレの本部がある。ミルフィオーレファミリーがボンゴレに狙いを定めた今、本部が激戦地になっているのは明白であった。

 しかし、下手に喋ると先ほどの違法アクセス事件がぶり返しそうなので、利奈は控えめに相槌を打った。

 クロームはというと、利奈を見て気遣わしげに眉を落としている。

 

「利奈、痩せた?」

「……わかっちゃうほどひどい? ここ最近、ストレスで三食食べられなくて……」

「大丈夫?」

「おやおや、それはひどい。ボンゴレはずいぶんと過酷な労働条件を出しているようだ」

「ちょっと。ここは僕の組織だ。沢田のところと一緒にしないで」

 

 隙あらば諍いを始める二人をよそに、クロームは体調を心配してくれる。

 それをいえばクロームも痩せ型なのだが、彼女にとってはこれが標準体型なので、口には出さないでおく。痩せた利奈よりもクロームのほうが軽いだろうことも、考えないでおく。

 

「クローム。利奈とどこかでゆっくりと話してきていいですよ。あとは僕が引き受けますから」

「え、いや……」

 

 それは困る。いつ戦いを始めるかわからない二人を、二人っきりにしておくわけにはいかない。

 

「積もる話もあるでしょう。僕のことは気にしなくていいので、二人で親交を深め合ってください。かまいませんよね?」

「……」

 

 無言ながらも、恭弥は否定しなかった。利奈を追い出すのにちょうどいいと判断したのかもしれない。

 利奈としても、二人の前で降格された話をしないですむので、ありがたい提案ではある。

 

「……わかっているとは思いますが、ここで交戦しないでくださいね? 匣発動したらビルが壊れますからね?」

「しませんよ、彼がしなければ」

 

 骸の回答に、恭弥の眉間の皺が濃くなった。

 

 このビルは、匣が発見される以前に建てられたものだ。よって、せいぜい銃撃戦を堪え凌げるくらいにしか設計されていない。

 恭弥もそれくらいは頭に入っているはずだが、そんなことで思い留まる人ではない。

 

(次来たとき、部屋がなくなってたらどうしよう……)

 

 利奈はとてつもなく後ろ髪を引かれながらも、その場をあとにした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

深いつながり

 本社ビルの裏にある、古びた喫茶店。店先にメニュー看板などは出ておらず、窓からわずかに覗ける店内も薄暗い。

 いかにも常連客御用達な寂れた店の最奥の席に、利奈とクロームは腰を下ろした。

 

「ここね、意外とパンケーキが美味しいの」

 

 橙色のランプの下、メニューを広げてクロームに見せる。

 利奈はもう注文を決めていたので、メニューには目をやらずに、お冷やを運んできたマスターに声をかけた。

 

「こんにちは。今日はほかにお客さんいないんですね」

「天気が良すぎるからじゃないですかね。こんなに晴れてると、みんな陰鬱な喫茶店なんかより、定食屋かなんかで飯をかっ喰らいたくなるんでしょう」

「陰鬱だと思ってるなら改装すればいいのに。そしたら客足も伸びますよ」

「またまた御冗談を。俺は明るいところにいられるような人間じゃあねえし、閑古鳥が鳴くような店じゃ、先立つものもねえ」

「まったまたー」

 

 この店は、会社員だったマスターが定年退職後に半ば趣味で始めた喫茶店――と見せかけて、暴力団の組長だったマスターが、引退後に開いた喫茶店である。

 組の関係者は出入り禁止になっているので、いたって普通の喫茶店のはず――なのだが、引退騒動に一役買った風紀委員は歓迎されているので、お店の雰囲気はなかなかに厳つくなっている。お昼時なら、見覚えのある人たちでいっぱいだっただろう。

 

「お、決まったかい?」

「利奈は?」

「私はウインナーコーヒーとフルーツパンケーキ。クロームは?」

「私もそのパンケーキと……普通のコーヒー」

「あっ、この子の分はパイナップル抜いてください」

「あいよ。じゃあ、かわりにほかの果物増やしておきましょうかねえ」

 

 クロームが恐縮しながら頭を下げる。

 

「ここのね、フルーツとクリームいっぱいなの。そんなに甘くないから、ペロッと食べれちゃうと思うよ」

 

 疲れたときや、むしゃくしゃしているときは、ここのパンケーキを頬張って気分を入れ替えることにしている。

 これからあの美味しいパンケーキが食べられると思うと、食べてもいないのに上機嫌になってしまいそうだ。

 

「ほんと久しぶりだよね。何年ぶりだっけ。二年?」

「骸様が解放される前だったから……うん、それくらい」

「だよね!」

 

 委員会室では恭弥がいる手前、話を広げられなかったが、二人と会うのは本当に久しぶりだった。

 

(卒業してから、クロームとはあんまり会えなくなってたしね)

 

 十年ほど前。利奈がクロームと初めて出会ったころ。

 復讐者の監獄から逃げ出した骸はボンゴレと取引をし、ボンゴレと復讐者の監獄がさらに司法取引を行ったことによって、収監を免れていた。

 しかし、首謀者の骸は行動を著しく制限されており、それに不満を持った彼らは、監獄側と直接交渉することに決めた。

 

 そこで条件として出されたのが、クロームたちが六年かけて達成した、マフィア界の大罪人狩りである。

 骸を解放する代わりに多くの大罪人を捕まえるという、口で言うのは簡単だが危険度の高いこの条件を、彼らは一も二もなく承諾した。

 そして世界中を飛び回り、監獄側が提示した条件を見事達成して、骸の自由を手に入れたのである。

 

 ――ちなみに、利奈も微力ながら彼らに貢献してきた。

 高校生のころには、不在のクロームたちに代わって骸の頼みを聞いたし、大学生になって風紀財団でアルバイトするようになってからは、風紀財団の情報網に引っかかった大罪人の情報を彼らに譲渡できるよう、恭弥を説得したりもした。

 

(っていっても、大したことしてないけどね)

 

 頼みを聞いたといっても、骸からときどき頼まれる買い物――それも高級店の限定チョコレートとか、そういう緊急性のないものを届けたり、話し相手になったりしただけである。

 それに説得も、骸が自由になればいつでも好きなときに咬み殺せると、やけにあっさり恭弥が受け入れたため、利奈はそこまで力を尽くしてはいない。むしろ説得を始めるところまで持っていく時間のほうが長かったくらいだ。

 

「……本当に大丈夫かな、二人きりにして。だれか呼んだ方がよかったかも」

「二人――でも、大丈夫だと思うよ。報告しにきただけだから」

「だといいんだけど」

 

 ある程度は恩義を感じてくれているはずなので、どうかビルは破壊しないでいてほしいと願っている。最上階だから、ビルが倒壊することはないと思うが。

 

「イタリアには骸さんの弟子に会いに行ってたっけ。修行とかで」

「うん。フラン――その子、フランって言うんだけど。このあいだまでは、フランの幻術とリングの修行を骸様が担当してたの」

「ん? なにかあった?」

 

 含みのある言い方だ。聞き返しながら、クリームを崩さないようにコーヒーを啜る。

 

「……最近になって、フランがヴァリアーの霧の守護者に選ばれた」

「……」

 

 カップを置いた。

 その意味を、利奈は知っている。いや、前任者であるマーモンの最期を、利奈はすでに知っていた。

 ミルフィオーレとの戦いで追い詰められたマーモンは、その命を、自らの手で絶ったのである。

 

 急速に失ってきた食欲を取り戻そうと、利奈は生クリームを掬い取って舌の上に乗せた。

 大丈夫。今日は味がわかっている。

 

「骸さんの弟子がヴァリアーって、それ、骸さん許したの?」

「……うん、ヴァリアーに貸しを作るのも悪くないって」

 

 なんでもないような顔をする利奈にクロームは痛ましげに眉を寄せたが、なにも聞かず質問に答えてくれた。

 ヴァリアーは暗殺のエキスパート集団だ。その守護者に抜擢されるなんて、さすが骸が弟子として育て上げただけのことはある。

 

 この何年かで利奈も頻繁にイタリアに行ったし、ヴァリアーの本拠地にも数度顔を出した。でも、そのフランとは一度も顔を合わせたことがない。

 当たり前だ。あのころはマーモンも生きていたし、そもそもミルフィオーレファミリー自体、誕生していなかったのだから。

 

 お待ちかねのパンケーキが届いて、会話は一度中断された。

 クロームがいる手前、はしゃぎながら口に運んだけれど、そのじつ食欲はほとんどない。ミルフィオーレが侵攻を開始してから、食欲は落ちる一方だ。それでも朝食を摂っていなかったおかげか、抵抗なく食べられた。

 やはり、落ち込んでいるときに食べるここのパンケーキは絶品なのである。

 

「……ねえ、利奈」

 

 顔が上げられない。声だけで、クロームがどんな顔をしているのかがわかる。

 

「そういえばさ」

 

 キウイにフォークを刺しながら話題を変える。

 

「イタリアに行ってるあいだ、犬たちはなにをしてたの? 骸さんは修行で、ほかのみんなは?」

「……私たちは、ミルフィオーレの情報を集めてた」

 

 骸はマフィア界全体を憎んでいる。新興ファミリーの情報収集は欠かせないだろう。

 そして今日、骸はその情報の一部を提供しにやってきた。こちらが与えた逃亡者情報のお返しだ。

 

 情報収集の途中、クロームはミルフィオーレの雨の守護者に襲われたが、骸とともに戦い、なんとかその守護者を退けたそうだ。

 ボンゴレの霧の守護者とその代理人、二人で力を合わせたにもかかわらず取り逃がしたのは、やはり骸のブランクがたたったからだろう。

 

 八年近く黒曜ランドで引きこもり生活を余儀なくされていたせいで、骸はだいぶ身体が鈍っている。それに、幻術の腕は落ちていなくても、今はリングという新兵器が幅を利かせている時代だ。幻術だけでは勝てない世界になってしまった。

 

(それに、向こうは精製度が極めて高いリングを所持している)

 

 マーレリングの精製度はA以上。ボンゴレリングがあれば対抗できたのだろうが、あれはとうの昔、綱吉が破壊してしまった。リングが兵器として意味を持つ日が来るなんて、だれが予想できたであろうか。

 

 食の進まない話をしながらも、なんとかパンケーキを平らげる。小食のクロームも食べきれたようで、フォークを置いた。

 

「はあー、食べた食べた。おなかいっぱい」

「私も。美味しかった」

 

 控えめな感想を口にするクローム。しかしその目は利奈を窺っており、利奈は観念して逸らしていた目をクロームに合わせた。

 話を聞くだけ聞いておいて、自分はだんまりなんて、虫が良すぎるだろう。

 

「利奈は、大丈夫なの? 寝てないんでしょう?」

「……あんまりね」

 

 苦笑気味に答えた。

 寝付けない。食欲もない。それでも、仕事中は身体が勝手に動いてくれる。原動力になっているのは、怒りだろう。今の待遇に憤りを感じているおかげで働けるのだから、皮肉なものである。

 

「リング関係の仕事から外されたの。……マーモンのことがあってからかな」

 

 因果関係はないはずだ。仕事上はなにも影響がなかったのだから。家でどれだけ泣いたって、だれの目にも入らないのだから。

 

「それで、地元の仕事に回されて。でも、ミルフィオーレのことで頭がいっぱいで。だって、知らないところでだれかが死んでるんだもの。忘れられるわけないじゃない」

 

 こうしているあいだにも、きっとだれかが戦っている。そして、亡くなっている。名前どころか、死者の人数すら知ることが許されないなんて、あんまりだ。利奈にとって、彼らの死は他人事ではない。

 

 水のグラスを手に取った利奈は、そのまま一気に飲み干してグラスを置いた。心情とは真逆に、氷が軽快な音を立てる。

 

「私たちのところに来る?」

「え?」

 

 クロームの顔は本気だった。気休めの提案でないと感じ、作り笑いをやめる。

 

「利奈なら大丈夫。骸様もわかってくれるだろうし、きっと」

「それはできない」

 

 考えるよりも先に、答えが口から飛び出した。クロームよりも驚いてしまうが、それが嘘偽りない本心なのだと気付いて、利奈は今度こそ微笑んだ。

 

「前に骸さんも言ってくれたけど、それはいいよ。私、骸さんの仲間にはなれそうにないし」

 

 利奈と骸では、価値観が根本から違いすぎている。

 骸個人に関しては好印象を持っているものの、彼の思想、目標に関して、利奈は少しも賛同できていない。骸がマフィアの殲滅にこだわっているうちは、彼らと一緒に歩むのは不可能だろう。骸がやろうとしていることを、利奈は認められない。

 そもそも、人を殺す仕事はまっぴらごめんだった。この手を他人の血で汚したくはない。

 

「それに、ヒバリさんも許してくれないだろうしね。真っ先に殺されちゃう」

「……そう」

 

 冗談めかして笑うと、クロームはおとなしく引き下がった。

 

 骸が本気でボンゴレを狙い始めたら、クロームはどうするのだろうか。骸に従って、こちらに牙を剥くのだろうか。戦わなければならない日が来てしまうのだろうか。

 そんな未来が来ないことを、利奈は切に願う。

 

「そろそろ戻ろっか。あっちももう終わってるでしょ」

 

 椅子から腰を浮かせて伝票を摘む。クロームが財布を取り出したけれど、経費で落とすからと財布をしまわせた。お客様との食事だから、問題なく落とせるだろう。

 

「私は仕事場に戻るよ。なんか、気持ち打ち明けたらスッキリした。

 今日はごめんね。今度埋め合わせするから、許して」

 

 クロームに気を遣わせて、あんな提案までさせてしまった。

 それほどまでに、切羽詰まっているように見えたのだろう。実際、危ないところまできているのかもしれない。

 しかしクロームは首を傾けた。

 

「……? 謝られることなんて、されてないよ?」

 

 謙遜ではなく、本心で言ってくれるのだからクロームは優しい。

 そんなクロームの背に、利奈はぴょんと飛びついた。

 

「いーの! 埋め合わせってことで、お茶会しよ? 骸さんと……千種とか犬も呼んでみてさ」

 

(めんどいとか、肉のほうがいいとかで断られそうだけど)

 

 楽しい予定を立てておけば、これからの仕事も頑張れる。立て直せる。

 今みたいに本音で話せば、恭弥だってわかってくれるかもしれない。それでも采配は変わらないかもしれないけれど、そのときはそのときだ。自分にできることをやり切ればいい。

 

 そう、思っていた。

 

 

______

 

 

「――リングに関する今回の収穫は以上です」

 

 書類をめくりきった恭弥に骸がそう告げると、恭弥が書類から目を上げた。

 どうやら彼の期待には応えられなかったようだが、それも当然だ。骸たちはリングの情報を得るためにイタリアに行っていたわけではないのだから。

 

「ボンゴレ側からなにか働きかけはありましたか? こちらは今のところ首尾よくやっていますが」

「なにも。そのときを待て、くらいかな」

「不服そうですね」

「そう見えるならそうなんじゃない」

 

 ミルフィオーレに対する十代目――綱吉の作戦は、前代未聞にして荒唐無稽。彼の忠実なる右腕が耳にしたら、発狂すること間違いなしな捨て身の作戦だ。この作戦をすぐさま思いついた彼は、自己犠牲精神が強すぎる。

 

「ところで、そのときを待てと言われたのなら、現状維持が基本ですよね。どうして彼女を追い払うような真似を?」

「君には関係ない」

 

 恭弥はわかりやすく眉根を寄せた。

 

「ありますよ。彼女は僕の恩人ですから」

 

 これは嘘ではない。

 程度はともかく、彼女の協力に助けられた面がある以上、借りは返さなければならない。

 

 しかし骸の言葉を挑発と取ったのか、恭弥はより一層険しい顔で骸を睨んだ。

 どちらかが立ち上がれば、それが開戦の合図となりえる。そんな殺伐とした空気を入れ替えるように、ドアが開いた。

 

「戻りました。……終わったところですか?」

「ええ。いいタイミングです」

 

 戻ってきたのはクロームだけで、利奈の姿は見当たらない。

 明日にはクロームを残して戻らなければならないので、別れの挨拶を済ませておくつもりだったのに。

 

「では、僕も好き勝手やらせてもらいますので。あとの処理などは、ボンゴレと貴方にお任せします」

「……」

「さあ、行きますよ」

 

 クロームにそう促しながら、骸は委員長室を退出した。

 クロームは室内の恭弥に頭を下げ、それから骸を追いかけてその隣に並ぶ。

 

「どうでした? 久々の友人との再会は」

「……利奈、すごく疲れてた」

「でしょうね。あの顔を見ればわかります」

 

 やつれていたどころの話ではない。あれはなにかに憑りつかれた人間の顔だ。

 あの様子だと、それに気付いていないのは本人だけだろう。周りからは、腫れもの扱いされているに違いない。

 

「心配もしてた。二人きりにしたから、喧嘩してたらどうしようって」

「まったく……彼はともかく、僕はそこまで短慮じゃありませんよ。それに杞憂というものです」

 

 骸はちらりと後ろを振り返った。

 

 ――そう、杞憂なのだ。だいたい、前提が間違っている。

 

「断じて二人きりではなかったですしね。そうでしょう? セイ」

「……」

 

 少女が、笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

知らぬ存ぜぬ

 翌日は、デスクワークに費やされた一日だった。

 予兆めいたものはなにもなく、書き終わった書類を郵便局に出しに行こうかと窓から外を覗き見れば、明るい曇り空がそこにはあった。

 自分のデスクで手持ちの封筒を探るが、ちょうどいいサイズの封筒が見当たらない。

 

(まあ、いいか)

 

 郵便局で買ってそのまま出せばいいだろう。

 机の上にメモを残し、利奈は書類をそのまま抱えて郵便局へと向かった。

 

 声をかけられたのは、雑多な人混みを歩いていたときのことだった。

 

「スミマセーン!」

 

 独特なイントネーションで話しかけてきたのは、背の高い外人二人組だった。

 がっしりとした体形の白人男性だ。見るからに観光客で、二人とも大きなリュックサックを背負っていた。

 

「はい、なにか?」

「道を教えてください。ここは、どこにありますか?」

 

 一人がガイドブック上の地図を指差す。

 文字が小さいうえに写真も少なく、彼がどこを指差してしているのかすらまったくわからない。

 

「えっと、このページのどれですか?」

 

 とりあえず世界共通語である英語で尋ね返すと、男は地図上の店名を指差した。目を細めながら身を寄せる。

 

「ああ、このお店ならすぐ近くですよ。そこの道を曲がってまっすぐ行けば、看板が見えると思います」

「ありがとうございます。それと、文字を読んでほしいんですが……」

「いいですよ。えっと――」

 

 文章を読もうとした利奈の背後に、もう一人の男が回りこんで影を落とす。

 反射的に距離を取ろうとした利奈だったが、その動作は脇腹に当てられた物体によって阻まれた。

 

「動くな」

 

 耳元から、野太い唸り声が吹き込まれる。

 

「顔を上げるな。そのままの姿勢でいろ」

 

 ガイドブックを見せられているせいで、男の手元すら確認ができない。スーツ越しの感触からすると、鋭利な刃物。ここはナイフと仮定しておこう。

 男の右腕はもう一人の男の身体で隠されているし、こうもぴったりくっつかれては逃げ出す隙がない。人数差があるうえに体格差も歴然とくれば、音を上げるしかなかった。

 とはいえ、従順になるつもりはさらさらない。

 

「いったい、どこへの道案内を頼むつもり?

 ナンパならお断りよ。貴方たち、まるで私の好みじゃないから」

 

 男の指示を無視し、侮蔑の顔で男たちを見下す。

 その声音と表情は、そこらへんのチンピラくらいなら即座に激昂させられるものだったが、男たちはまるで意に介さなかった。

 

「それは残念。だが、どうあっても付き合ってもらうぜ。

 嫌だってんなら、もっと強引な口説き方をさせてもらうことになる」

 

 男が笑顔のまま、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。中に入っている物の形があらわになる。

 まさか二日続けて銃を向けられるとはと、利奈は嘆息した。

 

「……モテない男はこれだから」

 

 簡単に挑発に乗ってくれるタイプの人間なら御しやすかったのだが、この様子だと一筋縄ではいかなそうだ。

 男たちは観光客としての態度を崩さなかったし、利奈を威圧して丸め込もうとはしなかった。わかりやすい手に出てくれれば、周りの人たちの注目が引けたというのに。 

 

(……どうする)

 

 相手はプロだ。なにかアクションを起こそうとしても、すかさず邪魔が入るだろう。

 わき腹のナイフを柄まで刺しこまれでもしたら、内臓損傷どころか、出血多量で死ぬ可能性もある。どう考えても、おとなしく従うのが身のためだった。

 

「それで、私になんの用?」

 

 利奈が問いかけると、男は初めて演技ではない表情で目を丸くした。

 

「イタリア語も話せたのか」

「貴方たちに合わせたほうがいいかと思って」

 

 けして英語が苦手だからイタリア語に変えたわけではない。

 

「俺たちがどこの人間だか分かるのか?」

「だいたいね。最近、ずいぶんとご活躍みたいだし」

 

 そもそも、風紀財団の縄張りに外国の組織は一切絡んでいない。

 どこかの組に雇われた人間の可能性もあるにはあるが、そこまでする組織があったら、動きが事前に耳に入っていただろう。

 それに、イタリア語に対する反応。間違いない。この二人は、ミルフィオーレファミリーの人間だ。

 

 ――ミルフィオーレファミリー。

 ジェッソファミリーとジッリョネロファミリーが合併してできたファミリー――ということになっているが、実際は新興ファミリーのジェッソが、伝統あるジッリョネロを無理やり取りこんで吸収合併したファミリーである。

 

 それだけでもどんなファミリーなのかわかるところだが、やり方は冷酷無比にて悪逆非道。逆らう者は髪の毛一筋残さないうえに、欲しいと思った物は、どんな手段を用いてでも手に入れる。

 そして彼らの今の標的がボンゴレファミリーというわけだ。

 

 マーモンを思い出し、利奈はますます表情を険しくさせた。

 

「私はマフィアの関係者じゃない。だから、貴方たちに協力できることはなにもない」

「お前はそうかもしれないが、お前たちのボスは関係があるだろう?」

 

 恭弥は風紀財団の委員長であると同時に、ボンゴレファミリー幹部、雲の守護者の立場を与えられている。

 会合などにはまったく顔を出していないが、周知の事実だろう。

 

「だからといって、その部下がマフィアの人間とは限らない。私たちのボスは人に隷属するのを嫌う。もちろん、私たちがマフィアに関わるのも」

 

 利奈は冷めた態度で答えながらも、男たちの反応を見逃さないようにとまばたきを止めた。

 

 ほとんどの委員は、ボンゴレファミリーと接点を持っていない。

 匣の調査をしている委員ですらボンゴレ組織と連絡を取り合うことはないし、ボンゴレのアジトとつながっている地下研究所の扉でさえ、今まで一度も開かれたことがない。風紀財団は完全に独立した組織なのだ。

 

 しかし、よりによって。よりによって、相沢利奈にはボンゴレファミリーとの強い接点があった。

 なにしろ、幹部の面々とは公私ともに長い付き合いだ。恭弥の目もあるので、外ではそういった態度を取ったりはしないが、人目がなければただの友人として振る舞っている。ボンゴレ組織の人間だと思われても仕方ないほど、一人だけ慣れ合っているのだ。

 それを相手が知っているか知っていないかで、この先の対応に雲泥の差があった。

 

(それを知ってて私を狙ったのなら、この人たちの狙いはボンゴレ幹部の弱み、もしくはアジトの在り処。

 知らなければボンゴレへの圧力か、匣の情報、それか……ヒバリさんの弱み? それなら、そんなものあるわけないって答えるしかないんだけど)

 

 男たちは顔を見合わせている。

 いずれにしろ、最後の推測以外が狙いなら、利奈は口を閉ざし続けるつもりでいる。とくにボンゴレアジトの在り処は、口が裂けても言えるわけがなかった。これ以上、犠牲者を増やすわけにはいかない。

 

「場所を変えるぞ。ここだと人が多い」

「了解」

「あ!」

 

 隣の男に背中を押され、利奈の腕から書類が零れ落ちる。

 封筒に入っていない、手で押さえられていただけの書類たちは瞬く間に地面を滑り、利奈はあわあわと取り乱しながらしゃがみこんだ。

 

「わああ、なんでこんなときに!」

 

 焦りながら拾い始めると、すかさずしゃがみこんだ隣の男が、にっこりと微笑みながら紙を差し出してきた。

 

「おかしな真似をしたら殺す」

 

 声音に優しさは一切感じられない。

 

「……こっわ」

 

 予期していなかっただろうに、まったくもって隙がなかった。

 ここで逃げようとしたところで、立ち上がる前に後ろの男に取り押さえられて終わるだろう。

 

 男に手伝ってもらいながら粛々と書類を拾い、自分のおなかを台の代わりにして書類を整える。その動作の途中、薬指と小指でスーツのボタンを挟みこんだ。

 

「お待たせ」

 

 しっかりと書類を抱えなおすと、男たちは無言で前を示す。

 それに従って、利奈はゆっくりと歩を進めた。

 

(この先は川と住宅街……車かなんかで建物に連れて行かれると思ってたんだけど、この足取りは、行き先を決めていない?)

 

 人の少ない道を選んで歩いているだけで、目的地があるようには思えない。まさか、慣れない場所で道に迷ったわけでもないだろう。

 

 だれかと連絡を取り合う様子もないし、ほかの仲間はいないようだ。

 突発的な犯行の可能性が高い。時間さえ稼げれば、利奈にも勝機があるかもしれない。

 

「ここにしよう」

 

 住宅街の合間にある川原を見下ろして、男たちは立ち止まった。

 夏場ではないので人の姿はなく、遮蔽物もない。

 

 土手を降りろと促されるが、ハイヒールだったために利奈は降りるのを躊躇した。

 転んだら、わざとでなくても書類をばらまきそうだ。

 

「早く降りろ」

「ま、待って……」

「待たない」

 

 服の繊維越しに刃先が食いこみ、利奈は背を仰け反らせた。

 

「いった……!」

「黙って降りろ。次は肉も切る」

 

 後ろの男も、わりと流暢に日本語を話せたらしい。

 氷の上を歩くようにたどたどしく足を動かしてなんとか土手を降りきると、その場に膝をつけとまた脅された。抵抗せずにおとなしく膝をつく。

 男たちは利奈から注意をそらさないまま、辺りを窺った。

 

「周辺に人影はあるか?」

「つけている奴はいなかった。ここならだれか来ればすぐにわかる」

 

 顔の横で揺れるナイフから視線を逸らし、利奈は腕のなかの書類を、しわが寄るほど抱きしめた。

 

(絶対に助けは来る……大丈夫……だから、なにも話しちゃだめ。話したら、だれかが殺される)

 

 すでに、スーツのボタンに仕込んである発信機で、救援信号を送り終えている。あとは助けが来るのを待つだけだ。

 

 だれにも尾行されていないことを確認し終えた男は、利奈の腕から書類の束を引き抜いた。日本語も読めるようで、しばらく文字に目を走らせていたが、ボンゴレと関係のない内容だと知ると、地面に落として踏みつけた。

 

「おかしな真似をしたらぶっ殺す。脅しじゃねえぞ」

「……ええ」

 

 後ろの男のナイフは、もはや必要がなくなっていた。正面の男が、ポケットのなかの銃を利奈の左胸に向けている。

 

「さて、話を始めようか。ボンゴレのボスは今どこにいる」

「……知らない。っ、本当に知らないの!」

 

 正面の男が距離を詰め、服越しに銃口を利奈の胸に当てる。探りを入れてくる瞳を見つめ返しながら、利奈は知らないと繰り返した。

 

「なら、お前のボスの居場所は?それくらい分かるだろう」

「……」

 

 さすがに、上司の居場所を知らないとはシラを切れない。利奈は乾いてきた唇を湿らさないまま答えた。

 

「イタリアに行ったって聞いてる」

「イタリア?」

 

 二人が顔を見合わせた。恭弥が先日までイタリアに行っていたことも、そして昨日帰ってきていることも、この二人は知らないらしい。

 そんな質問をしてきた時点で、ある程度は察していたが。

 

「今もイタリアか?」

「……分からない。私のボスは勝手に行き先を変えるから」

 

 堂々と嘘をつきながら、利奈は思考をめぐらせる。

 

(この二人は、私のことをどこまで知っている? 私がどこまで知っていると思っている?)

 

 本当のことを言ってしまえば、利奈はボンゴレファミリーの有益な情報は何ひとつ持ってない。持っている情報が古すぎるのだ。

 

 利奈の権利が剥奪されたのは半月前のことだ。

 そのときの利奈なら、財団がつかめる情報はすべて知ることが出来たけれど、今は違う。

 取り立て業務に異動になり、利奈が関わっていた案件ですら調べることが出来なくなってしまっている。

 そしてボンゴレとミルフィオーレと交戦している今、情報はめまぐるしく刷新されている。

 

(だから、それが目的ならどうしたって私には答えられないんだけど……)

 

 問題は、利奈が守護者と個人的に面識があることを知られていた場合だ。

 その場合、利奈の利用価値はとんでもなく跳ね上がる。情報源としてではなく、人質として。

 

 マフィアのボスにまでなっても情を捨てきれない綱吉は、利奈を見捨てたりなんてできやしないだろう。ほかの守護者たちが口添えしてくれれば――いや、みんな綱吉の意思を尊重しようとするから、助ける方に話がまとまりそうだ。

 唯一見捨ててくれそうなのは自分の上司だけというのが、なんともいえないところであるが。

 

「なら、ボンゴレのアジトはどこだ。ボンゴレの守護者はどこにいる」

「……知らない。私はボンゴレのことはなにも――っ」

 

 ナイフの切っ先が背中を裂いた。一緒に皮膚も切れて、鋭い痛みが利奈を襲う。

 

「おいおい。なにも知りませんで通るわけねえだろうが。このままだと、きれいな背中に消えない傷跡が残るぜ」

「っ、知らないものは知らないわ! 私はボンゴレの人間じゃないもの!」

「だが、お前はボンゴレの同盟ファミリーであるキャッバローネのボスとは面識があるよなあ?

 それはどう説明するんだ?」

「違う。キャッバローネのボスは、私のボスの師匠だったから。それで……それだけよ。

 その縁でよくしてもらってるだけ。ディーノの人柄くらいは知っているでしょう」

 

 彼らがなぜ、利奈を標的に選んだのかが分かった。

 ディーノと面識があるという情報を掴んでいたからだ。

 ボンゴレだけでなく、ボンゴレの同盟ファミリーとも接点があれば、ボンゴレに関わる情報を持っていると思いこんでもおかしくはないだろう。実際、見当違いではないのだが。

 

 しかし彼らの根拠はそれだけのようで、利奈がそっけなく聞き返すと、目に見えて動揺し始めた。

 

「……おい、この女、本当になにも知らないんじゃないのか」

「はずれか。クソ、ついてねえ」

「やっぱり、早かったんじゃねえか?」

 

 パンフレットの男が言う。

 

「部隊にあげなければならない情報を抜き取って動いたんだ。このままなにも手に入りませんでしたじゃ、俺ら――」

「うるせえ! 俺たちはこうでもしねえと上にあがれねえんだ! なんとしても――隊の名を」

「馬鹿っ――!」

 

 男たちはまずいという顔で利奈を見たが、利奈は早口のイタリア語に耳が追いついていなかった。しかし、彼が軽率にも所属する部隊名を出してしまったのだろうということはわかる。

 

(なに? 花の名前……だっけ? なんの花?)

 

「……やばいぞ」

「この女、殺るか?」

 

 そのとき、遠くから何台分もの車のブレーキ音が響いた。

 土手の上の方を見上げると、無数の黒塗りの車が斜めに止まっていて、そこから黒スーツの男が銃を持って現れる。

 

「いたぞ!」

 

(助けが来た!)

 

 ようやく訪れた救助に利奈が目を輝かせた瞬間。

 低く重い音とともに、利奈の視界に赤が舞った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縋りついてもすり抜けて

 さすがにこの回は注意書き入れときます。

 タグのR15と残酷な描写が仕事してます。
 次話とまとめて投稿したほうがいいかなとも思ったのですが、物理的残酷描写と心理的残酷描写のコンボになるだけなのでやめました。
 午後ロー観ているうちに感覚が麻痺して、もう基準がわからなくなったんだ……。

 グロい表現は入れてないですが、前回の続きなので、読みたくない人は飛ばしても大丈夫です。二章を待ってください。


 

 飛び散る血液に、跳ねる身体。腕が爆発したような痛みが、五感のすべてを凌駕する。

 

「あ゛ああああ!!」

 

 銃で肩を打ち抜かれ、利奈は砂利の上でのたうち回りながら絶叫した。

 

「動くな!」

 

 その言葉は、利奈ではなく利奈の仲間たちに向けられていた。

 悶え苦しむ利奈の脇腹を容赦なく踏み押さえ、男は銃口を利奈の頭に向ける。

 

「少しでも近づけばこの女を撃つ!」

「やめろ!」

「銃を降ろせ! 殺すぞ!」

「ううっ、……ううう」

 

 唇を噛みしめ、必死に悲鳴を呑みこむ。

 気を抜くと気絶してしまいそうなほどの激痛と、心音に呼応するように流れ出ていく血液が、行動力と思考力を奪っていく。もはや利奈には、激痛を耐える以外の選択肢が与えられていなかった。

 

「相沢!」

 

 声は聞こえている。しかし、それがだれなのかはわからない。

 呼びかけてきた相手が、かつて同じ班に所属していた近藤であることすら、利奈にはわからなかった。

 滲む視界には空しか映らない。

 赤い空なのか、それとも、視界が赤く染まっているのか。

 

「いいか! 仲間を殺されたくなければ俺たちの言う通りにしろ!」

 

 男が日本語で怒鳴る。

 声音は冷静さを保っているように装っているが、内心の動揺は踏みつけられた足から伝わってきている。靴のなかで指を始終動かしているのが、脇腹越しに伝わってくるのだ。

 

「銃と車を置いてこの場から消えろ! そうしたら、命だけは助けてやる!

 でなければ、この女のほかに何人か死んでもらうことになるぞ!」

 

 仲間はどんな顔をしているのだろうか。ここには何人駆けつけてきたのだろうか。

 懸命にまぶたを押し上げて首を動かすが、焦点が合わず、人数すら確認できなかった。

 

(みんなの声……聞こえない……寒い、な)

 

 震えあがりそうなほど寒いのに、撃たれた腕だけはとても熱い。

 意識を手放した方が楽になるこの状況で、それでも利奈は現実にしがみついていた。

 

___

 

「おい。このままだと、この女が持たないぞ」

 

 顔面蒼白で震える女の肩からは、絶えず血が流れ続けている。

 このままでは交渉の余地がなくなるので、相棒の足をどかせて、傷口を押さえつけた。意識があるのかないのか、女は浅い呼吸を繰り返していた。

 

「どうだ?」

「出血がひどい。それはまあいいが、この女、発信機を所持している可能性が高いぞ。

 仲間が来るのが早すぎる」

「だろうな。くそっ、忌々しい」

「車に乗りこんだら捨てていくか?」

「いや、この女を失ったら俺たちに逃げ場はない。すぐに捕まってしまう」

 

 ずらりと並ぶ男たちは、だれ一人として銃を降ろさなかった。

 この女を殺したら、こちらの打つ手がなくなると見抜かれているのだ。

 

「くそ、この場にいる全員を殺すしかねえのか!」

 

 悪態をつきながら相棒が銃を持ち直す。

 

「この人数相手にそりゃあ無理だろうよ。……いや、手はあるか」

 

 気を失った女を支えながら、背負っていたリュックから小さな箱を取り出す。

 今の時代、銃よりももっと強力な兵器がマフィア間には流通している。

 

「これなら、なんとかできるだろうぜ」

 

 匣兵器。どこかの科学者が発明した、体内の波動を使って操る、オカルトじみた強力な兵器だ。

 これを使ってしまったらマフィア関係者だとバレてしまうが、そんなことを気にしている場合ではない。今はとにかく命が惜しい。

 

(一発、すごいやつを叩き込んでやるぜ!)

 

 土手の上であいつらがわめいているが、もう遅い。すでにリングに炎を点し終えている。

 

(……止めたいってんなら、撃ってみな。こいつごと。

 その弾が俺に当たる前に、この匣に入ったあいつが暴れ出すだろうがなあ!)

 

 匣にリングを注入するその瞬間、すべての動きが止まって見えた。

 焦った顔の男たちも、勝ち誇った顔の仲間も、目を開けた女もすべてが停止して――

 

(目を、開けた?)

 

「っ、はっ!」

 

 腕の中にいた女が、首に抱きついた。

 耳に痛みが走り、匣に挿入しようとしてたリングが空振りする。

 

(この女、俺の耳を!)

 

 女を突き飛ばすと、それを待っていたかのように女の仲間が銃を撃ち始めた。その一発が相棒の足に当たり、怒りで視界が赤く染まる。

 

(こんな死にぞこないの一手で――)

 

 戦況をひっくり返された。

 

「この、クソ女がああああ!」

「っ、お、おい!」

 

 今までにないほどの炎が噴き上がった。片足を引きずった仲間が後退り、銃弾が体をかすめたが、もはやどうでもいい。

 炎を匣に注入して、ピクリとも動かない女に向けて匣を開匣する。

 

「喰らいやがれえええ!」

 

____

 

 燃え滾る炎は、利奈の身体に容赦なく襲いかかった。

 意識は途切れていなかったが、もはや痛みや熱さはほとんど感じなくなっている。

 それは幸せなことだったのかもしれないが、同時に、もうどうしても助からないのだろうなと、ぼんやりと考えていた。

 

 もうなにも見えない。なにも聞こえない。最後に見たのは炎で、最後に聞いたのは男の罵声だ。

 

 空気の振動が、まだ戦いが続いていることを示している。しかし、それすらもはやどうでもよくなってきていた。

 確実なのは、もうすぐ自分が死んでしまうという事実だけ。

 

 死というのはとても恐ろしいことのはずなのに、利奈はなぜか安寧のなかにいた。

 仲間たちが傷つく姿を見ないですんだからだろうか。諦めないでよかったと、心から思う。

 

 そのまま眠りにつこうとしていた利奈の耳に、馴染みのある声が届いた。

 

「利奈っ!しっかりしなさい!」

 

(……あ)

 

 右頬になにかが触れる。

 息を吸おうとしたら肺に煙が入って、利奈は激しく咳きこんだ。

 

「っ! ……っ!」

 

 声が出ないことに恐怖を感じ、なんとか声を出そうと口を動かす。

 しかし、炎に焼かれた喉では、一音も発声できなかった。

 

「落ち着いて! 喋らないでいいですから……!」

 

 頬に触れていた手に口を覆われる。

 利奈は最後の力を振り絞るようにして、目を開いた。

 

(……骸さん? なんで)

 

 間近にある骸の顔はひどく青ざめていた。

 どうしたらいいかわからないといった顔で、利奈の頬を再度撫でる。その手は手袋に覆われていなかった。

 

「……心配ありません! これくらい、僕の幻術で、なんとかなりますからっ」

 

 利奈は首を振る代わりに涙を流した。

 

 どんなに優れた力を持っていても、それは無理だ。たとえ骸でも、死にゆく者は救えない。

 そんなこと、本人だって承知しているだろうに。

 

「今の僕ならできるはずだ……なんとか」

 

 首筋をなにかが掠め、意識が濁る。骸が肩を抱く力が強くなる。

 どうしようもないことをどうにかしようというその姿は痛々しく、傷つくことを恐れる子供のように見えた。

 

「どうしてうまくいかない!」

 

 骸は今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 利奈は半目で骸を見上げるのが精一杯だった。

 

(……だれ、かが……手……?)

 

 だれかに火傷した左手を握られている。

 骸のものではないだろう。左手は両手で握られている。

 

「死ぬな、利奈!」

 

 骸の声が遠くなっていく。

 

「利奈! 返事をしなさい、反応を……っ、利奈!」

 

 左手を握る手はとても小さい。

 

「利奈!」

「相沢!」

「しっかりしろ!」

「利奈! 利奈っ!」

「おい相沢!」

 

 仲間の顔が見えるが、もうなにも聞こえない。

 ガクリと頭が垂れて、見知らぬだれかと目が合った。

 

(……だれ?)

 

 手を握って自分の顔を覗く少女がいる。

 真っ白な少女。透明な瞳で利奈を見つめ、そして――

 

「貴方も、私と同じになるの?」

 

 という問いかけが、頭のなかで木霊した。

 

 なんのことかわからないまま、答えられないまま、利奈の意識は途切れる。

 

 ――そこで、相沢利奈の短い生涯は終わった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煉獄へと至る道

 

 雲雀恭弥に残されていたのは、結末だけだった。

 

 昨日イタリアから帰ってきたばかりの恭弥は、早朝から日本各地にある関係施設に顔を出し、情報収集に当たっていた。

 ――そう。事件が起きたときには、恭弥は並盛町にすらいなかったのだ。

 

 いかに恭弥といえども、距離という物理的な隔たりは乗り越えられない。

 それでも、他人に言わせれば『奇跡』と形容できる速さで戻ってきたのが、もうひとつの奇跡を起こすことは叶わなかった。

 そもそも、恭弥が強襲の知らせを受けたのは、敵がマフィア関係者だと判明してからであり――つまり、敵が匣兵器を取り出してからのことで――どうやったって、間に合うわけがなかったのだが。

 

 並盛町へと引き返すヘリコプターの行き先は最初から病院であり、利奈がいると伝えられた場所は霊安室であった。

 病院の屋上にヘリコプターで乗りつけ、出迎えた院長を置き去りにし、エレベーターに乗って霊安室へと向かう。

 扉の前で待っていた委員が扉を開くと、そこには数人の委員と、六道骸、そして、利奈の姿があった。

 

 利奈以外の視線がこちらに向く。そのどれもが簡単には形容できない表情を浮かべていたが、恭弥が足を踏み入れると、委員たちは一斉に深く頭を下げた。なかには大きく肩を震わせている委員もいたが、声をかけずに利奈の前に立つ。

 

 ――体にも顔にも、白い布がかけられている。

 布がかけられていなくても、この場にだれもいなかったとしても、一目で利奈だとわかっただろう。息をしていなかろうが、気配がなかろうが、利奈は利奈だ。間違えようがない。

 

 体の方の布を外すと、大木がその布を受け取った。

 着ているスーツは昨日見たものと同じだったが、靴の踵の高さが異なっている。そして奇妙なことに、スーツにも体にも、外傷や汚れがひとつも残っていなかった。血の匂いもしない。

 いまだ顔の布は外していないが、原形を保っている以上、そこに致命傷を喰らった可能性は低いだろう。わずかに見える華奢な首にも血の痕はない。

 

「……現場に駆けつけたのは、君たち?」

 

 利奈から目を離さずに問うと、ようやく一同が頭を上げた。

 

「はい。ほかにも二班おりましたが、ほかの班は襲撃者の特定と、近くに潜伏した仲間がいないかの調査に出ています」

「時間かかりそう?」

「特定は少々――なにしろ」

 

 そこで大木は、壁に寄りかかった骸を気にするそぶりを見せた。

 

「顔の判別もつかないほどの外傷だったので」

 

 骸が現場にいたことも、襲撃者を殺害したことも、すでに上空で聞かされている。

 だから、ここに骸がいても疑問は抱かなかった。

 

「わかった。それなら、君たちも出て行っていいよ。

 どうせボンゴレ絡みの襲撃だ。ボンゴレから情報を引き出しておいて」

「……よいのですか?」

 

 委員たちは全員、背後の骸を警戒していた。恭弥を守る壁としてそこに立っていた。

 間に合わなかったとはいえ、仲間を救出しようとした人間に対して礼儀を欠いた行動だが、そうするだけの理由が彼らにはあった。

 恭弥がこの部屋に入ったときから、骸は恭弥に向けて殺気を放ち続けていた。

 

「付き添いは一人いれば十分だ」

 

 今までもそうだったのだから、今だってそうだろう。

 平素なら殺気を飛ばすのは恭弥の役目だったが、今はどういうわけか苛立ちや怒りが湧いてこない。

 

 委員たちが退室してからすぐに、ボンゴレファミリー十代目ボス、沢田綱吉が現れた。

 二人がいると予想していなかったのか、綱吉はわずかにたじろぐ様子を見せた。しかし、なにも言わずに後ろ手にドアを閉める。

 そのままそこで動かずにいる綱吉に骸が声をかけ、綱吉がゆっくりと利奈のもとへと歩み寄ってくる。室内に他人がいないからか、表面を取り繕うような真似はしなかった。

 

 骸が顔にかかっている布を外し、利奈の顔があらわになる。

 

 予想していたとおりの、穏やかな死に顔がそこにはあった。

 擦り傷すらついていないその顔は生前そのままで、今にも動き出しそうなほど、生気に満ちていた。

 これには綱吉も驚いたようで、目を動かしてまじまじと全身を検分している。

 

「到着したときには、もう手遅れでした。この僕でさえ、手の施しようがないほどに。

 意識はかろうじて残っていたのですが、幻術の効果は出ませんでした。ひどい出血で」

 

 目の前の遺体は骸の言葉と矛盾している。

 しかし、骸がそう言うのならそうなのだろうと、綱吉が疑問を口にすることはなかった。

 

「敵は、匣を使ったんだって?」

「ええ。ですが、匣のコントロールすらおぼつかない人間だったようで。

 匣から放たれた炎は仲間も焼き、炎上。あのままでは辺り一面火の海になりかねませんでした。

 僕はちょうどそのタイミングで到着したので、すぐさま二人とも仕留めました」

「……そいつらは、なにか言っていたか?」

「さあ。命乞いの言葉など、耳にするだけ時間の無駄だ。

 ですが、二人とも殺してしまったのは僕の失態です。言い逃れるつもりもありません」

 

 挑むような視線がこちらに向いたのがわかった。

 しかし恭弥は顔を上げず、利奈の顔を見つめ続けた。

 

 ――残されていたのは結果のみ。原因を知ったところで、失ったものが戻るわけではない。

 それならば、なにをするべきか。

 

「ちょっといいかい」

 

 しばらくぶりに声を発した恭弥に、骸が訝しげな眼差しを向けてくる。

 

 恭弥は時間がどれだけ経っているか気にしていなかったが、綱吉はとっくに退室していて、入れ代わり立ち代わり現れた風紀委員の波も絶えた。

 三人だけしかいない室内では、問いかける相手も決まっている。

 

「なんですか」

 

 触れれば凍てつく絶対零度。しかし、熱をなくした恭弥に、その拒絶は意味をなさない。無表情に骸を見据えた。

 

「相沢を元に戻して」

 

 目を見開いた骸が、その反応を取り繕うように口元を歪めた。

 

「……気付いてましたか」

「気付かないわけがない」

 

 死因はまだ聞いていない。

 聞いてはいないが、暴発した匣が草むらまで焼いたのなら、すぐそばにいた利奈が被害を受けないわけがない。最低でも、服や髪に焦げた痕が残っているはずだ。

 その場にいたはずの委員たちがなにも言わなかったのは、遺体がそれほどひどい状態だったということなのだろう。骸の行動を許容するほどの。

 少なくとも、今見せられている利奈は生前そのままの姿だった。この利奈は、まだ生きている利奈を投影したものである。

 

「確かに利奈は炎で焼かれました。近距離で半身を焼かれ、顔なんてとくにひどい有様だった」

 

 利奈を挟んで立っていた骸が、恭弥の隣まで回りこんできた。挑むような光を宿したその目に、色のない自分の顔が映る。

 赤い瞳と青い瞳。どちらも炎のように揺らめいていた。

 

「よくできてるでしょう?」

 

 骸が利奈の頬に手を滑らせる。爪先が触れ、はらりと前髪が落ちた。

 

「あんな姿を衆目にさらすわけにはいきませんからね。完璧に作り上げました。

 こうしておいた方が、貴方がたにとってもいろいろと都合がいいでしょう?」

 

 血色のいい肌に、つやのある唇、寝入ったような表情。そのどれもが作り物であると、骸の表情が物語っている。

 

「こうしてくれって、相沢が頼んだの?」

「僕が勝手にやりましたが、いけませんか?」

 

 すかさず答えた骸の声には熱がこもっていた。

 いけませんかという声の響きには多大に皮肉が込められていたが、そんなことには興味がない。

 

「好きにすればいい。でも、君が作った偽物だけ見て、帰るわけにはいかない。

 早く元に戻して」

 

 睨み合うようにして見つめ合っているが、睨んでいるのは骸だけだ。

 

「……ならば、貴方次第です。本当の姿を見ても目を逸らさない自信があるのならば、一時的に解きましょう。

 ですが、自信がないのなら。このまま大人しく引き下がってください。彼女の前で争いたくはない」

 

 今度は恭弥が即答する番だった。

 

「僕がそんなことをするとでも?」

 

 後悔は絶対にしない。後悔しない選択肢を選び続けてきたのだから。

 だからこそ、焦げた匂いを感じて下を向いた恭弥の瞳が揺らぐことはなかった。

 きれいに取り繕われた虚像なんかに意味はない。どんなに傷つけられていても、最後まで足掻いた実体にこそ意味がある。

 

「……これだけは忘れないでください。

 僕は――雲雀恭弥、貴方を許さない」

 

 もはや灼熱の炎を隠そうともせずに、骸は吐き出した。

 

「相沢利奈を救えなかったのは貴方も同じです。

 貴方は――貴方だけは、なにがあっても彼女を救わなければならなかった。最後まで、救い続けなければならなかった」

 

 右目が爛々と輝いている。

 声は一切荒げていないにも関わらず、触れるものすべてを無に帰す力が込められていた。

 

(そんなこと――)

 

 自分が一番わかっている。

 

 言いたいことを口にして気が済んだのか、ようやく骸は退室の気配を見せ始めた。

 思いついたように骸が利奈の髪に手を伸ばし、利奈がよく使っていた髪留めを外す。

 

「形見分けにこれを頂いていきます。クロームはこちらに来れそうにありませんので」

 

 骸は恭弥の返事を待たずに髪留めをポケットにしまった。

 そして――恭弥には見えていなかったが、泣きじゃくっていた少女を連れて、部屋を出て行った。

 それと同時に、利奈の火傷の痕が瞬く間に消えていく。服の焦げ跡もなくなり、止まっていた時計の針が動き出す。

 恭弥はその時計を手に取ろうとしたが――利奈の手に触れる直前で、こぶしを握り締めた。

 こうなった今、その肌に触れる資格はない。

 

 恨みたいだけ恨めばいい。許されようなどとは思っていない。

 

 赦すことが出来るのはただ一人。

 

 そしてその一人はもう二度と、恭弥に声をかけることすら出来ないのだから。

 




 煉獄:死後、小さな罪を犯したものが向かう場所。天国と地獄のあいだにあり、火によって罪の浄化を受ける。(要約)

 ――いつか必ず救われる。


(短編のあとがきから引用)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章:メローネ基地にて
夢から覚めて


 

 綱吉たちがリングを隠し場所から回収したそのころ。

 彼らの心配をよそに、利奈はぐっすりと眠りこけていた。

 

 心身ともに疲弊した状態で気を失った結果、不安や恐怖が完全に遮断されて、一切なにも考えることなく眠りにつくことができたのだ。

 ミルフィオーレの基地に連れ込まれても、怪我の治療をされても、床に転がされてもまるで目覚める気配がない利奈に、ミルフィオーレの隊員たちも呆れ顔を浮かべていた。

 

「ずいぶんと能天気なガキだな。よくこんな無防備な顔で眠れるもんだ」

「さっきは寝言も言っていたぜ。恨むとか恨まないとか」

 

 隊員が話しているあいだにも、利奈の口は寝言を紡いだ。

 

「……馬鹿って……馬鹿ってなんですか……もう」

 

 それを聞いて隊員たちが笑い出す。

 その声の大きさでようやく目が覚めた利奈は、ゆっくりと重たいまぶたを引き上げた。

 

「……うっ……ん?」

 

 明かりのまぶしさに何度か目を瞬いて、ゆっくりと上体を起こす。昨日の今日なのに、左腕を庇うのがすっかり癖になってしまった。

 

「ようやくお目覚めかい?」

「っ!?」

 

 呼びかけの低い声に利奈は硬直した。

 気を失うまでの記憶がよみがえり、ゆっくりと声の聞こえたほうへと首を動かす。

 

 ソファにふんぞり返るように座っているのは、先ほどランボを襲撃しに来たγである。

 一人掛けソファの周辺には、γを取り囲むようにして制服姿の男たちが立っていた。なかには、γよりも年嵩な人も何人か混ざっている。

 γは見透かそうとする瞳で、きょろきょろする利奈の挙動を見つめていた。

 

「ここ、どこ?」

「見ての通り、俺たちの根城さ。男所帯だから、むさくるしいのは我慢してくれよ」

 

 背後の男たちが脅かすような笑い声をあげているが、殺意すら向けてこない人たち相手に今さら恐怖心は抱かない。

 彼らにはまったく頓着せず、利奈はゆっくりと部屋のなかを見渡した。

 

 根城というよりは、店みたいだった。

 お酒がたくさん並んだバーみたいなところにはカウンター席があるし、利奈のすぐ後ろには長方形の足のないテーブルが――いや、テーブルじゃなくてビリヤード台かもしれない。γが襲撃時に持っていたキューがいくつも壁に並んでいるし、椅子がひとつも置かれていない。

 

(むさくるしいっていうか……お酒臭い。煙草の匂いもするし)

 

 窓がないせいで匂いが充満している。

 座っていてこれなら、立ったら咳きこんでしまうかもしれない。とりあえず、いざとなったら酒瓶を武器にしておこう。

 

(あっ、私の荷物)

 

 γの足元には利奈の購入した衣服が散らばっていた。リングを探すためにぶちまけたに違いない。

 そのなかに一着だけ血で汚れた服を見つけ、利奈は再び体を硬直させた。

 

(ま、まさか……)

 

 ゆっくりと視線を下げる。

 腕の怪我があるからゆったりとした裾の服を選んだけれど、今着ている服は、服屋で着替えた服ではない。

 水色のシャツが黄色のパーカーに変わっていて、たまらず利奈は絶叫した。

 

「きゃああああ!? うわ、うわあああああん! だ、だれ!? 脱がせたのだれ!」

 

 じりじりと後ずさって、ビリヤード台を壁にする。右手で体を庇う利奈に、男たちは動揺の気配を見せた。

 

「腕の止血をしてやったのにその態度はねえんじゃねえかあ?

 ちなみに服を脱がせたのはこいつだ」

 

 一人の男が親指を動かすと、指差された相手はギョッとした顔で隣の男を睨んだ。

 

「は、はああ!? てめ、なにしれっとバラして――ちょっと待ってくれお嬢ちゃん、ほんとにやましいことはしてねえんだから、そんな目で俺を見んなよ。

 隊長もなんか言ってくれって!」

「全員、あんたが脱がされてるところを笑って見てたぞ」

「はああああ!?」

「きゃああああ!」

 

 γの悪意しか感じられない一言に、一同が絶叫した。

 利奈にいたってはもはや半泣きである。大勢の男たちに裸を見られたとあっては、もはや生きてはいられない。いや、生かしてはおけない。いざとなったら酒に火をつけて燃やしてやろう。

 

「うぐっ、さいてっ、最低! 馬鹿ぁっ! 変態っ……ぐすっ」

「泣いちまったぞ、おい!」

「……マジかよ」

 

 さすがに泣くとは思っていなかったのか、γの顔から血の気が引いていく。

 悪意のある告げ口をされたこともあって、周りの隊員たちの目も冷ややかだ。

 

「かわいそうに」

「いくらなんでもあんまりだ、謝ってやれ」

「いいい、言っとっけど俺は見てねえぞ! 後ろ向いてたからな! なあ、太猿兄貴!」

「そうだったか?」

「兄貴ぃ!」

 

 よくよく見れば、太猿というガタイのいい男はまったく慌てていない。

 反対に、彼を兄貴と呼んだまだ年若い長髪の少年は一番焦っていて、利奈と目が合うと一瞬で視線を逸らした。

 

 やり取りを眺めながらグスグスと泣いていたら、いたたまれなさを感じたのか、隊員たちからハンカチを何枚か放り投げられた。

 それで涙を拭いているうちに、立ち上がったγが利奈の前にしゃがみこむ。ヒッと喉が鳴る。

 

「泣いてるところ悪いが、そろそろ本題に入らせてもらおうか。

 いったい何者なんだ、あんたは」

「……」

 

 なにも言わずに涙の溜まった瞳で睨みつける。こんな辱めを受けたあとに質問に答える女の子がいるわけがなかった。

 無言の訴えが通じたのか、γは大きくため息をつく。

 

「だんまりは得策じゃないぞ。素性がわからないやつをおいそれとは解放できないからな。

 あんたがボンゴレと関係のない娘だっていうんなら、なにもせずに帰してやるよ」

「……」

 

 ふいっと顔を逸らす。

 拗ねた態度を装ったが、心の中は冷や汗ものだった。

 

(それじゃ、話したって帰れないじゃん!)

 

 γの口ぶりからすると、利奈を一般人だと思い始めてくれたらしい。

 しかし、十年後の利奈は雲の守護者の部下だ。見逃してもらえるとは思えない。

 

(いっそ正直に、十年前の世界から来てなにもわからないって言ってみようかな。

 ……ダメだ、そしたら元に戻るまで監禁するとか言い出すかもしれない。

 変なこと言って沢田君たちに迷惑かけちゃったら大変だし、やっぱり言わないでおこう……!)

 

 この時代のことはよく知らないけれど、ボンゴレファミリーの地下アジトの存在は知っている。その情報が彼らの手に渡ってしまったら、そこにいる全員が危険に晒されてしまうだろう。

 怪しまれて出られなくなったとしても、口を噤んでいるしかなかった。

 

「Ok,わかった。俺とはどうしても喋りたくないんだな。

 それじゃ、だれと話したいか自分で選んでくれ。より取り見取りだぞ」

「……」

「さすがに全員却下はなしだろ。こういうときは一番好みの男を選べばいいんだよ。

 そうだな……年が近い野猿にするか?」

「はあ!? ちょ、やめてくれよ兄貴!」

 

(え、兄弟?)

 

 先ほどの長髪少年が今度はγを兄貴と呼んだ。

 三兄弟にしては、全員髪色も顔つきも異なっている。利奈は三人の顔を順繰りに見比べた。

 ビアンキと隼人もあまり似ていない姉弟だけど、ここまで違ったらさすがに実の兄弟ということはないだろう。太猿にいたっては肌の色さえ違う。

 

 利奈の視線に気付いて、太猿が半円を抜け出した。

 これ以上警戒させないためにか、γよりもずっと距離を取ってしゃがみ込む。

 

「太猿だ」

 

 自己紹介を受けて、利奈は小さく会釈した。こんなときでも、礼儀というものは守ってしまうものらしい。

 背が高くて、筋肉質で、色黒で、目つきが鋭い。初めて見るタイプの極悪人面だったので、ついまじまじと見つめてしまった。

 

「あんたの名前は?」

「……」

「そろそろ、名前くらい聞かせてくれてもいいんじゃねえか?

 名前を知らなきゃ、手紙の宛先も書けやしねえ」

「手紙?」

「ん? あー、なんだったか……恋文だ、恋文。宛先なしの恋文も変だろ」

「ふふっ」

 

 気障な台詞がくるとは思っていなくて、利奈はつい噴き出してしまった。

 見た目はとても厳ついのに、言っていることは面白い。

 

(下の名前くらいなら……大丈夫かな?)

 

 そこまで珍しい名前でもないし、苗字まで教えなければ特定はされないだろう。

 

「私――」

「失礼します!」

 

 太猿に絆されて口を開きかけた利奈だったが、間一髪とでもいうのか、外からの声がそれを押しとどめた。

 

(だれか来た?)

 

 一斉に全員の視線が斜めに流れていくけれど、利奈のいる位置からは台が邪魔になって、訪問者の姿は見えない。

 

 しかし、彼らにとって歓迎される人物でないことは確かだ。

 訪問者を見ているのであろう彼らの顔は、一様に険しかった。最初に利奈に向けられた視線よりも、ずっと。

 

「だれだ? ……ああ、これはこれは」

 

 緩慢な動作で立ち上がったγだが、訪問者の顔を見るなり、大きく腕を開いた。

 

「メローネ基地へようこそ。ええっと、名前は――」

「入江正一です。ホワイトスペル第二ローザ隊A級隊長の」

「ああ、そうだった。俺はγ。ブラックスペル第三アフェランドラ隊隊長だ」

 

(……アフェランドラってなんだろ。外国語? っていうか、この名前、日本人?)

 

 顔の見えない人との会話を聞きながら、空気を読んでじっとしておく。

 敵なのだからあえて空気を壊すという手もあるけれど、とりあえずは様子を見ておいたほうが得策だろう。耳に入る情報は多い方がいい。

 

「お前らも頭下げとけ。ここの最高責任者だぞ」

 

 いまだ睨みを利かす仲間に念を押しながら、γが入り口があるだろう方へと歩いていく。

 

「いえ、そんな! 電光のγの武功に比べたら、僕なんか……」

「謙遜なんてしなくていい。ボスにもっとも信頼されているんだろう? 俺たちにとっちゃ、上司も同然だ。俺たち第三部隊は、いつでも第二部隊に協力する」

 

 そのわりには口調が馴れ馴れしい。敬語を使わないタイプの人なのだろうが、敬う姿勢は感じられなかった。部下がいる手前、わかりやすく下手には出られないだけかもしれないけれど、部下たちも似たような態度である。

 反対に、相手の正一は恐縮しきりと言わんばかりの声音だ。これではどちらが上かわからない。

 

(それより、ボスってこの組織のボス? ここ、なんの組織だっけ)

 

 こうなるんだったら、根掘り葉掘り綱吉たちに質問しておくべきだった。

 ボンゴレファミリーの敵であるのだから、ほかのマフィアファミリーになるのだろうが、名前すらわからない状態だと居心地が悪い。ブラックスペルとホワイトスペルという単語が出てきたけれど、それがファミリー名というわけでもないだろう。それだと、ふたつファミリーがあることになってしまう。

 

「それでは、ひとつ話を聞かせていただいてもよろしいでしょうか。

 ボンゴレの守護者を襲撃した件について」

「――っ!」

 

 間違いなくランボの件だ。そして、利奈に関連することでもある。

 幾分か声を硬くして、正一は続けた。

 

「貴方たち第三部隊は、ほかの部隊に一切相談することなく、ボンゴレの守護者を襲撃しましたね。情報筋から情報があがってきています」

「いい情報屋を雇ってるみたいだな」

「情報はこれだけではありません。貴方たちが部外者を運んでいるのを見たという報告もあがっています。これは基地の隊員からの報告ですが」

「逐一報告を欠かさないのはいい部下の条件だな。隊長は部下にも恵まれているようで」

「はぐらかさないでください」

 

(私の話してる……)

 

 正一とγがどんな顔をしているかはわからないけれど、向かい合って火花を散らしているのは想像に難くない。

 ずっと同じところに立っている部下たちもはぐらかす気満々なのか、だれひとりとして利奈に目をやらなかった。まるで透明人間にもなったような気分である。

 

「そんな怖い目で見ないでくれ。

 俺たちは少しでもあんたの計画の助けになればと尽力したまでだ」

「……計画とは?」

「ん? そりゃ、ボンゴレファミリーを殲滅する計画だよ。いったいなんだと思ってたんだ?」

「……いえ」

 

(ええ!?)

 

「殲滅!?」

 

 衝撃のあまり立ち上がった利奈だったが、その行動は幸か不幸か、その場の空気を一変させた。

 苦々しげに振り返るγと、目を瞠る正一――やはり日本人だった――と、仮面越しに感情のない視線を向けてくる二人の女。さらに言えば、背後の隊員たちからも視線が突き刺さる。

 

「……彼女は?」

「あー……お客様だ」

「なるほど、彼女が」

「おい」

 

 こちらに近づこうとする正一をγが体で塞ぐが、すかさず正一の部下二人が割って入る。

 その隙に正一がビリヤード台を回りこみ、利奈の前に立った。

 

 眼鏡越しの瞳に見つめられ、利奈も負けじと見つめ返す。

 声で想像した通りの若さだが、このファミリーのボスの右腕なら、見た目と違って相当強いのだろう。ランボをボコボコにしたγよりも偉いのだから。

 

「こんな年端もいかない子供を拉致するなんて……」

「拉致したとは人聞きが悪いな。手も足も縛ってないだろう。

 俺たちは倒れた彼女を助けて治療してやっただけだ。ついでに二三、情報を聞かせてもらえればとは思っていたけどな」

 

(しっらじらしい!)

 

 物は言いようというが、肝心なところが抜けている。

 倒れた原因はγたちにあるし、そもそも、追いかけられなければ傷口だって開かなかったのだ。それに、手足が拘束されてなくったって、大人数に囲まれている状況そのものが拘束である。

 

 言ったってどうせ意味がないのと、隊員たちの視線もあって、口に出して抗議はしなかった。それでも正一には充分伝わったようで、非難の眼差しをγに向けている。

 

「独断で行動されては困ります。

 この基地に敵の仲間を連れてくるなんて――そもそも、彼女はボンゴレファミリーの人間なんですか? 僕にはただの中学生に見えますが」

 

 当たっているようで当たっていない。ただの中学生だったなら、今頃取り乱して泣き叫んでいただろう。いや、もう取り乱して泣いたあとだけれども。

 

「だから、それをこれからじっくり聞こうと思っていたんだよ。

 そいつはボンゴレリングと思われるリングを持って逃走したからな」

「ボンゴレリング!?」

 

 音が出そうな勢いで振り向かれるが、利奈は視線を明後日の方向に向けた。

 六の球は緑色だった。

 

「それは本当ですか? ボンゴレリングはとっくの昔に今のボンゴレが処分したと聞いていますけど」

「だから。それを吐かせようとしていたところだ。

 どうだ、俺たちにとって有益な情報だろ?」

 

 腕を広げるγはどこまでも嘘くさい。

 こんなふうに、俺はお互いのために尽力していたんですよとアピールしてくる人ほど、信用ならないものはない。

 本当にそのつもりだったら、行動する前に相談しているはずなのだから。

 

(この人、絶対騙されてる……)

 

 この組織も一枚岩ではないらしい。そもそも、同じ制服で色を変えている時点で、ある種の区別をつけてしまっている。ブラックスペルが黒服で、ホワイトスペルが白服だろう。わかりやすい。

 

 正一はγの言葉に束の間逡巡したものの、すぐに唇を引き結んだ。

 

「とりあえず、この子の身柄は僕が預からせていただきます。

 君たち、この子を連れてってくれ」

「はっ!」

「おいおい! 手柄横取りするつもりかよ!」

 

 聞き捨てならないとばかりに野猿が吠えるが、そんな野猿に正一は冷え冷えとするような眼差しを向けた。

 

「……手柄?」

 

 先ほどまでの控えめな態度からは打って変わって、その声はどこまでも高圧的だ。

 マフィアとしての一面を垣間見せられられ、利奈は臆した。

 

「冗談じゃない。君たちが勝手に行動することで全体にどれだけ迷惑がかかるか、考えたこともないだろう。

 処罰を与えないだけ、温情だと思ってほしいくらいさ」

「なんだと!?」

「やめろ、野猿!」

 

 今にも掴みかかりそうな野猿をγの鋭い声が抑えこむ。

 兄の命令は絶対だったようで、即座に野猿は身を引いた。しかし歯を噛みしめる姿は猛獣そのものだった。

 

「悪いな。腕は立つんだが、なにしろ血気盛んな年頃で」

「……ちゃんと指導しておいてください。好き勝手されると、本当に困るんです」

「ああ、そうだな。……少し前に、ボンゴレ関連組織の人間に手を出して、返り討ちにあった人間もいたっけか」

「……?」

 

 そんなこともあったらしい。

 それ自体はそこまで興味がなかったが、正一の目がこちらに向いたのは、偶然だろうか。

 

 話がまとまったところで、正一の部下が利奈に迫ってくる。

 仮面で目元は隠れているとはいえ、瓜二つな女に迫られ、利奈は身を固くさせた。

 

「あ、あの、ちょっと待って――」

 

 無理やり連れて行かれることに恐怖を覚えた利奈が後退ると、利奈と女を割くようにして野太い腕がビリヤード台を掴んだ。

 

「……どういうつもりで?」

「おい、太猿」

 

 手を伸ばしたのは太猿だった。

 

「邪魔をするつもりか?」

 

 女の平坦な声かけに、太猿は緩く首を振った。

 

「まさか。だが、このお嬢さんは左腕を負傷していてな。

 できれば、両側から挟み込むような連れていき方はしないでやってくれ」

 

 その言葉に正一が気遣わしげに左腕を見たのを、利奈は見逃さなかった。

 その動作だけで、利奈は彼が悪人でないことを察知した。本性というものは、ふとした一瞬に現れるものだ。

 

「体は拘束しなくていい」

「かしこまりました」

 

 台から手を離した太猿は、利奈にだけ伝わるようにウインクを飛ばしてきた。本当に、見た目のわりにおちゃめな人だ。

 

 お礼に頭を下げて、抵抗はしませんとばかりに自ら二人に歩み寄る。

 表情のわからない彼女たちについていくのは不安だが、正一は悪い人ではなさそうなので、ここにいるよりは安全だろう。

 少なくとも、出合い頭に攻撃してきたγよりはマシなはずだ。

 

「やれやれ、まだ名前すら教えてもらってないんだがな」

 

 通り過ぎざまに肩をすくめるγ。

 利奈はベッと舌を出してそれに答えたが、正一は違う答えを出した。

 

「それは難しいでしょう。

 名前を口に出したりなんかしたら、それを媒介に芋づる式に情報を入手されるんですから。この情報社会ではね。

 では、失礼」

 

(言わなくてよかったー……!)

 

 太猿にしてやられるところだったのに気付き、利奈は冷や汗を流した。

 まったく、マフィアというやつは油断も隙もない。

 









報告活動のアンケート、七十話投稿時に締め切ります。
二週間後ですね。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

表と裏


食中毒って怖いですね。


 

 今日はじつに目まぐるしく動き回る日だ。

 買い物に行った帰りに正体不明の敵に追いかけ回されるわ、目が覚めたら敵の基地に拉致されているわ、そのうえ今度は、次の監禁場所へと自分の足で歩かされている。

 昨日と負けず劣らずの大波乱である。

 

 メローネ基地の廊下は、ボンゴレアジトの廊下よりもずいぶんと凝ったデザインだった。

 近未来的なデザインは、隊員の制服と相まってSFじみたものを感じさせたけれど、利奈からすればここは未来なので、逆に一般的なデザインだったりするのかもしれない。

 元の世界だったならば、どこの研究施設なのかと思っただろう。マフィアのアジトだとはとても思えない。

 

(窓がないけど、ここも地下だったりするのかな。

 どこに連れてかれるんだろう……)

 

 瓜二つな女性に挟まれながら、前を歩く正一の後頭部をぼんやりと眺める。

 寝起きのせいか、あそこから抜け出せてホッとしたせいか、温度調節の行き届いた空気に眠気を誘われている。

 

(ダメダメ、油断してたらペロって食べられちゃう)

 

 さっきだって、名前を口にしていたら、あっという間に素性を丸裸にされてしまうところだったのだ。油断大敵、一寸先はオオカミの腹のなかである。

 

(γは最後まで性格悪かったし)

 

 退室する際のもう一悶着を思い出し、利奈はふんと鼻を鳴らした。

 

 ――あれは、部屋を出ようとした正一が立ち止まったときの話だ。

 

「そうだ、彼女の持ち物も預からせてください」

 

 思い出したように言われたその言葉で、利奈は服の山に目を向けた。

 ボンゴレリングを探すためにかなり念入りに探ったようで、ひどい有様になっている。

 ポケットはすべて裏返しだし、襟と袖までめくられていた。新品なのに、もうしわだらけだ。

 

「かまわないぜ。発信機や盗聴器の類もなかったしな」

 

 そんなものまで探していたらしい。

 どうりで、リングを探しただけにしてはぐちゃぐちゃにされているわけだ。

 

(よかった、女の人がいて)

 

 服を畳む正一の部下の手際の良さを眺めながら、利奈は心底安堵した。

 何日か生活できるだけの衣服を買い揃えたところだったから、寝間着もあるし下着もある。

 まだ着ていないとはいえ、自分が買ったそういうものを異性に触られるのには嫌悪感があった。

 たとえ、彼らに探られたあとだとわかっていても。

 

「彼女の持ち物はこれだけですか?」

「ああ。服を買いに行っていたようで、手荷物はこれだけだ。ボンゴレの守護者も荷物は持っていなかったな」

 

 別れる直前で持ってもらっていた荷物を受け取ったので、ランボが持っていたのは財布と携帯電話の類くらいだったろう。

 だからこそ、ランボの身体検査もそこそこに利奈を追ったのだろうが。

 

(……あれ、なんか忘れているような)

 

 最後の衣服である靴下が、くるくると丸められていく。利奈の買った服はそれで全部だ。

 しかし、なにかが抜けているような気がして、利奈はこちらに背を向けたγの後ろ姿にじっと目を凝らした。

 

 γの部下たちはすでに散らばっていて、ビリヤードに興じたり酒を飲んだりしている。

 だからγがこちらを向いていなくてもおかしくはないのだが、やはり違和感があった。

 

(自分より上だと思ってる人がいるのに後ろ向くのって変だよね。なにか隠してるんじゃ……)

 

 γの部下たちは正一に対してあまり敬意を払っていなかったけれど、γは正一を立てようとしていたはずだ。それが本心でないにしろ――いや、むしろ本心でないほうが、わかりやすく態度に出すものではないのだろうか。

 ここは部屋を出るまで見送っておくのが定石だろう。

 

 そんなことを考えているうちに、服を片付け終えた正一の部下が戻ってきた。

 そして、動かない利奈を無表情に見下ろす。

 

「進みなさい」

 

 平坦な声に促され、γに背を向ける。

 その瞬間、あることを思い出し、利奈は後ろを振り返った。

 

「私のケータイは?」

 

 疑念のこもった低い声は、この部屋の大きさに比べれば、水面に落ちた水滴のようなものだっただろう。しかし波紋は広がり、部屋中の音をすべて呑みこんだ。

 唯一の例外となったビリヤード玉が、カツンと音を立てて穴に落ちる。

 

「……携帯電話?」

 

 正一の声も、利奈に負けず劣らず低いものだった。

 

 利奈が手に持っていたのは紙袋だけ。その中に入っているのは衣服だけ。

 だからγは嘘をついていない――と主張するのは難しいだろう。手に持っていないものでも、利奈が所持しているものはすべて持ち物に含まれるのだから。

 ジャケットの内ポケットに入れていたはずの携帯電話の存在を、利奈はやっと思い出した。

 

「どういうことですか」

 

 ジャケットは治療のために脱がされたので、本来であれば血まみれになったジャケットの内ポケットに入ったままになっているはずだ。

 しかし、リングを探すために靴下まで探った彼らが、ジャケットのなかの携帯電話をそのままにしておくはずがない。必ず抜き取っていると利奈は確信していた。

 正一の部下も、服を畳んだときに物が入っているような反応はしていない。だから、この部屋にいるだれかが所持しているはずだ。

 

 四人からの険しい視線を、γはしばし無言のまま背中で受け止めていたが、すぐになんでもないような態度で肩をすくめた。

 

「おおっと、悪い悪い、すっかり忘れてた」

「ちょっ、それはいくらなんでも――」

「いや、本当に忘れてたんだ。すぐにしまっちまったからな」

 

 詰め寄ろうとする正一を声だけで制しながら、γが携帯電話を懐から取り出す。

 

「あんたも、これを見たら俺がどうして忘れてたのか合点がいくはずだぜ」

 

 自信たっぷりなγに戸惑った様子を見せながらも、正一はγから携帯電話を受け取った。

 物珍しそうな顔をしている。

 

 利奈が持っているのは、よくある二つ折りの携帯電話だ。十年前の世界の物だから、かなり古い型のものだと認識されるのだろう。

 しかし、γの言いたいことはそれではない。

 

「なるほど。バッテリーが切れてるんですか」

 

 携帯電話を開いた正一は、少しボタンを触っただけですぐに閉じてしまった。

 

 ――そう。その携帯電話は、とっくの昔に充電切れで使い物にならなくなっていた。

 充電せずにリング争奪戦に持っていき骸と長電話して、昨日の時点で残りわずかだった電池残量。

 朝のアラームには使えたけれど、服屋に着いたころにはすでにバッテリーが底をついていた。

 

(だからこの人たちに襲われたときも、触らなかったんだよね……。この世界じゃどうせ使えないんだろうけど)

 

 十年も経っているのだ。とっくに解約されているに決まっている。

 

「ずいぶんと古い機器みたいだからな。それに使える充電器があるかどうか」

「そうですね。いずれにしろ、これも預からせていただきます。

 情報が眠っているかもしれませんから」

「どうぞ、ご自由に。どうせ俺らじゃ、どうにもできそうにないからな」

 

(だったら最初から渡しなさいよ……)

 

 いずれにしろ、この件でγが正一に従うつもりがないことが露見した。

 敵の敵は味方ではないけれど、正一の好感度はなんとなく上がる。

 

(そういえばこの人ってなんなんだろう。偉い人には見えないけど)

 

 それでもあのγよりも立場が上で、ボスのお気に入り――ボンゴレでいうと、隼人が自称している、ボスの右腕くらいの立場の人なのだろうか。

 そのわりには貫禄がないし、ブラックスペルの人には好かれてないし、利奈を連れ出す雑用じみた仕事を自ら引き受けている。

 それとも、それほどまでにボンゴレリングは重要度が高いのだろうか。

 

「ここにしよう」

 

 正一の声にハッとする。いつのまにか目的地に到着していた。

 

(ついちゃった……)

 

 これから行われるのは尋問か、取り調べか、はたまた拷問か。

 室内を恐る恐る覗きこむ利奈だったが、そこに広がる予想外の空間に目を瞬いた。

 

(……ホテル?)

 

 ふたつのベットにひとつの机。椅子はふたつで棚もふたつ。ベットシーツは真っ白だし、布団も枕もどれも新品そのものだ。シーツもおろしたての匂いがする。

 

「入って。ああ、君たちは来なくていい」

 

 正一は利奈だけに入室を促した。

 

「先に戻って、ボンゴレ陣営の経過を確認してくれ。通信の準備もあるし」

 

 二人が顔を見合わせる。しかし異を唱えるつもりはないようで、無言のままその場に留まった。

 彼女たちの前で扉が閉まり、正一と二人きりになる。

 

「座って」

 

 椅子を勧められ、利奈は無言で着席した。

 正面から見ても、やはりマフィアの構成員とは思えないほど普通の青年だ。

 人を殺したことがありそうな顔つきの人に囲まれているから、感覚が麻痺している可能性もあるけれど。

 

「心配しなくていい。君をどうこうしようとは思っていない」

「……」

 

 言葉をそのまま鵜呑みにはできないが、嘘をついているようには見えなかった。

 眼鏡の奥の瞳は、まっすぐ利奈を見つめている。

 

「一応、建前として尋ねておくけれど。君はいったい何者なんだ?」

 

 なにも答えないのが正解だと、彼自身が言っていた。なので利奈は口を引き結ぶ。

 

「捕虜として、君の身の安全は保障する。だから知っていることを話してほしい。

 あの守護者とはどういう関係だったんだい?」

 

 声のトーンが優しくなった。

 正一はランボの襲撃にも、利奈の拉致にも苦言を呈していた。γたちとは違い、利奈を利用しようとは思っていなさそうだ。

 

 それでも、なにが原因で素性を突き止められるかわからない以上、余計なことはなにも言えない。

 身の安全が保障されるというのなら、解放されるそのときまで無言を貫くのが、利奈にできる最善手だろう。

 

 利奈の考えが読めたのか、正一が小さく息を吐いた。

 元から期待していなかったのか、落胆の色はない。

 

「僕は入江正一。ここで一番上の人間だと思っていい」

 

 気を取り直したように正一はそう言った。

 

「これから君にはこの部屋で生活してもらう。

 食事は用意するし、必要な物があったら取り寄せてもいい。さっきの服も、調べさせてもらって差し障りがなければ君に返そう。ただ――」

 

 グッと身を乗り出した正一に、利奈は身を固くした。

 

「僕以外の人には、けして身元や情報を明かさないでほしい。先ほどの彼らはもちろん、僕の部下にも。

 なにかあったらすぐに僕を呼ぶんだ。いいね?」

 

 身内に信用できる人が一人もいないのだろうか。さすが裏社会、真っ黒である。

 だれにもなにも話すつもりはないけれど、正一が強く念を押すので、利奈は控えめに頷いた。なんとなく、十年後の綱吉と近い匂いを感じたからかもしれない。

 

 

___

 

 

 入江正一は頭を抱えていた。悩みを抱えていた。

 それはもちろん、ブラックスペルが拉致してきた少女についてである。

 

 間一髪、彼らが尋問を始める前に保護できたものの、少女の存在はもはや基地内全員に知れ渡っていた。このぶんだと、白蘭の耳にもすでに入ってしまっているに違いない。

 部下の一人に見張りを命じているので、ちょっかいを出されることはないだろうが、安心はできない。手柄を立てようと無茶をする輩はあとを絶たないからだ。

 

(それに、第三部隊のことも考えないと……)

 

 独断で守護者を襲撃したうえに関係者を拉致するなど、まったくもって野蛮で強引なやり口だ。

 おおかた、ボンゴレリングの噂を真に受けたのだろう。だからといって、勝手にこんなことをされては今後の計画にも支障が出てくる。

 謹慎を言い渡したいところだが、反感を買いすぎると、いざというときに反抗されてしまうだろう。ここは釘を刺す程度に留めておいた方がいい。

 

(いずれにしても、このままじゃ目障りだ。どうにかしてコントロールしないと――)

 

 綿密に計画を立てていかなければならないのに、予期せぬイレギュラーの修正に追われてばかりいる。

 保護した少女の精神状態も気にかかるところだが、ほかの隊員に不信感を持たれるような行動は取れない。心苦しいが、放置するしかないだろう。

 

 胸に渦巻く感情をやり過ごすため、正一は眉根を寄せながら歯を食いしばった。

 机の上に並べられた資料やリストは、ある種の強迫観念すら抱かせる。

 

(……おなか、痛い)

 

 背後の部下たちは正一の不調には気づいていない。

 無意識に動こうとする右手の甲を左手でさすりながら、正一は深く息を吐いた。

 手元にあるコーヒーはすでに冷え切っている。

 

「入江様」

 

 声をかけられて、正一は手を解いた。

 

「なに?」

「白蘭様から通信が入っております」

「……繋いで」

 

 答えた途端、机上のパソコンに白蘭の顔が映りこんだ。

 ここにいる全員と同じ色の隊服を着ている彼は、無邪気な笑顔を浮かべながらひらひらと手を振っている。

 

「やっほー。ちゃんと映ってるー?」

「映ってますよ」

「そう? 僕からも正ちゃんは見えるけどさ、自分がどう映ってるかはわからないんだよね。画質とか大丈夫?」

 

 白蘭がカメラを見上げながら前髪をいじり始めた。

 前髪よりも後ろで跳ねている髪の毛を触ったほうがいい気もするが、余計なお世話だろう。

 

「はっきり映ってます。そんなにカメラ映りを気にしてどうするんですか」

「んー、どうするんだろうね? でも、人って見た目で他人を判断しがちだから、気にしないよりは気にしておいた方がいいんじゃないかな。

 正ちゃんはそのままでも大丈夫だと思うけど」

「はあ」

 

 早くも髪をいじるのに飽きたのか、白蘭は机に肘をつきながら身を乗り出した。

 

「で、だれを誘拐したの?」

「……」

 

 単刀直入にもほどがあった。先ほどのあれを前置きとするには、舵取りが急すぎる。

 

「女の子らしいね。ボンゴレの親族かなにか?」

「まだ身元は分かっていません。攫ったのは第三部隊ですが、身柄は僕が保護しています」

「それはよかった。ブラックスペルに任せてたら、その子も怯えちゃうだろうしね。

 正ちゃんならそんなに怖そうじゃないし」

 

 白蘭は画面の外に腕を伸ばし、大きなお菓子の袋を取り出した。

 それを見て正一は眉をひそめる。

 

「そんな時間にそんなの食べたら体に悪いですよ?」

「だーいじょうぶ。僕太らない体質だから」

 

 そう言いながら、白蘭は片手いっぱいのスナック菓子を頬張った。

 正一は頬を引きつらせる。

 

「とりあえず、見ているこちらが胸焼けします」

「はいはい。じゃあ僕後ろ向くよ」

 

 白蘭がくるりと椅子を回転させた。

 映像通信の意味がなくなった気もするが、彼の気まぐれは今に始まったことではない。気にするだけ時間の無駄だ。

 

「で、その子はどうする予定? 様子はどうなの?」

 

 保護した動物の安否を確認しているかのような口ぶりだ。

 

「おとなしくしているようです。ただ、食事にはまったく手をつけていないらしくて……」

 

 これは少し意外だった。

 前評判からも、実際に自分で見た印象からも、気丈な性格の子だと思っていた。

 しかし食事を運んだときも下げるときも、布団にくるまったまま、一切顔を出さないらしい。

 普通の中学生が突然こんなことに巻き込まれたのだから、食事が喉を通らなくなっても無理はないが。

 

「かわいそうに。ちゃんと見ててあげてね?」

 

 思いのほか優しい言葉に、正一は軽く息をついた。

 言われなくてもそうするつもりだ。表立っては動けないが、見捨てるつもりはない。

 だから正一はそう答えようとした。

 

「ええ、もちろん――」

「自殺されると困るから」

 

 思わず素の表情になったところで、白蘭が振り返った。屈託のない笑みを浮かべて。

 

「それでね。なんの価値もない子だったら正ちゃんに任せるけれど、もしボンゴレの関係者だったらひとつ、試したいことがあるんだ」

 

 自分の発言をさらりと流す百蘭に、得体のしれない不快感を抱く。この感情は年々ひどくなる一方だ。

 

「ボンゴレは一般人を大切にしているみたいだし、そこを利用しない手はないと思うんだ。

 今後の取引材料に――正ちゃん?」

 

 名前を呼ばれて我に返る。

 いつの間にか、全員の視線が自分に集中していた。

 

「……貴方のお好きなように」

 

 思っていたよりもずっと乾いた声が出た。表情も固まっていたかもしれない。

 なにもかもを見透かしてしまいそうな白蘭に呑まれないように、正一は膝の上の拳を強く握りしめた。

 

「それじゃ、また連絡するね」

「はい。それでは、また」

 

 プツンと映像が切れ、画面が元に戻る。

 しかし正一は、項垂れるようにして顔を手で覆い隠した。

 いつの間にか遠くに去ってしまった友の笑顔が、心の底にこびりついていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

優しい味

 

 いつのまにか朝になっていたようだ。

 時計はないけれど、机の上に置かれた料理を見てそう判断した。

 トレイに載っているのはパン、サラダ、ウインナー、それと水の入ったグラス。どう見ても朝食のメニューだ。

 

 朝食の席に座ることなく、利奈は室内を歩き回る。

 引き出しを開けてはみたけれど、中にはなにも入っていなかった。

 

(鏡……ないのかな)

 

 部屋のどこを探しても鏡が見つからない。

 探す場所が尽きたので、自分がどんな顔をしているのか確認することは諦めた。ベッドに戻って座りこむ。

 ブラシすらなかったので、髪も手櫛で梳くしかない。

 

 なんとなく手触りが悪いように感じるのは、昨日お風呂に入っていないからだろう。

 その前日には入浴したけれど、そのあとにリング争奪戦があったので、どことなく体がべたついている。頼めばシャワーくらい浴びさせてもらえるだろうか。

 

(あの人に聞いておけばよかった。……ひどい顔してるだろうな)

 

 目元を人差し指の背で撫でてみる。ヒリヒリと痛むし、厚ぼったさを感じた。

 

 昨日、正一が部屋を出て行ったあと。

 することもなかった利奈は、ベッドに寝っ転がった。

 そしてこれまでのこと、これからのことに思いを馳せ――二人の顔を思い浮かべた。

 生まれる前から利奈を知っていて、生まれてからもずっとそばにいてくれた、両親の顔を。

 

(お母さん……お父さん……。会いたい)

 

 夜中に家を抜け出したから、驚いて、心配して、探し回っているだろう。

 でも、どこを探しても見つかるわけがない。利奈は未来にいるのだから。

 

 そこまで想像したところで、ハッとしたのだ。

 この世界に利奈がいることを、過去の世界のだれも知らない。

 そしてこの世界のほとんどの人が、ここにいる利奈が何者であるかを知らない。

 ボンゴレアジトにいたほんの数名しか今の利奈を知らないし、利奈が知っているのも、ほんのわずかな人数だけなのだ。

 

 この世界の両親は、利奈を知らない。利奈だってこの世界の両親を知らない。

 だれも利奈を知らない。利奈もだれも知らない。

 だれにも正体を知られてはならないし、明かしてもいけない。

 

 助けがくるのかもわからない状況にいいようもない恐怖と孤独を感じ、利奈は声も出さずに涙を流したのだ。

 

(あー、喉痛い。いくらなんでも泣きすぎた)

 

 涙と一緒に食欲も出て行ってしまったので、食べ物には目もくれずに水に手を伸ばす。

 最初から常温の水だったのか、グラスに水滴はついていなかった。

 一息で呷って再びベッドに寝転がる。枕はしっとりと濡れていた。

 

(……いつになったら出られるのかな)

 

 食事はこうやって運ばれてきているし、拘束もされていないから待遇は悪くないだろう。

 だからといって、ここに閉じ込められたままではいつまでも過去に戻れない。 

 

(いつもならヒバリさんが乗り込んでくれるのになあ……)

 

 そう思ってから、少し笑う。

 

 あの人なら、きっといつでもどこでも駆けつけてくれるだろう。十年の時間差など飛び越えて大暴れしてくれそうだ。

 並森町を離れ、県外の山奥に連れ去られたときでさえ、バイクで車に突撃してきたような人だ。 

 あのときはドアに押しつぶされて死ぬかと思ったけれど、ちゃんと手を差し伸べて助け出して――そこで利奈は我に返った。

 時の流れとともに、思い出がかなり美化されている。

 

(あのときは窓から無理やり引っこ抜かれたよね?

 しかも私乗ってるの知ってたのに車にぶつかってくるって、まったく心配されてないよね?)

 

 散々文句を浴びせた記憶も蘇ってきて、利奈は乾いた笑い声をあげた。

 

 ――そうだ、あの人はいつでもどこでも、人のことなんてまるで考えていなかった。

 自分がしたいまま、やりたいようにやるだけだ。

 

「……それでも、助けてくれたのにな」

 

 視界が滲み、利奈は目を閉じながら丸めた体を抱き締めた。

 

 現実はそんなに都合のいいものではない。

 この世界に利奈の知っている恭弥はいない。いるのは、利奈の知らない、十年歳を取った雲雀恭弥だ。

 

(……この世界のヒバリさんは、私のことをあまりよく思ってないみたいだし)

 

 この世界の恭弥とは一言も言葉を交わしていない。彼が利奈を拒絶していることが伝わってきたからだ。

 それが傷つくべきことなのかどうかはわからないけれど、とにかく利奈は、この世界の恭弥から受け入れられていなかった。

 

 そうして寝転がったまま、どれくらい経っただろう。

 部屋の入り口の方からドアの開閉音が聞こえ、利奈はごろりと寝返りを打った。

 入り口には青年が立っている。

 

(食事係の人?)

 

 訝しみながらも利奈は体を起こす。

 青年は白い制服も黒い制服も着ていなかった。

 

(……工事の人?)

 

 青年は作業用と思われるつなぎを着ていた。

 手にはなにも持っていないし、部屋の入り口から動こうともしていない。

 そのうえ顔を凝視してくるものだから、利奈は布団を引き寄せて体を隠した。

 

「……あの、なにか用ですか?」

「……」

 

 呼びかけの応えは返ってこない。

 叫ぶか逃げるかしても許されそうな状況ではあるが、利奈はそうしなかった。

 部屋の奥にあるベッドを使っていたおかげで、お互いの距離は遠い。なので、まじまじと見つめ返す余裕があった。

 

(なんか、すごく嬉しそうな顔……)

 

 好奇心に満ち溢れた子供のような目をしている。

 口に咥えているのは煙草と思いきや棒付きキャンディだったようで、犬の尻尾のようにぶんぶんと上下に揺れていた。

 

「……あのー」

 

 いつまでも見つめ合ってはいられないと、もう一度呼びかける。

 それで我に返ったのか、男は利奈を見つめるのをやめ、机の上に置かれている手つかずの料理に目を向けた。そして何事か納得したような顔で、一度頷く。

 

「あんたが、正一の連れてきた子?」

 

 ようやく声を発した青年だが、利奈はまず、その声に驚いた。

 その低音が、この時代のランボにそっくりだったからだ。

 

(兄弟……じゃないよね。髪の色全然違うし、顔似てないし)

 

 この人も外国人だけど、顔立ちの雰囲気がまるで違う。親戚でもないだろう。 

 

 赤の他人であると判断したところで、今度はその質問内容に意識が向く。

 この基地まで利奈を連れてきたのはγたちだが、この部屋に連れてきたのは正一だ。

 だから正一に連れてこられたかと聞かれればそうなるのだが、質問が大雑把すぎて答えられない。せめて、ボンゴレファミリーのとか、拉致されたとかを付け加えてほしい。

 

 答えないままでいると、彼は利奈との距離を詰め、つなぎのポケットから小さな紙きれを取り出した。

 

「これ、読んで」

 

 最小限の警戒心を払いながらも、利奈は紙片を受け取った。

 紙には、筆を指でつまみ上げながら書いたようなひょろひょろとした字で、二文字の漢字が書かれている。

 

<酢鼻>

 

「……すばな?」

「……オッケー、ジャポネーゼだ」

 

 紙を返すと、なぜか落胆したような表情を見せながら男は紙切れをしまった。

 ジャポネーゼというのは語感的に日本人という意味だろうが、なにがしたいのかまったくもってわからない。

 

「あれ、食べないの?」

 

 机に置かれたままになっている食事に目をやって彼が言う。

 

「いらないです。片付けても大丈夫です」

 

 食事のトレイを下げに来た人なのだろうか。

 そのわりには奇行が目立つが、これも捕虜の取り調べの一環なのかもしれない。

 

 彼はトレイには近づかず、入り口を振り返った。

 

「モスカ」

 

 ドアが開いた。モスカなる人物を見ようと、視界の邪魔になっている彼を避けるために首を動かすが、人の姿はない。

 

(……? あっ、いた!)

 

 機械音に視線を落とせば、小型のロボットがゆっくりと床を滑走していた。

 

(うわあ! 未来のロボットだ!)

 

 興味を惹かれた利奈は、青年が背を向けたのをいいことに、ベッドから身を乗り出した。

 

 ガスマスクみたいな不気味な顔をしているけれど、サイズが小さいからそんなに怖く感じない。

 腕で黒塗りのお盆を抱えていて、その上にはごはん、味噌汁、それにおかずと、和食が並んでいた。これが利奈の昼食なのだろう。

 ロボットは青年の足元で一回動きを止めたのだが、青年があごで利奈を指し示すと、また動き出してベッドの横で止まった。

 利奈を認識しているのか、顔が上を向いているのがちょっと不気味だったりもする。

 

「紹介する。ウチが造ったミニモスカ」

「え、貴方が造った!?」

 

 びっくりして顔を上げたが、青年が腰をかがめてきたので利奈は軽く身を引いた。

 彼はそれには構わず、利奈の顔をまじまじと見つめ、感心したように呟く。

 

「黒い目に、平坦な顔立ち。ジャポネーゼは本当に面白い顔をしてる」

 

 怒っていいのか悪いのか、微妙なラインである。

 悪口ではないのだろうと口調から判断して、利奈はやっと定番の質問をすることにした。

 

「貴方はだれ?」

「ウチも知りたい」

「ええっ!?」

 

 まさかの記憶喪失者かと驚くが、青年の言いたいことはそういう意味ではなかった。

 

「ウチもあんたのことが知りたい。あんた、名前は?」

「ああ、そういう意味……。私はあぃ――」

 

 そこで利奈は自分の口を両手で塞いだ。

 

「ん?」

 

 青年が首をひねる。

 

(あっぶなー……! ポロっと名前言っちゃうところだった! しかもフルネームで!

 ま、まさか最初からこれが目的だったり――しないか)

 

 疑いの目で男を見上げたものの、どうして口を塞いでいるのかと、不思議そうな顔をしている。まるで利奈がおかしなことをしているみたいな反応だ。

 

「……あ、貴方の名前は?」

「ウチはスパナ」

 

 スパナは隣のベッドに座りこむ。

 

「ミルフィオーレの、技術者だ」

 

(技術者……。ロボット造ったりする人?)

 

 利奈がミニモスカに視線を落とすと、スパナはミニモスカの抱えていたお盆を取り上げた。

 するとミニモスカは、キュルキュルと音を立てながら後ろに下がる。

 

「これはあんたの食事。ちゃんと日本の料理を調べて作った。

 味もみたけれど、日本人の口に合ってるかはわからない」

「……これも、貴方が作ったの?」

 

 尋ねると、スパナは深く頷いた。

 お盆を持っている革手袋は作業用なのか大きめのサイズだ。

 

「あんたが食事をとらないって聞いたから、ウチが用意した。

 洋食が日本人の口には合わなかったんだろ?」

 

 なんというか、外国人らしい思いこみである。

 しかし善意十割の気遣いを訂正するわけにもいかず、利奈は曖昧に笑みでごまかした。

 どちらかというと洋食のほうが好みである。

 

「私、今お腹空いてないんです。だから、申し訳ないですけど……」

「空いてないわけがない。もう二時だ」

「えっ」

 

 朝食が片付けられていないから、昼前だろうと思っていた。

 どうやらスパナは、食事の準備にかなり手間取っていたらしい。

 

(でも、ほんとにおなか空いてないんだもん……)

 

 ストレスで胃をやられるような性格ではないが、修羅場続きで食欲が激減している。

 一昨日のリング争奪戦で負った怪我と、敵に盗られたというストレスが、物理的にも精神的にもダメージを与えていた。

 

 利奈が一向に手を伸ばさないのを見て、スパナはお盆をミニモスカの腕に戻した。

 そのまま部屋を出て行くかと思いきや、先ほどしまった紙きれをまた取り出して、利奈に見せる。

 

「これ、どうやったらスパナに読める?」

「え?」

 

 再び提示された酢鼻に面食らいながらも、利奈は素直に考える。

 

「無理やり頑張ったらスパナになると思うけど……すはなか、すばなにしかならないと思います」

「……そう」

 

 心なしかしょんぼりしているスパナを見て、その文字が意味するものに合点がいった。

 彼は自分の名前を漢字で表そうとしているのだ。

 

(なんでまたそんなことを……ううん、それよりも)

 

「あの、なんで出て行かないんですか?」

 

 訝しみながら尋ねる利奈に、スパナは目を瞬いた。

 

「あんたと話したいから」

 

 臆面もなく言い放たれた言葉に面食らう利奈を尻目に、スパナが箸の持ち手を掴む。

 

「ウチ、日本が好きなんだ。お茶とか工芸とか、文化とか。すごく興味がある。

 フォークで刺さずに摘み取る仕草も美しいし、この漆塗りとかいう染め方も素晴らしい」

 

 唐突に親日家であることをアピールしだすスパナ。

 だからこそ、部屋に入ったときに利奈の顔を注視していたのだろう。外でやったら即通報案件である。

 

「もちろん日本人にも好意を抱いている。だからあんたとも仲良くしたい。名前は?」

「……言えない。

 貴方は多分知らないんだろうけど、私は人質なの。だからなにも話さない」

「そっか」

 

 その件については興味がないようだ。

 技術者だと名乗っていたし、ミルフィオーレファミリーに忠誠を誓っている構成員ではないのかもしれない。

 だとしたら、逆に情報を引き出すチャンスである。利奈はグッと前のめりになった。

 

「あの、ここで一番偉い人って誰ですか」

「……責任者って意味だったら、正一だろうね」

 

 やはり本人の言っていたとおり、正一がここの最高権力者であるらしい。

 よくぞ利奈の前に姿を現したものである。

 

 咥えていた棒を口から出して、スパナはつなぎのポケットから新しいキャンディを取り出した。先端がへこんでいる、変わった形のキャンディだ。

 もうひとつ出して利奈に渡そうとしてきたけれど、それは手で制して遠慮した。

 

「このメローネ基地すべてを管轄してるのは正一だし、ミルフィオーレファミリーの中でも実質ナンバーツーなんじゃないかな。興味はないけど」

「……仲いいの?」

 

 最高責任者だと知っていながら敬称をつけずに名前呼びだし、その口ぶりはかなり親しげだ。

 

「正一もプログラマーだしね。新しい兵器の構想とかもしてたよ。

 うちはモスカを弄るのが好きだけど、正一はバーチャル空間的な戦闘をよく考案してたし」

 

(なんか、聞いたら聞いたぶん以上に教えてくれるな、この人……)

 

 そのうち、重要な機密なんかもうっかり喋ってくれそうだ。

 人質相手だからか、子供相手だからか、まったく警戒を滲ませていない。

 

「……私がいつ解放されるかとか、知ってたりします?」

「わからない。あんたの処遇は正一も決めかねてるみたいだったし」

「そうですか……」

 

 知っていたらあっさりと教えてくれそうな口ぶりだったが、知らないのなら仕方がない。

 それでも利奈が気落ちしたのが伝わったのか、スパナは言葉を続けた。

 

「どうなるかはわからないけど、正一はあんたを解放したがっているように見えた。

 だから、そんな心配しなくても大丈夫」

「……本当?」

 

 コクリと、飴を咥えたまま頷かれる。

 

「本当。もし最悪の事態になりかけても、あんたの命乞いはしてあげる。日本人だし」

 

 元気づけようとしてくれているのだろうけれど、それはあんまり喜べなかった。

 

(だってそれって、私が日本人じゃなかったら見殺すってことだよね……)

 

 視線を落としたら、ミニモスカと目が合った。

 それを合図と捉えたのか、ミニモスカがお盆を渡そうと腕を上げる。

 

「食べられるときに食べておいた方がいい。長丁場なら、体力は大切」

 

 またもや食事を勧められ、利奈は観念するようにお盆を受け取った。

 味噌汁はまだ湯気が立っている。食欲がなくても、汁物なら飲めるかもしれない。

 

「……いただきます」

 

 手を合わせてから、味噌汁の入ったお椀を手に取った。

 黒塗りのお椀に口をつける利奈を、スパナは緊張の面持ちで見守る。

 

「どう?」

 

 器から口を離すと、間髪入れずにスパナに尋ねられた。

 

「……すごく、おいしい」

 

 スパナが嬉しそうに口元を緩める。

 そのまま箸を手に取って食事を始めた利奈を、スパナは終始優しげな瞳で見つめ続けていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

踏み砕かれる思惑

 その後は、昼食も夕食もスパナが運んできてくれた。

 昼食時には部屋の前にいる監視役の人に苦言を呈されていたが、スパナが気にしなかったので、利奈も気にかけないことにした。

 

「ねえ、朝のあの紙って、スパナの名前を漢字で書いたの?」

 

 雑談をしているうちに仲良くなって、次の日にはわずかばかりの敬語と警戒心を取り払ってしまった。

 スパナの質問がどれも日本文化に関するもので、一度も利奈の素性を探ろうとしなかったからだ。

 

「そう。スパナって名前が見つからなかったから、読めそうな漢字を組み合わせた」

「だったら、鼻は違うのにした方がいいと思う。だって、鼻って鼻だよ」

 

 言いながら自分の鼻を人差し指で触ると、ふむとスパナは顎に手を当てた。

 

「パナで検索した漢字のなかで、一番面白い漢字だったんだけど」

「字の形で決めるのは危ないよ。日本人が変な単語のTシャツとか着てたら変に思うでしょ」

「んー……。それなら、違う漢字も検討してみる。夕食のときに持ってくるからまた読んで」

「うん、わかった」

 

 昼食のときに、そんな話をした。

 

 スパナがいなくなるとすることがなくなるけれど、捕虜の身で暇だの退屈だの言ってられないだろう。

 

 今のところ待遇は良好だ。

 正一は約束通り服を返却してくれたし、昨日の夜にはシャワーにも行かせてもらえた。

 さすがに携帯電話は返してもらえなかったが、持っていたところでどうせ役には立たない。

 

(いつまでここにいなきゃいけないんだろう)

 

 早く帰りたい。ボンゴレアジトにも、十年前にも。

 怪我を負ったランボの容体を確認したいし、わずかばかりかもしれないが、この基地についての情報を彼らに伝えたい。

 この基地は、おそらく地下に存在している。

 

(どこにも窓がないし、スパナが持ってきた和菓子、並盛町の老舗和菓子店の羊羹だった。

 並盛町付近の地上にこの基地があるのなら、絶対ヒバリさんが場所を突き止めているはず)

 

 それは自分たちに対する信頼でもあった。

 並盛町内の建物に潜伏していたとしたら、十年後の風紀メンバーが気付かないはずがない。

 

 そんな利奈の焦りに応えるように、部屋のドアが開いた。

 もっともそれは――

 

「入江様がお待ちです」

 

 ――悪夢への入り口だったけれど。

 

 

__

 

 

 利奈が案内されたのは、円形ドーム型の大部屋だった。

 

 入り口から見て左には半円を描くように大きなモニターが備えつけられていて、その下には何箇所かにわけて椅子と机が置かれている。そこに座っている人はみんな、空中に出ているモニターを見ながら、手元にあるキーボードを叩いていた。未来のパソコンである。

 そして部屋の右側には同じようなモニターと、なにやらわからない機械の操作パネルやら計測器と、多数の隊員の姿があった。

 利奈が連れてこられることを知っていたのか、利奈を一瞥するだけで仕事の手は休めない。

 

 そして部屋の中央部には人が乗る丸い台と、学校の教壇のような机がひとつ。そこに正一が立っていた。

 部屋の中央部と壁面以外にはなにもないので、部屋の中央にいる正一の存在感が際立っている。

 なるほど、ここは指令室かなにからしい。

 

「入江様。連れて参りました」

 

 連れてこられた利奈は、低い位置から正一を見上げた。

 見下ろす正一の瞳はこのあいだと違い、冷ややかさを感じる。真一文字に結ばれた口元は固く、顔つきも変わっていた。

 鼻を突くコーヒーの匂いに目を動かすと、机の上にマグカップが置いてあった。淹れたてなのか、大量に湯気が出ている。

 

「こちらに」

 

 声には一切の隙がなかった。

 前回とまるで違う正一の態度に戸惑いながらも、利奈は台に足をかける。

 

「……あの、今度はなんですか」

 

 解放の話でないことは雰囲気で察している。良い話でないことも。

 もしそうだったとしたら、部屋を出るときに荷物を持たせてくれているはずだ。

 

「私、なんで呼ばれたんですか?」

 

 声が喉に張り付きそうになる。

 これからいったい、なにが始まるのだろう。 

 

「君を呼んだのは、僕じゃない」

「……え?」

 

 予想外の答えに戸惑う。

 

『僕だよ』

 

 予想外の角度から、声が響いた。

 

「っ!」

 

 声の聞こえた方に目をやったが、そこにいた隊員は利奈に背中を向けていた。

 作業に追われている様子で、利奈に声をかけたようには思えない。

 

(あっちから聞こえたのに……)

 

 正一の表情を確認するが、正一からはなんの反応も得られない。

 だれかの代わりに利奈を呼び出したので、彼は役目を終えているだろう。

 

 もう一度、声が聞こえた方角に目を向けた利奈は、そのままその空間を凝視した。

 方角に間違いがなければ、その辺りになにかがあるはずなのだ。幻術で人が潜んでいる可能性もある。

 

 しかし利奈の予測は外れる。

 利奈が見ていたよりもわずかに上、なにも映し出していなかったモニターが、一瞬で切り替わった。

 

『やあ、初めまして』

 

 にこやかに笑う男の映像。

 彼からも利奈が真正面に見えているようで、利奈に目を合わせて手を振っている。

 

(……だれ?)

 

 親しみのこもった表情で手を振る彼は何者なのか。

 敵であるボンゴレファミリーの関係者への挨拶にしては、ずいぶんとあっけらかんとしていた。

 まさか、彼も日本オタクだったりするのだろうか。

 

 思考を巡らせて百面相する利奈を、彼は面白そうに眺めている。

 

『僕のこと、知らない? 正ちゃん、こういうときは先に説明しておかなくちゃ』

 

 大勢の人がいるなかで唐突にたしなめられ、正一はムッと顔をしかめた。

 

「急に言い出されたから時間がなかったんですよ。捕虜の顔が見てみたいだなんて」

『だって気になるじゃない。正ちゃんが敵の女の子を世話してるなんて聞いたらさ』

「っ、そういう冗談はやめてください。怒りますよ」

『もー、正ちゃんはすぐ怒るんだから。場を和ませるためのジョークだよ』

「白蘭さんのジョークは笑えないんです」

「……白蘭?」

 

 人の名前にしては珍しく、利奈はつい名前を復唱してしまった。

 その瞬間、周りの人たちの視線が利奈を刺したが、画面のなかの青年は表情を変えずに頷いた。

 

『うん、僕の名前は白蘭。で、正ちゃんの上司』

 

(じょ、うし?)

 

 スパナは言っていた。正一はミルフィオーレの中で二番目の地位にいる人物だと。

 つまり、その上司となると――

 

(一番! このファミリーのボス!?)

 

 ゾクッと肌に嫌な感覚が走り、利奈は反射的にモニターから距離を取った。

 その反応を見逃さずに、白蘭が目を細める。

 

『……やっぱり、その子はボンゴレの子なんじゃない?

 これだけで僕が何者なのかわかったみたいだし』

 

(やばい!)

 

 あからさまに警戒してしまった。

 スパナに話を聞いていなければ気付きもしなかっただろうが、それを言い訳にしたらスパナが処罰される可能性がある。

 保身のためにスパナを売るわけにもいかず、利奈は自分の迂闊さを呪いながら唇を噛みしめた。

 

 正一はそんな利奈に目をやったものの、すぐに色のない息をついて白蘭を見上げた。

 

「それはこれから調べれば済むことです。白蘭さんが手を煩わせる必要はありません」

 

 とんでもないことになってしまった。

 ボンゴレの関係者だと確信を持ったら、彼らは利奈に情報を洗いざらい吐かせようとするだろう。

 しかし、この状況で下手に弁解しようとすれば、より一層彼らに疑われてしまう。

 

「気が済んだのなら、彼女を部屋に戻してもかまいませんか? 僕も仕事がありますから」

『えー、もう? まだ全然話してないのに』

 

 挽回の一手が浮かばない。

 このままでは綱吉たちが危険に晒されてしまう。

 

(どうしよう……!? どうすればいいの!?)

 

 焦りが頂点に達したところで、白蘭が手を打ち合わせた。

 乾いた音が空気を変える。

 

『忘れちゃうところだった。その子に伝えておきたいことがあってね』

「えっ?」

 

(私に?)

 

 ミルフィオーレファミリーボス直々の話とはいったいなんなのか。

 まったく想像できずに戸惑う利奈に、白蘭はあっけらかんとした態度で語りかけた。

 

『その様子だと、今なにが起こっているかまったく知らないんでしょ?

 ボンゴレがどうなってるかとか、僕が君の仲間になにをしたのかとか』

「……え?」

「っ!? 白蘭さん! 駄目だ!」

 

 利奈の目が大きく見開かれる。

 

 なにかを察した正一が叫ぶ。

 すべてを目にしながら、白蘭は口を動かした。

 

『君の大切な人、殺しちゃった』

 

 ――君の大切な人、殺しちゃった。

 

(なにそれ)

 

 利奈は、その言葉が自分を動揺させるための嘘なのだろうと考えた。

 だから取り消されるのを待った。

 

(ほら、早く言ってよ)

 

 白蘭の目はまっすぐに利奈を見つめている。唇は動かない。

 

 ――君の大切な人、殺しちゃった。

 

 そんな言葉、嘘に決まっている。そうに違いない。

 

 嘘だと思おうとした。口に出して否定しようとも考えた。

 それなのに心臓は早鐘のように脈打って、出そうとした言葉は喉につっかえて出てこなくなる。

 

「――!」

 

 隣の正一がなにかを口にしているのに、その声がまったく耳に入らない。

 ひどく怒っているみたいだけど、それが白蘭が嘘をついたからなのか、あるいは本当のことを言ったからなのか、言葉がわからないから区別がつかなかった。

 利奈の耳に届いているのは、白蘭の座っている椅子が軋んでいる音だけで、それもなんのヒントにもならない。

 

『ねえ、今、だれのことだと思った?』

 

 怒鳴る正一を一切無視しながら、白蘭は利奈に尋ねた。

 不思議なことに、正一の声は聞こえなくても、白蘭の声ははっきりと聞こえた。

 しかし利奈は答えられない。

 

『君の大切な人って、だれなのかな?』

 

 そこでやっと、だれが殺されたのかを知らされていないことに気がついた。

 

(聞きたくない)

 

 聞いてしまったら、もう、事実として受け入れなければならなくなる。

 それでも、聞かずにはいられなかった。

 

「……だれ?」

 

 掠れた声になってしまったが、白蘭には届いたらしい。

 椅子の背もたれに背中を預け、立てた人差し指をゆらゆらと揺らす。

 

『んー、じゃあヒント。君たちのなかで一番偉い人』

 

 真っ先に恭弥が思い浮かび、利奈はまず、そのありえなさに目を瞠った。

 しかし、すぐに勘違いに気付く。

 

 白蘭たちは利奈をボンゴレファミリーの人間だと思っている。

 それなら君たちという単語は、ボンゴレファミリーのことを指し示すはずだ。

 

 次に利奈は唇を震わせた。

 答えが出てしまったからだ。ボンゴレファミリーで一番偉い人間ということは――

 

――

 

「いい加減にしてください!」

 

 とうとう正一は通信を切った。

 しかしすぐさま回線が復帰し、正一は正面のモニターを睨みつける。

 

「いったい、なんの目的でこんなことをしているんですか! これじゃあ! これじゃ、ただの――」

『ただのイジメだって?』

「っ!」

 

 画面が暗くなって背後から白蘭の声が聞こえると、正一は勢いよく振り返った。

 今度はそこのモニターに白蘭が現れる。

 

『でも、彼女には知る義務があるでしょ? 責任があるんだから』

 

 ピクリと彼女の指が動いた。

 そういえば机を叩いたとき、彼女はまったく反応を見せていなかった。もしかしたらショックで音が聞こえなくなっているのかもしれない。

 

 ――このとき、注意を少女に向けたのは、正一痛恨のミスであった。

 

 正一が目を逸らすと同時に、白蘭が振り返ったばかりの少女の瞳を捕らえたからだ。

 正一が白蘭との通信を強引に切り上げる前に。正一が彼女をこの部屋から連れ去る前に。白蘭は会心の一撃を与えるべく言葉を続けた。

 

『君がいたから、沢田綱吉は死んだんだ』

 

 ――それは、あまりにも無慈悲な通告だった。

 

 少女の瞳から光が失せていくのを、正一はただただ見ていることしかできなかった。

 

『考えなかった? そこに監禁された理由を。君が捕まっていることで、ボンゴレにどんな影響がでるかを』

 

 少女が力なく首を振った。

 あまりの痛々しさに、様子を窺っていた隊員たちの何人かが顔を背ける。

 

「……やめてください」

『まあ、僕としては助かったんだけどね。君がいなかったら、こんなに早く話は進まなかった。

 警戒心の強いあの十代目が一も二もなく交渉に応じて、あんな無防備に撃たれるなんてことは――』

「もうやめてくれ……っ!」

 

 懇願すら滲んだ正一の声に、再び白蘭の視線が正一に向いた。

 その眼差しは平静そのもので、正一は自分がいつにもなく取り乱していることを自覚する。

 だからといって、今さら感情を隠すことなんてできなかった。

 

「……やめましょうよ。こんなことして、なんになるんですか」

 

 こんなものはただの暴力だ。

 無力な人間に無力なことを突きつけ、その代償を噛みしめさせるなんて。

 

『……正ちゃんは優しいんだね』

 

 それは正一を責める言葉だった。

 慈愛すら感じさせる声音で、白蘭は正一を責めた。

 

『でもさ、いずれ知ることになるんだ。だったら、だれに責任があるのかを教えてあげなくちゃ』

「でも、こんなのは間違っています」

 

 敵対する人間を擁護したって意味がない。

 しかしだからといって、無関係な彼女に人の死の責任を負わせるなんて、そんなのは間違っている。

 

『正ちゃんはそういうけどさ――っ』

 

 その先は、白蘭の声よりもはるかに高い破壊音で掻き消された。

 

 床一面に散らばる黒と黒。液体と固体。コーヒーとマグカップ。

 

 一瞬前まで机の上に載っていたそれらは、少女の手によって床へとぶちまけられていた。 

 あまりにも突然のことで正一と白蘭はおろか、そこにいたすべての人間が、呆然と少女に目をやった。

 

「……なに、言ってんのよ」

 

 今まで聞いた彼女の声のなかで、もっとも強い声音だった。

 触れたら火傷しそうなほどの強い憎悪を滾らせながら、少女は歩き出した。

 

「全部――全部、あんたのせいじゃないの……!」

 

 黒いシミを踏みつけ、カップの残骸を踏み砕き、少女は歩を進める。画面に映る、白蘭のもとへと。

 

「あんたなんか――!」

 

 割れ残ったマグカップを拾い上げると、今度はそれをモニターへと投げつけた。

 モニターに亀裂が走り、映像が途絶える。それでも彼女は手を休めない。落ちた残骸を拾って、手元のモニターを割り始める。

 隊員たちが動き出したのは、みっつめのモニターが破損してからだった。

 

「殺してやる!」

 

 一人が後ろから押さえつけるが、それでも腕を振るいながら少女は叫んだ。

 

「殺してやる! 殺してやる! 殺してっ――」

 

 数人がかりでようやく引き剥がす。彼女は負けじと抵抗したが、敵わないと知るやいやなや泣き出した。

 

「離して! 離してしてよおお!」

 

 泣きながら、もがきながら、少女は前へ前へと手を伸ばす。

 

「あんたなんか殺してやる! 私がっ、絶対に殺してやるんだから! 白蘭! あんたは、私が!」

 

 少女はとうとう床へと押さえつけられた。

 

「やめて! 離して! っ、この」

「入江様」

 

 直属の部下が正一の指示を仰ぐ。

 

 このままでは部屋にも帰せない。

 仕方のないことだと自分を言い聞かせて、正一は首を縦に振った。

 

「うあっ!」

 

 腕に鎮静剤が打ちこまれる。

 徐々に動きが鈍くなり、すぐに少女は気を失った。

 

『……大丈夫?』

 

 ただ一人安全な場所にいた白蘭が、身を乗り出して画面を覗きこんできた。

 白蘭の見ている映像からは損害状況は確認できないようだ。

 隊員たちが一人、また一人と少女から距離を取る。

 

「……大丈夫じゃありませんよ。白蘭さんのせいで」

 

 正一はすでに冷静さを取り戻していた。

 だからこそ、鋭い視線で白蘭を睨みつける。

 

『僕だって、まさかこうなるなんて予測していなかったよ。

 正ちゃんがその子の手の届くところに飲み物を置いていたのもね。精密機械がある部屋なのに』

「その点については僕の落ち度です。白蘭さんが彼女を刺激した点も含めてね」

 

 皮肉を皮肉で返した正一に、白蘭は肩をすくめた。

 

『損傷はどれくらい?』

「被害状況は?」

「ただ今!」

 

 慌てて隊員たちが部品の点検を始めた。

 目に見えるモニターの損傷よりも、コーヒーがかかったことによる目に見えない破損のほうが重大だった。

 

「この辺りの装置は全滅ですね。

 修理するには部品をすべて取り換えなければなりません」

「時間はどれくらいかかる?」

「ひとつずつ換えていくとキリがありませんが――部屋の電源を一度落として、そのあいだにすべてを入れ替えるのであれば、復旧にそこまで時間はかからないかと」

『そっか。それなら安心だね』

 

 無責任な言葉に険のある眼差しを注ぐが、白蘭はものともしない。

 

「……では、片付けをしなければいけないので、この辺で」

『わかった。それじゃあ、またね』

 

 それだけ言って、白蘭は通信を切った。

 途端に室内が静まり返り、正一は深くため息をついた。

 

「その子を部屋に戻しておいてくれ」

「承知しました」

 

 気を失った少女を一人が背負いあげる。

 少女の手は破片を強く握りしめたさいに切ったのか、血を滲ませていた。

 

「その傷の手当ても頼む」

「承知しました」

 

 隊員たちが、それぞれ仕事に戻っていく。

 何事もなかったように振る舞う隊員たちだが、その顔は暗い。

 

(認められない。……目的も、手段も)

 

 部屋の中央に戻り、白蘭に切られて黒くなった通信画面を削除する。

 白蘭から来たメールも目を通してから削除する。

 手が動いたので、近くの監視カメラの映像を呼び出した。

 

 担がれた少女の小さい背が画面に映る。

 正一はしばしその背中を見つめ――映像を削除した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗転の先に

 ――落ちていく。落ちていく。落ちていく。

 

 無理やり切断された意識は戻らず、そのまま深い眠りに沈みこんでいく。

 激昂していた利奈の意識も、ぬかるんだ暗闇のなかで静かに熱を冷まされていた。

 

 ……ねえ、わかる?

 

 目尻から流れた涙は、幾重にも線を描きながら枕に染み込んでいく。

 室内は暗く、だれもいない。廊下で絶えず響く声は壁に遮られ、利奈の耳には届かない。

 

 夢を見ていた。

 夢のなかで利奈は椅子に座っていて、目の前に広がる映像を眺めていた。

 

 ……どうしてこうなったのか、わかる?

 

 後ろから声が聞こえるが、利奈は振り向こうとも答えようともしなかった。

 これが夢であることも、後ろにいるのが自分自身であることもわかっていた。

 

(……私ってなんだったんだろう)

 

 巻き込まれただけのはずだった。

 救いの手が伸ばされるのを待っていればいいだけだと思っていた。

 それなのに運命は、因果は、利奈をたやすく舞台の真ん中へと引っ張り上げる。

 スポットライトに照らされた自分は、その命は、だれかの犠牲によって保たれているものだった。それを、気付かされた。

 

 また映像が止まった。

 繰り返し見せられる短い映像の最後は、決まってあの男だった。

 

『君がいたから、沢田綱吉は死んだんだ』

 

 愉快そうに細められる瞳。弾むような声。

 何度繰り返しても、けして擦り切れることなく利奈の胸を刺していく。

 

 そして戻った冒頭。この世界に来たばかりの、綱吉と隼人に出会ったばかりの場面。

 優しく受け入れてくれた綱吉の命を奪ったのは――

 

「違う」

 

 初めて声を出した。

 その瞬間、後ろから伸びてきた腕が利奈の首にまとわりついた。

 

「なにが違うの?」

「私じゃない。沢田君の命を奪ったのは私じゃない」

 

 惑わされてはいけない。あいつの言葉に耳を貸してはいけない。

 首に回された腕に力がこもる。

 

「でも、私のせいで沢田君は死んだんだよ」

 

 確かにそうかもしれない。

 巻き込まれただけの被害者だからとなにもしなかったせいで、綱吉は殺されてしまったのかもしれない。

 

「それでも」

 

 責める相手を、憎しみを向ける先を間違えてはいけない。

 今は後悔に首を絞められている場合じゃない。

 

「殺すの」

 

 あいつを。

 そのためには、被害者でいる自分を殺して、生まれ変わらなければならない。

 傍観者ではなく、当事者になるのだ。自らの意思で、舞台を駆け抜けなければ。

 

 覚醒の気配にぎゅっと拳を握り締める。

 

「できるの?」

 

 やらなければ殺される。

 

 このままなにもしなければ、心から先に殺されていくだろう。

 無力さを噛みしめて、絶望を抱いて。そんなふうにあいつに心を食い殺されるくらいなら、命を懸けて殺しにいく。

 

 必要なのは、殺される覚悟ではなく殺す覚悟だ。でなければきっと、あの男は殺せない。

 

「だから――」

 

 利奈は目を開けた。

 夢であることを知っていたので、夢から覚めても動揺はしなかった。 

 

 起き上がって自分の言葉を反芻しようとした利奈だったが、違和感に気付いて天井を見上げる。

 

(空調が、止まってる?)

 

 部屋の空気はじっとりと停滞していた。

 部屋が暗いのは電気を消されているからだろうが、空調が止まっているのは変だ。

 この部屋に空調を止める装置はないし、利奈を運んだあとに空調を止めたって意味がないだろう。

 

 ベッドから足を降ろそうとして、もうひとつの異常に気付いた。

 部屋が暗すぎるのだ。

 

 いつもなら、電気を消されていても廊下の明かりで物の輪郭は判別できていた。

 それが今は、自分の身体さえも視認できないほど室内が暗くなっている。

 

(廊下も暗いってこと? そんなことあるの?)

 

 夜中に部屋を出たことはないけれど、夜だからといって廊下の明かりを消したりはしないだろう。

 スパナだって徹夜で作業をする日があると言っていた。

 それに部屋の外には見張りの隊員が一人立っていたはずだ。廊下の明かりを消すなんてありえない。

 

(停電してるのかな。それなら部屋から抜け出すチャンスだけど……)

 

 しかし利奈はこれを好機とは捉えていなかった。

 利奈はこの建物の全容をまるで把握していない。抜け出したところで、右往左往しているうちに捕まるのがオチだろう。

 メローネ基地が利奈の読み通り地下にあるのなら上に上がればいいが、万が一地上にある場合、上に行けば行くほど出口から遠ざかってしまう。

 

(どうせ捕まっちゃうだろうけど……やるって決めたんだから、やらなくちゃ。

 様子見て、出られたら出て行っちゃおう)

 

 尻込みしている場合ではない。

 逃げ出したせいで牢屋に閉じ込められたとしても、それはそれで構わない。

 この基地内にいるかぎり、どこにいたって利奈は捕虜なのだ。

 

 何日も同じ部屋に閉じ込められていたのが幸いして、光源がなくても利奈は部屋の入り口までなんなく辿りつくことができた。

 脱出するつもりなら荷物も持っていくべきだろうが、外が暗いのなら荷物を持っていないほうが目立たないだろう。どうせ逃げ切れはしないという諦観もある。

 

(暗くても外にだれかいるかもしれないし。

 ううん、普通いるよね。こういうときって見張りを厳重にするのが鉄則だし。

 それで全員ヒバリさんに倒される……ふふ)

 

 思い出し笑いを浮かべながら、ドアに手を当てた利奈だったが、ひとつ、基本的なことを忘れていた。

 

 ――そう、自動ドアは停電時には作動しないのである。

 

(……あれ? あれあれ?)

 

 何度もドアに手を重ね、間違ったのかと壁に手を這わせるが、ドアは一ミリたりとも動かなかった。

 自動ドアの仕組みがすっかり頭から抜けていた利奈は、ドアが故障しているのかと顔色を変える。

 せっかくの機会なのにと慌てるが、慌てるせいで機械の構造には思い至らない。

 

(こ、これどうやって開ければいいの!? 手で無理やり……って、指入らないよ!? なんか痛いし! 閉じ込められた!?)

 

 利奈の手には包帯が巻かれている。ついでにまたもや肩の傷口が開いてしまっている。指先に力が籠められず、まるで歯が立たなかった。

 もっと力があればとは、こういう場面で使う言葉だろう。

 

(うー、だめか。さっきの部屋に行って機械めちゃくちゃにしてやろうと思ったのに)

 

 どれくらいの損害が出るかはわからないが、とりあえず嫌がらせにはなっただろう。

 技術者のスパナが修理に駆り出されてしまうかもしれないが、そこはあまり考えないでおく。

 

 どうしたものかとドアに両手をつきながら逡巡していたら、廊下を走る足音が、この部屋の前で止まった。

 すかさずドアに耳を当てる。

 

「電気はまだ復旧しないのか? なにがどうなってるんだ。敵襲か?」

「制御コンピューターの入れ替え時にトラブルが起きたんだってさ。

 非常用電源にも切り替わらないらしいし、しばらくはこのままになりそうだって」

 

 どうやら、基地全体が大規模停電に陥っているらしい。

 原因にまったく見当がつかない利奈は、そんなこともあるのかと他人事のように隊員の会話を盗み聞く。

 

「貴方も、一度部隊に戻って状況を確認した方がいいんじゃないですか。

 自分は戦闘員でお役に立てませんし、よかったらこの部屋の見張り代わりますよ」

「おお、それは助かる。無線機と明かりを持ってくるまでのあいだ、頼めるか?」

「かまいませんよ。ついでに復旧までにかかる正確な時間も修理業者から聞いておいてくれるとありがたいです。部隊長に報告したいので」

「わかった」

 

 足音が離れていく。

 停電中とはいえ、ドアの前に二人も見張りがいるのでは、逃げ出すなんて不可能だろう。

 残念に思いながらドアから身を離すが、そのドアが音もなく開いたので、利奈は面食らった。

 

 懐中電灯のような光が利奈の足を照らし、胴を照らし、顔を照らし出す。

 眩しさに目を細めるが、二人は利奈を照らすのをやめなかった。

 

「この部屋で合ってたみたいですねー。わかりやすい目印があって助かりましたー」

 

 さっき聞いた声とはまったく違う声が聞こえる。

 目元を手で隠しながら訪問者、あるいは侵入者の顔を確認しようとした利奈だったが、次に聞こえた声に、すぐさま顔色を変えた。

 

「シシ、だから言ったろ? 復旧させられる前に見つけ出せるって」

 

 その声を聞いた瞬間、背筋が震えた。本能が警告を打ち鳴らした。

 

(なんで、こんなところに!?)

 

「じゃあ、さっさとここ出ましょうよ。さっきのに戻ってこられたらめんどくさくなりますしー」

「同感」

「来ないで!」

 

 二人が室内に足を踏み入れようとしたので、利奈は声を張り上げた。

 二人の動きが止まる。

 

「来ないで、あ、貴方はとくに!」

「……俺?」

 

 ビシリと人差し指で指し示すと、心外そうに人影が首を傾げる。

 しかし利奈は、ジリジリと後ろに下がりながら肩の傷口を押さえた。

 

「貴方――あんた、ベルでしょ?」

 

 恭弥と利奈を襲い、双方に深手を負わせた男。

 つい三日前の出来事を思い出しながら、利奈はぎゅっと唇を噛みしめた。

 まさか、こんなところで再び顔を合わせることになろうとは。

 

「なに当たり前のこと聞いてんの? ってか、お前なんか変わった?」

「来ないで!」

 

 どさくさ紛れに入ってこようとするので、利奈は掛け布団を投げつけた。

 咄嗟の行動だったので布団は利奈の足元に落ちたが、それでベルは動きを止めた。

 

「……もしかして先輩、この人となんかあったんですか?

 いったい、なにしでかしたんです?」

 

 あまりの警戒具合に、もう一人の少年が疑いの眼差しをベルに向けた。

 だいぶ変わった帽子を被っているが、今はそれを気にしていられる余裕がない。

 

「は? べつになにもしてねえよ」

「嘘! ひどいことしたじゃない!」

 

 臆面もなく嘘をつくので、すかさず異を唱えた。

 三日前のことを、覚えていないとは言わせない。

 

「うわあ……これは正直言って引くしかないですね。先輩、こんな年の離れた女の子に一体どんな性的暴りょゲロロッ!?」

「ぎゃあ!?」

 

 ベルの投げたナイフが帽子越しに少年の頭部に突き刺さり、利奈は悲鳴を上げながらベッドの陰に隠れた。しかし――

 

「……痛いですー。ちょっとしたジョークじゃないですかー」

「うっせ、バーカ」

「え……?」

 

 少年がなんら変わらない声で文句を言うので、恐る恐る顔を覗かせる。

 そこには、ナイフが突き刺さりながらも平然とする少年の姿があった。

 

(え、ええ……?)

 

 痛いと言ったわりにはたいしたことがなさそうだし、額からも血は流れていない。しかしナイフはどう見ても本物だ。

 手品を見せられている気分になってくる。

 

「だいたい、こいつ俺とそんなに年変わんねーっての」

「いやいや、どうみても十歳は離れてるでしょ。ミーよりも子供じゃないですか」

 

 少年の言葉に、ここが十年後の世界だったことを思い出す。

 利奈にとっては三日前の事件でも、ベルにとっては過去の出来事になっているのだ。

 よくよく見ればベルの風体もだいぶ様変わりしている。目元が隠れているのは相変わらずだったが。

 

「わ、私、十年前から来たの。……覚えてるでしょ、私にナイフ投げたの」

「わあ外道。さすが先輩ですね、清々しいほどの鬼畜具合ですー」

「お前にナイフを? ……あー、あれね。リング争奪戦」

 

 さっきからやたらと態度が馴れ馴れしい気がするが、ずっと交流があったのだろうか。

 今の利奈にはとても信じられないが。

 

「でもあれ、十年前の話だし」

「私にとっては三日前!」

「バリバリ最近じゃないですか。運悪いですねー、先輩」

「黙ってろフラン。じゃなきゃ死んでろ」

「お断りしますー。ミー、天寿を全うするつもりでいるんで」

 

 フランと呼ばれた少年がフルフルと頭を振る。

 先ほどからちょくちょくと口を挟んでくるけれど、ベルへのからかいの言葉ばかりである。

 頭に被ってるカエルの着ぐるみ帽子も相まって、道化師のようだ。

 

「……にしても、ここで十年前のお前が出てくるとはね。

 どうりでお前と面識のある人間寄こせって言われたわけだ」

「でもこれ、どうします? 警戒すごいですし、いっそのこと気絶させて無理やり連れて行きます?」

「お前、人のこと言えねえだろ絶対」

 

 今のところ、二人から敵意は感じられない。

 しかし十年経ったとはいえ、見逃す振りをしてナイフを投げつけてくるような人間だ。一瞬たりとも油断はできない。

 

「それで、こんなところまでなにしに来たの? 私を殺せって依頼があったの?」

「ちげーよ。んな依頼だったら断ってるし」

「おっと好感度を上げにきたー。必死だー……というのは置いといて。

 ミーたちは貴方を救出しにきたんですよ」

 

 フランの言葉でさらに利奈は混乱した。

 ベルの所属するヴァリアーは暗殺部隊だったはずだ。命を奪いにきたのならとにかく、助けにきたとはどういうことだろう。

 

「救出? なんでベルが? 仕事変えたの?」

「変えてねえよ。

 そんなことより、さっきのが戻ってくる前にさっさと逃げねえと」

「ですねー。そんなわけで、これ着てもらえます? サイズたぶん合わないですけど」

 

 そう言ってフランが利奈に黒い制服を差し出した。

 ミルフィオーレブラックスペルの制服で、よくよく見てみれば、二人も同じ制服を着ていた。

 

「……信じろって言うの? 貴方たちを?」

 

 制服を受け取らずに尋ねたら、あからさまにめんどくさいという顔をされた。

 しかし、利奈からすれば当然の問いだった。

 昨日の敵は今日の味方といっても、あまりにも急すぎる。

 

(十年前のことっていったって、ベルは沢田君の敵だったし……このまま私を攫って、今度はヴァリアーが沢田君たちを脅す……とか……)

 

 利奈はぎゅっと唇を噛みしめた。

 

 綱吉はもういない。殺されたのだ。

 しかしフランは、思ってもみなかった言葉を口にした。

 

「ミーたちっていうか、ボンゴレを信じればいいんじゃないですかね。貴方の救出を依頼したの、ボンゴレでしたから」

「!?」

 

 ボンゴレという言葉は、ボンゴレファミリーのボス、沢田綱吉を指し示す。

 利奈はすぐさま制服を持つフランの腕を掴んだ。

 

「ど、どういうこと!? 沢田君、生きてるの?」

「え、死んだんですか?」

「ベル!」

 

 すかさず話を横に振るが、ベルは肩をすくめた。

 

「知らね。依頼あったの今日じゃねえし」

「なんだ……」

 

 脱力しながら腕を引く。

 ついでに制服も受け取ってしまったが、こうなったら彼らについていくしかないだろう。

 少なくとも、あの男の目の届くところにいるよりは何倍もましだ。

 

「これも嘘だったら絶対に許さないから。

 そしたらヴァリアーは依頼人を騙す最低な組織だって噂してやるから」

「いいからさっさと着替えてもらえますー? 幻術でこの部屋隠すのわりと疲れるんですよねー」

「こっち見ないでよ! 見たら殺すから!」

 

 布団を被りながら服を着替える。

 同じ空間に二人も異性がいるなかで着替えさせられるなんて、もはや拷問である。

 

「暗くてどうせ見えねえよ……十年前のほうがうっせえな、お前」

 

 部屋の外を確認しながら呟くベル。

 今のところ、見張りが戻ってくる気配はないようだ。

 

「あー、退屈。やっぱ受けるんじゃなかったかも」

「ですね。まあ、ミーに拒否権はなかったんですけど」

「あ? お前は別に面識ないから断れたろ。断らせねーけど」

「いや、絶対に助けろって師匠に釘刺されましたから。姉さんも電話で泣きながら助けてあげてなんていうし……」

「ねえ、ペンある?」

 

 着替え途中、あるものに気付いて利奈は声を張り上げた。

 

「持ってないですね」

「持ってねえよそんなの」

「じゃあナイフ貸して。ちょっとだけ」

「は? なんでそんなもん……」

「いいからいいから」

 

 渋るベルからナイフを借りて、紙を引っ掻いて文字を刻む。

 

「はい、終わった。じゃあ行こ!」

 

 紙袋を持って意気揚々と声をかけてきた利奈に、フランの目がじっとりと細まる。

 

「驚くほど神経太いですね、この人」

「そういうやつだから」

 

 十年分の付き合いがあるベルは、返されたナイフをしまいながら、こいつらしいと口元に笑みを浮かべた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

刻まれた約束

 

 明かりの点っていない廊下を、二人に挟まれながら走り抜けていく。

 いくらブラックスペルの制服を着ていても、利奈の体格では怪しまれる。なので、フランに幻術で姿を変えられていた。

 

「でも、私よりも貴方のほうが目立たない? なんであんな帽子被ってたの?」

 

 両隣の二人も幻術で見た目が変わっている。

 どちらも中年男性の顔で、話しかけるのに躊躇するタイプの強面だ。利奈もそんな顔になっているのだろうが、見えないので見ない。

 

「ミーだって被りたくて被ってるわけじゃありません。前任者の――」

「おい、クソカエル。内部情報を他人に流してんじゃねえよ」

 

 フランの釈明は数秒で遮られた。

 

「えー、一応味方じゃないですかー。今のところは」

「今のところは!?」

 

 わりと聞き捨てならない言葉だったが、前方に人が増えてきたので追及は控えた。

 ここから脱出するには、居住区と思われる場所を抜けて、往来の激しい出入り口まで向かわなければならない。

 

「電気が回復するとまずいんですよね。

 監視カメラはさすがに幻術じゃごまかせないんで」

「そうなの? じゃあ、電気がついたらすぐに捕まっちゃうんだ。貴方は」

「ミーかよ」

「んじゃ、いざとなったらこいつが捕まってる隙にさっさと逃げようぜ」

「なにしれっとミーを生け贄にしようとしてるんですか」

 

 人目のある所で走ると目立つので、不自然にならない程度に早足で歩く。

 みんな手に明かりを持っているから、白い光線が何本も宙をさまよっていて、照らされるたびに身体が固まりそうになった。

 

「おい、お前! どこの部隊だ!」

「っ!?」

 

 万事休す。

 ドスの利いた声に足が止まりそうになるが、すかさずベルに背中を押された。

 

「お前、馬鹿? 止まったら怪しまれんだろ」

「だって……!」

 

 追いかけられている気配はない。

 さりげなく振り返ると、違う隊員が足を止めて所属部隊を名乗っていた。

 

(なんだ、勘違い……。危なかったあ)

 

 白黒入り混ざっているせいか、いたるところで隊員同士が衝突を起こしている。

 停電という突然の緊急事態で、指示系統に大きな乱れができているらしい。

 

「もうすぐ出口ですねー。余裕そうでよかったですー」

「今頃、部品交換に四苦八苦してんじゃねえの? シシ、ご愁傷様ー」

 

 正体がバレたら全方位を敵に囲まれてしまうというのに、二人からはまるで緊張が伝わってこない。

 暗殺部隊だから、潜入や脱出などはお手の物なのだろう。

 

「この停電も二人がやったの?」

 

 ベルにはまだわだかまりがあるので、またもやフランに話を振った。

 

「ミーたちっていうか、協力者ですね。

 システム室で大規模な部品交換があったので、その交換する部品にウイルスを仕組んだーみたいな感じで」

「へー。それで全部停電しちゃったんだ」

「そのおかげで作戦早まったから、ラッキーって感じ? でなきゃ、あと何日かかかったと思うぜ」

「そうなんだ。じゃあ本当にラッキーだね」

 

 この絶妙なタイミングで、そんな偶然が起こるなんて。

 よほど日頃の行いがよかったのだろう。

 

「それより、そろそろ口閉じてもらってもいいですか?」

「あ、ごめん。怪しまれたら大変だよね」

「いえ、そういうのじゃなく。その厳つい顔でその口調と上目遣いはエグいなと」

「え、ひどい!?」

 

 しかし気持ちはわからないでもなく、利奈は素直に口を噤んだ。

 

 ――メローネ基地からの脱出は、驚くほどあっけなく成功した。

 あまりのあっけなさに、発信機かなにかをつけられているのではと疑ってしまうほどだったが、身体にも荷物にもその類はつけられていなかった。

 

「入るのは難しいですけど、出るのは簡単ですからねー。

 出入り口でも、入ろうとした隊員だけが身元照会されてましたでしょー」

 

 幻術を解いたフランが息をつく。

 カエル帽子が蒸れるのか、手のひらで風を送っていた。

 

 丸一日ぶりに見た空は夜だから真っ暗だった。 

 基地の出入り口は車がほとんどない駐車場に繋がっていて、三人は少しでも遠くに離れるべく、足を動かした。

 付近の店はすべて閉まっている。わびしい街灯の明かりだけが三人を照らした。

 

「で、これからどうするんですか先輩。

 外に出るまではミーが担当したんですから、ここからは先輩の仕事ですよね?」

「うっせーな、お前黙ってろよ」

「とはいってもですねー、さっさとしてくれないと状況ヤバいんですよねー。

 停電直ったら、すぐさま捜索隊が登場すると思うのでー」

 

 見張りの隊員が戻ってきたら、まずこの二人の不在を疑問に思うだろう。そして捕虜である利奈の姿を確認しようと室内に入る。

 もぬけのからになった部屋を見たら、すぐさま捜索を始めるに違いない。

 

「だから黙ってろって。車の音が聞こえなくなんだろうが」

 

 それを聞いたフランが口を閉じると、前方から黒い車が走ってきた。

 そのまま車は三人を素通りしていったが、少し離れたところで停止する。

 

「……車って、あれ?」

「そ。王子が乗るような車じゃないけど、任務遂行が最優先だし」

「わかりましたー。ミーたちはあれに乗るんで、堕王子は走って追いかけてきてくださーい」

「あ? お前が走んだよ、新入りクソガエル」

「駄王子? 惰王子?」

「あー、どっちも捨てがたいですねー」

「お前ら、あとで殺す。っつか、なんで発音だけで通じんだよ、キモッ」

 

 二人に挟まれながら後部座席へと乗り込む。

 運転席の男は日本人で、次の瞬間には忘れてしまいそうなほど特徴のない顔をしていた。

 車はドライブでもしているかのような速さで街を走る。

 

(ほんとに脱出できちゃった……)

 

 ほんの少し前までは脱出不可能と思われたのに、こんなに簡単に抜け出せるなんて。

 夢を見ているのではと思ってしまうけれど、これも紛れもない現実なのだろう。綱吉の件も含めて。

 

(……ううん、もしかしたら)

 

 この二人は綱吉からの依頼で利奈を助けにきたと言っていたが、そうなると白蘭からの情報が矛盾する。

 ヴァリアーに利奈の救助を依頼していたのなら、綱吉が交渉の席に着く必要などなくなるのだ。

 

(だから、白蘭の言ってることはおかしい)

 

 捕虜の利奈に、与えられた情報の真偽を確認する術はない。

 そこを狙って絶望を植えこんだのだとしたら、なんて卑劣な手を使うのだろう。

 

(あのとき、正一が白蘭になにか文句を言ってたと思うんだけど……全然聞いてなかったな、失敗した)

 

 情報がまったくの出鱈目で、じつは綱吉は無事だった――というのは、さすがに夢を見すぎだろう。

 そこまでして利奈を叩き落としたところで、彼にはなんの得もない。

 それを言い出したら利奈と対面したことにすら疑問が出てくるが、あの愉悦に歪んだ顔は利奈の反応を楽しんでいた。彼にとって、あれはお遊びの範疇だったのだろう。

 

(ふざけるな!)

 

 人をなんだと思っているのだろう。

 いや、わかってる。なんとも思っていないのだ。

 

 あのほんの少しのやり取りで、白蘭という人間が、人間の皮を被った悪魔なのだと実感した。

 今までいろいろなタイプの悪人を見てきたけれど、あの手の人間が一番危ないのだ。

 だからこそ、彼がミルフィオーレファミリーのボスなのだろう。

 

「わっ」

 

 車が段差を踏み、座席が跳ねる。

 その拍子に、腕のなかの紙袋から物が零れ落ちた。

 手探りで拾い上げたそれに、ついつい笑みがこぼれてしまう。

 

「なんですか、それ」

「んー?」

 

 包装を剥がした利奈は、フランの問いに少し頭を捻らせ、

 

「情報料?」

 

 とだけ答えて口に咥えた。

 

 車はどんどん速度を上げていく。

 やっと外を見るだけの心の余裕のできた利奈は、身を屈めて前方の窓を覗きこんだ。

 

 車は大通りに差し掛かっていた。よく見るチェーン店などが、深夜だというのにこうこうと看板を光らせている。

 現在位置を把握しようと、しばらくは無言で外を眺めていた利奈だったが、やがてその表情を大いに曇らせて運転席の男に声をかけた。

 

「……すみません、ここ、どこですか?」

「現在地ですか?」

 

 運転手に告げられた地名は、もはや並盛町内の番地ではなくなっていた。

 利奈は下からベルの顔をねめつけた。

 

「どういうこと? これ、どこに向かってるの?」

「港」

「……なんでボンゴレのアジトに行くのに港に行く必要があるの?」

 

 いやな予感しかしない。いや、ここまで来たら予感と呼ぶには遅いだろう。

 並盛町を出た時点で、アジトへ向かっているという可能性は潰えていた。

 

「ボンゴレのアジト?」

 

 聞き返すベルの声音に、可能性がゼロであることを突きつけられる。

 そして偶然なのか計算されているのか、左右を挟まれている利奈に逃げ場はない。

 静かに冷や汗を流す利奈に、ベルはなんてことないように爆弾を投げつけた。

 

「俺たちが向かってんの、ヴァリアーの本拠地だけど」

 

 

――

 

 

 走る密室内に爆音が響き渡ったその頃。

 スパナは一人、自身に充てられた工房にてモスカの調整に勤しんでいた。

 

 ニ十分前までは停電していたが、今は電力も復旧し、問題なく作業が行えている。

 もっとも、停電中もバッテリーを使ってパソコン操作をしていたので、停電していようがいなかろうが支障はなかった。

 

「……」

 

 しかしスパナは度々手を止めては、数時間前に訪ねた少女の顔を思い出し、俯くのであった。

 

 彼女との約束を果たすべく、夕食を持って部屋を訪れたスパナは、見張りの隊員に何度目かの足止めをされた。

 それまでも、正一からの命令で部屋にはだれも入れられないとか、ブラックスペルの人間には会わせられないとか、暇つぶしで来られても困るとか散々言われていたが、そのときの隊員は違っていた。

 

「外で騒ぎを起こしたようで……鎮静剤を打ち込んだそうですから、しばらくは目覚めないかと」

 

 それでも、約束があったので中に入れてもらった。

 消されていた電気をつけ、食事を机に置いたところで、違和感を抱く。

 

(寝息が聞こえない)

 

 様子を確認しようと盛り上がった布団に近づいたスパナは、少女の寝顔を見て息を止めた。

 

 頬には無数の涙の痕があった。

 唇には噛みしめた際にできたであろう傷跡が残っていた。

 髪も振り乱したのか、きれいに寝かされているのに四方に散らばっている。

 

 ミルフィオーレで使われている鎮静剤は使い捨てのもので、量の調整はできない。

 大人と同じ用量を未成熟な体に打ち込まれたせいか、少女は昏睡状態に置かれていた。

 わずかな胸の動きで呼吸していると判別できたが、顔色も悪く、死んだような顔をしている。

 捕虜でなければ、直ちに医務室に連れて行かれていただろう。

 

 わずかに消毒液の匂いがしたので、スパナは躊躇なく布団をめくり上げた。

 

 服装は昼間と同じものだった。

 袖の膨らんだオレンジ色の服と、迷彩柄の半ズボン。

 左腕に包帯が巻かれているのは初めて会った時からだったが、今は両手にも包帯が巻かれていた。

 

 布団を掛け直し、目覚める気配のない少女の顔を再び見つめる。

 寝顔は安らかだが、そこに彼女の意思はないだろう。

 

 ポケットから紙片を取り出したスパナは、紙片と少女の顔を交互に見合わせ、ポケットにしまい直し――再び取り出した。

 

(約束は、約束だ)

 

 テーブルの上に紙を置き、その横に手持ちの飴をありったけ乗せていく。

 そんなものでどうにかなりはしないだろうが、それくらいしかできることがなかった。

 

「スパナ! スパナはいるか!」

 

 大声での呼びかけで意識が現実に戻る。

 

 整備しているモスカの陰から顔を出すと、血相を変えた正一の姿があった。

 目が合うと、つかつかと足音を響かせながら正一が迫ってくる。

 

「スパナ! 話がある!」

「なに?」

 

 ずいっと眼前に紙が突き出される。

 

「これに見覚えは?」

「あるよ。うちが書いた」

 

 少女の部屋に置いていった紙片だ。

 それを聞いて、当てが外れたというように正一は目を細める。

 

「なにがあった?」

「……捕虜が失踪した」

 

 スパナは目を丸めた。

 昏睡状態から目覚めてすぐに脱走したというのか。あんな傷だらけの身体で、見張りを撒いて。

 

(さすが日本人……)

 

「見張りの隊員の話では、停電の最中に代わりを申し出た隊員がいて、戻ってきたらその代理もろともいなくなっていたそうだ。

 ブラックスペルの制服だったとも言っている」

「ウチじゃないよ」

「わかってるさ。君は制服を着ていないし、見張りを申し出た隊員は二人組みだったらしい。

 大方、獲物を横取りされたブラックスペルの連中が我々を出し抜こうとして連れて行ったんだろうけど」

 

 わざとらしいため息をつく正一の顔には疲労が浮かんでいた。

 

「監視カメラ映像は?」

「知ってるだろう? システムエラーで非常用電源に切り替えられなかったんだ。

 重要施設のカメラはバッテリーに切り替わるようになっているけれど、廊下は駄目さ」

「そう」

 

 となれば隊員の記憶力に頼るしかないが、暗闇では相手の顔もほとんど判別できていなかっただろう。

 

「君が何度か捕虜と接触していたと聞いたから、一応確認に来させてもらった。

 捕虜の行方に心当たりはあるか?」

「ない」

「そう。まあ、勝手な行動については不問にしておくよ。君のおかげで食事をとるようになったとも聞いているし。

 なにか思い出したことがあったら教えてくれ」

「そうする。その子が見つかったらウチにも教えて」

「わかった。これは返しておくよ」

 

 紙片を置いて正一は去っていった。

 嵐のような出来事に目を瞬きながら、紙片を折りたたみ――その触り心地に視線を落とす。

 ところどころ、妙に指に引っかかるのだ。

 

「……? ……!」

 

 紙片を明かりに照らしたスパナは、そこに刻まれた跡に目を輝かせた。

 刃物でつけられたその跡は、書かれてあった文字にフリガナをつけるようにして、スパナの名前を刻みつけていた。

 




 メローネ基地編、終了です。
 次章から十年後ヴァリアー編。

 ちなみに、ここでボンゴレアジトに戻されていると、十年後綱吉の件でこの時代に来たばかりの隼人と確執ができ、利奈の精神が追い込まれて鬱展開待ったなしになります。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章:ヴァリアー邸にて
琥珀の微睡み


 

 日本とイタリアの時差は七時間である。

 日本のほうが時間が進んでいるので、イタリアに向かうと時間が逆行していく。

 

(いっそ、そのまま十年くらい戻ってくれればよかったのにな……)

 

 イタリアと日本の距離は端数を繰り上げて一万キロメートル。

 直行便でも約半日かかる距離を、貨物船に揺られ、海上でヘリに拾い上げられ、列車に乗せられ、丸一日かけて稼いできた。

 

(自分で歩いたわけじゃないから、そんなに疲れないはずなんだけど……やっぱり疲れた)

 

 道中は快適なものだった。

 追手を気にせず旅行気分で景色を眺められたし、食事もおいしかった。

 寝台列車は議論の末に四人部屋になったが、これといった事件も起きず、平和そのものであったと言ってもいいだろう。

 

 しかし、それはそれとして疲労が溜まっている。疲労というか、心労というべきか。

 ミルフィオーレの手から逃れられたという感動が消えたころ、これから暗殺者集団の根城で暮らさなければならないのかという不安が、頭を占拠し始めたのだ。

 

(どれくらいしたら帰れるのって聞いてもわかんないって言われたし……。

 だいたい、なんでアジトじゃなくてヴァリアーに連れて行かれるの! しかもイタリア!)

 

 おまけにパスポートを所持していなかったために、今の利奈は密入国者である。

 強制送還してもらえるのなら捕まってしまったほうがよかったのだが、綱吉の意向だと言われてしまったら、逆らえるわけがなかった。

 

 綱吉はなぜ、利奈の身柄をヴァリアーに預けようと思ったのだろう。

 外敵からは逃れられるだろうが、内の味方が物騒すぎる。

 

(あれ? それって風紀委員と一緒? 敵よりも味方のほうが恐いって、まさに風紀委員なんじゃ?)

 

 それなら今までとなんら変わりない――わけがない。

 暗殺者集団という殺人集団と不良顔負けの風紀委員では、恐いの意味合いがまるで違う。機嫌を損ねたら、その場で殺されるかもしれないのだ。

 

 そんなわけで利奈は、借りてきた猫のようにおとなしく縮こまっていた。

 知ってか知らずか、出迎え役を引き受けたルッスーリアは、目を輝かせて一方的に喋り続けている。

 

「まさかまた会えるなんて思ってなかったから、会えて本当にうれしいわ。

 ふふ、十歳も若いとやっぱり違うわね。初めて会った頃も同じ年頃だったはずなのに、ずっと子供に見えるわ」

 

 やけに親しげなのはルッスーリアも同じだった。

 会って早々ハグされそうになったのは、ベルが阻止してくれた。でなければ、魂が身体から抜け出ていただろう。

 

「あらっ、じゃあ貴方からは私が老けて見えるってことかしら!?

 やだ! やめてちょうだい! 私は年を取るごとに美しくなっていくんだから!

 ますます強く! 気高く! 麗しく! ……ちょっと、大丈夫? 意識ある?」

 

 よく一人でこんなにも盛り上がれるものだなと思えるくらいには意識がある。でも、それを口にするほどの余力はない。

 フランとベルがさっさといなくなってしまった理由がわかったような気がして、利奈は力なく頷いた。

 

「相当お疲れのようね。無理もないわ。

 フランも長旅のせいでぐったりしてたみたいだし……」

 

 ベルと利奈はなんともなかったが、フランは度々船酔いやヘリ酔いを訴えていた。

 酔い止めの薬を買ってからは落ち着いていたけれど、あまり元気そうではなかった。

 今頃さっさと布団に潜って、眠りについているだろう。

 

「ちょっと待ってなさい、飲み物淹れてくるから」

 

 ルッスーリアが席を立ち、利奈は椅子の背もたれに頭を預けた。

 

 暗殺者たちの巣窟だから、きっと殺伐とした住処なのだろうと思っていたけれど、その予想は大幅に外れていた。

 外観を見たときから悟っていたが、座っている椅子も、机も、壁紙も、絵画も、見るものすべてが豪華絢爛な一級品だ。

 見上げた天井にかかっているシャンデリアや天井の装飾さえも美麗で、ヨーロッパ貴族の屋敷に招かれた庶民の気分が味わえた。

 このすべてが暗殺の報酬で揃えられていると思うと、まったく落ち着けない。

 

「普段はこういった依頼は受けていないのよ。

 私たちはボンゴレ直属の暗殺集団で、人質の救出と保護なんて専門外なんだから」

 

 どうぞと目の前に飲み物が置かれる。

 入れ物はどこにでもありそうな普通のマグカップで、利奈は少しほっとしながら飲み物に口をつけた。

 

「貴方をここまで連れてくるのもリスク高いのよ。

 でも、ボンゴレに恩を売っといて損はないし、成功してよかったわ」

 

 飲み物は、味付けされたホットミルクだった。

 喉を通った瞬間、焼けるような熱を感じたが、ミルク自体はあまり熱くない。

 

「とりあえず、それを飲んだら今日はさっさと寝ちゃいなさい。もうとっくに肌に悪い時間よ」

 

 言いながらルッスーリアは机の上に鍵を置いた。

 物語のなかに出てくるような形の鍵で、プレートには番号が書かれている。

 

「この談話室を出て右に曲がったところに寝室があるわ。鍵に書かれてる番号の部屋を使って。

 ああでも、部屋が気に入らなかったら空いている部屋を適当に使ってちょうだい。鍵がかかってない部屋は空き部屋だから」

「はい」

 

 これからお世話になるのだから、どんな部屋でも文句をつけたりはしない。

 隣の部屋の人がものすごくうるさいとかだったら、少しは考えるだろうが。

 

「それと、これは今日の寝間着に使ってちょうだい。

 預かってる貴方の服は洗濯しておくから」

「あっ、ありがとうございます……」

 

 恐縮しながらピンク色の服を受け取る。寝間着のわりに布の量が多い。

 

「私用に買ったやつなんだけど、サイズを間違えちゃってどうしようかと思ってたの。ちょうどよかったわ」

「……自分用?」

 

 突っ込んではいけなそうだが、柔らかい素材とこの色合いはどう考えてもルッスーリアには――いや、突っ込んではいけない。

 

「……ありがとうございます」

「いいのよ、そんなにかしこまらなくても。貴方とは二人っきりでお茶する仲だったんだから。

 なんなら敬語も外しちゃって」

「いえ、そんな。私はまだ二回目なので……」

「二回目? 初対面っていつだったかしら」

「……ベッドで括りつけられてるとこです」

 

 その瞬間、ルッスーリアの眉が大きく吊り上がった。

 

「なにそれ、どういう状況!? ……待って、思い出したわ! あのときね!

 それはカウントしないでちょうだい! あのとき私、意識朦朧としてたしあんなかっこだったし、なによりすっぴんでしょ!? 忘れてちょうだい!」

 

 すっぴんだったかどうかまでは覚えていないが、ここまで恥ずかしがられるのならなかったことにしておいた方がいいだろう。

 いや、ベッドに括りつけられた状態で立たされていた、あの強烈な姿を記憶から消すのは不可能だろうが。

 

 ホットミルクを飲み切るまで、ルッスーリアと他愛ない雑談を楽しんだ。

 カップの片付けはルッスーリアに任せて、利奈は教えられた寝室へと向かう。

 

(なんか、頭がぽわぽわするかも……)

 

 あのホットミルクを飲んでから、どうも思考がまとまりにくくなっている。

 眠気も強くなってきたし、顔が火照って仕方ない。

 

 これならぐっすり眠れそうだと重たい体を動かしていたら、廊下で蹲るフランを発見した。

 足を止めた利奈に気付き、フランが顔を上げる。

 

「なにしてるの?」

「……」

 

 フランは答えない。眠気に襲われている利奈と同じくらい、まぶたが厚ぼったくなっている。

 寝室のドアの前で膝を抱えるフランは、疲れ切った顔でため息をついた。

 

「……堕王子が」

 

 うつらうつらとまぶたが揺れている。

 この屋敷についたときから眠たそうにしていたし、もう限界なのだろう。ぽつりぽつりと呟く。

 

「さっき、堕王子が。ミーの部屋の鍵を奪って、逃げて……部屋に入れないんです」

「ええ……」

 

 旅の途中でもちょくちょくフランに嫌がらせをしていたが、まさか部屋の鍵まで奪うなんて。

 

「ベルってもう大人でしょ……? 大人なのにそんな子供みたいなことするの……?」

「するんですよ。嫌がらせが子供じみてて最悪なんですよね……あのクソ王子」

 

 クソというところにかなり力がこもっていた。

 眠たいせいで怒りっぽくなっているのだろう。

 

「取り返しに行けば? ベルの部屋ってどこ?」

「あっちですけど……下の階に降りていったんで、今いないんですよねー。

 それに、あの先輩の相手する体力、もう残ってないですしー……」

 

 話しながら眠ってしまいそうなほど、声に力がない。

 このままだと、カエルの帽子を枕に廊下で眠りかねない。

 

「んー、じゃあ、空いてる部屋で寝れば?

 鍵のかかってない部屋使っていいって、ルッスーリアさん言ってたよ?」

「それこそ先輩の思う壺なんですよー。鍵持ち出してトラップ仕掛けてくるに決まってますー」

「……かまってほしいのかな」

 

 後輩イジメに余念がなさすぎる。

 ベルの過去での行いに思うところがある利奈は、ベルを出し抜くべく、あまり動かない頭で思考を巡らせた。

 

「そうだ、私の部屋使えばいいんじゃないかな」

「……え?」

「鍵もらってるの。フランはこの部屋で寝て、私が空き部屋で寝ればいいんだよ」

 

 まさかベルも、利奈が使うはずだった部屋にフランがいるとは思わないだろう。

 

「それ、貴方が危なくないですか?」

「商品に傷つけたりはしないでしょ。なんかしてきたら、女の子が寝ている部屋に入ってきた最低男ってみんなに言いふらすから大丈夫」

 

 これでベルを出し抜けるとニコニコ顔で答えると、フランがヒクヒクと頬をひきつらせた。

 

「……ほんと、先輩たちと交友があっただけあって、いい性格してますね」

「いらないの?」

 

 見せつけるようにフランの眼前で鍵を揺らす。一拍遅れながらも、フランは鍵を手に取った。

 それから立ち上がろうとしたが、足に力が入らないのか動きが遅い。

 

「立てる? 手貸そうか?」

「……子供扱いしないでください。ミーよりガキなくせに」

 

 むっとした顔で抗議しながら、フランがよろよろと立ち上がる。

 帽子のせいでずいぶんと背が高く感じるが、帽子の分を差し引いても利奈よりは身長が高い。

 

「じゃ、おやすみ。また明日ね」

「おやすみな――ふわぁ、おやすみなさーい」

 

 帽子に重心を持ってかれそうになりながらも、フランは利奈が使うはずだった部屋へと入っていった。

 それを見届けてから、利奈も空き部屋を探して部屋に入りこむ。

 

(すっごく眠い……着替えるのもめんどくさい……)

 

 ベッドにそのまま倒れ込みたくなる衝動を抑えながら、着ていた服を全部脱ぐ。

 それからルッスーリアに借りた服を広げ、あまりのファンシーさに口元を引きつらせた。

 

(……これはキッツイな)

 

 パジャマではなく、七分丈袖のネグリジェだった。

 パステル調のピンクだから色は控えめだが、袖から肩が出るようになっているし、ところどころついているレースのリボンがファンシーさに拍車をかけていた。

 寝間着にしてはずいぶんと装飾が華美である。

 

(今日一日借りるだけだし、我慢するしかないか。裸で寝るよりはずっとましだし、だれかに見られるわけでもないし)

 

 ネグリジェを頭から被って、すかさず布団に潜り込む。

 ふかふかの羽毛布団を堪能する間もなく意識が遠のいて、利奈は穏やかな寝息を立てながら夢の世界へと旅立った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

朝の一幕

 

 現実世界への帰還のきっかけは、ドアノブが乱暴に引っ張られる音であった。

 わずかにまぶたを上げた利奈は、眼前にある壁紙の複雑な模様の線をなんとはなしに目で辿った。

 

 壁紙との距離が目と鼻の先になっているのはいつものことだ。

 寝ているとベッドの端に寄ってしまう癖があって、壁側じゃなかったときは、寝起き早々ベッドから落ちそうになることもある。

 

(……だれか入ってきた)

 

 鍵の解錠音とドアの開閉音。それから絨毯を踏む足音が聞こえてきた。

 いつものように、ミルフィオーレ隊員が朝食を運びにきてくれたようだ。

 寝たふりでやり過ごした方が楽なので、うつらうつらと思考を彷徨わせながら目を閉じる。

 

(まだ暗いし、もう少し寝ててもいいよね。今日は持ってくるのすごく早いけど、なにかあったっけ。

 まあ、なにかあったらルッスーリアさんが起こしにきてくれる……かも……だけど……?)

 

 ――ここはミルフィオーレの基地ではない。

 だから朝食が部屋に運ばれたりはしないし、部屋にいるのもミルフィオーレ隊員ではない。ついでに内側からちゃんと鍵を掛けていたので、相手はそれを知ったうえで入ってきた不法侵入者である。

 

 そこまでを一気に悟り、利奈はドッと冷や汗をかいた。

 侵入者はまだ室内にいるようで、耳を澄まさなくても身じろぎの音が聞こえてくる。

 

(お、おおおお、落ち着こう!

 もしかしたらルッスーリアさんとか、フランとか、隊員さんとかが様子見に来ただけかもだし――最悪でも、悪戯しにきたベルかもしれない!)

 

 前者三人なら大声を出すのは失礼だし、後者一人なら驚くのは損だ。

 ヴァリアーに殺された被害者の霊である可能性も否定できなかったが、その可能性はひとまず置いておく。

 

(……顔動かしたら、気付かれちゃうかな)

 

 まずは相手がだれなのかを確認しなければならない。

 しかし、下手に動くと相手に目覚めていることがバレてしまう。

 

(っていうか、私がいるのわかってるのかな。

 さっきから全然こっちに来ないし、もしかして私のこと見えてない? それならこのままジッとしてれば出て行ってくれるかもだけど――違ったら困るし)

 

 目をつむって悶々としている利奈には伝わらなかったが、何者かは靴を脱いでいた。

 丈の長い編み込みブーツの紐を面倒くさそうに解き、すでに脱ぎ捨てた上着のそばに放り投げる。

 物音は利奈の耳にも届いていたが、利奈はピクリとも身体を動かさなかった。

 

 ――その判断は賢明だったといえよう。侵入者は剣を手にしていた。

 

「あー、ったく……」

 

 声は男のものだった。

 手に持っていた剣をベッドの枠に立てかけ、男は雫の滴る髪の毛を鬱陶しそうにそうにかきあげる。

 ついでに顔にかかった髪を耳にかけると、手袋に触れた無線機を耳から外した。

 

(今、机になにか置いた)

 

 ベッドに近づいてきたときにはヒヤッとしたが、男はすぐに後ろに下がっていった。

 様子を見ていたにしてはあまりにも短い時間だったし、やはり男は利奈の存在に気付いていない。

 

 ならば、仕掛けるべきは今だろう。先手を取った方が優位に立てるはずだ。

 利奈は素早く起き上がるために手足に力を込め――意を決して飛び起きる。

 

「……っ!?」

 

 しかし利奈の思考は停止した。

 まさか男が服を着ていないとは思っていなかったからだ。

 

 勝手に部屋に入ってきた半裸姿の男に目を見開く利奈。

 いきなりベッドの中から姿を現した寝間着姿の少女に目を剥く男。

 

 そのとき、双方ともに不審者に対しての警戒よりも驚愕が勝った。

 そして驚きから覚めたのは男が先だった。

 

「チッ!」

 

 武器となる剣は、利奈が寝ていたベッドの枠に立てかけてられていた。

 男はすぐさま剣に手を伸ばしたが、利奈からすれば、男が自分に飛びかかろうとしているようにしか見えなかった。よって、大口を開けて息を吸う。そしてなんの躊躇いもなく、肺に溜めた空気を、悲鳴とともに一気に吐き出した。

 

「きゃあああああああ!」

「う゛おっ!?」

 

 男は利奈の悲鳴に怯みながらも剣を掴み、飛びのくようにして距離を取る。

 利奈は布団を搔き集めて男を睨みつけた。

 

「だれだ、テメエは!」

「そっちこそ!」

 

 鞘はまだ抜いていないが、男は剣を構えている。

 あちらも利奈を敵と認識したようだ。

 

「近づかないでよ! 近づいたらもっと叫ぶから!」

 

 乙女の寝室に侵入してきた男に慈悲などない。

 枕を盾にただ叫ぶだけの利奈を脅威とは思えなかったのか、男は剣を抜くことなく眉をしかめていた。

 

「ちょっと何事!?」

 

 悲鳴を聞きつけたらしいルッスーリアの声が、ドア越しに聞こえてきた。

 ドアノブの回される音がするが、ドアは開かない。

 

「ルッスーリアさん、助けてください! 部屋に変な人が!」

「あ゛あ!?」

「変質者!? ちょっと待ってなさい!」

 

 ちょっとどころか、一秒も待たずにドアが蹴り破られた。

 ドアが吹っ飛んでいく光景に利奈は若干怯んだが、片足立ちして構えるルッスーリアの姿が見えると、枕を投げ捨てて一目散に駆け寄った。

 そして背後に回り、半裸の男を指差して叫ぶ。

 

「こ、この人が! この人が勝手に部屋に入ってきて……!」

「おいルッスーリア! こいつはいったい何者だぁ!」

「……あらー」

 

 男の顔を見て、ルッスーリアが構えを解いた。

 状況が理解できたのか、困ったような声を漏らしている。

 

「なんなんですかー、こんな朝っぱらからー」

 

 先ほどの悲鳴で起きていたのか、あるいはドアが蹴破られる音で目覚めたのか、寝間着姿のフランがやってきた。

 そしてルッスーリアにしがみつく利奈と、くの字に曲げられて吹っ飛ばされたドアと、髪を濡らした上半身裸の男を順に目で追って、動きを止める。

 

「え、なにこの状況」

 

 あまりに驚いたのか、フランの口調が狂った。

 

「ちょっとした入れ違いがあったみたいね。

 スクアーロ、この子が昨日の作戦で奪還したボンゴレの子」

 

 男はスクアーロという名前らしい。この様子だと、彼もヴァリアーの人間のようだ。

 

「あいつらの仲間か! んで、なんでそいつがこの部屋で寝てやがんだぁ!?」

「それは――おかしいわね、違う部屋の鍵を渡したはずなんだけど」

 

 二人の問いにはフランが答えた。

 

「ミーの部屋の鍵がパワハラ先輩に盗まれたから、部屋変わってもらったんですよー。

 で、なんで隊長はここに?」

 

(隊長?)

 

 そういえば、ルッスーリアもフランもベルも、この辺りの部屋を使っている人たちはみんなヴァリアーの幹部だった。

 となると、この部屋に入った彼も幹部なのだろう。

 

 雲行きが危なくなってきたと冷や汗を流す利奈に、さらに追い打ちがかけられる。

 

「なんでもなにも、ここは俺の部屋だ!」

 

 その言葉で利奈は部屋を見渡した。

 昨日は一目散にベッドに向かったために一切目を向けてなかったが、確かに空き部屋のわりには物が多い。住人がいたことは明らかだった。

 

(わ、私!? 私が悪いやつ!?

 どうしよう! 空き部屋じゃなくて、空いてない部屋使っちゃった……!)

 

 しかも、部屋の住人を変質者扱いしてしまった。破壊されたドアという物的損害まで出しているし、事の大きさに唇の温度がどんどん下がっていく。

 

「ごめっ、ごめんなさい! 私、よく見てなくて! それで、その……!」

「はいはい、大丈夫よ。

 こんな時間に男の人が部屋に入ってきて怖かったでしょ。もう少し休むといいわ。

 フラン、この子をほかの部屋に連れて行ってあげて」

「はーい。さ、行きましょー」

 

 フランに腕を引っぱられるが、このままだと悪い印象だけが残ってしまう。

 利奈は足を踏んばり、室内の男に深く頭を下げた。

 

「本当にすみませんでした! あの、私、過去から来た――」

「はいはい、もういいから。鍵をかけてなかったスクアーロが悪いんだから、気にしなくても大丈夫。

 私たちで後片付けやっておくから寝なさい。まだ四時よ」

 

 せめて自己紹介だけでもと思ったのに、ズルズルと部屋から引き剥がされてしまう。

 後ろ髪を引かれながらも、利奈は先導するフランに目を向けた。

 

 フランは帽子を被っていなかった。

 利奈の腕を握っていないほうの手で帽子を抱えていて、抱き枕を抱いているようにも見える。

 

「それ、なんで持ってきたの?」

「列車でも言ったじゃないですかー。ベル先輩に見つかるとめんどくさいんですよー」

 

 先輩命令とやらで被らされている帽子は、帽子というより、もはや着ぐるみの頭部並みの大きさである。

 

「急に破壊音が聞こえたから、またあのボスがバイオレンスなことしてるのかと思ったんですけど、まさかこんなことになっていたとは。驚きですー」

「私も驚いたよ……。

 だって、絶対不審者だと思うじゃん、鍵かけてたのに入ってくるし」

「まあ、そこは鍵かけずに部屋出たのに鍵かかってることに疑念抱かなかった隊長が悪いと思いますよ。

 ルッス先輩の言っていた通り」

「うん……」

 

 フランとルッスーリアは利奈を庇ってくれるが、あの三白眼の怖そうな人は許してくれるだろうか。激怒して利奈を追い出そうとはしないだろうか。

 暗殺対象に認定されでもしたら一大事だ。自分から出て行かなければならない。

 

「そんなに恐がらなくても、あの人そこまで恐くはないですよー?

 あの声で鼓膜破壊されるかもっていう恐怖はありますけどー。

 しょっちゅうボスに物投げつけられてるくらいですしー、扱いは雑で大丈夫です。なんなら全員、雑に扱うくらいがちょうどいいと思いますー」

「……それはそれでどうなの?」

 

 同等の立場であるフランなら許されるだろうが、利奈が同じことをすれば、待っているのは死だろう。

 ルッスーリアは優しいし、ベルはアレだからいいけれど、一線は守らなければならない。

 ここは風紀委員とは違うのだ。

 

「ところで、どこ向かってるの? こっち部屋なくない?」

「……通り過ぎましたね」

 

 どうやらフランも半分寝ぼけていたようで、話しているうちに廊下を曲がってしまった。

 この先にあるのは昨日の談話室である。

 

「戻りましょうか……あ」

「あ」

「ん?」

 

 談話室からベルが出てきた。

 昨日と同じ服装のベルは、前髪に隠した瞳で二人を一瞥する。

 

「お前ら、なにやってんの? こんな朝っぱらに」

「先輩こそ、まだ部屋に戻ってなかったんですかー? つか、鍵さっさと返せよ」

「ここ来るまでお前らに合わせて早寝してやってたんだからいいだろ、別に。

 あと、小声で言っても聞こえてんだよ。部屋ん中めちゃくちゃに荒らしてやろーか?」

 

 今日も今日とて二人はギスギスとしている。

 挟まれるこっちの身にもなってほしいと、半ば添え物のように立っていた利奈だったが、ベルの次の一言で一変した。

 

「それにしても、そんな恰好でよく部屋から出たな。なに狙ってんの?」

「え? ……ああああー!」

「え、今さらですか?」

 

 フランの言った通り、今さら利奈は自分のとんでもない服装に気が付いた。

 

 ただのパジャマ姿ならともかく、今の利奈はリボンやフリルがたくさんついたピンクのネグリジェを身に着けている。

 しかもサイズを間違えていたとはいえ、ルッスーリアが着るはずだった服だ。

 大きすぎて、肩やら胸元やらがかなり露出している。

 

(待って待って。フランとベルだけじゃなくて、ルッスーリアさんやあの人にも見られたよね!? 

 こ、こんな格好で私、私、なにやって……!)

 

 込み上げてきた羞恥に耐えきれなくなって、胸を隠すように肩を抱きながら蹲る。

 ベルはそれを好機と捉えたのか、焦らすようにゆっくりと足を踏み鳴らした。

 

「なに今さら恥ずかしがってんだよ。遅いって」

「こ、来ないで……!」

「俺の部屋そっちだから。

 見られたくないんならさっさと部屋戻ればいいじゃん。歩いてさ」

 

 立ち上がれるわけがない。立ち上がったら全身を見られてしまうのだから。

 それをわかってて言っているのだから始末に負えない。

 フランはというと、ベルのえげつないやり口にドン引きした顔をしている。

 

「べつにそんなに悪くないんじゃね? 俺の趣味じゃねーけど、好きな奴は好きそうな格好だし。

 もっと見せてみろって」

 

 こうなるとスクアーロよりもベルのほうが脅威だった。

 この状況では、いくら詰ったところでベルを喜ばせるだけだろう。

 

(あのナイフ持ってたらまさに今、投げ返してたのに……! こうなったら――)

 

 フランに視線で合図を送ると、フランは小さく頷いた。

 

「シシッ、お前が慌てるなんて超レアじゃん。

 フラン、せっかくだからカメラでこいつ撮って――」

 

 ベルの注意が利奈から逸れ、その瞬間、フランが手に持っていたカエル帽を利奈へとパスした。

 

「ちょーしに、乗るなー!」

 

 絶妙なタイミングでパスされたカエル帽を、勢いそのままにベルの顔へと投げつける。

 

「うおっ」

 

 いくらヴァリアー幹部といえども、至近距離の奇襲は防げなかったようだ。

 重量のある攻撃をまともに顔に食らい、ベルは床に倒れこんだ。

 

「早く! 逃げるよ!」

「オッケーでーす。

 ルッス先輩とスクアーロ隊長にチクりましょ。そしたらたぶん、こってり叱ってくれますよ」

「よっしその手だ! 覚悟しなさい、バーカ! バーッカ!」

 

 結局、二度寝はできなかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

照らす太陽

 ヴァリアー邸での初めての朝食は、ぎこちない空気のなかで始まった。

 先ほどの一件が尾を引いていたからだ。

 

 利奈はベルの振る舞いのせいですっかり機嫌が悪くなっていたし、スクアーロも気まずそうに黙りこんでいる。

 ほかの三人はとくに変わりない態度をとっていたが、ルッスーリアしか喋らないので、話が空回りしていた。部屋が広いせいで、より一層空虚である。

 

(ほんと、最悪)

 

 ネグリジェ姿を見られたのはいい。

 ほかのみんなにも見られていたし、あの格好で部屋を出たのは自分なので、そこに文句をつけるつもりはない。

 だが、見ないでほしいと言っているのに、わざわざ近づいてきたのは許せなかった。

 そのうえ、からかいの言葉まで口にしていたのも罪深い。

 

(わざわざ正面に座ってくるし。本当に質が悪い)

 

 隣に座らせるつもりはなかったし、そうなるとふたつ隣か前の二席しか残らないけれど、どうしてよりによって正面の席を選ぶのか。

 スクアーロと向き合ったほうがまだマシだった。

 

「失礼。食後のデザートはヨーグルトとフルーツ、どちらがよろしいですか?」

 

 サラダを食べていたら、ヴァリアーの隊員の一人にそう尋ねられた。

 幹部のみんなは私服だけど、彼らは黒い制服を着ている。

 

「フルーツって、なんの果物ですか?」

「キウイとリンゴがあります。お望みでしたら、両方とも持ってきますが」

「でしたら、両方ともお願いします」

 

 食事はすべてヴァリアーの隊員が用意してくれた。

 椅子に座って待っているだけでパンも飲み物もサラダも出てきたので、貴族かなにかにでもなったような気分になってくる。

 

(てっきりルッスーリアさんが作ったりするんだと思ってたけど……ルッスーリアさんも偉い人だもんね)

 

 朝食の席についている人たちは全員幹部である。

 身の回りの世話をする人がいてもおかしくないくらいだし、本来なら、利奈の世話を焼くのも平隊員の仕事だったはずだ。利奈が、この時代の人間であったならば。

 

「そういえば、スクアーロは今日が初めて?」

 

 平隊員とのやりとりのあと、すかさずルッスーリアが声をかけてきた。

 小さく頷いて、そろそろ会話に参加するかとパンを飲みこむ。

 

「初めてです。会ったことあるのはベルとルッスーリアさんと、あとマーモンだけでしたから」

 

 そういえば、まだマーモンの姿を見ていない。

 ベルとフランが利奈を奪還しに日本まで来たように、マーモンもどこかで任務に当たっているのだろう。

 十年経っているから、今のマーモンは利奈と同じくらいの年頃であるはずだ。

 

「ってことは、初めて見たのが裸なんですねー。

 なかなかにショッキングなファーストコンタクトでトラウマ確定、おめでとうございますー」

「う゛お゛ぉい! だれが裸だ、だれが! ちゃんと下は履いてただろうが!」

「そうでしたかー?

 ミー、ちょっとしか見えてなかったんで、全裸で女子供に剣向けるヤベー奴にしか見えなかったんですけど」

 

 それが本当だったら、偶然の産物であろうが、同じ食卓にはついていない。

 とはいえ、あちらからすれば勝手に人のベッドで寝ていたうえに、叫び声まで上げた失礼な子供である。

 どちらも落ち度があったのだし、ここはお互い様だったと割り切るしかない。

 

「せっかくだから自己紹介済ませちゃいなさいよ。

 しばらくは同じ屋敷内で生活するんだから」

「あっ、じゃあ私から」

 

 胡乱げな目をスクアーロから向けられながらも、利奈は背筋を伸ばした。

 何事も始めが肝心である。――もう始めではないかもしれないけれど。

 

「相沢利奈と言います。十四歳で、中学二年生。十年前の、リング争奪戦? でちょっとだけ関わりがありました。

 この世界だと、ヒバリさんの部下になってたみたいです。詳しくは聞けてないんですけど」

「ほら、ボンゴレの雲の守護者との仲介役の子よ。貴方も何度か顔合わせてるでしょ」

「……ああ、あいつか」

 

(えっ、仲介役までやってたの?)

 

 仕事内容までは聞かされていなかったので、完全に初耳である。

 でも、あの恭弥が自ら人とかかわりを持とうとするとは思えないし、何人かと面識のある利奈が橋渡し役にされていたとしても、なにもおかしくはない。

 リング争奪戦でのいざこざも、十年のうちにどうにかなったようだ。

 

「俺はスペルビ・スクアーロ。

 独立暗殺部隊ヴァリアーの幹部であり、ナンバー2。剣帝にして最強の剣士だ」

「自己紹介盛りこみすぎだろ」

 

 ぼそりとベルが呟くが、確かに初対面の挨拶にしては過激である。

 これから戦う敵へと叩きつける口上のようだ。

 

 しかしだれ一人としてスクアーロの発言を咎めるものはなく、ナンバー2なのも最強の剣士であるのも公認らしい。

 となると、やはり朝の件についてはきちんと謝っておかなければならない。

 ヴァリアーのボスに、詫びもしない失礼なやつだったと報告されたら大変だ。

 

 利奈はぎゅっと唇を引き結び、姿勢を正した。

 

「朝は勘違いして騒いでしまって、申し訳ありませんでした。これからは気をつけます」

「いや、いい。部屋の鍵をかけ忘れた俺の落ち度だ。こっちこそ驚かせて悪かった」

 

 こともなげにスクアーロはそう答える。

 

(よかった、あんまり気にしてないみたい……)

 

 よく怒鳴るから怒りっぽい人なのかと思っていたけれど、意外と寛容だった。 

 ホッとした利奈は、安堵の息を漏らしながらスクアーロに笑いかける。

 

「私も大丈夫です。ありがとうございます、スペルビさん」

「グフッ」

 

 スープを噴き出したのは隣のフランだった。

 びっくりして身を引くと、口からスープを垂らしたフランが、恨めしそうな目を向けてくる。

 

「え、なに? 私が悪いの?」

「どう考えてもそうでしょう。なにしれっとファーストネームで呼んでるんですか」

「ええ……?」

 

 戸惑いながら他の人に目を向けるが、ベルどころか、呼ばれたスクアーロまでもが口元を引きつらせていた。

 ルッスーリアだけは料理に舌鼓を打っている。

 

「お前さ……距離の詰め方どうなってんの?」

「え? え? だって、ほかのみんなも名前で呼んでるし……一人だけ苗字って変だと思って」

 

 ベルの言葉に戸惑ってしまう。

 スクアーロよりも年上だと思われるルッスーリアだって名前で呼んでいるのだ。

 苗字を知らないというのもあるが、だからといって一人だけ苗字呼びにするのも違和感がある。

 

「でも俺たちはスクアーロって呼んでただろ。そっちに合わせろよ」

「それはみんなの呼び方だし……」

「なら俺をベルって呼ぶのもおかしいだろ」

「え、だってベルはベルじゃない」

「……俺の名前、ベルじゃねーけど」

「ええ!?」

 

 十年越しに明かされる衝撃の事実――ではないが、すっかりベルという名前だと思い込んでいた利奈は、目を丸くした。

 

「うそ!? 本名は!?」

「ベルフェゴール。苗字は捨てた」

「ベルフェ――だからベル!」

 

 知らなかったとはいえ、ずっと馴れ馴れしくあだ名を呼んでしまっていたらしい。

 外国の名前だから、ニックネームであることに気付けなかった。

 

「ごめん、全然わかんなかった! どうしよう、だったらこれからベルフェゴールって――」

 

 そこまで言ったところで、利奈はむぐりと口を押さえた。

 ベルと喧嘩している最中だったのを思い出したからだ。

 不自然に会話を切ったせいで、食べ始めと同じくらい食卓が静かになる。

 

「ねえ、朝食食べ終わったら、私と一緒に過ごさない?」

 

 フランの頭越しにルッスーリアから声をかけられる。

 長身だから、カエル帽で遮られていても顔がよく見えた。

 

「貴方、怪我してるでしょう。その手の怪我だけじゃなくて、腕にも」

 

 手に負った傷は傷口が深くなかったので、目立つものだけ絆創膏を貼っている。

 包帯だと一人で巻けないし、一度フランにお願いしたら指ごと全部ぐるぐる巻きにされた。

 

「ほんとは昨日のうちに治してあげたかったけど、疲れてるみたいだったし。その怪我、すぐに治してあげるわ」

「ありがとうございます」

 

 傷に効く薬を塗ってくれるのだろうと思って利奈は礼を言ったが、ルッスーリアの言葉の意味をよく考えていなかった。

 ルッスーリアは、傷を治すと言ったのだ。

 

 だから、ルッスーリアに言われるがままに絆創膏を外し、包帯を取り、怪我口をすべて晒した利奈は、ルッスーリアが手にしている小さな箱を見て首をひねった。

 

「……それ、なんですか?」

「あら、もしかして匣知らない? リングとセットで使う物なんだけど」

「リングは知ってます。ミルフィオーレの人も欲しがってたので。

 ……そのなかに、武器が?」

 

 小ぶりな箱は、ルッスーリアどころか、利奈の手のひらにもすっぽりと収まってしまうだろう。

 とても武器なんて仕舞えなさそうな大きさでも、十年バズーカが存在している以上、ありえないとは言い切れない。

 

「んー、ほとんど正解ね。

 でも、これに入ってるのはそんな武骨なものじゃないわ。見てて」

 

 ルッスーリアが指で狐の形を作る。

 すると、その指に嵌められていた指輪から光が漏れだしてきた。

 

(黄色い光――違う、黄色い炎!)

 

 ルッスーリアの表情からすると、熱くはないようだ。

 まじまじと炎を見つめていると、ルッスーリアは子供に手順を教えるように、ゆっくりと小箱――匣に空いていた穴に当てて、炎を注入した。この前の時計と仕様が似ている。

 

「さあ、出ていらっしゃい!」

 

 箱が展開した。

 その中に納まっていた小さな光が、質量を増やしながら床に足をつける。

 嘴を振り、背中に広がる羽を優美に広げるその姿を、利奈は写真で見たことがあった。

 

「く、孔雀!?」

「そう、私の匣、パヴォーネ・デル・セレーノのクーちゃんよ」

「パヴォーネデルセレーノ……って、意味は?」

「日本語で、晴の孔雀。晴属性の孔雀よ」

「晴属性?」

 

 そういえば、ボンゴレファミリーでは守護者を空模様に見立ててリングを用意していた。

 恭弥は雲で、ボスの綱吉はそのままずばり大空である。ボンゴレの晴の守護者は――たぶん了平だろう。

 

「これは未来の武器なの。

 武器が出てきたり動物が出てきたり、ほかにもいろいろ出てくるんだけど――原理や仕組みは研究者本人じゃないからわからないわ。

 とにかく、マフィアで代々受け継がれているリングに反応して展開するの。

 属性ごとに特徴があって、晴は活性化。クーちゃんは回復専門なのよ」

「へえー……すごくきれい」

 

 晴孔雀というだけあって、見た目もただの孔雀ではない。

 背中の羽はまるで太陽を反射しているかのようにキラキラと輝いていて、宝石みたいにきれいだった。

 

「そうよね、やっぱり見惚れちゃうわよね!

 ペットは飼い主に似るっていうけど、この子も私に似て豪華で優美で気高いの! 自慢の匣なのよ!」

 

 利奈の反応にすっかり気をよくして、ルッスーリアが声高にペット自慢を始める。

 否定する気はなかったので、利奈は頷きながらまじまじと晴孔雀を見つめた。

 人には慣れているようで、利奈を警戒する様子はない。

 

「っと、いけない! 怪我の治療だったわね。クーちゃん、お願い!」

 

 ルッスーリアの呼びかけに応えるように、クーちゃんはより一層背中の羽を広げた。

 すると羽全体が光り出し、黄色の光が、利奈の身体に降り注いだ。

 

「わっ、なに!? ……温かい」

 

 身体を射す光にわずかに身をすくめた利奈だったが、その光の温かさにすぐさま力を抜いた。

 春の木漏れ日にも似た、微睡みたくなるくらいの温かな光だった。

 しかし、この光はただただ温かいだけのものではない。

 

(あれ、傷が……あ、こっちも!)

 

 光に当てようと前に出した手のひらの傷口が、見る見るうちに塞がっていく。

 茶色く痕が残っていたところは消え、まだ残っていた傷口も茶色くなって同じように消えていく。

 

「肩の傷も光に当てて。すぐに治るから」

 

 すぐに利奈は言われたとおりに肩を突き出した。

 塞がりかけては開いていた傷口も、まるで早送りでもしているかのように治っていく。

 それと同時に、ある部位にも変化が訪れた。

 

「髪の毛が……」

 

 肩にかかっていた髪の毛が、いつのまにか胸元にまで伸びていた。

 束を摘もうと手を伸ばしたらその爪も伸びていて、利奈は慌てて全身を確認する。

 

「ああ、体の細胞を活性化させて傷を治すから、光に当たると髪とか爪も伸びちゃうのよ。

 傷が治ったら、爪と前髪は切ってあげるわ」

「ありがとうございます。なにからなにまで……」

「これくらいお安い御用。こっちに来てからいろいろと大変だったでしょう。

 ゆっくり羽を伸ばしてちょうだい。……あら」

 

 自分に言われたと思ったのか、クーちゃんがその優美な羽をさらに伸ばす。

 そんな愛らしい姿に和みながら、利奈はゆったりと太陽の温もりに身を委ねた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

迷える子羊

 

 なんだか魔法にでもかけられた気分だ。

 だいぶ伸びてしまった後ろ髪を弄りながら、利奈は階段を降りる。

 

 切ってもらったのは前髪だけで、後ろ髪は手つかずだ。

 後ろ髪を切るにはちゃんとしたハサミが必要だったし、伸びた髪の毛を早々に切ってしまうのももったいない。これだけ伸ばすには、何か月もかかるだろう。

 

 髪と爪を切ってもらいながらいろいろと雑談をしたけれど、ルッスーリアは任務で外に出て行ってしまった。

 ミルフィオーレとの抗争中で、本来なら利奈の相手をしている暇などなかっただろう。

 それでもルッスーリアは一緒にいるあいだ、ほんの少しも時間を気にするそぶりは見せなかったし、最後に入浴まで薦めてくれた。

 

(まさか、海外でお風呂に入れるなんて思ってなかったな。

 こっち来てからずっとシャワーだったし)

 

 海外では入浴はシャワーで済ますのが一般的らしいが、来日したときに入った銭湯をみんながいたく気に入り、この屋敷にも作ったそうだ。

 サウナや岩盤浴まであるというのだから驚きである。

 

 怪我の治療で細胞が活性化されたので、皮膚も新陳代謝で古くなっているらしい。

 しっかり洗ってしっかり浸かって、汚れを落とさなければならなかった。

 

(お風呂の場所聞くの忘れてたけど、隊員のだれかに聞けばいいよね。

 私はボンゴレ関係者の家族だって説明されてるんだし)

 

 利奈の正体は、味方内でも秘匿されなければならないものらしい。

 今は共闘状態とはいえ、ボンゴレ雲の守護者の部下がヴァリアーの本拠地に滞在するのは好ましくないのだろう。たとえ、十年前の姿だったとしても。

 

 階段を一段一段、数えながら下っていく。

 防衛上の理由か、階段は一階層ごとに場所が違うようで、一番下までまとめて降りることができない。

 一階分降りるたびに階段を探して廊下を歩かなくてはならなくなるので、すぐに現在地はつかめなくなった。

 

(これ、あとでちゃんと帰れるかな。

 適当に上っていけば同じ階に戻れるだろうけど……)

 

 なにもすることがないから、時間だけはたくさんある。全箇所総当たりしていれば、そのうち自室に戻れるだろう。

 でも、風呂場が何階にあったのかくらいは聞いておいた方がよかったかもしれない。

 

(来たのが夜だったから、どんな屋敷なのかもちゃんと見てないんだよな。

 たぶん私なんかじゃ想像もできないくらい、おっきくて立派な屋敷なんだろうけど)

 

 廊下の端に下り階段を見つけ、利奈は小走りで駆け寄った。

 さらに都合のいいことに、階段を上がろうとする隊員の頭が柵越しに見えた。

 

「む」

 

 さすが暗殺部隊の人間なだけあって、男はすぐに利奈の気配を察して頭を上げた。

 

(うわ、すごく殺し屋っぽい顔……!)

 

 一言でいえば極悪人面だ。鋭い眼差しに厳つい顔つき。揃えられた髭は左右に跳ね上がっている。

 こちらが見下ろしているはずなのに、異様な圧力を感じた。

 しかし、この顔には見覚えがある。

 

(……そうだ、ケーキ食べてるときに見た人だ)

 

 マーモンにケーキをご馳走してもらっていたときにやってきた人だ。

 ベルやルッスーリアと同じく、十年経っても見た目がほとんど変化していない。

 

「お前は――」

「初めまして」

 

 初めましてでいいはずだ。

 あのときは一言も話していないし、利奈は幻術で姿を変えられていた。

 この時代の利奈とは面識があるかもしれないが、今の利奈とは初対面ということになるだろう。

 

 柵越しに見下ろしたまま挨拶はできなかったので、利奈はすぐさま階段を降り、男の前に立った。二段分の高さがあっても届かないほどの長身だ。

 

「幹部の方なら、私がだれだかご存知ですよね。

 これからお世話になる、相沢利奈です。よろしくお願いします」

 

 深く頭を下げる。

 

「……なぜ、俺が幹部だと?」

「えっと……」

 

 それはもちろん、十年前のリング争奪戦のときに対戦者側の人間だったからだ。

 十年前に幹部だった人間が、幹部から降ろされてこんなに貫禄のある顔でいられるわけがない――が、それを言ったらマーモンに迷惑がかかるかもしれないのでやめておこう。

 

「雰囲気でわかりました。ヴァリアー幹部だというオーラが滲み出ていたので」

「ほう……!」

 

 嘘はついていない。

 たとえ初対面だったとしても、幹部の一人だと推測できたはずだ。

 ベルやフランと違って、いかにも極悪非道の限りを尽くしてきた人間の面構えなのだから。

 

 それに、わかりやすくおだてたおかげか、眼付きがとても友好的になった。

 道端の野良犬を見る目から、自分に尻尾を振ってきた犬を見るような目に。

 

「それで、貴様はここでなにをしていた。一人か」

「はい。さっきまでルッスーリアさんと一緒だったんですけど、仕事で。

 それでお風呂に入ろうとしたんですけど、場所がわからなくて探していたんです」

「そうか」

 

 利奈を警戒する様子はない。

 ヴァリアー幹部ともなると、目の前の人間が敵か味方か、嘘をついているかついていないかもたちどころに見抜けるらしい。

 今後のため、ぜひとも伝授していただきたい能力である。

 

「レヴィ様」

 

 階段の下、幹部の彼の背後に三人の人影が現れた。

 三人とも揃って膝をついており、彼は緩慢に振り返る。

 

「任務、滞りなく終了いたしました」

「わかった。俺はこれからボスに結果を報告する。お前たちは待機を――いや」

 

 一瞥され、利奈は硬直した。

 ただ横目で見られただけなのに、本能が危険を訴えたのだ。

 

「ウーノはこの娘を風呂場まで連れて行ってやれ。ボンゴレからの預かりものだ」

「はっ!」

 

 それだけ言って、階段を上っていく。

 それを見届けてから階段の下に目を向けると、ウーノと呼ばれた男以外の姿がなくなっていた。現れたとき同様、まさに電光石火である。

 

「こっちだ」

「はい」

 

 それにしても、壺やら絵画やら、この屋敷には調度品が多くひしめいている。

 うっかり触って壊したりでもしたら大変だし、廊下の真ん中しか歩けそうにない。

 それでも道を探さなくてすむぶん、利奈はあちこちに目をやりながら廊下を歩いた。

 

「風呂は全部で四箇所。一階にシャワー室、二階に大浴場。どちらも男女に分かれている。

 どちらがいい?」

「あっ、大浴場でお願いします」

 

 風呂は男女に分かれているようで、とりあえず安心した。

 今のところ男性にしか会っていないが、女性隊員もいるようだ。

 

「さっきの幹部の方はレヴィさ――レヴィ様というのですか?

 初めて会ったんですけど、お名前聞けてなくて」

 

 ウーノたちはレヴィと呼んでいたが、あだ名や通り名の類である可能性は捨てきれない。ベルという前例がいる。

 

「ああ。レヴィ・ア・タン様だ。

 ヴァリアーの雷の守護者で、俺たち雷撃隊を擁しておられる」

「ありがとうございます。私は――」

「名乗らなくていい、知っている。

 それと、簡単に正体を明かすな。相手が何者なのかもわからないうちは、とくに」

「は、はい」

 

 咎めるような言い方ではなかったが、有無を言わさない口調に素直に頷く。

 メローネ基地同様、ここでも気は抜けないようだ。

 

「依頼を受けた以上、お前の身の安全は最低限保証されている。

 だが、XANXUS様やレヴィ様に失礼があった場合――その最低限がどの程度のレベルのものなのか、お前は知ることになるだろう」

 

 そこでウーノは利奈に視線を向けた。

 牽制の目配せには本物の殺気が含まれていて、利奈は思わず足を止めた。

 

「知りたくなかったら、身の程をわきまえることだ。いいな」

「わかり、ました……」

 

 また前を向いたウーノは何事もなかったように殺気を解いたが、利奈は生きた心地がしなかった。

 彼の発する殺気は、恭弥の発する殺気よりも強かった。

 

(……朝のあれは、いいんだよね? ベルだもんね?)

 

 ベルに帽子を投げつけたことを思い出したが、その行為がセーフなのかアウトなのかは聞かなくてもわかった。

 彼の言葉にベルが含まれていないことを幸運に思うしかない。

 

(この人は、レヴィさんの部下なんだろうな)

 

 ボスと幹部と言わず、ボスと雷の守護者と指名したあたりで予測がついた。ここまで部下に慕われているのなら、レヴィの実力は折り紙付きだろう。

 風紀委員会で例えるなら、XANXUSが恭弥でレヴィが哲矢――いや、レヴィは幹部だからここは大木か。

 

 そんなことを考えているうちに、大浴場の前についた。

 日本をリスペクトしたのか、入り口にはちゃんと赤と紺の暖簾がかかっている。

 

「必要な物はすべて中に入っている。なにかあったら更衣室の内線を使え」

「わかりました。あ、ありがとうございました!」

 

 足早に去ろうとするウーノに急いでお礼を言う。

 ウーノはなんの反応も返さなかった。

 

(怖かったけど……それだけ慕われてるってことだよね、レヴィさんもボスも。

 ボスはまだ会ってないけど)

 

 ウーノは人に名を明かすなと言っていたが、ヴァリアーのボスであるXANXUSには挨拶をしておくのが礼儀だろう。

 むしろ、まだ挨拶をしていないこの状況こそが無礼以外の何物でもない。

 

(ルッスーリアさんもなにも言わなかったけど、そういうの気にしない人なのかな。

 顔……あんまり覚えてないけど)

 

 モニターに映し出されている姿は何度も見たけれど、顔がアップになっていなかったからそこまでよく覚えていない。

 レヴィとは違うタイプの悪人面だったような気もするが、暗かったので迫力が倍増されていた可能性もある。銃を乱射していた絵面もイメージダウンに拍車をかけていた。

 

 脱衣所にはだれもいなかった。

 ほかの人の衣服もないので、利奈は身ひとつで風呂場へと入る。

 

(……日本?)

 

 なんというか、普通に旅館の大浴場だった。

 家族旅行で入った温泉に似ているのでそこまで感慨はなかったが、日本の温泉がそのままイタリアにある時点で驚いてよかっただろう。

 シャンプーなどは海外産のために表記が全部アルファベットになっているが、それ以外は本当に日本の温泉だ。

 

「独り占め……!」

 

 がらんとしているのは少し寂しいけれど、泳ぐように動き回ってもだれにも見咎められないのはいいことだ。

 バシャバシャと水飛沫を上げながら、風呂を満喫する。

 

(これから毎日このお風呂入れるのかあ……だったら、ちょっとくらい長くてもいいかも)

 

 そんな現金な考えを浮かべながらも、思考を占めるのはこれまでの激動の数日間と、自分の知らない十年間の出来事だ。

 ヴァリアーのみんなに会ってから、より一層十年後の自分への興味がわいた。

 

(この時代の私のこと、沢田君たちに聞いておくんだったな……。

 聞く前にこんなことになっちゃったんだけど)

 

 思い出してみると、いろいろとわからない点がある。

 上司だったにもかかわらず、不自然なほど無関心を貫いていた恭弥。

 姿が変わったというだけで駆けつけてきた骸。クロームの涙。

 

 わからないまま置いてきてしまったから、どれもこれも迷宮入りになっている。

 過去のことならとにかく、未来のことじゃ思い出すこともできやしない。

 

(ここじゃどうしようもないし、帰ってから考えればいっか。あー、お風呂気持ちよかった……)

 

 たっぷり温泉気分を堪能できたが、ひとつ問題が残っていた。

 言うまでもなく、帰路がまるでわかっていないという点である。

(お風呂見つける前からそうだったけどね。

 雰囲気は覚えてるし、すぐに戻れるでしょ)

 

 方向音痴特有の得体の知れない自信を抱きながら、来た道を引き返す。

 レヴィやウーノと会ったところまではすぐに戻れたが、そこから先はまったく覚えていない。

 

(迷路だって、ずっと左に歩いていれば辿り着くんだし。最上階から順に探していけばいいよね)

 

 どこもかしこも似たような部屋ばかりだが、寝室のある区域はドアが等間隔に並んでいた。ようは、そんな区域を見つければいいのだ。

 

 意気揚々と歩く利奈は、その作戦の致命的な欠点にまるで気付いていなかった。

 組織のボスというものは、最上階に君臨するものであるということを。

 

 そして利奈は思い出さなかった。

 かつて、不用意に禁断の場所に迷い込んで、散々な目に遭った過去を。

 

(天井がちょっと違う。ここが最上階かな)

 

 踊り場から見える天井が高くなり、最上階であることを知る。

 小窓から外を覗くと、鬱蒼と茂る庭の樹木や噴水が見えた。わずかに見える赤色は薔薇だろうか。

 

(……私の部屋からだと、噴水こんなに低くなかったよね)

 

 朝も自室から噴水を見下ろしたが、そのときの噴水は距離も高さも近かった。

 となると、一階分降りて噴水のある側へと向かえば部屋に戻れるはずだ。

 

(この階にはなにがあるんだろう。作戦室とか会議室とかかな)

 

 メローネ基地にはビリヤード台が置いてあったし、幹部御用達の娯楽部屋なんかもあるのかもしれない。

 どうせこの階には下りの階段しかないので、利奈はそのまま廊下を進んだ。

 

 最上階だけあって、階下の喧騒はまるで聞こえない。

 窓もすべて閉まっているようで、自分の立てるかすかな足音と、衣擦れの音だけが耳に入る。

 

(だれもいないのかな……)

 

 昼前だから、休みの人以外はみんな外で任務に当たっているだろう。

 ここは海外で、銃の携帯も認められている。日本などとは比べ物にならないほど抗争が激化しているはずだ。

 

 点々と続く窓越しに外を眺めていた利奈は、背後に感じた何者かの気配に息を止めた。

 

(だれ? ……違う、なに?)

 

 人の気配ではなかった。

 わずかに呼吸音が聞こえるが、それも人ではなく動物――獣の吐息である。重量感のある足音も耳に届き、肌が粟立つ。

 

 番犬か、あるいは匣アニマルか。どちらにしても人ではない。

 正体を知りたければ振り返ればいいのだが、反射で振り向くには時間が経ちすぎてしまっている。

 

 だんだんと距離が近くなってきたので、利奈は意を決して振り向いた。

 

「!?」

 

 そこにいたのは大型犬でも猫でもなかった。

 

「あ、えっ、ひえ……!?」

 

 ひきつった声が喉から出てくる。

 なんでこんなところにこんな動物がと目を疑うが、足は本能に忠実でじりじりと後ろに下がった。

 

 そこにいたのは、獲物を屠るための爪と牙を持った肉食獣。――百獣の王、ライオンだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

前門後門どちらも一緒

 檻や液晶越しにしか見たことのないライオンが、すぐそこに存在している。

 ルッスーリアから匣アニマルを見せられていなければ、白昼夢を疑ったのちに発狂していただろう。

 

 とはいえ、冷静でいられるほどの余裕はない。

 彼が匣アニマルだったとしても、匣の持ち主がいなければ制御はできない。

 そしてライオンは、利奈を侵入者と認識して睨みつけている。

 

(とにかく逃げなくちゃ! どうにかして隠れないと噛み殺されちゃう!

 ライオン、えっと、ライオンなんだよね……?)

 

 最初、利奈はその動物がなんの動物であるのかがわからなかった。

 性別を雄と限定できる、ライオン特有の雄々しいたてがみがあったのにもかかわらず、だ。

 

(クーちゃんも羽がキラキラしてて変わってたけど……真っ白なライオンなんて)

 

 アルビノのライオン。

 安全が確保されていれば見惚れるほどの神々しさだ。

 しかしその美しいライオンに敵意を向けられているとなると、逃げるしか選択が存在しない。

 今のところ飛びかかってきそうな様子はないが、追い詰めるようにゆっくりと距離を詰められている。一刻も早く逃げなければ。

 

 階段は使えそうにない。

 一番近くにある階段はライオンの後ろだ。

 人が何人かすれ違える広さの廊下でも、さすがにライオンをやり過ごせるほどの広さはなかった。

 下の階に降りる階段も無理だ。

 このぶんだと、廊下の端に辿り着く前にライオンに追いつかれてしまう。

 

 となると、どこかの部屋に閉じこもるしかない。

 利奈は目についた部屋のドアを引いた。

 

(開かない!)

 

 ライオンが二歩進み、利奈はドアノブから手を離して同じ歩数後ろに下がった。

 一歩の大きさに差があるので、どうしても距離が稼げない。

 

(早く、早く開いてる部屋! あー、ここも鍵かかってるー!)

 

 どこもかしこも鍵がかかっていて、叫び出したくなってくる。

 しかし声を出した瞬間に飛びかかられそうで、利奈は暴れ狂う恐怖を必死に押し殺しながら、ドアを引き続けた。

 

(なんでこんなに鍵閉まってんの!? そんなに重要な部屋ばっかなの、ここ! だったらライオン放し飼いになんかしないでよー!)

 

 泣きそうになりながらライオンから逃げる利奈。

 邪魔者を排除せんと唸り声を上げるライオン。

 

 絶体絶命な危機的状況で、利奈はふと、自身の過ちに勘づいた。

 

(このドア、押して開けるんだったっけ?)

 

 至極簡単な話だった。日本と海外ではドアの開け方が逆になっている。

 この屋敷のドアを自分で開けたのは寝る前の一回きりだったのでよく覚えていないが、全室に鍵がかかっていると考えるよりは、ありえる話だろう。

 

 物は試しとドアを押しこむと、今までの苦労が嘘のようにすんなりと内側に開いた。

 

「なにやってんの、私!」

 

 抑えきれずに吐き出した言葉に反応して、ライオンが吠えた。

 利奈は悲鳴を上げながらドアの隙間に身体を滑りこませ、そしてすかさずドアを閉めた。

 

(ひい、すぐそこにいる! ドア押してる!)

 

 ドアから振動が伝わってくる。

 しかし体当たりされているわけではないようで、両手で押さえたドアはびくともしなかった。

 

 いくらライオンといえども、ドアをぶち破ったりはできないだろう。

 あとはこのまま、ライオンが去るか、あるいは飼い主が来るかを待てばなんとかなる。

 深いため息をつきながら、利奈はドアに背中を向けてもたれかかった。

 

 まさか、ライオンが野放しになっているなんて思ってもみなかった。

 知っていたら、一人で部屋を出ようとなんてしなかっただろう。 

 

(……ここはなんの部屋なんだろう)

 

 ムッとするような酒の匂い。棚に飾られた酒瓶。壁に張られた見覚えのない地図。

 窓にかかった緋色のカーテンは重く、陽光をほとんど通していない。電気もついていないので、室内は廊下よりもずっと薄暗かった。

 

 部屋のなかを順繰りに見送っていた利奈は、部屋の奥に目をやった瞬間、ビクッと体を震わせた。

 重厚な造りの机を挟んだ向こう側に、人の姿があったのだ。

 よほど背の低い人が座っているのか、それとも椅子が低いのか、頭しか見えていない。

 

(だ、だれ……?)

 

 知らない人物であるのは明白だった。

 髪の色は先ほどあったレヴィと同じ黒だが、髪型がまるで違う。レヴィは髪の毛を逆立てていたはずだ。

 

 かなり荒々しくドアを開け閉めしたはずなのに、反応が一切ない。眠っているのだろうか。

 となると、頭しか見えていないのは、椅子に深くもたれかかっているからなのか。

 

(多分、あの人がボスのXANXUSさん、だよね? 最上階だし、部屋がゴージャスだし)

 

 幹部の部屋がこの下にあるのだから、ここはボスの書斎、あるいは自室のひとつなのだろう。

 となると、最奥の椅子に座れる人物は一人しかいない。

 

 様子を窺うために男に近づこうとした利奈は、背後で鳴ったドアノブの音で動きを止めた。

 振り向くと、ぐるりとドアノブが回っていた。

 

(そういえば鍵掛けてなか――うわああああ!)

 

「うわああああ!」

 

 心の声がそのまま口を突いて出てきた。

 隙間からライオンが顔を出したからだ。

 

(ライオンってドア開けられるの!? マジで!?)

 

 利奈は心の底から驚いたが、ドアノブを回せばドアは開くのだから、簡単だろう。

 今さら自分の愚かしさを呪っても手遅れである。

 ドアを押し返してライオンにぶつける勇気はなく、利奈は近くの壁に張りついた。

 

 ライオンはまるでこの部屋の主であるかのように、じつに悠々とした態度で入ってきた。

 そして、己を締めだした不届き者に対し、咆哮を浴びせてくる。

 

「ひっ!?」

 

 利奈は小さく悲鳴を上げてへたり込んだが、ライオンは容赦せずに牙を剥いた。

 

 獅子は兎を狩るのにも全力を尽くす。

 哀れな兎に制裁を加えるべく、重心を落として飛び掛かろうと狙いを定めたそのとき――

 

「ベスター」

 

 今までこちらに一切反応を示さなかった男が、一言呟いた。

 

 たったそれだけで、ライオンは表情を変える。黒目が細まり、牙と爪が仕舞われる。

 少しのあいだ名残惜しげに利奈を睨んだが、やがて興味をなくしたように顔を背けて、扉の前に横たわった。

 

(たす、かった……?)

 

 助かった実感はないが、ライオンはもう利奈を見ようともしていない。

 利奈は唖然としながら、ライオンから男に視線を移した。

 へたりこんでしまったせいで頭すら見えなくなったのに、とてつもないプレッシャーが肌を刺した。

 

 眠っていたなんてとんでもない。

 一切を歯牙にかけていなかっただけのことだ。――反応するにも値しない人間だと、断定されただけ。

 

 身体の震えを押さえるべく、利奈はグッと奥歯を噛んだ。

 

 ――この男は危険だ。

 ヴァリアーに所属している人間は皆そうだが、XANXUSは別格である。

 姿すら見えていないのに、プレッシャーで立ち上がれない。

 

 本能は早く逃げろと急かし、這ってでも部屋を出たいものの、ライオンが扉の前に鎮座している以上、脱出は不可能だった。

 それに、男はライオンの行動を止めはしたものの、それ以上の干渉をしてきていない。顔は見えないが、こちらなど見向きもしていないだろう。

 ライオンに殺されずに済んだものの、事態はいまだ膠着状態である。

 

(……話しかけられるのを待とう。私から声かけたら、殺されそう)

 

 そう判断して、利奈はその場で膝を抱えた。

 呼吸を落ち着かせて、時計の秒針が鳴る音を数える。

 時折聞こえる軽やかな音は、グラスが置かれたときに氷が立てる音で、液体が注がれる音も、静まり返った室内ではよく聞こえた。それと、漂う濃厚な酒の匂い。

 

 XANXUSはこんな昼間からずっと酒を飲み続けていた。そして利奈は膝を抱え続けた。

 しかし、限界は訪れる。

 

(――っもう、ぜんっぜんこっち気にしてくれないんだけど!?

 それにライオンも寝ちゃってるんだけど!?)

 

 男の飲むペースは変わらず、ライオンは寝息を立てている。

 そんななかで部屋の片隅で膝を抱える利奈は、第三者から見たらさぞかし滑稽だろう。

 自分でもそう思えてしまうのが惨めで、怯えているのが馬鹿馬鹿しくなってくる。

 

(どうしろっていうのよ! どうすればいいの! ライオン乗り越えて出てけって言うの!?)

 

 このままだと、夕方になっても部屋から出られない。

 カーテンがかかっているせいで外は見えないが、時計の長針はすでに一週回りきっていた。

 絨毯が掛かっているとはいえ、床に座り続けたせいでお尻も痛い。

 じっとしていても埒が明かないのなら、もう玉砕覚悟で突っ込んだ方が精神的にマシである。

 

「おい」

「はいぃっ!?」

 

 突如声をかけられ、利奈は反射的に起立してしまった。

 そしてやっと、ボスの顔を視認する。

 

(こっわ! え、こっっわ!)

 

 一度、リング争奪戦で見た顔だ。

 しかし実際に肉眼で見るXANXUSの顔は、想定以上に迫力があった。

 いかめしさでいえばレヴィの方が上だが、顔の造形とは関係なく、纏う雰囲気が凶悪だった。

 命乞いしてしまいたくなるのをなけなしの根性でこらえながら、利奈は決死の思いで口を開く。

 

「なんでしょうか!」

「……酒」

 

 XANXUSは乱暴に机の上に空の酒瓶を置いた。

 机がへこんでしまうのではと思うほどの乱暴さだ。

 

(えっと、お酒のお代わりをここから選べってことだよね?)

 

 利奈のすぐそばには、酒瓶の飾られた棚があった。

 観賞用ではなく、飲酒用だったようだ。

 

 命令されることに慣れている利奈はすぐに棚に目を滑らせたが、ボスが置いた酒瓶と同じ銘柄の酒は見つからない。

 

「え、あの……」

「るせえ」

「……ど、どのお酒がいいですか?」

 

 XANXUSの言葉にもめげずに尋ねるが、XANXUSは返事をしなかった。

 それどころか、さっさとしろと言わんばかりにねめつけてくる。

 

(怖いぃ! ヒバリさんのほうが数十倍マシなんだけど!?)

 

 こんなことでマシと言われても、ちっともうれしくないだろう。

 でも、恭弥のほうがまだ話が通じる。

 

 自分で選ぶしかないようなので、利奈はビクビク震えながらも棚を物色した。

 すぐそばにライオンがいるので、あまりそちらに近づかないようにしなければならない。

 

(あの人が飲んでるのは茶色いお酒だから、似てるお酒にしよう。

 ……これとか、どうかな)

 

 表記はすべてアルファベットだから、瓶の形と中の液体の色でしか判別できない。

 それでも利奈はなんとか一本を選んで、ボスの元へと歩み寄った。

 近づくのも躊躇われたけれど、ボス自ら酒が欲しいと言ったのだから、無礼者と罵られることもないはずだ。それだけが心の支えだった。

 

(顔に傷がある……)

 

 薄暗がりのなか、椅子にふんぞり返るXANXUSの左頬には、火傷のような跡が見えた。

 さりげなく視線を外し、震える手で瓶のキャップを外す。

 

「どうぞ……」

 

 利奈は酒瓶を傾けようとしたが、ボスはグラスを差し出さなかった。

 それどころか、どういうつもりだと言わんばかりの目で睨みつけられたが、グラスを出してくれないと注げない。

 

「このお酒じゃ、駄目ですか?」

 

 それとも、机越しで注ごうなどとはと憤っているのだろうか。

 ならばと机を回り込もうとしたら、ボスがようやくグラスを突き出した。

 

「……カスが」

 

 あんまりな言い方だが、声に圧は感じなかった。

 なので利奈は若干気を持ち直しながらも、慎重にお酒を注ぎこんだ。

 

 トクトクと音が鳴って、ウイスキーの濃厚な匂いが鼻孔をつく。

 甘い匂いだけれども、相容れない匂いだ。

 グラスを傾けるボスの横顔は険しく、美味しいものを飲んでいる顔には見えない。

 

(今なら、お願いできるかな)

 

 あのライオンがXANXUSの匣アニマルなら、退かすこともしまうことも容易いだろう。

 いい加減この部屋から解放されたかった。

 

「あの」

 

 話しかけた瞬間、XANXUSの持っていたグラスが軋んだ。

 

「だれが口を聞いていいって言った」

「……ヒッ!」

 

 気が付いたときには、身体が後ろに下がっていた。

 心臓が張り裂けそうなほど大きく脈打っている。

 

(なんなの。なんなの、この人……!)

 

 ほんの少し、爪先ほどの殺気を向けられただけ。

 それなのに、全身から冷や汗が噴き出していた。

 話しかけようとしただけでこれでは、ライオンを退かしてくれなんて頼めるわけがない。

 それに、今ので完全に心が折れてしまった。

 

 もうこのまま、ここで一生を終えるしかないのかと悲壮な覚悟を決めかけた利奈の耳に、ドアのノック音が響く。

 

「ボスー、ちょっといい?」

 

 少し開いたドアが、ライオンにぶつかって止まる。

 目を覚ましたライオンは、鬱陶しそうにドアの向こう側を見てから、のそのそと体を動かした。

 そしてベルが顔を出す。

 

「なんの用だ」

「ああ、ちょっと。……シシ、やっぱりここにいた」

 

 利奈を見つけたベルは、得意そうに笑いながら利奈を指差した。

 

「みーつけた。お前を最初に見つけたら勝ちだったんだよな」

 

(探しに来てくれたの?)

 

 口を開いたらボスの機嫌を損ないかねないので、利奈は自分を指差す身振りで尋ねた。

 

「そうそう。昼飯の時間だってのにお前がいないから。

 先に食ってようと思ったのに、スクアーロがお前を探せってうるせーし。あー、腹減った」

「……ご、ごめんなさい」

 

 どうやらスクアーロのおかげらしい。

 ますます朝の一件が申し訳なくなるが、おかげでこの地獄から抜けられそうだ。

 ちょいちょいと手招かれ、利奈は脱兎のごとくXANXUSの元から逃げ出した。

 

「んじゃ、ごゆっくりー」

「し、しししつ、失礼しました!」

「噛みすぎだろ」

 

 九十度以上頭を下げた。

 そしてドアが閉まると、潤む瞳でベルを見上げた。

 

「ベル」

「ん?」

「ありがとう。……本当にありがとう!」

「なにマジ泣きしてんの、キモ」

「ううっ。ありがとね、一生恩に着るから。グスッ、ほんとに殺されるかと……死ぬかと……」

「いや、だからキモいって。泣きながら笑ってんなよ」

 

 もはや悪口ですら笑顔で受け流せた。話ができるだけありがたい。

 

 ――その後、涙を流しながら食堂に入ってきた利奈にみんなギョッとしたものの、XANXUSの部屋にいたと聞いた瞬間、腑に落ちた顔をした。

 そして、利奈のデザートの量が倍増した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

気付いてしまったら

 

 昼食の次はおやつ。おやつのあとは夕食。

 食事をとる以外、なにもすることがなく、自室と食堂を行ったり来たりするだけで夜になってしまった。

 

 それでも満足してしまうのは、料理がどれもこれも美味しすぎたせいだろう。

 一流のシェフを雇っているそうで、大人たちとあまり変わらない量を振る舞われたにもかかわらず、すべての料理を平らげてしまった。

 昼からはろくに動いていないのに。

 

(毎日これだったら、すぐに太りそう……)

 

 せめてもの抵抗として、夕食後に招かれた談話室では、飲み物だけをお願いした。

 利奈とフランはレモネードを飲んでいるが、ほかのみんなは軽食を摘みながらお酒を嗜んでいる。

 

 スクアーロは背もたれに腕を預けながら、長いソファに足を投げ出していた。揺れる銀糸の髪は女性的であったが、水のようにお酒を呷っているさまは男性的だ。仕事が終わったからかお酒が入ったからか、楽しそうに口元を緩ませている。

 レヴィは昼間と変わらず仏頂面であったものの、一杯目のビールを一息で飲み干してしまったし、二杯目のビールももうすぐ飲み干しそうだ。背を丸めて静かに酒を楽しんでいる姿には、一般人には出せない渋みがある。

 ルッスーリアはというと、面白い話題をみんなに提供しながらも、慣れた手つきで水割りを作っていた。くるくるとマドラーを回してから、小さくなった氷を補うように新しい氷を追加している。

 

(なんていうか、大人の世界……)

 

 中学生の利奈には、十年は早い光景だろう。

 場違いなところに入りこんだ気持ちになって、隣の二人に目をやった。

 カエル帽を被ったフランはストローでレモネードを飲んでいるし、ルッスーリアにお代わりを作ってもらっているベルは、ビスケットに手を伸ばしている。

 こちらはとても親しみを感じる光景である。

 

「……なんか、すごく失礼なこと考えられてる気がするのですがー」

「同感。なに見てんだよ、泣き虫」

「泣きっ――別にー?」

 

 泣き虫発言に食いつきかけた利奈だが、それこそベルの思う壺だと思い、顔を背ける。

 みんなの前で泣き顔を晒してしまったのを思い出し、じわじわと集まる顔の熱をレモネードで冷ました。

 

「そうだ。さっき聞いたんだけど、貴方、よりにもよってボスの部屋に入っちゃったんだって?」

 

 ベルに水割りを渡しながら、ルッスーリアが眉を下げる。

 厳密に言うとべスターに追い詰められたせいなので、運が悪かったというしかないが、許可もなくXANXUSの部屋に入ったのは事実である。

 

「もう二度と行っちゃ駄目よ。

 ちゃんと話してなかったけど、ボスは気性が荒くてすぐに暴力振るうんだから。

 私たちですらビクビクしてるのよー!」

「……はい」

「でもよかった、無事で。どこも怪我してないのよね?」

「はい」

 

 身体は無事だ。――心に瀕死のダメージを負ったが。

 

「まあ、主な被害者は作戦隊長なわけですけど。あんなに物ぶつけられて、よく死にませんねー」

「あ゛あ?」

 

 喧嘩を売られていると判断したのか、スクアーロが三白眼で睨みつけてくる。

 するとフランはすかさず利奈を指差した。

 

「ってこの人が思ってそうだったんで代弁しましたー」

「うえっ!? ちょ、やめてよフラン! 私そんなこと思ってないし!」

 

 そもそもその場面を見てないのだから、そんな想像をする余地すらない。

 

(あっ、でも朝もなんか濡れてたっけ。まさかあれ、ボスに水を掛けられて!?)

 

 ――実際にはグラスを投げつけられてだが、知らないほうがいいこともあるだろう。

 利奈は体を震わせながら、二度と最上階には近づかないでおこうと固く決心した。

 

 ずっと黙っていたレヴィが、ふんと鼻を鳴らした。

 

「ボスの意に沿わぬ言動を取るからだ。それでよく、作戦隊長が務まるな」

「あ゛あ? それは任命すらされなかった人間の僻みか? それとも、今ここで俺に三枚に下ろされたいって願望か?」

 

 スクアーロが上半身を起こすが、レヴィは動じずにジョッキを呷った。

 任命されなかった云々のところで髭がピクリと動いていたから、そちらが理由だろう。

 

(ギスギスしてきちゃったな……。しかも、私の話題がきっかけで)

 

 よくあることのようで、ほかのみんなは二人のやりとりをあまり気にしていない。

 ベルなんかは、殴り合いに発展するのを期待してか、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。

 若干名除けば円になるボンゴレ守護者とは違い、ヴァリアー守護者はなかなかに屈折した関係を築いているらしい。

 

「あの、スペルビさん」

 

 空気を読まずに声をかけると、二人の険悪な視線がこちらに向いた。

 それに気付かないふりをしながら、話題を切り替える。

 

「私って、いつごろ日本に帰れるんでしょうか。

 私の保護も依頼だったって聞きましたけど、それっていつまでですか」

 

 依頼で請け負っているのだから、期限が定められていないはずがない。

 しかしスクアーロの答えは、利奈の求めるものとは違っていた。

 

「期限はまだ決まってねえ。とにかく早く救出しろ、詳細は追って連絡するとだけしか書かれてなかったからな。

 そのくせ、あいつはすぐにミルフィオーレの雑魚なんかに――」

「スクアーロ」

「えっと、つまり?」

 

 ルッスーリアが窘めると、スクアーロは言葉を切った。

 利奈は察しが悪いふりをして続きを促す。

 

「しばらくは無理だ。

 撹乱するために、ブラックスペルの人間が連れ出したように見せかけたしなぁ。

 ねぐらを突き止めたと知られたら、やつらが場所を変えかねねえ」

 

 黒い制服を着ていたのにも意味があったらしい。

 基地の場所を変えられてしまったら、入手した基地の情報が無駄になってしまうだろう。

 

「それに、お前の救出の件は、俺たちヴァリアーと沢田綱吉しか知らねえ極秘事項だ。

 日本支部の連中は、いまだにお前がミルフィオーレに捕まっていると考えて動いているはずだ」

「はー、なるほど」

 

 まるで今知ったようにフランが頷く。

 フランも詳細は知らされていなかったのだろうか。

 

「それじゃあ、この人はここで預かり続けるしかないですね。

 どこの陣営に存在を知られても面倒なことになりますし」

「そういうことだ。あいつも、それを見越して俺たちに依頼したんだろうしなぁ」

 

(えっ、どういうこと? なんであっちのみんなにも隠すの?)

 

 ――現在、ミルフィオーレファミリーでは、利奈が行方不明になった件で諍いが生じていた。

 ホワイトスペルは、手柄を横取りされたブラックスペルが人質を奪い返したと思い込んでいて、そしてブラックスペルは、人質を擁しているはずのホワイトスペルが人質を逃がしたうえに、あらぬ言いがかりをつけてきたと認識しているのだ。

 それに関して、ボンゴレサイドが変わらずに人質の解放を訴えていることが、ボンゴレに人質が戻っていないというなによりの証拠となっている。

 つまり、利奈が行方不明であるこの現状が、ミルフィオーレ内部での軋轢を生みだしているのだ。

 

 とはいえ、情報と理解力が足りていない利奈には、とにかくここから出るわけにはいかないらしいという結論しか残らなかった。

 

「深く考えないで、ちょっと海外旅行しに来たと思えばいいじゃない。

 ほら、せっかくこんな豪華な屋敷に招かれたんだし」

 

 自慢するように腕を広げるルッスーリアに従って、室内を見渡してみる。

 壁にはシカの剥製がかかっているし、冬なら火が焚かれていただろう、立派な暖炉もある。そして、もうとりたててどうとも思わなくなってしまった高級な家具たち。

 メローネ基地の殺風景な部屋に閉じ込められていたときと比べれば、破格の厚遇である。

 

「さっ、お菓子も食べて食べて。

 この時代のあなたが好きだったクリームチーズとビスケット」

「わあ……」

 

 クリームチーズがたっぷりと乗せられたビスケットに歓声をあげる。

 どちらもとくに好物というわけでもなかったけれど、ジャムや小さな葉っぱで彩りが足されているのがお洒落でかわいかった。

 一口で頬張った利奈は、初めて食べる未知の美味しさに破顔した。

 

「美味しい……! これ、ここで食べた料理のなかで断トツ好きです!」

「よかった。貴方、いつもこれを食べながらワイン飲んでたものね」

「ワインなんて飲めるんだ!? 大人の私」

 

 二十五歳ならお酒くらい飲むだろうけれど、まさかワインまで飲めるようになっているなんて。十年後の自分の成長度合いに驚く。

 

「この時代の私って、どんな感じだったんですか?」

「どんなってそんなに変わってないと思うわ。

 今の貴方よりは大人っぽくて……仕事がなかなか優秀だったくらい?」

「へえー!」

「あと、たった一人でヴァリアー基地に乗り込んでくる度胸はあったぜ」

「ええ!?」

 

 挟み込まれたベルの言葉に目を見開いた。

 どれだけ窮地に追いやられればそんな行動を取れるのだろう。

 

「ああ、それと射撃の腕もそこそこだったわね。射撃場で試し撃ちしたりもしてたけど」

「ええ……」

 

 日本で働いていて、どうして射撃の腕を磨く必要があるのか――いや、わかっている。わかっているから聞きたくない。

 

 未来の自分がマフィアに近しい道を着実に歩んでいると知り、利奈は肩を落とした。

 優秀と言われるのは嬉しいけれど、そんな度胸と特技は欲しくない。

 

(で、でも未来は変わるかもだし……!)

 

「ルッスーリアさんとも、よく会っていたんですか? 仕事とか、そういうので」

「ええ、仕事以外でもよく話したわ。私より、ベルの方がよくちょっかい掛けてたけれど」

「え゛」

 

 思わずベルを窺うと、ベルはニシッと笑みを浮かべた。

 

「だってお前、反応面白かったし」

「……」

 

 それだけで、どんな目に遭わされてきたかが伝わってくる。やっぱりベルは性格が悪い。

 

「ほら、そっちの二人も黙ってないでなにか言いなさい。少しはあるでしょう、エピソード」

「あるわけねえだろ。

 ボンゴレの、しかも雲の守護者の部下だぞ。接点がまるでねえ」

「スクアーロったら、そっけないわね! ならレヴィ、とっておきのを!」

「むおっ!? そ、そうだな……?」

「あ、無理しなくて大丈夫です。だいたいわかりました……」

 

 全員と親しかったわけではないと知って、少しだけ安心する。

 とはいえ、暗殺部隊の幹部と面識があり、交流があるというのも妙な感じだが。

 

「でも、そんな話聞くと将来が怖くなるような……。なんか長生きできなそうですし」

 

 もうひとつビスケットを摘む。

 

(んー、やっぱり美味しい! 帰ったらお母さんにおねだりしてみよっと)

 

 ひそかに算段しながらビスケットを飲み込んだ利奈は、妙に生温い視線が自分に集まってるのに気付き、戸惑った。

 全員が利奈の顔を見つめているのだ。

 

「な、なんですか?」

「お前、知らねえのか?」

「知らないって……」

 

 用心深さを前面に出したスクアーロの表情に、胸の奥がざわりと波打った。

 

「……貴方、もしかしてこの世界のことをなにも聞かされてないの?」

 

 ――聞かされてはいないが、知っている。

 ボンゴレファミリーとミルフィオーレファミリーが抗争していて、ミルフィオーレファミリーは白蘭がボスで、ブラックスペルとホワイトスペルがあって――いや、彼らが言っているのは利奈個人の話だ。

 

(未来の、私は?)

 

 雲雀恭弥の部下。伝えられた情報はそれだけだ。

 でもそれは肩書きであって、未来の利奈を表す言葉としては不十分である――と言うことを、今、察してしまった。

 それを彼らも悟ったのか、苦い沈黙が場の空気を満たした。みんな、利奈の言葉を待っている。

 

「……私」

 

 一度疑念を抱いてしまったら、もう止まらない。

 利奈はひきつり笑いを浮かべながら、彼らが知っているであろう事実を吐き出した。

 

「……私、もう死んでるんですね?」

 

 考えてみれば、引っかかるところはあったのだ。

 

 この世界のだれ一人として、この世界の利奈がどうなっているのかを心配していなかった。

 入れ替わりで利奈がここに来たのだから、この世界の利奈は十年前の世界に行っていることになる。

 十年前の綱吉たちに大人の利奈を保護する力はないだろうから、大人の利奈には頼れる味方がいない。

 それなのに、だれもその身を案じてはいなかった。

 

 当然だ。十年前の世界にはだれも行っていないのだから。

 

(じゃあ、みんなが優しくしてくれたのって……)

 

 綱吉たちがいろいろと世話を焼いてくれたのを、利奈はずっと親切心での行動だと思っていた。あるいは、この時代に巻き込んでしまったことへの罪滅ぼしだと。

 でも、それだけではなかったとしたら。

 優しい気遣いも、向けられた温かな眼差しも、死んでしまった利奈を偲んで与えられたものだったとしたら。

 なにも知らずにいた利奈を、彼らはどんな気持ちで見守っていたのだろう。

 

 ――それからどうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。

 だれかに促されたのか、自分で戻ると言ったのか。

 ただ、だれかが隣に寄り添って、部屋までついてきてくれていたのは覚えている。

 最後に頭を撫でてくれたのも。

 

 時は戻らない。そして待たない。

 利奈の心の整理を待つことなく――翌朝、ボンゴレから暗号通信が届いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

託された証

 早朝、利奈は談話室のソファに寝そべって秒針の音を数えていた。

 ボンゴレからの通信文が届いたからと、隊員に呼び出されたのだ。

 だから利奈は寝ぼけ眼をこすってやってきたのだが、この部屋にはまだなにも用意されていない。

 

 通信は暗号文だったが、解読はもう済んでいる。

 それなのになぜ手元にないのかというと――

 

(英語だって読めないのに、イタリア語なんて無理……)

 

 利奈の語彙力の問題であった。翻訳してもらわなければ、内容すら理解できない。

 

「寝てんなら部屋に戻れば?」

 

 うっすらと目を開けると、向かいのソファに座っているベルが、背もたれに肘をつきながらこちらを見ていた。手元から覗く口元は真横に伸びている。

 

「……ごめん、起きる」

「そういう意味じゃねえよ」

 

 のそのそと体を起こすが、寝たままでいいとぞんざいに手を振られる。

 なので、お言葉に甘えてもう一度ソファの手すりに頭を預けた。

 心情的には座るどころか歩き回りたいくらい落ち着かないけれど、身体が泥のように重い。

 

 昨日は寝付けなくて、寝返りを打っているだけで時間が過ぎていった。

 原因はもちろん、十年後の自分が死んでいたことについて考えていたせいである。

 

(だって、そんなのあんまりじゃない。

 二十五歳って、これから結婚とか仕事とか、いろいろあったはずなのに)

 

 平均寿命の何分の一だろう。両親の年齢にも届いていない。

 

「ねえ、ベル」

 

 報告を受けたスクアーロは今頃届いた手紙を翻訳しているけれど、ほかの幹部はまだ自室で眠っている。

 ベルはなぜか最初から談話室にいた。スクアーロと朝まで飲んでいたのかもしれない。

 

「……私、どうして死んだの?」

 

 通信文を読むより先に、その件を片付けておきたかった。

 どんな過程を辿っていようが結末は同じだけど、人生は結果論ではない。

 自身が最後に歩んだ道筋が知りたかった。

 

 黙り込むベルの表情は読めない。

 しかし、隠すことでもないと判断したようで、口を開いた。

 

「ミルフィオーレが雇った人間の強襲にあい、死亡。

 死因は銃で撃たれたことによる出血性ショック死。銃殺」

「銃殺……。海外だったの?」

「いや、日本」

「日本……?」

 

 海外でなら珍しくはない――いや、銃殺がよくある死因であっても困るが、日本で銃殺は相当希少だろう。

 抗争中とはいえ、日本の街中で銃撃戦なんて起きたら、国が関与する事態に発展してしまう。

 

「お前、非戦闘員だったし、拉致されて拷問でも受けたんじゃね? 

 俺も調べようとしたけど、風紀財団の職員扱いだったから、詳しい情報はボンゴレにすら入ってなかったぜ」

「拷問……」

 

 いやな死に方だ。

 きっとすごく痛い思いをして、苦しみのなかで死んでいったのだろう。

 想像するだけで寒気がして、利奈は両腕を強くこすった。

 

「私を殺したのがだれかはわかってるの? その人は、どうなってるの?」

「その場で殺されたってさ。しかもそいつら殺したの、六道骸」

「骸さんが!?」

 

 あまりの衝撃に飛び起きた。

 ここで骸の名前が出てくるとは思っていなかったのだ。それも、利奈を殺した人間を殺害した人間として。

 

「なんっ、なんで骸さんが出てくるの?」

「知らねえよ。言ったろ、調べられなかったって」

 

 知っている情報はすべて話し終えたのか、ベルは利奈に背を向けてソファに寝転がった。

 しかし利奈は理解が追いつかず、その背中を見つめ続ける。

 

(どういうこと? なんで骸さんが……だって、そんな感じ、全然)

 

「……クローム」

 

 ボンゴレアジトで骸たちと初めて会ったときのことを思い出し、利奈はそのときの違和感の正体を悟った。

 

 あのとき、クロームは泣きながら利奈に抱きついたのだ。

 その時点で、なにかあったと勘づくべきだった。

 内気で恥ずかしがり屋のクロームが、あんな大胆な行動を取った時点で。あの涙で。

 クロームは、死んだ利奈を想って泣いたのだ。

 

(……なんで、だれも教えてくれなかったんだろう)

 

 いや、理由はわかっている。

 利奈だって、クロームと立場が入れ替わっていたら、なにも言わずに抱きしめただろう。

 未来がこんなことになっていると知ったら、あんなふうにみんなと笑い合えなかったし、きっと自分の死が受け入れられずに部屋に閉じこもっていた。

 

 ――なにも知らなかったせいで、取り返しのつかないことになってしまったのだけれども。

 

(ああ、あいつが言ったことも合ってるんだ)

 

 結局全部利奈のせい。利奈がこの世界に来ていなければ、綱吉が死ぬことはなかった。

 

(やっぱり、私のせいで……)

 

 一度は跳ね返したはずの言葉が利奈の精神を蝕もうとした、そのとき。

 

「入るぞぉ!」

 

 蹴破るかのような勢いでドアが開けられ、利奈はソファの上で飛び上がった。

 

「朝っぱらからうっせーな」

 

 ベルが顔をしかめるが、スクアーロはお構いなしに部屋に入り、利奈の眼前に紙を突きつけた。

 

「訳し終わった!

 これは極秘文章だ! 読み終えたらすぐに処分するからさっさと読めぇ!」

「は、はい!」

 

 逮捕状のようにつきつけられたら紙を慎んで頂く。

 ヴァリアーは日本語を書くのも達者だったようで、冒頭を読む限り、日本人が書くものとほとんど変わらない文章だった。

 

「これ、こいつ宛?」

「ああ。傍受された場合に備えて、恋人に宛てた最期の手紙という体を取っているが、これはこいつ――利奈宛に書かれた、沢田綱吉からの手紙だ」

「沢田君!?」

「いいから読め!」

 

 思わず顔を上げたら、頭を鷲摑みされたうえに乱暴に視線を下げられた。

 仕方ないので、そのまま手紙に目を落とす。

 綱吉からの手紙ということで興味がわいたのか、ソファを回りこんだベルが利奈の肩口に顎を置いて覗き込んだ。顎の感触が痛いので、手で追い払う。

 

<リナへ。君が無事に保護されていることを信じて、この手紙を送ります>

 

 名前がカタカナなのは、宛名の偽名を翻訳する際に利奈の名前に変換したからだろう。

 名前の漢字までは把握していなかったようだ。

 

 手紙は謝罪文だった。

 利奈がミルフィオーレに連れ去られたこと、怖い思いをさせたこと、これから不自由な思いをさせること――それらに対する謝罪がほとんどだった。

 

(沢田君のせいじゃない。私――ううん、ミルフィオーレファミリーのせい)

 

 彼らが――白蘭さえいなければ、こんなことにはならなかった。

 

<それから――>

 

「!?」

 

 その先を読んで、利奈は手紙を落としてしまった。

 膝を滑り落ちた手紙は裏向きに絨毯に落ちて、真っ白な面がこちらを向いている。

 

<俺が――>

 

 見間違いだったのかもしれない。

 読み違えて違う意味に取ってしまったのかもしれない。

 

「おら」

 

 動けなくなった利奈に代わり、スクアーロが手紙を拾う。

 

<俺が>

 

 喉が渇いていく。右に目を動かす。

 

<俺が死んだこと>

 

 ゾワリと背筋が震えた。

 

 この手紙は、ミルフィオーレから救い出された利奈のために書かれた手紙ではない。

 綱吉の死に苛まれた利奈を救うために書かれた手紙であった。

 

<君のせいじゃない>

 

 綱吉は手紙のなかでそう断言した。

 それは一番聞きたかった言葉で、同時に、一番言わせたくない言葉だった。

 綱吉がなにを言ったところで、利奈の犯した罪は消えないのだ。

 しかしその言葉がただの気休めではないことを、綱吉はすぐに証明してみせた。

 

<君がこの世界に入ったのは事故じゃない。俺が、君をこの世界に引きずり込んだんだ>

 

「……どういう、こと?」

 

 今度こそ続きが読めなくなって、利奈は答えを窺うようにスクアーロを見上げた。

 

「沢田君が、私をこの世界に?」

 

 文面ではマフィアの世界に引きずり込んだという意味に取れるように書いてあったが、これは間違いなく、十年後の世界にという意味だろう。

 ならば、綱吉がなんらかの手段で利奈の入れ替えを行ったことになる。

 

「……文面通りだ。俺たちの目もあるからそれ以上詳しくは書かれてねえが、十年前のお前が未来に来るように仕向けたのは沢田綱吉だろう」

「な、なんでそんなこと?」

「俺が知るか。ただ――」

 

 にやりとスクアーロが口角を上げる。

 

「あっちでいろいろと不可思議なことが起きてるらしいぜ?

 ミルフィオーレのやつらがボンゴレの連中に返り討ちにあったとか、向こうのアジトがやけに慌ただしくなってるだとか」

「それってつまり……」

 どういう意味なのかとベルを見る。

 

「お前以外にも十年前から来てるやつがいるってことだろ。

 それも、ミルフィオーレを蹴散らせるようなやつ。普通に考えれば、お前みたいにもう死んでるやつだろうけど」

「じゃ、じゃあ、沢田君!? 沢田君が来てるの!?」

 

 手紙を最後まで読み終わるけど、手紙にはそこまで書かれていない。

 ただ、恨むなら俺を恨んでほしいと書かれた一文が悲しかった。

「失礼するわよ」

 

 今度はノックの音がしてからドアが開いた。

 いつも通り、髪も服もバッチリ決めたルッスーリアが、颯爽と入ってくる。

 

「おせーぞ、さっさと来いって言っただろうが」

 

 ギロリとスクアーロが睨むが、ルッスーリアは肩をすくめる。

 

「朝は支度に時間がかかるものよ。

 それに、小包が届いてたから。ミル宛で」

「ミルだぁ?」

 

 そこでなぜか全員の視線が利奈に向き、利奈は戸惑いながら首をかしげた。

 どこかで聞いたことがあるような単語だ。*1

 

「差出人は」

「大木玄一」

「私の先輩です!」

 

 どうやら大木は無事だったようだ。

 しかし、まさかここでその名前を聞こうとは。

 

「なら、これは間違いなく貴方宛の小包ね。

 ここに貴方がいると知っているのは、沢田綱吉だけだったはずなんだけど」

「えっ、でもミルって私のことなんですか?」

「間違いねーって。いいからさっさと開けろよ」

 

 ベルに急かされ、包みに手をかける。

 驚くほど軽いけれど、本当に中身は入っているのだろうか。

 

「検査はしたのか」

「CTにはかけたから大丈夫。

 言ったでしょ、小包の処理に時間がかかったって」

 

 スクアーロたちのやり取りを耳に入れつつ、ガムテープを剥がして箱を左右に開く。

 

「……っ!」

「なんだこれ」

 

 中身を見たベルが、つまらなそうな声を出した。

 ほかの二人も中を覗くが、ベルと同じような顔をしている。

 

「布切れか?」

「バッジじゃない? ピンがついてるし。えっと、風?」

 

 利奈は震える手でそれを持った。

 赤地の布に、金色の刺繍。そして、布地に入ったわずかな切れ込み。

 間違いなく、利奈が使っていた風紀委員の腕章だった。

 

「風紀委員の腕章? なんでそんなもの、わざわざ……」

「……これ、沢田君たちのとこに置いてきちゃってたんです。

 私の、大切な物で」

 

 これがなければ、利奈は風紀委員でいられない。

 ボンゴレアジトにあるのを知って届けてくれた大木に、利奈は強く感謝した。

 

「ちょっと、まだ中に残ってるわよ」

「え?」

 

 言われてみれば、箱の下に二つ折りにされた紙きれが一枚残っていた。

 メモ書きかなにかだろうか。

 腕章を胸に抱いたまま紙を開くと、たった一言、『忘れ物』とだけ書かれていた。

 

「愛想ないわねえ、もうちょっと書いてあげればいいのに」

「貴重品届けただけで充分だろ。あそこはよそに借りは作らねえからなぁ」

「その辺りは俺たちのボスと似てるよな。ボスの場合、敵に捕まった雑魚なんて、自分で殺すだろうけど」

「そうね。なんか想像できるわ。

 ……? 利奈?」

 

 メモを見たきり動かなくなった利奈に、ルッスーリアが声をかける。

 それでベルとスクアーロも様子がおかしくなった利奈に気付いたが、利奈はなにも言わずにメモを見つめ続けた。

 

 たった一文。数秒で書かれただろう走り書き。

 それでも、その文字がだれの書いたものであるのかはわかった。だから。

 

「うおっ!?」

「ちょ、ちょっと、どうしたの!?」

「またかよ……」

 

 三者三様の反応など一切気に留めずに、利奈は嗚咽を上げて泣き始めた。

 

 見間違えるはずがなかった。毎日のように彼の字を目にしていたのだから。

 

「うっ、ふぐっ」

 

 この世界に来てから、一言だって恭弥と言葉を交わしていない。

 それどころか、恭弥の瞳は利奈の存在を完全に拒絶していた。にもかかわらず、恭弥は利奈にこの腕章を託した。

 

「ふっ、ううっ……!」

 

 今なら、目を逸らされた理由が少しだけわかる気がした。

 十年後の自分が死んでいたと知った、今なら。

 

(届けてくれた。私のこと、見捨てなかった)

 

 悲しくも苦しくもないのに、涙が止まらない。

 涙が枯れてなくなるまで、利奈はその頬を濡らし続けた。

 

*1
一部五章:夕方のお茶会



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

なぜ自ら引き寄せようとするのか

 散々泣いたわりに、水で洗い流せばいつもと変わらない顔があった。

 目をこすらなくてよかった。そんなことをしたら、腫れあがって人に見せられない顔になっていただろう。

 泣き顔を晒してしまったあとだから、今さらだけれど。

 

「へー。そんなことがあったんですね、ミーが食事しているあいだに」

 

 デザートがわりのチョコレートドリンクを飲みながら、フランが頬杖を突く。

 

 フランは起きてすぐに食堂に向かったようで、談話室には現れなかった。

 しかし、利奈が顔を洗いに行っているあいだにベルが喋ってしまったようで、変な尾ひれをつけられてはたまらないと、利奈は自分からも一部始終を説明した。

 

 傍迷惑なベルはというと、もう任務で外に行ってしまっている。

 ほかの二人もいないので、今は二人きりだ。

 おかげで、泣いてしまったあとの決まり悪さを感じないですむ。

 

「ところで、ベルがいなくてもその帽子被らなきゃなの? 存在感がすごいんだけど」

 

 座っていて視界が限られているので、フランの帽子がやけに目につく。

 下手するとフランではなく、帽子のカエルと目を合わせて喋ってしまう。

 

「ぶっちゃけ外してもいいんですけどー。それ見越して通信入れてくることあるんですよね、あの惰王子

 ……ま、いっか。よいしょっと」

 

 かぽっと音を立てるようにしてフランは帽子を脱いだ。

 

「脱いだのチクらないでくださいよ。チクったら貴方の頭にも同じ帽子被せますから―」

「それって幻術で? 本物で?」

 

 答えを待たずに厚切りのハムを口に運ぶ。

 三食すべてが洋食なので、ナイフの扱いにもそろそろ慣れてきた。

 電車でディナーを食べたときには、持つ手を間違えてベルにたしなめられてしまったけれど。

 

(そうだ、幻術といえば――)

 

「マーモンって、今なにしてるの?」

 

 そういえば確認していなかったとフランに問いかけると、フランはなんとも言えない顔で利奈を見つめた。

 なんというか、呆れられているということだけははっきりと伝わる表情だ。

 

「貴方って、自分で穴掘って自分で埋まるところありますよね。破滅願望がおありですかー?」

「は? って、え? なに、喧嘩売ってるの?」

「いえ、憐れんでるだけですよ。懲りない人だなーと呆れてるだけで」

「どういう意味!?」

 

 歯に衣着せぬフランの暴言に食ってかかる利奈だが、フランは面倒くさそうな表情を崩さないで目を逸らした。

 

「……勘弁してくださいよ、ただでさえ師匠のお気に入りだから扱い面倒なのに、余計なこと吹き込んだって脳天貫かれたらどうしてくれるんですか、この能天気め」

「ちょっと、ボソッと言ったってちょっと聞こえてるから! 能天気って言ったでしょ、今!」

「黙秘権を行使します。

 どうしてもヴァリアーの内部情報を明かせというのなら、まずはボスを倒してからにしてください」

「わかった、諦めるね」

 

 即答だった。

 ボスという単語が出た瞬間に、利奈は問答を放棄してフランから視線を外した。

 薄情と言われるかもしれないが、知り合いの近況よりも自分の命が勝る。

 

「それで正解です。好奇心は猫をも殺しますからー」

 

 そこで話が途切れ、利奈は皿に残ったコーンをフォークで集める作業に専念した。

 箸なら摘めるから簡単に食べられるけれど、フォークだと小さいものが食べづらい。コーンの類は刺そうとしたら転がってしまうのでとくに厄介だ。

 無言でコーンを拾い集めていたら、カエル帽が勝手に動き出した。

 

「ひっ!?」

「おお、無線ですー」

 

 縦揺れするカエル帽に利奈は狂気を感じたが、フランは一切動じずに両手で捕まえ頭に装着する。

 

(魂が宿ったのかと思った……)

 

「はい。そうですそうです、精神年齢は兄さんよりも上のフランですよー」

 

 ――本当に、だれに対してでも毒を吐く性格らしい。

 開口一番の暴言で相手に怒鳴られたのか、フランは目を細めながら体をのけぞらせた。

 

「うるさいですー、耳がガンガンしますー。

 鼓膜がパリーンって割れたらどうするんですかー」

 

 防音機能が優れているのか、利奈には無線の声は一切聞こえていない。

 相手はかなり怒っているのだろう。フランは聞き流すように気のない相槌を打ち続けた。

 

(……私、出てった方がいいのかな)

 

 機密情報を耳にして、口封じ対象になったりなどしたら堪らない。

 しかしフランは、利奈の存在など気にせずに通話を続けている。

 

「えー、それミーがしなきゃいけない仕事ですかー?

 そんなの適当に人雇って案内させれば――はいはい、後輩は先輩に黙って従えですね。

 よく聞きますよ、そのパワハラ発言」

 

 通話相手はベルではないらしい。

 フランを後輩呼ばわりする人間というと限られてくるが、相手の声がまったく聞こえないので推察ができない。

 

「師匠はお元気ですかー?

 あの人、格好つけてすぐにしくじるタイプだと思うんでー、そうなったら連絡くださいって伝えておいてくださいー。おなか抱えて笑って差し上げるんでー」

 

(……師匠なんているんだ)

 

 どうやら相手はヴァリアーのメンバーですらなかったようだ。

 師匠に対しても辛辣なようだが、好意的に捉えようとすれば忠告をしているように聞こえなくもない。フランのことだから、ただの毒舌だろうが。

 

「え? ……ああ、元気そうですよ。今さっき地雷原に突っ込みかけてましたけど。

 じゃあ、そういうことで。例の件はこれから確認しておきますねー」

 

 そう言ってフランは勢いをつけながら立ち上がった。

 

「仕事に行くの?」

「そんなところです。ヴァリアーの仕事じゃないですけどね」

 

 ストローを咥えながら肩をすくめるフラン。

 コップのなかでストローが回る。

 

「こっちもこっちで人遣い荒いんですよ。ミー、少しやさぐれそうですー」

「大変なんだね。掛け持ちしてるの?」

「掛け持ちって言うか、どちらかというとこっちが本職であったりなかったり?

 ヴァリアーはバイトみたいな感じなので」

「ヴァリアーがバイト……」

 

 なんというか、相当ハードなアルバイトである。

 学業の傍ら風紀委員の仕事もこなしている利奈としては、なんとなく親近感を覚えた。

 こちらも、本分である勉強よりも委員会活動のほうが重労働である。

 

「……えっと、大変なんだね」

「マジで大変です。師匠にめちゃくちゃこき使われてます」

 

 肯定しているみたいにブンブンとストローが揺れる。

 

「師匠って、幻術の? どんな人なの?」

「たぶん、見たら驚くと思いますよ。パイナップルみたいな顔してますから」

「ええ……」

 

 パイナップルみたいな顔と言われても、どんな顔なのかまるで想像がつかない。

 パイナップルの皮のように、ごつごつした肌の人なのだろうか。

 

「他にも死人みたいに顔色悪いのとか、金ばかり集める強欲女とかもいますねー」

「……大丈夫なの、それ」

「最近、人生についてよく考えます」

「怖い怖い」

 

 ようやく飲み物を飲み終えたようで、フランがストローを口から離した。

 

「そんなわけでミーは外出しますので、あとはよろしくお願いします。

 隊長には、師匠に呼ばれたと伝えておいてください」

「隊長ってスペルビさん?」

「ですです。あの人声デカいですから、近くに来ればすぐにわかると思いますー」

 

 確かにスクアーロは声が大きい。

 普通の話し声でも壁越しに聞こえるくらいだ。

 

(それじゃ、食後の運動がわりに探しに行こうかな)

 

 今日も今日とてきれいに平らげてしまった料理のカロリーを考えながら、利奈はおなかを撫でた。

 

 

___

 

 

 食後の運動は、やけにハードなものになってしまった。

 例のごとく一階から探し始めようと思った利奈は、一階で出くわした隊員からの目撃情報で、最上階まで階段を駆け上ることとなってしまった。

 

「スペルビさんっ!」

 

 見間違えようのない後ろ姿に呼び掛けると、銀髪を揺らしながらスクアーロが振り返った。

 今まさにXANXUSの部屋に入ろうとしていたところだったようで、ドアノブに手がかかっている。

 

(ギッリギリセーフ!)

 

 XANXUSの部屋に入られていたら、スクアーロが出てくるまで廊下で怯えながら待たなければならなくなるところだった。

 XANXUSに多大な苦手意識のある利奈は、心底胸を撫でおろしながらスクアーロとの距離を詰める。

 

「どうした、なにかあったかぁ?」

 

 やけに深刻そうな声で問いかけられたので、利奈は慌てて首を横に振った。

 

「いえ、そこまでじゃないと……。フランに、師匠に呼ばれて出掛けるから、スペルビさんに知らせておいてくれって、言われて」

 

 ゼハゼハと息を吐きながら伝言を伝えると、スクアーロは露骨にため息をついた。

 

「紛らわしい! またなにかボンゴレから知らせがあったのかと思ったじゃねえか!」

「ごめんなさい、階段一気に上ってきたせいで、息が」

 

 スクアーロからしてみれば、利奈が血相を変えてやってきたように見えたのだろう。

 実際に頬も紅潮しているので、利奈は顔の熱を下げるべく、顔を手で扇いだ。

 ついでに背後も確認するが、べスターの姿はない。スクアーロと一緒ならば襲ってはこないと思うので、そんなに心配はしていなかったけれど。

 

「あのライオンって、普段はどこにいるんですか?」

「普段はボスの匣のなかだぁ。そうか、あいつが恐かったのか」

 

 どちらかというとボスのXANXUSの方が恐いけれど、部屋の目の前でそれを口にするのは憚られ、利奈はとりあえず頷いた。

 

「ちょっとここで待ってろ! いるかどうか、ボスに確認しといてやる」

「あ、いえ、そんな、ボスのご迷惑に――」

「なに、定時報告のついでだ。そんくらいどうってことねえだろ。

 なんなら、俺が部屋まで送ってやろうか? 迷子にならねえように」

「だ、大丈夫です……」

 

 からかわれているのか、気遣われているのか、判断に苦しむところだ。

 迷子になった末にべスターに追い回された話はベルに言いふらされていたし、朝に号泣してしまっているから、泣き虫の汚名は返上できていない。

 

「ガキがつまんねえ遠慮してんじゃねえよ。

 いいから待ってろ、すぐに終わらせてやる! よお、ボス、邪魔するぜぇ!」

 

 スクアーロが勢いよくドアを開け――

 

「るせえっ」

 

 ――ロックグラスがスクアーロの額に直撃した。

 

「ぐあぁっ!」

「ヒッ」

 

 分厚いロックグラスは、額に当たっても砕けなかった。

 それが災いして大ダメージを受けたスクアーロだったが、ドアノブは離さずに、凄絶な瞳で室内のXANXUSを睨みつける。

 その表情を見てスクアーロが次に取るだろう行動に合点がいった利奈は、すかさずスクアーロの腕を掴んだ――が、払いのけられる。

 

「なっ――にしてくれやがんだこのクソボスがあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ!」

「ひいいいいっ」

 

 普段から大きい声だが、怒鳴ると格段に圧がすごい。

 ライブハウスでスピーカーの真ん前に立たされたような音の暴力に、利奈は悲鳴を上げた。

 

「人の部屋の前でガタガタ騒いでんじゃねえ。失せろ」

「失せろだあ゛ー!? 勝手なこと言ってんじゃねえ! 部屋の前がいやだってんなら中で騒いでやろうか!

 う゛おおおおい! せめてこっち見やがれ!」

 

 足を一歩室内に踏み込みながら、啖呵を切るスクアーロ。

 剣にはまだ手を掛けていないが、それも時間の問題だろう。これでもかと殺気を飛ばしている。

 

(怖い怖い怖い怖い!)

 

 さすがヴァリアーのナンバーワンとナンバーツー。殺気だけで人が殺せそうだ。 

 どちらの殺気も利奈には一切向けられていないのに、膝がガクガクと震えてしまう。

 後ろに崖があって二人が前で睨み合っていたなら、なんの躊躇もせず崖から飛び降りていただろう。それくらい怖ろしかった。

 

「……チッ」

 

 震えていたら、舌打ちととともにスクアーロがあからさまに殺気を解いた。

 利奈が怯えているのに気付いたのだろう。バツが悪そうに身を引いている。

 

「出直すぞ、ボスの機嫌が悪かった」

 

(機嫌とかそういう話じゃないと思うけど……!)

 

 声を発する余裕がなく、利奈は力なく頷いた。

 

 XANXUSはまだ殺気を解いていない。

 次は鉛玉が飛んでくる可能性があり、利奈はスクアーロに身体を押されるようにして、その場から退散した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無力と侮るなかれ

 ――利奈が気力を取り戻したのは、最上階から降りてXANXUSの殺気から解放され、改めてスクアーロの顔を目にしてからであった。

 

(な、なんてひどい……!)

 

 グラスが当たったところが盛大に腫れてしまっている。

 利奈はほかの隊員に声をかけ、手当用の道具を用意してもらった。

 

「こんくらいほっといても――」

「たんこぶになってるんです! もしかしたら頭の骨が折れてるかも……!」

「だったらこんなんじゃ治んねえよ。いいからほっとけ」

 

 傷口を覗きこもうとするが、左手が額を隠し、右手が利奈を追い払う。

 

「だめです、せめてこれを貼っておかないと」

 

 もとはといえば、利奈が部屋の前で呼び止めたせいでXANXUSの機嫌を損ねたのだ。

 手当くらいしなければ、顔向けできない。

 

 聞く耳を持たずに湿布をセロハンから剥がすと、スクアーロはため息をつきながら額から手を外した。

 目で見てわかるほど腫れているうえに、一部赤黒くなっているのが痛々しい。

 

「貼りますよ。前髪、押さえててください」

「わかったわかった」

 

 面倒くさそうに髪をかきあげるスクアーロ。

 皺がつかないように細心の注意を払いながら、利奈はその広い額に湿布を貼った。

 

「はい、終わりました」

「おう」

 

 部屋を見渡してゴミ箱を探す。

 昨日も入ったけれど、スクアーロの部屋は物が少ない。おかげでゴミ箱はすぐに見つかった。

 

(うーん、昨日あんなことがあったのに、またここで二人きりになんて変な感じ。

 無理やり入っといてあれだけど)

 

 ルッスーリアが蹴破ったドアはすでに修理が終わっていて、今はほんの少しだけ隙間が空いている。

 昨日の一件があるからと、スクアーロがわざと開けておいたのだ。またぶっ壊されてはたまらないと軽口を叩かれてしまったが。

 

「チッ、あの野郎、思い切り投げつけやがって……」

 

 ひどく痛むようで、スクアーロは歯を剥きながらベッドに寝転がった。

 長い脚が行儀悪くベッドの端に乗っかっている。

 

「ルッスーリアさん、呼びましょうか?」

 

 ルッスーリアの匣を使えば、たんこぶくらいすぐに治るだろう。

 腕の刺し傷すら傷跡一つ残さず治せるのだから。

 

「いや、いい」

 

 考えもせずに断るスクアーロだが、痛いものは痛いのか、イラついたように足の爪先を動かしている。

 黒い靴が前後に動き、利奈を落ち着かなくさせる。

 

「その……報告、大丈夫だったんですか? する前に出てきちゃいましたけど」

「ああ、べつに問題ねえ。どうせ、依然変わりなしっていう報告だったからなぁ」

「そうですか……」

 

 それは、いい報告ではないのだろう。

 依然変わりなく、ミルフィオーレファミリーが勢力を拡大しているという意味なのだろうから。

 

 じわりと胸に広がる不快感に俯くと、天井に向いていたスクアーロの目が利奈を捉えた。

 

「お前、これからどうしたい」

「え」

 

 不意の問いに戸惑うと、スクアーロがゆっくりと体を起こした。

 

「水」

 

 飲み物を求められ、利奈は条件反射のような速さで水差しの水をスクアーロに渡した。

 コップを受け取ったスクアーロが、喉を鳴らしながら水を飲み干す。すかさず二杯目を注ぐが、それはサイドテーブルに置かれた。

 

「ベルの――いや、俺たちの任務はお前の奪還と保護だ。

 沢田が死んじまったせいで保護期間はうやむやになった――と思っていたが」

 

 そこでスクアーロの視線が利奈の左腕に向いた。

 長袖の下に腕章が巻かれているのを知っているのは、朝にいた三人だけだ。

 

「あの雲雀恭弥がお前の居場所を知っていて、そのくせ送ってきたのはその腕輪だけ。

 つまり、お前にはまだ、ここにいなければならない理由があるってわけだ」

 

 スクアーロの指摘は鋭かった。

 腕章を送られていなければ、自分の存在など顧みてもいないのだと悲観しただろうが、

腕章は利奈の腕に戻ってきている。

 風紀委員の誇りである腕章を託されたということは、風紀委員として動けという意味に他ならない。

 

(でも、私は――)

 

 ここに来てからなにも為し遂げていない。

 戸惑って、怯えて、泣いて。縮こまってばかりだ。

 

 さっきだって、二人の殺気に気圧されて動けなかった。

 こんなことでは、人を殺すどころか、自分の身を守ることすらできないだろう。

 どうしたいと聞かれたところで、なにもできないとしか答えられない。

 

「保護期間の長期化についてはどうでもいい。

 お前一人屋敷に置いたところでどうなるわけでもねえし、お前に届いた手紙であいつの考えにはおおよそ見当がついた。

 もちろん、ここでの世話代は報酬額に上乗せさせてもらうがなあ」

 

 不適な笑みに利奈は一抹の不安を覚えた。

 依頼人の綱吉がいなくなったわけだが、そうなるとその報酬の支払いはだれが請け負うことになるのだろう。

 そして、最高峰マフィアの暗殺部隊幹部たちに保護される生活は、いったいどれくらいの値がつくものなのだろう。

 

 顔色が悪くなっていく利奈を見るスクアーロの瞳は冷たい。

 利奈という人間の本質を見定めようとしている眼だ。

 

「そのうえで、今のうちに確認しておきたいことがある。

 お前はこの世界で生きていける人間か? お前に、この戦いに携わる覚悟はあるか?」

「……」

 

 利奈は即答することができなかった。 

 命を懸ける覚悟はあるかと問われて、すぐにはいと答えられるほどの勇敢さは利奈にない。

 数秒の沈黙が、永遠のように重く感じられた。

 

「お前はあいつら――沢田綱吉とその守護者とは違う」

 

 そう、彼らとは違う。

 マフィアとしての資質もなければ、現状を打開する力もない。

 

「戦いに参加しろとは言わねえし、無理にこちら側に関わる必要もねえ。本来なら、守られる側の人間だろう。

 依頼を受けた以上、お前の身の安全は俺たちが保障する。だが、お前の心はどうだ?」

 

 心。覚悟。

 

「ここは戦場だ。いつなにがあってだれが死ぬかもわからねえ。

 俺たちだって気を抜けばすぐに死んじまうだろう」

 

 スクアーロの瞳がわずかに揺れた。

 

「今日見送った奴が明日帰ってくるとは限らねえ、そういう世界だ。

 お前に、ここに留まり続ける覚悟はできるか?」

 

 今日はフランを見送った。

 でも、それが永遠の別れにならないと、だれが保証できるのだろう。

 

 ――あの日、綱吉は笑顔で利奈を見送ってくれた。それなのに、もう二度と会えなくなってしまった。

 

「ここに留まるのなら、それなりの覚悟と決意が必要だぁ! 泣こうが喚こうがなにも変わらねえ!

 どれだけもがき苦しむことになろうが目を逸らさねえ覚悟があるのなら、ここに残れ!」

 

 止まってはいられない。歩き続けなければならない。

 与えられた平穏を享受していては、また悲劇を繰り返してしまう。

 

 進むか戻るか。戦うか逃げるか。

 

 その二択を前に、利奈は両こぶしを強く握りしめた。

 

「――とはいえ、お前に戦う義理はねえ。

 関わりたくねえって言うんなら、ボンゴレ関連施設に身柄を――」

「いやです」

 

 やっと声が出せるようになった。

 面食らうスクアーロの顔を見据えながら、利奈は選んだ選択肢を口にする。

 

「ここで戦います。なにがあっても。

 じゃないと、殺されちゃいますから」

 

 冗談めかして笑ってみせたものの、心のなかはひどく冷めていた。

 ここで逃げる選択肢を選んだら、恭弥に手を下されるよりも先に、自分の心が死んでしまうだろう。受けた屈辱を忘れるわけにはいかなかった。

 

「……そうか」

 

 重苦しい声音でただ一言呟いたスクアーロは、しかしスイッチを切り替えるように、元の調子に戻る。

 

「なら、言葉じゃなくて態度で証明しろ! なにかあるたびにビービー泣かれてちゃ堪んねえ」

「……わかってます。

 もう、泣きません。……泣かないように、頑張ります」

 

 なにがあっても、だれがどうなっても。

 取り乱さないように、かき乱されないように。

 

「ハッ、それも口で言うのは簡単だ!

 せいぜい努力するんだな、未来の情報屋さんよぉ!」

「……? は、はい」

 

 風紀財団ではなく情報屋と呼ばれたことにやや困惑しながらも、利奈は頷いた。

 

 スクアーロの手がグシャグシャと利奈の髪を乱す。

 手袋越しの熱を感じる間もないほどの早業に、利奈は身構えることすらできなかった。

 

 スクアーロの言う通り、覚悟を口にするのは簡単だ。

 覚悟は行動で示さなければらない。

 

(戦うんだから、戦えるくらい強くならないと。そのためには――)

 

 利奈の脳裏に、ある人物の顔が浮かんだ。

 

 

__

 

 

 ソファに座り、取り寄せた資料に目を通す。

 マフィアの情報網を使えば、個人情報などいともたやすく手に入れられるものであったが―――取り寄せた相沢利奈の資料は、そのほとんどが用をなさなかった。

 

(風紀財団に所属する前の情報はなし、か……)

 

 あるにはある。

 しかし、出生地や出身校、家族構成などの当たり障りない情報を得たところで、相沢利奈の人間性を推測する手掛かりにはなりはしない。

 

(しいてあげるなら、風紀財団に入る前の相沢利奈は、正真正銘ただの民間人であったという事実が確定しただけか)

 

 資料には、高校進学と同時に風紀財団でアルバイトを始め、大学卒業と同時に入社となっている。

 しかし実際には、入社前から風紀財団内で力を発揮していただろう。

 その証拠に、入社早々重要なポストに籍を置かれていた。

 

 資料には、外部から見た活動しか書かれていない。

 あちらの雲の守護者が立ち上げた会社だけあって、セキュリティーレベルはこちらと同等だ。

 

 ボンゴレの会合などでは雲雀恭弥に帯同している姿がよく目撃されているが、戦いの場に姿を現したことはない。

 リングは持っておらず、炎を点したところを見た者もいない。戦闘能力も不明。

 ここにいる利奈を見る限り、非戦闘員であったことは明白である。

 

(これなら、俺でもこいつを狙う)

 

 雲の守護者と距離が近いうえに、戦闘能力は皆無。

 むしろ狙ってくれと言わんばかりの立ち位置である。

 

 資料は時系列順に並んでいるため、利奈の死因については最後のページに書かれているだろう。

 しかしわざわざ見なくても、ミルフィオーレによる日本初の死亡者として、詳細は記憶している。

 あちらの霧の守護者が出しゃばっていたことも。

 

 当時、あの六道骸がわざわざ雲の守護者の部下を助けようとしたことに疑問に覚えたが、フランによると、六道骸と相沢利奈はかなり親密な関係にあったらしい。

 となると、なにか特殊な力を所持していた可能性も捨てきれず、依然実力は未知数である。

 

(……こんなところか)

 

 資料は風紀財団代表としてヴァリアーと交渉をし始めたところに差し掛かっていたが、そこは読まずに机に放り投げた。

 

 調べたかったのは相沢利奈の経歴ではなく、人間性だ。

 万が一にも反旗を翻す可能性があるならばと確認してみてが、中学生の相沢利奈にそのような思想はないだろう。

 そもそも、この娘が並盛町――沢田綱吉の通う並盛中学校に転入したのは、当人からすれば半年程度。いつ雲雀恭弥と接点が生まれたかは不明だが、こちらの世界については疎いような反応だった。

 

(見るからにただのガキだったからな。あの振る舞いが演技だったならば、大した役者だが)

 

 いずれにしろ、脅威になりえないのならばどうでもいい。

 任務を受けたのはベルとフランであって、自分ではない。娘になにがあろうがどうなろうが、知ったことではない。

 

 そう結論づけて小娘の存在を頭から消そうとしたところで、ドアが叩かれた。

 

「……なんだ」

「今、よろしいでしょうか?」

 

 上擦った声が娘の緊張を伝えている。

 無言のままドアを開けると、利奈は深く頭を下げた。

 

「お休みのところ失礼いたします、レヴィさん」

 

 ルッスーリアの治療を受けたのだろう。髪が胸元まで伸びている。

 こんな時間になんの用だと尋ねようとしたが、利奈の目が自分を捉えた瞬間、その言葉は呑み込んだ。

 

「お願いがあって参りました」

 

 その目に宿っていたのは、運命を受け入れるだけの怠惰でも、力もないのに運命を捻じ曲げようとする傲慢でもなかった。望みのものを手に入れようとする強欲でも。

 図らずも、レヴィがもっとも崇拝している――

 

「私に、人の殺し方を教えてください」

 

 必ずや敵を討ち滅ぼさんとする、憤怒の炎だった。

 




スクアーロの言いたかったこと
「戦いが続く限り、またお前の知っている奴が死んだりもするだろう。
 この屋敷にいれば必ず耳に入るから、聞きたくないのならほかの施設に連れて行ってやる。だが、それは逃避にしかならねえぞ。
 この屋敷に残るのなら、そういう情報が入る覚悟をするべきだし、心を壊さないように努力するんだな」(まあ、厳しく言っとけばルッスーリア辺りにでも頼るだろう)

利奈の解釈
「暗殺部隊の本拠地で暮らすのなら、人を殺す覚悟くらいしてもらわねえとなあ?
 人が死んだくらいで泣いたり喚いたりしてんじゃねえぞぉ! この世界で生きるってのはそういうことだ! それがいやなら尻尾巻いて逃げるんだなあ!」

結果

レヴィ「あの娘が人の殺し方を教えてくれと尋ねてきたんだが」(困惑)
スクアーロ「はあああああああああああああ!?!?」(動揺)(驚愕)(疑問)(どうしてそうなった)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ヴァリアー暗殺講義

 

 滞在の長期化が決まり、利奈専用の部屋が用意された。

 専用といっても、ゲストルーム化していた空き部屋の一室が与えられただけなので、変わりはない。

 模様替えする余地もないから、手持ちの服をクローゼットに入れただけだ。

 

(ルッスーリアさんも、欲しいものがあったら気兼ねなく言ってって言ってくれたし。

 使用人の人にあとでお願いしておこうっと)

 

 とりあえず、普段使っている生活必需品を揃えてもらおう。

 ほかにも欲しい物はたくさんあるけれど、いつだれに請求書がいくかもわからないうちは、必定以上求めないのが賢明である。うまい話には裏があるのだから。

 

 与えられたこの部屋も、豪華すぎるから最初は辞退したくらいだった。

 人が二人眠れそうなベッドと、二人掛けのソファがふたつ。それでもなお空間が余る、高級ホテルのような部屋。自宅の利奈の部屋の四倍はありそうな広さだ。

 幹部が使う部屋だったからこんなに豪華なのだろうけれど、居候の利奈が使うのは申し訳なさすぎる。

 

 ルッスーリアにもっと小さな部屋でいいと言ったけれど、襲撃があったさいに、すぐ護衛できる部屋はここだけだと理論的に返されてしまい、受け入れざるを得なくなってしまった。

 

 そんなわけで、身分に合わない部屋を与えられた利奈は、これまた高級感漂う黒壇の机に積まれたナイフを拭く手を止めて顔を上げた。

 

「そんな感じで、レヴィさんに暗殺の仕方を教えてもらうことになったの」

 

 昨日の経緯をそう締めくくる。

 すると、ソファの背もたれに背中をつけたベルが、理解できないとでも言いたげに肩をすくめた。

 

「いや、そこでなんであのひげ親父選ぶんだよ。

 話の流れでスクアーロ選ぶってんならわかるけど、そこはルッスーリアとか普通そうなの……いや、あいつも普通じゃねーけど」

「えー、だって結局みんな普通じゃないじゃない」

「おい」

「だったら思い切って一番すごそうな人選ぶでしょ。一番強そうだったし」

 

 あの強面はただものではない。

 部下からも慕われていたし、なにより、あの人なら容赦なく利奈を鍛えてくれそうだった。

 

「よかったよ、オッケーもらえて。どうせ無理かなって思ってたから、ちょっとびっくりしちゃった」

 

 レヴィには、白蘭から受けた仕打ちを打ち明けた。

 口にするだけでもあのときの憎しみが蘇って手が震えたけれど、レヴィはなにも口を出さず、慰めも言わず、ただ平然と受け止めてくれた。

 それだけで救われた。この人なら同情も憐憫もなく、自分をしごいてくれると思った。

 

 そのあと、なぜ自分に打診したのかと聞かれて、ベルに言ったことをだいたいそのまま伝えたら、わりと簡単に了承してもらえた。

 わかりやすく口元が緩んでいたから、誉められるのに弱い人なのだろう。

 

「で、早朝に走り込みして、隊員の特訓を見学して、みんなが使ってたナイフ磨いてるの。

 最初は人の動きを観察したりとか、道具の手入れを覚えたほうがいいっていうから」

「ふーん」

 

 回りに回ったけれど、これでベルが部屋に来て最初に尋ねた、なんでナイフ磨いてんだよという問いに答えられた。

 それよりも、人の部屋に気軽に入ってきたが、ベルには遠慮というものがないのだろうか。いや、ないと知っているけれど。

 

(うん、きれいになってる)

 

 特訓は野外で行われていたために、最初はどのナイフも土やら草やらでひどく汚れていた。

 刃こぼれしたものなどは別に回収されたが、そのうち刃物の研ぎ方も教わることになるだろう。

 

 風呂場で汚れを洗い流してからこの部屋まで運び、乾いた布で水分を拭いた。そして今は最後の工程として、刃物用の油を刃に塗っている。

 結構な量を預かったので脱衣所で作業を続けたかったけれど、風呂に入ろうとする人がいたらびっくりしそうだったので、頑張って部屋まで持って帰ってきた。

 今のところ風呂場でだれかに会ったことはないし、今日も女性隊員は見かけなかったけれど、どれくらい所属しているのだろう。

 

「さあ。覚えたってすぐに人数変わるから覚えてねえよ。

 いちいち顔とか覚えとく義理とかねえし」

「感じ悪……」

 

 やはり十年経ってもベルはベルである。

 でも、そんなにすぐに入れ替わり――死別してしまうのなら、そのほうが傷を負わなくていいのかもしれない。

 殺す側の人間は、いつ殺されたっておかしくないのだから。

 

「まあ、仲間内で殺し合ったりも余裕でするけど。目障りなうえに弱いやつとか、殺すのが常識だろ」

「ごめん、その常識はわかんない。

 手元狂うからあんまそういう恐いこと言わないで」

 

 ただでさえよく切れるナイフなのだ。

 お目付け役だったトレにも、くれぐれも指を切らないようにと釘を刺されている。

 

「そうだ、私の修行……特訓? は、雷撃隊の人たちが見てくれることになったの。

 レヴィさんは忙しいから」

「だろうな」

「ベルはいいの? サボってて」

 

 本来なら、ヴァリアー幹部がこんなところで雑談している暇などないだろう。

 スクアーロなんて、夜も明けないうちに任務で出て行ってしまったそうだ。

 

「幹部が全員出て行ったら、格好の的にしかなんねえじゃん。

 ボスなんか、よほどのことがなければ部屋すら出てこないし」

「うん、それは助かってる」

 

 XANXUSと廊下で鉢合わせたりなんかしたら、端によって、いなくなるまで床に手と足をつかなければならなくなる。大名行列だろうか。

 

「それに、俺たちはボスから直々に命令されない限り、好きに任務選べるから。

 王子が汗水垂らして働くとか、ありえないだろ?」

 

 王子が暗殺者をやっている時点でその問いは意味をなさない気がしたけれど、とりあえず利奈は頷いた。

 しかしベルは不満げにソファに寝そべる。

 

「……ベル?」

「いや、ほんとありえないけどよ。ボンゴレ本拠地が襲撃されてるせいで、仕事断ってもいられない状況っていうか? わりと汗水垂らしてるなって。あー、ダリい」

「ちょっと、靴なんだから踏まないでよ」

 

 ソファを汚されてはたまらないと文句を言うが、ベルは知らんぷりで顔を背ける。

 

「で、仕事は?」

「……んー、お前の護衛?」

「……」

 

 手に持っているのがナイフでなければ、投げつけているところである。

 朝になる前から働いているスクアーロを見習うべきだ。

 

 無言でナイフを磨き続けていたら、やがてのっぞりとベルが体を起こした。

 

「そろそろ行くわ。これ、ついでに油塗っといて」

「ちょっと!」

 

 ジャラジャラと見覚えのあるナイフを出され、さすがに利奈は声を荒げた。

 先に引き受けたナイフと同等の量である。

 

「それも修行なんだろ? 王子のナイフに触れるんだから光栄に思えよ」

「思うわけないでしょ! 持って帰ってよ!」

 

 なんなら、ついこのあいだまで持ち歩いていたものである。

 一目で特注品だと思えるこのナイフは、小柄なわりに切れ味が鋭い。

 

「わかったわかった、ちゃんと手入れできたらご褒美やるよ」

「……なにを?」

 

 抗議をやめて尋ねると、ベルはふふんと鼻を鳴らす。

 

「王子直々のナイフ投げ指導。頼まれてもやらねえし、やったとしてもS級並の報酬もらうやつだぜ?」

「……」

 

 利奈は無言でベルのナイフに手を伸ばした。

 

 

__

 

 

「それで、ベルのナイフ磨いてからウーノに毒薬の講座を受けたの?

 頑張るわねー」

「……はい……」

 

 いそいそとスコーンにジャムを塗るルッスーリアを見上げながら、利奈は二文字を発した。

 

 アフタヌーンティーのお菓子は、三段になったスタンドの上に乗せられている。利奈の視点からは一番上のショートケーキしか見えない。

 

(私みたいに力が弱い人は、銃とか毒とかそういう小道具に頼るしかないから。

 毒を使うには専門の知識を身に着ける必要があるって、それはもうみっちりと)

 

「そうねー。銃と違って腕は必要ないけれど、効能とか管理とか、いろいろめんどくさいものね。

 ここにも薬品庫があるけれど、そこの毒を使ったの?」

 

 目前に出されたスコーンの欠片を、利奈は口を開けて受け取った。

 匂いは甘ったるいのに、味はほとんどしない。

 

 ――毒草の説明を終えたあと、部屋を出たウーノは、お盆にみっつのティーカップを乗せて戻ってきた。

 それぞれ透明な黄色い液体が入っていて、ハーブの匂いが鼻をくすぐった。

 カップが人数よりもひとつ多くなければ、そして教わった毒が毒草でなければ、休憩の時間だと思えたかもしれない。もちろん、そうは思わなかったけれど。

 

「このみっつのカップのうち、ひとつに今教えた毒草のどれかが入っている。

 毒ではないと思ったものを飲み干せ」

 

 冷や汗をダラダラ流す利奈に、ウーノは容赦なくそう促した。

 

(まさか、初めての授業であんな怖ろしい目に遭うなんて思わなかったです……)

 

「さすがレヴィの部下ってところかしら。

 私の匣で治してあげたいところなんだけど、あの光は外傷にはよく効くかわりに、そういう毒とかとの相性が悪いのよね。

 代謝は上がるけど、それでかえって毒が回っちゃったら大変だし」

 

 それには及ばない。

 ウーノによるとただの神経毒だそうなので、時間が経てば全快するそうだ。

 

 ちなみに、利奈は毒草入りを飲み干してはいない。みっつのうちどれが毒草入りか、口をつけながら考えているうちに、時間が経って効果が表れてしまったのだ。

 いわば不戦敗であり、ハズレを選ぶよりも情けない負け方だった。

 

「初めてならそんなものよ。

 毒のある食べ物って案外味がイケてたりするから、それぞれの味をちゃんと覚えておくことね。多分、毎回飲まされるわ」

 

 十中八九そうなるだろう。

 にしても、発言をすべて聞き取ってしまうルッスーリアには驚かされる。

 身体が痺れているせいで、呂律がほとんど回っていないのに。

 

(上から見下ろされるのはちょっと怖いんだけどね。

 さっき、ウーノさんにアレされたばかりだし……)

 

 ルッスーリアに言うのは憚られたので胸に隠しておいたが、利奈が恐怖を覚えたのは毒を飲まされたことではない。

 毒を飲ませたあとのウーノの行動だ。

 

 毒が回り身体を丸める利奈を、ウーノは軽々と抱き上げた。

 そしてそのまま利奈をベッドに乗せると、痙攣する利奈にまたがり、冷え冷えとした瞳で見降ろしたのだ。

 

「このように、毒を盛れば簡単に標的の身動きを封じられる。

 非力な子供でも、大の男を簡単に抑えつけられるだろう」

 

 ウーノの言う通り、利奈は指一本動かすことができなかった。

 目だけで恐怖を訴えるも、ウーノは一切意に介さず、利奈の首元に手を這わせた。痺れていてその感触がほとんど伝わらなかったのが、唯一の幸運だろう。

 

「この状態なら致命傷を狙い放題だ。

 銃があれば頭を打ち抜くのが一番だが、ナイフの場合は頭蓋骨に阻まれる。

 よって、太い血管を切り裂いて出血死を狙う。まずはこの頸動脈。次に――」

 

 淡々と講義を続けながらその部位に触れていくウーノ。

 声も出せず身動きもできずにされるがままになっていた時間は、数分だったのに何十倍も長く感じた。

 おかげですべて暗記できたが、できれば二度とやられたくない。

 

 ひそかに体を震わせる利奈には気づかずに、ルッスーリアはのんびりとティーカップに口をつけた。

 この調子だと、ティーポットのなかの紅茶はすべてルッスーリアの喉に流し込まれそうだ。

 

「今回はあれだけど、訓練で怪我を負ったら私のところに来てちょうだい。

 重傷じゃなければすぐに治せるし、重傷でもなんとかなると思うわ」

「あり、がと、ざいます」

「でも、さすがに致命傷は治せないから無理はしないのよ。

 そんなヘマ、レヴィが許しはしないだろうけど」

 

 怪我をしても治してもらえるのはうれしいけれど、できれば怪我はしたくない。

 しかしそんな甘えた考えで白蘭を殺せるわけがないから、やっぱり死ぬ気で頑張るしかないのだろう。覚悟を決めるということはそういうことだ。

 

「それ聞いたら、ますますスクアーロが頭抱えるでしょうね。

 私は止めたりしないけど、あまり無理しちゃだめよ。貴方はお客様なんだから」

 

 なぜスクアーロが頭を抱える事態になるのかはわからないけれど、利奈は小さく頷いた。

 残念ながら、暗殺者に指導を頼んだ時点で、ほどほどになんてできるわけがなかったのだが。

 




自粛したサブタイトル:暗殺教室


ベル「約束通り訓練つけてやるよ」(ナイフ技術)
フラン「師匠に言われたんで手伝いますねー」(幻術耐性)
レヴィ「手が空いた。見てやろう」(拷問知識)
スクアーロ「だああ、しょうがねえ! こうなったら責任取って稽古づけてやる!」(剣術指導)

ルッスーリア「みんなが教えるのなら私も――ねえ、これ大丈夫なの?
 このメンツで鍛え上げたら、一年もしないうちにとんでもない化け物に育ちそうなんだけど」(体術指導)



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大盤振る舞い

 

 射撃場横の空き地で、レヴィとの戦闘訓練を始める。

 利奈の使用できる武器は金属棒とエアガン。そして刃の落とされたナイフ。金属棒以外の武器は腰のベルトに差してある。

 対するレヴィは丸腰なうえに両手ともに包帯で指を固定されているが――利奈が勝ったことは、一度もなかった。

 

「始め!」

 

 掛け声とともに地を蹴った。

 瞬発力を活かして距離を詰めた利奈は、まずは一撃と金属棒を振り上げた。

 

「っ!?」

 

 あっさりと右腕で払いのけられて思考が止まる。

 力の差があるとはいえ、素手に負けるとは。回転する金属棒を目が追おうとするが――

 

「止まるな!」

 

 掛け声によって、思考が動き出す。

 黒い影が迫ってきていたので、片足を下げて身体を後ろに倒す。

 レヴィの手が虚空を掴んで、利奈の爪先が地面に触れた。

 

(今なら!)

 

 地面を強く蹴り、体重と反動をレヴィにぶつける。

 

「ムオッ!?」

 

 レヴィの姿勢が安定していたら、体格差で弾き飛ばされていただろう。

 しかし、間合いを取るべく重心を動かしていたレヴィは、意表を突いた攻撃に一歩よろめいた。

 

 しかし、それだけだった。

 

「あっ!」

 

 間髪いれずに両腕に閉じこめられる。万力のように締め上げられ、息が詰まった。

 

「足だ! 足を使え!」

 

 奇襲は、相手が優位に立って気が緩んでいるときにこそ有効である。

 そして、アイディアは奇抜であればあるほど効果が強い。

 

 習ったことを思い出しなから、利奈は両足を同時に地面から離した。

 腕の力が強まったが、痛みを無視して膝を折る。前後に揺らして反動をつけ、最後に伸ばした足を、レヴィの側頭部に打ち付けた。

 ようは、逆上がりの要領での回し蹴りである。

 

 しかしその攻撃は読まれていた。

 レヴィは拘束を解いて頭を庇い、支えを失った利奈は転がりながら距離を取った。

 受け身だけは及第点を取るまで特訓したので、痛みはない。

 

 状況は振り出し――いや、金属棒を失った分、劣勢だ。

 

「行け! 極限に諦めるな!」

 

 諦めたら負け。怯んだら負け。逃げたら負け。

 鼓舞する声に応えて利奈はナイフを取ったが、結局、数分も持たずに地面に縫い付けられた。

 

「下がってからすぐに反撃に移ったのは及第点だ。

 だが、なぜナイフを構えて突進してこなかった」

「……思いつきませんでした」

 

 鼻を鳴らされ、肝が冷える。

 

「力で勝てなくても、お前には敏捷性があるだろう。下がりながらでもナイフを出せたはずだ。

 いついかなるときでも殺すつもりで来い。殺すつもりならな」

「はい……」

「それと防御行動についてだが――」

 

 完全に身動きを封じられたうつぶせ状態で、淡々とレヴィにダメ出しを入れられる。

 体重は掛けられていないが、身体的にも精神的にも押さえつけられていると心が折れそうになる。

 

(だめだめ、弱気になっちゃ。才能ないんだから頑張らないと!)

 

 初めの訓練時に一通りの技能を見てもらったが、すべてにおいて才能ナシとの烙印を押されてしまった。わかってはいたが、突きつけられると悲しいものがある。

 

 見込みのないものを伸ばすよりは、器用貧乏になったほうがマシだと言われ、雷撃隊に幅広く暗殺の基本を教えられた。

 なかでも、身を守るための受け身や逃走のためのパルクールなどは、念入りに指導された。復習と反復練習を義務付けられたくらいだ。

 

 なかでも一番きついのは、レヴィと行うこの戦闘訓練だろう。

 最初はハンデすら与えられず、受け身も取れないのに数秒で吹っ飛ばされた。容赦なく肩を外されたこともある。

 そのときは痛みのあまり号泣してしまって、レヴィがこっぴどく叱られた。

 それ以降はハンデとお目付け役が常につけられるようになったけれど、それでも生傷は絶えない。

 ルッスーリアに治療されるたびに伸びる髪の毛は、もう背中まで伸びてしまっている。

 

「――以上だ。あとは自分で反省しろ」

 

 ようやくレヴィが背中から降りた。去っていく足音が耳に響く。

 落ち込みそうになるのを堪えながらのそのそと身体を起こすと、目の前にたくましい手のひらが差し出された。

 

「ナイスファイト! 極限に頑張ったな!」

 

 顔を上げる。

 太陽のように燃え上がる瞳が、利奈の健闘を称えている。

 我慢できなくなって、利奈はクシャッと顔を歪めた。

 

「……うわああん! 全然ダメでしたあああ!」

 

 伸ばされた腕に飛び込むようにして、利奈は了平に飛びついた。

 

「うおっ! ……心配するな! ちゃんと極限に成長しているぞ!」

「でもぉ! でも、これで五回目ですよ、地面に押しつけられるの! 服が汚れるからすごくいやなのにい!」

「気にするな! 名誉の汚れだ!」

 

 励ましで肩を叩かれる。

 

 そのまま腕を支えられて立ち上がった利奈は、一歩下がって服を叩いた。

 訓練用に買ったスポーツウェアとはいえ、やっぱり服が汚れているとテンションが下がる。

 とはいえ、いつまでも愚痴を言っても仕方がないので、気持ちを切り替えるべく了平を見上げた。

 

「アドバイス、ありがとうございました。

 おかげでレヴィさんに及第点、ちょっとだけもらえました」

「いや、俺はなにもしてないぞ。お前が自分の力で得た及第点だ。おめでとう!」

「……えへへ、ありがとうございます」

 

 照れ笑いしながらお礼を言うと、了平はうむと頷いた。 

 

 ――このヴァリアー邸で十年後の了平と初めて会ったのは、半月ほど前――そう、ちょうど修行を開始した日のことだった。

 毒の影響でぐったりしながらルッスーリアと過ごしていたら、談話室のドアを開けて了平が入ってきたのである。

 

(笹川先輩のほうがずっと前に泊まってたらしいけど)

 

 利奈がこの世界に飛ばされる前から、綱吉からの任命を受けてヴァリアーに出向してきていたらしい。

 それなのになぜ一度も姿を見ていなかったのかというと、利奈が救出されるタイミングで、ボンゴレの幹部たちとの首脳会議に出て行っていたからである。

 作為的ななにかを感じると、スクアーロが零していた。

 

 そんなわけで、了平と奇跡的な出会いを果たした利奈だが、当然最初は質問攻めにあってしまった。

 この世界の利奈が殺されたとき、日本にいた了平は遺体も確認していたそうで、力強い瞳が泣きそうに緩んでいた。――利奈が暗殺訓練を受けていると知ると、すぐさま眉ごとつり上げられたけれど。

 

(あのときは大反対されたなあ……。

 でも、レヴィさんが味方になってくれたし、身を守る術が学べるならって了平先輩も思い直してくれて)

 

 そのうえこうやって訓練を見ていてくれるようになったのだから、大人になった了平の面倒見のよさには感心しきりである。

 戦っているところを生で見たほうがいいと、了平VSルッスーリア、了平VSレヴィのスパーリングも最前席で観戦させてもらった。

 その道の人からすれば、垂涎もののプレミアムチケットである。

 

「ム? あそこにいるのはベルか」

 

 屋敷に戻り自室のある階層に差し掛かったところで、談話室の入り口に立っているベルを了平が発見した。

 ドアを開けているのに、なかに入ろうとしていない。

 

「ベル、なにやってんの?」

 

 ベルには、ナイフ磨きの対価にナイフ投げを教わったことがある。

 あるにはあるが、天才肌のベルには利奈の上達率の低さが理解できなかったようで、お互い全然ためにならなかった。

 指導にもある種の才能がいるのだなと、へたっぴさを爆笑されながら思ったものだ。

 

「なに、もう終わったのかよ」

「うん。いつも通りボロ負けだったけど。で、どうかしたの? だれか来てる?」

 

 隙間から覗くにも、ベルの身体が邪魔になっている。

 なにがあるのだろうと背伸びしていたら、中からとんでもない声量の――つまりいつも通りの、スクアーロの声が聞こえてきた。

 

「うっるさ。いつも通りだけど」

「相変わらずだね。これ、ドア閉めてても聞こえるんじゃないかな」

 

 いや、間違いなく聞こえるだろう。

 ボスの部屋がある最上階で叫んだ声ですら、ここまで聞こえたのだから。

 

「あ、ちょっと」

 

 ベルが室内に入っていく。

 了平がドアを押さえたので、室内の様子が利奈にもわかるようになった。

 

 室内にはスクアーロしかいない。

 それなのになぜスクアーロが叫んでいたのかというと、その答えは机の上にあった。

 

(なんでこんなところで動画撮ってんだろう……)

 

 机の上にはデジタルカメラが置かれている。

 レンズはスクアーロの方に向いていて、そして今、ちょっかいをかけにいったベルが入りこんだ。

 スクアーロの大声もそうだが、ベルの悪戯好きも相変わらずである。

 そしてベルの茶々入れに腹を立てたスクアーロがベルの喧嘩を買い、ベルがナイフを抜いて――

 

「って、カメラカメラ!」

 

 録画中のカメラが喧嘩に巻き込まれてはたまらないと、慌てて回収する。

 するとベルにグラスを投げつけたスクアーロが、こちらを向いて利奈に気付いた。口角が上がっている。

 

「最後にサービスだ。せいぜい生き残れよ!」

 

 スクアーロの腕が伸び、利奈の持つカメラを掴む。そのままぐるりと転がされて、レンズが利奈へと向けられた。

 そして録画が止められる。

 

(サー、ビス?)

 

 これのどこがサービスなのだろう。

 そもそも、この映像はだれに送られるものなのか。

 

「スクアーロ、ベル。俺はそろそろ帰るぞ」

 

 了平の呼びかけで二人が戦闘体勢を解く。

 

「いろいろと世話になったな! 日本のことは俺たちに任せてくれ」

「頼んだぞぉ。あいつらが甘っちょろいこと言うようなら、お前が締め上げてやれぇ!」

「ハハッ! 俺が沢田たちの面倒を見る側になるというのは変な感じがするな。

 だが、俺は沢田の意思に従うぞ。ボンゴレの十代目はあいつだからな」

「……フン!」

 

 了平の返答が気に食わなかったのかスクアーロは盛大にそっぽを向いたが、反論はないようで、そのまま部屋を出て行った。利奈の手からカメラを抜き取って。

 ベルは出て行くつもりはないようで、ソファに座っている。

 

「俺だけですまんな。お前も日本に帰りたいだろう」

「……うーん、ほんとは帰りたいですけど……。でも、沢田君たちがいるって確証がないとだめなんですよね?」

 

 昨日、ボンゴレ守護者の了平とヴァリアーボスのXANXUS、そしてボンゴレ幹部と同盟ファミリートップたちで、首脳会議が行われた。

 ミルフィオーレに対抗するための大規模作戦が練り上げられ、詳細は伏せられているが、日本でもミルフィオーレの日本支部、つまりメローネ基地を破壊するための作戦を決行するそうだ。

 白蘭からの信頼が厚い正一がいることは利奈が証言済みなので、優先順位はかなり高いらしい。

 

 ゆえにボンゴレ守護者の了平が向かうわけだが、十年前の綱吉がこの時代に来ていることについて、ボンゴレ幹部も同盟ファミリーも半信半疑でいるようで、作戦が決行されるかについてはどうも曖昧なようだ。

 そもそも、十年前の、まだ中学生な綱吉に作戦を任せていいものかという意見もあったそうだが、そこは了平がいつものごり押しで押し切ったらしい。

 十年後の了平のたのもしさには、感心を超えて驚きしかない。いったい、十年のあいだになにがあったのだろう。

 

「無事に作戦が成功し、安全が保障できるようになったら必ずお前を日本に呼ぼう。

 だから、もう少し耐えてくれ」

「……わかってます」

 

 わかってはいるけれど、日本に戻る了平についていけないかと期待してしまったから、落胆も大きい。

 そのぶん暗殺講義を続けられるのだから、ありがたく思わなければならないのだけど。

 

「なあ、そのことだけど」

 

 二人の会話を聞いていたベルが、唐突に口を挟んできた。

 

「心配しなくても、すぐに呼び戻されるんじゃね? アレ見たらあっちが勝手に反応するだろうし」

「どういうことだ?」

「利奈が映ってれば、ここで保護されてたって日本のやつらが気付くだろ。さっきのアレ、日本宛だから」

「……」

 

 利奈と了平は顔を見合わせた。

 

 

___

 

 

 ――ベルの予想通り、日本支部で映像を見た一同は、最後に少しだけ映りこんだ利奈の姿に目をひん剥いた。

 

「えーーーー!? な、なんで相沢さんがヴァリアーと一緒にいるのーー!?」

「そもそもなんであいつがこの世界にいるんだ!? 聞いてねえぞ!」

「これは……マジでびっくりだな」

 

 十年前から来た三人は、利奈がミルフィオーレに拉致された件どころか、綱吉たちよりも先にこの世界に来ていたこと自体を知らない。

 ゆえに混乱しきりだったが、同じようにたった今知らされたはずのリボーンは、表情を変えずにゆっくりと口を開いた。

 

「どういうことかは、こいつに聞けば早いだろ。なあ、ジャンニーニ」

「はい!?」

 

 話を振られると思っていなかったのか、ジャンニーニはその場でビクゥッと跳ねた。

 その態度で事情を察していることが露呈してしまい、集まる視線にジャンニーニは冷や汗を流した。しかし、それでも目を逸らす。

 

「し、知りませんよ? 私はなにも」

「オメー、あいつに反応してたよな。あいつがヴァリアーにいたこと、知ってたのか?」

「いえ、そんなことは! そもそも私はヴァリアーと面識が――」

「カマかけに引っかかってどうする」

「え?」

 

 ラルがこれみよがしにため息をつく。

 

「お前がごまかすべきは、ヴァリアーとの関係ではなく、あの女との関係だ。

 お前はこう返すべきだった――あの子供はだれなのか、と」

「……あ」

 

 集まる視線。絶たれた退路。

 すべてを暴露するまで残り数秒――のところで。

 

「それについては、俺から説明させてもらおう」

 

 新たな人物が現れる。その腕に、華奢な体を抱えて。

 

「笹川了平、推参!」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

手向けのギフト

 

 録画映像を日本のボンゴレアジトに送り付けてから一時間も経たずに、利奈の身柄を引き渡すようにと、キャバッローネファミリーから要請が来た。

 キャバッローネといえば、ボンゴレと同盟を組んでいるファミリーのひとつであり、ボスのディーノは恭弥の家庭教師役も務めている。

 

(ヒバリさんは家庭教師だとは思ってないだろうけど)

 

 その関係で、利奈もディーノとは親しくしてもらっていた。どうやら、この時代でも懇意にしていたらしい。

 だからこそ、ボンゴレではなくキャバッローネから要請が来たのだろう。

 

 ようやく日本のみんなに無事が伝えられたうえに、日本に帰れる目途が立ちそうで、利奈はホクホク顔で次の日の朝食を頬張った。

 今日でふわふわとろとろバターたっぷりオムレツとお別れになってしまうのは寂しい。けれど、半月ほど食べていない日本食もそろそろ恋しくなってきた。

 

(スパナの味噌汁、美味しかったな)

 

 料理本通りになるよう、グラムまで計って作られた味噌汁は、基本に忠実なだけあってシンプルに美味しかった。

 味噌汁の具でワカメが好きだと言ったら、汁がなくなるほど大量にワカメを投入されてしまったけれど。

 

 思い出し笑いをしつつ顔を上げたら、レヴィとがっつり目が合った。

 

「……」

「……?」

 

 レヴィは目を逸らさない。それどころか、もぞもぞと体を動かしながらも目つきを鋭くした。

 来たばかりの頃だったら、機嫌を損ねてしまっただろうかと思いながら視線を外しただろう。

 

 利奈はフォークを置いて、グラスの水を飲んだ。

 そしてもう一度、レヴィと視線を合わせて話しかける。

 

「今日まで修行をつけてくださって、ありがとうございました。

 雷撃隊の人たちにもお世話になったので、あとでお礼を言いに行こうと思います。

 時間、ありますか?」

「あ、ああ……。迎えが来るのは昼前だからな。それまでに済ませておくといい」

「わかりました。ありがとうございます」

 

 そこで会話が終わり、それとなくみんなの視線がレヴィに集まる。

 今日は珍しく幹部全員が揃っているので、全員に直接挨拶ができそうだ。

 それはそれとして、レヴィは変わらずにもぞもぞしている。

 

「いや、お子様に気を遣わせてしかも無駄にしてんじゃねえよ。さっさとそれ渡せって」

「んなっ!?」

 

 その場の全員の気持ちを代表していただろうベルの言葉に、レヴィはわかりやすく動揺した。

 

 渡すという言葉に反応して手元に目をやると、確かにレヴィの左手は腰元にあった。

 机の下から覗き込めばなにがあるか一目瞭然だろうけれども、空気の読める利奈はベルの発言が聞こえていないふりをして、プチトマトを口の中に放り込んだ。

 いっそ空気を読まない方が話は早いのだろうけれども、それではレヴィに気の毒だ。

 

「そ、その。お前に、渡しておく物がある」

「はい」

 

 すかさず給仕役の使用人がレヴィの後ろに立ち、レヴィから四角い箱を受け取った。

 それをそのまま渡され、利奈は白い箱を眺めながらレヴィの顔色を窺った。

 

「開けていい」

「では。……え、すごい!」

 

 長方形の箱の中に入っていたのは、銀色に輝くかんざしだった。藍とピンク、二色のガラスの飾りがついている。

 

「わあ……! こ、これ、私に!?」

 

 すぐさまレヴィを見るが、レヴィはすました顔でコーヒーを飲んでもったいぶる。

 みんなにも見えるようにと手に取ると、ルッスーリアが目を輝かせた。

 

「あら、素敵! 昨日ずっと悩んでたのはこれだったのね!」

「ブフッ!」

 

 容赦なく暴露され、レヴィがコーヒーを噴いた。

 すかさず給仕役の使用人が机を拭き、何事もなかったことにする。なので利奈も、何事もなかったていでかんざしを光に照らした。

 菱形のガラス飾りが交互に連ねられている。揺れるたびに、チラチラと光が零れ、テーブルクロスの色を変えた。

 

「ふーん、ちょっと貸してみ」

 

 向かいのベルが手を出してきた。

 少し迷いながらも手渡すと、表裏返しながら値踏みを始める。

 

「へー、レヴィが選んだわりにはまあまあじゃん。これ、銀製だろ?」

「え゛っ」

 

 銀といえば、金に次ぐ高級素材である。

 返されたかんざしがやけに重く感じてしまい、手のひらを握り込めなくなった。

 

(えっ、それじゃこれすっごく高いんじゃ……うわ、傷つけられない)

 

「銀ってことは、毒の検知ができるわけですねー。それじゃ早速このジュースを――」

「ちょっと!」

 

 大事にせねばと思った矢先にフランにリンゴジュースを垂らされそうになり、利奈は本気で怒った。

 フランは冗談ですよーと引き下がる。

 

 銀はヒ素などに反応して変色する特性があると、毒物の授業で習っている。

 食卓に並んでいる食器が全部銀でできていたことを知って、背筋が冷たくなったものだ。

 

「……お前から言い出したこととはいえ、一度も音を上げずに励んでいたからな。

 これは俺と、雷撃隊からの餞別だ」

「ありがとうございます! あとでみなさんにもお礼言います!」

「言っておくが、悩んだのは暗器としての性能についてであって、柄や見た目ではないからな。見た目は二の次で、重要なのは性能だ」

「性能……? いざというときには武器にできるってことですか?」

 

 かんざしの先端は丸まっているけれど、体重を掛ければ突く攻撃くらいはできるだろう。

 強度については、実際に使ってみなければわからない。

 

「強度については心配いらない。

 この時代最先端の金属技術をつかった合金素材を銀でコーティングしている。多少曲がったとしても、熱せば直せるだろう」

「つまり、先輩のナイフよりも固いってことですね」

「そうなの!?」

「量産できねーんだよ、その素材。長年投げ慣れたやつのほうが使いやすいし」

「あと、私のメタルニーとおそろいよ」

「へー!」

 

 こんなところに未来の技術が使われているなんて。

 感心していると、レヴィがコホンと咳払いをした。

 

「飾りの部分を持ってかんざしをひねってみろ」

「こう、ですか? あ、取れ……た……」

 

 キュッと音を立てて飾りと棒の先端部が外れ、手に残ったかんざしの先に鋭い針が出現する。凶器として通用する鋭さだ。

 

「上下逆に付け替えれば、針として使える。これならどこへでも持ち込めるだろう」

「……普通に暗殺用の道具なんですね、これ」

 

 戦闘には向いていないけれど、意識を失っている相手なら簡単に仕留められそうだ。

 飾りの部分を両手で持って、急所に向けて体重をかけるだけでいい。

 

(まあ、ある意味一番うれしいプレゼントだよね。かわいいし、武器にもなるし。うん、ある意味)

 

 しまい直そうと箱を取ると、ルッスーリアが机に手をかけて立ち上がった。

 

「せっかくだからつけてあげるわ。ほら、髪飾りが似合う長さになったんだから」

「あ、そっか」

 

 前はかんざしがつけられる長さじゃなかったけれど、今は晴の光を浴びた影響で長髪になっている。

 だからこそレヴィも、いつでも身に着けられるかんざしを選んでくれたのだろう。

 

「こういう髪留めって粋な感じでいいわよね。

 髪をねじって上にあげて、髪留めでくるんと一巻き――はい、できた」

「もう!?」

 

 首をひねったら、ガラス飾りの揺れる音が耳に届いた。

 

「あらー、似合うわねー」

「悪くねえじゃねえか」

「そうですか? えっと……」

 

 鏡になるものはないかと探していたら、給仕役の使用人が磨き抜かれたクロッシュを掲げてくれた。本日三回目の、絶妙なアシストである。

 

(んー、後ろだからよく見えないけど、ちょっと大人っぽい感じ?)

 

 横を向いたときになんとか髪飾りが見える程度だけど、あのベルやフランが野次を飛ばしていないあたり、似合っていないわけではないのだろう。

 

「どうですか?」

「ああ。それなら凶器だと気付かれることはないだろう」

「……はい」

 

 レヴィに感想を求めたら、期待していたのとは違う観点から答えが返ってきた。

 思わずこっちの声まで渋くなる。

 

「もう、そんなんだからモテないのよ! ちゃんと似合ってるでしょう?」

「……そういう意味で言ったつもりなんだが」

「壊滅的に誉め言葉のセンスがないですねー。そんなだから一生モテないんですよー」

「一生とはなんだ!」

 

 これはむしろ、髪飾りが選ばれたこと自体が奇跡だったのかもしれない。

 ナイフや銃がそのまま贈られなかっただけでも、ありがたく思うべきである。機能はともかく、髪飾りとしてはきれいなのだから。

 

「はい」

「え?」

 

 虚を突く形で、背後のルッスーリアに箱を差し出された。

 今度の箱は正方形で、リボンまでかかっている。

 

「これ、は……?」

「こっちは私たちからのプレゼント。

 ほら、レヴィが抜け駆けしようとしてたから、私たちも私たちで用意したの」

「なんだと!? 聞いてないぞ!」

「レヴィも言ってなかったじゃない」

「……私に」

 

 こちらもずっしりと重みを感じる。

 完全に油断していたせいで、心臓がバクバクと音を立てている。

 

「私たちのプレゼントも身に着けるものよ。やっぱり、実用的なもののほうがいいかと思って」

「感謝してくださいよー。先輩がやたらめったら成金仕様にしていくの、ミーが止めてあげたんですから」

「元のデザインが地味すぎたんだよ。まあ、庶民が身に着けるんならそんくらいで十分だろうけど?」

 

 リボンを解いて、中身を取り出す。

 ピンクゴールドの時計が出てきて、利奈はまたもや目を輝かせた。

 

「にしても、まさか素材がレヴィと被っちゃうなんて。色まで一緒じゃなくてよかったけど」

「隊長が頑丈なものにしろっていうからですよー。ガラスまで防弾性ですしー」

「すぐ壊れるようなもん渡したってしょうがねえだろうが。喜んでんだからいいだろ」

 

 文字盤には四つの小さな石が嵌まっていた。

 黄、赤、青、藍の四色が、上下左右に散りばめられている。

 

「この石って、みんなの炎の色?」

「……あー、それ? ルッスーリアが勝手にやった」

「最後にねじ込まれましたよね。なんかごり押し感あって恥ずかしいですけど」

「いいじゃない、記念品なんだから! あ、それ全部ガラスだから安心して。

 あまり高価だと狙われるかもしれないから、ちゃんと擬態させてるわよ」

 

 擬態させているということは、ほかの部分には高価な素材が使われているのだろうか。

 どちらも盗られたりしないように、しっかり管理しておかなければならなそうだ。

 

「たくさんお世話になったのに、プレゼントまで……。

 本当にうれしいです。みんな、ありがとう……!」

「恩に着といてくださいー。それでちゃんと恩を返してくださいねー」

「倍で返せよ。また死んだら殺すからな」

「ベルったら物騒なんだから。……でも、身体には気をつけるのよ?」

 

 ルッスーリアの言葉に、利奈は大きく頷いた。

 

__

 

 

 食事のあと、お世話になった雷撃隊のメンバーにお礼を言い終えた利奈は、キャバッローネからの迎えを待つために、一階のエントランスへと向かった。

 

 所持品はすべて、ボストンバッグに詰め込まれている。

 来るときには衣服の入った紙袋ひとつだけだったのに、出るときにはバッグいっぱいの大荷物。寒さ対策に着せられたコートと相まって、なんだか旅行にでも行くみたいな格好だ。

 どちらかというと、これから帰るのだけど。

 

「このコートってヴァリアーの制服でしょ? もらっちゃっていいやつなの?」

 

 首元のファーを撫でながらフランとベルに尋ねる。

 袖口から覗く腕時計がうれしくて、ついつい口元が緩んでしまう。

 

 利奈を保護する任務を受けたのがこの二人なので、最後の見送りもこの二人になった。

 キャバッローネの迎えが来れば、彼らの任務は終了だ。

 

「いいんじゃね? どうせ余ってるやつだろうし」

「そうそう。実質タダみたいなものなんでご遠慮なくー。

 でも、それ着てるせいで敵に狙われるってことはあるかもしれないですねー」

「ふえ!?」

 

 不穏な言葉に素っ頓狂な声が上がってしまう。

 

「冗談ですよ。エンブレムついてないやつですし、似たようなコートその辺で売ってますから。よほど運が悪くなければ目はつけられませんってー」

「シシッ、こいつめちゃくちゃ運悪いから、もしかしたらもしかするかも」

「やめてよ! ……脱いだ方がいいかな」

 

 ここまできて、また襲われてはたまらない。

 

 半ば本気で脱ごうとした利奈だったが、コートを脱ぐ前に迎えが到着した。

 キャバッローネからの身元引受人は、利奈を見るなり大声で叫んだ。

 

「利奈!」

 

 顔を上げた利奈は驚いて、そして次の瞬間には走り出していた。

 行儀も忘れて広げられた両腕のなかに勢いよく飛び込むと、利奈は迷うことなくその人物の名前を呼んだ。

 

「ディーノさん……!」

「利奈! やっぱり利奈なんだな! よかった、無事で……!」

 

 背中に腕が回され、ギュッと抱きしめられる。応えるように抱きしめ返した。

 

「ディーノさん、どうしてここに?」

 

 キャバッローネからの迎えで知り合いとはいえ、まさかボスであるディーノが迎えに来るなんて。思ってもみなかったサプライズに、利奈は顔をほころばせる。

 

(ディーノさんが来るんだったら教えてくれればよかったのに! びっくりしちゃ……え?)

 

 嬉しさいっぱいで顔を上げた利奈は、揺れるディーノの瞳に言葉を失った。

 十年前と変わらない温かい眼差しが、悲哀に沈んでいる。

 

「ごめんな……! 俺、お前があんなことになってたのに、なにも知らなくて。会いにも行けなくて!

 最後に顔合わせたのだって、ずっと前だった……!」

「ディーノさん……?」

「痛かったよな……。怖かったよな……。もう、大丈夫だぞ」

「……ディーノさん」

 

(ディーノさんが見ているのは私じゃない。こんな顔、知らない)

 

 利奈の知っているディーノは、震える手で頬に触れたりなんてしない。

 こんな悲しそうな顔で利奈を見つめたりはしない。

 

 戸惑ったままディーノと見つめ合っていたら、背後から冷めた声が聞こえた。

 

「あのー、それ、二人きりのときにやってもらえますー?」

「……あっ」

 

 場違いなほど間延びした声に、ディーノが我を取り戻す。

 腕の力が緩んだので利奈も手を離すと、そっとディーノが後ろに引いた。

 

「悪い悪い、なんのことだかわかんないよな……。気にしないでくれ」

 

 苦笑しながら頭をくしゃくしゃと撫でるディーノの顔は、利奈が知っているいつものディーノだ。

 でも、そうでないことを知ってしまった。

 彼にとっての利奈は、この時代で死んだ相沢利奈であって、それはきっと変わらない。おそらく、この時代の恭弥にとっても。

 

「まさかお前が来るとはな。こんなとこ来てる余裕あんの?」

「暇なんですかねー」

「いや、どこもかしこも大忙しだ。

 でも、利奈は俺の教え子の部下だからな。それに、俺の友人でもある」

 

 使用人が止めるのも聞かずに、ディーノは利奈の荷物を持った。

 

「それとついでに、キャバッローネボスとして、次の作戦についての書類を持ってきた。

 XANXUSに渡しておいてくれ」

「そっちがついでかよ」

 

 封筒を受け取ったベルが中身を確認する。

 チラチラと漏れるオレンジの炎に一瞬驚いたものの、ほかの三人は平然としているので、そういうものなのだと判断した。匣から動物が出てくる方がよっぽど奇想天外だ。

 

「で、戦線はどんな感じ? 奇襲しかけるっつってたけど、お前から見てどうよ?」

「……厳しいだろうな。作戦がうまく嵌まれば城を陣取って拠点にできるだろうが、ミルフィオーレがそう簡単に奇襲を許すとは思えない」

「だよな。まっ、失敗したらしたで、俺らがさくっとトップの首取れば済む話だけど」

「そっか。暗殺部隊だから暗殺は得意だよね。

 指揮を取る人を殺しちゃえば、隊が混乱して動きが鈍くなるだろうし」

「とはいえ、あっちもプロだ。すぐに指揮官を変えて……ん? ……んんんん?」

 

 しれっと話に混ざった利奈に気付き、ディーノが目を瞠る。

 その視線を受けて、利奈は即座に動揺を顔に滲ませた。

 

「ごめんなさい、ゲームみたいだなって思って、つい……」

「あー……その、あんまりこういうのに興味持たないほうがいいぞ。

 ゲームじゃないんだからな」

「はーい……」

 

 眉を下げたら、フランの呆れ顔が視界に入った。

 ディーノが見ていない隙にウインクで目配せを送る。

 

(よくやりますね)

(内緒ね)

 

 ――雷撃隊には、暗殺知識のついでに兵法も仕込まれている。

 ただし、生兵法は大怪我のもとということわざもあるそうで、あくまで知識として蓄えておけとも教わった。言われなくても、利奈の能力では指揮側にも兵士側にも回れないのだが。

 

 二人に別れを告げ、門の前に停められていた黒塗りの車へと案内される。

 車に乗りこむ前に屋敷を振り返った利奈は、最上階のXANXUSの部屋を見上げ、それから頭を下げた。

 陽光がまぶしくてよく見えないけれど、きっとそこにいるのだろう。

 結局、来たときも帰るときもまともに挨拶ができなかった。

 

(また会うことがあったらお礼――言えないんだろうな、たぶん)

 

 名前を呼ばれ、屋敷に背を向ける。

 まだ馴染んでいない髪飾りが、光を反射して小さくきらめいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章:再びボンゴレアジトにて
覚悟を問う


 とうとうお気に入り登録1000人突破しました! ありがとうございます!
 たくさんの方に読んでいただけで、感想も貰えて、評価もしてもらえて、本当に感無量です。




 ……さて、わざわざ前書きにこれを書いた理由はおわかりですね?


 

 久しぶりに見た日本の空は、透き通るような青色をしていた。

 イタリアで見た空よりも近く感じたのは、利奈が日本人だからだろうか。

 

 対ミルフィオーレ大規模作戦終了とともに帰国が許された利奈だったが、ある問題をすっかり失念してしまっていた。――違法入国者であるという事実を。

 密輸船に乗って日本を出てきたので、当然パスポートなんて持っていない。

 持っていたところで十年後の、しかもすでに故人となっている人間のパスポートが使えるはずもなく。

 裏の力で、偽造パスポートを用意してもらった。

 

 そして意気揚々と日本に戻ってきたのだ。

 それは覚えている。並盛町に帰れる。自分の知っているみんなに会えると、胸を膨らませていたのだ。

 それなのにどうして、この手は狂気を手にしてしまったのだろう。

 

「落ち着いて、ゆっくりと呼吸をしてください」

 

 息が荒い。胸が痛い。ドクドクと脈打つ鼓動が、カチカチと鳴る歯の音が、異常を告げていた。

 

「やだっ、もうやだ……! もう、だれも――」

 

(殺させたくない)

 

 ただそれだけだったのだ。それだけだったのに。

 

「落ち着いてください、相沢殿! 拙者の手を見てください、炎を」

「……はっ……はー、……」

 

 きれいな炎。青い炎。炎なのに優しくて、青いのに熱くない。

 リングに点る炎を見つめながら、利奈はゆっくりと口を閉じた。

 

 

__

 

 

 ディーノとロマーリオに連れられてボンゴレアジトに戻った利奈は、そこで大きな肩透かしを受けた。

 

「え、みんな外出中なんですか?」

 

 なんと、過去から来た全員が留守だったのである。

 

 メローネ戦、そしてイタリア戦での敗北により、ミルフィオーレファミリーは日本の兵をすべて引いていた。

 だからこそ、なんの警戒もなくボンゴレアジトまで地上を歩いてこれたのだ。

 

 しかしそれはあくまで一時的なものである。

 後日、ボンゴレ守護者とミルフィオーレ守護者による対決が予定されているが――ひとまず、今は休戦状態だ。戦いに明け暮れただろう彼らが、自宅を見ておきたいという気持ちはわかる。

 そんなわけで、感動の再会は持ち越しとなった。

 

 代わりにジャンニーニとはまた言葉を交わせたし、フゥ太という青年ともスピーカー越しに挨拶をしたし、バジルという同い年の男の子とも初対面を果たした。

 バジルも十年前から飛ばされてきた人だった。このアジトに着いたのも今日で、外出前の綱吉たちとも、少し話ができただけらしい。

 

 ディーノは綱吉たちを追って外に出たけれど、利奈は自分の荷物を部屋に運ぶことを優先した。

 キャバッローネでもあれやこれや買ってもらったので、ボストンバックのほかに、キャリーケースまで増えてしまった。海外旅行から帰ってきたかのような――あながち間違ってはいないけれど――そんな出で立ちだったのだ。

 

 寝起きで体力が有り余っているというバジルに荷物運びを手伝ってもらい、流れで一緒にジャンニーニたちに直接会いに行った利奈は、そこでうれしい情報を得た。

 メローネ基地でいろいろと気を配ってくれたあのスパナが、ボンゴレ側に寝返ったという情報である。

 だから、スパナに会いに行こうと思ったのだ。

 

 

__

 

 

唇が冷たい。指先が痺れている。

青い炎の熱がじんわりと広がってくる。

 

「拙者の雨の炎で彼女を落ち着かせます。入江殿はそれまで退室していてください」

「……わかった」

 

 心残りを感じさせる足音が遠ざかっていく。

 去った脅威に安堵することなく、利奈は右手を握り締めた。もうなにも握っていないのに。

 

「もう大丈夫です。ここには拙者と、スパナ殿しかおりません。

 ですから、もう怯えなくていいんですよ」

 

 違う。怯えてなんていない。怯えない訓練は受けてきた。

 脅威に怯えているわけではないのだ。

 

「……正一がそんなに怖い?」

 

 スパナの声に首を振る。

 

 違う、そうじゃない。

 震えているのは、恐怖を感じているのは――自分自身に対してだった。

 

 

__

 

 

 バジルは、CEDEFというボンゴレの門外顧問組織に所属していた。

 平たく言うと、ボンゴレを外側から守っている組織らしい。

 平常時には別の組織として機能しているものの、非常時にはボンゴレに手を貸しており、この前のリング争奪戦でも、バジルは綱吉の修行に協力していたという。

 そのすぐあとで未来に飛ばされ、イタリアからここまで、たった一人でミルフィオーレの隊員と戦いながらやってきたのだから、驚きである。

 伊達に綱吉の修行を手伝っていない。

 

 そんな話を道中で聞きながら、利奈はメローネ基地の跡地へとやってきた。

 メローネ基地はこの時代の、なんかすごいテレポート装置によってどこかへと転移させられたそうで、跡地にはぽっかりと空洞が広がっているだけだった。

 あんなに広い地下施設が突然になくなったら、地面が割れて地上の建物が落ちて行ってしまいそうなものだけど、今のところ、影響は出ていないようだった。

 

 スパナは白い装置の前で作業をしていた。

 何台ものパソコンに取り囲まれているスパナは、足音でも顔を上げないほど集中していた。

 

「スパナ」

「……」

「スパナ」

 

 二回目の声掛けで、キーボードを打つ手が止まった。

 ぱちぱちと瞬きをして、呆けた顔を利奈に見せる。想像上の生き物を発見したみたいな顔だ。

 

「……解放、されてたの?」

「違うよ。脱獄したの」

「脱獄?」

 

 スパナの目が背後に向く。

 バジルが折り目正しく頭を下げ、スパナの視線が再び利奈に移った。なんとなく理由がわかったらしい。

 

「そうか、脱走してたのか。

 停電中にあんたがいなくなったって聞いたけど、外に出てたとは思わなかった」

「スパナはなんでこっちに? なんでミルフィオーレからこっちに移ったの?」

「……んー」

 答えを探すようにスパナは天井を見上げた。

 どう説明するか考えて首をひねり、それから顔を戻す。

 

「ボンゴレに協力して、殺されかけたから」

「……うん?」

 

 それはただの裏切り行為である。

 殺されかけたからスパナがボンゴレに寝返ったのでなく、ボンゴレに協力したからミルフィオーレに見限られたと言ったほうが正しい。いわば自業自得だ。

 

「なんでそんなこと。私が言うのも変だけどさ」

「ボンゴレのX BURNERに興味がわいたから。

 ウチ、組織とか興味ないし、作りたい物が作れるならどこでもいい」

「ふうん」

 

(でもそれって、ほかのことに興味がわいたらボンゴレファミリーもすぐ抜けちゃうってことだよね)

 

 仲間に数えていいのか微妙なところだけど、ファミリーではない利奈に口を出す権利はない。

 

「まあ、いっか。スパナが敵じゃなくなってよかったよ」

 

 世話になった人物に危害を加えたくはない。できることなら。

 

「ところで、今はなにやってるの? こんなにパソコン使って」

「ああ。今はこの一台以外はそんなに使ってない。掘削ルートも確定したし」

「掘削? 掘削ってなに?」

「地面を掘るルート。この装置、隠さなきゃいけないでしょ」

 

 親指で白い装置を示される。

 なにに使う物かはわからないけれど、大きいからきっと重要な装置なのだろう。

 なんとなく眺めていたら、第三者の足音が遠くから聞こえてきた。

 

「お待たせ! 嵐モグラは順調……に……」

 

 部外者を目にしてか、第三者の声が途切れた。

 ボンゴレの関係者が作業しに来たのかと顔を上げた利奈は、男の顔を見るなり固まった。

 

(どうして……!)

 

「君は、えっと、バジル君だよね? よかった、ちゃんとここまで来れたみたいで」

「初めまして。拙者をご存じなのですか?」

「うん、まあ。そろそろだと思っていたけれど――ああ、僕は入江正一。よろしく」

 

 悪夢でも見ているのだろうか。

 なにもなかったような顔でバジルとあいさつを交わす入江正一の幻が見える。いや、いる。

 

(なんとかしなくちゃ)

 

 バジルは正一の正体を知らない。

 彼がミルフィオーレの人間であることも、白蘭の腹心の部下であることも知らない。

 このままだと、バジルが騙されてしまう。

 

(私がやらないと)

 

 立ち上がろうとした利奈だったが、スパナに腕を掴まれ、動けなくなる。

 無表情のまま振り返ると、スパナが静かに首を振った。

 

「それは駄目」

 

 なにが駄目なのだろう。

 脅威は排除しなければならないのに。今の利奈にはそれができるのに。

 やはりスパナも敵なのだろうか。それならば、彼も排除しなければならない。

 

「それは駄目。貸せない」

「貸……す……?」

 

 なんのことだろう。

 スパナの瞳を見つめ返すけれど、スパナの手の力は緩まない。

 握りしめた拳がほどけそうになって、利奈はもう一度強く右手に力を込めた。物体の角が手のひらに食いこむ。

 

(あれ。私、物なんて持ってたっけ)

 

 スパナから視線を外して、自分の手元を見る。

 その瞬間、平静を保っていたはずの心臓が大きく跳ねた。

 

(っ! なんで私、こんなもの――)

 

 右手には金属製の工具が握られていた。

 ペンチのような形をしているが、ペンチよりも大きく、ずっしりと重い。

 これで人を殴れば、軽傷では済まないだろう。

 

「それ、プライヤ。うちの工具。うちにとって工具は手足も同然。間違った使い方する人に手足は貸せない」

 

(間違った使い方?)

 

 使い方なんて決めていない。だって、手に握られていたことすら知らなかったのだから。

 

(私が持ったの? これを? なんで――っ、そんな、違う、そんなつもりじゃ!)

 

 使い方なんて、決まっている。

 正一を排除するために手に取ったのなら、使い道はひとつしかない。

 

「ん? ちょ、ちょっと!」

「相沢殿!?」

 

 二人の声が聞こえる。こちらの様子に気付いたようだ。

 焦ったような声が、しでかそうとしたことを責めているかのようで、利奈は体を震わせた。それでも、工具が手から離せない。

 

 ――武器はなにがあっても手放すな。最後まで抗え。諦めたら待っているのは死だ。

 

「いったいなにがあったのですか!?」

「それ、離して」

「……!」

 

 離せない。無理だ。

 死にたくない。殺されたくない。離したら諦めてしまう。諦めたら死んでしまう。

 

 不意にスパナの手が離れた。

 反動で後退すると、スパナが両手を上にあげながら利奈に言った。

 

「うちを信じて」

「……っ!」

 

 工具が、床に落ちる。

 それと同時に、利奈は膝から崩れ落ちた。

 

(――私、なんてことを)

 

 長いようで短い数分を味わい、ゆっくりと目を閉じる。

 炎の残像がまぶたの裏でチラチラと揺れて、焚き火のような温かさに胸が安らいでいく。

 

「だいぶ落ち着いたみてーだな」

 

 この場にいる人物からは発されそうにない高い声が聞こえ、利奈は目を開けた。

 

「……リボーン君?」

「ちゃおっす」

 

 いつのまに現れたのか、リボーンがこちらを見上げていた。

 へたりこんでいる利奈を見上げているのだから、彼も十年前から来た人なのだろう。

 

「リボーン殿! ご無事そうで!」

「ちゃおっす。バジルも元気そうだな」

「なんで、ここに……?」

 

 綱吉たちも来ているのかと入り口に目をやるが、そちらから人が出てくる気配はない。

 

「これはホログラム。本人はここにはいない」

「ホログラム……?」

 

 スパナに言われて目を凝らすが、背景が透けているような様子はない。

 触ろうとすればわかるのかもしれないけれど、今は人に触れるのが恐ろしかった。

 

「いきさつはたったいま正一に聞いた。ツナの死の原因が自分にあると、白蘭に洗脳されたらしいな」

「白蘭に!?」

「……」

 

 洗脳なんてされていない。綱吉を殺したのは白蘭だ。

 抗議の視線で見つめると、リボーンはふっと笑った。洗脳されているという誤解は解けたようだ。

 

「これは先に正一のことを説明しておかなかったジャンニーニが悪いぞ」

『およっ!?』

 

 スパナが先ほどまで座っていた場所から、ジャンニーニの声が聞こえた。

 そこに小さなスピーカーが置かれている。

 

『それなら、僕も同罪だよ。その子が入江さんたちと面識があった可能性を失念していた』

 

 フゥ太の声も聞こえる。アジトとここで通信が繋がっていたようだ。

 

「……みんな、あの人がだれだか知ってたの?」

「当然だ。奇襲作戦のとき、俺たちは打倒入江正一を掲げていたからな」

「それじゃ、なんで――」

 

 バジルに目をやるが、正一の名前すら知らなかったのを思い出し、リボーンに向き直る。

 

「いろいろあって、味方だったことがわかったんだ。

 そのことを最初から知っていたのは、この時代のツナとヒバリだけだったみたいだがな」

「ヒバリさんが?」

 

 いや、それ以前に正一が味方だったとはどういうことだろう。

 

「直接は聞いてねーが、正一はそう言っていた。あいつも戦いの最中に十年前の姿になっちまったからな」

「ヒバリさんもここに来ているんですか!?」

 

 そういえば、ディーノは恭弥に会うことをやたらと楽しみにしていた。

 この時代の恭弥のことだと思い込んでいたけれど、あれは十年前の恭弥のことだったのか。そうなると、会う意味が変わる。

 

(ディーノさんがここに来たのって、ヒバリさんの修行のため?

 匣兵器なんてのもあるし、ヒバリさんと稽古できるのディーノさんくらいだけど……そっか、ヒバリさんも来てるのか)

 

 すっかりいつもの調子に戻って考え込むが、三人の視線は利奈に注がれたままになっている。

 

「あとは本人の口から聞いたほうが早えーだろ。

 正一を呼び戻してもいいか?」

「……それは」

 

 正一が入り口付近に待機しているのは気配でわかる。

 これだけ距離が開いていれば、こちらの会話は耳に届いていないだろう。

 

「安心しろ、あいつは武器を持っていない。

 いざとなったらバジルがボッコボコのけちょんけちょんにのしてくれるぞ。な、バジル」

「えっ、は、はい! もしそのような兆候がありましたら、拙者が責任を持ってのしますので、ご安心ください!」

「……わかった」

 

 髪飾りのガラス細工に触れながら承諾した。武器はまだ残っている。

 

 バジルが呼びに行って、強張った顔の正一が、鈍い足取りで戻ってきた。

 前に見たときと顔つきが違う気がするが、今はそれはどうでもいい。

 

 利奈は感情をこめないように心掛けながら、口を開いた。

 

「……ひとつだけ。最初に、ひとつだけ聞いてもいいですか?」

 

 戸惑いの眼差しを受けながらも、利奈は臆することなく続けた。

 

「貴方はあいつを殺せますか? 白蘭を、その手で」

 

 正一という男を、見定めるために。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

問い、問い、問い

高評価たくさん、ありがとうございます! の更新です。
なので、深夜投稿ですか鬱回ではありません。


 

 物言いたげな三人の視線を無視して、利奈は再び問う。

 

「貴方は、本当に味方なんですか。白蘭を敵だと思っていますか」

 

 正一は目を見開いている。

 

 その表情を見るぶんには、悪い人だと思えない。しかし、性質が善であるか悪であるかはどうでもいいのだ。白と黒は簡単に入れ替わるのだから。

 問題は、どちらに転ぼうが変わらない芯を、彼が持っているかどうかなのだ。

 なにがあっても復讐を果たすと誓った利奈のように。

 

「私は――白蘭を殺せます。殺せって言われなくても、殺すなって言われても……殺します。だって、あの人はとてもひどいことをしたから」

 

 正義感からの行動ではない。あくまで私怨だ。しかし、それが一番強いのである。

 だれかのためにという行為は、そのだれかがいなくなれば指標を失うけれど、自分のためならばいつまでも胸に据えておける。

 ――XANXUS様のためにというのはつまり、XANXUS様を敬愛する俺のためでもあるのだ! ――と、レヴィは力説していたが。

 

「貴方はその覚悟がありますか? 白蘭をその手で殺せますか?」

「それくらいにしとけ」

 

 リボーンから制止がかかり、利奈は一度言葉を切った。

 正一は青ざめた顔で唇を震わせている。それでも、合わせられた視線を逸らそうとはしなかった。

 

「……僕は」

 

 おなかに当てた手を握り締めながら、正一は続ける。

 

「……僕には、白蘭さんは殺せない……と思う。だれかの手助けはできても」

「どうして」

 

 こうして寝返っているのに。

 白蘭を倒すための手伝いはできるのに。

 

 見つめる利奈のまっすぐな瞳に正一は脂汗を浮かべ、それでも答えた。

 

「……友達、だったから」

 

(友達?)

 

 なるほど、正一に対する白蘭のあの気さくな態度は、腹心の部下相手だからではなく、友達だったかららしい。

 それならば、いまだに正一が白蘭をさん付けで呼んでいることにも説明がつく。

 

「友達だったんだ――全部思い出すまでは。

 白蘭さんを倒すために、ほかの世界の記憶がない状態で出会って、仲良くなって。それで……こうなって」

「どういうこと? 思い出すって――」

「相沢殿、もうそれ以上は」

 

 聞こえるうわ言に詰め寄ろうとしたら、今度はバジルに制された。

 しかし、たとえバジルが割り込んでいなかったとしても、それ以上は問い詰められなかっただろう。それほどまでに、正一の顔は真っ青だった。

 

「ごめん、僕には出来ないんだ。……でも、信じて」

 

 苦しそうにお腹を押さえる正一の瞳は誠実なものだった。

 これが演技や嘘なら、これまでの特訓はすべて無駄だったことになる。

 

「……わかった。貴方の言っていることを信じます」

 

 正直言うと、まだ納得はできていない。

 それでも、苦しそうに内心を吐露する正一を見たら、もうこれ以上は聞けなかった。

 

「……ありがとう。うっ――」

 

 とうとうしゃがみこんだ正一が、肩で息をし始める。額には大粒の汗が滲んでいた。

 

「大丈夫ですか、入江殿!?」

「うん……気にしないで」

「……っ」

 

(どうしよう、私のせいだ……! 私が追いつめちゃったから)

 

「早く病院に……!」

 

 焦って叫ぶと、ぎょっとしたように正一が顔をあげた。

 

「え!? あ、大丈夫! ただの神経性の腹痛だから」

「大丈夫じゃないです! ……って、え?」

 

 神経性の腹痛とはいったい。動きを止めた利奈を見て、正一は罰が悪そうに眉を下げた。

 

「ごめん。緊張したりストレス感じるとお腹痛くなる体質で――すぐに治るから、気にしないで」

「でも、顔色が」

「本当にすぐ治るから! 大丈夫、ちょっといろいろ考えちゃっただけで――うん、よくなってきた」

 

 おなかをさすりながら正一が立ち上がる。

 リボーンが小さく息をついた。

 

「それでよくメローネ基地を束ねてこれたな」

「僕もそう思うよ。……緊急事態だからってごり押しできたけど、内心ずっとヒヤヒヤしてた」

 

(あれ、なんか……)

 

 改めて正一をまじまじと観察する。

 ホワイトスペルの隊服からラフなTシャツに替わって、この前よりもだいぶ身近に感じられる。いや、それより――

 

「……前と性格違いません?」

 

 高圧的なエリートみたいな印象だったのに、今日はビクビクしてばっかりでまるで別人だ。話し方も表情も、姿勢すらも変わっている。

 それとなく指摘すると、正一はパッと頬を赤くした。

 

「あ、あれは演技してたからだよ!」

「演技? ……頭がいい?」

「それだと、今の正一が頭が悪いみたいになる」

 

 ここにきてスパナが声を発した。

 スパナは態度の急変はとくに気にしていなかったようで、他人事の顔をしている。

 

「しょうがなかったんだ。毅然としてないと、僕みたいにヒョロヒョロした人間はすぐ舐められちゃうし。

 ……ただでさえ日本人は童顔で背が低いから」

「えっ!? じゃあ、こっちが素なんですか!?」

「えっと……はい」

 

 露骨に驚くと、申し訳なさそうに肯定された。

 

(あれが演技!? 嘘でしょ!? 凄く自然だったのに! 

 逆ならともかく!)

 

 敵の油断を誘う演技ではなく、敵に舐められないためにしていた演技。

 別人だと言い張られたら信じるしかないほど、性格に違いがありすぎる。

 

「正一、本当はすごく神経質で臆病。作った物見ればわかる」

「う、否定はしないけど。

 で、でもそれは神経質だからじゃなくて慎重っていうんじゃ――」

 

 痛いところをつかれたのか、正一は弱々しく反論した。

 しかしスパナは譲らずに首を振る。

 

「正一は神経質。ウチが作ったメカに細かい注文たくさんつける」

「それは君が図面をどんどん改造していくからじゃないか!」

「違う、改良」

「勝手に変えたら同じだよ!」

 

(……仲いいんだなあ)

 

 こうしてスパナと話しているところを見ていると、基地では相当無理していたことが明らかになる。

 今から思えば、基地での態度も、高圧的ではあったものの、威張ったり脅かしたりは一切していなかった。部屋も清潔だったし、食事やシャワーにも気が配られていた。

 彼の主張を信じるのなら、本来は味方であるはずの利奈にいろいろと配慮してくれていたのだろう。

 

「……でも別人みたい」

「え?」

 

 聞き返されたが、利奈は言い直さなかった。

 かわりにと歩み寄れば、次はなにかと身構えられた。心配しなくても、手に武器を隠したりはしていない。

 

「自己紹介しとこうと。

 相沢利奈です。並盛中二年生、風紀委員」

「あ、ああ……」

 

 差し出した手を、正一が握り返す。

 ひんやりと冷たいのは、体調が悪いせいだろう。

 

「僕は入江正一。ミルフィ――元ミルフィオーレファミリー。

 今はボンゴレファミリーに入れてもらったばかりの、しがない技術屋さ」

「ボンゴレファミリーになったの? リボーン君」

「ああ。ツナがわりとあっさり認めた。あいつは意外と懐が広いところがあるからな」

 

 確かに綱吉は懐が広すぎる。自分を狙っている脱獄囚の一味まで仲間にしている点からいっても。

 とはいえ、クローム自身は罪のない、いい子だ。判断自体は間違っていない。

 

 手を解くと、横からもう一本、利奈に向けて手が伸ばされた。

 手の先を追うと、舐め終わったのか飴を咥えていないスパナの顔があった。

 

「うちもまだ挨拶してない。あんたの名前、ちゃんと教えてもらってない」

 

 そういえばスパナにも本名を伝えていなかった。

 律儀に自己紹介を求めるスパナに笑みをこぼしつつ、利奈はスパナの手を両手で包んだ。

 

「改めまして、相沢利奈です。これからもよろしくね」

「ん。うちはスパナ。好きな食べ物は飴。職業はメカニック。

 ……ジャッポーネは自己紹介で名刺を配るって聞いたけど、持ってないの?」

「プッ!」

 

 噴き出したのは正一だった。堪えるためにそっぽを向くが、プルプルと体が震えている。それでも元同僚として助言が入った。

 

「スパナ、それはサラリーマンだけだよ」

「残念」

 

 ひょっとしたら、自分の名刺もちゃんと用意していたのかもしれない。

 無表情に引き下がったから判断がつかないけれど、日本好きのスパナなら、それくらい用意していてもおかしくはない。

 

 場の空気が和んできたところで、リボーン、続いてバジルがピクリと入り口に反応した。

 

「どうやら、ツナたちが来たみてーだな」

「え?」

「ええ、そのようです」

 

 利奈の耳にはまだなにも届いていない。

 

「……しかし、さすがですね、リボーン殿。機械越しで気配が伝わりにくいというのに」

「長年の勘と年季の差だな」

「……え?」

 

 ツッコミどころしかないリボーンの発言に疑問を呈したところで、広い空間に声が響いた。

 

「相沢さん!?」

 

 聞きなれた声が聞こえる。この世界では、違う声になっていたけれど。

 入り口に立つ綱吉は、中にいる利奈を見て目を丸くしていた。あまりの驚かれぶりに、気恥ずかしさを覚える。

 

「ひ、久しぶり」

「なんでここに――いや、それよりも、ミルフィオーレに攫われたって聞いたけど、いったいなにがあったの!? あと、ヴァリアーでなにかされなかった!?」

 

 気持ちはわかるけれど、矢継ぎ早なうえに、簡単に答えられる質問がない。

 しかし利奈が口を開くより早く、了平が大声を出した。

 

「なにぃーー!? そんなことがあったのか!?」

 

 了平が驚愕するが、武と隼人はそんなに驚いていない。

 ここに利奈がいることには驚いているみたいだけど、利奈がどこにいたのかはすでに知っていたようだ。あのメッセージを見ていたのかもしれない。

 

「ヴァリアーというと、先日拳を交えた相手ではないか! そんなところでいったいなにを――」

「やめろ! お前が口開くとめんどくせーんだよ!」

「なにを言う! 行方不明になっていた後輩が敵陣に捕らえられていたと聞いて、なにも思わないやつがどこにいる!」

「まあ、そうっすよね。それについてはあとで説明しますんで、とりあえずは話を進めさせてもらっていいっすか?」

 

 さすが武。運動部だけあって、先輩を立てつつも話の主導権を握っている。

 

(みんな変わってなくてよかった……って、ん? 変わってない?)

 

 変わってないどころか、一人とてつもなく変わっている人物がいる。

 そう、一番声の大きい了平が、利奈の知っている姿ではなくなっている。

 

「笹川先輩!? 笹川先輩まで変わっちゃったんですか!?」

「む? 俺は変わりないぞ! しいていうなら、お前たちを探す日本五周旅で極限にたくましく――」

「そういうことじゃねえんだよ! 筋肉仕舞え! 話が一向に進まねえじゃねえか!」

 

 隼人の言う通りだ。むしろ後退している気がする。

 

「了平も入れ替わったぞ。

 そういえば、お前の修行をサポートしたって十年後のあいつが言ってたな。どういう修行だ?」

「え……」

 

 言えるわけがない。白蘭を殺すための暗殺講義をみっちり半月受けていたなんて。

 しかも、その成果をついさっき披露しかけていたことなんて。

 

「そんなことより、リボーン! なんで相沢さんがここにいるんだよ! まさかお前が連れてきたのか!?」

「あ、いえ、拙者です。

 相沢殿が、スパナ殿に会いたいとおっしゃられたので、拙者が護衛を」

「スパナに? なんでまた……」

「お世話になったの。ミルフィオーレファミリーに監禁されてたときに」

「袖触れ合うも他生の縁」

「入江――さん、とも自己紹介したよ。前にも会ってたけど」

「そ、そっか……」

 

 綱吉は複雑そうな顔をしている。

 あと十分ほど早く着いていたら、正一同様胃を痛めていたかもしれない。

 もっとも、綱吉たちがいたら、理性を失うことはなかったのだけれど。

 

「お前ら、京子たちはどうした。先に返したのか?」

「あ、うん。壁とか崩れてて危ないからって、チビたちと一緒にビアンキに送ってもらった。

 二人がなにしてるかもわからなかったし――そうだ! これ、差し入れのお弁当です」

「わあ、助かるよ」

 

 思い出したように渡された包みを、正一は嬉しそうに受け取った。

 

「と、ところで相沢さん。さっきの続きなんだけど――」

「なんだったっけ?」

 

 了平のせいで、綱吉がなんと言ったかすっかり忘れてしまった。

 聞き返すと、綱吉は困ったような焦った顔で瞳を左右に動かした。

 

「えっと……と、とりあえず、相沢さんはどこまで知ってる? この世界のこと」

「どこまで……って言われても」

 

 彼らがどこまで知っているかわからないのだから、答えようがない。

 彼らより先にこの世界に来たとはいえ、自由の身だった彼らに比べれば、情報源は格段に少ないのだ。

 知ったかぶりしているみたいになるのもいやで、利奈は言葉を濁した。

 

「じゃあ、ヴァリアーってなにかわかる?」

「ボンゴレファミリーが誇る最強の暗殺者集団……ってみんなは言ってたけど。ボスはXANXUSで、守護者も全員言えるよ」

「なんてこと教えてんの!? ……いや、しばらく生活してたんなら、それくらいは……」

 

 後半は独り言になっているが、綱吉は気を取り直すように次の問いを出した。

 

「ミルフィオーレはわかる?」

「ボンゴレファミリーと抗争しているマフィアでしょ。ブラックスペルとホワイトスペルがあって、スパナがブラック、正一さんがホワイト。ボスは白蘭」

「ばっちり全部把握してんじゃん! じゃあボンゴレは!?」

「最後に一番簡単なのきたね。

 大人になった沢田君がボスやってるマフィア。この世界来る前から沢田君がボス候補だって知ってたけど」

「なんでそんな前から知ってんのーーーー!? なんなの!? じつは相沢さんもマフィアの人だったりするの!?」

「あっはは!」

 

 反応は面白いけれど、過大評価にもほどがある。

 骸からあらかじめ聞かされていたとはいえ、綱吉以外はそんなこと重々承知していただろうに。

 

「十代目。その――じつはリング争奪戦最終日に、こいつ戦いに参加してたんすよ」

「……え? ええええええ!? どういうこと!? なんで!?」

「そうか! あのとき沢田は極限に戦っていたな!」

「ハハッ、それじゃしょうがねーのな」

「お、俺だけ!? 知らないの俺だけーー!?」

 

 参加したと言っても、画面端でウロチョロしていただけだ。

 利奈がいなければ恭弥が深手を負うこともなかったぶん、足手まといと言われても文句は言えないだろう。

 

「まあ、その辺りは帰りにでもねっちょり聞かせてもらえ。

 そろそろ帰らねーと、こいつらの邪魔になる」

「はっ! そうだった! ご迷惑をおかけしまして!」

「いやいや、僕たちは全然かまわないよ。でも、帰るのならくれぐれも気をつけてね」

「ふん、お前に言われなくってもわかってるっつーの!」

 

 ここから先は完全に内輪の話である。

 道すがら互いの情報をすり合わせることにして、一行はメローネ基地跡地をあとにした。

 

(みんな、私の知ってるみんなだ。学校の帰り道みたい)

 

 ここにきてようやく、本当の意味で知り合いと再会できた利奈は、帰り道のお喋りを心ゆくまで満喫した。

 ――隼人と盛大に口喧嘩を始めるまでは。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見えていないもの

 

 ボンゴレアジトに戻った利奈は、すぐさま出迎えに来てくれた京子たちと感動の再会を果たした。

 フゥ太が気を利かせて、二人に声をかけておいてくれたらしい。

 

「あんただれー?」

「もう忘れちゃったの? 沢田君たちの友達の利奈だよ」

「利奈ぁ?」

「わかんないかあ。寝てたもんね」

 

 了平と同じように、ランボも十年前の姿になっている。

 この世界のランボは利奈を庇って怪我を負い、そしてそのランボを守るために利奈はランボから離れたのだが――会えなくなったのは残念だった。

 

「こっちの子は?」

「この子はイーピンちゃんです! ランボ君のお友達で、お手伝いも率先してくれるすっごくいい子なんですよー」

 

 女の子が両袖を合わせてぺこりと一礼する。格闘技を習っているのか、お辞儀がきれいだ。

 

「この子も十年前から来た子なの?」

「はい! ハルたちと一緒でした」

 

 女の子も同意の声を上げたけれど、日本人ではなかったようで、言葉がまったくわからない。

 雰囲気と服装から察するに、中国語なのだろう。

 

「にい、はお?」

「!」

 

 嬉しそうに女の子が利奈が言った言葉を繰り返す。

 やっぱり中国語だったらしい。

 

「それじゃ、夕ご飯の準備に戻ろっか。ここではね、私たちが家事を引き受けてるの」

「そうなの? じゃあ、私も手伝うよ」

「助かります! みなさんよく食べられるから、作る量が多くって大変だったんです!」

「ふふ、なんか調理実習みたいだね」

 

 確かに、同じ学年のみんなで食事を作るなんて、まるで調理実習のようだ。

 

「イーピン、も!」

「もちろんイーピンちゃんもお願いね。今日はロールキャベツ作るんだー」

「おいしそう! ……ところで、ロールキャベツってどうやって作るの?」

 

 手伝いに名乗りを上げたものの、料理の経験どころか、知識すらゼロに近かった。

 母親を手伝ったりすることもあったけれど、味噌汁のみそを解いたり、カレーが焦げ付かないようにかき回したり、そういった補助的な作業しかやったことがない。

 

(……二人とも、料理スキル高すぎない?)

 

 一緒に台所に立ってわかった。レベルがあまりにも違いすぎる。

 

「お兄ちゃんがいっぱい食べるから、私も料理作ったりしてたの」

「ハルは将来お嫁さんになったときのために修行を積んでいましたので! 肉じゃがはお父さんからも太鼓判をもらっていますよ!」

「ランボさんはねー、ブドウ食べるのが得意ー」

「そっかー、ランボ君はブドウが好きなんだねー」

 

 イーピンはイーピンで生地を綿棒で伸ばしていた。

 身振り手振りから察するに、肉まんの類を作るつもりなのだろう。

 

(どうしよう……。私、ハンバーグですら焦がしそうなのに)

 

 同学年の二人がここまで別格だと、とてつもなく肩身が狭い。

 しかし料理初心者が張り切ったところで怪我するのは目に見えていたので、おとなしくサラダに使う卵を茹で始めた。

 

(……食材の捌き方ならスクアーロに教わったんだけどな)

 

 刃物の使い方の延長として、魚と鳥の捌き方は教わっている。

 魚を三枚に下ろしたり、鳥を部位ごとに切り分けたりはできるけれど、今日の夕ご飯はロールキャベツだ。出番がない。

 ちなみに、鳥の捌き方を教わった初日はごっそりと食欲を削られ、鳥の羽毛で溺れ死ぬ悪夢を見た。牛と豚に挑戦する前に日本に帰れたのは幸運だろう。

 遠い目をしながらレタスをちぎっていく。

 

「いいにおーい。今日はなに?」

 

 料理が佳境に入ったところで、ぞろぞろと男子勢が集まり始めた。

 

「ロールキャベツだよー」

「ご飯はもう炊けてます!」

「んじゃ、俺よそうわ。獄寺、茶碗出してくれ」

「あ? 命令すんな!」

 

 フゥ太は味噌汁のお椀を取り始めたし、綱吉は冷蔵庫を開けてパックジュースを取り出している。了平はオロオロしながらも、京子に言われて席に着いた。

 

「おらよ、茶碗出して――」

「……」

 

 切り終わった茹で卵をサラダに乗せていたら、茶碗を抱えた隼人と目が合った。

 

「ふん!」

「ヘッ!」

 

互いに高速で目を逸らした。

 

「あ、相沢さん」

「なあに?」

 

 愛想よく答えると、綱吉が微妙にひきつった表情をしていた。見ていたらしい。

 

「飲み物なにがいい? いろいろあるんだけど」

「どれでもいいよ」

「そ、そう? えと、じゃあ、リンゴで」

 

 綱吉が持つお盆にリンゴジュースが乗せられる。

 それらをひとつひとつ席に置き始めた綱吉は、ハルとランボのあいだが一席空いているのを見つけ、足を止めた。

 

「なんかここ席が空いてるけど、だれの席?」

「クロームちゃんの席です……」

 

 水を注ぎながらハルが応える。

 

「クロームちゃん、帰ってから一回もご飯を食べてないんです」

「えっ!」

 

 綱吉の驚く声を聞きながら、利奈はぽっかりと空いている空間に目をやった。

 

 クロームもこのアジトにいると知ったのは、食事の準備があらかた終わってからだった。

 仕事をしているジャンニーニたちの分は、最初によそって部屋まで届けたのだけど、まさか京子が運んだ方がクロームの分だったとは知らなかった。

 あとから知らされたときは驚いたし、京子たちもまさか利奈がクロームの友達だったとは知らなかったようで、二人にも驚かれた。

 そうと知っていれば、届けるついでに声をかけていたのに。

 

「でも、ご飯食べられるくらいには回復したって聞いたけど」

「お部屋の前にはご飯置いてきたんだけど……でも、いつも手をつけてくれないの」

 

 京子が眉を下げる。

 

 食欲がないのか、体の具合が悪いのか。繊細な子だから、なにか不安があって食べ物が喉を通らなくなっているのかもしれない。

 黒曜中のみんなはいないし、ただでさえ心細いだろう。

 

「人の心配するのはいいが、お前らもちゃんと食っとけよ。

 これから死ぬほど忙しくなるんだからな」

 

 リボーンの言葉で、綱吉たちが一瞬体の動きを止めた。

 

「なんで休み中にそんなこと言うんだよ、感じ悪いなー」

「そりゃあ、これ食い終わったら俺に付き合ってもらうからだ。お前らに」

「ええ!?」

「ちょっと付き合って?」

「語尾にハートマークつけんな!」

 

 今日までは休養期間だったらしいけど、どうやら前倒しで修行が始まるらしい。

 利奈には縁のないことなので、頂きますの大合唱のあとにロールキャベツを口に入れた。

 

(! おっいしーい!)

 

 二人の手によって作られたロールキャベツは、キャベツがほろりと崩れ、肉汁が口いっぱいに広がる最高の出来栄えだった。

 久しぶりに食べるご飯との相性は抜群で、利奈は嬉々としてご飯を口に頬張った。

 

「んー! やっぱりご飯美味しー!」

「そういえば、利奈さんはイタリアにずっといたんですよね!」

 

 京子の横からハルが顔を出してくる。

 

「イタリアのお話聞きたいです! どんなところにいたんですか?」

「私も知りたいなー。イタリア行ったことないから」

 

 キラキラした瞳で見つめる女子勢と違い、こちらを見る男子勢の目は牽制を孕んでいた。

 綱吉はハラハラしすぎるあまり、箸を逆に握っている。

 

(そんなに見なくたって言わないよ)

 

 内心鼻を鳴らしながら、にっこりと二人に笑いかける。

 

「それがさ、私ずっとお屋敷から出られなかったから、全然イタリア観光してないの。

 でもね、お屋敷がすっごく豪華でね――」

 

 住人たちの話には触れずに、お城で見たものや食べたものの話を広げていく。

 そこだけなら普通にホームステイの話だったので、隼人以外は興味を示していた。

 うっかり射撃場があったことも喋ったけれど、海外の話だったので二人はすんなりと聞き流した。

 

「いいですねー! ハルもそんなお城みたいなおうち、泊まってみたいですー!」

「でしょー。最初は全然落ち着かなかったけど。それにみんなも、またいつでも遊びに来ていいって言ってくれたし」

「へ、へー。そうなんだ」

 

 綱吉が若干目を逸らす。

 社交辞令の言葉だと思いたいだろうが、彼にとっては残念ながら、建前ではない。住所も記憶済みである。

 

「ねえ。ちょっと聞いておきたいんだけど――」

「うん?」

 

 一通り話終えたところで、京子が心持ち距離を詰めてきた。

 

「獄寺君となにかあった?」

 

 その瞬間、利奈と綱吉の動きが止まった。

 ほかのみんなには聞こえていなかったようで、雑談しながら食事を続けている。

 

「なんで?」

「さっきから二人とも目を合わせてないし……」

「それに利奈さん、獄寺さんを見るときの目がすごいですよ。こんな感じになってます」

 

 睨むように目を細めるハルに、利奈は苦笑を浮かべた。

 なるほど、そんな目で見ていればすぐになにかあったと気付くだろう。

 

(まあ、悪いのは獄寺君……っていうか、みんななんだけど)

 

 ちらりと綱吉の顔を窺うと、ビクッと身体を震わせた。

 目が言わないでくれと訴えている。

 

(言ったらバレちゃうもんね。沢田君たちが隠し事していることが)

 

 ――メローネ基地からの帰り道。

 綱吉たちから明かされた衝撃の事実に、利奈は思わず大声を出した。

 

「京子になにも話してないの!? ほんとに!?」

 

 信じられないものを見る目で彼らを見ると、彼らは一様に、きまり悪そうに視線を外した。

 

 彼らがこの世界に来てから、もう半月以上経っている。

 それに、了平以外はメローネ基地でミルフィオーレファミリーと激闘を繰り広げたはずだ。

 それなのに、京子たちは一切事情を知らされていないなんて、そんな無茶なことがあるのだろうか。

 

「なんで話してないの!?

 だって、いきなり十年後とか言われて、地下に閉じ込められたりしたらおかしいって思うでしょ!? なにやってんの!?」

 

 憤慨しながら代表者である綱吉に詰め寄った。

 詰め寄ったぶん綱吉が後ろに下がるので、距離は埋まらない。

 

「っ、それは、二人を不安にさせたくないから――」

「そんなの、なにも教えてもらえない方が不安になるじゃない! 信じらんない、勝手すぎ!」

 

 なにも知らなければ、なにもできない。

 それがどれだけ心細く苦しいことなのか知らないから、そんなことが言えるのだろう。

 

「……わかった。戻ったら私が全部話す」

「ええ!? ちょ、それは困るんだけど!」

「は!? なにが困るの? まだ隠すつもりなの?」

「だって、マフィアが関わってるなんて、言えるわけ……!」

「本当のことならしかたないでしょ!」

 

 綱吉は知っている側の人間だから、そんな悠長なことが言えるのだ。

 利奈だって、なにも教えてもらえずにヴァリアー邸で保護されていたとしたら、不安に押し潰されそうになりながら一日一日を耐え忍んでいただろう。

 友達がそんな状況に置かれていると知って激昂しないでいられるほど、利奈は大人ではない。

 

「沢田君たちは間違ってるよ。そうやって隠し事するの、よくないと思う。

 京子と三浦さんがかわいそうだよ」

「うっ」

「十代目、こいつの意見を聞く必要はありません」

 

 口ごもる綱吉を守るようにして隼人が前に立つ。

 敵意がむき出しなのは、綱吉に声を荒げたせいだろう。

 

「黙っていれば言いたい放題言いやがって……!

 十代目には十代目の考えがあるんだ! いきなり出てきて偉そうなこと言ってんじゃねえ!」

「おい、獄寺」

 

 武が引き止めようとしたが、それよりも先に利奈は隼人との距離を詰めた。

 前のめりになって隼人を睨みつける。

 

「その言い方はないでしょ! 言っとくけど、私の方が先に来てるんだから!」

「それがどうした! お前はこっちの事情なんて知らねえだろうが! 関係ないやつは黙ってろ!」

「っ――」

「獄寺!」

 

 ――利奈の頭に血がのぼっていたのは幸いだった。

 でなければ、その言葉が決定的な一打となって、二度と埋まらない溝を生みだしていただろう。こちらの事情を知らないのは、彼らも同じだったのだから。

 

 だから、利奈が右手を翻して渾身の力で隼人の頬を打っても、まだ最悪の状況とは言わなかった。

 

「ぬおっ!?」

「ひいっ!?」

「おっと」

 

 隼人より先にほかの三人が声を漏らした。

 打たれた本人は束の間、放心して、それからたちまち鬼の形相になった。

 

「てめえなにしやがる! ぶっ殺されてえのか!?」

「やってみれば!? 私を殺せるんならね!?」

「んだとぉ!」

「や、やめてよ、二人とも!」

「そうだ! 極限に落ち着け!」

 

 ヒートアップした二人が胸ぐらを掴みあったところで、男子三人が隼人を押さえつけた。

 しかし利奈が手を離そうとしなかったために、了平が間に入る形で二人の距離を引き裂く。そうして首だけ動かして隼人を叱責した。

 

「なにをやっているのだ、獄寺! 相手は女だぞ!」

「お前の目は節穴か!? 今のどこに手加減する要素があんだよ! 先に手を出したのもこいつだぞ!」

 

 指差す隼人の手を武が払う。その目は真剣なものだった。

 

「いや、今のは獄寺も悪いだろ。関係ないってことはないんだからよ」

「……うん、山本の言う通りだよ。俺たちが巻き込んだんだから」

「……っ」

 

 隼人の葛藤は武の言葉にか、それとも綱吉が賛同したことにか。

 とにかく、隼人は自分の主張を呑み込んで拳を収めた。

 そうなると利奈も矛を収めるしかなく、無言のまま服を握り締めた。手のひらは鈍く痺れていた。

 

(――なんて、言えるわけないし)

 

「さっき喧嘩したの。獄寺君があまりにも横暴だったから」

「そうなんですか? 獄寺さん、ちょっとそういうところありますけど――」

 

 ちらりと顔色を窺うハルを、隼人はすかさず睨みつけた。

 ハルがひええと悲鳴をこぼすが、隼人は無言を貫く。頬は若干赤くなっていた。

 

(……顔叩いたのは悪かったかも)

 

 訓練で慣れていたせいで、後先考えずに全力で叩いてしまった。

 殴り返されていたとしても文句は言えなかっただろう。

 

(でも、私は悪くない。隠し事してる沢田君たちが悪いんだもの。うん、そうに決まってる!)

 

 しかし、それはそれとして、綱吉たちの方針にひとまず従うことになった。

 京子の兄である了平に、お願いだから京子にこんなひどい世界の話をしないでくれ! この通りだ! と土下座されたからである。

 先輩である了平が、妹の友達でしかない利奈に、頭を地面につけてまで懇願したのだ。さすがに無下にできなかった。

 

「利奈」

 

 眉をしかめながら食事をしていたら、リボーンに声をかけられた。

 

「イタリアのことで聞きてーことがある。片付けが終わったらお前もちょっと付き合え」

「……いいよ」

 

 どうせ、イタリアの話ではないのだろう。

 このぶんだとクロームを訪ねるのは明日になりそうだと、利奈は苦い気持ちごと食べ物を飲み込んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

行いの報い

 

 夕食の後片付けは単純作業の積み重ねだったので、二人に引け目を感じることなく作業をやり終えられた。

 二人は食後の紅茶を用意していたけれど、利奈はリボーンから呼び出しを受けている。クッキーを一枚だけ摘まんで食堂を出た。

 

「来たか」

 

 呼び出された場所はトレーニングルームだった。

 なぜかみんながジャンニーニからバイクの講習を受けている。

 

「……なんでバイク?」

「機動力を上げるための手段だ。次の戦いは広範囲のフィールドで行われるみたいだからな」

「へえ……」

 

 てっきり、匣の訓練をしているものだと思っていた。授業みたいにみんなが標識を勉強している姿には違和感がある。現実的な光景のせいで、かえって現実味が感じられなくなっているような。

 視線を落とすと、帽子の上にいるカメレオンと目が合った。

 

「私にはちゃんと話すんだね。戦いの話」

「お前はもうこっち側の人間だからな。で、話ってのは白蘭のことだが」

 

 ぞわりと肌が粟立つ。名前を聞くだけで、胸の炎が揺らめき燃える。

 この感覚は、きっと一生消えることはないのだろう。存在が消えない限り。

 

 感情の波をやり過ごそうとする利奈を、いつのまにかリボーンが見つめていた。

 

「お前がそんなになったのは、あいつのせいか?」

「そんなって?」

 

 わざとおどけて尋ねるが、リボーンの表情は変わらない。変わらずに利奈の顔を見上げている。

 

「一目見てわかったぞ。

 お前、晴の炎を大量に浴びたな。髪がそんな長さになるまで、何回も」

「……あー」

 

 なるほど、それならあらかた察せるだろう。

 髪の長さに気付いたのは、京子だけだと思っていたのに。

 

 利奈は無造作に右手を後ろに回し、髪留めを引き抜いた。

 ばさりと落ちた髪の束から無色のゴムを外し、頭を振るって髪を広げる。

 

「結構頑張ってセットしたんだよ、これでも」

「似合ってたぞ。それも似合ってるけどな」

「ふふ、ありがとう」

 

 伸びすぎた髪の毛を隠すために、編んだ髪を念入りにしまいこんだのだが、リボーンには通用しなかったらしい。

 ほかのみんなはまったく気付いていなかったから、まったくの無駄というわけでもなかったのだろうけれど。

 

「それに、手にまめができてる。刀を振るってできるまめだ」

「見ただけでそんなこともわかるんだ」

「家庭教師だからな」

 

 これでも、晴の炎でだいぶましになっているのである。

 今まで一度も木刀なんて振るったことがなかったから、一日目で駄目になってしまった。

 

「あのとき、お前は正一に言ったな。

 私は白蘭を殺せる。殺すなと言われても殺すと。それは本心か?」

「……違うって言っても、わかっちゃうんでしょ」

 

 彼に嘘は通用しない。

 マフィアのボスの家庭教師を務めるリボーンに、ほんの少し暗殺のイロハを教わった程度の利奈が、太刀打ちできるはずもなかった。

 

「私ね。初めて人を殺そうと思ったの。

 殺されるかもって思ったことはたくさんあったけど、殺したいって思ったのは初めて」

 

 髪留めを強く握りしめる。

 

「ツナの仇討ちのつもりか? だったらお前が背負い込むことはねえぞ」

「え?」

「ツナは死んでなかった」

 

 どういう意味かと目で尋ねる。

 

「ツナは白蘭がああすると読んでいたらしくてな。

 銃の弾に細工して仮死状態に陥っていただけだ」

「……そう、なんだ……」

 

 沈黙が下りる。遠くにいるジャンニーニの声が耳に届く。

 ジャンニーニの合図で立ち上がった綱吉がこちらに気付き、ギョッとした顔になった。

 笑みを浮かべて手を振ると、頭を軽く下げ、ぎこちなくバイクへと向かっていった。

 

「……それでも、気持ちは変わらねえか?」

「……そうみたい」

 

 綱吉が殺されたから、ではないのだ。

 綱吉を殺したと、あんなに愉快そうに、面白そうに笑っていたからなのだ。

 もはや存在自体が赦せなかった。

 

「お前がどんな仕打ちを受けたか、なにを見たかは知らねーし聞かねえ。

 説明できるくらいのものなら、そんな覚悟を固めたりしねーだろうからな」

 

 そうなる前に助け出せなかった俺たちが悪いと、リボーンは呟いた。

 

「だが、家庭教師としてはお前のやり方に反対させてもらう。

 お前の考え方には未来がない」

「……未来?」

 

 隼人がバイクにまたがっている。

 運転した経験があるのか、ゆっくりとだが、危なげなくバイクを走らせていた。

 そして綱吉はこけている。

 

「もし仮にお前が白蘭を殺せたとして、それでお前はどうなる」

 

 どうなるもなにも、それで終わりだ。

 復讐を果たせさえすれば、この胸の炎も消えてなくなるだろう。

 

「そう、終わりだ。

 人を殺して復讐をやり遂げて、それでお前のやりたいことは終わる。そのあとはどうする」

「どうするって……どうもしないよ」

 

 元の時代に戻って、前のように生きるだけだ。

 中学生の利奈にはやるべきこと、できることがたくさん広がっている。

 

「それは無理だな。

 殺意のままに人を殺した人間は、もう元には戻れねえ。闇に染まるか、自分の炎に身を焼かれるかだ」

 

 なんとなく、六道骸が頭に浮かんだ。

 彼も自身の目的を復讐と言っていたが、復讐をやり終えたあとに彼がどうなるのかは想像ができない。

 

「いいか。殺意に振り回されんな。

 お前は自分の未来を守るために生きなきゃなんねーんだ」

 

 この時代の自分はもう死んでいる。

 それを覆せるかどうかはこれからにかかっている。そしてそれは、殺意を抱えた利奈の手にではない。

 

 綱吉がまたこけた。バイクに押しつぶされて悲鳴を上げている。

 いやそうに顔をしかめながらも、及び腰ながらも、またバイクにまたがった。あの運動音痴で運動嫌いな綱吉が。

 

「今、ツナは死ぬ気で戦ってる。仲間の未来を守るために、必死こいてな。

 その仲間には当然お前も入ってるんだぞ」

「……私も」

 

 綱吉なら、全部を守ろうとするだろう。

 ヴァリアーとの戦いでも、みんなを守るために、あのXANXUS相手に一人で立ち向かっていた。利奈は近づくことすら避けたXANXUSに。

 

「だから、お前もこいつらに賭けてみろ。

 世界最強のヒットマンに育てられてるんだ。勝ち目はあると思うぞ」

 

 ニッと笑うリボーンの顔は自信満々で、綱吉たちに全幅の信頼を寄せているのが伝わってくる。だからこそ、彼らもそれに応えられるのだろう。

 

「……そうだね」

 

 今までずっと一人だった。

 だれといても、共有できない感情があった。でも、もう一人じゃない。

 

「わかった、賭けてみる。沢田君だけじゃ頼りないけど、ほかのみんなもいるしね」

「ああ。ツナもこれからもっとビシバシ――」

 

 とてつもない轟音がリボーンの言葉を飲み込んだ。

 

「うわああああああ!」

 

 運転手の悲鳴が尾を引くなか、二人が目で追っていた先でバイクが壁に激突した。

 

「十代目ーーーー!!」

 

 隼人の叫び声がこだまする。

 みんなが練習を中断して集まっていくのを、利奈とリボーンは無言で眺めていた。

 

「……やっぱ、考えなおそっかな」

「キャンセルは利かないぞ」

「ええ……」

 

 綱吉は起き上がらない。気絶してしまったのだろうか。

 

「十代目! 十代目ー!」

「め、目立った外傷はないようです。気を失ってるだけだと」

「沢田! これしきで気を失っていては白蘭に勝つことなど――沢田ぁ! 聞いているのかぁ!?」

「うるっせえんだよ、芝生野郎! 気を失ってるっつってんだろうが!!」

「起きろ沢田! グズグズしている時間はないのだぞ!」

「黙れつってんだろ! 十代目はデリケートな御方なんだぞ!」

 

 やはり選択を間違えたのかもしれない。

 気絶する綱吉の前で掴み合いを始めた隼人と了平の姿を、利奈はなんともいえない目で見つめた。

 

 

__

 

 

 夜のバイク練習は、綱吉が意識を取り戻したのと同時に終了になった。

 続きは明日の朝からで、明日は一日ずっとバイクの練習に費やすらしい。

 

「ほんとびっくりしたよ。目の前で交通事故が起きたんだもん」

「俺も驚いたぜ。小僧が一回見本のためにわざとツナに壁に突っ込ませたんだけどよ、まさかまたぶつかるなんてな」

「二回目だったの?」

 

 しかも一回目はわざとである。

 とんでもないスパルタだが、綱吉に賭けた手前、リボーンのやり方に文句はつけられない。

 

「沢田君と笹川先輩は転んでばっかだったけど、山本君はあんまり転ばなかったね。すごい」

「いや、けっこう転びそうになってたぜ。でもグイっと体を動かしてスーってしたら戻ったし」

「うん……? あっ、自転車とかも慣れると転ばなくなるよね。あれ不思議だと思わない?」

「そうだな。なんかいきなり乗れるようになるよな」

 

 夜も遅くなったからと、武に部屋まで送ってもらっている。

 アジト内を歩くのだから一人でいたって危険はないのだけど、静まり返った廊下を歩くよりは、友達と喋りながら歩いたほうがいい。

 

「後ろ乗せてくれてありがとね。すごく楽しかった」

「ならよかった。せっかくバイクがあるのに、見てるだけなんてつまらねーよな」

 

 みんなはこの時代の免許証があったけれど、利奈の分はなかった。

 私有地だから免許がなくても乗っていいそうだけど、綱吉の事故を見たあとでは、ハンドルを握る気にはなれなかった。

 

「まさか、未来に来てバイクに乗れるようになるなんてな。外で乗れたらもっと気持ちいいんだろうけど」

「そうだね。でも、このおかげでバイクの免許すぐに取れちゃうんじゃない?」

「んー、どうだろうな。免許って筆記試験もあるんだろ?」

「あー……」

 

 いや、武ならなんとかなりそうだ。学校のテストと教習所のテストはまったくの別物だろうし。

 

 アジトの廊下は相変わらず資材であふれている。

 現状では工事を進めることができないのだろうが、このままだと白蘭を倒すまで放置されてしまいそうだ。

 

「女子と男子で部屋の場所ってけっこう離れてるんだね。部屋は二人ずつで使ってるの?」

 

 利奈が最初に使っていた部屋は一人部屋だったけれど、京子たちの隣の部屋に移動したら、ベッドが二段になっていた。

 京子はハルとイーピンの二人と一緒の部屋だと言っていたし、一人部屋のほうが数は少なかったのかもしれない。

 

「ああ。獄寺と二人で使ってる。

 最初はツナと獄寺が二人部屋だったらしいけど、俺が一人部屋でツナが二人部屋になるくらいならって獄寺が」

「また獄寺君か。だったら、みんな一人部屋にすればいいのに……」

「俺は二人部屋でよかったからさ。なんか合宿みたいで面白いし」

「アハハ、山本君らしい」

 

 武はいつもと変わらず自然体で、張り詰めたところがまるでない。

 ほかのみんなが身体に力を入れている分、安心感が強い。

 

(この時代の山本君にも会ってみたかったな。そんなに変わってないだろうけど)

 

 綱吉は劇的進化を遂げていたけれど、隼人はわりと変わりなかったし、ベルなんてほとんどそのままだった。案外、十年の月日なんて、そんなものなのだろう。

 十年後の利奈を知っている人たちも、少しの違いは口にしたものの、それ以上は言及していなかった。

 

「ん?」

 

 武が足を止める。

 それに合わせて足を止めたところで、背後からとてつもないプレッシャーがのしかかった。

 

「ヒバリ? なんでここに」

「――!」

 

 一度大きく跳ねた心臓が、続けざまにドクドクと早鐘を打ち始めた。

 身体が鉛のように重くなって、振り返ればわかる恭弥の顔を、利奈は見ることができない。

 

 ――振り向きたくない。振り返ったら、きっと――

 

 足音は響かず、距離は縮まらない。

 待っているのだ。利奈が振り向くそのときを。

 

「相沢?」

 

 異変に気付いた武の呼びかけに、利奈は答えられなかった。

 指向性の殺気に、指一本すら動かせないのだ。

 

 顔面蒼白で微動だにしない利奈を見て、武が困惑気味に恭弥に向き直る。

 

「ヒバリ。せっかく来てくれたとこ悪いけど、相沢、体調が悪いみたいで――」

「君に用はないよ」

 

 近づいてくる。衣擦れの音が聞こえる。

 反応せざるをえない状況にぎこちなく身体を動かすと、間近に迫った恭弥の瞳が利奈を射抜いた。

 

(っ避け――!)

 

 瞳の冷たさに身構えたときには、もう恭弥の右手は消えていた。

 振り抜かれた右手に握られていたトンファーは、利奈の左頬を的確に打ち抜き、利奈の身体はあっけなく廊下を転がった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

譲れないもの

 恭弥の殺気を背中に浴びたときから、攻撃が来ると察知していた。そしてそれは振り向いた直後になるであろうことも。

 だからこそ後ろを向くことを躊躇っていたのだけれど、まさか、読み通りになるなんて。

 

(かわせなかった……)

 

 イメージができていたにもかかわらず避けられなかった。恭弥の動きは想像をはるかに上回っていた。

 付け焼き刃の技術をあざ笑うかのように、恭弥の天性の才能は利奈を屠った。

 

 利奈にできたのは、顔を逸らしてダメージを辛うじて軽減させることと、自分から転がって衝撃を逃がすことだけだった。

 しかもそれらも、レヴィに言わせれば落第点だっただろう。成功していれば頬にも手にも痛みはなかったはずなのだから。

 

(やっぱり、私じゃ駄目なんだろうな)

 

 受け身すら取れないようでは、復讐なんて夢のまた夢だったのだ。

 こんなときなのに笑ってしまいそうになる。

 

「なにしてんだ、ヒバリ!」

 

 武が利奈を庇って前に立った。

 しかし恭弥の目は利奈を射抜き続けていた。

 

「……いったい、なにをしていたの」

 

 恭弥は声を荒げなかった。

 今までも荒げたことなんてなかったけれど、普段よりもずっと静かな口調に、利奈は心底震えあがった。

 

「無断欠席。委員会への連絡もなし。僕からの電話にも応答なし。どういうこと?」

 

 声の温度すら絶対零度だ。これは本気で怒っている。

 

(そうだ。ヒバリさんと私じゃ、来た日が違う)

 

 この世界で利奈が過ごした時間分、十年前の世界でも利奈がいない時間が経過している。

 そのあいだ学校を休み続け、風紀委員の仕事にでなかった利奈を、恭弥は決して許しはしないだろう。風紀を守るのが彼の仕事なのだから。

 

「おいヒバリ、話聞けって! 前にも言っただろ、俺たちはいきなり十年後に飛ばされて――」

「関係ない」

 

 そこでやっと恭弥は武に目を向けた。

 

「君達の欠席理由はどうでもいい。興味もないからね。

 でも、相沢は風紀委員で、僕の配下だ。扱いは僕が決める」

「だからって、いきなり殴るのはなしだろ」

 

 武はなおも庇ってくれたが、恭弥はそれを無視してこちらに視線を戻す。

 射竦められて身体が動かない。その視線が左腕を舐めた。

 

「腕章は?」

「……あ、ります」

「ちょうだい」

 

 呼吸が止まった。

 恭弥の言葉の意味がわかり、粛々と命令に従わなければならないことは承知しながらも、利奈は横に首を振った。

 

「今は、持ってないです」

 

 苦し紛れの嘘だった。

 本当は肌身離さず持ち歩いている。ズボンのポケットに入っている。でもそれを言ったら渡さなければならなくなる。それだけはできない。

 

「なら持ってきて」

「……」

「僕に逆らうの?」

 

 渡せない。この腕章はこの時代の恭弥に託されたものだ。

 それに、これを返してしまったら――

 

「おい、ヒバリ!」

「邪魔」

 

 恭弥は武を押しのけようとしたが、武は負けじと腕を広げた。

 険悪な雰囲気に、利奈は慌てて立ち上がる。このままだと、なんの関係もない武が巻き込まれてしまう。

 

「山本君、いいよ。大丈夫、私のせいだから」

「いいから」

 

 前に出ようとしたけれど、武に腕で制された。そして武は恭弥を強く睨む。

 

「ヒバリ。これ以上やると、俺も本気で怒るぜ」

「山本君!」

 

 恭弥は動かない。数十秒の長い沈黙ののち、唐突に恭弥の圧力が緩んだ。

 

「……わかった。もういいよ」

 

 もう、恭弥の声に色はなかった。しかし利奈は愕然として唇を震わせた。

 恭弥が次に言う言葉がわかってしまったからだ。

 

(やめて)

 

 利奈の願いもむなしく、恭弥は続けた。

 

「相沢利奈。君を、風紀委員から退会させる」

「っ!」

 

 死刑宣告に近い言葉を、恭弥は無表情のままに吐き出した。怒りすらも消え失せた眼差しに、利奈は言葉を失った。

 無関心。切り捨てた残骸を見るような目だ。

 

「じゃあ、それだけだから。これ以上は煩わせないでね」

 

 恭弥が踵を返す。

 

「待てよ!」

 

 武が一歩を踏み出したが、すぐに振り返って狼狽し始めた。

 利奈が勢いよく両膝を折ったからだ。

 

「相沢? お、おい、相沢!?」

 

 武の声が遠い。

 耳が、頭が、ガンガンと痛む。

 

(退会。退会。……辞めさせられた)

 

 認めてもらえたばかりだったのに。ずっと拠り所にしていたものだったのに。

 じわじわと広がる絶望に頬の痛みも忘れ、利奈は呆然とその場に座りつくした。

 

 

__

 

 

 思えばずっと、相沢利奈は風紀委員だった。

 

 話をするようになったのは、一学期の終わりごろ。慌てて荷物をひっくり返す利奈の手にぶつかったことがきっかけだった。

 その前にも存在を意識したことがあったような気がするけれど、よく覚えていない。

 とにかく、記憶のなかの利奈は、ずっと風紀委員だった。

 

「痛むか?」

 

 とにかく冷やさなければと、医療室から氷嚢と冷えた湿布を持ってきた。

 利奈の部屋で湿布を貼って氷嚢を渡せば、利奈はゆるゆると首を振る。

 

「大丈夫。そんなに痛くなかったから」

 

 そんなわけがない。あの恭弥が全力で殴りつけたのだ。

 頑なに遠慮する利奈の手当てを半ば強引に行ったが、確かに頬は腫れていなかったし、口の中が切れている様子もなかった。

 

(あれでも、手加減してたんだな……)

 

 それだけの理性はあったのだと安堵したものの、やはり恭弥の行動は滅茶苦茶だった。間違っていた。

 利奈は被害者だ。巻き込まれただけで、落ち度はない。

 それなのに恭弥は自身の方針を曲げず、暴力を振るったうえに彼女の誇りを奪い取った。

 退会を言い渡されたときの利奈の表情を思い出すと、胸の中が熱くなる。

 

(やっぱり、追いかけるべきだったか)

 

 しかし、そうしていたら利奈は一人ぼっちになっていた。

 呆然自失の利奈を一人きりにはできず、こうやって部屋まで送り届けて怪我の手当てもした。そのあいだ、利奈はずっとなんでもないような顔で喋り続けていた。

 

「なんかごめんね、巻き込んで。でも、ほんと大したことじゃないから。

 ヒバリさんっていつもあんな感じだし、そんなに気にしないで」

「私、いつも班の人とかに叩かれたり殴られたりしてるんだよ。だから慣れてるの。

 むしろいつも通りっていうか、ちょっと安心した――って言ったらうそになるけど。とにかく大丈夫だから!」

「ほんとに大丈夫だって。山本君も疲れてるでしょ? あとは自分でできるから、山本君も部屋に戻りなよ。はい、おやすみー……だめなのね」

 

 利奈がおどけて喋るほど、痛々しさを感じ取ってしまった。

 喋れば喋るほど武の表情が硬くなるのを察してか、利奈も最終的には黙り込んだ。

 静かな部屋のなかで、時計の針の音がやけに大きく聞こえてくる。昼も夜も関係ない場所なのに、夜の静けさが広がった。

 

 利奈に、なんて声をかければいいのだろう。

 自分の身に置き換えるとすれば、野球部を辞めさせられるようなものだろうか。

 自身も無断欠席している状態なので、わりと現実味を感じるシチュエーションである。

 

(……つらいな、それは)

 

 想像した武は、たちまちかける言葉を失い頭を掻いた。

 

 野球は一人じゃできない。

 野球部を辞めさせられるのは、自分が骨折するよりも深刻な状況だ。

 ましてや、並盛中学校の風紀委員に代わりはない。ほかの委員に入ればいいとか、そういう問題ではないのだ。

 

 並んで座っているベッドが軋む。

 沈黙は重く、つい体を揺すってしまう。利奈も同じなのか、氷嚢をしきりに動かしていた。中の氷が音を立てている。

 

「……なあ」

「うん」

 

 言葉がまとまらないから、まとめるのを諦めて声をかけた。

 励ませばいいのか、慰めればいいのか、憤慨すればいいのか、それすらもまとまっていない。

 

「相沢はさ、どうして風紀委員になったんだ?」

「え?」

「……あー、いや。ちょっと気になって」

 

 言いたいことはそれではなかった。もっとほかに言うべき言葉があったはずだった。

 でもなにも言えなくて、そんなくだらない質問しかできなかった。

 

「んー。成り行きって言えばいいのかな。

 いろいろあって、どうしても入らなきゃいけなくなっちゃった感じ。私じゃなくて、ヒバリさんのアイディア」

「ヒバリの?」

 

 驚いたものの、それ以外ないだろう。

 あそこは恭弥にすべての決定権がある。

 

 それから武は、利奈が風紀委員に入った経緯の詳細を、本人の口からすべて聞かされた。

 話していると気が紛れるのか、話しているうちに利奈の表情が明るくなっていく。

 懐かしむ利奈の横顔は楽しげで、あんなことがなければ武だって笑っていただろう。なくなったものを惜しむ顔に見えなければ。

 

 話に一区切りついたタイミングで、部屋の扉が開いた。

 また恭弥かと身構えたが、戸口に立っていたのがリボーンだったので、すぐに肩の力を抜いた。利奈も息を吐き出している。

 そんな二人の反応を、リボーンはおかしそうに見ていた。

 

「普通、ここは慌てるところだぞ。こんな時間になにやってんだ」

 

 からかうようなリボーンの言葉に、利奈が乾いた笑みをこぼす。あんなことがあったあとなのだ。

 

「リボーン君はなんで来たの?」

「山本がお前を送りに行ったまんま戻ってこなかったからな。獄寺が探してたから、迎えに来た」

「獄寺が?」

 

 同室とはいえ、隼人が武の戻りを気にするだろうか。綱吉が戻ってこないのならともかく。

 しかし武は疑問を飲み込み、身軽に腰をあげた。

 

「悪い悪い、小僧にも世話掛けたな。んじゃ、俺は戻るぜ」

「あ、うん。どうもありがとね、いろいろと」

「おう」

 

 かしこまる利奈に片手を上げて、武は廊下を出た。

 そしてしゃがみこみ、リボーンの帽子に手を当てる。

 

「見てたのか?」

「なにをだ?」

「ヒバリに利奈が殴られたとこ」

 

 小声で囁くと、歩き出すようにと目で促された。

 やはり隼人が云々というのは建前だったらしい。

 

「俺は見てねーが、フゥ太がな。

 風紀財団の通路を使ってヒバリがやってきたから、監視していたらしい」

「そうか。……じゃあ、なんで殴られたのかは知らねーな?」

 

 利奈が無断欠席を理由に風紀委員を退会させられたことを伝えると、リボーンはぎゅっと眉間に皺を作った。巻き込んだ側として、思うところがあるらしい。

 

「……利奈の様子は?」

 

 無言で首を振る。

 いつも通りを無理して装っているということはわかるが、その裏の感情までは覗けなかった。あそこで粘っていたとしても、得られるものはなかっただろう。

 攻めるなら、相手は利奈ではない。

 

「お前、ヒバリのところには行くんじゃねえぞ」

 

 たまらず武は苦笑した。見事に行動を予測されていたからだ。

 

「ほんと、お見通しなのな」

「一応、ちょっと前まで専属で家庭教師やってたからな。それに、お前もツナ並とは言わねーがわかりやすい」

 

 わかりやすいのは否定しないが、こんな短いやり取りでわかるものなのだろうか。

 いや、リボーンの洞察力がずば抜けているのだろう。

 

「お前がなにしたってヒバリは撤回しねーぞ。

 あいつは他人の言うことを聞き入れたりはしないからな」

 

 承知している。しかし、引き下がるわけにはいかない。

 それでは利奈があんまりだ。

 

「お前の気持ちもわかるが、あいつらにはあいつらのルールがある。

 委員長のヒバリが利奈の退会を決めたんなら、俺たちがあいだに入ってできることはなにもねえ。かえって事態を悪化させちまうだけだ」

「だからって、このままじゃ相沢が――」

「落ち着け。俺だって、このままにしとくつもりはねえ。

 あいつは俺たちに賭けたんだ。なんとしても勝たせてやるさ」

 

 そう言ってリボーンが顔を上げた。

 黒目がちな瞳のなかに、深い経験の色が滲んでいる。

 

「明日になったら、草壁にこの件を報告する。そしたら風紀財団が動き出すだろう。

 あいつらにとっても、委員会でのいざこざは避けたいところだろうからな」

「風紀財団に……」

 

 なるほど。外から手が出せないのなら、中で手を加えてもらえばいい。

 風紀委員、いや、風紀財団の力を借りるという発想がなかった武は、幾分か身体の力を抜いた。

 

「それに利奈なら、俺たちが手を焼かなくても自分でなんとかしようとするだろう。

 あいつにその意思があるんならな」

 

 そこでリボーンは口元を引き上げた。

 

「あいつはなかなか骨があるやつだ」

「……知ってる」

 

 でなければ、単身で夜の学校に乗り込んだりはしないだろう。

 

 あのときの感触はまだ覚えている。手のひらを包んだ柔らかい感触を。

 手のひらまで伝うほどに出血していたにもかかわらず、武の解毒を優先した利奈の、祈るような声音を。

 

(……だから、なんとかしたい)

 

 左拳を握り締め、強く願う。

 どうか、彼女が笑っていられますようにと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小さな一歩、大きな一歩

 

 

 

 

 翌朝の目覚めはじつに清々しいものであった。

 寝る前にあんなことがあったから、寝つきも寝起きも最悪になると思っていたのに、びっくりするほどぐっすり眠れた。

 いろいろありすぎて、脳が考えることを放棄していたのかもしれない。

 

(ヴァリアーの一日目よりも、いろんなことたくさんあったもんなあ……)

 

 最低の一日というものは、つねに更新され続けるものらしい。

 まさか最後の最後にトドメを刺されるとは。この世界、一秒たりとも気が抜けない。

 唯一救いがあるとすれば、今日だけは更新されることはないという点だろうか。

 二日続けてあんなに立て続けに事件が起きるとは考えづらい。それに、もし万が一起こったとしても、心の準備はすでに出来上がっている。

 

(まずはこのドアを開けるところからだよね。大丈夫、いけるいける)

 

 根拠のない自信を身に纏い、利奈は一歩踏み込んで部屋のドアを開けた。

 いや、根拠はあるにはあった。なぜなら――

 

「おはよう、クローム。朝ごはん持ってきたよ」

 

 クロームは、友達なのだから。

 

 ――いつもと同じ時刻に目覚めた利奈は、日課の走り込みと筋トレのあと、シャワーを浴びて、それから京子たちに時間を合わせて食堂へと向かった。

 そして今日こそはと、クロームの配膳係を引き受けたのである。

 

 クロームが使っている部屋は、利奈が最初に使っていた部屋と同じ区域にあった。

 ベッドは部屋にひとつしかなくて、そこで寝ていたクロームは、利奈の来襲にすっかり面食らっている。

 

「利奈……? 利奈も、ここにいたの?」

 

 声はか細いながらもはっきりしている。寝転がっていたものの、起きてはいたらしい。

 ずっと部屋から出ていなかったのだから知らなくても無理はないと、利奈は頷いた。

 

「うん、昨日から。でも、私が一番最初に未来に来てたんだよ。ちょっとイタリアとか行ってたけど」

「イタリア? ……そういえば、雲の人が探してた」

 

(雲の人?)

 

 尋ね返そうとしたところで、自動ドアが閉まりかけ、戻った。

 クロームに入室の許可をもらい、おぼんを揺らさないようにゆっくりと足を踏み出す。

 

「これ、朝ご飯。私の分も持ってきたんだ。一緒に食べよ」

「……うん」

 

 頷いてくれたことに心のなかでこぶしを握りながら、ベットに腰掛ける。

 クロームはまだ寝間着姿で、寝間着でもおなかが開いた服を着るんだなとちらりと考えた。よほど寝相がいいに違いない。

 

「好きなのわかんないから適当に持ってきちゃった。嫌いなものある?」

「ない……」

 

 利奈が持ってきたのは野菜スープとパン、それにオレンジだ。

 全然食事をとっていないと聞いたから、たくさんあるなかで食べやすい物ばかりを持ってきた。

 どうしても食欲がわかないようならオレンジだけでも食べてもらおうと思っていたけれど、クロームはパンを小さく千切ると、ゆっくりと口に運んだ。パンは柔らかいのを選んだし、ほんの少しだけ焼いて温めてある。

 

「バターもジャムもマーマレードも持ってきたから。好きなの使って」

「ありがとう」

 

 個包装されたもののなかから、利奈は苺のジャムを摘み上げた。スプーンでパンに塗って一口頬張る。苺の甘みが口に広がって、顔が緩んだ。

 そんな利奈を見たクロームは、同じように苺のジャムを手に取って、やや大きめに口を開けるとパンに齧りついた。そして少し恥ずかしそうに口元を手で隠す。

 

「美味しい?」

「……うん」

 

 スープはコンソメで野菜を煮込んだ具たくさんスープで、二人してふうふうと息を吹きかけながらスプーンですくった。

 今回はちゃんと利奈も携わっていて、玉ねぎを切るときに苦戦した話をすると、クロームは玉ねぎを選り分けて口に運んだ。

 涙ながらに頑張ったから、太さの幅はちゃんと均一だ。

 

「えっ! 昨日、ご飯食べてたの?」

「うん。三つ編みの小さな子が、持ってきてくれて……」

 

 三つ編みの小さな子といえば、イーピンで間違いないだろう。

 クロームは照れた顔で布団を手繰り寄せる。

 

「いつ?」

「夜……。あんまんを持ってきてくれて」

「あっ……あのあんまん」

 

 昨日のデザートはイーピンお手製のあんまんだった。

 やけに張り切って作ってるなと思ったけれど、クロームに渡すためでもあったらしい。

 

「食欲なくても食べなくちゃね。

 ずっと食べなかったら体もたないし。体調悪いのはわかるけどさ」

「……違うの」

「違うって?」

 

 聞き返すと、クロームは爪先を上げて膝を抱え込んだ。

 いつもよりさらに頬を赤く染め、視線を落とす。

 

「……どうしたらいいか、わからなくて」

「なにが?」

「……」

 

 ちらりとこちらを見たクロームが、またゆっくりと視線を床に戻す。

 これ以上急かすとなにも喋ってくれなくなりそうで、利奈は辛抱強くクロームの返答を待った。すると、ぽつりぽつりと話し始める。

 

「三つ編みの子とか、ほかの子とか、大人の人とか……みんな優しくて。

 私、なにもできてないのに優しくしてくれて。それが、なんだか落ち着かないの」

「……困るの?」

「ううん、違う。温かいから……触るのが怖くて」

 

(温かいのに怖い……?)

 

 利奈はクロームの生い立ちを知らない。

 骸たちと行動を共にしているところから、家族と疎遠なのはわかる。でも、それ以上の事情は知らないし、聞く気もない。

 

 ただ、クロームはいつも周りから一歩引いていた。

 犬に理不尽に怒鳴られても、悲しんだり怒ったりしなかった。

 そんなクロームが、好意に怯えている。だったら、利奈にできることはひとつだった。

 

「私はどう? 触るの怖い?」

「ううん」

 

 怖かったら、肩が触れるほどの距離で一緒にご飯を食べたりはしなかっただろう。

 利奈を優しい人間と認識していないのなら話は変わるが、もしそうだとしたら本格的に立ち直れなくなる。

 

「なら、大丈夫だよ。私と話すときみたいにすればいいんだし」

「……」

「……無理?」

 

 クロームは正直だ。できないことをできるとは言わない。

 硬い表情で黙りこくったクロームに、利奈は内心で唸った。

 

(そう簡単にはいかないか……)

 

 初めての場所で初対面の人とすぐに打ち明けろといわれても、人見知りのクロームには難しいだろう。殺人集団にすぐさま馴染めたりするほうが稀有なのだ。

 

「じゃ、ちょっと発想換えてみるとか。

 友達の友達は友達! みたいな」

「友達の友達?」

「うん。京子は私の友達でしょ。あ、京子はショートカットの子ね。

 その子、私の学校の友達なの」

「そうなの?」

「だよ。クラスも一緒で」

 

 クロームの表情がわずかに和らぐ。まったく知らない人よりは、友達の友達のほうが馴染みやすいだろう。

 

「ハルちゃんは学校が違って、どっちかっていうと沢田君たちの友達かな。

 でも、昨日ご飯作ったし、友達って言ってもいいかも」

 

 二人とも明るくて優しいから、快くクロームを受け入れてくれるに違いない。

 あとは、クロームが飛び込むだけだ。そのためのお膳立てなら、いくらでも引き受けよう。

 

「そうだ。今日の夜、歓迎会があるの。

 笹川せんぱ――京子のお兄さんと、バジル君っていう外国から来た男の子の。

 で、私も混ぜてくれるっていうから、クロームもおいでよ」

 

 正確に言えば――と何度も繰り返しているが、敵から逃げ出したのちに避難先から帰国してきたのだから、歓迎会の名目に加えられてもおかしくはないだろう。

 主役だから部屋で待っててねと言われたし、今日は待ってるだけでご馳走が食べられる。

 

 ニコニコしながら誘いをかけると、クロームは視線をさまよわせた。

 

「利奈の、歓迎会?」

「うん。私おまけだけどね」

「……行っていいの?」

「クロームいなくちゃやだよ。来てくれなかったら、泣きながら押し掛けるかも」

 

 もちろん、ご馳走を携えて。

 ひっそりと心中で付け足した言葉は当然クロームには届かず、真に受けたクロームは慌ながら首を横に振った。そして控えめに距離を詰めて、利奈と膝をつける。

 

「行く。……一緒に行ってもいい?」

 

 その答えに、利奈は即座に隙間をなくして、上機嫌に頷いた。

 

「うん、いいよ!」

 

 ほうっとクロームが息をつくのと同じように、利奈ははーっと感嘆の息をついた。

 

 内気なクロームが、一歩を踏み出してくれた。

 このまま二歩、三歩と足を動かして、そのまま歩いてくれればいい。

 友達と友達が友達になったら万々歳だ。

 

「クロームは修行いつから? 沢田君たちはバイクの練習してたよ」

 

 この時代のクロームの運転免許証は、ボンゴレでは預かっていないそうだ。

 そもそもでクロームが車やバイクを運転するイメージがないのだけれど、はたしてこの時代のクロームは免許を持っていたのだろうか。

 

「私は明日からって言われてる。明日になったら本格的な訓練を開始するって、アルコバレーノが」

 

(だれ……ああ、リボーン君か。骸さんもそんな呼び方してたっけ。

 そっか、クロームは明日から)

 

 それならなおさら、ご飯を食べて体力をつけなければならなかっただろう。

 持ってきた食事を、クロームは残さずに食べ切った。温かいものを食べたからか、顔の血色がよくなっている。

 

「修行ってどんなことするのかな。なんかみんな匣とかいうの持ってたけど」

「私もボスにもらった。もらったのはまだ開けてないけど、フクロウの入ってる匣なら開けた」

「フクロウ!? へー、いいね、かわいくて! 沢田君たちはどんなのだろう」

「わからない。……多分、修行は匣を使った戦闘なんだと思う」

「そっかあ」

 

(フクロウを使った修行ってなんだろう……)

 

 一瞬疑問に思ったものの、匣アニマルはただの動物じゃない。晴孔雀みたいな特殊能を持っているのだろうし、クロームには幻術がある。

 きっと利奈には想像もつかない修行が行われるに違いない。

 

(……そろそろかな)

 

 時計に目をやって時刻を確認する。そろそろ後片付けの時間だろう。

 

「それじゃ、もう行くね。ちょっとこれから用事があってさ」

「うん。……? 利奈」

「ん?」

 

 おぼんを持って立ち上がったところで、クロームに呼び止められた。

 振り返ると、眉の寄った表情でじっと顔を見つめられる。

 

「……頑張ってね」

 

 クロームはなにも知らない。

 利奈がいたことすら知らなかったのだから、利奈の身になにが起きて、これからなにをするつもりかなんて、まるで見当がつかないはずだ。

 それなのに質問もせずに応援してくれたのだから、よほど気合の入った顔になっていたのだろう。

 

「……うん、頑張る」

 

 クロームと目を合わせた利奈は、にひっと歯を見せた。

 

(頑張る。……頑張らなきゃ)

 

 廊下に出た利奈は、深く息を吐くと、ギュッと口元を引き結んだ。

 

 今日は最低の一日にはなりえない。最悪はあっても、最低はありえない。

 最悪は覚悟しているけれど、自分から飛び込む火中なら、熱くたって我慢できる。

 

 ある意味、利奈とクロームは同じ境遇にあった。

 引いていた一歩分を踏み込むのと、引かれた一歩分を詰め寄るという違いはあったものの、前に向かうという姿勢は同じだ。

 

 足取りに迷いはなく、視線はただ前を向いている。

 口元には笑みすら浮かんでいたが、その笑みは本能的なものであった。獣が牙を見せるのと同じものだ。

 

(絶対に――絶対に、目に物を見せてやるんだから)

 

 端的に言うと――利奈は、激怒していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

この手は握るためにある

 

 すっかり空になった器を持って調理場に戻った利奈は、眼前で広がるありえない光景に凍りついた。

 調理場には京子とハル。そして二人に挟まれた、よく見慣れた後ろ姿がある。

 

「わあ、リンゴが白鳥になった!」

「こんなに速いのに幅が均一です! すごい包丁さばきです!」

「あはは、ちょっと齧ったくらいなんですけどね」

 

 そんなことを言いながらも、まんなかの人物は手を止めずにリンゴを切っていく。背後からでもわかる包丁技術だ。

 

「今度はお花です! はひー、食べるのがもったいなくなっちゃいそうです!」

「うんうん、ほんと、飾っておきたくなっちゃうねー」

「いえいえ。ほんのささやかなお礼ですから、そんな大層な」

 

(だれ、あの人)

 

 歓声を上げる二人に愛想よく対応する哲矢を、利奈は宇宙人に攫われた人間を見るようなまなざしで凝視した。

 

 ――草壁哲矢。並盛中学校の風紀委員会副委員長。

 利奈の知っている哲矢はとにかく硬派でしかつめらしく、こんなに朗らかに笑ったりなんてしなかった。

 

 声をかけるタイミングを逃し、利奈は無言のままテーブルの上におぼんを置いた。

 空の食器が音を立て、三人が振り返る。

 

「おかえり。草壁さんが利奈に用があるんだって」

「ああ! クロームさん、完食してくれたんですね! お元気でしたか!?」

 

(ごめん、草壁さんの変わりようがすごすぎて追いつかない)

 

 まず、目の前の哲矢について説明してほしい。

 他校生のハルはともかく、京子は風紀委員としての哲矢を知っているのだから、これが正常でないことを知っているはずだ。

 いや、思い至る正解なんて、ただひとつだけれど。

 

「……この世界の、草壁さんですか?」

 

 でなければ困る。でなければ、元の世界の風紀委員一同が驚き嘆いて悲しんでしまう。

 いや、どっちにしろ驚くと思うけれど。

 

「ああ、俺はこの世界の人間だよ。変わらずに恭さんの下で働いてる」

「……恭さん?」

「おっと、中坊の俺はヒバリさん呼びだったな。……おい、その顔はやめろ」

 

 十年という月日は残酷だ。それを今、はっきりと感じ取った。

 

(草壁さんがヒバリさんをあだ名で呼んでる……。

 待って待って待って、まさか私もそう呼んでたわけじゃないよね? え、それが当たり前の世界だったりしないよね? だとしたら私、今すぐ未来を変えたいんだけど)

 

「利奈? どうしたの?」

「り、利奈さん、表情筋がデンジャラスなことになってますよ……? あの、もしもし?」

「ハッ」

 

 部外者がいることを思い出し、彼方へ飛び立っていた思考を呼び戻す。

 そして二人がまったく見ていないのをいいことに般若のオーラをまといだした哲矢に、忘れかけていた風紀委員としての建前を取り戻す。

 

「失礼しました、副委員長」

「今は副委員長じゃないがな」

 

(そうだった……)

 

 動揺のあまり、今の哲矢を前の哲矢と統合してしまうところだった。

 利奈への態度は以前と同じものなので、なんとか態勢を整えられそうだ。

 

「そっか、利奈は草壁さんと会うの初めてだっけ。なら、びっくりしちゃうよねー」

 

 ほわんと京子が微笑むが、びっくりどころではない。恭弥が群れたと聞かされるくらいの衝撃があった。

 並盛中学校風紀委員会副委員長を背負ってるだけあって、恭弥と同じくらい硬派な存在だったのだから。

 

「ここではなんだ、少し場所を変えるぞ」

「行っちゃうんですか? リンゴ、ありがとうございました!」

「ああ、いえ。朝食をご馳走になったお礼ですので。ごちそうさまでした」

 

 これが社会人になった人の礼節というものなのだろうか。

 あっさりと頭を下げる哲矢にまた顎を外しそうになっていたら、それを戻すように頭を押さえつけられた。二人がいなかったら、拳骨を落とされていたに違いない。

 

「――さて、昨日の件についてだが。恭さんに委員会を辞めさせられたらしいな」

 

 空き部屋に移った哲矢に、さっそく本題を切り出される。

 

 利奈が使っている部屋の隣の部屋なので、ここも二段ベッドだ。

 利奈は勧められたままに二段ベッドの下段に腰掛け、哲矢は反対側の壁に背中を預けた。

長くなったリーゼントがわずかに揺れるので、目を逸らす。

 

「ヒバリさんに聞いたんですか?」

「いや、リボーンさんだ。早朝に通信が届いた」

 

 昨夜、武を迎えに来たのはリボーンだった。

 そのときに武からあらかたの事情を聞かされたのだろう。行動が早い。

 

「じつは昨日、ディーノさんが、お前が戻ってきていると恭さんに伝えていたんだ」

 

 そういえば、ディーノとは別れっぱなしになっている。

 ツナたちの様子を見に行ったはずだけれど、先に恭弥に出会ってしまったのなら仕方ない。

 戦闘狂の恭弥にとって、十年後のディーノは絶好の獲物なのだから。

 

(ヒバリさんと夜まで戦って、そのままヒバリさんの方のアジトに泊まったんだ。

 で、ヒバリさんが私の話を聞いて怒った、と)

 

「いや、それ自体は悪くなかったし、お前を連れてきたんだから話すのは当たり前だったんだが――タイミングがまずかったというか」

「機嫌が悪かった?」

「そうじゃない。ただ、最初からお前にすさまじく腹を立てていてだな……」

 

 それならば、昨日本人に直接聞かされた。

 風紀委員が風紀を破ったのだから処罰対象になるのは当然だが、あそこまで怒るなんて、よほど腹に据えかねていたのだろう。

 

「無断欠席もそうだが、えらく奔走したそうだぞ。俺たちも」

「俺たち……って?」

「十年前の俺と、お前以外の風紀委員全員がだ。失踪したお前を探すために八方手を尽くして捜索したらしい。表からも裏からも、ひとつ残らず」

「それって……!」

 

 意味を理解した利奈は、心の底から震え上がった。

 

(並盛町が更地になった……!)

 

 並盛の秩序が、表社会の権力(警察)を使い、裏社会を力でねじ伏せたのだ。草一本残らなかっただろう。

 

「なんなら、隣接する市区町村すべて焼け野原になったそうだぞ。

 腹立ちまぎれにいくつ組が潰されたか、聞きたいか?」

「聞きたくないです!」

 

 即座に断ると、哲矢が苦笑いしながら肩をすくめた。

 

「だろうな。俺も聞かなかった。両手の指でも足りないだろう」

「うわあ……!」

 

 なんということをしでかしてくれたのだろう。そして、なんということをしでかしてしまったのだろう。

 まったくもって無関係だったにもかかわらず慈悲なく潰された組織の方々を思うと、悪人相手でも頭を垂れたくなってくる。

 

(そもそも、なんでそこまで!?  

 前に風紀委員が骸さんに襲われたりはしたけど――って、まさか骸さんのとこにも殴り込みに行ったんじゃ!?)

 

 尋常じゃないくらい被害が広がっている。

 委員一人を探すためにそこまでした風紀委員会が怖い。頼もしさよりも恐怖が勝る。

 

「ど、どうすればいいですか!? このままだと私、命ないですよね!?

 みんなに土下座して回ればどうにかなります!?」

「落ち着け。気持ちはわかるが、慌てなくていい。

 白蘭に勝ちさえすれば、すべてが元に戻るはずだ」

「過去の話でも!?」

「おそらく。未来に送るのも時間指定ができたんだ、逆もできるだろう」

 

(できなきゃ困る……!)

 

 とんでもない事態になってしまった。

 過去でのすべてが空回りだったと知らされた恭弥は、さぞかし激昂しただろう。

 だからこそ、あんな夜更けにもかかわらず、ボンゴレアジトに乗り込んできたのだから。

 

「話が出たのは夕食中だったんだが、膳を蹴飛ばす勢いで立ち上がられてな。

 俺とディーノさんで押さえつけてなんとか宥めたんだが、就寝してから、いつのまにか部屋を抜け出していたようで」

「なるほど……」

 

 いくらなんでも、夜通し部屋の前で見張っているわけにもいかなかっただろう。

 邪魔者がいなくなってから悠々とこちらに向かったのであろう恭弥の姿を想像し、利奈はため息をついた。

 部屋着からわざわざ学ランに着替えたのだろうから、ご苦労なことである。

 

「だがまあ、そんなに気にする必要はない。

 俺もこの前、中坊の俺と間違えられて退会させられそうになったが、不問になった」

「草壁さんも……って、間違えられたんですか? 中学生に?」

「……逆はよくあったんだが。

 あのときは距離があったし、恭さんも過去から来たばかりで混乱していた。無理もない」

 

 口ではそう言いながらも、哲矢の目には諦観の色が浮かんでいた。距離や状況のせいでないことを、うっすらと理解しているのだろう。

 風紀委員の大半は老け顔である。

 

「草壁さんでもクビになったりするんですね。なんでクビになったんですか?」

「なりかけた、だ。

 メローネ基地で初対面したんだが、そのとき俺は怪我を負ったみなさんを運んでいた。

 それが群れていると認識されたらしい」

「怪我してる人を助けてただけで……?」

「……区別をしない人だからな」

 

 それはもはや、見境がないというのではなかろうか。

 常日頃見境なく群れを襲っている人だから、矛盾はしていないけれど。

 

「だが、状況が状況だからと判断されたのか、その場では俺の処罰が保留になった。

 戻ってからも沙汰はなかったし、温情をいただけたようだ」

「見逃してもらえたんですね」

「ああ。だからお前の処罰も、事と次第によっては取り消される可能性がある。

 あまり気にかけるな」 

「……無理です」

 

 気にかけるなと言われても、今日は朝からそのことばかり考えてきたのだ。

 クロームのことを考えているあいだは忘れられたけれど、解決の兆しが見えてからはずっと、昨日の件が頭をもたげていた。

 

 なにしろ、なんの弁解もさせてもらえないまま、いきなり吹っ飛ばされたのだ。

 当たり所が悪かったら、歯が折れていた可能性だってあった。

 

(よりにもよって! 顔! 女の子の顔トンファーで振り抜くとか! 防御してなかったら大惨事だったんだけど!)

 

 思い出すだけで腹が立ってくる。

 こんなにムカつくのなら、当たらないとしても髪飾りを投げつけておけばよかった。

 二秒で咬み殺されるだろうけれど。

 

「そうだ。これ、持っててもらえますか?」

 

 ブレザーの内ポケットに隠すようにしまっていた腕章を取り出し、ベッドから降りる。

 

「ん? ……持ってたのか」

「昨日回収されそうになったんですけど、そのとき持ってなかったんです。

 少し預かってください」

 

 哲矢は懐かしそうに腕章を眺めている。

 腕章は階級に関わらずみんな同じデザインだが、利奈の腕章はふちがわずかに切れている。

 ほつれるほどの傷ではないが、ほかのものとの見分けはつきやすい。

 

「わかった。ほとぼりが冷めるまで俺が預かっておく。

 俺からもそれとなく口添えしておくから、お前はしばらく様子を見ていろ」

 

 哲矢が利奈と同じようにスーツのポケットに腕章を入れたのを見て、利奈はにっこりと笑みを浮かべた。

 これで、ようやく肩の荷が下りる。

 

「ところで草壁さん。もうひとつお願いがあるんですけど」

「なんだ?」

 

 こちらに目を向けた哲矢に、見せつけるように腕を広げる。

 哲矢はこの世界の恭弥と同じように黒いスーツを身に着けているが、利奈は今の恭弥と同じように制服を身に着けている。並盛中学校の標準服を。

 

「私、制服着てるじゃないですか。行きたいところがあるんで、連れてってください」

「行きたいところ――いや、待て待て、お前まさか」

 

 哲矢の言葉を遮るように利奈は手を打ち合わせた。

 拝むようにではなく、挑むように。

 手のひらと手のひらではなく、手のひらと拳で。爛々と光る瞳で。

 

「ヒバリさんのところに連れてってください。

 あっちの頭が冷えるのなんか待ってられません。こっちから挑戦状叩きつけてきます」

 

 熱意のこもった声と揺るがぬ決意を秘めた瞳に、哲矢は天を振り仰いだ。

 激昂した利奈は、ともすれば恭弥よりも強烈だったことを思い出しながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

秩序への反乱

 ――そのときの利奈は、とてつもなく不機嫌で、とてつもなく苛立っていた。

 味方がたくさんいても、居場所を作っても、流れに抗っても、結局はなにもできない自分の無力さが、いやというほど身に染みていた。

 でも、そんな自分を嫌いにはならなかったし、泣いたり叫んだりしながらも、覚悟ひとつで現実は変えられた。

 そのきっかけは間違いなく風紀委員で、だからこそ、辞めろと言われたときにはショックを受けたけれど。

 

(不貞腐れて泣き寝入りするくらいなら、全力で行って返り討ちになってやる……!)

 

 羅列していけばキリがないほどの修羅場で揉まれた利奈の精神は、数分後に起こりえる最悪の結末を前にしても、微塵も揺らがなかった。

 

「ヒバリさんは屋上にいる。ディーノさんに連絡を取って、修行を中断してもらった」

 

 哲矢は学校の表門に停めた車の中だ。

 付き添いを断ったのは利奈だったけれど、元からついてくる気はなかっただろう。彼はシートベルトを外すそぶりを見せなかったのだから。

 

「お前は止めても聞かないからな。算段はついているんだろう?」

「それは……わかんないですけど」

 

 哲矢は利奈を子ども扱いしなかった。風紀財団職員の利奈と同じ扱いだった。

 そして利奈が風紀委員を辞める可能性なんて、微塵も考えていなかった。

 利奈が疑わないように、彼も疑わない。風紀委員に入った人間は、骨の髄まで風紀に染まっているのである。

 

(なんか変なの。なりたくてなったわけじゃないのに)

 

 それでも、自分の意思以外で腕章を外すのはいやだった。

 退会を告げられたとき、心臓が強く痛んだ。

 取り上げられるならいっそと自分の手で外したけれど、委員長に直接突き返せはしなかった。

 

 勝つ算段なんて付いていない。玉砕覚悟の一発勝負だ。

 車のドアを開けながら哲矢にそう答えたら、哲矢は苦笑いを浮かべて言った。

 

「そこまでの覚悟をもって挑めるんなら、お前は立派な風紀委員だよ」

 

 屋上のドアを開く。

 あのときは開けてすぐに引きずり込まれたけれど、今日はなにも起きなかった。

 身構えていただけに拍子抜けするが、息をついてる暇なんてない。勝負はこれからなのだ。

 

(……いた)

 

 恭弥はフェンス越しの町を眺めていた。

 表門とは違う方角だけど、恭弥なら停められた車に気付いているだろう。

 もちろん、屋上のドアを開けて利奈が入ってきたことも。

 

 ゆっくり、ゆっくりと恭弥の背中に近づいていく。

 風紀委員でなくなったから奇襲を受けてもおかしくはないが、恭弥から殺気の類は感じ取れない。

 穏やかともいえる静けさに、かえって利奈はためらった。恭弥の後ろ姿に、畏れを抱いたのだ。

 

(でも、行かなきゃ)

 

 五メートル。他人の距離だ。遠くないかと聞かれる距離でもある。

 さらに一歩、二歩、三歩でいつもの距離。もう一歩で声をかけたくなるのを堪えて、距離をなくす。

 

 フェンスが眼前に迫ったところでようやく足を止めると、見慣れているのに初めての並盛町が視界いっぱいに広がった。

 

(……全然、変わってない)

 

 あったものがなくなっていても、なかったものが増えていても、町全体の雰囲気は利奈が知る並盛町のままだった。

 利奈からすれば点と点で移動した十年でも、並盛町は線で進んでいる。

 この光景が、風紀委員の守るべき――いや、風紀委員長が財団を築いてまで守ろうとした並盛町なのだ。

 

(っと、そうだ、ヒバリさん!)

 

 初めての景色に見入ってしまった利奈が慌てて隣に目をやると、正面に向いていた恭弥の瞳が、ゆっくりと利奈を捉えた。

 

「……おはようございます」

「……」

 

 気の利いた言葉が出なくて、つい、いつも通りの挨拶をしてしまった。

 恭弥からの返事がないのもいつものことだったが、その眼差しは利奈の顔より下を向いている。

 

「腕章を持ってきたの?」

「いえ。あ、腕章は持ってないです。草壁さんに預けました」

 

 左腕を見せるべく体を捻ると、ないのを確認してから恭弥は眉をしかめた。

 

「それじゃあ、いったいなにしに来たんだい? 預けたって報告?」

「違います。ヒバリさんと話し合いをしに来ました」

「へえ」

 

 色のない相槌だが、聞く姿勢にはなっている。

それを確認してから利奈は胸を張った。

 

(よし……!)

 

 張った胸に手を当て、自信満々の笑みを浮かべる。

 

「私を、風紀委員として雇ってみませんか?

 ああ、お願いじゃなくて売り込みです」

 

 なにを言い出しているんだという言外の問いを声に出される前に、言葉を紡ぐ。

 さいわい、後先考えない言動は得意だ。

 

「ヒバリさんも知ってるでしょうけど、私、けっこう便利なんですよ。

 囮役にピッタリでしょ、捕まってもパニクったりしないでしょ、それに、最近修行積んで受け身も取れるようになったんです。

 ヒバリさんに殴られたところも、わりと大丈夫です!」

 

 そこで若干恭弥がイラつきを見せたが、手が出る前にと言葉を継ぎ足す。

 

「あと、これからに役立つと思って諜報とか潜入とか、そんな感じの勉強もしました。

 資料まとめる能力も磨きましたし、マフィアとかの専門知識もちょっとだけ覚えてます。

 事前準備や後処理がはかどりますよ!」

 

 ――白蘭抹殺訓練のかたわら、これからの風紀委員活動で活かせるだろう知識はなんでも教えてもらった。

 こちらも付け焼き刃程度にと言われたが、マフィア最高峰の暗殺部隊に直々に教わったのだ。役に立たないはずがない。

 

「あと、何ヶ月か風紀委員に入ってたので仕事とかルールとかも完璧です。

 新しい人入れて教えるより、何倍もよくないですか?」

 

 ここでようやく恭弥に発言の機会を譲るが、恭弥はなんともいえない表情で利奈を見下ろし続ける。

 呆れかえって言葉も出ないのか、ジロジロと無遠慮に見るのは止めていただきたい。素に戻ったら負けなのだ。

 

「相沢。いや、相沢利奈」

「はい」

「……君、本当にいい根性してるよね。この前も――いや、最初の方からずっと思ってたけど。一段とひどくなった」

 

(そうなった原因はだいたい風紀委員のせいですけどね!?)

 

 なにを自分を棚に上げてとは思うが、利奈は笑みを崩さずに恭弥の皮肉を聞き流す。

 この場合、褒め言葉として受け取っておくべきだろう。

 

「で、どう思います? 私をクビにするのは全然いいんですけど、抜けたとこ埋めるの面倒ですよ。

 元の世界に戻ったら今までのことなかったことになるらしいから、退会させた理由を説明しなきゃいけなくなりますし。

 私は協力しませんけど」

 

 元の世界に戻ったところでだれも利奈を庇いはしないだろうが、戦闘に参加できない利奈は多くの事務作業を請け負っている。それをすべて把握しているのは利奈当人だけだ。

 自分で辞めるわけじゃないから、仕事を引き継ぐ義理もない。

 

 ひたすら理詰めで攻める利奈に、とうとう恭弥がため息をついた。

 まだ根負けはしていないだろうが、それでも考え直させるくらいの威力はあっただろうか。

 表情を窺うが、無表情になってしまったのでまったく心情が読めない。

 

 攻めすぎただろうか。いや、超攻撃型の恭弥に挑むのなら、同じくらい攻撃的にいかなければ効果がないだろう。

 守りに入るにも、守るべきものを奪われたのだから。

 

「……ヒバリさん?」

「なんでもないよ。最初からこんなに顔が厚い生徒だったか、思い返してただけだから」

「は!?」

 

(なに言ってんの!? ヒバリさんに言われたくないんですけど!?)

 

 さすがに噛みつきたくなったけれど、ぐっとこらえて自分の頬を摘んだ。

 そして、もはや執念で笑みを作り直す。

 若干恭弥が引いたが、それはどうでもいい。こうなったら顔すら武器にしてしまおう。

 

「ふふ。厚いだけじゃなくて、広いんですよ、私の顔。

 十年後のヴァリアーとも面識があります」

「……」

 

 恭弥がピクリと動いた。ここにきて少しだけ恭弥の興味が引けたようだ。こんなに羅列して、やっとである。

 やはり恭弥には、損得勘定よりも本能に訴えたほうが効果的なようだ。

 

「イタリアでヴァリアーの屋敷にお世話になってたんです。

 だから幹部の――この前戦ったベルとかの情報も持ってます。場所もちゃんと覚えてますから、元の世界に戻れなかったときに腹いせに咬み殺しにいけますよ」

「ワオ。それは魅力的だね」

 

 吟味するように恭弥は顎に手を当てた。

 

(そこに魅力感じるんだ……)

 

 煽ったのは利奈だが、思ったよりも食いつきがいい。

 世話になった人たちを売るような発言だが、白蘭を阻止できなかった場合は世界が滅亡するので、そんな機会はそもそも生まれない。

 ずるいやり方だけど、使える手はすべて使うつもりでここにやってきたのだ。きっと雷撃隊の人たちもいい手だと褒めてくれると信じたい。

 

 考え込んでいた恭弥が、ふと思いついたように表情を変える。

 

「そうだ。

君、物覚えはいいほうかい?」

「はい? 物覚え?」

 

 なんの話だろうと聞き返す。

 

「前から構想はあったんだけど、この世界で僕は財団を作ってるみたいだからさ。

 せっかくだし、設立に使える情報を集めておきたい。僕は跳ね馬を咬み殺すので忙しいから――」

「やります!」

 

 利奈はすさまじい勢いで食いついた。

 

「物覚えいいです! やれます! やらせてください!」

「交渉成立だ。そうだな、とりあえず」

 

 顎に当てていた手がゆっくりと下りて、学ランの肩をなぞる。その手が腕章に触れ、そして腕章とともにさらに下へと下っていく。

 恭弥は袖から腕章を引き抜くと、利奈の眼前へと差し出した。

 

「これでいい?」

 

 声が出なかった。

 風紀委員の誇りである腕章を、ほかでもない風紀委員長が外したのだ。

 

「だ、だだだ、だいじょぶです! 私の草壁さんがまだ持ってますから! それはもらえません!」

 

 とんでもないと利奈は首を振った。元風紀委員としては辞退せざるを得ない。

 

「僕はいいけど、君は腕章がないと風紀委員に見えないから。

 制服着てるんだから、腕章はつけて」

「で、でもヒバリさんのつけるなんてそんな畏れ怖いこと!」

「相沢」

「はいつけます!」

 

 押し頂いて、おっかなびっくり左腕につける。

 今までつけていたものとまったく同じ物だけど、恭弥がつけていたものだと思うと恐れ多くて左腕が閉じられない。微妙に腕を上げてしまう。

 

「それとこれ。跳ね馬から押しつけられたやつ」

「ディーノさんから?」

「君に渡すようにって。さっき」

 

 渡されたのは線がついていないイヤホンだった。マイク機能も付いているのか、先端から棒が伸びている。

 試しに耳に入れてみても音はしない。

 

「この時代の通信機じゃない? 草壁も似たようなの使ってた」

「通信機……スイッチ入れてみますね」

 

 スイッチらしき突起を押すと、一回振動した。

 

(……これと似たのヴァリアーで見たな)

 

 耳に入れ直して、試しに声を発してみる。

 

「も、もしもーし」

『お! つけたか!』

 

 ディーノの声だ。

 驚くほど鮮明な音声に、技術の進歩を実感してしまう。

 

『それつけてるってことは、もう大丈夫ってことだよな! よかった、ホッとしたぜ』

「あ、はい、まあ……。その、お世話をかけまして?」

「ねえ、早く戻って来いって伝えて。どうせディーノだろ?」

「はい。ディーノさん、ヒバリさんが早く来いって」

『わかったわかった。そうだ、せっかくだからってお前にケーキ買ってきたんだよ。

 お前、この店のケーキ好きか?』

「すみません、どこのお店ですか?」

 

 テレビ通話じゃないのだから、せめて袋を見させてほしい。あと中身。

 

『悪い、店の名前忘れた! たぶん中に書いてあると思う!』

「アハハ……。じゃあ、中身教えてください」

 

 苦笑気味に尋ねると、恭弥がフェンスの外を指差した。フェンスの外、校庭の先に――

 

『ケーキとタルト! どっちもうまそうだったぜ!』

『ボス、ミルフィーユとフルーツタルトだ』

『そうそう、ミルフィーユとフルーツタルト! ここのミルフィーユ、おすすめらしい!

見えるかー!』

 

 ぶんぶんとこちらに向かって手を振るディーノと、ロマーリオの姿があった。

 利奈が風紀委員に戻ることをまったく疑っていなかったその様子に、利奈は今度こそ心から笑い、恭弥は心から仏頂面になった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

賑やかな歓迎会

 恒例の修行が始まり、利奈はケーキを食べながらそれを眺めた。

 フルーツタルトを食べながらディーノの冴えた鞭捌きに感嘆し、ミルフィーユを食べて涙を流す。

 

(お、美味しすぎる……!)

 

 風紀活動関連で美味しい物は星の数ほど食べてきたけれど、涙を流すほど感動したのはこのミルフィーユが初めてだった。

 哲矢が気を利かせて買ってきてくれた紙コップの紅茶を啜りながら、サクサクのパイ生地触感を楽しむ。

 

「相沢、このあとの予定は?」

 

 ケーキがほとんどなくなったところで哲矢に声をかけられる。

 修行の邪魔にならないように屋上の入り口の上に座っているから、動き回る二人がよく見える。

 

「ないです。夜に歓迎会がありますけど」

「そうか。なら、風紀財団の施設に顔を出してみないか? 地下にもあるが、地上にもビルがあるんだ」

「それ、初めて聞きました」

 

 雲雀恭弥ほどの悪名――ではなく名声があれば、ビルのひとつやふたつ、簡単に用意できるだろう。

 自腹を切ったのか、貯めに貯めた活動費を使ったのか、はたまた後ろ暗い人たちに金を用意させたのか。いずれにしろ、きれいなお金で建てられたものではないだろう。

 

 立ち上がった利奈は、スカートをはたいてから三百六十度を見渡した。

 さすがに並盛町すべてを一望することはできないが、この視界のどこかに、財団のビルがあるのだろう。

 

「で、どうだ?」

「行きます! 私、草壁さんとヒバリさん以外だれにも会ってないです」

「そうだな。お前の班――五班だったか。大木たちも揃ってるぞ」

「ほんとですか!?」

「ああ。並盛を出てるやつもいるが、大木に竹澤に……近藤か。その辺りはな」

 

 中学生の時の班割りを口にしながら、哲矢が車の鍵を取り出す。

 十年前の班割をよく覚えているものだと思いつつ、鍵を受け取った。

 

「先に車に乗って待ってろ。ロマーリオさんと話がある」

「ん? 今日の話か?」

「ええ。一応店の候補はあるんですが、ロマーリオさんの希望もお聞きしたくて」

 

 ロマーリオ相手だと、哲矢の敬語もしっくりとくる。

 スーツ姿の二人が端末を弄りながら話している姿は味があったが、会話を聞いていると、どうやら飲みに行く話をしているだけらしい。

 上司二人が全力で戦っているのに呑気だなと、未成年の利奈は生温い目で眺めた。

 

「――それで、未来で働いてるところに行ってたの?」

 

 手持ち無沙汰そうに視線をさまよわせながら、クロームが尋ねた。

 

「うん。結構立派なビルでね、中もすごくきれいだったんだけど、全然見る余裕なかったや。みんなすごかったから」

 

 シャツのボタンを外して、ハンガーにかける。

 それから髪飾りを外して頭を左右に振ると、視界の両端に髪が映った。

 

「……髪、伸びた?」

「そうなんだー。晴の炎っていうの浴びたら、髪とか爪とかすごい伸びたの。

 髪はいいけど、ほかの毛は伸びてほしくないよね」

 

 万能に思える活性化の力にも、思わぬ落とし穴があった。

 足に炎を当ててもらったあとにその欠点に気付いたので、そのときはすぐさま風呂場へと駆け込んだ。

 

(髪の毛も洗ったり乾かしたりするの大変だったけど、あそこのシャンプーいい匂いだったなあ。髪の毛サラサラになったし)

 

 ベッドに置いておいた長袖のインナーを頭から被ると、オレンジ色のニットを渡された。

 それもまた頭から被って、スカートの下からショートパンツを履く。

 

「クローム、制服で行くの?」

 

 部屋に戻ろうとしたらドアの前でクロームが待っていたのだけれど、クロームはいつもと同じ、おなかの開いた黒曜中学校の制服を着用していた。

 ほかのみんなは私服だから、このままだと浮いてしまいそうだ。

 

「私の着る? クロームが好きなのあるかわからないけど」

 

 片隅にある服の山を指差すと、クロームは激しく首を横に振った。

 

「大丈夫」

「一応見てみない? たくさんあるから、着てないのもいっぱいあるよ」

「う、ううん。大丈夫。気にしないで……!」

「そう?」

 

 あたふたと動揺するクロームにそれ以上勧めることもできず、利奈は着替えを終えた。

 

 いやがっているようには見えないけれど、遠慮されてしまっている。

 だいぶ打ち解けてきたと思っていたけれど、まだまだ溝は埋まっていないらしい。

 

(もっと仲良くなれるんなら、いいんだけどね。

 でも、おそろいとかやってみたかったかも……)

 

 利奈が黒曜中の制服を着ればすぐにでもおそろいになれるけれど、それをやったら、また風紀委員をクビになりそうな予感がしている。

 下手したら学校すら退学になりそうだ。おそろいの代償が恐ろしすぎる。

 

(恐ろしいっていえば、竹澤さんとか佐藤さんとかが恐かったな。

 勢いよく来るから殺されるかと思った……)

 

 腕を伸ばされて反射的に避けてしまったけれど、避けていなかったら頭が取れるほど揺らされていたに違いない。

 財団のビルに入ってから、ずっとそんな感じだった。

 

「そんなにみんな驚いてたの?」

「もうすごかったよ。……えっと、なんか私、危険な目に遭ってたみたいで」

 

 こんなタイミングで未来の自分が殺されているなんて言えるわけがない。

 利奈は適当に言葉を濁した。

 

 ――この世界の利奈は、利奈が来る前に殺されている。

 だから彼らは今の利奈の姿に亡くなった利奈を重ねて、どうしようもない気持ちになってしまったのだろう。

 

 受付に立っていた女性は、利奈を見るなり泣き出した。

 女性社員たちは悲鳴を上げながら崩れ落ちた。

 見知った委員の人たちはさすがに落ち着いていたけれど、何人かはつらそうに眉をしかめていた。

 

 相沢利奈は愛されていたのだ。

 しかし、その利奈と今の利奈は繋がってはいても別人である。

 だから彼らの傷を目の当たりにしても、利奈にはどうすることもできなかった。

 されるがまま、言われるがままに甘えることしかできなかった。

 

「お菓子いっぱいもらったの。クロームにもあとで分けてあげるね」

「ありがとう。……?」

 

 唐突に部屋のドアが開いた。

 イーピンがひょっこり顔を覗かせたと思ったら、押しのけるようにしてランボが飛び込んでくる。

 

「ランボさんが直々に迎えにやってきてやったぞー! 褒めろー!」

「ランボ!」

「ランボ君、イーピンちゃん突き飛ばしちゃだめだよ」

「突き飛ばしてないもーん! イーピンが勝手に止まったんだもーん!」

 

 ランボは全力で走ってきてしまったらしい。

 イーピンはまだ怒っていたけれど、ランボはどこ吹く風で部屋の中を走り回る。

 

「ちょっ、ランボ君、だめだってば!」

「なにこれ? もしかしてー、もしかしてー。ランボさんへのプレゼント!?」

 

 片隅に積まれた荷物に目を輝かせているけれど、それはさっきクロームに勧めた服の山である。

 

「全部私の服だよ」

「なんだー、つまんないのー」

 

 途端にはしゃぐのをやめたランボの現金さに、苦笑いしか浮かばない。

 このランボが十年後にはああなるのだから、人というのはわからないものだ。

 もしかしたら十年後の利奈も、色気たっぷりな大人の女性になっていたり――しないことは、十年経っても変わっていないというみんなの証言で理解している。ちょっと夢を見てみただけだ。

 

「んじゃ、行こっか。迎えに来てくれてありがとね」

「あ、ありがとう……」

 

 利奈に合わせてクロームがお礼を言うと、イーピンがにっこりと微笑んだ。

 クロームも頑張って微笑むから、あまりの微笑ましさに利奈の頬も緩む。この調子でどんどんみんなと仲良くなってほしい。

 

 四人で食堂に行くと、もうすでに全員が揃っていた。

 

「――えっと、それじゃあ、笹川先輩へ十年後の世界へようこそと、イタリアから来てくれたバジル君と相沢さんにいらっしゃいで――乾杯!」

「乾杯!」

 

 たどたどしい綱吉の音頭とともに、歓迎会の幕が開く。

 今日はみんなグラスに好きな飲み物を注いでいるし、立食パーティーだから椅子もない。

 好きなものを好きなだけ食べられるし、好きに動いてもいい。

 

「クロームちゃん、来てくださったんですね! 体調はもう大丈夫ですか?」

「……あっ」

 

 すぐさまやってきたハルと京子にクロームが焦り出す。

 好物を皿に取っていた利奈は、クロームに袖を掴まれてやっとそれに気付いた。

 

「来てくれてありがとう。

 ほんとはクロームちゃんの快気祝いにもしたかったんだけど、クロームちゃん、参加できるかわからなかったから。

 だから、クロームちゃんも怪我が治っておめでとう」

 

 京子がグラスを差し出すと、ハルも同じようにグラスを掲げた。

 

「……っ」

 

 クロームに目で助けを求められる。

 引っ込み思案な妹ができたような気持ちになりながら、利奈は二人に同調するようにグラスを持った。

 

「じゃあ、クロームが元気になったお祝いに――かんぱーい!」

「かんぱーい!」

「えっ、あ、……かん、ぱい」

 

 コチンっと控えめにグラスが音を立てる。

 クロームは真っ赤な顔で縮こまってしまったけれど、京子たちはニコニコと顔を見合わせている。

 

「ところで、ハルさん?」

「はひ?」

「京子とクロームはちゃん付けなのに、なんで私はさん付けなの?」

 

 共同生活を一緒に暮らしている京子がちゃん付けなのはわかる。

 でも、ほとんど話したこともないクロームがちゃん付けされているのに、なぜか自分だけさん付けされているのには引っかかっていた。

 

 キョトンとした顔のハルにむうと唇を尖らせると、ハルはあれ? と首を傾げた。

 

「そ、そういえばそうですね。全然気付きませんでした……。

 あれ、利奈さんはなんて呼んでくださってましたっけ?」

「ハルちゃん。そだ、ハルって呼んでもいい? そっちの方が呼びやすいんだよね」

「いいですよ。えっと、じゃあハルは――利奈ちゃん、でいいですか?」

「もっちろん」

 

 早々にわだかまりが解けたところで、利奈はようやく好物のクリームコロッケを口に運んだ。

 さっくりとした衣にトロッとしたクリーム。噛むたびに混ざり合って、頬が落ちそうになる。

 

「これも二人が作ったの? すごいね!」

「利奈が好きって言ったでしょ。作ったことなかったから、レシピ見ながら頑張ったんだよ」

「一緒に唐揚げもたくさん揚げたんですよ。やっぱりご馳走に唐揚げは外せませんし!」

「人気だよねー。いっぱい作ってよかったあ」

 

 唐揚げの山はみるみる小さくなっている。男子が次々と皿に持っていくからだ。

 なくなる前にとひとつ頂くと、ジュワッとした肉汁とニンニクの香りにまたもや破顔した。

 二人とも、今すぐにでもいいお嫁さんになれるだろう。――それにひきかえ。

 

「私、たぶん作り方見ても作れない……」

 

 焦がすか生焼けにする未来しか見えない。

 二人との差にしょんぼりしていたら、きれいな手に肩を叩かれた。 

 

「心配しなくても、練習すれば作れるようになるわよ。

 私も愛する男のために腕を磨いたものだわ」

「ビアンキさん」

 

 大人の笑みを湛えるビアンキに顔を上げる。

 十年経ったビアンキは美しさにますます磨きがかかっていて、同性でもドキッとしてしまう。

 

「そうですよ! 料理は愛情です!」

 

 力強く同意するハル。

 

「好きな人のために作ってたら、自然と上達しちゃうものです。

 かくいうハルも、いつも愛情をたっぷりと注いでますよ!」

「へえ……」

 

 確かに、好きな人に食べてもらうためになら頑張れそうだ。

 綱吉がいるから、毎日一生懸命に努力しているに違いない。

 

「ラブの力は何物にも勝る力なんです! ハルはいつもツナさんのことを想って――」

「え、俺がなに?」

 

 当然といったら当然だが、自分の名前を聞きつけた綱吉がこちらに顔を出した。

 ハルの目が真ん丸に見開かれる。

 

「あ、沢田く――」

「はひいいいいいい!」

「ぎゅふ!」

 

 悲鳴を上げたハルに飛びつかれ、利奈は奇声を発した。

 皿の上のシュウマイが落ちそうになる。

 

「ふ、ふふふ不意打ちは卑怯です! ハルのハートがオーバーヒートしちゃいます!」

「ハル、私も死ぬ゛からやめで……!」

「お、おい! ハル、やめろ! 相沢さん痛がってるから!」

「ツナさんが悪いんです! 乙女の会話を盗み聞きするから!」

「はあ?」

 

 どちらかというと、当人がいる場所で乙女の会話を始めたハルに非がある。

 しかし利奈は呼吸をするので精いっぱいだった。

 

「どうした。愛人同士の揉め事でも起こしたのか、ツナ」

「リボーン!? やめろよ、そういうドロドロした冗談!」

 

(それだと私、嫉妬で殺されるやつ!)

 

 とはいえ、赤ん坊のリボーンが来たからか、ハルはようやく落ち着きを取り戻した。

 

「まったく、ツナさんはいつでもドキドキさせるんですから」

「そういうのやめろよ。お前が勝手に暴走しただけだろ」

 

(暴走っていったら、笹川先輩危なかったな)

 

 勢いに任せて打倒ミルフィオーレ・白蘭を掲げ、すかさず隼人に羽交い絞めにされていた。妹には黙っていてくれと土下座までしたのはなんだったのか。

 

 それからは適度にみんなと話して、適度に料理を頂いた。

 歓迎会も半ばといったところで、クロームに控えめに袖を引かれる。 

 

「……私、部屋に戻る」

 

 人の多さに疲れたのだろう。少しぐったりとしていた。

 

「一緒に行こうか?」

「ううん、大丈夫」

「そう? あっ、皿なら私片付けるよ。ゆっくり休んで」

「うん。……ありがとう」

 

(無理させちゃったかな。料理はちゃんと食べてたけど)

 

 皿の上の料理はきれいに完食されているし、グラスも飲み干されている。

 疲れているだけだろうと判断して、利奈は空の食器を流しに運んだ。

 

 流しにはすでに空になった大皿やトングなどが置かれている。水で軽く汚れを落とし、ほかの食器と一緒に水につけこんだ。

 こうしないと汚れがこびりついて落ちにくくなると、母親に教わっている。

 

 蛇口を締めてから、後ろに人が立っているのに気付いた。

 水の音で足音が聞こえなかったが、利奈が終わるのを待っていたようだ。

 

「あ、食器もら――う、けど」

 

 言葉が途切れる。出しかけた手が引っ込む。

 後ろに立っていたのは、冷戦状態のはずの隼人だった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本音は率直に

 人の顔を思い切りひっぱたいたのは、昨日が生まれて初めてだ。

 叩いたときの乾いた音や、ジンと痺れた手の感触。なにより、炎のように燃え上がった怒りが記憶に色濃く残っている。

 

 自分のしたことに後悔はない。

 それだけのことを隼人は言ったのだし、あのときはああしなければ気が収まらなかった。

 

(――のは、間違いないんだけど)

 

 叩いた側の利奈はそれでいい。

 しかし、叩かれた側の隼人ははらわたの煮えくり返るような思いでいただろう。

 

 現に隼人は仏頂面だし、視線は斜め下に向いている。

 それなのにどうして目の前――いや、背後に現れたのか。

 

(ただの偶然?)

 

 隼人は空の皿を手にしていた。

 利奈がいると知らずに片付けにきて、運悪く鉢合わせただけかもしれない。

 

「……食器ちょうだい」

 

 引っ込めた手を戻すと、隼人は無遠慮に皿を突き出してきた。

 その態度にいささかムッとしながらも受け取って、先ほどと同じ要領で汚れを落としていく。

 

(えー、戻らないの……)

 

 いまだ感じる気配に若干身構えつつも食器を片付け終えた利奈は、備えられたキッチンタオルで手を拭いて振り返った。

 わざと時間をかけて終わらせたのに、隼人は身じろぎもせずにそこにいた。

 

「……なにか用?」

 

 声が強張る。

 

「べつに」

 

 隼人の声も硬い。

 しかし、用が済んだのにみんなのもとに戻ろうとはしなかった。

 

(なにかあるのかな。喧嘩の続きがしたいってわけじゃなさそうだし……じゃあ、あれとか?)

 

「あの……獄寺君?」

 

 一考した利奈は、もしかしたらと見当をつけながら口を開いた。

 

「んだよ」

「えっと……き、昨日はごめんね?」

 

 報復が目的でないのなら残るは謝罪だろうと、利奈は恐る恐る謝罪の言葉を口にした。

 そしたら隼人がやっとこちらに顔を向けたので、これが正解だったかと言葉を続ける。

 

「いきなり叩いたりしてごめん。

 ちょっとやりすぎたっていうか……口喧嘩してんのに叩くのってズルいよね。痛かった?」

「べつに」

 

 やけに食い気味な返事だった。

 腰を入れて振り抜いたからそれなりの威力はあったはずだが、隼人の性格だと痛くても言わないだろう。

 

「ほんとにごめんなさい。もうしないから、許してくれると嬉しいんだけど」

「……許すもなにも」

 

 それだけ言って、隼人はまた目を逸らした。

 微妙な間だけが空いて、みんなのはしゃぐ声が遠く響く。

 

(……あれ、謝ってほしかったんじゃなかったの?)

 

 謝ったにもかかわらず、まだ隼人は立ち去らない。

 どうやらこれもハズレだったようだ。

 

「……私、戻っていい?」

 

 これ以上は思いつかないので匙を投げようとしたら、隼人が大きく舌打ちをした。

 とてつもなく感じが悪い。

 

「お前はいいのかよ」

「え?」

「……お前は俺に言いたいことはねえのかって聞いてんだよ!」

 

(私が?)

 

 そう言われても、言いたいことはすでに伝え終わっている。

 あのとき言ったことがすべてで、叩いたことについては謝るけれど、主張については曲げるつもりはない。

 

 京子が今、了平と笑っていられるのは、事情をなにも知らないからだ。

 兄が戦いに巻き込まれるとわかっていたら、歓迎なんてできるわけがない。

 

 しかしだからといって、事実に蓋を被せて笑顔を守るのは違う。

 京子たちから見て綱吉たちが大人なら、あるいは綱吉たちから見て京子たちが子供なら、まだ納得できるところもある。

 この世界の綱吉たちが事情を隠していたのを、利奈が恨んでいないのと同じように。

 

(でも、今の綱吉君たちはそうじゃない。知られたくないから隠してるだけ)

 

 みんな一緒にこの世界に引きずり込まれて、一緒に生活している仲間なのだ。

 女の子だから。戦うわけじゃないから。マフィアじゃないから。そんな線引きで隠される筋合いはない。

 

(って言ったら、また喧嘩になっちゃうんだよなあ……)

 

 歓迎会の空気に水を差すわけにもいかないから、押し黙るしかない。

 するとそれが気に食わなかったのか、隼人が詰め寄ってくる。

 

「昨日あんだけ言ったくせになんで今日は黙んだよ! お前は理由もなく人をぶん殴るのか!?」

「ぶっ、ぶん殴ってない! 叩いただけじゃん!」

 

 拳と手のひらでは威力も印象もだいぶ変わる。

 そもそも、利奈が拳で殴るとしたら鼻かこめかみを狙うし、その場合、事態はもっと深刻なものになっていただろう。

 

「同じだバカ! 女のくせにめちゃくちゃ鋭い一発放ちやがって! このバカ! 風紀バカ!」

「それはヒバリさんでしょ! ……待って、嘘、今のなし、なしね」

「どうでもいいんだよ、んなこと!」

 

 いや、どうでもいいわけがない。

 風紀委員のだれかに聞かれたら、また頭がへこみそうになる一撃をお見舞いされてしまう。

 

「あー! 獄寺さんが利奈ちゃんイジメてます!」

 

 必死に口留めをしようとしていたら、こちらの様子に気付いたハルが大きな声を出した。

 それによってほかのみんなの視線も集まって、一気に注目の的となる。

 

「獄寺ぁ! お前、また女子をいじめているのか!」

「また!? またってなんですか!? 利奈さんいじめられてるんですか!?」

「あ、ううん、全然――」

「んなわけねえだろアホ女! 言いかがりつけてくんじゃねえ!」

「あ、アホ女!? ツナさん! 獄寺さんがひどいですー!」

 

 誤解を解こうとした言葉が庇う相手に遮られ、そのうえまた新たな火種を巻かれた。

 上級生として場を収めようとしてか、了平がグイっと腕をまくる。

 

「むむ! 昨日も思っていたが、獄寺は女子に対する態度を極限に改めるべきだぞ!

 昨日も相沢の胸ぐらを掴んでいただろう!」

「バカ、それは――」

「そんなことまでしてたんですか!? デンジャラスです! とってもデンジャラスです!

 利奈ちゃん、早くこっちに逃げてください!」

「え、でも――」

 

 了平が火に油を注いでいくせいで、話がどんどんややこしくなっている。

 否定しようにもハルに腕を引っ張られ、利奈はそのまま隼人から庇うように了平の背中に隠された。

 これでは本当に隼人が悪者である。

 

「隼人」

「ウゲッ」

 

 隼人の姉であるビアンキが、サングラスの縁を光らせて隼人を睨みつけた。

 カエルのような声を出す隼人につかつかと歩み寄ると、毅然とした態度で腕を組む。

 

「どういうことか、説明しなさい」

「う、うっせえ! 姉貴は関係――」

「隼人。話しているときは目を見なさい」

 

 目を逸らした隼人に顔を近づけ、ビアンキはゆっくりとサングラスを取った。

 その瞬間、綱吉だけが息を呑んだのだが、それに気付く人はいなかった。すぐさま隼人が卒倒したからだ。

 

「っ、隼人!」

「はひ!? ご、獄寺さんがああ!」

 

 それはそれは見事な倒れ方だった。

 棒のように直線で倒れた隼人だったが、今度は床の上でおなかを抱えて苦しみだす。

 

「獄寺どうした!? 熱中症か!? 今は秋だぞ!」

「ちんだ? 獄寺のアホたれ、ちんだ?」

「大変! 早く医務室に連れて行かなくちゃ! ねっ、ツナ君」

「う、うん……。それよりビアンキ、サングラスを!」

「今はそれどころじゃないわ! 隼人を医務室に!」

「ええ……あ、ちょっと!」

 

 ビアンキが隼人の体を起こそうと手を伸ばすと、隼人は首を横に振りながら後退った。

 トドメを刺そうとする殺人鬼から、必死に逃げているかのようだ。

 

「く、来るな! 来るなあ!」

「こんなときに恥ずかしがってる場合じゃないでしょう。

 ほら、いいからおとなしくしてなさい」

「ぐふっ、そうじゃねえ、そうじゃねえんだよ……!」

 

(なにがそうじゃないんだろう……)

 

 綱吉や武が連れて行くというのも聞かずに、ビアンキが隼人を医務室まで連れていった。

 結局、隼人がなにを言いたかったのかわからずじまいのまま、歓迎会は終了した。

 

 

__

 

 

 さっぱりしない後味が残ったものの、利奈は京子たちと一緒にお風呂に入った。

 クロームにも声をかけようとしたけれど、すっかり疲れ切ったのか熟睡していたから、そのままなにもしないで戻ってきた。

 ランボはいつも女風呂に入っているそうで、タイル張りの風呂場を駆け回っている。

 

「ぐぴゃーん! からのー、どぼーん!」

「ランボ! ダメ!」

 

 水しぶきを上げながら湯船に飛び込むランボは、ひとときも目が離せそうにないくらい危なっかしい。

 つくづく、十年のあいだになにがあればあのランボに成長するのかと、疑問がつきなかった。

 

「利奈ちゃん」

「あ、ごめん」

 

 ついうっかりランボに気を取られてしまった。

 顔にぴしゃりとお湯をかけながら、ようするにとまとめに入る。

 

「私が先に獄寺君叩いて、それで首元掴まれたの。

 だから、京子のお兄さんが言ってたみたいにいじめられたりはしてないよ」

 

 隼人に対する誤解だけは解かねばと、湯船に浸かってから昨日の出来事をかいつまんで説明した。

 叩いてしまった原因については、隼人になにも知らないくせに知ったような口を利くなと言われて頭に来たから、という理由がそのまま使えたのでそのまま使っている。

 

「そっか、そうだったんだ。……もう、お兄ちゃんったら」

 

 むうっと京子が頬を膨らませる。

 

 男子は男子で武が釈明してくれているだろう。

 京子たちを待っているあいだに会ったので、バジルやフゥ太に説明してもらうよう頼んである。

 

「うう、ハルもちょっと勘違いしてしまいました。獄寺さんはなにもしてなかったんですね」

「うん。私が謝ってただけなの。最後ちょっとまた喧嘩しそうになったけど」

「獄寺、ステーンて! ステーンって倒れた! うぷぷ、獄寺ざまーみろー!」

「うん、ランボ君はちょっと落ち着こうね。どうやって浮いてるのそれ」

 

 はしゃぐランボは顔だけが水面に浮いている。

 イーピンも器用に泳いで体を浮かせているけれど、ランボの場合はなにもしていないのに浮かび上がっていた。

 

「あの子、いつも一人だったから人と話すのに慣れてないのよ。

 だから自分から話そうとすると喧嘩腰みたいになるの。勘弁してあげて」

 

 ビアンキはゆったりとお湯に浸かっている。

 このなかで唯一大人の女性なだけあって、服を着ていなくても堂々としたものだ。

 

「はい、それは。私こそ、叩いたりして……」

「いいのよ。あの子は少し痛い目を見ないとわからないでしょうから」

 

 姉らしい寛容さを見せるビアンキ。

 弟がいきなり中学生に戻ったのに、まるで昔からそうだったみたいな態度だ。

 この時代の綱吉たちもそうだったけれど、大人になると大抵のことには動じなくなるのだろうか。

 

「……ねえ、利奈」

「うん?」

 

 京子の方を向くと、京子は戸惑いがちに瞳を見つめてきた。

 

「利奈は、なにも知らないくせにって獄寺君に言われたんだよね。それって、この世界のこと?」

「……うん?」

 

 湯船でだらけきっていた利奈は、急な冷や水に思考が固まった。

 

「利奈は私たちよりも先にここに来てたんだよね。

 だったら、この世界のこともちゃんと知ってるんじゃないかなって」

 

 リラックスタイムでまさかの質問である。

 逃げ場どころか援軍も期待できない状態で、そんな重要な質問をされるとは思っていなかった。

 いつのまにか、ハルもじっとこちらを見つめている。

 

(どどど、どうしよう。なにも知らないって言ったら変だよね!? 嘘ついてるって思われるよね!? そのせいで嫌われちゃったりしたらどうしよう!)

 

 正直に話せないのはわかっているけれど、嘘をついていると気付かれたら二人の信頼を失ってしまう。

 かといって、知っているけれど話せないなんて言ったら、それこそ不信感を抱かれるだろう。

 

 男友達を取るか、女友達を取るか。

 それだったら女友達を取るけれど、利奈が話したせいで二人と綱吉たちの間にヒビが入ったら。いや、そんなことより、二人の心にヒビが入ってしまったら。

 

 突然降ってきた究極の二択に凍りついていたら、ひょんな方向から助け船が入った。

 

「大丈夫よ。二人とも、貴方に説明してもらおうとは思ってないから」

「えっ……?」

 

 ビアンキの言葉に素っ頓狂な声が出てしまう。

 

「この子たちは、ツナたちから聞きたがってるの。

 隠そうとしているのはあの子たちだから」

「そうなの?」

「うん、そうなんだ」

 

 いつもと違う、凛とした京子の瞳に吸い込まれそうになる。その瞳には覚悟が滲んでいた。

 

「みんなが私たちのことを想って秘密にしていることはわかってるの。

 でも、みんながボロボロで帰ってきて、お兄ちゃんも過去から来て。もうなにも知らないままでいたくないの」

「そうです! ツナさんたちを信じて修行のあいだ頑張って家事をしていましたが、一緒に住んでいる以上、ハルたちにも知る権利があります! みなさんだけがつらい思いをするなんて、不公平です!」

「……」

 

(二人とも、すごい)

 

 利奈が思っている以上に二人は強かった。

 こんなに強い意志を胸に秘めていながら、みんなの前ではいつもと変わりないように振るまっていたのだ。

 

「それでね。私たち、明日みんなにお願いしようと思ってるの。この世界のことを教えてって。

 だけど利奈がどう思ってるかわからなかったから、気持ちを聞いておきたくて」

「ですから、知っているのならそれでいいんです。

 ハルたちはあくまで、ツナさんの口から説明してもらいたいので」

「……」

 

 ――二人に尋問されると思ったさっきの自分を叩きたい。

 二人がそんなズルいやり方をするわけがなかったのに。

 

「……ごめんね。私、全部知ってた」

「そっか」

「黙っててごめん」

 

 申し訳なさを感じながら謝ると、お湯の下で京子に手を取られた。

 

「謝らなくていいよ。利奈は話した方がいいって思ってくれてたんでしょ?」

「うん。……え、なんでわかるの?」

「だって、獄寺君を叩いちゃうほど怒ったって言ったから。

 利奈がそんなに怒るのってその人が間違ってるって思ったときだろうから、それで怒ってくれたんだろうなって」

「……あ」

 

 隠したつもりが全然隠せていなかった。

 恥ずかしくなって下を向く。

 

「そうだったんですね……! ハル、感激ですー!」

「わ、きゃあっ!」

 

 感極まったハルに飛びつかれ、湯船の底に沈む。

 

「プハッ!」

 

 息を吐きながら体を起こすと、一緒に沈んだハルが犬のように頭を振っていた。

 頭からタオルが取れて、水しぶきが舞う。

 

「ええい!」

 

 悪戯心が芽生えてお湯を掛けると、ハルはビクッと体を震わせた。

 

「ひゃ。お返しです!」

「それそれー!」

「うふふ、じゃあ私も!」

「ランボさんもやるー!」

「イーピン、も!」

 

 それからお湯の掛け合いが始まった。

 あまりにも大はしゃぎしすぎたせいで、長風呂から上がるころにはビアンキ以外の全員がゆでだこのように真っ赤になってしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

同時解決

 

 立てかけた鏡の前に、身支度道具を並べていく。

 黄色の櫛にいつもの髪飾り、黒い髪ゴム、数本のUピン。

 鏡を見ながら念入りに髪をとかして、とかしながら髪の毛をまとめていく。首の角度を変えて、歪んでいないかのチェックも忘れない。

 櫛を置いた手で髪ゴムを取り、頭の高い位置できつく束ねる。その束ねた髪をゴムの周りでくるりと巻いて、髪飾りで刺して固定。

 

(よし、ここから……)

 

 Uピンはビアンキにもらったもので、使うのはこれで二回目だ。

 走るときに髪が揺れて重いと話したら、髪をまとめるときに使いなさいと渡された。

 指先に神経を集中させて髪を固定するけれど、鏡に映らないから、きれいにできてるかはわからない。

 

(昨日は走ってる途中に壊れちゃったからなあ。

 きつく留めておかなくちゃ)

 

 ゆさゆさと髪を揺すって髪飾りがずれないことを確認し、ようやく鏡の前を離れる。

 今日も今日とて走り込みだ。

 

(雨だったり寒かったりしないのはいいけど、ずっと同じ景色なのは飽きるよね。

 何周目だかわかんなくなっちゃうし)

 

 武とも昨日、入浴前にそんな話をした。

 毎日の走り込みは欠かしていないけれど、グラウンドの土の感触が恋しくなるらしい。

 

(バットの代わりに刀振ってるって言ってたな。あれってどっちの意味だったんだろ。

 バットみたいに振ってるってこと? 竹刀みたいに振ってるってこと? たぶん、竹刀みたいに振ってるんだろうけど)

 

 そんなことをぼんやりと考えながらストレッチを終え、部屋を出る。朝でも夜でも空気の質は変わらない。

 みんなが寝ている階層で走り込みはできないから、だれもいない、長い廊下のある階で走っている。

 武は別の階なので、人と出くわしたりはない。はずだったのだが――

 

「……なにやってんの」

 

 待ってましたと言わんばかりに壁に寄りかかっていた隼人に、エレベーターの中から声をかけた。立ち姿からして、今来たばかりでないのは明白だ。

 とりあえずエレベーターから降りると、無言で近づいてきた隼人に頬を摘まれた。

 

「いひっ」

「お! ま! え! お前のせいでひどい目に遭ったじゃねえか!」

「いひゃひゃひゃひゃいひゃはぅい!」

 

 ぐいっと引っ張りながらねじられ、利奈は甲高い悲鳴を上げた。

 

「あんときいなかったやつらに、どんな目で見られたと思ってんだ!

 説明しようにもあの芝生バカが邪魔するわ、姉貴で腹が痛いわ!」

「ごめ、ごえんなひゃい、手やめ、いひゃい!」

 

 ぐいぐいと顔を近づけながら間近で睨みつける隼人は、相当怒っているようだ。つねる力も容赦がない。

 

(ほっぺた! ほっぺた取れる!)

 

 痛みに耐えかねてつねっている手を叩くが、隼人が手を放す気配はない。

 利奈はやむを得ず、空いている右手の腹を水平に脇腹に打ちつけた。

 

「グフッ!」

 

 うめき声とともにようやく隼人が手を放し、利奈は一歩下がりながら左頬をさすった。

 

「いったあ……手加減してよ、もう!」

「それ、お前が言うのかよ……!」

 

 脇を押さえながら隼人が訴えるが、先にやったのは隼人だ。反撃に備えなかったのが悪い。

 レヴィだったら空いている手で弾くか、腹に力を込めて攻撃をやり過ごしていただろう。

 

「私のせいっていうけど、あれは獄寺君が大声出したせいじゃん。私がかばう前に倒れちゃうし。なんで倒れたの?」

「だから、それは姉貴が――」

「ビアンキさんが?」

「……はあ。もういい」

 

 説明が面倒になったのか、引き下がられた。

 それにしても、文句を言うためにわざわざこんなところで待ち伏せするなんて。

 みんなの前でやればまた騒ぎになっただろうが、根に持ちすぎではないだろうか。

 

「ちゃんと女子には私が悪かったって説明したから。

 私が先に叩いたことも言ったし、二人とも納得してくれたから、それでいいでしょ」

「……殴った理由はなんて言ったんだよ」

「だから殴ってないって。

 嘘つくのあれだから、なにも知らないんだから黙っとけって言われてムカついたって言っといた」

 

(ムカついたくらいで人叩いたりしないけど、それ以上は言えないし)

 

 説明するたびに簡略化していくせいで、理由がどんどん単純化してしまっている。

 恨みがましく隼人を見つめるが、隼人は何事かを考えていて目が合わない。

 

「獄寺君」

「……んだよ」

 

 呼びかけてやっとこちらを向いた。

 人に話だけ振っておいて、返事もなく黙り込むのはやめてほしい。 

 そのうえ、話を切り上げようとすれば食い下がってくるのだから厄介だ。

 

「……」

「だからなんだよ」

 

 こうなったら耐久戦だ。無言のまま、隼人の言葉を待つ。

 

「おい」

 

 じっとりとした視線を送り続ければ、隼人は眉間に皺をよせた。

 ぴくぴくと眉を動かし、口元をひきつらせ――

 

「……だあっ、クソ! 言えばいいんだろ!」

 

(あ、勝った)

 

 わりと簡単に折れてくれてよかった。

 隼人はグシャグシャと髪を乱しながら、観念したように口を開く。

 

「いいか、一度しか言わねーからな! この前言ったことは訂正する!」

「……どれ?」

「どっ――お前が今言ったやつに決まってんだろうが!

 お前は無関係じゃねえし、俺たちに関わる筋合いがある! それで文句ねえだろ!」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴る隼人は、怒ってるのか恥ずかしがってるのかよくわからない。

 一度しか言わないと言われたからよく反芻して、そして利奈は首を傾げた。

 

「……謝ってくれてるの?」

「んなわけねーだろ! ふざけてると果たすぞ!」

 

 違ったらしい。

 でも、早朝からこんなところで待ち伏せてまで言おうとした言葉がそれならば、それはもう、謝罪と言っていいのではないだろうか。

 それを言ったらまたこじれそうだから、言わないけれど。

 

「……わかった。じゃ、その話もう終わりにするね」

「あ? お前が勝手に決めんじゃねえ」

「続けるの?」

「……ふん」

 

 憎々しげに鼻を鳴らして隼人が去っていく。

 エレベーターが閉じる前に手を振ってみたら、すかさず親指を下に向けられた。調子に乗るなといわんばかりに。

 

 こうして、二日前の喧嘩は解決した。

 そしていいことというのは重なるもので、調理場に向かった利奈は、そこで和気あいあいとする四人の姿に目を瞬くこととなった。

 

「クロームちゃんって黒曜中学校なんですよね! どんな学校なんですか?」

「……わからない。私、通ったことないから……」

「そうなんですか!?」

「黒曜中学校の制服、おしゃれでかわいいよね。ブレザーでもセーラーでもなくて、ちょっと兵隊さんみたいな」

「わかります! ボタンが左右にあるのいいですよねー。男性用は学ランですけど、一目で黒曜中学校のだってわかります。

 そういえば、クロームちゃんの服はおなかが開いてますよね。あれはいったい?」

「……わからない。最初からああだったから」

「制服の形が選べるのかな。夏だったら涼しいかも?」

「はひい、ハルはちょっとおなかが開いた服は……お父さんに怒られちゃうかもしれません」

 

 食事の支度をしながら談笑している。

 二人はいつもと変わらずで、クロームは少し縮こまりながらも、二人と目を合わせて会話をしていた。

 それを眺めながらトマトのへたを取るイーピンと、まだ寝足りなかったのか、椅子の上でうたたねをしているランボ。

 和やかな光景ではあるが、いつのまに二人はクロームとの距離を詰めたのだろうか。

 

(昨日の歓迎会はそんなだったし……私が走ってる間に?)

 

 クロームが誘ったとは思えないから、二人が朝食の準備に誘ったのだろうか。

 若干の疎外感を感じながら近づくと、イーピンがいち早く振り返った。

 

「利奈!」

「あ、おはよう、利奈」

「おはよーございます!」

「おはよう……」

「みんな、おはよー」

 

 みんなに合わせて腕をまくる。

 美味しそうな味噌汁の匂いが立ち込めていた。

 

「来るの遅すぎた? そろそろご飯作る時間かなって思ってたんだけど」

 

 ほうれん草は茹で上がってるし、ウインナーと目玉焼きもすでに皿の上。

 あとは料理を机に並べて、ご飯と味噌汁を盛りつけるだけだろう。

 

 京子がクロームに目をやって、クロームが小さく俯いた。

 

「クロームちゃんが先に来て、やっててくれてたから」

 

 クロームを見ると、より一層クロームは縮こまった。

 彼女から歩み寄ったらしい。

 

「昨日の片付けするから来なくていいって言ったのに」

「朝ご飯は違うでしょ。私、たぶん昼は出掛けちゃうだろうし」

「そうなんですか? あれ? 出掛けるって、どこに?」

「ヒバリさんの――あー、覚えてる? 遊園地でハルを説教した先輩」

 

 それを聞いた瞬間、ハルがキュッと唇を引き結んだ。

 どうやら、しっかりと覚えていたようだ。

 遊園地で地面に正座させられたのだから、忘れようとしても忘れられないだろうけれど。

 

「ヒバリさんに手伝い頼まれてるの。

 この時代のヒバリさんは草壁さんの上司で、ついでに未来の私の上司だったんだって。

 一回ちらっと見ただけで、もう入れ替わっちゃってるんだけど」

「へえー! 利奈、ヒバリさんと同じ会社で働いてたんだ」

「それより、ヒバリさんもこの世界に来ているんですね。初めて知りました……!」

 

 にわかに背筋を伸ばしたハルに、京子が不思議そうな顔をした。

 恭弥の名前を聞いて動じずにいられるのは、京子くらいだ。

 そんな京子だからこそ、風紀委員になった利奈にも優しく接してくれたのだろう。

 

(うんうん、沢田君が好きになるのもわかるよ)

 

 京子ならきっと、綱吉たちの事情を知っても受け入れてくれる。

 ハルだってそうだ。ただの同級生だった利奈ですらどうにか受け入れられたものを、綱吉に好意を寄せているハルが拒むわけがない。

 それに、彼女たちは覚悟を決めている。

 

(うん、だから大丈夫。だから、いいよね)

 

 利奈は二人の背中を押した。最大限、二人の要望に応えると約束した。だから――

 

「そういえば、部屋の壁と同系色の布、見つかったんです。

 あとは内側に持ち手を縫い付ければ、隠れ身の術用マントが完成しますよ!」

 

 ――だから、彼らがこれから使うであろう部屋の場所と、入室方法。

 それから、隠れられそうな場所と気配の消し方などを二人に伝授した件については、ご容赦願いたい。

 

(ちょっと協力しただけだから! 悪いとは思ってるから! みんながちゃんと話したら謝るから!)

 

 昨日は眠くなるまで二人の部屋にお邪魔していた。

 そのとき、二人が潜入計画を立てていると聞いて、ついつい知っている情報を話してしまったのだ。

 隼人が夕食時に謝ってくれていたら、部屋の場所を伝える程度で終わらせていただろう。

 タイミングの悪さと隼人への後ろめたさで、利奈は話してしまったことを若干後悔していた。

 

 

__

 

 

(結局話さなかったな、みんな)

 

 京子たちに前持って伝えておいたとおり、午前から午後まで風紀財団で書類と格闘していた利奈は、彼女たちがストライキを始めたことを、綱吉の口から聞いた。

 ストライキについては入れ知恵していないけれど、途方に暮れる綱吉に、罪悪感をチクチクと刺されはした。

 

 一方で女子チームはというと、こうなることを想定してみんなが修業をしているあいだにお弁当を作っていたので、今日は京子たちの部屋でキャッキャとご飯を食べた。

 大人の男性たちもこちらのチームに入っているそうで、弁当は彼らにも配られている。

 自分たちのボスを差し置いて食事を確保しているのだから、大人はズルい。

 

 そして調理に参加しなかった利奈は、その代わりとして大人たちから弁当箱を回収する仕事を請け負った。

 ジャンニーニとフゥ太、ビアンキ、そしてリボーンからは回収している。残るはディーノ、スパナ、正一だ。

 

(ディーノさん、また食べ物こぼしてなければいいんだけど)

 

 恭弥の修業が落ち着いたのか、朝食時、ようやくディーノがこちらに姿を現した。

 そして一緒に朝食の席に着いたのだけど、そのときのディーノの散らかしようはすごかった。

 箸で掴んだ先からウインナーが飛んでいくし、ご飯も口に運ばれる前に大半が机に落ちた。口をつけて飲めばいいだけの味噌汁のワカメですら飛び出したし、ディーノの口に入ったものより、机に落ちたものの方が多かっただろう。

 ランボだってここまでひどくはない。

 

(ハルがお箸使いづらいですよねってスプーン渡してたけど、それでもこぼしてたもんね。

 お弁当はおにぎりとか唐揚げとか手で摘めるやつだけど、持った瞬間に落としてそうで怖いな……)

 

 綱吉が、ディーノは部下がいないとドジになると言っていたけれど、あながち冗談ではなさそうだ。

 すっころんで砂まみれになったり、牛乳をこぼしたり、エンツィオをプールに投げ飛ばしたりと、思い当たる節はいくらでもある。

 日本に来るまでは絶えず部下がそばにいたけれど、もしいなかったら、日本に到着できていなかったかもしれない。

 

「失礼しまーす」

 

 ディーノは修業部屋にいた。

 そこにロマーリオの姿もあって、利奈はほっと胸を撫でおろす。

 

「おお、利奈か。どうした?」

「お弁当箱の回収に。もう食べました?」

 

 弁当箱はふたつ置かれている。

 だれもロマーリオについて触れていなかったから、ふたつともディーノのぶんだったのだろう。恰幅のよいジャンニーニも、弁当箱はふたつだった。

 

「食べ終わってるぜ。うまかったって伝えておいてくれ」

「俺もつまみ食いもらった。ごちそうさん」

「はーい」

 

 弁当箱を受け取る。

 これで弁当箱は七個になったけれど、どれもからっぽなので重さは感じなかった。

 困るのは重さではなく大きさだ。

 

「持てるか?」

「はい、ここまでは。スパナたちからももらわなきゃいけないんですけど」

 

 ミルフィオーレ基地跡を掘削する目途が立ったようで、彼らはアジトで開発を続けている。

 ここにいてくれれば三食届けられるから、ちゃんと食事をとっているかの心配をしなくていい。彼らも男子チーム側な気がするけれど、この件には関係がないから気にしないでおこう。

 

「スパナ――技術者か。ちょうどいい、俺もちょっと顔を見せておきたい。

 付き合うぜ」

 

 そう言って、ディーノは利奈の抱える弁当箱を全部取り上げてしまった。

 

「持ちます! ディーノさんもヒバリさんと戦って疲れてるのに」

「気にすんな、これくらいどうってことねーよ。重さもほとんどねーし」

 

 カチャカチャと箱を鳴らしながら、ディーノは先に部屋を出て行ってしまう。

 こうなったら、お言葉に甘えるしかないだろう。

 

 ここに残るらしいロマーリオに頭を下げてから部屋を出た利奈は、床に這いつくばるディーノと散乱する弁当箱を見て、額を押さえた。一瞬でも部下がいないとだめなのかと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逃れられない運命

 物事には何事も長所と短所がある。

 殺風景で代わり映えがないとみんなで評していたアジトにも、いいところはあった。階層さえ把握できていれば、目当ての部屋に必ず辿りつけるという点だ。

 時間はかかるものの、一部屋一部屋しらみつぶしに調べていけばそれで済むのだから簡単である。

 

(まあ、予想通り遠回りになったけど)

 

 生まれつき方向音痴の利奈と、部下がいなければすべてにおいて音痴であるディーノ。

 そんな二人が、すんなりとスパナの元へと辿りつけただけ上出来だろう。

 ディーノにはエレベーターのボタンを押し間違えられたけれど、すぐに正しい階を押し直したので問題はない。こればっかりは、日頃の下働きの賜物である。

 

「スーパナ!」

 

 膝に抱えたパソコンに夢中になっているスパナに声をかけると、ピクリと背中を動かしてスパナが顔を上げた。口にはいつものとおり、飴を咥えている。

 

「……利奈か」

「作業中ごめんね。お弁当箱貰いに来たんだけど、食べた?」

 

 床にあった弁当箱をスパナに渡される。ほかの弁当箱と同様に空っぽだった。

 

「どれも美味しかった。

 小さな箱におかずがたくさん。日本の食文化は興味深い」

「量足りた? 今なにやってるの?」

 

 パソコン画面には設計図らしきものが映っている。

 見やすいようにスパナがパソコンをずらしたので隣に座った利奈だったが、すぐに理解を諦めた。画面に書かれていたのは、すべてラテン文字だった。

 

「……で、これなに?」

「超軽量小型酸素ボンベの案」

 

 スパナがキーを叩くと、完成した酸素ボンベのイメージ図に切り替わった。

 酸素ボンベというと、スキューバダイビングで使う、口で咥えるマスクと筒状のボンベを思い浮かべるけれど、これは口元を覆うタイプのマスクと、リュックに似た形の小型ボンベだ。

 

「医療用マスクを参考にしてみた。チューブ型も考えたけど、鼻も覆えたほうが利点が多い。これなら有毒ガスにも耐えられる」

「へえー。じゃ、あれは泳ぐときの服?」

 

 床に置かれている方のパソコンの画面を指差す。

 そちらは見た目が標準的なウェットスーツだった。

 

「そう。ステージがどうなるかわからないから、水中戦も考慮しておいた方がいいと思って」

「水中でバトル……寒そう」

「大丈夫。耐寒・耐熱素材の準備はできてる」

 

 カチャカチャとキーボードを叩くスパナを眺めていたら、ぬっと頭上に影が差した。

 顔を上げると、不思議そうな顔をしたディーノに見下ろされていた。

 

「あっ、ごめんなさい!」

「ああ、いや。ずいぶんと仲がいいんだなと思って」

 

 除け者にして気分を害してしまったかと思ったけれど、スパナとの親密さを気にしていたらしい。そういえば、スパナと顔見知りであることをすっかり伝え忘れていた。

 

「メローネ基地でいろいろお世話になってたんです。

 いつもご飯とか持ってきてくれてて」

「日本人だったから。ウチ、日本が好きなんだ」

 

 理由を聞くたびに、日本人でなかったらどうだったのかと複雑な気持ちになるけれど、スパナは重度の日本好きなのだから仕方がない。

 それに、もし仮にあのときスパナと出会っていなくても、どうせここで巡り合っていたのだ。縁というものもあなどれないものである。

 

「そうか。……よくしてくれるやつもいたんだな」

 

 優しい顔で呟くディーノに、チクリと胸が痛んだ。

 いやなことを聞かないでいてくれる優しさに甘え切ってしまっていたけれど、ずっと気にかけられていたのだろう。この時代の利奈が死んでいるから、余計。

 

「俺の妹分が世話になった。

 俺はディーノ。キャバッローネファミリーのボスだが、いまはツナたちの家庭教師だ」

「スパナ。元ミルフィオーレの技術者で、今はボンゴレの技術者。よろしく」

 

 二人が握手を交わす。

 そういえばとスパナがこちらを向いた。

 

「あのときはウチが利奈のとこに行ったけど、今は逆になってる」

「そうだね。ご飯持ってくるのも私のほうだし」

「名前も知らなかったし、また会うとも思ってなかった。人生、どうなるかわからないな」

 

 それは未来に来たときからそう思っている。

 未来に来てから驚きの連続で、常にそれを超える驚きが待ち構えているのだから、人生は波乱万丈だ。もっともそれは、並盛町に来てからずっととも言えるのだけれど。

 

「お茶淹れてくる。お茶しかないけど、いい?」

「かまわないぜ。悪いな、作業中に」

「手伝いますよ」

「大丈夫。そこで待ってて」

 

 のっそりと立ち上がってスパナがお茶を用意し始める。

 ポットと湯呑みはすでに準備済みだった。

 

「にしても、いろいろと揃えられてるな。アジト自体はまだ未完成だってのに」

 

 どっかりと腰を下ろしたディーノが室内を見渡すので、利奈も辺りを見渡した。

 ここは開発室なのか、よくわからない機械や工具が備えられている。

 技術の授業で使ったことのある、板を切る細いのこぎりみたいな工具もあるし、使い方にまるで見当のつかない装置も多い。うっかり触ったら大惨事になりそうだ。

 

(今のディーノさんは絶対に触っちゃだめなやつだ。壊れる)

 

 好奇心を引かれているのか、ディーノの身体はそわそわと揺れている。

 立ち上がろうとしたらすぐにでも押さえつけられるようにと監視していたら、いつのまにかお茶を淹れ終えたスパナが、湯呑みをお盆に載せて戻ってきた。

 そしてはたと立ち止まる。

 

「いけない、卓袱台出すの忘れてた。あそこにあるの、出してくれる?」

「おう、わかっ――」

「私やります! ディーノさんは動かないで!」

 

 卓袱台を取る途中で転んで、機械を暴走させる未来が見える。

 あっけにとられた顔の二人を無視して卓袱台を引きずり、折りたたまれていた四つ足を順番に伸ばして卓袱台を完成させた。

 ここに来てから調達したもののようで、真新しい木の匂いがする。

 

「はい、できました」

「ありがとう。これ、どうやって座るんだ?」

「座布団で正座するものだけど、埃が出るから持ってこなかった。適当に座って」

 

 お茶をこぼさないようにと、スパナが慎重に腰を下ろす。

 揺れる水面は茶色で、香ばしい匂いが漂っている。ほうじ茶のようだ。

 

「いい匂い。なんか、おせんべいとか食べたくなっちゃう」

「いいね、日本人らしい感想だ。飴ならあるけど、舐める?」

「わーい、頂きます」

 

 スパナの飴はスパナのお手製で、手作りだからか優しい味がする。

 メローネ基地を出る際にたくさんもらっていたけれど、おいしかったからあっという間に舐め終えてしまった。

 

 だから、色とりどりの飴に目を奪われてしまうのも、仕方なかっただろう。

 飴に意識を持っていかれた利奈は、先ほどまで警戒していたディーノを完全に視界から追い出してしまっていた。

 

「変わった形の飴だな。もしかして手作り゛っ!」

「っ!?」

 

 気付いたときにはもう遅かった。

 卓袱台の下に足を淹れようとしたディーノは、その足の長さゆえに目測を誤り、卓袱台のふちに足を突っ込んだ。

 するとどうなるか。一点に成人男性の体重を掛けられた卓袱台は、そのまま回転を始めるのである。

 上になにも載っていなければ卓袱台が腹に当たるだけで済んだのだが、とても間の悪いことに、卓袱台にはみっつの湯呑みと飴があった。飴が散らばり、狙いすましたかのようにお茶がすべてディーノにかかる。

 

「うううううあっちーー!?」

「ディーノさーん!?」

 

 湯呑みの割れる音に続き、二人の悲鳴が響く。

 

 ――余談だが、お茶にはそれぞれ淹れる温度に適温がある。

 紅茶は沸騰直後。ハーブティーは一呼吸おいて。煎茶は湯冷ましして。玉露はさらに湯冷ましを重ねて。

 お茶の味は淹れる温度で決まり、とくに日本茶は茶葉によって細かく温度が設定されている。

 

 親日家のスパナがそれを怠るはずもなく、ほうじ茶が一番おいしくなる温度を選び、さらに急須と湯呑みを温めて冷めないようにしていた。

 ――ちなみにほうじ茶の適温は、紅茶と同じく沸点に達したお湯である。

 

「これは日本の伝統、卓袱台返し……!」

 

 興奮した声でスパナが呟いたが、だれもそれに頓着できなかった。

 100℃近いお湯を浴びたディーノは、のたうち回りそうになるのを妹分の手前、なんとか耐えているところで、利奈は苦しむディーノをハラハラと見守ることしかできない。

 

「ディーノさん! ディーノさん大丈夫ですか!?」

「あっちい! 水! 水はないのか!?」

「ああわわわ、お湯しかないです!」

 

 よりにもよって半袖なので、ほとんどノーガードで熱湯を浴びている。

 このままだと皮膚を火傷してしまう。

 

「シャツ、脱いだ方がいい」

「そうですね、さっさと脱いで――」

 

 とんでもないことを口走りかけて、利奈は赤面した。

 ディーノがシャツの裾を両手で掴んだので咄嗟に目を逸らすが、熱くなった頬の温度は引かなかった。 

 

「あー、死ぬかと思った。

 悪い! せっかくのお茶台無しにしちまって、湯呑みも粉々に――弁償する」

 

 服を脱いで落ち着いたのか、申し訳なさそうな声でディーノが謝った。

 

「気にしなくていい。湯呑みはストックがあるから当面問題はない」

「いや、すぐに新しいのを用意させてもらう。

 とりあえずはここの掃除を――利奈?」

 

 名前を呼ばれた利奈は顔を上げたが、すぐにまた俯いた。

 上半身裸のディーノなんて、直視できるはずがない。

 

「えっと、その、わ、私、掃除用具持ってきます!」

「じゃあ、うちはタオルと着替えになりそうなの持ってくる。その恰好じゃうろつけないだろ」

 

 綱吉たちならいいけれど、女子チームが見たらびっくりしてしまうだろう。ハルなんかは悲鳴を上げるに違いない。

 下を向いたままスパナに続いて部屋を出ようとした利奈だったが、耳馴染みのない音が聞こえて、足を止めた。

 

「ねえ、なんか変な音しない?」

「ん? ……そうだな、動物の足音みたいな――変な、音が――」

 

 こちらを振り返ったスパナの声が不自然に途切れる。目線は利奈を通り越して後ろに向いている。その瞬間、利奈はリング争奪戦のころの事件を思い出した。

 ディーノが飼っているカメは水を浴びると狂暴化する。それはお湯であっても同じはずだ。

 

「うわああああ!」

 

 再び聞こえたディーノの悲鳴。

 確信をもって振り返った利奈は、その確信が確定してしまったことに絶望しながら後退った。

 

(シャツの化け物……!)

 

 ディーノが脱ぎ捨てたシャツが、細胞分裂でもしているかのように隆起している。

 中に入っているエンツィオが巨大化しているだけだと頭ではわかっているが、なかなかにグロい光景であった。

 エンツィオのことを知らないスパナは少し固まっていたものの、我に返った瞬間に室内に入り、パソコンを一台回収して戻ってきた。

 

「よし」

 

(よしじゃない!)

 

 脳内で突っ込む。

 得体のしれない化け物を見て、すぐさま仕事道具を守ろうとする姿勢はプロなのかもしれない。しかし今はそれどころではない。

 

「エンツィオ!」

 

 ディーノが叫ぶ。

 シャツの首からエンツィオの尻尾が出て、反対側からエンツィオの顔が覗いた。シャツの胸元は甲羅で裂かれたものの、それ以上は巨大化せず、エンツィオが小さな唸り声を上げた。幸運にも、掛かったお湯の量は少なかったようだ。

 

「……亀?」

「ディーノさんのペット! 水に入ると大きくなるの! プールに落ちたときはプールよりも大きくなって、学校が大騒ぎになって!」

「……へえ!」

 

 なぜかスパナは目を輝かせる。好奇心の塊のような人だ。

 

「こっちに来るなよ! 狂暴化してるからこの大きさでも油断はするな!」

「っ、ディーノさん! 危ない!」

 

 ディーノの注意が逸れた隙を狙って、エンツィオがディーノに突進した。

 利奈の声でディーノは咄嗟に横に避けたが、そこにはひっくり返った卓袱台があって――

 

「あれは痛い」

 

 バランスを崩したディーノが、卓袱台に背中を強打する。

 今度こそディーノは悶絶したが、それを気にしている余裕は利奈にはなかった。

 

「ひやあああ、こっち! こっち来る!」

「ドア閉めて」

 

 突進してくるエンツィオに恐怖を感じながら、指示通りドアを閉める。

 すると轟音とともにドアが軋んで、利奈はサッと顔を青ざめた。

 

(これ、外に逃がしたら大変なことになる……!)

 

 シャツより少し大きいくらいでこれなのだ。

 もしなにかの拍子にさらに水を浴びたりでもしたら、基地が内側から破壊されかねない。

 

「なるほど、狂暴性も持ち合わせているのか。基地の耐久実験に使えるかもしれない」

 

 スパナはエンツィオの生態に興味を持ったのか、パソコンにデータを打ちこみ始めた。

 

「今それやってる場合……!?」

 

 今度こそ声に出して非難すると、それもそうか、とスパナはパソコンを閉じた。

 

「このままだとなかの機械が壊されかねない。どうすればいい?」

「乾けば小さくなるけど……乾くの時間かかりそう」

「わかった、じゃあ動きを封じればいいんだな」

 

 それよりも、エンツィオと閉じ込められているディーノが心配だ。今のディーノでは、エンツィオを捕縛することはできないだろう。

 かといって、ロマーリオを呼びに行く余裕はない。すぐにでも鎮静化させなければ。

 

「あれ、そんなところでなにしてるんだい?」

 

 状況にそぐわない声音に首を動かすと、ボサボサ頭の正一がいた。

 煮詰まっていたのか起きたばかりなのか、とにかくボサボサ頭だった。

 

「正一、ちょうどいいところに。知恵を貸してくれ」

「うん? スパナがそう言うなんて珍しいね。どうしたの?」

「まずはこれを見てくれ」

 

 ドアの電源を切ってから、ゆっくりとドアを左右に押し開ける。

 そして作った隙間に正一を呼び寄せ、なかの様子を確認させた。室内を見た正一は、ゆっくりとドアから顔を離した。

 

「……まだ寝ぼけてたかな。シャツを着た亀が部屋のなかを動き回ってたんだけど」

「夢じゃないです」

 

 そう思いたくもなるだろうが、これは現実だ。

 正一が苦笑いを浮かべる。

 

「やっぱり夢じゃないのか……。いったいだれの匣だい? ボンゴレ匣の暴走だろ?」

「……匣兵器じゃないんです」

 

 消え入りそうな声で答えると、正一の目がこれでもかというほど見開かれた。

 

「匣兵器じゃない!? じゃあ、あれはなんなんだ!?」

「キャッバローネボスのペットらしい。本人もなかにいる」

「ええ!?」

 

 そういえば、ディーノはどうなっているのだろう。

 二人と一緒になかを覗きこむが、見えるところにディーノの姿はない。

 

「ディーノさん! ディーノさん、どこですか!」

「ここだ! 鞭が絡まって動けなくなっちまった……!」

「もう!」

 

 とうとう苛立ちすら隠し切れなくなって利奈は叫んだ。

 エンツィオは動かないディーノを襲うつもりはないらしく、室内を自由に闊歩している。そして、もてあました狂暴性を発散するかのように、機械に体当たりを繰り返していた。

 

「どうするんだい、あれ。このままじゃ室内の機械が全部壊されるぞ」

「それは困る。ウチ、まだほとんど使ってない」

「僕もだよ。

 ねえ、君はあの亀について詳しいのかい? 対処法を知ってる?」

「え、えっと――」

 

 話を振られた利奈は、前回のいきさつを説明した。

 動きを封じればなんとかなるだろうが、動きが早いうえに、突進されればこちらが返り討ちに遭う。小さければ小さいで厄介な相手だ。

 しかし利奈の拙い説明である程度の目星がついたのか、すぐさま正一は電話をかけた。

 

「ジャンニーニ、なにも聞かずに僕たちのいる階の冷房を最大にしてくれ。

 ……ああ、すぐにだ。時間がない」

 

 毅然とした口調と声音。それ以上は不要だった。ガクン、と音がついたかのように温度が下がっていく。

 みるみるうちになかでの物音が少なくなって、やがて静寂が訪れた。

 

「なるほど。爬虫類は寒さに弱い。温度を下げれば活動を止めるというわけか」

「へー!」

 

 そういえば、前に見かけた爬虫類館も、熱帯みたいな空気を放っていた。

 亀の特性を瞬時に見抜いた正一に感心していたら、室内からやや情けないディーノの声が届いた。

 

「だれか、助けてくれ……寒い」

「あっ」

 

 半裸で床に転がっているディーノにとって、ここはもはや地獄だろう。

 三人はすぐさまドアをこじ開けた。

 

 

 

「せっかくだから、開発中のウェットウェアを着てみてほしい。試着した人の感想が欲しい」

「いや、遠慮しとく」

 




七百字程度のあらすじで終わらせた話を、せっかくなので書き下ろしました。
九倍のボリュームになるとは思ってませんでしたが。
元の文を活動報告にあげてますので、興味がありましたら流し読みしてみてください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誘う猫と気まぐれな女王

 

 ミルフィオーレファミリーとの対決の日が、あと数日後にまで迫っていた。

 

 修業の様子を見ていない利奈が言うのもなんだが、彼らは順調に仕上がってきている。

 食事時に暗い表情を浮かべる人はいないし、みんな和気あいあいと、楽しそうに修業の進捗を報告しあっていた。

 武だけは専用家庭教師とともにアジトから出て修業を行っているそうだが、武ならば心配はないだろう。元から運動神経がずば抜けているし、飲み込みも早い。

 

(やっぱり隠し事がないと空気がいいよね。みんながひとつになったって感じがするし)

 

 女子チームのストライキは三日で終わった。

 あの日、風紀財団地下施設での詰め込み学習を終えて帰ったら、二人がみんなの夕食を作っていた。静かに料理をする姿を見て、すべてを知ったのだと悟った。

 なんて言えばいいのかわからなくて口ごもってしまったけれど、きっとなにも言わなくてよかったのだろう。

 愁いを帯びた瞳で、それでも彼女たちは穏やかに微笑んでいた。

 

(私も私のできることをやらなくちゃ。……すっごくしんどいけど)

 

 この時代の風紀財団にかかわる資料はまとめ終わった。

 しかし、並盛町に関しての資料はことのほか膨大で、重要度の高いものに絞ろうにも、情報量の多さに圧倒されてしまう。ノートに箇条書きしようともしたけれど、数時間で手を痛めてしまった。テスト勉強ですら、こんなに頑張ったことはない。

 

(これ、持って帰れたりしないのかな。全部記憶しろとか無理過ぎる)

 

 恭弥はそこまで求めていなかったが、戦闘に参加できないのだから、頑張ればなんとかなりそうなことはなんとかしたい。

 畳に倒れ込みたくなるのを我慢しながら文字列と格闘してると、ふすまが滑らかに開いた。

 

「相沢」

 

 聞き馴染みの深いその声に、条件反射で起立する。

 

「はい、ヒバリさん! ……いっ――たあ!」

 

 立ち上がると同時に足の痺れに襲われ、その場に崩れ落ちる。

 ここ数日で正座にも慣れてきたとはいえ、足の痺れへの耐性は一向につきそうにない。

 

「なにやってるの」

 

 悶絶する利奈を涼しげに見下ろしながら、恭弥が後ろ手でふすまを閉める。

 

「すみませっ、と、ところで、なんでここに?」

 

 恒例通り、ディーノと修業に明け暮れていたはずだ。

 修業には哲矢がついていってたから、恭弥の顔を見るのは詰め込み学習初日以来である。

 

「君に用があるからに決まっているでしょ。まあ、用があるのは僕じゃなくて赤ん坊だけど」

「赤ん坊――リボーン君?」

 

 足をさすりながら尋ねると、恭弥が手に持っていた道具を前に出した。

 箱型のそれは匣ではなく、カメラのように中央部にレンズが嵌めこまれている。

 そのレンズから光があふれ、そして実像を結んだ。

 

「リボーン君!?」

『チャオっす!』

 

 立体映像のリボーンが、片手を上げた。その目はちゃんと利奈を見据えている。

 

(み、未来の技術……!)

 

 映像とは思えないほどリボーンの姿は鮮明だ。

 後ろの風景がわずかに透けているくらいで、動いていれば凝視してもわからない。

 触ってみようと手を伸ばしたけれど、リボーンの帽子に乗っているレオンが舌を出したので、素早く引っ込めた。

 

『ちょっと頼みてーことがあってな。さくっと手を貸してくれ』

「さくっと?」

 

 リボーンがそんなことを言い出すなんて珍しい。

 恭弥を見上げるが、無表情だ。

 

「えっと、なにすればいいの?」

『今から言うところに俺を連れて行ってほしい。会いてえ奴がいるんだ』

 

 言われた場所まで通信機を運べばいいらしい。

 恭弥から通信機を受け取り、慎重に立ち上がる。風のない室内で、何枚かの紙が舞った。

 

『用心深いやつでな。一度ほかのやつに頼んだんだが、門前払いされちまった』

「え、じゃあなんで」

『十年後のお前と深いかかわりがあると草壁に聞いた。お前が行けば確実に通すだろうってな』

「草壁さんが……」

 

 この世界の哲矢が言うのなら合っているのだろうが、十年前の利奈が行ってなんとかなるものなのだろうか。

 過去から来たという話を信じてもらえなければ、もう一回門前払いを受けてしまう。

 

『それについては心配ねえ。あいつは俺たちの事情を知ってるし、そもそも今のお前ともアジトで会ってるらしい』

「えっ」

 

 基地で会った人物となると、相当限られてくる。

 そのなかで用心深く、なおかつボンゴレの人間を門前払いする可能性がある人といえば――ここで利奈は、わざわざ恭弥が機械を届けに来た理由を悟った。

 

『相手は六道骸だ。黒曜センターに行って、骸の仲間たちに接触してほしい』

「……ヒバリさんと一緒に、ですか?」

『そうなるな』

 

 どうりで、ディーノとの修業を放り出してまでここに来たわけだ。

 いつでも戦えるディーノよりは、めったに戦えない、しかも十年経って強くなったであろう骸を優先するだろう。

 

『ほんとはお前一人で行ってもらうつもりで草壁に連絡したんだが、ヒバリにも聞こえちまってな。

 まあ、なにがあるかわかんねえし、護衛がいたほうが心強いだろ』

「……アハハ」

 

 ――この場に綱吉かディーノがいれば、わざとやっただろうと指摘したに違いない。

 しかし二人とも不在だったので、利奈は不幸な事故と思い込んで苦笑いを浮かべた。

 

 ――黒曜センター。

 黒曜町にある大型娯楽施設だったのだが、台風による土砂崩れで閉鎖。十年前の世界でもすでに廃墟になっていた。

 それが十年経っても未だに取り壊されていないのは、どう考えてもおかしいだろう。

 

(どうせ骸さんがなんかしたんだろうけど)

 

 目的のためなら手段を選ばない人間だ。

 取り壊そうとするたびに心霊現象が起こる、なんて事件を起こしていたとしても不思議ではない。

 

『ついたな』

 

 バイクが止まると同時に、ポケットのなかからリボーンの声がした。それを合図に、利奈は恭弥の腰に回していた腕を外す。

 

 これでバイクに乗るのは三回目だけど、何度乗せられても慣れそうにない。

 二回目は車で拉致されて他県まで行った帰りだったけれど、途中でカーチェイスもあって、かなり疲弊してしまった。

 運転者と体を密着させていないと急カーブで車体がぐらつくとそのときに知ったので、今回はちゃんとしがみついた。命にかかわることで、恥じらってなんていられない。

 

『出してくれ。外が見たい』

「あ、うん」

 

 小さな声に応えてパーカーのチャックを下ろす。

 走行中に落としては一大事と上着の内ポケットに押しこんだせいで、取り出すのに手こずってしまう。

 

「先に行ってるよ」

 

 逸る気持ちが抑えられないのか、恭弥は声を残して去っていく。

 ポケットに引っかかった通信機をなんとか引っ張り出して目をやったときには、恭弥は高い門を飛び越えていた。

 

「ちょ、ひばっ――待って!」

 

 慌てて追いかけたものの、もう遅かった。

 悠々と敷地内に侵入した恭弥は、こちらを気にするそぶりも見せずにどんどん進んでしまう。門を揺するが、朽ちた門はびくともしなかった。

 

「開かない!? 待ってくださいヒバリさん! ここ開けて! ――あー、行っちゃった」

 

 宿敵が眼前に迫っているせいで、恭弥はやけに急いでいる。

 置いていかれた利奈は、ため息交じりに門を見上げた。

 恭弥は軽々と飛び越えていけたが、利奈がよじ登るのは容易ではない。

 

(登れないわけじゃないけど――)

 

 身長より少し高いくらいだから、乗り越えられない障害ではない。

 しかし利奈は、錆びた鉄棒に手を伸ばそうとはしなかった。

 暗殺し終えての逃走時ならともかく、これから知り合いに会おうとしているときに服を汚したくはない。下手すれば服が引っかかって破れてしまうかもしれないのだから、なおさらだ。

 

「ねえ、雲雀さん勝手に行っちゃった」

 

 被ったままのヘルメットを脱ぎ、とりあえずリボーンに指示を仰ぐ。

 

『みたいだな』

 

リボーンのホログラム映像は利奈の手のひらに収まっている。大きさは向こうで自由に変えられるようだ。

 

『相変わらず好戦的なやつだ』

「骸さんの名前出すからだよ。ああなったらヒバリさん、人の話なんて聞かないし」

 

(……まあ、一人で勝手に行かなかっただけマシだけど)

 

 それに今回は、ヘルメットも用意してくれた。

 速度制限を守っていたかどうかは定かではないけれど、まるっきり人の話を聞かないわけではない。聞いたうえで無視することも多いけれど。

 

『さっきも言ったが、骸本人がいるかはわかんねえんだぞ。あいつは神出鬼没だからな』

「聞こえてないよ、きっと」

 

(クロームとかに頼んでおけばよかったのに。私よりずっと骸さんと付き合いあるんだし)

 

 修行中だから外したのだろうけれど、仲間から引き剥がされたクロームを思うと、抜け駆けしているみたいで後ろめたい。

 今のところはだれにも会っていないし、このままだとだれにも会えずに終わるけれど。

 

 門を見上げて途方に暮れていれば、リボーンが口を開いた。

 

『とりあえず引いてみろ。案外、開いたりするかもしれねーぞ』

「さっきもやったよ」

『強く引っ張ってはなかっただろ。力をこめてみたらバキッ! って壊れたり」

「そんな怪力あったらみんなと修業してるって……」

 

 そうは言いながらも、両手を掛けて門を横に引いてみる。

 しかし、当然ながら鍵はかかっていて、思いっきり体重をかけたところでビクともしなかった。

 

「うー、やっぱダメみたい」

『だろうな』

「やらせておいてー」

 

 ふうっと息を吐きながら門から手を離す。

 そのとき、門の鍵からガチャリと金属音が響いた。

 

『今、なんか鳴ったな』

「……鳴ったね」

 

 これはもしやと、片手で門を横に引く。

 すると、先ほどまでの苦労が嘘のように、門が動いた。

 

「え……ええ!?」

『やったな、お手柄だぞ』

 

 リボーンはなんてことないみたいに言うけれど、鍵は衝撃で開いたりはしない。そんな仕組みだったら、鍵は役目を果たせないだろう。

 

「か、勝手に開いたんだよね? これって、テレビでよくあるあれ?」

『映画なら確実に罠だな。よし、行くぞ』

 

 そう言われて、さあ行きましょうとなるわけがない。思いっきり首を振って拒否した。

 

「むりむりむりむり! 罠だったらどうすんの!」

『心配すんな。建物に入るまではなにも起こらないっていうのが物語のセオリーだ』

「それは映画の話でしょ!? それに、なか入ってから出てきてもいや!」

 

 護衛役であったはずの恭弥は不在で、リボーンも実体ではない。

 だれかに襲われたらひとたまりもない。

 

『罠がなんか仕掛けられてるんなら、ヒバリが入ったときに作動したはずだ。

 それがなかったってことは、罠はないってことだぞ』

「そうかもだけど……はあ」

 

 ここでいつまでもぐずぐずしているわけにもいかないし、勇気を出すしかないのだろう。

 利奈は小さく一歩を踏み出した。さらに二歩、三歩。そして後ろを振り返る。

 門はわずかに開いたままで、いきなり閉まったりはしなかった。

 

(よかった、これで門が閉まったら本当にホラー映画だった)

 

 きっと訪問者に気付いた何者かが、遠隔操作で解錠したのだろう。

 ――門にセンサーのようなものはついてなかったけれど、きっとそうなのだろう。

 利奈はそう思い込むことにした。しかしそれはそれとして、廃墟に一人ぼっちは心細い。

 

「うう……ヒバリさん見つけなきゃ。

 ヒバリさんだったら、幽霊とかゾンビが出てもサクサク倒してくれそうだし」

『涼しい顔して殺るだろうな』

 

 利奈の手が震えているせいで、リボーンも震えているみたいになっている。

 

『こうなるんだったら、進捗確認ついでに山本にも声をかけておけばよかったな』

「山本君? そういえば、山本君だけ違う修行なんだっけ」

 

 気を紛らわすため、雑談に注力する。そうでもしてないと、自分で怖い化け物を生み出してしまいそうだ。

 利奈の気持ちを察してか、リボーンは問いかけに応じてくれた。

 

『山本は別のカテキョーと修行中だ。剣の修業は同じ剣士に任せた方がいいからな』

「剣士? バジル君のこと? そういえば、すごく侍みたいな喋り方だったね」

 

 知っている少年の名前を出すが、リボーンは頷かない。

 建物の入り口が見えたけれど、骸は黒曜ヘルシーランド内にいるだろうから、入り口を素通りする。

 

『あいつは剣は使わねえ。

 ……そういやオメー、ヴァリアーのところで世話になってたな。なら、知ってるやつだと思うぞ』

「ヴァリアーの? うん、だったらわかるかも。どんな人?」

 

 ――このとき、どんな人などと聞かずに、だれなのかを尋ねていれば、すんなりと答えを得られていただろう。

 だが特徴を求められたリボーンは、とっさにその剣士の特徴を考え始めた。

 

 その剣士の名は、スペルビ・スクアーロ。

 当代の剣帝であり、ヴァリアーのボスであるザンザスの右腕。

 外見的特徴をあげるなら、なんといってもその長い銀髪は外せない。

 女性顔負けの美しい銀糸は滑らかで光沢があり、彼の動きに合わせて宙を舞う。

 しかし、あえてそれら以外の特徴を選ぶとするならば――

 

『声がとんでもなくでけえやつだ』

「わかった! スペルビさんだ!」

 

 ――当人、あるいは彼に憧れる剣士が聞いたら、すぐさま怒鳴り声を上げていたに違いない。

 スクアーロという人物を語るのに、声のでかさなんて、華のない特徴をあげたのだから。

 

「そっか。スペルビさん、こっちに来てたんだ。

 ミルフィオーレとの戦闘があったって聞いてたけど、元気なんだね」

『いつもよりうるせーくらいだったぞ。山本を剣士として徹底的に鍛え直すつもりだろうな』

「強いの、その人」

「うわあ!?」

 

 いきなり声が増えたものだから、驚いた利奈は悲鳴を上げた。

 頭上を見上げると、いつからそこにいたのか、恭弥が建物の二階からこちらに視線を送っていた。

 

「な、にやってるんですか、そんなところで!」

 

 仰いだまま叫ぶと、恭弥は窓から飛び降りて、軽々と地面に着地した。

 衝撃を逃がしもしないのだから大したものだ。

 

「見てきたけど、いなかった。だから戻ってきたんだよ」

「骸さんのことですか?」

 

 なにも考えずに利奈が尋ねると、恭弥がむすっと眉根を寄せた。

 

「あ、ええっと……六道骸はいなかったんですね?」

 

 うっかりいつもの呼び方をしてしまったので訂正すると、恭弥は小さく頷いた。

 

『だから言ったじゃねえか。骸がいる確率は低いって』

「そうだったね。せっかく強くなった彼と戦えると思ってたのに」

 

 もはや遺恨はどうでもいいのか、恭弥はひどく残念そうに肩をすくめた。

 世界の存亡をかけた戦いがもうすぐ始まるというのに、清々しいほどの戦闘狂である。

 

『そういやオメー、ボンゴレ匣を開匣してねえらしいな。ディーノが愚痴ってたぞ』

「だって彼が本気を出さないから」

『お前のことだ、もう中身は見てるんだろ。 動物だったか? それとも武器か?』

「内緒。どうしても見たいのなら、僕と今ここで――って、君はここにいないんだっけ」

 

 トンファーを出そうとした恭弥が、つまらなそうに腕を降ろす。

 気付くのがもう少し遅かったら、リボーンを透過して攻撃が入るところだったと、利奈は冷や汗を流す。

 

『じゃあ、お前の持ってるほかの匣を見せてくれ。

 草壁から聞いたが、幻騎士との戦いで使ったんだろ?』

「開けて僕になにかメリットがあるの?」

 

 戦えないのなら意味がないとばかりに恭弥。

 だが、そこはリボーンが一枚上手だった。

 

『もちろんメリットはあるぞ。ここで匣を開けば、骸の仲間たちが様子を見に来るはずだ。

 あとは一番強そうなやつに勝負を挑むだけでいい』

「ワオ」

「ええ……」

 

 それでは骸の仲間たちがとばっちりを受けてしまうし、話をしに来たのか喧嘩を売りに来たのかわからなくなってしまう。

 リボーンのなりふりの構わなさにドン引きする利奈だったが、恭弥の関心を引くのには成功した。恭弥はすぐさま匣を開匣した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

うっかり者のトランプ兵

 

 匣が展開して、生き物が飛び出してくる。

 予想よりもずっと小さなシルエットに、一瞬、ヒバードなのではという考えが頭をよぎった。しかし出てきたのは、当然ながら違う動物だった。

 

「キュ?」

 

 小さな塊が鳴いた。

 驚きのあまりリボーンの投影機を落としそうになった利奈だが、次の瞬間には機械を握り締め、満面の笑みでその動物を歓迎した。

 

「わあ、かわいい!」

「キュ!」

 

 利奈の声に反応するように鳴いたのは、手のひら大のハリネズミだった。

 今まで見てきた匣アニマルのなかで、一番小さい。

 

 あまりのかわいらしさに利奈は警戒せずにしゃがみこみ――

 

「ちょっと」

 

 すかさず恭弥によって引き戻された。

 

「ギュグッ!」

 

 服の襟を引かれたことで気道が塞がれ、つぶれた声が出る。

 

「……いきなりなにするんですか」

 

 半眼で喉をさする。せっかく上がったテンションが、一瞬にして下がりきってしまった。

 

「気安く触ろうとしないで。怯えるでしょ、その子が」

 

 その子、もとい、ハリネズミに目を向ける。

 恭弥の言う通り、ハリネズミは少し縮こまるようにしてこちらを窺っていた。

 人に慣れていないのか、自分よりずっと体の大きい利奈を警戒しているようだ。

 

「……キュー」

「大丈夫だよ、相沢は君になにもしないから」

「キュ?」

 

 ホント? と尋ねるようにハリネズミが恭弥を仰ぐ。

 その仕草がかわいらしくてまた触りたくなったものの、不用意に動いたら次はトンファーで沈められかねない。脳内警告に従ってじっとしておく。

 

(ハリネズミ、本物初めて。……ちょっと針が大きいけど、そんなのもいたりするのかな)

 

 ここがどこなのか気になるのか、ハリネズミはきょろきょろと辺りを見渡している。

 いきなり箱から出されたのだから、戸惑うのは当たり前だ。

 恭弥がそっとしゃがみこんでハリネズミと目線を合わせようとしたけれど、ハリネズミはブルッと体を震わせて、そそくさと茂みに隠れてしまった。

 

(……逃げちゃった。ヒバリさんの匣から出てきたのに)

 

 なんとも気まずい雰囲気が漂う。恭弥がしゃがんだまま動かないから、利奈も動けない。

 

 今まで見てきた匣アニマルは、ちゃんと主人に従っていた。こんなふうに逃げ出したりはしなかった。匣を開匣してからまだ日が浅いとはいえ、この懐き度は低すぎるのではないだろうか。

 なんて思っても、言えるはずもなく。

 

『全然だめじゃねーか』

「ちょっ! リボーン君、はっきり言っちゃ!」

『基地でも暴走したんだろ? ちゃんと懐かせとかねーと、いざというときに問題になるぞ』

「リボーン君! しーっ! ヒバリさんだって気にしてるから!」

「……」

 

 慌てて注意するものの、物理的に口が塞げないのだからどうしようもない。

 恭弥は否定も肯定もせず、難しい顔で茂みを見つめている。

 

「ちょっと! あんたたち、いつまで待たせるのよ!」

 

 ハリネズミにばかり目をやっていたら、険のある声が突き刺さってきた。

 顔を上げると、肩をいからせた女性が、ずかずかと足音を立てながら建物から歩いてきていた。

 女性は利奈のそばまで近づくと、ぐいっと腰を折って利奈を睨みつける。

 

「あんたでしょ。あの門揺すってたの」

「は、はい」

 

 女性の剣幕に圧倒されながらも、利奈は頷いた。

 この口ぶりからすると、門を開けたのはこの人なのだろう。

 利奈の肯定に女性はなお一層眉をつり上げた。

 

「だったら、まずはここの住人に挨拶するのが筋ってもんでしょ! こんなところでなにぐずぐずしてるのよ!」

「ごめんなさい!」

 

 あまりの剣幕に、利奈は即座に謝った。

 

「それからあんたも!」

 

 なんと、彼女は怒りの矛先を恭弥にまで向けた。

 

「部屋のなか覗いといてなんで引き返すのよ! 大体、窓から部屋を覗くなんて変質者のやることだわ!」

「不法侵入者に言われたくない」

 

(ヒバリさん、それ私たちも)

 

 言ってることがそのまま自分たちにも当てはまってしまっているのだが、恭弥は素知らぬ顔である。

 

「勝手に入ってきといてなによ、その態度は! まったく、相変わらずボンゴレの人間は品性の欠片もないのね!」

「あっ、私たち、ボンゴレの人間ってわけじゃ……」

「違うの?」

「全然関係ないわけじゃないとは思いますけど」

「なら一緒よ」

 

 決めつけるようにピシッと言い放ったあと、彼女は短い後ろ髪を手で払った。

 

「あー、もう。怒鳴りっぱなしで疲れたわ」

「あの、貴方はむ、六道さんの仲間の人ですか?」

 

 危うく名前呼びしそうになりながらも尋ねると、彼女はもったいぶった態度で胸を張った。

 モデルのような立ち姿だし、着ている服もモデルが着用しているような洗練されたものである。少なくとも、この辺りの服屋では売っていない。

 

「仲間なんてもんじゃないわ。私と骸ちゃんの関係は、もっとディープで濃密なものよ」

「ええ!? もしかして、骸さんの恋人――」

「だったりはしないので勝手に外堀固めないでくださーい」

 

 利奈が女性の望む言葉を口にしたそのとき、平坦な声があいだに割り入った。

 建物からもう一人、のろのろとした足取りで近づいてきていたのだ。

 そして利奈はその男性――いや、少年の名前を知っていた。

 

「フラン!?」

「ちょっとフラン、なにしに来たのよ!」

 

 知り合いの登場にまたもや目を瞬く利奈とは対照的に、女性は噛みつくようにフランに食ってかかった。

 剣幕にもひるまずフランは続ける。

 

「だって、門開けたらだれが来たのか気になるじゃないですか。

 不審者の排除は新人の役割だって教わってましたしー」

 

 そこでフランは利奈に向かって腕を振る。

 

「どうもー。この前ぶりでーす」

「あ、うん、こんにちは」

 

 困惑する利奈には構わず、再び女性に向き直る。

 

「それよりも、事情を知らない人に嘘つくのはよくないと思いますー」

「……なによ、嘘なんてついてないわ」

 

 ふんっと鼻を鳴らす女性。思い当たる節はあるようで、フランから目を逸らしている。

 

「いやいや、ディープで濃密って誤解させる気満々の発言でしょ。

 姉さんと師匠に深い事情なんてなんにもないんですから」

「え、じゃあなんなの?」

「ただの仕事仲間です」

「ちっがーう! 私と骸ちゃんは特別なの! お子様には男女の機微なんてわかんないのよ!」

「はいはい、続きは署の方で伺いまーす」

 

 この様子だと、おそらくフランの言い分のほうが正しいのだろう。

 女性が骸を狙っていたのか、それとも利奈が骸に色目を使わないようにとの牽制か。どちらにしろ、わりとめんどくさいタイプの女である。

 恭弥は関わるだけ時間の無駄と判断したのか、ハリネズミしか見ていない。

 

『話は終わったか?』

 

 今まで空気を読んで沈黙していたリボーンが、利奈の手に座っているかのような体勢で登場した。

 その瞬間、女性は思いっきり身を引いた。

 

「げ、アルコバレーノ……!」

『久しぶりだな。今度の件で話をしに来たぞ』

 

 女性の声には苦さが混じっているけれど、リボーンはいつも通り、平然とした態度である。リボーンの口ぶりだと、十年前の時点で接点のあった人物のようだ。

 

「よりによってあんたなの……。あんた見てると、あのときのこと思い出していやなのよね」

『お前は相変わらずみてーだな。千種か犬はいるか?』

 

 なにか確執があるようだけど、女性は意外と素直に頷いた。

 

「ええ、どっちもいるわよ。こんなとこで立ち話なんていやだし、続きはなかでしましょ。

 ほらフラン、あんたが連れてきなさい」

「ハーイ」

 

 女性はさっさと先に進んでしまう。

 フランはその場でくるんと回転し、利奈たちに軽くお辞儀をした。

 

「それでは、侵入者御一行様どうぞー」

「言い方。ヒバリさん、行きますよ」

『もしかしたら有益な情報を得られるかもしんねーぞ。いろいろとな』

 

 リボーンの呼びかけで恭弥は立ち上がった。

 いつのまに茂みから出ていたのか、その手にはハリネズミが収まっていた。

 

「ここまで来たんだから、話くらいは通してあげるわ。

 通信機は預かるから、あんたたちはここで待ってなさい。フランはこの二人の相手してて」

「ハーイ」

 

 未来の犬と千種に会えると思っていたのに、利奈は恭弥とともに待機を言い渡された。

 彼女からすれば得体のしれない相手だから無理もないけれど、楽しみにしていたぶん、ちょっと残念でもある。

 

(クロームのこととか伝えたかったんだけどな。リボーン君が言ってくれるといいんだけど)

 

 客として扱うつもりはあるようで、ペットボトルの紅茶と粒チョコレートをもらった。

 前に来たときもお茶請けはチョコレートだったので、骸はチョコレートが好きなのかもしれない。

 恭弥は一切手をつけずソファにも座らず、窓から外を眺めていた。

 

「ねえ、フラン。あの女の人ってなんて名前?」

 

 チョコレートを口に放り込んでいるフランに尋ねる。

 

「姉さんですかー? M・Mです」

「エムエム?」

「アルファベットのMふたつでM・Mです。あいだに点が入っているところがポイントだそうでー」

 

 名前を聞いて、まさかイニシャルが返ってくるとは思わなかった。

 いっそ偽名を使ってしまえばいいのに。

 

「いえいえ、偽名は偽名で、定着すると本名みたいなところがありますから。

 ミーたちみたいなのは名乗ってる方が珍しいですし、どちらかといえば名指しは控えたほうがいいんですよー。

 だからミーも、普段から堕王子とか雷撃変態親父とか呼んでるんですし」

「それはただ悪口言いたいだけでしょ。……えっ、仕事中もそうなの?」

「イエース。でも姉さんをL・Lと呼んだのは失態でしたねー。

 ありえないほど怒るし、機嫌取るのにエライ目に遭うので気を付けてくださいー」

 

 わざわざ注意されなくても、あんな怒りやすい人にちょっかいを出す気にはならない。

 疑問がひとつ解けたところで、利奈はこちらが本題だと身を乗り出した。

 

「それで、フランはなんでここにいるの?」

 

 M・Mの前では触れずにおいたけれど、フランはヴァリアーの幹部だったはずだ。

 それなのに、ここではなぜか骸たちの仲間のように振舞っている。それも、下っ端みたいな扱いで。

 

(まあ、向こうでも幹部になったばかりだからってこき使われてたけど。

 ……そういえば、さっき骸さんのこと師匠って呼んでた)

 

 骸もフランも幻術を使うから、骸が幻術の師匠なのだろう。

 M・Mのことも姉さんと呼んでいるし、こちらがメインであることは明らかである。

 そして、マフィア関係者がふたつの組織に同時に所属している理由と言えば。

 利奈は固唾を飲みこんで尋ねた。

 

「……もしかして、骸さんのスパイやってた?」

「貴方って、ほんと突拍子もないこと言い出しますよね」

 

 真剣に言ったのに素の声で小馬鹿にされ、利奈はムッと眉を寄せた。

 

「だってそう思うでしょ、こんなふうにあっちこっちに紛れてたら。マフィアっていったらスパイだし」

「その連想は合ってますけどー。

 だとしたら、貴方の前にのこのこ姿現すわけないじゃないですかー。口止めするのも始末するのもあとがめんどいですしー」

「うっ」

「それに、見た目そのまま、名前そのままでスパイやる馬鹿いますー? ミー、幻術で変装は自由自在なんですよー?」

「そ、そうだね。確かに」

 

 あっさりと論破され、利奈は素直に頷いた。

 変装できない理由があるにしろ、とりあえず、カエル帽は脱いでおくだろう。初対面の恭弥が、珍妙な物を見る目をしていたくらい目立ったのだから。

 

「じゃあ、どういうこと? フランは骸さんのなんなの?」

 

 フランと話すのに夢中になって、恭弥がいるのに利奈は骸の呼び方を戻してしまっていた。

 どうにもならないと感じたのか、恭弥は半眼で二人の会話を無視している。

 

「んー、簡単に説明すると、職場があっちでこっちは自宅って感じですかねー。

 師匠は師匠だからこっちも立てなきゃっていうかー、ぶっちゃけ、あっちで働いてるのは拉致られたからなんですよね。

 今回は師匠を救うために強制召喚されたって感じですー」

「救う? なにかあったの?」

 

 拉致のくだりを通り越して質問を重ねると、どう説明したものかとフランは頭をひねった。

 

「話すとまた長くなるんですけどー。

 師匠、戦いに負けて精神を閉鎖空間に閉じ込められちゃったんですよー」

「ええ!?」

「体は他人のものだから問題なかったんですけどー。

 精神捕らえられるって、幻術使いとしてもうおしまいですよねー。いつも偉そうなことばかり言ってても、その程度っていうかー。正直、幻滅したっていうかー。まあ、最初から尊敬はしてないんで幻滅っていっても、評価下がるほど上がってはなかったんですけどー」

「それはいいから! それで、精神はどうなっちゃったの?」

 

 まだまだ続きそうなぼやきを遮って続きを急かす。

 独特な語尾伸ばしと平坦な声音で聞き取りづらいうえに、話の脱線が早く、話し手としては恐ろしく不向きだ。

 

「あー、精神はまあ、ミーがキラーンとかっこよく助け出したんですよ。

 でもやっぱりズタボロに傷ついてたので、今は体に戻して休ませている感じですー」

「無事なんだね。よかった……!」

 

 拉致や監禁の経験が多いので、捕まったと聞くと他人事に思えなくなる。

 ひとまず胸を撫で下ろした利奈だったが、次のフランの爆弾発言に今度は飛び上ることになった。

 

「師匠は無事ですよ。奥の部屋で呑気に寝てますし――って、これ言っちゃいけな」

「!?」

 

 バッと窓際に目をやった。

 すると恭弥がまっすぐにこちらを見ていたので、利奈は思わずソファに項垂れた。

 フランも自分の失態に気付き、口元に手を当てている。

 

「……これ、ミー本当にやばいことしちゃった感じです?」

「遅い!」

 

 強い口調で窘めてから利奈は慌てて立ち上がった。

 ブレーキ役のリボーンもいないし、ここで恭弥が暴走したら大変なことになってしまう。

 

「ヒバリさん、落ち着いてください!

 ここで暴れたりなんかしたら、あっちの柿本君たちが飛び込んできますからね!?」

「ワオ、それは楽しそうだね」

「ヒバリさん!」

 

 全然楽しくないとばかりに利奈は声を張った。

 だが、口では好戦的なことを言うわりに、恭弥はその場を動こうとはしない。

 すぐにでも飛び出していくものだと思っていた利奈は、それを意外に思いながらも油断せずににじり寄った。

 

「あの、本当にダメですからね? 相手は怪我人なんですからね?」

「聞いてたよ」

「……行かないんですか!?」

「どっちだよ」

 

 フランがまた素の声で突っ込みを入れるが、驚愕している利奈にその声は聞こえなかった。

 骸と戦うためだけにここまでやってきた恭弥が、骸に戦いを挑みに行かないなんて。

 どういう風の吹き回しなのかと訝しむ利奈に、恭弥は肩をすくめた。

 

「病人と戦ったってつまらないでしょう。強くなった彼じゃないと意味がない。

 ――それより」

 

 恭弥は好戦的な目でフランに狙いを定める。

 

「君は、強いのかい?」

「……おおっと、今度はミーの貞操の危機です? ミーは暴力反対の平和主義者ですー」

 

 大きく両手を上にあげながら、フランは背もたれに倒れこむ。

 恭弥は少し考えるそぶりを見せたが、フランにその気がまったくないと判断して、何事もなかったように視線を外した。

 そこでやっと、利奈は肩の力を抜いた。

 

(ほんっとに闘うことばかりだよなあ、ヒバリさんって。

 この調子でミルフィオーレと戦ってくれるんなら、全然いいんだけど)

 

 普段なら厄介な性分だけど、これからの戦いを思えば頼もしい人材だ。

 一騎当千の戦闘能力があるから、きっと綱吉たちの力になるだろう。――仲間まで攻撃しなければ。

 

(うん、大丈夫。そこは空気読んで――くれ――なかったとしても! 勝ったあとなら大丈夫! うん、なんとかなる! きっと! だれも残らなくなるけど!)

 

 恭弥の性格を知っているぶん、全滅の可能性が捨てきれないのが、なんとも恐ろしかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

繋がらない点

「その登場の仕方はよくないと思いますよー。おもに心臓にー」

 

 ソファに寝転がっていたフランが脈絡なく呟いたので、利奈は反射的に入り口を振り返った。

 しかし、そこに人の姿はない。

 だれもいないじゃないと体勢を戻そうとした利奈だったが、フランは続ける。

 

「貴方が一人で来るなんて珍しいですね。監視ですかー?」

「……え?」

 

 フランの目はしっかりと入り口に向いている。

 しかし、だれもいない。

 

「侵入者が入ってきたので、丁重に接待しているところなんですよー。

 ああ、あっちの人は知ってます? こっちも?」

 

 利奈の前のめりな視線などものともせずにフランは喋り続けている。

 相手の反応に応える仕草もしているから、まるで本当にだれかがいるみたいだ。

 

(いない、よね? 私だけ見えないの?)

 

 すかさず恭弥を確認するが、恭弥もフランに怪訝な顔を向けている。

 冗談にしてはいささか滑稽だ。

 自分に注がれている二人の視線に気づいたのか、フランはやっとお喋りをやめて体を起こした。

 

「ちょっとちょっとー。やめてくださいよー、その顔ー。

 変人を見るような目で見ないでくださーい」

「え、えっと……そんなこと、思ってないよ?」

 

 思っていることを見事に言い当てられ、つい否定してしまう。

 

「一秒で見破れる嘘つかないでください。ミー、結構ガラスのハートなんですよー」

 

 それこそ、一秒で見破られる嘘だ。

 ソファに座り直したフランは、何事もなかった顔でチョコレートを口に放り込んだ。

 

「……ねえ、だれかいるの?」

 

 フランが話しかけていた空間に視線を送りつつ、小声で尋ねる。

 

「気にしないでください。危害は加えてきませんから」

「気になるよ!」

 

 フランの言い方だと、部屋にだれかが存在して、しかもまだこの部屋にいることになる。 

 

「ねえ、だれがいるの。どこ? 意地悪しないで教えてよ」

「んー。本当になにもしないっていうか、できないんですけどー」

 

 カリカリとカエル頭を掻くフランだったが、恭弥からも無言の圧力をかけられ、ため息を漏らした。

 

「ミーがジャンキーだと思われるのもなんですし、そこまで言うなら見せますよ。

 もともとは師匠の作ったものなんですけどね」

「作ったって――ひっ」

 

 その瞬間、なんの前触れもなしに利奈の目前に少女が出現した。

 ――いや、出現したわけではないのだろう。フランの態度からして、彼女はずっとそこにいたに違いないのだから。

 小学生くらいの女の子だろうか。少女の色素の薄い目はずっと揺るがずに利奈を見つめていて、ずっと観察されていたことは明らかだった。

 

「……貴方、あのときの人?」

 

 自分の存在が認識されたからか、少女の唇が流暢に言葉を紡いだ。

 思いのほか淡々とした声で話しかけられ、恐怖よりも困惑が勝る。

 

「え?」

「生き返ったの?」

 

 戸惑う利奈にかまわずに少女は続ける。

 語尾が上がっているから、なにか質問されていることだけはわかった。

 

「えっと、私、英語話せないんだ……」

「……」

 

 どうやら彼女も日本語はわからないらしい。

 それなのに答えを待つような顔でじっと利奈を見つめている。目の色は極限まで薄めた金色だ。

 助けを求めてフランに視線を送ると、フランは大げさに身を引いた。

 

「えー、イタリア語もわからないんですかー?

 姿見せて声出させてそのうえ翻訳って、ミーが過労死しちゃいますよー」

「イタリア語!? 英語もわかんないのに、イタリア語なんてわかるわけないじゃん!」

「自分の無学を棚に上げて逆ギレしないでくださーい。

 話進まないんで、簡単に日本語訳つけますけど」

 

 また少女が口を開いた。

 

「骸の仲間?」

 

 日本語が出てきて、利奈はようやく安堵した。

 瞳の色と同じくらい色素の薄い金髪に、静脈すべてが見えてしまいそうなほど真っ白な肌の少女。それでも、言葉がわかるだけで親しみが持てるのだから我ながら単純である。

 

「違うよ。私はヒバリさん――あの人の仲間」

「ヒバリ」

 

 恭弥を手で示すと、少女はそちらに目を向け束の間黙り込んだ。

 そして視線を利奈に戻すと、表情を変えないまま恐ろしいことを言い放った。

 

「セイ、ヒバリが嫌い」

 

 ――このときの利奈の心情は、一言では言い表せない。

 静かな部屋なので本人の耳にも届いているはずなのだが、恭弥は一切反応を示さなかった。

 

「言ってることは気にしないでいいです。自我はほとんどありませんから」

 

 フォローなのか事実なのか、フランが付け足した。

 

(自我がない子に嫌いって言われる方が傷つくと思うんだけど……!)

 

 利奈の心配など全く気にもかけず、爆弾を投下した少女は利奈の隣に腰を落とした。

 実体はないようで、ソファが沈む感触はない。ホログラムのリボーンのようなものだろう。

 

「貴方、なに?」

 

 少女はなおも尋ねる。

 

「私は利奈。貴方のお名前は?」

「セイ」

 

 答えながら、少女は利奈との距離を詰める。脳の錯覚か、なんとなく肌が触れあっているような感触があった。

 見上げてくる少女は、口元に小さな笑みを浮かべている。

 

「セイは利奈好き。とても、うれしい」

「あ、ありがとう……」

 

 初対面にも関わらず、少女は幸せそうに微笑んだ。どこか作り物めいて見えるのは、見慣れない外国の子供だからだろうか。

 

「あー、これ思考だた漏れですねー」

 

 なぜかフランが訳知り顔に呟くが、好かれる理由に見当がつかない。

 なんにしろ、好きと言われて悪い気はしなかった。

 

「フラン、この子ってどういう子なの? むく――六――フランの仲間?」

「ではないですねー。師匠のペットみたいな感じですー」

「ペット……?」

「ところで、ムクロクフランってミーのあだ名です? 絶望的にダサいですけど」

 

 セイは、プラプラと足を振りながら利奈とフランのやり取りを眺めている。

 真っ白なワンピースから覗く手足は人形のように白くて細い。

 豪華なドレスを着せたら人形と見違いそうなほど、その姿に生身の人間らしさは感じられなかった。

 

(ひょっとして、前に骸さんと会ったときにもそばにいたのかな?)

 

 この時代の骸と会ったのは一度きりだけど、そのときはだれも少女の存在に触れていなかった。

 そのときに同席していたのだとしたら、少女にとって初対面ではないのだろう。

 

「その人は師匠と契約した人にしか見えないんですよー。

 ミーの場合は幻術遣いなので例外ですけど」

「じゃあ、クロームも?」

「クローム姉さんは契約してますからー。

 まあ、してなくても姉さんなら見えたんじゃないですか」

 

 契約がどういうものなのかはわからないけれど、とりあえず幽霊の類ではないようだ。

 もし幽霊だったならば、骸との契約とやらはまったく関係ないはずなのだから。

 

『待たせたな』

 

 今度はちゃんと、ドアが開いた。

 M・Mと一緒に千種が来たので、利奈はソファから立ち上がった。

 

「柿本君! 久し――ぶりっていうのはちょっと変かな」

「いや、久しぶりでいいよ。一年は会ってなかったし」

 

 差し出された投影機を受け取ると、リボーンの映像が揺れる。

 

「もうお話終わったの?」

『ああ、バッチリとな。直接じゃねえが、骸本人とは話ができた』

 

 無事に話ができたのなら、その本人がここにいることは、言わなくてもいいだろう。

 投影機に見えないところで、フランが唇に指を当てている。

 

(どんな話してたんだろう……。そんなに難しい話じゃなかったみたいだけど)

 

 顔色を窺うが、M・Mの表情に陰りはない。千種はいつもと変わらず無表情だ。

 少なくとも、今回の件で敵に回ることはないだろう。

 

「……じゃあ、そういうことだから。犬がこっちに来たらめんどいからさっさと帰って」

「城島君もいるの?」

「いたらめんどくなるから部屋に引っこませてる」

「犬兄さん、すぐに怒りますからねー。カルシウム足りてないんですよー」

「……フランのせいだって突っ込むのもめんどい」

 

 確かにフランと犬は相性が悪そうだ。

 煽れば煽るだけ激昂するだろうし、千種は面倒くさがってあいだに入らないだろうから、行くところまで行ってしまう。

 容易に想像できる光景に苦笑していると、M・Mが話しかけてきた。

 

「ちょっとあんた」

「はい?」

「クローム髑髏は知ってる?」

 

 突然の質問に、利奈は目を瞬かせた。

 

「……友達ですけど?」

「そう。どんな子」

 

 質問というよりは詰問に近い、強い口調だった。

 どうしているかならとにかく、どんな子かと聞かれても答えに困る。

 M・Mの目つきは険しく、少なくともクロームの身を心配しての問いではないことはわかった。

 

「あの、どんな子って……例えば?」

「だから、どんな女なのかって聞いてんのよ! 骸ちゃんをたぶらかす泥棒猫の子供時代が!」

「は?」

 

(泥棒猫? クロームが?)

 

 クロームのイメージとあまりにかけ離れた言葉だったために、思考停止する。

 そんな利奈を前にして、M・Mは憎々しげに爪先を鳴らした。

 

「あの女、いっつも骸ちゃんに引っ付いてて目障りなのよね。せっかくだからあの化けの皮剥がしてやるわ。

 ほら、友達だっていうなら本性くらい知ってるでしょ? 言いなさいよ」

 

 顔を寄せるM・Mに、利奈は唇を引き結ぶ。

 するとM・Mは小さく鼻を鳴らした。

 

「なに、知らないの? 友達っていうのはリップサービス?

 そうよね、あんな根暗な女にわざわざかまうのなんてあんたくらい――」

 

 M・Mは、利奈の言った友達という言葉の意味をまったく理解していなかった。

 いや、理解していても同じことを言っていたのかもしれない。

 どちらにしろ、利奈はM・Mが言い終えるのを待たなかった。

 

「クロームの悪口言わないで!」

 

 顔の距離を無視した大声に、M・Mは思い切り身を引いた。

 怒りを目に宿して、利奈は毅然とした態度で首を上げる。

 

「なんでそんなひどい言い方するの? 貴方にそんなこと言われる筋合いなんてない!」

 

 利奈の豹変にM・Mはしばし気圧されたが、すぐさま態勢を立て直した。

 

「なによ、あんた、あんな女の肩持つの? いつだって骸ちゃんの後ろに張りついてるだけのお荷物じゃない。利用されてるだけなのも知らないで」

「違う! クロームは修業頑張ってるし、お荷物なんかじゃない! それに、貴方なんかと違ってすごく優しくていい子なんだから!」 

「はあ!? 私があの女に劣るっていうの!? あんまり調子に乗ってるとあんたでも殺すわよ!?」

 

 激昂したM・Mが脅しをかけるが、利奈の心は乱されなかった。

 

 いくらなんでも、怒気と殺気の区別くらいはつく。

 それに、本当に殺すタイプの人はすでに手を出しているか、何食わぬ顔でやり過ごしておいて後ろから刺すだろう。

 だからこそ、絶対に手を出されないという自信の元、利奈は挑発的に微笑んだ。

 

「やれるものなら、どうぞご自由に。でも、骸さんが知ったら驚くんじゃないかな」

「うっ……、骸ちゃんの名前を気安く口に出すんじゃないわよ! このブス!」

「そっちこそ、今の顔ひどいから。鏡見てみなよ」

「きいいいい!」

 

 やみくもに罵声を飛ばすM・Mと、その罵声を使った口撃を仕掛ける利奈。

 男性陣から見て、利奈が優勢なのは明らかだった。

 

 巻き込まれないように壁に張りついていたフランは、壁を伝うようにして恭弥のとなりに立った。恭弥はというと、室内には一切目もくれていない。

 なおも続く女二人の罵り合いを耳に入れつつ、フランは恭弥との初めての会話を試みた。

 

「……あの人、いつもあんな感じですか?

 ヴァリアー邸にいたときより――まあ、わりとあんな感じだった気もしますけどー」

 

 ヴァリアー邸では借りてきた猫のようだったとはいえ、M・Mと正面切って罵り合うほど強気な性格だとは思っていなかった。

 追い詰められなくても猫を噛むネズミもいるのだなと、フランは認識を新たにした。

 

「……そうだね。いつも通りだよ」

 

 恭弥がゆるりと顔を室内に向ける。

 利奈の性格を重々承知している恭弥からすれば、珍しい光景ではなかった。

 いつもは負け犬のように遠くから吠えていたけれど、今回はどうやら勝ちを奪えそうだ。

 

 恭弥の予測通り、口喧嘩は利奈に軍配が上がる。

 怒りと屈辱で涙目になりながら、M・Mは利奈の眼前に指を突きつけた。

 

「っ覚えてなさいよ!

 今回はアルコバレーノがいるから見逃してあげるけど、次同じことやったら間違いなくただじゃ帰さないから! それまでせいぜい死なずにいることね! ふん!」

 

 捨て台詞とも負け台詞とも取れる言葉を投げつけながら、M・Mは足音荒く部屋を出て行った。

 ドアがひどい音を立て、廊下を歩く足音がここでも聞こえてくる。

 

(勝った……! いつも負けてばかりなのに勝った……!

 よし、じゃあ早くかえ……帰り……)

 

 勝利に酔いしれる利奈だったが、倒した敵がいなくなったことで、瞬時に我に返った。

 

 侵入者が住民を追い出して、いったいなにをやっているのだろう。しかも、男性三人の目の前で。

 恐る恐る壁側に視線を流すと、遠い目をした千種やフランを通り過ぎて恭弥と目が合い――

 

「……」

 

 恭弥に、無言で顔を背けられた。

 

(ヒバリさんにまで呆れられた!?)

 

 女子として大事なものを失ってしまったことを悟り、利奈はその場に崩れ落ちた。

 

「利奈?」

 

 初めて聞くような声は少女の声なので、セイのものだろう。

 そういえば彼女もいたのだったと、静かに首を振る。

 

『さて、用事も済んだしそろそろ帰るか』

 

 何事もなかったかのような声が手元で響く。

 通信機越しにリボーンにも聞かれていたことを思い出し、利奈は弾かれたようにリボーンに食いついた。 

 

「ま、待って! リボーン君、ひょっとして今のって……」

『ん? なにかあったのか? こっちで話してたからあんま聞いてなかったんだが』

 

 これは優しい嘘だろう。そんな都合よく退席しているわけがない。

 しかし、この嘘に縋りつかなければ、通信機越しにさらに大勢の人に聞かれていたという予想が現実になってしまう。

 

「……ううん、なんもなかった。なにもなかったよ」

「顔真っ赤で説得力皆無ですけど」

「フラン、私のチョコあげるから黙ってて」

「ハーイ」

 

 フランの口止めはこれでいいだろう。

 あとは、ため息をついて部屋を出ようとする千種の腕を掴めばそれでいい。

 

「……なに」

「今の、だれにも言わないで……!」

「言わないよ、めんどい」

 

 ほうっと息をつく利奈を横目に見ながら、チョコレートをポケットに入れるフラン。

 そして思った。骸が作ったセイが一部始終を見ていたのだから、口止めなど無意味なのにと。

 

「――懐かしいですねえ」

 

 別室で寝そべっていた骸は、くつくつと楽しそうに笑っていた。

 

 

__

 

 

「よかったの?」

「なにが」

 

 訪問者が帰り、静かになった建物内で、M・Mは不機嫌を顔に出しながら窓際に頬杖をついていた。

 門は閉じているし、二人の姿はもうそこにはない。

 無言の千種に、M・Mは頬杖を解く。

 

「いいのよ、言ったってなんにもならないもの。

 私が知ってる利奈はあんなに子供じゃなかったし」

 

 窓に背を預け、そしてふと、呟く。

 

「言い合いなんて初めてしたわ。……わりと気が短かったのね、あの子」

 

 その口元には、寂しげな笑みが浮かんでいた。

 

__

 

 

 すっかり長居してしまったせいで、並盛町に戻ったころには夕方になってしまっていた。

 炎のような夕日がそこここを赤く染め、その緋のなかで、二人が乗ったバイクが一本道をまっすぐに走る。

 

「すごくきれいな夕焼けですね」

 

 少しずつ動く夕日を眺めながら、利奈は呟いた。

 こんなにきれいな夕日を眺めたのはいつぶりだろうか。いや、そもそも夕方に外に出た記憶がない。

 

「そういえば外に出るの、屋上に行ってから初めてです。すごく新鮮」

 

 太陽に当たらずに暮らしていたせいか、日の光や暖かさがたまらなく愛しくなってくる。

 ミルフィオーレファミリーに勝てば、この窮屈な生活を終わらせられる。決戦まで、あと少しだ。

 

「絶対勝ちましょうね、ヒバリさん」

「当たり前のこと言わないで」

 

 返ってくると思ってなかった返事がきて、利奈は吹き出した。

 

 夕焼け空は、血のように鮮烈な赤だった。それでも、利奈は心の底からその空をきれいだと思えた。

 川も土手も赤色に染まって、それがただただ美しい。それでいいのだ。

 ――この場所でなにがあったかなんて、二人は知らないままでよかった。

 




 これで第二部四章終了です。
 そして記念すべき百話! 到達! しました! お祝いに感想や評価をくださるとうれしいです!

 五章のチョイス編は五話くらいで終わる予定ですが、アニオリの設定をうっかり混ぜてしまったので、最終章の六章の話数が不透明になっています。アルコバレーノ編もⅠ世ファミリー編もなかった。でも第三部のラスボスが目立ってたのは記憶に残っている。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章:チョイス戦にて
潜められた毒


 

 利奈は白蘭に強い殺意を抱いているが、そのじつ、白蘭のことはほとんど知らなかった。

 そもそも、直接会ったことすらないのだ。

 画面越しに数分顔を合わせただけで、交わした言葉は会話にすらならなっていない。それでも、そのほんの少しの接触で、白蘭は利奈の心を粉々に砕いてみせた。楽しくて仕方がないという顔で。

 そして利奈は、殺したいほどの強い憎しみ――なんて生温いものではなく、殺すためならなんでもするという覚悟を抱き、育てながら再会の日を待った。

 

「やっ、ようこそチョイス会場へ」

 

 気さくに声をかけてくる、笑顔の青年。

 その茶目っ気のある表情と柔らかい物腰を見て、彼の正体を当てられる人はいないだろう。

 白い髪と白い肌。今日は黒い上着を着ているが、最初の真っ白な隊服の印象が尾を引いて、どうしても純白を連想させる。

 しかし、見た目の清廉な白に反し、中身は最低最悪、どす黒く染まった悪の化身だ。

 

 ――ミルフィオーレボス、白蘭。

 すべての元凶。己の欲望のために次々と人を動かし、操り、殺め、世界を我が物にしようと画策している、とんでもない独裁者。

 

 元来、毒のある生き物は、毒を持っていることを周りに伝えるために毒々しい色で自身を覆う。

 だが、白蘭は白だ。禍々しい毒を持っていながら純白でそれを覆い隠し、近づいたものに容赦なく毒を注ぎ込む。

 白は無垢。だが無垢なものが清いとは限らない。無邪気に物を壊す幼子のように。

 

 白蘭の瞳が、ボンゴレファミリーの顔を順に追っていく。

 客人の顔ぶれを確認するそぶりながらも、獲物を品定めするかのような冷たさで。

 それを悟らせまいと口元に称えられた笑みは、完璧すぎてかえって氷のような冷笑に思えた。少なくとも、利奈の目には。

 

 白蘭の瞳は強い殺意で見つめる利奈をいとも簡単に通りすぎ、そして正面に戻る。

 それから彼は、チョイスの説明をしながらゲームの準備を進めていった。

 知り合いと話すときのように、屈託なく。殺したはずの相手にも親しげに。ゲームが楽しみで仕方がないというように、嬉々として。

 

 ――白蘭は、そういう人間だった。

 

 

___

 

 

 決戦の日。

 ボンゴレファミリー関係者は、全員で指定された神社に向かった。

 

 戦うのは守護者たちなのに、なぜ非戦闘員である利奈たちまでもが一緒なのか。

 疑問に思うところはあったけれど、過去から来た人間は全員連れてくるようにと、白蘭から指定があったらしい。

 

「お揃いの服って、なんだかワクワクしますね!」

「ねー。制服みたいだから、同じ学校に通ってる気分」

 

 ハルと京子の様子はいつもと変わらない。

 馴染みのある並盛神社が指定場所だから、あまり気負わないでいられるのだろう。

 こうしていると、学校の行事かなんかで訪れたような雰囲気である。

 

(私は全然余裕がないわけだけど)

 

 先ほどから心臓の音が痛いくらい聞こえている。握りしめた手のひらはじっとりと汗ばんでいる。

 その原因はただひとつ――恭弥が十二時目前になっても、集合場所に現れないからだ。

 個別修業を受けている武も来ていないが、利奈の憤りは恭弥にだけ向いていた。

 

(なんでこんな大事な日に……!)

 

 武はともかく、恭弥は来ない可能性が捨てきれない。だからこそ、現場は混乱を極めていた。

 

「ディーノさん、ヒバリさんに念押ししてくれましたよね……?」

 

 こっそりついてきてあっさり利奈に見つかったディーノに話を振ると、ディーノはウームと唸った。

 

「言ったは言ったが……あいつの事だからな」

 

 不安しか生み出さないディーノの言葉に、ただでさえ蒼白になっていた正一が目を剥いた。

 

「ちょっと困りますよ! 戦力が減るのはもちろん、条件を守らなかったからって不利な要求を突きつけられたりでもしたら……!」

「だよな……。よし、待っててくれ。今からちょっと恭弥探してくる!」

「ストップ!」

 

 捜索しに行こうとするディーノの腕にすかさずしがみついたら、綱吉がまったく同じように反対側の腕を取っていた。考えていることは一緒のようだ。

 

「じっとしてください! ディーノさんまでいなくなったら、どうすればいいんですか!」

「でも、恭弥が……」

「相沢さんの言う通りです! すれ違いになるかもしれませんし!」

「そりゃそうだが、このままじゃ――」

「あー、もう! 雲の守護者だからって、なにもこんなときまでふらふらしてなくっても!

 うっ、お腹痛くなってきた……」

「大丈夫? 飴食べる?」

 

 しゃがみ込んだ正一と、気遣うように隣に座り込むスパナ。

 隼人はこれ見よがしに舌打ちするし、周りはみんな不安そうな顔をしている。

 その後、空から転送システムが現れ、時間ギリギリで二人が飛び出してくるまで、利奈は生きた心地がまるでしなかった。

 

 ――そんな一幕もあったが、遅れてやってきた二人の力も加わって、一行は白蘭との対面を果たした。

 直接対面するのは初めてで、利奈は殺意をありったけ込めた視線で白蘭を睨む。

 しかし、白蘭が利奈と視線を合わせることはなかった。

 全員の顔を確認していたときも、白蘭の目は利奈の顔を素通りしただけだった。

 

 ――所詮、白蘭にとって利奈など取るに足らない存在なのだろう。

 せいぜい、昔遊んだおもちゃのひとつだったというだけで。

 

 転送されたのは、高層ビルの屋上だった。周りはさらに高いビル群に囲まれている。

 この無人のビル群が戦いの舞台だというのだから、驚きだ。

 

 「白蘭さん!」

 

 正一が叫んだ。

 さっきは腹部に当てていた手で、胸元を強く握りしめている。

 

「この戦いで――チョイスで僕たちが勝ったら。本当に、7³を手放してくれるんですよね?」

 

 声はわずかに震えていたが、それは恐怖や不安のせいではないだろう。

 かつての友人の言葉に白蘭は眉を下ろした。

 

「正ちゃんはせっかちだなあ。

 もちろん、7³は勝者のものだよ。じゃないとこの勝負の意味がなくなるでしょ?」

 

 あっさりと答える白蘭のとなりで少女が吹き出した。

 

「ぷぷっ、どうせ勝てっこなんてないのにぃ。

 びゃくらーん、あの人、どうせ負けるのに勝ったときのことなんて考えてるよー?」

 

 こちらのメンバーの何名かがムッとしたが、口を出す場面ではないと判断したのか、声には出さなかった。

 少女はおかしそうにもう一度プフッと笑い、白蘭にしがみつく。白蘭のそばに控えていた長髪で背の高い男が、彼女をブルーベルと呼んだ。

 

(……あの子もミルフィオーレの守護者? 格好は他の人と一緒だけど、私たちよりも年下だよね)

 

 利奈は真6弔花を知らない。それどころか、ここに至るまでの経緯すら知らない。

 だから、白蘭が引き連れてきた守護者たちのなかに、γたちの姿がないことを訝しんだ。

 もっとも、ミルフィオーレ側にいた正一やスパナがこちら側に来ている時点で、いろいろと察するべきなのだが。

 

(んー。でも、こっちもランボ君が守護者だったりするし。

 ほかの人は見るからに強そうだけど、あの子が相手だったらなんとかなるかも)

 

 そんなことを考えられるのは利奈くらいだろう。

 γがその少女よりも下の立場だったと知っていたら、そんな希望を抱けるはずもないのだから。

 

 白蘭に促され、綱吉が白蘭とルーレットを回す。

 投影されたルーレット結果を見ていたら、自陣で小さな悲鳴が聞こえた。

 

 そちらに目を向けると、いったいいつのまに接近していたのか、ハルと京子、そして背後から二人を守るビアンキの前に、ミルフィオーレの守護者が立っていた。

 

(なに、この人……)

 

 その容貌に利奈はゾッとする。

 長く伸びた髪に、クマのある不健康な目。顔を斜めに横切る大きな傷。

 年はブルーベルの次に若いだろう。腕に抱いたぬいぐるみはボロボロで、禍々しさが感じられる。

 ボンゴレ全員の視線を集めながら、見た目通りのいびつな喋り方で、少年は二人に話しかけた。

 

「僕チン、デイジー……。これ……あげる」

 

 二人に差し出されたのは一輪の花。――しかし、その茎は折れ、枯れるを通り越しすでに朽ちかけていた。

 ハルが息を呑み、京子がキュッと唇を引き結ぶ。

 

「いけませんよ」

「ガハア!」

 

 涼しい顔をした男が、蔓のようなものを伸ばして少年を回収した。

 よりにもよって首を引っ張ったために少年が苦悶の表情で鼻血を出し、それを眼前で見てしまった二人が、今度こそ悲鳴を上げる。

 

「な、なんなのだ、貴様ら!」

 

 了平が二人を庇うように前に立つと、血を流すデイジーを抱えながら、男は優雅に微笑んだ。

 

「すいませんね、驚かせてしまって。

 デイジーはきれいなものに目がないのです。……その子たちのように、いずれ滅びゆく美しいものが」

 

 ハハンと笑うその男に、利奈は言葉を失った。

 

(あの人、怖……!)

 

 物理的な怖さではなく、どちらかというと白蘭に似た、人の精神を揺さぶる怖さを持った男だ。

 ドン引きしながら見つめていると、おもむろに男がこちらに顔を向けた。

 その目は間違いなく利奈を捉えていて、利奈はビクッと肩を揺らす。

 

(なん、で、私?)

 

 彼はデイジーを手放すと、だれにも指摘されない自然さで颯爽と利奈の前まで来た。

 先ほどと同じ優美な――本心がまったく読めない微笑を浮かべ、腰を折る。

 

「初めまして。貴方のことはよく知っていますよ」

「え?」

「白蘭様に捕らえられていましたよね。映像を見ました。傷の具合はいかがですか?」

 

(傷……)

 

 あのときのことを思い出して、じわりと毒が心臓をなぞった。その隙に桔梗が距離を詰める。

 近づいてきた顔は目元を強調するような化粧が施されていて、きれいというにはあまりにも整いすぎていた。

 咄嗟の事態に反応できない利奈の手を取り、男は続ける。

 

「自己紹介が遅れました。私は桔梗。真六弔花のリーダーを務めています。

 以後、お見知りおきを」

「あ、ちょっと……!」

 

 親しげな言葉とともに絡められる長い指。鉄のように固く、冷たい。

 背筋を這いあがる悪寒とともに危機感を覚えた、そのとき。

 

「おっと」

 

 桔梗の顔があった場所で、見知ったトンファーが空を切った。

 横一閃に描かれた軌道が今度は斜めに振り上げられ、桔梗は軽やかなステップでそれを躱す。

 やっと動けるようになった利奈の前に立つのは、両手にトンファーを構えた恭弥だった。

 

「ねえ、なに勝手に手を出してるの?」

 

 怒っている。顔は見えないが、その声には苛立ちが多分に含まれていた。

 恭弥の言動に、桔梗はなにかを察したような表情を浮かべた。

 

「ハハン、そういうことでしたか。それは失礼いたしました」

 

 その含み笑いで言外になにを言われているのかを悟り、利奈は瞬時に口を開いた。

 

「違うから! そういうんじゃないですから!」

「ちょっかい出すなら僕にしてよ。相手してあげるから」

「恭弥、論点がずれてるぜ」

 

 そこでディーノに引き寄せられ、利奈はディーノの背後へと隠された。

 図らずも、京子たちと同じ構図になっている。

 

「なあ。わかっているとは思うが、俺たちは真剣勝負をしに来たんだ。

 変なちょっかい掛けてこっちを惑わそうとしたって無駄だぜ。……なあ、ツナ」

「え!? あ、はい、その通りです!」

 

 ミルフィオーレ守護者の奔放な行動に翻弄されていたのがまるわかりの態度だったが、綱吉は思い切りよく頷いた。

 利奈はというと、ディーノの後ろで必死に心を落ち着ける。

 

(あー、びっくりした。……すっかり油断してた)

 

 戦いに参加しないからと油断していたら、この有り様だ。

 恭弥が助けてくれたのは予想外だったが、おかげで醜態をさらさずにすんだ。

 

 絡められた指と火照る顔の熱を振り払うように手で顔を仰ぎ、もう一度白蘭を睨む。

 ニコニコと笑う白蘭の目には、やはり利奈は映っていなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誰がために炎を燃やすのか

 白蘭の守護者にちょっかいをかけられたが、気を取り直してルーレット結果を確認する。

 両陣営のシンボルの下に並ぶ八つのマークのうち、七つのマークはそれぞれ天候を現しており、すなわち、対応する属性を示していた。わかりやすいのは雲と雷と雨で、あとは消去法で当て嵌められる。

 そして最後のひとつ。白い四角はそれ以外、つまり無属性を示していた。

 

 ボンゴレは大空・雨・嵐が一人ずつで、無属性が二人。

 ミルフィオーレは晴と雲が一人ずつで、霧が二人。

 綱吉・武・隼人・正一・スパナ対、デイジー・桔梗・トリカブト・猿。

 

 ボンゴレの参加戦士は正一が決めた。

 リングを持っていないから無属性として数えてほしいという、若干無理のある正一の提案は特別に認められ、技術者仲間のスパナ、それとボンゴレの守護者でチームが組まれた。

 綱吉を飛び越えての指示だったので隼人は待ったをかけたが、リボーンが正一に賛同し、他ならぬ綱吉もそれを受け入れたので、それで決定となった。

 

 ちなみに、了平や恭弥も戦いに参加できないことに異を唱えたりしたが、周囲に宥められてなんとか落ち着いてくれた。

 戦闘狂の恭弥はいつも通りだから置いておいて、不参加メンバーだってこの日のために修業に励んでいたのだから、文句を言いたくなる気持ちはわかる。

 

 ――これから始めるチョイスというゲームは、正一と白蘭が作った戦争ゲームである。

 戦場・兵士・本陣を決めて戦闘を行い、勝者が敗者の所有物から欲しいものを選んで奪う。名前の通り、様々なものを選ぶゲームだ。

 戦闘ルールはいくつがあるそうだが、今回選ばれたのは、もっとも単純で勝敗のわかりやすいターゲットルール。

 ランダムに選ばれた相手チームの標的――今回ならボンゴレはデイジー、ミルフィオーレは正一を倒せば勝利となる。

 

 厳密に定められた制限時間はないが、時間無制限というわけでもない。

 標的に選ばれた人は炎を灯すターゲットマーカを胸につけられるのだが、それはつけた人の死ぬ気の炎を使って燃え上がるのだ。

 死ぬ気の炎は生命エネルギーなので、時間が経てば経つほど生命力が削られていく。

 そして、どんな理由であろうが、その炎が先に消えたチームが負けだ。

 

「お久しぶりです」

 

 審判役として呼ばれた二人組は、利奈の知っている顔だった。メローネ基地で正一の後ろに控えていたあの女性たちだったのだ。

 ミルフィオーレチェルベッロ機関の人間であると名乗っていたが、チェルベッロはリング争奪戦でも審判を務めていたはずだ。綱吉たちも反応していたし、間違いないだろう。

 

 淡々と必要事項を述べていく彼女たちに促され、綱吉たちは基地ユニットへ、利奈たちは観覧席へと向かった。

 観覧席はそれぞれの陣営に分かれていて、カメラ映像と審判の声、そして味方からの音声が流れるようになっている。

 みんなが立ったままモニターを見ようとしているなかで、利奈はなんとなく椅子に座りこんだ。

 正一が最後に言った言葉と、その決死の表情が気になって仕方なかったのだ。

 

(白蘭がああなったのは入江さんのせいって……どういう意味なんだろう)

 

 抽象的過ぎてなにも推察できないけれど、正一が命を懸けてでもこの戦いに勝利しようとしている気迫は伝わってきた。

 それだけに、今から始まる戦いに不安を感じてしまうのだ。

 

「どうしたぁ」

 

 わだかまりを抱いていたら、隣に立ったスクアーロに声をかけられた。

 

 神社集合時にスクアーロはいなかったのだが、彼はリボーンとともに、ひっそりと基地ユニットの中に潜んでいたのだ。

 ヴァリアーの部隊長が本気を出して気配を遮断していたのだから、軽く指導を受けた程度の利奈が察知できるはずもなく。ほかの人と同様に度肝を抜かれた。

 

「ちょっと気になることがあって」

「言ってみろ」

 

 スクアーロにしては珍しい小声で問われ、利奈はさりげなく辺りを窺った。

 みんなはモニターに集中しているし、会話をだれかに聞かれる心配はないだろう。

 

「入江さんなんですけど。最後に言ってた言葉がどうしても気になって」

「なにか言ってたかぁ?」

 

 スクアーロの問いに利奈はしばし押し黙り――

 

「……白蘭さんをこんなにしちゃったのは僕なんだ。僕が逃げるわけにはいかない」

 

 ――日本語は一文字違うだけで意味合いが大きく異なっていく。人に伝えるときは、一言一句違わずに伝えなければならない。

 本当は言い方も模倣しなければならないところだけれど、人目を引くからやめておいた。

 記憶を反芻しながら声に替えた言葉に、スクアーロは興味深そうに頭をひねった。

 

「それは確かに引っかかるな。あいつは白蘭の右腕だったと聞くが、それが関係してるのかもしれねえ」

「はい。でも、だったら入江さんがこちら側につくのはおかしいですよね?

 白蘭に世界征服を持ちかけるような人なら、こんなふうに命懸けで止めたりなんてしないでしょうし」

 

 話しているうちに三分が経過して、布に覆われていたボンゴレの基地ユニットがあらわになった。

 真上から見た基地ユニットはまっ平らで、紙に書かれた八角形と違いがない。側面も同じようなもので、きわめてシンプルだ。

 カメラはフィールドしか映さないから、内部の様子は音声でしか確認できそうにない。

 

(あっ、開いた)

 

 基地ユニットの壁が動いて、綱吉と守護者二人がバイクで飛び出した。

 彼らがバイクの講習を受けていたことを知らないハルと京子は、バイクにまたがって三方向に散る三人に、感嘆の声を上げている。

 正一とスパナは基地ユニットから指示を出すようだ。

 

「あのユニット、動かないんですかね?」

「いや、あの形なら動くだろぉ。

 この地形なら、下手に動き回るよりもじっとしてたほうがリスクは低い」

「そっか。そうですね、動いてたら沢田君たちが守りに入れないですし」

 

 遮蔽物の多いフィールドは、姿を隠して息を潜ませるのに持ってこいの地形である。

 しかしその利点は敵にも働く。長期戦になれば、不利なのはこちらだろう。

 敵側の大将は、顔色ひとつ変えずに炎を燃やしていたのだから。

 

(入江さんもそれはわかってるはず。やっぱり、入江さんはこの戦い――)

 

 以前、利奈は正一に問うた。白蘭を殺す覚悟はあるかと。

 彼は答えた。僕に白蘭は殺せないと。友人を殺す手伝いはできたとしても、友人をその手にかけることはできないと。

 

「あいつらみたいに甘っちょろいやつだな」

 

 でも、利奈は思うのだ。

 友達は殺せなくても、自分を殺すことはできるのではないのだろうかと。

 友人のために自分が死ぬ覚悟は、あるのではないかと。

 

(沢田君たちがなにも言わなかったから、私もなにも言えなかったけど。

 ……ううん。もし本当に入江さんが死ぬ気だったとしても、私が止めたりしちゃいけないんだ)

 

「……入江さんが死ぬ気で戦うなら、私は応援しなくちゃいけないですよね。

 私だって、白蘭殺すためなら同じことするんですから」

「あ?」

「沢田君たちはきっとそんなつもりないんだろうけど、私は入江さんと同じで、白蘭殺すためなら、なんだって――」

「あ゛あ!?」

 

 スクアーロが声を荒げ、数人の視線がこちらに向いた。

 しかしそのタイミングで綱吉がトリカブトと交戦を始めたため、こちらに近づいてくる人はいなかった。

 

「そいつは聞き捨てならねえぞぉ! お前、俺たちのところでなにを習ったぁ!」

「え? あの、テレビ……」

 

 交戦が始まったにもかかわらず、スクアーロは利奈を上からねめつけた。利奈が控えめに話題を変えようとしても、お構いなしだ。

 鬼教官を思わせる立ち姿に、利奈は言われたわけでもないのに背筋を伸ばした。

 

「ヴァリアーでなにを習ったか言ってみろぉ!」

「な、なにを? えっと、暗殺とか、武器の使い方とか……」

「ほかにはぁ!」

「ほか!? うーんと、ピッキング、盗聴器の取り付け方、銃の安全装置の外し方、あとは……」

「侵入して、ターゲットを殺した! 次はぁ!」

「次、は……逃走?」

 

 そう答えると、スクアーロはちゃんとわかってんじゃねえかと鼻を鳴らした。

 利奈はなにがなんだかわからずに首をひねる。

 

(全然わかんないんだけど? 逃げるのが正解ってこと?

 いやいや、それじゃマフィアというか人として情けなすぎるし……)

 

 潜入し、標的を仕留める。その続きを促されたということは、そこが一番大事な部分ということなのだろうか。

 そこから先は自分で考えなければいけないようで、無言の圧に利奈は必死に思考を巡らせた。

 モニターには首だけで浮いているトリカブトが映っているが、今はそれどころではない。

 

(どういうこと? 逃げ方? 逃走経路の確保の仕方とか気配の隠し方も教わったけど、それがなにか……あっ)

 

 遅まきながら気付いた利奈に、ようやくスクアーロは圧を解いた。

 

 暗殺は殺して終わりではない。標的を殺したら、速やかにその場から離れなければならない。

 ほかの敵に捕まったら、今度は自分が殺されてしまうのだから。

 

「標的を殺して終わりなら簡単だ。身体に爆弾巻きつけて敵陣に飛び込めばいい。

 だが、俺たちプロの暗殺者はそんな真似は死んでもしねえ。

 殺されずに戻れなけりゃ、ただの鉄砲玉だ。そんなもん、ヴァリアーにはいらねえ」

 

 ヴァリアー邸で教わった殺し方はどれも、非力で才能のない利奈でもできるやり方ばかりだった。

 そして、そのなかにはひとつだって、相打ちで終わるようなものはなかった。

 

「お前の覚悟は知ってる。お前の覚悟は、怒りは、自分の命がどうなってもいいみてーな、そんなカスなもんじゃなかったはずだ。それはお前が一番よく知ってるだろぉが」

 

 そうだった。正一と同じだなんて、よくそんなことが言えたものだ。利奈の抱いている怒りは、憎しみは、正一とはまるで違う。

 かつての友を憂う正一の想いに比べれば、利奈の想いなんて、どこまでも身勝手で、単純なものだ。

 

(私は白蘭を殺したい。この世界がとか、大人の私がとか、そういうの全部関係なくて。

 私が殺したいって思ってるのは、白蘭が嫌いだから。白蘭がどうしようもなく、ムカつくからだ)

 

 存在が。声が。態度が。彼に関する事象すべてが。

 だからこそ、あんな人を殺すためにわざわざ命を投げ出すなんて、考えられない。

 

「そうだ、それだ。だいぶいい目つきになってきたじゃねえか」

 

 頭の上に手が置かれる。

 スクアーロは利き手が義手になってるから、熱を持つこの手は右手だ。

 頭を掴んだまま、スクアーロは身を屈めて利奈の耳元で囁いた。挑発的な、楽しそうな声で。

 

「お前は死ぬ気になるな。殺す気で殺れぇ」

 

 最後ににやりと笑い、利奈の前髪を乱雑に撫でる。

 そしてモニターに目をやったスクアーロは、あともうひとつ、とさらに言葉を付け足した。

 

「あのカスが死ぬつもりで戦っていようがいなかろうが、どっちみち関係ねぇ。

 こいつらはみんな、揃いも揃って生温いやつばかりだからなぁ!」

 

 トリカブトが展開した無数の蛇が、全方向から綱吉を串刺しにする。

 いや、綱吉には一本も刺さっていない。長さが均等な蛇の棒は、どれひとつ綱吉を貫通していない。

 

「簡単に死ぬようなやつも、簡単に死なせるやつもいねえ。

 すべて守り抜くつもりでいやがるんだ、こいつらは」

 

 いつの間にか利奈は立ち上がっていた。

 画面中央に映る黒い塊が動いて、翻った。

 

「……沢田君」

 

 翻ったのはマントだった。黒いマントを羽織った綱吉は、無傷のままそこにいた。

 マントの裾から広がる炎は、すべてを包み込む温かなオレンジ色だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

神には祈らない

 

 観覧席は、水を打ったように静まり返っていた。

 チョイスが始まった直後はスポーツ観戦のような盛り上がりを見せていたのに、その熱がすっかりと冷え切っていた。

 

 設置された複数のモニター画面に、味方の姿が映されている。

 標的の正一とスパナが乗っている基地ユニット。

 基地ユニット近くに待機して敵を待ち構える隼人。

 ビルを貫通させるほどの力でトリカブトの頭部を殴り飛ばして、標的を目指しバイクを走らせる綱吉。

 そして現在、幻騎士と呼ばれる剣士と戦い、リベンジを果たした武。

 

 ボンゴレ観覧席の視線は、すべて武が映る画面に向けられていた。

 戦闘があったのだから、視線が集中するのは当然だ。しかし、戦闘が終わったにもかかわらず、幻騎士が地に伏したにもかかわらず、だれ一人として、目を離そうとしなかった。

 

 ――チョイスの勝敗は、戦闘員の撃破人数ではなく、標的の炎が消えたかどうかで決まる。

 戦闘員の負傷具合あるいは生死は、勝ち負けに一切関わりがない。その負傷者が敵側の人間なら、なおさら目を向ける必要はなかった。

 しかしだれも目を逸らせない。逸らしたいと思っても、画面のなかの壮絶さがそれを許さなかった。

 

 鎧に身を包んだ幻騎士が、何事かを叫んでいる。

 敵の音声は観覧席に入ってこないので、幻騎士の言葉は武と同じくらいまでしか聞き取ることができない。ミルフィオーレのだれかと通信をしているようだが、その音声が聞こえないのでだれと話しているのかさえわからない。しかし、彼に異常が起きていることは明らかだった。

 

(なに!? どうなってるの!? なんで鎧から草が生えてるの!?)

 

 彼を傷つけ蝕んでいるのは、鎧のあいだから生えてきた無数の植物だった。

 炎を宿した植物は幻騎士の身体を養分に、驚異的な速さで成長して花を咲かせている。鎧の下の身体を想像すると、手の内側が震えた。

 

 断じて武の仕業ではない。

 武は幻騎士にトドメを刺さなかったし、こんな残虐なやり方で苦しめようとはしないだろう。それに、幻騎士のそばにいる武が、だれよりも驚愕している。

 

(このままじゃ……!)

 

 屠られた者の断末魔を、これまで飽きるほど聞いてきた。

 しかし、これは本物だ。本当の死に際にしか出ない声だ。

 植物は成長を止めず、とうとうそれぞれの炎が一体化するほどに増殖を遂げた。幻騎士の叫びがより一層大きくなり、そこでやっと観覧席の沈黙が解かれた。

 

「毒サソリ。なにか飲みたい」

 

 ディーノの声だ。

 そちらに目を向けると、顔面蒼白の京子とハルの視界を遮るようにして、ディーノがビアンキに声をかけていた。

 

(そうだ、二人がいたんだ!)

 

 利奈と違って、二人はこういうものにまるで耐性がない。いや、耐性があったとしても、見せるべきものではないだろう。

 ディーノの意図を察し、ビアンキは耳を塞ぐようにして二人の頭を引き寄せる。

 

「行きましょう。ほら、利奈も来なさい」

 

 歩き出したビアンキたちに、利奈は続けない。ついてきているものだと思っているのか、ビアンキは振り返らなかった。決定的瞬間が来る前に、早く二人を遠ざけたいのだろう。

 

(私は……)

 

 見たくない。でも、目を背けたくない。

 彼がどうしてこうなってるのか、このあとどうなるのか、一部始終を見届けなければという使命感が足を留める。見ればきっと苦しむことになるだろう。でも、逃げれば消えない後悔が残ってしまう。

 

(逃げちゃダメ。みんなが戦ってるんだから……私も戦わなくちゃ)

 

 覚悟を決めて、ビアンキたちに背を向ける。

 そうして悲惨な戦場を選んだ利奈を、しかし恭弥はたやすく蹴飛ばした。

 

「僕はコーヒー」

「え……?」

 

 画面に顔を戻す前に、ここに来て初めて恭弥に話しかけられた。

 

(僕はコーヒー? ……ヒバリさんが、コーヒー?)

 

 唐突過ぎて意味を理解できずにいると、機嫌を損ねたように恭弥が目を細めた。

 

「コーヒー」

 

 催促されて、やっと恭弥がコーヒーを飲みたがっているという当たり前の結論に辿り着く。

 

「は、はい! かしこまりました!」

 

 恭弥に命令されたら、コーヒーを用意する以外の選択肢はすべて消える。

 すぐさまビアンキたちを追い始めた利奈の耳に、幻騎士の叫び声が届いた。

 

『白蘭様が俺を殺すはずがない! ――! 図ったな!』

 

 通信相手の名前が聞こえたが、それを聞かなくても、すぐに植物を仕掛けた犯人まで辿りつけていただろう。いや、もう辿りついていた。幻騎士の身体に根を張っていた植物の名前を、利奈は知っていたのだから。

 まっすぐに伸びた茎から咲く、一輪の花。星形のその花は、雲属性と同じ紫色だった。

 

『残念だったな、桔梗! 白蘭様は必ずまた俺を救ってくださる! この幻騎士こそが――』

 

 彼は死ぬだろう。間違いなく。白蘭なんて男を、神として崇めてしまったのだから。

 気まぐれで人を助け、人を陥れ、人を壊す。それも神の本質の一部だ。だけど。

 

(白蘭は神なんかじゃない! 絶対、神様なんかじゃない!)

 

 あれは人間だ。自分本位で残虐で、新世界なんてもののために世界を踏みつぶそうとする、比類なき悪党だ。

 盲目な被害者の断末魔を背にしながら、利奈は唇を噛みしめた。

 

__

 

 観覧席はビル内にあり、ワンフロアすべてが自由に使えるようになっている。

 ビアンキたちのあとを追いかけて給湯室に入ると、利奈の姿を見て、ビアンキがわかりやすく肩の力を抜いた。

 

「よかった、迷ったのかと思ったわ」

 

 安堵の言葉に罪悪感が芽生える。

 ビアンキからすれば、利奈も京子たちと同様に保護するべき子供なのだろう。

 

「ヒバリさんとちょっと話してて……コーヒーを頼まれました」

「そう。なら、お湯は大目に沸かしておくわね」

 

 そう言ってビアンキはヤカンに水を入れ始めた。ちょろちょろと流れる水はか細く、時間を稼ごうとしているのがありありとわかった。

 見たところ給湯室にモニターはないし、ここにいる限り、戦況を気にしないで済むだろう。音を遮るドアもないけれど、向こうの音はここまでは届かない。

 

「冷蔵庫、飲み物いっぱい入ってるみたいですよ」

 

 冷蔵庫を開けるハルの声音が、いつもよりも大人しかった。あんな映像を見せられたのだから、無理もない。

 京子もうつむきがちになっているし、そんな二人に触発されて、イーピンも黙り込んでいた。居心地の悪い静寂が場を覆っている。そんな空気に気付かないふりをして、利奈も冷蔵庫を覗きこんだ。

 

「ほんとだ、たくさんあるね。二人はなに飲むの?」

「そうですね……ちょっと温かいものが飲みたいです」

「私も。お茶にしようかな」

 

 二人とも顔が白い。震えているのも寒さのせいではないはずだ。二人はもう、あの部屋に戻らないほうがいいだろう。

 

(私はちゃんと戻らなきゃ。ヒバリさんにコーヒー頼まれてるし、白蘭の仲間がどんな戦い方するのか、見ておかないと)

 

 お茶とコーヒー、紅茶は何種類か用意されている。

 コーヒーは粉で紅茶はティーバッグだったけれど、日本茶は何種類か茶葉が用意されていた。

 

「玉露にしない? すごく高いやつだし、せっかくだからこれにしようよ」

「うん、そうしよっか」

「はい、ハルもそれで構いません」

「……じゃ、開けるね」

 

 湯呑みを用意する二人にいつもの明るさはまるでない。食器の音だけがやたら大きく聞こえる。

 

「うちね、お母さんがお茶あんまり飲まないから、ジュースとか麦茶ばっかりなんだ。夏はいいんだけど、冬は寒いでしょ? だから冬になるとココア買うの」

 

 諦めずに利奈は会話を試みる。

 手がわずかに震えてしまうけれど、机の下に隠して、なんでもないように言葉を紡ぐ。

 

「でもココアって、ちゃんと混ぜないと最後に残るんだよね。薄いなーって思って足したら固まりになってたりして。コーンスープだとその固まり食べちゃうし」

 

(大丈夫。京子たちに比べたら大したことないはずだし。私が頑張らなくちゃ)

 

「あれってめんどくさいよね。スプーンに張りついちゃったりしてさ。それにほら、……あれ、なんだっけ。そうだ、ココア。ココアって牛乳で入れると美味しいのに、お母さん、牛乳がもったいないっていうし。それにさ」

 

 気負えば気負うほど口が空回りしていく。一人で喋り続けるのは滑稽だったけれど、一度口を閉じてしまったら、きっともう開けない。

 場をつなごうと精一杯口を動かしていたら、ハルの腕の中のランボが、もぞりと動いた。

 

「んー……」

「あっ! ランボちゃん、起きましたか!?」

「あれぇ……オバケは……?」

 

 きょろきょろと辺りを見渡すランボは、ここに来てからをずっと寝て過ごしていた。

 一度は目を覚ましたのだが、それが運悪くトリカブトの頭部が幻術で飛んでるところだったので、すぐさま気を失ってしまったのだ。そのおかげで幻騎士の姿を見ずにすんだのだから、ある意味運がよかったのかもしれない。

 寝ぼけ眼のランボに、京子が優しく微笑みかける。

 

「もういないよ。ランボ君、喉乾いてない? 飲み物あるよ」

「ランボさん、ジュースが飲みたい……」

「うん、じゃあジュースにしよっか。たくさんあるけど、どれがいいかな?」

「うんとねー、ランボさんねー、どれにしよっかなー?」

 

 だんだんと目が覚めてきたのか、ランボの声が大きくなっていく。

 それに合わせて二人に笑顔が戻り、ランボと一緒にキャッキャとジュースを探し始めた。

 

「利奈」

 

 小声に反応すると、ビアンキにそっと肩を抱かれた。

 

「無理に頑張らなくていいのよ。貴方が気負う必要はないんだから」

「……はい」

 

(駄目じゃん! 私、全然駄目じゃん!)

 

 結局、ビアンキに気を遣わせてしまった。

 ランボが起きなければ、延々と一人で空回り続けていただろう。しっかりしなければと気負っていたのがとてつもなく恥ずかしい。恥ずかしすぎて顔が熱い。

 

「そんな顔しないで。二人に笑ってほしかったんでしょう? なら、貴方も笑わなくちゃ」

 

 嫣然とした笑みで促され、ぎこちなく口角を上げる。すると、肩を抱いていた手に背中を軽く叩かれた。

 

「リボーンの好きなエスプレッソを淹れたかったんだけど、専用の道具はないみたいね」

「エスプレッソ……?」

 

 聞き馴染みのない言葉なので繰り返すと、ハルがこちらに顔を向けた。

 

「すっごく苦いコーヒーのことです! リボーンちゃん、エスプレッソが大好きなんですよ」

「赤ちゃんなのに……?」

「すごく大人だよね。お店に一人で買いに行っちゃうくらい大好きなんだよ」

 

 それは店員もさぞ困惑したことだろう。

 コーヒーに年齢制限はないけれど、赤ん坊が一人でお店に入ってきたら、迷子が入ってきたと思うはずだ。

 

(もうリボーン君がただの赤ちゃんだとは思ってないけど……そういえば、リボーン君って匣持ってるのかな。ビアンキさんがいるんだし聞いてみたい、けど……)

 

 せっかくチョイスを忘れて団欒しているのに、わざわざ話を巻き戻すわけにはいかない。

 二人に目をやると、二人はランボとイーピンの飲み物を用意していた。

 イーピンはウーロン茶で、ランボはリンゴジュースだ。ランボのことだからぶどうジュースを選ぶと思っていたのだけれど、今日はリンゴジュースの気分らしい。

 今ならこっそり聞いても大丈夫だろうと、ビアンキの横に並ぶ。

 

「あの……リボーン君って匣持ってるんですか?」

「持ってないわ。リボーンは銃だけで一流の殺し屋だもの」

 

 コーヒーのいい匂いが漂ってくる。砂糖とミルクを淹れないと一口だって呑めやしないけれど、匂いだけならこのままでも好ましい。

 

「ビアンキさんは匣持ってるんですよね?」

「ええ」

「属性聞いてもいいですか?」

「嵐よ」

 

 嵐というと、隼人と同じ属性だ。隼人はまだ敵と交戦していないから、彼の匣動物がどんなものかはわからない。綱吉がライオンで、武がツバメと秋田犬だから、そろそろ猫とか虎とかが出てきそうなところである。

 

「獄寺君と一緒ですね。姉弟だと一緒になるんですか?」

「……どうかしら。隼人はほかの属性の匣も開けられるから、一概には言えないわ」

 

 やや間のある返事を返しながら、ビアンキがフィルターを組み立てていく。

 ヤカンからはまだ音が鳴っていないし、だいぶお湯を入れたはずだから、もうしばらくかかるだろう。

 ランボたちに飲み物を渡した京子たちが横に並んだので、そこで会話を切り上げる。

 

(そういえば、嵐の属性ってどんな効果なんだろう。雨属性は鎮静だって山本君がさっき言ってたけど)

 

 匣の使えない利奈は、匣についての説明を一切受けていない。

 晴属性が活性化であることは治療で知ったけれど、それ以外はからきしだ。こんなふうに観戦する機会があるのなら、一通り聞いておけばよかった。

 

「……なにか聞こえなかった?」

 

 他愛ない話をしていたら、ビアンキがふと入り口の方に目を向けた。

 それで口を噤むと、確かに遠くから特徴的な怒鳴り声が聞こえてきた。

 

「スペルビさんですね、間違いなく」

 

 代表して給湯室から顔を出すと、怒鳴り声より遠くにスクアーロの姿があった。相変わらず、途方もない声量だ。

 

(どうしたんだろ、まさか試合が終わったとか――いやいや、まだお湯も沸いてないし)

 

 ちらりとヤカンに目をやった利奈は、ガスコンロの火がいつの間にか消えていたことに気付いて目を丸くした。弱火どころか、消火されている。

 

「はひっ!? コンロの火が消えちゃってますね」

「あら。いつのまにか消えてたみたい。どうりで沸かないわけね」

 

 そう言ってビアンキは白々しく炎を点けなおす。だれにも知られずにどうやって消したのかは不明だが、今はそれどころではない。

 

(待って、早すぎない!? 十分ちょっとで終わったの!?)

 

 時計を見て利奈は驚愕したが、それも今はどうでもいい。問題は、どちらが勝利したかである。

 すぐさまスクアーロの元へと走り出すが、見えてきたスクアーロの表情は、芳しいものではなかった。

 

(嘘でしょ! 二人も倒したのに!)

 

 残る敵はデイジーと桔梗だけだったはずだ。それなのに五人が負けてしまうなんて。

 

(違う、そんなのどうだっていい!)

 

 そこで利奈は、勝敗すらも二の次にした。

 負けたということは、標的である正一の炎が消えたことを意味する。つまり、正一の生命力がゼロ、もしくは少量しか残らないほどの重傷を負っている可能性があるのだ。

 

(入江さん……! 沢田君、山本君、獄寺君、スパナ!)

 

 基地を防衛していた隼人や、正一と一緒に基地ユニットのなかにいたスパナだって例外ではない。綱吉と武だって、敵と交戦したら傷つくだろう。

 永遠に続くように思えた長い廊下を走り抜けた利奈は、聞きたくない答えを聞くために口を開いた。

 

「どう、なりましたか……」

 

 口を開きかけたスクアーロだが、思い直したように利奈の背後に目を向けた。

 みんなの足音が重たく聞こえる。

 

「お前ら、すぐに出るぞ。応急処置が必要なやつが二人いる」

「っ……!」

 

 すぐさまスクアーロが先陣を切る。明言はされなかったものの、勝敗は明らかだ。

 

「行きましょう」

 

 背中を押され、歩き出す。ハルも京子も、ぎゅっと唇を引き結んでいた。

 

 とにかく進まなければならない。希望の炎が潰えていたとしても、その先に絶望しかなかったとしても。進み続ける限りは、未来はあるのだと信じて。

 




--ミルフィオーレ観覧席にて。


ザクロ「おらよ、飲み物持ってきてやったぞ」
ブルーベル「わーい! ……にゅ!?」
白蘭「どうしたの? ……ザクロ、もう一回作り直して」
ザクロ「……作る?」




 じつは前回更新時に、設定破綻で没になった今回の元案を活動報告にあげています。
 もうあとは未来編終わるまで転がり続けるだけなので、本編に組み込みたかったのですが……残念。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

出し切った手札

 見たこともない乗り物に乗せられて、利奈たちは戦いの跡へと運ばれた。

 負傷者は正一とスパナで、正一の方にはすでにリボーンたちが向かっているそうだ。

 同じ基地ユニット内にいた二人がなぜバラバラになっているのかという疑問は、損壊した基地ユニットを目にした瞬間に霧散した。

 

「ひどい……」

 

 京子の言葉はみんなを代弁したものだった。

 攻撃を受けてからビルに衝突したようで、ビルに押しつけられる形で基地ユニットが傾いている。このなかにスパナがいるのだと思うとゾッとした。

 

「スパナ!」

「利奈!」

 

 ビアンキの声を背中に受けながら、基地ユニットへと乗り込む。今のところ基地が崩れる心配はなさそうだが、中にいるのなら早く外に連れ出さなければならない。

 

「スパナ、どこ! スパナ――って、山本君!?」

「相沢?」

 

 床が斜めになった基地内に入ると、ビルにぶつかって破損した壁の近くに、武の姿があった。そばには椅子があり、そこからスパナの金髪が覗いている。

 

「スパナは無事!?」

「今見つけたところだ。命に別状はなさそうだけど、頭を打ったみたいで気絶してる」

 

 武は見たところ無傷だったが、机に伏したスパナは頭から血を流していた。

 そっと髪の毛をかきわけて傷口を確認してみると、おでこの上にわずかな裂傷が確認できた。

 

(ほかに怪我してるところはないみたいだし、これくらいなら安静にしてれば問題ないはず)

 

「どうだぁ! 生きてたかぁ!」

「ひゃっ」

「スクアーロ?」

 

 壁に反響するスクアーロの声にびっくりする利奈だったが、武はもっと驚いた顔で入り口を見た。

 スクアーロが一緒に来ているとは思っていなかったようだ。

 

「なんだ、お前もいたのか」

 

 入ってきたスクアーロは、基地内の惨状にも目をやっている。観覧席ではなかの映像が見られなかったから、お互い見るのはこれが初めてだ。

 基地ユニット内は外見によらず機器が多く、メローネ基地で壊したあの部屋と似ていた。思っていたよりも狭く感じるのは、ずっと俯瞰から眺めていたせいだろう。

 

「とにかく一回連れ出そうぜ。スクアーロ、揺らさないように手伝ってくれ」

「チッ、しょうがねえなぁ。利奈、先に外に出てろ」

「はい」

 

 力仕事なら彼らに任せたほうがいい。

 せめてもの助力として、転がる瓦礫が邪魔にならないよう、爪先で蹴飛ばしながら外に出る。ビアンキたちはユニットの入り口で待っていた。

 

「もう、一人で入ったら危ないよ」

「ごめん」

「それで、スパナさんは?」

 

 京子はイーピンを、ハルはランボをだっこしている。不安げな顔の二人に、利奈は緩い笑みを向けた。

 

「大丈夫、ほとんど怪我してなかったよ。

 山本君がなかにいて、スペルビさんと二人で連れてきてくれるって」

「そっか、よかった……。あっ、来たみたい」

 

 武とスクアーロがスパナの腕を担いで外に出てきた。

 意識を取り戻したようで、スパナは痛みに顔を歪めている。

 

「見せて」

 

 ビアンキが利奈と同じようにスパナの傷口を検分する。

 

「血塗れ! 血塗れだもんね!」

「ランボちゃん、シーっです!」

 

 なぜかテンションを上げるランボを、ハルが小声で窘める。

 ビアンキの目から見ても傷は軽傷だったようで、ビアンキはそっと額から指を離した。

 

「……正一はどこ?」

「そこの角を曲がったところにいるわ。それより、傷の手当をしないと。まずは消毒ね」

「はい!」

 

 観覧席のあったフロアには医務室もあったので、そこから治療用具を拝借してきている。観覧席にある物はご自由に使ってくださいと言われていたから、本当に遠慮なくいろいろ頂いた。

 脱脂綿と消毒液を用意しようと利奈が袋を破くが、スパナは小さく首を振った。

 

「いい、そんなに大した怪我じゃない。それより、早く正一のところに――」

「でも、ちゃんと治療しないと!」

「そうです! 血が出てるんですから!」

 

 京子とハルが言い募るが、スパナはもう一回首を振った。

 

「……ここに晴の守護者がいないってことは、正一が重傷を負っているんだろう?

 それに、白蘭たちが来る前にボンゴレたちと合流しないと」

 

(……そうだ、白蘭たちが)

 

 ミルフィオーレが勝利してしまった今、7³は白蘭のものとなる未来が確定している。

 特殊な能力があるとはいえ、おしゃぶりと指輪でどう新世界を創るつもりなのかは想像もつかないが、ここで時間を無駄にするわけにはいかないとスパナが考えるのももっともだ。

 

 スクアーロも同じように考えたのか、肩に乗せていたスパナの腕を荒く担ぎ直した。

 

「こいつがこう言ってんだ。連れてくぞ」

「あ、ああ……」

「待って。せめて止血を」

「消毒液と絆創膏の用意できました!」

「……早えな」

 

 利奈は手当の準備を止めていなかった。

 早急に向かったほうがいいという考えには同意するが、それはそれ、これはこれだ。

 

「ほら、消毒するよ」

 

 消毒液をたっぷりと染みこませた脱脂綿を掲げると、スパナがいやそうに眉を寄せた。染みて痛むだろうけれど、傷口を化膿させるよりはマシだ。

 両脇の二人に少し屈んでもらって、傷口のついでに顔に垂れた血の痕も拭っていく。白い脱脂綿がたちまち赤く汚れていった。

 

「利奈、うちのポケットから飴出して」

「……食べるんですか?」

「……? 食べるから出してって言ってる」 

 

 なんというか、スパナはどんなときでもマイペースだ。

 

「あー、いいなー! ランボさんも食べたーい!」

 

 そしてランボはそれを上回るマイペースである。

 スパナの許可を得て、ランボにも棒付き飴を渡した。

 袋から出した飴をスパナとランボ、両方に口に入れてあげると、スパナはわずかに背筋を伸ばし、ランボは静かになった。

 

 スパナの歩幅に合わせてゆっくりと曲がり角を曲がると、道路に仰向けになった正一と、取り囲むみんなの姿が見えた。

 正一の声を聞き取るように綱吉と隼人が膝をついていて、ほかの人は立ったまま正一に顔を向けている。

 

(生きてた……!)

 

 京子とハルも、同じように安堵の表情を覗かせている。最悪の事態を予想していたから、正一が生きているというだけで救われた。

 綱吉に倒されたはずのトリカブトと、幻騎士を殺した桔梗も近くにいるのが気になったが、干渉する様子はない。戦いが終わった以上、手を出すつもりはないようだ。

 

 近づいていくうちに、利奈たちにも正一の声が聞こえるようになってきた。

 綱吉の声に続き、了平の糾弾がはっきり耳に届いたところで、正一が記憶を消された過去を語った。

 

 話の流れを知らない利奈には話が読めなかったが、そのあとの正一の言葉に、だれよりも早く反応した。

 十年バズーカでみんなをこの世界に飛ばしたのが、子供の頃の正一だったと明かされたのだ。

 

「なんで入江さんが……!?」

 

 利奈をこの世界に引きずり込んだのは、この時代の綱吉の意思によるものだったはずだ。子供の頃の正一にどうこうできるものではないだろう。

 

「ん……そこに相沢さんがいるのかい? ……ウグッ」

「入江さん! 動いちゃだめだ!」

 

 正一が無理に身を起こそうとして、綱吉に止められる。利奈は慌てて正一の傍らに膝をついたが、正一の負傷具合に唇を噛みしめた。

 応急処置はされているものの、左わき腹を貫かれたようで、白いシャツが血塗れになっている。口元には吐血の跡もあるし、本来ならば話ができる状態ですらないのだろう。

 それなのに正一は、申し訳なさそうに眉を落とした。

 

「ごめん、勝てなかった……」

「……っ」

 

 利奈は無言で首を振った。こんな重傷を負っている正一を責めるわけがなかった。

 

(こんなひどい傷……死んじゃったかも、知れないのに)

 

 モニター越しに見るのとはまるで違う。これが命を賭して戦った結果なのだ。

 我慢できずに流れた涙が、頬を伝って地面に落ちる。せめて泣き声だけはあげないようにと、利奈はさらに唇を強く噛みしめた。綱吉が息を呑み、隼人が目を逸らす。

 

「……どうしても、君に謝りたかったんだ。君には、辛い思いをさせてしまったから……」

「そういや、一番最初にこの時代に飛ばされたのが利奈だったな。どうしてこいつを一番に選んだ」

 

 よく見たら、綱吉の陰にリボーンが隠れていた。

 リボーンは利奈の涙には触れずに、淡々と話を進めようとする。それがリボーンなりの気遣いなのだろう。綱吉も気を取り直すようにして正一に向き直った。

 

「そうだよ、なんで相沢さんが最初だったの? 京子ちゃんたちと一緒だったら、相沢さんだってミルフィオーレに捕まったりしなかったかもしれないのに……」

 

 その言葉に痛いところを突かれたようで、正一がくぐもった声を上げた。

 しかし痛みを飲みこんで質問に答える。

 

「本当は、リボーンさんだったんだ。綱吉君の家庭教師だったリボーンさんに最初に来てもらって、みんなのサポートに回ってもらうつもりだった」

「なら、どうして? どうして相沢さんが?」

「……この時代の綱吉君の意思だ」

「ええっ!?」

 

 綱吉たちが驚くが、利奈はまったく驚かなかった。それならば、この時代の綱吉が書いた手紙と齟齬がなかったからだ。

 

(沢田君は、自分が私をこの世界に引きずり込んだって書いてた。沢田君が決めて、入江さんが連れてきたんだ)

 

「そもそも、彼女は計画に含まれていなかった。それをこの時代の綱吉君が、予定を変更して相沢さんを転送したんだ。

 日時や場所を指定して転送できるかを確認するために。そして――」

 

 そこで正一は言い淀んだが、利奈の眼差しに困惑がないのを受けて、続きを口にした。

 

「――この時代に死んだ人間でも、十年前と入れ替われるかを確かめるために」

「えっ!?」

「おい、それって――」

 

 二人の視線を感じたが、利奈は目を合わせようとしなかった。正一から目を逸らしたくなかったからだ。

 それに、周りにいる大人たちの反応を見れば、正一の言葉がそのままの意味であることを悟れるだろう。知らないのはミルフィオーレの人間だったスパナくらいだ。

 

「そんな、そんなことのために……?」

 

 愕然とした口調で綱吉が呟く。

 衝撃を受けるのは当然だ。未来の自分が、死んだ友達を実験台に利用したのを知らされたのだから。

 

「もちろん、それだけが理由じゃない。むしろ、目的はほかにあったんだと思う。

 だけど――それを僕の口から言うのはフェアじゃないから」

 

 そう言って目を閉じた正一は、きっと脳裏にこの時代の綱吉の姿を描いていた。

 

 利奈も目を閉じれば綱吉の顔を思い出せる。

 綱吉は優しく利奈を受け入れてくれた。――当り前だ。自分で呼び寄せたのだから。

 それでも、たとえ実験台として選ばれただけだったとしても、綱吉を恨む気持ちは芽生えてこなかった。だって、いつだって綱吉は利奈の身を心から案じてくれていたのだから。

 

「過去の僕は、相沢さんの次にリボーンさん、リボーンさんの次に綱吉君と、指示通り順番に当てていった。どうなるのかも知らずにね。

 それっきり僕はそのことを忘れ、手紙の勧め通り海外の大学に進み、白蘭さんと友達になる」

 

 そしてその五年後、正一はすべての記憶を思い出した。

 滅亡にしか続かない未来。五年間育んできた友情。世界を救わなければならないという重圧。様々な葛藤を乗り越え、正一はスパイとして生きていくことを決意する。

 

 そんな彼に、ある意味では希望であり――ある意味では絶望となりえる分析結果が突きつけられた。

 数多あるパラレルワールドのなかで、この世界が白蘭に勝つ可能性のある、唯一の世界線であることが判明したのだ。言い換えれば、ほかの世界はすべて白蘭が掌握する世界となるのだが、八兆分の一という確率に、綱吉が絶句した。

 

(八兆分の一……。存在していること自体がおかしいくらいの奇跡)

 

 それは、今の正一が未来の正一から指示を受けて作った未来だからというわけではない。

 逆なのだ。ほかの世界とは決定的に違う繋がりがあったからこそ、未来の正一は過去の自分に未来を託したのだ。その決定的な違いとは、つまり――

 

(入江さんが、綱吉君と出会った未来)

 

 敵として出会うはずだった二人が、敵になる前に出会った世界。

 接点のない二人が学生時代に知り合いになっていたからこそ、作られた物がある。それがチョイスでも使われていた、ボンゴレ匣なのだ。

 

(ほかの世界にはなかった武器を沢田君たちが手にした。だから、ほかの世界と違う未来が作れたんだ)

 

 この時代では、強力なリングと匣を持っているものが戦いを制する。

 だからこそミルフィオーレファミリーはすべてを蹂躙できたのだろうし、ボンゴレファミリーは戦いに敗れたのだろう。

 

 ――利奈の考えは現実とは微妙に食い違っていたが、おおよその展開は追えていた。

 だけど、それももはや無意味だ。

 

(未来の沢田君が死んでなかったって、今の沢田君がミラクルな成長をしてたって。もう、どうにもならない……)

 

「そ、君たちの負け」

 

 雌雄は決した。終わったあとでなにを言っても、負け犬の遠吠えにしかならない。過去のやりとりを持ち出したところで、惚けられればそれで終わりだ。負けた人間の言葉に価値などない。

 

「往生際が悪いなあ。もう勝負は終わったんだよ。今さらなにを言ったって無駄だってば」

 

 勝ち誇る白蘭はしかし、切り札の存在を忘れていた。あるいは、もう破り捨てたものだと見誤っていた。

 世界のあらゆる知識を共有できる白蘭でも、初めての出来事は共有できない。 

 

「正ちゃんはよく頑張ったほうさ。正ちゃん以外の人だったらここまでもたなかったよ。でも、それももう終わり」

 

 勝者がすべてを手にできるとは限らない。

 人生というゲームにおいては、いたるところに逆転の札が眠っているのだ。

 

「だれが相手だろうと、僕を止めることはできないよ!」

 

 切り札。一番強いカード。もしくは――ジョーカー。

 

「それはどうでしょうねえ」

 

 霧が形を作る。招かれざる客の姿を。あるいは、待ち焦がれていた人物の姿を。

 

「僕に限って」

 

 槍を手にした男の右目には、六の文字が刻まれていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕引きはあまりにも不穏な色を帯びて

 

「む、骸ー!?」

 

 基地ユニット内に避難を終えていた利奈は、綱吉のその叫びで外に顔を出した。

 

(うわ、なにあれ!)

 

 立ちのぼる水柱にたじろいだものの、その手前にある骸の姿に気付いて身を乗り出す。

 十年前と入れ替わってないことは、背中で揺れる髪の毛を見れば一目瞭然だった。さすがに正一も、廃墟に入りこんで十年バズーカを打ちこむことはできなかったらしい。

 

 骸は白蘭と対峙していた。

 なにか話をしているようだが、水の轟音しか聞こえない。どっちにしろこの距離では聞き取るのは不可能に近いだろうが。

 

(でも、なんで骸さんがここに? クロームの幻覚……ってわけでもなさそうだし)

 

 クロームは綱吉の隣にいるけれど、戦闘態勢には入っていない。

 それに、綱吉の驚きようからして、そこにいるのは間違いなく骸本人なのだろう。

 

(スペルビさんみたいにどこかに潜んでたか、ほかの人に化けてたとか? でもだれも減ってないし……あーもう、いろいろありすぎてわけわかんなくなってきた!)

 

 事態は一刻も留まっていない。

 チョイスの再戦を断られたあのときに少女が現れてから、二転三転し続けている。

 

「あの、外でなにが?」

 

 食い入るように外を見ていたら、その少女に声を掛けられた。

 彼女も外の様子が気になるのだろうが、白蘭が彼女を狙っている以上、一番奥にいてもらわなければならない。

 

 ――少女の名前は、ユニ。

 ミルフィオーレファミリーブラックスペルのボスにして、大空のアルコバレーノ。

 スパナによればブラックスペルの前身であるジッリョネロファミリーのボスであり、リボーンによれば、アルコバレーノのボスでもあるらしい。

 肩書きの多い彼女がおしゃぶりに光を灯してから、彼の執着は7³からユニへと移行した。

 

(だからこうやって、チョイスとか7³とかもろもろ放り出して逃げようとしてるわけなんだけど――私たちよりも年下の女の子狙うとか、めちゃくちゃ気持ち悪いよね)

 

 狙っているのは少女ではなく、少女の持つなにかしらの能力だろう。

 わかってはいるけれど、一度抱いてしまった印象はぬぐえない。まさか、地に落ちていた好感度が地面を叩き割ってさらに落ちていくとは、思ってもみなかった。

 

(だって、この子の仲間人質にして戻って来いって言ったり、逃げたら世界の果てまで追いかけるとか――うん、やっぱない。気持ち悪い)

 

 そもそも、無理やり劇薬を投与しただの、操り人形にしただの、口利けぬ体にしただの、これでもかというほど際どい証言が飛び出していた。

 思春期真っただなかの女子としては、マフィアとして犯した数々の犯罪より、こちらのほうがよっぽど重大で重罪な案件だ。

 

 ――だから、仕方ないだろう。

 白蘭に対する憎悪より嫌悪が勝り、殺意よりも忌避感が勝り、自分のためでなく少女のために殺しておきたいと思ってしまっても。

 そしてその感情の表れとして、心からの軽蔑を込めた悪態をついてしまっても。

 

(だってニタアって笑ったんだもん、この子見て。無理無理! 生理的に無理! あー、思い出しただけでゾッとする!)

 

 ――呟いたのは「キッモ」の一言だけだったが、だれも話していないときに口に出してしまったせいで、わりと多くの視線が集まった。

 白蘭も一瞬真顔になった気がするが、こちらに目を向けはしなかったので、捨て置くことにしたのだろう。ユニも反応せずに話を続けてくれたから、なかったことになっているはずだ。

 

 とにかく、そんなこともあって、ユニは基地ユニット内に匿われている。

 同性の京子やハルも、ユニをあの男から守らなければならないと決心して、二人でユニの左右を守っていた。不安に満ちていたはずの二人の目が強い意志を宿していて、女の団結の強さを再認識する。

 

 外では依然、白蘭と骸が睨み合っていた。

 水柱を避けながら後ろに下がった白蘭に、骸は追撃を仕掛けない。代わりに振り返って、綱吉になんらかの伝言を残した。

 

「みんな! 装置に炎を!」

 

 綱吉の呼びかけで、みんなが一斉に炎を灯す。

 来たときと同様にその炎が転送装置に吸い込まれ、視界が白に染まった。

 

 ――そう、白へと。

 

 

_____

 

 

 超炎リング転送システムが消えるのを見送った白蘭は、ゆっくりと正面に目を向けた。

 本日二人目の招かれざる客は、うっすらと不敵な笑みを浮かべる。こちらと同じように。

 

 ボンゴレファミリーが消えて、人数差でいえばこちらが圧倒的に有利だ。

 いや、幻覚でできた作り物の一人や二人、部下の手を借りなくても早々に片をつけられるだろう。あくまで、相手に戦う意思があればの話だが。

 

「まさか君が、囮役を買って出るとはね。ボンゴレに肩入れするなんて、いったいどんな風の吹き回しかな?」

 

 大げさに肩をすくめてみせる。

 マフィアを憎んでいたはずの骸が、精神だけとはいえ、こうやって身を挺してまで彼らを庇ったのだ。気まぐれで済む話ではない。

 

「クフフ、ご冗談を。僕はボンゴレファミリーを助けたかったわけじゃありませんよ。

 大空のアルコバレーノさえ貴方に渡らなければ、それでいい」

「……ふーん」

 

 まるでこちらの魂胆を見抜いているかのような口ぶりだ。

 そういえば骸は、六道輪廻を巡り、輪廻転生を果たした人間であると自称していた。

 

(時間を稼ぐ気満々、か。厄介だな。この様子だと、ここがどこだかももうわかっちゃってるんだろうし)

 

 戦力を削ぐ、あるいはデータを集めるつもりなら、あのときと同様に、積極的に攻撃を仕掛けてきているだろう。しかし骸に動く気配は見られない。

 彼は待っているのだ。並盛町に戻った綱吉たちが、転送システムを破壊するのを。

 

 超炎リング転送システムはあの一台のみである。そしてここは、並盛町どころか、日本からも遠く離れた無人島だ。転送装置が使えなくなれば、彼らに何日かの猶予を与えてしまうことになる。

 転送装置を壊せという指示を出してはいなかったが、正一かユニが、装置の破壊を提案するだろう。ほんの少し前まで、二人ともミルフィオーレの上層部にいたのだから。

 

(味方が敵になるといろいろ大変だよね。まあ、全部うまくいきすぎちゃってもつまらないけどさ)

 

 しかし、彼らの抵抗が無意味であることを白蘭は知っている。

 いくら策を弄し、確率を上げようとしたって無駄なのだ。ゼロになにを掛けたって、けして変わりはしないのだから。

 

(とりあえず、骸君には悪いけどお引き取り願おうかな? あまり遊んでる時間もないし)

 

 招待状を持たずに入ってきた客なのだから、少しくらい乱暴に追い払ってもいいだろう。

 白蘭がわざわざ手を下さずとも、たったひとつの提言で、骸は手も足も出せなくなる。――すでに、種は蒔き終えているのだ。

 

「そういえば、骸君に謝らなきゃいけないことがあったんだ」

「おや、なんでしょう」

 

 素知らぬ顔の骸だが、その表情はすぐに変わるだろう。

 これは、彼がもっとも嫌うマフィアのやり方なのだから。

 

「君のお気に入りの子のことだよ。なんてったっけ、さっきここにいた――そうそう、利奈ちゃん」

 

 周囲を取り巻く音が消えた。

 張り詰めた空気のなかで、白蘭は屈託なく笑う。

 

「かわいい子だよね。僕のこと、じーっと見てて。メローネ基地でお話したことがあったの、覚えてたのかな」

 

 しかし利奈とは一度も目を合わせていない。

 人はそれを無関心と取るのかもしれないが、実際は逆だ。人から視線を受けているにもかかわらず意図的に受け流すには、同じくらい――あるいは、それ以上の注意が必要になるのだから。

 

「さっき思い出したんだけど、この時代のあの子、ちょっと前に殺されちゃったんだよね。

 ――ううん、わかってるよ。殺したのは僕の部下だ。でも僕が直接雇ったわけじゃないし、命令だって出していない。功を焦ったごろつきの仕業さ。君の大嫌いな、ろくでなしのマフィアのしわざ。かわいそうに、あんな火傷を負って」

 

 あれは本当に想定外の出来事だった。

 ボンゴレ守護者の部下一人殺したところでなんにもならないと思っていたし、骸が二人を殺さなくても、いずれ適当な餌をぶら下げて、死地に追いやっていただろう。

 意にそぐわない動きをする駒など、不必要なのだから。

 

「だけど、僕にはミルフィオーレファミリーのボスとしての責任がある。君に一言だけでも謝っておかなくちゃと思ってね。こんな機会、二度とないだろうから。

 ごめんね、君の大切な人を殺しちゃって」

「……」

 

 とうとう、二人の表情が揃わなくなった。どちらも歪んでいるが、どちらの方が狂っているかなんて、だれにもわからないだろう。

 骸のこんな表情が見られたのだから、死んだ彼らもそこそこ役に立ったと言える。

 

「……話はそれだけですか?」

 

 骸が槍を構えた。さすがに挑発に乗ったわけではないだろうが、切っ先から殺気が溢れている。

 しかし、もう勝負は終わっているのだ。その切っ先が白蘭に刺さることはない。

 

「まさか。ここからが本題だよ」

 

 転送装置はチェルベッロが呼び戻しているだろう。彼女たちは、こんな形での戦いの延期を望んではいない。彼女たちには彼女たちなりの筋書きがあるのだろうから。

 

「桔梗君は優秀でね。僕がわざわざ口に出さなくても、僕が望むことをしてくれるんだ」

 

 後方で桔梗が頭を下げる気配を感じた。それから、雲の炎が燃え上がる気配も。

 

「取引をしよう。君が僕たちに変なちょっかいを出さないでくれるなら、君が望まない展開を作らないであげる。本当は見るのを心待ちにしてたんだけど」

「……望まない展開、とは?」

 

 白蘭は今度こそ邪悪に微笑んだ。

 

「それはもちろん、骸君が見たくない展開だよ。……同じ子に、二度死んでほしくないでしょう?」

「っ、まさか!」

 

 そう、種は蒔き終えているのだ。

 盤上での勝負に気を取られていた彼らには。これからの脅威に備えている彼らでは。すでに植えつけられている芽には気付けない。

 

「早く戻ったほうがいいんじゃない? ああ、でも、今回はもっと悲惨な姿になるだろうから、見たくないならそれでいいけど」

「白蘭……!」

 

 骸は動揺を隠しもせず白蘭に歯を剥いた。本当に、こんな顔を拝めるのなら何回だって彼女を殺したのに。ここ以外の世界では、彼女が死ぬ確率はそこまで高くない。

 

「あれ?」

 

 一矢報いようと攻撃を仕掛けてくるかと思いきや、骸は一瞬で姿を消した。

 動揺した状態では勝ち目がないと踏んだのか、少しでも体力を温存したかったのか、それとも、一刻も早く例の少女を助けたかったのか。どれでもいいけれど、もう少しくらい楽しませてもらいたかったものだ。

 

 なんとなく物足りなさを感じていたら、空から桔梗たちが降りてきた。

 

「白蘭様、お怪我は!」

「ないない」

 

 結果としてはまんまと逃げおおせられたが、それも一時しのぎに過ぎない。すぐにユニは手中に戻り、白蘭は超時空の創造主になれるだろう。

 真六弔花にユニの特性を伝え、マシュマロを食べ終えた白蘭は、呼ばれるがままに転送装置へと向かった。

 

 ――すべてがなくなったそのときこそ、少女はその瞳に絶望を宿すのだろうか。絶望を突きつけても折れることなく、まっすぐにこちらを射抜き続けた彼女は。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

六章:最終決戦にて
壊される機会


第二部最終章です。
アニメ軸を混ぜて書いていたものを、原作漫画設定で書き直しています。
元からⅠ世たちの出番はなかったので、その辺は気にしなくて大丈夫です。


 並盛町への帰還は、行ったときと同様に乱暴なものだった。

 身体を引っ張り上げられたあとに落とされるので、どうしても着地時に衝撃を受けてしまうが――

 

(よし、着地成功)

 

 二回目ならば慣れたものだ。難なく立ち上がった利奈は、派手に転倒しているハルに手を差し伸べた。

 

「ハル、スカート」

「はひっ、またですか!?」

 

 小声で指摘すると、ハルは膝丈のスカートを押さえながら顔を赤くした。

 そんなハルを引き上げながら、基地ユニット内のみんなの安否を確認する。

 

 正一は寝そべっていたので変わりはなく、リボーンは立ったままの体勢を維持している。一方ユニは、アルコバレーノのボスだから余裕かと思いきや、ハルと同じようにしりもちをついていた。

 

「えっと、大丈夫?」

 

 一般人が気軽に話しかけていいものなのだろうかと逡巡しながらも、上から声をかけてみる。

 

「はい。でも、この子が」

 

 ユニが足をずらすと、その下からランボのモジャモジャ頭が飛び出した。

 運悪く、転んだユニの下敷きになってしまったらしい。クッション代わりにされてしまったランボは、泣いてはいないものの頬を膨らませていた。

 

「踏んじゃってごめんなさい」

 

 穏やかにユニが謝罪するが、立ち上がったランボは目をつり上げていた。

 

「今度はランボさんが踏んじゃうもんね!」

 

 小さな足をユニの膝に乗せ、グニグニと動かす。

 まったく力のこもってない踏みつけと、それでお相子にしようとするランボの子供らしい姿に、さっきまでの緊迫感を忘れて和んでしまう。

 

「ユニさん」

 

 リボーンに安否確認されていた正一が、唐突にユニの名前を呼んだ。

 

「超炎リング転送システムは、あれ以外にもあるのかい?」

「いえ、確かあれひとつです」

「よし、いいぞ! それなら――」

「怪我人が叫ばない!」

 

 重傷者の正一が声を張り上げたものだから、それを凌ぐ声量で利奈は叱りつけた。

 

「ヒッ!?」 

 

(びっくりしたのはこっち!)

 

 出血が止まってるとはいえ、大声を出したら傷に響く。

 内臓に損傷があったら後遺症が残る可能性もあるし、病院で診てもらうまでは絶対安静だ。それに、万が一傷口が開きでもしたら、そのまま出血多量でショック死してしまう可能性だってある。

 

「ごめん、その説明だけで胃が悪くなりそう……」

「精神的なものなら死なないです。小声で言ってください、伝えますから」

 

 正一の申告をぴしゃりと跳ね除け、声を聞き取るために膝をついた。

 

「外の綱吉君たちに、あの転送システムの破壊をお願いしてほしい。そうすれば敵も追ってこれないはずだ」

「転送システムの破壊ですね。わかりました」

 

 とはいえ、転送システムは巨大なうえに空に浮いている。破壊に成功したところで、それが町中に墜落してしまったら、甚大な被害が出てしまうだろう。そうなると一番恐ろしいのは並盛町を愛する恭弥による報復だが――とりあえずは白蘭たちの足止めが優先だろう。

 ユニを手に入れるためならば、町ひとつ平気で破壊しかねない。

 

 外にいる綱吉たちに正一の言葉を伝えると、隼人が一番に匣を手に取った。

 

「そういうことなら俺に任せてください!

 炎が吸収されるんなら、新兵器の実弾を使いますから!」

「ニャ!」

 

(かわいい!)

 

 匣から猫が飛び出した。追加で数個の匣を開けると、見るからに強力そうな武器が隼人の左腕に展開された。髑髏をかたどった発射台に、手のひらよりも大きなミサイル。明らかに攻撃専門の武器だった。

 

「獄寺君の匣兵器、初めて見る!」

 

 幻騎士が負けたところで退席してしまったから、隼人が匣兵器を使う場面を見逃している。目に見える外傷がないところをみると、二人と同じくらい強い武器だったのだろう。

 何気なく呟いた利奈だったが、それが耳に入った隼人は激怒した。

 

「ああ!? なんだてめえ、皮肉か!?」

「えっ?」

 

 ――チョイス戦で隼人が使った匣兵器は、瓜だけである。

 桔梗の作戦にまんまと嵌められ、ほかの匣を開くことさえできずに敗れた隼人にとって、利奈の言葉は喧嘩を売っているようにしか聞こえない。

 

「なんで急に怒ってんの?」

 

 もちろん利奈はそんな経緯など知る由もなく、突然怒り出した隼人にキョトンとした。元からキレやすい人なので、自分に落ち度があるのには気付けない。

 そして隼人も、利奈たちが途中から試合を見ていなかったことなど、察せるはずもなかった。

 

「ご、獄寺君! 今はとりあえずあれを壊してくれるかな?」

 

 すれ違いからの口論に発展する直前で、すかさず綱吉が隼人の軌道を修正させた。

 言いかけた言葉をぐっと飲みこみ、隼人は左腕を構える。

 

「十代目のご命令とあれば。……あとで覚えてろよ、風紀女」

「だからなんで!?」

 

 心外の利奈を置き去りにして、ミサイルが発射される。

 煙を上げながら空へと昇っていったミサイルは、見事に転送装置へと着弾した。

 

「……」

 

 それを、恭弥が渋い顔で見上げていた。

 山の方に向かっているから民家に落ちることはないだろうが、どこに落ちようが被害は出るだろう。この時間なら目撃者も多いだろうし、UFO騒ぎに発展するかもしれない。

 ボンゴレファミリーがなんとかしてくれるだろうが、事後処理の手間を考えると、利奈まで胃が痛くなりそうだった。

 

 しかし、幸か不幸か、転送装置が墜落することはなかった。

 攻撃を受けて落下するだけだった転送装置が、落ちる前にその姿を消してしまったのである。

 あれだけのダメージを受けていたにもかかわらず、白蘭たちの元へと戻った転送装置は、最後の力を振り絞って彼らを並盛町まで連れてきてしまった。

 

(せっかく無人島に置き去りにできそうだったのに……!)

 

 装置自体は空中で爆発したものの、その直前にむっつの光が四方に飛び散っていった。

 その光のひとつが並盛中学校のある方角へと流れ、真っ先に恭弥が走り出した。

 

「俺は恭さんについていく! お前はボンゴレの皆さんと行動しろ」

 

 帰還を知って迎えに来ただけのはずの哲矢が、すぐさま恭弥のあとを追う。

 この時代の哲矢は恭弥を恭さんと呼ぶので、顔が同じでもわかりやすい。

 

「俺も行くぜ!」

 

 恭弥の師匠だからか、ディーノも名乗りを上げた。

 綱吉は不安がったけれど、もし学校へと飛んでいったのが白蘭だった場合、恭弥と哲也だけでは荷が重いだろう。それに恭弥は通信機をつけていない。連絡役も必要だ。

 階段を降りずに落ちていったディーノだったが、運よくロマーリオがやってきたので、ロマーリオを連れて走っていった。

 

「すみません。皆さんには迷惑をおかけします……」

 

 安全なアジトへと退避すると、ユニは申し訳なさそうに頭を下げた。

 みんなは迷惑だなんて思っていなかったし、悪いのはユニではなく白蘭だ。

 とりあえず正装から着替えようということになって、一旦みんな自室へと戻った。

 

(着替え、着替えかー。ルッスーリアがたくさん買ってくれたから服はいっぱいあるんだけど、サイズがなー。

 ズボンは長さの問題があるし、スカート……そうだ、ワンピース。あとは長袖でいい感じのがあれば……)

 

「あの、私はなんでも構いませんので」

 

 キャリーバッグを漁っていたら、ユニに控えめに声をかけられた。

 ユニの着替えも探すとビアンキが言っていたので、それなら袖も通していない服がたくさんあるからと、利奈が服の提供を引き受けたのである。

 とはいえ、ユニとは身長差があるので、ちょうどいい丈の服が見つからなくて困っていたのだが。

 

「服の好みとかある? ユニさんに合う服があればいいんだけど」

 

 見るからに年下な女の子にさん付けするのは違和感があるけれど、肩書きが肩書きだけに、さん付けせずにはいられなかった。

 敬語で話した方がいいのではとも思うけれど、ほかのみんなが揃ってタメ口ななかで敬語を使うのも悪目立ちするので、そこはみんなに合わせた。言葉遣いを気にするようには見えないけど、ちょっとは気になる。

 

「普段はどんな服着てる?」

「普段……。ワンピースが多かったですね」

 

 少し考えてから、ユニは答えた。

 

 今のユニはミルフィオーレでの正装なのか、大きな帽子とマントを着用していて、その下は丈の短いトップスとショートパンツ、そしてロングブーツを履いている。

 正装にしてはラフというか、肌の露出の多い格好だけど、服と靴が黒で、マントが白。そして帽子が黒と白のカラーリングなので、統一感が取れている。胸元にある橙色のおしゃぶりも、それを垂らすリボンとともにいいアクセントになっていた。

 

(ブラックスペルのボスだから黒い服……なのかな。ちょっとあの人たちとは服の雰囲気違うけど)

 

 ユニにあの隊服は似合わないだろう。もっとかわいらしい、それこそ白のワンピースなんかが似合いそうだ。

 残念ながらかわいらしい系統の服はないので、シンプルな薄紫色のワンピースを引っ張り出す。

 

「これとかどう? 無地の服でも柄物の服でもいけるけど」

「はい、それで。ありがとうございます」

 

 そう言ってにっこりと笑うユニの笑顔は、とてもきれいだった。綱吉が顔を真っ赤にしてしまうのも納得の可憐さである。

 

(それなのにマフィアのボスだったなんて……なんか、信じらんないな)

 

 ブラックスペルの前身であるジッリョネロファミリーのボスだったのならば、ランボを傷つけ、利奈を攫ったγたちの親玉であるということである。にもかかわらず、ユニの笑みには穢れが一切なかった。彼女はなにも知らないのだろうか。

 ついまじまじと顔を見ていたら、ユニが不思議そうに帽子を揺らした。

 

「どうかしましたか?」

「えっと、前に――」

 

 γの名前を口に出しかけた利奈は、すんでのところで首を振った。

 

「なんでもない! 服探すね」

 

 会話を中断するために服探しを再開する。

 

(あっぶない、γたちが人質になってたの忘れてた……!)

 

 ユニに着せる長袖の服を探しながら、心の中で冷や汗を流す。

 

 白蘭はユニの部下の命を人質にして、彼女の自由を奪おうとした。

 それでもユニは白蘭に屈さず、そんなユニの覚悟を見て、綱吉は彼女の手を取ったのだ。それなのに、部外者の利奈が波紋を広げるわけにはいかない。

 

(ランボ君に大怪我させたのは許せないけど……ユニはずっと白蘭に操られてたし、γたちも白蘭にユニを人質に取られてた。だから、恨みつらみは全部白蘭にぶつけよう。うん、全部白蘭のせい!)

 

 それに、ここでユニに負の感情をぶつけたところで、気が晴れはしないだろう。むしろ、もやもやとした罪悪感が募るに違いない。

 今はとにかく、彼女を白蘭から守り切ることだけを考えるべきだ。

 

「これとこれだとどっちがいい? どっちも腕まくれるよ」

「……では、こちらを。なにからなにまでありがとうございます」

 

(うっ……!)

 

 まぶしい笑顔はドロドロした感情に響く。

 結局、罪悪感を抱く羽目になりながらも外に出ようとした利奈は、そこでまたしても気が付いた。

 

(別にみんなのところ行かなくても、ここで着替えちゃえばいいんじゃない?)

 

 服を見繕うのに時間がかかったし、もうみんなも着替え終えているだろう。

 思いついた提案を伝えようとした利奈だったが、聞こえてきたブザー音に動きを止めた。

 

「なに? ――きゃあ!」

「っ!」

 

 直後に起こった轟音に、二人は揃って身を竦めた。尋常ではない爆発音が数度に及んで響く。

 

(敵襲!)

 

 利奈はすぐさま、ベッドわきに隠していた金属棒を手に取った。

 いついかなるときも武器は手に取れるところに置いておけという、スクアーロからの教えを遵守していたのだ。

 

「様子見てくる。貴方はここで待ってて」

「そんなわけには! 私も一緒に行きます」

「白蘭たちかもしれないから。だれか連れてくるまで、ユニはここに隠れてて!」

 

 ほぼ間違いなく敵襲だろう。音の規模からいって、アジト内の壁が崩れた音である可能性が高い。

 敵の目標はユニの略奪だから、彼女の居場所を知られるとマズいことになる。それに、ユニの身の安全を守るには、最低でも守護者を一人は連れてこなければならない。それか、外部に助けを求めなければ。

 

「ちょっと様子見てきたらすぐに戻るから! だからここにいてね! お願いします!」

 

 ユニはまだ納得していなかったが、有無を言わさずにドアを閉める。

 部屋に鍵はかけられないから、彼女が痺れを切らす前にだれかをここまで連れてくる必要がある。

 利奈は数度深呼吸をすると、武器を握り締めながら足を踏み出した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

早すぎた来襲

 

 廊下の光景は、一言でいえば惨状そのものだった。

 見慣れた廊下は跡形もないほどに崩れきっており、壁の中に埋め込まれてた鉄筋がむき出しになっている。バチバチと聞こえる音は炎の爆ぜる音であり、そこらじゅうで火の手が上がっている。壁はコンクリートなので炎は広がっていないけれど、廊下に積まれていた段ボール箱はすでにだいたいが燃え尽きてしまっていた。中に入っていたであろうネジなどの備品が、いたる所に転がっている。

 そして鳴り続ける警告音が、緊急事態であることをより一層強調していた。

 

(思ってたよりひどい……。

 火事だったら、すぐに戻ってユニと外に避難しなきゃいけないけど)

 

 天井を見上げてみる。

 いたるところから火の手は上がっているけれど、煙はまったく充満していない。地下だから空調設備が行き届いているのか、灰色の煙はすべて天井の穴に吸い込まれていた。

 工事の途中でなければ、スプリンクラーも作動していたかもしれない。

 それと、利奈から見て右側の廊下の突き当たりは、壁がまったく崩れていなかった。右側の損傷は、左側の壁が壊れたせいでできた亀裂の影響のみであり、廊下の左側だけがやたらに被害が大きかった。

 

(これって、爆発が左で起きたってことだよね。みんながいる方……)

 

 左に曲がった通路の部屋で、男女に分かれて着替えをしていた。

 今の爆発がどちらかの部屋で起きたもののなら、その部屋の人はだれ一人無事では済まないだろう。

 

(……ううん、それはなさそう。

 ユニがいるかもしれないのに、いきなり部屋を壊したりはしないはず。たぶん、今のでセキュリティーとかをぶっ壊したんだ)

 

 警報が鳴ったのは爆発よりも前だった。つまり、侵入者に反応してセキュリティーが作動し、それを壊すためにこんな派手な攻撃を仕掛けたのだろう。どんなセキュリティーシステムだって、装置を丸ごと破壊されてしまえばどうしようもない。

 経験と知識からそう結論づけて、廊下を左側へと進んでいく。

 

(右に逃げたいところだけど、私たちをおびき寄せるための罠かもしれないし……。

 それに、私がユニと逃げたってなんにもならないんだよね。捕まって終わっちゃう)

 

 敵は一人とは限らない。負傷者を被害のない場所へ誘導してそのまま一網打尽というのは、兵法としては王道である。

 

 それに、どうせ敵に見つかったところで、まさか利奈がユニの隠れ場所を知っているとは思うまい。抵抗せず、なにも知らないふりをしてやり過ごせばいいだけだ。場慣れしてしまっているので、そういう演技は大得意である。

 

 とはいえ、見つからないに越したことはない。足音を隠しながら、慎重に歩を進める。

 耳も澄ましているけれど、警告音と炎の音が邪魔をして、聴覚はあまり役に立ちそうになかった。

 

(なにもこんなに早く来なくたってのに。

 せめて、着替えくらいさせてくれたってさー……)

 

 欲を言えば、食事を取る時間も欲しい。正午に集合だったから、今日はまだ昼ご飯を食べていない。鉄かなにかの焼ける匂いが食欲を減退させてくれているけれど、それでもおなかは空っぽだ。

 おなかをさすりながら歩いていた利奈は、わずかな変化に気付いて足を止めた。

 

(なんか、暑い?)

 

 そこらじゅうで炎が上がっているのだから、暑くなるのは当然だ。

 でも、一歩進むごとに剥き出しの顔に熱が当たるようになった。廊下の端で、赤い炎の切れ端が舞っているのが見える。

 

(すぐそこに敵がいたりして。……ちょっと物音が聞こえるかな)

 

 角の先に人がいそうな気配がする。

 利奈でもわかるくらいだから、複数人の気配だろう。さらに耳を澄ました利奈は、聞こえてきた声に思わず破顔した。

 

(こういうときにスペルビさんの声って便利だなー。はっきり聞こえる)

 

 しかし、聞こえてきた内容からして、安堵していい状況ではないだろう。

 予想通り、角を曲がったところに敵がいて、その先にスクアーロが対峙している。そして攻撃されていることをスクアーロが伝えているところからして、スクアーロがみんなを庇っているのだろう。配置としては最悪だ。

 

(回り込めばみんなと合流できるけど、時間がかかるし……。とりあえず、もうちょっと近づいて敵の声を――)

 

 スクアーロと対峙しているのなら、姿さえ見せなければ気付かれることはないだろう。

 修学旅行のキャンプファイアーの熱さを思い出しながら、利奈はジリジリと距離を詰めた。

 

__

 

「で、ユニ様はどこだ? さっさと出せよ、バーロー」

 

 ザクロの言葉に、綱吉はハッとして振り返った。

 爆発と敵の登場で確認する暇もなかったけれど、ザクロの指摘通り、女性陣のなかにユニの姿はない。

 

「ビアンキ! ユニはどこ!?」

 

 尋ねると、ビアンキは口元を隠しながら目を伏せた。読唇術を避けての行動だ。

 

「……利奈と一緒にいるわ。ユニの服を探しに、二人で部屋に戻ってたの」

 

 言われてみれば利奈の姿もない。

 クロームたちが、不安そうな顔で目配せをしあっている。そしてその視線は、ザクロの背後にも向けられていた。

 

 利奈の部屋は京子たちの部屋と同じ区画にある。ザクロの背後、その道を右に行けばすぐにその部屋に辿り着けてしまう。

 

(どうしよう、絶体絶命だ……!)

 

 利奈たちにはザクロに抗う術がない。

 ユニはリングを所持していないようだったし、利奈にいたっては炎すら点せないのだ。

 異変に気付いた彼女たちがこちらに来たら、ユニがザクロに捕まってしまう。

 

「聞こえてねーのか? ユニ様はどこにいるって聞いてんだよ。さっさと答えねーとこの隠れ家もろとも消し炭にすんぞ」

「ひいい!」

 

 脅しではない。すでにザクロは嵐の炎をこちらに放出していて、スクアーロがいなければ今頃全員焼け死んでいる。

 

「落ち着け、ツナ。こいつらはユニに危害は加えねえ。居場所がわからなければ、アジトごと爆破はできねーはずだ」

「でも、このままじゃ……!」

 

 ユニと利奈がいつザクロの後ろから出てくるかわからない状況で、落ち着けと言われても無理があった。

 下手に動いてザクロに居場所を特定されるわけにもいかないし、完全に膠着状態だ。

 

「……埒が明かねーな」

 

 いつまで経っても姿を見せないユニに業を煮やし、ザクロが炎の火力を上げる。

 スクアーロも雨の炎の出力を上げているが、匣戦になったら綱吉たちを庇っているスクアーロが不利だ。

 

「さっさと居場所を吐け。じゃねえと、お前らまとめて一瞬であの世行きにすんぞ」

 

 ザクロが匣を取り出した。スクアーロも匣を出すが、この狭い廊下で力のぶつけ合いになれば、綱吉たちもただでは済まないだろう。このままだと、京子たちにも危険が及んでしまう。いざとなったら、彼女たちだけでも外に逃がさなければならない。

 しかしそこで、恐れていた事態が訪れてしまった。

 

「やめてください」

 

 凛とした声が、正面から聞こえてきた。

 

「……あ?」

 

 怪訝そうに振り返ったザクロが、にやりと口角を上げる。

 

「待ってたぜ、ユニ様」

 

 赤い炎のなか、ユニが立っていた。

 ずっと出る機会を窺っていたのか、その額には大粒の汗が滲んでいる。

 

「ユニ! 来ちゃだめだ!」

 

 今さら遅いことはわかっているけれど、そう叫ばずにはいられなかった。

 盾となるものがひとつもないなかで、それでもユニは毅然とした顔でザクロを見据えていた。

 

「彼らに手出ししないでください。貴方の狙いは私でしょう」

「こいつらのために身を差し出すって? そりゃあ、ユニ様が素直に捕まってくれるのなら、こいつらを殺す必要はなくなるけどな」

 

 ザクロの言葉に、ユニは首を振った。

 

「いいえ、そうではありません」

「……あ?」

 

 ユニが一歩後ろに下がり、いまだ燃え盛る炎へと身を寄せる。

 

「なんの真似だ?」

「……その人たちに手を出したら、私はこの炎に飛び込みます」

「ユニ!」

 

 とんでもないことを言い出すユニに、女子たちの悲鳴が上がる。本気であることは、覚悟を決めた彼女の瞳を見れば一目瞭然だった。

 今にも帽子に火が燃え移りそうなのに、ユニはまったく動こうとはしなかった。

 

「……チッ」

 

 舌打ちしたのは、ザクロではなくリボーンだった。

 守らなければならない存在が危険に身をさらしているのだから、歯噛みする気持ちはわかる。でも、この位置関係ではユニを庇うことも、ザクロに攻撃を仕掛けることもできない。ザクロが攻撃を躱せば、銃弾がユニに被弾する可能性があるのだ。

 だから、ザクロが炎を消してもだれも動き出せなかった。

 

「ユニ様よぉ。捨て身の献身とは恐れ入るが、ちいとばかり無茶が過ぎたな」

「来ないで。来たら飛び込みます」

「そんなわがままが通用するかよ、バーロー。白蘭様は無傷であることを望んでるが、自分から火に飛び込んじまったんじゃーしょうがねえ」

 

 ユニの命懸けの静止もむなしく、ザクロが足を踏み出した。

 

(止めなくちゃ!)

 

 ユニが捕まるのを黙って見過ごすわけにはいかない。

 各々が武器を手にしたところで、スクアーロが叫ぶ。

 

「動くなぁ!」

「ひい!?」

 

 敵味方双方に向けて放たれたその怒号に、綱吉は匣を落としかけた。中にいるナッツが抗議の声を上げる。

 

(び、びっくりした……! 心臓まで止まるかと思った……!)

 

 スクアーロはこの場にいるだれよりも早く匣を展開していた。

 狂暴そうな顔をした巨大なサメが、まるで海の中であるかのように浮いていた。

 

「お前ら、俺の指示があるまで動くんじゃねえぞぉ! これはヴァリアー作戦隊長命令だぁ!」

「お前が命令してんじゃねえ! ボスは十代目だ!」

 

(ボスとかそういうの今はどうでもいいんだけど!?)

 

 とはいえ、作戦隊長の肩書を出してまで指示を出したということは、スクアーロにはなにか考えがあるのだろう。

 ザクロも、匣を展開してはいないものの、足を止めてスクアーロに向き直った。

 

「今の動くなってのは俺にも言ったのか?」

「当たり前だぁ。そう簡単に欲しいもんが手に入ると思うなよぉ」

「……まあ、一人もぶち殺さないで帰るっつうのもつまんねえよな」

 

 ザクロが再び手を掲げ、またも目には見えない炎を灯す。スクアーロも剣を構えた。

 

 無言の応酬のあと、先に動いたのはスクアーロのサメだった。合図もなしに飛び出して、大きな尾びれで雨の炎をザクロへと叩きつける。

 迫りくる青い炎の波を前に、ザクロは身体を動かさなかった。

 

「舐めてもらっちゃ困るぜ」

 

(匣を出さない!?)

 

 スクアーロの攻撃を、ザクロはリングの炎だけで受け止めた。

 底の見えない強さに綱吉は度肝を抜かれたが、スクアーロはそこでにやりと口元を上げる。

 

「今だぁ! そいつを連れて逃げろぉ!」

「……あ?」

 

 脈絡のない言葉にザクロがわずかに眉を寄せた、そのとき。

 

(相沢さん!?)

 

 ザクロの後方で、利奈がユニに手を伸ばしていた。

 

__

 

 スクアーロがユニを連れて逃げろと口にする前に、利奈はスタートを切っていた。

 ユニが身をさらしてからずっと、息を潜めて機を窺っていたのだ。

 

(動くなって言われてなかったら、敵に飛びかかってたけど!)

 

 それがわかっていたから、スクアーロはあんなに声を張り上げたのだろう。

 近くにいる人の鼓膜が心配になるほどの大音量だった。

 

 スクアーロは利奈の名前を呼ばなかった。でも、スクアーロがヴァリアーでの肩書きを仰々しく口にしたとき、彼の次の言葉は自分への指示であると確信していた。

 ヴァリアー作戦隊長の命令に従わなければならないのは、ヴァリアーで下っ端見習いをやっていた利奈だけだったのだから。

 

 利奈は信じていた。

 この状況なら、スクアーロはユニとの逃走を指示するだろうと。だからすべてを聞かずとも、ザクロが振り返る前に、綱吉たちが意味を理解する前に飛び出せたのだ。

 そして、スクアーロも信じていた。

 利奈がユニと一緒にいたのなら、必ず物陰で機会を窺っているだろうと。だからこそ、利奈を組み込んだ作戦が立てられたのだ。

 

 そんな以心伝心で腕を伸ばす利奈の顔を、ユニは驚きの表情で見つめていた。

 ザクロとスクアーロの衝突を懸念していたところに利奈が飛び出してきたから、意表を突かれてしまったのだろう。炎のせいか、瞳の中で星のような光がチラチラと揺れていた。

 

 利奈は伸ばした腕でユニの手を取らずに、勢いそのままユニの肩を掴んで引き寄せた。

 ユニの身体は抵抗なく腕に収まり、その背を押して元の通路へとUターンする。

 ザクロたちの方へは一瞬たりとも目を向けなかった。それが最善だとわかっていたからだ。

 

「ユニ! 走るよ!」

「は、はい!」

 

 ようやく思考が追いついたのか、ユニが腕のなかから出て走り始める。

 

「お前の相手は俺だぁ!」

 

 ザクロの声は聞こえず、スクアーロの声だけが耳に届く。

 一人でゆっくり静かにひっそり暴れたいという、最後で矛盾するスクアーロの言葉に内心首をひねりながらも、利奈は出口へと走り続けた。

 守らなければならない女の子の手を、強く握り締めながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最弱の盾、薄氷の姫

 利奈がユニを連れて逃げ込んだ先は、風紀財団のアジトでも風紀財団本社ビルでも並盛中学校でもなく、金融会社の会議室だった。

 すべての世界線の出来事を把握できる白蘭でも、風紀財団の息すらかかっていない金融会社など、思い至りようもないだろう。

 未来の利奈はともかく、過去の利奈ですら初めてこのビルに入ったのだから。

 

「簡単に通してもらえましたね……」

 

 信じられないという顔でユニが呟く。

 ユニが驚くのも無理はない。利奈だって、一年前だったら同じように驚いていただろう。

 

(風紀財団の――っていうか、風紀委員のおかげだよね)

 

 真っ昼間に子供二人が息を切らしながら入ってきたので、事務員たちは最初、怪訝な顔をしていた。

 しかしそこで風紀委員の腕章を見せ、風紀委員の人にここで待っていろと指示を受けたと伝えたら、一同撥ね上がって利奈たちを会議室へと案内してくれた。

 自分の腕章を風紀委員から預かった物という設定にしたところは、我ながら機転が利いている。この時代にも女子風紀委員はいたけれど、顔が割れていたら偽物扱いされてしまう。

 

「体調はどう?」

「おかげさまでなんともありません。この非7³線対策カバーも、7³線を防いでくれています」

 

 ユニがおしゃぶりのぶらさがっている胸元を押さえる。

 おしゃぶりには、着替える前にジャンニーニから渡された透明のカバーが被せられている。そのカバーが、アルコバレーノである彼女たちを7³線という有害光線から守ってくれるそうだ。

 リボーンはアジトから外に出なかったのはそのせいだと、今さらながらに納得した。同時に、そんな殺人光線を照射する白蘭の卑劣さに憤ったが、それよりも先に、利奈には憤ってることがあった。

 

「……ユニ」

 

 呼び捨てにするかどうか迷って、さん付けをやめた。

 今ここに二人でいるあいだくらいは、ボスとかそういうのを勘定に入れないで話をしてもいいだろう。幸か不幸か、利奈の頭を殴ってでも止める人はいない。

 

「さっきのこと、なんだけど。

 なんであんなことしたの? ……じゃなくて、あんなこと、もうしないで」

 

 ユニが戸惑いの表情を浮かべる。

 

 ユニが捨て身の行動に出たとき、利奈はもう少しのところでユニを引き戻しに飛び出してしまうところだった。ユニの行動は、断じて利奈が合意したものではない。

 

 あのとき、ザクロたちのやり取りに耳を澄ましているうちに、ユニは部屋から出てきてしまった。戻ってこない利奈に痺れを切らしたのだろう。

 そしてユニを出さなければ皆殺しにするとザクロの宣言を聞き、ユニは姿を現そうとした。 

 もちろん利奈は止めたが、ユニの策があるという言葉を信じて、そのまま送り出したのだ。その結果があれだ。

 

「みんなに攻撃したら死ぬって、そんなやり方……。そんなに簡単に命懸けたりしないで」

 

 ユニはアルコバレーノのボスだ。ジッリョネロファミリーのボスだ、みんなの切り札だ。

 でも、そんなことはどうでもいい。自分よりも幼い女の子が、人のために命を投げ出そうとした事実がとても恐ろしかった。躊躇いなく炎の前に飛び出したユニが、ひどく恐ろしかったのだ。

 

「ユニは特別なんでしょ? ユニが死んだらみんな困るんだよ。

 みんな、ユニを守ろうと……ユニを守らなくちゃって思ってたのに、死のうとなんてしないで」

 

 あのときユニは、本気で命を懸けていた。あのままザクロに捕まりそうになったら、言葉通り炎に身を投げていただろう。手を伸ばせば利奈でも届く場所で。

 今さらながら震えが出てきて椅子に座りこんだ利奈を、ユニは静かに見つめる。優しい瞳で。

 

「……私が白蘭に捕まってしまったら、すべてが終わってしまうんです」

「でも、ユニが死んじゃっても終わりだよ」

「……貴方たちは生き残れます」

 

 首を振る。

 生き残ったところで、ユニを手に入れ損ねた白蘭が、この世界を完膚なきまでに滅ぼすだろう。そうなれば、この世界どころかすべての世界が終わってしまう。

 

「それに……大空のアルコバレーノは短命の定めなんです。人はだれでも、生まれたときから死に向かって――」

「そういうのいい!」

 

 大声でユニの言葉を断ち切る。

 華奢な体で、優しい顔で、これ以上そんな悲しいことを言ってほしくない。

 

「私はユニに死んでほしくないの! だれにも死んでほしくないの! ユニが死ぬの怖くなくても、私は死んじゃうのが怖いの!」

 

 身勝手なのは知っている。命を懸けてまでみんなを救おうとしたユニの献身は、感謝できなかったとしても否定するものではない。

 

(わかってるよ、ユニだって死にたいわけじゃないって。みんなのために必死だったって……でも、あんなの)

 

 今さらユニの行動を咎めたってなにも変わらない。これからのことを考えなければいけない。

 それなのに、あと少しで燃え尽きてしまったかもしれない目の前の少女に、なにか言わずにはいられなかった。炎に焼かれた未来の自分が頭をよぎったせいかもしれない。

 

(私が、しっかりしなくちゃいけないのに……!)

 

 二人きりだ。どうしようもないくらい二人きりだ。

 利奈が声高に叫んだところで、利奈にユニを守る術はない。利奈がユニを守ろうとするなら、それこそユニと同じように命を盾にするしかないだろう。ユニの命よりもずっと軽くて弱い、役に立たない命を散らすしか。

 そんな人間が命の大切さを説いたところで、結局自分が命を投げ出したくないから八つ当たりしているだけなのだと、見抜かれてしまう。

 人のために命を差し出そうとしたユニを叱る資格なんて、命ひとつ差し出せない利奈には到底なかったのだ。それが悔しくて、情けなくて――

 

「利奈さん、泣かないで。わかってますから」

 

 泣きたくなかった。無力さを噛みしめたくなんてなかった。とてつもなく惨めだった。

 俯いて涙を拭おうとするユニから逃れるだけで、精いっぱいだ。ユニの手が頬を撫でる。

 

「大丈夫、もう怖がることはありません。ここまで、ありがとうございました」

 

 お礼の言葉は過去形だった。ユニは逃走劇を終わらせようとしている。

 ユニと一緒にいなければ、利奈の身の安全は保障されるだろう。代わりに、利奈の心から誇りがなくなってしまうけれど。

 

「やだ……一緒にいる」

「もういいんです。こうやって外に逃がしてくださっただけで。私と一緒にいたら、貴方まで危険な目に遭ってしまいます」

 

 駄々をこねる子供を諭すようにユニが言葉を重ねる。

 これではどちらが年上だかわからない。

 

「私では貴方を守れません。離れたほうがお互いのためなんです」

「……守る?」

 

 そこで利奈は、大きな食い違いがあることに気が付いた。

 利奈がユニを守るつもりでいたのと同じように、ユニも利奈を守ろうとしていたのだ。

 まだ会って数時間しか経っていない利奈を、守るべきもののひとつに数えている。ユニを助けると決めた、綱吉のように。

 

(ユニも……だれかに死んでほしくないんだ)

 

 死ぬのが怖くないわけじゃない。自分が死ぬよりも、自分の周りで人が死ぬ方がずっとつらいだけなんだ。

 優しい彼女は、自分の部下の命よりも世界を優先して、その世界よりも目の前の他人を優先してしまう。

 

(そういえば、チョイスに行く前にリボーン君が言ってたっけ。ボンゴレマフィアは、もともと住民を守る自警団だったって)

 

 だれかを脅かすのではなく、だれかを守るための組織。

 確かに、綱吉はいつもなにかを守るために戦っている。きっとユニも、そうなのだろう。

 

「……ユニは、沢田君に似てるね」

「え……?」

 

 顔を上げると、滲んだ世界にユニの顔が広がった。大きな瞳のなかに、情けない顔をした自分が映っている。

 

「沢田君も、みんなのために戦ってるの。……本当は戦いたくないのにね」

 

 目元に残った涙を手の甲で拭う。

 ユニがだれかのために命を掛けてしまうのなら、そうならないようにするのが利奈の役目だ。

 盾にしかなれないのなら、剣になれる人のところまでユニを守り切ればいい。一度しか使えない盾ならば、使われないですむように策を弄すればいい。

 ここは無人島ではなく、並盛町なのだ。

 

「一緒に行こう。私も迷子のときに風紀委員長に付き添ってもらったことがあるの。

 それに私――」

 

 利奈は初めてにっこりと笑う。

 

「この町のことなら、ほかの人よりちょっと詳しいよ?」

 

 知っている人にしか伝わらない冗談に、ユニは不思議そうに眼を瞬いた。

 

 二人には選択肢がみっつあった。

 基地で別れた綱吉たちと合流するか、恭弥とディーノがいる並盛中学校に向かうか、風紀財団に助けを求めるかの選択肢が。

 

「沢田さんたちと合流しましょう」

 

 ユニの決断は早かった。

 綱吉のグループは唯一居場所がはっきりしていないけれど、合流できたら一番頼りになるグループだろう。

 

「行き先に真六弔花が現れた場合、ボンゴレ匣でなければ対処はほぼ不可能だと思います。

 ボンゴレアジトですら見つかってしまったのですから、ほかのアジトに逃げ込んでも被害が増えてしまうだけだと……」

「そっか。……そうだった」

 

 単純な武力勝負でなら風紀財団に敵はいないけれど、アジト全体を吹き飛ばせるような反則技を持つ真六弔花が相手では話が別だ。

 それに、恭弥のグループはその真六弔花と戦っている真っ最中である。連れて行くことにメリットがない。

 

(ヒバリさんがユニを守ってくれるかどうかもわからないしな……。

 真六弔花は倒してくれるだろうけど、ユニが攫われないように庇ってくれるかは……ちょっと微妙かも)

 

 恭弥が守るのは並盛町の風紀だけだ。ユニの保護までは請け負ってくれそうにない。

 

「沢田さんたちとは連絡が取れそうですか……?」

「うん、たぶん。風紀財団とボンゴレファミリーで繋がってるはずだから、これでなんとかなるはず」

 

 イヤホン型の黒い通信機を耳に装着する。ボンゴレアジトと風紀財団アジトをつなぐ扉を行き来していたときに使っていたものだ。

 一度ジャンニーニと回線をつなげてもらったこともあるので、その要領で綱吉たちにつなげてもらえばいい。

 出てきた職員にそうお願いすると、なにも聞き返さずに職員は通信機の周波数を切り替えた。

 

「えと、沢田君、聞こえる?」

『相沢さん!?』

 

 すぐさま綱吉の返事が返ってきた。

 親指と人差し指で丸を作ってユニに見せると、ユニはほっとした顔で肩を下ろした。

 

『今どこ!? 無事!? ユニは!?』

「無事だよ。ユニも一緒だし、今は建物に避難してるところ」

『よかった……! そうだ、さっきはユニを助けてくれてありが――ぐふぁ!?』

『時間ねーんだ、代われ』

 

 音声しか入ってこないけれど、綱吉がリボーンに足を蹴られたらしいことはわかった。でなければ、土が滑る音なんて聞こえないだろう。

 

『――利奈、五丁目の川平不動産を知ってるか?』

「うん。十年前にもあったよ」

 

 個人経営の不動産屋で、使い道の多い空き家をいくつか扱っていると過去に聞かされていた。

 なにかあった際にはそこの物件を使うという話も出ていたけれど、そのなにかというのがどういったものなのかは詮索していない。聞いても、口外できない秘密が増えるだけだ。

 

『今から俺たちはそこに向かう。だからお前らは安全を確保するまで――』

「ひっ!」

 

 通信機越しに爆音が鳴り響いた。間延びしたノイズが走る。

 耳元での不意打ちに身をすくめていたら、窓に目をやったユニが利奈の肩を揺さぶった。

 

「利奈さん! 外が!」

 

 カーテンの隙間から煙が見える。

 勢いよくカーテンを開けると、工場地帯から次々と煙が上がっていた。

 

「なにあれ……」

 

 工場地帯と言っても廃工場の集まりなので、人的被害は出ていないだろう。

 そういえば、出口のひとつがあそこに通じていたはずだ。

 

「地下でなにかが起こっているのでしょうか。それとも、ほかの真六弔花が?」

「わからない……真六弔花のせいなのは間違いないと思うけれど」

 

 通信機越しに聞こえた爆発音の大きさからして、綱吉たちはあそこの出口から出てきたのだろう。

 爆発と言えばザクロだが、彼はまだスクアーロと戦っているはずだ。

 いくらなんでもこんなに早く決着がつくとは思えないが、さっきの衝撃のせいか通信は切れてしまった。

 

「どうしよう……。リボーン君は川平不動産ってところに行こうとしていたみたいだけど」

「でしたら、私たちもそちらに向かいましょう。おじさまが頼りにされるのでしたら、安全な場所のはずです」

「……そう、だね」

 

 おじさま呼びに違和感しかないけれど、そんなことを気にしている場合ではないだろう。

 

 騒然としている金融会社の人たちに礼を言って外に出る。

 ふと利奈は、ユニの大きな帽子に注目した。

 

「その帽子、重くない? 持ってあげようか?」

「いえ、軽い素材でできているので大丈夫です」

「そう? 狭い道通ってくから気を付けてね」

「はい!」

 

 お互いに目を配っていた二人は、そのおかげで空に飛び上がるザクロの姿を目視せずにすんだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

知らないほうがいい真実もある

 川平不動産までの道筋は、歩きながらでも滞りなく作成できた。

 十年前時点での裏道や脇道の情報はだいたい頭に入っていたので、そのなかから人目に付きにくく、なおかつ上空からの目視が困難な道を選べばいいだけである。よくやっていたことなので、造作もない。

 

(風紀委員の仕事だから――じゃなくて、変なのに捕まらないように覚えるしかなかったってのが、すごく悲しいんだけど)

 

 本来ならば、わざわざ記憶する必要のない情報だ。しかし、いつなんどき襲われても不思議でなかった利奈にとっては、最優先で詰め込むべき情報だった。

 逃げ道や逃げ込める施設を頭に叩き込んでいなかったら、夏休みの拉致件数は数倍にまで跳ね上がっていただろう。恭弥は人の恨みを買い過ぎである。

 

 この地域は十年のうちにそこまで手を加えられていないようで、記憶と記録の通りに道は続いていた。

 地下商店街の開発に力を入れていたぶん、ほかの地域はほとんど変わりなかったようだ。

 

 一瞬たりとも逡巡せずに歩く利奈に、ユニは遅まきながら、ほかの人よりも多少は詳しいと言った利奈の言葉の本意を悟る。

 並盛中学校の風紀委員にとって、並盛町は庭どころか自室なのだ。

 

「この道を抜けたら川平不動産がある場所に出るよ」

 

 すっかり遠慮が抜けた口調で利奈が伝えると、道中ずっと気を張っていたユニが、少しだけ肩の力を抜いた。

 地下のアジトですら、あんなにあっさりと侵略されたのだ。敵に見つかってしまうのではと、不安を抱えても無理はない。

 

「もう、おじさまたちは到着しているでしょうか」

「たぶんね。爆発あったところのほうが近いし、ちょっと遠回りしてきたから」

 

 最短ルートを辿っていれば、半分の時間で到着できていただろう。

 しかしそうなると爆発のあった廃工場近くを通ることになるので、大きく迂回するルートを選んだ。急がば回れ。近道を選んで敵と遭遇したら目も当てられない。

 

 道の角から、そっと通りを覗きこむ。

 人で賑わう通りに真六弔花の姿はなく、日常そのものの風景が広がっている。

 初めて実物を見た川平不動産も、ヒビの入った窓をテープで補修していたりとだいぶガタがきているものの、潰れずに営業していた。

 

「……あのお店、おかしいですね」

 

 違和感を口にしたのはユニだった。

 利奈も目の前の光景に違和感があったものの、ユニとは違うものに注目していたので聞き返す。

 

「おかしいって?」

 

 築何十年も経っているのだろうから、ボロボロになっていてもおかしくはない。

 ああなる前に改築するべきではとも思うけれど、建て替えるどころか、窓を換える余裕もなかったのだろう。営業しているのが不思議なくらいだ。

 しかしユニは店の古さではなく、店としての不自然さに着目していた。

 

「お店の扉が開きっぱなしです。あれでは、扉に貼られている紙が読めません」

「あ……!」

 

 言われてみれば確かにそうだ。あれでは客が貼り紙を読めなくなる。

 ついでに、遠目に見ている不動産屋が営業中だとわかった理由にも合点がいった。閉まっている店なら、入り口を全開にしたりはしないだろう。

 

「罠、かな?」

 

 とりあえず路地に身を引いた。人目を引かないよう、壁に寄りかかって雑談を装う。

 

「まだなんとも……。ただ、沢田さんたちがいらっしゃるのなら、店の扉を開けたままにはしないと思います」

「だよね……」

 

 綱吉たちがいてもいなくても不自然な状態だ。不気味ともいえる。

 そして利奈にもひとつ、引っかかっている点があった。

 

「ねえ、私も変だなって思ってることあるんだけどさ。

 ここの道、こんなに人が多いわけないんだよね。商店街はあっち曲がったところだし、この辺、そんなにお店ないし」

 

 閑散としてしかるべき場所に、理由もなく多くの人が存在している。

 扉の不自然さを指摘されなければ、不思議に思っても口には出さなかっただろう。

 

「……ひょっとしたら、幻術の類なのかもしれません」

「幻術……ってことは、あの仮面被った人の罠?」

「可能性はあります。ただ、どうして私たちの行き先がわかったのか――」

 

 二人がこの現象についての考察を始めたそのとき、川平不動産のある方角から怒号が上がった。

 

「待ちやがれバーロー!」

「っ!?」

 

 ザクロの声に二人は身をすくめた。

 通行人たちの視線がそちらに向かい、利奈はユニとともに逃げ出そうとしたが――

 

(逆方向?)

 

 風を切る音が遠ざかっていくので、動きを止めた。ドクドクと鳴る心臓の音がうるさくて――

 

「もう大丈夫だよ」

「きゃっ」

「ひゃあああああ!」

 

 見知らぬ人物にひょっこりと覗きこまれ、絶叫した。

 

 

__

 

 

「いやー、まさか出合い頭に悲鳴をあげられるとは思いませんでしたよ。

 それなりにちゃんとした身なりのつもりだったんですけどねえ」

 

 着物を着た丸眼鏡の見知らぬ男性――改め、川平不動産店主の言葉に、利奈は肩を縮めた。

 

(ううっ、申し訳ない……)

 

 彼に連れられて不動産屋に入ったら、アジトで離ればなれになったスクアーロ以外のみんなが揃っていた。

 大人数で突然訪れたにもかかわらず、すぐさま店に匿ってくれたらしい。そのうえ追ってきたザクロを追い払ったそうで、いわばみんなの命の恩人だ。

 事情を知らなかったとはいえ悲鳴をあげ、そのうえミルフィオーレの人間ではと武器を構えてしまった負い目があり、利奈はひたすら恐縮した。

 

「わかるぞ。こいつうさんくせーよな」

「えっ」

「んなっ! おい、リボーン! 失礼だぞ!」

 

 綱吉が窘めるが、リボーンは険しい目を川平に向けている。

 

(まあ、見た目はちょっと変わってるっていうか……中身もだいぶ変わってそうな感じするけど)

 

 新たな隠れ家を探すにあたり、一同は、ハルの知り合いのおばあさんがやっているこの不動産屋を頼りにきた。しかし、おばあさんは三年前にすでに他界していて、息子である、通称、川平のおじさんが出迎えた、という流れらしい。

 ――つまり、なにも知らず、全員と初対面であるにもかかわらず、彼らを丸ごと受けいれた、ということになるのだが。

 

(リボーン君の言う通り、かなりうさんくさいかも。……あと、なんでずっとラーメン持ってんだろ)

 

 複数人の疑いの視線を浴びながらも平然と立っているあたり、よほど動じない人物なのか、それともなにか裏があるのか。

 どちらにしろ、ミルフィオーレの重要人物であるザクロを追い払ったのだから、ミルフィオーレ関係者ではないのだろう。

 ユニを捕まえるために泳がせただけなら、今頃みんな殺されている。

 

「そういえば娘さん、ポケットに入れてるそれだけど」

「は、はい」

 

 上着のポケットから覗く腕章を指差され、利奈は背筋を伸ばした。

 

「それと同じものを腕につけた学ランの子を見たよ。君の友達?」

「え」

 

 そんな人物、並盛町には一人しかいない。

 並中生みんながそう思ったなかで、綱吉が口を開いた。

 

「それってヒバリさん!? ディーノさんと並中に落ちた真六弔花を倒しに行ったんです!」

「そうなのかい? 彼らの力を侮ってなければいいんだが……」

 

 その言葉で綱吉はディーノに通信を試み始めたが、川平に向く疑念の眼差しは先ほどより強くなっていた。

 

(……なんで今ので通じたの)

 

 並中に落ちたという表現も、真六弔花というおよそ耳馴染みのない言葉にも、川平は疑問を挟まなかった。こちらの事情を把握したうえで、真六弔花が複数人の組織であることもわかっているうえで、彼は真六弔花の力を危惧した。

 危機的状態に陥っていなければ、素性を問い詰めるべき怪しさだろう。

 利奈でもそう思うのだから、警戒心の強いメンバーは皆同じことを考えているに違いない。

 

「なんか、大変なことになっちゃったね」

 

 近くにいる京子に声をかける。

 京子も襲撃のせいで着替え損ねたようで、スカートが利奈とお揃いだ。

 

「ほんとだね。でも、無事でよかった。

 アジトが爆発したとき、二人ともいなかったからすごく心配してたの。そしたらユニちゃんが出てきて――」

「そうです! 利奈さんがピューってユニさんを連れてって、びっくりしちゃいました! また会えて本当によかったです!」

 

 京子は心から安堵しているし、ハルは少し涙目になっている。

 利奈も立場が逆になっていたら、同じような反応をしただろう。

 

「私も会えてよかったよ。二人っきりになったときはもう駄目かと思ったもん。……本気で」

 

 今になって考えると、相当追い詰められていたのだろう。ユニの前でみっともなく泣いてしまったのが恥ずかしい。

 ちらりと横目で窺うと、ユニは淡く微笑む。

 

「私もそう思いました。ですが、利奈さんが頑張ってくださったおかげでここまで来れたんです。改めてお礼を言わせてください」

「俺も礼を言わなきゃなんねーな。助かったぞ、利奈」

「え、えっと……!」

 

 ユニとリボーンに手放しで褒められるのは居心地が悪い。

 最初から最後までユニを助けられていたのならともかく、一度はユニの方から手を離されかけたのだ。意地で握り続けたけれど、称賛されるような振る舞いはできていない。

 だから、真正面から褒められるとなんだかいたたまれなかった。

 

「私は全然! 来る途中なにもなかったし、歩いてきただけだし」

「そんなことないですよ! あの物騒な人に捕まりそうだったユニちゃんを守ってたじゃないですか!」

「それは……!」

 

 ここにきてハルから援護射撃という名の追撃を受け、利奈はますます挙動不審に首を振った。このままでは、号泣したことまでみんなに暴露しなければならなくなる。

 

「あれはスペルビさんの命令だったから! 全部スペルビさんの手柄だよ!」

「スペルビさん?」

「……サメの人」

 

 京子が首を傾げると、クロームがひっそりと助け船を出す。みんなの勢いに呑まれてしまっているのか、クロームは部屋の隅でうずくまったままである。

 

(そういえば、みんなスクアーロさんって呼んでるっけ。……名前で呼んでるの私だけ? ほかはみんな名前呼びなのに)

 

ヴァリアーでもスペルビ呼びは反応が悪かった。

イタリア語でスクアーロはサメだから、イメージに合うそちらを通り名として使っているのかもしれない。

 

「あの……スクアーロさんはどうなったのでしょう。ザクロと戦ったあと」

 

 聞きづらそうにユニが尋ねるが、返ってきたのは沈黙だった。

 スクアーロは、ザクロの足止めのためにアジトに残っていた。それなのにザクロがユニを探して地上に出てきていたのだから、スクアーロがどうなったかなんてわかりきっている。

 

「……ん、スクアーロのことだから、きっとピンピンしてるだろうぜ」

 

 場を持ち直すように声を上げたのは武だった。

 チョイス戦に向けてスクアーロと修業をしていたので、スクアーロの実力については、このなかでだれよりも詳しいだろう。

 しかし、武以外の人は表情を曇らせていて、武の言葉の説得力を鈍らせる。工場地帯での爆発も、二人の戦闘で生じたものだったのだろう。

 

「ディーノさん、デイジーと戦ってるって」

 

 通信を終えた綱吉の言葉で、利奈はデイジーの姿をまぶたに描いた。

 京子たちに枯れた花を差し出した、不健康そうな顔色の男。チョイス戦での立ち回りは見ていないが、恭弥たちが遅れを取りそうな相手ではなかった。

 

「なんか、化け物みたいな格好してるって言ってたんだけど……」

 

 ――どんな見た目をしていようが、相手は真六弔花だ。油断してはいけない。

 利奈はすんなりと手のひらを返した。

 

 ここまでの状況を確認しながら、一行はディーノの報告を待つ。

 途中でランボが眠いとぐずったので寝かしつけ、武がスクアーロを探しにアジトに戻りたいと言い出したところで、ディーノからの連絡が入った。

 

「ヒバリさんがデイジーをやっつけたって!」

 

 その報告に歓声があがる。

 これで真六弔花はユニを探す手がかりを失った。対策を練る時間が得られるわけだ。

 潜伏場所をこれから探すなら少しは力添えができるかもしれないと気合を入れる利奈の耳元で、通信機が音を立てた。

 

『相沢』

「はいっ!」

「うお、なんだ!?」

 

 条件反射の利奈の返答に、了平がビクリと肩を揺らした。左耳を指差しながら、もう片方の手で拝むようにして驚かせたことを謝る。

 

『今どこ? 敵はいる?』

「川平不動産屋にいます。敵は――さっきザクロっていうガラの悪いのがいましたけど、今はいません」

『そう』

 

 声には物足りなさそうな響きがあった。

 いると答えたら、嬉々として咬み殺しに来ていただろう。その場合、周辺が更地になりかねない。

 

「私はどうすればいいですか? そっちに合流しますか?」

『いい。僕は壊れた校舎の被害確認とこの死にたがりの処分があるから、そっちは勝手にやって』

『ぼばっ!』

「……はい、了解です」

 

(……今、踏んだ? 蹴った?)

 

 わずかに聞こえる敵の悲鳴にドン引きしそうになりながらも、相槌を打つ。

 校舎の損壊具合によっては、デイジーに明日はない。白蘭の部下でなければ、ほんの少しくらいは同情していただろう。

 

「ヒバリさんはなんて?」

 

 期待するような綱吉の眼差しに、利奈は親指を立てた。

 

「……真六弔花は学校の片付けのついでになんとかしてくれるって!」

 

 嘘は言っていない。嘘は。

 なんとかというよりは、なんとでもという表現の方がふさわしかったというだけで。

 

 なんとなく察していそうなリボーン以外は利奈の言葉で無邪気に喜び、利奈は内心の冷や汗を隠すため、しばらく親指を立て続けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幾多の記憶から

 襲撃は内部から行われた。

 スパナたちがアジトに戻ろうとしたそのわずかな隙に、トリカブトの侵入を許してしまったのだ。ランボに化けたトリカブトは、だれにも警戒されずにユニに近づけた。

 

「ユニ!」

 

 綱吉の叫び声が聞こえた。入り口を固めに行った守護者の声も聞こえた。

 そのどれもが、砕けるガラス戸の音に掻き消された。

 

 体を起こすと見えたのは粉々になったガラス戸、倒れた守護者たち、店の入り口に空けられた大穴。そして、その先の空に――。

 

(桔梗にブルーベル!?)

 

 トリカブトの前に立ちはだかるようにして飛ぶ二人に、目を見開く。

 

 飛び散ったガラスはすべて店の内側に向かっていた。

 トリカブトの脱出するタイミングを見計らって、外から破壊したのだろう。予期せぬ方角から奇襲を受けた三人は、なすすべもなく倒れ伏していた。

 

(真六弔花が三人――どうして!?)

 

 これで、真六弔花すべてがボンゴレに接触を果たしたことになる。

 なぜこの場所を突き止めることができたのか――そう考えたとき、今だ姿を現さない白蘭が頭をよぎった。

 

(まさか、ほかの世界の自分からここの状況を!?)

 

 ありえない話ではない。

 すべての世界を網羅できるのなら、ハルの知り合いがいるこの不動産だって――

 

(そんな、そんなことまで!?)

 

 ボンゴレ関係者といえど、ハルは一般人だ。そんな彼女の情報まですべて手に入れられるというのなら――それこそ、神の所業である。

 

 衝撃を受けて固まっていたら、ブルーベルが匣を開匣した。

 雨属性の炎を帯びた巻き貝が、防御陣形すら取れていないこちら陣営に襲いかかる。

 

「ぐっ……!」

 

 攻撃を察し、隼人が体を反転させる。間一髪、SISTEMA C.A.Iが展開し、なんとか直撃は免れた。

 ただし、シールドで守れるのは人だけだ。崩れる家屋と衝撃波の影響を受け、だれもが立っていられなくなる。

 

「ぐぴゃああ!」

「ひいいっ! ベリーハードですー!」

「こっちに来て! 立ち上がらないで、そのまま店の奥に!」

「はいですぅ! ランボちゃん、こっちに!」

 

 ランボを腕に抱いたハルが、こちらへと這ってくる。京子は倒れている了平を気にしていたが、再度呼びかけて避難を促した。

 

(このままじゃユニが……!)

 

 初手で戦力を削られ防戦一方のボンゴレに比べ、ユニを捕らえた真六弔花は、攻撃の勢いそのままにトリカブトを逃がせば済む。圧倒的にこちらが不利な状況だ。

 遠ざかるトリカブトをただ見ていることしかできずにいたら、その影が大きく揺らいだ。いや、どこからともなく現れたふたつの黒い塊が、トリカブトの身体を貫いた。

 トリカブトの姿が眩み、ユニの身体が支えを失う。しかし、ユニに落下などさせぬとばかりに、新たな人物がユニの身体を支えた。

 

「なっ、あれは!」

 

 どうしてここにと、声が漏れる。

 だが、納得の人物だった。ジッリョネロファミリーボスであるユニの窮地を救うのは、同じジッリョネロファミリーの人間の使命だ。

 

「γ……?」

 

 上半身を起こすのもやっとの隼人が、息も絶え絶えに呟く。

 

 元ミルフィオーレファミリーブラックスペル、第三アフェランドラ隊隊長γ。

 γとユニを守るようにして立つ、兄弟分の太猿と野猿。

 構図は先ほどの真六弔かと同じだが、その気迫は真六弔花をも凌駕していた。メローネ基地にいたときとはまるで別人だ。

 

 ――ただ、相手が悪かった。

 野猿と太猿渾身の一撃をトリカブトは難なく躱し、さらには通り抜けざまに二人に一太刀を浴びせる。ユニが二人の名前を叫んだ。

 γの匣兵器、黒狐すらも歯牙にかけず、あとはリングそのものに頼るしかないγを屠るべく一直線に進んだトリカブトは、次の瞬間、顎に強烈な一撃を受けて弾き飛ばされた。

 

「どこを見ている」

 

 その声でハッとした。

 先ほどまで猛攻に怯えていた少年の姿がない。 

 

(速い……!)

 

 桔梗とブルーベルがあちらに意識を削がれて攻撃を止めた隙に、超化した綱吉があそこまで飛んでいったのだ。そばにいたボンゴレ陣営ですら気付けない速度で。

 

(これなら……!)

 

 形勢逆転に胸を高鳴らせる。

 

 しかし、その判断はいささか早計だった。

 ユニたちに気を取られるあまり、だれもが足元を見過ごしていたのだ。

 事態を動かしたのは、遠くから砂塵を巻き上げて現れた一匹の――

 

(匣兵器!? じゃなくて、人!?)

 

 チーターを思わせる見事な四つ足走行で男が走ってきた。

 足が止まってようやく顔が認識できるようになったところで、隼人がギョッとしたように身を引いた。

 

「城島!? おまっ、なんでここに!?」

「利奈は! 利奈はどこら!」

 

 隼人の呼びかけを無視し、男が叫ぶ。

 

(あ……)

 

 ネコ科動物特有の細められた瞳孔がこちらに向き、そして、()()()()()

 そこで男が利奈を探しているのだとわかり――()()は初めて、襲撃があってから利奈が一言も声を発してないことに気がついた。

 

「ハハン、ようやく登場ですか。しかし、遅かったですね」

 

 男の正体を知っているらしい桔梗が嘲笑う。

 

「彼女なら、とうに私の手のなかですよ」

 

 ――花が咲いていた。紫の花が、少女の手元を美しく、そして禍々しく飾っていた。

 眠り姫のように横たわる利奈の指から、数本の花が伸びている。紫色の炎がゆらゆらと揺らめいている。その花は、幻騎士の身体を食い破ったものと同一のものだった。

 

「クソっ!」

「やめておいた方がいいですよ」

 

 駆け寄ろうとする男を桔梗が声で制する。

 

「その雲桔梗は彼女の指のリング――この場合は指輪と呼ぶべきでしょうか。指輪に植えつけられています。

 無理に外そうとしたら、彼女の指ごと千切れますよ」

「そんな!」

 

 京子が悲鳴をあげる。

 桔梗の言う通り、桔梗の花の根元は中指に嵌められた指輪につながっていた。外そうと近づけば、桔梗は躊躇いなくその根を利奈の手に這わせるだろう。今でさえ、気を失うほど生命力を吸われているというのに。

 

(なんで!? なんで彼女がリングを!?)

 

 利奈は死ぬ気の炎を扱えない。

 だから彼女がリングをつける必要なんてないし、そもそもいつの間に彼女のリングに――

 

(違う。彼女のリングに種を植えたんじゃない。彼女の手に、指輪を取り付けたんだ。

 でも、いったいどうやって! アジトで離ればなれになったあとにか? いや、それならそんなまどろっこしいことせずにユニを――)

 

 そこまで思考を巡らせたところで、正一は愕然とした。

 正一は、その目でその場面を見ていたのだ。

 

『自己紹介が遅れました。私は桔梗。真六弔花のリーダーを務めています。

 以後、お見知りおきを』

『あ、ちょっと……!』

 

(あのとき……!)

 

 二人の手元までは見ていなかったが、利奈は明らかに狼狽していた。ただ握手されただけなら、あんな反応はしないだろう。指を絡めて動揺させ、そのどさくさに幻術をかけた不可視の指輪を嵌めたに違いない。

 

(なんてことだ! もっと警戒しておくべきだった!)

 

 まさか戦いの前、それも戦闘員ではない人間に罠を仕掛けてくるなんて、思いもしなかった。

 チョイス戦後にこちらが逃げ出そうとした場合の、保険代わりにでも用意していたのだろう。

 リングではなくただの指輪なら、金属探知機にでもかけなければ発見できない。

 

「トリカブト、お願いします」

 

 桔梗の声で顔を上げる。

 マントを広げたトリカブトの胸に、匣が埋まっているのがかろうじて見えた。

 匣にリングが装着され、エネルギーが発散される。

 

「なんらあれ! 気持ち悪りーびょん!」

 

 トリカブトの背に翅が生えた。

 翅に描かれた禍々しい模様は、鳥に襲われないように擬態する蛾の眼状紋だった。

 

「終焉の時」

 

 景色が回り出す。水平であるはずの地面がつながり、ドーナツの穴のように空が閉じる。

 担架から滑り落ちそうになるのを慌てて腕で止めるけれど、浮遊感のせいで起き上がれなくなる。

 平衡感覚を失い、景色に振り回されるしかない正一たちのもとに、悠々と桔梗が現れた。

 

「失礼しますよ」

「っ、だめ!」

 

 クロームが焦ったように立ち上がるが、術師でも解くのは難しいのか、身体がよろけそうになっている。桔梗相手では、どうすることもできないだろう。

 桔梗はクロームに構うことなく、幻術にかかることすらできない利奈の身体を抱えた。

 

「相沢さん!」

「彼女は頂いていきますよ」

「てめえ!」

 

 城島という男が桔梗に飛びつこうとしたが、足に体重をかけられずに崩れ落ちた。

 

「伝令役ご苦労様です。貴方の主にはこう伝えてください。

 白蘭様がおっしゃったとおり、無粋な手出しをしなければこの娘の命は保障します。危害を加えないとまでは言えませんが」

「ふざけんなっ!」

 

 城島が獣の咆哮を上げたが、地面すら不確かな状態では、桔梗に牙を突き立てるどころか、距離を詰めることさえできやしない。

 そのまま飛び去ろうとする桔梗だったが、空に飛ぶ瞬間、大きく身を捻った。

 

「簡単に行かせると思うか?」

 

 フゥ太の頭上にいたリボーンの銃口から煙があがる。幻術空間でも、銃の軌道は変わらない。

 銃口を頭部に向けられながらも、桔梗は余裕の表情を崩さなかった。

 

「ハハン、その不安定な足場でも的確なショットを撃てるとは、さすがアルコバレーノ。

 ですが言ったでしょう、彼女はもう私の手中だと」

 

 桔梗の身体がふわりと浮いた。宙に浮く桔梗の身体は上下に揺れ、抱えられた利奈の腕がだらりと下に伸びる。

 

「……チッ」

 

 いくらリボーンが凄腕のガンマンでも、揺れるフゥ太の頭上から、一発で桔梗を仕留めるなんて芸当はできないだろう。ここで桔梗が匣を開匣すれば、女の子や子供たちが犠牲になる。

 頼みの綱の綱吉も、消えたトリカブトにγたちが襲われないよう、警戒するので精いっぱいである。

 結局、利奈が連れて行かれるのを、みすみす見逃すことしかできなかった。

 

「もう、手っ取り早く全部壊しちゃえばよかったのに」

「それはできませんよ。白蘭様のもとに連れて行かねばならないのですから」

「むー! なんでそんな女!」

「妬く必要はありませんよ、ブルーベル。六道骸に追跡させないための人質にすぎないんですから。

 あとはトリカブトがユニ様を確保するのを待つだけ――」

 

 しかし、さすがにそこまでの蛮行は許されなかった。

 クロームの開匣したボンゴレ匣、D・スペードの魔レンズによってトリカブトの姿は現され、綱吉のX BURNERにて焼き払われた。

 

 割れたカブトと事切れた僧を確認し、そのまま落とした桔梗は、腕の中でわずかに息をする娘を見下ろし、嘆息した。

 

「この娘を抱えていなければ手伝えたんですがね。思わぬ足手まといでした」

「だから落としちゃえばよかったのにー! 雨イルカに乗ったアルコバレーノ、ブルーベル一人で対処したんだから!」

「それは申し訳ないことをしましたね。お詫びに、ホテルでおいしいデザートでも用意しましょう」

「わーい!」

 

 そんな二人の会話も利奈の耳には届かない。

 徐々に冷たくなっていく身体に、桔梗はようやく指輪に仕掛けた雲桔梗を解いた。

 

「うっかり殺してしまうところでしたね」

 

 温度のないその声も、利奈の耳には届かなかった。

 仮に意識があっても、利奈の考えることはひとつだっただろう。

 

 ――数えることすらやめた拉致回数が、またひとつ増えてしまったと。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

想定外を頬張って

 

 海外の城を思わせる、豪華絢爛な外装の最高級ホテル。

 そのホテル最上級のスイートルームで、真六弔花は白蘭への報告をおこなっていた。

 

 ユニの奪還は果たせず、デイジーとトリカブトは戦闘不能。芳しい成果を上げられていない彼らだったが、その表情に焦りはなかった。

 まったく前情報がないボンゴレ匣と、予想していなかったγ兄弟の助太刀。それらの障害によっていささか計画に狂いは生じたものの、依然、有利な状況には変わりがない。

 

 それに、進捗もある。トリカブトはユニを捕らえた際に、三日間取れることのない炎粉を付着させていた。

 ユニの居場所は特定可能となっており、どこに隠れようが必ず見つけ出せるようになっている。

 さらにミルフィオーレ側の残りメンバーは無傷なのに対して、ボンゴレメンバーは重傷者が多い。満足に動けない者がいては、ボンゴレお得意の連携プレイだって機能しなくなるだろう。

 あとは、いつ獲物を狩るかだ。

 

「さて、と」

 

 受話器を置いた白蘭が、絨毯に転がされている利奈へと目を向ける。

 雲桔梗によって生命力を削られているために、頬の色は白く、生気がない。

 

「そろそろ起こしてあげていいんじゃないかな。ずっと絨毯で眠らせるのもかわいそうだし」

 

 テーブルに積んだマシュマロに手を伸ばしながら白蘭が促すと、桔梗が利奈の肩を叩いた。

 指輪に仕込んだ雲桔梗は解除しているが、一時は瀕死状態まで追い込まれていただけあって、軽く揺すったくらいでは目覚めなかった。

 

「べつに寝かせといていーんじゃないですか? 起こして騒がれてもめんどくせーし」

「おやおや、女性に対しての気遣いは大切ですよ。どうせ、騒げるだけの体力も残ってませんから」

「桔梗の言う通り。ザクロは女性へのデリカシーってものがなさすぎるわ」

「へーへー」

 

 言い返すのもめんどくさいとばかりに、ザクロはブルーベルの指摘を受け流す。

 気のない態度にブルーベルがむーと頬を膨らませていると、ようやく利奈のまつ毛が揺れた。

 

「お目覚めですか?」

「……」

 

 あどけない顔でゆっくりと目を開ける利奈と、それを見下ろす桔梗の微笑。

 このシーンだけ切り取れば、まるで夢から覚めたお嬢様と、傍らに傅く執事のようだ。

 

 重いまぶたを数度動かして意識を覚醒させた利奈は、小さく口を開き――

 

「……はあ゛ー」

 

 徹夜続きの社会人と同じくらい疲労と苛立ちを滲ませたため息を吐き出した。

 

 その吐息には、絶望や恐怖、悲哀に焦燥といった感情は一切含まれていない。

 社会人時代を思い出させる利奈の態度に、桔梗はわずかながらに困惑した。

 

「……もし?」

「はい?」

 

 いっさい気負ってない声はふてぶてしさすら感じさせる。

 少なくとも、拉致された娘が出す声ではない。

 

「ああ、いえ。少々予想と違う反応だったので、事態が呑み込めていないのかと思いまして」

「……貴方たちに捕まったって以外、なにかあります?」

 

 腕に力を込めて起き上がろうとしているが、力が入らないようだ。

 声に疲労が滲んでいたのは、体力と気力が底をつきかけていたからもあるのだろう。

 

「無理に動かないほうがいいですよ。体内の炎をほとんど吸い取られているのですから」

「吸い取る……」

「チョイス戦でのターゲットマーカーを覚えていますか? あれと雲桔梗を複合した、特別製の指輪です。指輪自体はなんの変哲もない物ですが」

 

 左手中指の指輪が確認できたようで、その表情にわずかながら恐怖が宿る。幻騎士の最期を見ていたのならば、当然の反応だ。

 ようやく人質らしい表情を見せた利奈だったが、それでも体を起こそうとするのをやめなかった。

 

 彼女はわかっているのだろう。

 先ほどから桔梗が一切利奈に向き直ろうとせず、膝をつき続けていることの意味を。真六弔花が首を垂れる先に、必ず白蘭がいるであろうことを。

 だからこそ地に伏せているわけにはいかないと力を振り絞る利奈は、なるほど、確かに白蘭が目をつけるだけのことはあった。

 

「桔梗、手伝ってあげたら? だいぶお疲れみたいだし」

「びゃく、らん……っ!」

 

 憎き相手の声が最後の力を振り絞らせたのか、利奈はようやく上半身を起こし終えた。

 動いたせいか怒りのせいか、青白かった頬に赤みが戻っている。

 

「こんにちは、利奈ちゃん。さっきぶりだね」

 

 擬音をつけるなら、ニコニコといわんばかりの笑みを浮かべる白蘭。

 かたや利奈は般若の形相だったが、頭さえ下げれば土下座になる体勢では迫力に欠ける。

 

「また会えてうれしいよ。チョイスだと全然話せなかったからさ」

「……っ」

「君も話したいって思ってたんでしょ? じゃなきゃ、あんな熱視線で見つめたりなんてしないよね。ね、利奈ちゃん?」

 

 雲桔梗の影響がなかったら、後先考えずにそのまま飛びかかっていただろう。

 そう思わせるほど絨毯に指を食いこませながら、射殺さんとばかりに白蘭を睨みつけている。額には汗が浮かんでいた。

 

「白蘭様、この様子だとすぐに体力が底を尽きるかと」

「そう? 残念だなあ、せっかくお話しできるチャンスだったのに」

 

 白蘭が摘んだマシュマロを口に入れた。

 四つん這いでいるのすら限界に近いようで、利奈は肩で息をし始めている。このままでは本当に死にかねない。

 

「この娘の処遇はどうしますか?」

 

 利奈の身体に手を差し入れ、そのまま姿勢を反転させる。

 苦もなく持ち上がった体は、抵抗することなくあっさりと腕に収まった。

 

「処遇ってやだなあ、利奈ちゃんはお客様だよ。丁重にもてなしてあげて」

「失礼。では、お部屋に案内しましょうか」

 

 胡乱げに見つめる利奈に微笑みを返すと、より一層目を細められた。

 

 

__

 

 

 どうやら、未来に来て二回目の拉致及び軟禁らしい。

 同じ組織に二度続けて捕まったのは初めてだと、どうでもいい情報がぼんやりと頭に浮かぶ。

 そもそも、だいたいの組織は一度目の時点で壊滅的な損害を被るために、二度目を決行しようとは思わないのだ。

 

(ここ、どこだろ。ホテルみたいだけど、並盛町じゃなさそう……)

 

 並盛町にこんな高級ホテルはない。

 ベッドから頭も上げられない状態だが、見上げる天井がすでに一流ホテルのそれだった。

 広いベッドも沈み込んでしまいたくなるような心地よさだし、すっぽりと頭を支える枕も、普通の物とは一味も二味も違う。

 あのヴァリアーの屋敷よりもランクが上だと言えば、どれほどすごいことなのかわかるだろうか。

 軟禁場所が自宅よりも豪華なのは若干引っかかるものがあるが、とにかく高級ホテルである。

 

(どこも縛られてない……見張りもいない……)

 

 ホテルならば部屋の外にも見張りはいないだろうし、隣のベッドのわきには内線電話もある。

 すぐにでも風紀財団に連絡を取りたいのはやまやまだったが――

 

(動けない……。身体が全然動かない)

 

 指に嵌められた指輪に、選択肢を根こそぎ奪われていた。

 

(体中のエネルギーを吸い取る、だったけ。これなら、縛られてたほうがまだマシじゃない……)

 

 指輪を外せば効果は切れるのだろうが、もちろん指輪は外せない。

 無理やり外そうとすれば、雲桔梗の根が体に食い込み、幻騎士と同じ最期を遂げると脅されている。幻騎士の最期を見たわけではないが、桔梗の口ぶりからして、相当むごい物であったことは間違いない。

 

(脱出は諦めるしかないか……)

 

 身体に引っ張られて、思考すらもおぼつかない。

 それでも、白蘭たちの目的について考えたり、倦怠感に抗おうとしてみたり、綱吉たちの動向に思いを馳せたり、ふかふかの布団で微睡んだりしていたら、ドアが開く音が聞こえた。

 わずかに聞こえる衣擦れの足音に、息を殺して目を閉じる。

 

「ちょっとー。起きてるー?」

 

 声だけでだれだかわかった。真六弔花に女は一人だけである。

 枕元までやってきたブルーベルは、利奈の顔を覗きこむと、小さく息をついた。

 

「なんだ、起きてんじゃない」

 

 確信を持った声に、利奈は寝たふりをやめて顔を上げた。

 

「……なに」

「起きて。ご飯食べに行くのよ」

 

 なにを言っているのだろうと眉を寄せる。

 人質を外に連れ出そうとする態度もそうだが、攫われたうえに体力を奪われている利奈に、食欲などあるわけがなかった。

 

「ほら、早く。……あ、そっか、雲桔梗で動けないんだっけ。仕方ないわねー」

 

 布団がめくられ、ブルーベルに手を握られる。

 ブルーベルの手から上がった青い炎が、利奈の左手を包み込んだ。

 

(熱っ、くは、ないけど。なんか変な感じ……)

 

 ブルーベルの手の温かさしか感じない。温度のない炎というのも不思議なものだ。

 

「鎮静の雨の炎で、桔梗の雲桔梗を相殺したわ。こうやって手を握っているあいだは大丈夫よ」

 

 つまり、手を離せば即座に雲桔梗の餌食である。

 

(でも、ちょっと楽になってきたかも)

 

 奪われた生命力が戻されたわけではないけれど、じわじわと蝕まれるような不快感はなくなった。

 ゆっくりと体を起こし、乱れた服を整える。窓の外はもう真っ暗だ。

 

「ご飯って、どこで食べるの?」

「下のレストランよ。ブルーベルがわざわざ連れてってあげるんだから、ありがたく思いなさい!」

 

 胸を張るブルーベルに、一抹の不安がよぎった。

 ほかの人に言われて呼びに来ただけなら、ここまで自慢げにはしないだろう。

 

「え、二人だけ?」

「そうよ」

「二人……」

「みんなルームサービス頼むんだって。

 白蘭はご飯食べられないって言うし、お客様に食事を提供してあげてくださいって桔梗に頼まれたから。私の食事に付き合わせてあげる」

 

 ようするに、人質の食事と自分の食事を一緒くたにしてしまおうという魂胆らしい。

 一人で最高級ホテルのレストランに行くのも気乗りしなかったのだろう。

 利奈の腕を取って、ブルーベルは上機嫌に歩き始める。

 

(ホテルのレストランで食事――って前にもあったな)

 

 あのときはアフタヌーンティーで、今回はディナー。

 一流ホテルでのディナーとなると、周囲から浮かないように服装に気を配らなければならない。その点、今の利奈はボンゴレファミリーの正装を身に纏っているから、ドレスコードに引っかかったりはしないだろう。

 むしろ、黒マント姿のブルーベルが服装を気にするべきなのだが、まったく気にならないようだ。

 

「ついた!」

「わあ……」

 

 目の前に、テレビのなかでしか見たことのない光景が広がっていた。

 食事はビュッフェスタイルのようで、高級感あふれる店内には、高級感あふれる食事が並んでいる。

 料理を皿に取る人たちはみんなドレスかジャケットを着ているし、食べ放題なのにコックが肉を一枚一枚切り分けているし、ウエイターは立ち姿からして優雅で洗練されていた。

 選ばれた者しか立ち入れない空間に回れ右をしたくなるが、ブルーベルに手を引かれては進むしか道がない。

 

「ねえ、ここ、子供だけで入っていいの?」

「私、子供じゃないもの。立派なレディーよ、レディー」

 

 立派なレディーは自慢げに胸を張ったりしないし、マント姿で食事を取ったりはしない。

 

「脱いだほうがいいんじゃない、そのマント。下、なに着てるの?」

「着てないわよ」

「……ん?」

「なにも着てないったら。泳ぐのに邪魔だもん」

 

(裸にマント……!?)

 

 男ならアウト――いや、女でもアウトだ。

 ついマントの上から体をじろじろ見てしまうけれど、それもそれで変態くさいので、利奈はぎこちなく目線を外した。

 とりあえず、レディーはマントをワンピースにはしない。

 

「そ、そうだ。食べるとき手はどうするの? つないだままじゃ食べられないでしょ」

「にゅっ。そっか、そうね。全然考えてなかった」

 

 どうやら行き当たりばったりな性格をしているらしい。

 真六弔花のなかでは親しみを覚えるけれど、白蘭の部下なので好感度は上がらない。

 

 顎に手を当ててうむむと唸ったブルーベルは、名案を思いついたとばかりに、利奈の手を両手で握りしめた。

 

「そうだ、こうすればいいんだ! えい!」

「ひやあああ!」

 

 指輪を嵌めた左手が炎に包まれ、利奈はうっかり大声を上げてしまった。

 向けられた視線に羞恥心が込み上げ、縮こまる。

 

「もう、急になに?」

「ふふん、見てなさい。ほらっ!」

 

 ブルーベルがパッと両手を離す。

 すぐに指輪の雲桔梗が効力を発揮するかと思いきや、指輪は一切利奈の生命力を奪わなかった。思わずしげしげと指輪を眺めてしまう。

 

「ブルーベルの炎をあんたの全身に巡らせて、桔梗の炎を抑えつけてあげたの。最初からこうすればよかった!

 ほら、指輪の炎も紫から青に変わってるでしょ?」

 

 指輪の表面はうっすらと青く染まっている。

 雲属性の炎は紫色で雨属性の炎が青色だから、利奈の身体に炎を送り込んで、指輪に触れ続けなくても侵食を防げるようにしたのだろう。

 

「さあ、ご飯食べよっと。あっ、あのカレー美味しそう!」

 

 言うが早いか、ブルーベルが飛び出した。

 利奈は指輪とブルーベルと出口を見比べ、逡巡する。

 

(逃げるなら今……だけど……)

 

 逃げたところで、逃げこむ先がない。

 ブルーベルの炎の効果がいつまでもつかもわからないし、逃げたのが知られたら、周りの人々に危害が及ぶ可能性もある。

 そしてなにより、ようやく感じるようになった空腹に、違う意味で倒れそうだった。

 

(だって昼からなにも食べてないし、なにも飲んでない……)

 

 よりによって一流ホテルのビュッフェ。

 名前のわからない野菜がたくさん入っている野菜サラダに、ふんわりと膨らんだ黄金色のオムレツ。シェフが一枚一枚切り分けているローストビーフに、料理名はわからないけれどとにかくお洒落な一品料理の数々。そして極めつけは、宝石と見紛うケーキたち。

 それらに背を向け、一縷の望みにかけて外に飛び出す力は、利奈にはなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

期待がなければ失望もない

 

 部屋に入り、後ろ手にドアノブを閉める。

 去っていく足音が消えるのを待ってから、利奈はそっと一歩を踏み出した。

 

『これ食べ終わったらすぐ寝なくちゃいけないの。明日は日が昇る前に行かなきゃだから』

 

 髪飾りはすでに外していた。ふわりと香るシャンプーの匂いは甘い。

 

『いちいち炎を注ぐより、雲桔梗解除したほうが早いんじゃないかって? ぷぷっ、匣兵器は使った本人にしか操れないのよ。知らないんだ』

 

 床は布張りなので、足音を消す必要はなかった。

 姿勢を一定に保っていれば、衣擦れの音はほとんどしない。

 

『みんな一人一部屋よ、当たり前じゃない。ブルーベルも白蘭と同じ、一番おっきな部屋がよかった』

 

 部屋の明かりはついたままだった。

 まだ起きているのか、電気を消し忘れているのか、寝落ちしているのか。いずれにせよ、もう引き返すわけにはいかない。

 

『またつらくなってきた? 炎がなくなってきたみたいね。あとは寝るだけなんだからいいじゃない』

 

 利奈はウソをついていた。

 見張られたり拘束されずにすむように、雲桔梗に苛まれているふりをしたのだ。

 食べている最中に何度も催促されたら煩わしく感じるもので、ブルーベルの炎の注入量は、そのたびに増加していった。利奈の思惑通りに。

 

 白蘭は昼間と同じソファにいた。机の上には電話と体温計、それから同じパッケージの菓子袋が大量に乗せられている。

 やっと部屋全体を眺める余裕ができたわけだが、やはり一番いい部屋だけあって無駄に広い。ソファとその周りしか使ってないのがもったいないくらいだ。

 絨毯の毛足も長く、素足なら気持ちよさそうだった。ガラス片や氷が落ちているけれど、寝ぼけて落としでもしたのだろうか。

 

(ずれないように柄を両手で持って、位置と角度の確認。即死させるために、頸動脈を狙う)

 

 目を閉じている白蘭の顔を見下ろす利奈の表情は、普段と変わりのないものだった。

 心も落ち着いていて、感情はむしろないに等しい。

 

(標的が跳ね起きた場合、首は諦めて胴体を狙う。暗殺が困難な場合は戦力を削ぐことに注力。太い血管がある太腿も有効)

 

 教科書を読み上げるような単調さで作戦を確認していく。

 

 殺気は出してはいけない。暗殺を特別なものだと思ってはいけない。

 料理をするかのように、日常的に行っている行動だと脳に誤認させなければ。包丁の代わりに暗器を握り締める。

 白蘭以外の人間相手ならできそうになかったが、白蘭相手ならできそうだった。吸血鬼に杭を打つ狩人も、こんな心持ちだったのかもしれない。心のなかで炎が燃え上がる。

 

 呼吸は止めていた。腕をわずかに上げて、そのまま――

 

「そこでやめたほうが身のためだよ」

 

 昼間と変わりない声が利奈の耳朶を打った。

 

(やれ!)

 

 下から聞こえてくる声を無視して、腕を振り下ろそうとした。しかし、動かない。

 

「……匣の開匣条件って知ってる? それぞれの匣を開けるには、その匣に適した炎を注入しないといけないんだ。でも、例外がある」

 

 ゆっくりと白蘭のまぶたが開いた。紫色の瞳が利奈を捉える。

 

「大空の炎だけは、すべての匣を開匣できる。さすがに力のすべてを使うことはできないけれど、こうして――」

「……っ」

 

 かんざしが手から滑り落ちた。

 立っていられなくなって、利奈は絨毯に膝をつく。

 

「君の力を奪うくらいはできる――っと。

 言い忘れてたけど、君の指輪には僕と桔梗、二人分の雲桔梗が仕込んであったんだ。彼にだけ任せるわけにもいかないしね」

 

 それは完全に想定外だった。

 大空の炎の特性は知っていたけれど、戦闘以外で使われる可能性までは考慮していない。

 

 俯く利奈の顔を覗きこんだ白蘭が、ふむと唸って思案顔になる。

 

「思ってたより動揺はないか。血の気も失せてないし、炎をちょっと弱くしすぎたかな?」

 

 もとより成功するとは思っていない。

 利奈の奇襲すら防げないくらい弱っていたならば、護衛をそばに控えさせていただろう。独裁者は暗殺をもっとも警戒するものなのだから。

 

 そして白蘭の言ったとおり、昼に比べて雲桔梗の影響が少ない。

 身体に力は入らないものの、じわじわと体力を吸い取られていくあのいやな感じはほとんどしなかった。ブルーベルの炎がまだ身体に残っているおかげだろう。

 

「……そっか、雨の炎。つくづく君たちは僕の計画を狂わせるのが上手だね」

 

 隠そうともしない殺意を笑顔に混ぜ込み、白蘭が電話の受話器を外す。

 ダイヤルを押す白蘭を、利奈は見ていることしかできない。絨毯に染みていた飲み物が手を濡らす感触が気持ち悪かった。

 

「寝てるところ悪いね。お客様が間違えて僕の部屋に来ちゃったみたいだから、部屋に案内してあげてくれる?

 ううん、ゆっくりでいい。ちょっと話があるから」

 

 受話器を置く音がやけに重く響いたが、利奈は顔を下げなかった。

 人質ならば殺されはしない。だれかが殺されることもない。だれも死なないのならば、なにをされたって最悪ではない。最悪がないのなら、最低には耐えられる。

 

 白蘭と目が合い、利奈は口を開けた。

 

「私はあんたを許さない」

「僕は許されたいと思ってない」

 

 不穏な声が間髪入れずに返ってくる。

 

(怯むな……!)

 

 おそらくこれが白蘭と話す最後の機会だ。夜明けになったら、白蘭はユニを捕らえに飛び立ってしまう。

 その前に、この男に言いたいことを言い終えなければ。

 

「私じゃあんたは殺せないけど。でも、あんたの計画は絶対に失敗する。だれかが貴方を殺す」

「それがボンゴレだって?」

「……」

 

(そうじゃないほうが、よかったんだけど)

 

 白蘭を倒せるのは、もう綱吉しかいないだろう。

 利奈などがわかるものではないが、信じられるのだ。綱吉なら、どんな絶望的な状況だって覆せると。

 

 しかしそれは、綱吉が白蘭を手にかけることを意味する。

 今まで何度命を狙われても、命懸けの戦いをしても、けして相手の命を奪わなかった綱吉に、人を殺させなければならなくなる。

 打倒白蘭を掲げる彼らは、そのことに気付いているのだろうか。それとも、綱吉ならばだれも死なせずに終わらせられるのだろうか。

 

「その前に、だれかが殺されることは考えないの? また君のせいでだれかが死ぬかもよ」

「私のせいじゃない」

 

 するりと出た言葉に虚勢はなかった。

 何度も何度も反芻した問いの答えを、利奈はもう知っている。

 

「全部、全部あんたのせいだ。この世界をこうしたのは、こうなったのは、貴方がやったこと。それを私たちのせいにしないで。

 殺された人たちは――私は、あんたに殺されたの。それに――」

 

 そこで利奈は目をつり上げた。

 

「沢田君は死んでなかったから! 勝手に友達殺さないでくれる!?」

「……ああ、そういえば綱吉君は死んではいなかったんだっけ」

 

 つまらなそうに白蘭はソファにもたれかかった。

 封の開いた袋から鷲摑みでマシュマロを取り出して、無造作に貪る。指の隙間からマシュマロが転がるけれど、一切気にしていない。

 

「君たちはほんと人の裏をかくのが好きだよね。正ちゃんといい、綱吉君といい、骸君といい。

 骸君は君を人質にすればおとなしくすると思ってたんだけどなあ……」

「……どういうこと?」

 

 意味が理解できずに尋ねると、白蘭は顔に作り笑いを貼りつけた。

 

「どういうことって、君に人質の価値がまったくなかったってことさ。

 邪魔しなかったら君の命は保障するって言ったのに、骸君はおとなしくしていなかった。僕の権利を横からかっさらっていった。

 GHOSTの代わりに出所したのは、禁弾実験を行っていたマッドサイエンティスト」

 

 白蘭の手のなかのマシュマロが握りつぶされた。初めてわかりやすく怒りを態度に出す白蘭に、利奈は口を挟めない。

 

「残念だったね。骸君は君の命なんてどうでもよかったみたい。

 君を気遣う仕草は全部演技。助けようとしていたのも、僕たちを油断させるためのパフォーマンス。利用するだけ利用して、用済みになったらポイだ。ひどいよねえ」

 

(そんな――)

 

 白蘭の言葉に利奈は目を丸くした。

 白蘭の言う通り、骸は利奈を見捨てたのだろう。利奈は骸の仲間ではないし、助ける義理もない。だからこそ、利奈は思った。

 

(――そんな当たり前のこと、貴方に言われなくてもわかってるけど……?)

 

 むしろ、なにを思って利奈を骸への人質にしようとしたのかと、利奈は本気で訝しんだ。

 骸の行動を封じたいなら、彼の仲間であるクロームを人質にするべきだったろう。

 霧の守護者であり、幻術に長けているクロームを同じ手段で捕まえられるかは、さておくとして。

 

(え、ほんとなんで私が人質になると思ったの?

 クロームが無理だったから代わりに私選んだとか……? それで私に価値がないとか、八つ当たりすぎない?)

 

 ようするに白蘭は、人の情というものを過信しすぎて失敗したらしい。

 自分にないものだからこそ最大限に利用しようとして、その結果、骸に出し抜かれたのだ。

 白蘭に一泡吹かせることに協力ができたのだから、喜びはしても悲しみはしない。むしろ、それで利奈を失望させて鬱憤を晴らそうとしている白蘭に、失笑を禁じ得ない。

 

(――なんて言ったら本当に殺されそうだから、やめておこう)

 

 いくらなんでも、ここぞというときの分水嶺は見極められた。銃を突き付けられた状態で近づくほど馬鹿じゃない。

 

「そろそろよろしいですか?」

 

 いつのまに控えていたのか、桔梗が部屋の入り口に立っていた。

 服装は昼間と一緒だけど、髪を下ろしているし目元の化粧も落ちている。寝ていたところを起こされ、わざわざ着替えてやってきたのだろう。

 明日は早いのだし、こうやって二人の睡眠の邪魔ができただけでも、暗殺しに来た甲斐があるのかもしれない。このまま殺されるのなら話は別だが。

 

「うん、いいよ。僕の愚痴に付き合ってもらっちゃったし、そろそろ寝かせてあげて」

「ええ、いい眠りをプレゼントしますよ。ひょっとしたら、もう目覚めなくなるかもしれませんが」

「――っ」

 

 ゾッと血の気が引いたのは指輪のせいだ。

 白蘭と桔梗、二人分の雲桔梗に炎を吸われ、息が荒くなっていく。

 

「心配しなくても、僕の方はもうすぐ効果が切れるよ。それまで頑張って耐えてね」

「……この、人でなし!」 

「うんうん。君はそうやって怒ってる顔がかわいいよ」

 

 今度は肩に担がれた。扱いが雑になっているのはやはり、暗殺を企てたからなのだろう。

 髪が垂れさがって白蘭の姿が見えなくなる。

 

「明日、あんたが負けるの、楽しみにしてるから!」

「ハハン、威勢がいいですね。あまり興奮すると本当に死にますよ」

「……死んじゃえ! ばーっか!」

「うん、おやすみー」

 

 限界は思っていたよりもずっと早かった。部屋を出るのも待てずに、利奈は再び失神した。

 




 みなさん、思い出してください。
 主人公は未来に来る直前、仲間の安全と恭弥や同級生の命をちらつかされながら、リング争奪戦の戦場に放り込まれているんです。
 未来の骸ともほとんど話していないうえに、犬が助けようとしていたのも気絶していたために知りません。ついでに、黒曜編のあれこれと記憶操作。

 ……むしろ期待するほうがおかしいですよね?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鋭利な一撃

 二回続けて失神して意識を落としたわけだが、失神というのは睡眠と違って、体力はほとんど回復しない。

 電子機器で例えるならば、きちんと記録を保存し、正規の手段で電源を落として充電するのが睡眠であり、なにも記録を保存していないのに充電が切れて電源が落ちてしまうのが失神である。

 電池が完全に切れてしまったものは、充電を始めるのにさえ時間がかかる。失神してしまうほど体力が尽きていると、睡眠に移行するのでさえ困難だ。

 

 そして人の場合、意識は気を失う前の状態で断線しているだけなので、意識が戻ったときには記憶はそのままつながっている。

 なので、部屋から出るところで気を失った利奈は、なぜ部屋に戻されているのだろうかと困惑することになった。

 

 目の前にいるのは白蘭と桔梗、そしてさっきはいなかったはずのザクロ。

 三人が横並びになっているのを見て、利奈は混乱しきりに布団に口元をうずめた。

 

(……ん、布団? ここベッド!? え、じゃあ白蘭の部屋じゃなくて寝室?

 私、また気絶した!?)

 

 何時間経っているのかと腕時計を見れば、あれから五時間も経過していた。

 利奈が状況を理解したところで白蘭が口を開く。

 

「おはよう。よく眠れた?」

「……いいえ、おかげさまで」

 

 寝ていない。桔梗に抱えられた状態で目をつむったら、こうなっていたのだ。

 五時間経ったのに体力はまったく回復していないし、むしろさきほどよりも血の巡りが悪かった。唇に温度がないし、指先も凍えている。

 

「もうすぐ出掛けるから、一応声をかけておこうと思って。次に会うときには全部終わってるだろうしね」

 

 上機嫌な白蘭に返す表情が作れない。睨みつけるほどの余力もなく、うつろな瞳を白蘭に向ける。

 

「おいおい、もうほとんど死んだみたいな顔してんじゃねえか。ほんとにこいつが白蘭様を暗殺しようとなんてしたのか?」

「してましたよ。仕置き代わりに雲桔梗を発動させたままにしていましたから、ほとんど死人状態ですが」

 

 体も起こせないから、彼らの顔を見るのも一苦労である。目を閉じたら、そのまま眠るように死んでしまいそうだ。

 

「綱吉君たちに伝言があったら聞いてあげるよ。

 返事がもらえるかどうかはわからないけど、これが最後になるだろうからね。ほら、彼らも心配してるだろうし、心残りはなくしてあげたいじゃない?」

「さすが白蘭様、お優しい」

 

 すかさず桔梗が太鼓を叩く。

 

「あっ、ユニちゃんは大丈夫。あの子は連れてくるから直接話せるよ。

 ユニちゃんは恐がりだけど、君がいたら少しは落ち着くんじゃないかなあ」

 

 相変わらず、息をするように人を脅す男である。

 綱吉たちの皆殺しと、ユニへの人質になってもらうという話を織り交ぜた白蘭の提案に、利奈は静かに首を振った。

 

「いいの? これが最後だよ?」

「……最後になるのはあんたたちでしょ」

 

 綱吉たちが勝てば、白蘭たちと会うのはこれが最後になる。

 別れの言葉をというのなら、それは目の前の彼らに宛てたものになるはずだ。そして、殺戮者に手向ける言葉などない。

 

 言葉にする気力はなかったものの、利奈の意図を組んだのか、ザクロの表情が剣呑なものへと変わる。さりげなく桔梗が視線で制すると、かったるそうに両腕を服のポケットにしまいこんだ。

 白蘭は相変わらず笑顔のまま、利奈の言葉に頷いた。

 

「そうだね。利奈ちゃんのことをうっかり忘れちゃったら、ここでさよならだもんね。

 桔梗に雲桔梗解いてもらうのも忘れちゃうかも」

「……」

「あはは、大丈夫。心配しなくても、チェックアウトの時間になったらホテルの人に見つけてもらえるよ。

 その前に僕が世界を創り直しちゃうかもしれないけどさ」

 

 巨大な妄想は作り物のなかで披露していただきたいところだ。

 どんなに強大な力を持ったところで、白蘭は神にはなれない。こんな人間を神とは認めない。

 

「白蘭様、そろそろ」

「うん。ブルーベルも起こさなくちゃね。たぶんグッスリだろうから」

「ハッ、これだからガキは」

「ザクロ、それは私たちに返ってきますよ」

 

 白蘭たちが部屋を出て行こうとする。雑談する彼らは、もう利奈の存在を頭からはじき出していた。

 

「白蘭!」

 

 咄嗟に叫んだ。足を止めた白蘭の顔を睨む。

 

「だれもあんたに負けたりなんかしない!」

 

 横たわったまま叫ぶのは至難の業だった。しかし、ここで意地を見せなければ呼び止めた意味がない。

 

「……だれもっ、あんたの思い通りには、ならない! あんたは、神になんてなれない!」

 

(言えた……!)

 

 気力を振り絞った利奈は、荒く息をつきながら天井を仰ぐ。

 息切れで眩む視界に、真顔の白蘭が入りこんだ。

 

「だからなんだよ」

「っ!」

 

 反射的に本能が身を引こうとするものの、ベッドの上ではそれはかなわない。

 

「なけなしの力をはたいて願望を謳って、それで満足した?

 無力だから仕方ない、術中にはまってるから仕方ない、殺せなかったから仕方ない――なら、そのせいで死んでも仕方ないだろ」

 

 こめかみを白蘭の手が掴み、そのまま枕に押しつけられる。

 その手を払うために腕を上げる力すら、利奈には残されていなかった。

 

「君たち見てるとイライラするんだよね。思春期真っただ中の子供たちが、わかりやすい正義をかざして自己陶酔に浸ってんの。

 私たちは負けない? みんなを守る? 世界を救う? 言ってて恥ずかしくならないの? そんな大言壮語」

 

 瞳孔の開いた瞳に、歪んだ口元。笑顔で飾らない白蘭の顔は、まさしく悪魔の形相だった。

 

「現実を見てみなよ。僕がいなくたって、この世界は日々病魔に侵されているじゃないか。

 終わらない紛争、差別、格差! 世界のいたるところで小競り合いやら戦争やらが起こってる! それら全部に首を突っ込むかい? 答えはノーだろ!」

「……ぐぅっ」

 

 頭が軋む。声にならないうめき声が口から漏れ出た。

 

「結局、君たちは目の前のことしか見えてないのさ! たまたま目の前にわかりやすい悪があるから、薄っぺらい偽善でそれを滅ぼそうとする! 手の届かないところの悪は見なかったことにしてね! 

 くだらない! じつにくだらない! それなら、全部壊して一から創り替えたほうが早いじゃないか!」

「……うあっ」

 

 興奮しきりに叫んだ白蘭だったが、すぐさま興味をなくした顔で利奈の頭から手を外した。

 

「……まあ、大人に与えられた世界で生きてるだけの君にはわからないか。

 世界はもともと不条理で、どうしようもないほど腐りきってて、守る価値なんてないんだよ」

 

 色のない声音にはどこか諦観と寂しさが含まれていた。だが、すぐさまそれを上塗りするような喜色を浮かべ、白蘭は微笑む。

 

「うん、決めた。この世界に希望なんてないって、君みたいなお子様でもわかるように僕が丁寧に教えてあげよう。

 お友達の死体を見せつけられたら、いやというほどわかるでしょ?」

 

 ゾッとするほどの猫撫で声だった。

 くるくると変わる表情と声に、どれが本当の白蘭なのかわからなくなってくる。あるいは、本当なんてないのかもしれない。

 

「君には地獄を見せてあげる。恐怖にまみれて絶望に歪んだ死に顔を。血で塗りつぶされた凄惨な地獄絵図を。

 理想を謳った君がいつまで正気を保っていられるか、楽しみにしているよ」

 

 ひとひらずつ花弁をちぎっていくかのようにして笑う白蘭を、利奈は薄目で見上げていた。

 

(地獄……?)

 

 痛みのせいで、言われたことが半分くらいしか頭に入らなかったけれど、とりあえず盛大に喧嘩を売られたことだけはわかった。

 ならば、命を賭けてでも買わなければならない。風紀委員という不良集団は、舐められたら終わりなのだから。

 生殺与奪の権が完全に握られている状況で、それがどうしたとばかりに利奈は吐き捨てた。

 

「地獄を見るのはお前だクソ野郎」

 

 直後、鼻に衝撃が訪れる。

 

「あうっ」

 

 ベシッと鼻の頭に物が落ち、瞳にじわりと涙が浮かぶ。

 

(なに、ガラス? なんでこんなの――)

 

 藍とピンクの四角いガラスには見覚えがあった。

 それは利奈が身に着けているものの普段は視界に入らない物で、いざというときの武器であり――なぜか今、利奈の顔の真横に突き刺さっていた。

 ぎこちなく首を動かすと、目の横に銀色の棒が見える。それ以上は考えたくなくて、利奈は冷や汗を流しながら視線を落とした。

 

(……そういえば、白蘭の部屋に忘れていったんだっけ)

 

 ゆらりと枕元の気配が動き全身が硬直するが、白蘭はなにもせずに離れていく。

 その気配が部屋から出たところでベッドが蹴飛ばされたけれど、それ以上の追撃はなかった。シンとした部屋で、心音だけがやたらに大きく響く。

 どうやら、彼らは戦場に赴くようだ。

 

(に、逃げなきゃ……)

 

 このままでは、遅かれ早かれ殺されてしまう。

 綱吉たちが勝ったところで、手に嵌められた雲桔梗の指輪を外してもらわなければどうしようもない。生命エネルギーを吸いつくされて死ぬだけだ。

 白蘭なら、負けた腹いせに利奈を道連れにすることも厭わないだろう。あの男は、人の嫌がることを率先してやる。

 

(連絡を取らなくちゃ……財団……ヒバリさんに……)

 

 さすが白蘭の腹心というべきか、桔梗が利奈を運んだのは電話が置いていないほうのベッドだった。

 ベッドから落ちるだけならまだしも、もうひとつのベッドをよじ登って電話を取る体力は利奈には残されていない。下手に動けば、タイムリミットが縮むだけだろう。

 

(チェックアウトまで……耐えれば……助けを呼べるけど……。チェックアウトって、何時だろう……)

 

 うつらうつらとまぶたが落ちてくる。

 いっそ寝てしまったほうが体力を温存できるかもしれないと思う一方、そのまま二度と起きられないのではないかという恐怖もあった。

 動いてもじっとしていても死が待っているという極限のなかでは、行動を決めることさえ困難だった。

 

 しかし、無理に答えを出す必要はなかった。

 これまでだって、利奈がどんなに知恵を絞ろうが、結局はなるようにしかならなかったのだから。

 

「相沢ぁ!」

 

 途切れかけた意識を引っ張り出すような怒号が聞こえた。

 瞑りかけていた目を見開いた利奈の視界を、大きな影が覆いつくす。

 

(クマ? ううん、そんなわけ――怪物!?)

 

 ギョロリとした瞳、でこぼこな顔、歪んだ唇。それに見合った筋骨隆々な身体に、利奈は一瞬、呼吸の仕方を忘れた。

 

「寝てる場合か! とっとと起きろ!」

 

 知らない財団職員だった。顔に見覚えはないけれど、財団職員は肌でわかる。

 

(……あれ?)

 

 一人だけ、心当たりがあった。

 もしかしたら彼かもしれないという程度の心当たりだけど、人を殺めていそうなオーラと、戦場で名を馳せていそうという印象を同じように抱いた人物が、十年前にも一人だけ存在していた。

 ただ、こちらの彼はいそうという予想ではなく、いるという現在形の印象を抱いてしまったのだけれど。

 

 目を細めて観察を続ける利奈に、彼は鼻を鳴らす。

 

「ハッ、どうした。俺がわからねえのか。お前が風紀委員だっつうんなら、俺のことは知っているはずだがな」

「……もしかして」

 

 不遜に見下ろす男に、利奈はぽつりと呟いた。

 

「吉田さんですか?」

 

 戦場の風紀委員――改め、戦場の風紀財団職員吉田は、見た人を震え上がらせる残虐な笑みで、それを答えとした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

悲しみの在り処

下味程度にオリジナル匣が出ています。


 利奈の知っている風紀委員の吉田は、三班の班長であり、風紀委員でも指折りの武闘派だった。軍人を思わせる立ち振る舞いと修羅のオーラで、ついたあだ名が戦場の風紀委員。ちなみにつけたのは利奈で、広めたのも利奈である。

 千種と犬に襲撃されたときには膝を折り、歯を六本持っていかれたが、それ以来、彼が膝をついた場面は見たことがない。

 

「なんでここに……?」

 

 そんな彼は、十年を経てさらに貫禄を醸し出していた。

 完成形だと思っていた顔の造形が、さらに凶悪に進化できるとは思わず、見知っていたはずの利奈でさえ気付けなかったくらいだ。

 声が小さすぎて聞こえなかったのか、枕元にある利奈の眼前のかんざしを引き抜き、吉田は室内を見渡す。

 

「見張りはなしか。

 一晩待たされた礼をたっぷり返してやろうと思ったのによぉ……」

 

 そう言ってかんざしを持った手に力をこめ始めるので、利奈は慌てて声を上げた。

 

「それ、私のです……!」

「おっ、そうか、悪い。にしても硬いな、これ」

 

 見た目は華奢だが、あのヴァリアーが作った暗器だ。簡単に折れたりはしないだろう。それでも、岩のような拳に握りこまれると不安になる。

 

「さっさと並盛に戻るぞ。まずは手を出せ、厄介な鎖を外してやる」

 

 指示に従って指輪の付いた手を差し出す。

 昨日と違ってつぼみはまだ開いていないものの、雲桔梗の茎が数本伸びている。まじまじと見つめてみると、指輪の内側からは根がはみ出していた。抜こうとした瞬間に、この根が肌に刺さり、直に生命力を奪うのだろう。

 だから、吉田がその大きな指で指輪を摘んだ瞬間、利奈はビクリと肩を震わせた。

 

「あの、これ、無理に引き抜くと――」

「引き抜く? 女の指から指輪抜き取るなんざ、間男のやることだろうが」

 

 吉田の嵌めている指輪から赤い炎が上がる。

 

(赤はベルのミンクと同じ色だから、嵐属性で効果は――壊した!?)

 

 嵐の炎の特性を思い出す前に、吉田の指先が指輪を粉砕した。指輪の欠片が音速で八方に飛び、喉の奥で音が鳴る。

 指の骨も粉砕されたのではと手を引っ込めるが、指にあるのは指輪の跡だけだった。

 

(馬鹿力!? それともリングの力!? どっちでもいいけど!)

 

 匣兵器の雲桔梗を壊したのは嵐の特性、破壊の効果だろう。

 慄く利奈にはかまわずに、吉田は片腕で利奈の身体を抱き上げた。

 

「荷物はそこに置いてある電話だけか?」

「はい。ほかはなにも」

 

 腕章はちゃんとポケットに入っている。

 そのまま一階のロビーで従業員一同からの見送りを受け、表に停められていた車の後部座席へと乗せられる。広い後部座席と運転席にはそれぞれ見知らぬ財団職員が待機していて、吉田がドアを閉めるとすぐに車は発進した。

 

「初めまして、後方部隊の有馬です。早速ですが、治療をさせていただいてもよろしいでしょうか」

「治療……」

「はい。自分の能力で死ぬ気の炎を回復させます。これを握っていただいても?」

 

 手のひらにテニスボール大の鉄球を乗せられる。

 黄色い炎を帯びたそれはずっしりと重かったが、見覚えのある炎の色に、利奈は安堵を覚えた。

 

「晴の匣、晴鉄球です。持っているだけで、体内の死ぬ気の炎を増加させられます」

「便利ですね」

 

 グッと握りこんでいると、助手席の吉田がこちらに顔を向けた。

 

「本来は敵の匣兵器に投げつけて、相手の属性を狂わせる武器だ。相手の体に当てても炎の流れが崩れるし、わりと応用の利く道具だぞ」

「へえー」

 

(吉田さんが投げたらそれで勝負がつくのでは?)

 

 飴細工のように砕け散った指輪が脳裏に浮かび、利奈は口元を引き結んだ愛想笑いを浮かべた。

 鉄球の効果は絶大なようで、じわじわと体が温まっていく。

 

「ところで、どうやってここが? ずっと見張ってたんですよね?」

 

 白蘭たちがいなくなってすぐに部屋に入ってきたところから見て、ホテル周辺でタイミングを見計らっていたことは明らかだ。

 いったいどうやって、生身で空を飛ぶ白蘭たちを追跡したのだろう。

 

「そんなもん、あいつらの目撃情報で方角を推定して、そっち方面のホテルに片っ端から連絡入れさせればすぐだろうが」

「……え?」

 

 理解できない利奈のために、有馬が吉田の言葉を補足する。

 

「空を飛ぶ人間はほかにいないですからね。SNSなどのツールで目星をつけて、あとはそちら方面のホテルに彼らの情報を伝え、一致する人物が宿泊していないか尋ねるだけです。

 グレードの高いホテルから声をかけたおかげで、かなり早い段階で特定できましたよ」

「……待ってください」

 

 わかりやすく噛み砕いてくれたおかげで詳細は理解できたものの、そのまま飲み込むわけにもいかず、利奈は待ったをかけた。

 

「ホテルに問い合わせって……そんな簡単にできるものなんですか?」

「もちろん。風紀財団の名前を使えば」

「……そう、ですか」

 

 どうやら十年後の風紀財団は、並盛町どころか日本全国に名をとどろかせているらしい。

 全国に財団支部があるのは知っていたが、表社会の業界を動かせるまでに名が浸透しているとは思わなかった。守秘義務はいったいどうなっているのだろう。

 そのおかげで命が尽きる前に助け出されたのだけれど、こうも権力を見せつけられるとたじろいでしまう。

 

「とりあえず休んどけ。並盛町まで三時間はかかるぞ」

「三時間!?」

 

 そんなに離れた場所まで連れてこられたのだろうか。

 運転席のカーナビで県名を確認した利奈は、眉間に皺を寄せて窓の外に目をやった。空はやや明るくなってきたものの、太陽の気配はない。

 速度規定も障害物もなしで飛べる彼らなら、あっというまに並盛町まで戻れるのだろう。車で飛行機を追いかけるようなものだ。

 

(三時間って……そんなの、全部終わっちゃうよ)

 

 行ったって役に立たないことはわかっている。でも、みんなが死闘を繰り広げているのに、ただ車に乗っているだけなんて、耐えられない。

 だからと言って騒いでどうにかなるものではないので、利奈は思考を切り替えるべく、吉田に目を向けた。

 

「ヒバリさんは昨日からどうしていたんですか? こっちに戻って、すぐに別行動になって」

「ヒバリさん? ヒバリさんなら、昨日は真六弔花を一人拘束したあと、ボンゴレのアジトに向かったぞ」

「アジト? なんでまた」

「ディーノさんの付き添いだよ。ヴァリアーの幹部が敵と交戦して負傷してるからって、救助しに行ったんだ。ヒバリさんは並盛町の被害を確認するためだったろうけどな」

「なるほど」

 

 地下とはいえ、ボンゴレアジトも並盛町の建造物である。

 同じ地下には風紀財団アジトも地下商店街もあるし、被害状況を調べるのは当然だろう。

 

「財団アジトはなにも異常はなかったそうだがな。だが、地下も地上もミルフィオーレにしっちゃかめっちゃかにされちゃあ、理事長もおかんむりだろう。今日は荒れるな」

「うわあ……」

 

 地下の破壊、工場地帯の爆発、民家の破壊、学校での戦闘。それと、チョイス直前の白蘭の顔によるレーザー発射と、チョイスでのお預け。荒れない理由がひとつもない。

 

「相沢さん、いろいろと思うところはあるでしょうが、今は休まれるべきだと思います。

 並盛町に着いたら起こしますので」

「でも寝てなんて……」

「いいからさっさと寝ろ! そんな顔でヒバリさんの前に出るつもりか?」

「え、そんなにひどいんですか!?」

 

 サイドミラーを見ようと体を浮かせたら、そっと有馬に肩を押し戻された。

 

「吉田さんが言葉を使っているうちに寝たほうがいいですよ。次は頭突きで無理やり意識を刈られます」

「寝ます! おやすみなさい!」

 

 そうして利奈は、ヘリコプターで迎えに来た草壁に綱吉が勝ったと知らされるまで、ぐっすりと眠り込んだ。

 

 

__

 

 

 眠っているあいだにすべてが終わってしまうというのも、あっけないものである。

 いつだってもたらされるのは結果だけだ。渦中にいたはずなのに、最後はいつも蚊帳の外にいる。

 

(見たくないものを見なくてすんだって考えるのは……無理だよ)

 

 結末は、白蘭の消失によるハッピーエンドだった。

 これで白蘭の野望は阻止できたし、ようやく過去に戻ることができる。でも、その代償はあまりにも大きすぎた。

 落ち着いたはずの涙腺がまた痛んで、利奈は唇を噛みしめながら空を見上げた。

 

 ユニは、死んだ。

 みんなが過去に戻るためにはアルコバレーノたちを生き返らせる必要があり、そのために生命の炎を燃やしたのだと、涙で顔を濡らしたハルと京子に伝えられた。

 そのときの利奈の心情は、きっとだれにもわからなかっただろう。

 絶対に守ると決めた人が、自分たちのためにその命を投げ出したのだ。しかも利奈は、死に目にすら立ち会えなかった。

 あまりにも残酷な事実に叫び出したくなる衝動を、利奈は二人とともに泣き声を上げてごまかすしかなかった。

 

(ユニは幸せだったって、リボーン君は言ってたけど。ずっと幸せでいてほしかったよ……)

 

 利奈は知らない。最後の最後、ユニは心から愛する人とともに生涯を終えたのだということを。

 だが、たとえ知ったところで、胸の痛みが消えることはなかっただろう。死んでしまえば、人はそこで終わりなのだから。

 

 澄み渡った青空が、なんだかひどく憎らしかった。大空はどこまでも広く、どこまでも遠い。ユニは大空の先に旅立ってしまった。

 睨むように空を見つめていたら、懐かしい声が利奈を呼んだ。

 

「そんなところでなにしてるんだい」

 

 顔を下げた拍子に涙がこぼれた。拭うとかえって目を引くので、利奈はそのままへにゃりと口元を緩める。

 

「スペルビさんを待ってるの。ここで待ってたら――」

「う゛おっ!?」

 

 上空から、声とともにスクアーロが落ちてきた。

 着地とともに、重力に逆らっていた長髪がスクアーロの身体に叩きつけられ、鞭のような音が出る。

 

「相変わらず派手な登場だね」

 

 マーモンの皮肉にスクアーロが鼻を鳴らす。

 

「お前らが勝手にいただけだろぉが。こんなとこでなにやってんだ」

「あ、ベルが、ここにいたらスペルビさんが降ってくるだろうからって」

「ベルに行動パターンを読み切られてるじゃないか。どうせ崖の上で、ボンゴレの守護者とでも話してたんだろ」

「う゛っ」

 

 まさにその通りだ。

 別れの挨拶をしに行ったらスクアーロが不在だったのだが、ここで待機していればかっこつけたスクアーロが落ちてくるに違いないと、ベルに助言をもらったのだ。

 崖上で話が終わるのを待っていたら、ここまで追いかけなければならなかっただろう。感謝したいところだけど、泣き顔を散々笑われたので、素直にありがたいと思えない。

 

「過去に戻る前に、お礼を言っておきたくて。今まで、大変お世話になりました」

 

 ひょっとしたら、未来で一番世話になった人たちかもしれない。保護してもらったうえに、暗殺技術の基礎をみっちりと教示してもらったのだ。

 ヴァリアー邸に行っていなければ、なにも変わらないまま元の世界に戻っていただろう。

 

「本当にありがとうございました。スペルビさんのおかげで、強くなる決心ができました」

「礼はいらねえ。俺たちは任務を遂行したまでで、生き方を選んだのはお前だ」

「でも、スペルビさんに強く言われなかったら、私、覚悟は決めてなかったと思います。

 だから、スペルビさんのおかげです」

 

 胸を張ってそう言い切るが、なぜかスクアーロは渋い表情を浮かべていた。

 事情を知らないマーモンは、利奈とスクアーロの表情を見比べ、怪訝そうに首を傾げている。

 

「僕がいないあいだになにがあったんだい?」

「聞くなぁ……」

「あっ、マーモンはずっと任務中だったから一回も会ってないね。会えてよかったよ」

 

 一ヶ月近くヴァリアー邸にいたというのに、マーモンは一度も屋敷に帰ってこなかった。

 それだけ、ミルフィオーレとの抗争が長引いていたのだろう。ほかの守護者はみんな揃っていたのに、マーモンだけ長期任務から帰ってこれないというのも気の毒な話だ。

 

「全然知らなかったけど、マーモンって見た目変わってないんだね。幻術かなにか?」

「……説明するの面倒だからそれでいいよ。君の能天気さも相変わらずみたいだけど」

「えー」

 

 相変わらずマーモンは手厳しい。抗議の声を上げながらも、利奈は笑みを浮かべていた。

 しかしそんな利奈の顔を、ふとスクアーロが凝視した。

 

「ん? お前どうした、泣いてたのか?」

「えっ」

 

 ピシリと身体が硬直する。頬に残った涙の痕を、目ざとく見つけられてしまったようだ。

 顔を覗きこむスクアーロに、マーモンがため息をついた。

 

「スクアーロ。そういうのは気付いても指摘しないものだよ」

 

 つまり、マーモンも気付いていたらしい。

 ごまかそうと空元気を振りまいていたのが恥ずかしくなる。

 

「でもまあ、聞いちゃったからには仕方ない。

 せっかくだし話してみなよ。どうせすぐに戻っちゃうんだから、あとくされもないだろ」

 

 利奈が話すと信じて疑っていないのか、マーモンは利奈の肩に腰を落ち着かせた。

 スクアーロの無遠慮さを嗜めたわりには、ぐいぐいと距離を詰めてくる。

 

「ううん、大したことじゃないから……!」

 

 身を翻すけれど、マーモンは素直に振り落とされてはくれなかった。ただ座っているだけなのに、肩から全然離れない。

 

「向こうでなにかあったかぁ? それとも、白蘭が死ぬザマを見られなかったのが悔しかったのか?」

「そんなんで泣くわけないだろ。君はこの子をなんだと思ってるんだい」

「あ、アハハ……」

 

(それもけっこう気にしてたなんて言えない……)

 

 リボーンによると、最後はだいぶボコボコのけちょんけちょんになっていたそうだけど、この目で見届けられなかったのは大きな痛手だった。

 白蘭は跡形もなく消え去ったそうだけど、そうでなかったらちゃんと自分の目で遺体を見に行っていただろう。最後に見た、あの白蘭の笑顔を書き換えるために。

 

「ほんとに大したことじゃないと思うから……!」

 

 ヴァリアーは暗殺者集団だ。人を殺すのが当たり前で、仲間が死ぬのにも慣れている。

 そんな彼らから暗殺術を学んでいたのに、ユニが死んでしまったのが悲しくて泣いていたなんて、言えるわけがない。

 

(殺されたんじゃなくて、みんなのためにユニは死んで――死んだじゃなくて、犠牲――でもなくて。私たちのために、命をかけて頑張ってくれたんだから)

 

 それでも苦しいのは、ユニを好きになっていたからだろう。

 小さな体で重い責務を背負った彼女を助けたいと思った。守りたいと思った。でも、できなかった。それが悔しいから、不甲斐ないから、声を上げて泣き叫びたくなるのだ。

 

 またもやぐらつきそうになる涙腺を堪えようと、口元を引き結ぶ。

 それを見たマーモンが、そのへの字型の口元を、利奈と同じように引き結んだ。

 

「……僕じゃ、役に立てないかい?」

「うっ」

 

 固めた防壁を下からくぐり抜けてくるような戦法だった。

 フードで隠れているはずの眉がしょんぼりと落ちているのがわかるような声音に、利奈の良心が顔を出した。まさに、押してだめなら引いてみろ、マーモンの作戦勝ちである。

 

(これで言わなかったら人じゃない……!)

 

 利奈はたちまちすべてを暴露した。

 

「なるほど、そういうことか。ユニと接点があると思ってなかったから、想定外だったよ」

「隠す必要なかっただろうが。沢田とそっちの女連中も泣いてたぞ」

「……だって、ベルに笑われたし」

 

 ベルには泣いたあとの顔を散々からかわれた。泣き虫だのなんだの言いたい放題だったからつい怒ってしまったけれど、今思い返すと逆ギレだったかもしれない。

 

(理由聞かないでくれただけよかったけど……あれは優しさとかじゃなくて、普通に興味なかったからだろうし。ほんと、最後の最後にまったく)

 

 思い出すだけでむかついてくるけれど、あれはあれで、ベルらしいといえばベルらしかった。

 

「ベルは子供っぽいところがあるからね。

 べつに、悲しんでもいいと思うよ。僕もアルコバレーノとして、ユニの死に思うところはあるんだし」

「……でも、マーモンだったら泣かないでしょ」

「まあね。そういうタイプでもないし」

 

 しれっと言い切るマーモンに肩を落としそうになったけれど、マーモンが落ちてしまうのでこらえた。

 

「いいんじゃない? 君は泣くタイプ、僕は泣かないタイプ。泣く人間は心が弱いってわけでも、泣かない人間が心が強いってわけでもないんだから」

「うん……」

 

 マーモンの淡々とした言葉が、今は心強い。

 

「それに君はこれから過去に戻るんだから、こっちのことはそんなに引きずらなくていい。適度に割り切るのも大人のやり方さ」

「……」

「ム。今、赤ん坊のくせにって思っただろ」

「思ってないよ?」

 

 早すぎる否定は肯定を意味する。

 無言で肩から降りたマーモンは、無言のまま消えてしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

世界は巻き戻り、新たな時を刻む

 

 風紀財団アジトで、利奈は鏡の前に座っていた。

 拉致されていたホテルと遜色ないほどの広さと絢爛さを誇る和室で、鋏の音だけが静寂を切る。一音ごとに髪の束が落ちていくのを、利奈は無言で見つめていた。

 

 利奈の髪は、ルッスーリアの晴孔雀の治癒効果で、未来に来た直後よりも何十センチも長く伸びていた。

 このままだと十年前の世界に戻ったときに不自然なので、元の長さまで切り戻す必要があるのだ。

 

(本当に過去に戻れるんだな……。今さら実感してきちゃった)

 

 髪の毛には若干未練がある。ちゃんと手入れをしてきたものだし、こんなに長く伸ばしたのは初めてだった。

 なにより、元の髪の長さでは、レヴィにもらったかんざしが使えない。

 

(おしゃれで気に入ってたのに。これから髪伸ばすしかないか)

 

 名残惜しく思いながらも、器用に鋏を動かす女性職員の手元を鏡越しに見つめる。

 風紀財団職員は様々な技能を持っている人が多く、瞬く間に髪型が整っていく。

 

「これくらいの長さでいかがでしょう?」

 

 見慣れた顔が鏡に映っている。写真のなかの利奈は、いつも大体この髪型だ。

 

「バッチリです。ありがとうございます」

 

 髪に手を通すと、するりと指から毛先がすり抜けた。首にかけられていたケープを外してもらい、椅子から立ち上がる。

 視線を後ろに流した利奈は、鏡に映らない角度でこちらを見ていた恭弥に気付き、背筋を伸ばした。

 

「すみません、お待たせしてしまって」

 

 髪を靴下で踏まないように気を付けながら、待っていてくれたらしい恭弥の元へと歩み寄る。

 

 利奈は一足先に哲矢に挨拶を終えていたが、恭弥はまず最初に財団本部に立ち寄っていた。

 目的は財団職員への声掛けと、この時代のデータを保存した媒体の回収である。

 

「その制服は?」

「風紀委員の人――この世界の並中風紀委員に用意してもらいました。私も制服を着てたので」

 

 最初に着ていた制服はリング争奪戦の時点で血塗れになっていたので、新しいものを用意してもらった。でないと、スカートはともかく、これからの季節に着るブレザーがなくなってしまう。

 幸い、転校生だった利奈は制服を一学期の衣替え前と二学期の衣替え後しか着ていないので、真新しくてもそこまでおかしくはない。

 袖にはもちろん、風紀委員の腕章を通している。恭弥が腕に抱えている腕章と同じ、赤い腕章を。

 

「データもらえました? なんとかメモリにするか、なんとかカードにするかで揉めてた記憶があるんですけど」

 

 この時代の最新ツールは、十年前の世界では使えない。

 ゆえに昔からある媒体を選択するしかなかったわけだが、どうやらデジタルに強い職員たちのあいだに派閥があったようで、どちらがより優れているかの論争が繰り広げられた。

 すぐに話についていけなくなった利奈は出されたお茶を飲んでいたので、両者の言い分をほとんど聞いていない。

 

「もらったよ。過去に戻ったときの衝撃が不安だからとかで、結局DVDになったけど」

「DVD? DVDって、映画とか以外も入れられるんですか?」

「データが入れられるからね。バックアップにっていろいろ渡されたから、こっちは君が持って」

 

 恭弥はチップ状のなにかと棒状のなにかを利奈の手のひらに置くと、すぐに廊下に出て行く。利奈も髪を切ってくれた職員に礼を言って部屋を出る。

 

「このまま集合場所に集まるんですよね。メローネ基地の地下でしたっけ」

「そこに過去に戻るための白くて丸い装置があるそうだよ。前にも見たけど」

「私も見ました。結構大きかったですよね、あれ」

 

 イタリアから帰ってきた日に、スパナと正一がその装置の前で作業していたのを見た記憶がある。

 あのときはまさか、あれが過去に戻るための装置だったとは思ってもみなかった。

 

「また十年バズーカみたいなので撃たれるんだと思ってました。来たときはみんなそうやって連れてこられたみたいですし」

「そうなんだ。僕は見てなかったから知らない」

 

 事の経緯にはあまり興味がないようで、色のない返事が返ってくる。

 

 今さらながら思うけれど、よく恭弥にバズーカの弾を当てられたものだ。

 大人の恭弥なら自身の行動パターンはある程度予想がつくだろうけれど、それにしても当てられた正一は運がいい。もし外していたら、子供だったとしても容赦なく咬み殺されていただろう。

 

「きっともうみんな先に集まってますね。私がこっちに来るときには、片付け済ませてたみたいなので」

「だろうね。君、来るの遅かったから。どこで寄り道してたの」

「あはは」

 

 呆れた声音の恭弥の問いに、乾いた笑い声が出てくる。

 個人的にお世話になった人が多すぎて、挨拶回りに時間がかかりすぎてしまった。

 

「ヴァリアーでは一ヶ月みっちりお世話になりましたし、ボンゴレ基地でも半月くらい宿泊してましたから。みんな固まってなかったから、探すのにも手間取って」

 

 ジャンニーニはいつもの部屋にいたけれど、ビアンキは隼人を探して歩きまわっていたので、見つけるのに時間がかかった。

 不動産屋で別れたきりだったスパナは、戦いが終わったのになぜかモスカの最終調整に入っていて、邪魔するのも悪かったので声をかけずに戻ってきた。

 

(骸さんたちもいたみたいだったけど、どこにいるかわからなかったし……。

 まあ、とくになにかあったわけじゃないからいっか。クロームが挨拶してるだろうし)

 

 並盛町の街を歩いて、地下への通路を降りて、予想通り先に集結していたみんなと合流する。

 未来の物を過去に持ち帰るのは、タイムパラドックス的にどうたらこうたらだそうで、だれも荷物は持っていない。

 

 利奈も、ヴァリアーで買ってもらった服を、断腸の思いで部屋に置いてきた。

 持って帰ったところで、服の出所を母に問い詰められてしまうけれど、もったいないものはもったいない。海外ブランドの服なんて、もう絶対に手に入らないものなのだから。

 

 綱吉たちはさらに、匣アニマルたちに別れを告げなければならなかった。

 大小さまざまな動物たちが悲しんでいる姿は胸に痛く、利奈も自然とロールの頭を撫でていた。

 

「こんなにかわいいのに連れて行けないなんて……。十年後で会おうね……」

「なんで君が残念がってるの」

「ヒバリさんが撫でないから、代わりに撫でてるんですー。よしよし、もうすぐ大人のヒバリさんが来るからね。そっちのヒバリさんにかわいがってもらうんだよ……」

「里親かなにかかい、君は」

「ヒバリさんが淡々と突っ込んでる――ああ、すみません! なんでもないです!」

 

 綱吉は一睨みに屈して後ろに下がる。綱吉のライオンも綱吉の足元に隠れた。

 

「じゃあタイムワープを始めるよ!」

 

 正一の合図で一同が背筋を伸ばす。

 この場にいるのは、過去から来たメンバーとアルコバレーノの赤ん坊五人、それから正一とラル、フゥ太だけだ。ラルは大怪我を負って療養していたから、利奈は立っている姿を見たのは今日が初めてだった。

 

「タイムワープスタート!」

 

 正一がスイッチを入れると、視界が光で包まれた。その光が自分たちだけを包んでいると気付いたときには、もう目の前の景色が変わっていた。

 一緒にいたみんなの姿はなく、道路に一人、ぽつんと立たされている。

 

 

「ここ……病院の近く?」

 

 見渡してみると見覚えのある風景で、すぐさま自分の位置が把握できた。

 どうやら、十年後に飛ばされたときと同じ場所に送り返されたようだ。

 てっきり、みんなと一緒にどこか目立たない場所にワープすると思っていた利奈は、突然の自由行動に大いに戸惑った。

 

(本当に、過去に戻ったんだよね……? いまいちよくわからないんだけど)

 

 景色を見ただけでは、ここが本当に元の時代なのかは判別できない。

 もし時間計算を間違えられて、半年以上前に戻されていたとしたら大変だ。考えたくはないけれど、利奈の家に前の住人が住んでいる可能性もある。

 

(早く家に帰ってお母さんに会いたいけど、表札違ってたらショックだし……。

 先に今日の日付を調べておこっかな)

 

 近くに病院があるから、そこでカレンダーを見るか日付を聞けばいい話だ。

 病院とは懇意にしているので、なにかあったら風紀委員に連絡を取ってもらえばいい。――もっとも、それは十年以上前に飛ばされていなかった場合の話だが。

 

 利奈は家に向かって走り出したい気持ちを抑えて、病院へと足を進めた。

 その選択が最善手だと知るのは、十分後の未来である。

 

 ――利奈は気付くべきであった。

 未来に飛んだときには暗かった空が、今は青空になっていることに。そして、それが意味する重大な事実に。

 

「利奈ちゃん!?」

 

 病院の受付に顔を出した利奈に、女性職員が悲鳴じみた声を上げる。

 

 ――夜が昼になっているのだから、十年後に飛ばされたあの夜から、過去か未来、どちらかにズレていることはたやすく想像できる。

 

「君!? いったい今までどこに!?」

 

 騒ぎを聞きつけた医師が、医師とは思えない必死さで走ってくる。

 

 ――アルコバレーノが時間軸を設定したのなら、綱吉たちに都合のいい時間を選ぶだろう。

 となると、ヴァリアーとリングを奪い合う以前の時間軸を選ぶはずがない。

 

「早くヒバリさんに連絡を! それとすぐに検査だ! 検査室の準備! ついでに警察にも連絡してくれ!」

 

 エントランスの視線はすべて利奈に集まっていた。

 利奈は一音も発していないのだが、周囲の病院関係者が慌ただしく叫んでいる。

 

 ――時間帯が昼になっているということは、深夜からこの時間まで、利奈はこの世界には存在していなかったことになる。つまり、行方不明扱いになるのだ。

 

「なんの騒ぎ? 事故?」

「違うよ。ほら、あの子が見つかったんだ。一昨日行方不明になった――」

「ああ、警察が聞き込みしてた? パトカー何台も止まってたよね」

「中学生の子か……。自分で病院に逃げ込んできたってことは、誘拐事件か?」

 

 ――さて、ここで想像してほしい。

 休日の朝、一向に姿を見せない娘を起こしに行ったものの姿はなく、連絡を入れてもつながらず、夜になっても帰ってこず、そしてそのまま一日が経ってしまった母親の心情を。両親が取る行動を。その余波を。

 そして周囲の言葉で、それらを一度に思い知ってしまった利奈の心情を。

 

(き、聞いてないんだけどーーーー!?)

 

 いっそ、意識の糸を切って気絶してしまいたい。

 そんなことすら願う白昼夢のなか、利奈の腕時計は無情にも時を刻み続けていた。

 

 

__

 

 

 ――切れた糸が結び直されたような感覚。

 深い暗闇から抜け出したような、長い昏睡状態から目を覚ましたような気分。そんな心地で、相沢利奈は目覚めを迎えた。

 

(……ん)

 

 瞼を開ける。

 視界一面に広がったのは、透き通るような青一色。空の端には霞のような雲がうっすらとたなびいている。

 重い瞼を下ろして、持ち上げて。瞬きするごとに明瞭になっていく意識を働かせ、利奈はようやく思考を始めた。

 

(……ここ、どこ?)

 

 素朴な疑問は、わずかに上半身を浮かせたことで解決した。

 視界に広がる川と、手のひらに感じる草の感触。耳を澄ませば川のせせらぎが聞こえてくるし、向かい岸の町並みには見覚えがある。

 

(なんで私、こんなところで寝てるんだろう……? 今日、休みじゃないよね?)

 

 休みだったとしても、土手で昼寝しようとした記憶はない。それに着ている服も仕事用のスーツだ。

 こうなった原因を思い返そうと記憶を巻き戻そうとするが、寝起きのせいか、あまり頭が働かない。

 

 土手に座りこんだまま考え込んでいたら、上着のポケットの端末が震えた。

 

(あっ、ヒバリさんだ。珍しい)

 

 最近はほとんど表示されなかった着信相手に感嘆しながら、利奈は通話ボタンを押した。

 寝起きなので、咳払いして声を整える。

 

「はい、相沢です」

『……相沢?』

「そうですが」

 

 かけてきたのは向こうなのに、なぜか恭弥は聞き返してきた。

 

『今、どこにいるの?』

「それが……なぜか土手に転がされてまして」

 

 自分の意思でないのなら、人の仕業だと疑うしかない。

 身体に異常はないので、眠らされたあとにでも土手に運ばれたのだろう。

 そう考えたものの、なぜか危機感は芽生えてこなかった。本来なら、すぐに相手を割り出すべく動かねばならないのに。

 

「さっき目が覚めたばかりで、ちょっと記憶があやふやなんです。なにがあったか、うまく思い出せなくて」

『……ミルフィオーレについては?』

「え? なんですかそれ。ミルフィオーレ?」

 

 聞いたことのない単語だったので聞き返すが、恭弥の返答はない。

 イタリア語なら、百と花で百の花だ。

 

『とりあえずビルに戻ってきて。詳しい話はそっちで聞けると思うから』

「はい、わかりました」

 

 こっちではなくそっちという言葉を使ったということは、恭弥は本社ビルにはいないらしい。周囲の音が完全に無音なので、恭弥の足音がはっきりと聞こえている。

 電話を切るタイミングになったところで、利奈は言い忘れていたことを思い出した。

 

「そうだ、ヒバリさん!」

『なに?』

「あれ、冗談ですからね!」

 

 次に会ったときに言わなければならなかった言葉を口にすると、恭弥の足音が止まった。

 さらに言い募ろうと口を動かしたものの、なにについての釈明だったのかが思い出せず、口ごもる。

 

(……ん? あれってなんだったっけ。なにかヒバリさんに啖呵切った気がするんだけど――)

 

 どうしても訂正しなければならなかったはずなのに、肝心の内容が思い出せない。いや、そもそも思い出のなかにそんな記憶はない。

 しかし、的を得ない利奈の言葉に、恭弥は疑問を呈するでもなく、ただ一言、応えた。

 

「知ってる」

 

 今まで聞いてきたなかで、一番優しい声音だった。

 その声を聞けただけで生きた甲斐があるとすら思えてしまう自分がいて、利奈は柄にもなくはにかんだ。

 利奈を祝福するように、青空はただ優しく利奈を包み込んでいた。

 




正一「無事に成功したみたいでよかったよ」
ヴェルデ「当たり前だ。寸分の狂いもなく、ボンゴレが転送された時間に合わせて過去に戻してやったぞ」
正一「え?」
ヴェルデ「え?」






 第二部最終章、最終話終了です。

 改稿前:246558文字 改稿後:324487文字 でした。
 第一部最終章のあとがきで書いたとおり、作者が胃をやられる展開の連続でしたが、読者の方々はお楽しみいただけたでしょうか。

 第三部の継承式編は、序盤を書いているところで改稿作業に移ったので、まだあらすじはまとめきれていません。
 なのであくまで目安でしかないのですが、未来編に比べればシリアスの度合いは下がります。第一部よりは高いです。詳しくは原作をチェック。


 次話から番外編として短編を三本投稿します。
 今回の番外編は未来での後日談で、次話では本編で登場しなかった十年後の武が登場します。箸休め的な緩い内容ですので、ごゆるりとお楽しみください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外編:未来の明日は
夢を肴に一杯


未来編後日談その一です。
ここにきてようやく日常系の番外編です。(今までの番外編と挿話を眺めながら)

ツナたち三人組+元ミルフィオーレ二人と飲み会する話。


 

 

 沢田綱吉とは十年来の付き合いである。

 中学生のころ、同じクラスだったのをきっかけに友人になった。社会に出てからは就職先の取引相手にもなったけれど、それで関係性が変わったりはしていない。

 クラスで一番の落ちこぼれだろうが、マフィアのボス候補だったであろうが、ボンゴレファミリーのボスになろうが、綱吉は綱吉だ。

 

 そうはいっても、綱吉は世界最高勢力マフィアのボスであり、利奈はその守護者である雲雀恭弥の部下にすぎない。社会人である以上、公私の線引きは大事である。

 よって、わざわざ本社ビルまで出向いてきた綱吉に深々と頭を下げられた利奈は、この場面を関係者に見られたら大変な騒ぎになるなと、おぼろげに考えた。

 

 当然、綱吉もその点には配慮していて、個室に案内するまでは本題を切り出したりはしなかった。

 しかし二人きりになった瞬間にボンゴレとしての外面を剥がし、直角に腰を折ったのだ。

 

「本当にごめん! どんなに謝っても許されることじゃないと思ってるけど。

 きちんとけじめはつけさせてほしい」

 

 綱吉が謝っているのは、利奈を死なせてしまった件についてではない。

 綱吉はボンゴレとしてすべての決定を下したのだし、それを謝罪することは過去の自分の行動を過ちだったと認めることに他ならない。もしそんなことで謝ったりなんかしたら、利奈はだれよりも大きな声で怒鳴っただろう。

 

「わかったから、頭上げて。えっと、過去の私が大変なことになったんだっけ?」

「いや、大変なことになってる――と、思うん、だけど」

 

 いまいち要領を得ない返事なのは、確認する術がないからだ。

 十年前に戻された利奈は今とは違う時間軸を歩んでいて、今の利奈とは繋がっていない。よって、今の利奈にはそれを思い出せないのだ。

 

(並行世界を共有できる敵と戦ったってのも、私が死んだってのもまだ実感ないのに、戻った私のこと話されてもな……。事実確認もほとんどしてないし)

 

 SFみたいな話だが、自分は一度殺されていて、敵が倒されたことによって蘇ったらしい。

 最初は、財団職員有志による壮大な悪ふざけかと思った。

 でも、涙腺などないと思われていた強面連中が、涙を流して利奈との再会を喜ぶものだから、すぐにその可能性は消え失せてしまった。

 それに、財団内にはミルフィオーレとの戦闘資料などが数多く残されている。いやでも、すべて事実だと認めるしかない。

 

(戦闘に参加した関係者は記憶が残っているけれど、途中で死んだ人はミルフィオーレの記憶が全部なくなってるみたい。どうりで変なところで寝ていたわけだ)

 

 あの土手が、利奈の殺された場所だったらしい。

 そうなると、そのすぐあとに殺されたらしい犯人二人の姿がなかったのは疑問だが、白蘭という諸悪の根源がいなければ、日本に来ることのなかった人間だったのだろう。本来進むべき道から外れた人は、元の道へと引き戻されるらしい。

 

(まあ、それは置いといて)

 

 風紀財団ですら山のように事後処理が溜まっているのだから、十代目ボンゴレである綱吉に、こんなところで油を売っている時間などあるわけがない。とはいえ、このまま綱吉を帰してしまったら、しばらくは連絡が取れなくなるだろう。当事者から情報を得る機会をみすみす逃す手もない。

 

 眉を落とす綱吉に、利奈はにっこりと笑いかけた。

 

「――というわけで久しぶりの飲み会始めまーす! かんぱーい!」

「乾杯!」

「乾杯」

「あはは、乾杯」

「え!? これ、そんなノリなの!?」

「てめえこら、利奈! 遊びできてんじゃねえんだぞ、俺たちは!」

 

 乾杯の音頭とともにジョッキを掲げると、三人がジョッキを鳴らし、二人が声を張った。

 持ったジョッキを勢いよくテーブルに打ち付ける隼人を、苦笑気味の綱吉が抑える。

 

「まあまあ、みんなでお酒飲むのが久しぶりなのは事実なんだし」

「ですが、物事には形式というものが――」

「堅苦しくしなくてもいいんじゃねえか? 利奈本人が楽しくやりたいって言ってんだからさ」

 

 すでに半分以上ジョッキを空けた武が、ジョッキを置いてニッと歯を見せる。

 これ以上は言い募っても無駄と判断したのか、隼人はため息をついて枝豆を摘んだ。

 さやを押し出して豆を口に運ぶ隼人を、正面に座るスパナが物珍しげに見つめる。

 

「ビールに枝豆。ジャパニーズ飲みニケーション」

「はい?」

「あっ、気にしないで。スパナは日本文化オタクなんだ。サラダどうぞ」

「ありがとうございます」

 

 隣に座る正一に皿を渡され、頭を下げる。

 料理はいつも取り分ける側だけど、今日はゲストなのでありがたく頂いておく。正一は几帳面な性格をしているようで、トマトやゆで卵の数を、いちいち数えながら皿に取り分けていた。

 

「ビールも来たし、一回正一たちの紹介しとこうぜ。利奈は一応初対面って感じなんだろ?」

「うん」

 

 今日の飲み会、もとい説明会にぜひとも参加したいという人がいるとのことで、予約人数が二人増えた。

 この居酒屋は風紀財団の息のかかった居酒屋なので、突然の人数変更も、周囲に音漏れしない個室もすぐに対応してもらえる。

 料理が豊富で値段も手ごろなので、プライベートでもよく使う、行きつけの居酒屋だ。

 

 みんなの視線を受け、正一が居住まいを正して利奈に向き直る。

 

「えと、はじめまして、入江正一です。

 僕は……なんて言えばいいんだろう。白蘭さんを倒すために白蘭さんの部下をやってたっていうのが、一番わかりやすい自己紹介かな。

 ミルフィオーレファミリーに所属していたけど、今はボンゴレファミリーの技術者です。

 その、今回はとてつもなくご迷惑をおかけしまして――」

「正一君、それはあとで。ほら、スパナが自己紹介まだだから」

 

 左隣に目をやると、枝豆をおいしそうに咀嚼していたスパナが、キョトっと目を瞬いた。

 

「ん? ウチのこと、覚えてないの?」

「死んだ人間は記憶がねえんだよ! 来る前に言っただろうが!」

「まあまあ、獄寺君……」

 

 店主が来て、武のジョッキを換えていく。

 ついでに枝豆をもうひとつ頼んで、やっとスパナが枝豆から手を離した。

 

「ウチはスパナ。ミルフィオーレで技術者やってたけどクビになって、ボンゴレに拾ってもらった」

「スパナは俺の武器の調整をしてくれたんだよ。正一君も、戦闘で使う道具とかをいろいろと作ってくれて」

「そうなんだ。よろしくお願いします、スパナさん、正一さん」

 

 両脇に一回ずつ頭を下げると、正一は口元を、スパナは目元を複雑そうに歪ませた。

 

「……えっと、なにか変でしたか?」

「ああ、いや。十年前の相沢さんには入江さんと呼ばれてたから……」

「スパナでいい。利奈は覚えてなくても、ウチは覚えてる」

「だから、覚えるもなにもほぼ別人だって言ってんだろうが……!」

 

 隼人が空のジョッキを置き、深くため息をつく。どうやら今日は深酒になりそうだ。

 アルコバレーノたちの計らいで、利奈以外の過去メンバーは、十年前の自分の記憶を同期させられているらしい。利奈だけ除外されているのは、記憶の同期作業のあとに被害者が生き返ったからだ。よって、こうした齟齬が生まれている。

 

(これは想像以上にややこしくなりそう……)

 

 やはり、この説明会を設けたのは正解だった。

 ミルフィオーレファミリーの行いや、それに対するボンゴレ関係者の対応などは資料に目を通せば把握できるけれど、こういった個人的なつながりについては、各々に確認を取るしかないだろう。

 ほかのみんなが覚えているのなら、利奈も記憶しておかなければならない。ただの記録としての記憶であったとしても。

 

「それより、俺もいろいろと聞きたいことがあるんだ。利奈がミルフィオーレに捕まってたとき、正一とスパナが面倒見てたんだろ? そのときの話とか」

「だからお前は! こういうのは時系列に進めんのが常識だろうがっ! 先に俺と十代目が利奈を見つけたところから話させろ!」

「おっ、獄寺乗り気だな」

「聞きたい聞きたーい!」

 

 十代目ボンゴレの右腕を名乗るだけあって、隼人は進行と仕切りが上手い。

 ジョッキを抱えて囃し立てると、隼人は大きく胸を張って未来での出会いを話し始めた。一方、スパナは醤油にワサビを溶かしていた。

 

 リング争奪戦直後の自分が召喚された話を聞いているあいだにも、頼んだ料理が次々と運ばれてくる。

 運んでくるのは若いアルバイトではなく、この店の店主だ。個室を予約すると暗黙の了解で店主が料理を運んできてくれるので、遠慮なく話を続けられる。

 

「ささ、どうぞー。いっぱい頼んだので、いっぱい食べてくださーい」

 

 今日のお代は綱吉持ちなので、量をあまり気にせずにじゃんじゃん頼んでおいた。成人男性が四人もいるのだから、料理が残ることはないだろう。テーブルに皿が溢れないように、空いた皿は逐一回収して積み上げておく。

 

 日本文化オタクのスパナは、居酒屋メニューが届くたびに目を輝かせている。なんだか、外国人の観光に付き添っている気分だ。

 

「美味しい……!」

「そうなんですよ。ここのつくね、すっごく美味しいんです」

 

 ここのお店は炭火焼きを売りにしており、火で炙る料理はすべて絶品だ。だから焼き鳥はどれを選んでも当たりなのだが、その当たりのなかでも、つくね串が段を抜いて人気であった。一口頬張れば、軟骨のコリコリした歯ごたえと肉汁のうまみに虜となり、一人一串どころか、一人で二串も三串も頬張ってしまう。

 

「お酒も美味しい。全部美味しい。もいっこ食べていい?」

「スパナ、ご飯食べに来てるんじゃないんだから……」

 

 正一は自身の説明責任を果たそうという意気込みが強く、最初の一杯以外ずっとウーロン茶を頼んでいる。

 実行犯であり、なおかつすべての遠因となった人なのだから、リラックスしろという方が無理なのかもしれない。

 

 みんながあれやこれや、それぞれの視点から出来事を話し終え、鍋に締めのうどんが投入されたところで、利奈は万感の思いを込めて唸った。

 

「いやー……ヤバいね、うん」

 

 ハチャメチャにもほどがあった。

 重傷を負っている日に十年バズーカを打ちこまれたところで、その非情さに驚いたし、その次の日にはミルフィオーレに拉致されていて、展開の速さに引いた。

 しかも正一の話によると、ミルフィオーレのボスである白蘭は、利奈が捕まったことを綱吉が死んだ原因に仕立て上げ、利奈の精神を壊そうとしたらしい。

 マフィア関係者でもないただの女子中学生に、いったいなにを背負わせようというのだろうか。

 

「えっと、その女子中学生って君のことだけど……?」

「私であって私じゃないから……もうほとんど別人だし……」

「少しは気にしろ。なんで俺たちの方が憤ってんだよ」

 

 正面の三人も初めて聞く話だったらしく、白蘭のくだりで一様に嫌悪をあらわにしていた。三人があまりにも真摯に憤慨してくれたので、利奈は声を出す必要すらなかったくらいだ。

 

 その後も中学生利奈の受難は続き、独立暗殺部隊ヴァリアーに放り込まれるわ、チョイス後にアルコバレーノの少女とともに分断されるわ、またもやミルフィオーレに人質に取られるわ。散々な目に遭ったあと、ようやく彼女は平和な過去に戻された。

 ――しかし、彼女が戻されたのはリング争奪戦の夜ではなく、その二日後の昼なのである。

 つまり、彼女の受難は終わらない。

 

(そりゃあ沢田君も謝りに来るし、入江さんも顔面蒼白で頭下げるよね)

 

 ちなみに正一は申し訳なさのあまり胃を痛め、そこで飲み会が終了となった。

 

「大丈夫かな、正一さん。明日に響かなきゃいいけど」

「酒の飲み過ぎってわけじゃないから、そんなに心配しなくていいと思うぜ。

 どっちかってーと、スパナのほうが危ねえんじゃねえか?」 

「最後、寝ちゃってたもんね……」

 

 武と二人で夜の繁華街を歩く。

 二次会を始めるのにちょうどいい時間帯なので客引きも多く、視界に入れないように歩くのも一苦労だ。

 ちなみに、今は私服だから普通に声をかけられているけれど、これがスーツ姿だったらアルバイトの大学生以外は一切寄り付かなくなる。高級品とはいえ特徴のないスーツなのだが、彼らは敏感に、触れてはいけないものを嗅ぎ分けるらしい。

 

 正一が胃痛でダウンして、スパナが慣れない日本酒で寝落ちしたので、綱吉と隼人がその二人を、そして武が利奈を家まで送ることになった。

 綱吉たちはみんなボンゴレアジトで寝泊まりしているし、武は実家に戻る予定だったので、この振り分けが最良というわけだ。

 

「私が死んでる間にいろいろあったみたいで……。山本君も大変だったんでしょ?」

「ん? ああ、まあな……」

 

 死亡者リストのなかには、武の父親である山本剛の名前もあった。

 利奈と同様に生き返っているはずだが、それでも、親を死なせてしまった負い目は消えないだろう。

 

「どうだった? お父さん」

「親父も利奈と一緒で記憶はないから、元気なもんだよ。

 様子見に家に帰ったら普通に働いてて、お前、こんな時間に仕事はどうした!? って怒られちまった」

「ふふっ、山本君のお父さんらしい」

「だろ。あははっ」

 

 思い出しておかしくなったのか、武も快活に笑った。

 利奈の住所は武も知っているので、酔いに任せてゆるゆると大通りを歩く。車の通りはまばらだけど、まだまだ人通りは多い。

 

「ほんと、夢見てたみたいだったよ。

 本当に夢でしたーって言われても信じられるくらい、全部元通りだもんな」

 

 感慨にふける武に、利奈はなにも応えられない。利奈はその悪夢を共有していない。

 悪魔に脅かされた記憶を抱えるのは、新しい未来を紡ぐ過去の自分だけだ。

 

「せめて十年前の私の記憶くらいあればよかったんだけどね。

 どんな感じ? 記憶が増えるのって」

「んー、なんて言えばいいんだろうな。

 思い出すっていうのとはちょっと違ってさ。最近こんなの見たよなーって、バーッて思い返す感じ?」

「思い返す?」

 

 武の足が小石を蹴飛ばした。数回跳ねて、生け垣に落ちる。

 

「難しいな。俺はツナや獄寺と会ったところで十年前と入れ替わったんだけど、そっからの記憶は十年前の俺目線だからさ。なにがあったかは思い出せるけど、なに考えてたかまではわかんねーんだよ。自分の記憶じゃないっていうか」

「自分だけど自分じゃない。見たけど自分の体験じゃない。……映画みたいな感じ?」

「それだ! 観たばっかの映画!」

 

 うまい例えに辿り着けたからか、武が嬉しそうに人差し指を掲げる。

 話しているうちにいつのまにか家のそばまで来ていて、自然と足が止まった。

 

 改めて武の顔を見てみると、ほとんど酔っていないようで、いつもと変わらない顔をしていた。顎の傷に目をやってしまうのは、もはや習性だろう。

 十年前に戻った武もこの傷を負うのだろうかと、そんなことを考えてしまう。

 

「ありがとね、送ってくれて」

「礼はいいぜ。俺がやりたくてやってんだからさ。

 むしろ、礼言うのはこっちの方だし」

「え?」

 

 聞き返すと、照れくさそうに武は眉を下げた。

 

「俺は十年前の利奈には会ってないからさ。今の利奈見るまで、利奈が生きてるって実感なくて。だから、会えたときは本当に嬉しかったんだぜ」

「……」

「ははっ、利奈はピンとこないだろうけどさ!」

 

(……本当に、なんで覚えてないんだろう)

 

 みんなが利奈にお帰りと言った。生きていてくれて嬉しいと言ってくれた。

 でも、利奈がただいまと言ったところで、違うのだ。彼らが望む利奈は、本当は。

 

「みんなの知ってる私は、もういないんじゃないかな」

「いるだろ、ここに」

 

 躊躇いもせずに武は応える。そのまっすぐな瞳に気遣いの色はなく、どこまでも誠実だった。

 いつだって武は欲しい言葉をくれる。それも、本心からの言葉を。

 

「さっきも言っただろ。俺の知ってる利奈はお前だって。

 ツナたちだってそう思ってるし、ヒバリだってそうだと思うぜ。なっ!」

「うん!」

 

 強く頷くと、武が眼前に手のひらを広げた。

 すかさず自分の手を打ち付けて、利奈は歯を見せて笑う。社会人になってから、ハイタッチするのも久しぶりだ。

 

「じゃ、そろそろ帰るね。おやすみ」

「じゃあな!」

 

 片手を上げて武が背を向ける。

 武はきっと、一度も振り返らないだろう。だから利奈も、最後まで見送らずに家の門をくぐった。

 またすぐに会えると、知っているから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

午後のお茶会

 

 ミルフィオーレに関する事後処理があらかた片付いたところで、利奈は単身、海を渡った。

 タクシーで行き先を告げると、運転手が勢いよく振り返った。

 見るからに平々凡々な日本人女性が、超一流ホテルの名前を出したのだから無理もない。

 

「そこのホテルで現地の知り合いと待ち合わせしてるんです。一階にお洒落なラウンジがあるんですよね」

「ああ、それでかい」

 

 運転手が納得した顔で笑う。

 

「観光するんだったら、ちょっとくらい贅沢しといたほうがいいさな。いくら国内最高峰のホテルっつったって、コーヒー一杯で目玉が飛び出る額を取られるわけじゃなし。満喫しておいで」

「ありがとう」

 

 人のよさそうなタクシー運転手の言葉に、利奈もまた人好きのする笑みを浮かべて頷いた。

 お茶をする相手がそのホテルの宿泊客であるということは、おくびにも出さないで。

 

(ちょうどこっちで会合があってよかった。私用でヴァリアー幹部全員を呼び出すなんてできないもの)

 

 飲み会でも話が上がっていたが、メローネ基地から奪還された利奈は、綱吉たちがメローネ基地戦での勝利を収めるまで、ヴァリアー邸にて匿われていたらしい。

 暗殺部隊が人質奪還の任務を受けたのも意外だが、そのあとの面倒まで引き受けてくれていたなんて、さらに驚きだった。ボンゴレ直々の依頼とはいえ、世話をする義理などなかっただろうに。

 

「依頼人の沢田綱吉は死んだと聞かされていたからな。ミルフィオーレ内部での軋轢を助長させるためにも、お前の生死は秘匿させてもらった」

「そうですか。まさか連れ去ったのがヴァリアーだなんて、だれも想像しなかったでしょうね。ましてや、ヴァリアー邸で匿われているなんて」

 

 十年前の利奈からしても予想外だったろう。敵マフィアから助け出されたと思ったら、殺人集団に放り込まれたのだ。

 

 それに関しては本当に申し訳なかったと、すでに綱吉から謝罪も頂いている。

 綱吉の算段では、早々にアジトに送り返されて、十年前から来たほかのみんなとともにアジトで待機させる予定だったらしい。

 十年前から来たメンバーも、ヴァリアーからの通信で初めて利奈がこちらの世界にいることを知らされ、安否を心配したそうだ。

 どうでもいいけれど、加害者と被害者、両方の記憶を持っている綱吉は、気持ちの整理が大変そうだった。

 

 それにしても、まさかレヴィが歓談に応じてくれるとは思ってもみなかった。駄目元で誘ってみるものだ。

 華奢なコーヒーカップはレヴィの体躯とはまるで合っていないが、そのチグハグさがなんだかかわいらしかった。強面集団に囲まれて青春時代を過ごしてきたので、レヴィの風貌には安心感すら覚えてくる。

 

「今日は、休みだったのか?」

 

 レヴィの目線が少し下がった。

 今日の利奈はいつものスーツ姿ではない。白いジャケットとレモンイエローのスカートは、このホテルのラウンジの落ち着いた色彩とは違うが、外の町並みにはよく馴染む。

 

「ええ、休暇を取っています。

 ちょうどヴァリアーの皆さんがこのホテルに宿泊されていると聞いたので、みなさんに挨拶をしておこうかと。お世話になりましたし」

「それは殊勝な心掛けだな」

 

 正確には、ヴァリアーが揃って屋敷を出たこの機会を狙って有給休暇を取ったのだが、それをわざわざ伝える必要はないだろう。ミルフィオーレの件で個人的に訪ねに来ただけなのに、裏があるのではと勘ぐられるのも厄介だ。

 仕事以外の話はまるでしないレヴィが、珍しく雑談に付き合ってくれているというのに。

 

 コーヒーに口をつけた利奈は、その苦さに眉をしかめそうになった。

 

(そうだった、砂糖入れてないんだった……)

 

 砂糖を入れ忘れたのではない。砂糖を入れなかったのを忘れていたのだ。

 このあとはディーノの屋敷に泊まる予定なので、振る舞われるであろうご馳走に備えて、カロリーを控えなければならない。ブラックコーヒーには脂質の吸収を抑える効果があるとテレビが取り上げていたので、こういう日にはブラックコーヒーを飲むようにしている。

 しかし、いいところのコーヒーだけあって味が濃い。甘いケーキがあればちょうどいいのだが、それでは本末転倒だ。

 

 ちょっとずつ飲んでいくしかないなとソーサーにカップを置いたところで、ふらふらと人影が近づいてきた。

 

「アレー。レヴィさん、こんなところでなにやってるんですー?」

 

 見覚えのない少年だった。しかし、レヴィに気安く声をかけたところをみるに、それなりに高い立場の人間だろう。

 少年はレヴィと利奈を交互に見やり、そして痛ましげに目を伏せる。

 

「レヴィさんがこんな明るいところで闇のオーラまき散らしてるうえに、人と一緒にいるのにも驚きですけど、その相手が女性ってところで、もう幻覚を疑って仕方のないミーがいますねー。若い女性をその極悪顔で脅迫したのか、それともその女性が美人局というやつなのか。どちらか答えだとしても、それがレヴィさんの幸せなら止めませんよー。そうでもないと、女性とお喋りなんて一生無理ですものね。どうかお幸せにですー」

 

(わあ、すごい……)

 

 一息に、一方的にレヴィに憐憫をかけた少年に、利奈は賛辞にも似た呆れを抱く。

 皮肉ではなく、思ったことをそのまま口に出しただけなのだろうが、歯に衣を着せぬどころか、思いっきり牙で急所に噛みついている。

 出合い頭に屠られたレヴィの額に青筋が浮き、ラウンジに殺気が振りまかれそうになったところで、利奈は立ち上がった。

 

「初めまして。私はボンゴレ雲の守護者の部下で、相沢と申します。紛らわしい格好ですみません。休暇中でして」

「まあ、そんなとこだろうとは思ってましたけど。……んん?」

 

 あっさりと自己紹介を流そうとした彼は、しかし、訝しむような目を利奈に向けた。

 

「雲の守護者の部下?」

「はい。お初にお目にかかります」

 

 間違いなく初対面だ。特徴的な喋り方と毒舌を抜きにしても、彼の顔にはまるで見覚えがない。だが、少年はなにかを探り当てるように利奈の顔を検分している。

 二人に挟まれたレヴィは、フンと高慢に鼻を鳴らした。

 

「紹介しよう。こいつはマーモン死亡時に霧の守護者となったフラン。

 そしてこっちは、雲雀恭弥の率いる風紀財団でヴァリアーとの交渉役を務めている相沢、利奈だ」

 

 わざとらしく区切られた名前を聞いた瞬間、フランが目を丸くして利奈を上から下まで見降ろした。興味ないものを見ていた瞳が、見るまに好奇心に彩られていく。

 

(マーモンの代理ってことは、この子も幹部なんだ。じゃあ、十年前の私を知って――)

 

「女性は化粧で化けるって言いますけど、これ、詐欺レベルじゃないですか? 本体要素消えてるんですけど」

「う、うん?」

 

 褒められているのか貶されているのか、わかりづらいところだ。いや、表情から察するに褒めてはいない。

 十年も経っているのだから、化粧もしていない中学生時代の顔を持ち出されても困る。

 

「正真正銘、お前の知っている相沢利奈の十年後だ。ミルフィオーレ戦での記憶は消失しているがな。まったく、これだからガキは」

「無駄に年取ってるだけのおっさんに言われたくないです」

「ムッ!? おっさ――おっさん……!?」

 

 怒りで震えるレヴィを、フランは完全に無視している。

 年功序列の世界でないとはいえ、ベルと同じく生意気な性格をしているらしい。

 

「なるほどー、つまりこの世界にいたはずの利奈ですか。つまりミーのことは?」

「……お初にお目にかかります」

 

 三度目の初めましてを口にすると、フランは不服そうに顔をしかめた。この反応はスパナと似ている。

 

「えっと……よかったら、ご一緒にいかがですか? コーヒー」

「……ミーはジュースを所望します」

 

 そう言って、フランはレヴィではなく利奈のとなりに腰を下ろした。

 レヴィが気迫だけでコーヒーカップを割りそうになっているが、気にかけないほうがいいだろう。なるべく自然にメニューを渡す。

 

「んー、オレンジジュースにしときます。ほかにも頼んでいいですか?」

「好きにしろ」

「じゃあ一番高いのにしましょー。このスタンドセットください」

「……」

 

 容赦なく数千円するアフタヌーンティーセットを頼むフラン。しかし、好きにしろと言った手前、レヴィに咎める権利はない。

 

「と、ところで、マーモンがいないあいだ、貴方が霧の守護者を務めていたんですよね?」

「丁寧に喋らなくていいですよ。この前の貴方は遠慮なくタメ口でしたし、ミーのこれは処世術なので。イタリア語、お上手ですね」

「ありがとう……」

 

 敬語を使えばなにを言ってもいいものではないのだが、部外者の利奈が口を出すことでもないので、話を戻した。

 

「今の霧の守護者はどちらなんですか? 貴方がそのまま霧の守護者なの?」

「いえ、前任者にお返ししましたよ。ミーは欠員埋めるために、無理やり引っ張られただけでしたし」

「そもそも、こいつとマーモンでは比べるまでもない実力差があるからな」

「うっわ。幻術耐性もない変態雷親父にパワハラされました」

「俺は本当のことを言ったまでだ」

 

 ここにきてようやく一撃を返せたことがうれしいのか、レヴィがふんぞり返る。

 この世界で一番優れていたからこそアルコバレーノに選ばれたマーモンと比べるのは酷というものだが、ヴァリアーは実力主義だ。マーモンが復活したのなら、すぐさま守護者の席は返却されてしかるべきだろう。

 

「まあ、それでもミーは幹部のままらしいんですけどね。なにかしでかしたわけでもありませんし。それに――」

 

 一足先に運ばれたオレンジジュースの氷を鳴らしながら、フランは自身の頭をなでる。

 

「あの利点がなにひとつない帽子を外せたので、もうなんでもいいです」

「帽子?」

「似合っていたじゃないか」

「レヴィさんもそのひげ壊滅的にダサくて似合ってますよ」

 

 よほどひどい帽子だったのだろう。今のフランはなにも被っていないけれど、その帽子を思い出してか、レヴィがにやにやと笑っている。

 

「どんな帽子だったんですか?」

「思い出すのもいやですけど、究極にダサい帽子ですよ。前任者がつれてたペットモチーフのカエル帽。それもミーの顔よりも大きいやつを無理やり」

「うわあ……」

 

 それが許されるのは小学生低学年くらいまでだろう。

 そんなものを無理やり被らせるなんて、いったいどんな意地の悪い――

 

「用意したのはベルだったな」

「なるほど」

 

 一瞬で納得できた。彼ならそういう嫌がらせをするだろう。

 

「しかも脱いだら脱いだで、今度は背が低すぎて見えないネタで弄り始めましたからね。

 まったく、先輩のせいでミーまで性格悪くなったらどうするんですかねー」

「え?」

「なにか?」

 

 うっかり漏らした声を拾われ、利奈は慌てて視線を逸らした。ちょうど、頼んだケーキが運ばれてきたところだ。

 恭しく運ばれてきたそれは、宝石箱のような輝きを放っている。

 

「にしても、いちいち反応が新鮮で面白いですね。記憶がないというのは本当なようで」

 

 上段のケーキを手に取りながら、フランが呟く。

 勧められた利奈は定石どおりに下段のサンドイッチを皿に取って、レヴィに渡した。たぶん、ここの代金はすべてレヴィが払うことになるだろう。

 

「ってことは、黒曜ランドでミーと話したのも覚えてないんですよね? 師匠の話とか」

「覚えてないけど……黒曜ランド!?」

 

 イタリアでその施設名が出るとは思わず、声が大きくなる。

 そんな利奈の反応には構わず、フランは淡々と続けた。

 

「ミー、六道骸の弟子なんですよ。ヴァリアーに誘拐されちゃいましたけど」

「で、え、誘拐?」

 

 弟子発言にも誘拐発言にも食いつきながら、利奈はレヴィに視線を送った。それとなくレヴィの目が泳ぐ。

 

「……誘拐ではない、スカウトだ」

「縄でぐるぐる巻きにして連れ去るのがですか?」

「そこまでしないと人材確保できないんですか……?」

「違う! やったのはベルだ! 俺は知らん!」

 

 声を張れば張るほどレヴィの犯罪者指数が上がっていく。

 それはそれとして、もっと重要な発言があったのを思い出し、利奈はフランの顔を二度見した。

 

「……骸さんの弟子!?」

「理解までが遅かったですねー」

「骸さんの弟子なの!?」

「だからそう言ってるじゃないですかー。いつも師匠がお世話になっておりますー」

「ああ、いえ、こちらこそ……」

 

 ぺこりと頭を下げるもの、驚きが抜けない。骸に弟子がいたなんて初耳だった。

 

「秘密主義ですからね、師匠は。ミーも貴方の話は聞いてませんでしたよ、貴方を保護するまで。

 そのくせ、保護したらクロームの友人をお願いしますねなんて念押ししてくるんだから、勝手ですよね、あのパイナップル。あっ、間違えた。師匠」

 

 どうやらフランの毒舌は全方位に向いているものらしい。ここまでくると清々しいが、夜道にはくれぐれも気を付けてほしい。

 

(骸さんも弟子取ったりするんだ。今度会ったら詳しく聞いてみよっと)

 

 骸たちとは、白蘭を倒したその日に顔を合わせている。

 クロームは感極まって泣いてしまうし、M・Mは中学生の利奈が生意気だったと理不尽に怒っていたけれど、残りの三人の反応は淡白だった。

 

(そういえば、しつこく記憶が残ってないか聞かれたな。覚えてないのならいいんですって言われたけど、なんか契約でもしてたのかも。それも骸さんが不利なやつ)

 

 それについては問い詰めるだけ無駄だろうから、諦めるしかない。骸相手に舌戦で勝てるとは到底思えないからだ。

 

(やっぱ記憶ないって不利だなあ。これからは気を付けなきゃ……うわっ)

 

 目の前のレヴィが突然立ち上がった。

 巨体の圧に驚くが、その理由がホテルの階段を降りてエントランスへとやってきたので、利奈もつられて立ち上がった。レヴィはすぐさまボスの元へと馳せ参じに行く。

 

「おはようございます、ボス」

「……」

 

 気だるそうに酒の匂いを振りまきながら、XANXUSは歩を進める。

 その場に居合わせた人々が、一瞬にしてXANXUSのオーラに呑み込まれた。大富豪だろうが権力者であろうが、真の強者の前には道を譲ることしかできない。

 

「久しぶりですね、XANXUS」

 

 利奈が声をかけると、XANXUSが横目に視線を向けてきた。心の底から興味がなさそうな、うるさいハエを見るような目だ。しかしXANXUSは素手でハエを叩き潰す人間ではないので、追い払われない程度の距離で追従する。

 

「十年前の私がそちらの屋敷でお世話になっていたと窺いまして。貴方の慈悲に感謝しています」

「ハッ! クソ鮫どもが勝手にやったことだ。俺は知らねえ」

「ボス、お供を」

「いらねえ」

 

 それだけ言って、XANXUSは回転扉の奥へと進んでしまった。

 付き添いを断られてやや寂しげレヴィとテーブルに戻ると、信じられないものを見るような目でフランに凝視された。

 

「……ほんとに別人なんですね。ミーの知ってる利奈なら今ので死んでましたよ」

「どういうこと!?」

「そのままの意味ですよ。心臓なにでできてるんですか、貴方」

 

 XANXUSに声をかけたことを言っているのだろうか。

 確かにXANXUSは暴君だが、民間人しかいないこの空間で無体を働いたりはしないだろう。せいぜい、突き飛ばされる程度だ。

 

「言っただろう。こいつは風紀財団の交渉役だぞ」

「心臓が鋼でできてるとは聞いてません。いや、師匠と交流ある時点で察するべきでしたけど。これはなかなか混乱しますね」

「十年の差があるからな。いっそ、分けて考えたらどうだ」

「なるほどー」

 

(分ける?)

 

 利奈にはピンとこなかったが、フランにはレヴィの意図が正しく伝わったようだ。

 

「この利奈を姉、あのときの利奈を妹と思えばいいんですね。妹の方は不幸な事故で亡くなったことにしてしまえば完璧です」

「昔の私を殺すのはやめてほしいかな。死んでたのは私の方だし」

「あはは、面白いブラックジョークですねー」

 

 すっかり冷えたコーヒーを飲み終え、腕時計を見やる。

 二人の視線も利奈の腕時計に注がれたが、その視線は熱のないものだった。

 

「そろそろお暇させていただきます。今日はいろいろと――ご馳走様でした」

 

 習性で伝票を探してしまったが、伝票はレヴィの手に収まっていた。レヴィは鷹揚に頷く。

 

「気を付けて帰ってくださいね。ここで死んでミーに責任被せられても困りますし」

「はい、わかってます」

 

 せっかく戻ってきた命を、こんなところで失ったらバカみたいだ。二人も目覚めが悪いだろう。

 

「……別人、ですね」

「ああ、別人だ」

 

 お辞儀をして立ち去る利奈の背に注がれた二人の視線は、真新しい髪留めに向いていた。

 




昼間に一回投稿したのですが、ミスがあったので一度削除しました。
あのですね……XANXUSの登場シーン、すっぽぬけてたんですよ……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

小さな瑕疵

 

 世界の命運をかけた戦いが終わりを告げた。

 表向きの平和は取り戻せたものの、戦いに関わったものはそれぞれ、事後後処理に余念がない生活を送っている。

 戦い漬けの毎日から、書類漬けの毎日に代わるわけだ。

 

 それは、ボンゴレファミリーと同盟を組んで戦いに参加していたキャッバローネファミリーも同じことで、ボスのディーノは終わらない書類の山に埋もれていた。

 

「あー、……だるい」

「休憩終わったばかりだろ、ボス」

 

 項垂れるディーノの顔の傍らには、休憩中に淹れられたコーヒーが置いてあった。

 黒い水面はカップの下半分にも達していないし、ロマーリオにも立ち上る湯気が視認できるくらいだ。

 

「だらだらしてたって仕事は終わんねえぜ。

 休憩は休憩、仕事は仕事。切り替えが大事だっていつも言ってるだろ」

 

 真っ向からの正論に、ディーノは机に押し付けていた額をむくりとあげる。

 その目には不満の色がありありと浮かんでいた。

 

「休憩つったって、執務室から一歩も外に出てないんだぜ? 体動かさないと休んだ気がしないし、ちょっとくらい――」

「んなこと言って、出てったら帰ってこないだろうが。

 まあ、どうしてもっつうんなら、今日に限ってはそれでいいんだけどよ」

「ん? なんだ、なんかあったか?」

 

 含みのあるロマーリオの言葉にディーノが目を細める。

 今日はなにも予定は入っていなかったはず――と記憶をたどっていると、電話がベルを鳴らした。

 

 このさい、目の前の書類から逃避できるのなら、どんな連絡でも構わない。

 そんなよこしまな思いで受話器を取ったものの、聞こえてきた明るい声に思わず相好を崩した。

 

「おお、利奈か。どうした?」

 

 ディーノ個人の携帯電話ではなく執務室に掛けてきたということは、仕事関係の連絡だろうか。そう思って尋ねたディーノだったが、利奈の返答に目を丸くした。そして、苦笑いを浮かべながらロマーリオに視線を送る。

 

(やってくれたな、ロマーリオ)

 

 ロマーリオに秘密にされていたようだが、今日は利奈が遊びに来る予定だったらしい。

 まったく知らされていなかったディーノは口パクでロマーリオを咎めるが、ロマーリオは愉快そうに肩を揺らした。

 

「知ってたら、仕事に手がつかなかっただろ?」

 

 そんなことはないと即答できないのが悔しい。

 昔から、弟分の国に行く前夜は仕事が手につかなかった。

 

 利奈はもうイタリアまで来ているらしい。すでに空港も出ているようで、空港のアナウンス音も騒々しい雑踏も聞こえない。

 よくよく耳を澄ますと、ピアノの音がわずかに聞こえてきた。どこかの店に入ったのだろうか。

 

「……俺が食べたいやつ? ケーキ?」

 

 利奈は洋菓子屋にいるそうで、手土産にケーキを買ってくるつもりのようだ。

 ふらっと入ってみたら思いのほかケーキの種類が豊富だったそうで、自分で選ぶのを諦めて電話をかけてきたらしい。

 

「おいおい、そんなに種類があるのか。覚えきれねえって……」

 

 次々と読み上げられるメニューに、ディーノも手を上げた。

 現物を見るついでに利奈を迎えに行きたいところだが、腕組みするロマーリオの視線からして不可能だろう。

 寄り道せずに帰ることはないと、自分でもわかっている。

 

「利奈が食べたいやつ全部買ってきてもいいぜ。どうせ全部なくなるだろうし。

 ……ん? 利奈は食べないのか?」

 

 ホテルのラウンジでアフタヌーンティーを楽しんだばかりだそうだ。

 苦渋に満ちた声を出す利奈に噴き出しそうになったが、機嫌を損ねかねないので、なんとかこらえた。

 

「じゃ、とりあえず利奈が気になったのだけ教えてくれ。そこから俺が選ぶ」

 

 折衷案としてそう伝えると、利奈がケーキを選び始めた。

 漏れ出ている声を聞きながら待っていたら、ふと利奈の声が不自然に止まった。だれかに話しかけられたようで、二言三言その相手に返答している。

 

「どうした?」

「あ、いえ、なんでもないです」

 

 さっきまでイタリア語で話していたのに、利奈の返事は日本語だった。潜められた声に、ディーノはその理由を察した。

 

(なんだ、ナンパか)

 

 イタリアでは珍しくもない。ただ、男と電話をしている女を狙うのは、いささか感心できなかった。

 

「やっぱ実物見ないとよくわかんねえな。一回写真で――っておい、またかよ……」

 

 さすがイタリア男、断られても簡単には諦めない。

 会話を遮られたディーノもだが、利奈も不機嫌そうな声を出している。

  

「利奈、しつこいようなら俺が相手を――ん?」

 

 声が不自然に小さくなり、受話器を耳に押し付ける。

 イタリア男が店のタルトについて話している声と、感心したような利奈の相槌が耳に入った。

 店の常連客だったのだろうか。それならば、下心ではなく親切で声をかけた可能性もある。

 

(いや、下心もあるな。俺と近そうだし)

 

 どっちにしろ、利奈がイタリア男の親切を受け入れたので、手短に通話を切られてしまった。まんまとしてやられたディーノは、受話器を置いて椅子に背中を預けた。

 

「どうした、かっさらわれたか?」

「ああ、取られちまった。俺から奪いとるなんて、なかなか見どころのあるやつだったよ」

 

 苦笑しながらコーヒーを飲み乾す。

 利奈が来たら、ケーキに合う苦さで淹れ直してもらうことにしよう。

 

(さて、利奈が来るまでもう一頑張りするか)

 

 こうして利奈の到着を待てるのも、未来を取り戻した恩恵のひとつである。

 仕事をさぼってばかりだったと余計な情報を吹き込まれないためにも、ディーノは本腰を入れて仕事に意識を集中させた。

 

 

―――――

 

 

「ありがとうございました。おかげで、美味しいケーキが食べられそうです」

 

 店員から受け取った紙袋を手に、ケーキ選びを手伝ってくれた男に礼を伝える。

 この店一押しのケーキとタルトを教えてもらったので、一ホールずつ購入した。ディーノには食べないと伝えたけれど、少しくらいなら食べても響かないだろう。

 

「かわいい女性の役に立てたのなら光栄だよ。……あ、かわいいだと大人の女性には失礼かな?」

「そうでもないわ」

 

 息をするようにかわいいと言われたが、イタリアではただの挨拶だ。でも、かわいいと言われて悪い気はしない。ありがたく受け取っておく。

 

「イタリアには仕事で?」

「プライベート。今日の便で着いたの」

「大変だね。でも、日本から来たのなら空の旅も快適かな」

「ええ」

 

 日本人だと当てられるのは珍しくもない。むしろ、地元民でないと断定されたことの方が珍しい。

 イタリア語は母国語並みとディーノからお墨付きを頂いているし、持っているバックも小ぶりなものだ。服装で見抜かれたのだろうか。 

 

「この店は焼き菓子もおいしいんだよ。

 僕も初めのころはタルトばっかり選んじゃったけどね」

「常連なの?」

「そうでもないけど、この通り種類が多いでしょ? 全制覇したいって言われたから、全部買ったことがあるよ」

「羨ましい」

 

 思わず本音を出してしまった。彼女にでもせがまれたのだろうか。

 

「でも、僕の一番のお薦めは隣の通りにある洋菓子店かな。古い店だけど、そのぶんシンプルなケーキがおいしいんだ」

「また今度試してみる。イタリアにはよく来るから」

「それがいいよ。それと、ほかにもいろいろとおいしい店を知ってるんだ。

 甘いものたくさん買ったから」

 

 彼の言わんとしていることに気付き、利奈は慌ててタルトを掲げた。

 

「そろそろ行かなくちゃ。タルトが駄目になっちゃう」

「御土産って言ってたね。電話の彼に?」

「ええ、彼に」

 

 彼という言葉には何種類か意味があるが、ここは安直に誤解してもらいたい。

 男は優美に微笑んだ。

 

「きっと、その仕事相手の彼らも喜ぶと思うよ。本当においしいから」

「……ありがとう」

 

 (やっぱりだめか)

 

 考えてみれば、彼氏との電話を切ってナンパ男に関わる女もいないだろう。恋人と二ホールもケーキを食べることもないだろうし。

 

「もし、僕が薦めたケーキをその人が気に入らなかったら、僕の責任だね。

 結果を知りたいから、電話番号を教えてくれるかな」

 

 直球で連絡先を聞かれ、利奈は曖昧な笑みを浮かべた。それで引いてくれるほど、この国の男は易しくない。

 だから利奈は、横に首を振った。

 

「……ごめんなさい、教えられない」

 

 取り繕えないほどに声は強張っていた。

 ここにきて利奈は、如才ない振る舞いを捨て、警戒の眼差しを男に向ける。女としてではなく、人間として。

 

(この人は、だめだ)

 

 心の奥底で本能が警鐘を鳴らしている。

 この男と関わってはいけない。この男と接触してはいけない。この男に気を許してはいけない。関わったら最後、塗り替えられてしまうと。

 

(この人自体はそんなに怖くないけど。でもなにか、知っちゃいけないなにかを隠してる)

 

 不穏な気配はない。見た目は派手だが、物腰は上品だ。

 長年培ってきた防衛本能が反応するような危なっかしさも感じない。

 それなのに、じわじわと恐怖心が胸の底から湧いてきて、じっとりと肌を汗ばませる。

 

 利奈の表情が変化していくのを無言で見つめていた男は、ふっと息を吐いて親しげな微笑みを消した。

 

「覚えがなくとも、魂には染みついているものなのですね」

 

 びくりと体が震える。

 丁寧に紡がれるイタリア語からは、先ほどまでの気さくさは霧消していた。

 

「ああ、心配しなくても私と貴方は初対面ですよ。

 ええ、一度も会ったことがありませんとも。幸運でしたね」

「なに、言って――」

「貴方が心配することはなにもありませんよ。私にはもう、悪魔の声は聞こえませんから」

 

 そう言って男は自身の胸に手を当てた。昔を懐かしむような声に、わずかに哀愁が混ざる。

 

「怖がらせてしまったみたいですので、そろそろお暇させていただきましょうか。

 申し訳ありません、偶然お見かけしてしまったもので。

 彼にもよろしく言っておいてください」

「彼って?」

 

 声が乾く。男が笑う。

 

「電話の彼ですよ。ほかにだれがいるんですか?」

 

 とぼけているのか、そうでないのか。もう判断能力が機能していない。

 

「楽しかったですよ。素直な貴方とお話できて。

 もう会うことはありませんが、もし出会ってしまったらそのときはどうぞ、お手柔らかに」

 

 男の声が脳内を回る。我に返ったときには、店内に一人取り残されていた。

 ふと紙袋に目を落とすと、2つに折りたたまれた紙片が乗せられていた。接近させた覚えなどないのに。

 

(……なんだったんだろう)

 

 まるで白昼夢を見ていたようだ。

 利奈は書かれている文字を認識してしまう前に紙片を千切り、店の屑籠に捨てた。

 

 覚えのない痛みに、戸惑いながら。

 




これを持ちまして、未来編完全終了です。
話は終わりますが、未来は未来で続いていくでしょう。

次回からいよいよ継承式編。
警察沙汰になった波乱の幕引きからの日常が幕を開けます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三部一章:新顔との出会い
ささやかなお願い


 

 面会謝絶となっている病室の扉が、ゆっくりと右に動いた。

 テレビ画面から顔を上げた利奈は、訪れた見舞客に疲れた笑みを向ける。

 

 実際に疲れ切っていた。

 未来から戻ってきたのはいいものの、行方不明扱いだったために病院では上を下にの大騒ぎ。すぐさま最上階に連れて行かれて検査と事情聴取。そのあとで親との再会だったために、元の世界に戻れた感動など、どこかへ飛んでいってしまった。

 

「ヒバリさんが裏から手を回してくれてたみたいだから、大事にはなってないみたいなんだけどね。ニュースとかにもなってなかったし」

 

 テレビの電源はもう切ってある。

 夕方のニュースは地震の話でもちきりだったが、未来から戻ってきたタイミングで起きた地震だったようで、実感が一切ない。並盛町は地震が起きにくい地域だからたいした被害はなかったと、朝の回診に来た院長が言っていた。

 

「それで、相沢さんの両親はどうだった? 納得してくれた?」

「ばっちり。私、ほとんど話してないし、執事さんがだいたい説明してくれたみたいから。執事さんっていうか、執事役の人?」

 

 警察からの事情聴取は、例によって風紀委員からの圧力もあり、数分で終わった。

 しかし、両親には風紀委員の圧力は通じない。どうしたものかと困り果てていたのだが、間一髪、リボーンが手配したボンゴレの事後処理班が現れて、事を穏便に片付けてくれた。

 

「大金持ちのペットの猫が逃げ出して、その猫が車に轢かれそうになったのを助けて私が

車に撥ねられたって、なんかドラマみたいな設定だよね、あはは」

 

 笑いながら見舞いに訪れた綱吉と隼人、それからリボーンに視線を投げかける。

 綱吉はぎこちなく口元を引きつらせ、隼人は眉をしかめ、リボーンはいつもの無表情ながら、ひょいと帽子を傾けた。

 

「大事にするわけにはいかねーからな。意識不明で病院に運ばれてたってのが一番だろ」

「なんというか……ほんと、ごめん」

「十代目が謝る必要はありません! 調整ミスったあいつらが悪いんす!」

「でも……」

 

 利奈が行方不明になったことも前日の連絡網で伝わっていたそうで、同級生とその家族には周知の事実となっている。

 綱吉たちも、連絡網で利奈が大変になっていることを知ったらしい。

 

「いいっていいって。

 私よりも病院の人が大変だったと思うよ。いきなりこっちに合わせなきゃいけなくなっちゃったんだから」

 

 玄関を通って受付に行った姿は、多くの人に目撃されている。しかしそれは、目覚めた利奈が状況を理解できずに病院から出てしまったという、夢遊病じみた設定でなんとか切り抜けた。

 院長は恭弥と懇意にしているので、ボンゴレが言った話が正しいと言えば、院長も即座にそれに応じる。日頃の癒着が活きたわけだ。

 

「そういえば、執事役のリボ谷さんが慰謝料ですって、すっごい金額お母さんに渡してたみたいなんだけど、あれ大丈夫なやつ?」

「え!?」

 

 初耳だとばかりに綱吉が勢いよくリボーンを見やる。

 入院費込みで旦那様の愛猫を助けていただいたお礼ですと言っていたが、あれは迷惑料だったのだろう。利奈への口裏合わせ料も含まれているに違いない。

 

「誘拐騒ぎまで発展しかけてたからな。利奈が風紀委員でヒバリが手を回してなかったら、今頃全国ニュースで報道記者が病院まで詰めかけてたぞ。

 金で収まるなら安いもんじゃねえか」

「そう、か? まあ、それで丸く収まるんならいいのかな……」

「ちなみに払った慰謝料はボスのお前もちだからな。出世払いにしといてやる」

「えーーーー!? っと!」

 

 病室であることを思い出して綱吉が口を噤むが、一人部屋なのですぐに口を開き直した。

 

「どういうことだよ、リボーン!」

「どういうこともなにも、迷惑かけたのはボンゴレだろうが。つまり、ボスであるお前に責任がある」

「俺、ボスじゃないし! それに、そんなお金――」

「大丈夫です、十代目! ボンゴレファミリーは世界トップのマフィアですから、就任したら、そんな金すぐに用意できます!」

「どこも大丈夫じゃないんだけど!?」

 

 目をキラキラさせる隼人には不安材料しかないし、相変わらず、綱吉と隼人は意志の疎通ができていない。

 

「ちなみに、ボスにならねーってんなら融資ってことで容赦なく利子をつけてくからな。マフィアから金を借りて、踏み倒せると思うなよ」

「うわあ、悪徳。頑張ってね、沢田君」

「味方がいない!?」

 

 綱吉は嘆くが、もうお金は受け取ったあとである。

 容赦なく退路を断ち、取り返しがつかなくなってから口にするのだから、リボーンも狡猾だ。

 いや、利奈が言わなければ、触れなかったのかもしれない。そう考えると、申し訳なくなってきた。

 

「そういえば、学校にはいつから来れそうなの?」

 

 借金問題はとりあえず置いておくことにしたようで、気を取り直した顔の綱吉がそう尋ねる。忘れさせねえぞと、リボーンがひらひらと借用書をちらつかせているが、視界に入れていないようだ。

 

「明後日だから、木曜日かな。今日いろいろ検査したんだけど、明日結果が出るんだって。

 結果出るの昼ごろらしいから、明日も休みなさいって」

「そっか……」

 

 綱吉たちはもう学校に通っている。学校帰りにそのまま来たようで、久しぶりの制服姿だ。

 昨日も見舞いに来てくれようとしたそうだけど、口裏合わせやらなにやらで忙しいからと、リボーンが止めたらしい。

 面会謝絶なのにどうやって通してもらったのかはわからないけれど、見張りがいるわけでもないし、こっそり忍び込んできたのだろう。見つかったら怒られそうだ。

 

「学校どう? 私の話とか出てる?」

「うん。でも、わりとみんな普通だったよ。えっと……ほら、相沢さん、風紀委員だったから」

「あー……」

 

 幸か不幸か、風紀員の肩書が作用して、さほど関心を集めていないらしい。

 行方不明になったのが休日だったというのも、影響しているだろう。平日だったら、あらぬ噂が立つところだった。

 

「そういえば、近隣にある風紀委員の敵対組織はもう全滅してるらしいぞ」

「ええ!?」

「んなっ!?」

「マジっすか!?」

 

 世間話のように物騒な話題を出され、三人で悲鳴を上げる。

 とくに利奈は布団を勢いよく跳ね飛ばしてしまい、机の上にあったペンが壁まで吹っ飛んでいった。

 

「風紀委員の敵対組織ってことは、ヒバリが?」

「ああ。つっても、未来に飛ぶ前のヒバリがだがな」

「どういう意味だ?」

「俺たちから見て数か月前のヒバリがやったってことだ。こっちに戻る前の出来事は変わんねーからな」

 

 てちてちと足音を立ててリボーンがペンを拾いに行く。

 しかし利奈は知らされた衝撃の事実に頭がいっぱいで、掛け布団を掛け直す余裕さえなかった。

 

(き、聞いてないんですけど?)

 

 当たり前だ。まだだれにも会ってないのだから。

 風紀委員への連絡は病院が自主的にしてくれたけれど、利奈はまだだれとも連絡を取っていなかった。携帯電話はとっくの昔に電池切れだし、小銭すら持っていない。充電器だけでも母に持ってきてもらうべきだった。

 

「自分のとこの人間が突然行方不明になったら、敵対組織を疑うのが筋だからな。

 雲雀のことだから、単身で乗り込んで好き勝手暴れたんだろ。リング争奪戦も消化不良だっただろーしな」

「そっか、そんなのあったね……」

「ひえー! ヒバリさん、こわっ!」

 

 利奈は頭を抱えた。

 利奈たちにとってはとっくの昔の出来事になっているが、この世界ではあの戦いからまだ数日しか経っていない。

 リング争奪戦で別れてそのまま行方不明になったとはいえ、まさか恭弥が敵対組織を壊滅させていたなんて。

 

(だから未来で会ったとき、あんなに機嫌悪かったんだ……。

 ……ちょっと待って。一日でそれなら、あのときには――)

 

 未来で再会したときにはすでに一ヶ月以上経過していたはずだ。

 一日で周辺の組織が壊滅したのなら、一ヶ月あれば――

 

(ううん、考えるのやめよう。なかったことだし。なかったことになったし。うん、そうしよう)

 

 見当違いでとはいえ、一掃できたのなら喜ばしいことだろう。風紀委員と敵対する組織なんて、世間から見てもいい組織ではないのだから。

 

「校舎はどうなってるの? 体育館とか崩壊してなかったっけ?」

 

 気の毒な敵対組織はさておいて、話を学校の話題に切り替える。

 リング争奪戦でどこもかしこも壊されていたけれど、なかでも体育館は了平の拳で柱まですべて全壊していたはずだ。

 冷静に考えるととんでもない事態だが、匣兵器なんてものがあるのだから、もうなんでもありなのだろう。――あのときの了平は、匣兵器なんて使っていなかったけれど。

 

「心配ないぞ。土日のあいだに建て直し済みだ」

「……建物って、そんな早く作れたっけ」

「できたみたい。ヒバリさんが見ても問題なさそうだったし、たぶん完璧に直ってるよ」

「へー。ヒバリさんがオッケーならオッケーだろうけど」

 

 恭弥が検分して異常ナシなら、だれも文句は言わないだろう。彼ほど学校を熟知している人はいない。

 

「あ、それに、なんかヴァリアーとかディーノさんとかも未来の記憶が伝わってるみたいで。だから、リング争奪戦のあとのこともいろいろ丸く収まったみたいなんだ」

「そうなの!? よかった、どうなったんだろうって思ってたから」

 

 結果を目にはしていないが、勝ったのは綱吉たちだったのだろう。

 綱吉たちが勝利していなければ、未来でボンゴレになっていたのはXANXUSだったはずだ。

 

(じゃあ、ヴァリアーとの関係はとりあえずマシになったってことだよね)

 

 そういう形でも、決着がついたのならば喜ばしい。共闘までしたのに、また話が振り出しに戻るだなんてあんまりだ。

 胸を撫で下ろしていたら、ほとんど黙っていた隼人が悪態をついた。

 

「ケッ、べつにお前に心配される謂れはねーんだよ。十代目がボスになんのは天地創造前から決まってたんだからな」

「それは大げさじゃ?」

「あ゛あ?」

「だから俺はボスになりたいわけじゃないんだって……!」

 

 綱吉の控えめな主張は、例によって隼人の耳には届かない。

 もっとも、十年後の綱吉は抵抗むなしくボンゴレファミリー十代目ボスの地位についてしまっていたのだから、それが隼人の正しさを証明してしまうのだが。

 

「でも俺は本当に継ぐつもりはないから! そうだよ、未来なんて変わっていくものだし!」

「その場合、お前が道半ばで命を落とす以外ありえねーがな」

「うぐっ、怖いこと言うなよ!」

「十代目! 俺が! 俺がいる限りそんな未来はありえません! ご心配なく!」

 

 ふんっと胸を張る隼人の目は綱吉に心からの忠誠を誓っている目で、そのひたむきさは、確かに右腕を自負する者の目だった。

 それに比べると綱吉の目はオドオドと泳ぎっぱなしで、ひどく頼りない。

 それでも、綱吉のおかげで未来が救われ、みんな揃ってこの世界に帰ることができたのだから、人は見た目では測れない。

 普段は頼りなく見えても、最後に頼れるのは綱吉なのだ。

 

「……そうだ、沢田君にちょっとお願いしたいことがあったんだけど、いいかな」

「え、なに……?」

 

 不安そうな顔をする綱吉ににっこりと笑いかける。

 心配しなくても、見舞いにまで来てくれた友人に無茶なお願いはしない。

 

「わざわざお願いするのもちょっと変かもだけど、私もみんなみたいにあだ名で呼びたいなあって。京子もハルも、沢田君のことあだ名で呼んでるでしょ?」

「え……!」

 

 ボンゴレアジトでは同じ屋根の下で暮らしていた仲である。

 あの頃はずっといっぱいいっぱいだったけれど、今なら普通の友達として接してもいいだろう。

 綱吉は面食らって目を丸め、それからじわじわと頬を染め上げていった。

 

「うん、別に、かまわないけど……」

「お前、見境ねえのか?」

「ちがっ――茶化すなリボーン!」

 

 今日一番の大声で綱吉が怒鳴りつけるが、リボーンは涼しいものである。

 照れているのを指摘された恥ずかしさでさらに顔を赤くさせながら、綱吉はまた視線を泳がせた。

 

「じゃ、じゃあ、俺も名前で呼ぼっか。えっと、利奈……でいいかな? さん付けたほうがいい?」

「いいよ、利奈で。私もツナって呼ぶね」

「う、うん」

「……」

 

 背中に影を背負わせた隼人が、文句のありそうな顔で睨みつけてくる。

 隼人に限って、自分も綱吉をあだ名で呼びたいというわけでもないだろうから、綱吉を気安く扱うなという牽制の視線だろう。こうなるともう、忠犬ではなく番犬だ。

 

「そだ、獄寺君も名前で呼んでよ。十年後の獄寺君も、なんか私のこと呼び捨てだったし」

「はあ!? だれが呼ぶか!」

 

 隼人も瞬時に顔を赤くしたが、これは怒りによるものだろう。

 隼人とも同じ屋根の下で過ごしたはずなのだが、こちらは一向に距離が縮まらない。むしろ、怒鳴られることが多くなった気がする。

 

「相沢より利奈の方が呼びやすいでしょ。私は獄寺君って呼ぶけど」

「おまっ、――だれが名前で呼んでいいっつった!? 果たすぞ!」

「えっ、呼んでないのに怒んないでよ」

「獄寺君落ち着いて! 俺たち見舞いに来たんだから!」

 

 前のめりになった隼人を綱吉がなだめる。

 綱吉に止められたからか、見舞客だったことを思い出したのか、剣呑な舌打ちを残しながら隼人は後ろに引いた。

 

「俺たち、そろそろ帰るね。また学校で」

「うん、じゃあね沢田君。じゃなかった、ツナ」

 

 苗字呼びに慣れ過ぎたせいか、あだ名は少し喉に引っかかった。

 綱吉は手を振ってくれたが、隼人はなにも言わずに出て行ってしまう。

 

「またな。お前の親に連絡先を渡してあるから、なにかあったらそこに連絡するんだぞ」

「わかった、ありがとう。……あ、でも、それリボ谷さんが出るんじゃ?」

 

 髭を生やした老年の執事を思い出して尋ねるが、リボーンは意味ありげな笑みだけを残して病室をあとにした。

 

 ――後日、あれがリボーンの変装だったと聞かされた利奈は、驚きのあまり持っていた教科書をすべて床に落とした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

復帰早々問題だらけ

 ようやく学校に復帰できる日がやってきた。

 真新しい制服に身を包んだ利奈は、感慨深さを抱きながら時間を確認する。待ち合わせの時間より少し早く着くように家を出たので、時間通りの到着だ。

 

(貰った服とかは全部だめになったけど、これと髪飾りは持って帰れてよかったー)

 

 髪飾りは髪が短くなったから使えなくなってしまったけれど、腕時計は肌身離さず持ち歩ける。

 ルッスーリアたちからもらった時計はシンプルなデザインだったので、中学生の利奈がつけていても違和感がない。偶然だろうけれど、ベージュの制服にピンクゴールドの時計は色合わせが完璧だった。

 

(昨日は帰ってから勉強たくさんしたし、テレビで最近の話題も確認したし、大丈夫なはず!)

 

 検査の結果は異常はなしで、予定通り昨日に退院できた。

 家に帰るなり勉強机にかじりついた利奈に、母はむしろ呆れたような顔をしていたが、本人は必死だった。

 なにせ、金曜日から日曜日のあいだに、数か月分の余白が存在しているのだ。

 暗殺の勉強に躍起になっていた時期もあって、学校で勉強したことなどすっかり頭から追いやってしまっていた。

 

(期末テスト前とかじゃなくてほんとによかった……。赤点なんて取ったらなにされるか……)

 

 風紀委員仲間の顔を常に思い浮かべながら復習したおかげで、なんとか半日で元のレベルまで思い出せた。あとは学校で、三日分の授業ノートと宿題を片付けるだけである。

 

「利奈!」

 

 呼びかけの声で顔を上げる。

 今日は京子たちと一緒に学校に行く約束をしていた。京子とともにやってきた花を見て、利奈は顔を輝かせる。

 

「花!」

「おはよー……って、わっ」

 

 懐かしい級友の姿に飛びつくと、花が大きく仰け反った。それにもかまわずに背中に両腕を回す。

 

「どうしたの。あんた、そんなキャラだったっけ?」

「だって、久しぶりだったから。会いたかったよー!」

「大げさ。そんな経ってないでしょ、もう」

 

 呆れた声とともに、グググと押し返される。

 利奈にとっては数か月ぶりだが、花からすればたった数日後の再会だ。そっけない態度だけど、それがなんだかとてもうれしかった。

 

「なんか、いろいろあったんだって? 見舞いしようにも、あんた面会謝絶だっていうし。

 それで、体とかどうなの?」

「全然平気!」

 

 未来でいろいろな目に遭わされたものの、すべて治癒済みだ。リング争奪戦で受けた腕の刺し傷は、もう傷跡すら残っていない。

 そう考えると、未来に行ったことで逆に健康になったともいえる。

 

「ほら、そろそろ離れなさい。京子がお待ちかねよ、抱き付くならそっちにして」

「え。あー……そだね」

 

 花から体を離し、京子と目配せを交わす。

 この前まで一緒に暮らしていたのもあって、懐かしさは皆無である。

 

「私はいいよ。元気ってわかっただけで充分だし」

「なによそれ」

「ほら、行こ」

 

 納得がいかなそうな花を取りなしつつ、三人並んで学校へ向かう。

 いつもは委員会活動で早朝に登校しているから、この時間帯は久しぶりだ。

 当たり前のように並中生の姿が多いし、久しぶりの学校だから、とても新鮮な気持ちになる。

 

「そういえば、日曜の話だけどさ」

「日曜?」

 

 なにかあっただろうかと記憶を探った利奈は、先週の日曜日――つまり、未来から戻ってきた日に果たされるはずだった約束を思い出す。

 

(日曜日、ケーキ食べに行く約束してたんだった……!)

 

 京子は月に一回、自分感謝デーとして、ケーキを好きなだけ食べる日を設けている。

 そのときに利用するケーキ屋さんのミルフィーユがとても美味しいからと、先週の日曜日に三人で食べに行く約束をしていたのだ。

 

「その反応、完全に忘れてたでしょ。無理もないけど」

「あはは……」

「京子も忘れてたのよ。まったく、相変わらずぼーっとしてんだから」

「えへへ」

 

 しょうがないわねとあきれる花も、まさか忘れてしまった理由が二人とも同じだとは思うまい。花にばかり負担がかかっているのは申し訳ないが、こればかりはどうしようもない。

 

「どうする? 来週行く?」

 

 学校や町内で行事がなければ、休日の委員会活動は休みということになっている。

 前もって予定があると伝えておけば、急に呼び出されることもないだろう。

 

「うん、花ともそう話してたの。それでね、せっかくだからハルちゃんとクロームちゃんも誘ってみようかなって」

「え?」

 

 思ってもみなかった提案に驚いて、つい花に目をやってしまう。

 

「いや、私はどっちも知らないけど。あんたたちの友達なんでしょ? 呼びたいんならいいんじゃない?」

「どうかな? みんなで食べたらもっとおいしいと思うんだ」

「私も思う! え、呼ぼう、呼ぶ!」

 

 素晴らしい提案に一も二もなく頷くが、ふと、ある疑問を抱いた。

 

「京子はハルとクロームの連絡先、知ってるの?」

「あ。そうだ、クロームちゃんの電話番号知らなかった」

「あんたねえ」

 

 知らないあいだに連絡先を交換していたのかと思いきや、そうではなかったらしい。

 でも、ハルの連絡先がわかるのならなんとかなるだろう。

 クロームが黒曜ランドにいることはわかっているし、直接出向いて話をすればいい。

 

「利奈が家知ってんなら、なんとかなりそうね。黒曜中に緑中――どこで知り合ったの?」

「なんかこう、なりゆきで」

「どういうなりゆきよ」

 

(来てくれるといいな、クローム)

 

 内気だから人見知りするかもしれないけれど、未来で仲良くなった京子とハルがいれば、少しは安心してくれるだろう。花も無理やり距離を詰めたりはしないだろうし、ケーキを食べるくらいならなんとかなりそうだ。

 まだ来ると決まってないのに、日曜日が待ちきれなくなってくる。

 

「楽しみだなー。ミルフィーユ以外も美味しいんだよね?」

「うん! シュークリームとかチーズケーキもおすすめだよ。

 みんなで違うの頼んで分けっこしよっか」

「する! あー、楽しみすぎてどうしよ、日曜までおやつ我慢しといたほうがいいかな!?」

「はしゃぎすぎ。それよりも学校のこと考えなさいよ。三日も休んでんだから」

「う゛えっ」

 

 唐突に現実に引き戻され、利奈は潰れたような声をあげた。

 綱吉によればそこまで大事にはなってないそうだが、それでも少し躊躇いはあった。

 

「心配しなくても、悪目立ちすることはないと思うわよ。あんたよりもっと目立つのが来たから」

「ああ、転校生が来るんだったっけ。昨日?」

「昨日。すごかったわよー」

 

 先日の地震騒動の余波は、被害のなかったこの並盛町にまで流れてきている。

 震源地付近の地域では、余震の影響で学校が一斉休校になっていた。

 このままでは地域格差が生まれると懸念した自治体はそこで、地震の影響が少ないいくつかの地域に分けて、休校になっている学校の生徒を一時的に転校させることにしたのだ。

 そのうちのひとつに、並盛中学校が選ばれたというわけである。

 

(選ばれたっていうか、選ばせたって感じかな。学校の宣伝にもなるし、ヒバリさん進んで引き受けそう。

 ……って、だめだ私、ヒバリさんが選択権持ってるの当たり前みたいになってる)

 

 未来での影響力を垣間見てしまっただけに、現在の恭弥にまで同じ影響力があるように考えてしまう。とはいえ、現在でも町内ならば影響力は絶大なのだから、まったくもって末怖ろしい人物である。

 

「私たちのクラスには二人来たんだよ」

「へえ。すごいって、二人ともすごいの?」

「目立つのは一人だけよ。もう一人は暗くて地味でいじめられそーなタイプ。

 そうね、なんて言ったらいいんだろ……」

 

 特徴を述べるべく花が思考を始めたが、すぐに諦めたのか、頭を振って語彙を霧散させた。

 

「あれは実物見たほうが早いわ。とにかく衝撃だから。見た瞬間、クラス中が静まり返ったから」

「そんなに……?」

「うん、私もびっくりしちゃった」

「ええ!?」

「そう、京子が驚くレベルよ……覚悟しときなさい」

 

 たいていは何事も笑顔で受け入れる京子が驚くほどの変わり者。

 見た目がすごいのか性格がすごいのか、いずれにせよ、会うのに覚悟がいりそうだ。

 

「あれ、なんか人集まってない?」

 

 時間ギリギリというわけでもないのに、校門付近がやけに人で溢れていた。

 みんな校舎へ向かうわけでもなく、足を止めて天を仰いでいる。

 

(上になにが――ってなにあれ!?)

 

 校舎の窓、いや、壁一面に横断幕がかかっている。

 黒い布地には白い字で大きく「粛清」と書かれており、登校してきた生徒の視線を集めている。そしてそこに向けられた視線は、次の瞬間さらに上、屋上に向かい――

 

「おい、あれヒバリさんじゃねえか!?」

「もう一人いるぞ! だれだあの女子生徒!」

「至門生だろ。つか、なにあれ、一触即発って感じ?」

 

 屋上の柵の――こちら側。足を踏み外せばすぐさま地上へと落下する場所で、二人の生徒が睨み合っていた。

 一人は言わずと知れた風紀委員長、雲雀恭弥。そしてもう一人は、その初めて見る制服からして、至門中学校の生徒だろう。

 

(ヒバリさん、なにしてんの!? あんなところで! しかもあんなところで!)

 

 最初のあんなところでは屋上で、次のあんなところでは彼らの立ち位置である。

 恭弥の学ランや女子生徒の髪のなびき方からして、屋上では強風が吹いている。少しでもバランスを崩したら、そのまま足を滑らせて地上へと真っ逆さまだ。いくら恭弥でも屋上から落ちて無傷とは思えないし、女子生徒の場合は命の危険もある。

 そのうえ、なにかを始めそうな気配が大いに漂っていて、地上の生徒たちは一様に騒めいていた。

 

「大変、落ちたら怪我しちゃうよ!」

「最悪、死ぬ高さじゃない? てか利奈、あれあんたの――利奈?」

「ごめん、ちょっと持ってて!」

 

 肩から降ろしたバッグを押しつけ、利奈は走り出した。

 

「え、あ、利奈! ちょっと!」

 

 呼びかけに応えずに、猛ダッシュで屋上へと向かう。

 外靴のまま階段を駆け上がる利奈を、仰天した顔の学生たちが見送る。彼らは屋上での騒動を知らないようだ。

 

(早く止めなきゃ! あの人が大変なことになっちゃう!)

 

 当然だが、利奈は女子生徒の安否を心配していた。

 なにがあって屋上の外側で睨み合う事態に陥ったのかは知らないが、あのままだとバランスを崩すか恭弥に突き落とされるかで、あの女子が屋上から転落してしまう。

 

 いくらなんでも、衆目環視のもとで恭弥に人殺しをさせるわけにはいかない。せめて、屋上内に移動させなければ。

 未来の世界観にすっかり染まりきった思考回路で、利奈は校舎を駆け抜けた。

 




日曜日の約束は、第一部四章から持ち越しになってていた約束です。
二十九話で出た話なので……今から二年前に張った伏線ですね(狂気の沙汰)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

転校生の正体

 

 息を弾ませながら屋上へと出た利奈の耳に、聞き慣れた綱吉の叫び声が響いた。

 

「転校生がマフィアー!?」

 

(えっ)

 

 驚いて足を止めるが、すでに身体は屋上に出てしまっていた。

 たちまち注目の的となり、利奈は身を竦める。

 

「おお! 相沢ではないか!」

「よう、おはよ」

「お、おはよう……」

 

 人気がないだろうと思っていた屋上には、思っていたよりも人が集まっていた。

 その半分は知り合いで、残りの半分は利奈にはまったく見覚えのない生徒たち――つまり、至門生だ。

 声をかけてくれた了平と武に助けられながらも、向けられる視線に居心地のなさを覚える。

 

(し、視線が痛い……!)

 

 問題の恭弥と女子生徒はすでに柵の向こうからこちら側に戻っており、恭弥にいたってはなんで来たのと言わんばかりの顔をしている。ぜひとも、数分前の行動を思い返してほしい。

 

 利奈の登場で場の空気が一瞬乱れたものの、ハッとしたように綱吉がリボーンに向き直る。

 

「いや、それより、転校生がマフィアってどういうこと!? それって、全員!?」

「ああ、そうみたいだぞ」

 

 そういえば、ここ集まった並中生はボンゴレファミリーの面々だけだ。

 恭弥が暴れている現場にわざわざやってくる人もいないだろうけれど、立会人として一人くらい風紀委員がいると思っていた。邪魔だからと恭弥が下がらせていたのかもしれない。

 

(いやいや、そんなことより転校生がマフィアってなに!? 転校生全員がマフィア!? どゆこと!?)

 

 この場に集まっている転校生は、一人を除いて、ただものではないオーラを放っていた。

 とくに、竹刀を持った長身の男は、そのリーゼントも相まって、風紀委員と遜色ない迫力を醸し出している。

 至門生一同は口を閉ざしていたが、リボーンが超弱小ファミリーだと煽り出すと、一番冷静そうな見た目の眼鏡の男がたちまち激昂した。

 

「結局! はっきりと弱小と言ってくれたな赤ん坊! 我々は継承式に招待されたから、わざわざこの学校を選んだのだぞ!」

 

 見た目と中身が乖離しているタイプの人だった。

 作戦参謀のような顔をしているのに、拳を握る仕草は格闘技をやっている人の動きだ。

 

「弱小じゃねえ、超弱小っつったんだ」

「結局っ……!」

 

 そしてリボーンは教え子以外にも容赦がなかった。

 

(継承式ってなんだろ)

 

 聞き慣れない単語が気になって、しれっと武の横に並ぶ。転校生がマフィアだというのを聞いてしまったのだから、いまさら退席する必要もないだろう。

 武も聞き馴染みがない言葉だったようで、女子生徒が話し終えるのを待ってから、話に割り入った。

 

「なあ、さっきから少し気になってたんだけどさ――」

「継承式ってどういうことっすか、十代目! まさか、まさかあの!?」

 

 抑えきれなくなったのか、隼人がさらに割り込んでくる。

 右腕を名乗る隼人ですら初耳らしく、衝撃でなのか感激でなのか、わなわなと体を震わせていた。

 一方、綱吉としては知られたくない事柄だったようで、あたふたと頭の上で手を振る。

 

「なんでもない! なんでもないから! ほら、いつものあれっていうか、リボーンのたわごと、みたいな……!」

「寝言は寝て言え」

「ガフッ!」

 

 気の毒に、リボーンにあごを蹴り飛ばされて綱吉が地面に大の字になった。コンクリートの熱さに悲鳴を上げて立ち上がるが、リボーンはすでに説明を始めていた。

 

「継承式っつーのは、ツナが正式にボンゴレ十代目ボスになる、空前絶後の式典だ。本来ならまだまだ先だったんだが、白蘭との戦いを知った九代目から功績が認められて、時期が早まったんだぞ」

「おおー!」

 

 珍しく隼人が率先して手を叩くので、利奈もどさくさ紛れに拍手に参加した。

 隼人はともかく、武と了平も綱吉がマフィアのボスになることに異議はないらしい。

 

「いやいやいや、判断早まりすぎだって! それに俺はOKしてないし!」

「でも未来だと――あっ、ごめん」

 

 十年後の世界では十代目になっていたでしょうと言いかけたものの、至門生たちがいたので口を噤む。彼らがマフィアなら未来の騒動を知っているのかもしれないけれど、そうでなかった場合、だいぶ頭のおかしい発言になる。

 初対面での印象が電波になるのは避けておきたい。

 

(学校の屋上でマフィアがどうこう話してんのも、充分おかしいけどね。だれかに聞かれたらどうするんだろう)

 

 ちらりと屋上の入り口に目をやってみる。

 外ではあんなに騒ぎになっていたのに野次馬が一人もわかないあたり、恭弥の恐怖政治は功を奏しているようだ。だれだって好奇心に殺されたくはないだろう。

 

 継承式は七日後、ここ日本で行われるらしい。

 恭弥がわずかに反応したが、世界中の強豪マフィアが参加する大規模な式典と聞いて、身を引いた。並盛町で行うのなら黙ってはいないということだったのだろう。

 利奈としても、物騒という言葉では片付けられない人たちが町内に集合する事態は、御免被りたかった。

 

(正式にボスになったら、全世界のボンゴレファミリーが全員、ツナの部下になるんだ……すごいな)

 

 まさに裏社会の支配者が決まる式だから、招待されていないファミリーたちからも注目が集まっていることだろう。ひょっとしたら、これを機にますます命を狙われる可能性だってある。ボスになりたくないのなら、全力で逃げなければならないイベントだ。

 

「こらー! お前たち、こんなところでいったいなにをやっとるかー!」

 

 ようやく屋上に人が現れたと思ったら、生徒指導の先生だった。

 恭弥以外の生徒が多いからか、竹刀片手に強い口調で教室に戻るように促してくる。もうホームルームが始まる時間だった。

 

「ヒバリさん!」

 

 続々とみんなが階段を降りていくのを見送りながら、やっと恭弥に声をかける。

 暗黙の了解で、先生は利奈と恭弥には声をかけなかった。

 

「さっきのなんだったんですか? なんで転校生と睨み合いなんか」

 

 リボーンたちの話でうやむやになりかけていたけれど、どうやら継承式と先ほどの戦いはまったくもって無関係だったらしい。

 

「睨み合いじゃない。風紀の取り締まりだよ。沢田綱吉に邪魔されたけど」

 

 不快そうに眉をひそめながら、恭弥が制服を見下ろした。

 よく見たら、ワイシャツのボタンがひとつなくなっている。

 

「え。まさか、あそこで戦ったんですか?」

「最悪。新しいシャツ用意しといて」

「はい。……じゃなくて。あんなところで戦ったんですか!?」

 

 立っているだけでも危険な場所で、いったいなにをやっているのだろう。

 それに、シャツのボタンを外されたということは、相手の攻撃が恭弥に届いていたということになる。

 非難の目を無視して恭弥が階段を降りていくので、利奈も後ろに続いた。

 

「あの人、三年生ですか?」

「鈴木アーデルハイト。至門中学校三年生、粛清委員長」

 

 すらすらと女子生徒の情報が開示された。外国人なのかハーフなのか、名前が英語だ。

 外国の血が入っているのなら、中学生とは思えないあの体型にも納得がいく。そして、見た目にはダメージがなさそうだったところからして、彼女も相当に強いのだろう。

 

(粛清委員長……あ。あの粛清って書いてあった横断幕、粛清委員って意味だったんだ)

 

 屋上での二人が衝撃的過ぎて頭から抜けていたけれど、あれは恭弥に対する宣戦布告だったようだ。

 

「粛清委員って初めて聞くんですけど、どんな委員会でしょう」

「さあ。でも、言葉通り生徒を粛清する委員なんじゃない?」

 

 遅刻した生徒とすれ違う。彼はギョッとした顔で恭弥を見て、それから大きく迂回するように距離を開けて去っていった。

 

(生徒を粛正する委員会と、風紀を取り締まる風紀委員会……うーん)

 

「……活動内容、被ってません?」

 

 素朴な疑問を投げかけると、恭弥は辿りついた応接室のドアを中指の背で軽く叩いた。

 

「ここを乗っ取ろうとしていたよ」

「……はい?」

「応接室。昨日、ここに乗り込んできたんだ。応接室を明け渡せって」

「ええ!? あっ、だからさっき戦ってたんですか!?」

「そう言ったじゃない。僕としては、勝手に屋上に入ってきたのにもむかついてるけど」

「他人事じゃないなそれ。……あっ、すみません」

 

 初対面での記憶がよみがえり、思わず素で呟いていた。

 今なら次から気をつけようで済むけれど、あのときは本当に恐かったのだ。人に襲われたことなどなかったのだから。

 

「でも、至門生ってあそこにいた人たちだけでしたよね。わざわざ並中で委員会なんてしなくても……」

「至門生はもう一人いるよ。あと、鈴木アーデルハイト以外は粛清委員じゃないし」

「え、一人で委員会やろうとしてるんですか!?」

 

 なぜ、一人きりだというのに、わざわざ転校先で委員会活動をしようとするのか。そしてなぜ、並盛町で一番敵に回してはいけない人にわざわざ喧嘩を売ってきたのか。

 委員会活動が同じだから目障りに感じたのかもしれないが、一人で挑みに来るのは無謀を通り越して狂気すら感じられる。

 

「彼女は本気だったよ。昨日、ご丁寧に誓約書まで持ってきてくれたし」

「誓約書?」

「応接室使用の権利を奪うためのね。委員会活動で使う部屋を決めるには、全委員会の同意が必要なんだけど、その誓約書をちゃんと持ってきたよ」

「全委員会の同意って――ほかの委員会の人がオッケー出したんですか!? ヒバリさん敵に回すことになるのに!?」

 

 日頃からこちらに反感を抱いている緑化委員会や福祉委員会ならともかく、ほかの委員会は事なかれ主義の団体だったはずだ。粛清委員会に肩入れなどしたら、風紀委員を敵に回すことなどわかりきっているだろうに。

 しかし事実は、利奈の想像とまったく逆のものであった。

 

「粛清委員に反抗したのは、緑化委員長と福祉委員長、それから選挙管理委員長かな。反抗した彼らは鈴木アーデルハイトの手で血祭りにあげられたよ。

 証拠写真も見せられたし、なにより、誓約書の拇印が血で押されてたから」

「ヒッ」

 

 まさに女版雲雀恭弥である。

 いや、正規の手続きを強引に推し進める姿は、実直ゆえに恐ろしい。

 

(でも、ヒバリさんがもし至門中学校に転校とかしたら、同じことやってたかも……)

 

 彼はどこにいようが風紀委員長である。並盛町を離れたところで、彼の行動理念は変わらないだろう。

 至門中学校を傘下に引き入れ、第二の並盛中学校に作り直しかねない。

 そう考えると、アーデルハイトの行動はまだ常識の範囲内でのものに思えるのだから、不思議なものだ。

 

「沢田君が邪魔したってことは、まだ決着ついてないんですよね。また挑みに来るんでしょうか」

 

 そもそも綱吉は、どうやって恭弥とアーデルハイトを止めたのだろう。

 あそこで下手に割って入ろうとするものなら、そのまま地面まで真っ逆さまである。それに、恭弥の不興を買っていたら、アーデルハイトの代わりに綱吉が咬み殺されていた。

 危うく継承式前にボス候補がいなくなってしまうところだ。

 

「どうかな。赤ん坊が継承式の話を出してから、空気が変わったから。

 それより、ずっと気になってたんだけど――」

 

 恭弥の視線がずれ、利奈の足元に落とされる。

 つられて目線を下げた利奈は、靴の爪先を見てギョッとした。

 早く恭弥を止めなければと屋上へとひた走った利奈に、靴を履き替える余裕などなかった。

 

「君は、いつまで土足で校内を歩くつもりなの」

「今すぐ取り換えてきます!」

 

 利奈は一目散に昇降口へと走り出した。

 




 読み返してふと思ったんですけど、アーデルハイトはあの横断幕を一人で用意して一人で取り付けたのでしょうか。粛清委員仲間を呼びつけたのでしょうか。それとも、ファミリーの仲間に手伝ってもらったのでしょうか。
 そしてどうやって持ち運んだのでしょうか……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後者であってほしかった

 だれもいない昇降口へと戻り、一人静かに靴を履き替える。危うく、自分が校則違反で取り締まられてしまうところだった。

 教室の後ろ側のドアでホームルームが終わるのを待ってから、何食わぬ顔で教室に入る。

 

(やっぱりジロジロ見られるよね……)

 

 行方不明となっていた同級生が、数日ぶりに登校してきたのだ。興味を引かないわけがない。

 集まる視線をできるだけ気に留めないようにして席に着いたら、固い物でこつんと頭をつつかれた。

 

「ちょっと。荷物人に押し付けて走ってくなんてひどいんじゃない?」

 

 振り返ると、ジト目の花が手に持ったノートを横に振っていた。

 走るのに邪魔だからと花に押しつけた鞄は、利奈の机の上に鎮座している。

 

「ごめんごめん、慌ててて」

「あれ見たらそりゃ驚くけどさ。で、なんだったの、あれ」

 

 そう言いながら、花はノートを利奈のバッグの上に乗せた。

 休んでいるあいだのノートを写させてくれるようだ。

 

「あー、私が行ったときには終わってたんだよね。転校生がヒバリさんに勝負を挑んだらしいんだけどさ」

「じゃあ、あんたは見てないの? 転校生がなんかバク宙しながら蹴り上げたやつ。すごい歓声上がったんだけど」

「なにそれ!?」

 

 利奈が数段飛ばしで階段を走っているあいだに、熾烈な戦いを繰り広げていたらしい。

 さらに補足すると転校生は両手に持った武器を振るい、恭弥はそれをすべて避けて躱したそうだ。見たいか見たくないかでいえば、見ておきたかった戦いである。

 

「あんたのとこの委員長が転校生を屋上に吹っ飛ばしたから、私も最後までは見てないのよね。生徒指導が教室に入れってうるさくて」

「あ、そっちにも行ったんだ。屋上にも来たよ、先生」

 

 やってくるのがやけに遅かったと思いきや、下でたむろっていた生徒を先に指導していたらしい。この学校にしては珍しく、教育熱心な先生だ。

 そして見てはいないものの、勝負の結末は当人の口から聞かされている。

 

(よく止められたな、ツナ)

 

 利奈も戦いを止めようとした一人とはいえ、戦闘状態に入った恭弥を止めるのは至難の業だ。それこそ、一戦交える気概で制さなければならない。

 

「戻って早々大変そうだけど、ほどほどにしときなさいよ。

 そのノート、明日までに返してくれればいいから」

「うん、ありがとね」

 

 予鈴が鳴って、みんな次々に席へと戻っていく。

 教科書を机に押し込んだ利奈は、ここでようやく転校生の存在に気がついた。

 

(ん、んんんんんん!?)

 

 復帰後、初めての授業。

 置いていかれないように全神経を集中させなければいけないその一手目で、利奈の関心は廊下側の席へと吸い寄せられた。

 手に持っていたシャーペンが滑り落ちて、コロコロと机を転がる。そして、花が登校中にいっていた言葉を思い出した。

 

(見たらわかるって……これ!?)

 

 転校生は、かなり、いやものすごく奇天烈な恰好をしていた。

 前髪を残してつるりと剃り上げられた頭部。室内では意味をなさないであろう、大きなサングラス。至門中学校の制服ですらないと一目でわかる、ぴっちりと体のラインに沿った星柄のつなぎ。

 そして極めつけは、なんのために持ってきたのかわからない、浮き輪のような円状のなにかがふたつ。彼女は交差させたその輪っかの真ん中で椅子に座っているが、隣合った席の生徒は、やたら大きく間隔を空けて座っている。

 

(いやいや。……いやいやいや)

 

 上から下までもう一度確認して、利奈は無言で首を振った。

 

 至門生だから、並中の制服を着る必要はない。それでも、彼女の着こなしはどう見ても一発退場の代物だった。

 百歩譲って髪型とサングラスが許されたとして私服はアウトだし、浮き輪に関しては私物の持ち込みに当たるだろう。そもそも、なんのための道具なのかまるで見当がつかない。

 

(これいいの!? 気にしてるの私だけ!?)

 

 そんなわけがない。

 先生は彼女を視界に入れないようにわざと視線を外しているし、後ろのほうの生徒は、ときおり視線を彼女に向けている。

 それでもだれも言及しないのは、これが彼女が現れてから二日目の出来事だからだろう。昨日はきっと、もっとわかりやすく混乱していたに違いない。

 

(この人が最後の転校生? 屋上にいなかったよね?)

 

 ――利奈は気付いていなかったが、彼女はちゃんと屋上にいた。

 それなのになぜ、こんなにも目を引く彼女の存在を見逃していたのかというと、それは彼女が、屋上のフェンスの上を飛行していたからにほかならない。

 屋上敷地内にいる転校生たちに注目していたために、規格外の場所にいた彼女はすっかり見過ごしてしまっていたのだ。こうやって授業を受けている最中に、天井まで確認しないのと同じ原理である。

 

 なんにせよ、花の言ったとおり、行方不明だった利奈が霞むほどの存在感だ。ありがたいと言えばありがたいけれど、これでは授業どころではない。

 先生の言葉は耳に入らず、黒板の内容をノートに書き写すので精一杯だった。

 

(つ、疲れたあ……)

 

 授業終わりに、疲れがドッとやってきた。

 問題の転校生は、浮き輪のような付属品を弾ませながら教室外から出て行った。いなくなった机までもが注目の的だ。

 

「だから言ったでしょ。とにかくすごいって」

 

 利奈の新鮮な反応が面白いのか、花はニヤニヤとした笑みを浮かべている。

 

「びっくりした。なにあれ」

「でしょう? わけわかんない信号出すし、言ってることもよくわかんないし、変人このうえないわよね。まさに規格外だわ」

「授業、全然頭に入んなかった……」

 

 これは由々しき事態である。

 早く授業に追いつかないといけないのに、授業にまるで集中できない。あんな授業妨害な生徒が転校してきていたなんて、予想外だった。

 

「てかさ、あんた風紀委員じゃん。注意しなくていいの?」

「え?」

「そうだよ。相沢さん、なんとかしてくれない?」

 

 花の言葉を皮切りに、たちまち複数の生徒に囲まれる。

 どうやら、最初から聞き耳を立てられていたようだ。

 

「先生もビビって声かけないし、話しかけても無反応だしさ。

 風紀委員だったら当然あれはほっとけないでしょ」

「えー……」

 

 転入生とはいえ、彼女は並中生になったわけではない。転校は一時的な処置で、地震が収まれば元の学校に戻ることが決まっている。

 それに、あの格好が至門中学校の校則で許されているのならば、着こなしに口を出すことはできないだろう。ましてや利奈は、至門生の扱いについての指示を、まだ委員会で仰いでいないのである。

 

「いくら地震でこっち来たからってさ。あの格好は風紀乱してるって」

「俺、後ろの席なんだけどシットのあれが邪魔で黒板ほとんど見えないし」

「相沢さん、風紀員として注意してくれないかなあ。戻ってきたばかりで悪いんだけど」

 

 ――昔、これと同じ場面があったような気がする。

 結局みんな、面倒なことは全部他人に押しつけたがるのだ。

 

 どうしたものかと思っていたら、人垣を押しのけて隼人が現れた。

 

「おい、あいつには関わるな」

「うわ、獄寺だ!」

「きゃあ、獄寺君だ!」

 

 男女できれいに分かれる反応を横目に、隼人が机に両手をつく。

 怯む理由もないのでただただ視線を受け止めるが、いつぞやを思い出す顔ぶれである。

 

「お前は知らないだろうが、あいつは危険だ。とてもお前の手に負えるやつじゃねえ」

 

 その声がやけに真に迫っていて、利奈は身を乗り出した。

 

「獄寺君、あの人のこと知ってるの?」

「ああ」

 

 これは意外な繋がりである。いや、綱吉の右腕を自負する隼人としては、害をなすかもしれない怪しい転校生は放っておけないか。

 隼人は周りにいる生徒たちを一睨みで散らしたが、聞き耳を立てられているのに気付いて舌打ちをした。

 

「出るぞ。ここだと人が多い」

「う、うん」

 

 隼人にしては珍しく、ちゃんと情報を共有してくれるらしい。

 次の授業まであと数分なので、できれば簡潔にまとめていただきたいところだ。

 

「私、まだあの人の名前も知らないんだけど」

「SHITT・P!」

「……シットピー?」

「綴りは知らねえ。いや、もしかしたら地球の文字じゃねえのかもしれねえな……。

 暗号の可能性もあるし、調べてみる必要があるか」

 

 聞き間違いかと思ったけれど、SHITT・P!というのが彼女の名前だったようだ。

 あの見た目なら普通の名前の方が浮いてしまうけれど、それにしても変わった名前である。

「で、SHITT・P!さんは知り合いなの?」

「いや、俺も詳しい事情は知らねえ。

 ただ、あいつはとにかくやべえ。人に擬態していても、俺の目は誤魔化せねえぜ」

「ぎたい?」

「ああ、あれは間違いなく擬態だ……!」

 

(擬態ってなんだろう。獄寺君、やたら楽しそうだけど)

 

 さっきから話し方がハキハキしているし、態度もなんだか高揚しているように思える。

 いつもと違う雰囲気に戸惑っていると、不意に隼人が顔を近づけてきた。キラキラとした瞳はまんまるで、宝物を手に入れた子供のような輝きを放っていた。

 

「いいか、ほかのやつには絶対に言うなよ。やつは――UMAだ」

「ゆうま?」

「馬鹿! 言うなって!」

 

 慌てた顔で隼人がキョロキョロと辺りを伺うが、意味がわかっていない利奈はただただ首をひねった。マフィアで使われている隠語かなにかだろうか。

 だれにも聞かれていないことを確認してから、隼人は再び利奈に向き直った。今度は一転して真剣な目つきである。

 

「長年培ってきた俺の勘がそう言っている。

 シモンファミリーに所属してんのは、人間に混ざるための手段のひとつだろう。くそっ、先を越された!」

 

(だんだん話がわかんなくなってきたな……)

 

 本気で悔しがる隼人には悪いが、擬態あたりから話の流れがわからなくなってきている。かといって、今更意味を尋ねるわけにもいかないだろう。怒って話をやめてしまうかもしれない。

 

「それにしてもあいつら、どうやってUMAを捕まえたんだ? 

 ……いや、もしかしたら地球を征服するためにあいつが洗脳を――」

 

(……地球征服?)

 

 もはや独り言になっている隼人の呟きを耳にして、UMAについてのある推察が立った。

 

「……もしかして、ユーマって宇宙人のことなの?」

 

 利奈の問いに、隼人はぐるりと首を回した。あまりの勢いに髪がうなる。

 

「お前、そんなことも知らなかったのか!?」

「だって宇宙人が英語でなんていうか知らないし」

「宇宙人はエイリアンだろうが! ったく、いいか、UMAってのはだな――」

 

 そこでチャイムが鳴ったけれど、隼人は意に介さずに説明を続けた。

 

「UMAっつうのは未確認動物の総称だ」

「総称って?」

「チッ、全部ひっくるめた呼び方って意味だ! 覚えとけ!

 で、未確認動物ってのは、存在が噂されているもののまだ存在が立証されてない未知の生物。ツチノコとかビックフットとかくらいならお前でもわかるだろ」

「ツチノコは知ってる! じゃあ宇宙人もUMA?」

「そうだ。んで、話を戻すが、俺はSHITT・P!は地底人だと睨んでいる」

「……なんで?」

「いちいちうるせーなあ、お前は! 俺の長年の勘と最近の勘がそう告げてんだよ!」

「勘なんだ……」

 

 一気に説得力がなくなったが、本人は真剣そのものだ。

 UMAを語る隼人の目は綱吉を語るときの目と同じで、つまり、盲目状態だった。

 

「じゃあSHITT・P!さん本人が言ったわけじゃないんだね?」

「当たり前だろうが!

 いいか、間違っても直接本人に聞くんじゃねえぞ! 地底に引きずり込まれるからな!」

「あ、うん……」

 

 この様子だと、SHITT・P!本人とはまだ会話したこともないのだろう。

 憶測に憶測を重ねて、もう取り返しのつかないところまで妄想を育んでいる。

 

(なんで勘だけで人を地底人って決めつけられるんだろう。獄寺君って、ときどきものすごく残念だよね)

 

 未来に行くというSFを体験したせいで目覚めてしまったのか、あるいは元からこういった趣味があったのか。柄の悪い人の純情な一面は、本来ならばギャップとして魅力を放つはずなのだが、利奈にはいい方に作用しなかった。

 しかし、それを口に出したりはしない。利奈だって、たまには空気を読むのである。

 

「とにかく、なにかあったら俺に言え。

 いくらUMAでも、人間に危害を加えるつもりなら黙ってられねえからな」

「そうだねわかったよありがとう」

 

 感謝の言葉を口にする利奈の表情には、一切感情が含まれていない愛想笑いが浮かんでいた。

 しかし隼人がそれを見破ることはなく、二人は真逆の温度で教室へと戻った。

 

 ――余談だが、隼人が決めつけたことによってかえってSHITT・P!の神秘性が薄まり、次の授業から利奈は勉強に専念できるようになった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

確かに同じだった

 

 

 復帰登校一日目は、序盤に転校生絡みの問題があったものの、ほかはつつがなく終わらせられた。

 大体の授業は黒板を写すか問題を解くかのどちらかだし、昨日一日を復習につぎ込んだおかげで、授業に置いて行かれたりもしなかった。

 委員会活動も退院直後であることを気遣われて休みになり、あとは家に帰るだけである。

 

(昼休みに草壁さんに呼び出されたときは、どうなるかと思ったけど)

 

 何かしらの叱責を受けるのではと怯えながら呼び出しに応じたものの、その心配は杞憂であった。ディーノやヴァリアーの面々と同じく、哲矢にも十年後の記憶が授けられていたのだ。

 

 本人の体験談によると、ちょうど利奈たちが戻ってきたタイミングで、未来の出来事が頭の中に流れ込んできたらしい。

 それだけならまだ白昼夢と片付けられていたかもしれない。でも、突如目の前に出現した恭弥が、未来に行っていたと口にしたら、もはや疑う余地はなかっただろう。

 同時に利奈失踪の原因にも合点がいった哲矢は、一人、事態の収拾に励んでくれたというわけである。

 

(委員会なくなったし、今日は早く帰って家でのんびりしよっと。

 黒曜ランドに行くのは明日にして――うるさいな、喧嘩?)

 

 聞こえてきた怒鳴り声に曲がり角を覗き込んだ利奈は、予想通りの光景に閉口した。

 並中生が三人、他校生を壁に追いやっている。

 

(あの制服は至門生か。囲んでるのは三年生――災害で引っ越してきた人を虐めるって、どういう神経してんだろ。恥ずかしくならないのかな)

 

 絡まれているのはSHITT・P!と同じく、2ーAの転入生だった。

 SHITT・P!が強烈すぎて存在感がもはや影よりも薄くなっているが、そうでなくても目立ちはしなかっただろう。教室内ではつねに俯きがちで、授業で当てられたときも、先生が根負けするまで無言を貫いていた。そのときから顔に大きな湿布を何枚も貼っていたのが気になったけれど、もしかしたら、昨日の転校初日からこうやって虐められていたのかもしれない。

 

「おいおい、先輩が優しく声かけてやってんのにシカトかよ」

「なんとか言ったらどうなんだ、ああ!?」

 

 三年生たちは近づく利奈には気付かない。

 ほかの通行人も足早に通り過ぎていくし、壁の方を向いているから視界の端にも入らないのだろう。

 壁と上級生に挟まれた転校生に逃げ場はなく、声を上げることも逃げ出すこともできずに、ただじっとその場で俯いていた。前髪で目元が隠れているけれど、唇は強く引き結ばれている。

 

(こういうときは先手必勝だよね)

 

 ブレザーの胸元に手を入れて、手探りで携帯電話のボタンを押す。すぐさま手を引っこ抜けば、最大音量で携帯電話が着信音を鳴らした。

 

「っ、なんだ!?」

 

 警告音にも等しい電話の音に、三人が弾かれたように顔を上げた。

 そんな三人には目を向けず、利奈はわざともたついた動作で携帯電話を取り出し、耳に当てる。

 

「はい! 相沢です!」

 

 もちろん電話はかかっていない。設定をいじって着信音を鳴らしただけだ。

 それでも利奈は電話口の相手にかしこまるかのように背筋を伸ばし、不良たちにも聞こえやすいようにと声を張った。

 

「お待たせしました、ヒバリさん!」

 

 その瞬間、面白いくらい三人の表情が変わった。

 並盛町最強の不良の名前に目を見開き、利奈の腕に巻かれた風紀委員の腕章に顔を青ざめさせる。捕食者から被食者に立場が逆転した彼らの真ん中で、ただ一人事態が把握できない転校生が顔を上げた。

 

「はい、今、手分けして巡回してるところです。異常は……そうですね」

 

 そこでようやく利奈は不良たちに目を向けた。

 彼らの表情を確認し、虎の衣がしっかりと作用していることを確認する。

 

「転校生が三年生に囲まれてて――はい、確認してみます」

 

 携帯電話を手に持ったまま、なんでもないような顔をして三年生たちに近づいていく。

 彼らにとっての脅威は、恭弥と繋がったままになっている携帯電話だろう。不良ならば、並盛町最強の不良である雲雀恭弥の恐さは骨身に染みているはずだ。

 

「……チッ、行こうぜ」

「ふん、女に助けられやがって」

 

 利奈が声をかける前に、彼らは退散した。転校生に嫌味をこぼすが、利奈とは目も合わせなかった。

 

(いくじなし。私相手に逃げ出すくせに)

 

 とはいえ、ここで骨のあるところを見せられたらお手上げだったから、よしとしておこう。利奈がヴァリアーで習った体術は暗殺術なので、不良を相手取るのには向いていないのだ。

 だれにも繋がっていない携帯電話をしまい、利奈は改めて転校生と顔を合わせた。

 

(すごい怪我……さっきの人にやられたのかな)

 

 両頬と鼻に湿布を貼っているけれど、貼っていない場所にも擦り傷や痣ができている。

 顔だけでこれなら、制服の下はもっと痣だらけなのかもしれない。あまりの痛ましさに勝手に顔が歪んでしまう。

 

「……まだ、なにもされてないよ」

 

 利奈の言わんとしていることが伝わったのか、ぎこちなく目線を逸らしながら彼は呟いた。

「そ、そう……?」

「これは、昨日までにやられたぶん」

「……」

 

 なんてことないように言われたけれど、それがかえって気を滅入らせた。

 痣のなかには治りかけているものもあって、最近のものだけではないことまでわかってしまう。

 

「その……お大事に」

「うん」

 

 気の利いた言葉が言えず、気まずい沈黙が落ちる。

 このままではいけないと、利奈は気持ちを奮い立たせた。

 

「えっと……よかったね、すぐいなくなって。たまたま先輩から電話がかかってきたところで」

「気を遣わなくていいよ。慣れてるし。

 それに、電話なんてかかってないんでしょ。なにも言わずに切ったから」

「え……あ、うん。じつはね」

 

 淡々と言い当てられてしまってはごまかしようがない。

 利奈はさっきからずっと気まずさを感じているけれど、転校生はそうでもないようで、平然としている。不良に囲まれていたときも、怯えて声が出せなかったのではなく、単に声を出しても無駄だからと黙っていたのかもしれない。綱吉とは違う方向で虐められやすいタイプだ。

 

「私、同じクラスの相沢。風紀委員だから、またなにかあったら言って」

 

 言われたところで対処できるとは限らないけれど、班員に周知することはできるだろう。放っておいたら、もっとひどい虐めに遭ってしまいそうだ。

 

「……僕は、古里炎真」

 

 風紀委員であるという発言を受けて、炎真の目が利奈の腕章に向けられる。

 

「……朝、屋上に来てた? ほかの人だったらごめん」

「ううん、私だよ。風紀委員、私しか女子生徒いないし」

 

 苦笑いの意味は彼には伝わらないだろう。並盛町の風紀委員は、あまりにも特殊すぎる。

 

「じゃあ、君もボンゴレファミリー?」

 

 仄暗い瞳が、警戒するように利奈を見上げた。

 縮こまるように背中を丸めているのに、臆している様子はまるでない。ちぐはぐな印象に戸惑いながらも、利奈は首を横に振った。

 

「私はマフィアじゃないよ。ヒバリさんが……あ。三年生――学ランで女の人と戦ってた人がヒバリさんなんだけど、ヒバリさんが風紀委員長で、それでえっと、……あれ?」

「アーデルと戦ってた人が君の先輩だったんだね」

「そう! で、ヒバリさんが雲の守護者? ツナの、えっと、沢田君……十代目?」

「ツナ君は知ってる。焦らないでゆっくりでいいよ」

 

 相手が転校生なので、どこまで知っているかわからないのがやっかいだ。

 だれがだれなのかを説明しようとすると、肝心の人間関係が宙に浮いたままになってしまう。

 雲雀恭弥の影響でボンゴレファミリーの内部事情に明るくなってしまったと説明するのに、相当な時間を費やしてしまった。

 

(でもボンゴレじゃないってわかってもらえたから、いっか。ほかのマフィアにボンゴレファミリーだって誤解されたら、大変なことになりそうだし)

 

 正体不明のボンゴレ関係者から、風紀委員に所属する同級生へと変わったおかげで、転校生――古里炎真からは、警戒の色が消えていた。安堵しているようにも見えるのは、ボンゴレに貸しを作らなくて済んだからだろうか。

 マフィアのルールはわからないけれど、屋上での様子を見る限り、そこまで友好的な関係でもないのだろう。

 

「炎真!」

 

 鋭い声が空を裂き、利奈ははねるようにして声の方へと上半身をひねる。

 

(うわっ、粛正委員の人だ……!)

 

 仁王立ちしたアーデルハイトがこちらを睨みつけている。

 上背があるので、立っているだけで迫力があった。

 

「アーデル」

 

 独り言のように炎真が名前を呼ぶが、彼女の耳には届いていないだろう。届いたところで、険を孕んだ眼差しが緩むとは思えなかったけれど。

 

(なんで私、睨みつけられてるの!?)

 

 あろうことか、氷のように凍てついた瞳は利奈を標的として定めていた。

 高いヒールを鳴らし、ポニーテールを揺らすアーデルハイトは、女王のような威厳を醸し出している。眼前に立たれた利奈は、炎真と同じように背を丸めた。

 

「炎真になんの用だ」

「……はい?」

「とぼけるな。お前の正体はわかっている」

 

 開口一番に詰問が始まり、利奈は混乱した。

 上から見下ろされるとより一層迫力があり、狩られる直前の小動物かなにかにでもなった気分だ。

 

(ひいい、女の子に絡まれるの怖い……!)

 

 過去に上級生女子に囲まれたトラウマか、不良は平気でも、女性に睨まれると恐怖を感じてしまう。それがこんなに威圧感のある人なら、なおさらだ。

 

 狼狽える利奈を見て、アーデルハイトはますます殺気だった。不快そうな目で睨まれ、地味に心が傷ついていく。

 

「私ではなく炎真を狙うとは――なかなか卑劣な手に出る男のようだな。雲雀恭弥は」

「……へ?」

 

 どうしてここで恭弥の名前が出てくるのかと考え、ハッとする。

 利奈の左腕には、風紀委員を示す腕章が巻かれていた。

 彼女はこれを見て、利奈を敵だと判断したのだろう。粛正委員の彼女は、風紀委員に悪感情を抱いている。

 

(もしかして、私が炎真君になにかしたって誤解されてる!?)

 

 彼女は先ほどの一幕を見ていない。

 だから、壁に張り付いている炎真と前を塞ぐように立っている利奈を見て、風紀委員の利奈が至門生の炎真に絡んでいると錯覚を――利奈は、即座にかぶりを振った。

 

(私、そんなことしてるように見えた!? 見えるんだったら、立ち直れないんだけど!?)

 

 他の強面連中ならいざ知らず、どんな色眼鏡を通したらそんな考えができるのか。

 おっちょこちょいを通り越して失礼千万だが、それを口にするほどの勇気はなかった。ただ、目だけが異様に泳いでしまう。

 

「ふん、だんまりか。……まあいい、お前たちがその手を使うのなら私にも考えが――」

「違うよ、アーデル」

 

 やっと炎真がアーデルハイトを否定してくれた。

 助かったと思った反面、もっと早く訂正してほしかったとも思ってしまう。

 

「彼女は僕を助けてくれたんだ。さっきまで、柄の悪い人たちに絡まれてたから」

「……本当か?」

「うん。そうだ、お礼言ってなかったね。ありがとう」

 

 炎真の態度は、どちらが相手でも一切変わりがなかった。

 上級生相手なのに敬語を使っていないけれど、同じファミリーなのだから、おかしいことではないのかもしれない。

 アーデルハイトの高圧的な態度も、炎真を守るためのものなのだろう。炎真はただでさえ虐めの標的になりやすいと、さっき判明したばかりである。

 そう結論づけようとした利奈だったが、そう簡単に決着はつかなかった。

 

「炎真、油断しちゃだめ。その連中がその女に雇われていた可能性もあるでしょう」

「はい!?」

 

 失礼極まりない言葉に、利奈はついに声を発した。

 応接室を奪うために委員長たちを痛めつけた彼女ならではの発想だが、あんまりにもひどい言い草である。

 さすがに言い返そうとしたものの、先に口を開いたのは炎真だった。

 

「僕が不良に絡まれるのはいつものことだよ。僕を狙ったのなら、やり方が安直すぎる……と思う」

 

 言い切る自信はないのか、曖昧な語尾が付け足される。

 炎真にとっても利奈は知り合ったばかりの人物あり、完全に信用することはできないだろう。それでも庇おうとしてくれるところに優しさを感じた。

 

(炎真君、ツナに似てる……)

 

 委員会活動初日の出来事を思い出す。

 綱吉が風紀委員から利奈を庇おうとして、逆に利奈が風紀委員から綱吉を庇ったのが知り合うきっかけだった。それがなくてもいずれ守護者関連で知り合いになっただろうが、あれがなければ、隼人とはもっと険悪な仲になっていただろう。あのときは、隼人の変わり身の早さに驚いたものだ。

 

「……ふふ」

「どうかした?」

 

 懐かしさのあまり、こんな状況なのに笑ってしまった。

 アーデルハイトの鋭い視線を受け、慌てて弁明を始める。

 

「ごめん、ちょっと。炎真君とツナが似てるなあって」

「……ツナ君に?」

「うん。だって――」

「聞き捨てならないな」

 

 続く言葉はアーデルハイトの剣幕に飲み込まれた。

 

「言うに事欠いて炎真がボンゴレに似ているだと? 貴様、愚弄するのもいい加減に――」

「アーデル」

 

 激高しそうになるアーデルハイトを、炎真がたしなめた。

 名前を呼んだだけなのに、その声には初めて感じる棘があった。アーデルハイトが唇を噛んで顔を背ける。

 

「えっと……」

 

 どうやら失言をしてしまったようだが、なにが悪かったのかがわからない。

 ボンゴレファミリーのボスに似ているという発言が、どうして愚弄という言葉に繋がるのだろう。彼らは、敵対しているファミリーではないのに。

 うろたえる利奈に、炎真が口を開く。

 

「ごめんね。僕たち、弱小ファミリーで日陰者だったからさ。

 あんまりほかのファミリーにいい思い出がないんだ」

「あっ……ごめん」

「いいよ。君はマフィアじゃないんでしょ」

 

 その言葉は、まるでだれかに言い聞かせているみたいな口調だった。

 だれになにを言い聞かせているのかわからないまま、利奈は頷く。

 

 ――近い未来、利奈は深い絶望のなかで、その意味を理解する。

 そのときにはもう、大切なものはすべて、手の中から零れ落ちていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ありふれた約束を

 

 

 結局、アーデルハイトとは和解できないまま、彼らと別れた。

 玄関で靴を脱いでいると、いつもなら出迎えには来ない母が、スリッパを鳴らしてやってくる。

 

「おかえりなさい。友達来てるよ」

「……え゛?」

「なに、その声」

 

 心の底から信じられないという声が出た。

 この町でも友達と呼べる人はできてきたものの、住所を教えた友達は一人もいない。

 身構えつつリビングに向かった利奈だったが、カチコチに体を強張らせて椅子に座るクロームに、一気に力が抜けた。

 

「よかった、クロームか……」

 

 クロームがぎこちなく頭を下げる。

 母親がいるせいか、肩ところがマグカップを包み込む指先まで、人形のように固くなっていた。

 

(鈴木さんがさっきの件で先回りしてたらどうしようとか、また骸さんがだれかの体使ってるんじゃないかとか考えちゃったよ……。クロームならいいや、うん)

 

 クロームにも住所は教えていないけれど、大方骸から聞いてやってきたのだろう。ちなみに骸にも住所は教えていないけれど、そこはもう突っ込むのも不毛なのでやめておく。

 

「他校のお友達でしょ。玄関で利奈の帰り待ってたから、家に上がってもらったの。

 帰り、いつもよりだいぶ早かったじゃない。委員会は?」

「休んでいいって。あっ、私ジュースね」

 

 食器棚を開けた母に飲み物を頼みながら、クロームの腕を引く。

 じわじわとクロームが家を訪ねてきてくれたうれしさが込み上げてきた。

 

「私の部屋いこ! お母さん、お菓子もちょうだい」

「その前に手を洗いなさい。退院直後に風邪引いて再入院したら恥ずかしいよ」

「はーい」

 

 クロームは物珍しげな顔で母とのやりとりを見ていた。

 お菓子と飲み物を受け取って階段を上り、自室に入る。

 

「ベッド座って。お菓子、ここに置くね」

 

 ローテーブルにお菓子とジュース、床にバッグを置いて、制服の上着を脱ぐ。

 クロームは部屋の中をキョロキョロと見渡していた。

 

「……利奈の部屋、物がいっぱいあるね」

「あはは、全然捨てらんないんだ。クロームは――部屋、どこ使ってるんだっけ」

 

 どんな部屋なのか聞こうとしたところで廃墟に住み着いているのを思い出し、質問を変えた。

 黒曜ランドは電気と水道が通ってはいるものの、建物内はどこもかしこもボロボロだったはずだ。この前通された部屋も部屋中が荒れ果てていたのはもちろんのこと、窓にはヒビが入っていた。

 

「客室使ってる。この前の部屋のそば」

「そっか。部屋はどんな感じ? 窓とかヒビ入ってないよね?」

「大丈夫、雨は入ってこないから」

「……それ、大丈夫って言わないと思う」

 

 認識の違いに不安になりながら、持ってきたお菓子を物色する。

 見慣れたお菓子のなかにひとつ、見たことのないチョコレートが混ざっていた。一粒指で摘まむと、クロームが声を漏らす。

 

「それ、私が持ってきたお菓子……」

「これなに? チョコボール?」

「麦チョコ。美味しいよ」

 

 クロームが手土産に持ってきてくれたものらしい。ポイと口に放りこむ。

 

「……どう?」

「うん、美味しい。初めて食べた」

 

 食感は軽く、噛むとすぐになくなっていく。ひょいひょいと摘まんでいたら、クロームも麦チョコを口に入れた。味わうようにゆっくりと咀嚼しているから、きっと好物に違いない。 その一粒を飲み込んでから、クロームは思い出したように顔を上げた。

 

「入院って、なんのこと? さっき、利奈のお母さんが言ってた」

「……あー」

 

 利奈の一件を彼女たちは知らないようだ。

 

「めちゃくちゃ大変だったんだよ、私。戻ったばっかでお医者さんとお巡りさんに囲まれたりして」

「……どうして?」

 

 よくぞ聞いてくれたとばかりに、戻ってきてから今日までの出来事をクロームに話す。

 行方不明扱いで警察沙汰になっていたり、リボーンの口裏に合わせてありもしない交通事故をでっち上げたり、意味のない検査結果を待ちながら、壊滅した闇組織に手を合わせたり。 かと思えば、復帰早々屋上で委員長二人が火花を散らしたりするのだから、気の休まる暇がない。

 

「炎真君と話してたら、粛正委員の鈴木さんに睨まれちゃってさ。ツナの話したらもっと怒るし。あんまりボンゴレとの仲はよくないみたい」

「そうなんだ」

「クロームは知ってた? 弱小ファミリーって言ってたから、そんなに有名じゃなさそうだけど」

「知らない。骸様なら……知ってるかもしれないけど」

「あー」

 

 マフィア殲滅の野望を持つ骸なら、どんなファミリーの情報も耳に入れているかもしれない。彼にとってはどのファミリーも等しく攻撃対象であり――

 

(……ちょっと待って。

 大丈夫かな、継承式。マフィアの殲滅会場になったりするんじゃ?)

 

 突如降ってわいた疑問に利奈は戦慄した。

 

 世界各国のマフィアが一堂に会する機会を、あの骸が逃すだろうか。いや、逃すはずがない。なにか仕掛けてくるに決まっている。

 世界中の強豪マフィアがひしめき合ううえに、ボンゴレの今のボスとその守護者、そして次の代のボスと守護者が揃うのだ。リング争奪戦でポールを破壊するのに使った爆弾を用意すれば、会場ごと吹き飛ばすことだって可能である。

 

(どうしよう。とんでもないことに気付いちゃった! このままじゃ継承式どころかマフィアまでなくなる……! マフィアがなくなるのはいいことだけど、人が死ぬのは……)

 

「利奈……?」

 

 無言でいたら、クロームに顔を覗き込まれた。大きな瞳に、強張った自分の顔が写る。

 

「……なんでもない。あっ、骸さんたちは未来のこと知ってるの?」

「うん、みんな知ってる。頭の中に、いきなり未来での記憶が入ってきたって言ってた」

 

 記憶の宿り方は哲矢と同じらしい。

 哲矢以外の風紀委員は記憶が引き継がれていないが、ミルフィオーレに関わった人すべてに記憶を与えていたら、こちらの未来まで大きく変わってしまうだろう。

 

(未来の骸さん、普通に外出てたもんな……。未来だと一緒に戦ったりしてたし、少しくらい優しくならないかな……)

 

 哲矢も未来での記憶が作用したのか、若干話し方が未来寄りになっていた。

 未来の骸がどんな性格かわかるほど一緒にいなかったけれど、いい方に作用してほしいところだ。

 

(ツナがボスになってたってことは、あの世界だと継承式は無事に終わったんだよね。

 クロームがいるから、さすがに全部爆発させたりとかはしないだろうけど、なにもしない骸さんとか想像できないし……うーん、なんとか止めないと)

 

 参加しない利奈に危害が及ぶことはないとはいえ、ツナたちや至門生のみんな、ディーノとロマーリオ、そしてヴァリアーが危険にさらされるとなるとじっとしてはいられない。

 ――ヴァリアーに関しては、返り討ちにしてくれそうな安定感があるとはいえ。

 

「ねえ、利奈」

 

 クロームの呼びかけで我に返る。

 そういえば、クロームがなんの用事で家まで来たのかを聞き忘れていた。

 

「今度、黒曜ランドに来てほしいの。骸様が、利奈に会いたいって」

「……」

 

(……どうしよう、罠の匂いしかしない)

 

 継承式のことを考えてしまったせいで、会いたいという言葉の裏を考えてしまう。

 継承式には参加しないものの、ほかの参加者と同じ学校に通っているし、風紀委員ならば至門生の情報も入手できてしまうのだ。

 さすがにシモンファミリーに狙いをつけてはいないだろうが、マフィアである限り、いつか標的になり得るだろう。

 

「……ヒバリさんがうるさいから、どうだろ。用事があるとか言ってた?」

「未来のことが聞きたいんだって。ほら、利奈はいろんなところに行ってたでしょう」

「行ったね、いろいろ」

 

 大半は拉致された結果だが、敵味方いろいろな組織に関わった。一番頼りになったのがこちらで脅威だったヴァリアーというのも、奇妙なものである。

 

(未来の話か……。未来のことって極秘扱いだったりするんじゃないかな……)

 

 リボーンから一切口止めされていないけれど、それは話さないのが当たり前だからだろう。 だれかに言ったところで、記憶に異常があると判断されて再入院になるだけである。

 

「クローム、私それ断れると思う? 断ったら骸さん怒るかな」

「怒りはしないと思うけど……利奈はいやなの?」

「いやっていうか……」

 

 寂しそうに眉を下げないでほしい。骸が嫌いなわけじゃなく、骸の悪事に荷担してしまうのがいやなのだ。そしてついでに委員長の目も怖い。

 

(どうせ断っても無駄なんだろうけどね。今日みたいに骸さん自身が家に来るかもしれないし……怖っ! え、すごく怖い!)

 

 ニコニコと笑顔で待ち構える骸を想像すると悪寒が走る。

 手段は選ばない人だから、前みたいにやんわりと母を人質に取る可能性だってあるだろう。断るのは得策ではない。

 利奈は考え、ひとつの結論を出した。

 

「……あー、じゃあさクローム。クロームは日曜日暇?」

「……? うん、予定ないよ」

「ならさ、黒曜ランド行く前に京子たちとケーキ食べに行かない?」

 

 こちらの要件を口にすると、クロームはまんまるに目を見開いた。こうなったら取引である。

 

「ほんとはこの前の日曜日に学校の友達と食べに行く予定だったんだけど、私の行方不明騒動で潰れちゃって。せっかくだからクロームとハルも誘おうって話になったんだよね。

 京子とハル、それから花っていう同じクラスの友達が来るんだけど、クロームもどう?」

 

 質問を質問で返すように誘い返すと、リビングにいたときのように完全に固まってしまった。今度は髪の先まで微動だにしない。

 

(どうせ断れないなら、諦めて違うこと考えた方がいいよね。

 同じ日にしちゃえばケーキ食べたあとに一緒に行けるし)

 

「どう? すごく有名なケーキ屋さんらしいんだけど」

「……」

「ハルは京子が呼んでくれるし、花はクールだけど意外と面倒見いいから、そんなに緊張しないで話せると思うよ。ケーキ食べるだけだし」

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 容量が限界を迎えたようで、クロームが顔を手で隠してしまった。つむじと髪の束が震えている。

 ボンゴレアジトでも京子たちと打ち解けるまでには時間がかかっていたし、クロームにとっては大変な決断なのだろう。でも、引っ込み思案のクロームがすぐに断らなかったのというのが、もう答えだった。

 

「……ケーキは好き?」

 

 頷いた。

 

「京子たちとまた会いたいって思う?」

 

 また頷いた。

 

「じゃあ、行こうよ」

 

 動かない。

 急かしすぎたかと反省していると、クロームが顔を上げた。耳まで真っ赤で目は潤んでいたけれど、それでもクロームは口を動かした。

 

「……行く」

 

 利奈が飛びつくように抱きつき、二人ともベッドに沈みこんだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

瞬く星の光

 

 相沢さんと別れた僕は、民宿に帰るアーデルハイトとも別れて一人になった。

 なんとなく、そのまま帰る気にはなれなかったのだ。アーデルハイトはなにか言いたげだったけれど、なにも言わずに帰って行った。まっすぐ伸びた背筋とキビキビと揺れるポニーテールがアーデルハイトらしい。僕といえば、いつもみたいに首を丸めて、行き先も決めずに足を動かしている。

 

(……ツナ君に似ている、か)

 

 相沢さんに言われた言葉を思い出した。

 アーデルハイトはひどく怒ったけれど、相沢さんはきっと、褒め言葉のつもりで口にしていたのだろう。あのときの相沢さんの表情は、とても柔らかかった。

 つまり、相沢さんにとって、ツナ君はいい人なのだ。僕も、彼がただの同級生だったら、ボンゴレじゃなかったら、同じように思っていたかもしれない。昨日助けてくれた姿だけで判断するのなら、だけど。

 

(違うのかな。僕の見たツナ君と、僕たちの知っているボンゴレは)

 

 わかっている。たとえツナ君がどんな性格であろうと、復讐することに変わりがないことは。初代ボンゴレが犯した罪は世代がいくら変わろうが、いやむしろ、世代を変えて繁栄するごとに深く刻まれていく。ボンゴレファミリーの繁栄が、シモンファミリーの衰退を意味するのだから。

 僕たちが受けてきた苦しみを、風化させるわけにはいかないのだから。

 

 あてどもなく歩いていたら、いつのまにか神社の裏手についていた。木の合間を縫う風に、日なたでは感じなかった肌寒さを感じる。今年は暖冬らしいけど、それでも冬は近づいているみたいだ。

 神社の表に回ろうと木の葉を踏みしめていたら、先客の声が聞こえた。

 

「あーーー! マフィアのボスとか絶対いやだーーー!」

 

(……ツナ君だ)

 

 声色を思い出す必要すらない特徴的な願いに、僕はちょっと感動してしまう。神社で願い事を叫ぶ人なんて、初めて見た。声だけだから、まだ見てはいないけれど。

 神社の角を回ってツナ君のいる方へと向かう。賽銭箱の前に立っていると思ったけれど、ツナ君は神社に背を向けていた。どうも、神様にお願いをしていたわけじゃなくて、心の声を叫んでいただけみたいだ。そしてその叫びは続く。

 

「だいたい、なんで俺がそんなの引き受けなきゃいけないのさ! 俺は普通に生きていられればいいのに!」

 

 心の底からいやなのが伝わってくる嘆きだった。叫ぶのにいっぱいいっぱいみたいで、ツナ君は後ろにいる僕には気付かない。

 

「マフィアなんてお断りだよ! 俺はただ、京子ちゃんと幸せな家庭さえ築ければいいのに! マフィアのボスになんてなったら、絶対京子ちゃんと結婚できないじゃないかーーー!」

 

 そろそろ声をかけた方がいいかもしれない。このままだと、ツナ君の願望を全部盗み聞きしてしまいそうだ。

 

「ほんと、どうすればいいんだろう! あー、継承式とかやりたくない! 行きたくなーい!」

「いやなら、逃げちゃえば」

 

 ツナ君の背中がビクンと跳ねた。驚いて振り返った顔が徐々に赤く染まっていくのを、僕はなんともいえない気持ちで見ていた。

 

「い、今の聞いてた?」

「……うん」

 

 どこから、という問いをツナ君は口にしようとして、やめた。賢明な判断だと思う。僕も言いふらすつもりはないし、そもそも京子という子がどの子なのかもわからない。僕の知っている女の子は、さっきの相沢さんだけだ。名前は聞いていなかったから、あの子がその京子さんだったりする可能性もあるけれど。

 

「えっと……その……き、奇遇だね、こんなところで」

 

 気まずさを隠すようにツナ君が話題を変えた。

 

「ちょっと、寄り道したくなって。……さっき、相沢さんに会ったんだ」

「相沢さん? 風紀委員の?」

 

 驚いた顔に羞恥の色はない。相沢さんは京子さんではないようだ。

 

「不良に絡まれてたら、助けてくれて」

「不良!? また絡まれたの? 大丈夫?」

 

 気遣わしげな視線が上から下へと向けられる。目の動き方が相沢さんと似ている。

 

「殴られたりする前に相沢さんが来たから。そしたら、みんな逃げてった」

「よかった……。

 相沢さんは風紀委員なんだ。学校の不良連中も風紀委員には勝てないから、すぐに逃げたんだと思う」

「ふうん……」

「あっでも、相沢さん以外の風紀委員はめちゃくちゃ怖いから気をつけて! とくにヒバリさんなんて、ちょっと機嫌損ねただけですぐに咬み殺されるからさ!」

「そうなんだ」

 

(……なんだ、結局一緒か)

 

 人は力を持つとすぐに使いたがる。

 自分より弱い者は力で蹂躙するくせに、自分より強い者からはすぐに逃げる。逃げられないほど弱い者は、ただただ淘汰されるしかない。僕たちはそうだった。

 今はマフィアの概念に怯えているツナ君だって、同じだろう。

 

(僕とツナ君は違う。ツナ君は強いんだ……)

 

 突如境内に現れた殺し屋を、ツナ君はたった一撃でやっつけてしまった。ボンゴレ十代目を継承するに恥じない実力を持っていた彼に、親近感を抱いた自分が馬鹿らしくなった。

 結局、不良にいじめられ続ける僕とツナ君とでは、生きる世界が違う。

 

『炎真君とツナ君が似てるなあって』

 

 ――屈託なく笑っていた相沢さんが、ボンゴレファミリーじゃなくて本当によかった。

 あのとき。ツナ君と似てるなって言われたとき。僕はほんのちょっと、うれしいって思ったんだ。

 

__

 

 

 週末の朝。遅刻者の取り締まり当番である利奈は、ほかの仲間たちとともに整列し、足早に通り抜ける生徒たちを見送っていた。

 遅刻者の取り締まりは登校時間を過ぎなければできないので、それまでは生徒たちの風紀チェックの時間にあてるのである。

 とはいえ、並盛中学校は校則が緩い。とくになにかするわけでもなく、仁王立ちして在校生を怯えさせるだけになっているのが現状だ。そして一人だけ格好の違う利奈は最後尾にいるため、命からがら通り抜けた在校生たちが、安堵の息をつくのを見守る係になっている。

 

(今日も暖かいな……ブレザー脱いどけばよかった)

 

 登校する生徒のほとんどはワイシャツかベストである。

 秋も終わりに近づいて寒くなってもいいはずなのに、ここのところ、ずっと気温は温暖だ。太陽が出ているから、仁王立ちしているとジリジリと肌が焼かれて汗をかきそうになる。

 

(至門生はSHITT・P!さん除いて、みんなブレザー着てたっけ。ハイネックだからすごく暑そう)

 

 数人しかいないとはいえ、見慣れない制服は並中生に混ざっていてもよく目立つ。

 これまでにアーデルハイトと眼鏡の上級生と炎真がここを通ったけれど、炎真以外はハイネックの上着のチャックをきっちり上まで閉めていた。

 ちなみにSHITT・P!は校門を通らずに壁を乗り越えて入ってきたが、仲間たちは微動だにしなかった。きっと、昨日も一昨日もそうだったのだろう。

 

(アーデルハイトさんが来たときはピリッてしたけど、なにもなくてよかった)

 

 アーデルハイトがやってきた瞬間が一番空気が張り詰めていた。なにしろ彼女は風紀委員の職務を乗っ取ろうとしているのだし、昨日風紀委員長と一戦交えたばかりである。

 それなのにしれっとした顔でここを通り抜けていったのだから、彼女もなかなかに強者だ。運悪く同じタイミングで通り抜けた生徒なんて、いわれない圧力で生気が抜けていたのに。

 

(……あ)

 

 また目を引く人がやってきた。しかし今度は至門生ですらない。

 スーツとネクタイに、革靴、中折れ帽まで全身を黒で統一させながらも、威圧感のないかわいらしい佇まい。周囲から暖かい視線を浴びながら、リボーンは悠然とした足取りで利奈の前までやってきた。

 

「チャオっす」

「チャオっす。……え、おはよう?」

 

 リボーンに合わせて返事したものの、戸惑ってしまった。リボーンがこっそり学校内に潜伏しているのは風紀委員公然の事実だけど、こんなに堂々とやってきたのは初めてだ。スカートを押さえながら、利奈はその場にしゃがみ込む。

 

「聞いたぞ。昨日、不良から炎真を助けたんだってな」

「助けたってほどじゃないけど……。そんなのだれに聞いたの?」

「本人からだ。あいつの口からお前の名が出た」

「あー。なりゆきでね、ちょうど絡まれてるとこ見かけたし」

 

 横目でそれとなく仲間を窺うが、だれ一人としてこちらに視線を向けていない。リボーンは恭弥のお気に入りだから、このまま話していても怒られなさそうだ。

 

「で、どうしたの? 沢田君は?」

「あいつはまだだ。お前に用があってな」

「私に?」

 

 未来関連の出来事が頭をよぎる。しかしリボーンは別のことを口にした。

 

「至門生の件だ。お前、あいつらについてどれだけ知ってる?」

「……至門生? 知ってるもなにも、昨日会ったばっかりだし……」

 

 顔と名前を知っている人が三人。顔を知っている人が三人。顔も知らない人が一人いるだけである。知っていることなんて、その辺を歩いている生徒とほとんど変わりないだろう。委員長の恭弥ならあるいは、至門中学校に通っていた頃の情報もそろえているかもしれないが、利奈は彼らのことをなにも知らない。

 

「なら、これから調べてみるつもりはねえか?」

「……うん?」

 

 どうして利奈が至門生を調べる必要があるのか。ボンゴレに所属しているのならともかく、利奈はただの一生徒である。

 

「風紀委員として、あいつらの言動には注意を払う必要があるだろ? 三年のアーデルハイトはヒバリに喧嘩売ってたしな」

「それはそうだけど……べつに調べるとかは必要ないし。まだ学校来てない三年生は気になるけど」

 

 ――そう、転校早々、初日からずっと学校に登校していない生徒がいるのだ。

 三年生の男子生徒で、アーデルハイトと同様、名前がカタカナだったことは認識している。彼もシモンファミリーの一員のはずなので、どんな人なのかについては少し興味があった。

 

「でもほかの人はみんな普通に学校に通ってるし、問題起こしてるわけじゃないし。……リボーン君が自分で調べればいいんじゃない?」

「それがそううまくはいかねーんだ。俺が相手じゃ警戒するだろうからな」

「……う、うん、そっか」

 

 つぶらな瞳で言われても説得力がないけれど、リボーンはこう見えてプロのマフィアである。シモンファミリーにも名が知れているのかもしれないと、利奈はそう納得づけた。

 

「そもそも俺は部外者だろ? 学校での様子を調査するのは難しい」

「それ言ったら、校門から普通に入ってきちゃだめだと思う。昨日、屋上にもいたじゃない」

「そうだったか?」

「わー、とぼけちゃうか」

 

 とぼけ方がじつに白々しい。それでも仕方ないなあですませてしまうのは、リボーンの愛嬌の良さがなせる技なのだろうか。

 

「おっ、さっそく来たぞ」

 

 楽しそうな声に顔を上げると、折よく至門生が二人も登校してきていた。

 どちらも長身なうえに大柄で、一人は横幅が普通の人の二倍以上はある。確か、どちらも同学年の生徒だったはずだ。

 

「チャオっす」

 

 リボーンが声をかけると、二人は無言で立ち止まった。まったく視界に入っていなかったようで、間を置いてから地面に目を向けた。

 

(二人とも大きい……大人と変わんない……)

 

 高身長が揃っている風紀委員より身長が高いうえに、自分がしゃがんでいるせいで首を目一杯傾けても顔が見えない。ゆっくりと立ち上がると、リボーンが三角形を描くようにみんなから距離を取った。リボーンも離れないと二人の顔が見えないのだろう。

 

「おはようございます……」

 

 物言いたげな視線に応えるように頭を下げる。一応屋上で出会ってはいるけれど、印象に残ってはいないだろう。リボーンもそう判断したようで、紹介を始めた。

 

「こいつは風紀委員の相沢利奈だ。ツナの守護者の部下で、俺たちマフィアのこともある程度は理解しているぞ」

「いや、あー、うん。ある程度っていうか、ちょっとだけなんだけど」

 

 恭弥の部下扱いはその方が説明が早いので受け入れるにしても、ボンゴレファミリーと関わりがあると思われてしまったら大事だ。やんわりと訂正を入れると、気にすることなくリボーンは頷いた。

 

「ま、あくまで俺たちの事情を知っている、くらいだな。ボンゴレの人間じゃねえが、ツナたちと同じクラスだ。風紀委員はなにかと事情通だし、関わりを持っていても損はねえぞ」

 

(あっ、さっそく取り入れさせようとしてる……)

 

 さりげなく引き合わせて仲を取り持とうとするとは、さすがボンゴレ十代目の家庭教師、抜け目がない。ここで利奈が否定したところで、謙遜にしかならないだろう。そこまで狙っているのならとんだ策士である。

 リボーンの紹介を受けて、恰幅のいい生徒がゆるりと利奈に視線を合わせ、手を差し出してきた。

 

「おいらは大山らうじ。よろしく」

「……あ、よろしく」

 

 変わった一人称に一瞬たじろいだものの、自身を王子とか呼ぶ人もいたなと気持ちを入れ替える。出された手に自分の手を重ねると、優しく握り返された。肉厚な手のひらは暖かくて思いのほか心地いい。

 もう一人とも挨拶をとそちらに顔を向けると、彼はふいっと目を逸らして、そのままズンズンと柄悪く歩き去ってしまった。

 

「え……」

「気にしなくていいよ。あいつ、ちょっととっつきづらいところあるから」

「はあ……」

 

 肩を突き出すような歩き方は、一昔前の不良のようだった。風紀委員の格好をさせたらまさしく昔のツッパリだろう。

 ほかの生徒たちを怯えさせながら遠ざかっていく背中を眺めていたら、物珍しげな視線をらうじに向けられた。

 

「君、薫が怖くないの?」

「怖い? ああ、顔が? 全然、だってほら」

 

 言外に仲間の風紀委員を示す。皆、彼と似たり寄ったりの風貌だ。

 

「そりゃあ、こんだけ強面に囲まれてりゃ慣れるだろうな」

「そうそう。それにえっと、薫君? 見た感じ、ちょっとおとなしそうな人だったから」

 

 終始無言ではあったものの敵意は向けられなかったし、人が話しているときはちゃんとその人の方を向いていた。最後に無言で立ち去った点だけは感じが悪かったけれど、人のよさそうならうじが助け船を出したくらいだから、根はいい人なのだろう。

 利奈の見立てはそこまで間違ってないようで、らうじの否定は入らなかった。

 

「おとなしそう、か。なるほどな。そういや、山本もあいつのことは気にかけてたか」

「なら、いい人だよ。山本君いい人だか――」

「いつまで無駄話するつもりだ相沢ぁ!」

「らっ!?」

 

 脳天に拳が振り下ろされ、視界に星が舞う。振り返ると、こめかみに筋を浮かべた近藤の姿があった。見逃すにも限度があったらしい。

 拳を眼前で握りしめたまま、近藤はらうじへも険を向けた。

 

「お前もさっさと教室に行け! 始業のチャイムが鳴るぞ」

「じゃあね、相沢さん」

「うん、また。リボーン君、も……」

 

 すでにリボーンの姿は影も形もなかった。部外者だから学校には入れないという建前を貫き通すつもりらしい。

 どことなく釈然としない気持ちを抱きつつ、利奈は委員会活動に戻った。そして欠席続きの三年生は、チャイムが鳴ってもやはり現れなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

似た者同士は角が立つ

 

 昼休み。京子たちと机を並べてお弁当を食べる。

 昨日と同じく、教室の一角は円を描くように机がなくなっていて、その中心でSHITT・P!があんこを頬張っていた。

 

「見んのやめなさい、胃もたれするわよ」

 

 花はSHITT・P!に欠片も視線を向けずにサンドイッチを摘まんでいた。

 そうは言われても、缶詰のあんこをスプーンで頬張っている姿はなかなかに目を引きつける。飲み物もないのに、よくあんこだけをずっと食べられるものだ。

 

「飽きないのかな、あれ」

 

 利奈の問いに答えて京子が体をひねった。

 

「あんこだけだと飽きちゃいそうだよね。パンとかご飯とかあればいいんだけど」

「……あんた、あんこおかずにご飯食べれんの?」

 

 花の言葉に、京子は心外とばかりに目をしばたく。

 

「えー? だって、あんことご飯があればおはぎができるでしょ? あんこはパンに塗っても美味しいし」

「へー、今度やってみよ」

「私は当分あんこはいいわ……あれ見てると食欲なくすし」

 

 花がうんざりした声を出す。確かに、見ているだけで口の中が甘ったるくなってくる。このままだと花が本当に食欲をなくしてしまいそうなので、利奈は話題を切り替えた。

 

「昨日クロームに会ったんだけど、クロームも日曜日、大丈夫だって」

「ほんと? ハルちゃんも昨日電話したら是非行きたいって言ってたよ」

「おー!」

 

 ハルなら断らないと思っていた。トントン拍子に話が進んでいる。

 

「じゃあ五人ね。時間どうする?」

「三時でいいんじゃないかな。おやつの時間だから」

「楽しみ! ご飯抜いちゃおっかな」

 

 甘いものは別腹というけれど、どれもこれもおすすめでは、いくらおなかが空いても足りないだろう。いっそ朝から抜いた方がいいだろうか。

 

「やめなさい、逆に食べられなくなるから。

 待ち合わせ場所どうする? クロームって子は店の場所知らないんでしょ」

「だから私、先に待ち合わせして合流しよって言っといた。いろいろ話したいこともあるし」

 

 おもに未来のことでと、京子にだけ目配せを送る。うまくサインが届いたようで、納得した顔で頷かれた。

 

「クロームちゃんに会うの楽しみだな。黒曜中学校って学区違うから、全然会えないよね」

「ハルも学校違うしね」

「緑中でしょ? あそこって偏差値高いって聞いたけど」

「へー、頭いいんだ」

 

 緑女子中学校に通っているのは知っている。よくよく考えてみれば、私立中学校に通っている時点で成績の優秀さは窺えただろう。

 

「その調子だと、優等生キャラってわけじゃなさそうね」

「全然。いつも敬語だけど、頭よさそうって感じじゃないし」

「ハルちゃんはすっごく元気で明るい子だよ。クロームちゃんもおとなしくていい子だし」

「それだけ聞くと、足して二で割るとちょうどいい感じ」

「あー、確かに」

 

 その場にいない二人の話で盛り上がっていたら、ふと背後に気配を感じた。振り返ると、もう食べ終わってしまったのか、バットを担いだ武が立っていた。

 

「なに?」

「今、クロームとかハルとか聞こえたから。ハルって、三浦だよな?」

「そうだよ」

「やっぱそうか。二人がどうしたんだ?」

 

 武は未来に行く前からその二人とは知り合いだった。未来では修行漬けで食事以外での接点はなかっただろうけれど、やはり気になるのだろう。

 

「日曜にみんなでケーキ食べに行くの。だからその相談、みたいな」

「日曜日……?」

「そ。女子会だからあんたはだめよ」

「もう、花ったら」

 

 京子は窘めたが、利奈は内心強く花の牽制を賞賛した。武を誘ったなんて知られたら最後、女子の顰蹙を買うばかりか、当日に人数が倍以上に膨れ上がる可能性もある。武には悪いが、百害あって一利なしだ。

 

「ああ、いや。日曜っつったら水野と部活行く約束したなって」

「水野? そんな名字の人いたっけ」

 

 なにかと全学年分の生徒名簿に目を通す機会が多いけれど、初めて聞く名字だった。

 

「転入生だよ。ほら、俺より背が高くて筋肉質なやつ」

「……あー」

 

 登校時にらうじといた、無口な同級生を思い出す。そういえば、武が気にかけているとリボーンから説明があった。

 

「あいつ、ちょっと部活で浮いててさ。だから一緒にピッチングしようぜって誘ったんだ」

「ピッチングって?」

 

 耳慣れない単語を聞き返す。

 武の参加していた秋の大会はみんなと観戦したものの、大まかなルールくらいしか覚えられていない。

 

「ピッチャーの練習だよ。水野が本気でボール投げて、俺が取るやつ。

 あいつピッチャーだから、速い球投げられたらほかの奴らも認めてくれるだろ?」

 

 にかっと笑う武はどこまでも好青年である。

 

「へえ。すごいね山本君、自分だって練習あるのに転入生まで気にかけて。私なんて自分のことだけで手いっぱ――あー!」

「おっ、どうした?」

「なによもう、急に立って」

 

 みんなの注目を浴びながら、時計を確認する。当たり前のように十二時を過ぎていて、利奈は頭を抱えた。

 

「休んでるあいだの社会のプリント、今日の朝までに出せって言われたんだった! どうしよ、完全に忘れてた!」

「あーあ」

「今から出せばいいんじゃねーか?」

「だよね! ちょっと行ってくる!」

 

 グズグズしてはいられない。お弁当箱の隅に残ったご飯を掻き込んで、風呂敷を結ぶ。

 

「机片付けとくよ」

「ありがと! ごめんね!」

 

 京子の申し出をありがたく受け入れ、利奈は疾風のごとく駆け出した。

 

 社会の先生はちょうど職員室で午後の授業の準備をしていたところで、そこまで焦る必要はなかったのにと、プリントを受け取ってくれた。これが風紀委員の班長相手だったら、無言の圧に頭を押されて、じっとりと脂汗を流すことになっていただろう。

 

 頭を下げて職員室を出ると、そのタイミングで声をかけられた。

 

「おお、相沢!」

 

 京子の兄の了平だ。相変わらず了平の声ははっきりとよく響く。そういえば、未来から帰ってきてから一度も話をしていない。

 

「こんにちは、先輩。ちょっと久し振りな感じがしますね」

「そうだな。職員室に行っていたようだが、なにかあったのか?」

 

 気遣わしげな視線を向けられる。未来で世話になった十年後の了平の面影と重なって、頼もしさを感じてしまう。

 

「出し忘れてた宿題出してきただけです。先輩はどうしたんですか?」

「うっ――!」

 

 目的を聞かれたのでこちらも聞き返しただけだったのに、痛いところを突かれたとでも言いたげな顔で了平はのけぞった。この反応はおそらく、妹に知られたくない内容だったのだろう。第一声以外の声の音量も控えめだったし、いつもの覇気がない。

 

「なにかあったんですか? 体調悪そうですけど……」

「わかるか? じつは、すこぶる気分がよくないのだ」

「ええ!? 大丈夫ですか!?」

 

 風邪を引かなそうなタイプと言うと意味が変わるが、病気とは無縁そうな人物なだけに、利奈は驚いた。見た目は元気そうだけど、未来の怪我もまだ完治していないだろう。もしかしたら、人知れず後遺症に苦しんでいたのかもしれない。

 

「病院行きます? それか、リボーン君に相談するとか!」

「うむ? いや、そういった類いのものではないのだが……すまん! 言い方が紛らわしかったな」

 

 言いながら了平は左右を確認した。

 

「京子は近くにいるか?」

「京子なら教室ですよ。……京子には内緒の話ですか?」

「ああ、頼む。その……じつはだな」

 

 声を潜める了平に固唾を呑む。家族にも内緒となると、これはいよいよ重大な秘密なのではと、利奈も息を止めた。

 了平はギュッと眉間にしわを寄せると、次の瞬間、勢いよく両目を見開いた。

 

「じつは――説教の呼び出しを受けている!」

「わー! 心配して損したっ!」

 

 心の底からどうでもいい理由だった。本当に心配してしまったぶん、了平よりも大きい声が出る。

(心配かけたくないからじゃなくて、京子に叱られたくないから黙ってろってことか! まったく!)

 

「人騒がせですね! いったい、なにやらかしたんですか」

「説教と言っても校則を破ったわけではないぞ! 極限にクラスの奴と揉めただけだ!」

「喧嘩したのに威張らないでください!」

 

 腕を組んで仁王立ちする了平の顔に反省の色はない。やはり十年経たないとあの頼もしさは生まれないようだ。

 

「言っておくが、暴力は振るってないぞ! 京子にも止められているからな!

 ただ、同じクラスの転入生があまりにも突っかかってきおってな! 授業中だということを忘れてつい立ち上がってしまった!」

「戻ってきたばっかでなにやってるんですか、もう。……え、転入生?」

 

 さらりと流しかけたけれど、転入生が相手となると話が変わる。転入生と言えば至門生、至門生と言えばシモンファミリーだ。

 

「シモンの人と喧嘩したんですか?」

「ああ。どうもあいつは最初から俺を目の敵にしていてな。一昨日の補習中もバカだなんだと散々バカにしおって! 一緒に補習を受けている時点でお前もバカではないか!」

「先輩先輩、落ち着いて! ここ、職員室の前ですよ!」

 

 話しているうちに腹が立ってきたようで、声を荒げ始めた了平を宥める。どうも話を蒸し返してしまったようだ。

 

「ところで、その転入生ってどんな人ですか? 鈴木さん……ではないですよね?」

「青葉紅葉だ! あの男、それ以来、事あるごとに突っかかってきよる! もう我慢ならん!」

「だから落ち着いて! あんまり騒ぐと京子にバレますよ」

「ヌグッ」

 

 京子の威力は絶大だった。名前を聞いた途端、了平は口をつぐみ、握りしめていた拳を下ろし、いからせていた肩を落とした。普段は人のことなどまるで気に留めない了平も、妹にはとことん弱いらしい。

 

(転入生にバカにされ続けたら腹も立つだろうけど。これじゃ説教どころか反省文だな)

 

 復帰早々に赤点で補習を取り、そのうえ呼び出しとは。京子にバレたらただではすまないだろう。愛する妹に窘められるのは相当堪えるようで、了平は神妙な表情で頭を垂れた。

 

「むう……京子にはあまり心配をかけたくないが、バカにされるとどうも黙っていられなくてな。悪いが、京子には黙っていてもらえないだろうか」

「わざわざ言いませんよ、そんなこと。でも、職員室で暴れないでくださいね。風紀委員案件になったら、さすがに黙っていられなくなっちゃいますから」

「うっ。わかった、気をつけよう。では行ってくる」

 

 リングに上がるボクサーさながらの気迫をまとってはいるが、ただ説教を受けに行くだけだと思うと滑稽である。それほどまでの覚悟ははたして必要なのだろうかと疑問に思いながらも、利奈は職員室に背を向けた。

 

(転入生と喧嘩かあ。青葉紅葉って……眼鏡の人かな?)

 

 転入生の顔を順番に思い浮かべる。一人は学校に来ていないから、消去法で考えれば眼鏡をかけた生徒が青葉紅葉なのだろう。見るからに頭の良さそうな顔をしていたので違和感があるけれど、思い返してみれば、屋上でリボーンの軽口に突っかかる程度には沸点が低い。人物像は合致していた。

 

(あれ、私、その青葉さんと学校に来てない人以外はもう大体顔見知りじゃない? SHITT・P!さんはべつとして、鈴木さんも委員会的には関係してるわけだし……)

 

 つまり、まんまとリボーンの目論見通りになっているというわけだ。それがなくても風紀委員として彼らには注意を払っただろうから、遅かれ早かれこうなっていたのかもしれないだろうけれど。

 

(って、さっそく至門生見つけたし)

 

 人気のない廊下の先で、上を見上げている至門生を発見した。教室のプレートを見ているようだが、理科準備室になにか用でもあるのだろうか。

 

(呼び出し? ……ちょっと違うか)

 

 今度は隣の理科室のプレートを確認している。キョロキョロと辺りを伺っているが、どうやら道に迷っているようだ。

 

(そうそう、転校したばっかだと教室どこにあるかわかんなくなっちゃうんだよね。移動教室のときなんて、同じクラスの人について行かなきゃだったし。)

 

 今ならば人に聞いたり話しかけたりできるけれど、あの頃は人との交流をすべて避けていた。懐かしさを感じながら、利奈は転入生へと近づいていく。足音に気がついた転入生が振り返る。レンズの奥の瞳が利奈を捉えた。

 

(あ、青葉さんだ)

 

 話に出てきたばかりの人物に利奈は驚いたが、それよりも先に紅葉が口を開いた。

 

「おお、ちょうどいいところに。そこの下級生、職員室の場所は知っているか」

 

 渡りに船と言わんばかりの声に、利奈は無言で頷いた。さすがにもう校舎内の教室は覚えたし、職員室なら今行ってきたばかりである。

 

「職員室に呼ばれているのだが、一向に辿りつけなくてな。時間があれば連れて行ってもらいたいのだが」

 

 こちらから尋ねる手間が省けた。職員室はこのちょうど真下にあるから、口で説明すれば済むだろう。

 

「職員室、下の階にあるんで階段降りればすぐですよ」

「悪いが、行き方は道行く生徒に何度か聞いている。しかし結局覚えられないから、案内を頼みたい」

「……はい、そういうことなら」

 

 どうやら本当に見た目と能力が伴っていないらしい。風紀委員でも一番華奢に見える人が最強で最恐なのだから、見た目だけで人を測るのは浅はかだと知ってはいるけれど。

 先導するために前を歩くと、紅葉はほっとしたように息をついた。

 

「いやはや、いつになったらたどり着けるかと思った。親切な生徒も一人はいるのだな」

「一人?」

 

 やけに引っかかる物言いだ。利奈の声音にそれを感じ取ったのか、紅葉は鷹揚に腕を上げた。

 

「ああ、気を悪くしないでくれ。同じクラスに救いようのないバカがいてな。結局、これから職員室に行くのも、そのバカと二人で呼び出されたせいなんだ」

 

 利奈は一瞬、了平と顔なじみであることを告げるか告げないかで迷った。しかし、了平と知り合いだと言った場合の利点がなかったので、しらばっくれる方を選ぶ。

 

「そうなんですか。転校したばっかなのに、大変ですね」

「まったく、バカは短絡的で困る!」

 

 こちらも了平と同様、怒りは静まってないようで、鼻息荒く腕を組んだ。仕草が了平と瓜二つである。

 せっかくだからこちらの言い分も聞いておこうと、利奈は歩く速度を緩めて後ろを振り返った。

 

「なにがあったんですか?」

「あいつがあまりにもバカだったからそれを指摘しただけだ。結局、バカはバカであることすら受け入れられんらしい。嘆かわしいことだ」

 

 上から目線な態度に、了平が怒っていた理由の説明がついた。そこまで面識がない人にバカと呼ばれて、抵抗なく受け入れる人は少ないだろう。

 

「うーん。でも、いきなり人のことをバカって言うのは、ちょっとあれじゃないですか。難しいですけど」

「いや、あれは正真正銘の真性バカだ。そして結局とても失礼なやつだ。僕の名前を罵倒した」

「えっと?」

「僕は青葉紅葉という。青々とした葉に秋の紅葉。あの男、名前を聞いた途端、極限に矛盾した名前だと笑い出した。皆の前でな!」

「それは……ひどいですね」

 

 どうやら了平も彼に失礼な態度を取っていたようだ。一人の証言を鵜呑みにしてはいけないのだなと、利奈は心に刻んだ。都合の悪い場面を隠した了平には、次に会ったときに釘を刺しておこう。

 そこで職員室についてしまい、利奈は話を切り上げた。

 

「ここが職員室です。先生の座席表はここに」

 

 ドアに貼られている座席表を指差す。わざわざ確認しなくても了平がすでに待っているからわかるだろうが、建前上伝えておく。

 

「なにからなにまですまないな」

「いえいえ、これくらいは。またなにかあったら気軽に声かけてください」

 

 人当たりよく応えるが、紅葉は若干顔を曇らせた。

 

「……いや、次からは違う人に頼もう。結局、アーデルハイトに睨まれたくないからな」

「え……」

 

 紅葉の視線が腕章に向けられ、利奈は言葉の意味を理解した。仲間が敵対している組織の力は借りられないということだろう。先導する利奈の腕章に目を留めていたようだ。

 

「あ……じゃあ、失礼します」

 

 なんともいえない気まずさを感じつつ頭を下げると、紅葉は思いがけない言葉を口にした。

 

「待ってくれ、まだ名前を聞いてない」

「え? でも……」

 

 先に距離を置く発言をしたのは紅葉だ。困惑するが、紅葉は誇らしげに胸を張った。

 

「風紀委員に頼ったらいい顔はしないだろうが、一生徒と知り合いになるのまでは止められていない。それに結局、後輩女子と親しくなるのは、やぶさかではないからな!」

「……」

 

(最後のがなかったらなあ……)

 

 しかも最後の一言の方が熱量が高かったために、残念さが際立ってしまう。

 

「二年の相沢です」

「相沢か。覚えやすい苗字だな。結局改めるが、僕は青葉紅葉。三年生だからその敬語は崩さないでくれよ」

 

 ピシッと指を立てる青葉に、利奈は苦笑交じりの笑みをこぼした。

 このあと、予想通り職員室で二人のいざこざが勃発するのだが、それは利奈のあずかり知る問題ではなかった。そしてそのいざこざは京子の耳にも入るのだが、結果は言うまでもないだろう。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

針仕事とケーキ

 

 みんなでケーキを食べに行く約束をした日曜日。

 予想通り制服姿でやってきたクロームを着せ替えていたら、京子から電話がかかってきた。

 

「運動場で野菜になる? え、どういうこと?」

 

 理解できずに漏らした言葉を聞き留め、クロームが振り返る。着たばかりのオーバーニットはサイズが合わなかったようで、袖口からは指先しか出ていない。小さく首を振ってみせると、クロームはニットを脱ぎ出した。

 京子と二言三言やりとりしてから電話を切る。

 

「どうかしたの?」

「なんかよくわかんないけど、学校の運動場に来てって。野菜を縫うとか言ってたけど、野菜って縫うものだっけ?」

「食べるものだと思う」

「だよね。……あ、ごめん、適当になんか着てていいよ。寒いでしょ」

 

 キャミソール姿のクロームにそう促し、次に着せる服を探す。身長はそんなに変わらないけれど、クロームが細身なのでどうも服が合わないのだ。利奈が持っている服が原色系ばかりなのも、理由のひとつではある。

 

(京子に行くって言っちゃったし、そろそろどれか選ばなくちゃ。クロームに似合いそうなの、なんかないかな)

 

 クロームに着替えを提案したのは、母の一言でハッとしたからだ。

 今日の朝、この前遊びに来た友達と家で待ち合わせをしていると伝えたら、ああ、あのおなか出した制服着てる子、と言われたのである。

 

(いつもあの格好だったから気にしなくなっちゃったけど、めちゃくちゃ目立つ格好だったよね。花に変な第一印象植え付けるところだった……)

 

 改造制服はクロームの趣味ではないらしいが、一人だけ制服なうえに攻めた改造を施していたら、あらぬ誤解を受けてしまうだろう。内気なわりに人目を気にしていないクロームだが、空気がぎこちなくなるのは避けたい。

 

「あ、これどうかな。私あんま着てないんだけど、クロームなら合うかも」

「わかった」

 

 裾のひらひらがかわいくて買ったものの、裾のひらひらがかわいすぎて着られなかった白のチェニックを渡す。頭の上からかぶると、黒曜中のスカートがすっぽり隠れた。

 

「似合うね。じゃあ短パンか長ズボン……短い方がかわいいから短パン! タイツ履く? ちょっと暑いかもしれないけど」

「だ、大丈夫」

 

 勢いに押されてか、クロームは面食らっている。深緑色の短パンを履いてスカートを床に落としたクロームを検分し、問題なしと利奈は大きく頷いた。

 利奈は赤い七分丈のトレーナーの下にブラウスの襟をのぞかせ、黒いキュロットを履いている。自分の支度はクロームが来る前に済ませておいたので、すぐに家を出ることができた。黒曜ランドにはそのまま行くので、クロームの制服は紙袋に入れて渡してある。初めて着る服が気になるようで、しきりに体を見下ろしている。

 

「着心地どう? サイズきつかったりしない?」

「大丈夫。……その髪飾り、未来でもしてたね」

 

 髪飾りがシャラリと揺れる。髪の長さが合わなくてつけるのを断念していた髪飾りだけど、耳の横で編みこんだ髪に挿したら、セミロングでもつけることができた。飾りの揺れる音が左耳につくけれど、そのうち慣れるだろう。

 

「前は自分でつけられたんだけど、髪編んだりとかしなきゃだからお母さんに頼まないとつけられないんだ。自分でできるように頑張って練習しなきゃ」

 

 四角いガラスを摘まんで笑う。

 未来であった出来事などを話しているうちに学校について、利奈はひとつ、深く納得した。京子たちは、たしかに運動場で野菜を縫っていた。

 

(運動場で野菜の着ぐるみを縫うってことかー!)

 

 トマト、長ネギ、タマネギ、ピーマン、その他諸々。色とりどりの野菜の着ぐるみが取り揃えられていた。これらを持ち込んだのはハルであり、聞けば、薫のあがり症を克服するため、みんなで野菜になりきる作戦を立てたらしい。

 

「納得できなくていいよ。俺もまだ納得できてないから」

 

 綱吉以外はハルの発想に疑問はないようで、楽しそうに野菜を繕っている。着ぐるみはどれもしばらくしまいこんでいたもので、ほつれや丈を直さねばならないそうだ。

 

「たくさんあるから京子ちゃんやビアンキさんたちも呼んだんですけど、約束の時間に間に合わなくなりそうなので利奈さんたちも呼んだんです」

「なるほどね」

「悪いな、遊びに行く予定あるって聞いてたのに頼っちまって」

 

 武も野菜を繕っている。野球部のユニフォームを着て裁縫をしているので、違和感が拭えない。

 

「いいよ。クロームの服選んでただけだから」

「そういえば今日はクロームちゃん私服だね」

「あっ……これ、利奈の服」

「そうなんですか!? お似合いだからクロームちゃんの服だと思ってました!」

「ふっふっふっ」

 

 選んだ服が褒められたので、得意になって胸を張る。未来で貰った服があればもっといいコーディネーションができたのだけど、それはないものねだりというものだろう。とはいえ、いつかどうにかしてあの服たちをこちらの世界に持ってきたいものである。

 

 右手に針、左手に布を持って作業を始める。長ネギの先端が大きく裂けていたので、それを元通りにしていくのが利奈の作業だ。

 

(……う、難しいかも)

 

 裁縫なんて家庭科の授業で雑巾を縫った程度だ。針が思ったところから出てこないし、縫い目はお世辞にもきれいとはいえない。それに引き換え、ハルはすいすいと針を動かしていた。針運びに迷いはなく、針がひとときたりとも止まらない。

 

「すごいね、どうやったらそんなになんの」

「ハルは慣れてますから! このお野菜たちも、学校のみんなで一針一針愛情をこめて縫ったんですよ!」

「……すごい」

 

 クロームも感心していた。利奈と同様、裁縫には縁がなかったようで、手つきが少し危なっかしい。

 

「練習すればうまくなりますよ! 着ぐるみ制作は趣味ですが、ほかにもお掃除や料理……花嫁修業は完璧です!」

「ちょっ、ハル!」

 

 ピトッと体を寄せられた綱吉がすかさず立ち上がった。弁明するように京子に向かって首を振っているが、ニコニコ笑っている京子にその意図は伝わっていないだろう。青いわねと言いたげにビアンキが肩をすくめる。

 

「そうね、ハルはいいお嫁さんになれると思うわ。花婿にはもったいないくらい」

「ありがとうございます! これからも頑張りますね!」

「やめろよビアンキ!」

 

 釘を刺しながらも綱吉はその場に座り直した。なんだかんだ言いながらもハルの好意を完全には拒めていないところが、この状況を作り出しているのだろう。このやりとりを初めて見るはずの薫と炎真、そしてらうじの反応を見てみるが、彼らは無関心を貫いていた。

 

(そういえば、炎真君とらうじ君はなんで来てるんだろう。水野君がいるから?)

 

 同じファミリーなら薫のあがり症も知っていただろう。克服を手伝うためにわざわざ来たのなら、ずいぶんと仲間思いな人たちだ。そのうえらうじは子供好きなようで、べったりくっつくランボと楽しそうにじゃれていた。

 

(水野君があがり症ってのにもびっくりしたな。無口な人だとは思ってたけど、恥ずかしがり屋だったなんて……)

 

 人前でボールが投げられないほどの極度の恥ずかしがり屋だというのなら、この前の朝に一人だけ立ち去ってしまったときの印象ががらりと変わる。関わり合いになりたくないから無言で立ち去ったのではなく、自己紹介が恥ずかしくて逃げ出してしまったのだろう。そう思うと途端にかわいらしい人のように思えるのだから、ギャップというものは恐ろしい。

 

「あれ? ……なあハル、着ぐるみってこれだけか?」

 

 綱吉が指を出して着ぐるみを数え出した。

 

「はい、そうですよ」

「……みっつ足りなくないか?」

 

 その言葉に全員が手を止め、着ぐるみと人数を数え始めた。薫本人と自前の着ぐるみがあるというリボーンの分を除けば、必要なのは十二着。しかしここにある野菜の着ぐるみは九着で、綱吉の言うとおり、三着足りない。

 

「はひー、本当です!」

「私たちがあとから来ちゃったからだね。私とクロームは投げるときどっか行ってるよ。いいよね?」

「うん」

「それでも一着足りなそうだな。チビたちは野菜被りたいだろうし、ほかに一人選ばねえと」

「じゃあ、僕も遠慮するよ。あんまり力になれてないし」

 

 武の言葉に炎真が手を上げた。謙遜にならないほど、炎真の手には絆創膏が貼られている。始終指先を針で刺しているので、手当の時間の方が長いくらいだろう。みんなもうまく反応できずにいるけれど、武だけが朗らかに悪いなっと声をあげた。

 ほつれの修繕を終わらせ、だれがどの野菜を着るかを決めて、その人に合わせて丈を直し、それからようやく薫のピッチングが始まった。

 

「――じゃあ、利奈はその水野って人がボール投げたとこ見てないの?」

 

 話を聞かされていた花に尋ねられ、利奈は緩く首を振った。

 

「野球の壁みたいなところで隠れてたんだけど、水野君がイメージできるようになってから私たちも見学したよ。ものすごく速いボール投げてた」

「そう。じゃあ、あがり症は克服したのね。よかったじゃない、着ぐるみ作戦が無駄にならないで」

「水野さんの球、すごかったんですよ! 最初に投げたのはどこかに行っちゃったみたいなんですけど、それ以外は全部山本さんのグローブに入りました!」

「花も来ればよかったのに。面白かったよ」

「いやよ。子供がたくさんいたんでしょ。お断り」

 

 つれなく言い放って花はコーヒーをすすった。

 メンバーを聞いて断られたと京子が言っていたけれど、花は子供が嫌いだったらしい。反対にハルは子供が大好きで、繕い物をしているあいだもニコニコと子供たちを見守っていた。将来、いいお母さんになれるだろう。だれのとは言わないけれど。

 花の飲むコーヒーの匂いが届き、利奈は鼻を鳴らした。すっかり嗅ぎ慣れた匂いである。テーブルに置かれたカップの水面は黒色で、店のかわいらしいランプの光をきれいに反射していた。

 

(あんな苦いの、よく飲めるなあ)

 

 顔色ひとつ変えずにブラックコーヒーを飲む花に、ちょっと憧れてしまう。コーヒーの匂いは美味しそうに感じるけれど、いざ飲んでみるとあの苦さは耐えられない。飲めないのにコーヒーを淹れる機会は多く、文句を言われたことはないけれど味に自信はない。今日だって、紅茶にめいっぱい砂糖を入れている。

 

「並中は転校生がいっぱいで楽しいですね! 緑中には転校生来てないんですよ。黒曜中はどうですか?」

「……たぶん、来てないと思う」

 

 花と挨拶したときはカチコチに固まっていたクロームだけど、みんなでケーキを選んでいるうちに落ち着いたみたいで、普段通りに振る舞えている。花があまり干渉していないのもよかったのだろうし、なにより美味しいケーキは悩みを帳消しにする。

 

「ほんとここのケーキ美味しい! こんなに美味しいケーキ屋さんがあったなんて知らなかった!」

 

 美味しくてうれしいし、なによりほっとした。ここ最近、最高級品のケーキやらご馳走やらを食べ過ぎて舌が肥えているので、美味しく感じられなかったらどうしようとヒヤヒヤしていたのだ。京子たちの言葉は大げさなものではなく、あまりの美味しさに頬と一緒に涙腺まで緩んでしまう。

 

「そうなんですよ! ハルはいつもハル感謝デーを心待ちにして生きてます!」

「ハル、感謝デー?」

「ああ、京子のやってるあれね」

 

 クロームの疑問に答える形で花が声を出す。

 

「一ヶ月に一回めいっぱい好きなだけケーキ食べるやつ。いつだったか、すごく太ったから控えるって言ってたけど」

「いいの! ちゃんと戻ったから!」

「う。ハルも一回だけ体重がデンジャラスになったことがあります……」

 

 二人のフォークがほぼ同時に止まった。そして皿の上のケーキに目を落とす。

 今日はみんなで分け合いすると決めていたので、一人ふたつずつ選んで十種類ケーキを選んでいる。それを半分にして五人で分けているから、よっつの味を楽しめるというわけだ。

 

「きょ、今日はふたつだけですから! 明日はちゃんとおやつ我慢しますし!」

「そうだよね! ふたつくらいなら大丈夫だよね、みんなと一緒だし」

 

 自分に言い聞かせるようにして二人はフォークを持ち直す。利奈もひっそりと、明日はお菓子を食べないようにしようと決意した。

 

「ねえ、利奈」

 

 ケーキも食べ終わり、食後の雑談に花を咲かせていたら、クロームがそわそわと利奈の背後に視線をずらした。利奈の後ろには、今まで食べていたケーキが飾られている商品棚がある。

 

「みんなにも、買って帰りたい」

「お土産ですか?」

 

 クロームの隣に座るハルがクロームの小さな声を聞き留め、そして残る二人もそれを聞いて会話を中断した。利奈たちがこのあと黒曜生たちに会いに行くことはみんな知っている。

 

「だったらクッキーもおすすめだよ。ここのクッキーはホロホロして美味しいの」

「フィナンシェとかマドレーヌもおすすめです。フィナンシェは味が何種類かあるので好きなもの選べますよ」

「……選ぶから、一緒にきて」

「わかった」

 

 財布を持って椅子を引く。

 先ほどはガラスの中しか見ていなかったけれど、棚の上には焼き菓子が飾ってあった。どれも籠のなかに入っていて、そこからひとつずつ選んで買えるようになっていた。

 

(今結構使っちゃったから、できればケーキ以外にしたいな)

 

 クロームも来月のお小遣いを前借りしてきたと言っていたし、あまりお金をかけずに手土産を選びたい。となると、京子とハルのおすすめ通り、焼き菓子を選ぶのが無難だろう。しかしクロームはガラス越しのチョコレートを見つめていた。

 

「……クローム、それはちょっとお高いんじゃない?」

 

 一粒単位で売られているチョコレートだ。一人一粒ならいいけれど、さすがにこんな小さいのひとつじゃ満足しないだろう。とはいえ、箱に入っているだとケーキを買うよりも高額になってしまう。

 

「でも、骸様はチョコレートが好きだから」

「それ買っちゃったらほかの買えないよ。クッキーにしない? チョコチップ入ってるのもあるよ」

 

 クッキーふたつを掲げると、クロームの目がこちらに向いた。その目はチョコチップクッキーを持った右手だけに向けられている。

 

「……チョコ」

「これともう一個選べばよくない? 抹茶とか胡麻とかいっぱいあるし。ね」

「うん、じゃあそうする」

 

 素直に近づいてきてくれたクロームにほっとしながら、左手に持っていたプレーン味を棚に戻す。相談して結局もう一回プレーンを手に取って、紙袋を受け取ったクロームの目は、キラキラと輝いていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

招かれざる客

 

 黒曜ランドに来るのは、これで三回目である。

 相変わらずの廃墟ながらも少し見栄えがよくなったように感じるのは、二回目の訪問が未来でのものだったからだろう。

 これがもう十年経つと、窓という窓からガラスがなくなり、壁が朽ち果て、そこら中が蜘蛛の巣だらけになるのだ。現在、未来、現在の順で同じ場所を訪れるのも不思議なものである。

 

 千種に促されて部屋のドアを開けた利奈は、その内装を見て動きを止めた。これまでに通された部屋とは、かなり趣が異なっていたからだ。

 部屋の広さは半分以下だというのに、家具が多い。衣装の掛かったハンガーラックにベッド、小型の冷蔵庫なんかも置かれている。ソファに座る骸のくつろいだ様子から、ここが彼の生活空間であることが察せられた。

 

(……ここ、骸さんの部屋!?)

 

 思わず後ろに下がりそうになるが、それは真後ろに立つ千種に阻まれた。そうなると前に進むしかなくて、ドアが外側から閉められる。さすがに鍵まではかけられなかったが、千種の立ち去る足音は聞こえなかった。

 嵌められたと脳が警告を鳴らすなか、ソファに座っていた骸が、ゆっくりと腰を上げた。

 

「待ってましたよ。さあ、どうぞこちらへ」

 

 胡散臭さを感じさせる笑みを浮かべながら骸が手招く。室内に犬の姿はないし、あの様子だと千種も入っては来ないだろう。着替えのために自室に向かったクロームが来てくれるのを期待したいが、望みは薄そうだ。

 

(骸さんの部屋に二人きり……罠の匂いしかしない……)

 

 今すぐ逃げ出したいけれど、ドアの外には千種がいる。たとえいなかったとしても、だれにも捕まらずに敷地内から脱出するのは不可能だろう。ここは、黒曜ランドの最奥だ。

 

「いつまでそこに立っているつもりですか。ソファでもベッドでも、好きなところに座ってください」

「し、失礼します……」

 

 骸の態度はいつもと変わらない。丁寧に招かれてしまえば逆らうわけにもいかず、利奈はおずおずと歩を進めた。ソファでもベッドでもと言われたものの、ソファの中央には骸が座っているので、選択肢は実質ひとつである。だからソファを通り過ぎようとしたものの、骸はわざとらしく息を吐き出した。

 

「おやおや、異性の部屋に来て真っ先に向かうのがベッドとは。これは先が思いやられる」

「っ、はあ!?」

 

 くるりと振り返ると、骸はにこりときれいな愛想笑いを浮かべた。

 

「いえ、僕の個人的な感想ですから、どうぞご自由に。日本の女性は奥ゆかしいと聞いていたので、少し驚いていただけです」

「違っ、……だって!」

 

(ベッド座っていいって言ったの骸さんじゃん!?)

 

 言外に非常識だと罵られている。反論しようとした利奈は、骸の瞳が楽しそうに輝いているのに気付いて鼻白んだ。

 

(この人、最初からからかって遊ぶつもりだったんだ……!)

 

 骸は三人掛けソファの真ん中に座っている。ソファを選べばわざわざ骸の隣を選んだことになるし、ベッドに座ればはしたないと窘められる。かといって立ち尽くしていればいつまで立っているのかと咎められるだろうし、どこにも逃げ場がない。

 

(どうしようもない、全部外れ! 私、なにか骸さん怒らせることした!? ――してたや)

 

 リング争奪戦で大きな借りを作っていたのを思い出し、若干気が削がれる。

 恭弥を助けるのに協力してもらったのに戻る機会を失って巻き込まれたり、骸からの通信にしばらく出なかったり、爆弾を友達のために使ったりと好き放題やってしまった記憶があった。その意趣返しならば、骸のこの意地悪にも合点がいく。

 

(でも私だって頑張ったし……。リング渡し忘れてなかったら、あんなことにはならなかったけど……だからって、ねえ)

 

 呼び出しに応えてわざわざここまでやってきたのに、この仕打ちである。そう思うとだんだん腹が立ってきて、利奈は意を決して口を開いた。

 

「失礼します」

 

 許可を待たず、利奈はソファに腰を沈めた。ベッドに座るのが非常識と言うのなら、ソファに座るしかないだろう。でも、ただ隣に座るだけだと骸にしてやられたままになるので、あえて利奈は骸に密着した。肩どころか、足までぴったりとくっつける。

 

(だれか来たらすごく怒られそうだけど、どうせだれも来ないし……でもやっぱり近すぎたかなってわわわわわっ!?)

 

 突然顔を覗き込まれ、利奈の脳内から言葉が弾け飛んだ。

 

「ああ、失礼。未来での記憶に十年後の貴方の顔があったので、見比べてみようかと」

 

 やはり素直に負けを認めればよかった。話す骸の吐息が顔に当たり、利奈はギュッと口をつぐむ。頭の中では白旗がはためいていた。

 

「ふむ……顔立ちはそこまで変わっていませんが、やはり化粧のあるなしでずいぶん変わりますね」

「ソウデスカ……」

 

 至近距離でまじまじと観察され、片言になる。

 まつげの一本一本どころか顔の産毛まで見える距離なのに、骸は一ミリたりとも動揺していない。自分に自信があるのだろう。

 利奈は飛び退きたいのを我慢しながら、左手でソファを握りしめた。

 

「……そ、そういえば骸さんの右目って変わってますよね」

 

 利奈の問いに、骸は瞬きをした。

 

「これですか」

 

 間近にある骸の右目は、赤色なうえに瞳孔がない。代わりに漢数字の六の文字が書かれていて、人工的なものであることは明らかだった。赤いだけでも珍しいけれど、左目が青っぽいのでより一層目立っている。

 初めて会ったときから気にはなっていたものの、義眼となると事情がありそうなので、今まで一度も話題に出したことがない。二人きりの今ならばと、思い切って尋ねてみたわけだ。

 

(失礼だったかな)

 

 骸の表情はいつもと変わらずに涼しげで、なにを考えているかはわからない。それでも青みがかった左目が利奈を捉えたので、利奈は背筋を伸ばした。

 

「……特別に教えてあげましょう。これは、僕が前世で六道輪廻したさいに――待ちなさい」

「ひぐっ」

 

 すかさず顔を逸らしたら、険のある声とともに頬を摘ままれた。力を込めて引っ張られたので、あえなく骸に睨みつけられる。

 

「質問しておいて顔を背けるとはどういう了見です……? 貴方も六道を廻りたいので……?」

「ごめんなさいごめんなさい、痛いです放してください!」

 

 わりと強く摘ままれているうえに爪まで立てられ、利奈は情けなく眉を下げながら骸の左腕を叩いた。端から見ればキス一歩手前の光景だが、甘い雰囲気は一切漂っていない。むしろ殺気が肌を刺していた。

 

(だってこのタイミングで冗談言うなんて思わないじゃん! こっちは真剣だったのに!)

 

 義眼になった理由に前世の話を持ち出されたら、だれだってからかわれたと思うだろう。引いた反応をしなかっただけましなはずなのに、骸は指の力を緩めない。

 

「ごーめーんーなーさーい-! 謝るから! 放してー!」

「ほんとに謝意があるのですかね。……真面目に話そうとした僕が愚かだったか」

 

 ぱっと指を離され、利奈は顔を反対側に背けながら頬を手で覆った。痛みのせいでじんじんと熱が集まっている。

 

(ほっぺたもってかれるかと思った……いったあ……)

 

 からかわれたうえに頬まで引っ張られて散々だ。でも、それほど話したくない理由があるのならば、無遠慮に聞いたこっちが悪かったのだろう。

 そう結論づけて利奈は向き直ったが、そう思われることすら不快なのか、骸の眉はまだピクピクと引きつっていた。しかしもう手を出すつもりはないようで、両腕は組まれている。

 

「話を本筋に戻します。未来の話を聞かせなさい」

 

 もはや暴君の有様で骸が顎をしゃくった。目の話なんてしなければよかったなと思いながらも、利奈は粛々と頭を下げる。

 

「未来の話ってどれ話せばいいんですか。全部話してたら明日になっちゃいますよ」

「そうですね。十年後の僕やクロームが知らない情報、あるいは貴方だけが知っている情報、などでしょうか」

「私だけか知ってる情報? そんなのあるかな……」

「ありますよ。貴方はいろいろな組織を渡り歩いていますし、わりと有益な情報源になると期待しています」

 

(だったらもうちょっと優しく扱ってほしい……)

 

 未だ熱を持つ頬をなぞると、爪の跡で指が引っかかった。

 

 骸の着眼点はあながち間違っていないだろう。

 ボンゴレアジトに飛ばされた次の日にミルフィオーレに連れ去られ、監禁されていたところをヴァリアーに保護され、ボンゴレアジトに戻ったと思ったら真六弔花にアジトを爆破され、なんやかんやの末にまたもや拉致された利奈に匹敵する人間は、この世界にはいないだろう。ほかのみんなに比べると、めまぐるしいことこの上ない。

 

「わかりました、答えられることなら答えますよ。風紀財団関連以外ならですけど」

「おや、ボンゴレやヴァリアーの情報は売るんですか?」

「……命は惜しいので」

 

 拒んだところで、憑依能力のある骸が相手では勝ち目がない。また記憶を弄ばれるくらいなら、自らの意思で暴露してしまった方がマシだろう。

 観念していると、骸はいつもの笑い声を上げた。

 

「そこまで覚悟を決めなくても、世間話程度に捉えてもらってかまいませんよ。……貴方とは、今後も長い付き合いになりそうですから」

「あはは……」

 

 その一瞬。骸の笑みは仲間内に見せる親しげなものへと変わっていたのだが、目を伏せた利奈はそれに気付かなかった。むしろ、付け足された言葉にかえって危機感を募らせたが、骸は誤解を解かずにそのまま表情を戻した。

 

 未来での出来事については、未来でも現在でもいろいろな人に説明しているので、時系列順にすらすらと話すことができる。とはいえ、白蘭関連の話になると感情がこみあげて詰まりがちになったが、骸はその話を広げようとはしなかった。骸の得たい情報ではなかったようだ。

 

「――あとは、こっちに戻ったら行方不明者扱いになっていたってことぐらいですかね。とりあえず、そんな感じです」

「それはクロームからも聞いています。……なるほど、ふむ」

 

 得た情報を咀嚼するためか、骸は口元に手を当てて黙り込む。そのあいだにと、利奈は冷蔵庫から出された炭酸水で喉を潤した。シュワシュワとした炭酸に甘さを期待してしまうけれど、これはこれで悪くない。

 

「なにか役に立ちそうですか?」

「ええ、もちろん。貴方がフランと接触している点など、とくに」

「やっぱり、フランが気になります?」

 

 未来では骸の弟子として――ではなく、ヴァリアーの幹部としてのフランばかり見てきたけれど、彼に幻術を教えたのが骸ならば、フランと出会ったのは骸が先だったのだろう。この時代のフランはまだ十歳にもなっていないだろうけど、早いうちから修行を積ませておけば、もっと強い術士に成長するに違いない。未来の情報を最大限活かしたいのなら、フラン獲得は最優先事項となる。

 

「フランにも未来の記憶は届いているはずですから、親しくしていた貴方の存在は大きなアドバンデージです。さすがに僕たちとの出会いの記憶はないでしょうし」

「そうなんですか。……あっ、じゃあ骸さんも?」

「ミルフィオーレとの戦いの記憶はありますが、それ以上は。十年分の記憶を詰め込んだら、脳が壊れかねないと判断したのでしょう」

「未来と今でめっちゃくちゃになりそうですもんね」

「犬などは、混乱のあまり部屋中を駆け回っていましたよ」

「犬みたい……」

 

 名前に使われている漢字に違わない犬らしい犬を想像して、生暖かい気持ちになる。

 

「とはいえ、僕はここから出られませんし、獲得までは時間がかかりそうです。今のうちにM.Mにも声をかけておかねば」

「あっ、M.Mは知ってたんですね」

 

 M.Mは彼らと同世代だったから、すでに知り合いであってもおかしくはない。ただ、今まで一度も名前や姿が出たことがなかったから、まだ仲間にはなっていないのだと勝手に思いこんでいた。

 骸も骸で利奈の反応を訝しんだが、すぐに合点がいった表情になった。

 

「貴方は知りませんでしたね。彼女は並中襲撃時にも僕たちを手伝ってくれたんですよ」

「そうなんですか?」

「ええ、彼女も僕たちと同じ脱獄囚ですから」

「……へー」

 

 さらりと言われたけれど、彼女もこの時代から犯罪者であるらしい。相変わらず、反応に困る経歴だ。

 

「ちなみにM.Mって今どうしてるんです? ここに来たりもしてるんですか?」

「いえ、今のところは一度も。彼女、傷心中ですから」

「えっ!? ……骸さん、振ったんですか!?」

「グフッ!」

 

 驚きのあまり大声を出すと、骸が吹き出した。

 

「プッ、アハ、クハハハハハ!」

「え、ええ……?」

 

 歯を見せて笑う骸に利奈は困惑する。その笑い方から的外れなことを言ったのだとわかったけれど、あまりにも骸が笑うので、だんだん恥ずかしくなってくる。

 

「だ、だってそう思うじゃないですか! 傷心ってそういう意味じゃ? え、違いましたっけ。テレビで聞いたことあるんですけど……あれ?」

 

 言い募ろうとしたものの、自信がなくて尻つぼみになっていく。未来のM.Mが骸に好意を抱いていたのでそちらに結びつけてしまったが、傷心という言葉にそんな意味は含まれていなかったのだろうか。

 

「いえ、そんな意味もありますよ。でもまさか、いきなりそんなことを言われるとは思ってなくて、不意打ちで……クフッ、クハハハ!」

「笑わないでくださいよ! もう!」

「クフ、失礼。……ええっと、なんでしたっけ? 彼女はボンゴレの人間に毒を食べさせられましてね。あまりにもショックだったようで、それで距離を置いているんです」

 

 目元ににじむ涙を拭きながら骸が答えた。思う存分笑われたせいで、返す言葉が出てこない。

 

(うわ-、私の勘違い……。毒、毒かあ……毒使う人なんていたっけ?)

 

 だれかが毒を使っている場面を一度たりとも見たことがない。未来では匣が戦闘の主流になっていたので披露される機会がなかったのだろうが、毒物を用意しているとは物騒だ。

 

(マフィア関係で獄寺君かな。それかリボーン君が用意したのをツナが使ったとか……うーん、想像できない)

 

 戦いの現場に居合わせていないどころか、だれが戦ったのかすら知らない状態では推理のしようがない。綱吉たちに骸の話は聞けないし、骸たちに負け戦の詳細を尋ねるのは得策ではないだろう。聞き方次第では命が危うい。

 あれこれ考えているあいだ、骸は口元を押さえて黙り込んでいた。

 

「……骸さん、まだ笑ってません?」

「っ、いえ?」

「ごまかせてませんからね?」

 

 思いがけぬところにあった骸のツボに辟易しつつ、利奈は骸の笑いが収まるのを待った。五分は待った。

 

 

_______

 

 

 ノックが響き、会話に熱中していた利奈が顔を上げる。時間がきたかと骸も体をひねった。 ドアを開け、千種が顔を出す。

 

「骸様、そろそろ食事の準備が終わりますが」

「おや、もうそんな時間ですか」

 

 わかりやすいように時計に目をやると、利奈もそちらに顔を動かした。

 六時半になったら部屋に来るようにあらかじめ伝えておいたので、指示通りだ。

 

「じゃあ、私帰っても?」

 

 利奈がそわそわと体を動かす。訪問者は彼女なのにわざわざこちらの顔色を窺うあたり、自分の立場をよく理解しているといえた。

 

「よろしければご馳走しますよ」

 

 利奈の事情を慮って夕食前に退室の機会を与えたものの、食料は五人分用意させている。一応、客室の用意もしてあるので、彼女の希望次第では宿泊も可能だ。

 しかし利奈は遠慮がちに首を振った。

 

「遅くなったらお母さんが心配しちゃうので。ほら、私――」

「行方不明になったばかりでしたね」

 

 失踪騒ぎを起こしたばかりで外泊するのは気が引けるのだろう。想定内の答えである。

 欲しい情報はあらかた得られたので、引き留める必要もない。

 

「では、犬にバス停まで送らせましょう」

「ありがとうございます」

「利奈っ」

 

 息を切らせてクロームがやってきた。

 部屋に来させないよう千種に命じていたが、これくらいは許容範囲だろう。腕には紙袋を抱えている。

 

「これ、借りてた服……ありがとう」

「あー、忘れてた。また遊びに行こうね」

「うん。でも、ほんとに洗って返さなくていいの?」

「いいよそんなの。うちで洗濯するから」

 

 紙袋の受け渡しをする二人を、骸はじっと見つめる。

 

(……服の貸し借りをしていた?)

 

 友との語らいを覗き見するほど無粋ではなかったので、なにをしていたのかは把握していない。しかしどうやら、思っていたよりも満喫していたようだ。

 そのまま二人連れ立って出て行くかと思いきや、利奈は途中で足を止めた。

 

「そういえば骸さん、あの女の子の話はよかったんですか?」

「女の子? ……ああ、彼女ですか」

 

 思い出したような利奈の口ぶりに、骸は未来での記憶を反芻し、その少女の顔を思い出した。

 いや、頭の片隅にはずっと浮かんでいたのだろう。すぐに見つけ出せたのだから。

 

「話もなにも、あの娘は子供だったでしょう。十年前のこの世界ではまだ――」

「え、でも……」

 

 利奈はクロームにチラリと目をやり、そして再び骸を捉えた。

 十年経っても変わらなかった、まっすぐな瞳で。

 

「さっき、外で見かけましたよ。未来で会った真っ白な女の子」

 

 ――過去になったはずの少女が。未来にいたはずの少女が、今を侵蝕した。

 逃しはしないと言わんばかりに。

 

 

 




 これにて一章終了です。二章は原作があれなのでR15G回が出てきます。もちろんその際には前書きにて注意書しますので、ご安心を。

 改稿時に骸の右目のくだりでギャグが入ってしまい、シリアスシーンを全カットする運びとなりました。活動報告でその部分を公開していますので、よろしければご覧ください。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二章:波乱の幕開け
その目に映るのは


 シモンファミリー最後の守護者とは、思わぬ機会に、思わぬ場所で出会うことになった。

 呼びかけに応じて見上げてくる眼鏡越しの瞳は小さく、利奈の姿を捉えても大きくなることはなかった。

 

(まさか、こんなところで)

 

 室内なのに帽子を脱がず、中学生なのに顎髭を生やしている。そして突然後ろから声をかけられたのにもかかわらず、彼は笑顔で利奈を受け入れた。

 

 ――彼がなにかを呟いている。この距離なら呟くというよりは喋ると言うべきなのだろうが、届かないとわかっていて口にしているのなら、呟くで合っているはずだ。実際、目の前にいるのに利奈には声音すら測れない。

 

 どんよりとした空気のなか、甲高い音ばかりが支配している空間で、利奈はあさっての方角を指さした。そして声を張る。

 自分の声すらろくに聞こえない状態では、声を張ったところで効果はない。案の定、声は彼には届かなかったようで、耳に手を当て、聞こえないと露骨にアピールされた。

 その仕草に若干苛立った利奈は、足を踏みならしながらもう一度あさっての方向――外に通じる自動ドアを指さした。

 

「いいから! 出て! 話は! 外で!」

 

 周囲のけだるい視線には一切目を向けず、利奈は至門生の腕を掴んだ。初対面、それも上級生の腕を掴むなんて普段なら絶対にやらないけれど、今は緊急事態である。中学生がこんなところにいるだけで大問題なのだから。

 

「ちょっと待って! 今、確変中だから! これ終わるまで待って!」

「待ちません! 中学生がパチンコやっちゃだめなんですよ! ほら、離す!」

 

 最後の至門生がいた店は、こともあろうにパチンコ屋だった。もちろん利奈は初めて店内に入ったし、制服を着ているのもあって一刻も早く外に出たくてたまらない。

 男は台のレバーを握っていたが、利奈が強く引くと、観念したように台から手を放した。通りすがりの店員は驚き顔で凝視している。

 

「あ、ちょっとスタッフさん! すぐ戻るからその台取っといて!」

「戻りません! 片付けお願いします! 私、風紀委員です!」

「直ちに片付けます!」

「あー!」

 

 未練がましく叫ぶのを無視し、利奈はうるさい店内から至門生を引きずり出した。たばこのにおいが染みついた閉鎖空間から抜け出した開放感からか、軽やかな空気が胸に心地よい。一呼吸深々と息を入れ替えた利奈は、振り返って至門生を下から睨めつけた。

 

 ――事の発端は、八百屋での密告である。

 放課後に母におつかいを頼まれた利奈は、夕飯で使われるであろう白菜を買いに八百屋に寄り、八百屋のおばさんからこう切り出されたのだ。

 

「なんか、角のパチンコ屋に学生が出入りしているみたいでねえ」

 

 聞けば、制服姿の男子がパチンコ屋に入るところをこの店の常連客が目撃し、それを世間話として八百屋の店先で話していたのを、おばさんが聞き留めたらしい。利奈は委員会活動時以外でも風紀委員の腕章をしているため、こうした通報が入ることもある。

 

「素行の悪い子もそりゃあいるだろうけど、なんでもその子、このあたりでは見かけない制服を着てたって言うじゃない。ちょうど並盛中学校で震災に巻き込まれた生徒の受け入れしてるって聞いたし、伝えておこうかって」

「……制服の特徴って話してました?」

「してたねえ。でも、ボタンのない学ランだったってしか」

「ありがとうございます、対処します」

 

 至門中学校の制服と唯一姿を見たことがない至門生の存在を思い描きながら、利奈は白菜をひっさげてパチンコ屋へと向かった。

 ――そんなわけで、想定通りに至門生を発見した利奈は、白菜の入ったビニール袋を後ろ手に持ちながら、尋問を開始した。

 

「とりあえず、並盛中学校に集団転校してきた至門生ですよね?」

 

 念には念をとばかりに所属を確認すると、こんな状況にもかかわらず至門生はにっこりと微笑んだ。

 

「そ。俺、加藤ジュリー。見たところ君、後輩っぽいけど、俺のことはジュリーって呼んでいいからね。タメ口もオケ」

「はあ……。で、加藤さん」

 

 ジュリーの軽口を瞬時に流して、利奈は腰に両手を当てた。

 

「学校に一度も登校してないのはあとで問題にするとして。パチンコ屋に出入りしていた件について話したいのですが」

「あら? なんか怒ってる?」

「当たり前です。中学生がパチンコで遊ぶなんて!」

 

 しかも彼の場合、被災して他校に通っている立場だというのに、学校に通わずに遊びほうけているのだ。風紀委員でなくても眉をしかめるであろう素行の悪さである。

 

「あー、君そういうの気にしちゃう系? べつにだれかに迷惑掛かるわけでもないし、大目に見てよ、ね?」

「見ません! 風紀が乱れます。もうやめてください」

「いやいや、これでも生活掛かってるマジなやつなのよ。俺のじゃなくて、眼帯少女のだけど」

「……眼帯少女?」

 

 日常会話では出てこないだろう単語を聞き留めると、ジュリーは相好を崩した。

 

「そそ、しかもめちゃくちゃかわいいんだな-、これが。なのにいつ見ても麦チョコばっかり買っててさ。男としては、なんとかしなくちゃって思うでしょ? だから、パチンコでもらった景品差し入れてあげてんの。いわば、人助け? みたいなやつ」

「……んん?」

 

 聞き捨てならない単語を聞き取った利奈は、疑いの眼差しでジュリーを見上げた。そして、ためらいつつも疑問点を口にする。

 

「……なんで、その子の買い物内容全部把握してるんです?」

「やべ」

 

 失言に気付いたジュリーが凍りつくが、もう遅い。

 

(学校サボってパチンコしてるうえに、女の子のストーカー!? だめだこの人、私一人で対処できる人じゃない!)

 

 即座にそう判断して身を翻そうとした利奈だったが、やたら俊敏な動きで回りこんだジュリーに悲鳴を飲みこんだ。ストーカー被害者と変わりない反応をする利奈と怪訝な目を向ける通行人に弁明するかのように、ジュリーは両手を上げた。

 

「待った待った、タイム! 話をしよう! 頼むからアーデルハイトに報告はナシの方向で! なにか奢るから! お願い!」

「アー、デルハイト?」

 

 なぜここで彼女の名前が出るのかと面食らうものの、至門生にとっての雲雀恭弥が彼女だったことを思い出す。それとともにジュリーの焦りようから冷静さを取り戻し、身を庇うように両手を胸元に寄せながらも、利奈は聞く姿勢をつくった。ジュリーがあからさまに安堵した顔で手を下ろす。

 

「いやあ、参った! わかった、もうこのパチンコ屋には入らない。だから君も、俺のことをアーデルハイトにはチクらない。オッケー?」

「……それ、ほかのパチンコ店には行きますよね?」

「……気付いちゃったか」

 

 利奈の指摘に舌を出しながらも、ジュリーは余裕そうな表情で利奈を見下ろした。

 

「もともと、ここに来たの今日が初めてで、いつもは黒曜町の店使ってるんだよね。ちょっと目立ってきたからこっちに移ったんだけど、君みたいにかわいくて仕事熱心な子がいたとは思わなくてさ。逆ナンかと思ったのに残念」

 

 だから声をかけたときに笑顔だったらしい。あきれるくらいに軽薄な男だと好感度が下がりっぱなしだが、パチンコ屋に入り浸っている時点で好感度はゼロである。つまり、マイナス記録を連続更新中だ。

 

「あ、それとも逆ナンだったりする? だったら今からお茶しようか? カラオケでもいいよ」

「こっちからお断りします。もう、話を逸らさないでください!」

「あはは、怒った顔もかわいいねー」

 

 わざとなのかそうでないのか問題を棚上げするジュリーに声を荒げるが、効果はないようでヘラヘラと笑っていた。こうなるとこちらだって弱点をちらつかせたくなる。

 

「……そういえば、アーデルハイトさんとは話したことないんですよね。貴方のことも含めて今度じっくり話を――」

「とりあえずなにか食べよっか! どこがいい? どこでもいいよ」

「おなかすいてないので。あっ、そこに自販機ありますよ。コーラも」

 

 すかさず小銭を取り出したジュリーを横目に、利奈は携帯電話を取りだして現在地をメール画面に打ち込んだ。宛先を班長にし、いつでも送信できる状態にしてから再びポケットに戻す。無断欠席にパチンコにストーカー。これ以上余罪が増えることがあれば、問答無用で班長を召喚するつもりだった。恭弥なら着信ひとつで呼び寄せられるが、こんなことでまで呼びだしたら、利奈まで屠られてしまうだろう。

 崖の一歩手前にいるとは露知らずに戻ってきたジュリーからコーラを受け取り、そのまま一口飲んで破顔する。学校帰りに飲み物を買うことなんてめったにないし、炭酸は喉に効く。人に奢ってもらったものだと思うと、美味しさもひとしおだ。

 

「いや、ぶっちゃけさ、ここで俺がなに言ったってそれ証明できるものないじゃん?

 もう二度とパチコンしませーんって言ったところで、君だって信用しないでしょ」

 

 利奈が緊張を緩めたことで開き直ったのか、ジュリーは軽口を叩きだす。言われてみれば、彼がどれだけ言いつくろったところで、利奈は一切信用できないだろう。

 

(人によると思うけどね。この人の場合はなに言っても疑わしいってだけで)

 

「だから見逃せってことですか? 言っときますけど、これは口止め料になりませんからね」

 

 コーラを見せつつ念を押す。風紀委員の取り締まりから逃れたいのなら、恭弥に直談判する以外に道はない。とはいえ、その道に先があるかといえば、おそらくノーだろう。足下に沈められて終わりである。利奈の言葉にジュリーは苦笑した。

 

「お堅いなー。あんまり仕事ばっかしてっと、アーデルハイトみたいに眉がつり上がっちまうぜ。力抜いて生きてこうよ」

「……アーデルハイトさんって何組でしたっけ。明日調べに――」

「ストップ! それもうナシ! はー、かわいい顔してほんと融通効かないなあ」

 

 そろそろ彼とのやりとりにも飽きてきたけれど、こうのらりくらりと躱されては埒があかない。アーデルハイトもジュリーに手を焼いていたに違いないと思いながら、ため息をつく。

「どうしてもやめる気はないんですね」

「だからかわいこちゃんの命が掛かってるんだって。どうしてもっていうなら俺のこと四六時中君が見張ってくれる? 俺チン的には大歓迎だけど!」

「絶対にいや」

 

 とうとう敬語が抜けた。なにが楽しくて、ストーカーのストーカーをしなければならないのか。

 

「だったらここはお互い妥協し合おうよ。俺はこのパチンコ屋――そうね、君たちの管轄内で悪さはしない。君はこの件には目をつぶって俺に電話番号を教える。ね、それで完璧」

「教えません! ……あ、口頭でいいならいいけど」

「あはは、それ絶対君の番号じゃないでしょ」

「だめか。でも、私の先輩の番号ですよ。いつもお世話になってる長髪の先輩」

「ん-、罠の匂いがプンプンするからパスで」

 

 さすがにここまで見え透いた罠には乗ってこないらしい。ちなみに世話になってる先輩はだいたい長髪なので、嘘はついていない。

 

「あっ! それと学校に来てない件ですけど」

「今度はそっち? ……んー、そろそろ行かないと本格的にやばい感じか。とりあえず、今度でかい式典に参加しなくちゃいけないから、それ終わるまでは待っててよ。木曜だから、しあさって以降?」

「式典……」

 

(それってツナの継承式のことだよね?)

 

 世界中のマフィアを呼び寄せる、空前絶後の式典。

 リボーンの言っていたことが本当なら、なによりも優先されるべき儀式なのだろう。しかし彼以外のシモンファミリーは全員学校に登校しているし、ジュリーが式典に向けてなにかの準備をしているようには思えない。かといって、ここでそれを指摘したところで彼が行動を改める可能性は低いだろうし、ボンゴレ関係者だと伝えることに利点が一切ない。むしろ、それを理由にぐいぐい詰め寄られそうだ。

 

「……わかりました。でも、報告の義務はありますので、貴方がここにいたことは先輩に伝えますよ」

「真面目だねえ。将来苦労しそう」

「言われなくても知ってます。……じゃあ」

 

 話はここまでとばかりにバッグを背負い直す。お使いで頼まれたものが冷蔵品でなくてよかった。頭をほんの少し下げて立ち去ろうとするが、ジュリーが呼び止める。

 

「ちょっと待って」

「はい? ……な、なんですか?」

 

 ジュリーが初めて真顔になったので、利奈は戸惑いながらも制止した。

 

「いや、ちょーっと気になってることがあってさ。君、悪い男に取り憑かれてるよ」

「へ!?」

 

 取り憑くという言葉に幽霊を連想し、利奈は意味もなく振り返った。当然、そんなもの見えるわけがない。

 

「な、なに言い出すんですか! 性格悪い!」

「嘘じゃなくてマジだから。けっこう執着強いのが取り憑いてるんだよ、そこに」

 

 そう言って額を指さされ、利奈は強く首を振った。もちろんなにも落ちてこない。切り揃えた髪が頬に当たるだけだ。

 

「んー、まあ、言っても信じてもらえないと思うけど、俺そういうのわかる質でさ。ぶっちゃけ、俺なんかよりよっぽど質の悪いストーカーに目ぇつけられるよ」

「ストーカー!?」

 

 美少女の買い物内容を把握して差し入れする男が言うのだから、よほどの相手なのだろう。ジュリーの真顔も相まって、利奈は身を震わせた。

 

「大丈夫、俺チン優しいから、君に憑いた悪いのはちゃんと取ってあげるよ。ほい、取った」

 

 ジュリーがパチンと指を鳴らしたその瞬間、利奈の脳内でなにかが外れた。視界が眩み、足下がふらつく。

 

(なに、これ……!?)

 

 ――音が聞こえる。さっき聴いた、パチンコ玉が溢れる音にも似た、無数の音の束が。ひとつひとつの音は小さいけれど、何千何万という音の粒子が絶えず響いて鼓膜を揺らしている。

 

「ちょ、どうした!?」

 

 ジュリーの声が遠い。音に飲み込まれてしまっている。

 

(そうだ、いつもそう。周りの音が聞こえづらくなって、耳を澄まさないと聞こえない……)

 

 思考が追いつかない。どこに立っているのかわからなくなりそうだ。目の前にいるのがジュリーであることすら信じられなくなりそうで、利奈は唇を動かす。

 

「私、は……」

「大丈夫!? 気持ち悪くなっちゃった!? それとも――」

 

 ジュリーの手が両肩を掴んだ。それがだれなのかも認識できないまま顔を上げた利奈の瞳に、男の顔が映る。

 

「なにか、思い出した?」

「……あ」

 

 ――そう、思い出したのだ。

 あの日の記憶を。なかったことにされた記憶を。初めて彼らに会ったときの記憶を。彼女の本当の名前を。

 

(……そうだ)

 

 あの日は、雨が降っていた。

 

「気分悪いなら家まで送ろっか? それともどっかで休む?」

 

 ジュリーの声は利奈には届かない。

 耳を覆い尽くしていた雨音がだんだん小さくなり、周囲が静まりかえっていく。まるで凪のようだと、利奈は親しい友人の顔を思い浮かべた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見えない繋がり

 

 

 次の日の目覚めはいいものではなかった。

 思い出したばかりの記憶を何度も何度も寝る前に咀嚼したせいで、寝付くのにずいぶんと時間が掛かった。そのうえ夢でまで同じ内容を繰り返し、起きたときにはすべてが夢だったのではと疑ってしまったくらいだ。ようは、全然頭が休まっていない。

 

(記憶喪失の人の記憶が戻ったらこんな感じなのかなあ。半日分でこれじゃ、十五年なら頭パンクしちゃいそう)

 

 もそもそと食パンを口に運ぶ。

 顔を洗ったあとだというのにまぶたは重く、食べるのをやめたら居眠りしてしまいそうだ。コーンスープのだまをスプーンで潰し、天気予報に耳を傾ける。

 十一月になったものの、この暖かさはまだしばらく続くらしい。とはいえ、早朝でまだ日が昇りきっていない時間帯は少し肌寒い。スープで充分に暖を取ってから、利奈はいつもの時間に家を出た。そして硬直する。

 

「あ、来た」

「やっと出てきたびょん!」

 

 千種と犬、黒曜中の制服に身を包んだ二人が、待ちかねたとでも言いたげな顔で立っていた。階段の上なので見下ろす形にはなってはいるものの、犬が両手をズボンに突っ込んで睨めつけてくるので、地の利は得られそうにない。

 

(なんで二人がここに……?)

 

 夢の続きを見ているような不思議な気分を味わいながらも階段を降り、門を開ける。交互に二人の顔を見やった利奈は、驚きながらも一言呟いた。

 

「学校は?」

「……ほかに聞くことないの?」

 

 気の抜けた態度で千種が返す。

 二人は学校に通っていないのだから、おかしな質問だと思われただろう。それでもつい口にしてしまうくらいには混乱していた。こんな朝っぱらから家の前で待ち構えられる理由など、ひとつも見当がつかなかったのだから。

 しかしどうやらなにかやらかしていたようで、未だに睨んでいた犬がずいっと距離を詰めてきた。瞳孔がはっきりと見えるほどの近さに利奈は身を引きそうになる。

 

「お前、この前、骸さんになにした?」

「な、なに? この前って」

「とぼけんな! お前がなにかしたに決まってんら!」

 

 鼻先に噛みつかんばかりに犬が歯を剥いたが、利奈が後ろに下がるよりも早く、千種が犬の肩を引いた。

 

「犬、落ち着いて」

「なになに? なんの話? 骸さん、なにかあったの?」

 

 こういうときは冷静な千種に聞くのが一番だ。険悪な犬はひとまず置いておいて、千種に目をやる。最初からこうなるとわかっていたようで、千種はいつもの口癖を口にはしなかった。だがしかし、ため息はつく。

 

「……利奈と会ってから、骸さんの様子がおかしくなった。だから――」

「とっちめに来てやったびょん! 観念しろ!」

「――ってうるさい犬が余計なことしないように見張りに来た。朝一で。バスの始発に乗って。ものすごくめんどい」

「お疲れさま……」

 

 声と表情はいつもと変わらないけれど、目に生気がない。

 始発で来たならば、最低でも一時間以上は家の前で待っていたはずだ。家を出るのが早い利奈に合わせたのかたまたまなのかは知らないけれど、すれ違いにならなかったのはお互いに幸運だった。学校に乗り込まれたらさすがに困る。

 

「おい! 無視すんな! 柿ピーもいつまで掴んでんらよ、離せ!」

「はいはい」

 

 肩を掴まれたままの犬が不満の声を上げながら千種の手を弾く。千種もそれほど強く止めるつもりはなかったようで、あっさりと手を離してしまった。

 

「やい、くそ女! 骸さんになにしやがった! 事と次第によってはただじゃ置かねえびょん!」

「なにって言われても……。骸さん、そんなに変なの?」

 

 今にも噛みつきそうな犬をさておき、またもや千種に話を振る。千種は小さく頷いた。

 

「深刻な顔して、部屋でずっとなにか考えこんでる。骸様はなんでもないって言っていたけど」

「なんでもないわけねーびょん! 飯は食べに来ねーし、部屋に持っていってもほとんど手つかずだし、絶対なにかあったに違いないんら!」

「……犬、昨日下げた皿、やっぱり犬が食べたんでしょ」

「やべっ」

 

 犬が鼻白む。どうやら、骸が食べなかったのをいいことに、残飯を平らげてしまったようだ。

 

「と、とにかく、お前がいなくなってからおかしくなったのは本当ら!」

「そうだね。あんたがきっかけだと思う。骸様といったいどんな話をしたの?」

「どんなって……普通に未来の話だけど」

 

 利奈はまごつきながらも一昨日の出来事を反芻した。

 未来で起きた出来事を話しただけだし、それだって骸が望んだ話題だ。骸は楽しそうに聞いていたし、不調の原因をこちらに押しつけられるのは不本意だった。

 

「二人も未来の記憶はあるんでしょ? なんか心当たりないの?」

「あったらここまで来てないよ。……見込み違いだったか」

「だと思うよ。フランとか女の子の話とか、骸さんが知ってそうなことばっかり話したし。

 ……そろそろいい? 学校行かなきゃ」

 

 時計に目をやりつつ、早足で行かなければ間に合わなそうだと嘆息する。

 

「なに終わったみたいな顔してんだ、話はまだ終わってないびょん!」

「だから学校行くんだってば、今度にしてよ。ちょっと、邪魔しないで!」

 

 道を塞ぐ犬を睨みつけるが、効果はない。千種は我関せずとばかりに目をつむってしまった。涼しい横顔が憎たらしい。

 

「もう、ほんとに怒るよ? 時間ないんだから、遅刻しちゃう」

「そんなのどうだっていいし。いいからお前も俺たちに協力しろよ」

「どうだってよくないから! 手伝いなら学校終わったらするから、早くどいて」

「やーだね。そう言って逃げるつもりだろ」

 

 右に抜けようとしても塞がれ、左に抜けようとしても邪魔される。

 

「だーかーらー! ほんともう知らないからね!?」

「はっ、お前なんかになにかでき――」

 

 全部は言わせなかった。犬の胸ぐらを掴み、額を額に打ち付ける。さほど勢いはつけていなかったものの、理解が追いつかなかったのか犬は目を見開いた。視界の隅で、千種がわずかに身じろぐ。

 

「私、学校行くって言ったよね? 二人は学校行ってないからどうでもいいかもしんないけど、私は困るの。遅刻できないの。ただでさえ入院とかしてヤバいのに学校サボれって? ふざけないでくれる?」

 

 一度堰が切られると言葉が洪水のようにあふれ出してきた。

 犬が口元を引きつらせるので、鋭い犬歯がよく見える。だが、この状況ではなんの役にも立たないだろう。歯を剥いた瞬間に頭突きを打ちこめば終いだ。

 

「お、おい、落ち着――」

「怒らせたのはそっちでしょ!」

 

 とうとう利奈は叫んだ。

 朝から押しかけられたのも、骸不調の責任をなすりつけられたのも、学校に遅刻しそうなのもこんなところでキレなきゃいけないのも全部犬のせいだ。

 

「いきなり家に押しかけてきといてごちゃごちゃと! それでなに、落ち着け!? そんなこと言える立場? なんとか言ったらどうなの、ねえ!?」

「柿ピー、こいつどうにかしろ!」

 

 自分は怒鳴るのに人に怒鳴られるのは弱いようで、犬はろくな抵抗もできずに助けを求めた。その救援に応えるように千種は眼鏡を光らせ――

 

「……無理だよ。ヒステリー起こした女に、勝てるわけがない」

 

 あえなく両手を上げて降参のポーズを取った。犬も天を仰ぐ。それを降参の合図として受け取って利奈は胸ぐらを掴んでいた手を解いた。

 正当な抗議をヒステリーと取られたのは不服だが、そこに因縁をつけるほど理性を失ってはいなかった。あと、本当に時間がない。

 

「じゃ、ほんと急ぐから! あと、待ち伏せするくらいなら電話して! ってか、最初から電話してよ!」

 

 叩きつけるように怒鳴ってから、すかさず走り出す。追いかけてきたら迷わず反撃に出るつもりだったけれど、二人は追いかけては来なかった。

 

 

――

 

 

 その後、つつがなく委員会活動を終えた利奈は、ホームルームの終わった教室に入って鞄を置いた。遅刻者の取り締まりがある日はホームルームに出られないけれど、先生はなにも言わないし連絡事項もほとんどない。授業の変更があっても近くの席の人が教えてくれるから、不自由はなかった。

 

(一時間目から移動か……。あ、山本君)

 

「おはよう」

「お、おはよ」

 

 教科書を用意している武に声をかけると、にこやかに挨拶を返してくれた。早朝の二人組とは雲泥の差で、すさんだ心が浄化される。

 

「なんだ、いいことあったのか?」

「ううん、全然。朝からひどい目に遭ったんだけど、山本君のおかげでちょっとよくなった」

「そうか? ならいいけど」

「あ、獄寺君もおはよう」

 

 かったるそうに席を立つ隼人に声をかける。今日はちゃんとホームルームが終わる前に登校していたようだが、手にはなにも持っていない。

 

「よう、獄寺。今日は早かったな」

「チッ、気安く声かけてくんじゃねえよ」

「のんびりしてていいの? SHITT・P!さん、もういないけど」

 

 隼人はずっとSHITT・P!につきっきりだったはずだ。しかし隼人は余裕のありそうな笑みを浮かべた。

 

「いいんだよ、もう。あいつと俺は通じ合ってるからな」

「……へー、そう」

 

(また獄寺君が変になってる)

 

 自分から話を振ったものの、胸を叩いて自慢げに胸を張る隼人をどう見ればいいのかわからない。とりあえず、話題を変えることにした。

 

「そうだ山本君、水野君はどうだった? 部活大丈夫だった?」

「ああ! 昨日部活でみんなに投球見てもらったんだけど、すごく盛り上がってさ。今日も一緒に朝練してきたぜ」

「わあ、よかった!」

「十代目のお手を煩わせたんだ。失敗したらただじゃおかねえ」

「獄寺君、なにもしてないくせに」

「あ?」

 

 低い声を出す隼人から自然に目線を外し、窓の外を眺める。並盛町は今日も快晴だ。

 

「そういえば、継承式ってどこでやるの? この辺は今週中ずっと晴れだって」

「俺も聞いてねえな。どこでやるんだ?」

「部外者いるのに言うわけねえだろうが」

「えー」

 

 あからさまに余所者扱いを受けるが、利奈は食い下がらなかった。どうせ恭弥経由で知ることができるからである。

 それにしても、利奈をまだ部外者扱いするのは、隼人くらいだろう。継承式のことを知ったのはただの成り行きだったが、あのとき、利奈がいることにだれもこだわらなかった。

 

 ちなみに武は、いまだに事の重大さがわかっていないのか、それともあっさりと受け入れられるほど器が大きいのか、継承式を心待ちにしていた。友達がまるで部活動の部長にでも選ばれたかのような気楽さだ。

 

(私もツナがボスになるのは悪くないと思うけど。あの戦い乗り越えたんだし)

 

 圧倒的強者相手にあれほどの死闘を繰り広げ、見事未来を勝ち取った綱吉を見たら、彼以外にふさわしい人物がいるとは思えない。一番の問題は綱吉本人がいまだにボスの座に座るのを拒否していることだが、それも時間や慣れが解決してしまいそうだ。継承式はもう明後日である。

 

「腐れ縁のよしみで十代目の雄姿はあとでたっぷり伝えてやる。きっとこれまでの歴史を覆しつつ、それでいて今後塗り替えられねえ伝説の式になるだろうからなっ!」

「ツナ、空飛ばされたりでもするの?」

「楽しみだよなー。継承式っていうとなんか固っ苦しい感じするけど、ツナならきっとうまくやれると思うし。それに薫も一緒だから心強いぜ」

「すっかり友達なんだね。山本君って友達作るの早いよね」

「そうか? 普通に気があったら友達だろ? なあ――」

「俺はダチになったつもりはねえ!」

「アハハ」

「すごい、言い切ってないのに」

 

 相変わらずの温度差を笑いながら、理科室に入る。

 一番に目を引くのはSHITT・P!で、もっとも視界に入らないのは炎真だ。SHITT・P!はあの浮き輪のせいで隣の人に大きく距離を開けられていて、炎真は小さく縮こまっている。色の違う制服にはまだ慣れないけれど、そのうち気にならなくなるのだろう。

 

(地震が落ち着いたらみんな帰っちゃうけど……でも、それでお別れじゃないよね)

 

 ボンゴレファミリーとシモンファミリーは同盟ファミリーだ。綱吉は積極的に炎真と友達になろうとしていたし、離れてもきっと交流は続いていくだろう。そう思うと、いつかの別れも終わりではないと信じられた。

 

 

 ――まさか別れが、こんなに早く訪れるなんて思わなかったけれど。

 

 

「炎真君!」

 

 ありったけの声を振り絞って炎真の名前を呼んだ。今を逃せば、もう二度と、彼に触れることはできないとわかっていたから。

 

「待って! 行かないで!」

 

 喉が張り裂けてもかまわなかった。それで彼が止まってくれるなら、どうでもよかった。

 しかし彼は歩き出す。壁の向こうへ。光の差す外へ。その先にこそ道があるとばかりに。

 

「炎真君!」

 

 確かにあったはずの繋がりが解かれていく。いや、彼らは切り取ってしまった。そんなもの、最初からなかったのだとでも言いたげに。

 

「行かな゛いで、炎真君!」

 

 わずかに気が咎めたのか、炎真はようやく利奈に目を向けた。その表情はいつもと変わらないはずなのに――

 

「……ごめんね」

 

 決定的に、なにもかもが変わってしまっていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

焼きついた光景

R15G回です。
血の描写が多いです。内容としては、継承式一日前の原作グロシーンで察していただければ。



 

 

 人の一生には、数え切れないほどの分岐点がある。

 屋上に行くか――傘を貸すか――指輪を手に持つか――ドアを叩くか。選択肢を変えれば、いとも簡単に運命は流転しただろう。彼女はその日、少年とは出会わず、少女とは出会わず、危険にさらされることもなく、戦う術を学ぶこともなかった。それが幸せであるかどうかはさておいて。

 

 だが、ひとつだけ変わらないことがある。たとえすべての選択肢で違う答えを選んでいたとしても、結局は同じ未来に行き着いていただろうという点だ。

 彼女は必ず少年と出会い、少女と出会い、戦場に引きずり出され、戦う術を覚えていただろう。

 

 ならば、次の分岐でどちらに進もうが、変わりはないのかもしれない。悲劇を選ぼうが喜劇を選ぼうが、結局未来は変わらないのだ。

 そう告げれば、彼女はきっとこう答えただろう――ふざけるなと。

 

 相沢利奈はもう、劇場の扉に手をかけていた。

 

___________

 

 

 秋の太陽は沈むのが早い。見上げた校舎が赤に染まっていたので、利奈は反対側の夕日に目を向けた。

 ほんの半月ほど前にいた未来の世界なら、この時間の空はまだ青かっただろう。未来の世界は夏だった。そのわりにあまり暑さを感じなかったのは、空調が完備された室内にばかりいたからに違いない。おかげで日焼けせずにすんだものの、短い髪はまだ慣れなかった。

 

(そろそろ戸締まり確認しに行こうかな)

 

 最終下校時間を告げるチャイムまであと十分。部活動はその二十分前までに終わらせることになっているから、もうどこも片付けを進めているはずだ。

 部室の鍵は毎日必ず職員室に戻されるが、なかには部室の鍵をかけ忘れて帰ってしまう生徒もいるので、確認は大切だ。それと同時に、下校時間を守らずに部活動を続けようとする生徒への牽制も兼ねているが、ボクシング部部長がよく引っかかっている。集中しすぎてチャイムが聞こえなくなっているらしい。

 

(そういえば今日は一年生の教室の前によくいたな。どうせ残ってるだろうし、ちゃんと声かけておかなくちゃ)

 

 夕暮れが早くなったぶん、最終下校時間が早まったので、部活動の活動時間は短くなっている。大会が近い部はギリギリまで粘るけれど、今日のところは問題なさそうだ。校庭に人の姿はないし、吹奏楽部の演奏も聞こえなくなっている。B棟校舎の窓も、ほとんどが暗くなっていた。

 

(……あれ、あそこにいるのって)

 

 B棟から遠ざかっていく人影を捉えて、利奈は目をこらす。

 正門に向かう後ろ姿は瞬く間に小さくなっていったが、指先ほどの大きさでもそれが薫であると推測できた。この学校で学ランを着ているのは風紀委員か至門生だけだし、風紀委員は腕に腕章を巻いている。暗かったので腕章の有無はよくわからなかったけれど、風紀委員ならあんなに足早に正門に向かう必要はないだろう。むしろ、戻ってくる時間だった。

 

(こんな時間まで頑張ってるんだ。野球部にもうまく馴染めたみたいって山本君も言ってたし、よかったよかった)

 

 うんうんと頷きながら、B棟に向かう。

 とりあえず外に面している一階の部室を廻って、それから校舎内に入り一部屋ずつ戸締まりを確認していけばいいだろう。まずはドアが開けっぱなしになっている部室を覗きこむと、部屋のなかに血塗れの男が倒れていた。

 

「……は?」

 

 ――利奈の口から出たのは、心底冷めた疑問の声だった。

 

 目の前の光景が理解できなかった。――いや、部屋中に飛び散っている血が本物であることはわかっている。その血が横たわっている男のものであることも、ここが事件現場であることも。ただ、本来ならけしてあり得ないはずの出来事が起きていることに、思考が追いつかなかった。ここは未来ではなく現代で、つまり血生臭い事件とは無縁であり――

 

(じゃなくて! そうじゃなくて! 人が倒れてる!)

 

 状況分析に走りそうになる思考を正し、利奈は人命救助に舵を取った。血だまりに伸ばされた男の右腕を取り、ぬるくぬるつく肌に手を滑らせて脈を測る。

 

(脈……脈……よかった、あった……!)

 

 男の腕は温かく、脈拍も弱ってはいない。それでも出血量はおびただしく、利奈は躊躇なく血まみれの手で懐にしまっていたかんざしを掴むと、これまた躊躇なく男のシャツを切り裂いた。傷口があらわになり、その痛ましさに利奈は顔をしかめた。

 

(ひどい傷……なんの痕だろう。刃物じゃないみたいだけど……)

 

 救急車も呼ばなければならないが、ここまでひどいと止血が先だ。さいわいここは更衣室として使われているようで、真新しいタオルが大量に棚に入っている。

 タオルを何枚かひったくると、利奈はそのうちの一枚を背中の傷口に当て、強く押さえつけた。そして救急車を呼ぶべく携帯電話を上着の内ポケットから引き抜こうとして、突如動きを止める。

 

(なにか、おかしい)

 

 暗殺部隊ヴァリアーで培われた経験が、最善であるはずの行動を鈍らせた。

 いったいなにが気になるのかと男を見下ろすと、足下の血だまりに目が留まった。部屋に入ったときよりも大きくなっている血の海は――傷口を圧迫している今なお、留まることなく広がっていた。それが意味するものを悟り、利奈は顔色を変える。

 

(これが一番大きな傷じゃ、ない……!?)

 

 違和感の正体がわかった。傷口に比べて出血量が多すぎるのだ。

 うつ伏せの背中と手足にほかに傷はなく、残るのは地についている胴体だけである。それだけで最悪が想定できて指先が震えた。

 

 もし――もし、背中の傷が凶器の入り口ではなく、出口だとしたら?

 貫通した傷の跡だとしたら、それはもう致命傷だろう。傷の位置からして、内臓の損傷は避けられない。ヴァリアーでも、殺すつもりで胴を刺すなら、このあたりを狙うようにと教わっている。もっともえげつない痛みを与えながら、標的を殺せるからと。

 

 震える手で男の腕を掴む。精神を落ち着ける時間はない。たとえどんな傷があったとしても、男に息がある限り、最善を尽くすだけだ。だから利奈は覚悟を決める余裕もないまま、男の身体をひっくり返した。

 

 ――しかし、たとえ呼吸を落ち着ける時間があったとしても、利奈は平静を保てなかっただろう。

 男の身体を仰向けにしたとき、利奈は初めて男の顔を見た。見てしまった。そして、今度こそ愕然と凍りついた。

 

 男は――山本武だった。

 それを認識した瞬間に利奈の理性は吹き飛び、腕に抱えていた新品のタオルが床へと落ちていった。真っ白なタオルが、血の赤に染まっていく。白と赤が目に焼きついて、息が吸えなくなる。

 

「やっ、山本くっ――うそ、うそ」

 

 血のにおいが肺を満たす。歯の根が合わなくなって、利奈は髪を振り乱した。

 

「山本君! 山本君!」

 

 タオルをひっつかんで傷口に押し当てる。傷口を押されれば激痛が走るはずなのに、武の表情は変わらなかった。もう痛覚もないのかもしれない。

 

「やだっ、ねえ、やだ! 山本君! 山本君!」

 

 名前を叫ぶ。最悪の結末を振り払いながら、なおも叫ぶ。

 

「山本君! お願い、死なないで! やだ、ねえ、起きて!」

 

 利奈は半狂乱になっていた。いや、もう狂っていた。

 叫び声は金切り声になっていて、その声を聞きつけた了平が部室に飛びこんできても、利奈はそれに気付くことさえできなくなっていた。

 

「相沢! これはいったいどういうことだ!」

 

 室内の惨状に了平が息を呑む。血だまりに膝をつく利奈は、武と同じぐらい血に染まっていた。

 

「先輩っ、山本君が! 山本君が死んじゃう!」

「俺がなんとかする! どいてくれ!」

 

 利奈は泣きじゃくりながら武の身体から離れた。

 了平がリングに火を灯し、匣動物のカンガルーを召喚する。辺り一面に黄色の炎が溢れ、晴の活性の炎が武に注がれた。了平も傷の深刻さがわかっているようで、その表情に余裕は一切ない。

 

「なにがあった。いったいなにがあれば、こんな……」

「わからない。わからないんです! 人が倒れててっ、応急処置しようとしたら、山本君で……!」

 

 涙を拭けば、頬が血で赤くなっていく。それが武の血であるのが恐ろしくて、利奈は身体を震わせて泣き続けた。 

 

「わかった、もういい。お前は救急車を呼んでくれ」

 

 そういえば、まだ救急車を呼んでいなかった。二人に背を向けて、三桁の番号を押す。

 

『119番消防署です。火事ですか、救急ですか』

「あっ……」

 

 間違えた。わざわざ119番を押さなくても、病院の番号は登録してあるのに。

 

『こちら、119番です。火事ですか? 救急ですか?』

 

 電話口の語気が強くなった。利奈はあわてて答える。

 

「救急です!」

『貴方の名前と住所をお願いします』

「相沢利奈、住所……住所は……学校」

『どちらの学校ですが? 学校名を』

「並盛中学校――あの、友達が、友達が血を流してて!」

『大丈夫、落ち着いて。近くに大人の人はいますか?』

 

 相手が中学生であることを察し、電話口の声が柔らかくなった。教師に代わるように促したのも、混乱している利奈では埒が明かないと判断したからだろう。それがわかるからこそ、利奈は自分の不甲斐なさに腹が立った。今こうしているあいだにも、武の身体からは血が流れているというのに。

 

「相沢!?」

 

 いきなり自身の片頬を全力で平手打ちした利奈に、了平が驚きの声をあげる。

 

(いったあ……!)

 

 痛みのあまり違う涙が出てきたけれど、身体の震えは止まった。なんとか通話を終わらせて、再び武に向き直る。

 

「……どうですか?」

「……いや」

 

 利奈は恐る恐る傷口を覗きこんだ。炎がまぶしくてしっかりとは見えないけれど、やはり腹には大穴が開いていた。血も絶え間なく流れ続けているし、傷口が治る気配もない。傷がひどすぎて、晴の炎の力だけではどうしようもないようだ。

 

 お互い、なにも言えなかった。

 わかりきっている答えが横たわっているのを、目も逸らせないまま見つめているしかないのだ。

 

「私、正門に行ってきます。救急車ここまで呼ばなくちゃいけないから……」

「ああ。だが、大丈夫か?」

「……」

 

 大丈夫なはずがなかった。今だって現実を受け入れられずにいる。どうして武がこんな目に遭ったのか、どうして武がこんな目に遭わなければならないのか、そしてだれがこんなことをしたのか、まるでわからない。だって、武は今日も、いつもみたいに笑っていたのだ。

 今の武は血まみれで、土気色で、生気がない。ほんの少し目を離しただけで消えてしまいそうで、これが一生の別れになりそうなのがひどく怖ろしかった。でも、それでも利奈は顔を上げる。

 

「……行ってきます」

 

 一分一秒を争う状況だ。了平には救急隊員が駆けつけるギリギリまで治療に専念してもらわなければならないし、誘導役は利奈しかいない。恐怖に凍りついていたら、それこそ取り返しがつかなくなってしまう。

 

 足はふらつかなかった。錆びた匂いの充満した部室から出ると、清々しい空気とともに星空が目に入って――どうしようもなく泣きたくなった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陰る大空

 

 

 

「山本がやられたって本当か!?」

 

 隼人の声が静寂を打つ。利奈が顔を上げると、息を切らせた隼人が了平に迫っているところだった。病院まで走ってきたようで、外ハネの髪がいつもより乱れている。

 

「ああ。今、そこで手術を受けている」

 

 了平が見上げた先では、手術中と書かれたランプが無表情に光っていた。

 それを見た隼人は束の間、息を飲んだが、すぐに視線を剥がして廊下を見渡した。この場には救急車に同乗した利奈と了平のほかに、至門生三人とランボが集まっている。

 

「いったいなにがあった! やったやつは捕まえたのか!?」

「いいや、俺と相沢は倒れている山本を見ただけだ。犯人はいなかった」

「お前らはなにか見てねえのか!」

 

 紅葉とらうじの視線がそろう。その先でアーデルハイトがゆっくりと口を開いた。

 

「残念ながら、私たちもなにも。校門前に救急車が駐まっていたので、気になって様子を見ていたのです。そしたらそちらの雨の守護者が……」

「俺もアーデルハイトと同じで、サイレンの音で事件に気付いた。了平と手分けして校内を見回っていたからな。その場にはいなかった」

「おいらはランボさんと公園で遊んでたんだ。アーデルハイトから電話をもらって来ただけだから、役には立てないな」

 

 利奈は直前に薫を見かけていたけれど、あの急ぎようでは救急車が来たころには学校から離れていただろう。アーデルハイトは仲間全員に連絡したと言っていたし、きっと血相を変えてこちらに向かっているに違いない。

 

「獄寺、お前は沢田の居場所を知らないか? ほかの守護者には連絡が取れたのだが、沢田は家にまだ帰っていないらしい」

「……十代目は、九代目に呼ばれて顔を合わせられているはずだ」

「九代目というのは、現ボンゴレですか?」

 

 アーデルハイトが話に割り入る。

 

「ああそうだよ。継承式は明日だからな」

「では、継承式の確認のために?」

「っ、そんなこと今はどうでもいいだろうが!」

 

 感情を爆発させるように、隼人が拳を壁に叩きつけた。その壁の向こうでは、武が緊急手術を受けている。

 焼き焦がすような眼差しを受けながらも、アーデルハイトは無表情にその殺意を受け止める。先に目を逸らしたのは、隼人だった。

 

「獄寺。沢田に連絡は取れるだろうか」

「……ああ」

「あっ、電話はあっちの待合室で――」

 

 ふらりと隼人の身体がよろめく。隼人の瞳は不安と恐怖で揺れていて、利奈はそれ以上言葉を続けることができなかった。かわりに紅葉が口を開く。

 

「……大丈夫か、あいつは。そこの女子にも気付かなかったぞ」

 

 その言葉で、全員の視線がベンチに座る利奈に注がれた。このなかでただ一人、病院の寝間着を着ている利奈へと。

 

 ――病院についてすぐ、利奈は病院スタッフによってシャワー室へと連れていかれた。感染症にかかる可能性があるから、血をすべて洗い流すようにと言われたのだ。

 そこで備えつけられている鏡に目をやった利奈は、自分が人にどう見えていたのかを目の当たりにして仰天した。

 制服や靴は自分でもひどいとわかっていたけれど、血のついた手で触ったせいで顔まで血塗れになっていた。おまけに頬にはべったりと血の手形まで張り付いていて、駆けつけた救急隊員にギョッとされた理由に合点がいった。どうりで、執拗に怪我の有無を聞かれたわけだ。

 

 そんなわけで、明らかに一人だけ浮いた格好をしていたのにもかかわらず、隼人はまったく気がついてなかった。それほどまでに動揺していたのだろう。なんだかんだ文句をつけながらも武とはずっと一緒にいたのだから、動揺しないわけがないのだ。そう考えると、これから武の重傷を伝えられる綱吉がどうなるかなんて、考えるまでもなかった。

 未来でだって仲間が傷つくのをいやがっていた彼だ。きっと、だれよりも深く傷ついてしまう。

 

「さきほどはすまなかったな、アーデルハイト。あいつもいきなりのことで混乱していて」

「いえ、こちらこそ配慮が足りませんでした」

 

 了平が年長者らしく謝ると、意外にもアーデルハイトはあっさりと頭を下げ返した。もっと苛烈な人だと思っていたけれど、冷静沈着な人物だったらしい。

 そしてほかにも意外というべきか、紅葉とらうじも一切取り乱していなかった。

 

 何日か前、ボンゴレ反対勢力に綱吉が襲われるという事件があったらしい。そのうえ、ギークファミリーという殺人に特化したマフィアもその反対勢力に殺されていて、彼らはずっと綱吉の身辺を警護していたそうだ。

 言われてみれば、大事な式典の前日だからとはいえ、三年生の了平までもが教室周りをうろついているのは妙だったのかもしれない。

 

(そうだ。継承式、明日だったんだ……)

 

 しかし、武がこんな容態では式典どころではないだろう。

 反対勢力は、警護の固い綱吉を諦め、部活終わりで油断していた武を狙ったに違いない。継承式に出席する守護者を狙ったのだ。

 

(継承式がなくなると、山本君をあんな目に遭わせた敵の思い通りになっちゃう。でも――)

 

 自分のせいで友達が殺されかけた、いや、生死の縁を彷徨っている状態で、綱吉が継承式になんて参加できるわけがない。それを知っててやったのだとしたら、なんて卑劣な犯人だろう。

 

(……許せない)

 

 姑息で残忍な手を使ってまでみんなを陥れようとする犯人に怒りが湧いてくる。

 どうして武があんな目に遭わされなければならないのだろう。どうして綱吉が傷つかなければいけないのだろう。利奈は彼らの友人としての怒りが抑えられなかった。

 そんな利奈を、アーデルハイトは無表情に見つめていた。

 

 

――

 

 

 綱吉が病院に到着してすぐに、一同は待合室へと移動した。気が動転していた綱吉が、手術室の扉を開けてしまったからだ。

 すぐになかにいた医師たちによって閉め出されたが、手術中の武を見てしまったのだろう。その場にへたりこんだ綱吉を隼人が支え、なかば引きずるようにして手術室から遠ざけた。

 椅子に座ったきり微動だにしない綱吉にクロームが水を渡そうとしたが、綱吉は顔も上げずに首を振る。

 

 九代目の宿泊していたホテルは町外にあったようで、綱吉が来るころにはクロームと薫も駆けつけていた。武の父にも了平が電話したけれど、営業していた寿司屋の店じまいに時間がかかるそうだ。夏祭りの夜に食べに行ったことがあるけれど、武と同じく、快活で明るいお父さんだった。

 

「……最初に山本を見つけたのは相沢だったな」

 

 綱吉への説明を促す了平に、利奈は小さく頷いた。

 

「最終下校時間になるから、居残りしてる人がいないか見回りしてたの。一階の部室のドアがひとつだけ開いてて……なか見たら、人が倒れてて。――私、野球部の部室って知らなかったから、山本君だって気付かなくて!」

「それで巡回していた俺が相沢の悲鳴を聞きつけたのだ」

 

 声を震わす利奈に待ったをかけるようにして、了平が説明を引き継ぐ。

 

「相沢は懸命に止血しようとしていたが、辺りはもう血の海だった。相沢が救急車を呼んでいるあいだに、俺と我流の晴の活性の炎で治療を試みたが……」

 

 我流というのは、あのカンガルーの名前だろう。シモンファミリーは我流どころか炎の意味もわからないだろうが、空気を読んでか意味を尋ねたりはしなかった。

 利奈とクロームは泣いていたし、隼人は怒りをあらわにしている。いつもならにぎやかなランボも、周りの空気に当てられて、らうじの肩に乗ったまま不安げな顔をしていた。数日前には、あんなにみんなで笑い合えていたのに。

 

「そういえば、水野は山本と一緒にいなかったのか? 同じ野球部だろう」

「あ――」

「ああ、いなかった」

 

 先に帰る姿を見たと利奈が言う前に、薫が了平の問いに答えた。

 

「昨日は一緒にキャッチボールをしたが、今日は俺だけ先に帰った」

「そうか。なら山本は一人になったところを狙われて……」

「クソ! あのバカ油断しやがって!」

 

 やるせなさを吐き出すように隼人が怒鳴る。綱吉に電話をかけてからはいつも通りに振る舞う隼人だったが、ふらつく姿を見てしまったせいで痛々しさが拭えない。

 シモンファミリーはこんな状況でも平静を保ったままだ。武と仲がよかったはずの薫でさえ、態度が少しだけ寒々しいものの、表面上はいつもと変わりなかった。

 これが、マフィアとして生きてこなかった綱吉たちと、マフィアとして生きてきた彼らの差なのかもしれない。

 

(一人になったところを狙われたってことは……犯人は水野君がいなくなってすぐに山本君を襲ったってことだよね)

 

 薫は犯人を見ていない。そして薫の後ろ姿を目撃した利奈も犯人を見ていない。利奈が校舎B棟まで歩いて行く途中にB棟から出てきた人はいなかったし、そこまでのあいだに視界を遮るものはなかった。

 つまり犯人は、薫が部室から出て、利奈がその後ろ姿を目撃するまでのわずかなあいだに武を襲い、逃げ去ったということになる。かなりの早業だ。

 

(部室の外には血がついてなかったってことは、凶器は持ち帰ってないってことかな。ううん、すぐに袋に入れれば血は下に落ちないし……。

 ……あれ? でも、ちょっと待って。水野君が帰ってから私があそこに行くまでって何分あった? 私が水野君を見かけたときにはもう部室にはいなかったってことは――、っ!?)

 

 鋭い視線に射貫かれ、顔を跳ね上げる。正面に立つアーデルハイトが、まっすぐに利奈を見つめていた。

 

「……なにか、思い出したのですか?」

 

 アーデルハイトは怯むことなく利奈に尋ねる。首筋にひやりとしたものを感じながらも、利奈は緩く首を振った。

 

「いえ……なにも」

「そうですか。……しかし、ボンゴレ十代目の守護者を倒すほどの強者となると、やはりギークファミリーを倒した犯人と同一であると考えるべきですね」

 

 アーデルハイトの意見に、利奈は思考を切り替える。

 見落としがなければ、武は一撃で屠られていた。不意を突いたにしろ、回避も反撃も許さなかったのならば相当の手練れだったのだろう。立ち去る速さから考えて、暗殺のプロである可能性が高い。

 

 アーデルハイトの言葉に紅葉が同意し、了平と隼人が悪態をつく。

 ギークファミリーとやらを倒した人物については手掛かりがないようで、そうなると武を襲った人物を特定することもできないのだが、そこに待ったをかける人物が現れた。

 

「犯人を見つけることは可能だぞ」

「リボーンさん!」

 

 リボーンの登場でボンゴレ守護者たちが歓喜の声をあげる。綱吉の家庭教師を務めるリボーンは、彼らにとっても頼れる存在だ。依然顔を上げない綱吉に目を配りながらも、リボーンは希望を口にした。なんと、犯人の手掛かりを見つけたというのだ。

 

(部室に手掛かりが……?)

 

 リボーンはここに来る前に、事件現場である野球部の部室を調査してきそうだ。部室は事前に恭弥に連絡して封鎖してもらっているが、まさか手掛かりが残っていたとは思わなかった。

 

「ただ、すぐに犯人がわかるようなもんじゃねえし、ボンゴレの機密に関わる内容でな。

 わりーが、シモンと利奈は席を外してくれねーか?」

「え……」

 

 名指しされ、声が漏れる。

 利奈はボンゴレファミリーに所属していない。ボンゴレの機密について話すなら、除外されるのは当たり前だ。それでも、こうやって明確に線分けされたのは初めてで、戸惑いが顔に出てしまう。

 

「相沢はいてもいいのではないか? 山本を最初に見つけたのは相沢だ。もしかしたら、なにかひらめくかもしれん」

「いや、そういう類いの手掛かりじゃねーんだ。それに、下手に精通していると犯人に狙われる可能性が高まるからな。利奈は知らねー方がいい」

 

 リボーンの言葉に少しだけ安堵する自分がいた。それと同時に、こんな状況で仲間はずれ扱いだとか、そんなどうでもいいことを気にしてしまう自分が情けなくなった。武は守護者というだけで襲撃されたというのに。

 

「くれぐれも気をつけて行動しろよ。お前たちが狙われる可能性もあるんだからな」

 

 最後にかけられた言葉は、利奈ではなく、シモンファミリーに向けられたものだった。

 そして綱吉は、待合室についてから一度も顔を上げず、そして最後の最後までなにも喋らなかった。魂が抜け落ちてしまったかのように。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

並行する平行

 

 

 シモンファミリーとともに待合室を出る。

 自分だけが部外者なのもあってどうにも場違い感が拭えないが、とりあえず最後尾で縮こまっておいた。スリッパが間の抜けたような音を立てるので、足音も消す。

 

「結局、これからどうする」

 

 紅葉が周囲を見渡した。手術を受けているのは武だけのようで、待合室付近にほかの患者関係者の姿はない。

 

「全員で残るのは得策ではないが、このまま帰るわけにもいかんだろう」

 

 アーデルハイトに話が振られる。彼女はしばし沈黙したのち、ゆっくりと首を振った。

 

「いえ、一度戻りましょう。ここにいないみんなとも今後の相談をしなければならないし、食事も済ませないと。なにかあったらボンゴレ守護者から連絡が来るでしょうし」

 

 そういえば、SHITT・P!やジュリーはともかく、炎真がここにいないのは意外だった。武と仲のいい印象はないものの、ほかのシモンファミリーが半数以上来ているなか、炎真の姿がないことには違和感を覚える。

 

(……そういえば、学校も休んでたっけ。風邪でも引いてるのかな)

 

 なにかと運が悪いイメージがあるけれど、まさか継承式直前に熱を出してしまったのだろうか。それとも、綱吉のようにシモンファミリーの重鎮と話をしているのだろうか。

 ここにはいない炎真に思いを馳せていたら、先頭を歩くアーデルハイトが振り返った。

 

「貴方はこれからどうするんですか?」

「私も帰ります」

 

 武の容態は気にかかるけれど、手術が終わるまで待つことはできない。

 親には帰りが遅くなると先に伝えているけれど、これ以上遅くなるようなら事情をすべて話す必要があるだろう。しかし、学校側にも警察側にも今回の件を隠している状況で、本当のことを母に伝えるわけにはいかなかった。同級生が重傷を負った話などすれば、瞬く間に保護者全体に知れ渡ってしまう。

 

「では、我々が家まで送りましょう。リボーン氏の言っていたとおり、この状況での単独行動は危険です。貴方は第一発見者でもあるのですから」

 

 アーデルハイトの言うとおり、この状況下で狙われる可能性がもっとも高いのは第一発見者の利奈だ。利奈本人は犯人を見ていないが、現場に入る利奈を犯人が目撃していた可能性は充分にある。不穏分子として排除されてもおかしくはない。

 だからありがたい提案ではあったものの、利奈はぎこちなく首を横に振った。

 

「もう迎え呼んでるから大丈夫です。それに、この格好じゃ帰れないですし……」

 

 たどたどしく応じながら、薄い病院着に手を当てる。

 いくら暗くて人気が少ないといっても、こんな格好で外を出歩けるはずがなかった。家に帰った途端、質問攻めにあうのはわかりきっている。アーデルハイトも、それはそうですねと納得顔で頷いた。

 

「ところで、貴方はなにか気がつかなかったのですか?」

「え、なにがですか?」

「さきほどのリボーン氏の発言です。現場に手掛かりが残されていたとのことでしたが」

 

 部屋を出たときから、その件について聞きたいと思っていたのだろう。四人の視線がそろって利奈を刺した。

 

「ぶしつけな質問だとはわかっています。ですが、明日の継承式を警護するにあたり、押さえておくべき情報だと思いまして。我々は現場を見ていないので、貴方の記憶が頼りなのです」

「……そう、ですよね」

 

 ボンゴレの機密事項とリボーンは言っていたけれど、継承式が明日に迫っている今、犯人の情報はできる限り手に入れておきたいだろう。同盟ファミリーとして、彼女たちも犯人検挙には全力を尽くしたいと思っているに違いない。

 

「……すみません、山本君の応急処置でいっぱいいっぱいで。手掛かりとか、そういうのはなにも」

「ではなにか気になるものなどは? 現場付近になにか落ちていた、とか」

「……うーん」

 

 倒れている武を見つけてからは気が動転していたし、見つける前のささいな記憶は武を見つけた瞬間にあらかた吹っ飛んだので、なにも思い出せそうない。

 そもそもあのときは、あれをしでかした犯人にまで頭が回らなかった。今思えば、もっと辺りにも注意を払っておくべきだったろう。犯人が引き返してくる可能性もあったのだから。

 手術室の廊下を通り過ぎようとしたアーデルハイトが立ち止まった。手術室前に人の姿があったからだ。追いついた利奈もその後ろ姿を捉え、小さく声を漏らす。

 そこにいたのは、武の父親だった。急いで店を閉めてきたのだろう。仕事着のままで、頭には布を巻いている。こちらが近づくまでもなく武の父は振り返り――利奈たちは身を固めた。

 

「おお、武の友達かい? 悪いね、こんな時間まで」

 

 にへりと笑う武の父に、利奈は深く頭を下げた。そしてひっそりと冷や汗を流す。

 

(今、ちょっとだけ怖かった……)

 

 一瞬、刃のような殺気が身体を刺した。至門生たちもそれを感じ取ったようで、距離を詰めようとしない。ここは武の友人である自分が取り持つべきだろうと、利奈は両者のあいだに立った。

 

「こんばんは。えっと、こちらは並中に編入した至門中学校のみなさんです。山本君とは……あー……」

 

 関係性をどう説明したものかと言い淀むと、一歩前に出たアーデルハイトが礼儀正しく頭を下げた。説明がなくても、彼が武の父であるとわかったのだろう。

 

「初めまして。鈴木アーデルハイトと申します。私たちは山本君の学友でして、手術を受けていると聞いてこちらに。大人数で押しかけてしまって申し訳ございません」

 

 如才なく自己紹介を済ませるアーデルハイト。後ろで三人も頭を下げた。

 

「いやいや、うちの倅のためにわざわざ来てくれて嬉しいよ。で、お嬢ちゃんは……」

「あっ! ごめんなさい、クラスメイトです」

 

 肝心の自分の紹介を忘れていた。

 利奈からすれば武の父親であり行ったことのある寿司屋の店主だが、彼からすれば見ず知らずの子供だろう。制服を着ていないから、アーデルハイトたちと同じく、至門生と思われているかもしれない。

 

「山本君とは友達で。沢田君や獄寺君は今ちょっと待合室にいるんですけど、たぶんすぐに戻ってくるとおもいます」

「あ-、武のマブタチの!」

 

 綱吉たちのことは知っていたようで、表情が明るくなる。

 

「そんな、なんか悪いねえ。うちの武のことだから、そんな心配しなくてもすぐケロッとした顔で出てくるよ! もう夜だし、親御さんも心配するから今日は帰んな」

 

 明るく振る舞う武の父だが、それが空元気であることは一目瞭然だった。もうすでに病院スタッフから説明を受けたあとなのかもしれない。

 

「そうですね。ご迷惑になるかもしれませんし、一度ロビーに行きましょう。貴方も」

「はい。あの、それでは……」

「息子のためにありがとよ。あんたたちも、帰り道は気をつけるんだぞ」

 

 その言葉はリボーンと重なった。

 

 

__

 

 

 もう一度手掛かりについて心当たりがないか念押しされてから、利奈はシモンファミリーと別れた。別れたといってもシモンファミリーが帰っただけなので、一人きり、だれもいないロビーの長椅子に座りこんだ。蛍光灯の白い明かりが目に焼きついてしまいそうで、剥き出しの足の爪に目を落とす。

 

 迎えが来るまでそこまで時間はかからないだろうし、ここなら不審者が現れてもすぐに人を呼べる。診療時間はとうに過ぎているので入り口は閉め切られており、冷えた静寂が利奈を包んだ。

 

(……ほんとに、夢みたい)

 

 まさかこんなことになるなんて、思ってもみなかった。どうして日常はこんなにも脆く儚いのだろう。どうして、日常はあっという間に壊されてしまうのだろう。にじむ視界のなかで青色のスリッパが揺れている。

 

(……私、なにもできなかった。笹川先輩が来てなかったら、山本君死んでたかもしれない)

 

 時間が経つにつれて、犯人への怒りよりもやるせなさが大きくなっていく。仕方のないことだった。自分にできることは全部やった。暗示のように唱えてみても、なにもできなかったという無力感が肺を満たしていく。

 だって、全力を尽くせていたのなら、こんなに悔しくなんてならないはずなのだ。かといって、ではなにができたのかと考えてみても、結局なにもできない自分が浮き彫りになって、自己嫌悪でいっぱいになっていく。

 

(私も笹川先輩みたいな力があったらよかったのに。私にもみんなと戦える力があればよかったのに。そしたら、こんなみじめにならなかったのに)

 

 ボタボタと涙の雫が落ちていく。このまま溶けて消えてなくなってしまいたいなんて思っていたら、かすかな足音が耳に届いた。

 迎えが来たと思って、あわてて涙を拭く。しかしそこにいたのは利奈の迎えではなかった。

 

「……古里君?」

 

 声まで涙でにじんでいた。勢いよく鼻をすすってごまかそうとしたものの、それはそれで恥ずかしいということに気付き、手のひらで口元を覆う。炎真はその一連の動作には頓着せずに、遠くから小さく頭を下げた。そして、ゆっくりとロビーへと足を踏み入れる。

 

「こ、こんばんは。古里君も来てくれたんだ」

「うん。明日の準備があったから、ちょっと遅くなったけど。……手術はどう?」

「わかんない。まだ終わってないと思うし、私も今、迎え待ってるところだから」

「そうなんだ」

 

 泣いているところを見られただろうか。下手に顔に触ると涙の跡に気付かれてしまいそうで、前髪をいじってごまかした。顔を見られるのが怖くて、炎真の顔がまともに見られない。 早く立ち去って欲しいという利奈の願いもむなしく、炎真は一人分間隔を空けて利奈のとなりに座った。

 

「……古里君?」

「なに?」

 

 一人でいるから気遣ってくれたのだろうか。でも今は泣き顔を見られたくない気持ちの方が大きい。

 

「えっと……私はいいから、みんなのとこ行ったほうがいいよ。沢田君たち、手術室の前にいるからさ」

 

 そもそも気遣われるべきなのは、一足先に帰る利奈ではなく、手術が終わるまで待ち続ける綱吉たちだろう。

 今はひどく落ちこんでいる綱吉も、炎真が駆けつけてきてくれたと知れば励まされるに違いない。しかし炎真は、気のない声でああ、と応えた。

 

「彼らには会わないでおくよ。僕が行ったって邪魔になるだけだし」

「え……」

 

 投げやりな言葉に面食らう。一瞬、自虐かと思ったけれど、それにしては言い方に妙に棘があった。

 

「古里く――」

「それより、相沢さんは大丈夫なの? 最初に見つけたって聞いたけど」

 

 炎真の視線が目元から頬を追う。思わず頬に手を当てると、残っていた水滴が指についた。これでは強がったって無意味だろう。

 

「……あはは。ちょっと大丈夫じゃない、けど。ううん、そういうので泣いてたんじゃないの! ちょっと自分がいやになってただけ」

「……?」

「……ほら、私なにもできなかったからさ」

 

 これ以上泣くわけにはいかなかったので、天井を見上げる。白い光が目に染みて、それはそれで涙が出そうだったけれど、なんとか続ける。

 

「私ね、今ならなんでもできると思ってたの。ヴァリ――あーっと、知り合いの施設でいろいろ教えてもらっててね? 護身術みたいのとか、応急処置とか、パルクールとか。それでいろんなことができるようになって、委員会活動とかもこれまで以上に活躍できるって思ってたの」

 

 口ではマフィアの一員ではないただの一般人だと言っておきながら、傲慢な気持ちがあった。なにせ、未来であれだけの修羅場をくぐり抜けてきたのだ。戦争のない世界なんて、余裕で生きていけると思っていた。

 

「……でも、山本君があんなことになったとき、なにもできなくて。笹川先輩が来てくれなかったら、私、山本君を死なせてたかもしれない」

 

 了平が来なかったら、きっとパニックになったまま救急車も呼べずにいただろう。もしそうなっていたら、武をその場で死なせていたかもしれないのだ。そう考えると、なんでもできるという思い上がりがただただ恥ずかしくなってくる。

 力を得て傲慢になるなんて、とんだやられ役ではないか。

 

「それにね、私、思っちゃうの。私がもっと早く部室に行ってたら、山本君助けられたんじゃないかって。……まだなにかできたんじゃないかって思っちゃうの、なにもできないのに」

 

 もしも過去に戻れたら、なんて考えたって意味はないけれど。それでも、武を一人きりにしなければ襲われずにすんだのではと考えずにはいられない。なにもできなかったから、なにかできたかもしれないという可能性を探してしまう。

 

 利奈の自虐を、炎真は静かに聞いていた。そのうえで、ゆっくりと口を開く。

 

「……気を悪くさせたら謝るけど」

「うん」

「相沢さんがそこにいても、山本君は襲われていたと思う」

「……うん」

 

(わかっている。わかってるけど)

 

 頭ではわかっている。武が帰るまで部室にいたところで、そのあともずっと一緒にいられたわけじゃない。武の襲われる場所が変わるだけだ。わかっていても考えてしまうのだ。

 

「もしかしたらって考えるのはわかるけど、考えたって過去は変わらないんだ。

 だから僕は……相沢さんがそこにいなくてよかったと思ってるよ。そこにいたら、相沢さんも襲われてただろうから」

 

 炎真の言葉には真実味があった。だから利奈は頷くしかなかった。

 

「ごめんね、変なこと言って」

「ううん。……僕も同じようなこと考えたことあるから」

「炎真君も?」

 

 炎真は丸めていた背をさらに丸めた。前髪に隠れて横顔が見えない。

 

「僕のファミリー、弱いから昔からずっと迫害されててね。たくさんいやなことがあったんだ。思い出したくないことも、たくさん」

「そう、なんだ……」

 

 ボンゴレファミリーが巨大マフィアだったから、てっきりシモンファミリーもそれくらい権力のあるマフィアなのだと思いこんでいた。上級生のイジメに無反応だったのは、暴行されることに慣れきってしまっていたからなのかもしれない。

 

「……過去はなかったことにはできないし、変えられないけど。でも、僕たちは過去を背負って生きるしかないんだよ。つらくても、悲しくても。だって、そうしなきゃ浮かばれなから」

 

 炎真は自分に言い聞かせるようにそう言い切った。

 炎真にも辛い思い出があるのだろう。それでも利奈を気遣って過去を明かしてくれた炎真に、利奈はありがとうと答えた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

優しさはときに仇となる

 

 広い空間にただ二人並んで座って、時が過ぎていくのを無音で数える。本来ならば苦手に感じる静寂も、今は心地よかった。炎真も沈黙は苦痛ではないようで、身じろぎひとつせずにジッとしている。

 

(なんか不思議。さっきまで、あんなに苦しかったのに)

 

 泣けるだけ泣いて、感情を言葉とともに吐き出したからか、胸のなかはとても穏やかになっていた。

 事態はなにひとつ好転していない。だからといって、後ろを振り返っていたってなにも変わらない。炎真の言ったとおり、過去はなかったことにできないし、変えることもできないのだから。

 

 チラリと炎真の表情を窺う。赤みがかった瞳は軽く伏せられ、口元はへの字に曲がっている。こんな状況だからかいつもより雰囲気が固い。

 愚痴を言ったときは困惑させるだけだと思っていたけれど、炎真は強い口調ではっきりと利奈の甘えを切り捨てた。慰めの言葉も一切口にしていない。それでもこうしてそばにいてくれるのは、炎真の優しさだろう。

 

(山本君のところ、行かなくていいのかな。行ったら迷惑になるみたいなこと言ってたけど……)

 

 それが本心なのか建前なのかはわからないけれど、行きたがっていないことはなんとなくわかる。

 綱吉が襲撃されてからこうなることをあらかじめ予測していたのか、ほかのシモンファミリーと同じく動揺は少なそうだ――と思っていたら、唐突に炎真の肩が跳ねた。その理由を炎真の肩越しに見つけ、利奈は立ち上がる。

 

「ヒバリさん!」

 

 どうやら電話を受けた恭弥自身が迎えに来てくれたようだ。着替えの制服が入っているであろう紙袋をぶら下げ、利奈が来るのを半眼で待っている。利奈が腰を上げると、つられたように炎真も立ち上がった。

 

「じゃ、僕はこれで」

「え、あ、炎真君――」

 

 恭弥が怖いのか、炎真はそそくさと逃げていく。距離を取るようにして壁伝いに出て行った炎真を恭弥は一瞥する。

 

「彼は?」

「あ、はい。心配して一緒にいてくれたみたいで。ほんとにみんなに会わないで帰っちゃった……」

「ふうん。はい、これ」

 

 興味はあまりなかったようで、気のない返事とともに紙袋を渡される。中身はやはり新しい制服だった。

 

「ありがとうございます、助かりました。血だらけの制服なんて持って帰れないですし」

「君くらいだよ、僕におつかいを頼むのは。そのうえ、家まで送れって?」

「う゛っ」

 

 ジト目で睨めつけられ、息を呑む。言われてみれば、恭弥に雑用を押しつけた形になっている。

 

「あの……私、だれかについていてほしいって言っただけで。まさかヒバリさんがそのまま来るとは思ってなくて……」

「あの時間、学校にほかにだれがいた? ちなみに草壁は現場の見張りをしていたけど」

「あ……」

 

 つまり、あのタイミングで頼めば必然的に恭弥がやらなければならなくなる、と言いたいらしい。班長たちに知られたらまたもや鉄拳制裁を食らうだろう失態だ。

 

「まあ、生徒の容態も確認しておきたかったら、そのついでだけど。君は山本武の容態については?」

「いえ、まだ。手術中でしたし――もしかして、終わりました!?」

 

 今更になって、恭弥の歩いてきた方向が入り口からではなく、院内からであることに気がついた。

 一度ロビーを通り過ぎたか、あるいは違う入り口から入ってきたのだろう。恭弥ならばどこから入ってもお咎めなしだ。

 

「ううん、まだ一時間はかかるって。手術が成功したところで――」

 

 そこで恭弥は言葉を切った。固唾を呑む利奈と目を合わせ、そして逸らす。

 

「――意識が戻るまではなんとも言えない。学校復帰までは時間がかかるだろうね」

「そうですか……」

 

 あの様子では、内臓に損傷が出ているだろう。意識が戻ったところで、すぐに退院できるとは思えない。出血量を考えれば、命の危険だってあるのだ。

 

「それより早く着替えて。明日があるんだから」

「明日? 明日って――」

 

 利奈の問いに恭弥が首を動かす。その先には手術室があり、恭弥の雰囲気がひりついた。

 

「うちの生徒が、よりにもよって僕の並盛中学で手を出されたんだ。犯人は必ず咬み殺す」

 

 逆鱗に触れられた恭弥の声音は、今までにないほど怒りに満ちていた。

 

 

――

 

 

 餌役や囮役を筆頭として、委員会活動で恭弥と二人で歩く機会は多かったが、帰り道を送ってもらうのは初めてだった。上司と部下の関係性なので、当然といえば当然だ。

 ――いや、恭弥からすれば、これも委員会活動の一環なのかもしれない。利奈につられて襲撃犯が現れてくれれば、明日探す手間が省けるのだから。

 

 どちらにしろ、恭弥の隣を歩く機会なんてめったにない。いつもなら背中を追っている人物が横にいるのは落ち着かないけれど、家までの道のりを決めるのは利奈だ。もっとも、恭弥ならば利奈の自宅の位置を把握したうえで、最短距離を選べるのかもしれない。

 

「ヒバリさん、明日ってほんとに継承式あるんですか?」

「……どういう意味?」

 

 真意を測るように聞き返される。

 

「だって、山本君があんなことになったじゃないですか。ツナ――沢田君たちもつきっきりですし、式どころじゃ」

「僕は式の中止を聞いてないよ」

「そうですけど。でも、あれじゃ式開けないでしょうし」

「沢田たちが式に参加できる状態じゃないってこと?」

「んー、そうじゃなくて。なんていうか……」

 

 言いたいことが伝えられないのがもどかしい。なにかで例えようとしてもいい例えが出てこないので、結局そのまま口に出していく。

 

「継承式って、ボンゴレファミリーにとってすごく大事なイベントじゃないですか。ほかのマフィアの人たちも呼んで、新しいボスをアピールする。だから、全員揃ってないとできないと思って」

「ああ、守護者になにかあったとほかの連中に勘づかれるって?」

「それもありますけど。ええと、今のボスがいるじゃないですか。その人が反対したりしそうかなって。守護者が揃ってないなら式を開くのはふさわしくない、とか」

「それはないよ」

 

 利奈の考えを恭弥はあっさりと否定する。

 

「式の前日に中止なんて、内部でなにかあったって喧伝するようなものじゃないか」

「……あっ」

 

 言われてみれば確かにその通りだった。

 継承式は世代交代の晴れ舞台であり、ほかのマフィアたちへの宣伝だ。その式を土壇場で中止になんてしたら招待したマフィアから不評を買うだろうし、敵対組織に弱みを握られる可能性だってある。継承式には多くの利権が絡んでいるのだ。

 

「それに、守護者が一人欠けたくらいなんとかできるでしょ。六道骸だって、代役を立てているんだから」

「い、言われてみれば……」

 

 正式な霧の守護者は骸だが、彼は黒曜ランドから出ることを許されておらず、代わりにクロームが霧の守護者の役目を担っている。同じように武の代役を立てれば、ほかのマフィアに勘ぐられることなく継承式を執り行える。

 

(さすがヒバリさん、機転が早い)

 

 伊達に並盛の風紀を名乗っていない。

 

「なら、山本君の代わりにだれかを選んで式を開くんでしょうか」

「そうなるんじゃない? 犯人の目的が継承式なら、式に姿を現す可能性は高い。小動物たちにとっても狙い時だ」

「あ! そういえば、部室に手掛かりがあったって――んむ」

 

 声が大きくなっていたことに気付き、片手で口を塞ぐ。そのまま周囲を窺うが、恭弥は緩く首を振る。近くに人の気配はないようだ。

 

「赤ん坊が見つけていたね。血だまりのなかに、山本が指で書いたと思われる文字があった。ひらがなだったけど、あれは日本語じゃない」

「……日本語じゃないひらがな?」

 

 人がいないとわかっていても、つい声を潜めてしまう。どこかの家から、子供のはしゃぎ声が聞こえてきた。

 

「僕には心当たりのない文字だった。でも、赤ん坊はなにかに勘づいたような顔をしていたから、彼らにとっては馴染みのある単語、あるいは符丁なんだろうね」

「符丁?」

「合い言葉」

「あー」

 

 ボンゴレの機密に関わる内容なら、内部事情に明るくない恭弥が見ても意味はわからないだろう。でもそれだと疑問が生じる。

 

(山本君はなんでその符丁知ってたんだろう。山本君はマフィアに詳しくなかったのに)

 

 隼人や骸ならわかる。でも、武はボンゴレファミリーの事情には詳しくなかったはずだ。その武がダイイングメッセージのように符丁を残したことに、少し引っかかる。

 

「もしかしたら、彼もその符丁の意味は知らなかったのかもしれないね。山本の性格上、符丁の意味を知っていたら、意味の方をそのまま書くだろうから」

「私もそう思います! ……山本君に聞ければいいのにな」

 

 継承式が明日でなかったら、意識が戻った武から詳細な話が聞けていただろう。しかし大手術を受けた武が、継承式前に目を覚ます可能性は低い。何日かあいだがあれば、意識が戻っていたかもしれないのに。

 

 暗がりを歩いているうちに、見慣れた家並みに辿り着いた。本当に襲撃されるとは思っていなかったけれど、なんだかほっとする。

 しかし、利奈にはもうひとつするべきことが残っていた。

 

「ヒバリさん。明日の継承式、私も連れていってもらえないでしょうか」

 

 恭弥が足を止めた。その顔に驚きがないところを見ると、ある程度予測はついていたようだ。

 

「明日犯人が現れるなら、私がいた方がいいと思うんです。もしかしたら式前に接触してくるかもしれませんし」

「……君は犯人を見てないんじゃなかったっけ」

「見てません。でも、それを犯人は知りません。だから口封じに来るかもしれないですし、私を見てなにか反応する可能性もあるんじゃないかって」

「つまり、囮になるってこと?」

 

 頷いた。

 

 守護者である恭弥の同行者としてなら、招待されていない利奈も会場に潜り込める。式の目玉として注目され続ける恭弥たちと違い、利奈ならば、だれにも気にされずに警戒に当たれるだろう。不審人物を見つけられる可能性もある。

 

「殊勝な心がけだね。僕はかまわないけど、君、スーツ持ってるの?」 

「へ!?」

 

 予想だにしない質問に利奈は面食らった。

 

(スーツ!? そっか、式だからちゃんとした服着てなきゃいけないんだ!)

 

 こんな基本的な質問をされるとは思っておらず、口ごもる。

 利奈の持つ服のなかで礼服に使えるのは今着ている制服くらいだが、制服姿でマフィアの式典に参加していいものなのだろうか。いや、恭弥がスーツを着るのなら、それに合わせた格好でなければ間違いなく浮いてしまう。

 

(でも今からスーツなんて用意できるわけ……朝一でお店行く!? ああでもお金……スーツって高いよね、お小遣いで足りる? 靴もいる? 式って何時から? 待って待って、準備する時間ある!?)

 

 頭のなかでめまぐるしく思考を動かしていたら、こらえきれないというように恭弥が失笑した。

 

「自分から言い出しておいて、考えてなかったのかい?」

 

 その一言で思考が茹で上がった。ボッと顔に火がのぼる。

 

「ぅ、えっと、あ、明日ちゃんと……頑張って用意します! だから――!」

「いいよ。それくらいこっちで用意してあげる。明日の朝、屋敷においで」

「……うぅ」

 

 嬉しい提案のはずなのに、恥ずかしさでいっぱいになって素直に頷けない。バカにされるよりも優しくされるほうがいたたまれなくなるなんて知らなかった。これなら罵られた方がマシだった。

 

「……お気遣い、痛み入ります」

 

 ようやくひねり出したお礼の言葉は、またもや失笑されるほど遺憾に満ちていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

三章:仕組まれた舞台
パーティーの幕開け


______________

 

 

 継承式の舞台に選ばれたのは、広大な森を抱えた西洋の城だった。

 城と聞いたときからなんとなくの外観は想像していたものの、それを上回る規模の城が出てきたので、車の窓にべったりと張り付いてしまった。

 なにせ、小学校のお別れ遠足で行ったテーマパークのシンボルくらい豪華な城なのだ。芝生や植木はきれいに刈りこまれるし、庭園にはなんと湖まである。城の前では立食パーティー用の丸いテーブルが並んでいて、マフィアの面々がパーティーを楽しんでいた。そのほとんどが外国人である。

 

(海外の映画みたい……。舞踏会とか始まっちゃいそう)

 

 360度すべてがきらびやかで、ここが日本だと言うことを忘れてしまいそうになる。物語の世界に迷いこんだみたいだ。

 招待客の人相が悪かったり、そこらじゅうで銃が回収されていたり、頭上を飛び交うヘリコプターの音がやや物騒な気配を醸し出してはいるが、それを考慮しても夢みたいな空間である。

 

「にしても、まさか恭弥が自分から来るなんてな。迎えに行ったら、恭弥様はすでに発っておりますって言われちまって。俺の方が遅くなったぜ」

 

 快活に笑うのは、キャバッローネのボスであり、利奈にとっては恭弥の指導役であるディーノだ。ジャンパーを羽織ったラフな格好しか見たことがなかったけれど、今日はマフィアのボスらしく、スーツで決めている。ストライプ柄の黒シャツも似合っていた。

 

(うーん……今更だけどものすごいイケメン)

 

 普段は性格の気さくさでいいお兄ちゃんみたいな雰囲気なのに、今日は王子様と見間違うほどにまばゆかった。ほかのファミリーがいるからか、物腰からして別人である。

 ここにいる人たちのなかから王子を選べと言われたら、だれもが迷わずディーノを指さすだろう。匣動物も白馬だったし、マフィアのボスというよりは、白馬の王子様のような出で立ちだ。

 

 もちろんそんなディーノを女性が放っておくはずもなく、利奈の視界の端で、ドレスを着た女性たちが遠巻きにディーノを褒めそやしていた。

 視線の的であるディーノと対面している利奈は、彼女たちからすれば邪魔者、あるいは嫉妬の対象となりそうなものだが、不思議とそういった意識が利奈に向けられることはなかった。彼女たちの関心を引くのはディーノのみ。ドレスも着ていない十四歳の小娘は、彼女たちにとって敵でもないようだ。

 

「継承式はツナにとってもお前にとっても晴れ舞台だ。兄弟分と弟子の成長がこんなに早く見れるとは思ってなかったよ」

 

 ひそかに胸を撫でおろす利奈を知ってか知らずか、ディーノは恭弥にばかりかまっている。よほど恭弥が自主的に来たことが嬉しいのだろう。

 

「自主的に参加したってことは、少しはボンゴレに愛着持ってくれたって思っていいのか? 同盟マフィアとして、これからもよろしく頼むぜ」

「うるさい、黙って」

 

 うっとうしそうな顔で、にべもなくディーノをはねのける恭弥。普段ならなにかしらフォローに入る利奈も、今日ばかりは苦笑いを浮かべるにとどめた。

 

 ――どうやらディーノは、昨日の事件についてリボーンや綱吉からなにも聞かされていないらしい。

 未来でも共闘していたからついつい勘違いしてしまいそうになるけれど、彼は同盟ファミリーのボスであって、ボンゴレの関係者ではない。ボンゴレの機密についても知らされていないだろう。

 そして綱吉たちが話していないのなら、利奈が話すのも筋違いだ。なるべくいつものように振る舞って、武の件については悟らせないようにしなければならない。

 

「にしても、利奈も一緒に来たんだな。リボーンに招待されたのか?」

「いえ、ヒバリさんに頼んで。こんな機会めったにないですし……。ここまで豪華なイベントだったなんて思ってませんでした」

 

 伝統的な催しだから、もっと質素で厳かなものだと思っていたけれど、結婚式の披露宴のような絢爛さだ。

 みんなワインや泡の出るお酒を片手に、会話に花を咲かせている。三段重ねの銀皿の上に乗った軽食もさぞかし絶品なのだろう。でも、今はなにも食べられそうにない。

 

(式が始まるまで、あと一時間。……もしかしたら、式の前かも)

 

 いつ襲撃犯が現れるだろうかと、どうにもそわそわしてしまう。ディーノには式の空気に緊張していると思われているようで、肩の力を抜いていいと言われた。

 

「式のあいだ、利奈はどうするんだ? 式典にはさすがに出られないだろうし、一人じゃ退屈だろ。俺の部下と一緒にいるか?」

「え!?」

 

 予想外の提案に声が出る。

 

「あ、えと……いろいろその辺見て回りたいから、大丈夫です。ほら、城のなか歩く機会なんてめったにないですし……!」

「そうか? まあ、そんなに来る機会もないか」

 

 ディーノが城を仰ぎ見る横で、ふうと胸を撫で下ろす。これから襲撃に備えるのに、ディーノの部下といたら身動きが取りづらくなってしまう。危ないところだった。

 

「おっ、あそこにいるの、ツナたちだな」

 

 人混みのなかに綱吉たちの姿が見えた。人だかりでよく見えないけれど、綱吉はだれかと話している最中のようだ。

 

「ディーノさん、お先にどうぞ。私たちはあとで合流します」

「悪いな、ちょっと行ってくる」

 

 軽やかにディーノが去って行く。すると集まっていた視線もディーノとともに移り、令嬢たちが感嘆のため息をつく。意識していないつもりでも意識していたようで、姿勢を緩めると背中が痛くなっていた。

 

「沢田君たち、来ましたね」

「そうだね」

「……あの山本君は、本人じゃないですよね」

 

 綱吉の横に武が立っているが、それが本人でないことは一目瞭然だった。たとえ武に意識が戻っていたとしても、あんなふうに平然と立っていられるわけがない。恭弥も一目で見抜いたようで、気のない視線を向けている。

 

「君の友達の仕業でしょ。遠目に見たら本物と遜色ないけど」

「……はい、本物そっくりです」

 

 あの武は、クロームが作った幻覚だ。欠席扱いにはしなかったらしい。

 

「犯人を見つけるためでしょうか」

「だろうね。あれで炙り出せるとは思わないけど、不意をつくことくらいはできるかも」

 

 重傷を負わせた相手がなんともないような顔で式に出席していれば、犯人も怪訝に思うだろう。あるいは、彼らなりの宣戦布告なのかもしれない。

 

(ここにいると、みんな怪しく見えちゃうな……。全員、犯罪者なんだし)

 

 式の出席者の大半がなんらかの犯罪を犯しているのだから、人相や雰囲気では犯人を当てられそうにない。銃を撃ったことのない人のほうが珍しいくらいだろう。

 中国の民族衣装のような服を着た巨漢二人に目を引かれたりもしたけれど、ほとんどの男性はみんなスーツを着ている。見分けがつきづらいのも厄介だった。

 

「ヒバリさん、そろそろ時間です」

 

 ピンク色の腕時計を確認してから恭弥に声をかける。式まではまだ時間があるが、式の段取りなどを確認しておいた方がいいだろう。

 

 周囲を見渡すものの、近くに綱吉たちの姿はない。さっきはスクアーロの声が聞こえたから場所がわかりやすかったけれど、いつのまにかどこかに移動していたようだ。城のなかに入ってしまったのかもしれない。

 

「どこ行ったんだろ。探してみますか?」

 

 呼びかけると恭弥が一方向を指さした。しかし、綱吉たちの姿はない。それでも恭弥が歩き出すので、利奈はその後ろに続いた。

 

 どこもかしこも人が密集しているけれど、恭弥が通ろうとすれば自然と道は開いた。ボンゴレ守護者の顔はすでに知れ渡っているのだろう。おかげでだれとも衝突せずにすんだ。

 恭弥は相手がだれだろうが咬みつくし、因縁をつけられれば相手も黙ってはいないだろう。恭弥が式をぶち壊してしまっては本末転倒である。

 

「ヒバリさん!」

 

 恭弥が顔を出すと、みんな驚いた顔で動きを止めた。無理もない、恭弥が率先して集まりに出てくることなんてめったにないのだから。

 しかし彼らの驚く理由が恭弥だけではなかったのを、自分に向けられた同じような視線で初めて気がついた。そういえば、式に来ることを彼らに伝えていなかった。

 

「利奈も来たんだ」

「うん。やっぱり気になるから……」

「お前なんかに心配されなくても問題はねえよ」

「獄寺!」

 

 憎まれ口を叩く隼人を了平がいさめる。いつもならここで武が会話に参加するのだが、武は動かない。代わりにクロームが、落ち着かなさそうな顔で利奈を見る。

 

「山本君のことは知ってるよ。知ってるっていうか、わかったって感じだけど」

「あ……ごめん。俺たちと九代目以外にはだれにも言ってないんだ」

 

 申し訳なさそうに綱吉が謝る。

 

「いいって。でもすごいねクローム。全然見分けつかないよ」

「そう……?」

 

 利奈には幻術の才覚がまるでなかったものの、フランから見抜き方の基礎らしきものは教わっている。高度な幻術だと術士でも見破るのは困難だそうだが、簡単な幻術くらいなら、コツを知っていれば術士でなくても破れるのだ。

 

(懐かしいな。みっつのパイナップルでどれが本物か当てたりしたっけ。最初のうちはわかんなくて輪切りにしたりしてたけど)

 

 幻術は五感に作用するものなので、対象に接触すればするほど見抜きやすくなる。ようは、対象への理解が鍵となるのだ。

 そして、目の前に立っている武にはまるで違和感を感じなかった。言動の不自然さも、体調が悪いのだと言われたら信じてしまうだろう。事前にわかっていても幻術だとは思えないくらい、クロームの幻術は完璧だった。

 

「あのバイパー……いや、マーモンが褒めてたんだ。ちっとは自信持っていいぞ」

 

 リボーンにも太鼓判を押され、クロームがはにかむ。

 

「なんにせよ、これで守護者は揃ったな! ヒバリがいれば心強い!」

「おい、まさかお前も式に参加するとか言うんじゃねえだろうな?」

 

 隼人に睨めつけられるが、参加する資格がないことくらいわかっている。

 しかしそれはそれとして、隼人の態度には腹が立ったので、ギュムリと足を踏みつける。即座に隼人が足を払った。

 

「なにしやがんだテメエ!」

「あ、ごめん。よく聞こえなかったから近づこうとしたんだけど間違えて踏んじゃった」

「こんの――」

「わーわーわー! 獄寺君、行こ! またあとでね」

 

 詰め寄ろうとする隼人の背中をぐいぐいと綱吉が押していく。恭弥はとっくに姿を消していた。

 

 ここでようやく一人になった利奈は、なにげないふうをよそおいながら、ぐるりと辺りを見渡した。

 式の主役が準備に向かったからか、腕時計に目を落とす人が多い。グラスを置いて城へと向かう人もいる。パーティー終盤の空気が漂っていた。

 

(私に近づこうとする人もいないし……やっぱりだめだったか)

 

 一人になった今が絶好の狙いときのはずだが、襲撃犯の気配はない。怪しい人物が現れたら人目の少ないところにおびき寄せる予定だったのだが、どうやら空振りに終わりそうだ。

 

(次、次。切り替えよう。式には入れないけど、外の見回りくらいはできる。それに、ここで変な動きをする人がいたらヒバリさんに報告しなきゃなんだし。うん、頑張ろう)

 

 グッと右拳を作る利奈だったが、直後、背筋にひやりと寒気が走った。

 

(えっ)

 

 それが慣れ親しんだ殺気だと気付く前に、視界の両端から腕を伸ばされる。その手が首に食い込む寸前、利奈はその場にしゃがみこんだ。

 本来ならすぐに回避が反撃に移るのだが、利奈は空手のままその場で上を見上げた。

 

 こんな人が多い場所で獲物に襲いかかるプロがいるはずがない。向けられた刺すような殺気に覚えもあった。それと、借り物のスーツを不用意に汚せないという想いが、次の行動を封じた。

 結果、利奈の選択は正解だった。

 

「やっぱりベルか!」

「シシッ。よう、ミル」

 

 前髪に阻まれ、視線は合わなかった。首を絞めようとした姿勢のまま歯を見せるベルに、体育座りのまま利奈は頬杖をついた。

 ミルというのは、マーモンが即興で考えた利奈の仮名である。どこでどうなったのか、未来では凄腕の情報屋という扱いになっているらしい。なぜベルがその名前を出したのかはわからない。からかいの一環なのかもしれない。

 

「なにやってるんだい、ベル」

「あ、マーモン」

 

 かがんだ利奈の頭の上でマーモンが浮いている。その頭上でも不思議な模様のついた輪っかが浮いていて、マーモンを天使のように見せていた。

 

「あの記憶が正しいなら、これくらい簡単に躱せると思って。ちょっと実験」

「……ああ、そういえばそんなこと言ってたね。確かに、今の動きは只者じゃなかった」

「だろ? 実験成功!」

 

 語尾に音符マークでもつきそうな声音ではしゃぐベルをあきれ顔で見上げていたら、眼前に手を差し伸べられた。その指先があまりにも洗練されたものだったので、利奈は警戒も忘れて手に手を重ねる。するとするりと身体が引き上げられた。

 

「……あ、ありがとう」

 

 しゃがむ原因を作ったのはベルなのに、お礼を言わずにはいられなかった。圧倒されてる利奈に気をよくしたのか、ベルの口角がさらに上がる。

 

「だって俺、王子だし」

 

 発言を強調するように王冠型のティアラが光る。バックに城をそびえ立たせているのもあって、今日ばかりは本当に王子様のように見えた。

 

(王子様は後ろからいきなり首絞めようとかしないけど)

 

 ベルのことだ、避けていなかったら本気で首を絞めていたに違いない。今更ながらぞわりと肌が粟立ち、利奈は自分の首をそっと撫でた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

残った糸

 ベルとマーモンがこちらに来たことで、ほかのヴァリアー幹部たちも利奈の存在に気付いたようだ。ぞろぞろとこちらにやってくる。体格がいいうえにいろんな意味で個性的な三人は目立つことこのうえなかったが、視線が集まるのは見た目のせいだけではないだろう。

 

(なんか、ディーノさんのときよりも注目されてる……)

 

 ディーノに向けられていたのは羨望の眼差しだったけれど、彼らに向けられているのは畏怖の眼差しだ。わかりやすい違いをあげると、前者は前のめりで、後者は腰が引けた感じになっている。

 

「よう、お前も来ていたのか」

 

 真っ先に声をかけてきたのはスクアーロだった。親しげな声音は未来での彼と変わりがなく、利奈はほっとしながら頭を下げた。

 

「こんにちは」

「髪、切っちゃったのね。でも似合ってるわ」

「ありがとうございます!」

 

 ルッスーリアの声にも棘がない。

 

(よかった、初めましてに戻ってない)

 

 未来での記憶はユニの力によってこの時代に受け継がれているが、この時代の彼らがどう受け止めるかは彼ら次第である。ただの夢、あるいは今の自分には関係ないものとして捨て置かれていたならば、こんなふうに話しかけられはしなかっただろう。

 未来での出来事がなければ、スクアーロとは初対面で、一度会ったレヴィも幻術のせいで利奈を認識しておらず、ルッスーリアにいたっては、ベッドに貼り付けにされた彼を見張っていた敵側の人間という認識になっていたはずだ。つくづく、未来の記憶があってよかったと思う。

 

「なんだ、ずいぶんと打ち解けているみたいじゃないか」

 

 仲間たちの様子に、マーモンが意外そうな声を出した。

 利奈がヴァリアー邸にいたあいだ、マーモンだけは任務で屋敷内にいなかった。なので、利奈がヴァリアー邸に預けられてからの出来事をマーモンは知らない。

 

「あら、言ったじゃない。信じてなかったの?」

「聞いたけど、ここまで打ち解けているとは思ってなかったよ。スクアーロは言葉を濁してたし」

「え、濁したんですか?」

 

 思わず仰ぎ見ると、スクアーロは気まずそうに顔を逸らした。その反応に利奈は少なからずショックを受ける。

 

(私がツナたちの友達だからいやになったのかな……。

 スペルビさんのおかげで私、レヴィさんに暗殺術とか教わり始めたのに……)

 

 ――まさにそれがスクアーロの言葉を濁した理由なのだが、利奈は気付かない。

 未来の自分が傷心の少女を慰めようとした結果、発言を大いに誤解され、挙げ句その少女が復讐者としての道を歩み出したなんて、直視したくもない負の記憶だろう。

 

 先ほどから一言も言葉を発していないレヴィも、受け入れがたい記憶だったのか下を向いている。それでも未来での恩人に変わりはなく、利奈は控えめながらも声をかけた。

 

「レヴィさん、未来では大変お世話になりました」

「……ああ」

 

 やはり返事が素っ気ない。仕方のないこととはいえ、一抹の寂しさを感じてしまう。すると、利奈の心情を察したのか、ルッスーリアがレヴィの肩を小突いた。

 

「ちょっとレヴィ、辛気くさい顔しないの。この子、誤解しちゃってるじゃない」

「え……?」

「気にしなくて大丈夫よ。この人、自分の贈ったプレゼントだけ身につけてないのにふて腐れてるだけだから」

 

 そう言ってルッスーリアは自身の髪を指さした。それと同時にレヴィの視線が地面ではなく利奈の左腕――ルッスーリアたちから贈られた腕時計に向いていたことに気付き、合点がいく。

 未来での出来事だが、レヴィからは餞別の品として仕込み針のついたかんざしを贈られている。今は髪を短くしてしまったけれど、未来ではずっと髪に挿していた。どうやらレヴィは、それを気にして口を開かずにいたらしい。

 

「いや、べつに気にしてなど……!」

「さっきからジロジロ見といていまさらなに言ってんのよ。まったく男らしくないったら!」

「だから腕時計など見ておらん! お前の勘違いだ!」

「じゃあこいつの身体舐め回すように見てたってことかよ。お前、見境ねえな」

「最低だね」

「ぬう!?」

 

 流れるような罵倒でレヴィが窮地に追いこまれる。そんなわけがないのだから堂々と否定すればいいのに、レヴィは冷や汗をだらだら流している。目も激しく動いているし、第三者から見れば完全に黒だろう。

 恩人を犯罪者にするわけにはいかないので、利奈は急いでスーツの内ポケットからかんざしを取り出した。

 

「ほら、ちゃんと持ってきてますよ! レヴィさん」

「ぬっ」

 

 レヴィが露骨に嬉しそうな顔になった。言葉数が少ないけれど、反応はわかりやすい。

 

「武器は常に持ち歩けって言われてましたから。今はつけられないですけど、髪を伸ばしたらまたつけます」

「あ、ああ」

「なに鼻の下伸ばしてんだよ」

「なっ!? そ、そんなことはない!」

 

 こういうときに執拗に絡むのはベルだが、今日はなにかが欠けているような気がする。なんというかあと一歩、とどめの一撃というか。致命傷のような毒舌が。

 

(あっ、そっか。フランがいないからだ)

 

 なにか足りないと思ったら、ここにはフランがいないのだ。こういうときフランなら、レヴィが黙り込むような鋭い毒舌を差し込んでいただろう。それか、ほかの人にも被弾させていた。

 

(未来の世界で私よりちょっと上くらいだったってことは……今は小学生くらい?)

 

 フランは骸の弟子だと言っていたが、この時代ではまだ骸はフランと出会っていない。つまり、ヴァリアーの面々とも面識がないわけだ。つまり、未来の出来事を受け取っても、それが本物であるか確認する術がない。ただの夢として片付けられてしまっているだろう。

 

「おい、利……いや、ミル」

 

 人目を気にしてか、スクアーロもベルと同じあだ名を使った。

 辺りに目を配らせている様子からただごとではないと察し、利奈はスクアーロのそばに身を寄せる。それに合わせて身をかがめたスクアーロだが、長い髪が垂れ、利奈の顔に当たった。

 

「悪い」

 

 軽く謝りながら、スクアーロは流れた髪を耳にかける。

 

「お前、山本については知ってんのか?」

「……山本君、ですか?」

 

 スクアーロの眼差しは鋭かった。

 スクアーロはすでに綱吉たちと会っている。つまり、幻術で作られた武とすでに顔を合わせている。そのうえで利奈にこの質問を被せたということは、スクアーロは武が幻術であると見抜いているのだろう。スクアーロは未来で武に修行をつけていたし、そばには幻術を扱えるマーモンも控えている。クロームの幻術も容易に看破できただろう。

 

(……ツナはみんなと九代目にしか話してないって言ってたから、たぶんヴァリアーのみんなには話してないよね。だったら――)

 

「山本君がどうかしたんですか? 今日はまだ会ってないんですけど」

 

 嘘は言っていない。綱吉たちが秘密にしていることを勝手に話すわけにはいかないから、ここは知らないふりをしてとぼけるしかないだろう。

 まっすぐにスクアーロの瞳を見つめ返すと、スクアーロは曲げていた背筋を伸ばした。

 

「……いや、いい。ただ確認しただけだ」

 

 スクアーロはそこで話題を打ち切る。演技だと気付かれたどうかは微妙なところだ。

 

 話が終わったところで、周囲の人たちが動き始めているのが目に入った。式の時刻も近づいてきているし、会場へ向かうのだろう。

 

「そろそろ私たちも移動する? あんまり早いのもあれだけど、遅すぎても角が立つわよ」

「立たせとけ、そんなもん。どうせボス不在でとやかく言われんだあ」

「来ないんですか!? その……ボス」

「ボスが来られるわけがないだろう。こんなくだらない茶番に」

 

 不満そうにレヴィが鼻を鳴らした。XANXUSを信奉している彼にとって、この式典はめでたいものではないだろう。不服を態度で表すレヴィは、XANXUSの不在をうっかり喜びかけた利奈には気付いていない。

 

(そっか、いないんだ。……よかったあ)

 

 いつ現れるのかとひそかに戦々恐々としていたのだが、どうやら欠席だったらしい。

 未来であの威圧感に気圧されて以来、XANXUSにはどうも苦手意識があった。XANXUS本人はおそらく、利奈の存在自体を覚えていないだろう。できればもう出会いたくない人物である。

 ボンゴレに属する組織として継承式には参加しなければならないが、XANXUSに賛同の意思がないため、幹部のみを参加させたのだろう。スクアーロの言うとおり、もうすでに角は立っている。

 

「そういえば、貴方は行かないの? あの子たちはとっくに城に入ったみたいだけど」

「あ、私は式には出られないので。ここでご飯食べて待ってます」

「そうなの? じゃあちょっと……困ったことになるわね」

 

 そう言ってルッスーリアが辺りを見渡す。

 この時間になると残る人と残らない人は明確で、みんな次々にグラスを置いていた。ヴァリアーがどう動くのか、こちらを観察している人も多い。

 

「一応、顔は隠してるよ」

 

 マーモンが呟いた。そういえば、式典に参加するというのに、マーモンだけはいつものコートを着てフードを被っている。ドレスコードに引っかかりそうだけど、式場に着いたら脱ぐのかもしれない。

 

「べつに気にしなくていんじゃね? こいつ図太いし、さっきだって一人だったろ」

「……え、私の話?」

 

 ベルの言葉で自分を指差す。利奈はもちろん顔を隠してなどいない。隠されたのは名前くらいだ。

 

「でも、私たちが声かけちゃったから目立つでしょう。変なのにちょっかいかけられてもいやだし……そうだレヴィ、この子にかんざしつけてあげて」

「は?」

「はい?」

 

 二人の声が重なって、利奈のイという音が高く響いた。

 なにがどうなってそんな結論になったのか、二人して疑問の眼差しを向ける。

 

「にぶちんねえ。いいから、贈ったかんざしを挿しなさい。持ってるだけなのももったいないでしょう」

「でも、私、髪が……」

「なら胸に挿せば? 花の代わりになるだろ」

 

 ベルは完全に面白がっているけれど、なにが面白いのかがわからない。

 レヴィ以外の全員の視線がやれと言っていたので、利奈はかんざしをレヴィに差し出した。レヴィも、理解できていない顔で、おずおずとかんざしを受け取る。

 

「いったいなんなんだ……」

 

 レヴィがぼやくが、利奈も同じ気持ちである。

 心持ち胸を張って構えると、指を震わせながらレヴィがかんざしを挿した。身長差がありすぎてレヴィの胸板しか見えなかったけれど、指が離れた瞬間、安堵のため息が聞こえた。

 みんなに見せると、ルッスーリアが満足げに頷いた。

 

「これで一安心ね。さ、行きましょ」

「え、なにが一安心なんですか?」

「変なのに声かけられても相手にしちゃダメだよ。君、すぐに人についていくから」

「こいつが面倒事に巻き込まれるかどうか賭けようぜ、マーモン。俺、巻き込まれるほう」

「ちょっと!」

 

 縁起でもないことを言いながら去って行くベルに吠えるも、周りの目を気にして利奈は息をついた。ヴァリアーがいたことで空けられた空間は埋まらず、利奈を中心に円ができている。

 

(……私もヴァリアーの一員だって思われたかな)

 

 新たな誤解に辟易とする利奈の胸ポケットで、かんざしのガラス細工がきらめいた。

 ーーかんざしを異性に贈る行為が求愛を意味すること。そして、衆目環視のなかでそれを行なうのがこのうえない牽制になりえることを、当事者二人だけが理解していなかった。

 なので、すさまじい勢いで自身の話題が場を席巻していることなど、利奈は知るよしもなかった。

 

______

 

 

 異変は内側から訪れた。

 庭にいた利奈が城を仰ぐと、周りの人たちも同じように訝しみながら、城を見上げた。

 

「なんだ、この音は」

「ホイッスル?」

 

 式典が行われているはずの城から、甲高い音が聞こえてくるのだ。

 城のなかの音がここまで聞こえるのだから、なかではきっととんでもない大音量が響いているのだろう。防犯ブザーのような音だと、利奈は思った。

 

「警報か? 火災かなにかじゃないか」

「おいおい、冗談じゃねえぞ。なんだって式の最中に火災なんか――」

 

 通り過ぎた人が声を荒げたところで、爆発音が轟いた。

 高周波が聞こえたときには困惑しただけの群衆の空気が、瞬時に切り替わる。継承式で何事かが起こったのは明白であり、彼らをマフィアモードに戻すには充分であった。

 

 ちなみに利奈は、最初の高周波の時点で城の入り口をくぐっていた。庭園で異常がなかったので、ずっと城のほうを警戒していたのだ。

 火災が起きていたのか、城内には煙が充満している。すぐにでも現場へ向かおうとする利奈だったが、城内の警備員に行く手を阻まれた。

 

「止まれ! ここから先へは――」

「雲雀恭弥の部下です!」

 

 警備員の言葉を遮る。耳をつんざく高音はいまだやんでおらず、近づくほどにひどくなっていた。怒鳴らなければ、目の前の相手にすら声が届かない。

 ここで押し問答をしている暇はないので、利奈はとにかく権力に頼ることにした。

 

「十代目沢田綱吉の守護者、雲雀恭弥の部下です! 緊急事態なので通してください!」

「っ、あ!」

 

 相手が意表を突かれた隙にとなりをすり抜ける。あとで咎められる可能性はあるけれど、今はそれどころではない。

 

 会場となっていたホールは、すっかり無残な有様になっていた。

 結婚式場を思わせる厳かな佇まいのホールだったろうに、今は煙と瓦礫、そして倒れ伏した人々で地獄絵図と化している。煙はただの煙幕だったようで、息苦しさは感じない。しかしあまりにも煙が充満していて、どこに恭弥たちがいるのか、まるでわからなかった。

 

(ひどい……。とにかく、入らなきゃ)

 

 怪我をしている人がいる。倒れている人がいる。でも、戦っている人の姿はない。犯人はすでに逃げたあとなのか、それとも爆弾かなにかが設置されていたのか。音はすでに止まっているが、あの音はなんだったのか。

 わからないまま歩く利奈だったが、ようやく綱吉を見つけた。しかし声をかける前に、男の声が響く。

 

「金庫が破られています!」

 

(金庫? 強盗?)

 

 綱吉たちを狙った犯人と同一人物なのだろうか。疑念を抱きながら、金庫があると思われる部屋へと近づく。ホールの横に壁と同じ柄の、隠し扉のような分厚い扉があるのだ。

 

「危ない!」

 

 部屋の前に立っていた男が、仲間によって地面に押し倒される。その頭上を鋭い凶器が通り過ぎ、大理石の床に突き刺さった。まだなかに犯人が残っていたのだ。

 となると迂闊には近づけないはずだが、綱吉たちはなにかに引かれるようになかに入っていく。ならば部屋を覗くくらいと利奈もあとに続いたのだが、そこに不審者の姿はなかった。

 代わりに。

 

「……なんで?」

 

 みんながいた。並盛中学校に転入してきたばかりの、至門生たちが。ボンゴレファミリーに招待された、シモンファミリーの面々が。

 

 炎真が、立っていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

確かに同じはずたった

 

 

 考えてみればわかることだったのかもしれない。

 シモンファミリーが襲撃犯だったならば、並盛町で不審者の情報が出なかった理由にも、山本武を襲った犯人を利奈が認識できなかった理由にも、すべて説明がついてしまうのだ。

 

 犯人はそこにいた。利奈が目撃できなかったのではなく、見ていたのに見逃しただけだった。薫が立ち去ってから利奈が現場に入るまでのあいだに犯行を遂げたのではなく、ほかの部員がいなくなって利奈が現れるまでのあいだに武を襲ったのだ。

 そんな簡単なことに、利奈はまったく気付かなかった。それどころか、犯人を見かけたことをだれにも話さなかった。話していれば、だれかが勘づいてくれたかもしれないのに。立ち去っていく犯人を、のんきに見送ってしまった。

 

 ――その結果がこれだ。

 

 綱吉たちと対峙するように立つシモンファミリー。その中心に立っているのは古里炎真。いつも下を向いていた瞳は今はまっすぐに綱吉に向いており、激しい怒りに揺らめいていた。

 

 彼は語った。山本武を襲った理由を。継承式を狙った理由を。

 語られたシモンファミリーの歴史は凄惨たるもので、利奈はそれをまるでテレビのニュースのような感覚で聞いていた。だって、あまりにも話の規模が大きすぎるのだ。

 炎真の話が事実なら、ボンゴレファミリーはシモンファミリーを裏切ったばかりか、責任のすべてを押しつけ、シモンファミリーのマフィアとしての尊厳を地の底に叩き落としたことになる。ならばこの構図は、被害者の子孫が加害者の子孫を糾弾している図になるのだろう。つまり彼らは、出会う前から綱吉たちの敵だったのだ。

 

 綱吉どころか、髭をたくわえた老人――おそらく九代目ボンゴレだろう――すらも、その歴史を知らなかったようで、最初は言葉を失っていた。

 一番ショックを受けたのは綱吉だったろう。自身の祖先がそんな過ちを犯していたうえに、綱吉本人もそんな組織のボスを継がされるところだった。友達は深く傷つけられ、友達になれたと思っていた人には最初から敵にしか見られていなかった。

 

「どうだいツナ君。君の身体には、裏切り者のボンゴレの血が流れているんだ」

 

 絶望したっておかしくない。すべてを投げ出したってだれも責めやしない。

 でも綱吉は、今回に限って己の宿命から逃げだそうとはしなかった。

 

「……ボンゴレの血が流れているのは否定しない。過去に起きたことも今の俺では確かめられないし、絶対にないとも言い切れない」

 

 綱吉の口調はいつもと違った。揺らがない声色は彼の信念を表すかのようにまっすぐだった。

 

「だがそれでも、ひとつだけ命をかけて言えることがある。――ボンゴレⅠ世は、そんなことをする男じゃない!」

「……!」

 

 もはや議論は無用だった。シモンはすでに事を起こしているし、和解するつもりなど、はなからなかったに違いない。彼らは自分たちの正体を隠すために、ギークファミリーを殺めている。もう引き返せないところまで来ているのだ。

 

「シモンファミリーはここに宣言する。古里炎真が十代目のシモンボスを継承し、ボンゴレへの復讐を果たすことを誓う」

 

 ――ちぎれていく。繋がっていたはずのものが、目の前で引きちぎられていく。

 

「――この戦いは、シモンの誇りを取り戻すための戦いだ」

 

 炎真の宣言をもって、戦いの火蓋が切られた。

 【罪】と呼ばれる初代シモンの血が彼らのリングに力を与え、攻撃で飛んだ瓦礫が襲いかかってくる。利奈は避けようともしなかったが、だれかのリングが攻撃を防いだ。しかし、それすらもどうでもよかった。現実的なことがなにも考えられなかった。

 かりそめの友情がちぎれ、炎真と綱吉が敵としていがみ合い、傷つけ合う。それが利奈にはとても――とても、苦しかった。

 

(どうして、こんなことになったの)

 

 最初から綱吉たちを殺すつもりだったのなら、どうして転校なんてしてきたのだろう。シモンファミリーが受けた仕打ちをやり返すつもりだったとでもいうのだろうか。だとしたら、みんなの笑顔は、あのやりとりは、全部偽物だったのか。騙されたみんなは、絶望に浸る間もなく戦わなければならないのか。

 

「っ!?」

 

 前に立っている二人の背中が消えたと思ったら、左右の壁が轟音を立てた。炎真の攻撃が二人を左右に弾き飛ばし、二人の身体を壁にめりこませたのだ。そして考える猶予も与えられないうちに今度は恭弥とクロームの身体が宙に浮き――

 

「ヒバリさん!」

 

 二人の身体が天井に叩きつけられ、天井にクレーターを作った。だが、炎真の攻撃は止まらない。宙に浮かんだ四人の身体がまるで磁石のように引き寄せられ――利奈はとっさに目をつぶった。綱吉の叫び声と鈍い音が場を満たし、悲鳴が漏れかける。

 

(こんなのやだ!)

 

 蹂躙だ。圧倒的な力の前に為す術もなく四人が倒れ、立ち上がろうとした四人が炎真の力で再び床に沈んだ。見えない攻撃が四人の身体を押し込んで、床に大きな円状のくぼみを作っていく。まるで、透明な球状の物体が押しつけられたようだった。

 

「ボンゴレリングが!」

 

 九代目の守護者の声で、四人のリングが砕けたことを知った。

 ボンゴレリングはボンゴレファミリーの象徴であるばかりか、匣を開ける大事な鍵である。それが砕けてしまったということは、多大なる戦力の喪失、つまり、最大の対抗手段が失われたことを意味する。

 

「やめろ!」

 

 仲間の身を案じて綱吉が宙を飛んだ。一直線に向かう綱吉を炎真は避けず、迫りくる綱吉の腕を装甲のついた腕で受け止める。二人がぶつかり合った瞬間、目が眩むほどの光が辺りを焼く。光は綱吉と炎真、二人のリングから溢れ出していた。

 

「なぜだ炎真! なぜお前みたいなやつがこんなことを!」

「……君がそうさせたんじゃないか」

 

 遠く離れた炎真の表情は、光のせいでほとんど窺い知れなくなっていた。それでも、綱吉の渾身の叫びも届かないほど、その声には失望がにじんでいる。

 

「僕は君を見てきた。君は僕の想像していたボンゴレ十代目とは違った。僕と似ているとすら思ったよ。だから今までのボンゴレとは違う、ツナ君とならきっとわかり合えるって思ったんだ。……それなのに君は!」

 

 みんなを蹂躙した攻撃が綱吉を襲う。弾き飛ばされた綱吉が天井に叩きつけられ、衝撃でまた天井がめりこんだ。

 

(このままじゃ、全滅だ)

 

 九代目ファミリーは武器を構えない。

 彼らもわかっているのだ。未来の武器を手にした綱吉たちが敵わないのなら、ほかの人間がシモンに対峙できるわけがないと。

 

 それでもディーノとヴァリアーがシモンを止めようと部屋に乗り込んできたが、すぐに床や天井から生えた鋭利なガラスに囲まれ、動くことすらできなくなった。後ろの壁に張り付いていた利奈は巻き込まれずにすんだが、戦う術がない以上、同じことである。

 

「帰ろう。このままじゃ簡単に殺してしまう。ボンゴレにはもっと、シモンの苦しみを味わわせないと」

 

 あまりの力の差に興ざめしたように、炎真たちが身を引いた。そのなかで一人、ジュリーが気を失ったクロームへと歩を進める。

 

「クロームちゃんは連れてくよ。デートの約束してるからね」

 

 そう言ってクロームを抱え上げるジュリーに、利奈はようやく行動の自由を取り戻した。

 身動きが取れないディーノたちを迂回し、床のくぼみの前に立ってジュリーを睨みつける。

 

「クロームを放して!」

「やっほー、かわいこちゃん。今日も相変わらず怒ってんね」

 

 この状況でもジュリーの軽薄な態度は変わらなかった。空気の読めない言動に、アーデルハイトが背後で眉間にしわを寄せている。

 

「悪いけど、もう帰んないといけないからさ。今度ゆっくりお茶しよ。……ああそれと、たぶんもう学校行くことないからよろしく!」

 

 にこやかに笑ってジュリーが背を向ける。その拍子に、クロームのつけていたボンゴレリングが床に落ちた。

 

「待て! クローム!」

「ツナ君は自分の心配をしたほうがいいよ」

 

 とどめとばかりに炎真の攻撃を浴び、綱吉が血を吐いた。今度は利奈の耳にもボンゴレリングの割れた音が届く。

 これでボンゴレリングが五つも破壊されてしまった。いやそれよりも、このままではクロームが連れ去られてしまう。

 

「やめて! クロームを返して!」

 

 城の壁が砕かれた。太陽が差しこみ、シモンファミリーが逆光で見えなくなる。

 

 止めなければならない。でも、どうやって止めろというのだろう。

 綱吉の言葉ですら届かないのなら、同級生なだけの利奈の言葉など届くはずもない。そもそも、利奈は彼らに騙されていたのだ。

 

(でも……!)

 

「炎真君!」

 

 声を振り絞って炎真の名を呼んだ。

 綱吉はもう呼び捨てにしていたけれど、利奈にとってはまだ炎真は級友だ。騙されていたとはいえ、交わした言葉すべてが偽物だったわけじゃない。

 

『僕のファミリー、弱いから昔からずっと迫害されてね。たくさんいやなことがあったんだ。思い出したくないこともたくさん』

 

 思えば、炎真たちはずっとほかのファミリーを嫌悪していた。利奈を警戒していたアーデルハイトを炎真が宥めたのも、利奈がマフィアではなかったからだろう。過去を打ち明けてくれたのも、敵ではないと思ってくれたからかもしれない。

 

『過去はなかったことにはできないし、変えられないけど。でも、僕たちは過去を背負って生きるしかないんだよ。つらくても、悲しくても。だって、そうしなきゃ浮かばれないから』

 

 ――昨日の夜に炎真が言った言葉の意味が、今ならわかる。炎真たちは祖先の無念を晴らそうとしていたのだ。

 彼らにとって、これは生きるための最後の抵抗だったのだろう。誇りを捨てるのはマフィアとして死ぬことと同義で、だから彼らは生き続けるために反旗を翻したのだろう。

 今までに受けたシモンファミリーの屈辱を背負い、彼らは歩く。光の下へ。それがたとえ、地獄の業火だったとしても。

 

「待って! 行かないで!」

 

 道の先に希望はない。それでも、絶望を振り払うようにして彼らは歩む。歩んでしまう。行ってしまったら、もう戻ってくることはできない。

 

「炎真君!」

 

 炎真は言っていた。利奈が部室にいなくてよかったと。部室にいたら、武と一緒に襲われていただろうと。

 端から見れば犯人の一味による当てこすりに思えるかもしれない。でも、あのとき隣に座った炎真の言葉は、彼の本心から出たものだと信じたかった。炎真は利奈の身を案じ、そして利奈の心情を慮った。そこに嘘や打算はなかったはずだ。

 だから――

 

「行かな゛いで、炎真君!」

 

 ありったけの想いをこめて叫んだ。声が反響して、零れた涙が床に落ちる。そこでようやく炎真が振り返った。

 目と目は合わなかった。ばつが悪そうに伏せられた瞳はいつもと同じで、なのに決定的になにかが変わってしまっていた。

 

「……ごめんね」

 

 それだけ言って、炎真は顔を逸らす。たまらず利奈は走り出した。

 

「君、待ちなさい!」

「利奈!」

 

 後ろから聞こえる呼びかけの声を無視して、炎真の背中を追う。言葉が届かないのなら、行動で示すしかない。

 

 そのときの利奈は間違いなく冷静さを欠いていた。だから、自らの意思に反して足が止まると、あっけなくその場に転んでしまった。

 

「痛っ。……え?」

 

 かろうじて床に両手はついたものの、打った左膝が痛みを訴える。すぐに立ち上がろうとしたが、左足が言うことを聞かなかった。

 

(なに? なんで動かないの!?)

 

 何度も見てきた炎真の攻撃が頭をよぎるが、彼がやったのなら全身が床にめりこんでいるはずだ。

 動かない左足と何度か格闘して、やっと利奈は足が動かない理由に気がついた。左足首がなにかに固定されていたのだ。どうして動かないのかがわかればあとは簡単で、利奈は歯を食いしばりながら後ろを振り返った。

 

 ――気を失っていたはずだ。もし意識があったならば、たとえ全身の骨が折れていようが立ち上がっていただろう。

 倒れ伏す恭弥は武器のトンファーを手放していた。それなのに右腕が、利奈の足をしっかりと掴んでいる。力の入らない体勢のまま足を引っ張るけれど、拘束はびくともしなかった。

 

「離して。離してヒバリさん」

 

 腕は緩まない。もうシモンファミリーの足音は聞こえなくなっていた。

 行き場のない感情が爆発して、利奈は嗚咽をあげて泣き始める。

 

「どうしてっ……!」

 

 ――どうして、行かせてくれないのか。

 

 問いかけに返事はなく、部屋のなかに利奈のむせび泣く声が響き渡った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

伝統と変容

 

 シモンファミリーが完全に姿を消したあと、九代目の守護者たちにより、ディーノたちを足止めしているガラスの撤去が始まった。同時に、負傷した綱吉たちのもとへボンゴレの構成員たちが集う。

 足を強く握っていた恭弥の手が離れ、利奈は跪いたままゆっくりと身体を反転させた。構成員が立ち上がろうとする恭弥を手伝おうとしたが、恭弥は自力で立ち上がった。

 

「恭弥! 大丈夫か!」

「寄らないで」

 

 ガラスの檻から解放されたディーノが恭弥の身を案じるが、恭弥はにべもなくはねのける。

 

「平気だよ――プライド以外はね」

 

 そこで恭弥の目が、しゃがみこんだままの利奈を捉える。

 きっと、とてもひどい顔をしていたのだろう。忌々しいものでも見たかのように顔を逸らされ、利奈はスーツの袖で涙を拭った。立ち上がる気にはなれなかった。

 

 

__

 

 

 怪我の治療と待機のために部屋を移る。

 恭弥が群れを嫌うのをだれかが助言してくれていたようで、案内されたのは綱吉たちのとなりの部屋だった。用意された客間はヴァリアー邸を思い起こす華美な内装で、こんなときでなければ隅から隅まで見回していただろう。ディーノは九代目ファミリーと行動をともにしている。ヴァリアーもそうだ。

 

「ヒバリさん、まず怪我の治療を」

 

 構成員から預かった治療道具を手に、窓際へと向かう恭弥を呼び止める。無表情に振り返った恭弥をソファへと誘導し、利奈はタオルを水で濡らした。

 

「失礼します」

 

 一言断りを入れてから顔についた血を拭い、消毒液をしみこませた綿で傷口を消毒する。

 ここに来るまでのあいだに身体をかばう様子はなかったから、手足に不具合はないのだろう。手当てする箇所は少ないに越したことはないけれど、恭弥の顔を間近で見続けなければならないのは苦痛だった。浅い本心が見透かされそうになる。

 

 頬にできた傷の治療中は一切表情を動かさなかった恭弥だが、額の傷に触れたときにはわずかに顔をしかめた。

 ほかのみんなと頭を打ち付けたときにできた傷だ。頭の怪我は出血していないほうが危険なので、皮膚が切れていたのは不幸中の幸いだろう。包帯を巻くべきか迷ったが、傷口が小さく、前髪で隠せる位置だったのでほかの傷同様、テープを貼るだけにとどめた。

 

「ほかに怪我はありますか?」

「ない」

 

 すぐさま立ち上がる恭弥。部屋を出る様子はないので利奈は道具を片付けようとしたが、刺さる視線に気がついて顔を上げた。

 

「……なにか?」

 

 若干身構える。

 

「……自分の怪我もどうにかしたら」

「え? ……ああ」

 

 恭弥の視線が手元に注がれ、利奈は自分の手を裏返した。転んだときに瓦礫に手をついてしまったせいで、両手のひらに無数の擦り傷ができてしまっている。

 さっきと同じように消毒液の染みた綿で叩くと、じわりとした痛みのなかに、ピリリと鋭い痛みが走った。

 

(膝もちょっと痛いけど、ここで足まくるわけにもいかないか。あとでちゃんと消毒しとこう)

 

 ズボンを履いてきていてよかった。スカートだったら間違いなく膝をすりむいていたし、なにより、転んださいにとんでもない格好になっていただろう。

 

 自分の手当も終わらせて、さりげなく横目で恭弥の様子を窺う。窓辺で外の景色を眺めているが、内心でははらわたが煮えくりかえっているに違いない。

 拳を交えるどころか、近づくことすら許されずに地にねじ伏せられたのだ。本人も言っていたけれど、プライドがズタズタになっているだろう。本来なら、周りになにを言われようが、すぐさまシモンファミリーのあとを追っていたはずだ。

 

 ――シモンファミリーが去った直後は、失ったものの多さにみんなが焦燥と絶望を感じていた。

 ボンゴレの至宝であるボンゴレリングは砕かれ、霧の守護者のクロームはさらわれた。さらにはシモンファミリーを追跡していた九代目の守護者、コヨーテ・ヌガーが尾行に気付かれて返り討ちに遭っている。討伐を引き継ごうとしたスクアーロたちヴァリアーは有益なリングと匣を所持しておらず、未承認。事態は完全に膠着してしまったのである。

 

 なかでも、九代目の悲嘆は尋常ではなかった。

 ボンゴレのボスとして【罪】を継承していたというのに、【罪】について研究をしてこなかったこと。シモンファミリーとボンゴレファミリーの関係を知らないまま、継承式に招待してしまったこと。そしてその結果に起こった事象のすべての責任を背負い、死んでも償いきれないとすら言葉を漏らした。ボンゴレの頂点に座する男の懺悔に、その場にいたボンゴレの構成員たちは一斉に青ざめた。

 

 しかし絶望の詰まった箱にも、一粒の希望が残されていた。それが恭弥がここに残っている理由であり、ボンゴレにとって最後の切り札――ボンゴレリングのバージョンアップである。

 

 シモンリングは初代シモンの血を浴びたことで力を増幅させた。それと同じように、ボンゴレリングに初代ボンゴレの血を浴びせれば、こちらも力を強化させることができるらしいのだ。

 その情報をもたらしたのは、継承式に遅れて訪れたタルボ――ボンゴレ専属の彫金師である。すでに高齢である九代目からじじ様と呼ばれる盲目の老爺は、ボンゴレリングの新たなる可能性を示唆した。

 ただし、バージョンアップが成功する確率は五分五分。失敗すれば二度と使えなくなるとのことだったが、ほかに手立てのなかった綱吉は、一も二もなくバージョンアップを依頼した。

 

 そんなわけで、ボンゴレリングが修復されているあいだ、傷ついた身体を休ませるべくみんなで部屋を移ったわけだが――

 

(なんか、気まずいな)

 

 恭弥と二人きりでいることに、利奈はとんでもない居心地の悪さを感じていた。

 べつに、機嫌の悪い恭弥といるのが面倒なわけではない。慣れている。問題は恭弥ではなく、自分にあるのだ。

 

 ――あのとき。炎真たちを追いかけようとしたのを恭弥によって阻まれたとき。あのときに噴き出した感情の整理が、いまだついていないのである。

 

 恭弥の判断は正しかった。あのまま追いかけていれば、コヨーテと同じように返り討ちに遭っていただろう。頭ではそうわかっているけれど、利奈の感情は恭弥の行いを否定するのだ。どうしてあのまま行かせてくれなかったのかと。

 

(……どうしようもないな、私)

 

 理不尽な感情論で詰め寄ってしまいそうな自分がいやになる。

 おそらく恭弥は、利奈の抱える葛藤などすべて見抜いていることだろう。それがさらに利奈の自己嫌悪を加速させ、その場の空気を最悪なものへと変えていった。

 

 そんな殺伐とした空気が永遠に続くかと思われたが。ノックの音とともに、ボンゴレ構成員――いや、九代目の守護者が室内に入ってきた。

 

「失礼します。ボンゴレリングを持って参りました」

 

 入り口で一礼し、まっすぐに恭弥の元へと歩んでいく。利奈もその後ろに続いたが、守護者の持つその物体に目を瞬いた。

 

「……それ、ボンゴレリングですか?」

 

 トカゲのタトゥーを頬に彫った彼が手にしているのは、岩石のような銀色の塊。とうてい指輪には見えなかった。

 

「こちらはバージョンアップ手前の状態のボンゴレリングです。

 こちらに生命エネルギーを流しこんで炎を灯していただければ、ボンゴレリングが生まれ変わるとタルボ様がおっしゃってました。ですが――」

 

 そこでわずかに顔を曇らせる。

 

「チャンスは一度きり。炎が弱いとリングは応えず、その魂を永遠に失うそうです。ですので、持ちうる最高火力をこちらに注いでください」

「永遠に……」

 

 優れたリングには魂が宿るとタルボは言っていた。つまり、失敗はリングの死を意味する。そしてそれは、素材に使われたアニマルリングも例外ではないだろう。

 アニマルリングにはそれぞれ、未来の世界で相棒になった匣動物が入っている。その動物たちの命もかかっているということだ。

 

 しかしリングの原石を掴んだ恭弥は、躊躇することなくすぐさま炎を灯した。岩石のようなリングから、まるで火山が噴火したみたいに紫色の炎が噴き上がる。

 

「なっ――これほどの!?」

 

 ほとばしる炎圧に、九代目の守護者が驚愕した。恭弥の出した炎の量は、彼の予測をはるかに上回っているらしい。

 素人の利奈でも成功すると確信するほどに、燃えさかる炎は力強かった。

 

「あっ!」

 

 圧倒的な炎圧を受け、原石にヒビが入った。その隙間から本体が姿を現し、指輪のはずなのに指ではなく、恭弥の左腕へと巻きついていく。

 

(指輪じゃない! ブレスレットだ!)

 

 ボンゴレリングの原石は、その姿をブレスレットへと変えていった。

 時計に似た形のブレスレットだ。文字盤に当たる部分には紫色の石がはまっていて、それを保護するよう、アルファベットの刻まれた装飾がバツ印形にクロスしている。手の甲側にはロールのモチーフ、胴体側には二連の鎖――いや、手錠のモチーフ。左右にはハリネズミをイメージしてか、無数の棘が生えていた。これで殴られたら、間違いなく痛いだろう。

 

「これ――って、成功ですか?」

 

 これまでのリングとかけ離れてしまった進化に、利奈はこわごわと守護者を見上げた。

 ボンゴレファミリーで代々受け継がれてきた指輪なのに、これでは完全に恭弥専用だ。もしほかのみんなのリングが指輪の形のままだったとしたら、恭弥だけおおいに浮いてしまう。

 守護者もこれは予想外だったのか、うっすらと困惑をみせた。

 

「タルボ様から形状変化についてはお伺いしていませんが――リングが自ら姿を変えたのなら、成功と言えるでしょう」

 

 恭弥も手首を裏返してブレスレットの形状を確認している。わずかに目元を緩めたのは、ロールに向けての合図だろう。

 

(あっちは大丈夫かな。ツナはさっき力を使ったばかりだけど)

 

 綱吉だけは死ぬ気の炎を消費している。しかし、心配は杞憂だった。

 

「ヒバリさん?」

 

 件の綱吉によってドアが開かれた。綱吉たちの後ろに九代目も控えていて、守護者がわずかに背筋を伸ばした。

 

「よかった、ヒバリさんも成功していたんですね!」

「なに当たり前のことを言ってるの?」

「ケッ」

 

 恭弥の態度に隼人が顎を突き出す。

 恭弥もということは、三人とも見事にバージョンアップに成功したようだ。

 

「ヒバリはブレスレットか! やはり皆、形状は変わるようだな!」

 

(先輩たちも変わったんだ! よかった……!)

 

 どうやら、取り返しのつかない事態にはなっていなかったようだ。安心すると、彼らのリングがどうなったのかも知りたくなる。

 

「先輩は? あ、その腕の!」

「ああ、バングルだ。極限にイカしているだろう!」

 

 筋肉を自慢するかのように了平が拳を上げ、腕に力を込める。バングル自体は細身だが、恭弥のブレスレットと同じデザインの装飾の下に、了平のカンガルーとボクシンググローブのモチーフが施されていた。やはり、一人一人に合わせたデザインに変形しているらしい。ちなみに隼人のリングはバックルに変化していた。

 

「あれ、獄寺君の匣って瓜っていう猫じゃなかったっけ。えっと……虎?」

「豹だバーカ」

「うっさいな。で、ツナのリングは――あ」

「え?」

 

 変なところで言葉を切った利奈に、綱吉が目を瞬く。利奈はわずかに目を泳がせた。

 

「その……ボンゴレ十代目のリングは?」

「いやいやいやいや! 普通に呼んでくれていいから! なんで急にそんな呼び方!?」

「だって……」

 

 頭から抜けかけていたものの、ここにはボンゴレファミリーの九代目ボスがいるのだ。迂闊に不興を買ったらあとが怖い。

 そんな利奈の怯えが伝わったのか、九代目は優しく笑みを浮かべた。

 

「そういえば挨拶がまだだったね。わしはボンゴレⅨ世。こっちは晴の守護者、ニー・ブラウJrじゃ」

「ニー・ブラウJrです。以後、お見知りおきを」

「あ、いえ、こちらこそ。私は……沢田君のクラスメイトの。相沢利奈です」

 

 きっちり45度、頭を下げる。マフィアのボス直々に自己紹介を受ける機会などそうそうないだろう――と思ったところで、関わったすべてのマフィアボスから自己紹介を受けていたことを思い出し、目が遠くなった。思えば遠くに来たものである。

 

「そうかそうか。いや、うちのツっ君がいつもお世話になりまして」

「んな!?」

「!?」

 

 隼人とニーが驚愕の表情を浮かべた。綱吉が赤面しているところを見ると、この呼び方は初めてではないようだ。とはいえ会場では綱吉君と呼んでいたし、これは利奈の緊張をほぐそうとしての茶目っ気だろう。なかなかにユーモアのある御仁だ。

 

「そうだ、俺のリングも見てよ! ほら!」

「わあ」

 

 ごまかすように綱吉が拳を突き出してくるので、同級生のよしみでツッ君呼びについては触れないであげた。九代目は愉快そうに笑っているし、ニーは驚きを紛らわせるように咳払いしている。

 

 綱吉のリングは指輪のままだったが、かわりに中指と小指でふたつの指輪が繋がれた形になっていて、中指の指輪は指の第三関節をすっぽりと覆っていた。上部には牙を剥いたライオンが彫られているが、かわいらしい造形なのでまったく怖くない。

 

「九代目!」

 

 まじまじとリングを観察していたら、勢いよくドアが開かれた。現れた九代目の守護者は、九代目の返事を待たずにみなが望んでいる情報をもたらした。

 

「シモンファミリーの潜伏先に目星がつきました!」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ああ言えばこう

 

 九代目守護者がもたらした知らせは、これ以上ないほどの朗報だった。バージョンアップ成功もあって盛り上がる一同だったが、高まった熱にすぐさま冷水が浴びせられる。

 

「ヒバリ……テメエ、今なんつった?」

 

 地を這うような隼人の低音に、利奈は額を指で押さえた。恭弥は注がれる視線などものともせずに、同じ言葉を繰り返す。

 

「君たちと行動するつもりはない」

 

(……あちゃー)

 

 綱吉と了平はいつものあれかという顔をしているが、九代目ファミリーは恭弥とは面識がない。だから恭弥の発言をどう捉えたものかと、様子を窺っていた。

 本来ならば、すぐさま会議に向かうべき場面だというのに。身内として申し訳なくなる。

 

「この期に及んでまだそれを言うのか……! お前も炎真を倒したいんじゃねえのかよ!」

「あの小動物を咬み殺すのは僕だよ。でも、それとこれとは話が別だ。羊の群れに加わるつもりはない」

「俺たちのどこが羊だってんだ! ……っておい、話は終わってねえぞ!」

 

 興奮冷めやらぬ隼人に背を向けて、恭弥が窓を開ける。外開きの窓を押し返すほどの風量ではないものの、緩やかな風が髪とカーテンを揺らした。

 

 開け放たれた窓から見える景色に隔たりはない。利奈から見えるのは庭園に植えられた木の天辺くらいだが、窓の縁に立つ恭弥にはここからの景色すべてが一望できているだろう。床と窓のあいだに隔たりはないが、窓の外にバルコニーはない。下を向けば、真下にある地面がそのまま見えるはずだ。窓の外に手すりの類いは一切ない。――そう、窓の外にはなにもないのである。

 にもかかわらず一歩を踏み出した恭弥に、男性陣が息を呑んだ。恭弥の身体が重力で沈み、綱吉が甲高い悲鳴を上げる。

 

「わああああああ! 落ちたああああ!」

「ヒバリ!」

 

 あわてた様子で了平が外を覗き込む。着地する恭弥を認めたようで、その肩がわずかに下がった。

 

「逃げられちまったな」

 

 リボーンはなんてことのないような顔をしているが、九代目守護者は目を白黒させている。利奈としては肩身が狭い。

 

「こうなったらあいつはほっときましょう十代目。どうせそのうちフラッと現れますよ」

「うむ、そうだな。ヒバリならば問題あるまい」

「……あの、ちょっといいですか?」

 

 控えめに手を上げると、利奈に視線が集まった。

 

「ヒバリさんの代わりに私が参加するのって、だめですか? あとでヒバリさんに伝えますので……」

 

 最終決定権を持つのは現ボンゴレボスの九代目なので、こわごわと九代目の反応を窺う。九代目は鷹揚に頷いた。

 

「君が雲の守護者の代理を務めるというのなら、私は構わないよ。ガナッシュ、すぐに準備を」

「はっ!」

 

 弛緩しかけていた空気が、九代目の一声で引き締まる。そこに先ほどまでの好々爺の面影はまるでなく、マフィアの首領としての一面が垣間見えた。

 

 

__

 

 

 会議室に集められたのは、九代目一派と十代目一派、それからヴァリアーを代表してスクアーロに、同盟ファミリー筆頭のキャバッローネファミリーボス、ディーノの計十三名。雲の守護者代理を務める利奈は、十代目守護者のなかでは末席にあたる椅子についた。縦に六脚の椅子が並ぶ長テーブルには、大判の世界地図が一枚広げられている。

 左には了平で、反対側にはディーノ。そして真向かいにスクアーロ。恵まれたことに、慣れ親しんだ人たちに囲まれた席である。

 

 守護者でもない利奈の登場に、九代目守護者とスクアーロは怪訝な顔をしたが、ディーノだけはすぐに理由に思い至ったようで、苦笑を浮かべていた。進行役は九代目守護者のなかで一番の若手と思われるガナッシュだ。

 

「まずはシモンファミリーの主張の正否を確認すべく、ボンゴレイタリア本部に確認を取りました。ですが――」

 

 ガナッシュからの連絡を受け、イタリア本部は資料室にあるありとあらゆる文献や蔵書、はては古文書まで調べ上げたそうだが、結果は空振りに終わったそうだ。

 いや、この場合、空振りに終わったのが進展だった。なぜならば、ある時代以降のシモンファミリーの資料が、何者かの手によってすべて破棄されていたことが露見したからである。

 

(ボンゴレのだれかがシモンファミリーの情報を隠した。だから、アーデルハイトさんの言ってたことは正しかったって事だよね……)

 

 彼らの主張に信憑性が出てきたことで、場の空気が重苦しくなってくる。

 ボンゴレに所属していない利奈とディーノはともかく、ほかの人たちはボンゴレファミリーの一員だ。組織が昔行っていた隠蔽行為に、思うところがないはずがない。

 

「で、どうやって探し当てたんだ? シモンのアジトは」

 

 ただ一人、リボーンだけが何事もないような顔で続きを促す。

 

 シモンファミリーの潜伏先は、初代シモンが初代ボンゴレに宛てた手紙のなかに記されていた。ふたつのファミリーが結成される以前に出された手紙だったために、隠蔽者の目からうまく逃れられていたようだ。

 地図のなかでガナッシュが指差した場所は、一切線が引かれていない無地の部分。つまり、海だった。近くに日本列島があることくらいは利奈でもわかったが、それ以外はなにひとつ読み解けない。

 

(太平洋に浮かぶ無人島。シモンの聖地)

 

 綱吉によると、去り際にアーデルハイトは聖地という言葉を口にしていたらしい。となると、初代シモンが一族全員を集めたというその島に彼らはいるはずだ。

 

(……そこでみんなが戦うんだ。みんなも、シモンのみんなも、ボンゴレもヴァリアーも、ディーノさんも。殺し合いに……なるのかな)

 

 色めきだす九代目ファミリーを前にして、利奈は一人俯いた。しかし、怖じ気づいてはいられない。

 

(切り替えなきゃ。山本君をあんなにしたのは水野君だし、クロームをさらったのは加藤ジュリー。九代目だって、守護者のコヨーテさんをやられてる。もう、どうしようもないんだ)

 

 ここからはマフィア間の争いだ。私情なんて挟んでいられない。

 炎真はボンゴレの殲滅と、全世界のマフィアの再組織化と支配を示唆していた。ここで止めなければ、事は世界大戦にまで発展してしまう。これはもはや戦争なのだ。そう言い聞かせることで、感情をまぶた裏の暗闇で押しつぶそうとした。だから――

 

「戦うのは僕だけにしてください。

 山本もクロームも、守護者とかマフィア仲間じゃなくて、友達で……俺は友達を助けるために戦いたい。これは、戦争なんかじゃないんだ!」

 

 綱吉のまっすぐな言葉がまぶしくて、伏せた瞳から涙が出そうになった。

 

(そうだ、ツナはこういう人だった)

 

 綱吉は一度だってマフィアらしくあろうとしたことはなかった。いつでも綱吉は綱吉のまま、友達のために拳を振るう人だった。だからこそ、みんなも綱吉についていくのだろう。

 

「俺たちもお供させていただきますよ!」

「うむ、俺たちには極限に行く資格があるな。友人として!」

 

 隼人と了平が綱吉に同調する。

 代理人の利奈に発言権はないが、同意を示すために胸を張って前を向く。しかし、正面に座るスクアーロの表情は芳しくなかった。九代目守護者もそろって苦い顔をしている。ボンゴレの次期後継者が、敵地に単体で乗りこむと言い出したのだから、当然の反応だろう。

 

「甘っちょろいこと言ってんじゃねえぞ、沢田ぁ! こいつはマフィア間の大戦争だぁ!」「違う! 俺たちはシモンと戦争をするんじゃない! 友達を助けに行くんだ!」

 

 その友達に炎真は含まれているのだろうか。いや、たとえ含んでいなかったとしても、綱吉は炎真を殺したりはしないだろう。綱吉はそういう人間だ。だからこそ、ここまでこれたのだ。

 

「この期に及んでまだそんな綺麗事を言うのか、テメエはぁ!

 いいか、よく聞けぇ! いくらリングをボンゴレギアに生まれ変わらせたと言っても、テメエらはもう二人やられてんだぁ! それなのに自分たちだけで戦うなんざ、自殺行為だろうがぁ!」

 

 相手は七人。こちらは戦闘不能状態の武だけを除いたとしても六人。拉致されたクロームや、まだ幼いランボを除けばさらに人数は減る。

 利奈だって、彼らだけで戦うことの無謀さはわかっていた。なにも、自分たちだけで戦う必要などないのだ。ボンゴレの力を借りれば、戦いを優位に進められるだろう。

 

(でもそれは、ツナらしくない)

 

「静かにしたまえ!」

 

 九代目の声が二人の口論を打ち消した。

 継承式が中断されてしまった以上、ボンゴレの全指揮権はいまだ九代目の手に握られている。つまり、綱吉の意志がどうであろうと、九代目の決定には逆らえない。

 

 不安を抱えながら九代目を仰ぐと、思いがけず九代目と目が合った。九代目はわずかに頷き、そして沙汰を下す。

 

「シモンファミリーの討伐は、ボンゴレⅩ世とその守護者に一任する」

「なっ!?」

「このクソジジィ!」

 

(クソジジイって言った!?)

 

 どさくさ紛れの悪態にギョッとする。九代目の決定が衝撃的だったせいか、スクアーロの発言を咎めるものはいない。九代目守護者は驚愕しているし、綱吉も自分の懇願がまさか通るとは思っていなかったようで、同じように驚いている。隼人は嬉しそうに歯を見せ、了平は当然といった顔で頷いた。

 

「ただし、リボーンも同行すること。そしてリボーン、お前からシモンへの攻撃は一切禁ずる!」

「わかった」

 

 妥協案としてリボーンがお目付役に任命され、会議が終わった。船の手配の話が始まるなか、となりのディーノに肩を叩かれる。

 

「利奈、今、外に恭弥がいた」

「え!?」

 

 即座に振り返るが、窓の外に人影はない。

 偶然通りかかったのか、あるいは聞き耳を立てていたのか。とにかく、アジトの場所を伝えなければ。

 

「ごめんなさい、ちょっと行ってきます。えっと、アジトの場所は――」

「緯度と経度を覚えてけ。それで済む」

「はい、ありがとうございます!」

 

 まだふて腐れた顔をしているスクアーロに礼を言い、部屋を出る。

 敷地内にはまだ黒服の男たちが多く残っていたけれど、恭弥はすぐに見つけることができた。わざわざ学ランに着替えていたからだ。

 

「ヒバリさん!」

 

 背中に声をかけるが、恭弥は足を止めない。向かう先にあるのは、行きで乗ってきた車が駐まっている駐車場だ。

 

「シモンのアジトの場所、わかりました! 無人島だそうです!」

「聞いた。詳細は草壁に報告しといて」

「……あ、はい。わかりました」

 

 思っていたよりも食いつきが少ない。微妙な違和感を抱きながらも、利奈は頷いた。

 今日は草壁は同行していなかったが、恭弥の口振りからすると、もうあらかたの事情は説明しているのだろう。ボンゴレと同じように、船の手配を進めているのかもしれない。

 

(私はボンゴレ側の船に乗ったほうがいいのかな。そしたらなにかあったときにすぐに報告できるし)

 

 利奈にできることといえば、せいぜいボンゴレと風紀委員の中継役くらいだろう。首脳会議にも代理人として参加が認められたし、綱吉たちも恭弥の動向は掴んでおきたいに違いない。

 

「私、沢田君たちと一緒に行った方がいいですか?」

 

 車が見えてきたところで恭弥に問う。

 病院で隼人の電話番号を聞いておいたから、並盛町に帰ってからでも連絡は取れる。あとは泊まりがけになることの家族への説明だけだ。

 

「必要ない」

「わかりました。じゃあ――」

「君は来なくていい」

 

 恭弥の言葉で思考が止まった。思わず足も止まるが、恭弥はかまわず歩き続けるので、距離が開いていく。

 運転席から降りた運転手が、後部座席のドアを開けている。

 

(え、ええ? なんで来なくていいって言われたの?)

 

 普通に考えれば待機命令だろう。しかし、今の言い方は拒絶の色合いが強かった。この件から手を引けと言われた気がして、利奈はつんのめるようにして前に出た。

 

「どうしてですか? なんでそんな!」

 

 車のドアに手をかけた恭弥が初めて顔を見せた。眉間にできたしわが、不機嫌さを物語っている。しかし怯んではいられない。

 

「私も行きます! 行かせてください!」

「二度言わせないで。役立たずはいらない」

「やっ――!?」

 

 面と向かって放たれた暴言に、今度こそ利奈は絶句した。

 

(やく、役立たず!? そこまで言う!?)

 

 確かに今回、恭弥の役に立った場面はない。犯人の正体には気付けなかったし、炎真たちを止めることもできなかった。恭弥に失望されても仕方がない。しかし、それを理由で置いて行かれるというのは納得がいかなかった。

 恭弥が車に乗り込み、運転手が物言いたげに利奈を見る。しかし利奈は動かなかった。

 

「もうほっといていいよ」

 

 淡々と運転手に指示を出す恭弥。運転手が失礼にならないようと利奈に一礼し、運転席へと戻っていく。恭弥が口を動かすと、サイドミラーが開いた。

 

「で、どうするの相沢。そこでずっと突っ立ってるつもり? それとも、小動物の群れに加わるかい? さっきも群れに交ざってたみたいだけど、君はいつから小動物になったのかな」

 

 やけに饒舌なのは怒っているからだろう。利奈が会議に参加していたこともどうやら怒りの一因らしい。

 

「あれはヒバリさんが! ヒバリさんが出てったからじゃないですか! 言っときますけど、あのあとめちゃくちゃ空気悪くなったんですよ!」

「へえ」

「興味がない……!」

 

 のれんに腕押しぬかに釘、聞く耳もたずの馬耳東風。ぐぬぬぬといきり立つ利奈とは対照的に、恭弥は冷ややかに釘を刺す。

 

「とにかく、そういうことだから。風紀委員を名乗るのなら、僕の命令に従ってもらうよ。

 それがいやなら、腕章外して好きなようにやればいいさ」

「そんな……! ヒバリさんだって犯人見つけるために継承式参加したじゃないですか! 私が群れたっていうならヒバリさんだって――」

「出して」

 

 エンジン音とともに窓が閉まる。

 

「ちょっ――」

 

 叫ぶ暇すら与えられずに車が走り出した。木の葉を巻き上げて消えていく車を呆然と見送るしかない。

 

「ふ、普通、置いてく……?」

 

 こんな山奥の辺鄙な城に、公共交通機関などあるわけがない。これで半強制的に綱吉たちに頼らざるを得なくなってしまった。

 

(だから風紀委員も辞めさせられるってことで……うん)

 

 いろいろ言いたいことはあるが、言う相手がいないのではどうしようもない。もしかしたら今日は、なにひとつ思い通りにいかない日なのかもしれない。

 

 

――

 

 

「じゃあ、準備ができしだい俺の家に集合で!」

「了解っす!」

「では、あとでな」

 

 並盛町に戻った綱吉は、商店街で仲間たちと別れた。

 シモンの聖地に乗りこむ前に、それぞれ家に戻って着替えを用意することになったのだ。その他の宿泊道具は九代目が用意してくれる手はずになっている。

 それに、一人暮らしをしている隼人はともかく、綱吉と了平は家族に外泊する旨を伝えなければならない。了平は修行と称して山に泊まりこむこともあるそうなので、外泊の許可は簡単に取れるそうだ。

 綱吉も、こういうときばかりは寛容な母に感謝するべきだろう。今日だってスーツで家を出た綱吉を、母は一切見咎めなかった。

 

 商店街から出ようとした綱吉は、ふと後ろ髪を引かれて背後に目を向ける。リボーンが顔を上げた。

 

「どうした?」

「いや、利奈は大丈夫かなって思って」

 

 恭弥を追って出て行った利奈は、その恭弥に置いていかれたと憤慨しながら戻ってきた。

 だから同じ車で並盛町まで帰ってきたものの、行きたいところがあるからと言って、利奈は駅前で車を降りた。バス乗り場に向かっていたから、さらにどこかに移動するつもりなのだろう。表情からして、今回の件と関係ある場所であることは間違いない。

 

「あいつはクロームと仲がよかったからな。もしかしたら、黒曜の奴らに聖地の場所を伝えに行ったのかもしれねえぞ」

「……それだけならいいんだけど」

「ん?」

「いや、だって利奈――」

 

 戻ってきたときの利奈の表情を思い出し、身震いする。

 置いてくなんてひどいよねとわざとらしく唇を尖らせていたけれど、あれは演技で――

 

「ほんとに、ものすごく怒ってたみたいだから。それこそ、ヒバリさんが本気で怒ったらああなるんじゃないかってくらい」

「……やべえな」

 

 綱吉の言葉を受け、リボーンも振り返る。当然そこに利奈の姿はなく、二人は意味ありげに顔を見合わせた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逆転の発想

骸視点なのでちょっと毛色が違います。


 ボンゴレファミリーがシモンファミリー討伐に向けて腰を上げたその頃。六道骸はその長い肢体をソファに沈ませていた。

 

 閉ざしたまぶたにはなにも映らず、目を開けたところで見えるのはくすんだ天井のみ。ひたすらの無音は仲間の不在を告げるだけで、得られるものはなにひとつない。かろうじて使えるのは頭くらいだったが、現状それすらも役立ちそうになかった。

 

(情報が少なすぎる……)

 

 昨日の山本武襲撃事件を受けて、今日はクロームとの精神リンクを機能させていた。つまり、継承式でクロームが経験した出来事は骸も見聞きしている。しかしそれは、あくまでもクローム自身が記憶したものに限ってだ。

 

 シモンファミリーが襲撃事件の黒幕であること。そしてその原因となった事件や背景については把握できたものの、そこから先の情報は骸の元には届いていない。クロームの意識が遮断してしまったからだ。

 クロームの知覚を通したものしか知ることができないので、クロームが気絶してからの出来事は、一切不明となっている。

 

(クロームにかけている幻術が解けた様子はないので、命に別状はなさそうですが……自由に動けないのはやはり厄介だ)

 

 ボンゴレとの契約で、骸は黒曜ランドから外に出ることと、他人への精神干渉を禁止されている。

 脱獄者を黙認するにあたっての復讐者からの譲歩案なのだろうが、どちらにせよ、身動きが取れなくなっている点については変わりなかった。

 平素ならば仲間を自身に見立ててしれっと外に出るところではあるものの、この緊急時にそんなことをすれば、すぐさま見咎められて監獄へと逆戻りになるだろう。身代わりは平常時のみに使える手段だったのだ。

 

(せめて、ボンゴレ陣営が現在どうなっているのかくらいは知っておきたかったですね。利奈とのリンクが使えればよかったのですが)

 

 気絶したクロームの代わりに利奈の視界を使おうとしたものの、リンクは繋がらなかった。つまり、利奈とのリンクが何者かによって切られた、あるいは、利奈が死亡したということである。

 

(ああ、でも、彼女が未来に行ってしまったときにもリンクは繋がらなかったか。となると、また未来に飛んだという可能性も捨てられは……いやまさか)

 

 未来での記憶を鑑みるに、再び未来に飛ばされた可能性は限りなくゼロに近いだろう。となると、状況からみて死亡した可能性は否定できないが、そもそも彼女が継承式に参加しているかどうかも定かではない。

 

 最後にリンクが確認できたのは、リング争奪戦の最終日だったか。

 となると、未来の世界で術士にリンクを解除された可能性もある。未来で愚弟子とも接触していたというし、あの子供ならば嫌がらせをかねて契約を解きかねない。いや、解いただろう。

 

 ゆえに打つ手なしと判断し、千種と犬を情報収集に向かわせた。

 ボンゴレの継承式という一大イベントでの大惨事だ。どのマフィアでも話題になっているに違いない。

 だから千種と犬が戻ってくるまでは、この廃墟という牢獄に閉じ込められたままでいよう――と思ったのだが。

 

 六道骸は当惑した。

 

「こんにちは。入り口で呼んでもだれも来なかったから、勝手に入りました」

 

 リンクが切れ、安否の明らかでなかった利奈が、口元に華やかな笑みを浮かべながらやってきたのだ。

 

 怒っている。とてつもなく怒っている。きらきらときらめく瞳の中に、憤怒の炎が燃えている。その対象が自分でないことはかろうじて察せたが、とにかく利奈は激怒していた。

 

(……前に同じ目を見たことがありますね。雲雀恭弥と一戦交えたとき以来か)

 

 一戦といっても、いきなり襲いかかってきた恭弥をモップであしらうだけの、他愛ないおふざけだったが。

 

 刺激しないようにソファを勧めると、制服の裾を押さえながら利奈が着席する。そして間髪入れずに口を開いた。

 

「取引しましょう」

 

 一分一秒でも惜しいと言いたげな態度である。

 前置きが一切ないところからいって、継承式絡みであることはまず間違いない。

 

「継承式のこと、骸さんがどこまで知ってるか聞いていいですか? それから骸さんが知らないことを話します。順番に、全部」

「どこまで、と言われても」

 

 前のめりな利奈から身を引くように、ソファの背もたれに両腕を投げ出す。

 

 取引を迫る人間のペースに、わざわざ合わせてやる義理はないのだ。カードゲームで最初に手札をさらす人間はいない。

 

「まず、なんの話をしに来たのかを話してください。こちらも暇ではありませんので」

「クロームが攫われました」

「……ほう」

 

 ――初手で切り札を選ぶとは。もしこの場にディーラーがいたならば、眉をひそめていただろう。

 

 定石は通用しないと判断し、骸はゆるりと諸手を挙げる。

 

「僕が知っているのは、クロームが気絶するところまでです。そこまでの視界はクロームと共有してました」

「わかりました」

 

 利奈が淡々と事件のあらましを語り始める。ここに来るまでに話を整えてきたようで、質問を挟まなくとも事態はすんなりと理解できた。

 シモンが去った直後までは絶望しかない展開だったが、砕かれたボンゴレリングが強化成功され、シモンの潜伏先も特定できているのならば、打つ手は残っている。

 

「それで、骸さんにはその島まで来てほしいんです。私と一緒に」

「……なるほど」

 

 ようするに、クローム奪還という点で利害の一致する骸に協力を仰ぎに来たらしい。

 自分を強調する物言いは利奈らしくなかったが、その理由にはある程度見当がついていた。利奈の制服の着こなしがいつもと違っていたからだ。

 

(いつもつけている腕章がない。――単独行動か)

 

 そもそも恭弥の意志が介入しているのならば、間違ってもここに訪れたりはしないはずだ。

 ただでさえ他者の介入を拒む彼が、遺恨を残している自分に協力を求めるはずがない。仮に利奈の独断だったとしても、到底受け入れられはしないだろう。

 

(となると、ますます組む意味がありませんね)

 

 利奈はクロームの親友に当たる人物であり、骸自身もそれなりに親しくはしている。が、ビジネスに私情を持ちこむつもりはなかった。取引相手として認めるには、いささか器量が足りていない。組むことに、なにも利点が感じられないのだ。

 

(たとえ僕が乗り気であろうとも、この場所から動くことは許されていませんが。契約を反故にするのはリスクが高すぎる)

 

 クロームの身は案じているが、救出しにいこうとして自身が牢獄につながれてしまっては本末転倒だ。

 すでにボンゴレが総力をあげてシモン討伐の準備をしていると聞かされた今、骸が焦る必要はない。お人好しの沢田綱吉のことだ、クローム奪還を最優先にして動いてくれるだろう。

 馬鹿正直に話していなければある程度は話を引っ張れただろうに、ご丁寧にすべて包み隠さず情報を明かすとは。真正面の利奈を見据える。

 緊張している様子がないのは、クロームの危機だから断るはずがないと高をくくっているのか、あるいは、駄目で元々と思っているからか。

 

(さて、どうしたものか。ボンゴレの動向を探れる立場の人間を引き入れられるのは悪くない。今の話も、前金くらいにはなるか)

 

 ボンゴレ内部、しかも守護者会議の内容を入手できる存在と考えれば、それなりの価値が見出せる。このまま追い返すには少々惜しい人材だ。

 

「事情はわかりました。ですが貴方も知ってのとおり、僕はここから動けません」

「ボンゴレとの契約ですよね」

「ええ。これでも一応、逃走中の脱獄者ですから」

 

 妥協案として、犬と千種を貸し出す手がある。

 そうすれば島の状況がつねに把握できるし、利奈も護衛を得られる。お互いに損はない。

 

 さっそくその形に話を持っていこうと口を開いた骸だったが、先手を打ったのは利奈だった。

 持っていた学生鞄を机の上に置き、立ち上がる。

 

「それについてはちゃんと考えてきました。これを見てください」

 

 そう言いながら利奈は鞄のファスナーを引いた。慎重な手つきで、タオルに包まれた手のひら大の物体を取り出す。

 

「これは報酬っていうか、島に行くのに必要だと思って貰ってきたんですけど。どうぞ」

「……? なんですか、これは」

 

 タオルに包まれていた物体は、ひどく珍妙な形をしていた。

 金属――いや、鉱石か。飛び出た無数の棘は、恭弥の匣動物であるハリネズミを思い出させる。骸の反応が鈍いのが面白いのか、利奈は満足げに胸を張る。

 

「これがさっき言ったボンゴレギアの原石です。ティモッテオさんから頂きました」

「これが?」

 

(いや、それよりも今、ティモッテオと……!?)

 

 さらりと利奈が口にした名前は、現ボンゴレファミリーボスであるボンゴレⅨ世の本名であった。

 マフィア界では肩書きに重きが置かれているため、人々には九代目と呼ばれていたはずだ。守護者でもない利奈が名前を知る機会など、あるはずがない。

 

「すごい形ですよね。これに死ぬ気の炎を注ぐと形が変わるんです。

 失敗したらバージョンアップできなくなるらしいですが、ほかのみんなもできてたから、骸さんなら大丈夫だと!」

 

 骸の驚愕の理由が原石の形状にあると思っているようで、的外れなことを口にしながら利奈は着席する。

 相づちも打てずに骸はボンゴレギアを凝視する。

 

 ――いったいどんな手を使えば、構成員でもない人間がボンゴレの至宝を借り受けられるのか。

 思いついたところで、実践する人間はそういないだろう。いやそもそも、現ボンゴレと交渉のテーブルにつけたこと自体が奇跡なのだ。

 

 予想を超えてきた利奈の破天荒さに、ただただ驚嘆してしまいそうになる。次の獲物は自分だというのに。

 

(いや、これは素直に感服するしかないでしょう。条件を多少付け足されたとしてもおつりが出るくらいだ)

 

 忌々しいボンゴレに服従するつもりは毛頭ないが、取引の相手は利奈個人である。でなければ、利奈ではなくボンゴレ関係者がここに訪れているはずだ。

 

「取引に当たっての条件は?」

「私と同行すること、です。船で向かうんですけど、私がボンゴレの船に乗るので、骸さんにも同じ船に乗ってもらいます」

「なるほど。僕の行動範囲は君の目に届く範囲内。そして君の行動範囲はボンゴレの目に届くところ……ということですか」

「アハハ、そういうことです」

 

 利奈が困ったような笑みを浮かべた。

 彼女なりの配慮なのだろうが、実質ボンゴレの管理下に置かれることに変わりはなさそうだ。

 

「ところで、雲雀恭弥に許可は取っているのですか? 彼が気に入る提案には思えないのですが」

 

 だいたい察しはついているが、建前として彼女の上司の名前を出す。利奈の眉間にしわが寄った。

 

「ヒバリさん……は、今回別行動です。私、今は風紀委員じゃないんですよね」

 

 見てわかると思いますがと利奈が自身の腕を撫でる。

 継承式ではスーツだったのになぜ制服に着替えたのかとついでに尋ねると、親を言いくるめるための演出だったと答えられた。なんでも、ボンゴレの手を借りて長期外泊の許可を得たらしい。詳細が気になったが、今聞くべきことでもないので話を切り上げる。

 

(つまり、雲雀恭弥の手元から解放されたがために、自らの意志で行動できるようになったということか)

 

 恭弥の意志に従う立場だったならば、この選択肢は見つけられなかっただろう。恭弥は群れを厭い、助力を嫌う。

 しかしその恭弥から放たれたことで、今までなかった選択肢を作れるようになったのだ。

 

 思えば出会ってから今まで、利奈はずっと巻き込まれる立場の人間だった。攻めの才能を見せる機会がなかった。

 これが利奈の実力ならば、なるほど確かに雲雀恭弥の部下である。

 

「まあ、この件が終わったらまた風紀委員に戻りますけどね。辞めるの二回目ですし。

 今日は自分から辞めましたけど、また入りたいって言ったら認めてくれると思うんですよ。たぶん。頭下げれば。連日働けば。……ものすごく頑張れば」

 

 徐々に雲行きが怪しくなっているが、本人はさほど深刻に捉えていないようだ。

 そもそも、今回のマフィア戦争をなんだと思っているのだろう。あれだけのことがあったのに、当たり前のように終わったあとのことを考えている。骸が言えることでもないが、感覚が麻痺しているのではなかろうか。

 

「……驚きました」

 

 耳飾り――いや、これは髪飾りだった――を揺らし、利奈が首をかしげる。

 あどけない仕草だが、それを彼女の未熟さととることはもうできないだろう。計算だろうが天性だろうが、利奈はこちら側に足を踏み入れ、自ら交渉の席に座ったのだから。

 

「どうやら、今までずっと誤解をしていたようですね。僕は貴方を、雲雀恭弥のストッパーになりえる存在だと思っていた」

 

 しかし、そうではなかった。未来の記憶でもはっきりと否定されている。

 利奈を失っても恭弥は変わらなかった。歩みを止めることなく、かといって暴走するでもなく。自身の信念を貫き通していた。

 影響を与えるのはつねに恭弥であり、与えられるのが利奈。つまり、逆なのだ。

 

「本当は、雲雀恭弥が貴方のリミッターだったんですね」

「……」

 

 首を傾けた体勢のまま、利奈が笑みを浮かべる。

 髪の隙間から見上げてくるさまは、これまでもこれからも見たことがない妖しさを纏っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

四章:裏方の役割
疑惑の思惑


_____________

 

 

 

 

 

 空は爽快で、海は雄大だった。

 透き通るような空の青と、吸い込まれそうな海の青。どちらも同じ色なのに、ふたつはけして混ざり合うことなく一本の線を引き続けている。

 景色が一切変わることがなくなってから、どれくらい時間が過ぎただろうか。

 ほかの三人が外に見向きもしなくなったなか、利奈だけは飽きずに海を眺め続けていた。

 

 海を見るのは初めてではないが、船に乗るのはこれが初めてである。それだけでも心が躍るというのに、初航海の船はボンゴレ御用達の大型船だった。

 異国の大海原を三隻の大型船で突っ切るというのはじつに壮大で、目的が目的でなかったらはしゃぎ倒してしまっただろう。それこそ船室を出て甲板の先端に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んで――

 

「そろそろ座ったらどうですか」

 

 抑揚のない声が妄想を打ち切った。

 小さな丸窓から手を離し、振り返る。けだるげな空気を纏う骸からわずかな苛立ちを感じ取り、利奈は開けた丸窓をそのままに窓から離れた。

 

 丸いテーブルを四角く囲む四つの椅子。千種と犬が骸の隣を陣取っているので、利奈は骸の正面、つまり船首に背を向けた席に腰掛けた。

 二人も骸と同様、いや、それ以上にこの状況に退屈しているようだった。千種は軽く目を閉じているだけだが、犬は椅子をゆらゆらと行儀悪く揺らしている。そんなに暇を持て余すのなら、トランプでも持ってくればよかったのにと思う。

 

「犬、落ち着きなよ」

 

 行儀の悪い犬を窘める。

 正式に骸と手を組むことになったので、犬と千種も今は仲間だ。二人は揃って微妙な顔をしたけれど、異を唱えはしなかった。未来での記憶がいいほうに作用していたのかもしれない。

 

「暇なんだからしょーがねえだろ。こんな部屋に何時間も閉じ込められてうんざりびょん」

「しかたないでしょ、となりにツナたちいるんだから。それにすごく豪華な部屋じゃない。ねえ、骸さん」

「そうですね。長々と滞在するにはいい部屋かもしれません。外を歩く見張りの姿もよく見えますし」

「……」

 

 利奈が眺めていた窓からも、この部屋を窺うボンゴレ構成員の姿は目についていた。骸たちの前科を思えば当然の処置である。

 いや、あちら側からはなんの命令もなく、一番いい船室まで用意してもらえているのだから、寛容すぎるくらいだろう。部屋を出ていないのも、あくまでこちらが自主的に行っていることだ。

 

(ツナの超直感が厄介だからって、あっちのみんなより一時間早く乗船したからなー。海に興味ないんなら退屈か)

 

 ――超直感というのは、綱吉が持っている潜在能力である。第六感の上位互換だとでも思えばいいと、骸は言っていた。

 第六感とはすなわち勘のことだが、綱吉の超直感は幻覚すらも見破れるらしい。おまけに、過去に綱吉を窮地に追いやった骸は存在を察知されやすいそうで、だからこそ、念には念を入れた行動を取らざるを得なくなった。いわば、骸の自業自得だ。

 

「確かにその通りですが、人から言われると頭にきますね」

「いひゃひゃひゃひゃ! ちょ、八つ当たりしないでくらさい!」

 

 向かいから伸びてきた手に頬を摘ままれ、利奈はバシバシと机を叩いた。

 

「クフフフ、よく伸びる頬ですね。千種見てください、美味しそうなお餅ですよ」

「はあ……」

 

 千種はまるで興味がないという顔をする。

 

「暴力反対! 暴力反対! 仲間じゃないですか!」

「残念ながら、鉄拳制裁制度を採用してますので。仲間になったからにはこちらの流儀に従ってもらいます」

「風紀委員となにも変わらない……! って、なんで骸さんがリーダーなんですか! 契約は対等ですよ!」

「……覚えてましたか」

 

 舌でも打ちそうな声音で呟き、ようやく骸が手を離す。利奈はすかさず立ち上ると、距離を取りつつ痛む頬を押さえた。

 何度か窮地に追いやられたことはあったが、物理的に手を出されたのは初めてだ。正直、油断していた。

 犬がニヤニヤするので、軽く椅子を蹴っておく。

 

「……船、止まった?」

 

 くだらないじゃれ合いをしているあいだに、船の揺れが止まっていた。目的地に着いたのだろうか。

 暇を持て余していた犬が一番に窓に飛びつき、顔を押し込まんばかりに身を乗り出す。

 

「んあ? なにもねーんらけど」

「ええ?」

 

 利奈もとなりの窓に顔を近づけた。

 小窓はやや高い位置にあり、利奈の身長ではつま先立ちになる必要がある。背伸びしながら島らしきものはないかと目をこらしたものの、島どころか、鳥や船さえも見当たらなかった。

 

「ほんとだ、なんもない」

「だろ?」

 

 初代シモンが初代ボンゴレに宛てた私信を頼りに遠路はるばるここまで来たものの、手紙に書かれていたシモンの聖地とやらは、影も形もない。

 窓を変えて綱吉たちが乗っている中央の船にも目を配ってみるが、異常事態が起こっている様子はなかった。つまり、ここが座標付近であることは間違いがない。

 

「読みが外れたと言うことですか?」

 

 淡々とした声で千種。いつのまにか座っていた二人が立ち上がっている。

 

「いえ、たとえ見当外れだったとしても、島自体は存在していなければおかしい。つまりこれは――」

「ああ!」

 

 犬が叫び、利奈は窓に張りついた。すると目の前の海が変わり始める。

 

「え、ええ?」

「なんら!?」

「これはこれは……」

 

 まるで薄いガラスが貼られていたかのように、目の前の景色にヒビが入っていく。そしてその隙間から違う空間が広がり、徐々にガラスの向こう側の景色が姿を現していった。

 

「島ら! 島が出たびょん!」

 

 さっきまでなにもなかった場所に、島が現れた。しかも島と船とは目と鼻の先で、こんなに近くに島が隠れていたことに驚く。

 

「これって幻術ですか!?」

「似たようなものですが、これほどの規模となると個人の力では無理がありますね。おそらく、なにか大がかりな装置を使っているのかと。……まだ幻術は使えないようですが」

 

 船が再び動き出すが、すぐにとなりの船が大きな衝突音を上げた。綱吉たちが乗っている船である。

 今度はさすがに船室を出て構成員に理由を尋ねたが、ここから先は浅瀬になっていて、この船の大きさでは近づけそうにないらしい。船には小型のボートも用意してあったので、綱吉たちはそれで島に上陸することになったそうだ。

 

「この島なら大型船で攻め入れませんし、小型船で近づく輩はすぐに迎撃できますからね。籠城戦にはうってつけだ」

「でもこれじゃ、私たち島に入れませんよ。近づいたらすぐに見つかっちゃう」

 

 綱吉たちが乗った小型ボートが島へと進むのを見送りながら、途方に暮れる。

 綱吉たちは無事に島へと辿り着けそうだが、ボンゴレ構成員が大挙しようものなら、すぐさま沈められてしまうだろう。

 炎真の能力があれば、小型船など、あっというまに沈没船になってしまう。

 

 綱吉たちが島へと上陸するのを見届け終えたところで、船室のドアが外側から開かれた。

 

「こちらへ。九代目がお呼びです」

「ええ、わかりました」

 

 九代目は綱吉たちと同じく中央の船に乗っている。

 となりどうしとはいえ、船と船の往来は容易ではない。綱吉が使ったのと同じボートに乗って、真ん中の船へと移った。

 簡単な身体検査をこなし、衆人環視のなか、九代目の元へと案内される。九代目の部屋は利奈たちがあてがわれた部屋と同じ船室で、外から九代目とその守護者の姿が見えた。室内にいるのは二人だけだ。

 

「二人はここで待っていてください」

「わかりました」

「あ、じゃあ私も……」

「なにを言ってるんです」

 

 二人にならって半歩下がろうとする利奈を骸が呼び止める。

 

「僕と貴方は対等の契約を結んでいるのでしょう? 代表者として話し合いに参加するべきです」

「は、はい」

 

 やんわりと窘められ、利奈は骸のとなりに並んだ。骸を連れてきたところで利奈の役目は終わっているようなものだが、勝手に降りることは許されないのだろう。話し合いに混ざったところで、意味があるとはべつとして。

 

 骸とともに入室する。

 内装も家具も、先ほどまで使っていた部屋とまったく同じだ。それなのに、悠々と座る九代目と後ろに控える守護者の佇まいが、室内の雰囲気をより重厚なものに仕上げていた。利奈の脳内に、ある単語が頭をよぎる。

 

「座ってくれたまえ」

「失礼します」

 

 頭を下げて椅子に腰を落とす。

 スーツを着た大人二人に、中学生が二人。正面の二人の注意が骸へと向けられるなか、利奈はこの場面に似通った状況を、脳内でもう一度呟いた。

 

(なんか、面接試験みたい)

 

 一回そう思ってしまったら、そうとしか思えなくなってしまう。

 年嵩の九代目は校長先生で、長身の守護者は面接担当の教師。となれば、となりの骸は一緒にグループ面接を受けることになった同級生だろうか。

 ――マフィアのボスとその守護者、そして大量殺人犯相手に脳天気な幻想を描く利奈を尻目に、会合は始まった。

 

「まさか、貴方に直接お目にかかる機会があるとは思いませんでしたよ。ボンゴレⅨ世」

 

 口火を切ったのは骸だった。感慨深げに呟かれた言葉には、利奈でもわかるくらいの皮肉が含まれていた。やはり骸にとっては、九代目は敵対するべき人間であるらしい。

 対して九代目は、和やかな表情を崩さない。

 

「わしはいつか出会う日が来ると思っていたよ。君が綱吉君の守護者を引き受けてくれた日からね」

 

 これは皮肉だろうか。利奈には判断が難しかったが、骸は当てつけと受け取ったのだろう。机の下で人差し指が動き始めた。

 

「……ああ、そういえば門外顧問とは先に顔を合わせていましたね。彼は今なにを?」

「家光か。あやつは今、CEDEFの潜入捜査で連絡が取れる状況におらんのじゃ」

「それは災難でしたね。彼がいれば調査も容易だったでしょうに」

 

(……門外顧問? チェデフ? 家光って、日本人の名前だよね?)

 

 知らない言葉ばかりだけど、門外顧問という響きからは重要人物の匂いがした。ヴァリアーと同じく、マフィア界でしか知れ渡っていない名称なのだろう。

 骸はさらに続ける。

 

「リング争奪戦での彼の働きは、なかなかのものだったと思いますよ。ああ、そういえば――」

 

 その瞬間、利奈は猛烈にいやな予感がして骸を見た。しかし、遅かった。

 

「リング争奪戦といえば、身体の具合はもうよろしいのですか? だいぶ深手を負わされたと聞いていましたが」

 

 ――それが逆鱗であることは、火を見るよりも明らかだった。

 

 立ち上る殺気にひっくり返りそうになる利奈の椅子を骸の腕が止め、前に踏み出そうとする守護者の身体を九代目が腕で制した。

 両者の視線がぶつかり合い、永遠にも思われた沈黙ののちに。九代目がにこやかに微笑んだ。

 

「おかげさまで、すっかりよくなったよ。まさか君に身を案じてもらえるとはね。いや、ありがとう」

「……いえ、べつに」

 

 一切他意のない感謝の言葉に、鼻白んだ様子で骸が話を切り上げる。

 守護者の殺気も解け、骸の手が利奈の背中から外される。しかし利奈は非難の意味を込めて骸を睨みつけた。

 

(こ、怖かった……びっくりした……! やめてよね、いきなり!)

 

 嫌味の応酬や爆弾の投下は、部外者がいないところでやってほしい。まさかあんな唐突に喧嘩を売り出すとは思っていなかったから、動悸が止まらなかった。

 これならまだ、空気を読まずに妄想を口にしていた方がマシだったろう。

 

「さて、そろそろ本題に入るとしようかの。

 察しはついていると思うが、我々はこれ以上あの島に近づけそうにない」

「でしょうね。のこのこ近づいたところで、いい的にしかならないでしょう」

 

 よく普通に話し始められるものである。いや、マフィアにとっては、あの程度の応酬は嗜みのひとつなのだろうか。

 

 利奈があまりにも萎縮してしまったせいか、九代目の後ろにいる守護者が外の守護者に合図を送って、チョコレートを数個用意してくれた。物欲しげな目配せを無視して、全部一気に口に放り込む。一粒一粒愛おしむように食べるべき味がするが、おかげで少し落ち着いた。

 

 その合間にも話は進む。

 綱吉たちには無線や発信器を持たせていたそうだが、彼らが島に着くのを待たずに、早々と信号は途絶えたそうだ。つまり、綱吉たちが島でどうなろうと、こちらでは察することができない。どうやら、島に妨害電波がかかっているようだ。

 食料と宿泊道具は渡しているそうなので、そちらの心配はいらないだろうが、様子がわからないのは不安である。それでも闇雲に敵地に突っ込むわけにはいかないので、今は待機するしかない。

 

 そろそろ話も終わるかと思われたそのころ、骸が言うべきものか悩んでいるようなといった態度で口を開いた。

 

「ひとつ、いいですか?クロームのことなんですが」

「うん、なんだい?」

「じつは……困ったことがありまして」

「……?」

 

 骸にしては、ずいぶんと歯切れが悪い。膝上の指の動きが早くなり、かねてからの懸念事項であったことが窺えた。

 

「昨夜、クロームにかけていた幻術が解かれたのです。それもクロームの意識がない状態で、強制的に」

「っ、それは――」

 

 九代目の視線が利奈に向いた。

 骸の言葉を理解しているか確認されていることはわかったが、骸からなにも聞かされていなかったために、戸惑いしか返せない。ゆえに、九代目が続きを口にすることはなかった。

 

「ここに来るまではわかりませんでしたが、どうやら、あの島には幻術への妨害策が張り巡らされているようです。

 ボートに乗ったときに幻術を飛ばしてみましたが、途中で見えない壁のようなものに阻まれました」

 

(いつのまにそんなことを……)

 

 言われてみれば、やたらと島のほうを見ていたような気もする。あのときもなにも言っていなかったが、ひょっとして、犬や千種にもこの話はしていないのだろうか。もしそうならば、利奈が思っているよりもクロームは深刻な状況にあるのかもしれない。

 

「それで、その状態でクローム君は大丈夫なのかね?」

「それはなんとも言えません。ですが、ここにいる利奈によると、クロームを連れ去った加藤ジュリーは、以前からクロームの周囲をうろついていたようです。クロームの身体情報についても、あらかじめ調べ終えていた可能性が高い」

「ほう。じゃが、もしそうでなかった場合、クローム君の身体が心配じゃ。せめて、クローム君の安否くらいは確認できんかの。島自体が幻術で隠されていたのじゃから、少なくとも島の内部では幻術は使えるはずじゃ」

 

 九代目の提案は一理あった。

 島に入れずとも、幻術の阻まれた地点よりも内側に入れれば、骸の幻術もクロームに届くだろう。安否を確認するくらいの余裕はあるはずだ。しかし骸は首を横に振る。

 

「僕もその手は少し考えましたが、どうも危うい臭いがしまして」

「どういうことかね」

「……どうにも、クロームを拉致したことが気にかかるんです。ボンゴレへの復讐のほかに、なにか別の思惑があるような気が」

「思惑、ですか?」

 

 ようやく声を発する間が与えられた。なにも言葉を挟めないまま話が終わりそうだったので、少しほっとする。

 

(あの人はデートの約束がどうとか言ってたけど……どう考えても人質だったよね)

 

 でなければ、ほかのシモンファミリーがいい顔をしないだろう。クロームが人質に取られたからこそ、綱吉たちは血相を変えてここまでやってきたのだ。

 

「貴方の言う通りですが、クロームが攫われていなかった場合を想像してみてください。

 継承式を妨害した宣戦布告をしてきたシモンを、ボンゴレが放置すると思いますか?」

「……そっか、落とし前! クロームを攫わなくても、沢田君たちはここまで来なきゃいけないんですね!」

 

 不届き者にケジメをつけるのは、どこの世界でも同じだ。ましてや、マフィア界というものは面目に重きを置く世界だ。襲名の場を穢された十代目が代表して落とし前をつけるのは、道理である。

 九代目も頷いた。

 

「わしが言うよりも先に綱吉君からシモン討伐の話が出たのは、クローム君と山本君の件があってのことじゃろう。しかしそれがなくても、綱吉君にはボンゴレ十代目を継ぐ者としてここに来てもらっていたはずじゃ。

 なるほど。つまり、クローム君が君への人質であった可能性があると」

「骸さんの!?」

 

 二人が至った結論に動揺が隠せない。

 もしそれが真実だとしたら、利奈は彼らの思惑通りに、まんまと骸を連れてきてしまったことになる。

 

「いや、まだこれは推論にすぎんよ。そもそも、六道君を連れてくることを、わしは一切考えておらんかった。君が提案し交渉役を務めなければ、顔を合わせて話すのはずっと先になっておったじゃったろう。その点ではとても感謝しているよ」

「でも……」

「僕もそれは同意します。いくら前もって準備をしていたとしても、貴方の無理無茶無体まで計算に組み込むことは不可能でしょう」

「……なんか、馬鹿にしてません?」

 

 九代目の慰めの言葉に乗っかる形で罵倒する骸に利奈は眉根を寄せた。

 そもそも、クロームの件で違う可能性を示唆し始めたのは骸だったはずだ。

 

「だから、あくまでも推測の域ですよ。

 話を戻しますが、幻術への妨害がなされたままであるのなら、内部でクロームへの幻術を補っている可能性が高い。……腹立たしいですが」

 

 ようするに、今は様子見するしかないという最初の結論に、回りまわって戻ってきたということである。

 なんだかドッと疲れてしまったけれど、九代目との初の会合は、そんなふんわりとした結論で終わりを告げた。

 

 継承式の翌日のことである。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

外れた選択肢

前回も長かった自覚がありますが、今回も詰め込みすぎて長いです。(当社比1.5倍)
これ以上削れませんでした。


 

 

 九代目との初会合を終えて元の船に戻る。

 外で控えていた二人に骸が端的に内容を説明したものの、後ろに立つ利奈のげっそりとした様子で、いろいろと察せたのだろう。千種から労りの眼差しを投げられた。と思ったら、骸も振り返った。

 

「そろそろ、クロームの身体について話しておかなければなりませんね」

 

 クローム本人がいないから話してもらえないかと思っていたけれど、ちゃんと説明するつもりはあったらしい。利奈はすぐさま席に着いた。

 

 ――クロームは、交通事故で片目と内臓を失っていた。

 事故に遭ったのは十月。利奈がクロームと出会ったのは九月だったから、それからすぐのことである。

 脱走中の暇つぶしで骸が意識を外に彷徨わせていたところ、瀕死のクロームの意識に触れたらしい。つまり、二人は夢のなかで再会を果たしたわけである。そこだけ聞けばロマンチックだが、そのときの状況が状況なので、ときめきはしなかった。

 

「精神世界で僕を自覚的に知覚するには、幻術の素質が必要なんです。それに、彼女にはなにか近しいものを感じました」

「近しいもの?」

「ええ。そもそも契約なしで身体を操るには、それなりの相性が必要ですから。その点では、僕とクロームは相性抜群で」

「似てますもんね、見た目も」

「……それはクロームが合わせてるだけ」

 

 そんなこんなで、自分の手足になる人間を欲していた骸は、彼女を仲間に引き入れることを決めた。その対価として、クロームの内臓を骸が幻術で補っているというところから、ようやく今回の話が始まる。

 ――つまり、骸の幻術が阻害されている今、クロームは内臓を失っているのだ。

 

「内臓? ……内臓!? めちゃくちゃヤバいじゃないですか!」

 

 意味を理解した利奈は声を張り上げた。すぐにでも島に行くべきだと息巻くが、たったいま九代目と話がついたばかりだと言われて撃沈する。そして恨みがましく骸を睨めつけた。

 

「……こうなるってわかってて教えなかったでしょ」

「クフフ。議論を感情論で引っかき回されてはたまりませんから」

「クウッ!」

 

 話はそれで終わったが、討伐初日の出来事はそこで終わらなかった。

 夕方、骸に異変が起こったのである。なんでも、頭のなかに突然知らない映像が流れ込んできたそうだ。それも、初代ボンゴレと初代シモンの出会いのシーンだという。

 

「念のため、あちらにも伝えておきましょう。白昼夢にしてはやけに鮮明だ」

 

 報告というよりは、事実確認の手段だったように思える。骸の思惑通り、無線を受けた九代目守護者はすぐさま資料を漁った。

 伝えた初代ボンゴレのジョット、そしてジョットの右腕であるGの外見情報は見事一致しており、初代シモンの名前についても、あの私信に書いてあった名前と一致していたそうだ。

 そこでようやく船上での一日目は終わりを告げたが、二日目は予想だにしないほど早かった。

 

 

__

 

 

「起きなさい」

 

 ――不機嫌をあらわにした骸に叩き起こされた朝。日はまだ昇り切っていなかった。

 寝室は男女で分けられていたが、それがどうしたと言わんばかりの態度に圧倒されて身体を起こす。なんでも、また頭に映像が流れ込んできたらしい。

 叩き起こされたのはもちろん利奈だけではなく、昼間の船室に入ると、二人が眠そうな顔をしていた。

 

(八つ当たりだ、これ)

 

 さいわい利奈は早起きには慣れていたが、三人はそうでもなかったらしい。犬の目は垂れているし、千種の顔は死人のようだし、骸はただただ血圧が低そうにイラついていた。朝も夜も平日も休日もない生活を、黒曜ランドで過ごしてきた報いだろう。

 

 海の上には遮蔽物がないので、太陽光がサンサンと室内に降り注ぐ。朝焼けはとうに終わりを告げ、もうすっかり気持ちのよい青空だ。それなのに、三人のやつれ具合は徹夜明けのようだった。寝室に分かれてからも、しばらく寝ずにいたのかもしれない。

 食欲がないのか、それとも朝は食べない主義なのか。骸と千種はコーヒーだけをすすっていた。利奈と犬はそれぞれ、用意された食事をきれいさっぱり平らげる。犬だけ顔色が戻った。

 

 今回骸が見た映像は、ボンゴレファミリーの前身である自警団が創設されたさいの一場面だ。初代シモンもその場にいたらしい。

 昨日と同じよう守護者に伝えたら、直接九代目の前で詳細を語ることになった。ボンゴレの結成に初代シモンが関わっていたかもしれないとなると、一聴する価値はあると判断したのだろう。夢で片付けられてもいいくらいだったので、九代目の懐の広さには感心する。

 

 昨日と同様に二人で船室に入る。今回は守護者が勢揃いしていて、重要度が窺えた。

 

「さっそくだが、お前が見たものについて、詳しく話してもらいたい」

 

 守護者の一人、ガナッシュがパソコンを構えている。彼が記録係のようだ。

 骸が見たボンゴレ結成の場面は、歴史に残る感動的な名シーン――というわけにはいかなかった。骸が見たのは破壊された店。倒れ伏す男。泣きわめく子供たち。無法者に逆らった者がどうなるかを如実に語る光景だった。

 彼らを襲ったのは、マフィアですらないならず者たち。ゆえに秩序も美徳もなく、理不尽に暴力の限りを尽くす。生まれ住んだ町を愛していた初代ボンゴレ――ジョットは、町を守るために自警団を創設する。だが、それは自発的にではなかった。

 

「シモンがⅠ世に自警団を……?」

 

 タイピングの手を止めてガナッシュが声を漏らす。

 ジョットに自警団を結成するように勧めたのはシモンだった。ただし、シモンがジョットに自警団の話を持ち出したところで映像が終わったので、その後どういった経緯で結成したかまではわからない。

 睡眠を妨害されたうえに気になるところで終わったから、あんなにも骸は不機嫌だったわけだ。

 

「ふむ……。ボンゴレとシモンには、思っていたよりも遙かに深い結びつきがあったようじゃな」

 

 九代目がうなる。シモンに関する記録はすべて抹消されているとはいえ、こうなるとひとつ、根本的な疑問が生まれた。

 

「……本当に、裏切りなんてあったんでしょうか」

 

 昨日よりは場が殺伐としていなかったので、おずおずと利奈も意見も口に出した。

 地主から嫌がらせを受けている家族に食料を渡し、町民を殺した輩どもに憤り、そしてシモンから自警団のリーダーにふさわしいと認められたジョットが、そのシモンとファミリーを裏切るとは、どうしても思えない。現在のシモンファミリーが語った極悪非道な人物像とは、あまりにもかけ離れすぎている。

 

「僕からはなんとも言えません。マフィアはマフィアですから。

 ただ、その後のボンゴレの系譜を考えれば、あり得ない話でもないと思いますが」

「いや、それは違うよ」

 

 九代目が弱々しく訂正を入れる。

 

「ボンゴレが今のような態勢になったのはⅡ世からじゃ。初代は無益な争いを好まず、あくまで大切な人たちを守るために拳を振るっておった」

 

 自嘲めいたものが感じられるのは、己を顧みてのことだろう。

 九代目は初代の方針を好ましく思っているようだが、世界最大勢力のマフィアともなると、トップの意志をそのまま反映させるのは難しい。因習を変えるには、なにかきっかけが必要なのだ。

 

(……だから、ツナを十代目に選ぼうとしたのかな)

 

 仲間を守るためだけに拳を振るう綱吉は、初代の行動論理と似通う点が多い。たとえそれが綱吉の弱気な性格からきているものであっても、そんな綱吉を守護者は慕い、支えている。――少なくとも、過半数は。

 だからこそ、シモンファミリーと断絶する理由になったジョットの裏切りは違和感があった。

 

(でもシモンファミリーでは裏切りがあったって伝わってるし……うーん、なんなんだろう)

 

 敵地で孤軍奮闘していたシモンファミリーを見殺しにした点については、誤解が生まれる可能性は高い。増援のために部隊が送られていたとしても、敵に阻まれてしまえば無意味である。

 

「もしくは、その任務自体をもみ消そうとした勢力があったという考え方もあります。初代ボンゴレも、抗争時に組織すべてに目を配ることは難しかったでしょうし。

 ……まあ、貴方たちの願望通りに初代がシモンを裏切ってなかったと仮定した場合ですが」

 

 骸は是が非でもボンゴレに好意的な見方をしたくないようだ。

 九代目の後ろの守護者たちも、ああでもないこうでもないと意見を交わしている。

 

「……いずれにせよ、我々も我々にできることをせねばな」

 

 重々しく呟いて、九代目が目を上げた。まっすぐに見つめられ、利奈は息を呑む。

 

「君たち――十代目一派には伏せておったが、じつは山本君の治療に、ある人物をあてておっての」

「山本君の?」

 

 突拍子もなく武の名前が出てきたので、利奈はオウム返しで名前を繰り返した。

 

 武の病状については、出発前に改めて事実を聞かされている。

 なんとか一命は取り留めたものの、意識が戻るかどうかはわからないし、たとえ意識を取り戻したところで、元の生活には戻れないそうだ。

 

(でも、ボンゴレが治療するってことは――)

 

「山本君、治せるんですか!?」

 

 立ち上がりそうになるのをなんとか自制しつつ、前のめりに拳を握りしめる。

 これまでもボンゴレは、様々な技術を用いて綱吉をサポートしてきた。もしかしたら、武も救えるのかもしれない。

 降って湧いた希望に縋ろうとする利奈に、骸が息を吐いた。

 

「利奈。冷静に考えなさい。沢田綱吉たちに伏せていたならば、なにかしら懸念があるはずです」

「あ……」

 

 骸の言う通りである。たちまち勢いを失う利奈に、九代目は困ったように眉を下げた。

 

「すまないね」

「あ、いえ、ごめんなさい! 私が勝手に期待しちゃっただけで――じゃなくて、その……」

 

 焦りのあまり、敬語が崩れた。恥じ入りながら頭を落とす。

 

「いや、今のはわしが悪い。綱吉君たちにも下手に希望をもたせんために伏せておったが――言わずにいたのは、その手段そのものが彼らに悪い影響を与えかねんかったじゃ」

 

(悪い影響?)

 

 どう説明したものかと思案するように、九代目の手が机の上で動く。組んだ指は節くれだっていて、祖父を思い起こさせた。

 

「……君たちにも、未来の記憶は備わっているね?」

「え。あ、はい」

「まあ、貴方たちと同等くらいには」

 

 利奈は実際に未来へと飛ばされた経験があるし、骸にはユニから与えられた記憶がある。

 ただし、ユニからの記憶は戦闘にまつわるものだけだし、利奈の経験は戦闘とは関係ない場面が多い。ユニの記憶が複数のカメラを繋ぎ合わせて編集した映画とするならば、利奈の記憶はそのうちの一台に残っている未編集の映像記録だ。それも、肝心な場面では使われていないカメラの。

 

(チョイス前まで全然みんなと一緒にいなかったから、あんまり自信ないな。……わかんなかったら、あとで骸さんに聞こ)

 

 しかし、心配は杞憂であった。

 

「幻騎士――という男を知っているかね」

「……!」

 

 聞き覚えのある名前だった。拳を握りしめる利奈のとなりで骸が頷く。

 

「ミルフィオーレの人間ですね。あの時代に最強と謳われていた剣士。ジッリョネロファミリー所属であったにもかかわらずユニを裏切り、白蘭に忠誠を誓った」

 

 読み上げるように人物プロフィールを述べたのは、利奈に配慮してのことだろう。九代目もそれを感じ取ったらしく、利奈に話を振った。

 

「君は知っていたかい?」

「はい、覚えてます……」

 

 ――忘れるわけがない。幻騎士は、利奈が唯一死の間際を見た人物なのだ。

 直前にビアンキたちの機転で部屋を出されたものの、蔦に命を吸われていく様や断末魔の悲鳴は、今でもまざまざと思い出せる。それに、利奈には忘れられない理由がもうひとつあった。

 

(……私も、ああなってたかもしれなかった)

 

 桔梗に拉致されたさい、まったく同じ雲桔梗を仕掛けられた。

 蒔かれた種は一粒だけだったとはいえ、絶えずあの光景がちらつくので、まったく生きた心地がしなかった。肉体的にもつねに瀕死状態みたいなものだったし、二度と受けたくない拷問である。

 

「君の説明通り、幻騎士はボスであるユニを裏切った。――遠征中に罹った流行病で命を落とすはずだったところを、白蘭に救われたときから」

「っ!」

 

 ゾワリと、背筋に寒気が走った。今さらながら未来の出来事を掘り起こされていることへの疑問が芽生え、そしてその解と思われる人物の名前が出てきて、即座に唇を噛みしめる。

 

(耐えろ……耐えなきゃ)

 

 ここはあの世界じゃない。脅かす者はもういない。――いや。

 

(いるの? ……ここにも、あの男が?)

 

 今は過去にも未来にも繋がっている。未来にあの男が存在するなら、今にだってあの男は存在するはずなのだ。今まで考えなかったのが不思議なくらいで、ドッと冷や汗が湧いてきた。指先が痙攣し始める。

 

 九代目たちは利奈の変化に気付かない。いや、変化には気付いていたが、慮りはしなかった。白蘭と敵対した人間なら、だれだって同じような反応をしただろうから。

 事実、骸も表情を歪ませていた。白蘭が平行世界の情報を使ってワクチンを入手したことを知っていたからだ。

 

「この世界の医療技術の粋を尽くしても、山本君を完治させるのは不可能じゃ。じゃが、平行世界の医療技術を試せるならばと、わしは望みをかけることにした。じゃから――」

 

 ――山本君の治療のため、白蘭を呼び寄せた。

 

 九代目がそう口にしたとき、利奈の意識は飛んでいた。でなければ、大声で叫んでいただろう。意識がなく無防備な武のもとに、白蘭を向かわせたというのだから。

 

(白蘭が存在する? 生きてる?)

 

 九代目の話が耳に入らなくなった。危険性についていろいろと話しているけれど、頭に入っていかない。そもそも、白蘭を知らない人たちの意見に意味はあるのだろうか。なんだか視界がぼんやりしてきて、九代目の口の動きも見えなくなってくる。

 

「利奈」

 

 骸の声が耳を、骸の手が利奈の肩を揺らした。

 ずれていた焦点が戻り、目を瞬く。九代目たちが知らない人のように見えて、利奈は狼狽えた。

 

「ごめんなさい、ちょっとボーっとしちゃって」

「驚かせてしまってすまない。しかし、この戦いに裏があるとすれば、グズグズしてはおれんからの。君にも助力を願いたい」

「は、はい。なんですか?」

 

 取り乱している場合じゃない。九代目だって、考え抜いたうえで最善を尽くしているのだ。あんな男でも、利用価値があるのなら利用しつくしてしまえばいいのだ。

 そう自分に言い聞かせる利奈だが、しかしそれは成功しなかった。人は、理論より感情を優先させてしまうものだから。

 

「君に依頼したいのは、山本君の経過観察。そして彼が回復した場合の同行じゃ。山本君にも初代の記憶はおそらく届いているが、知り合いから説明を受けたほうが理解しやすいじゃろう。それに――」

 

 ――もしくは、彼らは甘く見ていたのかもしれない。

 相沢利奈が抱いていた殺意の底を。あるいは、本人でさえも。

 

「未来で白蘭と顔を合わせた君ならば、白蘭が本物であるかも判別――」

「お断りします」

 

 その瞬間、九代目が目を見開き、守護者たちが懐に手を入れた。

 利奈が九代目の指令に逆らったからではない。利奈が殺気の炎を放ったからだ。メラメラと燃える青い炎は本人の視界さえも覆っていて、憎き仇敵の蜃気楼を脳裏に浮かび上がらせていた。

 

「私にはできません。だって……だって、私――絶対に……!」

 

 椅子が音を立てて倒れた。感情のコントロールが効かなくなって、口を噤む。続けたところで、白蘭への呪いの言葉しか出ないだろう。利奈は唇を前歯で噛みしめた。

 

(駄目だ、変なこと言っちゃう前に部屋を出なきゃ)

 

 思ったことをそのまま口走るのはいつものことだが、今回は会議の真っ最中なうえに、相手が相手である。まさか命までは取られないだろうと高をくくるには、相手の権威が強すぎた。

 

 無言のまま、深々と頭を下げる。非礼への詫びと退室の意思表示を込めたけれど、伝わったかどうかを確認できるほどの余裕がない。とにかく、ここから離れなければ。

 骸がなにか口にしていたけれど、横に首を振って会話を拒否した。

 

 

__

 

 

 利奈が去った直後の船室は、困惑と混乱に満ちていた。

 構えを解いた守護者たちはお互いに顔を見合わせ、そして最終的に視線の行き先を骸へと向けた。骸ならば、求める解を持っているだろうとばかりに。

 しかし骸は、彼らと同じような表情で船室の扉から目を外し、席に着き直すのだ。思いもよらぬことが起こったとばかりに。

 

「……どういうことかね」

 

 重々しく九代目が口を開く。その声に含まれているのは動揺よりも追求の色合いが多く、質問ではなく詰問であった。およそ同盟相手に使う口調ではなかったが、骸はそれどころではないとばかりに肩をすくめた。

 

「僕が聞きたいくらいです。あんな……まさか、彼女が」

「知らなかったのか?」

 

 ガナッシュが眉をつり上げる。

 書記を務める彼は守護者のなかで唯一武器に手を伸ばさなかったが、利奈の態度如何によっては躊躇いなく彼女を鎮圧していただろう。椅子に座るガナッシュは、守護者のなかでもっとも利奈に近い配置についていた。綱吉の友人に手を上げずに済んだ点では幸運である。

 

 ――さて、ここにいるボンゴレ一同は、ありとあらゆる修羅場を経験してきた。

 たとえ利奈が少女らしからぬ剥き出しの殺気を放ったところで、子猫の威嚇。殺気を向ける相手が九代目でないのなら、笑って許すことができていただろう。そんな彼らが一斉に銃を手に取るに至った理由。それこそが、骸に混乱を与えていた。

 

 骸も九代目一派も、利奈と白蘭の因縁のほとんどを理解していない。すべてを知っているのは当人らのみであり、推し量れる人間も手の指で収まる程度。

 骸ですら、利奈がここまでの拒絶反応を示すとは予想できていなかった。まさか、十年後の自分と同等の憎しみを抱いていたとは、思ってもいなかったのだ。まさか。まさか――死ぬ気の炎を放つほどの、殺意があったとは。

 

(雨属性の青の炎。まさか彼女が)

 

 青い炎は赤い炎よりも温度が高いというが、死ぬ気の炎の場合、温度と色は関係がない。

 比喩ではなく物理的に青い炎を噴き出したのだから、守護者たちが身構えたのは当然だ。利奈は戦闘員でなかったのだから、なおさら。

 

「おそらく、彼女自身もまだ気がついていません。頭に血が上っていたようですし」

「気付いてない? ……まあ、俺たちも未来の記憶がなければ生命エネルギーには気付かなかっただろうが。にしても……」

「ああ、リングなしで炎をあれだけ……いったい、どれほどの――」

 

 ――どれほどの殺意があれば、炎を身体にまとえるのか。それを利奈本人に確認するのは、あまりにも酷だろう。

 

(未来の利奈は指輪を持っていなかった。炎を出せなかった。……未来が、書き換わった)

 

 それが吉なのか凶なのかは、今後の彼女自身が決めていくのだろう。

 ただ少なくとも、今回は逃がすわけにはいかない。クロームの命もかかっているのだ。

 

「さて、話し合いを続けましょう」

 

 交渉に感情は不必要だ。椅子を蹴ったところでなにも変わらないのなら、場を掌握してしまえばいい。利奈があれでは、九代目たちも妥協するしかないだろう。せいぜい利用し、利用されればいい。

 それでも、今しがた噴き出した青が、記憶に焼きつけられた赤が、どうしても脳裏から消せなかった。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それぞれの遺恨

 

 

 勢いよく利奈が部屋を飛び出すと、壁によりかかっていた犬と千種がギョッとしながら身体を起こした。視線を合わさないまま二人の前を横切り、甲板へと足を進める。人影のない甲板の先端まで歩き、太陽で熱された柵に両手をかけて、身体を思いきり後ろに引く。そしてそのまま、身体を前に突き出した。

 

「あーーーーーーー! もう!」

 

 海風が髪を巻き上げる。巻き上げられた髪が顔を叩く。薄い皮膚を叩かれ、痛みに顔をしかめた。

 

「なんで! なんでなの! なんでこんなとこでまで出てくんの! あんたのせいでめちゃくちゃなんだけど!」

 

 島まで届いてしまえとばかりに声を張り上げる。

 船には大勢人がいるけれど、眼前の景色に人はいない。今は体裁なんて考えられなかった。

 

(冷静でいたかったのに! 子供っぽく騒ぎたくなかったのに! 絶対呆れられた! 全部台無し! 全部全部全部!)

 

 感情にまかせて、交渉の場から飛び出してしまった。あんな失態を犯してしまったら、もう取引相手としては見てもらえないだろう。今までの努力が水の泡だ。白蘭という存在はいつだって感情をかき乱す。

 

「もう……ほんと最悪」

 

 柵を握ったまま崩れ落ちる。熱された鉄は熱く、手のひらがじんじんと痛む。

 骸は利奈抜きで話を続けているだろう。べつに利奈でなくても、武を連れてくることはできるのだ。そもそも、武が回復するかどうかだって――

 

(ううん、山本君は大丈夫)

 

 ふて腐れていても、そこだけは譲れなかった。

 武は必ず助かる。そしてみんなと一緒に戦おうとするだろう。綱吉と同じく友達想いで、友情をなによりも優先する人だ。

 それに引き換え、その手伝いすらできないでいる自分が、不甲斐なくて情けなくなってくる。

 

(だって、しょうがないじゃない。私絶対白蘭を許せないし、殺せるなら殺すもの。そしたら山本君の治療だって駄目になっちゃう)

 

 未来で磨き上げた殺意は、そんな簡単に消せはしない。今だって、心臓を刺すための武器は胸に挿してあるのだ。

 ガラス飾りに手を触れて目を閉じる。やはり浮かび上がるのは復讐の青い炎と憎き男の顔だった。

 

 ――叩きつけるような海風を浴び続けて、どれくらい時間が経っただろうか。

 存在を主張する足音に、利奈はゆっくりと立ち上がった。

 

「そろそろ、頭は冷えましたか」

 

 どうやら、会議が終わったらしい。

 

「よかったですね、ようやくデッキに出られて。感想は?」

「……最悪ですよ」

 

 ぶすっとしたまま振り返る。

 骸も利奈と同じく風に髪を乱されていて、うっとうしそうに耳元を押さえていた。

 

「なにか変わった様子は?」

 

 島に目をやりながら骸が尋ねる。

 

「とくになにも。ここからじゃわかんないですよ」

「そのようで。派手にやり合ってはいないようですね」

 

 継承式の会場で炎真が使っていた技ならば、島の木々も簡単になぎ倒せただろう。リングが馴染むまで時間がかかると言っていたから、今は力を制御しているのかもしれない。

 

 それきり会話が途切れ、波風の音が鼓膜を揺らす。

 考えていることはたぶん一緒で、口火を切るべきなのは利奈なのだろう。デッキの柵から片手を離し、涼しげな顔の骸へと向き直る。

 

「……さっきは、ごめんなさい。話し合いの途中なのに、部屋、出ちゃって。……九代目、怒ってましたか?」

「いいえ? 驚いてはいましたが」

「ごめんなさい……」

 

 シュンと頭を垂らす利奈を、まじまじと骸が見下ろす。色彩が違う両の瞳には、いつも通りの利奈が映っていた。

 

「……部屋を出る前のこと、覚えてますか?」

「え?」

 

 念を押すような骸の言葉に、利奈は瞳を泳がせた。

 

「えっと……カーッとしちゃったから、なに言ったかちょっと曖昧かも……」

「……そうですか」

 

 感情がぐちゃぐちゃになったのは覚えているけれど、余計なことを言う前に退席したはずだ。あるいは、退室の仕方が悪かったのか。

 含みのある骸の態度に、なにか大変な粗相をしでかしたのではと血の気が引いた。

 

「わ、私なにか変なことしました!? ごめんなさい、どうしよう、謝りに――」

 

 すぐにでも船室に取って返そうとした利奈だったが、骸の腕に押しとどめられる。強く肩を押さえられ、身動きが取れなくなった。

 

「もう解散しましたよ。今戻ると話がこんがらかるからやめなさい」

「でも――」

「自分から逃げ出しておいて、今さら言い繕うつもりで?」

「うっ……」 

 

 痛いところを突かれ、押し黙る。骸の言う通り、今さらどの面下げて戻るつもりなのか。

 見下ろす骸の瞳は鋭く、利奈は目を逸らすことしかできなかった。骸の指が肩に食いこみ、左肩が沈みそうになる。

 

「明日の朝、船が出る予定です」

「っ!」

「山本武に回復の兆候が見られたら、先ほどの手筈通り――」

「待って! 私は――」

「逃げるのですか?」

 

 骸の言葉に目を見開く。自分が取った行動をはっきりと言葉にされて、頬が熱くなった。

 

「貴方の殺意は伝わりました。僕だって、殺せるものなら殺していましたよ。でも今はそれどころではないし、あの男を殺したところで今さらなんの役にも立たない。そうでしょう?」

「違う」

 

 否定の言葉だけは、どうしてかすぐに口をつく。拒絶の言葉と同様に。

 

「違う? なにが違うんです?」

「だって……だって、白蘭は」

 

 白蘭はありとあらゆる犯罪を犯した。人の尊厳を踏みにじった。世界を破滅に導こうとした。たとえ時が戻ってすべてが清算されていたとしても、行いは忘れられないし、なかったことにはできない。少なくとも、利奈には。

 

「駄目なんです。私、絶対に白蘭を許せない。白蘭に会ったら絶対に殺そうと――しちゃう、から……」

 

 我慢したはずの言葉が零れた。親しい人の前で殺意を口にするのは自白と同等で、後ろめたさと罪悪感でいっぱいになる。たとえ、骸が殺人者だと知っていてもだ。

 口ごもる利奈に、骸は深くため息をついた。

 

「だからって逃げてもしょうがないでしょう。これからずっと白蘭から逃げ回るつもりですか」

「そうじゃないですけど……」

 

 白蘭が恐いわけじゃない。我を失いそうな自分が恐いだけだ。

 煮え切らない利奈に苛立ち、骸が眼前に指を突きつける。

 

「殺す殺さない、許す許さないはこのさい置いておきなさい。怨敵をこき使える機会なんてめったにないんだから、割り切ってしまえばいい」

「無理ですよ、そんなの」

「ならば一回想像してみなさい。――今の貴方を見て、白蘭がどう反応するか」

「――!」

 

 効果はてきめんだった。

 

(私を見て、白蘭がどう思うか? そんなの――絶対に笑うに決まってる!)

 

 その瞬間、迷いや戸惑いが霧散した。

 白蘭のニタニタとした笑みが思い浮かび、これ以上はないと思っていたはずの怒りが沸点を超える。

 

(そうだ、白蘭なら絶対に喜ぶ! 私がめちゃくちゃになってるの見て笑う!)

 

 人の悪感情を吸って生きているような人間だ。今の利奈を見たら、上機嫌に手を叩いて喜ぶだろう。それを想像すると、うじうじしていた自分に無性に腹が立ってきた。

 なにが殺してしまうのが恐いだ。何様のつもりだ。弱っていた白蘭ですら仕留められなかったのに。

 

 及び腰だった利奈の背筋が伸びたのを確認して、ようやく骸は肩に置いた手をどかした。世話がかかるとでも言いたげに鼻を鳴らす。

 

「ほら、腹が立つでしょう。僕も似た経験があるのでわかります」

「骸さんもあったんですか」

「ええ。……かつて、乗っ取ろうとした相手への協力を強いられた挙げ句、その本人には境遇を心配されました。なかなかに屈辱ですよ」

「……それって」

 

(ツナのことじゃ……っていうか、私じゃなくて白蘭の境遇じゃない?)

 

 陥いれようとした相手に敗北を喫したうえに同情されるなど、プライドの高い骸にって、これ以上ない屈辱だったろう。いっそ、憎しみを持ってもらったほうが気が晴れたに違いない。そう考えると、過去を根に持たない綱吉がいかに強い人物であるかが窺える。

 

「なんにせよ、今日はどのみち待機です。明日までに気持ちを入れ替えなさい」

「……はい」

「それと、九代目たちも貴方を白蘭に会わせるのは危険だと判断していました。無理矢理白蘭と接触させたりはしないでしょう」

「え、そうなんですか!?」

 

 それならそうと先に言ってくれればよかったのに。不服の眼差しで見つめるが、骸はすいと視線を逸らして甲板を引き返していく。その向こうに千種と犬が立っていて、利奈に目をやることなく戻っていった。

 優柔不断な利奈に発破をかけるため、わざと話を後回しにしたのかもしれない。

 

(スパルタだなあ……だれかさんみたい)

 

 髪を耳にかけ、利奈も甲板に足音を響かせた。

 

 

――

 

 

 翌日、利奈と骸を乗せて一隻が引き返した。島でなにかあったときにすぐに対応できるよう、千種と犬は居残りである。クロームが島にいることを考えれば骸が残るべきだとは思ったが、骸は利奈とともに行動する契約をまたもや主張した。契約は厳密に守る主義らしい。

 

「それに、僕は幻術を妨害されていなければすぐにクロームの元へ行けますから。距離は関係ありません」

 

 言われてみればその通りである。島でなにかあったとして、船上からすぐその場に駆けつけるのも難しいだろう。島とボンゴレファミリーの動向は千種たちから報告が入るし、離れたところで問題はないとの判断だ。

 今回は人目を気にせず好きに部屋を出られたので、思う存分、甲板で風を浴びられた。代償に髪がボロボロになって悲鳴を上げたけれど。

 

「日本だー!」

 

 数日ぶりに地面に足を降ろし、利奈は両腕を上げた。まだ足下が揺れているような気がして、歩き方が少し覚束なくなる。

 ここから病院近くの市まで移動し、武の回復をホテルで待つ手筈になっている。治療はうまくいっているそうで、この調子なら明日明後日には回復する見込みだ。それもあって、今日は気持ちも落ち着いていた。

 

 ホテルに行くのは利奈と骸、そして九代目守護者の一人、クロッカン・ブッシュである。

 黒い肌で長身。側頭部は刈り込んでいて、馬のたてがみのように伸ばされた髪が前後に垂れている。耳にはゴツゴツとしたピアスが無数につけられていて、顔つきの厳つさを強調している。守護者のなかで、もっとも日本人とかけ離れた外見だ。

 通り過ぎる人たちは一瞬見ては即座に目を逸らし、関わり合いにならないよう、遠回りに彼を避けている。悪人面に見慣れている利奈でも一緒に歩くのが躊躇われるくらいだから、無理もない。

 

「彼は霧の守護者ですから。僕の見張りをさせるなら、彼以上の適任はいない」

 

 骸のその言葉で納得した。

 九代目と守護者たちが海上で待機している今、骸を野放しにするのは危険だろう。骸が裏切ってボンゴレの情報を敵対マフィアに横流ししたら、戦争の引き金になりかねない。

 

「……つまり、私も骸さんを見張らないといけないんですね? 私のために」

「ええ。契約がある限り、僕と貴方は運命共同体ですから。貴方も同罪になります」

「その顔でその笑い方はちょっと……。もしほんとにやったら、クロームに言いつけますから」

 

 言いつけたところで効果はないだろうが、言わずにはいられない。念を押すと、骸はまたもや微笑んだ。

 九代目たちが乗っている船には犬と千種も乗っているし、いくらなんでもこの状態で反旗を翻したりはしないだろう。九代目にそのつもりがあるかどうかはわからないけれど、二人が人質になっている。

 

「クロッカンさんに念押されたこと、忘れてないですよね。一人行動は禁止ですよ!」

「二人ならオーケーでは?」

「ホテルから出るのも禁止でしたー!」

 

 骸にからかわれながら駐車場へと向かう。車と運転手は手配済みだそうだ。

 港近くの駐車場に入った利奈は、すぐにその人物を見つけ出した。

 

「ロマーリオさん!」

「おお、待ってたぜ」

 

 黒塗りの車の前で、鷹揚にロマーリオが手を上げる。利奈は思わず駆け寄った。

 

「車運転してくれるのロマーリオさんだったんですか! でも、ロマーリオさんはボンゴレじゃないんじゃ……」

「同盟ファミリーだからな。それに、うちのボスがどうしてもって聞かなくて」

「よう、利奈」

「ディーノさん!?」

 

 後部座席の窓が開いて、ディーノが身を乗り出す。今日はスーツでなくいつものブルゾン姿だ。

 

「話は聞いてる。山本、無事回復しそうなんだって?」

「はい! もう心配ないって聞いてます!」

「そうか! いやあよかった。会場で聞いてからずっと心配してたんだ。よかったな、スクアーロ」

 

 ディーノが車内を振り返る。覗きこむと、ディーノの正面に鎮座するスクアーロの姿が見えた。隙間から入りこんできた日差しに、うっとうしそうに目を細めている。

 

「俺はあいつを一発殴りてえだけだぁ……。油断しやがって」

 

 未来での記憶が影響してか、すっかり師匠の風格になっている。クロッカンは二人がいるのを知っていたようで、淡々とロマーリオと話を進めていた。

 

「とにかくさっさと移動だ移動。早く乗れぇ」

「待ってろ、今開ける。……で、後ろにいるのは?」

 

 後ろの人物を指摘され、利奈は肩を揺らした。ここでようやく骸が口を開く。

 

「ハッ、自分はボンゴレ日本支部所属の陸奥と申します。九代目より、相沢様の護衛を仰せつかっております」

 

 耳に引っかかるガラガラ声だ。

 思わず振り返り、見慣れない風体を再度確認する。継承式の会場で、ごまんと見た顔だ。

 

 脱獄囚であり保護観察中の骸は、九代目とその守護者以外にその存在を知られてはならない。ゆえに、船が港に着く少し前から、幻術で変装を終わらせていた。ちなみに、声が変わったのはたった今である。

 よろしくと言いながらディーノはドアに手をかけたし、スクアーロに至っては興味すら持っていない。

 

(……やっぱ幻術ってズルいな)

 

 何事もなく発進する車に、利奈は一人驚嘆した。

 

 




六=むっつ=むつ=陸奥
最初風紀委員を騙るつもりだったものの、利奈が全力で首を振ったのでやめました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

得ることなく喪ったもの

 


 

 

 

 宿泊するホテルへと向かう車のなかで、海上での出来事をクロッカンが淡々と報告する。

 とはいっても、めぼしい情報はほとんどない。島に入った綱吉たちとは依然連絡が取れないままだ。ディーノもスクアーロも、物足りなさそうな顔をしている。

 

(島が見つかってツナたちが入っていったってところで終わりじゃ、それだけかってなるか。骸さんが見た記憶は内緒だし)

 

 ファミリー外に公開する情報については、クロッカンと事前に打ち合わせしてある。初代の記憶は、ファミリー外には伝えない極秘事項として扱われるらしい。情報源が秘密裏に隠匿している骸であるというのも、その理由のひとつである。

 ちなみに骸はというと、仮釈放中という身分もなんのその、運転席のロマーリオと助手席で談笑していた。

 

(普通に盛り上がってる……。なんの話してんのかな)

 

 例によって骸は幻術で姿を変えている。今はボンゴレ日本支部の陸奥なる人物を名乗っているが、それを知っているのは利奈とクロッカンだけだ。うっかり正体を漏らすとしたら自分しかいないので、口走ってしまわないかと利奈は気が気でなかった。

 

「そういや、ヒバリはどうしてんだ? 船には乗ってないんだろ?」

 

 知ってて当たり前とばかりなディーノの言葉に、利奈はわずかに身体を強張らせた。

 島への同行を恭弥に拒否されたことを、ディーノには話していない。言っても話がこじれるだけだろう。

 

「……ちょっと今、連絡が取れなくて。たぶん、あっちはあっちで船かなんか手配してると思います」

「そうか。あいつのことだから、絶対に島には行くだろうけどな」

「そうですね」

 

 深く追求されずにすんでほっとした。今回ばかりは、恭弥の奔放さに救われたわけだ。

 冷戦状態にあることも、利奈から言い出さなければ気付かれずに済むだろう。どうせすぐに元の鞘に収まる――いや、収めなければならない。

 

(絶対になんとかしなくちゃ。このまま学校行ったら、みんなから袋叩きだろうし)

 

 恭弥は些細なことなら根に持たないが、仲間たちは礼節を重んじる。一方的に離反したと知られたら、どんな目に遭わされるかわからない。ある意味、恭弥よりも敵に回したくない人たちである。

 

「にしても、まさかここで白蘭の名前が出てきやがるとはな」

 

 行儀悪く組んだ足を揺らしながら、だれにでもなくスクアーロが呟いた。足が長すぎて、正面の利奈には靴底の模様まではっきりと読み取れる。リムジンだからいいけど、普通の車なら窮屈しそうだ。

 

「そいつにゃ記憶があって、見た目も同じなんだろ。なんで本人とは言い切れねえなんて煮え切らねえこと言うんだぁ?」

 

 その疑問を受け、クロッカンが口を開く。ユニから受け取った記憶を手掛かりに白蘭を捕らえたものの、その人物像にはひどく齟齬があったそうだ。

 見た目は瓜二つ。話し方や仕草も完全に一致。しかし、未来の白蘭にあった加虐性、残虐性は払拭されており、倫理観についてもまるで別人だと診断されたらしい。その人物を白蘭と確定するのは危険だと、懸念が湧き上がるほどに。

 

「替え玉か。あいつならやりかねねえ」

「そういや、未来でも白蘭に似たやつがいたな。GHOSTって言ったか」

 

(……GHOST? そんな人いたっけ)

 

 ディーノが出した名前に心当たりはない。しかし白蘭ならば、赤の他人どころか身内だって身代わりにできるだろう。親友だって殺そうとしていたし、彼の悪性は群を抜いている。

 

「つまりあれか? 山本の治療は、白蘭もどきの処遇を決めるためのテストも兼ねてるってことかぁ?」

「テスト?」

 

 そんな話、九代目からは聞いていない。利奈の反応を視界に入れつつ、スクアーロは続けた。

 

「未来の知識を自由に使えんのは白蘭だけだ。山本の治療のためにこの時代にない治療術を探し当てられんなら、その男を白蘭と認定してもいいだろう。それに、ボンゴレに協力的な姿勢を示せれば、そいつも自身の危険性のなさを周囲にアピールできる。どちらにも利益しかねえ取り引きだぁ」

 

 ご名答とクロッカンが答え、利奈は目を見張った。

 言われてみれば一挙両得だが、そんな打算が裏にあったなんて。前もって言われていなかったのは、利奈の白蘭に対する感情を慮ってか、あるいは、騒がれると厄介だと思われたのか。どちらにせよ、会合で盛大に取り乱した利奈の落ち度である。悔しいが、しかたがない。

 

 白蘭の能力はマーレリングがなければさほど脅威ではないそうで、治療が成功すれば、白蘭に対する処置は緩くなるらしい。とはいえ、無罪放免にはならないだろうとクロッカンは付け足した。

 利奈としては永久に監獄にでも閉じ込めてほしいところだが、武の命には変えられない。使えるものは敵でも使え、だ。

 

 あれやこれや話しているうちに滞在先のホテルに到着した。

 部屋割りはディーノとロマーリオ、骸改め陸奥とクロッカンがペアで、利奈とスクアーロは一人で二人部屋を使う運びとなった。

 とはいえ陸奥は利奈の護衛係なので、つねに利奈と行動をともにしなければならない。みんなの面前でクロッカンが念を押す。これから武の状態を確認しに病院へ向かうので、牽制がしたかったのだろう。

 

(無理矢理私が連れて行かれたらそれで終わりだしね。骸さんはやりかねないし)

 

 交流のある利奈でさえそう思うのだ。本来ならば片時だって目を離したくないだろう。自分との契約を盾にされていると思うと、なんだか複雑である。

 

 廊下でみんなと別れて、自分に割り振られた部屋で荷物を解く。

 数日の滞在と聞かされているから、荷物はほとんど船に置いてきた。真っ先に携帯電話を充電器に挿して、車内でもらったお菓子をテーブルの上に乗せる。ついでにリモコンを取ってテレビをつけてみた。

 

「――原材料の大幅な値上げに伴い、来月から輸入食品が軒並み値上げに――」

 

 見たことのある夕方のニュースだ。どこにいてもテレビをつければまったく同じ番組が流れるけれど、家に帰ってきたみたいな気分になる。

 興味のない国際ニュースをぼんやりと眺めていたら、聞き覚えのない着信音が部屋に鳴り響いた。つい自分の携帯電話を手に取るけれど、着信は来ていない。

 

(あ、部屋の電話か)

 

 ベッドの横にある電話が光っている。テレビを消してから受話器を取った。

 

『陸奥です』

 

 耳馴染みのない硬い声だ。他人として接しなければいけないから、あえて骸の本来の声質から遠い声を使っているのだろう。

 

『今、一人ですか?』

「はい」

 

 この階に部屋があるのは利奈とクロッカン、骸ペアだけだ。急な予約だから同じ階に四部屋空きがないのは仕方ないけれど、スクアーロはホテルのグレードに不満そうにしていた。並盛町付近にそんな豪華なホテル、あるはずがない。むしろ、リムジンで乗りつけた利奈たちのほうが異質だ。通行人たちがそろってこちらを見ていたので間違いない。

 

『これから部屋に窺いますので、鍵を開けておいてください。少々話が』

「話? はい、わかりました」

 

 改まった言い方に疑問を抱きながらも、利奈は受話器を置いた。

 骸の部屋はすぐとなりなので、ドアを開けたと同時に骸も部屋から出てきた。さりげなく周囲に目を配る骸に、利奈は首をかしげる。

 

「どうしたんですか、いったい」

「またシモンの記憶を見ました」

「え!」

 

 つかつかと部屋に入る骸の後ろに続きながら利奈は声を上げた。

 

「今ですか?」

「いえ、車内で。運転役を引き受けなくて正解でしたね」

「じゃあクロッカンさんにはもう?」

「いいえ」

 

 骸が部屋にあるふたつのベッドを見比べる。片方はさきほど電話を取るときに手をついたのでしわが寄っており、骸は反対のベッドに腰掛けた。それに合わせて利奈も空いたベッドに座る。なるほど、スクアーロが不満を抱くだけあってベッドの質はよくない。

 

「これからの話は他言無用でお願いします。ボンゴレの耳に入れない方がいい内容だったので」

 

 二人きりでいるときも陸奥として過ごすつもりのようで、やたら胸と足を広げて座っている。話し方は元のままだから、中身と外見の違いに混乱してしまいそうだ。

 

「今回の記憶はシモンファミリーしか出てきませんでした。ジョットからきた手紙を受け取っている場面です」

「手紙……」

「出だしは近況報告でした。そのあと肥大してしまった組織への懸念に続きましたが、重要なのは最後です。ジョットはシモンに戦への協力を要請していました」

「……それって」

「ええ。初代ボンゴレがシモンファミリーを囮役に任命したというなによりの証拠です。まあ、手紙には力を貸してほしいとまでしか書かれていなかったので、その後どういった作戦が提案されたのかはわかりませんが――」

「ジョットはなにも知らなかった……とは言えなくなりますね」

 

 話の重大さが飲み込めてきた。

 初代ボンゴレとして直々に手紙を出したのならば、シモンファミリーの動向は把握できていただろう。それでも敵勢のなかに孤立させてしまったのならば、作戦を立てたジョットにも落ち度が生まれる。

 

「だからみんなには内緒なんですね? 采配ミスが隠蔽されたかもしれないから」

「貴方もご存じのとおり、ボンゴレの連中は初代を神格化していますからね。初代たちの絆を信じると彼らが決めた今、この事実はノイズになるかもしれません。全体の士気を下げてもメリットはない」

 

 確かに、過去がどうであっても現状は変わらないし、無駄に不安材料を増やすのも得策でないだろう。骸の判断に異論はなかった。

 

「じゃあ、今日はなにも見なかったってことにするんですか? あとで困りません?」

 

 島のみんなと連絡が取れるようになったら、情報に齟齬が芽生えてしまう。あとから情報を隠していたことを知られたら、ボンゴレからの心証が悪くなる。

 

「では、前半部分だけ伝えましょうか。ボンゴレが弱音を吐いていたというのもやや士気を下げそうですが」

「かもですね。……手紙の内容ナシで、シモンの反応だけ伝えるとか」

「ああ、なるほど。……そういえば、文面は直接脳内に入りこみましたね。言語も最初から日本語でしたし」

「そうなんですか? あ、でもそうじゃないとツナたちはわからなそうだから……」

「日本人の彼らに配慮されていると。つまり、何者かの意志が介入している……ふむ」

 

 思案しながら骸が黙りこむ。島でのことは利奈にはさっぱりなので、ない知恵を絞ったりせずにテーブルのお菓子に手を伸ばす。個包装のグミはどれもまんまるで、大粒の飴によく似ていた。

 

 二人して無言でいたら、部屋のドアが幾分乱暴に叩かれた。すぐさま立ち上がろうとする利奈を骸が手で制す。

 

「自分が出ます。護衛を押しのけて出ようとしないでください」

「あっ、ごめんなさい、つい!」

 

 すっかり気を抜いてしまっていた。それぞれの役割を思い出し、浮かせた腰をおとなしく落とす。

 

(名前呼び間違えたりしないように気をつけなきゃ)

 

 陸奥に扮した骸の応対の声が聞こえる。ベッドからは部屋の入り口を見られないけれど、姿を見るまでもなく、訪問者の正体は判明した。スクアーロは声が大きすぎるのだ。遊びに来るのならディーノだと思っていたので、少し意外だ。

 

「利奈ぁ!」

 

 名前を呼ばれ、寝室から顔を出す。目が合ったスクアーロは、部屋に入ろうとしないまま、手のひらを上に向けて利奈を手招いた。

 

「外行くぞ、ついてこい」

「えっ」

 

 チラリと骸を窺うが、なにも聞かされていないようでわずかに肩を動かすだけだ。

 

「なにかあったんですか?」

「なにもねえから行くんだよ」

「うん?」

 

 いまいち状況がつかめない利奈を尻目に、スクアーロが鼻を鳴らす。

 

「こんな狭っ苦しいところでじっとしてられっかぁ。飯食いに行くからお前も付き合え」

「ああ、そういう」

 

 そういえば、スクアーロはこのホテルを気に入っていなかった。もっとも、海外の豪邸に住んでいるスクアーロに見合うホテルなど、並盛町付近にあるはずがない。あったとしても、採算が取れずに潰れてしまうだろう。

 

(言われてみれば、ヴァリアーの屋敷の一人部屋よりも狭いんだよね、この二人部屋。

 狭く感じるか、スクアーロさん背も高いし。うんうん、しかたない――って、駄目だ)

 

 納得しかけたところで、ホテルから出てはいけないというクロッカンの言いつけを思い出した。危うく二つ返事で破るところだった。

 

「私、クロッカンさんにホテルから出るなって言われてて」

「あ゛あ? んなもんべつに気にする必要ねえだろぉ。俺がついてんだ、文句は言わせねえ」

「いやあの、そうじゃなくて――」

 

 再度骸の顔を窺う。すると骸は強面ながら紳士的に微笑み――

 

「いいと思いますよ。自分も護衛としてお供いたしますし」

 

 これ幸いと、しれっとスクアーロに同調した。

 

(こっの卑怯者ぉ! スペルビさん利用して外に出るつもりだ!)

 

 大声で非難したいのを堪えながら、ギリリと睨みつける。見えないところで足を踏んづけてやろうかとも思ったけれど、靴を脱いでしまっているから威力はないだろう。すねを蹴るのは仕返しが恐い。

 

「ほらでも、なにがあるかわからないですし。もしかしたら山本君のことで連絡が来るかも……」

「跳ね馬がいんだろ。こんなホテルじゃ飯もたかがしれてるし、お前、イタリア料理気に入ってたよな。せっかくだ、好きな物奢ってやる」

「それは嬉しいんですけど! すごく嬉しいんですけど……!」

 

 やんわりと異を唱えたが、意味はなかった。こんな状況でなければすぐさま飛びついていただろう。スクアーロは善意で言ってくれているので、余計断りづらい。

 

(骸さん笑ってるし! ああもう腹立つ!)

 

 足下を見ずにスリッパを飛ばしたが、かすりもしなかった。

 

(駄目だ駄目だ、外に出ちゃったら絶対大変なことになる! わかる!

 こうなったら――)

 

「……私、今日絶対見なくちゃいけないテレビがあるんです」

「テレビだあ?」

「絶対に見たい番組があるんです!」

 

 利奈はキッと顔を上げた。目には目を、わがままにはわがままである。

 

「私の好きなアイドルが出るんです! 絶対に見逃せないんです! 今日はそれ見るって決めてるんで部屋からも出ません! 夜ご飯もいりません! なのでご飯は一人で行ってください!」

 

 まくしたてるように叫ぶと、スクアーロは気圧されたかのように身を引いた。その眼差しには、若干戸惑いが浮かんでいる。武の安否を気にしていたはずの人間がいきなりアイドルの話でごねだしたのだから、そんな反応にもなるだろう。それが狙いではあったものの、初めて向けられる視線に心が痛んだ。

 

「お、おお。なんか、悪かったな」

 

 不謹慎だと怒鳴られても文句は言えなかったが、スクアーロはあっさりと引き下がった。もとより下心の類いはなかったのだから、さぞかし困惑しているに違いない。

 

「いえ。これから準備があるんで、失礼します」

「おう……」

 

 スクアーロに頭を下げ、寝室へと戻る。そしてすぐさまベッドに潜り込むと、身もだえしながら枕を叩いた。

 

(うあああああん、スペルビさんに引かれた! 空気読まないアイドルオタクって思われた! うわーん!)

 

 スクアーロがケチをつけるだけあって、マットレスも枕も硬い。すっかり上流生活に毒されたわけだが、今はそれどころじゃなかった。スクアーロからほかのヴァリアーにこのことが伝わってしまったらと思うと、全身から熱が噴き出しそうになる。あの労るような瞳をみんなから向けられてしまったらと思うとたまらない。ベルにいたってはもう考えたくもない。

「クフフ、貴方にそんな趣味があったとは意外でした」

 

 スクアーロの対応を終えて戻ってきた骸が笑う。ベッドでのたうち回る利奈はさぞかし滑稽だろう。

 

「ああ、そういえば黒曜ランドにはテレビがありませんでしたからね。もしよければそのアイドルの名前を教えてもらっても?」

「知らない!」

 

 涙目ながら的確に投擲された枕を、骸は甘んじて顔で受け止めた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その場に立つ資格

 

 昨日の敵は今日の友という言葉がある。

 利奈にとってそれは骸だったりベルだったりするのだが、そこに白蘭を加えるのは、どうしても無理があった。この先なにがあろうが、あの白蘭に全幅の信頼を置くことは不可能だろう。それほどの傷を、白蘭という男は刻みこんだ。

 今回の治療の件もそうだ。双方にとって損のない取り引きだというスクアーロの説明を受けてもなお、不安は完全には消えなかった。

 

 しかし利奈の懸念を尻目に、武の容態は順調に快方へと向かっていた。

 クロッカンが病室を訪れたさいには、内臓の治療も終わっていて、治療器具も酸素チューブと点滴以外はすべて外されていたそうだ。残る問題は身体がちゃんと動かせるかどうかだが、そればかりは武が目覚めてからでないとなんともいえない。

 

「腹に穴空いた程度で錆びる腕なら、この俺が直々に切り落とす! そんなやわな剣士に育てた覚えはねえからなぁ!」

 

 朝食の席で、スクアーロはそう豪語した。

 非情とも取れる発言だが、ディーノによると、武に対する信頼の裏返しでもあるらしい。じつはスクアーロ自身も、リング争奪戦で鮫に襲われ、生死を彷徨ったばかりなのだ。しかしこの通り、完全復活を遂げている。

 

「待ってください、鮫って鮫ですか?」

「ああ。念のためにダイバーを手配していたんだが――」

「学校に鮫連れてきたんですか!?」

 

 なんでもないことのようにディーノが話を進めようとするが、受け流すには情報量が多すぎる。学校で鮫が放てる場所というとプールしかないけれど、鮫とも戦わされたのだろうか。そもそもなにがあったら、マフィアの跡目争いに鮫を用意する発想が生まれるのか。

 

(あー、でも、獄寺君とベルの戦いも爆発する仕掛けがあったって、マーモンから聞いたっけ。ひどい仕掛けばっかり!)

 

 最後の大空戦でも守護者に致死性の猛毒を仕込んでいたし、主催者による外部攻撃がひどすぎる。主催者はボンゴレに恨みでもあったのだろうか。

 今さらながらリング争奪戦の理不尽さに思いを馳せていると、ディーノが弾かれたように利奈に顔を向けた。

 

「そういえば、大空戦のときあそこにいたよな!? なんでお前あそこにいたんだ!?」「あ゛」

 

 濁った声が口をついた。

 これは完全にやぶ蛇である。未来のことでうやむやになっていたであろう記憶を、今さらうっかり掘り起こしてしまった。フォークからミニトマトが転がり落ちる。

 

「言われてみりゃ、妙なガキが入りこんでやがったな。……そうか、あれはお前か」

 

 スクアーロも乱入者の存在を思い出したようだ。利奈だったのならば納得だとでも言いたげな顔でパンをかじる。一方ディーノは、これまでに見たことのない厳しい顔で利奈を見据える。

 

「で、なんで学校にいたんだ? 危険だってわかってたよな」

 

 説教モードの声に、利奈はぎこちなく目線を逸らす。コーヒーを飲んでいる骸に助けを求めたいが、骸はボンゴレ構成員に変装している。下手に疑いの目を向けさせるわけにもいかず、八方塞がりのまま、再びディーノと向き直った。

 

「その、ちょっと学校に忘れ物しちゃって……」

「学校はチェルベッロが見張っていたはずだ。どうやって校内に入った」

「ちょ、ちょっと前すぎて覚えてないです」

「利奈」

「ご歓談中、失礼」

 

 折よく会話を中断させられる。しかし遮ったのは骸ではなく、通信機を手にしたクロッカンだった。どこからか連絡が入ったようだ。

 

(助かった……!)

 

 難を逃れたと安堵する利奈だったが、そんな感情はたちまち吹っ飛ぶこととなる。

 通信機から耳を離したクロッカンが放った一言。その一言で、全員が一斉に立ち上がった。

 

「やっと目覚めやがったか!」

「ロマーリオ!」

「すぐに車を出してくる」

「わ、私、荷物まとめてきます!」

 

 武の意識が戻ったならば、もうここにいる必要はない。グラスに残ったジュースもそのままに、利奈は自室へと引き返した。

 連絡を受けたクロッカンによると、朝の定時連絡の直後から覚醒の兆しはあったそうだ。

 病院に向かう道中でも、脳や身体に異常はないことや、武本人が綱吉たちの元へと向かう意志を見せたことが報告された。状況についてはまだ説明されていないが、周囲の様子であらかた事情を察したのだろう。継承式が狙われていたことは知っていたのだから。

 

「今はとにかく時間が惜しいからな。説明はここでもできるだろ。利奈、いけるか?」

「大丈夫です」

 

 武には伝えなければならないことがたくさんあった。彼が重傷を負ってから、本当にいろいろなことが起こったのだ。シモンファミリーのこと、初代ボンゴレのこと、それから――

 

「来たぞぉ」

 

 駐車場で待っていたら、ボンゴレ構成員に付き添われた武が姿を見せた。利奈はすぐさま車を降りる。

 

 いくらか痩せていたが、足取りはしっかりとしていた。数日前まで集中治療室に入れられた人にはとても見えない。

 武がこちらに気付いて目を丸くする。その驚いた表情に――利奈の思考は熱を失った。

 

「スクアーロ! なんでこんなとこに」

「なんでもクソもあるかぁ! ぽっと出のファミリーなんかにやられやがって!」

「お、お待ちください!」

 

 スクアーロが腕を振り上げようとするのを、武に付き添っていたボンゴレ構成員が押しとどめる。

 

「治療は終わりましたが、傷口はまだ塞がっていません! あくまで重傷者として扱ってください」

 

 最先端医療を駆使したといえ、やはり数日での完治は不可能だったようだ。

 晴の匣があれば自然治癒に頼らなくても傷を治せるが、この時代には了平の持つ物しか存在しない。そして、了平はここにはいない。傷口が開かないよう、安静にしている必要があった。

 

「そう言われておとなしくしているような人間がマフィアをやれるかぁ! だよなぁ、山本!」

「ハハッ、だな」

 

 笑う武の顔に陰りは見えない。目に見えるところに怪我がないから、本当になにもなかったように思えてしまう。それでも、利奈が見たあの光景は、けして夢ではないのだ。

 武の瞳が改めて利奈を捉える。

 

「相沢も来てくれたんだな。心配かけてごめんな」

 

 利奈はなにも言えなかった。それどころか、唇を動かすことすらできなかった。凍りついたように硬直する利奈に、武が困惑する。

 

「相沢?」

「どうした、利奈」

「っ」

 

 無防備だった背後からディーノに呼びかけられ、肩が跳ねる。それでやっと身体が動かせるようになり、利奈はぎこちなく微笑んだ。

 

「退院おめでとう、山本君」

「おう」

「時間がありません。みなさん、車に乗ってください」

 

 骸扮する陸奥が乗車を促す。武は疑うことなく陸奥を受け入れ、指示通りに車に乗りこんだ。利奈もそれに従ったが、心のなかはひどく錆びついていた。

 

 ――気付いてしまったのだ。

 あれほど待ち望んでいた武の回復が叶い、その武と対面した今になって。本当に叶えたい願いは、これではなかったと。元気になった武に会いたかったのではなく、退院を喜ぶみんなの姿が見たかったのだと。

 

(なんで私――私がここにいるんだろう。なんで私が最初に来ちゃったんだろう。山本君に一番会いたかったのは、私じゃないのに)

 

 病院に集まったときのみんなの顔が頭に浮かぶ。仲間のために駆けつけた彼らは今、仲間のために遠い海の果てで戦っていた。

 

 クロッカンが淡々と事のあらましを伝えている。

 自身が倒れたせいで綱吉が継承式への参加を決めたことを、武は唇を引き結んだまま聞いていた。

 

(……至門のみんなに裏切られたって聞いたら、山本君、どう思うだろう)

 

 心臓がいやな音を立てる。

 至門中学校のみんなが――炎真が敵だと知ったあのとき。綱吉はひどく傷ついていた。混乱し、動揺し、仲間を害されて怒ったけれど、ずっと傷ついていた。

 綱吉だけじゃない。みんな、心も体も傷つけられた。倒れ伏したみんなの背中は今でも忘れられない。忘れられるわけがなかった。

 

(私のせいだって知ったら……山本君、どんな顔するだろう)

 

 たった一言だったのだ。水野薫が直前に部室を出るのを見たと、あのとき病院で伝えていれば。そうすれば、こんなことにはならなかったのだ。

 手のひらが震えてくる。握りしめていても脈打つ心臓は痛く、呼吸が浅くなっていくのを感じた。いっそこのまま気を失えたら、どんなに楽だろう。心の動揺をそのまま表に出してしまえたら。

 

(……駄目。逃げちゃ駄目。戦うって、決めたんだから)

 

 恭弥に拒絶された時点で、利奈が負うべきだった責務は終わっている。それでも反発してここまでやってきたのは自分の意思だ。今さらこんなはずじゃなかったなんて弱音を吐くくらいなら、家で泣き寝入りしていればよかったのだ。――そんなみじめな平穏を選ぶくらいなら、いくらだって傷つこう。

 一度戦うと決めたのなら、最後まで自分の意志で立たなければならない。何者であったとしても。何者でもなかったとしても。

 

「山本。お前、やられたときのことは覚えてるのか?」

 

 クロッカンの説明のあと、ディーノは武にそう尋ねた。硬い表情のまま、武は頷く。

 

「覚えてる。話聞いた感じだと、俺が薫の持ってるリングを見ちまったせいでああなったんだろうな。着替えてたら、薫がリングを落としてよ。それを俺が拾った」

 

 大人たちが目配せを交わす。確かに、彼らも継承式でそんなことを言っていた。見られていなければ、手を出したりはしなかったとも。

 

(だから、なにか見なかったかってあんなに聞いたんだ。あとで私が変なこと口走らないように。……悔しい)

 

 思い返してみても、アーデルハイトの態度に不自然な様子は一切なかった。あの言動で彼らに疑いを向けるのは不可能だったろう。彼らは狡猾で巧妙だった。ボンゴレに寄り添う態度を見せながら、そのじつ、その首を淡々と狙っていたのだ。

 もしあのとき、薫の姿を見たと口にしていたら。そのときは、その情報が綱吉たちの耳に入る前に利奈も殺すつもりだったのだろう。そして、武を襲った犯人が目撃者を襲ったに違いないと、第三者目線で語るのだ。そうなったら、死んでも死にきれない。

 

 車が高速道路に入った。景色がコンクリートの壁に遮られる。ロマーリオが運転するリムジンは、ほかの車を次々と追い抜きながら進んでいった。行きと同じ道ならば、あと三十分ほどで港に着くだろう。

 

「で、その薫ってやつはどんな野郎だ? 武器はなにを使ってた」

 

 スクアーロが武との顔の距離を詰める。やはり、弟子を倒した相手の情報は気になるようだ。しかし武はうーんと唸る。

 

「あんま覚えてねーんだ。薫のリングから炎が出たと思ったら、腹をいきなり貫かれちまって」

「う゛お゛ぉ゛い! 油断してんじゃねえぞぉ!

 貫かれたってことは刃物か? まさか剣じゃねえだろうなぁ?」

「剣……じゃなかったな。刃物でもなかった。尖ってたけど結構でかかったし。でも、血を払ってたときの動作は長物だったな」

「長物で尖ってるといったら、槍かレイピアか? だが至近距離じゃ――」

「そこまでにしとけ、二人とも」

 

 武器考察に熱が入りそうになる二人にディーノが待てをかける。それと同時に肩を引き寄せられ、利奈の身体は難なくディーノの腕に収まった。

 血の気の失せた利奈の顔を見て、二人がそろって口を噤む。

 

「あ、べつに、私のことは気にしなくても……」

「声に説得力がないぞ、無理すんな」

 

 トントンと二回叩き、ディーノの腕が肩から離れた。話の邪魔をしたくなくて耐えていたけれど、息を殺していたのはお見通しだったらしい。

 

(やっちゃった。二人が真剣に話してたのに……)

 

 あのときの話がでたら、当時の記憶を蘇らせずにいるのは無理があった。回復した武が目の前にいるとはいえ、いやむしろ、そばにいるからこそ生々しく細部まで思い出せてしまう。

 

「ほんと、本当に気にしなくて大丈夫です、時間もないし。スペルビさん、続けてください」

「いや、いい。ここでなに話そうが、結局はやるかやられるかだからなぁ。……そういや、こいつのボンゴレリングはどうなってんだ?」

 

 露骨に話を逸らされた。しかしボンゴレリングの強化をしなければならないのは事実なので、おとなしく引き下がるしかない。

 

 武のボンゴレリングは炎真の攻撃による破壊を免れていたが、ほかのリング同様、タルボによって岩の形に変えられている。死ぬ気の炎を最大量注ぎ込まなければならないし、失敗すれば二度と使えなくなるという制限があった。

 

「なあに、ツナたちも成功したんだ。お前もできるさ」

 

 ディーノはそう言うが、武は病み上がりだ。ボンゴレギアの原石は九代目が所有しているため、バージョンアップは島に上陸する直前になるだろう。となると、武の体力が持つかどうかの心配も出てくる。

 

(でも、やるしかないんだ)

 

 もうあとには引けない。時間もない。武を信じるしかないのだ。

 汽笛の音が平穏の終わりを告げる。

 

「負けんじゃねえぞぉ、山本! 同じ相手に二度負けやがったら、タダじゃ置かねえからなぁ! 切り叩いてなめろうにしてやる!」

「ああ、わかってる。でも――」

 

 一瞬、配慮するように利奈に視線を向けたが、それでも武は笑みを作った。

 

「あいつは今も、俺の友達だぜ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見えなくても見えるもの

 

 

 退院直後に馳せ参じた武を、九代目はマフィアのボスとして歓迎した。

 少し顔色が悪く見えたのは、気のせいではないのだろう。綱吉たちが島に向かってから、かれこれ三日も経っているのだ。そのあいだ、無線が復活することも彼らが戻ってくることもなく、島は不気味な沈黙を貫いている。気を休める余裕など、なかったに違いない。

 

 一方、利奈は状況が変わっていなかったことにホッとしていた。

 万が一、綱吉たちが敗北していたら、炎真たちはすぐさまこの船を沈めていただろう。皮肉にも、現状が維持されていることが、いまだ綱吉たちが負けていない証になるのである。

 そう思っていたのは利奈だけではなかったようで、水平線の先に船が見えたときは、構成員たちの多くが安堵の表情を浮かべていた。

 

 利奈は武とともに、甲板の先で島を見つめていた。

 船から見える島はほとんどが山だ。への字に曲線を描いてから、逆U字形の岩場を横に置いたような地形である。岩場部分はかなり高さがあって、登れば島が一望できそうだった。念のために目をこらすが、人影は見当たらない。

 

 正面から冷たい風が吹きつけ、利奈は目を細めながら顔を逸らす。

 視線の先で、利奈の髪と同じように武のネックレスが揺れていた。柴犬と日本刀がモチーフになっているシルバーアクセサリー。ついさきほど完成した、武のボンゴレギアである。

 

(よかった、炎注ぎ込んでもなんともなくて)

 

 ボンゴレギアの生成には大量の炎エネルギーが必要だったので、病み上がりの武には負担が大きいと思っていたが、それは杞憂だった。注ぎ込んでいる最中は大幅に炎を消費したものの、ボンゴレギアの完成とともに、注がれた炎は武の身体へと戻っていったのだ。おかげですぐに綱吉たちを助けに行けると、武は笑っていた。

 

 横に立つ武の表情は凜と澄んでいる。焦りや不安の気配は一切なく、その瞳は前だけを見据えている。視線を外そうとした利奈だったが、それより先に武と目が合った。ギシリと首が固まる。

 

「なんか、すごいとこまで来ちまったな、俺たち」

「うん」

 

 絶海の孤島を前にしたら、そんな感想も出てくるだろう。利奈も軽く相づちを打つ。

 

(なんか、いつも通りって感じもしちゃうけど)

 

 今までだって、人の都合で散々翻弄されてきた。いい加減慣れっこといいたいところだが、今回は少し事情が違う。それぞれみんな、自分の意志でここまで来た。いつも場に流されてばかりの綱吉でさえ。

 

「私はここまでだけど、山本君はこれからだね。応援くらいしかできなくてごめんね」

 

 引け目を感じつつ笑いかけるが、武は笑い返さなかった。それどころか真剣な瞳で見つめ返してくるので、利奈は笑みを消した。

 

「さっき聞いた。倒れてた俺を最初に見つけたの、相沢だって」

「……そっか」

「ああ」

 

 島に寄せる波の音が、黙りこんだ二人の間を埋める。

 

「ありがとな、助けてくれて」

「ううん。助けたのは笹川先輩だよ。お礼なら先輩に言わなくちゃ」

 

 声が平坦になりそうになるのを抑え、島へと目を逸らす。ボートの準備はどれくらいかかるのだろうか。

 

「でも病院からここまで一緒に来てくれたし、継承式にも参加してくれたんだろ?」

「そうだけどさ。みんなについてっただけだから、お礼言われるのはちょっと恥ずかしいっていうか、なんていうか。そうだ、継承式でね――」

「自分のせいだって、思ってんのか?」

 

 とにかく話題を変えなければと思ったが、武はそれを許さなかった。うっかり武に顔を向けてしまうけれど、それでは図星をつかれたと白状しているようなものだ。なにも言えずに黙りこむ。

 

「お前のせいじゃねーよ。相沢は信じてくれたんだろ? 薫を」

「違う」

 

 否定の言葉はすぐに口をついた。

 

「違うよ。私は、ただ……言い忘れただけで……」

 

 武が言わなかったのならば信頼だが、利奈が言わなかったらそれは油断だ。ただたんに、利奈が迂闊だっただけ。たった一言伝えておけばよかったことを言わなかったせいで、取り返しのつかない事態を招いてしまった。しかし事実を正しく伝えたところで、武は納得しないだろう。――利奈だって、逆の立場ならそうなる。

 

「スクアーロだって言ってただろ? 油断してた俺が悪いって。お前が自分のせいだって言うなら、俺も俺のせいでこうなったって言うぜ?」

「……それはズルいよ」

 

 そんなことを言い出せば武を襲った薫が、いやいや、シモンファミリーに手を出したボンゴレファミリーがと、遠い過去まで遡らなければならなくなる。――初代ボンゴレが本当にあんなことをしたのかは、まだ明らかになってはいないけれど。

 分が悪くなったことを悟り、利奈は大きく首を振った。

 

「やめよう、こんな話! だって、もうどうだっていいじゃない。私が悪くたって悪くなくたって、もう関係ない」

「関係あるぜ」

「なんで」

 

 睨むようにして見上げたが、眼差しは優しいままだった。それどころか、武はニカッと歯を見せて笑う。学校にいるときのように、打ち解けた表情で。

 

「だって俺、これから薫に会いに行くんだぜ。お前がしょげてたら、俺が薫をぶん殴らなきゃいけなくなるだろ?」

「……え?」

 

 脈絡のない言葉に、一瞬、利奈の頭が空っぽになった。

 

(山本君が水野君をぶん殴る? 私のために? ……うん?)

 

 頭で反芻してみるけれど、やっぱり意味がわからない。利奈自身は薫になにもされていないし、殴るなら自分の恨みを乗せるのが妥当だ。武の口振りでは、利奈の件がなければ薫を殴る理由はないと言っているようなものである。

 

「……なんで私が理由になるの?」

「そりゃそうだろ。友達なんだから」

 

 当たり前のように武は言う。

 

「いくらダチでも、ほかのダチ悲しませたら許せねえし、そこはきっちりしとかなきゃな。利奈が自分のせいだって苦しんでんなら、俺が代わりに薫に怒るべきだろ? 利奈は島に行けねえんだし」

「うぅん?」

 

 その理由はおかしい。と言いたいところだが、理に適っていると言えなくもない。ようは敵討ちのようなものだ。しかしそれにしては、武があっけらかんとしているので、なんだか毒気が抜けてしまう。

 

(なんかよくわかんなくなってきちゃった。わりとシリアスな話してたと思うんだけど……あれぇ?)

 

 利奈自身もよく場の空気を壊すと言われるが、武はさらに輪をかけている。そして困るのは、なんとなくそれでいいかと思わせてしまうところである。

 

(あー、だから言いたくなかったのに! 山本君、いつもこうなんだもん!)

 

 単なるクラスメイトだったときでさえ、利奈がなくした腕章を一生懸命探してくれた人だ。友達が苦しんでいると知ったら、全力で力になろうとするだろう。あんなに悩んであんなに苦しんだのに、武の言葉ひとつで簡単に許せてしまいそうになるのが悔しかった。

 

「……やっぱり、水野君は友達?」

 

 その問いは想定していたよりもずっと軽い調子で口をついた。もっと緊迫した、覚悟を問うような口調で尋ねる予定だったのに。武のせいで台無しだ。

 しょうがないなと苦笑する利奈の心情に気付いているのかいないのか、武は朗らかに答える。

 

「ああ、ダチだぜ」

「……そっか。やっぱそうだよね」 

 

 武に重傷を負わせたのは薫だ。そこにどんな理由や信念があろうが、彼のやったことは騙し討ちと裏切りである。しかし、武が薫を許すのならば、もう利奈に反論する余地はなかった。

 被害者は武であり、利奈はただの発見者なのだ。目撃者にすらなれなかったくせに、どの面下げて文句を言おうというのか。――なんて言ったら、武は怒るだろうけれど。

 

「ご歓談中、失礼します」

 

 音もなく構成員が現れた。話に区切りがつくのを待っていただろうタイミングに、利奈はついついジト目で凝視してしまう。

 

「船の準備が整いました。……本当に、宿泊道具は不要ですか?」

「ああ、かさばるからな」

 

 綱吉たちに一刻も早く追いつく必要があるからと、武は宿泊用具を断っていた。三日も前に出発した綱吉たちを追いかけるのには身軽なほうがいいだろうけれど、食料すら持っていかないというのはやり過ぎに思える。

 

「心配すんなって。スクアーロに修行つけてもらったときもそんなだったし、サバイバルの知識もけっこう教わってるからさ」

 

(スペルビさんが入ると説得力がすごい)

 

 利奈を鍛えたスクアーロは、敵である武に対してもその面倒見の良さを発揮したようだ。スクアーロに教わったのならば心配はいらないだろう。むしろ、スクアーロにしごかれないぶん、楽かもしれない。

 

「では、こちらだけでもお持ちください。リングの炎に反応する探知機です」

「探知機?」

「妨害されているのは電波と幻術だけのようなので。これならば島でも使えるかと」

「へえ、そんなのもあるんだな」

 

 興味津々な武につられ、利奈も手のひら大の機械を覗き込んだ。

 現在地を示す赤い矢印の正面にひとつ、それから矢印の反対側にいくつかの丸印が点灯している。

 

「画面に出ているのは山本様のリングと、九代目勢力が所持しているリングです。まだ開発が始まって間もないので、1㎞程度しか反応はしませんが」

「便利……! これがあれば、ツナたちもすぐに見つかるんじゃないかな」

「だな! よかった、山を駆けずり回らずに済むぜ」

「ね!」

 

 島にいる綱吉たちを闇雲に追いかけるのは骨が折れるだろうが、これが使えれば最短距離を辿れるだろう。もしかしたら、今日中に合流できるかもしれない。

 

「それと最後にこれを」

 

 構成員が白いタオルに包まれたなにかをリュックの中から取り出す。タオルがめくられて中身があらわになると、利奈と武は声をそろえた。

 

「ボンゴレギア!?」

 

 同じ言葉だが、発する意味合いは異なっていた。

 武はなぜここにこれがあるのかと問うているが、利奈はこのボンゴレギアの正体を知っている。本来ならクロームが受け取るはずだった、そして利奈が骸に渡した、霧のボンゴレギア原石である。

 

「そっか、クロームの」

「ええ。ここにあっても役に立ちませんし、貴方ならば必ずクローム様の元へ届けて頂けると」

 

 棘状の原石を再びタオルで包み、構成員は恭しく武へと差し出した。

 

「こちらは、山本様に託します」

 

 うまい言い方だと思った。武は九代目の判断だと思うだろうが、実際は本来の霧の守護者である骸の意志である。武も、まさか目の前の人物が骸だなんて夢にも思わないだろう。どうりで九代目守護者を差し置いて、わざわざ陸奥が来たわけである。

 

「山本、準備が整ったぞ」

 

 今度はちゃんとガナッシュが出発の知らせを持ってきた。受け取ったばかりのボンゴレギアを、武は懐にしまう。

 

「行ってらっしゃい、山本君」

 

 利奈は軽やかに手を振った。武はガッツポーズでそれに応え、走り出す。あのボンゴレギアは棘が鋭いから、転んだりなんかしたら身体に刺さってしまいそうだ。

 笑顔で武の背中に手を振り続けたが、武の姿が見えなくなってからその手で陸奥の腕を掴んだ。もちろん、逃がさないようにである。

 

「骸さんですよね、山本君に話したの」

「なんのことでしょう?」

 

 幻覚は解いていなかったが、表情はすでに実直そうな外面の陸奥とは異なっている。要するに、うさんくさい笑みだった。

 

「とぼけないでください。ほかにだれが私のこと話すんですか」

 

 普通の構成員は利奈の事情すら知らないし、九代目たちだって、これから島に向かう武にわざわざ話したりはしないだろう。武はさっきだれかに聞いたと言っていたので、容疑者はこの船にしかいない。

 

(まったく、余計なことするんだから)

 

 武にだけは絶対に知られたくなかった。だって武は、利奈の過ちを簡単に許してしまう。許されたくなかったから、知られないままでいたかったのに。

 骸だってそれはわかっていたはずだ。あの一件がなければ、利奈は恭弥に刃向かってまでここに来ていない。存在意義を潰されて、これからどんな気持ちでここにいろというのか。

 

(まったく……しかたないなあ)

 

 じっとりとした目で睨みつつも手を離す。すると骸がパチパチと目を瞬いた。

 

「意外ですね。貴方のことだから、もっと激昂すると思ってました」

 

 わかっているならやらないでほしい。しかし骸ならば、利奈がどんなに怒っても右から左に受け流せるだろう。言葉巧みに利奈を言いくるめることだってできたはずだ。白蘭に拒絶反応を示した利奈を、見事奮起させたときのように。

 

「怒ってはいますよ。でも――」

 

 利奈が問い詰めなかったのは、口で勝てないからではない。武の言葉を聞いているうちに、骸の心情まで理解してしまったからである。

 

 骸が武に暴露する行為に利点は一切存在しない。いや、利奈からの評価が下がることを考えれば――それを損害と数えるならば――不利益しかないだろう。それをわかっていて決行したのなら、それ相応の理由があるはずだ。その理由なんて――ひとつしか思い浮かばない。

 

(私だったら絶対やらない。――その人が、大切な人じゃない限り)

 

 つまり、そういうことである。

 損とか得とか利害を度外視して、骸は情を取ったのだ。ほかならない、利奈のために。

 それでも怒っていられるほど幼くはないので、利奈はにまにまと笑いながら、意味深に言葉を切った。

 

「……なんですか、その顔は。若干腹立つのですが」

「ふふふ。いいえぇ? なんでもないですけどー?」

 

 煽るように舌から顔を覗き込むと、心底不快そうに顔をしかめられた。どうやら骸自身はあまりピンときていないようだ。なおさらからかいたくなる。

 

「そうですかー、骸さんってそういうことしちゃうんですね。いやー、困ったなあ」

「まったく困ってなさそうですが」

 

 今回、骸はしきりに利奈を仲間であると口にしていた。仲間という名の下僕、あるいはビジネスライクな関係だと思っていたけれど、文字通りの意味だったということだ。なぜかはわからないけれど、それなりの信頼関係は築けていたようである。

 

(すごく意外だけど、骸さんいじるチャンスなんてもうないかもだし、もうちょっとからかっちゃお。うふふ、楽しい!)

 

 調子に乗ってきた利奈だったが、お楽しみというものは長く続かないものである。

 

「おいお二人さん、ちょっといいか!? こっちにヘリが飛んできてるんだが、あんたらの知っている奴か? 操縦席にリーゼントの男が乗ってるが、無線に返答がない!」

「知ってます私の先輩ですごめんなさい!」

「謝るまでの動きが早いですね」

 

 そういえば本来の仲間の存在を忘れていた。利奈はすぐさま背筋を伸ばすと、九代目に彼らの非礼を弁解するべく走り出した。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思い違い

Rタグが機能する暴力描写があります。


 

 

 

 

『そういえば、よく山本君にボンゴレギア渡しましたね』

 

 ぽろっと口から零れたというような、利奈の言葉を思い出した。

 

 山本武にボンゴレギアの原石を預けたのは、そのほうが効率がよかったからだ。原石をギアに変えるのはたやすいが、島に行けない骸がギアを持っていたところで宝の持ち腐れである。それならば、クロームが救出された場合を想定して武器を渡すほうが、建設的だろう。

 

 理由はそれだけだったが、訳知り顔が気にくわなかったので二の腕を抓ってやった。

 鉄拳制裁には慣れていると豪語していたが、抓られるのには耐性はなく、ひたすら悶絶していた。笑える反応だ。

 

(情だの仲間だの、まったくくだらない)

 

 単純な人間の思考回路は読みやすい。

 大方、彼らに対して仲間意識が芽生えているのではなどと、くだらない想像を膨らませていたのだろう。利奈自身が両者に対して仲間意識を抱いているので、単純にそのままイコールで繋げようとしたに違いない。

 

「クッフフフフ」

「なにがおかしいんですか?」

「いえ。やり方が愚直すぎていっそ好感を持ってしまいそうだと思って」

 

 利奈のことは憎からず思っている。でなければ対等な契約は結んでいないし、いろいろと便宜を図ったりもしなかっただろう。しかし、だからといって弱みになるかといえば答えは否だった。

 

「なるほどなるほど。自分自身と同義だと認識しているクロームたちでは効果がなかったから、若干劣る人間を用意した、と。――苦し紛れにしても、もう少しマシな悪あがきはできなかったのですかね。D・スペード」

 

 骸の挑発に利奈――ではなく、D・スペードの生み出した幻覚が微笑んだ。

 

 ――山本武が島に向かってから、すでに一日経っている。

 流れこんだ記憶から、初代シモンに届いた手紙がジョットの名を騙った偽物であったことや、ジョットが事態を把握したのはシモンファミリーが敵陣に孤立してからであることなどが明らかとなったが、重要なのは、だれがその筋書きを考えたかにある。

 

 ――D・スペード。ボンゴレ初代霧の守護者。彼こそが初代ボンゴレを裏切りシモンファミリーを壊滅させた張本人であり、そして現代のシモンファミリーを煽動してボンゴレファミリーを潰そうとしたこの舞台の黒幕である。

 

 本来ならばこの時代に全盛期の姿で存在していること自体あり得ないのだが、身体に執着しなければ、方法はいくらでもある。それこそ骸のように、だれかに憑依して身体と精神を自分のものにしてしまえばいいのだ。

 死を厭って身体を捨てるなど術者の風上にも置けないが、骸をおびき出すのにクロームの内臓を消して餌にするような外道だ。人としての誇りなどないのだろう。子孫に業を負わせてまで警戒した初代シモンの判断は、正解だったわけだ。

 

 つい今し方、Dが幻術で作った味方――クローム、千種、犬、M.M、フランと戦わされ、躊躇うことなく錫杖で貫いたばかりだが、ひょっこりと登場した利奈に、苦笑いを浮かべずにはいられなかった。

 確かに彼らに比べれば信頼度は劣るが、それで骸を倒そうなどと考えているのならば浅はかである。なので鼻で笑ったわけだが、利奈は余裕ありげに背を向けた。

 

「私だって、私じゃだめなことくらいわかってますよ。私の役割は狂言回しです」

「狂言回し?」

「はい。もしくは出題者、ですかね。じゃあ問題! 骸さんの弱点を突くために、どうしてわざわざ私が現れたのでしょーっか!」

 

 くるりと回転し、茶目っ気たっぷりに頬に指をあてる利奈。大げさな身振りは、狂言回しという役割に沿った演技なのだろう。骸が答えずにいると、その人差し指を前に突き出した。

 

「ヒントいち! 切り札は私以外の人物です!」

 

 骸に心当たりはない。中指が増える。

 

「ヒントに! 未来の骸さんが私を見殺しにしたことと関係があります!」

 

 骸に心当たりはない。薬指が増える。

 

「ヒントさん! 骸さんが救えなかった人物です!」

 

 骸に変化が起きた。小指が増える。

 

「ヒントよん! 黒曜ランドでその子の話をしましたけど、覚えてます?」

 

 骸が一歩踏み込んだが、利奈はその場で回転し、錫杖の穂先を避けた。そしてとうとう五本の指が揃う。

 

「ヒントご! ――そろそろ向き合ったらどうですか? 見殺しにした亡霊と」

 

 回転の勢いを活かし、弧を描いた利奈の手がゆるりと暗闇を指し示す。壁に敷き詰められたトランプがパラパラと剥がれ、その隙間から少女が現れた。

 

 白い髪だ。白い肌だ。白い服だ。金色に輝く拳銃を手に歩く少女に、骸は目を奪われてしまった。壁一面のトランプが崩れ落ちていくなかで、利奈はセイの髪を指先で撫でる。

 

「若いときの後悔って、けっこう根深く心に残るんですよね。十年後でも忘れられないくらいですから。

 わざわざ幻術でお人形を作って、魂を戻すために復讐者の牢獄からエストラーネオファミリーの科学者を連れ出して。人体錬成でもするつもりだったんですかね?」

 

 問いに返す言葉はなかった。問いすら耳に入らなかった。骸の目に映るのは、純白の少女ただ一人だ。天井のトランプまですべてが崩れ落ちて景色が元の礼拝堂に戻り、幻術と現実の境界を曖昧にさせた。

 

(っ、呑まれるな)

 

 しかし本能が白旗を上げている。

 ただ一人、この世で殺せない人間が出てきてしまった。殺せるわけがない。殺させてしまったのだから。しかし、Dの目論見通りに事を進めるわけにもいかない。

 錫杖を構え直す骸だったが、その構えを見た利奈が愉悦の笑みを浮かべる。骸の構えは相手を貫くためのものではなく、相手の攻撃を防ぐものだった。

 

「あ、そうだ。誤解がないように言っておきますけど、黒曜ランドで見たあの子は幻術で作ったやつじゃないですよ? 私も見たときびっくりしましたもん」

 

 それは利奈としての台詞か、それともDとしての感想か。

 

「骸さん、私に幻術かけとくなんてひどくないですか? 加藤ジュリーが解いてくれなかったら、ずっとかかったままだったんですよ。どんな幻術かけてたんです?」

 

 本物の利奈は理由を知っているので、これはDとしての質問だろう。骸に答える義理はない。

 

「まあいいですけど。それでこの子が見えるようになってたみたいですし。たぶん、骸さんと精神が繋がってたからこそ見えてたんでしょうね」

 

 やたら饒舌に喋るのは時間稼ぎだろうか。

 早鐘を打つ心臓を押さえつけ、食い入るようにセイの動向を見つめる。感情の欠落した顔のセイに、利奈の言葉は耳に入っていないようだ。関心のないものにはこんな調子だったと、思い出したくもない記憶が蘇る。

 

「最期になにか伝えたいことはありますか? せっかくの機会ですし、私のことは気にせずにどうぞ」

「……どうせ幻覚だ」

「それでも後悔は少ないほうがいいじゃないですか。死んでから嘆いても死人は戻りませんよ? 私はべつとして」

 

 軽口が煩わしい。あとで本人に会ったらもう一回頬でも抓っておこう。

 逆恨みのようにそう決定づけていると、出入り口のほうから慌ただしい足音が聞こえてきた。音の数からして、沢田綱吉とその一行だろう。ということは、十代目シモンのほうは片がついているらしい。

 

「やっときた。じゃ、そろそろ終わりにしよっか」

 

 利奈がセイの肩を叩く。すると、初めてセイが顔を上げた。

 

 彼女は幻術だ。それはわかっている。しかし、その瞳に映る自分の顔がどうなっているのか、想像することはできなかった。がらんどうの瞳に映るのは、はたしていつの自分なのか。

 

「Sei」

 

 ――聞き慣れた。もしくは、懐かしい声が耳朶に触れる。

 ゼンマイ仕掛けの古びた人形のように、黄金色に輝く銃口が向けられる。あのとき訪れていたかもしれない展開が、何度も夢で見た光景が、悪意によって実現される。

 引き金に掛けられた指が動くのを、骸は凍りついたように見つめることしかできなかった。

「arrivederci」

 

 その声に、感情は乗っていただろうか。発砲音とともに胸から鮮血が噴き出した。

 

 

____

 

 

 炎真の案内で地上にある礼拝堂へと走った綱吉は、そこで不可思議な光景を見た。

 

 まず目に入ったのは、胸から血を流す骸だ。室内に入る直前に聞こえた音は、やはり銃の発砲音だったようだ。かろうじて立ってはいるが、身体が大きく前後に傾いでいる。

 次に目が向いたのは、骸に銃を向ける子供だ。金色の銃を構える、真っ白な髪の少女。人を撃ったあとだというのに、人形のように無機質な顔をしていた。

 そして――

 

「待ってたよ、みんな」

 

 ――いつものように快活に笑う、相沢利奈がいた。

 

「どういうこと!? なんでこんなとこに利奈が!?」

 

 骸と子供だけだったら、そこまで驚かなかっただろう。

 炎真を助ける前に骸がこの島に来た気配がしたし、クロームの身体に憑依しているのだとわかる。子供に関してはだれなのかまったくわからないけれど、それはそれとして受け入れることができる。

 だがしかし、学友であり恭弥の仲間である相沢利奈がここに存在していることに、まったくもって理解が追いつかなかった。

 

「落ち着け、アレは幻覚だ」

 

 武の肩に乗ったリボーンが、戸惑う一同に冷静に声をかける。それを受けて武が大きく息をはいた。

 

「びっくりした。マジで利奈がいるかと思ったのな」

「でも、なんでDがあいつの幻覚なんか作って……!」

 

 隼人の疑問の言葉に、綱吉も遅れて疑問を抱く。

 Dと骸が戦っていたのは明々白々だが、利奈と骸に接点なんてあるはずがなく、利奈の幻覚を作ったことの意図が読めない。

 

(ヒバリさんならひょっとして――ヒイッ!?)

 

 唯一見当をつけられそうな人に顔を向けると、恭弥は至極不機嫌そうに利奈の幻覚を睨みつけていた。自分の部下が利用された――だけとは思えない迫力である。当人たちが冷戦状態にあることを知らない綱吉は、ただただその気迫に震えた。

 

(いやいや、今はそんなことより骸か!)

 

 あの子供も幻覚なら、骸が受けた銃弾も幻術でできたものだろう。しかし幻術での戦いは、相手の攻撃を受けたと認識した時点でダメージとなる。リング争奪戦での骸とマーモンの戦いもそうだった。ならば、骸の負った傷が致命傷になってもおかしくはない。骸の首がガクンと前に垂れる。

 

「骸!」

「……」

 

 反応はない。ダラリと下がった腕に握られているのはいつもの三叉槍ではなく、シャラシャラと飾りが揺れていた。

 

「あーあ、もうちょっと早く来れたら助けられたのにね。やっぱり出来損ないの世代じゃこんなもんかあ」

「ああ゛!?」

 

 クスクスと笑う利奈にいち早く反応したのは隼人だった。いつものように詰め寄ろうとする隼人を、武が後ろから羽交い締めにした。

 

「落ち着けって! アレ利奈じゃねえんだから」

「そうだよ! Dなんだから警戒しないと!」

 

 そう言いながらも、見た目が利奈なうえに武器も持っていないので、どうにも警戒しづらい。隼人も同じだろう。

 

「チッ、厄介な見た目しやがって!」

 

 吐き捨てるように叫ぶ隼人に、利奈は大きく首を傾げた。無邪気にというよりは、悪意たっぷりに。

 

「あれ? まさか怖いの? 丸腰の女の子相手にびびってるの? あはは、ボンゴレの右腕ってそんななんだ。

 ……ま、そこの十代目もビビりだもんね。しかたないか」

「……果たす! てめえ、女だからって調子に乗ってんじゃ――」

「落ち着けっ」

「グァッ!」

 

 押さえ切れなくなった武の肩から、リボーンが跳び蹴りを食らわせた。悲しいことに、身長差のせいで後頭部直撃のクリーンヒットである。

 

「挑発にのんな。幻術に絡め取られたら思うつぼだぞ」

「で、ですが……」

「それに、幻術のエキスパートが戦ってんだ。邪魔すんのも野暮ってやつだ」

「うん?」

 

 今度は自然な仕草で疑問符を口に出す利奈。ゆっくりと首を動かしてから苦笑する。

 

「……なんだ、まだ意識あったんだ」

 

 いつのまにか、骸は槍を構え直していた。その穂先は、銃を持つ子供ではなく丸腰の利奈へと向けられている。

 

「ふふ、私狙います? いいですよ。その子は殺せないですもんね」

「……」

 

 骸の唇が動いたが、離れた綱吉たちに声は届かない。読唇術の使えるリボーンだけは、骸の唇が「殺せない?」と動いたのがわかった。

 骸の肩が小刻みに揺れる。肩の揺れは次第に大きくなって、やがて堪えきれなくなったように骸が顔を上げた。その顔に浮かんでいるのは――喜色。

 

「……クッフフフ。クハハハハハハ!」

 

(骸が壊れた!?)

 

 胸から血を流しながら高笑いする骸に綱吉は震えた。骸とは初対面の炎真も、怯えた顔をしている。しかし骸は綱吉たちなど眼中にないまま、利奈を鋭い目で睨みつけた。

 

「やはり……旧時代の人間は、作戦も古ければ脳みそも凝り固まってますね……。いいでしょう、教えてあげましょう」

 

 骸の身体が動いた。距離を取ろうと後ずさる利奈だったが、骸の槍は前ではなく横へと繰り出された。すなわち――

 

「なっ!?」

「うわっ!」

 

 無防備な少女の首に、槍の穂先が突き刺さる。

 

「馬鹿なっ! お前にその娘は殺せないはずでは!」

 

 利奈の声でDが驚愕する。骸は少女の幻に目をやって一度だけ睫毛を伏せると、喉の奥で笑いながらDへと視線を戻した。

 

「それこそ愚かな思い違いです。いいですか、セイは――絶対に、僕を撃たないんですよ」

 

 容赦なく骸が槍をねじる。抜かれた傷口から血が噴き出し、少女は声も出さずに崩れ落ちた。幻覚だとわかっていても、顔を逸らさずにはいられない。そして綱吉は、逸らした目線の先で飛び出す人影に目を見開いた。

 

(ヒバリさん!?)

 

 Dの注意が完全に骸に向いたこのタイミングで、逃走の隙も与えずに恭弥が一撃を叩き込んだ。無防備な腹にトンファーがめりこみ、利奈の口からつばが噴き出す。

 

「ぐぁ……、がはっ!」

「君、いい加減目障り」

 

 崩れ落ちて膝をつく利奈を、恭弥は不機嫌そうに見下ろす。

 

「ヒバリさん、容赦ねー!」

「仮にも仲間だろ……」

 

 さきほど殴りかかろうとしていたはずの隼人でさえドン引きしている。さすが、冷酷無慈悲な並中風紀委員長である。

 

「ヌ……フフ……。さすが、アラウディを彷彿させるだけはある……」

 

 利奈の身体がDのものへと変わっていく。もう決着はついているようで、骸も恭弥も動かない。

 

「これが……十代目ボンゴレファミリ-。ヌフ……ヌフフ」

「あっ! 幻術が解けて……」

「ジュリー!」

 

 Dの身体すら変容し、持ち主であるジュリーの姿へと変わっていく。やっと元の姿に戻ったのだ。しかしDはまだ唇を動かす。

 

「ヌフフ……全力で戦うのが……楽しみだ……」

「クフフ、負け惜しみを」

「……感謝……するぞ、六道……骸」

 

 ついにジュリーの身体が動かなくなった。

 

「ジュリー!」

「あっ、炎真!」 

 

 飛び出した炎真につられて綱吉もあとを追う。炎真がジュリーの身体を揺するが、反応はない。

 

「ジュリー! ジュリー!」

「なあ、これって……」

「心配はありませんよ」

 

 骸がボンゴレギアを解き、ムクロウが姿を現す。Dが負けたからか、胸の傷も消えていた。

「僕が倒したのはDの精神ですから。その男は無傷のはずです。いささか疲労はあるかもしれませんが」

「そっか、よかった……」

 

(じゃあ、これで全部終わった……のかな)

 

 炎真とは仲直りできたし、これでクロームも救出できた。すべての黒幕であるDも骸が倒したし、これで一件落着のはずだ。

 

 じわじわと喜びを感じる綱吉だったが、事件はこれで終わりではなかった。

 一同が仮初めの決着に団らんしていた、そのころ。

 

 骸は――骸の身体は――船上にある骸の肉体は――本物の利奈の首に手を掛けていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夢か幻か

 骸が目を覚ましたと思ったら、いきなり身体を拘束された。

 混乱したのは利奈だけではなく、そばに控えていた犬も千種も、意図が読めないと言わんばかりに目を丸くして硬直している。仲間であるはずの三人がこうなのだから、ボンゴレ構成員たちに状況が理解できるはずがない。向けられる懐疑の視線に、利奈は目を白黒させた。

 

(え、なんで? なんで私、後ろから首掴まれてんの?)

 

 首元の手に力は入っていないものの、後ろ手に固定された左腕は引き剥がせそうにない。これで相手がレヴィだったら、首を圧迫されて本日分の訓練が終わっていただろう。しかし今は暗殺の訓練を受けているわけではないし、骸にこんなことをされる覚えもない。ゆえに、利奈はただただ困惑していた。

 

「あ、あの、骸さん?」

 

 首が動かせないから、表情を窺うこともできない。身長差があるから、呼吸音も耳に入らなかった。固定された視界に映るのは、船の甲板と青空だ。

 

「あの、クローム、どうなりました? クロームの身体には入れたんですよね?」

 

 骸は今の今までクロームの精神に接触していたはずだ。

 島を覆っていたという蜃気楼が解け、島は本来の不気味な外観をあらわにし、骸を阻んでいた防御壁も解かれた。忌々しげに顔を歪めた骸が、言葉少なに自身の身体を守るようにと二人に告げ、眠ってから十数分。突如動き出した展開に戸惑っていたところに、これである。 戸惑いながらも問いかけると、かすかに骸の身体が震えだした。

 

(え、泣いてる? ……まさか、クロームになにか)

 

 最悪の事態を想定して血の気が引く利奈だったが、それが途方もない勘違いであることを、九代目霧の守護者クロッカンの叫びが告げた。

 

「九代目、後ろに! あいつは六道骸ではありません!」

「利奈! 逃げろ!」

 

 千種が珍しく声を荒げたそのとき、初めて骸が声を発した。

 

「ヌハハハハハハハハハッ!」

 

 それは、高らかな勝利の咆哮であった。

 尋常ではない骸の態度に、ボンゴレ構成員たちが一斉に銃を構え出す。するとマフィアを憎悪している犬が、歯を剥き出しにした。

 

「お前ら、骸様になにする気だ!」

「犬、あいつも言ってただろ、あれは骸様じゃない」

「っ、そんなわけ――」

「うん、身体は骸様だ。でも――中身が違う」

 

 千種は見透そうとするように目を細め、犬は信じられないという顔で目を丸くした。いまだに身動きすらできない利奈は、だれともつかない者の腕のなかにいるという事実に嫌悪感丸出しで叫ぶ。

 

「離して! 貴方、なんなの!」

「ん-?」

 

 初めて利奈を認識したかのような態度で、男は利奈を見下ろした。首元の手に顎を押し上げられ、オッドアイと視線がかち合う。赤い右目に描かれているのは、漢数字の六ではなく―

 

「……スペード?」

「おや、私がだれだかわかったのですか?」

 

 利奈は見た記号をそのまま口にしただけだが、奇しくもそれが正解だった。首元の手が離れたと思ったら、ダンスのように身体の向きを変えられて男と向かい合う。そして男は利奈の手を掴んだまま、優雅に一礼した。

 

「改めまして、ごきげんよう。D・スペードと申します」

「D・スペード!?」

 

 瞬間、九代目守護者が一斉にリングに炎を灯した。しかしすぐさま九代目がそれを制する。

 

「やめるんじゃ、お前たち」

「ですが九代目、やつは――」

「ああ。じゃが、肉体は六道骸だ。無体はできん」

「おやおや、そちらにいらっしゃるのは九代目ボンゴレですか。いやはや、なんともおあつらえ向きな」

 

 三百六十度包囲されているにも関わらず、Dを名乗る男はゆっくりと船上を見渡した。動作はのんびりとしているが、一切隙はない。ゼロ距離にいる利奈が暗殺を試みたところで、すぐさま返り討ちにあうだろう。もっとも、骸の身体に凶器を突き立てる非情さは持ち合わせていなかったけれど。

 

「なるほど、六道骸は九代目と手を組んでいたのですね。これはいささか予想外でした。彼はマフィアを憎んでいたはずですが」

「……本当に、Dか?」

 

 ガナッシュが訝しみながら男に問いかけた。その声色には、Dであるはずがないという疑いが多分に含まれている。

 

 ――D・スペード。Dと書いてデイモンと読む。ボンゴレファミリー、初代霧の守護者だ。

 彼は貴族だったが、当時の堕落しきった貴族社会に嫌気がさし、不正や腐敗を正すボンゴレファミリーへの加入を決めたらしい。そして霧の守護者とあって、幻術のエキスパートでもあった。彼の武器、魔レンズ越しに睨みつけられた者は、次の日には海に浮いていたという。まさに、底知れぬ霧のような男だ。

 ボンゴレファミリーの発展に最も尽力した男であり、それでいて、初代ボンゴレのジョットを裏切った男でもある。彼はボンゴレを最も強大なマフィアにするために、ありとあらゆる手段を使って邪魔になるものを排除した。その証拠に、ボンゴレⅡ世はジョットの意志を継ぐことなく、ボンゴレを泣く子も黙る凶悪なマフィアへと変えていった。さらにさらに、Dは二代目ボンゴレの霧の守護者も勤め上げた。

 そして現在のボンゴレファミリーは、穏健派の九代目が継承した今でさえ、最強マフィアとしてマフィア界に君臨している。

 

 なぜ利奈がD・スペードの経歴を事細かに知っているのかというと、前日に予習していたからにほかならない。

 昨日骸が見た、ふたつの記憶。そのどちらにもD・スペードの姿があったのだ。

 ひとつめは、ジョットの代わりにDがコザァートを助けに行こうとする場面。もうひとつは、助けに行くと見せかけて、Dが手下にシモンファミリーを全滅させようとする場面。――もっとも、その作戦はジョットに見抜かれており、Dを除いた初代守護者全員が手下に成り代わってシモンファミリーを救出したのだが。

 

 そしてここで、ガナッシュの問いに戻る。D・スペードが、ここに存在するわけがないのだ。

 それは九代目ボンゴレであるティモッテオが老人であることと、初代ボンゴレのジョットが綱吉のひいひいひいおじいさんであることからわかるだろう。この時代に生きているはずがないのである。

 

(タルボおじいさんも初代から仕えてるって噂あったけど……ものすごいおじいさんになるんじゃ)

 

 利奈は生前のDの姿を知らない。ゆえに、骸の身体に巣くう魂を、とんでもない年寄りだと誤認した。

 

「遠路はるばるようこそいらっしゃいました、九代目ボンゴレ諸君。その様子ですと、過去のあらかたについてはもうご存じのようですね」

「……D。いったいお前は、なにを企んでおる」

 

 ボンゴレと敵対していることは確かだ。でなければ、骸の身体を使って利奈を拘束したりはしないだろう。

 

「シモンファミリーの子供たちになにを吹きこんだ。……血の洪水事件も、お前が仕組んだことじゃろう」

「おや! そこまで察しがついていましたか」

 

(血の洪水事件……?)

 

 聞き慣れない単語に耳を留める。その事件についてはなにも聞かされていないが、名称からして、ろくでもない事件であることだけは伝わってきた。

 

「彼らと十代目を敵対させてなにをするつもりじゃ。まさか、自分の手で作り上げたボンゴレを、自分の手で破壊したくなったとか抜かすつもりじゃなかろうな」

「いえ、その通りですよ」

「え!?」

 

 さすがにDの顔を凝視してしまう。

 

「貴方を選んだダニエラもだいぶ耄碌していましたが、まさかあんな軟弱者を十代目に据えようとするとは。正気の沙汰とは思えない」

「じゃからボンゴレを壊すと? ずいぶん勝手な話じゃのう」

「あくまで現ボンゴレを潰すだけですよ。そして、新しいボンゴレを作り上げる」

 

 ついに守護者たちがリングを構えた。九代目が一言命令を下せば、人質の利奈ごとDを葬ろうとするだろう。しかしDはゆるりと肩をすくめた。

 

「あいにくと、貴方たちに構っている時間はありません」

 

 Dが左手を虚空にかざす。すると、禍々しいほどに黒い炎が、ぽっかりと空間に口を開けた。

 

「なんだ、あの色は!」

「大地の七属性か!?」

「ボス!」

 

 守護者たちが攻撃許可を求めるが、九代目は許可を出そうとはしなかった。骸と利奈の身体を慮ってのことではないだろう。死ぬ気の炎に慣れていない利奈でさえ、その炎圧の強さを感じ取っていた。つまり、この船に乗るだれもが、Dとの圧倒的な力の差を認識していたのだ。

 

「それでは滅び行く旧ボンゴレのみなさん、ごきげんよう。次に会うときには手土産を持ってきますよ。――沢田綱吉の首をね」

「なっ!」

 

 最後の一言が、利奈を傍観者から当事者へと引き戻した。それと同時にDが利奈から手を離し、黒い炎のなかに入っていく。利奈はよろけて一歩後ろに下がったが、すかさず反動をつけてDへと手を伸ばした。

 

 捕まえたとして意味があるのか、黒い炎にはどんな効果があるのか、そんなことを考える時間はなかった。Dがこれから綱吉の元へ行こうとしていることと、綱吉に危害を加えようとしていること。それだけわかっていれば、利奈が手を伸ばすには十分だった。

 

「待ちなさい!」

 

 利奈の手がDの背中に触れるより先に、Dの身体が炎に呑まれる。利奈は臆することなく炎に手を入れたが、その手は虚空を切った。炎のなかにあるはずのDの身体は消え失せていた

 目一杯腕を伸ばしたものだから、支えを得られなかった身体は大きくバランスを崩す。

 

(わわわ、転ぶ転ぶ!)

 

 顔から床に打ち付けそうになるのを、前転することでなんとか防ぐ。途端、利奈は身体を震わせた。

 

(さ、寒い……! なんで!?)

 

 炎に突っ込んだはずなのに、熱気ではなく寒気でどうにかなりそうだ。黒い炎は冷気を纏うのだろうか。

 

(そんなことよりDは――Dは……え? だれもいない? ……え?)

 

 ――どうやら、受け身を取り損ねて気絶してしまったようだ。そして今は夢のなか、そうに違いない。でなければ、現状に説明がつかない。

 

「……ここ、どこ?」

 

 思わず呟けば、息が白い煙になって広がった。

 日の当たる甲板にいたはずなのに、なぜか日の当たらない洞窟のような場所で膝をついていた。利奈がいるのは長い廊下で、左右にあるのは等間隔に並んだ檻。刑務所を連想させるが、檻のなかにいる人は、妙な機械に拘束されている。

 

(なんなの、なんで私こんなとこに……あの炎に飛び込んだから?)

 

 幻術、死ぬ気の炎、リング、匣。あれだけいろいろあったのだから、そのなかのひとつにワープする能力があってもなんら不思議ではない。気絶しているのでなければ、Dのワープに巻き込まれてしまったらしい。そしてDはすでに行動を起こしているようで、遠くから騒ぎの音が聞こえてくる。

 

(……ここはあの島じゃないよね? 気温違いすぎるし。ってことは、ツナたちと戦ってるわけじゃない。うん、きっとそう)

 

 とはいえ、ここでじっとしているわけにはいかない。Dがなにをしているのか確認する必要があるし、第一、寒すぎて動かないと凍えてしまいそうだ。利奈は歯の根を鳴らす。

 

 牢獄は薄暗く、陰湿で、陰鬱だった。囚人たちは全員目を閉じていて、意識がない。顔の下半分を覆っている酸素マスクのようなもので、麻酔を嗅がされているのだろうか。にもかかわらず、身体はガチガチに拘束されていた。手足と首には枷がつけられているし、身体には大きな鎖まで巻き付けられている。そしてそこまで厳重に警戒されるだけあって、みんな人相が悪い。

 

(もしかして、マフィアの刑務所? ってことは、海外? ううう、なんでこんな寒いの……)

 

 海風が強いからとジャケットを着ていてよかった。でなければ、寒さでうずくまるしかなかったかもしれない。

 背中を丸めながら歩くが、周囲への警戒は怠らなかった。檻をひとつひとつ確認していたおかげで、利奈はそれを見逃さずに済んだ。囚人のなかにただ一人いた、己の味方を。

 しかしそれに気付いてしまったせいで、利奈はDのことも忘れて檻へとしがみついた。冷えた鉄に肌が張り付きそうになるのも構わず、利奈はその人物の名前を呼ぶ。

 

「笹川先輩!」

 

 名も知らぬ囚人たちのなかに、京子の兄が混ざっていた。綱吉と行動を共にしていたはずの、笹川了平が。

 

(うそ、なんで。ここ、やっぱりあの島なの? なんで先輩が檻のなかにいるの!?)

 

 顔が半分隠れているとはいえ、彼が了平であることに疑いはない。利奈は檻を揺らしたが、鋼鉄の檻はびくともしなかった。了平を助け出すには鍵が必要だ。

 

「待ってて先輩、今鍵を――」

「おやおや」

 

 わざとらしい声に息が止まる。動揺していたせいで、とっくにやんでいた物音にも、高らかに鳴る靴音にもまったく気付けなかった。もっとも、気付けたところで逃げ場などなかったのだが。

 

「いけませんねえ、跡をついてきてしまうなんて。……たしか、そんな童話がありましたね。兎を追いかけて穴に落ちて、そして不思議の世界に迷い込む」

 

 すでにDは骸らしさを脱ぎ捨てていた。

 顔立ちは骸のままだが、もう声が違う。髪は足まで伸びているし、服装も昔の貴族のような恰好になっている。ボンゴレの紋章が入っているところを見ると、現役時代に来ていた戦闘服なのかもしれない。そして、甲板にいたときよりも、とんでもなく強くなっていた。

 ここにきてようやく戦闘力を察知できている自分を自覚したが、状況はそれどころではない。孤立無援の状態で敵と相対しなければならないのだ。咄嗟に了平のいる檻を身体で庇った利奈を、Dは笑った。

 

「ヌフフ、心配しなくても彼に危害は加えませんよ。私の狙いはあくまで十代目ボス候補です」

 

 発言の真偽は読めないが、殺気は感じない。それでも利奈は、寒さと恐怖に身を震わせながら異を唱えた。

 

「……つ、沢田君を殺したら、私たちも殺すんでしょう。だったら、同じじゃない」

「まさか。そんなことはしません。そもそもお前はボンゴレですらない。ねえ、風紀委員さん?」

 

 その言葉に、胸がじわりとざわついた。利奈のことを前から知っているような口振りである。

 

「さっきも言ったとおり、私は忙しいのでね。塵芥に構っている時間はないんですよ。……でもまあ、情けくらいはかけてあげましょう」

 

 距離を詰めるDに、利奈は目を見開くことしかできない。足が動かないのは寒さのせいか、恐怖のせいか。

 

「かわいそうに、そんなに震えて。すぐに暖かいところにつれていってあげますからね」

 

 Dの指が利奈の頬を撫でる。手袋越しだからか、指先はゾッとするほど冷たかった。

 

「不思議の国のアリスのラストを知っていますか?」

「あ、アリ、ス?」

「ええ。兎を追いかけたばかりに、不思議の国に迷い込んだ哀れなアリス。女王に首を刎ねられそうになったアリスは最後にこう叫ぶのです。『これは全部夢だ!』と。アリスが叫んだその瞬間、トランプ兵たちはトランプに戻り、そのトランプに埋もれたアリスは夢から覚める。こんなふうに」

 

 Dが指を鳴らすと、頭上に大量のトランプが舞い上がった。紙吹雪のように舞うトランプが利奈の視界を塞いでいく。

 

「や、なに、これ……!」

 

 幻術だとわかっているのに、トランプが当たる感触はリアルだ。顔を守ろうと腕を上げると、すかさずその腕をDに掴まれた。

 

「さあアリス、現実に戻りましょう。もっとも――」

 

 足下に小さな穴が出現した。それはみるみるうちに大きくなり、あの黒い炎だとわかったときには身体が飲み込まれていた。落ちていくさなか、Dの声が耳に届く。

 

「現実のほうが、悪夢かもしれませんがね」 

 

 ――かくして、真打ちが舞台上に姿をあらわした。端役の黒子を伴って。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

五章:終幕に喝采はなく
劇的な登場を


 

 天空から落とされた雷撃にも似た一撃で、聖堂は一瞬にしてクレーターとなった。隼人と武が防御壁を展開していなければ床さえ残らず、そこに聖堂があったことをだれ一人証明できなくなっていただろう。そもそも、目撃者すら残らなかったかもしれない。

 

「おい、あそこ!」

 

 隼人の声で全員の視線が揃う。

 クレーターの中心部、その上空で黒い炎が揺れている。数十メートルは距離があるというのに、その炎圧は彼らに畏怖の念を抱かせた。空間にできた裂け目は、彼らの目前で徐々に広がっていく。

 

「ねえ、なにか落ちてる」

「んん?」

 

 炎真の言葉に綱吉が目をこらす。炎からなにかが零れ、地面に散らばっていた。

 

「紙? カード? なんだろう」

「ありゃあ――」

「トランプ」

 

 ここから模様など見えるはずがないのに、骸はやけにきっぱりと言い切った。言われてみれば、回りながら落ちる物体には裏表が存在していた。それでも、絵柄までは読み取れない。

 炎から降り注ぐトランプが、際限なく地面へと降り積もっていく。先ほどの聖堂を破壊した攻撃もあって、だれも近寄る気にはなれなかった。

 これからなにが起こるのか、固唾を呑む彼らの前でトランプは山と積もり――そこに、少女が落とされた。

 

「きゃん!」

 

 尻餅をついた少女が、犬のような悲鳴を上げた。上空から落とされたものの、トランプの山がクッションとなって衝撃を和らげた。それを見てランボが目を輝かせる。

 

「手品だー!」

 

 なるほど、確かに手品だ。なにもないはずの空間からトランプやら人やらが出現しているのだから、ランボの感想は的を射ている。しかしランボ以外は、だれ一人として目の前の光景を現実のものとして受け入れられなかった。

 

「な、なんで……?」

 

 クロームだけがひどく狼狽している。骸とDが戦っていたあのとき、クロームは意識を保っていなかった。だから、あのときDが見せた幻覚を知らないのだ。

 

「なんで利奈がここにいるの……!?」

 

 アレは偽物だとだれかが口を開くより先に。

 

「ヌ  フ    フ」

 

 不気味な笑い声が場を満たす。

 トランプの山が不自然に盛り上がり、姿勢を崩した利奈が山を滑り落ちそうになった。しかし、トランプの山から突き出た手が、地べたに落とされかけた利奈の腕を掴んで留める。

 

 Dが、トランプの山から姿を現した。手慣れた仕草で利奈を立たせ、事態についていけていない綱吉たちに微笑みかける。それはまるで、奇術に驚く観客に笑いかける手品師のようで。

 

「余興はお楽しみいただけましたか?」

「……D・スペード」

 

 地に落ちたトランプが一斉に舞い上がった。その中心で、Dは大見得を切るように両手を広げる。

 

「さあ、始めましょう。君たちの世代の終焉を」

 

 

――

 

 

(なんか私もこの人の味方みたいになってない? これ)

 

 知らぬ間に手品の助手に仕立てあげられてしまった利奈は、みんなの眼差しを浴びながら他人事のようにそう考えた。

 向けられる視線は疑いに満ちている。当たり前だ、なんの脈絡もなく、ここにいないはずの利奈が顔を出したのだから。自分だって、同じ立場ならば幻覚と思っただろう。ところが悲しいことに、これが現実である。

 

「残念ながら、あれは幻術ではありません。本物の相沢利奈です」

 

(ほら、骸さんだって――あれ? 骸さんどこ?)

 

 骸の声がしたが、周囲に骸の姿はない。そもそも骸の身体はDが乗っ取っているわけで、そうなると骸はだれかに憑依するしかない。しかし骸が憑依しているとおぼしき人が見当たらなかった。

 

「なんだって!? 本物の相沢さん!?」

「そんな――って、ん? なんで骸が利奈のこと知ってんの!?」

 

 思ったとおり、あちら側は大混乱だ。骸と接点があることを今までひた隠しにしていたせいで、いらないいざこざが生まれている。利奈が船に乗っていることを把握している武ですら、あの場に骸がいたことは知らないのだ。知っていれば、すぐに答えが出せただろうに。

 

「ヌフフ、手品は大成功のようだ。……いささか騒ぎすぎな気もしますが。ゲストが豪華すぎましたかね?」

 

 嫌味を言われても困る。目立たないよう隠れていたのを、わざわざ引っ張り出してきたのはDなのだから。

 

「――僕と彼女の関係はともかく、あそこにいるのは本物の利奈。それから、僕の身体を手に入れて何倍にも力を増したDです。全員が全力を出しても相手になるかどうか……」

「そんな……」

 

(……あれ?)

 

 いまだに骸らしき人物の姿は見えないが、骸と話している綱吉の顔は上を向いていた。その先には匣アニマルと思われる真っ白なフクロウがいて――

 

「でも骸様、あれは骸様の身体で……」

「そんなことにこだわっている場合ではないのです。情に流されて少しでも手を緩めれば、すべてを失ってしまう。わかってますね? 沢田綱吉」

「……ああ、わかった」

 

(うええええ!? あのフクロウが骸さん!? 動物にもなれるの!?)

 

 もはやなんでもありである。身体を乗っ取られての苦肉の策だろうが、まさかフクロウに憑依するなんて。利奈の動揺をよそに、彼らは決心した表情でDに向き直る。

 

「では、そろそろはじめま」

 

 Dがトランプを手に持った。

 

「しょうか?」

 

 Dの姿が消えた。

 利奈からすれば消滅だが、綱吉たちからしたら出現だろう。なぜならば、Dが一瞬にして彼らの中心に移動したからだ。

 

「えっ――」

「逃げろ!」

 

 防御も退避も許されない刹那に、武がクロームを押し出すのが見えた。しかし次の瞬間に爆発が起き、彼らの姿は黒い炎に飲み込まれる。 

 

「みんな!」

 

 すかさず駆け寄ろうとする利奈の肩を、何者かの腕が掴む。またもやDが瞬間移動したのかと目の前の爆発も相まって硬直するが、利奈の耳を打ったのは聞き慣れた声だった。

 

「少しは学習しなよ」

 

 恭弥だ。一人だけ少し離れた場所にいたので、爆発の影響を受けなかったらしい。なんの策もなく飛び出そうとした利奈に、呆れ半分、諦め半分の目をしている。そして、なぜか改造した学ランを着用していた。ロングコートのような丈の長さだ。

 

(って、今はそんなことどうでもよくて! みんなは!?)

 

 間を置いたおかげで爆発の煙はなくなっていた。段差の下に突き落とされる形になったクロームのそばに、綱吉と炎真も一緒に倒れている。しかし、段差の上にも下にも、どこにも武や隼人の姿が見当たらない。

 

「余興はまだまだ続きますよ。出現の次は消失。安心してください、彼らは無事ですから」

「ジュリーたちをどうした! どこへやった!」

 

 炎真が吠えた。継承式で綱吉に激昂したときよりも強い語気に、利奈は面食らう。綱吉とともにいるということは、もう和解は済んでいるのだろうか。

 

「ヌッフフ。手品の種を尋ねられましても」

「大方、どこかの異空間へでも飛ばしたんだろう。利奈を出したときと同じ炎を使ったな」

 

 遙か上空の骸が、風に煽られながらも手品のネタを分析する。フクロウだから飛んで爆発を回避できたものの、爆風に巻き上げられてしまっていたようだ。

 

「おやおや、手品の種明かしは御法度ですよ。とはいえ、二回同じトリックを使っては見破られても仕方ありませんね」

 

 つまり、瞬間移動の能力を使ってジュリーやランボも違う場所に転送したらしい。戦わずして戦力を削りとったというわけだ。

 

「ご心配なく。彼らには席についていただいただけです。ボンゴレ十代目候補討伐物語の観覧席にね。できれば沢田綱吉以外全員を送りたかったですが、まあ、いいでしょう。

 運がよかったですね、貴方たちは。なんたって、かぶりつきの特等席で沢田綱吉の最期を観ることができるのですから!」

 

 高らかにDが謳いあげたところで、聞くに堪えないとばかりに後頭部めがけて鎖が飛んだ。もちろん、恭弥の仕業である。

 

「口上は終わった? なら、あとは敵役らしく無残に骸を晒しなよ」

「む」

「……ヌフフ」

 

 飛んできたふたつの鎖を、Dは上半身の動きのみで躱し切った。そしてヌラリと髪をなびかせながら振り返る。その手に持っているのは、数枚のトランプ。さきほどの爆発に使われたものだろうか。殺気を飛ばす恭弥に、Dは懐かしむような眼差しを送る。

 

「まったく、十代目候補の守護者はだれもかれもが初代に生き写しだ。まるで昔に戻ったようですよ」

「戦う前から走馬灯を見ているのかい? 辞世の句を詠むならさっさとしたら」

「……ヌフフ、本当にまったくもって」「面白い」

「ひゃあ!?」

 

 Dの両足に大きな目玉が出現した。そのうえ、横腹にできた口が言葉を発するものだから、利奈は悲鳴を上げて恭弥の背中に隠れた。

 

(なにあれなにあれなにあれ! キッモ!)

 

 幻術だとはわかっていても、生理的嫌悪はどうしようもない。綱吉たちもギョッとしているし、これには恭弥も嫌悪感を――

 

「いいね」

「うっそでしょ!?」

 

 むしろ楽しそうに微笑んだので、正気を疑った。あれを本当にいいと思ったのなら、今後の身の振り方を考えなければならない。

 

「さすが十代目候補の最強の守護者、これくらいでは動じませんか。その調子で、なにが起きても驚かないでくださいね」

 

 Dの足下で、小さな欠片が渦巻き始める。またもトランプかと身構えるが、緑色の欠片に表裏はない。

 

「っ、あれは紅葉の森属性の葉カッター! どうして!?」

 

 炎真の言葉で、それが無数の木の葉であるとわかった。そして名称から、葉の一枚一枚に殺傷能力があるということも。あんなものが飛んできたら、生身ではひとたまりもなさそうだ。

 

「利奈、さっさとどいて」

「はいっ」

 

 そばにいても邪魔にしかならないだろう。利奈は脱兎のごとく走りだし――そこでふと気付く。

 

「え、今、私のこと名前でーえええぇぇ!? なに!? 坂道!?」

 

 平らだった地面が急に下り坂になり、大きく身体が傾いだ。恭弥を中心に、地形が変化していたのだ。

 

「らうじの山属性まで! なんでDが二人の技を!」

「利奈! 早く!」

「クローム! ちょっとヤバい、転ぶ転ぶ転ぶ!」

 

 絶えず変形していく大地を、転がるように駆け抜ける。勢いがつきすぎた体は自身ではどうにもならず、腕を広げた綱吉に飛びこむことで停止させた。それでも勢いは殺しきれず、近くにいた炎真までも巻きこみ、三人で転倒した。クロームが恐々と上から覗きこむ。

 

「利奈、大丈夫?」

「う、うん、なんとか。あー、ごめんツナ、ありがとね」

 

 謝りながら立ち上がる。そして、ハッとしながらクロームに向き直った。

 

「クロームは!? クロームは大丈夫だったの!? なにかされなかった!?」

 

 事態が急転直下に進行しているせいで忘れていたけど、もともとは攫われたクロームを救出するためにここまで来たのだ。遅まきながら慌てるが、クロームはゆるゆると首を振った。

 

「私も大丈夫。骸様が、助けてくれたから」

「そっか……よかったあ」

 

 Dに負けて身体を乗っ取られた骸だが、クロームの救出には成功したようである。試合に負けて勝負に勝った、といったところか。

 一人勝手に納得していると、フクロウ姿の骸がおもむろに頭に留まった。

 

「痛っ! 骸さん、爪食いこんで痛い!」

「不愉快な思い違いをしているようなので、正そうかと。それより、貴方のボスはいいんですか?」

 

 利奈の背後では、すでに戦いが繰り広げられていた。

 辺り一面を岩壁に囲まれた恭弥に、鋭利な木の葉の群れが襲いかかる。しかし恭弥は岩壁を蹴って飛び上がり、死角を狙った刃の攻撃をことごとく躱していた。

 

「すごい! 葉カッターを全部躱してる!」

「それだけじゃねえぞ。ああやってギリギリまで引きつけながら避けることで、葉の枚数を減らしてるんだ」

 

 リボーンの解説どおり、避けられた葉カッターは岩壁に突き刺さってその数をみるみるうちに減らしていた。敵の作戦を見事に逆手に取っているのだ。

 

「にしても、なんでDが大地の七属性を使いこなせてんだ?」

「僕もなにがなんだか……。ジュリーの指輪を奪ってるんなら、砂漠属性を使えてもおかしくはないんだけど」

「あっ」

 

 リボーンと炎真のやりとりで、利奈はDの行動を思い出した。彼はここに来る前に、わざわざ一度、ある場所に寄り道をしていた。

 

「あのさ、ここに来る前に笹川先輩が閉じ込められてる場所にも行ったんだけど、それだったりしない?」

「え!? お兄さんに会ったの!?」

「会ったっていうか、見たっていうか……。先輩、変な機械に繋がれてたから」

「なるほどな、復讐者の牢獄でリングを集めてきていたってわけか」

「ご明察」

 

 Dがずらりと指輪を嵌めた両手を見せる。指輪からはうねうねと虫のような物体がうごめいていたが、さいわいにも利奈たちの目に留まることはなかった。

 

「ってことは、Dは今まで見てきた技が全部使えるってこと!? ヒバリさんはアーデルハイトの技しか知らないのに!」

「そうなの!?」

「関係ないよ」

 

 回避に専念していた恭弥が動きを変えた。岩肌を利用して岩壁の頂上まで跳ね上がり、そこから一気に跳躍する。狙いはもちろん丸腰のDである。葉カッターは後ろから恭弥を追うが、恭弥の攻撃を防ぐものはなにもない。

 落下速度の加わった恭弥の強烈な一撃は、しかしDに難なく受け止められた。

 

「え!?」

 

 ついにDが武器を初めて手に取った。しかしその武器は、利奈にとって深く馴染みのある武器であった。いつも端から見ているだけだった利奈でさえ驚いたのだから、恭弥の驚愕は計り知れない。

 

(なんで、ヒバリさんと同じ武器を――)

 

 恭弥の攻撃を防いだ武器。それは、恭弥が今使用しているものとまったく同じ形状のトンファーであった。

 




6.14 読み直して文が引っ掛かったので全体的に修正しました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

縒りを戻す

 

 

 奇襲を仕掛けた意趣返しのように、トンファーから伸びた鎖が恭弥を襲う。恭弥はそれを後ろに跳躍して躱したが、やはり動揺が尾を引いたのだろう――わずかに回避が遅れた。頬に一筋、赤い線ができる。

 匣動物のロールが威嚇の声を上げるが、化け物じみた唸り声がそれをかき消した。涼しく笑うDの前に現れる、棘のついた丸い物体。

 

「……なにあれ?」

「えっ、知らないの!? あれ、ヒバリさんの匣だよ?」

「あれが!?」

 

 そういえば、恭弥が匣兵器で戦っているところを見たことがない。匣があんな形態に変わるなんて初めて知った。よくよく見れば、Dの腕には恭弥と同じ、ボンゴレギアのブレスレットが嵌まっている。

 

「問題は、なぜDがあれを使えるかです。あのボンゴレギアの属性は雲。Dに使えるはずがない」

「あの人の属性って――」

「霧ですよ。ほら、このとおり」

 

 問いに答えたのはD本人であった。まさか話しかけてくると思っていなかったので利奈はギョッとしたが、Dは軽やかに髪をかき上げて耳を見せた。そこには、クロームがつけているものとまったく同じイヤリングがつけられている。あれが霧のボンゴレギアなのだろう。

 

「で、でもなんで? なんであの人がボンゴレギア持ってるの? だって、ボンゴレギアってボンゴレリングからできたものなんでしょ?」

 

 匣やリングはある程度増産可能なものだと未来で教わっている。しかしボンゴレギアは、精製度Aクラスのボンゴレリングに匣動物、それから初代ボンゴレであるジョットの血を注いだ、唯一無二の一点物である。Dに用意できるはずがないのだ。

 利奈の疑問に、それ以前の問題だとリボーンが首を振る。

 

「そもそも、あの数の属性を一人で使い分けられるわけがねえ」

「ええ。なかにはふたつかみっつ、属性を兼ね備えている人間もいます。ですが、あれだけまんべんなく使いこなせる人間はいません」

「大空属性なら、全部使えたんじゃなかったでしたっけ」

「それは開匣が可能ってだけだ。自由自在に使いこなせるわけじゃねえ」

 

 なるほど、大空属性も万能ではないらしい。しかしそれなら、Dが雲のボンゴレギアを使いこなすのは不可能ということになる。ならば残る可能性は――

 

「幻術。偽物だね」

 

 そう判断した恭弥が、展開した自身のギアをDへと放つ。そして自らも、増殖する球体のひとつを足場にして高く飛び上がった。Dも球体を放って迎え撃つが、恭弥はぶつかりあうギアのあいだを巧みにすり抜け、Dの胸元へと辿り着く。

 咄嗟にDはトンファーで防御しようとしたが、トンファーの扱いにおいて、恭弥の右に出るものはいない。防御する両腕を左のトンファー一本で押さえつけられ、がら空きの胴体に重い一撃が叩きこまれた。Dは声すら出せずに後方へと吹っ飛ばされる。

 

 追撃を加えるべく着地点に向かう恭弥だったが、そこで異変が起きた。恭弥が地面に着地した瞬間、その身体が深く地面に沈みこんだのだ。

 

「ヒバリさん!?」

「SHITT・P!の底なし沼だ!」

「底なし沼!?」

「やべえな、ありゃあすぐには出られねえぞ」

 

 反動をつけようと強く踏みこんだせいで、胸元まで沼に沈んでしまっている。異変を察して武器は掲げていたようだが、あの状態でトンファーは振るえないだろう。そこにすかさず重量級の球体が落とされていく。

 

「ヒバリさん!」

 

 今から助けに行ったところで間に合うわけがない。針が突き刺さる数秒後の未来に利奈は悲鳴を上げ――

 

「うるさい」

 

 それをすっぱりと切り捨て、恭弥はトンファーから伸ばした鎖を上空へと放り投げた。今度はただの鎖ではない。先端に輪っかがついていた。

 

(あれは……手錠?)

 

 放物線を描いた手錠は、輪投げの輪のように球体上部の針に引っかかった。恭弥の意図を汲んだロールがすぐさま急上昇し、底なし沼から恭弥を引っ張り上げる。そして恭弥の抜けた穴を埋めるかのように、Dのボンゴレギアが沼を押し潰した。まさに間一髪である。

 

「すごい、あの人……! 匣兵器を使いこなしてる!」

「し、心臓止まるかと思った……」

 

 炎真は感嘆しているが、今のは生きた心地がしなかった。身動きの取れないあの状態なら、針が刺さらなくても底なし沼に全身を沈められていただろう。いくら恭弥といえど、窒息すれば命を落とす。

 

 すんでのところで難を逃れた恭弥は、足を前後に振って反動をつけると、これまた勢いよくDへと飛び出した。

 Dはすでに起き上がっていたが、身を守るための盾はすでに恭弥の背後にある。同じ手は二度と食らわぬとばかりに、恭弥はそろえた両足をそのままDの胴体に押し込んだ。破壊力抜群のドロップキックである。

 衝撃でDの身体が地面に跳ねるが、すかさずその足めがけて手錠を投げる。

 

「もう逃がさない」

 

 トンファーの先端から大きな棘が飛び出した。恭弥が腕を後ろに引くと同時に、なにが起きるかを察してクロームが強く目をつむる。利奈も思わず顔を背けそうになったが、かろうじて思いとどまった。直後、Dの背中から鮮血が噴き上がる。

 

(駄目だ、あれじゃ致命傷にならない)

 

 さほど抵抗なく貫通したところを見ると、骨には当たらなかったようだ。内臓は破裂したかもしれないが、息の根を止めるには足りていない。いや、そもそも幻術で偽装されている可能性が高い。出血量が少なすぎる。

 利奈が抱く程度の疑問など、もちろん恭弥も承知の上だろう。即座に追撃を仕掛けようとしたが――

 

「もうけっこう。これでフルチャージです」

 

 一切ダメージを感じられない声でDが言った、その瞬間。Dの腕から炎が燃え上がった。炎の色は――黄色。

 

「活性の晴!」

 

 その炎を利奈はよく知っている。ルッスーリアの属性と同じ、晴の炎だ。

 晴の炎の効果は「活性」で、傷などを癒やす効果がある。だから腹にあいた大穴を治すための力かと思いきや、Dは右の拳を固めた。

 

 恭弥はDにかけた手錠ごとトンファーを手放すが、Dは恭弥と距離を詰めることなく、そして距離を取ることすら許さず、その拳を振り抜いた。圧縮された炎が一直線に放たれ、爆風は背後の森までも吹き飛ばした。その威力はすさまじく、射程範囲外にいた利奈たちですら、砂塵にさらされる。

 

(なにこれ、なんであんな炎が一気に……!)

 

 Dが拳を握ったとき、その腕に炎は灯っていなかったはずだ。それなのにDが拳を振り抜いた瞬間、途方もない炎圧が、光線のように放たれた。あれもボンゴレギアの能力なのだろうか。

 

「いた! ヒバリさん!」

 

 砂粒に苛まれながらも、綱吉がいち早く恭弥を見つけ出した。暴風に吹き飛ばされてはいるが、怪我をしている様子はない。あの距離なら、直撃を躱してもダメージを食らいそうなものだが、さすが恭弥だ。

 

「まさか。計算のうちですよ」

「あっ」

 

 吹き飛ぶ恭弥の進行方向めがけてDがトランプを投げる。空中、しかも背後に仕掛けられたトラップに、恭弥は為す術もなく飲み込まれた。恭弥に合わせて巨大化したトランプは、恭弥を回収するとともに元の大きさに縮み、Dの手元へと戻った。

 

「うそ……ヒバリさんが」

 

 思わず声に出すと、クロームに案ずるような眼差しを送られた。

 四人に続き、恭弥までも異空間に飲み込まれてしまうとは。これで残るは、リングを持っていない利奈を除いて四人――いや、人でなくなっている骸を除くと三人である。数の優位性がどんどん失われている。

 

「ヌフフ、心配しなくても彼は無事ですよ。観客席に移っていただいただけです。これ以上は時間の無駄ですから」

「それ、どういう意味?」

 

 腹に空洞をあけたまま平然と話すDに、利奈はすかさず噛みついた。そのうえDに向かって一歩踏み出しさえしたが、血相を変えた綱吉に行く手を塞がれる。

 

「利奈、落ち着いて! 危ないから!」

「だって!」

 

 爆風に吹き飛ばされてはいたが、恭弥はほとんど無傷だった。それを幻術で強制退場させておきながら時間の無駄とは、いったいなんの了見だ。あれだけ多くの能力を使っておきながら、ろくにダメージも与えられなかったくせに。

 

「僕も彼女に同意見です。貴方は雲雀恭弥の実力を知らない。彼は追い詰められてからが本番ですよ」

 

 一度は敵として戦った骸も利奈と意見をそろえた。だがそれは、恭弥当人にとってはきわめて不快な弁護だったろう。自分は恭弥を追い詰めたと公言しているにほかならないのだから。

 

 実際、Dに飛ばされた異空間の中で、トンファーを折らんばかりに握りしめる恭弥がいた。しかし、術を仕掛けたDですら異空間の様子を窺い知ることはできず、いなすように首をひねるだけだった。

 

「どちらにせよ、彼は私に勝てませんよ。使えるボンゴレギアの数が違う」

「たくさん武器を持ってるほうが勝つわけじゃない!」

 

 なおも利奈は噛みついた。

 Dのボンゴレギアが偽物でないことは証明されてしまったが、だからといってDの勝利が決まっていたわけではない。

 

「ええ、それはそうです。勝敗を決めるのは武器の多さではない」

 

 寛容に頷きながらもDは続ける。

 

「ですが、それを扱う人間の能力値ですら、天と地ほどの埋めがたい差があったとしたら? それでも勝てると思いますか?」

「そんなの――」

「やってみなくてもわかりますよ」「君たちと私ではスペックが圧倒的に――違う」

 

 またもやDの胴体に唇が生まれた。さすがに二度目は怯まなかったが、大きな舌が胸を舐めると、そこにあったはずの大穴が消えた。――とはいえ、傷の場所が若干変わっていたり、穴から血が出てなかったりで、幻術であることは途中から丸わかりだったので支障はない。

 

「おのれ、人の身体で!」

 

 それはそれとして、身体を乗っ取られた骸が怒りの声を上げる。

 その心情は利奈にもわかる。自分がもし同じことをされたら、泣き叫びながら怒鳴りつけていただろう。あまりにも気持ち悪すぎる。

 

(骸さんも人の身体でいろいろしてた気もするけど……うん、今は置いとこう!)

 

 ――人の振り見て我が振り直せ。人間、自分が同じことをされて初めて気付くこともあるのである。

 

「さて、もう特別観客席に移りたい方はいませんね? そろそろ舞台を進めさせていただきましょうか」

 

 右手を大きく動かしながら、Dは優雅な礼の仕草を見せた。貴族のように優美に。あるいは、道化師のように仰々しく。

 

「さあさあ皆様お立ち会い。これより始まりますは、旧時代の終焉と新時代の幕開け。どうか最後まで、一部始終目を逸らさず、一言一句聞き逃さずにご覧ください。なんたって、この最高の舞台を後世に伝える語り部になるのは、ほかならぬ貴方がたなんですから!」

「ほざくなD」

 

 綱吉の纏う空気が変わった。

 ボンゴレギアがリングからガントレットになり、綱吉は強く拳を握る。

 

「お前の野望は俺が砕く」

「ヌフフ。いいですね、真打ちらしい台詞ですよ」

 

 Dの頭に黒い角が生えた。天を貫かんばかりに尖った角から、緑色の電気がバチバチと不穏な音を立てている。

 

「Dのやつ、雷と嵐のボンゴレギアを同時に発動しやがった」

「え……あっ、あれも?」

 

 角にばかり目がいってしまっていたけれど、リボーンの言うとおり、もうひとつボンゴレギアが発動していた。体中に巻かれた円筒に機関銃の弾丸を想像してしまったが、弾丸ではなくダイナマイトのようだ。銃を持っていない。

 

(ダイナマイトなら、獄寺君のボンゴレギアだよね。あれは中距離武器だから……ツナの接近妨害用だ)

 

 綱吉は拳で戦うスタイルなので、敵と距離を詰めなければ戦闘を始められない。ここはダメージを負う覚悟で突っ込むしかないが、綱吉は躊躇することなく一直線に飛んだ。

 

「ハハッ」

 

 恰好の的とばかりにDが無数のダイナマイトを投げつける。その軌道を読んで直撃を躱す綱吉だったが、爆風を浴びて苦悶の声を上げた。

 

「ボス! どうして!?」

「ダイナマイトに雷を仕込んでやがる。あれじゃ爆風を浴びるだけでダメージを食らうぞ」「え、じゃあ爆風も避けなきゃいけないの!? 無理じゃない!?」

 

 実際、綱吉は動きを止めてしまった。

 身体に電撃が走れば、身体は反射的に硬直してしまう。後ろ手に炎を放出しなければ前に飛べない綱吉にとっては、接近手段を完全に封じられたようなものである。さらに、隙だらけの綱吉に追撃を与えんとばかりにDが左手の指輪をかざしていて――

 

「っ、危ない!」

 

 炎真が飛んだ。重力を操れる炎真は、炎を放たなくても空を飛べるようだ。ゆえに、Dに気取られることなく距離を詰め、その顔めがけて跳び蹴りを放った。

 

「惜しい!」

 

 すんでで右腕にガードされてしまった。しかしDは距離を取るために構えをとき、そのあいだに炎真は綱吉と合流した。二人が、並んで立っている。

 

「……ねえ、リボーン君」

 

 二人の姿を見つめながら、リボーンに問いかける。

 

「もう、敵同士じゃないんだよね? もう、二人は――」

 

 そこから先は続けられなかった。

 

 だって、切り取られたのだ。引きちぎられたのだ。叫んでも戻ってきてはくれなかったのだ。確信を得たいのに確認するのが怖くなって、指先が震える。

 

 そんな利奈にリボーンは解を示さなかった。ただ一言、心配かけたな、とだけ呟いた。

 それだけで利奈は、泣きそうになりながら笑った。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

道化を招いた報い

 

 

 かたや、初代ボンゴレファミリー守護者にして、安寧の終わりをもたらさんとする者。かたや、次世代を担うファミリーのボスとして、破滅の始まりを防がんとする者。過去と未来。闇と光。絶望と希望が相対する。

 

「しかし、いいのですか? 古里炎真」

 

 Dは薄笑いを浮かべていた。骸の顔で笑ってはいるが、その表情はやはり骸当人のものとはまるで違う。年を取っているぶん、話し方も老獪であった。

 

「知ってのとおり、沢田綱吉は沢田家光の息子ですよ? 許してしまっていいのですか?」

 

 獲物をいたぶる猫のようにDは炎真に揺さぶりをかける。

 

「本当に、いいのですか? 自分の家族を惨殺した男の息子を受け入れて」

 

 その言葉に目を剥いたのは、事情を知らない利奈とクロームの二人だけだった。

 

(ツナのお父さんが、炎真君の家族を殺した……!?)

 

 継承式では、そんな話は出てこなかった。つまり、この島にいるあいだに告げられたのだろう。友達の親が家族を殺したと聞いて――そして、自分の親が友達の家族を殺したと聞かされたときの心情は、如何ばかりか。

 

「それはジュリーに憑依したお前が作ったデタラメだ。僕とツナ君を敵対させるためについたウソだ」

「おやおやおや。では、いったいだれにお前の家族は殺されたのですか? 両親と妹が殺された現場にはお前もいたのでしょう。犯人の姿を見ていたのではないのですか?」

「……それは」

「ほら、覚えているでしょう。その男の顔は? そこにいる沢田綱吉に似てはいませんでしたか?」

 

 畳みかけるDに、綱吉が不安そうな眼差しを炎真に向けた。こんな話を聞かされて、平静を保てるはずがない。そして炎真も、デタラメだと言い切ってはいるが根拠はないのか、黙り込んでしまった。

 

「あの男は揺さぶりをかけるのがうまいですね」

 

 骸が呟く。

 

「骸さんはなにか知ってるんですか?」

「残念ながら、僕の計画に益のない情報までは。ただ、アルコバレーノの表情を見る限り、まったくのホラ話ではないようです」

 

 そうは言うけれど、リボーンはいつもと同じ無表情だ。否定できないなにかがあるのか、否定できるなにかがないのか、口は閉ざしたままである。

 

(ティモッテオさんからなにか聞ければいいんだけど、通信機は使えないし――って、あれ?)

 

 現ボンゴレファミリー九代目ボスに思いを馳せたところで、ふと利奈の頭に、なにかひらめきのようなものがよぎった。しかしそれを捕まえるよりも前に、炎真が重い口を開く。

 

「確かに、僕の記憶には立ち去る犯人の後ろ姿がある。……お前に見せられたツナ君のお父さんの写真と、まったくの別人だったと言い切ることは、出来ない」

 

 一言一言区切るように炎真は続ける。その話し方には葛藤が見えたが、それは疑いからくるものではなかった。

 

「でも、たとえ、もし万が一にツナ君のお父さんが僕の家族を殺したんだとしても。僕は、もうツナ君を憎まない。だってツナ君は、僕にずっと手を差し伸べてくれてたから。ツナ君は裏切らなかった。こんな僕を見捨てないで、命がけで助けに来てくれた。僕を誇りだって言ってくれた」

 

 そう、裏切ったのはD・スペードただ一人だ。ジョットを裏切ってシモンファミリーを破滅させただけでは飽き足らず、現代においてまで炎真たちをそそのかし、こんな大事件を引き起させた。

 

(……そういえば、Dとティモッテオさんが船で話してたとき――なんだっけ、すごく重要そうなこと言ってなかったっけ?)

 

 二人が交わしていた言葉はそう多くない。

 シモンのみんなをたぶらかしたとか、あんなのを十代目に選ぶなんて耄碌してるとか、悪口の応酬ばかりだった。ただそのなかにひとつ、耳馴染みのない単語を聞いたような――

 

「そこまで信頼しているのなら、もうなにを言っても無駄ですかね。ですが、沢田家光の犯行なのは間違いありませんよ、神に誓ってもいい。そもそも事の発端は――」

「血の洪水事件!」

 

 名称を思い出した利奈の声が、Dの洗脳の言葉を遮る。全員の視線が一斉に集まったのにも怯まず、利奈はさらに声を張った。

 

「ティモッテオさんが言ってた! Dが言った話はデタラメだって! 血の洪水事件もその人が仕組んだことだって! その人も全部認めてた! だからきっと――」

 

 ――さて、ここで一度、D・スペードの立場になって利奈の発言を聞いてみてほしい。

 

 Dは現ボンゴレファミリーを崩壊させるため、長年かけて様々な種を蒔いてきた。

 そのうちのひとつがシモンファミリー跡取りの思考誘導だ。仲間のふりをして犯人の名を告げれば、炎真は面白いように綱吉を恨んだ。そして綱吉も、自身の体に流れる血を疑った。残念ながら、未熟な人間がよく口にする絆やら信頼とやらでご破算になってしまったが。

 

 となれば種明かしの時間だと口を開いた瞬間、唐突に話をぶった切られたのだ。それも、守護者やアルコバレーノならまだしも、なんの役職も持っていない子供に。

 そう、子供という者は厄介なものだ。理性より感情を優先させ、立場や責任をたやすく投げ捨てる。見ている手品の種を、ほかの人間の前で平気で明かす。そして、自分はすでに知っているのだと自慢げに胸を張るのだ。

 

 ここでさらにDの感情に寄り添ってほしい。

 

 そもそも、相沢利奈にこの舞台のチケットは渡していなかった。

 船で人質として扱ったものの、危害は加えていないし、すぐに解放した。にもかかわらず、あちらが勝手に追いかけてきて、自分から窮地に陥ったのである。

 島に連れてきてやったのは、非力な娘に対する温情だった。なにも力を持っていないくせに、健気にここまでやってきたことへの賞賛もあったかもしれない。それと、そこまでしたというのに、綱吉の命が無残に潰えたならば。その口から漏れる怨嗟は、きっと新しいボンゴレを彩る賛美歌になるだろうという期待。

 

 だかしかし、現実はこれである。

 神に誓いを立てていいとまでうそぶいたその直後に、すべて台無しにされたのである。ただの子供に。非力な娘に。駒にすらならなかった木偶に。Dの心情は、推し量ってあまりあるものだろう。

 殺意を抱くのは無理もない。それを眼差しに込めるのも無理はない。斬りかかってもいいくらいだ。――いや、もうすでにDは斬りつけていた。全員が利奈に注目しているということは、だれもDに注意を払っていないということである。

 

 山本武の武器、雨のボンゴレギア。

 その斬撃は衝撃波を生み、無数の刃が利奈へと襲いかかった。

 

「なっ――」

「くっ――」

 

 綱吉と炎真が気付いたときには、すでに刃は二人を出し抜いていた。自身に対する攻撃ならともかく、離れた他者への攻撃は察知しづらい。首を動かすので精一杯だった。

 

 一方、凄腕のヒットマンであるリボーンには余裕があった。Dの初動は見逃したものの、距離があるぶん時間の猶予もあり、利奈に届く前に斬撃を撃ち消すこともできた。

 しかし、リボーンは動かなかった。彼は凄腕のヒットマンであると同時に、次世代を担う若人を導く家庭教師でもあったからだ。衝撃波が利奈に迫る。

 

(これ、やばっ――)

 

 注目を浴びる側だった利奈は、Dが抜刀してから振り抜くまでの一部始終が目視できた。しかし、圧倒的に反射速度が足りない。咄嗟に身体をひねって頭を腕で庇ったが、それも悪あがきにしかならなかっただろう。身を挺して守ってくれる、友人がいなければ。

 

「させない!」

 

 紫色の炎が利奈の視界を覆い、衝突音が前方で響いた。思わず正面に目を戻すと、立ちはだかるようにしてクロームが槍を構えていた。目前に迫っていたはずの衝撃波は、いつのまにか霧散している。クロームの放出した防御壁が、雨の刃を蒸発させたのである。

 

 綱吉と炎真は安堵の顔で息をつき、リボーンと骸は満足そうに目元を緩めた。そして利奈は、深く深く息を吸い、そして言葉とともに吐き出した。

 

「か、かっこいい……」

 

 胸の高鳴りは恐怖のせいだけではないだろう。

 追撃に備え、Dを見据え続けるクローム。その姿に囚われのお姫様の面影はまるではなく、民を守る誇り高き騎士の佇まいそのものであった。

 

 不意打ちを防がれたDだが、さほど悔しげな様子も見せずに肩をすくめた。

 

「ふん、まあいいでしょう。ええ、はい。そのとおり。同盟ファミリーボスの自宅に銃弾を撃ち込んだのも、血の洪水事件も、古里炎真の家族を皆殺しにしたのも全部私です。炎真の父である古里真に容疑を被せ、沢田綱吉の父親が私情で断罪したように見せかけました。お前たちの言うとおり、すべて私が仕組んだ出来事です。はい、これで満足ですか?」

 

 一息にDが真相を告げる。まるで話ついでの雑談のように。

 

「な、なんか雑……」

 

 あまりに投げやりに真相を明かされたため、当事者の綱吉と炎真までもが反応に困っている。

 

(それに血の洪水事件って言われてもピンとこないんだけど。私、内容知らないし)

 

 利奈は解説の機会を自分でふいにしたとは夢にも思っていなかった。突然の不意打ちの意味すらわかっていない。異空間でのため息は利奈には届かない。

 

「リボーン君はわかる?」

「だいたいはな。だが、はっきり言ってまともじゃねえぞ。今のボンゴレを壊すためだけに、自分が過去に壊滅させたシモンファミリーの後継者の家族を皆殺しにしたんだ。

 それも、つい最近じゃねえ。何年も前から計画を進めて、このタイミングでぶつけてきやがった。だがな」

 

 そしてリボーンは最も恐ろしい事実を告げた。

 

「――ツナがボンゴレボス候補に決まったのは、去年の春だ」

 

 その瞬間、全員の背筋に冷たいものが走った。

 綱吉がボス候補になったのは、ほかのボス候補が相次いで亡くなったからである。だから、ほかのボス候補が生きていれば綱吉に白羽の矢が立つことはなかったわけで――家光の犯行に見せかける意味など、その当時にはなかったはずなのだ。つまり、炎真の家族は、もしものための保険で殺されたのである。

 

「そ、そんな……ひどい」

 

 クロームが真っ青になりながら口元を手で押さえる。利奈も同感だった。人を玩具の駒のように扱う人物には心当たりがいくつがあるが、ここまで人の命を虚仮にした人間は――いや、もう一人いた。が、しかし今はどうでもいい。

 

「おっと、それは少々買いかぶりすぎですよ」

 

 やっと満足する反応を得られたのか、Dが口元を緩める。

 

「沢田家光を装ったのは、彼がCEDEFのボスだったからです。それに沢田綱吉がボス候補にならなければ、私もこんな性急なやり方でボンゴレを変革しようとは思いませんでした。

 結果としては、うまく回りましたけどね。こうして完璧な体を手に入れ、自分自身の手でボンゴレを作り直せるようになった! いやあ、まさに神の恩恵! 僥倖というものです」

「ふざけるな!」

 

 綱吉が叫ぶ。

 

「お前、人の命をなんだと思っている! いったい何人の人間を殺してきたんだ!」

「D! お前だけは許さない!」

 

 二人が同時に飛んだ。オレンジ色の炎が、彗星の尾のように伸びていく。

 

「ヌフフ、だれも赦しを請うてなんかいませんよ」

「また地面が!」

 

 山属性の効果でまたもや地形が変わった。今度は大地を盾にするつもりらしく、二人の行く手を阻むように地面が盛り上がる。

 炎真はそれを避けるべく綱吉に拳を向けてたが、綱吉は突き出した拳を合わせはせずに、そのまま炎真の拳を握りこんだ。

 

「っ、ツナ君?」

「回避は駄目だ。このまま突っ込む!」

 

 ぶつかる寸前、綱吉が空いている右手を突き出し、勢いそのままに土の壁を破壊した。

 

 綱吉の選択は正しかった。

 二人にはDの挙動が見えなくなっていたが、離れた場所からは、Dが刀を振るう姿がわずかに見えていた。二人が通過した壁の両側を、音速の刃が通り過ぎていく。もしもあそこで回避を選んでいたら、二人とも死角からの斬撃に斬りつけられていただろう。

 

「ふむ。やはり超直感は厄介ですね」

「骸さん、それ、敵側の台詞」

 

 今も綱吉の味方ではないのだろうが、ぼそっと素で呟かれると反応に困る。

 しかし実際の対戦相手であるDは突破された場合の策も考えていたようで、すかさずクロームと同じ、霧の防御壁を張った。

 

「その技は知っている!」

 

 綱吉は壁を砕いた手を伸ばし続け、霧に手を入れた。するとどうだろう、霧は綱吉を阻むことなく受け入れる。大空属性の調和の力が、霧の壁を無力化したのだ。さっきは雨の刃を阻む頑強な盾だったのに、今はカーテンのようにするりと綱吉を受け入れた。エンジンの役割を果たしていた炎真と一緒に。

 

「いけ、炎真!」

 

 綱吉は炎真の拳を両手で掴むと、ハンマー投げの要領でDへと投げ飛ばした。Dにはもう、それを防ぐ手立てがない。

 炎真は敵を見据えた。歴代シモンファミリーの――家族の――仲間たちの――そして、友達の敵を。

 

「みんなの仇!」

 

 振り抜いた炎真の握り拳は、深く深くDの顔にめり込んだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勇を示せ

 

 炎真の拳はDを吹っ飛ばしたが、もちろんそれで決着というわけにはいかなかった。

 薫の属性技で二人は回避を余儀なくされたし、鬼ごっこならばと、今度はアーデルハイトの属性技で人数差を大きく覆された。何百体という氷の彫像が同じ方角を向いている様は、悪い白昼夢のようだ。本当に夢に出かねない。

 

 一体一体倒していたらキリがなかっただろうが、炎真が物言わぬ彼女たちを自身の能力で無力化し、さらには綱吉とのコンボ技でDにXカノンを叩き込む。その攻撃は惜しくも隼人のボンゴレギアに阻まれたものの、二人の連携能力の高さはもはや疑いようがない。まるで昔からずっとコンビを組んでいたみたいに、息がぴったりなのだ。

 自身のギアを敵に利用されたことも相まって、隼人が異空間で歯がみする気配がした。

 

「よろしい、ならば本気を出しましょう」

 

 負け惜しみのような台詞ではあるが、実際、Dは本気を出していなかった。なぜかDは大空と大地以外の属性をすべて使えるわけだが、これまでは小出しに能力を展開するだけだった。いわば、小手調べである。なので、本気を出すとなるとすべてを解放することになるのだが、それがどういうことかというと――

 

「え、ダサい……」

 

 すべてのギアを展開するということは、すべての武器を同時に身につけるということにほかならない。つまり、つじつまの合わない、統一性のない、実用性のためにセンスを捨てた恰好になるのである。

 

 手に錫杖、腰に二対の刀とトンファー、右側頭部に角、左肩にドリル、両肩からダイナマイト、腰にもダイナマイト、そして極めつけに背中から生えた八つの虫の足。ごちゃごちゃと装着しているせいで、実用性すら捨て去っている感が否めない。せめて虫の足を外せと言いたいところだが、外したところで焼け石に水なのは間違いなかった。

 

「利奈、それ以上油を注ぐのはやめなさい。あのうちの一体が来たら死ぬんですよ」

「だって……虫が六匹」

「利奈」

 

 わかっている。次はさすがに命がないことくらいはわかっている。

 でも、ほかのみんなみたいに、純粋に能力値だけを考えることは利奈には出来なかった。これでも多感な女子中学生なのだ。一言言わずにはいられなかった。

 だって、あの恰好のままDが六人に増えたのだ。距離があって小さく見えているぶん、いっそう昆虫のようだった。黒ずくめだったら悲鳴を上げていた。

 

 しかし、そんな姿に身をやつしただけあって、Dの戦闘力は格段に上昇していた。六対二という人数差もさることながら、使える手札の多さが厄介だ。ジャブと袈裟斬りを躱して炎真が反撃するも、グローブで防がれてそこを刀に斬りつけられる。綱吉が助けにいこうとしても、もう二人のDが綱吉の行く手を阻み分断する。

 

「っ、この!」

 

 空中で逆立ちした綱吉が、二人のDの顔を同時に蹴り上げた。しかしそれは幻覚で、Dにダメージは与えられない。

 

「ああ、もう! イライラする!」

 

 人の武器を奪ったうえ、人数を増やすなんて反則だ。綱吉たちも手をこまねいている。

 

「ねえツナ君、分裂したDたちは幻覚で出来てるんじゃないかな!?」

 

 炎真が叫んだ。いくらなんでも、人が六人に分裂するのは無理がある。増えた五人は幻覚だと考えるのが妥当だ。しかし、それだと炎圧も六倍に増えていることの説明がつかない。綱吉の超直感でも、偽物は見つけられていなかった。

 

「あれは偽物のなかに本物が混ざっているのではなく、本物のなかに偽物を混ぜているのです」

 

 上空で観察していた骸が口を開いた。

 

「なにが違うんですか?」

「そうですね……。六つの箱のうちのひとつに宝箱があるのではなく、宝箱が六つあって、開けようとすると中身が別の宝箱に移動するようなものですかね。相手の攻撃はどれも本物ですが、こちらが攻撃しようとすると偽物と入れ替わるのです」

「うええ!? そんなのズルじゃないですか」

「熟練の術士がよく使う手ですよ。経験を積んだ術士ならば見抜けますが、生憎と僕はこのとおり」

 

 自虐するように骸が翼を振るう。その体では、たとえ見抜けたところで加勢はできないだろう。

 

「術士……」

 

 骸の言葉を受け、クロームがぽつりと呟く。優秀な術士なら、ここにも一人いた。

 

「そうだよ! クロームなら――」

「だめですよ」

「ヒンッ」

 

 余った二人のDが音もなく現れ、利奈は悲鳴ごと息を飲み込んだ。咄嗟にクロームの腕を掴む。

 

「貴方たちは観客だから生かされているのです。舞台に上がろうとするなら、容赦なく殺しますよ」

「おやおや。それだけの力を身につけておきながら、あまり余裕がないようですね。人の身体をこれでもかと使っておいて。 ……人の身体で!」

 

 やはり骸の不満はそれらしい。利奈だったら、自分の体をこんなふうにされたらもう怒りすら湧かない。ただただ泣く。呪う。

 

「手出しするつもりはねーぞ。お前はツナたちがぶっ飛ばすからな」

 

 やはりここでもリボーンは手を出さないつもりらしい。

 恭弥や骸の態度からしてリボーンも相当に強いはずだが、今まで一度だって戦いに参加したことはない。家庭教師として、教え子に全幅の信頼を寄せているのだ。

 その挑発ともとれるリボーンの態度に、Dはクスクスと笑う。綱吉たちに負けるはずがないと確信しているのだろう。今だって、圧倒的な戦力差に二人は手をこまねいている。二対一でアレなのだから、三対一になってしまったら――考えるまでもない。

 

「ちょっと待って! なんでそんなに強いボンゴレにこだわるの!? なんでそこまで!」

 

 マフィアに常識は通じないとはいえ、いくらなんでも常軌を逸している。

 自身が所属している頃ならばわかる。実際にDは、ボスのジョットを騙してまでボンゴレの弱体化を阻んだ。しかし今はもう、彼は表舞台の住人ではないのだ。にもかかわらず謀略を巡らせ、人の身体を乗っ取り、ボンゴレを一から作り替えようとしてまで、Dは最強のボンゴレに執着していた。そこには、個人の野望を超えた、もはや狂気じみた執念が感じられる。

 

「残念ですが、子供の時間稼ぎに付き合ってる暇はありません。そこでお友達が殺されるのを黙って見ていてください」

「D!」

 

 二人のDが戦闘に加わる。二人でも手一杯だった綱吉は、背後に回った三人目のDに後ろから頭を殴りつけれた。どちらかが脱落すれば、その時点で勝負は終了だ。六対一では話にならない。炎真も三人のDに翻弄され、加勢どころではなかった。

 

「こうも物量に差があると厳しいですね。最強のボンゴレを作り直すと豪語するだけのことはある」

「最強……」

 

 確かにDは強い。たとえボンゴレ守護者が全員で立ち向かったとしても、勝ち目は薄いだろう。

 でも、それでも。Dにボンゴレを乗っ取らせるわけにはいかない。綱吉を弱者と切り捨てた男に、最強を名乗らせるわけにはいかない。

 

 綱吉は切り捨てていい存在じゃない。綱吉がいなければ、綱吉でなければ、未来は白に染まっていた。炎真は救われなかった。もっとも戦いを嫌う綱吉がだれよりも前に立って拳を振るうから、みんな命懸けで綱吉に応えるのだ。

 

「ツナ君! 僕ごと全部のDを焼き払うんだ!」

 

 炎真は自身に六人のDを吸い寄せながら叫んだ。

 綱吉の攻撃をまともに受けたら、まず自身の命はないと知りながら。

 

「撃ってボス! 私が古里炎真を守るから!」

 

 先ほど利奈を守ったときと同じように、クロームが炎真を庇う。

 情を捨てられない綱吉の意を汲むように。

 

「まったく、困ったお転婆娘ですね」

 

 骸がなけなしの炎を放ち、クロームのバリアを強化する。

 これで骸はすべての力を使い果たした。

 

 強さというのはきっと、こういうことを言うのだろう。Dの目指す強いボンゴレに、みんなはいない。いったいだれが、Dの作るファミリーを愛するのだろう。いったいだれが、そんなファミリーを守ろうと思うのだろう。

 

「綺麗事はたくさんだ! ボンゴレはなにより強くなくてはならない!」

 

 力にこだわるDは、みんなの強さには気付かない。武装が解け、髪や服がボロボロになっても、異端である綱吉を認めようとはしない。

 

 綱吉を殺そうとするDを、だれも止められなかった。

 クロームと骸は力を使い果たして動くことも出来なかったし、リボーンは突如現れた長身の黒ずくめたちに行く手を阻まれた。炎真は這ってDの足にしがみついたが、一蹴りであしらわれた。――でも、そのわずかな隙が利奈を突き動かした。

 

「……それはなんの真似ですか?」

 

 綱吉は全身の骨を砕かれた。Dに放ったXX BURNERで、気力も体力も底をついている。もうきっと打つ手はない。

 それでも、綱吉の心臓はまだ動いている。綱吉はまだ生きている。ならば、利奈が身を呈するには十分だった。

 

「……殺させない。ツナは絶対に殺させない!」

 

 綱吉に縋りつき、絶対に退かないと誓うように服を握りしめる。綱吉はもう、覆い被さる利奈に反応できないほどに衰弱しきっていた。

 

 これは最善の一手ではない。こんな、背中から斬りつけてくださいといわんばかりの体勢、どうかしている。でも綱吉を庇うには――とどめの一撃を防ぐには、これしかなかった。立ち塞がったところで、炎真と同じように一蹴されて終わりだ。文字通り命を懸けなければ綱吉は守れない。不思議と身体は震えなかった。覚悟は決まっていた。

 

 綱吉の命を犠牲にすれば、あるいは、Dを殺せたかもしれない。今の弱っているDならば、髪飾りに仕組んだ針で首を貫けたのかもしれない。――いや、きっと利奈では殺せないだろう。あるかないかわからない勝ちの目のために、綱吉を囮にはできない。利奈だって、友達を犠牲にしてまで得る勝利はないのだ。

 

「そこをどきなさい。力のない小娘を殺しても目覚めが悪いだけだ」

「どかない」

「まったく、どこまで私の」

「っ、あ!? ぐっ……!」

 

 なんの前触れもなく、サッカーボールボールのように脇腹を蹴り上げられた。放しそうになった右手の指に力を込め、脂汗を浮かべながら歯を食いしばる。しかしそれをあざ笑うように、Dは靴底で利奈の背中を踏みつけた。クロームが悲鳴を上げるが、利奈には届かない。

 

「そんなに心中したいというのなら、望み通り一緒に首を刈りとってあげましょう。海で悠長に待っている九代目ボンゴレへの土産にちょうどいい」

「う、あ……!」

 

 綱吉の首を庇いたいのに、足で押さえつけられて身体が動かせない。チカチカと脳で危険信号が光るが、もう抵抗すらできなかった。

 

 せめて殺そうとする相手の顔くらい拝んでおこうと、かろうじて自由な首を動かす。これから斬られるであろう部位だけ動くなんて、とんだ皮肉だ。

 

(ああ、でもだめだ。首、そんなにひねれないや)

 

 仰向けの状態で真上を向くのは不可能だと、頑張ったあとに気付いてしまう。見えるのはDの足と地面と――蹴り飛ばされて転がっていた炎真だけだった。

 

(最期に見るのが炎真君か……やだなあ、仲直りできてないのに)

 

 いや、そもそも喧嘩にすらなっていなかったか。利奈の言葉を炎真は聞いてくれなかった。こんなとこまで追いかけてきたのに、会話すらできていない。

 

(ツナとはちゃんと話せたのかな。二人が仲直りしたんなら、いっか……)

 

 そう思うしかなかった。だって、心残りを作ったりしたら、きれいに死ねなくなってしまう。だから、炎真と合わせることなく目を閉じた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

古典芝居は流行らない

 

 

 閉じたまぶたは、二度と開かないはずだった。それなのに利奈は目を開けていた。

 暗くなったまぶたの裏に、小さな光が見えたのだ。痛みのあまり目が眩んだのかと思ったけれど、首はまだ胴体と繋がっていた。

 

(……死ぬ前って、動きがゆっくりになるんだっけ?)

 

 何度も死にそうな目に遭ったけれど、こんなことは初めてだ。

 初めての感覚に戸惑っていたら、今度こそ、目も眩むような光が辺りを包みこんだ。

 

「きゃあ!」

「くっ!」

 

 光――いや、死ぬ気の炎は綱吉の体から立ちのぼっていた。

 Dが構えを解いたので、利奈は体を起こしてその原因を探る。炎の奔流は綱吉どころか、利奈の身体まで覆っていた。熱くはないけれど、炎の密度に圧倒されてしまいそうだ。

 

(この炎、どこから出てるの!? リング?)

 

 綱吉の右手を見る。

 予想通り、大空のリングから炎が湧き上がっていた。赤と橙の炎が、渦を巻いている。

 

(赤って嵐でしょ? なんで――ううん、違う! これ、嵐じゃない!)

 

 大空の七属性だと赤は嵐属性だが、大地の七属性では赤は大地属性だ。

 利奈は綱吉の右手を取り、大空のリングを確認した。大空リングの下に、炎真の大地リングが嵌まっている。

 

(いつのまに……もしかして、さっきの?)

 

 先ほどまぶたの裏で感じた光は、大地のリングの光だったようだ。

 Dの目を盗んで炎真が投げつけたに違いない――と、リングがカブトムシの形状に変化してひとりでに飛んでくるという、ありえない衝撃映像を見逃した利奈はそう結論づけた。

 綱吉の右手が、利奈の手のなかで動く。

 

「ツナ!」

「……利奈……?」

 

 ぼんやりした様子の綱吉の焦点が、徐々に利奈に合っていく。

 いつのまにか体の上に乗っている利奈に戸惑いながらも、綱吉は握られていた右手に目をやった。ふたつのリングは、互いを尊重しあうように縦に並んでいる。

 

「ボンゴレとシモンの意志がひとつになったか」

 

 リボーンを見張る包帯男が、そう呟いた。こちらに背中を向けているが、包帯の隙間から不気味な瞳が覗いている。

 

「あれもまた鍵だ」

 

(鍵?)

 

「つーことは、あのリングも過去の記憶に関係があるんだな」

「左様だ」

 

 過去の記憶というと、今まで骸が見ていたジョットとシモンのやりとりのことだろうか。ならばみんなは、鍵となる物を集め続けていたのだろうか。

 

「再び過去の記憶へと、誘え」

 

 復讐者の言葉とともに、綱吉のリングから光が散った。

 蛍のような小さな光は、リングを持ったみんなの元へと飛んでいく。記憶を見られるのは守護者だけのようで、利奈とリボーン、それから復讐者に光は届かなかった。だから彼らがなにを見ているのか、過去になにがあったのかはわからない。

 ただ、ひとつだけ確信があった。ふたつのリングが合わさって初めて鍵になるというのなら、この形こそがリングの完成形なのだ。

 

「おのれジョットとコザァート! ふざけた真似を!」

 

 鎌を振り下ろしながらDが吠える。しかし、その叫びはもう届かない。そして振り下ろされた刃も、利奈たちの身体を貫きはしなかった。

 

「利奈、怪我は?」

「……え?」

 

 綱吉の問いかけに、利奈は惚けたように瞬きをした。

 

(あ、あれ? なんでツナが上にいるの?)

 

 鎌を振り上げられて思わず目をつむってしまったけれど、いつのまにか視界が逆転していた。それどころか、綱吉に体を抱えられている。

 綱吉の眉間には、しわが寄っていた。いつのまにか戦闘モードに戻ったようだ。

 

「なんだと?!」

 

 Dが振り返ってこちらを見た。

 振り下ろした鎌の先は地面に突き刺さっていて、さっきまで二人はその場所にいたはずだった。それなのに、今はDの背後を取っている。考えられるのはひとつだ。

 

(一瞬でここまで飛んだの!? 鎌が振り下ろされたあの一瞬に!?)

 

 混乱しきりの利奈を地面に下ろし、綱吉が立ち上がる。そこでやっと、綱吉が全身の骨を砕かれていたことを思い出した。

 

「つ、ツナ? 身体、痛くないの?」

「大地の炎の、重力コーティングのおかげだ」

 

 重力コーティング。Dに砕かれた骨を、大地の重力で引き寄せて元通りに――いや、炎で強く引き合わせることで、さらに強固に形作らせたというのだ。

 

「別属性の炎を体内で使いこなすだと!? ……大空の調和か!」

 

 大空の炎は、すべての属性を操ることができる。それは大地の七属性にも当てはまったということか。

 骨が強化されたこともさることながら、綱吉の炎圧もまた著しく上がっていた。リングの数でいえば六対二だが、今の綱吉から吹き出ている炎圧は、Dに勝るとも劣らない。リングを奪っただけのDが足し算で力を増したのに対して、綱吉の炎圧はかけ算だ。元の力が強ければ強いほど、綱吉に軍配が上がる。

 

 さらに綱吉は大地の重力を使い、Dの体を引き寄せたうえで真下に殴りつけた。

 Dからすれば、一瞬で綱吉が目の前に現れたようなものだ。逃避も防御もできずに地面に叩きつけられ、そのまま全身が地面にめり込んだ。

 

(あれ、地面固かったらとんでもないことになってたんじゃ――)

 

 グロ映像を想像しつつ、利奈はおなかを押さえながら退避を始めた。

 

 綱吉が優勢なように見えるが、さすがにこれで終わりではないだろう。戦力差を覆された今のDならば、利奈を人質に取りかねない。それに綱吉の必殺技X BURNERは、背後にも炎を噴出する技だ。後ろにいるだけで、綱吉の足かせになってしまう。

 Dに蹴り上げられた脇腹が尋常でない痛みを訴えているけれど、我慢するしかない。

 

「骸さん!」

 

 いまだに骸が仰向けだったので、両手で拾い上げて胸に抱えた。白い羽はすっかり土で汚れてしまっている。

 

「貴方も無茶をしますね」

「だって……」

「まだ終わってねーぞ」

 

 リボーンの言葉通り、Dが穴から飛び出した。しかし、すぐさま綱吉に引き寄せられる。今度は邪魔になる利奈がいないので、綱吉の手が後ろにも伸びた。

 

「くっ……!」

 

 防御する間など、与えるわけがない。今度は超至近距離でX BURNERが放たれた。高密度の炎がDの体を蹂躙し、消し炭のように真っ黒に燃え上がった。

 

「やった!」

 

 勝ったとばかりに利奈は拳を握るが、腕のなかの骸が、静かに利奈を見上げた。

 

「僕の身体ですが」

「……あ」

「いや、まだだ。立て、D」

 

 綱吉は拳を解いていない。

 

「この程度で死ぬなら、この時代まで生き残れるはずがない」

 

(そうだ、さっきも騙されたんだった……!)

 

 まんまと騙されかけた利奈は、上げた拳をごまかすように仕込み針を手に取った。暗殺特化の針だけど、ないよりはマシだ。

 

「ばれ……たか……」

 

 消し炭が喋った。またもや巨大な舌が肢体を舐める。

 

「さすがに今回は全回復とはいかないようですね」

「ほんとだ! でも……なんか、すごく気持ち悪い……」

 

 とうとう回復が損傷に追いつかなくなったようだが、そのせいでグロさが増している。身体中に目と口が増えているし、服は焦げて真っ黒だし、全身からはどす黒い炎も上がっていた。さらにここにきてまた炎圧が上がり、肌を刺すような重圧を感じた。

 骸を抱きしめる腕に力がこもり、骸がうめく。

 

「ヌフフフフ。とうとうやってきたようだ……私のとっておきを見せるときが!」

 

 もはや骸の原型すらなくなってしまったが、その目にはまだ光が残っていた。光というにはあまりにも、あまりにもどす黒い光が。

 なにをするつもりなのかと固唾を呑むが、綱吉だけがDの魂胆を見抜いていた。

 

「情けないな、D」

 

 両腕を下ろし、静かにDを見据える。

 

「逃げることがとっておきか?」

「っ!」

「え?」

 

(この状況で、逃げる?)

 

 にわかには信じられないが、綱吉はDの纏う炎の種類を指摘した。言われてみれば、ここに来たときとまったく同じ炎である。

 大空の属性にも、大地の属性にもない、物理の壁を越えた長距離移動を可能とする炎。第八の属性の炎だと、Dは言った。

 

「私は逃避を恥じてはいない。いっときのくだらない感情にほだされて、死を選んだりはしない!」

「だからって逃げるの!? ツナは逃げなかったのに!」

 

 Dに数歩近づきながら、利奈は声を張り上げた。

 どんなに絶望的な状況でも、圧倒的不利な場面に追い込まれても、綱吉は逃げ出したりしなかった。それなのにDは、戦況を覆された途端に逃げを打とうとしている。自分だけ逃げ出そうだなんて、そんな横暴が許されるものか。

 

「なんとでも言えばいい。目先の勝ち負けなどどうでもいい。私は生きる!

 そのためなら、どんな汚辱も飲み込もう! 術士としての禁忌を犯し、肉体すらも捨て去ろう!」

 

 Dの言葉に骸が唸る。

 

「やはり――とうの昔に身体を捨てていたか。他人の肉体を使い、精神のみをこの時代まで」

「え……、すごく長生きなおじいちゃんとかじゃなかったんですか!?」

「そう思っていたのは貴方だけですよ」

「ええ!?」

 

 衝撃の事実に驚愕するが、どうりで若い外見や身のこなしに違和感がなかったわけである。精神年齢も肉体年齢も、全盛期を保ったままなのだろう。

 

「言うのは簡単ですが、他人の身体で生き続けるのは相当な精神力が必要ですよ。乗り移るだけの憑依とはわけが違う。自己定義が揺らげば、すぐさま魂が消失するでしょう」

「そんなに大変なんですか?」

「だてに禁忌と呼ばれてませんよ。僕はごめんです」

「……うん?」

 

 過去に綱吉の体を狙っていたうえに、今現在フクロウに憑依している人物の台詞とはとても思えない。だがまあ、とにかく、代償は大きいらしい。

 

「ヌフフ、私にはそこまでするに足る崇高な目的があるのだ。次に会うときには、今度こそ、お前たちを完膚なきまでに叩きのめしてやろう」

 

 黒い炎が空間を形作る。ここで逃がせば、また新たな惨劇が生まれる。

 

 ――だが、決着のついていない舞台に、幕引きなどありえるものか。

 観客は拍手を送らない。だから、カーテンコールはありえない。あるのは綱吉からの引導だけだ。

 

「言っただろう。お前だけは許さない。逃がしもしない」

 

 重力に押し込まれ、Dの体が地面に沈む。

 

「またしても……!」

 

 渾身の力を振り絞って立ち上がろうとするが、弱っているせいか抗えずにいる。

 

 綱吉はしばしDを見下ろしていたが、思い直したように拳の炎を解いた。

 

「ツナ?」

「……やめよう」

「え、なんで」

 

 やっとここまで追い詰めたのに。これでやっと、すべての決着がつくというのに。

 責めるように問いかけるが、綱吉の意思は変わらなかった。

 

「これ以上殴っても、なくなったものは戻らない。あいつを痛めつけたところで、殺された人たちが救われるわけじゃない。だったらこのまま、捕まって罪を償ってもらいたい」

「――っ」

「相変わらず甘い男ですね」

「ツナ君……」

 

 利奈の絶句を骸が埋めた。一番の被害者である炎真も異論はないようだ。

 

(ウソでしょ!? この人、引き渡すの!?)

 

 どう考えても得策ではない。すでにDは、骸の体で監獄をめちゃくちゃにしているのだ。今は虫の息だが、回復したらまた脱獄するかもしれない。そうなったら、また多くの人が巻き込まれ、殺されてしまう。そうなるくらいなら、今ここでとどめを刺すべきだ。

 利奈はそう考えたが、この満場一致の状況で否を出せるわけがない。そもそも、肉体は骸のものなのである。だから利奈は沈黙を貫く。しかし、その決定を受け入れない者がいた。

 

「ツナ君! 炎が!」

 

 炎真の声でハッとする。

 Dが形成していた異空間に繋がる炎が消失し、かわりに体を纏う炎圧が強くなった。逃げるためのエネルギーを身体に回しているのだ。つまり、ここで決着をつける覚悟を決めたということである。綱吉の正義が、Dの退路を絶った。

 

「次こそ、奥義だ」

「……わかった。全力で倒させてもらう」

 

 両者、同等の炎を放出するが、勝敗はすでに明らかだ。最後の力を振り絞っているDに対し、綱吉にはまだ余裕がある。だからこれは、負けを認めないDの介錯なのである。綱吉もそれがわかっているだろう。だからこそ、全力で倒すのだ――と思っていたのに。

 

「――結局逃げんのか、あんたは!」

 

 Dの顔に拳が入った瞬間、骸の身体からDの魂が抜け落ちた。骸の身体を囮にして、精神だけで異空間に逃げるつもりだ。この期に及んで生き汚いDに、とうとう利奈は激怒した。

 

「惜しかったですね! 次の舞台までせいぜい震えて待ってればいい! いずれ必ず! 必ずお前たちの未来に暗雲をもたらそう!」

 

 Dの手から再び第八属性の炎が生み出される。綱吉は骸の体を殴りつけた反動でまだ動けない。Dの魂はもはや上半身だけとなっていたが、そのぶん穴は小さくて済む。勝利を確信してDが吠えた。

 

「私は生きる!」

 

 ――しかしここで、観客から待ったがかかった。

 観客が舞台上の役者に送るものは、なにも拍手や歓声だけではない。ひどい舞台では野次が飛ぶし、ブーイングだって沸くし――物だって投げつけられるのだ。

 

「利奈!」

 

 武器はずっと、手のなかにあった。骸の声に応えるように、利奈は針をDへと投げつける。

 本来ならばその行為に意味はなく、針はDの魂をすり抜けるはずだった。だが、今の利奈は激昂していた。激怒していた。ゆえに、その行為は意味を持った。利奈の投げた針は、正確無比にDの伸ばした腕へと突き刺さった。

 

「ぐあっ!」

 

 痛みで怯み、Dが飛ぶ軌道が変わる。

 

「なぜ、お前がその炎を!」

「身体を返していただいたお礼です」

 

 利奈の腕のなかで骸が答えた。クロームの技の強化に全身の炎を使ったあととはいえ、針の先端にわずかに炎を纏わせるだけの力は残っていたようだ。

 

「霧の炎をまとわせたか……! いや、今のは雨の――」

「そんなことより、いいのですか?」

 

 涼しい声で、骸がDの注意を促す。

 

「貴方の奥義とやら、消えてなくなりましたが」

「なに……?」

 

 首を動かしたDが、目を見開いた。

 Dが作った異空間への道は、いつのまにか移動していた復讐者の手であっけなく粉砕させられていた。

 これにはDも唖然とし、顎を外さんばかりに口を開ける。そんなDに、復讐者は容赦なく告げた。

 

「第八の属性の炎は、人の肉体を持たぬ者には与えられぬ。これは掟である」

「なっ――」

 

 初耳だと言わんばかりに絶句するD。

 

(そういえば、掟の話とかだれからも聞いてなかったような……)

 

 Dが骸に憑依してからほとんどの時間、行動を共にしてきたが、説明を受けている様子はなかった。第八の属性について事前知識はあったのだろうが、細かい掟などは調べきれていなかったのだろう。せめて監獄で使用法を調べてから来るべきだったと、いまさら言っても後の祭りだが。

 とにもかくにも、これで最終勝負は振り出しに戻った。いや、もうDには肉体がない。

 

「ま、待ってくれ! やめろ! 私はまだ死ぬわけには――」

「D。もう終わりだ」

 

 今度こそ綱吉は手を下ろさなかった。

 かくて幕切れはあっけなく、ボンゴレに染みついた黒い炎は、橙色の炎が焼き尽くした。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

同じ空の下で

 

 

 

 吹っ飛んだDの体から、乾いた音を立ててなにかが落ちた。

 落ちた衝撃で蓋が開いたが、細い鎖のついた丸い懐中時計である。懐中時計といえば、不思議の国のアリスで白ウサギが手に持っていたのを思い出す。だからDは、追いかけてきた利奈をアリスと見立てたのだろうか。

 

「それ、なに……?」

「ボンゴレの紋章が入ってますね」

 

 綱吉が拾い上げ、そしてせつなげに顔を歪めた。

 

「写真が入ってる……」

「写真?」

 

 覗き込もうとしたら、骸にも見えやすいように綱吉は腕を上げてくれた。リボーンは綱吉の肩に乗る。

 

「ほんとだ。これ、もしかして――」

「プリーモファミリーだ」

「……なんか、全員見覚えのある感じ……みんな似すぎじゃない!?」

 

 初代ファミリーは、十代目ファミリーとまるで瓜二つの顔をしていた。初代の雲の守護者なんか、表情といい立ち姿といい、髪色を変えれば未来の恭弥とそっくりである。

 

(この和服の人も山本君っぽいし、Dも骸さんと同じ顔だし――全員血が繋がってるとかないよね?)

 

 綱吉は初代の子孫なので顔が似ていても不思議ではないが、純日本人であるはずの恭弥が初代雲の守護者と瓜二つなのは説明がつかない。どうりで、恭弥と戦ったときにDが初代と比べたわけだ。

 しかし、ただ一人、だれにも似ていない、守護者ではない人物が写真に写っていた。

 

「だれだろう、この女の人。きれい……」

「見たことねー顔だな」

「エレナです」

「っ!?」

 

 か細い声に硬直する。

 

「まだ、生きて……!」

 

 クロームが遠くで立ち上がろうとするが、骸が首を振った。

 

「もう、彼に戦う力はありません」

 

 上半身しかないが、Dの恰好はいつのまにか普通の服装になっていた。かろうじてこの世に留まっているといった具合で、体の輪郭線はぼやけている。今にも塵になって消えてしまいそうだ。

 

「エレナ……私の……私の、光」

 

 写真のなかで、Dとエレナは寄り添い合っていた。恋人同士だったのだろう。

 しかし、疑問は残る。初代のボンゴレに造反していたはずなのに、なぜDはこの写真を懐中時計に忍ばせていたのか。

 

「なにも私も、最初からプリーモに反目していたわけじゃありません。私もエレナも、あの頃のボンゴレファミリーを心から愛していたのだから……」

 

 Dがボンゴレファミリーを愛しているのはわかっていた。でなければ、ここまでボンゴレに尽くす生き方は出来なかっただろう。――その生き方が、多くの人々を苦しませたとはいえ。

 

 生前の――人の体に乗り移る前のDは貴族だった。エレナは侯爵の娘で、腐敗した貴族に嫌気がさしていたDの考えに共感し、二人は親しくなった。

 

 ジョットを紹介したのは、エレナのほうだった。そのころのボンゴレファミリーは勢力を伸ばしていたころで、Dにとっては最高の時代だったそうだ。

 コザァートの助言で結成されたファミリーは、あらゆる腐敗を正していった。貴族も政治家も、マフィアも警察も。市民を脅かすありとあらゆるものを排除していったのだ。二人にとって、黄金時代だったに違いない。ボンゴレファミリーはすべてを正し、そして排除するべきものがなくなったとき――亀裂が、生じた。

 

 戦うべき相手がいなくなったジョットは、拳を下ろそうとしたのだ。巨大化した組織が本来の目標を失って暴走しないよう、争いを止めようとした。そしてその結果が――

 

「私があのとき、プリーモを正せなかったせいで……エレナを、救えなかった」

「……」

 

 ジョットが戦力を減らしたせいで、Dたちは強襲された。Dがジョットを説得できなかったせいで、エレナを救えなかった。エレナは、ボンゴレが弱くなったせいで殺された。

 愛する者を失った慟哭と後悔が、歪んだ信念を生み出した。弱きを守るための力よりも、強きを屠るための力を求めてしまった。その結果がこれだ。

 

(そんな力、求めてなかっただろうに)

 

 心優しき女性が、血塗れの強さを求めるはずがない。だって、エレナが愛したころのボンゴレは、正義のためだけに拳を振るっていたのだから

 だから、綱吉が言ったエレナの本心が偽りのものであることはすぐわかった。自分のせいで狂ってしまったDを、愛するボンゴレを歪めてしまったDを悲しく思わないはずがない。感謝を伝えるとしたら、それはDと天上で再会したときにだろう。

 

 エレナの人となりを聞いただけの利奈でさえそう思ったのだ。Dが気付かないはずがない。それでも、Dがエレナに最後に伝えようとした言葉は、救えなかったことへの謝罪だった。

 本当は、ずっと伝えたかった言葉だったのだろう。しかしDは、足を止めてしまわないよう、エレナの愛したボンゴレを失わぬよう、悔恨に蓋をして血の道を歩き続けた。

 

「お前は生きすぎたんだよ、D。安心してエレナの元に行ってやれ。

 待たせてんだろ?」

「フフ……確かに、いささか待たせすぎましたね」

「ちゃんと謝ったほうがいいですよ。……いろいろと」

 

 これから消えゆく人に暴言は吐けず、様々な感情を飲み込んでそれだけ口にした。でも、きっと彼女はDを許してあげるだろう。心優しく、正しい女性だったのだから。

 

「ボンゴレのことはツナに任せろ。お前が心配して化けて出てこないですむくらいには鍛えてあるからな」

「ちょ!? なに言ってんのリボーン!」

 

 どさくさまぎれに綱吉に重圧を背負わせるリボーン。

 しかし、こうなっては綱吉も頑張るしかないだろう。Dの想いを託されてしまったのだから。

 

 すべての未練が消えたDの体が、塵となって風に吹かれていく。これでようやく、彼は自分で作り上げた妄執から解き放たれたのだ。

 

「十代目ー!」

 

 余韻を吹き飛ばすように、隼人の大声が空を割った。

 すっかり忘れていたが、Dが死んだことで、ようやくあの幻覚空間から解放されたようだ。

 

「炎真!」

 

 そして、復讐者の牢獄に拘束されていたみんなも戻ってきた。どうして彼らが投獄されていたのかはわからない。男性陣は全員ボロボロで、薫以外の男子はなぜか上着を着ていなかった。本当に、なにがあったのだろう。服を着ている薫も、シャツに袈裟斬りの血の染みがついている。

 

「利奈、僕を僕の元へ」

「あ、はい」

 

 ムクロウを抱えたまま、倒れた骸の元へと向かう。クロームはすでに骸の元へと辿り着いていた。

 

「骸様……」

 

 骸の体はボロボロだった。不可抗力だったとはいえ、何度も綱吉の攻撃を浴びせられたのだ。最後に殴られた頬はひどく腫れ上がっていて、唇も切れて血が出ていた。

 あまりにひどい有様に、クロームがポロポロと涙を流した。利奈はそっとムクロウをクロームの横に置く。

 

「なにを泣く必要があるのです。僕たちはDに勝ったのですよ」

「はい……」

「大丈夫、すぐにティモッテオさんに連絡して救援呼ぶから!」

「うん……」

「利奈、あまりその名前を口にしないほうがいいですよ」

 

 足音が聞こえて振り返ると、ひとしきりの再会を終えた綱吉がこちらにやってきた。骸の惨状に、眉を落とす。

 

「骸……ごめん」

「だからなにを嘆くのか」

「え!?」

「ああ!?」

 

 声はムクロウではなく、骸の口から聞こえた。ようやく元の体に戻ったのだ。しかし、全身の痛みに顔を歪めている。

 

「リボーン! こっちにも救急箱!」

「ちょっと待ってろ」

 

 リボーンは了平の体に包帯を巻くので大忙しだ。

 

「あ、じゃあ私が――」

「聞け」

「わあい!?」

 

 立ち上がりかけたところで三人の復讐者が現れ、利奈は奇声を上げた。

 そういえば、この人たちは結局なんだったのだろう。第三者とはいえ、脱獄囚が暴れていたのだからもう少し手伝ってくれてもよかったのに。

 

「D・スペードの討伐ご苦労。褒美として、お前たちにシモンとコザァート、誓いを交わしたその後の過去を伝える。八番目の鍵だ」

「八番目!?」

 

 光の粒がそれぞれの頭上へと飛んでくる。そのうちのひとつが頭上に現れ、利奈は驚いた。

 

「え、私も!?」

「討伐に参加した者にもだ。二人の過去へ誘え」

 

 頭のなかに映像が流れる。

 それは、とても穏やかな光景だった。子供たちが楽しそうに水遊びしていて、大人たちがそれを見守っている。炎真にそっくりな人は、きっとコザァートだろう。赤子を抱いている人はアーデルハイトに似ていた。つくづくみんな似すぎである。

 

 この場所はきっと、利奈たちがいるこの島だ。Dの奸計を逃れた彼らは、人目を避けるようにひっそりと、だけど豊かに暮らしていた。けして、日陰だけの時間を過ごしていたわけではないのだ。

 

「ジョットとはもう、一生会うことはないだろう」

 

 コザァートはそう言い切った。諦めたような、でも未練はない、そんな瞳で。

 

「だけど、俺たちは信じているんだ。

 いつになるかはわからない。でも、俺たちの意志を継ぐ後継者が現れて、いつか――」

 

 場面が切り替わり、自室にいるジョットが映し出される。ジョットの手元にあるのは小さな布の袋と、書き終えたばかりの手紙。椅子から立ち上がったジョットは窓に手をかけて空を見て――コザァートと同じように微笑んだ。

 

 そしてそこで過去が終わる。

 

「……そっか。俺たち、やったんだね」

 

 ようやく実感が湧いてきたのか、綱吉が呟いた。少しだけ後ろめたそうな顔をして、シモンのみんなが頷く。

 

 これで終わり。これで大団円。――そうは問屋が卸せない。

 

「ちょっと待った!」

 

 感動の空気をぶち壊したのは、なにを隠そう利奈である。みんな、ギョッとしたような顔で固まった。

 

(わかってる。私が騒ぐのは違うってわかってる。空気読めてないのはわかってるけど!

 このままハッピーエンドなんて許せない!)

 

「炎真君!」

「はいっ!」

 

 炎真は満身創痍の状態でジュリーに支えられていたが、利奈の語気に気圧され、直立不動の体勢を取った。その炎真の鼻先に顔を近づけ、利奈は強く睨み上げる。

 

「私、言ったよね? 行かないでって」

「あっ――」

「行かないでって言ったよねえ!」

 

 喉も裂けんばかりに声を張る。継承式のときも、全身全霊で呼びかけた。

 

「待ってって言ったのに! 聞いてくんなかった! あんなに、私、呼んだのにっ……!」

 

 結局、利奈が言いたいのはそれだった。

 あんなに頑張って、こんなに大変な思いをして、それで伝えたいのがこんな文句だけなのだから、本当にどうしようもない。だけど、どうしても言いに来れずにはいられかったのだ。だってあそこで止まってしまったら、もう二度と立ち上がれなかった。――Dのように。

 

(ああもう! そんなこと知りたくなかった! 全部全部炎真君のせいだ!)

 

 じわりと涙が込み上げてくる。炎真とジュリーがギョッとするが、利奈はもう堪えきれずに泣き出した。声を上げて。引き裂かれんばかりに。

 そしてシモンファミリーには利奈にもの申す者はいなかった。なぜなら全員に共通する負い目だったからだ。まさか彼らも、部外者の利奈に一番責められるとは思っていなかっただろう。

 

「あー……なんだ、炎真」

 

 収拾がつかないほど号泣する利奈に、ジュリーがやっと口を開いた。ジュリーはあの場にはいなかったが、なんとなく事態は察したようだ。

 

「ここはアレだ、謝れ。精一杯謝れ」

「あ、えっと――」

「絶対許さないから」

「ええっと」

「よし、じゃあ一発殴ってチャラにするってのは?」

 

 軽い調子で提案するジュリーを、利奈は仄暗い眼差しで見据える。

 

「……私、本気でやったら骨折るけど、いい?」

「よーし、今のなしで!」

「その、相沢さん、本当にごめん。あの、このタイミングだと信じてもらえないかもしれないけど」

「……絶対に許さない」

 

 謝ってほしいわけじゃない。後悔してほしいわけでもない。ならばどうしろという話だけど、あのとき思い止まってくれればよかったのだ。止まるわけがないことなんて、わかっているけれど。

 

 女の子が身も世もなく駄々をこねる様は、それを囲んで同じくらいの年の少年少女が沈黙している様は、なかなかに地獄である。しかしここには空気を読まない、いや、読もうともしない人間が一人残っていた。

 

「ねえ」

 

 簡潔な呼び声だった。しかし利奈は、即座に泣き止み先ほどの炎真と同じく直立不動の姿勢を取った。

 

(そうだ、みんなが戻ってきたってことは、ヒバリさんも一緒に来てるってことだった……!)

 

 炎真への怒りが大きすぎて、恭弥のことをすっかり忘れていた。自分が、恭弥の命令を無視してここに来ていたことも。

 

「そろそろ言い訳を聞かせてもらおうか」

 

 首根っこを掴まれる。首筋にわずかに触れた指先が冷たい。

 利奈は恐る恐る振り返って、そして後悔した。据わった目をした恭弥がそこにいたのだ。襟首を引っ張られ、引きずるように炎真から引き剥がされる。

 

「ひ、ヒバリさん? いったいどこまで」

「決まってるでしょ。並盛に帰るんだよ」

「うええ!?」

 

 恭弥は確か、ヘリコプターでこの島に来ているはずだ。つまりこれから、逃げ場のない密室空間に閉じ込められるのである。しかも、尋問お説教コースで。

 

「ちょっと待ってください、私今すごくおなか痛くて……」

「知ってるよ。内臓破裂してるんじゃない?」

「えええ!? ちょっと!」

 

 さすがに聞き逃せずに踏ん張るが、恭弥はかまわずに襟を引いた。首がしまり、息が止まる。

 

「破裂してるかどうかはわからないけど、ここにいたってどうしようもないだろ。ちゃんと病院には連れてってあげる」

「だったら船のほうが――なんでもないです」

 

 もう一度凝視されたら折れるしかなかった。

 恭弥の振る舞いに慣れていないシモンファミリーはポカンとしているし、慣れているボンゴレファミリーからは同情の眼差しを送られる。

 

(こ、こんな情けない最後ってなくない!? あんまりじゃない!?)

 

 黒子の分際で大騒ぎした報いだろうか。しかし、それにしてもひどい最後である。

 情緒も風情も一切ないまま、利奈の長い長い戦いは終わった。とんだ一人相撲ではあったものの、言いたいことは言い切れた。

 さっき見た記憶と同じような青空を仰ぎ、せめて体罰はなければいいなと強く願った。

 

 

 

 




第三部、これにて完結です。
長編は原作ラストまで書きますので、次の第四部が最終章となります。内容的にあまりボリュームはないかも?


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四部序章:遅すぎた後日談、もしくは早すぎた前日譚
定まらない実像


_________

 

 

 

 夜は知らぬ間に明けていた。マグカップは置かれたときのままで、琥珀の水面に片肘をついた自分の顔が映っている。思考は散漫で、どこか遠くに向かっていた。その証拠に、大好物であるはずのチョコレートにすら手をつけていない。

 

 過去の亡霊は消えた。己を縛る制約からも解き放たれ、晴れて自由の身だ。それなのに、心の奥底に淀みが揺蕩っている。

 放っておいたところで支障はなかった。ないはずだった。しかし、どうにも引っかかる。やらずにうち捨てていたタスクが、絶えず視界に入っているような不快感。

 存在が当たり前になっていた娘と、存在を認識してしまった少女。どちらも骸の内面に深く関わっていて、だからこそ日に日に存在感を増していく。

 

 考えていても埒があかない。

 骸は立ち上がり、アタッシュケースを手に取った。クロームへの書き置きは目につくところにもう置いてある。二人には、目的地に向かう道すがらメールを打っておこう。さすがにまだ目覚めてはいないはずだ。

 

 外は思っていたよりは明るかったが、室内よりも肌寒かった。こんな時間に外を歩くのは久しぶりで、やたら鳥の声が大きく聞こえる。

 気兼ねなく外出できるようにはなったものの、まだあまり出歩いていない。これまで数え切れないほど恨みを買っているし、継承式で来日したマフィアの何割かは日本国内でまだ息を潜めているだろう。そのうちの何分何厘に、ボンゴレ守護者を襲撃する気概があるかはしらないが。

 

(さて、どうあの話を切り出すか。正直言って、僕自身も曖昧だ)

 

 未来に飛んでいない骸にも、未来の記憶は存在している。アルコバレーノの加護の力で、白蘭に干渉された記憶が新たに加わっているのだ。

 ただ残念なことに、白蘭が現れる前の記憶は含まれていない。だからどういった経緯でフランを弟子に取ったのか、いつM.Mを仲間に呼び戻したのかなどは知るよしがないのだ。利奈が死んだときに抱いた、あの激情の理由も。

 

『貴方も、私と同じになるの?』

 

 久方ぶりに聞いたセイの声が甦り、骸は足を止めた。

 寂れた国道にほかの建造物はなく、申し訳程度に置かれた街灯の明かりがまばらに道を照らしている。

 

 未来の自分のかたわらには、つねにセイの姿があった。もちろん幻覚で作られたもので、実体ではない。どうしてそんなものを作っていたのかは、これまたわからない。ただ、自身の心情に同調した行動を取っていたのは確かだ。いささか不本意ではあるが、まあそれはともかく。

 

(未来の僕は、セイが発した言葉に驚いていた。つまり、あれは僕が言わせた言葉じゃない)

 

 そもそも、死にゆく者にかける言葉にしては意味不明だ。利奈だって、目をみはって――

 

(ああ、利奈はあのとき初めてセイを見たのか)

 

 以前の利奈は、セイを認識できていなかった。ボンゴレの連中もそうだったように思う。そこから推測するに、セイを目視できるのは骸の精神と強く繋がっている人間だけだったのだろう。つまり、セイは骸の精神に依存した存在であるということだ。

 

(死にゆく利奈を自身に重ねていたならば、あのセイは、自身を死者だと認識していた)

 

 だとしたら、先日利奈が見かけた彼女は、正真正銘、亡霊だったとでもいうのだろうか。

 

 正解が用意されていない問いを解くのは容易ではなく、同じようなことを考えているうちに目的地に着いてしまった。

 二階の窓にはカーテンがかかっており、なかの様子は窺えない。早朝ではあるが家人は起きているようで、一階から生活音が聞こえた。骸は逡巡することなくインターホンを押す。

 

「はーい」

 

 出てきたのは母親だろう。朝食の支度をしていたのか、手を拭いたあとの布巾をエプロンに押し込んでいる。制服姿の骸を見て、彼女は驚いたように目を見開いた。

 

「朝の支度でお忙しいなか、すみません。こちらのお宅を探していまして」

「あらあら、こんな時間から配達なんて大変ねえ」

 

 骸は宅配業者の制服に身を包んでいた。当然幻術でそう見せているだけだが、母親はあっさりと信じ、骸が手に持つ箱――現物はアタッシュケースだが――を覗きこんだ。

 

「町名と丁目は間違いないんですけど、この辺りに該当のマンションが見当たらず――エストラーネオという名前、聞いた覚えはありますか?」

「聞いたことないです。それに、マンションなんて駅前じゃなきゃ――あら」

 

 沢田綱吉の母親が、郵便番号を指さした。

 

「これ、並盛町の郵便番号じゃないわ。番号が全然違うもの」

「本当ですか!?」

 

 もちろん、郵便番号だけわざとデタラメにしておいた。それだけで、不運にも見当違いの住所に荷物を運ばされた配達員を装える。

 

「災難ねえ。よかったら、お茶でも飲んでいかれます?」

「いえ、今日は配達物が多くて時間がありませんので。ありがとうございました」

「いいえ、全然。頑張ってくださいね」

「はい。あっ、小さなお子さんがいらっしゃるのに騒がしくしてすみませんでした」

「あら? 子供がいるの、わかります?」

 

 きょとんとする母親に、愛想のいい笑みを返す。その肩越しに見える廊下の奥に、帽子のつばが覗いていた。

 

 

__

 

 

「復帰早々に仕事とは精が出るな」

 

 道を曲がったところで、頭上から声がかかった。

 

「ええ、おかげさまで」

 

 見上げた塀の上にリボーンの姿がある。逆光に照らされ、表情は窺えない。

 

「せっかくですし、どこかで一息つきませんか? 起こしてしまったお詫びもしなくてはいけませんし」

「それはいいな。目覚めに濃いエスプレッソでも飲みたい気分だ」

 

 リボーンはそう言って塀から飛び降りた。やっと顔が見えるようになったが、表情は読み取れない。

 

「その恰好は目立つからやめておいたほうがいいぞ」

「そうですか? わりと一般的な運送会社を選んだのですが」

 

 作業着然とした制服は普段着る服とはかけ離れているが、そこまで悪目立ちする色合いではないはずだ。容姿だって、数秒後には忘れられるだろう平均的な顔である。いまいち理解できていないのを悟られたか、リボーンが補足した。

 

「日本では、仕事着で外食すると会社にクレームが入るんだ」

「……変わった文化ですね」

 

 骸は素直に変装を解いた。

 

 

 

______

 

 

 

(こんな朝早くから訪ねてくるなんて、なんの用だ?)

 

 骸を引き連れながら、リボーンは思考を巡らせる。

 最初は綱吉狙いであることも視野に入れていたが、骸がマンション名として口にした単語に、その可能性は霧散した。

 

 エストラーネオファミリー。骸が幼少期に所属していたマフィアだ。マフィア界ではタブーとされている、禁弾の開発を行っていた組織である。

 親がファミリーの人間だったか、あるいは、非合法に外から引き入れられた子供だったのか。どちらにしろ、骸とその仲間である犬と千種は、そこで特殊兵器開発実験の被検体として扱われていた。

 どのような扱いを受けていたかは、組織で生き残った子供が骸たち三人だけだったという結果で推し量れるだろう。そしてその数がゼロになる前に、骸はファミリーの大人たちを皆殺しにした。

 エストラーネオファミリーとその関係先だけを標的にしていればまだ温情はあっただろうが、骸たち一行は手当たり次第にマフィアを壊滅させていった。その結果が、復讐者の監獄行きである。

 

(わざわざ匂わせたってことは、エストラーネオファミリー関連でなにかあるのか? 骸を引き受ける過程で九代目が調査させていたが、後継組織は存在しなかった)

 

 骸はアタッシュケースを持っている。大きさは、リボーンが運んでいても違和感はない小型なもの。筋肉の動きからして重い物は入っていない。これから行われるのが取り引きだとすれば、中身は金か資料か。

 

「ここだ」

 

 行きつけの喫茶店のドアを開けると、骸はさりげなく店内に目を光らせた。

 客入りの少ない店を選んだだけあって、客はカウンターで新聞を読んでいる常連の老人のみ。同じく老齢のマスターは、常連の赤ん坊には頓着しなかったが、学生の骸には目を留めた。まだ登校時間ではないが、平日の朝に学生が来ることはめったにないだろう。二人はテーブル席に座った。

 

「俺はエスプレッソのドッピオ。お前はどうする」

「コーヒーで。よければ軽食も頼みましょうか?」

「いや、俺はいい。これからママンの手料理が待ってるからな」

 

 言外に朝食までには戻ると伝えると、骸は鷹揚に頷いた。

 

「では、手短に済ませましょう。しばらくのあいだ、クロームを並盛で預かってほしいのです」

 

 単刀直入に骸はそう言った。自由に動けるようになったので、未来で仲間だった面々を引き入れに行くつもりらしい。

 M.Mとはすでに話がついているが、この時代のフランはまだ幼いうえにフランスで暮らしている。未来の記憶はあるだろうが、引き入れるならば直接出向くしかない。骸一派にヴァリアーにも所属していた術士が加わるのは脅威だが、リボーンに止める筋合いはなかった。

 

「で、なんでクロームは置いていくんだ?」

 

 話を聞く限り、クロームを置いていく必要性は感じない。ましてや、並盛中学校に編入させる必要など。しかし骸は答えず、アタッシュケースをリボーンに押し出した。

 

「生活費はここに用意しています。並中への編入手続きも昨日のうちに」

 

 強引だが、如才なく手続きを終わらせている。断ったところでクロームの行き場がなくなるだけだろう。

 強力な術士を引き入れる代わりに、優秀な術士を追い払う。一見矛盾しているように見えるが、リボーンには理由に心当たりがあった。骸が自由になったということは、クロームを縛っていたものもなくなったということだ。

 

 話がこれだけだったならば、リボーンはエスプレッソを飲み干して、ママンの作る朝食を堪能できただろう。しかし骸はまた口を開いた。

 

「じつは、もうひとつ相談がありまして」

「相談?」

 

 骸らしくない言葉なので思わず復唱してしまった。本人も自覚しているのか、口の端を引きつらせるようにして笑う。

 

「貴方たちアルコバレーノから受け取ったギフトの話です。そのなかに、理解できないものがありまして」

 

 骸はそれだけ言ってコーヒーに手を伸ばした。頭のなかでまだまとまっていないのか、話しづらい内容なのか。エストラーネオに関わる話なら、わからなくもないが。

 

「で、なんだ?」

「失礼。僕自身の話なので、少々整理がつけづらく」

「お前自身?」

「ええ。僕自身、というのも少し違う気がしますが」

 

 骸はなおも言葉を濁す。先ほどとは打って変わった態度に、相談という言葉が隠語ではなかったことを知った。となると、さっきの笑みは困惑から出た笑みだったのか。

 

「チョイス戦で僕が現れたときのことを覚えていますか?」

「ああ」

 

 チョイス戦敗退時に殿を務めたのが、十年後の骸である。

 あの世界の骸は、復讐者の監獄収監者を百人捕らえた実績で罪を償っていた。D討伐の功績がなくても、六年後には自由を手に入れていたわけだ。

 あのとき黒曜にいた骸が、神社に用意されていた基地ユニットに潜むのはわけもなかっただろう。――つまりあの基地ユニットには、骸、スクアーロ、そしてリボーンの三人が潜んでいたわけである。スクアーロがいたので骸の気配には気付けなかったが、いなくても気付けたかどうか。あの世界の骸の幻術の腕は、世界トップクラスである。

 

「あのとき、僕のほかにだれか見えましたか?」

「ん? どういう意味だ」

「……未来の僕は、つねに幻覚を使っていたんです。だからあのときも」

 

 ここで骸が横目でカウンターを窺った。店内にはゆったりとしたジャズがかかっているが、話しているのはこの二人だけ。聞き耳を立てられているわけでなくても、警戒するのは当然だ。骸は身体を前に傾ける。

 

「あのときも、僕は作っていました。過去に殺めた人間の虚像を」

 

 リボーンはピクリと眉を動かした。なるほど、それは老人方の耳に入れたくない話題である。だから端的に話したいのはわかるが、いくらなんでも情報量が少なすぎだ。もう少し詳しく話すように促すと、骸は渋々と言った様子で説明を始めた。

 なんでも、昔に潜入した組織で殺めた少女の幻影を、つねにそばに控えさせていたらしい。それも、骸と精神的に繋がっている人間か、優れた術士でなければ見えないレベルの幻術を。未来から得た記憶は過程を飛ばしているため、骸自身も、どうしてそんなものを作り出していたのかわからないそうだ。

 

「そのファミリー名と子供の名前は?」

「子供の名は言ってもわからないと思いますよ。地下に軟禁されていましたから。僕も、彼女が死んでから名前を知ったくらいです」

 

 存在を口に出せたからか、言葉の淀みが消えた。小声ではあるが、声の通りがいいので聞き取りづらくはない。

 

(軟禁――つまり、人目に出せないような娘ってことか。私生児か病気持ち、あるいは、その両方)

 

 マフィアの私生児など珍しくもない。マフィアのボスともなれば愛人なんぞ作り放題で、そのぶん私生児や庶子は増える。その子供が男なら後継者として育てようもあるが、女では政略結婚くらいしか使い道がない。

 綱吉も、性別が女だったら今の生活は送らずに――いや、女だったらそれはそれで、ボンゴレの頂点を目指す男どもに狙われる羽目になっていた。どちらがよかったかは、聞いても意味がないのでやめておこう。

 

「で、ファミリー名は?」

 

 骸が名称を口にすると、リボーンは顔を上げて声を張った。

 

「エスプレッソドッピオ追加」

 

 マスターが応じ、それに合わせて骸がガトーショコラを頼む。どうやら、ママンの朝食にはありつけそうにない。

 

 骸が言った名称は、かつてエストラーネオファミリーと共同で禁断を開発していたファミリー名だった。エストラーネオファミリーとほぼ同時期に壊滅したが、やはり骸が手を回していたらしい。ここで話がきな臭くなってきたが、さらに骸が追い打ちをかける。

 

「僕もその程度なら捨て置けましたが、先日僕の元を訪れた利奈が、その少女を見かけたと口にしていまして」

「利奈が?」

 

 利奈は術士ではないので、少女が見える条件には当てはまっていない。その前提に従うならば、利奈が見たのは実体という証明になるはずだ。

 

「それがそうはいかなくて。彼女はついこのあいだまで、僕と契約を結んでいたんです」

「そもそも、お前なんで利奈と親しいんだ?」

 

 未来では、監獄収監者の情報を得るために風紀財団と取り引きしていたようだが、現代ではまだ復讐者と交渉すら行っていないはずだ。それなのに、聖地では仲間のようにふるまっていた。骸を敵視する恭弥ですら、疑念を抱いた様子はなかった。

 

 この機にと問いかけてみたが、やはり無言の笑顔ではぐらかされる。

 まあ、もっとやばいヴァリアーに預けられても平気でやっていけるやつだから、なにかの機会に親しくなっていてもおかしくはない。とにかく、利奈の目撃情報だけでは確信とはならないようだ。

 

「もうひとつだけ聞いていいか」

「どうぞ。ある程度、予想はつきますが」

 

 それはそうだろう。ここまで骸から与えられた情報で導き出される方程式は、ひとつしかない。

 

「その娘、どうやって殺した?」

 

 リボーンの問いに、骸は人差し指を突きつけた。拳銃を模した指で、自身の胸を。

 

「禁弾を共同開発していたボスの隠し子でしたからね。彼女が持つ銃がどんなものか、疑うべきだった」

「そいつの銃を使ったのか」

「……時間がなかったので」

「ん?」

「いえ。彼女が携帯していた銃で間違いありません」

 

 骸の返答には違和感があった。いや、その前のジェスチャーも引っかかった。骸は拳銃に見立てた右手を左手で押さえ、自分の心臓に当てたのだ。その仕草だと、娘が自分で胸を撃ったことになる。もしかしたら、その娘のことも操っていたのかもしれない。

 

 本来ならば殺し方など些細なことだが、娘が禁弾を研究していた組織の人間というなら話はべつだ。その弾丸が、かつて骸が使っていた憑依弾と同等のものだったとしたら。なるほど、同じように特殊弾を扱うリボーンを頼るわけである。

 

(ただあれは、骸の言う契約が必要不可欠だったはずだ。素人に操れるもんじゃねえ)

 

 憑依弾の能力については骸のほうが詳しいが、銃を撃った直後の様子はリボーンも目の当たりにしている。あれは弾を撃ち込んだ人間を仮死状態にし、あらかじめ決めていた依り代の意識を乗っ取る禁弾である。ゆえに、憑依能力と依り代がなければ効果は発動しない。

 そのとき撃ったのが憑依弾であったならば、少女の魂だけ現世に残ってしまったとも考えられる。戻るべき身体は、すでになくなっているのだから。

 

「ですが、彼女は僕が看取っています。仮死状態ならば気付けたはずなんです」

 

 骸が組んだ手を握りしめる。爪の先が白くなるほど力を込めて。

 

「お前自身はどう考えてるんだ? 生きてるか死んでるか」

「……肉体は確実に滅んでいる。ただ、精神となると――」

 

 骸が葛藤する理由もわかる。前例に、ボンゴレ初代霧の守護者D・スペードがいるからだ。

 Dの場合は、本人が優れた術士であるのと禁術を用いたというのもあるが、肉体が滅んでも魂を残せることの証人となっている。不完全な状態で放たれた禁弾が、娘の魂だけを現世に留めてしまったのならば。未来の骸が存在に気付き、その魂を拾い上げようとしていたならば。この時代に娘の魂が存在している可能性は高い。

 

「わかった、俺も調べておく。ボンゴレとしても禁弾は見過ごせねーからな」

「……つきましては、これを」

 

 骸が服のポケットに手を入れ、弾丸をひとつ取り出した。リボーンは目を見開く。

 

「そりゃあ――」

「憑依弾の現物です。ボンゴレで調べれば、あるいは――」

 

 しかし骸は思い留まったように弾丸を握りしめた。

 

「……いえ、これは最後の手段です」

「……」

 

 憑依弾そのものを調べられれば、より早く真相に辿り着けるだろう。しかし憑依弾は人体実験の結果生まれた兵器であり、骸にとっては切り札とも、忌まわしい記憶そのものとも言える。自身がもっとも嫌うマフィアに、自身の弱みを渡すようなものだ。

 それに渡した憑依弾が悪用されれば、消し去ったはずの忌まわしい記憶が現代で再現されてしまう。リボーンにその気はないが、リボーンがマフィアに所属する以上、信じろというのも無理な話だ。むしろ、渡そうと考慮したことのほうが奇跡である。

 

(それほどまでに思い詰めているってことか)

 

 おそらく、本人は気付いていない。

 横目にカウンターを窺った骸が、壁の時計を目にして立ち上がった。

 

「なんだ、朝の便取ってんのか?」

「いいえ。ただ、今出るとタイミングがいいんです」

「タイミング?」

 

 なんのとは聞かなかったが、骸は悪戯を企む子供のように目を光らせていた。

 リボーンはそのままソファーに座り続ける。今から帰っても、ママンの朝食には間に合わないだろう。先に出ようと会計を終わらせた骸が、思い出したように振り返る。

 

「もうひとつ、頼み事をしても?」

「俺はたけーぞ」

「では、気が向いたら伝えてください。雲雀恭弥に、貴方の部下をお借りしますと」

「ヒバリに?」

 

 骸は意味深に笑みを深めた。それだけで、骸がだれを借りようとしているのかがわかり――これから受難が降りかかるであろうその人物に、少しだけリボーンは同情した。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蛙を捕まえにフランスへ

 

 学校に行こうとしたら、なんやかんやで連行された。

 いや、ちゃんと、一応、当然のように抵抗はしたのだ。前に待ち伏せされていたときと同じくらい、いや、あのとき以上に驚いたけど、それでも一通りは。

 

(持ち物検査の日だし、授業だってあるし――学校サボって泊まりになる言い訳もう思いつかないのに! 風紀委員だって復帰してるから、もう群れられないんですけど!)

 

 D騒動で反抗した代償に、連日過酷な委員会活動の真っ最中である。

 今日だって、だれよりも早く校門に行くつもりでいたのだ。

 

 それなのに、なんで「毎日ここで待ち合わせて一緒に学校に通っていますが?」みたいな顔で通学路で待っていられるのか。時間帯が違えば人混みに紛れて逃げられたのに、早朝だから犬の散歩をしている人しかいなかった。すごく吠えられてたのは面白かったけど。

 

(これはアウト。絶対ダメ。確実にまた退会させられる。

 それにいきなりフランスって! 海超えるのは反則でしょ!)

 

 いかに雲雀恭弥といえど、国外にまではやってこないだろう。不可能とまでは言えないが、並盛と骸を天秤にかけたら並盛を選ぶに決まっている。もちろん利奈は秤に乗っていない。

 

 とはいえ、今さら騒ぎ立てたところでもう手遅れだ。

 飛行機の時間があるからとなし崩し的にずるずる引きずられ、現在地は空港である。しかも、フランスの。

 

 十三時間かかると聞いたときは機内で暴れてやろうかとも思ったけれど、ファーストクラスを用意されていては黙るしかなかった。

 快適な環境で振る舞われるフルコースを味わいながら、モニターで映画を鑑賞。サービスの洋菓子を頬張りながら雑誌を物色。時間経過による沈静化もともなって、すっかり毒気を抜かれてしまった。ここで暴れたところで、日本人の恥になるだけだろう。

 

(まあ、言いたいことはほかにもいろいろあるけれど。パスポートないのにどうして乗れたのか、とか)

 

 もちろんパスポートを所持していないことは骸に伝えたが、彼はにっこりと微笑んでこう言った。――奇遇ですね、僕たちもです、と。そんなお揃い、存在しないでほしかった。

 

(これ、不法入国っていうんだよね。骸さんたちは犯罪者だから国際手配とかされてるかもしれないし、もしバレたら私も捕まる? あれ? ひょっとして今まで一番ヤバい?)

 

 並盛町どころか日本すら出ているため、日頃振りかざしている威光はここでは使えない。

 いざとなったら、ボンゴレファミリー九代目ティモッテオにどうにかしてもらうしかないだろう。最終手段が巨大マフィアのボスという辺り、どうやっても物騒な展開にしかならなそうだ。絶対に補導されたくない。

 

 そんなわけでまったく落ち着けないわけだが、その理由はもうひとつある。

 登校途中に連行されたせいで、着の身着のまま、学生服姿なのだ。ほかの四人も学生服ならまだ修学旅行感が出たけれど、四人はしれっと私服姿。悪意すら感じる。

 

「だから家に帰りたいって言ったのにぃ……」

「貴方、家に帰ったらそのまま閉じこもるつもりだったでしょう」

「そうだけど……そうだけど寒い……」

 

 十一月も半ばなのでブレザーは着ていたものの、フランスは日本よりも気温が低い。目の前を通る外人のなかにはコートを着ている人もいるし、空港でこれなら外はもっと寒いだろう。利奈は骸をチラリと見上げた。

 

「これ、経費ですよね?」

 

 無理矢理連れてこられたものの、見返りはちゃんと保証されている。道中でかかる経費はすべて骸持ちのうえ、道中ならなにを買ってもいいらしい。未来の世界で買ったものをすべて失った利奈にとっては、魅力的な提案だ。

 それでも理性が勝ったけれど、最後に利奈が突きつけた条件を骸が呑んだので、交渉はギリギリのところで成立した。成立したのは、フランス上空だったけれど。

 

「ええ、もちろん。一式買いそろえてもらってかまいませんよ」

 

 気前よく答える骸。それならばとお店を探そうとしたところで、高い声が空気を割った。

 

「あー、なんか私も寒くなっちゃったかも」

 

 わざとらしく腕をこするのはM.Mだ。利奈ほどではないが、彼女も日本の気温に適した服装で、やや薄着である。

 

「これから行くフランの家って、田舎にあるんでしょ? コートないとダメかも。ね、あんたもそう思うでしょ?」

「え、あ、うん」

 

 唐突に話を振られたものの、外を歩くならコートがあったほうがいいのは事実だ。同意を得たのをいいことに、M.Mは利奈よりもえげつない角度で骸を見上げた。

 

「ねえ骸チャン、私にもコート買って? このままじゃ風邪引いちゃう」

「いいですよ」

「やったあ! 骸チャン大好き!」

 

(なんかダシにされた……)

 

 利奈と同じく、犬と千種も呆れたような顔をしている。しかしこちら三人にどう思われようが眼中にないようで、M.Mは媚びるように骸に飛びついた。骸がまんざらでもなさそうにしているのもなんだか納得がいかない。

 

「ほら、さっそく新作のコートを買いに行きましょ! ブランドは何店か見当つけてるの!」

「今の聞いたか? あいつ、始めっから骸様にたかる気満々だったびょん……」

「飛行機でファッション雑誌持ってこさせてた……」

「こわ……」

 

 ルンルンで骸の腕を取るM.Mとは、未来で一度邂逅している。髪型も変わっていなかったから、すぐに彼女だとわかった。あのときのM.Mもブランド品と思われる高そうな服を身につけていてたし、性格もこんな感じだった。十年とはいったい。

 

 ただひとつ気になるところといえば、未来であんなに揉めたにもかかわらず、利奈に対して険がなかったところだろうか。会ったら真っ先に嫌味を言われると思っていたけれど、M.Mは利奈をたやすく受け入れた。いや、それどころか――

 

「ねえ、あんたはどんな服が欲しいの? かわいい系? きれい系? 好みのブランドあるなら見てってもいいけど?」

「だいじょぶ……」

「そ。なら、ついてきなさい。私の引き立て役になれる程度には見立ててあげるわ」

 

 それどころか、わりと好意的な態度なのである。

 若干高圧的なところはあるが、それは彼女本来の気質だろう。いずれにせよ、肩すかしを食らってしまった。

 

(絶対、根に持つタイプだと思ってたのに。なんで大人のときより大人なの)

 

 穏便に済むならそれに越したことはないけれど、やっぱり少し身構えてしまう。油断したころに飲み物ぶっかけてきたりするかもしれない。そんなことされたら、こっちもシミになりそうな色の飲み物買ってくるけれど。

 

 しかし、そんな利奈の懸念は、試着室に入った途端に霧散した。

 コート一着買うだけのはずが、M.Mは言葉巧みに権利を主張し、まるで特売セールのようにブランド物を買い漁って全身コーデを完成させた。その手腕は利奈にも活かされ、瞬く間に会計金額が上がっていく。骸の顔が若干引きつっていた気もするが、言った言葉は取り消せない。

 結果、二人揃ってホクホク顔で店を出ることになった。渋い顔をしているのは、荷物持ちの犬と千種である。

 

「めんどい……はてしなくめんどい……」

「なんで俺らがこいつらの荷物持たなくちゃいけないんら……」

「女性は荷物が多いものですからねえ」

 

 骸だけは、チョコレートドリンクを片手に涼しい顔をしている。

 紙袋を抱えたままフランを迎えに行くわけにも行かないので、荷物をロッカーに預けてからバスに乗った。そこから終点で降りて、ジュラを目指して山道を歩く。

 

 気温は低いものの日差しは強くて、買ったばかりのコートを着ていると暑いくらいだった。欲張ってもふもふのコートを買ったM.Mは、早々にコートを脱いでしまっている。

 

「ほんと田舎ね。こんなところにフランはいるの?」

「祖母の家に預けられているそうですよ。両親もマフィアとは繋がりがありませんし――よほど幻術の才能に恵まれていたようだ」

 

 骸が笑う。

 幻術の才能は必ずしも遺伝するものじゃないそうで、見出されるまで能力を自覚できない術士も多いらしい。だから若いうちから実力を発揮し、なおかつヴァリアーの幹部にまで上り詰めたフランは、紛れもなく天才と言えるのである。

 ベルの当たりがやたらが強かったのは、それに対する嫉妬もあったのかもしれない。

 

「まあ、そんなフランを術士として見出したのは、なにを隠そうこの僕なのですが」

「隠してないびょん」

 

 鼻高々な骸だが、フランを見出したときの記憶はないらしい。だから自慢もふんわりしているけど、記録にないからこそ好き放題自分の手柄にできる。答え合わせを出来る人物は、どこを探してもこの時代にはいないのだから。

 

 




Q.爆買いにかかった経費は大丈夫でしたか?

A.骸「そんなものより、彼女を黙らせるために用意したファーストクラスのチケット代(全員分)のほうが痛かったです」





……書いてるあいだに、フランスのファーストクラスが時事ネタになるなんて思わないじゃないですか。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蛙の滝登り

 

 フランの祖母宅についたものの、フランは家にはいなかった。

 まだ昼だし、外で遊んでいるのかもしれない。ウルフチャンネルをつけた犬が、四つん這いになってフランの匂いを追う。

 

「なんか、そうしてると本当の犬みたいだよね」

「犬じゃねえびょん! ウルフ! ウルフチャンネル!」

「ほとんど犬だよ」

 

 仲間であるはずの千種まで利奈に同調した。

 

 犬の持つ前歯の歯形はカートリッジという名称の武器で、犬が嵌めるとその歯形の持ち主である動物の技能を取得できるらしい。

 犬が嵌めているのはドッグチャンネル――ではなくウルフチャンネルだが、地面に這いつくばって匂いを嗅いでいる様は、紛れもなく犬である。

 

「だから犬じゃねーって! 川の近くだから、こうしねえと匂いがわかりにくいんだよ!」

「川沿いでよかったわ。こんなのと歩いてたら私たちまで不審者扱いされちゃう」

 

 そう言いながらも、M.Mは後ろに下がって距離を置いている。ただでさえ余所者五人は目立つだろうし、ここが街だったら利奈も距離を置いていた。こんな形での警察沙汰はごめんだ。

 

「そういえば、犬とオオカミってなにが違うんだっけ?」

「イヌ科だから似たようなものだよ。どっちも遠吠えするし」

「そのうえキャンキャン鳴きわめいて走り回って騒がしいですよね。よくわかります」

「骸さん? それ、俺のこと言ってます?」

「犬の話ですよ。でも犬は芸が出来て素直でしつけがいがあって、面白い生き物ですよね、千種」

「どうでしょうね」

 

 文字で並べたらさらにややこしくなりそうな話をしながら、川沿いをさらに歩いていく。川のおかげか、さっきよりは涼しさを感じられた。利奈はまだコートを脱いでいないが、M.Mのコートはすでに千種の腕に収まっている。

 

 汗をかきながら歩くことさらに十分。拓けた場所に出たところで利奈は立ち止まり、そして叫んだ。

 

「すっごい滝!」

 

 川の上流は滝になっていた。落下する水はけたたましく音を立てているが、滝自体はそこまで大きくない。

 では、なにがそんなにすごいのか。滝の長さ、いや、崖の高さが桁違いだったのである。

 

「海外すっごい! こんなに滝高いの!?」

「ここに来るまでは木々に隠れて見えませんでしたが、確かに高いですね。都心のビルくらいはあるか」

 

 何十メートルという高さだ。ジュラは秘境だとかなんとか言ってたけれど、こんな滝があるなんて。ついつい携帯電話で滝を撮ってしまう。

 

「ねえ、いやな予感するんだけど。フランどこにいるの?」

 

 M.Mの言葉に、全員が動きを止めた。そしてそろって滝を見上げる。

 崖はほぼ垂直で、階段どころか足場すらない。念のために滝をまわって反対側の林道も確認したが、フランの痕跡はなかった。つまり、フランは崖の上にいる可能性が高い。

 

「滝のせいで匂いは途切れたけど、ここにいないなら上しかねえびょん」

「最悪。ちょっと、コート絶対汚さないでよね」

「なら自分で持てば?」

 

 みんなが一斉に屈伸を始め、利奈は戸惑った。

 

「え、ここ登ってくの? あっちいけば道あるんじゃない?」

 

 そう言って藪を指差す。道はないけれど、崖に沿って歩いていれば頂上に辿り着けるだろう。

 

「いやよ、服が汚れるもの」

「俺たちならこれくらい余裕だよーん!」

「急がば回れとありますが、回っているうちにフランがどこかへ行ってしまっては元も子もありません」

「う」

 

 骸の言葉は理に適っていた。ここでのすれ違いは時間的にも労力的にも痛い。

 そして利奈自身も、けして藪に入りたいわけではない。いくらフランスといえど、出てくる虫は虫だろう。

 

(あーあ。フランも、もう少しマシなとこ行ってくれればよかったのに)

 

 ひっそりとため息をつく。

 未来の記憶があるならば、これくらいの断崖絶壁、わけないだろう。むしろ、体重が軽い今のほうが登りやすそうだ。パルクールの場合、過度な筋肉や自重は邪魔になる。

 もっとも、がたいの大きいレヴィやルッスーリアなんかは、ありあまる筋肉でそれを解決してしまうのだが。

 

「さて。我々はともかく、利奈はどうしましょうか」

 

 崖を見上げてぼんやりしていたら、骸が犬を振り返った。

 

「犬、彼女を担いだとしてもこの高さは余裕ですか?」

「もちろんです!」

 

 やや煽るような骸の言葉に犬は即座に反応した。そして利奈に鼻を鳴らす。

 

「しょうがねえから俺が背負ってやる。感謝しろよ!」

「あ、うん……ありがと」

「気持ちがこもってない!」

 

(だって、自分で登れるし……)

 

 ヴァリアーで一通りの暗殺術を教わったので、潜入に必要な壁登りなどの技術はすでに会得している。とはいえ、利奈はそれを明かしはしなかった。

 

(運んでくれるならそっちのがいいに決まってる。犬ももうカートリッジ換えちゃってるし)

 

 骸が呼びかけたときにはもう、犬はウルフチャンネルを解いてしまっていた。今も利奈を背負うために新しいチャンネルをセットしているところだし、断るのも野暮だろう。ほかのみんなはすでに岩肌を跳び始めていた。

 

「おとなしくしてろよ」

 

 利奈を背負い、犬も岩肌に腕をかける。人一人背負っているというのに、犬の身体はすいすいと崖を登った。

 

「すごい! すごいねそれ! 匣とかじゃないんでしょ?」

「まあな」

「これ、ゴリラ? 腕ムッキムキ!」

「ああ」

 

 ウルフチャンネルはともかく、こちらのチャンネルはとても便利だ。

 犬が手を滑らせれば利奈もただでは済まないというのに、まったく不安にならない。それどころか、のんびりと周囲に目を配る余裕があった。今まで歩いてきた林道も、その前に歩いてきた野道も、まだ半分も登っていないのに見渡せてしまう。あっというまに崖の上に到達した。

 

「楽しかったー! ありがと!」

「ふん」

 

 屈託なく感謝を伝えるが、犬の反応は鈍かった。

 カートリッジを外すと、ムキムキになっていた犬の上半身が、元のほっそりとした身体に戻る。そして再び取り付けたウルフチャンネルで爪が伸びた。

 どういう仕組みで身体が換わるのだろう。自分で試したくないけど、とても気になる。

 

「ねえ犬、フランは? ちゃんといるんでしょうね」

 

 暑そうににコートを脱ぎながらM.M。崖登りの邪魔にならないように自分で着ていたらしい。

 

「匂いは強くなってる」

「じゃあ本当に崖登ってきたんだ。信じらんない」

「やっぱフランは普通じゃなくてアホってことだろ?」

「まったくだびょん」

 

 利奈に続いた声に犬が相づちを打ったが、その瞬間全員が動きを止める。

 

「なっ」

「んあ?」

「ええ!?」

 

 そして再起動したときに、その場にいる人数が倍になっていることに気がついた。

 

 滝の音でわからなくなっていたが、すぐそばにべつの団体が立っていたのだ。それも、見覚えのある人物ばかり。

 

「ベル! ヴァリアーのみんな!? なんでここに!?」

 

 黒服の一団に、利奈は目を見開いた。

 こんな田舎の山奥に、ヴァリアーの幹部が揃い踏みしている。服装はやけにラフだけど、まさか休日で遊びに来ているわけではないだろう。

 

「なるほど、貴方達もフラン獲得に動いていたのですね」

 

 骸が不敵な笑みを浮かべる。

 

(そっか、フランってヴァリアーの幹部だから!)

 

 未来の記憶は平等に与えられているのだから、彼らが同じようにフラン獲得のために動いていても、なんら不思議ではない。むしろ、暗殺部隊としてより戦力を求める彼らのほうが、動機は強い。

 

「最強暗殺部隊――クフフ、相手にとって不足ありません」

「え、バトる感じですか……? だったら私、ヴァリアー側がいいんですけど……」

「なんでだよ!」

 

 控えめに主張したら犬に突っ込まれた。

 なんでもなにも、純粋に戦力差が違いすぎる。人を殺すことに特化した集団と対マフィアテロ組織ならば、殺人集団についたほうが分がよいだろう。師匠のレヴィも、よく言ったとばかりに頷いている。

 

「なりません。その場合、一方的な契約破棄と見なし衣装代の返還を求めます」

「ええー! そんなっ、詐欺だー!」

「なにお前、そいつに雇われてんの?」

「契約すんなら契約内容はしっかり確認しなきゃダメよ! 契約違反は市場評価を下げるから!」

「雇い主暗殺すりゃチャラだけどな。ってか、あそこにいるのフランじゃね?」

 

 脱線していく話をベルが引き戻す。

 水辺に目を向けると、湖のように広がる水面に平らな岩があり、そのうえに背を向けたフランの姿があった。

 

 




本来の世界軸でのM・Mとの関わり

中学時代:黒曜ランドで遭遇。骸ガチ勢だと悟り、あまり関わらないようにしていた。クロームへの態度も、自分と同じ扱いだったのでスルー。

高校時代:M・Mがマフィア狩りに参加。骸の小間使いをしていたために毎回牽制される。

大学時代:骸が釈放され、オフで会う機会が増える。

財団時代:友達だった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

親権争い

 

 しゃがんで水に触れる、子供姿のフラン。 

 後ろ姿なのに一発でフランだとわかるのは、その子供が大きなリンゴの被りものをしていたからである。

 

「あいつ、ガキのときから被りものしてんのかぁ……」

「カエルよりおっきい……」

「馬鹿だびょん」

「馬鹿すぎない?」

 

 一同をドン引きさせているとはつゆ知らず、フランは川に飛び込んだ。日差しが暖かいとはいえ、この季節によく泳げるものだ。水面にリンゴ帽だけが飛び出て、リンゴが川を流れているようにしかみえない。昔話で聞いたことがある光景だ。

 

「ん?」

 

 泳いでいたフランが唐突に立ち上がった。こちらの話し声が聞こえたようで、振り返る。

 

(やっぱりフランだ。全然変わってない)

 

 未来のフランが童顔だったために、身長以外はほとんどそのままだった。

 

「フフッ」

 

 骸がスッと手を上げる。

 フランは大きく目を見開くと、信じられないものを見たとばかりに目をこすり、そして一言呟いた。それを聞いた利奈は、ここに来たことを心の底から後悔した。

 

(ふ、フランス語わかんなーい!)

 

 そう、ここはフランスで、フランが使っている言語も当然ながらフランス語だった。おまけにフランに合わせてみんながフランス語を喋り始めたので、もうなにもわからなくなった。フランがなんで急に踊り出したのかもわからない。

 

(そっか、そうだよねそうなるよね! うーわ、全然考えてなかった! もう話について行けないんだけど!?)

 

 ほかのみんなはフランス語に精通しており、利奈を置いてどんどん話を進めていく。いや、話は進んでいないようだ。言葉はなにひとつわからないけれど、フランがみんなに暴言を吐いているのは雰囲気で伝わった。

 そういえば、フランはかなりの毒舌だった。よっぽどひどいことを言ったのか、飛びかかろうとした骸は千種に取り押さえられ、宥める人のいなかったベルは、フランにナイフを投げつけた。

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 いくらなんでも子供相手にと利奈は声を上げたが、ナイフはフランには刺さらなかった。帽子に当たるはずだったナイフは帽子をすり抜け、水面に落ちる。フランが被っていた帽子は幻術だったのだ。

 

(なんでわざわざそんなこと!? っていうか、ちょっと大変なことになってきたかも!)

 

 攻撃を受けたフランは逃げ回り、追いかけるみんなはさらなる暴言をくらって意気消沈していく。そして堪忍袋の緒が切れたスクアーロと骸が、剣と槍の切っ先をフランに向けた。揃いも揃って、子供相手にまるで容赦がない。

 

「な、なに、なんでみんな、そんな殺気立ってるの」

「あら、あんた言葉わかんないの? 通訳してほしい?」

「いいの!?」

 

 M.Mの言葉に利奈は目を輝かせたが、M.Mは利奈以上に目を輝かせ、親指と人差し指で輪っかを作る。

 

「とりあえず十万ね!」

「……」

 

 がめつい。取れるところからはどこまでも搾り取ろうという信念が見える。

 

「骸さんに相談してからでいい? 今ちょっと無理そうだけど」

 

 話が少し落ち着いたのか、骸はスクアーロと一緒になって黙り込んでいる。

 岸に立つルッスーリアも何事か呟きながらため息をついていたので、これはちょうどいいと利奈は近づいた。

 

「ねえ、なにがあったの?」

「Hmm……あら失礼。なんかフランったら、チーズの角で頭打って記憶なくしちゃったみたいなの」

「チーズの角!?」

 

 絶対にそこじゃないと思うけれど、まずチーズに驚いた。物に頭をぶつけて記憶喪失になるとかそういうのはよくドラマで見るけれど、チーズでそんなこと起こりえるのだろうか。フランスのチーズが頑丈なのか、はたまたフランの頭が柔らかすぎるのか。

 思わずフランを凝視すると、フランも利奈を見た。

 

「あ、えっと……ハロー?」

「こんにちは」

「え、あっ……日本語喋れるの!?」

 

 どうやら言語能力は残っていたようだ。確かに、記憶喪失の人もたいてい言語までは失わない。ドラマの話だけど。

 

「これで言語学習に費やす時間は省けるけど……結局どうするの、隊長」

 

 お手上げとばかりにルッスーリアが言うと、スクアーロが顔を上げた。

 

「そのことなんだが、六道骸。お前と話がある」

「僕もです、スペルビ・スクアーロ」

 

 全員が利奈に合わせて日本語で話してくれるようになった。なんだかんだ優しい人たちである。

 

「フランをくれてやる」

「フランを差し上げましょう」

 

 そしてどこまでも自分本位な人たちであった。

 即戦力にならないと悟った途端、フランを相手に押しつけ始めたのである。

 

「なんかこういうの、法廷物のドラマで見たことある……」

「こっちのホームドラマでもあるわよ。子供の親権を押しつけ合う、ドロドロの戦いねっ」

「見たくない……」

 

 即座に始まる押しつけ合戦。

 スクアーロは、骸が一人前の術士に育て上げたらレンタルすると言うし、骸はヴァリアーの施設に預けて、フランの精神年齢が上がったら引き取ると言っている。どちらも相手に押しつけるくせに美味しいところを取ろうとしていて、だいぶ悪辣だ。

 

「なんか、骸さんもスペルビさんも最低……」

「つっても、アレもだいぶひどいぜ? ただでさえ生意気だったのに、もっとクソガキになったし」

「でも子供だよ……?」

 

 渦中のフランは、わかってるのかわかってないのか、ぼけーっと二人のやりとりを眺めている。いきなり大人数の知らない人たちに囲まれて、それでも一切動じていないところはさすがというべきところか。

 

「だから言ったのよ。フランなんていらないって」

 

 やってらんないとばかりに嘆息するM.M。

 

「むっ」

 

 M.Mの声に反応したレヴィが、初めて認識したとばかりにM.Mを凝視する。

 

「なんと可憐な……プリプリ娘……」

 

(うわあ……)

 

 その眼差しは、親しい間柄でもある利奈からしてもなかなかになかなかであったが、M.Mはなぜか茶目っ気たっぷりに微笑み、そして言い放った。

 

「このかわいいM.Mちゃんと付き合いたかったら、前金で十億ね!」

「ふがっ!」

「レヴィさんキモい……」

「うぐあ!?」

「シシッ、致命傷」

 

 堪えきれずに漏れ出た軽蔑の言葉がとどめとなり、レヴィはひっくり返った。水は足首くらいの深さしかなく、後ろに倒れ込んでも顔は水につかない。つまり、勢いよく後頭部を水底に打ち付けた。悶絶しながら転がるレヴィを、だれもが冷たい瞳で見下ろす。

 

 ――結局のところ、全員だれもが損をしているフラン獲得戦だが、このままでは埒が明かない。かといって奪い合いならまだしも、押しつけ合いで戦闘するのも馬鹿らしい。議論は困難を極めた。

 

「で、結局あみだかよ」

「これ以上言い争ってもキリがないからな」

「幻術ってこんなことに使うものだったっけ……」

 

 ベルとレヴィ、二人が押さえる巨大な紙にペンで文字を書いていく。

 この用紙とペンはちまたで便利な幻術で作られており、おそらくこれが、世界でもっとも無駄な幻術の使い道だろうと思われる。ほかの術士が見たら泣くのではないだろうか。

 

「はい、書けました」

 

 完成したあみだくじに名前を書きこんだのは、この場でもっとも中立な立場の利奈だ。

 あみだくじもその気になれば不正はできるだろうが、開始位置を決めるのがフランならばそれは平等だろう。衆目環視だし、新たに線を書き足すことはできない。

 このあみだに当たった陣営が、フランの引取先である。

 

「どちらか当たっても恨みっこなしでいきましょう」

 

 紳士的な発言だが、骸の口元は引きつっている。スクアーロも即座に無理だと突っぱねた。

 

「今からでも名乗りを上げる気はねえか? 奮発して冬の歳暮もつけてやるぞぉ!」

「いいえお気遣いなく!」

 

 スクアーロはまだ交渉しようとするが、これまた骸に力強く断られた。

 そもそも、なんでスクアーロはお中元とお歳暮を知っているんだろう。生粋の日本人である利奈ですら、いまいちどういうものかわかってないというのに。さすがヴァリアー、知識が多い。

 

「もういいですね? フラン、おいで」

 

 正面で茶番劇を観戦していたフランに声をかけると、フランは素直に立ち上がった。しかしペンを持つ利奈には近づこうとはせず、この場全体を改めて見回した。

 

「これって、ミーを連れてく集団を決めるんですよねー?」

「そうだけど……」

「んだよ。言っとくけど、お前には拒否権とかねえから」

「ベル」

 

 あんまりにもあんまりな発言を窘めるが、フランはまるで響いていないという顔で続ける。

 

「なんか面白そーなんで、ミーが自分で決めてもいいですか?」

「え?」

 

 戸惑う一同を尻目に、フランがスッと指を指す。その先には、骸の姿があった。

 

「こっちの集団についていきますー」

「……!」

 

 その瞬間、歓声を上げたのはスクアーロだった。

 果たし合いに見事勝利したかのような咆哮とともに、剣を天高く掲げる。そして骸は、敗北を喫したといわんばかりの顔で川に膝と両手をつき、歯を食いしばった。一目でわかる勝者と敗者だが、二人とも熱量がおかしい。こんな面白い人たちだっただろうか。

 

「そんなにいやかなあ。だって最初からフラン連れて帰るつもりだったんでしょ、みんな」

「子供の身体で未来の記憶があるのならともかく、子供の身体に子供の頭じゃ話は別だよ。これからいろいろ教育するのなら……とてつもなくめんどい」

「そうね。あの身体じゃ荷物持ちも無理だし、私はパスで。あー、騒がしくなるわー」

 

 早くも先の苦労を想像して肩を落とす千種と、我関せずとばかりに伸びをするM.M。

 打って変わって、ヴァリアー陣営は安堵の空気に包まれていた。

 

「まあよかったわ。このフラン連れてったらボスがなんて言うかわからないし。下手したらほかの幹部候補生に暗殺されかねないもの」

「そのほうが楽じゃね? フランがやらかしたら隊長の責任問題にもなるし」

「むっ、そうなればスクアーロの地位は失墜――やはりフランは我々が連れ帰るべきでは?」

 

 子供相手になんてことを。利奈は水に入ることも厭わずフランを庇った。

 

「フラン、絶対あっち行っちゃダメだよ! よくない大人ばっかだから!」

 

 あんな薄汚れた組織に入ったら人格が歪んでしまう。

 一時期受けていた恩も忘れ、利奈はひしとフランを抱きしめた。フランは抵抗せず、されるがままだ。

 

「で、なんでそいつら選んだわけ? さすがに命は惜しかったとか?」

 

 これみよがしとばかりにベルが声をかけてくる。ベルにいたっては、フランを気に入っているのか嫌っているのかよくわからないところがある。真っ先に殺そうとしていたわりに、嫌悪感は出していない。

 

(私も気まぐれで殺されかけたことあるけど)

 

 ともかく、フランが自分で骸を選んだ理由は利奈も気になった。今のところどっちもどっちだったし。

 

「そんなの、見れば明らかじゃないですかー」

 

 腕のなかのフランが首を動かし、ヴァリアー陣営と骸陣営の人数を口に出して数える。

 

「男四人のむさいグループと、女の人が二人いるグループ。どちらを選ぶかなんて明白じゃないですかー?」

「ませガキ」

「ちょっとぉ、こっちだって私っていう花がいるでしょぉー?」

「毒々しい造花がなんか言ってますねー」

 

(あれ? ってことは……私がヴァリアー陣営だったら結果違ってたかもじゃ?)

 

 利奈がヴァリアー側ならばどちらも女一人ずつになって、即決されることはなかっただろう。つまり、利奈がヴァリアーに寝返りたいと言ったあのときに、骸が受け入れてれば――

 

(自業自得! 圧倒的な自業自得だ!)

 

 いい気味である。無理矢理人を引っ張り出したりなんかするから、こういうことになるのだ。

 

 それはそれとして、契約は完遂したのだから報酬は山ほど頂こう。またこんなふうに気軽に使われることのないように。

 

「いよっし、じゃあ帰るかぁ! ボスには悪いが、本人の意思は尊重しねえとなあ!」

「すごく嬉しそうだびょん。欠片も残念そうじゃないびょん」

「離婚するとき、子供があっちを選んだからって責任逃れするタイプね。慰謝料も渋る論外タイプ」

「最低だあ……」

 

 用は済んだとばかりに、ヴァリアーはさっさと引き上げていく。

 去り際にマーモンがいないと口にしていたけれど、そういえば途中からいなくなっていた。あきれて先に帰ってしまったのかもしれない。

 

「くっ……なぜこんなことに」

「あっ、落ち着きました?」

 

 放心していた骸が立ち上がる。膝から下がずぶ濡れになっているが、気にする余裕もなさそうだ。

 

「冷やしパイン……」

 

 ぼそりとフランが呟くと骸は一瞬硬直したが、なんとか耐えて前髪をかき分けた。

 犬は耐えきれずに噴いた。

 

「フ、フフ。まあ、当初の予定通りとはいきませんでしたが、幼い子供ならば逆に調教のしがいもあるというもの。ここから僕に従順な術士に育て上げます」

「骸様、たぶん無理です」

「三つ子の魂百までっていうものね……」

「調教って猛獣に使う言葉らったような……」

 

 骸以外は諦めモードである。

 

 ヴァリアー同様、フランを連れてさっさと帰りたいところだがそうはいかない。このまま連れて行けば誘拐事件に発展してしまう。これから骸は、フランのおばあさんと両親を説得しなければならない。

 もっとも、利奈には携わりようのない後始末なので、帰りの便に乗るまでM.Mと豪遊した。




if.モノマネ大会に参加していたら

「不良の喧嘩を買った直後にツナを見つけて、不良をガチギレさせる獄寺君やります!」
「てめえ表出ろやぁ!」


「チャーハンギョウザおいしい」
(苦虫を噛み潰した顔)


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

原点回帰

 

 再び十三時間の復路――今度はビジネスクラスだった――はあっというまに終わった。ぐっすり眠ったのだから当然だ。

 むしろ、今までよく起きていられたものである。時差のせいでずっと昼が続いていたけれど、日本にいたらとっくに眠っている時間だ。

 

 日本へと帰還した利奈は、まず空港で電話をかけた。

 夜九時の便で十四時間のフライトをして、フランスとの時差は七時間。日本に着いた時点で夕方六時だ。そこから迎えの車に乗って一時間半。目的地に着いたときには、またもや夜になっていた。体内時間がごちゃごちゃになっている。

 

「お疲れ様でした」

 

 使用人に促され、恭弥の自室に向かう。

 

 そう、利奈は真っ先に恭弥の元へと訪れた。

 夕食が終わった時間帯なのもあって、いつもよりも人の気配が多い。食事時だったら待たされていただろうから、タイミングはよかったのかもしれない。

 

「相沢さんをお連れしました」

「通して」

 

 ふすまが開いて、何日かぶりに恭弥を見た。こちらに顔を向けないので、端整な横顔が目に入る。

 

「お待たせしました」

 

 廊下に膝をついたまま頭を下げると、恭弥がわずかに顎を引く。入れと促されている。

 

(うわ-、喋らないやつだ。めっちゃ怒ってるなこれ)

 

 行きの飛行機搭乗直前にメールは入れたし、フランを引き取るための手続きを終わらせるまでのあいだに事情はあらかた説明したけれど、やっぱり機嫌は直らなかったようだ。

 ちなみに、国際電話の費用が骸持ちだと知った恭弥は少しだけ笑った。携帯電話の通話料金よりも高いのかもしれない。

 

 部屋に入るとふすまが閉められ、二人きりにされる。

 夕食後のおやつを食べていたようで、恭弥の手元には半分に切られたまんじゅうがあった。お金持ちの家だと、まんじゅうは切って食べるものらしい。

 

 食べ終わるのを黙って待つべきかと口を引き結んでいたら、やっと恭弥の目がこちらに向いた。殺意はないけれど、冷ややかな眼差しだ。

 

「相沢利奈、ただいま並盛に戻りました」

「それで首尾は?」

「もちろん」

 

 でなければ、こうしておめおめと現れてはいない。

 

 今回の骸との契約は、フラン獲得に参加することを引き換えに、ふたつ見返りが用意されていた。

 ひとつは、道中でかかる費用を全額保証すること。

 そしてふたつめは――

 

「クロームの転入は、六道骸の悪巧みじゃありませんでした」

 

 今さらだが、利奈は並盛中学校の風紀委員だ。つまり、学校すべてを牛耳る組織の人間だ。転校生の情報も、担任教師より先に手に入る。

 だからクロームが黒曜中学校から転校してくると知って、とても驚いた。しかも、手続きの翌日には転入してくるという性急さ。裏があると勘ぐって然るべきである。

 

(あのときは信号に骸さんいてびっくりしたなあ。ちょうどクロームのこと考えてたし)

 

 つまりふたつめの見返りとは、クローム転入の真相である。

 真相とはつまり、外面や外聞を弾いた答えだ。骸が自由の身になったからとか、クロームの実力では力不足だからだとか、そういった余計なものを除いて残る、最初の理由。

 

「六道骸は、クロームがこれからどう生きるか、自分の意思で決めさせるためにクロームを引き離しました」

 

 霧の守護者代理という肩書きもあるが、クロームは骸の代理人である。

 黒曜ランドから出られない骸の代わりに骸の意思を伝えたり、戦ったり、ときには骸を体に憑依させて戦うこともあったそうだ。

 

 骸が自由になった今、クロームもまた、自由になった。今のクロームならば骸陣営とボンゴレ陣営、どちらでも好きなほうを選べる。

 

『でも、クロームは骸さんを選びますよ?』

 

 帰りの機内で利奈は言った。

 だれが見ても明らかだと思うけれど、クロームは骸が大好きだ。それが恋慕なのか尊敬なのか、はたまた刷り込みなのかは不明だが、クロームの一番は骸である。

 

『それでもです。クロームは未だ子供で、兵士ではない』

『そんなの――』

『僕が求めているのは兵士です。それで言えば、お前はすでに兵士ですね』

『……うん?』

 

 突然呼び方が荒くなったことにまず引っかかったけれど、かまわず骸は続けた。

 

『目を見ればわかります。未来での戦いのなかで、お前は兵士として生きる覚悟を決めた。

 生きる場所を自ら選び取った。そうでしょう?』

『……そ、そうですね?』

 

 まったくピンとこなかったけど、確かに覚悟を決めた瞬間はあった。白蘭を殺す覚悟を決めたあのとき、非戦闘員ではなくなった。自分の意思で、境界線を踏み越えた。

 

 つまり骸は、クロームにも同じ覚悟を望んでいるのだ。そしてクロームが骸を選ぶならば、彼に依存せずに生きられなければならない。

 今のクロームはまだ、骸に庇護されている。Dとの戦いでも、骸と切り離されたことでクロームは大いに弱り果て、救出されるまでなにもできなかった。それでは骸とともに戦う仲間にはなれない。

 

 だからここはあえて距離を取り、クロームに自分の意思で選ばせようと骸は考えた。今までの敷かれた道を歩く生き方ではなく、自分で道を作る生き方を選べと。

 

『クロームにはそのことを話してません。それも自分で考えなければいけませんから』

『じゃあ、クロームが気付かなかったらずっとそのままですか?』

『ええ』

 

 どちらを選ぶか問えば、クロームは骸を選ぶだろう。だから、選択を迫ることすら決め手になってしまう。

 もう片方の天秤になにを置いても、クロームは骸を選ぶに違いないのだから。

 

『だから利奈には、クロームを見守っていてほしいのです。あの子が自分で考えられるように、話を聞いてあげてください』

『そんなの、頼まれなくてもやりますよ』

『でしょうね。あらかじめ説明するつもりだったのに、わざわざ自分で報酬に入れるから』

『え、そうだったんですか?」

『だって――先に言わないと、お前はクロームを連れて僕の元まで乗り込んでくるでしょう?」

『バレてる』

 

 そんなわけで、クロームは並中に転入することになったのだ。

 前日に疑った全面戦争のための宣戦布告説は外れたが、まあ、学校を再び戦場にされたくはないのでそこは助かった。恭弥からしたら期待外れだろうが。

 

「すごいですよね。クロームのためにそこまで考えてたなんて」

「……どこも上は苦労するね」

「どういう意味です?」

 

 またもやピンときていない利奈に嘆息しながらも、恭弥は報告を聞き終えた。そして、ようやく利奈に向き直る。

 

「で、ほかには?」

「はい?」

 

 ほかもなにも、事前に用意していたのはこれで全部だ。しかし恭弥は、ゆっくりと、噛み砕くように続ける。

 

「二日も委員会活動をサボっておいて、成果はそれだけかい? 身を粉にして働くと宣言した、あの謝罪はパフォーマンス?」

「うっ」

 

(そ、そうきちゃうか)

 

 思わぬ切り返しに、一瞬にして血の気が引いた。

 委員会活動に専念すると言っておきながらの骸陣営への協力。強制だったとはいえ、この程度の成果では帳消しにはならないようだ。

 

(そんなこと言われたって半分以上飛行機だったし……! しばらくはフランの教育に専念するって言うからバトる話もないし……!)

 

 こんなことなら、現金での報酬ももらっておくべきだった。しかし今さら遅い。

 誤魔化すべく、やたら大きい紙袋を漁る。

 

「もちろん、お土産買ってきてますよ。パリで買った置物の――」

「ふん」

「エッフェル塔ーっ!」

 

 饅頭の皿が、的確にエッフェル塔の置物を弾き飛ばした。畳を転がるエッフェル塔に罪はないのに。

 

「ないんだね」

「はい……」

 

 打つ手はない。こうなるとまな板の鯉と同じだ。例によって、恭弥の無理難題を呑まされる。

 

「これからは僕に絶対服従してもらうよ。群れることは許さない」

「はい……」

 

 他陣営との接触禁止令。

 まあ妥当である。不可抗力の場合はどうすればという話だが、それを口にしたら今度は湯呑みが宙を舞うだろう。湯気が立っているのを確認して利奈は口を閉ざす。

 

「ついては、班から外れて僕についてもらう。至門生たちの騒ぎでいろいろと滞ってるんだ」

「つまり、秘書みたいな感じです?」

「下僕だよ」

「ええ!?」

 

 もはや下っ端ですらない。

 しかし反論できる立場ではなく、利奈は頭を低くしてその不名誉な称号を受け入れた。ここにきて、初めての奴隷扱いである。




ドアを叩いたときではなく、ドアを開いたときが分岐点


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カミングアウト

ダラダラしてたら今年終わっちゃいそうなので。


 

 

 土曜日。午前授業。ホームルームも終わり、放課後。

 一週間で一番みんなが盛り上がるなかで、一人だけ腰が重い。一目散に教室を出て行く生徒も多いなか、出したバッグに教科書を詰めることすら億劫がっていた。とはいえ、掃除係でもないのに居座るわけにもいかず、のろのろとファスナーを開ける。

 

「あれ、利奈も弁当か?」

 

 一時的に取り出したお弁当箱が目についたようで、通り過ぎようとしていた武が声をかけてきた。着替える気満々のようで、もうベストの下のシャツのボタンが外れている。

 

「うん。今日は――今日も? このあと委員会があるから」

「そっか。俺もこれから部活、一緒だな!」

 

 武がニカッと笑う。一瞬、部室での惨劇がよぎったけれど、あれは終わったことだ。

 

「一緒かなあ。最近、ずっと委員会漬けなんだよね」

 

 自分のせいだけど、と脳内で唱える。骸と接点があることはもうバレているけれど、学校をサボってフランスに行ったことはだれにも言っていない。一般生徒としても素行不良である。フランス自慢がだれにもできないところが歯がゆい。

 

「んー、そっか。野球ならとにかく、俺も勉強漬けだと気が滅入るわ」

「テスト前?」

「そうそう。赤点取ったら部活行けなくなっちまうし、仕方ねーけど」

 

 武は野球部期待の星だが、テストの成績はいつも赤点ギリギリだ。日頃の行いというか活躍の差というか、綱吉と違って叱られることはないが、それでもよく注意を受けている。学校的には部活動に専念してほしいものの、成績の悪い生徒をひいきするわけにもいかない。悩ましいところだろう。

 

「いやー、じつはさ。ヒバリさん怒らせちゃって。だからすごく仕方なくだけど、委員会頑張らなきゃなんだよね」

「ヒバリ、おっかねーもんな」

 

 それはもういろいろな意味で。あと、さっきから同じくらいおっかない視線がこちらに複数向いている。武が名前呼びしたところからずっと。つまり、最初から。

 継承式周りであれやこれやあって、武との絆は深まったけれど、端から見ればいきなり仲がよくなったように見えるだろう。付き合い始めたのかと探ってくる人もいたし、牽制する気持ちもわかる。以前の利奈だったら、いち早く察知して、それとなく距離を取っていただろう。

 

「そっちはどう? 水橋君、サッカー部の先輩と揉めたって聞いたけど」

「ああ、それなら問題ないぜ! 薫の言いたかったこと伝えたらちゃんとわかってくれたから」

「よかった。暴力沙汰になって退部とかいやだからさ」

「ならないって。あいつ、ちょっと口下手なんだよな」

「うーん、まあ、そうだね」

 

 そういう問題ではなかった気がするけれど、当人たちからすればそうなのだろう。利奈は寛容に頷いた。複数の矢印を無視しながら。

 

(うん、やっぱりこっちのがいいや)

 

 自然体で話すほうが、人目を気にするよりもずっといい。またいつなにが起きるかわからないし、友達とはできるだけ自然体で接したい。あれで最期になっていたらと思うとゾッとする。

 それはそれとして視線は痛いけれど、下手に刺激しなければ危害は加えてこないだろう。風紀委員に喧嘩を売る気概があればの話だが。とりあえず、今回は穏便に終わった。

 

「利奈」

 

 やっと席を立ったところで、クロームが声をかけてきた。武がいなくなるまでタイミングを計っていたみたいだ。まだ慣れていない教室で、落ち着かなさそうにバッグの持ち手を握り直している。

 

「クローム、さっきの数学大丈夫だった? 範囲違うって言ってたけど」

「う、うん。大丈夫そう」

 

 転入するとそういう違いが厄介だ。利奈も覚えがある。なんなら、利奈ですらこの学校に転入してから一年も経っていない。

 

(去年の今頃は普通に中学生だったんだよなあ……ちょっと信じらんないなあ……)

 

 未来であったことを除外したとしても、ほとんどまともな学生生活を送れていない。あまりの激動に呆然としてしまいそうだ。教科書の違いに文句を言っていたことさえ懐かしい。

 

(そういえば、至門生はどうだったんだろ。私と同じで、けっこう遠くから来たよね)

 

 至門生は利奈が入院しているあいだに編入してきたから、その辺りはまったく気にしたことがなかった。授業態度から察するにも、SHITT・P!はSHITT・P!だし、炎真は炎真だ。どちらも先生から意図的に外されている。

 なんとなくSHITT・P!の席に目を向けると、運良く――いや、この場合は運悪く、帰ろうとしていた炎真と目が合った。あちらが反射的に固まったから、こちらは反射的に眉を寄せる。そして、利奈のほうがツンと顔を背けた。

 

 島での一件以来、炎真とは一回たりとも会話をしていない。つまり仲違いしたままで、冷戦状態だ。こちらからなにかしようとは思わないけれど、あちらからもなにもしてこないので平行線が続いている。そもそも、話しかけてこようとする気配すら感じられない。

 

(まあ? 私が怒ってるだけだけど? 炎真君はべつにこのままでいいのかもしれないけど? 私が勝手に怒って勝手に拗ねてるだけですけど!? もういいんじゃないの一生このままで!)

 

 仲直りしたいのなら炎真側から働きかけるべきで、それがないということは、つまり、そういうことだ。なんなら、事の発端となったアーデルハイトのほうが仲を取り持とうとしている。学年が違うし委員会で対立した過去があるから、あからさまではないものの。

 

「利奈……?」

 

 クロームの呼びかけに、利奈は眉間のしわを解いた。話しかけてこないくせにたまにチラチラ見てくる炎真なんて、気にしていられない。

 

「ううん、なにも」

「明日、十二時でよかった?」

「うん。ちょっと早めに行こっかなって思ってるけど、平気? 片付けたりとかするでしょ、あれ」

「大丈夫。待ってる」

「うん。また明日ね、クローム」

 

 結局、今日も炎真は話しかけてこなかった。

 

 

__

 

 

 午前授業後に委員会がある場合、空き教室に集まって弁当を食べているのが恒例だ。でも、今回は一人なので応接室で食べることにした。食べながら書類に目を通せば時間も無駄にならないし、そのぶん早く家に帰れる。恭弥の許可も得た。

 応接室のテーブルは低すぎて作業をするのには向いていないけれど、それは仕方ない。恭弥の下僕――は抵抗があるから秘書と心のなかで唱えさせてもらうが、恭弥と同じ部屋にいたほうがなにかと都合がいい。

 

(いつなにが起きるかわかんないし。いきなり拉致られたり、未来に飛ばされたり、ほんとにたくさん! それに、ヒバリさんが窓からいきなりどっか行っちゃったりもする)

 

 巻き込まれ体質についてはたまに釘を刺されるけれど、目が離せないのはお互い様だ。今ならそのあとを追ってすぐに飛び降りられるものの、そこに至った経緯を知っているか知らないかでは、その後の対応が変わってくる。

 とはいっても、最近はみんなおとなしいものだ。利奈が恭弥と歩いていようが、一人でいようが、ちょっかいをかけてくる人間はいない。いや、いなくなったと言うべきか。

 

(夏休みに襲ってきた人たちは全員病院送りになったし、なにもしてなかった人たちも濡れ衣でボコボコにされたし)

 

 すべては利奈がリング争奪戦直後に行方不明になったことが原因となっている。

 恭弥が未来に飛ばされるまでの一週間、都内の主要犯罪組織はすべて恭弥の襲撃を受けている。幸か不幸か、利奈の行方不明期間が二日にまで短縮したおかげで、被害は並盛町周辺の地域だけで収まった。――犯罪組織が生き残ったことを、幸とするのも変な話だけど。

 善し悪しはさておき、おかげさまで利奈は毎日平穏無事に過ごせている。餌にする気満々だった恭弥は不満そうだが、草食動物を絶滅させた張本人なので諦めてほしい。

 

 ――と、応接室のドアが叩かれた。

 返答を待つことなく開いたドアに目を上げるが、そこに人影はなく――利奈は自然と視線を落とした。

 

「チャオっす」

 

 もうすっかり顔馴染みとなったリボーンである。

 

「リボーン君、おはよー」

 

 恭弥も顔を上げた。

 

「やあ、赤ん坊」

 

 挨拶はしたものの、ペンを握ったままだ。やや警戒しているようで、目が細くなっている。

 利奈は利奈で、手に持っていたおにぎりを口のなかに押し込んだ。リボーンがわざわざやってくるときは。たいていなにか重要な用事があるときだ。

 

「食事中に悪いな。ちょっと話がある」

「ん、おけ」

 

 咀嚼しながら手に持っていたラップを弁当箱に入れて、広げていた書類と一緒にわきに寄せる。利奈が移動する前にリボーンが正面に座ったので、利奈はそのまま恭弥を仰いだ。

 

「なんだい、話って」

 

 恭弥の手元は止まっていない。明らかに面倒くさがってはいるものの、促す程度には関心がある。厄介事はごめんだけど、退屈だから刺激はほしいのだろう。リボーンはさっそく話を切り出した。

 

「お前たちに、俺のチームに加わってほしいんだ」

「え」

「……」

 

 単刀直入な言葉に、二人して眉をひそめる。奇しくも反応が揃った。

 利奈は面倒事への忌避感からで、恭弥はチームという単語への拒絶反応。D戦で無理矢理群れさせられたのを思い出したようで、右手をさすっている。

 

「なんのチーム? ボンゴレファミリー関連の?」

 

 まさかスポーツチームではあるまい。とはいえ、守護者関連ならチームという言い方に違和感がある。綱吉ではなく、リボーン自身のチームというのも。

 

(あと、お前たちって言ったよね。しれっと私も入ってない?)

 

 まさか、ヴァリアーでの秘密特訓がバレてしまったのだろうか。ヒヤヒヤする利奈を横目に、リボーンは続ける。

 

「ボンゴレは関係ねーが、まあ似たようなもんだな。俺がメンバーを集めるとなると、自ずとボンゴレ関係者になっちまう」

「メンバー?」

 

 またもやいつもと雰囲気の違う単語である。

 

(なんか今日歯切れ悪いよね、リボーン君。いつもなら全部決定事項みたいに話すのに)

 

 あまり乗り気じゃない話なのだろうか。ポーカーフェイスだから表情までは読み取れない。

 

「五日後、アルコバレーノ最強を決める戦いが始まるんだ。それで、俺の代わりに戦う代理戦争メンバーを集めてる」

 

(戦争!?)

 

 物騒な言葉に利奈が身を引き、恭弥が前のめりになる。反応が逆になったが、これはどうやら厄介事だ。

 

「えと、アルコバレーノってなんだったっけ? 骸さんがリボーン君のことよくそう呼ぶよね」

 

 言った瞬間、恭弥の指がピクリと動いた。マズいとは思ったものの、話の腰が折れるので気付かなかったふりをした。じわりといやな汗が滲む。

 

「アルコバレーノはイタリア語で赤ん坊って意味だ。俺含めて七人が虹のアルコバレーノ――虹の赤ん坊と呼ばれてる」

「あ、そういえばそっか、未来で」

 

 やっと思い出した。未来から現代に戻るときに集まっていた赤ちゃんたちがアルコバレーノだ。守護者たちと似た並びだった。

 

「えっ、じゃあマーモンもそのバトルにいるの? 今度は敵?」

「そうなるな」

 

 そうなるならちょっと参加は難しい。未来でお世話になったメンバーには含まれないものの、彼もチームを組むならヴァリアーメンバーが敵になるだろう。

 

(待って、なんかすごい並びにならない?)

 

 ほかのアルコバレーノはまったく知らない子たちだったけれど、リボーン陣営とマーモン陣営だけでおなかいっぱいだ。リング争奪戦をもう一回やるようなものである。そもそも、なぜ彼らのなかで最強を決める必要があるのか。目的はなんなのか。

 

「やると決めたのは俺たちじゃねえ。俺たちはほぼ強制的に参加させられただけだ」

 

 だからちょっと元気がないのか。

 それにしても、だれからも一目置かれているリボーンを強制参加させた人物とは、いったいだれなのだろう。ボンゴレ九代目ボスのティモッテオならあり得るだろうか。でも、だとしたらここまで億劫そうなそぶりはしない気がする。

 

「だれが決めたの? 私の知ってる人じゃないよね?」

「ああ。おれも詳しくは知らねえ。名前も顔もな」

「ええ!? どういうこと、どんな人!?」

「そうだな……」

 

 前のめりになって尋ねると、リボーンは考え込むように目線を上げた。核心を話すか話さないか、考えているようだ。そして話すと決めたようで、利奈と目を合わせる。

 相変わらずつぶらな瞳だ。無垢で愛らしく――

 

「俺たち全員をこの姿に変えやがったクソ野郎だ」

 

 発した音と内容に、なにひとつ似つかわしくなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

積み重ねられたもの

 書類を書いていた恭弥の腕が止まる。

 

「えーっと? なに?」

 

 利奈は思考が追いつかない。聞こえた言葉をそのまま受け取るべきか、それとも聞き間違いを疑うべきかと、まずそこで迷う。

 

(この姿に変えたって、赤ちゃんにってこと? ううん、もしかしたら違う意味かも。だってそんな冗談みたいな――)

 

「俺たちは、呪いで姿を変えられた。本当の俺はもっとかっこいい」

 

 文字通りの意味だった。茶化すように言うけれど、それで中和されるような内容ではない。思わず恭弥を仰ぐが、恭弥も初めて知ったようで、続きを促すようにリボーンを凝視している。

 

(呪いで姿って、え? 全員って、マーモンも?)

 

 アルコバレーノが全員ならば、必然的にマーモンも含まれる。二人とも確かに赤子らしからぬ振る舞いだが、それにしたって呪いとはいったい。

 

「まあルーチェ――ユニの祖母は変わらなかったんだがな。腹にユニの母のアリアがいたからだろうが」

「待って待って、ちょっと待って」

 

 その状態で赤ちゃんになったらそれは大惨事だが、最初に気にするべきところはそこじゃない。

 

「赤ちゃんにされたって、じゃあ、リボーン君って本当は大人……なの? マーモンも?」

「マーモンは顔を隠してたから元の年齢は知らねえが、俺はな。意外か?」

「だって……ん? あれ?」

 

(そう言われると、そうでもないような……。赤ちゃんなのに普通に話せて、歩けてて、コーヒーも飲める。あっ、ご飯もみんなと一緒)

 

 むしろ、流暢に喋って両足で歩いてコーヒーを嗜んで、そのうえヒットマンを名乗る赤ちゃんのほうがおかしいだろう。すっかり受け入れてしまっていたけれど、改めて考え直せば早熟という言葉ではとても収まりきらない。

 

「なんか、大人って言われたほうがわかるかも」

「だろ?」

「え、なんでだろ。ほんとにそうだよね。なんでおかしいって思わなかったんだろ……」

「俺はプロだからな。変装、擬態はお手の物だ」

「わあ、暗殺者向き」

「殺し屋だからな」

 

 このやりとりも赤子とのものとは思えない。赤ちゃんっぽく取り繕おうとせず堂々としているから、そんなものかと受け入れてしまうのかもしれない。勉強になる。

 

(ランボ君も十年バズーカで大人になったりとかあったし、それの逆って思ったら――うん、ありえなくないか。他人に取り憑いたりとかもできるんだし)

 

 本来は許容できる事柄ではないけれど、すでに数多くのトンデモを目の当たりにしてきている。未来に飛ばされたのが最たる例だろう。

 

「で、なんでみんなが戦うの? どっちかっていうと、その人と戦ったほうがよくない?」

 

 口振りからして、リボーンがその人物に嫌悪感を抱いているのは明らかだ。ほかのアルコバレーノと手を組んで犯人を捕まえるほうが筋が通る。

 

「俺もそうしてえのはやまやまだが、そいつがどこにいるのかもわからねえからな」

 

 わかったらすぐにでも殺してやるのに、と言いたげに銃を見せるリボーン。赤ちゃんの姿では、人捜しも難航するだろう。

 

「連絡取ってきたんでしょ? そこから探れないの?」

「接触してきたのはあいつだが、こしゃくなことに夢のなかに入りこんできやがった」

「わあ、最悪……」

 

 となると、相手は術士なのだろうか。術士ならば、なにができてもおかしくない。Dがいい例だ。

 

(骸さんがそのうち使ってきそうでやだな……)

 

 フランスの件でしばらくは接触を控えようと思っているけれど、夢にまで追いかけてこられたら逃げようがない。寝ているあいだに入りこむなんて、変質者じみてはいるけれど。

 

(あっ、でも夢なら人目気にしなくていいし、極秘事項とか伝えやすくて便利かも。ヒバリさんに見つからないで話せる――ううん、ダメだ。ダメみたい。睨んでる)

 

 利奈の考えることなどお見通しのようだ。下僕期間が延びそうなので、利奈はすかさず思考を切り替える。

 

 リボーンたちを赤ん坊の姿に変えた人物――黒幕は、今度はリボーンたちに争いあうように強要した。普通に考えればそんな指図受けるはずがないが、元に戻る手掛かりは黒幕が握っている。

 

「本来なら脅されたって奴の命令に従うつもりもなかったが、俺以外の奴らが全員乗り気になっちまった」

「ってことは、賞品があったんだね。みんなが絶対に欲しがる」

「察しがいいな。ああ、そうだ。代理戦争の勝者は、呪いが解けて元の姿に戻れるらしい」

「へえ」

 

 恭弥がやっとペンを置いた。リボーンが元の姿に戻れれば、本来の実力を遺憾なく発揮できるわけで。つまり、獲物として申し分ない存在になる。恭弥がそう考えることを見越して、リボーンも応接室に来たようだ。さすが家庭教師、人のやる気を引き出すのがうまい。

 

「それで、どんな勝負なんだい? 前みたいにゴチャゴチャしたつまらないルールじゃないだろうね」

 

 チョイス戦のことを言っているのだろう。あれはひどかった。チョイスという名称通りいろいろ選んでいたけれど、そのほとんどがランダム制。戦闘員までランダムだったから、恭弥は戦闘に参加することもできなかった。あのまますんなり終わっていたら、ルール無用で白蘭たちに襲いかかっていただろう。

 

「ルールはまだわからねえんだ。それぞれが代理を立てて戦うのなら、総力戦になるとは思うがな」

「総力戦……リボーン君とマーモン以外のアルコバレーノも、そういう人脈あるの?」

「元々そういう集まりだったからな。代理に制限はなかったから、どこぞの国家を味方にする奴もいるかもしれねえぞ」

「国家ぁ!?」

 

 そんなの、どうやって倒せというのか。あまりの規模に声を裏返させると、リボーンがふっと笑った。

 

「冗談だ。さすがにそこまでの人脈がある奴はいねえ」

「な、なんだ……」

「だが一人科学者がいるから、殺人兵器や戦車くらいなら出てくるかもな」

「ええ!?」

 

 今度は冗談だが出てこなかった。そんな反則技、ルールによっては本当に死人がでかねない。

 

「だから俺も、最強のメンツを集めてるところだ。ちなみにディーノはもう呼んであるぞ」

「へえ!」

 

(そっか、制限ないからディーノさんもOKなんだ! じゃあ、未来で仲間だった人たちも声かけてるのかな?)

 

 十年前の現在の実力はわからないけれど、たとえばジャンニーニなんかもメカを作れたはずだ。対抗手段があるのは心強い。必要最低限の説明を終えたところで、リボーンが恭弥を見据える。

 

「どうだ? ほかのやつらもそれぞれ最強メンバーを揃えてくるだろうし、お前にとっても悪い話じゃねえと思うが」

「お断りだよ」

「あれ?」

 

 即座に恭弥が断ったので、利奈は素っ頓狂な声を上げた。リボーンが元に戻ったら、絶好の戦闘相手になるし、最強メンバーを集めてバトルなんて、恭弥特効の謳い文句だったのに。途中までの反応もよかったし、てっきり、ノリノリで了承すると思っていた。

 

「ルールどころか、どんな戦闘になるのかもわかってないんだろ? それに、これ以上草食動物たちと群れさせられるのはごめんだ」

 

 恭弥が左腕を掻く。

 

「強い奴らと戦えるっつってもか?」

「だから、好きに戦えるかどうかもわからないんだろ? だったら僕は不参加だ。まあ、目についたら襲いかかることもあるかもしれないけれど」

「乱入するつもりだ……」

 

 単純な話で、どこにも属さなければ、すべてのグループと戦うことができる。不参加なら、ルール無用で全員を咬み殺せるのだ。リボーンたちの未来がかかっているのに、清々しいほどの利己主義である。

 しかし今回限りは、恭弥の主張にもほんの少しは正当性があるのだ。

 

「あのね、この前、島から帰ったあと、ヒバリさん蕁麻疹ができちゃって――ストレスで」

「マジか」

 

 利奈もまったく同じ感想を抱いた。まさかそこまで重傷だったとは思ってもみなかった。

 

(いっつも言ってたもんね、群れるのは嫌いって。今回は自分で行ったけど……)

 

 群れるのは嫌いだが、やられたままではいられないと、自分でヘリコプターを用意してまで島に向かった恭弥。島では団体行動を余儀なくされたようで、ストレスで左腕に無数の発疹ができた。肋骨をやった利奈と横並びで診察を受けていたが、制服の布地が触れるせいで、かなり不愉快そうだった。ちなみに利奈のほうは了平の晴の炎ですぐに治った。

 

「だから、ほかのみんなとチーム組むのはちょっと無理そうなんだよね。ごめんね」

「なんで謝るの」

 

 下手に出たのが気にくわないのか、恭弥がムッとする。

 そうは言っても、メンバーには加わらないがバトルの邪魔はするよとか言ってるんだから、代わりに謝りたくもなる。むしろ、なんでそんな堂々としていられるのかという話だ。

 

「そういう理由なら仕方ねえな」

 

 リボーンがソファから飛び降りる。断られるのは織り込み済みだったようで、あっさりとしている。ドアを開けてあげると、応接室を出る前に一度振り返った。

 

「気が変わったら連絡してくれ」

「場合による」

 

 恭弥は目を上げなかった。

 

 

___

 

 

「呪いかあ……。ヒバリさんは知ってました?」

 

 書類が一区切りついたところで、ソファの背もたれに腕を置く。恭弥側も書く作業は終わったようで、黙々と判子を押していた。

 

 いつも飄々としているリボーンに、あんな事情があったなんて。言われてみれば納得だが、呪いなんて非科学的で突飛なこと、半年前なら信じられなかっただろう。

 

「知らないよ。でも、あれが本来の彼じゃないのなら、本当の彼と戦ってみたいね。いつものらりくらりと逃げられるから」

「だったら、協力して優勝してもらえばよかったじゃないですか」

「それとこれとはべつ」

 

 ピシャリと恭弥ははねのけた。利奈は首をひねりながら机に向き直る。

 

(……あ、でも、リボーン君が勝ったらほかの人は呪いが解けないんだ。……それはちょっとなあ)

 

 パッと出てくるのはマーモンだけど、ほかの人だって元の体に戻りたいだろう。二人とも、出会ってからまったく成長してないし、呪いが解けるまではずっと赤ん坊なのかも知れない。

 

(あれ。それって、すっごく残酷な呪いなんじゃ)

 

 不老不死――ではないだろうが、永遠に赤ん坊の姿ならば、そんなのあんまりだ。少なくとも、普通の生活は成り立たないだろう。学校に通えないし、仕事にも行けない。もしかしたら、家族にも秘密にしているのかもしれない。

 元に戻れるのはたった一人。その座を狙ってみんなが争い合う。だれの味方になっても後味の悪い戦いになるだろう。あえて軽く話すことで、リボーンはその追求を逃れたように思う。

 

(みんなに呪いをかけといて、解くのは一人だけなんて。どうしてそんなひどいことするんだろ)

 

 いったい、だれがなんの目的でそんな呪いをかけたのか。リボーンに聞けば詳しく事情を教えてくれるかも知れないが、戦いに参加するわけでもないのに興味本位で聞くわけにもいかない。そもそも、利奈では戦力に――

 

(……リボーン君、私も数に入れてたよね? ルール決まってないって言ってたし、ルール次第で私もなにか――)

 

「――わかってると思うけど」

 

 語気の強い声に、飛び上がらんばかりに驚いた。動揺を隠しきれない利奈を睨み、恭弥が続ける。

 

「勝手に群れたら完膚なきまでに咬み殺すから、そのつもりでいなよ」

「ひえ」

 

 下僕の考えることなど、お見通しのようだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

既知の遭遇

 

 リボーンから衝撃的な事実を聞かされ、恭弥にしっかり釘を刺された次の日。つまり日曜日。利奈はクロームの住むアパートへと向かっていた。

 

(違います、これは違うんです。リボーン君からあの話聞く前に約束したし、友達の家に遊びに行くだけなので裏切りじゃないです!)

 

 心のなかで言い訳を唱えつつ、重たいトートバックを担ぎ直す。友達が一人暮らしすると母に話したら、その子にあげてと大量に食料やら生活用品やらを用意されたのだ。母があんなにクロームを心配するだなんて思ってなかった。

 荷物のなかには母の手料理も二人分あって、クロームの家で一緒に食べる予定になっている。ごはんは今頃クロームが炊いているはずだ。炊飯器は、京子の家で余っていた物を譲り受けたらしい。炊飯器なんて余ることあるのかと思ったけれど、うちも押し入れに使わない掃除機が眠ってるし、そんなものなのかも知れない。

 

(掃除機もクロームにあげちゃっていいんじゃないかな。これ以上持って歩きたくないけど)

 

 リュックサックとトートバッグですでにいっぱいいっぱいだ。午後は恭弥のところに顔を出す義務があって制服だし、ぱっと見は修学旅行生に見えるだろう。

 

(骸さんに協力したせいで日曜まで学校行かなくちゃいけないし……今度会ったら追加報酬要求してやる!)

 

 でなければ割に合わない。

 

 クロームの借りているアパートは、未来の世界でみんなをかくまってくれた川平不動産が用意してくれた。店主はあの男ではなくおばあさんだったけれど、ハルをそうとうかわいがっているようで、事情も聞かずにほいほいと破格の物件を紹介してくれた。そうでないと、表社会の方法でアパートを借りるなんて無理だったろう。

 

(あの世界じゃ一瞬で爆破されちゃったんだよなあ……。私もひどい目に遭ったし)

 

 爆破のタイミングで桔梗の仕掛けた罠に生命力を奪われ、財団職員に救出されるまでほぼほぼ絶不調だった。そのあいだも怨敵の人質にされるわ、怨敵に弄ばれるわ、散々だ。

 

(あそこで白蘭になにもできなかったのがなあ……。ああなるんだったら、花瓶の水でもぶっかけておけばよかった)

 

 暗殺は失敗したが、泳がされていたのならばそれくらいはできたはずだ。いや、やるまえに桔梗に止められただろうか。ずっと手のひらで踊らされていたと思うと、はらわたが煮えくり返ってくる。

 当時を思い出すだけでムカムカしてくるが、まだチャンスは残っている。この世界にも、白蘭は存在するからだ。それを絶望に感じたこともあるけれど、今となっては希望だろう。まだ仕返しするチャンスが残っていると考えれば、白蘭が存在する世界も受け入れられる。当然、存在しないなら、それに越したことはなかったけれど。

 

 船で聞かされたときは激しく取り乱してしまったが、もう大丈夫だ。たいていのことは時が解決するというけれど、実際その通りらしい。そもそも、利奈が受け入れようが受け入れなかろうが、白蘭はこの世界に存在するのである。そう考えたら、否定するだけバカらしい。今もきっと、どこか知らない場所でソファに寝そべったりしながらお菓子を頬張っているに違いない。

 

 ――そんな利奈の予想は、ことごとく外れていた。

 

 アルコバレーノであるユニに代理戦争を持ちかけられた白蘭は、ボンゴレの監視を振り払ってユニ陣営に加わっており、この日の朝にリボーンの代理である綱吉と接触を果たしていた。そしてこの日この時間、利奈も知っている場所で、彼はある人物を探していた。その人物が制服姿だったので学校付近で待ち伏せていたものの、なぜか学校から離れていったので追いかける羽目になり、現在やっと追いついたところだ。つまり、ある人物とは利奈である。

 

「学校行かないでどこ行くの?」

 

 背後からかけられた声に、利奈の思考は急速に冷えていった。その声はけして忘れられるものではなく、その存在はけして許されるものではなく。

 

 ――白蘭の存在を告げられてからずっと、利奈はこの瞬間を予期していた。いつか必ず、邂逅するときが来ると信じていた。そしてどう行動するべきか考えたけど、答えは出なかった。

 そもそも、自分がどんな感情を抱くのかすらわからなかった。最初に噴き上がる感情は怒りか、恐怖か、絶望か。最初に取る行動は攻撃か、対話か、逃避か。きっとどの選択も同じくらいの確率だったはずだ。

 

(でも、今は)

 

 思考とは裏腹に、体は凍らなかった。髪の毛がシャラリと音を立てる。スカートが揺れる。腕章に光が当たる。眼差しが、仇敵を捉える。

 

「並中生へのつきまといや声かけは風紀違反だけど、なにか言い逃れはある?」

 

 ――そう、今の利奈は紛れもなく風紀委員だ。ならば、不審を取り締まらなければならない。

 

(なーんて、荷物重すぎて殺すのも逃げんのもできないだけだけどね!)

 

 世は無情である。トートバッグはそのまま落とせばいいが、リュックサックが重すぎた。痛恨のミスというか、絶望的にタイミングが悪い。それを狙ったと言われても信じられるくらい行動に制限がかかった状態だ。攻撃も逃避もできないのなら、残る手段は対話のみである。

 そんな事情を胸に隠しつつ、白蘭と向き合う。武から前もって聞かされていたけれど、確かに顔つきは変わっていた。十年前だから当然若いし、なにより、私服姿にとても違和感がある。

 

(すんごいカジュアルな恰好……首輪みたいなチョーカーつけてるし)

 

 この時代だとまだ十代だろうか。若々しさが前面に出ていて、なんかすごく違和感がある。お父さんの若い頃の写真を見たときみたいな、なんともいえない感じが。

 不審者に向ける眼差しを受けたにもかかわらず、白蘭は朗らかに笑んだ。

 

「よかった。思ってたより元気みたいだね。てっきり、問答無用で飛びかかってくるかと思ってたんだけど」

 

 声音も違っていた。浮いたような白々しさがない。しかしそれはなんの保証にもならない。

 

「不審者に自分から近づくわけないじゃない。それで、なに。ボンゴレに捕まってたんじゃなかったの」

 

 ジリジリと距離を取る。相手がその気になったらどうしたって逃げられないだろうけど、こういうのは態度が大事だ。昨日の怨敵は今日も宿敵。武には悪いが、迎合するつもりはない。

 

「べつにボンゴレに捕まってはいなかったよ。なんでも用意してくれてけっこう快適だったし――残念?」

「……」

 

(残念かって聞いてくるこの神経がいや! やっぱこいつ生かしておくべきじゃない!)

 

 このときばかりは、ボンゴレが人道的な組織であることを恨んだ。そういえばミルフィオーレでも捕虜の扱いはよかったし、強大な組織ほど敵にも厚遇なのかもしれない。

 

「で、なんの用」

 

 心が暗黒面に飲み込まれないよう、話を逸らす。一人でいるところを狙って来といて、まさか偶然とは言わないだろう。答えようと口を開いた白蘭は、しかし、なにかに気付いた顔で顎に指を当てる。

 

「んー……今思ったんだけど、君、僕がなに言っても信じないよね」

「当たり前」

「だよねえ」

 

 世界征服を諦めてなくて、利奈を利用しに来たというなら言うのならば信じる。反対に、それ以外の答えはすべてでまかせだと思うだろう。とくに、危害を加えるつもりはないとかそういう言葉は。

 

「まあ仕方ないよね。自分のことだけど、僕の言葉は信用に値しないなと思うし」

 

 他人事のように言ってくれる。実際、彼にとっては他人事だろう。だったらなにも言わずに去ってほしいところであるが、まだ去られては困る。

 

「いいから言って。並盛になにしに来たの」

「あっ、そっちは簡単だ。僕も代理戦に参加するんだよ」

「は……?」

 

 代理戦といえば、昨日リボーンが言っていたアルコバレーノ同士の争いのことだ。知っているのが当たり前のように話す白蘭も、当たり前のように知っていた自分にも嫌気がさす。この場合、白蘭なんかに教えられなくてよかったと前向きに捉えるべきか。

 

(代理戦争に加わるってことは、どこかのアルコバレーノと手を組むってことだよね。じゃあ、やっぱり敵だ)

 

 リボーンは代理戦争まであと五日と言っていたから、今日は四日前。ルールが発表されたかどうかは不明だが、開戦前に敵戦力を削いでおこうとしてもおかしくはない。なにせ、チョイスでの昔の約束を反故にしようとした男だ。

 

「私、参加しないけど」

「そうなんだ。僕のところは全員参加するよ」

 

 真六弔花のことだろうか。この時代の彼らはお咎めなしだとティモッテオが言っていた。彼らは世が世なら一般人として――若干なにか言いたげだったが――普通に生きていたそうで、利奈も彼らに関しては恨みはない。

 

(ウソ、桔梗はちょっとある)

 

 桔梗はどことなく白蘭に似ている。それに無罪判定されていたとしても、現在白蘭に協力するようならやっぱり全員敵だ。気配を探るが、それらしい気配はない。

 

「私を利用しようとしても無駄だから。ヒバリさんも不参加だし、私を人質にしたってヒバリさんは動くよ」

「え? ああ、そっか。心配しなくても、今回は敵じゃないよ。今日だって、リボーン君に同盟の打診をしてきたところだし」

「信用に値しない」

 

 白蘭が言った言葉をすかさずねじこんだ。白蘭の言ってることが事実だとして、たとえ現時点で敵じゃなかったとしても、いずれ敵になるだろう。敵でなくても味方ではないだろう。少なくとも、白蘭が同じ陣営にいたら、白蘭を疑うことで無駄に体力を使う。敵であるべきだ。

 

「今度ばかりは本当だよ。そもそも、僕、君に味方だってウソついたことないじゃない」

「敵だったからね」

 

 紛れもなく敵だったんだから当たり前だ。終始、味方みたいな態度で話しかけてきたけれど。

 

(無駄話ばっかして。また変なものつけにきたんじゃないでしょうね)

 

 あのときの指輪は吉田が粉砕したが、同じ目に遭うのはこりごりだ。空けた距離はけして縮めない。白蘭側も近づくつもりはないようで、かぎりなく他人の距離で話し続けている。通りすがりのおじさんがこっちを見ていたけれど、気にしない。おじさんが白蘭の手先の可能性だってあるのだ。

 話すネタがなくなったのか、白蘭は服のポケットに手を突っ込んだ。利奈が身構えると、取り出そうとする手を止める。

 

「んー……これ見せても利奈ちゃん怖がりそうだね」

「なに出すつもり?」

 

 人を怖がりのように言うが、すべて身から出た錆である。白蘭が取り出すものなら、飴玉ひとつでも油断はできない。

 

「あげたいものがあるんだ。ほら、未来でいろいろあったでしょ? さすがにやり過ぎたなって思って」

「……」

「ほら、信じない」

 

 自嘲するように笑うが、自業自得だ。だいたい、なにをしたって償えない。

 

(……山本君を助けてくれたのは、助かったけど)

 

 それは白蘭の功績だが、贖罪とカウントしてもまだ足りない。彼が未来の白蘭とは違う存在だとしてもだ。この時代の白蘭は、ディーノやヴァリアーと同じく、未来の記憶を受け取っただけに過ぎない。だれも殺していないし、なにもしていない。

 

(でももう変わってる。ヴァリアーのみんなと一緒で、私の知ってる白蘭だ)

 

 本来、この時代のヴァリアーメンバーは利奈と敵対していたはずだ。殺されかけたこともある。しかし現在、ヴァリアーは完全に未来の記憶そのままの人たちに変わっている。でなければ、継承式で利奈に話しかけたりもしなかっただろう。未来での出来事は、絶対になかったことにはならない。

 

(そもそも私白蘭嫌い!)

 

 そして最後にものを言うのはやはり感情論だ。嫌いな人からの謝罪は受け入れないし、嫌いな人からのお詫びの品は受け取らない。簡単な話である。だからなにを用意されようが受け取る気はなかったが、白蘭が取り出したものを見て、利奈は目を丸くした。

 

「なにそれ」

 

 いや、なにかはわかる。未来で散々見てきたものだ。手のひら大の青い箱。いや、匣。それと青い石のついたリング。最初になにも言わずに取り出されていたら、一も二もなく逃げ出していただろう。これを白蘭はあげると言ったのか。なんのために。

 考え込みたいところだけど、いい加減、肩と腕が疲れてきた。リュックサックとバッグに目一杯物が入っている状態での立ち話は、思考力を奪う。

 

「それ、だれの?」

 

 数々浮かんだ疑問のうちのひとつを口にすると、白蘭は優しく微笑んだ。贈り物にピンときていない子供を見るような眼差しで。そして答える。

 

「君のだよ」

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一から増えてく分岐点

 

 利奈の瞳が揺れるのを、白蘭は万感の思いで見つめていた。相沢利奈が雨属性の炎を獲得する。数万、数億、八兆個の世界すべてになかった可能性だ。

 

(人を殺す覚悟ができたからこそ生まれた可能性。まさにイレギュラー)

 

 ここまで来たらバグと言ってもいいだろう。白蘭というチートに当てられて発生したバグ。ならば、その後始末をするのは自分をおいてほかにない。

 

(炎の発現に関わったのは僕だけじゃないけど。ブルーベルの力がなければ、ここまでは育たなかっただろうし)

 

 雲桔梗を押さえつけるためにブルーベルが注いだ雨の炎。体内を循環する同属性の炎に触発され、燻っていた死ぬ気の炎が一気に活性化した。雲桔梗を押さえつけられたときは疎ましさしか感じなかったが、改めて考えてみると偉業である。一しかなかった潜在能力を、一瞬で百まで伸ばしきったのだから。

 

(唯一僕が掌握できなかった世界。ここを起点にして、さらに世界は広がっていくんだろうね。世界は可能性に満ちていて、すべてを思い通りになんてできるわけなかったんだ)

 

「これじゃ、世界征服なんて無理だよね」

 

 万感の思いを乗せた言葉に、利奈はただ怪訝そうに眉を寄せた。

 匣とリングを渡そうと足を踏み出すが、利奈はそのぶん後ろに下がってしまう。あと何歩か近づけば背中が壁につくだろうけど、そうなる前に横に逃げるだろう。すでに片足に重心が寄っている。

 

(やったことがやったことだから仕方ないけど、困っちゃうな。綱吉君のついでなんて横着しないで、ユニちゃんがいるときに渡せばよかったか)

 

 綱吉があまりにもあっさりした態度だったから楽観視していたけれど、彼女の反応が正しい被害者仕草なのだろう。ユニも明日には到着する予定だし、警戒を解くためにも、ここは一度引いてみせたほうがいいかもしれない。それに、協力するアルコバレーノがユニで、ユニとの関係も良好だと証明できればそれなりに――

 

(いや、確か僕を幼女趣味と疑ってたかこの子)

 

 一瞬表情を落としそうになるが、ギリギリのところで堪える。

 

「じゃあ、また今度会ったときに渡すよ」

 

 匣とリングをポケットに戻すと、利奈が露骨に力を抜いた。そういえば、やけに大荷物だ。パンパンに物の詰まったトートバッグからは、レトルトのカレーが覗いている。家出でもするところだったのか。

 これ以上対話を試みても平行線だろうからと背を向けると、動揺したように利奈が声を張った。

 

「待って!」

 

(あれ?)

 

 呼び止められるとは思っていなかった。驚きとともに振り返る。利奈は切羽詰まった顔をしていた。

 

「それ、私も使えるの?」

「使えると思うよ。自覚はない?」

 

 考えるように黙り込む利奈。この表情だと、本人に心当たりはなさそうだ。彼女はボンゴレの戦闘員ではないし、もとの能力も低いから訓練すら受けていないだろう。炎の循環率は高いけれど、炎圧は弱い。――いや、あのときはもっと強かった。

 

(感情が高ぶると爆発的に伸びるタイプだ。未来の僕だったら、死ぬ直前まで追い込んで遊んだだろうな)

 

 窮鼠猫を噛む。とはいえ、素質はないから匣ひとつ開けるのがやっとだろう。マフィアならせいぜい鉄砲玉だ。

 

「詳しくは君のお仲間に聞くといいよ。とくに、君のボスなんかは似た系統じゃないかな」

「ヒバリさんと?」

「そうそう、ヒバリちゃん」

 

 利奈の口元がひくついた。たぶん、普段はもっと表情豊かに話すタイプだ。

 

「どうしても感覚が思い出せないんなら、僕のことを考えてみるといいよ。たぶん、それが一番力を出せると思うから」

「……殺意を込めろってこと?」

「強い想いは力になるからね。利奈ちゃんに協力できるなら、僕も嬉しいよ。嫌われた甲斐がある」

 

 たとえば今なんか、簡単にリングに炎を灯せるだろう。野良猫の威嚇みたいなうなり声がかわいらしい。

 

 次は受け取ってくれるだろうと、匣とリングを再度取り出す。利奈は壁に張り付きながらも、逃げるそぶりは見せなかった。ようやく損得を勘定する程度には冷静さを取り戻せたようだ。

 

(それでも隙あれば一撃を、なんて考えていそうなところは相変わらず)

 

 瞳に策謀の色が滲んでいる。顔に一撃くらいならもらってもいいけれど、わざと殴られたところで機嫌は直らないだろう。ブルーベルもだけど、思春期の女の子はなにかとめんどくさい。

 

 あと少しで手が届くというところで、利奈の瞳がきらめいた。しかし体を動かすそぶりはなく、何事かと神経を澄ませ――そういえば、追い詰められるほどに真価を発揮する子だったなと思ったところで、目の前の壁に影が増える。

 

「――っと」

「チッ!」

 

 柄の悪い舌打ちは眼下の利奈から出たもので、その彼女の頭上をトンファーが走る。次に見えたのは青空とまぶしい太陽で、目を細めながらも危うげなく塀に足をつく。

 

「大丈夫? 怪我してない?」

 

 地面に仰向けになった利奈に、塀の上から声をかける。予備動作なく体を落としていたから、体への負担は大きいだろう。ずり上がったリュックサックが枕みたいになっている。

 利奈は不服そうな顔でリュックサックから腕を抜いて、負けん気強く立ち上がった。そして、せめてもの抵抗とでも言いたげに白蘭を指差す。

 

「不審者です!」

 

 救援に駆けつけた恭弥に、利奈はそう告げた。どうやらわりと早い段階で、恭弥に向けて救援信号を出していたらしい。

 

(そっか。だからあのとき呼び止めたんだ)

 

 呼び止められたことを意外に思っていたけれど、恭弥が到着するまでの時間稼ぎだったらしい。となると、その後の彼女の表情変化も違う意味を持ってくる。

 

「そんな恐い顔しないでよ、ヒバリちゃん」

 

 にっこり笑いかけると、二人とも同じ顔で睨みつけてきた。恭弥にいたっては、早くも腕を構えている。腕に光るブレスレットは、この世界で生まれたバージョンアップされたボンゴレリングだろう。それを構えているということはつまり、ガチだ。

 

「ちょっと待って、今日はそういうことしにきたんじゃなくて」

「問答無用!」

「咬み殺す」

 

 トンファーの先端から伸びた鎖が、足下を横薙ぎに飛んでくる。それを軽く飛んで、追撃を防ぐために空中に留まった。利奈は驚きに目を丸めて、恭弥はムッと唇を尖らせる。

 

「待ってってば。今僕と戦うのは懸命じゃないと思うよ」

「代理戦、この人も参加するそうです」

「……へえ」

 

 利奈の言葉に恭弥が目を細める。

 

「でもやっちゃいましょう。どうせ裏切りますから」

「わあ、好戦的」

 

 味方を得たからか、利奈はやけに強気だ。本人も仕込み針を握っている。恭弥も手を止める気はなさそうだし、この部下にしてこの上司ありと言ったところか。

 

「どうしよっかな。ちょっとくらい遊んでもいいんだけど。でも、ここで僕がやられるとユニちゃんが困っちゃうからなあ」

「え?」

 

 狙い通り利奈が食いついた。

 

「参加するって言ったでしょ。僕、ユニちゃん陣営」

 

 自分の顔を指差してにっこり笑うと、利奈があっけにとられた顔をする。

 

「ど、どの立場で……?」

「うん、僕もそう思う。でも、ユニちゃんのお母さんからのご指名だったし」

「ユニのお母さん……?」

「もちろんユニちゃん自身もOKしてくれたよ。ユニちゃん明日には来るから、会いたいなら迎えに来るけど」

 

 そこでもう一回鎖が飛んできた。痺れを切らしたのか、それとも部下へのちょっかいを牽制してか。

 

「だから、敵じゃないってば」

「敵です」

「どっちでも同じだよ。目障りなハエは咬み殺す」

 

 そう言って恭弥が塀に乗るので、白蘭はすかさず地面に降りた。これ以上は話ができなそうだ。

 

「じゃあ、そういうことだから」

「っ、もう二度と来ないで!」

「並中生へのつきまといは風紀違反だよ」

 

 さっきも聞いた言葉が出てきて、思わず笑ってしまう。つくづく、面白い子たちだ。

 

 

 ――

 

 

 白蘭を追い払い、クロームの家へとやっと辿り着いた。

 約束の時間よりも遅くなってしまったので、荷物の整理よりも先に食事を始める。タッパーで持ってきたのは母が作った卵焼きに唐揚げ、そしてきんぴらごぼう。クロームがインスタントの味噌汁も用意してくれていたので、一汁三菜そろっている。

 

「それでそのままいなくなっちゃったの! 急に出てきて急に帰る! そんなのヒバリさんだけで十分だよ!」

 

 文句を言いながらとモリモリご飯を食べる。ご飯は炊き慣れてきたところだそうで、ほかほかとおいしい。

 

「あの人、今この町にいるんだ……」

「そうみたい」

 

 風紀委員の情報網には引っかかってなかったから、並盛町に滞在していないか、今日並盛町に着いたかのどちらかだろう。並盛町に滞在するようなら、居場所は把握しておきたいところだ。

 

(もう掴めてると思うけどね。ヒバリさんもさっさと行っちゃったし。今日は学校来なくていいって言ってたから、それはラッキーだけど)

 

 迅速な報連相のおかげで、それなりに機嫌は取れたようだ。白蘭の参戦が判明したのもあって、代理戦争に関心を示し始めていた。そしてそれは利奈も同じだ。

 

(白蘭が参加するなら参加もありだよね。合法的にやれるし)

 

 ルールによっては、白蘭に一泡吹かせてやれる可能性だってある。とはいえ、恭弥の様子ではまだまだ参戦にはほど遠いだろう。もっと決め手となる条件が必要だ。

 きんぴらごぼうに箸を伸ばしたところで、浮かない表情のクロームに気がつく。

 

「あの人がいるの、心配?」

 

 なんといってもすべての諸悪の根源だ。そんな人間がまた戦いに参加するのだから、不安に思ってもおかしくはない。

 

「ううん。そうじゃないの」

「なら?」

「……」

 

 クロームが黙り込む。代理戦争について話したところからあまり反応はよくなかった。

 

「……ちょっと、変かも知れないけど」

「うん」

 

 言葉がまとまらないのか、クロームはまだ口ごもる。クロームは気持ちを伝えるのがあまり得意でない。だからこちらからいろいろと汲み取ろうとしてしまうけれど、骸との約束があるのでクロームの言葉を待つ。クロームが、自分で考えて結論を出せるように。

 

「私、その話だれにもされてないの。アルコバレーノにも、ボスにも、骸さんにも。……私、霧の守護者なのに」

 

 口を挟みそうになるのを、箸を置いて耐える。

 

「雲雀恭弥のところには、昨日、アルコバレーノが来たんでしょう? 私、ボスと同じクラスで、同じ教室にいたのに。そんなこと、一言も言われなかった。利奈に聞かされなかったら、戦いのことすら知らなかった」

 

 リボーンはともかく、綱吉なら自らクロームを巻き込もうとはしないだろう。本当は自分だって戦いたくないだろうが、それはもう宿命だと思って諦めてほしい。

 そしてリボーンがクロームに声をかけなかったのは、骸と同じ理由だろう。もしくは、骸の考えを察してクロームに成長を促しているのか。

 

(あー、全部言いたい。言いたいけど、言ってもクロームのためにはならないよね)

 

 隠し事をするようで気が引けるけど、過程を飛ばして答えだけ口にしても意味はない。

 

(隠し事って言えば、ツナたちも京子たちにしてたよね。あれは普通にしょうもなかったけど)

 

 あれは問題を後回しにしていただけで、保身にしかなっていなかった。巻き込んだあとに巻き込みたくないと言ったって手遅れである。

 

「クロームはさ」

 

 姿勢を正してクロームを真正面から見つめる。

 

「クロームは、代理戦参加したい?」

「……」

 

 クロームの眉が下がる。

 クロームは優しい子だ。利奈と違って血気盛んではないし、できることなら争いには参加したくないだろう。でも戦いがいやなわけではなくて、戦えと言われれば、人一倍頑張ろうとする。これまではそれでよかったのだ。

 

「ツナはリボーン君の代理で戦うけど、骸さんはリボーン君のためには動かなそうじゃない。もし、骸さんが違う陣営の味方したらどうする?」

「え……」

 

 これまでも、骸はボンゴレファミリーのためには動いていなかった。リボーンの呪いが解けたところで、骸に得はない。

 

「ほら、マーモンはヴァリアー所属だけど、フランの先輩に当たるじゃない」

「フランって……」

「ほら、この前、フランスまで迎えに行った子のこと」

「ああ」

 

 秘密にするのも後ろ暗いことがあったみたいになるから、骸と行動を共にしたことはちゃんと伝えている。クロームはその日の朝、黒曜を出て行くようにと手紙で指示されたそうだ。前日に転入手続きされていたにもかかわらず。

 

(ひっどいよね。報連相どうなってんだか)

 

 骸が懸念したとおり、先に話を通されていなければ、利奈は黒曜ランドで骸たちを待ち受けることになっていただろう。未来の記憶があるからか、行動を読まれやすくなっている。

 

「ツナの邪魔するために、骸さんがヴァリアーに協力する可能性もあるでしょ?」

 

 ヴァリアーが部外者を受け入れるかどうかはわからないけれど、フランの親権で一悶着あったし、少しくらいの無茶なら通るだろう。

 

「あと、ツナたちには協力するなとか、クロームもヴァリアー陣営に入れとか。そう言われたらどうする?」

「……わからない」

 

 クロームがきゅっと眉を寄せる。なんだか意地悪を言っているみたいだけど、骸たちはそういう集団だ。今まではボンゴレと契約していたから敵対することはなかったけれど、契約が解けたら敵に回ってもおかしくない。利奈だって、いつ骸の毒牙にかかるかわからないのだ。

 

(この前さっそくやられたけど。有無を言わさず利用されたけど)

 

 利奈は問答無用で利用するが、骸はクロームにはそうしなかった。仲間だからこそ、クロームの意思を尊重しようとしている。クロームがリボーンの代理になったとしても、骸はクロームを見限ったりはしないだろう。間違っても即座に除籍などしない、いい上司である。報連相はしないけれど。

 

 ちょっと雰囲気が重たくなってきたので、箸を取り直して味噌汁を啜る。インスタント味噌汁に入っている、輪っかの形の麩が地味に好きだ。

 

「私もどうなるかわかんないんだけどさ。そのうちどっちかから話来るかもだし、今のうちに考えとくといいんじゃないかな」

「……どっちを選ぶか?」

「選ばないって手もない? たぶん、エグい戦いになるよ」

 

 すでに未来での最終決戦メンバーがほとんど揃っている。ここにさらに四勢力加わると考えれば――世界大戦が始まりかねない。

 

「そだ、エグいって言えば理科のテストなんだけど――」

 

 選択肢を増やしたところで、話題を学校での出来事に移す。まだルールすら不明なのだ。二人でああだこうだうなったところで、なんにもならないだろう。

 

「なんか、こうやって食器洗ってると未来でのこと思い出すよね」

「うん」

 

 肩を寄せ合って台所に並ぶ。クロームが洗ったタッパーを、布巾で丁寧に拭いていく。

 

「うちは食器洗っても拭かないから、拭くの新鮮だった。手が滑って皿割りそうになって」

「私も。食器使ってなかったから、洗ったりするの慣れなくて」

「あそこ台所ないもんね。あれ? あったっけ?」

「レストランが……でも、ガスが通ってないから」

「料理できないんだ」

「焚き火で焼き芋焼いたりはしたよ。犬がチョコレート温めようとして、全部溶かしてた」

「もったいな!」

 

 食器の片付けを終えて、ようやく荷ほどきの時間だ。リュックサックの留め具を外して中身を覗き込んだ利奈は、ギョッとして飛び退いた。

 

「どうしたの!?」

 

 無駄に勢いよく飛んだせいで、クロームまでびっくりしている。

 

(やってくれたなあいつ!)

 

 触れるタイミングはなかったし、リュックサックはちゃんと閉じていたはずだ。それなのに、見覚えのある箱が入っている。探せば指輪も入っているだろう。すんなり帰ったように見せかけて、ちゃっかり目的を遂げていったのである。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

選ばれた道筋

 

 

 代理戦争前日、応接室にディーノがやってきた。リボーンが来たとき以来の勧誘である。

 

「てっきり諦めたんだと思ってました」

「リボーンに聞いたけど、そんときはまだルールも決まってなかったんだろ? 今ならルールも敵陣営も把握できてるし、きっと恭弥も参戦したくなると思うぜ」

「……」

 

 恭弥はとなりで腕を組んでいる。今回はソファまで来たところを見ると、それなりに関心はあるようだ。

 一昨日、白蘭が襲撃してきたのも影響しているだろう。あの日の午後、学校に行ったときには白蘭の居場所を突き止めていた。別荘地の一軒を借りて、ファミリーで生活しているらしい。ちなみにあれ以来、白蘭からの接触はない。

 

「代理戦争のルールはシンプルだ。アルコバレーノ一人につき七人が代理を務めるチーム戦。七人のうち一人がボスになって、そのボスがやられたら負けだ」

「七人……」

 

 炎の属性を指折り数えていく。大空、晴、雨、嵐、雷、霧、雲――狙ってか偶然か、ぴったり合致している。

 

「ディーノさんも、リボーン君のチームなんですよね?」

「ああ、もちろん。リボーンに頼まれたからな」

 

 ディーノはリボーンの弟子の一人で、綱吉の兄貴分だ。自称ではあるが、恭弥の師匠を自負しているだけあって実力もある。ただ、聞いたばかりの人数制限が頭に引っかかった。

 

「ディーノさんの部下はチームには入るんですか?」

「不参加だ。人数制限もあるしな」

「……大丈夫なんですか?」

 

 外にいるだろう部下に目をやりながら尋ねると、ディーノがぱちくりと瞬きした。

 

「なにがだ?」

「……えっと」

 

 まっすぐに聞き返されると言いづらい。言いづらいけど、言っておこう。

 

「ディーノさん、部下の人がいないとうまく動けないじゃないですか……」

「そんなことないぞ?」

 

(あるんだよなあ……!)

 

 ディーノのボスとしての振る舞いは完璧だ。だがその完璧さは、彼を慕う部下がいなければ発揮されない。人に見られているとダメなタイプな人はよくいるけれど、ディーノはその真逆。部下がいなければポンコツなのだ。

 

(ロマーリオさんとかがいないといっつも抜けてるのになあ、ディーノさん。ペットのエンツィオ何回も暴走させてるし、すぐ転ぶし、すぐ物落とすし)

 

 そして厄介なのが、本人にその自覚がまったくないという点である。今までだってそれとなく伝えてきたけれど、部下といるときのほうが多いせいで、うっかりしていたからとかで、全部流されてしまった。ロマーリオたち部下側も、ボスはときどき抜けてんだよなあと笑うだけで、事の深刻さに気がついていない。

 

(私も、ヒバリさんがドジっ子だって言われたって信じないけど)

 

 置き換えればそういうことだ。お手上げである。それに、ドジを気付かせたところで治す手立てがない。あればリボーンがなんとかしていただろう。ぐぬぬと唸っていたら、ディーノが声を上げる。

 

「ああ、連携の話か! そりゃファミリーの仲間がいれば心強いが、こっちの代表者はツナだからな。逆にツナたちの連携が乱れるし、俺は俺でうまく合わせるから、心配いらねーぜ!」

「あ、はい」

 

 そんな心配はまったくしていない。だから胸を張られても意味がない。恭弥には利奈の言いたいことが伝わっているだろうが、説明する気はないようだ。

 

(まあでも、扉越しでもだれかいれば大丈夫なところあるし、気の持ちようならなんとか……なるのかな?)

 

 他人事ながらあれこれ考えてしまうが、ディーノは気付かず話を進める。

 

「バトル形式はバトルロワイヤル。この、相手のバトラーウォッチを狙って戦う」

 

 そう言ってディーノが時計を取り出す。男性物の、ちょっといかついデザインのデジタル時計だ。ベルトが白黒のチェック模様で、文字盤の枠はシロ。時間はゼロゼロゼロゼロになっていて、その上に英語でREBORN――リボーンと書いてある。

 

「……なんか、学校でのバトル思い出しますね」

「ん? ヴァリアーとのあれか? 言われてみれば似てるな」

 

 あのときは腕輪だったが、今回はこの時計が鍵になるらしい。毒なんかが、仕込まれてなければいいけれど。

 

「リーダーの持つ時計は色違いで、壊されたらそのチームは問答無用で失格だ。ボス以外のメンバーも、時計を壊されたら参加資格を失う。時計を持ってないやつも、参加者じゃないってすぐに相手にバレるわけだ。ほら、持ってみろ」

 

 差し出された時計を、恭弥はいやそうに受け取った。そして軽くひっくり返して検分したあと、ためいきをつくようにしてディーノへと返す。

 

「なるほどね」

「なにがですか?」

「脆い」

「ほら、利奈も」

 

 持つように勧められ、時計を手に取る。なんの変哲もない腕時計だ。素材もプラスチック製というわけではないし、それなりに頑丈そうだが――

 

「トンファー一発で壊れますね」

「そのとおり!」

 

 それが言いたかったとばかりにディーノが手を打った。時計を壊されたら終わりなら、奇襲を受けたチームの最優先事項は、それぞれの時計を守ることになるだろう。つまり、不参加の恭弥が攻めても相手は乗ってこない。恭弥は強者と戦いたいのだから、守りに入られては意味がない。全力の敵と戦いたいなら、代理戦に参加しなければならないということだ。

 

 

「代理にならないと戦えないのはわかった。でも、それだけじゃ足りないな」

 

 思わせぶりに恭弥が背もたれに腕を乗せた。地味にこっちの肩に当たるので、横にずれる。

 

「で、もうひとつのほうは? いい獲物は揃えてあるのかな?」

 

 まるで代理戦そのものが生け簀であるかのような口振りだ。当事者のアルコバレーノが聞いたら憤慨しかねない。

 

「ああ、今回は豪華メンバーだぞ。ヴァリアーに骸、ミルフィオーレにCEDEF、それからシモン――は炎真だけだったか」

「炎真君も参加するんですか?」

 

 付け足されたように告げられた名前に反応する。

 

「ああ。えーっと、あいつは……スカルか。スカルにスカウトされてる。ツナが声かけようとしてたんだけど、先超されたな」

「ツナも仲間に入れようとしてたんですね」

 

 今回はアルコバレーノの争いなので、マフィア派閥を気にせずにチームを組める。だから綱吉が炎真に声をかけようとしたのも、スカルというアルコバレーノが炎真に声をかけたのもわかる。継承式でボンゴレを蹂躙したさまを見れば、真っ先にスカウトするべき逸材だろう。

 

「六道骸も参加するんだ」

 

 恭弥がなにか言いたげにこちらを見る。

 

「いや、私は知りませんでしたよ!?」

「どうだか」

「ほんとですって」

「リボーンに聞いてなかったか? あいつら、わりと早く宣戦布告しに来たらしいけど」

「そうなんですか?」

 

 恭弥相手なら、一番の殺し文句だったろうに。あまりにも恭弥が乗り気でなかったから、端折ってしまったのかも知れない。リボーンがじつは成人男性だったという衝撃も大きかったし。

 

「ちなみに骸はヴェルデ陣営だ」

「ヴェルデ……?」

 

 てっきりフラン繋がりでマーモン陣営だと思い込んでいたものの、人数制限があったことを思い出す。ヴァリアーは人材が豊富だし、あそこに入り込むのもなにかと不和が生まれるだろう。一応、ヴァリアーもボンゴレの一部だ。それなら、仲間を引き連れてヴェルデという第三勢力に加わったほうがなにかと都合がいいだろう。

 

「俺もよくは知らねえが、科学者らしいぜ。で、ミルフィオーレはユニ、CEDEFはコロネロ。コロネロは軍人だ。CEDEFは知ってるか?」

 

 恭弥の顔を窺うが、恭弥も聞き覚えはなさそうだ。いや、もしかしたら継承式のあれこれで名前くらいは聞いているかもしれないけれど、記憶にはない。

 

「知らないです」

「CEDEFってのは……そうだな、諜報機関だ。ボンゴレとは独立してるから、形的にはヴァリアーに近いか? いや、だけど普段はボンゴレとは無関係の組織ってことになってるし……ん-?」

 

 ややこしい組織なのか、ディーノが天井を仰いだ。とりあえず、ボンゴレに縁のある諜報組織らしい。

 

「ダメだ、説明しようとするとボンゴレの成り立ちから始めなきゃならなくなる。初代雲の守護者、アラウディの話になるが――」

「興味ない」

「だよな。まあ、今回の件ではこれまた第三勢力だよ」

「第三勢力多すぎますね」

 

 ボンゴレファミリーが強大なばかりに、何処の組織ともなにかしらの軋轢がある。どれも綱吉本人とは無縁なのだから、本当に気の毒だ。

 

「いや、CEDEFのボスはツナの父親だから、まるっきり無縁ってわけじゃないぜ」

「……え?」

 

 虚を突かれて利奈は瞠目する。そしてもう一回ディーノの言葉を咀嚼し、勢いよく立ち上がった。

 

「ええええええ!?」

「驚いたか?」

「おどろ、驚きますよ! ツナのお父さん、マフィアだったんですか!? ヒバリさん知ってました!?」

 

 綱吉がマフィアのボス候補だと聞いたときと同じくらいの驚きだ。あまりの衝撃に恭弥にまで話を振ってしまう。

 

「知るわけないだろ。で、強いの」

「そりゃもちろん。若い頃はボンゴレの若獅子と恐れられてたって、ロマーリオが」

「……へえ」

 

 恭弥が悪どい笑みを浮かべる。意表外のところから出てきた獲物に、期待が止まらないようだ。

 

「どうだ? めったにお目にかかれない豪華メンバーだろ?」

 

 好感触を得たディーノが、ニコニコ顔で身を乗り出してきた。どちらかというと、お目にかかりたくない豪華メンバーである。それでもだいたいが既知の団体なので、やっぱりCEDEFが気になってしまう。

 

(ツナのお父さんがボスの組織……どんなお父さんなんだろう。ツナに似てるのかな)

 

 綱吉が聞いたら即座に否定を入れる想像を働かせつつ、利奈も背もたれに体を預ける。

 

(ご先祖様がボンゴレファミリー創設者で、お父さんが関係組織のボス。……普通にツナが跡継ぎになっておかしくない流れだよね)

 

 遠い祖先が初代ボンゴレのジョットだと聞いたときは運が悪いなと思っていたけれど、父親まで関係者ならば、後継者扱いは順当だったろう。むしろ、これまでの拒絶が白々しく感じられるくらいだ。今度綱吉に、父親の話を聞いてみよう。

 

「戦闘は一日一回。この時計で開始時間と終了時間が知らされる。敵チームがどこにいるかは表示されないから、自分たちで探す必要があるな」

「戦う時間はいつ知らされるんですか?」

「開始一分前だ」

「短い……」

 

 明日は水曜日で平日だ。突然戦闘が始まるのなら、綱吉たちが学校に来る余裕はないだろう。下手したら、学校が戦場になってしまうし。

 

「なっ、楽しそうだろ? 好きなやつと戦えるんだぜ」

「どうだろうね。この前も同じようなこと言ってなかったっけ」

 

 またチョイス戦の話をしている。

 

「チーム戦っつったって、ツナたちと一緒に戦う必要はないし、お前が一人がいいっていうなら、一人で戦っていい。お前の意志を尊重する」

「……」

 

 チームに入っても行動は制限されないし、恭弥の好きなように戦っていい。条件は悪くないが、恭弥はスンとした顔で言う。

 

「考えとく」

「考えとくって、始まんの明日だぞ」

「なら明日答えを出すよ。その前に敗退するようなら、こちらから願い下げだ」

 

 話はこれで終わりとばかりに恭弥が席を立つ。憮然とした顔のディーノとソファに取り残され、利奈は二人の顔を見比べた。今日のところは、これ以上進展はなさそうだ。

 

「えっと、じゃあ、時計だけ預かっときますか?」

「頼む」

 

 恭弥が参加を決めた瞬間に渡せるよう、ディーノから時計を預かる。ルールを聞く限り、時計を持っているだけならば参加者にはカウントされないだろう。運悪く所持中に戦いが始まったとしても、そうタイミングよく敵チームの人間がそばにいることはないはずだ。――若干、フラグっぽくなっているけれど。

 

 ――結論から言うと、恭弥はリボーンチームには入らなかった。そして、強者とのバトルも諦めなかった。代理戦争一日目。恭弥に呼び出された利奈は、全力で頭を抱えた。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

一章:代理戦前半戦
一日目:雨には負けず


_________

 

 

 

 戦いのサイレンは、放課後に鳴らされた。

 校内など、もはや恭弥の手の内も同然。ましてや、慌ただしく移動する三人など、目をつむっても察知できただろう。どうやら彼らは、ボスの綱吉を探しているようだ。部活動から抜け出した武と了平はともかく、隼人は綱吉とずっと一緒にいたはずだ。それなのに、なぜか外の二人と合流して綱吉を探している。綱吉は今も教室前にいるのに。

 

「校舎に侵入者が現れたそうです」

「だれかわかる?」

「該当者なし――大工姿の男だそうなんですけど」

「それは門外顧問ですね。沢田家光だと」

 

 つまり、綱吉の父だ。通話相手からの情報によると、ツルハシを持った男が教室の壁を吹き飛ばしたらしい。だが、それを言うと恭弥が不機嫌になるので、口には出さない。教室が破壊されたわりに音が聞こえないのは、向こうの処理班の仕業だろうか。なにかしら対策をとってもらわないと、学校と恭弥の機嫌が大変なことになるから、ぜひそうであってほしいところだ。

 

「おや」

「わあ!?」

 

 校舎のほうから爆発音があがった。電話口からも爆発音が飛び込み、利奈は咄嗟に携帯電話を耳から離す。

 

「派手にやってるようですね」

「派手すぎ――あっ」

 

 音を聞きつけて校舎へ向かおうとする三人の前に、恭弥が飛び出した。

 

「うおっ」

「ヒバリ!?」

 

 突然木の上から現れた恭弥に、了平たちが動揺を見せた。仲間の交渉をしていたはずの恭弥が、敵対しているほかのアルコバレーノを頭に乗せて現れたのだから、当然だ。木の陰にいる利奈も、気まずさを感じている。ただ、当人は一切負い目を感じていないようで、即座にトンファーを変化させて攻撃し始めた。

 

「てめえ! どういうつもりだ!」

「言っただろ。敵同士だって」

「なぜだ! 同じファミリーではないか!」

 

 ファミリー。恭弥とは一番縁遠い言葉だ。了平の熱い言い方に失笑すると、恭弥も同じタイミングで笑った。

 

「だれがファミリーだって? 僕は群れるのは嫌いなんだ」

 

 それは周知の事実である。群れるのをなにより嫌う恭弥に絆を説くくらいなら、ヒバードに歌を覚えさせるほうがまだ有益だろう。利奈は自分が好きな曲の一番を覚えさせた。

 にべもない恭弥の返答に、今度は隼人が苦笑いを浮かべる。

 

「よく言うぜ。そいつの代理になったってことは、ほかの代理と群れるってことじゃねえか」

「まさか。僕のチームに余所者はいないよ」

「あ?」

 

 恭弥の言葉で、三人の視線が一斉に利奈へと向いた。なので、観念するように木で隠していた半身を晒す。携帯電話を持つ利奈の左手には、三人と同じ色のバトラーウォッチが装着されている。

 

「なっ、お前も参加してんのか!?」

「おいおい、ヒバリ……」

「なに」

 

 武の言外の非難を、恭弥はたった一言で封殺する。利奈はもう笑うしかなかった。

 

(私だってこんなのつけたくなかったよ!)

 

 しかし仕方ないのだ。仕方ないのである。

 

 ――今朝、昨夜にあった電話通りに迎えに来た車で、雲雀邸へと連れて行かれた。

 そのときは、参戦を決めたからリボーンのバトラーウォッチを家まで持ってこいということだろうと思っていたけれど、そうじゃなかった。考えてみれば、バトラーウォッチが必要なら、使いの人に渡せば済む話だったろう。しかし利奈はそれに気付かず、のうのうと恭弥の元へ向かった。そして、恭弥のとなりに並ぶ見知らぬアルコバレーノに驚かされることになる。

 

「初めまして。アルコバレーノの風と申します」

 

 礼儀正しく自己紹介をするチャイナ服の赤ちゃん――もとい、呪いで姿を変えられた風。机の上にはチェック柄の主張が激しいジュラルミンケースが開いた状態で置かれており、代理戦争で使われる時計がずらりと並んでいた。いやな予感が止まらない。

 

「このたびは、雲雀恭弥に私の代理になっていただきました」

 

 いやな予感が当たった。聞けば、風には自身の代理となる人物がまるでおらず、初めて打診したのが恭弥だったらしい。それも昨日の夜にというのだから、かなりギリギリだ。

 

「恥ずかしい話です。私も武闘家として弟子の育成は進めていましたが、この戦いに耐えうるような人材となると、なかなか難しく」

 

 確かに、今回の暴力的な人員を前にすれば、そうなるだろう。一対一の勝負ならともかく、大人数でのバトルロワイヤル。おまけに飛び道具やら匣兵器やら、反則レベルの武器を持ち合わせている。集団戦というのも、武闘家には分が悪い。

 

「それに、優秀な弟子たちは各地を放浪している者が多く、日本に呼び寄せるのも難がありまして。日本にも才のある者はいるのですが、彼女には荷が重いかと」

 

 戦いの舞台が日本なのも風にはハンデだった。考えてみれば、こんな小さな島国にメンバーを集めなければならないのだから、アルコバレーノの負担は大きい。リボーン以外は、まず自分が海外から日本まで来なければならない。

 

「それで、ヒバリさんに?」

「ええ。私の代理には適任だと思いまして。彼の戦いへのスタンスは、私の理想に近いです」

 

 べた褒めだ。ちなみに、昨日が初対面らしい。それなのに恭弥を懐柔――もとい、説得できたのだから、たいしたものである。恭弥のほうもまんざらではないようで、涼しい顔でお茶を飲んでいる。

 

「えっと……じゃあ、昨日のディーノさんへの答えは、ノーってことですよね?」

「そうなるね」

「そうなるねって……」

 

 不参加ならばともかく、当日になって敵チームに入るだなんて、とんだ裏切り行為である。利奈は小さくため息をついた。

 

(まあ、これが一番ヒバリさんが得するんだけど)

 

 恭弥は強者との戦いを望む。そして、リボーンチームには強者が揃っている。第三勢力に入れば、次期十代目ファミリーと、キャッバローネファミリーボス、その両者と相まみえることができるのだ。第三どころか、第六くらいの勢力になっているが。

 

「いろいろとご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします」

「ああ、いえ」

 

 提案はとんでもなかったけれど、風自身は行儀正しくて好感が持てた。だから利奈は受け入れたが、しかしそこで疑念を抱く。風の言い方が耳に引っかかったのだ。恭弥を借りるという意味合いではなく、利奈自身にも迷惑がかかるような言い方だった。それに、恭弥を代理にしたいだけなら、わざわざ呼び寄せてまで利奈に事情を説明する意味がない。

 

(……も、もしかして?)

 

 いや、それはないだろう。だって、風の弟子ですら厳しいとされる戦いなのだ。敵が敵だし、そもそも足手まといにしかならない自信がある。利奈を入れるくらいなら、草壁とか吉田とか大木とか近藤とか竹澤とか、もっと筋肉のある風紀委員を――

 

「いいから取って」

「ハイ」

 

 こちらの言い分は一切聞き入れられず、利奈は白い時計を手に取った。

 

 ――そんなわけで、利奈も風チームの一員である。

 補足すると、その話を聞いた哲矢が「相沢が参加するなら俺も参加していいですよね?」と前のめりに意欲を示したために、彼もチームに入っている。現在はリボーンチームボスの綱吉を見張っていて、先ほどまでは電話で逐一状況を教えてくれていた。電話を切ったあとの追加メールによると、綱吉は家光に殴り飛ばされて外に落ちたらしい。しかし目の前の三人はそれを知らない。

 

「ええい、もういい! 俺が拳でわからせてやる!」

 

 恭弥の裏切りに怒った了平が前に出た。ボクシング部主将だけあって、仲間意識が強い。

 

「おいやめろ! 十代目は仲間同士の争いなんて望んでねえ!」

「だれが仲間だって?」

「止めてくれるな、獄寺! 一度ガツンとやってやらねばならんのだ、こいつは」

 

 ふんふんと鼻息荒く了平。是非とも一度ガツンとやってもらいたいところだけど、たぶん、この調子では無理そうだ。恭弥も同意見のようで、冷めた目を了平に向けている。

 

「今の君になら、利奈だって勝てるだろうね」

「ちょっ――」

「なにぃ!」

 

 不必要な恭弥の煽りで、了平の目が本気になった。

 

「いくぞ我流!」

 

 カンガルーのボンゴレギアが変形して、了平のボクシング装備へと変わる。

 

「覚悟しろ、ヒバリ!」

 

 了平が左拳を突き出した。ボクシング部主将らしい、腰の入ったいいパンチだ。この時点で勝敗が決まった。

 恭弥の言ったことはただの事実である。かりにこのパンチが利奈に向かっていたとしても、利奈が勝利を手にしていただろう。これは三ラウンド制のボクシングではない。時計が鍵の攻防戦だ。だから、無策に時計を相手の眼前に突き出した時点で、もう了平に勝ち目はなかった。軽い音とともに、了平の代理としての権利が砕け散る。

 

「なにぃーーー!!!」

 

 先ほどと同じ言葉を、さらにもっと強く了平が叫ぶ。

 こればっかりは、運が悪かったと思ってもらうしかない。まだルールに馴染んでいないころに、恭弥とかち合ってしまったのだから。

 

「でもよかったんですか、先輩と戦わなくて」

「仲間とかチームとか、うるさいからね。それに、これみよがしに晒された弱点を見逃すのも間抜けだ」

「くう……!」

 

 了平がギリギリと歯を食いしばっている。参加資格がなくなっているので、もう了平は拳を振るえない。

 

「次はどっち? まとめてかかってきてくれてもいいけど」

 

 楽しそうな恭弥とは対照的に、二人はジリリと後ずさった。仲間になるはずだった恭弥と本格的に事を構えてしまっていいものか、まだ迷っているのだろう。綱吉もいないし、迷いを抱えたままでは恭弥とは戦えない。恭弥は二人の都合などお構いなしに咬むだろう。

 

(ツナはやられちゃったけどね……)

 

 哲矢からの報告は、こうしている今も随時届けられている。綱吉を気絶させた家光はなぜかボスウォッチを壊さずにいたが、駆けつけたリボーンとディーノになにか取引を持ちかけているそうだ。話が聞こえる範囲にいたら標的にされかねないので、哲矢は奥の校舎から動けずにいるらしい。

 

『それでも一度、双眼鏡越しに目が合った』

『こわい』

 

 端的に送り返し、二人に向き直る。こっちの話し合いも終わったようだ。バトラーウォッチをひとつ失ったあとだし、今度は簡単にはいかないだろう。

 

「瓜! 形態変化!」

 

 隼人がボンゴレギアを使い、ダイナマイトを手に持った。ボムならば、遠くから攻撃ができるうえに、うまくいけば爆風で時計を破壊できる。この戦いでは有利なほうの武器だろう。利奈も携帯電話をしまい、仕込み針を取り出す。いざとなれば、打ち返すしかない。

 

「そう、君からね」

「果てな!」

 

 隼人がボムを投げた。爆風から時計を守ろうとする間もなく、ボムは隼人の手元で爆発した。

 

(え、暴発!?)

 

 すさまじい勢いで煙が立ち上り、利奈は顔を覆う代わりに一歩後ろに下がった。この煙の量なら、まともにくらえば無事では済まない。一見、自滅かに思われたが――

 

「山本!」

「あいよ!」

 

 二人の声が、作戦であることを証明する。

 

「ゴホッ、これは煙幕か!?」

「煙幕!?」

 

 巻き添えを食らった了平が咳き込む横で、声だけを頼りに恭弥が鎖を放る。二人は撤退を選んだようで、去りゆく足音が耳に響いた。

 

(追いかけなくちゃ!)

 

 白煙を抜け出し、二人の背中を追う。間が悪く雨が降ってきたけれど、気にしていられない。むしろ、速度を上げて二人を追いかけた。途中で隼人が振り返る。

 

「おい! あいつなんでついてきてんだ!?」

「おわ、やっべ」

 

 さらに二人は走るが、距離は次第に縮まっていく。なんだか今日は調子がいい。足が軽やかに動く。

 

「おい! なんでお前ついてこれてんだよ!」

「元陸上部の脚力舐めないで!」

 

 日頃の走り込みが活きたと言ってもいい。得意になりながらも、聞こえるはずの足音が聞こえない違和感に振り返る。いると思っていた恭弥の姿は、そこにはなかった。

 

「……え?」

 

 うっかり足を止めてしまうが、前の二人も立ち止まった。お互い息は上がっているが、まだまだ余力はある。

 

「どういうことだ山本!」

「んー? なんでだろうな」

 

 想定外とばかりに二人が騒ぐが、こんなの利奈だって想定外だ。飛び出したのは利奈のほうが早かったが、それでもここまで距離が開くはずがない。爆風になにか仕込まれていたのだろうか。

 

「実践で使うの初めてだからな。普通のやつは雨の炎の影響があんまねえのかも」

「なんだよ! 使えねえな!」

 

 二人が揉めている。しかし危機的状況にあるのは利奈のほうだ。勝ち目がまるでない。利奈の手元にある仕込み針は超近距離武器で、二人のリーチよりもずっと狭い。おまけに、武器といっても暗殺用の凶器なので、突き刺す以外の有効打がない。さすがに友達相手に暗殺術は使えない。

 

(おまけに私、守護者じゃないし! 絶対見逃してもらえない!)

 

 すでに了平を脱落させたあとだ。報復に時計を壊されても文句は言えなかった。

 

「ねえ! 取引しよ!」

 

 二人の意見が固まってしまう前にと、利奈は仕込み針を自身の胸に当てる。それを見て二人がギョッとする。

 

「利奈、ちょっと待て! 落ち着け!」

 

 自決を想像してか武が青ざめるが、もちろんそんなつもりはない。二人の視線を浴びながら、利奈はゆっくりと懐からあるものを取りだした。腕に嵌めている元のほぼ同一の、リボーンチームのバトラーウォッチである。

 

「おい、それは――」

「昨日、ディーノさんから預かったリボーン君の時計」

「あいっつ、なにやってんだあああ!」

 

 負けたときの了平に劣らない声量で隼人が叫んだ。

 明らかにディーノの落ち度だが、これは致し方ないだろう。参加しないまでは読めたとしても、恭弥単体にオファーをかけるアルコバレーノが登場するなんて、想定できっこない。この時計の存在は恭弥も風も知らないので、次にディーノに会ったときにそっと返そうと思っていたけれど、使い道はあったようだ。

 

「見逃してくれるなら、私もこの時計返す。どうする?」

「どうするもなにも」

「ああ、クソ! あいつ絶対果たす!」

 

 交渉成立だ。首の皮一枚繋がった。ホッとしたところで、武がひとつ付け足す。

 

「こっちからも取引。襲わないから、だれかに連絡取るのなしな。ケータイ、持ってただろ?」

「……オッケー」

 

 こまめに見ていたのが目についていたのだろう。恭弥にこの場所を伝えるのは簡単だけど、恭弥がなにで足止めされているかわからないし、おとなしくしていたほうが良さそうだ。

 

「それじゃ、時間になったら時計渡すね。あっ、不意打ちで壊したりとかしたらヒバリさんに時計渡すから」

「しねえよ。ったく、めんどくせえ」

「時間になったらってことは、俺たちについてくるってことでいいんだよな?」

「うん、いいよ」

「ならさっさと教室に戻るぞ! あの爆発、教室がある校舎だった!」

 

 恭弥に中断させられた綱吉探しを再開する二人。哲矢からの連絡を受けている利奈は、もう教室に綱吉がいないことを知っていたが、口には出さなかった。綱吉のそばにはコロネロ陣営の家光がいるし、問答無用で襲われたら打つ手がない。

 

「まさか、ヒバリがほかのチームに入るなんてな」

 

 階段を上りながら武。

 

「私もびっくりした。今日の朝、突然呼び出されたんだよね」

「うわ、そりゃ大変だな」

「大変だよ。でも、断れないし」

「チッ、お前らには筋ってもんはねえのかよ」

 

 隼人はまだ怒っている。

 

「そういや利奈、授業中バトラーウォッチつけてたか? 全然気付かなかったけど」

「つけてたよ、ここに」

 

 そう言って利奈は左腕の腕章を指差した。バトラーウォッチを見られたら、一瞬にして恭弥の背徳行為が表沙汰になってしまっただろう。とはいえ、授業中に始まる可能性も低くはなく、苦肉の策として腕章で隠していたのだ。

 

(だれも来ないと思ってたんだけどね。みんな普通に学校来るからびっくりしちゃったよ)

 

 前日時点では参加が決まっていなかった利奈はともかく、綱吉たちは真っ先に狙われる立場である。授業中に襲われたらどうするつもりだったんだろう。

 

「うわ! なんだこれ」

 

 二年の教室に戻ると、廊下にも教室にも大穴が開いていた。人の気配はないけれど、ガラスが派手に飛び散っているし、机や椅子も散乱している。ここでバトルがあったことは明らかだ。

 

「十代目! 十代目ー!」

 

 隼人が声を張りながら廊下の奥へと進んでいく。壊れている教室はひとつだけで、ほかの教室は無事である。利奈はバトラーウォッチを見た。残り二十秒。もう終わったも同然だ。

 

「ねえ! ツナは外だよ」

「ああ!?」

 

 振り返った隼人に、外を指差してみせる。

 

「あっち! あっちに落ちた!」

「なんでお前が知って――」

 

 そこで隼人がカッと目を見開いた。利奈が携帯電話から情報を得ていたことに気付いたようだ。

 

「お前! わかってて無駄足踏ませやがったな!」

「あっ、時間だ。はい、これリボーン君のバトラーウォッチ」

「ん。確かに受け取ったのな」

「無視すんな! 逃げんな! 手ぇ振るんじゃねえ!」

「まあまあ、獄寺、どうどう」

「馬扱い済んじゃねえ!」

「マジで生き物ばっかだな、今日」

 

 代理戦争一日目は、リボーンチームが辛酸を舐める形で終わった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

風には負ける

 

 

 一日目の代理戦争は終わったものの、利奈にはまだやるべきことが残っていた。

 代理戦争は開始時間が前もって知らされないので、戦闘につねに備えておく必要がある。利奈の参戦はリボーン陣営に知られてしまったし、ほかの陣営に知られるのも時間の問題だ。これからは学校以外の場所で襲われるリスクがある。つまり、学校生活以外でも恭弥から離れられなくなるわけで。恭弥が風陣営に入ると決まったとき、利奈が頭を抱えた理由の第一位がそれだ。

 

(ヒバリさん家に泊まれって、簡単に言われてもねえ。私のこと、女って思ってないのかな)

 

 異性の先輩の家に連泊すると言って、快く送り出す親がどこにいるだろう。友達の家に泊まるのとはわけが違う。必然的に、ウソをつく必要があった。

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

 リビングに入ると、母はテレビを観ていた。まだ夕食の用意はしていないようで、ひとまず息をつく。

 

「あのさ、お母さん」

「んー?」

「お願いがあるんだけど」

 

 母がこちらを向いた。ここからは、説得力が勝負だ。

 

「今日からさ、何日か友達の家に泊まりたいんだけど、いい?」

「え?」

 

 本来、入念な下準備が必要な交渉だ。数日となるとそこには理由が必要だし、名前を借りる友達への根回しもいるし、友達の親を欺く必要がある。とくに、説得できそうにない友達の親が厄介だが、今回ばかりは打つ手があった。そのあたりの面倒がなく、二つ返事で引き受けてくれそうで、なおかつ親がすんなりと納得してくれるだろう理由を持つ友達が、ただ一人。

 

「クロームがね、一人で眠れなくなっちゃったんだって。だから、安心できるまで一緒にいてあげたいなって」

 

 我ながら最低な言い訳である。母の良心につけこむばかりか、クロームを都合よく扱っている。当然クロームに話は通してあるけれど、あとでもう一回謝らなければいけない。そして、自身の良心を犠牲にしただけあって、効果はてきめんだった。眉をハの字に曲げる母に、罪悪感は加速したが。

 

「やっぱり、女の子がいきなり一人暮らしなんて大変だと思った。ねえ、だったらうちに泊まってもらえばいいんじゃない」

「あー……」

 

 それでは意味がない。利奈は即座に悪知恵を働かせた。

 

「私もそう言ったんだけどね。クロームが、この家で眠れるようになりたいって言ってて。ほら、友達の知り合いが紹介してくれた家だからさ。私と一緒に過ごして安心できたら、落ち着いて眠れると思うって」

「健気……!」

 

(ごめんクローム。いろいろ盛った)

 

 早く言いくるめようと焦るあまり、クロームの言葉を無から捏造してしまった。そのせいかまたもやいろいろと日用品を持たされ、利奈はよろよろとクロームのアパートへと向かった。

 

「というわけで、今度ぜひ泊まりに来てってお母さんが」

「うん……」

 

 クロームは日用品の多さに戸惑っている。家の物は明日買い直せばいいからと、使いかけの掃除用品やらトイレットペーパーやら、とにかく重たい物を持たされた。家にあまり食料品がなかったのはさいわいだ。持たせる惣菜がないからと、夕食用にお金を渡された。

 

「私、ヒバリさんちでご飯だからこれ、クロームが使っちゃって。明日はおかずたくさん作るって言ってたから、おかず持ってくるね」

「ありがとう」

「私こそ。ごめんね、迷惑かけて」

「ううん。利奈も大変だね」

 

 朝になったらお弁当を取りに家に寄らないと行けないし、放課後は着替えとおかずを取りに自宅にも帰らないといけない。恭弥のせいで、いらない労力が無限に増えていく。

 戦闘は一日一回だから今日はのんびりできるけど、明日からはいつ始まってもいいように戦いに備えなければならない。こうやってクロームの家でのんびりできるのも、今だけだろう。

 

「お菓子いっぱい持ってきたからいっぱい食べよ。ちょっと高いチョコもあるよ!」

 

 母用のちょっといいお菓子も分けてもらえた。いそいそとバッグから取り出すと、クロームも立ち上がる。

 

「冷たいレモンティーあるんだけど、飲む?」

「飲む! そうだ、粉のココアも持ってきたよ」

「もらっていいの?」

「うん。お父さんが飲まないから全然減らなくて」

 

 机の上にココアの袋を乗せようと持ち上げた瞬間、バトラーウォッチに変化が起きた。

 

『お疲れ諸君』

「わああああ!」

「っ!?」

 

 時計から聞こえて声に驚く利奈の悲鳴でクロームが驚き、レモンティーを注いでいたコップが倒れる。

 

「あっ……!」

「ごめんごめん! すぐ拭くね!」

『この声は、代理戦争用の腕時計をしている者すべてに届けている』

「待って、声が」

 

 布巾を濡らそうとする手を止められる。

 

『私が虹の代理戦争主催者のチェッカーフェイスだ』

「チェッカーフェイス?」

「変な名前……」

 

 チェッカーと言えば、腕時計や時計を入れていたジュラルミンケースもチェック柄だ。なにからなにまですべてチェックで統一するなんて、自己主張が激しすぎる。

 そのチェッカーフェイスによると、今後試合後にホログラムを使って、戦績を発表する予定だそうだ。七陣営もあると、どのチームにどれだけ人が残っているか調べるのも大変だし、こうして主催者側から発表があるとわかりやすい。台所に立ったまま、二人で結果を確認する。

 

「えっと、倒した数と倒された数と、残り人数? リボーン君のチームの倒された人は笹川先輩だと思うんだけど」

 

 表の一番上がリボーン陣営だが、倒された人が一名なのでわかりやすい。まだ今日の戦闘の話をしていないから話し始めようとしたものの、クロームは表に釘付けになっていた。

 

「ここ、ヴェルデチームって――」

「うわ、すごい!」

 

 あんまりちゃんと見ていなかったけれど、骸がいるヴェルデ陣営が五人も敵を倒している。ほかの陣営を参照するに、コロネロ陣営とユニ陣営を倒したらしい。ほかの陣営に脱落者はいない。

 

(白蘭やられてくれてないかな……)

 

 三人もやられているなら、可能性はゼロではない。

 

「……ねえ、利奈」

「なに?」

「戦闘って、いつあったの?」

 

 浮かない顔でクロームが問う。代理戦争のことを利奈が話したときもそうだったけど、戦いが始まって、いろいろと思うところもあるだろう。

 

「学校終わってからだよ。委員会活動中だったんだけど。なにかあった?」

 

 立ちっぱなしもなんなので、コップを持って部屋へと戻る。こぼしたレモンティーはあとで拭くことにしておく。

 

「……帰り道に、骸さんが現れて」

「骸さんが!? え、巻き込まれたの!?」

「ううん、そうじゃなくて。骸さんの、幻覚が」

 

 どういうことだろう。いまいちわからないので、クロームの言葉を待つ。

 

「骸さんが、幻覚を使って私の様子を見に来たの。たぶん、その最中に戦闘が始まったんだと思う」

 

 なんとも間の悪い。それに、骸と会えたというのにクロームの表情は冴えなかった。

 

「骸さん、なんだって?」

「……」

 

 クロームはレモンティーに目を落とす。

 いい話でなかったのは明らかだ。骸の心証が悪くなることをクロームは言わないだろうし、こうなると平行線だ。骸のところに乗り込むのも恭弥に禁止されているし、どうしたものか。

 

「ヴェルデ陣営、入れって言われた?」

「ううん」

「リボーン陣営に入れって言われた?」

「ううん」

「……えー、あとなに」

 

 正解を導き出す頭が足りない。そもそも骸はクロームをかわいがっているはずで、ひどい言葉を浴びせる姿が想像できない。

 

「……私、やっぱり参加してないといけなかったのかな」

 

 ぼそりとクロームが呟く。

 

「参加しろって言われたの?」

「ううん」

 

 不正解記録が伸びていく。

 

「でも、今の私はどっちつかずで……だれの役にも立てなくて――ゴホッ」

 

 クロームが咳をこぼす。骸にそう言われたのかとはもう聞けなくて、利奈は静かにその背中をさすった。

 

 

――

 

 

 考えてみれば、今日は絶対安全なんだから、夕食はクロームの家で食べてもよかったのかもしれない。

 暗い顔をしていたクロームを思い出しながら、食卓に着く。恭弥の家はもはやお屋敷と言えるほど広く、食事もそれに見合って豪勢なものだった。小皿がたくさんあって、なんだか修学旅行の夜を思い出す。借りた浴衣を着ているところも含めて。

 

「おいしいです。日本料理はさっぱりしていて滋味深いですね」

 

 箸を器用に使いながら、風がニコニコしている。乳児用の浴衣も取り揃えてあったようで、みんなとお揃いだ。お風呂上がりだから、もちもちほっぺがポッポと赤い。ペットの猿も、皿に盛られた野菜やフルーツを食べている。

 

「中国料理って、辛いのが多いんですっけ」

「そうですね。でも私は辛いのがあまり得意でなく……本場の味が振る舞えなくて心苦しいです」

 

 中国人だからといって、みんな辛いものが食べられるというわけではないようだ。リボーンはブラックコーヒーを苦もなく飲んでいたけれど、アルコバレーノの感覚は大人のときのままなのだろうか。いや、立って歩けている時点で答えは出ている。

 料理はどれも薄味で上品だが、食べたことのない料理も多い。大人がいないのをいいことに、箸を迷わせながら口に運んだ。

 

「ヒバリさん、新任教師の件ですが」

 

 哲矢が恭弥に話しかける。

 本来なら新任教師がどんな人間かなんて気にも留めないが、代理戦もあって哲矢がちゃんと網を張っていた。さすが未来の記憶を所持し、未来寄りに性格が丸くなっただけある。ほかの風紀委員の前だと威厳を保っているので、違いに気付いている人はいないけれど。

 それはさておき、明日から英語の教師が着任することになっている。英語教師は三学年ぶん揃っているが、発音を教えるための外国人教師は一人しかいなかったし、人手不足といえばそうだったのだろう。だが、十一月半ばに着任するのは、どう考えても時期がおかしい。

 

「ディーノさんが先生だなんて、びっくりですよね」

 

 なんとディーノが並中の英語教師になったのである。いったい、どんなごり押し手段を使ったのか。

 

「ヒバリさん的にはアリですか? あれ」

 

 おおかた、授業中に戦闘が始まったときの備えだろう。ちょくちょく応接室には来ているものの、昼間に学校を闊歩するには肩書きが必要だ。綱吉があっさりやられてしまった件を、重く見たのかも知れない。下手したら、初日で脱落していたところだ。

 

「いいよ。襲いやすくなった」

 

 なんとも恭弥らしい解答である。なにかにつけてディーノに勝負を挑んできた恭弥だ。大義名分のもと、嬉々として襲いかかりに行くだろう。

 

「あの、今日の戦闘のことでひとつよろしいですか」

 

 箸を置いて風が声を上げる。体格に合わせて品数が少ないので、もうほとんど食べ終えていた。

 

「戦い方について、少し確認したいことがありまして」

 

 なんだろう。風の言葉を待ちつつ、胡麻豆腐を慎重に口に運ぶ。落とさずに口に入れられたところで、風が利奈を待っていることに気付いた。

 

「……え、私に言ってます?」

「ええ。少し見ただけですけど、あの仕込み針が主軸ではありませんよね?」

 

 主軸もなにも、元から戦闘員ではない。恭弥からその辺りの説明はなかったようだ。

 

「なにかほかに使っているものはありますか? 武術を学んだ経験は?」

「あー……ちょっと護身術みたいなのを教えてもらったくらいです」

 

 正確には暗殺術だが、恭弥と哲矢もいるし、なんとなく口にしにくい。それに、ヴァリアーでも言い含められていたことだが、利奈が会得したのは護身術レベルのものである。

 

(チームにいらないとか言われちゃうかな。それはそれでショックなんだけど)

 

 できれば参加したくないけれど、役立たず扱いされるのはいやだ。でも風にとっては、大人に戻るための大切な戦いだ。戦えない人間がチームにいても、邪魔なだけだろう。

 

「雲雀恭弥、貴方は明日以降も彼女をチームに?」

「不満?」

 

 恭弥が斜めに視線を動かす。

 

「いえ。ただ、彼女も戦闘に参加させるというのでしたら、私にも少しお力添えができると思いまして」

「お力添え、ですか?」

「はい」

 

 そこで風がにっこりと笑う。

 

「私、武闘家ですが指南の心得もありまして。これもなにかの縁、よろしければ貴方にも体術指南を施して差し上げましょうかと」

 

 お辞儀をして風が立ち上がる。そして、いそいそと利奈のそばに寄った。

 

「今日の動きを見るに、貴方には気を練る才能があります。彼らのように匣に炎を注いだりするよりも、拳法で相手に気をぶつける戦い方のほうが合っているかと」

 

(うわあ、キラキラした目をしてるぅ……)

 

 指導者としての血が騒ぐのか、やけに前のめりだ。今日の動きといったって、逃げる彼らを追いかけただけでほかはなにもしていない。それとも、真の武闘家は走り方で才能を見抜けるのだろうか。

 

(なんか、ディーノさんみたいになってる……。ヒバリさん、こういうの嫌いだよね……)

 

 それとなく確認するが、恭弥は我関せずといった顔をしている。自分が巻き込まれなければ、ちょっかいを出されても気にしないのだろうか。

 

「いかがです?」

「あの、でも、ヒバリさんがなんて言うか……」

「雲雀恭弥が?」

 

 そこでくるりと風が振り返る。恭弥は巻き込むなと言いたげに吸い物を啜った。

 

「彼女を戦闘に参加させるというのなら、戦い方を身につけさせるべきかと思います。貴方が表立って戦うといっても、他陣営にとっては彼女も敵。抵抗する術がなければ、真っ先に狙われてしまうでしょう」

 

 それはそうだ。ボンゴレやヴァリアーはわざわざ利奈を狙ったりはしないだろうが、まったく面識のないCEDEFあたりは、即座に利奈を狙いに来るだろう。時計だけ破壊してくれるならまだいいが、相手にそんな慈悲があるかもわからない。ボスが綱吉の父親なら、息子の級友を痛めつけたりはしないだろうが――期待しすぎもよくないだろう。

 

「私の代理になっていただくにあたり、戦法は貴方にお任せしています。それはそれとして、彼女もチームの一員だというのなら、私にも多少は関わる権利があると思うのですが、どうでしょうか」

「……好きにすれば」

 

 至極面倒くさそうに恭弥はそう言った。利奈の意向を確認することなく。

 

(うーん、またやることが増えるのかあ)

 

 風の実力が如何ばかりかは知らないが、今はただでさえ仕事が多い。それに、積極的に人とバトルしたいわけじゃない。気落ちする利奈だったが、そこはアルコバレーノだった。

 

「あまり最初から飛ばしすぎてもよくありませんし、まずは太極拳あたりの動きをゆっくりとなぞっていきましょう。しなやかな動きで日頃の所作もよくなりますし、美容にとてもいいんですよ」

「やります」

 

 指導者だけあって、やる気に火をつけるのがうまかった。コロッと乗り気になった利奈に、恭弥と哲矢が肩をすくめた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

二日目:乙女の熱量

 

 

 雲雀邸での目覚めは穏やかなものだった。和室にあまり馴染みはなかったけれど、慣れない布団でもぐっすり眠れたようだ。客人用の備えは万全で、枕元には水差しも置いてある。目覚めの一杯をもらいながら、薄暗い室内に目を配った。

 

(なんか旅館みたい。ヒバリさんの家にお泊まりしてるって感じじゃないな。……お泊まりって感じでも困るんだけど)

 

 とはいえ、あまりにも日常感がなさすぎる。掛け布団に顔を埋めてみるが、生活臭がまるでしない。買いたての服みたいな、素知らぬ匂いだ。布団を出て、昨日も着た私服に袖を通す。朝の空気で、ひんやりと冷たくなっていた。

 

 いつもなら日課のジョギングに出るところだけど、この辺りは土地勘がまるでない。おまけに今日の戦闘はまだ始まってもいないし、単独行動はできるだけ避けたいところだ。道に迷ったところで敵に襲われたら目も当てられない。なので利奈は、昨日約束したとおり、屋敷の庭へと向かった。

 

(あっ、もういる)

 

 縁側越しに、庭に降りた風の姿が見えた。約束は六時からだったけれど、先に始めていたようだ。片足を上げた状態で微動だにしておらず、横に広げた腕も完全に静止している。さらに、頭の上に乗った猿も同じポーズを取っていた。名前は確か、リーチだったか。トーテムポールみたいになっている。

 集中しているところに声をかけるのも気が引けて、利奈は足を止めたままその姿を見つめる。しかし、十秒も経たずにリーチが風の頭上から降り、風も振り返った。気配に気付くのが早すぎる。

 

「すみません、気を遣わせてしまったようで」

「あ、いえ。全然待ってなかったです」

 

 そう応えてから、自分が敬語を使っていることに違和感を抱く。風は本来大人なのだからこれが正解なのだが、実際に目の前にいるのは赤ちゃんだ。なんだかズレている気がする。

 

(んー、でも拳法教えてもらうんだから、敬語は普通か。師匠みたいなものだし――師匠が増えたな)

 

 レヴィとレヴィの部下である雷撃隊からは、暗殺の基礎を教わっている。かんざしに仕込まれている隠し針も、レヴィからの贈り物だ。しかし昨日の実戦では、仕込み針の出番はなかった。暗殺特化した武器なので、傷つけたくない相手にはとても使いにくい武器なのである。

 

「ですが、ある程度相手にダメージを与えたあとなら、時計を壊すのに使えると思いますよ。素手で時計を叩き割ろうとすると、予備動作が入りますから」

 

 太極拳の動きを利奈に見せながら風がアイディアを出す。今日は基本の動きを勉強しましょうとのことで、ゆっくりと呼吸しながら風の動きを真似していく。最近の太極拳は武術としてよりも健康法として取り入れられていることが多いらしく、なるほど、確かに健康に良さそうな動きだった。美容にもいいらしいので気合いも入る。

 

「あの、風さんって君付けで呼ばれるのは抵抗ありますか? マーモンとリボーン君は呪いのこと知らなくて、呼び方こんななんですけど」

「好きに呼んでくださって構いませんよ。この身体です、子供扱いも慣れました」

 

 フフフと笑うけれど、これはどっちだろう。温和なだけに、建て前と本心の区別がつきづらい。

 

「君付けでもいいですか? 外で名前呼ぶとき、変な感じになっちゃいますし」

「ええ、どうぞ。敬語も外していただいて構いませんよ」

「それはさすがに」

「雲雀恭弥はそうしていましたが」

「ヒバリさんはヒバリさんだから」

 

 恭弥が敬語を使っているところなんて見たことがない。なにせ、彼が並盛の頂点である。

 

 

「雲雀恭弥の下について長いのですか? 風紀を取り締まっているそうですが」

「風紀委員なんです。入ったの五月だったから、まだ半年くらいですね」

「そんなものなんですか」

 

 そう、そんなものなのだ。なんなら一年前にはこの学校にいなかったくらいで、並中生としても風紀委員としても歴は浅い。一番最後に風紀委員に入ったから、ギリギリ新米である。

 

「となると、貴方はマフィアとはまったくもって無関係なのですね」

「もちろん! まったくもって、です!」

 

 そこだけは声を大きくして主張したい。ただたんに巻き込まれやすい立ち位置にいがちなだけで、自分からマフィアのあれこれに志願しているわけではない。

 

「だからリングも持っていないのですね」

 

 その言葉にも、はいと答えさせてもらう。無理矢理押しつけられた一式があるけれど、あれはあの日の午後、遺失物としてそのまま恭弥に預けてしまった。たぶん、応接室の机の引き出しにでもしまわれているだろう。知らない人から物をもらってはいけないと、父に教わっている。白い人も同じだ。

 

 最初の言葉通り、今日の特訓は基本の動きを習っただけで終わった。ラジオ体操のほうが激しいくらいだったけれど、全身を使ったおかげか身体がぽかぽかする。

 結局、朝に戦闘開始のアラームが鳴ることはなく、ただただ普通にお泊まりしただけになった。一度家に帰って荷物を受け取って、朝の風紀活動を終えてホームルームに出る。そしてホームルームが終わると、険しい顔をした隼人が勢いよく迫ってきた。

 

「てめえ、昨日はよくも!」

「おはよう、獄寺君」

 

 あえて朗らかに挨拶すると、思った通りに隼人は憤った。周りの席の子は、巻き添えをくらっては堪らないとばかりにそそくさと移動する。

 

「こいつですよ、こいつ! こいつのせいで駆けつけるのが遅れたんす、十代目!」

「まあ、いなかったらツナが外にいたことにも俺たち気付かなかったんだけどなっ」

 

 隼人の後ろからぞろぞろといつもの二人がやってくる。綱吉は利奈の時計を見て、うわあと声を上げた。

 

「本当に利奈も代理なんだ……」

「命令でね。でも、やるからには優勝目指すよ!」

「おっ、気合い入ってるのな」

「遊びじゃねえんだぞ」

 

 隼人が口をさすが、勝利を目指すのだから同じことだ。勝ちたいというよりは、負けたくない気持ちのほうが強い。

 

(白蘭に負けるのは絶対いやだしね。それに――)

 

「本気だよ。絶対に負けられない人がいるから」

「ヒッ」

 

 ひそかに聞き耳を立てていた炎真が、睨みつける利奈に悲鳴を上げる。

 そう、炎真も利奈の敵だ。裏切られた屈辱、継承式で受けた痛みを、この機会に存分に返すつもりである。これは八つ当たりではなく報復だ。

 

「え、えっと……炎真は昨日、だれと戦ったの?」

 

 空気をほぐそうと、綱吉が話題を変える。

 

「昨日はヴァリアーの四人に……。ボコボコにされたよ」

「四人!?」

「四人相手に戦ったのか!?」

「お前、よく無事だったな……」

 

 三人は感心しているが、利奈はツンと顔を逸らす。炎真と慣れ合うつもりはない。それに、その情報はすでに得ている。工場跡地でヴァリアー数名と戦ったらしい。何対一だったかは知らないが、彼らと交戦してよく無事でいられたものだ。

 

「スカルが守ってくれたんだ。それに、今回からみんなも参加してくれることになってて」

「みんなって……シモンファミリーが!?」

「うん」

 

 それは初耳だ。ついつい炎真を見てしまうが、炎真は気付かずに続ける。

 

「昨日、一方的にやられてた僕をスカルが庇ってくれたところを、アーデルが見てて。改めてみんなに話したら、全員協力してくれることになったんだ」

 

 それはじつに厄介なことになった。彼らの実力は折り紙付きだし、仲間ができたなら炎真に接敵するのも難しいだろう。一人ならば、隙を見て狙えると思っていたのに。

 

 始業のチャイムが鳴り、みんなが席に戻っていく。今日の一時間目は英語で、つまり、新任教師の紹介があるはずだ。そう、ディーノの登場である。

 

「チャオ! じゃねえか、英語はハローだな」

 

 金髪長身美形イタリア人の登場に、クラス中が湧き上がる。利奈も、これが初対面だったら前のめりに歓声を上げていただろう。たくさん美形を見てきたけれど、ディーノの顔が一番タイプだ。

 

(なのになんで私、好きになんなかったんだろう。……あ、部下の人たちがたくさんいたからか)

 

 当時の利奈はまだ、ボンゴレの事情に一切関わっていなかった。裏社会っぽい人間を部下として引き連れた、あからさまにわけありな青年に惚れるほど、脳天気ではなかったということだ。

 

(っていうか、ツナたちみんな驚いてない? サプライズ?)

 

 同じ陣営のはずなのに、情報共有はしていないのだろうか。今回の件を知らない京子は、未来で出会った人物に目を丸くして利奈のほうを見る。それに頷き、改めてクラスの反応を見る。男女問わず大騒ぎで、すぐには授業が始まりそうにない。フェラーリで乗り付けてきたところを目撃した生徒もいて、歓声は留まることを知らなかった。

 

(マフィアの仕事もあるし、代理戦争終わったら辞めるんだよね……。辞めるとき大騒ぎになりそうだなー、これ)

 

 きっと失恋者続出、阿鼻叫喚の地獄絵図になるだろう。ディーノはもっと、自分の影響力を考えるべきだ。と、完全に傍観を決めていた利奈だったが、そうは問屋が卸さなかった。

 

「利奈!」

 

(考えて! 影響力!)

 

 授業終わりに名前を呼ばれ、利奈は一層強くそう思った。敵チームだからどんな手を使っても陥れるという宣戦布告だろうか。

 

「昨日はありがとな。バトラーウォッチ、返してくれて」

 

 ほかの生徒に聞かれないためにだろうが、距離を詰めて小声で話さないで欲しい。今なら利奈がマフィアの一員だったとしても、女子生徒たちの標的にされるだろう。

 

「いえ、もともと預かってたものですから」

 

 自分の声は周りに聞こえるよう、ハキハキ、丁寧にを心掛ける。他人行儀な態度にディーノが不思議そうな顔をするけれど、一歩間違ったら女子会議からのクラス八分を受けるので、素知らぬ顔でお辞儀をして席に戻る。

 

「さっきのなに!?」

「利奈、あの先生と知り合いなの!?」

 

 様式美のように女子生徒から囲まれ、利奈は心のなかで強くディーノを批判した。声をかけるなら、放課後とかにして欲しかった。しかし、昨日の時点でこうなることも想定していたので、利奈はわざとらしくない程度に間を置いた。わけありげに、気まずそうに見えるように。

 

「私がっていうか――ヒバリさんが」

「ヒバリさん?」

「うん。ヒバリさんの知り合いなんだ、あの人」

 

 その瞬間、押し寄せていた波がザッと引いた。ちょうど、利奈が初対面のときに感じたくらいの距離の取り方だ。二年生の二学期ともなれば恭弥の悪評はそれこそ折り紙付きで、恭弥繋がりともなればそれなりに警戒もするだろう。

 

「……つまり、コネ?」

「でもフェラーリ乗ってたんでしょ、そんな人がなんで?」

「なんかあれじゃない? だれかに追われてて、身を隠してるとか……」

「えー」

「でもディーノ先生ならそれでもよくない?」

「いい。あんなイケメン、ほかにいない」

 

 恋する乙女は強く、ひそひそと呟き合いながら席に戻っていく。これは辞めるときにさらに尾ひれがつきそうだ。

 

「花はどう? 大人っぽい人が好みって言ってたけど」

 

 念のため、友達の様子も確認しておく。ディーノに好意を抱いていたら、あとでどうやって慰めよう。そうひそかに思いながら尋ねるが、花は渋い顔をしている。

 

「なにその顔」

「……なんか、なんかなのよ。好みのはずなのに、好みじゃない気がする。なにかが違う」

 

 わずかな違和感に引っかかる探偵のように花が首をひねる。そして、その推理は的中していた。

 

(授業中、チョーク全部折ってたもんね……しかも全部額に命中)

 

 授業中のディーノは、それはもうポンコツだった。チョークを折り、数歩歩くだけですっころぶ。ふっとんだスリッパが頭に乗ったときは、芸術点をあげたいくらいだった。しかしそれらはすべて初勤務の緊張からの行動とされ、クラス女子の母性本能を大いにくすぐった。顔がいいとなにをしてもプラスになるのだなあと、他人事のように思ったものだ。

 

「それに、あの先生は普通に大人じゃない。大人っぽいとは違うでしょ」

「えー、難しい。先輩とかがいいの?」

「っていうか……」

 

 そこで花は珍しくもじもじと体を動かした。ディーノを見た女子と同じ、ときめき仕草だ。

 

「私、理想の人もう見つけてて……だから、ほかの人は今いいかなって」

「え! ウソ、ほんと!?」

 

 驚きの告白に前のめりになってしまう。これは恋バナチャンスだ。

 

「だれ? え、三年生?」

「ううん、学校外の人。大人っぽくて、色気があって、哀愁が漂ったいい男なの」

「えー!」

 

 大人びた花がそう言うのなら、間違いなく大人っぽい男子だろう。いや、高校生とか大学生かも知れない。

 

「もっと聞きたい! アイドルだとだれ似?」

「フフフ、それがね、外国の人なの。黒髪に緑の目をしてて、落ち着いた声で……けだるげな雰囲気がセクシーで……」

「写真は? 写真はないの?」

「利奈、利奈」

 

 盛り上がってきたところで、綱吉に声をかけられる。ちょいちょいと手招かれ、不思議に思いながら席へと向かう。なぜかとても気まずそうな顔をしている。

 

「なに?」

 

 綱吉は利奈の背後の花を見て、それからひそひそと呟いた。

 

「黒川が言ってるの、大人ランボなんだよ」

「……」

 

 ランボの十年後の姿を思い出す。黒髪に緑目、落ち着いた声。大人っぽい雰囲気で女の扱いがうまい。そして今のランボを思い出す。

 

(うん、真逆だ)

 

 時の流れはどっちに進んでも残酷なんだなあと思いながら、利奈は友人の元へと戻った。

 

「なんだったの?」

「うん……。今度さ、一緒にケーキ食べに行こうよ」

「は?」

 

 怪訝そうな花に、利奈は労りの眼差しを向けることしかできなかった。願わくば、彼女が真実を知る日が来ませんように。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本音に建前

 

 

 昨日に引き続き、授業中にアラームが鳴ることはなかった。クラスに四人も敵がいるからそれはそれで助かるけれど、いつ始まるかわからない緊張感は精神衛生上よろしくない。授業にも全然集中できなかった。

 

「前回の持ち物検査の結果、まとめ終わりました」

「わかった。確認ファイルに入れておいてくれ」

 

 今回の委員会業務は哲矢と二人でおこなっている。指示通りにファイルに用紙を入れて、机の上に戻す。哲矢と二人きりで業務をするのは初めてだし、主のいない机は空虚だ。

 

(アラーム鳴ってからディーノさんのとこ行けばいいのに。ヒバリさんもせっかちだなあ)

 

 どうしてもディーノと戦いたいらしく、恭弥はディーノの周りをうろついている。

 ディーノが恭弥の知り合いであることは瞬く間に知れ渡り、二人の関係については、すでに様々な憶測が飛び交っていた。そのなかにはほぼ正解に近いものもあるのだから、人の噂も馬鹿にできないものだ。最初に燃料を注いだのは自分だが。

 

 作業が一段落ついたので、湯呑みに残っていたお茶を飲みながら哲矢の手元を眺める。手が大きいから、ボールペンがとても小さく見える。

 

「未来の知識あると、表書くの楽だったりしますか?」

「そんなピンポイントな知識はない。だいたい、会社で働いてるならそんなのパソコンでやってるだろう」

 

 ごもっともなことを言いながら、するすると文字を書いていく哲矢。若干ぞんざいな扱いだが、彼がそんな態度を取るのはほかの風紀委員がいないときだけである。未来の知識を得たことで精神年齢が引っ張り上げられた結果、素でいるとキャラ崩壊を起こしかねないのだ。そして利奈も、ほかの風紀委員がいるときはこんな口の利き方はできない。哲矢が許しても、ほかの風紀委員は許さない。よくて鉄拳、悪くて鉄拳・詰問・制裁のフルコースだろう。

 

「帳簿とか上納金の監査とかいっぱいあるし、もういっそパソコンで全部やったほうがいいんじゃないですか。来年の部屋割り申請、PC室にしちゃいます?」

「却下」

 

 またもやすげない返答がくる。

 

「だいたい、パソコン使える委員が何人いると思ってるんだ。教えてるあいだに書類が溜まっていくぞ」

「確かに……」

 

 利奈を含め、風紀委員全員がまずパソコン操作を覚えなければならない。全員がPC室にミチミチに詰まっている光景を想像し、小さく噴き出す。少なくとも、不良の面目は丸つぶれだろう。今期に関しては、利奈が時間を惜しまず書類仕事に精を出している甲斐もあって、電子化の必要はなさそうだ。雑談を交えながら作業を続けていたら、応接室に恭弥が戻ってきた。まだアラームは鳴っていないのに。

 

「ディーノさんはどうしたんですか?」

「追い払われました」

 

 端的に風が答え、恭弥がやや不服そうに眉をしかめる。

 

「車呼んどいて」

「はい、恭さん」

 

 すかさず哲矢が席を立つ。恭さん呼びは改めなかったものの、風紀委員たちはすんなりと受け入れている。未来ではそれで定着していたのだから、早いか遅いかの違いだろう。

 

「車? どこ行くんですか?」

「ディーノのホテルです。仕事が終わったら、沢田綱吉たちと宿泊先のホテルで落ち合う予定だそうなので」

「ああ、それで追い払われてきたんですね」

「うるさい」

 

 風がぴょんと恭弥から飛び降りる。定位置についた恭弥がファイルを手に取った。

 

「今日はこのままホテルに行くんですか? だったらクロームに連絡しないとなんですけど」

 

 クロームは携帯電話を持っていないし、家に電話もない。例によって母が夕食のおかずを用意しているので、ホテルに直行するようなら、代わりに利奈の家まで行ってもらわないといけない。

 

「それは巡回中の風紀委員に頼めばいい。ヒバリさん、俺はこのまま並盛にいたほうがいいでしょうか」

「そうだね。僕がいないあいだに好き勝手されるのも癪だ」

 

 ディーノの宿泊先も調べはついている。並盛町から離れた、超高級ホテルだ。なんと、ヴァリアーもそこに宿泊している。

 

(ホテルで鳴ったらすごい大惨事になりそうなんだけど……そこんとこ大丈夫なのかなあ)

 

 暗殺部隊なのに、彼らの戦い方はとても派手だ。さすがに一般人を巻き込んだりはしないだろうけれど、建物の破損は避けられそうもない。

 

「それはそんなに心配しなくても。あちらにはマーモンがいますし、術士も多く抱えているでしょう。それに、そんなことを気にしていたらヴァリアーには勝てませんよ」

 

 利奈の心配をあっさりと流す風。常識人じみていても、やはりアルコバレーノだ。

 いや、風は水道管爆破偽装事件を知らない。ヴァリアーの事後処理が存外力押しなのを知らないのだ。当時現場にいた人のうち何人かはきっと、スクアーロのことを覚えているだろう。その人たちにとってのスクアーロは、水道管爆破で変にテンションが上がった銀髪ロング外国人という位置づけになっていると思うと、笑いがこみあげてくる。

 

「どうかしましたか?」

「いえ、なにも」

 

 膝の上にいる風には、笑いを噛み殺したときの振動が伝わっていたようだ。送迎車にチャイルドシードがなかったので、風は利奈の膝の上に収まっている。風は体温が高く、重さもちょうどいいからなんだか眠たくなってくる。外もすっかり暗くなって、黄色い月がはっきりと見えた。重たいまぶたを持ち上げつつぼんやりと外を眺めていた利奈だが、お目当てらしきホテルが見えてきたところで目が冴えた。

 

「……ヒバリさん、ホテルってあれですか?」

「あれだね」

「どうかしました?」

 

 先ほどと同様、太ももの強張りで変化に気付いた風が下から問いかけてくる。

 

「……あのホテル、私が未来で白蘭に監禁されたとこなんですけど」

「へえ」

「なんと!」

 

 恭弥は興味がなさそうだが、風はホテルを見ようと助手席に飛びついた。帰り際に見ただけとはいえ、あんな豪華絢爛な外装、忘れるわけがない。

 

「とても豪華なホテルですね。白蘭といえば未来での敵ですが、どうして貴方が?」

「なんでですかね……」

 

 骸がどうとか言っていた気もするけれど、あまり覚えていない。

 

「嫌がらせかも。その前にもミルフィオーレに捕まってて、めちゃくちゃ悪口言ったんで。あんま覚えてないんです、あっちの匣で体力奪われて……」

「それはそれは。大変な目に遭ってきたのですね」

 

 いたわしいと言わんばかりに風が眉を下げる。こんなふうに心配されるのは新鮮で、どこから変わったんだっけなと利奈は記憶に思いを馳せた。いや、恭弥と遭遇してからそこはずっと変わっていないかもしれない。

 

 車を降りて、ホテルへと入る。車内では膝上に乗せていた風を、今度は両腕で抱きかかえる。最初は恭弥の頭の上に乗ろうとしていたけれど、あれでは無駄に目立ちすぎる。

 

「ママー! お猿さん!」

 

 小さな子供が恭弥の頭上を指差した。リーチは人の頭の上にいるのが好きなようで、おとなしく鎮座している。それはそれで注目を浴びるが、赤ちゃんを乗せているよりはマシだろう。風が頭の上に乗るのは歩くのにリーチの差――もとい、歩幅の差があったからだが、それを考慮したとしても、恭弥がよく許していたものである。ヒバードと同じ扱いなのだろうか。本当は大人だと知っているのに。

 

「ディーノさんの客室、何階ですか?」

「知らない」

「知ら、えっ!? 聞いておいてくださいよ、そういう大事なこと!」

 

 このホテルに客室が何室あると思っているのか。エレベーターのボタンは三十七まであるというのに。

 

「まあまあ。キャッバローネのボスが泊まる部屋なら上層でしょうし、おそらく護衛も控えているでしょう。探すのにそんなに時間はかかりませんよ」

「じゃあ三十七階押しますね。もう」

 

 三十七階を選んで、閉まるボタンを押す。クンと身体が引かれる感覚とともに、エレベーターが上昇する。

 

「ところで、どうしてそんなにディーノを狙うんです? 強者はほかにもいるというのに」

 

 その疑問を口にできるのは風だけだろう。面識がなかったからこその直球発言である。でもそれは利奈も気になっていた。学校内でなら一番強そうなディーノを選ぶ理由もわかるが、放課後になってからも恭弥の狙いはぶれていない。

 

「あの人は、僕の師になったつもりの人だからね。僕には不要な存在だ」

 

 僕の師になったつもりの人。わかりづらい呼び方だけど、ようするに、なにかにつけて師匠面するディーノが気にくわないということか。わかりやすく敵対しているあいだに、その関係に引導を渡すつもりらしい。

 

「それと、ここにはほかの獲物もいる。やたら気の多い風紀委員に、けじめを付けさせておかないと」

「へ?」

 

 くるりと頭を動かすと、お前のことだと言わんばかりに恭弥に睨みつけられた。反射的に腕の力を強めてしまい、風を締め付けてしまう。風は身じろぎもしなかった。

 

(わ、わあ。ヒバリさん根に持ってたんだあ。初耳ー)

 

 未来でのあれこれはすでに解決済みと思っていたが、利奈の気のせいだったようだ。昨日、レヴィから貰った武器を得意げに振りかざしてしまったのがいけなかったのかもしれない。

 エレベーターという密室空間では逃げることもできず、利奈はぎこちなく笑みを浮かべる。当然、恭弥の表情が和らぐことはない。そして、無情にもバトラーウォッチが戦闘開始一分前を告げた。

 

「え、うそ!?」

 

 エレベーター内では身動きが取れない。とりあえずかんざしを出そうとして、さっきの恭弥の眼差しに思いとどまる。恭弥は微動だにしていない。

 最上階で、エレベーターの扉が開く。そして、扉の前には五人の男たちがいた。ヴァリアー幹部が勢揃いである。

 

「なに、お前も代理で参加してんの? ウケる」

 

 ベルがいらないことを言うので、また恭弥の圧が強まった。

 

「どういうことだ、こりゃあ。わざわざやられにきてくれるとはなあ」

「渡りに船だね」

「エレベーターにヒバリだろう」

「まんまじゃない」

 

 みな思い思いに喋っている。準備万端、闘志のみなぎった状態で。

 

(終わった。これは終わった……)

 

 ただ一人、利奈だけが戦意を失っていた。実質五対一、しかもあっちはボスウォッチを持ったXANXUSの姿がない。かりに奇跡が起こって勝負に勝てたとしても、試合には絶対勝てない仕様となっている。

 しかし、恭弥にとってはどうでもいいことのようだ。嬉々としてトンファーを取り出している。利奈としてはこのままエレベーターの仲に残って下に降りたいところだが、そうもいっていられない。渋々恭弥に続いて外に出る。

 

「久しぶりじゃないか、風」

 

 利奈の腕のなかにいる風に、マーモンが尊大な態度で話しかけてくる。

 

「まさか、そんな恰好の君を見るとはね。しばらく見ないあいだに、えらく子供っぽくなったじゃないか」

「お久し振りですね、マーモン。元気そうでなによりです」

 

 マーモンの皮肉をさらりとかわす風。

 

「降ろします?」

「いえ、このままで。私がここにいれば、バトラーウォッチが狙われづらいですから」

 

 言われてみれば、風を抱いているおかげでバトラーウォッチが隠せている。アルコバレーノへの攻撃は禁止されていたはずだ。

 

(じゃあ、ボスウォッチ持ってる人はアルコバレーノを腕にひっつけてれば無敵なんじゃ!? ……ダメだ、負けないけど勝てない)

 

 それに、ボスウォッチが守れても自身の身体は守れない。頭隠して尻隠さずとはこのことだ。

 

「ところで、どうするの? ボスには敵をかっ消せって言われてるけど」

 

 言外に利奈の処遇を問うルッスーリア。あと数十秒で戦闘が始まってしまう。

 

「ハッ、そりゃもちろんボスウォッチ狙いに決まってるだろうが。わざわざ雑魚に戦力割く必要はねえ」

 

 強い言葉を使いつつも、利奈を除外するスクアーロ。

 

「まあ、依頼者の立場からしても、ボスウォッチの破壊を優先してほしいかな。この戦いに全財産つぎこんでるわけだし」

「依頼者がそう言うなら従うしかないわねえ。私たち、プロだし」

 

 仕事であることを強調して利奈を除外するマーモンとルッスーリア。

 

「う、うむ。お前たちが言うなら仕方ない。情がわいたとかではけしてないが、ボスに殲滅を命令されたわけでもないしな! 命が惜しかったらできるだけ離れていることだ、娘!」

 

 利奈を省く流れにあからさまに喜色を滲ませるレヴィ。巻き込まれないように配慮してくれるのは嬉しいが、配慮が強すぎて恭弥がまた圧を滲ませている。残るはベルだが――

 

「ふーん。じゃあ俺もそいつ狙うのやめるわ」

「はい、うそ!」

 

 もはや鉄板のネタである。利奈はベルに対してだけ警戒の姿勢を取った。ナイフを手に隠していることもお見通しである。

 

「もうベルったら。好きな子イジメはよくないわよっ」

「オッケー、こいつやったら次お前な」

「ちょっと、やるなら代理戦終わってからにしなよね」

「やるなら次の幹部候補ちゃんと見繕ってからにしろよぉ」

「……雲雀恭弥が貴方を戦いに参加させた理由がわかりました」

 

 風が感慨深く口にしたところで、バトラーウォッチが開戦を告げる。

 

『今回の制限時間は三十分です』

 

 長い。それだけあれば、どちらかのチームは敗退するだろう。そして負けの色が濃いのは、人数の少ないこちら側である。

 

「三十分か。とりあえず、ここだと狭い。部屋まで来い」

「僕はべつにここでもいいんだけど」

「そう焦るなぁ! 心配しなくても、ちゃんと三枚におろしてやるよ」

「そうそう、焦らないで。ホテルの従業員が来てしまっては一大事です」

 

 見られるだけならまだマシだ。巻き添えで怪我でもさせたら目も当てられない。敵味方に宥められながら、彼らの部屋に入る。

 

「さあようこそ、私たちのスーパースイート空間よっ」

「う゛お゛ぉぉい! 気持ち悪い言い方すんじゃねえ!」

 

 ようは高級ホテルの最上階、スーパースイートルームである。連れてこられただけあって、広々とした空間、高級感のあるインテリア、美しい調度品――

 

(よかった、全然見覚えない)

 

 どうやら白蘭の部屋はスーパースイートではなかったようだ。部屋の広さも内装も全然違う。団らん用の空間にしては広すぎるが、バトルするにはうってつけの空間である。全員が武器を構え、相手を見据えた。

 

「さて、そろそろ――おっぱじめるかぁ!」

 

 かくして、代理戦争二日目の戦闘が始まった。

 




おまけ:もしこの場でXANXUSに利奈を始末しろと命令されたら

スクアーロ:断って守る
レヴィ:引き受けて殺す
ルッスーリア:難色を示して見逃す
マーモン:引き受けて偽装する
ベル:引き受けて殺そうとはする

番外フラン:師匠を口実に断る


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

時間は十分

 

 最高級ホテル最上階のスーパースイート。一階層まるまる一室というとんでもないゴージャス空間で戦いが始まる。向こうの指揮を執るのは、作戦隊長のスクアーロだ。

 

「まずは肩慣らしだぁ! リングなしでやんぞぉ!」

 

 剣を構えるスクアーロ。スクアーロは剣を手に持たない。剥き出しの剣を、義手の甲に取り付けている。

 

「べつに使ってくれてもかまわないけど?」

「ハッ、一瞬で終わっちまったらつまんねえからなぁ!」

 

 そう言って斬りかかったスクアーロを避け、恭弥がトンファーを上に打ち付けようとする。しかし、そこにメタルニーを突き出したルッスーリアが飛びかかり、恭弥は体をひねってその体重をいなした。そのがらあきの背中にレヴィが電撃を打ち込もうとするも、それは発射する前に動線から逃れた。

 事前の宣言通り、三人は恭弥一人を狙っているが、ベルだけは始めの位置から動かず、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて利奈を見ていた。

 

「あっち行かなくていいの?」

「お前こそ、自分とこのボス守らなくていいのかよ」

 

 そんなことをしたら、真っ先に戦闘不能にされるだろう。ヴァリアー相手に肉壁になれると思えるほど、面の皮は厚くない。

 

「それより、それズルじゃね?」

 

 利奈が抱きかかえている風を指差すベル。アルコバレーノへの攻撃は禁止されているが、利奈のバトラーウォッチは風の小さい腕の下だ。

 

「すみません、この身体では抱えていただかないと移動が遅く。私もマーモンみたいに空を飛べればよかったのですが」

 

 いけしゃあしゃあとそんなことをのたまう風。しかし、引き合いに出されたマーモンの姿が見えない。幻術で隠れているのだろうか。こっそりと近づいて時計を壊されたら大変だ。キョロキョロと辺りを伺うが、そもそも見えないのでは対処のしようがない。

 

(あっ、でもマーモンは戦っちゃいけないんだっけ)

 

 アルコバレーノへの攻撃が禁止されているのと同じく、アルコバレーノからの攻撃も禁止されている。幻術での妨害も、攻撃に入るだろう。ひとまずは安心だが、状況は圧倒的に不利なままである。

 

「まあ、それならそれでいいけど? バトラーウォッチ壊せなくても、身体壊せば同じことだし、なっ!」

「っ」

 

 ナイフが一本、壁に突き刺さった。刺さったナイフを見て、風が目を細める。

 

「ワイヤーが張られていますね」

「うん、ベルのナイフは全部そう」

 

 ベルとは未来で何度か戦ったことがある。もちろん模擬戦だが、ベルは毎回自身のナイフを使っていた。大人げない。だから、ベルのナイフ投げの精度も、ナイフに張られたワイヤーの脅威も十分承知している。その上で断言するが、利奈が勝てる見込みはゼロだ。たとえここで命を投げ出したとしても、絶対に勝てない。それだけの実力差がある。

 

 となると、残るは負けないこと――バトラーウォッチを壊されないことが目標となる。しかしここできついのが、遮蔽物のない空間とリーチの差だ。ベルの武器は言わずもがなのワイヤーつきナイフで、時計を壊すのに向いている。利奈の持つ仕込み針も投擲可能な武器ではあるが、一本しかないので一本勝負。しかも、外せばがら空きになってしまう。風のおかげで一発退場は免れたが、わずかばかりの延命処置に過ぎない。

 いっそ部屋の外に逃げてしまえば時間稼ぎになるだろうが、直前の恭弥の言葉がそれを許さない。恭弥は利奈にケジメをつけさせると言っていた。つまり、ここで利奈が求められているのは、彼らへの敵対行為だ。

 

(わかってるけど無理だよー! 相手暗殺部隊なんだよ、もー!)

 

 風紀委員長に抗議したいところだが、彼は彼で絶賛戦闘中だ。まだ両者ともに準備運動の段階だが、すでに利奈にはついていけないレベルになっている。

 

「おいおい、数に押されてるようじゃジリ貧だぞぉ! サシがお望みかぁ!」

「いらない。それよりもっと本気出してよ。なにを気にしてるかは知らないけど」

「ぬあ!」

 

 放電し損ねたレヴィが恭弥の一撃を受け止める。

 

「ちょっとレヴィ、手を抜きすぎよ」

「うぬう! べ、べつに雷撃の勢いを調整しているわけではないのだからな!」

「なにあのキモい言い方」

 

 大柄で小回りのきかないレヴィは、俊敏な恭弥からしたら恰好の的だ。しかし、その体格のよさで恭弥の攻撃を受け止め、当たれば麻痺確定の電気を込めた一撃を放つことで距離を取らせている。ほかの幹部との交戦中にも遠距離から電撃を飛ばせるので、なかなか厄介な敵であると言えるだろう。しかし、今は精彩を欠いている。

 

「お前なあ! あっち気にしてる場合じゃねえだろうが! どんだけチラチラあっち見てんだぁ!」

「ぬおお!? 違うぞ! 俺はただ、あいつがどうやってベルと戦うか気になっているだけで!」

「全然違くないじゃない!」

「ふざけないで」

 

 恭弥が珍しく敵と同調している。タジタジになっているレヴィはなるほど、利奈がどうなるかを気にしているらしい。

 

「マジウケる。まあ、レヴィの武器じゃ俺のナイフは防げないだろうけど?」

「なんだと!?」

「そちら、あの方からの贈り物で?」

 

(ごめん風君、それ以上ヒバリさん煽らないで)

 

 そんなつもりはないだろうけれど、重圧がきつすぎてそろそろ限界だ。とはいえこちらから攻めに行ったところでなので、八方塞がりである。

 

「お前もわかってんだろ? その針じゃワイヤーは切れない。長さもないから弾けない。俺を狙うには接近戦に持ち込むしかないけど、俺がそんなこと許さない。完全俺の下位互換じゃん」

 

 ベルの言うとおり、これがナイフだったらやりようはあっただろう。夜の学校でも、ベルのナイフを得たことでワイヤーから逃れることができた。それを再現できればよいのだが、そのためにはベルのナイフを手に入れなければならない。

 

「ほらよっ」

「わっ」

 

 投げられたナイフは利奈ではなく、右側の離れた壁に突き刺さる。利奈の顔の高さ、腰の高さ、膝の高さ、それぞれ三本。肉眼では見えないけれど、ワイヤーが張ってあるのは明らかだ。左側では恭弥たちが戦闘しているし、逃げ道はこれで塞がれた。

 

「どうする? 泣いて頭下げるなら一本くらい施してやってもいいけど?」

「だれが!」

 

 それなら、まだ身体に刺さったナイフを使ったほうがマシだ。しかし、抗えば抗うほど機嫌がよくなるなんて、つくづくいじめっ子気質である。

 

「そのちゃらついたかんざしと交換でもいいぜ。王子のナイフに比べればガラクタだけど、雑魚相手に使うんなら後腐れないし?」

「ム!?」

 

 聞き捨てならないとばかりにレヴィがこちらを見る。贈り物が強奪されようとしているのだから、それはそうだ。

 

「ガラクタとはなんだ! 聞き捨てならんぞ!」

「だってそうじゃん。王子のナイフのほうが百倍使えるし」

「装飾品とナイフで性能を競うのはナンセンスよ、ベル」

 

 メタルニーとトンファーがぶつかりあって高い音を立てる。顔面狙いの攻撃を膝で受けるなんて、脅威の身体能力だ。そしてベルから受けた屈辱をぶつけるように、レヴィが両手の剣で恭弥を狙う、が、軽々と避けられる。

 

「利奈! かんざしの持ち手側を使え! ナイフを落とすくらいならそれで十分だ!」

「は?」

「え、あっ……はい! わかりました!」

 

 言われてみれば、弾き落とすのが目的なら飾りの装飾を鞭代わりに使えば済むことだった。かんざしを持ち替えると、レヴィは力強く頷いた。

 

「テメエなにやってんだごらあぁ!」

「ぐふぁ!」

 

 無防備なレヴィの腹部に、怒れるスクアーロの回し蹴りが沈み込む。一瞬吐く動作をしたもののレヴィはかろうじて耐え、何事かとスクアーロを睨み返した。

 

「貴様、裏切りか!?」

「テメエのことだぁ! なに敵に塩贈ってんだテメエはぁ゛!」

「……な、なんか、ごめんなさい……」

 

 なにもしていないのに、勝手に向こうが仲間割れを起こしている。そして、委員長の反応を見るのはもうやめた。確認したっていいことはない。ただ、ベルは楽しそうである。

 

「あー、おもしれー。そんじゃ、レヴィも脱落しそうだし、そろそろ俺もあっち加わろっかな」

 

 それはつまりこちらを終わらせるということである。

 

「べつに私をやってからじゃなくてもいいんじゃないかな、それ」

「でもお前を残しとくとめんどくなるだろ。お前、あのときのこと忘れないってよく言うけど、俺だって同じなのわかってる?」

 

 それはいったいどの件だろう。あのあといろいろやったからどれがベルに根に持たれているかはわからない。隼人で煽った件だろうか。

 

 ベルが投げてきたナイフを避ける。投げる動作が見えているから対処は容易だが、避ければ避けるほどワイヤーが張り巡らされてしまう。かんざしでワイヤーを払い落とそうとするも、ベルは巧みにワイヤーを緩ませ、それを阻んだ。そして次のナイフを投げる。

 

「二本あります!」

 

 胴体を狙ったナイフを払おうとしたものの、風の言葉でギリギリ躱す。肉眼では一本にしか見えなかったけれど、壁に刺さったナイフのワイヤーには、もう一本ぶら下がっていた。

 

「ほ、ほんとに二本ある……」

「一本目のナイフに取り付けられたワイヤーにもう一本固定されていました。払うことを見越してのものですね」

「そのやり方、初めて見た」

 

 つまり本気である。そうなると、防戦一方というのは本当に不利だ。諦めて逃げるにも、逃げ道はすでに摘まれている。いっそ恭弥のほうに逃げるという手もあるが、剣やら電撃やらが飛び交う空間に躍り出るのも自殺行為だ。そして、迷っているあいだにどんどんワイヤーが張り巡らされていく。ワイヤーで動きを封じてから時計を壊すつもりらしい。ウソ認定したあの言葉は、命は狙わないという意味だったのかもしれない。

 

(せめて壁のナイフが取れればいいんだけど……)

 

 目には目を、ナイフにはナイフをで投げ返せればいいのだが、ナイフを取る隙をベルがくれるはずもなく。ちょっとでも手を伸ばそうものなら、そこめがけてナイフを投げてくるし、本当に戦い方がいやらしい。

 

「っ」

 

 避けたはずのナイフが腕をかすめた。明らかに疲労が溜まってきている。

 

「息上がってんじゃん。そろそろ終わっとく?」

「……冗談」

 

 時間は稼げている。二十分以上もったのだから、もう十分に働いただろう。

 恭弥たちの戦いは激化しているが、今のところだれの時計も壊れていない。だが、時間がかかればかかるほど恭弥が不利になっていく。なにせ三対一、体力の消耗も桁違いだろう。ベルまであちらに行かせるわけにはいかない。だからできるかぎり引きつけておきたいが、そろそろ限界だ。それは腕のなかの風にも伝わっていた。

 

「もうダメだと思ったら言ってください。いつでも降りますから」

「わりとずっとダメ……」

 

 風が腕から降りれば、バトラーウォッチが剥き出しになる。つまりいつでも脱落できるようになるが、ベルがそうあっさり倒してくれるとは思えない。

 それに。利奈は風を抱え直した。

 

「でも、負けたくない。から、頑張る」

「わかりました」

 

 気合いを入れ直して体勢を変えるが、しかし、それが命取りとなった。

 

「へ?」

 

 踏み直した足の下に違和感を覚えたその瞬間、視界が大きく揺らいだ。落ちていたナイフのひとつを踏んづけてしまっていたのだ。瞬時にワイヤーを引かれ、ナイフの上に乗った足が滑る。疲労の溜まった状態では体勢を維持することができず、風を抱いていた腕が解け、かんざしが天を向く。

 

(やっば――)

 

 転倒だけは避けようと受け身の姿勢に移るが、間の悪いことに、そこは恭弥たちの戦闘範囲であった。そして、利奈の持つかんざしは、銀で加工されている。そう、レヴィが懸念していたのはそれだったのである。閃光が走った。

 

「きゃああああ!」

 

 銀は電気を通しやすい。レヴィの放っていた電撃がかんざしを通して感電し、利奈は甲高い悲鳴を上げながら床に倒れた。

 

「うぉ!?」

「なんだぁ!?」

 

 突然の悲鳴に視線が集まるが、利奈に為す術はない。そして恭弥も急には動けない。

 

「シシッ。はい、おしまい」

 

 とどめの一撃をベルが放つ。せめてもの情けとしてバトラーウォッチだけを狙った投擲だったが、その切っ先は宙を舞った。

 

 利奈が体勢を崩してからベルがナイフを投げるまで、十秒あった。十秒あれば、それで十分だ。いや、正確には三分の延命だが。

 

「大丈夫ですか」

「……え」

 

 見上げた先によく見る横顔がある。いや、見たことはない。恭弥がこんな穏やかな表情、するわけがない。

 

「……ふぉん……くん?」

 

 痺れて呂律の回らない舌で問うと、風は優しく笑った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

しかし脱兎は逃げられない

 

 利奈がまだ事態を把握しきれないなか、ヴァリアー四人が一斉に動き出す。

 風の参戦で暗殺者モードに切り替わった彼らは、すぐさま風に躍りかかった。先ほどまでとは比べものにならないほどのキレで繰り出された剣先を、風は身体を極限まで後ろにそらすことで躱した。編んだ髪の毛先が、床に触れている。そうして躱しながらも、追撃のレヴィの剣を足で弾き――なんと、身体を反らした状態で片足を上げ――弾いた剣でベルの投げたナイフのワイヤーを断ち切った。そして床に手をつき、反動で飛び出してレヴィの腹に跳び蹴りを食らわせる。

 

「ぐぶぅ!」

 

 頑丈さが取り柄のレヴィもこれにはたまらず唾を吐き散らす。

 

「ちょっと!」

 

 その唾を思わず避けてしまったルッスーリアを風は見逃さない。レヴィの腰が床につくのを待たず、すかさずルッスーリアに詰め寄って指先を突き出す。

 

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと! ああもう!」

 

 素早い突きをすべて受け流しながらも、ルッスーリアは余裕がなさそうに叫んだ。ルッスーリアはムエタイの使い手で、決め技は膝に埋め込んだ金属を活かした膝蹴りだ。しかし風はルッスーリアに足技を使う隙を与えない。恭弥と戦ってる姿を見て、攻略をすでに終わらせていたようだ。

 

(すごい……)

 

 倒れ伏した体を起こす気にもならない。風の動きに見惚れてしまう。惚けるように見つめていたら、視線に気付いた風がこちらを向いた。そしてノールックでベルのナイフを指で挟み取る。

 

「せっかくですから、お手本を見せましょう。掌底を相手に打ち込むさい、こうして気を練り――」

「待って、私を実験台にするつもり!?」

 

 非難の声を上げるルッスーリアの体に、さっきと同じように風が打ち込みを始める。違うのは、手の形だ。指先ではなく、掌底をルッスーリアの腕にぶつけている。

 

「いなされると一撃一撃のダメージは少ないですが、こうやって雨の炎を注ぎ込んでいけば、相手の動きを鈍らせることができます」

「やめて! 活性化の晴に雨を注ぎこむのはやめて!」

「ああいえ、私は練った気を当てて力を分散させているだけです」

「だからナニ!?」

 

 ルッスーリアの悲鳴ももっともだ。実験台にされる側はたまったものじゃないだろう。とはいえ、その合間にほかの三人とも戦っているのだから、風も余裕があるわけではない。むしろ、こちらのほうが不利のはずなのだ。

 

「どうでしょう、なんとなくつかめそうですか?」

「あ、ハイ……」

 

 できるできないはともかく、言わんとしていることはわかった。なんとなくだけど、頷いておく。

 

「ふざけおって! もう許せん!」

 

 レヴィが怒りの声を上げた。それと同時に雷を纏った状態で突っ込んでいくので、ルッスーリアが大きく身を引いた。

 

「拳法だがなんだか知らんが、反射には敵うまい!」

「確かに、麻痺は厄介です」

「ぬおっ!」

 

 レヴィの突進はさらりと躱される。

 

「ですが、ほんの一瞬接触するくらいなら、効果は最小限かと」

 

 風の目が光った。体勢を崩したレヴィの横腹に軸の入った回し蹴りが入り、レヴィの巨体が吹っ飛んでいく。そして身を引いていたルッスーリアにとどめとばかりに連撃を入れる。レヴィの体は壁を突き抜け、ルッスーリアはその場に倒れこんだ。ベルが投げたナイフはベル自身に弾き返され、当たることはなかったが、ベルのバトラーウォッチはいつの間にか壊されていた。

 

(ふぉ、風さん……!)

 

 君付けなんてとんでもない。これはどう考えても風さん呼び確定である。

 

「ちょっと、なに余計なことしてくれてんの」

 

 横から獲物をかっさらわれた恭弥が、不満の声を上げる。

 

「失礼。緊急事態でしたので」

「べつに、見殺しにしてくれてかまわなかったのに」

「ひどい……」

 

 強制参加させておいてなんという言い草だろう。ズルズルと起き上がるが、恭弥はまったく目もくれない。利奈へのむかつきより、風へのむかつきが勝ったようだ。

 

 しかし、風の飛び入りのおかげで、一瞬にしてヴァリアー幹部三人を撃破できた。残るはスクアーロのみで、こちらは二人。人数の差は逆転した。ゆえに勝機が見出せると利奈は思ったのだが、そんな甘い期待はただちに断ち切られた。

 

「あ゛ちっ! 餅かよ、う゛お゛おい!」

 

 スクアーロが黒服についた餅を煩わしげに落としていく。緊張感のない光景だが、利奈の心拍は最高速レベルまで上がっていった。耳の奥でキインと耳鳴りがする。

 

 この部屋の四辺のうち一辺にはふすまがあった。つまり和室が続いていた。

 

(なんで。いないって――)

 

 いや、だれもボスがいないとは言っていない。『戦闘が始まったのに姿を現さないなら、きっとここにはいないのだろう』と利奈が思い込んでいただけである。その見通しの甘さがこの体の震えだ。まだ注意がこちらに向いていないのに、体が震えて止まらない。

 

「ヒバリさん、私、脱落してもいいですか」

 

 貼りつく舌をやっとの思いで動かすが、返ってきたのは凍てつくような眼差しだった。

 

「なんて言った?」

「だつ、離脱してもいいですかっ!」

 

 金切り声を上げながら利奈はなおも乞うた。

 

 無理だ。もう無理だ。XANXUSの視界に入りたくない。敵だと認定されれば、その瞬間、死を確信して心が潰れるだろう。

 ここで初めて利奈の様子が尋常でないと恭弥が気付くが、だからといってどうなるものでもなかった。これは本能だ。理屈でどうにかなるものではない。

 

「ここからは戦いも激化しますし、退いてもらったほうがよいのでは? 巻き添えにしても忍びないですし」

 

 風の口添えに、恭弥が顔を背ける。それを是と取り、利奈はドアへと飛びこんだ。入ったときのドアとは反対側で、エレベーターは向かいの廊下だ。ドクドクといやな跳ね方をする心臓を押さえながら、小走りで逃げる。

 

 この時代のXANXUSのことはよく知らない。そもそも、未来のXANXUSですら一回しか会っていない。ただ、その一回が、あの一回が利奈に拭うことのできないトラウマを植えつけた。苦手な動物ランキングトップにライオンが君臨し、動物園にも行けなくなった。あのときのことを思い出すたびに指先が震える。

 

 命からがらエレベーターホールまで走った利奈だったが、そこで当初の目的人物と遭遇する。

 

「ディーノさん?」

 

 最初に入ってきたドアの前にディーノがいた。わずかに開けたドアから、なかの様子を窺っていたようだ。人差し指を口に当てる仕草で、静かにと合図される。

 

(そうだ、ディーノさんに会いに来たんだっけ、私たち)

 

 バトルが始まってしまったからすっかり忘れていた。手招きされたので、利奈はエレベーターに心惹かれながらもディーノの元へと歩く。

 

「ずっと様子見てたんですか?」

「いや、学校の仕事に時間かかってな。今来たばっかだ」

 

 ひそひそと話していたら、ディーノの胸元からバイブ音が鳴った。リボーンから着信があったようだ。

 

「なに? 白蘭がコロネロにやられてツナが家光さんのところに飛んでいった?」

「!」

 

 あちらではリボーン・ユニ・コロネロチームが交戦していて、どんなチーム編成かは知らないけれど、白蘭が負けたらしい。

 

(うわあ、やった! 白蘭負けた!)

 

 他人の不幸は蜜の味。それが怨敵ならば極上の甘露である。先ほどまでの恐怖はどこへやら、利奈はうれしさに顔をほころばせた。白蘭がやられる瞬間を目撃できなかったのは残念だが、それは高望みしすぎだろう。

 

「こっちも始まった!」

 

 リボーンへの言葉に、利奈もドアの隙間を覗きこんだ。

 四人が戦っているが、早すぎてよくわからない。かろうじてスクアーロの銀色の髪がなびくのが見えるくらいだ。風の赤い服も目立つが、宙を舞うので目が追いつかない。そして、XANXUSの銃撃で早くも壁一面に大穴が空いた。こちら側に向けられた攻撃だったら、今頃二人とも無事では済まなかったろう。

 

「ディーノさん、逃げたほうが!」

「大丈夫だ。俺が守る」

「でも……」

 

 今の立場だとディーノとは敵同士だ。この状況で恭弥の顔色を気にする余裕はないが、ディーノの優しさに寄りかかるのも抵抗がある。そんな利奈の葛藤を見て取ったディーノは、通信機に耳を当てた。

 

「リボーン、俺はどうすればいい? 俺はどっちにつく?」

 

 ギョッと目を見開くが、ディーノはこちらを見ない。しかし口元には笑みが浮かんでいた。

 

「わかった、恭弥を助ければいいんだな。……理由? なんだそれ」

 

 リボーンがなにか言ったのか怪訝そうな顔をしているけれど、リボーンチームは風側につきたいらしい。それならひとまず、ディーノが利奈を守る道理は立つ。

 

(よかった、これでマーモン側だったらここでバトル始まってた)

 

 ディーノが鞭を出す前に不意打ちできればかろうじてチャンスはあるだろうが、だれも得をしない戦いだ。勝っても負けても恭弥にどやされる。

 とりあえずの身の安全が確保されたたところで、観戦に戻る。

 

(うわわっ、なんで風さん上脱いでるの!?)

 

 いつの間にか半裸になっていた風に顔を赤くするも、未来のトラウマ、XANXUSのライオンもその場にいたので、瞬時に青ざめた。恭弥もボンゴレギアを使っているし、スクアーロも鮫の匣動物を召喚していた。未来でも見たけれど、スクアーロの鮫は空中も泳げる。

 こうなると唯一匣動物を持たない風が不利なように見えるが、場を圧倒したのはまたもや風だった。死ぬ気の炎――いや、彼の場合は気か――がまるで龍のように踊り狂い、スクアーロのバトラーウォッチを破壊する。ライオンのべスターがXANXUSのボスウォッチを炎から守るが、風自身が頭上から直接ボスウォッチを狙う。XANXUSは炎に気を取られていて、頭上の風には気がついていない。

 

(やった、これで風さんの勝ち――っ!?)

 

 スイッチを押されたような、関節を鳴らされたような。そんな、固く乾いた、コキンという音が響き、利奈の脳は切り替えられた。と同時に、風の体から突然血が噴き出したので、利奈は悲鳴を上げる。

 

「キャア――」

 

 悲鳴のほとんどはディーノの手に飲み込まれた。風が床に落ち、恭弥とXANXUSが揃って風を見る。XANXUSの表情を見るに、XANXUSが仕掛けた攻撃ではなさそうだ。

 

「これでわかっただろ? 武術より幻術のほうが優れている」

 

 風と同じように元の姿に戻ったマーモンが、フードの下の隠れた瞳で風を見下ろしていた。

 

「貴方が放ったのは、脳に特定の縛りをつくり、その縛りを破ると肉体にダメージが返ってくる奥義……」

「ああ。今回は特別に縛りがなにか教えてやるよ」

 

 尊大な態度で話すマーモン。明らかに風を敵視している。そして、そんなマーモンが作った縛りというのが――

 

「勝利を疑ったものは自爆する」

 

 つまり、先ほど風は勝利を疑ったのだ。あの、どう考えても勝ち目しかなかった場面で。つまり、あのときの風には懸念が生まれていた。マーモンの仕掛けた奥義とやらを感知し、勝利に疑いを持ってしまったのだ。つまり、あの奥義には予兆があった。つまり、つまり。

 

(……あの、頭の変な感覚、もしかして)

 

 じわりじわりといやな予感が膨らんでいく。それはディーノも同じようで、かち合った視線に戸惑いがあった。つまり、ディーノにもあったのだ。頭のなかを揺さぶられたような、あの感覚が。

 

「この奥義は強力なぶん、技の範囲を絞れないんだ。――このフロアにいる全員、術がかかっているはずだよ」

 

 いやな予感ほどよく当たる。どうあっても、当事者として舞台に引きずり出される宿命らしい。

 

「利奈」

「あ……」

 

 ディーノの視線で、頬をなにかがつたっていることに気がついた。指でなぞると、真っ赤な血が指先を汚す。なるほど、マーモンの言ったとおり、奥義はこのフロア一帯にかかっているらしい。

 

「……やっぱ幻術ってズルいな」

 

 今日無事に帰れたらクロームに幻術の破り方を教わろうと、利奈は深く決意した。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

どちらがより頂点か

 

 マーモンの奥義、バイパー・ミラージュ・R。

 相手の脳に作用する幻術であり、マーモンが定めたルールを破ると、自動的に肉体にダメージが入るというトンデモ仕様の幻術だ。そして今回マーモンが決めたルール――縛りは、自身の勝利を疑うこと。そして負けを認めるほど、敵を脅威に感じるほど、勝利への自信を失うほど、ダメージが大きくなっていく。

 風が血を噴き出したのは、マーモンのこの能力をあらかじめ知っていて、その厄介さを理解していたからだろう。そしてそこを狙った縛りにより、ダメージを受けた。

 

 そしてこの奥義には、もうひとつ厄介な特性があった。あまりにも強力な能力のせいで、術をかける相手がコントロールできないのだ。敵と味方どころか、自分自身すらも能力下に置かれるのである。しかも効果範囲は広く、なんとこのホテルのワンフロア分。つまり、ドアの外で覗き見していた利奈とディーノも、マーモンの術中なのである。さっそく流れた頬の血を舐め、利奈は顔をしかめた。

 

「大丈夫か?」

「痛くないです、ちょっと切っただけなので」

 

 これは、傍観者気分でいた自分も対象だったという動揺へのダメージだろう。いつものことと言えばいつものことだったためにこの程度で済んだが、これからは動揺するだけでも命取りだ。ディーノもそれがわかっているのか、利奈を下がらせる。

 

「俺の後ろにいれば大丈夫だ」

 

 ディーノは下に降りろとは言わなかった。それが悪手だとわかっているからだ。

 不安というものは、原因から離れれば離れるほど膨らむものである。こうしているあいだにも最上階では――などと考えたが最後、自滅してしまう。それならばまだ、安全地帯で観戦していたほうがマシだろう。

 

「とりあえずこいつ、渡しとく」

「え、はい。……え?」

 

 噛みつき亀のエンツィオをとりあえずで渡され、利奈はディーノの顔を二度見した。夜だからかエンツィオは眠っている。

 

「い、いざとなったらエンツィオで全部破壊しろってことですか?」

「ちげえよ。不安になったらそいつ見てろ、気が紛れるだろ」

「ああ、そっち……」

 

 確かに、手のひらですやすやと眠るエンツィオは空気を和ませてくれる。勝敗とは関係ないことを考えていれば、バイバー・ミラージュ・Rにやられることもないだろう。とりあえず、このやりとりで肩の力は抜けた。

 

 バトルは風とマーモン、恭弥とXANXUSの単体バトルになっていた。マーモンが風を幻術空間へと連れて行ったので、利奈たちが目視できるのは恭弥とXANXUSのバトルだけだ。そうはいっても二人のバトルは高レベルすぎて、利奈では目で追うこともできない。銃声や衝突音など、耳で音を遅れ聞くのがやっとである。

 

「ヒバリさん、互角に戦えてますね」

 

 有効なダメージは与えられてないが、XANXUSの銃弾にも当たっていない。ヴァリアーのボスであるXANXUSと渡り合えている。

 

 胸を撫で下ろす利奈を、ディーノは無言で見下ろした。XANXUSはまだ実力を出してはいないが、それを口にすることはなかった。いや、できなかった。話せばまた、利奈がダメージを受けるとわかっていたからだ。しかしその気遣いも、長くは続かない。

 

「マーモンの幻術が解けたぞ!」

 

 勝負がついたのか、マーモンと風が再び姿を現した。勝ったのは風だったようで、自身の縛りを破ったマーモンが吐血する。

 

「マーモンが……!」

 

 マーモンの作った縛りは自縄自縛だ。勝利を疑えばダメージが入り、そのダメージでまた負けを意識する、いわば負の連鎖である。止めるには思考を切り替えなければならないのだが、痛みがそれを許さない。

 

「マーモン! 今、気を失わせて楽にしてあげます!」

 

 風が走るが、間に合わなかった。崩れ落ちたマーモンが致命傷を負ったわけではない。風が先に時間切れになったのだ。

 

「風さんが戻った!?」

「時間切れだ」

 

 利奈は把握していないが、アルコバレーノが元の姿に戻れる時間は三分間。たった三分でヴァリアー幹部四人を倒し、マーモンを圧倒できたのは大きな戦果だが、ここで戻ってしまったのは大きな失態である。XANXUSと戦っている恭弥には、マーモンに割く余力がない。それをだれよりも自覚している風が、縛りによるダメージを受けた。

 

「あとはお前だけだ! 雲雀恭弥!」

 

 風の呪解が終わったことで持ち直したマーモンが、恭弥に幻術を放つ。恭弥の体が足下から凍り、ボスウォッチを付けた腕がトンファーごと氷付けにされた。

 

「あ゛う!」

「利奈!」

 

 恭弥の動きが封じられたと同時に、利奈の全身から血が噴き出した。制服に血が滲む。崩れ落ちそうになるのをディーノが支えようとしたが、利奈はそれを拒んだ。

 

「あっちを、ヒバリさんを!」

 

 マーモンはボスウォッチを壊してと言っているが、XANXUSは恭弥を殺そうとしている。銃に炎を充填するXANXUSの姿に、恭弥の脳もダメージを受けていた。利奈が床に膝をつくと同時にディーノが部屋に飛び出し、銃声が鳴り響いた。そして、静寂。

 

(間に、合った?)

 

「利奈! こっちは無事だ!」 

「……はあ」

 

 どうやら間に合ったようだ。こうなっては戻るしかないので、よろよろと立ち上がる。縛りによるダメージで体中に切り傷ができたものの、傷のひとつひとつはそう深くない。それでも、傷口が服に擦れてジンジンと痛んだ。剥き出しの足からは血が流れている。

 

「おいおい、満身創痍じゃねえかぁ!」

 

 傷だらけで再登場した利奈にスクアーロが叫ぶ。

 

「うわ、ほんとにボロボロじゃん。さっさと逃げてりゃよかったのに」

「うるさいな」

 

 からかってくるベルに言い返すが、恭弥も同じことを言いたげにこちらを見ている。自分から離脱したくせに逃げ損ねてダメージを受けているのだから、それはそうだ。

 

(だってディーノさんに捕まったし。あんな奥義あるなんて思ってなかったし)

 

 過ぎてしまったことは仕方ないとして、これで形勢は持ち直した。風は脱落してしまったが代わりにディーノが加わったし、これでまた二対二である。当然、自分は数に含めない。

 

「いいよ! だれが相手だろうが僕とボスのコンビでやっつけるまでさ!」

「下がってろ、マーモン」

「え!?」

「怪我人はすっこんでろ」

 

 新しい傷はないけど、縛りのダメージでできた傷口からは絶えず血が流れている。マーモンも、それだけ追い詰められていたのだろう。

 

「ぼ、僕なら大丈夫! いけるよ!」

「るせえ」

 

 マーモンの言葉をXANXUSは一蹴する。ベルにもからかわれ、マーモンは渋々ながら呪解を止めた。

 

(……部下の無茶を止めたりするんだ、あの人)

 

 XANXUSの行動はかなり意外だった。今まで聞いていた人物像だと、死ぬまで戦え、でなければ殺すみたいな雰囲気だったが、負傷した部下を下がらせるとは。

 

「僕も一人で戦いたいから、貴方は黙って下がってくれる?」

 

 一方、こちらのボスも同じようなことをディーノに言っていた。しかしこちらは心強い援軍を断っているだけの通常営業だ。そのくせさっきは利奈のリタイアを拒んだし、死ぬまで戦えはどうやらこちらの陣営だったようだ。

 

「ボス相手に一騎打ち望むとか、やべーねそっちのエース」

「知ってる」

「てかお前、まだバトラーウォッチ壊れてねえの? ボスに目をつけられる前にさっさと壊してやろうとしたのに」

 

(絶対にそんなつもりで狙ってなかったくせに)

 

 ベルを軽く睨む。そもそもXANXUSは、利奈など一切意識に入れていない。部屋に倒れてる家具以下の興味だろう。だが、それがとてもありがたかった。この状況で敵意など向けられたら、いくら血があっても足りない。死を予感することはすなわち生物としての負けだ。マーモンの奥義でダメージを受け続けてしまう。

 

「ねえ、奥義ってまだ続いてる? 消えてる?」

 

 念のために尋ねると、小さくなったマーモンが顔を上げた。小型化した影響か、傷口は塞がったようだ。

 

「まだ続いてる。でも、この体だから効果は弱くなってると思うよ」

「そっか、なら――」

「XANXUSが超強いってのは俺の思い過ごしかもな。――なんたって、ツナに負けたからな!」

「!?」

 

 三人とも弾かれたように顔を動かす。なにがどうなってそうなったのかはわからないが、なぜかディーノがXANXUSに喧嘩をふっかけたのである。

 この世界では、リング争奪戦でXANXUSが綱吉に敗北してからそう時間は経っていない。そしてそれが、プライドの高そうなXANXUSにとって、最大の地雷であったことは言うまでもない。先ほどまでの無気力な表情から一点、その顔が憤怒に染まる。いや、例えではなく、顔中に真っ赤な痣が浮かび上がった。

 

「ひぃいい! ――ぅあ!」

「あーあ」

 

 またも利奈の縛りが破れ、顔から血が噴き出す。恐怖と痛みがないまぜになって、涙が出てきた。

 

「だからさっさと逃げてりゃよかったのに」

「なにあれ……」 

「古傷。ガチギレするとああなんだよ、ボス」

「どういうこと……!?」

 

 つまりディーノはXANXUSを本気で怒らせたということか。なんでそんなことをするのか。ヒンヒンと鼻を鳴らすも、XANXUSの怒りは増すばかりだ。ベスターが再召喚され、そしてすぐさま銃へと形態を変える。XANXUSの二丁拳銃がライオン――いや、ライガーの意匠へと替わった。

 

「かっ散れ!」

 

 XANXUSの咆哮とともに放たれる憤怒の炎。ライガーの形をした炎が、恭弥の展開した球体を一瞬にして灰燼に帰した。恭弥自身は弾道から逃れたが、これでは球体をどれだけ展開したところで、無意味だろう。絶対的な力の差である。しかもXANXUSは、さらに攻撃範囲を広げるべく、攻撃の溜めに入った。両手の拳銃に、すさまじい炎圧が注ぎ込まれていく。

 

「おいおい、さっきの以上の大口径で放たれちゃ逃げ場なんてねえぞお!」

「ヤババ」

「あっ、待って!」

 

 キレたXANXUSは、どうやらすべてをかき消すつもりらしい。恭弥どころか、この部屋どころか、このフロア全部。気絶している部下など、微塵も気にかけず。

 ベルがレヴィとルッスーリアを助け起こしに行くので、利奈もそれに続いた。二人ともまだ意識は取り戻していない。

 

「なに、敵に塩贈んの日本の流儀?」

「あんなの当たったら無事じゃ済まないでしょ!」

 

 それに三人ともバトラーウォッチは壊れているから、もう敵ではない。

 ルッスーリアの体を支えるが、長身で筋肉質なだけあってずっしりと重い。レヴィなんてもっと重いだろうけれど、ベルはそこまで苦ではなさそうな顔で引きずってくる。

 

「ってか、お前はお前のボス気にしたほうがいいんじゃねえの? あれ当たったらマジで死ぬぜ」

「そっちは……」

 

 考えても新たな出血は起きなかった。つまり、そういうことだ。それにディーノもついている。いくらなんでも、勝算なしでXANXUSを本気にさせたわけではないだろう。あとでとても怒るけど。

 

「こっちだよ」

 

 浮遊能力を持つマーモンに従って、離れた窓まで二人を運ぶ。XANXUSの銃弾は外壁の装飾まで吹き飛ばしていたが、そのおかげで利奈たちが飛び移れる空間が生まれていた。

 

「せーのっ」

 

 ルッスーリアをあいだに挟んで、ベルと同時に外へと飛び出す。一歩間違えばそのまま最上階の高さから落ちてしまうから心臓バクバクだったけれど、それは男三人分の重しがしっかりと支えてくれた。そして爆音と衝撃波が五人を飲み込む。ともすればマーモンが吹っ飛ばされるところだったが、それは四人が盾になったおかげで防がれた。

 

「うっわ、天井まで全部吹っ飛ばされてんじゃん」

 

 ベルの言葉で顔を上げた利奈は、あまりの光景に目を見開いた。天井どころか柱や壁すべてが吹っ飛ばされていて、更地になっている。更地になったということはホテルの光源がすべてなくなったということで、星の光と周囲のビルの明かりしか照らすものがない。それでも、二人の輪郭ははっきりと浮かび上がって見えた。

 

(ヒバリさん、無事みたいだけど……学ラン飛んでった?)

 

 恭弥の背後からXANXUSを見ている構図だが、恭弥の輪郭は白く、闇夜に溶けていない。だからこそ、無事が確認できているわけだ。

 

「時計も無事!? そんな!」

「ボスの右手に攻撃当たってるし。マジかよ」

「ほんと!?」

 

 利奈の視力では捉えられないが、あのXANXUSに攻撃を当てられたらしい。

 

「……あら?」

「あっ、起きた?」

 

 やっとルッスーリアが意識を取り戻した。それを見てベルが左腕を上げ、レヴィを床に落とした。剥き出しの床に額が打ち付けられ、くぐもった声が漏れる。

 

「まさか、あの攻撃くらってヒバリが生き残るとはなぁ」

「雲雀恭弥の攻撃から時計を守るために、XANXUSは弾の軌道を変えざるを得なかった」

「にしても、よくあの状況で時計守れたよな。俺はこれでマーモンチームが脱落すると思ってたんだが」

 

 ディーノたち三人もうまく離脱できたようだ。そして、一段落ついたタイミングを見計らったかのように、バトル終了のアラームが鳴り響いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。