地から飛べ、ラブソング (まなぶおじさん)
しおりを挟む

地から飛べ、ラブソング

 

 小さい頃の私は、いわゆる口下手というもので、中々友達が出来ずじまいでした。

 学校へ行っては真面目に勉強を、運動を――そうして淡々と、生きていた時期があったのです。

 

 そんな私でも、変な気分転換というものが生じました。朝早く起きたから、誰よりも先に学校へ登校する、というものです。

 白い朝日に照らされた、何もない通学路とは、実に不思議なものです。私しかいない世界という錯覚は、この上なく心地よかった。

 この判断は正しかったなと、淡々と歩いていると――後ろから、歌声が聞こえてきました。

 

 振り向いてみると、そこには同じクラスメートの黄島君が、後にジョールと呼ばれる男子生徒と目が合ったのです。

 

 □

 

『第六十二回、高校戦車道全国大会――』

 

 聞き慣れた轟音は、もう聞こえない。モニターに映し出されている戦車は、一台も動いてはいない。

 何故なら、

 

『優勝は――プラウダ女子高等学校ッ!』

 

 音の鳴るような降雪の中、夢か幻かと戸惑う観客達は、戦車道公認審判の声を聞いても、特設モニターからでかでかと映し出される「プラウダ高校、優勝おめでとう!」の文字を目の当たりにしても、状況を咀嚼しきれていないせいで「うん」とも「すん」とも言えていない。

 ――そういう時の為に、理性という便利な器官がある。それが「プラウダが優勝したぞ」と肩を叩いてやった瞬間、

 

 いやったぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!!!

 

 静粛さなど、瞬く間に空へ吹っ飛んでいった。

 プラウダ側の観客席は瞬く間に阿鼻叫喚へと突っ込んでいき、男どもは狂喜乱舞を表現するが如く踊り回る。女性に至っては有頂天外を隠す気もないのか、メタルバンドよろしくマフラーをその場で振り回す始末だ。OBらしいあんちゃんも知らないおっちゃんと肩を抱き合っているし、OGらしいお姉ちゃんもご自慢のコサックダンスを披露して周囲を賑わせている。

 それを止める者は誰もいない、母校を大げさに祝って何が悪い。かくいうジョールも、趣味の歌をここぞとばかりに披露していた。

 

 ――特設モニターに、MVPであるカチューシャが映り込む。インタビューを受けるようだが、カチューシャは地面に足をつけたままで、マイクを握りしめながら「特別なことは何もしていません。私たちプラウダ高校の力を信じ、全力を尽くしたまでです」コメントする。

 キャラが違うなあと思う。

 戦車道履修者らしいなあ、とも思う。

 普段は自信満々でモノを言うカチューシャだが、そこは戦車道履修者、弁えるべきところはしっかりと弁えられる。ここは見習うべきところだと、ジョールもつくづく思う。

 

 ――強豪黒森峰女学園は、確かに強かった。しかし、プラウダ高校は確かにこれを破った。

 カチューシャが立案した作戦が上手くいったのも、勝利への要因の一つだろう。しかしジョールはあえて、ノンナの存在を推す。

 モニター越しで、確かに見たのだ。ノンナの狙撃を、それに貫かれる敵戦車の姿を、次々と勝ち星を上げていく幼馴染の雄姿を。

 歌を唄いながらで、ノンナのことを誇らしげに思う。帰ったら、メシの一つでも奢ってやろうと気安く思考する。

 

 そんなふうに思考していれば、モニター越しのカチューシャが、本当にほんとうに真顔になりながらで、会場全体にこう告げた。

 ――私達は、最後まで諦めませんでした。私も、チームメイトも、整備士のみんなも、共に頑張ってくれたからこそ、私たちは優勝することが出来たのです。

 

 己が声が、漏れた。たぶんそれは、感嘆だったのだと思う。

 諦めなければ、頑張れば。

 決めた。

 来年になったら、俺は、戦闘機道を履修する。

 

 □

 

 目が合った時、私は戸惑いました。朝から元気よく唄う彼に、意識がもっていかれてしまったのです。

 普通に友達がいて、歌がうまいと言われている彼。対して私は、勉強をこなして、体育だってまずまずの、口数の少ない女性。

 ほんの少しだけの沈黙と、目に見えない緊張めいた空気が、私と彼の間を縫いていった頃でしょうか。私は、何とかしなければと、思って、

 

 ――歌、ほんとうに上手いんですね

 ――あ……えへへ、ありがとう。そのー、ノンナさん、だっけ? だよね?

 ――はい

 ――そっかぁ……あ、ノンナさんはさ

 ――はい

 ――歌、好き?

 

 そして、彼は、当たり前のように、

 

 ――いっしょに、唄ってみる? いやほら、なんかそういう気分でさ

 

 彼が唄うは、地元では有名な民謡である「カチューシャ」。最初は迷い、沈黙してしまいましたが、朝早くということで周囲には誰もいません。

 どうせこのまま歩むならと、私は彼と一緒に、カチューシャを歌い上げながらで朝の通学路を進軍していったのです。

 

 歌というものは、誰かと一緒に唄うという行為は、本当にほんとうに楽しかった。

 学校に到着した後でも、彼は、私とすんなり友達になってくれたのです。

 

 ――今でも、このことは、心の中の日記帳に記してあります。

 

―――

 

 全国高校戦車道が終わろうとも、かったるい授業は続くし、雪も容赦なく降り注ぐ。プラウダ高校学園艦といえば「寒そう」というイメージが強いらしいが、実際のところそれは間違ってはいない。プラウダは寒い区域へ巡回する傾向があるようで、春も夏も秋も降雪状態に陥っていることはザラだ。冬に至っても環境は変化しないが、生徒からは「いつもより寒い」との評判が多い。たぶん、人間の本能によるものだろう。

 そんなわけで、今日も雪に降られながら、ジョールは「さみいさみい」と愚痴りつつ帰路を辿っている。その隣には、カチューシャを肩車しているノンナ。

 

「この間の大会、本当にやったな。ノンナは間違いなく、強く、逞しく、善き乙女になったよ」

「ありがとうございます」

 

 ノンナが、ほんの少しだけにこりと微笑む。その顔を見て、心の中で「本当に嬉しかったんだな」と感想を漏らした。

 ――カチューシャへ視線を移す。

 

「カチューシャもおめでとう。……で、カチューシャは戦車隊隊長になったんだっけ? その功績で」

「ええ。お陰様で、誰も私を侮らなくなったわ!」

 

 ふふんと、カチューシャが誇らしげに両腕を組む、背をのけぞらせる。カチューシャらしい仕草に、「いいねー」という気持ちを抱いた。

 カチューシャとは、高校に入ってからすぐに付き合いだした経歴がある。そのきっかけは、戦車道履修者となったノンナからの「紹介したい人がいるのですが」。

 互いの性格の都合上、軽く言い争ったり、テストの点数などで競い合う(勝ったためしはない)こともあるが、そこはノンナが諫めてくれたり、時には歌で分かり合ったりして、何だかんだでカチューシャとは良い友達関係を築けているのだった。

 

「先輩がたも、満場一致でカチューシャのことを認めていました。カチューシャの作戦が成功しただけでなく、フラッグ車を見事に撃破したのですから」

「見た見た。あれは凄かったよなー、俺もウヒャホホーイって喜んじまったもん」

「喜びなさい喜びなさい」

 

 けれどそこで、カチューシャの表情が曇る。はてと、ジョールが首をかしげると、

 

「あのフラッグ車……どうも、水没したチームメイトのことを助けようとしていたらしいのよね。でも試合中だから、つい撃っちゃったんだけれど」

 

 ああ――

 後のニュースで知ったことだが、黒森峰のフラッグ車の戦車長――西住みほは、戦車を乗り捨ててまでも、チームメイトの救助に全力で取り組んだらしい。それは当然として致命的なスキへと繋がり、カチューシャの手によってみほのフラッグ車は撃破されたとか。

 死傷者は居なかったとのことだが、ジョールは「そうか」とほっとした。同時に、「西住みほっていう人は、凄いんだな」と共感すらした。ビビリの自分では、到底成し得ないことだろうから。

 

 そして、カチューシャも似たような感情を抱いているのだろう。部外者であるジョールよりも、よっぽどみほの心境が分かっていると思う。

 ――だからこそ、

 

「カチューシャ」

「何?」

「カチューシャは、よくやったよ。試合中の出来事だし、カチューシャのやったことは正しい」

「ジョールの言う通りです。カチューシャはやるべきことを成し、堂々と、プラウダに栄光を授けてくれました」

 

 ジョールとノンナの言葉を聞いて、カチューシャが「そっか」と小さく。そして、「そうよね!」と喜色満面の笑みをこぼし、

 

「そうよ、私たちは礼に反することはしていない。……だから堂々と、堂々と勝利に酔いしれるわ!」

「その通り! カチューシャに栄光あれー!」

「ふふん」

 

 どうやら、いつものカチューシャに元通りとなったらしい。つまりは、心配することなどなくなった、というわけだ。

 住宅街の中だというのに、カチューシャは腕を組みながらで「あっはっは」と高笑いしている。ノンナは無表情を貫いているが、これがノンナなりの「普通」だ。問題はない。

 自分の気分も、機嫌も良くなってきた。よしと、握りこぶしを作り、

 

「聞いてくれ、ノンナ、カチューシャ」

「はい」

「何? 今のカチューシャ様は最高だから、どんなお願いも聞いてあげるわッ!」

 

 お願いをするわけではないが、その言葉を聞いて幸先が良くなった気がする。ジョールは自信満々に口元を曲げて、二言はないとばかりに手のひらと拳をぶっつけ、

 

「俺さ、プラウダ戦闘機道を履修するッ!」

 

 言った。

 プラウダ高校学園艦の上で、告げた。カチューシャめがけ、宣告した。ノンナの前で、伝えた。

 そこから、ほんの少しだけ沈黙が訪れたと思う。カチューシャはあっけにとられたように口を半開き、ノンナは変わらず――違う、深刻そうにジョールを見つめている。

 それは、決して肯定など示してはいない。「やめなさい」という想いが込められた、あまりにも真っ直ぐな意思疎通だった。

 それに対して、ジョールは反発心を抱かなかった。むしろ、当然のものとして受け止められた。

 だって、

 

「俺はさ、ほら、高所恐怖症だけどさ……二人の姿を見て、自信がついたんだ。頑張れば、頑張れば夢は叶うって!」

「……まだ、諦めきれていなかったのですね」

 

 カチューシャが、小さくため息をついて、

 

「……本当に大丈夫なの? ジョールって、どの高さあたりまでが限界?」

「はい。旅客機はもちろん、ジャングルジムも駄目です」

「さ、さすがにジャングルジムは、今はいけるけど」

「じゃあ旅客機は?」

 

 カチューシャの問いに対し、ジョールの口答えが封じられる。

 幼馴染のノンナは、よく知っているのだ。ジョールが根っからの高所恐怖症であるということを、ジャンボ機に乗るからといって修学旅行すらも辞退してしまった思い出を。

 

「……でも、俺はさ、戦闘機に乗りたいんだ」

「どうして?」

「その、まあ、格好良いから……」

「変わっていませんね」

 

 呆れではなく、どこか安心したようなノンナの声。

 高いところが苦手なくせに、ジョールときたらとにかく戦闘機が好きだった。きっかけといえば、何となく目にした戦闘機映画の影響によるものなのだが――それは現在進行形で、ジョールという人間を構築し続けている。趣味の歌だって、元はといえば、戦闘機映画のワンシーンから影響されてのものだ。

 

 誕生日プレゼントとくれば戦闘機図鑑だったし、暇さえあれば紙飛行機の一つや二つ折ることもザラ、大会があれば「よし行くぞォ!」とジョールが叫び、「私も同行します」とノンナが着いていくことも日常茶飯事だった。

 旅客機にも乗れないくせに、戦闘機には憧れる。決定的に矛盾してはいるが、男理論からすれば「それはそれ、これはこれ」がまかり通ってしまうのも事実。よって、ジョールは今もなお空に想いを馳せているのだった。

 

「プラウダを優勝に導いた二人を見ているとさ、こう……俺にも可能性って奴? 自信ってヤツ? そういうのが出てきてなぁ。だから、三年になったら戦闘機道を歩むわ」

 

 意気揚々なジョール、ため息までつくノンナ。

 プラウダ戦闘機道といえば、「その筋」では知らぬ者のいない強豪集団だ。機種も豊富で、数も多い、おまけに修理しやすいことに定評があるものだから、トライアンドエラーが利きやすいという強みがある。優勝経験もそれなりにあるようで、エースパイロットは確実にプロスカウトされるという噂もあるのだった。

 ――が、

 

「ジョール。頑張れば何とかなることと、やってはいけないことは、まるで別です。高所恐怖症は『正しい』拒否反応ですから、それを克服するのは極めて難しいかと」

「大丈夫」

 

 それ以上言わせないように、ジョールは人差し指を立てる。

 

「カチューシャとノンナは、よく頑張った。だからプラウダは、強豪黒森峰に勝てた。そうだろ?」

「――そ、そうだけど。でも、私とノンナは、戦車道に『向いていた』から」

「その通りです。私たちは車酔いもしませんし、ちょっとやそっとの轟音も耐えられる精神を持っています。その最低限があったからこそ、私たちは戦車道を歩め続けられたのです」

 

 戦車道履修者だからこその説得力と、正論が、ジョールの耳の中に容赦なく潜り込んでくる。理性が「その通りだぞ」とか「飛行機乗りが高所恐怖症なんて論外だろ」とか「頑張りと無茶は違うんだぞ」と主張してくる。一瞬だけ、現実に妥協しつつあったが、

 両肩で呼吸し、両手拳を作り、雪が止まない冷えた空気を吸って、あくまでもポジティブに笑う。

 

「――大丈夫さ。やればできる」

 

 決意表明をした。逃げ道を塞ぐために。

 ――ノンナは、こちらをじっと見据えたまま、

 

「ジョール」

「ん?」

「忘れないでください。あなたの身は、あなただけのものではないということを」

 

 カチューシャが、うんうんと頷く。

 ジョールは、「わかってるさ」と返す。やがては珍しくも何ともない白い空へ目を向けてみせて、気分を高揚させるためにいつもの一芸を。

 

「――♪」

 

 空めがけ、そっと歌い出した。

 これもいつもの出来事に過ぎず、ノンナもカチューシャも一緒になって歌い出す。

 

 

 彼と友達になって以来、私は、彼とともに学校へ登校する機会が多くなりました。もちろん、一緒になって歌いながら。

 大人たちからは「小さな合唱団」と呼ばれ、クラスメートからは「お似合い」と言われましたが、私と彼は、ちがうちがうと必死に否定したものです。

 心中は、さておき。

 

―――

 

 半年が過ぎて、進級と同時に春が訪れた。学園艦は今のところ良い場所を巡回しているらしく、雪の一粒も降ってはきていない。通学路を歩む生徒も「あったけー」と喜んでいるし、ジョールの方も「幸先が良いな」と密かに考えていた。

 

 両手を広げ、深呼吸。

 今日こそ、戦闘機道を歩んでみせる。

 

 一年、二年の頃は、「やっぱり俺には高いところなんて」と腰が引けていたのだ。そのたびにノンナは、カチューシャは、「仕方がないことです」と受け入れてくれてはいた。

 ――けれど、ジョールは、戦闘機が好きな典型的な男の子だったのだ。

 だから、戦闘機道を受けない自分に納得したことなどはない。いつか、いつの日か必ず、次こそは、決意が固まれば、卒業するその日までは――そうやって言い聞かせてきて、今日という日まで生き残ってきたのだ。

 ジョールの目に映るは、空と、戦闘機しかない。この広い広い世界を目の当たりにするたびに、ジョールの心はどうしたって躍る。ついでに、歌まで口ずさんでしまう。それは子供の頃からのクセみたいなもので、意外にも評判は良かったりもした。友人からは「うめー」と言われ、両親からも「歌手になれば?」とよく褒められた。

 今となってはご自慢の一芸扱いだが、ジョールはあくまで戦闘機乗り志願者であって、歌はそのオマケに過ぎないのだった。

 

 今日の空は、格別に青い。雪降らずの晴天だからか、あの中で泳ぐことが出来るからだろうか。

 いよいよもって上機嫌になって、ジョールは唄い出す。お気に入りの歌「カチューシャ」を口ずさみながら、プラウダ高校へ足を歩ませながら、曲がり角に差し掛かってみれば、

 

「~♪」

 

 唄いながらのノンナが、ジョールの隣についてきた。ジョールの歌声なんて丸聞こえだったが、恥ずかしがって声を引っ込めたりはしない。いつものことだからだ。

 しばらくは気ままに合唱を楽しみ、交差点のところで一旦足を止める。それでも口は止まらず歌は進んでいって、青信号とともに足が軽やかに動いていった。見慣れたロシア風の建造物を横切っていき、ちらりとパン屋を覗っては「腹減るなぁ」と少しばかり思う。

 そこでちらりとノンナの横顔を覗ってみれば、変わらずのポーカーフェイスとともに唇がステップを刻み込んでいた。これも、いつもの朝の光景である。

 

 ――そうして、歌が終わる。「ふう」と溜息をついてみせて、音もなくノンナと視線が合い、

 

「おはよう」

「おはようございます。……それで、本当に受けるのですか?」

 

 質問の意図はすぐに察した。ジョールは己が胸を叩き、

 

「勿論。俺には、戦闘機しかないからな」

 

 大袈裟な物言いになったが、割かし本気で言ったつもりだ。

 どれくらい本気かというと、先日の夜は、戦闘機に乗れたつもりになった自分のことばかりを考えていたほどだ。

 空を自由に切り、コクピット内で親指を立てて、敵機とタイマンで舞い、機銃でブン殴り合いながらも勝利する。ほんとう、一から十まで、「最強の男の子が考える夢」ばかりを見ていた。

 手前勝手に興奮しすぎたせいで、布団に入っても中々寝付けなかった。このまま朝日を迎えるのかなーどうしようかなーとニヤついていたものだが、気付けばカーテンの隙間から日光が射されていて、身も心も健全と癒されていたのは記憶に新しい。

 いかな人間であろうとも、睡眠欲にはどうしても勝てない。眠らなければ、夢は見られない。

 

 ――ジョールが、ぐっと握りこぶしを作る。

 

「だから、今日は絶対に、戦闘機道の試験を受ける。あわよくば、戦闘機道のプロになってみせるぜ」

 

 ノンナは、無表情のまま、

 

「戦闘機道は、出来る限りの安全は、確保されてはいます。しかし、絶対というわけではありません。命に関わることもありえるでしょう」

「分かってるさ。それに、それは戦車道もだろ?」

「はい。ですがあなたは、ハンデを背負ってしまっています。……正直に言いますと、おすすめは、できません」

「心配してくれるのはありがたい。けど、やっぱり俺には、これしか目指せないからさ」

 

 その時、ノンナが地に目を逸らした。

 ――珍しいな、と思う。

 ノンナは常日頃からポーカーフェイスで、相手の目をよく見るタイプだ。そのせいか勝負事に強く、トランプでは未だに勝てた試しがない。「時折」カチューシャが勝てたりもするのだが、これ以上書くのは無粋といえるだろう。

 

「……ジョール」

「ん?」

 

 ノンナが、聞こえるくらいの鼻息を漏らして、

 

「怖くなったら、それに従ってください。無理して道を歩んだ先は……よくないことだらけですから」

「ノンナ、」

「私は、あなたとこうして、歌を唄いながらで登校できなくなるのは――嫌です」

 

 それは間違いなく、ジョールの目を言った言葉であって、

 それは間違いなく、ジョールだけに告げた懇願であって、

 それは間違いなく、ジョールの身に響いた忠告だった。

 

 もう少しで、プラウダ高校に到着する。三年間も通ってきたはずの場所なのに、何もかもが落ち着いていられない。

 

 □

 

 ある日、彼は夢を語ってくれました。戦闘機乗りになりたいという、男性ならではの夢を。

 一方で私は、戦車道を歩んでみたいと口にしました。強く、逞しく、そして善き乙女になりたい、そんな願望があったからです。

 両親は驚きましたが、彼は、「一緒に頑張ろうぜ」と笑って答えてくれました。

 

 

 そうしてプラウダ女子高等学校へ進級し、戦車道を歩み始めた時、カチューシャという一人の女の子と知り合いました。

 一緒の戦車に乗ることになって、その時にふと、聞いてみたのです。

 

 ――なぜ、あなたは戦車道を?

 ――誰にも馬鹿にされないような、強い乙女になりたいからよ

 

 カチューシャは、強い顔と声で、そう言い切りました。

 自分を変える。その動機に共感した私は、カチューシャのことを応援すると決めたのです。

 

 一方のジョールは、戦闘機道を歩むか歩まないかで、未だに迷っているようでした。

 それは、仕方がないことです。彼は高いところが本当に苦手で、何度か克服しようとしても駄目なものはだめ。けれども彼は空を見てばかりで、私と、カチューシャとで、歌を唄い続けました。

 女子校と男子校とで別れようとも、ずっとずっと。

 

 □

 

 目が、はっきりと見開かれた。

 先ず判断したのは、「ベッドで横になっている」という現状だ。次に、身の確認の為に体を動かそうとして――できた。手も足も延ばせるし、曲げもできる。

 更に、更に考えなければいけないことは――

 

「起きたのかい?」

 

 白衣を着た中年の、保健室の先生に声をかけられる。目を覚ましたことに安堵しているのだろう、その表情は柔らかい。

 対してジョールは、かすれたような声で「はい」と応えた。

 

「えっと、自分の名前は言えるかい?」

「はい。ジョ……黄島です、三年の」

「うん。じゃあ、この指は何本に見える?」

「二本です」

「うん。じゃあ、」

 

 保健室の先生は、特に悪意もなく、義務からの意志で、

 

「君は先ほど、何をしていたか覚えているかい?」

 

 こう、言った。

 ――目を覚ました瞬間から、「そのこと」については強く強く覚えきっている。

 

「――覚えています」

「詳細に、言えるかい?」

 

 言える。

 

「……戦闘機履修者になる為に、テストとして複座に乗って、軽く飛行して……」

 

 言えてしまう。

 

「――高所に耐え切れず、怖くなって、気絶してしまいました」

 

 言うしか、なかった。

 

 

 保健室の先生からは、「無理をしてはいけない」と言われた。戦闘機道を担当する教師からは、「別に道を歩めばいい」と告げられた。テストに付き合ってくれた同級生からは、「大丈夫だったか?」と心配され、「迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」と謝罪した。

 同じ学校に通う友人からも、担任も、「心配したぞ」と声をかけてくれた。

 

 ああ。

 

 悲観にくれた息が漏れる。授業にしろ、休み時間にしろ、声というものがまるで聞こえてこない。食欲すら沸いて出てこないせいで、昼飯すら食っていない。

 机の上で、ジョールは、手のひらを杖にしてうつむく。

 分かりきっていたはずなのに、少なからず予感はしていたはずなのに、やっぱり、予想通りの現実が待ち構えていた。

 これが、戦闘機同士による戦闘負けならいい。頑張れば、いつか何とかなるものだ。

 戦闘機動に耐え切れなかった結果、でもいい。体を鍛えれば、いずれはどうこう出来る問題だ。

 しかし、空そのものが恐ろしかったとしたら――それはもう、論外だ。脳がいやいやを起こしているのなら、努力云々でどうにかなるものではない。

 そんなことは分かっているはずなのに、やっぱりどうしても諦めきれない。歯を食いしばり、泣きそうになる衝動を何とかして堪える。戦闘機に乗りたかったのに、この言葉が頭の中で何度も幾度もリピートする。

 

 その時、携帯が震えた。

 

 非常に緩慢な手取りで、携帯に火を点ける。ろくに意識も灯っていないままで、液晶に目を向ける。

 

 送信者:ノンナ

 こんにちは。

 どうですか? 戦闘機道の方は。無事に、歩めそうですか?

 

 ――正直に、結果を打つしかなかった。

 ノンナに嘘は通用しない。ノンナは洞察力に長けていて、付き合いも長い。

 

 □

 

 戦車道で上手くいかなかった時、彼は言ってくれました。「そんな日もあるさ。何か温かいものでも飲もうぜ」

 カチューシャの立案した作戦が却下された時、彼は告げてくれました。「これは……すげえプランだと思う! すげえなカチューシャ」

 そんな彼も、学園艦展望台チャレンジを行っては腰が引け、恐怖にすくみ、「駄目だあ」とへこむこともあります。

 私が、彼が、カチューシャがマイナスになった時は――いつもいつも、三人揃って歌いました。そうすると心が、バイカル湖のように透き通っていくのです。

 

 

―――

 

 ジョールは、よくできた人間などではない。普通にケンカもするし、後悔だって抱くし、未練だって背負う。

 だから今日も、戦闘機道区域に足を踏み入れる。今は昼休みだからか、全ての飛行機は格納庫に収納されたままだ。人の気だって少ない。

 ため息をつく。

 格納庫から覗き見れる戦闘機を見ていっては、あれに乗りたいな、あれと戦いたいな、あれで戦闘機動を決めたいな、あれは格好良いな――夢物語ばかりを、呟いていく。

 溜息。

 やれば出来ると思っていたのに、結果は高所恐怖症による気絶だ。それを何とかして克服しようと、なるだけ高いところへ登ってみせたりもしたが――結果は、足がすくむばかりで、すぐに尻尾撒いて逃げ出した。何度かチャレンジしてはみたものの、特に結果は変わらず。

 ――俺は、戦闘機が好きなのに。

 ――俺は、戦闘機道を歩みたいのに。

 けれど、生存本能が、そうはさせてくれない。頑張れ頑張れと意気込んでも、結局は体ごと逃げ出してしまうのだ。

 畜生。そうやって、悪態をつくこともある。

 けれど、人間として正しい恐怖心であるということも、分かってしまっている。

 

 十二時十八分頃の戦闘機道区域で、ジョールはそっと、空を見上げる。

 俺はこれから、何を生きがいに生きていけばいいんだろう。

 

 その時、携帯が震えた。何だろうと、ポケットから引き抜いて、画面を見てみれば、

 

 送信者:ノンナ

 こんにちは。

 今は元気にしていますか? ちゃんと、笑えていますか?

 この前の件は、とても残念に思っています……ですが、あなたが歩める道は、沢山あります。

 決して悲観にくれず、強く、自信をもって、誇りをもって生きてください。

 これは何度も言いますが、あなたの身は、あなただけのものではないのですから。

 

 ノンナに対して、半ばヤケになって『ないよ、歩める道なんて』と返信する。

 自分が心の底から、本心から歩みたい道は――格納庫に見える、あの飛行機達だけだ。

 

 その時、携帯が震えた。

 早いなと思い、画面を見てみれば、

 

 送信者:ノンナ

 あなたには、歌の才能があります。

 ただ歌が上手いだけではありません。あなたの歌は、人を癒せる力があるのです。

 ……もう覚えていないでしょうけれど、あなたは、独りぼっちだった私に対して、歌で友好を持ち掛けてくれましたよね?

 私はそれに救われたのです。あなたには、歌手道という道が残されています。

 どうか、生きてください。私はそれを、望んでいます。

 

 □

 

 高校に入って、いつ頃からでしたでしょうか。何も語らないベットの中で、ふと、私は思ったのです。

 夢をあきらめない彼の姿勢を、支えたいなって。夢を語る彼の顔が、もっと見たいんだなって。三人で紡ぐ歌が、好きなんだなあって。

 

 私も思春期に入りましたから、この、溢れんばかりの感情の正体は知っているつもりです。

 私は、彼のことが、

 

―――

 

 何日か横になったぐらいで、夢は夢でしかなかったと見なせれば、人生苦労はしない。

 いつまで経っても高いところが駄目でも、戦闘機道の担任から無言で断られても、ジョールの居場所といえば戦闘機道区域だった。

 放課後だからか、人は少ない。夕日に射されて、滑走路が寂しく黄色く照らされている。ほんの少し視線を傾けてみれば、格納庫入りの戦闘機がどうしても目に入るのだ。

 小さく、ため息をつく。

 乗れもしないくせに、戦闘機へ歩み寄っていく。

 頑張れば、乗れると信じて疑わなかった飛行機へと。俺の、かけがえのない夢へと、

 

「ジョール」

 

 声。それも女性の声色が耳に届いて、背筋もろともびくりとする。

 ――男子校に、どうして異性が、

 

「乗るのですか」

 

 地で、両腕を組んでいるカチューシャ。ジョールだけを見据えている、ノンナ。

 

「……ここは、女子禁制だぜ」

「許可はいただきました」

 

 さらりと言い、

 

「あなたは毎日のように、ここへ寄っていっているらしいじゃありませんか」

「……まあね」

「それを止める為に、私たちはここへ来ました」

 

 肩をすくめる。

 

「無駄だってこと、迷惑だってことは分かっているさ。でもな、俺にはこれしかないんだよ」

「いいえ」

 

 ノンナの声が、空気を切り裂いたのだと思う。

 それほどまで、はっきりと聞こえた。

 

「あなたには、歌があります」

 

 歌。

 返答を聞いて、思わず肩の力が抜ける。だって歌なんて、自分からしてみれば、気晴らしのものでしかなかったから。

 

「あなたは、戦闘機には恵まれませんでした」

「……そんなことない」

「いいえ」

 

 強固な声と、断固とした意志をぶつけられた。

 

「あなたは、間違いなく、戦闘機に乗ってはいけない人です」

「……どうしてそんなことを、言うんだよ」

 

 分かっているくせに、聞く。

 

「高所恐怖症という、抗えないものを抱えているから」

 

 分かってくれているからこそ、ノンナは答える。

 

「無理矢理動かしたところで、あなたは高さの恐怖に耐えられず、落ちる」

「……頑張れば、頑張ればうまくいくはず」

「いいえっ」

 

 カチューシャが、前に一歩出る。

 

「私は戦車長としての素質があった、そのために努力もした。けれどね、私は見ての通り低身長なの。だからどう足掻いたところで、装填手には絶対に向いてない」

 

 やめてくれ、と思った。

 カチューシャは、身長に触れられることが大嫌いなのだ。それを口にしただけで、極寒のシベリア送りにされるのは有名な話であるはずなのに。

 ――それなのにカチューシャは、自ら「それ」に触れた。自分の過ちを犯させない為に、あえて己が傷口までもを抉ってみせた。

 自分のせいで、カチューシャまで傷つこうとしている。

 

「私が無理して装填手をしてごらんなさい。たぶんいつかは、怪我をしてしまうでしょう」

「カチューシャの言う通りです。ましてやあなたは、戦闘機という、自己責任の塊に無理して携わろうとしている」

 

 ノンナが見上げる。つられて、ジョールも空を目にした。

 下界の都合をよそに、空は薄くぼんやりと黄色く染まっている。ちぎれちぎれの雲が、夜更け前のあおりを受けて、青く黒く色を変えていた。

 

「空は広い、とても自由なものです。それに憧れるのは、人間として当然のことでしょう。……ましてや、自分一人のものに出来る戦闘機は、なおさら」

 

 ノンナは続ける。

 

「男性の方は、どうしても『競争』が好きなものです。それはゲームでも、絵でも、遊びでも、戦闘機もそう。格好良く戦いたいから、戦闘機道を歩む……それも、正しい事です」

 

 ノンナは、続ける。

 

「ですが、適材適所というものもあります。何度も、何度も言いますが、あなたは戦闘機に乗ってはいけない」

 

 ノンナは、

 

「――死んでしまう、可能性があるから」

 

 言い切った。

 

 反論なんて、振り絞れるはずがない。どんな悪知恵を働かせたところで、何の発想も思い浮かばない。

 本当に諦めきれないなら、どうして戦闘機をかっぱらおうとしなかった。そんなに好きなら、なぜ教師に食いつこうとしなかった。戦闘機しか無いとほざくのなら、何で鍵の一つでもくすねて「俺はやれる男なんだぞ、ざまあみやがれ」と飛行機を乗り回し、サクセスストーリーを見せつけようとしなかった。

 

 結局、死にたくなかったのだ。そんな可能性しか、見えていなかったのだ。

 

 間違いようの無い現実を口にされて、ジョールは深くふかくため息をついた。空から地へ首を下ろし、眠るように両目をつむった。

 思う。ノンナが、カチューシャがいなければ、いつかきっと自分は、命を落としていたに違いない。

 

「ジョール」

 

 ノンナの気配が、色濃くなっていく。

 

「分かってくれたようですね」

 

 首を、縦には触れなかった。もう、戦闘機への道なんて閉ざされているはずなのに。

 

「……あなたは、正しい選択をしました」

 

 その時、ジョールの体がびくりと震えた。だって、初めての体験だったから、

 

「あなたは、生き延びるという、真っ当な決意を下してくれました」

 

 異性に抱きしめられたのなんて、初めてだったから。

 だから、心の中では狼狽する。けれど、ブリザードのノンナの腕は、あまりにもどうしても暖かかった。

 

「私は、それがとても嬉しい。これからも、一緒になって歌を唄い合えますから」

 

 もっと、締め付けられる。意識も心も震える中で、何とかして、ジョールは「あ」と言い、「あ」と口にして、

 

「ノンナ」

「はい」

「その、どうして、そこまでしてくれるんだ? 俺はその……幼馴染だけれど」

「それも、そうですが、」

 

 恥ずかしいのだろうか。ほんの少しだけ、間を置いて、

 

「あなたは、私の友達になってくれた方ですから」

 

 ノンナは、プラウダ戦車隊の中で、よくよく恐れられているらしい。

 けれど、自分はそうは思わない。こんなにも柔らかい声を聞けたのなんて、数年ぶりだったから。

 

「――小学の頃、だっけ」

「はい。あれは、絶対に忘れもしません。私が一人で通学していたところを、唄いながらで登校していたあなたは、私の事を歌で誘ってくれた」

「……あれは、その、ノリみたいなもので」

「それでいいのです」

 

 たったそれだけで、ここまでしてくれるなんて――

 目頭が熱くなる、喉元が息苦しくなっていく。頭の中は回想だらけになって、「そういえば」とか「あんなことが」とか、懐かしみが溢れ出てくる。

 

「ノンナ」

「はい」

「……ありがとう。俺の友達で、いてくれて」

「……いえ」

 

 頭を撫でられ、

 

「あなたのことが、好きですから」

 

 その言葉を理解する前に、唇が熱くなったと思う。

 ノンナの口元が緩やかに曲がっていて、頬が夕日のように赤くなっていて、カチューシャがきゃああと小さく悲鳴を上げていて、ジョールはろくに呼吸すらも出来ていない。

 

「ジョール」

 

 はい。

 

「――あなたには歌が、エルブルス山よりも高く響く歌声があります。ですから、何もないなんて言わないでください。私が、この私が保障します」

 

 ノンナは間違いなく、誠心誠意を込めながら、言葉を口にしていっている。

 ジョールは小刻みに身震いしたままで、何もできない。

 

「ジョール」

 

 はい。

 

「――生きてください。あなたの歌を、私に聴かせてください」

 

 俺は、呼吸だけをした。やがて声が漏れていった。いつしか体が震えていった。感情が止まらなくなった。

 俺はひどく我儘な人間であるはずなのに、ノンナは、いつも支えてくれる。己が身を以てして、カチューシャも言葉を投げかけてくれる。そんな二人の忠告を、真っ当過ぎる意見を無視するなんてことは、夢見がちな俺ですら、出来そうにもなかった。

 

 ――だから、最後だけ、あと一回だけ、お願いを口にしよう。

 

「ノンナ、カチューシャ」

 

 うん。二人が、黙って頷く。

 

「学園艦の展望台まで、一緒に来てくれないかな。……ケジメってやつを、つけたい」

 

 □

 

 学園艦の全長はといえば、ウン百メートルが相場と決まっている。その為、展望台に寄りかかるのも結構おっかないものがあるし、下手して落水しようものなら、ほぼ間違いなく助からないといっても良い。

 あまり知りたくはない事実だったのだが、どの学園艦も、ほぼ例外なく「転落死」するケースが少なからず発生するらしい。学園艦に在住する人数のことを考えてみれば、納得なんてしたくない必然だった。

 

 そしてジョールは、ノンナは、カチューシャは、プラウダ高校学園艦の展望台前に居る。艦上と海とを隔てているのは一本の柵のみ、下手こけば海に真っ逆さまだ。

 ここから見下ろす海はとても遠くて、とにかく青くて、とてつもなく広い。高所を体感したいのであれば、まさにうってつけの場所ともいえる。高所を克服したいジョールにとっては、まさにドンピシャともいえる修行スポットの一つなのだった。

 

 ジョールが、静かにため息をつく。

 こことの付き合いも、これが最後だ。

 

「ノンナ、カチューシャ」

「はい」

「……もし、もし、ヤバいことになったら」

 

 柵の前に立ち、二人にそっと振り向いて、

 

「――助けて、欲しい」

 

 ノンナとカチューシャは、黙って頷いた。

 再び、柵に視線を合わせる。一旦両目を閉じて、深呼吸して、空を飛ぶ戦闘機を夢想して、一気に息を吐いて、

 

 柵をしっかりと手づかみしながら、世界を見下ろした。

 海が見える。放課後の夕日に照らされた海面は、嘘のように眩く黄色い。静かすぎて、カモメの鳴き声が意識的に聞こえてくる。海上を凝視しているからか、潮の匂いが鼻孔に沁み込む。ジョールがそうしている間にも、プラウダ高校学園艦は今日も動く。

 

 沈黙が、数秒は経過しただろうか。漠然と「海だ」としか思っていなかったはずなのに、ジョールの理性が、素が、「学園艦って数百メートルはあるんだよな」と呟きだす。高所恐怖症としての自分が目を覚まし、「うあ」と声が漏れた。

 

 ――ここからは、いつものように、もうだめだった。

 

 先ほどまで見ものだったはずの海が、どうしようもない深淵に見えてくる。ここから落ちたら、ジョールは間違いなく助からない。

 頑丈に作られているはずの、鉄製の柵が、途端に信用も出来なくなる。ふとしたきっかけで柵はへし折れ、自分はそのまま海へ真っ逆さまになるのではないか。

 呼吸が、静かに乱れていく。柵から、手を放す。目が、「ここは高いところだ」と否応なく認識してしまう。死ぬかもしれないという現実と目が合った瞬間、ジョールの思考は瞬く間に短絡と化していって、落ちたら死ぬ、絶対に助からず死ぬ、海に飲まれて死ぬ、柵から身を乗り出したら絶対に死ぬ、

 

 戦闘機の中で気絶してしまえば、俺は死すらわからないまま死ぬ。

 

 腰が引け、後ろへ一歩、二歩と鈍足に下がっていって、ケツから地に落ちて、

 

「……怖いよ」

 

 間違いようの無い、あまりにも正しすぎる感想が、口から漏れた。

 分かっていた結果なのに、とてつもなく悲しい。ここに来るのも、これが最後になってしまうからか。

 深く、ふかくため息をつく。十八歳の心の内から、「もういいよ」の一言が響いてくる。

 

 受け入れるしかなかった。自分は一生、空に恵まれないという事実に。

 受け止めるしかなかった。自分は一生、夢をつかめないという現実を。

 

 そう思うと、呆れたんだか、清々しいんだか、やり遂げたんだか、フクザツな気持ちになる。未だ尻もちをついたままだが、しばらくはこのままでいようかなと思って、

 

 ――体が、暖かくなった。

 

 驚きの声が、ほんの少しだけ漏れる。すぐに、「ああ」と解った。

 

「お疲れ様でした、ジョール」

 

 ノンナが、こんな自分を、後ろから強く抱きしめてくれている。空へ落ちないように、地に引き留めるように。

 

「ほんとうに、お疲れ様でした」

 

 胸元を優しく撫でられる、ノンナの吐息が耳に吸い込まれていく。

 心の底から安堵したのだろう。ジョールの体全体から、力が抜けていった。

 

「ジョール」

「……うん」

「生きて、ください」

「ああ」

 

 はっきりと、返事が出来たと思う。

 ――後ろから、小さな足音が聞こえてくる。それはジョールを横切っていって、気付けば目の前には、カチューシャの姿が。

 

「ねえ」

「うん?」

「今の気分は?」

 

 少し、考える。

 今更、夢は叶うともがく気はない。ここまで徹底的に現実を思い知らされると、かえって「こんなもんか」と思えさえする。

 そんな風に考えられるのも、ノンナが愛してくれたから。カチューシャが、共にいてくれたから。

 だから、

 

「……まだ、ちょっとフクザツ、かな? もう、戦闘機に乗れないってのは分かってるけど」

「そう」

 

 そうして、カチューシャはにっかりと笑って、

 

「そういう時は、歌うに限るわ」

 

 ああ――。

 絶対的に正しい言葉を耳にして、ジョールの口から息が漏れた。ノンナも「そうですね」と嬉しく呟き、更に強く抱きしめてくれる。

 

「ジョール、歌いましょう。あなたの、新たな門出を祝う為に」

 

 頷く、本心本音から笑う。

 先に歌い出したのは、ノンナだ。題材はもちろん「カチューシャ」、三人にとっての応援歌。

 暗がりを見せ始めた空の下で、ジョールと、ノンナと、カチューシャの歌声が、学園艦を伝って響き渡る。きっと、この遠い遠い海すらも越えていくのだろう。

 

 いつもより、気前良く唄えた。

 けれど、いつもよりは声が上手く出せていない。目から、流したいものを流しているせいだ。

 そんな俺のことを、ノンナはさすってくれた。子守歌のように、カチューシャを唄い続けてくれた。

 

 今日この日、パイロット志願者としての俺は死んだ。

 明日からは、歌を唄う為に生き抜くと決めた。

 

 今から、そしてこれからも、おれはノンナを愛していく。

 

 

 □

 

 夢を語るあなたが、私は好きでした。けれど、高所恐怖症であることも知っていましたから、心配もしました。

 彼が死んでしまったら、私はどうなるのでしょうか。カチューシャがいる今でも、それは分かりません。

 

 だから、今日この日、あなたの命を守れたことが――とても、嬉しかった。

 

―――

 

 放課後になって、ジョールは戦闘機道区域へ足を踏み入れた。

 こんな時間だからか、人は少ない。夕日に射されて、滑走路が寂しく黄色く照らされている。ほんの少し視線を傾けてみれば、格納庫入りの戦闘機がどうしても目に入る。

 小さく、苦笑いが漏れた。

 自分の居場所は、もうここにはない。何とかして踏ん張って、頑張って、縋りつけば、いつしか死んでしまうだろうから。

 ――それを教えてくれたのは、はじめて、好きになった人だ。

 背を向ける。

 さて、入部届けを出しにいこう。

 

 俺の居場所は、プラウダ高校の、合唱部の中にある。

 

 

 送信者:ジョール

 合唱部に入部したよ

 

 送信者:ノンナ

 おめでとうございます。

 ……あなたなら、上手くやっていけます。保障します。

 

 送信者:ジョール

 ありがとう、ノンナ。

 愛してる

 

 □

 

 私はブリザードのノンナ。どんな時であろうとも任務をこなし、どんな相手であろうとも一撃で打ち抜く。それが、戦車道としての私の生き方です。

 ――ですが、恋にかかってしまえば、私もただの女の子に過ぎないのです。

 

―――

 

 それからというもの、ノンナとジョールの距離は、ほんの少しだけ近いものとなった。元から近しいような関係だったから、あまり変化はしていないだけれど。

 

「おはよう、ノンナ」

「おはようございます、ジョール」

「――次は大洗ってトコと対戦するんだっけ?」

「はい。今年から参加してきたようですが、大洗にはあの、西住みほがいるらしいのです」

「西住、西住……あ、聞いたことがある。去年、救助に向かった子だよね」

 

 ノンナは「はい」と頷き、

 

「なぜ、大洗にいるのかは不明ですが……いずれにせよ、油断は出来ません。相手はあの、西住流なのですから」

「そっかー」

「ですが、最善は尽くしました。後は、本番次第です」

「だな、それしかねーよな」

 

 ノンナは、くすりと微笑み、

 

「応援歌、期待していますよ」

「よ、よせやい」

「毎晩、聴かせていただいています。あなたの歌を、レコーダーで」

「……消せ」

 

 ノンナがいたずらっぽく、「いやです」と返答する。

 ――あれ以来、ジョールは、戦闘機道区域に足を運ぶことはなくなった。今は合唱部の一人として声を上げて、周囲からも「いい声だな」と期待されているらしい。時たま「経験者か?」と聞かれることがあるが、ジョールは決まって、歌が好きなだけだと誤魔化すのだ。

 ノンナは、そんな当たり前の返答が、とてもとても嬉しかった。

 ジョールはもう、空だけを見つめてはいない。この地をも、見据えている。

 

「ったくよー恥ずかしいっつーの」

「ですが、録音リクエストに応えてくださったのは、あなたではないですか」

「まーなぁ、そうだけどなぁ」

「なら、いいじゃありませんか。所有権は私のもの、私が消すまで、あなたの歌声は一生消えません」

 

 ジョールは、「そっかあ」と、諦めたように空を見上げる。ノンナも一緒にになって、世界の向こう側を見渡してみた。

 ――プラウダ高校のものらしき戦闘機が、悠長に大空を切っている。翼からはヴェイパーが敷かれ、それを見た生徒が「おーかっとんでんなー」と感想を漏らした。

 ジョールの横顔を見る。何処か羨ましそうな笑みに、遠いような瞳。一瞬だけ不安に陥りそうになるが、ジョールはそっと視線を下ろして、ノンナにちらりと目を向けて、

 

「ノンナ」

「はい」

「……ありがとう。道を、教えてくれて」

 

 私は、きっと、

 

「はい」

 

 私はきっと、よく笑えているのだろう。

 

 そろそろ、プラウダ高校にたどり着く。ここからは女子禁制ということで、彼とは一旦お別れだ。

 握り締めていた手と手を、そっと離していく。

 

 

 私は、これからも戦車道を歩みます。カチューシャの背も、押していくつもりです。

 ――栄光があるならば、必ず挫折もある。それは、戦車道を歩む上においては、一生避けられない宿命でしょう。

 

 だからこそ、イヤな気持ちになった時は、私と彼、カチューシャと共に、歌を唄うことにしています。

 こればっかりは、誰にも変えさせません。

 

――

 

 大洗女子学園との試合も大詰めを迎え、いよいよもって雪が降りしきる。それに伴い気温も下がっていくが、プラウダ高校合唱団は今日も今日とて絶賛応援中だ。

 プラウダ高校合唱団のレベルは、元から結構高い。特に「声がはっきりと聞こえる」とのことだが、たぶん、それは雪のせいなんじゃないかと思う。雪という奴は、声を吸い取りがちなのだ。

 そんなわけで、プラウダ戦闘機道のみならず、プラウダ合唱団も強豪の一つとして数えられているのは間違いないだろう。その中に混ざれるというのは、実に光栄なことだ。

 

 ――1曲終える。流石に喉も酷使しすぎたということで、一旦休憩を挟もうとして、

 

「あ、何か唄い出した」

 

 部員の一人が、モニターめがけ指を差す。映し出されているのは、隊列を組んでるプラウダ高校戦車隊で、何かの歌声で、

 

「――あ」

 

 今の俺ときたら、たぶん、口だの目だのがみっともないことになっているのだと思う。だって、だって、モニター越しから聞こえていた歌は――

 

 俺は、一緒になって「それ」を唄った。周囲の部員が首を傾げ、疑惑の目で俺のことを見つめていたが――気づけば部員が、観客が、みんなが、一緒になって「カチューシャ」を歌い上げていた。

 

 ノンナ、お前の言う通りだ。歌は、力がある。

 

―――

 

 平日――

 惜しくも、大会では敗北という結果で幕を閉じてしまいました。

 それでも、悔いはありません。出し切るべきものは全部出しました。私も、カチューシャも、チームメイトも――彼も。

 ほんとう、長いようで短い、高校戦車道だったと思います。まだまだ戦車道そのものは続きますが、これで一区切りがついたかと思うと、心地よい寂しさを覚えるものです。

 ――そして、

 

「よ」

 

 いつもの朝が訪れて、やっぱり雪に降られる中、当たり前のように彼が待っていてくれていました。それは小学校の頃から変わらない、私にとっての、かけがえのないひと時です。

 そっと、手と手を、繋ぎます。

 

「大会、超格好良かったな」

「ええ。悔いはありません」

「俺も唄いまくって、喉カラッカラでしたわ」

「一緒になって、歌ってくれたのでしょう? 『カチューシャ』を」

「まーなー」

 

 彼もまた、「夢を追う者」として、私達と共に戦ってくれました。

 それがひどく嬉しくて、彼の歌声が欲しくなってしまったから、だから、

 

「今度、また録音させてください」

「え、やだよ」

 

 私は、眉をしゅんと曲げて、

 

「駄目ですか?」

「駄目です」

「……好きなのに」

 

 彼は、「ぐ」と言葉を詰まらせます。ああもうああもうと、恥じらいを露わにしながらで首を横に振るい、

 

「わかったよ、わかったよ」

「感謝します」

「っくそー、昔から口が上手いんだからなーこれだからなー」

「あなたのことを、よく知っているだけですよ。だから、言うべきことを言えるのです」

「あっくそっ、やめろそういう恥ずかしいこと言うのっ」

「そうですか? では、今後もこの言い回しを使わせていただきますね」

 

 当然の返答に対し、彼は、わざとらしく唇を尖らせながらで、

 

「ちきしょー、なんて女だ。ブリザードだっ」

「冷たい女性はお嫌いですか?」

「……冷たい、じゃない。冷静、と言ってくれ」

「そうですか、わかりました」

 

 ――やっぱり、この人のことが、私は好きです。

 

「ったく――ノンナ」

「はい」

「戦車道、続けるよな?」

「はい。あなたは?」

「唄うよ」

 

 互いに、満足し得る回答を得られたからでしょう。私も、彼も、たまらずおどけるように笑い、

 

「――ありがとう」

「――ありがとう」

 

 同時に言葉を、同じ気持ちを、私たちは口にできました。

 

「……あ、そういえばカチューシャ、推薦もらったんだっけ?」

「ええ、大会が終わってすぐに。流石は偉大な――」

 

 一通りの話が終わった後は、カチューシャと合流して、空めがけ歌を唄い出します。これは、いつもの光景です。

 

 ああでも、最近変わったことはといえば――

 カチューシャがしょっちゅう、「ノンナを幸せにしなきゃダメよ」とジョールへ忠告するようになったこと、でしょうか。

 

 

 

 





ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

今回は偶然の出会いを禁止にさせ、「幼馴染」というシチュエーションを表現してみました。
展開もなるだけ変えてみましたが、いかがでしたでしょうか。ご指摘、ご感想があれば、お気軽に送信してください。

ハザードトリガーを使いつつ、色々と試行錯誤しました。
しかしそれでも、夢を叶えた者と、夢を見い出せた者の、メタルな恋愛を描けたと思います。


それでは、最後に、

ガルパンは、いいぞ。
ノンナは、クールビューティだぞ。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。