シンデレラの気持ち (あすな朗)
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第一譜

 

 クリスマスは過ぎ去って、でも大晦日にはまだ間があって、何となくのんびりした空気がただよう年末のある日。俺は玉砂利を敷き詰めた広い前庭で、ずらりとならんだ黒服サングラスの集団に手厚くもてなされていた。

 

「九頭竜先生、お疲れ様です!」

 

 黒服サングラスの皆様、一斉にお辞儀。

 

 同時に鳴り響く陣太鼓。

 

 一般のご家庭ではありえないような丁重なお出迎えである。こわい。

 

「ど、どうも、こんちは……」

 

 おっかなびっくり挨拶を返す。しばらく来ていなかったとはいえ、毎週のように通っていたところなんだしこのお出迎えにも慣れてよさそうなものなんだが、何度経験してもこわいもんはこわい。

 

「先生、久しぶりだな」

 

「あ、晶さん! お久しぶりです」

 

 これまたおそろいの黒服サングラスの女性、晶さんとにこやかに挨拶を交わす。晶さんとはしょっちゅう会ってるし、将棋連盟の道場に入り浸ってる常連客の一人だから緊張はしない。

 

「竜王防衛おめでとう。竜王戦の第二局で会ったのが最後だから……ちょうど二か月ぶりくらいか」

 

「そうなりますねぇ。タイトル戦でバタバタしてたんで、あっというまの二か月でしたけど」

 

 そう、俺はこの二か月間ずっと竜王というタイトルを守るために戦っていた。

 

 竜王決定戦の七番勝負は十月に始まり、最長で十二月の下旬まで続く。俺は緒戦から三連敗を喫したものの、粘り強く勝利を重ねてタイに持ち込み、数日前に行われた最終局でも激戦を制して、無事竜王の位を守りきったのだ!

 

 ただ、それまでずっと続けていた弟子とのレッスンも、タイトル戦の間は中断せざるをえなかった。マスコミのみなさんの取材攻勢が一段落したので、やっと弟子の自宅がある神戸まで足を運ぶことができたというわけだ。

 

 弟子の付き人である晶さんと話すのも二か月ぶりなんだけど、俺としてはあんまりごぶさたって感じがしない。前回ここに来たのが昨日のことのように感じられる。対局に極度に集中していたせいで、時間の感覚が麻痺しているのかもしれない。この二か月、本当にあっというまだった……

 

「ふうん、そんなものなのか。先生の前で言うのもなんだが、はたから見てると『いつ終わるんだ?』って感じだったぞ」

 

「あー、将棋のタイトル戦の決勝って期間が長いですから」

 

 その長さを楽しむ、というのが通なんだろうけど、晶さんはまだ初心者(ルールをいまいち把握してないみたいでしょっちゅう反則する)だからな。

 

「しかし、七番勝負の決着がつくまで丸二ヶ月もかかる上に、他の対局もあるのだろう? 先生もよく体がもつな」

 

「うーん、プレッシャーというか緊張感はずっとありましたし、正直けっこうしんどかったですけど……でもまあ、俺も名人と盤を挟んで一皮むけたような気がしますね。今は心身ともに充実してますよ。充実しすぎて電車の中でもこないだの対局中の変化とか考えはじめて、何駅か乗り過ごしちゃうくらいで(笑)」

 

「ならいいんだが……」

 

 晶さんは俺と会話しながら、前庭を横切って玄関まで案内してくれた。

 

 下手すると俺の部屋(2DK)より広いんじゃないかってくらいひろびろとした玄関で脱いだ靴をそろえていると、

 

「そうそう、大事なことを言い忘れていた」

 

 晶さんが唐突にそう言った。

 

「え、何ですか?」

 

「先生は果報者だな」

 

「……果報者?」

 

「お嬢様はこの二か月、先生のことをそれはそれは熱心に応援しておられた。先生が防衛に成功したときなんか、見たことのないようなはしゃぎっぷりでな。今日も、先生と会えるのを楽しみにしておられるんだぞ」

 

「え……天衣が、俺と会うのを? マジですか?」

 

「ああ。本当だ」

 

 そう答えた晶さんは、少し羨ましそうな表情で。

 

「お嬢様は、強く深く先生のことを慕っておられる……たぶん、世界中の誰よりも、な」

 

 と、つけ足した。

 

 

 

 

 

 

 

「気持ち悪いんだけど。死ねば?」

 

 二か月ぶりに会った俺の弟子、夜叉神天衣が放った第一声がこれである。

 

 激辛すぎてもはや暴力的というか自然に涙が目から溢れ出てくるというか俺今確実に泣いていいよね(泣)。

 

 たしかに、晶さんの言葉を真に受けて、「待たせてごめんよ天衣! 天衣は竜王戦の間中ずっと、俺のために心の角道を開けて待っていてくれたんだね!!」なんて言っちゃったけどさぁ……。

 

「特に、『心の角道』ってフレーズは最高に気持ち悪いから金輪際使わないで」

 

 氷のような天衣の視線が突き刺さる。俺的には、心の角道って結構いい比喩だと思うんだけどなあ……。あ、口ではイヤって言いながらも本当は気に入ってる、ってパターンかな?

 

「そんなこと言って心の底ではーー」

 

「心の底から思ってるわよ。気持ち悪いから死ねばいいのにって」

 

「……」

 

 天衣ちゃん、死ねってそんな気軽に使っちゃダメな言葉なんだよ? 師匠、本当に自殺したくなってきちゃったよ? 

 

 っていうか、JSに一分間で二回「死ね」と罵声を浴びせられるタイトル保持者って一体何なの……

 

「次に『心の角道』みたいな気持ち悪いことを口走ったら、死ぬまで扇子で叩くから」

 

「師匠を物理的に死に追いやるつもりかよ!」

 

 天衣がいつになく物騒だ。姉弟子の棋譜とか並べてその影響を受けちゃったんだろうか。師匠、心配。

 

「相変わらずだなあ、天衣の憎まれ口は……」

 

「はあ? 相変わらずなのはそっちのほうでしょ? しかも何だか今日はテンションが高いし……気持ち悪さも倍増してる感じがするわ」

 

「あー、テンションはたしかに高めかも。防衛成功してからずっと頭が冴えすぎてる感じで寝つきも悪いからなあ」

 

「なにそれ」

 

 呆れたようにフンと鼻をならしたあと、天衣は若干口調を改める。

 

「……ま、七番勝負の後半は見応えがあったわ。さすが私の師匠、ってところね」

 

「棋譜、見てくれたのか?」

 

「当然でしょ。あなたの将棋なんだもの」

 

 髪を掻き上げながら、天衣は言う。

 

「そっか、ありがとな。天衣はちゃんと俺の将棋見ててくれてたんだなあ」

 

「なっ、……なに笑ってるのよ気持ち悪い! あなたは師匠だから、仕方なく見てやってるのよ! 別にそれ以上の意味なんかないんだから、変な勘違いしないで!!」

 

「はいはい、わかったわかった」

 

「ちょ……勝手に人の頭をなでないで! 変態!!」

 

 何度も会って話をするうちに、だんだんとわかってきた。

 

 天衣は自分の気持ちを素直に表現できない子だ。でも、人一倍研究熱心で、俺のことを気遣ってくれてもいる。本当は、俺の竜王戦の棋譜も繰り返し並べてくれているんだろう。憎まれ口は照れ隠しだ。

 

 天の邪鬼な感情表現は、彼女の得意な戦型『角換わり』に似ている。一見複雑で、難解で、ちょっとひねくれていて……でも、いの一番に角道を開け、お互いの陣地の深いところまでさらけ出すことを要求する、これ以上ないまっすぐな将棋。それが『角換わり』だ。

 

 角換わりの将棋では、自分の陣地の門を開いて相手と向かい合う必要がある。

 

 だから俺は、天衣の眼をまっすぐに見つめて、言う。

 

「本当にありがとう、天衣。すごく嬉しいよ」

 

「べ、別に……」

 

 天衣の顔はみるみるうちに赤く染まり、耳まで真っ赤になった。正座している自分の膝元に視線を落として、もじもじしながら蚊の鳴くような声で。

 

「別に……私はあなたにお礼を言われても嬉しくないし……ただ、事実を言っただけなんだから……」

 

 真っ赤な顔で言い訳する天衣を見ていると、心がほんのり暖まる。そんな暖かい気持ちを伝えようと、頭に浮かんできた言葉を素直に口に出してみた。

 

「そんなこと言いながら、やっぱり天衣は開けてくれてるじゃないか……俺と天衣との間をつなぐ、心の角道を」

 

「……ッ! 死ねッッ!! このっ……ロリコンポエマーッッ!!」

 

 激辛な言葉の暴力と同時に、扇子の連続攻撃が飛んできた。

 

 



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第二譜

 

 

「指し直しになった第四局のときなんだけどさ」

 

「……何?」

 

「あいの友達から、応援メールが届いたんだよ」

 

「ふーん。で?」

 

「そのメールってのがみんなの自撮り写真だったんだけどさ、お風呂あがりに撮った写真らしくて、全員肌着姿だったんだよね。本人たちは何も意識してないんだろうけど、そばにあいと姉弟子もいてさあ、二人が怒りだしちゃって」

 

「死ねば?」

 

 俺と天衣は今、指導対局の感想戦をしているところだ。

 

 勝敗をわける局面の検討が終わったのでちょっと雑談をはさもうとしたら、また死ねと言われた。どうやら天衣は、俺の命を綿毛よりも軽いものと認識しているらしい。

 

 まあ、天衣がいつも以上にツンツンしている理由もよくわかる。

 

 普段の対局だったら、俺も天衣との呼吸を合わせながらじっくりと戦う。ただし今の俺は、過酷な防衛戦をくぐり抜けた直後ということもあって極限まで深く読んでしまうことを止められず、天衣が予想だにしなかったであろうタイミングで攻めを繰り出し、早々に天衣の玉を詰ませてしまった。

 

 久しぶりのレッスンでこんな仕打ちを受けたんじゃあ、天衣もたまったもんじゃないだろう。

 

 とわかってはいるものの、ついつい自分の読みを全力でぶつけてしまった。相手は小学四年生の弟子だというのに……。これじゃ悪の竜王とか言われても仕方ないよなあ……

 

「天衣、あんまりイライラするなよ? 今の対局は、俺にも悪かったとこがあるし」

 

「はあ? 何言ってるの?」

 

「実を言うとさ、防衛戦が終わってからずっと、頭の中の将棋盤が無意識に動き出して制御できないときがあるんだよ。だから今も、久しぶりの指導対局だってのに自分の読み手をゴリ押ししてーー」

 

「別にいいわよそんなこと」

 

 声にますますトゲをふくませ、俺の言葉をさえぎる天衣。

 

「番勝負の途中からあなたの思考が異次元に飛んでたってことくらい、わかってるわ」

 

「いや、異次元は言いすぎ……てか、え? そんな違いがわかるもんなの?」

 

「わかるわよ。第三局までと第四局以降とでは、あなたの将棋が明らかに異質なものに変わった……真剣にあなたの棋譜を検討すれば、そう結論せざるをえないから」

 

 へー、そこまでハッキリ違うのか。自分でも、あの指し直し局をきっかけに、読みの力が飛躍的に上がったような気はしていたけど……

 

「だから、あなたが指導対局でどれほど鬼畜な手を指してこようと驚きはしないわ。ただ、私が気に入らないのは……」

 

「……気に入らないのは……?」

 

「…………ッ! 何でもないわよ!」

 

 肝心なところではぐらかされてしまった。一体俺の何が気に入らないんだろうね、このお嬢様は。

 

「…………………………」

 

 天衣はそのまま一言もしゃべらず、じっと黙っている。なんだか気まずい……

 

「え、えーと、何話してたんだっけ? そうそう、あいの友達が写メを送ってくれたって話で、」

 

「ロリコン自慢もいい加減にしてちょうだい。耳が腐るわ」

 

「そう言わずに聞いてくれよ。だってさ、小学一年生まで深夜の対局を見守っててくれたんだぜ? それを知って、けっこう元気が出たんだよ。まあ、だいぶ遅い時間だったから、天衣はさっさと寝てたかもしれないけどさーー」

 

 バンッ!!

 

 大きな音が、部屋中に響いた。

 

 天衣が将棋盤を両手で叩いた音だった。

 

「あ、天衣……!?」

 

「寝てたわよ! あなたが竜王として不甲斐ない戦いをするから! 愛想をつかせて寝てたのッ! 悪い!?」

 

「な、なに怒ってるんだよ……」

 

「怒ってないッ!!」

 

 だ、だめだ会話にならねえ……

 

 天衣は両目をキッとつり上げて、俺を睨んでいる。

 

 どうしたんだ……? 俺、天衣の気に障るようなことでも言っちゃったの……?

 

「そ、そうだ! 今日は天衣に大事な話があるんだ!」

 

 天衣の怒りをやわらげようと、俺は起死回生の一手を放つ。

 

「ほら、これ! 天衣へのプレゼント!!」

 

「申請……書……?」

 

 そう、俺がサプライズで用意していたのは、女流棋士になるための申請書。これなら天衣も喜んでくれるはず!

 

「資格はあるけど、申請はまだだったろ? だから今日、その相談もしようと思ってさ」

 

「…………」

 

「申請書、いつ提出しようか? 今年中に提出した方が、年明けからスムーズに色んな活動ができるようになるけど……」

 

「……どうだっていいわよ、そんなの」

 

 あれ? 反応がかんばしくないな。予想してたリアクションと全然違うぞ?

 

 俺の予想だと、「う、嬉しくなんかないわ!」と言って大喜びするか、「私の実力からすると、遅すぎるくらいね!」と言って大喜びするか、どっちかだと思ってたんだけどなあ……

 

「これで天衣も、将棋指しとして一人立ちできるんだぞ? まあ、天衣は今までもずっと一人で強くなってきたわけだから、あんまり変わらないように感じるかもしれないけど」

 

「…………」

 

「あ、あれか? 正式な師弟関係になって、一門の人たちとの付き合いが増えるのがイヤなのか? それについては心配要らないよ。天衣は神戸に住んでるわけだし、大きなイベントがあるとき以外は、今まで通り一人でこっちにいればいいんだ」

 

「…………ッ!」

 

「別にこの申請書は、棋士の行動を縛るもんじゃない。一匹狼みたいな人は将棋界にけっこういるし、最新の研究に触れられるような環境さえ整えておけば、これまで通り一人で研究を重ねていってもいい。どんどん力をつけていければ、俺が教えることもなくなってくるし、そうしたらこのレッスンもする必要がなくなってーー」

 

 そのとき突然、天衣が俺の手から申請書をむしりとった。

 

「天衣!?」

 

 天衣のようすは明らかにおかしかった。目には涙をいっぱいためて、体は小刻みに震えている。

 

「どうしたんだ、天衣!? 一体何がーー」

 

「うるさいッ! うるさいうるさいうるさいッ!」

 

 天衣が叫ぶたび、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。

 

「あなたなんかにーーあなたなんかに、入門するんじゃなかった!!」

 

 そう絶叫して。

 

 天衣は、申請書を勢いよく引き裂いた。

 

 俺があっけにとられている間に、申請書は細かい紙くずになって、将棋盤の上にはらはらと積み重なり、畳の上にも散らばっていく。

 

「あ、天衣…………!?」

 

「…………」

 

 天衣は無言で踵を返し、俺に背を向けた。

 

「待ってくれ、天衣!」

 

 俺が天衣の腕をつかもうとするとーー

 

「触らないで!!」

 

 天衣は俺の手を乱暴に振り払い、襖を蹴倒さんばかりの勢いで部屋から出ていった。

 

 

 

 

 

 

 

「どうかなさいましたか、お嬢様!?」

 

 天衣が部屋を出ていくのと入れ違いで、反対側の襖から晶さんが部屋に飛び込んできた。

 

 撒き散らされた紙片。

 

 ぐちゃぐちゃになった盤上の駒。

 

 そして、将棋盤のそばで立ち尽くす俺。

 

 晶さんの眼に映ったのは、たぶんそんな光景だったにちがいない。

 

「……どういうことか説明してくれ、先生」

 

 晶さんは、低い声でそう言った。

 

 

 



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第三譜

 

 将棋は一人で強くなるものだ。

 

 下手に他人と仲良くすると、勝負のときに余計なことを考えてしまうようになる。だから、友達なんてつくらない。私はずっと一人で生きていく。

 

 そう決めていたはずなのに。

 

 彼の言葉は、私の心を深くえぐった。

 

『今まで通り一人でこっちにいればいいんだ』

 

 その言葉を聞いた瞬間、谷底に突き落とされたみたいな衝撃を受けた。

 

 他の人間に言われたんだったら、こんなに傷つくことはなかったと思う。他の誰でもない、彼が言った言葉だからーー私を暗い孤独から救ってくれたその人に「一人でいろ」と言われたから、私はこんなにも傷ついているんだ。

 

 物心つく前から、彼の名前を聞かされて育った。物心ついたときには、私は将来彼の弟子になるんだと確信していた。

 

 彼の棋譜を数えきれないほど並べて、得意戦法も身に着けた。会ったこともないその人と、棋譜を通じて何度も会話をした。

 

 一人で将棋を指していても、いつもその人がそばにいてくれるような気がして……お父様とお母様が亡くなったあとも、私は将棋盤に向かうことでさびしさを紛らわせた。将棋盤の前に座って将棋の研究をしていると、お父様とお母様の思い出が私を慰めてくれたし、一度も会ったことのないはずのその人が、どこからか颯爽と現れて私を優しく導いてくれる……そんな気がした。

 

 四年生に上がってすぐ、葉桜の季節に、とうとう彼に会って弟子入りすることができた。私が思い描いていたほど颯爽とはしていなかったし、想像よりもちょっと厳しかったけど……でも、ものすごく強かった。そして、私のことをとても大切にしてくれた。

 

 でも、彼には、私よりも先に入門した弟子がいた。私と同い年の女の子で、しかも内弟子。どさくさにまぎれて、「誰が一番なの?」と彼に訊いてみたときも、私だと言ってはくれなかった。私は彼にとって、二番目の存在に過ぎないーーだんだんと、そう思うようになった。

 

 それでもいい。私は開き直ることにした。

 

 離れていても、将棋を指してさえいれば、彼のことを身近に感じることができる。私は一人でも大丈夫。彼にとって何番目だっていい。私が世界で一番、彼のことを大切に思っているはずだから……

 

 私には、それで充分。

 

 それで充分だった、はずなのにーー

 

 口の先では「一人でも大丈夫」とか、「将棋があれば、それでいい」と言ってはいたけれど……ふとしたときに、心の奥のほうで真っ黒な疑問が頭をもたげることが、何度もあった。

 

「どうして私以外の女性と、そんなに仲良さそうにしているの?」

 

「どうして私とは、レッスンのときにしか会ってくれないの?」

 

「…………どうして、私が一番じゃないの?」

 

 私の心の中で、そんな気持ちが少しずつ少しずつふくらんでいって……

 

 そして、今日。彼の言葉が引き金になって、私は自分自身を抑えることができなくなった。

 

『あんたなんかにーーあんたなんかに、入門するんじゃなかった!』

 

 本当の気持ちとは似ても似つかない、いびつな言葉を投げつけて。彼が用意してくれた申請用紙を、むちゃくちゃに引き裂いて。私は部屋に閉じ籠った。

 

 最低だ。

 

 いくら彼でも、こんなひどいことをする私に愛想をつかしてしまうに違いない。女流棋士の申請書も破いてしまった。師弟関係を解消されてしまう可能性だって、充分にある。

 

 もしそうなったらーー

 

 私は、本当の独りぼっちになってしまう。

 

 そんな恐怖に怯えて、私は今、薄暗い部屋のベッドで泣いている。自分の心の奥に潜んでいた真っ黒な気持ちと、ただひたすらに向き合いながら……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俺が事情を説明すると、晶さんは激怒した。

 

「せ……せ……お、お、……きっ……きっ……くぅ…………ッ!」

 

 怒りでわなわなと震え、しゃべることすらままならない様子の晶さん。

 

「…………あッ!………………いッ!………………ぅッ!………………ぉッ!」

 

 はたから見ると面白いかもしれないがーー

 

「…………ッ!…………ッ!…………ッッ!!!」

 

「わあああちょっとネクタイ締め上げないでぐるじいいいいいいっ!!」

 

 猛烈な怒りの対象が他でもない俺自身だからまったく笑えない。

 

 というか、俺のネクタイを締め上げる力から割と本気で生命の危機を感じる。晶さんこええ……!

 

「先生は! お嬢様の! 気持ちを! 少しも! 分かっていない!!」

 

「ーーーーーーーー」

 

 晶さんはどうにか日本語をしゃべれるようになったようだが、ネクタイを締め上げる手をゆるめてくれないので、今度は俺がしゃべれない。というか、呼吸ができないッ……!!

 

「ゲホッゲホッ……どういうことですか? 天衣の、気持ち……?」

 

 窒息死寸前で解放され、首をさすりながら尋ねる。

 

「いいか、お嬢様はなッ! 第四局の指し直し局が終わるまで、寝ないで対局を見守っていたんだぞ!」

 

 え……? さっき、俺が「天衣はさっさと寝てたかもしれないけど」って言った、あの対局で!?

 

「私が何十回、部屋にもどってお休みになるように言っても……お嬢様は縁側でずっとタブレットを見ていた! 先生の指し手を確認して、考え込んで、画面の情報が更新されたらまたそれを見て考えて……一晩中ずっと、それを繰り返していたんだ!」

 

「…………!」

 

「明け方近くになって先生の勝ちが決まったとき、お嬢様がどれだけ喜んだか教えてやろうか!? お嬢様は泣いたんだ! タブレットの画面を私に見せながら……すごい勝負だった、感動したと言いながら、涙を流していたんだぞ! 先生がやっと勝った、これまでは負け続けていたけど、これが先生の本当の実力なんだ、先生は絶対に竜王を防衛するんだと言って、お嬢様は泣いていたんだぞ!!」 

 

「あ…………」

 

「第四局だけじゃない! 第一局から第七局までずっと……お嬢様は先生の戦いを見守っていたんだ! 先生のことを信じて、先生の勝利を祈って……この二か月間ずっと、お嬢様は先生のことだけを想い続けていたんだぞッ!」

 

「あ……ああっ……」

 

 思わず小さな悲鳴が口から漏れる。

 

 俺は、なんてひどいことを言ってしまったんだろう。とてつもない後悔で、胸がつぶれそうだった。

 

「それなのに……それなのに、先生は……今まで通り一人でこっちにいろだの、一人立ちしたらこのレッスンは必要なくなるだの……あまりにも冷たい言い草じゃないか……!」

 

 晶さんは顔をぐちゃぐちゃにして泣いている。

 

 何一つ反論できなかった。タイトルを防衛していい気になって、天衣のことをわかったつもりになっていて、天衣がどれだけ俺を応援してくれていたのか、想像してやることすらできない自分が情けなかった。

 

 後悔で頭が真っ白になっていた、そのとき。

 

 バカみたいに突っ立っている俺の腕を、晶さんが強く引っ張った。

 

「ついて来い」

 

 鬼のような泣き顔で、晶さんは言った。

 

「お嬢様のお部屋に案内してやる」

 

 

 

 

 

 天衣の部屋は、長い階段を昇りきった先の、廊下の右手にあった。

 

 晶さんがドアの前に立って、中の様子をうかがう。

 

「うん。やっぱりだ、このお部屋の中だ」

 

「物音ひとつ聞こえてきませんけど……本当に中にいるんですか? 別の場所にいる可能性も」

 

「いや、お嬢様はお部屋の中にいらっしゃる。私にはわかる」

 

「えっ、なんでわかるんですか?」

 

「匂いでわかる」

 

「に、匂いでわかるんですか!?」

 

「そうだ。お部屋の匂い、お洋服の匂い、シャンプーの匂い、それからお嬢様がお流しになる汗の匂い、どれも少しずつ違うからな。部屋の中にいらっしゃるかどうかもわかるんだ」

 

「…………」

 

 さすが付き人と言いたいところだけど、気持ち悪くて若干引く。

 

「……あ、晶さんは天衣のことをものすごくよく知ってるんですね!」

 

「たしかに私は、天衣お嬢様のことを誰よりもよく知っている。でも、私はお嬢様を笑顔にすることができない」

 

 晶さんはそう言いながら、悲しそうに首を振った。

 

「お嬢様のご両親が亡くなられたあと、お嬢様は滅多に笑うことがなくなった。私がどんなに励まそうとしても、駄目だった。お嬢様が少しずつ明るくなってきたのは、先生に入門なさってからのことなんだ」

 

「…………」

 

「先生、前にも同じようなことを言った気がするが……お嬢様の気持ちをよく考えて差し上げてくれ。私から言えることは、それだけだ」

 

「晶さん……」

 

「お嬢様を頼むぞ」

 

 そう言い残して、晶さんは長い階段を下りていった。

 

 

 

 

 

 晶さんの後ろ姿を見送ったあと、俺は部屋のドアを拳で叩きながら、天衣に向かって呼びかけた。

 

「天衣! 中にいるんだろ? このドアを開けてくれ!」

 

 返事はかえってこなかった。

 

「……もし開けたくないんだったら、俺がここで勝手に大声でしゃべることにする。だから、話だけでも聴いてくれないか」

 

 ドアにそっと触れながら、語りかける。

 

「竜王戦の間、ずっと俺の戦いを見守ってきてくれてたんだろ? 指し直し局も、勝負がつくまでずっと起きて応援してくれたんだよな? 晶さんから聞いた。さっきはひどいことを言ってしまって……本当にごめん」

 

 相変わらず反応はない。俺はかまわず話し続ける。

 

「天衣、将棋は一人で戦うゲームだ。だから、頼りになる人がそばにいなくても気持ちを強く保てるようにならないといけない。……だけど……、俺は天衣のことを一人で放っておいたりはしない。ずっとそばにいることはできないかもしれないけど、天衣が一人で戦っていくための心の支えになれるように、俺ができることはなんでもさせてほしい。毎日会えなるわけじゃないけど、だからこそ、天衣と一緒に過ごせる時間を大切にしたい。これからもずっと、何度だって天衣と将棋を指したいと思うんだ。だから、天衣……」

 

 息を大きく吸い込んで、あらんかぎりの声を出す。

 

「俺はもう二度と、お前のことを泣かせたりしない! さびしい思いをさせたりもしない! お前が心の涙を流したときは、俺の飛車で拭い去ってやる! 暗い気分のときには、俺の角で七色の虹を描いてみせる! だから……だから、これからもずっと師弟(かぞく)でいてくれ! 頼む!!」

 

 そう叫んでから、どれくらいの時間が経っただろうか……

 

 ふいに、部屋の扉が開いた。

 

「天衣……」

 

 部屋から出てきた天衣は、腕組みをして顎をツンと上げると、高らかに言い放った。

 

「相変わらず気持ちの悪いロリコンポエムね。通報されたいのかしら?」

 

 いつも通りの憎まれ口をたたく天衣の目に、涙はもうなかった。

 



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第四譜

 

 天衣と二人で和室に戻った。

 

 夜叉神邸でレッスンするときに、いつも使っている部屋だ。さっきもここで対局をしていた。だから、天衣がやぶった申請書が散乱しているーーはずだったんだけど。

 

「……片付けてくれたのかな?」

 

 紙は落ちていないし、ぐちゃぐちゃだった駒もきちんと並べられていた。晶さんか、他の使用人の誰かが、綺麗にしてくれたんだろう。

 

「ねえ、師匠(せんせい)

 

「ん、なんだ?」

 

「お願いがあるんだけど……聞いてくれるかしら?」

 

「ああ、もちろんさ!」

 

 力強く頷く。一途に俺のことを応援してくれた弟子のお願いなんて、よろこんで聞くに決まってる。

 

「あの……これ」

 

「?」

 

 天衣がスカートのポケットから取り出したのは、小さく折り畳まれた紙だった。その紙を、天衣は無言で差し出している。

 

 受け取って、ひろげてみるとーー

 

「これ……申請書……!?」

 

 それは女流棋士の申請用紙だった。

 

「自分で用意してたのか、これ? いつからーー」

 

「マイナビの本戦で勝ったときに、連盟でもらってきたの……」

 

 ということは……天衣は一か月、いや二か月近くの間ずっと、この申請用紙を持っていたことになる。もう一度用紙をよく見てみると、角のところがよれてぼろぼろになっていた。ずっと持ち歩いていたんだろうか。それとも、何度も広げたり折ったりを繰り返していたんだろうか。

 

「女流棋士になりたいの」

 

 顔を上げて、天衣はきっぱりと言った。

 

「だから……私の師匠になって?」

 

「……!」

 

 胸の奥がカッと熱くなった。

 

 健気な弟子の体を引き寄せ、抱きしめる。

 

「ちょ、ちょっと……ッ!」

 

 天衣が腕の中でもがくが、力を込めて離さないようにする。そして天衣の耳元で、答えを言った。

 

「もう絶対に独りにしない。これからもずっと師弟(かぞく)でいよう」

 

「……変態……後で通報するから……」

 

 言葉とは裏腹に、天衣はもがくのをやめて俺の胸に額をくっつけ、体重をあずけた。

 

 どれくらいそうしていただろうか。どちらからともなく体を離した俺と天衣は、静かに見つめ合う。

 

「……申請書、すぐに出そうな」

 

「……ええ、そうね」

 

「なんなら今日、書いて出そうか?」

 

「……そうね」 

 

「……イヤなのか?」

 

「……そんなこと、ないけど……」

 

「…………」

 

「…………」

 

 会話が途切れてしまった。

 

 何となく気まずい感じがして、視線を横にそらす。あっちを見たりこっちを見たりして、また正面を向くとーー

 

 天衣とばっちり目が合った。

 

 天衣は無言で瞬き一つせず、俺の顔をじっと見つめている。

 

 やばい、何だかドキドキするぞ……!?

 

「え、えーと、今日はまだ一局しか指してないし、もう一局どうだ?」

 

 会話に困ったら、とりあえず将棋に話を持っていく。それが将棋指しである。コミュ障とか言わないでほしい。

 

「…………そうね。それじゃあ、お願いしようかしら」

 

「手番は?」

 

「あなたが先手を持ってちょうだい」

 

「よし、わかった」

 

 二人で盤を挟む。しばらく呼吸を整えてーー

 

「「よろしくお願いします」」

 

 同時に頭を下げ、対局開始。

 

 俺が指した初手は、角道を開ける7六歩。

 

 将棋の出だしとしては最もオーソドックスな一手だが、この時点で俺は一つの戦型を予想している。

 

 その戦型は、『一手損角換わり』。開始からわずか数手で角交換が完了するという、天衣が最も得意とする戦い方だ。

 

 ちなみにこの戦型、俺の十八番でもある。ついこの間の竜王戦最終局でも、俺は『一手損角換わり』を採用して、勝った。

 

 天衣が後手番を希望したってことは、たぶんこれがやりたいんだろう。竜王戦の棋譜も並べてくれてるみたいだし……

 

 そう考えて、まず自分の角道を開けた。先手が角道をふさいだまま飛車先の歩をどんどん前に進めちゃうと、絶対に『一手損角換わり』にはならないから。

 

『一手損角換わり、指そうぜ!』

 

 たった一手だけど、その一手に俺はそんなメッセージをこめている。

 

 舞踏会で、「私と踊っていただけませんか」って言いながら手を差し出しているような、そんな気分だ。緊張しちゃう。

 

 『一手損角換わり』にするつもりなら、天衣はこの後同じように角道を開けるーーはずなんだけど……

 

 天衣は角道を開けようとはしなかった。

 

 それどころか、将棋盤に手を伸ばそうとすらしていなかった。

 

 天衣は膝の上に両手をそろえたまま、じっと盤の上に視線を落として………………唐突に口を開いた。

 

「ごめんなさい」

 

 天衣の口から出てきたのは、謝罪の言葉だった。

 

「師匠が用意した申請書を破くなんて、弟子として許されないことなのに……カッとなって、私……」

 

 いつになく神妙な顔で天衣が謝るので、俺も慌ててフォローする。

 

「いやいや、さっきは俺のほうが悪かったよ。申請書も、天衣が持ってたから結果オーライってことでーー」

 

「私……やっぱり、あなたの弟子になる資格なんてないわ」

 

「そんなに引きずるなよ。さっきのことなら、もうーー」

 

「それだけじゃないの! 私、他にももっと、いけないところがあって……」

 

「いけないところ……?」

 

「私…………ずっと前から嫉妬してるのよ。私よりももっとあなたの近くにいる、他の人たちに対して」

 

「え……?」

 

 驚いて天衣を見つめる。

 

 天衣は泣きそうな顔になっていた。スカートを両手で握りしめ、呼吸を荒げ、肩を激しく上下させて……それでも、天衣は話すことを止めようとはしなかった。

 

「あなたには、同じ部屋で暮らしている内弟子がいる。同門の姉弟子もいるし、師匠の娘もいる。私にはあなたしかいないのに、あなたは私以外のたくさんの人とのつながりがあって……私はその中の一人。大勢の中の一人にしかすぎないのよ。そのことが、すごくイヤなの」

 

「天衣、そんなことーー」

 

「私があなたの一番になれないってことは、わかってるつもりだった。弟子入りするまでは会うことすらできなかったんだから、何日かおきにあなたと会えるだけで充分だって、自分に言い聞かせてたの」

 

「…………」

 

「タイトル防衛で会えなくなるのも、仕方ないって諦めたわ。でも、竜王戦の間、ずっとさびしくて……あなたと会えないことが辛くて……それでも、私とのレッスンが無くなることで、あなたが対局に集中できるようになるんだから、これでよかったんだって、ずっと満足してた。だけど……」

 

 天衣は胸に手を押しあてて、苦しそうに言葉を継ぐ。

 

「他の人たちがあなたのそばに居てあなたを支えていたり、あなたに応援のメッセージを届けたりしてたんだって、あなたの口から聞いて……それで、どうしようもなくなってしまったの。だから私、あんなこと……」

 

「天衣……」

 

「こんなことを考える自分自身もイヤなの」

 

 だんだん涙声になりながら、それでも天衣は話し続ける。自分の心のいちばん深いところを全部、俺に見せようとしてーー

 

「他の人たちに嫉妬するっていうことは、あなたを独占しようとしてるってことでしょう? 私はあなたの二番目の弟子にすぎなくて……私にそんなこと、できるわけないのに……! しちゃいけないのに……!! ……でも、どうしても嫉妬してしまって、イライラして……。そんな自分が許せなくて、ますますイラついて……その苛立ちを、全部あなたにぶつけて……本当に最低なことを……ごめんなさい……! 本当に、ごめんなさい……!」

 

 俺は絶句する。

 

 手がかからないと思っていた少女は、こんなにも複雑な感情を抱え、誰に相談することもなく一人で苦しみ続けてきたのだ。

 

 それなのに……俺は天衣の気持ちを、何一つわかっていなかった……

 

「こんな私でもーー」

 

 絞り出すように、天衣は言葉を口にする。

 

「こんな私でも、あなたは受けいれてくれる? これからもずっと、こういうふうに、私と将棋を指してくれる……?」

 

 そんな質問……答えは決まってる。

 

「ああ、もちろんだ」

 

 ノータイムで返事をした。

 

「俺はこれまで、天衣の気持ちをわかっていなかったけど……でもこれからは、天衣が何を感じて何を考えているのか、もっと聞きたい」

 

「……!!」

 

 そうだ。俺は目の前にいる天の邪鬼な女の子の気持ちを、この子の本音をもっと聞きたい。そして、それに応えてあげたい。

 

 気の利いた例えは思いつかなかった。だから、自分の気持ちをストレートにぶつける。

 

「天衣は確かに二番弟子だけど、二番目の存在なんかじゃない。俺にとって世界でただ一人の、かけがえのない弟子(ひ と)なんだ。だから俺は、天衣のことをもっともっとよく知って、天衣が俺のことを遠くからずっと応援してくれていたみたいに、強く、深く、天衣のことを支えていきたい。……心の底からそう思うよ」

 

「…………ッ!」

 

 天衣は両手で顔を隠し、パッと横を向いた。

 

 泣き顔を見られたくないんだろう。横を向いたまま小刻みに体を震わせている天衣を見ていたら、俺の目からも涙があふれてきた。

 

 しばらくしてから、天衣は顔を覆っていた手を膝の上にのせて、俺に向き直った。

 

 二回も泣いたせいで、人形みたいに綺麗な顔は、ちょっと腫れていたけれど。

 

「…………ありがとう、安心したわ」

 

 そう言った天衣は本当に嬉しそうで……その表情に目を奪われた。満ち足りた天衣の笑顔が、あまりにも可憐で、美しかったから。

 

「……話ばっかりで、ずっと駒を動かしてなかったわね」

 

「そういえば、そうだな」

 

 顔を見合わせて、笑う。

 

 今、俺と天衣の間をさえぎるものは何もない。

 

 俺と天衣の間にあるのは、たった一つの将棋盤だけでーーそれは、勝敗を決めるゲームの道具であると同時に、向かい合った二人の心を結びつけてしまう、魔法の装置でもあるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天衣は深々と息をすって、ゆっくりと盤上に手を伸ばす。対局再開だ。

 

 天衣は迷いのない手つきで自陣の歩を前に進め、角道を開けた。

 

 たった二手で、お互いの角がまっすぐに向かい合う。

 

 三手目、俺は飛車先の歩を突いた。このあと天衣が俺の角をとれば、『一手損角換わり』のスタートだ。

 

 ところが天衣は、いつまでたっても俺の角をとろうとしない。

 

 また、両手を膝の上に置いてじっと固まってしまった。

 

 一分、二分……

 

 さっきみたいに話をしようとするでもなく。次の指し手を考えているふうでもなく。それなのに、天衣の呼吸は浅く乱れていて、頬は微かに赤く染まっている。

 

(……天衣?)

 

 どうしたんだ、と声をかけそうになったとき、天衣はやっと動いた。

 

 細い指先で俺の角を持ち上げて、自分の駒台にそっと載せる。それから、自分の角をまっすぐ俺の陣地に成り込ませた。

 

 ぱちん!

 

 ちいさな駒音が響く。

 

 そして、天衣はーー

 

 駒から指を離す直前に、はっきりと告げたのだ。

 

「あなたのことが好きよ、師匠(せんせい)

 



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第五譜

 

 聞き違いじゃないよね……?

 

 俺のことを好きだ、と。天衣は今、確かに言った。「え、なんだって?」とか聞き返しようがないほどはっきりと、天衣の言葉は俺の耳に届いた。

 

 ……うん、聞き違いじゃない。

 

 でもこれはあれだ、ラブじゃなくてライクのほう、そうだよね。JSと恋愛なんて、ラノベの世界だけの出来事だもんね!

 

 あっそうそう、将棋将棋。えーと今天衣の角が成り込んできて馬になったところだから、これを銀で取って角交換完了、っと。この手順は必然だね!

 

師匠(せんせい)?」

 

「は、はいぃ?」

 

「その……返事、は?」

 

「返事っ?」

 

 へ、返事って……

 

 それじゃまるで、本当の恋の告白みたいじゃん!!

 

 いや落ち着け、舞い上がるな、矢倉の定跡を思い出すんだっ……!

 

 ……▲7六歩△8四歩▲6八銀△3四歩▲7七銀△6二銀▲2六歩△4二銀……

 

 ……よし。落ち着いた。大丈夫。

 

 呼吸を整えて、俺は返事をする。

 

「ありがとう、天衣。俺も好きだよ……天衣の将棋が」

 

 そう、天衣が好きなのは、棋士としての九頭竜八一。

 

 天衣が『一手損角換わり』で見せる繊細な指し回しも、相手の攻撃に対して正確な受けを重ねて反撃していくスタイルも、ともに師匠である俺の棋風そのもの。

 

 つまり天衣は、俺の指す将棋が大好きだと言っているのだ! 尊敬しあう棋士として、また師弟として、これからも頑張っていこうというメッセージをくれたのだ! 間違いないね!

 

 さあどうだ天衣、俺の答えは完璧ーー

 

「…………死ねばいいのに」

 

 ええええっ!? また死ねって言われた!!

 

「どこまでどんくさいの、あなた……もうそれ確信犯でしょ……信じられない……私が、ここまで勇気を出してるっていうのに……」

 

 俺を睨みながらぶつぶつ呟いている天衣。ま、間違ってなかったんだ……よね?

 

 やがて天衣は、髪をバサッと掻き上げると、勢いよく立ち上がった。

 

「いいわ。まだ私の気持ちがわからないっていうんなら…………体でわからせてあげる」

 

「か、体でっ……!?」

 

 JSがそんなこと言ったら条例違反になっちゃうよ!? 逮捕されちゃうよ!?(←俺が) せっかく防衛した竜王位も一瞬で剥奪されちゃうよ!?

 

 と、焦っていると…… 

 

 天衣は、座布団の横に置いてあった扇子を手に取って構えた。あ、扇子で叩くつもりなのね……。ホッとしたような、恐ろしいような。

 

「目をつむりなさい」

 

 有無を言わせぬ口調で命ずる天衣お嬢様。『従う』一択の師匠。悲しい力関係である。

 

「は、はいっ……」

 

 俺は正座したまま背筋を伸ばし、目を閉じる。

 

 扇子で叩かれるのを覚悟して、じっとしているとーー

 

 

 

 ちゅっ

 

 

 

 頬にしびれるような感覚があって、慌てて目を開ける。

 

 顔を真っ赤にして、潤んだ瞳で俺を見つめる天衣。微かな吐息が、顔にかかる。

 

「……これでわかった? 私の気持ち」

 

 視線が交差する。天衣の気持ちが、頬のしびれや熱い吐息や燃えるように赤い瞳を通じて、痛いほど伝わってくる。天衣の感情が直接俺の心に触れて、揺さぶっている。

 

 今度こそ、間違えようがない。

 

 目の前にいるのは、十歳の幼い女の子じゃなくて……俺のことを本気で好きになってくれている、一人の女性だった。

 

「……わ、かった」

 

 かすれ声しか出なかった。

 

 気管が内側から灼かれているみたいで、呼吸すら上手くできない。

 

「……本当? ……もし、本当にわかってるんだったら」

 

 天衣はそっと目を閉じると、横を向いて、林檎のように赤いほっぺたを差し出した。

 

「今度は、あなたの番……」

 

 まるで魔法にかかっているかのようだった。

 

 角交換のときの必然の手順を、たどっているかのようだった。

 

 俺は天衣の肩にそっと手を乗せ、ぎこちなく顔を近づけて、ゆっくりと、唇をーー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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感想戦

 

 関西将棋会館の棋士室で、俺は頭を抱えていた。

 

「ああああ……」

 

 思わず呻き声が漏れてしまう。原因はもちろん、天衣だ。

 

 あの後、恥ずかしくてお互いに目を合わせられなくなり、将棋すらまともにできなくなってしまったので、レッスンを早々に切り上げて連盟まで申請書を提出しに行ったんだけど……

 

 別れ際、天衣は腕を組んであらぬ方向に視線を逸らしながら、こんなことを訊いてきた。

 

『こ、今度のレッスンが終わったあと、予定を空けておいてもらえるかしら?』

 

 理由を訊ねると、天衣は顔を真っ赤にしてーー

 

『あ……あなたと一緒に初詣に行きたいの! 悪い!?』

 

 こんなん……こんなんOKしないわけがないでしょうがあああああああああああああああああ!!

 

 これってデートの誘いだよな? でも小学四年生とデートとか考えるだけで犯罪だよ!? いやそれ以前に「好き」って告白されて「わかった」って答えてお返しのチューまでしちゃったし、これまじで案件だよ!? どうすんの!?

 

「どないしました竜王サン。悩み事どすか?」

 

「あ……供御飯さん」

 

 はんなりと笑みを浮かべながら話しかけてきたこの人は、『嬲り殺しの万智』の異名をとる供御飯万智山城桜花。上品な雰囲気とは裏腹に、自玉を穴熊に囲ったあと相手をじわじわといたぶって投了に追い込むという暴虐な棋風を誇る女流棋士だ。こわい。

 

「いやまあ、悩み事といってもそんな大したことないんですよ」

 

「そう言うわりにはずいぶん表情が冴えへんねぇ」

 

「ま、まあ……。いやでもほんとささいなことなんですよ?」

 

 供御飯さんは記者の顔も持っている人だから、ここで正直に悩みをしゃべっちゃったりなんかすると、後でとんでもないことになる。そうでなくても、この人は最近隙あらば俺のロリコン疑惑を深めるような記事を発信してるからな。油断がならねえ。

 

「もしかして、男女の仲で悩んどるんやおざらんか?」

 

「でええっ!? そ、そんなことないでつよ!?」

 

「ふう~ん、あっちこっちで浮き名を流しとる竜王サンが悩んどるいうことは、そういうことなんかなあと思ったんやけど」

 

「や、やだなあ。く、く、供御飯さんもあてずっぽうでものを言わないでくださいよ、あははははは」

 

「……ふぅ~~ん…………」

 

 伏見稲荷の狐みたいな妖しい笑顔を浮かべながら、俺を凝視する供御飯さん。やばい……心の中を見透かされてる気がする…………!!

 

「そ、そう言えば、今日は月夜見坂さんは来てないんですね!?」

 

 何とか話題を逸らそうと、今更感のあふれる質問をしてみる。

 

「お燎は今日から実家に居る言うとったなあ」

 

「あー、年末は里帰りする人も多いですからねえ」

 

「せやねえ。ま、お燎はもともと関東所属やし。そんなにしょっちゅうこっちには来ておざらんよ」

 

 そのわりには、月夜見坂さんとしょっちゅう顔を会わせてるような気がするんだけど……

 

「うちも、このあとすぐ東京に行かないといけないんよ」

 

「東京って……ああ、新年はまた皇居に行くんですか?」

 

「せや。年の始めはいつも宮中行事どす」

 

 ちょっと憂鬱そうに溜め息をつく供御飯さんは、正真正銘貴族の一門なので、お正月には高貴な方々の集う儀式に参列される。貴い。

 

「肩が凝りそうですねえ」

 

「そうなんどす。こっちに戻ってきたら、気晴らしにドライブしよ思って、それを楽しみにーー」

 

 そこまで言って、供御飯さんはぱっと目を見開くと、

 

「せや! 竜王サンも一緒にドライブ行かへん?」

 

 予想外の提案をしてきた。

 

「俺ですか? 別にいいですけど……」

 

「じゃあ、決まりな。竜王サンの恋の悩みも、そのときにゆっくり聞かせてもらえそうやなあ」

 

 俺の悩み事が恋愛関係だって確定してるのは何でなんすかね?

 

「楽しみやなあ~。二人だけでドライブするのは初めてやねえ」

 

「そうですね……って、二人だけなんですか!?」

 

「そうやけど……もしかして竜王サン、こなたと二人きりになるのは……イヤ?」

 

「イヤじゃないです! 全然イヤじゃないです!!」

 

「よかった~♪」

 

 やべえ、上目遣いの供御飯さんに悩殺されかかった……

 

「この日は空いとります?」

 

 供御飯さんはさっそく自分の手帳をめくって、候補日を提示する。

 

 あ、でもその日はーー

 

「すいません、その日は天衣のレッスンで神戸まで行かなくちゃいけないんですよ」

 

「ほんなら、この日は? あと、この日でもええけど」

 

「あ、どっちもダメです。神戸に行かないと」

 

「竜王サンも忙しゅうおすなあ」

 

 供御飯さんはしばらく手帳とにらめっこしていたが、「一月はちょっと無理そうどす」と言って首を振った。

 

「残念やなぁ。こなたが空いとる日とお弟子さんとのレッスンの日が同じやなんて」

 

「すいません。竜王戦の間はずっと中断してたんで、穴を開けるわけにいかないんですよ」

 

 それに……

 

『あ……あなたと一緒に初詣に行きたいの! 悪い!?』

 

 なんて言われちゃってるからなあ……

 

 あのときの天衣の表情を見ちゃったらもうね、絶対二人で初詣行こうって思うもんね。なんなら年末年始も天衣と一緒にいてあげたいなあなんて思っちゃうもんね。いや俺はロリコンじゃないよ? 天衣が可愛すぎるだけなんだよ? 

 

「……どないしたんどす?」

 

「へ?」

 

「急に黙りこくって、ニヤニヤしてはるけど」

 

「ニ、ニヤニヤなんてしてませんよ!?」

 

 まずい、供御飯さんがそばにいるのを一瞬忘れてた!

 

 なんとかしてごまかさないと!!

 

「あれですよ、天衣のことを話してたら、その、天衣の家はですね、えー、すごい豪邸で付き人もいるくらいで、えーと、その付き人の晶さんって人がですね、えーとですね、この間ですね、連盟の道場に来たときのことを、思い出したん、です、け、ど…………あの、どうかされました、か……ね……?」

 

 気づくと、供御飯さんの顔からはんなりとした笑みが消え去り、道に迷っている兎を発見した狐みたいな表情になっていた。

 

「神戸のお弟子さんの話になったら、急に挙動不審にならはったなぁ……」

 

 供御飯さんが目を細めてじっとこちらを見つめている! こ、こわい!!

 

「もしかしたら、竜王サンの悩み事いうのは、神戸のお弟子さんに関係しとるんかなぁ……?」

 

 ひいいいいいいいいい! 

 

「そ、そ、そんにゃことないでつよっ!?」

 

 ビクビクしながらも懸命に否定する俺のようすをしばらく観察したあと、供御飯さんはニュ~ッと口の端をつり上げて、こう呟いたのだった。

 

「今度のお休み、神戸までドライブするいうのもええなぁ~。……あいちゃんと銀子ちゃんも誘って」

 

 

 

 

 

 

 

 明くる年の天衣との初詣は、「いくら供御飯さんでも、まさか本気で神戸まで来ないだろう」という俺の読みが見事に外れて大惨事になるのだが、それはまた別の話だ。

 

 

 



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