昼食にはまだ早い時間、執務室には筆を走らせる音と判を押す音だけが淡々と響いていた。
この鎮守府の司令官、蝶野中佐は一息つこうと思い、補聴器を取り付けてから自分とは別の机で黙々と作業をこなす秘書艦へと声をかけた。
紫色の髪をした豪奢な艦娘、初春だ。
「ねえねえ、お初ちゃん」
「なんぞ、気になることでも?」
「仕事だるい」
「我慢せい。貴様がだらけては他のものに示しがつかぬ」
「はーい」
初春の声は不思議である。高いようにも低いようにも、張っているように緩んでいるようにも聞こえる。浮世離れした外見も合わさって、少しの会話を交わすだけで一服になると司令官は思った。
本格的な煙の一服は昼まで取っておこう。補聴器を外すと、仕事へと再び集中した。
*
一方の初春は、声をかけられたすぐ後に自分に割り振られた仕事を切りのいいところまで進めてしまい、一服が欲しいところだった。しかし司令官は補聴器を外してしまっている。
「どうしたものかの」
幸い、あと少し待てば昼食時だ。それまで待ってもいいだろう。一応間違いがないかもう一度書類に目を通していると、司令官がこちらに気づいた。
「あれ、お初ちゃん、もう自分の分終わった?」
「うむ」
「言ってくれればいいのに」
「聞こえなかろう?」
「手を振ってくれればいいのに」
「煩わしかろう?」
「気にしなくていいのに」
「一服いいかや?」
「どうぞどうぞ。あたしももう少しで終わるから、まあ待ってて。そしたら今日は外に食べに行こうか。午後は気が重くってね」
初春はキセルに火を入れながら今日の予定を頭に思い浮かべた。
「午後に大佐殿が来るんじゃったの」
「殿はつけない」
「わざとじゃ」
「お初ちゃんてば、もう」
そんな風に言いながらも司令官は手を動かしているが、なかなか終わらない。それもそのはず、秘書艦が判を押せる書類は、押せない書類に比べてひどく少ない。それは司令官が直接秘書として任命をしても、だ。
それを初春は歯がゆく思うが、気を遣えばこの司令官は尚更気を遣うだろう。
だからこそ、少し試してみたくもあった。
「午後はキセルも仕舞っておいてね。うるさい人は多いから」
「午後? もうすぐそこまで来ておらんかや?」
「……えっ」
司令官が慌てて補聴器のボリュームを上げるがもう遅い。足音は近づき終え、控えめながらも苛立たし気なノックが執務室のドアを叩いていた。司令官の顔がさっと青ざめる。
「ど、どうぞ!」
「失礼する」
執務室のドアが開くと、そこには一人の人間と艦娘がいた。
*
蝶野司令官は内心冷や汗をかいていた。
ドアの外に立っていたのは、今日の午後に訪れる予定だった大佐だ。その奥には、申し訳なさそうに初春と蝶野に頭を下げる大淀の姿がある。
「蝶野中佐。ノックが聞こえなかったかね」
「も、申し訳ありません。耳が少々不自由なものでして」
「承知している」
「あー、その、ご予定では今日の午後ということでしたが」
「少々早く着いてな。……しかし、人間がひとりもいなかったので、こうして直接出向いた次第だ」
そう、この鎮守府に人間は蝶野一人だけだ。掃除や雑事もすべて、なるべく艦娘だけで回るようにしており、客として人間を招くことはあっても通うものはいない。
「これは無礼をいたしました。先に応接室にてお待ちいただけますか」
「ああ。……ところで」
大佐は蝶野から、横でキセルをもてあそぶ初春へと目線を移した。
「随分と設備投資に予算を割いているようだが……受付の一人くらいおいてはどうかね」
そう言って初春の持つ螺鈿細工のキセルに手を伸ばそうとした。
「恐れながら!」
蝶野の発した声が、大佐の手を止めさせる。
「大佐は趣味をお持ちでしょうか?」
「趣味?」
「ええ。旅行、博打、美術、酒、何でも構いません」
「それはもちろん、一つや二つはあるとも」
「それは幸いでした」
蝶野は自分の机を離れ、初春の背後に立った。
「自分も趣味がありまして」
腰に手を添え。
「懐を痛めて邁進しております」
煙管を持つ手に指を絡めて。
「小道具一つ一つに至るまで」
なめらかな頬に唇を寄せる。
「こだわっているのです」
初春は表情一つ変えない。物のように、扱われるままでいる。
「……ならば、何も言うまい」
「ご理解いただけて何よりです」
初春からキセルをかすめ取ると、蝶野は所在なさげに立っている大淀に声をかけた。
「よっちゃ、あー、大淀。案内お願い」
「『ご命令』ですか?」
いつも通り愛称で呼びそうになった司令官を大淀がフォローする。蝶野は心の中でよっちゃんこと大淀に感謝して、しぶしぶ『命令』を下した。
「……そう、『命令』。ご案内して」
そう口にした途端、大淀の背が彼女の意志とは関係なく伸びた。普段の三割増しで鋭い敬礼をし、大淀は命令を拝領した。
「大淀、承知しました。こちらです、大佐」
大淀に促され、大佐はしぶしぶといった様子で蝶野に背を向けた。
「……なるべく早く来い」
「はい」
大佐が去り、ドアが閉じた。途端に蝶野は自分の椅子に崩れるように座り込み、背もたれに体重を預けた。
「あー……絶対変な趣味だと思われた」
「なんぞ、あの大佐に焦がれておるのかや?」
「お初ちゃんの方が百万倍好きだよ」
「それはうれしいのう」
蝶野は億劫そうに立ち上がると、キセルから灰を落として懐にしまった。
「おや、返してはくれんのかや?」
「お初ちゃんの耳ならずっと前から聞こえてたでしょ。あの人、足音を気にするタイプじゃないし」
「はて」
「ねえ、あたしを試したでしょ?」
「さてはて」
あくまでとぼける初春に嘆息する。
「さて。それじゃあ、あたしはちょっと打ち合わせしてくるから、ちょっと待ってて。それ終わったらお昼行こう」
「お願い、かや? 命令ではなく?」
「お願い、だよ」
執務室のドアを閉めながら、念押しするように言う。
「それじゃ、行ってきます」
*
本来予定していた会議にくわえ、ねちねちと小言を上乗せされたおかげで、蝶野司令官が執務室に戻れたのは昼食にはかなり遅い時間だった。
「ただいまー」
「おお、遅かったのう。腹が背になるかと思うたぞ? おまけに一服もできぬし」
そういう初春は本当に退屈そうだった。昨日掃除したばかりの机の上を布巾で拭いている。
「あれ、先にお昼行ってなかったの? それにキセルも部屋に戻れば予備が……」
「待てと言ったのは貴様であろう?」
「え、ちょっと待って」
命令はしていない。司令官が艦娘に動くなと『命令』をすれば、本当に指一本動かせなくすることも可能だ。それが蝶野には嫌で、お願いばかりを皆にしていた。
本来給金をもらえない艦娘たちに、人件費を切り詰めて設備投資として小遣いを渡していた。酒も煙草も鎮守府にあるだけではなく自分で好きなものを買えるよう手配もした。あだ名で呼んで気安く接していた。
精一杯、人間扱いをしていた。
なのにこれは何だ?
「一歩もここを出てないの? あたしが、お願いしたから?」
「うむ」
初春は、蝶野が出て行ってから本当に一歩もこの執務室を出ていないのだろう。
ちょっと待ってて、とお願いしたばかりに。
それは命令と何が違うのだ?
「……どうして?」
「どうして、とな?」
そう問うた時、初春は予想外の反応をした。
頬を薄く染めて、くすぐったそうに、例の不思議な声で答えたのだ。
「うれしくて、のう」
理解が追いつかない。
「うれし、い?」
「うむ」
「なんで?」
「……うむ?」
初春が怪訝そうな顔をする。
「わからんかや?」
「いや、全然」
初春はげんなりした顔でつかつかと歩み寄ると、蝶野の懐に手を突っ込んで煙管を奪い取った。
「え、ちょ、くすぐったいって。何? 何なの?」
「女心のわからんやつめ」
「いや、あたしも女なんだけど……」
初春の言うことが難しく、ちゃんと理解できないのは普段からたまにある。情けないとは思うが、この典雅で風情を心得た娘ほど機微に聡くなれというのも無理がある。
自分も一服してから初春の機嫌を取りなおし、昼食に向かうことにしよう。そう思って机に置きっぱなしにしていた煙草を手に取り、箱を開けた。
空っぽだった。
「……ねえ」
「何かや?」
「あたしのマルメラは?」
「退屈でのう」
「……買って来い」
「うむ?」
「買って来いって言ってんの! 『命令』!」
「ぬおっ……か、体が勝手に! こんなところで使わんでも……!」
「いいから早く行って来い!」
我ながら大人げないが、一服しようとして煙草を切らしていたときの失望感は吸っている人間にしかわからない。
命令された初春は、勝手に歩き出そうとする体を必死に押しとどめて、こちらになおも何かを言おうとしている。
「どうしたの? 何か言うことでも……」
「ひ、昼は? 昼餉は? 先に行かぬよな?」
今聞くことだろうか? 怪訝そうに思いつつも答えてやる。
「ちゃんと待ってるから、早くタバコ買ってきてよ」
「う、うむ。では行ってくるからの。待っておるのじゃぞ!」
司令官の答えを聞くと、初春は抵抗するのをやめて速足で執務室を後にした。
「変なの。さて、どこに食べに行こうかな」
何を食べようかと考えながら初春を待つ時間は十分ほど。
長く感じたその十分は、司令官が初春と同じうれしさを理解するには少し短かった。
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