架空の財閥を歴史に落とし込んでみる (あさかぜ)
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1章 幕末・明治時代:財閥の形成
1話 始まり・幕末:大室財閥(1)


 明治初期、金本位制の確立や国内産業の振興を目的に設立された「国立銀行」。日本全国に153行設立され、その後、紙幣の発行業務が日本銀行に集約された事を機に、多くの国立銀行が普通銀行に転換された。代表的なものとして、みずほ銀行の前身行の1つである第一銀行(東京)、現存している中で一番番号が小さい第四銀行(新潟)、逆に一番大きい百十四銀行(香川)などがある。

 国立銀行の中で後の都市銀行や地方銀行に統合されなかったのは、番号が若い順に

・第十四国立銀行(長野→東京:存続中に広島の銀行を統合、1918年破たん)
・第二十四国立銀行(長野:1885年閉鎖)
・第二十六国立銀行(大阪:1883年閉鎖)
・第三十三国立銀行(東京:1892年実質破たん後、閉鎖)
・第四十五国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第六十国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第七十五国立銀行(石川:1886年に第四十五国立銀行に吸収)
・第九十一国立銀行(福井→東京:1907年に破たん後、東京に移転し京和貯蓄銀行に改称、1930年に破たん)
・第九十七国立銀行(佐賀:1899年閉鎖)
・第百七国立銀行(福島:1934年解散)
・第百八国立銀行(福島:1887年閉鎖)
・第百十一国立銀行(京都:取り付け騒ぎと無理な貸し出しにより1898年閉鎖)
・第百二十五国立銀行(山形:1897年に第百七国立銀行に吸収)
・第百二十六国立銀行(大阪:1885年閉鎖)
・第百五十三国立銀行(京都:1886年に第百十一国立銀行に吸収)

となっている。

 「もし、上記に挙げた『普通銀行に転換する前に閉鎖された国立銀行』を前身とする大銀行があったならば・・・」、という『if』を、以前考えた事がありました。
 これとは別に、私は鉄道が好きで、その中で東武鉄道の根津嘉一郎が傾いた企業の経営に参画して建て直した事を知りました。
 そこで、この2つを合わせた、「もし、架空の財閥を史実に落としたらどうなるか」と考えました。


 大室財閥、旧十六大財閥(史実の十五大財閥)の一角であり、その歴史は幕末まで遡れる。幕末の横浜から始まり、現在で言う商社から始まった。その後、明治初期に東京に拠点を移した後、銀行・新聞・保険・海運・重化学工業などに進出し、大倉や古河に匹敵する巨大財閥、三井・三菱・住友に次ぐ総合財閥として太平洋戦争の敗戦まで君臨していた。

 戦後、GHQによって財閥解体の憂き目に遭うも、GHQによる占領後、銀行を中核に他の旧財閥・コンツェルンを取り込み「中外グループ」を形成し、三菱・住友・三井・芙蓉・第一勧銀・三和の各グループと共に「7大企業グループ」を形成した。20世紀末から21世紀初頭にかけての金融再編では、中核の中外銀行が三和銀行と経営統合した事で「UFJグループ」として再編されている。

 

 さて、その大室財閥の始まりは、京都市近郊に生まれたある一人の男から始まった。巨大財閥、大室財閥の成り立ちを紹介していこう。

 

___________________________________________

 

 彦兵衛は、1832年に乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)で生まれた。生家は農家でありながら、名字帯刀が許された。また、周辺農家に対する影響力も高く、周辺で生産された茶の取引も担っていたなど豪農であった。

 彦兵衛の父である久兵衛は、人格者であり地域からの信頼が厚かった。また、教育家としての面も持ち、地域の寺子屋の運営を任されており、子(彦兵衛を含め男子4人、女子2人)には特に農業や商業に関する教育も行っていた。

 

 転機が訪れたのは1859年、日米修好通商条約の締結に伴い横浜、長崎を始め5つの港が開港した。これによって、日本は海外に対して開かれる事となった。

 

 この時、彦兵衛は27歳、実家の農家と商売の手伝いをしていたが、三男である彦兵衛には実家を継ぐ事は出来ない(当時の家は長男が継ぐものだった)為、彦兵衛にとっては少々物足りない日々を過ごしていた。

 そんな時に、開港の事を風の便りで聞いた彦兵衛はこう考えた。

 

 『異国の人と取引すれば、今よりも大きくなる。今のままではこれ以上大きくなる事は無いだろう。それどころか、時流に乗り遅れて衰退するかもしれない。そもそも、自分は三男坊であり家が継げないのなら、一旗揚げるべきだろう。』

 

 彦兵衛は、横浜で商売をしたいと父に相談した。父は、『商いは、そう簡単に成功するものでは無い。ましてや、異国の人との商いによる成功など覚束ない』と反対した。しかし、彦兵衛も引き下がる事無く、現状の限界や自身の不満を父にぶちまけた。2日に亘る口論の末、父は根負けし彦兵衛の横浜行きを許した。この時、父は『仕入れ先に実家を含める事、失敗しても戻って来ない事』を条件とした。

 

 父からの許しが出た事で、彦兵衛は出発の準備を急いだ。荷物や商品、資金など必要なものは大量にあったが、父の伝手もあって年内に出発が出来た。

 翌1860年、彦兵衛は横浜に「彦兵衛商店」を出店、これが大室財閥の第一歩となった。



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2話 幕末②:大室財閥(2)

 横浜で商いをする事となった彦兵衛、取り扱ったものは茶・染料・絵の3つだった。

 彦兵衛の実家は豪農であり、そこで茶や藍や紅花といった染料の栽培をしていた。茶は、京に近い事から江戸程ではないにしろ大きな需要があり、染料についても京友禅による需要があった。また、藍や紅花などを染料に加工する紺屋も兼ねていた。その為、茶や染料を扱うのは自然だった。

 一方の絵は、彦兵衛の趣味であり、実家が紺屋である事から染料を入手し易く、自ら絵を描く事があった。また、コレクターという一面も持っており、他の人が描いた絵を集める事も多かった。加えて、1860年頃からヨーロッパで浮世絵などの日本美術が流行した所謂ジャポニズムが生まれた事から、需要が発生した。

 

 彦兵衛商店は、上記3品目を扱う現在でいう商社としてスタートした。しかし、開業して数年間は思う様に利益を上げられなかった。その理由として、仕入れにあった。

 茶や染料は実家から仕入れるが、実家は京の近郊であり、商売の場所は横浜である。船で運べれば良かったのだが、生憎彦兵衛は船を所有しておらず、物品は全て東海道経由での輸送となった。距離にして約500㎞、運ばれるのに約2週間掛かる。そして、道中には追い剥ぎ(山賊)がいた事から、金品などを運ぶのにも苦労する事となった。

 その為、納品の遅れや仕入れ元への支払いが出来なくなるという問題に悩まされる様になった。一方、この問題によって彦兵衛は、仕入れ元から納品先へ早く運ぶ方法や、万が一物品が被害を受けた時の損失を少なくする方法を考える事となるが、その成果が出るまでには暫く時間が掛かる事となる。

 

 一方、取引相手である海外の商人との取引は比較的順調だった。当時の日本の貨幣問題に、日本と欧米での金と銀のレートの差を利用した金の流出問題があった。しかし、彦兵衛が金(小判)を用いず、銀(洋銀)と銭で取引をしていた事から、その被害は比較的少なかった。勿論、無傷では無かったが、他の商人と比較して傷が浅かった事が、この後の拡大を容易に出来たと言えるだろう。

 

 出店当初は利益が出ない事もあったが、何とか経営が軌道に乗った矢先、世間を揺るがす大事件が立て続けに起きた。旧暦1867年10月14日大政奉還、同年12月9日大政復古の大号令布告、翌年1月3日鳥羽・伏見の戦いを発端として戊辰戦争勃発。徳川幕府が無くなり、天皇を中心とした政権の発足が謳われた直後に、新政府側と徳川幕府側との対立が発生した。戦争の経緯は省略するが、その中で彦兵衛はどう動いたのか。



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3話 幕末③・明治初頭:大室財閥(3)

 戊辰戦争中、彦兵衛はどう動いていたのか。動きと言えば、仕入れ元、特に実家の安否の確認だった。

 戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いは、京の近郊である伏見の街と鳥羽街道沿いで起きた。京の郊外で戦闘になったのなら、京の市街で戦闘が起こらない保障は無かった。また、京に近く経済の中心である大坂への戦闘の波及の可能性もあった。実際、鳥羽・伏見の戦い当時、将軍徳川慶喜は大坂城に居り、戦いに敗れた旧幕府軍の軍勢が大坂に撤退していた。そして、彦兵衛の実家である乙訓郡は西国街道沿いにある。西国街道は、京阪間の街道の1つであり淀川右岸(現在のJR東海道本線が通っている方)を通っている。淀川左岸の京街道と比較すると重要性は低いが、万が一新政府軍が両街道から進軍して、途中で戦闘になったら、実家などが被害に遭う可能性があった。

 その為、彦兵衛は実家と他の仕入れ元に安否の確認を取った。当時の連絡手段だと、迅速な連絡は出来なかった為、確認までにひと月以上掛かったが、概ね無事である事が分かった為安堵した。

 

 この戦争中、彦兵衛は新政府・旧幕府両軍に対して、物資や資金面での支援をする事は無かった。その理由は3つあり、1つ目は、彦兵衛商店そのものが食糧や武器弾薬を取り扱っておらず、経営が軌道に乗り始めた頃で資金面で不安定であった事から、支援をする余裕が無かったのであった。

 2つ目は、この戦争でどちらが勝利するか分からなかった事だった。新政府軍は錦の御旗を掲げている、つまり帝の軍隊である事を意味しており、これに刃向かうものは朝敵となる事を意味した。帝の権威は大きく、逆らうより従う方が多いだろう。

しかし、新政府の中核である薩長が、帝を誑かした君側の奸である可能性もあった。また、旧幕府側はまだ充分な兵力を残していると考えると、旧幕府側が勝利する可能性も少ないながらもあった。その為、どちらか一方に肩入れして敗北した場合、没落するのは目に見えていた。

 3つ目は、戦争の展開が早く、動こうと思う間に戦争が終わった事だった。鳥羽・伏見の戦いの戦いから江戸城開城まで約2か月であり、戦争そのものも約1年半で終結した。動いて結果が出る前に大勢が決してしまったのである。この後に出来る事と言えば、新政府軍の支援をするぐらいだが、それをすれば勝ち馬に乗じた連中と同一視されかねず、彦兵衛はそれを嫌い、戦争中殆ど支援をする事は無かった。

 これにより、旧幕府軍を支援しなかった事で没落する事は無かったが、同時に新政府軍を支援しなかった事で政商路線に乗れなくなった事も意味した。

 

 政商路線に乗れなかった彦兵衛は、別の形で事業拡大をする事を考えた。それは、倒産寸前の他の業者を買収して拡大するという、現在で言うM&Aだった。この頃、幕府と密接な関係にあった商人が、幕府の崩壊によって没落した。また、急激な変化に追いつけていない商人もいる事から、それらを取り込んで拡大する事は容易であった。

 特に彦兵衛が望んでいたのは、同業の商店と廻船問屋の2つであった。前者は、より多くの物品を取り扱う事で更なる増収とリスク分散を目的とした。後者は、自前の流通網を保有していなかった事で、仕入れ元から納品されるまでの時間が掛かっていた事からの反省であった。

 

 彦兵衛商店がM&Aによる拡大をしていた頃、巷で大ニュースが飛び込んだ。『都が、京から東京に移った』と。



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4話 明治初頭②:大室財閥(4)

 戊辰戦争中の旧暦1868年10月に、帝が東京(江戸から改称)への行幸が行われ、翌年3月に再度行われた為、東京への遷都はほぼ確実と言われた。

 彦兵衛にとって、これは絶好の機会と考えた。その理由は、東京の人口の増加と京都の地位低下だった。

 都が東京に移るという事は、中央官庁の機能も東京に移る事を意味する。そうなれば、官僚が東京に移動してくる為、その分人口が増加する。そして、人口が増加した分だけ、商売相手も増加する事になる。

 それと連動して、今まで都だった京都は中央省庁とそこに仕えていた官僚が東京に移動する事で、京都の人口は減少、特に官僚や公家などのお金持ちの多くが東京に移る事となる。「都」という特別な地位を手放すだけで無く、お金持ちの多くがいなくなってしまう事は、権威と経済的地位が低下する事を意味する。

 この2つの出来事から彦兵衛は、幾つかの考えを実行した。それは、

 

・本拠地を東京に移動。ただし、暫くは横浜を本拠地とし、東京での整備が出来次第移る。

・京都にいる商人の取り込み。取引相手の公家などが居なくなった事で困窮している可能性がある為、保護の形で傘下に入れ、規模や取引相手を拡大する。

・京都、大阪、神戸への拠点増設。横浜や東京だけでは、大阪や西日本の情報を得られにくい。尚、これは「京都にいる商人の取り込み」が進み次第、人の異動という形で行う。

 

の3つであった。

 特に重視したのは、3つ目の「京都、大阪、神戸への拠点増設」だった。その理由は、戊辰戦争での経験だった。あの時は情勢を上手く掴めなかった事で、後に勝利する新政府への支援を行えなかった為、政商路線を採れなくなった。彦兵衛自身は、政府との癒着によって政府に振り回される事を心配したが、政府と結び付く事で拡大を図れる事も考えていた為、『あの時、支援していれば・・・』という念を多少持っていた。この決断を下せなかった理由の一つに「正確な情報を持っていなかった為」と考え、勢力拡大と情報収集を目的とした新拠点の設立を模索した。

 そんな中での東京遷都であった。商店の他の人(当時、彦兵衛商店は十数人を抱えていた)は、『勢力拡大には賛成だが、地位が下がった京や大阪からの情報は必要なのか』という疑問があったが、彦兵衛は『未だに大阪の地位は衰えていない。それに、西の情報を得るのなら、西に拠点を持つ以外に無い』と答えた。一部の者はこれに賛成したが、まだ疑問に持つ人はいた。彼らに対し彦兵衛は、『これで失敗したのならば、私を殺しても構わない』と言い放ち、彦兵衛の覚悟を見誤ったと自らを恥じた事で、全体の一致で西の拠点を設ける事が決まった。

 

彦兵衛が京都に拠点を設けようとした理由の中に、極めて個人的な理由もあった。それは、実家で後継者と目されていた長兄の伯兵衛が亡くなった事だった。



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5話 明治初頭③:大室財閥(5)

 当時、家を継ぐのは基本的に長男だった。彦兵衛の実家の大室家だと、一番上の伯兵衛がそれに当たる。そして、伯兵衛自身も後継ぎとしての才覚を発揮し父久兵衛の手伝いをしていたが、体が余り丈夫で無い事が不安視されていた。不幸な事にその不安が当たってしまい、戊辰戦争後に急に体調を崩してしまい、東京遷都と同じ時期に40歳で亡くなってしまった。

 長男が亡くなってしまった為、後継ぎとして次男の仲兵衛が選ばれたが、問題は仲兵衛自身が実家の跡を継ぐ事に乗り気でない事だった。仲兵衛は学者肌であり、特に農業についての造詣が深く、栽培や耕作についての本も出している。この点だけであれば、農家を継ぐ人物としては全く問題無い所か、継ぐべき人物と言えるだろう。

 しかし、大室家は豪農であると同時に、商家でもあった。長男には商売人としての才覚があったが、次男にそれが弱かった。この点から後継者とする事が不安視された。

その為、伯兵衛の息子を後継ぎにして、仲兵衛はその補佐に当たるという案も出た。伯兵衛の子供は4人おり、内3人は男子、一番上の男子が14歳であり元服も終えていた事から、後継ぎにする事は可能だった。しかし、その息子が近所で暴れる、勉学に励まないなどの問題児であり、後継ぎとするには不適格と見られた事から、次男に後継ぎが回ってきた(庶民で長子存続が明文化されたのは1875年。それ以前は特に決められていなかった)。

 これに対し、仲兵衛個人としては、『後継ぎは弟なり兄の息子なり誰かに任せ、自分は農学に専念したい』と考えていた。

 

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 兄の葬儀の後、父久兵衛、次男仲兵衛、三男彦兵衛の3人が集まり、彦兵衛がある提案を出した。それは、『実家の生業である農業と商店を分割、農業は仲兵衛に、商店は彦兵衛にそれぞれ相続させる』というものだった。彦兵衛は、この機を利用して更なる拡大を考えた。

 この考えに、仲兵衛は乗り気だった。自分からは言い出しにくかったが、向こうから言ってくるのであれば特に反対する理由は無かった。

 久兵衛も、それぞれの強味を生かした相続になる事から大きく反対はしなかった。一方で、どちらが本家を継ぐのかという事を明確にする事を条件とした。この後起きる可能性がある、次男と三男のお互いの子供が遺産や家督の相続で揉める事を減らす目的であった。

 彦兵衛は、

 

・本家は次兄及び長兄の血筋とする

・私(三男彦兵衛)の血筋は分家筋とする

・分家筋は本家の血筋の者を養子に入れる場合、及び家督を相続させる場合はお互いの了承を必要とする

・分家筋が本家に血筋の者を養子に入れる場合、及び家督を相続させる場合も同様とする

・財産の相続についてはお互いに不干渉とする

 

事を両者に約束した。つまり、独立する代わりに、家の存続に関する事以外の事でそちらに首を出さない事とした。一応、正月や盆などには一族の者として集まる事はするが、ここで関係を切る事となった。

 尤も、これは『余り自分と深く関わらずに静かに暮らしてほしい』という、彦兵衛なりの気遣いでもあった。

 1875年、父の久兵衛が無くなると、彼は葬式に出席したものの、久兵衛の遺産(古美術品など)の一切の受け取りを拒否している。これは、彦兵衛なりのけじめであった。彼曰く、『私は本家の人間ではない。故に、遺産を受け取る資格無し』と。

 

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 兄の死とそれに伴う相続問題という暗い出来事もあったが、それをバネにするかの様に彦兵衛商店は拡大した。東京遷都の翌々年(1871年)までに、東京、京都、大阪、神戸の各拠点の設置と人員の再編成は完了した。同時に、取り扱う商品も増やした。特に重視されたものが洋書だった。

 これは、日本が近代化をするに当たり、産業や教育などありとあらゆる分野で西洋の技術が用いられる事となり、それを国内で学ぶとなれば、それらに関する書物が必要になると考えた。その考えから、横浜と神戸にある欧米の商館から洋書の購入を行い、それを政府に卸す事を始めた。

 これは一定の成功を収める事となったが、彦兵衛はある不満があった。それは、「値段の高さとそれに伴う利益の低さ」だった。洋書を欧米の商館から購入する事から、どうしても数は限られる上に値段も高くなってしまう。もう少し値段を安くできればより多く売れるのと考えた。

 この考えから、洋書の直接輸入と自家出版を思い至るのだが、これが実を結ぶのはもう少し後の事となる。



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6話 明治初期:大室財閥(6)

 兄の死後、大室家の体制は、実家は農業を継ぎ、彦兵衛は商業を継いで独立という事になった。兄の死を切欠に、彦兵衛も後継ぎについて考えた。

彦兵衛は横浜に出店した年に結婚しており、1871年当時、3人の子供(2男1女)を儲けており、現在夫人のはやが4人目を身籠っていた。しかし、この子供達が無事に成人する保障は無く(一番上の男子が9歳だった)、無事成人したとしても後継者たる才覚を持ち合わせているかどうか分からなかった。

 彦兵衛も、家業を実子に継がせたいと考えていた。その為、後継者教育の方針をこの時期に固めた。それは、「元服後、実家とは別の商店で働き、暫くしてから実家に戻り家業の手伝いをする」事だった。これは、実家で働かせた場合、「経営者の息子」である事を理由に従業員や取引相手に横暴な態度を取る事が考えられた為だった。その点、関係が無い他の商店ならその様な態度を取る事は無く、送り先も遠慮無く指導してくれるだろうと考えた。勿論、送り先の商店のスパイになって戻ってくる事も考えたが、別の視点や角度から考えられる人物を欲していた事から、メリットの方が大きいと判断した。

 この方針が彦兵衛のみならず、彦兵衛の家計の家訓として代々継がれる事となった。

 

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 1874年、ついに念願だった東京・築地への本拠地移転が行われた。築地となった理由は、外国人居留地が近い事、鉄道の駅(新橋駅、後の汐留駅)に近い事があった。本拠地の建物は擬洋風建築の3階建てであり、周辺にある商館や公的施設に負けない様に、日本の城郭風の屋根が乗っている事から、周辺からの注目を集めた。

 この数年間で、彦兵衛商店は急速に拡大した。その動きを新聞、銀行、保険、商社、海運の順に見てみよう。

 

 まずは、新聞であるが、これは同時に出版・広告代理店への起点でもあった。

 前話で、彦兵衛商店が洋書の取引を始めた事、同時に現状の取引に不満を覚えた事は述べた。そして、洋書を取引した事である事を考えるようになった。それは、『この本の内容を日本語にすれば、より売れるのではないか』というものだった。

 そう考えた彦兵衛は、洋書と同時に外国語辞典も購入し、自ら和訳したものを販売するようになった。これは、洋書の購入を減らす事による支出の低下を狙ったものだった。

 しかし、これは当初は上手く行かなかった。当時、満足な和英・英和辞典が無かった為、1冊訳すのに多くの時間が掛かった。その為、コストも洋書を購入するよりかは抑えられたもののそれでも高かった。

 それでも、この事が切欠で独自に和英・英和辞典が編纂される事となった。また、和訳された洋書を出版・販売出来る事が受けて、土木・産業・交通などの書物を内務省から、教育関係の書物を文部省からそれぞれ製作・発注の依頼を受ける様になった。この依頼によって、彦兵衛商店は両省との関係を深化させていく事となった。

 加えて、ある出来事が出版コストを大きく下げる事となった。それは、新聞社の購入だった。

 当時、無数の出版社が出てきては消えていく時代だった。これを見た彦兵衛は、経営が苦しい新聞社に『ウチが支援します。その代わりに、洋書の翻訳や出版、ウチの広告を出して下さい』と持ち掛けた。

勿論、新聞社の中には『金持ちの言いなりになりなりたくない』という理由で門前払いされることもあった。しかし、全ての新聞社がそうであった訳ではなく、財政的理由でこの話に乗ったところも多かった。都合、東京・横浜・京都・大阪・神戸で合わせて30社がこの話に乗り、その後もこの話に乗る新聞社が現れた。

 

 この話が纏まった事で、各社への資金援助と同時に、各新聞社による彦兵衛商店の広告の開始と、出版・翻訳業務への参入が行われた。当初こそ、慣れない業務への参入による不手際や、新聞社と彦兵衛商店との意見対立があったものの、次第に資金面で優位に立ち人材も送ってくるようになった彦兵衛商店側が主導権を握った。

 後に、彦兵衛商店系の新聞社が大合同し「大日新聞」となり、出版部門と広告部門もそれぞれ「大日出版」「大日堂」として再編された。また、通信部門として「大日通信社」も保有しており、他の通信社を統合していった事で、日本電報通信社・新聞聯合に並ぶ通信社となったが、1936年に全業務・人材を同盟通信社に譲渡して解散となった。



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7話 明治初期②:大室財閥(7)

ようやく、当初の目的だった『閉鎖された国立銀行を前身とする普通銀行があったら』という部分になります。


 1872年、国立銀行条例が制定され、その翌年には第一国立銀行が発足した。これにより、金と等価の紙幣が発行される事となった。尤も、紙幣を発行できるだけの金の準備が出来ない事が多く、4行の設立に止まった。これを受けて、1876年の改正によって金以外の準備でも設立可能となり、以降全国で国立銀行が設立され、最終的に153行設立された。また、国立銀行とは別に、1876年には三井銀行が、1880年には安田銀行(後の富士銀行)が設立された。

 

 この様な流れの中、彦兵衛は銀行への参画にはこの時は懐疑的であった。その理由は、銀行がどの様なものか理解出来ていなかった為であった。一応、彦兵衛商店における取引の中には両替商に似た事を行っている事から、参入は不可能では無かった。しかし、ノウハウの不足と資本面での不安から、単独での参入は不可能と考えていた。

 その為、他の銀行への出資や経営に参画する事と、銀行のみならず金融全般の勉強を商店全体で行う事で、将来的な銀行業への参入を狙った。特に、本拠地となった東京、西日本における中核拠点の大阪で設立される銀行への参画が予定された。

 この考えの下、1878年に設立された東京の第三十三、大阪の第二十六と第百二十六の各国立銀行に出資した。これが銀行業参入への第一歩となったが、この時はあくまで出資者としての参画であり、経営者としてでは無かった。

 当時、まだ彦兵衛が銀行業への知識不足から、『自分達が経営を握っても、上手く出来るかは分からない。現在は、銀行業の事を知る必要がある』と考え、海外からの知識の吸収に勤しんでいた。幸い、彦兵衛商店は洋書の取引を行っており、その中には銀行についての書物だけでなく、金融業全般や簿記についての書物もあった。それらから、銀行運営のノウハウ、投資術、簿記の付け方や活用法などを、商店の主要な人材達が4年掛けて隈なく吸収した。

 

 大きく動いたのは、1882年10月だった。出資していた第百二十六国立銀行が閉鎖するかもしれないとの知らせが届いた。この意見を受けて彦兵衛商店では、この機会を利用して第百二十六国立銀行を買収し銀行経営に参入しようとする意見と、もう少し時間をかけて学んでから参入するべきという意見で分かれた。これに対し彦兵衛は前者、つまりこの機会に銀行業に参入する事を決定した。彦兵衛曰く、『確かに、我々が学ぶべき事は多い。しかし、実際に経営してみなければ分からぬ事も多い。これを機に、我々が学んだ事を生かしてみよう』との事だった。

 

 この言葉と決定により、彦兵衛商店が電撃的に第百二十六国立銀行の経営権を掌握した。銀行側も、『少しでもお金が戻ってくるのならば、こちらも反対しない』として、この動きを止めなかった。かくして、第百二十六国立銀行は彦兵衛商店が経営権を握った。

 その後、出資していた第二十六、第三十三国立銀行も翌年までに買収して第百二十六国立銀行に一本化した。その後、第四十五、第六十、第九十七、第百十一の各国立銀行と一部の民間銀行を1898年までに買収、統合し、1900年という節目に第百二十六銀行(1898年に国立銀行から普通銀行に転換)を大室銀行と改称した。

 

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 続いて、保険業である。

 彦兵衛は、保険業への参入に意欲的だった。商人である彦兵衛にとって、倉庫の火災や船舶の沈没などによる商品の損失は避けたかった。その為、もし商品に不測の事態が発生した場合の損失を抑えられる何かがあればいいなと考えていた。この考えは出店当初から考えていたが、当時は知識やノウハウが無かった事から、考え程度で止まっていた。しかし、前述の金融業の勉強中に保険業についての書物を読んだ事で、保険業への参入は現実味を帯びる事となった。

 加えて、出店初期に外国商人の勧めで火災保険と海上保険に加入していたが、ここで保険の有用性を認識した。同時に、日本国内の保険を外国に握られるのは不味いと考え、日本人の手で保険を作れないかと考えた。

 

 こうした考えの下、1879年8月に日本最初の本格的な損害保険会社である東京海上保険(後の東京海上火災保険)が設立されたのを受けて、同年10月に彦兵衛商店内で保険業への参入が計画された。その中で、単独で設立か他社との合同で設立するかが検討された。

 単独設立派は他者からの妨害を受けない事を、共同設立派はリスクを抑えられる事をそれぞれメリットとして掲げた。共に意見として一理あった為、どちらで始めるかが中々決定しなかった。仕方なく、彦兵衛を含めた主要人物全員による多数決で決められる事となった。その結果、僅差で単独設立派が勝利した。この決定で、単独設立の方向で動く事となったが、同時にその動きは共同設立派が中心となって行う事が決められた。これは、争いで敗れたからと言って計画から外す事は無いというメッセージだった。

 こうして、1883年2月に大室火災保険が設立された。決定から設立まで1年以上掛かったのは、知識の吸収に時間が掛かった為であった。その後、前述の銀行業への参入によって一時苦しかった資金繰りに目途が立ち、新聞社への影響力拡大によって広告を出せるようになって顧客を増やす事に成功した。この後、当時勃興していた類似保険会社や後続の損害保険会社を買収、子会社化していく事で拡大を重ねていき、1925年に社名を大室火災海上保険と改称した。

 

 上記の大室火災保険とは別に、1897年に大室倉庫保険が設立された。こちらは、火災保険や海上保険を扱う大室火災保険とは異なり、動産保険を扱く事を目的として設立された。こちらも同業他社を買収していく事で拡大し、1933年に東亜動産火災保険と改称した。この頃には、安田財閥系の日本動産火災保険(後の日動火災海上保険)、野村財閥系の東京動産火災保険(後の大東京火災海上保険)、東京川崎財閥系の日本簡易火災保険(後の富士火災海上保険)と合わせて「動産四社」と呼ばれた。

 

 生命保険の参入は遅かった。これは、ノウハウの不足と庶民の生命保険に対する理解不足からだった。その為、当初は参入する予定は無かったが、大室火災保険が買収した保険類似会社の中には、生命保険に類するものを運営するものが多かった。これらをそのまま廃止すると混乱が生じる事となり、かと言って、お門違いのものを扱う気も無かった。結局、同じ類似保険会社の共済五百名社(後の安田生命保険)と、日本初の近代的な生命保険会社として設立された明治生命保険に売却した。

 しかし、その後の明治生命の成功と生命保険業の拡大を見て、生命保険への参入が急がれた。当時、大室火災保険が買収した損害保険会社の中に、生命保険も兼営している会社があった事から、これらの生命保険部門を分離させて、1895年に東亜生命保険として設立した。その後、他の生命保険を買収して拡大し、日本・第一・明治・帝国(後の朝日生命保険)・千代田・安田・三井・住友の各生命保険と共に「九大生保」に名を連ねた。




明治初期だけでなく、その後の事についても多少書きました。展開が急ぎすぎていると思いますが、申し訳ありません。


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8話 明治初期③:大室財閥(8)

 彦兵衛商店が設立して以降、時間と共に規模や業績は拡大していった。主な事業内容は商社と海運業だった。

 

 商社部門は、彦兵衛商店の祖業と言える。設立当初から扱っている茶や染料、美術品に、その後洋書や国内開発や産業開発用の機械や資材も扱う様になった。洋書については前述しているが、それ以外の機械や資材の取引は、外国の商館を吸収する事で獲得した。

 明治に入ってしばらくすると、日本に進出したは良いものの利益を上げられない商館も出てきた。利益を上げられない以上、店舗を置き続ける事に意味は無い為、引き上げるものも多かった。

 これに彦兵衛商店は目を付けた。外国の商館が持っている代理店の機能や販売ルートを利用できれば、取り扱える商品の種類を増やす事が出来る上に、輸出先も増やせると踏んだ。勿論、逆に利用されて買い叩かれるという意見もあった。だが、ここは積極姿勢で行くべきという彦兵衛の熱意によって、撤退する商館の買取に走った。

 結果的にこれが功を奏した。三井物産や大倉組(後の大倉商事)、高田商会には劣るものの、国内の商社では前述の3社に次ぐ規模に拡大した。主要取引先は、洋書の取り扱いで繋がりを得た内務省と文部省、産業振興を行っていた工部省である。内務省・工部省向けに各種機械や鉄道用資材、鉱山用資材を、文部省向けに教材が納められた。特に内務省・工部省向けの納品は、当時両省が「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下、国内の開発に勤しんでいた時期であった為、大きな需要があった。

 しかし、1880年代半ばになると、官営の工場や鉱山が民間に払い下げられた事、それによって工部省が廃止された事で大きな需要を失ってしまう。これによって、彦兵衛商店の業績は悪化するかと思われたが、そうはならなかった。

 

 1880年代半ばは、後で言うところの「第一次鉄道ブーム」であった。日本鉄道(現在の東北本線や常磐線などを建設した会社)から始まり、日本各地で鉄道会社が設立され、日本中に線路が敷かれた時期だった。つまり、鉄道を造る上で必要になる線路や車輛、枕木などの需要が高まっていた。そして、当時の日本でこれらを自作出来る能力は無かった為、輸入するしかなかった。

 そして、彦兵衛商店は内務省・工部省関係で鉄道用資材の輸入経験がある事から、この需要に乗っかる事が出来た。その為、彦兵衛商店の被害は最小限で済む所か、彦兵衛商店が自前の銀行を持っている事から、銀行による出資と合わせて、資材と資金の両面で鉄道会社に強い影響力を有する事が出来た。この時の経験から、鉄道会社との関係を強めていく事となる。

 

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 彦兵衛商店では幕末から明治にかけて、廻船問屋を多数吸収した。これによって、自前の流通機能を有する事が出来、今までネックだった仕入れ元(京都周辺)から店舗(横浜)への時間を大幅に短くする事が出来た。明治が10年程経過してもそれは変わらない所か、仕入れ元を増やす事が可能となり、扱う品や量を増やす事による増益も出来た。加えて、佐賀の乱から始まり西南戦争までの士族の反乱では、微力ながら物資や兵員の輸送に関与して、この時に陸軍や海軍とのパイプを形成する事に成功した。

 その一方、当時の日本近海の海運は、三菱系の「郵便汽船三菱会社」と三井・政府色が強い「共同運輸会社」に二分されていた。両社は後に統合して日本郵船となるが、当時はがっぷり四つに組んでの大激闘を繰り広げていた。共同運輸会社の運航開始は1883年1月(設立は前年7月)であり、日本郵船の設立は1885年9月の事の為、約2年半の間で共倒れになるのではと言われる程激しい競争が行われていた。

 両社の競争が行われていた頃、彦兵衛商店の海運部門は特に何もしていなかった。政治的影響力や資金力の面で三菱に勝つ事は不可能と悟っており、極力競争しない分野(地方間航路や自社の貨物だけを扱うなど)に進出した事で何とか生き残った。

 

 拡大こそ小規模だったが、海運部門も十分に稼ぎ頭だった。一方、日本郵船の設立は、再び国内航路が独占になるのではという恐れから、彦兵衛商店では海運部門の拡大強化に乗り出した。同時に、彦兵衛商店の海運部門を「大室船舶」として独立させた。これは、海運部門が大きくなり過ぎる事による経営資源の配分問題、彦兵衛が商社部門に注力したかった事に起因する。

 

 この時、彦兵衛は自力での船舶建造を考えた。現在保有している船舶は、全て外国からの輸入であり中古も多かった。国内で建造したものは多くが帆船であり、汽船が多い日本郵船や海外の海運会社と競争するには不十分だった。その為、自力での船舶建造を考えたのだが、三菱と異なり造船所の払下げを受けていない事から、自前で造船所を建設しなければならなかった。流石にそこまで自力で行うのは負担が大き過ぎる事から、この時は諦める事となった。自前の造船所を有するのは、日清戦争後の1899年まで待たなければならなかった。

 

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 上記2つの業務に加えて、彦兵衛商店ではある事が重視されていた。それは「情報」である。戊辰戦争時の経験から、情報を素早く手に入れる事で決断を下しやすくなると学び、急速に発展する新聞を見て、情報を素早く集める手段になると睨んだ事で、多くの新聞社を傘下に収めた。そして、東京・横浜・京都・大阪・神戸に出店した事は、より多くの情報を複数の目線で見る事を目的としていた。それだけ、彦兵衛は情報を重視した。

 この為、彦兵衛商店内に独自に経済・治安・風習などを調査する部署が設けられた。商社と海運は、国内各地で取引を行う事から、調査をするのに打って付けだった。調査部門は長らく商社の一部局として存在しながらも、海運部門や金融部門とも緊密な繫がりを持っていた。




次からは、大室財閥とは別の財閥の話になります。数話使うかもしれません。「なぜここで?」と思うかもしれませんが、

・時系列順に並べたい
・戦後に中外グループとして合流する

事が理由です。その為、大室財閥とは無関係ではありません(戦前だと繫がりは弱い)。

次回も見てください。


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9話 明治中期:大室財閥(9)

申し訳ありません。当初予定の別の財閥の話ですが、考えを纏める内に明治初期(明治10年代)では合わない事が分かりました。その為、大室財閥に関する話が続く事となりました。読者を裏切ってしまい申し訳ありませんでした。

また、今回の話は7話の後半に書いた保険会社の事が多くなります。1度書いた部分ですが、今回は設立の経緯を少し掘り下げています。


 大室財閥は、1880年代までの業種は商社・海運業・銀行・保険(損害保険)・新聞の5つだった。これだけでも、当時から見れば多角的な経営を行っていると見られただろう。これが更に多角化していくのは、日清戦争以降の事となる。少し時を進める事となる。

 

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 1894年、日清戦争が勃発した。東アジアの大国清との、朝鮮半島の主導権を巡る戦いが始まった。詳しい結果はここでは述べないが、日本が勝利した。その講和条約である下関条約によって、朝鮮半島の独立や賠償金の獲得、台湾と澎湖列島、遼東半島の割譲が決定した。

 

 この戦争中、大室財閥が行っていた事は兵員・物資の輸送ぐらいだった。海運業を行っていた為、朝鮮半島に送る兵員や物資の輸送に動員された。

 しかし、この時の動員である事実が出た。それは、「船が徴収されると、自前で活用できる船が殆ど無い」事だった。実は、彦兵衛商店が所有している船は、自分達の需要を満たす程度しか無かった。その為、今回の様な事態が発生すると、会社の経営が危うくなると見られた。実際、戦争中の商社部門の売り上げが、前年比2割減だった事を考えると、この事態は危険だった。

 その為、以前考えられていた「自前の造船所を保有する」計画が実行に移される事となった。場所は、堺が選ばれた。その理由は将来の事を考えて拡大しやすい事、鉄の加工に慣れた人材が多い事にあった。前者は言うまでも無いが、後者については少し説明しておこう。

 堺では、戦国時代から鉄砲の生産で知られており、刃物の生産でも有力な場所であった。加えて、この世界では堺の刀鍛冶や鉄砲鍛冶が合同して「堺鉄鋼金物」という会社を1888年に設立している。大室商店はこの会社と合弁という形で、1895年に「堺造船所」を設立した。この翌年に造船奨励法が交付され、造船所の建設に補助金が出る事も追い風となった。その後、造船所の建設が行われ、1899年に造船所としての機能がスタートした。

 ここで最初に建造された船に「大室丸」と名付けられた。1902年に竣工、総トン数は1200トンと小さく性能も平凡だったが、初めて建造した事に意義があった。この船は都合4隻建造され、彦兵衛商店の海運部門に投入された。

 

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 生命保険と動産保険が設立されたのもこの頃だった。

 生命保険は、当初こそ『人の生死を操れる』といった迷信があった事から不調だった。実際、大室財閥も一時近いものを持っていたが直ぐに手放している。しかし、前述した様に明治生命の成功によって、1890年までに帝国生命と日本生命が設立された。この3社の成功と日清戦争による死傷者の増加によって生命保険が軌道に乗れる条件があった事から、生命保険への参入が急がれた。当時は生命保険会社が乱立していた時期であり、この流れに遅れると先発会社に契約を取られ、経営が安定しないと考えられた為だった。

 こうして1899年に、大室火災保険が買収した保険会社の生命保険事業を分離・新設する形で「東亜生命保険」を設立した。当初は、大室財閥各社の社員とその家族を対象とした小規模なものだったが、その後は、日清戦争後に乱立した生命保険会社を買収する事で拡大し、銀行や商社の支店網も活用して日本各地で活動する様になった。加えて、この後の日露戦争や日本経済全体の拡大に伴い急速に規模が拡大し、千代田生命や帝国生命と肩を並べるまでになった。

 

 もう一つの動産保険は、倉庫業を始めた事と関係する。中核企業の彦兵衛商店内に、倉庫部門が設置された。これにより自社だけでなく、広告などで取引関係となった他者の荷物を扱う様になった。

 しかし、1893年に所有していた倉庫が火災で全焼、荷物も全て焼失する事件が起きた。発火原因は、自社の社員のタバコの不始末であった。これにより、彦兵衛商店は取引先に荷物の焼失に対する責任を負わなくてはならず、最終的に彦兵衛商店の謝罪と多額の賠償金によって決着した。

 これを機に、荷物が火災に遭っても被害を最小限に抑えられる保険、つまり動産保険を扱う会社の設立が検討された。当初は大室火災保険に任せる案もあったが、1社に集中させると万が一被害が多数発生した場合、保険金の支払いでショートする可能性を考えると、動産保険を担当する保険会社を別個で設立した方が良いと判断された。その結果、1897年に「大室倉庫保険」が設立された。

 大室倉庫保険はその設立目的から、当初の顧客は自社と自社と取引のある会社には限られていた。その為、規模としては小さかったが、万が一倉庫や荷物に被害があっても補償が発生する事が口コミで広がり、自然と保険加入者が増加していき、年々契約数も増加した。これにより大室倉庫保険は、彦兵衛商店や大室火災保険と並んで大室財閥の中核をなすようになった。



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10話 明治中期②:日林財閥(1)

ここから、大室財閥とは別の財閥になります。時系列的に書く予定の為、流れが途切れる事となります。しかし、この財閥のこの時期が過ぎれば、再び大室財閥に戻ります。

本来であればこちらを先に投稿したかったのですが、大室財閥の1880年代から90年代までの流れを途切れさせない方が良いと考えた事、当初は1880年代に入れようと考えましたが、設定を考えると1890年代になってしまう事から投稿が遅れました。
申し訳ありませんでした。


 日林財閥は、日本の中小財閥の1つである。「日林」という名前から分かる様に林業を主体としていたが、林業だけでなく農業や畜産といった一次産業、木材加工や家具製造、製糸業など木材を使用した工業が日林財閥の主要産業となる。

 戦後、日林財閥は財閥解体の流れで解体されるも、旧大室財閥と共に中外グループを形成した。これは、日林財閥の銀行部門である「日本林商銀行」が、戦時統合で大室銀行に吸収された為である。

 

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 日林財閥の創設者は、高田邦久という。彼は1832年生まれの広島藩の藩士であった。明治維新後、彼は明治新政府の下級官僚として活躍していた。

 しかし、東北視察の為、1888年に仙台まで開業したばかりの日本鉄道(後の東北本線)に乗車した際、その沿線風景を見て彼は思った。『山に木々が見当たらない。そして、誰もそれに危機感を持っていない。これではこの国の行く先は危ういのではないか』と。彼は武士出身ではあったが、広島藩時代に植林事業に携わっていた経験から農業や林業に明るかった。新政府に入ってからも、広島藩時代の経験を活かし林政部門で活躍していた。彼から見れば、日本は現在は近代化に邁進しているが、いずれ足元から掬われるのではと考えた。

 不幸な事に、この考えは杞憂に終わらなかった。明治以降、日本各地で鉱山の開発が進んだが、それによって山が消滅したり、鉱石を精錬する際に出る煙によって山が禿山になるなどして川の氾濫が相次いだ。

 彼はすぐさま官僚を辞め、植林と伐採を行う事を決意した。

 

 邦彦の第一歩は、苗木の育成からだった。植える木が無ければ植林自体が出来ない為である。彼が目を付けたのは、栗や各種どんぐり、マツとキリの4つだった。これらは、里山に生えており種子の確保がしやすかった事と成長が早い事から選ばれた。彼は、自分と自分と志を同じくする者達でそれらの種子を各地から集め、自宅の近く空き地で育てた後、一定程度まで育ったら、鉱山とその周辺部や鉄道沿線の荒地に植林した。これは、鉄道会社に対しては『枕木用の木材を提供する』、鉱山会社に対しては『木材の売却益の一部を渡す』という条件で協力してくれた事が大きかった。

 植林事業は数年、長ければ十数年の時間が掛かる事業の為、直ぐに結果が出ない。同士の中には痺れを切らす者もいた。それでも、鉱山を経営している会社や個人との営業を積極的に行った結果、足尾や小坂、伊豆など多くの植林先を獲得出来た事、最初に植樹した木が伐採可能になった事から、僅かながら利益を出す事が出来た。

 

 日清戦争後の1898年、邦彦は「日本林産」を設立し、今まで同士らと行っていた植林・伐採事業をそちらに移した。つまり、個人事業から法人化したのである。これは、経営範囲が拡大した事で個人活動では限界に差し掛かった事、外部資本を導入する事で事業の大規模化を狙った事にあった。

 同士の中には、金目当て目的になる事を嫌った者も出た。邦彦自身もその考えに反対しなかったが、同時に『お前らを養う事、そして日本全国で行おうと考えると、この方法しかない』と反論した。これにより、法人化反対派が抜ける事となったが、その数は少なくなかった。抜けた人達の意見としては、『金儲け主義になりたくない』『営利目的になる事から、逆に山を禿山にする』というものだった。邦彦もこの意見を聞き、会社の精神に『十年、二十年、百年先の事を考えよ。目先の利益に囚われるな』と加えた。林業は長いスパンで行うのであって、その事を忘れたら林業では無くなるという戒めであった。

 

 反対派の離脱もあって、日本林産のスタートは細やかなものとなった。しかし、株主を見るとそうとは言えなかった。なぜなら、主要株主に日本鉄道や古河本店、藤田組などが名を連ねていた為であった。日本鉄道については何度か出ている事から説明は省くが、古河本店と藤田組については少し説明する。

 古河本店は、古河市兵衛が設立した会社であり、鉱山と精錬を行っていた。古河本店は後に古河鉱業と改称し、日本の準大手財閥の一つである古河財閥の中核企業となる。日本林産との繋がりは、足尾銅山での植林事業に助力してくれた恩から来ている。もう一つの藤田組は、藤田伝三郎が設立した会社であり、日本林産との繋がりは、小坂鉱山と市ノ川鉱山での植林事業を手伝ってくれた事だった。

 

 巨大鉄道会社と2つの有力鉱山会社がバックに就いた事で、日本林産の信用力は比較的高かった。実際、この信用力を担保にして資金を借りたり、営業を行ったりするなどして、規模の拡大に勤しんだ。日本林産は設立したばかりで規模が小さく、このままではジリ貧になると見られた為であった。




林業については素人の為、間違った考えをしているかもしれません。しかし、素人ながら考えた結果が、本編での日本林産の行動になりました。


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11話 明治後期:大室財閥(10)

日露戦争の回となる為、人の生死に関する記述があります。また、海軍に対する批判もある為、気になる人がいるかもしれません。その点を注意して下さい。


 1904年、日露戦争が勃発した。この戦争は事実上の総力戦となり、日本は官だけでなく民もその力を総動員した。戦争は1年以上続き、最終的に日本はロシアに勝利した。しかし、薄氷の上の勝利であった。ロシアと揉めた朝鮮半島は日本の勢力圏となり、ロシアから南樺太と遼東半島を含めた南満州の権益を獲得し、オホーツク海での漁業権を獲得した。しかし、外債を含めた国債の大量発行によって大量の借金を作り、当てにしていたロシアからの賠償金が無かった事から、日露戦争後の日本は借金返済に悩まされる事となった。

 

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 日露戦争中に大室財閥が行っていた事は、日清戦争時と同様に兵員・物資の輸送に加えて、国債の引き受けだった。しかし、前回と異なり今回は大室財閥もそれ相応の被害を受けた。それは、ロシア海軍の通商破壊だった。

 日露戦争時、ロシア海軍は二手に分かれていた。遼東半島の先端部の軍港旅順に太平洋艦隊(旅順艦隊)が、ロシア極東の港湾都市ウラジオストクに巡洋艦を主力とした高速艦隊(浦塩艦隊)が置かれていた。日本海軍の目は、戦艦を多数有する旅順艦隊に向けられていた。陸軍が満州方面に進む上で、補給路の確保や後方の安全という意味では旅順艦隊が邪魔だった。一方、浦塩艦隊はそこまで重要視されなかった。主力艦が巡洋艦が数隻しか無かった為だった。

 しかし、日本海軍は浦塩艦隊の対処に手間取った。旅順艦隊への対処に注力し過ぎた事で、浦塩艦隊にまで手が回らなかった為だった。そのツケは大きかった。主戦場となる南満州への兵員・物資輸送で使用していた日本本土から朝鮮半島までの海路が、浦塩艦隊によって何度も襲撃された。それによって、南満州に送る予定の物資や兵員が途中で沈められるといった事が多発した。それだけでも問題だったが、更なる問題として浦塩艦隊が日本沿岸に出没し、航行中の船舶の撃沈や拿捕が発生、極め付けは東京湾付近にまで進出した事だった。これに対し国民は激怒し、海軍の無能を呪った。最終的に、浦塩艦隊は蔚山沖の海戦で壊滅的打撃を受けた事でその後の活動は低迷した。

 

 戦争が終わった後、彦兵衛は現状に不安を感じた。その理由は2つあり、海軍が浦塩艦隊にいいようにされた事を気にしていない現状への不安と、船舶や人員に被害があったのに補償が無い事だった。

 彦兵衛は戦争後、『海軍がバルチック艦隊を破った事を祝うのは良いが、浦塩艦隊にいい様にやられた事を忘れているのではないか』と考える様になった。確かに、ロシアの本国艦隊であるバルチック艦隊を相手に日本海軍は大勝した。しかし、浦塩艦隊にいいようにされていた事は、この大勝利の陰に隠れてしまった。彼は経験から、負け戦から学んで次に備える事が重要である筈と考えていた。つまり、浦塩艦隊に撃沈された常陸丸の悲劇を繰り返さない様に、通商護衛を充実させるべきではと考えた。実際は、日本海軍は日本海海戦の勝利から艦隊決戦を重視する事となり、通商護衛については二の次とされた。

 彦兵衛はこの状態に冷や水をかける為に、日本政府と軍部に「通商護衛の充実」という意見を出した。そして、単独では簡単にあしらわれる事を見越して、日本郵船を含めた撃沈された船舶の持ち主と連名で提出した。

 これに対して、軍部の意見は分かれた。海軍の多くは、日本海海戦の勝利から艦隊決戦思想に移っており、この意見に歯牙にも掛けなかった。

 一方、陸軍と海軍の一部はこの意見に賛成した。陸軍は、常陸丸事件の記憶が鮮明であり、あれが無ければ満州での苦戦は和らいでいたのではと考えていた。海軍の賛成派も、自分達の不手際で海路が分断され国民から批判された事から、それを避ける為にも通商護衛に力を注ぐべきではと考えた。

 これにより、陸軍と海軍、海軍内の艦隊決戦派と通商護衛派に分裂し、あわや組織の分裂という事態に成りかねなかったが、両軍の重鎮と時の政府が仲裁に乗り出し、解決策も取られた。それは、「鹵獲したロシア艦をロシアに売却し、その浮いた維持費や人員で護衛部隊を創る。艦艇の多くは旧式艦艇とし、主力艦隊の艦齢を一新する」という、艦隊決戦派と通商護衛派の両者の面子を立てたものとなった。勿論、ロシアの軍事力の復活への恐れや海軍拡張を唱える者の反対もあったが、それについては軍の重鎮と政府の圧力で潰した。

 こうして、通商護衛部隊の設立がされると思われたが、戦後不況によってこの動きは低調だった。この動きが再び大きくなるのには、第一次世界大戦まで待たなければならなかった。

 

 もう一つの「船舶や人員に被害があったのに補償が無い事」については、国会でも問題になった事案だった。朝鮮半島や南満州だけでなく日本近海も戦場となり、一般人にも被害が発生した。加えて、開戦となってロシアから退去させられた日本人の存在もあり、彼らの補償問題をどうするべきかに政府は直面した。

 最終的には、1909年に退去者に対する救恤(補償金や見舞金など)だけが決定し、船舶やそれに付随する被害については補償されなかった。政府の言い分としては、「金が無い、被害もよく分かっていないから補償出来ない」というものだった。政府の言い分も分からないでは無かったが、だからと言って一切の補償無しというのは納得行く筈も無かった。

 彦兵衛は、終戦後から沈んだ自社の船舶の遺族や被害を受けた会社に対する補償を自費で行った。国が行ってくれないのなら、自分が行うしかないと考えた為だった。足りない資金は、自宅や自分名義で所有する土地を売却するなりして工面した。大室銀行や大室火災保険、東亜生命保険はこの事態に憂慮し、彦兵衛の反対を押し切る形で彼に資金援助をした。

 

 彦兵衛はこれ以降、『国の為に死ぬのも奉公だが、自らが持つ知恵を生かして、国に尽くす為に長生きする事もまた一つの奉公』と考える様になった。そして、社員の死に対して敏感になる様になった。




この話で歴史が変わりました。史実では、旅順艦隊の着底した艦やバルチック艦隊の鹵獲艦を日本海軍の籍に入れましたが、この世界では、それらの艦艇はロシアに売却し、その分の資金や人員を通商護衛部隊に投入しています。また、海軍主力艦艇の整備が多少早まります。
民間からの要請で動くのかと考えましたが、事態を深刻に考えた重鎮(陸軍の大山巌や山縣有朋など、海軍の山本権兵衛など)が賛成した為、反対派も矛を収めざるを得なかったとしました。都合が良すぎると考えていますが、この世界の日本は多少甘く設定している為、細かい点は見逃して下さい。


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12話 明治後期②:大室財閥(11)

 日露戦争によって被害を受け、国から補償を受けられず、自社の被害の補償を行った事で、大室財閥全体の傷は大きかった。しかし、この行動が大室財閥の信頼を上げる結果となり、後の躍進に繋がったと言えるだろう。

 私財をなげうって補償をした事が、『社員を家族の様に大事にしている』と捉えられた。一方、『国が補償しなくても、大室さんなら補償してくれる』というスケベ心がある者もあったが、これはこれで取引相手や保険の契約数、融資先の増加に繋がった。

 

 日露戦争後の大室財閥が行った事は、発生した被害の穴埋めとその為の拡大、組織の近代化の2つだった。

 日露戦争によって、彦兵衛商店が保有していた船舶に被害が生じた。目立つものでは、大室丸型貨客船の3番船「築地丸」が沈没し、その他大小合わせて4隻が沈み3隻が損傷を受けた(内、1隻が修理不可と判断され廃船)。この被害の穴埋めと老朽化が著しかった船舶の一新、海外航路の開拓を目的として、3千トン級の貨客船を10隻近く建造する計画を立てた。

 勿論、これだけ大量に建造するには資金や資材が不足する上に、所有している堺造船所の現状では造船能力も不足しており、ノウハウも不足していた。その為、他の造船所に発注を依頼する事も考えた。当時、日露戦争後の不況によって造船所の能力を持て余し気味だった為、交渉が纏まれば発注する予定だった。

 能力では最も高かった三菱の長崎造船所(後の三菱重工業)は、自社向けの船舶の建造やライバル企業向けの船舶は造れないという意向で発注されなかった。しかし、長崎造船所に次ぐ能力を有する川崎造船所(後の川崎重工業)や、鉄船の建造能力がある東京石川島造船所(後の石川島播磨重工業)と横浜船渠(後に三菱重工業が買収)が発注に応じてくれた。これにより、堺造船所と川崎造船所で3隻ずつ、石川島と横浜船渠で2隻ずつ発注された。

 これらの船は1910年から次々と就航し、彦兵衛商店が保有していた旧式船舶を次々と更新した。これにより、積載量の増加と輸送速度の向上による経費の削減、海外航路(東アジア・東南アジア航路)への進出が可能となった。

 

 彦兵衛商店の海運部門の両・質の両面で拡大したが、商社部門についてはそれ程拡大しなかった。元々、軍との繫がりが弱かった為、兵器の輸入や軍への納品が少なく、高田商会や大倉組の様に、軍と密接にある商社の様な急速な拡大をしなかった。それでも、鉄道用資材や工作機械などの輸入を手掛けた事、国内の取引相手を囲い込んだ事で緩やかではあったが拡大を続けた。

 

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 1908年、彦兵衛商店は組織改革を行った。それは、

 

・彦兵衛商店は「合名会社大室本店」と改称し、商社部門と海運部門を分離、銀行や保険などの株式を保有する純粋持株会社とする。

・商社部門は「大室物産」、海運部門は「大室船舶」と命名し株式会社化する。

・それ以外の銀行や保険などの子会社も株式会社化し、大室本店の傘下に収める。

 

の3つだった。目的は、組織の近代化と有限責任とする事で事業を守る事だった。

 今までの形態では、組織の拡大と柔軟な対応が難しくなるとの彦兵衛の判断からだった。彦兵衛自身は大室本店のトップに収まり、大室物産と大室船舶の社長には、彦兵衛商店時代からそれぞれの部門のトップが引き継いだ。

 また、有限責任とする要因に、皮肉な事に日露戦争後の補償と関係する。補償の影響で、彦兵衛自身の資産は大きく減少した。彦兵衛商店と大室銀行などは、多少の出費はあったものの財務状況は悪化しなかった。しかし、当時の彦兵衛商店は彦兵衛が無限責任を負っていた。その為、仮、ここで彦兵衛が破綻していていた場合、彦兵衛商店も破綻した可能性があった。それを回避する為、今回の分離策が採られた。

 

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 彦兵衛商店の組織改革と同じ年に、日露戦争後の補償の一環として、貯蓄銀行と弱体保険への進出が行われた。これは、戦争によって夫や息子を亡くした家族が困窮するのを抑える目的に行われた。当初は、社会事業の進出も考えられたが、彦兵衛の資産が減少した事でこの時は出来なかった。

 

 貯蓄銀行は普通の銀行と異なり、法人などの大口需要を対象とせず、市民を対象とした零細な需要を対象とする。その為、預金の下限額も低く設定されており、預金の使用目的も国債や金融債などの証券に限られる。彦兵衛は『僅かな預金でも将来の安息を』と考え、貯蓄銀行への参入を実施した。

 行名を本店が置かれている場所(大室本店内)から「築地貯蓄銀行」と名付け、同じ大室財閥系の第百二十六銀行や東亜生命保険などの支店網を活用して、京浜・京阪神地区での活動を行った。また、大室財閥の各企業と同じ様に、他の貯蓄銀行を買収する事による規模の拡大と預金集めに余念が無かった。これにより、規模の面では日本有数の貯蓄銀行として名が知られる様になったが、当初の目的であった戦争未亡人などを対象とした預金集めは上手く行かなかった。

 

 もう一つの弱体保険は、戦争から帰還し除隊した兵士を対象とした。一般的な生命保険では、重傷を負った人や病気の人は加入出来ないという欠点があった。それを穴埋めする目的で、弱体保険の設立を目指した。

 社名は「日本弱体生命保険」として、本社は東亜生命保険本社に同居する形となった。当初は、弱体保険のノウハウが無かった為、海外から弱体保険会社の社員を雇って指導してもらう事や、海外の書籍で学ぶといった事から始まった。数年に及ぶ教育の結果、当初の目的だった退役兵士を対象とした保険加入は少なかったが、今までの生命保険では入れなかった人も入れるという事から、その様な人を対象とした加入者が増加した。

 

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 大室財閥は、1908年の組織改革を以て近代的な組織に生まれ変わった。基幹事業として、彦兵衛商店時代からの商社と海運業、拡大を続ける銀行や各種保険の金融業、躍進著しい造船業が挙げられる。

 同時に、日露戦争の悲惨な現状を知り、弱者に対する支援も打ち出した。銀行や保険の整備、社会事業への進出に代表される。

  1912年7月30日、明治天皇崩御。この出来事を以て「明治」という時代は終わり、「大正」へと進む。




今回の内容は雑となってしまい、見にくいかと思います。
今回の内容を簡単にすると、

・船舶の自社発注と外注の実施
・彦兵衛商店分離、財閥化
・社会的弱者に対する事業の開始

と言ったところでしょうか。


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13話 明治後期③:日林財閥(2)

 会社設立後、植林と植林した木の伐採だけでは採算に乗らないと邦久は判断した。その為、更なる拡大と新規事業への進出が計画された。具体的には、

 

・未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収

・他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ

・製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給

・新規事業への進出

 

の4つである。

 1つ目の「未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収」は、未開発の山林が多かった東北地方と北海道で中心に行われた。東北地方は、戊辰戦争の影響もあり開発が低調だった。『白河以北一山百文』と言われた程、東北地方の開発が遅れていた。一応、殖産興業の流れから、鉱山とそれに付随する産業の開発、鉄道の敷設こそ進んだが基本的に産業は農業と林業であり、関東や京阪神、東海などの地域とは比較にならない程遅れていると言わざるを得なかった。

 しかし、それによって山林の買収がしやすい事でもあった。そして、東北は秋田杉や津軽ヒバ、会津桐など有名な木材の産地であり、奥羽山脈など山岳地帯が多い為、木材の供給源としては有力な場所だった。そして、この買収が計画された時期(1900年代前半)は、日本鉄道や官営鉄道の奥羽本線が開業していた事から、輸送路が整備されていた事も大きかった。

 もう一つの北海道も、当時の日本でほぼ唯一の入植地(台湾は日清戦争で獲得したものの、治安の問題があった)であり、開拓が急速に進められた時期であった。その為、森林を切り開き開拓をするというスタイルで、平野部の開発が進んだ。一方、まだ内陸部の開拓は進んでおらず、急峻な山岳地帯が多い事から、大量の木材が眠っていると見られた。しかし、当時の北海道の鉄道は北海道炭礦鉄道と北海道鉄道(共に後の函館本線)しか無く、内陸部や太平洋側には鉄道が通っていなかった。その為、その地域での交通は徒歩や河川、船舶となった。

 これらを加味して、北海道への進出は沿岸部を中心に進出しつつ、本格的な進出は鉄道が整備されてからという事となり、暫くは東北での足場固めとなった。勿論、東北・北海道以外でも、林業が盛んな四国や中国山地、紀伊半島や中部地方内陸部の山林を買収した。これにより、日本林産及び社長の高田邦久は「山林王」と呼ばれた。

 

 2つ目の「他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ」は、そのままの意味である。1つ目の事と連動しており、当時、日本各地に張り巡らされた民間鉄道の沿線で経営を行い、枕木の供給や貨物輸送への協力を条件に出資してもらう事を考えた。これにより、巨大な資金を手に入れると同時に、日本各地に営業拠点を有する事となる。鉱山会社に対しても、治水面での利点や売り上げの一部を渡す事を条件に出資してもらう事とした。

 この時の民間鉄道は、関西鉄道(現在の関西本線など)や山陽鉄道(現在の山陽本線など)、九州鉄道(現在の鹿児島本線や佐世保線など)など現在の幹線路線を敷設しただけに、資本力も巨大だった。そして、出資者も元藩主や公家などがいる事から、信頼性も高かった。鉄道会社側としても、需要が急増している木材の輸送に関われる事は増益になるとして、各社の金額の多寡はあっても出資に応じてくれた。これにより、鉄道沿線での営業範囲は広がった。

 一方、鉱山会社からの出資は、中小規模のものが多い事や経営者の無理解などにより多くを得られなかった。最も期待した三菱や三井からの出資を受けられ無かった事も大きかった。しかし、鉄道会社からの出資が多かった事から、この事は大きなマイナスとはならなかった。

 

 3つ目の「製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給」は、20世紀に入って製紙業が勃興した事と関係する。明治以降、洋紙の需要が高まり、19世紀までに王子製紙と富士製紙という戦前の巨大製紙会社が設立された。当初は襤褸切れを原料としていたが、次第にパルプを原料とする様になった。日本林産はここに目を付けた。つまり、原料を売り込む事で巨大な需要に乗っかり利益を得るというものだった。

 または、巨大な需要があるのだから、自前で進出すればその利益を自分のモノに出来るという考えもあった。これは、王子・富士の両社は自前の山林を持っている事から、売り込む事は難しいとされた事に由来する。

 その為、邦彦は両者の意見の折衷案を出した。つまり、「中小の製紙会社向けに原料を売り込むと同時に、自前の製紙会社を設立、機を見て売り込み先を合併する」というものである。この考えにより、1902年に日本林産内に製紙部を設立し、製糸業に進出すると同時に、中小の製紙会社に対してパルプの売り込みを積極的にかけた。これが功を奏し、3社の製紙会社が日本林産の事実上の傘下に収まった。その後、1926年に日本林産製紙部が「日林製紙」として独立し、子会社製紙会社を取り込んだ。

 

 4つ目の「新規事業への進出」は、製紙業以外の分野への進出である。当初から、枕木や建材への加工は行われていたが、当時の日本で持て囃される様になった西洋家具、合板の製造に進出する事が計画された。これは、付加価値の向上、機械的な加工が製紙業と比較して少ない事から、製紙業よりも進出しやすいとされた。特に、西洋家具の製造は、木工細工の技術を応用出来ると考えられた為、より容易であるとされた。

 これを受けて、1902年に日本林産内部に木工部が設立された。当初の製品は、加工の甘さや接着剤の不備で失敗作が多く、木工部は赤字続きであった。その為、初期には廃止の計画さえあったが、技術の蓄積や本物の西洋家具を見本として制作する事で、独自に洗練された製品を世に送り出す事が出来る様になった。ここで製造された西洋家具は、鉄道会社や鉱山会社の貴賓室や社長室などに置かれる様になった。

 尚、この時の接着剤の不備から『自前で強い接着剤を作れないか』と考える様になり、後の木材化学への進出の始まりとなる。

 

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 日露戦争は、日林財閥にとって躍進の時だった。戦争という巨大な需要が発生する現象が起こり、ほぼ同時期に植林した木々が伐採可能になった事が重なり、会社設立以来最大の利益を叩き出したのである。そして、この利益を使って負債の処理を行っている。急速に規模が拡大した事で利益を拡大出来たが、同時に負債も拡大した。この負債によって、日本林産そのものを潰しかねないと邦久は考えた。その為、利益を上げている内に負債を処理する必要があると考えた。

 この考えは当たり、日露戦争後による不況で多くの企業が減益や倒産に陥る中、日本林産は減益となったものの、会社が大きく傾くまでには至らなかった。ここに邦久の慧眼があったと言えるだろう。

 

 しかし、日本林産の社長であり多角化戦略を打ち出した高田邦久は、1909年2月12日に76歳で亡くなった。彼の遺書により、後継者に息子の博久を指名し、社員は息子を支える様にとされた。

 息子の博久は、財務状況を考えた上での拡大多角化路線という父の路線を踏襲した。これにより、日本林産は地道ながらも拡大を続けられた。



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14話 明治後期④:日鉄財閥(1)

もう一つ、私はある『if』を考えていました。それは、『もし、鉄道国有法で買収された鉄道会社が解散せず、新たな事業を行ったら』です。
これは、「北海道炭礦鉄道」が買収された後、残った炭鉱業などを行う「北海道炭礦汽船(北炭)」に改称して存続した事から考えたものです。北炭が残ったのは他の事業があった為ですが、北炭が残れるのならそれらより大規模な日本鉄道や山陽鉄道、九州鉄道なども存続出来た筈と考えました。
そこで、今回考えたのが、日本鉄道や山陽鉄道などが合併、新しい事業を行う会社に改編するというものです。有力会社が何社も合併した為、北炭より大規模となります。


 日鉄財閥とは、日本の中小財閥の一つである。「日鉄」とあるが、戦前の国策製鉄会社「日本製鐵」やその後身の「新日本製鐵」とは関係無い。この「日鉄」は、「日本鉄道」から来ている。つまり、東北本線や常磐線を開通させた日本鉄道が、路線を国有化された後に他の業種へ参入した事から始まった。尤も、名称こそ日本鉄道だが、会社の母体は中央本線の新宿~八王子を開業させた甲武鉄道であり、日鉄も「日本鉄道興業」の略である。

 

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 日本鉄道以外にも甲武鉄道や関西鉄道、山陽鉄道や九州鉄道、北海道鉄道など当時の有力民間鉄道が前身となっている。それらが、1906年3月に制定された鉄道国有法によって同年10月から翌年にかけて買収され、鉄道会社としての使命を終えた。

 しかし、この中で日本鉄道の大内輝常、甲武鉄道の佐田幸甫、関西鉄道の阪田孝右衛門、山陽鉄道の文田清喜、九州鉄道の加西清兵衛、北海道鉄道の田川清助の6人が偶然にも同時期に、『このまま会社を解散させるのは惜しい。この資金と基盤を基に何か新しい事業を行おうではないか』と考えた。6人が一堂に会したのは1906年2月の事で、鉄道国有法が制定される可能性があると知り、会社から『政府の情報を細かく伝えよ』という命を受けていた。これにより、6人が東京に集まった。東京の宿場で彼らは偶然出会った。ここで、自分達の所属や考えを話し合った。

 ここでお互いの考えている事が同じだと判断し、もし買収された場合は新事業を打ち立てようではないかと画策した。同時に、他の被買収鉄道会社も統合させて、日本全国に展開しようとする事も構想された。その為、6人は鉄道国有法制定後から他の買収予定会社に『鉄道が買収された場合、残った会社を地域発展の為に使わせてほしい』とお願いした結果、多くの会社が了承してくれた。その条件として、株主に加わる事と社員を入れる事だったが、6人としても人手が欲しかった事から快諾した。

 

 1906年10月1日、北海道炭礦鉄道と甲武鉄道の買収から始まり、翌年の10月1日までに17社が買収された。他の5人が所属する日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、北海道鉄道、関西鉄道も17社に含まれた。この為、2月の会合で話し合った事が実行された。

 最初に買収された甲武鉄道を「日本鉄道興業」に改称してスタートした。その社長に大内輝常が就任した。彼は日本鉄道所属だが、改称時に日本鉄道を退職して就任した。彼が他の5人を纏めた為推挙された。その後、日本鉄道や関西鉄道なども合流し規模を急速に拡大した。

 事業内容は重工業、土木建設、金融事業、鉄道以外の運輸事業の4つを柱とする事が決められた。

 1つ目の「重工業」は、元鉄道会社という事から車両の整備の経験を活かしたものだった。また、甲武鉄道が電車を運用していた事から、電気機器の製作も含まれる。その為、社内に車輛部、機械部、電気部の3つの部門が設立された。

 尤も、官営鉄道は民間鉄道を買収した事で大量の車輛を確保しており、車輛が統一されるまでの数年間は発注が無い事は分かっていた。その為、蒸気機関車の技術の応用と電車の技術を利用して、ボイラーと発電機の製造に着手する事となった。工場は、上野の機関区の一部を借りた。

 しかし、運用や整備の経験はあっても製造の経験は無かった為、試行錯誤の繰り返しだった。ボイラーは、圧力不足で規定以上の馬力が出なかったり、造りが甘くて破裂するなどのトラブルが多発した。発電機の方も、直ぐに破損したり出力不足が相次いだ。その為、一時は閉鎖も検討されたが、海軍から技術者を呼び指導してもらう事で問題の解決に乗り出した。これは田川清助の考えであり、彼の兄が海軍機関学校で教官を務めていた事から実現した。海軍側としても、機関の製造元は多い方が良いと判断した。

 これにより技術的問題は解決し、海軍とのパイプを作る事に成功した。これが後に、造船や航空機産業に手を出す事に繋がった。

 

 2つ目の「土木建設」は、建設こそ行わなかったが、その後の補修についてのノウハウがあった。それと、当時建設に関わていた人を集める事で、土木事業への進出を図った。鉄道建設では必須となるトンネルや橋梁、駅舎などの建設・補修経験を生かして、今後増加するであろう鉄道建設や道路建設、大型建築に関わろうというものだった。その為に内部に設立されたのが土木部だった。

 この事業は早くから結果を出した。鉄道建設は、鉄道国有化と私設鉄道法の基準の厳しさによって新規の鉄道事業者が一時的に減少したが、1910年に制定された軽便鉄道法によって再び鉄道ブームが到来、ほぼ同時期に軌道条例に基づき路面電車により都市間輸送を行う路線が多数計画される軌道ブームも到来した。この2つのブームが重なり、多くの受注を獲得する事となった。これにより、土木部が設立当初の日鉄の一番の稼ぎ頭となり、他の部門への注力が可能となる程だった。

 因みに、この軌道ブームで誕生したのが、関東では現在の京急、京王京成、関西の阪神、阪急、京阪の各社となる。

 

 3つ目の「金融事業」は、鉄道会社向けに出資する目的があった。その為、内部に金融部が設立された。金融部の目的は、鉄道会社向けの融資と鉄道会社が発行した株式の引き受けだった。上記の鉄道ブームと軌道ブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かないと思われた。

 しかし、鉄道の免許こそ大量に交付されたが、会社として設立されていないものも多数あった。加えて、以前の鉄道ブームにもあった「実際には建設する気は無く、免許を他の会社に売る事を目的に取られた免許」が多数あると見られた為、出資には慎重だった。その為、この金融事業が拡大するのはもう少し後の事となる。尤も、この時既に将来有望な会社や路線を幾つかリストアップされている。

 

 4つ目の「鉄道以外の運輸事業」は倉庫業、小口の貨物輸送の2つを指す。倉庫業は、大規模な鉄道駅には貨物駅も併設される事があり、その為の倉庫の運営となる。小口の貨物輸送は、町や村から駅へ、またはその逆の輸送を担当する事となる。これらを目的とした「倉庫部」と「荷物部」が設立された。

 この事業も土木部並みとは言わないものの成功した。倉庫部は、町の貨物駅に付随する倉庫は小規模かつ短期間の使用の為赤字だった。一方、鉱山や港湾の貨物駅だと、大量のモノを長期間保管する必要がある事から大きな需要があった。加えて、それらの利用者が大口の顧客である事も大きな利点だった。

 荷物部は、貨物量の増加によって利用者も増加した。しかし、倉庫部と比較すると小口の利用者が多い事から、利益は倉庫部と比べると小さく伸びも小さかった。

 

 この4つの事業によって、日本鉄道興業は重工業、土木、金融、陸運をそれぞれ抱える大規模な企業となった。そして、幾つかの偶然と必然によって日本鉄道興業の発展の礎が築かれた。その様な中で明治は終わり、大正に入る。

 

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 尚、日本鉄道興業はその前身(日本鉄道や山陽鉄道など)の影響で、日本林産の株を所有している。この事から、両社は事業の分業体制(日本林産は第一次産業と軽工業、日本鉄道興業は重化学工業、金融などは並立)が取り決められた。




6人の日本鉄道興業内での役職

大内輝常(元・日本鉄道):「社長」
佐田幸甫(元・甲武鉄道):「副社長」兼「電気部部長」
阪田孝右衛門(元・関西鉄道):「金融部部長」
文田清喜(元・山陽鉄道):「車輛部部長」兼「機械部部長」
加西清兵衛(元・九州鉄道):「倉庫部部長」兼「荷物部部長」
田川清助(元・北海道鉄道):「土木部部長」


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番外編:人物紹介(明治時代まで)

遅くなりましたが、ここまで出てきた人達の簡単な紹介です。
内容は結構適当な所があります。


〈大室財閥〉

・大室彦兵衛(1832~)

 大室財閥の創設者。現在の京都府長岡京市生まれ。1859年、彼が27歳の時に、日米修好通商条約の締結により横浜など5つの港が開港した事を機に、横浜への出店を思い立つ。翌年、彦兵衛商店を開店。大室財閥では、この時を開業年としている。

 その後、海運・銀行・保険などに進出するも、戊辰戦争以来軍との関係が薄い事から、軍需という巨大な需要を逃している。代わりに、内務省などとの繋がりを有しており、その方面での需要を確保している。

 財閥全体の方針としては、「拡大と社会奉仕」を掲げている。

 彼は生涯、妻・「はや」との間に3人の息子と1人の娘を儲けた。親の顔としては、子に対して教育に熱心であり、社会教育についても、大室系の企業ではなく他の企業で学ばせている。その為、子供に対して厳しいと見られるが、家族だけには子煩悩な面を見せる。

 日露戦争によって、彼は死に対して否定的になる。そして、社員に対し「死して殉ずるより、生きて祖国の為に行動せよ」と考える様になる。

 

・大室久兵衛(1808~1875)

 彦兵衛の父。彼は地元の名士であり、豪農や庄屋を営んでいた。また、寺子屋の運営を任されており、子供たちに対する教育が熱心だった。これが、彦兵衛が独立する要因となる。

 

・大室長兵衛(1828~1868)

 彦兵衛の兄。久兵衛の後継ぎとして期待されていたものの、体が生まれつき多少弱く、遷都のショックで亡くなってしまった。亡くなった当時、3人の息子と1人の娘がいたが、長男の素行不良が目立った為、家長が仲兵衛に回った。

 

・大室仲兵衛(1830~)

 彦兵衛の兄であり、長兵衛の弟。長兵衛が亡くなった事で、後継ぎのお鉢が回ってきた。尤も、彼は後継ぎとしての才覚が無い事を自覚していた為、彦兵衛との間で農家と庄屋を分割し、仲兵衛は農家を継いだ。

 

 

〈日林財閥〉

・高田邦久(1832~1909)

 日本林産の初代社長であり、日林財閥の創設者。

 1832年に広島藩の藩士の家系に生まれる。彼の家系が広島藩の林業に携わっていた事から、彼も家業に関わった事で林業に関する知識を有している。戊辰戦争後、新政府の官僚となり、政府きっての林政通となる。

 その後、鉄道の開業や鉱山の開発で山の木が無くなり、中下流域で川の氾濫が増えた事を機に官僚を辞め、日本全国の植樹と植樹した木の伐採を行う事を決意した。同士数人で始まり、資金の多くも鉄道会社や鉱山会社からの借り物でスタートした。

 個人事業で始めた植林と伐採の事業は、1898年に設立した日本林産に移行した。この時、古参の同士が去ったものの、更なる出資を得られた事で社員は増加した。この時、邦久は社訓として「長期的に考えて行動せよ」と定めている。

 日本林産設立後、更なる規模の拡大や新規事業の進出を実行、これにより財閥化への目処を立たせた。しかし、この時の激務が原因で倒れてしまい、そのまま回復する事無く1909年2月16日に76歳で亡くなった。

 

・高田博久(1860~)

 邦久の長男であり、日本林産の2代目社長。

 父・邦久の遺書により社長に就任、就任当初は父の路線を踏襲した。

 

 

〈日鉄財閥〉

・大内輝常(1861~)

 元・日本鉄道の社員であり、日本鉄道興業の社長。尾張藩出身。

 彼が他の5人と東京で会った事が日鉄財閥形成の発端となり、社長就任の理由となった。

 

・佐田幸甫(1858~)

 元・甲武鉄道の社員であり、日本鉄道興業の副社長兼電気部部長。小田原藩出身。

 彼は甲武鉄道時代に電車の整備をしていた経験があり、甲武鉄道が最初に買収された事からこの役職となった。

 

・阪田孝右衛門(1863~)

 元・関西鉄道の社員であり、日本鉄道興業の金融部部長。大阪の商人出身。

 実家は有力な両替商であったが、明治維新後に廃業してしまった。しかし、親族は他の両替商や金融機関に入る事に成功、この伝手を生かして金融業の強化に乗り出す。

 

・文田清喜(1859~)

 元・山陽鉄道の社員であり、日本鉄道興業の車輛部部長兼機械部部長。中津藩出身。

 蒸気機関車や船舶の整備士という経験からこの役職に就いたが、整備と製造の違いは大きく、田川清助の助けを借りた。

 

・加西清兵衛(1860~)

 元・九州鉄道の社員であり、日本鉄道興業の倉庫部部長兼荷物部部長。博多の商人出身。

 実家が呉服店であり、反物などの仕入れのネットワークを生かし、荷物取扱量の増加を狙う。

 

・田川清助(1865~)

 元・北海道鉄道の社員であり、日本鉄道興業の土木部部長。米沢藩出身。

 彼の実家が大工であり、彼自身も北海道鉄道時代に工事の監督の経験をしていた。また、彼の兄が海軍機関学校の教官をしている事から、彼の兄の伝手を使って海軍から機関や電気などの技術提供を受けた。



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2章 大正時代:拡大と停滞と
15話 大正時代:大室財閥(12)


 1913年1月16日、大室財閥の創設者である彦兵衛が81歳で亡くなった。彦兵衛の葬儀は、彼の遺言により財閥の者だけで行われる筈だった。これは、彼が華美な事を好まなかった事から、派手な葬式や多数の参列者が来る事を嫌った為だった。

 しかし、彦兵衛死去の知らせを聞いて取引先の企業や中央省庁(内務省と文部省、内務省から分離した農商務省、逓信省、鉄道院)の幹部クラスの面々が参列した。当初、財閥側は彦兵衛の遺言を理由に彼らの参列を拒否したが、彼らは『せめて線香だけでも上げさせて欲しい』と猛烈にお願いし、彼らの熱意に負けて線香を上げる事を許した。

 葬儀の後に、遺産の配分が行われた。後継者については生前に決められており、長男の忠彦を大室本店の総帥に、次男の匡彦を大室物産の社長に、三男の淳彦を大室海運の社長にそれぞれ任命している。

 こうして、大正に入るとほぼ同時に、大室財閥は新体制を迎えた。

 

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 大正に入り、彦兵衛の息子達による新体制が発足した後も、大室財閥の動きに真新しいものは無かった。精々が、ヨーロッパでの拠点の増加だった。

 大室財閥は彦兵衛商店時代の1892年に、ロンドンとハンブルクに初めての海外拠点を設けた。これは、彦兵衛商店がヨーロッパの商館の日本支店を吸収した事で、ヨーロッパ、特にイギリスとドイツとの取引を持った事から始まる。当初は、商館時代のルートを使ってヨーロッパから車両や機械などを輸入していたが、取引量が増え彦兵衛商店の力が増えるに従い、中間手数料や手間を煩わしく思う様になった。そこで、直接進出すればその煩わしさから解放され、その分のコストを他の方面に投入出来るのでは考えた。そして進出したのが、取引量が多かったイギリスとドイツであり、取引の中心であったロンドンとハンブルクだった。

 その後も、ベルリンやパリなどヨーロッパの主要都市にも進出する様になったが、彦兵衛の晩年の1909年から急速に進出が拡大した。アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の主要都市に出店し、既存の支店の人員も増加させた。これは、彦兵衛が『ヨーロッパがきな臭い』と睨んだ為、つまり取引では無く情報収集の為の拠点だった。

 兄弟も、父から情報の重要性を何度も聞かされており、特に忠彦は過去に株取引で大損した経験から、情報収集に躍起になっていた。

 

 この動きは無駄にならなかった。拠点設立後、バルカン半島と東地中海では何度か戦争が発生し、開戦した事や交戦国内の情勢を大室本店に報告した。

 古くからヨーロッパの懸念であったバルカン半島問題が、1908年にオスマン帝国内で起きた青年トルコ人革命によって最高潮になった。革命によって以前から顕著だったオスマン帝国の内政不安が高まり、この隙を突く様に、セルビアやブルガリア、ギリシャのバルカン諸国が動き出し、その支援に列強(特にロシアとオーストリア)も動いた。

 1911年9月、リビアを巡ってオスマン帝国とイタリアが戦争を開始(伊土戦争)、これに乗じる形で1912年10月と翌年6月にバルカン半島でも戦争が発生した。12年10月の第一次バルカン戦争ではオスマン帝国対バルカン同盟(セルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロ)、13年6月の第二次バルカン戦争ではブルガリア対セルビア・ギリシャ・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアとなった。

 戦争の結果は、伊土戦争と第一次バルカン戦争ではオスマン帝国が、第二次バルカン戦争ではブルガリアが敗北した。この結果、オスマン帝国はリビアをイタリアに割譲し、ヨーロッパから殆ど追い出された。ブルガリアは、オスマン帝国から割譲されたマケドニアをセルビアとギリシャに奪われた。

 

 これらの情報を得た事で、大室財閥は取引の増減や先物取引によって利益を上げたが、戦争終了後にはバルカン半島・東地中海方面での取引を減少させ、一方で情報部門を強化させた。二度に亘るバルカン戦争でもバルカン諸国の要求を満たすものでは無く、未だに不満は燻っていた。そして、この戦争でオーストリアとロシアがそれぞれの後ろ盾として動いていた事から、次にこの方面で戦争が起きた場合はもっと大規模になると予想した。

 この予想は現実のものとなり、その結果も最悪な事となった。

 

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 1914年6月28日、オーストリア領となったサラエヴォでフランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人民族主義者によって射殺された。サラエヴォ事件である。(大公が諸事情で王位継承権が無いとはいえ、皇族が殺された事で)オーストリアは、この事件の背景にセルビア軍が関わっていると知りセルビアを非難、反オーストリア活動の全廃やセルビア国内での共同捜査などを要求した。セルビアは、国内にオーストリアの警察や司法が入る共同捜査については呑めず(それ以外については呑んだ)、オーストリアはこれを理由に国交を断絶、7月28日に宣戦布告した。

 このまま、オーストリアとセルビアの戦争で済めば良かったのだが、今までギリギリの均衡を保っていたヨーロッパ列強同士の緊張が、これを機に崩れてしまった。セルビアの後ろ盾のロシアが総動員を実施し(当時の考えでは、総動員の実施は宣戦布告一歩手前の行為に当たる)、これに釣られる様にオーストリアとドイツも戦争準備を実施、更に釣られてフランスとイギリスも戦争準備を実施した。こうなってしまえば後は止まらない。8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、各国も対立国に宣戦布告し戦争状態に突入、後に言う「第一次世界大戦」の始まりだった。




3月25日に一部大幅変更しました。

変更前
「イギリスのリバプールにエディンバラ、ドイツのケルンにダンチヒ、オーストリアのプラハにトリエステ、フランスのマルセイユ、イタリアのミラノなど、ヨーロッパ各国の中小都市に多数進出する様になった。」

変更後
「アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の首都に出店し、既存の支店の人員も増加させた。」

よくよく考えたら、こんな短期間に多数出店、しかも中堅都市への進出なんて不可能でした。それよりも、他のヨーロッパの首都への出店と人員増加の方が現実的です。


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16話 大正時代②:大室財閥(13)

今回は随分とゴチャゴチャとなってしまいました。その為、非常に読みづらいですが、多少でも理解していただければ大丈夫です。


 1914年8月1日、第一次世界大戦(当時は欧州大戦と呼んでいた)が勃発した。日本は日英同盟により同月23日にドイツに宣戦布告した。この戦争で、日本は直接的に戦火に曝される事が無かった事、ヨーロッパで膨大な物資が消費される事などから好景気に沸いた。これにより、日露戦争後から続いた慢性的な不況は消え、日露戦争で積み上げた膨大な外債も解消される所か、ヨーロッパの国々の国債を引き受ける様になった。

 大室財閥もこの恩恵を受け、物資の輸出や輸送で大室物産と大室海運が急速に拡大し、他の部門も拡大した。しかし、財閥の中枢にいた忠彦・匡彦・淳彦の三兄弟はある懸念があった。それは、「ドイツの潜水艦による通商破壊で、船舶が撃沈される事」と、「工作機械や電気製品など、日本で製造出来ないものが入ってこない事」だった。

 

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 「ドイツの潜水艦による通商破壊で、船舶が撃沈される事」は、日露戦争の浦塩艦隊の悪夢の再来と言えた。浦塩艦隊の様に、日本近海で暴れまわられる事は無かったものの、地中海や北東大西洋ではドイツのUボートが暴れており、連合国に所属する船舶が相次いで撃沈された。当然、日本も例外ではなく、ドイツ海軍によって靖国丸や常陸丸(2代目)などが撃沈されている。大室船舶でも芙蓉丸(日露戦争後に建造された3000t級商船の1隻)が撃沈されており、数十人の死者を出している。

 

 その為、大室財閥は再び「通商護衛の為の組織作り」を提言している。そして今回も日本郵船が加わり、前回とは異なり三井物産や三菱商事、鈴木商店など大規模商社も連名で提出した。

 この提言は日露戦争後に一度、陸海軍と政府に提言している。この時は、戦後不況や理解不足などで研究程度に留まった。しかし、今回はその時とは比較にならない程厳しい戦闘となり、地中海で通商護衛に当たっていた第二特務艦隊に被害が出た事で、司令官佐藤皐蔵を始め通商護衛派が『今こそ護衛部隊の充実を図るべき』と主張した。

 この議論の中で、『日本は通商立国であり、その為には商船が必要となる。しかし、戦争となればその商船に被害が生じる。それを守るのも海軍の仕事ではないのか』という意見が出された。当初は適当に流されるかと思われたが、日露戦争で第二艦隊に所属していた将校の中からこの意見に賛成する者が出た。そして、この賛成の意見に陸軍と政府も好意的に評価した事から、海軍としても反対する訳にはいかなくなった。

 

 この結果、海軍は第一次世界大戦の終結も踏まえて、計画していた「八八艦隊」の計画を大きく変更した。そして、海軍の作戦目的の中に「戦時における商船の保護」が加えられた。

 

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 「工作機械や電気製品など、日本で製造出来ないものが入ってこない事」は、まだ充分な重工業化が為されていない日本にとっては致命傷だった。造船業や製鉄業は勃興したものの、化学や電機の分野では弱かった。そして、当時の電機産業の主要国であったドイツとの戦争は、それらの輸入が完全に無くなる事を意味した。その為、大室財閥が考えたのは、「機械や電機、化学の技術を海外から導入、もしくは模範による国産化」だった。

 

 こうした考えの下1918年に設立されたのが、電機部門の「大室電機産業」と化学部門の「大室化成産業」である。尚、大室電機産業は、大室重工業(堺造船所が他の造船所や機械工場を合併した事で、1917年に改称)から電機部が独立して設立された。また、大室化成産業は、国内の中小化学・染料メーカーを買収・統合して設立した。

 

 こうして、新たに電機と化学を持った大室財閥だが、新設の両社は規模こそ其れなりなものの、技術力が低い事が課題だった。その為、技術力の向上を目的に、海外の同業者からの技術供与を受けた。大室電機には1922年にドイツのAEGから、大室化成も同じ年に同じくドイツのバイエルからそれぞれ出資を受けると共に、技術供与やライセンス生産を認めてもらった。これは、大室物産が戦後ドイツに再進出した際に、ドイツ企業に『日本での営業を強化しないか』と提案した所、敗戦によって困窮状態にあった企業が新たな収入源を欲した事と合致して成立した。また、古河財閥がシーメンスと合弁で富士電機を設立した事も影響した。

 これにより、海外の新技術の獲得に成功し、国内の他社との競争にも有利になると見られた。




この世界の日本海軍が、艦隊決戦一辺倒から転向した理由は、以前も述べた「浦塩艦隊によって、日本近海を荒らされた事」から来ています。次回当たりで、日露戦争後の日本海軍の事について書こうと思います。


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17話 大正時代③:日鉄財閥(2)

 大正に入り、日本鉄道興業は2つの事に注力する様になった。それは、鉄道会社への出資と既存事業の拡大強化である。

 

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 時代が明治から大正に移る前後、日本全国では鉄道や軌道の免許を取得する事がブームとなった。詳しい事は前に述べた為省略するが、このブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かなかった。この中で最大の出資先が、関東の中央軽便電気鉄道だった。

 中央軽便電気鉄道、武州鉄道と言った方が分かりやすいだろうか。史実であれば、1910年11月に中央軽便電鉄名義で免許を申請、その後は資金難や東京側のターミナルの場所で揉めるなどのトラブルがあり、1924年に蓮田~神根間が開業したものの、最後まで東京側の延伸が叶わず、利用客の低迷や銀行の貸し剥がしなどによって1938年9月に廃止となった。

 この世界では、日鉄が出資した事で資金の目処が付いた事で史実よりも2年早く開業し、加えて1927年に赤羽まで開業させた。ただし、この赤羽は国鉄の赤羽駅では無く、王子電気軌道(後の都営荒川線など)の岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)の事である。これは、武州鉄道と王子電軌が共に京成系の会社である事と関係している。

 これにより、東京側の拠点を有した事で武州鉄道は廃止されなかった。しかし、王子電軌との接続が達成されたが、武州鉄道の改軌・電化は行われず、戦時統合によって東武に統合された後にようやく電化が始まる事となる(東武に買収後、赤羽線と改称)。

 

 武州鉄道以外にも多くの会社に出資し、路線によっては傘下に収めた。出資の例では、温泉電軌(後の北陸鉄道加南線)へ出資し、史実では未完成となった粟津(恐らく粟津温泉)~小松間を完成させた。他にも、後の駿遠線を敷設する各社(藤相鉄道と中遠鉄道)に出資し静岡~浜松間の路線に転換させた。

 傘下に収めた例では、神奈川県の平塚から大山へ延びる大山鉄道、同じく平塚から八王子へ延びる八平軽便鉄道の両社を買収し、1912年に「相模中央鉄道」として統合させた。

 

 これらの活動が多く行われた事で日鉄の金融部は急速に拡大した。これにより、機械や電気などの事業部門と金融部門が一緒である事が不都合であるとされ、1916年に金融部が独立した。融資部門が「日本鉄道銀行」として、証券部門が「日鉄證券」としてそれぞれ独立した。

 また、これらの活動は、免許が大量に交付される1920年以降、盛んに行われる事となる。

 

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 鉄道向けの投資だけでなく、事業部門でも拡張を続けた。その中でも最大のものが、1915年に「日本興業」を買収し電気部に吸収した事と、1916年の大室財閥との提携である。

 

 日本興業は、才賀電機商会を前身とする電気会社であり、創業者は「電気王」と呼ばれた才賀藤吉だった。才賀電機商会はその名前通り、地方の電力会社や日鉄と同じく地方の鉄道会社への投資を目的とした会社であった。その為、才賀電機は電機会社では無かったが、地方の電力会社への機材納入や技術支援のノウハウがあった。

 当時、才賀電機は財務状況の不透明さが発覚し多くの不良債権を抱えていた事から、早急な再建案が求められた。史実では、懇意だった日本生命と北浜銀行(三和銀行の前身行の1つ)に出資を求めたが、日本生命の引き上げと北浜銀行の破綻が原因で倒産した。

 この世界では、出資団の一員に日鉄が参入し、上記2社が引き上げた後は日鉄が傘下に収めた。その後、人員やノウハウを全て継承する形で、日鉄電気部に吸収された。

 

 1916年、大室財閥が日鉄に出資と電気事業での協力を持ち掛けてきた。これは、日鉄にとっては突然の事だった。今まで、日鉄と大室財閥との関係は無きに等しかった為である。

 しかし、日本有数の財閥である大室財閥とのパイプを作れる事は大きく、この誘いを断る事は難しかった。相手の思惑は分からない上に、財閥の紐付きになる事に抵抗を示すものもいたが、巨大銀行を背景とした資金力と造船所を有する事による生産能力の高さは魅力的であった。また、単独で拡大した場合よりもリスクが抑えられる事と資源を注力し易くなる事などが考えられた。

 最終的に、日鉄はこの誘いに乗った。しかし、日鉄への協力か合弁会社の設立かから始まり、大室から派遣される役員の数、社名などの問題が中々解決せず、交渉だけで1年以上掛かってしまった。

 最終的にこの交渉は、大室財閥側が1918年に「大室電機産業」を設立した事で打ち切られてしまった。しかし、日鉄が大室電機の株を、大室重工業(大室電機の母体)が日鉄の株をそれぞれ15%持ち合う事だけが決められた。

 

 この時は両者は物別れに終わったが、この出来事で日鉄は大室財閥との繫がりを有する事となった。その後、戦争直前から戦時中にかけて、急速にその繋がりを深くする事となる。

 

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 第一次世界大戦は、日本経済にとっては日露戦争以来の不況を吹き飛ばす絶好の機会だった。日鉄もその恩恵を受け、金融部門や電気部門が急速に拡大した。

 しかし、同時に困った事でもあった。その理由は、「資材の高騰」である。戦争によって膨大な軍需が発生し、特に鉄は多くが戦争の為に供給された。

 一方、その分民需用の鉄の供給量が減り、値段も高騰した。加えて、土地の値段も高騰し続け、鉄道会社にとっては極めて建設しにくい状況だった。

 この様な状況では、日鉄としても出来る事は少なかった。精々、値段が下がるまで活動を休止させ、その後に資材調達や土地の買収を行うぐらいしか無かった。



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番外編:この世界での日本海軍(日露戦争後~第一次世界大戦)

今回は説明の為、非常に長いです。加えて、「書きたい事を多く詰め込む」という私の悪い癖が出てしまった為、回りくどい書き方となり非常に読みにくいかと思います。加えて、説明不足やご都合主義もある為、内容に繫がりが無いかもしれません。

書いた本人が何を言っているんだとは思いますが、本当に申し訳ありません。


 日露戦争で、日本海軍は日本海海戦で華々しい勝利を飾った。この勝利に国民は沸いた。しかし、陸軍と日本の商船団は戦後、海軍をこう批判した。『奴ら(海軍)は、自分達の武勲にしか興味が無いらしい。国が滅んでも、自分達が残っていればそれでいいのか』と。この批判は、浦塩艦隊にいい様にされた事を、日本海海戦の勝利で蓋をしようとした行為に対するものだった。日本は海外からの物資が無ければ戦えない、その事を忘れる事は許されなかった。

 日露戦争の反省で、海軍は通商護衛の為の組織作りをする事を政府と陸軍に約束する事となった。その一環として、史実では海軍に編入された旅順で着底した艦や日本海海戦での鹵獲艦の内、戦艦6隻をロシアに返却した。この行為に『折角の賠償品を敵国に返すとは何事だ』『ロシアが再び攻めてくるのでは』という批判もあった。しかし、戦後の厳しい状況では6隻の戦艦を保有するだけの余裕は無く、加えて、修理中にイギリスで建造中の戦艦「ドレッドノート」の情報が入ってくると、これら鹵獲艦の戦力価値はほぼ無くなった。この為、反対派も戦力価値が無くなった鹵獲艦を編入するよりも、新型戦艦を造った方が質的な戦力向上になると判断して、この動きに反対する事は無くなった。

 

 しかし、ドレッドノートの竣工は、当時日本が保有していた香取型戦艦や筑波型装甲巡洋艦(後に巡洋戦艦に変更)、建造中の薩摩型戦艦や鞍馬型巡洋戦艦も旧式化する事を意味した。その為、早急に弩級戦艦を保有する事が望まれた。この時計画されたのが、後に河内型戦艦と呼ばれる2隻の戦艦だった。

 史実の河内型は、艦首側と艦尾側が50口径30.5cm連装砲、両舷が45口径30.5cm連装砲だったが、この世界の河内型は全ての主砲塔を45口径30.5cm連装砲としている。この理由は、主砲を2種類載せる事による不都合の解消と、他の戦艦に載せられている45口径30.5cm連装砲にする事で調達予算の削減や予備砲塔の確保のし易さを考えての事だった。

 この動きに東郷平八郎は反対したと言われているが、設計側や事務方から主砲の統一によるメリットやコストについて説明されると納得せざるを得なかった。これは、海軍が日本海海戦の勝利で驕りを見せた事で、政府から『驕れる者は久しからず』と批判された事から、彼と艦隊決戦派の権威が史実よりも低かった事から、強く反対する事が難しかった為であった。

 

 こうして、史実とは異なり河内型が本当の弩級戦艦として完成する事となった。しかし、弩級戦艦が河内型だけでは戦力不足なのは目に見えており、河内型が竣工する1912年には、イギリスが34.3cm砲を搭載した戦艦を竣工させていた事から、いずれ河内型の戦力価値も無くなると見られた。

 この後、巡洋戦艦「金剛」のイギリスへの発注が行われるが、それ以降の36cm砲搭載の超弩級戦艦の調達は史実と同様である。

 

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 時代は少し先に進み、第一次世界大戦時、イギリスは日英同盟に従い日本の対独参戦とヨーロッパへの派兵を要求した。史実では、対独宣戦布告はしたものの、本格的なヨーロッパ派兵は行っていない。しかし、この世界では、海軍の主力艦隊がヨーロッパに派遣されている。

 この理由は、日露戦争によって海軍の権威が史実よりも低かった為だった。つまり、ヨーロッパに派遣する事で国内的には権威付けを、対外的には日本海軍の意地を見せる事が目的だった。

 理由としては少々子供じみていたが、イギリスとフランスが『派兵費用や物資などは負担する』と約束した事から、その規模は巨大だった。イギリスから希望のあった金剛型だけでなく、完成したばかりの超弩級戦艦「扶桑」を旗艦に河内型や薩摩型も派遣、戦艦5隻・巡洋戦艦4隻を主力とする「遣欧艦隊」が編成された。加えて、連合国の通商路を護衛する目的の特務艦隊が2年程早く編成され、これらも地中海やインド洋などに派遣された。

 尚、陸軍は派兵しなかったが、戦訓の確保を目的に多くの観戦武官を派遣した。

 

 こうして、史実以上の規模で派遣されたが、被害も史実以上となった。

 史実では、駆逐艦「榊」の大破が最大の損害だったが、この世界では、史実よりも2年早く派遣された特務艦隊に所属する駆逐艦が2隻沈められ、3隻が損傷、巡洋艦も1隻損傷した。これらの被害は、全てUボートによるものだった。そして、遣欧艦隊も「河内」と「安芸」がUボートによって攻撃され、「安芸」が撃沈されてしまった。

 海軍内では、最強と言われた戦艦が潜水艦によって簡単に沈められてしまった事に大きなショックを受けた。これを受けて、沈没した戦艦の代艦を建造すると共に、対潜護衛の充実を図る事となった。この議論の中で、『日本は通商立国であり、その為には商船が必要となる。しかし、戦争となればその商船に被害が生じる。それを守るのも海軍の仕事ではないのか』という意見が出された。当初は適当に流されるかと思われたが、日露戦争で第二艦隊に所属していた将校だけで無く、特務艦隊や遣欧艦隊の将校からもこの意見に賛成する者が出た。

 その後、これらの意見を纏めた報告書が本国に持ち帰られ、戦後の通商護衛戦の理論作りや護衛艦の充実、対潜装備の開発が進められる事となる。一方、この文書によって、後述の八八艦隊建設構想にブレーキが掛けられる事にもなった。

 

 遣欧艦隊は予期せぬ被害に遭ったものの、相応の戦果を挙げた。ユトランド海戦で、金剛型巡洋戦艦は「金剛」と「霧島」が中破したものの、ドイツの巡洋戦艦2隻を撃沈、2隻を大破させている。加えて、史実では沈んだ「クイーン・メリー」が金剛型の応援で助かった事などから、イギリスの勝利に貢献したとして、艦長や司令官らに勲章が贈られた。

 

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 さて、主力艦隊がヨーロッパに派遣された事で、国内である問題が発生した。それは、『日本近海に主力戦艦がいない事』だった。当時、国内にいた弩級以上の戦艦は「山城」だけであり、「伊勢」と「日向」は扶桑型の欠点から設計が改められた事で完成が遅れた。そして、他の戦艦は前弩級や準弩級の為、どうしても戦力的に見劣りした。現状では他の国が攻めてくる事は無いだろうが、それでも主力艦が居ない事に不安を覚える人はいるだろうし、何より旧式化した艦の代替が必要になる事から、その為の艦の建造が必要と判断された。

 そして、これらの予算は1915年に下り早急に建造が開始された。これにより、史実よりも1年近く早く八八艦隊の艦艇の建造がスタートした。また、大戦中に「安芸」の沈没やその他損傷艦が再戦力化するまでの繫ぎを目的に建造促進が図られた。

 

 しかし、先述の対潜戦に関する報告書が届けられた事で、八八艦隊の整備に疑問符が付けられるようになった。この整備計画の中では多数の駆逐艦も整備される事となっていたが、駆逐艦の装備の中に爆雷が無い事が疑問視された。そして、1918年に第一次世界大戦が終結すると、八八艦隊の整備そのものが国家財政に重荷となった。

 そもそも、八八艦隊の予算が下りたのは第一次世界大戦の好景気に沸いていた為でもあった。それが終わってしまえば、この巨大艦隊計画は平時には過ぎたるものだった。しかし、海軍の近代化や質的強化も図る必要がある事から、1920年に八八艦隊計画は次の様に改訂された。

 

・現在計画中の戦艦・巡洋戦艦(紀伊型戦艦と十三号型巡洋戦艦の事)は建造中止。

・代わりに長門型・加賀型・天城型の建造を促進し、他の超弩級艦の整備を強化する。

・現行の駆逐艦・巡洋艦に対潜装備の充実を図ると同時に、通商護衛戦用の護衛艦の建造を行う。

・将来を見据え、潜水艦・航空機・通信・電気に関する研究費を増額する。

 

 こうして、八八艦隊計画は縮小されたが、他の部門へ注力する事となった。これは、後の太平洋戦争で生きる事となるが、それは別の話である。

 また、これと連動する形でシベリア出兵は中断、順次撤兵する事となった。

 

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 日本の八八艦隊計画を見て、アメリカも海軍拡張計画(ダニエルズ・プラン)を策定、戦艦10隻・巡洋戦艦6隻をはじめとした大艦隊を建設しようとした。しかし、日本が自主的に八八艦隊計画を半減させた事から、この巨大艦隊計画は批判される様になった。また、第一次世界大戦後の軍縮の空気から、1921年10月からワシントンD.C.で軍縮会議が開かれた。

 

 史実よりも建造開始が早く建造促進もされた事で、ワシントン海軍軍縮会議の開始時、日本は既に「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」を完成させ、「天城」「赤城」をほぼ完成させていた。実際は、「天城」と「赤城」は細部の工事が残っていたが、日本側は完成と主張した。完成としなければ、廃艦の可能性もあった為だった。

 一方のアメリカは、「コロラド」こそ完成させていたが、それ以外の16インチ(40cm)砲艦は完成していなかった。イギリスに至っては、1隻も無かった。

 その為、米英が共同して天城型巡洋戦艦を葬ろうとした。しかし、日本も完成させたばかりの戦艦を破棄する事は断固として拒否した。一方、軍縮そのものには賛成した為、日本側は「金剛型以前の戦艦と建造中の戦艦を全て破棄する代わりに、残存する14隻を対米英6割とする」案を提示した。

 この意見に、イギリスとアメリカの対応は分かれた。イギリス側は、まだ保有していない16インチ砲艦を建造出来るお墨付きを得られる事、日米を一定数の枠に収める事が出来る事、何より第一次世界大戦での恩もある事から、この意見に消極的ではあるが賛成を示した。一方のアメリカ側は、この意見を拒否するばかりで当初案、つまり天城型の全廃の上で対米6割を崩さなかった。

 

 このままでは、日米の意見が決裂して会議の締結すら不可能になると考えられたが、ある偶然からこの会議は大きく進んだ。それは、「アメリカによる日本の暗号の傍受とその解読が発覚した事」だった。事の経緯は、日本政府がワシントンにいる代表団に間違った電報を送ってしまった。それをアメリカが傍受・解読し会議の場で利用したが、本来の情報とは異なる情報だった為、日本側は疑問に思った。調べてみると、間違って送られた電報の情報と寸分違わず一致した事から、日本の情報がアメリカに筒抜けである事が発覚した。これを受けて、日本側はショックを受けたが、同時にアメリカの対応が適切である事に納得し激怒した。

 日本は、アメリカに取引を持ち掛けた。曰く、『暗号傍受の件は暴露しない。その代わり、こちらの案を呑め。出来ない場合は暴露する』と。半ば脅しだったが、この件が暴露されるとアメリカとしても不味かった事から、アメリカはこの条件を呑んだ。この結果、史実と同じくワシントン条約は成立したが、史実と異なる点は以下の通りである。

 

・米:英:日の主力艦の排水量の比率は、5:5:3とする。尚、米英の保有量を基準とし、トン数は80万トンとする。

・日本は「天城」と「赤城」の保有を認める代わりに、現在建造中の戦艦と12インチ砲の戦艦を全て破棄する。

・アメリカは破棄予定のコロラド級3隻・サウスダコタ級2隻・レキシントン級2隻の保有を認める。

・イギリスは廃艦予定の「クイーン・メリー」の保有と、新規に16インチ砲戦艦4隻の建造を認める。

・破棄した戦艦の代艦は主砲16インチ、排水量4万トンを上限とする。

 

 日本は何とか「天城」と「赤城」の保有に成功した。しかし、多くの戦艦を保有した事は、維持費の増大にも繋がる。加えて、史実以上に米英が16インチ砲戦艦を保有する事となった。




『加賀型や天城型を戦艦として太平洋戦争に投入させたい』と思ったのが始まりでした。その為、日露戦争から考えたわけですが、この様にして上手く行ったかどうかは分かりません。私自身は無理だと思っていますが、「なんだかんだで日本に都合が良い様に進んだ」と思ってください。


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18話 大正時代④:大室財閥(14)

 開戦当初、誰が言ったか分からないが、『この戦争はクリスマスまでには終わる。クリスマスには故郷に帰れる』と言われた。しかし、クリスマスを過ぎても戦争は終わらず、年を越えても終わる処か激しさを増していく一方だった。そして、戦争の終わりは見える事は無く、ヨーロッパ全土が戦火によって灰燼に帰すのではとさえ思われた。

 

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 この戦争で、直接戦火に見舞われる事が無かった日本では、ヨーロッパからの膨大な物資の需要に応じる為、国内の生産能力が飛躍的に上昇した。同時に、それらの物資を運ぶ為の海運力も上昇した。

 大室財閥もこの例に漏れず、製造部門の堺造船所と海運部門の大室海運、商社部門の大室物産の売り上げは年々更新された。この状況に、財閥の者は笑みがこぼれたが、3兄弟はこの状況を素直に喜べなかった。その理由は、『この戦争はいつ終わるのか』『戦争が終わった場合に備えて、我々がするべき事は何か』の2つだった。

 

 確かに、この戦争で莫大な利益を上げる事が出来た。それが、血に濡れたモノではあっても金は金である事には変わらなかった。

 しかし、戦争には何時か終わりが来る。そこには例外は無い。そして、この戦争が終われば、この未曽有の好景気も終わり、その後には大規模な戦後不況が起こると考えられた。日露戦争とその後の状況を見れば誰でも予想出来た筈だが、あまりの好景気に浮かれ過ぎて多くの者が考えていなかったらしい。

 尤も、日露戦争後の不景気を全員が経験しているので、兄弟の意見を聞いた後、戦争が終わった後に来るであろう不況を想像出来た事は幸いだった(尤も、兄弟は『自分達が意見を言わなかったらどうなっていたのか』と不安に思った)。その為、財閥では戦後に備えての動きを1916年から始めていた。

 その内の1つが、前述した『機械や電機、化学の技術を海外から導入、もしくは模範による国産化』である。つまり、多角化する事で一事業の損失を他の事業で穴埋めする事と、新たな収入源の確保を目的とした。

 他にも、「利益の一部を溜め込む」「将来有望な技術の調査や出資」といった手段が採られた。

 

 「利益の一部を溜め込む」は、得られた利益を全て拡大に注ぎ込むのでは無く、凡そ2:3の割合で溜め込む額と増資額に充てるというものである。利益全てを拡大に注ぎ込むと、経営が苦しくなった場合の回転資金が無くなる所か、大量の負債を抱え込む事になる。そうなれば破綻しか無くなる。それを避ける為には、稼げる時に稼ぎ、大量に資金を溜め込む事で、負債が発生してもそこから切り崩す事で、状況が変化するまで耐える事が良いと判断された。

 

 「将来有望な技術の調査や出資」は、現状では使い道が分からない・技術的問題や理解不足などで開発費用が出なかったり、人員不足で開発が滞っているモノを調査し、大室財閥が出資するなり、大室財閥に属する企業の一部署にして開発を促進させるなどする事を指す。ここでの調査・出資対象は、大学で研究されている技術が対象となっている。つまり、現在で言う「産学連携」を行おうとした。

 当然、この時は役に立つか分からないモノに出資するのだから、場合によっては金をドブに捨てる行為になる。そう考えると、この行為は「利益の一部を溜め込む」事と相反するのではと考えられた。

 しかし、忠彦はこう述べた。

『これらの技術に今出資すれば、将来生産する際に我々に来る。恐らく、ほぼ独占状態だろう。そうなれば、現状の損失などその時に回復出来る。そして、これらを研究しているのは東京帝国大学(現在の東京大学)や京都帝国大学(現在の京都大学)などの各種帝大だ。日本の最高学府であり、世界でも有数の大学と言えるだろう。そこに所属する研究員も優秀であり、そんな優秀な頭脳が考えたモノなのなら、将来の役に立たない訳が無い。』

ほぼ忠彦の独断だったが、帝大の研究者が優秀なのは彼らも分かっており、もし成功すれば財閥の利益は大きくなると考えると、彼らも反対するのは難しかった。それでも、『現状倒れてしまえば将来が無い』という意見も多かった為、折衷案として「出資は利益が出そうと判断した場合に限る。企業化する場合は大室財閥が6割出資、残りは株式公開し、市場から集める事」が決定した。

 

 この行為が正しかったのかは当時では分からなかっただろう。しかし、各帝大への出資は、それぞれの研究成果の製品化や各種技術の向上に大きく貢献した。特に、東京帝大の「伝染病研究所」と京都帝大の「化学研究所」への出資は、その後の各種化学(特に製薬部門)に関する技術を大いに高める事となり、発足して間もない大室化成のその後の躍進に繋がった。

 

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 上記の施策により、第一次世界大戦後の不況にも大室財閥は耐える事が出来た。また、元々大室財閥は情報を重視しており、戦争が終わりそうだと分かると工場の生産ラインを少しずつ縮小したり、生産体系を見直すなどして、平時への移行を少し続進めていた事も、戦後に大量の在庫を抱え込む事による負債の増加を防ぐ事にもなった。

 一方、他の財閥、特に第一次世界大戦によって急速に拡大した財閥(鈴木財閥や古河財閥など)や成金は、戦後不況のダメージをモロに喰らった事で、没落する者も多かった。大室財閥は、幕末の時の様に彼らを吸収する事で拡大をした。

 しかし、今回はただ吸収するだけでは被吸収側の負債を抱え込む事になる為、彼らの事業を買い取る形で吸収した。これは、大室財閥側からすれば事業が成り立つものだけを獲得出来、余計なモノを抱え込まずに済む。被吸収側にしてもとりあえず当座の回転資金を得られる事から、拒否する事が難しかった。これらの行動は、大室財閥は『非情』だとか『狡猾』といった批判を受けたが、財閥側としては『彼らは先を読めなかった。我々は先を読めた。その違いだ』として相手にしなかった。

 

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 情報を上手く読む事で、第一次世界大戦で大きな利益を上げた大室財閥。しかし、次の事は予測出来なかった。いや、予測出来た方が不思議だろう。彼らが扱う情報では、天災は予測出来なかったのだから。

 1923年9月1日11時58分。東京が揺れた。文字通りに。後に「関東大震災」と言われる大地震が起きた。



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19話 大正時代⑤:大室財閥(15)

 1923年9月1日、東京で大地震が発生した。「関東大震災」である。この地震により、東京だけで無く横浜も灰燼に帰し、神奈川県沿岸部や千葉県の東京湾沿岸部は津波による大被害を受けた。死者・行方不明者は10万人以上、被害総額は推定45億円という甚大な被害だった。

 

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 この地震によって、東京を始め南関東で大きな被害を出した。大室財閥もそこを拠点としていたが、財閥全体の被害は死者と行方不明者が200名前後、京浜地区の建物の大半は全壊か半壊、被害総額3億円と大きな被害を受けたが、大室家の人物からは奇跡的に死者は出なかった上、重要な書類の損失も少なかった。これは、当時の大室財閥の本社機能を大阪に移していた為だった。

 大室財閥の本社は1874年に建てられた木造建築であるが、建てられてから40年以上経過している。加えて、築地にある事から、塩を含んだ風の影響で老朽化が著しかった。その為、1914年から本社の建て替えが計画され、本社機能が東京から大阪に移転しており、主要人物もそちらに移っていた。

 尤も、建て替え計画は、計画が立てられた直後に第一次世界大戦が始まってしまい、そちらへの注力と資材の高騰で計画が中断した。戦後に計画が再開した後も、建物の設計案や建設場所(現在地に建て替えるか移転するか)で決まっていなかった。

 それでも、東京は重要拠点であり、銀行や商社などは東京に本社を置き続けていた事から、被害が発生する事は避けられなかった。それでも、重要人物が軒並み消えたり、資金や物資が消失するなどして機能不全に陥らなかった事は不幸中の幸いと言えた。

 

 この大地震を契機に、大室財閥は更なる拡大をする好機と見た。大震災からの復興が、第一次世界大戦後の不景気を吹き飛ばす機会になると考えた。復興には膨大な資金や物資が必要となり、それらの供給を行う事で受注も得ようというものだった。その為に初めに行った事が、政府への寄付だった。寄付金の額は4000万円であり、その内訳は大室家名義(実際は忠彦・匡彦・淳彦の3兄弟)で1000万円、大室財閥の各企業で合計3000万円だった。

 これは、先述した目的もあったが、純粋に政府への寄付でもあった。そして、この大室財閥の動きが日本の主要の財閥による寄付運動に繋がる事になるとは、流石に予想していなかった。三菱や三井、安田が1億円、住友や大倉などが5000万円、その他の財閥も1000万円以上寄付し、日本各地からも寄付金が集まり、都合15億円が政府に寄付された。

 この額に日本政府は喜んだ。当初、復興予算は30億円と目されたものの、野党や長老からの反対で5億円にまで削減されてしまった。そこに15億円が来たのである。政府予算と合わせれば20億円となり、当初予算に届かないものの大規模な復興計画が可能となったのである。

 帝都復興院総裁後藤新平は、当初の復興案から多少縮小したものに変更して復興を始めた。これにより、史実では実行されなかった計画(大規模な区画整理や100m道路の建設)の一部が実行された。この計画には批判も多かったが、後の太平洋戦争や戦後の高度経済成長期に後藤の正しさや先見性が評価される事となった。

 

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 関東大震災への復興に関して、大室財閥でも様々な動きがあった。それは、「資材の供給の強化」と「復興に関係する事業への進出」、「新本社社屋の建設」である。

 

 「資材や機材の供給の強化」は、復興で必要となる木材や鉄鋼、重機(ダンプやユンボなど)などを調達、自作する事だった。

 特に重視したのが、重機に関してだった。この部門では、財閥はおろか日本全体が弱い為、満足な重機を調達する事が不可能だった。その為、アメリカから大量の重機とトラックを輸入した。当初は、フォードやゼネラル・モーターズなどからライセンス権を獲得したかったが難しかった為、製品の輸入に変更した。それでも、輸入した重機の修理やリバースエンジニアリングを行う事でノウハウを付けていき、後に大室重工業の主力生産品の一つにまでなった。

 また、復興用資材として、鉄鋼は自前(堺鉄鋼金物、1920年に「大室製鉄金属」に改称)だけでは不足する為アメリカから輸入し、木材も日本林産から大量に購入した。

 この時初めて大室財閥と日林財閥が接触する事となり、以降も化学や機械における連携が行われる様になった事が、後の中外グループ設立の発端となった。

 

 また、復興には資材だけで無く、建物を建てる事も必要である。その為、「復興に関係する事業への進出」として建設業への進出も検討されたが、当時の建設業はまだ個人の仕事という傾向が強く、既存の土木会社からの反対が強かった。その為、協力的な土木会社に出資し影響力を高めるだけに留めた。その中には、明治初期に築地の本拠地を建てた竹田直市が創立した竹田組もあった。後に、これらの土木会社は合併し「日東建設」となるが別の話である。

 

 最後の「新本社社屋の建設」は、当初の築地に新社屋を建設するという案は撤回され、別の場所に移転となった。具体的には、西新橋・虎ノ門付近になった。移転の理由は、築地が手狭になった事と沿岸に工場が多数建てられ、その排煙などの影響を受ける事からだった。その為、築地より内陸で程近い西新橋・虎ノ門が選ばれた。

 また、新社屋の設計も一からやり直しになった。条件として、「関東大震災クラスの地震が来ても倒壊しない事」、「極端に華美にせず、実用重視である事」が求められた。その結果、新古典様式の8階建てのビルとなった(見た目は「住友ビルディング」の大理石版)。

 これだけ巨大な建物となると完成までに時間が掛かり、設計も含めて7年も要した。そして、完成した1931年6月から順次、大室財閥の各種企業の本社機能がこの「大室本館ビルヂング」に移転した。

 

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 第一次世界大戦後の反動不況、関東大震災に巻き込まれながらも、大室財閥はそれらにも耐えた。それどころか、関東大震災の復興需要に応えられた事、新技術への足掛かりを掴んだ事から、更なる拡大すら見込めた。

 その様な、日本にとっては厳しい状況、大室財閥にとっては未来に可能性がある状況で、ある大事件が起きた。1926年12月25日、以前から体調を崩していた大正天皇が崩御。ここに「大正」が終わりを告げた。同時に、皇太子殿下が践祚、ここに「昭和」が始まった。



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20話 大正時代⑥:日林財閥(3)

 第一次世界大戦によって、日本全体が好景気に沸いた。物資は、売りに出せば売れる時代だった。この流れに、日本林産も例外では無かった。

 

 邦久の跡を継いだ博久は、当初は父の路線を踏襲したが、第一次世界大戦が始まってから暫くして、事業のより一層の多角化に計画した。具体的には、畜産業・食品加工業・造船業への進出だった。

 勿論、博久のこの早急な多角化には反対意見も多かった。慣れない職種への参入、急速な拡大による歪みの懸念などから、参入規模の縮小や拡大速度を緩める声があったものの、第一次世界大戦による木材需要の急速な拡大によって莫大な利益を得られたという現実もあり、徐々に反対の声は小さくなった。そして、1915年から多角化は実行される事となった。順に見てみよう。

 

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 畜産業については、当時日本林産が保有していた森林の内、平地の山林の一部を牧場に転換し、そこで家畜を飼い、肉や革などを卸すというものであり、食品加工業はその延長線上にある。これは、ヨーロッパで膨大な食糧需要が発生した事、日本の発展による食肉需要が拡大した事、小岩井農場の成功を見ての事だった。

 牧場の候補地として選ばれたのは、宮城県の王城寺原と蔵王山麓だった。この理由は、大都市圏に近い事(=消費地から近く、交通の便が良い事)、雨が多くない事、気候が穏やかな事が挙げられた。

 早速、この2か所の地権者と交渉を進めたが、その過程は比較的好調だった。王城寺原側は、軍の演習場が存在する事から既に広大な土地が利用不可能となっており、日林側も立地としては好条件だったがあまり期待していなかった。しかし、地主らは『この辺りの土地は痩せ気味で、丘陵部の開発も難しい』事から、それらを活用出来る畜産業に賛成した。蔵王山麓側も同様だった。その為、土地の収用や開発は地元の好意もあって進んだが、肝心の家畜の導入をどうするかが問題だった。

 

 国内に家畜は居たが数が充分ではなく、海外から導入するにしてもヨーロッパからは不可能だった。その為、ダメ元で陸軍に相談したら、条件付きで家畜(馬・羊・豚)を譲ってくれた。これは、軍馬や革製品などの供給源を欲していた陸軍と、畜産業への進出を目論んでいた日本林産の思惑が一致した為だった。その為、陸軍は「主要卸先は陸軍にする事、有事の際の家畜の徴収に応じる事」を条件に、日本林産への家畜の譲渡が実現した。

 こうして、場所とモノが揃った事で、1917年に王城寺原と蔵王山麓に牧場が開設、運営組織として「日林牧場」も設立された。尚、食品加工業への進出は食肉の調達や加工する人の手配などが付かなかった事から1919年まで待たなければならず、牛の導入も1921年になってからだった。

 

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 造船業は、木造船への参入であり、漁業の近代化や活性化を睨んでの事だった。当時の漁船の多くは木造船であり、近海漁業が盛んならばその需要に食い込めるのではと判断した。また、邦彦が「森が豊かなら、魚が多く獲れる」と偶然耳にした事も関係している。

 また、この頃になると、家具の製造加工技術も向上し木材の加工技術も向上した事から、造船業への参入もその延長として見られた。

 尚、第一次世界大戦によってヨーロッパ製の高級木製家具の輸入が途絶した事から、その代替品として国内で家具の大量受注も得られた。大戦によって俄か成金が増加した事で、金持ちとしての見栄えを求めたのか、その様な連中からの発注か急増した。

 

 その為、1915年に日本林産木工部が分離独立して「日林木工」が設立された。日林木工には家具製造部門と造船部門が同居しており、木材の加工・組み立て・製造が一貫して行われる。工場は、今までは東京の越中島に置かれていたが、造船部門の設置と製造量の拡大に伴い手狭になった。その為、地方の工業化と原材料の調達のしやすさという意味から長万部、仙台、松山への増設が行われた。これらの工場が稼働するのは1917年になってからである。

 この後、漁船の建設のその流れから漁師の囲い込みを行い、自前の水産会社を設立する事となるが、それはもっと後の事となる。

 

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 そして、父の代からの悲願でもあった化学への進出がされたのもこの頃だった。木造船の造船を行うに際し、水の中に長時間浸かっても剥がれない接着剤が必要になると考えた。しかし、当時の日本では水に強い接着剤が存在しなかった事から、造船への参入と同時に自前での調達を行おうとしたのである。そして、接着剤の技術を用いれば、他の化学の分野への参入や大型木造品の製造も出来るなどのメリットも多かった為、積極的に行おうとした。

 先ずは、水に強い接着剤の技術を得る為に、海外の企業との技術提携が計画された。しかし、第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国は自分達の事で手一杯で、提携や技術提供は難しいと見られた。特に、技術先進国のドイツは敵国となった為、不可能であった。

 その様な中で、イギリスのブリティッシュ・ダイスタッフ社(以下、BD社。後のインペリアル・ケミカル社)が提携に応じてくれた。これは、BD社の生産能力が需要に追い付かなくなった事から、一部生産の外部委託という形で成された。それだけで無く、染料や薬品の技術までも供給してくれた事は、後の拡大に役立った(インペリアル・ケミカル成立後は、火薬やアルカリなどの技術も提供してくれた)。

 

 こうして1916年に設立されたのが、化学部門の「日林化学工業」である。尚、前述の経緯から日林化学はBD社との合弁(出資比率は、日林:BD社が2:1)となった。この後、日本の軍国主義路線が強まると共に、日林化学が日林財閥の主要企業に登り詰める事となる。

 

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 畜産・食品・造船・化学に進出したが、それ以外の多角化も博久の代から進んでいた。博久が亡くなる少し前に、金融・窯業への進出と製紙業の拡大が計画された。博久はそれが実現する前に亡くなってしまったが、1910年には金融事業の「日本林商銀行」が、窯業の「日林陶器」が設立されている。また、製紙業の拡大はこの時はされなかったが、第一次世界大戦によって急速に拡大した。

 金融業は他の財閥も行っている事であり、当時のトレンドの様なものである為、特に詳しく掘り下げない。しかし、窯業は少々特殊な例だろう。

 

 日本林産が日本中の山林を購入した際、他に資源が無いか調査した。その際、幾つかの山からは粘土鉱物(カオリナイト、モンモリロナイトなど)が発見された。これらは陶磁器の原料である。陶磁器の需要は高く、当時の日本の主要輸出品の一つであった為、窯業への進出が検討された。

 その結果、「日林陶器」が設立された。製造拠点は、仙台に設けられた。当初は、技術不足や設備不足で満足に作れなかった為、有田や瀬戸などから職人を呼んだりした。この地道な技術力向上と第一次世界大戦による需要の発生によって、日林陶器の製品が世界中に出回る事となった。また、この時期に西洋食器などの生産も行われ、日本陶器(後のノリタケカンパニーリミテド。TOTOや日本碍子の母体)や名古屋製陶所(後の鳴海陶器)に並ぶ陶器メーカーとなった。

 

 尚、窯業に進出するに当たり、燃料をどうするかが議論された。燃料には石炭が望まれたが、日本林産では石炭を扱っていなかった為、外部から調達するしか無かった。その為、日林陶器と製紙業が拡大するにつれ、自前での調達を考える様になった。この考えは、第一次世界大戦後に実現する事となった。



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21話 大正時代⑦:日林財閥(4)

 1918年11月11日、イギリス・フランスなどの連合国とドイツなどの中央同盟国との停戦が成立した事によって、第一次世界大戦は実質的に終わった。その後のパリ講和会議によって正式に第一次世界大戦が終わり、世の中は戦時から平時へ移行しつつあった。

 

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 急に戦争が終わった事で、今まで大戦で儲けていた企業が急速に傾くなど、戦後の不況が少しずつ見えてきた。

 しかし、その様な中でも、日本林産の活況は暫く続いた。第一次世界大戦の終結によって軍需物資などの需要は大きく減少したが、今度は復興用の資材の需要が高まると睨んだ為である。日林の主要商品は木材であり、建築資材として利用される。それはヨーロッパでも変わらなかった。特に、戦場になったフランスやドイツでは木造住宅が比較的多かった事から、膨大な復興需要があった。そこに、日林も乗っかる事で大きな利益を生み、ヨーロッパの復興が一段落着く1921年頃まで日林財閥は拡大を続けた。

 また、大戦中に融資した財閥や成金が戦後の不況によって没落した後は、彼らが融資の担保としていた山林を始めとした各種資産を貰い受けた事で、保有する山林の拡大は更に進んだ。そして、この時に幾つかの鉱山や炭鉱を獲得した事で、大戦中に検討された燃料資源の自給手段が整う事となった。

 その保有した鉱山の運営を行う会社として、1921年に「日林鉱山」が設立された。扱う資源は主に石炭であり、他に鉄鉱石や黄銅鉱などがある。この時、石炭は自前で使うが他の鉱物資源は使用しない為、売り込み先を求めていた。有力な企業が現れなかった為、小規模な取引になったが、ある出来事が切欠でこの状況は変化した。

 

 1921年以降、日林の売り上げは落ち込んだものの、それは平時に戻った事による反動と言えた。新興財閥や成金の多くは没落したものの、日林は大戦中からの多角化によってその傷は小さかった。加えて、発展の可能性がある化学産業や、安定した需要がある窯業を抱えている事は、日林の発展を約束したと言えるだろう。

 その様な状況で、あの日がやってきた。

 

 1923年9月1日、関東大震災が発生した。これにより東京と横浜は灰燼に帰し、東京湾沿岸と相模湾沿岸も壊滅的被害を受けた。その後、復興計画が立てられたが、予算不足などから大幅に縮小せざるを得なかった。そこに、各財閥や日本全国から約15億円が寄付金として政府に寄付された事で、一度破棄した原案を改定した案に変更して復興が始まった。

 この復興に日林も参加した。寄付金として1000万円を出し、復興用の木材も格安で大量に供出すると約束した。この2つによって日林は一時的に大きな赤字を抱えたものの、大きな社会的信頼を獲得する事に成功した。信頼は新たな取引先を生み、国内の土建業者や各種木材工業から長期的な取引を獲得出来た。そして、この時大量に木材を放出した事で、国内の林業従事者で問題になっていた外材(外国産、特にアメリカ産の木材。安価)の進出を一定程度止める事が出来たという、日林としては予想外の事も起きた。

 

 これらの結果、日林は資産の拡大こそ微々たるものだったが、社会からの大きな信頼を獲得し、数多くの取引先も獲得出来た。取引先の多くは個人経営や中小規模だが、一番の大物が大室財閥だった。この時の出来事から、日林と大室財閥はお互いに主要取引先とする様になった。

 具体的には、大室製鉄金属の原料を日林鉱山から購入する、大室重工業と日林木工による小型エンジンに関する共同研究、大室化成産業と日林化学工業による薬品や化学繊維などの共同研究など、蜜月と言える程のものとなった。

 

 また、日林は財閥とは別の「大室」と関係があった。それは、大室本家が進出した事業を受け継いだ事である。

 

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 以前、大室家が本家(長兄と次兄の血族)と分家(彦兵衛の血族)に分かれたのは述べただろう。本家を継いだ仲兵衛は、その後も農業に従事し、農業や農学に関する本を出すなどしていた。この事が東京農林学校(東大農学部などの源流)の目に留まり、1888年に仲兵衛は農林学校の教授として雇われる事となった。

 

 代理とはいえ家長が居なくなった大室本家、では誰が家を継ぐのかという家督争いが起きそうだが、予め家長は長兄の長男である長緒に決められていた。家長となった1888年当時、彼は33歳だった。

 仲兵衛は、現在のまま続くとは思っていなかった為、継いで3年後に兄の子供(息子3人、娘1人)と自分の子供(息子2人)を半々に分け、半分は京都の、もう半分は大阪の取引相手の所に奉公に出した。これは、社会の厳しさを学ぶ為と経済感覚を身に着ける為の彼なりの教育方法だった。

 この教育は概ね成功だった。長緒と長作(長兵衛の次男)、一仲(仲兵衛の長男)は経済的才能を身に着け、長緒は実家を継ぎ、長作は大阪の取引相手の婿養子として、一仲も京都の取引相手の婿養子となった。また、マサ(長兵衛の娘)も大阪の取引相手の跡取りに嫁いだ。

 一方、長治(長兵衛の三男)と次仲(仲兵衛の次男)は、才能が発揮されない処か、奉公先で問題ばかり起こした事で相手から絶縁一歩手前の状態となった。その事で、この2人は一族から破門された。

 

 さて、実家を継いだ長緒だが、長兵衛が亡くなった時のガキ大将ぶりは完全に無くなり、今では民と農業について考える地元の名士としての顔となった。これは、先の仲兵衛の教育もあるが、父と祖父の事を聞いて自らの今までの行いを恥じた事も影響した。彼は実家を継ぐと、精力的に物事を進めた。特に進めたのは、治水事業と商品作物の栽培の奨励だった。

 治水工事は言うまでも無いが、商品作物は今までの茶や染料だけで無く、綿や麻などの繊維植物と薬草も栽培する事を行った。これは、勃興した繊維業や製薬業への原料を納入する事で農民の現金収入を増やそうとした事、あわよくば自らそれらに参入しようという目論見だった。

 

 そして、この目論見は現実のものとなった。1900年に、取引先との共同出資で繊維会社「京師繊維」と製薬会社「京師薬品」が設立された。また、翌年には種苗会社「長緒種苗」と染料会社「長緒染料」、食品(水飴)会社兼持株会社「長緒商店」を設立し、京師薬品の業務に農薬や肥料の生産も追加された。これは、土地や農産物など多くの資産を持っているが、それらを活用しない事は宝の持ち腐れだと判断した事、大室財閥(彦兵衛商店)の成功を見て焦った事から来ていた。

 これらの企業は時代と共に成長し、第一次世界大戦によって繊維や食品がバカ売れした事から、設備の拡張を続けた。特に、長緒商店が生産する冷やし飴は国内向けではあったが、甘味が安価に飲める事が受けて大ヒット商品となった。

 しかし、野放図に拡大した事で戦後に設備を持て余す事となり、拡張の為の負債も大量に抱えて、首が回らない状態だった。この様な中で大室財閥の助けを借りようとしたが、長緒が『奴ら(大室財閥)助けを借りずに再建する』と一点張りだった。

 

 この時助け舟を出したのが、主要取引先だった日本林産だった。日林は、今まで持っていなかった農業やそれに付随する事業を手にする事が出来る事、比較的大きな財閥との繫がりを持つ事が出来る事などから、救済する事となった。長緒商店もこの事に二つ返事で回答した。この結果、1919年に日本林産は長緒商店を傘下に収めた。

 これによって、長緒商店グループの破綻は免れたが、上層部の責任は免れなかった。長緒を始め各社の幹部は全員クビ、財産の多くも負債の穴埋めを理由に供出された。各企業も日林側の企業に吸収されるなどして再編成された。

 

 その後、残った大室本家の者達は、ある者は日林に頭を下げて入り込んだり、ある者は他の企業に一従業員として働いたり、ある者は残った土地と影響力を使って実家で農業をする者などして離散した。

 

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 こうして、日林は大室との太い繫がりを構築して「大正」を過ごし、「昭和」へと向かう事となる。




「長緒商店」グループのその後

「長緒商店」:保有する株式は全て日本林産に譲渡。食品事業は1919年に設立された「日林食品」に吸収。冷やし飴などのヒット商品は存続。
「京師繊維」:他の繊維会社と統合し拡大するも、名称はそのまま。
「京師薬品」:日林化学工業から製薬部門を譲渡される。
「長緒種苗」:日本林産の種苗部門と統合、「日林種苗」と改称
「長緒染料」:日林化学工業に吸収。


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22話 大正時代⑧:日鉄財閥(3)

 第一次世界大戦後の不景気によって、多くの国内企業の経営が傾く事となった。勿論、日本鉄道興業もその例外では無かったが、他の企業程大きな影響を受けなかった。その理由は、輸出に頼る企業の構造をしていなかった為であった。

 

 元々、日鉄は鉄道会社への投資や車輛・電機製造、つまり金融業と重工業を主軸とする企業である。加えて、取引相手の多くが鉄道会社向けであったが、第一次世界大戦によって資材や地価の高騰や労働力不足などが重なり鉄道の建設が低調となり、それと連動する形で日鉄の活動も低調となった。

 しかし、何もしなかった訳では無かった。金融力の強化や鉄道以外の取引相手の構築を目的に、繊維や商社など他業種にも出資した。特に注力したのが、電機や造船などの重工業と商社だった。

 重工業を傘下に収めれば、自社の電気部の生産力や技術力の向上に繋がり、商社を傘下に収めれば、販売ルートの新規開拓などもし易くなると見られた。実際、この時の出資攻勢によって、造船所3か所(千葉・尼崎・戸畑)、電機会社2社、商社4社を子会社化し、他にも多くの企業で主要株主に名を連ねた。また、自前での造船業参入を試み、1916年に三田尻(現在の防府市)に造船所の建設を開始した(稼働するのは1919年)。

 これにより、「日鉄財閥」と呼べるまでに巨大化したが、基本方針は「電気器具の国産化」で変化は無かった。今まで多くの企業を傘下に収めてきたのはこの方針を実現する為であり、流れてしまったものの大室財閥との交渉に応じたのもこの為だった。

 実際、傘下に収めた造船所や電機会社と共同で、電球の製造から大型発電機の試作に至るまで、電機に関するあらゆる研究開発を行っている。

 

 この為、日鉄は輸出については殆ど行っていない。その為、輸出によって利益を上げられなかったが、逆に戦後に大量の在庫を抱え込む事による赤字に悩まされる事は無かった。それ処か、値下がった鉄材を大量に購入する事で、大戦中に凍結された鉄道の建設再開を促進させた。

 それでも、多くの会社の株を保有していた事から、それらの株価の下落によって含み損が発生した。それに対し、子会社や事業の整理、株や遊休資産の売却によって赤字を圧縮し、1920年にはそれらの赤字を全て消した。

 尚、この時の整理の一環で、子会社化した企業は全て日鉄本体に吸収され、関連会社の半数は傘下に収めた(残りの半分は、株を手放した)。その為、日鉄本体は車輛・機械・電気・商業・造船の5つの事業部を内包し、子会社に損害保険や海運会社が加わった。また、土木部が「日鉄土木」、倉庫部が「日鉄倉庫」、荷物部が「日鉄運送」として独立し、関連会社の同業者を吸収した。

 

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 第一次世界大戦後、大戦によって凍結されていた路線の建設が再開された。特に、武州鉄道(1919年に中央軽便電気鉄道から改称)と相模中央鉄道の建設には力が入れられた。これは、東京市の巨大化に伴う人口の急増と、それと連動した郊外の都市化を考えての事だった。このまま建設を先延ばしにすれば、都市化が進行し人口が増加する。これは、鉄道会社にとっては乗客増による増収が見込める反面、これから建設する鉄道会社にとっては、地価の高騰による建設費の増加となる。そうなる前に、土地の買収を終わらせる必要があった。

 日鉄が大量の資本投下を行った事で工事は早く進み、武州鉄道は1924年に岩淵町~蓮田間が開業し、相模中央鉄道も1925年までに平塚~半原間(厚木経由)・平塚~大山間(伊勢原経由)が開業した。

 

 日鉄のテコ入れによる工事の促進は、偶然にも関東大震災によってその正しさが証明された。関東大震災によって、第一次世界大戦後以降下がっていた木材と鉄の値段が高騰、人口の郊外への移動による地価の高騰によって他の関東の路線の工事が滞る事態が起きた。

 しかし、日鉄が建設に関わった路線はこの影響を最小限に留め、完成が大きく遅れる事は無かった。また、工事費の増大による負債の増大の影響も小さかった事は、その後の会社運営に良性の影響を与えた。

 

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 関東大震災で東京が灰燼に帰しても、日鉄に出来る事は多くなかった。元々、鉄道向けの投資事業と車輛製造を目的に設立された会社の為、復興の為に資材を供給する事や救援物資を運び入れる事も難しかった。

 それでも、自らの出来る範囲でやれるだけの事はした。政府への寄付、住宅の復旧、鉄道施設の復旧、車輛の供給などをしたが、日鉄にとってはこれが限界だった。

 

 むしろ、日鉄が活気づくのは帝都復興ではなく、帝都近郊の都市化の進行だった。関東大震災によって、人口が都市部から郊外に移転した。これにより、東京市西部と北部の人口は急増し、今まで農村だった城南地区や武蔵野などの郊外の人口も増加した。これに伴い、これらの地域に鉄道を敷こうとする動きが出た。再び「鉄道ブーム」が到来したのである。この動きに日鉄も乗り、幾つかの会社に出資するなどした。



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番外編:ここまでの財閥の状況と人物紹介(大正時代まで)

〈大室財閥〉

 日本の準大手財閥。彦兵衛商店から始まり、商社・海運・金融・重工業に進出。これらを核としつつ、第一次世界大戦後に電機・化学などに進出し多角化を進める。その為、中核企業と言えるものは存在しない(商社・海運・造船・製鉄・金融と重要セグメントが多い為)が、彦兵衛商店を源流とする大室物産(商社)と大室船舶(海運)が中心的存在となっている。

 主要拠点は東京と大阪に置かれ、それ以外にも横浜・京都・神戸に支店が置かれている。主要製造拠点は横浜・千葉・堺に置かれ、特に造船所や製鉄所が置かれている堺は、京都や神戸以上に重要と目されている(重要度的に東京>大阪・横浜>堺>京都・神戸)。

 

・大室彦兵衛(1832~1913)

 大室財閥の創設者。その手腕により一代で巨大財閥を形成したが、日露戦争に心を痛め、晩年は弱者救済などに心血を注いだ。1913年に81歳で亡くなる。

 

・大室忠彦(1862~)

 大室財閥の創設者、大室彦兵衛の長男であり、大室財閥の持株会社である「大室本店」の総帥。

 一時、父との関係が悪化し独立した事があった。父を見返そうとして株取引をしたが、日清戦争後の反動不況の時期と重なり大きな損失を出す。これにより、父の持論だった「情報の重要性」を痛感し、以降父との寄りを戻し、財閥の経営に参加した。この時、一度失敗した事で大胆な行動を取る事が出来る胆力を持った事、情報を精査する能力を開花させた事から、財閥の後継者と目される様になり、彦兵衛の死後、大室財閥の総帥に任命された。

 第一次世界大戦中の多角化や新事業への進出も彼の情報処理能力や優れた予測によるもので、戦後多くの企業が傾く中で、大室財閥の傷を最小限に食い止めたのは彼の予測が正しかった事によるものだった。

 

・大室匡彦(1866~)

 彦兵衛の次男であり、大室物産の社長。彼も兄程では無いが情報処理能力は高く、時局を読む力は兄以上だった。戦後の不景気を警戒し、1917年頃から輸出量を少しずつ減少させ、内部留保を多く貯めてその後に備えた。

 

・大室淳彦(1872~)

 彦兵衛の三男であり、大室船舶の社長。彼は兄2人と比べると平凡だったが、勉強への熱心さや収益を出す方法は高かった。実際、この頃の大室船舶は新型船や優秀船を大量に導入し収益性を高め、その後の不況を乗り切る為の手段を構築した。

 

 

〈日林財閥〉

 「日本林産」を中核とする財閥。中核事業は林業と木材加工だが、多角化により金融・化学などに進出、第一次世界大戦の好景気によって食品・商社・繊維・鉱業などにも進出した。

 また、大室本家が設立・出資した企業を吸収する事で、大室財閥とのパイプを作る事に成功した。

 

・高田博久(1860~)

 日本林産2代目社長。日本林産を「日林財閥」に拡大したのは、彼の手腕があっての事である。彼の代で食品(畜産・食品加工)・造船に進出し、父の代からの悲願であった化学にも(イギリスとの合弁という形ではあるが)進出した。また、第一次世界大戦による拡大や出資先の吸収などで、商社と鉱業にも進出した。

 これは、「多角化によって一事業の赤字をカバーする」という彼の考えによるものだった。

 大正が終わる頃までに、彼は妻・ヒロとの間に2人の息子と6人の娘を持ち、2人の息子はそれぞれ日林化学工業と日本林商銀行の取締役に就任している。6人の娘達も、日林財閥や他の財閥の有力者やその子息に嫁いでいる。

 

・大室長緒(1854~)

 長兵衛の長男であり、大室本家の家長。彦兵衛商店の発展を見て、農業から発展した産業(食品や繊維など)を興す。第一次世界大戦までは順調だったものの、戦後不況をモロに被った結果、全ての事業を日本林産に譲渡した上に、財産の大半を放出する羽目になった。経営からも追われ、家長の座も破棄、その後は仏門に入った。

 

・大室長作(1856~)

 長兵衛の次男。長緒と共同で事業を興すが、大戦後の再編による責任を問われ引退する。

 

・大室長治(1862~)

 長兵衛の三男。しかし、問題が多かった事から、一族から追い出された。

 

・大室マサ(1859~)

 長兵衛の一人娘。有力者の子息に嫁いだ事から、彼女だけは大室本家の離散に殆ど巻き込まれなかった。

 

・大室一仲(1861~)

 仲兵衛の長男。長緒と共同で事業を興すが、大戦後の再編による責任を問われ引退する。

 

・大室次仲(1864~)

 仲兵衛の次男。しかし、問題が多かった事から、一族から追い出された。

 

 

〈日鉄財閥〉

 「日本鉄道興業」を中核とする財閥。中核事業は金融と重工業であり、第一次世界大戦によって商社に進出し、傘下企業に鉱業・繊維などがある。また、多くの鉄道会社を子会社・関連会社としており、地方への進出も多い。

 本店は東京にあるが、前身会社の関係から各地方には拠点が存在する。

 

・大内輝常(1861~)

 日本鉄道興業の初代社長であり現会長。

 

・佐田幸甫(1858~)

 日本鉄道興業の2代目社長。大室財閥との連携を蹴ったのは彼だが、その後の大室財閥との関係改善を図る為、子会社の相模中央鉄道社長に降りた。

 

・阪田孝右衛門(1863~)

 元・日本鉄道銀行金融部部長であり、現在は日本鉄道銀行頭取と日鉄證券社長を兼務する。一応、日本鉄道興業の取締役も兼務しているが、基本的に銀行と證券で活動している。日鉄財閥の金融力を高めた。

 

・文田清喜(1859~)

 日本鉄道興業の3代目社長。彼の指揮の元、重工業の強化や造船業への参入が行われた。

 

・加西清兵衛(1860~)

 元・日本鉄道興業の倉庫部部長兼荷物部部長であり、現在は日鉄倉庫社長と日鉄運送社長を兼務する。

 

・田川清助(1865~)

 元・日本鉄道興業の土木部部長であり、現在は日本鉄道興業副社長と日鉄土木社長を兼務する。

 

・広瀬允行(1874~)

 日本鉄道興業電気部部長。

 

・永田修(1870~)

 日本鉄道興業車輛部部長。

 

・星克嗣(1869~)

 日本鉄道興業機械部部長。元海軍技官。

 

・岩田実(1879~)

 日本鉄道興業造船部部長。元海軍技官。

 

・勝田博武(1885~)

 日本鉄道興業商業部部長。元々、独立商人だったが、第一次世界大戦中の囲い込みの中で頭角を現し、商社部門の責任者に抜擢された。



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3章 昭和時代(戦前):暗雲の到来
23話 昭和戦前:大室財閥(16)


 1925年の年末、元号が大正から昭和に移った。しかし、新しい時代の始まりは不安定なモノだった。

 第一次世界大戦後の不況は長引き、その最中に関東大震災が発生した。これにより大きな被害が発生したが、一方で復興景気も訪れ多少の景気は良くなり、大戦の不良債権の先延ばしもされた事で、僅かな平穏が訪れた。尤も、これは嵐の前の静けさだった。

 

 1927年3月14日、大蔵大臣片岡直温が議会で『東京渡辺銀行が破綻した』と発言した事から、全てが始まった。破綻していない(破綻しかけたが、当座の資金の当てが付いていた)銀行を『破綻した』と失言した事で、今まで燻っていた銀行に対する不安が爆発した。「危ない」と見られた中小の銀行に預金者が殺到し、預金を下ろそうとして銀行の前に長蛇の列が出来た。この取り付け騒ぎによって、資金不足によって臨時休業する銀行が大量に発生した。この休業した銀行の中には、有力銀行の一角を占めていた十五銀行も含まれていた事から、その規模が窺える。

 また、この金融恐慌によって、第一次世界大戦以降経営不安が囁かれていた鈴木商店が完全に倒産、傘下の企業の多くは敵対していた三井財閥の軍門に下ったが、一部は後に三和銀行との繋がりを持った。

 

 一方、金融恐慌は財閥系の銀行への預金の集中を招いた。これは、中小は潰れる可能性が高いが、財閥がバックに付いていればまず潰れないという安心感からだった。これにより、当時の6大銀行(三菱、三井、住友、安田、第一、大室)への預金の集中が起きた。

 また、破綻した銀行の資産などの引き継ぎや、預金者や取引先の救済を目的に、日本興業銀行と6大銀行のシンジケート団によって「昭和銀行」が設立された。これとは別に、日本勧業銀行が音頭を取り、昭和銀行に参加しなかった有力銀行や有力地銀がシンジケート団を形成し、「東亜勧業銀行」を設立した。昭和銀行と東亜勧業銀行の違いは、昭和銀行は大都市に、東亜勧業銀行は地方都市に支店が集中している事にある、

 

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 この金融恐慌は、大室財閥にとっては拡大の好機となった。銀行の破綻を懸念し預金を引き出した人が、その預金を大室銀行に預けてくれる事で預金量は急増した。また、休業・破綻した銀行を吸収または傘下に加える事で、店舗網の拡大も果たせた。この時期、大室銀行の預金量は恐慌前の5割増しとなり、店舗数も76から134に急増した。

 そして、数多くの銀行を取り込んだ事で、被吸収銀行の取引先も大室銀行との繋がりを持つようになった。特に、今まで大室財閥の進出が進んでいなかった繊維や食品加工などの軽工業で多くの取引先を獲得する事に成功した。

 

 大室銀行以外の大室財閥の金融機関も、経営不振に陥った同業他社を救済しては統合を行い拡大した。

 特に、貯蓄銀行の築地貯蓄銀行は、第一次世界大戦後の不況によって経営破綻したり買収した貯蓄銀行を合併し、1924年に「東亜貯蓄銀行」と改称した。その後、普通銀行の貯蓄銀行業務の兼営が禁止されると、その受け皿としての機能も果たした。これにより、都道府県庁所在地全てに支店を持つ日本最大の貯蓄銀行となった(1928年時点の総支店数は267)。

 それ以外の東亜生命保険、日本弱体生命保険、大室火災海上保険、大室倉庫保険の各保険会社や、第一次世界大戦中に設立した大室信託も、破綻したり譲渡された会社の契約を移転する事で、恐慌前の2倍の規模になった。

 

 産業面でも、この恐慌で休業した銀行の取引先を引き継ぐ事で、多くの関連企業や子会社を抱える様になり、その後の合理化や企業の整理によって財閥に取り込まれた。これにより、繊維や食品加工だけでなく、鉱業や証券、倉庫など多くの業種を傘下に収めた。また、造船や電機など大室財閥が最初から持っていた業種については、吸収されるか、下請けに転換されるか、別業種に転換されるかのいずれかだった。

 

 一方、拡大だけでなく、残っていた不良債権の処理も強力に行われた。これは、金融恐慌の初期に大きな損失を出した事で、それなりの額(当時の750万円程)の不良債権があった。これを、減資や遊休資産の売却、不採算部門の切り離しに人員の配置転換などあらゆる手段を取った結果、掠り傷程度の被害でこの恐慌を乗り切った。また、無理な首切りを行わなかった事や労使協調路線を重視した事から、右翼による襲撃が起きなかった。

 

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 以前から兆候はあったものの、閣僚の失言が原因であった事、海外に目を向け過ぎていた事から、行動が後手後手に回った。その為、初動こそ躓いたものの、大室財閥は昭和金融恐慌を何とか乗り切った。しかし、この時海外に目を向けていた事から、ある出来事をいち早く予測、備える事が出来た。

 

 1929年10月24日、アメリカ・ニューヨーク証券取引所で株価が下がった事を切欠に、株価が全面安となった(ブラックサーズデー)。その後も株価は下がり続け、1日平均10%近く下がる状況が1週間続いた。これにより、アメリカ経済は完全に冷え込み、その影響は世界各国に広がった。「世界恐慌」の始まりである。




この時傘下に収まった業種と企業
・金融:大室證券
・不動産:大室建物
・建設:東亜土木
・鉱業:大室鉱業
・製紙:大室製紙
・食品:大室食品産業、大室製粉、大室製糖、東亜水産
・繊維:日東繊維産業

上記以外にも、多くの企業が傘下に入った。また、大室化成産業はセメントとガラス、ゴムの製造にも進出した。


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24話 昭和戦前②:大室財閥(17)

 アメリカから始まった世界恐慌は、瞬く間に世界中に波及した。

 日本も例外では無かった。恐慌が始まる直前、金融恐慌からの立ち直りを目的にデフレ政策と金解禁を実施した。これらが上手く行けば、中小企業は淘汰される反面、低コストを武器に輸出が増大し、不安定だった為替も安定すると見られた。

 しかし、この政策の実施直後に世界恐慌が発生した。恐慌によるアメリカ経済の低迷によって、最大の貿易相手であるアメリカ向けの輸出額の減少した上、国内の金(正貨)が大量に流出した。更にこの後、生糸とコメの値段も暴落し、国内経済は再び低迷した。

 

 この経済低迷に対し、国債の大量発行と一時的な軍備拡張を行う事で苦境を脱しようとした。この政策は一応成功し、他の列強と比較して一足早く不況から脱した。

 しかし、この政策の実施中にロンドン海軍軍縮会議や満州事変があり、軍部の発言力や不満が高まっていた。その様な中で軍拡を行い、その後で軍縮を行った事で軍部や右翼の不満は高まった。その結果が、血盟団事件から始まる閣僚・財界人へのテロ行為であり、極め付けが2・26事件である。日本は急速に軍国主義化していった。

 

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 大室財閥は、昭和金融恐慌では不意打ちを喰らいダメージを受けたが、世界恐慌からの昭和恐慌は予想出来た。大室物産ニューヨーク支店からの報告で、ニューヨーク証券取引所の株価の動きやアメリカの鉱工業の生産状況から、近い内に株価は暴落すると見られていた。

 暴落に備えて資金確保の準備していたが、準備中に金融恐慌が到来した為、大室財閥は大きな被害に遭った。しかし、金融恐慌後の処理によって準備の完了が早まるというメリットになった。

 

 昭和恐慌によって国内経済は再び大打撃を受け、中小企業が大量に倒産し失業者も急増した。大室財閥はこの機会を利用して、更なる拡大を行った。金融恐慌によって組織の再編成が完了しており、以前からアメリカ発の恐慌に準備していた事から、その後の対応は早かった。今回は中小企業や農村部の被害が大きかった事から、既存企業への吸収では無く、子会社として傘下に収めるもしくは下請けや孫請けの方向での拡大となった。これにより、既存の大企業の生産の一部を子会社や下請けに委託し、大企業(特に大室重工業)は余剰生産力や経営資源を別の技術や重要性の高いモノに投入出来る様になった。

 

 また、アメリカの不況に乗じて、日本に不足していた工作機械の大量輸入を行った。確かに、日本の工業力は第一次世界大戦前と比較すると上昇したが、未だに列強の中では下位であり、上位の米英独と比較すると基礎工業力では大きな差を付けられていた。そして、工作機械は高価でありその国の技術力の証でもある為、簡単に国外に輸出される事は無かった。

 しかし、現状は大きな不況の中にありモノが全く売れない状況である。その様な中で、少しでも金(現金)が手に入る手段があるのならば、それに乗らない訳が無かった。実際、最初の2年間は最新の工作機械を大量に売却している。流石に、アメリカ政府は仮想敵国への援助に当たるこの行為に制限を掛けた。その後は、中古品の購入に限定され、輸出量にも制限を掛けられた。それでも、国内では充分に使えるモノであった。

 これと同様の事をドイツに対しても行った。アメリカとは違い、ドイツは気前良く最新の工作機械を長期に亘って輸出してくれた。これは、ドイツと日本が直接敵対していない事、アメリカ以上に経済的に厳しい状況では相手を選んでいられない事、大室財閥がドイツと関係がある事(大室電機産業とAEG、大室化成産業とバイエル)からだった。

 

 大室財閥のこの動きを見て、他の財閥も同じ事を行った。そして、安価で大量に兵器の生産が出来るのならと陸海軍の一部もこの動きに賛同し、なし崩し的ではあったが、産軍を挙げての工作機械の大量導入が行われた。

 米独両国から輸入した工作機械は、財閥の工場や工廠の古い工作機械の刷新に使用された。そして、財閥や工廠から放出された工作機械は、半分は中小企業に、もう半分は建国間もない満州国(と言っても、大連や奉天が殆ど)に移された。

 これにより、財閥系企業や工廠は設備の刷新と生産効率の向上、精度の向上が図られ、中小企業では生産力の向上が見られた。そして、満州国では史実以上の工業化が成される事となった。この事は、後の太平洋戦争で大いに役立つ事となった。



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25話 昭和戦前③:日林財閥(5)

パソコンが壊れた為、今回はスマホからの投稿です。その為、改行などがおかしいかもしれません。


 昭和金融恐慌とその後の昭和恐慌で、日林財閥は(金融を除いて)大きな被害を受ける事無く乗り切った。

 本体の日本林産は、震災復興が一段落付いた事で商品の木材の需要が低下し、売り上げも低下した。その為、本業以外の事業、特に金融(日本林商銀行)と化学(日林化学工業)に注力する事で、多角化の推進と収益源の複数確保を狙った。

 これらの方針は当たり、銀行の方は一時危なかったものの、信頼の獲得に成功した事で預金量を増やす事に成功した。化学の方も日本が軍拡路線に進むと火薬や合成繊維などの需要が急増し、この後急激に規模を拡大させた。これにより、日林財閥の主軸が、林業から化学へと転換される一端となった。

 

 一方、本業の強化も忘れず、付加価値の高い合板の製造も強化した(尤も、合板の製造は日林木工が担当)。これは、間伐材や細い丸太などの価値の低い木材の有効利用と、合板の主要輸入元であるロシアからの輸入が減少した事からだった。

 この結果、今まで捨てるか薪にするぐらいしか利用目的の無かった木材を、商品にして利益を上げる事が出来た。加えて、接着剤の開発促進と合板の製造機械の自主製造という副次的効果をもたらし、化学部門と機械部門の更なる強化という結果となった。これにより、1935年に日林木工は機械・造船部門が「日林造船機械」と、家具・合板製造部門が「日林木材工業」として分割した。

 

 日本林商銀行は金融恐慌時、小規模ながら取り付け騒ぎに遭い、一時は預金の2割が流出するという非常事態が起きた。尤も、本店に頭取が出て『当行は破綻しません』と宣言し、支店にもその宣言書が店頭に貼られた事で利用者は安心した。預金の流出も止まり、流出した預金も戻ってきた上、他行からの預金の獲得に成功し、流出直前の1割増という結果となった。

 しかし、その後の昭和恐慌では、取引先の多くが休業や倒産するといった事態によって貸出金の回収が不可能となり、大量の不良債権を抱える事となった。この時は流石に危ないと判断されたが、日林財閥各社による資金援助と大室銀行からの連携によって、この困難を乗り切る事に成功した。一方、この出来事によって日本林商銀行は大室銀行の子会社的存在となり、戦時統合によって大室銀行に統合される一因となった。

 

 日林化学工業も、大戦後の合成繊維や化学肥料の需要が高まると、その増産の為に設備の増強を行った。加えて、事業の多角化も進め、ソーダやアンモニアの製造にも進出した。その最中に世界恐慌が起きたが、大きな影響を受けなかった。その理由は、恐慌後の満州事変とその後の満州開発によって大きな需要が発生した事で、設備投資や恐慌による負債を返済出来た為であった。そして、満州事変以降、日本の軍拡路線が進むにつれ、火薬や薬品の需要も増加し、日林化学も増収に次ぐ増収となった。これにより、日林化学は日本窒素肥料(現・JNC)、日本曹達、昭和電工に並ぶ化学の大手企業となった。

尚、合板製造の結果、接着剤の技術は大幅に向上し、簡単に剥がれない木材用接着剤も既に製造された。この接着剤は他の合板メーカーにも販売され、国内の合板の「剥がれ易い」というイメージは概ね払拭され。また、接着剤の技術向上は、太平洋戦争中の木製航空機の開発・生産にも大きく貢献する事となった。

 

 金融・化学以外にも、拡大した業種として窯業と鉱業がある。茶碗を作るだけでなく、陶磁器の製法を応用して碍子やスパークプラグの製造に進出した。これは、当時の送電網の整備や自動車・航空機の発展に応じつつ、既存の事業を発展させる事で、事業の多角化と収益源の複数確保を目的とした。

 この考えは当たり、当時、黒部川や北上川などの大型河川の開発が行われ、ダムの建設も含まれていた。その目的は治水がメインながら、発電も含まれていた。これにより、送電線が大量に引かれ、碍子の需要も増大した。この動きは、軍国主義化していくにつれ拡大した。軍国主義化に伴う軍拡によって、兵器の生産の為の電力が必要になる為だった。

 また、軍拡や技術革新によって、自動車や航空機が大量配備され、エンジンに必要なスパークプラグの需要も急増した。これらにより、日林陶器は急速に拡大し、1938年に碍子部門とスパークプラグ部門が「日林特殊陶器」として独立した。

 

 鉱業の方も、軍拡が進むと金属や燃料資源の需要が急増した。その為、日林鉱業の業績は拡大し、新しい鉱山の開発も行われたが、1933年に金属部門を「大室金属鉱山」として大室財閥に譲渡した。これは、日林側は「日本林商銀行の救済の対価」と「繋がりの薄い事業の整理」を、大室側は「自前の金属資源の原料の確保」という思惑が一致した為だった。

 上記以外の繊維、食品も景気回復によって、業績は回復した。また、日本林産の商社部門も、日林財閥の企業の業績が回復するにつれ取引量も増大し、林業を上回る収益を上げた。

 

 日林財閥の業績は一時下がったものの、時流に乗る事が出来た事で回復した。しかし、拡大した方向が本業と離れていた事は、日本林産とその祖業である林業の進展の限界が垣間見えた。



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26話 昭和戦前④:日鉄財閥(4)

 1920年頃から、再び鉄道ブームが到来した。第一次世界大戦による資材の高騰によって中断されていたが、大戦景気によって日本の経済力・資本力は大きく向上した。また、それに伴って都市の人口も増大した。これにより、都市近郊部の鉄道、特に電気鉄道の計画が大量に出現した。また、関東大震災によって、都心から郊外に人が移動した事もこれを助長した。

 日鉄もこの動きを逃さず、「これだ」と狙った会社に出資し傘下に収めた。出資対象は、北は北海道から南は九州まで、都市間鉄道から地方のローカル線まで多岐に亘った。

 

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 鉄道会社への投資だけで無く、車輛製造部門の拡大も活発に行われた。特に大きなものが、福岡鐵工所、東洋車輛、雨宮製作所の買収である。この3社は共に鉄道車両メーカーであるが、史実では、福岡鐵工所を除いて昭和恐慌による地方鉄道の経営悪化によって新規受注が無くなった事によって経営が悪化、倒産している(福岡鐵工所については詳細不明)。

 福岡鐵工所は、福岡駒吉が設立した会社である。軽便鉄道向けの石油発動機搭載の機関車「駒吉機関車」を開発・製造したメーカーで、一部のマニアには知られていると思われる。

 東洋車輛は、東急の五島慶太や京阪の太田光凞など鉄道界の大物が出資して、1922年に設立された会社であるが謎が多い。というのも、第一次世界大戦後に設立された為である。それでも、鉄道界の大物がバックにいる事による信頼は大きかったのだろう。設立翌年には、戦後不況で傾いた同業他社の枝光鉄工所を吸収したが、昭和恐慌などで地方鉄道の経営が傾いた事で車輛の受注は減少し、東洋車輛は倒産した。

 雨宮製作所は、日本の鉄道王雨宮敬次郎が1907年に設立した「雨宮鉄工所」が源流である。地方鉄道向けの客車や気動車の製造で知られていたが、昭和恐慌後はこちらも東洋車輛と同様の道を歩んだ。

 日鉄は、この3社を1926年頃から子会社化した。日鉄が出資・建設した鉄道会社向けに汽車や客車の製造を任せたり、気動車や電車の共同開発を行うなどして、密接な関係を築いた。これにより、史実で減少した地方鉄道向けの車輛の受注を日鉄経由で獲得した3社は、経営状態は史実よりもマシな状況となり、多少傾きつつも倒産する程では無くなり、日鉄の庇護の下存続した。

 その後、1938年に日鉄と大室の統合の一環で、3社は日鉄本体に吸収された。それと連動して、製造現場の合理化によって、大阪(旧・福岡鐵工所)と枝光(旧・東洋車輛)を閉鎖して三田尻に、深川(旧・雨宮製作所)を閉鎖して千葉にそれぞれ設備や人員などを移転させている。

 

 勿論、地方鉄道向け以外にも、国鉄(当時は鉄道省だったが、分かり易さを重視して「国鉄」とする)向けの車輛の製作も行っている。地方鉄道向けに蒸気機関車の製造を行っていた為、8620形や9600形を数両製造している。1927年には、2両の中型電気機関車を自主製作し鉄道省に納入した。この機関車は後に「ED19」と改称された。この事から、国産の電気機関車の製造に日鉄も加わり、EF52形電気機関車の製造の共同メンバーに加わった。その後も、ED16形やEF53形などの製造にも携わった。しかし、電動機については、出力の関係から大室電機製のものが採用された。

 

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 車輛製造部門が活発になっているのと同じく、電気・機械部門も活気づいていた。車輛メーカーである事と海軍からの支援がある事を生かして、モーターや発電機などの重電部門については強く、それ以外の弱電(家電など)についても、第一次世界大戦中から自力で開発を行ってきた。特に、鉄道向けにもなる電球や扇風機の製造については高い評価を受けていた。

 電機産業は不況の中でも大きな打撃を受ける事は無く、比較的安定して成長した。不況後は軍拡によって、通信機やエンジンの製造で車輛に遅れながらも活況に沸いた。

 一方、造船部門については、大戦後の不況や軍縮によって受注が激減した事で、買収した造船所の内、尼崎と戸畑を閉鎖して三田尻に集約させた(同時に、戸畑造船所の跡地に電機工場を新設)。それでも、利益を上げられない為、車輛や電機の下請けを行ったり、当時新兵器と目された航空機への参入を行うなど、造船部門は中核にならなかった。

 しかし、航空産業への参入は結果的には成功した。当初は試行錯誤を繰り返しながらも技術力を高め、海軍との繋がりから水上機や飛行艇の開発を任される様になり、後に愛知航空機や川西航空機に並ぶ中堅航空機メーカーの一角を占める様になる。

 商社部門は不況によって大打撃を受けたものの、他の部門が活気付いていた事から損失の穴埋めが出来た。しかし稼げていなかった事から、以降の日鉄財閥では商社部門への注力が二の次になっていった(造船部門も稼げていなかったが、航空産業への参入による将来性から資金が投入され続けた)。

 

 金融部門も活況に沸いていた。鉄道向けの投資事業は日本各地で行っている事から大量の資金が必要となり、銀行は預金集めと運用に、証券会社も運用に注力していた。

 日本鉄道銀行の支店網は、国鉄の大型駅の駅前を中心に存在している為、本来の人の動きとは異なる位置にあるが、東京市や京阪神など大都市の支店が多い事や新市街地の整備などで国鉄の駅付近に人が集まる様になると、この欠点は次第に薄れていった。それ処か、新市街地の住民の預金を集め易い位置にいる事で、日鉄銀行に多くの預金が集まった。こうして大量に集まった預金を、株券や債券などで運用した。特に、国債や金融債の運用が多い事から、安定した資産作りを行い資金量を増加させた。これにより、日鉄銀行の信頼は高まり、地方での預金の獲得に成功した。

 日鉄證券は、日鉄銀行との共同店舗で全国に展開された。こちらは、銀行と比較して法人向けの資産運用が多く、地方の視点も多い事から、地方財閥の資産運用も行った。特に大きかったのは、日林財閥との取引に成功した事である。これにより、大口の取引相手を獲得し、地方財閥と合わせて大きな顧客基盤を築く事に成功した。そして、運用する資産には相手がいる事から慎重な運用が求められ、堅実な運用が心掛けられた事で、昭和金融恐慌や昭和恐慌でも損失が出る事無く乗り切った。これにより、日鉄證券は野村證券に並ぶ巨大証券会社として知られる様になり、野村・日鉄・山一・日興・大和の各証券会社は後に「5大証券会社」と呼ばれる様になる。

 

 上記以外の部門についても、土木部門の日鉄土木は全国での日鉄が絡んだ鉄道の建設に関わり、大きな利益を上げた。倉庫部門の日鉄倉庫、運輸部門の日鉄運送についても同様だった。そして、新参の損害保険会社「日鉄火災保険」は、鉄道会社との契約を増やして拡大していった。

 一方、海運部門の日鉄船舶輸送は、大手との競合や不況の影響によって利用者が増加せず、常に赤字を出していた。既に大手が主要航路に参入し、地方航路も既存会社によって運行されている現状では、新参者には不利であると判断され、1934年に大室船舶に全て譲渡した。




日鉄が投資した鉄道会社については、番外編で別途説明する予定です。


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27話 昭和戦前⑤:大室財閥(18)

久しぶりに本編の更新となります。久しぶりの為、内容に矛盾や構成のおかしさなどがあると思います。


 満州事変後、日本の軍国主義化は進んだ。5.15事件、2.26事件によって政府は軍部の統制力を事実上失い、軍部の独断を追認するだけの存在になろうとしていた。

 

 一方、満州事変によって設立された満州国の存在は、「満蒙は日本の生命線」と言われた事から大々的な開発が行われた。この動きは本国にも波及し、満州の開発景気に沸く事となった。

 また、世界恐慌からの立ち直りが他の列強より一歩早かった日本は、経済の回復も早かった。強引な為替レートの変更によって輸出の伸びが著しく、日本製の綿製品が世界中に広まった。

 日本は緊張を孕みながらも、戦前最後の平和の中にあった。

 

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 この様な中、大室財閥が取った行動は技術力の向上だった。これは、大室財閥が音頭を取った事で米独から大量の工作機械を導入し、それによって生産力の向上は見られたものの、基礎工業力の低さから来る技術力の不足は残っていた。特に、精密機械や電機、自動車や航空機、それらの心臓であるエンジンの技術力は米独に及ばなかった。そして、次世代の主力兵器と目された航空機の開発にも影響を及ぼすだろうとして、1920年代から進められていたこれらの研究が強化された。

 

 精密機械や電機については、大室電機がAEGから技術提供を受けている事から、パテント料を上積みすれば新しい技術を獲得出来た。実際、これによって高品質の真空管のノウハウを獲得している。それ以外にも、新型のラジオや通信機の製造方法も獲得し、軍への納品を行った結果良好と判断され、大口の顧客の獲得に成功した。これにより、通信機器の生産量・生産額は急増し、1938年には通信機器部門の利益だけで他の部門の利益の合計に匹敵するまでになった。しかし、このままだと通信機器に注力し過ぎて他の部門への注力が難しくなる恐れから、1939年に通信機器部門と通信機器と関係が深い電波機器部門を「大室通信産業」として独立させた。

 また、納品した通信機を載せて航空機で使用する実験が行われた結果、航空機に通信機を載せると連携がし易いと判明し、以後、軍用機には通信機の配備が行われた。以降も航空機と通信機の相性の研究が行われ、その最中に、雑音が混ざりにくい方法が判明するなど、この後の戦争に大いに役立つ研究が行われた。

 

 航空機についても、AEGから技術提供を受けた。AEGは1917年に航空機産業に進出したが、ベルサイユ条約によってドイツ企業による航空機開発が禁止された。これを受けて、AEGは戦前から関係にあった大室財閥に「技術者の派遣と保有する技術の提供を条件に航空機産業を引き継いでほしい」と交渉した。大室財閥としては、航空機の有用性が不明であった事から当初は渋ったが、AEG側の熱意と陸海軍の航空機用の予算が組まれた事から航空機の将来性に賭け、この話を受け入れた。航空機用エンジンの技術を、当時国内で増加しつつあった自動車の生産にも流用出来るのでは考えられた事も、賛成した理由にあった。

 これにより、AEGの航空機部門の技術者が大挙して来日した。加えて、ファツル航空機製造やアルバトロスなどの他の航空機メーカーもこの話を聞きつけて来日する者もいた。大室財閥側も、1922年に大室重工業に新たに航空機部門を設立して、来日した技術者を中心に大室重工の技術者や設計者などと共同して、航空機開発がスタートした。

 しかし、大室重工側の用意が不足していたのか、最初の数年は機体の設計やエンジンの開発に終始する事となった。ドイツの技術者達が、本国から苦労して(連合国の目を盗んで密輸した程)航空機の現物を運んできたのだが、リバースエンジニアリングが限界だった。航空機など見た事も触った事も無い日本人の技術者達にはしょうがないのかもしれないが、これから先の事を考えると厳しかった。

 それでも、日本人技術者達はドイツ人技術者から貪欲に知識を吸収し、1928年には自作の航空機が完成した。結果は良好であり、直ぐに軍に売り込みをかけた。この時は採用されなかったものの、1932年に海軍が艦上攻撃機の後続機を計画していた為、そのコンペに参加した所、大室の機体が採用された。後に改良が加えられ、「九二式艦上攻撃機」として採用された(史実の九二式艦攻は海軍航空廠製)。性能が良く信頼性も高い九二式艦攻は、八七式艦攻や一三式艦攻の後続機として多数配備され、400機近くが生産された。

 九二式艦攻の成功は、大室重工の航空機メーカーとして歩む上での第一歩となった。これ以降、大室重工は海軍向けの機体の開発を行っていく(尤も、採用されない事も多かったが)。また、他社の機体のライセンス生産を行い、着々と生産のノウハウを付けていった。

 今までは堺工場で生産していたが、造船所の内部に設置した事から生産ラインが小さく、現状では九二式艦攻の生産数や他社の機体の生産に追いつかないとして、別の場所に航空機専門の工場を建設する事が計画された。1935年に新工場を徳島に建設する事が決定した。この頃には、航空隊の規模が急速に拡大し今後もその予定である事から、新工場の建設は急ピッチで行われた。同時に、工場への人員・物資輸送を目的とした鉄道も計画された。この工場は1938年に完成し、堺の生産ラインも全て徳島に移した。

 

 航空機の開発に連動して、自動車の開発も行われた。既に、トラクターやユンボなどの重機についてはデッドコピーながら生産経験がある事から、現在生産しているタイプより高性能な重機やトラックの生産が計画された。

 こちらは、生産経験がある事から大きく躓く事は無かった。加えて、航空機の研究でガソリンエンジンの研究開発が進んだ事で、高出力な自動車用エンジンの開発に成功した。しかも、航空機用エンジンのノウハウが活かされた事で、このエンジンの信頼性は高かった。これにより、パワーがあり扱いやすい重機やトラックが生産され、特に重機は小松製作所が太平洋戦争中に参入するまで(国内企業では)ほぼ独占だった。

 それだけでなく、他の自動車会社がこのエンジンを積みたいと相談してきた際、「勝手に模造しない事」を条件にこれを許可した。これにより、大室重工の自動車用エンジンが大量に生産され、『国内のトラックのエンジンの1/3が大室重工製』と言われる程のベストセラーになった。

 

 一方、自主研究による新技術の研究も盛んに行われた。特に大きかったのは、ディーゼルエンジンの製造だった。これは、航空機や自動車の増加に伴いガソリンの使用量が増加し、ガソリンが不足するのではと考え、軽油を使用するディーゼルエンジンの開発が行われた。この考えの下、船舶用の大型と自動車用の小型の2種類が計画された。

 しかし、ディーゼルエンジンの理論については持っていた(帝大との研究で獲得した)が、製造経験が無い事から、試作したエンジンは予定していた出力が出ず(計画の6割程度)、故障も頻発した。特に、小型ディーゼルの方は精密な加工を要する事から故障が顕著だった。それでも、帝大との共同研究や航空機用エンジンで培った工作精度の向上などによって、ようやく1934年に大型の、1937年に小型の満足のいく性能を発揮するディーゼルエンジンが完成した。

 これらのエンジンを載せた試作品として、1937年に初の大型ディーゼル船「吉野丸」が竣工し、同年にはディーゼルトラックが数台生産された。運行の結果、成績は良く、経費も2割近く削減される事が判明した。

 一方、頻繁に整備を要求する事、今まで使用していたエンジンとの違いから来る高い整備コストなどから、少数生産は不利であり、整備体制を充分に整えないとコストは高く付くと判明した。これにより、現状での全船舶のディーゼルエンジンへの転換や、既存エンジンとディーゼルエンジンの並行配備は見送られる事となった。それでも、運用成績そのものは良好であった事から、ディーゼルエンジンの研究は続行された。



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28話 昭和戦前⑥:日林財閥(6)

 満州事変以降、日林財閥の基幹事業は林業・木材加工から化学に移行した。日林自体は、祖業を重視する姿勢や、木材からの加工品の製造・販売を強化している事から、完全に化学に頼っている訳では無かった。

 しかし、満州事変以降、重化学工業の発展や軍拡による火薬や薬品の需要の増大、化学部門における国産化の推奨などから、日本全体で化学産業の発展は著しかった。

 昭和恐慌と満州事変によって再編された日林財閥も、この流れに乗った。祖業の強化と共に、金融事業や化学事業の強化、軍需関係への進出などが行われた。これにより、日林財閥は日窒コンツェルンや森コンツェルンに並ぶ化学の大手となった。

 

 また、化学への注力を行うと同時に、他の事業の強化も行われた。それは、製紙業と電力事業の2つである。

 製紙業の強化は、木材の利用が可能な事、化学と密接に関係する事(製紙の製造過程で硫酸が必要になる)、設備の更新が必要だった事が理由だった。3番目の理由は、日林製紙が中小の製紙会社を統合して設立された会社である為、工場が日本各地に分散しており、設備も小規模だった。その為、設備の老朽化が早く、利益効率の悪い運営を行わざるを得なかった。また、ある事情がこれを後押しした。それは、製紙業最大手の3社が合併した事である。

 当時、製紙業は供給過剰によって苦しい状況だった。その様な中、以前からカルテルを組んでいた王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が1933年に合併し、新・王子製紙(通称、「大王子製紙」)が誕生した。

 これに対して日林製紙は、規模の拡大では無く、利益効率の向上による競争力の獲得を目指した。相手は、当時の日本の製紙における生産高の7割を保有していた巨大企業である。拡大した所で勝てる訳が無い。

 一方、王子製紙は合併によってシェアを拡大させたが、異なる会社を合併した為、設備の更新などは先の事と見られた。そして、その間は製造効率はやや落ちると見られた。日林製紙に勝機があるとすれば、製造効率を上げて競争力を得る事と考えられた。

 その為、日林製紙は現在稼働している日本各地に分散している古い工場を整理して、他の地域に新しく工場を設立する事とした。これならば、利益効率の悪い古い工場を整理出来、過剰気味な人員も整理出来る。そして、利益効率の良い新しい工場での生産ならば、製造コストの削減も出来、王子製紙との競争力が多少付くのではとされた。

 

 時は少し遡るが、日林の電力事業への進出は1920年代から始まった。電力事業への進出の理由は、保有する山林の開発に加え、発展する重化学工業への対応にあった。日林が注力する製紙業や化学などの重化学工業には大量の電力が必要であり、電力の安定供給が出来なければ生産にも支障を来たす恐れがあった。それを解消する為には、発電所の増設が必要だった。

 当時の発電方法は、火力発電と水力発電があった。火力発電だと、燃料(石炭や重油)の安定供給が必要であり、煤煙の解消も難しかった為、都市の近くには置けなかった。

 一方、水力発電ならその様な心配は無く、日林が保有する山林の開発を行えるとして、水力発電の積極的な開発が進められた。

 しかし、既に多くの電力事業者が参入している上、単独での参入はリスクが大きい事から、日鉄との合弁会社を設立する事となった。これは、日林は日本各地に山林を保有しているが、大きな売電先が無い事、日鉄は日本各地に電鉄会社を保有しているが、大規模な発電所を保有していない事から、双方にメリットが大きかった。こうして、1928年に両財閥の合弁で「日林電力」が設立した。

 同時に、日林・日鉄共に影響圏が日本各地に分散している事から、1社での参入は非効率だとして、地域毎に電力会社を設立する事となった。日林電力の傘下として、北海道に「北邦日林電力」、東北に「奥羽日林電力」、関東に「関東日林電力」、東海地方と山梨県、長野県に「東海日林電力」、北陸地方と新潟県に「北越日林電力」、近畿に「近畿日林電力」、中国地方に「中国日林電力」、四国に「南海日林電力」、九州に「筑紫日林電力」を設立した。

 

 この頃の日林財閥は、国内の工業化が遅れている地域への進出を積極的に行っていた。それらの地域に進出して、手付かずの森林資源の開発や電源開発だけで無く、雇用の創出による地域経済や内地の経済の強化を図ろうとした。特に強力に進出したのは北海道、東北、四国、南九州だった。

 これらの地域は主要工業地帯から離れている事から、工業生産額が非常に低かった。産業の主体は農業や林業などの第一次産業であり、第二次産業があったとしても鉱業が主体であった。つまり、現地からは運び出されるだけであり、そこで生産される事が少なかった。それらの地域で、その地域の産物を活用した産業の発展を行う事が、日本の経済力そのものの底上げに繋がるとして、日林財閥はこれらの地域への進出を強化した。

 

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 当時、日鉄財閥が札幌の外港と北海道の工業化を目的に、石狩川の河口部で港の整備・開発を行っていた(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)』を参照)。日鉄は、整備した港への工場誘致を行った。これにより、日鉄系の企業だけでなく、大室財閥や三井財閥、三菱財閥などの企業が進出した。

 日林もこの流れに乗り、日林化学と日林製紙を置く事となった。石狩港は、石狩川の水運や石狩鉄道を利用して内陸部から原料の輸送が容易であり、港に隣接している事から搬出も容易であるなどの利点が多かった。

 

 石狩工場の計画は、石狩港の第一期工事が完了した1928年から進められた。当時は、まだ金融恐慌の影響が残っていた事もあり、懸念の声も多かった。中には、他の財閥が朝鮮に進出している事から、我々もそちらに進出しようという意見もあった。

 しかし、内地には未だに開発が遅れている地域があるのに、そこの開発をせずに外に出るとは何事かという意見が幹部の統一意見として出されると、外地への進出という意見はピタリと止んだ。これにより、内部の意見は統一され、石狩工場の計画は進行し、1930年には建設が開始した。

 尤も、工事が始まったのが昭和恐慌の時期と重なり、間が悪い事に日本林商銀行の経営危機もこの頃の為、石狩工場の計画は一時中止となった。しかし、鎮静化が早かった事から、翌年には工事が再開した。

 また、工場で使用する電力の安定供給を目的に、石狩川の支流である当別川の上流の電源開発も同時に行われた。川沿いの道は悪路であり、物資の搬入には利用しずらいとして、札沼線の石狩当別から分岐して、当別川沿いに鉄道を走らせて、物資の搬入や沿線からの木材輸送などに活用する事が計画された。

 工事は1929年から行われ、翌年には当別川の上流まで開業した。開業と同時に、以前から計画されていたダムの建設も開始した。これは、石狩港の工業地帯だけで無く、札幌市への電力供給も検討していた事から、たとえ恐慌によってダメージを受けたとしても、急ピッチで行う必要があると判断された為であった。それでも、恐慌によるダメージによって工事の速度が緩められ、当初予定では1935年に完成だったが、1年遅れの1936年に完成となった。

 

 発電所の完成と工場の新設によって、北海道における工業生産額は急増した。加えて、発電所が置かれた事で、工場設置のネックであった電力の安定供給が克服され、他の財閥系企業の進出も促進した。

 

 また、日林の発電所設立は、2つの副産物を生みだした。一つは、現地の既存電力事業者の発電能力の強化である。これにより、更なる工場の進出が行われようとしていた。もう一つは、北海道から満州への移住者の減少である。北海道内で雇用が創出された事で、余剰人口が労働者として吸収された。

 

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 日林の石狩港進出を見て、他の企業が石狩港に進出した様に、北海道の他の地域でも工場の設置や発電所の建設が行われた。その多くが、以前から北海道の主要工業地帯である室蘭や苫小牧、釧路に進出した。

 室蘭では製鉄所の設備強化や造船所、機械工場の新設、苫小牧でも機械工場が置かれた。釧路も製紙工場や食品加工工場の施設強化に加え、周辺から産出される豊富な石炭を利用した化学工業も進出した。

 

 上記に挙げなかった地域でも、小規模ながら工場の新設が行われた。これらの動きによって、日本各地の余剰人口が北海道に移住したり、逆に北海道の住民が満州への移住が鈍化する事となった。




中途半端なところで終わっていますが、後半は日鉄財閥による東北、四国、南九州の進出・開発状況を書きます。1つにまとめると長くなりすぎると考え、2つに分割しました。


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29話 昭和戦前⑦:日林財閥(7)

 東北では、奥州地域(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)の工場施設の強化と奥羽山脈における電源開発を行った。元々、日林は私設鉄道の沿線の森林開発・植林から始まり、初期の出資者の中で最大だったのが、東北本線などを建設した日本鉄道であった。その為、東北地方の旧・日本鉄道沿線(=奥州)には日鉄の工場が置かれていた。

 実際、仙台には木材加工場や製紙工場、後には造船所や化学工場が置かれた。また、これにより、仙台郊外の名取や塩釜への工場や企業の進出も進み、他の企業の工場も進出した。それ以外にも、三陸や浜通りなどの沿岸部には水産加工場と製薬工場が置かれ、それ以外の地域には木材加工場や食品加工工場が置かれ、農地の開発も推し進めた。

 上記以外にも、日露戦争以後に進出した出羽地域(現在の山形県、秋田県)でも、秋田や酒田に中規模ながら製紙工場や木材製品の工場が置かれた。 

 また、電源開発は、奥羽山脈や出羽山地、北上山地など多くの山岳地帯があり、北上川や最上川、阿武隈川などの大規模な河川が多数存在する事から水力発電に適しているとされ、積極的な開発が計画された。また、これらの大規模河川は大雨などで氾濫した事から、治水事業としての側面もあった。

 

 しかし、計画を全て日林単体で行うのは不可能であり、奥羽日林電力(日林系の電力会社で東北を担当)としても企業体力を超える事業は行えなかった。その為、地元の電力会社や自治体共同して場所毎に分けて建設を行う方法が計画された。これならば、複数の場所で同時に工事が出来、1つの会社が工事を中断しても他の場所では影響が小さくなると見られた。加えて、日林だけが巨大化する事も無い事から、他の電力会社から大きな恨みを買う事も無いと見られた(尤も、新規に参入してきた時点で相応の恨みを買っているのだが)。

 この案に対して、他の電力会社の意見は二分した。一方は、新参者が入ってくる事や新参者の意見など聞きたくもないという者、もう一方は、単独での開発は難しいとしてこの案に乗る者であった。その為、日林のこの案は紛糾し、最終的に日林の意見に賛同する会社だけでこの計画を実行する事となった。

 この結果、当初のダム建設予定地の2/3程度が開発される事となった。開発は1929年から始められた。開発開始直後に昭和恐慌が襲い、日本全体が不況に覆われた事で、一時は計画が中断された。特に東北地方では酷く、農村部の荒廃が進んだ為、開発の意義すら見失いかねなかった。

 それでも、荒廃した農村部を再建する為には東北全体の開発が必要だとして、計画の中止はされなかった。加えて、その後の満州事変後に日本の景気が上向き始めると計画は再開された。調査などを進め、多くの地域では1933年から建設が行われた。

 

 これらのダムは1937年から次々と完成した。ダムの完成により、多くのメリットがあった。第一に、暴れ川と言われた北上川や最上川の氾濫が減少し、今まで増水時に氾濫する為開拓が出来なかった下流域の農地の開発が進んだ。

 第二に、ダムの完成により大量の電力が供給される様になり、東北地方に企業の進出が進んだ。これは、戦時体制になりつつあり、軍需産業の比率が急増した時期と重なり、軍需中心ではあったが東北地方の工業化が進んだ。

 第三に、農地開発や工場の新設によって東北地方では大量の人手が必要となった。当時の東北では余剰人口があった事から、その余剰人口が開拓された農地の農民や工場の労働者として吸収された。これにより、史実では関東や満州に移住した人口が東北に定着する事となった。

 

 大規模な東北の開発が行われたが、東北全体の開発は日林単独では行われなかった。採算が取れるか分からない事業もあり、東北全体を開発しようとすると、財閥の体力を超えると見られた為だった。その為、他の財閥と共同出資して設立した「東北興業」という会社を挟んで行われた。東北興業についてはここでは詳しく述べないが、この会社は史実でも存在したが、設立した時期と経緯が異なる。

 

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 四国では、徳島と三島(伊予三島、現在の四国中央市)への進出を行った。これは、日林財閥が立江~土佐山田の四国中央鉄道と阿波池田~伊予三島の四国横断鉄道を支援した事と関係する(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)』参照)。特に、四国山地からの豊富な木材資源を活用して、製紙業と木材加工業が数多く進出し、水力発電の開発も進められた。それだけでなく、化学や造船、機械や金属なども進出した。これは、日林が四国全体の工業化の推進だけでなく、徳島を有力な工業都市にしようとする計画があった。

 

 徳島に進出したのは1928年からであり、その時は四国中央鉄道と沿線から産出される木材の加工程度だった。その後、発電所の計画が立案された実地調査も行われたものの、暫くは大きな変化は無かった。これが大きく進展するのは1935年以降の事である。

 1935年に大室重工業が徳島に航空機工場を建設する事となった。この話を聞いた日林は、部品や電力の供給に加え、徳島に大規模な工場を建設すると大室に伝えた。大室側はこれを歓迎し、両者が共同して徳島を工業都市にしようという話になった。

 大室重工の工場建設に合わせて、日林も日林化学や日林特殊陶器などの重化学工業の進出を強化した。合わせて、1933年から行われていたダムの建設も、これらの工場への電力供給の為に促進された。これらの施設は1938年から稼働し、徳島が四国最大の工業都市として君臨する第一歩となった。

 

 三島の方は、原料の確保が容易な事から製紙業や木材加工業が進出したが、地元には多くの製紙業者が存在した事から一時は対立関係にあった。これに対し日林は、原料の優先的な供給や経営が傾いた企業の救済を約束した。

 これに乗った企業もあれば、『自分達だけで対処する』と言って乗らなかった企業もあった。その為、三島の経済界は二分し、以降町内の有力企業は親日林派と反日林派で分割する事となった。これは、戦時中の統合にも反映される事となった。

 

 兎に角、三島へ製紙工場や木材加工場が進出し、電力開発によって豊富な電力が送られた。これにより、日林以外の有力企業、特に近畿や西日本に基盤を置く企業が三島に工場を置くようになった。主な企業として、住友系の住友機械工業(現・住友重機械工業)や住友化学工業(現・住友化学)、多木製肥所(現・多木化学)などの化学メーカーであった。他にも、大量の電力を使用するアルミニウム精錬や、近畿や瀬戸内に存在する造船会社や重工向けの機械や部品を製造する下請けも多数進出し、新設された企業もあった。これにより、三島は製紙と重化学の街として発展していく事となる。

 

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 南九州では、宮崎への進出を行った。こちらも、宮崎電気鉄道を支援した事と関係する(番外編『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)』参照)。宮崎電鉄の沿線は林業地帯として有名であり、こちらでも四国と同様に製紙業と木材加工業が進出した。

 同時に、大淀川とその支流の電源開発も行われた。宮崎電鉄の開業によって物資の輸送は容易となり、1933年から工事が行われた。ダムは1937年に完成し、宮崎電鉄や沿線へ電気が供給された。

 

 ダムの完成に伴い、大量の電力を使用し、将来の主力兵器と目される航空機の主材料となるアルミニウムの精錬業が進出した。また、化学の進出も盛んだった。これは、県北部の延岡と隣の熊本県八代に日窒コンツェルンの企業が置かれていた為であった。日林系だけで無く、森コンツェルンや日曹コンツェルンの企業が相次いで進出し、大量の硫安や苛性ソーダなどの生産が整いつつあった。

 これに伴い、日窒コンツェルンは宮崎に対抗するべく、八代や延岡での設備強化に着手する事となり、朝鮮での設備強化は鈍化する事となった。



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番外編:日林-日鉄による東北開発

 明治維新以降、東北地方の開発は他の地域と比較すると遅れていた。戊辰戦争中、東北地方の多くの藩が新政府に抵抗した事から、その後も睨まれていた。一応、鉱山や林業の開発は行われたが、未だに手付かずの山林は多く残っていた。その為、東北地方の開発は低調であり、戦前では大規模な開発が殆ど行われなかった。

 第一次世界大戦前、東北地方を襲った冷害の対策として、東北地方の抜本的な開発を行おうと、1913年に「東北振興会」が設立された。しかし、何ら具体的な行動を起こせないまま1927年に解散してしまった。つまり、東北地方の大規模な開発の機会が失われたのである。

 第一次世界大戦中の影響から、日本では重化学工業が発展し、特に窒素や苛性ソーダなどの化学工業が発展した。これらの事業は、大量の電力を必要とする。その為、水力発電とセットで設立される事が多かった。急峻な山岳が多い東北ではこれらの産業に有利と考えられるが、それらの工場の多くが南九州や北陸、朝鮮に設立された。これらの地域も東北同様、急峻な山が多く開発が遅れている地域であるが、ここでも東北地方は開発から残されてしまった。

 

 この状況が転換したのは昭和恐慌以降の事だった。昭和恐慌とそれに続く農村恐慌によって、農村部、特に東北は荒廃した。有名なのは、欠食児童や娘の身売りであろう。それくらい、酷い状況にあった。その後、三陸地震や凶作などが相次いで発生し、政府は東北の復興を目的として1936年に設立されたのが「東北興業」だった。議会で定められた法律に則って設立された為、特殊会社に分類されるが、発行した株式の半数は東北地方6県が、残りの半数は民間企業が保有する形態だった。

 東北興業の目的は、化学工業の新興や農村工業化の促進などの5項目に亘った。これにより、東北地方の復興と工業化が進むかと思われたが、時期が悪かった。

 

 東北興業が設立した1936年は、2.26事件のあった年であった。その年から日本の軍国主義化は急速に進み、軍事費が増大した反面、他の事業についての支出は低下した。この煽りを受けて、東北開発の予算も削減された。また、目玉とされた「化学工業の新興」は、会社側の都合で低調だった。

 これの代替として、東北の化学工業に出資する形態が取られた。これ以降、東北興業は投資会社としての性格を強め、化学、機械、製紙など投資先は多岐に亘った。

 これにより、当初の目的とは異なる形ではあったものの、東北地方の工業振興は図られた。

 

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 この世界では、1926年に東北振興会に日林財閥と日鉄財閥が関与した事から、史実とは異なる歴史を歩む。

 日林財閥が、日本鉄道(現・JR東北本線など)沿線の植林事業から始まったという経緯から、東北地方の奥州地域についてはある程度の情報を持っていた。日鉄財閥は、その日本鉄道の後身企業である事から、やはり奥州地域の情報は持っていた。そして、その縁から両者の繋がりは当初から深かった。

 これらがあり、両者は東北振興会に参画した。この頃には、東北振興会は開店休業中の状態であり、情報量から太刀打ち出来なかった為、必然的に両者が主導権を握った。

 

 1927年、日林と日鉄は東北振興会を「東北拓殖」と発展的に解消させた。東北拓殖は株式会社形式を取り、半数を日林と日鉄が、残る半数を東北6県の有力企業や資本家が保有した。東北拓殖の目的は次の通りである。

 

・林業や鉱業の開発

・化学工業の設置

・農村・漁村の工業化

・電力開発

・農地を含めた土地開発

・上記に付随する交通機関の整備

 

 第一の「林業や鉱業の開発」は、未だに残る豊富な森林資源や、未開発の鉱物資源の開発を行うものだった。現状では、日林財閥によって森林資源の開発は行われており、釜石や小坂に代表される鉱山の開発も進んでいた。

 しかし、開発は一部であり、未だに手付かずの場所も多かった。特に、岩手県の東北本線と太平洋に挟まれた山岳部は、豊富な森林資源や鉱物資源が望めるものの、交通機関が乏しい事から開発が進んでいなかった。

 東北拓殖は、第六の「交通機関の整備」と連動して道路や鉄道の建設を行い、未開発の資源の開発を行った。これにより、資源の運搬路としてだけで無く、課題だった地方交通網の拡充を行った。

 

 第二の「化学工業の設置」は、急速に発展する化学工業を東北に誘致して、東北地方の開発と国富の増強を目指したものである。これは、第三の「農村・漁村の工業化」と第四の「電力開発」とも連動している。

 つまり、化学工業を設置し、化学肥料や農薬を生産する。これを農村に販売し、農業生産力を強化する。増産された農産物を加工し、軍や都市部に販売する。また、漁村に水産加工場や製薬工場(肝油などは薬になる)を設置して、工業化や衛生の強化を図る。そして、化学工業で使用する電力を賄う為、ダムを建設して電力開発を行う。これが、大まかな構想である。

 

 第五の「農地を含めた土地開発」も、第四の「電力開発」と連動している。

 ダムによる電力開発と共に治水を行い、下流域の氾濫を解消する。氾濫を抑えられれば、今まで開発できなかった氾濫域や湿地の開発が可能となる。ここを農地として開発したり、工場を誘致する事が目的だった。

 

 上記の開発は設立直後から行われたが、大規模過ぎた事で計画は僅かしか実行出来なかった。幾ら財閥の出資を受けたとしても、一民間企業が出来る範囲を超えていた。

 「林業や鉱業の開発」は、奥州地域では多少進んだが、出羽地域では殆ど進まなかった。「化学工業の設置」も、仙台周辺や三陸地域では行われたものの、1933年の三陸地震による津波によって岩手県沿岸部が被害を受けた。これにより、建設途中だった工場は完全に崩壊し、建設も放棄された。その為、「農村・漁村の工業化」「電力開発」「農地を含めた土地開発」も殆ど進まなかった。

 一方、「上記に付随する交通機関の整備」は多少行われ、東北鉄道鉱業、南部開発鉄道、岩手開発鉄道に関与した。

 

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 昭和恐慌や農業恐慌、三陸地震によって東北地方が荒廃すると、政府としてもこれを救済する必要があった。しかし、既に東北拓殖が事業を行っていた事から、新規に組織を形成するのは非効率的であった。その為、東北拓殖に政府が出資する事となった。

 

 これに対し、東北拓殖側は好意的であった。東北地方全体の救済を民間企業だけで行うのは限界があった。その上、自然災害の復旧費用も嵩み、事業の殆どがストップしていた。その為、政府からの出資は有難かった。

 当初、日林は奥羽日林電力との関係からこの案に難色を示したが、直ぐに撤回した。ここでごねたら政府の出資は無くなる可能性があり、現状(1935年)では電力事業が国有化される可能性が高いと見られていた為であった。それに、東北拓殖が純民営から半官半民になるが、日林は影響力を及ぼし続けられる事もあり、大きく反対する事も無くなった。

 これにより、1936年に東北拓殖は一旦解散し、資源開発や化学工業、土地開発などを行う「東北興業」と、電力開発を行う「東北振興電力」を新たに設立し、政府と東北6県からの出資を受け入れた(新設された会社の株式の内訳は、政府が1/3、東北6県が1/6、日林と日鉄が合わせて1/3、東北の有力企業と資本家で1/6)。

 

 その後の東北興業は概ね史実通り、投資会社としての性格を強めていった。実際、1つの会社が複数の巨大事業を行うには限界があった。子会社に事業を行わせるのが効率的であり、本体の負担も少なかった。そして、東北6県に木材、土木、製紙、機械、金属、鉱業など多数の事業に投資し、100以上の子会社を保有する様になった。

 

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 先に述べた東北鉄道鉱業と南部開発鉄道(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)』を参照)は、東北拓殖が出資していた訳では無い。東北鉄道鉱業は日林・日鉄財閥が直接出資していたが、東北拓殖は土地の収用や労働者の斡旋などを行い側面から支援した。

 

 一方、同様の目的で設立された「岩手開発鉄道」は、東北拓殖の子会社であった。目的は、内陸部の石灰石や森林の開発と交通網の整備だった。

 岩手開発鉄道は史実でも存在し現存している。1939年に盛~平倉の免許を獲得したものの、戦争によって工事が中断した。戦後に工事は再開し、1950年に盛~日頃市が開業した。しかし、平倉への延伸は実現せず、1960年に日頃市~岩手石橋が開業したのを最後に、以降の延伸は実現しなかった(残る免許は1976年に失効)。

 人家が稀な地域の鉄道である事から、旅客利用者は非常に少なく、1992年に旅客営業を終了している。しかし、岩手石橋に石灰の鉱山が存在する事で貨物輸送は非常に多く、岩手開発鉄道が存続出来る理由である。

 

 この世界では、1928年に史実と同じ理由で同じ区間の免許を申請し、翌年に免許を獲得した。そして、1930年に東北拓殖が中心となって「岩手開発鉄道」を設立した(東北拓殖が過半数の株を取得。残りは岩手県や岩手の有力企業が保有)。当時、当時はまだ国鉄が盛まで開業していなかったが(国鉄大船渡線の全通は1935年)、1932年から工事に着手した。こちらが先に開業して、国鉄に乗り入れてもらう事にしたのである。

 区間の殆どが山岳部の為、工事は時間が掛ったが、1941年に盛~平倉が開業した。日鉄が工事に関わっていなければ、もっと伸びていたといわれている。

 尤も、岩手開発鉄道は1944年に国有化された。これは、改正鉄道敷設法第9号(岩手県川井ヨリ遠野ヲ経テ高田ニ至ル鉄道)に概ね該当する事、沿線から産出される石灰石の存在、盛の海軍の人造ガソリンの工場(史実では気仙沼に建設された)の存在が理由だった。これにより、岩手開発鉄道線は「盛遠線」と命名された。



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30話 昭和戦前⑧:大室財閥(19)

 1935年から1937年は、大室財閥にとって不幸な時期だった。何故なら、大室財閥を率いていた三兄弟が相次いで亡くなった為である。

 1935年10月に次男の匡彦が急に体調を崩し、そのまま回復する事無く12月に67歳で亡くなった。1936年2月に三男の淳彦が風邪を拗らせ、そこから肺炎に悪化して同年6月に63歳で亡くなった。長男の忠彦も1936年10月に倒れ、一時は持ち直したものの年齢と今までの無理が祟り、1937年2月に74歳で亡くなった。

 原因は、昭和恐慌から経済は混乱状態にあり、その荒波の中で大室財閥を傾かせない様に彼らが懸命に努力したが、その為に努力し過ぎた事によって過労となり、年齢も合わさって(全員60歳以上である)病気になり易かった。つまり、過労と老衰による病死であった。

 

 三兄弟を失った事は大きな損失だったが、そこで停滞する程大室財閥は柔な組織では無かった。1920年頃から行われていた後継者教育によって、既に彼らの孫や初代から付き従っていた者の子孫らが会社を支える体制が整っていた。また、三兄弟の頃には、財閥が巨大化した事と後継者争いを解消する目的で、集団指導体制を整えていた。

 1930年代前期にこの体制は整っており、彼らが亡くなった頃には誰か一人が亡くなっても大勢に影響が無い様な組織となっていた。その為、大室財閥は今まで通りの行動を取った。

 

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 1930年代の中頃から、大室財閥では軍需産業に対する割合が増加した。以前から、造船所や電機を保有している事から比較的割合はあったが、日本が満州事変以降、軍拡路線を歩んでからは顕著だった。航空機への参入や造船所の機能強化をしてから、急速に軍需が伸びていった。その象徴が、徳島の航空機工場だろう。他にも、輸送用車両や装甲車両の製造、火薬や各種薬品を製造する化学が拡大し、軍需産業に融資する金融も拡大した。

 

 また、この拡大に際して、既存の施設の強化と新しい設備の建設が行われた。

 まず、堺と横浜(本牧)の造船所の設備の強化から始めた。元々、堺造船所は第一次世界大戦の頃から強化が行われており、1930年代中頃には戦艦(扶桑型・伊勢型が限界)・大型空母(翔鶴型)が建造可能な船台1基、重巡洋艦や中型空母(飛龍程度)が建造可能な船台1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台2基とドック1基を有していた。他の場所では、横浜に重巡洋艦が建造可能なドック1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台1基とドック1基を有していた。

 しかし、今後の軍拡や予想される対米戦を考えると現状の施設では不足すると見られていた為、これらの施設の強化が行われた。具体的には、既存の建造施設の拡大と造船用のドックの新設である。これは、戦艦の建造を目指したのでは無く、巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の整備を迅速にする為である。

 

 現在、海軍は軍縮条約の期限が切れると同時に、大規模な海軍拡張計画を立案している。その実現の為には、多数の建造施設が必要となるが、現状で戦艦を建造出来る設備を保有しているのは、呉と横須賀の海軍工廠、長崎の三菱重工業と神戸の川崎造船所(現・川崎重工業)の4か所しか無かった。

 一応、堺の大室重工業も建造は可能だが、規模から考えると3万5千トン程度が限界であり、新世代の戦艦を建造するには小さ過ぎた。加えて、戦艦の建造を経験していない事から、海軍側が戦艦の建造を敬遠していた。八八艦隊計画時、十三号艦の1隻を大室重工の堺造船所で建造する計画だったが、それが流れた為、造船所の拡大計画も霧散し、戦艦の建造は行われなかった。

 この事から、大室重工業は戦艦の建造を諦め、他の艦艇、つまり空母や巡洋艦などの建造が可能な設備を整える事を考えた。

 具体的には、堺に中型ドックと小型ドックを1基ずつ、横浜に中型ドックを1基と小型ドックを2基増設し、大阪府南部の多奈川に大型ドックを1基と中型ドックを1基、小型ドックを2基を有する新しい造船所を建設する事が計画された。

 これらの計画は1934年から行われ、海軍拡張計画が行われる1937年までに全ての計画が立てられた。それと同時に工事も行われ、1940年には大体の施設は使用可能となった。

 

 また、造船所の強化と連動して、製鉄・セメント・機械・金属・ゴムの強化も行われた。これらは、造船所の建設や拡大、日本全国で行われている電力開発に必要だった。製鉄は造船所やダムで使用する鋼材に、セメントも造船所やダムで使用される。機械は、造船所の設備を整えるのに必要となる。金属は発電所からの送電や造船所への配電の銅線に、ゴムは銅線の被膜に必要となる。

 その為、セメントとゴムを製造する大室化成産業、機械を製造する大室重工業と大室電機産業の施設が強化された。具体的には、大室化成は下関にセメント工場を新設し、和歌山にゴム工場を新設した。大室重工業は千葉の機械工場を強化し、徳島の航空機工場内に新設した。大室電機も千葉と堺の機能を強化し、石狩港に新設した。

 また、1936年に大室製鉄金属が製鉄部門と非鉄金属部門に二分し、製鉄部門を「大室製鉄産業」に、非鉄金属部門を「大室金属産業」とした。同時に、「大室金属鉱山」(旧・日林鉱業の金属部門)も改変し、非鉄金属部門を大室金属産業に移転し、残る鉱山部門は「大室鉱業」と合併した。

 そして、和歌山に製鉄所を建設し、堺の施設も増設した。また、徳島と横浜には銅線工場が設立され、君津には銅の精錬所が建設された。尤も、これらの施設は1935年現在では書類上の事でしか無く、これらが現実のものとなるには5年は掛った。

 

 そして、造船や機械の強化によって、工作機械の国産化も強化された。これは、1935年頃からアメリカからの工作機械の輸入が低調となり、ドイツ単独に頼る状況となっていた。しかし、有事になりつつある状態で、産業の要となる工作機械を輸入に頼るのは、輸入が途絶した時に産業全体がしかねないとして、工作機械の国産化が勧められた。

 他の財閥や企業は、輸入した工作機械が結構な数存在していた事でこの動きは低調だったが、工作機械の自給を内務省や陸海軍が推し進めた事で国策となった。これにより、他の企業も工作機械の製作を始めた。その多くは、海外の工作機械のデッドコピーであったが、海外製の工作機械を使用して製作した事から比較的高品質なものを作製出来た。

 これにより、ボールベアリングなどの精度が要求される加工品の精度が史実より高くなり(史実の10倍は精密な加工が可能)、この事が後の太平洋戦争における製造能力や継戦能力の維持に役立った。

 

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 大室財閥の造船所の拡大、それに伴う製鉄やセメントなど他部門の拡大によって、他の企業も造船所の新設や施設強化、セメントや機械の拡大が進んだ。これは、史実では存在しない大室財閥や日鉄財閥の規模が比較的大きい事から、ライバルに蹴落とされない様に、三菱や住友、神戸川崎など重工が中心の財閥は、造船所や機械工場の拡大を行う事となった。

 

 三菱では、三菱重工業が長崎造船所に10万トン級の艦艇を建造可能なドックを1基新設し、既存の2基を拡大し、1基は10万トン級、もう1基は5万トン級の艦艇を建造可能な設備に拡大した。長崎以外にも、横浜と神戸では中型ドックを1基新設し、下関の彦島では駆逐艦が建造可能な小型ドックを1基新設した。

 三菱電機も、三菱重工の拡大に合わせて神戸や長崎、及びその周辺にある工場の機能を強化した。

 

 住友では、鉄鋼需要の増大から住友金属工業が、銅線需要の増大から住友電線製作所(現・住友電気工業)がそれぞれ四国に進出し、製鉄所と銅線の工場を建設した。

 他にも、住友機械製作(現・住友重機械工業)が工作機械の製造に乗り出し、四国の今治と坂出、新居浜にあった小規模な造船所を買収して造船業に進出した。

 

 神戸川崎では、川崎造船所が神戸造船所に5万トン級の大型ドックを1基新設し、岡山県の和気郡片上(現・備前市)に新しい造船所を建設した。この地に建設された理由は、瀬戸内海の存在から攻撃されにくい事、片上鉄道が存在する事から交通の便がある事からだった。規模は中型ドック1基と小型ドック2基であり、1935年から工事が行われ、1940年には一部の機能が使用可能だった。また、片上の造船所に隣接する形で航空機工場も建設された。

 製鉄所も岡山港に建設され、1940年から稼働した。当時、岡山港周辺には工場などが多数建設された事から、その輸送路として宇野線の大元から分岐して岡山港への路線が1943年に開業した。

 

 他にも、石川島重工業や播磨造船所(共に現・IHI)、大阪鉄工所(現・日立造船)、日本鉄道興業が造船所や機械工場などの強化や新設を行った。これらの拡大によって、史実より1~2割の重工業生産力を獲得する事となり、船舶や兵器の供給力が向上した。

 一方、施設の強化によって原料の使用量が急増し、1930年代から海外からの地下資源の輸入量が急増した。これにより、外貨の消費量が史実より進み、これの代替案として輸出品の増大や国内の金鉱山の開発促進、輸入している地下資源の国内鉱山開発、代替品の開発などが急速に進んだ。



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31話 昭和戦前⑨:日鉄財閥(5)

 第一次世界大戦後、日鉄は本業の1つであった「鉄道会社への投資」に注力していた。北は北海道、南は九州に至るまで全国の鉄道会社に出資した。また、出資用の資金を集める為の金融部門も拡大を続けた。

 金融以外にも、鉄道に関連する事業は拡大した。鉄道会社向けの車輛製造、電鉄会社向けの電車用のモーターや発電機など、鉄道事業に関連する機械・電機の生産は活発となり、鉄道土木を建設する土建業も拡大した。これにより、日本各地に日鉄の事業所や日本鉄道銀行の支店が置かれるなどして、日鉄財閥の拡大に貢献した。

 

 その一方で、鉄道に関連しない事業への注力が疎かになった。特に、造船業と商社事業については殆ど見向きもされなかった。これらは、第一次世界大戦時の拡大によって進出した為、日鉄からすれば外様である為だった。

 しかし、1930年代中頃から日本が軍国主義化していくにつれ、軍拡傾向に向かっていた。その為、軍需産業の重要性が高まり、日鉄としても注力しない訳にはいかなかった。

 現に、海軍向けの機関や通信機などの納入実績がある事から、その方面への強化も行う必要があった。その為、1930年代中頃から鉄道会社への投資は抑えられた。その代わりに、電機・機械事業、造船業とそれに付随する航空機産業への注力が行われた。

 

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 電機・機械は、既存の工場の設備強化で対処したが、千葉や三田尻といった大規模工場では無く、東京の深川や大阪、北九州の戸畑など中小規模の工場の新設拡大で対応した。これは、大規模工場は航空機生産のライン拡張を行っていた為、電機・機械用の生産ラインの拡張が出来なかった事、中小規模の生産ラインを拡大する事で、生産拠点の一極集中を抑える事が目的だった。

 これにより、第一次世界大戦時に吸収した尼崎や戸畑、昭和恐慌後に子会社化した車輛メーカーの工場の跡地(千葉と三田尻に移転した為)である深川や大阪、枝光などの工場を拡張した。

 この行動の結果は悪くなかった。生産現場が西に寄っているという問題はあった(深川以外、全て近畿か九州)ものの、多くが工業地帯(深川は京浜工業地帯、大阪と尼崎は阪神工業地帯、戸畑と枝光は北九州工業地帯)であり、そこには軍需工場も多数存在する。その為、他の工場向けの機械の製造販売に沸く事となった。

 

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 日鉄が新しい造船所と航空機工場の予定地としたのは、大分県速見郡大神村(現・日出町)であった。史実では、大神海軍工廠の建設予定地に当たる場所である。この地にした理由は、国東鉄道に出資していた事から土地勘がある事、穏やかな場所であり造船所の建設に適している事、広い場所を確保できる事、既存の造船所である三田尻に比較的近い事、呉や佐伯などの軍事基地に近い事などがあった。

 当初、海軍もこの地に海軍工廠(規模は10万トン級ドック1基、5万トン級ドック2基)の建設を予定していたが、日鉄がそれに相当する施設にする事を条件に、海軍側が補助金を出す形で決着した。日鉄が海軍との縁がある事も、この形が成立した要因だった。

 

 造船所の建設は、海軍からの要望で1936年から行われた。尤も、最初は土地の収用からであった。土地の収用は、海軍がやや強引な買収を行った事で、1年で予定地全ての収用が完了した。1937年から工事が行われ、予定では1943年に全ての施設が完成する事になっていた。予算と資材は海軍の支援がある為、1939年までは特に問題にならなかった。その後は、他の艦艇の建造や追加の軍事基地の建設などに予算と資材が取られた為、一部機能の縮小や代替品の使用などで我慢する事となった。

 1941年には5万トン級ドック1基が完成し、早速空母1隻の建造が始まった。この空母は史実では存在しなかった大鳳型空母の2番艦であり、「天鳳」と命名された。天鳳は1944年に完成し、太平洋戦争後期の主力空母として活躍する事となる。

 

 さて、残る2基のドックだが、資材不足や多方面の基地の建設、前線装備を揃える必要性や完成間近のドックの完成優先などから1940年から工事は停滞していた。1943年には工事は完全に中止され、一部完成していた施設は、小型船舶の建造用に転用された。

 

 また、上記とは別に、戦時中に小型船舶や護衛艦艇の大量生産が急務となった為、既存の施設の土地の一部を利用して、造船所の建設が行われた。これは史実でも行われており、大阪の「協和造船」がその例である(土地・資材は中山製鋼所、建造ノウハウは日立造船、資金は三和銀行がそれぞれ出して設立)。

 日鉄でも行われ、特に元造船所の尼崎と戸畑が対象となった。土地は日鉄が、資材とノウハウは日鉄と大室重工業が、資金を大室銀行と日本興業銀行が出す形で「大同造船」を設立した。

 

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 航空機生産は、大規模な生産設備が備わっている三田尻と千葉で行われた。。生産していたのは、基本的に水上機だった。これは、海軍との繋がりや大室重工業との関係(大室が陸上機、日鉄が水上機を担当するという文書を交した)からだった。

 尤も、過去に水上偵察機で2回、飛行艇で1回コンペに参加したが、その全てで落選している。その為、開発能力はあったが、採用された事が無いという不名誉な記録を持っている。現状では、他社の機体のライセンス生産で糊口を凌いでいる状態だった。

 

 この状況が変わったのは、海軍が採用時点で旧式化した九一式飛行艇に代わる次期飛行艇の開発を行う為、川西・海軍航空廠(後の海軍航空技術廠)・日鉄でコンペが行われた事である。このコンペの本命は、川西が開発中の4発飛行艇だった。後に「九七式四発飛行艇」として正式採用されるこの機体だが、当時は初めての4発機という事で、開発に失敗する可能性があった。その保険として、航空廠と日鉄は双発の飛行艇を開発した。

 航空廠が開発した機体は史実の九九式飛行艇であったが、史実と同様の問題を抱えていた(水上性能の悪さと複雑な機材)為、その改修に手間取った。

 一方、日鉄が開発した機体は、過去に失敗した機体から問題点を洗い出しており、かなり完成度が高かった。加えて、余裕のある設計がされている事から、将来の装備の追加も容易であった。それでいながら、複雑な装備は極力排されているなど、量産性や前線での運用能力が高い機体だった。その為、日鉄のこの機体を「九七式双発飛行艇」として採用された。

 九七式双発飛行艇は、主に対潜哨戒に使用された。戦時中には、空いたスペースにMAD(磁気探知機)を搭載して潜水艦を捜索する任務に就く事が多かった。

 

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 三菱重工や中島飛行機、川崎飛行機や愛知時計電機(愛知航空機の前身)といった大規模航空機メーカーは、機体とエンジンの双方を生産していた。尤も、その多くは欧米のエンジンのコピーやライセンス生産であり、自前での開発能力はまだまだ低かった。

 一方で、エンジンのみを製造していた東京瓦斯電気工業や、川西飛行機や立川飛行機などは機体の生産のみを行っており、エンジンメーカーからエンジンの供給を受けていたという例もある。

 

 大室重工と日鉄は、三菱や中島と同様、機体とエンジンの一貫生産を行っていた。しかし、別々にエンジンを製造するのは非効率だとして、1933年にエンジンの製造部門を統合する計画が立った。両社はこれに同意し、他にこの動きに賛同するメーカーがいないか声をかけた所、愛知がこの動きに賛同した。

 これにより、1935年に大室重工・日鉄・愛知の3社共同のエンジンメーカー「三和航空工業」が設立した。主な製造拠点は堺(旧・大室重工)と三田尻(旧・日鉄)、名古屋(旧・愛知)であり、堺と三田尻では空冷エンジンを、名古屋では液冷エンジンの製造を担当した。

 エンジン専門会社の設立は、エンジンの製造ラインの拡大に貢献した。特に、名古屋工場の製造ラインは急速に拡大した。これにより、史実で発生したDB601エンジンのライセンス問題(愛知にライセンス権を取得させようとしたが、製造能力不足から川崎にも取得させた。これにより、海軍向けは愛知が、陸軍向けは川崎が製造となった)は発生せず、三和航空工業単独で陸海軍向けに供給する事となった。



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番外編:通商護衛組織「海上警備総隊」設立の経緯

 日露戦争、第一次世界大戦の経験から、日本海軍は通商護衛に関する研究に着手した。しかし、それは片手間であり、海軍は対米戦向けの漸減作戦を重視した。

 それでも、この世界の日本海軍の駆逐艦は、少ないながらも対潜装備は有している。つまり、対潜能力は低いものの皆無では無かった。また、連合艦隊も漸減作戦実行の一環として、航行中や海戦中の潜水艦の襲撃に備えた訓練や、航空機を利用した対潜哨戒訓練を行っている。その為、この世界の日本海軍の対潜能力は決して低くなかった。しかし、その対潜能力は艦隊を護衛する事を主軸としており、通商護衛の為では無かった。

 

 この流れが変わったのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結だった。これにより、駆逐艦の保有量が制限された。その為、艦隊用と通商護衛用の駆逐艦の同時整備が不可能となった。

 これを受けて急遽、駆逐艦では無い対潜能力を持った護衛艦、つまり史実の海防艦の整備が計画された。これならば、ロンドン条約の網を抜けて整備出来る為である(ロンドン条約では、「排水量1万トン以下で速力20ノット以下の特務艦、排水量2000トン以下で速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦、および排水量600トン以下の艦は無制限」とされた)。同時に、今まで軽視されていた通商護衛を強化し、その為の組織を設立しようという動きになった。

 

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 そうして1933年に設立されたのが「海上警備総隊」である。海上警備総隊は「通商護衛部隊版の連合艦隊」と言ってもよく、旗下に4つの「警備艦隊」を有している(本拠地はそれぞれ横須賀、佐世保、舞鶴、大湊)。

 連合艦隊から独立して新設したのは、前述の護衛駆逐艦の配備が不可能となった事に加え、軍縮で減らされるであろうポストの確保という面があった。ワシントン条約以降、海軍の規模は縮小された。それだけで無く、第一次世界大戦が未曽有の死者を出した事から、世界各国で軍縮の空気が強かった。

 その為、保有戦力だけでなく、軍組織そのものの縮小も行われた。そうなると、局長や部長などのポストが減り、その職に収まるであろう将校の出世は止まる上に、退役者も増加する。それは防ぎたいが、現状では軍拡は不可能、ならば正面戦力以外の方面で拡大しようとなった。それが、海上警備総隊の設立理由だった。

 また、同様の理由で諜報・防諜を担当する海軍情報本部と、レーダーの開発を担当する海軍電気本部も設立される事となる。

 

 この様な助平心はあったものの、兎に角通商護衛の為の組織は設立された。しかし、その戦力はお寒い限りだった。何故なら、多くのものが無かった為である。それは、人材、予算、船、装備、燃料、つまり全てである。

 

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 人材は、海軍主流派から外された者はまだ良い方で、問題を起こして左遷された者の方が多かった。その為、「海上警備総隊は海軍将兵の墓場」と言われる程だった。

 しかし、左遷された者の中にも優秀な人材は存在するもので、そういった者達に重点的に教育を施す事で、能力の向上や部隊内の綱紀粛正などを図った。

 

 また、海軍だけでは人員が不足の為、陸軍や海運会社、内務省などからも人材斡旋を行った。これは、通商護衛を行う関係上、陸軍や海運会社とも関係を築いていく必要があった。

 この申し出に、陸軍・海運会社は承諾し、内務省は条件付きで承諾した。

 陸軍は、海上警備総隊とのコネを築くのは戦時に向かいつつある現状では重要だし、場合によっては陸軍運輸部(陸軍で鉄道や船舶輸送を担当する)に吸収出来るのではと考えた。

 海運会社としても、余剰人員を放出出来る事(当時、新型船舶への移行時期と重なり、リストラが行われていた)から渡りに船と言えた。これは海上警備総隊としても嬉しかった。海運会社からの人員なら、船舶を動かす事や商船の特性などを知っている為である。

 一方、内務省は、「海上警察業務を海上警備総隊が行うのであれば協力する」と言ってきた(戦前の海上警察業務は海軍の管轄)。こうすれば、陸海全ての警察業務を内務省が牛耳れると考えたのである。海軍としても、漸減作戦に全力を注ぎたいと考えた為、概ねこれを承諾した。これにより、海上警察業務は海上警備総隊の任務に追加され、内務省も海上警備総隊に関わる事となった。

 尤も、海軍としては、内務省が必要以上に介入してくるのを好ましく思っていなかった為、内務省からの出向人数に制限を掛けたり、主要ポストに就かせなかったりと要所要所で妨害した。その為、内務省は途中から非協力的になり、対抗措置として出向者の引き上げや資金援助の廃止を行った。

 

 内務省が事実上撤退した後に、交通行政を担当する逓信省、経済・貿易を担当する商工省も海上警備総隊に関わる事となった。これにより、海上警備総隊は海軍とは名ばかりの組織となったものの、少なくとも人員の問題は解決した。その後も、商業学校や商船学校などの教育機関からも人材を斡旋して、人員不足に対応していった。

 

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 同様に、予算の問題も、関係省庁や企業からの資金援助によって解決した。それでも不足気味ではあったが、海軍からの予算だけの時と比較すると、遥かにマシな状況になった(海軍単独を1とすると、省庁・企業献金込みで5)。

 また、企業からは資金援助の対価として、「開発した試作品の実地試験」の名目で試作兵器や試作装備品の提供を行っていた。その中で利用出来るものについては採用していき、その中で大きなものがソナーと対潜迫撃砲、高性能ディーゼルエンジンだった。

 

 これまでの海上警備総隊の対潜装備は爆雷だけだった。しかも、敵潜の発見方法は目視だけ(航空機の数は少なかった為、航空機を利用した哨戒を中々行えなかった)というお粗末なものだった。予算不足と装備不足が理由だった。

 その様な中で配備されたソナーと対潜迫撃砲はそれぞれ、対潜戦で有効に活用された。これにより、今までの課題であった「敵潜水艦の早期発見」と「前方への対潜攻撃能力」が解消される事となった。実際、連合艦隊との合同演習で、苦も無く連合艦隊の潜水艦を捕捉し、撃沈判定を出していった。

 もう一方の高性能ディーゼルエンジンは、大室重工業が開発したものである。1934年に大型ディーゼルの開発が完了した為、そのエンジンを搭載した護衛艦を2隻発注し、1936年から運用された。その結果、燃費が良い事や低品質の重油でも有効利用出来る事が好評で、以降の海上警備総隊の艦艇の主要エンジンになった。

 

 流石に、燃料(重油)の供給についてはどうにもならなかった。海軍用の燃料の配分では常に連合艦隊が優先された為、海上警備総隊は訓練用の燃料の手配すら事欠く状態だった。その為、設立当初は石炭を主燃料としたり、低燃費で行動する為の研究を行うなど、涙ぐましい努力が多数あった。

 その様な中で、大室重工のディーゼルエンジンを搭載した護衛艦の誕生は、燃料不足という問題を解決させるのではと見られた。しかし、ディーゼルエンジン搭載の護衛艦の数が揃うのは数年は掛かる為、それまでは燃料不足が総隊内の最大の問題となった。

 

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 海上警備総隊の設立当初は、巡洋艦は一隻もおらず(存在意義から必要性は薄かったが)、護衛艦も旧式のものしか無かった。設立経緯や予算の問題からしょうがなかったが、これでは到底戦力になり得なかった。加えて、満足な機材が無かった事から、設立当初は目的の通商護衛すら満足に行えない状況だった。

 

 ただ、大型艦艇については、1930年代後半から連合艦隊のお下がりではあるものの、配備される事となった。それは、天龍型軽巡洋艦の2隻だった。これは、他の軽巡洋艦と比較しても小型過ぎる上に一番古い事から、保有していても有効活用は難しいと判断した為、連合艦隊は天龍型を退役させる事となった。しかし、ただ退役させるのは勿体無いとして、1935年に海上警備総隊に譲渡する事となった。

 海上警備総隊としては、初めての大型艦だった。旧式ではあるものの、船体の広さを生かして旗艦設備の強化と対戦・対空装備の強化が行われた。また、海上護衛に33ノットは過剰である事から、機関の変更と燃料タンクの増設を行った。これにより、速力は25ノットまで落ちたものの(ロンドン条約が切れるまでは19.75ノットと公称していた)、航続距離は15ノットで7000カイリと大幅に伸びた(改装前は、14ノットで5000カイリ)。

 

 また、1937年に日中戦争(この世界では内陸部への侵攻を行っていない)によって中華民国海軍から拿捕した寧海級巡洋艦の「寧海」「平海」も、修理・改装の上で海上護衛総隊に編入された。

 この2隻は、上海にいる日本軍攻撃の為に揚子江を下っていた所を、日本海軍の航空機が発見、これを大破・擱座させた。そこが、日本が占領していた上海郊外であった為拿捕された。拿捕したはいいものの、船体の小ささから有効活用は難しいと海軍は判断し、翌年に海上護衛総隊に譲渡した。

 海上護衛総隊は、1年半掛けて天龍型と同様に旗艦設備と対戦・対空装備を強化した。機関も変更され、速力は24ノット、航続距離は15ノットで6000カイリとなった。また、艦名もそれぞれ「五十島」「八十島」に変更された。

 

 天龍型と五十島型の配備によって、各警備艦隊の旗艦が今までの旧式護衛艦からそちらに移った。これにより、通信機能・旗艦機能の強化によって、今までより効率的な指示の出し方や艦隊行動が取れる様になった。



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番外編:この世界での日本海軍・日本陸軍・大日本帝国の状況(第一次世界大戦後~第二次世界大戦直前)

〈日本海軍〉

 ワシントン条約の交渉中に、アメリカに通信が傍受されていた事が判明した事で、海軍内に情報・通信についての研究が強化された。これにより、暗号の全面改訂と情報機関の設立、及びその下で暗号理論の研究が行われた。

 暗号の全面改訂は、現状の暗号では相手に解読されている為、絶対に行う必要があった。しかし、改訂しても何れは再び解読される恐れがある為、解読され難い暗号理論の研究も行われた。これと連動して、暗号機の定期的な開発を行う事、これらを専門的に行う組織の設立が決定された。

 

 情報機関の設立は、ワシントン条約後の1926年に海軍省の外局として「海軍情報本部」が設立された。主要任務は、国内の防諜に駐在武官を通じた諜報、暗号理論の作成に仮想敵国の暗号解読、通信機器の研究であった。

 尚、海軍情報本部は組織上では海軍省の外局だが、軍令部の第三部(情報担当)と第四部(通信担当)が前身となっている。その為、軍令部の影響力も強く、両者の傘下というのが正しかった。尤も、これによって海軍省と軍令部での情報の共有が図れた事でもあった。

 彼らの活躍もあり、太平洋戦争中はアメリカ軍との熾烈な情報戦や騙し合いを展開し、国力に劣る日本がアメリカに何とか渡り合えたのは彼らの活躍があってこそと言われる程だった。

 

 尚、設立後に海軍内の憲兵活動(史実では、憲兵を持っていたのは陸軍だけ)やレーダーの研究なども追加されたが、後にそれぞれ別の組織に移管している。

 憲兵活動は、5.15事件を理由に海軍内の綱紀粛正を図る事を目的に認められた。当初、陸軍の反対は強かったが、2.26事件によってこの動きは完全に消滅した。その後、海軍の規模が拡大すると海軍憲兵の数も拡大した。しかし、急速な人員の増加に情報本部側が対応出来なかった事、日中戦争によって海軍の占領地での警察業務を行う必要から、1940年に海軍陸戦隊に憲兵活動業務を移管した。

 レーダーの研究は、通信機器の研究の一環で研究していた。その後、レーダーの利用価値の増大や利用方法の違いから、1937年に新設した「海軍電気本部」に移管となった。

 

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 (この世界の)ワシントン海軍軍縮条約が締結された事で、日本が保有する戦艦は14隻となった(内訳:金剛型4、扶桑型2、伊勢型2、長門型2、加賀型2、天城型2)。また、進水が済んでいた天城型の3番艦「高雄」と4番艦「愛宕」は、空母に改装される事となった。

 史実では、「天城」と「赤城」が空母に改装される事となったが、「天城」は関東大震災によって損傷し、そのまま破棄された(但し、船体そのものは再利用され、横須賀海軍工廠の浮き桟橋として利用)。「天城」の代わりに空母に改装されたのが、廃棄予定の「加賀」だった。

 この世界では、「天城」と「赤城」は巡洋戦艦として完成し、その代わりに「高雄」と「愛宕」が空母に改装された。「高雄」は長崎(三菱造船)、「愛宕」は神戸(川崎造船所)で建造された為、関東大震災の影響を受けなかった。その為、順調に改装が進んだ。

 尚、両者の性能比較の為、「高雄」は左艦橋、「愛宕」は右艦橋となった。

 

 ワシントン条約によって戦艦の保有が制限された事で、条約締結国は戦艦に準ずる主力艦の整備に注力する事となった。つまり、重巡洋艦の整備である。主要海軍国である日米英は整備に邁進した。

 この世界でも、史実と同様に古鷹型(但し、2番艦は「六甲」。これは、川内型軽巡洋艦が4隻建造され、4番艦が「加古」となった為)・青葉型・妙高型が建造された。そして、鳥海型(史実の高雄型。但し、艦名は「鳥海」「摩耶」「開聞」「乗鞍」)も建造された。更に、新型重巡洋艦(史実では計画のみに終わった改高雄型重巡洋艦)の計画もスタートした。

 しかし、重巡洋艦の整備が進むにつれ、軍縮の理念が無くなるのではという雰囲気が出た。これは、ワシントン条約では戦艦と大型空母の建造こそ抑制されたものの、1万トン以下の軍艦(巡洋艦や駆逐艦、小型空母などの補助艦艇)についてはノータッチだった為である。

 実際、各国はワシントン条約の穴を衝く艦艇の整備を行っていた。特に、日本は妙高型重巡洋艦や小型空母「龍驤」、吹雪型駆逐艦など水雷戦に特化した軍艦や、ワシントン条約に抵触しない高攻撃力の軍艦を多数整備した。

 これではワシントン条約前の海軍拡張競争の再来になりかねないとして、1927年にジュネーブで補助艦艇の保有制限を定める会議を行った。しかし、この時はイギリスとアメリカの意見の対立で成立しなかった。その後、イギリスとアメリカは交渉で意見の一致を見て、1930年にロンドンで再度日仏伊を招集し、補助艦艇の保有制限を決める会議が行われた。

 

 ロンドンでの軍縮会議で、日本政府は交渉に乗り気だった。この頃、日露戦争で発行した国債の償還期限が来ており、軍縮によって昭和金融恐慌で不安定だった日本経済の立て直しを図りたいという意図があった。海軍としてもこの流れに賛成であったが、同時に対米7割は維持したいという思惑があった。

 この世界のロンドン会議は、日本側の防諜能力の向上によって、アメリカ側は日本に付け込む事が出来なかった。その為、日本の保有量の限界がどの程度か知る事が出来ず、日本の保有量を減らす目論みが叶わなかった。それ処か、アメリカが強引な動きを見せた事で、一度纏まっていた米英間の対立が再び噴出した。あわや決裂かと思われたが、日本が両者の仲介を行った事で再度の未成立は防がれた。また、これによって日本は米英両国へ恩を売る事も出来、それによって日本が希望した量と比率はほぼ原案通りに通る事となった。

 会議の結果、概ね史実と同じだったが、史実と異なる点は以下の通りである。

 

・保有する戦艦の内、イギリスは「サンダラー」「キング・ジョージ5世」「センチュリオン」「エイジャックス」を、アメリカは「デラウェア」「ノースダコタ」「フロリダ」を廃艦する。また、イギリスの「クイーン・メリー」、アメリカの「ユタ」、日本の「比叡」を練習艦に変更する。

・重巡洋艦の保有比率は、米:英:日で10:8.5:7とする。尚、22万トンを10とする(日本は15万4千トン)。

・軽巡洋艦の保有比率は、米:英:日で10:13.2:7とする。尚、17万5千トンを10とする(日本は12万2千5百トン)。

 

これにより、日本はほぼ予定通りの保有量と対米七割を実現させた。この結果、史実ではロンドン条約の調印に反対した軍令部の面々も賛成した。その為、海軍が条約賛成派と反対派に分かれるといった事態が発生せず、史実ではこれを理由にして予備役に入れられた将官はその後も軍役に就く事となった。

 因みに、史実よりも獲得した保有量によって建造されたのが、穂高型重巡洋艦(史実の改高雄型重巡洋艦。艦名は「穂高」「大雪」「雲仙」「石鎚」)と利根型軽巡洋艦の2隻追加(艦名は「雄物」「名寄」)だった。

 

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 ロンドン条約は海軍の要求を満たした内容だった。その為、史実では発生した海軍内の対立は発生しなかったのだが、与野党の対立はそのままだった。野党がこの一件に対し、「軍縮を行うには天皇陛下の裁可が必要になる。しかし、それをしなかった政府は統帥権を侵害した」と批判した。野党側としては、与党を叩く為の材料としか見ていなかったのだろうが、これが大問題だった。

 これ以前は、政府からの提言を軍が受け入れており、ワシントン条約も海軍は受け入れていた。しかし、ロンドン条約後に「統帥権の独立」が出された事で、『政府は軍に介入出来ない。介入出来るのは天皇だけ』という解釈がされた。これにより、政府が軍に意見する事が事実上不可能となった事を意味した。これ以降、軍部(特に陸軍)は「統帥権の独立」を盾に独自行動を取る様になり、政府のコントロールが効かない存在となった。以降、軍の発言力は急速に増し、相対的に政府と国会の発言力は低下した。史実通り、日本は軍国主義化していった。

 

 史実と異なるのは、海軍はこの動きに同調しなかった事である。ロンドン条約で要求した量の保有が諸外国に合法的に認められた事で、政府を攻撃する理由が無かった為だった。その為、史実でロンドン条約締結に積極的に賛成した者が左遷・予備役編入される事は無かった。

 同様に、満州事変に乗じた海軍拡張に反対した者も予備役編入はされなかったが、海軍中枢部を批判した事で彼らの心証を悪くした事、海上警備総隊の関係で陸軍との関係を悪くしたくないとの考えから、主要ポストから外れたポスト(海上警備総隊や海軍情報本部など後発組織のトップ)に就かされ続ける事となった。

 

 尤も、条約に反対する食み出し者は存在するもので、そういった者が政府に攻撃した。その為、この世界でも5.15事件は発生した。

 しかし、その後の処理で大きく異なった。海軍上層部はロンドン条約の内容に満足しているのに、それに不満を持って暴走し、首相を暗殺した事は絶対に許される事では無いとして、実行犯や共犯者などの厳格な処罰が行われた。また、これを機に海軍内の膿を可能な限り除去した。

 

【史実で予備役編入・左遷された者達の、この世界でのキャリア】

谷口尚真(海兵19期):海軍軍令部長を追われず、その後は海軍電気本部本部長、海軍情報本部本部長を歴任、開戦前に予備役入り

・山梨勝之進(海兵25期):第21代連合艦隊司令長官(史実では末次信正)、第16代軍令部総長(伏見宮博恭王は2年早く退任。その為、以降の総長の代は史実より1つずれる)を歴任、開戦時の海軍大臣(史実では嶋田繁太郎)

・左近司政三(海兵28期):海上警備総隊司令長官、海軍情報本部次長を歴任、開戦時の海軍情報本部本部長

・百武源吾(海兵30期):軍令部次長、海軍情報本部本部長を歴任、開戦時の海軍電気本部本部長

・寺島健(海兵31期):海上護衛総隊参謀長、海上警備総隊司令長官を歴任、開戦時の海軍情報本部次長

・堀悌吉(海兵32期):海軍情報本部総務部長、海上警備総隊参謀長を歴任、開戦時の海上警備総隊司令長官

・坂野常善(海兵33期):海上警備総隊参謀長、海軍電気本部総務部長を歴任、開戦時の海軍電気本部次長

 

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〈日本陸軍〉

 この世界の日本陸軍は、史実よりも予算が少ない(比率的な意味であり、金額的には史実より多い)。その理由は、海軍に予算が多く振られている事と、重装備化の優先だった。

 この世界では、海軍の規模が史実よりも大きい(戦艦4、重巡洋艦4、軽巡洋艦3、その他護衛艦艇多数)為、海軍予算・兵員は史実より多い。その分、陸軍予算に皺寄せが行った。大室・日林・日鉄という財閥の存在や、それらに刺激されて他の財閥も規模を拡大させた結果、日本の経済力は史実より高く(GDPで1割程度高い)、その分予算も増加しているが、装備の問題があった。

 

 陸軍は、日露戦争の経験と第一次世界大戦での観戦武官からの報告で重武装化を推し進めた。特に、日露戦争での経験から、砲弾の備蓄と機関銃の配備の推進が強化された。また、観戦武官からの報告で「貨物用車両を使用すれば輸送効率は飛躍的に向上する」とあった事から、トラックやオート三輪の配備も検討されたが、トラックを製造出来るメーカーが無かった事から、こちらについては「時機を見て配備する」とされた。

 これによって、全ての師団に重砲と重機関銃が一定数配備される事となった。これは、師団全体の火力の向上という結果を生んだが、同時に装備に多くの予算が注ぎ込まれた事を意味した。これは、1930年代中頃にトラックやオート三輪の国産化の目処が立った頃には顕著となった。

 一方で、予算が装備に集中した事で、兵員の増員は縮小される事となった。特に、第一次世界大戦後の軍縮では、師団が従来の4単位制から3単位制に移行となり、余った部隊はそのまま解散となった。これにより、師団の減少は無かったものの、兵員数では大きく減少した。その代わり、重砲や機関銃の配備によって、火力は逆に向上した。

 

 火力(重砲と機関銃)や機動力(トラック)に予算が行った事で、それ以外の方面での予算が減少した。具体的には航空機だった。

 当時、航空機の発展性は高かったが、性能が低かった事から、兵器としては未知数な部分が多かった。それでも、将来性の高さや技術革新などによって、航空機向けの予算は組まれ続けた。

 しかし、この世界では、陸軍予算は史実と同程度であるにも関わらず、師団の装備が史実以上に充実している事から、順位的に航空機の予算増額が抑えられる事となった。その為、史実よりも航空隊の編制数が少なかった(史実の9割)。そして、1930年代にはトラックや戦車の国産化を推進した事で、尚更航空隊編成や航空機開発の予算増額が見送られる事となった。

  このままでは航空機の革新が難しくなると危惧した人達によって、ある事が進められた。それは、「陸軍と海軍による航空機の共同開発・採用」だった。これは、航空機の開発予算が削減されている現状では、陸軍単体での航空機開発が難しくなると見られた為である。そして、海軍が陸軍が欲していた機体を開発していた場合、それを採用すれば開発予算や時間は大きく短縮出来るとされた。

 

 これに対し、海軍側は了承した。海軍航空隊も、連合艦隊や海上警備総隊、海軍情報本部の方に予算が回った為、開発予算や部隊の拡大が抑えられていた。その為、陸軍のこの案は渡りに船であった。

 こうして、1938年から陸海軍の航空行政は統一的な運用が図られた。具体的には、航空機用機銃の統一、部品の統一、操縦方法の統一であった。その後、似た様なコンセプトの機体の共同開発・共同採用も組み込まれた。これによって、陸軍の重戦闘機と海軍の局地戦闘機、陸軍の重爆撃機と海軍の陸上攻撃機が統合される事となった。

 一部には、陸海軍双方の航空隊を統合して空軍を設立するという動きもあったが、この時はポストの問題や準戦時体制故に大きな組織変更は混乱の元になるとして、「時期尚早である」とされた。

 

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〈大日本帝国(外地・満州国を含む)〉

 大室財閥、日林財閥、日鉄財閥が存在する事により、史実よりも製造能力は高い。特に、造船所や製鉄所、電機工場や化学工場など重化学工業が多い。その上、工作機械も新しいものが多く、高性能のものも一定数だが自作可能な為、戦時中の生産力や戦争継続能力は史実以上となっている。

 また、戦前から強い繊維や食品加工などの軽工業も強化されており、北海道や東北など重化学工業の進出が遅れている地域での進出も多い。これらによって、日本全体、特に内地の工業力は史実以上となっている。

 その反面、北海道や東北に工業が進出した事で、外地(特に朝鮮)への重化学工業と軽工業の進出は抑えられ、史実の9割程度となっている。

 それでも、朝鮮北部の咸鏡道の開発は史実通り行われ、重化学工業や鉱業の開発が盛んに行われた。また、満州国建国に伴い、日本海沿岸の都市(敦賀や新潟など)から咸鏡道北部を経由して、満州東部へ入るルートが建設される事となり、日本海・北鮮(当時の朝鮮の略称は「鮮」)航路が整備される事となった。同時に、清津や羅津の港湾整備と重工業の進出も盛んに行われ、その中には日本海航路の船舶を修理する為のドックも清津に1基建設された。このドックは造船用も兼ねており、有事には護衛艦や3千トン級商船なら建造可能な設備だった。

 

 また、日本の生命線である満州、特に南部の大連と奉天でも国策によって工場の進出を強化した結果、満州国の工業力も史実より高くなっている。史実でも生産されたもの(粗鉄や爆薬などの重化学工業や兵器工場)は生産能力が高められ、それ以外にも自動車製造は部品工場や金属加工工場も進出した事で、小規模ながら一貫生産が可能となった。他にも、旅順に1基、大連に2基の造船用ドック(駆逐艦や5千トン級商船を建造可能)が建設された。

 これらの工場の工作機械の多くは、国内の工場から放出された工作機械が殆どだった。その為、戦時中に満州国でも増産を求められた際、1944年の後半から機械の摩耗が激しく、思った量の生産は叶わなかった。

 

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 工業生産力以外でも、史実以上の拡大を見せた。特に拡大したのは金融業だった。

 大室財閥には、銀行では大室銀行と東亜貯蓄銀行、生命保険では東亜生命保険と日本弱体生命保険、損害保険では大室火災海上保険と大室倉庫保険、証券会社として大室證券を抱えていた。日林も日本林商銀行を、日鉄も日本鉄道銀行に日鉄證券、日鉄火災保険と多くの金融事業者を抱えていた。そして、日林・日鉄と繋がりがある東亜勧業銀行の存在もあった。

 3つの財閥の金融機関の資金力を全て合わせると、安田財閥に匹敵する資金を有していた。また、この3つの財閥は重化学工業にも進出しており、工業生産力を全て合わせると三菱財閥に匹敵した。

 つまり、この世界の日本は安田財閥と三菱財閥をもう1つ持っている事に等しかった。その為、戦時中の国債引き受けの際、膨大な貯蓄で大きな力を発揮する事となった。

 

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 ワシントン条約によって暗号が筒抜けになっている事が発覚し、政府はその対応に追われた。その後、アメリカへの対抗から暗号傍受や諜報活動を行う「内閣情報調査局」が設立された。情報調査局は内閣に直属する形が取られ、局員は内務省と外務省からの出向者が中心となる。

 情報、特に仮想敵国を対象としたものの為、陸海軍の情報部門との協調が不可欠だった。しかし、セクショナリズムやどの組織が主導権を握るかで問題となり、最低限の情報共有以外が行われる事は無った。

 

 尤も、政府系の内閣情報調査局、海軍系の海軍情報本部、陸軍系の参謀本部第2部が相互に競争意識を持った事で、各組織は情報収集に躍起になり、防諜も強化された。この結果、日本の情報収集能力・防諜能力が1930年代から急速に高まるという思わぬ結果を生んだ。これにより、日本の暗号が簡単に解読されるという事は無くなった。



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32話 昭和戦前⑩ :大室財閥(20)

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。これを受けて、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。これにより、第二次世界大戦が始まった。

 しかし、英仏両国はドイツに宣戦布告したものの、これといった行動を取る事は無かった。開戦から暫くの間、独仏国境では両軍の様子見の状態が続き、戦闘状態にならなかった。その為、この状況を指して「フォニー・ウォー(インチキ戦争)」と呼んだ。

 

 この時の日本は、ヨーロッパでの戦争に関わっていなかった。日英同盟は既に破棄されており、ドイツとは防共協定を結んでいるだけで同盟関係には無かった(日独伊三国同盟の締結は1940年9月)。その為、日本がヨーロッパに軍を送る事も、ヨーロッパから軍がアジア・日本近隣に進出してくる事も無かった。

 それよりも、日本はヨーロッパの事よりも、近隣の中国大陸(=中華民国)での状況の早期解決を図りたかったという事の方が強かっただろう。

 1937年7月7日の盧溝橋事件から堰を切った様に、中国大陸での日中間の武力衝突は頻発した。尤も、日中間の武力衝突そのものは、満州事変以降から起こっていた為、盧溝橋事件から頻発した訳では無かった。

 しかし、この時は以前とは異なった。以前であれば、曲がりなりにも機能していた外交によって解決した(問題を先延ばしにした感が否めないが)。今回は、あれよあれよという間に戦線が拡大し、政府も今まで溜まっていた中国への不満を一時的にでも解消したいという思惑があったのか、実質的に戦線拡大を認めてしまった。

 

 尤も、この世界では史実の様な野放図な戦線の拡大はしなかった。陸軍予算が不足していた為である。この頃、陸軍では重装備の更新と貨物用車両の配備を行っていた時期であった。その為、装備の費用で予算の大半を使用しており、出兵の為の出費など出来なかったのである。

 それでも、予算を遣り繰りして(一部部隊の装備更新の先送りや、海軍との航空行政の一部統一など)、2個師団を上海に派兵した(史実では5個師団+α)。これにより、上海の制圧は出来たが、内陸部への進出は兵力不足から不可能だった。

 この間に、戦線の不用意な拡大は行わない方針が定められ、進軍範囲は華北は北平(当時、北京は「北平」という名称)と天津を結ぶラインまで、華中は上海郊外まで、それ以外は重要拠点(青島、厦門、広州など)の制圧に留まり、内陸部には渡洋爆撃に終始する事が決定した。これに反した者は厳罰に処するという通達までした事で、現地軍は暴走する事無く限界まで進軍した。これは、2.26事件と5.15事件で首謀者が厳罰に処された事が大きかった。

 

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 日中の軍事衝突が起こり、第二次世界大戦が始まっても、日本国内は取り敢えず平穏だった。戦火は海の向こうで起きているのだから当然だった。大陸では兵士の死傷者が出ていたり、日に日にアメリカとの対立を深めているものの、まだまだ内地は戦火から遠い状況だった。

 

 しかし、アメリカとの対立が深まっている事は事実であり、海軍は対米戦を視野に入れた軍備拡張を進める事となった。その筆頭が、1937年からスタートした第三次海軍軍備補充計画(通称、「マル3計画」)と、それに続く第四次海軍軍備充実計画(通称、「マル4計画」)だった。

 両計画は、10年掛けて海軍戦力の質的向上と量的拡大を図り、ワシントン・ロンドンの両軍縮条約が破棄された後の無制限状態に備えるものだった。この計画の内、マル3計画は前半4年で、マル4計画は後半6年で整備する事となっていた。全てが完成した暁には、1945年までに戦艦4、空母3、軽巡洋艦21、駆逐艦などの補助艦艇多数が竣工する事となっていた。

 

 この世界でも、マル3計画とマル4計画は存在し、それに伴う建造計画もスタートした。しかし、異なる部分もある。それは、小型補助艦艇(敷設艦、掃海艇、敷設艇、駆潜艇、海防艦、駆潜艇、測量艦)の建造数の増加だった。

 

 この世界のマル3計画では、史実よりも経済力や造船設備が多い事、通商護衛の重要性がある程度認識されている事から、対潜装備を有する艦艇の建造数が増加している。

 敷設艦は、「津軽」の準同型艦(艦名は「来島」)と初鷹型の2隻(艦名は「黒鷹」と「赤鷹」)が追加された。これは、海上警備の強化と対潜能力の向上を図ったものだった。同様の目的で、掃海艇が2隻、敷設艇が1隻、駆潜艇が5隻追加された。

 海防艦は、「台湾沿岸の警戒強化」を名目に占守型の改良型が8隻が追加された。また、追加された8隻は「戦時設計のノウハウの獲得」や「早期建造」を目的に、設計の簡易化と商船設計の利用、電気溶接の多用が行われた。当初、第四艦隊事件の記憶から電気溶接の導入には慎重だったが、小型艦艇ならば電気溶接の方が有利であり、実際に建造してノウハウを獲得する事も必要であるとして、電気溶接の利用が行われた。

 尚、この世界では、通商護衛の必要性が認識されている事から、ソ連の軍事力復活も合わさって、マル1計画とマル2計画で4隻ずつの海防艦を建造している(史実では流れたもの。マル1は史実の占守型、マル2は史実の択捉型が建造)。その為、この世界の占守型は史実の御蔵型に相当し、追加された8隻は鵜来型に相当する。

 測量艦は、史実では計画のみに終わった「筑紫」の2番艦「和泉」が建造された。これは、通商護衛や対潜戦の経験から、水路調査や海底調査を行う事で、潜水艦が待ち伏せしている可能性が高い場所は何処かを探す必要があると認識した為であった。

 

 次のマル4計画では、史実と大きな変化は空母「大鳳」の2番艦「天鳳」が追加されたぐらいだろう。これは、マル3計画で対潜や通商護衛の艦艇の整備が進んだ為であった。しかし、これでも不足した事から、開戦直前の軍備拡張計画(マル臨計画、マル急計画、マル追計画)によって、不足分が追加された。

 

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 大室財閥も、マル3計画とマル4計画で艦艇の建造に携わった。携わった艦艇は、敷設艦「来島」と改占守型が3隻、測量艦「和泉」である。「来島」と「和泉」が堺、改占守型は2隻が横浜、1隻が泉州で建造された。「来島」と改占守型は1939年に起工し、同年末には改占守型が竣工した。翌年には「和泉」が起工し、更にその翌年(1941年)には「来島」と「和泉」が竣工した。

 

 その後も、マル臨計画で高速海防艦(鴻型水雷艇の設計を流用した海防艦。25ノットを出せる。架空)8隻を横浜と泉州で、続くマル急計画で雲龍型空母の2番艦「蛟龍」(架空)を堺で建造した。また、その後のマル追計画、マル戦計画の海防艦、護衛駆逐艦、駆潜艇、掃海艇の建造にも関わっていく事となる。

 

 軍艦の建造とは別に、ディーゼルエンジンの製造も好調だった。これは、大室重工が開発した船舶用ディーゼルエンジンが「22号内火機械」として採用された為である(これにより、史実の22号内火機械からは号数が1つずれる)。海軍拡張に伴いディーゼルエンジンの大量生産が決定し、自社だけでは生産が追い付かないので、他社(主に三菱と川崎、石川島)でも生産される事となった。このディーゼルエンジンは、ほぼ全ての海防艦や駆潜艇などの水上補助艦艇に搭載される事となり、戦前のディーゼルエンジンではベストセラーとなるが別の話である。

 

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 軍艦の建造もそうだが、航空隊も拡張した。それに伴い、戦闘機や攻撃機など各種航空機の調達も加速した。日中の衝突が激化する可能性が高かった1937年から、航空隊を増設する事が決定された。この動きは、対米戦が現実的になる1941年になると加速した。

 

 その様な中で、1937年に陸軍から双発の重戦闘機「キ40」(史実では三菱設計の司令部偵察機)、双発の軽爆撃機「キ47」、双発の重爆撃機「キ50」(キ47とキ50は史実では三菱設計予定だが、他が立て込んで設計段階で落とされた)の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、「キ47」は川崎の「キ48」(九九式双発系爆撃機)に、「キ50」は中島の「キ49」(百式重爆撃機)に敗れた為、正式採用される事は無かった。しかし、「キ40」が他の三社(中島の「キ37」、川崎の「キ38」、三菱の「キ39」)と比較して性能で優れていた事から、この機体が採用候補となった。その後、小改良が加えられ、1941年に「一式複座戦闘機」として正式採用される事となった(これにより、「キ45改(屠龍)」は生産されず)。

 

 海軍からは、1935年に十試艦上攻撃機、1936年に十一試艦上爆撃機、1937年に十二試二座水上偵察機の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、全て敗退した。十試艦上攻撃機は中島と三菱(九七式艦上攻撃機)に、十一試艦上爆撃機は愛知(九九式艦上攻撃機)に敗れ、十二試二座水上偵察機は愛知・中島・川西と共に落選した。

 全てのコンペで敗退したが、この後も機体の試作・研究は続けられた。また、他社の機体のライセンス生産も行われ、特に中島と愛知の機体はライセンス生産される事が多かった。

 

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 上記の状況と前後するが、大室重工・日鉄・愛知の航空機用エンジン部門を統合して1935年に設立された「三和航空工業」だが、1937年に中島飛行機が三和に対し『自社のエンジン部門を統合して欲しい』と願い出た。これは、史実よりも中島のエンジンを搭載する機体が少ない事(史実では中島の「光」を搭載した九五式艦上戦闘機と九六式艦上爆撃機は、この世界では三和の「瞬(800馬力級)」を搭載)、エンジンプラグなどの重要部品の供給を三和や大室重工などに頼っている事、三和の方が高出力エンジンの開発が進んでいる事(ドイツからの技術供給やディーゼルエンジンの開発などによる)、何より大出力の航空機用エンジンの製造メーカーが複数あるデメリットが大きい事が理由だった。

 

 この話は、三和にとっても有難い話であり、中島との統合はメリットが大きいと睨んだ。

 当時、航空機用エンジンは三菱と中島、三和が三分しており、シェアもそれ程変わらなかった。その様な中で中島と統合すれば、三菱を大きく引き離す事が可能となる。

 また、簡単に製造設備を拡張出来る事も大きかった。今後、陸海軍の航空隊が拡張していくが、現状の設備だけでは不足すると見られた為である。

 加えて、中島の技術陣は大卒者を採用するなど優秀な者が多く、彼らを加える事でより高性能なエンジンを設計・開発出来ると睨んだ事もあった。

 更に、大室は中島との繋がりが深い事も統合を後押しした。先述のエンジンプラグの供給のみならず、中島飛行機の成立に大室重工業が関わっており、エンジンの共同開発や中島の機体のライセンス生産も行っている。その為、三和のエンジンと中島のエンジンは部品の共用化が行われていた。

 

 1938年に三和が中島のエンジン部門を吸収する形で、三和が「大和航空工業」と改称した。これにより、日本の大規模航空機用エンジンメーカーは大和と三菱に集約される事となり、製造数の面では2社が統合した大和の方が頭複数個分抜けていた。こうして、日本最大の航空機用エンジンメーカーが誕生した。

 しかし、対米戦が現実的になってくると現状の設備ですら供給に追いつかない事態になった為、三鷹付近に巨大なエンジン製造工場が建設された(1941年に稼働開始)。

 

 統合後、エンジンは基本的に中島側に寄せる事となった。その為、「栄」エンジンは史実通りに開発されるが、三和と中島の技術陣が合流した事で、「栄」の改良型が史実より早く開発・生産される事となった。また、新型エンジンの開発も早くなり、「誉」エンジンも1943年から多数製造される事となった(この世界の「誉」エンジンは、低オクタンガソリンでも1800馬力出せ、かつ安定した性能を出せる)。



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33話 昭和戦前⑪:日林財閥(8)

 1937年から中国大陸で続いている小競り合いは、1939年に入っても終わる事は無かった。日本軍の進出地域が、上海や北平、広州など中国沿岸部や満州国境に近い主要都市のみである事から、大陸深く進攻した場合よりも兵員の損失や物資の浪費は少ないが、それでも金属や食糧の不足が見えてきて、不要な金属の供出や食糧の配給、ガソリンや石炭の使用制限が実施された。

 また、1938年にアメリカが第二次海軍拡張法(通称、「第二次ヴィンソン案」)、1940年に第三次海軍拡張法(通称、「第三次ヴィンソン案」)と第四次海軍拡張法(通称、「スターク案」「両洋艦隊法」)が成立し、アメリカ海軍もワシントン・ロンドンの軍縮条約に囚われない拡張が実施されると、対米戦が現実味を帯びた。

 1939年からの第二次世界大戦も合わさり、日本は急速に戦時色が強くなった。

 

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 戦時体制が強まっていくにつれ、日林財閥は大きな利益を上げる様になった。その理由は、日林の事業が軍需と上手く噛み合っている為だった。

 日林の主要事業は林業、木材加工、製紙、化学、金融である。それ以外にも繊維、食品、窯業、造船、機械などがあるが、事業の多くが軍需と密接に関わっている(尤も、軍需と関わらない事業の方が少ないが)。

 

 林業と木材加工(合板)は、軍需物資としての木材の利用価値にある。木材は兵器や建築資材の原料として必要不可欠であり、後述する合成繊維の原料や日常的に使用する燃料としても活用される。また、合板も資材や小型船舶の材料として使用される。

 その為、1938年から木材の増産が叫ばれる様になり、国内では俄かに木材景気に沸いた。そして、木材を得る為に伐採も加速した。同時に、合板の製造も拡大し、日林木材工業は一部の家具工場を合板製造工場に転換した。

 

 日林もこの流れに乗り、大量の木材と合板が供給され、木材関連で過去最大の利益を上げた。これは、日本各地に自前の山林を保有している事、高品質の合板の大量供給が可能な事が大きかった。

 一方で、日林は今までの経験から、過剰な伐採は今後の木材供給量を落とす事、植林しなければ土壌流出に繋がる事を理解していた。その為、今まで通り伐採後は植林を行った。

 しかし、今回は伐採の規模が大きい為、成長が早い樹を中心に植樹する事となった。北海道や東北なら、寒冷な気候でも育つポプラにニセアカシア、スギにクロマツなどを植樹し、中国や四国、九州なら、温暖な気候で育つクロマツやアスナロ、サワラなどを植樹する。

 この時、1種だけ植樹するのでは無く、複数種を組み合わせて植樹する事としている。1種だけだと、その種が病気になった場合、その地域のその種が全滅する可能性がある為である。複数種植樹すれば、1種が全滅しても他が残って森林は保たれるという考えである。

 

 これを、他の林業事業者にも連絡した。『現状、切り出す一方では今後の森林資源調達に支障を来たす」と警告も加えて。

 これに対して、反応はまちまちだった。素直に応じて日林式に植樹する所もあれば、「取り敢えず植樹すれば良い」という考えで1種を集中的に植樹する所もあり、今現在が重要だとして植樹しない所もあるなど統一性が無かった。準戦時という非常事態にあってはそうなるのも仕方ないのかもしれないが、日林としては行動してくれる所があっただけでも安心した。

 

 この時の植樹事業が、その後の林政に意外な変化を生んだ。戦後、過剰な伐採が進んだ森林に対し、植樹を行って土壌の流出を抑える事となった。史実ではスギやヒノキ一辺倒の植樹となったが、この世界では地域にあった植樹や複数種の植樹が行われる様になった。

 また、合板メーカーが史実よりも規模が拡大し、原料も国産を求めた事から、木材の長期安定的な供給を目的に林業の育成が強化される事となった。この結果、日本の林業は多少ながらも競争力を持つ様になり、東南アジアからの合板用木材の輸入は減少する事となった。

 

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 製紙は、洋紙の製造など本業については縮小傾向にあった。実際、効率の悪い工場の閉鎖や分散されている工場の集約によって、一部の工場は閉鎖される事となった。

 その代わり、閉鎖された一部の工場では合成繊維(レーヨン)の製造が行われた。これは、レーヨンの原料であるパルプ、製造過程で用いられる硫酸や苛性ソーダなどの薬品を活用出来る為である。

 その為、パルプや薬品の製造についてはむしろ増加した。また、レーヨンの製造や薬品の増産から、繊維や化学との関係が強化され、特に合成繊維に関するノウハウを豊富に持っている京師繊維との連携は密とされた。

 

 製紙と連動した化学と繊維は、軍拡によって規模が急速に拡大した。軍拡によって、火薬から軍服に至るまで大量の需要が発生する。その需要に応える為、増産と工場の拡大が急務となった。その一環で、製紙工場の転換が行われたが、それだけでは膨大な需要に供給が追い付かない。その為、本業の方でも拡大が行われた。

 日林系の繊維会社である京師繊維は、元々綿や麻などの天然繊維が中心だった。しかし、原料となる綿花やジュート、サイザル麻の輸入量の減少によって、需要に応える事が出来なくなった。その為、天然繊維の代替としてレーヨンの製造を行う事が計画された。

 

 京師繊維は、昭和恐慌時に経営が破綻した、若しくは傾いた繊維会社を合併・子会社化してきた。その中に、レーヨンを扱う企業が数社あった為、レーヨンに関するノウハウがあった。この時は、恐慌によって需要が減少していた事から、増産処か減産が検討されていた。その後、満州事変から景気は上向きになり、繊維の需要も増大し、京師繊維もレーヨンの増産に転換した。

 レーヨンの原料はパルプである為、国内でも充分に原料を供給出来た。また、レーヨンの製造原料となるセルロース(パルプの主成分)や薬品は火薬(ニトロセルロース)の原料となる為、化学への進出も行われる事となった。火薬製造は日林化学工業と競合する分野だが、火薬の需要が急増していた為、両社で生産される事となった。

 

 日林化学は、火薬やダイナマイトの増産だけで無く、合成繊維の研究も強化された。これは、合成繊維のノウハウは提携しているイギリスのインペリアル・ケミカル社(ICI)も保有していない為であり(ICIによる合成繊維の製造は戦後)、自主研究によって合成繊維を開発する事となった。

 火薬については設立当初から行っていた為、増産については工場の拡張や新設を行えば問題無かった。実際、日林化学の既存の工場では、周辺の土地の収用を行って規模の拡張を行っており、それでも足りない分は日林製紙で統廃合の対象となった小規模工場を火薬工場に転換して対応した。

 一方の合成繊維は、1920年代後半から研究を行っていたが大きな成果を上げていなかった。これは、基礎研究や知識の不足という原因もあったが、何より火薬や染料と言った薬品に注力し過ぎていた事が最大の原因だった。その為、日林化学による合成繊維の研究は縮小され、研究成果などは京師繊維に譲渡される事となった。これにより、日林化学は合成繊維から撤退した。

 

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 第二次世界大戦前になり、日林では急速に機械、造船、窯業の生産量、生産額が急増した。これらの事業は日林では傍系だが、軍拡による兵器、兵器を生産する機械など重工業系の需要が急増した事で、これらの事業も拡大する事となった。

 機械と造船を担当する日林造船機械は、エンジン製造の下請けと小型船舶の建造が行われた。但し、木造船の建造経験しか無い為、最初は掃海艇や敷設艇の建造のみだった。その後、日林と繋がりがある大室と日鉄が技術提供をしてくれた事で、海防艦や小型の戦時標準船なら建造可能なノウハウを獲得した。

 

 また、この場合の窯業はエンジンに必要となるスパークプラグや、送電に必要な碍子といった特殊陶器を指す。これらは、航空機やトラックの大量配備や、日本各地で発電用ダムの建設が行われた事で大量生産される事となった。特に、日林製の航空機エンジン用スパークプラグは高性能である事で有名であり、大和航空工業に優先的に供給された。この為、日林特殊陶器は工場の拡大が行われる様になり、千葉と徳島に新工場が建設された。

 

 尚、日林製のスパークプラグの大和への優先供給によって、大和の航空機エンジンを採用する機体が増加した事に危惧した三菱重工業は、三菱入りした森村財閥系の日本特殊陶業に高性能スパークプラグの製造開発を依頼した。結果として、日本の二大エンジンメーカーは二大特殊陶器メーカーを育てる事となった。

 

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 上記以外にも、日本林商銀行や日林火災保険といった金融、日林系の電力事業、皮革も急速に拡大した。

 その一方で、食品事業は材料不足によって一部の商品は減産となった。その代わり、戦地への輸送が容易な缶詰の製造が拡大する事となった。特に、皮革と一体の食肉、水産業が盛んな事から魚の缶詰が大量に製造された。これらの缶詰は兵士達に好評であり、戦後も復員した兵士達によって『日林の缶詰は絶品』という評判が立った。その為、製造当初は一時的なものと考えられた缶詰事業は、日林食品の戦後の主力事業となる程だった。



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番外編:開戦前夜と史実との違い

 日本は、中国との紛争(「戦争」にまで発展しなかった)を有利に終わらす為、中国への武器や物資の支援ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する事を決定した。主な援蒋ルートは5つあり、香港から内陸へ運ぶ「広東ルート」、フランス領インドシナから雲南省、広西省に入る「仏印ルート」、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)から雲南省、四川省に入る「ビルマルート」、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国から察哈爾省、綏遠省(現・内モンゴル自治区)に入る「蒙古ルート」、ソ連からウイグルに入る「西北ルート」があった。

 

 その内、広東ルートは広州を、蒙古ルートは察哈爾・綏遠両省を紛争後に日本が占領した事で閉鎖され、仏印ルートも1940年に日本軍が北部仏印に進出した事で閉鎖された。仏印ルートの閉鎖によって最大の援蒋ルートは閉鎖されたが、直ぐ後にビルマルートが強化された事で援蒋の完全封鎖は叶わなかった。

 それ処か、仏印に進出した事でアメリカを大きく刺激し、日米の対立は以降深まっていく事となった。その為、1940年から日本は対米戦を秘かに決意する事となった。

 

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 この世界のアメリカは、史実よりも大きな海軍力を保有している。その為、ニューディール政策を行う際に軍縮を行おうとしたが、海軍からは『これ以上規模を縮小(人員削減や維持費の削減)をされると、艦隊運営に支障を来たす』と言われ、陸軍からも『これ以上予算を減らされたら、組織として崩壊する』と言われた。

 その結果、軍事費削減は中途半端となり、ニューディール政策の成果も史実と比べると中途半端な結果となった。この事から、ルーズベルト大統領の支持率は史実よりも低く、1936年の大統領選挙では勝利を収めたものの、史実の様な48州中46州で勝利とはならず(当時、ハワイとアラスカは準州)、34州で勝利となった。1938年の中間選挙や1940年の大統領選挙でも、辛うじて勝利した為、国内の支持基盤が強固では無かった。

 

 この余波によって、アメリカは中国を大々的に支援する事が難しくなった。ルーズベルト本人は親中反日だったが、国内はアジアの事より国内をどうにかしてほしいと考えており、野党の共和党も徒に日本を煽る事は宜しくないと批判的だった。

 もし、この時点でルーズベルトの支持が圧倒的であれば、反対があっても押し通す事は不可能では無かっただろう。しかし、ルーズベルトの支持率は5割をギリギリ超す程度しか無く、変な動きをすれば弾劾される可能性があった。

 その為、中国に対する支援が大きくならなかった。これは、日本が史実の様に内陸部まで進出しなかった事も大きかった。

 

 1939年には内陸部への進出が検討されたが、ノモンハンでソ連軍と大規模な軍事衝突が発生した事で、急遽戦力の大半を満州へ向けられる事となった。また、ノモンハンでの戦闘で大規模な被害を受けた事で、その補充も行う必要があった。それらに予算や人員を取られた為、内陸部進出は実行されなかった。

 

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 日本と中国の衝突は1939年の中頃には収まってきた。日本側は、内陸部に進出する気が無く、しようと思ったが別の要因で出来なかった。中国側は、大規模な戦力を初期の段階で消耗した事から、日本が占領している地域に侵攻する為の戦力が無かった。

 それでも、ズルズルと戦闘は長引き、それと反比例する様に日米関係は悪化していった。この後、日本は史実と同じくドイツとイタリアと同盟関係になった。これにより、アメリカやイギリスとの関係悪化は急速に進み、屑鉄の対日輸出禁止から始まる対日経済制裁が行われた。

 

 この後は史実通りである。日米関係は急速に悪化、1941年から何度も交渉が行われたが、全て物別れに終わった。

 しかし、史実と異なる部分として、アメリカによる日本の外交電文の解読が進まなかった事である。これは、ワシントン条約時に日本の電文がアメリカに傍受され解読された事を機に、日本政府と陸海軍は情報の漏洩に敏感となった。その結果が、海軍系の「海軍情報本部」と内閣系の「内閣情報調査局」の設立である。

 今回は、内閣情報調査局が活躍した事でアメリカの外交電文の解読が進み、日本の外交電文の機密性も強化された。これにより、アメリカが次にどの様な事を提案するかを一定程度知る事が出来、逆にアメリカは日本の交渉内容や目的、時期などの解読に手間取った事で、交渉の主導権を握る事が出来なかった。

 

 それでも、情報解読の有無で開戦までの流れが変わる訳でも無く、結局1941年11月26日にコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命全権大使に「ハル・ノート」が手交された。これによって、日本は対米戦を決意した。事前に準備されていた戦争計画は急速に進み、12月8日に開戦する事を御前会議にて決定された。既に、陸海軍の実戦部隊は動き出しており、後は開戦の日時を知らせる電文を受け取れば、開戦と同時に一斉に行動を開始する事となっていた。

 

 これを受けて外務省は、『日本時間1941年12月8日に宣戦布告文書を手交出来る様に準備する事』と在米・在英日本大使館に緊急かつ最重要の命令を下した。その為、史実の様な宣戦布告の遅れによる「卑怯」「騙し討ち」という批判は出なかった。

 そして、日本時間1941年12月8日午前2時、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対し同時に宣戦布告、ここに日本側名称「大東亜戦争」が始まった。

 

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[史実と異なる編制]

・連合艦隊

 直属部隊である第一戦隊に加賀型戦艦2隻(「加賀」と「土佐」)が追加。旗艦も「加賀」になる。

 

・第一艦隊

 第二戦隊に所属する扶桑型戦艦2隻(「扶桑」と「山城」)が、1939年から大改装を実施する。これにより、艦尾の延長や応急注排水装置の装備など史実で行われた改装の他、3番砲塔の撤去と機関の改装、装甲の強化が行われた。これにより、攻撃力は下がったものの、速力は向上(26.5ノット)し、改装前で問題となった防御力もある程度解消された事から、バランスが取れた戦艦となった。

 

・第一航空艦隊

 戦艦・駆逐艦の編制は史実通り。異なるのは空母と巡洋艦の編制で、史実の第一航空戦隊は「赤城」と「加賀」だが、この世界では「高雄」と「愛宕」(共に天城型巡洋戦艦からの改装)となっており、「愛宕」が旗艦を務める。巡洋艦の第八戦隊は、史実では利根型重巡洋艦2隻だが、この世界では利根型軽巡洋艦4隻(「利根」「筑摩」「雄物」「名寄」)となっている。

 また、司令長官も南雲忠一では無く、塚原二四三となっている。史実の塚原は、1939年の漢口(現在の武漢)空襲で負傷し左腕を切断、以降海上勤務をしなかった。この世界では、中国内陸部に進出していない事から漢口空襲は無く負傷もしていない。その為、海上勤務を続ける事が可能となった。

 

・第一南遣艦隊

 この艦隊は、フィリピン攻略の為に編成された艦隊である。史実では存在しない艦隊だが、後述するアジア艦隊の戦力が大きい為編制された。尚、この艦隊の編制によって、史実の南遣艦隊は「第二南遣艦隊」となった。司令長官は南雲忠一である。

 戦力は、天城型戦艦2隻(「天城」と「赤城」)、穂高型重巡洋艦4隻(「穂高」「大雪」「雲仙」「石鎚」)、川内型軽巡洋艦の「加古」(当初の予定通り、川内型軽巡洋艦の4番艦として竣工)、駆逐艦8隻となっている。戦艦が含まれている理由は、アジア艦隊にレキシントン級巡洋戦艦が含まれている為である。

 

・太平洋艦隊

 戦艦ではサウスダコタ級戦艦2隻(「サウスダコタ」と「インディアナ」)とコロラド級戦艦1隻(「ワシントン」。これに伴い、ノースカロライナ級戦艦2番艦は「オレゴン」と命名)、巡洋艦が4隻(ポートランド級重巡洋艦2隻、セントルイス級軽巡洋艦2隻)が追加している。空母も、巡洋戦艦として完成した「レキシントン」と「サラトガ」の代わりに、「コンステレーション」と「レンジャー」が空母として完成する(これに伴い、史実の「レンジャー」は「ディスカバリー」となる)。それ以外は史実通り。

 

・アジア艦隊

 レキシントン級巡洋戦艦2隻(「レキシントン」「サラトガ」)とニューオーリンズ級重巡洋艦1隻が追加。

 尤も、アジア艦隊が戦艦を含む有力な艦隊となった事が、第一南遣艦隊が編成された理由となった。

 

・大西洋艦隊

 巡洋艦2隻(ウィチタ級重巡洋艦1隻とセントルイス級軽巡洋艦1隻)が追加。



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番外編:日鉄(+α)による新路線建設
番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)


〈北海道〉

・軽石軌道[軽川(現・手稲)~花畔~石狩川畔]

 史実では、花畔までの開業に留まり、路線そのものも1937年に廃止となった。これにより、石狩市の鉄道は無くなり、現在でも陸の孤島気味となっている。

 

 この世界では、日鉄が経営に参画した事で、軌間は762mmから1067mmに変更し、史実では開業しなかった花畔から先を開業させる。更に、石狩川河口部の開発を日鉄・大室・日林の三者が共同で実施する。目的は、小樽港の代替と北海道の工業化の推進である。軽石軌道の獲得も、輸送路の確保と開発の促進を目的とした。社名も「石狩鉄道」に変更した。

 1922年10月に軽川~花畔間が、1927年6月に花畔~石狩港(石狩川畔)間が開業。花畔開業とほぼ同じく、石狩港の開発も始まり、関東大震災によって一時中断するものの、1928年10月に第一期工事が完了、第二期工事も開始した。しかし、今度は昭和金融恐慌と昭和恐慌によって中断、完成は1940年2月となった。

 

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・大函急行電鉄[函館~亀田~大野(現・新函館北斗)]

 軌道幅が一緒(1067mm)であり、電化で開業の予定であった事から、函館市電の郊外線的存在と言える。ルートは、函館から五稜郭までは函館本線に隣接し、五稜郭から先は概ね大野街道に沿って(=函館本線の西側に並行する)大野に至る。

 史実では、1928年10月に免許を取得し1930年に会社を設立するが、昭和恐慌によって工事が中断、ある程度建設が進んでいたらしいが、1937年2月に免許が失効した。

 

 この世界では、日鉄が函館の経済力や人口を鑑み(1940年まで、函館の人口は札幌を超えていた)、郊外の開発も行った方が良いと判断し、函館水電(函館市電の前身)を巻き込む形で経営に参加した。これは、電鉄を運営するのなら、協力体制を敷いた方が効率が良いと判断した為である。1930年に会社が設立したが、路面電車での運行が計画された事から、社名は「大函電気鉄道」となった。

 会社設立後、精力的に工事は進められ、1934年2月には線路を全て敷き終わった。その為、当初は同年4月に開業予定だったが、3月に発生した函館大火によって施設の一部が焼失し開業は延期となった。その後、施設の復旧を行い、8月に開業となった。

 開業後、沿線の宅地開発や娯楽施設(野球場や遊園地)の整備を行い、沿線人口の増加を狙った。函館大火によって函館市の人口が流出していった事から、それを防ぐ目的もあった。不況の影響もあって大々的な開発は出来なかったが、函館の後背地の開発が進んだ事によって人口の流出が穏やかになった。

 

 その後、1940年に帝国電力(1934年に函館水電から改称)から鉄道部門とバス部門を譲渡され、「函館電気鉄道」に改称された。戦時中、函館電鉄の全事業を函館市に引き渡す予定だったが、函館電鉄側と函館市側の条件が折り合わずそのまま流れた(これにより、「函館市交通局」は成立しない)。

 

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〈東北〉

・東北鉄道鉱業[小鳥谷~葛巻~門~茂市]

 東北本線の小鳥谷から葛巻、門、岩泉を経由し、太平洋岸の小本まで至る路線と、途中の落合から分岐し、かつての岩泉線とほぼ同じルートを通る路線を計画した。目的は、沿線から算出される石炭や木材の輸送と開発だった。

 史実では、資金不足が原因で工事途中で未完成となり、1927年9月に門から先の免許が失効、1941年7月に残る小鳥谷~門間の免許も失効した。

 

 この世界では、日鉄に加えて日林財閥の企業が合同して出資した(日本鉄道興業、日本鉄道銀行、日鉄證券、日本林産、日本林商銀行、日林鉱業)。また、史実では1926年11月に工事が開始されたが、この世界では1年半早く工事が開始された。

 それでも、史実通り昭和恐慌による資金不足によって一時的に工事が中断される。しかし、史実よりも工事が早く始められた事、日鉄―日林連合が経営権を掌握した事で、その後も工事が進み、1938年に小鳥谷~葛巻~門~茂市間が開業した。同時に、沿線の炭鉱・鉱山(粘土やマンガン鉱)、森林の開発も進んだ。その後、1944年に改正鉄道敷設法に則り「葛巻線」として買収され、残る鉱山などは日林側の企業に吸収された。

 

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・南部開発鉄道[野辺地~七戸~三本木(旧・十和田市)~三戸](架空)

 現実の南部縦貫鉄道と同じルートだが、昭和初期に計画されたという違いがある。このルートは奥州街道(国道4号線)に沿ったルートでありそれなりに人口があったが、東北本線から外れた事で衰退が著しかった。かつての繁栄を取り戻そうという沿線住民と、沿線の農地や牧地、資源開発を考えた日鉄の両者の思惑が一致した。これにより、1927年に「南部開発鉄道」が設立された(免許の受理は1925年)。

 会社設立後、工事が始まったが、昭和恐慌によって一時中断した。しかし、その後の景気の回復と軍拡による鉄の需要増加を受けて、工事は急ピッチで再開された。沿線には高純度の砂鉄が確認されており、これを利用した製鉄が青森で実施される事になった為である。これにより、1935年6月に全線が開業し、沿線住民は諸手を上げてこれを歓迎した。

 開業後、沿線開発は進み、特に鉱山開発は鉄道が開業した事で大規模な開発が進んだ。そして、日本製鐵(新日鐵住金の前身)によって大湊町(現・むつ市)に製鉄所が建設され、そこへの原料輸送で賑わった。その後、1940年に十和田鉄道(史実の十和田観光電鉄線)、五戸鉄道(史実の南部鉄道)と統合し、「南部鉄道」と改称した。

 

 しかし、改正鉄道敷設法に該当する事、東北本線のバイパスになる事、何より鉄鉱石の存在から戦時買収の対象となり、南部鉄道が所有する全鉄道線が国有化された。旧・南部開発鉄道は「七戸線」、旧・十和田鉄道は「三本木線」、旧・五戸鉄道は「五戸線」とされた。その後、会社そのものはバス・不動産会社「南部開発交通」として存続する事となった。

 尚、十和田鉄道だけ762㎜で軌間が異なり、戦後に1067㎜に改軌される事となった。

 

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・仙南鉄道[白石~永野~遠刈田温泉~青根温泉、大河原~村田~永野](架空)

 史実では、このルートに仙南温泉軌道(大河原~村田~永野~遠刈田)が1922年に開業した(永野~遠刈田は1906年に貨物専業で開通済)が、バスとの競合や規格の低さが災いして、1937年に廃止となった。

 

 この世界では、1910年に解散となった日本製鉄(後に成立する日本製鐵とは無関係)から開業済みの永野~遠刈田を譲り受け、上記のルートでの免許を獲得し「仙南鉄道」を設立した。これとほぼ同時期に、仙南軌道と城南軌道(共に仙南温泉軌道の前身)の免許が出願されたものの、資本力に勝る仙南鉄道が両者を吸収させて黙らせた。

 その後、1911年から工事が開始された。2社の吸収の条件として「大河原~村田~永野間も建設する事」が決められた為、少々時間が掛かったが、大河原側は地元が建設に積極的であった事から、建設は早期に完了した。途中、第一次世界大戦による資材高騰によって中断するも、1922年までに全線が開業した。

 

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・仙台鉄道[古川~西古川~王城寺原~北仙台]、青葉電気鉄道[北仙台~青葉城前~長町]、秋保電気鉄道[長町~茂庭~秋保温泉~青根温泉](架空)

 史実の仙台鉄道と秋保電気軌道、未成に終わった青葉軌道に相当する。

 秋保側は、1916年に秋保石材軌道を傘下に収め、資金面でのバックアップを行った結果、青根温泉への路線を1925年に開業させた。同時に、改軌(762㎜から1067㎜に変更)と電化を実施した。同時に、社名を「秋保電気鉄道」に改称した。

 

 古川側も同様に、1922年に仙台軌道を傘下に収めた。1925年の西古川までの開業は史実通りだが、西古川から国鉄陸羽東線に沿って古川までの路線が1927年に開業した。

 

 仙台市側は、1925年に設立された青葉軌道に参画、既に傘下に収めた秋保石材軌道と仙台軌道を繋げて一体的な運用を目的とした。そして、秋保側が1067㎜で電化された事から、青葉軌道と仙台鉄道も改軌する事となった(青葉軌道は電化も実施)。その後、1929年に開業した事で(同時に、社名も「青葉電気鉄道」に改称)、3社の統一運用が図られる様になった。これにより、青葉電鉄・秋保電鉄沿線の宅地・観光開発が活発化した。

 

 その後、1943年に上記の仙南鉄道と統合し、新生「仙台鉄道」となった。

 戦後、旧・仙南鉄道との連絡と仙台白石間の都市間輸送を目的に、茂庭~村田間が計画される事になる。

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・仙北鉄道[築館~沢辺]

 築館線の延長であり、栗原軌道との接続を狙った路線である。史実では、仙台鉄道や栗原軌道が免許を獲得したものの、全て未開業に終わった。

 

 この世界では、日鉄が支援した事で1926年に開業した。これにより、仙北鉄道と栗原軌道は一体的な運用が取られたものの、この時は合併しなかった。

 その後、1944年に仙北鉄道と栗原軌道は「仙台鉄道」に統合された。戦後、旧・仙北鉄道と旧・栗原軌道は「栗原鉄道」として分離されるのと同時に、仙台鉄道の支援の下で改軌と電化が実施された。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東)

〈関東〉

・武州鉄道[羽生~菖蒲~蓮田~岩槻~武州大門~赤羽(赤羽岩淵)]

 詳しい事は「17話 大正時代③:日鉄財閥(2)」を参照。

 関東大震災後、人口の郊外への移転が進んだが、武州鉄道沿線では大きく進まなかった。武州鉄道が全線開業したのが復興が一段落付いた1927年だった事、東京側の接続が赤羽という東京市の端である事、他の路線との接続が王子電気軌道だけだった事などの理由からだった。

 その為、目蒲電鉄や東横電鉄(共に東急の前身)や東武鉄道の様に郊外電車は走らなかったが、都市部に近い所を走る事から気動車(当時はガソリンカーが主流)の積極的な導入が行われた。これにより高頻度の運転が可能となり、沿線住民の足として充分に活用された。

 

 この形態は12,3年続いたが、戦時体制が近づくにつれガソリンの入手が困難となり、気動車の運行頻度も減少した。これに代わる様に蒸気機関車の運行が増加したが、一定程度の発展をした沿線にとって蒸気機関車のばい煙は迷惑でしかなった。その為、電化の要請が行われたが、資本・資源不足によって電化の見込みは無かった。

 

 その後、1944年に総武鉄道(現・東武野田線)と一緒に東武鉄道に吸収され、「東武赤羽線」となった。戦後、東武の手によって旧・武州鉄道は電化される事となる。

 

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・相模中央鉄道[平塚~厚木~田代~半原、平塚~伊勢原~大山口](架空)

 平塚~八王子の免許を持つ「八平軽便鉄道」と、平塚~大山の免許を持つ「大山鉄道」を日鉄が買収し、1912年に両社を統合して設立された。史実では、大山鉄道の免許が下りたのが1914年で、八平軽便鉄道の免許が失効したのが1913年であるが、この世界では、1911年に平塚~伊勢原の免許を獲得した「大山軽便鉄道」が、大山までの免許を獲得して「大山鉄道」と名乗ったとする。

 

 工事は、第一次世界大戦や関東大震災を挟んで中断されたものの、1925年までに大山方面の全線と平塚~半原が開業した。路線は、全線1067㎜・直流600Vである。半原~八王子は山岳地帯を走る事から、工事費や採算の問題から工事は行われなかった。しかし、バス連絡は行われた。

 相模川の砂利や丹沢からの薪炭、大山詣りの参拝客などの利用が多く、恐慌時でも三分の配当が行われた。小田急が開業してからは一時は利益が減少したものの、東京への輸送時間の減少からその後はむしろ活性化し、再び利益は増加した。また、後述の相武電気鉄道が田名で繋がった事で、直通電車の運行も行われた。

 

 その後、戦時体制に進むにつれ、平塚や厚木には軍事施設が設立されると、そこへの人員輸送が活発化した。この為、車輛の増備と平塚~厚木の複線化が計画された。増備の方は国鉄からの客車の払い下げで何とかなったが、複線化は資材不足で戦後に持ち越された。

 また、相模中央鉄道も戦時統合に巻き込まれた。合併は無かったものの、大東急の傘下に組み込まれた。戦後は大東急の傘下から小田急の傘下に代わり、戦前から行われた小田急相武線を通じた新宿~半原の直通運転が続いている。

 

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・相武電気鉄道[鶴川~淵野辺~上溝~田名~田代]

 史実では、1927年に免許を獲得し工事も行われたが、その後発生した昭和金融恐慌によって資金不足となり工事は中断、免許も1936年までに全て失効した。免許では、起点は溝の口を予定していた。他にも、田名から分岐して川尻方面の支線と、厚木から長後、戸塚を経由して横浜市中心部(黄金町や長者町)へ至る路線も計画していたが、全て未完成に終わった。

 その後、東急(大東急時代)や小田急によって似たルートの路線が計画されたものの、戦争による資材不足や敗戦による軍の消滅による建設理由の消滅(沿線ルートの相模原一帯は陸軍施設が多数存在した事から、軍への物資輸送も考えらていたと思われる)によって、何れも完成する事は無かった。その後、この地域に鉄道が通るのは、多摩ニュータウンの開発が一定程度進んだ1970年代中頃の事である。

 

 この世界では、昭和金融恐慌後に相武電鉄の株式を日鉄が引き受けた事で経営権を掌握した。日鉄の資金力を得た事で工事は急ピッチで進み、1932年に鶴川~田代間が開業した。予定されていた溝口方面は、小田急への乗り入れで代替出来る事から中止され、他の支線も建設されなかった。また、同じ資本関係にある先述の相模中央鉄道との直通運転を行い、鶴川~田名~半原間の直通電車も運行された。

 小田急(戦前の為、「小田原急行鉄道」)との乗り入れを想定した為、当初の路面電車型では無く、小田急に準じた高速電車の走行に耐えられる様な設備を整え、電車も高速運転が可能な車両を導入した。これらの初期投資は嵩み、人口の少なさから利益も出なかったものの、その後は沿線に陸軍施設が多数設立されると、物資や人員の輸送で増収になった。

 

 同時に、鉄道網の整備と鉄道会社の統合にも巻き込まれ、小田急と時を同じくして東急に統合、大東急の一員となり「東急相武線」となった。戦後、大東急は解体され、相武線は小田急に編入され「小田急相武線」となった。

 

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・南津電気鉄道[関戸(現・聖蹟桜ヶ丘)~鑓水~橋本~三ヶ木]

 この路線も相武電鉄と同じく、多摩・相模原地域への電鉄を予定しており、1926年には免許を獲得している。沿線は甲州や多摩で作られた絹を横浜へ輸送する途中にあり、絹輸送の仲介を行っていた商人が多数いた。それを背景とした経済力があった事から実現の可能性は低くは無かったが、昭和恐慌とそれによる生糸の暴落によって資金難となり、鑓水付近ではレールの敷設まで行われていたが工事は中断され、1934年までに全ての免許が失効した。

 

 この世界では、相武電鉄と同時期に株式の引き受けを行った事で経営権を掌握した。その後、津久井側のルートを変更した上で特許に切り替えた。

 ルート変更は、横浜線単独の相原よりも、国鉄横浜線・相模鉄道(現・JR相模線)が乗り入れる橋本の方が集客力が見込めると判断された為である。そして、津久井郡の中心地である中野・三ヶ木への延伸も予定された。

 特許への切り替えは、京王電気軌道(現・京王電鉄)との直通を予定した為である。地方鉄道法の関係上、免許のままでは京王の軌間である1372㎜での敷設が不可能であった。その為、軌道法による特許に変更して、京王との規格に合わせた。

 ルートの変更と特許への切り替えに時間が掛ったが、1931年から工事が再開された。鑓水付近の工事は完了していた事もあり、関戸~橋本は1934年に開業した。残る橋本~津久井も翌年に開業した。開業当初から行楽シーズン限定であるが京王との直通運転を行い、新宿~関戸~三ヶ木の長距離運転が行われた。

 

 この後、戦時統合の一環で1942年に京王に吸収されるも、京王も大東急に吸収された事により、旧・南津電鉄は「東急南津線」となった。戦後、大東急が解体されると、旧・京王、旧・南津電鉄、旧・帝都電鉄(現・京王井の頭線)は「京王帝都電鉄」として独立し、旧・南津電鉄は「京王南津線」となった。

 戦後、京王の財政基盤が怪しかった事から、旧・南津電鉄の伝手で中外グループ(大室・日鉄・日林の各財閥が戦後に集結して結成した企業グループ。「中外銀行」を中核とする)に支援を要請した所、中外グループはこれを快諾した。これにより、この世界では京王は中外グループの一員となった。

 

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・筑波高速度電気鉄道[上野~八潮~流山~守谷~筑波山口、八潮~野田市~岩井~結城~宇都宮](宇都宮方面は架空)

 史実では、免許を取得して直ぐに昭和恐慌が到来して資金不足に陥り、柿岡地磁気観測所の関係で直流による電化が出来ないなどの問題が重なり、工事は殆ど進まなかった。その後、会社は京成に吸収され、上野側の免許は京成の上野~青砥間の都心乗り入れ線に活用され、残りの免許は1936年までに全て失効した。

 

 この世界では、日鉄が筑波山の観光開発や鉄道空白地帯の宅地開発を目的に強力に支援した。同時に、八潮から分岐して野田、境、結城を経由して宇都宮に至る路線の免許も取得した。これは、筑波方面と同様に鉄道空白地帯の開発を目的とした。また、免許も変更され、鉄道では無く軌道に変更し、線路幅も1067㎜から1372㎜に変更された。これは、京成からの出向者の意向で、京成の都心乗り入れを考えての事だった。

 また、筑波電鉄の出資に大室財閥を誘った。これは、大室電機産業が持っている交流電化の技術を利用したかった為である。筑波山の近くにある柿岡地磁気観測所の影響で、直流による電化は不可能だった。

 尤も、地磁気観測所が近くにあっても直流電化は絶対不可能では無く、複式架線方式(2本の架線を平行に掛ける方式。路面電車で見られる)や短い間隔で変電所を設置すれば可能である。しかし、前者は高速運転に不向きである事、後者はコストの問題があった。

 この申し出に、大室側は難色を示した。大室電機も交流送電や交流用モーターの開発はしていたものの試作段階であり、鉄道に載せられる小型のものについては計画段階でしかなかった。それでも、日鉄は共同開発を持ち掛けるなどして、あらゆる手段を取って大室を引き込もうとした。

 結局、出資は叶わなかったものの、共同開発には応じてくれた。この出来事により、日鉄と大室電機の関係は蜜月状態になり、その後の統合に繋がる事となった。尤も、共同開発をしても交流電化の技術は中々完成せず、戦後も交直流電車のコストや気動車の性能向上などから、筑波方面の交流電化は諦められた。

 

 話は戻るが、1934年に上野~筑波山口間と京成との連絡を目的に町屋~青砥間が開業し、1937年には八潮~宇都宮間が開業した。一方、電化については地磁気観測所の関係から、守谷~筑波山口間と野田~宇都宮間については非電化となり気動車での運行となった。この為、(恐らく)日本唯一の馬車軌(1372㎜)の気動車が運行される事となった。

 

 筑波電鉄の役員の多くは京成からの出向者である為、京成との関係は強く、実質的に京成の子会社であった。その事もあり、1943年に筑波電鉄は京成に吸収された。戦後も、旧・筑波電鉄の役員は京成で大きな影響力を有した事から、戦後の京成は中外グループに所属する事となる(史実では三和グループに所属)。

 また、地下鉄浅草線を介した京成と京急の直通が計画された際に京成側の改軌を予定していたが、この世界では成田方面、筑波方面、宇都宮方面に路線を持っている為、総延長は史実の3倍近くとなる。これにより、改軌する為の費用も3倍以上となり、輸送への影響も大きくなる為、京成は「全ての路線を改軌する事は事実上不可能」と回答した。これにより京成の改軌計画は頓挫し、浅草線は京成の片乗り入れになった。一方、京急は三田線への乗り入れに変更された。

 

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〈他の路線への影響〉

・鉄道敷設法43号の開業

 43号は『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道 及水海道ヨリ分岐シテ佐貫ニ至ル鉄道 並境ヨリ分岐シテ古河ニ至ル鉄道』の事である。史実では開業しなかったこの路線が、この世界では開業した。しかし、実際に開業したのは『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道』の部分だけであり、埼玉側の起点は高麗川に変更された。

 この路線の目的は川越線や八高線と同様に、主要幹線間のバイパスであった。単独で常磐線と東北本線、高崎線を結び、八高線を介して中央本線とも結ぶ事で、東京の中心部を通らずにこれらの路線の貨物の融通を図り、軍需を含めた貨物の効率的輸送を行う事が目的だった。

 工事は早急に進められ、1940年に全線が開業し「常武線」と命名された。戦後は貨物輸送が激減し典型的なローカル線となり、川越線・八高線との一体運用が行われた。

 

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・京成白鬚線の存続・延伸

 京成白鬚線は、押上線の向島(廃止)から分岐して白鬚に至る路線である。京成系の王子電気軌道(後の都電荒川線など)と接続して、都心部への直通を予定していたらしい。しかし、それは実現せず1936年に廃止となった。

 

 この世界では、筑波方面への客を押上・(東京市電を介して)浅草へ輸送する目的で、白鬚~南千住~千住大橋~梅島のルートが計画された。この路線は1934年に完成した。開業当初は、市電や東武との競合で乗客はそれ程増加しなかったが、この路線が真価を発揮したのは、戦後の浅草線開業後の事だった。

 

 浅草線の開業と直通運転の開始で、京成は念願だった浅草・都心部への乗り入れを達成した。これにより、支線扱いされた押上線は、浅草線と京成本線を繋げる主要路線になった。同様に、白鬚線も浅草線と筑波本線を繋げる主要路線となり、筑波本線・宇都宮線沿線の宅地開発が促進される要因となった。

 

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・京浜電鉄(後の京浜急行電鉄)青山線の地下鉄化(未成)

 京浜電鉄青山線は、都心部への乗り入れを目的に計画された路線であり、品川~白金~広尾~青山~千駄ヶ谷というルートを計画した。このルートは、特許を出願した時の東京市と郡部の境界付近を通っていた(渋谷や新宿が東京市に合併されるのは1932年)。しかし、沿線の宅地化の進行や市内乗り入れを巡る東京市との対立によって進展せず、白金以北は1926年に失効、残る区間も1928年に失効した。

 

 この世界では、13年早い1924年に「京浜地下鉄道」が設立され、青山線の免許を譲渡した。そして、譲渡された免許を一度返上した上で再取得した。これは、一部ルートの変更と千駄ヶ谷~新宿を追加した為である。

 しかし、青山線のルートは大きな集客地が無い事から、採算が取れないとして建設が進まなかった。結局、京浜地下鉄道が「帝都高速度交通営団」に統合されるまで、多少の土地買収を行った以外何も進展が無かった。

 

 しかし、免許そのものは営団地下鉄に持ち越され、新宿~東中野~池袋を追加して「営団地下鉄白金線」として1977年に開業する事となる(白金線のアルファベットは「R」が割り当てられる)。

 

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・湘南電鉄(現・京急の横浜以南)の葉山延伸

 湘南電鉄は、三浦半島を一周する路線を計画した。その計画では、金沢八景から横須賀、浦賀、久里浜、長井、林、葉山、逗子を経由して金沢八景に戻るというものだった。その後、三崎方面への延伸が加わるなど計画の変更がされ、計画の内、本線の金沢八景~浦賀、久里浜線と逗子線の全線が開業した。久里浜線は元々、浦賀からの延伸の予定だったが、トンネルを掘る必要があった事、戦時下で開業を急いだ事から、現在の形となった。それ以外の、逗子~葉山~三崎口~三崎は未開業に終わった。

 

 この世界では、日鉄が積極的な投資を行っている事を見て、湘南電鉄の出資元である安田財閥や京浜電鉄が史実以上に出資した。これにより、湘南電鉄は資金的な余裕が生まれ、逗子~葉山の路線の建設を行った。この理由は、海軍施設が沿線に出来る予定がある事、沿線の別荘開発を予定した事からだった。

 1936年に湘南逗子葉山口(後の逗子海岸)~葉山の路線が開業した。その先は史実と同様に開業せず、戦時中に軍の要請で武山線(衣笠~武山~林)の建設が始まるも、こちらも未完成に終わった。

 戦後、金沢八景~葉山は「葉山線」と命名された。沿線は、海や自然を残しつつ、別荘の開発が行われた事で、関東有数の別荘地となった。

 

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・南総鉄道の鶴舞町(現・上総鶴舞)延伸

 史実では計画倒れに終わり、会社そのものも小規模であった事から1939年に廃止となった。

 

 この世界では、日鉄の地方への拡大を見た安田財閥が、同系列の小湊鉄道との接続を狙っている南総鉄道を傘下に収めた。これにより、史実で廃止の要因となった資金不足はほぼ解消された事で、奥野~鶴舞町の建設が行われた。この区間が開業したのは1937年であり、これにより南総鉄道側の輸送人員は多少増加した事で廃止にならなかった。

 戦時中に、南総鉄道は小湊鉄道に吸収され、小湊鉄道が元から所有した路線は「本線」、旧・南総鉄道の部分は「南総線」と改称された。戦後も、南総線は廃止になる事は無く存続した。




4/30本文追加(湘南電鉄と南総鉄道の部分)
投稿後に思い浮かんだので追加しました。

4/30本文追加(京成電鉄と京浜電鉄の部分)
こちらも投稿後に思いついてしまいました。京成は筑波電鉄との関係から、京浜電鉄は湘南電鉄を統合した経緯から、上に追加しました。


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東②)

すいません、『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東)』に追加するには多過ぎる為、分けて掲載する事になりました。
また、今回は日鉄よりライバルの方が多いです。


〈関東〉

・茨城鉄道[水戸・赤塚~石塚~御前山~長倉]

 史実の茨城鉄道は、1926年に赤塚~石塚が開業し、翌年には御前山まで開業した。しかし、そこから先は長倉や玉川村への延伸が予定されていたが、どちらも開業しなかった。その後、1944年に戦時統合で水浜電車や湊鉄道などと統合して「茨城交通」が成立し、旧・茨城鉄道は茨城線となった。戦後、石塚まで水浜電車が乗り入れるなどされたが、1971年までに全線が廃止となった。

 

 この世界では、日鉄傘下の筑波電鉄が水戸への進出を考え、1931年に出資した。京成もこれに同調した事で、大きな資金源を得た(京成は東京川崎財閥系)。ただ、筑波電鉄は開業前(開業は1934年)であり、先走っていた事は否めない。

 それでも、史実よりも資金的に余裕を得て、史実では開業しなかった御前山~長倉が1934年に開業した。また、当初の予定だった水戸への単独乗り入れも1933年に実現した。

 

 その後、改正鉄道敷設法第38号(『茨城県水戸ヨリ阿野沢ヲ経テ東野附近ニ至ル鉄道 及阿野沢ヨリ分岐シテ栃木県茂木ニ至ル鉄道』)に該当する事から、1940年に国有化され「長倉線」と命名された。

 

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・水戸電気鉄道[水戸~奥ノ谷~石岡]

 水戸電鉄は、水戸街道に沿って水戸と石岡を結ぶという計画だった。史実では、1929年に下水戸~常陸長岡が開業し、1931年に柵町(水戸駅の手前)~下水戸、1933年に常陸長岡~小鶴、1934年に小鶴~奥ノ谷が開業した。しかし、水戸への乗り入れが出来なかった上、目的地の石岡まで開業せず、途中の奥ノ谷までしか開業しなかった。加えて、柿岡地磁気観測所の存在から電化も叶わなかった。1934年に全線休止となり、1938年に全線休止となった。

 

 この世界では、日鉄傘下の筑波電鉄が水戸への進出を考え、茨城鉄道と同時に出資した。これにより、大量の資金を得た水戸電鉄の工事は進み、1933年に水戸~下水戸と常陸長岡~石岡が開業し、非電化ではあったが当初の予定が完成した。

 その後、1944年に水浜電車や湊鉄道と共に統合され「茨城交通」が発足し、旧・水戸電鉄は「水石線」と命名された。

 

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〈他の路線への影響〉

・東武の上毛電気鉄道買収

 筑波電鉄が開業し京成側に就いた事で東武が焦り(筑波電鉄は免許を京成より先に東武に売却しようとして断られた経緯がある)、状況の打開と京成との直接対決を行った。その一環として、上毛電鉄の買収と西板線の開業の2つであった。他にも、伊勢崎線の高崎延伸や東京成芝電気鉄道(東陽町付近から中山、鎌ヶ谷、白井、成田、芝山を経由して松尾に至る鉄道)の開業もあったが、前者は上毛電鉄の買収と重複する事、後者は建設費や社内の内紛から実現しなかった。

 

 史実では、上毛電鉄は東武に買収される事が検討されていたが実行されなかった。それでも、東武桐生線の終点相老(1958年まで新大間々)で接続している事から直通電車が運行されたが、国鉄高崎線との競争に敗れて長続きしなかった。

 

 この世界では、筑波電鉄(実質京成)の筑波・宇都宮延伸が実現された事を受けて、東武と京成の対立は解消出来ないレベルにまで到達した。これにより、東武は京成が進出していない地域の都市間輸送を実施する事となり、その対象になったのが桐生~前橋の上毛電鉄だった。この時の東武は、日光・鬼怒川への進出に全力を注いでいたが、京成への対抗意識と当初の目的を果たす為に同時進行となった。

 1932年に桐生線が新大間々に到達した事で、上毛電鉄との接続が為された。1934年、東武は上毛電鉄に合併交渉を持ち掛けた。交渉は1年に及び、上毛電鉄は東武に合併され、桐生線と共に「前橋線」と改称された。奇しくもその年は、史実では直通運転を一時廃止した年だった。

 上毛電鉄合併後、前橋への優等列車が日光・鬼怒川方面の優等列車の合間に運行された。これが思いの外好評で、戦後も存続した。そして、この路線の開業によって、伊香保温泉への直通運転が計画されるも、この構想が実現するのは戦後まで待たなくてはならなかった。

 

 一方、前橋線から取り残された西桐生~新大間々は「大間々線」として独立するも、戦時中に並行路線が存在する事から不要不急線とされ、1944年から休止となった。戦後も復活する事は無く、1948年に廃止となった。

 

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・東武西板線の開業

 現在の東武大師線(西新井~大師前)は元々、西新井~鹿浜~上板橋の西板線となる予定だった。この路線の目的は、伊勢崎線と東上本線の連絡にあり、浅草から東上本線に乗り入れる予定だった。

 この路線は1924年に免許が下りた。これで工事が始まるかと思いきや、鹿浜から先の工事が進まなかった。鹿浜から先は荒川放水路や東北本線、陸軍工廠などが存在する地域であり、それらを超える為の工事費が嵩んだ。加えて、免許が下りたのが関東大震災後であり、震災後の沿線の人口増加が著しく、土地収用の費用も高騰した。これによって、大師前より先の土地収用が出来なくなり、1932年に鹿浜~上板橋が、1937年に大師前~鹿浜の免許が失効した。

 

 この世界では、京成への対抗意識から西板線の工事を急いだ。特に、人口増加が著しい事から、荒川放水路周辺以外のルートの土地収用だけは終わらせる必要があった。何とか、1928年までに土地の確保に成功し、後は荒川放水路の架橋工事用の土地の収用だけだった。

 1930年、荒川放水路の工事が全て終わると、すぐさま架橋用の土地の収用を始め、西新井~鹿浜の工事を始めた。双方の工事は早く進み、1931年には完了した。その後、残る鹿浜~上板橋の工事も行われ、1933年に開業した。

 

 西板線の開業によって、沿線の宅地化の進行は早まり、浅草から東上本線への優等列車も運行された。この形態は戦後も続いたが、戦後は池袋から伊勢崎線・前橋線・日光線・鬼怒川線への直通運転が増加した。しかし、池袋から直通する事を想定していなかった為、2回スイッチバックする事となった。これを解消する為、中板橋~板橋上宿と大師前~竹ノ塚の支線が建設される事となる。

 

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・(旧)西武鉄道村山線の全通

 西武鉄道は、新宿線系統の(旧)西武鉄道と池袋線系統の武蔵野鉄道が源流である。その新宿線だが元は村山線と言い、当初の計画では荻窪(新宿~荻窪に路線を持っていた)から田無、小平を経由して東村山で既存線(現・国分寺線と新宿線の東村山~本川越)と合流、ここでスイッチバックし箱根ヶ崎へ向かうというものだった。その後、東京側の起点が目白(後に高田馬場)に変更され、1927年に高田馬場~東村山が開業した。

 しかし、そこから先は開業せず、1931年に免許が失効した。この免許の一部を流用して建設されたのが西武園線である。

 

 この世界では、旧西武が執念を見せる形で1929年から建設を行った。八高線の開業が迫っていた(1931年12月)為、工事は急ピッチで行われた。途中、難所だった多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)との交差地点を、多摩湖鉄道に乗り入れる形で解決した。その後、武蔵大和で別れ、箱根ヶ崎へ向かうルートに変更した。

 1931年10月、遂に村山線は全通した。計画から約15年、遂に鉄道が開業した事に沿線住民はこれに歓呼の声で応えた。尤も、沿線の人口は決して多くなく、村山貯水池への観光輸送が主流であった事から常に赤字であり、旧西武からすれば意地で開業させただけに始末が悪かった。この状況が変化するのは、青梅延伸を行う戦後の事であるがそれは別の話である。

 

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・大東京鉄道の開業

 大東京鉄道は金町電気鉄道(鶴見~荻窪~練馬~川口~金町、荻窪~大宮)と北武電気鉄道(日暮里~越谷~野田)、東京大宮電気鉄道(巣鴨~大宮。埼京線のルートに近い)が前身の会社であるが、本当に鉄道を建設しようとしたのかは疑問である。3社の免許が受理されたのが1927~29年であり、この時期は鉄道行政が混乱していた(免許を出せば、どんな杜撰な計画でも認可されたぐらい)。その様な中で受理された事から、まともな会社とは想像し難い。加えて、昭和金融恐慌や昭和恐慌の時期と重なる為、たとえ本気で建設しようとしても資金面で躓いたと考えられる。実際、多くの免許は1935年に失効した(何故か、旧・北武電鉄の日暮里~越谷だけは1967年まで残された)。

 

 この世界では、投機目的ではあったが多数の資本家が出資した事で、建設可能な資金が集まってしまった。流石に全線の建設は不可能だったが、鶴見~荻窪~練馬~川口~金町の環状線の開業なら可能な程度はある為、その区間の建設が1930年から行われた。

 それでも、投機目的の出資や昭和恐慌によって資金量が不安定な事から、工事のスピードは遅かった。途中、何度も建設中断が起こり、工事半ばで放棄という事も考えられたが、1936年に何とか全線が開業した。

 

 山手線の外側に環状線が出来た事で、沿線の南北・東西の移動が容易になったが、元々環状線は利益が出しにくい事から、開業当初は赤字だった。この事から、投機目的で株を購入した人々が大東京鉄道の株を大量に放出した。これを受けて、交差する私鉄が影響力を持とうとして株の取得に走った。大東京鉄道の株はマネーゲームの道具にされ、この状況は戦時中の1942年まで続いた。

 マネーゲームの対象となった大東京鉄道は、戦時統合で何処とも合併する事は無かった。その代わり、交差する私鉄(大東急・京王・旧西武・武蔵野・東武・筑波電鉄)が共同で株を保有する形態が取られた。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(東海)

〈東海〉

・藤相鉄道、中遠鉄道[静岡~岡部~大手~袋井~相良~浜岡~袋井~見付~中ノ町~浜松]

 史実では、上記の区間の内、岡部~袋井は静岡鉄道駿遠線、中ノ町~浜松は浜松電気鉄道(と言っても非電化)中ノ町線として開業した。しかし、岡部~大手と中ノ町線は戦前に廃止となり、駿遠線も戦後に段階的に廃止となった。ナローゲージであった事から輸送力の増加がままならず、モータリゼーションが到来すれば敵う筈が無かった。

 

 この世界では、史実の駿遠線の前身である「藤相鉄道」と「中遠鉄道」に日鉄が出資し、1920年に両社を傘下に収めた。そして、両社の接続と、藤相鉄道の静岡延伸、中遠鉄道の浜松延伸が行われた。

 藤相鉄道側は、傘下に収めた時点で大手~相良を開業させており(但し、大井川の部分は仮開業)、岡部への路線も計画中だった。傘下に収まった以降、日鉄の豊富な資金力を背景に

 

 1.大井川への鉄橋による架橋

 2.静岡延伸線の建設

 3.全線の1067㎜への改軌

 

の3つの計画が立てられた。これらは、史実で廃止となった理由を全て潰している。1番目は、充分な強度を持った橋を架ける事で、大井川が氾濫しても流されず、架橋費用や不通による損失を抑えられる。2番目は、大都市と繋げる事で通勤・通学・観光に役立てられる。3番目は、輸送力の強化が行え、国鉄との連絡が容易になる。そして、静岡延伸の際に宇津ノ谷峠を越える必要があるが、ナローゲージだと機関車側の問題から超える事が難しいと判断された。

 

 3つの計画は1921年から始められた。特に、大井川の架橋は輸送のネックになり易い事から最初に手が付けられた。不況や関東大震災による資材の高騰によって工事は遅れたが、史実の藤相鉄道が全通した年(1926年)に鋼製橋梁が架けられた。並行して行われた改軌工事も同年に終わった。静岡延伸は、大井川の架橋と宇津ノ谷峠越えの為のトンネル工事、昭和恐慌よって時間が掛り、宇津ノ谷を越え静岡に伸びたのは、史実では大手~岡部が廃止となった1936年の事だった。尚、静岡~岡部は宇津ノ谷越えを考え、直流600vによる電化がされた。

 

 中遠鉄道側は、傘下に収めた翌年に

 

 1.浜松延伸線の建設

 2.藤相鉄道との接続

 3.全線の1067㎜への改軌

 

が計画された。1番目に沿って、既に開通させていた袋井~横須賀の袋井側のルートを変更し、袋井でスイッチバックせずに浜松に向かえる様に変更した。そして、浜松へのルートの一部になる遠州電気鉄道(史実の遠州鉄道の前身)の浜松~中ノ町を買収しようとした。これに対し遠州電鉄側は、『他の路線も買収してほしい』と回答した。中遠鉄道としては、買収額が増大する反面、目的の路線を買収できる上に、浜松での基盤をより大きく出来ると判断して、遠州電鉄の買収を行った。そして、浜松~中ノ町の路線の電化(直流600V)と専用軌道化、1067㎜への改軌を行い、問題になっていた機関車のばい煙を解消した。これと連動して、袋井~中ノ町の建設と既存路線の改軌も行い、1933年までに浜松~浜岡の路線が開業した。藤相鉄道との接続は、それから3年後の事だった。

 

 これにより、静岡~浜松を私鉄で結ぶ計画は完成した。しかし、元が軽便鉄道であった事、東海道本線より遠回りである事から速度や時間では敵わず、ローカル線の域を出なかった。また、共に日鉄の傘下であり直通運転も行われていたが、この時に合併する事は無かった。

 その後、太平洋戦争中の1943年に両社と浜松鉄道(後の奥山線)、東急系の静岡電気鉄道が合併し「駿遠鉄道」となり、(これにより、静岡鉄道と遠州鉄道は成立しない)、旧・藤相鉄道と旧・中遠鉄道は「駿遠線」として一体運用され、旧・遠州電鉄は「浜松線」となった。

 

 戦後、駿遠線の高規格化・高速化が至上課題となった。積極的な投資を行い、静岡~浜松約100㎞を2時間で走行出来るまでに改良された。これにより、東海道本線とのライバルになるまでになった。

 

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・光明電気鉄道[新中泉(現・磐田)~見付~遠江二俣(現・天竜二俣)~船明]

 史実では、建設目的の喪失や社内の内紛などが原因で資金不足になりながらも建設を強行し、1928年に開業した。しかし、内紛は止まず、資金不足も深刻化し、1932年以降は所有者が頻繁に移り変わり、1936年には全線廃止となった。

 

 この世界では、1932年に日鉄が光明電鉄を買収し経営権を掌握した。同時に、全役員を追い出し、新役員を日鉄からの出向者と日鉄系の鉄道会社からの出向者で固めた。日鉄が光明電鉄を買収した理由は、中遠鉄道のライバルになる可能性を潰す事、改正鉄道敷設法によって国に買収される見込みがある事からだった。

 該当するのは60号の『長野県辰野ヨリ飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道 及飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』の内、『飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道』の部分である。光明電鉄の未成部分と合わせれば中泉~船明となり、船明から北上すれば三信鉄道(現・JR飯田線の三河川合~天竜峡)の佐久間(現・中部天竜)に繋がる。沿線は天竜川沿いの狭い土地である事から建設は難しいが、国に買収してもらえれば何とかなるとの判断があった。そして、こちらを買収してもらう事で旧・遠州電鉄線を保有し続けたいという思惑もあった。

 日鉄側の思惑によって、光明電鉄の経営権は日鉄のものとなり、船明への延伸工事も再開された。同時に、電化設備は全て中遠鉄道に売却され、電車も他の電鉄会社に売却された。船明への延伸が完了したのは1936年の事だった。

 

 その後、東海道本線のバイパスとして二俣線の建設が行われた際、ルートの一部が重複している事を理由に買収され、中泉~野部(現・豊岡)を「見付線」、遠江二俣~船明を「佐久間線」とした。

 戦後、佐久間線の延伸工事が行われ、1974年に船明~遠江横山が開業するも、遠江横山~中部天竜は工事が殆ど完了するも国鉄再建の煽りを受けて中断された。この区間が開業するのは、二俣線・見付線・佐久間線が第三セクター「天竜浜名湖鉄道」に転換された後の1992年の事となる。

 

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・西濃電気鉄道[大垣~結~墨俣~岐阜、結~今尾~大須~森上]

 史実では、西濃電鉄が大垣~結~今尾と結~墨俣~岐阜の免許を1927年に獲得したが、資金不足によって工事すら出来なかった。その後、沿線自治体も出資者に加えたり、養老電気鉄道(後の養老鉄道。)に譲渡して建設を進めてもらおうとしたが、養老電鉄を吸収した伊勢電気鉄道(後の近鉄名古屋線の桑名~津など)の経営危機によって一部の工事が行われただけだった。戦後、近鉄が大垣~岐阜の免許を受け継ぎ、岐阜羽島への乗り入れなどを目的に建設を計画したが、他の方面での投資やモータリゼーションの進行などによって工事は行われなかった。そして、1959年に岐阜への乗り入れと今尾方面の支線の免許が失効し、1985年に全ての免許は失効した。

 

 この世界では、日鉄が西濃電鉄に出資した事で資金不足が解決し、養老電鉄への免許の譲渡は発生しなかった。そして、今尾から東進し竹鼻鉄道(後の名鉄竹鼻線)の大須を経由して、名岐鉄道(名鉄名古屋本線の名鉄名古屋以北など)の森上に乗り入れる免許を獲得した。

 途中、揖斐川・長良川・木曽川という大河が存在する事から、それらの架橋の為に時間が掛ったが、大垣~岐阜は1933年に、今尾・森上方面の支線は1935年に開業した。これにより、川によって他の地域から隔離された状態だった海津郡(現・海津市)や安八郡の住民は開業を大いに祝った。また、これに接続する形の名岐鉄道の奥田~森上も1934年に開業した。

 

 その後、戦時統合に伴い西濃電鉄は名古屋鉄道に統合された。同時に、大垣~岐阜は「大垣線」、結~今尾~大須~森上は奥田~森上と合わせて「西濃線」となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・名岐鉄道の未成線(奥田~森上)の開業

 このルートは、名岐鉄道と尾西鉄道(現・名鉄尾西線。1925年に吸収)を連絡するルートとして計画された。1927年に出願されるも、1932年に失効した。恐らく、昭和恐慌の影響や利益が出にくいと判断されたのだろう。

 

 この世界では、西濃電鉄との接続という目的が発生した事から、1930年から建設が行われた。名岐鉄道の経営は安定しており内部留保も多かった事から、資金的な余裕があった。その為、「資金不足で工事中断」という事態は起こらず1934年に開業した。難所が無いにも拘わらず開業まで4年も掛った理由は、西濃電鉄側の完成が遅れていた事から単独で開業するメリットが無いと判断された為だった。西濃電鉄が森上に来るのは翌年の事だった。

 その後、西濃電鉄と一体運用がされ、名古屋~大垣の急行運転も頻繁に行われた。戦時中、名古屋鉄道の統合によって西濃電鉄も名鉄に組み込まれ、奥田~森上~今尾~結は「西濃線」となった。

 

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・名岐鉄道城北線(現・名鉄小牧線、勝川線(廃止))の延伸

 名鉄小牧線は、上飯田~小牧を城北電気鉄道が、小牧~犬山を尾北鉄道がそれぞれ免許を獲得し、名岐鉄道が1931年に両社を吸収した。その後、免許の一部が変更され、吸収した同年に上飯田~小牧~犬山が開業した。更に、上飯田~大曽根も開業する予定だったが、どうゆう訳か開業せず、免許も1939年に失効した。

 また、小牧線の開業と同時に、支線として勝川線が開業した。味鋺~新勝川の僅か2㎞の路線だが、元々の計画では味鋺から勝川、鳥居松(現・春日井)を経由して多治見への路線となる予定だった。しかし、新勝川までしか開業せず、勝川線も1937年に廃止となった。

 

 この世界では、西濃電鉄の接続線の建設と同時に、城北線の残存部の建設が行われた。これにより、1932年に上飯田~大曽根と新勝川~多治見が開業した。同時に、大曽根~上飯田~味鋺~小牧~犬山を「大曽根線」、味鋺~勝川口~鳥居松~多治見を「鳥居松線」と改称した。

 上飯田~大曽根の開業で、大曽根で大曽根線(後の名鉄小牧線。当時の名鉄小牧線は岩倉~小牧だった)と瀬戸電気鉄道(現・名鉄瀬戸線)が繋がった為、瀬戸電への乗り入れも行われた。この事により、瀬戸電の名鉄への統合は史実より2年早まる事となった(史実の統合は1939年)。他にも、名古屋~多治見の都市間輸送が形成された事で、史実の勝川線の廃止も無くなった。

 

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・三河鉄道(現・名鉄三河線)の足助延伸の実現

 名鉄三河線の前身である三河鉄道は、吉良吉田~碧南~知立~豊田市~猿投~足助を建設しようとした。しかし、足助への延伸は恐慌やモータリゼーションの進行、土地の買収の遅れなどから進展しなかった。三河鉄道を吸収した愛知電気鉄道(名鉄名古屋本線の名鉄名古屋以東など)に引き継がれたものの、こちらでも完成せず、1958年に免許が失効した。その後、沿線人口の少なさやモータリゼーションの激化によって、三河線の両端部は廃止となった。

 

 この世界では、西濃電鉄の開業を見た三河鉄道が焦った事、他の計画を一時棚上げして足助延伸に全力を注いだ事で、1937年に西中金~足助が開業した。

 それ以降の歴史は史実通りだが、足助への延伸が成った事で、足助への観光輸送に積極的に利用される事となり、20世紀末から21世紀頭にかけて行われたローカル線の整理において、三河線の猿投~足助は存続する事が出来た。




5/5 本文追加(三河鉄道)

5/13 本文追加(名岐鉄道城北線)


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北陸・甲信越)

〈北陸〉

・加越電気鉄道、温泉電軌、能美電気鉄道、金沢電気軌道[福井~芦原(現・あわら湯のまち)~吉崎~大聖寺~山代~粟津温泉~小松~寺井~辰口~鶴来~金沢、他支線多数]

 概ね、えちぜん鉄道三国芦原線、吉崎鉄道(未成)、北陸鉄道河南線、能美線、石川線とその未成線に該当する。日鉄がこれらの路線を傘下に収め、福井と金沢を私鉄だけで結ぶ事を計画した。

 

 1920年頃から上記の会社を傘下に収めた。丁度、第一次世界大戦後の不況によって資金難に喘いでいた時期であり、日鉄が持つ巨大な資金力という魅力に抗えず、渋々傘下に入った会社も多かった。上記の会社も同様であったが、日鉄側も「これらの会社の免許を全て繋げれば福井~金沢の第二ルートが完成する」という思惑があり、積極的に傘下に入る様に勧めた。

 昭和恐慌直前までに加越電鉄(福井~大聖寺)、温泉電軌(大聖寺~小松)、能美電鉄(小松~鶴来)、金沢電軌(鶴来~金沢)が全通し、福井~金沢の直通運転が行われた。全線電化であったが、北陸本線より遠回りな上、規格もやや低めであった事(国鉄丙線規格、直流600V)から、国鉄にとって大きな脅威にはならなかった。それでも、開業後に高規格化(重軌条化)や急行列車の高頻度運転を行い、少しでも国鉄に優位に立とうと努力した。この努力が実るのは、戦後になってからであった。

 

 その後、戦時統合に伴い、上記の4社と石川県、福井県の鉄道事業者、バス事業者を統合して「北陸鉄道」が成立した(史実の北陸鉄道+京福電気鉄道の福井県内の路線+福井鉄道)。福井~金沢の路線は「加越本線」と命名された。

 

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・能登鉄道[羽咋~三明~富貴~輪島]

 史実の北陸鉄道能登線であるが、この世界では未成に終わった三明~輪島間が開業している。

 

 日鉄が「地方の鉄道網の拡充」を目的に、能登鉄道を傘下に収めたのは1929年であった。当時、能登半島の輪島へ至る鉄道は開業しておらず(七尾線の輪島延伸は1935年)、そのルートも七尾から北上するルートであった為、そのルートから外れる能登半島西岸部の主要地域を経由する能登鉄道の建設を促進する事で、地方の鉄道網の拡充と国に買収してもらう事を検討した。

 工事は順調に進み三明~富貴は1930年に開業したが、富来~輪島の途中は地形的に厳しい場所が多く、日鉄も他の地域に注力していた事から建設が遅れ、全線開業は1936年の事だった。

 

 その後、能登鉄道は鉄道敷設法に沿っている事から1940年に国有化され、「輪島線」と命名された。戦後、沿線に名所が多い事(能登一ノ宮や総持寺祖院など)から、輪島方面の優等列車はこちらを通る事が殆どだった。国鉄再建時、輪島線は能登線共々特定地方交通線に指定され(輪島線は第2次、能登線は第3次)、第三セクター「のと鉄道」に移管された。

 

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〈甲信越〉

・富士山麓電気鉄道[大月~富士吉田(現・富士山)~御殿場]

 現実の富士急行線とその延伸であり、富士吉田から先は籠坂峠を経由して御殿場に至る路線である。このルートは、かつて御殿場馬車鉄道が走っており、富士馬車鉄道と都留馬車鉄道(共に富士急行線の前身)と合わせて大月~御殿場の連絡を行っていた。

 富士吉田~御殿場の免許は1926年に獲得したものの、1930年に御殿場~山中湖、1934年に富士吉田~山中湖の免許が失効した。恐らく、峠越えによる建設費の増大や少ない人口、昭和恐慌によって利益が出ないと判断されたのだろう。

 

 この世界では、日鉄が中央本線と東海道本線(当時の東海道本線は御殿場周り。熱海周りとなるのは1934年)との連絡や富士山麓の観光開発を目的に支援を行った。1927年から工事が行われたが、峠越えや長距離である事、昭和恐慌の影響で工事は遅れたが1934年に開業した。尚、富士吉田~御殿場と合わせて出願された富士吉田~下部(現・下部温泉)は、下部付近の建設が難しいと判断された事、富士吉田~御殿場に注力する事から建設されなかった。

 開業によって富士山麓の観光開発が進むかと思われたが、富士吉田~御殿場の開業直後に東海道本線のルートが変更された。また、開業が戦時色が強くなっていく時期と重なった為、観光そのものが低調となった。

 

 一方で、沿線には陸軍の演習場が存在する事から軍事輸送に活用された。この事と鉄道敷設法62号(『静岡県御殿場ヨリ山梨県吉田ヲ経テ静岡県大宮ニ至ル鉄道 及吉田ヨリ分岐シテ大月ニ至ル鉄道』)に該当する事から国有化も検討されたが、株式の1/3を陸軍省に譲渡する事で国有化を断念してもらった。

 戦後、日本軍が一時的に解体された事で、陸軍省に譲渡した株を買い戻した。その後、沿線に多数の別荘地やゴルフ場が整備され、富士山への登山ルートとしても活用された事で活況に沸いた。また、国鉄や小田急からの直通列車も運行された。

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・善光寺白馬電鉄[長野~鬼無里~信濃四ツ谷(現・白馬)]

 社名にある様に、善光寺の門前町である長野と白馬を結ぼうとした。史実では、南長野~善光寺温泉が1936年に、善光寺温泉~裾花口が1942年に開業したものの、戦時中に不要不急線とされてレールを全て剥がされ休止となった。戦後、国鉄信越西線として復活させる構想が出たものの、国鉄側の都合で具体化しなかった事、裾花口付近にダムが出来る事から再開は事実上不可能となり、1969年に廃止となった。尚、会社そのものは自動車貨物や倉庫などの陸運業者として現存している。

 

 この世界では、日鉄が沿線地域の観光開発(温泉やスキー場の整備)を考えて出資した。同時に、起点を南長野から長野に変更して国鉄との連絡を強化した。史実よりも資金力が付いた善白電鉄の工事は途中の山岳地帯に苦戦するものの、1936年に鬼無里まで開業し、1942年に信濃四ツ谷まで開業し全通した。

 全通後の1944年に長野電鉄に統合され「白馬線」となった。戦後、沿線のスキー開発が進み、国鉄からの直通列車も多数運行された。

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・中信電気鉄道[小諸~望月~立科~蓼科高原~茅野]

 史実では、上記と同様のルートを布引電気鉄道と佐久諏訪電気鉄道が計画していた。

 布引電鉄は、1926年に小諸~島川原を開業させたものの、沿線人口の少なさや信越本線との並行線などの理由で利用客が振るわず、1934年に電気代未納によって休止となり、1936年に廃止となった。

 佐久諏訪電鉄は、1920年に茅野~田中の免許を獲得したものの、殆ど工事が行われなかった。1927年には破綻し、1930年に「中信電気鉄道」と改名して再起するもののこちらでも工事が完了せず、1933年には免許も失効した。

 

 この世界では、日鉄が鉄道空白地帯の解消、蓼科高原の観光開発を目的に両社に接近した。大戦後の不況で両社の資金調達は難航しており、日鉄が株式の引き受けを行う事でそれを解消させた。同時に、1924年に両社を合併して「中信電気鉄道」として、免許も小諸~望月~立科~蓼科高原~茅野に変更した。

 工事は、山岳地帯を通る事から建設費が嵩み、工事期間も長期に亘った。それでも、沿線は長年待ち望んでいた鉄道が通る事から、工事に積極的に手伝ってくれた事で、日鉄の負担は多少和らいだ。1926年に小諸~島川原と茅野~花蒔が開業したのを皮切りに、小刻みに開業していった。1928年に島川原~望月と花蒔~蓼科高原、1932年に望月~立科、1937年に立科~蓼科高原が開業して全線開通した。

 この路線の開業で、蓼科高原の温泉やスキーの開発が進み、茅野から中央本線に乗り入れる列車も設定された。また、日鉄が観光開発の為の企業を設立(1930年に「日本観光開発」設立)し、蓼科高原を軽井沢に並ぶ避暑地・別荘地として整備される事も計画された。

 しかし、全通した1937年は戦時色が強くなっていく時期であった為、観光開発は半ばで断念する事となった。本格的な開発が行われるのは、1960年代に入ってからの事となった。

 

 一方、花蒔や蓼科付近には鉄鉱石が発見された事で、この地域の鉱山開発が進んだ。鉄という重要資源の供給源になる事から開発は早急に行われ、1939年には大規模な露天掘りが行われた。これにより、中信電鉄には鉄鉱石輸送という重要な目的が追加された。この為、中信電鉄は重要路線と見做され、1944年に「中信線」として国有化された。

 

 戦後、中信電鉄はバス・不動産・ホテルなどの経営を行う「中信開発」に名を改め、「中信グループ」を形成していく事となる。また、中信線は蓼科高原などへの観光輸送としても活用され、小海線と共に観光路線として活用される事となる。

 

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〈他の路線への影響〉

・長野電鉄の長野~松代開業(架空)

 史実では(恐らく)計画されていないこの路線が開業した理由は、千曲川の両岸の接続の強化にあった。千曲川の両岸には長野電鉄河東線と信越本線が通っているが、その両線を繋ぐ路線が長野電鉄長野線だけであり、長野の東側の須坂での連絡であった事から、長野の西側での接続を狙って松代への路線が計画された。

 

 この路線の免許は1929年に取得したものの、この直後に昭和恐慌が到来した為、建設は暫く行われなかった。その後、1933年に工事が行われ、1935年に開業し「松代線」と名付けられた。

 戦時中は、松代大本営の建設の為の物資搬入路として、戦後は、長野~松代~屋代の近距離輸送に活躍した。この路線の存在によって、河東線の屋代~松代は存続した。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿)

〈近畿〉

・宝塚尼崎電気鉄道[阪神尼崎~時友~宝塚]

 「尼宝電鉄」とも言われるこの鉄道は、武庫川の改修によって生じた河川敷の跡地の開発を目的とした。そこに、阪神電鉄が支援した。尼宝電鉄の免許が出願された時期(1923年)の少し前に、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄の神宝線)が十三~神戸(上筒井駅、後に廃止)を開業させ、阪神の強力なライバルが誕生した。そのライバルの牙城である宝塚への進出を狙って、阪神は尼宝電鉄を支援した。

 阪神の支援開始後、高速化や第二阪神線(未成)との接続などを理由にルートを変更した。これにより、原案より東寄りとなり直線的なルートとなった。しかし、これが理由で阪急との対立の激化や尼崎や宝塚への乗り入れ方法で揉める事となり、中間部の工事は概ね完了していたものの、起点と終点の工事が出来なかった。

 これにより、尼宝電鉄の開業は絶望的となり、1932年に免許が失効した。その後、一部完成した路盤を活用して道路に転用された。

 

 この世界では、日鉄も尼宝電鉄に支援し、原案での完成を目論んだ。阪神案(史実の変更後のルート)だと、当初の目的が果たせない事、一から土地の買収を行う必要がある事、尼崎界隈の土地買収が困難な事から難しいと判断した。日鉄と阪神で対立したが、尼宝電鉄が原案賛成に回った為、原案での完成という方向になった。阪神側はそれでも阪神案に拘ったが、空中分解を恐れた日鉄が「尼崎~守部は阪神案、それ以外は原案」という妥協案を提示した。阪神としても、ここで決裂するのは拙いと判断してこの妥協案に賛成した。その際、「有事の際、日鉄は阪神の支援を行う事」という交換条件が交わされた。この縁で、戦後の阪神電鉄は中外グループのオブザーバーに名を連ねる事になる。

 この後、阪急との調整(武庫之荘付近での交差、宝塚の乗り入れ)に時間を要したものの、1926年に工事が始まった。元々、空き地に通す予定であった事から工事は順調に進み、翌年後半には尼崎付近以外の工事は完了した。尼崎付近で手間取ったのは、阪神本線を含めた高架化事業とその為の土地の収用だった。第二阪神線も考えると、ルート選びを慎重に行う必要があった。一時は開業すら危ぶまれたが、日鉄が資金を出した事で資金面での不安は無くなり、尼崎付近を全て高架化する事で決着した。第二阪神線も、尼宝電鉄のルートを流用すれば良いと判断された。

 

 これらによって、1928年4月に尼崎~宝塚が開業し、開業直後から梅田~尼崎~宝塚の直通電車が運行された。尚、尼宝電鉄と同時に進められていた第二阪神線は、結局完成する事は無かった。

 その後、1933年に尼宝電鉄は阪神に吸収され「尼宝線」となった。

 

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・南海急行電鉄[恵美須町~堺~浜寺公園~岸和田~貝塚~水間~熊取~犬鳴~東和歌山(現・和歌山)、天王寺~丹比~河内半田(現・大阪狭山市)~光明池~水間、貝塚~泉佐野~多奈川、浜寺公園~槇尾、今池~平野~柏原](架空)

 1920年、大阪市今宮から堺市浜寺を経由し泉佐野に至る路線の免許を、南海急行電気鉄道が出願した。

 しかし、南海急行が申請した阪堺間は、申請した時期だけで南海鉄道の本線と高野線(以上、南海電気鉄道)、阪堺線と上町線(以上、阪堺電気軌道)の4路線が存在した。阪堺間は都市化が進んでいる地域である事から、免許の申請数が多く、他の鉄道会社に免許を譲渡・売却する事が目的と見られた。

 実際、この路線は建設される事は無く、1924年に免許が失効した。

 

 この世界では、1913年に大室財閥が阪堺電気軌道(初代)を傘下に収めた事から始まる。これは、大室財閥が堺に造船所を保有していた事に由来する。これによって、阪堺電車の南海入りは無くなる。

 それから暫く時が進んだ1920年、日鉄が南海急行電気鉄道を傘下に収めた際、大阪側の起点が今宮である事に不満を持った。今宮ではターミナルにするには中途半端というものだった。その為、大室系の阪堺電車への乗り入れが計画された。そして、堺を通る事、泉北地域の開発、何より電機事業の合弁交渉以来拗れていた関係の改善を目的に大室財閥にも出資をお願いした。

 

 大室側としても、日鉄との関係改善は図りたかったし、阪堺電車の件で根津財閥と対立していた事(南海鉄道は根津財閥系)から、南海急行の阪堺電車への乗り入れを快諾した。この時の大室側の条件として、内陸部の開発や工場の誘致を目的として、泉北郡への支線の建設を提示し、日鉄もこれを快諾した。その後、1922年に阪堺電車は南海急行を吸収し「南海急行電鉄」と改称した。これにより、日鉄―大室連合による南海急行が成立した。この頃、史実では未成に終わった平野~柏原が開業した。

 

 両財閥による潤沢な資金供給により、1925年に浜寺~泉佐野が開業したのを皮切りに、1927年には浜寺公園~槇尾の支線も開業した。他にも、水間鉄道を買収し、1934年に水間~犬鳴~東和歌山を開業させ、南海鉄道、阪和電気鉄道(現・JR阪和線)に次ぐ第三の阪和間鉄道になった。また、大阪鉄道(現・近鉄南大阪線など)から旧・南大阪電気鉄道の天王寺~丹比を購入し、そこから河内半田、和泉丘陵を経由し水間に至る路線も1932年に開業した(泉北高速鉄道に近いルート)。加えて、大阪府泉南郡多奈川町(現・岬町)に大室重工業の造船所(史実の川崎重工業泉州工場が置かれた場所)が建設される事になり、そこへの工員輸送を目的に泉佐野~多奈川が1939年に開業した(これにより、南海多奈川線は開業しない。川崎重工業側の代替地は岡山県和気郡片上町=備前市)。

 

 名前こそ「急行電鉄」だがその実態は「軌道」、つまり路面電車であり、実際、恵美須町~泉佐野では併用軌道が多数存在した。そして、路線が南海鉄道の更に海側に存在する為、堺以南に充分なスペースを取れず、8割方が併用軌道となった。その為、スピードアップが出来ず、全線で南海と並行している事、昭和恐慌の最中にも長大路線の建設を続けた事で借入金は増加する一方であり、恵美須町~泉佐野の利用客も殆ど増加しなかった。

 それでも、線路の重軌条化や高架化などを懸命に行った結果、1940年までに京浜電鉄並みの規格を持つ施設に改良した。これにより高速運転や長大編成の運用が可能となり、南海とも競争力を発揮できる様になった。加えて、戦時体制への移行に伴い、堺周辺や泉州地域に工場が大量に誘致された事で、乗客数は1930年代後半から急速に増大した。

 これにより、開業以来の赤字は大きく減少したが、戦時体制が強化されるに従い、交通事業者の統合も進められた。南海急行も例外ではなく、1942年にライバルの南海と統合される事となった(その後、南海も1944年に関西急行鉄道と統合された)。

 

 戦後、旧・南海急行は近鉄から独立し、新生「南海急行電鉄」が設立した。この路線の存在で、阪和間は史実の南海VS国鉄に加え南海急行も参入し、三つ巴の様相を見せた。

 また、南海急行傘下に収まった淡路交通、徳島電気鉄道と直通する為、多奈川~洲本~福良~鳴門~徳島の建設を行う事になるが、これは別の話である。

 

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・高雄電気鉄道[西ノ京円町~鳴滝~高雄]

 高雄山への観光と沿線の旅客輸送、高雄山からの石材や木材の輸送を目的に設立された。しかし、免許の獲得が1928年、会社設立が翌年と昭和恐慌の影響をモロに受けた事で資金不足に陥り、1935年に免許が失効し未成線となった。

 

 この世界では、日鉄が高雄山開発を目論んで出資した。それにより資金不足は解消し、1933年に全線開業した。その後、1938年に鳴滝で接続する京都電燈の電鉄線(現・京福電気鉄道)に吸収され、同社の「高雄線」となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・阪急伊丹線の宝塚延伸と尼崎線の開業

 伊丹線の延伸と尼崎線は、尼宝電鉄が成立した事に対抗して計画されたと言われている。実際、この2つを合わせると、完全に尼宝電鉄の並行線となる。尤も、史実で尼宝電鉄が開業しなかった事でこの2路線の役割も事実上消滅し、現在まで阪急は免許を保有し続けているものの、具体化する見込みは全く無い。

 

 この世界では、尼宝電鉄が開業し阪神と直通運転を行った事で、阪急側は危機感を募らせた。半ば意地で2路線の建設を急いだ。尼宝電鉄が開業した翌年の1929年に尼崎線と伊丹線は開業した。同時に、宝塚駅の拡張も行われ、5面6線を有する巨大ターミナルになった。

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・国鉄福知山線の早期電化

 史実の福知山線の電化は、1956年の尼崎~塚口から始まり、1981年に塚口~宝塚、1986年に残りの宝塚~福知山が順次電化した。

 

 この世界では、尼宝電鉄や阪急尼崎線・伊丹線の開業によって、大阪・尼崎~宝塚に国鉄を除いても2社4路線(前述の2路線と阪急宝塚線・今津北線)が通る事になった。これに危惧した国鉄は、尼崎~宝塚の電化と東海道本線への乗り入れを計画した。

 この計画は、東海道・山陽本線の電化と同時に進められ、1934年に完成した。完成と同時に、東海道本線の電車の一部が福知山線に乗り入れを行い、阪急や尼宝電鉄に対抗した。

 これに伴い、電化区間の複線化も計画され実際に工事も行われたが、戦時に進むにつれ資材不足や労働力不足によって進まず、結局戦前には完成しなかった。完成は1956年までずれ込んだ。

 尚、宝塚以北の電化・複線化は史実と同じ時期に行われる事となる。

 

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・大阪電気軌道(現・近鉄奈良線など)四条畷線の開業

 史実では、現在の近鉄奈良線のライバルを牽制する目的から特許を獲得したが、獲得後暫くは八木線や参宮急行電鉄(共に現・近鉄大阪線)に注力する為、手を付けていなかった。その後、奈良線や四条畷線の並行路線が多数計画されると、それらを阻止する為に四条畷線の建設が行われた。

 しかし、大阪側の起点が定まらなかった事、奈良線の接続地域の土地買収に手間取った事、何より並行路線の免許・特許が相次いで失効した事で建設する理由が無くなった。起終点以外では概ね工事は完了しており、その区間は産業道路として転用された。

 

 この世界では、南海急行の成立によって大軌の並行路線が存在する事から、四条畷線の工事は一層促進された。同時に、一部ルートが変更され、史実では生駒山地の麓を沿う様に通り額田で奈良線に接続する予定だったが、この世界ではそのルートよりも西側を通り石切で接続するルートに変更した。これによって、土地の買収は多少行いやすくなり、奈良へのルートもスイッチバックする事無く行ける様になった。

 また、大阪側の起点は当初の天満橋筋四丁目から延長して梅田に変更して、地下化による乗り入れを大阪市に打診した。大阪市側は、市営モンロー主義や市電の並行線になる事から猛烈に反対したが、大軌側も梅田乗り入れが出来なければ四条畷線は役に立たない事として引き下がらなかった。大軌は、大阪市に桜ノ宮~天満橋筋四丁目~梅田の賃貸料を毎年支払う事など大阪市側に有利な条件を出して認めてもらう様に工作した。大阪市側も、大軌の熱心な説得と大阪市に有利な条件を並べられてついに折れた。

 

 これを切欠に工事は急ピッチで進められ、1933年に梅田~住道~石切の全線が開業した。その後、1939年に阪神の梅田駅が地下化される際、近鉄梅田駅と共用になり、早くから神戸三宮~梅田~奈良の直通運転が行われる様になった。

 

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・大阪鉄道堺線の開業

 このルートは元々南大阪電鉄が計画していたものだが、南大阪電鉄が大鉄に吸収された事で大鉄に免許が移った。その後、大鉄も大軌に吸収され、大軌から関西急行、近鉄に移ってもこの免許は存続した。しかし、堺の市街地化の進行やモータリゼーションの進行などが理由で建設されず、1991年にようやく失効した。実に70年間も存在し続けたのである。

 

 この世界では、堺に大室財閥系の企業が存在する事で堺の重要性は増し、南海急行というライバルが存在する事から建設が急がれた。同時に、建設費の圧縮を目的に、古市起点を布忍起点に改めた。

 大軌の資本力も活用し(1929年に大鉄は大軌の傘下に入った)、1932年に布忍~堺東~堺は開業した。これにより、大鉄の堺乗り入れが達成され、堺市は貧弱だった東西の交通路が完成した事に喜んだ。

 

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・阪堺電鉄の南海入り

 史実では、阪堺電気軌道が南海に合併されたが、この世界では大室傘下に入り南海急行に発展した。その為、阪堺電車は南海に合併されなかった。その代わりに合併したのが阪堺電鉄だった。

 

 阪堺電鉄は、芦原橋から新なにわ筋を南下し、堺、浜寺に至る路面電車であり、南海本線よりも海側を通る。当時の沿線は、海岸か湿地帯で人口が少なかった事から赤字続きであった。しかし、戦時体制になっていくにつれ、沿線に工場が多数置かれた事で利用客は急増したが、これが阪堺電鉄にとって問題になった。短期間で利用客が急増した事で、車輛の手配が付かなかったのである。準戦時体制の為、車輛の新造は制限され、輸送力の増強がままならなかった。このままでは、工場の稼働にも支障を来すと判断され、阪堺電鉄は大阪市に買収され「大阪市電阪堺線(別名・三宝線)」となった。

 戦後、阪堺線は海水浴客や工員の輸送で活躍したが、開発による海水浴場の消滅やモータリゼーションの進行によって利用客は減少し、1968年に廃止となった。住之江公園付近は地下鉄四つ橋線が代替しており、そこから先の延伸計画も存在する。

 

 この世界では、阪堺電鉄の窮状と南海急行への対抗策から、1933年に南海が阪堺電鉄を買収し「阪堺線」と命名した。これにより、阪堺電鉄の輸送力強化は南海の手で行われた。その後、上町線(1909年に吸収した浪速電車軌道)が阪堺線への接続を目的に、1937年に住吉公園~浜口~住之江公園(国道26号・479号経由)が開業した。

 その後、阪堺線と上町線は1980年に「阪堺電鉄」として分離した(この世界の四つ橋線は、国道26号線を南下、堺に至る路線になる)。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿②)

『日鉄財閥が支援・設立した』とありますが、今回は日鉄と一切関係ありません。いや、尼宝電鉄を通じて阪神とは多少縁がありますが、その程度でしかありません。


〈他の路線への影響〉

・名古屋急行電鉄の開業

 戦前の京阪は、太田光凞の下で極端とも言える拡大方針を取っていた。現在の阪急京都線の前身である新京阪鉄道に加え、和歌山方面には阪和電気鉄道(現・JR阪和線)、奈良方面には大軌と合弁で奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)、滋賀方面には江若鉄道など、京阪地域から各方面への進出を行っていた。

 その究極的なものと言えるのが、名古屋急行電鉄による名古屋進出である。名急は、馬場から八日市、員弁、佐屋を経由して名古屋・金山への路線を計画した。馬場を起点としたのは、新京阪が西向日~山科を京阪が山科~馬場の路線を計画していた為であり、大阪側には京阪や新京阪に乗り入れる計画だった。名急は、国鉄のみの名阪間の路線に参入し高速電車を走らせる事で、国鉄の長距離客を奪う事を目論んだ。

 免許は1929年に下りたものの、名急とその親会社である京阪は工事に取り掛からなかった。当時、京阪は不況と極端な拡大政策によって、負債が(当時の)1億円に達していた事、京阪が出資していた奈良電と東大阪電鉄(大阪の森ノ宮と奈良を結ぼうとした路線。尤も、目的は他社への免許の売りつけだった模様)が贈収賄事件に巻き込まれ、その影響で京阪と太田光凞にも司直の手が回った事で、京阪は新規事業に取り掛かる処か、現状維持にすら四苦八苦していた。結局、名急は開業する事は無く、免許も1935年に失効した。

 

 これに安堵したのは大軌だった。大軌は、子会社の参宮急行電鉄を通じて名阪間のルート(現在の近鉄大阪線・名古屋線)を計画しており、名急より前に免許を取得していた。もし、名急が先に開業してしまえば、参急の計画は無意味になり兼ねなかった。

 しかし、名急が親会社のゴタゴタに巻き込まれて動けない間に、参急は工事を急いだ。そして、ライバルであった伊勢電気鉄道も贈収賄事件に関わっていた事でガタガタとなり、参急が伊勢電を飲み込みライバルを潰し、伊勢電が保有していた桑名~名古屋の免許線を大軌の子会社・関西急行電鉄に移して、1938年に開業させた。これにより、関西鉄道(現・JR関西本線など)以来の名阪間の私鉄による接続が果たされた。

 

 この世界では、大東京鉄道と同様に、近畿の投機家達が出資した事で建設可能な資金が集まってしまった。これにより建設に目処が立ったが、京阪は早期開業を目論み、京阪との接続から始める事となった。その為、本命であった新京阪との接続は「京阪との接続が完成後、景気が回復して余裕が生じてから行う」とされた。

 また、京阪が保有していた六地蔵~醍醐~山科~馬場の免許を名急に譲渡した。そして、名古屋付近のルートが一部変更され、当初予定では金山まで伸ばす予定だったが、国鉄名古屋駅の西側で接続する案に変更された。他にも、建設費の圧縮の為、当初予定の全線複線は諦め、トンネルなど工事に時間が掛る部分については単線に変更となった。

 一方、車輛については山越えになる事から高規格のままとなったが、車輛のデザインは京阪の1550型や1000型に準じた設計に変更された。これは、京阪と直通する事を優先した為、車輛のデザインや規格も京阪に準拠させた。

 工事は1930年から始まった。しかし、京阪の業績不振や長大トンネルの建設などによって、工事のスピードは遅かった。それでも、京阪は企業体力が落ちている中でも名急に力を注ぎ、努力が実り1940年に名急は開業した。しかし、名古屋進出を推し進めた太田光凞は開業の前年に死去しており、完成を見る事は無かった。加えて、1938年にはライバルの大軌・参急・関急が名阪間を開業させており、優位に立つ事も叶わなかった。

 

 この後、京阪は史実通り阪急に統合され、「京阪神急行電鉄」となった。同時に、名急も阪急に統合された。戦後、旧・京阪が阪急から分離独立し、旧・新京阪が阪急に残るのも史実通りだが、この世界では旧・名急も新生「京阪電気鉄道」に加わり、旧・名急は「京阪名古屋線」となった。

 

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・阪神今津出屋敷線の開業

 この路線は、1922年に宝塚尼崎電気鉄道が免許を申請した事から始まる。

 尼宝電鉄が阪神との繋がりを見せた事で、阪神は尼宝電鉄を通じて梅田~宝塚の運行が可能になる。そうなると、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄宝塚線・神戸線など)は自身のテリトリーを侵害され、路面電車規格の宝塚線では競争に勝てない恐れから、これに対抗する特許を1923年に申請した。そのルートは、伊丹~昆陽里~宝塚と塚口~尼崎~尼崎港~今津であった。これは、「伊丹線・西宝線(現・今津北線)と接続して、宝塚・尼崎・西宮の環状線を形成する」というのが名目だったが、実際は阪神と尼宝電鉄の意思返しであった。

 無論、阪神も負けじと出屋敷~東浜~浜甲子園~中津浜~今津の特許を1924年に申請した。こちらは、尼崎港周辺の土地開発や工場への工員輸送を目的としたが、この特許線は阪急の尼崎~今津と完全に並行線であり、阪急の特許線を潰す事が目的だった。

 

 両者の睨み合いの決着は、痛み分けとなった。阪急は尼崎~今津以外の特許は全て認可され、阪神も申請した出屋敷~今津の特許が認可された。

 その後、阪神と阪急は特許線を建設しようとしたが、その殆どが開業しなかった。開業したのは、阪神側は出屋敷~東浜と浜甲子園~中津浜、阪急側は西宮北口~今津だけだった。

 阪神側の開業した部分は、末端部は太平洋戦争末期や戦後直ぐに休止となった。また、阪神国道線(阪神間を走行していた路面電車)に車輛や施設を合わせていた事が災いし、前者は1962年に、後者は1975年に廃止となった。

 阪急側の開業した部分は通称・今津南線として存続しているが、現在は旧・西宝線と分断されており、西宮北口~今津のローカル線と化している。

 

 この世界では、尼崎に日鉄の工場が置かれている事から、そこへの工員輸送を目的に日鉄が建設を求めた。阪神としても、尼宝電鉄で支援してくれた事から断る訳にはいかず、1926年から建設が進められた。

 しかし、尼宝電鉄への注力や昭和恐慌などによって工事は何度か中断され、1929年に出屋敷~東浜が開業しただけだった。その後、満州事変以降に軍需中心で景気が回復傾向に向かうと、沿線に工場が多い今津出屋敷線は工員輸送に必要だとして工事の促進が行われた。これにより、1934年に東浜~浜甲子園~今津が開業し、今津出屋敷線は全線開業した。同時に、名称は「阪神海岸線」に改められた。

 阪神海岸線は、起点と終点で阪神本線と接続している事から、車輛の規格は本線と同等だった。また、全線に亘り複線の用地が確保されているが、開業当初は単線での開業となった。海岸線が複線となるのは、1950年代まで待たなければならなかった。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)

〈中国〉

・防長電気鉄道[三田尻(現・防府)~中関~秋穂~小郡(現・新山口)、三田尻~山口~大田~東萩、小月~西市~大嶺~吉則(現・美祢)~大田](架空)

 1916年、日鉄は三田尻で造船所の建設を始めた(開設は1919年)。これを契機に、日鉄は三田尻を西の拠点として整備しようと考えた。その一環として、三田尻沿岸部の開発とそれに伴う人員・貨物輸送の強化を目的に、造船所付近を通る電鉄の開業を目指した。この様な経緯で、1917年に「三田尻電気鉄道」が設立した。当初は防石鉄道と連携しようとしたが、防石鉄道側が強硬に反対した事で、単独での参入となった。

 

 この様な経緯と同様の区間の免許を防長鉄道も保有していた事から、工事は急ピッチで行われた。1919年に三田尻~中関~秋穂~小郡が開業した。この路線の開業によって、造船所への工員輸送だけでなく、沿線の宅地開発や工場誘致が行われた。

 その後、県都・山口との接続や秋吉台の観光開発、内陸部の輸送路改善、陰陽連絡鉄道への転換などを目的に、1919年に三田尻~山口~大田~東萩と大田~吉則~大嶺~西市の免許を獲得し、社名も「防長電気鉄道」に改称した。これに際して、西市~小月を保有する長門鉄道と、吉則~北川の開業線と北川から秋吉台への免許を有する伊佐軌道を買収した。

 沿線は山岳地帯が多い事から建設に時間が掛った。加えて、内陸部に大量に存在する石灰石の輸送を目論み、直流1500Vで重軌条という高規格で建設した為、建設費も高騰した。三田尻~山口は1923年に開業したものの、そこから先はゆっくりと開業した。その為、西市側からも工事が行われた。1926年に西市~大嶺~吉則、1927年に山口~大田、1932年に大田~東萩と吉則~大田が開業し、予定した路線が全て完成した。

 全線開業によって、沿線の石灰鉱山の開発が進み、それへの輸送で防長電鉄が活用された事で、建設費の返済は当初の予想より早く進んだ。また、秋吉台への観光客も増加し、自然環境や雰囲気を破壊しない程度の開発も行われた。

 

 戦時中、山陽本線のバイパスになる事、陰陽連絡鉄道である事、沿線に重要資源である石灰(セメントの原料)が大量に存在する事、沿線が工業地帯である事から、1944年に全線が国有化された。三田尻~東萩は「防長線」、小月~大田は「長門線」、三田尻~小郡は「三田尻線」と命名された。会社そのもの存続し、戦後は旧沿線のバスや秋吉台の観光開発、不動産開発を行う「防長開発交通」に改称した。

 

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〈四国〉

・琴平急行電鉄[高松~下笠居~坂出~讃岐飯野~琴平]

 琴急は、坂出~讃岐飯野~琴平を走っていた電鉄である。金毘羅山への参拝客輸送を目的に1930年に開業したが、既に国鉄、琴平電鉄(現・高松琴平電気鉄道琴平線)、琴平参宮電鉄が開業していた。加えて、琴急のルートの沿線人口も少なく、開業時点で不利な立場だった。案の定、常に収支は赤字であり、1944年に不要不急線に指定され線路は全て撤去された。その後、琴参に吸収され、路線も1954年に休止状態のまま廃止となった。

 

 この世界では、1926年に琴参が保有していた高松~下笠居~坂出の免許と、史実の琴急の免許を日鉄が買収し「琴平急行電鉄」を設立した。設立後、琴平電鉄が開業間近である事から工事が迅速に行われ、1929年に全通した。高松まで開業した事で、高松からの参拝客を取り込めた事、国鉄の利用客を奪えた事、都市間輸送の実施や沿線の開発などで利用客は急増した。

 

 この後、戦時統合によって琴急と琴参は1944年に統合し「讃岐急行電鉄」と改称した。戦後、本山寺や観音寺への参拝輸送を目的に旧・琴参線の坂出~宇多津~丸亀~善通寺の施設の改良と延伸を行い、善通寺~本山寺~観音寺口を1957年に開業した。

 一方、路面電車のまま残った多度津~善通寺~琴平は、モータリゼーションの進行によって1974年に廃止となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・徳島鳴門電鉄(架空)の開業

 徳島から北島、松茂を経由して鳴門に至るこの鉄道は、日鉄ではなく大室財閥が関係している。

 これは、1935年に大室財閥系の大室重工業が、徳島近郊の北島に航空機工場を建設する事が決定した事から始まる。工場への物資輸送や工員輸送を目的に、徳島から工場のある北島を経て、観光地であり製薬などの産業が集積する鳴門に向かう路線が計画された。この免許は1937年に認可が下り、同年に「徳島鳴門電鉄」として設立された。工事は急ピッチで行われ、1938年に大室重工業徳島工場が開設するのに合わせて開業した。

 開業後、沿線の宅地開発(工員向けの寮や社宅が中心)や工場の誘致(工場向けの下請けなど)を行った。徳島工場は巨大(広さは中島飛行機太田工場の8割程度)で大量の工員を有する事から、沿線の開発は大規模になった。また、工員向けに商売を行おうと徳島や鳴門の商業や観光も繁盛するなど、地域経済の拡大に貢献した。

 

 その後、戦時体制になっていくにつれ、軍拡も進行した。新戦力と目された航空隊も拡張され、沿線の松茂に海軍の飛行場の建設が開始した(現在の徳島空港。1941年に開設、その翌年にこの飛行場を本拠地とする徳島海軍航空隊が発足)。これに伴い、徳島鳴門電鉄は飛行場への人員・物資輸送に活用される事になり、空前の利益を上げたが、ピストン輸送によって施設を酷使した事で、終戦時には施設・車両はボロボロだった。

 

 戦後、同じ中外グループの南海急行の傘下に入り、多奈川~鳴門の航路が開設された。この頃から、淡路島の淡路交通線と接続して大阪~淡路島~徳島の鉄道が計画された。この計画が前進するのは、日本鉄道建設公団(鉄建公団)のP線方式(東京、大阪、名古屋とその周辺の民間鉄道を対象として路線を建設、施設を私鉄に貸し出す。建設費などは25年かけて支払う)が整った1972年からである。

 

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・四国横断鉄道の開業

 阿波池田~伊予三島の路線である四国横断鉄道の開業には、日林財閥が関わっている。

 史実では、四国横断鉄道に似たルートの阿波池田~川之江の免許を「愛徳電気」が1928年に取得したが、1934年に失効した。恐らく、昭和恐慌による資金の調達不足と、山岳地帯を通る事による工事の困難さが原因だろう。

 

 この世界では、1930年に日林財閥が愛徳電気の経営権を握り、「四国横断鉄道」と改称した。同時に、起点を川之江から伊予三島に変更した。これは、松山方面の接続を重視した事、三島町(伊予三島市を経て四国中央市)の製紙業者が懇願した事が理由だった。

 経営権を握った翌年から工事が始まったものの、工事の進行速度は遅かった。山岳地帯を通る事からトンネル工事が多い事、当時の日林の金融部門である日本林商銀行の経営が危うかった事でそちらの対応に追われていた事が理由だった。

 それでも、日本林商銀行の方は対処が完了し、本体の日本林産や他の部門については損失が小さかった事から、1935年には全線開業した。開業によって四国山地の木材資源が三島町に輸送される事になり、町の木材業者や製紙業者への原料供給が行われた。また、日林財閥の企業が三島町に進出する切欠にもなった。

 

 しかし、「四国横断鉄道」として存在した時期は短かった。1941年、改正鉄道敷設法第101号(『愛媛県川之江ヨリ徳島県阿波池田付近ニ至ル鉄道』)を理由に国有化され、「愛徳線」と命名された。

 

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・四国中央鉄道の開業

 史実の四国中央鉄道は、1946年に牟岐線の中田から分岐して、内陸部の生比奈村、横瀬町(共に現・勝浦町)に至る路線の免許を獲得した。予定では更に内陸部を進み、最終的に土讃線の土佐山田を目指していたらしい。その後、1951年に分岐駅を中田から立江に変更し、ルートも一部変更となったが、路線は開業する事は無かった(免許の失効は1988年)。

 尚、四国中央鉄道の約30年前に、阿南鉄道(現・牟岐線)が立江から分岐して棚野村(後の横瀬町)への免許を獲得している(1926年に失効)。

 

 この世界では、四国山地内の豊富な山林資源に目を付けた日林財閥が、阿南鉄道の上記の免許に目を付けて購入しようとした。阿南鉄道としても、乗合自動車に旅客・荷物収入が減少している状態では新線建設など夢のまた夢であり、少しでも現金が入るのならばとして、1924年に日林財閥に売却した。

 阿南鉄道の免許を譲り受けた日林財閥は同年、「四国中央鉄道」を設立し免許を譲渡した。そして、その免許の延長線として上勝、木頭(現・那賀町)、物部(現・香美市)を経由して土佐山田への免許を申請した。この免許が認可されたのは1928年の事であり、同年には立江~棚野が開業した。そこから先は山岳地帯、人口希薄地帯である事、昭和恐慌で日林財閥が一時的に身動き出来なかった事から、工事は一時的に停止した。それでも、1934年に土佐山田~物部、1937年に棚野~上勝、1939年に上勝~木頭、1941年に木頭~物部が開業して全通した。しかし、上勝~木頭~物部は物資・資金不足からやや規格を落として開業した(高規格な森林鉄道程度)。

 

 開業によって、沿線の豊富な森林資源と鉱山(主にマンガン・石炭・粘土)の開発が進んだ。また、全線開業前の1936年から、徳島と高知に日林財閥の企業が進出した。本体の日本林産に加え、徳島には日林製紙に日林化学工業、日林陶器に日林特殊陶器が進出し、高知には日林木材工業が進出した。

 戦時中、四国中央鉄道は木材や鉱石の輸送、高知と徳島を結ぶ第二ルートとして活用された。その事から、一時は国有化も検討されたが、他の重要路線(中信電鉄や防長電鉄など)の買収を行っていた事、極端に重要という訳では無い事から買収は後回しにされ続け、そのまま終戦を迎えた。

 

 戦後も沿線からの木材や鉱石の輸送に役立てられたが、木材資源の減少や鉱山の閉鎖、沿線人口の減少などの要因が重なり、横瀬~上勝~木頭~物部は完全に赤字路線となった(他の区間は、通勤・通学などで辛うじて黒字)。それでも、沿線の観光地への輸送や国鉄の優等列車の運行、観光列車の運行などによって、21世紀に入った時点では何とか全線が存続している状態となっている。




今回は、余り日鉄は関わっていません。中国地方って平地や人口集積地が少ない事から、鉄道が通せる地域って限られますね。
後、大阪・和歌山の対岸である徳島の路線が多く、それに伴って工場の設立も多いですから、この世界の徳島は香川・愛媛に並ぶ重要な県となるのではないでしょうか。


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)

〈九州〉

・九州電気軌道、博多湾鉄道汽船[門司~小倉~大蔵~黒崎~折尾~筑前芦屋~宗像~津屋崎~貝塚~新博多、黒崎~香月~直方~宮田~福間]

 現在、福岡と北九州、福岡と筑豊を結ぶ鉄道は、前者は鹿児島本線、後者は福北ゆたか線のみである。しかし、かつて西鉄の前身企業がそれぞれへの延伸を計画していた。西鉄北九州線の前身である九州電気軌道は折尾から福岡を、西鉄貝塚線の前身である博多湾鉄道汽船は津屋崎から飯塚への路線を計画していた。免許もそれぞれ1919年に獲得していた事から、資金の当てが付けば可能な筈だった。

 しかし、昭和恐慌による資金不足に加え、前者は不正経理、後者は贈収賄事件によって資金面の余裕は全く無かった。結局、それぞれ1933年、1936年に免特許は全て失効した。

 

 この世界では、日鉄が1927年に九州電気軌道の鉄道事業を買収して、(新)九州電気軌道を設立した。これは、旧九軌が行っていた電力事業が他社との競争で劣勢になっていた事、偶然から不正経理が発覚した事から、鉄道事業を行う余裕が無くなり、少しでも資金が欲しかったのである。その為、鉄道事業を日鉄に売却した。同時に、鉄道事業を行わなくなった旧九軌は「九州電気興業」と改称した。

 

 兎に角、日鉄が経営を握った九軌は早速、福岡への延伸線(但し、沿岸ルートに変更)と既存線の専用軌道化の工事を開始した。同時に、黒崎から分岐して香月、直方、宮田を経由して犬鳴峠を通り福間に至る筑豊周りの路線の免許を申請した(1929年に認可)。そして、建設費の節約から、福岡側は新規に建設するのでは無く、新博多~津屋崎を開業させていた博多湾鉄道汽船に乗り入れる予定だった。

 これに対し、博多湾鉄道汽船側は当初難色を示した。やはり単独で参入したいし、九軌に吸収される恐れもあった為であった。しかし、博多湾鉄道汽船が1929年の贈収賄事件の影響で新線建設の余裕が無かった事から、方針を転換しこの提案を受け入れた。これにより、新博多~津屋崎の改軌(九軌は1435mm、博多湾鉄道汽船は1067mm)も九軌主導で行われた。

 途中、昭和恐慌があったが「関係無い」「福岡と小倉、筑豊を我らの手で結ぶのだ」と言わんばかりに工事は急ピッチで行われた。既存線の専用軌道化は1930年に終え、沿岸ルートは1933年に開業し、筑豊ルートも1937年にそれぞれ開業した。これにより、福岡と北九州を結ぶ都市間列車が成立したが、人の流れが少ないルートを通っている為、通しの利用以外だと少なかった。その為、沿線の観光開発を盛んに行う事で利用客の増加を行った。

 

 その後、戦時統合によって「西日本鉄道」が成立し(この世界では、九軌と後述の九州鉄道の対等合併で成立)、沿岸ルートが「北九州線」、筑豊ルートが「筑豊線」と命名された。

 

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・九州電気軌道(旧・門司築港)[門司~田ノ浦~東郷~霧岳~下曽根~徳力~北方](架空)

 この計画線の内、門司~田ノ浦は史実の門司築港軌道線だが、そこから先は企救半島沿岸部を通り、小倉電気軌道(史実の西鉄北方線)に接続する路線である。

 史実の門司築港軌道線は1923年に開業したものの、1936年に廃止となった。距離が短過ぎる(2.5kmしか無い)事から利用客は限定され、モータリゼーションの影響を受け易かった事が理由と考えられる。

 

 この世界では、日鉄が九軌の経営権を握った際に、門司築港の軌道線の経営権も握った。同時に、門司築港から企救半島の沿岸部を通る路線の免許も購入した。九軌側と並行して延伸・専用軌条化工事が行われ、1933年に門司~北方が開業した。

 その後、小倉での本線との接続を狙い小倉~北方の小倉電軌を買収しようとしたが、小倉電軌側の業績が良かった事から買収額が高額になると見られ、買収は一時棚上げとなった。その代わり、改軌(1067mm→1435mm)の支援を行い、直通運転の実施に切り替えた。この工事は1938年に完了した。

 その後、小倉電軌が西鉄への統合に組み込まれ、門司~下曽根~北方~小倉の路線が「企救線」と命名された。

 

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・筑肥電気鉄道[福島~山鹿~隈府(菊池)~藤崎宮~電鉄熊本](架空)

 九州鉄道(現・西鉄天神大牟田線など)は、熊本への延伸を計画していた。ルートは、大牟田から延伸して鹿児島本線に並行する形を予定していた。尤も、この計画は大牟田~熊本を「大熊鉄道」として分離してまで完成させようとしたが、昭和恐慌や熊本県側の反対などによって実現しなかった。

 

 この世界では、日鉄が1925年に菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)を買収し、隈府から山鹿を経由して九鉄の福島への免許を申請した。そして、九鉄に乗り入れて福岡~熊本の都市間鉄道を運行する事を計画した。

 九鉄としても、単独での参入はリスクが大きく、九鉄が計画している熊本延伸線は反対が多い事から進んでいなかった。加えて、菊池電軌の沿線には菊池温泉や山鹿温泉などの観光地が多い事から、観光開発を行うにも適しているとして、菊池電軌の計画に賛成した。

 

 菊池電軌の免許が1927年に認可されると、増資と九鉄からの出資を受け入れ、社名を「筑肥電気鉄道」に改称した。そして、九鉄と筑肥電鉄による福岡熊本電車の計画がスタートした。

 工事は、1928年に福島側と隈府側の双方から始まった。同時に、筑肥電鉄の藤崎宮~隈府と九鉄三井線の花畑~福島の専用軌道化、藤崎宮から熊本市中心部への延伸も行われた。沿線は山がちな事から工事の難所は多かったが、日鉄による豊富な資金力と九鉄の熱意によって、難所を悉く突破した。途中、九鉄の経営不振や役員の逮捕というアクシデントによって工事が一時中断するという事態があったものの、九鉄が熊本延伸や観光開発に活路を求めていた事から、途中で放棄される事は無かった。

 

 紆余曲折を経て、1936年に福島~山鹿~隈府が開業した。これにより、2社に跨ぐ形ではあったが福岡~熊本の都市間鉄道が完成した。山間部を通る事からローカル輸送は少なかったが、都市間輸送や観光輸送で多く活用された。

 その後、戦時統合によって筑肥電鉄は西日本鉄道の統合に巻き込まれ、九鉄三井線の花畑~福島と共に「熊本線」と命名された。

 

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・肥筑軌道[城島~崎村~高尾~佐賀]

 史実では、1916年に久留米~佐賀の路線を計画していた。しかし、筑後川の架橋や佐賀市内の発展に伴い土地収用が困難になった事、第一次大戦の終了に伴う不景気や支援元であった鈴木商店の経営悪化などから、1923年に崎村~高尾が開業しただけで、残りの区間は開業しなかった。起点と終点で他の路線と接続していない事、沿線が水田などしかない事などから利用客は増加せず、並行バスの存在などから1934年に運転休止となり、翌年に廃止となった。

 

 この世界では、日鉄が「大川鉄道(後の西鉄大牟田線津福~大善寺と西鉄大川線など)に乗り入れる形で久留米~佐賀の路線を完成させたらどうか」と助言した事で、崎村から大川鉄道の城島への路線に変更した。これにより、建設費の節約が図られた。

 また、この時、肥筑軌道側が日鉄に出資を求めた。肥筑軌道にとっては、大きな後ろ盾になる為だった。日鉄はこれに応じる代わりに、肥筑軌道の出資者の一人である真崎照郷が設立した「日本電気鉄工」への資本参加を求めた。肥筑軌道側もこれを認めざるを得なかった。

 

 日鉄という後ろ盾を得たものの、それでも筑後川の橋梁の費用が重く圧し掛かり、一時は建設半ばで終わる可能性もあった。また、肥筑軌道は914㎜、大川鉄道は762mmと軌間も違う事から、直通運転を行う場合、どちらかが改軌する必要があった。

 これらの問題について、前者は木造橋梁で架橋し、何れは架け替える事で解決した。後者については、城島での接続で我慢する事となった。改軌は、余裕が出た時に行う事とさえた。どちらも問題の先送りとなったが、早期開業を目指すにはこれしか無かった。

 

 兎に角、これらの努力が実り、1927年に城島~崎村と高雄~佐賀が開業した。当初の形とは異なるものの、久留米~佐賀の路線が開業した。

 しかし、筑後川の橋梁が木造の為、氾濫する度に橋を架け直さなければならず、氾濫した年は架橋費用が重く圧し掛かった。それにより、収支は常に赤字気味で、補助金に頼る運営だった。

 

 その後、大川鉄道が九鉄に買収される際に、同時に買収された。そして、西鉄が成立した際、旧・肥筑軌道線は「西鉄肥筑線」と命名された。

 戦後の1949年、大川線の大善寺~城島と肥筑線が改軌・電化工事が行われ(この際、大善寺~城島が肥筑線に編入され、肥筑線も「佐賀線」と改称した)、1951年に完成した。完成と同時に、天神~佐賀の優等電車が設定された。久留米を経由し、筑後川を2回渡る為、国鉄鹿児島本線・長崎本線ルートより遠回りであったが、高頻度運転を行う事で優位に立った。

 

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・国東鉄道、宇佐参宮鉄道、日出生鉄道[杵築~国東~豊後高田~宇佐~宇佐八幡~拝田~豊前二日市~院内~耶馬渓(椎屋耶馬渓)~日出生台~豊後森]

 この路線の運行系統は、杵築から国東半島の沿岸部を通り宇佐へのルートと、宇佐から駅館川沿いを通り、日出生台を抜けて豊後森に至るルートの2つに分かれている。しかし、路線を保有している会社は、杵築~豊後高田が国東鉄道、豊後高田~拝田が宇佐参宮鉄道、拝田~豊後森が日出生鉄道に分かれている。

 

 史実では、国東鉄道が1922年から1935年にかけて杵築~国東を開業させ、宇佐参宮鉄道は1916年に豊後高田~宇佐八幡を全通させ、日出生鉄道が1914年から1922年にかけて四日市(現・豊前善光寺)~豊前二日市を開業させた。その後、国東鉄道は宇佐参宮鉄道と接続して国東半島を一周するルートを、宇佐参宮鉄道は日出生鉄道と接続して拝田への延伸を目論み、日出生鉄道は陸軍の演習場がある日出生台への延伸を目論んだ。

 しかし、その全てが完成する事は無かった。その後、3社は戦時統合によって別府大分電鉄(後の大分交通別大線)を中心とした「大分交通」に再編された。それに伴い、旧・国東鉄道は「国東線」、旧・宇佐参宮鉄道は「宇佐参宮線」、旧・豊州鉄道(1929年に日出生鉄道から改称)は「豊州線」となった。

 戦後直ぐは、ガソリン不足などによって利用客は多かったが、その後はガソリンの流通やモータリゼーションの進行、バス部門への注力などによって、次第に鉄道部門は縮小していった。また、自然災害によって橋梁が流される事もあり、それが原因で廃止になる事もあった。現に、国東線と豊州線は水害によって橋梁が流された事でそれぞれ1961年、1951年に休止となった(その後、それぞれ1964年、1953年に廃止)。宇佐参宮線は、両線より少し遅れて1965年に廃止となった。

 

 この世界では、三田尻に拠点を構えた日鉄が、対岸の大分県への進出や、国東半島や耶馬渓の観光開発などを目論み、1920年頃から3社に対して出資した。特に、国東鉄道と日出生鉄道に対しては強力に支援した。これにより両社の経営権を事実上掌握し、予定線の延伸も進めた。また、日出生鉄道には安心院・日出生台からの延伸として玖珠町(豊後森の事)への路線の免許も申請し(1927年に認可)、宇佐参宮鉄道との直通を鑑み、1067mmへの改軌も行われた。

 国東鉄道は1935年までに杵築~豊後高田を開業させ、宇佐参宮鉄道と接続した事で国東半島を一周する路線が完成した。また、宇佐参宮鉄道は1930年に宇佐八幡~拝田を開業させ、日出生鉄道も1933年までに豊前善光寺~豊後森を全通させた。これにより、国東半島や耶馬渓(椎屋耶馬渓)の観光輸送も盛んに行われ、沿線の農産物や森林資源の輸送にも役立った。

 また、規模こそ小さいものの、杵築に日本鉄道興業の工場が置かれ、日鉄系の部品メーカーなど数社が進出した。これを当てにしたのか、海軍が杵築に近い大神に海軍工廠を設ける計画が立ったが、後に変更となり近海艦隊用の基地が設営されたが、これはまた別の話である。

 

 1940年、この3社は国有化された。杵築~宇佐は改正鉄道敷設法第116号(『大分県杵築ヨリ富来ヲ経テ宇佐附近ニ至ル鉄道』)に該当する為、豊前善光寺~豊後森は軍の施設(陸軍の日出生台、海軍の宇佐海軍航空隊)を経由する為だった。これに伴い、杵築~宇佐~拝田は「国東線」、豊前善光寺~豊後森は「日出生線」と命名された。特に日出生線は戦時中、沿線の軍の施設への物資・人員輸送で賑わったが、大戦後期には宇佐海軍航空隊に対する副次目標とされて攻撃される事も多かった。

 国有化によって鉄道は保有しなくなったが、バス路線は残存した。国有化後、バス専業会社となった3社は戦時統合によって「大分交通」に吸収された。

 

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〈他の路線への影響〉

・宮崎電気鉄道の開業

 史実では、宮崎電鉄に宮崎~本庄~綾の免許が1922年に認可されたが、会社の設立は1928年だった。その後も工事は完成せず、本庄~綾が1933年に、宮崎~本庄が1938年に失効した。

 

 この世界では、日林財閥が1926年に上記の免許を買収し「宮崎電気鉄道」を設立した。沿線に豊富に存在する森林資源の開発に加え、日豊本線(現在の吉都線。日豊本線が現在のルートになるのは1932年から)のバイパスを目的として、1926年に綾~小林の免許を申請した。この免許は1928年に認可された。

 1928年から工事が行われた。宮崎~綾は比較的平坦な事から工事は順調に進み、1931年に開業した。一方、綾~小林は、小林側は小林盆地によって平坦なものの、綾側が山越えの為、トンネルや急勾配が多数必要となった。その為、工事に手間取り、全線開業が1935年までずれ込んだ。

 全線開業まで時間が掛ったが、開業によって沿線の開発は進んだ。特に、宮崎市から近いものの、近代的な交通機関から取り残されていた本庄村(現・国富町)や綾村では、森林資源だけで無く、農産物の増産が進んだ。また、小林町や野尻村(共に現・小林市)では、温泉や霧島連山の観光開発や、綺麗な水を利用した酒の生産が盛んになった。

 

 その後、一時は国有化も検討された(改正鉄道敷設法第123号『宮崎県小林ヨリ宮崎ニ至ル鉄道』に該当する為)が、工業地帯を通る訳でも無い、沿線に重要資源がある訳でも無い、日豊本線のバイパスとしても弱い事から、他の路線より重要度が低いと判断され国有化されなかった。その代わり、戦時統合で宮崎電鉄が中核となり、宮崎県北部のバス事業者と統合して「日向交通」が設立され(宮崎交通は史実通り設立)、旧・宮崎電鉄は「日向交通電車線」となった。



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4章 昭和時代(戦時中):崩壊への第一歩
34話 戦時中:大室財閥(21)


 太平洋戦争によって、国内の企業は自由な経済活動を行う事はほぼ不可能となった。経済には多くの統制が掛けられ、1機でも多くの航空機を、1隻でも多くの軍艦を、1人でも多くの兵士を前線に送る事が急務となった。

 

 大室財閥も例外では無く、「大室重工業」では軍艦や輸送船、航空機、「大和航空工業」は航空機エンジン、「大室電機産業」は工作機械や産業機械、「大室通信産業」は無線機や通信機、「大室化成産業」では火薬、「大室製鉄産業」では鉄鋼、「大室金属産業」ではアルミや銅などの非鉄金属の増産が叫ばれた。それらに原料を供給する「大室鉱業」では、国内鉱山や炭鉱での増産が叫ばれると同時に、金鉱の縮小が行われた。

 増産には施設や人員の強化が必要になるが、戦時中という事で資材や人員不足が著しく、思う様な拡大や増産は出来なかった。大室系の金融機関や、日本興業銀行や戦時金融金庫の様な国策金融会社からの融資によって資金面では問題無かったが、人とモノが無い状態ではどうしようもなかった。

 

 実際、大室鉱業では熟練の鉱員が徴兵に取られ、その代わりに朝鮮半島や中国大陸から来た労働者が入ったが、効率面では下がり、増産処か採掘量の維持すら難しいとされた。

 大室重工業や大和航空産業、大室電機産業など重工系の企業でも、熟練工が取られた事で製品の質の低下が見られた。戦前の外国製の工作機械の大量輸入や工作機械の国産化などによって重工業化が進んだものの、工作機械を扱う熟練工がいなくなった事で、効率的な運用が出来なくなったのである。それでも、残った熟練工による指導や非熟練者でも容易に扱える工作機械の開発・配備が行われた事で、効率は多少向上した。

 大室製鉄産業、大室金属産業、大室化成産業では、原料不足から減産も考えられたが、大室鉱業を始めとした鉱山会社、大室物産を始めとした商社によって原料の供給が行われた事で、減産にはならなかった。しかし、戦争後半には、アメリカの通商破壊が激化した事で原料が届かなくなり、1944年の後半頃からは減産となった。

 

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 大室銀行や東亜貯蓄銀行、東亜生命保険などの各種金融業は、上記の産業部門や国債の引き受けの為に、貯蓄が強力に奨励された。

 元々、大室銀行や東亜貯蓄銀行は預金集めを得意としており、特に大室銀行は開戦時の預金量では安田銀行に並ぶ程だった。そこに、国家主導で行われた貯蓄の奨励、贅沢品が市中に出回らなくなった事で国民の支出が抑えられていた事によって、大量の預金が集まった。

 

 また、国内の金融機関の統合も行われた。1943年に三井銀行と第一銀行が合併して「帝国銀行」となり(1944年に十五銀行も統合)、三菱銀行が第百銀行と統合し、安田銀行が日本昼夜銀行と統合した(1944年に昭和銀行と第三銀行も統合)。これにより、大銀行の整理が進んだ。

 大室銀行も、1943年に日本林商銀行を、1944年に日本鉄道銀行と東亜勧業銀行を統合した。これにより、店舗274(出張所を含む、後に統廃合で213となる)、資本金15億円となり、この合併で安田銀行を抜いて日本最大の銀行となった。また、預金獲得が得意な大室銀行と日本鉄道銀行が合併した事で、大量の預金を保有する事となり、国としても国債の有力引受先と見做す様になった。

 

 東亜貯蓄銀行の方も、東京に本店を置く不動貯金銀行や内国貯金銀行、安田貯蓄銀行などと合併し、1945年に東日本に本店を置く貯蓄銀行が大合同して、改めて「東亜貯蓄銀行」を設立した。同時に、大阪や名古屋など西日本に本店を置く貯蓄銀行が合併して「日本貯蓄銀行」が設立された。これにより、史実の「日本貯蓄銀行(後の協和銀行)」は成立はしない。

 

 地方銀行も「一県一行主義」によって統合が進められた。大室系の銀行は軒並み他行に統合され、大阪府や神奈川県などでは影響力も失った。それでも、青森県の「青森商業銀行」、宮城県の「奥羽銀行」、石川県の「越州銀行」については他行に吸収される事無く独立を守った。また、統合された銀行も、戦後に相互銀行や戦後地銀として事実上復活するものも出てくるが、それは別の話である。

 同様に無尽でも統合が行われた。影響力を持っていた神奈川県の「相武無尽」と埼玉県の「北武無尽」は、他の無尽に統合される所か、県内の無尽統合の中心的役割を果たして存続した。

 

 大室信託や大室證券も、公社債(国債や金融債)や株式、特に軍需企業や特殊会社(植民地経営を行う会社や国策会社)の引き受けによって拡大した。

 特に、大室證券は、日鉄證券や他の中小証券会社と合弁で、投資信託の販売を行う「東亜投資信託」を設立した。銀行や無尽などの地方金融機関が、預金を使って大量に投資信託の商品を購入し、一定額までの収益は非課税とされた為、莫大な利益を上げた。

 

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 また、生命保険部門である東亜生命保険や日本弱体生命保険も、他の中小保険会社を統合する事で保険加入者を大幅に増やした。また、兵士に生命保険が掛けられた事で、大量の保険加入者によって資金は豊富だった。これは、日本政府によって出征する兵士にも生命保険を掛けられる様にする事、戦死した場合にも保険金を全額出す事となった為である。

 

 本来、生命保険では戦死者や自然災害による死亡では保険金が下りない。これは、生命保険が寿命による自然死の統計を基にして資金の運用や保険金の支払いを行う事を目的に設立された為である。その為、一度に大量の死者を出す戦争や天災で同じ事を行えば、大量の保険金を一度に支払う必要があり、保険会社の運営が立ち行かなくなる恐れがある。

 しかし、戦前の日本では日清・日露戦争の時に軍人(将校)が生命保険を掛けて、それによって生命保険が人々に認知され、こぞって生命保険に加入する様になったという経緯があった。また、生命保険会社も軍人という社会的地位と資産も持っている人が纏まった数加入した事で、経営難が解消し、その後の生命保険が人々に認知された事は非常に大きかった。

 

 この様な経緯から、兵士にも保険金を掛ける事となった。当初、政府は戦死者よりも戦傷者の方が多いと睨んでいた事もあり、この動きを進めた。しかし、実際は戦死者の方が多く、生命保険会社は保険金の支払い能力を超える事となり、大きな損失を出し続けた。この状況が変化するのは、戦後のインフレまで待たなければならなかった。

 

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 損害保険の方も、1943年に大室火災海上保険は日鉄火災保険と他1社と合併し、1944年に大室倉庫保険は日林火災保険と他2社と合併して「東亜動産火災保険」と改称した。これにより、大室火災と東亜動産火災は被合併保険会社の契約を引き継いだ事で拡大し、大室火災は大手六社の一角(他は東京海上、大正海上(後の三井海上)、大阪海上(後の住友海上)、安田火災、日本火災)に、東亜動産火災は動産四社の一角(他は日本動産火災(後の日動火災)、東京動産火災(後の大東京火災)、日本簡易火災(後の富士火災))を占める様になった。

 

 通常の損害保険では、戦時中の損害(通商破壊による船舶の沈没や人員の被害)については補償されない為、それらに対して補償が出る戦争保険が開発された。戦時中という事もあり、これに加入する人や法人は多数に及び、大量の保険金が集まった。

 その一方、戦争保険のリスクの高さ(一度に大量の保険金を支払う)から、戦争保険の再保険を行う必要が出てきた。その為に、1940年に損害保険各社の共同出資によって「東亜火災海上再保険」が設立した。

 

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 各種産業や金融以外にも、他の企業は戦争遂行の為に行動した。

 大室船舶は、日本郵船や大阪商船などと共に内地から東南アジアへの兵員や機材の輸送、東南アジアから内地への各種原料資源や食糧の輸入を行った。尤も、これは「船舶運営会」による統制の下で行われた。

 

 大室物産は、アメリカやヨーロッパの支店は閉鎖され、その地域からの情報が途絶える事となった。これにより、大室財閥の武器であった情報を失う事となった。戦後に改めて欧米に出店するが、情報収集・分析能力の復活には更に時間が掛る事となった。

 また、戦時中には占領地での原料資源や食糧の買い付けや鉱山開発、森林開発などを行った。多くが初めての事業であり、商社が行う事業では無かった。しかし、国や軍部から『やれ』と言われれば、やるしかなかったのが当時である。

 大室物産は、主にフィリピンやインドシナ、マレーでの鉱山開発や森林開発、農地開発を行った。多くは、アメリカやイギリスの資産を接収して利用するものだったが、自前で開発する場所も多かった。大室物産は現地での開発に消極的ではあったが、現地住民との摩擦の発生には注意を払っていた。これは、情報収集の一環で得た現地住民との接触や摩擦を避ける方法を活用したものだった。これが上手く行き、大室物産が開発を担当した地域では大規模な反日武装組織の活動が見られなかった。

 

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 大日新聞も、東京の中小新聞社を統合し、後に六大新聞の一角を占めるまでに拡大した。

 一方、戦時中という事で論調が変化した。戦前の大日新聞は、政府に対しては批判しつつも対案を出し、軍に対しては批判しなかったものの擁護もしなかった。論調としては中道右派だった。

 しかし、戦時体制になった事で自由な記事を書く事が不可能となった。論調も変化し、政府や軍の賛美に終始する事となった。戦後、この体制が内部から批判され、一時期は左派色が強くなったが、冷戦構想が鮮明になると、反共色が強くなる一方で、戦前の中道右派路線へ回帰する事になった。

 

 また、1942年にプロ野球チーム「黒鷲軍(旧・後楽園イーグルス)」を譲渡され、「大日軍」に改称した。大日軍は1944年にいったん休止となったが、戦後、大日軍の復活と同時に大日新聞は本格的にプロ野球に参入する事になる。



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35話 戦時中②:日林財閥(9)

 太平洋戦争の勃発によって、国内の生産体制は戦時体制に移行した。これにより、自由な生産活動は制限され、戦時に必要なものに集中させる体制となった。

 

 日林財閥では、木材の大量供給を行う様に厳命された。日林が保有する国内の山林から大量の木材が切り出されたが、それでも不足した。その為、占領地での森林経営も任された。フィリピンやタイ、インドネシアなど東南アジアの占領地に進出し、これらの地域での森林開発と木材の切り出しを行った。

 同時に、開発した地域の植物や樹木のサンプルを持ち帰った。このサンプルは、戦後に製薬や種苗などの分野で生きる事となる。

 

 日林は、伐採一辺倒だと保水や後世の資源の問題から、伐採後の植樹を通常通りに行う予定だった。しかし、政府や軍部は『重要なのは今現在であり、将来ではない。植樹する余裕があるのなら、より多くの伐採して、内地に木材を供給しろ』として猛烈に反対した。日林側は、自分達が長年の森林運営によって得られたデータ、植林しなかった場合の山の末路などを話して強硬に反対した。

 日林の抗議は最終的に通ったが、時間や人員などの問題から、『必要最低限の植樹にする事』とされた。日林の抗議に『ある国が戦争に必要だとして、山にあった木を全て伐採した。山から木を切り過ぎた結果、大雨の時に土砂崩れが発生し、その国で最も重要な工場を直撃した。その影響で、その国は武器などの物資調達に支障を来たす様になり、最後は戦争に敗れて滅んでしまった』と言われれば、軍としても反対する事は難しかった。そして、軍が反対しなければ、政府が反対しても効果が薄かった。

 この結果、日林が伐採した地域については多少なりとも植樹が行われた。しかし、伐採の規模に対して植樹が少な過ぎた為、焼け石に水だった。それでも、東南アジアの現地住民からは『彼らは資源を奪うだけではない』と見られた事で、戦後に宗主国が戻り日本人を処罰しようとした際に、日林関係者を匿ったり逃がしてくれたりなどしてくれた。

 

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 また、日林の主力事業の一つである製紙業の統廃合も行われた。大規模な製紙会社同士の統合は、1930年代の大・王子製紙の成立によって殆ど発生しなかった。日林製紙も、他の製紙業者と統合する事も無ければ、吸収される事も無かった。

 一方、工場の転換が一層行われた。当時、日林製紙の工場の多くが旧式で小規模なものだった。1930年代後半から閉鎖やパルプ工場など他業種への転換などが行われていたが、開戦後はその動きが更に進んだ。国内にあった小規模工場の大半がパルプ工場に転換され、一部はレーヨンの製造工場や火薬の製造工場に転換された。

 

 大規模製紙会社の統合は無かった一方、地方の中小製紙業者の統合は加速した。1942年に、商工省が地方の製紙業者を統合する方針を打ち出した。これによって設立された企業の代表例が、四国の大王製紙である。

 日林の製紙会社は日林製紙が行っているが、地方には日林の系列である中小の製紙会社が存在する。この統合によって拡大し、北海道の「北洋製紙」、東北の「奥羽製紙」、北陸の「越州製紙」、四国と山陽の「瀬戸内製紙」、九州の「高千穂製紙」が成立した。また、1943年に日林製紙とこれら地方の製紙会社と共同出資でパルプ製造会社である「八島パルプ工業」を設立した。

 

 化学部門の日林化学工業も、急速に事業を拡大した。戦前の日林化学は、国内での事業が中心だった。しかし、開戦によって東南アジアを占領すると、現地の工場の運営を委託されたり、日本林産や日林製紙と共同して森林開発や鉱山開発なども行う様になった。上記の八島パルプ工業の設立や日林製紙の工場転換にも関わっており、一時は日林化学工業と日林製紙の統合も検討された程だった。

 同じ化学部門でも製薬系の京師薬品は、軍用に大量の薬品を製造した。しかし、京師薬品単体では供給に追いつかなかった為、日林化学や大室化成産業などにも協力を依頼して対応した。

 また、この3社が共同して、1943年に日本初のペニシリンの大量生産を成功させた。これは、日本にペニシリンの情報が入ったのが史実よりも早く、軍部も重要性に気付いた事から、京師繊維に製造工程の早急なる確立と大量生産ラインに乗せる事を要請された。

 しかし、京師繊維単体では無理があった為、日林化学と大室化成にも協力を仰いだ。その後、東京帝大や京都帝大も協力する様になり、1942年にはペニシリンの製造に成功し、臨床試験でも好結果を出した。これを受けて、1943年に大量生産が行われた。

 これにより、陸軍の医療事情は多少好転したが、これはあくまで補給が届いている地域に限定された。補給が途絶え途絶えの地域では、史実通り飢えと病気に苦しめられる状態だった。

 

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 事業拡大の一方、大室財閥系の同業企業との統合や国家の統制に組み込まれて日林の手から離れた事業もあった。

 

 繊維部門の京師繊維は、大室財閥系の日東繊維工業と1943年に合併し「新東繊維」を発足した。その後も中小の繊維会社を統合して、新東繊維は拡大した。拡大によって、麻や綿などの天然繊維、合成繊維のレーヨンの製造量は拡大した。

 その一方、一部の工場は航空機用の器材(通信機など)を製造する工場に転換された。また、レーヨンの原料となるパルプの製造の為、東南アジアでのパルプ工場の建設・運営などを行うなど、業種の拡大も行われた。このパルプ製造についてはノウハウが少なかった事から、日林製紙との共同事業という形になった。

 

 食品系では、日林系の「日林食品」と大室系の「大室食品産業」が統合して「太陽食品工業」になった。これにより、食肉や魚に強い日林食品と、飲料や穀物関係に強い大室食品産業が一つになった。戦時中は軍用缶詰の製造が殆どであり、この時の経験から、戦後は缶詰や保存食品に強い食品メーカーとして歩む事になった。

 

 金融では、日本林商銀行が大室銀行に、日林火災保険が大室火災海上保険にそれぞれ統合された。これにより、日林財閥は金融事業を全て失い、以降は大室財閥の影響力が強まっていく事になる。事実、戦後の財閥解体後、旧・大室財閥を中心とする企業集団「中外グループ」に組み込まれる事になる。

 

 造船・機械部門の「日林造船機械」は、大室重工業に吸収されて消滅した。造船所は、木造船以外にも海防艦や小型商船などの建造を行った。機械工場の方は、合板の製造機械から工作機械の製造に転換した。しかし、大室重工業との規格やノウハウの違いから、旧・日林造船機械の工場で製造された工作機械の出来が今一つだった為、戦後に旧・日林造船機械の機械部門は「企業再建」を名目に分離独立する事となった。

 

 家具・合板製造部門が「日林木材工業」は、木材加工のノウハウを買われ、木製航空機の製造を要請された。これについては、大室重工業と共同で木製航空機(エアスピードエンボイを基にした小型双発輸送機、後に海軍に「一式双発輸送機」として採用)の開発を行っていた事を買われての事だった。

 しかし、単独では難しいと判断された為、1942年にに松下電器産業と合弁で木製航空機を製造する「日松航空機」を設立した(史実では、1943年に松下電器産業単体で「松下航空機」を設立)。当初、旧式化していた九九式艦上爆撃機の全木製化(「明星」爆撃機)を予定しており、1943年には早速試作機が完成した。試験の結果、生産性や性能などの面から良好と判断されたが、元が金属機の為、運動性の低下や重量の増加といった問題も見られた。

 明星以外にも、機上練習機「白菊」を基にして全木製化と大型化した対潜哨戒機「南海」、昭和飛行機工業と共同して零式輸送機の全木製版の製作などを行った。しかし、明星と木製零式輸送機は、重量の問題や利用場面の減少から試作段階で中止となった。

 一方、南海の方は、海上警備総隊や日本近海の航空隊で重宝された。重要資源であるアルミを使用しない事、磁気探知機への干渉が少ない事、白菊由来の運動性の良さなどから300機近く生産された。しかし、日松飛行機単体では供給に追いつかない為、白菊を設計した九州飛行機、日本國際航空工業など中小の航空機メーカーにも生産を委託した。



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36話 戦時中③:日鉄財閥(6)

 日鉄財閥の中核企業である日本鉄道興業の工場では、大量の機械や兵器が生産された。特に、日鉄の工場では電車や電機の製造経験が豊富な為、電機関係の受注が大量に来た。その為、需要に応える為に既存の設備の拡大や下請けとの連携の強化、外地や占領地での工場の新設と運営などを行った。

 

 日鉄が受注を受けたものの中で特に多かったのが、通信機器と空調機器だった。

 これは、通信技術の向上によって、前線で使用する全ての航空機に安定した性能を持つ航空電話が装備された。また、早くからレーダーの使用が行われた。それらの安定した性能を維持するのに必要な真空管だが、それを製造出来るのが日鉄と東京芝浦電気(後の東芝)の2社だけだった。他の会社も逸品モノであれば同様の性能のモノを製造出来たが、大量生産となると日鉄と東芝に限られた。

 その為、両社による日本における真空管の寡占が進んだが、戦争になると大量の真空管が必要となった。戦争後期の1944年に、両社が持つ真空管の技術を他社に公開する事を軍部が強要した。両社はこれを飲まざるを得ず、東芝は日本電気(NEC)や日本無線(JRC)、川西機械製作所(後に富士通に吸収)などに、日鉄は富士通信機製造(後の富士通)や松下電器産業(後のパナソニック)、大室通信産業などに技術を公開し、技術者を送るなどして増産体制を整えた。

 これにより、高性能な真空管の大量生産体制が整いかけたが、大量生産が始まる前に終戦を迎えてしまい、供給量が揃わないまま終わった。しかし、1944年末から終戦にかけて高性能な真空管の供給量が僅かながら増加した為、本土防空用や機上用レーダーの配備が進んだ事も事実だった。

 

 空調機器の方は、当時はエアコンの製造は無く、冷房も製造されていたが(電車や客車向けに製造経験がある)、専ら扇風機だった。これは、電気があれば何所でも使用出来た事、製造が容易な事、比較的場所を選ばない事などが理由だった。日鉄に限らず、三菱電機や日立製作所などの電機メーカーも扇風機の製造を行い、軍や特殊会社に多数納品した。

 冷房については、大型艦や潜水艦、大型軍用施設(総軍司令部など最重要軍事施設)に限定されていた為、少数生産となった。

 

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 また、海軍との繋がりから船舶用機関の製造経験もある事から、商船や護衛艦用の機関の製造も大量に行われた。しかし、タービンの製造経験しか無かった為、護衛艦用に最も必要とされたディーゼルの製造が出来なかった(代わりに、大室重工業や三菱重工業、川崎重工業が行った)。

 それが変化するのは、1944年に大室重工業が日鉄にディーゼルの技術を提供した事である。これは、商船や護衛艦の大量損失とそれに伴う補充に対し、機関の製造が追いつかなくなった事、燃料の消費を抑える事(同じ馬力なら、タービンよりディーゼルの方が燃費が良い)などから、日鉄もディーゼルの生産を行う事で、少しでも供給量を増やそうというものだった。

 日鉄は、統制型一〇〇式発動機でディーゼルの製造経験はあったものの、それは車輛用であって船舶用では無かった。また、大室が開発したディーゼルは一定の工作精度が要求され、戦時設計で簡略化してもそれなりの精度が求められた。

 その為、製造に間誤付いて予定した量を期間内に製造出来なかった。それでも、ディーゼルの製造経験は大きく、戦後は気動車やトラック用のディーゼルの製造・開発に役立つ事となった。

 

 造船所では、多数の軍艦や輸送船が建造された。今まで、造船部門は利益が出ない分野だったが、日中間の軍事衝突以降、戦時体制が少しずつ強化されていき、対米戦が確実になると、不足しがちな小型艦艇や輸送船の大量建造が計画された。その為、三田尻や千葉、稼働したばかりの大神では連日連夜建造が行われた。

 

 日鉄が建造した艦船の中で最大のものは、大神で建造された大鳳級空母の2番艦「天鳳」だった。1944年に竣工した天鳳は、第三艦隊の主力空母として行動した。

 天鳳以外にも、改雲龍型空母(この世界の雲龍型は、マル急計画で2隻計画され、架空の2番艦「蛟龍」が大室重工業堺造船所で建造、1944年に竣工)である葛城型空母の2番艦「那須」を三田尻で建造している。「那須」は1944年末に完成したが、この頃には空母機動部隊は壊滅状態であり、航空機輸送や哨戒に使われる程度だった。

 因みに、他の葛城型だが、3番艦「笠置」は三菱重工の長崎で、4番艦「生駒」は大室重工の堺で、5番艦「阿蘇」は呉海軍工廠で、6番艦「身延」は川崎重工の神戸でそれぞれ完成し、7番艦「妙義」は三菱重工の長崎で建造中だったが、8割完成した所で終戦を迎え、未完成のまま解体となった。

 空母以外にも、夕雲型駆逐艦を4隻、秋月型駆逐艦を2隻が三田尻と千葉でそれぞれ建造が行われた。また、鵜来型海防艦を4隻、丙型・丁型海防艦や松型駆逐艦を10隻ずつ建造した。

 

 商船や漁船、護衛艦などの建造が行われていたが、上記の様に多数の艦船を建造していた為、既存の施設だけでは需要に追い付かなくなった。その為、日鉄の工場の内、元造船所の工場の土地の一部を活用して、新しい造船所を建設する事が計画された。

 しかし、日鉄単体で行うには余裕が無かった為、土地は日鉄が、ノウハウは日鉄と大室重工が、資金は大室銀行と日本興業銀行が提供し、別会社に行わせる事になった。その目的で1943年に設立したのが「大同造船」である。大同造船の造船所は尼崎と戸畑に置かれ、1944年から稼働した。建造出来たのは海防艦や小型船舶程度だったが、それでも戸畑は丙型、尼崎は丁型海防艦をそれぞれ数隻建造した。

 

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 航空機の生産も活発となった。多くは他の企業の機体のライセンス生産であり、特に愛知の零式水偵が多く生産された。多くは海上警備総隊向けであり、船団護衛や対潜警戒用に当てられた。

 

 一方、自社開発の九七式双発飛行艇は、九七式四発飛行艇(史実の九七式飛行艇)や二式飛行艇の練習機や船団護衛、孤島での哨戒などに使用された。手頃な大きさで整備も容易、信頼性・拡張性が高いなど好評で、多少旧式化している面もあったが、これに代わる機体が無かった事から生産が続けられた。

 一時は、愛知によって双発小型飛行艇が試作されたが(史実の二式練習飛行艇)、九七式双発飛行艇と比較して性能向上が殆ど無かった事から、試作止まりとなった。

 

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 兵器生産を行う一方、輸送力の強化を目的に、鉄道用車輛の大量製造も依頼された。戦時中という事から、極力資材を使用量を抑え、製造工程を簡略化する事となった。一から設計するのは時間が足りなかった為、1930年代から製造していた「日鉄共通規格車輛」を基にする事となった。これにより、国電区間や電鉄会社への大量増備が行われた。

 

 しかし、基が平時の設計の車輛の為、簡易化したとしても限界があった。その為、更に簡略化された電車の設計が運輸通信省(鉄道省と逓信省が1943年に統合)によって行われた。それが63系であり、20m車体に片開き4ドア、薄い外板、座席や屋根板などの内装は徹底的に簡略化など、戦時輸送の為だけに設計された電車だった。日鉄もこの車輛を製造する事となり、日鉄特有の車輛は一旦姿を消す事となる。

 しかし、日鉄の製造担当である初期ロッド150両が終戦までに間に合った事で、戦争末期の輸送力強化に僅かながらに貢献した。また、63系の製造は20m・4ドア車の製造ノウハウの蓄積となり(今まで18m3ドアが最大だった)、戦後も日本車輌や川崎車輛(後の川崎重工業)などと共に日本の大手鉄道車輛メーカーとなる手掛かりを掴んだ。

 

 63系以外にも、D51形蒸気機関車(戦時設計版)、D52形蒸気機関車、EF13形電気機関車の製造も行った。これらは戦争によって生み出された戦時設計の極みと言え、徹底的な簡略化や代用素材の使用、工作精度の低さなどによって低性能は免れなかった。それでも、終戦までにそれぞれ数十両製造(EF13は4両)され、戦争後期・末期の輸送力強化に役立った。

 

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 金融機関の内、日本鉄道銀行は大室銀行に、日鉄火災保険は大室火災海上保険に統合された。これにより、日鉄財閥は自前の金融機関を失い、大室財閥の影響力が強まる事となった。そして、戦後に旧・大室財閥、旧・日林財閥と共に「中外グループ」を形成する事となる。

 

 その一方、日鉄證券は大室證券と合併する事無く独立を保ち続け、戦後は日本鉄道興業と並んで旧・日鉄財閥の中核として歩む事になる。それ処か、中外グループ内で中外銀行(戦後に大室銀行から改称)とグループ内での金融部門の中核を争うまで影響力・資金力が拡大し、グループ内の金融部門が中外銀行派と日鉄證券派に分かれる(住友グループ内の旧・住友銀行と旧・住友信託銀行の関係に近い)程になる。

 

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 日本各地にあった日鉄系の鉄道会社は、他の私鉄に統合されるか国有化された。特に、主要幹線のバイパスになる路線、鉄や石灰岩などの重要資源を沿線に産出する路線、沿線が大規模軍需工場地帯の路線が国有化された。

 その例が、東北鉄道鉱業(石炭・耐火粘土)、南部開発鉄道(鉄鉱石)、中信電気鉄道(鉄鉱石)、防長電気鉄道(石灰岩)であり、それぞれ「葛巻線」、「七戸線・三本木線・五戸線」、「中信線」、「防長線・長門線・三田尻線」となった。これ以外にも、日鉄系の鉄道会社で国有化された路線もある(詳しくは、『番外編:日鉄(+α)による新路線建設』を見る事)。

 尚、これらの会社は路線こそ国有化されたものの、会社そのものは存続している。これは、戦争終了後に路線を戻す予定だった為である。また、鉄道事業以外は買収されなかった為、残ったバス事業や不動産事業を残す目的でもあった。

 

 国有化以外にも、陸上交通事業調整法によって他社に統合された鉄道会社もあった。代表例が、筑波高速度電気鉄道(→京成電気軌道)、南津電気鉄道(→京王電気軌道→東京急行電鉄)、相武電気鉄道(→東京急行電鉄)、南海急行電鉄(→南海鉄道→近畿日本鉄道)である。戦後、南海急行電鉄は独立するものの、多くは合併先の会社の一路線となった。

 一方、日鉄系の鉄道会社が統合した例もある。代表例として、宮城の仙台鉄道、静岡の駿遠鉄道、北陸の北陸鉄道、九州の西日本鉄道がある(詳しくは、『番外編:日鉄(+α)による新路線建設』を見る事)。

 

 因みに、この世界の西鉄もプロ野球団の大洋軍(後の大洋ホエールズとは無関係)を1943年に譲渡され「西鉄軍」としたが、史実とは異なり自主解散しなかった。その為、1944年のプロ野球団の休止の時期まで活動を続け、戦後もすんなり復活した。戦後、西鉄軍は「西鉄ライオンズ」と改称して、戦後のプロ野球で活躍する事となる。



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番外編:この世界の太平洋戦争

 日本時間1941年12月8日、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対し宣戦を布告した。後に「太平洋戦争」と呼ばれる戦争が始まった(当時、日本での公式名称は「大東亜戦争」)。

 開戦初日、日本による大規模攻撃は3つあった。時系列で並べると、陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸、第一航空艦隊による真珠湾攻撃、第十一航空艦隊によるフィリピン空爆である。この内、マレー上陸とフィリピン空爆は史実通りとなったが、真珠湾攻撃は大きく異なった。

 

 第一航空艦隊による空襲によって、アメリカ太平洋艦隊は大きな被害を受けた。宣戦布告の知らせを受けた事で、将兵に緊急の配備命令が下った。それにより、真珠湾内では将兵の移動で慌ただしい状況となったが、不幸な事にその時に空襲を受けた。これにより、将兵の被害が甚大となり、約8千名が死亡する事となった(史実では約2千4百名)。

 

 また、艦艇の被害も大きく、戦艦4(「ウェストバージニア」「アリゾナ」「ネバダ」「オクラホマ」)が沈没(修理される事無くそのまま除籍)、戦艦6(「サウスダコタ」「インディアナ」「メリーランド」「ワシントン」「カリフォルニア」「テネシー」)は大破着底となり、他にもドックに入渠中の「ペンシルベニア」が損傷した(「コロラド」は本土のドックに入渠中だった為、無事)。これにより、向こう半年間は太平洋艦隊の戦艦部隊は行動不可能となった。

 ここまで被害が拡大した理由は、先述した緊急配備によって中途半端に人員が乗り込み艦を動かした事、被弾しても対処が遅れた事だったが、一番大きい理由は「真珠湾は攻撃されない」と思い込んでいた事だった。

 

 ハワイ攻撃後、第一航空艦隊は再度攻撃か帰投かで揉めた。再度攻撃派は『ここで太平洋艦隊を徹底的に攻撃して、向こう一年間の行動を起こさせない、東南アジアを完全占領するまでは太平洋艦隊に行動させない』というものだった。一方の帰投派は『既に一定以上の戦果は出しており、航空機や搭乗員の被害も意外と大きく、これ以上の攻撃は無駄になる可能性が高い。また、真珠湾に米空母がおらず、所在が分からない以上、この海域に留まる事は危険』というものだった。司令長官の塚原二四三は双方の意見に一理ある事から、何方の判断を採用するか判断しかねていた。

 しかし、ある報告が塚原長官を判断させた。それは、『敵空母発見』である。これは、真珠湾攻撃後に帰投しようとした機体が機位を見失って彷徨っていた所、偶然アメリカの艦載機を発見した。爆装が確認出来た為、進路と逆の方向に空母がいるのではと考えてそちらに進んだ所、その考えが当たり、空母1(「エンタープライズ」)、重巡洋艦3(「チェスター」、「ソルトレイクシティ」、「ノーザンプトン」)を中核とする第8任務部隊(司令官はウィリアム・F・ハルゼー)を発見した。

 『敵空母発見』の報告を受けて、直ぐに別の偵察機がその方面に向かい、詳細な位置と艦隊編制が送られた。塚原長官は『この好機を逃すな!必ず空母を沈めろ!』と厳命し、帰投した第一次攻撃隊と予備機による空母攻撃隊を編成し出撃させた。

 

 日本側に発見された第8任務部隊だが、出来る事と言えば残っている戦闘機を上げて迎撃する事だけだった。発見される前に、前述の攻撃隊や真珠湾への増援などで半数近くの機体が飛び立っていた。そもそも、第8任務部隊はウェークへの航空機輸送が目的でその帰りだった為、事前の搭載機体も少なかった。

 そうして、日本側の攻撃隊がアメリカの迎撃隊と衝突したが、日本側の方が数・練度共に優れていた為、呆気無く突破された。そして、日本側の攻撃は凄まじく、攻撃30分で空母1、重巡2、駆逐艦1沈没、重巡1大破(後に自沈処分)、駆逐艦2中破という損害を受けて壊滅状態となったが、司令官のハルゼーは何とか無事だった。

 これに対し、日本側の損害は3機未帰還、5機着艦後処分という僅かなものだった。

 『空母撃沈確認』の報告を受け、塚原長官以下第一航空艦隊司令部の面々は当初の目的を全て果たしたと考えた。実際、この作戦の目的である「太平洋艦隊の戦艦部隊を長期間動けないようにし、かつ空母を攻撃する事」は達成されたのである。これによって再度攻撃派も満足し、第一航空艦隊は呉に向けて帰投した。

 

 開戦初日の真珠湾攻撃と空母沈没は、アメリカ海軍にとって大きいものだった。真珠湾攻撃によって、太平洋艦隊の主力部隊は向こう1年間の活動は不可能となった。重油タンクが破壊されなかった事は幸いだったが、戦力が無ければ燃料だけあっても意味が無かった。

 それ以外にも、痛い問題が3つあった。1つ目は、空母沈没によって、当時7隻しか無かった空母(太平洋に「コンステレーション」(史実の「レキシントン」)、「レンジャー」(史実の「サラトガ」)、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」、大西洋に「ディスカバリー」(史実の「レンジャー」)、「ワスプ」、「ホーネット」)の1隻が消えた。当時の大西洋はドイツ海軍のUボートが大暴れしていた時期であり、対潜哨戒などに空母が使用された為、大西洋から回すのは難しかった。その後、何とか「ホーネット」を太平洋に回したが、これによってUボートが更に暴れる事となった。また、開戦初頭にいきなり空母を失った事でアメリカが空母の運用に慎重となり、マーシャルやギルバートなどで行われた空母によるヒットエンドランも消極的な運用しかされなかった。

 2つ目に、大量の水兵が1日で消失した事である。水兵というのは技術職でありエリートである為、簡単に補充が効かない存在である。それが1日で8千人も消えたのである。その補充の為には、大西洋艦隊からの引き抜きや教育期間を切り上げて出すしかない。その為、アメリカ海軍は終戦までセイラーの数や練度に悩まされる事となる。

 3つ目に、史実と異なり宣戦布告後の攻撃だった為、「騙し討ち」と言えず、ルーズベルトの支持率も高くなかった為、アメリカ国内での戦争支持率は7割程度(史実は9割越え)だった。その為、国内での非戦論が残り続け、「アメリカの団結」を謳えなかった。

 

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 真珠湾攻撃が順調な頃、東南アジア方面の攻略も順調だったが、イギリス東洋艦隊とアメリカアジア艦隊という懸念があった。

 この世界のアジア艦隊は史実の戦力(重巡洋艦1隻、駆逐艦数隻)に加え、巡洋戦艦「レキシントン」「サラトガ」と重巡洋艦1隻が加わっている。巡洋戦艦2、重巡洋艦2と表面上の戦力は大きかったが、内実は寒いものであった。

 レキシントン級巡洋戦艦は40㎝連装砲を4基備え、35ノットの高速を発揮出来るものの、それは竣工当初の話である。開戦時、一部の装甲の増加や大規模補修を受けていない事、対空砲や航空機銃の増設などで最高速力は32ノットに低下していた。加えて、一部の装甲を強化したとは言え、40㎝砲に対する防御力は主要区画に対しては殆ど無く、それ処か20㎝砲で貫かれる恐れもあった。

 また、充分な訓練を行っていない事から、練度面でも不安があった。

 

 これに対する第一南遣艦隊は、天城型戦艦2隻と穂高型重巡洋艦4隻を主力とした。

 天城型戦艦は、元々巡洋戦艦として竣工したが、1930年代の大改装で装甲の強化が行われて、これを機に種別が戦艦に変更となった。40㎝連装砲を5基備え、30ノットの速力を有する。速力ではレキシントン級に劣るものの、攻撃力・防御力共に天城型の方が上回っており、総合的には天城型の方に分があった。

 穂高型重巡洋艦は、鳥海型重巡洋艦(史実の高雄型)の装甲強化版であり、速力こそ33.5ノットと遅くなったものの、魚雷発射管の拡大によって攻撃力は向上している。また、スクリューの変更によって速力が34ノットに向上するなどの改良も行われている。

 

 両艦隊は、1941年12月10日にマニラ湾沖で接触した。アメリカ側は、宣戦布告を聞いて慌てて出撃準備を行ったものの、その直後に渡洋爆撃を受けた。これによって、キャビテ軍港は使用不可能となり、艦隊にも沈没艦こそ無かったものの、多くの艦艇が損傷した。特に痛かったのが、「サラトガ」に2発の爆弾が命中し、その内の1発が煙突付近に命中した事で、最大速力が27ノットに落ちた事だった。

 それでも、南シナ海やジャワ海での通商破壊やイギリスやオランダ艦隊との合流、港外に出て被害の拡大を防ぐ、進行してくるであろう日本軍の迎撃などを目的に12月9日深夜に出撃した。12月に戦争が始まる可能性が高いと言われていた為、出撃の準備が既に整っていた事が、攻撃後直ぐに出撃出来た理由だった。

 

 しかし、第一南遣艦隊はマニラ湾沖でアジア艦隊を待ち受けていた。事前情報で艦隊の陣容や、航空隊や潜水艦からの報告で艦隊の動向は逐一知らされていた。また、フィリピン攻略の為にはアジア艦隊を排除しなければどうにもならない事が分かっていた。

 日付が10日に代わって30分も経たない頃、「天城」のレーダーが艦隊の反応を捉えた。位置や進路からアジア艦隊である事は明白だった。アジア艦隊は、シンガポールに向かおうとしていた。ここに籠もられるとマレー作戦に支障を来たすだけで無く、浮きドックによって修理される恐れもあった。そうなれば、東南アジア海域をその俊足で暴れる事も考えられた。

 そうならない様に、この一戦で片を付ける必要がある。艦隊司令長官南雲忠一は、敵艦隊への突撃を命じた。

 

 アジア艦隊は、レーダーを装備していなかった事からこの動きに遅れた。25㎞前方に敵艦隊を発見した20秒後に発砲炎が見えた。そして、両艦隊の相対速度は46ノット(日本26ノット、アメリカ20ノット)であり、20分程度で距離が0になる程だった。

 第一南遣艦隊が会敵を前提としていたのに対し、アジア艦隊は終始逃げの姿勢だった。その為、ジグザグ航行によって被弾しない様に回避していたが、それが却って逃走する時間を要する事となった。また、「サラトガ」が被弾によって最高速力が落ちていた事もあり、本来なら勝っている速力でも敵わなかった。

 

 そして、砲撃開始から10分程で、先頭を航行していた「レキシントン」に40㎝砲弾が3発命中した。これにより、「レキシントン」の速力は大幅に下がり、12ノットが限界だった。弾薬庫に火災が回らなかった事は幸いだったが、これによってアジア艦隊は事実上シンガポールへの逃走は不可能となった。

 その後、「レキシントン」は更に3発の40㎝砲弾が命中し、その内の1発が後部主砲塔を貫通し弾薬庫に直撃して爆沈した。「サラトガ」も、2発の40㎝砲弾と突撃してきた重巡洋艦から発射された魚雷を3発喰らって大破、その後自沈した。それ以外の艦艇も、重巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が沈没、駆逐艦1隻が大破してキャビテ軍港に引き返した。残った艦艇(重巡洋艦1隻と駆逐艦3隻)は何とか離脱し、蘭印へと逃走した。

 一方の日本側の被害は、「天城」に主砲弾が2発命中したものの、大改装時に装甲を強化した事で小破で済んだ。他の艦艇は被害無しという、日本側の完全勝利に終わった。

 

 このマニラ湾沖海戦によって、フィリピン周辺の敵艦隊は事実上消滅し、同日にマレー沖でイギリス東洋艦隊を航空攻撃のみで撃滅した事から、フィリピン・マレー攻略の障害は事実上消滅した。この2つの海戦に勝利した事で、東南アジア攻略は順調に進んだ。

 

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 東南アジア攻略が一段落付いた1942年3月、連合艦隊ではインド洋に後退したイギリス東洋艦隊の撃破が提案された。開戦劈頭にイギリス東洋艦隊は航空攻撃のみで撃滅されたものの、本国艦隊からの増援によって、戦艦5(「ウォースパイト」、「ロイヤル・ソヴリン」、「リヴェンジ」、「ラミリーズ」、「レゾリューション」)、空母3(「インドミダブル」、「フォーミダブル」、「ハーミーズ」)という大艦隊に戻っていた。この艦隊が、ベンガル湾や蘭印周辺で通商破壊をされるのは厄介であり、順調に進んでいたビルマ(現在のミャンマー)攻略作戦に支障を来たす恐れがあるという判断からだった。

 3月26日、スラウェシ島を出港した第一航空艦隊は、セイロン島攻撃の為出撃した。以降の流れは史実通りだが、日本側が既にレーダーを装備している事が、その後の流れに変化をもたらした。

 

 4月5日16時頃、「比叡」の機上レーダー(練習戦艦から戦艦に戻す際に試験的にレーダーを装備)が航空機の反応を捉えた。上空警戒に当たっていた零戦が向かいこれを撃墜したが、既に『敵艦隊発見』の電報を打たれた後だった。また、機体がイギリス軍艦載機のソードフィッシュであった事、飛行進路から陸上基地からのものでは無い事から、イギリス空母機動部隊の存在が確実となった。

 これにより、空母機動部隊探索の為に急遽、多数の偵察機が艦隊から放たれた。特に、航空機が来た方向への偵察に重点が置かれた。これが功を奏し、翌日の偵察でイギリス東洋艦隊の主力部隊を発見した。その為、イギリス東洋艦隊に向けて攻撃隊が出撃したが、トリンコマリー攻撃に備えての準備をしている最中に「敵艦隊発見」の報告が入った為、陸上基地向けの装備での出撃となった。当初、対艦装備に転換しての出撃も考えられたが、転換中に逃げられる恐れがある事から、対陸上基地装備の第一波攻撃で敵を痛めつけた後、対艦装備の第二波攻撃で殲滅する事となった。

 

 この後、イギリス東洋艦隊は第一航空艦隊から二波の攻撃を受けて、戦艦1(「レゾリューション」)空母2(「インドミダブル」、「フォーミダブル」)、軽巡洋艦1が撃沈された。それに対する第一航空艦隊の被害は、戦艦1(「榛名」)が敵航空隊の攻撃で小破し、航空機10機が未帰還であった。

 再び第一航空艦隊の完全勝利であり、イギリス東洋艦隊はは再び事実上壊滅した。その後、日本は再びセイロン島攻撃を行い、ここで空母「ハーミーズ」を撃沈した。これにより、インド洋東部の制海権は事実上日本のものとなった。また、イギリスはこの海戦で空母3隻失い、以降海上航空戦力の不足に悩ます事となる。



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番外編:この世界の太平洋戦争②

 1942年4月18日、日本近海に進出した米空母「ホーネット」から16機のB-25爆撃機が出撃した。アメリカは、日本本土を奇襲的に空襲しようとした。

 しかし、この前の段階から日本の哨戒網に探知されていた為、当初予定していた夜間発艦・空襲は取り止めとなった。また、発艦位置も当初予定より遠方となり、航続距離に不安があった。

 

 一方の日本側は、日本近海にまで米空母が進出した事に驚きを隠せなかった。しかし、発見した位置とアメリカの艦載機の性能から、空襲は翌日になると予想した。その前提で日本近海に哨戒網を張った。

 しかし、同日の11時頃、千葉県のレーダーが太平洋方面から東京に向かう複数の航空機の反応を捉えた。陸海軍は、すぐさま関東の各航空隊に迎撃を命じた。

 これにより、数十機の戦闘機が迎撃に上がり、東京や横須賀などの主要拠点では高射砲の準備が完了した。しかし、迎撃に上がった戦闘機の殆どが旧式の九六式艦上戦闘機や九七式戦闘機だった。ゼロ戦や一式戦闘機は前線で運用されており、後方にまで行き届いていなかった。

 その為、武装の貧弱さや速力の面で不安があり、実際、敵爆撃機と接敵しても会敵機会や攻撃機会の少なさで、3機を撃墜した以外は全て逃げられている。また、帝都空襲を防ぐ事も叶わず、川崎や名古屋、神戸など主要工業地帯も空襲を受けた。

 幸いだったのは、大きな被害が出なかった事、横須賀で空母に改装中だった「大鯨」が被弾しなかった事だった。

 

 この空襲で、陸海軍は大混乱になった。陸軍は海軍に防空の不備を批判され、逆に海軍は陸軍に海上迎撃で敵を捉えられなかった事を批判された。

 また、この空襲によって、2つの計画が実行に移された。一つは、海軍は敵空母殲滅を目的としたミッドウェー作戦を検討する事になる。但し、その前に米豪分断作戦の一環であるポートモレスビー攻略がある為、それが一段落する6月以降に実行する予定となった。

 もう一つは、今まで陸海軍で独立していた本土防空を、新設する「統合防空総司令部」の下で一元化する事となった。本土防空では陸軍の方が主となる為、司令官は陸軍、副司令官は海軍から出す事となった。同時に、陸海軍は防空用の戦闘機(陸軍は重戦闘機、海軍は局地戦闘機)の共同開発や配備を推し進める事となった。

 

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 4月18日の本土空襲によって、ミッドウェー作戦が急遽立案されたが、その前にMO作戦(ポートモレスビー攻略)が実行に移された。この作戦にも空母を用いる事になっていたが、第一航空艦隊の空母は今まで大規模作戦を実施し続けていた為、艦の整備や航空隊の補充などを行わなければならない程疲弊していた。その為、この作戦に参加する予定だった第五航空戦隊の「翔鶴」と「瑞鶴」が参加出来なくなった。

 そこで、代わりに参加する事になったのが、「隼鷹」、「祥鳳」、「瑞鳳」の3隻の軽空母である。史実の「隼鷹」は同年5月初頭に竣工したが、この世界では工業力の向上や早期の戦力化を目的とした工事の促進によって、4月中頃に竣工した。これにより、「隼鷹」と「瑞鳳」を第三航空戦隊に臨時に編入した。

 しかし、完成を急がせた為、一部の工事が完了していなった。また、航空隊の手配が追い付いていなかった為、「鳳翔」や「大鷹」の艦載機を回したり、第一、第二、第五航空戦隊から配置転換させたり、訓練を一部繰り上げて編入するなどして、何とか90機程度を配備する事が出来た。

 尤も、搭乗員の多くの練度が低い事、新型機が少ない事(大半が九六式艦上戦闘機と九七式艦上攻撃機、一部には九六式艦上爆撃機や九六式艦上攻撃機も見られた)から、何処まで戦力となるかという不安があった。

 その代わり、ラバウルでの戦力増強が順調に進んでいた事(この世界では、アメリカが緒戦に空母を失った事で、珊瑚海方面でのヒットエンドランが行われなかった。これにより、2月のニューギニア沖海戦が発生していない)から、ラバウル航空隊による支援が見込めた。

 尚、ポートモレスビー攻略部隊とラバウル航空隊の指揮系統の違い(ポートモレスビー攻略部隊は井上成美中将の第四艦隊麾下、ラバウル航空隊は草鹿仁一中将の第十一航空艦隊麾下)から、「臨時措置」としてこの作戦中に限り、ラバウル航空隊の指揮命令権を第四艦隊に移している。

 

 これに対しアメリカ側は、暗号解読によって日本がポートモレスビー攻略を実行しようとしている事を把握したが(予算・人員の増加によって、暗号解読の精度が向上、この頃には史実と同程度の精度を持つ)、ここに回す戦力の問題があった。「エンタープライズ」は既に沈没し、「ヨークタウン」と「ホーネット」は本土空襲の帰りで珊瑚海に回せない。「レンジャー」(史実の「サラトガ」)は修理中で動かせず、「ワスプ」と「ディスカバリー」(史実の「レンジャー」)は大西洋だった。そうなると、消去法から「コンステレーション」(史実の「レキシントン」)しか無かった。

 アメリカは「コンステレーション」を派遣する事となったが、空母が危険に晒された際はどうするかが問題となった。ここで空母を失う事は今後の作戦に支障を来たす為だが、同時にポートモレスビーを失う事も同様に今後の作戦に支障を来たす恐れがあった。

 

 5月1日、ポートモレスビー攻略部隊がトラック諸島を出撃した。これを受けて、アメリカも「コンステレーション」を中心とした第11任務部隊を珊瑚海に派遣した。7日、予定海域に進出した第二航空艦隊は、周辺海域の偵察を行い、居るであろう米機動部隊を探した。日本時間5時30分、発進した偵察機からの『敵艦隊発見』の電文を受け取った。

 しかし、その報告が「空母、重巡洋艦、油槽船」という歪な艦隊編制から、これが本当の報告か分からなかった。その為、再度同地域の偵察を行う様に命じた所、『空母は誤り、油槽船と駆逐艦のみ』という報告が入った。これにより、機動部隊発見とはならなかったが、油槽船がいる事から確実に艦隊がいると判断され、小規模の攻撃隊を向けると共に(2隻共撃沈)、より一層の偵察が行われた。

 6時50分、待望の『敵空母発見』の報告が届いた。しかも、詳細な艦隊内容や位置まで報告されるなど、確度が非常に高いものだった。第三航空戦隊司令官角田覚治は直ちに攻撃隊発進と、ラバウル航空隊にも出撃を依頼した。

 一方のアメリカも、6時15分にポートモレスビー攻略部隊を発見しており、こちらも直ぐに攻撃隊を発進させている。初めての本格的な空母機動部隊決戦が始まろうとしていた。

 

 初めての機動部隊決戦は、日本が制した。

 日本側は、艦載機部隊の練度の低さから、第一波攻撃隊は「コンステレーション」に対して爆弾2発、魚雷1発しか当てられなかった。しかし、その後のラバウル航空隊による第二波攻撃によって更に爆弾2発と魚雷1発を命中させた。これによって、「コンステレーション」は継戦能力を失い、ガソリンタンクが損傷して、艦内に気化したガソリンが充満した。艦載機第二波攻撃隊の爆弾1発がダメ押しとなり、「コンステレーション」は大爆発を起こした。アメリカ側には「コンステレーション」を曳航する余裕が無い事から、駆逐艦によって自沈処分となった。

 アメリカ側も練度の低さから、当初の目的だった輸送船団を見失った。代わりに発見した機動部隊に攻撃を仕掛けたが、日本は「隼鷹」に装備されているレーダーによってこれを探知しており、迎撃機を多数発艦させてこれを妨害した。それでも、「祥鳳」に2発の爆弾を命中させてこれを大破させている。「祥鳳」は、一時は自沈が検討される程の被害を出したが、賢明な消火活動によって沈没だけは避けられ、護衛を付けてトラックに引き返した。

 

 アメリカは敵空母1隻を大破させたが、逆に空母1隻を失った事で妨害能力を失った。これにより、日本は珊瑚海の敵機動部隊を撃滅したとしてポートモレスビー攻略を続行した事で、目的のポートモレスビー防衛も失敗した。実際、日本は11日にポートモレスビー攻略を実施、16日には陥落させている。

 これにより、日本はオーストラリア攻撃の前進基地を得たと同時に、ラバウルの後方支援基地化に成功した。また、(日本側の視点で)大量の物資や重機を獲得した事で、ポートモレスビーの基地能力の強化に役立った。

 逆にアメリカは、オーストラリア防衛という負担が圧し掛かる事となった。実際、ポートモレスビー陥落後直ぐに、オーストラリア北東部では日本軍機との戦闘が頻発する様になった。

 

 一方、日本はこの作戦での反省点として、空母の脆弱性と各部隊との連携の不備が問題となった。これを受けて、空母の不燃化工事の順次実施と、部隊間連絡を円滑にする法令の整備が行われる事となる。

 

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 ポートモレスビー攻略が成功し、次はミッドウェー作戦となった。この作戦の目的は、第一に出てくるであろう敵空母の殲滅、第二にミッドウェー島の攻略であった。これは、当初はミッドウェー島を攻略して哨戒圏の前身を目的としたもののを、4月18日の本土空襲によって連合艦隊司令長官山本五十六が「敵空母殲滅」を半ば強引に加えた為だった。

 この作戦の要である第一航空艦隊は、インド洋作戦以降休養や整備に注力していた為、艦艇については練度は元に戻った。一方の航空隊は、損耗や多方面への異動によって半数近くが入れ替わっていた。その為、練度の低下が懸念されていたが、艦隊の整備中に猛訓練を行った事で、真珠湾攻撃時程では無いものの高い練度を獲得した。

 

 5月27日、第一航空艦隊は柱島を出撃、2日後に山本長官直卒の連合艦隊主力部隊と第一艦隊が出撃した。この時の艦隊の内容だが、第一航空艦隊は「榛名」がインド洋海戦で損傷した為抜けており、その代わりに「扶桑」と「山城」が編入された。この2隻は、改装によって速力が向上しており、対空火器も増強され、何よりレーダーを装備している事から、空母の護衛に最適と判断された。

 一方の主力部隊は、燃料不足から「大和」、「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」の5隻となり、「伊勢」と「日向」は国内待機となった。また、艦載機が無い事から「鳳翔」の参加も見送られた。

 尚、ミッドウェー作戦に呼応する形のアリューシャン作戦は、珊瑚海海戦での第三航空戦隊の損耗から稼働可能な空母が無い為、アッツ、キスカ、アダックの各島への上陸作戦に変更となった。

 

 一方のアメリカ側は、偽電文に日本が引っ掛かった事から攻撃目標がミッドウェーである事、その主戦力が真珠湾を攻撃した機動部隊である事を突き止めた。その為、ミッドウェーに送れるだけの増援を送ったが、それでも戦力不足と見られた。ミッドウェー島の航空機は増援を含めて総計100機、無理を押して派遣する3隻の空母(「ヨークタウン」、「ホーネット」、「ワスプ」)の艦載機は約240機、合計で350機程度だった。しかしに、日本側は約400機あり、練度でも日本側の方が優れていた。

 

 6月5日1時30分、ミッドウェー沖に展開した第一航空艦隊は、ミッドウェー島攻撃隊を出撃させた。一撃を以てミッドウェー島の戦闘能力を消失させ、現れるであろう敵空母機動部隊を捕捉・殲滅する事を目的とした。

 実際、ミッドウェー島は攻撃隊によって戦闘能力をほぼ消失し、攻撃隊もこれを確認している。その為、第二次攻撃は行われず、以降は偵察に専念した。

 4時30分、偵察機が『敵らしき艦隊発見』の電文を打ってきた。内容が曖昧だった為、本物かどうか不明だったが、その方面に偵察機を放ってその真偽を確認する事となった。そして、5時15分にその方面に向かった偵察機から『敵艦隊発見。空母を含む十数隻の艦隊』とその詳細な位置の報告が届いた。最初に報告してきた機体の位置とは大分離れた場所にいたが、空母が出てきたのは好都合だった。

 直ぐに攻撃隊に対艦兵装の装備を行い、発進準備に取り掛かったが、同時にミッドウェー攻撃隊も戻ってくる時間だった為、飛行甲板では攻撃隊の着艦を、格納庫では対艦兵装の装備と飛行甲板へ上げる準備で忙しくなった。6時30分までに攻撃隊は全機着艦し、7時には全空母で敵空母攻撃隊の発艦準備が整った。そして、全空母の攻撃隊は7時25分までに全機発艦、次いで直掩機のゼロ戦が発艦した。

 

 空母攻撃隊が全機発艦した直後、「比叡」や「扶桑」のレーダーが中空から侵入する航空機を探知した。敵空母から飛来した艦爆(SBDドーントレス)だった。この時、多くの直掩機は雷撃機への対応で低空に降りていた為、この攻撃は奇襲になるかと思われた。

 しかし、新たに発艦した直掩機が艦爆に向かった事で、奇襲を受ける事は無かった。それでも、全ての艦爆を落とす事は出来ず、十機程度が艦隊上空に襲来した。対空砲火や直掩機の妨害をものともせず、数機は空母に爆弾を投下した。これにより「愛宕」と「蒼龍」に爆弾が1発ずつ命中した。

 しかし、多くの機体が出払っている事、艦内の機体の多くが燃料が無かった事などから、延焼する事は無かった。「蒼龍」は防御力の低さから中破となったが、「愛宕」は当たり所が良く、爆弾で空いた穴を塞げば戦闘状態に復帰出来た。

 

 敵空母に向かった攻撃隊だが、最初の攻撃で「ワスプ」を撃沈し、「ヨークタウン」と「ホーネット」を中破させた。100機以上(内3分の1は戦闘機)による攻撃は凄まじく、一撃で敵空母は戦闘能力を失った。それでも、空母を完全に撃沈出来なかった事、巡洋艦などの艦艇がまだいる事から、攻撃隊隊長は『再度攻撃を要す』と打電した。塚原長官も『叩ける内に叩くのが戦いの常道』として、ミッドウェー攻撃隊を休養・整備の後に第二次攻撃隊に編成した。

 9時に第二次攻撃隊が発艦し、1時間後には敵艦隊を視認して攻撃に移った。その結果、残っていた空母2隻を撃沈し、重巡洋艦3(「アストリア」、「ニューオーリンズ」、「ペンサコラ」)と軽巡洋艦1(「アトランタ」)、駆逐艦2を撃沈、若しくは大破させた(大破した艦は後に自沈処分)。これ以外にも、重巡洋艦1(「ミネアポリス」)が中破して航行可能だったが、ハワイに撤退する途中で伊168の魚雷攻撃によって沈没した。

 

 2度の攻撃で、米機動部隊は壊滅した。これにより、敵艦隊は海域から撤退し、ミッドウェー島攻略の障害は無くなった。5日夕刻に主力部隊もミッドウェー島沖に到着し、ミッドウェー島に対して3回の主砲斉射を行った。大口径砲の直撃を受けたミッドウェー島守備隊は、この攻撃によって完全に抗戦の意思を失った。翌日に行われた上陸でも、抵抗の意思を見せる事無く降伏した。

 ミッドウェー作戦は、日本の完全勝利よって完遂した。

 

 この作戦で、日本は目的だった米空母を太平洋から一掃した。また、ミッドウェー島攻略に成功し、ハワイに対するプレッシャーを掛け続ける事となった。

 一方、この作戦後の7月13日、山本五十六は連合艦隊司令長官を解任され、同日付で軍令部総長に親補された。これは、彼の我儘をこれ以上聞けなくなった事、彼の能力上、実戦部隊の長よりも軍政又は軍令の長の方が良いと判断された事だった。これにより、永野修身は軍令部総長を退き予備役に編入され、後任の連合艦隊司令長官は豊田副武が親補された。

 逆に、アメリカ太平洋艦隊は手持ちの空母を全て失う事となった。また、ミッドウェーが占領された事でハワイの防備を固める必要が生じ、大量の航空機や対空砲、数個師団が張り付く事となった。これにより、この後に発生するソロモン方面での戦闘での枷となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争③

 日本はFS作戦(フィジー・サモア・ニューカレドニア方面への侵攻作戦)の前段階として、ソロモン・ニューヘブリデス両諸島の攻略に取り掛かった。5月3日にソロモン諸島のツラギ島に上陸し、水上機基地が設けられた。この基地は、珊瑚海海戦の時は敵空母の攻撃によって破壊されたが、その後再建された。

 その後、水上機だけでは制空権が取れない事、空母を使わずにFS作戦を行えないかと検討された事で、6月中頃にはガダルカナル島に上陸して飛行場の建設が行われた。建設工事には、内地やポートモレスビーで鹵獲した重機を数台持って来た事で急速に進み、7月末には完成が見込まれた。8月5日、ラバウルからガダルカナルへ2個飛行隊(24機)が進出し、現地の制空権を確保した。

 

 日本軍のポートモレスビー占領、ガダルカナル島上陸と飛行場建設は、アメリカにとっては一大事だった。ポートモレスビーを失った事で、南太平洋から北上して日本本土を狙う作戦が根底から崩れ、このまま日本軍が南下すればオーストラリアが戦争から離脱する恐れがあった。

 実際、ポートモレスビー陥落後から行われている珊瑚海方面での航空戦は消耗戦となり、機材やパイロットの練度で日本の方が優れている為、『日本機1機を堕とすのに10機必要』と言われる程、連合軍の被害は甚大だった。これにオーストラリアは悲鳴を上げ、『充分な支援が無い場合は日本と停戦する』と公式で発言する程だった。

 これによって、アメリカとイギリスはオーストラリアを支援する事になったが、イギリスはドイツとの戦闘が佳境に入っている時期であり、地球の反対側という事もあって支援する余裕が無かった。その為、支援するのは事実上アメリカのみとなった。しかし、そのアメリカもミッドウェー海戦の敗北とそれに伴うハワイ方面の防備の強化、大西洋で暴れまわっているUボートへの対応などで、こちらも余裕が無かった。

 それでも、このまま日本軍の進撃を見過ごす事は出来なかった上、これ以上負けが続くのは内政上見過ごせなかった。この頃の大統領支持率は5割強程度しか無く、戦争支持率も6割を維持しているのがやっとという状態だった。現状では講和は少数意見だが、このままいけば国内の大半が講和に傾きかねなかった。そして、民主党は下野して、大統領は弾劾されるかもしれなかった。そうなれば、ヨーロッパでの戦争も停戦となる可能性があり、連合国そのものの瓦解という最悪の可能性があった。

 それを防ぐ為にも、何としても日本に一矢を報いて、来るべき反攻作戦の第一歩を築く必要があった。それが、ガダルカナル島への上陸作戦だった。

 

 8月7日、アメリカ・オーストラリア連合軍はガダルカナル島、ツラギ島への攻撃を開始した。その戦力は、戦艦2、空母2、巡洋艦10以上という、当時アメリカが出せるほぼ全てだった。

 しかし、日本は偵察によってこれを察知、航空隊に上空の警戒を当たらせた為、奇襲にならなかった。それ処か、艦載機部隊が戦闘機の妨害によって満足な攻撃を行えなかった。また、ガダルカナルからの連絡でラバウルから飛来した航空隊の攻撃によって、艦載機や輸送船団の一部が攻撃され、艦載機は3分の1が撃墜され、輸送船も2隻が撃沈された。また、この被害によって空母機動部隊が南方に撤退する事となった。

 一方の日本側も、戦闘機7、攻撃機4損失と大きな損害を受けた。また、ラバウルとガダルカナルの間は1000㎞ある事から反復攻撃出来ず、戦果の拡大も難しかった。

 

 昼間の空襲が終わった後、今度は夜間に艦隊の突撃を受けた。これは、ラバウルにいた第八艦隊であり、重巡洋艦「開聞」を旗艦に、重巡洋艦7(「開聞」、「穂高」、「大雪」、「古鷹」、「六甲」、「青葉」、「衣笠」)軽巡洋艦1(「夕張」)、駆逐艦3という艦隊だった。これの突撃によって、連合軍艦隊の前衛部隊は壊滅した。

 その後、第八艦隊司令長官三川軍一は、輸送船団攻撃かラバウルへの帰還かの判断に迫られた。この海域の制空権は微妙であり、米空母の存在の可能性から留まる事は危険だった。

 しかし、ブーゲンビル島の航空隊の存在や、第二航空艦隊司令長官角田覚治(珊瑚海海戦後、第三航空戦隊を中核に再編成)から『朝には海域で航空支援が可能』という連絡を受けた事で、輸送船団攻撃を決意した。これにより、輸送船団の大半は撃沈するか大破し、陸揚げされた物資にも砲撃した事で、アメリカ第一海兵師団の物資の大半が焼失した。その後、第二航空艦隊とブーゲンビル島に進出したラバウル攻撃隊による反復攻撃が行われ、周辺海域にいた敵艦艇や輸送船は軒並み撃沈し、上陸した敵部隊にも攻撃を加えた。

 これにより、連合軍の被害は巡洋艦8、駆逐艦4、輸送船全てが撃沈され、兵員の損失も陸上と合わせて5千人近くに上った。

 一方の日本側は、「加古」が集中砲火を浴びて大破し、ラバウルへの帰還中に潜水艦の攻撃によって沈没した。また、「青葉」も集中砲火によって中破し、特に艦橋に数発が直撃した事で艦長以下死傷者を多数出した。

 

 この海戦後、海軍陸戦隊が上陸し、飛行場設営隊と合流した。これにより、兵力は約3千名となった。未だに海兵隊との戦力差は大きかったが、制空権がある事から戦闘は有利に進み、一度は奪われた飛行場を取り戻した。そして、早急に修理が行われ、ブーゲンビル島に退避していた航空隊が戻ってきた事で、ガダルカナル島の制空権は日本の手に戻った。

 

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 ガダルカナル島攻略の第一歩で躓いたアメリカ軍は、その後の対策に迫られた。ガダルカナル島には、上陸した第一海兵師団の残りと沈没した艦艇から脱出して島に上陸した将兵が合計1万2千人程残っていた。

 しかし、重機や戦車、食糧などの物資の多くは輸送船毎海に沈み、陸揚げされたものも艦砲射撃によって多くが焼失した。また、ガダルカナル島周辺の制空権・制海権は日本にあり、補給をするにも救援に向かうにも困難が付き纏った。実際、何度か高速輸送船団が組まれたものの、航空隊や現地の艦隊の攻撃によって撃退されている。これによって、島に残された部隊は深刻な飢餓状態にあった。

 それでも、ここで撤退する様な事になれば、本当にオーストラリアは戦争から離脱しかねなかった。そうなれば、戦争スケジュールは大幅な変更を余儀無くされ、最悪の場合は戦争そのものを失う可能性があった。

 それを避ける為にも、アメリカは再びガダルカナル島に兵力を向けた。一個師団の増援と大量の物資を満載した輸送船団を伴って、8月20日にはソロモン諸島沖に進出した。

 

 これに対し日本は、増援の川口支隊を第三艦隊(第一航空艦隊を再編成したもの)の護衛の下、ガダルカナル島に向かっていた。ガダルカナル島にアメリカ軍機はいないものの、近隣のニューヘブリデス諸島やニューカレドニアには進出しており、時折長距離爆撃機が進出して妨害してくる為、海上警備総隊単独では不安視された為である。

 

 8月23日、日本の偵察機が米機動部隊を発見した。しかし、発見が午後を回っており距離もあった事から、この日の会敵は無かった。翌日、両軍の偵察機がほぼ同時に機動部隊を発見し、攻撃隊を放った。

 海戦の結果だが、戦力の差から日本の勝利だった。アメリカは、この海戦に参加した2隻の空母(「レンジャー」、「ディスカバリー」)を失っただけで無く、巡洋艦3、駆逐艦2を失い、戦艦1(「ノースカロライナ」)と巡洋艦2が中破した。また、後方にいた輸送船団も空襲を受け、8割が沈むという大損害を受けた。

 日本の方も無傷では無く、「翔鶴」が中破、「高雄」が小破した。この程度で済んだのは、直掩機の多さや敵攻撃隊の少なさに救われた為だった。

 

 この海戦により、アメリカの救援作戦は失敗した。当然、第一海兵師団は増援や補給を受けられず、今度こそ降伏をせざるを得ない状況になった。その為、今度は第一海兵師団を撤退させる為の作戦が検討される事となった。

 日本も、機動部隊の損傷によって後方に下がる事となったが、増援が送られた為、敵を降伏若しくは殲滅する用意が整った。実際、8月末から敵陸上部隊と戦闘を行ったが、戦力の見誤りや重装備の不足などから手詰まりとなり、これを受けて、本来ならFS作戦で投入する筈の師団規模の戦力を投入する事となった。

 

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 2度のソロモン海での戦闘によって、アメリカ海軍は多くの戦力を失った。特に、虎の子の空母を全てと、艦隊のワークホースである巡洋艦を多数失った事は、艦隊編制に支障を来たす程だった。また、高速輸送船も多数失った事で、輸送能力の低下にもなった。

 戦力の穴埋めは、アメリカの工業力をいかんなく発揮して再建中であり、東海岸の造船所ではエセックス級空母、ボルティモア級重巡洋艦、クリーブランド級軽巡洋艦の大量建造が行われており、輸送船(リバティ船やT2タンカー)も大量建造中だった。

 しかし、短期間で大量の戦力を損失する事は想定しておらず、開戦時並みの戦力になるには1年近く掛かると見られた。また、艦艇と同時に失ったセイラーも多数(現在まで2万5千人程)であり、そちらの補充も行わなければならなかったが、セイラーは技術職であり簡単に補充出来るものでは無かった。その為、前線からベテランが新兵教育の為に相次いで引き抜かれたり、新兵のまま前線に出すなど相次いだ。これにより、アメリカ海軍全体の練度の低下が発生し、そのまま戦線に出した事で損害が拡大するという悪循環になった。

 

 これを受けて、アメリカは当初の方針を撤回し、ガダルカナル島からの一時撤退、ニューヘブリデス諸島やニューカレドニアの防備を固め、時機を見て再度ガダルカナル島に侵攻する事を決定した。その為に、ガダルカナル島にある日本軍の飛行場(ルンガ飛行場)を艦砲射撃で一時的に機能を停止させ、その間に将兵を救出する作戦が立案された。

 9月17日、戦艦「アラバマ」(史実の第二次世界大戦中に竣工したサウスダコタ級戦艦。この世界では、ダニエルズプランのサウスダコタ級戦艦の「サウスダコタ」と「インディアナ」が完成)と「ノースカロライナ」を主力とする打撃部隊と、将兵を救出する輸送部隊がニューカレドニアを出撃した。

 

 一方、日本は南太平洋方面でのアメリカの通信の増加や潜水艦からの情報でこの艦隊を確認したが、輸送船団を伴っている事から大規模な増援と考えた。実際は違うのだが、敵が出てきたのだからこれを叩くのが常道として、当時トラックにいた第一戦隊(「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」)を含む艦隊とラバウルの第八艦隊をガダルカナル方面に出撃させた。

 

 両軍共に、空母を伴わない艦隊編制だった。これは、アメリカ軍は運用可能な高速空母がいない事、日本軍は航空隊の再編成や整備で内地に帰投していた為だった。その為、艦隊決戦で決まる古風な戦闘になった。

 

 両軍の激突は9月20日の夜だった。両軍のレーダーがほぼ同時に相手を捉え、方角や反応の大きさから味方では無いと判断し、主砲が火を噴いたのはそれから2分後の事だった。

 艦隊戦は日本の優位に進んだ。数では日本の方が有利であり、目的も日本の方が単純(アメリカは飛行場の砲撃、日本は敵艦隊の迎撃)である事、夜戦を重視した訓練などから、5斉射目で「アラバマ」を夾叉している。

 アメリカ側も応戦し、レーダー技術ではアメリカの方が進んでいる為、夜間戦闘でも充分に効果を発揮した。こちらも、6斉射目で先頭を行く「加賀」と最後尾の「陸奥」を夾叉している。また、戦艦同士の砲撃戦の最中に、水雷戦隊が突撃を開始し、魚雷を発射しており、内2本が「陸奥」に命中してる。

 しかし、数の差はどうにもならず、砲撃開始30分で「アラバマ」と「ノースカロライナ」は沈黙した。特に「ノースカロライナ」は、装甲が対40㎝防御に対応していなかった為、煙突部や後部砲塔に直撃弾を喰らい、速力減少と後部砲塔使用不可となった。火薬庫に火災が回らなかったのはアメリカの高いダメコン能力の賜物だが、速力の低下によって更に被弾する事となり、1発の水中弾が命中して完全に行き足が止まり、その後は2発が主砲塔を貫通して弾薬庫に直撃し轟沈した。「アラバマ」も、「ノースカロライナ」の被弾後に集中砲火を喰らい、主要区画は破られなかったものの、それ以外の区画では火災によって使用不可能となった。その中で、突入してきた「鳥海」、「摩耶」以下の水雷戦隊を阻止出来ず、3発の魚雷を喰らった事で横転沈没した。これ以外にも、巡洋艦2と駆逐艦1を失っている。

 これに対して日本の被害は、集中砲火を浴びた「加賀」が大破し、魚雷が命中後に「アラバマ」の最後の抵抗で「陸奥」も数発被弾して大破した。「加賀」の方は1930年代の大改装で装甲を強化していた事から、消火さえ完了すれば曳航可能な状況だった。実際、海戦後に消火が完了し、「土佐」に曳航されトラックに戻っている。

 「陸奥」の方は、魚雷を喰らって浸水が酷く、曳航は無理と判断された。また、火災も酷く、消火出来るか不明だった。その為、自沈するしかないと判断され、生存者を全員収容後、駆逐艦の魚雷によって自沈処分となった。これにより、「陸奥」が太平洋戦争で初めて日本海軍が失った戦艦となった。

 

 このまま救援作戦が成功すれば、アメリカとしては「犠牲は大きかったが、作戦の目的は果たした」と言えたのだが、残念ながら、救援作戦の方も失敗に終わった。これは、第八艦隊が輸送部隊に突撃をした為だった。これにより、輸送部隊は大損害を受け、特に輸送船については全て沈没するか大破して輸送に使えなくなった。

 帰る手段を失った第一海兵師団は、海戦の翌日に日本の航空隊や艦隊からの攻撃に晒され、その後のガダルカナル島守備隊の突撃に耐えられずに降伏した。これにより、アメリカの作戦は失敗し、ただでさえ数が少ない巡洋艦や輸送船、セイラーを大量に失った。また、将校の損失も大きく、アメリカ海軍の人材面での枯渇は、戦争そのものを揺るがしかねない大問題となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争④

すいません。当初、太平洋戦争の経緯は3話程度で終わらす予定だったのですが、思っていた以上に変化した為、更に続きそうです。


 ガダルカナル島からアメリカ軍を追い出した日本軍は、1942年内にFS作戦を実行する予定だった。しかし、相次ぐ大規模作戦によって、燃料不足が著しかった。また、艦艇や航空隊の損傷、将兵の疲弊による練度の低下から、整備・休養・補給体制を整えなければならなくなった。その為、1942年9月以降は準備期間となり、当初予定のFS作戦は年が明けてからに変更となった。

 

 これに対してアメリカも、戦力不足から動く事が不可能だった。空母は無くなり、巡洋艦も不足、おまけにセイラー不足で満足な活動も難しいという、外洋海軍としては致命的だった。その為、ソロモン戦以降は戦力の充実とセイラーの育成に時間が費やされ、ハワイやオーストラリア南部、ニューカレドニアなどの防備強化が行われた。その一方、潜水艦を用いた通商破壊も積極的に行われた。これらは全て、ある程度戦力が揃う1943年中頃までは守勢防御に徹し、戦力が揃い次第反攻作戦を行う計画に沿ったものだった。

 しかし、通商破壊は戦果が目に見えにくく短期的には分かりにくい為、早急な戦力の拡充が求められた。また、海上護衛総隊の存在から、日本近海や輸送船団への通商破壊は低調であり、常に半数の潜水艦が帰還しなかった。それだけでなく、航空機を用いた妨害や機雷帯航法の採用、商船隊の定時連絡の取り止めなどが行われた事で、輸送船団を発見する事そのものが難しくなっていった。

 

 しかし、これはあくまで日本近海や南洋諸島、東南アジア方面での話であり、ニューギニア・ソロモン諸島方面では一定の成果を出していた。これらの地域は、海上護衛総隊の管轄外である為である。

 それでも、日本はこの地域に常に重巡洋艦を含む艦隊を待機させており、ラバウルの第八艦隊、ポートモレスビーの第九艦隊がこの地域の海上輸送路、特にラバウル―ポートモレスビー航路(通称、ラボ航路)の警戒に当たっていた。

 一度、ラボ航路の一時的封鎖を目的に、1942年12月に潜水艦・重爆撃機・巡洋艦を中心とした水上艦隊の攻撃による攻撃を仕掛けたが、輸送船の半数を撃沈するも、参加した巡洋艦5隻が日本艦隊と航空隊の攻撃で沈没。潜水艦も3隻沈没。航空機も8機撃破されるという大損害を出した。これにより、太平洋方面のアメリカの巡洋艦はほぼ全てが無くなった。そして、この行動が、日本の新たな行動の呼び水となった。

 

 1943年1月、日本はニューギニア・ソロモン諸島でアメリカの圧力が増している事を受け、今後予定されるFS作戦の成功を円滑化する為、ニューヘブリデス諸島・オーストラリア北東部を攻撃し、現地戦力を破壊する作戦を立案した。これは、現地での航空戦による消耗や相次ぐ輸送船団への攻撃によって、このままでは現地を維持する事が難しいと判断された為だった。

 「い号作戦」と命名されたこの作戦は、当時日本が出せるほぼ全ての戦力が投入された。戦艦10(「大和」、「武蔵」、「土佐」、「長門」、「天城」、「赤城」、「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」)、空母12(「高雄」、「愛宕」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」、「隼鷹」、「飛鷹」、「龍驤」、「祥鳳」、「瑞鳳」、「龍鳳」)、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦も10隻以上投入され、陸軍航空隊を含む現地航空隊計300機も参加予定だった。ここまで大量の戦力が投入される理由は、現地の防備が厚いという報告から、当初案の航空攻撃だけでは大した被害を与えられないと考えられた事、現地航空隊や機動部隊サイドから戦艦部隊への批判(『自分達だけ安全な後方にいる気か』と言われた)を解消する目的からだった。

 

 2月11日、い号作戦が開始され、戦艦部隊の第一艦隊(連合艦隊司令長官豊田副武直率)と空母機動部隊の第三艦隊はトラックを出撃して南下した。

 アメリカは、潜水艦からの報告によってこれを発見したが、攻撃目標が分からなかった。これは、1943年に日本が暗号を全面改訂した事で、暗号解読に時間が掛っていた為だった。

 その後、潜水艦からの報告で南進を続けていると判明し、南太平洋で大規模な作戦を行うと考え、その方面への防衛として再建なったばかりの空母機動部隊を向かわせた。戦力は、エセックス級空母3(「エセックス」、「ヨークタウン」、「レキシントン」)、インディペンデンス級空母2(「インディペンデンス」、「プリンストン」)、アラバマ級戦艦2(「マサチューセッツ」、「オレゴン」)、ノースカロライナ級戦艦1(「ヴァージニア」)を中心としていた。

 しかし、日本も無線傍受やミッドウェーやギルバートからの長距離偵察でこれを掴んでおり、第六艦隊は予定進路中に潜水艦を待機させた。これが見事に当たり、米艦隊は潜水艦6隻による集中攻撃を受け、空母2(「ヨークタウン」、「プリンストン」)、戦艦1(「オレゴン」)、巡洋艦1、駆逐艦2が沈没、又は大破後自沈処分となった。これを受けて、米艦隊は被害の大きさや日本艦隊の迎撃が不可能になった事から、急遽ハワイに帰投した。

 

 第六艦隊の活躍で米艦隊を撤退させた事で、第一・第三艦隊は敵艦隊による横からの挟撃を心配する事無く、当初の予定通り作戦を進めた。17日、両艦隊が予定海域に進出したのを機に、い号作戦が始まった。

 最初の攻撃は、第三艦隊によるニューヘブリデス諸島・エスピリツサント空襲だった。これまで、エスピリツサントはガダルカナル航空隊による攻撃を受けており、実際、北部を対象にレーダー監視網が設けてあった。

 しかし、機動部隊の利点である行動範囲の広さを利用して、東側から航空隊が侵入してきた。完全に虚を突かれたエスピリツサント守備隊は、直掩機を上げ切らない内に空襲を受けた。これにより、直掩機と地上にいた機の殆どが破壊され、続くガダルカナル航空隊(今作戦の為に、ガダルカナルに進出したラバウル航空隊と陸軍航空隊との合同部隊)の空襲によって、今度は兵舎や港湾施設にも被害が出た。極め付けは、夜間に第一艦隊がエスピリツサント沖に進出して艦砲射撃を行った。これにより、港湾施設や飛行場は完膚無きまでに破壊され(基礎から作り直すレベル)、向こう半年間は再建の為に費やされる事となった。

 

 エスピリツサント攻撃後、珊瑚海に抜けた両艦隊は、続けてオーストラリア東海岸を攻撃した。特に、ポートモレスビーに圧力を掛けている北東部のケアンズやクックタウン、タウンズビル、南太平洋方面の連合軍の拠点であるブリスベーンに対して重点的に攻撃を仕掛けた。各基地は、艦載機と基地航空隊の空襲、艦砲射撃によって徹底的に破壊された。特に港湾部は、艦砲射撃によって一から造り直さなければならない程の被害を受けた。

 同時に、オーストラリア北部のポートダーウィンに対する空襲も強化され、こちらも通常の倍近い機数の空襲を受けて基地・港湾施設に大きな被害を与えた。また、一部の機体は航空機雷を港内や湾内に投下し、この地域における軍事的価値を下げる活動も行われた。

 

 2月25日に、目的を果たしたとしてい号作戦は終了した。日本側の被害は、損失艦艇は無し、航空機を艦載機・基地航空隊を合わせて60機程と、規模の割には非常に小さな被害で済んだ。

 それに対して連合国側の被害は、攻撃を受けた各基地が壊滅し、航空機を800機近く撃墜か地上撃破された。また、港内で失った輸送船や工作艦、潜水艦などを合わせて20万トン以上を失い、将兵の死者も5万人近くに上った(これらの被害は、救援に向かった機動部隊の損害を加えていない)。

 

 この作戦で、連合国(と言うよりアメリカ)は、オーストラリアに大量の物資と兵器、兵員を送る必要が出た。この作戦で生じた被害によって、オーストラリア首相が『これ以上本土に被害が出る事は許容出来ない。連合国による更なる救援が無い場合は、日本との講和も辞さない』と発言した為、オーストラリアの戦争離脱を避ける為にも、大量の軍を置いて民心を安心させ、破壊された施設の再建を行う必要があった。ここで投入された物資は大量で、一時他の連合国向けのレンドリースが減少したり、アメリカ軍向けの兵器の生産が遅延するといった事態まで起こす程だった。

 兎に角、大量の救援をオーストラリアに投入した事で、オーストラリアの戦争離脱という最悪の事態は回避出来た。しかし、ここで大量の物資や兵器を投入した事で、アメリカ軍の再建が2か月近く遅れる事となり、その後の戦争の流れから、オーストラリアに投下した物資や兵器が完全に遊軍化した為、結果からすれば、アメリカは膨大な無駄遣いをした。

 また、南太平洋方面における最重要拠点であるブリスベーンが壊滅した事で、この方面での通商破壊に支障を来たす様になった。潜水艦だけでなく、施設も完全に破壊された為である。施設の再建と並行して、他の方面から潜水艦を持ってくるなどして体制を整えたが、それでも3か月は満足に活躍出来なかった。

 

 一方の日本だが、この成功を受けてFS作戦を実行しようという流れになりかけたが、海軍情報本部と海上警備本部からの報告から、作戦を実行に移す事が難しくなった。情報本部からは「1943年内にアメリカは戦艦4、空母10、巡洋艦と駆逐艦を多数揃え、翌年には43年の数字の倍を揃える」と、警備本部からは「護衛地域が広がり過ぎて護衛艦の数が不足し、そこを突かれて撃沈される輸送船が増加している。FS作戦を予定通り1943年4月に行う場合の輸送船の手配が付かない」という報告が上がった。

 その為、FS作戦の実行を2か月先延ばしにする事となった。しかし、戦局の急激な変化から、FS作戦は幻の作戦となった。

 

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 い号作戦から1か月後、インド洋方面で次の作戦が実行された。それは、イギリス領インド帝国(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)のチッタゴンを陸海の攻撃で攻略するものだった。これは、インドに直接進行する事でイギリスの継戦能力を下げる事、インド洋を経由して行われている援蒋ルートの遮断が目的だった。

 当初、この作戦はビルマ侵攻が一段落した1942年8月頃に行いたかったが、輸送船の手配や海軍が南太平洋に総力を注いでいた事から、作戦が延期されていたものだった。それが、1942年にアメリカのガダルカナル島撤退で南太平洋での戦闘に一段落着いた事、資源輸送に使われていた輸送船の手配が付いた事(戦時標準船の第一弾が完成した為)、海軍もインド洋方面でポイントを稼ぎたかった事から、この作戦が実行に移された。ただ、輸送船の手配に遅れが出た事、1942年末から英印軍による限定的な侵攻作戦が行われた事から、作戦開始が1943年3月に持ち越された。

 

 3月26日、陸路からチッタゴン方面に侵攻した第33師団が攻撃を開始した。戦線は2週間程膠着したが、4月10日に英印軍は海上から戦艦「伊勢」、「日向」による艦砲射撃と、軽空母「瑞穂」(史実通り攻撃を受けたが、当たり場所が良く中破止まり。この時に空母に改装)の艦載機による空襲を受けた。その後、第54師団の上陸が行われた。海上からの攻撃、特に戦艦による艦砲射撃によって英印軍は大混乱となり、そこに陸上からの第33師団と上陸した第54師団による攻撃によって、統制力が完全に崩壊した。これによって、英印軍は総崩れとなり、4月16日に英印軍はチッタゴンを放棄した。翌日に日本は市内に入城し、4月中までに周辺地域の掃討を行って、チッタゴンの安全を確保した。

 

 チッタゴン作戦の成功で、日本はインドへの足掛かりを獲得した。そして、10月21日にチャンドラ・ボースを首班とする「自由インド政府」にチッタゴン周辺部とアンダマン・ニコバル諸島を領土として譲渡した(但し、警備目的で軍の駐留は続く)。

 因みに、チッタゴンの占領によって、ビルマ・インド方面の援蒋ルートの遮断という目的はほぼ達成した事、後述するインドの混乱を利用する目的から、チッタゴン防衛が最重要目的となり、計画中だったウ号作戦(インパール作戦)は無期延期となった。

 

 一方のイギリスは、インド洋東部の良港であるチッタゴンを失った事で、中国への輸送路が遮断された。一応、カルカッタ(現・コルカタ)を利用出来なくもないが、距離が延びる事、チッタゴンからの攻撃がある事から、輸送効率が大幅に低下した。また、通商破壊も積極的に行われた為、中国への物資は予定量の半分程度しか届かなかった。

 自由インド政府樹立後は酷くなり、インド国内ではサボタージュが活発となり、国内の流通が滞ったり、軍の編制が遅れたり、国内の治安活動で軍を動かせなくなるなど、インドの活用が難しくなった。その為、この混乱を早期解消する為に反攻作戦が計画されるが、多方面に注力していた為、実施は1944年末まで待たなければならなかった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑤

 1943年5月末、アメリカはミッドウェー島奪還作戦を実行した。これは、前年に日本軍に占領されている事、占領以降続いているハワイへの妨害を無くす事、一定程度まで海軍が再建された事から、実戦経験を積ませる意味で行われたものだった。この時動員された戦力は、戦艦4(「アイオワ」、「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」、「ネブラスカ」:「ロードアイランド」と「ネブラスカ」はアラバマ級戦艦の3番、4番艦)、空母7(「エセックス」、「レキシントン」、「エンタープライズ(史実のバンカー・ヒル)」、「インディペンデンス」、「ベロー・ウッド」、「カウペンス」、「モンテレー」)、巡洋艦8を主力とした。主力艦艇の殆どは開戦後に竣工したものであり、航空機も全て新型(F6Fヘルキャット艦上戦闘機、SB2Uヘルダイバー艦上爆撃機、TBFアベンジャー艦上攻撃機)を搭載していた。

 しかし、練度については余り向上しておらず、実戦不足も相まって、書類上の戦闘能力を発揮出来るかは疑問だった。戦力面でも、日本が機動部隊の総力を挙げて出撃してくる事を前提としておらず(日本が全空母を出動したら大小合わせて12隻が出てくる)、もし日本が総力を挙げて出撃してきた場合は、即座に作戦を中止する予定だった。

 

 日本は、潜水艦とミッドウェー航空隊の偵察によって、ハワイから機動部隊が出撃したという知らせを受けた。この知らせを受けて、トラックにいた第三艦隊(い号作戦時のままの為、戦艦4、空母12という艦隊。2つに分かれており、第一群は小沢治三郎中将が第三艦隊司令長官を兼任して率い、第二群は角田覚治中将が率いる)が出撃し、臨時で「大和」と「武蔵」も編入された。

 日本にとってミッドウェー島は、既に太平洋上に孤立した島でしか無く、占領し続けるだけでも一苦労だった。実際、補給任務中に高速輸送船を10隻と護衛艦隊1個戦隊を失っている。

 その為、これを利用して敵機動部隊撃滅とミッドウェー島からの撤退を行おうとした。この為の検討は占領後暫くしてからされており、機動部隊もFS作戦用に準備されていた事から行動は早かった。

 アメリカ側は、機動部隊出撃を暗号解読と潜水艦からの報告で確認したものの、暗号が複雑化していた事から進出方面を読み切れず、潜水艦も報告直後に護衛艦に沈められた事から、ミッドウェー方面に向かっている事を知らなかった。

 

 6月5日、奇しくも前年日米機動部隊が相対したのと同じ日に、同じ海域で再び相対する事となった。この日、アメリカによるミッドウェー島攻撃が行われ、1回目の艦載機の空襲でミッドウェー島の各種施設は炎上し、ミッドウェー守備隊の命運は尽きつつあった。

 しかし、2回目の攻撃隊の発艦中に、第三艦隊の偵察機によって発見された。それと時を同じくして、艦隊の周辺海域を哨戒していた機体からも『敵機動部隊発見』の報告が届いた。

 これに慌てたのは機動部隊司令部だった。既にこちらの位置を知られた以上、事前に決められていた即時撤退を行うべきという意見が多数あった。現状で戦っては勝ち目が無く、徒に戦力と将兵を失うだけであり、そうなれば再建が更に遅れる事になる為だった。

 その一方、第一次攻撃隊はまだ戻ってきておらず、ここで移動すると攻撃隊の収容が難しくなる。また、第二次攻撃隊も発進中の為、そちらも戻す必要がある。それに、ここで日本機動部隊を叩いておけば、今後の反攻作戦に有利になるという意見も少なくなかった。

 どちらの意見も間違いでは無い為、決断は司令官であるハルゼー中将に任された。その結果、第二次攻撃隊をそのまま敵艦隊に向け、第二次攻撃隊が戻るまでは防御に徹し、全機収容後速やかにハワイに撤退する方針となった。やや中途半端に思えるが、状況が微妙過ぎた事、日本側との戦力差から、ハルゼーと言えども大胆な判断を下せなかった。

 

 日本側は2回、アメリカ側は1回の攻撃で終わったが、両軍共に大きな被害が出た。

 日本側は、アメリカ軍艦載機の行動範囲を誤り、その範囲内に進出した事で攻撃を受けた。それが間の悪い事に、第二次攻撃隊が発艦中だった。この時は、レーダーによる探知と無線を駆使した防空戦を行った事、未だに高い練度を持つ艦載機の活躍によって、被弾した艦艇は少なかった。それでも、「愛宕」、「蒼龍」、「祥鳳」が被弾し、発艦中という事もあって艦載機や爆弾に引火して大破した。防御力の低い「蒼龍」と「祥鳳」は消火が不可能と判断されて自沈処分となり、「愛宕」は何とか消火が完了して撤退した。他の艦艇も、駆逐艦2隻が沈没し、「榛名」と「筑摩」が小破した。

 アメリカ側はもっとひどく、「エセックス」、「レキシントン」、「インディペンデンス」、「カウペンス」、「モンテレー」が沈没し、他に巡洋艦2と駆逐艦2が沈没した。「マサチューセッツ」、「ネブラスカ」、「エンタープライズ」は大破しつつも航行可能でありハワイへと撤退する所だった。

 航空隊の被害も酷く、日本はアメリカの濃密な対空砲火や、洗練された防空戦によって出撃した3割が未帰還となり、アメリカは空母毎破壊されたり、収容が間に合わずに海に投棄する機体などを合わせて6割を失う事となった。これにより、日本は機体の防御力の強化や集中運用による敵の迎撃能力の飽和を、アメリカは空母の早期戦力化を目指す事となった。

 

 アメリカがハワイに撤退する最中に、『敵戦艦部隊接近中』という報告が挙がった。日本艦隊は22ノットで接近しつつあるが、米艦隊は損傷艦に合わせる必要から14ノットが限界だった。また、距離も100㎞とかなり接近していた為、逃げる事も難しかった。幸い、午後4時を回っており、この後の航空機による攻撃は無いと見られたが、それでも戦艦を含んだ艦隊が突入すれば全滅は免れない。

 その為、損傷艦全てを自沈して退避する意見が強かったが、太平洋艦隊司令部の事前打ち合わせでは『空母を最優先で守る事』と言われていた為、「エンタープライズ」を退避させる為に水上艦艇が囮になる案も出た。両者の意見で再び対立したが、ハルゼーは素早く後者の案を採用した。これは、旧式とはいえ戦艦は取り敢えず数が揃っているが、空母は1944年になるまで数が揃わない為、ここで貴重な空母を失う事は出来ないと考えた為だった。これにより、空母と戦艦以外の損傷艦全て、それらの護衛艦以外の全てを接近する日本艦隊に当てて、空母を安全圏に逃がす方針が取られた。

 

 期せずして、太陽が出ている状態でかつ弾着観測用以外の航空機を用いない正統派の艦隊決戦が発生した。この艦隊決戦で、アメリカ側は戦艦3、巡洋艦4、駆逐艦6を失い、残った艦艇も全て小破した。大損害だったものの、空母を逃がすという目的は果たした。

 一方の日本側は、巡洋艦2、駆逐艦4を失ったものの、戦艦については損失が無かった。しかし、旗艦「大和」に攻撃が集中し、内1発が艦橋に命中して栗田健男中将以下司令部の面々が負傷してしまい、人事不省となってその後の追撃が中止となった。

 

 海戦は日本の勝利に終わった。その後、予定通りミッドウェー守備隊の収容が行われた。これにより、日本は当初の予定通りアメリカ機動部隊を叩き、ミッドウェーからの撤退が完了した。戦術的にも、戦略的にも、日本の勝利だった。

 しかし、ミッドウェーの撤退以降、日本の攻勢は殆ど無くなった。この頃になると、アメリカの生産力はフル稼働状態となり、損失しても直ぐに数倍の規模で展開出来る程にまでなった。実際は、運用する人員の問題から簡単に展開は出来ないが、生産力や人口、後方支援能力によって日本よりも遥かに早く大量に展開した。

 その結果、この海戦から2か月後、アメリカは珊瑚海とミッドウェーの両面作戦を実行する事となった。

 

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 1943年8月1日、アメリカは「ライトハウス(灯台)作戦」を実行した。この作戦は「第二次ウォッチタワー(望楼)作戦」とも言われ、その名の通り、一年前に失敗した南太平洋方面での反攻作戦を再び行うものだった。

 前回と違う点は、目標地点がガダルカナル島では無くポートモレスビーである事だった。この時のアメリカにとって、ガダルカナル島は南太平洋に浮かぶ島でしか無く、飛ばしても問題無いと判断された。それよりも、早急にポートモレスビーを占領して、北上してフィリピンへの足掛かりを築きたいというアメリカ軍、というよりマッカーサーの思惑があった。何しろ、南太平洋で大きく躓いて半年から1年を無駄にしたのである。これ以上、時間を無駄に出来なかった。その為、ミッドウェーには再建された空母機動部隊を、ポートモレスビーには旧式戦艦と護衛空母が大挙して押し寄せた。

 既に撤退していたミッドウェーについては無駄弾を大量に消費しただけだったが、ポートモレスビーは壮絶な戦闘が繰り広げられた。上陸してから1か月半後に、日本軍の大半はポートモレスビーで玉砕し、僅かに残った生き残りは後背のオーエンスタンレー山脈に逃げ込んだ。上陸から占領まで時間が掛った理由は、日本軍による現地の要塞化が進んでいた事、補給が続いた事と備蓄物資が大量にあった事から継戦能力が高かった事が挙げられた。

 

 ポートモレスビーが戦場になった事で、FS作戦の実行は事実上不可能となり、ガダルカナル島を占領し続ける理由も無くなった。また、ポートモレスビーがアメリカの勢力圏となった事で、ラバウルが再び前線となった。その為、南太平洋からの撤退が8月半ばに実施される事となった。

 尚、この作戦が開始される少し前の8月7日に、豊田副武連合艦隊司令長官が辞任した。これは、FS作戦が不可能になった事、この後の戦争に自信が無くなったなど様々な憶測が出たが、重要な時期に辞任した事は大きく批判された。しかし、この重要な時期に司令長官不在は拙い為、高須四郎が代理を務めた後、8月17日に堀悌吉が連合艦隊司令長官に親補された。同時に、後任の海上警備総隊司令長官に古賀峯一が親補された。

 堀悌吉が司令長官に就任後、直ぐに新しい国防体制の構築が御前会議で決定した。その内容は、トラック諸島を外縁に、千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、ビアク島、蘭印、アンダマン・ニコバル諸島、チッタゴンを結ぶ線を「絶対国防圏」として、その圏内に敵を入れないものだった。堀はこの構想が具体化する前から、戦線の整理と戦力の集中を行う為、南太平洋やギルバート・マーシャルからの撤退を考えていた。

 

 南太平洋からの撤退作戦は「ろ号作戦」と命名され、ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ラバウルなど南太平洋地域に展開する航空隊がポートモレスビー沖にいる米艦隊を攻撃、その間にこの地域から兵力をラバウルに撤退するものだった。その後、進出するであろう中部太平洋(マリアナ諸島やパラオなど)に展開する事になっていた。また、第二段作戦として、ギルバート・マーシャル両諸島からも12月から翌年頭にかけて撤退する予定となった。

 

 ろ号作戦は、6割の成功となった。航空機の4割が落とされるか帰還後に廃棄されるなどした為、今後の作戦に大きな影響が出るだろうと見られた。一方、陸上部隊の撤退は順調に進み、2回程米艦隊の夜襲で全滅したものの、それ以外は被害を受ける事無くラバウルに撤退した。

 しかし、第二段作戦は行う直前にアメリカ軍がギルバート諸島に侵攻した為、マーシャル諸島からの撤退のみとなった。この撤退を支援する為、航空隊と潜水艦が大挙して出撃したが、護衛空母と駆逐艦を数隻撃沈したのみであり、逆に出撃した航空機と潜水艦の半数を失った。その後の撤退には成功したものの、中部太平洋方面の航空戦力の多くを失う事となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑥

 1944年2月17日、アメリカ機動部隊はトラック諸島を空襲した。これは、今後半年以内に実行されるマリアナ諸島攻撃の為の前準備として、マリアナ諸島の後背に位置するトラック諸島を無力化するものだった。

 しかし、絶対国防圏の外側に指定された為、この地域から日本軍の主力は既に撤退しており、トラックには航空隊(約300機。殆どが戦闘機であり、多くがラバウルやソロモンから撤退した部隊)と小規模の輸送船団と護衛艦、数隻の潜水艦が存在するのみだった。そして、少数ながら電探監視哨(レーダーサイト)が存在した為、接近してくる敵機の存在を確認出来た。

 

 空襲の結果だが、両軍の被害は甚大だった。

 アメリカ軍は、空母の数が少なかった事(空母4、軽空母2。史実の3分の2の戦力)、現地航空隊の抵抗が激しかった事が理由だった。その為、航空機約400機の内、半数近く(232機)が撃墜されるか帰還後に処分する事となった。それに加え、現地航空隊で僅かに存在した攻撃機と昼間に退避した潜水艦による夜襲を受け、軽空母1と駆逐艦2が沈没し、空母1が中破するなど大損害を受けた。

 日本軍も無傷では無く、現地航空隊の3分の2以上の約220機が撃墜されるか地上撃破され、トラック諸島の航空戦力がほぼ消滅した。また、現地にいた艦艇・船舶合わせて7万トンが沈没か着底した。その他の燃料や食糧など各種物資にも大きな被害が生じ、トラック諸島の継戦能力は大幅に減少した。

 

 この空襲で、アメリカ軍は機動部隊の戦力を大幅に減らす事となった。これにより、空襲後に予定していた戦艦部隊による艦砲射撃は中止となり、トラック空襲後に予定していたマリアナ諸島の空襲も中止して撤退した。その後、失った航空戦力の補充に奔走する事となり、約2ヶ月間は活動する事は無かった。

 一方の日本軍も、トラック諸島の航空戦力の再建はほぼ不可能と判断して、現地からの撤退を検討していたが、それより早くアメリカ軍によるマリアナ諸島侵攻が行われた為、撤退も不可能となった。

 

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 1944年6月11日、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に大規模な攻撃を行った。戦艦11(内、高速戦艦は3隻)、空母8、軽空母8、護衛空母14、巡洋艦24という大戦力だった。

 尤も、戦力と比較して、練度は決して高くなかった。航空隊は2月のトラック空襲の後遺症から数を揃える事を優先した為、練度の向上にまで手が回っていなかった。特に、地上支援が主任務の護衛空母の艦載機はそのしわ寄せを受け、艦隊用の高速空母に大量に引き抜かれたりして、一時は戦場に出す事すら難しいと判断される程、練度の低下が著しかった。

 艦隊の方も、未だに開戦時からのセイラーの大量喪失の後遺症と、1944年になってから急速に艦艇が竣工した事によって、練度の向上が見られなかった。また、今までの戦闘によって佐官クラスが大量に失われた事で、戦隊指揮官の不足も著しかった。その為、大西洋艦隊からの引き抜きや、駆逐艦の艦長を昇進させて指揮させるなどして(駆逐艦の艦長は商船隊から充てる)、何とか頭数を揃えたが、経験不足などから実戦での不安が常に付きまとっていた。

 また、マリアナ方面を優先した為、ニューギニア方面の作戦は一時中断となった。この為、東部ニューギニアやビアク島の上陸作戦はマリアナ方面の作戦が完了した後に実行する事となった。一説には、この方面で作戦を行わなかった事が、マリアナ戦で米軍が敗北した一因と言われる様になる。

 

 最初に艦載機による空爆から始まったが、日本側の迎撃が凄まじく、約300機が撃墜されるか帰還後に破棄された。これは、この作戦で投入された艦載機の2割近くに及び、この後の戦闘に支障を来たすレベルだった。また、艦載機の損害が大きい事から、戦艦を始めとした水上艦艇による攻撃が早められた。

 一方の日本側の被害も凄まじく、迎撃に上がった機体約350機の内、250機が失われた。それ以外にも、地上にいた各種航空機計400機の半数が撃破された。これにより、この地域の基地航空隊を統括していた第一航空艦隊の戦力は半減したが、完全に無くなった訳では無かった為、この後の戦闘で活躍する事となった。

 

 アメリカ軍のサイパン侵攻を受け、6月15日にタウイタウイ泊地を出港した。タウイタウイは、水深が深い上に無風状態が多い事から空母機動部隊が訓練するには不向きだったが、蘭印に近い事から燃料の確保がし易い事、マリアナ諸島や東武ニューギニアの双方に進出し易い事から、1943年後期からここで猛訓練が行われていた。また、対潜戦の訓練も同時に行われ、実際にタウイタウイに偵察・襲撃に来た潜水艦を数隻撃沈している。これにより、航空隊の練度は向上し、開戦時程では無いにしろ高い練度を持った部隊となった。

 その一方、航空母艦の数が多い事から、戦力の補充には時間が掛った。第二次ミッドウェー海戦で「蒼龍」を失ったものの、真珠湾を攻撃した残る5隻は残っており、1944年に入ってから「大鳳」、「天鳳」、「雲龍」、「蛟龍」が相次いで戦力化した事で、大型空母は計9隻あった。軽空母の方も、「飛鷹」や「隼鷹」以下各種合わせて9隻と、合計18隻の艦隊用空母が存在した。空母の数が多い事、後方支援能力や育成能力の低さから、どの空母も定数割れしていた。それが解消されたのが、5月末だった。

 

 日本海軍が出撃した日、アメリカ軍はサイパン島上陸を開始した。前述の艦砲射撃によって多くの陣地を破壊したかと思われたが、損害は軽微であり、上陸してきた部隊に対して激しい銃砲撃を加えた。これは、兵力や武器、砲弾や食糧、コンクリートなど各種物資の輸送が順調だった事で、陣地構築が進んでいた為だった。

 連日の激しい攻撃に晒されながらも、日本軍守備隊は連合艦隊が来る事を信じて必死に抵抗した。そして、18日に第二・第三艦隊がマリアナ沖に進出し、マリアナ諸島・パラオに対して「あ号作戦開始準備よし」の電文が打たれた。

 

 この電文を受け取って直ぐ、艦隊と全航空基地から偵察機が放たれた。濃密な偵察網を形成した事が功を奏し、正午前にテニアン島の偵察機が米機動部隊本体を発見した。先手必勝と言わんばかりに、第三艦隊、マリアナ諸島から航空隊が全力出撃した。そして、後詰めとしてパラオやヤップの航空隊はグアム島に展開した。

 アメリカ軍も第二・第三艦隊から発せられた無電を傍受し、近くに日本艦隊が来た事を知った。フィリピン沖に展開していた潜水艦からの報告が無かった為(日本の駆逐艦に沈められるか追い掛け回されて連絡出来なかった)、日本側の展開は予想外だった。その為、慌てて偵察機を出したものの、日本艦隊を発見する事は出来なかった。

 

 18日の戦闘はマリアナ諸島の残存航空隊が第一波攻撃、第三艦隊の艦載機が第二波攻撃となった。お互いが連携を取らずに出撃したが、偶然にも第一波攻撃の最中に第二波攻撃隊が襲来した為、米艦隊は統制の取れた迎撃を取れなかった。

 しかし、米艦隊の対空砲火は濃密で、多くの攻撃機が撃ち落された。実際、第一波攻撃の攻撃機の8割、第二波攻撃の攻撃機の6割が撃墜か帰還後に破棄となり、合計で350機が未帰還となった。

 それでも、空母1、軽空母2が撃沈され、空母2、軽空母2が損傷した(大型空母2は復旧して戦線に残る)。航空機も、艦内で破壊されたものを含め250機が撃墜か艦内撃破となって使用不可となった。

 その後、夕方になった事からこの日の戦闘は終了したものの、航空隊の帰還が夕方から夜になると見られた為、危険を承知で探照灯を付けて航空隊を誘導した。その結果、アメリカの潜水艦が第三艦隊周辺に寄ってきた為、対潜戦闘も繰り広げられた。幸い、潜水艦が艦隊中心部にまで寄ってこなかった為、空母の被害は無かった。

 

 翌19日、両軍は早朝から偵察機を出して、敵機動部隊の位置を探していた。そして、午前中に日本が米機動部隊を発見したが、その距離が非常に近距離だった(航空機で1時間半の距離)。これを受けて、全空母から全力出撃を行い、基地航空隊にもこれを知らせた。

 一方、これだけ近かった事から、アメリカも日本機動部隊を発見した。しかし、日本側より遅れて正午頃の発見だった。こちらも、護衛空母を含むすべての空母から全艦載機を出撃させた。

 

 この日の戦闘は、両軍に大きな被害が生じた。

 日本側は、空母3(「翔鶴」、「愛宕」、「雲龍」)、軽空母4(「瑞穂」、「龍驤」、「日進」、「千代田」)が沈没し、航空機約380機が撃墜か廃棄処分となった。また、これとは別に基地航空隊の約120機も損失した。

 アメリカ側は、空母3、軽空母2を失い、航空機約320機を失った。前日と合わせて、空母4、軽空母4、航空機約700機を失った。

 

 機動部隊の損失も大きいが、戦艦部隊や輸送船団の被害も大きかった。19日の機動部隊同士の戦闘後、日本の戦艦部隊がサイパン目掛けて進行している事が偵察で分かった。この時点で、日本艦隊と輸送船団との距離が100㎞程度しか無く、時間も間も無く夜になる時間であり、当日と前日の戦闘で艦載機を大きく減らしていた為、航空隊を出す事が出来なかった。その為、戦艦部隊が時間を稼いで、輸送船団と上陸部隊の脱出を手助けする事となった。

 日本側は戦艦7(「大和」、「武蔵」、「加賀」、「土佐」、「長門」、「天城」、「赤城」)、重巡洋艦8、軽巡洋艦2、駆逐艦16が突入し、アメリカ側は戦艦8(「サウスダコタ」、「インディアナ」、「コロラド」、「メリーランド」、「ワシントン」、「テネシー」、「カリフォルニア」、「ペンシルバニア」)、巡洋艦4、駆逐艦16で迎撃した。

 2時間に及ぶ戦闘の結果、アメリカ側は戦艦5(「サウスダコタ」、「コロラド」、「ワシントン」「カリフォルニア」、「ペンシルバニア」)、巡洋艦3、駆逐艦7が沈没し、残った艦艇も駆逐艦3を除いて全て損傷した。

 一方の日本側は、重巡洋艦2(「摩耶」、「開聞」)、駆逐艦4が沈没し、戦艦3(「武蔵」、「土佐」、「天城」)、重巡洋艦4、駆逐艦2が損傷した。日本側は、損傷した艦艇を護衛を付けて帰還させ、残った艦艇でサイパンに突入した。

 戦艦部隊が時間を稼いだものの、2時間では全ての部隊を収容する事は不可能だった。その結果、残っていた部隊と輸送船は日本艦隊の攻撃に遭い壊滅した。海上戦闘を含めて、アメリカ軍の戦死者・行方不明者は約7万人に上った

 

 20日、アメリカ軍は全軍の撤退を命令した。日本軍はこれを確認したものの、2日間の戦闘で弾薬・燃料が危ない状況だった為、追撃は不可能だった。

 日本側は、サイパンの占領を防ぎ、アメリカ軍を壊滅させるという目的を達した為、戦術的・戦略的勝利を手にした。しかし、艦載機・基地航空隊で失った約1400機の補充は事実上不可能となり、この地域の航空戦力は壊滅した。また、艦隊の方も多くの艦艇が傷ついた為、その修理の為に数ヵ月は行動不能と判断された。

 

 一方のアメリカ側はもっと酷かった。5度目の機動部隊の壊滅(第一次ミッドウェー、第二次ソロモン、い号作戦、第二次ミッドウェー、今回)、戦艦部隊も壊滅、陸上部隊も壊滅した上、当初の目的だったサイパン島の占領すら失敗した。これにより、太平洋での戦争スケジュールは大きく遅れ、マリアナ諸島への侵攻は先延ばしとなった。一方、パラオ・フィリピン方面の侵攻を進める事となった。

 アメリカにとって、太平洋方面での敗北よりも、ヨーロッパ方面における苦戦の方が痛かった。日本がイギリス軍の戦力を史実以上に叩いた事、インド洋で積極的な通商破壊を行った事で、ヨーロッパにおける連合国軍の戦力が低下していた。その最たる例が、マルタ島への補給作戦の失敗、北アフリカでのドイツ・アフリカ軍団の主力のイタリアへの撤退の成功、ドイツ軍のスターリングラードからの撤退成功、クルスクの戦いでのドイツ軍の勝利である。この為、ソ連軍の西進は停滞し、一部戦力が再編成を兼ねて本国やフランスに戻った。

 ノルマンディー上陸作戦は成功したものの、戦力と優秀な将兵の多くを太平洋方面に取られた事で、陸への効果的な支援を行えなかった。また、上陸した地域を預かっていたロンメル元帥の構想を受け入れて戦闘を行った為、予想以上の抵抗を受けた。この結果、ノルマンディーの橋頭保の確保に成功したものの、20万人近い死者・行方不明者を出しての成功だった。

 

 この2つの戦闘によって生じた約27万人の戦死者・行方不明者という被害は許容出来るものでは無く、議会からの突き上げは激しく、ルーズベルトはショックを受けて倒れてしまった。元々、体が丈夫では無く、開戦以来負け戦の報告を聞いていた為、ストレスによる体調の悪化が史実より早まった。この後、病状が回復する事は無く、職務続行は不可能と判断された。

 これにより、副大統領のヘンリー・A・ウォレスが大統領に昇格したが、1944年11月に大統領選挙が行われる為、任期はその時までしかなかった。また、前任者のルーズベルトの支持率の低さや戦争指導の拙さから、支持率は5割を僅かに超える程度しか無った。

 それでも、ルーズベルト程独善的では無い事、複数の意見を汲んで最適な考えを出せる事から、ウォレスを支持する者は少しずつ増えていった。実際、民主党からの推薦で次の大統領選挙に出馬する事となった。

 

 また、この時の意見交換の中で、枢軸国への対応の変化が生じた。それは、「無条件降伏の空文化」であった。前任者の反省と今までの外交方針を戻す意味で、この内容は衝撃を以て迎えられた。日独両政府はこの意見に消極的ではあるものの賛成を示していたが、軍部の反対が強くそれを言い出せる状況では無かった。これは、日本側はサイパンの戦闘で勝利した事、ドイツ側はノルマンディーで時間を稼いだ事で余力がまだある事で、まだまだ戦えると考えていた事が理由だった。

 アメリカ側でも反対意見が強く、特に国務省は今まで通り無条件降伏を主軸に進める事を主張し、軍部はこれから反撃という時に停戦を持ち出されたのでは溜まったものでは無いという意見があった。また、ウォレス政権の支持率の不安定さからも、この意見が多数派にならなかった。

 その為、この時の停戦は実現しなかった。しかし、アメリカが無条件降伏に拘らなくなった事は、戦争が政治にと移っていく事を示していた。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑦

 日本はマリアナ諸島での戦闘に勝利したものの、その反面、マリアナ諸島やパラオ諸島、機動部隊の航空戦力を大幅に減少させた。この時の日本の生産力では、この地域の航空戦力の再建はほぼ不可能であり、機動部隊の再建も同様だった。

 

 一方、マリアナ沖で勝利した事で、国内や軍内部の主戦派が攻勢を強めた。新聞社もこれに同調し、再び主戦論が幅を利かす様になった。海軍内では損害の大きさから停戦派が出たものの、マリアナ沖海戦で勝利した事で勢力は大きくならなかった。また、多くの戦力が残っており、特に大和型戦艦の3番艦「信濃」と重巡洋艦「伊吹」が1944年9月に、改雲龍型空母の「葛城」、「阿蘇」、「生駒」が年内までに竣工する事で、戦艦16、大型空母9、重巡洋艦10以上と、まだ戦えるだけの戦力が残っている事(序でに、国内の各種燃料の備蓄も2年分ある)も主戦論が強い理由だった。

 東條英機首相も、この戦闘の結果を基に連合国との交渉を行えないか画策したものの、国内の主戦派の強さや連合国、特にアメリカ国内でも主戦論が強かった事でこの動きが実を結ぶ事は無かった。この事が理由か不明だが、東條首相はこの戦争の行く末に絶望したのか1944年8月に首相を辞任した。

 

 これにより、東條内閣は崩壊し、後任の首相に小磯国昭が就任した。他に、後任の陸相に梅津美治郎、海相に米内光政が就任した。小磯内閣は戦争継続では無く、対等の状態での停戦を目的とした内閣として成立した。しかし、この後の米軍の動きから、当初の目的を果たす事は出来なかった。

 

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 アメリカ軍は、1944年9月にビアクに、11月にパラオに上陸した。両地域とも、約1万人の兵士がおり、要塞化も進んでいた。

 その様な中でアメリカ軍が侵攻してきた理由は、フィリピン攻略だった。この頃、アメリカ軍の戦略が変化し、マリアナ方面の攻略を一時棚上げし、フィリピン方面に全力を注ぐ事となった。その為、マリアナ戦で投入された戦力と大西洋から抽出した戦艦などを投入してこの方面にぶつけた。

 要塞化していた事、アメリカが大量の戦力をぶつけた事で慢心した事で、当初の想定以上の時間が掛った。攻撃を開始してから日本軍の抵抗が終わるまで、ビアクで1か月、パラオで2ヵ月も掛った。

 同時に、アメリカ軍の犠牲も大きく、ビアクで1500人、パラオで4000人が死亡した。負傷者や病人も死者の数倍に上った。

 

 アメリカ軍のこの行動に対し、日本海軍は大規模な行動を起こせなかった。マリアナ沖海戦の傷がまだ癒えておらず、特に航空戦力の再建が進んでいなかった。戦艦を含む水上艦艇はある程度残っており、実際、戦艦を突入させて敵上陸部隊と支援艦隊を殲滅するという作戦が検討されたが、航空支援が無い状態で出撃するのは自殺行為と判断され実行に移される事は無かった。

 尤も、妨害を目的として駆逐艦や潜水艦による襲撃は何度か行われた。当初は上手く行っていたが、その後はレーダー能力の差や戦力差から損失が相次いだ。しかし、この作戦によって最低でも1週間の時間を稼いだ。

 その為、アメリカ軍が上陸しても、日本海軍の主力は出撃する事は無かった。この間、損傷した艦艇の修理、対空兵装の強化、訓練の徹底、航空戦力の再建(比較的損耗が軽かった戦闘機を中心に再建された)を行い、次の作戦に備えていた。

 

 その機会は意外と早く訪れた。1945年1月17日、再建なったアメリカ機動部隊がレイテ沖に襲来、レイテ島周辺にある日本軍の飛行場を攻撃した。同時に、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸した。その戦力は、高速機動部隊で空母7、軽空母8、戦艦4、巡洋艦以下は多数だった。上陸支援部隊は、戦艦6、護衛空母20、巡洋艦以下多数だった。艦載機の数も合計で1500機以上に及び、その瞬間的な破壊力は絶大だった。僅か3日で、フィリピン中部の航空戦力は壊滅し、これに慌てたルソン島やミンダナオ島、台湾に展開していた部隊が攻撃を仕掛けたが、連携が取れていなかった事で、効果的な攻撃が出来なかった。

 しかし、ある程度纏まった数の編隊による五月雨式の攻撃によって、大型空母1大破と撃墜・撃破200機という戦果を挙げた。その一方、フィリピン戦用の航空戦力の多くを失う事となり、戦果に見合う損失では無かった。

 

 同日、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸を開始、これを受けて連合艦隊は捷一号作戦を発令し、リンガ泊地にいる第二艦隊(司令長官は南雲忠一中将、旗艦は「信濃」)と本土にいる第三艦隊(司令長官は小沢治三郎中将、旗艦は「大鳳」)に出撃を命じた。

 尚、この時の指揮系統はそれぞれ独立して運用される事となった。これは、両艦隊の目的の違い(第二艦隊はレイテ湾に突入し輸送船団を攻撃、第三艦隊は敵機動部隊の戦力を引き付ける牽制役)、距離の遠さ、昇進時期の違い(海軍には「後任者が先任者を指揮する事は出来ない」という慣習があり、南雲は1939年11月15日に、小沢は1940年11月15日に中将に昇進している。何度か廃止が検討されたが、有耶無耶になってこの時も残っていた)などを鑑みて、両艦隊は独立した指揮系統の方が円滑に進められると判断された為だった。

 

 18日、第二艦隊はリンガ泊地を出撃、第三艦隊も瀬戸内海を出撃した。第二艦隊はレイテ湾に、第三艦隊はフィリピン北東沖に向けて進撃した。予定では、22日にレイテ湾に突入する事になっていたが、時間的に厳しいと判断され、突入日が25日に変更となった。

 両艦隊の出撃はアメリカ潜水艦に発見された。攻撃はしてこなかったし、潜水艦自体も駆逐艦や対潜哨戒機に追い掛け回されて連絡が遅れたものの、北から機動部隊、西から戦艦を含んだ打撃部隊が接近してくる事は分かった。この対処として、アメリカ軍は機動部隊の一部を北方に移動させ、偵察と警戒に当たらせた。

 

 20日、アメリカ軍はレイテ島に上陸した。この頃、第二艦隊はブルネイで燃料の補給中だった。翌21日、全艦艇への燃料補給が完了しブルネイを出撃、一路レイテ湾に向かった。途中、パラワン諸島でアメリカ潜水艦の接触を受けたが、全て駆逐艦と軽空母「千歳」、「瑞鳳」所属の対潜哨戒機によって撃退された。その為、アメリカ機動部隊は東進してくる日本艦隊の存在は知っていたものの、その規模については分かっていなかった。

 お互いは、その存在については知っていたものの、艦隊の内容については分かっていなかった。その為、両軍は日の出と共に偵察機を放ち、艦隊の詳細な位置と内容を探ろうとした。

 

 24日8時10分、アメリカ機動部隊(第3艦隊)の偵察機が第二艦隊を発見した。日本側も9時40分、11時、12時10分にアメリカ機動部隊(の一部)を発見した。

 第3艦隊は、日本艦隊を発見したは良いものの、その艦隊編制に疑問が持たれた。戦艦・重巡洋艦を主力とする水上打撃艦隊は今大戦では時代遅れとなりつつあり、軽空母が同伴しているとは言え、対空戦闘力が低いこの艦隊は囮ではないかと見られた

 一方、戦艦12(「信濃」以下、大和型3、加賀型2、長門型1、天城型2、金剛型4)を中核とする大艦隊が突入してくれば輸送船団と陸上部隊の全滅は避けられない事、これを阻止出来る位置にいる第7艦隊の戦力では太刀打ち出来ないのも事実だった。大和型には過去2回新型戦艦を撃沈されており、それが3隻も存在し、16インチ砲搭載艦も5隻いる事から、水上戦闘となれば勝ち目が無いと見られた。

 その為、この艦隊に対して何度か航空攻撃を掛け、撤退させる方針が取られた。これは、機動部隊を主力と見ていた為であり、水上打撃部隊に時間を掛けられない為だった。

 

 しかし、この日5回に及ぶ空襲を行ったものの、効果的な攻撃をする事が出来なかった。この理由は、軽空母搭載の戦闘機と台湾からフィリピンに進出してきた戦闘機隊の援護があった事、各艦艇の対空火器が増設されていた事、艦隊の回避戦術が徹底していた事、第三艦隊の空襲があった事、何よりアメリカ艦載機隊の練度の低さがあった。

 尤も、第二艦隊も無傷では無く、「千歳」は沈没し、「瑞鳳」も大破し自沈処分となった。他にも、重巡洋艦「開聞」が沈没し、「蔵王」と「乗鞍」が大破し、護衛と共にブルネイに戻った。他にも、大和型3隻が何かしらの損傷を受け、特に「信濃」は戦闘可能だが最高速力が23ノットに低下した。

 5回目の空襲の後、第二艦隊は一時反転し、各艦艇の応急修理と陣形の再編成を行った。アメリカ軍はこの動きを確認したが、撤退と誤認した。実際には、この後17時15分に進路を戻しレイテ湾に向かった。

 

 24日未明、第二艦隊はルソン島とサマール島を分けるサンベルナルジノ海峡に差し掛かろうとした。この時、第二艦隊司令部は敵艦隊の存在は分かっていなかったものの、海峡の状況から何かしらの妨害、特に駆逐艦による襲撃の可能性が高いと見ていた。その警戒として、艦隊から偵察機が放たれた。

 その結果、海峡に魚雷艇と駆逐艦が複数存在する事が確認され、海峡出口には敵艦隊(第7艦隊、旧式戦艦7を中心とする火力支援部隊。この海戦前、機動部隊から高速戦艦2を含む艦艇を編入している)が陣取っている事も確認された。この事から、このまま進めば襲撃を受ける事は確実の為、妨害の意味で偵察機から照明弾が投下され機銃掃射を行った。

 これにより、襲撃部隊は大混乱となり、陣形を大きく崩された。一部の艦艇は、銃弾が魚雷に命中して爆発、そのまま轟沈した。偵察機の攻撃で出だしを崩された襲撃部隊だが、この後は突撃してきた水雷戦隊の攻撃を受けて、活躍出来ないまま沈没するか撤退した。

 

 第7艦隊は、当初の予定だった魚雷艇や駆逐艦による襲撃が失敗した事、照明弾によって発見された事で大混乱となった。そして、この混乱を抑えられないまま第二艦隊と衝突した。

 大規模艦隊同士の夜戦、狭い海域、混乱状態、練度などの要因によって、レーダー射撃という優位を活かせないまま、第7艦隊は良い様にやられた。この海戦に参加した巡洋艦以上の艦艇の内、巡洋艦2を除いて全て撃沈された。駆逐艦も半数近く撃沈されるなど、全滅と言っていい損害を受けた。

 これに対し第二艦隊は、戦艦の砲撃が大和型に集中した事、練度の低さから殆ど命中しなかった事、日本の方が夜戦に慣れていた事などから、「信濃」と「大和」に数発命中しただけで損害は皆無だった。その「信濃」と「大和」も、バイタルパートを破られる事無く、戦闘航行が可能な状態だった。

 

 この海戦の完全勝利によって、第二艦隊を遮るものはほぼ無くなった。その後、第二艦隊は陣形を戻しサンベルナルジノ海峡を抜け、サマール島の沖西を航行、レイテ湾に向かった。

 この途中、護衛空母を中核とした部隊(第7艦隊第4群第3集団、護衛空母6、駆逐艦7)を発見した。対潜哨戒を行っていた偵察機から小型空母を主体とした部隊という事を知り、高速機動部隊(=第3艦隊)では無い事は残念だったが、このまま攻撃しないのは危険な為、戦艦の艦砲射撃で一掃する事となった。主砲に三式弾を装填し、全戦艦が一斉に砲撃した。

 特に狙いを定めずに撃ったが、艦隊上空に全弾飛来し炸裂した。対空散弾の役割がある三式弾が全弾炸裂し、その中に入っていたマグネシウムやゴムが艦艇に降り注ぎ、船体を貫いた。熱せられた弾片が弾薬庫やガソリン庫に命中し、全艦爆沈、全艦生存者無しという壮絶な結果となった。

 これ以外にも、水雷戦隊がこれとは別の部隊(第7艦隊第4群第2集団、護衛空母6、駆逐艦8)を発見し、これに突撃している。こちらも三式弾による射撃に加え、魚雷による長距離攻撃が行われた結果、護衛空母4、駆逐艦3の撃沈が確認された。

 

 護衛空母の機動部隊2郡を殲滅し、第二艦隊の行く手を遮るものは第7艦隊の本隊のみとなった。本隊と言っても司令部程度のもので、戦力は巡洋艦数隻と駆逐艦程度しか無かった。この程度の戦力では抵抗など無謀であり、実際、10分足らずで全艦撃沈された。

 そして、正午頃に第二艦隊はレイテ湾に突入、輸送船団に対する攻撃を開始した。輸送船団の中には、弾薬やガソリンを満載した船が多数あり、1発命中しただけで大爆発を起こし、周辺にいた船も巻き込んだ。それ以外にも、兵員を満載した船や戦車を搭載したLST(戦車揚陸艦)が多数存在し、上陸すれば陸軍に大打撃を与えただろうが、野戦砲を遥かに上回る砲撃を受けた事で利用価値を発揮する事無く海に消えた。

 その後、海上の目標を粗方殲滅した第二艦隊は、レイテ島に向かって砲撃した。これにより、上陸していた数万の将兵が消滅した。輸送船団と上陸部隊に対する砲撃は約2時間に及び、レイテ湾は血に染まった。

 この襲撃で、アメリカ軍の陸海軍を合わせた将兵の死者・行方不明者は8万人近くに上った。道中で沈めた艦艇を含めると、更に2万人増加する。つまり、僅か数日で10万人近い将兵を失ったのである。

 

 襲撃後、第二艦隊はスリガオ海峡を経由してブルネイに帰投した。道中、基地航空隊や護衛空母の艦載機による空襲を受けたものの、空襲の機体の数の少なさや練度の低さ、ミンダナオ島に僅かに残っていた戦闘機による護衛によって、沈没艦を出すこと無く28日に帰投した。

 

 第二艦隊がブルネイに帰投した日、アメリカ軍はレイテ攻略を断念、全部隊に撤退を命じた。陸上戦力の不足、支援部隊の壊滅、何より内政事情が響いた。

 1944年の大統領選挙は大接戦となり、僅差で民主党が勝利しウォレスは続投となった(同時に、トルーマンが副大統領に就任)。その直後にこの大敗北の為、これ以上敗北を続ける事は政権が飛びかねない事から(僅差で勝利した為、政権基盤が不安定)、民心安定や批判を躱す目的で作戦中止がなされた。

 同時に、この作戦が失敗したのは海軍の責任だとして、この海戦に参加した海軍将官の殆どを2階級降格の上で予備役編入し、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将も引責辞任となった。

 しかし、この大量除籍によって現場の人間の多くがいなくなり、人事不省に陥った。その為、佐官クラスを1階級上げて任務に就かせるなどして数を揃えたが、経験不足は否めず、むしろ現場の中級、下級指揮官が減少した事が大きな問題となった。この一件があり、アメリカ海軍は数ヶ月間動く事は無かった。

 

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 第二艦隊がレイテ湾に突入していた頃、第三艦隊はアメリカ機動部隊が第二艦隊に空襲を掛けない様に牽制していた。通信を盛んに打ったり、偵察機を大量に放つなどして目立つ行為を行った。

 その結果、24日正午に第3艦隊は第三艦隊を発見したが(第二艦隊の偵察機が「第3艦隊を発見した」という報告が、第三艦隊に届いていなかった)、この時までに第二艦隊に対して2回の空襲を掛けていた。第三艦隊は、偵察後に一度だけの全力攻撃(戦闘機72、爆撃機72、攻撃機72)を仕掛けた。全ては、第二艦隊に攻撃を仕掛けさせない為である。

 

 この攻撃で、第3艦隊は混乱した。第4次攻撃隊の発進途中だった為、攻撃が命中すれば大惨事の為である。この攻撃は一度きりだった為、沈没艦こそ軽空母2に留まったが、大型空母2も被弾して大破しかけた。この攻撃で200機近くが一瞬にして破壊され、2割近くの戦力が消滅した。

 一方で、日本側の被害も甚大で、攻撃隊の8割が撃墜されるか近くの友軍飛行場に降りるなどして未帰還となった。この為、第三艦隊の残存艦載機は8割が戦闘機になり(戦闘機182、その他37)、以降は防空戦に徹する事となった。

 

 翌25日、第3艦隊は北方に大量の偵察機を放って日本機動部隊の発見に躍起になった。前日の空襲による被害が予想以上だった事、前日未明からサンベルナルジノ海峡で発生した海戦で第7艦隊が阻止に失敗し壊滅状態になったという報告を聞いて、急いで機動部隊を壊滅若しくは撤退させ水上打撃部隊を攻撃しなければ、作戦の失敗は勿論、挟撃の恐れがある為だった。

 この為、第3艦隊は戦艦を含む打撃部隊を編成しレイテ湾方面に南下し、機動部隊は総力を挙げて日本機動部隊を壊滅させる事が検討されたが、この案は採用される事無く、まず全力を挙げて日本機動部隊を壊滅させ、その後全速力で南下する事となった。前者の案を採用しなかったのは、日本機動部隊が護衛の戦艦4(「扶桑」、「山城」と、中央の主砲塔2基と副砲全てを降ろし、有りっ丈の高角砲と機銃を搭載して防空戦艦に改装された「伊勢」、「日向」)と共に南下、つまり接近してきていると偵察があった事、既に高速戦艦2を第7艦隊に異動させており、こちらには高速戦艦2しか残っていない事、第7艦隊が敗れた事から打撃部隊を編成しても戦力価値は低いと判断された為だった。

 

 その後、第3艦隊は第三艦隊に向けて3度の攻撃を行った。日本側の戦闘機の多さや対空火器の密度の高さ、頻繁の回避運動によって思っていた様な攻撃は行えなかったが、「瑞鶴」、「飛龍」、「蛟龍」、「隼鷹」、「龍鳳」が沈み、「天鳳」も飛行甲板が大破して発着艦が不可能となった(但し、水面下の損傷は無い為、高速航行は可能)。航空機も100機以上撃墜され、日本機動部隊はここに壊滅した。

 しかし、アメリカ側も100機近くの艦載機を失う事となった。また、「大鳳」と「高雄」は残り、残る艦載機と戦艦4を使って巧みに第3艦隊を牽制し、第二艦隊への攻撃を躊躇させる事に成功した。

 

 この戦闘によって、第3艦隊は第二艦隊のレイテ湾突入を阻止出来ず、ブルネイに帰投する最中に攻撃する事も叶わなかった。今海戦の内容から、第3艦隊司令長官ハルゼー大将以下第3艦隊の幕僚全員が2階級降格の上で予備役編入となった。この件で、第3艦隊司令部の再建(実質的な新設)に手間取り、機動部隊の再建もあって、最短で3ヵ月、長ければ半年は動く事が不可能となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑧

 レイテの戦闘で劇的な勝利を果たした日本だが、その勝利を講和に活かす事は叶わなかった。それ処か、マリアナ沖に続いて大勝した事で主戦論が拡大し、講和を打ち出す事すら出来なくなった。特に、陸海軍の中堅層、特に軍政部(陸軍省、海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)に勤めている者は主戦論が強く、上層部の中にはそれに同調する者も多かった事から、軍部は意見の統一が出来なかった。加えて、大規模戦闘では勝ち続けている事が災いして、未だに戦い続けられると考えている人が多かった。

 しかし、現状では継戦能力が低下している事は事実であり、特に海軍が艦艇の建造・修復、航空隊の再編が追い付いていない事から、海軍上層部では講和論はそれなりに強かった。そして、海軍三長官(海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官)に付いている米内光政、山本五十六、堀悌吉は今こそ講和するべきと考えており、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀本部総長、教育総監)の梅津美治郎、阿南惟幾、畑俊六もこの意見には反対しなかった。

 以前であれば講和など不可能だったが、大統領がウォレスに代わった事で、戦争の終わり方を無条件降伏に限定しない事が発表された事で、講和に対する心理的障壁が小さくなった。これにより、政府閣僚では講和論が大きくなり、軍上層部でも「皇室保全が保障されるのであれば講和も可」という意見が次第に拡大した。

 

 政府と軍上層部の講和派の努力が実り、連合国との停戦の窓口を作成する事には成功した。その窓口は、ソ連を介したものを主力とし、予備としてスイスとスウェーデンに設ける事となった。しかし、ソ連は対日参戦を決めていた事から、のらりくらりと返事をするだけで事態は進まなかった。スイス、スウェーデンも同様に進まなかった。

 

 この事態を打開する為に、再度大規模な攻撃を仕掛けて、敵に更なる出血を強いる事で、交渉の打開策にする事が検討されたが、それも敵が攻めてきた場合にのみ有効な為、現状では打つ手無しだった。

 

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 マリアナ沖で勝利し、サイパン、テニアン、グアムが陥落しなかった事で、本土空襲が激化する事は無かった。日本は既にB-29に関する情報を概ね把握しており、マリアナ諸島からであれば余裕で本州は攻撃圏内に入る事が分かっていた。その為、日本軍はマリアナ沖の戦闘で凄まじい抵抗を行い、辛うじて勝利を掴んだのである。

 しかし、パラオや中国大陸奥地の成都からの空襲が月に1回あり、本土空襲が無い訳では無かった。実際、1944年6月から成都から発進したB-29による八幡空襲が行われた。被害そのものは軽微であり、数機のB-29を撃墜若しくは撃破した。

 日本は、被害よりも空襲を受けた事そのものを重視した。特に、本土防空を担う統合防空総司令部は空襲を防げなかった事の責任もあり(実際、総司令部の人員の半数が入れ替わった)、九州北部への防空戦闘機と高射砲の大量配備で当座を凌いだ。その後、本格的な防空戦闘機の開発、既存の機体の中で高度10000mに到達出来、且つ戦闘が可能な機体の増産が行われた。これにより、陸軍からは一式複座戦闘機「瞬鷹」、二式戦闘機「鍾馗(海軍名:雷電)」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」が、海軍からは局地戦闘機「紫電」が大量生産・配備が決定された。また、高度10000mまで届く高射砲の開発も急がれ、それまでの繋ぎとして九九式八糎高射砲の大量生産と、秋月型駆逐艦で採用されている九八式十糎高角砲を陸上用に転用する事となった。

 陸海軍も、本拠地を叩いてB-29を地上撃破する作戦を検討したが、日本の中国大陸における占領地域(この世界では沿岸部のみ)と成都との距離の関係から、片道攻撃しか出来ない事が判明した為、実行に移される事は無かった。

 

 日本側に多数の負担を強いる事に成功した本土空襲だが、アメリカにとっても負担は大きかった。B-29を使用出来る基地が成都とパラオ(ペリリュー・アンガウル両島)にしか無く、パラオもフィリピンやマリアナからの空襲などがある為、安全に使用出来なかった。成都の方も、補給の難しさ(アメリカから見て地球の反対側、日本海軍がベンガル湾で行った通商破壊)から大規模出撃が月に1回出来ればマシな方だった。

 そもそも、この2つの基地の規模が小さい事(100機も駐機出来ない)、日本から遠い事から、これ以上の規模の拡大は不可能だった。

 一度、漢口に進出して1944年12月8日に佐世保と呉を空襲したが、九州北部と山陽の防空戦闘機隊と高射砲によって手痛い損害を受け、帰還後は日本軍が陸海軍共同で送り狼として送り込んだ爆撃隊の空襲を受け、漢口基地壊滅と全てのB-29の地上撃破という大損害を出した。その結果、空襲を受けない成都に逆戻りとなった。

 

 日本本土防空戦は、見かけ上は両者一進一退の攻防を繰り広げていた。実際は、日本軍は広大な防空圏内に大量の戦闘機と高射砲を揃えなければならない負担が大きく、日に日に日本近海に増加する機雷で徐々に締め上げられていた。

 一方のアメリカ軍も、基地機能の拡大が不可能な事からこれ以上の空襲の規模の拡大が不可能で、それにより空襲を仕掛ける機体が常に少数となる為、出撃機体の1割は撃墜されるか帰還後に廃棄処分になるなどの被害を受けていた。

 

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 本土空襲の被害は大きいものでは無いが、機雷敷設の方が被害は大きかった。B-29が日本近海に大量の機雷をばら撒いた。多くが磁気感知式であり、他にも水圧探知式やなど多くの機雷がばら撒かれた。

 これにより、横浜や名古屋、神戸や博多など太平洋側や中国大陸に近い主要港が機雷で封鎖され使用不可能となった。一応、日本海側の舞鶴や新潟、東北、北海道の機雷封鎖が行われていない為、海運の完全な封鎖とはならなかった。

 しかし、効率の面では悪くなったのは事実で、今まで海運で行っていた輸送の一部を鉄道にした事で、輸送時間が長くなった事、一度に運べる量が減少した事、何より主要幹線の輸送量が限界になった事で、既存の輸送に皺寄せが来た事など、多くの悪影響が出た。

 

 海軍と海上警備総隊は、共同して機雷駆除を行ったが、装備の不足や機雷の性能から、機雷を駆除する船舶の方が、逆に機雷によって撃沈される事が多かった。その為、老朽船を機雷源に突入させて自爆させたり、非鋼鉄船を掃海艇として運用するなど様々な策を取った。

 

 特に大きかったのが、コンクリート船の活用だった。コンクリートであれば磁気感知式に反応しない、船体が破損してもコンクリートで修復出来る、鋼鉄よりも破損に強いなど、対機雷には有効だった。材料となるコンクリートも国内で供給出来(但し、石灰からセメントに精製する設備の限界という問題があったが)、重要資源である鋼材の節約にもなるなど、利点は大きかった。燃費の悪さや排水量の割に運べる量が少ないという欠点もあったが、非常時という事で割り切られた。

 このコンクリート船は1944年6月頃から配備され、同年末までに大量配備が行われた。上記の掃海艇以外にも、本来の近海用輸送船として活用された。これにより、日本近海だけでなく朝鮮や満州、華北との航路にも活用される様になり、機雷で封鎖された港湾でも多少利用出来るとあって活用された。

 

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 日本本土空襲が千日手の状態の中、1945年2月25日に帝都東京に対する大規模空襲が行われた。これは、浅草区や深川区、本所区など下町が対象となった。木造家屋の密集地帯である為、大きな被害が出た。実際、下町の多くが被災し、5000人近い死者を出し、数万人の住宅喪失者を出した。

 

 しかし、アメリカ軍からすれば、この作戦は政治的には兎も角、純軍事的には失敗だった。空襲を仕掛けたのが僅か70機程度(この時の為にペリリュー・アンガウル両島の飛行場を限界まで拡大した)で、これ以上の戦果の拡大が不可能だった。また、パラオ東京間の距離が約3100㎞とB-29の性能ギリギリ(理論上だと、約7トンの爆弾を搭載して6600㎞を飛行可能だが、エンジンの信頼性や迎撃などを考えると、爆弾搭載量はこの半分程度となる)の出撃となった。他にも、途中に目印になるものが無い事(パラオ東京間だと硫黄島ぐらいしか無い)、ナビゲーターの役割をする潜水艦が護衛艦や対潜哨戒機に攻撃されて役割を果たせなかった事、何よりレーダーに探知されて日本本土に辿り着いたら高射砲や戦闘機による大規模な迎撃に遭った。

 これにより、出撃した機体の1割以上の9機が撃墜され、残る機体の殆ども被弾し、その内の28機が修理不可能な損害を受けた。つまり、1度の出撃で戦力の半分を失ったのである。しかも、この時の為に備蓄していた燃料と爆弾をほぼ全て使い切ってしまい、向こう1ヶ月間は出撃不可能となった。

 

 東京空襲によって、日米両軍は大規模作戦を検討した。

 日本軍は、B-29の策源地の内、攻撃が可能なペリリュー・アンガウルへの攻撃を検討した。しかし、航空攻撃では被害が大きくなる割には成果が挙げられない為、戦艦を突っ込ませて灰燼に帰そうというものだった。内容そのものは捷一号作戦を応用すれば良い為、作戦案の作成は1か月程度で完了した。また、この頃には損傷が軽い艦艇の修理が軒並み終わっており、燃料もまだ備蓄が残っており、油槽船の手当てさえ付けば、4月初頭には行える状況だった。

 アメリカ軍は、B-29の基地として再度のマリアナ諸島攻略を検討した。前回は失敗したが、今回は前回以上の戦力を揃え(そしてそれが実行出来るだけの戦力がある)、日本軍の抵抗も小さいと見られる為、今回は成功すると見られた。

 また、護衛戦闘機の基地兼航路の目印として硫黄島の攻略も同時に行う事が検討されたが、同時に行うには戦力不足と判断され、マリアナ攻略後に実行する事となった。予定では、4月1日にマリアナ諸島攻略開始、7月1日に硫黄島攻略開始となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑨

 1945年4月1日、アメリカ軍が再びサイパン島に襲来した。襲来したのは、高速機動部隊の第5艦隊と火力支援部隊の第7艦隊だった。第5艦隊の戦力は、ユナイテッド・ステーツ級空母(史実のミッドウェイ級空母)1、エセックス級空母8、インディペンデンス級軽空母5、ライト級軽空母(史実のサイパン級空母。この世界ではボルチモア級重巡洋艦から改装)3、アイオワ級戦艦4、アラスカ級大型巡洋艦2を中核とした。他にも、巡洋艦、駆逐艦は全て大戦中に竣工した艦艇で構成されていた。また、第7艦隊の戦力は、旧式戦艦3、護衛空母12を中核とした。

 

 これに対して、サイパン島の日本軍は、1944年6月の一度目の侵攻以降、満州の2個師団をこの地に移動させている。また、大量の武器・弾薬・食糧・施設建設用の資材を輸送した為、前回の戦闘で消耗した分の補充は完了していた。そして、防御施設の建設も進み、『半年はこの地で戦える』と判断された。

 この序でに、サイパン島に残っていた民間人の疎開も行われ(前回の戦闘前にも疎開したが、4割程度残った)、内地に帰還した。

 しかし、航空戦力については多く補充されず、戦闘機が100機近く駐留したものの、練度の問題があった。実際、サイパン空襲の際、40機程度落としたものの、全ての機体が撃墜されるか地上撃破されて戦力価値が無くなった。

 

 撃退される度に規模が拡大していくアメリカ機動部隊だが、その実態はお寒いものだった。大規模戦闘の度に多くのセイラーとパイロットを消耗し、消耗しては新兵の補充を繰り返していた。その為、未だにセイラーや艦載機パイロットの練度が低いままで、特に尉官、佐官クラスの中堅層が大量に消耗した事が痛かった。

 ソフト(将兵)の方も問題だったが、ハード(艦艇)の方も問題があった。緒戦で多くの空母を失い、戦争中盤には空母と戦艦を多数失い、戦争中に多くの巡洋艦と駆逐艦などの補助艦艇を失った。これにより、アメリカ軍では慢性的に艦艇が不足していた。補助艦艇については1945年までに多数竣工するが、戦艦や大型空母については1946年以降にならなければ数が揃わないと見られた。

 特に戦艦については、開戦初期に航空戦力が主戦力になると見られた事で、両用艦隊法で計画されたモンタナ級の建造が後回しにされ、アイオワ級の5、6番艦の建造中止も取り沙汰された。しかし、1943年6月の第二次ミッドウェー海戦によって戦艦部隊が壊滅状態になった事、その中で日本の新型戦艦(大和型の事)の存在から、戦艦の整備も行う必要があるとされ、残るアイオワ級とモンタナ級の整備が急がれた。特に、マリアナ沖、レイテ沖の後には最重要戦力と判断されて、戦力化が急がれた。

 しかし、いくら急いでも、モンタナ級が竣工するのは1946年以降と見られ、現状では間に合わなかった。また、マリアナ沖とレイテ沖で5隻以上の戦艦が一戦で失われるなど想定しておらず、現状では高速戦艦4と旧式戦艦3の合わせて7隻しかいなかった(大型巡洋艦を含めても9隻)。

 

 これに対して日本海軍は、サイパン島襲来を受けて4月3日に横須賀から第二艦隊が、呉から第三艦隊が出撃した。第二艦隊は「大和」を旗艦に戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦2、駆逐艦12からなり、第三艦隊は「大鳳」を旗艦に空母4、戦艦2、重巡洋艦4、軽巡洋艦4、駆逐艦16からなっていた。この時期、第二艦隊司令長官は宇垣纒中将が、第三艦隊司令長官は山口多聞中将がそれぞれ就任していた。

 上記以外にも、戦艦「信濃」や「扶桑」、空母「天鳳」や「鞍馬」などが呉や横須賀に残っていたが、修理中や竣工直後で練度の問題があるなどして動かせなかった。1944年半ば以降、空襲圏内に入っていた佐世保の使用が難しく、マリアナ沖やレイテ沖で多数の艦艇が損傷し、損傷の度合いが軽い艦艇から修理を優先した為、修理が遅れていた。

 

 第二、第三両艦隊の目的はシンプルで、第二艦隊はサイパン島に突入し、敵上陸部隊を艦砲射撃で粉砕、第三艦隊は第二艦隊の上空を援護するものだった。既に、日本海軍には大規模海上航空戦を行える航空隊、特に艦載機部隊が殆ど無く、実質的な戦力として存在するのは水上打撃部隊しか無かった為、この様な作戦案しか採れなかった。

 

 4月6日、ここまでは第二・第三両艦隊は何事も無くマリアナ諸島北西沖に進出した。アメリカ海軍も日本艦隊が本土から出撃した事は潜水艦からの偵察で把握していたが、駆逐艦や航空機の妨害で具体的な編成を掴めず、その後の移動も掴めなかった。しかし、サイパン島に向かっている事は予想出来た為、第5艦隊は地上支援を取り止め、空母部隊と打撃部隊に分けた(同時に、打撃部隊に第7艦隊を臨時編入)。空母部隊は北東方面に、打撃部隊は北西方面に北上した。

 しかし、空母部隊は北上する事が出来なかった。大型機による夜襲を受け、大損害を負った為である。これは、陸海軍合同で行われたもので、硫黄島から出撃した四式重爆撃機「飛龍」80機と陸上爆撃機「銀河」50機、四式大型陸上攻撃機「連山」と四式大型重爆撃機「光龍」合わせて50機による特殊攻撃だった。これらの機体には、通常の爆弾では無く自動追尾誘導弾、現在で言う対艦ミサイルを搭載していた。

 

 この攻撃で使用されたのは、「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁自動追尾誘導弾と、「連山」に搭載されたイ号一型戊自動追尾誘導弾である。イ号一型誘導弾は、陸軍によって1944年から開発が始まった。史実では甲から丙の3種類だが、この世界では4番目の丁が開発された。イ号一型丁は陸海軍合同で開発され、陸軍の持つ赤外線誘導装置と、海軍が持つ大型徹甲弾、航空機メーカーが開発したジェットエンジンを組み合わせて1944年3月から開発された。紆余曲折を経て、1944年12月に試験が完了した。その後、何度かの小改良が加えられ、1945年2月に製造が開始され(同時に、大型化したイ号一型戌も生産開始)、この時まで丁と戌合わせて300発が完成した。

 四式大型陸上攻撃機「連山」は、中島飛行機が開発した4発機である。史実では、1942年から計画がスタートし、1944年10月に試作機が完成した。しかし、エンジンの不調や戦局の悪化によって開発が進まず、4機が完成したのみであり(これ以外に生産中の4機があった)、1機を残して全て空襲で喪失した。戦後、アメリカ軍に残った1機が修理してアメリカ本土に移送されたが、エンジンの不調によって研究は殆ど行われず、朝鮮戦争中に廃棄処分となった。

 この世界では、1943年の実機開発の際、陸軍から共同開発したいと申し出があった。海軍もこれを承諾し、中島飛行機と川崎航空機による共同開発が行われた。川崎も、陸軍からキ85(陸上攻撃機「深山」を改良した機体。計画のみ)を依頼されていた事もあり研究ノウハウがあった。これにより、1944年7月には試作機が完成した。エンジンの問題があったものの、1944年末には量産体制が整った。これにより、海軍では四式大型陸上攻撃機「連山」として、陸軍ではキ91・四式大型重爆撃機「光龍」として採用され、この作戦用に合計50機が緊急に生産された。

 

 「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁100発と、「連山」と「光龍」に搭載されたイ号一型戌50発が、空母部隊から120㎞離れた所から放たれた。赤外線誘導の為、狙った目標に命中させる事は難しく、製造不良などで全ての誘導弾が目標に到達しなかった。

 全体として8割の命中だったが、その効果は絶大だった。空母部隊は、突然の衝撃と大火災によって大混乱となった。航空機が途中で引き返したと思ったら、急に高速で接近してくる飛翔体を多数捉え、それから暫くして後ろから火を噴いて急速に接近してきた。そして、1分も掛からずに艦艇に命中して大火災が発生した。避けようとしても、目が付いているか如く追ってくる事も混乱を助長した。

 結果、エセックス級空母2、インディペンデンス級軽空母3、サイパン級軽空母1、巡洋艦4が沈没するか自沈処分となり、空母「ユナイテッド・ステーツ」、エセックス級空母3、インディペンデンス級空母2、サイパン級空母1、巡洋艦5が中破以上の損害を負った。これらの損害と回避行動の結果、艦隊の陣形は滅茶苦茶となり、艦隊の再編成と損害の確認の時間が費やされた事で北上が不可能となった。

 その後、正午前には再編成が完了して北上を再開したが、航空戦力の半数以上を損失した事、偵察を開始する時間が遅れた事で、夕方に第二艦隊を発見したが攻撃隊を出す事が叶わなかった。その為、第二艦隊の迎撃は打撃部隊に係っていた。

 

 日付が7日に変わるまで後2時間となる頃、第二艦隊と打撃部隊が衝突した。日本の方が戦艦の数が多く、練度も勝っていた。一方のアメリカは、電子機器の質の高さを活かして、夜戦や練度の不利を補おうとした。

 しかし、結果は日本側の大勝だった。この戦闘では、電子機器の優劣よりも、練度の差による瞬間的な反応の差、太平洋で活躍出来る船体かどうかが勝敗を分けた。

 確かに、アメリカの方が電子機器の性能が高かったが、セイラーの方が電子機器の扱いに慣れていなかった。また、練度の低さから咄嗟の判断が難しかった。これにより、被弾した時や回避の時に時間が掛り被害が拡大する事が多かった。

 また、アメリカ海軍の艦艇の特徴として、大量の対空兵器と重装甲がある。これにより、対空戦闘に強く打たれ強いという利点があるが、一方でトップヘビーになりがちという欠点でもある。この戦闘では短所の方が目立った。戦闘が行われた当日、マリアナ諸島付近では小規模の台風が発生しており、海がやや荒れていた。その為、アメリカの艦艇は波によって揺れる事が多かった。これにより、命中率が大きく低下した。

 一方の日本側は、元々日本近海やマリアナ諸島などで艦隊決戦を行う事を目的とした艦隊編制や艦艇の設計を行ってきた為、この地域で戦う事を苦にしなかった。それに、駆逐艦や巡洋艦は兎も角、戦艦はアメリカのと比較して艦幅に余裕がある為、安定性では勝っていた。これが命中率にも表れ、日本の方が命中する数が多かった。また、日本はセイラーの損失がアメリカよりも少ない為、未だに高い練度を持っていた事も、瞬時の判断や細かい調整で優位に立った。

 この戦闘で、アメリカは戦艦4、大型巡洋艦2、巡洋艦7などを失い、それ以外の艦艇も大小の損傷を負いつつ撤退した。日本は、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦3を失ったものの、戦艦は最大でも中破の損傷を負っただけで失わなかった。

 

 その後、日本軍は進撃を再開した。そして、4月7日午前2時、第二艦隊はサイパン島沖に到達、停泊中の船舶と上陸部隊に対して攻撃を開始した。第二艦隊を阻止する為の戦力は、多くを打撃部隊に編入した為、巡洋艦2と駆逐艦10程度しか存在しなかった。後は、レイテの時と同様に抵抗する戦力を捻り潰し、輸送船団と上陸部隊に対し攻撃を開始した。硫黄島からの報告で、敵機動部隊は大損害を受けて暫く行動出来ない事を知った為、当初の予定では30分で切り上げる所を、1時間掛けて攻撃した。

 これにより、敵輸送船団の8割が沈没、陸上部隊も半数以上が戦死するか戦闘不能な程の損害を受けた。これに呼応して、サイパン島の防衛部隊が総反撃に移り、アメリカ軍は再びサイパン島から叩き出された。

 

 午前3時、第二艦隊は攻撃を終了し、隊列を整えて日本本土への帰還を始めた。敵上陸部隊を殲滅し、サイパン島を守り切った事で、日本側は作戦を完遂した。

 しかし、8時15分、第二艦隊は再編成が完了した機動部隊から放たれた偵察機に発見された。前日の襲撃で展開が遅れていたが、その後の反応は素早かった。偵察機が発見した報告を受け取ると、既に甲板上に展開していた攻撃隊を発艦させた。そして、9時30分、第二艦隊の南東方面の上空に機動部隊から放たれた攻撃隊が現れた。

 それと同じくして、北方からも航空隊が接近してきた。第三艦隊から放たれた制空隊だった。約60機のこの航空隊は、当時の日本が送り出せる最後で最良の艦載機であった。その機体だが、ゼロ戦では無く四式艦上戦闘機「烈風」だった。

 

 艦上戦闘機「烈風」は、ゼロ戦の後継機として計画された。史実では、「雷電」の設計・開発、ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良に人や時間が取られた事で遅れ、試作機が完成しても今度はエンジンの問題から予定性能を発揮出来なかった。

 この世界では、陸海軍の航空機の共同開発が早期に行われた為、三菱による「雷電」の開発が行われなかった(中島の「鍾馗」がこの世界の「雷電」)。その為、三菱は「烈風」の設計・開発に注力出来た。ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良もあったが、史実より人的資源や生産設備に多少余裕がある為、1943年内に試作機が完成した。史実で問題になったエンジンも、誉エンジンの性能の安定化で解決し、1944年8月に四式艦上戦闘機「烈風」として生産が開始された。

 しかし、ゼロ戦以上に複雑化した設計によって生産に時間が掛り、レイテ沖海戦の時までに配備が間に合わなかった。その後、一定数以上の数と訓練によって、1945年から実戦配備される様になった。そして、この時が初の実戦となった。

 

 アメリカ軍は、初めて見る「烈風」とその強さに戦慄した。20㎜機関砲4門という大火力と日本機らしからぬ防御力、ゼロ戦並みの運動性とF6Fヘルキャット並みのスピードを持つ機体が一斉に襲い掛かった。これにより、一撃で30機近くが落とされ、ヘルキャットは追い掛け回された。一部は攻撃隊に向かい、攻撃隊も大きく体制を崩された。これにより、組織的な攻撃が出来なくなり、艦隊に対する攻撃が五月雨式となった。

 その為、第二艦隊も対処が容易となり、「大和」と「武蔵」に攻撃が集中したのも幸いし、他の艦隊は至近弾が数発あるか無いかの被害で済んだ。「大和」と「武蔵」も爆弾1~2発と魚雷を1発喰らった程度で、戦闘航行は可能だった。

 この攻撃で、第二艦隊は「大和」と「武蔵」以外の被害は無かった。第三艦隊の制空隊は7機が落とされたが、代わりに攻撃隊を約70機落とした。

 その後、制空隊は燃料の関係から帰還し、その直後に第二波攻撃隊が接近したものの、機動部隊と第二艦隊との距離の問題や出せる機体の数から、大規模な攻撃とならなかった。それでも、「大和」と「武蔵」、「加賀」と「土佐」に攻撃が集中し、「大和」と「武蔵」は中破した。

 その一方、第二次攻撃隊も被害が大きく、約30機が対空砲火に撃ち落された。これは、大量に増設された対空機関砲や高角砲、対空ロケット弾の存在が大きかった。

 時間の関係からこの日の攻撃はこれまでとなり、以降は機動部隊や硫黄島からのエアカバーによって守られた。

 

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 二回目のマリアナ諸島攻防戦も、日本側が勝利した。アメリカ軍は、この攻勢で再び戦力を消耗した。特に、戦艦の消耗が酷く、これが無ければ地上支援や日本艦隊の接近阻止すら不可能な程だった。

 これに対して、大量の艦載機をぶつけて対処すればいいという意見もあったが、艦載機の方も練度や空母の問題があるからそう簡単にいかなかった。何より、航空機の方が天候に左右されやすい事、時間の制約が大きい事がネックだった。

 

 正面戦力の問題があったが、何より大きかったのが厭戦機運の高まりと戦費だった。開戦以来、対日戦で大敗を喫している事、1944年以降、優勢であるにも関わらず大きな犠牲を払い続けている事は、元々高くなかった戦意を下げさせた。

 これにより、戦時国債の購入が当初予想よりも鈍り、1944年末の予想では、1945年半ばには戦費が戦時国債の購入量に追いつかなくなり、戦費不足で戦争継続が難しくなると判断された。そして、1945年4月の第二次マリアナ攻略作戦が失敗した事で、国債の購入は急激に減少した。これにより、日本だけでなくアメリカも経済的に戦争を続ける事が難しくなった。

 

 経済事情や戦争方針の変更、第二次マリアナ戦の大敗もあったが、何より国内にソ連のスパイが大量にいる事が判明した事で、アメリカは遂に日本との停戦に踏み切った。

 ウォレスが大統領に昇格して直ぐ後に、不透明な資金の動きや情報の流れがある事に気付いた。それを内密に調査した所、ソ連と繋がっている人物が多数存在する事、そしてその人物達が国務省や財務省の高官に紛れている事が判明した。つまり、アメリカの国家機密はソ連に漏れている事であり、アメリカの戦争方針はソ連に操られている事でもあった。

 この時、アメリカとソ連は連合国として共にドイツと戦っていた。その一方で、アメリカへのスパイ行為は容認されるものでは無かった。よく考えれば、ソ連の社会主義・共産主義はドイツの国家社会主義・全体主義と大差無く、アメリカの自由主義・民主主義とは相反するものだった。今は共通の敵がいるからいいものの、それが終わった後は対立関係になると見られた。そして、ソ連の後背を突ける日本は重要な存在だと気付いた。

 

 日本をソ連に対する防波堤とする為には、これ以上の戦闘を停止して、速やかにアメリカの影響下に置く必要があった。その為、5月26日にアメリカは対日停戦を対象としたワシントン宣言を打ち出した。主な内容は、「日本軍の無条件降伏、皇室護持の容認、民主化の実施、南樺太を除く全ての海外領土の放棄、それらの監視を目的とした本土へのアメリカ軍の駐留」だった。

 日本側は、この宣言を受諾する事が御前会議で決定された。皇室護持という重要な問題がアメリカ側から容認されている事から、日本としては受諾し易かった。それ以外の内容については、厳しいものがあるが現状では打開する手段が無い事から、飲む以外に方法は無いとして受け入れる事となった。受け入れ予定日は、6月5日とされた。

 

 それでも、国内にはワシントン宣言の受諾を拒否する者がいた。ここ数戦で勝利を重ねているのだから、更に勝利を重ねれば対等な講和条約を結べるという論拠だった。

 上層部はこの意見は『馬鹿げている』と一蹴したが、中堅層や若手は受諾を拒否しようとしてクーデター計画を打ち立てた。そして、近衛師団の一部は6月4日にクーデターを起こした。目標は、皇居、陸軍省、参謀本部、東部軍管区司令部、警視庁、日本放送協会だった。

 しかし、クーデターは失敗した。目標のワシントン宣言を受諾する玉音盤の入手が叶わず、クーデター後の政権擁立の為の人物の説得にも失敗した。そして、兵が従わなかった事でわずか半日で鎮圧された。

 

 6月5日正午、ワシントン宣言を受諾する旨の玉音放送が放送された。これにより、日本はアメリカとの停戦が実現した。その後、7月2日に正式に終戦となり、同時に他の連合国との停戦が行われた。3年7か月にも及ぶ長い戦争が終わったのである。



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番外編:この世界の戦時中に開業した鉄道

〈北海道〉

・改正鉄道敷設法第128号(戸井線)の開業

 戸井線は、函館本線の五稜郭から分岐して、湯の山を経由して戸井に至る路線として計画された。目的は、青函航路の代替として、青函海峡で最も距離が短い大間戸井間に航路を設立(大戸航路)、その北海道側の連絡鉄道として計画された。

 史実では、1937年から工事が進められ、9割方の路盤は完成したものの、1943年に工事が中止された。その後、青函トンネル建設の際、東側ルートとして検討されたものの、地質や水深の問題から現行のルートが選択された。以降、戸井線は開業する事無く放棄された。

 

 この世界では、戦況の悪化が緩やかだった事、北海道の食糧や石炭などの各種資源を大量に本土に運ぶ目的から、大戸航路の早期整備と戸井線、大間線の早期開業が推進された。途中、工事の中断があったものの、1945年4月には五稜郭~戸井が開業した。

 開業後直ぐに終戦を迎えた為、最大の目的だった青函航路の代替は失われたが、沿線開発という目的は果たされた。今まで交通機関がバスだけだった地域に鉄道が開業した事は大きく、函館市街の通勤・通学輸送に役立てられた。青函トンネルの計画が立った際、東側ルートとして検討されたものの、史実と同じく検討止まりに留まった。

 国鉄民営化後はJR北海道に移管され、通勤・通学輸送だけで無く、湯の川温泉への観光、函館空港の利用客などの輸送に活用された。

 

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〈東北〉

・改正鉄道敷設法第1号(大間線)の全通

 大間線は、大湊線の下北から分岐して、大畑、下風呂、大間を経由して奥戸に至る路線として計画された。目的は戸井線と同じで、こちらは本州側の連絡鉄道として計画された。

 

 史実では、1939年に下北~大畑が大畑線として開業し、大畑~大間~奥戸の工事が進められた。しかし、戦局の悪化や資材・労働力不足によって1943年に工事は中断された。その後、戸井線と同じく青函トンネル計画から外され、工事は二度と再開される事は無かった。大畑線も、1985年に下北交通に移管されたが、2001年に廃線となった。

 この世界では、戸井線の時と同様に工事が促進された。これにより、戸井線より一足早い1945年2月に全線が開業した。同時に、大間港の工事も行わたものの、直後に終戦となった為、港の建設工事は5%程度で中断された。

 

 戦後は、青函航路の代替としては殆ど活用されず(但し、大戸航路そのものは存続した)、沿線から産出される木材資源の輸送が主要目的となった。青函トンネル計画も、検討段階で外された。

 国鉄再建時、大間線は第2次特定地方交通線に指定されたものの、むつ市や大間町が沿線の観光開発や大間原発の対価などを理由に第三セクターとして存続する事が決まり、1986年12月に第三セクター「大間鉄道」として存続する事となった。

 

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〈関東〉

・東武熊谷線の全通

 東武熊谷線は、熊谷~妻沼を結んでいた路線である。これは、中島飛行機への工員・物資輸送を目的に敷設された。戦時中に敷設された為、秩父鉄道の複線用地を利用する、「戦後に立体交差にする」という条件の下、国道を平面交差するなどした。本来は熊谷~西小泉を予定していたが、妻沼~西小泉で利根川を超す鉄橋を建設中に終戦となった為、全通する事は無かった。

 軍の命令で建設した事、それ故に集落から離れて敷設された事、他の東武線と接続していない事から、常に赤字続きだった。沿線からは全通の要請が相次いだが、東武側は廃止したいという話が何度も出た。

 結局、1983年6月に東武鉄道の合理化(この時、最後まで残った非電化路線だった)、熊谷駅の橋上化及び再開発を理由に廃止となった。

 

 この世界では中島飛行機、及び中島飛行機と繋がりがある大室重工業が工事を手伝った事で建設が進んだ。これにより、1944年11月に妻沼~西小泉が開業して全通した(熊谷~妻沼は1943年12月に開業)。

 戦後、熊谷線は沿線開発に活用される事となった。また、1958年に熊谷周辺のルートを変更し、南口から北口に乗り入れた。これにより、秩父鉄道から借りていた土地は返却された。

 1966年には、西小泉~竜舞と熊谷~東松山が開業し、全線複線化が行われた。同時に、熊谷線は東松山~熊谷~西小泉~太田となった。以降、熊谷線は池袋と上毛地域を結ぶ路線となり、池袋~熊谷・前橋で国鉄、後のJRと競合関係を築いていく事となる。

 

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〈東海・北陸〉

・改正鉄道敷設法第70号(渥美線)の全通

 豊橋鉄道渥美線は、豊橋に隣接する新豊橋と渥美半島の中程の三河田原を結ぶ路線である。現在は、豊橋と田原市を結ぶ通勤・通学路線だが、かつては渥美半島先端の伊良湖には陸軍の試砲場への延伸を目指していた。

 その為、前身の渥美電鉄時代に免許を取得しており、黒川原まで延伸したが、そこから先は延伸出来なかった。戦時中、延伸区間を鉄道省が建設したが(全通後は国有化する予定だった)、こちらも戦局の悪化で進まず、終戦によって消滅した。この間、三河田原~黒川原は休止となり、1954年に廃止となった。

 

 この世界では、1944年5月に黒川原~堀切が開業した。渥美電鉄に合わせて電化での開業となった。同時に、渥美電鉄を買収して「渥美線」となり、新豊橋は豊橋に統合された。運用は、飯田線と共用になった。

 戦時中は、伊良湖の軍施設への輸送に活用されたが、終戦によってその目的は失われた。戦後は、沿線の農村部から食糧の輸送に活用され、高度成長期以降は沿線の宅地化が進んだ事で通勤・通学路線として活用された。

 

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〈近畿〉

・改正鉄道敷設法第78号(篠山線)の全通

 篠山線は、福知山線の篠山口から分岐して、篠山、日置、福住を経由して山陰本線の園部に至る路線として計画された。目的は、沿線で産出されるマンガン鉱の輸送(兵庫、京都北部はマンガン鉱が薄く広く広がっている)、山陽本線のバイパス(山陽本線は海岸沿いを通る為、攻撃を受けやすい。同様の目的で敷設されたのが二俣線)があった。

 

 史実では、1944年に篠山口~篠山~福住が開業したものの、福住~園部は未開業となった。篠山駅が篠山市街から遠く離れている事、盲腸線である事から利用客が増加せず、赤字83線にピックアップされ、そのまま1972年に廃線となった。

 この世界では、篠山鉄道(篠山(後の篠山口)~篠山町を結んでいた鉄道。史実では篠山線開業と同時に廃線)を国有化して「篠山線」とし、そこから延伸した。これにより、工事の負担が多少緩和され、戦況が史実より有利に進んでいた事から、工事の中断はされなかった。そして、1944年に篠山(篠山町から改称)~福住が、1945年の終戦前に福住~園部が開業して篠山線は全線開業となった。

 

 当初の目的である山陽本線のバイパスや沿線のマンガン鉱開発は終戦と共に消滅したが、地域開発には大きく貢献した。特に、篠山駅が市街地に近い事、全線が開通して盲腸線とならなかった事は大きく、この世界ではギリギリ特定地方交通線に指定されなかった。これにより、篠山線は国鉄民営化後も存続した。

 

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・改正鉄道敷設法第79号(小鶴線)の開業

 小鶴線は、山陰本線の殿田(現・日吉)から分岐し、美山、鶴ヶ丘、名田庄を経由して小浜に至る路線として計画された。目的は、京都と小浜を一本で結ぶ事(伝統的に、京都と小浜の結び付きは強い)、沿線の木材資源や鉱物資源(マンガンやタングステンが薄く広範囲に存在)の輸送だった。

 史実では、1922年に改正鉄道敷設法に掲載され、1928年には工事線に昇格した。しかし、この後に来た世界恐慌で建設は先延ばしとなった。戦時中は、建設は間に合わないと判断されたのか、省営自動車(国鉄バス)が開通した。

 戦後も建設計画が上がったものの、モータリゼーションの急速な進展や産業構想の変化、林業の衰退、沿線の過疎化に若江線(近江今津~上中)への期待の高まりで、建設への関心は低下していった。極め付けが、国鉄再建法による建設予算の凍結と国鉄民営化による鉄道敷設法の失効だった。これにより、小鶴線が開業する事はほぼ無くなった。

 

 この世界では、1939年から工事が進められた。準戦時体制になるにつれ、マンガンやタングステンといった金属の需要が急増した。これを受けて、国内の鉱山開発が進められ、以前から有望視されていた小鶴線沿線の鉱山開発も進められた。そこへの資材搬入、産出した鉱石の輸送、増加するであろう京都~舞鶴のバイパス線を目的に、小鶴線の建設が行われた。

 工事中に戦争開始となった為、元々の工員が出征するなどして人員不足が深刻化した。その為、1942年に一度建設中断となったが、朝鮮人や中国人が労務者として大量に送られてきて、鉄道連隊の協力もあり、工事が再開された。山岳地帯を通るが、戦時中の為、多数のスイッチバックやループ線で対処した。また、早期開業の為に規格も大きく落とされた(当初は丙線規格だが、後に簡易線規格に落とされた)。これにより、1945年3月に全線が開業した。

 

 開業したものの、直ぐに終戦となった。戦後は、沿線の木材資源や小浜からの水産資源の輸送に活用されたが、規格の低さや災害の多さ(大雨になると土砂崩れが頻発した)がネックとなった。

 それでも、京都と小浜を結ぶ最短ルートである事から、急行の運転も行われ、これに合わせて路線の規格が上げられた(正確には、当初の丙線規格に戻した)。また、沿線の観光開発も進んだ事で、沿線の過疎化が史実より緩やかになった。

 その後、林業の衰退やモータリゼーションの侵攻によって貨物輸送は無くなり、残るはローカル輸送と観光輸送のみになった。また、国鉄再建時に第2次特定地方交通線に指定されたものの、観光開発に活用出来る事、急行の運転が多かった事から第三セクターへの転換が行われ、1987年4月に「丹若鉄道」に転換された。

 

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・八日市鉄道(近江鉄道八日市線)の旅客輸送廃止

 八日市鉄道は、1913年に近江八幡~八日市口(1919年に新八日市に改称)が湖南鉄道として開業した事から始まる。その後、1927年に琵琶湖鉄道汽船(現在の京阪石山坂本線と琵琶湖汽船)に合併されるが、1929年に旧・湖南鉄道線が八日市鉄道に譲渡された。譲渡された翌年、飛行場のある御薗まで延伸し、全線が開業した。

 戦時中の1944年に近江鉄道に合併され、「近江鉄道八日市線」となった。戦後の1946年、近江鉄道本線との接続を目的に新八日市~八日市が開業し、1948年には軍の解体で飛行場への路線の価値が無くなり、新八日市~御薗が休止となった(1964年に正式に廃止)。

 

 この世界では、八日市鉄道に沿う形で1940年に名古屋急行電鉄(後の京阪電気鉄道名古屋線)が開業した。これにより、八日市鉄道の旅客輸送量が大きく減少した。

 戦時中、不要不急線に指定されかけたものの、飛行場への物資輸送という目的があった為、廃止にはならなかった。しかし、旅客輸送は休止となり、貨物輸送のみとなった(この時、近江鉄道に合併)。

 戦後、旅客輸送を復活させる事が検討されたが、京阪名古屋線との競争や本線復興に注力する事から、終戦直後から休止状態となり、1958年に正式に廃止となった。

 

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〈中国・四国〉

・呉線の海田市~呉の複線化実現

 三原~海田市を竹原・呉経由で結ぶ呉線は、呉軍港への物資・人員輸送、山陽本線のバイパスとして活用された。しかし、海田市~呉の開業は1903年に対し、全線の開業の開業は1935年11月まで待たなければならなかった為、最重要目的は呉軍港への連絡であり、山陽本線のバイパスは後に追加されたと見るべきだろうか。

 その重要性から、1939年から海田市~呉の複線化が計画された。これは、戦時体制になるにつれ、軍需工場への工員輸送が急務になった為である。1941年から工事が始められたが、資材の不足で工事が進まないのに対し、工員の急増が激しかった事から、バス輸送で代替となった。工事も終戦によって中止され、半分以上のトンネルは完成するも放棄されたが、呉線電化の際に再利用された。

 

 この世界では、工事の開始が1940年と1年早かった事で工事が進み、戦局の悪化が緩やかであった事から資材・労働力不足が逼迫しなかった事で工事が中断しなかった。これにより、1945年2月に海田市~呉の複線化が実現した。

 

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〈九州〉

・室木線と幸袋線の延伸

 室木線は遠賀川~室木を、幸袋線は筑豊本線の小竹~幸袋~二瀬をそれぞれ結ぶ路線である。筑豊地域の路線である為、沿線の炭鉱から産出される石炭を輸送するのが主要目的だった。

 しかし、そうである為に、炭鉱が閉鎖されれば、後は小規模の旅客輸送しか無かった。実際、両線は国鉄内でも有数の赤字路線であり、赤字83線に指定されている。特に幸袋線は、「飯塚市内を分断している事から早期に廃止にしてほしい」という声が多かった。

 その結果、1969年12月に幸袋線は廃止となった。これは赤字83線に指定された路線で最初に廃止となった路線であり、以降の国鉄のローカル線の廃止におけるモデルケースとなった。

 室木線も赤字83線に指定されたが、この時は廃止にならなかった。その後、山陽新幹線の博多延伸の際、小倉~博多に隣接している事から、レールの輸送に活用された。しかし、その後の国鉄再建時に第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止となった。

 

 両線には延伸計画があったらしく、幸袋線は二瀬から桂川への、室木線は筑前宮田への延伸計画というものだった。理由はそれぞれ、戦時中の筑豊本線のバイパス、延伸予定地域に建設される工業団地への輸送を予定したという。しかし、結果は実現しなかった。

 

 この世界では、筑豊本線のバイパスとして、室木~筑前宮田~幸袋と二瀬~桂川を建設する案が出た。また、戦時体制になるにつれ、燃料資源である石炭の需要が急増する事から、沿線に新しく開坑される炭鉱の輸送手段としても目された。

 1939年から工事が行われたが、二瀬~桂川は兎も角、室木~幸袋は山越えになる事から難工事となった。一時は中断も検討されたが、沿線予定地の炭鉱事業者や成立した西日本鉄道の助力もあり、1945年1月に全線開業となった。この時、遠賀川~室木~筑前宮田~幸袋~二瀬~桂川は「鞍穂線」と命名され(由来は、起点の遠賀川が鞍手郡、終点の桂川が嘉穂郡の旧・穂波郡に所属している事から)、旧・幸袋線の小竹~幸袋は筑豊本線の支線に編入された。

 

 終戦直前の開業となった為、筑豊本線のバイパスという目的は失われた。石炭輸送も、エネルギー革命と炭鉱の資源枯渇によって次第に縮小し、1970年頃には完全に貨物輸送は消滅した。路線の長さや一定程度の旅客輸送がある事から赤字83線にリストアップされつつも廃止されなかったが、第2次特定地方交通線に指定された。

 しかし、沿線に工業団地が出来る事から旅客輸送の増大が見込まれ、廃止は一時延期となった。その後、沿線自治体や進出企業が中心となって、1988年2月に第三セクター「筑豊縦貫鉄道」に移管された。



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5章 昭和時代(戦後):新たなる時代
番外編:太平洋戦争の総決算と戦後の東アジアの混乱


すいません、遅くなりました。

今回は、戦後処理と日本の状況、日本の周辺の変化について書かれている為、非常に長いです。


 1945年6月5日、日本の戦争は終わった。正確には停戦であり、正式に戦争が終わった訳では無かった。それでも、多くの人にとってはこの日が戦争が終わった日と判断された。

 停戦前後、国内や外地、占領地では継戦派、宣言破棄派が戦争継続の為の行動を起こそうとしたものの、日本から有力皇族が特使として派遣され、それによって現地の暴発は避けられた。それでも暴発しそうになった者は、即刻処断した。時間が無かった為、荒っぽい対処となった。

 

 7月2日、応急修理された「ミズーリ」の艦上で、日本は終戦の文書にサインした。これにより、日本とアメリカの戦争状態は終了した。その後、日本本土にアメリカ軍の駐留が開始され、8月2日には日比谷の第一生命館に連合国軍最高司令部(GHQ)が設置された。その初代司令官に、ジョージ・パットン大将が就任した。

 史実では、マッカーサーがその職に就任したが、この世界ではレイテ戦で第二艦隊の艦砲射撃によって吹き飛ばされて死亡した。その為、彼が就いていた南西太平洋方面最高司令官(太平洋方面の連合国軍を統括する)を誰にするかという問題になり、ヨーロッパで活躍しているパットンが適任とされ、急遽ヨーロッパから太平洋方面に送られた。

 この経緯から、パットンがGHQ司令官として日本に赴任した。そして、GHQ主導の下、日本の民主化が始められた。

 

 先ず始められたのが、戦犯の処罰だった。対象者として、閣僚や大本営の幕僚、現地の高級指揮官や財閥のトップなど多岐に亘った。

 当初は天皇も含まれていたが、日本が全力でこれに反対し、米英も「処罰した場合、日本人は最後の一人になるまで戦い続ける」と考え反対した。天皇については、天皇大権を放棄し国民主権に移行、天皇は象徴君主として存在する事で決定した。

 戦犯の処罰だが、史実の様な連合国による一方的なものとはならなかった。これは、日本が条件付き降伏で停戦した事、停戦時の内容に「現行の国際法に則って裁判を行う事」と明記されていた事が大きかった。それに、ウォレス大統領やトルーマン副大統領、パットン最高司令官が「事後法で裁く事は、先進国として、法治国家として許される事では無い」と考えていた事もあり、以降の利益を考えるとここで日本を必要以上に痛めつける事は国益に反すると考え、史実よりも穏便に事が進んだ。

 これに対し、中華民国やオーストラリア、オランダは厳しい処罰を望んだ。アメリカとの意見が平行線となった為、アメリカはこの3国については諦める事となり、そのまま裁判となった。

 史実よりも穏便となったが、アメリカは戦犯の追及に手を抜く事は無かった。目に見える形で処罰しなければ、国内には勝利したと宣伝する事は難しく、日本国内に対しても「誰が悪だったのか」をハッキリさせる為にも、裁判は必要だった。

 

 裁判の結果、死刑を宣告された者は一人もおらず、全員が終身刑か禁錮刑となった。ただ、東條英機は、自身の責任や天皇への申し訳無さなど様々な要因によって、獄中で割腹自殺を遂げた。同様に、獄中で自殺した者は複数人出た。その後、この裁判の被告人となった軍人が亡くなった後、靖国神社に葬られる事無く家族に遺骨が渡った。

 

 しかし、この裁判はここで終わらず、日本側の逆提案によって、連合国の戦争犯罪も裁かれる事となった。これは、日本側の証言で連合国の戦争犯罪が明るみとなった事、この裁判前にソ連が満州や朝鮮に侵攻してそこでの行為が暴露された事から、連合国の正義が疑われた。

 これを払拭する為に、連合国も裁かれる事となった。これにより、現地で捕虜を虐待した者が裁かれたが、処罰の内容が2階級降格の上で除籍処分、禁錮刑など日本側と比較すると軽いものとなった。

 

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 次いで、日本の海外領土をどうするかだった。この対象となったのは、台湾、朝鮮半島、関東州と南満州鉄道、南洋諸島だった。南樺太は除外され、以降も日本領として扱う事が許された(1947年に樺太県に移行、1950年に北海道と南樺太の開発事務を担当する「北方開発庁」が後述する総務省の外局として設立)。

 当初は、日本は無条件にこれらの領土を手放す事になっていたが、日本は「無条件で」という部分に異議を唱えた。現地住民の声を聴かずに、勝手に決めていいのかという疑問を投げかけ、住民投票で決める事を提案した。

 連合国としても、条件付き降伏をした国に対し好き勝手に行うのは長期的に見てマイナスになる上に、民衆の声を聴いて今後を決める方が「民主主義の守護者」としての体面を保てる事から、日本の意見を取り入れた。この結果次第で、日本への対応も考える必要があり、内容によっては「日本を悪の帝国だ」と攻撃出来る材料になる為でもあった。

 

 投票結果、ソ連の占領下にあった関東州や朝鮮北部では独立が圧倒的多数となった一方、アメリカの影響下にあった朝鮮南部、台湾、南洋諸島は日本への帰属が多数となった。

 アメリカとしては、日本を叩く事は難しくなった事は別に構わないが、これらの領土を再び日本が統治する事にも難色を示した。朝鮮半島は独立させる事が決まっており、台湾は中華民国に返還する予定だった。それらの地域が「不正投票だ」と騒ぐ一方で、日本も現状ではこれらの地域は負担になりかねなかった。

 その為、南洋諸島については暫くアメリカが信託統治を行い、朝鮮南部と台湾は独立させる事となった。中華民国が騒いだが、戦時中に殆ど血を流していない事、台湾に侵攻しなかった事などから相手にしなかった。独立は、朝鮮は5年以内に、台湾は10年以内に行う事が決定された。

 

 投票後、日本国内にいる外地出身者は出身地に戻る事となった。ただ、希望するのであれば日本国籍を取得出来るが、その条件が厳しく(犯罪歴の有無、学歴、収入など多数)、殆どがこの条件に通らなかった。同時に、外地にいる日本人の帰還が行われたが、満州や朝鮮北部の日本人の帰還は叶わなかった。

 住民の帰還と同時に、外地にある日本の資金で建設された固定資産は独立予定国が安価で購入するか、日本の在外資産とする事が決定された。朝鮮は猛反発したが、既に取り決められている事から取り消されず、アメリカが大規模な借款を行う事で鎮静化した。ソ連占領地域ではこの取り決めは適用されず、「戦時賠償」として没収された。

 

 朝鮮南部は1948年に「大韓民国」として、台湾は1952年に「台湾共和国」として独立した。

 尚、これに対抗する様に、ソ連が朝鮮北部を1948年に「朝鮮民主主義人民共和国」として、満州を1954年に「満州民主共和国」、内蒙古を「プリモンゴル人民共和国」として独立させた。

 

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 戦犯、領土の問題の後、各種民主化や再編が行われた。ここでは、史実と異なる部分である、軍部(実戦部隊)、中央省庁、経済の順に説明する。

 

 アメリカは当初、日本の軍事力を全て解体する予定だった。しかし、太平洋戦争でアメリカ軍、特に海軍が壊滅的打撃を受けた事で、その方針が変更された。また、ソ連が終戦後に満州や朝鮮に侵攻した事で、日本をソ連に対する防波堤とする事となった。

 その為、軍の解体では無く、軍縮による再編に変更された。そして、アメリカ軍のコントロール下に置かれる事となった。

 

 その中で、軍縮の過程で生じる艦艇、特に戦艦と重巡洋艦を各国に賠償として引き渡される事となった。特に、大和型については各国が欲しがっていたが、「信濃」がアメリカに「メーン」として引き渡され、「大和」と「武蔵」は新生日本海軍の主力艦艇として引き続き使用される事となった。同様に、「天城」、「赤城」、「加賀」、「土佐」、「長門」は日本海軍に残った。

 それ以外の戦艦は、「金剛」と「扶桑」はイギリスに、「比叡」と「山城」はフランスに、「榛名」と「霧島」はオランダに、「伊勢」と「日向」は中華民国にそれぞれ引き渡される事となった。英仏蘭は、自国の艦艇との規格の違いや老朽化(一番新しい「日向」でさえ1918年竣工の為、27年経過している。「金剛」に至っては32年経過している)によって、屑鉄として売却される事となった。ただ、中華民国は、自国海軍の再編成に活用され、それぞれ「定遠」、「鎮遠」に改称された。

 

 空母は、「天鳳」、「高雄」、「葛城」、「阿蘇」が残された。「大鳳」は、アメリカ軍に賠償として引き渡されたが、これは飽くまで研究の為だった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「大鳳」は日本海軍に復帰した(同時に「高雄」は退役)。「生駒」はフランスに、「鞍馬」はオーストラリアにそれぞれ賠償として引き渡された。

 軽空母は、商船改造空母しか残っていなかった。状態が良ければ元の商船に戻す予定だったが、「飛鷹」以外は通商護衛で酷使された為、修理する方がコストが掛かるとして解体処分となった。「飛鷹」は中破しており徹底的に改装された事で商船に戻す事は難しかったが、日本に残った数少ない大型優良商船の為、何とかして商船に戻す事となった。これにより、1948年には「出雲丸」として再スタートした。

 

 重巡洋艦は、損傷した艦艇が多く、7隻(青葉型1、妙高型2、鳥海型2、穂高型1、伊吹型1)のみ稼働可能だった。この内、2隻ずつがフランス、オランダ、オーストラリアに賠償として引き渡され、残る1隻(青葉型)は日本に在籍して実験艦として運用される事となった。

 軽巡洋艦は、稼働可能な全て(5500t型3、最上型2、利根型2、阿賀野型3、大淀型2、練習巡洋艦2)を日本海軍に在籍する事となった。

 

 駆逐艦は、艦隊用駆逐艦は2個水雷戦隊分(24隻)まで保有する事が許され、残りは破棄するか各国に賠償とあった。ただ、損失数が多く損傷も激しい為、賠償に回せる分は数隻しか無かった。その為、護衛駆逐艦や海防艦を多めに賠償に出す事となった。

 潜水艦は、保有は16隻まで、航空機搭載可能型はその機能を撤去する事、潜水空母(伊四百型、伊十三型)は全てアメリカに引き渡す事となった。

 

 海上警備総隊は、所属を内務省に移し「海上保安隊」に改称となった。船団護衛の任は新生日本海軍に移され、海上警備を主任務とする事となる。

 

 陸軍は、国内12個師団まで保有可能、内機甲師団及び機械化師団は1個ずつ、近衛師団は廃止、各種装備はアメリカ軍と共通化する事が決められた。だが、後の冷戦の訪れでこれが緩和され、1950年代には16個師団、内機甲師団2個、機械化師団2個まで拡張する事が認められた。

 

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 中央省庁は、内務省と軍政部(陸軍省・海軍省)が焦点だった。GHQは、内務省が戦前日本のファシズム化を進め、非民主的支配を行っていた中核と考えていた為、解体をする予定だった。

 しかし、ソ連との対立が早まり激化した事で、内務省解体論は急速に衰退、緩やかな分割に変更となった。具体的には、

 

・内務省は「総務省」に改称する。大臣官房・地方局(地方行政部門)以外の内局は全て分離する。

・都道府県知事は全て公選とする。

・警保局(警察部門)は総務省の外局「警察庁」に改編する。全都道府県に都道府県警察を設置する。

・警保局の消防部門を分離して外局「消防庁」を新設する。

・高等警察・特別高等警察は都道府県警の公安課、司法省(後に法務省に改編)の外局「公安調査庁」に改編する。

・国土局(土木行政部門)は「建設省」に改編する。

 

というものだった。内務省は名目上は解体されたが、「特高の解体」は行われなかった。その為、内務省解体後も社会主義・共産主義に対する取り締まりは継続した。

 

 軍政部は、陸軍省と海軍省を解体し、「国防省」を新設する事で解決した。これ以外にも、参謀本部と軍令部が解体され、「統合幕僚本部」が新設された。また、法律で統合幕僚本部は国防省の下に置かれる事となり、憲法で国務大臣は文民に限定される事となった為、戦前の問題だった軍政部と統帥部の関係、軍部大臣現役武官制は解消された。

 これ以外に、海軍情報本部と参謀本部第2部が統合して「国防情報本部」に改編となり、軍の情報機関が一本化された。

 

 これ以外では、内閣に付随する部局を統括する「総理府」が新設され、宮内省が「宮内庁」に縮小改編されて総理府の外局となった。厚生省からは、労働部門が分離して「労働省」が新設された。これにより、日本の主な中央省庁は1府13省(1948年当時)となった。

 中央省庁以外では、内閣情報調査局が内閣官房傘下に収まった。他にも、軍と政府、政府間の調整機関、国家の安全保障を検討する「国家安全保障会議」の設立が検討された(実際に設立されたのは1951年)。

 

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 経済では、財閥の解体が行われた。特に、五大財閥と呼ばれた三菱、三井、住友、安田、大室、新興財閥で最大規模の日産、中島の解体は急務だった。

 実際、1946年4月に上記7グループの持株会社は解体された。その後、年内までに他の大規模財閥の持株会社は解散するか分割され、独占・寡占状態の企業は分割されるか株式公開が行われた。翌年には、地方財閥も解体となった。

 また、財閥の称号の使用も禁止され、これが解除されるのは1951年まで待たなければならなかった。

 

 この部分は概ね史実通りだが、解体はやや緩やかだった。極端な細分化は行われず、大企業を数社から10社程度の分割となった(史実では、三井物産や三菱商事が100社以上に細分化された)。分割された企業の大合同についても、早いものでは1951年から進んだ(史実より5~10年早い)。

 

 これと並行して、特殊銀行が普通銀行に転換され、外地の運営機関や戦争遂行に深く関わったとされた機関が「閉鎖機関」に指定されて閉鎖される事となった。特殊銀行は、日本勧業銀行(勧銀)と日本興業銀行(興銀)、北海道拓殖銀行(拓銀)が普通銀行に転換され、他の4行(横浜正金銀行(正金)、台湾銀行(台銀)、朝鮮銀行(鮮銀)、朝鮮殖産銀行(殖銀))は閉鎖機関に指定された。東洋拓殖(東拓)や南満州鉄道(満鉄)など、約20の外地や占領地で営業していた機関は清算される事となった。

 その後、閉鎖機関の残余資産を基に第二会社が設立された。史実では、正金が1946年に「東京銀行」、鮮銀が1957年に「日本不動産銀行(後に日本債券信用銀行に改称)」、台銀が1957年に「日本貿易信用(後に日貿信に改称)」を設立した。

 また、長期信用銀行法が制定されると、興銀は長期信用銀行に転換し、勧銀と拓銀の長期金融業務を継承する「日本長期信用銀行」が設立される。日本不動産銀行も、長期信用銀行として設立された。

 

 この世界では、東京銀行は史実通りだが、他の企業が大きく異なった。

 鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。

 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。

 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。

 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。

 

 国民更生金庫は、「国民産業公庫」に改称して、後に「中小企業金融公庫」に改称した。戦時金融金庫は、融資先を軍需企業から輸出産業としての重化学工業に融資する「日本復興金庫」に改称した。

 

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 日本は6月5日に停戦した。その後、7月2日にアメリカが日本本土に進駐を開始した。以降、アメリカは日本の外地である台湾や朝鮮、日本の影響力が強い満州への進駐を予定した。

 

 これに焦ったのがソ連、正確に言えばスターリンだった。もし、このままアメリカの進駐を見過ごせば、ソ連国境にまでアメリカ軍が来る事になる。加えて、太平洋への出口の獲得は絶望的となる上、アジアへの橋頭保も確保出来ない。そして、荒廃した国内の復興の為の人材や技術の略奪も不可能となる。

 これを危惧したソ連は、8月8日に「連合国各国による日本駐留を行う」という名目で、満州、内蒙古、朝鮮、南樺太、千島列島への侵攻を開始した。

 

 この侵攻は、ソ連にとって綱渡りだった。当時のソ連は、独ソ戦が終わったばかりで軍の移動が済んでいなかった(独ソ戦は、現在のドイツ=ポーランド国境付近で終了。つまり、ドイツ中心部への侵攻が叶わなかった)。その為、この時の侵攻軍は、極東軍管区やザバイカル軍管区、シベリア軍管区や中央アジア軍管区といった独ソ戦から見て後背に位置する軍管区に残存する部隊から抽出されたものだった。それでも不足の為、囚人や政治犯を解放する条件として舞台に編入した。

 これにより、数だけは100万人と揃ったが、武器は旧式なものが多かった。それでも、ソ連側以上に内容がお粗末であり、武装解除状態だった関東軍相手には問題無かった。この時の関東軍は、優良部隊が南方に送られ、現地で招集した人達で編成した部隊で穴埋めしていた状態であり、練度は低く重装備も無かった。

 この侵攻で、満州と内蒙古は瞬く間にソ連に制圧され、その勢いで朝鮮北部も制圧された。南樺太と千島は、現地部隊の抵抗と、現地に展開していたアメリカ軍や海軍の存在から、侵攻は小規模なものとなり、ソ連は直ぐに撤退した。

 ソ連に占領された地域では、徹底的な略奪が行われた。持ち運べるものは全て持ち去られ、持ち運べないものでも強引に持ち去った。人も殆ど強制的に連れ去られ、過酷な労働を強いられた。日本人だと分かれば、更に過酷な現場での工事や鉱山活動を行わせた。満州民主共和国が建国されるとそちらに移住させられたが、この時までに4割が亡くなった。

 

 これに慌てたアメリカ軍は、直ぐさま西日本にいた部隊を朝鮮半島に送った。同時に、ソ連との交渉が行われた。両者の意見は平行線を辿り、決まった事は朝鮮半島の北側はソ連に、南側はアメリカが管理する事だけだった。これにより、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断される事となった。

 ソ連は、アジアでの足場の拡大に成功した。しかし、この行動がアメリカの対ソ戦略の構築を早める事となり、日本が対米協調路線を明確にする最大の要因となった。

 

 ソ連のアジアでの拡大は留まる事を知らず、1947年には東トルキスタンを取り込み「ウイグルスタン人民共和国」として衛星国化した。1949年には北京で「中華人民共和国」の建国が宣言され、中国大陸も共産主義に覆われた。これにより、中華民国は中国大陸から追い出され、海南島に逃走した。

 中国大陸が共産主義化すると、中国にいた中華民国支持者や反共主義者、反体制派や暴力団、及びそう見做された人などが一斉に摘発された。これにより約2000万人が摘発され、その殆どが国内の強制労働に従事されたり、ソ連に武器や物資の「対価」として輸出された。

 1940年代末は、北東アジアでの共産主義の拡大の時代となった。




変更前
『鮮銀は、1952年に残余資産を基に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。台銀は、台湾拓殖や南洋興発の一部が合流して、1952年に「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立したが、こちらは外国為替銀行法を根拠にしていた(外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。殖銀は、東拓や満鉄の一部を統合して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 東拓や満鉄、台湾拓殖など外地開発の企業は、自前の金融機関を持ちたいとして、1955年に長期信用銀行「日本興産信用銀行(興信銀)」を設立した。その後、以前の同門がいる日貿銀と昭和信託、以前のグループ企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

変更後
『鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。
 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。
 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

長期信用銀行は国策銀行であると同時に、その特殊性から複数行も必要無いと判断しました。実際、日本不動産銀行が設立しようとした際、「既に日本興業銀行と日本長期信用銀行があるから、新たな長期信用銀行は要らない」と言われた程でした。


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37話 昭和戦後:中外グループ前史

久々に本編です。本当に久々なので、設定の多くを忘れていますし、書き方も忘れています。

また、内容に不快になる部分があると思いますが、あまり深く考えないでください。


 終戦後の財閥解体は、大室財閥は勿論、日林財閥、日鉄財閥もこの影響を受けた。その結果、主要企業は次の様になった。尚、この中には、経済状況の変化によるものも含まれる。

 

〈大室財閥〉

・大室本店→解体。1951年に残余不動産を基に「大新不動産」を設立。

・大室物産→「愛宕物産」、「西新商事」など8社に分割されるも、1957年に大合同し「大室物産」が復活。

・大室海運→「大和海運」に改称、1953年に旧名に戻す。

・大室銀行→「中外銀行」に改称、その後は旧名に戻さず。

・東亜貯蓄銀行→都市銀行「協和銀行」に転換(史実の協和銀行と異なる)。

・大室信託→信託銀行「大同信託銀行」に転換、1952年に「大室信託銀行」に改称。

・東亜生命保険→「昭和生命保険」に改称と同時に相互会社に転換、その後は旧名に戻さず。

・日本弱体生命保険→「三洋生命保険」に改称と同時に相互会社に転換、その後は旧名に戻さず。

・大室火災海上保険→「大和火災海上保険」に改称、1952年に旧名に戻す。

・東亜動産火災保険→「昭和火災海上保険」に改称、その後は旧名に戻さず。

・大室重工業→東日本は「大和重工業」、西日本は「大同重工業」に分割。1958年に両社が合併して「大室重工業」が復活。

・大和航空工業→8社に分割される。その後、分割された各社の大合同は行われず、富士重工業や大室重工業に統合される。

・大室化成産業→「大和化成産業」に改称、セメント事業(「大和セメント」)とガラス事業(「大和ガラス産業」)、ゴム加工事業(「大和ゴム」)を分離。1951年に「大室化成産業」に戻すも、分離した事業は統合せず。

・大室鉱業→金属鉱山部門を「大和金属鉱山」、炭鉱部門を「大和鉱業」に分割。1952年にそれぞれ、「大室金属鉱山」、「大室鉱業」に改称する。

・大日新聞→保有する全ての株式を放出。その後、買い戻して影響力を取り戻す。

 その他、大室系の企業は一時的に「大室」の看板を外し、「大和」や「大同」に替えた。また、一部の支店や工場は切り離され、独立した企業となった。その後、多くの企業が1950年代に「大室」に戻した。

 

〈日林財閥〉

・日本林産→解散。林業部門は「東邦林産」、商社部門は「日林物産」として分割。残余不動産を基に、1950年に「日林不動産」を設立。林業部門は、1952年に「日本林産」に戻る。

・日林化学工業→合成繊維や木材加工などを「日東化学工業」として分離。

 

〈日鉄財閥〉

・日本鉄道興業→解散。製造部門は「日鉄重工業」、商社部門は「日鉄商業」として分割。残余不動産を基に、1951年に「日鉄不動産」を設立。

・大同造船→日鉄重工業に統合。

 

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 財閥解体によって、重化学工業や商社といった戦争に深く関わっていた企業、国内で独占的地位にある企業は分割された。

 また、実質的敗戦とそれに伴う大規模な軍縮で、軍需が極端に減少した。これにより、今まで主な需要が軍需のみだった企業が大打撃を受けた。

 大室財閥では、大元の大室本店は勿論、中核であった大室重工業が航空機や軍艦の製造に深く関わっていた事から、優先的に解体された。大室物産も、占領地の経済活動に深く関わっていたとして分割され、大和航空工業は、GHQによる航空機の生産運用の中止によって細分化された。

 ただ、大室重工業には造船や自動車といった商品があり、造船は急増する貨物船の需要(戦時標準船の耐用年数が来る為、代替船の需要が急増)に応える為にフル回転しており、自動車の方もトラックや重機が戦後の復興の為に必要になる事から、こちらも製造ラインをフル回転させていた。その為、元・大室重工業の方は比較的安泰と見られた。

 しかし、実際は朝鮮戦争が起こるまで、日本経済の混乱によって各部門の状況は安定せず、自動車部門に至っては危機的状況になった。

 

 大室物産も、「愛宕物産」や「西新商事」など8社に分割された。しかも、「元・大室物産の部長以上だった人物が、3人以上同じ会社にいてはいけない」とされた為、分割された会社から漏れた人達は、新たに会社を興すか別の会社に引き取ってもらう事となった。

 それでも、戦後の復興に当たって、物資の獲得や商品の輸出入に商社の存在は欠かせなかった。その為、分割された各社と新しく興した会社は順調に拡大していった。

 しかし、順調に拡大していると言っても、1社1社の規模が限定されていた為、今以上の取引の拡大や効率化を推進する為には、巨大な1社に纏まる必要があった。それが、「大室物産」の復活だが、これが実現するのは1957年まで待たなければならなかった。

 

 大室重工業、大室物産の戦後は何とか軌道に乗ったが、大和航空工業はそうならなかった。大和航空工業は航空機用エンジンを供給する目的で設立された為、戦後の転換は上手く行かず、小規模な自動車用・バイク用エンジンの製造で糊口を凌ぐ日々だった。また、エンジン以外に目ぼしい商品が無かった為、1950年代に分割された企業の大合同が行われた時期に、大和航空工業が再び設立される事は無く、繋がりがあった大室重工業や富士重工業に統合された。

 

 これ以外の元・大室財閥の各企業は、戦後の苦しい状況でも自助・共助によって、何とか苦しい状況を切り抜けた。財閥解体後も彼らの繋がりが維持されたが、彼らが表立って再び集結するのは、1950年代になってからであった。

 

 この中で特殊だったのが、大日新聞だった。大日新聞は、資本的には大室財閥に属していたが、財閥の御用新聞では無かった。広告こそ出していたが、それ以上の付き合いは無かった。その為、財閥批判はそれなりに行っていた。

 しかし、戦時中の軍を賛美する記事を書いた事から、GHQから睨まれ、その方針を転向する事となった。その間隙を突く様に、社会主義者・共産主義者が入り込み、一時は「アカの御用新聞」とまで言われた。

 ただ、終戦直後のソ連の蛮行が世に知られた事、GHQが方針を転換した事によって、社内に入り込んだ社会主義者・共産主義者は軒並み追い出され、朝鮮戦争における韓国・北朝鮮の実態が判明した事によって、1952年には大日新聞は完全に元の中道右派に戻った。

 また、戦時中に獲得したプロ野球チーム「大日軍」だが、戦後にチーム名を「大日イーグルス」に改称した。だが、プロ野球が再開した時期と大日新聞の内部の混乱の時期が重なった為、思う様な補強が出来なかった。その為、この時期のイーグルスはBクラスの常連だった。

 一時は同じグループの京成電鉄に身売りの噂も出たが、「戦後の大日新聞の象徴とする」という社主の命によって、身売りは無しとなった(だが、株式の30%の譲渡が行われた)。その後、大日新聞の混乱が収まると球団経営に力が入る様になり、戦後のプロ野球ブームとも重なり、以降は巨人や大阪タイガースなどの強豪チームと渡り合える力を持った球団となっていった。

 

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 日林財閥は、大元である日本林産が解体された。だが、解体と言っても持株会社としての性格を失っただけであり、林業部門は「東邦林産」として、商社部門は「日林物産」として独立した。その後、1952年に東邦林産は「日本林産」に戻ったが、商社部門は合流せずそのまま独立し、後に大合同なった大室物産に合併された。

 戦後の復興期とあって、木材の需要は膨大だった。その為、木を伐り売り出せば、それだけで利益が出る様な状態だった。

 実際は、経済状況の不安定さによって利益が安定しなかった事、戦時中から行われた過剰な伐採によって、木材資源の不足が目立って来た事などから、今後の経営状況は不安視された。植林は積極的に行われ、史実の様な画一的な植林は行われていないが、日林はこの頃には林業の限界を見ていた。この為、他の事業への注力と、自力で木材を活かせる事業、つまり住宅部門への進出が行われた。

 

 本業の林業とは対照的に、化学や機械などの重化学部門の方は順調だった。軍需産業の為、役員の追放や一部事業や工場の分割、海外資産の没収はあったものの、国内資産の多くは残った。その為、戦後の再生は早かった。戦後経済の混乱によって安定していたとは言えないものの、戦後復興に必要な化学肥料や船舶の需要は高く、その後も業績を伸ばしていった。また、戦後の日本の重化学路線の強化によって、この部門が元・日林財閥の主力部門になっていった。

 

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 日鉄財閥は、GHQに日本製鐵(後に富士製鐵と八幡製鐵などに分割)の系列と勘違いされたエピソードがある。勿論、日鉄財閥と日本製鐵に資本関係は無く、GHQにその事を伝える為に、何度も本社と司令部を往復する事となった。

 ただ、このGHQとの交渉の中でGHQ関係者とのパイプを形成する事に成功し、日本語と英語に堪能な人物の紹介や公開しても問題無いレベルでの情報の開示を受けるなど、その後の混乱期を乗り切る為の手段を手に入れた。

 

 日本製鐵との関係が無い事を説明し、GHQとのパイプを作る事は出来たが、財閥解体は避けられなかった。大元の日本鉄道興業は、製造部門の「日鉄重工業」、商社部門の「日鉄商業」に分割された。同時に、戦時中に設立した大同造船は、日鉄重工業に統合された。

 分割された日鉄だが、業績は好調だった。戦時中に酷使された車輛の修繕や新規車輛の製造があった為である。GHQによって新造には制限があったものの、復旧の名目で実際には大量に新造された。特に、電鉄各社向けの63形や各種客車、D51などのSLの需要は大きかった。これにより、日鉄重工業は規模を拡大、後に社名を「日本鉄道興業」に戻し、日本車輌製造や東急車輛製造に並ぶ鉄道車輛メーカーとなった。

 鉄道以外でも、主機の製造経験を活かして、大型船用のタービンのみならず、大型発電機の製造も行われた。だが、このノウハウが生きるのは、もう少し先の話となる。

 

 一方の商社部門だが、こちらは単独での生き残りは不可能と判断された事、大室物産が規模の拡大の為に中堅クラスの商社の統合を行っていた事から、1962年に大室物産に合併された。 

 

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 財閥解体によって、大室、日林、日鉄の影響力は大きく減少した。それだけでなく、税制改正によって莫大な量の相続税が掛けられるなどして、戦前程の影響力を発揮する事が難しくなった。

 創業者一族も、この時を境に影響力を大きく失った。大室家や高田家(日林)、日鉄の六家族は、資産の多くを税金に取られ、株式の多くも放出させられた。また、会社からも追い出された。

 しかし、長きに亘って会社を統治していた影響力は大きく、会社からは秘密裏に支えてられていた。また、彼らは創業者一族であると同時に、実業家でもあった。その為、追い出された彼らが一から起こした企業もあり、戦後の混乱で困窮する事は殆ど無かった。



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38話 昭和戦後②:中外グループ

 戦後の混乱によって、各社の経営状況は不安定だった。在外資産の喪失、財閥間の繋がりの喪失、有力な人材の追放など、挙げればキリが無かった。

 それでも、戦後復興の為に、皆は精力的に働いた。この途中で、デフレによる急速な景気の後退があったものの、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争によって、今までの不景気は吹っ飛んだ。

 

 朝鮮戦争中、日本は朝鮮半島の後方支援基地として活用された。被服や食糧、武器・弾薬と言った前線で使用されるものは勿論、機械や造船、鉄鋼や化学など、ありとあらゆる物資の需要が急増した。

 また、日本軍が国連軍の一員として朝鮮戦争に参戦した事で、軍需も復活した。特に、銃器や被服、造船や車輛などの需要が急増した。また、今までGHQによって制限されていた航空機の製造・開発が解禁された(この世界では、日本の航空機開発は民間機や練習機に限定されていた)。

 

 これにより、日本経済は急速に回復、復興が一段と進んだ。生産力増強が進められれ、その後の経済発展の第一歩となった。

 

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 朝鮮戦争の恩恵は、大室・日林・日鉄も受けた。大室が得意の造船、車輛、機械、航空機、日林が得意な木材と化学は、設備をフル稼働して生産に当たった。日鉄も、大室だけでは手が回らない造船や機械を担当した。

 アメリカ軍向けの装備や機械の製造、兵器の修理などを行った事で、新しい技術の獲得にも成功した。特に大きかったのが、電機や精密機械、車輛の部門であり、これらの部門は生産こそ出来るものの、質の面ではアメリカに大きな後れを取っていた。それが、この戦争中に技術提供やリバースエンジニアリングによって技術を獲得、その後に大きく役立った。

 

 国連軍向けの軍需は大きかったのが、それに並んで大きいものが日本軍向けの軍需の拡大だった。この世界では、日本軍は存続したが、敗戦とそれまでの経緯から、大規模な軍縮が行われた。その為、戦後5年間は既存戦力のみで増強しなかった事から、軍需が殆ど無くなった。

 それが、日本軍が国連軍の一員として参戦した事で変化が起きた。今まで装備の充足率が6割程度だったものが、急速に整備する必要が生じた。その為の生産が急務となり、それ以外にも新装備への転換や新しい部隊の編制などが行われた。同時に、アメリカによる軍備の制限が緩和された為、その後はアメリカ軍から極東方面の防衛を担う事となり、その為にも軍備を整える必要があった。

 

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 朝鮮戦争によって、大室系、日林系、日鉄系の各企業の経営状況は好転し、その後は躍進した。同時に、GHQによる旧財閥に対する締め付けが弱くなり、旧財閥名の使用が解禁された。持株会社の禁止や、独占・寡占的企業の存在の禁止こそ残ったものの、経済に対する制限は劇的に緩和された。

 

 各社が元・大室物産、若しくは大室物産の元社員が興した企業であるだけに、行動は素早かった。1956年には主要各社が大合同に賛成し、翌年には正式に「大室物産」が復活した。その後、日林や日鉄、その他多数の中小の商社を合併し、日本有数の総合商社として発展していく事となる。

 

 大室物産に続き、大室重工業も1958年に復活した。大和重工業と大同重工業に分裂した大室重工だが、朝鮮戦争後の高度経済成長によって、業績は回復した。その後、造船や車輛などで上位に名を連ねる様になったが、グループ内で同じ様な形態の企業を複数持つ事の非効率さ、中堅規模の会社を複数持つより大規模な会社を1つ持った方が効率が良く競争力も得られるとして、両社の合併が進められた。両社もこの意見には賛成であり、1957年には翌年の合併が決定した。

 そして、1958年に大和重工業を存続会社として大同重工業を合併、「大室重工業」に名称を変更した。ここに大室重工業は復活した。

 

 それ以外の企業も、元の姿に戻るか社名をかつてのものに戻すなどして、急速にかつての姿を取り戻しつつあった。違うところは、各社の関係が(名目上)対等なところであり、絶対的な親会社が存在しない事である。

 

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 財閥が解体されても、元財閥同士の繋がりが消える事は無かった。これは、人的繋がりの為、規制する事が難しかった。

 実際、1950年には中外銀行や西新商事など、大室直系の10社が集まり「大和懇親会」を開いている。その後、元大室系や新規参入組が加入して、1953年には「大和会」に改称した。

 日林や日鉄も、1950年代半ばには企業グループを形成しており、元の財閥の形に戻ろうとしていた。ただ、戦前との違いは、持ち株会社の下に各社があるのでは無く、各社が名目上対等な立場で存在する事だった。

 

 その後、大室と日林、日鉄が中外銀行をメインバンクにしている事から、中外銀行とこの頃に大合同した大室物産を中心とした新たな企業グループを1959年に形成する事となった。企業グループは、中核となる銀行名から「中外グループ」と命名された。社長会は、全世界に広がる存在になりたい事から「九天会(くてんかい)」と命名された。



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39話 昭和戦後③:中外グループ(2)

未知の業界や慣れない業界の事を書くのって難しいですね。

内容が間違っている可能性がありますのでご注意ください。


 中外グループが形成されるに当たり、大室・日林・日鉄の各財閥の流れを汲む企業の殆どが参加した。それ以外にも、戦後に発足した企業や、戦後に中外銀行や協和銀行と融資関係を持つ様になった企業も参加した。

 

 その中で大きな存在だったのが、テレビ業の「千代田テレビ」、日本各地に設立した相互銀行やノンバンクなどの各種金融機関、小売業の「日本小売(後に「NICCOLI」に改称)」と「共和ストアー(後に「キョースト」に改称)」、食品加工業でお菓子系の「東邦製菓」と飲料系の「愛宕飲料(後に「アタゴ」に改称)」、日本各地の中外系の鉄道会社系の陸運業社、航空会社の「日本東西航空」だった。

 

 テレビ、金融を前編(この章)で、小売と食品加工、陸運、航空を後編(次の章)でそれぞれ紹介する。

 

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 日本のテレビ放送は、1953年2月にNHKが放送開始したのが始まり、同年8月末に日本テレビ放送網(日本テレビ)が放送開始した事で民放も始まった。その後、1955年4月にラジオ東京(後のTBS)、1959年2月に日本教育テレビ(後のテレビ朝日)、同年3月にフジテレビジョン(フジテレビ)、1964年4月に日本科学技術振興財団テレビ局(後のテレビ東京)がそれぞれ開局した。

 テレビ局は新聞社との繋がりが強く、日本テレビは読売新聞、ラジオ東京は毎日新聞(ただ、ラジオ東京の株主には読売新聞や朝日新聞も連ねていた)、日本教育テレビは朝日新聞、フジテレビジョンは産業経済新聞(ニッポン放送、文化放送との繋がりから)、日本科学技術振興財団テレビ局は1973年に東京十二チャンネルに譲渡した事で日本経済新聞との繋がりがそれぞれ構成された。

 

 大日新聞も、他社と同様にテレビ業にも進出した。特に、読売新聞とは共に関東が地盤である事、プロ野球チームを保有している事(しかも同じリーグ)から最大のライバルと捉えており、早くからテレビ放送を希望していた。

 しかし、他社との競合から遅れに遅れ、漸く1960年代に入って、日本科学技術振興財団と同時に認可された。しかも、大日新聞単独では無く、戦前に日産コンツェルンの総裁だった鮎川義介率いる日本中小企業政治連盟との共同での設立となった。

 兎に角、大日新聞系のテレビ局の開設許可が下りた事で、事は急速に進んだ。そして、1964年4月に「千代田テレビ」が放送を開始した。チャンネルは14chが割り当てられた(この為、在京チャンネルは14以降は2つずれる)。

 

 他社から大きく後れを取った千代田テレビだが、その後の巻き返しは早かった。プロ野球という当時最大規模の娯楽を持っていた大日新聞の存在、中外グループと春光グループ(日産コンツェルンが戦後再編されて形成)のバックアップなどがあり、その後は急速に拡大した。この後、開設された地方のテレビ局との繋がりも形成され、地方での市場の獲得にも成功した。

 

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 戦時中の金融機関の統合によって、大室財閥の手から多くの銀行・無尽会社(銀行に似た小規模な金融機関)が傘下から離れた。それでも、青森県の「青森商業銀行」、宮城県の「奥羽銀行」、石川県の「越州銀行」、神奈川県の「相武無尽」、埼玉県の「北武無尽」が傘下に残った。

 戦後、青森商業銀行は県内の青森貯蓄銀行と青湾貯蓄銀行を吸収し、青森銀行と並んで県内の有力金融機関に成長する事となる。また、相武無尽は「横浜相互銀行」に、北武無尽は「埼玉相互銀行」にそれぞれ転換した。

 

 相互銀行とは、1951年に施工された相互銀行法を根拠に設立された金融機関であり、「銀行」と付いているが銀行法を根拠とした銀行とは区別された。また、業務内容にも制限があり、中小企業にしか融資出来なかったり、融資額に上限があるなどがあった。

 因みに、現在は相互銀行法は廃止され、全行が普通銀行(第二地方銀行)に転換した。

 相互銀行のルーツは、無尽会社から転換したもの、最初から相互銀行として設立されたもの、他の金融業態から転換したものであり、無尽会社が源流のものでも、戦前からのもの、戦後の混乱期に乱立した殖産会社が無尽会社に転換したものに分かれる。つまり、相互銀行のルーツは4つに分けられる。

 

 中外銀行や協和銀行、大室證券や日鉄證券は、戦後の乱立した殖産会社を傘下に収めた。そうする事で、地方への進出がし易くなる為である。また、戦時中、大室系や日鉄系の地方銀行が戦時統合によって合併し、影響力を失った事の巻き返しを図る目的もあった。

 この結果、各地域で殖産会社を傘下に収めた。その後、殖産会社が無尽会社に転換する際、同じ地域毎に統合する事が求められた。これにより、中外系の相互銀行は、以下の通りとなった。

 

・北邦相互銀行(本店:札幌、営業地域:北海道)

・関東相互銀行(本店:東京都港区、営業地域:東京)

・浜松相互銀行(本店:浜松、営業地域:静岡)

・東亜相互銀行(本店:大阪、営業地域:近畿・山陽・四国・北九州・東海・北陸)

・神戸相互銀行(本店;神戸、営業地域:兵庫)

・吉野相互銀行(本店:徳島 営業地域:徳島)

・筑紫相互銀行(本店:福岡 営業地域:福岡)

・大分相互銀行(本店:大分、営業地域:大分)

 

 これらの開業により、中外グループの広がりは日本各地に見せた。相互銀行故に、大規模な取引は行えなかったが、地域の中小企業に融資し、地方の振興と貯蓄意識を高めるという目的は果たせた。

 上記以外にも、第一相互銀行(本店:東京)、国民相互銀行(本店:東京)、大阪相互銀行(本店:大阪)、大正相互銀行(本店:大阪)、東邦相互銀行(本店:松山)、高千穂相互銀行(本店:宮崎)を傘下に収めた(これらは史実で存在した相互銀行。大正相互銀行以外は、他行と合併するか経営破たんして消滅)。

 

 その後、東亜相銀は1969年に都市銀行「大同銀行」に転換したものの、1972年には協和銀行と合併して「協和大同銀行」となって消滅した。しかし、この合併により、協和銀行が弱かった西日本方面の支店網を大幅に増やす事に成功した。

 東亜相銀以外の相銀では、相銀同士の合併が相次いだ。1973年に神戸相銀が大阪相銀、大正相銀と合併して「六甲相互銀行」(本店:神戸)に、同年に関東相銀が第一相銀、国民相銀と合併して、新しい「関東相互銀行」(本店:東京)に、1975年には吉野相銀が東邦相銀、土佐相銀と合併して「四国相互銀行」(本店:高松)に、1976年には筑紫相銀が大分相銀、高千穂相銀と合併して、新しい「筑紫相互銀行」(本店:福岡)になった。

 

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 ノンバンクは、預金業務を行っていないが、融資を行える金融機関の事を指す。リース会社やクレジットカード会社、消費者金融がそれに該当する。

 1960年代はこれらの会社の勃興期であり、日本最初のリース会社である「日本リース(設立当初は「日本リース・インターナショナル」、後に経営破たん)」や日本最大のリース会社「オリックス(設立当初は「オリエント・リース」)」、日本発のクレジットカードブランド「JCBカード」の運営元である「ジェーシービー(設立当初は「日本クレジットビューロー」)」、大手消費者金融の源流など、多くのノンバンクがこの頃に開業している。

 

 中外グループもこの流れに乗り、リース会社とクレジットカード会社を設立した。

 リース会社は、中外銀行と大室物産が中心となり、中外グループの主要企業が親会社となって「ユニバーサル・リーシング」を1966年に設立した。設立に際して、アメリカからノウハウの提携が行われたり、出向者にノウハウを学ばせに数年の留学をさせるなど、万全の態勢で設立した。

 クレジットカード会社は、中外銀行と大室信託銀行、日鉄證券が中心となり、中外系の金融機関が総力を合わせて1968年に「セントラルクレジット」を設立した。同時に、京成百貨店や南急百貨店など、中外系の百貨店で使用出来る様に提携も行われた。

 

 両社は設立後、急速に拡大した。ユニバーサル・リーシングは、設備の拡大や更新から始まり、後に大規模な商品(機械や船舶・航空機)を扱う様になった。経済の成長に合わせて需要も拡大していき、日本有数のリース会社として成長した。

 セントラルクレジットは、JCBの様に世界規模のブランドとはならなかったが、国内ブランドとしては有数のブランドに成長した。「C2カード」というブランドが「UCカード」や「DCカード」と同程度の知名度を得て、中外グループ系の金融機関が発行するクレジットカードにも使用されるなどして、国内での発行枚数は増加した。

 

 ここで紹介しなかった消費者金融だが、中外銀行と協和銀行が信販会社経由で消費者金融事業を行っていた。後に、中堅消費者金融会社を傘下に収めたり、自前の消費者金融の設立などを行うが、これは1970年代から80年代にかけての事になる。

 

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 地方銀行・相互銀行の拡大が目立ったが、信託銀行の新規設立も行われた。

 1950年代後半、大蔵省は金融機関の長短分離を進める為、信託業務を兼営している都市銀行・地方銀行は、信託業務を新しく設立する信託銀行に移す政策が取られた。史実では、これによって三和銀行・神戸銀行・野村證券系の東洋信託銀行(UFJ信託銀行を経て、現・三菱UFJ信託銀行)と東海銀行・第一銀行系の中央信託銀行(中央三井信託銀行を経て、現・三井住友信託銀行)が設立された。

 

 この世界では、上記2行に加え、もう1行設立された。それが、協和銀行・北海道拓殖銀行・日本勧業銀行・日鉄證券・信託業務を持つ地方銀行が共同して1961年に設立した「共立信託銀行」である。

 中外グループは既に「大室信託銀行」を持っているが、名前の通り元・大室財閥系で大室銀行・大室證券に近い存在である。

 それに対し、日鉄證券は自身のコントロール下の銀行を保有したいという思惑から、信託銀行の新設を利用した。そこで、協和銀行や地銀、拓銀・勧銀を巻き込み、「地方の大企業・中堅企業・富裕層向けに信託業務を行う信託銀行」として設立された。

 

 こうして設立された共立信託銀行だが、後発故の地盤の弱さと引き継いだ信託業務の少なさから、信託銀行の中では最下位クラスの規模だった。それでも、日鉄證券の後ろ盾、地方銀行との繋がりから生じた地方での基盤を得た事で業績を拡大、「大都市の大室、地方の共立」として中外グループ内では棲み分けが作られた。

 

 しかし、共立信託銀行の設立は、中外グループ内の金融部門の分裂を引き起こした。以前から表面化していた中外銀行・大室證券連合と日鉄證券の対立が、この一件で拡大した。

 これ以降、中外グループ内では、中外銀行・大室證券・大室信託銀行の元・大室系と、日鉄證券・共立信託銀行の元・日鉄系で対立構造が形成された(協和銀行は中立)。ただし、これはあくまで金融部門における対立であり、両者はグループの完全分裂は望んでいなかった。両者は、グループの金融部門の主導権をどちらが握るかという競争関係にあった。

 ただ、共立信託が日鉄證券の先兵として動いたのは、バブル景気以前までだった。バブル景気に入って以降、共立信託は急速に独立色を増し、日鉄證券のコントロールから外れる様になった。




この世界で開業した戦後地銀
・樺太銀行(本店:豊原、営業地域:南樺太)
・両毛銀行(本店:太田、営業地域:群馬、栃木)

この世界で開業した相互銀行(殖産会社組・新規組)

北海地方(北海道・千島・南樺太)
・樺太相互銀行(本店:豊原、営業地域:南樺太)
・道東相互銀行(本店:釧路、営業地域:釧路・根室・網走・十勝・千島)
・宗谷相互銀行(本店:稚内、営業地域:宗谷・留萌・上川・豊原・真岡)
・渡島相互銀行(本店:函館、営業地域:渡島・檜山・胆振・後志)

東北地方
・南部相互銀行(本店:八戸、営業地域:青森)
・三陸相互銀行(本店:仙台、営業地域:宮城・福島浜通り・岩手三陸)

関東地方
・東都相互銀行(本店:東京都新宿区、営業地域:東京)
・多摩相互銀行(本店:八王子、営業地域:多摩地域、埼玉西部、神奈川北部)
・総武相互銀行(本店:千葉、営業地域:千葉)

中部地方
・信濃相互銀行(本店;長野、営業地域:長野)
・金沢相互銀行(本店:金沢、営業地域:石川)
・甲州相互銀行(本店:甲府、営業地域:山梨)
・三州相互銀行(本店:岡崎、営業地域:愛知、静岡)

近畿地方
・両丹相互銀行(本店:福知山、営業地域:京都北部、兵庫北部、福井西部)
・摂津相互銀行(本店:大阪、営業地域:大阪)
・紀州相互銀行(本店:和歌山、営業地域:和歌山)

中国地方
・芸州相互銀行(本店:広島、営業地域:広島)

四国地方
・土佐相互銀行(本店:高知、営業地域:高知)

九州地方
・西海相互銀行(本店:福岡、営業地域:福岡)


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40話 昭和戦後④:中外グループ(3)

 戦後、小売業(スーパーマーケット)の発展は著しかった。モノ不足の反動から、売りに出せば何でも売れた程だった。特に、1950年代後半からは日本人の所得が急上昇し、それに伴う購買意欲の向上から、今までの小売業の形態すら変化させた。

 それでも、少数店舗で中小企業が多数だった為、景気の影響を受け易かった。実際、1964年の東京オリンピック後は、今までの反動から不況になり、中小が殆どだった小売業の倒産が多かった。

 

 中外グループ、正確には中外銀行や大室物産は、今後の小売業は大幅に拡大すると見られた為、倒産寸前のスーパー同士を合併させて、大型スーパーに転換させる事となった。

 これを受けて、関東のスーパー複数社が合併して1966年に誕生したのが「日本小売」だった。誕生当初は、店舗数15、売上高5000万円と小規模なものだったが、全国各地のスーパーを統合していく事でGMS(ゼネラルマーチャンダイズストア)化を進め、1982年には店舗数284、売上高8000億円という大企業になった。そして、今までブランドとして使用していた「NICCOLI」を、正式に会社名に変更した(但し、登録上は「ニッコリ」)。

 

 一方、協和銀行は中外銀行とは別に動いており、関西で同様の事を行っていた。日本小売より一足早い1964年に6社を統合して、「共和ストア」を設立した。その後、共和ストアは日本小売とは異なり、食品スーパーマーケットの路線を歩んだ。その為、GMSの様な躍進は無かったが、安定した成長を見せた。

 1982年には、全国に店舗数162、売上高2000億と拡大、翌年には会社名をブランド名だった「キョースト」に変更した。

 

 「NICCOLI」と「キョースト」、同じ小売業だが異なる業態の為、同じグループ内での関係は比較的良好だった。これは、大都市圏や大企業の面倒は中外銀行が、地方都市や準大手企業・中堅企業・中小企業の面倒は協和銀行が見るという、グループ内での棲み分けが為されていた為である。

 実際、関東に基盤を持ち、衣類に強いGMSの「NICCOLI」、関西に基盤を持ち、食品に強いスーパーマーケットの「キョースト」は、シナジー効果を生み出しやすかった。実際、1985年には両社は提携関係を結び、以降は日本有数の小売グループの一角を占める様になる。

 

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 戦後、今まで統制されていた甘味料の需要が急増した。尤も、この頃は砂糖の供給源だった台湾や南洋諸島を失った事とその後の混乱から、砂糖の供給が不安定だった。その為、当時の甘味料と言えば、水飴か人工甘味料を使用したものが殆どだった。

 砂糖の供給が安定するのは、台湾や南洋諸島の統治が安定してくる1950年代前半からだった。それ以降は、砂糖の輸入が順次緩和され、1963年には粗糖(砂糖に加工する前の段階)の輸入が完全に自由化された。

 これにより、砂糖を原料に使用するお菓子産業は急速に拡大した。その一方、水飴メーカーは倒産するか今までの技術を応用して別業種に進出するかのどちらかになった。

 

 中外グループは、太陽食品工業が主導して国内のお菓子メーカー・水飴メーカー・飲料メーカーなどの食品メーカーの子会社化を進めた。この動きにより、全国の中小の食品メーカーを傘下に収める事に成功した。

 暫くは今まで通りの業務を行っていったが、戦後の復興が進んだ1950年代後半から少しずつ生産内容が変更された。この頃になると、国民の所得が向上し、食の多様化が進んだ。その為、今までの水飴の需要は減少し、チョコレートやビスケットなどの洋菓子の需要が高まった。この動きは、粗糖の輸入の自由化以降は急速に進み、水飴メーカーの整理淘汰が進んだ。

 

 これを受けて、中外グループは太陽食品工業を中核にグループ内の食品系メーカー(他に大室製粉、大室製糖、東亜水産などがあった)の再編を行った。その中で、次の事が決定した。

 

・水産加工・冷蔵食品は「東亜水産」が担当する

・飲料部門は、新設する「愛宕飲料(後に「アタゴ」に改称)」に譲渡する

・製菓・冷菓(アイス)部門は、新設する「東邦製菓」に譲渡する

・製粉・デンプン加工業は、大室製粉から改称した「大和製粉」が担当する

・製糖は、大室製糖から改称した「大和製糖」が担当する

・上記以外の食品加工は、「太陽食品工業」が担当する

・製薬部門は、「太陽製薬」が担当する

 

 この再編は、太陽食品工業がグループの中核会社として統括し、他の会社は業態毎に統合した。これにより、各社で重複していた部分の統合が完了し、経営の効率化が成功した。その後、各社は日本で十指に入る食品メーカーとして拡大していき、「太陽食品グループ」と呼ばれる一大総合食品メーカーとなった。

 

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 戦前、中外グループの旧・日鉄財閥が陸運会社を保有していたが、日本通運設立の際に全事業を譲渡した為、陸運業から離れた。それでも、京成や西鉄、北陸鉄道や駿遠鉄道、仙台鉄道といった日鉄系の鉄道会社が沿線を中心とした陸運業を保有していた。

 

 戦後、旧・日鉄財閥の関係者が「再び全国規模の陸運会社を持とう」という動きが出た。中外グループとしてもこの動きは悪いものでは無かった為、支援する事となった。

 戦後に勃興した中小の陸運会社を傘下に収め、関東の「関東内外運送」、東海の「東海内外運送」、北陸の「北陸内外運送」、近畿の「近畿内外運送」、九州の「九州内外運送」、東北の「東北内外運送」、北海道の「札幌内外運輸」の7社に統合された。この6社は資本関係や人的繋がりがあり、それぞれ京成、駿遠鉄道、北陸鉄道、南急、西鉄、仙台鉄道、石狩鉄道との提携と支援を行っていた。これにより、各内外運送はノウハウを獲得し、鉄道会社は広域的な運送業務を行える様になった。

 

 これらの内外運送が規模が拡大しノウハウが蓄積した1960年代、中外グループは1社に統合させる計画を打ち出した。1つに統合する事で、効率的な業務を行える事、日本通運に並びたいという思惑があった。

 しかし、この動きは提携していた鉄道系陸運業社の猛反対があった。もし統合となれば敵対関係になりかねない事、今まで育ててきた市場や顧客を荒らされる事が理由だった。

 この意見に賛成する企業も多く、何より統合するよりも、各地域毎に任せた方が逆に効率が良い上に、適度な競争によってより拡大していくと判断された事から、統合は白紙となった。

 

 この結果、各内外運送は、提携していた鉄道系陸運業社に統合されて消滅した。中外グループを担う一大陸運会社を創るという計画は失敗したものの、その目的から創られた企業が最終的に中外グループの陸運を担う様になった。そう考えると、この動きは無駄では無かった。

 

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 戦時中の日本の航空会社は、大日本航空に一本化されていた。敗戦によって、日本は航空機の生産・設計は勿論、飛ばす事も不可能となった。その為、大日本航空も解体された。

 その後、GHQによって日本人の手によって航空機を飛ばす事が許されるのは1950年の事だった。この翌年には日本航空が設立されたものの、日本に乗り入れる航空会社(ノースウエスト航空)の委託運行という形だった。自前での国内船運航が行われたのは1952年からだった。

 その翌年の1953年には日本航空株式会社法が制定され、日本航空は民間航空会社から半官半民の特殊会社になった。これにより、日本航空が運航出来る航路が国際線と国内幹線に限定され、それまで運行されていた準幹線や地方線は他の航空会社に移管された。

 

 1952年に航空機の運用の制限が廃止されると、多くの航空会社が設立された。その中には、全日本空輸の前身である極東航空と日本ヘリコプター輸送、日本エアシステムの前身である東亜航空や富士航空、日東航空などがあった。

 

 この世界では、終戦時の大日本航空の解体は行われなかった。事実上の敗戦によって、国際航路だけでなく外地への航路が失われた事は大きな痛手であり、財政難から倒産の危機すらあった。

 それでも、大日本航空は細々と存続し続けた。GHQも、軍用機の生産・開発は事実上禁止していたものの、旅客機・練習機に限れば生産・開発は許していた上、運行も禁止しなかった。その為、日本人による運航や開発が途切れる事は無かった。

 細々と経営していた大日本航空だが、流石に政府としてもこれ以上見過ごす事は出来ないとして、1952年に日本航空株式会社法が制定され、日本航空を設立して大日本航空の一切の業務を移管した。しかし、全てが移管された訳では無く、準幹線や地方線についてはそのままだった。社名も「日邦航空」に改称してそのまま運行を続けた。

 

 この世界でも、史実と同じ様に1952年まで新規の航空会社の設立は認められなかった。これは、航空機の運航は禁止しなかったが、新規の航空会社の設立は禁止していた為である。

 しかし、1952年に航空会社の設立が解禁されると、我先にと大量の航空会社が設立された。史実と同じ会社が設立されるも、一部は中外系の航空会社があった。それが、西鉄と阪急と共同で設立した「西日本航空」、京成・南急系及び大日新聞系の「東阪航空」だった。

 

 西鉄と阪急は、共にパンアメリカン航空との繋がりがあった。共に販売代理店契約を結んでいた事、特に阪急はパンナムと合弁で航空会社を設立しようとした事などがある。その両者が、パンナムの支援の下、1952年に「西日本航空」を設立した。当初は、パンナムが運行し、西日本航空はその委託という予定だったが、海外に日本の空を独占される恐れがあるとして、当局がこの案を嫌った。その後、パンナムが西日本航空を支援する形に変更された。

 この一方で阪急は、南海とも手を組んで別の航空会社を設立した。そうして1953年に設立されたのが「大阪遊覧航空」だが、早々に南海が手を引いた事で阪急単独となった。その後、阪急が2つの航空会社を保有する事の非効率さや路線の重複を解消させる目的で、1956年に西日本航空に統合された。

 

 もう一方の「東阪航空」は、1952年に大日新聞が中心となり、京成と南急を誘う形で設立された。こちらの目的は社名の通り、東京と大阪を結ぶ航路を保有したいというものだった。

 これ以外にも京成は、1958年に日本遊覧航空を子会社化し、1960年には東阪航空に合併した(史実では全日本空輸に合併)。

 

 その後、中小の航空会社が乱立したものの、資本力の小ささや日本経済の小ささから赤字になる企業が殆どだった。この為、1960年代に入ると中小事業者の統合が進められた。その中で1964年に誕生したのが、日東航空・富士航空・北日本航空が合併した「日本国内航空」と、西日本航空・東阪航空が合併した「日本東西航空」だった。日本国内航空は東急・近鉄系で、日本東西航空は京成・南急・阪急・西鉄系の航空会社として成立した。

 

 その後、1970年代に航空業界の再編が行われ、東急・近鉄系の日本国内航空と東亜航空が1971年に合併して「東亜国内航空」が誕生し、その直ぐ後に日本東西航空と日邦航空が合併して「日邦東西航空」が誕生した。更に、翌年には日邦東西航空は横浜航空を合併し(史実では、1974年に日本近距離航空に合併)、規模の上では国内第3位の航空会社となった(実際は、前身企業の赤字やローカル線ばかりを抱えている為、かなり危ない状況)。

 これにより、中外グループである京成・南急・西鉄の影響がある航空会社が設立された事で、中外グループは航空会社を保有する事になったが、日邦東西航空そのものは九天会に加盟する事は無かった上、中外グループから特別優遇された訳でも無かった。

 それでも、大日・阪急・南急・西鉄というジャ・リーグ球団を保有する企業が親会社になった事で、球場がある都市同士の定期便やチャーター便の利用、球場での広告などによって、知名度は上昇し利用客も増加した。



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41話 昭和戦後⑤:中外グループ(4)

 戦前からの企業や戦後に発足した企業、かつては他の財閥・グループに属していた企業が集まって構成される企業グループ、その中の1つである中外グループだが、グループ内においても、躍進している企業と斜陽傾向にある企業とで別れていた。躍進しているのは、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学系と商社であった。

 

 戦後、日本の経済構造は大きく変化した。今まで、日本の主要な輸出商品は繊維だったが、戦後になってからは鉄鋼や造船、後に自動車や機械などの重工業に転換した。国内需要の増大や輸出の拡大が設備の拡大を生み、それが更なる国内需要や輸出の増大を生んだ。

 

 この恩恵を中外グループも大きく受けた。大合同で復活した大室重工業と日本鉄道興業、大室電機産業、大室通信産業といった重工・電機系、大室製鉄産業や大室金属産業といった製鉄・金属系、大室化成産業や日林化学工業といった化学系は、この頃は黄金時代を謳歌していた。作れば売れるという時代だった為、増産に次ぐ増産となり、その為の設備投資も積極的に行われた。

 

 特に造船と製鉄はその代表格だったが、その対応が異なった。製鉄は、既存の設備だけでは不足すると見られた事から、現在の場所を拡大する事と、別の場所に新たな設備を開設する事となった。

 一方の造船は、拡大と同時に再編という形が取られた。合わせて、造船と近い関係にある重工と電機の再編も行われた。

 それ以外の各社も、他の企業と合併したり、事業の統合が進められた。1960年代後半から70年代前半は、グループ内の再編の時代でもあった。

 

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 1960年代後半の日本の大手製鉄会社(ここでの「大手」とは、高炉を持つメーカーとする)は、富士製鐵、八幡製鐵、住友金属工業、大室製鉄産業、川崎製鉄、日本鋼管、神戸製鋼所、日新製鋼の8社があった。その後、富士製鐵と八幡製鉄が1970年に合併して、「新日本製鐵」が誕生した。

 

 当時の大室製鉄産業は、堺と和歌山の2か所に製鉄所を持っていた。堺は大型高炉2基で比較的新しいものだったが、もう一方の和歌山は中規模の高炉1基しか無かった。高炉3基では今後増大する需要に応えられる訳が無い。加えて、1950年代から60年代にかけて新しい製鉄所を建設していた事から、それらに対抗する意味でも新しい製鉄所は必要だった。特に、1961年に住友金属工業が和歌山に、八幡製鐵が堺に建設した事は、テリトリーを脅かされる事になるとして、既存設備の更新・強化と新たな製鉄所を建設する事が求められた。

 

 当初は、京葉方面に建設する予定だったが、八幡製鉄が同時期に君津に建設する事となった為、競合を避ける意味から京浜方面に変更となった。そして、川崎側は日本鋼管が存在する事から、横浜に建設する事となった。1960年代は、横浜市南部の本牧・磯子地域が重工業地帯として整備された為、そこに進出する事となった。

 1962年から建設工事が行われ、67年には高炉に火が入れられた。これ以降、高炉は計4基設立され、首都圏方面に供給された。

 

 堺と和歌山の方も設備の強化が行われた。堺では、今まで2基だった高炉を2基増設して、その後に既存の2基を更新する方向が取られた。これらは1964年から行われ、高炉の建設は69年に、更新は73年に完了した。これにより関西圏への供給が行われたが、完成直後にオイルショックが来た為、その後の不況を受け、当初予定していた採算ラインに乗らなかった。

 それでも、西日本の生産拠点だった事、中外グループで鉄鋼を使用する工場が西日本に多かった事、設備が新しい事で製造効率が上がり生産コストが下がった事などから、想定以上の赤字とはならなかった。その後も、西日本の製造拠点として稼働し続けた。

 

 和歌山の方はもっと深刻だった。当初計画では、大型高炉を2基建設し、建設終了後に使用中の高炉を解体する方針となった。建設は71年から進められ、予定では1977年に全て完成する予定だったが、建設中にオイルショックが発生した為、計画が変更となった。これにより、2基目の建設が延期となり、一方で中型高炉の解体が進められた。75年に高炉は完成したものの、2基目の完成はその後の経済構造の変化や、堺と横浜への集中から白紙となった。

 

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 製鉄所の方は増設が進んだが、造船所の方は拡大と同時に整理が進んだ。

 中外グループ内で造船を行っているのは、元・大室財閥系の大室重工業、元・日鉄財閥系の日本鉄道興業の2社である。大室重工業は長万部・仙台・横浜・堺・多奈川・松山(長万部・仙台・松山は、元・日林造船機械。木造船や小型船が専門)に、日本鉄道興業は尼崎・三田尻・戸畑・大分(尼崎と戸畑は元・大同造船。小型船が専門)にそれぞれ造船所があった。

 両社の大合同以降、中外グループ内では事業内容が重複している企業の整理が行われていた。大室重工業と日本鉄道興業は共に重工であり、商品も似ていた。また、日本鉄道興業の経営が不安定だった事もあり、一部事業の交換が行われ、1975年に以下の通りとなった。

 

・日本鉄道興業の造船部門:大室重工業に譲渡

・日本鉄道興業の弱電部門:大室電機産業に譲渡

・大室電機産業の鉄道車輛部門:日本鉄道興業に譲渡

 

 これにより、中外グループ内で重工系の大室重工業、電機系の大室電機産業、鉄道部門の日本鉄道興業に一本化された。ただ、重電部門については大室電機産業と日本鉄道興業で分立し続ける事となった。

 

 さて、事業の統合が行われる前、大室重工業と日本鉄道興業は別個に造船所の拡張計画を立てていた。大室重工業では、長万部と仙台を分離独立させるものの、松山を拡大して大型船を建造可能にする計画だった。日本鉄道興業も、尼崎と戸畑を分離独立させて、大分の規模を拡大する計画だった。分離独立させるのは、事業内容を大型船に集中させる事が目的だった。

 この一環で、1963年に大室重工業が長万部と仙台の造船所を分離させて「大室船舶工業」を設立、1965年に日本鉄道興業が尼崎と戸畑の造船所を分離させて「大同造船(2代目)」を設立した。その後、グループ内の事業毎の再編によって、1974年に両社が合併して「両大造船工業」となった。

 

 小型船部門の分離に合わせて、両社の造船所の拡大がスタートした。

 大室重工業は、1964年に松山造船所周辺の土地を購入し、大規模ドックを3基持ち、当時最新鋭の造船技術を持つ巨大造船所として建設が開始された。1969年には全ての工事が完了し稼働した。松山以外でも、堺・横浜・多奈川の設備を拡大させる計画があったが、これらは設備の過剰が謳われた事、景気の鈍化、日本鉄道興業との統合から白紙となった。

 一方の日本鉄道興業は、1962年から三田尻と大分の設備の拡大が行われた。共に巨大ドックを1基追加し、1968年から稼働した。

 

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 製鉄は拡大、重工は拡大と再編という流れだったが、他の業態も拡大と再編が行われた。特に大きなものが製紙だった。

 中外グループの製紙業は、元・大室財閥系の大室製紙と、元・日林財閥系の日林製紙の2社に別れていた。戦後、両社は戦後に発足した製紙会社を子会社化したり合併したりと拡大したが、共に準大手クラス止まりだった。当時、その上には王子製紙、本州製紙、十條製紙(戦前の「大・王子製紙」が、財閥解体によって3社に分割された。この時の「王子製紙」は、苫小牧製紙が1960年に改称したもの)が存在しており、その差は巨大だった。

 その3社が1969年に合併し、戦前の「大・王子製紙」が復活した(史実でも1968年に合併が計画されたが白紙となった)。ただ、合併に際して、一部工場の他社への譲渡や、独占状態になる商品の他社への技術提供、王子製紙系の中小製紙会社の他社への株式譲渡などが行われた。

 

 これに慌てた他の製紙業者が、大合併を行い王子製紙に対抗しようという動きが出た。この動きの中心となったのが、日林製紙と大室製紙、芙蓉グループ系の山陽国策パルプの3社だった。1970年に3社が中心となって合併協議に入り、合併によって王子製紙の対抗勢力になる事が決定した。

 1972年に上記三社とその子会社、東洋パルプ、元王子製紙系の東北パルプ、北日本製紙、日本パルプ工業が合併して、「扶桑製紙」が誕生した。これにより、日本第2位の製紙会社が誕生したが、その規模は王子製紙の6割程度だった。

 また、合併直後にオイルショックで紙製品・パルプの需要が急激に減少し、経営が急速に悪化した。加えて、合併後の内部融和とリストラが進まなかった為、競争力でも王子製紙に敵わなかった。この状況が改善するまで10年掛かったが、その後は需要の回復や多角化によって王子製紙に対抗し続けた。

 

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 高度経済成長期、戦後にGHQによって分割された商社の再統合が行われた。これにより、三井物産と三菱商事が復活した。それ以外にも、大手商社が準大手や中堅クラスの商社を合併して規模の拡大に乗り出していた。これにより、オイルショック前には三菱商事・三井物産・丸紅飯田(現・丸紅)・住友商事・伊藤忠商事・日商岩井・日綿實業(以上、後の双日)・トーメン(後に豊田通商に合併)・兼松江商(現・兼松)・安宅産業の10社が「大手商社」や「総合商社」と呼ばれていた。

 後に、安宅産業が海外事業の失敗や架空売り上げなどが原因で実質破たん状態となり、1977年に伊藤忠に合併された。その後は、暫く9社体制だったが、バブル崩壊後は更なる再編が行われたが、これは別の話。

 

 この世界では、大室物産がこの中に加わり、総合商社は11社体制となっていた。中外グループの商社は、大室物産以外にも日林財閥系の日林物産、日鉄財閥系の日鉄商業、大室物産の退職者が設立して大合同に加わらなかった商社が数社いた。

 しかし、中小規模商社では規模や扱う商品の多角化が求められる時代に合わなかった事から、これら中規模商社の大室物産への合併が行われた。1959年には日林物産を、1962年には日鉄商業を合併し、1970年までに他の中規模商社を2社合併した。これにより、大室物産は11社中5位の中位クラスの商社となった。

 因みに、この時大室物産に合併されなかった大室物産出身者によって設立された中小規模商社は、大室製鉄産業系の「大鉄商事」や、日林製紙系の「日紙商事(扶桑製紙成立後は「扶桑紙商事」に改称)」に合併された。

 

 規模だけでなく、扱う商品も多数に上った。大室物産が得意な機械と鉄鋼、化学に資源・エネルギー、日林物産が得意な木材と製紙・パルプ、日鉄商業が得意な機械が合わさった事で、重化学部門、特に機械と鉄鋼に強い総合商社となった。繊維や食品といった軽工業系は弱かったが、大室物産と日林商事が一定程度扱っていた為、極端に弱い訳では無かった。

 統合後、大室物産は海外事業の強化や新事業への進出、投資事業の強化などを行い、更なる拡大へと邁進した。



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42話 昭和戦後⑥:中外グループ(5)

 高度経済成長期、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学工業は拡大し続けた。オイルショックによる停滞があったものの、成長は続いた。

 

 これに対し、鉱業と林業については衰退傾向にあった。これは、鉱業は国内鉱山の採掘量の減少や採算割れ、海外産の安い鉱石の輸入が、林業も国内の林業従事者の減少、海外産の木材との価格競争が理由だった。当然、中外グループ内でも、大室鉱業、大室金属鉱山、日本林産がその影響を受けた。

 また、繊維も一時は傾いたが、その後の転換が上手く行き、新たな道を歩んでいる。

 

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 大室鉱業は炭鉱を保有していた為、エネルギー革命による影響を大きく受けた。大室鉱業が保有している炭鉱は、樺太炭田、北海道の天北炭田や留萌炭田、東北炭田(岩手県葛巻町)、九州の唐津炭田や北松炭田、天草炭田など中小規模のものが多かった。かつては、国内の他の炭鉱業者と共に、国内の新炭鉱の開発や既存炭鉱のスクラップアンドビルトによる整備によって、優良炭鉱の存続に動いていた。それでも、樺太炭田、天北炭田と東北炭田以外は1960年代までに全て閉山となった。

 

 これにより、大室鉱業は事業転換を余儀なくされた。ただ、いきなり他業種の転換は難しい為、石炭に関連する事業から始まった。主にコークス精錬やセメント、海外炭の輸入、炭鉱跡周辺での砕石事業から始まった。コークスとセメント、砕石事業への転換は成功し、徐々に炭鉱事業者からコークス・セメント事業に転換していった。これにより、炭鉱は殆ど技術継承程度の規模でしか無く、細々と自社向けに採掘する程度となった。

 

 セメントの比重が高まると同時に、大和セメント(大室化成産業のセメント事業が戦後に分離独立したもの)との競合も高まっていった。両社の規模は中小程度でしか無く、他社との競争力強化の為に何度か合併案が出たが、合併案が出た1980年代はビルや空港の建設があり需要があった事から、この頃の両社の業績は好調だった為、合併が見送られた。結局、建設需要が落ち着いた1994年に大室鉱業を存続会社として両社は合併し、「大室セメント鉱業」が成立した。

 

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 大室金属鉱山も、国内鉱山の採掘量の減少や海外からの安い鉱石の大量流入によって、国内の鉱山の内、優良鉱山以外は全て閉山した。元々、中規模鉱山が大半だったので、採算が割れやすかった事も閉山を早めた。それでも、北海道や東北に優良鉱脈を有する鉱山を保有していた為、そちらに注力する事となった。

 

 多くの鉱山を閉山したが、採掘した捨石から多少の資源の回収や、鉱山跡地の鉱毒処理や緑化など、行うべき事は山程あった。当時、多くの鉱山や炭鉱が閉山となったが、そのまま放置して鉱害や土砂崩れの問題になる事が多かった。

 その為、閉山後の鉱山周辺部の緑化を行ったり、かつての設備を利用して廃家電や工業廃液のリサイクルを行うなどして、周辺地域が完全に無人化して野ざらしになる事を防いでいる。流石に、坑道を埋めて陥没を防ぐ事にまでは資金が回らなかった。これは、大室鉱業でも同様だった。

 

 多くの鉱山が閉山した後、残った鉱山での採掘とリサイクルによる金属の精錬が主業務となった。この為、非鉄金属の精錬で重複する大室金属産業との経営統合が検討された。

 しかし、大室金属鉱山が行っている鉱山跡の処理問題や鉱山事故による賠償問題から大室金属産業が難色を示した為、経営統合は白紙となった。以降、大室金属産業は非鉄金属の精錬と関連商品の製造、大室金属鉱山は産業廃棄物からのリサイクル事業、海外鉱山の資源開発と一応の棲み分けが図られた。

 

 因みに、大室金属鉱山と大室鉱業だが、鉱山・炭鉱での採掘に付き物だった排水の処理についてだが、1957年に両社が共同で「大同興産」を設立して、温泉開発を行っている。これにより、北海道や東北、九州で温泉街の開発を行っており、閉山後の観光開発を行っている。これは、閉山後の地域経済への悪影響を緩和する事となり、新規雇用の創出や観光収入の発生などにも繋がった。

 

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 日本林産は、戦後の財閥解体で林業部門と商業部門に分割され、持ち株会社としての性格も失われた上に、「日本林産」の名称も外された。1952年に社名を「日本林産」に戻し、林業事業者として国内最大級の規模を誇った。当時、国内の復興や新規の建設が多数あり、それに伴う木材の需要が高まっていた為、大量の木材が切り出された。その後も、住宅の建設ラッシュによって木材の需要は高い状況が続いた。

 これによって、日本林産は莫大な利益を上げた。ここで上げられた利益は配当だけでなく、新たな山林の買収や品種改良、植林費用に充てるなどして、私益だけで無く公益にも努めていた。

 

 この状況が変化したのは、1960年代からだった。この頃から、安価な輸入木材が大量に流入した。また、品質も安定していた為、あっという間に国産に取って代わられた。国産木材では、安定した品質の木材の供給が難しく、環境や人件費の関係から安価での供給も難しかった為であった。

 

 これに対して日本林産は、あらゆる手を使って国産木材を利用してもらう様に努めた。それは、積極的な品種改良の実施、農業学校系や大学の林業科への支援強化、それと連動する林業従事者の育成、木材を利用した新事業の展開である。

 

 「積極的な品種改良の実施」は、特に安定した品質を持つスギの開発に注力された。スギは、当時の日本の人工林の主力となっていたが、強度が安定していなかったり、含水率(物体内に含まれる水分の比率)が高い為、乾燥させる時間が長くなるなど、建材として使用するには意外と欠点が多い。

 その為、これらの欠点を解決したスギを生み出す事が急務となった。しかし、品種改良は短期間で出来るものでは無い為、1954年から始まったスギの品種改良だが、1975年にようやく実用的な品種の育成に成功した(以降、このスギを「改良スギ」とする)。約20年で完成したのは、戦前から行われていた品種改良の技術、日本林産が保有していた遺伝子資源の存在、始めた時期の早さだった。その後、日本林産が保有する山林だけでなく日本各地の伐採した土地に、改良スギの植樹が行われた。

 改良スギは、品質が外国産のものとも遜色無く、安定した品質を持っている事から、その後の日本のスギ林のスタンダードとなっていったが、成長がやや遅いという欠点が残っていた。また、改良スギが木材として切り出されるまでの間の林業従事者の減少という問題があり、これが解決されなければ植樹した所で意味が無かった。

 

 その為に行っていたのが、「農業学校系や大学の林業科への支援強化」と「林業従事者の育成」である。この2つによって、林業についての教育を強化させ、森林の役割や林業の重要性、林業の将来についての教育を行った。

 この結果、日本林産を始めとした林業会社に従事する高卒者や大卒者が微増傾向になった。同時に、林業の川下産業である製材業の従事者も微増傾向になった。

 

 ただし、日本林産はこれを一時的なものとしない為に継続的に行っていく事を決めていた。現状ではあくまで微増でしか無く、今後もこの状況が続くとは考えにくい為である。その為にも、建設以外にも木材需要を増加する為の産業を育成する必要があると考えられた。それが、「木材を利用した新事業の展開」である。

 日本林産は、古くから家具製造や合板製造、製紙に木材化学、最近では住宅建設や木製建材に進出していた。また、住宅建設に進出した1960年代前半に、過去に分離独立させた家具製造や合板製造に再進出している。これは、住宅需要が急増している事から、自社の木材を利用する目的だけで無く、大室化成産業や日林化学工業、日林木材工業の各社の住宅部門が1961年に独立・統合した「大日住宅産業」への対抗意識もあった。

 木材を利用する産業には粗方手を広げていたが、まだまだ活用出来る分野があるのではと考えられた。

 

 その様な中で発生したのがオイルショックだった。これにより、石油に頼る状況から、石油だけに頼らない経済への転換が図られた。ここで日本林産が考えたのが、間伐材やおがくずを利用した火力発電、今で言う木質バイオマス発電の実施である。

 1960年代から70年代は、アメリカの製材・製紙業者が廃材を利用した火力発電を実施していた為、それを日本でも行おうというものだった。これを行えば、製材時に発生するおがくずや間伐材といった利用価値が低い木材の利用価値が上昇し、工場で使用する電力を自力で賄える事にもなる。

 

 早速、1976年から扶桑製紙と共同で石巻工場に隣接して木質バイオマスによる火力発電所の建設が行われた。1979年に発電所は完成し、稼働した。定格出力は3.5万kwと小型だったが、これは木質バイオマス発電のプロトタイプという意味があった。

 完成したが、燃料の供給体制の不安定、出力の不安定さが浮き彫りとなった。一時は石炭火力発電所に転換する事も考えられたが、木材の効率的な燃料への改良、発電効率の良いタービンへの変更などの研究が進められた。この研究には、日本林産と扶桑製紙だけでなく、大室物産や大室電機産業、日林化学工業など中外グループの多くの企業が携わった大規模な研究となった。

 その後、高カロリーが期待出来る木質ペレット、その木質ペレットを製造する機械、高効率のタービンの研究が進んだが、それらの研究成果が花開くのは1980年代後半まで待たなければならなかった。

 

 以上の様に、日本林産は国産木材の活用法を数多く考えた。これに釣られる様に、他の林業会社も真似した為、国内の林業の壊滅という結果は免れた。

 しかし、林業が衰退傾向にあるのは間違いなく、日本林産も林業中心から「林業・住宅・建材メーカー」としての道を歩む事となった。

 

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 かつて、日本の輸出商品の主力だった繊維だが、高度経済成長期以降は重化学工業が輸出の中心となった。また、繊維の中でも、綿や絹といった天然繊維から、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維が中心となった。

 

 繊維大手の新東繊維でも、早くから合成繊維への進出を行っていた。これは、戦前・戦中にレーヨンを製造していた事、グループ内の化学メーカーとの共同開発など、環境に恵まれていた事も背景にあった。

 その為、繊維不況の中でも業績は好調だった。また、合成繊維の製造過程や研究の中で、合成繊維が他の用途にも使用出来る事が判明した。これにより、繊維から化学・医療・素材といった化学メーカーとして変化していった。

 また、合成繊維についても、石油由来だけでなく木材由来の合成繊維の開発や、グラスファイバーや炭素繊維、人工鉱物繊維の研究も行った。この研究開発は短期間では成果が出なかったが、1980年代から相次いで世に出された。

 

 これら新素材の生産や研究が進む一方、既存事業である天然繊維は環境の悪化や生産コストの高騰から、海外製に対抗出来なくなった。また、オイルショックによって石油合成繊維も不調となった。これらの事態が、新素材の研究強化や他事業への進出強化になった。

 また、オイルショックによって大きな赤字を計上した為、不採算工場や天然繊維の工場が相次いで閉鎖された。これらの工場は、一部は合成繊維の工場や他事業の工場に転換されたが、それ以外は郊外型ショッピングセンターやマンションの建設が行われた。これに合わせて、不動産事業への進出も行われた。



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43話 昭和戦後⑦:中外グループ(6)

久々に本編です。
規模が大きくなった結果、自分でも理解している範囲を超えました。その為、内容にちぐはぐな部分が多いです。
また、本編に関するアイデアが無くなってきた事、本編内で昭和50年代に入った事から、昭和末期から平成初期、つまり史実のバブル崩壊付近で本編を終わらせる予定です。その為、恐らく次が最終話となるでしょう。


 オイルショック後、日本経済は失速した。今までの様な高成長は見込めなくなり、低成長時代に突入した。特に、今まで日本で経済をけん引していた重厚長大産業(製鉄や造船、セメントに化学など)と商社の経営が傾き、商社に至っては「商社不要論」まで出てきた。

 それでも、アジア方面で有数の工業力・技術力を有している事、新技術の確立などから、まだまだ成長の余地はあった。今までの様な重厚長大産業から軽薄短小産業(自動車、家電、コンピューターなど)への転換、重厚長大産業における高付加価値商品の開発が進んだのもこの頃からだった。

 

 中外グループもこの流れに乗った。特に、重工や化学などの重厚長大産業や商社の規模が大きい事から、転換は早急に行う必要があった。

 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。その為、今までの様な設備の拡張は、オイルショックによって一時中断となった(後に多くが白紙化された

 また、不採算事業や小規模な施設の分社化を行い、採算が取れる事業や新分野への経営資源の集中も行われた。以降、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造に転換する事となった。

 

 一方、これからの成長産業である電機、新技術の開発が進んでいる繊維などの規模も大きい為、新時代への足掛かりは既にあった。その為、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から企業体力や技術の強化が行われた。

 

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 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。これからは、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造にする必要が生じた。

 重厚長大産業が軒並み足踏みしていたが、その中でも拡大していたのがいる。大室重工業と大室製鉄産業である。大室重工は海外との連携と同業他社との競争が拡大の要因となり、大室製鉄はグループ内の他社の新規事業の進出が好機となった。

 

 大室重工は、今までの事業を基に多くの新規事業に進出した。造船の技術を活用して海洋プラットフォームの研究に乗り出した。これは、南樺太や尖閣諸島付近での海上油田・ガス田の開発が検討されていた事が理由だった。

 今まで中東やインドネシアの石油が安価の為、国内油田を開発する意味は薄かった。しかし、中東産の石油が高騰した事で、国内の石油の開発でも採算が合う可能性が見えた事、資源面での安全保障の構築から、国内油田の開発や天然ガスの活用が行われる事となった。

 他にも、ゴミ処理用タービン、メガフロートの研究、航空機用エンジンの国際共同開発、リージョナルジェットの共同開発など、航空宇宙産業を中心に多くのプロジェクトに手を出した。これらの研究成果が出るのは暫く先だが、この時の研究成果は後に大きな財産となった。

 尚、新規プロジェクトの内、最大のものと位置付けていた「リージョナルジェットの共同開発」は、社運を賭けたものである。詳しくは番外編で記す。

 

 また、オイルショックの少し前の1966年に、大室重工の乗用車・トラック部門と傘下の自動車・オート三輪メーカーを統合して「大室自動車産業」を設立している。当時、乗用車部門は傍系だった為(本流は重機やトラック)、重工本体内で保有する意味が薄かった。

 一方、モータリゼーションの影響で乗用車やトラックの需要は年々増加しており、生産量も右肩上がりだった。しかし、重工単体の技術力の不足や造船の需要も増加しており、何方かに注力したいと考えていた。社内での検討の末、大規模で企業体力が必要な造船の方を注力する事となり、自動車は別会社に分離する事となった。

 その為、本体の経営資源の集中、外部からの技術の導入の意味で、自動車部門を分離した。その際、フォルクスワーゲンに技術支援を頼んでいる。

 

 大室重工の新規事業の進出、大室自動車の拡大は、大室製鉄産業にとって恩恵そのものだった。その生い立ちから船舶や鉄道との繋がりが深い事から、厚板や鉄道車両に関する鉄製品の製造技術が高かった。実際、製造量そのものは決して高くなかったが、技術は新日本製鐵や住友金属産業にも劣らなかった。

 また、大室重工が海上建造物を、大室自動車が乗用車を製造するに当たり、鋼材が必要になる。それも、海上で使用するのに錆びにくい鋼材や、軽量だが高い強度を持つ鋼板など、今までとは異なる新素材が必要になる。

 その為、鋼材の製造は多少減速したものの、特殊鋼の開発についてはむしろ加速した。実際、オイルショック以降、技術に関する投資は年々増額しており、特許の申請数も年々増加していった。そして、新日鐵に並ぶ程の技術を有するにまでなった。

 

 それ以外の金属や化学、製紙にセメントなどの企業群も、新分野の開拓や新技術の開発、高収益体制への転換が急がれた。特に、これからの成長産業である半導体や電子素材、機能性高分子などの先端技術に関する研究や生産体制の構築に力が注がれた。

 技術への投資によって一時期業績は停滞したが、技術面での大きな向上が見られた。大学との共同研究も多数行われた事で、多数の技術特許の獲得にも成功した。これらの技術は、生産面や採算面からこの時は活用されなかったが、1990年代に入ってから大きく活用された。

 また、オイルショック後の景気低迷の後、暫く景気は小康状態だったが、1980年に今度はイランイラク戦争を理由とした第二次オイルショックが到来した。しかし、今回は前回の反省から金融の引き締めや省エネルギー化が進んでいた事から、大規模な経済の混乱は無かった。

 むしろ、既に高収益体制が構築されており、大きく業績を落とす事は無かった。また、これを契機に、更なる省エネ化が進められ、技術に対する投資も進んだ。

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 一方、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から体力や技術の強化が行われた。

 大室電機産業は家電と発電機、大室化成産業と日林化学工業は新素材や電子材料、大室通信産業は半導体に電子機器などに注力した。他にも、グループ内での共同開発によって、高性能な充電池や新素材の開発などが行われた。産学連携も活発に行われた。

 

 その結果、1980年代になりそれらの産業が拡大し、新たな輸出産業として成長した。他の企業も同様であり、1960年代の再現となった。

 但し、史実と異なり、国内各社は量的拡大よりも質的拡大を選択した。これにより、精密機械や電子部品の技術が向上し、史実より2,3年早い技術進歩となった。

 また、日本政府が技術面での優位性の維持を目的に、国内各社に新技術に対する積極的な特許申請、国内技術者・研究者の流出阻止、産官学連携の奨励が行われた。これらの政策により、バブル崩壊後の技術者の流出や、それに伴う東アジア諸国の先端技術面での競争力強化が発生しなくなった。

 

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 産業面では、再編と技術革新が行われたが、それ以外の分野では別の様相を見せた。

 商社は、今までの様に流通や貿易、商社金融に頼る体制を維持するのは難しくなった。取引先の企業の規模が拡大するにつれ、自社で流通や取引を行える様になった事で、商社に頼らなくても商品の流通が可能となった。また、今までの売上重視から利益重視への転換、コスト削減などから商社金融も減少傾向にあった。

 その為、オイルショック後の商社は冬の時代を迎え、「商社不要論」まで出てきた。しかし、商社は今までの経験やノウハウを生かし、この難局を乗り切った。それが、多様な人材を抱えている事、様々な情報を持っている事にあった。

 

 大室物産も、今までの売上重視から利益重視に転換し、高収益体制の構築が急がれた。また、新規事業への進出も行い、新たな収益源の確保も急がれた。急速に伸びている小売業やリース業への進出、火力発電事業の共同運営、資源への投資など、ありとあらゆるものに手を出した。

 その結果、国内第4位の総合商社としての地位が固まった。当然、更に上への野望があったが、「身の丈に合った事をするべき」という教えや、グループ内の繋がりの強さによる強み、元から強みのある部門(資源・エネルギー、機械・鉄鋼)など他社と比較して総合面で優れている事から、その地位に納まった。

 

 商社も変革を余儀無くされたが、もう一つ変革を余儀無くされたのが銀行だった。オイルショック以前、企業の体力の低さとそれに伴う信用の低さから、社債や株券を発行しても買い手が付き難かった。その為、企業の資金集めは銀行からの融資が大半を占めていた(間接金融)。

 しかし、オイルショック以降、企業の体力が付いた事で信用が増し、社債を発行して資金を集める企業が増えた。その為、1970年代から公社債市場が急速に拡大、証券会社の規模が再び拡大した(1960年代前半に公社債の投資信託が急拡大した。その後、東京オリンピック後の不況で急速に萎み、恐慌一歩手前の状態となる)。

 証券会社が拡大する一方、銀行は優良な貸出先を失う事となった。その為、銀行は新たな貸出先を開拓する必要に迫られた。

 

 大室銀行と協和銀行も、当然この影響を受けた。協和銀行はリテールに強く、中小企業との取引が多い為、大きな影響を受けなかった。中小企業だと、社債や株式を発行しても信用力の問題から取引されづらい為、間接金融に頼らざるを得ないのである。

 それでも、中堅企業や準大手企業との取引が増加していた為、それらの企業の融資が減少した。その代わりとして、地場産業への融資の強化や、新興企業の育成などを強化する事ととなった。

 

 大室銀行は、多くの大企業と取引していた為、直接金融の拡大の影響は大きかった。重厚長大産業は規模の拡大を止めた事で大規模融資の必要性は薄くなり、公社債市場の拡大によって、社債や株式の発行で資金を調達する比率も増加した。

 その為、銀行離れは深刻な問題であり、早急に別の手段を考える必要があった。その為、流通や金融、情報に電子と言った次世代系産業に対する融資が強化された。

 しかし、むやみやたらに融資する事は無く、将来性や企業体力相応の計画を持っているかなど、様々な要素を確かめてから融資を行った。その為、銀行の調査部門が強化され、後に「大室総合研究所(大室総研)」として国内有数のシンクタンクとして独立した(因みに、中外グループ全体のシンクタンクは「中外総合研究所」として別個に設立)。

 大室銀行の新方針により、新たな企業の発掘と融資の拡大に成功した。この時に大室銀行の方針が決まり、「まず確かめてから行動する」事となった。これにより、情報の精査から始まる為、初動こそ遅くなるものの、リスクを最小限にする行動が取れる様になった。その成果は、バブル景気の時に過剰融資を行わず、堅実な経営を行った事で、その後の不良債権処理に追われずに済んだという結果が示した。

 

 因みに、信託銀行は直接金融の拡大の影響は小さかった。経済力の拡大で、金銭信託や年金信託などの規模は拡大した為である。

 

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 オイルショックによって、日本経済は大規模な再編を余儀無くされた。しかし、それによって新たな成長や技術の獲得に成功した。これにより、約20年間の次なる黄金時代を迎える事となる。

 

 中外グループも同様であり、航空宇宙産業や新素材、電子と言った新産業への進出が強化された。一方、かつての花形である製鉄や造船、繊維と言った産業も、新分野への進出によって新たな可能性が開かれた。



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最終話 昭和戦後⑧・20世紀末・21世紀頭:中外グループ(7)

ようやく、本編は最終回となります。時代は、バブル景気から21世紀の頭となります。中外グループの設定を広げ過ぎて自分でも設定の理解に追い付かず、中身は結構スカスカです。
最後は大分駆け足になりました。

長い間、読んでいただきありがとうございました。本編は終わりですが、番外編はまだまだ続きます。


 1980年代、日本の経済は黄金時代だった。第二次オイルショックによる経済構造の変化、省エネの促進、技術投資の拡大、輸出の増大など、日本経済は順調に伸びていった。かつての高度経済成長期の様な高い経済率こそ無かったものの、平均4~5%台の伸びで安定していた。

 その一方、対日商品最大の輸入国であるアメリカとの貿易摩擦は深刻だったものの、太平洋・アジア方面の防波堤兼進出拠点である事、日本もアメリカ製の兵器や農産物の輸入量を増やしている事、日米両軍の装備の共通性から、史実の様な大規模な対立とはならなかった。それでも、スーパーコンピューターの導入問題やFSXの開発問題、日本市場の開放などは発生した。

 

 1985年9月のプラザ合意、日本電信電話公社の民営化などにより、日本経済は絶頂期に入った。後に「バブル景気」と呼ばれる好景気に突入した。

 1987年頃から、日本政府はバブル景気による税収の増加と乱開発の抑止を目的に、消費税の導入、資産価値が高いものや技術に対する投資の強化、必要以上の設備投資の抑制、土地や株に対する過剰な投資の抑制、投機の制限、北日本と沖縄への投資誘導などを行った。また、アジアでの冷戦の収まりが見えない事から、軍事に対する予算増額や軍事技術に対する投資の強化が行われた。

 これらの政策が功を奏し、史実の様な土地や株への過剰な投機熱は弱かった。それでも、日本全体が金余り状態だった事からそれらへの資金の流入は避けられなかったものの、史実の7割程度となった。また、リゾート開発ブームなどがあり、史実同様国内のリゾート開発は行われたが、史実の8割程度だった。

 

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 バブル景気に乗る一方、新技術に対する投資やバブル終了後の事にも注意を払っていた。日本政府は、第一次世界大戦中や戦後の例から、この好景気は長く続く事は無いと見ていた。その事を経団連など各種経済団体を通じて意見をしており、「現状に甘んじる事無く、どの様な事態が発生しても大丈夫な体制造りをしておく事」、「量的拡大と同時に質的向上の方に注力する事」という方針が取られた。

 これにより、各社は考えて経営を行う様になった。特に大きかったのは、各社が業種とは関係無く土地や株に手を出す事が少なかった事である。得た資金を配当や技術投資に回され、余裕が出た時に土地や株に手を出す事が多かった。

 

 その後、早い段階から金融の引き締めが行われ、段階的に引き締めていった。これにより、景気は緩やかに下り坂となり、正常な状態に戻った。これは企業にとって良性に働き、人員や資産の整理にゆとりを持って行う事が出来た。その為、急激な景気の後退とそれが原因となる企業の倒産は少なかった。

 それでも、過剰な投資を行った事で不良債権を積み上げ、その後の処理に手間取った事で倒産する企業は存在したが、大手や準大手ではその様な例は少なかった。だが、日本長期信用銀行や三洋証券、マイカルといった大企業が倒産した事は大きなニュースとなり、他の企業は倒産を避ける為に不良債権の処理を加速させたり、国際競争力を高める為に合併が促進されるなどの結果を生んだ。

 

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 電機や自動車などの軽薄短小産業は、所得の拡大やバブル景気による需要の拡大で好業績を上げ、質的向上から輸出も増大し、輸出の主力商品となった。

 また、バブル景気による日本経済そのものの好調により、付加価値が高い商品の開発が進んだ。その為、高級車やスポーツカーの需要が拡大した。家電も高級志向になり、生活スタイルの変化から、それらに合わせた新型家電が生まれた。

 

 他にも、通信技術の向上や高度電子化社会(インターネット化)に向けて、情報・通信に対する投資が強化された。電電公社の民営化とその後の通信の自由化によって、今後は通信産業が急速に拡大すると見られた。

 その為、電機・通信メーカーによる通信機器やコンピューターへの投資が強化された。日本のコンピューター開発は1960年代から行われていたが、今までは大型のものが中心であり、今回は小型化と高性能化が目的だった。これらの成果は1980年代後半から1990年代に掛けて花開き、日本の電機メーカーのパソコンのシェア拡大にもなった。

 同様に、半導体に対する投資も強化された。この時、政府から「技術漏洩、特に技術者の流出には注意する事」と釘を刺された。過去、安易に海外移転して共産主義国に技術が渡ったという事件があった為、各企業はこれを厳守した。

 その結果、電子機器や液晶などの分野における日本の競争力は保たれた。これは21世紀に入るまで続き、それ以降は台湾が競争相手となったが、既に市場でのシェアの多くを獲得していた為、優位は揺らがなかった。

 

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 造船や重工、製鉄などの重化学関係も、東南アジア諸国の開発や国内開発によって需要が大きかった。この世界では、中国と韓国の発展が史実より遅い事からその方面での需要が弱いが、その代わりに東南アジアとインドがその役割を担っている事、一部が国内に残り続けている事から、総合的な差し引きはゼロだった。

 特に、日本のお家芸とも言える造船と製鉄は、アジアにおいては日本の独壇場だった。その中でも、特殊鋼などの高級鋼材、大型船舶は日本の右に出るものはいない程だった。

 史実では、中国・韓国の伸びが著しく、日本との競争力を獲得したが、この世界では、朝鮮戦争時のいざこざで韓国との付き合いは疎遠となり、戦後のトラブルや日本の反共主義、文化大革命などにより中国との付き合いも疎遠となった。その為、日本から中国・韓国への技術支援や投資が殆ど無く、大型製鉄所や造船所が史実より遥かに少ない状況だった。

 

 また、軍需の伸びが大きい事も、重化学の需要を上げた。1980年代、冷戦が最高潮を迎えた頃、米ソに合わせる様に日本も軍拡を進めた。特に、海軍の拡大が目玉で、6万t級の大型空母やイージス艦の建造、汎用駆逐艦や哨戒艦の大量建造が進められた。海軍以外にも、陸軍の新型戦車や新型装甲車の導入、空軍のF-15Jの大量導入決定や航空隊の増大など、三軍全てで拡大が進められた。これにより、主要造船会社のドックはフル稼働、各工場もフル稼働となった。

 一方、この時に三菱重工業や川崎重工業などの主要重工・造船メーカーの製造能力が軍需で手一杯となり、民需を満たすには到底不足していた。その為、中堅や中小の造船メーカーへの受注が増加する事となり、これらの規模拡大となった一方、船舶の単価や設備投資の予算の高騰により、中堅・中小クラス単独では規模の拡大が難しくなった。その結果、造船効率の向上と競争力強化を目的に、それらの造船会社の整理統合が進む結果ともなった。

 

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 中外グループも、バブル景気に乗り、その後の終息にも対応した。大室財閥系は流れを読む事は得意であり、日林財閥系と日鉄財閥系も脆弱な組織とは無縁の存在であり、一部の例外を除き各社は大きな損失を被る事無く迎えた。

 特に、電機メーカーの大室電機産業と大室通信産業、化学メーカーの大室化成産業と日林化学工業、繊維メーカーの新東繊維など、軽薄短小産業の企業の伸びが大きかった。これらは、付加価値が高い商品を生産した事、小型の電子機器や新繊維を採用する商品が増加した事などが理由だった。

 それ以外にも、重工の大室重工業、製鉄の大室製鉄産業などの重厚長大産業も、伸びの鈍化こそあったものの大きな受注があった事で拡大を続けた。

 

 それでも、バブル景気終息後の緩やかな経済の降下と経済のグローバル化の進展により、企業グループが単体で存続していくのは不可能となった。その為、銀行の再編に乗じる形で、各企業の再編が進み、企業グループの再編も進む事となった。芙蓉グループ(富士銀行)と第一勧銀グループ(第一勧業銀行)、興銀グループ(日本興業銀行)が統合して「みずほグループ」になり、住友グループ(住友銀行)と三井グループ(さくら銀行)が銀行を通じて合併し、他の企業の連携が進むと見られた。

 中外グループもこの流れに乗った。手を組んだ相手は、三和グループだった。これは、三菱グループだと飲み込まれるのではという恐れがあった。それに対し、三和グループであれば主導権を握りやすい上、バブル景気で傷を負った企業が多かった事も理由だった。

 2001年4月、中外銀行と三和銀行、大室信託銀行と東洋信託銀行、大室證券とつばさ証券が株式移転を行い、持株会社「UFJホールディングス」を設立した。その後、翌年までに中外銀行が三和銀行と合併して「UFJ銀行」が、大室信託銀行が東洋信託銀行と合併して「UFJ信託銀行」が、大室證券とつばさ証券が合併して「UFJ証券」がそれぞれ成立した。同時に、UFJ傘下のリース会社や投信会社などの合併が行われた。

 また、中外銀行以外の中外グループの金融各社の再編が進み、以下の様になった。同時に、各社傘下の企業(リースや投信、信販など)も合併が行われた。

 

〈都市銀行、信託銀行、証券〉

・中外銀行、大室信託銀行、大室證券→2001年4月に三和銀行、東洋信託銀行、つばさ証券と経営統合、「UFJホールディングス」傘下に。翌年、UFJ銀行、UFJ信託銀行、UFJ証券となる。

・協和大同銀行→2001年10月に東海銀行と経営統合、「あすかホールディングス」傘下に。翌年、東海銀行が合併してあすか銀行成立。

・日鉄證券→単独で「日鉄フィナンシャル・ホールディングス」設立。

 

〈生命保険、損害保険〉

・昭和生命保険→2000年4月に千代田生命保険と合併、「昭和千代田生命保険」となる。

・三洋生命保険→2001年4月に新亜グループ系の協栄生命保険と経営統合、「KSライフホールディングス」を設立しその傘下に入る。

・大室火災海上保険、昭和火災海上保険→2002年6月に合併し「大室昭和損害保険」設立。同時に、両社傘下の東邦生命保険も子会社生保と合併。

 

 金融以外でも、商社や化学、製鉄など各社の合併が行われた。これは、グローバル化が進んだ事で単独での存続が難しくなった事、不良債権処理の為、合併が推奨された事が理由だった。

 

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 1989年1月8日に昭和から平成に変わって以降、世の中は目まぐるしく変わった。バブル景気によって日本全体が好景気に沸いた一方、バブル景気終息後は、90年代中頃から後半にかけて中小企業を中心に企業の経営危機が相次ぎ、企業再編のラッシュが押し寄せた。他にも、カルト宗教によるテロ事件や、新聞とテレビの不祥事が一気に噴出してマスコミ改革が行われ、新政党の乱立による政局の混乱などが相次ぎ、安定した状態では無かった。

 また、対外的には、東欧諸国の社会主義体制の崩壊とその後のソ連崩壊によって冷戦が終結したかと思えば、中華人民共和国の影響力拡大や韓国の体制の変化によって、東アジアでの冷戦は終結する処か熱を帯びた。その後、「極東危機」と呼ばれる戦争寸前の状態になるなど、東アジア世界の安定はまだ先と見られた。

 それでも、日本は西側における東アジア・太平洋方面の要であり続け、日本もその任に応えた。そして、その方面で混乱が続く程、日本の重要性が増し、また国内の混乱を早急に収めようと動いた。

 そして、21世紀に入り、東アジアと東南アジアの隆盛と同時に、地域覇権争いが目立つ様になった。その中で、日本はアメリカと日本主導で協調する形で、この地域の安定に勤め続ける事となる。

 

 中外グループも、平成、21世紀に入り、安定した運営が行われている。かつての様な拡張こそ無くなったものの、今までの経験や財産を活かし、今後の不安定な未来で生き残る為、常に動向を察知している。また、グローバル社会で生き残る為、かつての様に国内の競合他社による競争だけでなく、協調して共に成長したり、海外の企業と提携して新技術やノウハウを吸収するなど、やるべき事は沢山あった。

 今後、グループの安泰は不明だが「選択を間違えなければ大きな危機を迎える事は無いだろう」と見られた。取り敢えず、21世紀に入った現在、中外グループのスタートは悪いものでは無かった。今後も、中外グループは成長を続けるだろう。



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番外編:この世界の諸外国の状況
番外編:この世界の日本


原子爆弾が日本に投下される描写があります。投下された場所は、史実では戦後に日本から離れた領土ですが、まだ生き残っている人や親族にいた人などがいるかと思われます。
申し訳ありませんが、「これはフィクションであり、現実とは一切関係無い」と理解してください。


 大東亜戦争を何とか停戦に持ち込んだ日本だが、戦後の道程は平坦では無い処か、山あり谷ありの連続だった。

 

 戦後直ぐは、GHQによる国政への過剰な介入を阻止しようと政治家や官僚が抵抗したり、軍の解体論争が国内だけでなくGHQ内でも勃発するなど、不安定さは戦時中以上とも言えた。それが短期間で終結したのは、国内の共産主義者や反日勢力による武力抗争があり、その鎮圧の為に警察力・軍事力が必要となり、GHQによる統治の甘さもに原因があった為である。

 一時は内戦かと言われた武力抗争も短期間で終結し、その後はアメリカの支援もあり復興に向かった。アメリカは日本を「極東の防波堤」と見ており、第二次世界大戦末期と戦後のソ連の蛮行を見ていた事から、早急な経済と軍事の復活を要望し、その為の支援も惜しまれなかった。その甲斐があり、1949年には「1950年代中頃には戦前経済並みに復活する」と予測された。

 

 そう見られた矢先の1950年6月25日、「朝鮮半島の統一」を掲げた北朝鮮が韓国に侵攻した事により朝鮮戦争が勃発した。史実と同じく韓国軍は釜山に包囲されたが、この世界では韓国は釜山から追い出され、対馬に政府が移転してきた。

 韓国の勝手な行為に日本政府は非難し、国民もそれを支持した。アメリカも日本の肩を持ち、日米両軍の特殊作戦によって対馬から追い出した。

 その後、アメリカ軍傘下の形で日本も朝鮮戦争に参加する事となった。日米両海軍による仁川上陸作戦から始まる反攻作戦によって、北朝鮮軍に壊滅的打撃を与え、38度線以北に撤退させた。

 また、仁川上陸作戦後の10月、援朝ソ連義勇軍(実態はソ連極東軍)が参戦し、対馬周辺での作戦を行おうとソ連太平洋艦隊がウラジオストクから出撃したが、それを日本海軍が一蹴した。「第二次日本海海戦」と称されたこの海戦で、日本国内は久々にお祭りムードとなった。

 

 しかし、それに冷や水を浴びせる事態が起きた。年が明けた1月2日、南樺太の中心都市である豊原市に原子爆弾が落とされた。これにより、豊原市とその周辺部が壊滅した。死者は4万人以上になり、現地に駐留していたアメリカ軍1000人も含まれた。

 前年の第二次日本海海戦への懲罰とされたが、アメリカ軍を攻撃したとしてアメリカが翌日、ウラジオストクに原爆を落とした。これにより、ウラジオストクとその周辺部は壊滅し、都市機能だけでなく港湾施設や軍港の機能も壊滅した。

 ソ連はその報復として1月5日、択捉島の単冠湾に原爆を搭載した潜水艦による自爆攻撃を行った。当時、単冠湾はソ連への監視用に日米共用の大規模港湾施設が建設中であり、その為の建設作業員としてアメリカ軍が多数駐留していた。その様な中で原爆による攻撃を受け、現地にいた住民・作業員・軍人など合わせて3万人近くが死亡した。また、建設中だった港湾施設も壊滅した。

 アメリカは、報復の報復としてハバロフスクとペトロパブロフスク・カムチャツキーに原爆を投下した。攻撃後、「これ以上攻撃するならば、更なる原子爆弾投下も辞さない」という大統領のコメントが発表された。

 流石にソ連も、これ以上の攻撃を受けるのは拙いと理解した。これにより、両者の核の投げ合いは終了したが、この時のトラウマは両者は残っており、核兵器の量的拡大は抑えられる事となる。

 

 原爆投下による多数の死者の発生という事件があったものの、朝鮮戦争によって経済の成長と国家の威信の回復というメリットもあった。実際、これ以降は軍拡やアメリカからの発注で重化学工業が大きく発展した。

 以降、史実の日本とほぼ同じ歴史を辿るが、周辺の緊張が史実以上ある事から、軍事や政治、外交に対しては敏感となっている。また、周辺との緊張が大きい事から、製造業の海外移転も大きく進んでおらず、産業の空洞化も幾分緩やかになっている。

 

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〈領土・人口〉

 史実の日本に千島列島全てと南樺太を足した領土が、この世界の日本の領土となる。その為、領土面積は約42万6千㎢となる。

 

 領土が多い事、戦争中に大規模な空襲を受けなかった事、東南アジアや中国大陸(満州を除く)からの復員・帰国事業が円滑に行われた為、その分の人口が多い。一方、満州や朝鮮北部の帰国事業は進まず、終戦後と朝鮮戦争後に朝鮮人の帰国事業が行われた為、その分の人口が減少する。その為、終戦時の総人口は史実の約100万人程度の増加となる。

 その後、ベトナム戦争やインドシナ各国での内戦に米軍と共に介入した事で、そこからの難民を受け入れるなどして、移民の受け入れが少しずつだが行われる様になる。1980年代以降、労働力不足などを背景に移民規制が緩和され、人口増加に繋がっていく。2015年現在では、約1億3500万人の日本国籍保有者が暮らしており、それとは別に約500万人の移民が暮らしている。

 

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〈政治〉

 戦時中の唯一の政党だった大政翼賛会が戦後になって解散した後、かつての政党が再結成された。立憲政友会の流れを汲む「日本自由党(略称・自由党)」と、立憲民政党の流れを汲む「日本民主党(略称・民主党)」が主要な政党となった。

 尤も、両党は流れを汲むだけで、元政友会所属で民主党に入党した者、元民政党所属で自由党に入党した者もそれなりに見られた。

 また、他にも政党が乱立したが、1950年までにどちらかに吸収された。これにより、日本における2大政党制は確立した。

 共に「親米・反共・自由主義・資本主義」を掲げる中道右派政党であるが、経済や外交の方針でやや異なる。自由党は「大きい政府・公共事業の強化・東南アジアとの連携強化」の傾向が強く、民主党は「小さい政府・製造業や金融業の強化・西ヨーロッパとの連携強化」の傾向が強い。

 

 社会党は成立したものの、日本全体での反共色が強かった為、勢力の拡大は難しかった。また、左派と右派の対立もあり、内部対立で大きな支持を得る事も難しかった。これにより、社会党は左派の「日本社会党(略称・社会党)」と右派の「民主社会党(略称・民社党)」に分裂したままとなった。また、社会党の躍進が無かった為、自由党と民主党の保守合同が発生しなかった。

 共産党は、日本国憲法発足以降、法律で禁止された。その為、多くは社会党に入るものの、一部は過激化した。

 

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〈経済〉

 本土空襲が少なかった事、在外資産の没収が史実より少なかった事(ソ連・中国大陸・朝鮮半島関係は概ね史実通りだが、在米・在英など後の西側諸国の在外資産は一部を賠償に取られるも残った)、戦争が史実よりも早く終わった事から、国富が多く残った。特に、各種兵器や文化財がそのまま残ったのは大きかった。

 また、本土空襲が無かった為、市街地の荒廃はあまり発生していない。市街地がほぼそのまま残った為、開発がやや遅れるが、ほぼ史実通り行われる。それでも、旧市街が存続する為、中心部の開発規制などが多く取られる。

 同様に、本土空襲が無かった為、東京への一極集中は弱まる。東京を中心とする首都圏は政治・行政、名古屋を中心とする中京圏は製造業、大阪を中心とする関西圏は経済でそれぞれ強くなる。その為、大企業の本社機能の東京への集中は弱く、住友グループや三和グループなど関西発祥の企業の東京への本社移転は余り行われていない。

 

 戦後のGHQの経済政策で、戦前の富裕層や実業家の財産は減少するものの、その人達が下野する事が少なかった為、経済人の価値観は連続している。つまり、慈善事業への寄付などが盛んに続いており、企業による社会貢献も多く行われている。

 「お金は貯め込むだけでなく、社会に還元するもの」、「金儲けのためだけに事業を行うものでは無い」という意識が強く、マネーゲームや新自由主義経済に否定的な感情を抱いている。

 

 『「技術力」こそが日本の産業の源であり、諸外国に勝るほぼ唯一の財産』という考えがある為、技術投資が盛んに行われている。それに伴う特許の取得や産官学連携も盛んに行われており、論文の発表も多数行われている。

 技術だけでなく、製造でも世界有数で、特にアジアでは最大規模である。造船や製鉄、化学に電機などの重化学では世界トップクラスであり、半導体などの先端技術、航空宇宙産業などの軍事部門などにおいても同様である。

 

 一方、第一次産業についてはそこそことなった。ジャポニカ米の対米輸出(在日米軍の影響で、日本食ブームが到来)でコメ農家はそこそこ潤っていたが、1960年代になるとアメリカでのジャポニカ米の生産が軌道に乗った事で、日本産のコメの輸出が減少した。日本国内でのコメの消費量の減少もあり、一時は減反政策も検討されたが、オイルショックの影響で政策は変更となった。具体的には、規制されていた企業の農業参入の緩和、高価値商品作物の奨励、飼料米の生産奨励である。これと同時に農協改革も行われ、市場経済に対応した組織作りが行われた。

 農業と連動する形で畜産業の改革も行われる。その為、畜産業の企業化や国産牛肉の高級化路線は早く進み、アメリカ産牛肉の輸入も早まる。

 林業は、日本林産などの林業会社によって、国産木材の奨励が行われる。その為、国内林業の衰退は起きておらず、山林の放棄も少数となっている。

 漁業については史実通りである。

 現在、日本の食料自給率は65%程度となっている。コメは自給出来ているが、それ以外の食糧については輸入に多く頼っている。一方、コメや果物などの農産物が主要輸出品となっているが、アメリカ産などとの差別化として高級路線を取っている。

 

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〈外交〉

 概ね親米・反共外交を展開している。その為、西側諸国との連携を重視している。特にアメリカとの関係は最重要視しており、「日米蜜月」によって太平洋の安定に貢献している。

 

 東アジア・東南アジア方面の外交では、過去の経緯や冷戦構造から対韓国・対北朝鮮・対中国では厳しい対応をしている。冷戦中はソ連との交流も最低限であり、ロシアになってからも同様だったが、

 一方、台湾やタイ、フィリピンやインドとの繋がりは深く、経済・軍事の両面で連携を強化している。

 また、反共政策を採っているが、歴史的経緯から満州との繋がりがある。文化面や経済面では連携の姿勢を見せており、近年では中国の軍事的台頭によって軍事での連携も少しずつではあるが増えている。その満州との繋がりがあるベトナム、ラオス、カンボジアとの付き合いがある。

 

 冷戦中は、朝鮮戦争中の出来事からソ連との交流も最低限であり、ロシアになってからも同様だったが、極東危機の際に日露両国が歩み寄った事で、関係改善に向かっている。

 

 それ以外の地域では史実通りだが、資源(石油)や市場の存在から中東諸国との連携を強めている一方、それらと対立傾向にあるイスラエルとの関係はやや冷却傾向にある。中東関係についてはほぼ国連決議に賛成の立場の為、イスラエルが日本に対して好印象を持っていない事も一因である。

 

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〈軍事〉

 日本軍は軍縮の上で存続する。但し、朝鮮戦争まではアメリカのコントロール下に置かれており、整備も低調だった。また、この頃に士官の教育や武器の規格、階級などをアメリカ側に寄せている。

 朝鮮戦争を境に日本軍の地位が向上し、軍の整備・拡大が急速に進む。同時に、アメリカ軍も極東方面における日本の重要性を再認識し、この地域の集団安全保障を構築する際、アメリカ・日本の二頭体制で行う事を決意する。

 

 冷戦中、日本軍の規模は拡大し、最盛期である1980年代には海軍は3個機動部隊や潜水艦24隻を中心とした大海軍力を有し、空軍は戦闘機・戦闘爆撃機の部隊だけで20個飛行隊展開し、陸軍は20個師団(内、戦車師団2個、機甲師団3個)を有する東アジア最大級の軍事力を保有していた。

 現在では、冷戦の終結で部隊の縮小が行われているが、東アジアでの冷戦が終わっていない為、西日本方面の部隊の縮小は進んでいない。その為、海軍は3個機動部隊はそのままであり、空母型の強襲揚陸艦やイージス艦、簡易イージスと言える防空艦の配備が進んでいる事から戦力的には向上している。

 空軍も、16個飛行隊と数は減少したものの、F-35や国産新型戦闘攻撃機「F-3」の配備が行われている。

 陸軍も、3個師団廃止・7個師団が旅団に改編などの再編が行われたが、装備の近代化や即応体制の強化などで対応している。

 核兵器については、原子爆弾が実戦使用された最初の国という意識から、核武装については否定的だった。一方で、「核兵器には核兵器」という意識もあった為、アメリカとの核シェアリングという形になった。核兵器を搭載しているのは、空母機動部隊の艦載機に限定されている。

 

 東アジア方面の集団安全保障として「太平洋アジア条約機構(略称・PATO)」が存在する。これは、「東アジア・東南アジア版NATO」であるが、史実でも同様の構想は存在したが様々な要因から実現しなかった。

 この世界では、アメリカが日本の重要性を認識している事、日本もそれを行う責務があると認識している事、アメリカと日本のアジアにおける圧倒的なプレゼンツから実現した。原加盟国は、日米に加え、韓国、中華民国、台湾、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイの9か国であり、オブザーバーとしてイギリス、カナダ、フランスが存在した。その後、インドやインドネシア、ベトナムなどの加盟がある一方、中華民国がオブザーバーに降格し、韓国が一時脱退するなど、加盟国に変化があった。

 現在、対外進出を強めている中国をけん制する為に存続しており、南シナ海や中部太平洋、ハワイ沖などでの海軍合同軍事演習や、タイやインドネシアでの陸軍合同軍事演習が行われている。

 特に、海軍合同軍事演習の目玉となるのが、日本海軍を中心とした赤軍とアメリカ海軍を中心とした青軍に分かれて行う模擬空母戦である。

 

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〈教育〉

 概ね史実通りだが、GHQによる教育の変更が無い為、史実の様な自虐史観は極少数意見となる。また、教育勅語は現代語に訳された上で存続し、修身も道徳と名前を変えて存続した。

 その為、道徳観や価値観は否定されていない。戦後の価値観が加わる為、史実の様な価値観や道徳観、民意となるものの、史実よりも考えて行動する様になる。

 

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〈皇室〉

 史実と同じく、戦後の伏見宮系の皇籍離脱は発生しているが、久邇宮家と東久邇宮家だけは離脱しなかった。これは、久邇宮家が皇后の実家である事、東久邇宮家が内親王の嫁ぎ先である事が理由だった。また、戦争が早く終結した事、国内の被害が大きくなかった事から、政府が皇室に充てる予算や皇室財産に余裕が出来、天皇と血縁関係がある宮家は残す方針となった。

 この為、史実で存続した秩父宮家・高松宮家・三笠宮家に加え、伏見宮家の久邇宮家と東久邇宮家の5家が皇族として存続した。



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番外編:この世界での諸外国①(東アジア)

【史実との違い】

〈東アジア〉

・朝鮮戦争の発生は史実通りとなるが、1年で終了する。これは、米ソ両国による限定的核戦争の影響で、両国が妥協した為。領土の分割状況は史実通りとなる。

・韓国の経済発展は諸事情で大きく遅れる(史実の四半世紀程前の状況)。

・北朝鮮は、ソ連の影響下に入った事や後背に満州がある事で、内政的には安定傾向にある。経済も軽工業を中心に発展している。

・旧清朝の領土は、国共内戦の末、中央部が中華人民共和国として成立するも、中華民国の失政や米ソ両国の思惑により周辺部は独立する。これにより、満州・プリモンゴル(内蒙古)・ウイグルはソ連の衛星国として、台湾・チベットは西側の勢力として独立する。また、国共内戦で敗れた中国国民党は海南島と雷州半島に逃れて存続する。

・満州はソ連の政策転換でソ連の衛星国として存続する。

・プリモンゴルとウイグルもソ連の衛星国として独立する。

・香港は独立を選択する。一方でマカオは史実通り。

 

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〈東アジア〉

・大韓民国(韓国)

 領土は史実通り。しかし、後述の人口流出の後遺症から、2015年現在の総人口は約4500万人となっている。また、主要産業も軽工業であり、日米からの投資や技術提供が少ない為、重化学工業の発展が遅れている。その為、史実より経済力が低く、一人当たりの購買力平価では2万ドル程度となる(史実では3万4千~3万7千ドル)。

 

 独立以前から行われた親日派の弾圧、朝鮮戦争や政府の威信の低下が原因で、建国から15年程は人口の流出が激しく、特に技術者、学者、朝鮮総督府からの官僚、軍人などの頭脳が抜けたのが大きかった。また、実業家の国外脱出も多数発生し、斗山や三星などの史実の巨大財閥が台湾に、軍人や官僚は満州に流れた。これらの要因から、その後の経済発展にも影響した。

 その後、多産政策の実施、民族企業の振興、亡命者の帰還事業などを行ったが、資本不足が原因で、経済の拡大は低調だった。資本不足の大きな要因として、日本との関係がこじれたままというのが最大の要因であり、日本からの投資が低調だっただけでなく、日韓基本条約で「補償金は確実に個人に補償する様に」と決められ、事実上の賠償も「日本統治時代に整備したインフラを無償譲渡する代わり、国家に対する補償は今後一切しない」と決められた事で、国家が自由に使用出来る資金が少なかった。

 

 軍事面でも、経済力の低さから大規模な軍事力を保有する事は難しい。一方で、北朝鮮との対立や日本への対抗意識から分不相応の軍事力を保有しているが、装備の老朽化が進んでいる。

 陸軍は史実通りの規模(常備師団22個、予備師団20個、計42個師団)だが、主力戦車がM60とK1の2本立てとなっている。それ以外の装備の更新も遅れ気味となっている。

 海軍も3個艦隊保有しているが、保有している最大の戦闘艦艇が蔚山級フリゲートとその改良型の仁川級フリゲートとなっている。駆逐艦や潜水艦は有していないものの、ソ連や満州、北朝鮮に対する対潜能力は決して低くない。

 空軍も、戦闘機・戦闘爆撃機を各種計500機保有しているが、殆どがF-5とF-4で老朽化が著しい。F-16への更新を検討していたものの、極東危機によってそれが白紙となった。現在は、イスラエルによる改修と他国から状態の良いF-5とF-4の購入、ミラージュの導入で何とかしている状況にある。

 

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・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)

 こちらも、領土は史実通り。経済面では、史実よりも状態は良いが、軽工業が主体となっている。経済が比較的良好という事もあり、総人口も約2800万人と史実の2割増しとなっている。

 

 朝鮮戦争中の出来事が原因で、戦後は経済・軍事の両面でソ連の影響力が強まった。その為、金日成がソ連の心証を悪くしない様にと民生面へ注力した事、分不相応な重化学工業への偏重をしなかった事、それらを後継者が続けた事で、北朝鮮の経済的破滅は発生していない。これが、経済面で良好な理由となる。

 ソ連主導の国際的な分業体制の枠組みに組み込まれ、農業と繊維業が発展した。その後も、食品加工、皮革、木材加工などの軽工業を中心に発展した。

 重化学も発展しなかった訳では無く、日本統治時代からの製鉄業、鉱業、化学工業も発展した。また、工業の発展と後述のソ連軍の存在から軍備偏重とならず、浮いた分が鉄道や道路などのインフラ整備に充てられた。

 

 軍事面では新京条約機構(略称はSTO。西側諸国のアジア・太平洋方面の軍事同盟「太平洋アジア条約機構(略称・PATO)」に対抗して1957年に設立。加盟国はソ連・北朝鮮・満州・モンゴル・プリモンゴル・ウイグル、本部はイルクーツク)に加盟している。その為、冷戦中はソ連軍が駐留していた。現在も対中国の関係からSTOは存続しており、規模こそ縮小したもののロシア軍の駐留は続いている。

 戦力として、陸軍は50個師団を保有し(約半数は予備師団)、主力戦車はT-72と一部精鋭部隊にはT-90が配備されているが、T-90の増備については後述の核開発のペナルティで遅れている。装甲車の数も多く、対地上用のロケットや短距離ミサイルも多数保有している。

 海軍は2個艦隊存在し、クリヴァク級フリゲートが最大の艦艇ながら、哨戒艇やミサイル艇、小型潜水艇を多数有している。有事の際には、満州海軍と共に東シナ海や日本海での通商破壊任務に就く事になっている。

 空軍はMiG-21が主力ながら、MiG-23やMiG-29、Su-17やSu-25などを多数有している。後述の核開発のペナルティで、MiG-29の追加導入やアビオニクスの更新が遅れている。

 中長距離弾道弾は、ロシアの庇護下にある事から開発はされていない。核兵器については、1990年代に開発を行おうとしたものの、ロシアに全力で止められる。それ以降、核開発計画は放棄され、軍事・経済の両面でロシアの統制も強まった。その代わり、ロシアの援助で原子力発電所の建設が進められた。

 

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・中華人民共和国(中国)

 史実の領土から東北部、内モンゴル自治区の大半、ウイグル、チベットの大半、海南島と雷州半島を除いた領土となる為、約513万㎢となる。総人口は約13億5千万人。

 

 かつての清の領土は、ソ連の対中不信、西側のインドの緩衝地帯を欲した事から、満州、プリモンゴル(内蒙古)、ウイグル、チベット、海南島が独立した(海南島は、中華民国が逃げた先)。その為、その分の人口や使用可能な資源が少ない。また、周辺国全てが仮想敵国な為、軍事力に注力しなければならない状況にある。

 建国の経緯から、資本家や技術者、軍人や官僚など国家の頭脳が周辺国に離散した。その後も、大躍進政策や文化大革命による混乱で多数の難民が発生した。この時、官僚や軍人など主要人物の亡命も相次いた。

 その後、混乱は収まり、市場経済の導入で経済の再建を図ったが、頭脳の流出で政策運営が上手く行かず、周辺との対立もあり外資の流入が少なかった。それでも、香港やマカオ、中華民国と接する深圳、珠海、茂名、台湾の対岸の厦門に経済特区が、天津や上海、広州などの大都市に経済技術開発区が設けられ、イギリスやフランスなどのヨーロッパからの投資は比較的多く、アメリカからも少ないながら投資の流れがあった事で、経済の回復があった。

 現在、東アジア・東南アジアではインドに次ぐ人口を有し、経済力も拡大しているが、日本との関係が良くない事、それに伴う日本の資本・技術の移転が低調な事もあり、史実程巨大な経済力を保有していない。石炭やタングステンなどの鉱業、経済特区や経済技術開発区とその周辺での加工業が比較的発展しているが、製鉄や電機などの重工業の発展は遅れがちとなっている。

 人口増加は未だに続いているが(この世界の中国は、人口の流出が激しかった事から一人っ子政策を採用していないが、1990年代から少産が奨励された)、貧富の差は非常に大きい。前述の経済の遅れ気味もあり、内政状況は不安定となっている。

 

 対外状況の悪さから、経済は常に軍備に優先された。現在もその傾向は強いが、却ってそれが経済の低成長に繋がっている。

 陸軍は兵員数では世界最大ながら、装備が古い。戦車は85式戦車と90-Ⅱ式戦車が主力であり、精鋭部隊に96式戦車か98式戦車が少数配備されている。

 海軍は3個艦隊あり、旅大型駆逐艦と江衛型フリゲートが主力となっており、象徴的な艦として深圳級ヘリコプター巡洋艦が存在する(イメージとして、しらね型護衛艦を1万2千トン級の船体に拡大し、中国製の装備で固めた)。また、原子力潜水艦や弾道ミサイル搭載潜水艦を複数保有し、通常動力型潜水艦も多数保有しているが、設計の古さや技術面の問題から西側より2世代は遅れている。

 空軍は、J-10(史実のFC-1)、J-8Ⅱ(中国版MiG-21であるJ-7を双発にしたJ-8の改設計版)、JH-7、H-6(Tu-16の中国版)が主力となっている。数こそ多いものの、原設計が1950~60年代の機体が多く、近代化改修も遅れ気味となっている。

 第二砲兵(ロケット軍)の装備は概ね史実通りだが、周辺との対立の多さから、史実とほぼ同数揃えている(国土が小さい為、実質史実以上配備)。特に、短距離弾道ミサイルのDF-11とDF-15、準中距離弾道ミサイルのDF-21の配備が進んでいる。

 

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・中華民国(海南島)

 領土は、海南島と中国本土の雷州半島、東沙諸島のみ(約4万2千㎢)。事実上、海口が首都となっている。総人口は約1900万人(史実の同地域だと約1600万人)。

 

 1911年の辛亥革命によって成立した中華民国だが、失政や諸外国の介入などで内政が安定しなかった事、日本との戦闘状態、アメリカからの支援の減少、国共内戦で共産党に敗れた事などの要因で、中華中央部から追い出された。中国国民党は台湾への退避を予定していたが、台湾を占領統治していたGHQ(の主体であるアメリカ)から拒絶された為、残っていた海南島と雷州半島に退避した。その際、舟山諸島や金門・馬祖などの地域は放棄された。

 海南島に逃れた後、アメリカを始めとした西側諸国の支援によって国家体制の再編や国軍の再編成が行われた。中国大陸が東側となった為、その防波堤として補強する必要があった為である。また、この時の支援の見返りなどで、台湾の独立を中華民国に認めさせている。

 その後、農業を中心とした国となるものの、徐々に国内インフラの整備が進んだが、重工業の建設の方は低調だった。これは、中国と接する事によるリスク、台湾やシンガポールの方が整備されている事から、外資の流れが低調だった為である。アメリカや日本からの支援があったものの、過去の経緯から支援に積極的では無く、軽工業や鉱業の支援が中心だった。

 

 主要産業は農業、林業、水産業といった第一次産業、鉄鉱石やオイルシェールなどの鉱業、繊維や食品加工などの軽工業であるが、価格競争で東南アジアに負けている。他にも、中国の経済力が低く経済の連動が望めない事、外資が台湾や満州、東南アジアに流れている事などから、経済の成長は鈍化している。観光立国や金融立国を目指したものの、中国と接するリスクや魅力の面で満州や台湾、東南アジアに劣っている事から、観光客の増加や投資の流れも低調となっている。

 その為、国内資本による経済立て直し、中南米やアフリカへの進出による輸出産業や土建業の強化を行っているが、思う様な成果が上がっていない。

 

 経済が不安定な一方、対中国に備える為の軍備を整えなければならないが、整備が中途半端な状況にある。行政や産業の中心は海南島にある為、海軍・空軍を整備するべきだが、雷州半島も有している為、陸軍の整備も必要だった。その為、どちらか一方に注力する事が出来ておらず、数も質も不安定な状況にある。

 陸軍は、M60やCM11が主力となっている。これ以外にも、装甲車やヘリコプターが多数配備されている。部隊の多くが雷州半島に配備されている。

 海軍は、済陽級フリゲートや鄭和級フリゲート(史実の成功級フリゲートだが、ライセンス版では無くアメリカの中古品)が主力だが、その老朽化が問題となっている。その為、自国造船業の振興も兼ねて、フランスとドイツから技術提供を受けて設計された康定級フリゲート(史実の江凱Ⅱ型フリゲートだが、各種装備は西側に変更)と田単級フリゲート(史実の広開土大王級駆逐艦だが、主砲が76㎜だったり、CIWSがファランクスなどやや装備が軽めとなっている)への更新中となっている。

 空軍は、F-16とF-CK-1の2本立て体制となっている。中国からの圧力の意味が殆ど無い為、最新のF-16の導入が可能となったが、航空産業の維持や対地攻撃能力の獲得から、F-CK-1の開発も行われた。

 

 海南島の経済発展中と同じ頃の1974年、中華人民共和国の国連加盟が実現したが、中華民国の国連脱退は無かった。これは、アルバニア決議(中華民国を国連から追放し、中華人民共和国を国連に加盟する。同時に、中華民国の安保理常任理事国の席を中華人民共和国に移す)が否決され、代わりに中華人民共和国の国連入りが可決された為である。

 これは、この世界の常任理事国の席は米ソ英仏の4つ(当初は5つだったが、5つ目を巡って中華民国とアメリカが対立、その結果「常任理事国の席は4つだが、将来的に増やす」とされた)であり、この世界のアルバニア決議は「中華民国の国連追放、中華人民共和国の国連加盟」であった。これが東西両陣営から否決された一方、代わりに日米両国が提案した「中華人民共和国の国連加盟」の方が可決された事で、中華民国と中華人民共和国が共に国連に加盟している。

 

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・台湾共和国(台湾)

 日本領台湾がそのまま独立した為、領土は史実の台湾(中華民国)の領土から金門・馬祖・東沙諸島を除いた領土となり、総面積は約3万6千㎢となる。総人口は約2800万人となっているが、これは史実の台湾の人口より約2割多い。

 

 日本領台湾が大東亜戦争後にGHQによる占領統治の後、1952年に独立した。その後、国共内戦や朝鮮戦争によって発生した亡命者の受け入れや多産の奨励、中国大陸からの亡命者の受け入れに東南アジアからの移民受け入れで人口を増加させていく。

 しかし、経済の拡大に反比例する様に出生率は低下している。移民の積極的な受け入れで人口減少は目に見える形で表れていないが、将来的には急速な高齢化と人口減少に見舞われると予想されている。

 

 人口増加に合わせて産業の振興も行い、独立当初は農業や林業、水産業などの第一次産業が中心だったが、その後は日本やアメリカからの技術支援や投資によって重化学工業が発展し、民族資本の拡大も進んだ。現在では、造船や製鉄、電機に半導体などが主要産業となっており、一人当たりのGDPにおいて東アジアでは日本に次ぐ高さを有しており、先進国と認識されている。

 また、東アジアと東南アジアの中間に位置する事から、両地域を対象としたサービス産業も発展している。当初は貿易や金融、後にITも発展した。現在では、東京・大阪に次ぐ東アジア有数の金融センターや貿易センターとしての地位を確立しており、東南アジア向けに対しては日本以上の情報・地位を有している。

 

 各種インフラについても、主に日本からの技術移転などによって整備された。特に鉄道は、国鉄とほぼ同様に整備された事もあり、初期は111系やキハ10形、後に103系に165系、キハ58系など当時の国鉄の主力車輛のライセンス生産が行われるなど、「日本国有鉄道台湾支社」と呼ばれる程だった。これに伴い、大都市とその周辺部の人口が増加し、大都市周辺のローカル線の通勤路線化も進められた。

 また、早くから道路と一体の地下鉄整備が行われた事で、台北や高雄では地下鉄の整備が進められている。同様に、台中や台南でも行われたが、こちらは輸送量が少ないと見られた事や新時代の路面電車のモデルケースとされた事で、路面電車の整備が進められた。

 鉄道以外にも、台湾西岸部を南北に貫く高速道路、基隆港や台中港、高雄港などの大型港、桃園国際空港の建設によって流通面の整備も1960年代から80年代に掛けて行われた。これにより、流通コストの低下やハブ機能の充実が見られ、製造業やサービス業の誘致や拡大の要因となった。

 

 軍備については、大東亜戦争後から中国大陸が台湾を保有しようと画策していた事から、その抑止力として空軍と海軍の整備が行われた。陸軍については、在台米軍の存在と、上陸されたら撤退する場所が少ない事から、兵力では無く機動力を高めた軍として整備された。

 陸軍は、M60とそのライセンス版であるT-1戦車が主力となっている。老朽化が進んでいる面もあるが、拡張性の高さや自国で部品を供給出来る事もあり、現在も主力戦車となっているが、数年以内に日本製の08式戦車(史実の10式戦車。日本製兵器の投入が史実よりも2~3年早い)を導入する予定となっている。

 海軍は、対空・対潜装備を充実させている。その為、台北級フリゲート(O・H・ペリー級フリゲートのライセンス版)や高雄級フリゲート(史実あさぎり型の改良型。対潜装備を強化している)が主力として8隻ずつ配備され、対空戦の切り札としてイージスシステムを搭載した鄭成功級ミサイル駆逐艦(基となったアーレイ・バーク級よりも一回り小さい基準排水量5500tの船体を採用)を2003年から配備している。

 空軍は、F-16とF-15Eが主力となっている。現在使用している機体が老朽化した場合、F-35を導入する予定となっている。

 

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・満州民主共和国(満州)

 領土は、かつての満州国と同じであり(約113万7千㎢)、首都も新京のままである。総人口は約1億4千万人となっている。後述の経緯から、多民族国家となっている。

 

 1945年6月5日の停戦と同年7月2日の対日戦の終結に伴い、連合国は日本と外地、衛星国の満州を一時的統治を行った後、民主化を予定していた。満州については、一時的統治の後、中華民国に返還する予定だった。

 この予定が狂ったのは、8月8日にソ連が連合国名義で進駐を行った為である。突然のソ連軍の満州侵攻に現地日本軍や日本に展開するアメリカ軍はおろか、アメリカ政府も驚いた。すぐさまソ連への非難と撤退勧告を出したが、ソ連の侵攻は止まる処か加速し、9月には満州全土と朝鮮半島北部を支配下に置いた。

 満州を支配下に置いた後、現地にある工場や鉄道など価値があるものの多くがソ連本国に持ち去られた。また、現地にいた日本人の多くも連れ去られ、シベリアなどで強制労働させられた。

 その後、東アジアでの発言力強化と中国への不信感から、当初予定の満州の中国返還を変更し、衛星国化する事を決定した。その為、ソ連領内にいる日本人を戻したり、ソ連や勢力圏である東欧から移民を送ったりなどして、強引な人口増加を行った。この後、中国での内戦の激化から難民が多数押し寄せ、朝鮮戦争の影響で難民や亡命者などが多数来るなどして労働力や頭脳が集まった。その様な中で、1954年に「満州民主共和国」として独立した。

 

 建国の経緯から、ソ連の影響力が強い。建国当初、ウラジオストクやハバロフスクなどの主要都市が朝鮮戦争中の事件が原因でアメリカの原子爆弾の投下により壊滅的被害を受けた事で、ソ連極東部再建の為に工業力が活用された。これにより、ソ連極東部の工業力・軍事力の代替として活用され、ソ連もその事を認識していた為、援助は常に優先的に行われた。

 冷戦崩壊と共に、満州も民主化が行われた。国号が「満州連邦共和国」に変更となった1989年に、満州社会党が保守派と改革派に分裂した。保守派が「満州労働党」となり、改革派が民主派の一部を取り込み「満州社会民主党」となった。民主派の内、社民党に取り込まれなかった者を中心に「満州民主同盟」が設立された。同年の選挙で、民主同盟が躍進するも過半数を取れず、社民党と二分するに留まった。労働党は1割弱を手に入れるのがやっとだった。

 現在では、20世紀末の極東危機による混乱によって政局が不安定となり、21世紀に入ると復活したロシアによる再衛星国化が行われた。政治的自由は制限されたものの、経済面では制限されなかった為、外資の導入などによる経済発展が進み、それに伴う国内の安定傾向も高まっている。

 

 国民の多くが漢人であるが、日系人や朝鮮人、ロシア人や東欧系、ドイツ系をルーツに持つ人も多い。これは、建国時の人口増加の経緯から、満州独立前にシベリアに抑留された日本人と朝鮮人、ドイツ人を満州に移住させ、更に人口増加の為にソ連や東欧から移民が送られた為、多民族国家となった。それでも、現地に住んでいた多数派が漢人である事、国共内戦で逃れた人々の殆どが漢人である事から、漢人が多数派となっている。

 尤も、教育の充実や生活の保障がされている事、治安の良さなどから、中国中央部への帰属意識は殆ど無く、「満州国民」としての意識形成に成功している。

 

 経済は、建国当初はソ連からの援助で工業化が進み、満州国時代の遺産である製鉄や化学、農業と合わせて発展する。その後も順調に発展し、ソ連・東欧諸国で不足する繊維や日用品の生産拠点や、ソ連の極東開発の基地としても活用される。また、1950年代に国内で相次いで油田が発見された事で、石油の輸出による外貨獲得も進む。それ以外にも、鉄道車両は重機、電子機器に航空機産業などの重化学工業や先端技術産業の発展も見られ、「ソ連16番目の構成共和国」と言われる程発展し、ソ連も満州に信頼を寄せていた事から、最先端技術や特許以外の技術については輸出していた。

 1980年頃から限定的な自由化や市場経済の導入が行われるも、ソ連の衛星国と合って低調だった。この状況が変化するのは、冷戦の終結と天安門事件後の1990年代に入ってからとなるが、極東危機で再び低調となる。

 極東危機後は好調に戻り、良好な治安や整備された流通網、法整備が為されている事もあり、東アジアでは日本に次ぐ地域大国と見做される様になる。

 一方、地下資源については減少傾向にあり、経済発展に伴う資源消費量の増加により、21世紀に入ってからは資源輸入国となる。資源の多くはロシアや中央アジア、モンゴルなどからの輸入に頼っているが、資源や市場開拓を目的に自力でアフリカに進出するなどして、経済面での自立を目指している。

 

 軍事では、ソ連の極東における要として、ソ連からは重要視されていた。その為、満州人民軍には常に最新の装備が供与され続け、民主化によって満州連邦国防軍となった後もそれは変わらない。また、ソ連軍の大規模な駐留が行われた。冷戦後とソ連崩壊後も、STOに加盟し続け、ロシア軍の駐留が規模を縮小させつつも続いている。

 陸軍では、T-72が主力戦車として大量に配備され、T-90も少数の精鋭部隊に配備されている。また、対中国を睨んで対歩兵戦の強化を行っており、BMPシリーズやBTRシリーズなどの装甲車両、Mi-8やMi-24といったヘリコプターも多数配備されている。

 空軍は、冷戦中はMiG-21が主力だったが、冷戦後期にはユーゴスラビア、ルーマニアと1980年代に共同開発した「88式戦闘機・蒼燕(見た目はIAR95、性能はノヴィ・アヴィオン。共に実機は生産されず)」が主力となった。それ以外については、一部精鋭部隊にSu-27、戦闘爆撃機としてSu-17、Su-24、Su-25、大型爆撃機としてTu-16が配備されている。その他、輸送機、ヘリコプターも多数配備されており、東アジア有数の空軍力を有し続けている。

 海軍は、フリゲート艦が主力となっており、自国製の新京型フリゲート(史実「カシュプ」)や大連型フリゲート(パルヒム型フリゲートを拡大したもの)に加え、ソ連製のタランタル型コルベットが主力となっている。冷戦中は日米の潜水艦を、冷戦後は中国の潜水艦や小型艦艇が対象の為、大型艦は有していないが、対潜装備や小型の水上目標向けの装備が充実している。

 

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・プリモンゴル人民共和国(プリモンゴル)

 総面積は約45万5千㎢であり、この領土は史実の内モンゴル自治区から旧満州国の領域と旧寧夏省の領域を除いたものとなる。総人口は約1500万人であるが、同地域の史実の人口は約1200万人となる。

 

 満州事変後、満州防衛や華北分離工作を目的に内蒙古に進出した。1939年に内蒙古に樹立されたのが蒙古聯合自治政府で、これがプリモンゴルの前身となる。

 終戦後、連合国の進駐より先にソ連軍が進駐し、そのまま居座った。その後、中国への返還がされないまま、1954年に「プリモンゴル人民共和国」として衛星国として独立させた。

 独立後、中国から逃れた難民を活用して、ソ連と満州の支援によって緑化と地下資源の開発が進められ、農業と鉱業が主要産業となる。同時に、両国の影響力が強まり、軍事的にはSTOの一角として対中国の最前線となる。その為、ソ連軍の駐留が行われ、中国に対する要とされた。

 冷戦後、1990年に民主化によって「プリモンゴル共和国」となるも、プリモンゴル社会党(旧・プリモンゴル共産党)の影響力が強く、権威主義的体制となっている。その為、報道規制などが残っているものの、石炭やレアアースなど各種資源の輸出で経済が良好な事から、不満は最小限となっている。

 人口の多くが漢人であり、モンゴル系は少数となっている。国民の半数近くが、中国中央部からの亡命者であるが、経済が良好なプリモンゴルに根差して半世紀近く経つ為、中国中央部への帰属意識は非常に低い。

 

 軍事面では、ソ連製の兵器が殆どを占める。民主化した後もロシア製の兵器が大半を占めるが、小火器や電子機器についてはイスラエル製やフランス製に変更される事が多くなった。

 陸軍はT-62が主力だったが、最近はT-72の改良型への置き換えが進んでいる。尤も、仮想敵国が中国である事から、対人戦装備の方に注力されており、BTRやBMP、BRDMといった装甲車両が主力となっている。戦車の方も、対人戦が中心になる事から、イスラエルによる装備の改良が進められている。

 空軍は、MiG-21とSu-17が主力となっており、少数のMiG-29が配備されている。また、対人戦への強化からMi-24やMi-8といったヘリコプターも多数配備されている。

 

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・ウイグルスタン人民共和国(ウイグル)

 領土は史実の新疆ウイグル自治区と同じ(約166万㎢)。総人口は、史実より1割程多い約2700万人。

 

 国共内戦中、ソ連と中国共産党の間で距離感が生まれた。これは、ソ連側は第二次世界大戦中の中国の動きが消極的だった事に対する不信感から、中国共産党側は満州にソ連軍が居座る続けている事に対する不信感から生まれたものだった。その後、ソ連は中国共産党への支援を続けたが、ソ中両者の不信感は解消される事は無かった。

 ソ連が動いたのは、1947年3月の事だった。中華民国の現地政府と、親ソの東トルキスタン共和国の連合政府である「新疆省連合政府」の主要閣僚を、親ソ系の人物で固めた。これに中華民国と中国共産党は激怒したが、中華民国はソ連の支援を受けた現地軍によって撃退され、中国共産党については支援の強化をする事で認めさせた。また、アメリカも表向きはソ連の拡張主義を批判したが、内心では中華民国の存在に幻滅していた事から大きな反対とならなかった。この様な経緯から、1947年に「ウイグルスタン人民共和国」として(ソ連の衛星国として)独立した。

 ソ連の衛星国として独立した事から、軍事・経済の両面でソ連の従属は必然だった。経済面では、ソ連の合弁会社を通じて資源や農産物の生産が行われ、ソ連・東欧圏で不足している繊維や食品加工品の生産拠点となった。軍事面では、STOの一角としてソ連の駐留が続き、対中国の最前線となった。

 冷戦後、1991年に民主化が行われ、国号も「ウイグルスタン共和国」に変更となった。しかし、国家体制に大きな変化は無く、ウイグル民主労働党(旧・ウイグル共産党)による事実上の一党独裁体制が続いている。尤も、国民はそれに不満を持つ事は少ない。

 

 独立後、独立国家としての足場固めに急いだ。ソ連の後ろ盾があるとはいえ、そうしなければ何れ再び中国の統治下になると考えられた為である。その為にはやる事が多かった。

 中国からの難民やソ連構成国の中央アジアからの移民、多産政策で人口増加を行った。この時、ウイグル系やカザフ系などの中央アジア系の人種の優遇政策も同時に取られた為、漢人に対する同化政策という一面もあった。難民や子供には教育を施し、国民意識の植え付けを行って中国への帰属意識を薄れさせた。こうして、半ば強引な国民意識の形成によって、四半世紀もすると中華への帰属意識はごく少数派の意見となった。

 そして、増加した人口を活用して、地下資源の開発や農場開発、牧場拡大に緑化を行った。これらの政策は独立前から行われていたが、独立後はソ連からの支援もあり大々的に行われた。

 これらの政策により、農業、畜産業、鉱業が主要産業となり、それらを支える食品加工業や繊維業も発展した。現在の主要輸出品は、石油・天然ガス、繊維(羊毛・綿糸)、食品加工品(乳製品・ワイン・ビールなど)となっている。特に、石油・天然ガスの対満・対日輸出が好調な事が、政治的不満が少ない理由ともなっている。

 

 軍事面では、装備についてはプリモンゴルと大差無い。ただ、プリモンゴルより中国からの軍事的圧力が弱い事から、近年では国境警備隊としての性格を強めており、哨戒や機動力の強化に注力されている。

 実際、陸軍は戦車の更新や増備は進んでいない一方、BTRやBMPといった装甲車への転換や更新は積極的に行われている。

 空軍も、戦闘機の更新はMiG-29に統一しているが、その数が少ない。一方、Mi-8やMi-24といったヘリコプター、An-26といった輸送機が主力となっている。

 

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・チベット国(チベット)

 領土は史実のチベット自治区から、東部のチャムド・ニンティを除いた領土となる(約122万㎢。中華民国の書類上の行政区画である西蔵地方とほぼ同じ)。総人口は約250万人。

 

 史実との違いは、1951年の十七か条協定が結ばれなかった事にある。これは、朝鮮戦争が1951年3月に休戦した事で、調印予定だったこの協定がアメリカやソ連に睨まれた事で調印がされなかった。これにより、チベットは中華人民共和国への「統合」が行われなかった。その後、同年6月からアメリカとインドの後ろ盾で正式に独立が決定し、国連による一時的な信託統治を経て、1953年4月に「チベット国」として独立した。

 

 独立後、国家体制の整備が進められた。これにより、バチカンをモデルとした国家体制の構築がされる事となったが、四半世紀掛けてゆっくりと行われた。これは、アメリカがあまり関心を持って行わなかった事、急進的な構築は反発が大きくなると判断された事からだった。

 また、アメリカ軍とインド軍の駐留も続けられた。これは、チベット国軍の整備が進むまでとされたが、防衛範囲の広さに対して人口の少なさや予算問題から単体での防衛は不可能とされ、両国の駐留が続けられた。PATOには加盟していないが、オブザーバーとして参加している。

 

 現在では、中国との睨み合いが続いているが、前述のPATOの存在から大規模衝突には至っていない。ただ、小規模な衝突は何度か発生している。

 経済状況は、小規模な繊維業や畜産業、観光業が主体となっている。地下資源の存在は確認されているものの、環境の厳しさや道路整備の遅れ、内陸国故の採掘・輸送コストの高さから開発は遅れている。その為、一人当たりのGDPこそ低いものの、貧富の格差が小さい為、治安の良さも相まってむしろ安定している。

 

 軍備は、国境警備隊程度しか有していない。しかし、チベット軍の兵士の練度や戦闘技術などはグルカ兵並みであり、高地である事も重なり侮れない存在となっている。実際、人民解放軍との小規模な衝突で先頭経験は充分あり、アメリカ軍やインド軍との模擬戦でも勝利を何度もしている。

 しかし、数が少ないので単独では国を守り切れない為、アメリカ軍やインド軍の駐留が続いている。

 

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・香港

 領土・人口は史実通り。

 

 1997年6月30日までは史実通りだが、翌7月1日にイギリスから独立した。中国への返還とならなかった背景に、冷戦期からの中国に対する不信感や経済格差、日本からの海水淡水化技術による水問題の解消があった。これにより、1980年代に行われた交渉で独立する事が両国の交渉で決定した。その際、租借地だった新界を香港に組み込む事も決定し、その補償金が中国に支払われた。

 独立の経緯から、中国は香港を手中に治めようと画策し、香港は中国に対する不信感や恐怖心からそれに対抗した。一方、両国は領事館を置くなどして、何とか外交関係は維持されている。

 

 独立以降の歴史や経済の状況は、中国からの有形無形の介入や妨害があるものの、概ね史実通りとなる。

 一方、軍事は駐香港イギリス軍が主力となり、香港独自の軍事力を有していない。その代わり、警察組織を拡張して治安の維持を図っている。



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番外編:この世界での諸外国②(東南アジア・南アジア・西アジア)

【史実との違い】

〈東南アジア〉

・カンボジアが満州の影響で社会主義国として成立する。その為、ソ連とも関係が良好となり、ポル・ポトによるカンボジア支配は起きていない。

・ビルマ(ミャンマー)は、1960年代から満州との連携を強め、1977年に親満・親ソの社会主義国となった。

 

〈南アジア〉

・インドが親米国家となり、西側諸国の一員となった。

・インドに代わり、パキスタンが親ソ国家となった。バングラデシュについては史実通り。

・アフガニスタンは、パキスタンと共に早くから親ソ国家となる。

 

〈西アジア〉

・イランは、1979年のイラン革命は発生せず、現在もパフレヴィー朝が続いている。

・イラクは、イランへの対抗を目的に、ソ連の勢力圏に入る。湾岸戦争で政権が倒れた後、親米政権が樹立して安定化に向かっている。

・イエメンは1971年に親ソ国家として統一する。

 

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〈東南アジア〉

・カンボジア王国(カンボジア)

 領土は史実通り。但し、人口は史実よりも2割程多い約1800万人。

 

 1970年のロン・ノル将軍によるクーデターによるクメール共和国樹立までは史実通り。異なるのは、追放されたシハヌーク国王が満州の支援を受けた事である(史実では中国の支援を受けた)。これにより、満州とソ連による支援の下、亡命政府「カンプチア王国民族連合政府」を樹立した。

 その後、内戦によってクメール共和国を打倒し、1975年4月に民族連合政府が首都プノンペンを占領した。これにより、カンボジアの支配者が変わり、国号も「カンボジア王国」に戻った。

 「王国」と名乗っているが、実際はカンボジア労働党による一党独裁体制であり、他の共産主義国と大差無かった。但し、宗教を否定しておらず、立憲君主制の下で社会主義を実施するとされた(イギリスの立憲君主制に、ソ連の民主集中制を足した感じ)。その為、ソ連から反対される事は無かった。

 カンボジア王国樹立の際、クメール共和国の関係者の多くは、国外追放されるか強制労働による思想改造の処分が下った。また、政治路線を巡って対立していたクメール・ルージュの掃討も実施され、3年間に及ぶ掃討戦の末、壊滅させた。

 

 王国復興後、直ちにソ連や満州、ベトナムを始めとした東側諸国が承認した一方、西側諸国は承認しなかった。その後、ソ連や満州の支援で国内の復興や農業の再建が行われた。同時に、食品加工業や木材加工業、繊維業などの軽工業建設の支援も行われた。

 これにより、1980年代初頭には経済は完全に回復し、農業の生産も安定した事で、コメの輸出が出来る程になった。

 また、国内の交通網の整備も進められ、ベトナムとの鉄道の接続が図られた。道路整備も進められ、ベトナムやラオスとを繋ぐ幹線道路の建設も行われた。タイとの鉄道・道路の接続も計画されたが、実現するのは冷戦後となった。

 

 その後、冷戦体制の崩壊によるソ連からの支援の減少、ベトナムとラオスでの市場経済導入に合わせて、カンボジアでも市場経済が導入された。膨大が外資が国内に流れ込み(この頃、西側諸国との国交回復)、人件費の安さと比較的整備が進んでいた繊維業と各種加工業が発展した。軽工業以外では、日本や満州からの支援でバイオ燃料や酢酸エチルの生産が行われている。

 

 軍事力は、基本的に国境警備隊程度となる。かつては、タイ国境付近に比較的重武装な戦力を配備していたが、冷戦崩壊によって大規模な軍事衝突はほぼ無くなった。その反面、国境付近の治安悪化が懸念された事から、非正規戦への適応強化が図られると同時に、軍事力の削減を行って軍事費の削減も図られた。

 

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・ビルマ連邦社会主義共和国(ビルマ)

 領土は史実のミャンマーと同じ。人口は、史実よりも2割程多い約6千万人。

 

 ビルマは、アメリカからの支援を受ける一方、1960年代から満州と接触を行った。これにより、ビルマ国内の社会主義・共産主義勢力は満州とその後ろにいるソ連のコントロールを受ける様になる。当時の政府は余り良い感情を抱いていなかったが、武器や各種軍需物資の膨大な支援があり、国内の武装勢力に対する攻撃が強まり、国内基盤を強める事が出来た事から、表立った反対をしなかった。

 1977年、満州とソ連の後ろ盾を得たビルマ民主労働党によるクーデターが発生、ビルマ連邦社会主義共和国を乗っ取った。以降、中立路線と決別しソ連や満州、インドシナ三国との連携の強化が公表された。

 クーデター後、満州とソ連の支援による農業や軽工業の整備が進められた。元々、農業や林業は発展しており、鉱業の発展も期待されていた事から、直ぐに整備の効果は表れた。コメの生産量は拡大し、綿花や麻、コーヒーなどの商品作物の栽培も行われた。木材の切り出し量や宝石類の採掘も軌道に乗り、経済や輸出品目が多角化した。

 同様に、鉄道網・道路網の整備も進められた。この中で最大のものとして、西部の港湾都市であるアキャブから中部の主要都市マンダレー、ラオス北部のルアンパバーンを経て、ベトナムのハノイに至る道路が建設された。インドシナ半島を東西に貫くこの道路の完成により、ミャンマーとラオス、ベトナムの交流を活発化させ、内陸部の開発促進に寄与した。

 また、今までのビルマ族優遇政策を改め、全ての民族が等しく教育や雇用の機会を得られる様に法整備が進められた。当初、この政策はビルマ族から批判があったが、経済の拡大による雇用創出や周辺地域の民族問題の解消、国民意識の形成などのメリットを説かれた事で、渋々ながら実行された。

 

 冷戦後は、ベトナムや満州と共に市場経済を導入した。識字率の高さや国内の治安の良さを生かして、外資による繊維業や食品加工業など各種軽工業の進出が進んだ。

 現在では、家電メーカーや自動車メーカーの部品工場の進出が見られ、国主導による化学や製薬の振興が行われている。また、21世紀に入ってからは観光開発にも力が注がれ、観光業も発展を見せている。

 

 軍事面では、陸軍が最大規模の戦力となる。これは、長く国境で接する中国との対立、未だに辺境部で残る武装勢力対策から、地上戦力が多く求められた為である。装備は、BMPなどの装軌装甲車が多数を占め、次いでBTRやBRDMといった装輪装甲車が多数配備されている。また、Mi-8やMi-24といったヘリコプターも比較的多く保有している。前述の通り、国境警備や国内の武装勢力が対象の為、戦車よりも装甲車と歩兵が必要な為である。

 空軍と海軍は、陸軍のサポートの役割が主任務となる。空軍は、防空用としてMiG-29が配備されているが、多くはAn-26やMi-8といった輸送機やヘリコプターとなる。海軍は、コニ型フリゲートやタランタル型フリゲートが主力となる。

 

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〈南アジア〉

・インド共和国(インド)

 領土・人口は史実通り。経済力は史実以上。

 

 独立後、暫くは中立路線を取っていたインドだが、朝鮮戦争後は親米路線に転換した。その後、自国産業の保護と育成を行いつつ、アメリカや日本など西側諸国からの支援もあり経済は拡大した。

 1970年代後半から、世界最大の人口と識字率の高さを活かして、西側諸国の工場移転が相次いだ。この世界では、中国の不安定さから投資が弱い為、その分がインドに流れ込んだ。これにより、史実以上の経済の拡大と各種工業の発展が見られた。その為、1980年代後半から「世界の工場」と呼ばれた。

 現在では、外資主導による経済の拡大とそれに伴う民族企業の拡大によって、中間層の拡大や消費の増大が見られる。未だに人口増加が続いている事から、「世界の工場」だけでなく「世界の市場」ともなっている。2010年頃には、名目国内総生産でドイツを抜き世界3位になると見られている(史実では、2017年で7位)。

 

 軍事面では、西側装備で固められている。それでも、アメリカ製やイギリス製、日本製など多種に亘るが、米英日からの導入が主流となっている。

 特に拡大が顕著なのが海軍で、2010年に「老朽化した空母の代替」という名目で、満載排水量4万トン級の空母を2隻保有し1隻建造中となっている(1隻はイギリスに、1隻は日本に発注。1隻は自国建造)。艦載機も、F/A-18スーパーホーネットとAV-8ハリアーⅡが主力だが、2025年までにF-35に転換する予定となっている。

 核兵器については保有しているが、アメリカとのニュークリアシェアリングという形で落ち着いた。その為、独自の核武装は行っていない。

 弾道ミサイルについては、パキスタンやソ連、中国を背後から攻撃する目的から積極的に開発が行われたが、冷戦後は短距離用を除いて全て廃棄された。その代替として、アメリカから格安で各種兵器の購入が認められた。

 

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・パキスタン・イスラム共和国(パキスタン)

 領土・人口は史実通り。

 

 この世界では、インドが親米路線を採った為、インドと対立しているパキスタンは親米路線を採る事が出来なかった。その代わり、親ソ路線が採られ、ソ連製兵器を大量に輸入した。

 冷戦中、パキスタンは南アジアの拠点、インド洋の拠点として活用された。実際、パキスタン南西部のグワーダルがソ連の支援によって軍港として整備され、黒海艦隊と太平洋艦隊から抽出して「インド洋艦隊」が設立された程だった。また、パキスタンとソ連に挟まれたアフガニスタンの親ソ政権樹立にも一役買った。

 冷戦後は、ソ連からの支援が激減した事で経済・軍事の両面で不安定な状態にあったものの、早い段階から各種産業の育成・振興には力を注いでいた為、壊滅的な状態にはならなかった。また、1980年代から外資の導入による経済活性化を図っており、繋がりがあるイギリスを始めとしたヨーロッパからの投資があったものの、多くは人口が多く親米国のインドに流れた為、大きく拡大しなかった。

 現在は、ロシアの復活や民族資本の活性化によって経済が回復している。インドとの対立から外資の導入は依然不安定なものの、アメリカや日本からの投資も少しずつ増加している。

 

 冷戦中、インドと対抗する意味で、ソ連から大量の兵器が入ってきた。それにより、陸軍と空軍は南アジアではインドに次ぐ規模を持っており、現在もそれは変わらない。

 陸軍は、T-62が主力であり、ライセンス生産も行われている。現在、ロシアやフランスからの技術を受けて改良型(砲塔の改良、電子装備の改良など)の生産も行われている。それ以外の装甲車やヘリコプターも多数配備されている。

 空軍は、MiG-21が主力となっているが、年々MiG-29への置き換えが進んでいる。その他にも、MiG-27やSu-17、Su-25も多数保有している。

 海軍は、コニ型フリゲートやタランタル型コルベットが主力で、その他の艦艇も哨戒艇やミサイル艇しか保有していない。だが、海軍航空隊としてSu-24やTu-16、Il-38などの攻撃機や哨戒機を多数保有しており、その対艦攻撃力や哨戒能力は侮れない。

 

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・アフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)

 領土は史実通り。人口は史実より3割程多い約4000万人。

 

 史実と異なる動きとなったのは、1963年3月に国王ザーヒル・シャーによってダーウード首相が解任されたが、その後任が親ソ派の人物だった事にある。その人物が首相に就任後、前任者が行っていた急進的な改革は改められ、段階的な改革にシフトしていった。

 暫くは穏健な改革者としての顔をしていたが、それが変化したのは1967年だった。首相が、ソ連とパキスタンの支援を受けた軍部と結託してクーデターを起こした。クーデターは成功した事で、王制は廃止され共和制国家「アフガニスタン民主共和国」となった。

 

 クーデター後、ソ連とパキスタンと同盟関係となり、支援も増加した。国内の政党はアフガニスタン民主同盟が指導政党とされ、それ以外の政党も存在したが衛星政党としてだった。

 クーデター前から行われていた改革はクーデター後も続けられ、農地改革や宗教改革、教育改革に女性の権利の向上などが進められた。その際、宗教関係者や大地主の対立があり、武力衝突に発展した事も少なくなかった。その衝突の鎮圧に協力したのが、満州だった。

 満州は、中満国境での人民解放軍との衝突、国内の馬賊や親中派武装組織の掃討など、非正規戦に対するノウハウが豊富にあり、そのノウハウをソ連も導入した程だった。そのノウハウと多数の教官がアフガンに持ち込まれ、鎮圧に大きく貢献した。

 

 国内の反対派の鎮圧に成功した事、鎮圧する為のノウハウを身に着けた事で、その後の改革は順調に進み、1978年には「改革の完了」が宣言された。その後は、改革中に小規模に行われていた各種産業の育成やインフラ整備が拡大した。これにより、鉱業の開発が大きく進み、銅や鉄、石炭だけでなく、天然ガス、金、ラピスラズリなどの採掘が進んだ。多くはソ連や満州との合弁企業だが、税収や雇用の面で大きな役割を果たした。

 鉱業以外にも、土壌流出を防ぐ目的で行われた植林を活かして林業の発展が見られ、林業に付随する木材加工業や家具製造業の発展も見られた。かつてケシ畑だった地域ではコムギや茶などに転換され、アヘン製造量は年々減少した。

 また、古くから多くの文明が出入りしていた事から、歴史的建造物やその遺跡が多数存在した事から、外貨獲得を目的に観光業も盛んになった。その一環として、フラッグキャリアのアリアナ・アフガン航空や国内の空港設備を拡張して西側諸国を含めた多くの路線を飛ばしたり、首都カーブルにホテルを複数建設するなどした。

 空港の拡張に合わせて、国内の道路や鉄道の整備も進んだ。道路については、国内の主要都市同士を結ぶ幹線道路が多数整備され、ソ連やパキスタンとを結ぶ道路も建設された。これにより、輸出入のルートは確保されたが、輸送量や採算面から効率が悪かった。その為、鉄道の整備も進んだ。

 鉄道のルートは、ソ連側からはウズベクのテルメズからマザーリシャリーフを経由してカーブルへ、トルクメンのクシュカ(現・セルヘタバット)からヘラートへの路線が第一期線として1966年に開業した。その後、カーブル・ヘラート~カンダハル、カーブル~イスラマバード、カンダハル~チャマン(パキスタン)、カーブル~ヘラートの建設・開業が進んだ。これらはあくまで幹線路線であり、それ以外の支線も多く開業した。

 

 冷戦後、ソ連からの支援が減少した事で、一時は経済が不安定となった。それに伴い政治的混乱も生じ、内戦状態一歩手前まで行った。

 しかし、西側諸国からの支援によって1998年には混乱は収まり、その後はアメリカや日本からの支援によって経済と治安の回復が為された。ロシアのプレゼンツはソ連崩壊以降は低下したものの、現在も武器の取引先や主要企業の株主として影響力は維持している。

 

 軍事面では、対ゲリラ戦に特化した装備となっている。

 陸軍では、T-62やT-72といった戦車を装備しているが、主力はBTRやBMP、BRDMなどの装甲車、Mi-8やMi-24といったヘリコプターとなっている。また、目的も「国防」よりも「国内の治安維持」と「国境警備」の方が主任務となっており、歩兵の数が多いのも特徴となっている。

 空軍も、陸軍の任務を支援する為、多くのヘリコプターや輸送機を保有している。MiG-21戦闘機も保有しているが、防空が主任務の為、保有数は多くない。むしろ、対地攻撃が可能なSu-17やSu-25の方が重視されている。

 また、準軍事組織として国境警備隊と国内保安隊が存在する。共に警察系であるが、前者は国境警備を、後者は国内の武装勢力の掃討が主任務となる。国軍は両者と協力して国防や治安維持に当たる事となっている。

 

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〈西アジア〉

・イラン帝国(イラン)

 領土・人口は史実通り。 

 

 史実と異なり、1979年のイスラム革命が発生しなかった為、パフレヴィー朝が続いている。王朝が続いた背景として、1951年のモサッデク首相による海外資本の石油産業の国有化が行われなかった事にある。

 首相は、国内にあったイギリス資本の石油会社の国有化を検討していた。国有化した場合、イギリスは猛反発してくる可能性が高いが、ソ連との関係をつくる事で対処しようとした。

 しかし、朝鮮戦争中にソ連が原子爆弾を初めて実戦使用した事を受けて、ソ連に対する心象が悪化した事から、ソ連を後ろ盾とする事は危険と判断された。その為、当初予定だった国有化案は破棄され、石油によって得られる利益を折半し、石油関連施設の段階的な買い戻しという案に変更となった。

 イギリスはこの案を受け入れ、石油以外の経済部門でも同様の措置を採る事を約束した。この結果、1953年の米英の後ろ盾によるクーデターは発生せず、首相の退任も無かった。また、クーデターが発生しなかった事から国王への権力集中も発生しなかった事が、イスラム革命が起こらなかった要因となる。

 

 国有化未遂後、イランの国内開発はゆっくりとだが進められた。その為、実情に合った経済成長が行われ、特に教育面の向上・改善が優先された。石油輸出による利益がもたらされると、農地改革やインフラ整備、軽工業の整備が進められた。西側諸国からの支援もあり、1970年代には中東で最も経済的に発展した国となった。

 1973年のオイルショックでは、アラブ諸国に代わって西側諸国への輸出を拡大した。これにより、日本とアメリカとの関係強化に成功し、主要貿易相手となりシェアの獲得にも成功した。ここで得られた利益は、軍備拡張、製鉄や自動車製造などの重工業、大学や製薬など科学分野など新分野へ回されたが、依然として民生部門への投資は多く回されていた。

 これにより、国内の不満は抑えられており、宗教関係者との対立も小さかった事もあり、イスラム革命は発生しなかった。それにより、アメリカとの断交は発生せず、その後も西側製兵器の導入が続いている。

 しかし、隣国イラクがイランの軍事力を恐れた事、石油輸出を巡って対立した事から、イラン・イラク戦争は史実通り発生したが、6年で終戦となった(史実だと8年)。

 その後、湾岸戦争ではクウェート解放及びイラク侵攻の拠点として活用され、アメリカや日本、イギリスなどの多国籍軍が駐留した。

 

 現在では、中東随一の経済力を持つ親米国家として、アメリカからの信頼も厚い。実際、暴走しがちなイスラエルや扱いにくい部分があるサウジアラビアよりも言う事が利いており、ロシアの後背を突ける事もあり、中東における陸空軍の拠点となっている(海軍はインド)。

 経済面でも、石油以外にも農業や林業などの第一次産業、鉱業や製鉄、電機に自動車製造などの第二次産業が発展しており、製薬やバイオテクノロジー、情報通信などの新分野への進出も著しい。また、西側諸国の企業の進出も進んでおり、工場を設置するなどしている。

 

 軍事面では、冷戦中はソ連の後背を突ける位置にいる事などから、西側製の兵器が多く導入された。その為、中東ではトルコに次ぐ地域大国であった。冷戦後は、地域の治安が不安定化している事もあり、ゲリラ戦に対する装備の導入が進められている。

 陸軍は、冷戦中からM48やM60の大量導入が行われたが、イラン・イラク戦争で多くが損失した。その後、アメリカや西ヨーロッパからM60やレオポルト1の導入が行われたが、21世紀に入ると老朽化が酷くなった。その為、トルコと共同で戦車の開発を行い、アメリカやドイツからの技術支援もあり、第3世代の主力戦車「ゾルファガール」(トルコ版は「アルタイ」)が完成し、2013年から配備が行われている。戦車以外にも、装甲車やトラック、ヘリコプターを多数保有している。

 海軍は、スプルーアンス級ミサイル駆逐艦の改良型であるコウローシュ級ミサイル駆逐艦(史実のキッド級ミサイル駆逐艦)が主力となっているが、史実ではキャンセルされた5・6番艦が就役した。それ以外にも、ノックス級フリゲートを基にしたアルヴァンド級フリゲートを複数配備するなど、中東最大の海軍力を有している。

 空軍は、イラン・イラク戦争時はF-4やF-5が主力だった。その後、それらが老朽化してきた事からF-16への置き換えが進んでいる。他にも、F-15やF-15Eも多数配備されている。これらは数の多さや練度の高さなどもあり、総合的な戦闘力ではイスラエル空軍以上と見られ、正に中東最強の名を欲しいままにしている。

 

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・イラク共和国(イラク)

 領土・人口も史実通り。

 

 史実では、1970年代からアメリカに接近しているが、この世界ではソ連に接近した。これは、対立するイランが親米国家であり続けた事から、対抗するにはソ連に接近するしか無かった為である。

 一方のソ連も、ペルシャ湾での影響力強化、イランから受ける中央アジア及びコーカサスに対する圧力の分散から、イラクに接近した。

 両者の思惑が一致した事で、イラクはシリアに次ぐソ連の中東における重要拠点となった。これにより、ソ連製兵器が大量に入手する事が出来た反面、西側製兵器は殆ど入ってこなかった(僅かに、フランス製やイギリス製が入ってきた程度)。

 

 その後、湾岸戦争まではイラン・イラク戦争が2年早く終わった事を除けば、概ね史実通りとなる。

 湾岸戦争では、多国籍軍によるクウェート解放後、そのままイラク領内に進攻した。これは、これ以上の対立状態を解消したいイランの考えと、日本など参戦国が増加した事による投入戦力の増加から来るものであった。イラク軍は多国籍軍の侵攻を食い止める事は出来ず、5月に首都バグダッドが占領された事でフセイン政権は崩壊し、戦争も終了した。

 戦後、日米主導でイラクの民主化が行われた。フセイン政権の関係者の多くは戦後の裁判で裁かれたものの、「民主化を手伝えば罪を軽くする」という司法取引を受け入れる形で、多くの関係者が政府・官僚・軍部に戻った(流石に、フセイン大統領以下最重要人物の復帰は許されず、終身刑となった)。これにより、治安の悪化は最小限に収まった。

 それでも、フセイン政権下で押さえつけられていた不満が噴出し、ソ連崩壊による冷戦の終了もあり、1990年代中頃はテロが増加した。その為、最低限の軍事力のみ保有していたが、その後は警察力を中心に軍事力が回復した。

 

 現在では、日米による支援もあり、治安と経済が回復している。20世紀末の極東での混乱に伴うアメリカの一時的プレゼンスの低下によって、再びロシアがパイプを形成するなど変化もあったが、米露両国の緩衝地帯として存在している(実際、経済ではアメリカが、軍事(装備)ではロシアが主導権を握っている)。

 アメリカの仲介もあり、イランとの関係も解消に向かっているが、民間レベルでは未だに不信感は拭えていない。また、近年の対テロ戦を理由とした軍拡も、イランとの対立の一因となっている。

 

 軍事力は、湾岸戦争でほぼ壊滅した。その後、再建されたが治安維持程度に抑えられた。その後のテロ活動の拡大に伴いイラク軍も拡大していったが、かつてとは異なり対テロ戦への装備が多数となっている。

 陸軍は、T-72やBTR、BMPが主力となっている。それ以外にも、ハンヴィーやトラックを多数保有しており、機動力の高い軍隊となっているが、練度が低いのが欠点となっている。

 海軍は、海岸線の短さから哨戒艇が数隻と小規模となっている。海岸線や港湾施設の哨戒が主任務となっており、テロリストによる船舶や港湾施設の占拠に対抗する為、特殊部隊が充実している。

 空軍は、再建後は輸送機やヘリコプターしか保有していなかったが、21世紀に入って戦闘機の導入が行われた。2001年からMiG-29が36機導入され、以降少しずつ増備していき、2010年には200機を保有している。それ以外にも、戦闘攻撃機Su-25、C-130やAn-32などの輸送機、UH-60やMi-26などの輸送ヘリコプター、攻撃ヘリコプターMi-28も数多く保有している。

 

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・イエメン民主共和国(イエメン)

 領土・人口は史実通り。

 

 史実では、1990年にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)の統合という形で、イエメン共和国(イエメン)が成立した(実態としては、北イエメンによる南イエメンの吸収合併)。

 この世界では、1971年にイエメン・アラブ共和国と南イエメン人民共和国の統合という形で、イエメン民主共和国が成立した。

 

 史実との違いは、1962年から70年まで続いた北イエメン内戦において、ソ連と満州が共和派への支援を強化した事で、共和派が内戦に勝利した事である。史実では、共和派を支援したエジプトが第三次中東戦争によって離脱した事で支援が不足し、お互いに決め手を欠いた事で1970年に両者の妥協という形で終息した。

 この世界では、エジプトの代わりに満州が強力に支援した事で、共和派の力が増した。これにより、1969年に共和派の勝利で内戦を終わらせた。

 その後、北イエメンはソ連と満州の影響力が強まり、自然と親ソ国家化していった。そうなると、1967年に成立した南イエメン人民共和国との統合も視野に入った。両者の間で統一イエメンの構想は前から存在し、共に親ソ・社会主義共和制である事からハードルは小さかった。

 その為、1970年から両者による統一の交渉は順調に進み、1971年12月に両者は統合して「イエメン民主共和国」が樹立した。首都は旧・北イエメンの首都サヌアと定められ、国内の政党はイエメン社会党に一本化された。

 

 統一後も、ソ連の中東・インド洋の拠点である事には変わらなかった。また、満州からの資本投下や産業への支援も行われ、漁業と水産加工業を中心に食品加工業の発展が見られた。それ以外にも、砂漠の緑化、満州やイラクなどと共同して砂漠での農業の実施、コーヒー栽培の拡大など農業関係の投資も多く行われた。

 冷戦末期には、満州やベトナムに倣い市場経済の導入が行われた。これにより、ソ連からの支援の減少による経済の停滞が解消され、繊維工場や食品加工工場が増加するなどして雇用の拡大が見られた。

 現在は、ヨーロッパからの観光客の増加による観光業の拡大が見られ、それに付随してホテルや運輸業などのサービス業の拡大が進んでいる。一方、ソマリア沖の海賊対策として、アデンが各国海軍の基地として活用されており、軍向けの産業が興るなどしている。

 

 軍事的には大きな戦力を保有していない。陸軍は国境警備、海軍は沿岸警備、空軍は陸海軍のサポートという役割となっている。

 近年、ソマリア沖の海賊対策として、海空軍の拡張に乗り出している。実際、海軍はロシアから哨戒艇を複数購入する計画が立っており、空軍はMi-14の購入が計画されている。



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番外編:この世界での諸外国③(アフリカ・ヨーロッパ・オセアニア)

〈アフリカ〉

・ソマリランド(元イギリス領ソマリランド)が、ソマリア(元イタリア領ソマリランド)との統合を拒否して、「ソマリランド国」として独立を維持する。その後、ソ連と満州の工作により1966年に社会主義革命が発生、「ソマリランド社会主義共和国」となる。

・西サハラ(元スペイン領サハラ)も、満州の支援を受けて独立運動が発生、1976年に「サハラ・アラブ民主共和国」として独立する。

 

〈ヨーロッパ〉

・ソ連の西進がオーデル・ナイセ線でストップした為、ドイツが東西に分裂しない。また、オーデル川河口のシュテッティンとその東側はドイツ領のままで残る。

 

〈オセアニア〉

・パラオ、ミクロネシア連邦、北マリアナ諸島が一つの独立国家「南洋諸島連邦共和国」として独立する。

 

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〈アフリカ〉

・ソマリランド社会主義共和国(ソマリランド)

 領土はかつて存在したソマリランド国と同様(約15万5千㎢)。人口は約500万人。首都はハルゲイサ。

 

 現在のソマリアの成立前、北側はイギリス領ソマリランドに、南側はイタリア信託統治領ソマリア(1950年までは「イタリア領ソマリランド」だった)に分かれていた。1950年代後半に両地域が独立する事が決定した際、統一ソマリアを建国する事が決定した。1960年6月26日にイギリス領が「ソマリランド国」として独立し、5日後の7月1日にイタリア領も「ソマリア共和国」として独立し、同時にソマリランド国を統合した。

 

 この世界では、南部との統合を拒否する集団がイギリス領側の独立勢力の最大派閥となった。これは、人口比率や産業構想から、北部が南部に隷属すると考えられた為である。ソマリ族の氏族への帰属意識も合わさり、「隷属となるのであれば、個別に独立した方がマシ」という考えが大多数を占める様になった。

 これにより、北部においては南北統合は流れ、暫くはイギリス領として存在した。南部の独立から遅れる事2年、1962年8月1日にイギリス領ソマリランドも「ソマリランド国」として独立した。

 独立後も、ソマリアはソマリランドとの統合を諦めておらず、何度も統合を目的とした交渉が行われた。しかし、ソマリランドの指導部は多数決の原理によって自分達が排除される可能性を払拭出来ず、のらりくらりと交渉を躱していた。

 その間に、ソマリランドは独立を保つ為の後ろ盾として、ソ連に接近した。これにより、ソ連製の兵器の導入が進み、ソ連が連れてきた満州が主導して農業や漁業の発展が見られるなどして国力の拡大となったが、同時にソ連と満州のコントロールが強まった。特に、ソ連との繋がりが深い軍部や国営企業はその傾向が顕著であった。

 

 1964年5月、軍部と国営企業、及び親ソ派官僚によるクーデターが発生し現政権が崩壊した。同年6月には「ソマリランド社会主義共和国」と国号を変更し、国内の政党もソマリランド社会党に一本化された。新生ソマリランドをソ連が承認した事で、他の社会主義国も承認した。

 社会主義国となった事で、ソ連と満州からの支援も大きくなった。軍事ではソ連から、経済では満州からの支援によって拡大していった。それに伴い、国内の開発も進められ、農場開発や緑化事業、地下資源の開発に首都ハルゲイサや港湾都市ベルベラの機能強化など多岐に亘った。

 これにより、ソマリランドの経済は好調となり、ベルベラにはソ連海軍の寄港地の一つとなった。また、1974年にエチオピアで革命が発生し社会主義国となると、不安定だったエリトリア地域の使用が難しくなり、ベルベラがエチオピアの外港として活用される事となった。その輸送を円滑にする為、1978年から満州からの支援でジブチ・エチオピア鉄道の輸送力強化(1000㎜から1435㎜に改軌、重軌条化、一部複線化)、途中駅のディレ・ダワから分岐してハラール、ハルゲイサを経由してベルベラに至る路線も建設された(1984年に全て完成)。これにより、エチオピアとの関係が強まった。

 

 一方で、ソマリランドの経済が好調な事は、ソマリアとの対立を強める要因となった。1970年にソマリアも社会主義国となったが、両者の関係は好転する処か悪化した。ソ連からソマリアへの支援が少なかった事もあるが、ソマリランドの経済が好調で内政状況が良好と自国とは真逆である事も理由だった。

 その為、ソマリランドの経済力を手に入れようと「大ソマリ主義」を名目に両国の統合が再度提案されたものの、ソマリランドにその思惑を見透かされた為拒否された。その結果、1977年にソマリアから攻撃を仕掛けられ、一時は南部が占拠されたものの、ソマリアがエチオピアとも戦闘をしている事、ソ連からの支援を受けられた事でこれを撃退した。以降、両国との関係は最悪なものとなっていく一方、共通の敵が出来た事でエチオピアとの関係は好転していった。

 

 冷戦後は、ソ連からの支援の減少から経済危機を迎えたものの、満州からの支援があった事、経済の自由化を行うなどして存続した。また、ソマリア内戦の基地として多国籍軍の基地化、ソマリア沖の海賊対策としてベルベラを解放するなどして、周辺地域における治安維持の為の基地として現在も活用されている。

 現在では、農業や漁業などの一次産業に加え、食品加工や皮革製品などの製造・輸出も盛んに行われている。地下資源の開発も進められ、石油や天然ガスの生産も少量ながら行われている。サービス業では、観光業だけでなく通信業の拡大が進んでいる。

 経済は好調ながら、雇用が多くない事から失業率も高い。その為、中東や満州、アメリカへの出稼ぎも多く、そこからの送金も重要となっている。

 

 軍事面では、冷戦中はソマリアに対抗する為、人口や国力と比較して大きな戦力を有していた。現在はソマリアの脅威の減少とテロの増加から、兵力の削減と非対称戦に対応した装備への変更が行われている。

 陸軍は、戦車を全廃しており、装甲車の増備を進めている。また、戦闘ヘリ・輸送ヘリの増備も進んでいる。

 海軍は、海上警備程度となっている。ソ連製や満州製の中古コルベット艦が少数と複数の哨戒艇、ミサイル艇が戦力となっている。

 空軍は、MiG-21が主力戦闘機ながらアビオニクスは満州製を採用しており、戦闘面では後れていない。これ以外にも、地上攻撃機としてSu-25やSu-17が配備されている。

 

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・サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)

 現実の西サハラとモロッコ南部のタルファヤ地方(旧・スペイン領モロッコの南部)を足した土地が領土となる。総面積は約27万㎢。人口は約170万人。首都はアイウン。

 

 史実では、西サハラは領土の多くをモロッコが領有しているが、「不法占拠」として多くの国からは認められていない。1975年にスペインがスペイン領サハラの統治権を放棄して以来、独立国家となったのか何処の国の一部になったのかが名目上決まっていない状態にある。

 

 この世界では、1957年にスペインはモロッコにセウタとメリリャを除いたスペイン領モロッコの北部、スペイン領モロッコの飛び地であるイフニーを返還した。同時に、残るスペイン領サハラとスペイン領モロッコの南部を再編して海外州「スペイン領サハラ州」として統治力を強化した。これは、一か所に固めて防衛しやすくすると同時に、モロッコからの返還要求を先延ばしさせる目的があった。また、フランスからの支援によって統治力を強化すると共に、フランスからの投資による地域開発も行われた。

 この政策は上手く行き、モロッコから何度も返還要求が来たが、フランスからの抗議によって退ける事が出来た。一方で、サハラ州でのフランスの影響力が強まり、特に経済ではフランスの存在が無ければ回らない程となった。また、植民地支配そのものが時代遅れになった事もあり、フランスはいずれ独立させる必要があると考えていた。

 

 1970年以降、サハラ州での独立運動は活発となった。その後、スペインが武力で鎮圧した事、周辺国やソ連からの支援が来た事で武力闘争へと発展した。フランスはスペインと共同して、武力闘争を鎮圧させると同時に、権益を保持した上で独立させる事とした。モロッコとモーリタニアに介入の隙を与えない様にする為、鎮圧は速やかに行う事とされた。

 しかし、早急な鎮圧に失敗し、1974年には隣国ポルトガルでカーネーション革命、全植民地を放棄する事が決定した事もあり、スペイン側が大混乱となり自然に休戦状態となった。1975年にはスペイン・フランスと独立勢力とで交渉の場が設けられ、交渉の結果、3年以内に独立させる事、域内のスペイン・フランスの利権は引き継がれる事が決定した。

 独立勢力側の大勝利だったが、これを快く思わなかったのが隣国のモロッコとモーリタニアだった。両国は西サハラを合併しようとしたが、国連に止められた上、ソ連の支援を受けた独立勢力の妨害にあって失敗した。

 その間に、政府の設立準備などが進められ、当初の予定よりやや早い1977年6月1日に「サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)」として独立した。

 

 西サハラは、宗主国スペイン、経済的利権を有するフランス、独立時に支援したソ連との関係が深かった。その後、モロッコからの妨害を躱す意味から親ソ化が進んでいったが、国内の外国企業の国有化、農業の集団化などは行われなかった。その為、西サハラは東西両地域における緩衝地帯としての役割を果たしていた。

 また、ソ連との関係が深い事から満州との関係も強化され、国内産業の育成が行われた。特に、水産業と水産加工業の育成に力が入れられた。他にも、地下資源の開発、各種インフラの整備、緑化事業などが進められた。これらの労働力が現地だけでは不足する為、友好国であるイエメンやソマリランド、イラクにシリアなどの移民で対応した。

 

 現在では、各種産業の育成が進み、農業(柑橘類、イチジク、ナツメヤシ、コルクガシ、オリーブ、野菜)、水産業(タコ・イカ、カツオなど)、畜産業(ラクダ)、それらの加工業が雇用・輸出で大部分を占めている。輸出先としては、満州やロシアなど旧東側諸国、フランスとスペインで7割以上を占めているが、冷戦後は日本への輸出が増加している。

 鉱業の発達も進んでおり、特にリン鉱石が最大のものとなっている。近年では、リンを活用した化学産業の発展も見られる。これ以外にも、石油や天然ガス、鉄鉱石にマンガンの採掘も行われているが、共に少量だったり開発が進んでいないなどして、主要輸出品とはなっていないか国内需要を満たす分しか採掘されていない。

 それ以外にも、教育の拡大に伴う金融や通信、IT関連の拡大、便宜置籍船国となる、カジノの誘致などが積極的に行われている。これらの政策が功を奏し、獲得する外貨の拡大や観光客の増加に繋がっている。

 

 軍事面では、モロッコの侵攻を防ぐ目的から陸軍が最優先された。それだけでは不足の為、ソ連やキューバから軍事顧問を派遣してもらうなどして、練度や技能の向上に努めた。

 冷戦後は、大規模な軍事衝突が発生する可能性が減少した事、テロ活動の増加から、軍を解体する代わりに準軍事組織の強化が行われた。これに伴い、軍と警察が統合して「サハラ警察軍」となり、特に武装警備隊(陸軍の事実上の後身)と国境警備隊の強化が行われた。

 武装警備隊と国境警備隊が、陸での武装組織となる。主要装備として、BTRシリーズやソフトスキンなどの装輪車両、小銃に対戦車ロケットなどとなる。戦車については、国軍解体まではT-54/55を保有していたが、国軍解体時に全て破棄された。

 沿岸警備隊は、海軍を合併した。尤も、装備が共通だった事、人員交流も進んでいた事から、大きな変化は無かった。装備は、オーサ型ミサイル艇を基とした哨戒艇が複数、シージャック対策用の特殊部隊が数個となっている。

 空軍は、国軍解体後は武装警備隊航空隊として再編された。かつては戦闘機を保有していたが、国軍解体で戦闘機・戦闘攻撃機は全て破棄された。その代わり、輸送機とヘリコプターの増備が進み、特に戦闘ヘリの強化が見られた。

 

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〈ヨーロッパ〉

・ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)

 領土は樺太南部、千島列島を領有していない事を除けば史実通り。人口も史実通り。

 

 この世界でもソ連は崩壊したが、史実と比較するとマシな状況だった。というのは、国内の農業が壊滅しなかった事、流通網の整備が進んだ事、先端技術における西側との遅れが史実よりも縮まっている事、核兵器の保有量が史実の半分程度だった事、アフガニスタンへの介入が無かった事にある。

 

 1番目の「国内の農業が壊滅しなかった事」は、スターリン批判まで遡る。この世界では、朝鮮戦争中に原子爆弾が使用されたが、それがスターリンの独断であった事が問題となった。米軍の報復でソ連極東部が壊滅した事、ソ連が初めて実戦で原爆を使用した事が国際的に非難され、インドやイランなどとのパイプ形成に失敗した事を受けて、史実以上に批判される事となった。

 その影響で、スターリンと親しかった主要人物の追放が行われ、その中でも農学者トロフィム・ルイセンコの追放が大きかった。彼の追放で、史実では停滞した農学・遺伝子工学などの部門で大きく変化し、その後もソ連における主要分野となっていった。

 また、満州からの提案で生産責任制の導入や作物の自由な作付けを限定的に開放するなどの農業改革が行われた。ここでの成果により農業生産が大きく落ち込む事が無くなり、農業国でありながらコムギを大量輸入して外貨を減らす事とならなかった。実際、これ以降のソ連における穀物や食糧の生産量は大きく落ち込む事は無かった。

 

 2番目の「流通網の整備が進んだ事」は、非効率な構造を改めた事となる。フルシチョフからブレジネフの間に、コスイギン主導の下、改革の一環として流通網の効率化が進められた。具体的には、鉄道網や道路網の整備、手続きの簡略化、倉庫機能の強化である。

 これらの施策は成功し、収穫した穀物や生産した食糧を倉庫で腐らせるといった事は無くなった。また、食料品の流通が滞らなくなった事は、市場に出回る食料品の量が増加した事となり、食料品に限っては不足は見られなくなった。

 同時に、この改革の一環で国営企業の改革も進められ、技術革新や設備更新を進めれば奨励金が出る事となった。これにより、3番目の「先端技術における西側との遅れが史実よりも縮まっている事」に繋がり、また生産性も向上していった。因みに、設備更新で出た古い生産設備については、無償や格安で同盟国に輸出された。

 一方で、これらの改革は満州にいた日系官僚のアドバイスがあって成功した面もあった。その為、ソ連を始めとした東側圏では、農業や製造業などの経済部門における満州の発言権が拡大していく事となった。

 

 4番目の「核兵器の保有量が史実の半分程度だった事」は、朝鮮戦争中に核兵器の応酬が起きた事から、米ソ両国は核兵器の危険性について改めて認識した。その為、核兵器の保有量を自主制限した結果、史実の最盛期の半分程度となった。

 核兵器の保有量が減った代わりに、通常兵器の保有量が増加した。核兵器の製造予算及び保守費用が、通常兵器に流れた為である。この結果、この世界の米ソ英仏の軍隊の編制が変化した。

 特に変化したのが、ソ連海軍だった。ソ連海軍は、通常兵器で米海軍に対抗する為、空母機動部隊の整備が急がれた。その結果、モスクワ級ヘリコプター巡洋艦が史実のキエフ級として完成した。その後、キエフ級が最初からスキージャンプ甲板を持つ空母(史実の「ヴィクラマーディティヤ」相当)として完成し、トビリシ級(史実アドミラル・クズネツォフ級)も1143.5設計が2隻建造された(史実では、1143.5設計のクズネツォフと、1143.6設計のヴァリアーグが建造された。この世界では、名称こそ「1143.5設計」だが、1143.6設計相当となっている)。また、ウリヤノフスク級空母もソ連崩壊前に1隻が完成してソ連海軍に所属した。

 現在、ロシア海軍が保有している空母は、キエフ級の後期型2隻(ノヴォロシースク、アドミラル・ゴルシコフ(旧・バクー))、トビリシ級2隻(アドミラル・クズネツォフ(旧・トビリシ)、ヴァリヤーグ(旧・リガ))、ウリヤノフスク級1隻(ウリヤノフスク)の5隻が籍を置いている。この内、ノヴォロシースクとヴァリヤーグが太平洋艦隊、アドミラル・ゴルシコフとアドミラル・クズネツォフ、ウリヤノフスクが北海艦隊に所属しているが、キエフ級については予備艦扱いとなっており、新型空母が完成した暁には退役する予定となっている。

 

 5番目の「アフガニスタンへの介入が無かった事」は、『番外編:この世界での諸外国②(東南アジア・南アジア・西アジア)』にもあるが、早い時期から親ソ国家となり社会主義政策を進めた事で、大規模な内戦状態とならなかった。ソ連軍の進駐こそあったものの、小規模であり「圧力を掛ける」以上の意味は無かった。

 その結果、アフガンで浪費した軍事費が抑えられる事となった。

 

 これらの変化があった事で、ソ連の財政状況は史実よりも良かったが、過剰な軍事費や経済の遅れによって財政状況の悪化は避けられなかった。結局、史実と同じタイミングで崩壊する事となった。

 それでも、経済の崩壊は抑えられた事で治安の悪化も大きなものとならなかった。また、旧ソ連構成国の離反が最小限だった事、満州経済の拡大や日本との関係改善もあり、1990年代中頃には経済は回復傾向にあった。1998年のロシア通貨危機も何とか乗り切り、21世紀に入ってロシアは復活傾向を見せている。

 

 戦後、ドイツから賠償として戦艦グナイゼナウと空母グラーフ・ツェッペリン(未成)を獲得したソ連は、それらとイギリスから貸与された戦艦アルハンゲリスク(リヴェンジ級ロイヤル・サブリン)のデータを基に、ソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦2隻とクロンシュタット級巡洋艦(実際には3万トン近い船体を持つ巡洋戦艦)4隻の建造再開が「指示」された。ドイツからの賠償や米英との裏取引で獲得した各種治具や人材を活用して、造船所の拡大や船体の建設が行われた。これらの作業が急ピッチで行われた結果、1949年にはクロンシュタット級巡洋艦2隻が完成し(主砲は40㎝連装砲に変更)、早速他の保有する戦艦と共に太平洋艦隊に回した。翌年にはソヴィエツキー・ソユーズ級戦艦2隻が、更に翌年には残るクロンシュタット級巡洋艦2隻が完成した。

 太平洋に回航されたクロンシュタット級だが、朝鮮戦争中に援朝ソ連義勇軍の一因として参戦したが、復活した日本海軍との海戦に敗れて2隻共撃沈された。戦争後、改めてソヴィエツキー・ソユーズ級2番艦「ソヴィエツカヤ・ロシア」とクロンシュタット級4番艦「スモレンスク」が太平洋に回航された。

 因みに、これら大型艦艇を建造する為、セヴェロドヴィンスクには大型艦(戦艦、空母クラス)が建造可能な造船所が建造され、セヴェロモルスクには整備用のドックが建造された。朝鮮戦争後には、ウラジオストクの再建に合わせて大型艦の整備用ドックが建造された。これにより、北方艦隊と太平洋艦隊で大型艦が活動可能な状況が造られ、後の空母機動部隊の建設にも繋がる。

 

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・ドイツ連邦共和国(ドイツ)

 史実の東西統一したドイツにポーランドのシュチェチン県(現・西ポモージェ県の西側)を加えた領土が、この世界のドイツの領土となる。人口は約8200万人。

 

 第二次大戦中、独ソ戦における最大規模の戦闘となったクルスクの戦いにおいて、ドイツ軍が勝利した。これにより、ソ連軍の主力部隊が壊滅状態となり、その再編に時間が取られた。バグラチオン作戦による西進も遅れがちとなり、ドイツ中心部への侵攻が難しいと判断されると、チェコ・オーストリア方面への侵攻が主力となるなどして、更にドイツへの侵攻が遅れた。その結果、オーデル・ナイセ線とシュテッティン以東のドイツ領しか獲得出来なかった(その代わり、ソ連への「賠償」として海軍の大型艦艇や各種治具、先端技術などが取られた上、東欧に残っていたドイツ人の半数がソ連に連行された)。

 

 その後の流れはほぼ史実通りだが、東西に分かれていない為、シュタージが絡んだ事件やベルリンの壁関係のイベントは発生しない。また、一部のドイツ企業の名前が変更となるが(例:ドイツ連邦鉄道(DB)→ドイツ国営鉄道(DR)、ドイツ寝台車食堂車会社(DSG)→中央ヨーロッパ寝台・食堂車(ミトローパ))、これは東ドイツが使用していた社名が使用出来た為である(東ドイツは「ドイツとしての正当性」を目的に、帝国時代の社名を使用していた)。同様に、史実では東ドイツの企業がドイツの企業として成立した例もある(例:ドイツ国際航空(インターフルーク)がルフトハンザに次ぐ航空会社となる)。

 

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〈オセアニア〉

・南洋諸島連邦共和国(南洋諸島)

 史実のパラオ、ミクロネシア連邦、北マリアナ諸島から成り、面積は1,638㎢。首都はサイパン島のガラパン。

 

 史実では、南洋諸島は敗戦によってアメリカの信託統治領(太平洋諸島信託統治領)となった。その後、マーシャル諸島とパラオは独立し、マリアナ諸島はアメリカの保護領となった。残るトラック諸島やヤップ島などはミクロネシア連邦として独立した。

 

 この世界では、南洋諸島がアメリカの信託統治領となった事は同じだが、マーシャル諸島以外では日本は影響力を残していた。これは、戦争の終わり方が停戦で終わった事と関係してた。日米間の取り決めで、旧日本領だった地域の内、アメリカが統治する場所においては日本の影響力を保持する事が決められた。その結果、マーシャル諸島とそれ以外で分割された。

 因みに、マーシャル諸島における日本の影響力が無くなった理由として、先に占領された事、日本から最も遠い事などが挙げられる。

 その後、政治はアメリカに、経済は日米両国に握られる状態が続いた。この間、日本統治時代と同じ様に、サトウキビやコーヒーなど商品作物の栽培とそれらの加工業、水産業とその加工業、リン鉱石の採掘業の振興が行われた。日本統治時代と異なるのは、日米両国による観光開発も進められた事である。これにより、サイパンやテニアン、パラオ、トラックは日米本土からの航空便が多数設立された。

 日米両国による投資の結果、南洋諸島の経済は活気付いた。特に、日本資本が現地人による運営を重視した事で、雇用の創出や現金収入の増加など良性の状況が創られたのも大きかった。

 その一方、トラック諸島やテニアン島、ペリリュー島には米軍基地や海上保安隊の基地が設置されている。基地設置に伴う租借料は南洋諸島における主要な外貨獲得源であり、基地に駐屯する兵を対象としたサービス業も主要産業となっており、それは現在まで続いている。

 

 1965年に議会が設置され、将来的な独立が示唆された。アメリカとしては、親ソ国家になりさえしなければ特に問題は無いと判断し、日本も同じ意見だった。1978年に住民投票が行われた結果、全地域で統一国家としての独立を支持する事が多数派となった。この結果を受けて、1979年5月にアメリカは全地域を独立させ「南洋諸島連邦共和国」が樹立した。

 独立後も、以前と変わりなく日米の経済進出が行われ、観光を主体とした産業形成が行われた。変わったところとしては、一部が自国資本になった事で税収が増加した事ぐらいである(日米が、独立祝いとして一部企業の株や利権を譲渡した)。

 現在では、観光業が主体であり、次いで農業や漁業とそれらの加工業が主要産業となる。食品加工品は日本向けが主力であり、ブランド化も進んでおり競争力は高い。近年では、便宜置籍船国となるなどして産業の多角化を行っている。

 一方で、観光地の多角化や施設の陳腐化などによって旅行客、特に日本人客の減少が見られている。その為、他の地域からの観光客の増加を図る為、観光案内に力を注いでいる。その結果、日系社会のある満州からの旅行客が急速に伸びており、ロシアや北東アジア諸国からの旅行客も近年増加している。

 

 軍事面だが、国防は米軍に依存している為、軍隊そのものを保有していない。

 警察も存在しているが、規模は小さい。基本的に、各有人島に駐在所が置かれ、主要な島には警察署が置かれている程度である。

 水上警察は比較的規模があるが、周辺地域の治安が良い事から、海域の広さから見ると少ない。ただ、進出している海上保安隊からの指導によって練度は高い。



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番外編:満州プロ野球

 満州連邦共和国(以降、満州)でも、日本と同様にプロ野球が発達している。満州も2リーグ16球団体制となっている。しかし、この体制になったのは2008年であり、それまでの満州のプロ野球の道程は平坦では無かった。

 

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 満州は、日本の勢力化にあった事から野球が盛んに行われていた。実際、大連(当時は関東州で日本領だった)の満州倶楽部と大連実業団、奉天・撫順の満鉄倶楽部、鞍山の昭和製鋼、新京の新京電電と満州国新京が都市対抗野球大会に出場している。特に満州倶楽部と大連実業団の所謂「実満戦」は、「満州の早慶戦」と言われる程の人気があった。また、満州倶楽部は第1回大会と第3回大会の、大連実業団は第2回大会の優勝チームであり、その後の出場大会でも4強まで残る事が多いなど、実力の方も申し分なかった。

 しかし、戦時体制に突入すると、今までの様に野球を行う余裕が無くなった。都市対抗も1942年の大会が、戦前・戦中の最後の大会となった(この年の優勝チームは朝鮮・京城府の「全京城」。優勝旗は戦後、全京城の元選手が命懸けで持ち帰った)。

 その後、1945年6月5日に日本は連合国との戦争を終了させた。それとほぼ時を同じくして、日本本土に米軍の進駐が開始された。本土の進駐が完了次第、台湾や朝鮮半島、満州にも進駐する予定だったが、それが不可能となった。8月8日にソ連が「連合国による日本領及び日本勢力圏への進駐」を名目に、満州への侵攻を開始した為である。

 

 ソ連の侵攻に対し、現地日本軍や満州軍は必死に抵抗した(GHQから「米軍が来るまで、現地の治安を維持するように」という命令があった為)。しかし、主力部隊の多くが戦時中に南方に引き抜かれていた事、ソ連軍の戦力が約100万人だった事から、抵抗にも限界があった。その結果、9月までに満州全土が占領され、朝鮮半島北部も占領されつつあった。

 ソ連占領下の満州は、日本人にとっては地獄そのものだった。ソ連は「自国の復興」を目的に、現地にあった鉄道や工場などの多くを分解して本国に持ち帰った。その中でも大きなものが、鞍山の昭和製鋼所、鮮満国境の水豊ダムの発電機であった。

 また、現地日本人の大半は捕らえられ、同時に朝鮮人や台湾人、満州国の関係者も捕らえられた。捕らえられた人達はシベリアや中央アジアに抑留され、現地での強制労働に就かせた。労働は鉱山開発や鉄道の敷設、建物の建設など多岐に亘った。食糧や衣服などの不足もあり労働は過酷を極め、日本人だけでも約200万人が労働に従事させられ、その内の約80万人が後述する満州建国までに死亡した。

 

 この様な状況下では、野球など行える筈も無かった。何とか大連に残った人達で実満戦が実施されるなどしたが、ソ連に野球文化が無かった事から行う機会が無かった。抑留されている人達も、自作の道具を作ってはプレーするなどしていたが、この時は満州野球界の暗黒時代だった。

 一方、抑留されていた人達と現地住民の交流によって、住民に野球が伝えられた。後に交流試合が行われるなどして、中央アジアやシベリアの限られた地域においてだが野球が広がった。

 また逆に、現地住民から抑留された人達にサッカーが伝えられ、こちらでも交流試合が行われた。

 朝鮮戦争によってウラジオストクやハバロフスクが原爆で壊滅した後、都市の復興の際に日本人も従事させられたが、その際にレクリエーションの一環で野球が行われた。これが後に、ソ連極東部において野球が広まった要因となり、クラブチームも複数誕生した。

 

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 状況が変化したのは1954年になってからだった。この年、ソ連占領下の満州が「満州民主共和国」として独立した。また、ソ連各地に抑留されていた日本人が「満州国民」として満州に戻ってきた(満州へ戻る流れは1950年から細々とあった)。

 独立とそれに伴う社会の安定によって、国民の間にも余裕が生まれた。また、ソ連に対する不満を逸らす意味から、ソ連の方からスポーツクラブの充実が「指示」された。当初はサッカーだけだったが、翌年には野球も解禁された。

 これにより野球のクラブチームが複数誕生し、特に大連の満州倶楽部と大連実業団が復活した事は大きかった。これを記念して、1955年に「満州都市対抗野球大会」が開催された。栄えある初代優勝チームは、大連の満州倶楽部だった。

 その後も、主要都市には複数のクラブチームが設立され、地方都市にも広がりを見せていった。また、戦後復興で満州がソ連や北朝鮮に土木工事などで進出した事で、現地にも野球が伝えられた。1960年にはソ連のウラジオストクとハバロフスクが進出した事で、名称が「北亜都市対抗野球大会」に変更された。1962年には北朝鮮の平壌と清津、プリモンゴルのフフホトと包頭から進出するなど周辺諸国からのクラブチームが出場するなど、国際色が強まっていった。

 

 野球が拡大する一方、サッカーの方も拡大していた。ソ連はサッカーが盛んな国であり、占領時代から駐留軍との交流の一環で広まっていった。抑留者も現地住民との交流でサッカーを行っていた事、建国時にソ連に抑留されていたドイツ人が入ってきた事、東欧やソ連からの移民もあり、満州では野球以上スポーツとなった(野球は日系や朝鮮系、後の漢人が中心だった)。

 ソ連や東欧諸国との交流戦を多く行った事から、満州サッカーのレベルは向上した。その結果、1970年のFIFAワールドカップにアジア・オセアニア勢として初出場、4位と大健闘した(史実では、アジア・オセアニア勢の出場国はイスラエル。4位はウルグアイ)。その後も、東アジア屈指の強豪国として名を馳せて行く事となる。

 

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 満州の野球界が次の段階に進んだのは1968年の事となる。この年、「満州職業野球協会」が設立され、満州でプロ野球が結成された(公式戦の開催は1970年から)。満州でプロ野球がスタートした経緯は3つあり、1つ目はクラブチームの拡大が進み野球人口が拡大した事、2つ目は中国から多くの野球選手が亡命してきた事、3つ目は日本のプロ野球が大人気を博した事である。

 

 1955年に野球が復活して以降、満州各地でクラブチームが多数設立された。首都である新京や南満州の要衝である奉天、北満洲の要衝の哈爾浜に最大の港湾都市である大連などの大都市では、多数のチーム(5~10チーム)が設立された。地方都市でも、複数存在する事が当たり前の状況となった。

 一方で、チームの乱立によって選手の質が低下した。実際、1960年以降の大会におけるプレー内容は褒められたものでは無く、急速な拡大に選手の質が追い付いていない状況だった。

 また、一部のチームは選手に報酬を渡している、所謂「セミプロチーム」となっていた。これは、クラブチームの本質から外れた存在であり、有力選手の引き抜きを多く行っていた。その為、チーム同士の戦力の不均衡が目立った。

その為、都市の人口に応じてチームの制限が掛けられる様になった。

 これにより、クラブチームの削減による質の低下が抑えられ、チームが存在しない地方への移転も進んだ。一方で、有力選手の受け皿が存在しないという問題も生じた。

 

 当時の中国は文化大革命の真っ只中であり、中国からの亡命者が多数満州に押し寄せた。その中で、野球経験者が多く亡命してきた。

 中国は、文革までは野球文化が比較的進んでいた。19世紀にアメリカの宣教師が広めたり、日本やアメリカ帰りの留学生が広めるなどして、都市部を中心に野球が行われていた。中華人民共和国成立後も野球は残り、1959年から始まった全国運動会(国民体育大会に相当)でも野球が競技として行われた。

 しかし、文革によって社会が混乱すると、スポーツをする余裕が無くなった。また、文革自体が「資本主義文化批判」という意味合いがあった為、資本主義最大の国家であるアメリカを象徴するスポーツとなれば、攻撃対象とされやすかったと推測出来る。

 その為、この頃には野球文化が衰退したが、文革による弾圧から逃れる為、再び野球を行いたいという思いを持った人達が、満州に多数亡命してきた。この結果、クラブチームに多数の亡命者が参入する様になり、前述のクラブチームの飽和状態と合わせて、選手数が過剰状態となった。

 

 当時、日本の野球はプロ野球が絶大な人気を誇っており、日本野球連盟(ジャ・リーグ)と国民野球連盟(ナ・リーグ)が鎬を削る状況だった。その人気を見た満州野球界の人達も、日本に倣ってプロ野球を行いたいと考える様になった。

 この背景には、前述の2つの経緯に加え、1965年に満州代表チームが来日して対戦した際に歯が立たなかった事(ナ・リーグのオープン戦として行われ、毎日・東映・名鉄・大洋・広島を相手に3戦ずつ、計15戦行われた。結果は、東映・大洋・広島に1勝ずつした以外は負け)があった。

 

 クラブチームの整理とセミプロチームへの対策、整理によって生じる選手の新たな受け皿、日本プロ野球に追い付く為として、野球を生業とする、つまりプロ野球の整備を行い、技術の向上や新たな娯楽の提供をする事が検討された。

 野球のプロ化に反対する勢力も存在したが、日本遠征時に同行した政府高官や党員が日満野球の技術差に愕然とし、「少しでも日本プロ野球に追い付けるのであれば」としてプロ化を推してくれた。これにより、反対派もプロ化に賛成せざるを得なくなった。1968年に「満州職業野球協会(略・MPBA(Manchuria Professional Baseball Association))」が設立され、2年以内に公式戦が行える様に整備を進める事が宣言された。

 プロ野球チーム編成に際して、セミプロチームが挙って申請を申し込んだ。首都・新京だけでも新京倶楽部や新京実業団、新京野球団の3チームが申請を申し込み、奉天や大連でも複数のチームが申し込んだ。多くのチームが申請した為、当初予定だった8チームから10チームへと拡大した。その結果、次のチームが設立された。

 

・新京ジャイアンツ

・新京ユニオンズ

・四平ドラゴンズ

・鉄嶺ファイターズ

・撫順ライオンズ

・奉天イーグルス

・遼陽レッドソックス

・鞍山ブレーブス

・大連ホエールズ

・安東タイガース

 

 安東タイガース以外の全チームが連京線(大連~新京)沿いの都市に本拠地を置いており、安東タイガースも安奉線(安東~大連)沿いと、全ての球団が元満鉄沿いに置かれる事となった。これは、満州北部(哈爾浜、斉斉哈爾など)は気温が低い事から芝の育成への影響や春・秋のリーグ戦への影響が大きい事が懸念された為、必然的に比較的気温が高くなる南部に偏った。また、少数の都市に固まるのは少数のパイを分け合う事になる為、周辺に分散させる事ととなった。

 

 そして、1970年3月、新京・四平・奉天・大連でMPBA関係者と政府高官、党の重鎮に自治体の長などによる始球式が行われて、試合が開始された。ここに、満州プロ野球がスタートした。

 ペナントレースの結果だが、前期優勝はジャイアンツ、後期優勝はホエールズとなった。満州シリーズの結果は、4勝1敗1分けでジャイアンツが勝利し、初代満州一に輝いた。

 

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 満州プロ野球は、前後期の2シーズン制を採用している。7回戦の総当たり戦を9回で計63試合、それが2シーズン行われる為、年間で計126試合行われる。日本より試合数が少ない理由は、満州では暖かくなるのが遅く寒くなるのが早い為である。その為、開幕は4月に入ってからとなり、9月中にシーズンが終了する。

 オールスターゲームも行われ、前年の前期優勝チームが中心の紅組と前年の後期優勝チームが中心の白組に分かれてチームが編成される。開催時期は前期終了後となる。1970年に限り、開催中に行われたくじ引きで紅白に分けられた。

 

 勝率の決め方は「勝利数÷試合数」としている。15回裏までに決着が付かなかった場合、後日再試合となる。その為、制度上引き分けは存在しない。

 前期終了時に、最も勝率が高いチームを前期優勝チームとする。同様に、後期終了時に最も勝率が高いチームが後期優勝チームとなる。

 後期に同率首位のチームが発生した場合、前期の成績が上位のチームが後期優勝チームとなる。これが前期に発生した場合、前シーズンの通年成績(前後期通しての成績)が良かったチームの方を前期優勝チームとなる。

 シーズン終了後、前期優勝チームと後期優勝チームとで満州シリーズを行う。満州シリーズは7戦4勝方式で行われるが、満州シリーズに限り延長15回までに決着が付かなかった場合は引き分けとなる。引き分けとなった場合、第8戦以降は延長制限が無くなる。勝利したチームがその年の「満州一」となる。

 前期優勝チームと後期優勝チームが同一の場合、満州シリーズは行われずそのチームが満州一となる。この場合、翌年のオールスターゲームのチーム分けは、満州一のチームが紅組、通年2位のチームが白組の中心チームとなる。

 

 ドラフトは、その年の最下位のチームから指名が開始される。指名対象者は翌シーズン開催時に満18歳以上27歳以下である、翌シーズン開催前の卒業が確定している高校生・大学生、2年以上社会人野球でプレーしている選手となる。指名可能人数は、各球団15人までとなる。

 指名方式は、シーズン最下位の球団から始まり、最後に満州一のチームとなる。2位までは2球団以上の競合となった場合、くじ引きによる抽選が行われる。3位以下は、指名した順に交渉権の獲得が決定する。

 

 八百長やドーピングなど、試合や競技そのものを侮辱する様な行為が発覚した場合、それを行った選手は永久追放の処分が下される。また、球団もそれを防げなかった事や行った事に対するペナルティとして、罰金や該当選手が出場していた試合の没収(負け扱いとなる)などの取り決めも決められた。

 また、球団の査察や審判の誤審などへの対応を行う部署として、MPBA内に監察部が設けられた。外部の人間による不定期な査察の為、査察側は遠慮無く査察を行う事が出来、球団側も不祥事を起こさない様に運営するなどして、良性の結果となった。

 尤も、査察側に賄賂を贈るなどして、不祥事を揉み消す事も何度か起きていた。その事が発覚した事で警察も動き出す大規模事件となり、多くの選手や球団関係者、査察部から逮捕者を出した。これによって、野球人気が一時大きく減少したが、後述の新球団参入と2リーグ化、リーグ間の差別化などを行う事で、人気を回復させた。

 

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 プロ野球がスタートして最初の数年間は、真新しさや(満州では)高い技術力を持つ選手同士の対決などによって、多くの観客を集めた。また、オープン戦として日本のナ・リーグとの試合が行われるなどして、技術の向上も見られた。

 満州ではサッカーの方が人気が高い事、芝の育成に時間がぜん掛かる事、職業スポーツそのものへの忌避感から、次第に人気が衰えるのではと見られていたが、MHK(満州放送協会)や各機関紙への広告やニュースの差し込み、夏場における北満州での主催試合の増加、MPBC自らスポーツ紙を発行するなどして人気の維持に努めた。

その結果、1978年には全球団で年間観客動員数100万人を記録した(最初に達成したのは新京ジャイアンツで1972年、最後は鉄嶺ファイターズ)。その後も観客動員数は増加し、全球団の黒字化も見えてきた(社会主義国では珍しいが、満州は部分的に資本主義が導入されている)。

 日本遠征の方も結果を出す様になり、1980年のオープン戦という形で各球団が遠征した。その結果、ジャイアンツとイーグルス、ホエールズは6球団(巨人・西武・名鉄・近鉄・阪急・広島)との3戦で9勝8敗1分けと勝ち越した事は大きな自信となった。また、他の球団も勝率3~4割程度で終えるなど、最初に遠征した頃よりは勝負になっていた(但し、ファイターズとライオンズは勝率2割台だった。しかも、当時弱小と言われた南海・大洋・西鉄相手に全敗するなどした)。

 

 多くは負け越したものの、日本プロ野球と勝負を行える程度にまで成長した事は大きな自信を付ける事となった。その結果が満州にも伝わり、更なるプロ野球人気を呼び込んだ。また、日本プロ野球に対する関心も高まるなどして、職業スポーツへの忌避感も薄れた。

 MPBAは、更なる満州プロ野球のファンの拡大、ゲームの質の向上を考えた。その為には、外国人選手の解禁と球団数の増加が必要だった。

 

 前者は、キューバ人野球選手のプロ入りの容認が最大の目的だった。キューバは、キューバ革命まではプロ野球リーグが存在しており、その実力はメジャーリーグに劣らないと言えた。その後、キューバ革命によってプロリーグは解体され、アマチュア野球に再編された。以降、キューバ人野球選手が国外のプロチームとの契約が禁止されたが、これの緩和が出来ないかと外務省と組んでキューバとの交渉が1982年から行われた。

 交渉は1年以上掛かったが、1983年に「リース契約(国外リーグへの貸し出し)とする事」で決着した。これは、有力選手が亡命しない為の措置だった。また、これとは別に選手とキューバ政府との間に「契約金及び年俸の2割を政府に納める事」という契約も交わされた。

 1983年に決まるや否や、早くも多くの選手が満州行きを希望した。しかし、各球団の受け入れ人数の制限(1球団6人まで、1軍戦に出場出来るのは3名まで)もある為、最も優秀な選手が選抜されて各球団に入った。

 また、満州でプレーした選手がキューバ本国に戻って、新技術の伝播や将来を嘱望される選手の満州行きの打診なども行われ、満州とキューバの野球の技術向上に繋がった。

 

 後者は、参入希望者が多数存在した。1980年から行われた限定的な経済の開放によって、西側諸国からの投資が入ってきた。民族的繋がりから日本やドイツ、華僑、東側との付き合いがあるフランスからの投資があったものの、冷戦最後の絶頂期と重なった事もあり、直ぐに投資が下火となった。

 それでも、一時的に多くの資本が入ってきた事で経済が上向きとなり、新興企業を中心に軽工業やサービス業の発展が見られた。新興企業が中心となって、プロ野球への参入が目された。

 MPBA側もこれを歓迎したが、2球団に限定された。これは、急速な拡大は技術低下に繋がり、それによる人気の低下も懸念された為である。その後、参入希望者同士が共同してチーム編成が行われ、1984年に「奉天コンドルス」と「大連マリーンズ」が新規参入する事が決まり、翌シーズンから公式戦に参加する事となった。

 また、1リーグ12球団では試合数が組み難い事、試合数が増やし難い事、盛り上がりに欠ける事から、2リーグへの分割も同時に行われた。MPBA傘下組織として中央野球連盟(セントラル・リーグ、略は「セ・リーグ」)と大陸野球連盟(コンチネンタル・リーグ、略は「コ・リーグ」)が置かれる事となり、次の様にリーグ分けされる事となった。

 

〈セ・リーグ〉

・新京ジャイアンツ

・四平ドラゴンズ

・撫順ライオンズ

・奉天イーグルス

・安東タイガース

・大連マリーンズ

 

〈コ・リーグ〉

・新京ユニオンズ

・鉄嶺ファイターズ

・遼陽レッドソックス

・奉天コンドルス

・鞍山ブレーブス

・大連ホエールズ

 

 1985年から2リーグ体制になる事から、ペナントレースと満州シリーズの内容も変更された。

 ペナントレースは、シーズン試合数が4試合増の130に変更となった。その一方、前後期制は廃止となり、シーズン勝率が1位のチームがリーグ優勝となる。

 満州シリーズは、セ・リーグ優勝チームとコ・リーグ優勝チームとで争う事となる。7戦4勝方式は変わらず、これに勝利したチームが満州一となる。

 このルールに変更して行われた1985年のペナントレースの結果は、セ・リーグは新京ジャイアンツが、コ・リーグは大連ホエールズが優勝した。そして、両チームによる満州シリーズの結果は、大連ホエールズが4勝1敗で制した。

 

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 2リーグ体制になってから、両リーグの観客動員数は増加した。特に、リーグ別に球団を抱える事となった新京、奉天、大連では、街全体がセ・リーグファンかコ・リーグファンに分かれる程となった。それ以外の球団でも、一部の対戦が無くなった事への不満はあったものの、2リーグの対抗戦となった事、試合数が増加した事、満州シリーズ進出の為のリーグ優勝争いが激しくなった事から選手の強化が進み、ファンの増加に繋がった。

 冷戦の終結に伴う東西の緊張の緩和、それに伴う外資の流れ込みも大きくなり、満州経済も拡大した。これに伴い、満州でも日本の様にドーム球場の整備が考えられた。ドーム球場であれば環境に関係無くプレーを行えるとして、1996年から新京、哈爾浜、斉斉哈爾にドーム球場を建設する計画が浮上した。同時に、セコ両リーグに2球団を新規参入を行い16球団体制とする事も計画された。

 しかし、この計画は極東危機を原因に延期となった。また、極東危機が原因で外資の流れが停滞するなど経済に悪影響が生じた事もあった。ドーム球場の完成は2006年まで待たなければならず、球団拡張も2008年にようやく実現した。

 

 2006年、新京に満州初のドーム球場「新京ドーム」が開場した。新京ドームは東京ドームを基に建設されたが、用地の広さが充分にあった為、両翼100m、右中間・左中間115m、中堅120mとなった。新京ドームの開場に伴い、新京ジャイアンツと新京ユニオンズは2006年の公式戦から本拠地として使用される事となる。ホームゲームの際、偶数月はジャイアンツが、奇数月はユニオンズがホーム開催の優先権を持つ。

 翌年には哈爾浜、斉斉哈爾でも開場し、2008年には佳木斯(ジャムス。満州東部の主要都市)と奉天も開場した。奉天のドーム球場開場に伴い、奉天イーグルスと奉天コンドルスは本拠地を移した(偶数月はイーグルスが、奇数月はコンドルスが優先権を持つ)。

 

 2007年のシーズン終了前、翌シーズンから両リーグで2球団、計4球団の新規参入を行う事が決定された。その為、参入希望者が募られ、次の4球団の参入が決定した。

 

〈セ・リーグ〉

・哈爾浜ホワイトソックス

・錦州ガーディアンズ

 

〈コ・リーグ〉

・斉斉哈爾カブス

・佳木斯アスレチックス

 

 新規参入も決定し、2008年シーズンが開催された。ホワイトソックスの最下位はある程度予想されていたものの、それでも首位ドラゴンズとのゲーム差28.5と戦力不足の状況を鑑みれば充分に健闘した結果と言える。それ以外の球団は、アスレチックスは6位、カブスは5位とこちらも健闘し、ガーディアンズに至っては首位レッドソックスとのゲーム差12.0の3位と参入初年からAクラス入りと今後の大波乱を予想させる結果となった。

 実際、2014年のセ・リーグペナントレースでは、ガーディアンズが球団創設7年目にしてリーグ優勝を成し遂げた。その後の満州シリーズでも、大連ホエールズを4勝1敗で下すして満州一に輝くなど、素晴らしい結果を出した。

 翌シーズンにはアスレチックスがリーグ初優勝を果たしたものの、セ・リーグ優勝チーム・四平ドラゴンズとの満州シリーズはストレート負けとなった。それでも、8年目でリーグ優勝した事は自信を付ける結果となった。




満州シリーズの結果(1970年~1984年)
(西暦:前期優勝チーム―ナ・後期優勝チーム(○は満州一、●は負け):満州一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1970:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/1/1)
1971:●大連ホエールズ―〇奉天イーグルス(4/2)
1972:〇新京ジャイアンツ―●新京ユニオンズ(4/3)
1973:●新京ユニオンズ―〇大連ホエールズ(4/1)
1974:●安東タイガース―〇撫順ライオンズ(4/0)
1975:●鞍山ブレーブス―〇新京ジャイアンツ(4/1/1)
1976:〇遼陽レッドソックス―●大連ホエールズ(4/1)
1977:(新京ジャイアンツが前後期優勝した為、開催されず)
1978:●新京ユニオンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1979:〇撫順ライオンズ―●安東タイガース(4/1)
1980:●安東タイガース―〇鉄嶺ファイターズ(4/2)
1981:(大連ホエールズが前後期優勝した為、開催されず)
1982:●新京ジャイアンツ―〇安東タイガース(4/3/1)
1983:●安東タイガース―〇新京ジャイアンツ(4/1)
1984:(奉天イーグルスが前後期優勝した為、開催されず)

満州シリーズの結果(1985年~2015年)
(西暦:セ・リーグ優勝チーム―コ・リーグ優勝チーム(○は満州一、●は負け):満州一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1985:●新京ジャイアンツ―〇大連ホエールズ(4/1)
1986:〇新京ジャイアンツ―●新京ユニオンズ(4/3)
1987:〇四平ドラゴンズ―●鞍山ブレーブス(4/1)
1988:〇奉天イーグルス―●遼陽レッドソックス(4/0/1)
1989:●撫順ライオンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1990:●安東タイガース―〇新京ユニオンズ(4/3/1)
1991:●新京ジャイアンツ―〇遼陽レッドソックス(4/2)
1992:〇撫順ライオンズ―●大連ホエールズ(4/3)
1993:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/2/1)
1994:●大連マリーンズ―〇大連ホエールズ(4/1)
1995:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/2)
1996:●新京ジャイアンツ―〇奉天コンドルス(4/3/1)
1997:●新京ジャイアンツ―〇新京ユニオンズ(4/0)
1998:●奉天イーグルス―〇奉天コンドルス(4/2)
1999:〇撫順ライオンズ―●遼陽レッドソックス(4/1/1)
2000:●安東タイガース―〇鉄嶺ファイターズ(4/2)
2001:〇新京ジャイアンツ―●鞍山ブレーブス(4/1/2)
2002:〇安東タイガース―●新京ユニオンズ(4/2)
2003:●奉天イーグルス―〇大連ホエールズ(4/2/1)
2004:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/1)
2005:〇新京ジャイアンツ―●大連ホエールズ(4/3/2)
2006:●大連マリーンズ―〇鉄嶺ファイターズ(4/1/1)
2007:〇撫順ライオンズ―●鞍山ブレーブス(4/1)
2008:〇四平ドラゴンズ―●奉天コンドルス(4/0)
2009:●新京ジャイアンツ―〇遼陽レッドソックス(4/1/1)
2010:〇奉天イーグルス―●新京ユニオンズ(4/2/1)
2011:●四平ドラゴンズ―〇鞍山ブレーブス(4/0)
2012:●奉天イーグルス―〇大連ホエールズ(4/2)
2013:●新京ジャイアンツ―〇大連ホエールズ(4/1/2)
2014:〇錦州ガーディアンズ―●大連ホエールズ(4/1)
2015:〇四平ドラゴンズ―●佳木斯アスレチックス(4/0)


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番外編:台湾プロ野球

 日本とアメリカとの繋がりが深い台湾では、野球がスポーツで最大の人気を誇っている。1978年から始まった台湾プロ野球は6球団から始まり、1993年には新リーグが結成されて2リーグ12球団体制となった。その後、両リーグは冷戦状態にあったが2000年に両者の和解が成立し、2001年には台湾シリーズが開催される事となった。

 

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 台湾は、戦前は日本領、戦後はアメリカの統治を経て同盟国となった経緯から、野球が盛んだった。特に、高校野球と社会人野球の人気は高く、それに大学野球が続いた。

 また、早い時期から日本プロ野球へ参加する選手が多く、オフシーズンでは温暖な気候を生かしてキャンプ地としても活用された為、プロ野球への関心は高かった。その為、1960年代中頃にはプロ野球構想が浮上した。

 しかし、この時は資金不足から実現する事は無かった。それでも、この時の提案は「今後、台湾経済が拡大して資金的余裕が出てきたら、再度検討する」として保留となった。

 そして、一定程度の経済の発展が見られた1975年に、改めてプロ野球構想が浮上した。以前は経済的事情から却下されたが、今回はその問題はほぼ解決している事、日本への野球人材の流出を防ぐ思惑もあり、遂に実現する事となり「台湾職業野球連盟(TPBL(Taiwan Professional Baseball League))」が結成された。

 尤も、急な開催は不可能な為、3年間の準備期間を経て1978年からスタートする事となった。また、最初から大規模にするとレベルが低くなる為、最初は6球団での実施となり、順次拡大していく方針となった。

 

 こうして、1978年の開催を目処に、6球団の編制が行われる事となった。球団編制は、日本プロ野球に倣い親会社が存在する形となった。その為、親会社の選考が行われた。1年以上掛けて厳選な審査が行われた結果、次の6社が保有となった。

 

・台湾時報(メディア)

・聯合日報(メディア)

・斗山(繊維、食品、化粧品、日用品、商社、不動産、建設)

・三星(繊維、食品、商社、建設、不動産、化学、電機、金融)

・台湾塑膠(化学、日用品)

・台湾糖業(食品、製薬、化学、鉄道、不動産)

 

 6球団の親会社が決まった事で、チーム編成が急がれた。高卒や大卒、社会人の目ぼしい選手の獲得競争となった。この時、高校野球及び大学野球の強豪校や社会人野球の有力チームからの引き抜きは難航したが、強豪とはみなされていない高校や大学の出身者、同様に有力と見られていない社会人チームやクラブチームからはむしろ歓迎された。これは、このまま埋もれさせるには惜しい人材の登用、プロ野球選手の出身校及び所属チームとして名を売ろうという思惑、経営難や方針の変更でチームを解散させる事となった事への受け皿などの目的があった。

 こうして、多くが競合や名門出身者では無い選手が多く集まったが、強豪校出身者や有力チーム出身者がいない訳では無かった。そして、1軍と2軍の編制が完了し、チーム名も次の様に決まった。

 

・基隆台塑ホエールズ

・台北台湾時報イーグルス

・台中斗山タイガース

・嘉義三星ライオンズ

・台南台糖カブス

・高雄聯合日報ドラゴンズ

 

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 親会社決めと並行して、ペナントレースの進め方が協議された。試合数については、24回の総当たり戦(120試合)を行う事で決定したが、リーグ優勝を決める方法が決まらなかった。日本やアメリカの様に2リーグ制では無い為、リーグ優勝チーム同士の頂上決戦は存在しない事から、1シーズン制では盛り上がりに欠けると見られた。その為、2シーズン制にするか全試合終了後に上位3チームで優勝決定戦を行うかに分かれた。

 前者は、「1シーズン制だと、優勝の見込みが無いチームの試合が消化試合化して詰まらなくなる」「ならば、2シーズン制にして消化試合を減らした方が興行的にも良い」「『上位3チームでの優勝決定戦』方式だと、勝率が5割を切ったチームが優勝する可能性があり、その場合、優勝チームにふさわしいのかが問題になる」「また、6チームしかないのに上位3チームが出場出来るのは枠が広すぎる」という意見から、前後期制を推した。

 後者は、「『2シーズン制』だと、前期優勝したチームの後期の全試合が消化試合化する」「上位3チームの枠を巡って各チームが争うのだから、寧ろそれを巡って試合が活発化するから興行的に良い」として、上位3チームによる優勝決定戦を推した。

 野球関係者の意見を聞くなどを行い、日本プロ野球やメジャーリーグでのプレー方式を踏まえた結果、2シーズン制が採用された。これは、上位3チームでの優勝決定戦方式は何処も採用していない事、やはり6チーム中の3チームは広過ぎる事が原因だった。

 

 ドラフトは、1978年のシーズン終了後から行われる事となった。方法はウェーバー方式(最下位のチームから指名が行われる)であり、2位までは競合が発生する。競合した場合、くじ引きで決定する。各球団は10人まで指名出来る。

 また、ドラフトだけでは選手が不足する可能性から、5人までドラフト外で獲得出来る。尤も、ドラフト外入団を巡っての金銭問題が発生した事から、1996年に廃止となった。その代わり、ドラフトでの指名人数が3人増加した。

 

 ペナントレースの進め方が決定し、チーム編成も完了した事で、無事1978年から台湾プロ野球が開催される事となった。ペナントレースの結果、前期優勝は高雄聯合日報ドラゴンズ、後期優勝は台中斗山タイガースとなった。

 その後、両チームによるリーグ優勝チーム決定戦(台湾シリーズ。7戦4勝方式)が行われ、結果はドラゴンズが4勝2敗で制し、初代台湾チャンピオンに輝いた。

 こうして、台湾プロ野球最初の年は成功という形で幕を閉じた。

 

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 1978年から始まったプロ野球の人気は、瞬く間に拡大した。台湾最大級のメディアである台湾時報と聯合日報の存在から、新聞広告だけでなくラジオやテレビによる中継などもあり、生活の中に急速に入っていった。これによりプロ野球人気は急速に高まり、3年目には各球団で黒字が報告されるようになった。

 こうなると、高校野球や社会人野球などからプロ野球へ入りたいと思う選手も出てくるに様なり、入団希望者が殺到した。最初のドラフトでは半数近くが指名拒否となったが、年々指名拒否は減少していった。

 特に、強豪校や名門チームからの入団者が増加する事となり、それによりレベルの向上や更なる人気を呼び込む事となった。

 

 こうしてプロ野球の人気は年々高まったが、その人気にあやかって新規参入を目論む企業が多数現れた。実際、1985年からTPBLへの新規参入の申請が多数届けられている。

 しかし、TPBLは全て却下している。これは、現状ではまだ市場が発展途上であり、現状での拡張を行うのは共倒れとなる可能性が高いと見ていた為であった。今後、状況を見て拡張する予定はあったが、現状では早いというのがTPBLの考えだった。

 尤も、新規参入希望側は「TPBLは既得権益の為に新規参入を拒んでいる」と考えていた。両者の交渉も決裂し、最終的に新規参入希望組が独自リーグを立ち上げる事となった。TPBLが最も恐れていた「急進的な球団拡張」と「敵対関係としての2リーグ制」が実現してしまう事となった。

 

 そして、新規参入組が1990年に「太平洋職業野球連盟(PPBL(Pacific Professional Baseball League))」を設立した。新興企業が中心となって設立されたPPBLだが、どの企業が参入するかで問題となった。どのチームも自身の社名を冠したチームを持ちたいと考えていた為、TPBLと同数の6球団に絞るのは難しかった。

 ある時、ある企業が独り言の様に「各社が出資し、広告を出す形にすればいいのでは」と言った。つまり、共同出資で球団を設立し、出資者の広告をユニフォームに載せるというものだった。

 この意見は好意的な評価を得た。親会社を絞れないならば一纏めにしてしまえばいいという単純だが悪くない考えであり、親会社の経営危機となった際にも球団へのダメージが少ないというメリットがあった。他にも、ユニフォームへの広告を行っていないTPBLとの差別化にもなる事、親会社を冠しない事から地域密着をアピールし易い等のメリットも考えられた為、この意見が採用された。

 こうして、球団設立の目処が立ち、次の6球団が設立される予定となった。

 

・台北ジャイアンツ

・桃園アスレチックス

・新竹ドルフィンズ

・彰化エレファンツ

・台南ブレーブス

・高雄メッツ

 

 球団名が決定した事で、選手集めが行われた。TPBLによる妨害(今後の指名を行わない、編入予定の選手をドラフト外で引き抜くなど)もあったが、アマチュア側が門戸の拡大を歓迎した事で、予定以上の入団希望者が出た。

 実際、名門校や強豪校出身者は余り集まらなかったものの、それらの陰に隠れた有力校出身者が多数集まった。同様に、社会人の方でも準有力チーム出身者が多数集まった。

 これにより、チームとしての体裁も固まったが、監督とコーチについてはどうしても集まらなかった。その為、日本プロ野球、特に国民野球連盟(ナ・リーグ)の伝手を借りて、監督とコーチを紹介してもらった。この経緯から、PPBLの初期のペンチ(監督、コーチ陣)については日本人や日本プロ野球経験者が多かった。

 尤も、PPBLも日本プロ野球におんぶにだっこの状態を続ける気は無く、コーチや監督としての経験を積ませる為に日本やアメリカに多くの選手や希望者を留学させている。

 審判についても同様で、最初は日本の審判員が派遣され、徐々にPPBLの審判を増やしていった。

 

 チーム編成や審判団の育成など、リーグとしての体裁が整った事により、無事1993年にPPBLはスタートした。ナ・リーグ出身者が支援した関係やTPBLとの差別化から、指名打者制度ありとなった。それ以外のルールはTPBLと同様(シーズン120試合、前後期制、7戦4勝方式のリーグ優勝チーム決定戦)となった。

 シーズンの結果は、前期優勝は台北ジャイアンツ、後期優勝は彰化エレファンツとなった。そして、リーグ優勝チーム決定戦は、4勝1敗で彰化エレファンツが制して、PPBL初代優勝チームとなった。

 

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 台湾プロ野球がTPBLとPPBLに分かれて以降、両リーグによる選手の引き抜き競争や二重契約問題が発生した。年々問題は深刻化していき、1996年には親会社を巻き込んだ贈収賄事件が発生した。この影響で、両リーグのコミッショナーに事件に絡んだ球団のオーナーが逮捕される事態となり、スポーツの多様化も合わさり、台湾における野球人気は下火となった。

 これを受け、両リーグを対立関係から並立関係に改める事、同様の事態が発生しない様に両リーグを監督する組織の存在が求められた。1997年には両リーグ間による引き抜きの禁止や契約書の統一、各種規定の統一が実現したが、両リーグを統括する組織の設立は難航し、ドラフト会議の統一は翌年に持ち越された。

 翌1998年、最大の目的であるTPBLとPPBLの統括組織である「台湾統一プロ野球委員会(略・TUBC(Taiwan Unification Baseball Commission))」が設立され、ドラフト会議も一本化した。また、オールスターゲームとリーグ優勝チーム同士の対戦も検討されたが、この時は両リーグ間の蟠りの解消が出来ていなかった事、兎に角リーグ内の膿を出し切る事が優先された為、具体的な方針は出されなかった。

 

 プロ野球界の問題が粗方片付いた1999年の中頃、野球人気回復の手段の一つとして考えられていたオールスターゲームの共同開催と勝チーム同士の対戦の実施が検討された。これは、野球人気の低迷が続いており、新たな人気の起爆剤が欲しかった事から、早期の実現が望まれた。

 尤も、検討が開始されたのが7月とオールスターゲームには間に合わず、優勝チーム同士の対戦もルール作成などや日程、球場の利用調整で手間取り、開催は翌年に持ち越された。翌年となったが、20世紀最後の年を飾る大イベントとなるとして、寧ろこの持越しを歓迎する者も多かった。

 

 そして1999年シーズン終了後、TUBCから公式アナウンスがあった。要約すると次の通りとなる。

 

・2000年以降、TPBLを「台湾リーグ(タ・リーグ)」に、PPBLを「太平洋リーグ(パ・リーグ)」に改称する。

・翌年から、7月にリーグ対抗のオールスターゲームを開催する。尚、選手選出方法は今まで通り郵送による選出とする。

・シーズン終了後に両リーグの優勝チーム同士による台湾一を決める「台湾シリーズ」を開催する。開催方法は、現行のTPBLの台湾シリーズに準じる。

・台湾シリーズ開催に伴い、両リーグで行われるリーグ優勝決定戦は「リーグチャンピオンシップ」と改称し、5戦3勝方式に変更する。

・通年勝率1位のチームが前期優勝または後期優勝をしていない場合、前述のリーグチャンピオンシップを勝ち抜いたチームは通年勝率1位のチームと再び5戦3勝方式で戦う。この場合、先に行う前期優勝チーム対後期優勝チームを「リーグチャンピオンシップ第1ステージ」、第1ステージ勝利チーム対通年1位チームを「リーグチャンピオンシップ第2ステージ」とする。

・オールスターゲームと台湾シリーズにおいて、パ・リーグ主催試合の場合は指名打者制度が適用される。

 

 こうして、2000年にタ・リーグとパ・リーグが開幕した。この年からもう一方のリーグと戦えるとあって、両リーグ共白熱した戦いが行われた。結果、タ・リーグでは前期はイーグルスが、後期優勝はライオンズが制し、パ・リーグでは前期はブレーブスが、後期はジャイアンツが制した。その後行われたプレーオフでは、タ・リーグではイーグルスが3勝1敗で制し、パ・リーグではジャイアンツがストレート勝ちした。

 そして、第1回台湾シリーズがイーグルス対ジャイアンツで行われ、結果はジャイアンツが4勝3敗で初代台湾一に輝いた。台湾シリーズは大成功に終わり、野球人気も回復傾向にあり、今後も継続される事が確実となった。

 

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 リーグ間の統括機関の設立から始まり、リーグ対抗オールスターゲームと台湾一決定戦の開催によって、台湾プロ野球の人気は回復した。更なる野球人気復活の手段として目されたのが、台北と高雄におけるドーム球場の建設である。

 台湾は日本と同様、梅雨や台風が到来する。そして、日本以上に温暖な気候である事から、日本以上の降水量となる。1年の中で降水量が多くなる時期が6月から9月の為、雨で試合中止となる事が少なくなかった。

 実際、雨天中止が多かった事で前期の試合を消化しきれなかったり、後期の試合の多くがダブルヘッダーとなるなど、影響は大きかった。

 この状態を解消する為、真新しさを出す為として、ドーム球場の建設が計画された。

 

 ドーム球場建設計画は1992年からスタートした。先ず、首都である台北と第二の都市である高雄に建設する事は決定したが、具体的な場所が決定していなかった。場所決めに2年掛かり、次にドームの形状を決めるコンペが行われた。このコンペには日本からの参加も多く、東京ドームや福岡ドームのコピー案、当時建設中の大阪ドームやナゴヤドームのコピー案、計画中の札幌ドームのコピー案などもあった。

 最終的に、台北ドーム(仮称)は東京ドーム風の、高雄ドーム(仮称)は大阪ドーム風のデザインとなった。尤も、中身は異なり、台北ドームの場合、中間は116mと拡大した一方、収容人数35,000人とやや小さく建設された。高雄ドームも同様に、グラウンドの広さは大阪ドームと同じ一方、収容人数は32,500人と小さく建設された(この世界の大阪ドームの収容人数は45,000人)。これは、40,000人以上収容出来る球場は台湾には必要無かった為である。

 

 建設は1998年からスタート予定だったが、台湾プロ野球の統合問題や極東危機の影響、1999年の大地震の復興で着工が遅れた。結局、2001年に建設がスタートし、2004年のシーズン前に両ドームが完成した。名前は、仮称がそのまま正式名称となり「台北ドーム」と「高雄ドーム」となった。

 こけら落としとして、台北ドームではイーグルスとジャイアンツの、高雄ドームではドラゴンズとメッツのオープン戦が行われた(台北ドームではイーグルスの、高雄ドームではメッツの主催試合)。結果は、台北ではジャイアンツが、高雄ではメッツが勝利した。

 公式戦では、台北ドームではイーグルスとジャイアンツに加え、ホエールズにアスレチックス、ドルフィンズが主催試合を行い、高雄ドームではドラゴンズとメッツに加え、カブスとブレーブスの主催試合が行われた。この影響で、雨天中止の回数は減少した一方、照明やオーロラビジョンの不調で試合中断となる事が多かった(初期不良が原因だった)。

 

 2004年シーズンの結果、タ・リーグの前期優勝はイーグルス、後期優勝はカブスだったが、通年1位ではドラゴンズだった。パ・リーグでは、前期優勝はジャイアンツ、後期優勝はメッツだった。

 リーグチャンピオンシップの結果は、タ・リーグはドラゴンズが、パ・リーグはジャイアンツが制した。両チームによる台湾シリーズの結果、4勝2敗1分けでジャイアンツが勝利して第5回台湾一に輝いた。

 

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 2005年シーズンから、イーグルスとジャイアンツは台北ドームを、ドラゴンズとメッツは高雄ドームを本拠地とする事となった。しかし、1つの球場に2球団が本拠地とすると利用状況がギリギリな為、以前の本拠地も活用された(奇数月はタ・リーグが、偶数月はパ・リーグが以前の本拠地を使用する)。

 また、他の球団もドーム球場を欲した事から、建設中だった2003年には各地でドーム球場の建設計画が浮上した。各地の調査や立地条件などを鑑みて、建設予定地は桃園、新竹、台中、台南となった。これらついては、台北と高雄の利用状況を見て検討する事となり、2004年・2005年シーズンの両ドーム球場の利用状況から新ドーム建設にゴーサインが出た。先ず桃園と台中で建設する事となり、次いで新竹と台南で建設が行われる事となった。

 

 桃園と台中の建設は2008年から始まり、2011年に完成した。それぞれ、桃園は福岡ドームを、台中はナゴヤドームを参考とした。また、グラウンドの広さも元となったドーム球場と同じ広さが取られたが、収容人数については建設費の節約や過去の観客動員数から30,000人程度に縮小させた。

 完成後、桃園にはアスレチックスが、台中にはタイガースが本拠地を移した。両チームとも、ドーム球場を本拠地とした事でやる気を出していたが、グラウンドの広さや芝の違いに対応出来なかったのか、このシーズンは最下位に終わっている。

 

 新竹と台南の建設開始は2012年であり、2015年に完成した。こちらは、新竹が武蔵野ドーム(史実の西武ドームに相当。但し、武蔵野市に存在し、壁面は存在する)を、台南は札幌ドームを参考とした。こちらも、収容人数を30,000人台と縮小して建設された。

 完成後、新竹にはドルフィンズが、台南にはカブスとブレーブスが本拠地を移した。尚、台南については、カブスとブレーブスが1か月毎にドーム球場と旧本拠地を使用している(奇数月はブレーブス、偶数月はカブスが使用)。移転初年、ドルフィンズは好調を続けてこの年の後期優勝チームとなったが、リーグチャンピオンシップで前期優勝のライオンズに敗れた。また、カブスとブレーブスはAチーム入りこそしたものの、優勝争いに絡む事は無かった。




台湾シリーズの結果(1978~1999)
(西暦:前期優勝チーム―後期優勝チーム(○はリーグ優勝、●は負け):リーグ優勝チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1978:〇高雄聯合日報ドラゴンズ―●台中斗山タイガース(4/2)
1979:●基隆台塑ホエールズ―〇台北台湾時報イーグルス(4/1/1)
1980:●台南台糖カブス―〇嘉義三星ライオンズ(4/2)
1981:(台南台糖カブスが前後期優勝した為、開催されず)
1982:〇台北台湾時報イーグルス―●高雄聯合日報ドラゴンズ(4/3)
1983:〇台南台糖カブス―●嘉義三星ライオンズ(4/2)
1984:〇台中斗山タイガース―●嘉義三星ライオンズ(4/2/1)
1985:(嘉義三星ライオンズが前後期優勝した為、開催されず)
1986:●台北台湾時報イーグルス―〇台中斗山タイガース(4/1)
1987:●台北台湾時報イーグルス―〇基隆台塑ホエールズ(4/2)
1988:〇台南台糖カブス―●高雄聯合日報ドラゴンズ(4/2)
1989:●嘉義三星ライオンズ―〇基隆台塑ホエールズ(4/2)
1990:〇高雄聯合日報ドラゴンズ―●台北台湾時報イーグルス(4/1/2)
1991:(台北台湾時報イーグルスが前後期優勝した為、開催されず)
1992:●基隆台塑ホエールズ―〇高雄聯合日報ドラゴンズ(4/2/2)
1993:●台中斗山タイガース―〇台南台糖カブス(4/0)
1994:〇台南台糖カブス―●嘉義三星ライオンズ(4/1)
1995:(台北台湾時報イーグルスが前後期優勝した為、開催されず)
1996:〇台北台湾時報イーグルス―●高雄聯合日報ドラゴンズ(4/2)
1997:●基隆台塑ホエールズ―〇台中斗山タイガース(4/3)
1998:●高雄聯合日報ドラゴンズ―〇基隆台塑ホエールズ(4/1/2)
1999:〇嘉義三星ライオンズ―●台北台湾時報イーグルス(4/1)

パ・リーグ優勝決定戦の結果(1993~1999)
(西暦:前期優勝チーム―後期優勝チーム(○はリーグ優勝、●は負け):リーグ優勝チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1993:●台北ジャイアンツ―〇彰化エレファンツ(4/1)
1994:●台北ジャイアンツ―〇高雄メッツ(4/1/1)
1995:〇台南ブレーブス―●高雄メッツ(4/2)
1996:●新竹ドルフィンズ―〇台北ジャイアンツ(4/3)
1997:〇彰化エレファンツ―●台北ジャイアンツ(4/2)
1998:(高雄メッツが前後期優勝した為、開催されず)
1999:●桃園アスレチックス―〇高雄メッツ(4/0/1)

台湾シリーズの結果(2000~2015)
(西暦:タ・リーグ優勝チーム―パ・リーグ優勝チーム(○は台湾一、●は負け):台湾一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
2000:●台北台湾時報イーグルス―〇台北ジャイアンツ(4/3)
2001:●嘉義三星ライオンズ―〇桃園アスレチックス(4/1/1)
2002:〇基隆台塑ホエールズ―●桃園アスレチックス(4/2)
2003:●基隆台塑ホエールズ―〇台北ジャイアンツ(4/3/1)
2004:●高雄聯合日報ドラゴンズ―〇台北ジャイアンツ(4/2/1)
2005:〇台中斗山タイガース―●台南ブレーブス(4/1)
2006:●台南台糖カブス―〇桃園アスレチックス(4/0/1)
2007:〇台北台湾時報イーグルス―●台北ジャイアンツ(4/2)
2008:〇高雄聯合日報ドラゴンズ―●新竹ドルフィンズ(4/3)
2009:●高雄聯合日報ドラゴンズ―〇高雄メッツ(4/2/1)
2010:●台中斗山タイガース―〇彰化エレファンツ(4/3/2)
2011:●台南台糖カブス―〇彰化エレファンツ(4/2/2)
2012:〇高雄聯合日報ドラゴンズ―●高雄メッツ(4/1)
2013:〇基隆台塑ホエールズ―●台南ブレーブス(4/2)
2014:〇台中斗山タイガース―●彰化エレファンツ(4/3)
2015:●嘉義三星ライオンズ―〇高雄メッツ(4/2)


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番外編:韓国プロ野球

大変お久しぶりです。数ヵ月ぶりに本編に投稿する事になりました。

韓国のプロ野球についての話ですが、この世界の韓国の扱いは決していいものではありません。そのしわ寄せはプロ野球にも来ました。


 日本・満州・台湾のプロ野球は盛んだった。日本は明治から大学野球が盛んであり、1930年代からプロ野球が行われた。戦後になって急速に人気が高まり、1960年代に完全にアマチュア野球と人気が逆転した。

 満州も、満州国時代から社会人野球が盛んであり、ソ連占領時代に衰退したが独立後に再度勃興した。1970年にはプロ野球がスタートし、社会主義国でありながら限定的に資本主義を導入している事もあり、東側では珍しいプロスポーツが定着した。

 台湾は、日本統治時代から野球は盛んだったが、独立後にその熱はさらに高まった。また、日本プロ野球のキャンプ地にもなった事からプロ化の計画は古くから存在しており、1978年にはプロ野球がスタートした。

 同じ日本の勢力圏だった北朝鮮もプロ野球こそ発足しなかったが、満州の影響でアマチュア野球は一定の人気を得ている。満州プロ野球のドラフトに掛かる選手を複数人出している実績があり、何度か満州プロ野球の公式戦も行われている。満州プロ野球がエクスパンション(球団拡張)を行った場合、球団が置かれる最有力候補と目されている。

 

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 一方、かつて日本の勢力圏だった韓国でも野球人気は高かったが、日本・満州・台湾と比較するとプロ化は遅かった。経済が低調な事で、プロ球団を持てる企業が少なかった為だった。

 日本の終戦から独立までの混乱、朝鮮戦争、朝鮮戦争後の国内事情の不安定さから人口の流出が止まらなかった。流出した多くが技術者や軍人、官僚に経営者など国家の根幹に関わる人材が多かった為、政治的・経済的低迷が続いていた。この影響で、サムスンや斗山、起亜にSKなどの史実の韓国における大財閥が台湾に逃れる事となった。

 それに加え、独立以後の行動が日米に不快感を与えた事で、外交関係は長い事最低限の関係しか無かった。当然、それは経済にも影響を与え、経済的・技術的支援が最低限となり、輸出入も最低限か韓国の輸入超過だった。

 この結果、韓国経済は史実の「漢江の奇跡」の様な経済発展は見られず、主要産業も農業や軽工業止まりとなった。

 

 それでも、高校野球と社会人野球を中心に野球は比較的行われていたが、日本プロ野球の人気の高さと1978年の台湾でのプロ野球の発足(『番外編:台湾プロ野球』参照)、高待遇を求めてアマチュアの有力選手が台湾プロ野球に流れた事を受け、韓国でもプロ野球を発足しようという動きが浮上した。ハンファやロッテ、三美などの社会人野球チームを持つ財閥が中心となり、1984年に韓国野球委員会(KBO)が設立されプロ野球が開催された(史実より2年遅い)。

 最初に参入したのは以下の6球団の予定だったが、現代と大宇が急遽割り込んだ為、以下の8球団になった。

 

(見方は球団名:親会社:縁故地(本拠地):フランチャイズ)

・MBCドラゴンズ:韓国文化放送:ソウル直轄市:ソウル直轄市・京畿道

・現代フェニックス:現代財閥:ソウル直轄市:ソウル直轄市・京畿道

・青宝ピントゥス:プンハングループ:仁川直轄市:仁川直轄市・京畿道・江原道

・三美スーパースターズ:三美グループ:水原市:京畿道・江原道・北朝鮮全域

・ピングレ・イーグルス:ハンファグループ:大田市:忠清南道・忠清北道

・ヘテ・タイガース:ヘテグループ:光州市:全羅南道・全羅北道・済州道

・大宇ユニコーンズ:大宇財閥:大邱直轄市:大邱直轄市・慶尚北道

・ロッテ・ジャイアンツ:ロッテグループ:釜山直轄市:釜山直轄市・慶尚南道

 

 8球団の内、MBC以外の7球団が財閥系の球団で、MBCは言論統廃合によって韓国放送公社(KBS、日本のNHKに相当)に過半数の株式を握られていた為、事実上の国営放送だった。

 兎に角、1984年に韓国でもプロ野球が始まったが、その際に選手の帰属が変更された。例えば、ある選手がロッテ所属で出身高校がソウルの場合はMBCか現代に分配される様に、出身高校の地域に本拠地を置くチームに分配された。

 

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 KBOのルールだが、史実と大差ない内容となっている。

 

 開催当初のルールだが、指名打者制度と予告先発が採用される。延長は15回まで行われ、15回裏まで決着が付かない場合は引き分けとなり、後日の再試合は行われない。勝率の算出方法は、勝利数/(勝利数+敗北数)となる。

 シーズン展開だが、史実の開催年のルールと同じく、年間16回の総当たり戦を前後期に分けて行う。前後期で優勝チームが異なる場合、シーズン終了後に7戦4勝方式の韓国シリーズを行い、それに勝利したチームがリーグ優勝となる。前後期で同じチームが優勝した場合、韓国シリーズは行われない。

 韓国シリーズのルールだが、こちらは1984年からのルールとなり、第1戦と第2戦は前期優勝チームの本拠地で、第3戦と第4戦は後期優勝チームの本拠地で、第5戦から第7戦はソウルで行う。

 年間の試合数やポストシーズンのルールが若干異なるが、概ね1970年代以降の(日本の)ナ・リーグと同じ様なルールで行われる。

 実際、ルール作りの際に日本のプロ野球を一部参考にしており、ナ・リーグにロッテがいた事からそちらが参考になった。

 

 ドラフトだが、日本プロ野球と異なる点が幾つかある。

 1つ目は、ドラフトが1年に2回行われる事である。日本でも1966年(※1)と2005年から2007年(※2)に2回ドラフトが行われたが、韓国プロ野球では毎年行われる。1回目は6・7月に、2回目は9月以降に指名している。

 2つ目は、縁故地ドラフトの採用である。上記の例なら、ロッテは釜山と慶尚南道をフランチャイズとしている為、その地域の出身者しか指名出来ないという事になる。

 流石にこれだと戦力の不均衡が著しい為、1987年に1回目のドラフトでの指名人数を3人に限定し、2回目のドラフトではフランチャイズに関係無く指名出来る様に変更された。

 

 外国人選手・指導者だが認められていない。国内選手の海外流出を防ぐ為にプロ野球が設立された為、外国人選手を認める事は国内選手の出場機会を減らす事に繋がるので認める訳にはいかなかった。

 

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 こうしてスタートした韓国プロ野球だが、問題は多かった。開催以来人気は高く、観客動員数も年々上昇しているが、技術面での向上が中々見られなかった。矢張り、有力選手が海外、特に台湾に流出した影響が大きかった。

 また、親会社の資金力や縁故地ドラフトによる戦力の不均衡は大きく、現代・大宇・ヘテの3強体制が常態化した。実際、80年代の韓国シリーズ出場チームはこの3チームだけである。

 その為、上位球団と下位球団の観客動員数に大きな差が生まれ、選手の待遇にも大きな差が生じる事となった。その結果、下位球団の1次ドラフトの指名を拒否する事例が相次ぎ、その結果更なる戦力低下に繋がった。戦力の低下は観客動員数の減少に繋がり、親会社の経営悪化と合わせて球団を手放す会社も出た。

 

 1987年、遂に三美スーパースターズと青宝ピントゥスが今シーズン限りで身売りする事が発表された。プロ野球開始以来、両チームは最下位争いをしており、親会社の規模も他球団と比較すると小さい為、早くから手放すのではと見られていた。

 身売りされた両チームだが、プロ野球の人気は高く、良い宣伝になる事からから買収を狙う財閥は多かった。実際、早くも海運・重工系の韓進財閥と化学・電機系のラッキー金星グループが買収に名乗りを上げ、現親会社・KBOも認めた為、今シーズンオフに売却が決定した。

 

・三美スーパースターズ→LGベアーズ

・青宝ピントゥス→韓進マリナーズ

(両チームの本拠地・フランチャイズは変わらず)

 

 下位球団の身売りが行われる一方、1988年に更なる人気の獲得から2年後に2球団の参入が認められた。その親会社の選考が行われ、化学系の錦湖グループと下着メーカーのサンバンウルが認められた。

 また、これとは別に、1989年シーズンオフに双竜重工業に身売りとなった。双竜重工業は現代重工業・大宇重工業・韓進重工業に並ぶ韓国の四大重工の一つであり、これによって韓国の重工全てがプロ球団を持つ事となった。

 

・錦湖ウィングス:全州市:全羅北道

・サンバンウル・レイダース:春川市:江原道

・MBCドラゴンズ→双竜ドラゴンズ

(錦湖ウィングス・サンバンウル・レイダースの設立に伴い、ヘテ・タイガースから全羅北道が、LGベアーズと韓進マリナーズから江原道がそれぞれフランチャイズから除外される)

(双竜ドラゴンズの本拠地・フランチャイズはそのまま)

 

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 1990年に10球団となった事で、試合数と韓国シリーズが変更となった。試合数は16回の総当たり(144試合)に増えた一方、前後期制は廃止となった。

 韓国シリーズは、最初にシーズン4位と3位が3戦2勝方式の準プレーオフを行い、勝利したチームが2位と5戦3勝方式のプレーオフを行う。プレーオフに勝利したチームが1位と7戦4勝方式の韓国シリーズを行う。会場は、第1戦から第3戦は1位チームの本拠地で、第4戦から第6戦はプレーオフ優勝チームの本拠地で、第7戦以降はソウルで行う事となった。

 

 10球団体制によって人気は向上したが、この状況は長く続かなかった。球団数が拡大した事で、薄かった選手層が更に薄くなり、今までドラフトに掛からなかった様な選手でも掛けざるを得なくなった。その為、試合のレベルが向上する処か低下し、1993年に過去最高の観客動員数を記録して以降、増える事は無かった。

 1997年のアジア通貨危機、その後の極東危機における韓国の行動、それに伴う日米の経済制裁によって球団の親会社全てが経営不振に陥った事が、人気凋落を加速させた。中堅財閥のサンバンウルは勿論、韓国最大級の現代や大宇もこの危機によって死に体となり、球団経営など出来る筈が無かった。

 1997年のシーズンオフにヘテ・ロッテ・サンバンウルの3球団が解散となり、翌年には残るチームも解散となり、KBOも休止状態になった。廃止とならなかった理由は、将来的な復活の為だった。

 

 しかし、韓国経済は10年以上回復する事は無く、2012年にKBOは遂に解散となった。また、経済そのものが崩壊した為、社会人野球処か野球そのものが衰退した。

 プレーしたい選手は日本や満州、台湾に活躍の場を望んだが、日本は今までの経緯から韓国人の入国に規制を設けており、密入国が発覚した場合は即時帰還させていた。満州と台湾は密入国がバレなければ比較的問題は無かったが、プレー出来たとしても技術面の格差が開き過ぎており、2軍や社会人野球ですら活躍出来ない選手が殆どだった。

 そうなると、選手としての価値すら無くなった彼らに、野球をする意味は無くなった。多くが野球から足を洗って一市民として生きるか、草野球で満足するかのどちらかだった。

 

 彼らは小さな世界で長い事生きていた為、広い世界に出た時に順応出来なかったのである。




※1:9月と11月に実施。9月のドラフトは国体(この年に大分剛健国体が行われた)に出場していない高校生・大学生・社会人が、11月のドラフトは国体に出場した高校生・大学生・社会人が対象となった。
※2:10月と11月に実施。10月のドラフトは高校生が、11月のドラフトは大学生と社会人が対象となった。


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番外編:アジアシリーズ①

 この世界でもアジアシリーズ(※1)は実施された。当初は日本・台湾・満州で行われ、後に韓国・中華民国・オーストラリア・フィリピン・ベトナムが参加した。後に韓国は離脱するが、代わりにロシアが参加した。

 

 アジアシリーズの原型は、1983年に台湾プロ野球開始5周年記念を記念して行われた「日台親善野球」である。これ以前も「日台野球」として日本プロ野球のチームが台湾に来て試合する事はあったが、形としては日米野球に近く、台湾側のチームも社会人・大学連合だった。時期も2月後半から3月頭の為、日本側から見れば台湾キャンプとオープン戦感覚だった。また、プロ対アマチュアの為、基本的に日本側が勝利した為、日本側からすればモチベーションが上がり難かった。

 日台親善野球の場合、台湾職業野球連盟(TPBL)主催であり、日本シリーズ優勝チームを台湾に招待し、台湾シリーズ優勝チームと5試合行われた(会場は全て違う球場)。この年の日本シリーズ優勝チームは西武オリオンズ、台湾シリーズ優勝チームは台南台糖カブスだった。今回はプロ対プロの試合の為、日台野球よりもモチベーションは高かった。

 11月7日に日本シリーズが終わってから1週間後に行われた為、西武の選手達のコンディションは決して万全ではなかった。しかし、ペナントレースで前後期共に2位に5ゲーム以上の大差を付けて総合優勝し、日本シリーズで巨人に勝った西武の勢いは凄まじく、台糖カブスに4勝1敗という成績を収めた。全試合終了後、TPBLから西武に賞金や景品の贈答が行われた。

 日台親善野球の観客動員数はペナントレース・台湾シリーズ以上であり、全試合満席を記録した。視聴率も30%以上を記録し、日本チームの招待費用を差し引いても大幅な黒字だった。日本側も「またやりたい」という返事をもらった為、大成功を収めたと言ってもいい。

 

 しかし、翌年の開催をどうするかが問題になった。当初、日台親善野球改め日台シリーズを日本シリーズ終了後に行い、日本シリーズ優勝チームが台湾に来る形としたのだが、そうなると日米野球と時期が重なる為、日本シリーズ優勝チームが台湾に来れないという問題があった。また、来れたとしても疲労の関係から選手のモチベーションが上がらない事も懸念された。

 その為、「日米野球開催の年は、台湾シリーズ優勝チームが日本に来て日台シリーズを行う」事とされた。日本側もこの内容を了承し、翌年以降もこの形で日台シリーズが行われる事が確認された。

 尚、日台シリーズの主催者も決まり、台湾側は台湾時報と聯合日報が、日本側は読売新聞と大日新聞となった。

 

 翌1984年、この年は日米野球が行われる為、台湾シリーズ優勝チームの台中斗山タイガースが来日した。日米野球終了後に日台シリーズが行われたが、この年の日本シリーズ優勝チームである広島東洋カープが来日した前年のワールドシリーズ優勝チームのボルチモア・オリオールズと5戦していた後の為、本調子では無かった。状態が良い選手と二軍が中心の編成で試合が行われ、2勝3敗で斗山タイガースが勝利した。

 斗山タイガース及びTPBL側は、日米野球があったとはいえ二軍が中心だった事、それですら勝ち越し出来なかった事に大きなショックを受けた。これを機にTPBLの技能向上の為に日本プロ野球やメジャーリーグへの留学や選手の獲得に奔走する事になる。

 同時に選手の負担を考慮して日米野球と隔年で行う事が決められた。その為、次の日台シリーズは1985年、その次は1987年とする事が決められた。

 

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 1985年の日台シリーズは、台湾で開催される事が決まっていた。日本シリーズ優勝チームは阪神タイガースであり、この年の台湾側のリーグ優勝は嘉義三星ライオンズだが、この年は前後期共に三星ライオンズが優勝した為、台湾シリーズが行われなかった。その為、「台湾シリーズ優勝チーム」では無く「台湾側のリーグ優勝」となっている。

 この年は、満州プロ野球(MPBA)から今年の満州シリーズ優勝チームである大連ホエールズが、日台両国の招待で特別参加した。この年にMPBAが2リーグ制になった事を記念して行われた(『番外編:満州プロ野球』参照)。その為、過去2年間に行われた5戦方式では無く、日台戦を3戦行った後に日満戦と台満戦を2戦ずつ行う方式が取られた。戦績は、日台戦は阪神タイガースの2勝1敗、日満戦は1勝1敗、台満戦は大連ホエールズの連勝となった。

 

 NPBとしては、台湾に勝ち越した事よりもMPBAの技能が高い事に関心を持った。日本シリーズで戦った西武程ではないが緻密なプレーを行える技能を有しており、同リーグ内の阪急や大日の様に機動力と投手力の高さを活かしてきた。1980年にMPBAの球団が来日してオープン戦をしたが、その時とは比較にならなかった。

 MPBAは、NPBと肩を並べられるまでに技術が向上した事に喜んだ。勝利した試合は、阪神の先発投手を4回1/3を8失点でノックアウトし、後半もその勢いで押した事で14-4と大勝した。負けた試合も2-3の惜敗だが、強力打線の要所要所で断ち切った為、阪神側のホームランは0本だった。

 TPBLは、未だにNPBとの格差が大きい事を実感した。だが、負けた2試合のスコアはそれぞれ2-6・1-4であり、投手陣が踏ん張れなければもっと点差がついた可能性もあった。投手力については自身を持てるようになったが、今後は打撃の強化とエラーの減少がカギになると睨んだ。

 また、MPBAの力がNPBに並ぶ程である事に驚いた。東西冷戦の中である為、西側優位を見せたかったが、台満戦では全敗(2-7・1-4)、日満戦もトントンであり、寧ろMPBAの方が強いと見せつけられる結果となった。

 

 3者それぞれに思惑はあったが、第3回日台シリーズは成功した。また、台湾にとって満州は近くて遠い存在であり、今回が初めての対戦だった。今回の結果から再度対戦したいという気持ちが強まり、台湾が日台シリーズへの満州の恒常的な参加を求めた。

 意外な事に、両国からの反応は悪くなかった。「西側諸国の強さを見せつける」という政治的な考えも無い訳では無かったが、満州との試合は中々行えるものでは無い為、それを定期的に行える絶好の機会を逃す訳には行かなかった。また、TPBLの技能向上及びNPBの技能の維持には他国との試合を積極的に行うべきとして、今後も続けたい意志を表明した。

 これにより、1987年から満州も加えて試合を行う事となったが、そうなると「日台シリーズ」という名称は実態にそぐわなくなった。その為、新しい名称が考えられたが、今後は他のアジア諸国の加入を見越して「アジアシリーズ」と命名された。

 

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 1987年、第1回アジアシリーズが日本で開催される事になった。この年のそれぞれの参加チームは、NPBは西武、TPBLは基隆台塑ホエールズ、MPBAは四平ドラゴンズだった。

 だが、開催直前に韓国野球委員会(KBO)が「参加したい」と割り込んできた。3者は事前通達無しに参加の要請(実際の文面だと、「要請」より「要求」に近かった)をしても調整に困るし、仮に調整が完了して出場したとしてもプロ野球開催4年目の韓国では台湾にすら厳しい勝負になると見られた。

 そもそも、日台満の3国と韓国との関係は控えめに言って悪く、心情的には参加して欲しくなかったので、様々な理由を付けてKBOの参加を見送らせようとした。

 しかし、KBOは強硬に参加を要求し、内部でも「『アジアシリーズ』という名称だから、アジア地域の韓国にも参加する権利がある」、「韓国の参加を見送らせると、『日台満以外の国は参加出来ない』という印象を与える」という意見も出た為、渋々参加を承諾した。但し、既に今大会の予定は組まれている為、次の大会からの参加となった。

 

 この大会から、試合方式とルールが以下の様に変更になった。

 

・予選として2試合ずつの総当たりを行った後、成績が良かった2チームが決勝戦に進出する。成績は勝利数で決めるが、勝利数が同じ場合は「直接対決の戦績>得失点差>総得点数」で差が出る所で決める。それでも決まらない場合はくじ引きとする。

・決勝戦は1試合のみ行い、勝利したチームがアジアシリーズ制覇となる。

・予選では延長は15回までとし、それまでに決着が付かなかった場合、その試合は0.5勝0.5敗扱いとなる。

・決勝戦では決着が付くまで延長を行う。但し、試合開始から4時間が経過したら新しいイニングに入らず、その時点で決着が付いていなかった場合、翌日に同じ場面から再開する。

・ベンチ入り選手は25人まで、監督・コーチは計11人までとする。

・指名打者が使用可能。

・選手の選出については自国の制度が適用される(例:1987年当時のNPBなら2人まで)。

 

 予選の結果、西武が3.5勝0.5敗、台塑ホエールズが1勝3敗、四平ドラゴンズが1.5勝2.5敗となり、西武と四平による決勝が行われた。試合結果だが、西武が4-1で勝利した。日本シリーズで巨人の隙を突くプレーをした西武にとって、四平は打線はやや上、投手力では同等だが守備走塁の隙がやや多いチームと映り、決勝でも隙を突いて四平を退けた。

 アジアシリーズ初代チャンピオンに輝いた西武には賞金とトロフィー、優勝ペナントが授与された。このトロフィーとペナントは本拠地の武蔵野野球場(※2)に飾られる事になった。

 

 試合が盛り上がりを見せたと同じ様に、テレビ中継も好評だった。日本テレビと千代田テレビ(※3)、TBSの3局による合同放送が行われ、台湾主催試合は日本テレビ、満州主催試合は千代田テレビ、日本主催試合はTBSが放映した。日本主催の視聴率は20%越えで、他の試合も15%程度記録した。

 アジアシリーズはここに確立する事となり、次の開催ではスポンサーに西武グループのコクドが加わる事となった。

 

 

※1:東アジアにおけるプロ野球チーム王者決定戦。参加国は日本・韓国・台湾・中国・オーストラリアだが、2013年にはEU(イタリア)が参加した。2005年にスタートするも、諸事情により2013年を最後に行われていない。

※2:東京都武蔵野市にある野球場。史実の武蔵野グリーンパーク野球場だが、この世界では長期間使用された。

※3:大日新聞系のテレビ局。史実ではテレビ東京との競争に敗れて開局しなかった。



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番外編:アジアシリーズ②

 1989年、第二回アジアシリーズが開催される事となるが、この回から韓国も加わる事となった。この年は台湾で行われる事となり、参加チームはNPBは読売ジャイアンツ(巨人)、TPBLは基隆台塑ホエールズ、MPBAは鞍山ブレーブス、KBOはヘテ・タイガースとなった。

 当初、MPBAの参加は難しいと見られた。同年、満州の社会主義政権が崩壊し、国号も「満州民主共和国」から「満州連邦共和国」に変更された。これに伴う混乱で状況が不安定で、スポーツをする余裕が無いのではと見られていた。

 しかし、政権崩壊と言っても自由選挙の導入の結果による政権交代程度でしか無く、その政権与党も今までの支配政党だった満州社会党の改革派が中心の満州社会民主党の為、大きな混乱は発生しなかった。また、国民の多くが政治改革・経済改革と同時にスポーツを望んだ為、アジアシリーズ不参加は選択肢に無かった。その為、MPBAは予定通り参加する事となった。

 

 この年から4チームになったが、試合方法は前回と同様だった。予選の結果は、巨人が4勝2敗、台塑が3勝3敗、鞍山が4勝2敗、ヘテが1勝5敗となった為、決勝戦は巨人と鞍山ブレーブスとなった。

 因みに各チームの対戦内容は、巨人は台塑と鞍山に1勝1敗、ヘテに2連勝、台塑は巨人・鞍山・ヘテに1勝1敗、鞍山は巨人と台塑に1勝1敗、ヘテに2連勝、ヘテは巨人と鞍山に2連敗、台塑に1勝1敗だった。

 決勝戦の結果は、7-5で鞍山が勝利した。勝利の仕方も劇的で、9回表開始時に2点ビハインドだった鞍山が、先頭打者がヒットで出塁し、その後はアウトとヒットの繰り返しで2アウト満塁となった。この時のバッターが9番・ピッチャーだったので代打が送られた。代打が初球を打ち、それがホームランとなった事で鞍山は2点勝ち越しとなった。その裏、巨人は3番からの打線だったが、鞍山は絶対的なクローザーを投入し3者凡退でゲームセットとなった。

 第2回優勝チームとなった鞍山には、優勝ペナントとスポンサーからの賞品・賞金が授与された。満州にとって、NPBの最優秀チームを下してのアジアの覇者に輝き、国家の新しい船出を祝う幸先の良いスタートとなった。

 

 一方、優勝を逃した巨人だが、日本一になった事への慢心があったのか、試合後半は明らかに精彩を欠いていた。そこを鞍山に付け込まれた結果が、9回表の逆転満塁ホームランと9回裏のクリーンナップの3者凡退だった。

 だが、巨人はこの敗戦を「データ不足」が原因によるもので考えを止めていた。実際は、攻守の隙を突かれた事が原因だったのだが、巨人は選手・ベンチ共にそれに気付く事は無かった。その結果、翌年の日本シリーズでのストレート負けに繋がった。

 他のチームは、台塑は勝率を五分五分まで持ち込めたことは大きいと考えていた。それも、目標としているNPBとMPBAの優勝チームに五分五分の戦いが出来た事は非常に大きな収穫だと感じた。

 それでも、矢張り決勝に進みたかったという想いは強かった。日台シリーズの頃から対戦しているが未だに優勝していない為、決勝に進んで優勝したいという気持ちが強かった。その為、更なる技能向上とNPB及びMLBとの連携強化を模索するが、翌年に新リーグ設立問題で台湾プロ野球界が混乱した為、そちらの対処に時間と労力が取られ、技能向上は後回しになった。

 初参加のKBOは、最も敵視していたNPBに手も足も出なかった事(9-0、11-1)もショックだったが、(勝手に)格下と思っていたMPBA・TPBLに勝ち切れなかった事もショックだった。しかし、それを自身の実力・経験不足では無く、「相手の運が良かっただけ」としてしまった。また、「相手に有利で地震に不利な誤審があった」という意見もあり、実際にNPB・TPBL・MPBAに抗議しているが相手にされなかった。逆に、3者から「危険行為をするな」という忠告を喰らったが、KBOは聞く耳を持たなかった。

 

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 1991年、1993年も無事に大会を行う事が出来た。優勝チームはそれぞれ西武、新京ジャイアンツだった。

 だが、1993年の第4回大会はTPBLにとって歴史的な大会となった。初めて決勝に進んだ為である。

 

 第4回大会の出場チームは、NPBはヤクルトスワローズ、TPBLは台南台糖カブス、MPBAは新京、KBOはヘテとなった。優勝候補は、ID野球でペナントレース・プレーオフ・日本シリーズを制して初めての日本一に輝いたヤクルトか、何度も満州シリーズを制している新京のどちらかと見られていた。

 しかし、予選の結果、ヤクルトが3.5勝2.5敗、台糖が4勝2敗、新京が4.5勝1.5敗、ヘテが0勝6敗となり、決勝進出は台糖と新京になった。ヤクルトの敗因は、台糖の投手陣を攻略出来なかった事による貧打だった。

 決勝戦は、最初から両チームの打線が爆発した。1回表に新京の先頭打者が初球にホームランを打つと、その裏に台糖が2者連続ホームランで逆転した。その後、両チームはヒットを打ち続け、最終的に41本の安打が出たが(新京:16本、台糖:25本)、試合結果は14-9で新京が勝利した。台糖の敗因は、安打数こそ多いものの、要所要所で新京の投手に止められた事で流れを呼び込めなかった事にあった。

 

 TPBLは敗れたものの、初めて決勝の舞台に立てた事の歓喜は大きかった。決勝戦の視聴率も、台湾で行われた事もあり40%越えを記録した。

 だが、攻めの甘さによって安打数の割に点を取れなかった事、投手陣が踏ん張り切れなかった事を指摘された。これについては台糖及びTPBLも認識しており問題解決を急ぎたかったが、この年に新リーグである太平洋職業野球連盟(PPBL)が始まった事で、選手の獲得や引き抜きなどの問題が多発した為、解決の方が最優先となり、技能の改善は中断する事となった。

 この余波は長引き、21世紀に入るまで台湾プロ野球はアジアシリーズで好結果を残す事が減る事となった。

 

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 1994年、翌年の大会で新たな試みとして出場チームの拡張が検討された。この予定では、比較的野球が盛んな中華民国(海南島)・フィリピン・ベトナム(※)・オーストラリアの4か国の招待となっていた。「アジアシリーズ」と銘打っておきながら、4か国のみというのは寂しかったし、「アジア地域での野球振興」がアジアシリーズの目的の一つの為、現状で野球が比較的盛んな国の参加を求めた。

 3か国からの返事は、条件付きながら賛成だった。各国の条件は殆ど同じで、「渡航費用は相手持ち」と「自国の野球振興の費用の肩代わり」だった。

 この要求に対し、日台はフィリピンとオーストラリアの、満州はベトナムの支援を表明し、海南島については3国で共同で出す事となった。海南島と3国の関係は控えめに言って良好と言えない為、3国による共同支援という形にした。

 尚、支援の動きに対して韓国は資金不足から何も出来なかった。

 

 翌1995年、第5回アジアシリーズが日本で開催された。出場チームは、NPBが阪急、TPBLが台北台湾時報イーグルス、MPBAが鞍山、KBOがLGベアーズとなった。海南島(CPBL)は統一ライオンズが出場し、オーストラリア(ABL)はリーグ選抜チームが編成され、フィリピンとベトナムはプロリーグが存在しない事からアマチュアによる選抜チームが編成された。

 8か国と多くなった為、この年から開催方法が以下の様に変更された。

 

・予選として、4チーム×2ブロックに分け、ブロック内で2試合の総当たり戦を行う。ルールは今まで通りとする。

・ブロック内で勝ち数が多かった2チームが準決勝進出。勝ち数で決まらなかった場合の取り決めは今まで通りとする。

・準決勝も2試合の総当たり戦を行い、上位2チームが決勝進出。ルールは予選に準ずる。

・決勝戦は今までと同じ方法で行う。

 

 ブロック分けによって、Aブロックには日本・韓国・ベトナム・オーストラリアが、Bブロックには満州・台湾・海南島・フィリピンとなった。

 予選の結果、Aブロックから日本とオーストラリアの出場が確定した。ベトナムは、オーストラリアと勝敗数・直接対決の勝敗数が同じだったが、得失点差(オーストラリア:+3、ベトナム:+1)で惜しくも敗れた。しかし、対日戦では勝ち越しており(オーストラリア:0.5勝1.5敗、ベトナム:1勝1敗)、どちらが勝ってもおかしくなかった。

 Bブロックの結果は、満州と台湾となった。こちらは順当な結果と言えたが、フィリピンが満州から1勝した事はMPBAにとって意外だった。勝手に格下と考えていたが、「勝負は時の運」であると考え直した。

 

 準決勝は日本・オーストラリア・満州・台湾となった。オーストラリアを除けばアジアシリーズ発足時の加盟国であり、プロ野球の歴史も長い。そうなると、技術面ではこの3国が上だが、その中だと台湾が下だった。

 結果もそうして表れ、上位2チームは日本と満州だった。オーストラリアは満州に、台湾は日本にそれぞれ1勝して意地を示した。

 決勝は阪急と鞍山の一騎打ちとなった。偶然か共にチーム名は「ブレーブス」であり、日満のマスコミは共に「勇者の決闘」と宣伝した。

 試合結果は、阪急が7-3で鞍山を破って優勝した。この年、阪神・淡路大震災で以前の本拠地だった西宮市は大きな被害を受け、現在の本拠地である京都市でも被害が生じた。この年のナ・リーグ優勝チームのオリックスと共に震災復興のシンボルとなり、阪急のアジアシリーズ制覇は大きな象徴となった。




※:満州からの経済進出や技術提供、満州への移民からの情報で、社会人野球が盛んになった。その後、学生野球が盛んになり、20世紀末には社会人野球リーグや学生野球リーグが行われている。


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番外編:アジアシリーズ③

 1995年までアジアシリーズは盛況だったが、1997年からは冬の時代となった。同年7月のアジア通貨危機によって東アジア・東南アジア諸国が経済危機に陥った。特に被害が大きかった韓国とフィリピンでは、一時はアジアシリーズ出場が危ぶまれたが、この年は何とか出場した。

 しかし、1998年からの極東危機によって、1999年大会の開催は難しいと見られた。年が明けても落ち着く様子が見られなかった為、1999年4月に同年の大会は実施しない事がアナウンスされた。

 アジア通貨危機による経済危機だが、フィリピンは何とか持ち直したが、韓国は無理だった。アジア通貨危機を発端とした政変と周辺諸国の軍事的緊張に釣られる形で反日気運が爆発し、軍事的暴発の一歩手前まで行ってしまった(極東危機)。これに伴い、韓国は日米などから経済制裁を受け、国内の主要企業が軒並み倒産した。球団を保有していた財閥も例外では無く、1998年シーズンを以てKBOは事実上終了してしまった。

 

 この間、台湾プロ野球ではTPBLとPPBLを統括する台湾統一プロ野球委員会(TUBC)が組織され、両チームがTUBCの傘下に入った。これ以降、台湾の出場チームはTPBL優勝チームから台湾シリーズ優勝チームに変更となった。PPBLからの初出場は、2003年の第7回大会(1999年は行われなかった為、回次が存在しない)の台北ジャイアンツとなった。

 オーストラリアでは、1999年にプロリーグであるオーストラリアン・ベースボールリーグ(ABL)が経営難で消滅し、後を継ぐ形となったインターナショナル・ベースボール・リーグ・オブ・オーストラリア(IBLA)も経営難に喘いでいた。そこをTUBC・NPB・MLBが支援した事で、経営は好転した。

 現在は、名称をABLに変更しており、NPBや独立リーグ、社会人野球、マイナーリーグ出身者が加入したり、逆にABLから送り出すなどして技術の底上げを行っている。2010年にはエキスパンションが行われ、8球団から12球団に拡張された。

 

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 2000年は周辺の環境が収まってきたので、2001年の第6回アジアシリーズは実施する事が宣言された。だが、アジア通貨危機と極東危機で韓国が再起不能となり、大会への参加は不可能だった。その為、別のチームを呼ぶ事になるが、どの国にするかが問題だった。日本と台湾は他の東南アジア諸国、具体的にはタイかインドネシアを考えていたが、満州がロシアを挙げた。

 ロシアは、満州の影響で沿海州に限っては野球は比較的盛んに行われている。満州で行われている北亜都市対抗野球大会で何度も出場しており、何度か優勝している。MPBAに行った選手も多数存在し、もしMPBAがエキスパンションを行うのであれば、ウラジオストクかハバロフスクが最有力と見られている程である。

 

 太平洋戦争終戦直後の出来事から日本とロシアの関係は最悪だったが、極東危機によって日露が協力する事で軍事的衝突を抑えた経緯があり、その結果、日露関係が緩和に向かっている。日本としても、ロシアは東南アジア諸国に次ぐ候補と考えており、タイ・インドネシア両国が拒否したら声を掛ける事とした。

 タイとインドネシアだが、両国とも拒否した。マイナースポーツで競技人口が少ない為だった。また、暫くは国内の政治・経済を安定させる必要がある為、新たにスポーツをする余裕が無かった。

 一方のロシアは、経済危機を乗り切った事、満州の好景気に釣られる形で経済復興が進んでいる事から、アジアシリーズの参加に乗り気だった。日本としても、タイ・インドネシアが拒否した為、ロシアの参加を認めた。日本と満州が認めた為、他の国もロシアの参加を認めた。2001年大会からロシアも参加する事となった。

 

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 2001年以降も大会は続いている。第10回大会となった2007年は、今まで行われた日本や台湾では無く、満州で行われた。満州としては初めてのアジアシリーズの主催となり、盛大に行われた。大会は成功し、以降の開催国は日本・台湾・満州の順で行われる事となった。

 尤も、この3国ぐらいしか国際大会で使用出来る野球場が無い事が大きかった。他の国では整備する事は難しく、整備したとしても恒常的に運用しなければ無用の長物となる為である。

 参加国の方も増加した。第10回大会にはタイとミャンマーが参加し、第13回大会から北朝鮮とインドネシアも参加した。2019年現在、参加国は12か国となっており、予選の方法も第13大会から以下の様に変更となった。

 

・予選は4チーム×3ブロックに分け、2回ずつの総当たり戦を行う。

・ブロック内の1位のチームが準決勝進出となる。

・各ブロックの2位のチームの内、成績が良い2チームによるワイルドカードゲームを行う。勝利したチームが準決勝進出となる。

 

 この変更により、今まで以上に2位争いが熾烈になった。今までであれば、2位までに入れば準決勝に進めたが、この変更により2位でも勝利数が少なければワイルドカードゲームに進めなくなる為、良い成績を出す為に試合に熱が入った。

 ワイルドカードからの優勝は今まで1回しか無い。2017年に台湾で開催された第15回大会で、台湾の彰化エレファンツがワイルドカードとして準決勝に進出し(他の出場チームは日本・ベトナム・オーストラリア)、準決勝2位で決勝進出を果たした。決勝では日本の福岡ソフトバンクライオンズと対戦し、8-7で下して優勝した。

 

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 目的の一つである「アジア地域の野球振興」も進んでおり、フィリピンでは2005年からプロリーグが始まった。当初は6球団だが、2014年には8球団体制となっている(史実では2007年発足)。MLBやTUBCと連携しており、技術面の向上も見られている。プロリーグ発足前はタイやベトナムに遅れを取っていたが、2010年頃から成績が向上し、準決勝進出も果たしている。

 タイ・ベトナム・インドネシア・ミャンマーでは、プロリーグこそ発足しなかったものの、学生野球や社会人野球の発展が著しかった。経済成長による企業の隆盛に乗じる形で、企業の社会人野球進出が進んだ為である。学生野球や社会人野球のリーグも発足しており、将来的にはプロリーグも発足するのではと見られている。

 オーストラリアでは、2010年にIBLAの名称がABLに変更となった。TUBC・NPB・MLBによる支援以降、プロリーグや独立リーグ、マイナーリーグ、社会人野球出身者が加入したり、逆にABLから送り出すなどして技術の底上げを行っている。2016年にはエキスパンションが行われ、8球団から10球団に拡張された。

 現在参加していな国でも、マレーシアや香港、カンボジアでもアマチュア野球が徐々に広がりを見せている。アジア地域の野球振興は成功していると言っていいだろう。

 

 一方、2006年から始まったワールド・ベースポール・クラシック(WBC)だが、NPB・TUBC・MPBA共に既にアジアシリーズを行っている事、3月に行う事、アジア限定だが野球振興をしている事から、参加を拒否している。その為、WBCは米州とヨーロッパが中心となり、大本命だった日台満の参加は叶わなかった。

 その結果、興行的にはお世辞にも成功とは言えず、アメリカ国内でも盛り上がりに欠けていた。中南米や西ヨーロッパでの野球振興にはある程度繋がったが、当初予定されていた程の成功を収める事は出来なかった。

 アメリカの失敗は、当初はアジアシリーズに参加しようと打診した際に、MLB主導に持ち込もうとした事である。これに日台満が猛反発し、アジアシリーズの恩恵を受けている参加国も反対した。また、考え方の違いもあり、アジアシリーズはナショナルチーム又はプロリーグの優勝チーム同士の対戦であるが、アメリカの構想ではナショナルチームだけという事から、NPB・TUBC・MPBAの賛成を得られなかった。その結果、アメリカが反発しMLB主導の野球の国際大会を行う事となり、それがWBCとなった。

 しかし、アメリカに次ぐ野球大国の日本と台湾を呼び込めなかった事、アジアシリーズ参加国を呼び込めなかった事で「アメリカとその他」という構図となり、参加国のモチベーションが上がらなかった。MLBとしても、シーズン直前に行う事、張り合いが無い事で今一つ盛り上がらず、国内市場だけでも充分だった事もあり、スポンサーがコロコロ変わる事が多かった。

 WBCは現状、成功しているとは言い難い。MLBは参加国及び周辺国の野球振興の為に支援を行っており、ブラジルやスペイン、イギリスなどでは徐々に協議人口が増加しているが、まだマイナースポーツの域を出ていない。アメリカ国内の人気も今一つの為、廃止の動きも見られている。



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番外編:この世界の航空関係①(東アジア)

〈東アジア(旧西側)〉

・韓国

 経済発展が遅れている為、大韓航空以外の航空会社が存在しない。同様に、国内の空港整備も遅れており、仁川・務安・襄陽の各国際空港、蔚珍・金提の各空港は建設されていない。一方で、それ故に史実では旅客運用が終了した木浦・束草・江陵の各空港は存続した。

 

 保有している機材はボーイング737とボーイング747、フォッカーF28とその改良型のフォッカー100の4機種だが、資金不足や極東危機による日米からの経済制裁などで機体の更新が進んでおらず老朽化が著しい。ボーイング737は737クラシック(300、400、500)で、ボーイング747も747クラシック(100、200、300)とどちらも2世代前の機体となっている。その為、老朽化が著しいだけでなく、燃費の悪さや騒音、環境配慮などに適応出来ていない。

 その為、新機材導入の計画が立っているが、資金不足や経済制裁の影響でアメリカ製航空機(ボーイング、マクドネル・ダグラス)及びヨーロッパ製航空機(エアバス)の新品購入はほぼ不可能となっている。ロシアも同様の措置を採っており、新機材導入はほぼ絶望的となっている。

 しかし、中古機の導入についてはアメリカは認めている為、世界中から737と747を買い漁って備品供給体制を構築して、何とか飛ばしている状況にある。

 

 国内の高速鉄道網が整備されていない為、国内線はそこそこの頻度がある。これは、整備性が高く運用コストが低いフォッカーで運用している為である。737は、幹線(ソウル釜山線)以外の運用は少ない。

 一方、国際線は前述の機体の古さから乗り入れが年々困難な状況となっている。日本便とアメリカ便は経済制裁や国家間の関係からソウルと成田・関空・ニューヨーク便以外を飛ばせていない。それ以外の西側諸国と東側諸国の便も少ないが、例外的に中華人民共和国(大陸)と中華民国(海南島)だけはそこそこ飛ばしている。

 

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・中華民国(海南島)

 こちらも経済発展が遅れているが、航空会社は中華航空(チャイナエアライン)とマンダリン航空の2社存在する。

 このマンダリン航空は史実のとは異なり(史実のはチャイナエアラインの子会社)、民航空運公司(CAT)が改編したものとなる。史実のCATは、1968年の事故や脱税、外資色の払拭(CIAの支援で存続していた)などから1975年に会社を清算して消滅した(実際には、1968年の事故で唯一保有していた国際線用の機体を失った事で国際線を運航出来なくなり、収入減も無くなって順次縮小していった)。

 この世界では、外資色の払拭の際に、新興民族資本(=国民党との繋がりが弱いか比較的新しく構築したもの)を受け入れ、中小国内航空会社を統合して存続した。その際、CATの名前を消して「マンダリン航空」に改称した。「マンダリン」の由来は、CAT時代によく使っていたフレーズからである。

 

 海南島はアメリカの影響力が強い為(というより、日米に枷を嵌められて自由に動けない状況)、保有機材は全てアメリカ製(一部日本製)となっている。しかし、比較的新しい機体の購入は許可されている為、韓国程酷い状況にはなっていない。

 チャイナエアラインは、ボーイング747とボーイング777、ボーイング737、ボーイングMC-2を保有している。だが、747(400)は老朽化や運用コストの関係から廃棄が進んでおり、代わりに777を増やしている。

 マンダリン航空は、大型機としてMD-11とMD-12、小型機としてMD-14とMD-15の4機種を保有している(ボーイングMC-2及びこの世界でのMDシリーズについては『番外編:この世界の日本製旅客機の開発事情』参照)。主力はMD-11とMD-14であり、前者は中長距離国際線用、後者は近距離国際線及び国内線(海口湛江線、海口三亜線)で使用されている。MD-12は長距離国際線(北米、ヨーロッパ方面)、MD-15は国内線専用となっている。

 

 国内線は、海口湛江線と海口三亜線が幹線となっている。それ以外にも東沙線や西沙線が存在するが、週2本程度しか運行されていない。「自国の領土である」という証明以上の目的が無いのである。

 国際線は、北米線やヨーロッパ線、東南アジア線は比較的多いが、日本線と台湾線は主要国際空港以外には就航していない。また、国交を結んでいない事から、中国線と満州線は運行していない。

 

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・台湾

 FSC(フルサービスキャリア)として台湾航空とエバー航空、LCCとしてタイガーエア台湾とVエアが存在する。この内、タイガーエア台湾は台湾航空系の、Vエアはエバー航空系となっている。

 台湾航空は1956年に設立された元国営航空会社だが、1990年代に民営化した。その後、近距離国際線と北米線を中心に拡大し、2010年にタイガーエアと合弁で「タイガーエア台湾」を設立して翌年に就航した。

 エバー航空は、1984年に国内の中小航空会社を長栄海運グループが買収、統合して設立された。その後、台湾第2の航空会社として発展し、2012年にLCC用に設立したのが「Vエア」だった。

 

 日米との繋がりが強い為、保有機材も大型機はアメリカ製、小型機は日本製となっている。この内、台湾航空はボーイング機が、エバー航空はマクドネル・ダグラス機が主力となっている。

 台湾航空は、ボーイング737とボーイング767、ボーイング777、ボーイング787、ボーイングMC-2、ボーイングBM-1を保有している。MC-2とBM-1は国内線及び近距離国際線に投入され、残りは国際線に投入されている(737は近距離線、767、777、787は近距離高需要線及び中長距離線)。

 エバー航空は、MD-95、MD-14、MD-15、MD-11、MC-2を保有している。MD-15とMC-2が国内線に、残りが国際線に投入されている(95と14が近距離、11が近距離高需要線及び中長距離線)。

 

 領土が台湾と澎湖列島であり、既に新幹線が開通している事から、国内線の需要は大きく減少した。実際、かつては国内最大の幹線である台北高雄線を2社で40往復飛ばしていたが、2005年の台湾新幹線の開業で5年後には全便消滅した。それ以外の台湾西岸を飛行する便(台北台南線、台北台中線など)も数年で消滅した。残っているのは、澎湖列島を結ぶ線と東岸への路線、南部の恒春への路線程度であり、それらもMC-2やBM-1、MD-15などリージョナル機で間に合う需要でしかない(繁忙期でも737程度の需要)。

 一方、国際線については多数飛ばしている。日本には主要都市だけでなく、地方都市にも多く飛来している。特に、近年の観光需要の高まりから、LCCが地方路線を多数開設している。

 他にも、東南アジア線や北東アジア線(特に満州線)、北米線を多く飛ばしている。近距離かつ発展著しい東南アジア線と北東アジア線はLCCも多く開設しているが、北東アジア線は中国が台湾の存在を認めていない事から中国上空を飛行出来ず、東シナ海・黄海上空を飛行するルートとなっており若干遠回りとなる為、LCCは満州線以外は運行していない。

 

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・他の東アジアの国(チベット、香港)

 首都・ラサや第二の都市・シガツェ、西部の要衝・ガリに空港が置かれている。これらの空港は、米軍やインド軍も駐留している。

 航空会社はチベット航空のみで、保有機材はボーイング737やMC-2である。国内の空港と近隣諸国(中国を除く)を結ぶ路線のみ存在し、中長距離国際線は海外の航空会社に一任している。

 

 香港は、キャセイグループについては史実通りだが、中国線が少ない。

 

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〈東アジア(旧東側)〉

・中国

 中国民航(民航)が6社に分割しないで、単独で民営化する(尤も、株式は100%政府保有の為、実質変わらない)。その為、中国国際航空、中国東方航空、中国南方航空は存在しない。また、民航総局による新規参入の認可も下りなかった為、上海航空や海南航空などの航空会社も存在しない。

 その代わり、中国聯合航空(聯航)が上海航空や海南航空など地方航空会社の代わりに拡大している。この会社は1986年の年末に設立された会社だが、母体が人民解放軍空軍であった。人民解放軍は「自力更生」の下、軍による経済活動が行われており、これもその一環だった。

 史実では、人民解放軍の経済活動に制限が加えられて2002年に運行停止の後、2005年に上海航空の傘下に入りLCC化して存続している。この世界では、人民解放軍の人脈や伝手で拡大し、史実の上海航空グループ、海南航空グループなど民航系の流れを汲まない航空グループを合わせた程度の規模となっている。

 LCCは存在しない。中国そのものの経済発展が遅れ気味で、航空移動が一般的でない為である。

 同様に、国内の空港整備も遅れ気味で、上海浦東や北京大興など20世紀末以降に開港した空港は軒並み存在しない。また、既存の空港の設備の拡張もそれ程進んでいない。

 

 台湾関係から日本との関係は悪く、アメリカとの関係も良くない。一方で、イギリスやフランスなどヨーロッパとの関係は比較的良い為、民航・聯航共にヨーロッパ製が多い。かつてはソ連機や自国製を使用していたが、現在は小型機に残る程度となっている。

 共に、国内線及び近距離国際線用にBAe146とエアバスA320シリーズ、中長距離用にエアバスA300とA330、A340を保有してる。しかし、資金不足から新型機の導入は遅れ気味であり、A330とA340の導入は進んでいない。また、A320とA300は初期型の為、そろそろ新型に替える必要がある。

 

 国内線は、領土の広さと高速鉄道網の未整備から本数は多い。特に、北京、上海、広州、西安、成都を結ぶ幹線の需要は高い。地方路線はそこまで多くないが、路線数自体が多い為、保有機材も多い。

 国際線は、北京、上海、広州、西安、成都からのみ離発着している。日本及び周辺国との関係が悪い事から、日本線、北東アジア線、東南アジア線、インド線の運航は少ない。北米線や旧ソ連線はアジア線よりは運行されているが、それでも多いとは言えない。一方で、繋がりが強い西ヨーロッパ線は多数運行され、ベルリン、ローマ、パリ、ロンドンなどに毎日運航している。

 

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・満州

 元国営会社の満州航空、元チャーター便専門会社兼軍関係の輸送会社のトランスアジア航空(旧名・遠東航空)、民主化前の1988年に設立された満州初の純民間航空会社のアシアナ航空の3社がFSCとなる。LCCは21世紀に入ってから設立され、ティーウェイ航空、イースター航空、ジェットスター・マンチュリア(満州航空との合弁)が存在する。また、コミューター会社として満州コミューター航空(MCA)が存在する。

 首都・新京には中心部に近い新京大屯空港と新京大房身空港、郊外の新京龍嘉空港の3つが存在する。この内、大屯は国内線専用、大房身は龍嘉開港前までは国際線が発着していたが、現在は国内線専用となっている。龍嘉は大屯と大房身の混雑緩和を目的に建設され、1994年に開港した。規模は3500m級2本であり、更に2本の滑走路を追加する予定となっている。因みに、大屯は2500m級1本、大房身は2800m級1本と2500m級1本となっている。

 

 ソ連の衛星国であり、現在もロシアの影響力が強い事から、満州航空とトランスアジア航空はロシア製の機体が多い(この世界のロシア製航空機は、史実よりも性能が高い)。一方、アシアナ航空は民主化を見越して設立された為、当初から西側製の機体を採用している。

 満州航空とトランスアジア航空は、近距離国際線及び国内線用にTu-204とTu-214、国際線用にIl-86、Il-96、An-218などを保有している。1990年代後半にアメリカに接近した事からボーイング機の導入が計画されたが、その後の極東危機や政変、ロシアによる衛星国化の強化などで計画は頓挫、以降もロシア機・ウクライナ機以外は導入していない(自国製の旅客機はライセンス生産のみ)。

 アシアナ航空は設立当初、西側諸国の機体の導入を積極的に行った。最初に導入した機体はA310であり、国内線(新京大連線、新京奉天線)からスタートした。その後、国内幹線や国内準幹線、近距離国際線に進出し、機体もA310やA300、A320、A330などと増やしていった。現在、国内線及び近距離国際線用にA320グループとボーイング737、国内幹線及び国際線用にA330とボーイング777を導入している。

 LCCの方は概ね1機種だが、会社毎に採用機種が異なる。ティーウェイはTu-204、イースター航空はボーイング737、ジェットスターはA320をそれぞれ使用している。

 MCAは、満州航空とトランスアジア航空が保有していたコミューター路線の受け皿として設立された。その為、保有機材はAn-32、An-38、Yak-40、Yak-42、An-74、SSJ-100(スホーイ・スーパージェット)などリージョナル機を保有している。

 

 国内線は、新京を中心に各都市を結ぶ路線が多い。特に、新京大連線と新京奉天線が幹線に指定されており、国内有数の本数と輸送量を誇る。それ以外にも、哈爾浜線や斉斉哈爾線、佳木斯線なども本数が多い。近年では高速鉄道網の整備が行われているが、それ以上に経済発展による移動者の増加が見込まれる為、利用者は増加すると見られている(例外的に、直線距離で約250㎞しかない哈爾浜線は大きく減ると見られている)。また、国際線の運航も増加している為、国内の多くの空港で機能強化の為の工事が行われている。

 その国際線は、歴史的経緯から旧ソ連や東欧、北東アジア、東南アジア(ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマー)、アフリカへの路線が多い。近年では、西ヨーロッパや東アジア(日本、台湾)、北米、他の東南アジアへの路線も増やしている。

 一方で、中国と韓国への路線は設定されておらず(共にロシアを経由する必要がある)、中華民国線も21世紀になって漸く運行が開始された(新京海口線、週4便)。

 

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・他の北東アジア諸国(北朝鮮、モンゴル、プリモンゴル、ウイグル)

 北朝鮮は、高麗航空以外の航空会社が存在しないのは史実通り。だが、保有機材はAn-148、Tu-204、Tu-214、Il-86など比較的新しいものを使用しているが、Yak-40やTu-154、Il-62など旧式な機体も残っている。

 国内線は、平壌清津線が幹線だが本数が多くない。それ以外の路線も存在するが、近距離である事や就航先の都市の人口の少なさから、本数が少ない。その為、国内線はYak-40やAn-148などリージョナル機で運行されている。

 国際線は、近隣の満州やロシア極東部への路線が多い。特に新京線や奉天線、ウラジオストク線の本数が多い。それ以外の旧ソ連線や北東アジア線、東欧線、東側の東南アジア線なども運行している。21世紀に入ってから、日本線や中国線の就航が進んでいる。

 

 モンゴルはほぼ史実通りだが、保有機材がロシア製・ウクライナ製で固められている。また、中国線が存在しない代わりに、満州線や北東アジア線が充実している。

 

 プリモンゴルは、元国営のプリモンゴル国際航空(PMIA)と民主化後に設立されたウブル航空の2社が存在する。保有機材は、前者がTu-204、Tu-214、An-214、後者がAn-32とAn-38となっている。An-32とAn-38はターボプロップ機であり、国内の小規模空港向けに運用されている。

 そもそも、ウブル航空が設立された経緯は、PMIAの国際線特化に伴う国内線縮小に対応する為、国内線の受け皿として設立されたのである。

 その為、PMIAは国際線、ウブル航空は国内線と分けられている。尤も、ウブル航空は近隣の国際線も存在し、モンゴル線や満州線を運航している。

 

 ウイグルも、プリモンゴルとほぼ同じ状況となっている。元国営で国際線を運航するウイグル国際航空(UIA)、民主化後に設立され国内線と周辺国との近距離国際線を運航する崑崙航空と天山航空が存在する。

 保有機材は、UIAがTu-204、Tu-214、An-214、崑崙と天山がAn-32、An-38、Yak-40となっている。

 

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〈この世界のソ連・ロシア機について〉

 史実のソ連・ロシア製の機体は西側の機体よりも低性能だが、この世界ではソ連自身の自助努力と満州の存在による東側全体の技術革新のスピードが速まった事で、史実よりも性能が良い。それでいて低価格の為、旧東側とアフリカを中心にそこそこ広まっている。

 また、史実よりも就航時期が早かったり、史実とは異なる機体となったものも存在する。他にも、ロシアとウクライナの関係が良好なままの為(正確には、ウクライナがロシアの影響下から脱しようと動いたが先手を打たれて失敗、再衛星国化された)、ウクライナ製の機体の導入が容易となり、また同じタイプの機体の開発も行われていない(An-178とIl-214など)。

 

 Tu-204は、史実では1989年から生産が開始されたが、この世界では1985年から生産が開始された。生産時期が早かった事で東欧圏の航空会社もTu-154の後継機として採用しており、旧ソ連・東欧・北東アジアの小型機と言えばこれと言われる程となった。

 現在もエンジンやアビオニクスを改良したタイプの生産が行われており、途上国への売り込みも積極的に行っている。ボーイング737やボーイング757、A320のライバルとなっている。

 

 Tu-214は、史実ではTu-204のマイナーチェンジ版だが、この世界では「ツポレフ版ボーイング767」と言える機体であり、Tu-204をワイドボディ化した機体となる(3-3を2-3-2に拡大)。ライバルとしてはボーイング767やA300だが、1997年就航開始と遅れた為、Tu-204と比較すると商業的にはやや苦戦している。それでも、価格の安さやTu-204と設計が共通な事から旧ソ連や北東アジアでの利用があり、Il-62の後継機としてある程度の地位を得ている。

 

 Il-86は、史実ではエンジンの性能の低さから大型機としては航続距離が短い事で敬遠され、ソ連以外では殆ど採用されなかった。その為、更新予定だったIl-62が残り続け、逆にIl-86は早期に退役となった。

 この世界では、高性能エンジンの開発と生産が早まった事で、当初予定の性能を出す事に成功したこれにより、ソ連や東欧、北東アジアにおける大型機としての地位を確立した。現在は、ストレッチタイプの生産やエンジンの転換、グラスコックピット化などの近代化改装を施したタイプに切り替えられているが、後述のIl-96やAn-218への置き換えが進んでおり、2005年に生産ラインが閉じた。総生産数は約250機だった。

 

 Il-96は、Il-86の改良型として生産されたのは史実と同じだが、この世界では座席配置の変更をした為(3-3-3から3-4-3)、若干幅が広くなっている。この結果、2クラスで400人以上運べる大型機となった。

 就航開始が1990年と遅かったが(これでも史実より2年早い)、ソ連や満州で導入された。現在も改良型の生産が行われており、特に経済発展著しい満州とベトナムからの注文が多い。旧東側での大型機の新たな定番となりつつある。

 

 An-218は「ソ連版ボーイング777」と言うべき機体だったが、提案が出されたのが1991年だったのが拙かった。同年にソ連が崩壊し経済は混乱状態となり、1990年代半ばに計画は破棄された(この時、設計の約8割が完了)。

 この世界では、Il-86の成功による共産圏での航空需要の高まりから大型機の設計を促進する様に支持された。また、ソ連・満州の共同設計で1986年に設計が完了し、1990年に試作機が完成した。その後、ソ連崩壊による混乱で生産が遅れたものの、1993年には量産体制が整い、アエロフロートやウクライナ航空、満州航空などへの納入が開始された。

 現在は、グラスコックピット化やエンジンの転換などの改良型の生産に移行しており、Il-96と共に旧東側での大型機の主流となっている。



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番外編:この世界の航空関係②(その他地域)

〈東南アジア(旧東側=ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー)〉

 概ね史実通りだが、機体がソ連製とその後継のロシア製・ウクライナ製になっている。最近では西側製の機体の導入も行われているが、未だに多くはロシア製・ウクライナ製である。

 

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〈南アジア・西アジア・アフリカ〉

 パキスタンは、この世界では東側に所属している為、機体はソ連製が多かった。現在は、旧西側(特にヨーロッパ)との関係が改善されつつある為、エアバス機の導入が進められている。

 アフガニスタンは、長距離国際線が主体の「アリアナ・アフガン航空」と、国内線及び近距離国際線が主体の「バフタル・アフガン航空」の2社が存在する。元々アリアナ1社だったが、1967年に国内線用にバフタルが分離された。共に機体はソ連製で占められている。

 

 イランは、イスラム革命が発生しなかった為、西側のままとなる。フラッグキャリアのイラン航空を始め、多くの航空会社はボーイングやマクドネル・ダグラスなどアメリカ製の機体を導入している。

 イラクは、イランが西側に留まった事で、東側に支援を仰いだ。これにより、イラン航空の機材もソ連製が多くなった。その後、湾岸戦争で多くの機体が破壊されたが、その後の再建で西側製(ボーイング、エアバス)の導入が進んでいる。

 イエメンは、この世界では1971年に社会主義国として統一された。その為、保有機材もソ連製になった。

 

 ソマリランドと西サハラは、この世界では東側で独立した。その為、ソマリランドのフラッグキャリアの「ソマリランド国際航空」と西サハラのフラッグキャリアの「サハラ・アラブ航空」は、当初の保有機材はソ連製だったが、西サハラは東西の緩衝地帯でもあった為、後に西側(ヨーロッパ製)の機体も導入された。

 

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〈旧ソ連〉

 ソ連時代の自助努力による産業の効率化と満州の存在から、ソ連製航空機の性能は向上した。これにより、史実よりもソ連製の機体を採用する国が増え、ソ連が崩壊した後もロシア製やウクライナ製の機体を導入する国が多かった。

 

 ロシアは、アエロフロート・ロシア航空がフラッグキャリアだが、保有機材はロシア製が多い。アメリカ製やヨーロッパ製も保有しているが、全体の3分の1程度となっている。

 また、トランスアエロ航空が倒産せずに存続している。ロシア航空など多くの航空会社を統合した事で存続した。これにより、アエロフロートに次ぐロシア第2位の航空会社となった(史実で2位のS7航空は存在するものの3位に転落)。航空連合「ウイングス・アライアンス」に所属し、スカイチームのアエロフロート、ワンワールドのS7と合わせて、世界各地と航空網で繋がっている。

 

 それ以外の地域の航空会社は、保有機材でロシア製が増えている事を除けば史実通り。

 アルメニアは、史実では自国の航空会社が軒並み倒産してほぼ消滅したが、この世界ではアルメニア政府と満州航空、アエロフロートが共同で出資した新生「アルメニア航空」が2015年に設立された。これにより、約2年ぶりにアルメニアの航空会社が設立された。

 

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〈東ヨーロッパ〉

 史実では倒産したマレーヴ・ハンガリー航空とバルカン・ブルガリア航空が存続する。正確には、新旧分離を行って負債をチャラにしたので、法的には別法人となる。だが、社名や商標、従業員などは引き継がれた為、実質的には存続となる。また、これによりブルガリア航空は設立されない。

 

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〈西ヨーロッパ〉

 ドイツ以外は史実通り。

 

 この世界のドイツは、東西に分裂しなかった。その為、テーゲル空港は開港しなかった(テーゲルはベルリン封鎖が理由で建設された為)。その代わり、ガトウ飛行場が民間に解放され、「ベルリン・ガトウ空港」として整備される(3000m級2本)。また、早くからガトウとシェーネフェルトが整備され、中心部にあるテンペルホーフは拡張出来ないとして早くに国際線が廃止となった。だが、国内に近い事による利便性の高さからシャトル便が多く運行された為、史実の様に閉鎖とはならなかった。

 この世界にもインターフルーク(正式名称は「ドイツ国際航空」)は存在する。史実では東ドイツのフラッグキャリアだが、この世界では戦後に設立された新興航空会社として設立された。その後、LTUインターナショナルを統合して、ドイツ第2の航空会社となった。航空連合はワンワールドに加盟している。

 尚、東西分裂が無かった為、エア・ベルリンの設立経緯が異なる。史実では、西ベルリンへの乗り入れを目的に1978年に設立されたが(当時、西ベルリンにはドイツの航空会社が乗り入れ出来なかった)、この世界では格安航空会社として1995年に設立された。現在も存続しているが、同業他社のライアンエアーやイージージェットに遅れを取っている。

 

 ドイツは、自国で設計されたジェットエンジンを搭載した旅客機の設計を1950年代初頭からスタートした。その結果設計されたのがユンカース152だった。この機体は史実のバーデ152であり、史実ではソ連からの指示で試作機止まりとなったが、この世界では英仏に負けじと行われ、1956年には試作機が完成した。その後、改良が加えられて、1961年にルフトハンザから発注を受けて量産が開始された。

 小型機サイズという事もあり、プロペラ機で運行されていた近距離路線の更新として一定程度の需要があったが、数十機生産されただけで終了した。販売が振るわなかった理由として、この後に出たフォッカーF28の方が性能が優れていた事、小型機としては高価だった事、二度の世界大戦を引き起こしたドイツの航空機に対する抵抗感があった。

 その後、ユンカース152の反省を生かして改めて小型ジェット機の開発が計画されたが、最終的にはオランダのフォッカーとの共同開発に変更となった。その為、この世界ではVFW614は計画止まりとなった。

 

 その後、ドイツの航空機メーカーの統廃合は進み、1984年にメッサーシュミット・ベルコウ・ブロームがフォッカーと経営統合して「フォッカー・メッサーシュミット」となった。また、1995年に経営不振に陥っていたドルニエを買収して合併して「FMDエアロスペース」に改称した。

 これにより、ヨーロッパ有数の航空機メーカーとなったが、実態は弱者連合であり、生産している機体も小型のものばかりだった(ターボプロップ機のドルニエ228とドルニエ328、小型ジェット機のフォッカー100とフォッカー70)。特にドルニエ328とジェット機は他社との競合が激しく(ライバルはボーイング・三菱、マクドネル・ダグラス・大室、エンブラエル、ボンバルディアなど)、開発中のドルニエ728も小型ジェット機であり競合している。

 その為、FMDの経営は苦しいままとなり、EADS(現・エアバス)の設立は史実通りとなる。だが、開発中のドルニエ728が小型リージョナルジェット機「エアバスA200」として2003年から量産体制に入った(この世界ではA318が開発されていない)。A200の大まかな性能はA220とほぼ同じであり、ラインナップが70人用、90人用、110人用の3タイプ存在する。



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番外編:この世界の日本国内の状況
番外編:この世界でのプロ野球の状況(戦前~2リーグ分立まで)


ちょいちょいプロ野球に関する話があったので、ここら辺でこの世界のプロ野球事情について書いておきます。
私個人はプロ野球事情についてはド素人ですが、鉄道史をやるとプロ野球も関わってくるので、親会社の変移を見るとなかなか面白かったです。


[新日本専門リーグ所属チームの存続]

 新日本専門リーグは、日本野球連盟とは別個のリーグとして1936年に設立された。しかし、加盟チームが3つ(東京の東京ユニオン、名古屋のセントラルシチー中京、岐阜の岐阜イースタン)しか無く、日本野球連盟との対立もあったらしく、1年で解散となった。その後、岐阜イースタンはセントラルシチー中京を統合、神戸の移転の上で存続を図ったらしいが、その後の事は不明である。

 

 この世界では、1937年に新日本専門リーグは解散となったものの、東京ユニオンはクラブチームとして存続し、1938年には解散予定だった東京倶楽部を統合して、チーム名を「東京倶楽部」に改称して拡大した。しかし、選手の殆どが藤倉電線出身の為、大幅な戦力強化とはならなかった。その後、都市対抗野球大会に出場するも藤倉電線に敵わず本選に出場出来なかった。

 また、プロ野球チームになる事も捨てておらず、何度も日本野球連盟に加盟願いを出したものの、全て断られている。プロ野球チームになるには、戦後まで待たなければならなかった。

 

 もう一方の岐阜イースタンとセントラルシチー中京は、名古屋鉄道が買収して「名鉄野球部」となった。こちらは東京ユニオンと異なり社会人野球化によって存続した。こちらも都市対抗野球大会に出場したものの、名古屋には全名古屋や名古屋鉄道局といった強豪が多い事から本選出場は叶わなかった。

 また、こちらもプロ野球チーム化を目指していたものの、連盟の、特に同じ名古屋の名古屋軍と名古屋金鯱軍の強い反対で実現しなかった。それ処か、選手の引き抜きや吸収合併をしようとして来た。その後、戦後になってようやくプロ野球チームとなった。

 

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[黒鷲軍の大日新聞への売却の上での存続と西鉄軍の存続]

 史実では、黒鷲軍(旧・後楽園イーグルス)は大和鉄工所に売却されて「大和軍」と改称し、名古屋金鯱軍と翼軍(旧・東京セネタース)が合併して「大洋軍」となった。その後、大洋軍は西日本鉄道に売却され、「西鉄軍」と改称した。

 しかし、1943年に大和軍と西鉄軍は自主解散した。この翌年、残っていた6球団(東京巨人軍、阪神軍、阪急軍、南海軍→近畿日本軍、名古屋軍→産業軍、大東京軍→ライオン軍→朝日軍)も一時休止となり、戦後になるまで復活しなかった。

 戦後、大和軍の前身である後楽園イーグルスの復活を試みて関係者が「東京カッブス」を設立したが、一時休止前に自主解散した事を理由に、日本野球連盟への参入を許されなかった。その後、東京カッブスは消滅するものの、独立リーグである「国民野球連盟」を設立し「結城ブレーブス」として再スタートするのだが別の話となる。

 

 この世界では、黒鷲軍の売却先が大日新聞となった為、売却後に黒鷲軍は「大日軍」に改称された。また、西鉄軍と大日軍が1943年に自主解散せず、プロ野球全体が一時休止になるまで存続した。その為、戦後もすんなり復活した。

 戦後、プロ野球が復活した際、大日軍と西鉄軍も復活した。大日軍は「大日イーグルス」に、西武軍は「西鉄ライオンズ」となった。本拠地は、大日イーグルスが足立球場、西鉄ライオンズが春日原球場(後に平和台野球場に移転)となった。

 

 足立球場は、筑波電鉄が八幡駅に隣接する形で1938年に整備した野球場である。これは、阪神の甲子園球場や阪急の西宮球場の様に、鉄道沿線に野球場を誘致するものだったが、両球場の様に立派な設備は無かった。

 戦時中、黒鷲軍が大日新聞に買収され大日軍となった後、この球場を本拠地とする事となった。尤も、戦時中の為、試合はおろか練習さえ難しくなり、本拠地としてまともに使用される機会は殆ど無かった。結局、戦争後期には食糧不足から畑となった。

 戦後、プロ野球の復活に伴い、本拠地である足立球場の整備も行われた。この時、後楽園や甲子園に負けない設備にする事が決定し、1950年に3万5千人を収容出来る巨大スタジアムが完成した。

 

 春日原球場は、西鉄の前身の一つである九州鉄道が、1924年に春日に整備した野球場である。当時としては整備されており、史実の西鉄クリッパーズ(1951年に西日本パイレーツと合併して「西鉄ライオンズ」となる)が平和台を本拠地とする前まで本拠地としていた事から、それなりの規模を持っていたと想像出来る。

 

 尚、史実では戦後に発足した「東京カッブス」と「セネタース」は、この世界では発足していない。東京カッブスは後楽園イーグルスの、セネタースは東京セネタースの後継として発足したが、この世界では両球団は存続している為である。

 

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[南海急行電鉄による太陽ロビンスの買収]

 太陽ロビンスの名前は、1947年から1年間のみ使用された。翌年には『野球は点を取らなければならない』、『太った野球選手はいらない』というオーナーの言葉から「大陽ロビンス」に改称し、1950年に映画会社の松竹と提携して「松竹ロビンス」と改称した(本拠地は、京都の衣笠球場)。

 

 松竹ロビンスとなったその年、セ・リーグを制したものの、日本シリーズ(1950年から53年までは「日本ワールドシリーズ」と称していた。それ以降は「日本選手権シリーズ」)ではパ・リーグの毎日オリオンズに2勝4敗で敗北した。その後、ロビンスの成績は低迷し、1951年は4位となり、1952年には7位(当時のセ・リーグは7球団の為、最下位)になった。そして、1952年からは勝率を3割切ったチームには罰則が科せられる事が決定しており、ロビンスはその対象になった(1952年のロビンスの勝率は2割8分8厘)。

 これにより、1953年に大洋ホエールズと合併し「大洋松竹ロビンス」となった。表向きは対等合併だが、翌年には松竹が球団運営から撤退した。チーム名も1954年に「洋松ロビンス」に改称され、1955年に「大洋ホエールズ」に戻された。

 

 この世界では、戦後に近畿日本鉄道から分離独立した南海急行電鉄が、1948年に太陽ロビンスとの提携が成立した事により、「南急ロビンス」が成立した。本拠地は、南急沿線に1934年に造られた平野球場(架空)に置かれた。これに合わせて、平野球場の大改修が行われ、1950年に新装なった平野球場は収容人数3万5千人の大規模スタジアムになった。

 

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[国民野球連盟の存続]

 史実では、日本野球連盟への参入を断られた東京カッブスが、『日本でもアメリカと同じ様に2リーグ制を成立させるべきではないか』という意見を受けて、1947年に「国民野球連盟」が設立された。その際、東京カッブスは「グリーンバーグ」を経て「結城ブレーブス」となり、本拠地も東京から広島、茨城と移った。

 そこまでは良かったものの、野球場の手当てが付かなかった事(主要球場の使用が日本野球連盟所属の球団に優先された)、日本野球連盟との対立による有力選手の大量引き抜き、広告が全く無かった事、有力企業の後ろ盾が無い事による資金不足などから1年で解散してしまった。

 

 この世界では、戦後直ぐにゴールドスターと東京倶楽部、名鉄球団(名鉄野球部から改称)が、その翌年に熊谷ゴールデン・カイツ、京都団、全桐生が新規参入を目指していたものの、日本野球連盟の強い反対にあって全ての球団の加盟が断られた。

 反対の理由は、既に8球団(東京巨人軍、大日軍、阪神軍、阪急軍、近畿日本軍、朝日軍、産業軍、西鉄軍)存在する事から急激に増えると試合が組み難くなる事だった。それ以外にも、朝日軍はゴールドスターに選手を引き抜かれた事、東京倶楽部と名鉄野球部は戦前の確執があった事も、加盟反対の理由だった。

 こうして、日本野球連盟への加盟が断られた各球団だが、その一方で『新しいリーグを創り、そちらに加盟してはどうだろうか』という提案が出された。元々、2リーグ制の検討は戦前からされており、これを機に2リーグ制に移行しようというものだった。

 

 その様な経緯で、1947年に新規参入組によって設立されたのが「国民野球連盟」だった。この時参入したのは前述の6球団に加え、新規参入の大映球団、宇高レッドソックス、唐崎クラウン、大塚アスレチックスの4球団を加えた10球団だった。

 こうして国民野球連盟がスタートしたものの、問題は山積みだった。大口スポンサーが殆どいない事(大企業と言えるのが大映と名鉄、東京倶楽部を買収して「東急フライヤーズ」に改称した東京急行電鉄だけだった)による資金不足や野球場の手配、有力選手の不在などにより人気が全く無かった。その為、全桐生はゴールドスターに(同時に「金星スターズ」に改称)、大塚アスレチックスは大映球団に(同時に「大映アスレチックス」に改称)、宇高レッドソックスは名鉄球団に(同時に「名鉄レッドソックス」に改称)、京都団は唐崎クラウンにそれぞれ吸収された。余りの資金不足に、一時は連盟の廃止すら考えられた程だった。

 

 この状況が大きく変化したのは、1948年に毎日新聞が金星スターズを買収した事だった。毎日新聞は読売新聞からプロ野球参入の依頼を受けており、それに応えた形となった。毎日は一時は新規参入を検討していたが、経営危機にあった金星スターズを買収してプロ野球に参入した。これにより、金星スターズは「毎日オリオンズ」に改称し、本拠地を上井草球場に移した。後楽園球場にしなかったのは、西武鉄道から熱心な勧誘と球場の整備が約束された為だった。

 これに続く様に、同年にプロ野球参入を検討していた大洋漁業が熊谷ゴールデン・カイツを買収して「大洋ホエールズ」に、近畿日本鉄道が唐崎クラウンを買収して「近鉄パールス」に改称して参入した。また、翌年には新たに国鉄と広島の2球団が加盟した。これにより、国民野球連盟は廃止の危機を脱し存続が可能となり、日本野球連盟(略称「ジャ・リーグ」)と国民野球連盟(略称「ナ・リーグ」)の2リーグ体制が整った。

 

 その後、1950年に第1回オールスターゲームが開催(史実では1951年から開催)、そして、第1回日本ワールドシリーズが開催された。その栄えある第1回の選出チームは、ジャ・リーグが南急ロビンス、ナ・リーグが毎日オリオンズだった。

 日本シリーズの結果は、毎日オリオンズが4勝2敗で勝利、見事最初の日本一のチームに輝いた。

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この世界のプロ野球チーム(第1回日本ワールドシリーズ開催時)

【日本野球連盟】

東京巨人軍→「東京読売巨人軍(読売ジャイアンツ)」(後楽園)

大日軍→「大日イーグルス」(足立)

産業軍→中部日本→中部日本ドラゴンズ→「中日ドラゴンズ」(ナゴヤ)

朝日軍→パシフィック→太陽ロビンス→「南急ロビンス」(平野)

阪神軍→「大阪タイガース」(甲子園)

阪急軍→阪急ベアーズ→「阪急ブレーブス」(西宮)

近畿日本軍→グレートリング→「南海ホークス」(中百舌鳥→大阪)

西鉄軍→「西鉄ライオンズ」(春日原→平和台)

 

【国民野球連盟】

ゴールドスター・全桐生→金星スターズ→「毎日オリオンズ」(上井草)

大映球団・大塚アスレチックス→「大映アスレチックス」(後楽園)

東京倶楽部→「東急フライヤーズ」(後楽園)

「国鉄スワローズ」(新規参入:後楽園)

名鉄球団・宇高レッドソックス→「名鉄レッドソックス」(鳴海)

唐崎クラウン・京都団→唐崎クラウン→「近鉄パールス」(藤井寺)

熊谷ゴールデン・カイツ→「大洋ホエールズ」(西宮)

「広島カープ」(新規参入:広島総合)



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番外編:この世界でのプロ野球の状況(2リーグ分立直後~1970年代)

[武蔵野野球場の存続]

 武蔵野野球場は、武蔵野市にあった野球場である。中島飛行機の工場跡地に建設された野球場で、1951年に完成した。この球場が建設された時、神宮はGHQによって接収され使用出来ず、東京で使用出来る野球場が後楽園と上井草しか無かった。つまり、野球場の不足を緩和する為に建設された。収容人数約5万人、売店などの整備、広い更衣室など、現在の球場と比較しても見劣りする物では無い。

 

 しかし、開幕に間に合わせる為に突貫工事を行ったのが拙く、芝の整備が充分にされない状態で開幕となった為、風による砂ぼこりが酷かった。

 また、完成した翌年には、神宮の接収が解除され、川崎球場も完成した。1954年には駒澤球場も完成し、野球場不足は解決した事で、武蔵野野球場の価値は激減した。当時、武蔵野は田舎の雰囲気が抜けきれておらず、後楽園や神宮から遠いという印象があった。

 加えて、名称の問題があった。正式名は「東京スタディアム」、通称「武蔵野グリーンパーク野球場」としていたが、「武蔵野球場」や「三鷹球場」という名称も使われた事で、認知度が上がらなかった。

 これらの要因から、1951年に使用されただけで閉鎖となり、施設も1956年に解体となった。

 

 この世界では、西武鉄道が1952年に石神井公園~武蔵関~武蔵境を開業させた事で変化した。この路線は、この地域にあった大和航空工業武蔵野工場の専用線を流用したものだった。この路線の目的は、池袋線と新宿線の接続、孤立していた是政線(その後、武蔵境線を経て「多摩川線」になる)との接続、脆弱な南北間の交通の確保、そして武蔵野野球場への交通の確保だった。

 当初、この地域の路線は京王との対立から、全ての路線が認可されない可能性もあった。しかし、毎日新聞が西武の肩を持った事、中外側が京王に融資する条件としてこの地域の免許を全て破棄した事で、西武のこの路線に1951年に免許が下り、1年で開業させた。

 

 西武線の開業で、武蔵野野球場への交通は飛躍的に向上した。東京都心からの遠さ、グラウンドのコンディションの悪さなどがネックだったものの、1956年に毎日オリオンズが本拠地を上井草球場から移した事で、それ以降はナ・リーグの東京における主要球場として活用された。

 この頃、東京周辺でプロ野球の公式戦が行える球場は後楽園・足立・武蔵野・川崎・駒澤・上井草の6か所があった。この内、後楽園は巨人・大映・国鉄の3球団が本拠地とし、足立は大日が、武蔵野は毎日が、駒澤は東映が本拠地とした。川崎は球場の狭さが敬遠され、上井草は設備の貧弱さが敬遠された(西武は上井草を整備する事となっていたが、武蔵野が建設された事で白紙となった)。また、1959年には上井草が、1962年には駒澤がそれぞれ解体された。

 

 高度経済成長期以降、武蔵野地域の開発も進み、武蔵野地域や多摩地域にとっては「後楽園よりも行きやすい球場」として人気を博した。

 但し、関東で最大の人気を誇ったのが巨人であり、武蔵野ではジャ・リーグの試合は殆ど行われなかった為、ナ・リーグのファン以外で来客する事は少なかった。

 

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[両リーグの人気と実力]

 1948年、日本野球連盟(ジャ・リーグ)に対抗する形で国民野球連盟(ナ・リーグ)が成立した。当初はジャ・リーグの方が人気があったが、50年代後半以降は伯仲した。広告面では、ジャ・リーグは巨人、大日、中日が、ナ・リーグは毎日、サンケイ(1965年に国鉄から球団を譲渡)が親会社に新聞社が付いていた。また、ナ・リーグの大映と東映(1958年に東急から改称。但し、球団の保有は東急)は親会社が映画会社の為、映画館や上映中の予告などでも広告していた。

 その為、広告では両リーグは伯仲だったが、これに危機感を抱いた読売と大日は、大規模な宣伝を行う事で対抗した。1960年代から始まったテレビ中継では、ジャ・リーグは読売系の日本テレビと大日系の千代田テレビが、ナ・リーグは毎日系のTBSとサンケイ系のフジテレビがそれぞれ放映権を持っており、日本テレビと千代田テレビはジャ・リーグだけを扱う番組を編成するなどした。それに対抗する様に、TBSとフジテレビもナ・リーグだけを扱う番組が編成された。

 これにより、史実のセ・リーグとパ・リーグの様に、片方のリーグにのみ人気が集中する事は無かった。それ処か、関東でのリーグ毎の観客動員数はナ・リーグの方が多かった。しかし、これは球団数の関係(ジャ・リーグは巨人と大日、ナ・リーグは毎日、大映、東映、サンケイ)もあり、1球団当たりの観客動員数だとジャ・リーグの方が多かった。また、関西だとリーグ毎、球団毎の観客動員数だとジャ・リーグの方が圧倒的に多かった。

 

 一方の実力は、ジャ・リーグの方が優勢だった。ジャ・リーグには、史実セ・リーグの巨人、中日、阪神に加え、史実パ・リーグの南海、阪急、西鉄と強力球団が多数在籍した。大日も、親会社の資金力と豊富な練習によって常に4位以内にいるなど強豪ぞろいだった。

 実際、毎年のジャ・リーグのペナントレースは熾烈であった。特に、史実で巨人がV9を達成した頃(1965~73)のジャ・リーグ優勝チームは、巨人・巨人・巨人・阪急・阪急・大日・阪急・阪急・阪急となり、川上哲治率いる巨人と西本幸雄率いる阪急の二強体制であり、何とか大日が喰らいついている状態だった。他の球団も善戦していたが、僅差で優勝を逃す事が多かった(この9シーズン中、5位まで3ゲーム以内にいる大混戦が続いた)。これにより、関西における阪神と南海の人気は下がり、逆に阪急の人気が上昇した。

 

 一方のナ・リーグは、毎日と名鉄の二強体制が続いていた。それでも、1960年代からは毎日と名鉄以外の球団がリーグ優勝をする様になった。大映が1960年に、東映が1961年と62年に、大洋が1964年に、近鉄が1969年にそれぞれリーグ優勝した。

 この内、東映と大洋が日本一に輝いた。そして偶然な事に、日本シリーズの相手は全て関西の鉄道系球団であり、特に1962年の東映と大洋は阪神を下しての日本一だった。

 一方、大映は大日に、近鉄は阪急によって日本一を阻まれた。それでも、初めてリーグ優勝をした事は自信を付ける結果となり、その後の両チームは何度かリーグ優勝しており、日本一に輝いた事もある。

 

 日本シリーズの成績はジャ・リーグの方が優勢で、1950年から1970年までの過去21年間でジャ・リーグとナ・リーグの勝利の比率は15:6と、ジャ・リーグの方が圧倒的に勝利数が多かった。その為、人気はジャ・リーグの方が上だったが、一方でナ・リーグもリーグ優勝チームの人気は好調となった。

 

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[1970年代の球団の大量身売り]

 両リーグの人気が高まっており、特に両リーグに広告を行う親会社がいる事が大きかった。これにより、両リーグのテレビ中継はジャ・リーグがやや多いながらも行われていた。

 特に大きかったのが、1960年代後半の八百長疑惑である。史実では「黒い霧事件」として球界を揺らした大事件となったが、この世界ではジャ・ナ両リーグの新聞各社が全力で火消しに当たった。これにより、史実の様に騒がれる事は無かった。

 しかし、処分は厳格に行われ、八百長を行った者、金銭を受け取った者については永久追放処分とされた。一方、疑いが掛けられた者については1年間の出場停止処分やな厳重勧告処分などとされ、一応野球が出来る処分が取られた。また、この混乱の中でトレードが多数行われた。

 一連の処分の後、球界内から暴力団の排除が行われ、球界の清浄化が図られた。また、両リーグを統括する組織の設立が本格的に検討され(これ以前は両リーグの協議会しかなかった)、1971年に両リーグの調整・監査などを目的とする「日本統一プロフェッショナル野球機構」が設立された。

 

 黒い霧事件とならなかった為、史実の様な球界再編問題は発生しなかった。それでも、多くの球団で主力選手がいなくなった事による弱体化が進んだ。特に、西鉄ライオンズや東映フライヤーズではその影響が顕著だった。それ以外のチームでも、大きく順位を落とす事が多かった。

 また、1970年代に入ると、テレビが広く普及した反面、映画の人気が低迷した。これにより、親会社が映画会社の東映と大映(1964年から球団名を「東京アスレチックス」に変更)は経営不振に陥った。その為、両社は経営再建に奔走する事となり、金食い虫と言える球団を手放す事となった。

 これ以外にも、サンケイと毎日は本業の不振が原因で、それぞれ1969年、1973年にそれぞれ球団を手放した。南急は、不人気から来る赤字、徳島延伸線の建設費用の捻出が目的で1973年に手放した。

 各球団の身売り先として、東映は日拓ホームに、大映はロッテに、サンケイはヤクルトに、毎日は西武に、南急は日本ハムにそれぞれ売却された。この内、日拓ホームは、僅か1シーズンで球団を手放し、京急に経営権が移った。

 

 ナ・リーグで身売りが相次いだ為、ナ・リーグの人気が一時大きく低迷した。その為、1973年に前後期制、1975年に指名打者制度、1985年に予告先発制度が導入された。これらの制度が真新しさやジャ・リーグとの差別化に成功し、新規ファン層の獲得に成功した。

 

【身売りした球団と身売り先】

〈ジャ・リーグ〉

・南急ロビンス:1973年に日本ハムに売却、「日本ハムロビンス」と改称。

 

〈ナ・リーグ〉

・サンケイアトムズ:1969年にヤクルトと共同運営となり「アトムズ」と改称。1970年にヤクルト単体となり「ヤクルトアトムズ」に改称。1973年に「ヤクルトスワローズ」に改称。

・東京アスレチックス:1969年に「ロッテアスレチックス」と改称するも、この時はまだ大映が親会社だった。1971年に正式にロッテが親会社となる。

・毎日オリオンズ:1973年に国土計画(西武鉄道の親会社)に売却、「西武オリオンズ」と改称。

・東映フライヤーズ:1973年に日拓ホームに売却し「日拓ホームフライヤーズ」と改称。1974年に京急に売却し「京急フライヤーズ」と改称。

 

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[本拠地の移転]

 1970年代前半に球団の身売りが相次いだ。その中で、本拠地が変わった球団もあった。それは、ロッテ、ヤクルト、京急の3球団だった。

 

 ロッテは、1971年に経営権を大映から譲り受けた。本拠地はそのまま東京スタジアムを使用していたが、立地の関係から狭くて外野の膨らみが無い事が欠点だった。つまり、本塁打が出易いという事だった。

 また、球場の経営権が別の会社に移った事で、経営権をロッテが購入するか否かの交渉が行われた。結果、前述の欠点が監督から嫌われて、交渉が決裂した。これにより、1972年のシーズンを以て閉鎖する事となった。

 その為、ロッテは東京スタジアムから移転したが、移転先が決まっていなかった。一応、仙台の宮城球場を本拠地としていたが、仮本拠地という扱いであい、暫くは関東の球場を間借りする形となった。その後、1978年に本拠地を後楽園に移した。

 

 ヤクルトは、サンケイグループから球団を買収した。暫くは本拠地を神宮を使用していたが、神宮が本来はアマチュアでの利用が優先された為、別の場所に本拠地を移す事を計画した。後楽園や川崎など検討されたが、後楽園は他の球団がいる事から過密日程になる事から却下され、川崎も球場の狭さやアクセスの悪さから却下された。

 最終的にロッテの移転によって空き家になった東京スタジアムに本拠地を移す事が決定された。1972年のシーズン後に東京スタジアムの経営権を購入し、翌シーズンから本拠地となった。これにより、今までの問題だった六大学野球との日程調整は解決した。

 球場の膨らみの無さは、外野席を一部削って膨らみを持たせた。これにより収容能力が減少するが、外野席も二層化する事で対応した。これにより、今まで通り3万5千人を収容出来た。

 

 日拓ホームは、1973年のシーズン明けに球団を京急に売却した。1974年シーズンから「京急フライヤーズ」となり、本拠地も川崎球場に移転となった。これは、後楽園では京急沿線からのアクセスが悪い為であった。

 しかし、川崎球場でも京急川崎からのアクセスが良いとは言えなかった。その上、球場が狭く設備も古い事から、試合を行うのに相応しくないと見られた。その為、当初は横浜に移転する計画があったが、当時横浜市内にあった横浜平和公園球場は川崎球場以上に古かった。この事から、横浜球場を建て替えるまでの仮住まいという認識だった。

 その後、1978年シーズン前に横浜スタジアムが完成した事で、本拠地を横浜スタジアムに移転、球団名も「横浜京急フライヤーズ」となった。しかし、沿線からのアクセスの問題があり、京急は球場へのアクセス路線を検討する様になる。

 

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この世界のプロ野球チーム(1980年シーズン終了時)

【日本野球連盟】

・読売ジャイアンツ(後楽園)

・大日イーグルス(足立)

・中日ドラゴンズ(ナゴヤ)

・南海ホークス(大阪)

・日本ハムロビンス(平野)

・阪神タイガース(甲子園)

・阪急ブレーブス(西宮)

・西鉄ライオンズ(平和台)

 

【国民野球連盟】

・西武オリオンズ(武蔵野)

・ロッテアスレチックス(後楽園)

・ヤクルトスワローズ(東スタ)

・横浜京急フライヤーズ(ハマスタ)

・名鉄レッドソックス(鳴海)

・近鉄バファローズ(藤井寺)

・大洋ホエールズ(西宮)

・広島東洋カープ(広島市民)




この世界の日本シリーズの結果(1950年~1980年)
(西暦:ジャ・リーグ優勝チーム―ナ・リーグ優勝チーム(○は日本一、●は負け):日本一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1950:●南急ロビンス―○毎日オリオンズ:4/2
1951:●南海ホークス―○名鉄レッドソックス:4/1
1952:○読売ジャイアンツ―●毎日オリオンズ:4/2
1953:○読売ジャイアンツ―●名鉄レッドソックス:4/2/1
1954:○中日ドラゴンズ―●名鉄レッドソックス:4/3
1955:○読売ジャイアンツ―●名鉄レッドソックス:4/3
1956:○西鉄ライオンズ―●名鉄レッドソックス:4/2
1957:○西鉄ライオンズ―●名鉄レッドソックス:4/0/1
1958:○西鉄ライオンズ―●名鉄レッドソックス:4/3
1959:○南海ホークス―●毎日オリオンズ:4/0
1960:○大日イーグルス―●大映アスレチックス:4/0
1961:●南海ホークス―○東映フライヤーズ:4/3
1962:●阪神タイガース―○東映フライヤーズ:4/2/1
1963:○読売ジャイアンツ―●名鉄レッドソックス:4/3
1964:●阪神タイガース―○大洋ホエールズ:4/3
1965:○読売ジャイアンツ―●毎日オリオンズ:4/1
1966:○読売ジャイアンツ―●毎日オリオンズ:4/2
1967:○読売ジャイアンツ―●名鉄レッドソックス:4/2
1968:●阪急ブレーブス―○名鉄レッドソックス:4/2
1969:○阪急ブレーブス―●近鉄バファローズ:4/2
1970:○大日イーグルス―●毎日オリオンズ:4/1
1971:○阪急ブレーブス―●ロッテアスレチックス:4/1
1972:●阪急ブレーブス―○毎日オリオンズ:4/1
1973:●阪急ブレーブス―○名鉄レッドソックス:4/1
1974:●中日ドラゴンズ―○ロッテアスレチックス:4/2
1975:○中日ドラゴンズ―●広島東洋カープ:4/0/2
1976:○阪急ブレーブス―●名鉄レッドソックス:4/3
1977:○読売ジャイアンツ―●ヤクルトスワローズ:4/1
1978:○阪急ブレーブス―●近鉄バファローズ:4/3
1979:●阪急ブレーブス―○近鉄バファローズ:4/3
1980:●日本ハムロビンス―○広島東洋カープ:4/3


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番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)

[1980年代後半の日本野球連盟所属球団の大量身売り+α]

 1988年、プロ野球界に激震が走った。ジャ・リーグ(日本野球連盟)の名門球団である南海ホークス、西鉄ライオンズの身売りが発表されたからである。

 この世界の南海と西鉄は、史実と異なり巨人と同じリーグに存在した事でメディアへの露出が多かった。そこに、史実と同じ強さが合わされば、人気の面で巨人や阪神とも対等に渡り合えた。実際、ジャ・リーグのペナントレースは常にデッドヒートしており、50年代と60年代は巨人・南海・西鉄が、70年代と80年代前半は巨人と阪急が常に優勝争いを行っており、時々中日や大日が優勝レースに参加するなど話題に事欠かなかった。

 その為、史実の様な球場がガラガラという現象にはならず、大阪スタヂアムと平和台球場には常に多くの人が入った。これにより、球団の利益はトントンであった。

 

 史実以上の人気を誇った南海と西鉄だが、70年代以降は成績が低迷した。80年代には、日本ハムと共にBクラスの常連となってしまった。それに伴い人気も低下し、利益が出にくくなった。

 また、南海は泉州沖に建設中の新空港(後の関西国際空港)への乗り入れと難波の再開発を、西鉄は佐賀県南部に建設中の新空港(九州国際空港。史実の佐賀空港の位置。4000m級滑走路2本装備)への乗り入れと天神と小倉の再開発を計画していた事から、短期間で纏まった資金を欲していた事も身売りへと傾いた要因だった。

 

 2球団同時の身売りという大ニュースは、直ぐに大きな騒ぎになったが、直ぐに鎮静化した。球団消滅とは異なり、取り敢えず球団が存続する為、反対運動とはならなかった。

 因みに、南海と西鉄の身売り騒動の中で、阪神と阪急も身売りするのではと噂されたが、両者ともその噂を否定した。阪神は、1985年のリーグ優勝と初の日本一を達成した事でファンが急増して身売りの話は白紙となった。阪急も、1960年代から優勝争いの常連でファンも増加傾向にあり身売りをする気は無かった。

 そして、1988年のシーズン終わりに南海はサントリーに、西鉄はダイエーにそれぞれ売却された。名称はそれぞれ「大阪サントリーホークス」、「福岡ダイエーライオンズ」に改称となった。その後、本拠地の移転も行われ、1992年にライオンズは福岡ドームに、1997年にホークスは大阪ドームにそれぞれ移転となった。

 

 1988年にジャ・リーグでの2球団同時の身売りという事件があったが、同じ時期にナ・リーグの方も小規模ながら変化が起きた。それは、大洋ホエールズの身売りである。

 この世界の大洋ホエールズは、阪急と共に西宮球場を本拠地としていた。ナ・リーグでは、近鉄と共に関西の球団として存在したが、最盛期にはジャ・リーグを含めて6球団(ジャ・リーグの阪神・阪急・南海・南急、ナ・リーグの大洋・近鉄)が犇き合っていた関西では存在感が薄かった。特に、阪神地域では阪神と阪急の陰に隠れており、観客動員数では常に最下位に位置していた。商業捕鯨に対する規制の強化もあり、親会社の大洋漁業は早くから球団を手放したいと考えていた。

 その様な中で、リース会社として拡大していたオリエント・リース(現・オリックス)がプロ野球参入を計画していた。これが、球団を手放したかった大洋との利害が一致し、1988年に大洋ホエールズを買収する事が決定した。その年のシーズン終了後、正式にオリエント・リースが大洋から球団を買収し、「オリックス・ホエールズ」となった。

 

【身売りした球団と身売り先】

〈ジャ・リーグ〉

・南海ホークス:1988年にサントリーに売却し「大阪サントリーホークス」と改称。

・西鉄ライオンズ:1988年にダイエーに売却し「福岡ダイエーライオンズ」と改称。

 

〈ナ・リーグ〉

・大洋ホエールズ:1988年にオリエント・リースに売却し「オリックス・ホエールズ」と改称。

 

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[新本拠地への移転]

 1980年代後半、各球団の本拠地の老朽化が深刻化した。その為、本拠地を大改装するか、本拠地を移転する事となった。この内、阪神(甲子園球場)、横浜京急(横浜スタジアム)、名鉄(鳴海球場)、近鉄(藤井寺球場)、広島(広島市民球場)は大改修で対応するか現状維持となった。それ以外の11球団は本拠地の移転が行われた。

 

 巨人の東京ドーム移転、中日のナゴヤドーム移転、ダイエーの福岡ドーム移転は史実通りである。

 足立球場を本拠地としていた大日は、1990年に本拠地を栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場に移転した。これは、足立球場の持ち主が京成電鉄であり、京成が足立球場の再開発を計画していた事、宇都宮市が清原球場への誘致を積極的にしていた事、京成が宇都宮までの路線を有している事、巨人との差別化など、様々な要因が絡んでのものだった。移転に伴い、球団名も「宇都宮大日イーグルス」に変更となった。

 西宮球場を本拠地としていた阪急は、1994年に京都市の西京極球場に移転した。これは、西宮球場の再開発と阪神との差別化を狙っての事だった。また、西京極球場は阪急の準フランチャイズの為、かねてから移転が計画されていた。1992年から西京極球場の本拠地かの為の改修工事が行われ、1994年のシーズン前に移転が完了した。移転に伴いフランチャイズが京都府になり、球団名も「京都阪急ブレーブス」に変更となった。

 南海から球団を買収したサントリーは、大阪スタジアムを本拠地として使用していたが、買収当時から解体は予定されていた。その後、1996年のシーズンまでは大阪スタジアムを本拠地とし、1997年から大阪ドームに本拠地を移転した。大阪ドームだが、阪神西大阪線の開業が早かった事もあり、周辺の開発はある程度進んでいた。その為、史実の大阪シティドームの赤字は深刻とならなかった。

 日本ハムは、南急時代からの本拠地である平野球場を使用していた。その後、平野球場の老朽化とそれに伴う再開発を南急が計画していた事、関西に本拠地を置く阪神・阪急・サントリーとの差別化から、四国への移転が検討された。

 その結果、1993年に南急淡路線沿線に野球場やサッカー場を含む総合スポーツ施設の建設が決定した為、そこへの移転が計画された。徳島県も、四国初のプロ野球チームの誘致に意欲的であり、それが創業地が徳島の日本ハムであるのは運命と言えた。その為、誘致の交渉は順調に進み、1994年には徳島県日出市(史実では成立しなかった)の徳島うずしおスタジアムに移転した。この移転に合わせて、球団名が「四国日本ハムロビンス」に変更となった。

 

 この世界のロッテは、巨人と共に後楽園を本拠地としていた。その為、東京ドーム完成後はそちらに本拠地を移した。その後、2004年にフランチャイズを北海道に移し、本拠地も札幌ドームに移った。同時に、球団名も「北海道ロッテアスレチックス」に変更となった。

 ヤクルトは、ロッテが去った後に東京スタジアムを本拠地としていたが、1995年にフランチャイズを千葉県に移し、千葉市の千葉マリンスタジアムに移転した。東京スタジアムの老朽化が酷くなっていたが、その補修費用の捻出が難しかった為(東京スタジアムはヤクルトの保有)、止む無く本拠地の移転となった。そこで、開場したばかりの千葉マリンスタジアムへの移転が決まった。移転に合わせて、球団名も「千葉ヤクルトスワローズ」に変更となった。

 武蔵野野球場を本拠地としていた西武は、球場の老朽化が目立っていた事もあり、建て替えを選択した。球場は1988年から建て替え工事が行われ、その間は準本拠地の所沢市の西武所沢球場を本拠地としていた。その後、1992年に武蔵野野球場の跡地に「武蔵野ドーム」が完成し、同年のシーズンから利用が開始された。

 大洋から球団を買収したオリックスは、買収してから暫くは大洋時代からの本拠地である西宮球場を使用していた。その後、1993年に西宮球場の数年以内に解体が決定されると、新たな本拠地として神戸市のグリーンスタジアム神戸に移転した。1994年のシーズンから使用し始め、球団名も「オリックス・ブルーウェーブ」に変更となった。

 

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[3度目の集団身売り]

 2004年、再び複数球団の同時身売りが発表された。当事者となったのは、共にナ・リーグに所属する近鉄バファローズと名鉄レッドソックスだった。

 

 この世界の近鉄は、1997年に大阪ドームに移転しなかった。これは、大阪スタジアムを本拠地としていた大阪サントリーホークスが大阪ドームを本拠地としていた為である。それでも、近鉄の準本拠地だった日本生命球場の解体から、準本拠地として使用していた。

 その為、史実で近鉄消滅の原因の一つである大阪ドームの高額な使用料は抑えられたが、バブル期の積極的拡大が裏目に出て、2003年3月期の連結決算で8千億円近い有利子負債を抱える事となってしまった。史実の1兆3千億円と比較すると小さいが、それでも近鉄を吹き飛ばすには充分だった。その為、早急な負債の処理が求められた。その一つが球団の売却だった。

 バファローズの赤字は大きいものでは無かったが、不人気が原因でこれ以上の観客動員数の増加が見込めなかった。その為、これ以上保有しても意味は無いと判断され、他社への売却が計画された。

 これに手を挙げたのがライブドアと楽天であった。審査の結果、楽天の方が適当と判断され、2004年のシーズン終了後に楽天に売却された。

 

 楽天が親会社となったバファローズだが、楽天は本拠地を藤井寺のままにしなかった。藤井寺のままでは、近鉄時代と大して変わらない。それでは、観客動員数の増加は見込めないとして、別の場所に移転となった。当初は仙台に移転予定だったが、後述のライブドアとの関係から長野に変更となった。

 そして、買収後の11月に正式にフランチャイズを長野県に移し、本拠地を長野市の長野オリンピックスタジアムとした。球団名も「長野楽天バファローズ」に改称して、2005年のシーズンから新体制でスタートした。

 

 もう一方の名鉄は、名古屋市中心部からやや離れた所にある鳴海球場を本拠地とした。名鉄はAクラスの常連だったが、1988年からリーグ優勝をしていない事、ナ・リーグのテレビ中継が少なかった事から、同じ名古屋を本拠地とする中日ドラゴンズとの人気獲得競争で遅れがちになった。また、バブル終息後の名鉄の経営がやや苦しくなっていた事から、本業への経営資源の投入と不採算事業の整理が行われ、球団も整理対象に含まれた。

 名鉄も球団を売却に出したところ、バファローズの獲得に敗れたライブドアが名乗りを上げた。他にも何社か名乗りを上げたが、最終的にライブドアが成長性があると見込まれて売却が決定した。

 

 ライブドアも楽天同様、本拠地の移転を行った。ライブドアは、現在までプロ野球チームの正式な本拠地が置かなかった仙台市の宮城球場に移転する事とした(ロッテが一時期宮城球場を本拠地としていたが、仮の本拠地扱いだった)。

 そして、2004年シーズン終了後に仙台への移転が順次行われ、球団名も「仙台ライブドアレッドソックス」とする事が発表された。同時に、老朽化が進んでいた宮城球場の大改修も行われた。冬の工事の為、工事の遅れが心配されたが、無事シーズン開幕前に改修が完了した。そして、新体制・新本拠地の下で、2005年のシーズンが幕を開けた。

 因みに、宮城球場の改修はシーズン終了後に逐次行われた。また、球場の収容人数の増加も順次行われたが、球場が公園内にある事から拡張は緩やかに行われた。

 

 ジャ・リーグの方でも、身売りが見られた。福岡ダイエーライオンズの親会社である小売業のダイエーが、バブル期の大規模な多角化や不動産の購入が裏目に出て、多額の負債を抱え経営不振に喘いでいた。その様な中で球団を保有し続けるのは不可能であり、日本一に輝いた2004年のシーズン終了後に球団をIT系のソフトバンクに譲渡した。

 翌年から、「福岡ソフトバンクライオンズ」として新たなスタートを開始する。

 

【身売りした球団と身売り先】

〈ジャ・リーグ〉

・福岡ダイエーライオンズ:2004年にソフトバンクに売却、「福岡ソフトバンクライオンズ」に改称。

 

〈ナ・リーグ〉

・近鉄バファローズ:2004年に楽天に売却、本拠地も長野に移し「長野楽天バファローズ」と改称。

・名鉄レッドソックス:2004年にライブドアに売却、本拠地も仙台に移し「仙台ライブドアレッドソックス」と改称。

 

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[ナ・リーグのプレーオフの一部変更とジャ・リーグでのプレーオフ導入]

 ナ・リーグは、1973年から前後期制を導入した。これにより、シーズン終了後に前期優勝チームと後期優勝チームで5戦3勝方式のプレーオフを行い、勝利したチームがリーグ優勝となる仕組みが形成された。シーズンの勝率が1位では無いチームが優勝する可能性がある、シーズンの勝率は1位だが前期優勝又は後期優勝をしていない為、プレーオフに進出出来ないと言った問題こそあったものの、ジャ・リーグとの人気の格差が拡大していった時期であった為、導入が行われた。

 この結果、ナ・リーグはもの新しさや優勝争いが複数ある事によって、観客動員数が増加傾向となったが、導入から10年も経つと真新しさが薄れ、マンネリ化していった。その為、西武を中心に前後期制の廃止が検討されたものの、他に観客を増やす方法が無かった上、他のチームが優勝争いに食い込みたいとして、現状維持となった。

 

 状況が変化したのは、2004年のシーズン後であった。近鉄と名鉄に代わって親会社となった楽天とライブドアの提案と、かねてから不満であったシーズン勝率1位だが前期優勝又は後期優勝していないチームの救済として、プレーオフの一部変更が行われた。

 それは、今までの前期優勝と後期優勝は廃止となり、プレーオフ前期代表とプレーオフ後期代表という名称に変更となった。そして、プレーオフ時にシーズン勝率1位のチームに1勝分のアドバンテージが与えられた。

 また、シーズン勝率1位のチームが前期代表でも後期代表でもない場合、前期代表と後期代表が3戦2勝方式のプレーオフ実施後、勝利したチームがシーズン勝率1位のチームと5戦3勝方式のプレーオフを行う方式が追加された。こちらも同様に、シーズン勝率1位のチームに1勝分のアドバンテージが与えられた。

 尚、前期代表と後期代表が同一チームになった場合、プレーオフは実施されない。

 

 これにより、プレーオフに進出出来る可能性がある球団が増えた事で、ナ・リーグのペナントレースは盛り上がりを見せた。そうなると、シーズンとプレーオフの観客が増加し、テレビ中継も増加した。

 

 ナ・リーグのプレーオフの興行的成功を見て、ジャ・リーグでもプレーオフの導入が検討された。2007年から導入されたが、その方法が異なった。

 シーズン勝率2位と3位のチームが3戦2勝方式をした後、勝利したチームが1位と5戦3勝方式のプレーオフを行う形である。また、シーズン勝率1位のチームには最初から1勝のアドバンテージが与えられた。プレーオフを勝ち抜いたチームをリーグ優勝扱いとする事から、史実の2004年~2006年のパ・リーグプレーオフと同様だが、進出条件として「シーズン勝率1位のチームとのゲーム差が5以内」があった。

 これは、1位と2位のゲーム差が10以上の大差の場合、シーズン成績そのものが無意味となりかねない為である。プレーオフそのものがシーズン成績の意味を薄めているが、余りに大差だと相手にも失礼だとして、5ゲーム以内という条件が付けられた。

 その為、3位と5.5ゲーム以上離されている場合、1位と2位の5戦3勝方式のプレーオフのみ行われる。2位と5.5ゲーム以上離されている場合、プレーオフそのものが行われない。

 

 この条件が付いた事により、ペナントレースは白熱した。1位は大差を付けてプレーオフの可能性を無くそうとすれば、2位・3位はプレーオフに可能性を繋げようと奮闘した。4位以下は1位から3位のチームに食らいついて、自分の順位を上げたり、上位チームの足を引っ張ろうとした。

 勝率1位のチームがリーグ優勝扱いにならない事への不満は出たものの、興行的には成功だった。また、シーズンが熱戦となった事で、観客動員数の増加にも成功した。これにより、一時は低迷気味だった野球人気の再興に繋がった。

 

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[新たな独立リーグの成立]

 近鉄と名鉄の身売りが表に出たのとほぼ同時期、各地でプロ野球チームの新規参入が計画された。これは、球団の誘致が一段落した為、その次の案として出されたものだった。

 これに対して日本プロ野球機構(正式名称は「日本統一プロフェッショナル野球機構」)は、「これ以上球団が増えるのは、ゲームの質が落ちる事、試合数が増えて日程管理が難しくなる事から認められない」として却下された。

 その一方、「二軍相当のチームからなる独立リーグであれば反対しない」とした。当初の考えとは異なるものの、プロ野球への参入が認められた。

 但し、この時に条件として、東日本に1リーグ、西日本に1リーグの計2リーグまでの参入とする事、1リーグに8球団までとする事、それぞれイースタン・リーグとウェスタン・リーグとの交流戦を行う事、シーズン終了後に合同のポストシーズンを行う事などが決められた。これにより、独立リーグとはいうものの、日本プロ野球機構の影響力が強いリーグとなり、実質的には二軍の拡張であった。

 

 兎に角、プロ野球の拡張が実現した事で、各地でプロ野球チームが編成された。当時、バブル終息後の緩やかな不景気によって社会人スポーツの見直しが行われており、休部や廃部となる社会人野球が多数見られた。史実の様な急激な景気後退では無かった為、休廃部したチームは史実の3分の2程度だが、それでも多くの社会人選手が放出された。その受け皿として、新球団が活用された。勿論、社会人だけでは足りない為、高卒や大卒も集めて、2006年11月に16球団全ての編制が完了した。

 リーグ名は、東日本(南樺太・北海道・東北・関東・甲信越)が「サンライズ・リーグ(略称「サ・リーグ」)」、西日本(北陸・東海・近畿・中国・四国・九州)が「オクシデンタル・リーグ(略称「オ・リーグ」)」となった。それぞれの名前の由来は、「日の出」を意味する英語と、「日が沈む所」を意味するラテン語から来ている。日の出は東側、日が沈む、つまり日没は西側なので、これが適当となった。

 シーズンの流れや試合方式は、かつてのナ・リーグと同様である。つまり、指名打者制度及び予告先発が存在し、前後期制を採用している。前期優勝チームと後期優勝チームとで3戦2勝方式のプレーオフを実施後、サ・リーグ優勝チームとオ・リーグ優勝チームとで5戦3勝方式のグランドチャンピオンシップを行う事となった。グランドチャンピオンシップは独立リーグ版の日本シリーズであり、これに優勝すれば独立リーグ日本一の栄冠に輝く。

 

 こうして2007年にスタートした新リーグだが、最初の数年間は資金不足や観客動員数の少なさによって先行きが危ぶまれた。それでも、ファンサービスの充実やイベントの実施、地域の新聞やテレビへの露出の増加などを行った事により、2010年からは観客は増加傾向になり、数年以内には大半の球団が黒字化するか赤字の縮小が見込まれるという報告が出た。

 シーズン以外では、2010年からはグランドチャンピオンシップ優勝チームとファーム日本選手権優勝チームが対戦する「ファーム・独立リーグ合同チャンピオンシリーズ」が開催された。これは、二軍及び独立リーグの日本シリーズとされ、5戦3勝方式となる。合同ちゃんピンシリーズの開催に伴い、ファーム日本選手権の試合方式が変更となり、1発勝負から3戦2勝方式となった。

 

 また、2012年からはイ・リーグとウ・リーグとの合同オールスターゲームの実施が行われ、名称も「フューチャーオールスターゲーム」に変更となった。試合方式は、延長無しの9回までのダブルヘッダーとし、1日目にオール・イースタン対オール・ウエスタンとオール・サンライズ対オール・オクシデンタル、2日目にオール・イースタン対オール・サンライズとオール・ウエスタン対オール・オクシデンタル、3日目にオール・イースタン対オール・オクシデンタルとオール・ウエスタン対オール・サンライズと変則的なダブルヘッダーで行われる。

 試合数の多さや普段は見る機会が少ない独立リーグの選手が見られるとあって、観客動員数の増加が見られた。その為、1年だけの予定だったが、翌年以降も続けられる事となった。

 

【サンライズ・リーグ(サ・リーグ)】

・青森ホワイトスターズ

・福島ファイターズ

・両羽ダイヤモンズ

・新潟アルビレックス

・茨城アストロズ

・群馬ユニコーンズ

・埼玉カブス

・京浜メトロポリタンズ

 

【オクシデンタル・リーグ(オ・リーグ)】

・北陸サンダーバーズ

・静岡パシフィックス

・滋賀レイカーズ

・大阪エクスポス

・和歌山レンジャーズ

・岡山クラウンズ

・愛媛マンダリンマリナーズ

・熊本フェニックス

 

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この世界のプロ野球チーム(2015年シーズン終了時)

【日本野球連盟】

・読売ジャイアンツ(東京ドーム)

・宇都宮大日イーグルス(宇都宮清原球場)

・中日ドラゴンズ(ナゴヤドーム)

・京都阪急ブレーブス(西京極球場)

・大阪サントリーホークス(大阪ドーム)

・阪神タイガース(甲子園球場)

・四国日本ハムロビンス(徳島うずしおスタジアム)

・福岡ソフトバンクライオンズ(福岡ドーム)

 

【国民野球連盟】

・北海道ロッテアスレチックス(札幌ドーム)

・仙台ライブドアレッドソックス(宮城球場)

・千葉ヤクルトスワローズ(千葉マリンスタジアム)

・西武オリオンズ(武蔵野ドーム)

・横浜京急フライヤーズ(横浜スタジアム)

・長野楽天バファローズ(長野オリンピックスタジアム)

・オリックス・ブルースターズ※(グリーンスタジアム神戸)

・広島東洋カープ(マツダスタジアム)

 

※2011年の東日本大震災を理由に、2011年のシーズン後に改称。




この世界の日本シリーズの結果(1981年~2015年)
(西暦:ジャ・リーグ優勝チーム―ナ・リーグ優勝チーム(○は日本一、●は負け):日本一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
1981:〇読売ジャイアンツ―●ロッテアスレチックス(4/2)
1982:●中日ドラゴンズ―〇横浜京急フライヤーズ(4/3/1)
1983:●読売ジャイアンツ―〇西武オリオンズ(4/3)
1984:●阪急ブレーブス―〇広島東洋カープ(4/3)
1985:〇阪神タイガース―●西武オリオンズ(4/2)
1986:〇大日イーグルス―●広島東洋カープ(4/3)
1987:●読売ジャイアンツ―〇西武オリオンズ(4/3)
1988:〇中日ドラゴンズ―●名鉄レッドソックス(4/3/1)
1989:〇読売ジャイアンツ―●近鉄バファローズ(4/3)
1990:●読売ジャイアンツ―〇西武オリオンズ(4/0)
1991:●宇都宮大日イーグルス―〇西武オリオンズ(4/3/1)
1992:●宇都宮大日イーグルス―〇西武オリオンズ(4/2)
1993:●宇都宮大日イーグルス―〇ヤクルトスワローズ(4/3)
1994:〇宇都宮大日イーグルス―●横浜京急フライヤーズ(4/2)
1995:〇京都阪急ブレーブス―●オリックス・ブルーウェーブ(4/2/1)
1996:●宇都宮大日イーグルス―〇オリックス・ブルーウェーブ(4/1/1)
1997:●大阪サントリーホークス―〇千葉ヤクルトスワローズ(4/2)
1998:〇宇都宮大日イーグルス―●西武オリオンズ(4/2)
1999:●中日ドラゴンズ―〇横浜京急フライヤーズ(4/2)
2000:〇読売ジャイアンツ―●西武オリオンズ(4/1/1)
2001:〇福岡ダイエーライオンズ―●近鉄バファローズ(4/2)
2002:〇読売ジャイアンツ―●西武オリオンズ(4/0)
2003:●阪神タイガース―〇横浜京急フライヤーズ(4/3)
2004:〇福岡ダイエーライオンズ―●横浜京急フライヤーズ(4/3)
2005:●福岡ソフトバンクライオンズ―〇北海道ロッテアスレチックス(4/2)
2006:●中日ドラゴンズ―〇西武オリオンズ(4/2)
2007:〇四国日本ハムロビンス―●北海道ロッテアスレチックス(4/2)
2008:●読売ジャイアンツ―〇西武オリオンズ(4/3)
2009:〇京都阪急ブレーブス―●仙台ライブドアレッドソックス(4/2)
2010:●中日ドラゴンズ―〇北海道ロッテアスレチックス(4/2/1)
2011:〇福岡ソフトバンクライオンズ―●長野楽天バファローズ(4/2)
2012:〇読売ジャイアンツ―●横浜京急フライヤーズ(4/2)
2013:●宇都宮大日イーグルス―〇長野楽天バファローズ(4/3)
2014:〇福岡ソフトバンクライオンズ―●オリックス・ブルースターズ(4/3/1)
2015:〇大阪サントリーホークス―●千葉ヤクルトスワローズ(4/2/1)


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番外編:この世界でのプロ野球の状況(2000年代~:別の世界)①

これは、『番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)』の中にある[新たな独立リーグの成立]の部分が違う世界の話となります。


 名鉄の身売りが表に出る少し前の2003年、各地でプロ野球チームの拡張が計画された。これは、プロ野球チームの本拠地が置かれていない地方に新たに球団を置く事で、低迷しつつあるプロ野球人気の復活、野球人口(プレイ人口、ファン人口双方)の拡大、地方創生を目的としたものだった。

 当時、ロッテが来シーズンに本拠地を東京から北海道に移転させる事が決定し、近鉄の身売り問題が週刊誌レベルであるが世に出てきていた事もあり、球団の本拠地移転がちょっとしたブームとなっていた。その為、「我が町にもプロ野球チームを!」という声は多かった。

 しかし、当時の球団で本拠地を移転しそうなのが近鉄ぐらいであり、それも球団が身売りした場合という条件であった(当時、名鉄の球団身売りは名鉄上層部のみの情報だった)。その為、次善の案として「プロ野球チームの拡張」が各地で計画された。

 

 これに対して日本プロ野球機構(正式名称は「日本統一プロフェッショナル野球機構」)は、「これ以上球団が増えるのは、選手層の薄いチームの増加によってゲームの質が落ちる事、試合数が増えて日程管理が難しくなる事から認められない」として却下された。

 だが、新規参入側も諦めなかった。新規参入のメリットとして、「野球人口の拡大」、「それに伴う市場及びファン人口の拡大」、「地域創生の一環」などのメリットを上げた。また、当初プロ野球機構から出された「二軍相当のチームからなる独立リーグ」案では、独立リーグの選手の待遇や1軍がある球団への移籍の対応などの問題が多いとして、メリットよりデメリットの方が大きいとして反対した。その為、純粋に日本野球連盟(ジャ・リーグ)と国民野球連盟(ナ・リーグ)への加盟を希望した。

 両者の交渉は長引いたが、2004年のシーズン終了前に次の様な決定が下された。

 

・4球団の新規参入を認める。内訳は、ジャ・リーグ2球団、ナ・リーグ2球団とする。

・本拠地の観点から、ジャ・リーグの新規参入組はイースタン・リーグに、ナ・リーグの新規参入組はウエスタン・リーグに所属する事が望ましい。

・新規参入組の親会社を、2005年のオールスターゲーム開催前までに決める。

・2006年のシーズンから、新規参入組のシーズン参加を行う。但し、選手集めの観点から、最初の2年間は2軍戦に限定し、1軍戦は2008年シーズンから参加する。

・選手の獲得方法は、4球団による合同トライアウトによって獲得する。実施は、ドラフト会議終了後とする。

・2軍のみの時の選手の保有上限は40人とする。

・新規参入組は、2008年から3年間は売却出来ない。また、本拠地は2008年から30年間は移転出来ない。

 

 この決定により、両リーグで2球団ずつ、計4球団の拡張が決まった。但し、これは4年後の事であり、また、1年で親会社と本拠地決め、2軍選手集めを行う必要があった。

 

 また、上記とは別に、既存の16球団には次の決定が下された。

 

・2004年から2008年までのドラフトでは、各球団はドラフト指名に際して最低でも6人採らなくてはならない。また、全体の指名人数の制限を通常の160人から変更となる。2004年から2007年は192人、2008年は240人、2009年以降は200人とする。

・2007年ドラフト会議終了後、各球団は新規参入組に選手を分配する事。条件として、1球団に最低2名分配する事、不公平が無い様に4球団への分配人数は同じとする事、最低2名は2007年日本シリーズ終了時点で入団5年以内又は25歳未満である事、故障歴が無い事。

 

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 2004年のドラフト会議終了後、4球団の親会社を決める審査会が何度も行われた。その結果、次の4球団の参入が決定した。

 

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉カブス(1軍本拠地:大宮スタジアム(※1)、2軍本拠地:熊谷公園球場)

・新潟アルビレックス(1軍本拠地:新潟県立野球場(※2)、2軍本拠地:鳥屋野運動公園野球場)

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ(1軍本拠地:金沢百万石ドーム(※3)、2軍本拠地:富山市民球場アルペンスタジアム)

・熊本フェニックス(1軍本拠地:藤崎台県営野球場、2軍本拠地:宮崎県総合運動公園第二硬式野球場)

 

※1:史実で頓挫した約30000人収容出来る球場。現在の大宮第三公園に出来る予定だった。1991年開場。両翼99m、中堅122m、中間120m、収容人数31200人。

※2:史実より2年早い2005年に開場。

※3:史実で頓挫した金沢市に置かれたドーム球場。2006年に開場。両翼100m、中堅122m、中間120m、収容人数32500人と地方球場としてはかなりの規模を持つ。

 

 上記の4球団以外にも、東京や大阪、静岡や松山、岡山など多数の候補が存在したが、それぞれ巨人と西武、、在関西球団、中日、日本ハム、広島との兼ね合いから不適合と判断された。特に東京と大阪は、「地方創生」の観点からも外れている事もあり、第一次選考の段階で却下された。

 その一方、埼玉カブスが選ばれた背景には、関東・甲信越・東北・北海道・南樺太で参入可能な地域が限られる事、その限られる地域の人口だと黒字化が見込めない事、ナ・リーグからジャ・リーグへの移動案は大規模なリーグ再編となり収集が付かなくなる恐れから採れない事などがあり、例外とされた。保護地域とする埼玉県には、西武とロッテの2軍本拠地が置かれており、西武は準本拠地としているが、保護地域の規定は1軍本拠地に限定されていた為、問題無しと判断された。

 

 尚、各球団の親会社だが、新潟アルビレックスはNSGグループが主要株主となり、他にコメリや亀田製菓など、新潟県に本社を置く企業が中心となる。また、運営会社の株式の2割程は市民向けとなっている。

 埼玉カブスも同様に、埼玉県内の企業と埼玉県民の共同出資で設立された。新潟アルビレックスと異なる点として、株主に有力企業が存在しない事である。

 北陸サンダーバーズは、加越能鉄道とアパグループが中心となり、他に小松製作所、不二越、YKKグループなど北陸、特に石川県と富山県発祥若しくは関わりが深い企業が出資している。スポンサーに大手企業が名を連ねている為、他の新規参入組と比較すると資金力は比較的豊富となっている。その一方、株式の1割が市民向けに発行されるなど、「企業連合の球団」という訳では無い。

 熊本フェニックスは、埼玉カブスと同様となっている。

 

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 新規参入組の親会社と球団名、保護地域が決まり、次は選手集めとなった。2005年のドラフト会議終了後に4球団合同のトライアウトが行われたが、既に目ぼしい選手がドラフトで獲られている為、有力選手を獲るのは難しかった。

 それでも、プロ志望届を提出したがドラフトにかからなかった高卒や、能力はあるがドラフト指名されなかった大卒、所属チームが廃部となった社会人選手に「プロ野球選手志望者募集」の案内を出した所、かなりの数が集まった。その為、当初想定されていた選手不足という問題は発生する事は無かった。また、16球団に所属する選手の中には、地元の球団でプレーしたいという選手も少数ながら存在し、これによりプロで戦える人材に厚みが増した。

 こうして、各球団の選手獲得は滞りなく完了し、無事2006年のイ・ウ両リーグの開幕が行われた。

 

 球団増加に伴い、イースタン・ウエスタン両リーグの試合数が変更となった。2004年までは、イ・リーグは6球団(巨人・大日・ロッテ・西武・ヤクルト・京急)による22回の総当たり戦で年間110試合、ウ・リーグは10球団(中日・阪急・サントリー・阪神・日本ハム・ダイエー・名鉄・近鉄・オリックス・広島)による12回の総当たり戦で年間108試合だった。これが、2004年シーズン終了後に名鉄と近鉄が身売りと同時に仙台と長野にそれぞれ移転した事で、両球団がイ・リーグに移転となった事により、イ・ウ両リーグが8球団となった。その為、2005年は試合数が変更となり、両リーグは16回の総当たり戦で年間112試合となった。

 そして、2006年に両リーグで2球団が増加して10球団体制となる為、14回の総当たり戦で年間126試合に変更となった。それ以外のルール(延長戦、DH制)については、そのままとなった。

 

 この年、新規参入組は苦戦を強いられた。プロ経験者がいるとは言え、チーム全体から見れば1割程度しかいなかった。また、所属選手の殆どがプロ未経験である事もマイナスに働いた。球威や変化球のキレ、バッティング技術などがアマチュアとは比べ物にならず、手も足も出ない事が多かった。その為、この年のイ・ウ両リーグの9位と最下位が新規参入組となった。

 この傾向は翌年も同様で、順位も同様となった。しかし、勝率については若干良くなり、前年は2割8分程度だったものが3割台に乗せる事が出来た。

 それでも、プロとアマの差が大きく表れた結果でもあり、1軍戦の結果を不安視された。

 

____________________________________________

 

 2007年日本シリーズが終了し、いよいよ新規参入4球団の拡張と翌シーズンの1軍戦参入が本格化した。ドラフト会議終了後に各球団から分配された選手の受け入れが行われ、各球団の再編が行われた。これにより、4球団の選手は増加し、プロとして戦った選手を多く獲得した。

 一方で、若い選手が殆どの為、経験不足が不安視された。また、「分配された」という事は「戦力外」と遠回しに宣言された事でもある為、選手のモチベーションもやや低かった。

 しかし、中には「新球団でやってみよう」という気持ちが生まれたり、「まだ野球を続けたい」という気持ちから今まで以上に努力をするなど、全てがマイナスという訳では無かった。

 選手の受け入れの前に、1軍首脳陣の整備が行われた。基本は2軍時代の首脳陣が横滑りの形で就任したが、人数の増加や戦い方の変更などから、一部コーチの変更や新監督を呼ぶなどして新体制を構築した球団もあった。

 

 全ての準備が終わり、全選手の顔合わせという意味で秋季キャンプが行われた。ここでの主目的は「顔合わせ」の為、キャンプの内容は平凡だった。

 それに対し、年明けの春季キャンプは全球団が「猛練習」に励んだ。2年間のペナントレースの結果や戦力的に不十分な現状では、兎に角練習で経験を積んでいくしかないという事だった。また、選手の元所属チームも全て違う事から、チームの雰囲気を知ってもらう意味もあった。こうして、オープン戦が始まるまで練習漬けとなった。

 

 オープン戦が始まると、4チームは大健闘した。埼玉と熊本が16試合、北陸が17試合、新潟が18試合行ったが、全球団が6割台で終えた。また、順位も1桁台で終えるなど(埼玉と北陸が同率4位、熊本と新潟が同率7位)、出だしは好調と見られた。

 

____________________________________________

 

 2008年から新規参入組も加えて1軍ペナントレースが開幕するが、それに伴い試合数も変更となった。今までは、各チームと20回の総当たり戦で年間140試合だったが、2008年から各チームとの16回の総当たり戦で年間144試合に変更となった。

 当初は、18回の総当たり戦で年間162試合(メジャーリーグと同じ試合数)にしようという案もあったが、これは移動の日程や予備日程の関係からかなり窮屈な日程にない、選手の疲労も大きくなるとして却下された。

 また、試合数変更と同時に、引き分けに関する規定も変更となった。これまでは、引き分けは勝率の計算に含まれなかったが、2008年からペナントレースに限り、引き分けを0.5勝0.5敗とする事となった(1961年以来)。これは、引き分けを勝率計算に含まれない事への疑問点の解消、ゲーム差と勝率の差の差異の解消などが目的だった。

 勿論、「勝率計算が面倒になる」、「今までと違う計算になる事による混乱が生じる」、「上位チームに不利になる」という反対意見もあった。しかし、それぞれ「手計算していた昔なら兎も角、コンピューターが発展している現代なら、勝率計算は面倒にならない」、「それはシーズン前に説明する事が我慢してもらう」、「むしろ、上位チームに発破をかける事となり、ゲームの質が向上する」として反対意見を退けた。

 

 こうして、新規参入組の参戦と一部のルールが改定されて2008年のペナントレースが開幕したが、新規参入の4球団は出だしこそ開幕戦勝利や開幕3戦を勝ち越しで終えるなど出だしは悪くなかったものの、選手層の薄さの影響が早くから現れた。出だしこそ良かったものの、最初から飛ばした影響で後が続かなかった為、シーズン中頃には息切れしてしまった。実際、シーズン前半の中頃は3~6位にいたが、前半終了時には全球団がBクラスとなった。

 特に酷かったのが埼玉と熊本で、前者は1946年の中日と1969年の南海が記録したジャ・リーグ最多連敗記録の15連敗を上回る16連敗を記録し、しかもこの間に引き分けを挟まなかったので、純粋な最多連敗記録を樹立してしまった。後者も、2桁連敗こそ無かったものの、9連敗を2回した。その為、両チームとも最下位となり、9位とのゲーム差も5以上離されるなど前途が不安視された。

 シーズン後半も勢いが上がらず、Bクラスが定位置となった。埼玉は7連敗を2回する、熊本は後期開幕から8連敗するなど最後まで低調で、後期も最下位となった。

 

 一方、新潟と北陸は前者と比較すると試合作りが上手く行っていた。新潟はサントリーとソフトバンク相手に、北陸はライブドア、楽天、ヤクルト、広島相手に良く喰らい付いていた事もあり、前半終了時に新潟は8位、北陸は7位と健闘していた。

 ただ、後半に入ると前半の勢いの反動、他のチームに対策された事もあり負けが込む様になった。だが、大型連敗はする事は無かった事、先述の相手には勝率4割を維持していた事(新規参入組以外の他球団では2~3割程度)もあり、共に9位でシーズンを終えた。

 

●新規参入組の2008年ペナントレースの成績

(球団名:通年順位(前期順位/後期順位):勝ち/負け/引き分け(前期勝敗内容:後期勝敗内容):通年勝率(前期勝率/後期勝率))

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉カブス:10:41/101/2:.292

・新潟アルビレックス:9:49/91/4:.354

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ:9(8/9):50/92/2(28/44/0:22/48/2):.354(.389/.319)

・熊本フェニックス:10(10/10):38/101/5(19/50/3:19/51/2):.281(.285/.278)



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番外編:この世界でのプロ野球の状況(2000年代~2010年代:別の世界)②

 2008年シーズンの結果は散々だったが、選手層の薄さから「まあ、こんなものだろう」という意見が殆どだった。その為、首脳陣は留任となり、翌シーズンも同じ体制で戦う予定となった。

 その中で、前期だけとは言え8位で終えた北陸は称賛され、将来の躍進があるのではと期待された。実際、北陸はシーズン後に新外国人や自由契約選手を中心に野手陣の強化に乗り出し、同時に日本ハムをモデルとした育成システムの取入れを行い将来的な戦力強化を行った。新潟も、予算不足から補強こそ消極的だったが、育成モデルについては同様だった。

 また、新潟はヤクルトと、北陸は広島と育成面での連携を結び、新潟はブラジルのヤクルト野球アカデミーに、北陸はドミニカのカープアカデミーへの運営費援助を行い、育成能力の強化を行いたいと交渉した。資金不足に悩んで規模の縮小を考えていた両球団にとってこの提案は有難く、「名称はそのままとする事」など幾つかの条件を出した上で合意した。

 

 そして、2009年シーズンが開幕したが、埼玉と熊本、新潟と北陸で状況が分かれた。

 埼玉と熊本はスタートダッシュに失敗し、早くも最下位が定位置となった。特に熊本は開幕8連敗するなど、早くも首位レースから脱落した。そして、シーズンが終わってみれば最下位で、9位と5ゲーム以上離されるなど酷い結果となった。

 新潟と北陸も、開幕3戦を落とすなど出だしは良くなかったが、その後は相性が良い相手との試合を上手く運ぶなどして少しずつではあったが勝ちを増やしていった。特に北陸は補強が上手く噛み合い、前期を6位で終える事が出来た。

 尤も、後半にバテる事が解消出来ず、土壇場で逆転負けされる事が多くなった。それでも、この年は阪神、オリックス、広島が不調である事が幸いし、それらとの対戦を上手く切り抜けた事で、新潟は8位、北陸は後期7位の通年7位でシーズンを終えた。

 

●新規参入組の2009年ペナントレースの成績

(球団名:通年順位(前期順位/後期順位):勝ち/負け/引き分け(前期勝敗内容:後期勝敗内容):通年勝率(前期勝率/後期勝率))

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉カブス:10:49/98/7:.341

・新潟アルビレックス:8:58/92/4:.390

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ:7(6/7):62/81/1(35/36/1:27/45/0):.434(.493/.375)

・熊本フェニックス:10(10/10):41/99/4(20/49/3:21/50/1):.299(.299/.299)

 

____________________________________________

 

 球団設立当初は、新球団ブームによって観客動員数が増加していたが、設立から数年が経つと、状況は両極化した。

 全球団が地元密着球団として歩んでいる事には変わりないが、北陸と新潟は多少資金力がある上、育成能力も年々高まりつつあり、その結果も徐々にだが現れている。新潟は、2011年シーズンの通年成績こそ7位だが、前半を4位で折り返すなど、着々と強くなっていた。北陸も、2011年シーズンを前期4位・後期6位の通年5位で終え、かつ初めて貯金ありでシーズンを終えるなど、近い将来は優勝争い出来るのではと見られた。

 

 一方、埼玉と熊本は4年連続の最下位、しかも全て9位とのゲーム差で5以上付けられるなど、「リーグのお荷物」と見られる様になった。負け続きで地元での人気は低下する一方であり、まして、同じ地方に別の球団があるとなれば尚更だった(埼玉は巨人・大日・西武・ヤクルト・京急が、熊本はソフトバンクが同じ地方に存在)。

 資金不足が原因と言ってしまえばそれまでだが、育成や補強で新潟や北陸に劣っているのが最大の原因だった。4年連続最下位という事態に、2011年シーズン終了後にスポンサーが降りたり、運営会社の株を手放したい、つまり身売りという考えが出る様になった。

 

 この時、身売りは表面化していなかったが、週刊誌に透破抜かれた事で表に出た。各マスコミの内容は、「埼玉と熊本批判、新潟と北陸称賛」一色だった。「出資者と出資額の違いこそあるものの、4球団同じスタートを切ったにも拘らず、新潟と北陸は下位とは言え各球団と戦えているのは対照的に、埼玉と熊本はスタートダッシュに失敗して早々に最下位確定というのは不甲斐ない」、「金が無いなら無いなりの工夫をするべきなのに、それも出来ていない」、「注目を浴びる事だけが目的なら、球団を保有するべきでは無かった」など、辛辣なコメントが相次いだ。

 そして、球団の出資者の中にも、株式を手放したいという者が多かった。球団設立当時、リーマン・ショックの影響で景気が一時後退した為、株式公募の当初予定を下回り、残りの株式の引き取り手を探すのに苦労した。その後、景気が徐々に回復していった矢先に東日本大震災で再び一時的に後退するなど安定しなかった。その為、出資者も球団を支援する余裕が無くなり、手放したいと考える様になった。

 

 2012年シーズンが始まる前、埼玉と熊本の両球団は遂に身売りを決意、今シーズンの終了まで身売り先を募集中と公にした。この動きに対し、多くの企業が買収したいと表明した。スポーツの多角化によって野球人気はやや低迷しているものの、試合数の多さや長年人気を引っ張り続けてきた実績などから、企業の広告塔として最適な方法である事は事実である為、新興企業を中心に買い手数多の状況となった。

 特に、巨人戦や大日戦などテレビ中継が多いジャ・リーグに所属する埼玉の方に注目が集まった。その為、早くから譲渡先を決める選考が行われた。その結果、シーズン中頃に譲渡先はIT系のディー・エヌ・エー(以降、DeNA)となる事が決定した。

 一方、熊本の方はテレビ中継がやや少ないナ・リーグに所属している為、当初は譲渡先として名乗りを上げる企業が少なかったが、埼玉の譲渡先から漏れた企業がこちらに流れた。埼玉の譲渡先の選考でDeNAに敗れたプラネットグループ(以降、プラネット)が攻勢を強め、購入額として2番目に高い企業の3倍(225億円)を提示した事から、シーズン後半開催直後にプラネットを譲渡先とする事が決定した。

 当初、両球団は企業名を加える事には消極的だった。元々、市民球団として発足した経緯がある為、企業広告として活用されるのは不本意だった為である。それでも、球団譲渡を優先した為、結局は譲渡先の条件であった「球団名に企業名を追加する」事を飲む事となった。

 その一方、「地域密着球団」としての活動は今後も続ける事を両者は表明しており、地元でのイベント開催を積極的に行う事が約束された。

 こうして、2013年シーズンから、埼玉は「埼玉DeNAカブス」として、熊本は「熊本プラネット・フェニックス」として新たなスタートをする事が決定した。

 

 シーズンの結果だが、この年はジャ・リーグは巨人、日本ハム、ソフトバンク以外の、ナ・リーグは西武と楽天以外の各球団の調子が悪かった為、例年以上に混戦状態となった。埼玉、新潟、北陸、熊本の各球団にとってそれは好機であり、各球団は混戦に乗じて勝ち星を稼いだ。

 しかし、混戦状態である為、負けも同じ様に重ね、特に埼玉と熊本は戦力層の薄さやここ一番での弱さが際立ってしまった。最終的には埼玉は9位、新潟は5位、北陸は前年同様前期4位・後期6位の通年5位、熊本は前期7位・後期10位の通年9位という結果となった。

 

●新規参入組の2012年ペナントレースの成績

(球団名:通年順位(前期順位/後期順位):勝ち/負け/引き分け(前期勝敗内容:後期勝敗内容):通年勝率(前期勝率/後期勝率))

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉カブス:9:49/91/4:.354

・新潟アルビレックス:5:68/70/6:.493

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ:5(4/6):70/68/6(39/30/3:31/38/3):.507(.563/.451)

・熊本フェニックス:9(7/10):52/87/5(30/40/2:22/47/3):.378(.431/.326)

 

____________________________________________

 

 2012年のシーズン終了後、親会社が変わった埼玉は、早速首脳陣の総入れ替えが行われた。今まで最下位ばかりだったのはお金が無いからだけでなく、首脳陣のやる気が無いのも原因だった。

 その為、就任直後に監督・コーチ全員が引退となり、新しい首脳陣を編成した。この時、監督については人気を呼び込む意味から元スター選手から選ばれる事となり、DeNAは「大日の至宝」と呼ばれた高池直弘が、プラネットは「京急最強の左腕」と呼ばれた豊島遼一がそれぞれ監督に就任した。コーチ陣については監督に一任したが、条件として「コーチとしての実績が充分な人物」を加えた。こうして、新たな首脳陣の編制が行われた。

 また、親会社が変わった事で補強も積極的に行われた。特に資金力が豊富なプラネットは積極的で、他球団とのトレードや外国人選手の獲得が大規模に行われた。

 首脳陣や選手以外でも、育成面や広告面、ファンサービスなど、変更が多岐に亘って行われた。これらの施策により、例年より収益性は向上すると見られた。実際は、2013年シーズンの成績次第だが、少なくとも過去数年間よりは試合内容は良くなると見られた。

 

 2013年シーズンの結果は、彼らの想像より良くはならなかったが、観客動員数など経営面では改善した。

 DeNAは開幕戦こそ勝利したものの、直後に10連敗した。その後は大型連敗こそ無かったものの、ズルズルと負け越した。やはり、首脳陣が変わっても直ぐには影響は表れなかった。結局、この年も最下位となったが、9位と0.5ゲーム差と僅差であった。今シーズンのジャ・リーグが混戦状況にあった事も原因だが、その状況を活かす事が出来た結果でもあった。

 プラネットは、開幕スタートダッシュに失敗して3連敗をしたものの、今シーズンの最多連敗が5連敗となるなど、大きく負ける事は無くなった。選手の意識改革が追い付いていない為、接戦を落とす事が多かったが、トレードで獲得した選手が当たり、大型連敗をしなくなった。その結果、シーズンを9位で終える事となったが、初めてシーズン勝率を4割台で終えたなど、リーグ戦で戦える様になった。

 また、観客動員数は球団初年度越えを達成し、球場での売り上げも好調となった。地元との連携強化や広告の拡大、親会社の変更による変化の期待もあって、開幕当初は満席が続いた。その後は、例年通り負けが多い展開になった事で観客動員数は低下していったが、グッズ販売のラインナップが増加した事で売り上げが伸びた。

 

 新潟は、開幕4連勝と好スタートを切った。このシーズンは投打が上手く噛み合い、前半を3位で折り返した。だが、前半に飛ばし過ぎたのか後半は五分五分となる事が多かった。それでも、シーズン4位と過去最高の成績となり、球団創設以来初めて勝ち越してシーズンを終える事が出来た。

 北陸も、開幕戦こそ落としたものの、その後は5連勝するなど悪くない出だしとなった。こちらも投打が上手く噛み合い、前期を5位で終えた。後期になると勢いが増し4位で終え、通年でも4位となる好成績で終えた。

 

●新規参入組の2013年ペナントレースの成績

(球団名:通年順位(前期順位/後期順位):勝ち/負け/引き分け(前期勝敗内容:後期勝敗内容):通年勝率(前期勝率/後期勝率))

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉DeNAカブス:10:60/82/2:.424

・新潟アルビレックス:4:72/65/7:.524

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ:4(5/4):77/62/5(38/32/2:39/30/3):.552(.542/.563)

・熊本プラネット・フェニックス:9(8/9):59/81/4(29/39/4:30/42/0):.424(.431/.417)




・プラネットグループ
ゲームや玩具、リゾート開発などを手掛ける総合エンターテイメント企業であり、同時に国内有数の独立系システムインテグレーター、不動産会社でもある。
プラネットグループが持株会社で、子会社にゲーム部門(コンシューマー用、アーケード用、ゲームセンター)の「マーキュリー(旧名、プラネット・ゲームス)」、遊技部門(パチンコ・パチスロ、カジノ)の「ヴィーナス(旧名、プラネット・プレイズ)」、不動産部門(複合商業施設、コンベンションセンター、ビル・マンション)の「アース(旧名、プラネット・デベロップメント)」、玩具部門(おもちゃ、模型、アニメーション)の「マーズ(旧名、プラネット・トイズ&アニメーション)」、情報通信部門(システムインテグレーター、会計ソフト、コールセンター)の「ジュピター(旧名、プラネット・コミュニケーションズ)」が主要子会社となる。
源流は、1952年に設立されたカジノ運営会社「太陽商事」となる(この世界の日本では風営法でカジノが合法化されているが、審査が非常に厳しい)。その後、他の中小カジノ運営会社、パチンコ店、ゲーム会社、ゴルフ運営会社などを買収する事で拡大し、リゾート開発や不動産開発などにも進出する。1995年に社名を「プラネット・コーポレーション」に改称、1997年に東証一部上場、2006年に持株会社体制となる。

・高池直弘(たかいけ なおひろ)
1965年2月18日生まれ。神奈川県出身。179㎝、77㎏、A型。
1982年ドラフトで大日に2位指名され入団。入団初年から大暴れし、新人王と首位打者を獲得。入団2年目にはショートのレギュラーを獲得し、打率の高さと足の速さを活かした1番打者として名を馳せる。その後、2003年の引退までに通算2236安打(本塁打87本)、首位打者7回(3年連続含む)、盗塁王8回(3年連続を2回)、ベストナイン6回(2年連続を2回)など数々の功績を残した。引退後、大日の打撃コーチや守備走塁コーチ、2軍監督を歴任。

・豊島遼一(とよしま りょういち)
1965年9月21日生まれ。埼玉県出身。184㎝、84㎏、O型。
1983年ドラフトで京急に1位指名され入団。球速こそ遅いものの(MAXで134㎞/h)、多彩な変化球とバットの芯を外す投球が並外れて上手く、初年から12勝2敗2セーブ(完投2、完封1)という成績を残す。その後は京急のエースとして活躍し、2002年の引退までに通算217勝132敗17セーブ、最多勝利2回、最優秀防御率3回、ゴールデングラブ賞2回などの功績を残した。引退後、解説者を経験した後、京急の投手コーチやトレーニングコーチに就任。


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番外編:この世界でのプロ野球の状況(2010年代~:別の世界)③

 DeNAとプラネットにとって最初のシーズンが終了し、早速課題の解消に取り組んだ。

 DeNAは、主砲不在によって点が取れない事、エース不在によって抑えきれない事を早急に解消する必要があった。その為、早くもトレードで他球団の主砲とエースの獲得に乗り出し、それでも不足する分は海外から獲得するなど精力的に動いた。だが、資金面の問題がある為、他球団の2軍で燻っているスラッガーや、マイナーリーグで好成績を上げている選手が中心となった。

 プラネットは、選手間の意識改革を行い、勝負所で負けない気持ちを持たせる事、生え抜き組の技術・体力の両面での向上が重要になった。その為、座学や練習量の増加だけでなく、スポーツ科学に則った後方支援体制の構築、各種設備の拡充など多くが行われた。全ては、資金力のある親会社があってこそだった。

 一方で、主戦力の拡充も抜かり無く行われ、自由契約やトレードで積極的な補強が行われ、それでも不足する分は海外から引っ張ってきた。

 

 そして、2014年シーズンだが、この年の両球団は対照的な結果となった。

 DeNAは、開幕から7連勝するなど好調なスタートとなった。その後、順調に勝ち星を増やしていき、オールスター前には首位と8ゲーム差ながら3位と過去最高の順位となった。オールスター後も若干勢いは落ちたものの好調は続き、最終的には首位と11ゲーム差の4位となった。トレードで獲得した選手と若手の当たり年であった事が、この年の好調の要因だった。

 一方、大々的な補強を行ったプラネットは、開幕1か月こそ好調だったものの、大型補強した選手が軒並み不調に陥りズルズルと調子を落としていき8位となった。それでも、後期に入ってからは調子を戻したが、前期での不調が響いたのか今一つ波に乗れず、6位に終わった。通年でも7位と、大型補強を行った割にはかなり低い順位となった。

 

 今まで好調が続いていた新潟と北陸だが、今年は一転して不調となった。新潟は、開幕から8連敗して、これ以外にも8連敗を2回、7連敗も2回するなど大型連敗が続き、終わってみれば初めての最下位となった。北陸も、開幕こそ勝利したものの、その後は10連敗して、それ以降も調子が上がらず前期最下位となった。後期も同様となり、初めて前期・後期・通年の全てで最下位となった。投打が全く噛み合わなかった事に加え、今まで好調だった時に無理をし過ぎた反動がここに来た為であった。

 

●新規参入組の2014年ペナントレースの成績

(球団名:通年順位(前期順位/後期順位):勝ち/負け/引き分け(前期勝敗内容:後期勝敗内容):通年勝率(前期勝率/後期勝率))

〈ジャ・リーグ〉

・埼玉DeNAカブス:4:74/70/0:.514

・新潟アルビレックス:10:54/89/1:.378

 

〈ナ・リーグ〉

・北陸サンダーバーズ:10(10/10):53/82/9(26/41/5:27/41/4):.399(.396/.403)

・熊本プラネット・フェニックス:7(8/6):65/76/3(30/41/1:35/35/2):.462(.424/.500)

 

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 球団として戦える様になってきたDeNAとプラネットだが、この様な結果で満足する筈が無かった。球団の親会社となったからには、リーグ優勝からの日本一を望んでいた。その為、シーズン後半から来シーズンに向けた強化計画が立てられていた。

 特に、補強が事実上失敗したプラネットは、親会社の資金力を活用して補強と育成能力の強化の両方が同時に行われた。

 

 DeNAは、前年同様に2軍やマイナーリーグからの補強を強化した。昨シーズンにスカウトを増員した事で、獲得候補を多数確認した。これにより、トレードで6人(投手2、捕手1、内野手2、外野手1)、新外国人を3人(投手1、内野手1、外野手1)獲得した。

 昨年のドラフトでも、大卒と社会人から多くの即戦力級の選手を獲得した。それらをドラフトで外しても、有望と見られた高卒で対応した。最終的に、ドラフトで9人指名し(大卒投手1、大卒内野手1、大卒外野手1、社会人投手2、社会人捕手1、社会人外野手1、高卒投手1、高卒捕手1)、全員の入団が決定した。全ては、数年以内の優勝を目指している為である。

 

 プラネットの方は、大型補強が失敗した経験から、育成重視に変更した。これは、この2~3年は選手の育成に力を注ぎ、4~5年後に優勝を目指す計画の為である。

 ドラフトや補強もその計画に沿って行われた。ドラフトでは、育成前提から高卒をメインに獲得した。実際、2014年から3年間のドラフトで毎年10人指名したが、高卒以外を指名したのは5人だけである(内訳は、2015年に大卒捕手1、社会人内野手1。2016年に大卒内野手1、社会人捕手1、社会人内野手1)。

 また、補強の方も、主に自由契約となっている選手や、金銭トレードで1軍と2軍を行ったり来たりしている選手を中心に獲得した。新外国人も、AAAを中心に3年間で9人獲得した。

 尚、新規入団や補強で支配下登録を超す選手を抱える事となった為、一部を育成選手と共に3軍に移して、育成に特化した組織となった。

 

 今までの好調から一転、最下位に転落した新潟と北陸だが、路線変更は行わなかった。資金力でDeNA、プラネットに勝てない両球団は積極的な補強を行えない以上、地道な育成の強化を行う以外に方法が無い為である。

 実際、若い選手の実力は年々上がっており、海外のベースボールアカデミーでの成果も着々と上がっていた。ここで急な路線変更を行っては混乱を招くだけだった。

 

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 補強の結果、DeNAは2015年から毎年Aクラス入りをしたが、優勝争いに入り込めないかプレーオフ進出条件を満たせない為、リーグ優勝する事は無かった。2015年に4位、2016年に5位、2017年に3位となるものの首位と7ゲーム差ありプレーオフに進出出来ず(ジャ・リーグプレーオフの進出条件は、3位以上かつ首位と5ゲーム差以内)、2018年に首位と4ゲーム差ながら4位と、何れも惜しい所までは行くもののそこから先に中々進めなかった。

 しかし、2019年に開幕で好調なスタートを切ると、その後も順調に勝ちを重ねていった。この年好調の巨人と共に優勝争いを演じ、終わってみれば巨人と2ゲーム差の2位と球団史上最高の順位となった。その後、3位の大日(2.5ゲーム差)とのプレーオフ第1戦にストレート勝ちで下したものの、プレーオフ第2戦の巨人相手に1勝3敗で敗れた為、リーグ優勝とはならなかった。

 

 一方、プラネットの方は、2015年と16年こそBクラスとなったものの(それぞれ7位と6位)、2016年は前期を首位と0.5ゲーム差の2位で終えるなど、優勝争いに入り込む体制が着々と整いつつあった。特に、2016年には開幕後に熊本地震が発生し、本拠地の藤崎台も破損するなどして万全の状態では無かった(ホームゲームをサンマリンスタジアム宮崎と山鹿市民球場で行った)。そんな中で優勝争いに食い込む姿は、県民の励みとなった。2017年には、前期4位、後期3位、通年3位と大健闘したが、広島・楽天・西武を打ち崩す事が出来なかった。

 そして、2018年に遂に前期制覇を果たした。後期は3位とやや落としたものの、初めてプレーオフに進出した。後期制覇の西武とのプレーオフは、通年勝率の関係から西武に1勝のアドバンテージがあったものの、3勝2敗でプラネットが制して球団創設13年目(1軍参入からだと11年目)にしてリーグ優勝を果たした。

 その後、日本シリーズでジャ・リーグ優勝チームの宇都宮大日イーグルスとの戦いは、場数を踏んでいる大日の方に分があると見られていたが、その前評判をひっくり返す結果となった。勝負は7戦まで縺れ込み、第7戦を引き分けに持ち込むと、第8戦を2-0で大日を下して日本一に輝いた。

 翌2019年は、前年に日本一になった影響からか余り調子が上がらず、前期5位・後期4位の通年5位という結果に終わった。この経験から、余裕の付け方や気持ちの持ち方など精神面での教育が行われる様になる。

 

 新潟は、2015年と16年は今一つ調子が上がらず、7位と5位(DeNAと同率)という結果に終わった。

 しかし、2017年は大当たりの年となり、若手陣が大活躍した。その結果、勝率1位でシーズンを終えた。その後のプレーオフも、1ゲーム差の2位の阪急を3アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で下し、初めてリーグ優勝した。

 だが、日本シリーズではこの年のナ・リーグ優勝チームの広島に健闘したが2勝4敗でシリーズ敗退となり、日本一の栄冠は惜しくも逃した。

 翌2018年は、前年のリーグ優勝で燃え尽きたのか開幕3連戦を全て落とし、その後も今一つ波に乗れなかった。その為、8位という成績に終わっている。

 

 北陸は、2015年から2018年まで常にBクラスだったが(7位・6位・8位・7位)、2016年は後期制覇を果たしており、プレーオフ進出を果たした。しかし、前期制覇のライブドアにスイープされてリーグ優勝とは成らなかった。

 尤も、この年のナ・リーグは前期はライブドアが、後期は北陸が1位となったものの、通年1位は広島であり、仮にライブドアに勝っても次の広島にも勝つ必要があった。そして、ライブドアも広島に1勝3敗で敗れて、リーグ優勝は広島のものとなった。

 2017年シーズン終了後に監督が辞任となり、新監督の下で2年目の体制となった2019年、遂に北陸の快進撃が始まった。北陸は球団創設以来の快挙となる開幕から8連勝を記録し、前期2位となった。後期も勢いを維持して、球団記録となる12連勝をするなど、破竹の勢いで進んだ。その結果、後期制覇を果たし、通年1位となった。プレーオフも、前期制覇の楽天を寄せ付けずスイープで下し、球団創設14年目にリーグ初優勝を果たした。

 しかし、日本シリーズではペナントレースとプレーオフの勢いに乗る事は出来ず、ジャ・リーグ優勝チームの巨人相手に善戦したものの、2勝4敗で下されて日本一とはならなかった。




この世界の日本シリーズの結果(2016年~2019年)
(西暦:ジャ・リーグ優勝チーム―ナ・リーグ優勝チーム(○は日本一、●は負け):日本一チームの勝ち数/負け数/引き分け数(ある場合))
2016:〇四国日本ハムロビンス―●広島東洋カープ(4/2)
2017:●新潟アルビレックス―〇広島東洋カープ(4/2)
2018:●宇都宮大日イーグルス―〇熊本プラネット・フェニックス(4/3/1)
2019:〇読売ジャイアンツ―●北陸サンダーバーズ(4/2)


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番外編:中外グループの社会人野球(戦前~2リーグ分立まで)

 プロ野球が盛んな背景には参入企業が多い事もあるが、野球をしている団体が多い事も理由の一つである。大室財閥、日林財閥、日鉄財閥も例外では無かった。

 

 大室財閥系では、大室重工業や大室製鉄産業など、重工業系や製造業系の企業は軒並み保有していた。特に、大室重工堺と大室製鉄堺は練習場を共有しているなど繋がりがあった一方、ライバル関係でもあった。それ以外にも、大室重工徳島、大室鉱業宮古など多くのチームがあり、大室製鉄堺と大室重工徳島は都市対抗優勝を果たしている。

 大室財閥の社会人野球の進出は、1925年に大室重工と大室金属製鉄(1936年に大室製鉄産業と大室金属産業に分割)、大室電機産業の3社共同の社員の福利厚生の一環で堺に設立された「全大室野球団」が発端となる。このチームは1929年の第3回都市対抗に初出場し(史実では全大阪が出場)、2回戦敗退という結果となった。その後も、1936年の第10回大会で準決勝敗退(史実では全大阪が出場し準々決勝敗退、全大阪を破ったコロムビアが準決勝敗退)、1941年の第15回大会で優勝(史実では開催されず)と中々の強豪だった。

 それ以外の場所でも、徳島や横浜など大室系の大工場がある地域には野球部が設立された。全大室出身者が「異動」目的で来るなどして、技術向上や指導に当たった。

 

 戦後の1947年、全大室は大室重工堺、大室製鉄堺、大室電機に分割された。これは、各社が自社の福利厚生の為にチームを保有したかった事もあったが、最大の理由は元大室系の大日新聞がプロ野球に参入した事から、勝手知ったる全大室から選手を大量に引き抜くのではと恐れた事が理由だった。そうなれば、チームとしての体を成さなくなる為、それを防ぐ意味で分割させて存続させようとした。幸いな事に、この懸念は大日新聞の内紛が原因で杞憂に終わった。

 全大室以外の大室系のチームは分割する事は無く、以前の形のまま存続した。その中で、大室重工徳島は積極的な補強を行い、1947年の第18回大会で初出場で初優勝という快挙を成し遂げた(史実では全徳島が出場して準決勝敗退して3位決定戦も敗退、優勝チームは大日本土木)。

 

 また、戦後の野球ブームに乗って新しくチームを編成した所もあった。1946年、大室系の土木会社である東亜土木と鉱業系の大室鉱業、化学系の大室化成産業の野球部がそれぞれ京都、岩手、東京で設立された。その後、東亜土木は「日東建設」に改称し、大室鉱業は過度経済力集中排除法で、大室化成は企業再建整備法で1950年に分割された。

 その際、大室化成は一部部門の分裂で本体が残った為、野球部は大室化成(この時は「大和化成産業」)に残ったが、大室鉱業は金属部門(大和金属鉱山)と石炭部門(大和鉱業)に分割された。これにより野球部も分割されるが、共に岩手を本拠地とした。

 

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 大室系だけでなく、日鉄系と日林系もチームを保有している。

 

 日鉄は大室と同じく各地に工場や造船所がある為、大規模工場毎に野球部があった。1928年に設立された千葉と防府の野球部は有名であり、東京の本社もその人気にあやかって1937年に設立した(チーム名はそれぞれ「日鉄千葉野球部」、「日鉄防府野球部」、「日鉄本社野球部」)。

 また、日鉄財閥の中核企業(日本鉄道興業、日鉄土木、日鉄運送など)とは別に、日鉄系の鉄道会社も野球部を設立した。1934年に加越電気鉄道と温泉電軌(共に後に北陸鉄道を経て加越能鉄道)が合同で「加賀野球倶楽部」を設立して石川県江沼郡大聖寺町(現・加賀市)に、1936年に藤相鉄道(後の駿遠鉄道)が「藤相鉄道硬式野球部」を設立して静岡県志太郡藤枝町(現・藤枝市)にそれぞれ本拠地が置かれた。

 これら以外に、筑波高速度電気鉄道(筑波電鉄)、南海急行電気鉄道(南急)、九州電気軌道(九軌)も社会人野球部を設立予定だったが、建設工事が佳境に入っていた事、業績が微妙だった事、準戦時体制に入って設立の余裕が無くなった事などが原因で設立されなかった。その後、各社は戦中戦後にプロ野球と関わりを持つ様になり、社会人野球への参入は不可能となった(筑波電鉄:形成と合併後、戦後に大日イーグルスの株を一部譲り受ける。南急:戦後に太陽ロビンスの経営権を譲り受け「南急ロビンス」と改称。九軌:西鉄となった後、大洋軍を譲り受け「西鉄軍」と改称)。

 

 戦後直ぐの1946年、日鉄の大神工場でも野球部が設立された。翌年設立された星野組と共に、大分県での社会人野球をリードしていたが、星野組が1949年に解散すると(選手の殆どを毎日オリオンズに譲渡した為)、1952年に大分鉄道管理局のチームが編成されるまで大分県で唯一の社会人野球チームとなった。

 また、戦後復興による土建ブームによって建設業の業績は上向きとなり、1948年に日鉄土木も野球部を設立した。正確には、日鉄財閥の解体による日本鉄道興業本社が分割され、野球部を何処が持つかが問題となった。その引受先として、当時業績が良かった日鉄土木が手を挙げた。これにより、日鉄本社野球部は存続したが、チーム名は「日鉄土木硬式野球部」に改称された。

 

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 日林も、1933年に東京の本社の傘下組織として「日林野球部」が設立された。その後、北海道では港湾設備の拡大とそれに伴う工場の進出、四国では製紙業と機械製造業の好調によって労働人口が増加しており、娯楽と福利厚生の両面で野球部の設立機運が高まっていた。それにより、1938年に石狩郡石狩町(現・石狩市)に「日林北海道野球部」が、愛媛県宇摩郡三島町(現・四国中央市)に「日林四国野球部」がそれぞれ設立された。これに合わせて、東京の野球部が「日林東京野球部」に改称された。他にも、中部や近畿、山陰でも設立機運があったが、予算や人員の都合、戦時体制への移行の時期と重なった事で流れた。

 

 戦後、財閥解体によって日林財閥が解体され、中核企業の日本林産も解体された。これに伴い、日林の野球部も各社毎に分割され、北海道の野球部は日林製紙に、東京の野球部は日林物産に、四国の野球部は東邦林産にそれぞれ移されて存続した。その際に名称も変更され、それぞれ「日林製紙野球部」、「日林物産硬式野球部」、「東邦林産野球部」となった。

 また、新規の野球部の設立も行われ、1947年には日林製紙が宮崎市に「日林製紙宮崎野球部」を、東邦林産が岐阜県恵那郡中津町(現・中津川市)と出雲市にそれぞれ「東邦林産中部野球部」と「東邦林産山陰野球部」を設立した。また、これに伴い日林製紙野球部は「日林製紙北海道野球部」に、東邦林産野球部は「東邦林産四国野球部」に変更された。

 

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 戦後復興に伴う活況で社会人野球がブームとなったが、同時にプロ野球もブームとなった。戦前は「職業野球」として蔑まれ、その傾向は戦後も変わらなかったが、GHQが娯楽の提供などの理由からプロ野球の中継が増えるなどして人気が高まった。

 その人気から新規参入を望むチームが多数存在したが、日本野球連盟はようやく採算が取れる様になった所なのに、これ以上球団が増えたらまた赤字に戻る事を懸念した。また、今までの自分達の苦労を掠め取られる事を恐れていた為、新規参入は認められなかった。

 しかし、それで諦めた訳はなく、参入を断られた球団が集まって「国民野球連盟」を設立した(この辺りは『番外編:この世界でのプロ野球の状況(戦前~2リーグ分立まで)』参照)。日本野球連盟の妨害はあったものの、何とか日本でも2リーグ制が実現する事となった(以降、日本野球連盟は「ジャ・リーグ」、国民野球連盟は「ナ・リーグ」とする)。

 

 2リーグ制になった事は、プロ野球選手の人口が増加する事を意味する。では、その選手は何処から調達したのかというと、ジャ・リーグからの引き抜きや高卒・大卒もあったが、多くは社会人野球からの大量引き抜きという形で対応した。

 これにより社会人野球は大混乱となった。ナ・リーグだけでなくジャ・リーグも選手の引き抜きを行った為、主力選手が多数引き抜かれて戦力面で大幅に下がり、戦後の社会人野球チームの増加も合わせて試合内容の大幅な低下が懸念された。その為、補強選手制度(都市対抗出場チームに限り、同じ地区で予選敗退したチームから選手を借りれる制度)が導入された。

 

 リーグ拡張の余波は、中外グループの各チームにも影響が表れた。元大室系からは大室重工堺、大室製鉄堺、大室電機、大室重工徳島が、元日鉄系からは日鉄土木、日鉄千葉、日鉄防府が、元日林系からは日林製紙北海道、日林物産、東邦林産四国から主力選手が複数引き抜かれた。毎日オリオンズや東急フライヤーズ、大映アスレチックス、近鉄パールスに多く引き抜かれたが、ジャ・リーグ所属で中外グループとも関わりがある大日イーグルス、南急ロビンス、西鉄ライオンズも引き抜きに参加していた。だが、中外グループの3球団は資金提供や人員交換という形だった為、厳密には引き抜きでは無かった。

 兎に角、これによりチームの弱体化は避けられず、以降数年間は低迷する事となった。



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番外編:中外グループの社会人野球(2リーグ分立後~1980年代)

 リーグ拡張による選手の大量引き抜きという事態はあったものの、社会人野球の選手人口は拡大し続けた。まだプロ野球は賤業、つまり「下賤な者が行う卑しい職業」と見做されていた時代であり、アマチュア野球の方が人気があった。その最たるものが高校野球なら夏の甲子園、大学野球なら六大学、社会人野球なら都市対抗である。

 この関係が逆転するのは、1959年6月25日の後楽園で行われた巨人対阪神の天覧試合まで待たなければならなかった。

 

 プロ野球の人気が高まる一方、社会人野球の人口も拡大した。当時、復興景気や朝鮮特需、それに続く高度経済成長期によって、1950年代初頭から1970年代初頭までの約20年間は一時的な景気の落ち込みはあったものの、好景気が長く続いた。それに伴い、社会人野球の規模が拡張し、新規に参入する所も増えた。特に、重工系の社会人チーム(新日鐵堺や日本石油、日産自動車など)はこの頃に設立されたものが多い。

 この時のチーム拡大と樺太及び沖縄の存在によって、1959年の第30回都市対抗から出場チームは30に変更となった(※1)。その後、順次出場チーム数は拡大され、1964年の第35回大会から36チームと固定される(※2)。これにより、史実では出場しなかったチームが出場する様になる。

 同様に、日本選手権も最初の出場チーム数は24で(※3)、以降順次枠を拡大させ、最終的に都市対抗と同じく36チームで覇を争う事となる(※4)。その為、こちらも同様に史実では出場出来なかったチームが出場する様になる。

 

____________________________________________

 

 中外グループでは、本業の拡大に伴い、社会人野球の拡大も行われた。一時はプロ野球に選手を引き抜かれたが、本業の拡大は人員の拡大を呼び、人員の拡大は選手層の厚みを意味した。そして、プロ野球の人気は1959年の天覧試合まで微妙なものだった為、優秀な人材は社会人に入ってきやすかった。

 実際、東京六大学や東都、関西六大学(※5)や近畿学生野球連盟など、大学野球の有力連盟出身の選手がこの頃は多く入ってきた。プロ野球の人気がアマチュア野球と逆転した後は有力連盟出身の選手は少なくなった一方、東京新大学野球連盟、首都大学野球連盟、京滋大学野球連盟、阪神大学野球連盟など新興の大学野球連盟出身者や高卒選手が多くなった。

 

 この頃の中外グループの野球部について、元大室財閥、元日林財閥、元日鉄財閥の順に述べていく。

 

 大室物産は、1966年に日林物産を合併したが、日林物産は野球部を持っていた為、大室物産はそれを引き継いだ。チーム名は「大室物産野球部」と変更になったが、体制の変更は無かった。

 当時、商社は花形産業の一つであり、優秀な人材が入ってきやすかった。日林物産時代は東京新大学や首都大学などからの選手が多かったが、大室物産と合併した事で変化した。当時の大室物産は三井物産や三菱商事程では無いにしても人気の就職先であり、東都や関西六大学、東京六大学出身の選手が入る様になった。

 この恩恵を受け、1968年の第39回都市対抗で初出場してベスト4進出、翌年の第40回大会では決勝まで進出するも電電関東に敗れて初優勝とはならなかった。ここまで進出出来た背景として、六大学出身者が多数入ってきた事が大きかった。その後も、何度か都市対抗や日本選手権に出場しているものの、中々優勝出来ない状況が続いた。

 

 大室重工業は、横浜と堺、徳島に野球部を置いている。この中では徳島が強豪だが、1947年以来、都市対抗の出場は長い事無かった。だが、出場枠が拡大した1960年の第31回大会に大室重工徳島は2度目の出場を果たした。準決勝で熊谷組に敗れたものの、3位決定戦で三菱重工名古屋を大差で破って3位入賞という結果となった。それ以外のチームは、横浜は1962年に、堺は1966年に出場したものの、前者は1回戦敗退、後者は準々決勝敗退という結果に終わった。だが、その後の3チームは何度か都市対抗及び日本選手権に出場している為、決して弱いチームではない。

 オイルショック後の1975年に中外グループ内の重工業の整理が行われ、日本鉄道興業の造船部門を統合した。これにより、日鉄の防府と大分の造船所が大室重工に移ったが、大分造船所は日鉄大分野球部を保有していた。野球部は大室重工に移り「大室重工大分野球部」として存続したが、日鉄に残った千葉や防府に有力選手を移した為、弱小チームに転落した。

 その後、他の大室系野球部から人員を移したり、積極的な補強を行ったものの、三菱重工長崎や新日鐵八幡などの壁は厚く、中々都市対抗や日本選手権に勝ち進めなかった。この状況が終わるのは、1988年の第15回日本選手権に初出場し準優勝するまで待たなければならなかった。

 

 大室鉱業と大室金属鉱山は、共に岩手県を本拠地とするが、県内の富士製鐵釜石(後の新日鐵釜石)と盛岡鉄道管理局(国鉄民営化後に仙台鉄道管理局と合併して「JR東日本東北」となる)、宮城県の仙台鉄道管理局といった強豪の存在から都市対抗進出は叶わなかった。その後、国内鉱山の採掘量減少や採掘コストの高騰、海外産の安い鉱石の大量流入などにより、1960年代中頃から経営が厳しくなっていた。特に大室鉱業は炭鉱事業が中心の為、エネルギー革命の影響も受け、1960年代から国内炭鉱の多くを閉山するなど事業転換を強いられていた。その一環で、経営合理化の為に野球部を休止せざるを得なくなり、大室鉱業は1965年に、大室金属鉱山は1971年に休止した。共に都市対抗への出場経験が無いままの休止であった。

 その後、大室鉱業はセメントメーカーに転換して業績を伸ばし、1982年に野球部は復活したが、大室金属鉱山は再開する事は無く1980年に廃止となった。復活した大室鉱業野球部だが、17年間のブランクは大きかった。再開して十数年間は都市対抗及び日本選手権への出場は出来ず、1997年の第67回大会でようやく初出場する事となる(結果は準々決勝敗退)。

 

 新東繊維は、1952年に野球部を設立した。本拠地は工場のある埼玉県となった。だが、埼玉県は強豪の日本通運と本田技研の存在から都市対抗への進出は叶わなかった。その後、オイルショックによる本業の打撃から野球を続ける余裕が無くなり、1974年に廃部となった。この時、部員は大室物産や大室重工千葉など、関東を本拠地とする他の中外グループの野球部に移籍した。

 

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 日本林産は、1960年の第31回大会に日本林産四国が初出場した。結果は2回戦敗退だったが大室重工徳島だった。四国は翌年も出場し、1963年には日本林産山陰が初出場したものの、共に1回戦で敗退した。

 高度経済成長期までは拡大期であったが、外材の輸入量増大と国産材の価格高騰などで減益となった。そうなると、金が掛かる社会人野球を続けるのは難しかったが、社内からは全廃に対する反対が強かった。だが、当時3チーム保有しており、どのチームを残すべきかが焦点となった。真っ先に強豪相手が多い中部が廃部対象に上がったが、残る四国と山陰のどちらを残すかが問題となった。これも、強豪相手が多い四国では都市対抗進出は難しいと見られ、最終的に山陰を残して後の2チームは廃部が決定した。だが、ここで日林製紙から「四国の野球部を譲り受けてもらえないか」という声が掛かった。日本林産からすれば特に問題は無かった為、二つ返事で了解した。

 1969年に中部の廃部と四国の日林製紙への譲渡が正式にアナウンスされ、翌年に実行された。これによって中部は廃部となり、部員の多くは山陰に移動した(一部は日林製紙に移動)。日本林産山陰野球部は「日本林産野球部」に、日本林産四国野球部は「日林製紙四国野球部」にそれぞれ改称した。

 

 日林製紙は、大室製紙や山陽国策パルプと各社の子会社と1972年に合併して「扶桑製紙」を設立したが、これに伴い日林製紙の各野球部も改称した。また、合併時から北海道の野球部が存在した為、1978年の山陽国策パルプ旭川硬式野球部は設立されなかった。

 日林製紙時代、北海道、四国、宮崎の各野球部は都市対抗及び日本選手権への出場経験は無く、1976年に北海道が都市対抗に出場したのが初めてだった(結果は2回戦敗退)。その後、同じ年の日本選手権に宮崎が、1979年には四国が都市対抗と日本選手権の両大会に初出場したが、共に1回戦で敗退した。

 

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 かつて日鉄系だった鉄道会社の内、北陸鉄道(加越電気鉄道、温泉電軌)と駿遠鉄道(藤相鉄道)は野球部を保有しており、戦後もそれは変わらない。一時はプロ化も考えられたが、球団の枠や選手の問題、プロ化への抵抗感も強く実現しなかった。

 この内、北陸鉄道は1965年の第36回大会に初出場するも、初戦敗退となった。次に出場したのは、加越能鉄道に社名を変えて2年後の1979年の第50回大会であり、準決勝で三菱重工広島に敗れたもののベスト4にまで進出した。

 駿遠鉄道は、日本楽器(現・ヤマハ)や大昭和製紙など静岡県内での競合相手が多かったが、1957年の第28回大会に初出場して初優勝を果たした(※6)。だが、日本楽器と大昭和製紙の壁は厚く、出場枠が拡張した1960年以降も中々勝ち上がれず、次に出場するのは28年後の1985年の事だった(結果は2回戦敗退)。

 

 戦後になって保有したのは、山陽電気鉄道(山電)と札幌急行鉄道(札急)の2社である。

 山電は、1950年から2軍だけだがプロ野球チームを保有していた。しかし、2軍だけでは経営が成り立たなかった事、岡山延伸に注力した事から1952年のシーズン中に解散した。その後、経営が落ち着いた頃に野球部の復活運動が興り、1957年に「山陽電気鉄道硬式野球部」が設立され、再度野球に参加する事となった。だが、2軍時代とは異なり、本拠地は岡山県に移した。これは、兵庫県は三菱重工神戸や富士製鐵広畑といった強豪や、川崎製鉄神戸や神戸製鋼といったライバルが多く苦戦が予想される事から、ライバルが少ない岡山県に移した。

 都市対抗の初出場は1960年の第31回大会だが、2回戦で敗退した。その後、1966年の第16回サンベツ(※7)で初出場で初優勝(※8)、1968年の第39回都市対抗に出場してベスト4となるなど60年代は強豪として名を馳せ、その後も都市対抗や日本選手権に何度か出場している。

 

 札急は、前身会社の関係から定鉄―東急派と石狩―京成派の内部対立が酷い状況だった。その内部融和の一環と北海道における社会人野球の新興勢力になる事を目的に、1981年に「札幌急行鉄道野球部」が設立された。当時の北海道5強(※9)の壁は厚かったが、打撃力はあるチームの為、北海道における台風の目として恐れられていた。

 社会人野球でも指名打者制度が導入された1988年の日本選手権(都市対抗でも翌年から導入)、札急の打線は火を噴き北海道・樺太に一大旋風を巻き起こした。極端な打高投低で一発勝負のトーナメント戦にも拘わらず、北海道5強を真っ向から打ち砕いて初出場、同時に初優勝を成し遂げた。年が明けてもこの勢いは止まらず、都市対抗も初出場、「前年の日本選手権の再来」と言われてこちらも初優勝を成し遂げた。

 

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 都市対抗や日本選手権への出場が中々出来ないとなると、野球部を持つ熱意が徐々にだが薄れていった。勿論、都市対抗や日本選手権での優勝だけが社会人野球の目的では無い為、保有は続けられた。

 しかし、景気の悪化で本業に支障が出てくると、本業への集中や合理化の為に廃部となるチームも出た。実際、炭鉱系のチームはエネルギー革命の頃に本社の経営が危なくなった事で解散となったチームが多く(日炭高松、日鉄北松など)、オイルショックとその後の不況で本業の方が傾いた事で、経営合理化の点から解散となるチームが多かった(クラレ岡山や東洋紡岩国、四国電力など)。その間でも、不況や本業拡大による合理化などで解散するチームは多かった(丸井や新潟交通、三重交通など)。

 中外グループも例外では無く、鉱業系の大室鉱業と大室金属鉱山、繊維系の新東繊維が休廃部した事は前述しており、そうならなかったチームでも運営費の削減や新規部員の応募休止などを行っており、少しでも経費の削減が行われた。

 それでも、「社会人野球を辞める」という選択肢は無かった。

 

 オイルショック後も、社会人野球の新規参入は止まらなかった。重工といった従来の業種以外にも、金融や小売など新たな業種からの参入も多く見られた。

 1975年、中外グループの生命保険会社の1つである三洋生命が軟式野球部を硬式野球部に転向した。これは、前年に日本生命が日本選手権に出場した事に影響された為だった。これに対抗する様に、翌年には中外グループのもう1つの生命保険会社である昭和生命が準硬式野球部を転向させて参入し、同じ年に協和大同銀行も旧協和銀と旧大同銀の内部融和を目的に軟式野球部を転向して参入した。本拠地は、三洋生命と昭和生命は東京に、協和大同銀行は大阪とした。協和大同の本店は東京だが、旧大同銀の顔を立てる為に大阪を本拠地とした。

 だが、グループの中核でもある中外銀行、大室と共立の両信託銀行、日鉄と大室の両証券会社、大室と昭和の両損害保険会社は参入しなかった。これは、全て本社が東京に置かれており、仮に参入した場合は東京を本拠地とする事となる。ただでさえ激戦区の東京にこれ以上増やすのは良い事では無い為、硬式野球部への転向はせずに軟式野球及び準硬式野球のままとした。

 硬式野球部に転向した三洋生命、昭和生命、協和大同銀行だが、東京及び大阪は激戦区である為、都市対抗及び日本選手権への出場には少々時間が掛かった(地区連盟主催大会(※10)は幾つか制している)。それでも、三洋生命は1986年の都市対抗と1987年の日本選手権に、昭和生命は1980年の都市対抗、協和大同銀行が1981年の都市対抗に出場しており、結果はそれぞれ2回戦敗退、1回戦敗退、準々決勝敗退、準々決勝敗退となった。

 

 小売だと、GMS(ゼネラルマーチャンダイズストア。イオンやイトーヨーカドー、ダイエーなど)の日本小売がブランド名だった「NICCOLI(「ニッコリ」と読む)」に社名変更した1982年に、埼玉県を本拠地とする「ニッコリ硬式野球部」を設立した。当時、小売業の社会人野球チームは殆ど無く、後にヤオハン(1992年にクラブチームを企業チーム化、1998年に再びクラブチーム化)やローソン(2002年廃部)が参入するが、NICCOLI参入時点では1975年設立のヨークベニマル(1999年廃部)程度だった。

 野球部は「社員の福利厚生」が最大の目的で設立された為、設立当初は都市対抗や日本選手権への出場を本気で狙う事は考えていなかった。それでも、地区連盟主催大会(※10)では何度か優勝しており、決して実力がない訳では無いが、都市対抗や日本選手権への出場は一度も無かった。




※1:史実では30チーム出場はこの大会限定で、翌年からは25チームに戻った。
※2:史実では32チーム。その後、30~32チームで推移し、現在は32チーム。史実における36チーム出場は1969年の第40回大会と2009年の第80回大会のみ。
※3:史実では22チーム。
※4:史実では22(1974~1980)→24(1981~1989)→26(1990~2005)→28(2006)→32(2007~:2014のみ40回大会記念で34)と拡張。
※5:「関西六大学野球連盟」の略だが、この「関西六大学」は旧連盟のもので、現在の「関西六大学」とは異なる。旧連盟の加盟校は関西、関西学院、同志社、立命館、京大、神戸大で、現連盟の加盟校は龍谷、京都産業、大阪商業、大阪学院、大阪経済、神戸学院。加盟校を見ると「関西学生野球連盟」の方が旧連盟の流れを汲んでいるが、神戸大が抜け、近畿大が加盟している(神戸大は近畿学生野球連盟に加盟)。
※6:大昭和製紙に代わって出場。史実では2回戦敗退。史実の優勝チームは熊谷組(1993年廃部)。
※7:「日本産業対抗野球大会」の略。1951年に始まった大会。その名の通り、業種別に分かれて「どの業種の野球部が一番強いのか」を争う大会だった。その後、1974年に「社会人野球日本選手権大会(日本選手権)」に発展的解消。同時に、会場が後楽園から関西に移転。
※8:史実の優勝チームは全鐘紡。
※9:大昭和製紙北海道、新日鐵室蘭、王子製紙苫小牧、北海道拓殖銀行、NTT北海道。史実ではそれぞれ、1993年に「ヴィガしらおい」としてクラブチーム化するも1997年に解散(2000年に「WEEDしらおい」として再建)、1994年に休部して「室蘭シャークス」としてクラブチーム化、2018年に再び新日鐵の企業チームとなる、2000年に廃部し一部はクラブチーム「オール苫小牧」に合流、1996年に廃部、2001年にクラブチーム化し(名称はそのまま)、2006年に解散。
※10:各地区連盟が主催する社会人野球の大会の事。社会人野球を統括する日本社会人野球協会(2013年から「日本野球連盟」だが、この世界では改称せず)には、北から順に北日本(史実の北海道)、東北、関東、北信越、関西、中国、四国、九州9つの地区連盟がある(この世界では南樺太(樺太県)が日本に残っている為、北海道と樺太県を統括する組織として「北日本地区連盟」が置かれる)。この世界では、史実の大会に加え、架空のJABA樺太県知事旗争奪大会(北日本)、JABA京浜産業大会(関東)、JABAせとうち杯争奪大会(四国)、JABA沖縄大会(九州)が存在し、樺太大会と沖縄大会は日本選手権対象大会(2007年以降、この大会に優勝したチームには日本選手権への出場枠を獲得する)となっている。


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番外編:中外グループの社会人野球(1990年代~)

 1980年代末から日本はバブル景気によって空前の好景気に見舞われた。その後、1992年にバブル景気は緩やかに終息に向かった。これにより、景気は緩やかに後退したが、企業にとってはこれが幸いし、環境への変化に対応させる事が出来た。

 また、この世界では中国と韓国の経済発展が進んでおらず、それに伴う日本の製造業の空洞化や技術移転が進んでいなかった。台湾や満州がライバルとして台頭しつつあったが、製鉄や造船、製紙などの重化学、半導体などの分野では依然として日本がトップに君臨していた。

 同様に、国防と流通網の整備を理由に公共事業の削減はされず、「ハコモノ行政」という批判はあるものの、道路や空港、港湾の整備は続けられた。バブル期においても過剰な開発(ゴルフ場、スキー場など)が規制されていた事もあり、ゼネコンの経営状況も比較的マシだった。

 これらの要因によって、日本の景気は史実より安定しており、企業の状況も史実より遥かにマシな状況だった。

 

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 景気の緩やかな後退と日本の産業界の優勢の維持は、社会人野球に良い影響を及ぼした。史実では、バブル崩壊と長引く景気の悪化により、多くの社会人野球チームが休廃部に追い込まれた。これまでも、不景気を理由に複数のチームが休廃部していたが、この時は多くの名門チーム(熊谷組や河合楽器、北海道拓殖銀行など)が無くなった。その他の野球部も名門に続く様に無くなり、企業の野球部は100を切る程にまで減少した。

 この世界では、バブルの終息とその後の対応によって落ち着いた景気後退となった。これにより、企業の業績は悪化しつつあったが緩やかなものだった。そうなると、急速なリストラは行われる事は無く、野球部も存続した。特に、重化学(製鉄、機械、化学、製紙)の名門の多くは存続し、例として新日鐵の各野球部(八幡、堺、光、室蘭)に神戸製鋼、東芝府中に協和発酵、いすゞ自動車に王子製紙苫小牧など、多くの名門や有名企業のチームが存続した。重化学以外でも、河合楽器や熊谷組などが存続した。

 また、21世紀以降も景気は緩やかに上昇し、人口減少も大きな問題とはなっていない事から、日産自動車や三菱重工長崎などが存続している。

 

 だが、全ての野球部が存続出来た訳では無かった。史実より景気が良いとはいえ不景気になった事は事実で、中には史実と同じ様に急速に業績が悪化した企業も存在した。

 その代表的なチームは北海道拓殖銀行(たくぎん)である。史実の拓銀は1997年に経営破たんし、その前年には野球部は廃部している。この世界では1997年時点でも存続しているものの、経営が苦しい事には変わらなかった。その為、経営合理化の為に2000年に廃部となった。その際、部員は北海道の他のチームに移籍となった。

 たくぎん以外でも、大昭和製紙やヤオハン、大和銀行にプリンスホテルなどが解散に追い込まれた。だが、それらのチームの部員は他チームに移籍したり、同じ地域内で廃部となった野球部の部員と共にクラブチームを設立する事で野球を続けられた。

 

 複数保有しているチームは、一方に集中させる方針を取った。

 この例の代表的なチームはNTTである。こちらは史実通り、NTT東日本とNTT西日本に統廃合された。他にも、住友金属鹿島が住友金属野球団(堺市)を、日本通運(さいたま市)が日本通運名古屋を、東芝(川崎市)が東芝府中をそれぞれ統合しており、史実と同じになった。前述した日産自動車も日産自動車九州を統合して存続し、三菱重工も長崎が存続している代わりに三原が整理対象となって廃部となった。

 この内、住友金属鹿島には続きがあり、この世界では住友金属が新日鐵とではなく大室製鉄産業と経営統合した。これにより新社名は「住友大室製鉄」となり(存続会社は大室製鉄産業)、住友金属鹿島は「住友大室製鉄鹿島」と改称された。合わせて、大室製鉄堺も「住友大室製鉄堺」に改称された。

 

 それ以外にも、企業合併によって野球部の統合が行われたところもある。

 この例の代表的なチームはJFE西日本である。この世界でも日本鋼管と川崎製鉄は合併してJFEスチールが成立している。それに伴い、両社の野球部も統合する事となり、日本鋼管系のNKK(福山市)と川崎製鉄系の川崎製鉄水島(倉敷市)が統合して「JFE西日本硬式野球部」が設立された。

 

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 中外グループにもバブル後の不景気の影響による変化があった。休部または廃部となったチームも幾つか存在する。大きく影響を受けたのは金融と小売業、鉄道業だった。

 

 1970年代に軟式及び準硬式から硬式野球部に転向した三洋生命、昭和生命、協和大同銀行だが、東京及び大阪は激戦区である為、地区連盟主催大会は幾つか制しているものの都市対抗及び日本選手権への出場は中々叶わなかった。1980年代から90年代に何度か出場したものの、最高でベスト8止まりなど良い成績を残せなかった。

 その後、バブル景気の終息に伴う景気の緩やかな後退と、大規模な企業再編に伴う事業の選択と集中によって野球部にとっては厳しい時代となった。幸い、三洋生命は廃部とならなかったが、昭和生命については千代田生命との合併による混乱で1999年から3年間は休部となり、2002年に「昭和千代田生命野球部」と改称して再開した。協和大同銀行も本業への集中、東海銀行との合併とそれに伴う合理化を理由に2002年に廃部となった。

 

 小売業のNICCOLIも、バブル景気終息後の消費の冷え込みや嗜好の多様化でGMSの形態が時代遅れとなり、21世紀初頭から本業が不振状態となった。この煽りで、2004年に野球部は廃部となり、選手は他の中外グループ各社に分散された。

 

 バブル景気以降、地方の人口が微減傾向となった。そこに、道路網の整備や自家用車の保有台数の増加などの要因も加わり、鉄道及びバスの輸送量が減少に転じた。この影響は、北陸を勢力圏とする加越能鉄道(加越能)が大きな影響を受け、高速バス部門以外では赤字が大きくなった。

 また、札幌急行鉄道(札急)はバブル期に沿線人口の増大とそれに伴う観光開発を見込んでレジャー開発にのめり込んだ事が災いし、多額の不良債権を抱え込む事となった。

 山陽電気鉄道(山電)も、沿線人口の減少と国鉄民営化による山陽本線との競争激化、沿線のレジャー開発及び宅地開発の停滞によって赤字が増大した。沿線の工業地帯の雇用が大きい事から輸送の減少は少なかったものの、神戸・姫路~赤穂・岡山の通しの利用者が減少した事は打撃だった。

 当然、早急な経営再建が望まれ、遊休資産の売却やリストラの促進、不採算部門の切り離しなどが行われた。こちらは、倒産した場合の地域の交通網や信用の関係、社内における野球部の重要性が高くない事から野球部は早々にリストラされる事となった。その為、1997年に加越能が、1998年に札急が、2000年に山電の野球部が廃部となった。

 だが、廃部による地域の社会人野球の火を消すのは反対され、地元の有力者や企業と共同でクラブチームが設立された。これは、他の社会人野球チームが消滅した事で、その受け皿となるクラブチームの設立が望まれていた為でもあった。これにより、1999年に「福井あわらベースボールクラブ」が、2000年に「空知ベースボールクラブ」が、2001年に「岡山クラウンズ」がそれぞれ加越能、札急、山電の後継チームとして設立された。選手は、前身チームだけでなく廃部となった他のチームからの選手も集められた。

 

 他にも、名門の日本林産が完全に撤退し、日本鉄道興業も縮小を余儀なくされた。これらの発表は驚きをもって迎えられた。

 日本林産は、国内の林業だけでなく住宅建設やバイオマス火力など多角化したが、国内材のコストの上昇や林業従事者の減少、住宅需要の落ち着きなどで業績が低下し、野球部を持つ体力が無くなりつつあった。その為、2000年の活動を最後に廃部となったが、元選手と鳥取・島根両県の社会人野球チームの選手が合同で「山陰倶楽部」を設立して事実上クラブチームとなって存続した(本拠地は鳥取県米子市に移転)。

 日本鉄道興業は、日本における鉄道車両の更新が一通り完了した事で需要が大きく減少した。不幸な事に、日鉄は1970年代の中外グループ内での重工系の統合の影響でほぼ鉄道車両専業メーカーとなっており、他の業種は発電機とタービンなどの重電部門ぐらいで、その重電部門も海外への輸出が一段落した事で業績の悪化が避けられなかった。

 その為、輸出強化と本業強化の為に経営資源の集中とリストラが行われ、その一環には野球部の廃止も含まれていた。だが、社内からの反対が多かった為、当初予定の千葉と防府の両チームの廃止こそ免れたものの、どちらか一方の廃止は避けられなかった。社内の投票の結果、実績から防府が存続する事が決定し、千葉が廃部になる事が決定した。

 2003年、惜しまれつつも日鉄千葉が廃部となり、選手の多くは防府に移った。これにより、残った防府の野球部は「日本鉄道興業野球部」と改称した。

 

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 一方で、一度は廃部が決定したが、内外の反対と業績の好転で土壇場で存続が決まった野球部も存在する。これは、日鉄土木と大室物産が該当する。

 

 ゼネコンの日鉄土木は、バブル期にリゾート開発に注力し過ぎたのが痛かった。バブル終息後にリゾート開発計画が軒並み縮小され、土地価格の下落も合わさり、大幅な赤字を記録した。超過債務に至らなかったのは幸運だったが、早急にリストラと収益の改善を行わなければ倒産は避けられないと見られた。リストラの中には、野球部の廃部も含まれており、1997年に翌年から休部、近い将来に廃部する事が発表された。

 しかし、バブル終息後に政府主導で国内の道路、空港、港湾設備の強化の為に動いた事、その後の極東危機(※1)と相次いだ自然災害によってインフラ整備の強化が叫ばれた事で、業績が回復に向かった。これにより、適度なリストラや収益構造の改善はするべきものの、無理なリストラはする必要は無いと判断され、会社の一体の象徴でもある野球部の廃部は白紙となり、2001年には3年以内に野球部を復活させる事が発表された。そして、当初予定より1年遅れたものの、2005年に正式に復活した。

 

 商社の大室物産も、伝統的に非資源に強く不動産投資に消極的だった事から、バブル景気による影響は大きくなかったが、海外、特に東南アジアへの進出を強めていた事からアジア通貨危機での影響を大きく受けた。これにより設立以来の大赤字を記録し、早急に立て直しが迫られた。当然、そこには事業の集中とリストラが含まれており、リストラには野球部も対象に入っていた。

 しかし、都市対抗出場や日本選手権優勝の経歴を持つ野球部の解散は内部からの批判が大きく、当時の経営陣の多くも野球愛好者だった事から、野球部のリストラは先送りとされた。その後、極東危機後に東南アジア及びインドの経済は回復し、それに伴い大室物産の業績も回復した。これに伴い、野球部の廃部は白紙となった。

 

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 大きく影響を受けたチームもあれば、影響が小さいチームも存在する。製鉄や製紙などの重化学系がそれに該当する。特に重工系と製鉄、電機、セメントなどは極東危機(※1)の影響で業績が回復傾向に向かった事が大きかった。

 

 大室製鉄、大室重工、大室電機などは変わらず保有を続けた。それ処か、廃部となったチームから人材を集めたり、予算を増額するなどして強化策を次々と行った。また、1996年には元プロ野球選手を3人までチームに編入しても良い事となり(※2)、更なる補強が行われた。

 その結果、1997年の都市対抗で大室製鉄が初出場で初優勝を成し遂げた。更に、同じ年の日本選手権にも出場し、中外グループ初の同一年の両大会制覇(※3)なるかと思われる程順調だったが、決勝で三菱重工神戸に敗れて惜しくも準優勝だった。

 それ以降も、大室系の野球部の都市対応と日本選手権への進出が目立つ様になり、特に大室重工徳島は1998年から10年連続で都市対抗及び日本選手権に出場するという大記録を成し遂げ、2002年には両大会制覇を成し遂げた。この年から金属バットの使用が禁止された為、投手力と木製バットになれている選手を多く保有していた事が決め手となった。一方で、この年以外は良くてベスト8、最悪1回戦敗退だった為、この年だけ状況が良かったと言える。

 

 大室系の野球部の躍進が目立つが、日林系の扶桑製紙も同様の事を行った。当時、大昭和製紙の経営不振による野球部の解散によって同業他社の野球部員が放出された為、補強を行う事が出来た(後に、大昭和製紙は扶桑製紙に統合される)。これにより、2001年の都市対抗に扶桑製紙宮崎が初出場し、ベスト8に進出した。他にも、北海道が2003年の日本選手権でベスト4、四国が2006年の都市対抗でベスト8、同年の日本選手権でベスト4と勝ち進んだ。

 

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 21世紀になってから、経済構造の変化や人口増加の停滞、スポーツの多様化によって社会人野球はやや停滞の様相を見せている。プロ野球の方も同様だが、人気回復とファン人口の拡大の為にプレーオフが導入されたり(※5)、エクスパンション(球団拡張)を行う(※6)などして増加傾向に向かっている。

 社会人野球の方も人気回復の為に都市対抗及び日本選手権への出場枠の拡張を行いたかったが、既に何度も拡張を行っており、現状36チームが出場可能となっている。また、社会人野球チームの数も微減傾向にあり、これ以上の増加が見込めなかったその為、これ以上の拡張は大会の質の低下となりかねない為、拡張が出来ない状況だった。

 一方、クラブチームについては増加傾向にある為、2002年から全日本クラブ野球選手権大会の出場枠が段階的に拡張され、最終的に2010年に24チームと大幅に拡張された(※7)。

 

 社会人野球の未来はやや厳しいものがある。企業の状況や人口に左右される為、今後も安泰とは言い切れない。だが、地域に根差した活動が続けられており、社の一体感だけでなく地域との共生の象徴としての存在もある。その意義を失わなければ、まだまだ存続するだろう。




※1:1998年から2年程の期間、満州の政変に伴う中国、北朝鮮、韓国が軍事行動を起こす寸前となった。同時期のアメリカ政府が、冷戦終了に伴う緊張の緩和と対中・対満政策(まとめて西側に引き摺り込もうとした)から政治的・軍事的プレゼンスを示す事に否定的だった事、アジア通貨危機による混乱のガス抜きが原因だった。アメリカが前述の為、事実上日本単独で事の対処をする事となった。幸い、ロシアの満州への介入による満州の政変とそれに伴う北朝鮮の鎮静化、中国内部の政変、韓国の日米両国による経済制裁などにより戦争にはならなかった。これ以降、日本は周辺状況の不安定さから装備の更新と質的向上を行う様になり、アメリカも東アジア・東南アジアへのプレゼンス強化の為の政策を行う羽目になった(市場開放、一部技術の格安での移転など)。
※2:史実では1999年から解禁され2人まで。
※3:これを成し遂げた事があるチームは1997年時点で東芝(1988年)のみで、それ以降もJX-ENEOS(2012年)、日本生命(2015年)のみ。
※4:1972年に東北パルプを統合した事で1986年に設立。史実の日本製紙石巻。
※5:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)』参照。
※6:「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界でのプロ野球の状況(1980年代~)』及び『番外編:この世界でのプロ野球の状況(2000年代~:別の世界)①』参照。
※7:出場枠は2009年に16チームとなるまでは年々違っていた。史実では、第1回の1976年は10チーム、それ以降は11~16チームで、20チーム以上は2006年(21チーム)と2008年(20チーム)のみ。


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番外編:戦後の日本の鉄道(中外グループ関係)(北海道・東北・関東)

〈北海道〉

・札幌急行鉄道の設立

 札幌急行鉄道は、東急が計画していた札幌周辺の電鉄計画だった。東急は、1957年に定山渓鉄道(東札幌~定山渓。東札幌は千歳線の旧線にあった)を買収して傘下に収めた。その翌年には、「札幌急行鉄道」計画が設立された。この計画では、既存線の複線・重軌条化、札幌への延伸、夕張鉄道(野幌~夕張本町)との合併と札幌~上江別の建設などがあった。

 しかし、想定した需要が得られない事、モータリゼーションの進行の早さから札幌急行鉄道は日の目を見る事は無かった。定山渓鉄道と夕張鉄道も、モータリゼーションの進行とそれに伴う旅客・貨物の減少、定山渓鉄道は札幌市内での国道を横切る踏切が交通渋滞を招いているとして、それぞれ1969年、1975年に全廃となった。尚、両社は会社そのものはバス会社として現存している。

 

 この世界では、「札幌急行鉄道」計画に東急だけでなく、京成も加わった。これは、京成系列の石狩鉄道(戦前は日本鉄道興業系だったが、財閥解体の際に京成傘下になった)も加える事で、より多面的な札幌郊外の開発が可能になると考えた為である。

 ただ、ネックだったのが、東急は日本国内航空の、京成は日本東西航空の有力株主である事である。両社は、国内のローカル輸送を担当する航空会社で、重複している路線も多い事からライバル関係にあった。関係会社がライバルだと、その上の関係にも表れてくる訳で、東急と京成が手を組むのは難しいと見られた。

 しかし、両社、特に東急の五島慶太が『北海道振興の為には、たとえライバルと手を組む事も厭わない』として、内部の反対を抑えつけた。京成側も、『こちらが用心深く行動すれば、東急に乗っ取られる事は無いだろう』と判断して、東急との共同経営に賛成した。

 

 これにより、1958年に東急と京成は共同で北海道炭礦汽船から夕張鉄道を、三菱鉱業から大夕張鉄道を買収し、定山渓鉄道が石狩鉄道、夕張鉄道、大夕張鉄道を合併して「札幌急行鉄道(札急)」が成立した。これと同時に、苗穂~札幌、野幌~札幌、手稲~新川~札幌、平和~清水沢の免許の申請が行われた。これらの免許は1960年に認可され、1962年には免許区間の建設の認可が下り、同時に既存区間の改良(複線化、電化、重軌条化)が行われた。工事は順調に進み、1965年には全ての免許線が開業し、既存線の改良も完了した。

 その後、札急は両社、特に東急からの強い支援によって、バスや百貨店、沿線の宅地開発を強力に推進した。また、1973年に廃止された千歳線の苗穂~北広島を買収して、1977年に苗穂~大谷地~新札幌を開業している。

 これにより、札幌市の開発が進み、人口増加も史実以上に増大した(1975年に150万人、2000年に200万人、2015年に220万人と史実より20~30万人増)。札幌市の拡大に伴い、札急沿線の石狩市や江別市、知張市(1981年に南幌町、長沼町、由仁町、栗山町が合併して成立。由来は空「知」郡と夕「張」郡から)、夕張市の人口も増大した。

 特に夕張市は、炭鉱閉山による産業基盤の崩壊と人口の流出を、札急の開業と沿線開発によって抑えられた。その為、2015年の時点で人口が約4万人となっており、史実の様な自治体としての崩壊は起きていない。

 

 札急の開業によって、札幌市とその周辺部の開発が進んだ。当初は、東急が勢力を強め、一時は乗っ取られるのではという程だった。しかし、それに対抗する様に京成も勢力拡大に努めた為、1970年代後半には内紛状態になった。結局、社内の安定の為、札急に関しては両社が過度な競争をしない程度に支援する事となった。

 

 札急の開業とそれに伴う札幌都市圏の拡大によって、2つの大きな変化があった。それは、丘珠空港の拡大と札幌市営地下鉄の路線変更である。

 札幌都市圏の拡大により、札幌発着の航空便が増大した。それに伴い、札幌市に近い丘珠空港が拡張された。これにより、1973年には福岡空港並み(2800m滑走路1本)の設備を有する空港となった。

 丘珠空港の拡張によって、「道内線・東北線・樺太線は丘珠、それ以外は千歳」の様に棲み分けがされた。但し、アクセスの良さから次第に幹線も丘珠に移っていった。

 

 札幌市営地下鉄は、史実の様に3路線開業するが、経由地が異なる。

 南北線は、北側が麻生から北進して新琴似に接続する。南側は、平岸~真駒内が札急と重複する為、平岸から東進しそこから史実の東豊線の南側のルートに変更となる。また、福住から国道36号線の地下を通り、美しが丘まで延伸する。

 東西線は、西側は宮の沢から手稲に延伸する。東側は、大通~新札幌が札急と重複する為、大通から東進し苗穂を経由、そこから厚別通りの地下を通り厚別を経由して新札幌に至る路線となる。

 東豊線は「空港線」として整備され、北側は栄町から丘珠空港に延伸する。南側は、南北線の札幌~平岸の複々線化で整備される。

 

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〈東北〉

・仙台鉄道による茂庭~村田の建設

 この世界の仙台鉄道は、旧・仙台鉄道、仙北鉄道、栗原軌道、青葉電気鉄道、秋保電気鉄道、仙南鉄道を合併して設立された(戦後に、仙北鉄道と栗原軌道は分離して「栗原鉄道」となる)。この内、仙南鉄道以外の3社は直通運転を行っており、古川~北仙台~青葉城前~長町~茂庭~秋保温泉~青根温泉の運行を行っていた。

 この内、旧・仙南鉄道とは青根温泉で接続していたが、ここは宮城県と山形県の県境に近く、仙台と白石を結ぶにしても遠回りだった。

 その為、茂庭から分岐して南下し、村田に接続する構想が出た。そして、戦時中に不要不急線となり休止状態の村田~永野を改修して(大河原~村田~永野が永野~白石と重複するとして、1944年に不要不急線に指定され、レールが剥がされた)、仙台~茂庭~村田~白石の都市間輸送ルートを構築するものだった。

 

 この計画は1955年にスタートし、1958年には基礎計画が完了して茂庭~村田の免許を申請した(同時に、大河原~村田が廃線)。途中、山岳区間を通る為、需要の問題や建設費の問題が出たが、これに対しては沿線の登山やスキー、別荘地として開発する事、トンネルを多用して通す事で解決するとした。

 免許は1962年に取得し、翌年には建設の認可が下り工事を急がせた。仙台鉄道単体の企業体力ではこの事業の完遂は不可能だが、大室電機産業や日本鉄道興業、日鉄證券に日本林産などの中外グループの有力企業が支援した事で、工事は完遂された。これが功を奏し、1966年には工事が完了し、翌年の5月1日には茂庭~村田~永野が開業した。

 

 この路線が開業した事で、新規開業区間の観光開発が行われた。ただ、この地域は別荘を中心とした開発の為、沿線人口は余り増加しなかった。その後、高級住宅地としての開発も行われたが、それ故沿線人口は余り増加せず、輸送量も大きく増加しなかった。

 その為、必然的に都市間輸送が中心となったが、これが成功して国鉄から多くの客を奪った。当時の東北本線は、1961年に交流電化化したものの、長距離列車や貨物列車を中心とした輸送体系で、近距離列車は少なかった。仙台鉄道はこの間隙を突き、仙台白石間の都市間輸送で確固たる地位を築いた。

 但し、仙台側のターミナルが長町や青葉城前、北仙台と中心部から微妙に離れていた為、仙台市電を利用しなければならなかった。1976年に市電が全廃後、中心部への交通問題が浮上して、中心部や仙台駅への乗り入れ計画が浮上した。これが解消するのは、1984年3月に北仙台~仙台~長町の仙台市営地下鉄南北線が開業し(史実では1987年7月開業。区間が短い事、仙台鉄道の熱意が開業を早めた)、直通運転するまで待たなければならなかった。

 

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〈関東〉

・上武鉄道の本庄延伸

 上武鉄道は、元々日本ニッケルの専用線として、八高線の丹荘から分岐して、神流川沿いを経由して若泉(後に西武化学前に改称)に至る路線だった。目的は、終点付近から産出されるニッケルの輸送だった。この付近の土地はニッケルを含んでいた。平時であれば見向きもされない所だが、戦時である故に注目された。

 1942年に開業したが、この時は専用線として開業した。戦後の1947年に旅客営業を開始した。その後、運営母体が変わり、1962年に上武鉄道として独立した。

 しかし、元々専用線として敷設された路線であり、市街地からは離れた所を通っていた事、沿線人口が少ない場所を通っている事から、旅客は殆ど無いと言ってよかった。実際、1973年に旅客輸送は廃止となり、その後は貨物線として1986年まで残った。

 

 この世界では、史実では未成に終わった渡瀬への延伸が完了した。延伸の目的は、周辺から産出されるクロムの輸送だった。この世界では1945年2月に開業した。

 その後、1957年に日本鉄道興業が日本ニッケルから鉄道事業を買収した。これに合わせて「上武鉄道」を設立し、丹荘~本庄の免許を申請した。これは、神流川とその奥地の観光開発を行う事を計画していたが、国鉄との接続が八高線だけでは不便で扱いにくい事から、高崎線の本庄との接続を狙った。

 奇しくも、この免許線は1933年に廃止(1930年に休止、以降運転されず)となった本庄電気軌道の本庄側のルートに近かった。

 

 1959年に免許が認可され、翌年には工事の認可が下り建設が始まった。途中に大きな障害が無い事から、1961年9月に全線が開業した。

 全線開業後、若泉にある西武化学工業の工場への貨物輸送や渡瀬・鬼石地区への観光輸送に活用された。しかし、沿線人口の少なさからくる輸送人員の少なさ、開業とほぼ同時期にモータリゼーションが到来した事で、年々経営環境が悪化した。一時は廃止も検討されたが、1970年頃から東京郊外の人口増加を受けて、沿線の開発も進んだ事で廃止は免れた。

 しかし、1998年の上越新幹線の本庄早稲田駅が開業した事で、輸送人員が再び減少に転じた。本庄早稲田駅が上武鉄道と交差する場所に開業しなかった事で、今まで上武鉄道と高崎線を利用していた客が上越新幹線に流れた。その為、2005年頃から常に廃止の噂が絶えない状態となっている。

 

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・総州電気鉄道の設立

 総州電気鉄道は、九十九里鉄道と成田鉄道が合併して設立された鉄道会社で、京成傘下である。この会社のルーツは、九十九里鉄道の千葉延伸と、成田鉄道の復活と千葉・鹿島延伸に別れる。

 

 九十九里鉄道は千葉県のバス会社だが、社名に「鉄道」とある様に、かつては鉄道事業を行っていた。東金線の東金から九十九里浜方面に別れ、上総片貝までの8.6㎞の路線だった。軌間762㎜、非電化の軽便鉄道だったが、九十九里浜への海水浴客の輸送で賑わった。

 しかし、設備の近代化がされず、モータリゼーションの進行もあって利用者は減少、1961年に廃止となった。

 

 この世界では、親会社の京成(1944年に京成傘下に入る)が、千葉県内の鉄道網の強化や沿線開発、観光開発を目的に、1946年に九十九里鉄道の改軌と電化、千葉延伸を計画した。

 1949年に、東金街道に沿う形で京成千葉(後の千葉中央、当時は千葉市中央公園付近にあった。この世界では千葉空襲が無い為、史実の位置に移転せず)~東金の免許を取得し、1952年に免許が認可された。翌年には建設の認可が下りた事で工事が行われ、同時に東金~上総片貝の改軌・電化も行われた。

 これらの工事は1956年2月に全て完了し、同年6月に開業した。開業を急がせた理由は、一番の書き入れ時となる海水浴シーズンに間に合わせる為である。

 

 新生・九十九里鉄道の開業によって、東京と九十九里浜が1本の鉄道で結ばれた。特に、最大の目的である夏場の海水浴客の輸送は大繁盛した。

 また、開業によって沿線のニュータウン開発が進み、行楽路線としてだけで無く、通勤路線としての性格も持つ様になった。これにより、千葉周辺の踏切が交通渋滞を招いていると問題となり、1965年から京成千葉線と共に千葉中央前後の区間の地下化工事が行われた(1969年に完成)。

 

 成田鉄道は、成田山周辺の路面電車、成田~八日市場の多古線、三里塚~八街の八街線を運行していた会社である。この内、路面電車が源流で、多古線と八街線は1927年に千葉県営鉄道から払い下げられた。また、路面電車は1372㎜、多古線は1067㎜、八街線は600㎜と軌間も異なっていた。

 沿線人口が少なかったり観光路線である事から、戦前・戦時中に廃止になったり不要不急線に指定されて休止となった。八街線は1940年に廃止となり、路面電車は1944年に不要不急線に指定されて廃止となり、多古線も1944年に休止となった。その後、多古線は復活する事無く、1946年に廃止となった。

 尚、その後の成田鉄道はバス専業会社として存続し、後に千葉交通と改称している。また、現在では芝山鉄道がかつての多古線に近いルートを通る事が計画されている。

 

 この世界では、1946年に親会社の京成(1924年に傘下入り)が多古線の復活、八街線の復活と千葉延伸、電化と改軌を計画した。これは、同じく京成傘下である九十九里鉄道との合同計画となった。更に、「千葉県内の交通網の改善」を目的に、多古~小見川~神栖~鹿島神宮の新線(鹿島線)も計画された。

 九十九里鉄道よりも行う事が多い事から、成田鉄道の計画が纏まったのは1951年だった。ただ、そこからは素早く、同年には多古線の京成に合わせた規格に直しての復活と、泉町(九十九里鉄道の千葉延伸線上にある)~八街~三里塚と多古~小見川~神栖~鹿島神宮の免許を申請し、1953年には認可された。翌年には建設の認可が下りた事で新線の建設工事がスタートした。

 因みに、当初の千葉延伸線は鉄道連隊の演習線の一部を流用する予定で、四街道経由となる予定だった。しかし、払い下げが難しいと予想された事、国鉄線と完全な並行線になり運輸省に睨まれた事、遠回りになる事から、泉町経由に変更となった。

 

 多古線は1955年に復活し、これに合わせて上野・押上~成田~八日市場の直通列車が運行された。その後、免許線の工事も進み、泉町~八街~三里塚は1957年に、鹿島線の多古~小見川が1958年に、残る小見川~神栖~鹿島神宮は1962年に開業した。これにより、当初の予定線が全て開業した。

 全線開業後、上野・押上から鹿島神宮への観光輸送で活気付いた。その後、神栖・鹿島が工業整備特別地域に指定された事で重化学工業が進出、それに伴う労働者とその家族の定住も進み、通勤輸送も増大した。

 

 九十九里鉄道と成田鉄道は、戦後の経緯から共同歩調を取り続けた。その後、京成主導で両社の統合が行われ、1958年に両社が合併し「総州電気鉄道」が成立した。

 

 因みに、成田空港は史実通りの位置で開業するが、多古線のルートと被る部分がある為、その部分は多古線のルート変更で対応となった。また、これと同時進行で、空港連絡鉄道の整備も行われた。千葉方面からも行ける様にという事で、多古線の千代田から分岐して成田空港に入る形を計画していたが、成田新幹線計画の存在から史実通りの形となった。しかし、成田からの延伸では無く、多古線の東成田から分岐する形となった。

 また、鹿島臨海鉄道は史実通り開業する。これは、総州電鉄鹿島線が内陸側を通っている事、軌間の違いが理由である。



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番外編:戦後の日本の鉄道(中外グループ関係)(北陸・信越・近畿)

〈北陸〉

・北陸鉄道加越本線の金沢延伸

 この世界の北陸鉄道(北鉄)は、史実の北陸鉄道+京福電気鉄道の福井側+福井鉄道となっている。また、福井と金沢を一本で結ぶ路線(加越本線)を有し、そこから支線が伸びる形となっている。

 

 北鉄の課題は、金沢側のターミナルが野町・白菊町と繁華街に隣接しているが、他の金沢周辺の北鉄線との接続が悪い事だった。金沢周辺の北鉄線のターミナルは、加越本線が白菊町と野町、浅野川線が金沢、金石線が中橋(金沢駅から南に約500m離れた場所)とばらけていた。金沢市内線が中橋以外のターミナルを結んでいたものの、計画が立案された1950年代後半から急速にモータリゼーションが進み、路面電車の定時運行が難しくなっていた。その為、路面電車に頼らずに各路線のターミナルを繋ぐ路線が検討された。

 

 計画では、西金沢から国鉄線に並行して金沢に至る路線と、野菊から香林坊・片町・武蔵ヶ辻を経由して金沢に至る路線の2つが検討された。前者は技術的障害が無い事、後者は繁華街を通る事が利点とされた。

 尤も、両者にもそれぞれ問題があった。前者は、当時の金沢駅周辺は金沢市の玄関口としての機能はあるが、繁華街としての機能は貧弱だった。後者は、繁華街を通る事で用地買収が困難な事、地下化するにしても高架化するにしても高額になる事、繁華街の住民が「客が他に取られる」と反対が強い事があった。

 最終的な検討の末、前者の案が採用され、1962年に免許の申請が行われた。同時に、金石線の中橋~金沢、大野港~大河端の申請も行われた。後者の2路線は、金石線の金沢延伸と浅野川線との接続で、合わせて金沢駅北部の環状線を形成するものとされた。

 

 免許の認可は1965年に下り、工事の認可は1967年に下りた。工事の認可が下りた年に金沢市内線が廃止となり、金石線も道路上を走行する路線で廃止が検討されていた為、工事が急がれた。金沢駅周辺を地下化する事、金石線を前線専用軌道化する事から工事に時間が掛ったが、後述する加越能鉄道との接続の為に急がれた。その結果、1969年10月に全ての工事が完了し、翌年3月に全線が開業した。

 この路線の開業によって、金沢北部の宅地開発が加速し、浅野川線・金石線の利用客が急増した。また、金沢に百貨店を進出させたり、西金沢に商業施設を建てるなどして、積極的に利用客を増やす事を行った。これらが功を奏し、金沢駅前が新たな繁華街となり、新線区間の開発も進むなどして利用客が増加した。

 

 新線開業の陰で、西金沢~野町が1976年に廃止となった。野町がターミナルとして中途半端になった事、バスに乗り換えなければ中心部に出られない事、その機能が新線の方でも行われた事が理由だった。

 1970年代から80年代にかけて、多くの支線が廃止となった。1972年に永平寺線(金津~東古市)と丸岡線(西長田~丸岡~本丸岡)、1974年に寺井線(加賀佐野~寺井)と粟津線(粟津温泉~新粟津)、1976年に片山津線(宇和野~動橋~片山津に)鯖浦線(鯖江~織田)、1982年に南越線(武生~戸ノ口)がそれぞれ廃止された。

 

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・加越能鉄道の開業

 加越能鉄道は、現在は「加越能バス」というバス会社だが、かつてはその名前通り鉄道事業も行っていた。高岡市・新湊市を結ぶ路面電車や石動~福野~庄川町の鉄道(加越線)を保有していたが、計画では富山~高岡~金沢を結ぶ高速電鉄を運行する事になっていた。

 1950年に、富山地方鉄道が富山~高岡~金沢と高岡~七尾の高速電鉄を計画した。その計画の為に設立されたのが加越能鉄道(計画線が通る「加」賀・「越」中・「能」登に由来。後に北鉄や富山県、石川県なども出資)であり、路面電車と加越線が譲渡された。1953年に2つの計画線の免許が出され、翌年には前者の免許線が認可された。後者は認可されず、1964年に取り下げられた。

 1959年には工事の認可が下り用地買収が行われたものの、金沢側の用地買収が全く進まなかった。用地買収に手間取っている間に、モータリゼーションの急速な進行や北陸本線の電化実施による高速化、内陸部の開発構想の白紙化などの要因によって、高速電鉄の意義が急速に揺らいだ。これらの要因によって、1970年に計画は中止され、翌年には免許も失効した。これにより、私鉄によって富山と金沢を結ぶ計画は消滅した。

 

 この世界では、金沢側の用地買収を北鉄が強く協力した事で、金沢側の計画が進んだ。これには、前述の金沢付近の地下化と連動させる目的もあった。

 北鉄の協力もあって、金沢~高岡の用地買収が進み(富山~高岡は富山地鉄が行った)、1965年の時点で用地買収は完了した。その後、加越能・富山地鉄・北鉄の3社が共同で工事を行い、1969年に開業した。これにより、私鉄単体で富山と金沢を結ぶ事となり、開業当初から北鉄との直通も行った事で富山・金沢・福井の北陸3県の県庁所在地を私鉄のみで結ぶ事となった。

 

 その後、加越能を通じて富山地鉄と北鉄の関係は緊密になった。これにより、3社が合併して一大交通網を形成する事が検討された。一時は独占禁止法に引っ掛かるとして破談になりかけたが、次の様に再編する事で認められた。

 

・加越能鉄道が北陸鉄道と富山地方鉄道を合併して、新しい「加越能鉄道」を発足する

・加越能鉄道と富山地方鉄道が保有する富山県内のバス事業の半分を、「富山中央バス」に移管する

・加越能鉄道と北陸鉄道が保有する石川県内のバス事業の半分を、「北陸交通」に移管する

 

 上の再編は、1977年に行われた。同時に、加越能鉄道は準大手私鉄に区分されたが、これによって政令指定都市を通らない大手・準大手私鉄が誕生した。

 

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〈信越〉

・乗鞍高原鉄道の開業

 乗鞍高原鉄道は、松本から島々、坂巻、平湯、神岡を経由して猪谷に至る路線である。この路線は、中外グループで元・日鉄財閥系の中信開発と日本観光開発が、三井グループの三井金属鉱山と手を組んで成立した(中信開発、日本観光開発については『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北陸・甲信越)』参照)。

 

 1921年から22年にかけて、筑摩鉄道(1922年に筑摩電気鉄道、1932年に松本電気鉄道、2011年にアルピコ交通に改称)が松本~島々を開業させた。免許では龍島まで申請しており、計画では飛騨山脈を抜けて高山へと至る予定だったが、島々~龍島の工事が難航した事から開業せず免許は失効した。高山への延伸も、飛騨山脈を抜ける事からトンネルなどの工事が多数予想され、その為の資金を捻出出来なかった事から、計画止まりに終わった。

 筑摩鉄道が計画したルートは、改正鉄道敷設法にも第59号(『長野県松本ヨリ岐阜県高山ニ至ル鉄道』)として掲載されている。このルートは、松本と高山を結ぶ野麦街道に沿ったものであり、信州と飛騨だけでなく、信州と北陸を結ぶ主要ルートの一つだった。

 

 一方の神岡側は、神岡鉱山から産出される鉱石の輸送の為、1910年に馬車軌道が敷設された。その後、1922年までに笹津~神岡が開業し、神岡延伸時に「神岡軌道」が設立された(その前までは個人経営)。笹津で連絡する富山鉄道(1932年に廃止の後、1952年に富山地方鉄道笹津線として復活。1975年廃止)を通じて富山への貨物輸送が行われた。1927年に、神岡軌道が三井鉱山(現在の三井金属鉱山と日本コークス工業)に譲渡され、三井鉱山の一部門となった。

 1931年に飛越線(現・高山本線の富山~坂上)の開業により、貨物は飛越線経由となり、1931年に国鉄の猪谷に乗り入れが行われ、同時に並行線となる笹津への路線は廃止となった。

 その後、戦時中の輸送力強化(優先的に機関車の割り当てが行われた)、戦後の旅客化実施、ディーゼル機関車の導入が行われたが、モータリゼーションによる貨物輸送の減少、旧態依然としたインフラ、何より国鉄神岡線計画の存在によって、これ以上の存続は不可能とされた。1962年に旅客輸送が廃止され、順次路線の廃止も行われた。1967年3月、残った猪谷~茂住が廃止となり、神岡軌道は全廃した。

 因みに、国鉄神岡線は1966年10月に開業した。開業後、神岡軌道が行っていた鉱石輸送や硫酸輸送を引き継いだが、国鉄再建時に第一次特定地方交通線に指定された。貨物輸送の多さから廃止は難しい事から、1984年10月に第三セクター「神岡鉄道」に転換された。しかし、貨物輸送の廃止により収入減が消滅、元々旅客輸送が少ない地域の為、2006年12月に路線は廃止となった。

 

 この世界では、三井鉱山が東京方面への鉱石輸送、内陸部の林業及び電源開発、上高地や平湯温泉、乗鞍高原などの観光開発を目的に、神岡軌道の松本への延伸計画を打ち立てた。この計画は、改正鉄道敷設法第59号と第64号(『富山県猪谷ヨリ岐阜県船津ニ至ル鉄道』。後の神岡線)の実現でもあった。

 しかし、1930年代の前半は昭和恐慌の影響で工事に着手する余裕が無かった。その後は、戦時体制になるにつれ、鉛・亜鉛の需要の増加から輸送力強化の為に改軌が計画されたが、資材や労働力不足の為、工事は殆ど行われなかった。

 

 戦後の1952年、松本電気鉄道を傘下に収めた中信開発が、沿線予定地の観光開発を目的に島々線(1955年に上高地線に改称)の延伸計画を打ち立てた。計画では、島々から龍島・坂巻・平湯・浅井田を経由し、浅井田から先は三井金属鉱山の神岡軌道を改軌して乗り入れる事になった。

 これに対し三井金属鉱山は、戦前の計画の実現となるこの計画に同意したものの、財閥解体によるダメージからまだ立ち直っていない事から、財政面での問題があった。その為、神岡軌道の施設改良の為の費用を出してくれる事を条件に、出資してくれる事で決着した。

 また、松本側の沿線予定地に東京電力が3基のダム(上流から順に、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダム)を建設する計画を立てており、そこへの資材輸送を目的に東京電力も一枚噛ませてもらえないかと要請が来た。これに対し中信開発は、出資者は多い方が資金を集め易く、そうなれば計画の実現もし易いと判断し、出資を歓迎した。

 その後、上高地や平湯温泉などの開発を条件に日本観光開発も出資する事が決定し、1955年に松本電気鉄道は「乗鞍高原鉄道」と社名を改め、中信開発、三井金属鉱山、東京電力、日本観光開発の4社が中心に出資する事が決定した。

 

 三井金属鉱山の同意が得られた後、島々~浅井田の免許の申請を行い、1956年に認可された。山越えとなる事や国鉄神岡線計画との兼ね合いの為、認可に時間が掛った。また、認可の際にも、「国鉄が買収を望んだ際、それに応じる事」という条件も付随した。

 兎に角、免許が下り、1958年に工事の認可も下りた事で、その翌年から工事が開始した。工事は、島々~龍島~奈川渡の延伸と猪谷~神岡~浅井田の路盤改良から始められた。路盤改良となっているが、実際は新線建設と殆ど変わらなかった。旧線に沿ったルートとはいえ、トンネルを多用するルートが取られた。それでも、1962年に島々~奈川渡が開業し、1964年には猪谷~浅井田が新線で開業した。延伸線は、ダム建設の為の資材輸送でフル活用され、建設工事が一通り完了する1969年まで活気付いた。

 次いで、浅井田~平湯~龍島の工事が1966年に開始した。この区間は山越えとなり、トンネル工事が多数行われた。また、25‰の連続勾配や連続ループ線など勾配も多数存在する区間となった。その為、工事による死傷者が多数出る事故が何度も発生し、特にトンネル工事中に温泉の源泉を切ってしまう事故も発生した。これによる補償やオイルショックによる景気後退、道路整備の進行から一時は建設中止すら考えられた程だった。

 しかし、沿線が道路だけでは冬季の閉鎖の問題がある事、マイカー規制が掛けられた事で鉄道利用も考えられる事、スキーブームの存在から、工事の続行が決定した。1977年、平湯温泉付近で松本側と神岡側の線路が繋がった。その後、試運転が行われ、1978年3月に龍島~平湯~浅井田が開業し、乗鞍高原鉄道が全通した。

 

 全通後、国鉄から直通列車が多数運行された。著名な観光地である上高地や乗鞍高原、平湯温泉への観光輸送、スキーブームによって開発が進んだスキー場へのスキー客輸送、東京と北陸を結ぶ新ルートの構築などで、多くの優等列車が運行された。特に、開業した年のダイヤ改正(ゴーサントオの大改正)で、新宿~高山・富山の急行「上高地」が設定された。これは、乗鞍高原鉄道と高山本線が非電化(全通時、松本~島々の電化設備は撤去された)の為、当時中央本線を走っていた他の優等列車と協調運転が取れない為、独立して設定された。

 国鉄民営化後の1988年3月のダイヤ改正で、急行「上高地」は特急「ほたか」に昇格した。同時に、本数の増加(6往復から8往復に)や新型車両の導入(名鉄のキハ8500系と同型)も行われ、利便性の向上と高速化が行われた。

 

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〈近畿〉

・南海急行電鉄の徳島延伸

 南海電気鉄道(南海)や南海急行電鉄(南急)の「南海」は、南海道に由来する。南海道は、律令制下における広域な地方行政区画の一つである。他に有名なものとして、東海道や山陽道などがある。

 南海道は、紀伊、淡路、讃岐、阿波、土佐、伊予の六国を含んでいた。これらを現在の都道府県に当てはめると、和歌山県全域と三重県南部、兵庫県の淡路島、四国全域となる。

 この事から、南海の由来は、和歌山県への路線や四国への交通網の整備という意味がある。特に、和歌山県の対岸の徳島県には、南海系のバス会社が何社が存在しており、和歌山徳島航路も南海系の企業が運行している。

 

 南急も南海同様、対岸の徳島への進出を強化していた。徳島県内の四国中央鉄道や徳島鳴門電鉄が同じ中外グループ系(四国中央は日本林産系、徳島鳴門電鉄は大室重工系)である事から、南海よりも強かった。両社は、和歌山~淡路・徳島航路を保有しており、増発や高速化などを行ってしのぎを削っていた。

 その最中の1955年、国鉄の宇高航路の紫雲丸が航行中に別の船に衝突されて沈没、100名以上の死者を出す大事後が発生した。この事故後、宇高航路を始め国鉄の鉄道連絡船は安全の強化が図られた。また、この前年にも青函航路で沈没事故が起きた事から、国鉄の2つの主要航路を代替する鉄道線の計画がスタートした。

 

 紫雲丸事故を受けて、南海・南急は共に就航している船舶の安全強化を行った。その後の1957年、南急はある構想を打ち立てた。それは、「徳島延伸線」計画である。

 「徳島延伸線」計画では、泉佐野線の終点である多奈川から延伸し、紀淡海峡をトンネルで突破、淡路島に入る。更に、洲本まで延伸し淡路交通線と接続、福良から鳴門海峡を越え(トンネルか架橋かは未定)四国に入り、鳴門で徳島鳴門電鉄と接続し徳島に至るという壮大なものだった。

 

 この計画が出された時、沿線自治体は概ね喜んだ。淡路島や徳島市は、フェリーを使わずに鉄道だけで大阪に出られるという魅力は大きかった。国鉄の建設が遅いので、待っていられないというのも理由だった。一部の自治体は「通過するだけ」に反対したが、『駅を設置する』と言った事で反対は無くなった。

 これに対して、国は難色を示した。一私鉄が単独で海底トンネルと海峡を越える大橋を建設するのは前代未聞であり、技術面や予算面での課題があった。特に運輸省は、1953年に追加した改正鉄道敷設法第86号ノ2(「兵庫県須磨附近ヨリ淡路国岩屋附近ニ至ル鉄道及福良ヨリ徳島県鳴門附近ニ至ル鉄道」)と重複する事から、尚更難色を示した。

 また、ライバルである南海も猛反対した。この計画が実現した場合、南海の対徳島ルートは完敗し、シェアも大きく落とす事になる。その為、南海もほぼ同じ計画を立案した。

 

 南急は、国と南海という2つのライバルを同時に相手する事となったが、1966年に国は遂に折れ、南急が申請していた多奈川~洲本・福良~鳴門の免許、紀淡海峡トンネル及び鳴門海峡大橋の建設を許可した。これは、淡路交通と徳島鳴門電鉄が南急傘下である事、沿線自治体及び府県、沿線企業が南急による淡路・徳島延伸を望む署名を提出した事、国が他の事業に注力したい事が理由だった。南海も、国が折れた事で計画を取り下げた。淡路交通も、鉄道線の廃止を延期した。

 これによって、南急による徳島延伸計画が前進するかと思われたが、最大の問題が残っていた。『資金をどうやって捻出するか』、である。これが解決しなければ、計画は計画止まりである。一応、今まで得た利益と、中外グループからの資金援助、日本興業銀行を始めとする長期信用銀行や日本開発銀行からの借り入れなど、様々な方法で資金を調達したが、それでも不安があった。

 

 これは、日本鉄道建設公団(鉄建公団)の存在が解決した。鉄建公団は、事業者の代わりに鉄道新線の建設を行い、完成した施設を貸し付け又は譲渡する目的で1964年に設立された。当初は国鉄のみだったが、1972年から私鉄にも適用された。但し、「東京都、名古屋市、大阪市とその周辺部」という条件があった。

 南急は、この制度を利用して新線建設を試みた。和歌山県や徳島県が「大阪府の周辺部」に含まれているかは疑問であり、他にも手掛けている路線がある事から、認可されないのではと見られた。それでも、可能性があるならばとして、認可を行った。

 結果、鉄建公団からの支援を受ける事に成功した。これにより、最大の障害の一つである「建設」がほぼ解決された。

 

 1974年に工事はスタートした。徳島延伸計画の頃から、周辺の海域の地質調査は完了していた為、その後の工事は早かった。1976年には紀淡海峡トンネルと鳴門海峡大橋の工事がスタートした。途中、このルートと同じ場所を通る道路の計画もあり、それと同時進行で行われた。

 1984年には鳴門海峡大橋が開通し、鳴門~福良が開業した。南急淡路線(1968年に淡路交通線を買収)と合わせて、四国と淡路島が鉄道のみで繋がった。また、この時に南急が徳島鳴門電鉄の鉄道線を買収して淡路線に編入した。

 1988年には、念願の紀淡海峡トンネルが開業した。合わせて、多奈川~洲本も開業し、ここに大阪と淡路島・徳島を結ぶ鉄道が開業した。

 

 全通した時期が瀬戸大橋や青函トンネルが開業した時期と被った為、大きな注目はされなかったが、「一本列島」の一翼を担った。以降、南急はバブル景気に乗るが如く、淡路島と徳島での開発を強めた。

 

 徳島延伸線で南急が手放したものは2つある。球団と航路である。

 南急は、1948年から「南急ロビンス」というプロ野球チームを保有していた。1950年のジャ・リーグペナントレースを制し第1回日本ワールドシリーズに出場したものの、ナ・リーグ優勝チームの毎日オリオンズに敗れて最初の日本一を逃した。

 その後、ロビンスの成績は低迷を続け、1955年以降は優勝争い処か3位以上に上がれない程弱体化した。その為、阪急ブレーブスと並んで「ジャ・リーグのお荷物」とまで言われた。弱いし人気も無い事からお金を掛けない、お金を掛けないから弱いまま、という悪循環に陥った。

 その様な状況下で徳島延伸の為に、大量の資金が必要となった。球団を保有するだけで資金が必要な為、1973年のシーズンオフに日本ハムに球団を売却した。これにより、球団名は「日本ハムロビンス」に改称となり、南急は球団運営から手を引いた。

 但し、平野球場は南急の持ち物の為、球団を売却した以降も保有し続け、ロビンスも身売り以降も平野球場を本拠地とした。

 

 徳島延伸線の開業で、和歌山徳島航路と和歌山淡路航路を保有する理由は消滅した。しかし、ただ廃止にしたのでは利用者からの批判は避けられないので、南海に売却した。

 

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・山陽電気鉄道網干線の岡山延伸

 戦後直ぐ、かつての様に鉄道免許が大量に認可された。目的は、大都市圏は既存のターミナル駅から繁華街への乗り入れ、地方では復興・整備が進まない国鉄に代わる路線の整備が目的だった。

 大都市圏の方は、行政との対立から建設は殆ど進まなかった。例外だったのが、西武村山線(後の新宿線)の新宿延伸ぐらいである。

 一方、地方の方は、国鉄との並行線という事で疑問はあったが、幹線の整備に追われて地方にまで手が回らない事、国鉄と私鉄の役割の違い(国鉄は全国、私鉄は地域内)から競争にならないという判断から、多くの路線が認可された。例として、富山地方鉄道海岸線(富山~滑川:北陸本線の並行線)、蔵王高速電鉄(山形~上山:奥羽本線の並行線)などである。しかし、これらの路線も、朝鮮戦争による資材の高騰、ガソリンの大量供給によるバス輸送の再開、国鉄線の整備が進んだ事などにより、多くが未成線となった。山陽電気鉄道(山陽電鉄)の岡山延伸線もその一つである。

 

 元々、山陽電鉄は岡山方面への延伸構想を持っていた。しかし、改正鉄道敷設法第86号(後の赤穂線)と競合する事から、免許の認可が下りなかった。その後、広畑に製鉄所が建設される事から、そこへの工員輸送を目的に飾磨~山陽網干~那波(相生)の免許を申請した所、飾磨~網干までが認可され、その区間は網干線として開業した。

 戦後の1952年、再び網干~赤穂の免許を獲得したが、その前年に赤穂線の相生~播州赤穂が開業していた事、沿線である赤穂町の賛成を得られなかった事、燃料事情の解決、技術的・資金的問題から建設されず、1971年に免許は失効した。

 

 この世界では、日本鉄道興業と片上に造船所を置いていた川崎重工業が後押しを行い、1947年に網干~那波~赤穂~西大寺市の免許を申請させた(岡山まで申請しなかった理由は、西大寺鉄道と接続する予定の為。この時、西大寺鉄道を山陽電鉄の傘下に収め、同時に原尾島~後楽園~岡山の免許を取らせている)。国鉄としては、戦前から工事をしていた赤穂線の完全な並行線である事から、この路線の免許は認めたくなかった。しかし、戦後直ぐで新線建設よりも既存線の復旧が先だった為、1949年10月に運輸省はこの免許を認可した。但し、「国鉄が行った工事や土地買収に対する費用を支払う事」、「免許認可と同時に工事の認可を与える代わり、2年以内に全通させる事」、「工事が期間内に終わらなかった場合、国に格安で売却する事」という条件が追加された。

 

 免許認可後、速やかに工事が網干側、岡山側の両側からスタートした。戦後直ぐという事で、資材不足に悩まされたものの、労働力は復員した兵士を活用する事で対処し、資金も中外銀行や協和銀行が積極的に融資した(他に有力な融資先が無い事も理由だった)。これにより工事は進み、僅か1年で路盤工事が全て完了した。後は、線路を敷き、試運転を行えば完成だった。

 しかし、路盤完成後に発生した朝鮮戦争によって資材、特に鉄の価格が高騰した。これにより、線路だけでなく車輛の製造費が高騰して、期限までに完成させる事が不可能となった。これによって開業が絶望視され、免許も失効と予想されたが、運輸省も戦争というアクシデントに理解を示し、1年間の延長が認められた。

 

 戦争によって完成は遅れたが、1952年2月に全ての工事が完了した。同年6月に全線が開業し、西大寺鉄道を合併した。これにより、山陽電鉄が神戸姫路間と飾磨岡山間の2路線を持つ様になり、それぞれ「神戸姫路線」と「赤穂岡山線」と命名された。

 その後、1968年の神戸高速鉄道の開業による阪神・阪急との直通によって、大阪~神戸~姫路・赤穂・姫路が私鉄で繋がり、有料特急が運行された。山陽電鉄が大手私鉄に分類される様になったのもこの頃だった。

 

 山陽電鉄の岡山延伸線が開業した事で、国鉄赤穂線は幻となった。その為、国鉄は山陽本線の相生~岡山の輸送力強化を急ぐ事となった。




3/13
タイトルのカッコ内を「(北陸・近畿)」から「(北陸・信越・近畿)」に変更。
合わせて、信越に乗鞍高原鉄道を追加。

1私鉄が大山脈を貫く鉄道を開業させるのは難しいですが、旧財閥系が複数集まって建設すれば或いは。


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番外編:戦後の日本の鉄道(中外グループ関係)(中国・四国・九州)

〈中国〉

・備南電気鉄道の開業

 備南電気鉄道(備南電鉄)は、宇野線の終点である宇野から、玉・渋川・児島と児島半島の南側を通り、水島に至る路線を計画した。目的は、宇野の三井造船の専用線(未成)の活用、沿線の宅地・観光・工業開発と考えられる。水島を終点としたのは、倉敷から延びる三菱重工業の専用線の接続が理由と考えられる。

 免許が何時交付されたのかは不明だが、1949年末に工事の認可を受けている事から、遅くとも同年の頭には免許が下りたのだろう。しかし、最初に開業したのは宇野~玉の3.5㎞のみであり、しかも1953年4月の開業だった。これは、資金難から建設工事が遅れに遅れた結果だという。この区間は、戦時中に建設が殆ど終わっていたらしいのだが、朝鮮戦争があった事を踏まえても3年以上掛かっている事は、余程資金に困っていたのだろう。

 開業したものの、利用客は少なかった。元々、専用線を元にしているので、市街地を避けて建設された為、利用客も限られた。路線が短かったのも理由の一つだろう。経営難から1956年には玉野市に移管され「玉野市英電気鉄道」となったが、それでも経営難は続いた。市営化後、駅の増設や遊園地への延伸、電化を廃止して内燃化などを行ったが、赤字は解消されなかった。結局、1972年に廃止となった。

 

 この世界では、日鉄が三井造船と共同で備南電鉄に出資し、更に三菱重工業にも協力を仰いだ。財閥解体と重なっていた為、大きな協力は出来なかったが、3つの旧財閥が手を組んだ事に意味があった。

 これにより、備南電鉄の資本金は大幅に増加し、工事も順調に進んだ。また、三菱の協力が得られた事で、水島側からも工事が行われた。また、児島付近で重複する下津井電鉄を買収して1067㎜への改軌が行われた。朝鮮戦争によって資材の高騰から一時は工事が中止になったものの、1952年4月には宇野~玉~渋川海岸と水島~備前赤崎~児島が開業した。1954年7月には、残る児島~渋川海岸が開業して全線が開業した。

 

 備南電鉄の開業によって、沿線の開発が進んだ。渋川海岸や鷲羽山の観光開発、玉や水島、児島の宅地・工業開発などである。丁度、高度経済成長期の頃に全通し、その後は沿線が新産業都市に指定された為、貨物輸送も盛んに行われた。以降、倉敷市(1967年に旧・倉敷市、玉島市、児島市が合併して成立)と玉野市の重要な交通手段として発展した。

 

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〈四国〉

・讃岐急行電鉄観音寺線の開業

 讃岐急行電鉄(讃急)は、この世界の琴平急行電鉄と琴平参宮電鉄が合併して設立された会社である。坂出・琴平周辺の路線は史実通りだが、計画倒れに終わった高松~坂出が開業したのが大きな違いとなる。

 

 戦後、讃急は本山寺や観音寺への参拝輸送、新たな都市間輸送の実現を目的に、1949年に丸亀~善通寺~本山寺~観音寺(予讃線の観音寺駅とは離れている)の免許を申請した。この内、丸亀~善通寺は軌道線の専用軌道化であり、既存線の坂出~宇多津~丸亀を高速鉄道用に改良して接続する事とされた。

 免許は1951年に認可されたが、朝鮮戦争の関係で工事は先送りとなった。戦争が終わって情勢が安定した1953年から工事が行われた。市街地内を通る箇所が多い事、善通寺~本山寺は山間部でトンネル工事が多い事から時間が掛ったが、1957年3月に全ての工事が完了した。同年9月に開業し、「観音寺線」と命名された。

 

 観音寺線の開業後、既存の琴平線(高松~坂出~琴平)の改良と優等列車の運行を行った。沿線には金刀比羅宮や四国八十八箇所の霊場が複数存在する為、参宮目的や遍路目的の列車が運行された。特に、年末年始の初詣臨時列車は大々的に行われた。

 

 尚、観音寺線の開業で既存の丸亀~善通寺は廃止となり、路面電車は多度津~善通寺~琴平のみとなった。その区間も、モータリゼーションの進行によって1974年に廃止となった。

 

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〈九州〉

・西鉄博多線の開業と北九州線の天神延伸

 史実の西鉄では、雑餉隈から博多駅への路線を計画していた。目的は、通勤通学輸送や福岡二日市のバイパスだった。1947年に免許を申請し、1949年に取得した。

 しかし、1961年の鹿児島本線の門司港~久留米の電化によって輸送力が向上し、バイパスの目的はほぼ喪失した。そして、1963年に博多周辺の高架化と博多駅の移転(移転前は、福岡市営地下鉄空港線の祇園駅付近にあった)によって、未開発地域への延伸に抵抗があった事から延伸が行われず、免許も1972年に失効した。

 

 この世界では、西鉄が福岡市を起点に北九州、筑豊、大牟田、佐賀、熊本にそれぞれ路線を保有している。しかし、ターミナルが天神と西鉄博多(戦時中に新博多から改称)に別れている事がネックだった。それを解消する為に、両者を繋げ、かつ博多駅に乗り入れる目的で雑餉隈線の建設が進められた。その為、博多~西鉄博多の免許が1950年に申請された。

 また、北九州・筑豊方面の路線の福岡側のターミナルが西鉄博多と中途半端な位置にある事から、西鉄博多から天神への延伸線も同時に申請した。

 

 しかし、博多~西鉄博多と西鉄博多~天神が既に市街地化が進んでいる地域の為、建設が難しかった。地下化も検討されたが、当時の技術では軟弱地盤の地下化は難しい為、別の方法が採用された。

 それは超ウルトラC級の技で、福岡市内線の路盤を利用して高架で建設するというものだった。福岡市内線は西鉄が保有している事から考えられたものだったが、道路は国や福岡市が管理しているものの為、実現出来るかは不明だった。

 実際、福岡市や国はこの構想に疑問を示した。しかし、西鉄はめげずに説明し続けた。

 この間にモータリゼーションが急速に進んだ。現在はまだ大丈夫だが、将来的には道路を自動車で埋め尽くされる程になると見られた。その場合、路面電車は定時性を維持する為に高架化するか地下化するしかないと見られた。

 西鉄の熱心な説明が功を奏したのか、1959年に両者からの了解を取り付けた。これにより、博多~西鉄博多と西鉄博多~天神を1961年に申請した。また、技術の進歩から、軟弱地盤でも地下鉄の建設が可能になった事から、高架化では無く地下化に改められた。

 

 1963年に博多駅の移転工事があった事から、博多駅周辺の路線変更が行われ、これによって少々長くなったが、新線の免許は1965年に下り、建設許可は1967年に下りた。建設許可が下りた頃には、路面電車が赤字となり、全廃の上で高速鉄道を整備しようという動きがあった。その為、両線の建設が急がれた。

 

 1969年から工事が行われ、1977年6月に雑餉隈~博多~西鉄博多と西鉄博多~天神が開業した。前者は「西鉄博多線」と命名され、後者は北九州線の延伸とされた。

 博多線の開業によって、旧・九州電気軌道と旧・博多湾鉄道汽船、旧・九州鉄道が一つに繋がった。また、西鉄が路面電車でのみ乗り入れていた博多にも進出した。これを機に、門司~博多~熊本の有料特急が運行された。

 

 博多線の開業以降、本業への注力が行われる一方、副業の方は疎かになった。特に顕著だったのが、西鉄ライオンズである。

 ライオンズは、1956年にジャ・リーグを優勝して以降、57年、58年もリーグ優勝し、日本シリーズも3連覇した。それ以降はリーグ優勝こそ逃し続けたものの、常にAクラスを維持した。

 しかし、1967年以降、主力選手の高齢化や世代交代の失敗などの要因から、Bクラスの常連になった。博多線の建設中には身売りの噂が出たものの、この時は実際に身売りはされなかった。

 その後も西鉄はライオンズを保有し続けたが、1988年にダイエーに身売りを発表、翌シーズンからは「福岡ダイエーライオンズ」になる事が正式に発表された。

 

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・西鉄大川線の復活と九州国際空港への延伸

 西鉄大川線は、大善寺から西鉄大川に至る路線であった。史実では、1951年に休止となり、1966年に廃止となった。休止から廃止まで15年掛かっている理由は、沿線が大川線の廃止に猛反対していた為である。その為、将来的に復活が可能な様に休止扱いとなったが、その後は復活する事は無くそのまま廃止となった。

 実際、戦時中からバス転換が検討された程の輸送量しか無かった事、戦後に西鉄がバス輸送の拡充を行っていた事から、復活は難しかっただろう。

 

 この世界では、大善寺~城島は1951年に西鉄佐賀線の一部として復活したが(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)』参照)、残る城島~西鉄大川は1951年の廃止以降、そのまま休止扱いで放置された。これは、福岡北九州間及び福岡熊本間の都市間輸送や観光開発に奔走して、一ローカル線の事にまで手が回らなかった為である。その為、書類上は休止で存続していたが、実際は筑後川の改修工事などで一部の土地を手放しており、短期間での復活は難しかった。

 休止のまま30年以上経過した1980年代、俄かに大川線が注目を浴びた。それは、佐賀県南部に新空港が建設される事が決定した為である。

 これまで、民間航空は福岡空港が活用されていたが、国内線・国際線の増加によって、現状の設備ではとても対処出来ない状態となった(軍用飛行場としての機能は、日本空軍は築城に、在日米空軍は大刀洗に移転している)。その為、福岡空港は国内線専用とし、国際線は新空港に移転させる計画が立てられた。新空港は佐賀県南部とされ、そこへのアクセスとして大川線を活用出来ないかと打診された。

 西鉄としては、新空港の需要がどの程度が不明な事、休止から30年以上経過しており、路盤の整備に時間が掛る事から、直ぐに返事を出す事はしなかった。しかし、日本と東南アジアを結ぶ拠点として九州の開発が進められた事、それに伴い九州と東南アジアを結ぶ需要が急増していた事から(逆に、東アジア方面は史実より遥かに弱い)、1993年に大川線の復活と新空港への延伸計画を了承した。

 1995年に西鉄大川~新空港ターミナルへの免許が申請され、1998年に認可された。工事は新空港が「九州国際空港(略称:九国)」として開港した2000年から開始された。開港直後、アジア通貨危機や極東危機の影響、アメリカ同時多発テロの発生によって航空需要が激減した事から、九国の利用者が当初予定の6割程度だった。その為、工事の延期がされたが、その後は航空需要が回復した為、2004年に工事が再開された。

 そして、2007年2月に城島~西鉄大川~九州国際空港が開業し、「西鉄空港線」と命名された。

 

 開業後、砂津・天神・博多~九州国際空港の特急が運行された。今までバスしか無かった九国へのアクセスが飛躍的に向上し、好景気に伴う航空需要の増加と合わせて利用者が増加した。また、沿線にはショッピングモールなどの商業施設が建設されるなど、空港アクセス線以外の性格を持つ様になった。

 リーマンショックによって再び利用者の減少が見られたが、その後の需要回復やLCCの就航による新規需要の開拓によって再び利用者が増加した。現在では、需要増による複線化や熊本方面への列車の運行が計画されている。




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「西鉄大川線の復活と九州国際空港への延伸」追加。


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番外編:戦後の日本の鉄道(南樺太・千島)

〈南樺太〉

・南樺太における鉄道網の拡充

 戦前の南樺太における鉄道の基幹となるのは、大泊から豊原を経由して北上、敷香でスイッチバックし、日ソ国境付近の古屯に至る樺太東線だった。これ以外に、樺太西岸を通る樺太西線、豊原と真岡を結び、樺太東線と樺太西線を繋ぐ豊真線、川上炭山への路線である川上線が存在した。他にも、国鉄の自動車線や各種私鉄が存在した。

 これらは、1945年8月のソ連参戦による樺太侵攻でソ連のものとなった。戦後、近代化が進められたが、ソ連崩壊による経済の混乱によって保守が行き届かなくなった。現在では、ロシア経済の復活や北海道との連絡構想などにより、鉄道の復興が進んでいる。

 

 この世界では、南樺太と千島が日本領として残った。戦後、米ソ冷戦が鮮明になるにつれ、西側における極東の防波堤として、日本の存在感が徐々に出てきた。

 その為、「南樺太・千島の防衛」の理由から、鉄道の整備が検討された。国鉄として建設を行う為、1946年に鉄道敷設法が改正され、151号から165号が追加された。この内、151号と152号は千島に、153号から165号は南樺太に充てられた。

 

 南樺太における鉄道整備は、一部私鉄線の買収、樺太西線(改正鉄道敷設法第153号)の延伸、真久線の開業(改正鉄道敷設法第155号)、内恵線の開業(改正鉄道敷設法第158号)、恵屯線・香屯線(改正鉄道敷設法第164・165号)の開業である。

 この内、樺太西線と真久線は沿線開発の目的があるが、それ以外は国防目的が強かった。実際、建設には国防予算が流用されたり、鉄道連隊や工兵隊が参加していた。

 

 樺太西線は、本斗から真岡を経由して久春内に至る路線であり、久春内から恵須取・藻糸音への延伸も予定されていた。久春内~恵須取は戦時中から建設が進んでおり、一部の区間ではレールの敷設が行われていた。その為、1947年6月には全線開業した。また、南樺太炭鉱鉄道を買収して、本斗から内幌への延伸も行われた。

 同様に、真縫と久春内を結ぶ真久線も一部で工事が進んでいた事、短い区間である事から、工事は順調に進み、1947年9月に開業した。

 両線の開業によって、豊原と恵須取が鉄道で結ばれた。1945年10月の恵須取の市への移行、炭鉱や林業の開発促進、冷戦体制による軍事施設の進出など、南樺太北部の経済的効果は絶大だった。

 

 内恵線は、恵須取から太平を経由して内路に至る路線である。この区間はバスが通っていたが、恵須取と敷香の連絡、内陸部の石炭や林業、農業の開発促進、何より国防目的の為、建設が急がれた。

 1947年6月から工事が行われた。王子製紙から買収した王子恵須取軌道を流用して、同年11月に恵須取~太平は開業したが、残る太平~内路が山越えとなる為、工事が長期化した。また、先述の樺太西線と真久線、後述の恵屯線と香屯線の建設が優先された為、後回しにされた事も長期化した要因だった。

 結局、残る太平~内路が開業したのは1952年6月の事だった。他の路線より遅れた理由は、朝鮮戦争の影響によるものだった。それでも、樺太が攻撃を受けた事から工事の促進が行われた為、当初予定よりも早い開業だった。 内恵線の開業で、南樺太北部の開発が進んだ。しかし、山岳地帯の為、農業開発は進まず、人口の増加も緩やかなものだった。また、南樺太北部の東西の輸送路としても、先述の真久線と後述の恵屯線・香屯線で対応可能だった。

 この為、道路の整備が進むと輸送量の減少が激しく、国鉄再建時に第二次特定地方交通線に指定され、1986年9月に廃線となった。

 

 恵屯線は樺太西線の延伸と言ってよく、恵須取から藻糸音、名好と北上し、西柵丹で東進して、樺太東線の古屯に至る路線である。香屯線は、敷香から東進して多来加、池田沢を経由し、雁門で西進して古屯に至る路線である。両線は国境付近の路線である事から、建設は急がれた。1945年8月に、ソ連が樺太に「進駐」しようとした経緯もある為、こちらは軍と共同で建設が行われた。

 早期に完成させる為、規格を落として建設が行われた。基本は簡易線、場合によっては側線規格で建設された。その為、重量物の輸送は難しかったが、1948年までに全線が開業した。

 その後、朝鮮戦争中にソ連軍が北樺太で軍事的牽制を行った事、実際に南樺太に攻撃してきた事により、輸送量が急激に増加した。これに伴い、重軌条化などが行われ、大量の物資や車輛の輸送にも耐えられる様になった。また、重軌条化や沿線の開発が進んだ事により(減税や徴兵免除など様々な優遇措置がある)、旅客輸送も小規模ながら行われた。

 国鉄再建時、両線は第二次特定地方交通線程度の輸送量しか無かったが、軍事目的という特殊性から、最初から除外されていた。その為、民営化後も存続した。また、この路線の存在から、JR北日本(北海道・千島・南樺太を管轄)は政府からの優遇措置が他のJRより多く取られた。

 

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〈千島〉

・国後線・択捉線の開業

 史実の千島では、鉄道は建設されなかった。道路の整備もされていなかった事から、海運の方が重視されたのだろう。そもそも、人口の少なさから、鉄道を敷く意味が薄かったのだろう。

 

 しかし、この世界ではソ連と直接接している事、朝鮮戦争におけるソ連の攻撃により、南樺太と千島の防衛が急務となった。その場合、海運に頼るのは通商破壊で寸断される恐れから、国後島と択捉島については鉄道を敷く事で対応する事となった。その為、国後線(改正鉄道敷設法第151号)、択捉線(改正鉄道敷設法第152号)がそれぞれ計画された。

 

 国後線は、島南部の泊から北上し、古釜布を経由し、北部の留夜別に至る路線である。1948年から工事が進められ、1952年8月に開業した。時間が掛ったのは、択捉線や南樺太の路線の方を優先した事(国後島より択捉島の方がソ連に近い)、朝鮮戦争が始まり資材不足になった事が理由だった。

 開業により、島内の鉱山開発が進み、それに伴い人口も増加した。更に、漁業開発も促進されるなど、島内の経済を活発にした。

 しかし、元々人口が少ない地域の鉄道の為、輸送量の増加は次第に鈍化した。鉱山の閉鎖もあり、貨物の輸送量は大きく減少した。道路の整備も進み、観光輸送や通勤・通学輸送も減少した。何より、国後島に大規模な軍事施設が無い事から、軍関係の輸送に携えなかった。

 それらの要因から、国鉄再建時に第二次特定地方交通線に指定され、1986年10月に廃止となった。

 

 択捉線は、島南部の萌消から北上し、留別、紗那を経由し蘂取に至る路線である。萌消が起点の理由は、萌消湾に建設予定の萌消港との接続を狙ったものである。途中で経由する留別付近では、日米両軍共用のオホーツク海・北太平洋の大規模軍事拠点として単冠湾の整備が計画された為、整備の一環として1947年5月から建設が行われた。工事には米軍の工兵隊が投入されたり、アメリカから予算の一部を肩代わりしてくれた事から工事は進み、1949年8月に全線が開業した(同時に、大量の作業用車両を無償でプレゼントされた)。

 択捉線の開業により、島内の鉱山開発や牧場開発が進んだ。また、単冠湾向けの軍事輸送にも活用された。朝鮮戦争中のソ連による攻撃によって単冠湾が壊滅状態になったが、留別や萌消などへの代替輸送として活用された。

 その後、国鉄再建時には、択捉線の特殊事情から最初から特定地方交通線に指定されなかった。その為、民営化後もJR北日本に残った。民営化後は、観光路線としての活用もされている。



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番外編:戦後の日本の鉄道(北海道・東北)

〈北海道〉

・改正鉄道敷設法第133号(『胆振国苫小牧ヨリ鵡川、日高国浦川、十勝国広尾ヲ経テ帯広ニ至ル鉄道』)の開業

 日高と十勝を海岸回りで結ぼうとした路線であり、日高本線と広尾線、及び両線を繋ぐ様似~広尾に相当する。

 

 工事は1952年から行われた。この世界では、朝鮮戦争の余波で樺太と千島がソ連軍の攻撃を受けた。その影響で、樺太と千島、及びその後方である北海道の交通網の強化が図られた。この路線もその一環だった。

 様似~広尾は、日高山脈が海岸まで迫っている事から地形的に悪く、強風がよく吹く事から環境も悪かった。また、簡単に運行不能にならない様に、建設中の路線と日高本線の高規格化(沿岸付近のルートを内陸部に移してトンネル化)も同時に行った。その為、建設工事は長引いた。

 

 それでも、1963年に工事が完了し、同年8月に開業した。これに伴い、日高本線と広尾線は「日勝本線」に統一され、日高本線の旧線は廃止となった。

 その後、日勝本線は日高や襟裳への観光輸送、札幌と十勝を結ぶ予備ルートとして活用された。民営化が決定した後も、距離の長さや通勤・通学の利用客、観光への利用からJR北海道に引き継がれた。

 

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・改正鉄道敷設法第142号ノ3(『新得ヨリ上士幌ヲ経テ足寄ニ至ル鉄道』)

 史実の北十勝線に相当する路線である。この路線の目的は、石勝線と白糠線と合わせて、沿線の開発や札幌釧路間の短絡を目的とした。他にも、池北線(北見~池田、廃止)と合わせて札幌網走間の短絡も兼ねていた。

 

 工事は1952年に行われた。この路線も日勝本線同様、攻撃された場合のバイパスとして計画された。特に、この路線と網走本線(池田~北見~網走、後の池北線と石北本線)、現在計画中の第134号(石勝線)と合わせる事で、石北線のバイパスとなる事が期待された。石北線ルートの方が距離が短いが、急勾配が多い事から貨物輸送を行うには厳しいと見られた。

 工事区間の内、新得~士幌は北海道拓殖鉄道に沿うルートの為、1954年に買収の上で廃線、改めて建設を開始した。沿線を通る農家の反対があったが、この区間は平野部で大きな障害は無かった。その為、1957年には新得~士幌が「北十勝線」として先行開業した。

 残る上士幌~足寄については(士幌~上士幌は士幌線と共用)、1961年に開業した。これにより、北十勝線が全通した。

 

 北十勝線が全通したものの、優等列車の運行は無かった。肝心の石勝線の開通が遅れた為である。その為、開業から15年はローカル輸送に徹し、一時は赤字ローカル線として廃止になりかけた。

 1975年に石勝線が開業した事で、北十勝線はようやく日の目を見た。石勝線~北十勝線~池北線ルートが完成した事で、札幌網走間の高速化が実現した。距離こそ共に約380㎞だが、石勝線や北十勝線が高規格で建設されたので高速化がされている事、途中にスイッチバックが無い事から、「おおとり」がこのルートに変更となった。

 

 国鉄再建時、北十勝線は第二次特定地方交通線に指定された。しかし、帯広郊外の通勤・通学輸送に利用出来る事、札幌・帯広~網走のルートになる事から、池北線、士幌線と共に第三セクター「北勝高原鉄道」に転換となった。また、「おおとり」は札幌~網走(石勝線・北十勝線・石勝線経由)に変更となり、1日4往復に増便となった。

 

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・改正鉄道敷設法第145号(『北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル鉄道 及幌別ヨリ分岐シテ小頓別ニ至ル鉄道』)の一部開業

 史実の興浜線と、北見枝幸から分岐し天北線の小頓別に至る支線に相当する。後者については、美幸線との誘致争いに敗れたが、このルートは天北線の当初予定のルートであり、歌登町営軌道が運行していたルートでもある。

 

 この世界では、北方警備を目的に第145号の建設を1952年から行われた。この区間は歌登町営軌道が走っているが、全線買収の上で廃止した。町営軌道の規格では、高速運行や長大編成に耐えられない為である。

 小頓別~北見枝幸については、町営軌道の用地を利用出来る事、難所が少ない事から、1955年に開業し「歌登線」と命名された。残る雄武~北見音標~北見枝幸については、雄武~北見音標が1973年に開業したものの、残る北見音標~北見枝幸については8割の工事が完了した所で中断となり、遂に開業する事は無かった。

 

 歌登線が開業した事で、枝幸町は直接札幌や旭川と繋がった。これにより、水産物の輸送や枝幸町への旅客輸送で大いに賑わった。

 歌登線と興浜北線が繋がった事で、小頓別~浜頓別で2つのルートが形成された。1つは中頓別経由の北見線ルート、もう1つは北見枝幸経由の歌登線・興浜北線ルートである。距離的には前者の方が短いが(中頓別経由で約45㎞、北見枝幸経由で約60㎞)、沿線人口だと後者の方が有利だった。また、建設時期の違いから後者の方がやや規格が良かった。

 

 その為、1961年に北見線と歌登線、興浜北線で改編が行われ、音威子府~小頓別~歌登~北見枝幸~浜頓別~鬼志別~南稚内が「天北線」となり、残った小頓別~中頓別~浜頓別は「頓別線」となった。

 その後、天北線は優等列車が運行され、北海道樺太間の輸送の第二ルートとして活用された。民営化後も残り続け、天北線ルートは札幌稚内の都市間輸送やオホーツク地域への観光輸送ルートとして活用された。

 

 一方、頓別線はローカル輸送に限定され、国鉄再建時に第一次特定地方交通線に指定され1987年に廃止となった。興浜南線も同様だった。

 また、歌登線の開業によって、美幸線はその目的を失った。一応、美深~仁宇布が1964年に開業したが、そこから先は大きく工事が行われる事は無かった。最終的に、史実と同じタイミングで廃止となった。

 

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〈東北〉

・改正鉄道敷設法第27号(『福島県福島ヨリ宮城県丸森ヲ経テ福島県中村ニ至ル鉄道 及丸森ヨリ分岐シテ白石ニ至ル鉄道』)の一部開業

 この路線は、現在の阿武隈急行の福島~丸森~角田、未開業の丸森~中村(1961年から相馬)、角田~白石から成る。目的は、中通り(福島)と浜通り(相馬)の接続、他の計画線と接続して山形方面の連絡や東北本線のバイパスとなる事にあった。

 史実では、1968年に槻木~角田~丸森が丸森線として開業したものの、同じ年に東北本線の複線化・電化が完了した為、目的だった「東北本線のバイパス」はほぼ消滅した。加えて、「東北本線のバイパス」目的で建設した為、高規格の反面、市街地から離れた場所に敷設された事により、利用客も少なかった。

 その後、利用客の少なさから「日本一の赤字線」と言われた。国鉄再建時に第一次特定地方交通線に指定され、1986年に第三セクター「阿武隈急行」に転換された。

 転換後、残る福島~丸森の開業、電化、東北本線との直通などにより、利便性の向上が図られた。

 

 この世界では、丸森線の建設促進同盟に「福中鉄道建設促進同盟」が合流した。福中鉄道建設促進同盟は、「福島と浜通り北部を一本で結ぶ鉄道」の建設を要望した(中通りと浜通りを結ぶ鉄道は、郡山~いわきの磐越東線のみ)。両者が同じ鉄道敷設法にある事から、両者は合流して「丸森・福中鉄道建設促進同盟会」となった。

 同盟会の熱心な運動により、1957年には調査線、1959年には建設線に昇格した。丸森線については東北本線との兼ね合いがあるものの、福中線についてはそれが無かった為、1962年に工事が行われた。この内、福島~丸森は丸森線との共用である事からC線(主要幹線)規格で、丸森~相馬はB線(地方新線)規格で建設された。

 

 建設は進み、1970年時点で丸森~相馬の道床の工事は完了しており、レールも3割が敷設済みだった。一時は、丸森線の開業区間の利用者の不振から、残る区間を開業させるべきか判断されたが、福島~丸森の工事が殆ど完了している事、地元からの熱心な要望から、工事が続行された。

 それにより、1971年に福島~丸森が、1972年に丸森~相馬が開業し「相馬線」と命名された。丸森線は全通し、福島と浜通りを結ぶ鉄道も完成した。

 

 両線の開業後、東北本線のバイパスや福島と相馬、相馬経由で平へのルートが構築された。今まで鉄道を要望していた地域に念願の鉄道が開業した為、利用客は多かった。

 それでも、国鉄再建時に丸森線が第三次特定地方交通線、相馬線が第二次特定地方交通線に指定された。沿線は存続する事を望んだ為、1987年に第三セクター「阿武隈急行」に移管された。

 

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・弘前電気鉄道の拡大

 弘前電気鉄道(弘前電鉄)は、弘南鉄道大鰐線を運営していた会社である。当初の予定では、中央弘前から板柳へ、西弘前(弘前学院大前)から分岐して西目屋村の田代に至る路線も計画されていた。背景には、地域開発以外に、三菱電機による地方電鉄の施設などのデモンストレーションというものがあった。

 しかし、朝鮮戦争による資金・資材不足によって大鰐温泉~中央弘前以外の建設が進まなかった。また、戦争後の道路・燃料事情の好転によって、建設が行われない間にバス輸送が強化された。並行する奥羽本線の存在もあり、既存線の環境も悪化した中で、新線の建設は不可能だった。

 結局、残る免許は全て失効し、最初に開業した区間のみとなった。その区間も、バスや国鉄との競争で厳しい状況だった。1970年に弘南鉄道に路線を譲渡し、会社は解散となった。

 

 この世界では、同じ三菱系の三菱金属鉱山が弘前電鉄に資本参加した。西目屋村にある尾太鉱山の資源輸送を、弘前電鉄に行わせようとしたのである。

 1953年に、弘前~西弘前~田代と中央弘前~板柳の工事が行われた。沿線の支援、三菱電機の企業体力が大きく落ちなかった事により、工事は順調に進んだ。翌年には弘前~西弘前が開業し、1956年には残る西弘前~田代(田代線)と中央弘前~板柳が開業した。これにより、当初の計画線が全て開業した。

 

 全線開業した事により、西目屋村や板柳町の開発が進んだ。「農業と住宅の混合」を理念に、無軌道な開発は行われなかった。また、田代線沿線の温泉開発や岩木山、白神山地の観光ルートとしても活用された。

 しかし、モータリゼーションの進行による利用客の減少、自然災害による運休と復旧が経営を悪化させた。また、三菱電機も経営から手を引いた事で、自力での経営再建は困難とされた。一時は大鰐温泉~西弘前の廃止も検討されたが、1970年に弘南鉄道との合併によって廃止は免れた。

 史実では譲渡だったが、この世界では弘前電鉄の規模が弘南鉄道に対して大きい事、尾太鉱山からの貨物輸送の存在から、合併という形となった。

 

 その後も、田代線と大鰐線は通勤・通学、観光で活躍した。合併当初は鉱石輸送も大きな収入源だったが、肝心の鉱山がオイルショックや海外からの輸入によって1978年に休山、翌年には閉山となった。これにより、利益の大きな部分を占めていた貨物輸送がほぼ消滅した。

 一方、開業後から行われていた沿線開発により、通勤・通学輸送量は増加した。弘前都市圏の拡大に伴い、沿線の開発が進んだ為だった。

 現在では、赤字に悩まされながらも、沿線の足として活用されている。

 

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・蔵王高速電鉄の開業

 蔵王高速電鉄(蔵王電鉄)は、山形~上山(かみのやま温泉)と途中の半郷から分岐して高湯に至る路線を計画した会社である。この鉄道も山陽電鉄の岡山延伸線や弘前電鉄と同様、戦後の混乱期に出願した地方の電鉄である。

 目的は奥羽本線で有数の混雑区間である山形と上山の旅客輸送だが、国としても国鉄との並行線は基本的に認めない方針だった。その為、当初は却下されたが、後に蔵王温泉への観光輸送や蔵王鉱山の硫黄輸送を加えた事で、1948年に認可された。

 翌年には第一期線として山形~上山の工事が行われ、日立製作所へ電車の発注も行われた。しかし、朝鮮戦争によって物価が高騰し、工事が中断された。その後も工事が行われる事は無く、1960年に免許は失効した。

 因みに、日立に発注した電車の内3両が完成していたが、蔵王電鉄が開業しなかった為キャンセルとなった。宙に浮いた電車を引き取ったのが、岡山で開業した備南電気鉄道だった。その後、備南電鉄が玉野市営電気鉄道になり、1965年に非電化になった後に高松琴平電気鉄道に譲渡された。

 

 この世界では、山形~寒河江~楯岡(現・村山)も追加で出願した。これは、山形市北部の開発、輸送量の多い区間への参入、改正鉄道敷設法第24号(山形県楯岡ヨリ寒河江ニ至ル鉄道)の実現が目的だった。

 この区間の免許も認められたが、先に山形~上山の建設が先だった。朝鮮戦争による工事の中断があったが、1年で終了した事、日立が三菱電機に対抗した事から、工事が進められた。

 1953年に山形~上山が開業し、残る区間の工事も行われた。山形~寒河江~楯岡は最上川以外で難所が無い為、1956年に山形~寒河江が、1958年に寒河江~楯岡が開業した。

 一方、半郷~高湯は山岳地帯で急勾配やトンネルが多数必要となり、工事も長期化した。最終的に、1959年に開業し、ここに蔵王電鉄が全線開業した。

 

 開業後の蔵王電鉄だが、上山~山形は奥羽本線と完全に並行している為、奥羽本線の整備が進むと厳しくなった。本数の多さでカバーするなどしたが、山形交通との対立もあり、厳しい状況が続いた。国鉄民営化後、何度か半郷~上山の廃止が検討された。

 

 一方、高湯への路線と寒河江・楯岡への路線は好調だった。高湯方面は、当初は蔵王鉱山の硫黄輸送に、鉱山の閉山後は蔵王温泉や蔵王山の観光開発に活用された。後に沿線でスキー場開発が進み、国鉄からの直通列車も運行された。

 但し、蔵王への観光ルートとして仙台鉄道の青根温泉からのルートも存在した為、蔵王電鉄と仙台鉄道はライバル関係になっていった。

 もう一つの寒河江・楯岡は、国鉄以上の高頻度運転、高速運転が行われており、国鉄から多数の旅客を奪った。特に影響が大きかったのが左沢線だった。山形~寒河江で並行しており、本数で勝負にならなかった為、国鉄末期に第二次特定地方交通線に指定された。その後、1987年8月に廃止となったが、寒河江~左沢については利用者が多かった為、蔵王電鉄に移管され存続した。

 

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・福島臨海鉄道の大規模化

 福島臨海鉄道は、1967年に小名浜臨港鉄道から改称した。常磐線の泉から海岸線に沿い、小名浜に至る路線を有している。また、途中の宮下から分岐して小名浜埠頭、藤原に至る路線や、小名浜から延伸して栄町に至る路線を有していた。

 そして、栄町から先は、江名鉄道が江名まで伸びていた。両社は一体的に運用された。

 しかし、前者は貨物の取扱量の減少によって2001年までに全廃し(尤も、1984年から貨物の取り扱いは無くなった)、後者も旅客・貨物の輸送量の少なさ、劣悪なインフラ(殆ど保守が行われていなかったらしい)、1965年の台風による一部施設への被害などによって1967年に廃止になると、翌年には廃止となった。

 

 この世界では、1963年7月に現在のいわき市(合併前は磐城市や平市など5市4町5村に分かれていた)が新産業都市になる事が閣議決定された事(翌年3月に指定)を受け、小名浜臨港鉄道が平(現・いわき)~小名浜を結ぶ鉄道を計画した。これは、平や沿線から工業団地への通勤路線として計画された。また、この計画は改正鉄道敷設法第31号(福島県平ヨリ小名浜ニ至ル鉄道)の実現でもあった。

 1964年には免許が申請され、67年には認可された。同年には福島臨海鉄道に改称し、国や自治体からも出資を受けた状態になった。工事は69年から行われ、1971年には開業した。また、廃止された小名浜~栄町~江名も復活した。

 

 全線電化で開業した平~江名は、出だしは順調だった。沿線はニュータウン開発が進められた為、利用客は見込めた。

 しかし、開業後のオイルショックによって企業の進出が鈍化し、人口の流入も鈍化した。それに伴い、ニュータウンの開発も鈍化した。その為、利用客の伸びも低調となった。

 それでも、大きな赤字にならなかった事、国道の交通量が増加した事によるバスの定時性が損なわれた事によって、利用客はその後も増加していった。



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番外編:戦後の日本の鉄道(関東)

関東は多くなるので、複数に分けました。最初は、国鉄と公営交通(地下鉄)となります。


〈関東〉

・史実長倉線(茂木~長倉)の開業

 史実では、真岡線の延長として茂木~長倉の工事が1937年から始まったが、長倉駅を何処に置くかで時間が掛った。1940年には長倉の手前までの工事が完了し、レールの敷設も始まっていたが、太平洋戦争によってレールは他の路線に転用された。戦後も長倉駅の工事が終わらず、そのまま開業しなかった。

 

 この世界では、茨城鉄道(1940年に国有化され「長倉線」と命名)が長倉まで開業した事で、長倉への乗り入れで悩む事が無くなった。これにより、1940年に茂木~長倉の工事は完了した。それでも、敷設が完了する前に太平洋戦争が始まり、レールは他に転用されたが、戦後に敷設が再開され1957年に開業した。合わせて、長倉線を統合して新たな真岡線となった。これにより、真岡線は下館~真岡~茂木~長倉~御前山~水戸となった。

 真岡線の全通によって、後述の市塙線と合わせて水戸へのルートが完成した。これにより、水戸と宇都宮を結ぶ最短ルートが完成した。

 しかし、真岡線そのものが旅客の流動と合っていない事、モータリゼーションの進行によって利用者が減少した。その後、国鉄再建時に真岡線は第三次特定地方交通線に指定された。水戸側の利用者の多さ、路線そのものの長さが理由だった。その後、1988年4月に市塙線と共に第三セクター「真岡鐡道」へ移管された。

 

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・改正鉄道敷設法別表第37号(『栃木県市塙ヨリ宝積寺ニ至ル鉄道』)の開業

 真岡線(現・真岡鉄道)の市塙から東北本線の宝積寺に至る鉄道で、真岡線と宇都宮を接続する目的である。また、前述の長倉線と合わせる事で、宇都宮と水戸を連絡する事にもなる。

 過去、筑波鉄道(土浦~岩瀬。現在は廃止)が1928年に岩瀬と宇都宮の免許を獲得したが、昭和恐慌と重なり測量のみで頓挫し、1934年に免許が失効した。その後、この区間の鉄道が開業する事は無く、水戸と宇都宮を結ぶ鉄道が実現する事は無かった。

 

 戦時中に宇都宮陸軍飛行場と陸軍航空廠宇都宮支廠への物資・人員輸送の為に、1942年に宝積寺~鐺山が開業した。史実では戦後に廃止となったが、この世界では戦後に廃止となった後、国鉄がこの路線を活用して第37号の建設を行った。途中、鬼怒川の架橋に手間取ったが、1957年に宝積寺~鐺山~市塙が開業し「市塙線」と命名された。

 開業後、東北本線や京成電鉄宇都宮線と並行しており、宇都宮に行くのに遠回りになるが、真岡線と長倉線を利用する事で宇都宮と水戸を結ぶルートが形成された。実際、市塙線・真岡線経由で宇都宮と水戸を結ぶ急行「那珂」が運行されるなどした。

 

 急行運転が行われるなど活用されたが、やはり宇都宮へのルートが遠回りなのがネックだった。モータリゼーションが進行すると、宇都宮と水戸を結ぶバスの運行が行われるなどして、市塙線の利用客を奪っていった。沿線の開発などが行われたが、モータリゼーションの進行の方が激しかった。

 その為、国鉄再建時に第二次特定地方交通線に指定された。1988年4月に真岡線と共に第三セクター「真岡鐡道」に移管された。

 

 第三セクターに移管後も、宇都宮への乗り入れは続いた。別会社になった事で通し運賃は値上がったものの、運行本数の増加や駅の増設、各種キャンペーンの実施などにより、利用者は微増傾向となった。また、沿線に清原工業団地が開設された為、そこへの通勤輸送としても利用されている(鉄道の方が遠回りだが、国道の方は渋滞で時間が掛る様になった為)。

 

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・国鉄月島線(越中島~晴海~月島~汐留)の開業

 月島線は、越中島貨物線から延伸し、晴海・月島を経由して汐留に至る路線として計画された。この路線の目的は、晴海や月島への貨物輸送、総武本線と東海道本線の接続、周辺地域の通勤・通学輸送などが目的とされた。この路線が計画された1950年代は鉄道貨物の絶頂期で、都心部を経由しないバイパス線の建設は急務であり、経由地である晴海や汐留は貨物ターミナルでもあった事から、貨物の融通という意味での重要だった。

 しかし、モータリゼーションの進行による鉄道貨物の減少、東京外環状線(京葉線、武蔵野線、りんかい線)の計画により、月島線の必要性が低下した。一部は東京都の臨港線として開業したものの、全線開業する事は無かった。

 東京都の臨港線も、モータリゼーションの進行や主要貨物である石炭の取引量の減少から1989年までに全廃となった。

 

 この世界では、1962年に東京都によって晴海~月島~汐留の建設工事が行われた。月島地区の工場への輸送路の確保、この地域の交通路の確保が目的だった。

 モータリゼーションの進行もあり、都電の定時性が損なわれたとあって建設は急がれた。建設途中の1966年に、越中島~晴海~汐留の東京都の臨港線を買収した。翌年には、越中島貨物線の延伸として越中島~月島~汐留が開業した。同時に、東京都からの要望旅客輸送も行った為、「越中島線」と命名された。

 

 越中島線の延伸によって、総武本線と東海道本線の連絡が叶った(総武快速線の東京乗り入れは1972年)。しかし、開業した時期が悪く、貨物の輸送量のピークを過ぎていた時期だった。

 一方で、旅客輸送の方は順調だった。亀戸~越中島は貧弱だった南北の輸送を果たした。越中島~汐留~浜松町は、開業してから10年程はローカル色が強かったが、沿線の工場が閉鎖され再開発が行われると、そこへの交通手段として活用される様になった。

 国鉄民営化後、かねてから言われていた新金貨物線との一体運用、及び品川延伸が実行に移された。1994年に新金貨物線が旅客化、金町~松戸の線路増設、品川延伸が行われ、松戸~亀戸~越中島~汐留~品川のルートが完成し「城東線」という通称が付けられた。

 

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・上越新幹線の新宿延伸の実現

 現在、上越新幹線の起点は大宮だが、計画上では新宿となっている。実際、大宮付近には複々線用に用地の確保が一部で行われており、池袋や新宿の地下には新幹線用と思われるスペースが存在しており、計画も完全に破棄された訳では無い。今後、北海道新幹線や北陸新幹線が全通する事で、東京側の輸送量不足が今以上に深刻化するだろう。その時、再びこの計画が動きだすと思われる。

 

 この世界では、東北・上越新幹線の建設時に土地買収の為の予算が組まれ、実際に一部の土地の収容が行われた。しかし、東北・上越新幹線の工事の遅れ、国鉄再建に伴う重要な工事以外の中断によって、新宿側の工事は停滞した。その後、東北新幹線の青森延伸と北陸新幹線の開業まで、新宿延伸は凍結する事が決定された。

 1989年、東北新幹線の盛岡~八戸と北陸新幹線の高崎~軽井沢の工事がスタートした。当時、一部区間をミニ新幹線化やスーパー特急化(トンネルや橋梁、架線は新幹線規格だが、軌間を在来線と同じにするもの)とする予定だったが、後に全線フル規格化に変更された。

 この時、同時に上越新幹線の新宿延伸線の計画も再スタートした。但し、輸送力の増強が必要になるのは開業してから暫く後と見られた為、工事はゆっくりと進められた。1997年に北陸新幹線の高崎~長野が「長野新幹線」として開業し、2002年には東北新幹線の盛岡~八戸が開業した。この時、大宮~新宿の工事は9割方終わっていた為、2年以内に開業するとアナウンスされた。

 そして、2003年10月1日、上越新幹線の大宮~新宿が開業した。途中駅は、池袋がある。開業した日は、東海道新幹線の品川駅開業と同時だった。

 

 新宿延伸と同時に、東北・山形・秋田・上越・長野の各新幹線の増便が行われた。今まで、東京側のターミナルが東京のみだったのが解消された為、増便が可能となった。東京・上野から見れば減便だったが、東京~大宮の整備が行い易くなった。また、今まで不便だった東京都西部や埼玉県西部からのアクセスが容易となった。

 以降、東北新幹線の新青森延伸、北陸新幹線の金沢延伸、北海道新幹線の新青森~新函館北斗の開業によって、東京と新宿は北へ向かう二大ターミナルとして活用される。

 

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・京急の三田線乗り入れ

 元々、三田線は泉岳寺~高島平の予定だった。泉岳寺側では、東急が池上線を延伸して接続、池上線と大井町線を改良して、田園都市線の都心直通線を予定した。高島平側では、東武が東上線の大和町(1970年に和光市に改称)から分岐、高島平への支線を建設して乗り入れを予定していた。

 しかし、東急・東武共に都心へのルートが遠回りになる事から、三田線への直通構想は破談となった。後に、田園都市線は半蔵門線で、東上線は有楽町線と副都心線で都心乗り入れを実現させている。また、三田線は2000年に三田~白金高輪~目黒を開業させ(白金高輪~目黒は営団と共用)、東急目黒線との直通も実現した。形こそ変われど、お互いに当初の予定は実現した。

 

 この世界では、京成の規模が史実以上の事から(筑波・宇都宮方面の路線を有している)、京成と京急の軌間の違い(京成は1372㎜、京急は1435㎜)を解消出来なかった。その為、京成と京急はそれぞれ別個に都心への直通が計画された。それが、京成と1号線(浅草線)、京急と6号線(三田線)だった。

 三田線の直通相手が京急の為、三田線の軌間も1435㎜となった。これにより、予定にあった東急や東武との直通構想は無くなった。

 京急が都心への直通を熱望した為、建設は急がれた。1968年に巣鴨~志村(翌年に高島平に改称)が開業し、以降順次開業した。1973年、日比谷~三田~泉岳寺~品川が開業し三田線は全通した(泉岳寺~品川も三田線)。

 

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・都営文京線の開業(架空)

 文京線は、京王新宿から神楽坂、後楽園を経由して、京成上野に至る路線である。概ね、史実の大江戸線の北半分と同じルートを通る。

 史実でも、この区間と似たルートを京王が戦後直ぐに計画している。しかし、東京都心部の交通の一元化、戦後直ぐでの資金・資材不足を理由に、計画は破棄された。

 

 この世界では、1962年の都市交通審議会答申第6号で10号線として制定された(史実では、京王関係は9号線が、10号線は有楽町線に充てられた。後述の白金線の影響で、7号線以降は1つずれる)。1964年、三田線と共に免許が申請され、同年には認可された。翌年から工事が開始された。これに先立ち、京王では新宿駅の地下化の際に延伸が可能な設計となり、京成では上野の改良工事と上野~青砥の複々線化が行われた(複々線化は、沿線の反対などで2008年まで完成せず)。

 1972年に京王新宿~春日が開業し、この時に「文京線」と命名された。1975年に春日~京成上野が開業した事で全線が開業した。

 

 文京線の開業によって、京王と京成の直通運転が開始された。これにより、東京都心部の東西の交通、都電廃止以来鉄道が無くなった旧・牛込区の交通の改善が為された。

 意外なものでは、プロ野球の観戦客が増加した。文京線沿線には読売ジャイアンツ(巨人)の本拠地である後楽園球場があり、直通している京成の沿線には大日イーグルスの本拠地である足立球場がある。巨人と大日は共に親会社が新聞社でライバル同士、共に京成と縁がある事から(かつて巨人の最大の株主は京成であり、現在は大日球団の株の25%を持っている)、「東京シリーズ」だけでなく「文京線シリーズ」や「京成シリーズ」と称される様になった。

 

 尚、文京線が開業したが、新宿線も史実通りに開業した。これは、目的が違う為(文京線は新宿と上野の連絡、新宿線は千葉ニュータウンや成田空港と都心を結ぶ目的)、双方が必要だからである。

 また、大江戸線は文京線と後述の白金線、東武田柄線(史実の東武啓志線)の存在から、都心部の北側のルートが大久保、高田馬場、都電の早稲田、江戸川橋を経由して春日というルートとなり、都庁前~練馬~光が丘は存在しない。

 

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・営団白金線の開業(架空)

 白金線は、品川から広尾、千駄ヶ谷、新宿、東中野、椎名町を経由して池袋に至る路線である。このルートの南側は、京急が保有していた青山線(品川~青山~千駄ヶ谷)の免許を、京浜地下鉄道に譲渡し、更に帝都高速度交通営団に移った。

 その後、暫く塩漬けにされていたが、都市交通審議会答申第6号で7号線に制定された事で動き出した。1966年に追加の千駄ヶ谷~新宿~東中野~池袋が申請され、翌年には認可された。1968年に建設が行われた。

 この路線は、他の路線との直通構想が無かった為、丸ノ内線と同一の規格で建設された。その為か、建設は早く進み、1975年に新宿~東中野~池袋が開業し、1977年に残る品川~広尾~新宿が開業した。これにより7号線は全通し、「白金線」と命名された。

 

 白金線の開業により、貧弱だった山手線の西側の内側の南北の交通が改善された。この路線の開業により、1972年の都市交通審議会答申第15号の14号線(史実の13号線。後の副都心線)の品川・羽田延伸構想は外される事となった(史実では、1985年の運輸政策審議会答申第7号で削除された)。

 また、光が丘へのアクセスとしても活用され、1985年に中井からの分岐線が建設され、1991年に中井~練馬~光が丘が開業している。

 

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・横浜市営地下鉄の計画変更

 横浜市営地下鉄は、あざみ野~湘南台のブルーライン、日吉~中山のグリーンラインの2路線からなるが、横浜市の地下鉄の基となった1966年に作成された都市交通審議会答申第9号では4路線計画された。また、他に川崎市内に1路線、東京との連絡線が1路線あった(東京方面の路線は検討止まり)。

 計画では、横浜市内の路線には1号線から4号線まで振られていた。1号線は六会(湘南台付近)から戸塚・上大岡を経由して伊勢佐木町に至る路線、2号線は屏風ヶ浦から吉野町・横浜を経由して神奈川新町に至る路線、3号線は本牧から山下町・伊勢佐木町・横浜・新横浜を経由して勝田(港北ニュータウン付近)に至る路線、4号線は鶴見から末吉橋・勝田を経由して元石川(あざみ野付近)に至る路線として計画された。

 これ以外に、川崎市の路線は5号線とされ、大師川原(小島新田付近)から川崎・末吉橋・元住吉・長沢を経由して百合ヶ丘に至る路線、東京への連絡線である6号線は、茅ケ崎から六会・二俣川・勝田を経由して東京方面の路線とされた。

 その後、一部ルートの変更や追加、道路事情の変化や他路線の輸送力の変化などにより、現在の形となった。

 

 この世界では、球団を保有した京急が、1978年のシーズン前に本拠地を横浜スタジアムに移した事で、3号線との直通運転を行いたいと申し出た。横浜市としては、急に1社の都合で計画を変更する訳にはいかない上に、既に3号線の工事が進んでいる為、今更規格の変更は不可能だった。

 それでも、京急は熱心に願い出た。また、東急も京急に便乗する形で、横浜市の中心部に乗り入れたいとして、2号線の計画変更を願い出た。

 2社、それも横浜市中心部の交通に大きな影響を持つ2社からの申し出に、流石の横浜市も動いた。3号線の関内~本牧の調整に手間取っている事もあり、計画変更を行うには最適と見られた。1980年から3者の協議が行われ、1982年に次の様に変更された。

 

・3号線に日ノ出町~関内を追加する。同時に、日ノ出町~関内~本牧は京急と直通する。

・京急は3号線との直通の為、日ノ出町とその前後を地下化する。

・2号線は東急東横線が直通する。これに伴い、神奈川新町~横浜の計画は破棄する一方、屏風ヶ浦~洋光台~大船を追加する。

・東急は2号線との直通の為、東白楽~横浜を地下化する。直通後、横浜~桜木町は廃止する。

 

 2号線と3号線の追加の部分の免許が1984年に申請され、翌年に認可された。2号線については認可の翌年から工事が開始されたが、3号線については工事が行われなかった。本牧付近の道路・港湾工事との調整、みなとみらい21計画との重複がある為である。また、1985年に作成された運輸政策審議会答申第7号との兼ね合いもあり、3号線の計画の雲行きが怪しくなった。

 その後、京急が横浜~日ノ出町の輸送力を強化しなければ直通の意味は薄いと指摘、横浜市もそれに同調した。その為、1987年に3号線の計画は白紙となり、運輸政策審議会答申第7号に入っている横浜~みなとみらい~元町に乗り入れる事に変更された。また、横浜周辺の輸送力強化の為、京急は神奈川新町~横浜の複々線化も盛り込まれた。同時に、検討段階の元町~本牧~根岸の早期実現に向けても進められ、建設主体が横浜市になる事も決定し、路線名も「横浜市営地下鉄5号線」とされた。

 

 1993年6月、2号線の吉野町~屏風ヶ浦が開業した。これに伴い、路線名の制定が行われ、1号線と3号線は「ブルーライン」、2号線は「レッドライン」と命名された。その後、1997年2月に横浜~吉野町が開業し、東急東横線との直通も実施された。残る屏風ヶ浦~大船は2007年2月に開業し、2号線の計画は全て完了した。

 

 2001年4月、遂に5号線の横浜~みなとみらい~元町が開業した。同時に、京急線の地下別線である神奈川新町~横浜も開業した。「イエローライン」と命名された5号線は、ウォーターフロントへの交通手段、横浜スタジアムへの新たな交通手段とされた。

 その後、2000年に作成された運輸政策審議会答申第18号によって、元町~本牧~根岸にA1のランクが充てられた事で(A1は「目標年次(18号の場合は2015年)までに開業することが適当な路線」を意味する。史実ではA2で「目標年次までに整備着手することが適当である路線」だった)、2003年に元町~本牧~根岸の免許が申請された。2005年に認可され、翌年から工事が行われた。根岸~本牧は神奈川臨海鉄道本牧線を利用する事となった為、建設は早く進んだ。2010年8月に元町・中華街(延伸を機に元町から改称)~本牧~根岸が開業した。




上記以外の影響
・南北線の早期開業
 南北線は1960年代には既に計画が存在しており、東武赤羽線の都心延伸線としての役割もある為、1985年までに赤羽岩淵~溜池山王が開業した。残る溜池山王~目黒も1997年に開業し、同時に東急との乗り入れも開始した。

2/17:『上越新幹線の新宿延伸の実現』を追加しました。これ、すっかり忘れてました。現状、東北・北海道・秋田・山形・北陸・上越の各新幹線の東京側の本数が限界の為、早期に整備されていればと思いました。


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番外編:戦後の日本の鉄道(関東②)

2番目の関東です。今回は大手私鉄関係となります。


〈関東〉

・東武伊香保線の開業

 東武は、日光以外にも路面電車を保有していた。前橋・高崎から渋川を経由して伊香保温泉に至る路線である。東武に買収されたのは1927年の事だったが、この頃の東武は日光・鬼怒川へ全力を傾けていた事から、伊香保軌道線は放置された。加えて、バスが運行された事で乗客も奪われ、一時は廃止も検討されたが、戦時体制によってガソリンの調達が困難となった事でバスの運行は減少した。逆に、路面電車の利用客が増加した事で、この時の廃止は免れた。

 戦後、ガソリンが再び市中に出回れるとバスの運行も増加した。加えて、車輛や設備の更新が全く行われなかった事で老朽化が著しかった。再び、路面電車の乗客は減少した。1953年の高崎~渋川の廃止から始まり、1954年に前橋~渋川、1956年に残る渋川~伊香保が廃止となった。

 

 この世界では、東武が伊香保温泉の開発を目論み、前橋~渋川~伊香保温泉の高規格化を計画した。1935年には上毛電鉄が東武に買収された事、日光・鬼怒川への投資が一段落付いた事から、この計画は現実味を帯びた。1937年から工事が始まったが、戦時体制による資材・労働力不足によって工事は進まず、1940年に一時中断となった。

 戦後、工事は再開されたが、日光線の複線復旧工事の方に力を注いでいた為、伊香保延伸はのんびりとしたものだった。それでも、1958年には前橋~渋川~伊香保温泉が開業して「伊香保線」と命名された。

 尚、伊香保軌道線については、バス輸送の強化や施設の老朽化によって、1956年までに全廃していた。

 

 伊香保線の開業によって、伊香保温泉と榛名山の観光開発が促進された。東部が力を入れていたのは日光・鬼怒川だが、京成との競合や他地域の地盤固め、1966年の熊谷線の開業による東上線から伊勢崎線への直通運転開始などによって、1960年代後半に開発が加速した。

 その後、伊香保・榛名山が日光・鬼怒川に並ぶ観光地となり、それに伴い伊勢崎線、前橋線、熊谷線、伊香保線の重軌条化や交換設備の強化が行われた。現在では、浅草~伊香保温泉の「いかほ」、池袋~伊香保温泉(熊谷線経由)の「はるな」、浅草・池袋~前橋の「りょうもう」の3種類の特急が運行されている。

 

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・東武田柄線の再開業

 東武田柄線、史実に従うならば東武啓志線と言うべきだろう。この路線は、東上線の上板橋から分岐し、東京第一陸軍造兵廠の練馬倉庫(現・陸上自衛隊練馬駐屯地)への専用線として1943年に開業した。戦後、GHQによってグラントハイツ(アメリカ陸軍航空軍、後の空軍向けの家族宿舎。戦前は陸軍の成増飛行場、現在は光が丘)への延伸が行われ、1946年に練馬倉庫~啓志(翌年にグランドハイツに改称)が開業した。

 その後、旅客輸送が行われたが、1948年に旅客営業が中止され、1957年に休止となった。路線そのものも1959年に廃止になった。東武はこの区間の旅客免許を保有していたが、実際にそれを活用する事は無かった。

 グラントハイツは1954年から順次日本に返還され、1973年9月末に返還が完了した。光が丘として入居が始まったのが1983年の3月頃だった。

 

 この世界では、グラントハイツの建設までは史実通りだが、返還が1960年代に完了した。その為、グラントハイツの跡地の活用が史実より10年程早まり、交通手段の整備も急がれた。

 そして、東武が啓志線の跡地を保有し続けていた為、1961年に上板橋~グラントハイツの免許を申請した。免許は1964年に認可され、翌年から工事が進められた。廃線跡を活用する事から工事は早く進み、1967年3月に上板橋~光が丘が開業し「田柄線」と命名された。

 

 田柄線の開業によって、史実で光が丘で問題となった交通の不便さは無くなった。その為、住宅の開発や入居が順調に進んだ。

 しかし、都心方面へは池袋に限定されている事、山手線内へのアクセスが不便である事から、新宿方面へのアクセス線が計画された。そちらについては、営団地下鉄白金線の支線の開業によって果たされた。

 

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・西武多摩川線の石神井公園延伸・多摩ニュータウン延伸・府中本町延伸

 西武多摩川線は、武蔵境と是政を結ぶ路線であるが、他の西武線とは孤立した路線である。しかし、戦後に西武は多摩線(1955年に多摩川線になるまで、多摩線・是政線・武蔵境線と変更されている)と新宿線(東伏見、武蔵関、上石神井の何処か)を接続する構想を出しており、実際に免許も申請している。目的は、孤立していた多摩線の接続以外に、沿線に建設されていた野球場(武蔵野野球場)へのアクセスも含まれていた。

 しかし、京王との競合(井の頭線の延伸扱いとして、吉祥寺~田無~東久留米を申請していた)もあり、両者の調整に時間が掛った。そうこうしている間に、1951年に国鉄が三鷹~武蔵野競技場前を開業させた。調整が進まなかった事もあり、西武と京王は計画を破棄した。

 尤も、開設を急いだ事で、芝が定着しないまま開幕を迎えた事で、土ぼこりが酷かった。他にも、都心から遠い、他の球場が使用可能になった事などの悪条件が重なり、1951年のシーズンしか使用されなかった。球場も1956年に解体され、国鉄線も1959年に廃止となった。

 

 これ以外にも、多摩川線には多摩ニュータウンへのアクセス路線とする計画もあった。しかし、多摩川線の場合、中央線の混雑を助長させるとして採用されなかった。結局、多摩ニュータウンへのアクセスは、京王と小田急が担当する事となった。

 

 この世界では、西武が1946年に石神井公園~武蔵関~武蔵境の免許を申請した。これは、池袋線・村山線(現・新宿線)・多摩線の一体化の促進、武蔵野地区の貧弱な南北間の交通の改善、大和航空工業武蔵製作所(史実の中島飛行機武蔵製作所)の跡地の開発促進を目的としたものだった。戦後直ぐという状況から、他路線の復興の方が重要と見られたが、計画の妥当性から1948年に認可された。

 1949年に京王も吉祥寺~田無~東久留米の免許を申請したものの、西武のテリトリーである事、西武の免許線と競合する事、京王の資本力の貧弱さから、京王の免許は認可されなかった。その代わり、西武との調整の結果、同地域におけるバス路線の参入が認められ、西武軌道線(新宿~荻窪の路面電車。史実では、1951年に東京都に買収)を京王に売却する事となった。

 

 京王の参入を阻止した西武は、地盤固めの為に、1949年に建設が行われた。武蔵関~武蔵境は専用線を再利用した為、翌年の4月に開業した。残る石神井公園~武蔵関は、朝鮮戦争の影響で工事が中断した為、1952年9月の開業となった。

 石神井公園~武蔵境の開業によって、武蔵野野球場へのアクセスが改善された。特に、新宿と池袋からのアクセスが便利となり、毎日オリオンズがここを本拠地に変更した程だった。

 

 その後、1960年代に多摩丘陵の開発計画が立案された。そこへのアクセス鉄道として、小田急・京王・西武が行うと予定された。

 しかし、この世界では小田急が鶴川~淵野辺~上溝~田代を小田急相武線として、京王が聖蹟桜ヶ丘~鑓水~橋本~三ヶ木を京王南津線として保有している。その為、多摩丘陵西部の開発はある程度進んでおり、大規模な開発を行うのは東部に限られた。また、上記の2路線の存在から、両社が行うのは二重投資になると見られた。

 この事から、多摩ニュータウン中央への路線は西武単体が行う事とされ、多摩川線の白糸台から分岐して多摩ニュータウンに至る路線が計画された。

 一時は、ニュータウンの開発は大規模に行われる事、独占体制を避けたい事から、もう一路線必要になるのではと言われた。しかし、京王と小田急は共に多摩丘陵の路線を保有している事、大規模に開発を行ったとしても東部だけでは15万人程度で1社で充分である事から、西武単独での乗り入れとなった。その為、京王相模原線と小田急多摩線は、この世界では計画のみの存在となった。

 

 1964年3月、西武が北多磨(2001年に白糸台に改称)~稲城長沼~若葉台~多摩ニュータウン~橋本と是政~府中本町の免許を申請し、翌年2月に認可された。緊急を要する事業の為、同年12月に建設許可が下り、翌年6月から工事が開始された。同時に、多摩川線の上石神井~北多磨の複線化・一部の立体交差化も行われた。工事は早く進み、1970年に北多磨~稲城と是政~府中本町が開業し、1973年に稲城~多摩ニュータウンが開業し、上石神井~北多磨の全線複線化が完了した。同時に、上石神井~多摩ニュータウンは「多摩線」となり、北多磨~是政~府中本町は「是政線」となった。

 これにより、多摩ニュータウンに鉄道が開業したが、入居の遅れ、オイルショックによるニュータウン人口増加の鈍化、インフレによる建設費高騰、ニュータウンの自前開発の不可などにより、多摩線の環境は良くなかった。その後、ニュータウンの人口が緩やかながらも増加を続けると、自前で開発を行える地域への路線をと考えた。また、増便や複々線化によって車輛の増備が必要になるとして、車両基地の増設も行う必要があった。その結果、橋本への延伸と、唐木田・小山ヶ丘経由への変更が行われた。

 変更は1981年に完了し、工事は1983年から行われた。1988年に多摩ニュータウン~唐木田が開業し、1990年に唐木田~小山ヶ丘~橋本が開業した。

 

 多摩ニュータウンへの路線の開業によって、西武は武蔵野・多摩地域の路線を複数有する事となった。これにより、京王と小田急との対立はより強いものとなり、西武は橋本延伸以降、新宿発着の特急「みどり」、池袋発着の特急「たま」を走らせるなどして対抗意識を強めている。

 

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・西武村山線の青梅延伸

 この世界では、東村山~箱根ヶ崎が村山線として開業している。一方、1959年に武州鉄道(吉祥寺~小平~箱根ヶ崎~東青梅~名栗~秩父)の免許の申請もされ、1961年に認可された。

 尤も、武州鉄道の計画は杜撰であり、実現の為の資金の見積もりも甘かった。加えて、途中で計画を何度も変更するなど、実際に建設をする気があるのかが不明だった。

 それでも、当時、西武は秩父延伸に力を注いでおり、仮にもし武州鉄道が開業すれば、秩父延伸だけでなく、村山線にも大きな影響を及ぼすと見られた。実際、武州鉄道の発起人には、沿線の大銀行の頭取、某映画会社社長、元国鉄総裁など財界の名立たる人物が名を連ねていた為、その人達の人脈をフル活用すれば、実現の可能性は全くのゼロでは無かった。

 西武は、武州鉄道の計画を潰す為、秩父延伸の促進と村山線の青梅延伸が計画された。

 

 西武の青梅延伸は古くからあり、前身の武蔵野鉄道が西所沢~青梅の免許を1929年に獲得した。しかし、武蔵野鉄道の経営状況の悪化から建設される事は無く、1941年に失効した。

 武州鉄道の計画に危機感を感じた西武は、1963年に箱根ヶ崎~東青梅~青梅の免許を申請した。この地域は西武のテリトリーである為、免許の内容には穴が無かった。1966年に免許の認可が下り、1968年に工事が行われた。この翌年に秩父線の建設が行われた為、優先順位が下げられたが、箱根ヶ崎~東青梅は地形的な難所が無い事から、工事は早く進んだ。1972年に箱根ヶ崎~青梅が開業し、村山線は「青梅線」と改められた。

 

 青梅線の開業によって、新宿青梅の第二ルートが完成した。東京西部の有力な観光地の為、新宿・池袋からの特急も運行された(新宿発着の「みたけ」、池袋発着の「おくたま」)。

 また、青梅線の先行開業によって、武州鉄道の計画の実現性は消滅した。尤も、免許の申請を巡って疑獄事件に発展した為、実現の可能性はこの頃にほぼゼロとなっていた。

 

 因みに、村山線が開業した為、拝島線は存在しない。拝島線は、多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)の枝線、日立航空機への引き込み線を繋ぎ合わせて成立した路線だが、日立航空機への引き込み線が異なる。史実では国分寺線の小川から分岐して西進したが、この世界では村山線の奈良橋(後に東大和市に改称)から分岐して南下した為である。

 戦後、引き込み線は西武の手に渡り、「上水線」として再スタートした。その後、立川付近の専用線の権利も西武が手に入れ、1966年に玉川上水~立川を開業させ「立川線」と改称した。

 

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・京王の新宿~府中の別線開業

 1950年、京王は西武から新宿~荻窪の軌道線を買収した。しかし、西武との協定で、中央線を越えて北上する路線の特許の申請は不可能だった。その為、必然的に南部での延伸となった。

 1952年、京王は杉並車庫前~久我山~多磨墓地前(2001年に多磨に改称)~府中の特許を申請した。これは、併用軌道やカーブが多い新宿~府中の輸送力強化、京王の地盤強化と西武の影響力の排除を目的としたものだった。西武は協定の関係からこの免許に拒否を示す事は無く、1954年に許可が下りた。

 工事は翌年から行われ、合わせて1372㎜への改軌も行われた(西武軌道線は1067㎜)。1959年には全線開業した。当時、沿線の自治体は市制が施工されたばかりであり、人口の増加は見られていたが、まだまだ農村風景も残っていた。その為、路線の建設にそれ程時間を要しなかった。全線開業した路線は「京王新線」と命名され、残った京王高円寺(駅の統廃合で高円寺二丁目、史実の東高円寺の位置)~荻窪は「荻窪線」となった。

 

 京王新線の開業と多摩ニュータウン方面の路線が建設されなかった事によって、京王は複々線の計画は検討止まりとなった。当初予定されていた桜ヶ丘南部の開発とそこへのアクセス線も、多摩ニュータウン計画に呑まれた為である。

 尤も、早期に線増別線が建設された事で、中間駅の退避設備の増備や長大編成化への対応が早く達成した。また、京王新線と都営新宿線が乗り入れる事になった為、新宿線に乗り入れる為の新たな路線を建設する必要もなくなった。

 

 また、丸ノ内線の新宿~荻窪は存在しない(西武軌道線の代替の為)。一方、車両基地が必要になる事から、中野長者町経由で中野富士見町・方南町への路線が開業した。



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番外編:戦後の日本の鉄道(関東③)

3回目は、第三セクターとなります。


〈関東〉

・三田線の延伸という形での埼玉高速鉄道の設立

 この世界の埼玉高速鉄道は、三田線の西高島平から埼玉県に入り、西浦和、指扇を経由して、埼玉空港(桶川にあるホンダエアポートを拡張し民間用空港としたもの)に至る路線となる。史実のルートは、武州鉄道を経て東武赤羽線として実現している。この路線は、三田線の延伸、開発が進んでいない東北本線の西側の開発を目的としたものだった。

 計画は、1972年に作成された都市交通審議会答申第15号の6号線の項目に『高島平~戸田市西部~浦和市西部~大宮市西部』が入った事から始まる。1985年の運輸政策審議会答申第7号でも「2000年までに整備する事が妥当だ」とされ、1987年に西高島平~美女木~西浦和~指扇の免許の申請が行われた。免許は1990年に認可され、翌年に「埼玉高速鉄道」が設立された。

 工事は1993年から始まった。着工開始がバブル景気が終結した後である事、自治体や住民との協議から、建設には時間が掛った。

 しかし、建設中に2002年にワールドカップが日本で開催されると決定された事、その試合会場として指扇に大規模なサッカー場(後の埼玉スタジアム)の建設が決定された事から、2002年までに開業する事が決定された。これにより工事の促進が行われ、2002年2月に西高島平~指扇が開業した。ワールドカップが開催する3か月前の事だった。

 

 開業によって、今までバス中心だった地域の交通体系に鉄道が加わった。しかし、沿線の人口が余り多くない事、ルートの西側の多くが荒川の為、開発の余地が少ない事から、当初予想されていた輸送人員とはならなかった。

 それでも、戸田競艇場や各種公園、さいたま市桜区役所に埼玉スタジアムへのアクセス路線として、一定の需要の獲得には成功した。また、バス路線の再編もあり、今まで東北本線や埼京線、東武東上線を利用していた客を一部獲得している。

 

 西高島平~指扇建設中の1999年、桶川市にあるホンダエアポートを拡張し、「埼玉空港(仮)」として首都圏第3空港化する事が決定された。これは、高まる需要に羽田・成田両空港の容量が追い付かなくなる事、今後増加するであろう格安航空会社やビジネスジェット用の空港の整備を目的としたものだった。

 埼玉高速は、埼玉空港への乗り入れを検討した。まだ建設中の路線が開業していない事、埼玉空港の需要の関係から検討止まりだったが、開業後の2006年に指扇~埼玉空港の免許を申請した。埼玉高速は、埼玉空港の需要は鉄道が必要になる程増大すると見込んだのである。

 免許は2010年に認可され、同じ年に埼玉空港が開港した。埼玉県は関東の中心にある事から、他県への移動が行い易かった。その為、国内の新興航空会社や格安航空会社を中心に、羽田や成田から移ってくる路線もあった。それに伴い、埼玉空港の利用者は増加の一途を辿った。

 空港の利用者の増加に伴い、付近の道路の渋滞が酷くなった。その解消の為、埼玉高速の延伸は急がれた。2012年に工事がスタートし、2017年3月に指扇~埼玉空港が開業した。

 

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・北総開発鉄道と千葉県営鉄道北千葉線の統合

 北総開発鉄道(2004年に北総鉄道に改称)は、千葉ニュータウンと都心を結ぶ事を目的とし、京成高砂~新鎌ヶ谷~小室が計画された。一方の千葉県営鉄道北千葉線も、千葉ニュータウンと都心を結ぶという目的では北総と同じだが、印旛・成田ニュータウン方面への延伸も盛り込まれており、本八幡~新鎌ヶ谷~印旛松虫(現・印旛日本医大)が計画され、印旛松虫~成田が検討された。2つの路線が計画された理由は、千葉ニュータウンの開発が大規模に行われる予定だった事(初期計画では34万人が入居予定)、前述の目的の違い、都心への乗り入れの違い(北総は京成・浅草線ルート、北千葉線は新宿線ルート)と考えられる。

 2路線が計画された千葉ニュータウンのアクセス線だが、開発直後にオイルショックが到来した。これにより経済成長は事実上終了し、首都圏への人口流入も鈍化した。物価の高騰もあり、ニュータウンの開発は縮小する事となった。

 こうなると、2路線敷設する計画は過剰なものとなり、整理する方針となった。当時、新宿線の延伸が遅れていた事、本八幡~新鎌ヶ谷の用地買収が遅れていた事から、北千葉線の計画は凍結される事となった。

 その後、バブル時代に再度北千葉線を建設する雰囲気が出たものの、バブル崩壊によってその構想も頓挫した。北総との調整もあり、2002年3月に免許が失効した。

 

 この世界では、京成高砂~新鎌ヶ谷~成田と本八幡~新鎌ヶ谷が「北総開発鉄道」として最初から一本化してスタートした(京成高砂~新鎌ヶ谷が鎌ヶ谷線、本八幡~新鎌ヶ谷が北千葉線、新鎌ヶ谷~成田が印旛線)。これは、直通する浅草線と新宿線の軌間が共に1372㎜で共用が可能である事が理由だった。

 この世界でも、オイルショックが発生し、それに伴い千葉ニュータウンの計画も縮小された。しかし、大きく縮小しなかった。これは、既にある程度開発が進んでいた多摩ニュータウンは縮小させる代わり、千葉ニュータウンに注力する方向になった為である。実際、オイルショック以降、千葉ニュータウンは住宅一辺倒から、職住一体や緑園都市、文教都市としての開発に変更された。

 オイルショック後、ニュータウンへのアクセス線は北千葉線に注力する事となった。当時、京成線は筑波や宇都宮方面の輸送力強化への対応に追われていた為、本線と押上線の輸送力強化は難しかった。その様な中で、鎌ヶ谷線を建設するのは更なる輸送力不足を引き起こしかねないとして、北千葉線の方が優先された。

 建設は緩やかにだが進んだ。これに伴い、乗り入れ先の新宿線の工事も進められ、1987年には本八幡への延伸の目処が立った。だがその前に、「ニュータウンのアクセス線」という目的を果たす為、1977年に北初富~小室が開業した(新京成と直通の為)。その後、1982年に小室~千葉ニュータウン中央が、1985年に千葉ニュータウン中央~印西牧の原が、1987年に本八幡~新鎌ヶ谷が開業した(同時に、新京成の乗り入れ終了)。

 

 新宿線との乗り入れが始まった事で、千葉ニュータウンのアクセスは飛躍的に向上した。以降、延伸が進み、1992年に印西牧の原~印旛日本医大、1998年に印旛日本医大~成田ニュータウン中央~京成成田が開業した。また、京成側の輸送力強化の目処が立った事、成田空港へのアクセスの強化を目的に、2008年に京成高砂~新鎌ヶ谷が開業し、同時に社名を「北総鉄道」に改称した。これにより、北総開発鉄道時代の構想が全て完了した。

 

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・東葉高速鉄道の改正鉄道敷設法第50号(『千葉県船橋ヨリ佐倉ニ至ル鉄道』)に沿う形での開業

 この世界では、成田空港の建設の際に軍まで動員された。ベトナム戦争後という事もあり、これに対する政府と軍の批判は大きかったが、反対派の過激派に極左が関わっていた事が発表されると、政府・軍に対する批判は弱まった。その後も問題が無い訳では無かったが、成田空港(当時は新東京国際空港)は当初の予定通り1978年3月に開港した。その後、順次拡張が進められ、1998年、2008年、2016年に滑走路の追加の使用が開始された。その為、2019年現在、4本の滑走路を有する国内最大級の空港となった(内訳:4000m×2、3200m×1、2800×1)。

 成田空港が当初の予定通り開港し、その後の反対派の妨害が小規模だった事(開港前に極左の危険性が日本全体に広がり、支持者が急速に減少、残りは徹底的に処断された)、史実以上に京成の営業圏が広い事から、史実にあった京成の経営危機は小さいものだった。それでも、ニュータウン関係への投資は大きかった為、オイルショックから数年間は無配状態となった。

 

 東葉高速の計画が固まったのがこの頃であり、増大するであろう船橋~佐倉の輸送力強化と成田方面に注力したい京成の線増を目的に、1972年に作成された都市交通審議会答申第15号に5号線(東西線)の千葉方面の終点が佐倉とする事が決定した(史実では勝田台まで)。1979年に、営団が保有していた西船橋~勝田台の免許の受け皿を目的に(当初は営団が建設する予定だったが、東京都から出る事が問題視された)、「東葉高速鉄道」が設立された。同時に、勝田台~佐倉の免許も申請された。

 1984年から工事が始められた。先述の通り、成田空港開港後の問題は最小限であり、千葉県の収用委員会が機能停止になる事も無かった為、土地の収容は順調に進んだ。それでも、路線の長さやバブル景気の終焉による景気の緩やかな後退によって、史実と同じ時期(1996年4月)に開業となった。

 

 開業した東葉高速だが、開業時期の遅れから運賃の高騰は避けられなかった。それでも、土地収用が早かった事からその分は運賃に反映されなかった為、史実程高くはならなかった。また、開業によって沿線の開発も行われる様になり、状況の改善は進んできている。

 また、東葉高速の開業によって、京成は優等列車の増便が行われた。京成は東葉高速の株を保有しているが僅かであり、ライバルとしての側面が強かった。その為、京成としては勝田台・佐倉からの通しの利用客が流れるのを防ぐ為、1998年から快速急行が設定された。

 

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・多摩都市モノレールの全通

 この世界の多摩都市モノレールは、立川~多摩ニュータウン~町田の路線として計画された。これは、南北の交通が貧弱な多摩丘陵の輸送改善、多摩丘陵を貫く京王・西武・小田急の各線の接続を目的としたものだった。立川から北側は、西武立川線として上北台~玉川上水~立川が整備されている為、検討すらされなかった。

 その後の会社の設立までは史実通りであり、1998年に立川~多摩ニュータウンが開業した。以降、2001年に多摩ニュータウン~並木(小田急相武線との乗換駅)、2010年に並木~町田が開業した。これにより、当初の予定線が全線開業した。

 

 モノレールの開業によって、今までバスに頼っていた多摩丘陵の南北の交通が改善された。尤も、初期費用が嵩んだ為、財務状況は火の車だった。その為、減資に返済期限の延長、固定資産税の減免など、なりふり構わない再建を行った。これにより、財務状況は改善し、2012年度には純利益ベースで黒字化も達成した。また、延伸した地域の再開発によって大型商業施設が誘致されるなどして、旅客輸送の方も増加傾向にある。



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番外編:戦後の日本の鉄道(東海)

東海については、最初に国鉄と公営鉄道、次に私鉄と分けて投稿します。


〈東海〉

・改正鉄道敷設法第60号ノ2(中津川線)の開業

 中津川線は、飯田から木曽山脈を抜け、中津川に至る路線である。「60号ノ2」となっている理由は、後述の佐久間線に当たる改正鉄道敷設法第60号、『長野県辰野ヨリ飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道 及飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』の後半『飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』が先に計画されていた。後に終点を中津川に変更した事で1961年に60号ノ2が追加されたが、60号の後半部分についてはそのまま残された。

 追加後の1966年から工事が始まるなど、結構優遇されていた中津川線だが、用地買収の遅れや機械の故障によるトンネル工事の遅れ、並行する中央自動車道の開通、中央新幹線構想などによって、地元の中津川線への熱意が薄れていった。また、中津川線用に組まれた予算が他線に流用されるなど工事が遅れる要因もあった。

 その後、国鉄再建によって中津川線の工事が中止となった。工事の進捗度が高くなかった為か、受け皿としての第三セクター会社は設立される事は無く、用地は日本国有鉄道清算事業団に譲渡されて事実上消滅した。

 

 この世界では、機械の故障が無かった事、予算の流用が無かった事から、1978年時点で神坂トンネル(木曽山脈を貫くトンネル)以外の工事は完了した。その後、神坂トンネルの調査が完了した所で国鉄再建法が制定された。その為、中津川線の工事は中止されたものの、伊那谷と名古屋の鉄道による連絡を実現したいという地元の熱意により、1986年に第三セクター「中央アルプス鉄道」を設立した。中央アルプスは、路線が貫く木曽山脈の通称に由来する。

 中津川線の工事も再開され、1995年に全通した。中央本線と飯田線を結ぶ路線の為、最初から電化での開業だった。同時に、名古屋~飯田・岡谷・上諏訪の特急「恵那山」が設定された(これに伴い、豊橋~飯田の臨時急行「伊那路」は廃止。代わりに、豊橋~飯田の本数増加)。恵那山用に、373系電車が多数量産された。

 

 全通後、中津川線の工事中に発見された昼神温泉と中津川温泉、沿線に近い馬籠宿などの存在から、観光利用は多かった。また、伊那谷に抜ける最速ルートの為、名古屋への通しの利用客も多かった。

 しかし、中央新幹線のルートと重複している事から、開業後は優等列車は消滅すると見られた。その為、開業予定の2027年までに余剰金を100億以上積み立てる事を目標に、慎重な経営を行っている。

 

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・佐久間線の開業

 佐久間線は、二俣線(現・天竜浜名湖鉄道天浜線)の遠江二俣(現・天竜二俣)から分岐し、船明、横山を経由して、飯田線の中部天竜に至る路線である。「佐久間線」の名称の由来は、恐らく中部天竜が初代・佐久間を名乗っていた事に関係するのだろう。

 佐久間線は、改正鉄道敷設法第60号の前半部分の一部として計画された(残る区間は、飯田線と天竜浜名湖鉄道、遠州鉄道で実現)。古くから計画はあったものの、工事の開始は1967年と遅かった。結局、1980年の国鉄再建の煽りを受けて工事は中止となった。中止時点で、路盤は約50%が完成しており、起点から約11㎞地点の遠江横山までは主要工事の多くが完了していた。実際、遠江二俣~遠江横山の第三セクターによる開業も検討されたが、黒字への転換は不可能とされて断念している。

 

 この世界では、光明電気鉄道が磐田~見付~遠江二俣~船明を開業させた為(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(東海)』参照)、遠江二俣~船明については戦前から開業している。その為、戦後は船明~遠江横山~中部天竜の工事となった。

 史実通り、1967年から工事が開始されたが、1974年には早くも船明~遠江横山が開業した。残る区間の工事も進められたが、国鉄再建によって工事は中断された。また、佐久間線そのものも第一次特定地方交通線に指定された為、延伸処では無くなった。

 一方、残る区間の工事の8割は完了しており、沿線からは開業して欲しいという声が大きかった。全通する事で、静岡と長野南部の連絡、天竜川の観光開発の促進などが果たされる為である。

 

 1987年に、二俣線・見付線(磐田~見付~豊岡。元・光明電気鉄道)・佐久間線は第三セクター「天竜浜名湖鉄道」に転換された。同時に、日本鉄道建設公団から天竜横山(三セク転換の際に遠江横山から改称)~中部天竜の譲渡が行われ、工事も再開された。この区間の開業は1992年となった。

 佐久間線の全通後の1996年、静岡と浜松から飯田・諏訪方面の優等列車として特急「天竜」が設定された。天竜の名称は、飯田線と長野を結ぶ急行列車の名称として使用されていたが、1986年に廃止された。その名称を、静岡と飯田線を結ぶ特急として約10年ぶりに復活した。当初は1995年に運行開始する予定だったが、車輛の増備が追い付かなかった為、1年間後倒しとなった。

 特急運行と同時に、掛川~天竜二俣~中部天竜と磐田~豊岡については直流1500Vの電化が行われた。これは、同時に運行が開始した中央アルプス鉄道の特急「恵那山」との車輛の共用化の為である。しかし、普通列車についてはディーゼル車のままとなり(京都丹後鉄道と同じ)、優等列車に限り電車で運行する事となった。

 

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・越美線の全通

 越美線は、美濃太田から関、郡上八幡、北濃、九頭竜湖、越前大野を経由して福井に至る路線として計画された。現在の越美北線と長良川鉄道(旧・越美南線)、未成区間の北濃~九頭竜湖になる。

 越美線は、南線の方が開業が早かった。1923年に美濃太田~美濃町(現・美濃市)が開業し、1934年に北濃まで開業し、現在の形が成立した。一方の北線は、1960年に南福井~越前大野~勝原が開業し、九頭竜湖には1972年に到達した。

 以降、延伸は行われる事は無く、国鉄再建によって未成区間の工事は中止となった。越美南線は第二次特定地方交通線に指定され、1986年に第三セクター「長良川鉄道」に転換となった。これにより、越美線計画は終了した。

 

 この世界では、越美北線の開業が5年早まった。また、越美北線の九頭竜湖延伸の際、越美南線の九頭竜湖延伸も同時に行われた。同時工事の為、工事は長引いたが、1970年に勝原~九頭竜湖~北濃が開業した事により、越美線は全通した。

 

 全通によって、東海と北陸、特に福井と金沢を結ぶ新たなルートが完成した。開業によって、名古屋~北濃(高山本線経由)の急行「おくみの」の終点が福井に変更された。1972年3月のダイヤ改正(ヨンナナサン)では、名古屋~福井・金沢(太多線・越美線経由)の特急「くずりゅう」が設定された。これに伴い、米原~金沢の急行「くずりゅう」は「おおの(金沢市内を流れる大野川に由来)」に名称が変更され、「おくみの」の一部が「くずりゅう」に変更となった。以降、ダイヤ改正の度に「おくみの」は「くずりゅう」に変更され、1985年3月のダイヤ改正を以て「おくみの」は全廃となった。

 国鉄民営化後、「くずりゅう」は高山本線の特急「ひだ」と共にキハ85系が投入された事により、高速化が実現した。現在は、名古屋~福井が6往復、名古屋~金沢が4往復、合計10往復が運行されている。

 

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・改正鉄道敷設法第72号ノ2(瀬戸線)の一部開業と環状線化

 瀬戸線は、1962年の鉄道敷設法の改正の際に追加された。ルートは、70号ノ2(現・愛知環状鉄道の岡崎~瀬戸市と、未成の瀬戸市~多治見)の瀬戸市から分岐して高蔵寺に、高蔵寺~勝川は中央本線の複々線化、勝川で分岐して稲沢に至るものだった。また、名古屋方面の支線として、小田井から分岐して枇杷島への路線も追加された。

 計画では、70号ノ2と合わせて、岡崎~瀬戸市~高蔵寺~勝川~稲沢のルートを形成し、貨物列車を名古屋に通さない事を目的とした。

 因みに、城北線のルートは、中央本線建設時の名古屋ルートの候補に挙がっており、1910年代から20年代に名古屋市街地の拡大によって中央本線で市街地が分断された際、路線の付け替えとして城北線ルートが検討された事があった。付け替えは実現しなかったものの、稲沢操車場(1925年稼働)へのルート、中央本線と関西本線のスルー走行の可能などから、鉄道省としては検討に値するものだった。瀬戸線計画は、この検討の具体化というべきだろう。

 1976年から工事が開始されたものの、この頃には既に鉄道貨物の衰退は著しく、1980年に国鉄再建法が制定された後も建設が続けられたが(瀬戸線はC線(主要幹線)として建設された。それ程重要と見做された)、需要が見込めない(4,000人/日(1日の利用者が4,000人)が基準であり、瀬戸線は3,600人/日と見込まれた)として1984年に工事が中止となった。

 現在、勝川~小田井~枇杷島はJR東海の完全子会社である東海交通事業の城北線として実現しているが、勝川では中央本線と線路が繋がっておらず、全線が複線だが非電化であるなど孤立した存在となっている。

 

 この世界では、東西の交通網が貧弱な名古屋北部の整備が建設目的に加えられ、新守山~味美の支線も追加された。史実同様、1976年から工事が始まり、1990年に新守山~味美~小田井~枇杷島がJR東海の「城北線」として開業した。JRの路線となった理由として、需要が見込めるとされた事(4,100人/日と見込まれた)、名古屋環状線構想の実現があった。

 城北線の開業によって、今まで不便だった名古屋北部の東西の交通が改善された。名鉄との接続は悪いものの、今までバスや自家用車に頼っていた人が利用する様になり、沿線の開発も進んだ。その後、1993年に枇杷島~名古屋~金山~新守山の城北線用の複線が開業した事で、「名古屋環状線(通称・名環線)」は完成した。

 

 因みに、勝川~味美と小田井~稲沢については開業しなかった。勝川~味美は一部高架が完成したが、貨物よりも環状線構築の方が優先された為、最終的に放棄された。

 

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・名古屋市営地下鉄桜通線の京阪名古屋線乗り入れ

 桜通線は、中村区役所から名古屋、今池、新瑞橋、野並を経由して徳重に至る19.1㎞の路線である。この路線は、他の路線と直通していないが、1067㎜・直流1500Vの規格となっている。また、ホームが全て島式で計画された事から、配備されている車輛は全て右側に運転席がある(通常は左側にある)。

 桜通線の正式名称は「名古屋市高速度鉄道第6号線」であり、名古屋市が計画した6番目の高速鉄道(地下鉄)となる。桜通線は、1972年に作成された都市交通審議会答申第14号で組み込まれた。計画では、七宝(現・あま市)から中村公園、名古屋、今池、新瑞橋、鳴海を経由して豊明に至る路線となっている。この内、鳴海と豊明は名鉄の駅からやや北側を通る事となっていた。

 

 この世界では、6号線計画の内、名古屋以西の計画は京阪名古屋線の乗り入れ計画に変更された。京阪名古屋線は、六地蔵から馬場、八日市、多度、佐屋、七宝を経由して名古屋に至る路線である。この路線は元々名古屋急行電鉄として開業し、その後紆余曲折を経て京阪の路線に収まった(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿②)』参照)。名古屋以西が京阪名古屋線として完成している為、中村区役所や七宝への路線は計画されなかった。

 その後、東山線の混雑緩和に加え、京阪名古屋線の名古屋市内乗り入れを目的に、6号線計画は立案された。開業スケジュールは史実通りだが、規格が1435㎜・直流1500Vという点が異なった。

 

 桜通線の開業で、名古屋市内への乗り入れが実現した。また、京阪側の希望で、久屋大通への有料特急乗り入れも実現し、大阪市営地下鉄谷町線の乗り入れもあり、大阪・淀屋橋と名古屋・栄を一本で行く事が可能となった。京阪の運賃の安さもあり、近鉄やJRとの競争力も充分だった。



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番外編:戦後の日本の鉄道(東海②)

〈東海〉

・名古屋鉄道の名古屋付近の別線複々線化と瀬戸線の本線接続

 名古屋鉄道(名鉄)の名鉄名古屋は3面2線しか無い駅だが、毎時20本以上の列車を捌くターミナル駅である。ターミナルで、これだけの本数を捌くのに2線しかない理由は、左右の土地が無い為である(東側は近鉄、西側は地下鉄東山線。)。その為、拡張はほぼ不可能であり、何とか遣り繰りしている所である。

 名鉄名古屋は、名鉄の前身である名岐鉄道(名岐)と愛知電気鉄道(愛電)の直通の為に設立された。両社は1935年に合併したが、西部線(旧・名岐の各線)のターミナルは押切町、東部線(旧・愛電の各線)は神宮前と、名古屋のターミナルが分散していた。両者の統合の為、国鉄の名古屋に隣接した場所に新ターミナルを建設し、そこへの路線を建設する事となった。これが現在の神宮前~名鉄名古屋~枇杷島分岐点(当時、同じ場所に枇杷島橋があった)となる。西部線側は1941年8月に開通し(この時、枇杷島橋~押切町が廃止)、東部線側も1944年9月に開通した事で、名鉄の一体化は実現した。

 尤も、線路は繋がったものの、電圧の違い(西部線は600V、東部線は1500V)から直通出来ず、金山(1945年7月に金山橋に改称。1989年7月に現在地に移転の上で金山に戻す)で乗り換える必要があった。西部線が昇圧するのは1948年まで待たなければならなかった。

 

 この世界では、東枇杷島~押切町が廃止になった後も、名鉄が用地を保有し続けていた。名古屋の用地が狭く、将来の増発に対応出来ない可能性がある為、柳橋(名古屋市内で名古屋駅近く。名古屋市電に乗り入れる形だが、名岐のターミナルだった)を経由して神宮前に至る路線が計画された。

 1950年代、高度経済成長によって名鉄の輸送量は増加した。それに伴い、名古屋本線の新名古屋(2005年1月以降は名鉄名古屋)付近の輸送量は限界になると見られた。その為、1968年に枇杷島分岐点~押切町~柳橋~金山橋の別線複々線が計画された。

 同時に、瀬戸線の名古屋本線接続、大曽根~堀川の急カーブやガントレット(単複線。単線並みのスペースに複線分の線路が敷いてある。スペースの関係上、すれ違いは不可能)の解消を目的に、大曽根~堀川の地下化と堀川~明道町の新設が計画された。当初は、瀬戸線単独での栄乗り入れ構想だったが、後に新線との共用に変更された。

 この計画に対し、名古屋市は難色を示した。建設中だった2号線(名港線全線と名城線の金山~栄~大曽根)と計画中の3号線(鶴舞線)との並行線になる事、計画中の他の地下鉄との調整が必要になる為だった。名鉄と名古屋市、両者の協議の結果、1971年に次の様に決定した。

 

・名鉄は、枇杷島分岐点~押切町~明道町~柳橋~金山橋と堀川~明道町の免許を取得する。免許区間は、起点と終点及びその周辺以外は全線地下で建設する。

・名鉄は、枇杷島分岐点の改良を行い、新線から名古屋本線、犬山線両線に通行可能となる様ににする。

・名鉄は、瀬戸線の大曽根~堀川を立体交差化する。

・名鉄は、保有している八事~赤池の免許を名古屋市に譲渡する。

 

 1972年に、名鉄は上記の免許を取得した。名古屋本線の混雑の緩和が最大の目的の為、工事は1975年から開始した。最大のボトルネックとなる枇杷島分岐点については、庄内川橋梁は1958年の架け替えで放棄した旧橋梁の跡地を再利用する事で複々線化を行った。旧橋梁に再び橋梁を架け、名古屋本線を再びそちらに移し、新線は現在線を通る事となった。

 当初、新線は名古屋本線から犬山線に、新線から名古屋本線に分岐する事が可能と予定していたが、その場合、名古屋本線と犬山線、新線の分岐地点の信号待ちという問題は解消されない事から、新線は犬山線の別線複々線とする事が決定した。新名古屋から犬山線方面に、柳橋から名古屋本線方面に行く事が不可能となるが、混雑緩和と線増、ボトルネックの解消にはこれしか無かった。

 先に、大曽根~堀川~明道町~柳橋が1978年に開業し、枇杷島分岐点~明道町と柳橋~金山橋は1982年に開業した。この内、堀川~明道町は瀬戸線の延伸となり(起点は明道町となる)、金山橋~柳橋~枇杷島分岐点は新たに「押切線」と命名された。

 

 押切線の開業と瀬戸線の延伸によって、本数の増便、孤立していた瀬戸線との接続が為された。一方、計画時に懸念された新名古屋から犬山線方面の消滅という問題があったものの、本数の増加による輸送量の増加と新名古屋の混雑の緩和という課題を解消した事は大きな成功と言えた。また、柳橋が名鉄の新ターミナルとして整備され、新名古屋と地下道で接続もされた。

 その後、1990年に金山~神宮前の複々線化が完了し、神宮前~枇杷島分岐点の複々線化が完成した。これにより、名鉄の計画は完成し、輸送力の強化が完了した。

 

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・名鉄鳴海線の開業

 鳴海線は、名古屋本線の鳴海から分岐してに至る路線である。この路線の始まりは、鳴海球場へのアクセス線として計画された。

 この世界では、名鉄がプロ野球チーム(名鉄レッドソックス。国民野球連盟(ナ・リーグ)所属)を保有しており、その本拠地が鳴海球場だった。しかし、鳴海球場は鳴海から離れており、徒歩で約9分掛かった。球場へのアクセスの為、1951年に鳴海~鳴海球場前の免許を申請した。免許は翌年に認可され、1953年に工事が開始した。特に難所になる場所が無かった為、余り時間が掛らなかったが、シーズン開始前に開業させたかった為、工事は急がれた。そして、1954年2月に開業した。

 その後、新海池公園への観光輸送の為、1956年2月に鳴海球場前~新海池公園が開業した。延伸以降、新海池公園は名古屋の桜の名所として知られる様になる。

 一時は、新海池公園から赤池、三好、豊田市への延伸も計画されたが、名古屋本線の混雑を助長させる事から、計画止まりとなった。この計画は、後に名鉄豊田線と名古屋市営地下鉄鶴舞線で実現する事となる。

 

 開業後、基本的に沿線の通勤・通学輸送に徹していたが、シーズン中で鳴海球場でゲームがあるときに限り、臨時列車が多数運行された。開業した年は名鉄がリーグ連覇し、1953年から6年連続リーグ優勝するなど、名鉄黄金時代と重なっていた事もあり、連日超満員だった。

 尤も、リーグ6連覇を達成したものの、その全てで日本シリーズで敗退しており、特に開業した1954年は中日ドラゴンズとの日本シリーズで4勝3敗で惜敗している為、名鉄としては非常に歯痒い思いをしていた。名鉄2度目の日本一は1968年まで待たなければならず、それまで7度日本一を逃した(詳しい戦績は『番外編:この世界でのプロ野球の状況(2リーグ分立直後~1970年代)』参照)。

 

 その後、鳴海線は球団と共に歩み続けたが、バブル終息後の景気の後退やバブル期の投資の不良債権化、モータリゼーションの進行にJR東海との競合などにより、名鉄の体力は低下していた。その為、不採算部門については廃止や縮小となり、球団もその一つだった。

 当時、レッドソックスはAクラスの常連だったが、1988年以来リーグ優勝から遠ざかっていた。また、所属していたナ・リーグの興行面での不振(テレビ中継が少なかった)から、人気も同じ名古屋の中日ドラゴンズに移っていた。

 その事から、名鉄は球団運営の熱意を失っており、球団を他社に売却する事となった。奇しくも、同時期に近鉄も球団の売却を発表した。

 2004年のシーズン終了後、レッドソックスはライブドアに売却となり、本拠地も宮城県に移して「仙台ライブドアレッドソックス」として新たなスタートを切った。球団の本拠地では無くなった事で、鳴海球場も解体される事となり、翌年から解体工事が開始した。

 

 球団が移転し、球場が消滅したが、鳴海線は廃止とはならなかった。沿線の開発は進んでおり、通勤や通学の足として長年活用されていた。廃止にする事は名鉄としても考えておらず、鳴海球場前が「鳴海公園」と改称して存続した。

 

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・近鉄久居線の開業

 近鉄久居線は、名古屋線の久居と大阪線の伊勢石橋を結ぶ路線である。この路線は、1943年に廃止となった中勢鉄道を引き継ぐ形で建設された。

 

 中勢鉄道は、岩田橋と伊勢川口を阿漕、久居、石橋経由で結んでいた。全通は1925年だが、最初の区間である久居~聖天前は1908年に開業した。因みに、会社としての中勢鉄道の設立は1920年で、それ以前は大日本軌道の伊勢支社だった。

 その後、1928年に参宮急行電鉄(近鉄の前身の一つ。大阪線の桜井~伊勢中川、山田線全線、名古屋線の津~伊勢中川)の傘下に入り、津~伊勢中川の免許申請時に活用された。

 高速電鉄の参急と軽便鉄道の中勢鉄道では競争にならず、他にも国鉄名松線の存在から、中勢鉄道の存在価値は無くなりつつあった。1942年に岩田橋~久居が廃止となり、翌年には残る久居~伊勢川口が廃止となった。

 戦後、近鉄は名阪間の直通運転の際、伊勢中川でのスイッチバックを解消する為、久居~川合高岡の免許を申請し、1959年に取得した。しかし、用地買収や雲出川橋梁の問題から、伊勢中川の北側に短絡線を設ける事になった。免許も1963年に失効した。

 

 この世界では、中勢鉄道の廃止は史実通りだが、久居~石橋に限っては休止扱いとされた。これは、将来的な改軌が実現した際、名阪間のルートとする為だった。

 戦後、当時1067㎜だった名古屋線の1435㎜への改軌工事と同時に久居~石橋の建設も行われた。休止から10年以上経過しており保全も充分で無かった事、軽便鉄道規格から改修する必要があった事、建設途中に伊勢湾台風により一部路盤が崩壊していた事から時間が掛ったが、1959年11月に久居~伊勢石橋が開業し「久居線」と命名された。

 

 久居線の開業により、名阪特急の高速化が実現した。ネックだった伊勢中川でのスイッチバックが解消された事、5㎞近く短縮された事から、5分程度だが時間短縮となった。これにより、名阪間で最速2時間を切る列車が運行される様になった。

 

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・伊豆箱根鉄道駿豆線の下田延伸

 伊豆半島への鉄道の敷設は早く、1898年に豆相鉄道(現・伊豆箱根鉄道駿豆線)が三島町(現・三島田町)~南条(現・伊豆長岡)を開業した事から始まる。その後、1924年までに現在の駿豆線の形が完成し、1922年に改正された鉄道敷設法の第61号に『静岡県熱海ヨリ下田、松崎ヲ経テ大仁ニ至ル鉄道』が組み込まれるなど、伊豆に本格的な鉄道が敷かれようとした。

 しかし、伊豆半島の地形の複雑さ(平地が海岸と山の間に僅かにあるのみ、断層地帯や軟弱地盤が多いなど)、昭和恐慌と重なり緊縮財政が取られた事から、当初予定されていた熱海~下田の複線による開業は取り止めとなり、1935年に熱海~網代が、1938年に網代~伊東が開業した。単線だったが、最初から全線電化だった。

 戦後、伊豆半島の観光開発が計画され、伊東から半島南部の下田までの鉄道が計画された。東急がこの計画に先んじており、1961年12月に伊豆急行として実現した。

 実は、西武も伊豆箱根鉄道を通じて、同じ区間に鉄道を敷こうとした。しかし、東急が計画を出した後に計画した為、内容は余り詰められたものでは無かった。その為、西武は伊東~下田の路線に参入する事は無かった。

 伊豆急開業後、東急と西武は子会社を通じて伊豆半島の開発競争を行う事となる。

 

 この世界では、西武が伊東~下田の路線の計画の失敗後、駿豆線の延伸という形で修善寺~土肥~松崎~石廊崎~下田の免許を1960年に申請した。東急への対抗意識もあるが、西伊豆の交通路の改善という目的もあった。

 これに対し、東急は猛反発した。現在建設中の伊東下田電気鉄道(1961年2月に伊豆急行に改称)の並行線になるだけでなく、第二期線の下田~石廊崎(史実では未成)と完全に重複する事が理由だった。加えて、東伊豆以上に平地が少ない西伊豆に路線を敷設して費用や採算は大丈夫なのかという疑問もあった。

 西武は、グループの総力を以て駿豆線の延伸に取り組むとして、この免許の認可を願い出た。沿線も、東伊豆にだけ鉄道が敷かれるのは不公平という意見もあり、西武の動きに賛成した。

 その後、伊豆急と伊豆箱根の両社の協議が行われ、1962年に次の様に決定した。

 

・伊豆箱根鉄道の修善寺~下田の免許を認可する。

・免許取得から4年以内(=1966年まで)に開業しなかった場合、免許は失効する。

・国鉄から買収の要請が来た場合、それに応じる事。

・伊豆急行の下田~石廊崎の計画は破棄する。

・下田駅は伊豆急・伊豆箱根両社の共用とする。これに伴い、伊豆急下田駅は駿豆線延伸の暁には「伊豆下田駅」と改称する。

 

 1963年、伊豆箱根は修善寺~下田の工事を開始した。伊豆急以上に地形が厳しい事、路線が長い事(伊豆急は約45㎞、駿豆線の延伸線は約70㎞)から、工事は難航した。区間の多くがトンネルとなり、地上区間の多くも高架になるなど費用が嵩んだ。

 それでも、西武グループの資金力の大きさから何とか工事が進み、期限もある事から工事は急がれた。そして、1966年11月に修善寺~伊豆下田が開業した。

 

 開業によって、沿線の観光開発は進んだ。湯ヶ島温泉に土肥温泉、堂ヶ島温泉など多くの温泉地を有しており、石廊崎などの景勝地も多数存在する為、東京からの優等列車が多数運行された。その後、伊豆急・伊豆箱根両線に直通する優等列車の整理が行われ、伊豆急経由は「伊豆」、伊豆箱根経由は「あまぎ」と命名された。その後、急行から特急に格上げの際、「伊豆」は「踊り子」と改称された。

 一方、駿豆線の延伸以降、東急・伊豆急と西武・伊豆箱根の対立は激化した。対立そのものは、両者が伊豆への進出を構想した時点から始まっていたが、共に下田への路線を有した事、バス路線の競合から、史実以上に対立が大きくなった。東海自動車を巡るバス部門の競争もあり、伊豆半島の交通は複雑化した。この競争が終結するのは、大型観光が減少したバブル景気の終息後となる。

 

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・岳南鉄道の大規模化

 伊豆箱根の鉄道線は、現在は大雄山線と駿豆線の2路線だが、1963年まで三島と沼津を結ぶ路面電車も運行していた。廃止の原因の最大のものはモータリゼーションだが、1961年の集中豪雨で途中の橋梁が流されて一部区間が休止になった事が発端になったと考えられる。モータリゼーションが進みつつある中、道路の改良も行う必要があり、併用軌道の路面電車は改良するのに邪魔となる。それならば、復旧するよりも廃止にした方が良いと考えたのではないだろうか。

 一方、駿豆鉄道(1957年に伊豆箱根鉄道に改称)は1948年に鈴川(現・吉原)~吉原本町の免許を申請した。これは、吉原にあった日産自動車の専用線を基に旅客化するものだった。この免許線は、1949年に岳南鉄道(2013年に鉄道部門を岳南電車に移管)として開業する事となる。この経緯から、岳南鉄道は元々伊豆箱根系だが、1956年に富士山麓電気鉄道(1960年に富士急行に改称)系列となった。

 また、岳南鉄道は途中の日産前(2005年にジヤトコ前に改称)から分岐して身延線の入山瀬までの免許を保有しており、終点の岳南江尾から沼津方面に延伸する計画があった。しかし、資金不足から実現する事は無かった。

 

 この世界では、1948年に駿豆鉄道が三島~沼津~江尾~吉原本町~富士と鈴川~吉原の免許を取得した。目的は、戦後に申請された私鉄線と同じく国鉄線の混雑の緩和に加え、内陸部の住宅・工場開発、軌道線の改良などであった。取得後、免許を新会社の「岳南鉄道」に譲渡した。新会社設立の際、沿線に工場がある日産自動車にも出資を依頼して、株式は1:1となった。その後、本州製紙の成立(1949年に旧・王子製紙が苫小牧製紙・十條製紙・本州製紙に分割)によって、本州製紙にも出資を依頼した事により、駿豆鉄道:日産自動車:本州製紙が1:1:1となる様に増資が行われた。

 鈴川~吉原本町については、専用線の転用によって翌年には開業した。ここまでは史実通りだが、大企業からの出資により財政基盤が整った岳南は、積極的な延伸が行われた。1950年に吉原本町~江尾、1951年に江尾~井出、1952年に吉原本町~本市場(本市場から身延線に直通して富士に乗り入れ。富士の東京側に工場がある為、直接富士への乗り入れが出来なかった)、1953年に井出~沼津が開業した。軌道線の改良も、1956年に全線専用軌道化によって達成し、同時に岳南鉄道への売却も行われた。これにより、岳南鉄道は当初の予定通り全線開業し、三島・沼津と吉原・富士の都市間鉄道となった。

 

 全通後、沿線に工場が多数設立された。それに伴い貨物輸送の大規模化が進み、収入の多くを占める様になった。工場が多数設立された事で沿線の宅地開発も進み、旅客輸送も大きくなった。

 また、沿線に工場が設立され専用線が敷かれる度に、その企業から出資を仰いだ。これにより、岳南鉄道の株式は多様化し、1970年時点で伊豆箱根が30%、沿線に工場を持つ大企業で合計45%、金融機関が15%、残る10%が沿線自治体や個人株主という株式構成となった。




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近鉄久居線追加。中勢鉄道がそのまま近鉄に吸収されていればこうなっていたかも。


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番外編:戦後の日本の鉄道(近畿)

今回も2部構成となります。最初は、国鉄系と公営鉄道です。


〈近畿〉

・改正鉄道敷設法第82号(五新線)の開業

 五新線は、五条から阪本、十津川を経由して、新宮を結ぶ路線として計画された。目的は、沿線から産出される木材の輸送であり、他にも京阪神と紀伊半島南部との接続強化も理由にあったと考えられる(計画当時、阪和線は阪和電気鉄道であり、紀勢本線も全通していなかった)。

 改正鉄道敷設法施行時から載っており、戦前には建設が始まった事から、それなりに重要視されたのだろう。しかし、五新線はいきなり躓いた。起点をどうするかで地元が割れ、ルート策定に時間が掛った。その後、1939年に工事が開始するも、戦争の影響で工事は中断となった。戦後に工事が再開されるも、駅の設置を巡って再び地元が割れ、乗り入れを巡って近鉄と南海が介入するなど、混乱が続いた。

 そうしている間に、国産木材の需要減やモータリゼーションの進行、国鉄再建によって、1982年に工事は中断となった。その後、一部完成していた路盤を活用して道路に転用され、この区間を走るバスも設定された。しかし、利用者の減少や並行道路の整備などにより、2014年にルート変更という形で廃止となった。

 

 この世界では、1936年に工事が行われた。また、五条側のルートが異なり、大和二見が起点となった。これは、五条~大和二見~川端は既に開業している事、大和二見~川端の輸送量が小さく、工事の邪魔にならない事が理由だった。尚、阪本までのルートはほぼ史実通りとなる。

 工事の開始時期が早かった事があり、城戸までの工事は7割方完了した。しかし、戦争の影響から工事は中止され、用意されていたレールも全て他路線に転用された。

 戦後、五新線の工事が再開され、1957年には大和二見~川端~阪本が「阪本線」として部分開業した。その後、赤字92線(史実の赤字83線に相当。史実より開業路線が多い事、南樺太と千島に国鉄線がある事から、9路線増加した)に指定されるものの工事は進み、1972年には十津川温泉まで開業し、天王寺・京都~十津川温泉の急行「十津川」の運行も開始された。1981年には全線の路盤工事が完了し、後は線路を敷いて保安装置を設置するだけだった。

 しかし、残る十津川温泉~新宮の線路を敷設する時期と国鉄再建の時期が重なってしまい、延伸工事は凍結された。また、阪本線も第二次特定地方交通線に指定された事で、開業区間の存続すら危うい状況となった。その後、未成区間の受け皿兼開業区間の引継ぎを目的に、1985年に第三セクター「五新鉄道」が設立された。五新鉄道設立後、未成区間の工事が再開され、1988年4月の阪本線の五新鉄道の継承と合わせて開業した。

 

 開業後、急行「十津川」が新宮に延伸の際、特急に昇格の上、「くまの」に改称した。その後、十津川温泉や熊野速玉神社への観光ルートとして活用され、2004年に熊野が世界遺産に認定されると、そこへのアクセスとして活用された。これにより、「くまの」の増便と新型車両の導入、「南紀」の乗り入れ、新たな観光列車の導入が行われた。

 沿線人口の少なさから定期利用は少ないものの、観光利用の多さからそこそこの黒字を出しており、暫くは安泰と見られる。

 

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・なにわ筋線の早期開業

 なにわ筋線は、新大阪から北梅田、中之島を経由して湊町(現・JR難波)に至る路線である。長年、計画こそあったものの、建設費の高さから工事の着手に至らなかったが、近年ようやく工事開始の目処が立った。2019年現在の予定では2031年に開業する事になっている。

 なにわ筋線は、1989年に作成された運輸政策審議会答申第10号で盛り込まれた。これ以前にも、国鉄系の路線で大阪市内を南北に貫く路線は計画されており、1973年の都市交通審議会答申第13号に新大阪から松屋町筋を経由して、鳳・岸和田方面への路線が計画されていた。この路線は工事が行われる事は無く、その後の答申でも組み込まれなかったが、この路線がなにわ筋線の構想の基になったのではないだろうか。

 

 この世界では、南急の開業による泉州・紀北の開発の加速とそれに伴う人口の増加から、大阪のキタとミナミを結ぶ需要が大きかった。史実では他の路線より輸送量が少なかった大阪環状線の西側区間も、早い段階から混雑状態だった。その状態で、阪和線や関西本線からの直通列車を運行するのは難しい事から、なにわ筋線の早期整備が検討された。

 しかし、時機が国鉄再建と被っていた為、国鉄単体での整備は不可能だった。また、なにわ筋線の計画は存在しても、建設の根拠となる答申が存在しない為、宙に浮いた状態だった。なにわ筋線が答申に盛り込まれるのは1989年まで待たなければならず、実際に工事が始まるのは1998年だった。当初は1995年に開始予定だったが、阪神淡路大震災と片福連絡線(現・JR東西線)の工事の遅れによって延期された。

 工事開始は遅れたものの、関西国際空港の開業による需要の増加、景気後退が緩やかな事による急速な需要減が無い事から、工事は比較的スムーズに進んだ。そして、2009年6月に「なにわ筋線」として開業した。

 

 なにわ筋線の開業によって、今まで大阪環状線を経由していた特急列車がなにわ筋線経由となった。これにより、大阪環状線より短い距離で走行する事、大阪環状線内のノロノロ運転が解消された事で、5分以上のスピードアップになった。

 また、ビジネス街・中之島と開発が期待される北梅田を結んでいる事から、直通運転も多くがなにわ筋線経由となった。これは、大阪環状線の慢性的な遅れの解消にも繋がった。

 

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・京都市電の存続

 史実では、京都市電は1970年から段階的に廃止が行われ(それ以前にも部分的な廃止はあった)、1978年に全廃となったが、この世界では路線の廃止は行われず存続した。それ処か、唯一1067㎜で残った北野線、トロリーバスに転換された梅津線を1435㎜規格に改良したり、御池通に路面電車を新設したり、洛西ニュータウンを経由して長岡天神に至る路線を新設するなど、拡大著しかった。これらは、京阪京津線と京都電気鉄道(史実の嵐電と叡電に相当)との直通があってこそだった。

 

 史実でも、叡電(当時は京福電気鉄道叡山本線)と市電が直通運転をしていた事があった。これは、叡電の宝ヶ池(1954年まで山端)に競輪場があった為だが、直通運転は競輪が開催される日に限られ、車輛規格の違いやパンタグラフの違いなどから1955年に終了となった(競輪場は、後に市営のギャンブル禁止により1958年に閉鎖)。

 他にも、京津線の京阪三条と市電は線路は繋がっていたが、直通運転は実施されなかった。だが、貨物輸送(し尿輸送)で利用された。

 

 この世界では、戦後及び自然災害からの復旧の際に、京津線と京都電鉄が市電側に規格を合わせる形で復旧した。これは、京都市内への乗り入れ強化が目的であり、京都電鉄は国鉄の京都と連絡して観光輸送の強化に繋げたいという考えがあった。京都市としても、特にデメリットが無い為、両社の動きに反対はせず、直通運転も恒常的に行われる様になった。

 これにより、京津線、京都電鉄の利用者増加が見られた。京津線側は、線路が繋がっている石山坂本線とも直通が行われ、沿線への観光輸送や京津間の都市間輸送に活用された。

 特に大きかったのは京都電鉄であり、比叡山、鞍馬山、高雄山、愛宕山と言った京都市の観光名所と京都駅が繋がった事で、そこへの観光輸送が活発になった。その為、この地域の観光開発が進められ、観光シーズンには臨時便が増発された。市電側もこれに合わせ、増便や増結運転に対応した。

 

 両社の存在から、市電の廃止は難しかった。「地下鉄にして輸送力を強化する」という案もあったが、建設費と乗り入れ先の設備改良の為の費用の関係から採算が取れないと判断され、オイルショックなどの影響もあり、廃止は白紙となった。その後、路面電車の復権などがあり、京都市の例は大都市における路面電車の在り方の一例となった。

 

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・大阪市営地下鉄と私鉄の直通拡大

 大阪市営地下鉄(現・大阪市高速電気軌道)は、2019年3月現在、8路線の地下鉄(御堂筋線、谷町線、四つ橋線、中央線、千日前線、堺筋線、長堀鶴見緑地線、今里筋線)を運行している。直通運転も3路線(御堂筋線、中央線、堺筋線)行われているが、堺筋線以外は1435㎜・直流750Vの第三軌条方式となっている(架線が無い代わり、路盤に電流が通っているレールが敷かれている)。JRや大手私鉄との規格が異なる為、直通運転が殆ど行われていない。

 これは「市営モンロー主義(市内交通は市が単独で行う、という考え)」に基づくもので、私鉄との乗り入れは最初から考えに無かった。この考えは戦前までは機能したが、これは「市電による収益」という前提があってこそ成立する考えの為、戦後にモータリゼーションが進行すると機能しなくなった。この時点で市営モンロー主義は事実上破綻し、以降は京阪の淀屋橋乗り入れや近鉄の難波乗り入れなどが実現していったが、近鉄と阪神の難波延伸線との並行線である千日前線が整備されるなどの混乱が残る事となった。

 

 この世界では、戦前に大阪電気軌道四条畷線の梅田延伸を認めた事で(詳しくは、『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿)』参照)、私鉄の市内乗り入れには大阪市に有利な条件が提示されれば比較的寛容になった。

 その後、大阪市が地下鉄整備を進めると、そこへの乗り入れをしたいと私鉄各社が申請を行った。また、1958年に作成された都市交通審議会答申第3号もあり、この時点で市営モンロー主義は放棄され、私鉄との積極的な直通運転の実施に転換した。

 

 谷町線は、守口市~太子堂今市~天王寺となり、守口市からは京阪本線に、天王寺からは南急泉北線に乗り入れる。また、車両基地設置の面から、太子堂今市~大日は史実通り建設する。天王寺以南は、南急との乗り入れの為、建設しない。

 四つ橋線は、西梅田~難波元町~なんばとなり、なんばから南海本線・高野線に直通する。四つ橋線用のなんばのホームは地下に設置し、南海側も新今宮~なんばに地下新線を建設する。四つ橋線が南海と直通する為、難波元町~大国町は建設されず、梅田~淀屋橋~難波~大国町は御堂筋線の複々線化で対応する。また、阪堺電鉄が大阪市に買収されなかった事から、住之江公園へのルートが史実のルートでは無く、国道26号線・国道479号線経由に変更となる。

 中央線は、区間・乗り入れ先は史実通りだが、乗り入れ先の東大阪線(長田~石切)と共に、奈良線・梅田線と同じ規格で建設される。

 堺筋線は、天神橋筋六丁目(天六)~恵美須町となり、天六から阪急千里線・京都線に、恵美須町から南急本線に直通する。南急との直通の為、恵美須町~天下茶屋は建設されないが、利用者の低迷や踏切の解消を理由に、南海天王寺支線は史実通り廃止となる。

 当初は、千日前線も阪神と近鉄と直通する計画だったが、難波駅の構造や特急直通問題、平野延伸計画などから大阪市と阪神・近鉄との意見の擦り合わせが上手く行かず、目的の違いもあり、両者整備の方向で決着した。但し、大阪市は阪神・近鉄の難波延伸線を反対しない事を表明した為、阪神の難波延伸線は順調に工事が進み、1976年に西九条~難波が開業した(全通時期の早さから、路線名は西大阪線のまま)。

 

 これらの開業により、大阪市でも東京都の様に大規模な直通運転が行われた。他社線との直通する為、利用者が史実以上に増加した。その為、早期の長大編成化や高頻度運転の実施が行われた。

 私鉄、特に京阪、南海、南急は梅田直通というメリットが大きく、大阪のキタのターミナルに乗り入れる事が出来た事は、長年の悲願の実現となった。

 一方、直通運転の増加により、直通先の影響を自社線が受ける事にも繋がった。これの解消の為、信号や保安装置の強化、乗り入れ先との連携強化に繋がり、後に9社3局(9社:京阪、阪神、阪急、近鉄、南海、南急、山電、神鉄、京都電鉄。3局:京都市、大阪市、神戸市)で使用出来る共通乗車券の発行に繋がった。

 

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・神戸市営地下鉄の早期開業と拡大

 神戸市の地下鉄は、神戸市営地下鉄と神戸高速鉄道の2社並立状態となっている。開業時期だと神戸高速の方が早いのだが(神戸高速:1968年全線開業。神戸市営:1983年に新長田~大倉山開業)、目的の違い(神戸高速:市電の高速化、神戸市内の各私鉄のターミナルの接続。神戸市営:バス路線の混雑緩和、ニュータウンへの足)、整備時期の違い(神戸高速:戦前の計画の延長。神戸市営:1969年の都市交通審議会答申第11号)から、並行路線となってしまった。

 

 この世界では、神戸市が音頭を取る形で、神戸市内の各私鉄のターミナルの接続と路面電車の代替を目的に、神戸市が地下鉄事業を行う事が決定した。そして、次の5路線が計画された。

 

・東西線:阪神元町~新開地~西代

・山手線:阪急三宮~湊川~西代~新長田

・南北線:湊川~新開地~神戸

・西神線:新長田~名谷~西神中央

・海岸線:王子動物園~新神戸~三宮~神戸~和田岬~新長田

 

 上記5路線の内、東西線は阪神と山電と、山手線は阪急と、南北線は神鉄と直通する路線とする計画の為、第1期線とされた。西神線は、山手線と直通して計画中の須磨ニュータウン、西神ニュータウンへのアクセス線とする予定とされ、第2期線と位置付けられた。海岸線は、残る海岸部の交通網の整備、新幹線との連絡を目的とし、こちらも第2期線とされた。この内、東西線、山手線、西神線は1435㎜・直流1500Vで建設する事が確定しており、南北線も1067㎜・直流1500Vで建設する事が確定していた。

 この時、海岸線の規格は決まっていなかったが、路線全体の輸送量の小ささから、リニア地下鉄方式で建設する事が決定した。また、新神戸~王子動物園は阪急の反対によって取り消しとなり、代わりに新神戸~谷上が計画された。この建設の為、阪急と神鉄の共同出資で「北神急行鉄道」が設立しされた。

 1958年から工事が行われ、早期開業と直通の実現の為、急ピッチで建設が行われた。これにより、1968年4月に東西線と南北線が開業し、同年8月に山手線も開業した。その後、1977年から1985年にかけて西神線が開業し、海岸線も1988年に新神戸~三宮~神戸が開業したのを皮切りに(同時に、北神急行も開業)、阪神・淡路大震災による工事中断を経て、2002年にか全線開業した。これにより、神戸市の地下鉄計画は全て完了した。

 

 神戸市営地下鉄の開業で、各私鉄は神戸市中心部への延伸が実現した。また、阪神と山電は戦前からの悲願である一体化が実現し、早速梅田~神戸~姫路・岡山の直通列車が運行された。この為、両社の車輛の規格統一、有料特急の運行が行われた。

 また、阪急も神戸市中心部への乗り入れが実現し、西神線開業でニュータウンの利用者の流入による輸送量増加などが見られた。西神線開業時、沿線にあるグリーンスタジアム神戸に阪急ブレーブスの本拠地を移す案があったが、阪神タイガースや大洋ホエールズとの競合や差別化からこの案は実現しなかった。代わりに阪急は西京極に移る事となり、グリーンスタジアムには大洋ホエールズを買収したオリックス・ホエールズが移ってくる事となった(移転を機に「オリックス・ブルーウェーブ」に改称)。

 神鉄も、新開地・神戸延伸によって、中心部への乗り入れが実現した。三宮延伸は叶わなかったが、そちらは北神急行・海岸線ルートで実現した。



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番外編:戦後の日本の鉄道(近畿②)

前回(国鉄、公営鉄道)に引き続き、今回は私鉄系となります。


〈近畿〉

・南海和歌山港線の海南延伸と野上電気鉄道の南海との合併

 南海和歌山港線は和歌山市と和歌山港の1区間を結ぶ路線だが、かつてはこの区間内に3駅(和歌山市側から久保町、築地橋、築港町)置かれており、和歌山港から先も水軒までの路線があった。しかし、最大の目的だった木材輸送が行われず、利用客の少なさもあり、和歌山港~水軒は2002年5月に廃止となり、和歌山市~和歌山港の3駅も2005年11月に廃止となった。

 

 この世界では、木材輸送や四国との連絡に加え、和歌浦の観光開発、和歌山軌道線の輸送力強化、野上電気鉄道との接続を目的に、和歌山市~和歌山港~和歌浦~海南が計画された。1956年に和歌山市~和歌山港(初代、後の築港町)が開業したのを皮切りに、1965年に和歌山港~水軒が開業した。同時に、和歌山港は築港町に改称し、築港町~水軒の間に新たな和歌山港が開業した。

 その後、モータリゼーションの進行による和歌山軌道線の定時性の低下や道路の混雑の解消を目的に、1971年に水軒~和歌浦~海南が開業した。これにより、和歌山港線は全通し、合わせて水軒を近くにある名勝に由来する「養翠園前」に改称し、野上電鉄も経営的に苦しかった事もあり南海が「野上線」として買収した。

 

 和歌山港線の全通後、難波から和歌山港・和歌浦への優等列車が運行された。和歌山港では徳島へのフェリーが出ており、同じ南海の加太港や南急の深日港と共に、阪南・紀北から四国への玄関口となった。現在では、南急淡路線や明石海峡大橋の開通によって需要は大きく減少したが、高速道路と比較して運賃が安い事、関西国際空港と連絡している事を武器に存続している。

 また、和歌浦への観光にも活用された。古くからの観光地である和歌浦だが、高度経済成長期には大阪近郊の観光地として開発された。しかし、開発による陳腐化や観光の多様化によって観光客が減少した。和歌山港線の延伸によって多少緩和するかと思われたが歯止めはかからず、旅館の廃業が進んだ。

 しかし、大阪近郊と大阪から一本で行ける利点を生かし、会議やコンベンションなどの団体利用が可能な様に整備が行われた。これには、地元だけでなく南海も加わり、小規模ながら身の丈に合った再開発が行われた。

 これらが功を奏し、現在では日本全体の観光ブームも合わさり、観光都市としての整備と共に、和歌山港線の観光路線化が進んでいる。

 

 一方の野上線も、南海になった事で路線の整備が進んだ。老朽化が進んでいた設備の近代化が行われ、限定的ながら速度の向上も行われた。車輛の増備とそれに伴う増便、和歌山港線との直通によって、減少気味だった旅客輸送量の増加が見られた。

 現在では、モータリゼーションの進行や沿線人口の減少による旅客輸送量の減少によって、2000年代には貴志川線と共に廃止が検討されたが、両者の沿線住民が廃止に反対した事で、一転存続になった。その後、2006年4月を以て、貴志川線と野上線は南海や沿線住民、山陽電鉄傘下の岡山電気軌道が出資した第三セクター「和歌山鐡道」に移管となった。

 

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・阪急新大阪線・神崎川支線の開業

 阪急新大阪線は、十三と淡路を新大阪経由で結ぶ路線として計画された。また、新大阪~神崎川の支線も計画された。目的は、京都線の十三~淡路の混雑解消(この区間はカーブと踏切が多い)、大阪市北部の新たなターミナルとなる新大阪への乗り入れが目的だった。支線と合わせて、神宝線(神戸線と宝塚線)からの乗り入れも計画されたと思われる(当時、宝塚線の線別複々線として神崎川~曽根が計画されていた)。

 新大阪線の免許は1961年12月に認可され、土地の接収も開始された。十三~新大阪の接収は概ね完了したものの、残る区間の接収が進まなかった。他にも、同時着工の予定だった十三と淡路の高架工事が、周辺土地の収容の遅れから進まなかった事、新大阪の開発が遅れていた事、地価の高騰による建設費の高騰などの要因が重なり、工事は完全にストップした。

 それでも、阪急は免許を保有し続け、2003年になって漸く新大阪~淡路と新大阪~神崎川が失効した。残る十三~新大阪は、なにわ筋線の新大阪ルートとなるか、四つ橋線の十三・新大阪延伸に活用されるかで分かれている。

 

 この世界では、宝塚乗り入れをした阪神、名古屋乗り入れをした京阪との差別化から、阪急は新大阪線・神崎川支線の開業に熱が入った。その為、新幹線計画が動き出した1957年から免許の申請を行った。熱意が伝わったのか1959年には免許が認可され、翌年には工事が開始された。同時に、十三と淡路の高架工事も着手した。早くから工事に着手した為、1964年までに予定線の土地の収容が完了した。新幹線の開業には間に合わなかったが工事は順調に進み、1969年に十三~新大阪~淡路が開業し、同時に十三と淡路の高架化も完了した。その後、1971年には新大阪~神崎川が開業し、予定線が全線開業した。

 

 新大阪線の開業によって、今までネックだった踏切とカーブが緩和された。新大阪線を走るのは優等列車に限定されたが、高速化と緩急分離が実現した。

 また、神崎川支線の開業により、京都線と神宝線の直通が恒常的に行われる様になった。今までは、十三で折り返し運転を行っていたが、折り返しの手間がネックとなっていた。新大阪線・神崎川支線の開業によって折り返す必要が無くなった事で、1951年に休止した神京特急及び1968年に廃止した宝京特急は復活した。

 現在では、定期運行以外に、訪日観光客の増加から嵐山方面の列車が運行される様になった。また、一部の普通電車も新大阪線経由で運行されるなど、当初の形とは異なる変化を遂げつつある。

 

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・近鉄学研都市線の開業

 近鉄学研都市線は、東生駒から関西文化学術研究都市(学研都市)を経由して新祝園に至る路線であり、史実のけいはんな線の生駒~学研奈良登美ヶ丘に相当する。東生駒が起点だが、全列車生駒まで乗り入れを行っており、生駒~東生駒は複々線化している。この路線の目的は、学研都市内の交通だけでなく、京阪間の運行も視野に入れていた(現在、けいはんな線の新祝園又は高の原延伸は計画止まりだが存在する)。

 学研都市線の計画は、学研都市の構想が固まった1980年代後半から始まる。京都や大阪から学研都市への輸送、新たな京阪間のルートの形成を目的に生駒~学研都市~新祝園が計画された。1989年作成の運輸政策審議会答申第10号でも「2005年までに整備するべき路線」とされ、1996年に免許の認可が下りた。免許が認可された同じ年、免許を近鉄や沿線自治体が共同出資して設立した第三セクター「奈良生駒高速鉄道」に譲渡して、1998年から工事が開始した。工事は順調に進み、2005年3月に全線が開業した(施設の保有は奈良生駒だが、運行は近鉄)。

 

 学研都市線の開業後、奈良線と東大阪線から直通運転が行われた(この世界では、大阪市営地下鉄が直通運転に積極的で、中央線が奈良線と同じ規格で建設された)。奈良線は東大阪線は1:2の比率で直通運転が行われ、学研都市から難波・本町へのアクセスが飛躍的に向上した。同様に、京都線からの乗り入れも行われ、二層建ての運行も行われた。

 また、1992年に廃止となった阪京特急が復活した。かつての阪京特急は、大和西大寺でのスイッチバックがネックであり、利用者の少なさもあり廃止となった。それが、学研都市線の開業によりスイッチバックの解消や距離の短縮、学研都市への直通ルートの形成から、京都~難波の運行が再開した(停車駅は、難波、上本町、鶴橋、生駒、精華学研都市、新祝園、近鉄丹波橋、京都)。但し、通勤ライナー的な意味合いが強く、朝夕の運行が多く設定された。



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番外編:戦後の日本の鉄道(中国・四国)

〈中国〉

・改正鉄道敷設法第94号(『広島県広島附近ヨリ加計ヲ経テ島根県浜田附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「広浜線」だが、この世界の広浜線は鉄建公団が計画していたルートを通っている。つまり、広島~三段峡は可部線では無く、直線を多用した高規格路線で建設された。その為、非電化ながら高速運転が可能で、高性能ディーゼル車輛の投入もあり、広島~浜田を1時間程度で結ぶ事に成功し、他の陰陽連絡特急の代替という意味で出雲市・米子・益田への延長も行われた。

 

 広浜線計画が動き出したのは、1953年の事だった。この世界では、終戦後から朝鮮戦争までに日韓関係が極端に悪化し、一時は戦闘状態になった。この事から、日本は日本海側の警備を強化すると同時に、山陰の交通網の整備を行う必要が生じた。有事の際は、山陽や関西から山陰に兵力を送り込む必要がある為である。

 計画の中で、中国地方の中心都市で、軍都としての性格を持つ広島と、山陰で他路線との接続が無い浜田を結ぶ広浜線計画が注目を浴びた。広浜間の輸送量は多く、古くから鉄道の整備が要望されていた事もあり、この機会に建設を行う事が決定された。

 1958年、広島側と浜田側の両側から広浜線の建設が開始した。同時に、可部線の延伸計画は白紙となった。中国地方における最重要路線と目された為、資金・人員・機材の投入は最優先された。その後、工事は国鉄から鉄建公団に引き継がれた。中国山地を貫くルートの為、区間の殆どはトンネルとなり、難工事の連続で時間が掛った。それでも、予算面で優先された事から工事は中断する事は無かった。

 そして、1977年5月に広島~三段峡~浜田が一挙に開業した。これにより、国・沿線の悲願だった広浜線は開業した。

 

 広浜線の開業によって、鉄道による広島山陰間の大幅な時間短縮に成功した。高速運転に適した軌道、広島~浜田・益田の特急「いわみ」と広島~米子の特急「しんじ」の運行開始によって、今まで芸備線・木次線経由だった陰陽連絡が、広浜線経由になった事で1時間以上の短縮となった。これにより、高速バスや伯備線ルートに押されがちだった広島からの陰陽連絡が息を吹き返した。

 その後、国鉄民営化も難無く乗り越え、JR西日本の路線となった。民営化後も、広島からの陰陽連絡線としての性格は変わらず、宅地開発が進んでいる広島側では通勤・通学輸送も増加した。また、西風新都に広浜線が通っている事で開発が進み、2001年には人口が約7万人と当初目的程では無いにしても、史実より開発が進んだ(2016年3月末で5万数千人)。

 

 一方、広浜線の開業で割を食ったのが、三江北線と三江南線だった。広浜線の方に注力した事、山陰側の接続が江津と中途半端な事から、南北両線の接続工事が遅れた。1970年から開始されたものの、1980年に国鉄再建の煽りを受けて工事は中断された。その後も工事は再開される事は無く、南北両線は共に第一次特定地方交通線に指定された。存続運動も空しく、1987年までに廃止となった。

 

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〈四国〉

・改正鉄道敷設法第102号(『愛媛県松山附近ヨリ高知県越知ヲ経テ佐川ニ至ル鉄道』)の開業

 この路線は、四国山地を貫いて松山と佐川を結ぶ路線である。佐川からは土讃線に乗り入れて、高知に至る。松山と高知を最短で結ぶ路線として計画された。

 

 史実では計画以上は進まなかったが、この世界では宿毛に軍港が置かれた事、四国全体の産業力が強化されている事が事情を変えた。四国全体から、「鉄道だけで各県庁所在地を結んで欲しい」という要請が来た。国鉄としては、四国だけ優遇する訳にはいかなかったが、地元出身の政治家の圧力もあり、1957年に四国3線の建設を決定した。その一つがこの102号で、仮称で「松高線」と命名された。

 工事は1960年に開始され、松山側から始まった。この区間は平地である事から順調に進み、1965年に松山~森松~砥部が開業した。尚、松高線の開業に合わせて、並行線の伊予鉄道森松線が廃止となった。

 砥部~佐川は四国山地を貫く区間の為、長大トンネルが連続する事となった。長大トンネルが多い分、工事も長引き、異常出水などがあった事から、一時は工事中止も検討された。

 それに対し地元は、松山と高知を最短距離で結ぶ路線である事から工事の継続を希望した。国鉄としても、松山と高知を結ぶバス路線が四国内で数少ない黒字路線である事から、建設を続ける価値はあると判断し、工事が継続した。そして、1981年4月、砥部~西佐川が開業して、松高線は全通した。

 

 松高線は当初の目的から幹線として建設され、松山側の輸送量の多さから特定地方交通線に指定される事は無く、地方交通線として存続した。その為、民営化の際にJR四国の路線としてスタートを切った。

 松山市の通勤路線としての性格がある事、松山と高知を結んでいる事から利用者はそれなりに多い。一方、砥部~佐川は山岳地帯である事からローカル輸送は少なく、沿線に石鎚山や仁淀川を抱えている事から観光路線として活用する事が検討されている。

 

 松高線全通後、早速松山~高知の急行「によど」の運行が開始された。この時、車輛の手配が付かなかった事から、キハ55系で運用された。その後、急行の特急への昇格によるキハ58系の余剰が出た事で、順次キハ58系に切り替えていった。

 JR化後、暫く「によど」は急行のままだったが、1990年に2000系特急型気動車の増備が始まった事で、余剰になったキハ181系とキハ185系が運用に入った。それに伴い、「によど」が特急に昇格した。

 松山と高知の都市間輸送、沿線への観光輸送で利用頻度は比較的高く、松山で「しおかぜ」と、高知で「南風」と接続するダイヤを組む事で、利用頻度の向上に努めている。

 

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・改正鉄道敷設法第103号(『愛媛県八幡浜ヨリ卯之町、宮野下、宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道 及宮野下ヨリ分岐シテ高知県中村ニ至ル鉄道』)の一部開業

 103号で開業した部分は、『宇和島ヲ経テ高知県中村ニ至ル鉄道』だけである。このルートは、宇和島から宿毛を経由して中村に至るルートで、宿毛線に相当する。

 史実では、1964年に宿毛~中村が工事線に昇格し、1974年から工事が開始した。その後、ある程度まで工事が完了した所で国鉄再建法が施行された。これにより工事が中断したが、この区間を土佐くろしお鉄道が建設した事で、1997年に宿毛線として開業した。

 一方、残る宇和島~宿毛は、工事が行われなかった事で引き取られる事も無く、そのまま未完成に終わった。

 

 この世界では、宿毛に軍港が置かれた事で、103号の建設気運が高まった。

 宿毛に軍港が置かれた経緯として、今まで使用していた呉が瀬戸内地域の発展で大型艦、特に戦艦や大型空母の入出港が難しくなった。それを解消する目的、及び四国への軍港誘致運動から、1955年に海軍としても馴染みのある宿毛に新たな軍港を建設する事が決定された(1966年に完全稼働)。

 軍港が置かれる事が決まった事で、軍関係者や建設者の人口が増加し、それを当てにして商売をする人も増加した。これにより宿毛市の人口が急増し、鉄道を求める声が急増した。その結果、1957年に四国3線の一つとして宇和島~宿毛~中村が決定した。

 決定後、速やかに宇和島~宿毛の建設が行われた。1963年末に、中村線の窪川~土佐佐賀の開業と同時に宇和島~宿毛が開業し、「宿毛線」と命名された。これに合わせて、高松~宇和島の準急「うわじま」が1往復に限り宿毛まで延伸した。

 その後、残る宿毛~中村の工事も進められ、中村線の土佐佐賀~中村の開業に遅れる事約1年、1971年8月に宿毛~中村が開業したが、この区間は中村線の延伸として開業した。その為、宇和島~宿毛が「宿毛線」、窪川~中村~宿毛が「中村線」となった。

 

 宿毛線と中村線の全通により、今まで鉄道空白地帯だった宿毛と中村に鉄道が通り、両者が繋がった。そして、松山、高知、高松から宿毛への優等列車の運行が開始された。

 沿線人口が比較的多い事、優等列車の多さから来る観光輸送の多さがあるにも拘わらず、国鉄再建時に宿毛線は第二次特定地方交通線に、中村線は第三次特定地方交通線に指定された。その為、沿線では両線を残そうと、早くから受け皿となら第三セクターが立ち上げられた。1987年には「土佐くろしお鉄道」が設立され、1988年4月に宿毛線と中村線を引き受けた。

 

 第三セクターに転換後も宿毛線と中村線の重要性は変わらず、岡山・高松から宿毛への優等列車は多数運行された。ローカル輸送は沿線人口が比較的多い事から決して少なくなく、寧ろ第三セクター化した事で高頻度運転や短距離運転の実施などで、運行の柔軟性は向上した。これにより、国鉄時よりローカル輸送量の増加に成功した。

 

 一方、予土線の方は厳しかった。沿線人口が少ない上に、北宇和島~江川崎は戦前に開業した区間である事から、規格が低く速度が出せなかった。全線開業が宿毛線・中村線より遅れた事もあり、松山と高知の連絡路線としての目的が失われた。その為、全線した時からローカル輸送しか行われなかった。

 国鉄再建時に特定地方交通線に指定されそうになったが、沿線の道路整備が進んでいない事から民営化後も存続した。現在、四万十川の観光路線として活性化をしているが、宿毛線・中村線の存在から何時廃止になってもおかしく無い状況となっている。

 

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・改正鉄道敷設法第107号(『高知県後免ヨリ安芸、徳島県日和佐ヲ経テ古庄附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「阿佐線」であり、御免から安芸、奈半利、室戸、甲浦、海部、牟岐を経由して羽ノ浦に至る路線である。徳島線が山ルートだとすれば、阿佐線は海ルートとなる。予定線の内、御免~奈半利が土佐くろしお鉄道阿佐線、羽ノ浦~海部が牟岐線、海部~甲浦が阿佐海岸鉄道阿佐東線として開業し、残る奈半利~甲浦が未成となった。

 

 この世界では、1957年に建設する事が決定した四国3線の内の一路線として阿佐線が選定された事で、1960年から工事が開始された。東側は牟岐~野根の、西側は御免~奈半利の工事が始まり、1971年に牟岐~野根が開業し、この区間は「阿佐東線」と命名された。阿佐東線の開業に遅れる事2年、1973年に御免~奈半利が開業し、この区間は「阿佐西線」と命名された。

 残る奈半利~野根の工事も行われたが、7割完了した所で国鉄再建法が施工され、工事は中断となった。また、開業した阿佐東線が第一次特定地方交通線に、阿佐西線が第二次特定地方交通線に指定された事で、阿佐線そのものの存続すら危ぶまれた。それを解消する為、阿佐線の未成区間の引き受け、阿佐東線・阿佐西線の受け皿として、1986年に第三セクター「阿佐海岸鉄道」が設立された。

 設立後、奈半利~野根の建設が再開された。その後、1987年に阿佐東線・阿佐西線を引き取り、自社線としての運行が開始された。両線が繋がるのは1993年になってからだった。

 

 阿佐線の全通後、高徳線・牟岐線の優等列車の運行が一部変更となった。牟岐線・阿佐東線に乗り入れていた特急「うずしお」が徳島で運行が分離され、徳島~高知(阿佐くろしお鉄道経由)の特急「むろと」が新たに設立された。徳島と高知を結ぶ優等列車は既に「よしの川」が存在するが、ルートの違いや観光地の存在から重複しなかった。

 また、ローカル輸送としては、御免~安芸が高知市への通勤・通学路線として機能しており、それ以外の区間も利用者はそれなりに多い。また、鉄道の存在が過疎化を緩和させている面もあり、実際、室戸市の人口流出は鉄道開業以降緩やかになっている傾向にある(史実の室戸市は、北海道以外で最も人口の少ない市となっている)。

 現在では、風光明媚な沿線風景から観光路線としての売り込みが行われている。

 

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・高松琴平電気鉄道塩江線の復活

 塩江線は、仏生山から塩江温泉に至る路線である。この路線は、恐らく日本唯一の標準軌の気動車を運行していた。

 

 史実では、1941年に廃止になって以降、復活する事は無かったが、この世界では讃岐急行電鉄(讃急)が高松~琴平でライバルとなっている事、讃急の観音寺延伸が現実味を帯びた事から、対抗意識や讃急の勢力圏外である塩江温泉の開発が行われる事となった。そして、塩江温泉へのアクセスとして、塩江線の復活が検討された。

 1952年、琴電は仏生山~塩江の免許を申請した。この区間は戦前に廃止にした為、再び線路を敷くには免許を取る必要があった。1954年には免許の認可が下り、翌年には工事が開始した。廃止から10年以上経っている事、自然災害で一部路盤や橋脚が崩壊している事などから、工事の進捗は早いとは言えなかった。それでも、新線を建設するよりかは工事は進み、1958年4月に仏生山~塩江温泉が開業した(開業に合わせて、塩江から「塩江温泉」に改称)。

 

 開業後、高松築港~塩江温泉の急行列車が運行された。高松から行きやすい観光地として塩江温泉の開発は進み、宇高連絡線の存在もあり、関西からの観光客も増加した。また、戦前からの歓楽街としての整備も行われ、愛媛の道後温泉に並ぶ四国有数の温泉街となった。

 開業によって沿線の宅地開発も進んだ。高松都市圏の拡大に合わせて沿線の開発も進み、1970年代から観光輸送より通勤・通学輸送の方が多くなった。

 また、塩江線の開業や讃急の存在から、国鉄の高松駅への乗り入れが行われた。1982年に瓦町~琴電高松が地下線で開業となった。これにより、地上線の瓦町~高松築港は廃止となった。

 

 現在では、観光路線、通勤・通学路線として以外に、高松空港へのアクセス路線としての性格を持っている。1989年末に高松空港が沿線に移転し、空港へのアクセスルートして俄かに注目された。建設当時から検討されていたが、需要の面から建設には慎重だったが、利用者がそれなりに多く需要が見込める事から1994年に高松空港への分岐線の免許が申請された。1998年に免許が認可され、2001年には工事が開始されたが、工事開始の時期と高松空港の発着便の減少の時期、及び琴電の民事再生法適用と重なったのが拙かった。一時は建設中止も検討されたが、利用者の減少が小さかった事、琴電再建の切り札とされた事から建設は一時中断とされた。その後、再建が完了した2006年に工事は再開され、2009年に岩崎~高松空港が開業した。

 開業によって、琴電高松~高松空港への快速電車が運行された。停車駅の少なさ(琴電高松、瓦町、栗林公園、仏生山、川東、高松空港)や高頻度運転、運賃の安さから、バスより利用者が多かった。これにより、空港連絡バスが減便したり廃止になるなどの効果が出た。




この世界でのJR四国の特急(2017年を想定)
〈予讃線〉
・しおかぜ:岡山~松山・宇和島・宿毛
・いしづち:高松~松山・宇和島・宿毛
・宇和海:松山~宇和島・宿毛

〈土讃線〉
・南風:岡山~高知・窪川・中村・宿毛
・しまんと:高松~高知・窪川・中村・宿毛
・あしずり:高知~窪川・中村・宿毛

〈高徳線〉
・うずしお:岡山・高松~徳島・小松島港

〈徳島線〉
・よしの川:高知~徳島・小松島港
・剣山:松山~徳島・小松島港(愛徳線経由)

〈その他〉
・によど:松山~高知(松高線経由)
・むろと:高知~徳島(阿佐海岸鉄道経由)

※小松島線は廃止になっていない。中外グループの徳島市への工場進出、南急の徳島延伸などで徳島市とその周辺部の人口が拡大した為、小松島線の輸送量も増大した。


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番外編:戦後の日本の鉄道(九州)

〈九州〉

・改正鉄道敷設法第110号ノ3(『福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「油須原線」であるが、法律上だと油須原が起点となる。史実では、漆生~上山田~豊後川崎が開業した為、漆生が起点となっている。

 この路線により筑豊南部の横断線が形成され、田川線と合わせて苅田港への輸送ルートを形成するもととされた。この路線が計画されたのが1953年の改正と新しく、石炭の需要が増加した時期と重なる事から、重要度は高いと見ていい。

 

 史実では、1966年に漆生~嘉穂信号場~上山田~豊後川崎が開業した。この内、漆生~嘉穂信号場が漆生線の延伸、嘉穂信号場~上山田が上山田線の既存線、上山田~豊後川崎が上山田線の延伸扱いであった。

 開業したものの、エネルギー革命によって沿線の炭鉱の多くは閉山していた。また、モータリゼーションの進行もあり、開業区間での利用者は少なく、既存線と新規開業線とで運行が分断されていた。

 残る豊前川崎~油須原の工事も進められたが、炭鉱の閉山によって存在意義が失われた為、1970年代前半には一時工事が中断された。その後、苅田港に工場が誘致され、筑豊にも工場が来る事となり、工事が続行された。これにより、国鉄再建法の施行による工事中止時点で土地収用の9割、路盤の6割、軌道敷設の4割が完了していたが、肝心の他の国鉄線との合流部分での工事が進んでいなかった。国鉄が赤字確実の油須原線を引き取りたくなかったからだが、これにより油須原線の全通は絶望的となった。既に開業していた区間も特定地方交通線に指定され、1986年4月に漆生線が、1988年9月に上山田線が廃止となり、油須原線計画は完全に消滅した。

 

 この世界では、1953年の鉄道敷設法改正時に110号ノ3が『福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道 及上山田附近ヨリ分岐シテ福岡県長尾附近ニ至ル鉄道』となった。後半の部分は、上山田と桂川を結ぶ鉄道の事を示す(史実でも計画は存在した)。これが追加された理由は、朝鮮戦争にあった。

 朝鮮戦争によって九州北部に数度空襲を受けた。これにより、折尾と博多の両駅が被災し、鹿児島本線が不通となった。筑豊本線や鞍穂線がバイパスの役目を果たす筈が、折尾駅が被災した事で筑豊本線も不通となった為、鞍穂線だけで両線のバイパスを行わなければならなかった(鞍穂線については『番外編:この世界の戦時中に開業した鉄道』参照)。鞍穂線そのものの規格は高くない為、輸送量がパンクしてしまった。

 幸い、折尾の復旧が迅速に行われた事で筑豊本線の再開がされたが、今回の事例から、海岸付近を通る鹿児島本線及び産業地帯である北九州工業地帯を通らない小倉~博多のバイパスが計画された。そのルートとして、110号ノ3と110号(『福岡県篠栗ヨリ長尾附近ニ至ル鉄道』。現在の篠栗線)が選ばれた。

 1957年に篠栗線の延伸工事と油須原線の工事が開始された。途中、豊後川崎~油須原の用地買収に手間取ったものの、緊急性や重要性の高さから、相手への高額な補償で短期間で決着させた(史実では数十回の交渉でようやく解決)。これにより、建設費用が増加したものの、早期開業が実現する事となった。

 その後、1966年3月に桂川~臼井と上山田~豊後川崎が開業した。この時、桂川~臼井は上山田線の支線扱い、上山田~豊後川崎は上山田線の延伸扱いとされた。残る区間も、1968年5月に篠栗~桂川、漆生~嘉穂信号場、豊後川崎~油須原が開業して全線が開業した。こうして、油須原線は全線開業したが、豊後川崎~油須原も上山田線の延伸扱いとされた。

 

 篠栗線と上山田線の延伸によって、博多と筑豊南部、田川線を通じて京築地域との連絡が行われた。博多~門司港(篠栗線・上山田線・田川線経由)の急行「筑豊」の運行が開始された。他にも、急行「ひこさん」が博多~大分・別府(篠栗線・上山田線・日田彦山線経由)に変更となるなど、福岡と日田・湯布院・大分への新たなルートの開発が行われた。

 ローカル輸送でも、博多と直接つながった事で、上山田線沿線の団地開発、工業団地開発は進んだ。同様に、田川線沿線の工業団地開発が進められた。これにより、炭鉱が閉山した後の人口減少は幾分緩やかとなり、輸送量の減少も緩やかとなった。

 それでも、国鉄再建時に上山田線と田川線は共に第三次特定地方交通線に指定された。その為、近い将来に両線が廃止になる事が決定された。それらの受け皿として、1989年に第三セクター「平成筑豊鉄道」が設立された。その後、1989年10月に伊田線、糸田線と共に転換された。

 因みに、漆生線の方は史実通りとなった。

 

 第三セクター転換後、増便と駅の増設が行われた。これにより利便性の向上が図られ、利用者が増加した事により黒字化した。

 また、桂川~上山田の博多への人の流れが多い事から、篠栗線への直通運転は維持された。直通以外にも、篠栗線の列車への接続を良くして、利便性の向上を行った。これにより、会社が別になった事による通し運賃の値上げはあったものの、利用者の増加が見られた。

 

 優等列車については、特急に格上げの上で存続した。これは、西鉄が史実以上に大きく、博多北九州間・博多熊本間で競合関係にあり、それに対抗する為、JR九州になってから門司港~博多~熊本の特急「有明」を増便したり、快速電車を多数走らせるなどした。その結果、鹿児島本線の容量が限界寸前となり、速度の遅い気動車が運行上のネックとなった。それを解消する為、比較的容量に余裕のある篠栗線・上山田線・日田彦山線経由が活用された。

 これにより、急行「ひこさん」は急行「由布」と統合して特急「ゆふ」として運行が開始された。また、本数も3往復から6往復に増便となった事で利便性が向上した。

 しかし、ルートの変更で運行距離が伸びた事(約5㎞増えた)、所要時間が延びた事(最大15分延びた)で、特急としての速達性は減少した。一方、英彦山という観光ルートを通る為、観光利用者が増加するという効果が出た。

 もう一方の「筑豊」も、特急に昇格の上で「ちくほう」と改称した。また、1日3往復から5往復に増便されたが、増便の2往復は博多~直方となった。

 

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・改正鉄道敷設法第111号ノ3(『佐賀県唐津ヨリ呼子ヲ経テ伊万里ニ至ル鉄道』)の一部開業

 所謂「呼子線」であるが、史実でも虹ノ松原~東唐津~唐津は筑肥線として開業している(この時、旧線の虹ノ松原~東唐津~山本は廃止)。また、西唐津~呼子についても、未成に終わったが路盤の多くは完成していたが、開業しても採算ラインに乗らないと判断されて開業しなかった。

 

 この世界では、第111号ノ3が鉄道敷設法に載ったのが1953年と早かった(史実では1961年の改正で載った)。理由はやはり朝鮮戦争で、沿岸部の警備強化と交通網の強化、沿線予定地域への補償を目的に追加された。その為、工事の着手も早く、1962年には工事が開始された。

 その後、工事は順調に進み、1975年に虹ノ松原~東唐津~唐津~西唐津~呼子が開業した。また、呼子線の開業時に筑肥線の虹ノ松原~山本は存続したが、東唐津を経由しないルートとなった。

 尚、呼子~伊万里の建設も一部で進められたが、国鉄再建時に凍結となり未成となった。

 

 呼子線の開業によって、長年の悲願である博多と唐津の中心街及び呼子が繋がった。これに伴い、博多~唐津・呼子の快速列車が運行された。本数こそ多くなかったものの、大幅な時間短縮がされた事で利用者は増加した。

 その後、1983年3月に福岡市営地下鉄(「空港線」の名称は1993年に付けられる)との直通運転が開始され、天神や中洲など福岡市の中心街への乗り入れが行われた。2社跨ぐ事から通しの運賃は値上げとなったが、電化した事で高速化され、福岡市への中心街へ乗り入れした事で利便性が向上した。これらにより、寧ろ以前より利用者が増加した。

 

 現在では、存続した勝田線(但し、1993年3月に吉塚~志免が廃止となり、代わりに福岡空港~志免が開業)と共に福岡市への通勤・通学路線として活用されている。また、呼子への観光路線としても活用されており、福岡空港~呼子のホリデー快速が土日祝日に運行されている(同様に、筑肥線全線が電化されている為、福岡空港~伊万里のホリデー快速も運転)。

 

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・改正鉄道敷設法第119号(『熊本県高森ヨリ宮崎県三田井ヲ経テ延岡ニ至ル鉄道』)の全通

 所謂「高千穂線」であるが、気になるのは起点が豊肥本線の立野では無く、高森になっている事である。立野~高森の開業は1928年で、119号は改正鉄道敷設法となった時から載っている(=1922年から存在する)ので、立野起点でも良いと思うのだが、当時工事が行われていた事から高森起点としたのだろうか。

 高千穂線は、立野~高森が高森線として、延岡~高千穂が高千穂線として開業した。残る高森~高千穂の工事もある程度進んでいたが、高森トンネルの掘削中に誤って水脈を切ってしまった事で異常出水が発生、これにより工事は中断され、地域への補償をする事となった。しかも、トンネル事故の時期が1977年に発生した為、中断中に国鉄再建法が施行されて工事が中止された。

 その後、高森線は第一次特定地方交通線に、高千穂線は第二次特定地方交通線に指定されて廃止となり、それぞれ「南阿蘇鉄道」、「高千穂鉄道」として第三セクター化したが、高森~高千穂は完成する事は無く未成に終わった。

 

 この世界では、未成の原因となった高森トンネルの工事が無事完了した。その為、全線の工事は問題無く完了したものの、線路を敷く直前に国鉄再建法が施行された為、高千穂線の全通は絶望視された。

 しかし、福岡・熊本から宮崎への最短ルートになる事、阿蘇外輪山や高千穂などの観光地がある事から、全線開業すれば主要路線になると考えられ、第三セクター化による開業が計画された。その為、1983年に高千穂線と高森線の沿線を中心に第三セクター「阿蘇高千穂鉄道」を設立して、高千穂線と高森線の受け皿と高森~高千穂の工事再開が決定した。

 そして、1986年4月に高千穂線と高森線が阿蘇高千穂鉄道に移管され、同時に高千穂~高森が開業した。これにより、高千穂線計画は実現した。

 

 第三セクターという形で実現した高千穂線だが、全通後は沿線の観光開発が進められた。阿蘇下田と日之影に温泉設備を設けたり、高千穂を観光センターとして改修したり、白川水源に近い場所に駅を設けるなどした。また、優等列車の運行も行われ、立野~延岡の快速「かぐら」が運行された(停車駅は、立野、阿蘇下田、白水高原、高森、高千穂、天岩戸、日之影、槇峰、川水流、延岡)。

 熊本・宮崎への直通列車の運行はJRになってからであり、1989年4月に熊本~南宮崎(阿蘇高千穂鉄道経由)の特急「たかちほ」が運行された(阿蘇高千穂鉄道内の停車駅は高森、高千穂、日之影)。この列車は、熊本で特急「つばめ」と「有明」と接続するダイヤが取られており、乗り換えを有するものの、日豊本線経由の「にちりん」より時間面で有利だった。また、観光地を通る事からこちらが優先される様になり、「にちりん」の運行形態の変更もあり、2000年には1日8往復となった。現在も、接続列車が九州新幹線に変更されたものの、その運行体系が続いている。



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番外編:戦後の日本の鉄道(九州②)

〈九州〉

・福博電鉄の設立(架空)

 福博電鉄は、香椎から博多港を経由して姪浜に至る「臨海線」と、博多から鳥飼を経由して姪浜に至る「山手線」、鳥飼から分岐して七隈を経由して橋本に至る「七隈線」の3路線を保有している。

 臨海線は、博多臨港線を基に福岡港から姪浜まで延伸した。その際、ウォーターフロントとして開発された百道を経由して、地下鉄に並ぶアクセス手段として整備が計画された。

 山手線は、1983年に廃止となった筑肥線の博多~鳥飼~姪浜が基となっている。沿線には繁華街は少ないものの、団地や学校が複数存在し、利用者は決して少なくない。

 七隈線は、史実の地下鉄七隈線の別府~橋本とほぼ同じルートを通る。違いは、地下鉄では無く路面電車で整備された事である。

 

 福博電鉄の設立前、福岡市の人口は増加しており、筑肥線の旧線の沿線の開発が進みつつあった。現状の輸送量ならバスでも充分だが、開発が進めばバスでは輸送量不足となる。そうなれば、再び鉄道の整備が浮上する可能性があるが、一度廃止した路線の復活や新線建設は費用と時間が掛かり過ぎる為、そうなる前に対処する目的で1980年に福岡市と西鉄が中心となって「福博電鉄」が設立された。

 設立当時は「二重投資」と批判されたが、それに対し福博電鉄とその出資者である福岡市と西鉄が、「バスや地下鉄以外の新たな都市交通手段を形成する」、「新しい路面電車のモデルケース」と主張して批判を相手にしなかった。

 福博電鉄設立後、国鉄に筑肥線の旧線の引き取りに関する交渉が行われた。国鉄としても廃止になった後のことまでは関与しない為、すんなりと決着した。その後、電化設備の設置、交換設備の増設、車庫の建設、既存の駅の改良、新駅の設置、車輛の発注が行われ、将来を見据えて複線用の路盤の形成も行われた。

 新駅の設置は、平尾(筑前高宮を移転の上で改称)と小笹の間に「平和」、小笹と鳥飼の間に「梅光園」、昭代(西新から改称)と姪浜の間に「南庄」(事実上、1941年に廃止となった筑前庄の復活)が設けられた。また、平尾以外に博多もやや南側に移転となった。これらの駅は、路面電車の高さに合わせる為、ホームの嵩下げ工事が休止後に行われた。

 1983年3月の休止後(廃止だと免許の取得で面倒になる為、休止扱いとなった)、福博電鉄に移管された博多~姪浜の改良工事が行われた。工事は順調に進み、1983年12月に全線が開業した。

 

 山手線の開業は、バスや自家用車に頼る沿線の交通網を変えた。当時、交通渋滞が深刻になりつつあった城南線の混雑が緩和された。アクセスが改善された事は沿線の開発を加速させ、それに伴い学校が増加した。

 その後、福岡大学や住宅地へのアクセスを目的に鳥飼~七隈~橋本が計画され、新線開業に先駆けて2001年8月に全線複線化が行われ、2002年2月に「七隈線」として開業した。これに伴いダイヤの改正が行われ、博多~鳥飼は朝夕毎時12本運行し、姪浜発着と橋本発着が6本ずつとなった。データイムも毎時8本運行され、鳥飼~橋本の区間列車が毎時2本運行され、博多~姪浜に接続するダイヤとなった。

 博多と繋がっている事、沿線に学校が多い事から、両線は通勤・通学の足として利用されている。

 

 山手線開業前の1983年6月、香椎~福岡港の博多臨港線の旅客化と福岡港~百道浜~姪浜の延伸が計画された。今度のは空港線との完全な並行線な為、ルートの選定や需要の想定は慎重に行われた。その結果、「ウォーターフロントの開発が予定通りに進めば、鉄道が必要となる需要が生まれる」とされ、早急な整備は必要とされなかったが、導入区間の整備は進められた。

 その後、1989年のアジア太平洋博覧会(よかトピア)の開催、1993年の福岡ドームの開場などの大型開発があり、バス輸送では限界になる場面の多々見られた。その為、1995年に臨海線の建設計画が開始され、JR貨物に博多臨港線の旅客化に関する協議が行われた。JR貨物としては「貨物列車の運行の邪魔にならない程度であれば」という条件で許可した為、臨海線計画は前進した。1996年に博多港~百道浜~姪浜の特許も申請し、1998年に認可が下りた為、同年末に工事が開始した。1997年にダイエーグループが資本参加した事もあり、工事は急ピッチで進められた。その結果、1999年5月に香椎~福岡港~百道浜~姪浜が開業した。

 

 臨海線の開業によって、ウォーターフロントへのアクセスが向上したが、利用者は想定よりも少なかった。理由は、福岡市の繁華街である中洲、交通の要衝である博多、その両方である天神を経由していない為だった。一応、天神と中洲から徒歩で行ける場所に臨海線の駅は存在するが、他の路線と接続が無い事が敬遠された。

 それでも、天神北や福岡港でのバスとの接続を考慮した駅の設置や、バス・地下鉄との連絡乗車券の存在から少しずつ利用者は増加していき、現在では博多・天神とウォーターフロントを結ぶ第2ルートとして活用されている。また、シーズン中には、福岡ソフトバンクライオンズの選手による案内がされるなど、更なる利用者の増加策が行われている。

 

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・琉球鉄道の設立

 戦前、沖縄県(沖縄本島)の鉄道は、沖縄県営鉄道、糸満馬車軌道、沖縄軌道、沖縄電気の4社が運行されていた。

 沖縄県営鉄道は、沖縄本島で最大の鉄道網を構築しており、那覇を起点に与那原、嘉手納、糸満へ延びていた。

 糸満馬車軌道は、那覇と糸満を結んでいた。沖縄県営鉄道と並行線だったが、沖縄県営鉄道は北側の内陸部を、糸満馬車軌道は南側の海岸部を走行していた為、競合関係とはならなかった。

 沖縄軌道は、与那原と泡瀬を結んでいた。与那原で沖縄県営鉄道と連絡しており、沖縄本島東部のを通っていた。

 沖縄電気は、那覇と首里を結ぶ路面電車だった。沖縄県営鉄道とは一部で並行線の関係だったが、こちらは市内を経由していた。

 1920年代後半が沖縄県の鉄道のピークで、1930年代に入るとバスの運行が開始された事で、鉄道は大打撃を受けた。特に、輸送量が少なかった糸満馬車軌道と沖縄電気は大打撃を受けた。これにより、沖縄電気は1933年3月に休止(同年8月に廃止)、糸満馬車軌道も1935年に休止(1939年に廃止)となった。

 一方、沖縄軌道はサトウキビ輸送の存在から廃止とはならず、沖縄県営鉄道はガソリンカーの導入やバス路線の開設で対抗した。

 しかし、太平洋戦争後期の沖縄空襲で施設に大損害を受け、1945年4月からの沖縄戦で軌道は完全に破壊された。戦後、琉球政府による鉄道復活計画が立てられたものの実現する事は無く、2003年に沖縄都市モノレールが開業するまで、実に半世紀以上もの間、沖縄県に本格的な鉄道は存在しなかった。

 

 この世界では、大規模戦闘が本土にまで来なかった為、大規模な本土空襲や艦砲射撃が発生しなかった。その為、沖縄戦は発生しなかったが、東アジアの要衝である事から米軍基地は設置された。それでも、大東亜戦争の終わり方が停戦である事、アメリカ軍の施政下に無かった事から、史実よりも基地は少ない(嘉手納、那覇港、伊江島。全て日米共用)。

 その後、沖縄県内で「沖縄にも本土並みの鉄道を」という動きが出た。これは、遅れている道路整備の代替、沖縄本島内の南北格差の解消、北部の開発促進を目的としたものだった。沖縄県と県内の有力企業が出資し合い、1952年に「琉球鉄道」が設立され、以下のルートが計画された。

 

・琉球本線:那覇港~那覇~嘉手納~具志川~名護

・与那原線:那覇~与那原~具志川

・糸満線:那覇~豊見城~糸満

 

 琉球本線は、沖縄県営鉄道嘉手納線を基にしており、県営鉄道の頃からの計画であった名護延伸を果たすものだった。これにより、沖縄本島南部最大の都市にして県都の那覇と、本島北部の主要都市である名護が結ばれ、南北交通の改善と沿線の開発を進めるものとされた。

 与那原線は、沖縄県営鉄道与那原線と沖縄軌道を基にしており、琉球本線が西側を経由するならば、与那原線は東側を経由して那覇と具志川を結ぶ。こちらも沿線の開発を目的としており、琉球本線のバイパス的性格もあった。

 糸満線は、糸満馬車軌道を基にしている。これは、このルートの方が沿線人口が多い事、沖縄県営鉄道のルートだと与那原線と並行線になる事から、このルートに変更された。

 1953年に3路線の免許が申請され、1955年に認可が下りた。翌年には工事が行われ、沿線からの支援があり、1960年には琉球本線が開業した。2年後の1962年には与那原線と糸満線も開業し、全線が開業した。

 尚、沖縄軌道と沖縄県営鉄道だが、共に工事が開始された1956年には廃止となり、用地は琉球鉄道建設に流用された。

 その後、嘉手納から読谷へ、具志川から与那城、名護から本部への延伸が計画されたが、沿線人口の少なさや、後述するバス会社の再編によって計画止まりに終わった。

 

 琉球鉄道の開業によって、沖縄本島の交通網は大きく変化した。一時期を除いて戦前から拡大していたバス路線は、鉄道の開業によって南北間の路線は大打撃を受けた。かつての様な軽便鉄道であれば輸送量や高頻度運行で対抗して打ち負かしたが、今回の様な高速鉄道だと時間と輸送量の点で太刀打ち出来なくなった。

 実際、琉球本線が開業してから数年で那覇~名護のバス路線は1日数往復を残して全て廃止となり、与那原線、糸満線が開業した時も同様だった。これ以降、バス会社は駅を中心に路線網を再編する事となった。

 バス路線の再編以外にも、那覇~嘉手納・与那原・糸満の宅地開発や工業開発が進んだ。現地資本の育成だけでなく、本土資本の企業進出が進み、人口増加もあり、沖縄県の税収は拡大した。

 現在では、通勤・通学以外に軍用貨物の輸送に利用されている。また、観光列車を走らせるなど、観光客をターゲットとした施策も実行している。

 

 因みに、那覇都市モノレールは史実通り存在するが、開業が1980年代後半と早い。これは、那覇空港と那覇市内を結ぶ路線が必要だった事、那覇~首里の中量輸送システムが求められた事から、早い段階で実現された。

 その後、浦西方面の延伸が2000年代前半に実現し、2010年代後半には東風平方面の分岐線が計画されている。



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番外編:バブル景気終息後の大手金融機関の再編

 バブル景気後の景気悪化が史実よりも緩やかだった為、金融業界の不安定さも緩やかだった。それでも、景気の後退による業績悪化は免れなかった。それにより、体力が弱い会社は淘汰されていった。また、金融自由化とそれに伴う海外の金融機関に対する競争力の強化を目的に、国内の大手金融機関の統廃合が進んだ。これにより、都市銀行・信託銀行・長期信用銀行といった大手銀行は9グループに集約された。このグループの中には、銀行傘下や繋がりの深い証券会社や消費者金融なども含まれた。 

 

 三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)と三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)、新生銀行は史実通りとなる。

 

 みずほフィナンシャルグループ(みずほFG)もほぼ史実通りだが、山一證券が廃業しなかった事で、山一證券がみずほホールディングス(持ち株会社は後にみずほFGとなり、みずほHDは業務を変更する)の傘下に入る。これにより、みずほFGの証券会社は最終的に「みずほ山一証券」に統合となる。

 

 UFJホールディングス(UFJHD)は、中外銀行と三和銀行の統合によって成立する。両行との繋がりが深い大室信託銀行と東洋信託銀行、大室證券とつばさ証券も参加する。最終的に、中外銀行が三和銀行と合併して「UFJ銀行」に、大室信託銀行と東洋信託銀行が合併して「UFJ信託銀行」に、大室證券とつばさ証券が合併して「UFJ証券」となる。

 UFJグループの経営状態の悪化は発生しない為、MTFGとの統合は発生しない。

 

 りそなホールディングス(りそなHD)は、大和銀行とあさひ銀行(1992年に埼玉銀行、横浜銀行、千葉銀行が合併して成立。この時、本店は東京に移転。この世界では、横浜銀行と千葉銀行が1971年に都市銀行となった)、北海道拓殖銀行が統合して成立したが、史実より1年早い2001年に統合した。また、りそなHDの成立も、史実の大和銀ホールディングスとあさひの株式交換という形では無く、あさひ・大和・拓銀の株式移転という形だった。同時に、各行と親密な地方銀行・第二地方銀行も傘下に収まった。

 拓銀は1997年に経営破たんしなかったが、地盤である北海道・千島・南樺太での土地融資に注力し過ぎて、不良債権処理に追われていた。大和も、1995年にニューヨークでの事件の影響で傾きつつあった為、りそなの成立はあさひによる拓銀・大和の救済に近かった。

 

 あすかフィナンシャルグループ(あすかFG)は、東海銀行と協和大同銀行が統合して成立した。その後、名古屋の財界の要求で存続行は東海銀行を存続行に「あすか銀行」が成立し、本店は名古屋に置かれる。また、東海銀と協和大同と親密だった各証券会社が統合して「あすか証券」が成立した。

 

 あおぞらホールディングス(あおぞらHD)は、新亜グループの3行である昭和信託銀行、日本動産銀行、日本貿易銀行が統合して成立した。その後、昭和信託銀行を存続行として他の2行を合併して「あおぞら銀行」が成立した。

 

 三井住友トラスト・ホールディングス(三井住友トラストHD)もほぼ史実通りだが、成立時期と前身行が異なる。2001年に住友信託銀行と共立信託銀行が合併して「共立住友信託銀行」となり、2006年に三井トラスト・ホールディングスと共立住友信託銀行が経営統合して三井住友トラストHDが成立する。史実では、この時の経営統合は行われなかったが、業務内容が似るあおぞらHDの存在から経営統合が早められた。

 

●みずほフィナンシャルグループ

・みずほ銀行(富士銀行、第一勧業銀行、日本興業銀行)

・みずほ信託銀行(安田信託銀行)

・みずほ山一証券(山一証券、勧角証券、新光証券)

 

●三菱東京フィナンシャル・グループ

・東京三菱銀行(三菱銀行、東京銀行)

・三菱信託銀行(三菱信託銀行、日本信託銀行)

・三菱モルガン・スタンレー証券(国際証券)

 

●三井住友フィナンシャルグループ

・三井住友銀行(住友銀行、さくら銀行)

・SMBC信託銀行

・SMBC日興証券(日興證券、さくらフレンド証券、明光ナショナル証券)

 

●UFJホールディングス

・UFJ銀行(中外銀行、三和銀行)

・UFJ信託銀行(東洋信託銀行、大室信託銀行)

・UFJ証券(大室證券、第一證券)

 

●あすかホールディングス

・あすか銀行(東海銀行、協和大同銀行)

 

●りそなホールディングス

・りそな銀行、埼玉りそな銀行、横浜りそな銀行、千葉りそな銀行、北海道りそな銀行(大和銀行、あさひ銀行、北海道拓殖銀行)

・樺太りそな銀行(豊原銀行)

・大阪りそな銀行(近畿大阪銀行)

・奈良りそな銀行(奈良銀行)

・和歌山りそな銀行(和歌山銀行、紀北銀行(旧・阪和銀行))

・福岡りそな銀行(西日本銀行)

 

●あおぞらホールディングス

・あおぞら銀行(昭和信託銀行、日本動産銀行、日本貿易銀行)

 

●三井住友トラスト・ホールディングス

・三井住友信託銀行(共立住友信託銀行、中央三井信託銀行)

 

●新生銀行(日本長期信用銀行)

 

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 生命保険でも統廃合が進んだ。しかし、景気の悪化が緩やかだった事から、史実の様な中堅生保の大量破綻は起こらなかった(史実では、1997年から2001年の5年間で7社が破綻。内1社は8大生保の一角)。それでも、中堅生保の統合が進み整理が行われた。

 

 この世界では、史実で経営破たんした協栄生命、千代田生命、東邦生命、東京生命が経営破たんしなかった。史実では、協栄、千代田、東邦の3社は経営破たん後、外資に買収され、現在は「ジブラルタ生命保険」に統合されている。東京は、太陽生命と大同生命がスポンサーとなり、現在は「T&Dフィナンシャル生命保険」となっている。

 

 協栄生命は、戦前に生命保険の再保険を目的に設立された。その後、再保険の拡大、連合国系の生命保険会社の契約の引き受けにより規模を拡大したが、終戦直前に生命保険中央会に合併されて消滅した。

 戦後、生命保険中央会の業務の引継ぎを目的に「協栄生命保険」が設立されたが、経営基盤が弱かったが、自衛隊や教職員向けの保険販売を行う事で業績を拡大した。バブル期には高利回りの保険商品を販売する事で規模を拡大したが、バブル崩壊で逆ザヤとなり不良債権が増大し、2000年10月に経営破たんした。負債総額は約4兆5千億円であり、これは戦後最大の倒産となった。

 この世界では、再建時に新亜グループの人員が入り込んだ事で、新亜グループ入りした。その後、1950年に大正生命、平和生命、大和生命を統合して、新生「協栄生命」となった。新亜グループとの繋がりと、国防軍を対象とした保険の販売で規模は拡大し、1980年代には九大生保で下位にいた三井生命と朝日生命に並ぶ程の規模を有していた。

 その後、三洋生命との経営統合で「KSライフホールディングス」を設立し、その傘下に入った。KSライフHD設立後、協栄生命は企業・団体向けの販売が中心になった(反対に、三洋生命は個人・中小企業向けの販売が中心になった)。

 

 千代田生命は、九大生保の一角であるが、旧財閥系との繋がりは比較的薄かった(一応、大倉財閥に近いとは見られた)。史実では、バブル期に積極的な不動産や株式への注力で資産を拡大させたが、バブル崩壊後はそれが裏目となった。逆ザヤや信用不安による契約解約も重なり、2000年10月に経営破たんした。

 この世界では、景気後退が緩やかな事から資産価値の下落は緩やかであり、不良債権の処理も進んだが、他社と比較して不動産や株に注力していた為、一時は危ない会社と見られた。その為、一時的に信用不安に見舞われ、経営が不安定になった。

 経営安定の為、親密行(東海銀行)からの支援や他社との提携が模索され、昭和生命が名乗りを上げた。その後、両社の統合にまで進み、2000年4月に昭和生命が千代田生命を合併する形で「昭和千代田生命保険」が成立した。

 

 東邦生命は、戦前は「第一徴兵保険」と名乗っていた。これは、徴兵保険(子供が小さい頃に加入し、徴兵されたら保険金が下りる)を専門に扱う生命保険会社で、他に有力な徴兵保険会社として富国徴兵保険(後の富国生命保険)、日本徴兵保険(後の大和生命保険。この世界では協栄生命に合併)、第百徴兵保険(後の第百生命保険。後に経営破たん)が存在した。

 戦後、「東邦生命保険」にすると、自衛隊向けの保険販売を行って業績を拡大させたが、協栄生命や千代田生命と同様となった。外資と提携する事で再建を試みたが、契約解消が止まらず資金不足が深刻となった。1999年6月には債務超過が深刻となり、監査法人が「意見不表明」の報告書を提出し(=「決算を信用出来ない」。上場企業だと上場廃止の基準となる)、業務停止命令を受けて再建が断念されて破たんとなった。

 この世界では、千代田生命と同様、不良債権処理は進んだものの、単独での生き残りが出来なくなる程の状態に追い込まれた。その為、他社との提携で生き残りを図り、大室火災海上保険と昭和火災海上保険の両社が名乗りを上げた。その後、2002年6月大室火災と昭和火災と共に「OSインシュアランスホールディングス」を設立し、「OS東邦生命保険」と改称してその傘下に入った)。

 

 東京生命は、野村財閥系の生命保険会社であった。バブル崩壊後の経営危機時にも大和銀行(戦前は「野村銀行」と名乗っており、野村證券と共に中核)からの支援で再建しようとしたが、財務内容の悪化と大和そのもの経営不安から流れてしまい、2001年3月に経営破たんした。その後、太陽生命と大同生命がスポンサーとなり再建した。

 この世界では、新亜グループ系の大同火災海上保険(史実の同名企業とは異なる)と第一火災海上保険が経営支援を表明した事で存続した。2003年に、大和と親密だった富士火災海上保険と共に経営統合が行われ、「日本トリニティホールディングス」が成立し、社名も「日本トリニティ生命保険」に改称された。

 

●KSライフホールディングス

・協栄生命保険

・三洋生命保険

 

●昭和千代田生命保険(昭和生命保険、千代田生命保険)

 

●OSインシュアランスホールディングス

・OS東邦生命保険(東邦生命保険)

 

●日本トリニティホールディングス

・日本トリニティ生命保険(東京生命保険)

 

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 生命保険の再編と同時進行で、損害保険の再編も行われた。損害保険の方が規模が重視される為、生命保険以上に合併や統合が多かった。

 MS&ADインシュアランスグループホールディングス(MS&AD)、SOMPOホールディングス(SOMPO)、東京海上ホールディングス(東京海上HD)は史実通りとなった。そして、中外グループと新亜グループの損害保険が統合して誕生したのが、OS&NTインシュアランスホールディングス(OS&NT)である。

 

 OS&NTは、OSインシュアランスホールディングス(OSインシュアランスHD)と日本トリニティホールディングス(日本トリニティHD)が経営統合して成立した。OSインシュアランスHDと日本トリニティHDについては多少前述しているが、中核企業はそれぞれ大室昭和損害保険(大室火災と昭和火災が合併)と日本トリニティ損害保険(大同火災、第一火災、富士火災が合併)である。

 両社は2000年代前半に成立したが、その後の損保各社の再々編に乗り遅れまいとして、2009年から経営統合に向けての交渉が行われた。その後、2010年に「翌年までに経営統合を行う」と発表された。そして、2011年10月にOSインシュアランスHDと日本トリニティHDが合併した(存続会社はOSインシュアランスHD)。

 この合併で「OS&NTインシュアランスホールディングス」が成立し、大室昭和損害保険と日本トリニティ損害保険はその傘下となった。生命保険の統合も行われ、OS系のOS東邦生命保険と、NT系の日本トリニティ生命保険が合併し、「OS&NT生命保険」となった。

 

●OS&NTインシュアランスホールディングス

・大室昭和損害保険(大室火災海上保険、昭和火災海上保険)

・日本トリニティ損害保険(大同火災海上保険、第一火災海上保険、富士火災海上保険)



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番外編:この世界の日本製旅客機の開発事情

 この世界の日本の旅客機は、三菱重工が開発した「MC-2(史実のYS-11だが、旅客機としての設計が徹底されている)」が国産旅客機を独占していた。ここに至る経緯は、日本空軍初のジェット戦闘機F-86のライセンス生産の競争に負けた事に始まる。

 史実では、F-86のライセンス生産は新三菱重工業が行っていたが、この世界では各社競合の末、富士重工業が行った。当初は、三菱重工がほぼ確定と見られていただけに、三菱重工の敗北感は凄まじいものだった。その屈辱をバネに、三菱重工は単独で国内向け旅客機の開発に着手した。

 

 この世界では、GHQによる航空行政への介入は戦闘機や爆撃機を対象としていた為、練習機や輸送機については研究・開発・製造は自由に行えた。尤も、予算面や資材、他の部門の復興の関係があった為、各社の研究は進んでいないか時間が掛っていた。

 その中で、三菱は技術保持や戦後の旅客機需要の増加、輸出を見越して双発輸送機の設計を行っていた。三菱は、陸軍の九七式重爆撃機や九七式重爆撃機を基に開発された旅客機「MC-20」、海軍の一式陸上攻撃機に四式双発重爆撃機「飛龍」の設計・製造を行っていた為、大型双発機のノウハウは充分にあった。

 そうした中で、1949年に三菱重工は30人を乗せられる双発旅客機「MC-1」を開発した。性能こそ平凡だったが、当時日本空軍が保有していた輸送機の置き換えに最適だった事、扱いやすい事がうけて、大量発注が行われた。

 尤も、MC-1の成功が、F-86のライセンス生産権を逃す結果にもなった。MC-1の大量製造で、生産ラインに余裕が無いと見られたのである。

 

 半ば自業自得な面もあるが、兎に角三菱重工は1955年、より大型の50~70人用の旅客機の設計に着手した。ノウハウはあった為、1959年に試作機が完成し、1960年に初号機がロールアウトされ「MC-2」と命名された。量産機は日本航空から始まり、国内の航空会社各社に納入された。また、手頃な大きさ、価格の安さ、予備部品の供給能力の高さなどから、国外、特に米州や東南アジア向けの輸出も多数行われた。

 MC-2に対抗する様に、1957年に川崎が音頭を取り、他の航空機メーカーとの共同設計が行われた。しかし、ノウハウの差、他社との調整、他の生産機との調整に手間取り(当時、富士重工は戦闘機、大室重工は哨戒機、川崎は練習機、新明和工業は飛行艇の設計・生産で忙しかった)、1959年に開発が中止された。この中で大室重工が設計の大部分を引き継ぎ、これが後のリージョナルジェット参入の切欠となった。

 

 その後、4発機型やジェット化版などMC-2の改良型が数多く試作され、1975年に「ボーイングMC-3」が世に出た。MC-3はMC-2のジェット機版として開発され、MC-2や海外製の小型機の置き換えが主なターゲットだった(史実でも、YS-11のジェット化案は存在した)。

 MC-3の開発に当たり三菱は、ボーイングとの共同開発とアメリカでの現地生産、その為の合弁会社設立の交渉が行われた。これは、ジェット化に当たり、開発費や生産費の高騰、ジェットエンジンに関するノウハウの蓄積、ボーイングの販売ルートの活用、貿易摩擦の解消など様々な目的があった。

 ボーイング側としては、小型ジェット機の需要の小ささ(当時、ビジネス機と大・中型旅客機の中間のニーズが小さかった)とそれに伴う利益の小ささ、三菱側の技術力に対する疑問、未だに根強く残る反日感情などから、余り乗り気では無かった。

 それに対し三菱は、合弁会社の持株比率をボーイング:三菱で7:3とする事、社長はボーイング出身者とする事を切り出した。日本政府としても、YX構想(日本独自の旅客機開発計画)が失敗した際の保険として考え、三菱を側面から支援した。アメリカ政府も、安全保障の面から日本との付き合いを強化する方針を取った為、ボーイングは大筋で同意したが、同時に「販売時の名称を『ボーイングMC-3』とする事」を条件に追加した。これに対して三菱は二つ返事で同意し、1971年に共同開発に合意した。

 

 MC-2の経験があった為、ジェット化した際の設計図の作成は早かった。実機の製造も早く、1973年には試作機が完成した。オイルショックによって一時は計画が止まったが、その後も開発が続けられ、1975年に完成した。量産初号機は、東亜国内航空に納入された。

 見た目は主翼の上にジェットエンジンを搭載した奇抜なデザインだが、性能は平凡だった。性能こそ平凡だが、コンポーネントはMC-2と共通化している事から価格は安く、部品供給も行い易かった。その為、MC-2を導入していた会社が採用する例が多かった。

 

 因みに、ボーイングMC-3と同時期に、小型ビジネスジェット「MU-300」の開発も行っていた。MRJの方に力が注がれていたが、ノウハウの蓄積があった為、史実より2年早い1976年に試作機が完成した。その後、1977年にFAA(アメリカ連邦航空局。ここで型式登録が証明されれば、ほぼ世界中で運用可能となる)の審査にも合格し、翌年に量産が開始された。

 その後、MC-3と共にアメリカでの生産、ボーイングの販売網に乗せる事が決まり、これに伴い「ボーイングMU-300」と改称された。FAAの審査に通ったのが早かった事、ボーイングのブランドがある事から、MU-300の売り上げは順調だった(史実では、1979年にFAAに送られたものの、同年に審査が厳格化した為、型式登録が1981年に遅れた。その間に、第二次オイルショックやアメリカ側の事情の変化などで、全く売れなかった)。

 

 リージョナルジェットのMC-3とビジネスジェットのMU-200、この2機種は三菱とボーイングにとって大きな利益を生み出した。

 MC-3は、販売時期が第二次オイルショックとアメリカの航空会社の規制緩和の時期と重なった。この2つにより、アメリカ国内ではローカル線を運行する航空会社が多数設立された。その為、小型機の需要が急速に増加した。需要にマッチしていた事とボーイングのブランドから、MC-3は丁度合っていた為、大量の受注が舞い込んだ。

 MU-200も、販売当初に100機近い仮契約が交わされた。その後、半数程は製造されたものの、残りはキャンセルされた。その後も、受注が低迷した為、80年代前半には生産中止も検討された。しかし、その直後にビジネスジェットの需要が急増した為、一気に稼ぎ頭となった。

 売り上げによって得られた利益は株主に還元される為、三菱とボーイングには大きな収益源となった。

 

 ボーイングは旅客機のラインナップは大型から小型まで揃っていたが、小型よりも更に小型であるリージョナルジェットやビジネスジェットについては持っていなかった。それを、この2機種で補完した為、ボーイングの旅客機部門の地位を不動のものとした。

 しかも、1980年代に制定されたバイアメリカン法(アメリカで使用する航空機には、アメリカ製部品を50%以上使用する事を義務付けた法律)にも、アメリカで現地生産している事、製造会社の株式の60%(1970年代後半にボーイングが10%を三菱に売却した)をボーイングが保有している事から、この法律もクリアした。

 

 これ以降、三菱とボーイングの蜜月関係が形成されていく事となる。その後、ボーイングは共同開発を行う際、日本企業、特に三菱系との連携を強化する方針を固めていった。

 現在では、2010年に「ボーイングBM-1(史実の三菱MRJ)」を生産しており、旅客機市場におけるボーイングの地位は盤石になりつつあり、三菱もそこの一枚噛んでいる。

 

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 三菱が順調に小型機部門で地位を固めていった頃、1970年代中頃から大室重工も負けじと参入した。大室重工は、アメリカの航空機メーカーであるマクドネル・ダグラス(MD社)にリージョナルジェットの共同開発を持ち掛けた。

 これに対しMD社は、「DC-9シリーズを基にする事」、「DC-9を始めとしたMD社の旅客機の生産の一部の肩代わりをする事」、「主力工場はアメリカに置く事」、「技術を全てMD社に公開する事」、「販売時の名称を『マクドネル・ダグラス』に統一する事」を条件とした。かなり足元を見られた内容であった為、当初は自主開発も検討されたが、当時、MD社の主力商品の1つであったDC-10の事故が相次ぎ、DC-10の改良型の開発がストップした。その対処に追われている中で、大室重工が技術公開以外の条件を全て飲んだ上で「DC-10の改良を手伝う事」を盛り込んだ。この話はMD社にとっても悪い話では無く、危機的状況にあっては技術公開どころでは無い為、1982年に両社の提携が正式に決定した。

 

 リージョナルジェットの方は、基となったDC-9の設計を活用した為、順調に進んだ。また、大室重工との共同開発もあり、新技術の活用も早かった。DC-9との違いとして、座席配置が2-2となっている(DC-9シリーズは3-2)。その為、胴体が少々小さくなっており、乗客数も1クラスで90人とDC-9の初期型とほぼ同数となっている。

 1986年に「マクドネル・ダグラスMD-9J」として生産されたこの機体だが、アメリカの航空業界の変化に見事にマッチしていた。当時、航空業界の規制緩和によって地域航空会社が多数設立された。その為、小型機の需要が急増しており、既に生産が行われていたボーイングMC-3と共にMD-9Jの多数の発注が舞い込んだ。また、DC-9のコンポーネントを一部活用している為、価格の安さや生産設備の流用が可能になるなど、MD社にとってのメリットも多かった(MD-9Jの開発により、機体の大きさで重複するボンバルディアCRJ700以降の大型シリーズの受注が伸び悩む)。

 これにより、MD社は再びボーイングとの競争力を持つ様になった。また、大室重工との共同開発によって他の機種の開発も進み、DC-9を基にしたMD-80シリーズ(共同開発はMD-87から行われた)、MD-90シリーズは史実よりも1年早く生産が開始された。

 その後も、1996年に生産が開始されたMD-95(史実ではMD社のボーイング吸収後に「ボーイング717」として完成)でDC-9の系譜の集大成となり、航続距離を延長したMD-96、胴体短縮型のMD-97、胴体延長型のMD-98が生産されたが、この頃になると、原設計のDC-9の設計の古さが目立ってきた。エンジンを最新型にしたり、グラスコックピットを採用したり、複合素材を利用して軽量化を行うなどの近代化を行ってきたが、そろそろ限界に近付いた。

 

 その為、新設計の小型旅客機の設計が行われた。新型機は、「1つのシリーズとその改良型で、MD-80・90シリーズとMD-9Jを全て賄う」という考えの基で計画され、計画の基となるのは140~170人乗せられる小型機で、200人乗せられる胴体延長型、90~120人乗せられる胴体短縮型も同時に計画された。

 これらは、MD-95が生産される前の1994年から設計がスタートしたが、完全な新設計となるとどうしても時間が掛かった。また、小型旅客機とリージョナルジェットの設計の共同化はどうしても難しく、1998年に小型機とリージョナルジェットに分割、胴体の外側を既存機の応用とする事で効率化と設計時間の圧縮が行われた。

 これが功を奏し、2002年に小型旅客機が「マクドネル・ダグラスMD-14」として完成した。機首や胴体はMD-90シリーズの流用だが、エンジンの設置方法が今までの胴体後方に設置する方式から主翼に吊り下げる方式に変更した為、主翼の設計と着陸装置が変更となり地面とコックピットとの距離が高くなった。エンジンの設置方法が変更となった為、尾翼の設計も変更され、丁字型から通常の形に変更となった。

 MD-14だが、ボーイング737シリーズやエアバスA320シリーズと比べると遅く参入した為、販売はやや苦戦した。しかも、2001年の同時多発テロによる航空需要の冷え込み、2005年の原油価格高騰などにより、新規購入が抑えられた事も販売の低迷に繋がった。

 一方、小型機そのものの需要が増加していた事、原油価格の高騰により燃費の良い機体の需要が増加した為、新規参入会社や機体の買い替えでの需要が存在した。特に、DC-9シリーズを保有していた航空会社での買い替えが多く、顧客の引き留めに成功した事から、MD-14シリーズの生産が続けられる事となった。それでも、737やA320のシェアは大きく、日本とアメリカ以外での需要が少ない為、売り込みを強化している。

 

 MD-14に遅れる事2年、2004年にリージョナルジェットが「マクドネル・ダグラスMD-15」として完成した。こちらもMD-14と同様、MD-9Jの機種と胴体を流用しつつ、主翼と尾翼、着陸装置を変更している。

 こちらも、リージョナルジェットの需要が増加している事もあり、受注が相次いでいる。特に、アメリカと日本、及び両国の影響力が強い地域ではMC-3とその後継機であるBM-1とシェアを争っており、競合他社(ボンバルディアやエンブラエルなど)は苦戦を強いられている。

 

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 小型機・リージョナルジェットの共同開発が進んだが、中・大型機の方でも共同開発が行われた。特に、MD社の主力商品の1つである大型機のDC-10は、ボーイング747に次ぐ大型旅客機としてそれなりの発注を得ていたが、設計ミスがありそれが原因となる事故が数件発生した。また、原油価格の高騰、ボーイング767の生産開始、エアバスA300の登場、双発機での長時間の洋上飛行が可能になった事などの要因もあり、DC-10の受注が減少傾向にあった。その状況を打破する為、1984年にMD社と大室重工によるDC-10の双発機版の設計が開始された。

 原設計がある為、設計ミスの手直しと尾翼の改良が主な改良点となった。また、技術革新により、低燃費のエンジンやグラスコックピット化が行われた。基本的には手直しの為、開発期間は短くする事が出来、1988年には試作機が完成した。性能は充分と判断され、翌年には「マクドネル・ダグラスMD-11」として納入が開始された。

 

 MD-11は、DC-10を使用していた日本航空や新規発注の日本エアシステム、日本インターナショナル航空(旧・日邦東西航空。2002年にJASと経営統合)を始め、多くの航空会社に納入された。ライバルのボーイング767と777、エアバスA300シリーズにA330などと共に、中長距離における大型機としての地位を確立した。

 現在、オリジナルのMD-11-10、胴体延長型のMD-11-20、胴体短縮型のMD-11-30、-20の更なる胴体延長型のMD-11-40の4種類の生産が行われており、MD社の主力商品となった。

 

 MD-11の成功の一方、MD-12の方は苦戦した。

 MD-12は一言で言えば「MD社版エアバスA380」であり、総2階建ての機体として1991年から計画された。これは、DC-10の改良が限界に近付いた事、当時計画されていたボーイングとエアバスの超大型旅客機への対抗(エアバスの方はA380として実現)からであった。また、機体の巨大さやMD社の経営が不安定になりつつあったことから単体での開発は不可能とされ、台湾を始めとしたアジア諸国との共同開発が行われた。

 しかし、MD社の経営悪化、それに伴う計画の遅れや受注の見込みが無い事から計画は途中で破棄された。その後、1997年にボーイングに合併された為、計画は完全に消滅した。

 この世界では、MD-12計画はその後も続けられた。大室重工や台湾の航空産業との連携で開発が進められたが、完全新設計である事、開発予算の高騰から当初予定の1997年の初就航は叶わなかった。結局、2002年に試作機が完成し、2004年に量産機の初納入が行われた。

 

 MD-12のローンチカスタマーは日本インターナショナル航空や台湾航空を含めて数社だが、MD-11の様に多くの受注を得られなかった。最大の原因として、時期の悪さにあった。

 MD-12が初飛行した前年にアメリカ同時多発テロが発生し、航空需要が急激に減少した。その為、航空会社は新規導入を抑制する様になり、特に大型機については顕著だった。

 また、この頃から双発機の性能が向上し、多発機を導入する意義が薄かった。特に、お膝下であるアメリカでの受注が皆無だった事が大きかった。

 その為、MD-12は80機程度の生産で終了してしまい、その後の航空需要の変化もあり、日本インターナショナル航空は2020年までに就航を終了する予定となっている。

 

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 上記以外の面では、小型機の開発が盛んに行われている。前述の三菱重工に加え、戦前からの航空機メーカーである川崎重工や富士重工、中小メーカーである昭和飛行機工業や立川飛行機などが合同して設立した「新日本航空工業」、戦後に参入した本田技研工業などが存在する。

 尤も、国内での小型機の需要は高く無い事から、海外向けが殆どとなる。最近では、新興国への売り込みや国内での需要の掘り出しを行っている。

 

 大型機では、ボーイングやエアバスなどの大型機メーカーの下請け・孫請けの関係は史実通りとなっている。

 しかし、日本の技術力の高さ、他に生産が可能な国が無い事などから、日本への依存度は史実よりも高い。その為、日本の意見をより聞く様になっている。



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番外編:この世界の日本の航空関係

〈大型空港・国際空港〉

 樺太には、県庁所在地・豊原市の中心部近くに豊原空港が置かれている(3200m級1本、2500m級1本)。しかし、軍民共用である事、利用客の増加から拡大が検討されたが、市内に置かれている事からこれ以上の拡大は不可能とされ、1993年から留多加に国際線用の空港が建設された。1999年に「樺太国際空港(略称・樺空)」として開港し、国際線と一部国内線が樺空に移った(新興航空会社やLCCは、最初から樺空に就航)。規模は3500m級2本だが、計画では3200m級を1本追加予定となっており、その予定地の取得もある程度進んでいる。

 

 丘珠空港が2800m級1本の中型空港となった。これにより、国内線と東側の航空会社は丘珠に、西側及び中立国の航空会社と国際線、乗継用の国内線は新千歳と棲み分けが行われる(新千歳は空軍千歳基地に隣接する為、東側諸国の航空会社の乗り入れを認めていなかった。冷戦後もそれが残っている)。

 

 成田空港は、大きな問題が起こる事無く1978年3月に開港。開港当初は4000mと2500mの2本の滑走から成る。その後拡大し、2019年には4000m級2本、3200m級1本、2800m級1本を備える日本最大の空港となった。これにより、国際線だけでなく国内線の成田移転やLCCの拠点化に役立った。

 一方で、羽田空港の拡張は史実通り行われ、5本目の滑走路の計画も立っている。

 

 新潟空港は、ソ連・東欧・北東アジア(満州、北朝鮮、モンゴルなど)など共産圏方面への路線を集約する為(=羽田・成田に乗り入れさせない為)、主要滑走路の長さを3000mに変更する計画が1970年代後半に立案される(1989年に完成)。同時に、建設中だった上越新幹線の空港乗り入れ計画も立案されるが、こちらは地盤や空港の需要、国鉄の財政悪化などから遅れ、2002年12月1日に新潟~新潟空港が開業した(法律上だと信越本線の一部。現実の越後湯沢~ガーラ湯沢の関係になる)。

 現在、ロシア線は成田への移転で減少しているものの、成田の発着枠の上限から東欧線と北東アジア線、東南アジア線は未だに新潟が多い。特に、経済発展著しい北東アジア各国及び東南アジア各国への路線を航空会社が開設を希望しているが、成田や関空の枠の関係から開設が遅れ気味であり、比較的参入し易い新潟への発着便が増加傾向にある。

 新潟県も海外路線の開設に積極的であり、新潟をPRすると共に発着料の値下げやターミナル機能の強化などを行い、日本海沿岸地域の中心となるべく精力的に活動している。また、沖合に拡張して2500m級滑走路を増設する計画も立てられたが、こちらについては2019年時点では検討止まりとなっている。

 

 関空と中部国際空港は、増え続ける航空需要に対応する為、2015年までにもう1本滑走を増設した(正確には、当初予定の早期実施)。これにより、関空は4000m級1本と3500m級2本(内、1本は横風対策用)、中部は3500m級2本を備える。

 

 福岡空港は、増え続ける需要に施設が対応出来なくなった為、史実の佐賀空港の位置に「九州国際空港(略称・九国)」が2000年に開港(同時に、福岡の表示が「福岡/板付」となり、九国は「福岡/九州」となる)。2013年に拡張が行われ、4000m級2本となりターミナルの拡張も行われた。

 尚、福岡の拡張は史実通り行われる。

 

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〈地方空港〉

 千島の空港は、北から順に幌筵空港(幌筵島)、択捉空港(択捉島)、国後空港(国後島)となる。全て軍民共用となっている。この内、択捉空港は米軍とも共用している為、4000m級2本を備える巨大空港となっている(但し、空港ターミナルは小規模)。

 

 豊原、樺空以外の樺太の空港は、北部の敷香に存在する。空軍との共用で、3500m級2本と規模こそ大きいが、ローカル線の運航が主体となっている。

 

 桶川飛行場を拡張して、2010年に「埼玉空港」として開港。これに伴い、百里飛行場の軍民共用化は流れた為、茨城空港は開港しない(その代わり、百里に在日米軍司令部などが移転し、横田基地は閉鎖。跡地は再開発中)。

 小笠原諸島に空港が出来る。父島沖にメガフロートで建設、2008年に開港した。規模は2000m級1本。

 

 長野飛行場が廃止とならず、長野空港として存続する(松本空港は史実通り)。規模は2300m級1本。主に大阪(伊丹)や札幌(丘珠)、福岡(板付)だが、1999年までは東京線も就航していた。

 佐渡空港が拡張され、2000m級滑走路が建設される。これにより、ボーイング737やA320クラスの飛行機が飛来可能となる。実際、新潟だけでなく東京や大阪から1日数往復就航している。

 静岡空港は、静浜基地を拡張する事で2004年に開港。規模は史実と同じく2500m級1本。

 

 普天間飛行場と伊江島補助飛行場は存在しない。そもそも、この世界では沖縄戦が行われなかった為、沖縄の米軍基地は日本空軍と共同利用している嘉手納基地ぐらいである。

 しかし、伊江島空港は史実通り開港する(但し、場所は史実の米軍伊江島基地とやや西側になる)。後に、沖縄本島北部の開発が進むと那覇空港だけでは需要に応えられなくなり、伊江島空港の拡張で対応する事となった。1992年から拡張工事が行われ、1995年に工事が完了して開港した(同時に伊江港や名護港の拡張、伊江島の道路整備なども行われた)。これにより2800m級1本の空港となったが、開港時期が極東危機直前と悪く、就航路線も少なかった。しかし、後に新興航空会社やLCCの就航が増加し、沖縄本島のセカンダリー空港として活用される。

 

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〈日本航空(JALグループ)〉

 JALと日本エアシステム(JAS)の経営統合、所謂「JJ統合」は行われず(JASは日本インターナショナル航空(JIA)と統合)。その為、JAS系の北海道エアシステム(HAC)と日本エアコミューター(JAC)がグループに入っていない。

 また、中華民国(海南島)と中華人民共和国が国連に加盟している為、日本アジア航空(JAA)は設立されず(史実では、JAAは日中国交樹立によってJALの中華民国乗り入れが不可能になった事で設立された)。

 同様に、この世界ではアメリカによる沖縄統治が行われていない為、南西航空(後の日本トランスオーシャン航空(JTA))の設立状況が史実と異なる。史実では、アメリカ統治時代に運行していたエア・アメリカが撤退する事となり、その受け皿という目的があった。この世界では、沖縄方面の航空網強化を図るJAL側と、県内の航空網を整備して欲しい沖縄県側の思惑が一致した事で設立された。尚、琉球エアコミューター(RAC)は設立されるが、JAS系で設立される。

 以上の経緯から、国内線の規模は史実より小さい。主要幹線と準幹線以外の運行は、JASとJIAとの統合で譲渡された以外はかなり弱い。

 

 JASとの統合が行われていない為、「太陽のアーク」は無く、「鶴丸」が使われ続ける。倒産は史実通り。

 

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〈全日本空輸(ANAグループ)〉

 ほぼ史実通り。

 グループの1社であるエアーニッポンは中華民国線を運行せず、国内線のみとなる。

 

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〈日本エアシステム(JASグループ)〉

 日本エアコミューター(JAC)を設立後、1991年に沖縄・奄美路線と西日本路線を分割、「琉球エアコミューター(RAC)」が設立される。また、北海道・南樺太・千島を結ぶコミューター航空会社として「北日本エアコミューター(KAC)」が設立される。

 

 国際線では、日本と韓国、中国との関係が悪い為、史実で飛ばしていた成田ソウル線、成田昆明線などが軒並み存在しない。一方、満州やベトナムなど、東アジア・東南アジアの社会主義国への路線を拡張した。また、史実よりも成田の発着枠が多い為、アメリカ・ヨーロッパ方面への国際線も多く就航する。

 

 国際線の本数が多い事もあり、史実よりも多い利用客の獲得に成功し、史実よりも経営状況は良かった。

 それでも、元々の規模の小ささや東急グループの整理などの状況から、JIAとの統合が行われる事となった。統合対象をJIAとした理由として、運用している機体がJASとほぼ同じである事(エアバス機とマクドネル・ダグラス機が主力)、同じ航空アライアンスに所属している事(ウイングス・アライアンス(史実では設立されず)に加盟)があったが、最大の理由はJALまたはANAとの統合だと他の2社が太刀打ち出来なくなるぐらい巨大になる事を避ける為、つまり国内での独占状態を避ける為だった。

 一方で、JIAとの統合は「地方路線の独占に繋がる」という意見も多かった。その為、批判を躱す目的と地方路線の競争力維持の為、元JASの路線を中心に地方路線の一部がJALに移管された。

 

 JIAとは「経営統合」となっているが、実際は「JIAによる救済合併」という側面が強かった。事実、設立された持ち株会社の名前が「JIAホールディングス」であり、主要役員のポストはJIA出身者に握られていた。

 その後、2005年に組織の変更が行われ、国際線はJIAに全て移管され、ローカル線はJASに全て移管された(国内幹線と準幹線は共同運航)。社名こそ残ったが、国際線や国内幹線などグループの本流はJIAであり、JASは傍流となった。

 それでも、JAS時代からの機内サービスの強化や観光路線の強化を行い、低価格路線を打ち出すなどして競争力強化を行っている。これにより、JALやANAはもとより、新興航空会社やLCC相手に有利な状況を築いており、JAS派の発言力強化に役立っている(実際、JIAホールディングスの役員交代の際、JAS出身者の役員が数人増加した)。

 

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〈日本インターナショナル航空(JIAグループ)〉

 この会社の設立経緯などについては『40話 昭和戦後④:中外グループ(3)』を参照。

 

 今までローカル線と準幹線が主体だったが、45/47体制崩壊後の1987年に遂に悲願の国内幹線(東京大阪、東京福岡、東京札幌など)にも進出した。また、国際線についても計画され、1989年4月に就航する事も決定した。

 その際、「日邦東西航空」の社名が分かりにくいとして改称する事となった。そこで決定したのが「日本インターナショナル航空(JIA)」だった。余りにも壮大過ぎる名前だが、それぐらいの意気込みを見せなければJAL、ANAと肩を並べる存在にならないとして敢えてつけられた。

 就航を前にした1989年3月に改称し、同年4月に成田台北線、成田サイパン線、成田グアム線を就航し、以降、ハワイ線やシンガポール線など東南アジアやオセアニアを中心に拡大し、1991年にニューヨーク線とロンドン線を開設して本格的に国際線に進出する様になる。

 ここまで進出が早い理由として、JIAの主要親会社に京成、阪急、南急、西鉄がいる為である。1990年代は各社が再開発を行っていた時期で資金的余裕は少なかったが、東急と近鉄を主要親会社としていたJASよりは余裕があった。その為、拡大は早く、経営体制も地方路線の赤字を考慮しても良好だった。

 

 それ以外では、1993年に旭伸航空を傘下に収めた。同時に、社名を「JIAコミューター」に改称し、JIAのコミュータ部門となる。

 

 2002年にJASと統合して「JIAホールディングス」を設立、その傘下に入った。その後、2005年の組織構造の変更でJIAは国際線と国内幹線、国内準幹線を担当する事となった。同時に、JIAグループの主要ポストをJIA派が握った。

 再編後、旧JIAと旧JASの路線を再編成し、就航都市の見直しと新都市就航が行われた。同時に、大規模なリストラも行われ、合わせて高収益体制の構築が行われた(JASも同時に同様の事が行われる)。これにより、JIAの経営状況は安定し、海外旅行客や訪日外国人の増加により増益傾向となる。

 

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〈新興航空会社〉

 樺空を本拠地とする「オホーツク航空(OKA)」が1999年に就航。当初は、北海道国際航空(エアドゥ)と一本化する予定だったが、方向性の違いから北海道と樺太で分割する事となった。

 主要企業が親会社についていなかった事から資金面で弱く、数年で経営危機に陥った。2003年に民事再生法を適用し事実上破綻、再建スポンサーとしてJIAが名乗りを上げた。

 その後、オホーツク航空はJIAの下で再建し、2006年に再生計画を終了した。以降のオホーツク航空はJIAの関連会社となり、樺空・新千歳から本州への便の共同運航が行われる様になる。

 また、ロシアとの関係が改善してきた事から、ウラジオストクやハバロフスクへのチャーター便の運航も行われた(定期運航化は実現せず)。

 

 史実では就航しなかったレキオス航空(レキオス)が就航した。しかし、単独で生き残る事は出来ず、大手航空会社の関連会社として存続する事となった。

 レキオスは2002年に就航したものの、羽田那覇線は国内屈指の混雑路線であり、本数の少なさもあって大手との競争力獲得は難しかった。その後、伊丹線や福岡板付線、国際線として台北線を就航するものの有効打とならず、2005年に民事再生法を適用する事となった。

 そのスポンサーとしてJIAが名乗りを上げ、2007年に再建計画が終了した。その後はJIAの関連会社となり、那覇と本土の地方空港を結ぶ路線、那覇と奄美・宮古・石垣路線、那覇台湾の国際線の運航をJIA及びJASと共同運航を行っている。

 

 また、同じく就航しなかったジャパンパシフィックエアラインズ(JPA)と横浜国際航空(AYH)については、1999年に両社を某社が買収して合併、「ジャパン・ウィングス(JW)」となった。

 当初は羽田を拠点とする予定だったが、発着枠の少なさと着陸料の高さから変更し、成田を拠点とする事となった。また、就航先予定地も伊丹から関空及び神戸へ、丘珠から千歳へ、板付から九国に変更するなどして便数を増やせる方向に変更し、LCCに近い路線を採る事となった(但し、スカイマークと同様、「自社はLCCではない」と宣言している)。

 そして、2005年3月に成田関空線が就航した。その後、順次成田千歳線、成田九国線を就航させ、その後も幹線クラスに路線を増やしていった。2019年現在、JWは成田・中部・関空・千歳・九国・伊江島を本拠地として、日本航空業界における台風の目となっている。

 

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〈格安航空会社(LCC)〉

 春秋航空日本が存在しない事を除けば史実通り。

 

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〈コミューター航空〉

 史実通り。



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番外編:この世界及び中外グループのサッカー事情(~1970年代)

 中外グループは、野球のみならずスポーツ全般で活躍している。サッカーもその一つで、戦前から保有している企業が多い。日本林産や日本鉄道興業(防府工場)などが保有しており、工場以外にも本社が保有しているケースも多かった。特に、大室財閥系の企業は多く保有しており、大日新聞や大室物産、大室重工業(堺工場)に大室化成産業など多くのチームが保有していた。

 過去形の理由は、多くがJリーグに加盟、つまりプロ化した事で解散した為である。一部はプロ化した後に企業チームを再度設立した所もあるが、多くはプロ化によってそのまま解散となった。

 

 これらのチームが設立されたのは野球部が設立されたのとほぼ同じタイミング(1920年代後半から30年代)だが、多くは1930年代後半に設立された。理由は、1936年開催のベルリンオリンピックで日本代表が優勝候補のスウェーデン代表を破った事、1940年開催予定の東京オリンピックに向けた社会人サッカーの強化とそれに伴う社会人サッカーリーグが設立された為である(※1)。

 リーグが盛況だった事、戦時体制に向かっていく事への窮屈さへの反動からサッカー熱は高まり、1938年には関西でも社会人サッカーリーグが設立された(※2)。関西に工場や本社を置く企業のサッカークラブは、この頃にルーツを持つチームが多い。大室重工堺や大室製鉄もこの頃に設立された。

 

 戦後の1948年、戦前に廃止となった関東と関西のサッカーリーグが復活した。復活に伴い、名称をそれぞれ「関東社会人サッカーリーグ」と「関西社会人サッカーリーグ」に変更し(※3)、関東の方は実業団リーグとクラブリーグを統合した。合わせて、実業団サッカーの日本一を決める全日本実業団サッカー選手権大会も開催された。

 この頃には、戦前にサッカーチームを保有していなかった大室電機産業や日林製紙などでチームが設立された。多くが「社員の福利厚生」が目的で設立された為、お世辞にも強いと言えるチームは数える程しかなかったが、時々リーグのダークホースとなるなどして注目される事があった。

 

 だが、当時のサッカーは人気のあるスポーツではなく、大きく注目される事は無かった。また、当時のサッカーは大学サッカーの方が実力があった為、実業団サッカーはまだまだ注目される存在では無かった。

 尤も、そうであるが故に、チームの強化をする企業が多かった。この後、復興景気や朝鮮特需で企業の業績が上向きになり資金的余裕も生まれ、練習量を増やす事も可能となった。だが、その結果が表れるのは1960年代まで待つ必要があった。

 

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 この世界でも、1960年代のサッカーの人気は今一つだった。当時、大衆のスポーツと言えば野球であり、サッカーはマニアックなスポーツと認識された。1964年の東京オリンピックで日本代表がアルゼンチン代表を破ってベスト8入りしたり、1968年のメキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得した事で一定の人気が出たものの、その後は日本代表の成績が伸び悩み、それに伴いサッカー人気も再び低調となった。

 一方で、読売新聞、というより正力松太郎が野球に次いでサッカーもプロ化する計画を立てていた。この構想は1949年から存在しており、1955年に「東京クラブ」が設立されたが、プロ化の目処は立たず数年で解散した。

 その後、読売新聞系のクラブチーム「読売サッカークラブ」が1969年に設立されたが、プロ化については日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)がスタートする1993年まで待たなければならなかった。尚、選手のプロ化については1986年から始まっていた。

 この世界では、サッカーのプロ化の目処こそ立たなかったが、読売新聞がサッカーから撤退する事は無く、東京クラブは「読売サッカークラブ」と名称を変更して存続した。実業団チームとなったが方針は東京クラブ時代から変わらず、何れ実現されるであろうプロ化を目指したチーム作りが続けられた。

 

 日本では全国規模のスポーツリーグは野球が最初だが、2番目はサッカーである。現在はJリーグだが、以前は日本サッカーリーグ(JSL)であり実業団チームによるリーグだった。

 この世界では、JSL以前にも関東リーグと関西リーグはあったが、これは地域リーグであり、全国的なリーグでは無かった。JSL開設に伴い、関東リーグと関西リーグはJSLの下部リーグとなり、関東リーグと関西リーグの下部に各都府県のリーグが設立される事となった。

 1965年にスタートしたJSLは、12チームから始まった。史実では8チームから始まったが、中外系が参入を強く希望した事、それに伴い他のチームも参加を求めた事から、急遽枠が4つ追加された。これによって追加されたチームは以下の通りとなる。

 

・大日新聞サッカー部:埼玉県:足立八潮総合運動公園(埼玉県南埼玉郡八潮町(現・八潮市))(※4)

・読売サッカークラブ:東京都:国立競技場、西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場

・日本軽金属サッカー部:静岡県:草薙総合運動場

・大室重工業堺サッカー部:大阪府:長居陸上競技場、和泉中央総合運動公園(大阪府和泉市)

 

 その後は、史実のJSL一部のチームが廃部となったり、住友金属や日産自動車、ヤマハなど多くのチームが参入する。だが、最初の枠が多かった事、読売新聞と大日新聞による広告の効果から一定以上の人気を得る事に成功した。それにより参入希望枠の増加が叫ばれる様になり、段階を経て枠が増加され、JSL最終年の1992年時点には1部16チーム、2部20チームの計36チームから成っていた(※5)。

 

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 JSLの開催に伴い、ある問題が生じた。それは「サッカー場の不足」である。これはサッカーが当時の日本におけるマイナースポーツだった事が原因だった。JSL開催時、東京都内で本拠地となり得る場所は国立競技場、西が丘サッカー場、駒沢陸上競技場ぐらいしか無く、周辺部も等々力陸上競技場、足立八潮総合運動公園、大宮公園サッカー場ぐらいしか無かった。しかも、この世界には三ツ沢公園球技場が存在しない為(※6)、尚更サッカー場の不足は深刻だった。

 その為、早急に本拠地としての使用に耐えられるサッカー場の建設が急がれた。その一環で建設されたのが戸塚と磯子の両運動公園で、共に史実の三ツ沢公園並みの施設を有している。その他にも、ニュータウン開発の一環で運動公園の建設も組み込まれ、1970年代から千葉県鎌ケ谷市(千葉ニュータウン)や神奈川県横浜市港北区及び緑区(港北ニュータウン)、大阪府吹田市(千里ニュータウン)など多くのニュータウン開発地域で総合運動公園(とサッカー場)の整備が行われた。

 

 また、民間資本による整備も進められた。大日新聞と京成電鉄が行政と共同で茨城県猿島郡境町と茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)にサッカー場を建設し、東京を本拠地とする中外グループのサッカーチームの主催試合を行うなど、積極的な活用を行っていた。中外グループのみならず他のサッカーチームの活用も積極的で、三菱重工や本田技研などのチームの主催試合も行われた。

 他の私鉄も、東武が赤羽線沿線の武州大門近くに、名鉄が西濃線と尾西線が乗り入れる森上に、近鉄が花園ラグビー場に隣接する場所に建設するなど、1970年代は官民問わずサッカー場の整備が行われた。

 このサッカー場の整備に力を入れたのが西武鉄道とその親会社の国土計画興業(国土計画を経てコクド、2006年に解散)だった。毎日オリオンズが本拠地とする武蔵野野球場に隣接する場所にサッカー場を含む総合競技場が建設され、他にも狭山線の終点の狭山湖には野球場とサッカー場が建設された。

 サッカー場の整備と共に、自らチームを持ちたいと考える様になった。当時、西武グループはアイスホッケーや野球などのスポーツ振興に力を入れており、サッカーもその一環で参入する事となった。1977年、武蔵野を本拠地とする「西武鉄道サッカー部」、狭山湖を本拠地とする「プリンスホテルサッカー部」がそれぞれ設立された。

 

 これらの整備により、大都市圏におけるサッカー場の不足は解消された。この当時は過剰な整備に批判があったものの、後のJリーグ開始後はホームグラウンドの問題が少なかった事もあり、後に称賛に変わった。

 

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●中外グループのサッカーチーム(1970年頃)

(チーム名:本拠地:ホームグランド)

[旧・大室財閥]

・大日新聞サッカー部:埼玉県:足立八潮総合運動公園(埼玉県南埼玉郡八潮町(現・八潮市))

・大室物産サッカー部:東京都:国立競技場、西が丘サッカー場

・昭和生命サッカー部:東京都:国立競技場、西が丘サッカー場

・協和銀行サッカー部:東京都:国立競技場、西が丘サッカー場

・大室化成産業サッカー部:神奈川県:等々力陸上競技場、保土ヶ谷公園サッカー場、戸塚総合運動公園、磯子総合運動公園

・大室重工業横浜サッカー部:神奈川県:等々力陸上競技場、保土ヶ谷公園サッカー場、戸塚総合運動公園、磯子総合運動公園

・大室重工業堺サッカー部:大阪府:長居陸上競技場、和泉中央総合運動公園

・大室製鉄産業サッカー部:大阪府:長居陸上競技場、和泉中央総合運動公園

・大室重工業徳島サッカー部:徳島県:大室重工徳島運動場(徳島県日出市(史実では成立せず))、徳島県鳴門総合運動公園陸上競技場

 

[旧・日林財閥]

・扶桑製紙サッカー部(元・日本林産サッカー部→日林製紙サッカー部):愛媛県:日林製紙運動場(愛媛県伊予三島市)

 

[旧・日鉄財閥]

・日本鉄道興業サッカー部:山口県:山口県営陸上競技場(現・維新百年記念公園陸上競技場)




※1:これについては、1932年から始まった関東実業団蹴球大会を実業団リーグとクラブリーグに分けて実現。実業団の方は数十チームが参加する程盛況を極め、6部制のリーグとなった。クラブチームの方も15チームによる3部制となった。1941年を最後に廃止。
※2:架空のリーグ。
※3:史実の同名リーグとは異なる。
※4:プロ野球チーム・大日イーグルスの本拠地である足立球場のすぐ近くにある運動公園。大日新聞と京成電鉄による「筑波本線八幡駅周辺をスポーツパークとして開発する」計画の一環として1958年に開場。
※5:史実の1992年時点では1部12チーム、2部16チームの計28チームから成っていた。
※6:史実では建立されなかった神奈川縣護国神社が建立した為。護国神社予定地が後に三ツ沢公園として整備された経緯がある。


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番外編:この世界及び中外グループのサッカー事情(1980年代~)

 史実よりも多い参入、読売新聞と大日新聞による広告もあり、日本サッカーリーグ(JSL)の人気は史実よりも高くなった。それでも、日本代表の成績が芳しくない事、JSLの盛り上がりが今一つな事から、人気は決して高いとは言えず、観客動員数も低調だった。

 また、1980年代のJSLは矛盾を孕んだ内情となっていた。元々、JSLは実業団チーム及びクラブチームによるリーグで、選手はアマチュアで占められている事となっている。

 しかし、1970年代後半から社業よりサッカーをする時間が多い「企業アマ」が現れる様になった。1980年代には試合結果に応じて報酬を支払う事実上のプロが現れるなど、アマチュアは名目上だけのものとなっていた。

 他にも、チーム所在地が大都市圏に偏っている事、選手層の薄さなど多くの問題があった。

 

 こうした矛盾の解消と日本代表の更なる強化の為、JSLを本当のプロリーグとする計画が立てられた。これ以降、1993年のJリーグ開幕までは史実と同じになるが、最初にJリーグに所属するクラブの数が異なった。

 史実では10クラブだが、この世界では12クラブとなり、名称も「オリジナル12」となった。その2チームは以下の通りである。

 

(クラブ名:前身組織:ホームタウン:本拠地スタジアム)

・筑波ヘリオス:大日新聞サッカー部:茨城県つくば市、水海道市、結城郡石下町、筑波郡伊奈町、筑波郡谷和原村(2006年に前述の全治自体と守谷市が合併して、政令指定都市「つくば市」が誕生):筑波総合競技場

・セレッソ大阪:ヤンマーディーゼルサッカー部:大阪府大阪市:長居陸上競技場

 

 「ヘリオス」の名称は大日新聞の「大日」に由来し、「日本サッカー界の太陽たる存在」を目指してギリシャ神話の太陽神から名付けられた。当初は「アポロンズ」という名称も考えられたが、商標の問題や神話における印象が良くない事から変更された。

 また、野球チームが「イーグルス(鷲)」なので同じ猛禽類から「ファルコンズ(隼)」や「ヴァルチャー(禿鷹)」、「ラプターズ(猛禽類)」なども考えられたが、何れも野球の二番煎じ感が強かった為却下された。

 ホームタウンを大日新聞時代の埼玉県八潮市から茨城県つくば市に移転した理由として、三菱自動車工業(後の浦和レッドダイヤモンズ)が埼玉県浦和市(現・さいたま市)をホームタウンとした為である。当初、三菱はホームタウンに東京都を望んでいたが、都内の大規模サッカー場が何れも本拠地として使用出来ない事から(※1)、ホームタウンを浦和市に移す事を決定し、大日新聞は競合を避ける為に移転した。

 移転先の茨城県には、鹿島に住友金属(後の鹿島アントラーズ)が存在した為、茨城県側は大日新聞のつくば移転に当初は難色を示した。これに対し大日新聞は、筑波の施設の大改修を自費で行う事を約束した事、県の負担は殆ど無い事から県が了承した事で実現した。

 一方、三菱自動車と共に東京都23区内を本拠地として希望していた読売サッカークラブ(後の東京ヴェルディ)は、東京都稲城市のよみうりランドに隣接する自前のサッカー場を本拠地に利用出来る様に改修する事で(※3)、東京都をホームとする事が出来た。

 

 ヤンマーはJリーグ初年度からの参入となった。史実でもヤンマーはオリジナル10の候補に選ばれており(※4)、この世界でも関西でのサッカー人気を牽引してもらう存在として先に決まった松下電器(後のガンバ大阪)の対抗馬となる存在を欲していた。当初は大室重工堺が有力だったが、大日新聞が先に参入した事で中外グループとグループに近い企業が2つ同時に参入するのは拙いと見られ、土壇場でヤンマーの参入が決定した。

 これにより、ヤンマーが「セレッソ大阪」としてJリーグ初年度に参入する事となった。ヤンマーにオリジナルメンバーの座を奪われた形の大室重工堺は、1993年に同じ敷地内の大室製鉄産業と共に「レイニアス堺」を設立(※5)してジャパンフットボールリーグに参入した後、1995年にJリーグに加盟して当初の目的が実現した。

 

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 史実よりも加盟クラブが多く発足したJリーグは、ヴェルディが最初から東京都を本拠地とする、新規加盟のペースが速い、史実よりも2年早い2部制への移行などの違いはあったが(※6)、数年間は史実と概ね同じ歴史を歩んだ。また、ヴェルディが最初から東京を本拠地とした事で経営が比較的安定し、読売グループの支援も続けられた。

 大きく異なるのは、横浜フリューゲルスの身売りが存続した事である。

 

 この世界でも、横浜フリューゲルスの前身は全日空横浜サッカークラブなのは変わらないが、Jリーグ加盟の際に共同出資した相手が異なった。史実ではゼネコンの佐藤工業だが、この世界では京浜急行電鉄(京急)が出資した。京急は横浜に馴染みがある企業であり、既にプロスポーツの経営のノウハウを持っていた事(※7)が決め手となった。

 尚、京急がスポンサーとなった事で、ユニフォームに赤が差し色として使われる事が多くなったが、クラブカラーは青と白なのは変わらなかった。

 その後、バブル景気が緩やかに終息した事で、史実の様な極端な景気の悪化は回避された。これにより、全日空及び京急の経営状況は比較的安定しており、スポンサーから外れる事は無くなり、それに伴う身売り及び合併騒動は発生しなかった。

 だが、景気の終息による収益の減少の影響はあり、積極的な補強が難しくなった。また、20世紀末から10年程は主力選手の多くを放出せざるを得ない程資金不足となり、J2降格を味わっている。その後、何とかJ1に戻ったが、選手層の薄さや資金不足による有力選手の獲得が出来ず、下位に低迷し続けている。それでも、チームは存続し続けたのである。

 

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 サッカー人口が最初からやや多かった事、景気の悪化が緩やかな事から、史実よりもJリーグの加盟クラブは多くなった。その中にはこの世界オリジナルのクラブやこの世界でJリーグ加盟が実現したクラブ、史実とは母体が異なるクラブが存在する。

 

 「この世界オリジナルのクラブ」で代表的な存在がレイニアス堺である。レイニアスについてはある程度前述しており、1995年からJリーグに加盟した。加盟に際し、堺にある大室系の工場跡地に収容人数25,000人の大規模サッカー場が建設され、ここがホームグラウンドとなった。

 日本有数の企業がバックについている事、企業時代からチーム強化に熱心だった事から、加盟初年度から上位争いに食い込んだ。だが、勢いは良いが長続きしない傾向があり、上位には食い込めても優勝に手が届かない状況が続いた。それでも、強さは中堅クラスであり、常に10位以内には存在する為、加盟してからJ2への降格は一度も経験していない。

 他にも、中外系では大室物産と協和銀行を母体とした「葛埼ジェミニFC」が1998年に、扶桑製紙を母体とした「宇摩セントラルFC」が1999年にそれぞれ設立された。大室重工徳島もプロ化が検討されていたが、レイニアスとの関係から(※8)企業スポーツのまま存続する事となった。中外系以外では、西武鉄道を母体とした「ヘラクレス武蔵野」が1995年に(※9)、王子製紙樺太を母体とした「レインディア豊原」が1996年にそれぞれ設立され、他にもJリーグに加盟したクラブが存在する。

 

 「この世界でJリーグ加盟が実現したクラブ」の代表的な存在がアキュート浜松である。このクラブはHondaFCを基に設立されたチームで、駿遠鉄道がスポンサーとなった事で浜松市からの協力を仰げた。これにより史実では頓挫したJリーグ加盟が可能となり、1997年に「浜松FC」が設立され、翌年からチーム名を「アキュート浜松」に変更して参戦となった。尚、クラブ設立に伴い、浜松が母体となり狭山を吸収して設立された為、両チームは解散となった。

 ホンダ時代の強さを引き継いだアキュートは加盟した年から2部制となりJ2加盟となったが、強さはそのままだった。J2では無類の強さを誇り、1998年のJ2優勝チームとなりJ1への昇格を果たした。J1でも強さは生きており、6位前後にいる事が多かった。J1優勝はまだしていないものの近い将来の優勝が常に言われており、清水エスパルス、ジュビロ磐田と共に静岡県での熾烈な争いを繰り広げている。

 

 「史実とは母体が異なるクラブ」の代表例な存在がレノファ山口である。史実では山口県サッカー教員団が母体だが、この世界では日本鉄道興業サッカー部が母体となっている。設立も2004年と2年早く、2007年にJFL昇格、2009年から3部制になった際にJ3のオリジナルメンバーとなった。その後、2014年にJ2に昇格し、将来的にはJ1に昇格出来る様に強化が行われている一方、地元との連携強化も行っている。

 他にも、横浜FCが大室化成産業と大室重工横浜を、ギラヴァンツ北九州が三菱化学黒崎と新日鐵八幡をそれぞれ母体として成立した。スポンサーが大企業の為、共に補強が積極的に行える様になった。

 

 その他にも、日本鋼管川崎や帝人、コスモ石油四日市などが廃部になる事無く存続したり、サガン鳥栖のメインスポンサーにソフトバンクが就くなど一部クラブのスポンサーの変化があった。ソフトバンクがスポンサーにはった経緯として、読売新聞や大日新聞、西武グループといった野球でのライバルがサッカーのスポンサーをしている事、スカパーの設立によってメディアへの影響力を高めた事を活用する事から、サッカーへの参入を決めた。その対象となったのが、大口スポンサーを探しており創業者の出身地をホームとするサガン鳥栖だった。

 

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 21世紀に入り、Jリーグの人気は落ち着いた。それでも、Jリーグ加盟を望むチームは多く、史実よりも早く2部制へ、そして3部制へと移行した。これにより、2019年のシーズン開幕時のクラブ数は、J1に20クラブ、J2に24クラブ、J3に20クラブの計64クラブが存在する。将来的にはJ3の加盟数を増やしたり、J4リーグの設置構想も出てくると見られている。

 未だに赤字で経営が安定していないクラブは多いものの、Jリーグへの加盟を希望するクラブは多い。Jリーグ側もその希望に可能な限り応えようとしているものの、経営が不安定なクラブが増えてもメリットが無い為、そこの所の選別は行われいる。

 また、スポンサーがプロ野球を保有している企業が多い事から、プロ野球との交流イベントも多い。親会社が異なっても本拠地が同じチームの交流も進んでおり、新規ファンの獲得や野球ファンとサッカーファンの相互理解の場としても活用されている。

 日本フットボールリーグ(※10)の方も改革が進んでおり、加盟数を20に増やすだけでなく、J3からの降格制度の導入や強化費の増額などより対抗意識を上げる制度が導入された。これにより、Jリーグ加盟を目指していないクラブや企業チームのやる気が向上し、幾つかのチームは強化を行ったり廃部を取りやめるといった現象も見られた。

 

 野球程メディアの露出が多くないものの、メディアを親会社とするクラブが幾つかある事、史実よりも経済状況が良い事から経営が安定しているクラブが多い事から、史実よりも安定した状況にある。また、近隣の満州への対抗意識から野球だけでなくサッカーにも対抗意識が生まれ(※11)、韓国と北朝鮮、ロシアというサッカーが盛んな国と接している事もサッカー熱を高める要因となった。

 JリーグとJFL、JFL下部の地域リーグとその下部の都道府県リーグとの隔たりは大きいかもしれない。だが、Jリーグが当初の理念である地域の振興と日本サッカーのレベルの底上げを忘れず、プロとアマチュアの交流が続く限り、日本サッカーの発展は続くだろう。そして、野球に対抗出来る状況になれば、プロ野球に対する良い刺激となって良好な競争関係を築けるだろう。




※1:国立競技場を本拠地とする事が認められなかった、西が丘は収容人数不足(最低15,000人に対して約7,000人)、駒沢はナイター設備が無い事、調布サッカースタジアム(※2)は当時存在しなかった。唯一使えそうな武蔵野は西武鉄道サッカー部が本拠地としており、西武は三菱と読売と仲が悪く使用出来なかった。
※2:この世界では千住の東京スタジアムが1990年代まで残っていた為、混乱を避ける意味から「調布サッカースタジアム」となった。
※3:史実のヴェルディグラウンドだが、西武への対抗意識から拡張された。
※4:他の候補は選ばれた清水市民クラブと住友金属の他、ヤマハ発動機、日立製作所、フジタがいた。後にそれぞれジュビロ磐田、柏レイソル、湘南ベルマーレの後身となった。
※5:堺市の鳥であるモズの学名に由来。レイニアス堺設立に伴い大室重工堺サッカー部と大室製鉄産業サッカー部は解散したが、後にOBとプロ化に反対した人達が1997年に「大室堺サッカークラブ」を設立する。
※6:史実では1999年に2部制に移行した。この世界では、1997年の2部制移行時に、J1に16クラブ、J2に20クラブとなっていた。
※7:この世界の京急は「横浜京急フライヤーズ」というプロ野球チームを経営している。詳しくは「架空の財閥を歴史に落とし込んでみる」の『番外編:この世界でのプロ野球の状況(2リーグ分立直後~1970年代)』参照。
※8:Jリーグ規約により、1つの企業が複数のクラブに影響力を持つ事が禁じられている。これにより、徳島のプロ化は諦める事となり、後に大室製鉄と住友金属が合併した際に大室製鉄が持つクラブの株式の多くを大室重工と大室金属産業に譲渡している。
※9:これにより東京武蔵野シティFCは設立されず、基となった横河電機サッカー部が存続する。
※10:略称はジャパンフットボールリーグと同じJFLだが別物。ジャパンフットボールリーグはJSLの後継組織であり、後にJ2と日本フットボールリーグに発展的に分立した。その為、ジャパンフットボールリーグの方は旧JFLと言われる事がある。
※11:この世界の満州はソ連の衛星国として独立している。その為、サッカー熱が高く、ワールドカップの出場も東アジアでは最も早く、2000年頃までは世界ランクでは満州の方が上だった。


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