架空の財閥を歴史に落とし込んでみる (あさかぜ)
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1章 幕末・明治時代:財閥の形成 1話 始まり・幕末:大室財閥(1)

 明治初期、金本位制の確立や国内産業の振興を目的に設立された「国立銀行」。日本全国に153行設立され、その後、紙幣の発行業務が日本銀行に集約された事を機に、多くの国立銀行が普通銀行に転換された。代表的なものとして、みずほ銀行の前身行の1つである第一銀行(東京)、現存している中で一番番号が小さい第四銀行(新潟)、逆に一番大きい百十四銀行(香川)などがある。

 国立銀行の中で後の都市銀行や地方銀行に統合されなかったのは、番号が若い順に

・第十四国立銀行(長野→東京:存続中に広島の銀行を統合、1918年破たん)
・第二十四国立銀行(長野:1885年閉鎖)
・第二十六国立銀行(大阪:1883年閉鎖)
・第三十三国立銀行(東京:1892年実質破たん後、閉鎖)
・第四十五国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第六十国立銀行(東京:1898年閉鎖)
・第七十五国立銀行(石川:1886年に第四十五国立銀行に吸収)
・第九十一国立銀行(福井→東京:1907年に破たん後、東京に移転し京和貯蓄銀行に改称、1930年に破たん)
・第九十七国立銀行(佐賀:1899年閉鎖)
・第百七国立銀行(福島:1934年解散)
・第百八国立銀行(福島:1887年閉鎖)
・第百十一国立銀行(京都:取り付け騒ぎと無理な貸し出しにより1898年閉鎖)
・第百二十五国立銀行(山形:1897年に第百七国立銀行に吸収)
・第百二十六国立銀行(大阪:1885年閉鎖)
・第百五十三国立銀行(京都:1886年に第百十一国立銀行に吸収)

となっている。

 「もし、上記に挙げた『普通銀行に転換する前に閉鎖された国立銀行』を前身とする大銀行があったならば・・・」、という『if』を、以前考えた事がありました。
 これとは別に、私は鉄道が好きで、その中で東武鉄道の根津嘉一郎が傾いた企業の経営に参画して建て直した事を知りました。
 そこで、この2つを合わせた、「もし、架空の財閥を史実に落としたらどうなるか」と考えました。


 大室財閥、旧十六大財閥(史実の十五大財閥)の一角であり、その歴史は幕末まで遡れる。幕末の横浜から始まり、現在で言う商社から始まった。その後、明治初期に東京に拠点を移した後、銀行・新聞・保険・海運・重化学工業などに進出し、大倉や古河に匹敵する巨大財閥、三井・三菱・住友に次ぐ総合財閥として太平洋戦争の敗戦まで君臨していた。

 戦後、GHQによって財閥解体の憂き目に遭うも、GHQによる占領後、銀行を中核に他の旧財閥・コンツェルンを取り込み「中外グループ」を形成し、三菱・住友・三井・芙蓉・第一勧銀・三和の各グループと共に「7大企業グループ」を形成した。20世紀末から21世紀初頭にかけての金融再編では、中核の中外銀行が三和銀行と経営統合した事で「UFJグループ」として再編されている。

 

 さて、その大室財閥の始まりは、京都市近郊に生まれたある一人の男から始まった。巨大財閥、大室財閥の成り立ちを紹介していこう。

 

___________________________________________

 

 彦兵衛は、1832年に乙訓郡神足村(現在の京都府長岡京市)で生まれた。生家は農家でありながら、名字帯刀が許された。また、周辺農家に対する影響力も高く、周辺で生産された茶の取引も担っていたなど豪農であった。

 彦兵衛の父である久兵衛は、人格者であり地域からの信頼が厚かった。また、教育家としての面も持ち、地域の寺子屋の運営を任されており、子(彦兵衛を含め男子4人、女子2人)には特に農業や商業に関する教育も行っていた。

 

 転機が訪れたのは1859年、日米修好通商条約の締結に伴い横浜、長崎を始め5つの港が開港した。これによって、日本は海外に対して開かれる事となった。

 

 この時、彦兵衛は27歳、実家の農家と商売の手伝いをしていたが、三男である彦兵衛には実家を継ぐ事は出来ない(当時の家は長男が継ぐものだった)為、彦兵衛にとっては少々物足りない日々を過ごしていた。

 そんな時に、開港の事を風の便りで聞いた彦兵衛はこう考えた。

 

 『異国の人と取引すれば、今よりも大きくなる。今のままではこれ以上大きくなる事は無いだろう。それどころか、時流に乗り遅れて衰退するかもしれない。そもそも、自分は三男坊であり家が継げないのなら、一旗揚げるべきだろう。』

 

 彦兵衛は、横浜で商売をしたいと父に相談した。父は、『商いは、そう簡単に成功するものでは無い。ましてや、異国の人との商いによる成功など覚束ない』と反対した。しかし、彦兵衛も引き下がる事無く、現状の限界や自身の不満を父にぶちまけた。2日に亘る口論の末、父は根負けし彦兵衛の横浜行きを許した。この時、父は『仕入れ先に実家を含める事、失敗しても戻って来ない事』を条件とした。

 

 父からの許しが出た事で、彦兵衛は出発の準備を急いだ。荷物や商品、資金など必要なものは大量にあったが、父の伝手もあって年内に出発が出来た。

 翌1860年、彦兵衛は横浜に「彦兵衛商店」を出店、これが大室財閥の第一歩となった。



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2話 幕末②:大室財閥(2)

 横浜で商いをする事となった彦兵衛、取り扱ったものは茶・染料・絵の3つだった。

 彦兵衛の実家は豪農であり、そこで茶や藍や紅花といった染料の栽培をしていた。茶は、京に近い事から江戸程ではないにしろ大きな需要があり、染料についても京友禅による需要があった。また、藍や紅花などを染料に加工する紺屋も兼ねていた。その為、茶や染料を扱うのは自然だった。

 一方の絵は、彦兵衛の趣味であり、実家が紺屋である事から染料を入手し易く、自ら絵を描く事があった。また、コレクターという一面も持っており、他の人が描いた絵を集める事も多かった。加えて、1860年頃からヨーロッパで浮世絵などの日本美術が流行した所謂ジャポニズムが生まれた事から、需要が発生した。

 

 彦兵衛商店は、上記3品目を扱う現在でいう商社としてスタートした。しかし、開業して数年間は思う様に利益を上げられなかった。その理由として、仕入れにあった。

 茶や染料は実家から仕入れるが、実家は京の近郊であり、商売の場所は横浜である。船で運べれば良かったのだが、生憎彦兵衛は船を所有しておらず、物品は全て東海道経由での輸送となった。距離にして約500㎞、運ばれるのに約2週間掛かる。そして、道中には追い剥ぎ(山賊)がいた事から、金品などを運ぶのにも苦労する事となった。

 その為、納品の遅れや仕入れ元への支払いが出来なくなるという問題に悩まされる様になった。一方、この問題によって彦兵衛は、仕入れ元から納品先へ早く運ぶ方法や、万が一物品が被害を受けた時の損失を少なくする方法を考える事となるが、その成果が出るまでには暫く時間が掛かる事となる。

 

 一方、取引相手である海外の商人との取引は比較的順調だった。当時の日本の貨幣問題に、日本と欧米での金と銀のレートの差を利用した金の流出問題があった。しかし、彦兵衛が金(小判)を用いず、銀(洋銀)と銭で取引をしていた事から、その被害は比較的少なかった。勿論、無傷では無かったが、他の商人と比較して傷が浅かった事が、この後の拡大を容易に出来たと言えるだろう。

 

 出店当初は利益が出ない事もあったが、何とか経営が軌道に乗った矢先、世間を揺るがす大事件が立て続けに起きた。旧暦1867年10月14日大政奉還、同年12月9日大政復古の大号令布告、翌年1月3日鳥羽・伏見の戦いを発端として戊辰戦争勃発。徳川幕府が無くなり、天皇を中心とした政権の発足が謳われた直後に、新政府側と徳川幕府側との対立が発生した。戦争の経緯は省略するが、その中で彦兵衛はどう動いたのか。



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3話 幕末③・明治初頭:大室財閥(3)

 戊辰戦争中、彦兵衛はどう動いていたのか。動きと言えば、仕入れ元、特に実家の安否の確認だった。

 戊辰戦争の発端となった鳥羽・伏見の戦いは、京の近郊である伏見の街と鳥羽街道沿いで起きた。京の郊外で戦闘になったのなら、京の市街で戦闘が起こらない保障は無かった。また、京に近く経済の中心である大坂への戦闘の波及の可能性もあった。実際、鳥羽・伏見の戦い当時、将軍徳川慶喜は大坂城に居り、戦いに敗れた旧幕府軍の軍勢が大坂に撤退していた。そして、彦兵衛の実家である乙訓郡は西国街道沿いにある。西国街道は、京阪間の街道の1つであり淀川右岸(現在のJR東海道本線が通っている方)を通っている。淀川左岸の京街道と比較すると重要性は低いが、万が一新政府軍が両街道から進軍して、途中で戦闘になったら、実家などが被害に遭う可能性があった。

 その為、彦兵衛は実家と他の仕入れ元に安否の確認を取った。当時の連絡手段だと、迅速な連絡は出来なかった為、確認までにひと月以上掛かったが、概ね無事である事が分かった為安堵した。

 

 この戦争中、彦兵衛は新政府・旧幕府両軍に対して、物資や資金面での支援をする事は無かった。その理由は3つあり、1つ目は、彦兵衛商店そのものが食糧や武器弾薬を取り扱っておらず、経営が軌道に乗り始めた頃で資金面で不安定であった事から、支援をする余裕が無かったのであった。

 2つ目は、この戦争でどちらが勝利するか分からなかった事だった。新政府軍は錦の御旗を掲げている、つまり帝の軍隊である事を意味しており、これに刃向かうものは朝敵となる事を意味した。帝の権威は大きく、逆らうより従う方が多いだろう。

しかし、新政府の中核である薩長が、帝を誑かした君側の奸である可能性もあった。また、旧幕府側はまだ充分な兵力を残していると考えると、旧幕府側が勝利する可能性も少ないながらもあった。その為、どちらか一方に肩入れして敗北した場合、没落するのは目に見えていた。

 3つ目は、戦争の展開が早く、動こうと思う間に戦争が終わった事だった。鳥羽・伏見の戦いの戦いから江戸城開城まで約2か月であり、戦争そのものも約1年半で終結した。動いて結果が出る前に大勢が決してしまったのである。この後に出来る事と言えば、新政府軍の支援をするぐらいだが、それをすれば勝ち馬に乗じた連中と同一視されかねず、彦兵衛はそれを嫌い、戦争中殆ど支援をする事は無かった。

 これにより、旧幕府軍を支援しなかった事で没落する事は無かったが、同時に新政府軍を支援しなかった事で政商路線に乗れなくなった事も意味した。

 

 政商路線に乗れなかった彦兵衛は、別の形で事業拡大をする事を考えた。それは、倒産寸前の他の業者を買収して拡大するという、現在で言うM&Aだった。この頃、幕府と密接な関係にあった商人が、幕府の崩壊によって没落した。また、急激な変化に追いつけていない商人もいる事から、それらを取り込んで拡大する事は容易であった。

 特に彦兵衛が望んでいたのは、同業の商店と廻船問屋の2つであった。前者は、より多くの物品を取り扱う事で更なる増収とリスク分散を目的とした。後者は、自前の流通網を保有していなかった事で、仕入れ元から納品されるまでの時間が掛かっていた事からの反省であった。

 

 彦兵衛商店がM&Aによる拡大をしていた頃、巷で大ニュースが飛び込んだ。『都が、京から東京に移った』と。



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4話 明治初頭②:大室財閥(4)

 戊辰戦争中の旧暦1868年10月に、帝が東京(江戸から改称)への行幸が行われ、翌年3月に再度行われた為、東京への遷都はほぼ確実と言われた。

 彦兵衛にとって、これは絶好の機会と考えた。その理由は、東京の人口の増加と京都の地位低下だった。

 都が東京に移るという事は、中央官庁の機能も東京に移る事を意味する。そうなれば、官僚が東京に移動してくる為、その分人口が増加する。そして、人口が増加した分だけ、商売相手も増加する事になる。

 それと連動して、今まで都だった京都は中央省庁とそこに仕えていた官僚が東京に移動する事で、京都の人口は減少、特に官僚や公家などのお金持ちの多くが東京に移る事となる。「都」という特別な地位を手放すだけで無く、お金持ちの多くがいなくなってしまう事は、権威と経済的地位が低下する事を意味する。

 この2つの出来事から彦兵衛は、幾つかの考えを実行した。それは、

 

・本拠地を東京に移動。ただし、暫くは横浜を本拠地とし、東京での整備が出来次第移る。

・京都にいる商人の取り込み。取引相手の公家などが居なくなった事で困窮している可能性がある為、保護の形で傘下に入れ、規模や取引相手を拡大する。

・京都、大阪、神戸への拠点増設。横浜や東京だけでは、大阪や西日本の情報を得られにくい。尚、これは「京都にいる商人の取り込み」が進み次第、人の異動という形で行う。

 

の3つであった。

 特に重視したのは、3つ目の「京都、大阪、神戸への拠点増設」だった。その理由は、戊辰戦争での経験だった。あの時は情勢を上手く掴めなかった事で、後に勝利する新政府への支援を行えなかった為、政商路線を採れなくなった。彦兵衛自身は、政府との癒着によって政府に振り回される事を心配したが、政府と結び付く事で拡大を図れる事も考えていた為、『あの時、支援していれば・・・』という念を多少持っていた。この決断を下せなかった理由の一つに「正確な情報を持っていなかった為」と考え、勢力拡大と情報収集を目的とした新拠点の設立を模索した。

 そんな中での東京遷都であった。商店の他の人(当時、彦兵衛商店は十数人を抱えていた)は、『勢力拡大には賛成だが、地位が下がった京や大阪からの情報は必要なのか』という疑問があったが、彦兵衛は『未だに大阪の地位は衰えていない。それに、西の情報を得るのなら、西に拠点を持つ以外に無い』と答えた。一部の者はこれに賛成したが、まだ疑問に持つ人はいた。彼らに対し彦兵衛は、『これで失敗したのならば、私を殺しても構わない』と言い放ち、彦兵衛の覚悟を見誤ったと自らを恥じた事で、全体の一致で西の拠点を設ける事が決まった。

 

彦兵衛が京都に拠点を設けようとした理由の中に、極めて個人的な理由もあった。それは、実家で後継者と目されていた長兄の伯兵衛が亡くなった事だった。



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5話 明治初頭③:大室財閥(5)

 当時、家を継ぐのは基本的に長男だった。彦兵衛の実家の大室家だと、一番上の伯兵衛がそれに当たる。そして、伯兵衛自身も後継ぎとしての才覚を発揮し父久兵衛の手伝いをしていたが、体が余り丈夫で無い事が不安視されていた。不幸な事にその不安が当たってしまい、戊辰戦争後に急に体調を崩してしまい、東京遷都と同じ時期に40歳で亡くなってしまった。

 長男が亡くなってしまった為、後継ぎとして次男の仲兵衛が選ばれたが、問題は仲兵衛自身が実家の跡を継ぐ事に乗り気でない事だった。仲兵衛は学者肌であり、特に農業についての造詣が深く、栽培や耕作についての本も出している。この点だけであれば、農家を継ぐ人物としては全く問題無い所か、継ぐべき人物と言えるだろう。

 しかし、大室家は豪農であると同時に、商家でもあった。長男には商売人としての才覚があったが、次男にそれが弱かった。この点から後継者とする事が不安視された。

その為、伯兵衛の息子を後継ぎにして、仲兵衛はその補佐に当たるという案も出た。伯兵衛の子供は4人おり、内3人は男子、一番上の男子が14歳であり元服も終えていた事から、後継ぎにする事は可能だった。しかし、その息子が近所で暴れる、勉学に励まないなどの問題児であり、後継ぎとするには不適格と見られた事から、次男に後継ぎが回ってきた(庶民で長子存続が明文化されたのは1875年。それ以前は特に決められていなかった)。

 これに対し、仲兵衛個人としては、『後継ぎは弟なり兄の息子なり誰かに任せ、自分は農学に専念したい』と考えていた。

 

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 兄の葬儀の後、父久兵衛、次男仲兵衛、三男彦兵衛の3人が集まり、彦兵衛がある提案を出した。それは、『実家の生業である農業と商店を分割、農業は仲兵衛に、商店は彦兵衛にそれぞれ相続させる』というものだった。彦兵衛は、この機を利用して更なる拡大を考えた。

 この考えに、仲兵衛は乗り気だった。自分からは言い出しにくかったが、向こうから言ってくるのであれば特に反対する理由は無かった。

 久兵衛も、それぞれの強味を生かした相続になる事から大きく反対はしなかった。一方で、どちらが本家を継ぐのかという事を明確にする事を条件とした。この後起きる可能性がある、次男と三男のお互いの子供が遺産や家督の相続で揉める事を減らす目的であった。

 彦兵衛は、

 

・本家は次兄及び長兄の血筋とする

・私(三男彦兵衛)の血筋は分家筋とする

・分家筋は本家の血筋の者を養子に入れる場合、及び家督を相続させる場合はお互いの了承を必要とする

・分家筋が本家に血筋の者を養子に入れる場合、及び家督を相続させる場合も同様とする

・財産の相続についてはお互いに不干渉とする

 

事を両者に約束した。つまり、独立する代わりに、家の存続に関する事以外の事でそちらに首を出さない事とした。一応、正月や盆などには一族の者として集まる事はするが、ここで関係を切る事となった。

 尤も、これは『余り自分と深く関わらずに静かに暮らしてほしい』という、彦兵衛なりの気遣いでもあった。

 1875年、父の久兵衛が無くなると、彼は葬式に出席したものの、久兵衛の遺産(古美術品など)の一切の受け取りを拒否している。これは、彦兵衛なりのけじめであった。彼曰く、『私は本家の人間ではない。故に、遺産を受け取る資格無し』と。

 

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 兄の死とそれに伴う相続問題という暗い出来事もあったが、それをバネにするかの様に彦兵衛商店は拡大した。東京遷都の翌々年(1871年)までに、東京、京都、大阪、神戸の各拠点の設置と人員の再編成は完了した。同時に、取り扱う商品も増やした。特に重視されたものが洋書だった。

 これは、日本が近代化をするに当たり、産業や教育などありとあらゆる分野で西洋の技術が用いられる事となり、それを国内で学ぶとなれば、それらに関する書物が必要になると考えた。その考えから、横浜と神戸にある欧米の商館から洋書の購入を行い、それを政府に卸す事を始めた。

 これは一定の成功を収める事となったが、彦兵衛はある不満があった。それは、「値段の高さとそれに伴う利益の低さ」だった。洋書を欧米の商館から購入する事から、どうしても数は限られる上に値段も高くなってしまう。もう少し値段を安くできればより多く売れるのと考えた。

 この考えから、洋書の直接輸入と自家出版を思い至るのだが、これが実を結ぶのはもう少し後の事となる。



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6話 明治初期:大室財閥(6)

 兄の死後、大室家の体制は、実家は農業を継ぎ、彦兵衛は商業を継いで独立という事になった。兄の死を切欠に、彦兵衛も後継ぎについて考えた。

彦兵衛は横浜に出店した年に結婚しており、1871年当時、3人の子供(2男1女)を儲けており、現在夫人のはやが4人目を身籠っていた。しかし、この子供達が無事に成人する保障は無く(一番上の男子が9歳だった)、無事成人したとしても後継者たる才覚を持ち合わせているかどうか分からなかった。

 彦兵衛も、家業を実子に継がせたいと考えていた。その為、後継者教育の方針をこの時期に固めた。それは、「元服後、実家とは別の商店で働き、暫くしてから実家に戻り家業の手伝いをする」事だった。これは、実家で働かせた場合、「経営者の息子」である事を理由に従業員や取引相手に横暴な態度を取る事が考えられた為だった。その点、関係が無い他の商店ならその様な態度を取る事は無く、送り先も遠慮無く指導してくれるだろうと考えた。勿論、送り先の商店のスパイになって戻ってくる事も考えたが、別の視点や角度から考えられる人物を欲していた事から、メリットの方が大きいと判断した。

 この方針が彦兵衛のみならず、彦兵衛の家計の家訓として代々継がれる事となった。

 

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 1874年、ついに念願だった東京・築地への本拠地移転が行われた。築地となった理由は、外国人居留地が近い事、鉄道の駅(新橋駅、後の汐留駅)に近い事があった。本拠地の建物は擬洋風建築の3階建てであり、周辺にある商館や公的施設に負けない様に、日本の城郭風の屋根が乗っている事から、周辺からの注目を集めた。

 この数年間で、彦兵衛商店は急速に拡大した。その動きを新聞、銀行、保険、商社、海運の順に見てみよう。

 

 まずは、新聞であるが、これは同時に出版・広告代理店への起点でもあった。

 前話で、彦兵衛商店が洋書の取引を始めた事、同時に現状の取引に不満を覚えた事は述べた。そして、洋書を取引した事である事を考えるようになった。それは、『この本の内容を日本語にすれば、より売れるのではないか』というものだった。

 そう考えた彦兵衛は、洋書と同時に外国語辞典も購入し、自ら和訳したものを販売するようになった。これは、洋書の購入を減らす事による支出の低下を狙ったものだった。

 しかし、これは当初は上手く行かなかった。当時、満足な和英・英和辞典が無かった為、1冊訳すのに多くの時間が掛かった。その為、コストも洋書を購入するよりかは抑えられたもののそれでも高かった。

 それでも、この事が切欠で独自に和英・英和辞典が編纂される事となった。また、和訳された洋書を出版・販売出来る事が受けて、土木・産業・交通などの書物を内務省から、教育関係の書物を文部省からそれぞれ製作・発注の依頼を受ける様になった。この依頼によって、彦兵衛商店は両省との関係を深化させていく事となった。

 加えて、ある出来事が出版コストを大きく下げる事となった。それは、新聞社の購入だった。

 当時、無数の出版社が出てきては消えていく時代だった。これを見た彦兵衛は、経営が苦しい新聞社に『ウチが支援します。その代わりに、洋書の翻訳や出版、ウチの広告を出して下さい』と持ち掛けた。

勿論、新聞社の中には『金持ちの言いなりになりなりたくない』という理由で門前払いされることもあった。しかし、全ての新聞社がそうであった訳ではなく、財政的理由でこの話に乗ったところも多かった。都合、東京・横浜・京都・大阪・神戸で合わせて30社がこの話に乗り、その後もこの話に乗る新聞社が現れた。

 

 この話が纏まった事で、各社への資金援助と同時に、各新聞社による彦兵衛商店の広告の開始と、出版・翻訳業務への参入が行われた。当初こそ、慣れない業務への参入による不手際や、新聞社と彦兵衛商店との意見対立があったものの、次第に資金面で優位に立ち人材も送ってくるようになった彦兵衛商店側が主導権を握った。

 後に、彦兵衛商店系の新聞社が大合同し「大日新聞」となり、出版部門と広告部門もそれぞれ「大日出版」「大日堂」として再編された。また、通信部門として「大日通信社」も保有しており、他の通信社を統合していった事で、日本電報通信社・新聞聯合に並ぶ通信社となったが、1936年に全業務・人材を同盟通信社に譲渡して解散となった。



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7話 明治初期②:大室財閥(7)

ようやく、当初の目的だった『閉鎖された国立銀行を前身とする普通銀行があったら』という部分になります。


 1872年、国立銀行条例が制定され、その翌年には第一国立銀行が発足した。これにより、金と等価の紙幣が発行される事となった。尤も、紙幣を発行できるだけの金の準備が出来ない事が多く、4行の設立に止まった。これを受けて、1876年の改正によって金以外の準備でも設立可能となり、以降全国で国立銀行が設立され、最終的に153行設立された。また、国立銀行とは別に、1876年には三井銀行が、1880年には安田銀行(後の富士銀行)が設立された。

 

 この様な流れの中、彦兵衛は銀行への参画にはこの時は懐疑的であった。その理由は、銀行がどの様なものか理解出来ていなかった為であった。一応、彦兵衛商店における取引の中には両替商に似た事を行っている事から、参入は不可能では無かった。しかし、ノウハウの不足と資本面での不安から、単独での参入は不可能と考えていた。

 その為、他の銀行への出資や経営に参画する事と、銀行のみならず金融全般の勉強を商店全体で行う事で、将来的な銀行業への参入を狙った。特に、本拠地となった東京、西日本における中核拠点の大阪で設立される銀行への参画が予定された。

 この考えの下、1878年に設立された東京の第三十三、大阪の第二十六と第百二十六の各国立銀行に出資した。これが銀行業参入への第一歩となったが、この時はあくまで出資者としての参画であり、経営者としてでは無かった。

 当時、まだ彦兵衛が銀行業への知識不足から、『自分達が経営を握っても、上手く出来るかは分からない。現在は、銀行業の事を知る必要がある』と考え、海外からの知識の吸収に勤しんでいた。幸い、彦兵衛商店は洋書の取引を行っており、その中には銀行についての書物だけでなく、金融業全般や簿記についての書物もあった。それらから、銀行運営のノウハウ、投資術、簿記の付け方や活用法などを、商店の主要な人材達が4年掛けて隈なく吸収した。

 

 大きく動いたのは、1882年10月だった。出資していた第百二十六国立銀行が閉鎖するかもしれないとの知らせが届いた。この意見を受けて彦兵衛商店では、この機会を利用して第百二十六国立銀行を買収し銀行経営に参入しようとする意見と、もう少し時間をかけて学んでから参入するべきという意見で分かれた。これに対し彦兵衛は前者、つまりこの機会に銀行業に参入する事を決定した。彦兵衛曰く、『確かに、我々が学ぶべき事は多い。しかし、実際に経営してみなければ分からぬ事も多い。これを機に、我々が学んだ事を生かしてみよう』との事だった。

 

 この言葉と決定により、彦兵衛商店が電撃的に第百二十六国立銀行の経営権を掌握した。銀行側も、『少しでもお金が戻ってくるのならば、こちらも反対しない』として、この動きを止めなかった。かくして、第百二十六国立銀行は彦兵衛商店が経営権を握った。

 その後、出資していた第二十六、第三十三国立銀行も翌年までに買収して第百二十六国立銀行に一本化した。その後、第四十五、第六十、第九十七、第百十一の各国立銀行と一部の民間銀行を1898年までに買収、統合し、1900年という節目に第百二十六銀行(1898年に国立銀行から普通銀行に転換)を大室銀行と改称した。

 

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 続いて、保険業である。

 彦兵衛は、保険業への参入に意欲的だった。商人である彦兵衛にとって、倉庫の火災や船舶の沈没などによる商品の損失は避けたかった。その為、もし商品に不測の事態が発生した場合の損失を抑えられる何かがあればいいなと考えていた。この考えは出店当初から考えていたが、当時は知識やノウハウが無かった事から、考え程度で止まっていた。しかし、前述の金融業の勉強中に保険業についての書物を読んだ事で、保険業への参入は現実味を帯びる事となった。

 加えて、出店初期に外国商人の勧めで火災保険と海上保険に加入していたが、ここで保険の有用性を認識した。同時に、日本国内の保険を外国に握られるのは不味いと考え、日本人の手で保険を作れないかと考えた。

 

 こうした考えの下、1879年8月に日本最初の本格的な損害保険会社である東京海上保険(後の東京海上火災保険)が設立されたのを受けて、同年10月に彦兵衛商店内で保険業への参入が計画された。その中で、単独で設立か他社との合同で設立するかが検討された。

 単独設立派は他者からの妨害を受けない事を、共同設立派はリスクを抑えられる事をそれぞれメリットとして掲げた。共に意見として一理あった為、どちらで始めるかが中々決定しなかった。仕方なく、彦兵衛を含めた主要人物全員による多数決で決められる事となった。その結果、僅差で単独設立派が勝利した。この決定で、単独設立の方向で動く事となったが、同時にその動きは共同設立派が中心となって行う事が決められた。これは、争いで敗れたからと言って計画から外す事は無いというメッセージだった。

 こうして、1883年2月に大室火災保険が設立された。決定から設立まで1年以上掛かったのは、知識の吸収に時間が掛かった為であった。その後、前述の銀行業への参入によって一時苦しかった資金繰りに目途が立ち、新聞社への影響力拡大によって広告を出せるようになって顧客を増やす事に成功した。この後、当時勃興していた類似保険会社や後続の損害保険会社を買収、子会社化していく事で拡大を重ねていき、1925年に社名を大室火災海上保険と改称した。

 

 上記の大室火災保険とは別に、1897年に大室倉庫保険が設立された。こちらは、火災保険や海上保険を扱う大室火災保険とは異なり、動産保険を扱く事を目的として設立された。こちらも同業他社を買収していく事で拡大し、1933年に東亜動産火災保険と改称した。この頃には、安田財閥系の日本動産火災保険(後の日動火災海上保険)、野村財閥系の東京動産火災保険(後の大東京火災海上保険)、東京川崎財閥系の日本簡易火災保険(後の富士火災海上保険)と合わせて「動産四社」と呼ばれた。

 

 生命保険の参入は遅かった。これは、ノウハウの不足と庶民の生命保険に対する理解不足からだった。その為、当初は参入する予定は無かったが、大室火災保険が買収した保険類似会社の中には、生命保険に類するものを運営するものが多かった。これらをそのまま廃止すると混乱が生じる事となり、かと言って、お門違いのものを扱う気も無かった。結局、同じ類似保険会社の共済五百名社(後の安田生命保険)と、日本初の近代的な生命保険会社として設立された明治生命保険に売却した。

 しかし、その後の明治生命の成功と生命保険業の拡大を見て、生命保険への参入が急がれた。当時、大室火災保険が買収した損害保険会社の中に、生命保険も兼営している会社があった事から、これらの生命保険部門を分離させて、1895年に東亜生命保険として設立した。その後、他の生命保険を買収して拡大し、日本・第一・明治・帝国(後の朝日生命保険)・千代田・安田・三井・住友の各生命保険と共に「九大生保」に名を連ねた。




明治初期だけでなく、その後の事についても多少書きました。展開が急ぎすぎていると思いますが、申し訳ありません。


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8話 明治初期③:大室財閥(8)

 彦兵衛商店が設立して以降、時間と共に規模や業績は拡大していった。主な事業内容は商社と海運業だった。

 

 商社部門は、彦兵衛商店の祖業と言える。設立当初から扱っている茶や染料、美術品に、その後洋書や国内開発や産業開発用の機械や資材も扱う様になった。洋書については前述しているが、それ以外の機械や資材の取引は、外国の商館を吸収する事で獲得した。

 明治に入ってしばらくすると、日本に進出したは良いものの利益を上げられない商館も出てきた。利益を上げられない以上、店舗を置き続ける事に意味は無い為、引き上げるものも多かった。

 これに彦兵衛商店は目を付けた。外国の商館が持っている代理店の機能や販売ルートを利用できれば、取り扱える商品の種類を増やす事が出来る上に、輸出先も増やせると踏んだ。勿論、逆に利用されて買い叩かれるという意見もあった。だが、ここは積極姿勢で行くべきという彦兵衛の熱意によって、撤退する商館の買取に走った。

 結果的にこれが功を奏した。三井物産や大倉組(後の大倉商事)、高田商会には劣るものの、国内の商社では前述の3社に次ぐ規模に拡大した。主要取引先は、洋書の取り扱いで繋がりを得た内務省と文部省、産業振興を行っていた工部省である。内務省・工部省向けに各種機械や鉄道用資材、鉱山用資材を、文部省向けに教材が納められた。特に内務省・工部省向けの納品は、当時両省が「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下、国内の開発に勤しんでいた時期であった為、大きな需要があった。

 しかし、1880年代半ばになると、官営の工場や鉱山が民間に払い下げられた事、それによって工部省が廃止された事で大きな需要を失ってしまう。これによって、彦兵衛商店の業績は悪化するかと思われたが、そうはならなかった。

 

 1880年代半ばは、後で言うところの「第一次鉄道ブーム」であった。日本鉄道(現在の東北本線や常磐線などを建設した会社)から始まり、日本各地で鉄道会社が設立され、日本中に線路が敷かれた時期だった。つまり、鉄道を造る上で必要になる線路や車輛、枕木などの需要が高まっていた。そして、当時の日本でこれらを自作出来る能力は無かった為、輸入するしかなかった。

 そして、彦兵衛商店は内務省・工部省関係で鉄道用資材の輸入経験がある事から、この需要に乗っかる事が出来た。その為、彦兵衛商店の被害は最小限で済む所か、彦兵衛商店が自前の銀行を持っている事から、銀行による出資と合わせて、資材と資金の両面で鉄道会社に強い影響力を有する事が出来た。この時の経験から、鉄道会社との関係を強めていく事となる。

 

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 彦兵衛商店では幕末から明治にかけて、廻船問屋を多数吸収した。これによって、自前の流通機能を有する事が出来、今までネックだった仕入れ元(京都周辺)から店舗(横浜)への時間を大幅に短くする事が出来た。明治が10年程経過してもそれは変わらない所か、仕入れ元を増やす事が可能となり、扱う品や量を増やす事による増益も出来た。加えて、佐賀の乱から始まり西南戦争までの士族の反乱では、微力ながら物資や兵員の輸送に関与して、この時に陸軍や海軍とのパイプを形成する事に成功した。

 その一方、当時の日本近海の海運は、三菱系の「郵便汽船三菱会社」と三井・政府色が強い「共同運輸会社」に二分されていた。両社は後に統合して日本郵船となるが、当時はがっぷり四つに組んでの大激闘を繰り広げていた。共同運輸会社の運航開始は1883年1月(設立は前年7月)であり、日本郵船の設立は1885年9月の事の為、約2年半の間で共倒れになるのではと言われる程激しい競争が行われていた。

 両社の競争が行われていた頃、彦兵衛商店の海運部門は特に何もしていなかった。政治的影響力や資金力の面で三菱に勝つ事は不可能と悟っており、極力競争しない分野(地方間航路や自社の貨物だけを扱うなど)に進出した事で何とか生き残った。

 

 拡大こそ小規模だったが、海運部門も十分に稼ぎ頭だった。一方、日本郵船の設立は、再び国内航路が独占になるのではという恐れから、彦兵衛商店では海運部門の拡大強化に乗り出した。同時に、彦兵衛商店の海運部門を「大室船舶」として独立させた。これは、海運部門が大きくなり過ぎる事による経営資源の配分問題、彦兵衛が商社部門に注力したかった事に起因する。

 

 この時、彦兵衛は自力での船舶建造を考えた。現在保有している船舶は、全て外国からの輸入であり中古も多かった。国内で建造したものは多くが帆船であり、汽船が多い日本郵船や海外の海運会社と競争するには不十分だった。その為、自力での船舶建造を考えたのだが、三菱と異なり造船所の払下げを受けていない事から、自前で造船所を建設しなければならなかった。流石にそこまで自力で行うのは負担が大き過ぎる事から、この時は諦める事となった。自前の造船所を有するのは、日清戦争後の1899年まで待たなければならなかった。

 

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 上記2つの業務に加えて、彦兵衛商店ではある事が重視されていた。それは「情報」である。戊辰戦争時の経験から、情報を素早く手に入れる事で決断を下しやすくなると学び、急速に発展する新聞を見て、情報を素早く集める手段になると睨んだ事で、多くの新聞社を傘下に収めた。そして、東京・横浜・京都・大阪・神戸に出店した事は、より多くの情報を複数の目線で見る事を目的としていた。それだけ、彦兵衛は情報を重視した。

 この為、彦兵衛商店内に独自に経済・治安・風習などを調査する部署が設けられた。商社と海運は、国内各地で取引を行う事から、調査をするのに打って付けだった。調査部門は長らく商社の一部局として存在しながらも、海運部門や金融部門とも緊密な繫がりを持っていた。




次からは、大室財閥とは別の財閥の話になります。数話使うかもしれません。「なぜここで?」と思うかもしれませんが、

・時系列順に並べたい
・戦後に中外グループとして合流する

事が理由です。その為、大室財閥とは無関係ではありません(戦前だと繫がりは弱い)。

次回も見てください。


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9話 明治中期:大室財閥(9)

申し訳ありません。当初予定の別の財閥の話ですが、考えを纏める内に明治初期(明治10年代)では合わない事が分かりました。その為、大室財閥に関する話が続く事となりました。読者を裏切ってしまい申し訳ありませんでした。

また、今回の話は7話の後半に書いた保険会社の事が多くなります。1度書いた部分ですが、今回は設立の経緯を少し掘り下げています。


 大室財閥は、1880年代までの業種は商社・海運業・銀行・保険(損害保険)・新聞の5つだった。これだけでも、当時から見れば多角的な経営を行っていると見られただろう。これが更に多角化していくのは、日清戦争以降の事となる。少し時を進める事となる。

 

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 1894年、日清戦争が勃発した。東アジアの大国清との、朝鮮半島の主導権を巡る戦いが始まった。詳しい結果はここでは述べないが、日本が勝利した。その講和条約である下関条約によって、朝鮮半島の独立や賠償金の獲得、台湾と澎湖列島、遼東半島の割譲が決定した。

 

 この戦争中、大室財閥が行っていた事は兵員・物資の輸送ぐらいだった。海運業を行っていた為、朝鮮半島に送る兵員や物資の輸送に動員された。

 しかし、この時の動員である事実が出た。それは、「船が徴収されると、自前で活用できる船が殆ど無い」事だった。実は、彦兵衛商店が所有している船は、自分達の需要を満たす程度しか無かった。その為、今回の様な事態が発生すると、会社の経営が危うくなると見られた。実際、戦争中の商社部門の売り上げが、前年比2割減だった事を考えると、この事態は危険だった。

 その為、以前考えられていた「自前の造船所を保有する」計画が実行に移される事となった。場所は、堺が選ばれた。その理由は将来の事を考えて拡大しやすい事、鉄の加工に慣れた人材が多い事にあった。前者は言うまでも無いが、後者については少し説明しておこう。

 堺では、戦国時代から鉄砲の生産で知られており、刃物の生産でも有力な場所であった。加えて、この世界では堺の刀鍛冶や鉄砲鍛冶が合同して「堺鉄鋼金物」という会社を1888年に設立している。大室商店はこの会社と合弁という形で、1895年に「堺造船所」を設立した。この翌年に造船奨励法が交付され、造船所の建設に補助金が出る事も追い風となった。その後、造船所の建設が行われ、1899年に造船所としての機能がスタートした。

 ここで最初に建造された船に「大室丸」と名付けられた。1902年に竣工、総トン数は1200トンと小さく性能も平凡だったが、初めて建造した事に意義があった。この船は都合4隻建造され、彦兵衛商店の海運部門に投入された。

 

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 生命保険と動産保険が設立されたのもこの頃だった。

 生命保険は、当初こそ『人の生死を操れる』といった迷信があった事から不調だった。実際、大室財閥も一時近いものを持っていたが直ぐに手放している。しかし、前述した様に明治生命の成功によって、1890年までに帝国生命と日本生命が設立された。この3社の成功と日清戦争による死傷者の増加によって生命保険が軌道に乗れる条件があった事から、生命保険への参入が急がれた。当時は生命保険会社が乱立していた時期であり、この流れに遅れると先発会社に契約を取られ、経営が安定しないと考えられた為だった。

 こうして1899年に、大室火災保険が買収した保険会社の生命保険事業を分離・新設する形で「東亜生命保険」を設立した。当初は、大室財閥各社の社員とその家族を対象とした小規模なものだったが、その後は、日清戦争後に乱立した生命保険会社を買収する事で拡大し、銀行や商社の支店網も活用して日本各地で活動する様になった。加えて、この後の日露戦争や日本経済全体の拡大に伴い急速に規模が拡大し、千代田生命や帝国生命と肩を並べるまでになった。

 

 もう一つの動産保険は、倉庫業を始めた事と関係する。中核企業の彦兵衛商店内に、倉庫部門が設置された。これにより自社だけでなく、広告などで取引関係となった他者の荷物を扱う様になった。

 しかし、1893年に所有していた倉庫が火災で全焼、荷物も全て焼失する事件が起きた。発火原因は、自社の社員のタバコの不始末であった。これにより、彦兵衛商店は取引先に荷物の焼失に対する責任を負わなくてはならず、最終的に彦兵衛商店の謝罪と多額の賠償金によって決着した。

 これを機に、荷物が火災に遭っても被害を最小限に抑えられる保険、つまり動産保険を扱う会社の設立が検討された。当初は大室火災保険に任せる案もあったが、1社に集中させると万が一被害が多数発生した場合、保険金の支払いでショートする可能性を考えると、動産保険を担当する保険会社を別個で設立した方が良いと判断された。その結果、1897年に「大室倉庫保険」が設立された。

 大室倉庫保険はその設立目的から、当初の顧客は自社と自社と取引のある会社には限られていた。その為、規模としては小さかったが、万が一倉庫や荷物に被害があっても補償が発生する事が口コミで広がり、自然と保険加入者が増加していき、年々契約数も増加した。これにより大室倉庫保険は、彦兵衛商店や大室火災保険と並んで大室財閥の中核をなすようになった。



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10話 明治中期②:日林財閥(1)

ここから、大室財閥とは別の財閥になります。時系列的に書く予定の為、流れが途切れる事となります。しかし、この財閥のこの時期が過ぎれば、再び大室財閥に戻ります。

本来であればこちらを先に投稿したかったのですが、大室財閥の1880年代から90年代までの流れを途切れさせない方が良いと考えた事、当初は1880年代に入れようと考えましたが、設定を考えると1890年代になってしまう事から投稿が遅れました。
申し訳ありませんでした。


 日林財閥は、日本の中小財閥の1つである。「日林」という名前から分かる様に林業を主体としていたが、林業だけでなく農業や畜産といった一次産業、木材加工や家具製造、製糸業など木材を使用した工業が日林財閥の主要産業となる。

 戦後、日林財閥は財閥解体の流れで解体されるも、旧大室財閥と共に中外グループを形成した。これは、日林財閥の銀行部門である「日本林商銀行」が、戦時統合で大室銀行に吸収された為である。

 

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 日林財閥の創設者は、高田邦久という。彼は1832年生まれの広島藩の藩士であった。明治維新後、彼は明治新政府の下級官僚として活躍していた。

 しかし、東北視察の為、1888年に仙台まで開業したばかりの日本鉄道(後の東北本線)に乗車した際、その沿線風景を見て彼は思った。『山に木々が見当たらない。そして、誰もそれに危機感を持っていない。これではこの国の行く先は危ういのではないか』と。彼は武士出身ではあったが、広島藩時代に植林事業に携わっていた経験から農業や林業に明るかった。新政府に入ってからも、広島藩時代の経験を活かし林政部門で活躍していた。彼から見れば、日本は現在は近代化に邁進しているが、いずれ足元から掬われるのではと考えた。

 不幸な事に、この考えは杞憂に終わらなかった。明治以降、日本各地で鉱山の開発が進んだが、それによって山が消滅したり、鉱石を精錬する際に出る煙によって山が禿山になるなどして川の氾濫が相次いだ。

 彼はすぐさま官僚を辞め、植林と伐採を行う事を決意した。

 

 邦彦の第一歩は、苗木の育成からだった。植える木が無ければ植林自体が出来ない為である。彼が目を付けたのは、栗や各種どんぐり、マツとキリの4つだった。これらは、里山に生えており種子の確保がしやすかった事と成長が早い事から選ばれた。彼は、自分と自分と志を同じくする者達でそれらの種子を各地から集め、自宅の近く空き地で育てた後、一定程度まで育ったら、鉱山とその周辺部や鉄道沿線の荒地に植林した。これは、鉄道会社に対しては『枕木用の木材を提供する』、鉱山会社に対しては『木材の売却益の一部を渡す』という条件で協力してくれた事が大きかった。

 植林事業は数年、長ければ十数年の時間が掛かる事業の為、直ぐに結果が出ない。同士の中には痺れを切らす者もいた。それでも、鉱山を経営している会社や個人との営業を積極的に行った結果、足尾や小坂、伊豆など多くの植林先を獲得出来た事、最初に植樹した木が伐採可能になった事から、僅かながら利益を出す事が出来た。

 

 日清戦争後の1898年、邦彦は「日本林産」を設立し、今まで同士らと行っていた植林・伐採事業をそちらに移した。つまり、個人事業から法人化したのである。これは、経営範囲が拡大した事で個人活動では限界に差し掛かった事、外部資本を導入する事で事業の大規模化を狙った事にあった。

 同士の中には、金目当て目的になる事を嫌った者も出た。邦彦自身もその考えに反対しなかったが、同時に『お前らを養う事、そして日本全国で行おうと考えると、この方法しかない』と反論した。これにより、法人化反対派が抜ける事となったが、その数は少なくなかった。抜けた人達の意見としては、『金儲け主義になりたくない』『営利目的になる事から、逆に山を禿山にする』というものだった。邦彦もこの意見を聞き、会社の精神に『十年、二十年、百年先の事を考えよ。目先の利益に囚われるな』と加えた。林業は長いスパンで行うのであって、その事を忘れたら林業では無くなるという戒めであった。

 

 反対派の離脱もあって、日本林産のスタートは細やかなものとなった。しかし、株主を見るとそうとは言えなかった。なぜなら、主要株主に日本鉄道や古河本店、藤田組などが名を連ねていた為であった。日本鉄道については何度か出ている事から説明は省くが、古河本店と藤田組については少し説明する。

 古河本店は、古河市兵衛が設立した会社であり、鉱山と精錬を行っていた。古河本店は後に古河鉱業と改称し、日本の準大手財閥の一つである古河財閥の中核企業となる。日本林産との繋がりは、足尾銅山での植林事業に助力してくれた恩から来ている。もう一つの藤田組は、藤田伝三郎が設立した会社であり、日本林産との繋がりは、小坂鉱山と市ノ川鉱山での植林事業を手伝ってくれた事だった。

 

 巨大鉄道会社と2つの有力鉱山会社がバックに就いた事で、日本林産の信用力は比較的高かった。実際、この信用力を担保にして資金を借りたり、営業を行ったりするなどして、規模の拡大に勤しんだ。日本林産は設立したばかりで規模が小さく、このままではジリ貧になると見られた為であった。




林業については素人の為、間違った考えをしているかもしれません。しかし、素人ながら考えた結果が、本編での日本林産の行動になりました。


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11話 明治後期:大室財閥(10)

日露戦争の回となる為、人の生死に関する記述があります。また、海軍に対する批判もある為、気になる人がいるかもしれません。その点を注意して下さい。


 1904年、日露戦争が勃発した。この戦争は事実上の総力戦となり、日本は官だけでなく民もその力を総動員した。戦争は1年以上続き、最終的に日本はロシアに勝利した。しかし、薄氷の上の勝利であった。ロシアと揉めた朝鮮半島は日本の勢力圏となり、ロシアから南樺太と遼東半島を含めた南満州の権益を獲得し、オホーツク海での漁業権を獲得した。しかし、外債を含めた国債の大量発行によって大量の借金を作り、当てにしていたロシアからの賠償金が無かった事から、日露戦争後の日本は借金返済に悩まされる事となった。

 

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 日露戦争中に大室財閥が行っていた事は、日清戦争時と同様に兵員・物資の輸送に加えて、国債の引き受けだった。しかし、前回と異なり今回は大室財閥もそれ相応の被害を受けた。それは、ロシア海軍の通商破壊だった。

 日露戦争時、ロシア海軍は二手に分かれていた。遼東半島の先端部の軍港旅順に太平洋艦隊(旅順艦隊)が、ロシア極東の港湾都市ウラジオストクに巡洋艦を主力とした高速艦隊(浦塩艦隊)が置かれていた。日本海軍の目は、戦艦を多数有する旅順艦隊に向けられていた。陸軍が満州方面に進む上で、補給路の確保や後方の安全という意味では旅順艦隊が邪魔だった。一方、浦塩艦隊はそこまで重要視されなかった。主力艦が巡洋艦が数隻しか無かった為だった。

 しかし、日本海軍は浦塩艦隊の対処に手間取った。旅順艦隊への対処に注力し過ぎた事で、浦塩艦隊にまで手が回らなかった為だった。そのツケは大きかった。主戦場となる南満州への兵員・物資輸送で使用していた日本本土から朝鮮半島までの海路が、浦塩艦隊によって何度も襲撃された。それによって、南満州に送る予定の物資や兵員が途中で沈められるといった事が多発した。それだけでも問題だったが、更なる問題として浦塩艦隊が日本沿岸に出没し、航行中の船舶の撃沈や拿捕が発生、極め付けは東京湾付近にまで進出した事だった。これに対し国民は激怒し、海軍の無能を呪った。最終的に、浦塩艦隊は蔚山沖の海戦で壊滅的打撃を受けた事でその後の活動は低迷した。

 

 戦争が終わった後、彦兵衛は現状に不安を感じた。その理由は2つあり、海軍が浦塩艦隊にいいようにされた事を気にしていない現状への不安と、船舶や人員に被害があったのに補償が無い事だった。

 彦兵衛は戦争後、『海軍がバルチック艦隊を破った事を祝うのは良いが、浦塩艦隊にいい様にやられた事を忘れているのではないか』と考える様になった。確かに、ロシアの本国艦隊であるバルチック艦隊を相手に日本海軍は大勝した。しかし、浦塩艦隊にいいようにされていた事は、この大勝利の陰に隠れてしまった。彼は経験から、負け戦から学んで次に備える事が重要である筈と考えていた。つまり、浦塩艦隊に撃沈された常陸丸の悲劇を繰り返さない様に、通商護衛を充実させるべきではと考えた。実際は、日本海軍は日本海海戦の勝利から艦隊決戦を重視する事となり、通商護衛については二の次とされた。

 彦兵衛はこの状態に冷や水をかける為に、日本政府と軍部に「通商護衛の充実」という意見を出した。そして、単独では簡単にあしらわれる事を見越して、日本郵船を含めた撃沈された船舶の持ち主と連名で提出した。

 これに対して、軍部の意見は分かれた。海軍の多くは、日本海海戦の勝利から艦隊決戦思想に移っており、この意見に歯牙にも掛けなかった。

 一方、陸軍と海軍の一部はこの意見に賛成した。陸軍は、常陸丸事件の記憶が鮮明であり、あれが無ければ満州での苦戦は和らいでいたのではと考えていた。海軍の賛成派も、自分達の不手際で海路が分断され国民から批判された事から、それを避ける為にも通商護衛に力を注ぐべきではと考えた。

 これにより、陸軍と海軍、海軍内の艦隊決戦派と通商護衛派に分裂し、あわや組織の分裂という事態に成りかねなかったが、両軍の重鎮と時の政府が仲裁に乗り出し、解決策も取られた。それは、「鹵獲したロシア艦をロシアに売却し、その浮いた維持費や人員で護衛部隊を創る。艦艇の多くは旧式艦艇とし、主力艦隊の艦齢を一新する」という、艦隊決戦派と通商護衛派の両者の面子を立てたものとなった。勿論、ロシアの軍事力の復活への恐れや海軍拡張を唱える者の反対もあったが、それについては軍の重鎮と政府の圧力で潰した。

 こうして、通商護衛部隊の設立がされると思われたが、戦後不況によってこの動きは低調だった。この動きが再び大きくなるのには、第一次世界大戦まで待たなければならなかった。

 

 もう一つの「船舶や人員に被害があったのに補償が無い事」については、国会でも問題になった事案だった。朝鮮半島や南満州だけでなく日本近海も戦場となり、一般人にも被害が発生した。加えて、開戦となってロシアから退去させられた日本人の存在もあり、彼らの補償問題をどうするべきかに政府は直面した。

 最終的には、1909年に退去者に対する救恤(補償金や見舞金など)だけが決定し、船舶やそれに付随する被害については補償されなかった。政府の言い分としては、「金が無い、被害もよく分かっていないから補償出来ない」というものだった。政府の言い分も分からないでは無かったが、だからと言って一切の補償無しというのは納得行く筈も無かった。

 彦兵衛は、終戦後から沈んだ自社の船舶の遺族や被害を受けた会社に対する補償を自費で行った。国が行ってくれないのなら、自分が行うしかないと考えた為だった。足りない資金は、自宅や自分名義で所有する土地を売却するなりして工面した。大室銀行や大室火災保険、東亜生命保険はこの事態に憂慮し、彦兵衛の反対を押し切る形で彼に資金援助をした。

 

 彦兵衛はこれ以降、『国の為に死ぬのも奉公だが、自らが持つ知恵を生かして、国に尽くす為に長生きする事もまた一つの奉公』と考える様になった。そして、社員の死に対して敏感になる様になった。




この話で歴史が変わりました。史実では、旅順艦隊の着底した艦やバルチック艦隊の鹵獲艦を日本海軍の籍に入れましたが、この世界では、それらの艦艇はロシアに売却し、その分の資金や人員を通商護衛部隊に投入しています。また、海軍主力艦艇の整備が多少早まります。
民間からの要請で動くのかと考えましたが、事態を深刻に考えた重鎮(陸軍の大山巌や山縣有朋など、海軍の山本権兵衛など)が賛成した為、反対派も矛を収めざるを得なかったとしました。都合が良すぎると考えていますが、この世界の日本は多少甘く設定している為、細かい点は見逃して下さい。


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12話 明治後期②:大室財閥(11)

 日露戦争によって被害を受け、国から補償を受けられず、自社の被害の補償を行った事で、大室財閥全体の傷は大きかった。しかし、この行動が大室財閥の信頼を上げる結果となり、後の躍進に繋がったと言えるだろう。

 私財をなげうって補償をした事が、『社員を家族の様に大事にしている』と捉えられた。一方、『国が補償しなくても、大室さんなら補償してくれる』というスケベ心がある者もあったが、これはこれで取引相手や保険の契約数、融資先の増加に繋がった。

 

 日露戦争後の大室財閥が行った事は、発生した被害の穴埋めとその為の拡大、組織の近代化の2つだった。

 日露戦争によって、彦兵衛商店が保有していた船舶に被害が生じた。目立つものでは、大室丸型貨客船の3番船「築地丸」が沈没し、その他大小合わせて4隻が沈み3隻が損傷を受けた(内、1隻が修理不可と判断され廃船)。この被害の穴埋めと老朽化が著しかった船舶の一新、海外航路の開拓を目的として、3千トン級の貨客船を10隻近く建造する計画を立てた。

 勿論、これだけ大量に建造するには資金や資材が不足する上に、所有している堺造船所の現状では造船能力も不足しており、ノウハウも不足していた。その為、他の造船所に発注を依頼する事も考えた。当時、日露戦争後の不況によって造船所の能力を持て余し気味だった為、交渉が纏まれば発注する予定だった。

 能力では最も高かった三菱の長崎造船所(後の三菱重工業)は、自社向けの船舶の建造やライバル企業向けの船舶は造れないという意向で発注されなかった。しかし、長崎造船所に次ぐ能力を有する川崎造船所(後の川崎重工業)や、鉄船の建造能力がある東京石川島造船所(後の石川島播磨重工業)と横浜船渠(後に三菱重工業が買収)が発注に応じてくれた。これにより、堺造船所と川崎造船所で3隻ずつ、石川島と横浜船渠で2隻ずつ発注された。

 これらの船は1910年から次々と就航し、彦兵衛商店が保有していた旧式船舶を次々と更新した。これにより、積載量の増加と輸送速度の向上による経費の削減、海外航路(東アジア・東南アジア航路)への進出が可能となった。

 

 彦兵衛商店の海運部門の両・質の両面で拡大したが、商社部門についてはそれ程拡大しなかった。元々、軍との繫がりが弱かった為、兵器の輸入や軍への納品が少なく、高田商会や大倉組の様に、軍と密接にある商社の様な急速な拡大をしなかった。それでも、鉄道用資材や工作機械などの輸入を手掛けた事、国内の取引相手を囲い込んだ事で緩やかではあったが拡大を続けた。

 

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 1908年、彦兵衛商店は組織改革を行った。それは、

 

・彦兵衛商店は「合名会社大室本店」と改称し、商社部門と海運部門を分離、銀行や保険などの株式を保有する純粋持株会社とする。

・商社部門は「大室物産」、海運部門は「大室船舶」と命名し株式会社化する。

・それ以外の銀行や保険などの子会社も株式会社化し、大室本店の傘下に収める。

 

の3つだった。目的は、組織の近代化と有限責任とする事で事業を守る事だった。

 今までの形態では、組織の拡大と柔軟な対応が難しくなるとの彦兵衛の判断からだった。彦兵衛自身は大室本店のトップに収まり、大室物産と大室船舶の社長には、彦兵衛商店時代からそれぞれの部門のトップが引き継いだ。

 また、有限責任とする要因に、皮肉な事に日露戦争後の補償と関係する。補償の影響で、彦兵衛自身の資産は大きく減少した。彦兵衛商店と大室銀行などは、多少の出費はあったものの財務状況は悪化しなかった。しかし、当時の彦兵衛商店は彦兵衛が無限責任を負っていた。その為、仮、ここで彦兵衛が破綻していていた場合、彦兵衛商店も破綻した可能性があった。それを回避する為、今回の分離策が採られた。

 

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 彦兵衛商店の組織改革と同じ年に、日露戦争後の補償の一環として、貯蓄銀行と弱体保険への進出が行われた。これは、戦争によって夫や息子を亡くした家族が困窮するのを抑える目的に行われた。当初は、社会事業の進出も考えられたが、彦兵衛の資産が減少した事でこの時は出来なかった。

 

 貯蓄銀行は普通の銀行と異なり、法人などの大口需要を対象とせず、市民を対象とした零細な需要を対象とする。その為、預金の下限額も低く設定されており、預金の使用目的も国債や金融債などの証券に限られる。彦兵衛は『僅かな預金でも将来の安息を』と考え、貯蓄銀行への参入を実施した。

 行名を本店が置かれている場所(大室本店内)から「築地貯蓄銀行」と名付け、同じ大室財閥系の第百二十六銀行や東亜生命保険などの支店網を活用して、京浜・京阪神地区での活動を行った。また、大室財閥の各企業と同じ様に、他の貯蓄銀行を買収する事による規模の拡大と預金集めに余念が無かった。これにより、規模の面では日本有数の貯蓄銀行として名が知られる様になったが、当初の目的であった戦争未亡人などを対象とした預金集めは上手く行かなかった。

 

 もう一つの弱体保険は、戦争から帰還し除隊した兵士を対象とした。一般的な生命保険では、重傷を負った人や病気の人は加入出来ないという欠点があった。それを穴埋めする目的で、弱体保険の設立を目指した。

 社名は「日本弱体生命保険」として、本社は東亜生命保険本社に同居する形となった。当初は、弱体保険のノウハウが無かった為、海外から弱体保険会社の社員を雇って指導してもらう事や、海外の書籍で学ぶといった事から始まった。数年に及ぶ教育の結果、当初の目的だった退役兵士を対象とした保険加入は少なかったが、今までの生命保険では入れなかった人も入れるという事から、その様な人を対象とした加入者が増加した。

 

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 大室財閥は、1908年の組織改革を以て近代的な組織に生まれ変わった。基幹事業として、彦兵衛商店時代からの商社と海運業、拡大を続ける銀行や各種保険の金融業、躍進著しい造船業が挙げられる。

 同時に、日露戦争の悲惨な現状を知り、弱者に対する支援も打ち出した。銀行や保険の整備、社会事業への進出に代表される。

  1912年7月30日、明治天皇崩御。この出来事を以て「明治」という時代は終わり、「大正」へと進む。




今回の内容は雑となってしまい、見にくいかと思います。
今回の内容を簡単にすると、

・船舶の自社発注と外注の実施
・彦兵衛商店分離、財閥化
・社会的弱者に対する事業の開始

と言ったところでしょうか。


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13話 明治後期③:日林財閥(2)

 会社設立後、植林と植林した木の伐採だけでは採算に乗らないと邦久は判断した。その為、更なる拡大と新規事業への進出が計画された。具体的には、

 

・未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収

・他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ

・製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給

・新規事業への進出

 

の4つである。

 1つ目の「未開発の山林や売却に出されていた国有林の買収」は、未開発の山林が多かった東北地方と北海道で中心に行われた。東北地方は、戊辰戦争の影響もあり開発が低調だった。『白河以北一山百文』と言われた程、東北地方の開発が遅れていた。一応、殖産興業の流れから、鉱山とそれに付随する産業の開発、鉄道の敷設こそ進んだが基本的に産業は農業と林業であり、関東や京阪神、東海などの地域とは比較にならない程遅れていると言わざるを得なかった。

 しかし、それによって山林の買収がしやすい事でもあった。そして、東北は秋田杉や津軽ヒバ、会津桐など有名な木材の産地であり、奥羽山脈など山岳地帯が多い為、木材の供給源としては有力な場所だった。そして、この買収が計画された時期(1900年代前半)は、日本鉄道や官営鉄道の奥羽本線が開業していた事から、輸送路が整備されていた事も大きかった。

 もう一つの北海道も、当時の日本でほぼ唯一の入植地(台湾は日清戦争で獲得したものの、治安の問題があった)であり、開拓が急速に進められた時期であった。その為、森林を切り開き開拓をするというスタイルで、平野部の開発が進んだ。一方、まだ内陸部の開拓は進んでおらず、急峻な山岳地帯が多い事から、大量の木材が眠っていると見られた。しかし、当時の北海道の鉄道は北海道炭礦鉄道と北海道鉄道(共に後の函館本線)しか無く、内陸部や太平洋側には鉄道が通っていなかった。その為、その地域での交通は徒歩や河川、船舶となった。

 これらを加味して、北海道への進出は沿岸部を中心に進出しつつ、本格的な進出は鉄道が整備されてからという事となり、暫くは東北での足場固めとなった。勿論、東北・北海道以外でも、林業が盛んな四国や中国山地、紀伊半島や中部地方内陸部の山林を買収した。これにより、日本林産及び社長の高田邦久は「山林王」と呼ばれた。

 

 2つ目の「他の民間鉄道や鉱山会社から出資を仰ぐ」は、そのままの意味である。1つ目の事と連動しており、当時、日本各地に張り巡らされた民間鉄道の沿線で経営を行い、枕木の供給や貨物輸送への協力を条件に出資してもらう事を考えた。これにより、巨大な資金を手に入れると同時に、日本各地に営業拠点を有する事となる。鉱山会社に対しても、治水面での利点や売り上げの一部を渡す事を条件に出資してもらう事とした。

 この時の民間鉄道は、関西鉄道(現在の関西本線など)や山陽鉄道(現在の山陽本線など)、九州鉄道(現在の鹿児島本線や佐世保線など)など現在の幹線路線を敷設しただけに、資本力も巨大だった。そして、出資者も元藩主や公家などがいる事から、信頼性も高かった。鉄道会社側としても、需要が急増している木材の輸送に関われる事は増益になるとして、各社の金額の多寡はあっても出資に応じてくれた。これにより、鉄道沿線での営業範囲は広がった。

 一方、鉱山会社からの出資は、中小規模のものが多い事や経営者の無理解などにより多くを得られなかった。最も期待した三菱や三井からの出資を受けられ無かった事も大きかった。しかし、鉄道会社からの出資が多かった事から、この事は大きなマイナスとはならなかった。

 

 3つ目の「製紙業への進出、または製紙会社への原料の供給」は、20世紀に入って製紙業が勃興した事と関係する。明治以降、洋紙の需要が高まり、19世紀までに王子製紙と富士製紙という戦前の巨大製紙会社が設立された。当初は襤褸切れを原料としていたが、次第にパルプを原料とする様になった。日本林産はここに目を付けた。つまり、原料を売り込む事で巨大な需要に乗っかり利益を得るというものだった。

 または、巨大な需要があるのだから、自前で進出すればその利益を自分のモノに出来るという考えもあった。これは、王子・富士の両社は自前の山林を持っている事から、売り込む事は難しいとされた事に由来する。

 その為、邦彦は両者の意見の折衷案を出した。つまり、「中小の製紙会社向けに原料を売り込むと同時に、自前の製紙会社を設立、機を見て売り込み先を合併する」というものである。この考えにより、1902年に日本林産内に製紙部を設立し、製糸業に進出すると同時に、中小の製紙会社に対してパルプの売り込みを積極的にかけた。これが功を奏し、3社の製紙会社が日本林産の事実上の傘下に収まった。その後、1926年に日本林産製紙部が「日林製紙」として独立し、子会社製紙会社を取り込んだ。

 

 4つ目の「新規事業への進出」は、製紙業以外の分野への進出である。当初から、枕木や建材への加工は行われていたが、当時の日本で持て囃される様になった西洋家具、合板の製造に進出する事が計画された。これは、付加価値の向上、機械的な加工が製紙業と比較して少ない事から、製紙業よりも進出しやすいとされた。特に、西洋家具の製造は、木工細工の技術を応用出来ると考えられた為、より容易であるとされた。

 これを受けて、1902年に日本林産内部に木工部が設立された。当初の製品は、加工の甘さや接着剤の不備で失敗作が多く、木工部は赤字続きであった。その為、初期には廃止の計画さえあったが、技術の蓄積や本物の西洋家具を見本として制作する事で、独自に洗練された製品を世に送り出す事が出来る様になった。ここで製造された西洋家具は、鉄道会社や鉱山会社の貴賓室や社長室などに置かれる様になった。

 尚、この時の接着剤の不備から『自前で強い接着剤を作れないか』と考える様になり、後の木材化学への進出の始まりとなる。

 

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 日露戦争は、日林財閥にとって躍進の時だった。戦争という巨大な需要が発生する現象が起こり、ほぼ同時期に植林した木々が伐採可能になった事が重なり、会社設立以来最大の利益を叩き出したのである。そして、この利益を使って負債の処理を行っている。急速に規模が拡大した事で利益を拡大出来たが、同時に負債も拡大した。この負債によって、日本林産そのものを潰しかねないと邦久は考えた。その為、利益を上げている内に負債を処理する必要があると考えた。

 この考えは当たり、日露戦争後による不況で多くの企業が減益や倒産に陥る中、日本林産は減益となったものの、会社が大きく傾くまでには至らなかった。ここに邦久の慧眼があったと言えるだろう。

 

 しかし、日本林産の社長であり多角化戦略を打ち出した高田邦久は、1909年2月12日に76歳で亡くなった。彼の遺書により、後継者に息子の博久を指名し、社員は息子を支える様にとされた。

 息子の博久は、財務状況を考えた上での拡大多角化路線という父の路線を踏襲した。これにより、日本林産は地道ながらも拡大を続けられた。



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14話 明治後期④:日鉄財閥(1)

もう一つ、私はある『if』を考えていました。それは、『もし、鉄道国有法で買収された鉄道会社が解散せず、新たな事業を行ったら』です。
これは、「北海道炭礦鉄道」が買収された後、残った炭鉱業などを行う「北海道炭礦汽船(北炭)」に改称して存続した事から考えたものです。北炭が残ったのは他の事業があった為ですが、北炭が残れるのならそれらより大規模な日本鉄道や山陽鉄道、九州鉄道なども存続出来た筈と考えました。
そこで、今回考えたのが、日本鉄道や山陽鉄道などが合併、新しい事業を行う会社に改編するというものです。有力会社が何社も合併した為、北炭より大規模となります。


 日鉄財閥とは、日本の中小財閥の一つである。「日鉄」とあるが、戦前の国策製鉄会社「日本製鐵」やその後身の「新日本製鐵」とは関係無い。この「日鉄」は、「日本鉄道」から来ている。つまり、東北本線や常磐線を開通させた日本鉄道が、路線を国有化された後に他の業種へ参入した事から始まった。尤も、名称こそ日本鉄道だが、会社の母体は中央本線の新宿~八王子を開業させた甲武鉄道であり、日鉄も「日本鉄道興業」の略である。

 

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 日本鉄道以外にも甲武鉄道や関西鉄道、山陽鉄道や九州鉄道、北海道鉄道など当時の有力民間鉄道が前身となっている。それらが、1906年3月に制定された鉄道国有法によって同年10月から翌年にかけて買収され、鉄道会社としての使命を終えた。

 しかし、この中で日本鉄道の大内輝常、甲武鉄道の佐田幸甫、関西鉄道の阪田孝右衛門、山陽鉄道の文田清喜、九州鉄道の加西清兵衛、北海道鉄道の田川清助の6人が偶然にも同時期に、『このまま会社を解散させるのは惜しい。この資金と基盤を基に何か新しい事業を行おうではないか』と考えた。6人が一堂に会したのは1906年2月の事で、鉄道国有法が制定される可能性があると知り、会社から『政府の情報を細かく伝えよ』という命を受けていた。これにより、6人が東京に集まった。東京の宿場で彼らは偶然出会った。ここで、自分達の所属や考えを話し合った。

 ここでお互いの考えている事が同じだと判断し、もし買収された場合は新事業を打ち立てようではないかと画策した。同時に、他の被買収鉄道会社も統合させて、日本全国に展開しようとする事も構想された。その為、6人は鉄道国有法制定後から他の買収予定会社に『鉄道が買収された場合、残った会社を地域発展の為に使わせてほしい』とお願いした結果、多くの会社が了承してくれた。その条件として、株主に加わる事と社員を入れる事だったが、6人としても人手が欲しかった事から快諾した。

 

 1906年10月1日、北海道炭礦鉄道と甲武鉄道の買収から始まり、翌年の10月1日までに17社が買収された。他の5人が所属する日本鉄道、山陽鉄道、九州鉄道、北海道鉄道、関西鉄道も17社に含まれた。この為、2月の会合で話し合った事が実行された。

 最初に買収された甲武鉄道を「日本鉄道興業」に改称してスタートした。その社長に大内輝常が就任した。彼は日本鉄道所属だが、改称時に日本鉄道を退職して就任した。彼が他の5人を纏めた為推挙された。その後、日本鉄道や関西鉄道なども合流し規模を急速に拡大した。

 事業内容は重工業、土木建設、金融事業、鉄道以外の運輸事業の4つを柱とする事が決められた。

 1つ目の「重工業」は、元鉄道会社という事から車両の整備の経験を活かしたものだった。また、甲武鉄道が電車を運用していた事から、電気機器の製作も含まれる。その為、社内に車輛部、機械部、電気部の3つの部門が設立された。

 尤も、官営鉄道は民間鉄道を買収した事で大量の車輛を確保しており、車輛が統一されるまでの数年間は発注が無い事は分かっていた。その為、蒸気機関車の技術の応用と電車の技術を利用して、ボイラーと発電機の製造に着手する事となった。工場は、上野の機関区の一部を借りた。

 しかし、運用や整備の経験はあっても製造の経験は無かった為、試行錯誤の繰り返しだった。ボイラーは、圧力不足で規定以上の馬力が出なかったり、造りが甘くて破裂するなどのトラブルが多発した。発電機の方も、直ぐに破損したり出力不足が相次いだ。その為、一時は閉鎖も検討されたが、海軍から技術者を呼び指導してもらう事で問題の解決に乗り出した。これは田川清助の考えであり、彼の兄が海軍機関学校で教官を務めていた事から実現した。海軍側としても、機関の製造元は多い方が良いと判断した。

 これにより技術的問題は解決し、海軍とのパイプを作る事に成功した。これが後に、造船や航空機産業に手を出す事に繋がった。

 

 2つ目の「土木建設」は、建設こそ行わなかったが、その後の補修についてのノウハウがあった。それと、当時建設に関わていた人を集める事で、土木事業への進出を図った。鉄道建設では必須となるトンネルや橋梁、駅舎などの建設・補修経験を生かして、今後増加するであろう鉄道建設や道路建設、大型建築に関わろうというものだった。その為に内部に設立されたのが土木部だった。

 この事業は早くから結果を出した。鉄道建設は、鉄道国有化と私設鉄道法の基準の厳しさによって新規の鉄道事業者が一時的に減少したが、1910年に制定された軽便鉄道法によって再び鉄道ブームが到来、ほぼ同時期に軌道条例に基づき路面電車により都市間輸送を行う路線が多数計画される軌道ブームも到来した。この2つのブームが重なり、多くの受注を獲得する事となった。これにより、土木部が設立当初の日鉄の一番の稼ぎ頭となり、他の部門への注力が可能となる程だった。

 因みに、この軌道ブームで誕生したのが、関東では現在の京急、京王京成、関西の阪神、阪急、京阪の各社となる。

 

 3つ目の「金融事業」は、鉄道会社向けに出資する目的があった。その為、内部に金融部が設立された。金融部の目的は、鉄道会社向けの融資と鉄道会社が発行した株式の引き受けだった。上記の鉄道ブームと軌道ブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かないと思われた。

 しかし、鉄道の免許こそ大量に交付されたが、会社として設立されていないものも多数あった。加えて、以前の鉄道ブームにもあった「実際には建設する気は無く、免許を他の会社に売る事を目的に取られた免許」が多数あると見られた為、出資には慎重だった。その為、この金融事業が拡大するのはもう少し後の事となる。尤も、この時既に将来有望な会社や路線を幾つかリストアップされている。

 

 4つ目の「鉄道以外の運輸事業」は倉庫業、小口の貨物輸送の2つを指す。倉庫業は、大規模な鉄道駅には貨物駅も併設される事があり、その為の倉庫の運営となる。小口の貨物輸送は、町や村から駅へ、またはその逆の輸送を担当する事となる。これらを目的とした「倉庫部」と「荷物部」が設立された。

 この事業も土木部並みとは言わないものの成功した。倉庫部は、町の貨物駅に付随する倉庫は小規模かつ短期間の使用の為赤字だった。一方、鉱山や港湾の貨物駅だと、大量のモノを長期間保管する必要がある事から大きな需要があった。加えて、それらの利用者が大口の顧客である事も大きな利点だった。

 荷物部は、貨物量の増加によって利用者も増加した。しかし、倉庫部と比較すると小口の利用者が多い事から、利益は倉庫部と比べると小さく伸びも小さかった。

 

 この4つの事業によって、日本鉄道興業は重工業、土木、金融、陸運をそれぞれ抱える大規模な企業となった。そして、幾つかの偶然と必然によって日本鉄道興業の発展の礎が築かれた。その様な中で明治は終わり、大正に入る。

 

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 尚、日本鉄道興業はその前身(日本鉄道や山陽鉄道など)の影響で、日本林産の株を所有している。この事から、両社は事業の分業体制(日本林産は第一次産業と軽工業、日本鉄道興業は重化学工業、金融などは並立)が取り決められた。




6人の日本鉄道興業内での役職

大内輝常(元・日本鉄道):「社長」
佐田幸甫(元・甲武鉄道):「副社長」兼「電気部部長」
阪田孝右衛門(元・関西鉄道):「金融部部長」
文田清喜(元・山陽鉄道):「車輛部部長」兼「機械部部長」
加西清兵衛(元・九州鉄道):「倉庫部部長」兼「荷物部部長」
田川清助(元・北海道鉄道):「土木部部長」


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番外編:人物紹介(明治時代まで)

遅くなりましたが、ここまで出てきた人達の簡単な紹介です。
内容は結構適当な所があります。


〈大室財閥〉

・大室彦兵衛(1832~)

 大室財閥の創設者。現在の京都府長岡京市生まれ。1859年、彼が27歳の時に、日米修好通商条約の締結により横浜など5つの港が開港した事を機に、横浜への出店を思い立つ。翌年、彦兵衛商店を開店。大室財閥では、この時を開業年としている。

 その後、海運・銀行・保険などに進出するも、戊辰戦争以来軍との関係が薄い事から、軍需という巨大な需要を逃している。代わりに、内務省などとの繋がりを有しており、その方面での需要を確保している。

 財閥全体の方針としては、「拡大と社会奉仕」を掲げている。

 彼は生涯、妻・「はや」との間に3人の息子と1人の娘を儲けた。親の顔としては、子に対して教育に熱心であり、社会教育についても、大室系の企業ではなく他の企業で学ばせている。その為、子供に対して厳しいと見られるが、家族だけには子煩悩な面を見せる。

 日露戦争によって、彼は死に対して否定的になる。そして、社員に対し「死して殉ずるより、生きて祖国の為に行動せよ」と考える様になる。

 

・大室久兵衛(1808~1875)

 彦兵衛の父。彼は地元の名士であり、豪農や庄屋を営んでいた。また、寺子屋の運営を任されており、子供たちに対する教育が熱心だった。これが、彦兵衛が独立する要因となる。

 

・大室長兵衛(1828~1868)

 彦兵衛の兄。久兵衛の後継ぎとして期待されていたものの、体が生まれつき多少弱く、遷都のショックで亡くなってしまった。亡くなった当時、3人の息子と1人の娘がいたが、長男の素行不良が目立った為、家長が仲兵衛に回った。

 

・大室仲兵衛(1830~)

 彦兵衛の兄であり、長兵衛の弟。長兵衛が亡くなった事で、後継ぎのお鉢が回ってきた。尤も、彼は後継ぎとしての才覚が無い事を自覚していた為、彦兵衛との間で農家と庄屋を分割し、仲兵衛は農家を継いだ。

 

 

〈日林財閥〉

・高田邦久(1832~1909)

 日本林産の初代社長であり、日林財閥の創設者。

 1832年に広島藩の藩士の家系に生まれる。彼の家系が広島藩の林業に携わっていた事から、彼も家業に関わった事で林業に関する知識を有している。戊辰戦争後、新政府の官僚となり、政府きっての林政通となる。

 その後、鉄道の開業や鉱山の開発で山の木が無くなり、中下流域で川の氾濫が増えた事を機に官僚を辞め、日本全国の植樹と植樹した木の伐採を行う事を決意した。同士数人で始まり、資金の多くも鉄道会社や鉱山会社からの借り物でスタートした。

 個人事業で始めた植林と伐採の事業は、1898年に設立した日本林産に移行した。この時、古参の同士が去ったものの、更なる出資を得られた事で社員は増加した。この時、邦久は社訓として「長期的に考えて行動せよ」と定めている。

 日本林産設立後、更なる規模の拡大や新規事業の進出を実行、これにより財閥化への目処を立たせた。しかし、この時の激務が原因で倒れてしまい、そのまま回復する事無く1909年2月16日に76歳で亡くなった。

 

・高田博久(1860~)

 邦久の長男であり、日本林産の2代目社長。

 父・邦久の遺書により社長に就任、就任当初は父の路線を踏襲した。

 

 

〈日鉄財閥〉

・大内輝常(1861~)

 元・日本鉄道の社員であり、日本鉄道興業の社長。尾張藩出身。

 彼が他の5人と東京で会った事が日鉄財閥形成の発端となり、社長就任の理由となった。

 

・佐田幸甫(1858~)

 元・甲武鉄道の社員であり、日本鉄道興業の副社長兼電気部部長。小田原藩出身。

 彼は甲武鉄道時代に電車の整備をしていた経験があり、甲武鉄道が最初に買収された事からこの役職となった。

 

・阪田孝右衛門(1863~)

 元・関西鉄道の社員であり、日本鉄道興業の金融部部長。大阪の商人出身。

 実家は有力な両替商であったが、明治維新後に廃業してしまった。しかし、親族は他の両替商や金融機関に入る事に成功、この伝手を生かして金融業の強化に乗り出す。

 

・文田清喜(1859~)

 元・山陽鉄道の社員であり、日本鉄道興業の車輛部部長兼機械部部長。中津藩出身。

 蒸気機関車や船舶の整備士という経験からこの役職に就いたが、整備と製造の違いは大きく、田川清助の助けを借りた。

 

・加西清兵衛(1860~)

 元・九州鉄道の社員であり、日本鉄道興業の倉庫部部長兼荷物部部長。博多の商人出身。

 実家が呉服店であり、反物などの仕入れのネットワークを生かし、荷物取扱量の増加を狙う。

 

・田川清助(1865~)

 元・北海道鉄道の社員であり、日本鉄道興業の土木部部長。米沢藩出身。

 彼の実家が大工であり、彼自身も北海道鉄道時代に工事の監督の経験をしていた。また、彼の兄が海軍機関学校の教官をしている事から、彼の兄の伝手を使って海軍から機関や電気などの技術提供を受けた。



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2章 大正時代:拡大と停滞と 15話 大正時代:大室財閥(12)

 1913年1月16日、大室財閥の創設者である彦兵衛が81歳で亡くなった。彦兵衛の葬儀は、彼の遺言により財閥の者だけで行われる筈だった。これは、彼が華美な事を好まなかった事から、派手な葬式や多数の参列者が来る事を嫌った為だった。

 しかし、彦兵衛死去の知らせを聞いて取引先の企業や中央省庁(内務省と文部省、内務省から分離した農商務省、逓信省、鉄道院)の幹部クラスの面々が参列した。当初、財閥側は彦兵衛の遺言を理由に彼らの参列を拒否したが、彼らは『せめて線香だけでも上げさせて欲しい』と猛烈にお願いし、彼らの熱意に負けて線香を上げる事を許した。

 葬儀の後に、遺産の配分が行われた。後継者については生前に決められており、長男の忠彦を大室本店の総帥に、次男の匡彦を大室物産の社長に、三男の淳彦を大室海運の社長にそれぞれ任命している。

 こうして、大正に入るとほぼ同時に、大室財閥は新体制を迎えた。

 

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 大正に入り、彦兵衛の息子達による新体制が発足した後も、大室財閥の動きに真新しいものは無かった。精々が、ヨーロッパでの拠点の増加だった。

 大室財閥は彦兵衛商店時代の1892年に、ロンドンとハンブルクに初めての海外拠点を設けた。これは、彦兵衛商店がヨーロッパの商館の日本支店を吸収した事で、ヨーロッパ、特にイギリスとドイツとの取引を持った事から始まる。当初は、商館時代のルートを使ってヨーロッパから車両や機械などを輸入していたが、取引量が増え彦兵衛商店の力が増えるに従い、中間手数料や手間を煩わしく思う様になった。そこで、直接進出すればその煩わしさから解放され、その分のコストを他の方面に投入出来るのでは考えた。そして進出したのが、取引量が多かったイギリスとドイツであり、取引の中心であったロンドンとハンブルクだった。

 その後も、ベルリンやパリなどヨーロッパの主要都市にも進出する様になったが、彦兵衛の晩年の1909年から急速に進出が拡大した。アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の主要都市に出店し、既存の支店の人員も増加させた。これは、彦兵衛が『ヨーロッパがきな臭い』と睨んだ為、つまり取引では無く情報収集の為の拠点だった。

 兄弟も、父から情報の重要性を何度も聞かされており、特に忠彦は過去に株取引で大損した経験から、情報収集に躍起になっていた。

 

 この動きは無駄にならなかった。拠点設立後、バルカン半島と東地中海では何度か戦争が発生し、開戦した事や交戦国内の情勢を大室本店に報告した。

 古くからヨーロッパの懸念であったバルカン半島問題が、1908年にオスマン帝国内で起きた青年トルコ人革命によって最高潮になった。革命によって以前から顕著だったオスマン帝国の内政不安が高まり、この隙を突く様に、セルビアやブルガリア、ギリシャのバルカン諸国が動き出し、その支援に列強(特にロシアとオーストリア)も動いた。

 1911年9月、リビアを巡ってオスマン帝国とイタリアが戦争を開始(伊土戦争)、これに乗じる形で1912年10月と翌年6月にバルカン半島でも戦争が発生した。12年10月の第一次バルカン戦争ではオスマン帝国対バルカン同盟(セルビア・ブルガリア・ギリシャ・モンテネグロ)、13年6月の第二次バルカン戦争ではブルガリア対セルビア・ギリシャ・モンテネグロ・オスマン帝国・ルーマニアとなった。

 戦争の結果は、伊土戦争と第一次バルカン戦争ではオスマン帝国が、第二次バルカン戦争ではブルガリアが敗北した。この結果、オスマン帝国はリビアをイタリアに割譲し、ヨーロッパから殆ど追い出された。ブルガリアは、オスマン帝国から割譲されたマケドニアをセルビアとギリシャに奪われた。

 

 これらの情報を得た事で、大室財閥は取引の増減や先物取引によって利益を上げたが、戦争終了後にはバルカン半島・東地中海方面での取引を減少させ、一方で情報部門を強化させた。二度に亘るバルカン戦争でもバルカン諸国の要求を満たすものでは無く、未だに不満は燻っていた。そして、この戦争でオーストリアとロシアがそれぞれの後ろ盾として動いていた事から、次にこの方面で戦争が起きた場合はもっと大規模になると予想した。

 この予想は現実のものとなり、その結果も最悪な事となった。

 

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 1914年6月28日、オーストリア領となったサラエヴォでフランツ・フェルディナント大公夫妻がセルビア人民族主義者によって射殺された。サラエヴォ事件である。(大公が諸事情で王位継承権が無いとはいえ、皇族が殺された事で)オーストリアは、この事件の背景にセルビア軍が関わっていると知りセルビアを非難、反オーストリア活動の全廃やセルビア国内での共同捜査などを要求した。セルビアは、国内にオーストリアの警察や司法が入る共同捜査については呑めず(それ以外については呑んだ)、オーストリアはこれを理由に国交を断絶、7月28日に宣戦布告した。

 このまま、オーストリアとセルビアの戦争で済めば良かったのだが、今までギリギリの均衡を保っていたヨーロッパ列強同士の緊張が、これを機に崩れてしまった。セルビアの後ろ盾のロシアが総動員を実施し(当時の考えでは、総動員の実施は宣戦布告一歩手前の行為に当たる)、これに釣られる様にオーストリアとドイツも戦争準備を実施、更に釣られてフランスとイギリスも戦争準備を実施した。こうなってしまえば後は止まらない。8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、各国も対立国に宣戦布告し戦争状態に突入、後に言う「第一次世界大戦」の始まりだった。




3月25日に一部大幅変更しました。

変更前
「イギリスのリバプールにエディンバラ、ドイツのケルンにダンチヒ、オーストリアのプラハにトリエステ、フランスのマルセイユ、イタリアのミラノなど、ヨーロッパ各国の中小都市に多数進出する様になった。」

変更後
「アムステルダムやローマ、ウィーンなどこれまで進出していなかったヨーロッパ各国の首都に出店し、既存の支店の人員も増加させた。」

よくよく考えたら、こんな短期間に多数出店、しかも中堅都市への進出なんて不可能でした。それよりも、他のヨーロッパの首都への出店と人員増加の方が現実的です。


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16話 大正時代②:大室財閥(13)

今回は随分とゴチャゴチャとなってしまいました。その為、非常に読みづらいですが、多少でも理解していただければ大丈夫です。


 1914年8月1日、第一次世界大戦(当時は欧州大戦と呼んでいた)が勃発した。日本は日英同盟により同月23日にドイツに宣戦布告した。この戦争で、日本は直接的に戦火に曝される事が無かった事、ヨーロッパで膨大な物資が消費される事などから好景気に沸いた。これにより、日露戦争後から続いた慢性的な不況は消え、日露戦争で積み上げた膨大な外債も解消される所か、ヨーロッパの国々の国債を引き受ける様になった。

 大室財閥もこの恩恵を受け、物資の輸出や輸送で大室物産と大室海運が急速に拡大し、他の部門も拡大した。しかし、財閥の中枢にいた忠彦・匡彦・淳彦の三兄弟はある懸念があった。それは、「ドイツの潜水艦による通商破壊で、船舶が撃沈される事」と、「工作機械や電気製品など、日本で製造出来ないものが入ってこない事」だった。

 

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 「ドイツの潜水艦による通商破壊で、船舶が撃沈される事」は、日露戦争の浦塩艦隊の悪夢の再来と言えた。浦塩艦隊の様に、日本近海で暴れまわられる事は無かったものの、地中海や北東大西洋ではドイツのUボートが暴れており、連合国に所属する船舶が相次いで撃沈された。当然、日本も例外ではなく、ドイツ海軍によって靖国丸や常陸丸(2代目)などが撃沈されている。大室船舶でも芙蓉丸(日露戦争後に建造された3000t級商船の1隻)が撃沈されており、数十人の死者を出している。

 

 その為、大室財閥は再び「通商護衛の為の組織作り」を提言している。そして今回も日本郵船が加わり、前回とは異なり三井物産や三菱商事、鈴木商店など大規模商社も連名で提出した。

 この提言は日露戦争後に一度、陸海軍と政府に提言している。この時は、戦後不況や理解不足などで研究程度に留まった。しかし、今回はその時とは比較にならない程厳しい戦闘となり、地中海で通商護衛に当たっていた第二特務艦隊に被害が出た事で、司令官佐藤皐蔵を始め通商護衛派が『今こそ護衛部隊の充実を図るべき』と主張した。

 この議論の中で、『日本は通商立国であり、その為には商船が必要となる。しかし、戦争となればその商船に被害が生じる。それを守るのも海軍の仕事ではないのか』という意見が出された。当初は適当に流されるかと思われたが、日露戦争で第二艦隊に所属していた将校の中からこの意見に賛成する者が出た。そして、この賛成の意見に陸軍と政府も好意的に評価した事から、海軍としても反対する訳にはいかなくなった。

 

 この結果、海軍は第一次世界大戦の終結も踏まえて、計画していた「八八艦隊」の計画を大きく変更した。そして、海軍の作戦目的の中に「戦時における商船の保護」が加えられた。

 

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 「工作機械や電気製品など、日本で製造出来ないものが入ってこない事」は、まだ充分な重工業化が為されていない日本にとっては致命傷だった。造船業や製鉄業は勃興したものの、化学や電機の分野では弱かった。そして、当時の電機産業の主要国であったドイツとの戦争は、それらの輸入が完全に無くなる事を意味した。その為、大室財閥が考えたのは、「機械や電機、化学の技術を海外から導入、もしくは模範による国産化」だった。

 

 こうした考えの下1918年に設立されたのが、電機部門の「大室電機産業」と化学部門の「大室化成産業」である。尚、大室電機産業は、大室重工業(堺造船所が他の造船所や機械工場を合併した事で、1917年に改称)から電機部が独立して設立された。また、大室化成産業は、国内の中小化学・染料メーカーを買収・統合して設立した。

 

 こうして、新たに電機と化学を持った大室財閥だが、新設の両社は規模こそ其れなりなものの、技術力が低い事が課題だった。その為、技術力の向上を目的に、海外の同業者からの技術供与を受けた。大室電機には1922年にドイツのAEGから、大室化成も同じ年に同じくドイツのバイエルからそれぞれ出資を受けると共に、技術供与やライセンス生産を認めてもらった。これは、大室物産が戦後ドイツに再進出した際に、ドイツ企業に『日本での営業を強化しないか』と提案した所、敗戦によって困窮状態にあった企業が新たな収入源を欲した事と合致して成立した。また、古河財閥がシーメンスと合弁で富士電機を設立した事も影響した。

 これにより、海外の新技術の獲得に成功し、国内の他社との競争にも有利になると見られた。




この世界の日本海軍が、艦隊決戦一辺倒から転向した理由は、以前も述べた「浦塩艦隊によって、日本近海を荒らされた事」から来ています。次回当たりで、日露戦争後の日本海軍の事について書こうと思います。


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17話 大正時代③:日鉄財閥(2)

 大正に入り、日本鉄道興業は2つの事に注力する様になった。それは、鉄道会社への出資と既存事業の拡大強化である。

 

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 時代が明治から大正に移る前後、日本全国では鉄道や軌道の免許を取得する事がブームとなった。詳しい事は前に述べた為省略するが、このブームによって鉄道会社が多数設立され、出資先には事欠かなかった。この中で最大の出資先が、関東の中央軽便電気鉄道だった。

 中央軽便電気鉄道、武州鉄道と言った方が分かりやすいだろうか。史実であれば、1910年11月に中央軽便電鉄名義で免許を申請、その後は資金難や東京側のターミナルの場所で揉めるなどのトラブルがあり、1924年に蓮田~神根間が開業したものの、最後まで東京側の延伸が叶わず、利用客の低迷や銀行の貸し剥がしなどによって1938年9月に廃止となった。

 この世界では、日鉄が出資した事で資金の目処が付いた事で史実よりも2年早く開業し、加えて1927年に赤羽まで開業させた。ただし、この赤羽は国鉄の赤羽駅では無く、王子電気軌道(後の都営荒川線など)の岩淵町(現在の赤羽岩淵駅)の事である。これは、武州鉄道と王子電軌が共に京成系の会社である事と関係している。

 これにより、東京側の拠点を有した事で武州鉄道は廃止されなかった。しかし、王子電軌との接続が達成されたが、武州鉄道の改軌・電化は行われず、戦時統合によって東武に統合された後にようやく電化が始まる事となる(東武に買収後、赤羽線と改称)。

 

 武州鉄道以外にも多くの会社に出資し、路線によっては傘下に収めた。出資の例では、温泉電軌(後の北陸鉄道加南線)へ出資し、史実では未完成となった粟津(恐らく粟津温泉)~小松間を完成させた。他にも、後の駿遠線を敷設する各社(藤相鉄道と中遠鉄道)に出資し静岡~浜松間の路線に転換させた。

 傘下に収めた例では、神奈川県の平塚から大山へ延びる大山鉄道、同じく平塚から八王子へ延びる八平軽便鉄道の両社を買収し、1912年に「相模中央鉄道」として統合させた。

 

 これらの活動が多く行われた事で日鉄の金融部は急速に拡大した。これにより、機械や電気などの事業部門と金融部門が一緒である事が不都合であるとされ、1916年に金融部が独立した。融資部門が「日本鉄道銀行」として、証券部門が「日鉄證券」としてそれぞれ独立した。

 また、これらの活動は、免許が大量に交付される1920年以降、盛んに行われる事となる。

 

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 鉄道向けの投資だけでなく、事業部門でも拡張を続けた。その中でも最大のものが、1915年に「日本興業」を買収し電気部に吸収した事と、1916年の大室財閥との提携である。

 

 日本興業は、才賀電機商会を前身とする電気会社であり、創業者は「電気王」と呼ばれた才賀藤吉だった。才賀電機商会はその名前通り、地方の電力会社や日鉄と同じく地方の鉄道会社への投資を目的とした会社であった。その為、才賀電機は電機会社では無かったが、地方の電力会社への機材納入や技術支援のノウハウがあった。

 当時、才賀電機は財務状況の不透明さが発覚し多くの不良債権を抱えていた事から、早急な再建案が求められた。史実では、懇意だった日本生命と北浜銀行(三和銀行の前身行の1つ)に出資を求めたが、日本生命の引き上げと北浜銀行の破綻が原因で倒産した。

 この世界では、出資団の一員に日鉄が参入し、上記2社が引き上げた後は日鉄が傘下に収めた。その後、人員やノウハウを全て継承する形で、日鉄電気部に吸収された。

 

 1916年、大室財閥が日鉄に出資と電気事業での協力を持ち掛けてきた。これは、日鉄にとっては突然の事だった。今まで、日鉄と大室財閥との関係は無きに等しかった為である。

 しかし、日本有数の財閥である大室財閥とのパイプを作れる事は大きく、この誘いを断る事は難しかった。相手の思惑は分からない上に、財閥の紐付きになる事に抵抗を示すものもいたが、巨大銀行を背景とした資金力と造船所を有する事による生産能力の高さは魅力的であった。また、単独で拡大した場合よりもリスクが抑えられる事と資源を注力し易くなる事などが考えられた。

 最終的に、日鉄はこの誘いに乗った。しかし、日鉄への協力か合弁会社の設立かから始まり、大室から派遣される役員の数、社名などの問題が中々解決せず、交渉だけで1年以上掛かってしまった。

 最終的にこの交渉は、大室財閥側が1918年に「大室電機産業」を設立した事で打ち切られてしまった。しかし、日鉄が大室電機の株を、大室重工業(大室電機の母体)が日鉄の株をそれぞれ15%持ち合う事だけが決められた。

 

 この時は両者は物別れに終わったが、この出来事で日鉄は大室財閥との繫がりを有する事となった。その後、戦争直前から戦時中にかけて、急速にその繋がりを深くする事となる。

 

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 第一次世界大戦は、日本経済にとっては日露戦争以来の不況を吹き飛ばす絶好の機会だった。日鉄もその恩恵を受け、金融部門や電気部門が急速に拡大した。

 しかし、同時に困った事でもあった。その理由は、「資材の高騰」である。戦争によって膨大な軍需が発生し、特に鉄は多くが戦争の為に供給された。

 一方、その分民需用の鉄の供給量が減り、値段も高騰した。加えて、土地の値段も高騰し続け、鉄道会社にとっては極めて建設しにくい状況だった。

 この様な状況では、日鉄としても出来る事は少なかった。精々、値段が下がるまで活動を休止させ、その後に資材調達や土地の買収を行うぐらいしか無かった。



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番外編:この世界での日本海軍(日露戦争後~第一次世界大戦)

今回は説明の為、非常に長いです。加えて、「書きたい事を多く詰め込む」という私の悪い癖が出てしまった為、回りくどい書き方となり非常に読みにくいかと思います。加えて、説明不足やご都合主義もある為、内容に繫がりが無いかもしれません。

書いた本人が何を言っているんだとは思いますが、本当に申し訳ありません。


 日露戦争で、日本海軍は日本海海戦で華々しい勝利を飾った。この勝利に国民は沸いた。しかし、陸軍と日本の商船団は戦後、海軍をこう批判した。『奴ら(海軍)は、自分達の武勲にしか興味が無いらしい。国が滅んでも、自分達が残っていればそれでいいのか』と。この批判は、浦塩艦隊にいい様にされた事を、日本海海戦の勝利で蓋をしようとした行為に対するものだった。日本は海外からの物資が無ければ戦えない、その事を忘れる事は許されなかった。

 日露戦争の反省で、海軍は通商護衛の為の組織作りをする事を政府と陸軍に約束する事となった。その一環として、史実では海軍に編入された旅順で着底した艦や日本海海戦での鹵獲艦の内、戦艦6隻をロシアに返却した。この行為に『折角の賠償品を敵国に返すとは何事だ』『ロシアが再び攻めてくるのでは』という批判もあった。しかし、戦後の厳しい状況では6隻の戦艦を保有するだけの余裕は無く、加えて、修理中にイギリスで建造中の戦艦「ドレッドノート」の情報が入ってくると、これら鹵獲艦の戦力価値はほぼ無くなった。この為、反対派も戦力価値が無くなった鹵獲艦を編入するよりも、新型戦艦を造った方が質的な戦力向上になると判断して、この動きに反対する事は無くなった。

 

 しかし、ドレッドノートの竣工は、当時日本が保有していた香取型戦艦や筑波型装甲巡洋艦(後に巡洋戦艦に変更)、建造中の薩摩型戦艦や鞍馬型巡洋戦艦も旧式化する事を意味した。その為、早急に弩級戦艦を保有する事が望まれた。この時計画されたのが、後に河内型戦艦と呼ばれる2隻の戦艦だった。

 史実の河内型は、艦首側と艦尾側が50口径30.5cm連装砲、両舷が45口径30.5cm連装砲だったが、この世界の河内型は全ての主砲塔を45口径30.5cm連装砲としている。この理由は、主砲を2種類載せる事による不都合の解消と、他の戦艦に載せられている45口径30.5cm連装砲にする事で調達予算の削減や予備砲塔の確保のし易さを考えての事だった。

 この動きに東郷平八郎は反対したと言われているが、設計側や事務方から主砲の統一によるメリットやコストについて説明されると納得せざるを得なかった。これは、海軍が日本海海戦の勝利で驕りを見せた事で、政府から『驕れる者は久しからず』と批判された事から、彼と艦隊決戦派の権威が史実よりも低かった事から、強く反対する事が難しかった為であった。

 

 こうして、史実とは異なり河内型が本当の弩級戦艦として完成する事となった。しかし、弩級戦艦が河内型だけでは戦力不足なのは目に見えており、河内型が竣工する1912年には、イギリスが34.3cm砲を搭載した戦艦を竣工させていた事から、いずれ河内型の戦力価値も無くなると見られた。

 この後、巡洋戦艦「金剛」のイギリスへの発注が行われるが、それ以降の36cm砲搭載の超弩級戦艦の調達は史実と同様である。

 

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 時代は少し先に進み、第一次世界大戦時、イギリスは日英同盟に従い日本の対独参戦とヨーロッパへの派兵を要求した。史実では、対独宣戦布告はしたものの、本格的なヨーロッパ派兵は行っていない。しかし、この世界では、海軍の主力艦隊がヨーロッパに派遣されている。

 この理由は、日露戦争によって海軍の権威が史実よりも低かった為だった。つまり、ヨーロッパに派遣する事で国内的には権威付けを、対外的には日本海軍の意地を見せる事が目的だった。

 理由としては少々子供じみていたが、イギリスとフランスが『派兵費用や物資などは負担する』と約束した事から、その規模は巨大だった。イギリスから希望のあった金剛型だけでなく、完成したばかりの超弩級戦艦「扶桑」を旗艦に河内型や薩摩型も派遣、戦艦5隻・巡洋戦艦4隻を主力とする「遣欧艦隊」が編成された。加えて、連合国の通商路を護衛する目的の特務艦隊が2年程早く編成され、これらも地中海やインド洋などに派遣された。

 尚、陸軍は派兵しなかったが、戦訓の確保を目的に多くの観戦武官を派遣した。

 

 こうして、史実以上の規模で派遣されたが、被害も史実以上となった。

 史実では、駆逐艦「榊」の大破が最大の損害だったが、この世界では、史実よりも2年早く派遣された特務艦隊に所属する駆逐艦が2隻沈められ、3隻が損傷、巡洋艦も1隻損傷した。これらの被害は、全てUボートによるものだった。そして、遣欧艦隊も「河内」と「安芸」がUボートによって攻撃され、「安芸」が撃沈されてしまった。

 海軍内では、最強と言われた戦艦が潜水艦によって簡単に沈められてしまった事に大きなショックを受けた。これを受けて、沈没した戦艦の代艦を建造すると共に、対潜護衛の充実を図る事となった。この議論の中で、『日本は通商立国であり、その為には商船が必要となる。しかし、戦争となればその商船に被害が生じる。それを守るのも海軍の仕事ではないのか』という意見が出された。当初は適当に流されるかと思われたが、日露戦争で第二艦隊に所属していた将校だけで無く、特務艦隊や遣欧艦隊の将校からもこの意見に賛成する者が出た。

 その後、これらの意見を纏めた報告書が本国に持ち帰られ、戦後の通商護衛戦の理論作りや護衛艦の充実、対潜装備の開発が進められる事となる。一方、この文書によって、後述の八八艦隊建設構想にブレーキが掛けられる事にもなった。

 

 遣欧艦隊は予期せぬ被害に遭ったものの、相応の戦果を挙げた。ユトランド海戦で、金剛型巡洋戦艦は「金剛」と「霧島」が中破したものの、ドイツの巡洋戦艦2隻を撃沈、2隻を大破させている。加えて、史実では沈んだ「クイーン・メリー」が金剛型の応援で助かった事などから、イギリスの勝利に貢献したとして、艦長や司令官らに勲章が贈られた。

 

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 さて、主力艦隊がヨーロッパに派遣された事で、国内である問題が発生した。それは、『日本近海に主力戦艦がいない事』だった。当時、国内にいた弩級以上の戦艦は「山城」だけであり、「伊勢」と「日向」は扶桑型の欠点から設計が改められた事で完成が遅れた。そして、他の戦艦は前弩級や準弩級の為、どうしても戦力的に見劣りした。現状では他の国が攻めてくる事は無いだろうが、それでも主力艦が居ない事に不安を覚える人はいるだろうし、何より旧式化した艦の代替が必要になる事から、その為の艦の建造が必要と判断された。

 そして、これらの予算は1915年に下り早急に建造が開始された。これにより、史実よりも1年近く早く八八艦隊の艦艇の建造がスタートした。また、大戦中に「安芸」の沈没やその他損傷艦が再戦力化するまでの繫ぎを目的に建造促進が図られた。

 

 しかし、先述の対潜戦に関する報告書が届けられた事で、八八艦隊の整備に疑問符が付けられるようになった。この整備計画の中では多数の駆逐艦も整備される事となっていたが、駆逐艦の装備の中に爆雷が無い事が疑問視された。そして、1918年に第一次世界大戦が終結すると、八八艦隊の整備そのものが国家財政に重荷となった。

 そもそも、八八艦隊の予算が下りたのは第一次世界大戦の好景気に沸いていた為でもあった。それが終わってしまえば、この巨大艦隊計画は平時には過ぎたるものだった。しかし、海軍の近代化や質的強化も図る必要がある事から、1920年に八八艦隊計画は次の様に改訂された。

 

・現在計画中の戦艦・巡洋戦艦(紀伊型戦艦と十三号型巡洋戦艦の事)は建造中止。

・代わりに長門型・加賀型・天城型の建造を促進し、他の超弩級艦の整備を強化する。

・現行の駆逐艦・巡洋艦に対潜装備の充実を図ると同時に、通商護衛戦用の護衛艦の建造を行う。

・将来を見据え、潜水艦・航空機・通信・電気に関する研究費を増額する。

 

 こうして、八八艦隊計画は縮小されたが、他の部門へ注力する事となった。これは、後の太平洋戦争で生きる事となるが、それは別の話である。

 また、これと連動する形でシベリア出兵は中断、順次撤兵する事となった。

 

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 日本の八八艦隊計画を見て、アメリカも海軍拡張計画(ダニエルズ・プラン)を策定、戦艦10隻・巡洋戦艦6隻をはじめとした大艦隊を建設しようとした。しかし、日本が自主的に八八艦隊計画を半減させた事から、この巨大艦隊計画は批判される様になった。また、第一次世界大戦後の軍縮の空気から、1921年10月からワシントンD.C.で軍縮会議が開かれた。

 

 史実よりも建造開始が早く建造促進もされた事で、ワシントン海軍軍縮会議の開始時、日本は既に「長門」「陸奥」「加賀」「土佐」を完成させ、「天城」「赤城」をほぼ完成させていた。実際は、「天城」と「赤城」は細部の工事が残っていたが、日本側は完成と主張した。完成としなければ、廃艦の可能性もあった為だった。

 一方のアメリカは、「コロラド」こそ完成させていたが、それ以外の16インチ(40cm)砲艦は完成していなかった。イギリスに至っては、1隻も無かった。

 その為、米英が共同して天城型巡洋戦艦を葬ろうとした。しかし、日本も完成させたばかりの戦艦を破棄する事は断固として拒否した。一方、軍縮そのものには賛成した為、日本側は「金剛型以前の全ての戦艦と建造中の戦艦を全て破棄する代わりに、残存する14隻を対米英6割とする」案を提示した。

 この意見に、イギリスとアメリカの対応は分かれた。イギリス側は、まだ保有していない16インチ砲艦を建造出来るお墨付きを得られる事、日米を一定数の枠に収める事が出来る事、何より第一次世界大戦での恩もある事から、この意見に消極的ではあるが賛成を示した。一方のアメリカ側は、この意見を拒否するばかりで当初案、つまり天城型の全廃の上で対米6割を崩さなかった。

 

 このままでは、日米の意見が決裂して会議の締結すら不可能になると考えられたが、ある偶然からこの会議は大きく進んだ。それは、「アメリカによる日本の暗号の傍受とその解読が発覚した事」だった。事の経緯は、日本政府がワシントンにいる代表団に間違った電報を送ってしまった。それをアメリカが傍受・解読し会議の場で利用したが、本来の情報とは異なる情報だった為、日本側は疑問に思った。調べてみると、間違って送られた電報の情報と寸分違わず一致した事から、日本の情報がアメリカに筒抜けである事が発覚した。これを受けて、日本側はショックを受けたが、同時にアメリカの対応が適切である事に納得し激怒した。

 日本は、アメリカに取引を持ち掛けた。曰く、『暗号傍受の件は暴露しない。その代わり、こちらの案を呑め。出来ない場合は暴露する』と。半ば脅しだったが、この件が暴露されるとアメリカとしても不味かった事から、アメリカはこの条件を呑んだ。この結果、史実と同じくワシントン条約は成立したが、史実と異なる点は以下の通りである。

 

・米:英:日の主力艦の排水量の比率は、5:5:3とする。尚、米英の保有量を基準とし、トン数は80万トンとする。

・日本は「天城」と「赤城」の保有を認める代わりに、現在建造中の戦艦と12インチ砲の戦艦を全て破棄する。

・アメリカは破棄予定のコロラド級3隻・サウスダコタ級2隻・レキシントン級2隻の保有を認める。

・イギリスは廃艦予定の「クイーン・メリー」の保有と、新規に16インチ砲戦艦4隻の建造を認める。

・破棄した戦艦の代艦は主砲16インチ、排水量4万トンを上限とする。

 

 日本は何とか「天城」と「赤城」の保有に成功した。しかし、多くの戦艦を保有した事は、維持費の増大にも繋がる。加えて、史実以上に米英が16インチ砲戦艦を保有する事となった。




『加賀型や天城型を戦艦として太平洋戦争に投入させたい』と思ったのが始まりでした。その為、日露戦争から考えたわけですが、この様にして上手く行ったかどうかは分かりません。私自身は無理だと思っていますが、「なんだかんだで日本に都合が良い様に進んだ」と思ってください。


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18話 大正時代④:大室財閥(14)

 開戦当初、誰が言ったか分からないが、『この戦争はクリスマスまでには終わる。クリスマスには故郷に帰れる』と言われた。しかし、クリスマスを過ぎても戦争は終わらず、年を越えても終わる処か激しさを増していく一方だった。そして、戦争の終わりは見える事は無く、ヨーロッパ全土が戦火によって灰燼に帰すのではとさえ思われた。

 

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 この戦争で、直接戦火に見舞われる事が無かった日本では、ヨーロッパからの膨大な物資の需要に応じる為、国内の生産能力が飛躍的に上昇した。同時に、それらの物資を運ぶ為の海運力も上昇した。

 大室財閥もこの例に漏れず、製造部門の堺造船所と海運部門の大室海運、商社部門の大室物産の売り上げは年々更新された。この状況に、財閥の者は笑みがこぼれたが、3兄弟はこの状況を素直に喜べなかった。その理由は、『この戦争はいつ終わるのか』『戦争が終わった場合に備えて、我々がするべき事は何か』の2つだった。

 

 確かに、この戦争で莫大な利益を上げる事が出来た。それが、血に濡れたモノではあっても金は金である事には変わらなかった。

 しかし、戦争には何時か終わりが来る。そこには例外は無い。そして、この戦争が終われば、この未曽有の好景気も終わり、その後には大規模な戦後不況が起こると考えられた。日露戦争とその後の状況を見れば誰でも予想出来た筈だが、あまりの好景気に浮かれ過ぎて多くの者が考えていなかったらしい。

 尤も、日露戦争後の不景気を全員が経験しているので、兄弟の意見を聞いた後、戦争が終わった後に来るであろう不況を想像出来た事は幸いだった(尤も、兄弟は『自分達が意見を言わなかったらどうなっていたのか』と不安に思った)。その為、財閥では戦後に備えての動きを1916年から始めていた。

 その内の1つが、前述した『機械や電機、化学の技術を海外から導入、もしくは模範による国産化』である。つまり、多角化する事で一事業の損失を他の事業で穴埋めする事と、新たな収入源の確保を目的とした。

 他にも、「利益の一部を溜め込む」「将来有望な技術の調査や出資」といった手段が採られた。

 

 「利益の一部を溜め込む」は、得られた利益を全て拡大に注ぎ込むのでは無く、凡そ2:3の割合で溜め込む額と増資額に充てるというものである。利益全てを拡大に注ぎ込むと、経営が苦しくなった場合の回転資金が無くなる所か、大量の負債を抱え込む事になる。そうなれば破綻しか無くなる。それを避ける為には、稼げる時に稼ぎ、大量に資金を溜め込む事で、負債が発生してもそこから切り崩す事で、状況が変化するまで耐える事が良いと判断された。

 

 「将来有望な技術の調査や出資」は、現状では使い道が分からない・技術的問題や理解不足などで開発費用が出なかったり、人員不足で開発が滞っているモノを調査し、大室財閥が出資するなり、大室財閥に属する企業の一部署にして開発を促進させるなどする事を指す。ここでの調査・出資対象は、大学で研究されている技術が対象となっている。つまり、現在で言う「産学連携」を行おうとした。

 当然、この時は役に立つか分からないモノに出資するのだから、場合によっては金をドブに捨てる行為になる。そう考えると、この行為は「利益の一部を溜め込む」事と相反するのではと考えられた。

 しかし、忠彦はこう述べた。

『これらの技術に今出資すれば、将来生産する際に我々に来る。恐らく、ほぼ独占状態だろう。そうなれば、現状の損失などその時に回復出来る。そして、これらを研究しているのは東京帝国大学(現在の東京大学)や京都帝国大学(現在の京都大学)などの各種帝大だ。日本の最高学府であり、世界でも有数の大学と言えるだろう。そこに所属する研究員も優秀であり、そんな優秀な頭脳が考えたモノなのなら、将来の役に立たない訳が無い。』

ほぼ忠彦の独断だったが、帝大の研究者が優秀なのは彼らも分かっており、もし成功すれば財閥の利益は大きくなると考えると、彼らも反対するのは難しかった。それでも、『現状倒れてしまえば将来が無い』という意見も多かった為、折衷案として「出資は利益が出そうと判断した場合に限る。企業化する場合は大室財閥が6割出資、残りは株式公開し、市場から集める事」が決定した。

 

 この行為が正しかったのかは当時では分からなかっただろう。しかし、各帝大への出資は、それぞれの研究成果の製品化や各種技術の向上に大きく貢献した。特に、東京帝大の「伝染病研究所」と京都帝大の「化学研究所」への出資は、その後の各種化学(特に製薬部門)に関する技術を大いに高める事となり、発足して間もない大室化成のその後の躍進に繋がった。

 

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 上記の施策により、第一次世界大戦後の不況にも大室財閥は耐える事が出来た。また、元々大室財閥は情報を重視しており、戦争が終わりそうだと分かると工場の生産ラインを少しずつ縮小したり、生産体系を見直すなどして、平時への移行を少し続進めていた事も、戦後に大量の在庫を抱え込む事による負債の増加を防ぐ事にもなった。

 一方、他の財閥、特に第一次世界大戦によって急速に拡大した財閥(鈴木財閥や古河財閥など)や成金は、戦後不況のダメージをモロに喰らった事で、没落する者も多かった。大室財閥は、幕末の時の様に彼らを吸収する事で拡大をした。

 しかし、今回はただ吸収するだけでは被吸収側の負債を抱え込む事になる為、彼らの事業を買い取る形で吸収した。これは、大室財閥側からすれば事業が成り立つものだけを獲得出来、余計なモノを抱え込まずに済む。被吸収側にしてもとりあえず当座の回転資金を得られる事から、拒否する事が難しかった。これらの行動は、大室財閥は『非情』だとか『狡猾』といった批判を受けたが、財閥側としては『彼らは先を読めなかった。我々は先を読めた。その違いだ』として相手にしなかった。

 

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 情報を上手く読む事で、第一次世界大戦で大きな利益を上げた大室財閥。しかし、次の事は予測出来なかった。いや、予測出来た方が不思議だろう。彼らが扱う情報では、天災は予測出来なかったのだから。

 1923年9月1日11時58分。東京が揺れた。文字通りに。後に「関東大震災」と言われる大地震が起きた。



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19話 大正時代⑤:大室財閥(15)

 1923年9月1日、東京で大地震が発生した。「関東大震災」である。この地震により、東京だけで無く横浜も灰燼に帰し、神奈川県沿岸部や千葉県の東京湾沿岸部は津波による大被害を受けた。死者・行方不明者は10万人以上、被害総額は推定45億円という甚大な被害だった。

 

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 この地震によって、東京を始め南関東で大きな被害を出した。大室財閥もそこを拠点としていたが、財閥全体の被害は死者と行方不明者が200名前後、京浜地区の建物の大半は全壊か半壊、被害総額3億円と大きな被害を受けたが、大室家の人物からは奇跡的に死者は出なかった上、重要な書類の損失も少なかった。これは、当時の大室財閥の本社機能を大阪に移していた為だった。

 大室財閥の本社は1874年に建てられた木造建築であるが、建てられてから40年以上経過している。加えて、築地にある事から、塩を含んだ風の影響で老朽化が著しかった。その為、1914年から本社の建て替えが計画され、本社機能が東京から大阪に移転しており、主要人物もそちらに移っていた。

 尤も、建て替え計画は、計画が立てられた直後に第一次世界大戦が始まってしまい、そちらへの注力と資材の高騰で計画が中断した。戦後に計画が再開した後も、建物の設計案や建設場所(現在地に建て替えるか移転するか)で決まっていなかった。

 それでも、東京は重要拠点であり、銀行や商社などは東京に本社を置き続けていた事から、被害が発生する事は避けられなかった。それでも、重要人物が軒並み消えたり、資金や物資が消失するなどして機能不全に陥らなかった事は不幸中の幸いと言えた。

 

 この大地震を契機に、大室財閥は更なる拡大をする好機と見た。大震災からの復興が、第一次世界大戦後の不景気を吹き飛ばす機会になると考えた。復興には膨大な資金や物資が必要となり、それらの供給を行う事で受注も得ようというものだった。その為に初めに行った事が、政府への寄付だった。寄付金の額は4000万円であり、その内訳は大室家名義(実際は忠彦・匡彦・淳彦の3兄弟)で1000万円、大室財閥の各企業で合計3000万円だった。

 これは、先述した目的もあったが、純粋に政府への寄付でもあった。そして、この大室財閥の動きが日本の主要の財閥による寄付運動に繋がる事になるとは、流石に予想していなかった。三菱や三井、安田が1億円、住友や大倉などが5000万円、その他の財閥も1000万円以上寄付し、日本各地からも寄付金が集まり、都合15億円が政府に寄付された。

 この額に日本政府は喜んだ。当初、復興予算は30億円と目されたものの、野党や長老からの反対で5億円にまで削減されてしまった。そこに15億円が来たのである。政府予算と合わせれば20億円となり、当初予算に届かないものの大規模な復興計画が可能となったのである。

 帝都復興院総裁後藤新平は、当初の復興案から多少縮小したものに変更して復興を始めた。これにより、史実では実行されなかった計画(大規模な区画整理や100m道路の建設)の一部が実行された。この計画には批判も多かったが、後の太平洋戦争や戦後の高度経済成長期に後藤の正しさや先見性が評価される事となった。

 

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 関東大震災への復興に関して、大室財閥でも様々な動きがあった。それは、「資材の供給の強化」と「復興に関係する事業への進出」、「新本社社屋の建設」である。

 

 「資材や機材の供給の強化」は、復興で必要となる木材や鉄鋼、重機(ダンプやユンボなど)などを調達、自作する事だった。

 特に重視したのが、重機に関してだった。この部門では、財閥はおろか日本全体が弱い為、満足な重機を調達する事が不可能だった。その為、アメリカから大量の重機とトラックを輸入した。当初は、フォードやゼネラル・モーターズなどからライセンス権を獲得したかったが難しかった為、製品の輸入に変更した。それでも、輸入した重機の修理やリバースエンジニアリングを行う事でノウハウを付けていき、後に大室重工業の主力生産品の一つにまでなった。

 また、復興用資材として、鉄鋼は自前(堺鉄鋼金物、1920年に「大室製鉄金属」に改称)だけでは不足する為アメリカから輸入し、木材も日本林産から大量に購入した。

 この時初めて大室財閥と日林財閥が接触する事となり、以降も化学や機械における連携が行われる様になった事が、後の中外グループ設立の発端となった。

 

 また、復興には資材だけで無く、建物を建てる事も必要である。その為、「復興に関係する事業への進出」として建設業への進出も検討されたが、当時の建設業はまだ個人の仕事という傾向が強く、既存の土木会社からの反対が強かった。その為、協力的な土木会社に出資し影響力を高めるだけに留めた。その中には、明治初期に築地の本拠地を建てた竹田直市が創立した竹田組もあった。後に、これらの土木会社は合併し「日東建設」となるが別の話である。

 

 最後の「新本社社屋の建設」は、当初の築地に新社屋を建設するという案は撤回され、別の場所に移転となった。具体的には、西新橋・虎ノ門付近になった。移転の理由は、築地が手狭になった事と沿岸に工場が多数建てられ、その排煙などの影響を受ける事からだった。その為、築地より内陸で程近い西新橋・虎ノ門が選ばれた。

 また、新社屋の設計も一からやり直しになった。条件として、「関東大震災クラスの地震が来ても倒壊しない事」、「極端に華美にせず、実用重視である事」が求められた。その結果、新古典様式の8階建てのビルとなった(見た目は「住友ビルディング」の大理石版)。

 これだけ巨大な建物となると完成までに時間が掛かり、設計も含めて7年も要した。そして、完成した1931年6月から順次、大室財閥の各種企業の本社機能がこの「大室本館ビルヂング」に移転した。

 

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 第一次世界大戦後の反動不況、関東大震災に巻き込まれながらも、大室財閥はそれらにも耐えた。それどころか、関東大震災の復興需要に応えられた事、新技術への足掛かりを掴んだ事から、更なる拡大すら見込めた。

 その様な、日本にとっては厳しい状況、大室財閥にとっては未来に可能性がある状況で、ある大事件が起きた。1926年12月25日、以前から体調を崩していた大正天皇が崩御。ここに「大正」が終わりを告げた。同時に、皇太子殿下が践祚、ここに「昭和」が始まった。



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20話 大正時代⑥:日林財閥(3)

 第一次世界大戦によって、日本全体が好景気に沸いた。物資は、売りに出せば売れる時代だった。この流れに、日本林産も例外では無かった。

 

 邦久の跡を継いだ博久は、当初は父の路線を踏襲したが、第一次世界大戦が始まってから暫くして、事業のより一層の多角化に計画した。具体的には、畜産業・食品加工業・造船業への進出だった。

 勿論、博久のこの早急な多角化には反対意見も多かった。慣れない職種への参入、急速な拡大による歪みの懸念などから、参入規模の縮小や拡大速度を緩める声があったものの、第一次世界大戦による木材需要の急速な拡大によって莫大な利益を得られたという現実もあり、徐々に反対の声は小さくなった。そして、1915年から多角化は実行される事となった。順に見てみよう。

 

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 畜産業については、当時日本林産が保有していた森林の内、平地の山林の一部を牧場に転換し、そこで家畜を飼い、肉や革などを卸すというものであり、食品加工業はその延長線上にある。これは、ヨーロッパで膨大な食糧需要が発生した事、日本の発展による食肉需要が拡大した事、小岩井農場の成功を見ての事だった。

 牧場の候補地として選ばれたのは、宮城県の王城寺原と蔵王山麓だった。この理由は、大都市圏に近い事(=消費地から近く、交通の便が良い事)、雨が多くない事、機構が穏やかな事が挙げられた。

 早速、この2か所の地権者と交渉を進めたが、その過程は比較的好調だった。王城寺原側は、軍の演習場が存在する事から既に広大な土地が利用不可能となっており、日林側も立地としては好条件だったがあまり期待していなかった。しかし、地主らは『この辺りの土地は痩せ気味で、丘陵部の開発も難しい』事から、それらを活用出来る畜産業に賛成した。蔵王山麓側も同様だった。その為、土地の収用や開発は地元の好意もあって進んだが、肝心の家畜の導入をどうするかが問題だった。

 

 国内に家畜は居たが数が充分ではなく、海外から導入するにしてもヨーロッパからは不可能だった。その為、ダメ元で陸軍に相談したら、条件付きで家畜(馬・羊・豚)を譲ってくれた。これは、軍馬や革製品などの供給源を欲していた陸軍と、畜産業への進出を目論んでいた日本林産の思惑が一致した為だった。その為、陸軍は「主要卸先は陸軍にする事、有事の際の家畜の徴収に応じる事」を条件に、日本林産への家畜の譲渡が実現した。

 こうして、場所とモノが揃った事で、1917年に王城寺原と蔵王山麓に牧場が開設、運営組織として「日林牧場」も設立された。尚、食品加工業への進出は食肉の調達や加工する人の手配などが付かなかった事から1919年まで待たなければならず、牛の導入も1921年になってからだった。

 

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 造船業は、木造船への参入であり、漁業の近代化や活性化を睨んでの事だった。当時の漁船の多くは木造船であり、近海漁業が盛んならばその需要に食い込めるのではと判断した。また、邦彦が「森が豊かなら、魚が多く獲れる」と偶然耳にした事も関係している。

 また、この頃になると、家具の製造加工技術も向上し木材の加工技術も向上した事から、造船業への参入もその延長として見られた。

 尚、第一次世界大戦によってヨーロッパ製の高級木製家具の輸入が途絶した事から、その代替品として国内で家具の大量受注も得られた。大戦によって俄か成金が増加した事で、金持ちとしての見栄えを求めたのか、その様な連中からの発注か急増した。

 

 その為、1915年に日本林産木工部が分離独立して「日林木工」が設立された。日林木工には家具製造部門と造船部門が同居しており、木材の加工・組み立て・製造が一貫して行われる。工場は、今までは東京の越中島に置かれていたが、造船部門の設置と製造量の拡大に伴い手狭になった。その為、地方の工業化と原材料の調達のしやすさという意味から長万部、仙台、松山への増設が行われた。これらの工場が稼働するのは1917年になってからである。

 この後、漁船の建設のその流れから漁師の囲い込みを行い、自前の水産会社を設立する事となるが、それはもっと後の事となる。

 

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 そして、父の代からの悲願でもあった化学への進出がされたのもこの頃だった。木造船の造船を行うに際し、水の中に長時間浸かっても剥がれない接着剤が必要になると考えた。しかし、当時の日本では水に強い接着剤が存在しなかった事から、造船への参入と同時に自前での調達を行おうとしたのである。そして、接着剤の技術を用いれば、他の化学の分野への参入や大型木造品の製造も出来るなどのメリットも多かった為、積極的に行おうとした。

 先ずは、水に強い接着剤の技術を得る為に、海外の企業との技術提携が計画された。しかし、第一次世界大戦によってヨーロッパ諸国は自分達の事で手一杯で、提携や技術提供は難しいと見られた。特に、技術先進国のドイツは敵国となった為、不可能であった。

 その様な中で、イギリスのブリティッシュ・ダイスタッフ社(以下、BD社。後のインペリアル・ケミカル社)が提携に応じてくれた。これは、BD社の生産能力が需要に追い付かなくなった事から、一部生産の外部委託という形で成された。それだけで無く、染料や薬品の技術までも供給してくれた事は、後の拡大に役立った(インペリアル・ケミカル成立後は、火薬やアルカリなどの技術も提供してくれた)。

 

 こうして1916年に設立されたのが、化学部門の「日林化学工業」である。尚、前述の経緯から日林化学はBD社との合弁(出資比率は、日林:BD社が2:1)となった。この後、日本の軍国主義路線が強まると共に、日林化学が日林財閥の主要企業に登り詰める事となる。

 

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 畜産・食品・造船・化学に進出したが、それ以外の多角化も博久の代から進んでいた。博久が亡くなる少し前に、金融・窯業への進出と製紙業の拡大が計画された。博久はそれが実現する前に亡くなってしまったが、1910年には金融事業の「日本林商銀行」が、窯業の「日林陶器」が設立されている。また、製紙業の拡大はこの時はされなかったが、第一次世界大戦によって急速に拡大した。

 金融業は他の財閥も行っている事であり、当時のトレンドの様なものである為、特に詳しく掘り下げない。しかし、窯業は少々特殊な例だろう。

 

 日本林産が日本中の山林を購入した際、他に資源が無いか調査した。その際、幾つかの山からは粘土鉱物(カオリナイト、モンモリロナイトなど)が発見された。これらは陶磁器の原料である。陶磁器の需要は高く、当時の日本の主要輸出品の一つであった為、窯業への進出が検討された。

 その結果、「日林陶器」が設立された。製造拠点は、仙台に設けられた。当初は、技術不足や設備不足で満足に作れなかった為、有田や瀬戸などから職人を呼んだりした。この地道な技術力向上と第一次世界大戦による需要の発生によって、日林陶器の製品が世界中に出回る事となった。また、この時期に西洋食器などの生産も行われ、日本陶器(後のノリタケカンパニーリミテド。TOTOや日本碍子の母体)や名古屋製陶所(後の鳴海陶器)に並ぶ陶器メーカーとなった。

 

 尚、窯業に進出するに当たり、燃料をどうするかが議論された。燃料には石炭が望まれたが、日本林産では石炭を扱っていなかった為、外部から調達するしか無かった。その為、日林陶器と製紙業が拡大するにつれ、自前での調達を考える様になった。この考えは、第一次世界大戦後に実現する事となった。



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21話 大正時代⑦:日林財閥(4)

 1918年11月11日、イギリス・フランスなどの連合国とドイツなどの中央同盟国との停戦が成立した事によって、第一次世界大戦は実質的に終わった。その後のパリ講和会議によって正式に第一次世界大戦が終わり、世の中は戦時から平時へ移行しつつあった。

 

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 急に戦争が終わった事で、今まで大戦で儲けていた企業が急速に傾くなど、戦後の不況が少しずつ見えてきた。

 しかし、その様な中でも、日本林産の活況は暫く続いた。第一次世界大戦の終結によって軍需物資などの需要は大きく減少したが、今度は復興用の資材の需要が高まると睨んだ為である。日林の主要商品は木材であり、建築資材として利用される。それはヨーロッパでも変わらなかった。特に、戦場になったフランスやドイツでは木造住宅が比較的多かった事から、膨大な復興需要があった。そこに、日林も乗っかる事で大きな利益を生み、ヨーロッパの復興が一段落着く1921年頃まで日林財閥は拡大を続けた。

 また、大戦中に融資した財閥や成金が戦後の不況によって没落した後は、彼らが融資の担保としていた山林を始めとした各種資産を貰い受けた事で、保有する山林の拡大は更に進んだ。そして、この時に幾つかの鉱山や炭鉱を獲得した事で、大戦中に検討された燃料資源の自給手段が整う事となった。

 その保有した鉱山の運営を行う会社として、1921年に「日林鉱山」が設立された。扱う資源は主に石炭であり、他に鉄鉱石や黄銅鉱などがある。この時、石炭は自前で使うが他の鉱物資源は使用しない為、売り込み先を求めていた。有力な企業が現れなかった為、小規模な取引になったが、ある出来事が切欠でこの状況は変化した。

 

 1921年以降、日林の売り上げは落ち込んだものの、それは平時に戻った事による反動と言えた。新興財閥や成金の多くは没落したものの、日林は大戦中からの多角化によってその傷は小さかった。加えて、発展の可能性がある化学産業や、安定した需要がある窯業を抱えている事は、日林の発展を約束したと言えるだろう。

 その様な状況で、あの日がやってきた。

 

 1923年9月1日、関東大震災が発生した。これにより東京と横浜は灰燼に帰し、東京湾沿岸と相模湾沿岸も壊滅的被害を受けた。その後、復興計画が立てられたが、予算不足などから大幅に縮小せざるを得なかった。そこに、各財閥や日本全国から約15億円が寄付金として政府に寄付された事で、一度破棄した原案を改定した案に変更して復興が始まった。

 この復興に日林も参加した。寄付金として1000万円を出し、復興用の木材も格安で大量に供出すると約束した。この2つによって日林は一時的に大きな赤字を抱えたものの、大きな社会的信頼を獲得する事に成功した。信頼は新たな取引先を生み、国内の土建業者や各種木材工業から長期的な取引を獲得出来た。そして、この時大量に木材を放出した事で、国内の林業従事者で問題になっていた外材(外国産、特にアメリカ産の木材。安価)の進出を一定程度止める事が出来たという、日林としては予想外の事も起きた。

 

 これらの結果、日林は資産の拡大こそ微々たるものだったが、社会からの大きな信頼を獲得し、数多くの取引先も獲得出来た。取引先の多くは個人経営や中小規模だが、一番の大物が大室財閥だった。この時の出来事から、日林と大室財閥はお互いに主要取引先とする様になった。

 具体的には、大室製鉄金属の原料を日林鉱山から購入する、大室重工業と日林木工による小型エンジンに関する共同研究、大室化成産業と日林化学工業による薬品や化学繊維などの共同研究など、蜜月と言える程のものとなった。

 

 また、日林は財閥とは別の「大室」と関係があった。それは、大室本家が進出した事業を受け継いだ事である。

 

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 以前、大室家が本家(長兄と次兄の血族)と分家(彦兵衛の血族)に分かれたのは述べただろう。本家を継いだ仲兵衛は、その後も農業に従事し、農業や農学に関する本を出すなどしていた。この事が東京農林学校(東大農学部などの源流)の目に留まり、1888年に仲兵衛は農林学校の教授として雇われる事となった。

 

 代理とはいえ家長が居なくなった大室本家、では誰が家を継ぐのかという家督争いが起きそうだが、予め家長は長兄の長男である長緒に決められていた。家長となった1888年当時、彼は33歳だった。

 仲兵衛は、現在のまま続くとは思っていなかった為、継いで3年後に兄の子供(息子3人、娘1人)と自分の子供(息子2人)を半々に分け、半分は京都の、もう半分は大阪の取引相手の所に奉公に出した。これは、社会の厳しさを学ぶ為と経済感覚を身に着ける為の彼なりの教育方法だった。

 この教育は概ね成功だった。長緒と長作(長兵衛の次男)、一仲(仲兵衛の長男)は経済的才能を身に着け、長緒は実家を継ぎ、長作は大阪の取引相手の婿養子として、一仲も京都の取引相手の婿養子となった。また、マサ(長兵衛の娘)も大阪の取引相手の跡取りに嫁いだ。

 一方、長治(長兵衛の三男)と次仲(仲兵衛の次男)は、才能が発揮されない処か、奉公先で問題ばかり起こした事で相手から絶縁一歩手前の状態となった。その事で、この2人は一族から破門された。

 

 さて、実家を継いだ長緒だが、長兵衛が亡くなった時のガキ大将ぶりは完全に無くなり、今では民と農業について考える地元の名士としての顔となった。これは、先の仲兵衛の教育もあるが、父と祖父の事を聞いて自らの今までの行いを恥じた事も影響した。彼は実家を継ぐと、精力的に物事を進めた。特に進めたのは、治水事業と商品作物の栽培の奨励だった。

 治水工事は言うまでも無いが、商品作物は今までの茶や染料だけで無く、綿や麻などの繊維植物と薬草も栽培する事を行った。これは、勃興した繊維業や製薬業への原料を納入する事で農民の現金収入を増やそうとした事、あわよくば自らそれらに参入しようという目論見だった。

 

 そして、この目論見は現実のものとなった。1900年に、取引先との共同出資で繊維会社「京師繊維」と製薬会社「京師薬品」が設立された。また、翌年には種苗会社「長緒種苗」と染料会社「長緒染料」、食品(水飴)会社兼持株会社「長緒商店」を設立し、京師薬品の業務に農薬や肥料の生産も追加された。これは、土地や農産物など多くの資産を持っているが、それらを活用しない事は宝の持ち腐れだと判断した事、大室財閥(彦兵衛商店)の成功を見て焦った事から来ていた。

 これらの企業は時代と共に成長し、第一次世界大戦によって繊維や食品がバカ売れした事から、設備の拡張を続けた。特に、長緒商店が生産する冷やし飴は国内向けではあったが、甘味が安価に飲める事が受けて大ヒット商品となった。

 しかし、野放図に拡大した事で戦後に設備を持て余す事となり、拡張の為の負債も大量に抱えて、首が回らない状態だった。この様な中で大室財閥の助けを借りようとしたが、長緒が『奴ら(大室財閥)助けを借りずに再建する』と一点張りだった。

 

 この時助け舟を出したのが、主要取引先だった日本林産だった。日林は、今まで持っていなかった農業やそれに付随する事業を手にする事が出来る事、比較的大きな財閥との繫がりを持つ事が出来る事などから、救済する事となった。長緒商店もこの事に二つ返事で回答した。この結果、1919年に日本林産は長緒商店を傘下に収めた。

 これによって、長緒商店グループの破綻は免れたが、上層部の責任は免れなかった。長緒を始め各社の幹部は全員クビ、財産の多くも負債の穴埋めを理由に供出された。各企業も日林側の企業に吸収されるなどして再編成された。

 

 その後、残った大室本家の者達は、ある者は日林に頭を下げて入り込んだり、ある者は他の企業に一従業員として働いたり、ある者は残った土地と影響力を使って実家で農業をする者などして離散した。

 

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 こうして、日林は大室との太い繫がりを構築して「大正」を過ごし、「昭和」へと向かう事となる。




「長緒商店」グループのその後

「長緒商店」:保有する株式は全て日本林産に譲渡。食品事業は1919年に設立された「日林食品」に吸収。冷やし飴などのヒット商品は存続。
「京師繊維」:他の繊維会社と統合し拡大するも、名称はそのまま。
「京師薬品」:日林化学工業から製薬部門を譲渡される。
「長緒種苗」:日本林産の種苗部門と統合、「日林種苗」と改称
「長緒染料」:日林化学工業に吸収。


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22話 大正時代⑧:日鉄財閥(3)

 第一次世界大戦後の不景気によって、多くの国内企業の経営が傾く事となった。勿論、日本鉄道興業もその例外では無かったが、他の企業程大きな影響を受けなかった。その理由は、輸出に頼る企業の構造をしていなかった為であった。

 

 元々、日鉄は鉄道会社への投資や車輛・電機製造、つまり金融業と重工業を主軸とする企業である。加えて、取引相手の多くが鉄道会社向けであったが、第一次世界大戦によって資材や地価の高騰や労働力不足などが重なり鉄道の建設が低調となり、それと連動する形で日鉄の活動も低調となった。

 しかし、何もしなかった訳では無かった。金融力の強化や鉄道以外の取引相手の構築を目的に、繊維や商社など他業種にも出資した。特に注力したのが、電機や造船などの重工業と商社だった。

 重工業を傘下に収めれば、自社の電気部の生産力や技術力の向上に繋がり、商社を傘下に収めれば、販売ルートの新規開拓などもし易くなると見られた。実際、この時の出資攻勢によって、造船所3か所(千葉・尼崎・戸畑)、電機会社2社、商社4社を子会社化し、他にも多くの企業で主要株主に名を連ねた。また、自前での造船業参入を試み、1916年に三田尻(現在の防府市)に造船所の建設を開始した(稼働するのは1919年)。

 これにより、「日鉄財閥」と呼べるまでに巨大化したが、基本方針は「電気器具の国産化」で変化は無かった。今まで多くの企業を傘下に収めてきたのはこの方針を実現する為であり、流れてしまったものの大室財閥との交渉に応じたのもこの為だった。

 実際、傘下に収めた造船所や電機会社と共同で、電球の製造から大型発電機の試作に至るまで、電機に関するあらゆる研究開発を行っている。

 

 この為、日鉄は輸出については殆ど行っていない。その為、輸出によって利益を上げられなかったが、逆に戦後に大量の在庫を抱え込む事による赤字に悩まされる事は無かった。それ処か、値下がった鉄材を大量に購入する事で、大戦中に凍結された鉄道の建設再開を促進させた。

 それでも、多くの会社の株を保有していた事から、それらの株価の下落によって含み損が発生した。それに対し、子会社や事業の整理、株や遊休資産の売却によって赤字を圧縮し、1920年にはそれらの赤字を全て消した。

 尚、この時の整理の一環で、子会社化した企業は全て日鉄本体に吸収され、関連会社の半数は傘下に収めた(残りの半分は、株を手放した)。その為、日鉄本体は車輛・機械・電気・商業・造船の5つの事業部を内包し、子会社に損害保険や海運会社が加わった。また、土木部が「日鉄土木」、倉庫部が「日鉄倉庫」、荷物部が「日鉄運送」として独立し、関連会社の同業者を吸収した。

 

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 第一次世界大戦後、大戦によって凍結されていた路線の建設が再開された。特に、武州鉄道(1919年に中央軽便電気鉄道から改称)と相模中央鉄道の建設には力が入れられた。これは、東京市の巨大化に伴う人口の急増と、それと連動した郊外の都市化を考えての事だった。このまま建設を先延ばしにすれば、都市化が進行し人口が増加する。これは、鉄道会社にとっては乗客増による増収が見込める反面、これから建設する鉄道会社にとっては、地価の高騰による建設費の増加となる。そうなる前に、土地の買収を終わらせる必要があった。

 日鉄が大量の資本投下を行った事で工事は早く進み、武州鉄道は1924年に岩淵町~蓮田間が開業し、相模中央鉄道も1925年までに平塚~半原間(厚木経由)・平塚~大山間(伊勢原経由)が開業した。

 

 日鉄のテコ入れによる工事の促進は、偶然にも関東大震災によってその正しさが証明された。関東大震災によって、第一次世界大戦後以降下がっていた木材と鉄の値段が高騰、人口の郊外への移動による地価の高騰によって他の関東の路線の工事が滞る事態が起きた。

 しかし、日鉄が建設に関わった路線はこの影響を最小限に留め、完成が大きく遅れる事は無かった。また、工事費の増大による負債の増大の影響も小さかった事は、その後の会社運営に良性の影響を与えた。

 

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 関東大震災で東京が灰燼に帰しても、日鉄に出来る事は多くなかった。元々、鉄道向けの投資事業と車輛製造を目的に設立された会社の為、復興の為に資材を供給する事や救援物資を運び入れる事も難しかった。

 それでも、自らの出来る範囲でやれるだけの事はした。政府への寄付、住宅の復旧、鉄道施設の復旧、車輛の供給などをしたが、日鉄にとってはこれが限界だった。

 

 むしろ、日鉄が活気づくのは帝都復興ではなく、帝都近郊の都市化の進行だった。関東大震災によって、人口が都市部から郊外に移転した。これにより、東京市西部と北部の人口は急増し、今まで農村だった城南地区や武蔵野などの郊外の人口も増加した。これに伴い、これらの地域に鉄道を敷こうとする動きが出た。再び「鉄道ブーム」が到来したのである。この動きに日鉄も乗り、幾つかの会社に出資するなどした。



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番外編:ここまでの財閥の状況と人物紹介(大正時代まで)

〈大室財閥〉

 日本の準大手財閥。彦兵衛商店から始まり、商社・海運・金融・重工業に進出。これらを核としつつ、第一次世界大戦後に電機・化学などに進出し多角化を進める。その為、中核企業と言えるものは存在しない(商社・海運・造船・製鉄・金融と重要セグメントが多い為)が、彦兵衛商店を源流とする大室物産(商社)と大室船舶(海運)が中心的存在となっている。

 主要拠点は東京と大阪に置かれ、それ以外にも横浜・京都・神戸に支店が置かれている。主要製造拠点は横浜・千葉・堺に置かれ、特に造船所や製鉄所が置かれている堺は、京都や神戸以上に重要と目されている(重要度的に東京>大阪・横浜>堺>京都・神戸)。

 

・大室彦兵衛(1832~1913)

 大室財閥の創設者。その手腕により一代で巨大財閥を形成したが、日露戦争に心を痛め、晩年は弱者救済などに心血を注いだ。1913年に81歳で亡くなる。

 

・大室忠彦(1862~)

 大室財閥の創設者、大室彦兵衛の長男であり、大室財閥の持株会社である「大室本店」の総帥。

 一時、父との関係が悪化し独立した事があった。父を見返そうとして株取引をしたが、日清戦争後の反動不況の時期と重なり大きな損失を出す。これにより、父の持論だった「情報の重要性」を痛感し、以降父との寄りを戻し、財閥の経営に参加した。この時、一度失敗した事で大胆な行動を取る事が出来る胆力を持った事、情報を精査する能力を開花させた事から、財閥の後継者と目される様になり、彦兵衛の死後、大室財閥の総帥に任命された。

 第一次世界大戦中の多角化や新事業への進出も彼の情報処理能力や優れた予測によるもので、戦後多くの企業が傾く中で、大室財閥の傷を最小限に食い止めたのは彼の予測が正しかった事によるものだった。

 

・大室匡彦(1866~)

 彦兵衛の次男であり、大室物産の社長。彼も兄程では無いが情報処理能力は高く、時局を読む力は兄以上だった。戦後の不景気を警戒し、1917年頃から輸出量を少しずつ減少させ、内部留保を多く貯めてその後に備えた。

 

・大室淳彦(1872~)

 彦兵衛の三男であり、大室船舶の社長。彼は兄2人と比べると平凡だったが、勉強への熱心さや収益を出す方法は高かった。実際、この頃の大室船舶は新型船や優秀船を大量に導入し収益性を高め、その後の不況を乗り切る為の手段を構築した。

 

 

〈日林財閥〉

 「日本林産」を中核とする財閥。中核事業は林業と木材加工だが、多角化により金融・化学などに進出、第一次世界大戦の好景気によって食品・商社・繊維・鉱業などにも進出した。

 また、大室本家が設立・出資した企業を吸収する事で、大室財閥とのパイプを作る事に成功した。

 

・高田博久(1860~)

 日本林産2代目社長。日本林産を「日林財閥」に拡大したのは、彼の手腕があっての事である。彼の代で食品(畜産・食品加工)・造船に進出し、父の代からの悲願であった化学にも(イギリスとの合弁という形ではあるが)進出した。また、第一次世界大戦による拡大や出資先の吸収などで、商社と鉱業にも進出した。

 これは、「多角化によって一事業の赤字をカバーする」という彼の考えによるものだった。

 大正が終わる頃までに、彼は妻・ヒロとの間に2人の息子と6人の娘を持ち、2人の息子はそれぞれ日林化学工業と日本林商銀行の取締役に就任している。6人の娘達も、日林財閥や他の財閥の有力者やその子息に嫁いでいる。

 

・大室長緒(1854~)

 長兵衛の長男であり、大室本家の家長。彦兵衛商店の発展を見て、農業から発展した産業(食品や繊維など)を興す。第一次世界大戦までは順調だったものの、戦後不況をモロに被った結果、全ての事業を日本林産に譲渡した上に、財産の大半を放出する羽目になった。経営からも追われ、家長の座も破棄、その後は仏門に入った。

 

・大室長作(1856~)

 長兵衛の次男。長緒と共同で事業を興すが、大戦後の再編による責任を問われ引退する。

 

・大室長治(1862~)

 長兵衛の三男。しかし、問題が多かった事から、一族から追い出された。

 

・大室マサ(1859~)

 長兵衛の一人娘。有力者の子息に嫁いだ事から、彼女だけは大室本家の離散に殆ど巻き込まれなかった。

 

・大室一仲(1861~)

 仲兵衛の長男。長緒と共同で事業を興すが、大戦後の再編による責任を問われ引退する。

 

・大室次仲(1864~)

 仲兵衛の次男。しかし、問題が多かった事から、一族から追い出された。

 

 

〈日鉄財閥〉

 「日本鉄道興業」を中核とする財閥。中核事業は金融と重工業であり、第一次世界大戦によって商社に進出し、傘下企業に鉱業・繊維などがある。また、多くの鉄道会社を子会社・関連会社としており、地方への進出も多い。

 本店は東京にあるが、前身会社の関係から各地方には拠点が存在する。

 

・大内輝常(1861~)

 日本鉄道興業の初代社長であり現会長。

 

・佐田幸甫(1858~)

 日本鉄道興業の2代目社長。大室財閥との連携を蹴ったのは彼だが、その後の大室財閥との関係改善を図る為、子会社の相模中央鉄道社長に降りた。

 

・阪田孝右衛門(1863~)

 元・日本鉄道銀行金融部部長であり、現在は日本鉄道銀行頭取と日鉄證券社長を兼務する。一応、日本鉄道興業の取締役も兼務しているが、基本的に銀行と證券で活動している。日鉄財閥の金融力を高めた。

 

・文田清喜(1859~)

 日本鉄道興業の3代目社長。彼の指揮の元、重工業の強化や造船業への参入が行われた。

 

・加西清兵衛(1860~)

 元・日本鉄道興業の倉庫部部長兼荷物部部長であり、現在は日鉄倉庫社長と日鉄運送社長を兼務する。

 

・田川清助(1865~)

 元・日本鉄道興業の土木部部長であり、現在は日本鉄道興業副社長と日鉄土木社長を兼務する。

 

・広瀬允行(1874~)

 日本鉄道興業電気部部長。

 

・永田修(1870~)

 日本鉄道興業車輛部部長。

 

・星克嗣(1869~)

 日本鉄道興業機械部部長。元海軍技官。

 

・岩田実(1879~)

 日本鉄道興業造船部部長。元海軍技官。

 

・勝田博武(1885~)

 日本鉄道興業商業部部長。元々、独立商人だったが、第一次世界大戦中の囲い込みの中で頭角を現し、商社部門の責任者に抜擢された。



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3章 昭和時代(戦前):暗雲の到来 23話 昭和戦前:大室財閥(16)

 1925年の年末、元号が大正から昭和に移った。しかし、新しい時代の始まりは不安定なモノだった。

 第一次世界大戦後の不況は長引き、その最中に関東大震災が発生した。これにより大きな被害が発生したが、一方で復興景気も訪れ多少の景気は良くなり、大戦の不良債権の先延ばしもされた事で、僅かな平穏が訪れた。尤も、これは嵐の前の静けさだった。

 

 1927年3月14日、大蔵大臣片岡直温が議会で『東京渡辺銀行が破綻した』と発言した事から、全てが始まった。破綻していない(破綻しかけたが、当座の資金の当てが付いていた)銀行を『破綻した』と失言した事で、今まで燻っていた銀行に対する不安が爆発した。「危ない」と見られた中小の銀行に預金者が殺到し、預金を下ろそうとして銀行の前に長蛇の列が出来た。この取り付け騒ぎによって、資金不足によって臨時休業する銀行が大量に発生した。この休業した銀行の中には、有力銀行の一角を占めていた十五銀行も含まれていた事から、その規模が窺える。

 また、この金融恐慌によって、第一次世界大戦以降経営不安が囁かれていた鈴木商店が完全に倒産、傘下の企業の多くは敵対していた三井財閥の軍門に下ったが、一部は後に三和銀行との繋がりを持った。

 

 一方、金融恐慌は財閥系の銀行への預金の集中を招いた。これは、中小は潰れる可能性が高いが、財閥がバックに付いていればまず潰れないという安心感からだった。これにより、当時の6大銀行(三菱、三井、住友、安田、第一、大室)への預金の集中が起きた。

 また、破綻した銀行の資産などの引き継ぎや、預金者や取引先の救済を目的に、日本興業銀行と6大銀行のシンジケート団によって「昭和銀行」が設立された。これとは別に、日本勧業銀行が音頭を取り、昭和銀行に参加しなかった有力銀行や有力地銀がシンジケート団を形成し、「東亜勧業銀行」を設立した。昭和銀行と東亜勧業銀行の違いは、昭和銀行は大都市に、東亜勧業銀行は地方都市に支店が集中している事にある、

 

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 この金融恐慌は、大室財閥にとっては拡大の好機となった。銀行の破綻を懸念し預金を引き出した人が、その預金を大室銀行に預けてくれる事で預金量は急増した。また、休業・破綻した銀行を吸収または傘下に加える事で、店舗網の拡大も果たせた。この時期、大室銀行の預金量は恐慌前の5割増しとなり、店舗数も76から134に急増した。

 そして、数多くの銀行を取り込んだ事で、被吸収銀行の取引先も大室銀行との繋がりを持つようになった。特に、今まで大室財閥の進出が進んでいなかった繊維や食品加工などの軽工業で多くの取引先を獲得する事に成功した。

 

 大室銀行以外の大室財閥の金融機関も、経営不振に陥った同業他社を救済しては統合を行い拡大した。

 特に、貯蓄銀行の築地貯蓄銀行は、第一次世界大戦後の不況によって経営破綻したり買収した貯蓄銀行を合併し、1924年に「東亜貯蓄銀行」と改称した。その後、普通銀行の貯蓄銀行業務の兼営が禁止されると、その受け皿としての機能も果たした。これにより、都道府県庁所在地全てに支店を持つ日本最大の貯蓄銀行となった(1928年時点の総支店数は267)。

 それ以外の東亜生命保険、日本弱体生命保険、大室火災海上保険、大室倉庫保険の各保険会社や、第一次世界大戦中に設立した大室信託も、破綻したり譲渡された会社の契約を移転する事で、恐慌前の2倍の規模になった。

 

 産業面でも、この恐慌で休業した銀行の取引先を引き継ぐ事で、多くの関連企業や子会社を抱える様になり、その後の合理化や企業の整理によって財閥に取り込まれた。これにより、繊維や食品加工だけでなく、鉱業や証券、倉庫など多くの業種を傘下に収めた。また、造船や電機など大室財閥が最初から持っていた業種については、吸収されるか、下請けに転換されるか、別業種に転換されるかのいずれかだった。

 

 一方、拡大だけでなく、残っていた不良債権の処理も強力に行われた。これは、金融恐慌の初期に大きな損失を出した事で、それなりの額(当時の750万円程)の不良債権があった。これを、減資や遊休資産の売却、不採算部門の切り離しに人員の配置転換などあらゆる手段を取った結果、掠り傷程度の被害でこの恐慌を乗り切った。また、無理な首切りを行わなかった事や労使協調路線を重視した事から、右翼による襲撃が起きなかった。

 

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 以前から兆候はあったものの、閣僚の失言が原因であった事、海外に目を向け過ぎていた事から、行動が後手後手に回った。その為、初動こそ躓いたものの、大室財閥は昭和金融恐慌を何とか乗り切った。しかし、この時海外に目を向けていた事から、ある出来事をいち早く予測、備える事が出来た。

 

 1929年10月24日、アメリカ・ニューヨーク証券取引所で株価が下がった事を切欠に、株価が全面安となった(ブラックサーズデー)。その後も株価は下がり続け、1日平均10%近く下がる状況が1週間続いた。これにより、アメリカ経済は完全に冷え込み、その影響は世界各国に広がった。「世界恐慌」の始まりである。




この時傘下に収まった業種と企業
・金融:大室證券
・不動産:大室建物
・建設:東亜土木
・鉱業:大室鉱業
・製紙:大室製紙
・食品:大室食品産業、大室製粉、大室製糖、東亜水産
・繊維:日東繊維産業

上記以外にも、多くの企業が傘下に入った。また、大室化成産業はセメントとガラス、ゴムの製造にも進出した。


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24話 昭和戦前②:大室財閥(17)

 アメリカから始まった世界恐慌は、瞬く間に世界中に波及した。

 日本も例外では無かった。恐慌が始まる直前、金融恐慌からの立ち直りを目的にデフレ政策と金解禁を実施した。これらが上手く行けば、中小企業は淘汰される反面、低コストを武器に輸出が増大し、不安定だった為替も安定すると見られた。

 しかし、この政策の実施直後に世界恐慌が発生した。恐慌によるアメリカ経済の低迷によって、最大の貿易相手であるアメリカ向けの輸出額の減少した上、国内の金(正貨)が大量に流出した。更にこの後、生糸とコメの値段も暴落し、国内経済は再び低迷した。

 

 この経済低迷に対し、国債の大量発行と一時的な軍備拡張を行う事で苦境を脱しようとした。この政策は一応成功し、他の列強と比較して一足早く不況から脱した。

 しかし、この政策の実施中にロンドン海軍軍縮会議や満州事変があり、軍部の発言力や不満が高まっていた。その様な中で軍拡を行い、その後で軍縮を行った事で軍部や右翼の不満は高まった。その結果が、血盟団事件から始まる閣僚・財界人へのテロ行為であり、極め付けが2・26事件である。日本は急速に軍国主義化していった。

 

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 大室財閥は、昭和金融恐慌では不意打ちを喰らいダメージを受けたが、世界恐慌からの昭和恐慌は予想出来た。大室物産ニューヨーク支店からの報告で、ニューヨーク証券取引所の株価の動きやアメリカの鉱工業の生産状況から、近い内に株価は暴落すると見られていた。

 暴落に備えて資金確保の準備していたが、準備中に金融恐慌が到来した為、大室財閥は大きな被害に遭った。しかし、金融恐慌後の処理によって準備の完了が早まるというメリットになった。

 

 昭和恐慌によって国内経済は再び大打撃を受け、中小企業が大量に倒産し失業者も急増した。大室財閥はこの機会を利用して、更なる拡大を行った。金融恐慌によって組織の再編成が完了しており、以前からアメリカ発の恐慌に準備していた事から、その後の対応は早かった。今回は中小企業や農村部の被害が大きかった事から、既存企業への吸収では無く、子会社として傘下に収めるもしくは下請けや孫請けの方向での拡大となった。これにより、既存の大企業の生産の一部を子会社や下請けに委託し、大企業(特に大室重工業)は余剰生産力や経営資源を別の技術や重要性の高いモノに投入出来る様になった。

 

 また、アメリカの不況に乗じて、日本に不足していた工作機械の大量輸入を行った。確かに、日本の工業力は第一次世界大戦前と比較すると上昇したが、未だに列強の中では下位であり、上位の米英独と比較すると基礎工業力では大きな差を付けられていた。そして、工作機械は高価でありその国の技術力の証でもある為、簡単に国外に輸出される事は無かった。

 しかし、現状は大きな不況の中にありモノが全く売れない状況である。その様な中で、少しでも金(現金)が手に入る手段があるのならば、それに乗らない訳が無かった。実際、最初の2年間は最新の工作機械を大量に売却している。流石に、アメリカ政府は仮想敵国への援助に当たるこの行為に制限を掛けた。その後は、中古品の購入に限定され、輸出量にも制限を掛けられた。それでも、国内では充分に使えるモノであった。

 これと同様の事をドイツに対しても行った。アメリカとは違い、ドイツは気前良く最新の工作機械を長期に亘って輸出してくれた。これは、ドイツと日本が直接敵対していない事、アメリカ以上に経済的に厳しい状況では相手を選んでいられない事、大室財閥がドイツと関係がある事(大室電機産業とAEG、大室化成産業とバイエル)からだった。

 

 大室財閥のこの動きを見て、他の財閥も同じ事を行った。そして、安価で大量に兵器の生産が出来るのならと陸海軍の一部もこの動きに賛同し、なし崩し的ではあったが、産軍を挙げての工作機械の大量導入が行われた。

 米独両国から輸入した工作機械は、財閥の工場や工廠の古い工作機械の刷新に使用された。そして、財閥や工廠から放出された工作機械は、半分は中小企業に、もう半分は建国間もない満州国(と言っても、大連や奉天が殆ど)に移された。

 これにより、財閥系企業や工廠は設備の刷新と生産効率の向上、精度の向上が図られ、中小企業では生産力の向上が見られた。そして、満州国では史実以上の工業化が成される事となった。この事は、後の太平洋戦争で大いに役立つ事となった。



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25話 昭和戦前③:日林財閥(5)

パソコンが壊れた為、今回はスマホからの投稿です。その為、改行などがおかしいかもしれません。


 昭和金融恐慌とその後の昭和恐慌で、日林財閥は(金融を除いて)大きな被害を受ける事無く乗り切った。

 本体の日本林産は、震災復興が一段落付いた事で商品の木材の需要が低下し、売り上げも低下した。その為、本業以外の事業、特に金融(日本林商銀行)と化学(日林化学工業)に注力する事で、多角化の推進と収益源の複数確保を狙った。

 これらの方針は当たり、銀行の方は一時危なかったものの、信頼の獲得に成功した事で預金量を増やす事に成功した。化学の方も日本が軍拡路線に進むと火薬や合成繊維などの需要が急増し、この後急激に規模を拡大させた。これにより、日林財閥の主軸が、林業から化学へと転換される一端となった。

 

 一方、本業の強化も忘れず、付加価値の高い合板の製造も強化した(尤も、合板の製造は日林木工が担当)。これは、間伐材や細い丸太などの価値の低い木材の有効利用と、合板の主要輸入元であるロシアからの輸入が減少した事からだった。

 この結果、今まで捨てるか薪にするぐらいしか利用目的の無かった木材を、商品にして利益を上げる事が出来た。加えて、接着剤の開発促進と合板の製造機械の自主製造という副次的効果をもたらし、化学部門と機械部門の更なる強化という結果となった。これにより、1935年に日林木工は機械・造船部門が「日林造船機械」と、家具・合板製造部門が「日林木材工業」として分割した。

 

 日本林商銀行は金融恐慌時、小規模ながら取り付け騒ぎに遭い、一時は預金の2割が流出するという非常事態が起きた。尤も、本店に頭取が出て『当行は破綻しません』と宣言し、支店にもその宣言書が店頭に貼られた事で利用者は安心した。預金の流出も止まり、流出した預金も戻ってきた上、他行からの預金の獲得に成功し、流出直前の1割増という結果となった。

 しかし、その後の昭和恐慌では、取引先の多くが休業や倒産するといった事態によって貸出金の回収が不可能となり、大量の不良債権を抱える事となった。この時は流石に危ないと判断されたが、日林財閥各社による資金援助と大室銀行からの連携によって、この困難を乗り切る事に成功した。一方、この出来事によって日本林商銀行は大室銀行の子会社的存在となり、戦時統合によって大室銀行に統合される一因となった。

 

 日林化学工業も、大戦後の合成繊維や化学肥料の需要が高まると、その増産の為に設備の増強を行った。加えて、事業の多角化も進め、ソーダやアンモニアの製造にも進出した。その最中に世界恐慌が起きたが、大きな影響を受けなかった。その理由は、恐慌後の満州事変とその後の満州開発によって大きな需要が発生した事で、設備投資や恐慌による負債を返済出来た為であった。そして、満州事変以降、日本の軍拡路線が進むにつれ、火薬や薬品の需要も増加し、日林化学も増収に次ぐ増収となった。これにより、日林化学は日本窒素肥料(現・JNC)、日本曹達、昭和電工に並ぶ化学の大手企業となった。

尚、合板製造の結果、接着剤の技術は大幅に向上し、簡単に剥がれない木材用接着剤も既に製造された。この接着剤は他の合板メーカーにも販売され、国内の合板の「剥がれ易い」というイメージは概ね払拭され。また、接着剤の技術向上は、太平洋戦争中の木製航空機の開発・生産にも大きく貢献する事となった。

 

 金融・化学以外にも、拡大した業種として窯業と鉱業がある。茶碗を作るだけでなく、陶磁器の製法を応用して碍子やスパークプラグの製造に進出した。これは、当時の送電網の整備や自動車・航空機の発展に応じつつ、既存の事業を発展させる事で、事業の多角化と収益源の複数確保を目的とした。

 この考えは当たり、当時、黒部川や北上川などの大型河川の開発が行われ、ダムの建設も含まれていた。その目的は治水がメインながら、発電も含まれていた。これにより、送電線が大量に引かれ、碍子の需要も増大した。この動きは、軍国主義化していくにつれ拡大した。軍国主義化に伴う軍拡によって、兵器の生産の為の電力が必要になる為だった。

 また、軍拡や技術革新によって、自動車や航空機が大量配備され、エンジンに必要なスパークプラグの需要も急増した。これらにより、日林陶器は急速に拡大し、1938年に碍子部門とスパークプラグ部門が「日林特殊陶器」として独立した。

 

 鉱業の方も、軍拡が進むと金属や燃料資源の需要が急増した。その為、日林鉱業の業績は拡大し、新しい鉱山の開発も行われたが、1933年に金属部門を「大室金属鉱山」として大室財閥に譲渡した。これは、日林側は「日本林商銀行の救済の対価」と「繋がりの薄い事業の整理」を、大室側は「自前の金属資源の原料の確保」という思惑が一致した為だった。

 上記以外の繊維、食品も景気回復によって、業績は回復した。また、日本林産の商社部門も、日林財閥の企業の業績が回復するにつれ取引量も増大し、林業を上回る収益を上げた。

 

 日林財閥の業績は一時下がったものの、時流に乗る事が出来た事で回復した。しかし、拡大した方向が本業と離れていた事は、日本林産とその祖業である林業の進展の限界が垣間見えた。



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26話 昭和戦前④:日鉄財閥(4)

 1920年頃から、再び鉄道ブームが到来した。第一次世界大戦による資材の高騰によって中断されていたが、大戦景気によって日本の経済力・資本力は大きく向上した。また、それに伴って都市の人口も増大した。これにより、都市近郊部の鉄道、特に電気鉄道の計画が大量に出現した。また、関東大震災によって、都心から郊外に人が移動した事もこれを助長した。

 日鉄もこの動きを逃さず、「これだ」と狙った会社に出資し傘下に収めた。出資対象は、北は北海道から南は九州まで、都市間鉄道から地方のローカル線まで多岐に亘った。

 

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 鉄道会社への投資だけで無く、車輛製造部門の拡大も活発に行われた。特に大きなものが、福岡鐵工所、東洋車輛、雨宮製作所の買収である。この3社は共に鉄道車両メーカーであるが、史実では、福岡鐵工所を除いて昭和恐慌による地方鉄道の経営悪化によって新規受注が無くなった事によって経営が悪化、倒産している(福岡鐵工所については詳細不明)。

 福岡鐵工所は、福岡駒吉が設立した会社である。軽便鉄道向けの石油発動機搭載の機関車「駒吉機関車」を開発・製造したメーカーで、一部のマニアには知られていると思われる。

 東洋車輛は、東急の五島慶太や京阪の太田光凞など鉄道界の大物が出資して、1922年に設立された会社であるが謎が多い。というのも、第一次世界大戦後に設立された為である。それでも、鉄道界の大物がバックにいる事による信頼は大きかったのだろう。設立翌年には、戦後不況で傾いた同業他社の枝光鉄工所を吸収したが、昭和恐慌などで地方鉄道の経営が傾いた事で車輛の受注は減少し、東洋車輛は倒産した。

 雨宮製作所は、日本の鉄道王雨宮敬次郎が1907年に設立した「雨宮鉄工所」が源流である。地方鉄道向けの客車や気動車の製造で知られていたが、昭和恐慌後はこちらも東洋車輛と同様の道を歩んだ。

 日鉄は、この3社を1926年頃から子会社化した。日鉄が出資・建設した鉄道会社向けに汽車や客車の製造を任せたり、気動車や電車の共同開発を行うなどして、密接な関係を築いた。これにより、史実で減少した地方鉄道向けの車輛の受注を日鉄経由で獲得した3社は、経営状態は史実よりもマシな状況となり、多少傾きつつも倒産する程では無くなり、日鉄の庇護の下存続した。

 その後、1938年に日鉄と大室の統合の一環で、3社は日鉄本体に吸収された。それと連動して、製造現場の合理化によって、大阪(旧・福岡鐵工所)と枝光(旧・東洋車輛)を閉鎖して三田尻に、深川(旧・雨宮製作所)を閉鎖して千葉にそれぞれ設備や人員などを移転させている。

 

 勿論、地方鉄道向け以外にも、国鉄(当時は鉄道省だったが、分かり易さを重視して「国鉄」とする)向けの車輛の製作も行っている。地方鉄道向けに蒸気機関車の製造を行っていた為、8620形や9600形を数両製造している。1927年には、2両の中型電気機関車を自主製作し鉄道省に納入した。この機関車は後に「ED19」と改称された。この事から、国産の電気機関車の製造に日鉄も加わり、EF52形電気機関車の製造の共同メンバーに加わった。その後も、ED16形やEF53形などの製造にも携わった。しかし、電動機については、出力の関係から大室電機製のものが採用された。

 

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 車輛製造部門が活発になっているのと同じく、電気・機械部門も活気づいていた。車輛メーカーである事と海軍からの支援がある事を生かして、モーターや発電機などの重電部門については強く、それ以外の弱電(家電など)についても、第一次世界大戦中から自力で開発を行ってきた。特に、鉄道向けにもなる電球や扇風機の製造については高い評価を受けていた。

 電機産業は不況の中でも大きな打撃を受ける事は無く、比較的安定して成長した。不況後は軍拡によって、通信機やエンジンの製造で車輛に遅れながらも活況に沸いた。

 一方、造船部門については、大戦後の不況や軍縮によって受注が激減した事で、買収した造船所の内、尼崎と戸畑を閉鎖して三田尻に集約させた(同時に、戸畑造船所の跡地に電機工場を新設)。それでも、利益を上げられない為、車輛や電機の下請けを行ったり、当時新兵器と目された航空機への参入を行うなど、造船部門は中核にならなかった。

 しかし、航空産業への参入は結果的には成功した。当初は試行錯誤を繰り返しながらも技術力を高め、海軍との繋がりから水上機や飛行艇の開発を任される様になり、後に愛知航空機や川西航空機に並ぶ中堅航空機メーカーの一角を占める様になる。

 商社部門は不況によって大打撃を受けたものの、他の部門が活気付いていた事から損失の穴埋めが出来た。しかし稼げていなかった事から、以降の日鉄財閥では商社部門への注力が二の次になっていった(造船部門も稼げていなかったが、航空産業への参入による将来性から資金が投入され続けた)。

 

 金融部門も活況に沸いていた。鉄道向けの投資事業は日本各地で行っている事から大量の資金が必要となり、銀行は預金集めと運用に、証券会社も運用に注力していた。

 日本鉄道銀行の支店網は、国鉄の大型駅の駅前を中心に存在している為、本来の人の動きとは異なる位置にあるが、東京市や京阪神など大都市の支店が多い事や新市街地の整備などで国鉄の駅付近に人が集まる様になると、この欠点は次第に薄れていった。それ処か、新市街地の住民の預金を集め易い位置にいる事で、日鉄銀行に多くの預金が集まった。こうして大量に集まった預金を、株券や債券などで運用した。特に、国債や金融債の運用が多い事から、安定した資産作りを行い資金量を増加させた。これにより、日鉄銀行の信頼は高まり、地方での預金の獲得に成功した。

 日鉄證券は、日鉄銀行との共同店舗で全国に展開された。こちらは、銀行と比較して法人向けの資産運用が多く、地方の視点も多い事から、地方財閥の資産運用も行った。特に大きかったのは、日林財閥との取引に成功した事である。これにより、大口の取引相手を獲得し、地方財閥と合わせて大きな顧客基盤を築く事に成功した。そして、運用する資産には相手がいる事から慎重な運用が求められ、堅実な運用が心掛けられた事で、昭和金融恐慌や昭和恐慌でも損失が出る事無く乗り切った。これにより、日鉄證券は野村證券に並ぶ巨大証券会社として知られる様になり、野村・日鉄・山一・日興・大和の各証券会社は後に「5大証券会社」と呼ばれる様になる。

 

 上記以外の部門についても、土木部門の日鉄土木は全国での日鉄が絡んだ鉄道の建設に関わり、大きな利益を上げた。倉庫部門の日鉄倉庫、運輸部門の日鉄運送についても同様だった。そして、新参の損害保険会社「日鉄火災保険」は、鉄道会社との契約を増やして拡大していった。

 一方、海運部門の日鉄船舶輸送は、大手との競合や不況の影響によって利用者が増加せず、常に赤字を出していた。既に大手が主要航路に参入し、地方航路も既存会社によって運行されている現状では、新参者には不利であると判断され、1934年に大室船舶に全て譲渡した。




日鉄が投資した鉄道会社については、番外編で別途説明する予定です。


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27話 昭和戦前⑤:大室財閥(18)

久しぶりに本編の更新となります。久しぶりの為、内容に矛盾や構成のおかしさなどがあると思います。


 満州事変後、日本の軍国主義化は進んだ。5.15事件、2.26事件によって政府は軍部の統制力を事実上失い、軍部の独断を追認するだけの存在になろうとしていた。

 

 一方、満州事変によって設立された満州国の存在は、「満蒙は日本の生命線」と言われた事から大々的な開発が行われた。この動きは本国にも波及し、満州の開発景気に沸く事となった。

 また、世界恐慌からの立ち直りが他の列強より一歩早かった日本は、経済の回復も早かった。強引な為替レートの変更によって輸出の伸びが著しく、日本製の綿製品が世界中に広まった。

 日本は緊張を孕みながらも、戦前最後の平和の中にあった。

 

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 この様な中、大室財閥が取った行動は技術力の向上だった。これは、大室財閥が音頭を取った事で米独から大量の工作機械を導入し、それによって生産力の向上は見られたものの、基礎工業力の低さから来る技術力の不足は残っていた。特に、精密機械や電機、自動車や航空機、それらの心臓であるエンジンの技術力は米独に及ばなかった。そして、次世代の主力兵器と目された航空機の開発にも影響を及ぼすだろうとして、1920年代から進められていたこれらの研究が強化された。

 

 精密機械や電機については、大室電機がAEGから技術提供を受けている事から、パテント料を上積みすれば新しい技術を獲得出来た。実際、これによって高品質の真空管のノウハウを獲得している。それ以外にも、新型のラジオや通信機の製造方法も獲得し、軍への納品を行った結果良好と判断され、大口の顧客の獲得に成功した。これにより、通信機器の生産量・生産額は急増し、1938年には通信機器部門の利益だけで他の部門の利益の合計に匹敵するまでになった。しかし、このままだと通信機器に注力し過ぎて他の部門への注力が難しくなる恐れから、1939年に通信機器部門と通信機器と関係が深い電波機器部門を「大室通信産業」として独立させた。

 また、納品した通信機を載せて航空機で使用する実験が行われた結果、航空機に通信機を載せると連携がし易いと判明し、以後、軍用機には通信機の配備が行われた。以降も航空機と通信機の相性の研究が行われ、その最中に、雑音が混ざりにくい方法が判明するなど、この後の戦争に大いに役立つ研究が行われた。

 

 航空機についても、AEGから技術提供を受けた。AEGは1917年に航空機産業に進出したが、ベルサイユ条約によってドイツ企業による航空機開発が禁止された。これを受けて、AEGは戦前から関係にあった大室財閥に「技術者の派遣と保有する技術の提供を条件に航空機産業を引き継いでほしい」と交渉した。大室財閥としては、航空機の有用性が不明であった事から当初は渋ったが、AEG側の熱意と陸海軍の航空機用の予算が組まれた事から航空機の将来性に賭け、この話を受け入れた。航空機用エンジンの技術を、当時国内で増加しつつあった自動車の生産にも流用出来るのでは考えられた事も、賛成した理由にあった。

 これにより、AEGの航空機部門の技術者が大挙して来日した。加えて、ファツル航空機製造やアルバトロスなどの他の航空機メーカーもこの話を聞きつけて来日する者もいた。大室財閥側も、1922年に大室重工業に新たに航空機部門を設立して、来日した技術者を中心に大室重工の技術者や設計者などと共同して、航空機開発がスタートした。

 しかし、大室重工側の用意が不足していたのか、最初の数年は機体の設計やエンジンの開発に終始する事となった。ドイツの技術者達が、本国から苦労して(連合国の目を盗んで密輸した程)航空機の現物を運んできたのだが、リバースエンジニアリングが限界だった。航空機など見た事も触った事も無い日本人の技術者達にはしょうがないのかもしれないが、これから先の事を考えると厳しかった。

 それでも、日本人技術者達はドイツ人技術者から貪欲に知識を吸収し、1928年には自作の航空機が完成した。結果は良好であり、直ぐに軍に売り込みをかけた。この時は採用されなかったものの、1932年に海軍が艦上攻撃機の後続機を計画していた為、そのコンペに参加した所、大室の機体が採用された。後に改良が加えられ、「九二式艦上攻撃機」として採用された(史実の九二式艦攻は海軍航空廠製)。性能が良く信頼性も高い九二式艦攻は、八七式艦攻や一三式艦攻の後続機として多数配備され、400機近くが生産された。

 九二式艦攻の成功は、大室重工の航空機メーカーとして歩む上での第一歩となった。これ以降、大室重工は海軍向けの機体の開発を行っていく(尤も、採用されない事も多かったが)。また、他社の機体のライセンス生産を行い、着々と生産のノウハウを付けていった。

 今までは堺工場で生産していたが、造船所の内部に設置した事から生産ラインが小さく、現状では九二式艦攻の生産数や他社の機体の生産に追いつかないとして、別の場所に航空機専門の工場を建設する事が計画された。1935年に新工場を徳島に建設する事が決定した。この頃には、航空隊の規模が急速に拡大し今後もその予定である事から、新工場の建設は急ピッチで行われた。同時に、工場への人員・物資輸送を目的とした鉄道も計画された。この工場は1938年に完成し、堺の生産ラインも全て徳島に移した。

 

 航空機の開発に連動して、自動車の開発も行われた。既に、トラクターやユンボなどの重機についてはデッドコピーながら生産経験がある事から、現在生産しているタイプより高性能な重機やトラックの生産が計画された。

 こちらは、生産経験がある事から大きく躓く事は無かった。加えて、航空機の研究でガソリンエンジンの研究開発が進んだ事で、高出力な自動車用エンジンの開発に成功した。しかも、航空機用エンジンのノウハウが活かされた事で、このエンジンの信頼性は高かった。これにより、パワーがあり扱いやすい重機やトラックが生産され、特に重機は小松製作所が太平洋戦争中に参入するまで(国内企業では)ほぼ独占だった。

 それだけでなく、他の自動車会社がこのエンジンを積みたいと相談してきた際、「勝手に模造しない事」を条件にこれを許可した。これにより、大室重工の自動車用エンジンが大量に生産され、『国内のトラックのエンジンの1/3が大室重工製』と言われる程のベストセラーになった。

 

 一方、自主研究による新技術の研究も盛んに行われた。特に大きかったのは、ディーゼルエンジンの製造だった。これは、航空機や自動車の増加に伴いガソリンの使用量が増加し、ガソリンが不足するのではと考え、軽油を使用するディーゼルエンジンの開発が行われた。この考えの下、船舶用の大型と自動車用の小型の2種類が計画された。

 しかし、ディーゼルエンジンの理論については持っていた(帝大との研究で獲得した)が、製造経験が無い事から、試作したエンジンは予定していた出力が出ず(計画の6割程度)、故障も頻発した。特に、小型ディーゼルの方は精密な加工を要する事から故障が顕著だった。それでも、帝大との共同研究や航空機用エンジンで培った工作精度の向上などによって、ようやく1934年に大型の、1937年に小型の満足のいく性能を発揮するディーゼルエンジンが完成した。

 これらのエンジンを載せた試作品として、1937年に初の大型ディーゼル船「吉野丸」が竣工し、同年にはディーゼルトラックが数台生産された。運行の結果、成績は良く、経費も2割近く削減される事が判明した。

 一方、頻繁に整備を要求する事、今まで使用していたエンジンとの違いから来る高い整備コストなどから、少数生産は不利であり、整備体制を充分に整えないとコストは高く付くと判明した。これにより、現状での全船舶のディーゼルエンジンへの転換や、既存エンジンとディーゼルエンジンの並行配備は見送られる事となった。それでも、運用成績そのものは良好であった事から、ディーゼルエンジンの研究は続行された。



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28話 昭和戦前⑥:日林財閥(6)

 満州事変以降、日林財閥の基幹事業は林業・木材加工から化学に移行した。日林自体は、祖業を重視する姿勢や、木材からの加工品の製造・販売を強化している事から、完全に化学に頼っている訳では無かった。

 しかし、満州事変以降、重化学工業の発展や軍拡による火薬や薬品の需要の増大、化学部門における国産化の推奨などから、日本全体で化学産業の発展は著しかった。

 昭和恐慌と満州事変によって再編された日林財閥も、この流れに乗った。祖業の強化と共に、金融事業や化学事業の強化、軍需関係への進出などが行われた。これにより、日林財閥は日窒コンツェルンや森コンツェルンに並ぶ化学の大手となった。

 

 また、化学への注力を行うと同時に、他の事業の強化も行われた。それは、製紙業と電力事業の2つである。

 製紙業の強化は、木材の利用が可能な事、化学と密接に関係する事(製紙の製造過程で硫酸が必要になる)、設備の更新が必要だった事が理由だった。3番目の理由は、日林製紙が中小の製紙会社を統合して設立された会社である為、工場が日本各地に分散しており、設備も小規模だった。その為、設備の老朽化が早く、利益効率の悪い運営を行わざるを得なかった。また、ある事情がこれを後押しした。それは、製紙業最大手の3社が合併した事である。

 当時、製紙業は供給過剰によって苦しい状況だった。その様な中、以前からカルテルを組んでいた王子製紙・富士製紙・樺太工業の3社が1933年に合併し、新・王子製紙(通称、「大王子製紙」)が誕生した。

 これに対して日林製紙は、規模の拡大では無く、利益効率の向上による競争力の獲得を目指した。相手は、当時の日本の製紙における生産高の7割を保有していた巨大企業である。拡大した所で勝てる訳が無い。

 一方、王子製紙は合併によってシェアを拡大させたが、異なる会社を合併した為、設備の更新などは先の事と見られた。そして、その間は製造効率はやや落ちると見られた。日林製紙に勝機があるとすれば、製造効率を上げて競争力を得る事と考えられた。

 その為、日林製紙は現在稼働している日本各地に分散している古い工場を整理して、他の地域に新しく工場を設立する事とした。これならば、利益効率の悪い古い工場を整理出来、過剰気味な人員も整理出来る。そして、利益効率の良い新しい工場での生産ならば、製造コストの削減も出来、王子製紙との競争力が多少付くのではとされた。

 

 時は少し遡るが、日林の電力事業への進出は1920年代から始まった。電力事業への進出の理由は、保有する山林の開発に加え、発展する重化学工業への対応にあった。日林が注力する製紙業や化学などの重化学工業には大量の電力が必要であり、電力の安定供給が出来なければ生産にも支障を来たす恐れがあった。それを解消する為には、発電所の増設が必要だった。

 当時の発電方法は、火力発電と水力発電があった。火力発電だと、燃料(石炭や重油)の安定供給が必要であり、煤煙の解消も難しかった為、都市の近くには置けなかった。

 一方、水力発電ならその様な心配は無く、日林が保有する山林の開発を行えるとして、水力発電の積極的な開発が進められた。

 しかし、既に多くの電力事業者が参入している上、単独での参入はリスクが大きい事から、日鉄との合弁会社を設立する事となった。これは、日林は日本各地に山林を保有しているが、大きな売電先が無い事、日鉄は日本各地に電鉄会社を保有しているが、大規模な発電所を保有していない事から、双方にメリットが大きかった。こうして、1928年に両財閥の合弁で「日林電力」が設立した。

 同時に、日林・日鉄共に影響圏が日本各地に分散している事から、1社での参入は非効率だとして、地域毎に電力会社を設立する事となった。日林電力の傘下として、北海道に「北邦日林電力」、東北に「奥羽日林電力」、関東に「関東日林電力」、東海地方と山梨県、長野県に「東海日林電力」、北陸地方と新潟県に「北越日林電力」、近畿に「近畿日林電力」、中国地方に「中国日林電力」、四国に「南海日林電力」、九州に「筑紫日林電力」を設立した。

 

 この頃の日林財閥は、国内の工業化が遅れている地域への進出を積極的に行っていた。それらの地域に進出して、手付かずの森林資源の開発や電源開発だけで無く、雇用の創出による地域経済や内地の経済の強化を図ろうとした。特に強力に進出したのは北海道、東北、四国、南九州だった。

 これらの地域は主要工業地帯から離れている事から、工業生産額が非常に低かった。産業の主体は農業や林業などの第一次産業であり、第二次産業があったとしても鉱業が主体であった。つまり、現地からは運び出されるだけであり、そこで生産される事が少なかった。それらの地域で、その地域の産物を活用した産業の発展を行う事が、日本の経済力そのものの底上げに繋がるとして、日林財閥はこれらの地域への進出を強化した。

 

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 当時、日鉄財閥が札幌の外港と北海道の工業化を目的に、石狩川の河口部で港の整備・開発を行っていた(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)』を参照)。日鉄は、整備した港への工場誘致を行った。これにより、日鉄系の企業だけでなく、大室財閥や三井財閥、三菱財閥などの企業が進出した。

 日林もこの流れに乗り、日林化学と日林製紙を置く事となった。石狩港は、石狩川の水運や石狩鉄道を利用して内陸部から原料の輸送が容易であり、港に隣接している事から搬出も容易であるなどの利点が多かった。

 

 石狩工場の計画は、石狩港の第一期工事が完了した1928年から進められた。当時は、まだ金融恐慌の影響が残っていた事もあり、懸念の声も多かった。中には、他の財閥が朝鮮に進出している事から、我々もそちらに進出しようという意見もあった。

 しかし、内地には未だに開発が遅れている地域があるのに、そこの開発をせずに外に出るとは何事かという意見が幹部の統一意見として出されると、外地への進出という意見はピタリと止んだ。これにより、内部の意見は統一され、石狩工場の計画は進行し、1930年には建設が開始した。

 尤も、工事が始まったのが昭和恐慌の時期と重なり、間が悪い事に日本林商銀行の経営危機もこの頃の為、石狩工場の計画は一時中止となった。しかし、鎮静化が早かった事から、翌年には工事が再開した。

 また、工場で使用する電力の安定供給を目的に、石狩川の支流である当別川の上流の電源開発も同時に行われた。川沿いの道は悪路であり、物資の搬入には利用しずらいとして、札沼線の石狩当別から分岐して、当別川沿いに鉄道を走らせて、物資の搬入や沿線からの木材輸送などに活用する事が計画された。

 工事は1929年から行われ、翌年には当別川の上流まで開業した。開業と同時に、以前から計画されていたダムの建設も開始した。これは、石狩港の工業地帯だけで無く、札幌市への電力供給も検討していた事から、たとえ恐慌によってダメージを受けたとしても、急ピッチで行う必要があると判断された為であった。それでも、恐慌によるダメージによって工事の速度が緩められ、当初予定では1935年に完成だったが、1年遅れの1936年に完成となった。

 

 発電所の完成と工場の新設によって、北海道における工業生産額は急増した。加えて、発電所が置かれた事で、工場設置のネックであった電力の安定供給が克服され、他の財閥系企業の進出も促進した。

 

 また、日林の発電所設立は、2つの副産物を生みだした。一つは、現地の既存電力事業者の発電能力の強化である。これにより、更なる工場の進出が行われようとしていた。もう一つは、北海道から満州への移住者の減少である。北海道内で雇用が創出された事で、余剰人口が労働者として吸収された。

 

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 日林の石狩港進出を見て、他の企業が石狩港に進出した様に、北海道の他の地域でも工場の設置や発電所の建設が行われた。その多くが、以前から北海道の主要工業地帯である室蘭や苫小牧、釧路に進出した。

 室蘭では製鉄所の設備強化や造船所、機械工場の新設、苫小牧でも機械工場が置かれた。釧路も製紙工場や食品加工工場の施設強化に加え、周辺から産出される豊富な石炭を利用した化学工業も進出した。

 

 上記に挙げなかった地域でも、小規模ながら工場の新設が行われた。これらの動きによって、日本各地の余剰人口が北海道に移住したり、逆に北海道の住民が満州への移住が鈍化する事となった。




中途半端なところで終わっていますが、後半は日鉄財閥による東北、四国、南九州の進出・開発状況を書きます。1つにまとめると長くなりすぎると考え、2つに分割しました。


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29話 昭和戦前⑦:日林財閥(7)

 東北では、奥州地域(現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県)の工場施設の強化と奥羽山脈における電源開発を行った。元々、日林は私設鉄道の沿線の森林開発・植林から始まり、初期の出資者の中で最大だったのが、東北本線などを建設した日本鉄道であった。その為、東北地方の旧・日本鉄道沿線(=奥州)には日鉄の工場が置かれていた。

 実際、仙台には木材加工場や製紙工場、後には造船所や化学工場が置かれた。また、これにより、仙台郊外の名取や塩釜への工場や企業の進出も進み、他の企業の工場も進出した。それ以外にも、三陸や浜通りなどの沿岸部には水産加工場と製薬工場が置かれ、それ以外の地域には木材加工場や食品加工工場が置かれ、農地の開発も推し進めた。

 上記以外にも、日露戦争以後に進出した出羽地域(現在の山形県、秋田県)でも、秋田や酒田に中規模ながら製紙工場や木材製品の工場が置かれた。 

 また、電源開発は、奥羽山脈や出羽山地、北上山地など多くの山岳地帯があり、北上川や最上川、阿武隈川などの大規模な河川が多数存在する事から水力発電に適しているとされ、積極的な開発が計画された。また、これらの大規模河川は大雨などで氾濫した事から、治水事業としての側面もあった。

 

 しかし、計画を全て日林単体で行うのは不可能であり、奥羽日林電力(日林系の電力会社で東北を担当)としても企業体力を超える事業は行えなかった。その為、地元の電力会社や自治体共同して場所毎に分けて建設を行う方法が計画された。これならば、複数の場所で同時に工事が出来、1つの会社が工事を中断しても他の場所では影響が小さくなると見られた。加えて、日林だけが巨大化する事も無い事から、他の電力会社から大きな恨みを買う事も無いと見られた(尤も、新規に参入してきた時点で相応の恨みを買っているのだが)。

 この案に対して、他の電力会社の意見は二分した。一方は、新参者が入ってくる事や新参者の意見など聞きたくもないという者、もう一方は、単独での開発は難しいとしてこの案に乗る者であった。その為、日林のこの案は紛糾し、最終的に日林の意見に賛同する会社だけでこの計画を実行する事となった。

 この結果、当初のダム建設予定地の2/3程度が開発される事となった。開発は1929年から始められた。開発開始直後に昭和恐慌が襲い、日本全体が不況に覆われた事で、一時は計画が中断された。特に東北地方では酷く、農村部の荒廃が進んだ為、開発の意義すら見失いかねなかった。

 それでも、荒廃した農村部を再建する為には東北全体の開発が必要だとして、計画の中止はされなかった。加えて、その後の満州事変後に日本の景気が上向き始めると計画は再開された。調査などを進め、多くの地域では1933年から建設が行われた。

 

 これらのダムは1937年から次々と完成した。ダムの完成により、多くのメリットがあった。第一に、暴れ川と言われた北上川や最上川の氾濫が減少し、今まで増水時に氾濫する為開拓が出来なかった下流域の農地の開発が進んだ。

 第二に、ダムの完成により大量の電力が供給される様になり、東北地方に企業の進出が進んだ。これは、戦時体制になりつつあり、軍需産業の比率が急増した時期と重なり、軍需中心ではあったが東北地方の工業化が進んだ。

 第三に、農地開発や工場の新設によって東北地方では大量の人手が必要となった。当時の東北では余剰人口があった事から、その余剰人口が開拓された農地の農民や工場の労働者として吸収された。これにより、史実では関東や満州に移住した人口が東北に定着する事となった。

 

 大規模な東北の開発が行われたが、東北全体の開発は日林単独では行われなかった。採算が取れるか分からない事業もあり、東北全体を開発しようとすると、財閥の体力を超えると見られた為だった。その為、他の財閥と共同出資して設立した「東北興業」という会社を挟んで行われた。東北興業についてはここでは詳しく述べないが、この会社は史実でも存在したが、設立した時期と経緯が異なる。

 

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 四国では、徳島と三島(伊予三島、現在の四国中央市)への進出を行った。これは、日林財閥が立江~土佐山田の四国中央鉄道と阿波池田~伊予三島の四国横断鉄道を支援した事と関係する(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)』参照)。特に、四国山地からの豊富な木材資源を活用して、製紙業と木材加工業が数多く進出し、水力発電の開発も進められた。それだけでなく、化学や造船、機械や金属なども進出した。これは、日林が四国全体の工業化の推進だけでなく、徳島を有力な工業都市にしようとする計画があった。

 

 徳島に進出したのは1928年からであり、その時は四国中央鉄道と沿線から産出される木材の加工程度だった。その後、発電所の計画が立案された実地調査も行われたものの、暫くは大きな変化は無かった。これが大きく進展するのは1935年以降の事である。

 1935年に大室重工業が徳島に航空機工場を建設する事となった。この話を聞いた日林は、部品や電力の供給に加え、徳島に大規模な工場を建設すると大室に伝えた。大室側はこれを歓迎し、両者が共同して徳島を工業都市にしようという話になった。

 大室重工の工場建設に合わせて、日林も日林化学や日林特殊陶器などの重化学工業の進出を強化した。合わせて、1933年から行われていたダムの建設も、これらの工場への電力供給の為に促進された。これらの施設は1938年から稼働し、徳島が四国最大の工業都市として君臨する第一歩となった。

 

 三島の方は、原料の確保が容易な事から製紙業や木材加工業が進出したが、地元には多くの製紙業者が存在した事から一時は対立関係にあった。これに対し日林は、原料の優先的な供給や経営が傾いた企業の救済を約束した。

 これに乗った企業もあれば、『自分達だけで対処する』と言って乗らなかった企業もあった。その為、三島の経済界は二分し、以降町内の有力企業は親日林派と反日林派で分割する事となった。これは、戦時中の統合にも反映される事となった。

 

 兎に角、三島へ製紙工場や木材加工場が進出し、電力開発によって豊富な電力が送られた。これにより、日林以外の有力企業、特に近畿や西日本に基盤を置く企業が三島に工場を置くようになった。主な企業として、住友系の住友機械工業(現・住友重機械工業)や住友化学工業(現・住友化学)、多木製肥所(現・多木化学)などの化学メーカーであった。他にも、大量の電力を使用するアルミニウム精錬や、近畿や瀬戸内に存在する造船会社や重工向けの機械や部品を製造する下請けも多数進出し、新設された企業もあった。これにより、三島は製紙と重化学の街として発展していく事となる。

 

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 南九州では、宮崎への進出を行った。こちらも、宮崎電気鉄道を支援した事と関係する(番外編『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)』参照)。宮崎電鉄の沿線は林業地帯として有名であり、こちらでも四国と同様に製紙業と木材加工業が進出した。

 同時に、大淀川とその支流の電源開発も行われた。宮崎電鉄の開業によって物資の輸送は容易となり、1933年から工事が行われた。ダムは1937年に完成し、宮崎電鉄や沿線へ電気が供給された。

 

 ダムの完成に伴い、大量の電力を使用し、将来の主力兵器と目される航空機の主材料となるアルミニウムの精錬業が進出した。また、化学の進出も盛んだった。これは、県北部の延岡と隣の熊本県八代に日窒コンツェルンの企業が置かれていた為であった。日林系だけで無く、森コンツェルンや日曹コンツェルンの企業が相次いで進出し、大量の硫安や苛性ソーダなどの生産が整いつつあった。

 これに伴い、日窒コンツェルンは宮崎に対抗するべく、八代や延岡での設備強化に着手する事となり、朝鮮での設備強化は鈍化する事となった。



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番外編:日林-日鉄による東北開発

 明治維新以降、東北地方の開発は他の地域と比較すると遅れていた。戊辰戦争中、東北地方の多くの藩が新政府に抵抗した事から、その後も睨まれていた。一応、鉱山や林業の開発は行われたが、未だに手付かずの山林は多く残っていた。その為、東北地方の開発は低調であり、戦前では大規模な開発が殆ど行われなかった。

 第一次世界大戦前、東北地方を襲った冷害の対策として、東北地方の抜本的な開発を行おうと、1913年に「東北振興会」が設立された。しかし、何ら具体的な行動を起こせないまま1927年に解散してしまった。つまり、東北地方の大規模な開発の機会が失われたのである。

 第一次世界大戦中の影響から、日本では重化学工業が発展し、特に窒素や苛性ソーダなどの化学工業が発展した。これらの事業は、大量の電力を必要とする。その為、水力発電とセットで設立される事が多かった。急峻な山岳が多い東北ではこれらの産業に有利と考えられるが、それらの工場の多くが南九州や北陸、朝鮮に設立された。これらの地域も東北同様、急峻な山が多く開発が遅れている地域であるが、ここでも東北地方は開発から残されてしまった。

 

 この状況が転換したのは昭和恐慌以降の事だった。昭和恐慌とそれに続く農村恐慌によって、農村部、特に東北は荒廃した。有名なのは、欠食児童や娘の身売りであろう。それくらい、酷い状況にあった。その後、三陸地震や凶作などが相次いで発生し、政府は東北の復興を目的として1936年に設立されたのが「東北興業」だった。議会で定められた法律に則って設立された為、特殊会社に分類されるが、発行した株式の半数は東北地方6県が、残りの半数は民間企業が保有する形態だった。

 東北興業の目的は、化学工業の新興や農村工業化の促進などの5項目に亘った。これにより、東北地方の復興と工業化が進むかと思われたが、時期が悪かった。

 

 東北興業が設立した1936年は、2.26事件のあった年であった。その年から日本の軍国主義化は急速に進み、軍事費が増大した反面、他の事業についての支出は低下した。この煽りを受けて、東北開発の予算も削減された。また、目玉とされた「化学工業の新興」は、会社側の都合で低調だった。

 これの代替として、東北の化学工業に出資する形態が取られた。これ以降、東北興業は投資会社としての性格を強め、化学、機械、製紙など投資先は多岐に亘った。

 これにより、当初の目的とは異なる形ではあったものの、東北地方の工業振興は図られた。

 

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 この世界では、1926年に東北振興会に日林財閥と日鉄財閥が関与した事から、史実とは異なる歴史を歩む。

 日林財閥が、日本鉄道(現・JR東北本線など)沿線の植林事業から始まったという経緯から、東北地方の奥州地域についてはある程度の情報を持っていた。日鉄財閥は、その日本鉄道の後身企業である事から、やはり奥州地域の情報は持っていた。そして、その縁から両者の繋がりは当初から深かった。

 これらがあり、両者は東北振興会に参画した。この頃には、東北振興会は開店休業中の状態であり、情報量から太刀打ち出来なかった為、必然的に両者が主導権を握った。

 

 1927年、日林と日鉄は東北振興会を「東北拓殖」と発展的に解消させた。東北拓殖は株式会社形式を取り、半数を日林と日鉄が、残る半数を東北6県の有力企業や資本家が保有した。東北拓殖の目的は次の通りである。

 

・林業や鉱業の開発

・化学工業の設置

・農村・漁村の工業化

・電力開発

・農地を含めた土地開発

・上記に付随する交通機関の整備

 

 第一の「林業や鉱業の開発」は、未だに残る豊富な森林資源や、未開発の鉱物資源の開発を行うものだった。現状では、日林財閥によって森林資源の開発は行われており、釜石や小坂に代表される鉱山の開発も進んでいた。

 しかし、開発は一部であり、未だに手付かずの場所も多かった。特に、岩手県の東北本線と太平洋に挟まれた山岳部は、豊富な森林資源や鉱物資源が望めるものの、交通機関が乏しい事から開発が進んでいなかった。

 東北拓殖は、第六の「交通機関の整備」と連動して道路や鉄道の建設を行い、未開発の資源の開発を行った。これにより、資源の運搬路としてだけで無く、課題だった地方交通網の拡充を行った。

 

 第二の「化学工業の設置」は、急速に発展する化学工業を東北に誘致して、東北地方の開発と国富の増強を目指したものである。これは、第三の「農村・漁村の工業化」と第四の「電力開発」とも連動している。

 つまり、化学工業を設置し、化学肥料や農薬を生産する。これを農村に販売し、農業生産力を強化する。増産された農産物を加工し、軍や都市部に販売する。また、漁村に水産加工場や製薬工場(肝油などは薬になる)を設置して、工業化や衛生の強化を図る。そして、化学工業で使用する電力を賄う為、ダムを建設して電力開発を行う。これが、大まかな構想である。

 

 第五の「農地を含めた土地開発」も、第四の「電力開発」と連動している。

 ダムによる電力開発と共に治水を行い、下流域の氾濫を解消する。氾濫を抑えられれば、今まで開発できなかった氾濫域や湿地の開発が可能となる。ここを農地として開発したり、工場を誘致する事が目的だった。

 

 上記の開発は設立直後から行われたが、大規模過ぎた事で計画は僅かしか実行出来なかった。幾ら財閥の出資を受けたとしても、一民間企業が出来る範囲を超えていた。

 「林業や鉱業の開発」は、奥州地域では多少進んだが、出羽地域では殆ど進まなかった。「化学工業の設置」も、仙台周辺や三陸地域では行われたものの、1933年の三陸地震による津波によって岩手県沿岸部が被害を受けた。これにより、建設途中だった工場は完全に崩壊し、建設も放棄された。その為、「農村・漁村の工業化」「電力開発」「農地を含めた土地開発」も殆ど進まなかった。

 一方、「上記に付随する交通機関の整備」は多少行われ、東北鉄道鉱業、南部開発鉄道、岩手開発鉄道に関与した。

 

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 昭和恐慌や農業恐慌、三陸地震によって東北地方が荒廃すると、政府としてもこれを救済する必要があった。しかし、既に東北拓殖が事業を行っていた事から、新規に組織を形成するのは非効率的であった。その為、東北拓殖に政府が出資する事となった。

 

 これに対し、東北拓殖側は好意的であった。東北地方全体の救済を民間企業だけで行うのは限界があった。その上、自然災害の復旧費用も嵩み、事業の殆どがストップしていた。その為、政府からの出資は有難かった。

 当初、日林は奥羽日林電力との関係からこの案に難色を示したが、直ぐに撤回した。ここでごねたら政府の出資は無くなる可能性があり、現状(1935年)では電力事業が国有化される可能性が高いと見られていた為であった。それに、東北拓殖が純民営から半官半民になるが、日林は影響力を及ぼし続けられる事もあり、大きく反対する事も無くなった。

 これにより、1936年に東北拓殖は一旦解散し、資源開発や化学工業、土地開発などを行う「東北興業」と、電力開発を行う「東北振興電力」を新たに設立し、政府と東北6県からの出資を受け入れた(新設された会社の株式の内訳は、政府が1/3、東北6県が1/6、日林と日鉄が合わせて1/3、東北の有力企業と資本家で1/6)。

 

 その後の東北興業は概ね史実通り、投資会社としての性格を強めていった。実際、1つの会社が複数の巨大事業を行うには限界があった。子会社に事業を行わせるのが効率的であり、本体の負担も少なかった。そして、東北6県に木材、土木、製紙、機械、金属、鉱業など多数の事業に投資し、100以上の子会社を保有する様になった。

 

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 先に述べた東北鉄道鉱業と南部開発鉄道(『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)』を参照)は、東北拓殖が出資していた訳では無い。東北鉄道鉱業は日林・日鉄財閥が直接出資していたが、東北拓殖は土地の収用や労働者の斡旋などを行い側面から支援した。

 

 一方、同様の目的で設立された「岩手開発鉄道」は、東北拓殖の子会社であった。目的は、内陸部の石灰石や森林の開発と交通網の整備だった。

 岩手開発鉄道は史実でも存在し現存している。1939年に盛~平倉の免許を獲得したものの、戦争によって工事が中断した。戦後に工事は再開し、1950年に盛~日頃市が開業した。しかし、平倉への延伸は実現せず、1960年に日頃市~岩手石橋が開業したのを最後に、以降の延伸は実現しなかった(残る免許は1976年に失効)。

 人家が稀な地域の鉄道である事から、旅客利用者は非常に少なく、1992年に旅客営業を終了している。しかし、岩手石橋に石灰の鉱山が存在する事で貨物輸送は非常に多く、岩手開発鉄道が存続出来る理由である。

 

 この世界では、1928年に史実と同じ理由で同じ区間の免許を申請し、翌年に免許を獲得した。そして、1930年に東北拓殖が中心となって「岩手開発鉄道」を設立した(東北拓殖が過半数の株を取得。残りは岩手県や岩手の有力企業が保有)。当時、当時はまだ国鉄が盛まで開業していなかったが(国鉄大船渡線の全通は1935年)、1932年から工事に着手した。こちらが先に開業して、国鉄に乗り入れてもらう事にしたのである。

 区間の殆どが山岳部の為、工事は時間が掛ったが、1941年に盛~平倉が開業した。日鉄が工事に関わっていなければ、もっと伸びていたといわれている。

 尤も、岩手開発鉄道は1944年に国有化された。これは、改正鉄道敷設法第9号(岩手県川井ヨリ遠野ヲ経テ高田ニ至ル鉄道)に概ね該当する事、沿線から産出される石灰石の存在、盛の海軍の人造ガソリンの工場(史実では気仙沼に建設された)の存在が理由だった。これにより、岩手開発鉄道線は「盛遠線」と命名された。



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30話 昭和戦前⑧:大室財閥(19)

 1935年から1937年は、大室財閥にとって不幸な時期だった。何故なら、大室財閥を率いていた三兄弟が相次いで亡くなった為である。

 1935年10月に次男の匡彦が急に体調を崩し、そのまま回復する事無く12月に67歳で亡くなった。1936年2月に三男の淳彦が風邪を拗らせ、そこから肺炎に悪化して同年6月に63歳で亡くなった。長男の忠彦も1936年10月に倒れ、一時は持ち直したものの年齢と今までの無理が祟り、1937年2月に74歳で亡くなった。

 原因は、昭和恐慌から経済は混乱状態にあり、その荒波の中で大室財閥を傾かせない様に彼らが懸命に努力したが、その為に努力し過ぎた事によって過労となり、年齢も合わさって(全員60歳以上である)病気になり易かった。つまり、過労と老衰による病死であった。

 

 三兄弟を失った事は大きな損失だったが、そこで停滞する程大室財閥は柔な組織では無かった。1920年頃から行われていた後継者教育によって、既に彼らの孫や初代から付き従っていた者の子孫らが会社を支える体制が整っていた。また、三兄弟の頃には、財閥が巨大化した事と後継者争いを解消する目的で、集団指導体制を整えていた。

 1930年代前期にこの体制は整っており、彼らが亡くなった頃には誰か一人が亡くなっても大勢に影響が無い様な組織となっていた。その為、大室財閥は今まで通りの行動を取った。

 

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 1930年代の中頃から、大室財閥では軍需産業に対する割合が増加した。以前から、造船所や電機を保有している事から比較的割合はあったが、日本が満州事変以降、軍拡路線を歩んでからは顕著だった。航空機への参入や造船所の機能強化をしてから、急速に軍需が伸びていった。その象徴が、徳島の航空機工場だろう。他にも、輸送用車両や装甲車両の製造、火薬や各種薬品を製造する化学が拡大し、軍需産業に融資する金融も拡大した。

 

 また、この拡大に際して、既存の施設の強化と新しい設備の建設が行われた。

 まず、堺と横浜(本牧)の造船所の設備の強化から始めた。元々、堺造船所は第一次世界大戦の頃から強化が行われており、1930年代中頃には戦艦(扶桑型・伊勢型が限界)・大型空母(翔鶴型)が建造可能な船台1基、重巡洋艦や中型空母(飛龍程度)が建造可能な船台1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台2基とドック1基を有していた。他の場所では、横浜に重巡洋艦が建造可能なドック1基、駆逐艦や5千トン商船が建造可能な船台1基とドック1基を有していた。

 しかし、今後の軍拡や予想される対米戦を考えると現状の施設では不足すると見られていた為、これらの施設の強化が行われた。具体的には、既存の建造施設の拡大と造船用のドックの新設である。これは、戦艦の建造を目指したのでは無く、巡洋艦や駆逐艦などの補助艦艇の整備を迅速にする為である。

 

 現在、海軍は軍縮条約の期限が切れると同時に、大規模な海軍拡張計画を立案している。その実現の為には、多数の建造施設が必要となるが、現状で戦艦を建造出来る設備を保有しているのは、呉と横須賀の海軍工廠、長崎の三菱重工業と神戸の川崎造船所(現・川崎重工業)の4か所しか無かった。

 一応、堺の大室重工業も建造は可能だが、規模から考えると3万5千トン程度が限界であり、新世代の戦艦を建造するには小さ過ぎた。加えて、戦艦の建造を経験していない事から、海軍側が戦艦の建造を敬遠していた。八八艦隊計画時、十三号艦の1隻を大室重工の堺造船所で建造する計画だったが、それが流れた為、造船所の拡大計画も霧散し、戦艦の建造は行われなかった。

 この事から、大室重工業は戦艦の建造を諦め、他の艦艇、つまり空母や巡洋艦などの建造が可能な設備を整える事を考えた。

 具体的には、堺に中型ドックと小型ドックを1基ずつ、横浜に中型ドックを1基と小型ドックを2基増設し、大阪府南部の多奈川に大型ドックを1基と中型ドックを1基、小型ドックを2基を有する新しい造船所を建設する事が計画された。

 これらの計画は1934年から行われ、海軍拡張計画が行われる1937年までに全ての計画が立てられた。それと同時に工事も行われ、1940年には大体の施設は使用可能となった。

 

 また、造船所の強化と連動して、製鉄・セメント・機械・金属・ゴムの強化も行われた。これらは、造船所の建設や拡大、日本全国で行われている電力開発に必要だった。製鉄は造船所やダムで使用する鋼材に、セメントも造船所やダムで使用される。機械は、造船所の設備を整えるのに必要となる。金属は発電所からの送電や造船所への配電の銅線に、ゴムは銅線の被膜に必要となる。

 その為、セメントとゴムを製造する大室化成産業、機械を製造する大室重工業と大室電機産業の施設が強化された。具体的には、大室化成は下関にセメント工場を新設し、和歌山にゴム工場を新設した。大室重工業は千葉の機械工場を強化し、徳島の航空機工場内に新設した。大室電機も千葉と堺の機能を強化し、石狩港に新設した。

 また、1936年に大室製鉄金属が製鉄部門と非鉄金属部門に二分し、製鉄部門を「大室製鉄産業」に、非鉄金属部門を「大室金属産業」とした。同時に、「大室金属鉱山」(旧・日林鉱業の金属部門)も改変し、非鉄金属部門を大室金属産業に移転し、残る鉱山部門は「大室鉱業」と合併した。

 そして、和歌山に製鉄所を建設し、堺の施設も増設した。また、徳島と横浜には銅線工場が設立され、君津には銅の精錬所が建設された。尤も、これらの施設は1935年現在では書類上の事でしか無く、これらが現実のものとなるには5年は掛った。

 

 そして、造船や機械の強化によって、工作機械の国産化も強化された。これは、1935年頃からアメリカからの工作機械の輸入が低調となり、ドイツ単独に頼る状況となっていた。しかし、有事になりつつある状態で、産業の要となる工作機械を輸入に頼るのは、輸入が途絶した時に産業全体がしかねないとして、工作機械の国産化が勧められた。

 他の財閥や企業は、輸入した工作機械が結構な数存在していた事でこの動きは低調だったが、工作機械の自給を内務省や陸海軍が推し進めた事で国策となった。これにより、他の企業も工作機械の製作を始めた。その多くは、海外の工作機械のデッドコピーであったが、海外製の工作機械を使用して製作した事から比較的高品質なものを作製出来た。

 これにより、ボールベアリングなどの精度が要求される加工品の精度が史実より高くなり(史実の10倍は精密な加工が可能)、この事が後の太平洋戦争における製造能力や継戦能力の維持に役立った。

 

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 大室財閥の造船所の拡大、それに伴う製鉄やセメントなど他部門の拡大によって、他の企業も造船所の新設や施設強化、セメントや機械の拡大が進んだ。これは、史実では存在しない大室財閥や日鉄財閥の規模が比較的大きい事から、ライバルに蹴落とされない様に、三菱や住友、神戸川崎など重工が中心の財閥は、造船所や機械工場の拡大を行う事となった。

 

 三菱では、三菱重工業が長崎造船所に10万トン級の艦艇を建造可能なドックを1基新設し、既存の2基を拡大し、1基は10万トン級、もう1基は5万トン級の艦艇を建造可能な設備に拡大した。長崎以外にも、横浜と神戸では中型ドックを1基新設し、下関の彦島では駆逐艦が建造可能な小型ドックを1基新設した。

 三菱電機も、三菱重工の拡大に合わせて神戸や長崎、及びその周辺にある工場の機能を強化した。

 

 住友では、鉄鋼需要の増大から住友金属工業が、銅線需要の増大から住友電線製作所(現・住友電気工業)がそれぞれ四国に進出し、製鉄所と銅線の工場を建設した。

 他にも、住友機械製作(現・住友重機械工業)が工作機械の製造に乗り出し、四国の今治と坂出、新居浜にあった小規模な造船所を買収して造船業に進出した。

 

 神戸川崎では、川崎造船所が神戸造船所に5万トン級の大型ドックを1基新設し、岡山県の和気郡片上(現・備前市)に新しい造船所を建設した。この地に建設された理由は、瀬戸内海の存在から攻撃されにくい事、片上鉄道が存在する事から交通の便がある事からだった。規模は中型ドック1基と小型ドック2基であり、1935年から工事が行われ、1940年には一部の機能が使用可能だった。また、片上の造船所に隣接する形で航空機工場も建設された。

 製鉄所も岡山港に建設され、1940年から稼働した。当時、岡山港周辺には工場などが多数建設された事から、その輸送路として宇野線の大元から分岐して岡山港への路線が1943年に開業した。

 

 他にも、石川島重工業や播磨造船所(共に現・IHI)、大阪鉄工所(現・日立造船)、日本鉄道興業が造船所や機械工場などの強化や新設を行った。これらの拡大によって、史実より1~2割の重工業生産力を獲得する事となり、船舶や兵器の供給力が向上した。

 一方、施設の強化によって原料の使用量が急増し、1930年代から海外からの地下資源の輸入量が急増した。これにより、外貨の消費量が史実より進み、これの代替案として輸出品の増大や国内の金鉱山の開発促進、輸入している地下資源の国内鉱山開発、代替品の開発などが急速に進んだ。



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31話 昭和戦前⑨:日鉄財閥(5)

 第一次世界大戦後、日鉄は本業の1つであった「鉄道会社への投資」に注力していた。北は北海道、南は九州に至るまで全国の鉄道会社に出資した。また、出資用の資金を集める為の金融部門も拡大を続けた。

 金融以外にも、鉄道に関連する事業は拡大した。鉄道会社向けの車輛製造、電鉄会社向けの電車用のモーターや発電機など、鉄道事業に関連する機械・電機の生産は活発となり、鉄道土木を建設する土建業も拡大した。これにより、日本各地に日鉄の事業所や日本鉄道銀行の支店が置かれるなどして、日鉄財閥の拡大に貢献した。

 

 その一方で、鉄道に関連しない事業への注力が疎かになった。特に、造船業と商社事業については殆ど見向きもされなかった。これらは、第一次世界大戦時の拡大によって進出した為、日鉄からすれば外様である為だった。

 しかし、1930年代中頃から日本が軍国主義化していくにつれ、軍拡傾向に向かっていた。その為、軍需産業の重要性が高まり、日鉄としても注力しない訳にはいかなかった。

 現に、海軍向けの機関や通信機などの納入実績がある事から、その方面への強化も行う必要があった。その為、1930年代中頃から鉄道会社への投資は抑えられた。その代わりに、電機・機械事業、造船業とそれに付随する航空機産業への注力が行われた。

 

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 電機・機械は、既存の工場の設備強化で対処したが、千葉や三田尻といった大規模工場では無く、東京の深川や大阪、北九州の戸畑など中小規模の工場の新設拡大で対応した。これは、大規模工場は航空機生産のライン拡張を行っていた為、電機・機械用の生産ラインの拡張が出来なかった事、中小規模の生産ラインを拡大する事で、生産拠点の一極集中を抑える事が目的だった。

 これにより、第一次世界大戦時に吸収した尼崎や戸畑、昭和恐慌後に子会社化した車輛メーカーの工場の跡地(千葉と三田尻に移転した為)である深川や大阪、枝光などの工場を拡張した。

 この行動の結果は悪くなかった。生産現場が西に寄っているという問題はあった(深川以外、全て近畿か九州)ものの、多くが工業地帯(深川は京浜工業地帯、大阪と尼崎は阪神工業地帯、戸畑と枝光は北九州工業地帯)であり、そこには軍需工場も多数存在する。その為、他の工場向けの機械の製造販売に沸く事となった。

 

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 日鉄が新しい造船所と航空機工場の予定地としたのは、大分県速見郡大神村(現・日出町)であった。史実では、大神海軍工廠の建設予定地に当たる場所である。この地にした理由は、国東鉄道に出資していた事から土地勘がある事、穏やかな場所であり造船所の建設に適している事、広い場所を確保できる事、既存の造船所である三田尻に比較的近い事、呉や佐伯などの軍事基地に近い事などがあった。

 当初、海軍もこの地に海軍工廠(規模は10万トン級ドック1基、5万トン級ドック2基)の建設を予定していたが、日鉄がそれに相当する施設にする事を条件に、海軍側が補助金を出す形で決着した。日鉄が海軍との縁がある事も、この形が成立した要因だった。

 

 造船所の建設は、海軍からの要望で1936年から行われた。尤も、最初は土地の収用からであった。土地の収用は、海軍がやや強引な買収を行った事で、1年で予定地全ての収用が完了した。1937年から工事が行われ、予定では1943年に全ての施設が完成する事になっていた。予算と資材は海軍の支援がある為、1939年までは特に問題にならなかった。その後は、他の艦艇の建造や追加の軍事基地の建設などに予算と資材が取られた為、一部機能の縮小や代替品の使用などで我慢する事となった。

 1941年には5万トン級ドック1基が完成し、早速空母1隻の建造が始まった。この空母は史実では存在しなかった大鳳型空母の2番艦であり、「天鳳」と命名された。天鳳は1944年に完成し、太平洋戦争後期の主力空母として活躍する事となる。

 

 さて、残る2基のドックだが、資材不足や多方面の基地の建設、前線装備を揃える必要性や完成間近のドックの完成優先などから1940年から工事は停滞していた。1943年には工事は完全に中止され、一部完成していた施設は、小型船舶の建造用に転用された。

 

 また、上記とは別に、戦時中に小型船舶や護衛艦艇の大量生産が急務となった為、既存の施設の土地の一部を利用して、造船所の建設が行われた。これは史実でも行われており、大阪の「協和造船」がその例である(土地・資材は中山製鋼所、建造ノウハウは日立造船、資金は三和銀行がそれぞれ出して設立)。

 日鉄でも行われ、特に元造船所の尼崎と戸畑が対象となった。土地は日鉄が、資材とノウハウは日鉄と大室重工業が、資金を大室銀行と日本興業銀行が出す形で「大同造船」を設立した。

 

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 航空機生産は、大規模な生産設備が備わっている三田尻と千葉で行われた。。生産していたのは、基本的に水上機だった。これは、海軍との繋がりや大室重工業との関係(大室が陸上機、日鉄が水上機を担当するという文書を交した)からだった。

 尤も、過去に水上偵察機で2回、飛行艇で1回コンペに参加したが、その全てで落選している。その為、開発能力はあったが、採用された事が無いという不名誉な記録を持っている。現状では、他社の機体のライセンス生産で糊口を凌いでいる状態だった。

 

 この状況が変わったのは、海軍が採用時点で旧式化した九一式飛行艇に代わる次期飛行艇の開発を行う為、川西・海軍航空廠(後の海軍航空技術廠)・日鉄でコンペが行われた事である。このコンペの本命は、川西が開発中の4発飛行艇だった。後に「九七式四発飛行艇」として正式採用されるこの機体だが、当時は初めての4発機という事で、開発に失敗する可能性があった。その保険として、航空廠と日鉄は双発の飛行艇を開発した。

 航空廠が開発した機体は史実の九九式飛行艇であったが、史実と同様の問題を抱えていた(水上性能の悪さと複雑な機材)為、その改修に手間取った。

 一方、日鉄が開発した機体は、過去に失敗した機体から問題点を洗い出しており、かなり完成度が高かった。加えて、余裕のある設計がされている事から、将来の装備の追加も容易であった。それでいながら、複雑な装備は極力排されているなど、量産性や前線での運用能力が高い機体だった。その為、日鉄のこの機体を「九七式双発飛行艇」として採用された。

 九七式双発飛行艇は、主に対潜哨戒に使用された。戦時中には、空いたスペースにMAD(磁気探知機)を搭載して潜水艦を捜索する任務に就く事が多かった。

 

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 三菱重工や中島飛行機、川崎飛行機や愛知時計電機(愛知航空機の前身)といった大規模航空機メーカーは、機体とエンジンの双方を生産していた。尤も、その多くは欧米のエンジンのコピーやライセンス生産であり、自前での開発能力はまだまだ低かった。

 一方で、エンジンのみを製造していた東京瓦斯電気工業や、川西飛行機や立川飛行機などは機体の生産のみを行っており、エンジンメーカーからエンジンの供給を受けていたという例もある。

 

 大室重工と日鉄は、三菱や中島と同様、機体とエンジンの一貫生産を行っていた。しかし、別々にエンジンを製造するのは非効率だとして、1933年にエンジンの製造部門を統合する計画が立った。両社はこれに同意し、他にこの動きに賛同するメーカーがいないか声をかけた所、愛知がこの動きに賛同した。

 これにより、1935年に大室重工・日鉄・愛知の3社共同のエンジンメーカー「三和航空工業」が設立した。主な製造拠点は堺(旧・大室重工)と三田尻(旧・日鉄)、名古屋(旧・愛知)であり、堺と三田尻では空冷エンジンを、名古屋では液冷エンジンの製造を担当した。

 エンジン専門会社の設立は、エンジンの製造ラインの拡大に貢献した。特に、名古屋工場の製造ラインは急速に拡大した。これにより、史実で発生したDB601エンジンのライセンス問題(愛知にライセンス権を取得させようとしたが、製造能力不足から川崎にも取得させた。これにより、海軍向けは愛知が、陸軍向けは川崎が製造となった)は発生せず、三和航空工業単独で陸海軍向けに供給する事となった。



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番外編:通商護衛組織「海上警備総隊」設立の経緯

 日露戦争、第一次世界大戦の経験から、日本海軍は通商護衛に関する研究に着手した。しかし、それは片手間であり、海軍は対米戦向けの漸減作戦を重視した。

 それでも、この世界の日本海軍の駆逐艦は、少ないながらも対潜装備は有している。つまり、対潜能力は低いものの皆無では無かった。また、連合艦隊も漸減作戦実行の一環として、航行中や海戦中の潜水艦の襲撃に備えた訓練や、航空機を利用した対潜哨戒訓練を行っている。その為、この世界の日本海軍の対潜能力は決して低くなかった。しかし、その対潜能力は艦隊を護衛する事を主軸としており、通商護衛の為では無かった。

 

 この流れが変わったのは、1930年のロンドン海軍軍縮条約の締結だった。これにより、駆逐艦の保有量が制限された。その為、艦隊用と通商護衛用の駆逐艦の同時整備が不可能となった。

 これを受けて急遽、駆逐艦では無い対潜能力を持った護衛艦、つまり史実の海防艦の整備が計画された。これならば、ロンドン条約の網を抜けて整備出来る為である(ロンドン条約では、「排水量1万トン以下で速力20ノット以下の特務艦、排水量2000トン以下で速力20ノット以下、備砲6.1インチ砲4門以下の艦、および排水量600トン以下の艦は無制限」とされた)。同時に、今まで軽視されていた通商護衛を強化し、その為の組織を設立しようという動きになった。

 

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 そうして1933年に設立されたのが「海上警備総隊」である。海上警備総隊は「通商護衛部隊版の連合艦隊」と言ってもよく、旗下に4つの「警備艦隊」を有している(本拠地はそれぞれ横須賀、佐世保、舞鶴、大湊)。

 連合艦隊から独立して新設したのは、前述の護衛駆逐艦の配備が不可能となった事に加え、軍縮で減らされるであろうポストの確保という面があった。ワシントン条約以降、海軍の規模は縮小された。それだけで無く、第一次世界大戦が未曽有の死者を出した事から、世界各国で軍縮の空気が強かった。

 その為、保有戦力だけでなく、軍組織そのものの縮小も行われた。そうなると、局長や部長などのポストが減り、その職に収まるであろう将校の出世は止まる上に、退役者も増加する。それは防ぎたいが、現状では軍拡は不可能、ならば正面戦力以外の方面で拡大しようとなった。それが、海上警備総隊の設立理由だった。

 また、同様の理由で諜報・防諜を担当する海軍情報本部と、レーダーの開発を担当する海軍電気本部も設立される事となる。

 

 この様な助平心はあったものの、兎に角通商護衛の為の組織は設立された。しかし、その戦力はお寒い限りだった。何故なら、多くのものが無かった為である。それは、人材、予算、船、装備、燃料、つまり全てである。

 

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 人材は、海軍主流派から外された者はまだ良い方で、問題を起こして左遷された者の方が多かった。その為、「海上警備総隊は海軍将兵の墓場」と言われる程だった。

 しかし、左遷された者の中にも優秀な人材は存在するもので、そういった者達に重点的に教育を施す事で、能力の向上や部隊内の綱紀粛正などを図った。

 

 また、海軍だけでは人員が不足の為、陸軍や海運会社、内務省などからも人材斡旋を行った。これは、通商護衛を行う関係上、陸軍や海運会社とも関係を築いていく必要があった。

 この申し出に、陸軍・海運会社は承諾し、内務省は条件付きで承諾した。

 陸軍は、海上警備総隊とのコネを築くのは戦時に向かいつつある現状では重要だし、場合によっては陸軍運輸部(陸軍で鉄道や船舶輸送を担当する)に吸収出来るのではと考えた。

 海運会社としても、余剰人員を放出出来る事(当時、新型船舶への移行時期と重なり、リストラが行われていた)から渡りに船と言えた。これは海上警備総隊としても嬉しかった。海運会社からの人員なら、船舶を動かす事や商船の特性などを知っている為である。

 一方、内務省は、「海上警察業務を海上警備総隊が行うのであれば協力する」と言ってきた(戦前の海上警察業務は海軍の管轄)。こうすれば、陸海全ての警察業務を内務省が牛耳れると考えたのである。海軍としても、漸減作戦に全力を注ぎたいと考えた為、概ねこれを承諾した。これにより、海上警察業務は海上警備総隊の任務に追加され、内務省も海上警備総隊に関わる事となった。

 尤も、海軍としては、内務省が必要以上に介入してくるのを好ましく思っていなかった為、内務省からの出向人数に制限を掛けたり、主要ポストに就かせなかったりと要所要所で妨害した。その為、内務省は途中から非協力的になり、対抗措置として出向者の引き上げや資金援助の廃止を行った。

 

 内務省が事実上撤退した後に、交通行政を担当する逓信省、経済・貿易を担当する商工省も海上警備総隊に関わる事となった。これにより、海上警備総隊は海軍とは名ばかりの組織となったものの、少なくとも人員の問題は解決した。その後も、商業学校や商船学校などの教育機関からも人材を斡旋して、人員不足に対応していった。

 

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 同様に、予算の問題も、関係省庁や企業からの資金援助によって解決した。それでも不足気味ではあったが、海軍からの予算だけの時と比較すると、遥かにマシな状況になった(海軍単独を1とすると、省庁・企業献金込みで5)。

 また、企業からは資金援助の対価として、「開発した試作品の実地試験」の名目で試作兵器や試作装備品の提供を行っていた。その中で利用出来るものについては採用していき、その中で大きなものがソナーと対潜迫撃砲、高性能ディーゼルエンジンだった。

 

 これまでの海上警備総隊の対潜装備は爆雷だけだった。しかも、敵潜の発見方法は目視だけ(航空機の数は少なかった為、航空機を利用した哨戒を中々行えなかった)というお粗末なものだった。予算不足と装備不足が理由だった。

 その様な中で配備されたソナーと対潜迫撃砲はそれぞれ、対潜戦で有効に活用された。これにより、今までの課題であった「敵潜水艦の早期発見」と「前方への対潜攻撃能力」が解消される事となった。実際、連合艦隊との合同演習で、苦も無く連合艦隊の潜水艦を捕捉し、撃沈判定を出していった。

 もう一方の高性能ディーゼルエンジンは、大室重工業が開発したものである。1934年に大型ディーゼルの開発が完了した為、そのエンジンを搭載した護衛艦を2隻発注し、1936年から運用された。その結果、燃費が良い事や低品質の重油でも有効利用出来る事が好評で、以降の海上警備総隊の艦艇の主要エンジンになった。

 

 流石に、燃料(重油)の供給についてはどうにもならなかった。海軍用の燃料の配分では常に連合艦隊が優先された為、海上警備総隊は訓練用の燃料の手配すら事欠く状態だった。その為、設立当初は石炭を主燃料としたり、低燃費で行動する為の研究を行うなど、涙ぐましい努力が多数あった。

 その様な中で、大室重工のディーゼルエンジンを搭載した護衛艦の誕生は、燃料不足という問題を解決させるのではと見られた。しかし、ディーゼルエンジン搭載の護衛艦の数が揃うのは数年は掛かる為、それまでは燃料不足が総隊内の最大の問題となった。

 

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 海上警備総隊の設立当初は、巡洋艦は一隻もおらず(存在意義から必要性は薄かったが)、護衛艦も旧式のものしか無かった。設立経緯や予算の問題からしょうがなかったが、これでは到底戦力になり得なかった。加えて、満足な機材が無かった事から、設立当初は目的の通商護衛すら満足に行えない状況だった。

 

 ただ、大型艦艇については、1930年代後半から連合艦隊のお下がりではあるものの、配備される事となった。それは、天龍型軽巡洋艦の2隻だった。これは、他の軽巡洋艦と比較しても小型過ぎる上に一番古い事から、保有していても有効活用は難しいと判断した為、連合艦隊は天龍型を退役させる事となった。しかし、ただ退役させるのは勿体無いとして、1935年に海上警備総隊に譲渡する事となった。

 海上警備総隊としては、初めての大型艦だった。旧式ではあるものの、船体の広さを生かして旗艦設備の強化と対戦・対空装備の強化が行われた。また、海上護衛に33ノットは過剰である事から、機関の変更と燃料タンクの増設を行った。これにより、速力は25ノットまで落ちたものの(ロンドン条約が切れるまでは19.75ノットと公称していた)、航続距離は15ノットで7000カイリと大幅に伸びた(改装前は、14ノットで5000カイリ)。

 

 また、1937年に日中戦争(この世界では内陸部への侵攻を行っていない)によって中華民国海軍から拿捕した寧海級巡洋艦の「寧海」「平海」も、修理・改装の上で海上護衛総隊に編入された。

 この2隻は、上海にいる日本軍攻撃の為に揚子江を下っていた所を、日本海軍の航空機が発見、これを大破・擱座させた。そこが、日本が占領していた上海郊外であった為拿捕された。拿捕したはいいものの、船体の小ささから有効活用は難しいと海軍は判断し、翌年に海上護衛総隊に譲渡した。

 海上護衛総隊は、1年半掛けて天龍型と同様に旗艦設備と対戦・対空装備を強化した。機関も変更され、速力は24ノット、航続距離は15ノットで6000カイリとなった。また、艦名もそれぞれ「五十島」「八十島」に変更された。

 

 天龍型と五十島型の配備によって、各警備艦隊の旗艦が今までの旧式護衛艦からそちらに移った。これにより、通信機能・旗艦機能の強化によって、今までより効率的な指示の出し方や艦隊行動が取れる様になった。



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番外編:この世界での日本海軍・日本陸軍・大日本帝国の状況(第一次世界大戦後~第二次世界大戦直前)

〈日本海軍〉

 ワシントン条約の交渉中に、アメリカに通信が傍受されていた事が判明した事で、海軍内に情報・通信についての研究が強化された。これにより、暗号の全面改訂と情報機関の設立、及びその下で暗号理論の研究が行われた。

 暗号の全面改訂は、現状の暗号では相手に解読されている為、絶対に行う必要があった。しかし、改訂しても何れは再び解読される恐れがある為、解読され難い暗号理論の研究も行われた。これと連動して、暗号機の定期的な開発を行う事、これらを専門的に行う組織の設立が決定された。

 

 情報機関の設立は、ワシントン条約後の1926年に海軍省の外局として「海軍情報本部」が設立された。主要任務は、国内の防諜に駐在武官を通じた諜報、暗号理論の作成に仮想敵国の暗号解読、通信機器の研究であった。

 尚、海軍情報本部は組織上では海軍省の外局だが、軍令部の第三部(情報担当)と第四部(通信担当)が前身となっている。その為、軍令部の影響力も強く、両者の傘下というのが正しかった。尤も、これによって海軍省と軍令部での情報の共有が図れた事でもあった。

 彼らの活躍もあり、太平洋戦争中はアメリカ軍との熾烈な情報戦や騙し合いを展開し、国力に劣る日本がアメリカに何とか渡り合えたのは彼らの活躍があってこそと言われる程だった。

 

 尚、設立後に海軍内の憲兵活動(史実では、憲兵を持っていたのは陸軍だけ)やレーダーの研究なども追加されたが、後にそれぞれ別の組織に移管している。

 憲兵活動は、5.15事件を理由に海軍内の綱紀粛正を図る事を目的に認められた。当初、陸軍の反対は強かったが、2.26事件によってこの動きは完全に消滅した。その後、海軍の規模が拡大すると海軍憲兵の数も拡大した。しかし、急速な人員の増加に情報本部側が対応出来なかった事、日中戦争によって海軍の占領地での警察業務を行う必要から、1940年に海軍陸戦隊に憲兵活動業務を移管した。

 レーダーの研究は、通信機器の研究の一環で研究していた。その後、レーダーの利用価値の増大や利用方法の違いから、1937年に新設した「海軍電気本部」に移管となった。

 

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 (この世界の)ワシントン海軍軍縮条約が締結された事で、日本が保有する戦艦は14隻となった(内訳:金剛型4、扶桑型2、伊勢型2、長門型2、加賀型2、天城型2)。また、進水が済んでいた天城型の3番艦「高雄」と4番艦「愛宕」は、空母に改装される事となった。

 史実では、「天城」と「赤城」が空母に改装される事となったが、「天城」は関東大震災によって損傷し、そのまま破棄された(但し、船体そのものは再利用され、横須賀海軍工廠の浮き桟橋として利用)。「天城」の代わりに空母に改装されたのが、廃棄予定の「加賀」だった。

 この世界では、「天城」と「赤城」は巡洋戦艦として完成し、その代わりに「高雄」と「愛宕」が空母に改装された。「高雄」は長崎(三菱造船)、「愛宕」は神戸(川崎造船所)で建造された為、関東大震災の影響を受けなかった。その為、順調に改装が進んだ。

 尚、両者の性能比較の為、「高雄」は左艦橋、「愛宕」は右艦橋となった。

 

 ワシントン条約によって戦艦の保有が制限された事で、条約締結国は戦艦に準ずる主力艦の整備に注力する事となった。つまり、重巡洋艦の整備である。主要海軍国である日米英は整備に邁進した。

 この世界でも、史実と同様に古鷹型(但し、2番艦は「六甲」。これは、川内型軽巡洋艦が4隻建造され、4番艦が「加古」となった為)・青葉型・妙高型が建造された。そして、鳥海型(史実の高雄型。但し、艦名は「鳥海」「摩耶」「開聞」「乗鞍」)も建造された。更に、新型重巡洋艦(史実では計画のみに終わった改高雄型重巡洋艦)の計画もスタートした。

 しかし、重巡洋艦の整備が進むにつれ、軍縮の理念が無くなるのではという雰囲気が出た。これは、ワシントン条約では戦艦と大型空母の建造こそ抑制されたものの、1万トン以下の軍艦(巡洋艦や駆逐艦、小型空母などの補助艦艇)についてはノータッチだった為である。

 実際、各国はワシントン条約の穴を衝く艦艇の整備を行っていた。特に、日本は妙高型重巡洋艦や小型空母「龍驤」、吹雪型駆逐艦など水雷戦に特化した軍艦や、ワシントン条約に抵触しない高攻撃力の軍艦を多数整備した。

 これではワシントン条約前の海軍拡張競争の再来になりかねないとして、1927年にジュネーブで補助艦艇の保有制限を定める会議を行った。しかし、この時はイギリスとアメリカの意見の対立で成立しなかった。その後、イギリスとアメリカは交渉で意見の一致を見て、1930年にロンドンで再度日仏伊を招集し、補助艦艇の保有制限を決める会議が行われた。

 

 ロンドンでの軍縮会議で、日本政府は交渉に乗り気だった。この頃、日露戦争で発行した国債の償還期限が来ており、軍縮によって昭和金融恐慌で不安定だった日本経済の立て直しを図りたいという意図があった。海軍としてもこの流れに賛成であったが、同時に対米7割は維持したいという思惑があった。

 この世界のロンドン会議は、日本側の防諜能力の向上によって、アメリカ側は日本に付け込む事が出来なかった。その為、日本の保有量の限界がどの程度か知る事が出来ず、日本の保有量を減らす目論みが叶わなかった。それ処か、アメリカが強引な動きを見せた事で、一度纏まっていた米英間の対立が再び噴出した。あわや決裂かと思われたが、日本が両者の仲介を行った事で再度の未成立は防がれた。また、これによって日本は米英両国へ恩を売る事も出来、それによって日本が希望した量と比率はほぼ原案通りに通る事となった。

 会議の結果、概ね史実と同じだったが、史実と異なる点は以下の通りである。

 

・保有する戦艦の内、イギリスは「サンダラー」「キング・ジョージ5世」「センチュリオン」「エイジャックス」を、アメリカは「デラウェア」「ノースダコタ」「フロリダ」を廃艦する。また、イギリスの「クイーン・メリー」、アメリカの「ユタ」、日本の「比叡」を練習艦に変更する。

・重巡洋艦の保有比率は、米:英:日で10:8.5:7とする。尚、22万トンを10とする(日本は15万4千トン)。

・軽巡洋艦の保有比率は、米:英:日で10:13.2:7とする。尚、17万5千トンを10とする(日本は12万2千5百トン)。

 

これにより、日本はほぼ予定通りの保有量と対米七割を実現させた。この結果、史実ではロンドン条約の調印に反対した軍令部の面々も賛成した。その為、海軍が条約賛成派と反対派に分かれるといった事態が発生せず、史実ではこれを理由にして予備役に入れられた将官はその後も軍役に就く事となった。

 因みに、史実よりも獲得した保有量によって建造されたのが、穂高型重巡洋艦(史実の改高雄型重巡洋艦。艦名は「穂高」「大雪」「雲仙」「石鎚」)と利根型軽巡洋艦の2隻追加(艦名は「雄物」「名寄」)だった。

 

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 ロンドン条約は海軍の要求を満たした内容だった。その為、史実では発生した海軍内の対立は発生しなかったのだが、与野党の対立はそのままだった。野党がこの一件に対し、「軍縮を行うには天皇陛下の裁可が必要になる。しかし、それをしなかった政府は統帥権を侵害した」と批判した。野党側としては、与党を叩く為の材料としか見ていなかったのだろうが、これが大問題だった。

 これ以前は、政府からの提言を軍が受け入れており、ワシントン条約も海軍は受け入れていた。しかし、ロンドン条約後に「統帥権の独立」が出された事で、『政府は軍に介入出来ない。介入出来るのは天皇だけ』という解釈がされた。これにより、政府が軍に意見する事が事実上不可能となった事を意味した。これ以降、軍部(特に陸軍)は「統帥権の独立」を盾に独自行動を取る様になり、政府のコントロールが効かない存在となった。以降、軍の発言力は急速に増し、相対的に政府と国会の発言力は低下した。史実通り、日本は軍国主義化していった。

 

 史実と異なるのは、海軍はこの動きに同調しなかった事である。ロンドン条約で要求した量の保有が諸外国に合法的に認められた事で、政府を攻撃する理由が無かった為だった。その為、史実でロンドン条約締結に積極的に賛成した者が左遷・予備役編入される事は無かった。

 同様に、満州事変に乗じた海軍拡張に反対した者も予備役編入はされなかったが、海軍中枢部を批判した事で彼らの心証を悪くした事、海上警備総隊の関係で陸軍との関係を悪くしたくないとの考えから、主要ポストから外れたポスト(海上警備総隊や海軍情報本部など後発組織のトップ)に就かされ続ける事となった。

 

 尤も、条約に反対する食み出し者は存在するもので、そういった者が政府に攻撃した。その為、この世界でも5.15事件は発生した。

 しかし、その後の処理で大きく異なった。海軍上層部はロンドン条約の内容に満足しているのに、それに不満を持って暴走し、首相を暗殺した事は絶対に許される事では無いとして、実行犯や共犯者などの厳格な処罰が行われた。また、これを機に海軍内の膿を可能な限り除去した。

 

【史実で予備役編入・左遷された者達の、この世界でのキャリア】

谷口尚真(海兵19期):海軍軍令部長を追われず、その後は海軍電気本部本部長、海軍情報本部本部長を歴任、開戦前に予備役入り

・山梨勝之進(海兵25期):第21代連合艦隊司令長官(史実では末次信正)、第16代軍令部総長(伏見宮博恭王は2年早く退任。その為、以降の総長の代は史実より1つずれる)を歴任、開戦時の海軍大臣(史実では嶋田繁太郎)

・左近司政三(海兵28期):海上警備総隊司令長官、海軍情報本部次長を歴任、開戦時の海軍情報本部本部長

・百武源吾(海兵30期):軍令部次長、海軍情報本部本部長を歴任、開戦時の海軍電気本部本部長

・寺島健(海兵31期):海上護衛総隊参謀長、海上警備総隊司令長官を歴任、開戦時の海軍情報本部次長

・堀悌吉(海兵32期):海軍情報本部総務部長、海上警備総隊参謀長を歴任、開戦時の海上警備総隊司令長官

・坂野常善(海兵33期):海上警備総隊参謀長、海軍電気本部総務部長を歴任、開戦時の海軍電気本部次長

 

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〈日本陸軍〉

 この世界の日本陸軍は、史実よりも予算が少ない(比率的な意味であり、金額的には史実より多い)。その理由は、海軍に予算が多く振られている事と、重装備化の優先だった。

 この世界では、海軍の規模が史実よりも大きい(戦艦4、重巡洋艦4、軽巡洋艦3、その他護衛艦艇多数)為、海軍予算・兵員は史実より多い。その分、陸軍予算に皺寄せが行った。大室・日林・日鉄という財閥の存在や、それらに刺激されて他の財閥も規模を拡大させた結果、日本の経済力は史実より高く(GDPで1割程度高い)、その分予算も増加しているが、装備の問題があった。

 

 陸軍は、日露戦争の経験と第一次世界大戦での観戦武官からの報告で重武装化を推し進めた。特に、日露戦争での経験から、砲弾の備蓄と機関銃の配備の推進が強化された。また、観戦武官からの報告で「貨物用車両を使用すれば輸送効率は飛躍的に向上する」とあった事から、トラックやオート三輪の配備も検討されたが、トラックを製造出来るメーカーが無かった事から、こちらについては「時機を見て配備する」とされた。

 これによって、全ての師団に重砲と重機関銃が一定数配備される事となった。これは、師団全体の火力の向上という結果を生んだが、同時に装備に多くの予算が注ぎ込まれた事を意味した。これは、1930年代中頃にトラックやオート三輪の国産化の目処が立った頃には顕著となった。

 一方で、予算が装備に集中した事で、兵員の増員は縮小される事となった。特に、第一次世界大戦後の軍縮では、師団が従来の4単位制から3単位制に移行となり、余った部隊はそのまま解散となった。これにより、師団の減少は無かったものの、兵員数では大きく減少した。その代わり、重砲や機関銃の配備によって、火力は逆に向上した。

 

 火力(重砲と機関銃)や機動力(トラック)に予算が行った事で、それ以外の方面での予算が減少した。具体的には航空機だった。

 当時、航空機の発展性は高かったが、性能が低かった事から、兵器としては未知数な部分が多かった。それでも、将来性の高さや技術革新などによって、航空機向けの予算は組まれ続けた。

 しかし、この世界では、陸軍予算は史実と同程度であるにも関わらず、師団の装備が史実以上に充実している事から、順位的に航空機の予算増額が抑えられる事となった。その為、史実よりも航空隊の編制数が少なかった(史実の9割)。そして、1930年代にはトラックや戦車の国産化を推進した事で、尚更航空隊編成や航空機開発の予算増額が見送られる事となった。

  このままでは航空機の革新が難しくなると危惧した人達によって、ある事が進められた。それは、「陸軍と海軍による航空機の共同開発・採用」だった。これは、航空機の開発予算が削減されている現状では、陸軍単体での航空機開発が難しくなると見られた為である。そして、海軍が陸軍が欲していた機体を開発していた場合、それを採用すれば開発予算や時間は大きく短縮出来るとされた。

 

 これに対し、海軍側は了承した。海軍航空隊も、連合艦隊や海上警備総隊、海軍情報本部の方に予算が回った為、開発予算や部隊の拡大が抑えられていた。その為、陸軍のこの案は渡りに船であった。

 こうして、1938年から陸海軍の航空行政は統一的な運用が図られた。具体的には、航空機用機銃の統一、部品の統一、操縦方法の統一であった。その後、似た様なコンセプトの機体の共同開発・共同採用も組み込まれた。これによって、陸軍の重戦闘機と海軍の局地戦闘機、陸軍の重爆撃機と海軍の陸上攻撃機が統合される事となった。

 一部には、陸海軍双方の航空隊を統合して空軍を設立するという動きもあったが、この時はポストの問題や準戦時体制故に大きな組織変更は混乱の元になるとして、「時期尚早である」とされた。

 

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〈大日本帝国(外地・満州国を含む)〉

 大室財閥、日林財閥、日鉄財閥が存在する事により、史実よりも製造能力は高い。特に、造船所や製鉄所、電機工場や化学工場など重化学工業が多い。その上、工作機械も新しいものが多く、高性能のものも一定数だが自作可能な為、戦時中の生産力や戦争継続能力は史実以上となっている。

 また、戦前から強い繊維や食品加工などの軽工業も強化されており、北海道や東北など重化学工業の進出が遅れている地域での進出も多い。これらによって、日本全体、特に内地の工業力は史実以上となっている。

 その反面、北海道や東北に工業が進出した事で、外地(特に朝鮮)への重化学工業と軽工業の進出は抑えられ、史実の9割程度となっている。

 それでも、朝鮮北部の咸鏡道の開発は史実通り行われ、重化学工業や鉱業の開発が盛んに行われた。また、満州国建国に伴い、日本海沿岸の都市(敦賀や新潟など)から咸鏡道北部を経由して、満州東部へ入るルートが建設される事となり、日本海・北鮮(当時の朝鮮の略称は「鮮」)航路が整備される事となった。同時に、清津や羅津の港湾整備と重工業の進出も盛んに行われ、その中には日本海航路の船舶を修理する為のドックも清津に1基建設された。このドックは造船用も兼ねており、有事には護衛艦や3千トン級商船なら建造可能な設備だった。

 

 また、日本の生命線である満州、特に南部の大連と奉天でも国策によって工場の進出を強化した結果、満州国の工業力も史実より高くなっている。史実でも生産されたもの(粗鉄や爆薬などの重化学工業や兵器工場)は生産能力が高められ、それ以外にも自動車製造は部品工場や金属加工工場も進出した事で、小規模ながら一貫生産が可能となった。他にも、旅順に1基、大連に2基の造船用ドック(駆逐艦や5千トン級商船を建造可能)が建設された。

 これらの工場の工作機械の多くは、国内の工場から放出された工作機械が殆どだった。その為、戦時中に満州国でも増産を求められた際、1944年の後半から機械の摩耗が激しく、思った量の生産は叶わなかった。

 

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 工業生産力以外でも、史実以上の拡大を見せた。特に拡大したのは金融業だった。

 大室財閥には、銀行では大室銀行と東亜貯蓄銀行、生命保険では東亜生命保険と日本弱体生命保険、損害保険では大室火災海上保険と大室倉庫保険、証券会社として大室證券を抱えていた。日林も日本林商銀行を、日鉄も日本鉄道銀行に日鉄證券、日鉄火災保険と多くの金融事業者を抱えていた。そして、日林・日鉄と繋がりがある東亜勧業銀行の存在もあった。

 3つの財閥の金融機関の資金力を全て合わせると、安田財閥に匹敵する資金を有していた。また、この3つの財閥は重化学工業にも進出しており、工業生産力を全て合わせると三菱財閥に匹敵した。

 つまり、この世界の日本は安田財閥と三菱財閥をもう1つ持っている事に等しかった。その為、戦時中の国債引き受けの際、膨大な貯蓄で大きな力を発揮する事となった。

 

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 ワシントン条約によって暗号が筒抜けになっている事が発覚し、政府はその対応に追われた。その後、アメリカへの対抗から暗号傍受や諜報活動を行う「内閣情報調査局」が設立された。情報調査局は内閣に直属する形が取られ、局員は内務省と外務省からの出向者が中心となる。

 情報、特に仮想敵国を対象としたものの為、陸海軍の情報部門との協調が不可欠だった。しかし、セクショナリズムやどの組織が主導権を握るかで問題となり、最低限の情報共有以外が行われる事は無った。

 

 尤も、政府系の内閣情報調査局、海軍系の海軍情報本部、陸軍系の参謀本部第2部が相互に競争意識を持った事で、各組織は情報収集に躍起になり、防諜も強化された。この結果、日本の情報収集能力・防諜能力が1930年代から急速に高まるという思わぬ結果を生んだ。これにより、日本の暗号が簡単に解読されるという事は無くなった。



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32話 昭和戦前⑩ :大室財閥(20)

 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻した。これを受けて、9月3日にイギリスとフランスがドイツに宣戦布告した。これにより、第二次世界大戦が始まった。

 しかし、英仏両国はドイツに宣戦布告したものの、これといった行動を取る事は無かった。開戦から暫くの間、独仏国境では両軍の様子見の状態が続き、戦闘状態にならなかった。その為、この状況を指して「フォニー・ウォー(インチキ戦争)」と呼んだ。

 

 この時の日本は、ヨーロッパでの戦争に関わっていなかった。日英同盟は既に破棄されており、ドイツとは防共協定を結んでいるだけで同盟関係には無かった(日独伊三国同盟の締結は1940年9月)。その為、日本がヨーロッパに軍を送る事も、ヨーロッパから軍がアジア・日本近隣に進出してくる事も無かった。

 それよりも、日本はヨーロッパの事よりも、近隣の中国大陸(=中華民国)での状況の早期解決を図りたかったという事の方が強かっただろう。

 1937年7月7日の盧溝橋事件から堰を切った様に、中国大陸での日中間の武力衝突は頻発した。尤も、日中間の武力衝突そのものは、満州事変以降から起こっていた為、盧溝橋事件から頻発した訳では無かった。

 しかし、この時は以前とは異なった。以前であれば、曲がりなりにも機能していた外交によって解決した(問題を先延ばしにした感が否めないが)。今回は、あれよあれよという間に戦線が拡大し、政府も今まで溜まっていた中国への不満を一時的にでも解消したいという思惑があったのか、実質的に戦線拡大を認めてしまった。

 

 尤も、この世界では史実の様な野放図な戦線の拡大はしなかった。陸軍予算が不足していた為である。この頃、陸軍では重装備の更新と貨物用車両の配備を行っていた時期であった。その為、装備の費用で予算の大半を使用しており、出兵の為の出費など出来なかったのである。

 それでも、予算を遣り繰りして(一部部隊の装備更新の先送りや、海軍との航空行政の一部統一など)、2個師団を上海に派兵した(史実では5個師団+α)。これにより、上海の制圧は出来たが、内陸部への進出は兵力不足から不可能だった。

 この間に、戦線の不用意な拡大は行わない方針が定められ、進軍範囲は華北は北平(当時、北京は「北平」という名称)と天津を結ぶラインまで、華中は上海郊外まで、それ以外は重要拠点(青島、厦門、広州など)の制圧に留まり、内陸部には渡洋爆撃に終始する事が決定した。これに反した者は厳罰に処するという通達までした事で、現地軍は暴走する事無く限界まで進軍した。これは、2.26事件と5.15事件で首謀者が厳罰に処された事が大きかった。

 

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 日中の軍事衝突が起こり、第二次世界大戦が始まっても、日本国内は取り敢えず平穏だった。戦火は海の向こうで起きているのだから当然だった。大陸では兵士の死傷者が出ていたり、日に日にアメリカとの対立を深めているものの、まだまだ内地は戦火から遠い状況だった。

 

 しかし、アメリカとの対立が深まっている事は事実であり、海軍は対米戦を視野に入れた軍備拡張を進める事となった。その筆頭が、1937年からスタートした第三次海軍軍備補充計画(通称、「マル3計画」)と、それに続く第四次海軍軍備充実計画(通称、「マル4計画」)だった。

 両計画は、10年掛けて海軍戦力の質的向上と量的拡大を図り、ワシントン・ロンドンの両軍縮条約が破棄された後の無制限状態に備えるものだった。この計画の内、マル3計画は前半4年で、マル4計画は後半6年で整備する事となっていた。全てが完成した暁には、1945年までに戦艦4、空母3、軽巡洋艦21、駆逐艦などの補助艦艇多数が竣工する事となっていた。

 

 この世界でも、マル3計画とマル4計画は存在し、それに伴う建造計画もスタートした。しかし、異なる部分もある。それは、小型補助艦艇(敷設艦、掃海艇、敷設艇、駆潜艇、海防艦、駆潜艇、測量艦)の建造数の増加だった。

 

 この世界のマル3計画では、史実よりも経済力や造船設備が多い事、通商護衛の重要性がある程度認識されている事から、対潜装備を有する艦艇の建造数が増加している。

 敷設艦は、「津軽」の準同型艦(艦名は「来島」)と初鷹型の2隻(艦名は「黒鷹」と「赤鷹」)が追加された。これは、海上警備の強化と対潜能力の向上を図ったものだった。同様の目的で、掃海艇が2隻、敷設艇が1隻、駆潜艇が5隻追加された。

 海防艦は、「台湾沿岸の警戒強化」を名目に占守型の改良型が8隻が追加された。また、追加された8隻は「戦時設計のノウハウの獲得」や「早期建造」を目的に、設計の簡易化と商船設計の利用、電気溶接の多用が行われた。当初、第四艦隊事件の記憶から電気溶接の導入には慎重だったが、小型艦艇ならば電気溶接の方が有利であり、実際に建造してノウハウを獲得する事も必要であるとして、電気溶接の利用が行われた。

 尚、この世界では、通商護衛の必要性が認識されている事から、ソ連の軍事力復活も合わさって、マル1計画とマル2計画で4隻ずつの海防艦を建造している(史実では流れたもの。マル1は史実の占守型、マル2は史実の択捉型が建造)。その為、この世界の占守型は史実の御蔵型に相当し、追加された8隻は鵜来型に相当する。

 測量艦は、史実では計画のみに終わった「筑紫」の2番艦「和泉」が建造された。これは、通商護衛や対潜戦の経験から、水路調査や海底調査を行う事で、潜水艦が待ち伏せしている可能性が高い場所は何処かを探す必要があると認識した為であった。

 

 次のマル4計画では、史実と大きな変化は空母「大鳳」の2番艦「天鳳」が追加されたぐらいだろう。これは、マル3計画で対潜や通商護衛の艦艇の整備が進んだ為であった。しかし、これでも不足した事から、開戦直前の軍備拡張計画(マル臨計画、マル急計画、マル追計画)によって、不足分が追加された。

 

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 大室財閥も、マル3計画とマル4計画で艦艇の建造に携わった。携わった艦艇は、敷設艦「来島」と改占守型が3隻、測量艦「和泉」である。「来島」と「和泉」が堺、改占守型は2隻が横浜、1隻が泉州で建造された。「来島」と改占守型は1939年に起工し、同年末には改占守型が竣工した。翌年には「和泉」が起工し、更にその翌年(1941年)には「来島」と「和泉」が竣工した。

 

 その後も、マル臨計画で高速海防艦(鴻型水雷艇の設計を流用した海防艦。25ノットを出せる。架空)8隻を横浜と泉州で、続くマル急計画で雲龍型空母の2番艦「蛟龍」(架空)を堺で建造した。また、その後のマル追計画、マル戦計画の海防艦、護衛駆逐艦、駆潜艇、掃海艇の建造にも関わっていく事となる。

 

 軍艦の建造とは別に、ディーゼルエンジンの製造も好調だった。これは、大室重工が開発した船舶用ディーゼルエンジンが「22号内火機械」として採用された為である(これにより、史実の22号内火機械からは号数が1つずれる)。海軍拡張に伴いディーゼルエンジンの大量生産が決定し、自社だけでは生産が追い付かないので、他社(主に三菱と川崎、石川島)でも生産される事となった。このディーゼルエンジンは、ほぼ全ての海防艦や駆潜艇などの水上補助艦艇に搭載される事となり、戦前のディーゼルエンジンではベストセラーとなるが別の話である。

 

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 軍艦の建造もそうだが、航空隊も拡張した。それに伴い、戦闘機や攻撃機など各種航空機の調達も加速した。日中の衝突が激化する可能性が高かった1937年から、航空隊を増設する事が決定された。この動きは、対米戦が現実的になる1941年になると加速した。

 

 その様な中で、1937年に陸軍から双発の重戦闘機「キ40」(史実では三菱設計の司令部偵察機)、双発の軽爆撃機「キ47」、双発の重爆撃機「キ50」(キ47とキ50は史実では三菱設計予定だが、他が立て込んで設計段階で落とされた)の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、「キ47」は川崎の「キ48」(九九式双発系爆撃機)に、「キ50」は中島の「キ49」(百式重爆撃機)に敗れた為、正式採用される事は無かった。しかし、「キ40」が他の三社(中島の「キ37」、川崎の「キ38」、三菱の「キ39」)と比較して性能で優れていた事から、この機体が採用候補となった。その後、小改良が加えられ、1941年に「一式複座戦闘機」として正式採用される事となった(これにより、「キ45改(屠龍)」は生産されず)。

 

 海軍からは、1935年に十試艦上攻撃機、1936年に十一試艦上爆撃機、1937年に十二試二座水上偵察機の試作をそれぞれ命じられた。

 その結果、全て敗退した。十試艦上攻撃機は中島と三菱(九七式艦上攻撃機)に、十一試艦上爆撃機は愛知(九九式艦上攻撃機)に敗れ、十二試二座水上偵察機は愛知・中島・川西と共に落選した。

 全てのコンペで敗退したが、この後も機体の試作・研究は続けられた。また、他社の機体のライセンス生産も行われ、特に中島と愛知の機体はライセンス生産される事が多かった。

 

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 上記の状況と前後するが、大室重工・日鉄・愛知の航空機用エンジン部門を統合して1935年に設立された「三和航空工業」だが、1937年に中島飛行機が三和に対し『自社のエンジン部門を統合して欲しい』と願い出た。これは、史実よりも中島のエンジンを搭載する機体が少ない事(史実では中島の「光」を搭載した九五式艦上戦闘機と九六式艦上爆撃機は、この世界では三和の「瞬(800馬力級)」を搭載)、エンジンプラグなどの重要部品の供給を三和や大室重工などに頼っている事、三和の方が高出力エンジンの開発が進んでいる事(ドイツからの技術供給やディーゼルエンジンの開発などによる)、何より大出力の航空機用エンジンの製造メーカーが複数あるデメリットが大きい事が理由だった。

 

 この話は、三和にとっても有難い話であり、中島との統合はメリットが大きいと睨んだ。

 当時、航空機用エンジンは三菱と中島、三和が三分しており、シェアもそれ程変わらなかった。その様な中で中島と統合すれば、三菱を大きく引き離す事が可能となる。

 また、簡単に製造設備を拡張出来る事も大きかった。今後、陸海軍の航空隊が拡張していくが、現状の設備だけでは不足すると見られた為である。

 加えて、中島の技術陣は大卒者を採用するなど優秀な者が多く、彼らを加える事でより高性能なエンジンを設計・開発出来ると睨んだ事もあった。

 更に、大室は中島との繋がりが深い事も統合を後押しした。先述のエンジンプラグの供給のみならず、中島飛行機の成立に大室重工業が関わっており、エンジンの共同開発や中島の機体のライセンス生産も行っている。その為、三和のエンジンと中島のエンジンは部品の共用化が行われていた。

 

 1938年に三和が中島のエンジン部門を吸収する形で、三和が「大和航空工業」と改称した。これにより、日本の大規模航空機用エンジンメーカーは大和と三菱に集約される事となり、製造数の面では2社が統合した大和の方が頭複数個分抜けていた。こうして、日本最大の航空機用エンジンメーカーが誕生した。

 しかし、対米戦が現実的になってくると現状の設備ですら供給に追いつかない事態になった為、三鷹付近に巨大なエンジン製造工場が建設された(1941年に稼働開始)。

 

 統合後、エンジンは基本的に中島側に寄せる事となった。その為、「栄」エンジンは史実通りに開発されるが、三和と中島の技術陣が合流した事で、「栄」の改良型が史実より早く開発・生産される事となった。また、新型エンジンの開発も早くなり、「誉」エンジンも1943年から多数製造される事となった(この世界の「誉」エンジンは、低オクタンガソリンでも1800馬力出せ、かつ安定した性能を出せる)。



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33話 昭和戦前⑪:日林財閥(8)

 1937年から中国大陸で続いている小競り合いは、1939年に入っても終わる事は無かった。日本軍の進出地域が、上海や北平、広州など中国沿岸部や満州国境に近い主要都市のみである事から、大陸深く進攻した場合よりも兵員の損失や物資の浪費は少ないが、それでも金属や食糧の不足が見えてきて、不要な金属の供出や食糧の配給、ガソリンや石炭の使用制限が実施された。

 また、1938年にアメリカが第二次海軍拡張法(通称、「第二次ヴィンソン案」)、1940年に第三次海軍拡張法(通称、「第三次ヴィンソン案」)と第四次海軍拡張法(通称、「スターク案」「両洋艦隊法」)が成立し、アメリカ海軍もワシントン・ロンドンの軍縮条約に囚われない拡張が実施されると、対米戦が現実味を帯びた。

 1939年からの第二次世界大戦も合わさり、日本は急速に戦時色が強くなった。

 

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 戦時体制が強まっていくにつれ、日林財閥は大きな利益を上げる様になった。その理由は、日林の事業が軍需と上手く噛み合っている為だった。

 日林の主要事業は林業、木材加工、製紙、化学、金融である。それ以外にも繊維、食品、窯業、造船、機械などがあるが、事業の多くが軍需と密接に関わっている(尤も、軍需と関わらない事業の方が少ないが)。

 

 林業と木材加工(合板)は、軍需物資としての木材の利用価値にある。木材は兵器や建築資材の原料として必要不可欠であり、後述する合成繊維の原料や日常的に使用する燃料としても活用される。また、合板も資材や小型船舶の材料として使用される。

 その為、1938年から木材の増産が叫ばれる様になり、国内では俄かに木材景気に沸いた。そして、木材を得る為に伐採も加速した。同時に、合板の製造も拡大し、日林木材工業は一部の家具工場を合板製造工場に転換した。

 

 日林もこの流れに乗り、大量の木材と合板が供給され、木材関連で過去最大の利益を上げた。これは、日本各地に自前の山林を保有している事、高品質の合板の大量供給が可能な事が大きかった。

 一方で、日林は今までの経験から、過剰な伐採は今後の木材供給量を落とす事、植林しなければ土壌流出に繋がる事を理解していた。その為、今まで通り伐採後は植林を行った。

 しかし、今回は伐採の規模が大きい為、成長が早い樹を中心に植樹する事となった。北海道や東北なら、寒冷な気候でも育つポプラにニセアカシア、スギにクロマツなどを植樹し、中国や四国、九州なら、温暖な気候で育つクロマツやアスナロ、サワラなどを植樹する。

 この時、1種だけ植樹するのでは無く、複数種を組み合わせて植樹する事としている。1種だけだと、その種が病気になった場合、その地域のその種が全滅する可能性がある為である。複数種植樹すれば、1種が全滅しても他が残って森林は保たれるという考えである。

 

 これを、他の林業事業者にも連絡した。『現状、切り出す一方では今後の森林資源調達に支障を来たす」と警告も加えて。

 これに対して、反応はまちまちだった。素直に応じて日林式に植樹する所もあれば、「取り敢えず植樹すれば良い」という考えで1種を集中的に植樹する所もあり、今現在が重要だとして植樹しない所もあるなど統一性が無かった。準戦時という非常事態にあってはそうなるのも仕方ないのかもしれないが、日林としては行動してくれる所があっただけでも安心した。

 

 この時の植樹事業が、その後の林政に意外な変化を生んだ。戦後、過剰な伐採が進んだ森林に対し、植樹を行って土壌の流出を抑える事となった。史実ではスギやヒノキ一辺倒の植樹となったが、この世界では地域にあった植樹や複数種の植樹が行われる様になった。

 また、合板メーカーが史実よりも規模が拡大し、原料も国産を求めた事から、木材の長期安定的な供給を目的に林業の育成が強化される事となった。この結果、日本の林業は多少ながらも競争力を持つ様になり、東南アジアからの合板用木材の輸入は減少する事となった。

 

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 製紙は、洋紙の製造など本業については縮小傾向にあった。実際、効率の悪い工場の閉鎖や分散されている工場の集約によって、一部の工場は閉鎖される事となった。

 その代わり、閉鎖された一部の工場では合成繊維(レーヨン)の製造が行われた。これは、レーヨンの原料であるパルプ、製造過程で用いられる硫酸や苛性ソーダなどの薬品を活用出来る為である。

 その為、パルプや薬品の製造についてはむしろ増加した。また、レーヨンの製造や薬品の増産から、繊維や化学との関係が強化され、特に合成繊維に関するノウハウを豊富に持っている京師繊維との連携は密とされた。

 

 製紙と連動した化学と繊維は、軍拡によって規模が急速に拡大した。軍拡によって、火薬から軍服に至るまで大量の需要が発生する。その需要に応える為、増産と工場の拡大が急務となった。その一環で、製紙工場の転換が行われたが、それだけでは膨大な需要に供給が追い付かない。その為、本業の方でも拡大が行われた。

 日林系の繊維会社である京師繊維は、元々綿や麻などの天然繊維が中心だった。しかし、原料となる綿花やジュート、サイザル麻の輸入量の減少によって、需要に応える事が出来なくなった。その為、天然繊維の代替としてレーヨンの製造を行う事が計画された。

 

 京師繊維は、昭和恐慌時に経営が破綻した、若しくは傾いた繊維会社を合併・子会社化してきた。その中に、レーヨンを扱う企業が数社あった為、レーヨンに関するノウハウがあった。この時は、恐慌によって需要が減少していた事から、増産処か減産が検討されていた。その後、満州事変から景気は上向きになり、繊維の需要も増大し、京師繊維もレーヨンの増産に転換した。

 レーヨンの原料はパルプである為、国内でも充分に原料を供給出来た。また、レーヨンの製造原料となるセルロース(パルプの主成分)や薬品は火薬(ニトロセルロース)の原料となる為、化学への進出も行われる事となった。火薬製造は日林化学工業と競合する分野だが、火薬の需要が急増していた為、両社で生産される事となった。

 

 日林化学は、火薬やダイナマイトの増産だけで無く、合成繊維の研究も強化された。これは、合成繊維のノウハウは提携しているイギリスのインペリアル・ケミカル社(ICI)も保有していない為であり(ICIによる合成繊維の製造は戦後)、自主研究によって合成繊維を開発する事となった。

 火薬については設立当初から行っていた為、増産については工場の拡張や新設を行えば問題無かった。実際、日林化学の既存の工場では、周辺の土地の収用を行って規模の拡張を行っており、それでも足りない分は日林製紙で統廃合の対象となった小規模工場を火薬工場に転換して対応した。

 一方の合成繊維は、1920年代後半から研究を行っていたが大きな成果を上げていなかった。これは、基礎研究や知識の不足という原因もあったが、何より火薬や染料と言った薬品に注力し過ぎていた事が最大の原因だった。その為、日林化学による合成繊維の研究は縮小され、研究成果などは京師繊維に譲渡される事となった。これにより、日林化学は合成繊維から撤退した。

 

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 第二次世界大戦前になり、日林では急速に機械、造船、窯業の生産量、生産額が急増した。これらの事業は日林では傍系だが、軍拡による兵器、兵器を生産する機械など重工業系の需要が急増した事で、これらの事業も拡大する事となった。

 機械と造船を担当する日林造船機械は、エンジン製造の下請けと小型船舶の建造が行われた。但し、木造船の建造経験しか無い為、最初は掃海艇や敷設艇の建造のみだった。その後、日林と繋がりがある大室と日鉄が技術提供をしてくれた事で、海防艦や小型の戦時標準船なら建造可能なノウハウを獲得した。

 

 また、この場合の窯業はエンジンに必要となるスパークプラグや、送電に必要な碍子といった特殊陶器を指す。これらは、航空機やトラックの大量配備や、日本各地で発電用ダムの建設が行われた事で大量生産される事となった。特に、日林製の航空機エンジン用スパークプラグは高性能である事で有名であり、大和航空工業に優先的に供給された。この為、日林特殊陶器は工場の拡大が行われる様になり、千葉と徳島に新工場が建設された。

 

 尚、日林製のスパークプラグの大和への優先供給によって、大和の航空機エンジンを採用する機体が増加した事に危惧した三菱重工業は、三菱入りした森村財閥系の日本特殊陶業に高性能スパークプラグの製造開発を依頼した。結果として、日本の二大エンジンメーカーは二大特殊陶器メーカーを育てる事となった。

 

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 上記以外にも、日本林商銀行や日林火災保険といった金融、日林系の電力事業、皮革も急速に拡大した。

 その一方で、食品事業は材料不足によって一部の商品は減産となった。その代わり、戦地への輸送が容易な缶詰の製造が拡大する事となった。特に、皮革と一体の食肉、水産業が盛んな事から魚の缶詰が大量に製造された。これらの缶詰は兵士達に好評であり、戦後も復員した兵士達によって『日林の缶詰は絶品』という評判が立った。その為、製造当初は一時的なものと考えられた缶詰事業は、日林食品の戦後の主力事業となる程だった。



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番外編:開戦前夜と史実との違い

 日本は、中国との紛争(「戦争」にまで発展しなかった)を有利に終わらす為、中国への武器や物資の支援ルート、所謂「援蒋ルート」を遮断する事を決定した。主な援蒋ルートは5つあり、香港から内陸へ運ぶ「広東ルート」、フランス領インドシナから雲南省、広西省に入る「仏印ルート」、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)から雲南省、四川省に入る「ビルマルート」、ソ連の衛星国であるモンゴル人民共和国から察哈爾省、綏遠省(現・内モンゴル自治区)に入る「蒙古ルート」、ソ連からウイグルに入る「西北ルート」があった。

 

 その内、広東ルートは広州を、蒙古ルートは察哈爾・綏遠両省を紛争後に日本が占領した事で閉鎖され、仏印ルートも1940年に日本軍が北部仏印に進出した事で閉鎖された。仏印ルートの閉鎖によって最大の援蒋ルートは閉鎖されたが、直ぐ後にビルマルートが強化された事で援蒋の完全封鎖は叶わなかった。

 それ処か、仏印に進出した事でアメリカを大きく刺激し、日米の対立は以降深まっていく事となった。その為、1940年から日本は対米戦を秘かに決意する事となった。

 

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 この世界のアメリカは、史実よりも大きな海軍力を保有している。その為、ニューディール政策を行う際に軍縮を行おうとしたが、海軍からは『これ以上規模を縮小(人員削減や維持費の削減)をされると、艦隊運営に支障を来たす』と言われ、陸軍からも『これ以上予算を減らされたら、組織として崩壊する』と言われた。

 その結果、軍事費削減は中途半端となり、ニューディール政策の成果も史実と比べると中途半端な結果となった。この事から、ルーズベルト大統領の支持率は史実よりも低く、1936年の大統領選挙では勝利を収めたものの、史実の様な48州中46州で勝利とはならず(当時、ハワイとアラスカは準州)、34州で勝利となった。1938年の中間選挙や1940年の大統領選挙でも、辛うじて勝利した為、国内の支持基盤が強固では無かった。

 

 この余波によって、アメリカは中国を大々的に支援する事が難しくなった。ルーズベルト本人は親中反日だったが、国内はアジアの事より国内をどうにかしてほしいと考えており、野党の共和党も徒に日本を煽る事は宜しくないと批判的だった。

 もし、この時点でルーズベルトの支持が圧倒的であれば、反対があっても押し通す事は不可能では無かっただろう。しかし、ルーズベルトの支持率は5割をギリギリ超す程度しか無く、変な動きをすれば弾劾される可能性があった。

 その為、中国に対する支援が大きくならなかった。これは、日本が史実の様に内陸部まで進出しなかった事も大きかった。

 

 1939年には内陸部への進出が検討されたが、ノモンハンでソ連軍と大規模な軍事衝突が発生した事で、急遽戦力の大半を満州へ向けられる事となった。また、ノモンハンでの戦闘で大規模な被害を受けた事で、その補充も行う必要があった。それらに予算や人員を取られた為、内陸部進出は実行されなかった。

 

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 日本と中国の衝突は1939年の中頃には収まってきた。日本側は、内陸部に進出する気が無く、しようと思ったが別の要因で出来なかった。中国側は、大規模な戦力を初期の段階で消耗した事から、日本が占領している地域に侵攻する為の戦力が無かった。

 それでも、ズルズルと戦闘は長引き、それと反比例する様に日米関係は悪化していった。この後、日本は史実と同じくドイツとイタリアと同盟関係になった。これにより、アメリカやイギリスとの関係悪化は急速に進み、屑鉄の対日輸出禁止から始まる対日経済制裁が行われた。

 

 この後は史実通りである。日米関係は急速に悪化、1941年から何度も交渉が行われたが、全て物別れに終わった。

 しかし、史実と異なる部分として、アメリカによる日本の外交電文の解読が進まなかった事である。これは、ワシントン条約時に日本の電文がアメリカに傍受され解読された事を機に、日本政府と陸海軍は情報の漏洩に敏感となった。その結果が、海軍系の「海軍情報本部」と内閣系の「内閣情報調査局」の設立である。

 今回は、内閣情報調査局が活躍した事でアメリカの外交電文の解読が進み、日本の外交電文の機密性も強化された。これにより、アメリカが次にどの様な事を提案するかを一定程度知る事が出来、逆にアメリカは日本の交渉内容や目的、時期などの解読に手間取った事で、交渉の主導権を握る事が出来なかった。

 

 それでも、情報解読の有無で開戦までの流れが変わる訳でも無く、結局1941年11月26日にコーデル・ハル国務長官から野村吉三郎駐米大使と来栖三郎特命全権大使に「ハル・ノート」が手交された。これによって、日本は対米戦を決意した。事前に準備されていた戦争計画は急速に進み、12月8日に開戦する事を御前会議にて決定された。既に、陸海軍の実戦部隊は動き出しており、後は開戦の日時を知らせる電文を受け取れば、開戦と同時に一斉に行動を開始する事となっていた。

 

 これを受けて外務省は、『日本時間1941年12月8日に宣戦布告文書を手交出来る様に準備する事』と在米・在英日本大使館に緊急かつ最重要の命令を下した。その為、史実の様な宣戦布告の遅れによる「卑怯」「騙し討ち」という批判は出なかった。

 そして、日本時間1941年12月8日午前2時、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対し同時に宣戦布告、ここに日本側名称「大東亜戦争」が始まった。

 

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[史実と異なる編制]

・連合艦隊

 直属部隊である第一戦隊に加賀型戦艦2隻(「加賀」と「土佐」)が追加。旗艦も「加賀」になる。

 

・第一艦隊

 第二戦隊に所属する扶桑型戦艦2隻(「扶桑」と「山城」)が、1939年から大改装を実施する。これにより、艦尾の延長や応急注排水装置の装備など史実で行われた改装の他、3番砲塔の撤去と機関の改装、装甲の強化が行われた。これにより、攻撃力は下がったものの、速力は向上(26.5ノット)し、改装前で問題となった防御力もある程度解消された事から、バランスが取れた戦艦となった。

 

・第一航空艦隊

 戦艦・駆逐艦の編制は史実通り。異なるのは空母と巡洋艦の編制で、史実の第一航空戦隊は「赤城」と「加賀」だが、この世界では「高雄」と「愛宕」(共に天城型巡洋戦艦からの改装)となっており、「愛宕」が旗艦を務める。巡洋艦の第八戦隊は、史実では利根型重巡洋艦2隻だが、この世界では利根型軽巡洋艦4隻(「利根」「筑摩」「雄物」「名寄」)となっている。

 また、司令長官も南雲忠一では無く、塚原二四三となっている。史実の塚原は、1939年の漢口(現在の武漢)空襲で負傷し左腕を切断、以降海上勤務をしなかった。この世界では、中国内陸部に進出していない事から漢口空襲は無く負傷もしていない。その為、海上勤務を続ける事が可能となった。

 

・第一南遣艦隊

 この艦隊は、フィリピン攻略の為に編成された艦隊である。史実では存在しない艦隊だが、後述するアジア艦隊の戦力が大きい為編制された。尚、この艦隊の編制によって、史実の南遣艦隊は「第二南遣艦隊」となった。司令長官は南雲忠一である。

 戦力は、天城型戦艦2隻(「天城」と「赤城」)、穂高型重巡洋艦4隻(「穂高」「大雪」「雲仙」「石鎚」)、川内型軽巡洋艦の「加古」(当初の予定通り、川内型軽巡洋艦の4番艦として竣工)、駆逐艦8隻となっている。戦艦が含まれている理由は、アジア艦隊にレキシントン級巡洋戦艦が含まれている為である。

 

・太平洋艦隊

 戦艦ではサウスダコタ級戦艦2隻(「サウスダコタ」と「インディアナ」)とコロラド級戦艦1隻(「ワシントン」。これに伴い、ノースカロライナ級戦艦2番艦は「オレゴン」と命名)、巡洋艦が4隻(ポートランド級重巡洋艦2隻、セントルイス級軽巡洋艦2隻)が追加している。空母も、巡洋戦艦として完成した「レキシントン」と「サラトガ」の代わりに、「コンステレーション」と「レンジャー」が空母として完成する(これに伴い、史実の「レンジャー」は「ディスカバリー」となる)。それ以外は史実通り。

 

・アジア艦隊

 レキシントン級巡洋戦艦2隻(「レキシントン」「サラトガ」)とニューオーリンズ級重巡洋艦1隻が追加。

 尤も、アジア艦隊が戦艦を含む有力な艦隊となった事が、第一南遣艦隊が編成された理由となった。

 

・大西洋艦隊

 巡洋艦2隻(ウィチタ級重巡洋艦1隻とセントルイス級軽巡洋艦1隻)が追加。



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番外編:日鉄(+α)による新路線建設 番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北海道・東北)

〈北海道〉

・軽石軌道[軽川(現・手稲)~花畔~石狩川畔]

 史実では、花畔までの開業に留まり、路線そのものも1937年に廃止となった。これにより、石狩市の鉄道は無くなり、現在でも陸の孤島気味となっている。

 

 この世界では、日鉄が経営に参画した事で、軌間は762mmから1067mmに変更し、史実では開業しなかった花畔から先を開業させる。更に、石狩川河口部の開発を日鉄・大室・日林の三者が共同で実施する。目的は、小樽港の代替と北海道の工業化の推進である。軽石軌道の獲得も、輸送路の確保と開発の促進を目的とした。社名も「石狩鉄道」に変更した。

 1922年10月に軽川~花畔間が、1927年6月に花畔~石狩港(石狩川畔)間が開業。花畔開業とほぼ同じく、石狩港の開発も始まり、関東大震災によって一時中断するものの、1928年10月に第一期工事が完了、第二期工事も開始した。しかし、今度は昭和金融恐慌と昭和恐慌によって中断、完成は1940年2月となった。

 

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・大函急行電鉄[函館~亀田~大野(現・新函館北斗)]

 軌道幅が一緒(1067mm)であり、電化で開業の予定であった事から、函館市電の郊外線的存在と言える。ルートは、函館から五稜郭までは函館本線に隣接し、五稜郭から先は概ね大野街道に沿って(=函館本線の西側に並行する)大野に至る。

 史実では、1928年10月に免許を取得し1930年に会社を設立するが、昭和恐慌によって工事が中断、ある程度建設が進んでいたらしいが、1937年2月に免許が失効した。

 

 この世界では、日鉄が函館の経済力や人口を鑑み(1940年まで、函館の人口は札幌を超えていた)、郊外の開発も行った方が良いと判断し、函館水電(函館市電の前身)を巻き込む形で経営に参加した。これは、電鉄を運営するのなら、協力体制を敷いた方が効率が良いと判断した為である。1930年に会社が設立したが、路面電車での運行が計画された事から、社名は「大函電気鉄道」となった。

 会社設立後、精力的に工事は進められ、1934年2月には線路を全て敷き終わった。その為、当初は同年4月に開業予定だったが、3月に発生した函館大火によって施設の一部が焼失し開業は延期となった。その後、施設の復旧を行い、8月に開業となった。

 開業後、沿線の宅地開発や娯楽施設(野球場や遊園地)の整備を行い、沿線人口の増加を狙った。函館大火によって函館市の人口が流出していった事から、それを防ぐ目的もあった。不況の影響もあって大々的な開発は出来なかったが、函館の後背地の開発が進んだ事によって人口の流出が穏やかになった。

 

 その後、1940年に帝国電力(1934年に函館水電から改称)から鉄道部門とバス部門を譲渡され、「函館電気鉄道」に改称された。戦時中、函館電鉄の全事業を函館市に引き渡す予定だったが、函館電鉄側と函館市側の条件が折り合わずそのまま流れた(これにより、「函館市交通局」は成立しない)。

 

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〈東北〉

・東北鉄道鉱業[小鳥谷~葛巻~門~茂市]

 東北本線の小鳥谷から葛巻、門、岩泉を経由し、太平洋岸の小本まで至る路線と、途中の落合から分岐し、かつての岩泉線とほぼ同じルートを通る路線を計画した。目的は、沿線から算出される石炭や木材の輸送と開発だった。

 史実では、資金不足が原因で工事途中で未完成となり、1927年9月に門から先の免許が失効、1941年7月に残る小鳥谷~門間の免許も失効した。

 

 この世界では、日鉄に加えて日林財閥の企業が合同して出資した(日本鉄道興業、日本鉄道銀行、日鉄證券、日本林産、日本林商銀行、日林鉱業)。また、史実では1926年11月に工事が開始されたが、この世界では1年半早く工事が開始された。

 それでも、史実通り昭和恐慌による資金不足によって一時的に工事が中断される。しかし、史実よりも工事が早く始められた事、日鉄―日林連合が経営権を掌握した事で、その後も工事が進み、1938年に小鳥谷~葛巻~門~茂市間が開業した。同時に、沿線の炭鉱・鉱山(粘土やマンガン鉱)、森林の開発も進んだ。その後、1944年に改正鉄道敷設法に則り「葛巻線」として買収され、残る鉱山などは日林側の企業に吸収された。

 

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・南部開発鉄道[野辺地~七戸~三本木(旧・十和田市)~三戸](架空)

 現実の南部縦貫鉄道と同じルートだが、昭和初期に計画されたという違いがある。このルートは奥州街道(国道4号線)に沿ったルートでありそれなりに人口があったが、東北本線から外れた事で衰退が著しかった。かつての繁栄を取り戻そうという沿線住民と、沿線の農地や牧地、資源開発を考えた日鉄の両者の思惑が一致した。これにより、1927年に「南部開発鉄道」が設立された(免許の受理は1925年)。

 会社設立後、工事が始まったが、昭和恐慌によって一時中断した。しかし、その後の景気の回復と軍拡による鉄の需要増加を受けて、工事は急ピッチで再開された。沿線には高純度の砂鉄が確認されており、これを利用した製鉄が青森で実施される事になった為である。これにより、1935年6月に全線が開業し、沿線住民は諸手を上げてこれを歓迎した。

 開業後、沿線開発は進み、特に鉱山開発は鉄道が開業した事で大規模な開発が進んだ。そして、日本製鐵(新日鐵住金の前身)によって大湊町(現・むつ市)に製鉄所が建設され、そこへの原料輸送で賑わった。その後、1940年に十和田鉄道(史実の十和田観光電鉄線)、五戸鉄道(史実の南部鉄道)と統合し、「南部鉄道」と改称した。

 

 しかし、改正鉄道敷設法に該当する事、東北本線のバイパスになる事、何より鉄鉱石の存在から戦時買収の対象となり、南部鉄道が所有する全鉄道線が国有化された。旧・南部開発鉄道は「七戸線」、旧・十和田鉄道は「三本木線」、旧・五戸鉄道は「五戸線」とされた。その後、会社そのものはバス・不動産会社「南部開発交通」として存続する事となった。

 尚、十和田鉄道だけ762㎜で軌間が異なり、戦後に1067㎜に改軌される事となった。

 

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・仙南鉄道[白石~永野~遠刈田温泉~青根温泉、大河原~村田~永野](架空)

 史実では、このルートに仙南温泉軌道(大河原~村田~永野~遠刈田)が1922年に開業した(永野~遠刈田は1906年に貨物専業で開通済)が、バスとの競合や規格の低さが災いして、1937年に廃止となった。

 

 この世界では、1910年に解散となった日本製鉄(後に成立する日本製鐵とは無関係)から開業済みの永野~遠刈田を譲り受け、上記のルートでの免許を獲得し「仙南鉄道」を設立した。これとほぼ同時期に、仙南軌道と城南軌道(共に仙南温泉軌道の前身)の免許が出願されたものの、資本力に勝る仙南鉄道が両者を吸収させて黙らせた。

 その後、1911年から工事が開始された。2社の吸収の条件として「大河原~村田~永野間も建設する事」が決められた為、少々時間が掛かったが、大河原側は地元が建設に積極的であった事から、建設は早期に完了した。途中、第一次世界大戦による資材高騰によって中断するも、1922年までに全線が開業した。

 

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・仙台鉄道[古川~西古川~王城寺原~北仙台]、青葉電気鉄道[北仙台~青葉城前~長町]、秋保電気鉄道[長町~茂庭~秋保温泉~青根温泉](架空)

 史実の仙台鉄道と秋保電気軌道、未成に終わった青葉軌道に相当する。

 秋保側は、1916年に秋保石材軌道を傘下に収め、資金面でのバックアップを行った結果、青根温泉への路線を1925年に開業させた。同時に、改軌(762㎜から1067㎜に変更)と電化を実施した。同時に、社名を「秋保電気鉄道」に改称した。

 

 古川側も同様に、1922年に仙台軌道を傘下に収めた。1925年の西古川までの開業は史実通りだが、西古川から国鉄陸羽東線に沿って古川までの路線が1927年に開業した。

 

 仙台市側は、1925年に設立された青葉軌道に参画、既に傘下に収めた秋保石材軌道と仙台軌道を繋げて一体的な運用を目的とした。そして、秋保側が1067㎜で電化された事から、青葉軌道と仙台鉄道も改軌する事となった(青葉軌道は電化も実施)。その後、1929年に開業した事で(同時に、社名も「青葉電気鉄道」に改称)、3社の統一運用が図られる様になった。これにより、青葉電鉄・秋保電鉄沿線の宅地・観光開発が活発化した。

 

 その後、1943年に上記の仙南鉄道と統合し、新生「仙台鉄道」となった。

 戦後、旧・仙南鉄道との連絡と仙台白石間の都市間輸送を目的に、茂庭~村田間が計画される事になる。

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・仙北鉄道[築館~沢辺]

 築館線の延長であり、栗原軌道との接続を狙った路線である。史実では、仙台鉄道や栗原軌道が免許を獲得したものの、全て未開業に終わった。

 

 この世界では、日鉄が支援した事で1926年に開業した。これにより、仙北鉄道と栗原軌道は一体的な運用が取られたものの、この時は合併しなかった。

 その後、1944年に仙北鉄道と栗原軌道は「仙台鉄道」に統合された。戦後、旧・仙北鉄道と旧・栗原軌道は「栗原鉄道」として分離されるのと同時に、仙台鉄道の支援の下で改軌と電化が実施された。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東)

〈関東〉

・武州鉄道[羽生~菖蒲~蓮田~岩槻~武州大門~赤羽(赤羽岩淵)]

 詳しい事は「17話 大正時代③:日鉄財閥(2)」を参照。

 関東大震災後、人口の郊外への移転が進んだが、武州鉄道沿線では大きく進まなかった。武州鉄道が全線開業したのが復興が一段落付いた1927年だった事、東京側の接続が赤羽という東京市の端である事、他の路線との接続が王子電気軌道だけだった事などの理由からだった。

 その為、目蒲電鉄や東横電鉄(共に東急の前身)や東武鉄道の様に郊外電車は走らなかったが、都市部に近い所を走る事から気動車(当時はガソリンカーが主流)の積極的な導入が行われた。これにより高頻度の運転が可能となり、沿線住民の足として充分に活用された。

 

 この形態は12,3年続いたが、戦時体制が近づくにつれガソリンの入手が困難となり、気動車の運行頻度も減少した。これに代わる様に蒸気機関車の運行が増加したが、一定程度の発展をした沿線にとって蒸気機関車のばい煙は迷惑でしかなった。その為、電化の要請が行われたが、資本・資源不足によって電化の見込みは無かった。

 

 その後、1944年に総武鉄道(現・東武野田線)と一緒に東武鉄道に吸収され、「東武赤羽線」となった。戦後、東武の手によって旧・武州鉄道は電化される事となる。

 

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・相模中央鉄道[平塚~厚木~田代~半原、平塚~伊勢原~大山口](架空)

 平塚~八王子の免許を持つ「八平軽便鉄道」と、平塚~大山の免許を持つ「大山鉄道」を日鉄が買収し、1912年に両社を統合して設立された。史実では、大山鉄道の免許が下りたのが1914年で、八平軽便鉄道の免許が失効したのが1913年であるが、この世界では、1911年に平塚~伊勢原の免許を獲得した「大山軽便鉄道」が、大山までの免許を獲得して「大山鉄道」と名乗ったとする。

 

 工事は、第一次世界大戦や関東大震災を挟んで中断されたものの、1925年までに大山方面の全線と平塚~半原が開業した。路線は、全線1067㎜・直流600Vである。半原~八王子は山岳地帯を走る事から、工事費や採算の問題から工事は行われなかった。しかし、バス連絡は行われた。

 相模川の砂利や丹沢からの薪炭、大山詣りの参拝客などの利用が多く、恐慌時でも三分の配当が行われた。小田急が開業してからは一時は利益が減少したものの、東京への輸送時間の減少からその後はむしろ活性化し、再び利益は増加した。また、後述の相武電気鉄道が田名で繋がった事で、直通電車の運行も行われた。

 

 その後、戦時体制に進むにつれ、平塚や厚木には軍事施設が設立されると、そこへの人員輸送が活発化した。この為、車輛の増備と平塚~厚木の複線化が計画された。増備の方は国鉄からの客車の払い下げで何とかなったが、複線化は資材不足で戦後に持ち越された。

 また、相模中央鉄道も戦時統合に巻き込まれた。合併は無かったものの、大東急の傘下に組み込まれた。戦後は大東急の傘下から小田急の傘下に代わり、戦前から行われた小田急相武線を通じた新宿~半原の直通運転が続いている。

 

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・相武電気鉄道[鶴川~淵野辺~上溝~田名~田代]

 史実では、1927年に免許を獲得し工事も行われたが、その後発生した昭和金融恐慌によって資金不足となり工事は中断、免許も1936年までに全て失効した。免許では、起点は溝の口を予定していた。他にも、田名から分岐して川尻方面の支線と、厚木から長後、戸塚を経由して横浜市中心部(黄金町や長者町)へ至る路線も計画していたが、全て未完成に終わった。

 その後、東急(大東急時代)や小田急によって似たルートの路線が計画されたものの、戦争による資材不足や敗戦による軍の消滅による建設理由の消滅(沿線ルートの相模原一帯は陸軍施設が多数存在した事から、軍への物資輸送も考えらていたと思われる)によって、何れも完成する事は無かった。その後、この地域に鉄道が通るのは、多摩ニュータウンの開発が一定程度進んだ1970年代中頃の事である。

 

 この世界では、昭和金融恐慌後に相武電鉄の株式を日鉄が引き受けた事で経営権を掌握した。日鉄の資金力を得た事で工事は急ピッチで進み、1932年に鶴川~田代間が開業した。予定されていた溝口方面は、小田急への乗り入れで代替出来る事から中止され、他の支線も建設されなかった。また、同じ資本関係にある先述の相模中央鉄道との直通運転を行い、鶴川~田名~半原間の直通電車も運行された。

 小田急(戦前の為、「小田原急行鉄道」)との乗り入れを想定した為、当初の路面電車型では無く、小田急に準じた高速電車の走行に耐えられる様な設備を整え、電車も高速運転が可能な車両を導入した。これらの初期投資は嵩み、人口の少なさから利益も出なかったものの、その後は沿線に陸軍施設が多数設立されると、物資や人員の輸送で増収になった。

 

 同時に、鉄道網の整備と鉄道会社の統合にも巻き込まれ、小田急と時を同じくして東急に統合、大東急の一員となり「東急相武線」となった。戦後、大東急は解体され、相武線は小田急に編入され「小田急相武線」となった。

 

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・南津電気鉄道[関戸(現・聖蹟桜ヶ丘)~鑓水~橋本~三ヶ木]

 この路線も相武電鉄と同じく、多摩・相模原地域への電鉄を予定しており、1926年には免許を獲得している。沿線は甲州や多摩で作られた絹を横浜へ輸送する途中にあり、絹輸送の仲介を行っていた商人が多数いた。それを背景とした経済力があった事から実現の可能性は低くは無かったが、昭和恐慌とそれによる生糸の暴落によって資金難となり、鑓水付近ではレールの敷設まで行われていたが工事は中断され、1934年までに全ての免許が失効した。

 

 この世界では、相武電鉄と同時期に株式の引き受けを行った事で経営権を掌握した。その後、津久井側のルートを変更した上で特許に切り替えた。

 ルート変更は、横浜線単独の相原よりも、国鉄横浜線・相模鉄道(現・JR相模線)が乗り入れる橋本の方が集客力が見込めると判断された為である。そして、津久井郡の中心地である中野・三ヶ木への延伸も予定された。

 特許への切り替えは、京王電気軌道(現・京王電鉄)との直通を予定した為である。地方鉄道法の関係上、免許のままでは京王の軌間である1372㎜での敷設が不可能であった。その為、軌道法による特許に変更して、京王との規格に合わせた。

 ルートの変更と特許への切り替えに時間が掛ったが、1931年から工事が再開された。鑓水付近の工事は完了していた事もあり、関戸~橋本は1934年に開業した。残る橋本~津久井も翌年に開業した。開業当初から行楽シーズン限定であるが京王との直通運転を行い、新宿~関戸~三ヶ木の長距離運転が行われた。

 

 この後、戦時統合の一環で1942年に京王に吸収されるも、京王も大東急に吸収された事により、旧・南津電鉄は「東急南津線」となった。戦後、大東急が解体されると、旧・京王、旧・南津電鉄、旧・帝都電鉄(現・京王井の頭線)は「京王帝都電鉄」として独立し、旧・南津電鉄は「京王南津線」となった。

 戦後、京王の財政基盤が怪しかった事から、旧・南津電鉄の伝手で中外グループ(大室・日鉄・日林の各財閥が戦後に集結して結成した企業グループ。「中外銀行」を中核とする)に支援を要請した所、中外グループはこれを快諾した。これにより、この世界では京王は中外グループの一員となった。

 

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・筑波高速度電気鉄道[上野~八潮~流山~守谷~筑波山口、八潮~野田市~岩井~結城~宇都宮](宇都宮方面は架空)

 史実では、免許を取得して直ぐに昭和恐慌が到来して資金不足に陥り、柿岡地磁気観測所の関係で直流による電化が出来ないなどの問題が重なり、工事は殆ど進まなかった。その後、会社は京成に吸収され、上野側の免許は京成の上野~青砥間の都心乗り入れ線に活用され、残りの免許は1936年までに全て失効した。

 

 この世界では、日鉄が筑波山の観光開発や鉄道空白地帯の宅地開発を目的に強力に支援した。同時に、八潮から分岐して野田、境、結城を経由して宇都宮に至る路線の免許も取得した。これは、筑波方面と同様に鉄道空白地帯の開発を目的とした。また、免許も変更され、鉄道では無く軌道に変更し、線路幅も1067㎜から1372㎜に変更された。これは、京成からの出向者の意向で、京成の都心乗り入れを考えての事だった。

 また、筑波電鉄の出資に大室財閥を誘った。これは、大室電機産業が持っている交流電化の技術を利用したかった為である。筑波山の近くにある柿岡地磁気観測所の影響で、直流による電化は不可能だった。

 尤も、地磁気観測所が近くにあっても直流電化は絶対不可能では無く、複式架線方式(2本の架線を平行に掛ける方式。路面電車で見られる)や短い間隔で変電所を設置すれば可能である。しかし、前者は高速運転に不向きである事、後者はコストの問題があった。

 この申し出に、大室側は難色を示した。大室電機も交流送電や交流用モーターの開発はしていたものの試作段階であり、鉄道に載せられる小型のものについては計画段階でしかなかった。それでも、日鉄は共同開発を持ち掛けるなどして、あらゆる手段を取って大室を引き込もうとした。

 結局、出資は叶わなかったものの、共同開発には応じてくれた。この出来事により、日鉄と大室電機の関係は蜜月状態になり、その後の統合に繋がる事となった。尤も、共同開発をしても交流電化の技術は中々完成せず、戦後も交直流電車のコストや気動車の性能向上などから、筑波方面の交流電化は諦められた。

 

 話は戻るが、1934年に上野~筑波山口間と京成との連絡を目的に町屋~青砥間が開業し、1937年には八潮~宇都宮間が開業した。一方、電化については地磁気観測所の関係から、守谷~筑波山口間と野田~宇都宮間については非電化となり気動車での運行となった。この為、(恐らく)日本唯一の馬車軌(1372㎜)の気動車が運行される事となった。

 

 筑波電鉄の役員の多くは京成からの出向者である為、京成との関係は強く、実質的に京成の子会社であった。その事もあり、1943年に筑波電鉄は京成に吸収された。戦後も、旧・筑波電鉄の役員は京成で大きな影響力を有した事から、戦後の京成は中外グループに所属する事となる(史実では三和グループに所属)。

 また、地下鉄浅草線を介した京成と京急の直通が計画された際に京成側の改軌を予定していたが、この世界では成田方面、筑波方面、宇都宮方面に路線を持っている為、総延長は史実の3倍近くとなる。これにより、改軌する為の費用も3倍以上となり、輸送への影響も大きくなる為、京成は「全ての路線を改軌する事は事実上不可能」と回答した。これにより京成の改軌計画は頓挫し、浅草線は京成の片乗り入れになった。一方、京急は三田線への乗り入れに変更された。

 

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〈他の路線への影響〉

・鉄道敷設法43号の開業

 43号は『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道 及水海道ヨリ分岐シテ佐貫ニ至ル鉄道 並境ヨリ分岐シテ古河ニ至ル鉄道』の事である。史実では開業しなかったこの路線が、この世界では開業した。しかし、実際に開業したのは『茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道』の部分だけであり、埼玉側の起点は高麗川に変更された。

 この路線の目的は川越線や八高線と同様に、主要幹線間のバイパスであった。単独で常磐線と東北本線、高崎線を結び、八高線を介して中央本線とも結ぶ事で、東京の中心部を通らずにこれらの路線の貨物の融通を図り、軍需を含めた貨物の効率的輸送を行う事が目的だった。

 工事は早急に進められ、1940年に全線が開業し「常武線」と命名された。戦後は貨物輸送が激減し典型的なローカル線となり、川越線・八高線との一体運用が行われた。

 

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・京成白鬚線の存続・延伸

 京成白鬚線は、押上線の向島(廃止)から分岐して白鬚に至る路線である。京成系の王子電気軌道(後の都電荒川線など)と接続して、都心部への直通を予定していたらしい。しかし、それは実現せず1936年に廃止となった。

 

 この世界では、筑波方面への客を押上・(東京市電を介して)浅草へ輸送する目的で、白鬚~南千住~千住大橋~梅島のルートが計画された。この路線は1934年に完成した。開業当初は、市電や東武との競合で乗客はそれ程増加しなかったが、この路線が真価を発揮したのは、戦後の浅草線開業後の事だった。

 

 浅草線の開業と直通運転の開始で、京成は念願だった浅草・都心部への乗り入れを達成した。これにより、支線扱いされた押上線は、浅草線と京成本線を繋げる主要路線になった。同様に、白鬚線も浅草線と筑波本線を繋げる主要路線となり、筑波本線・宇都宮線沿線の宅地開発が促進される要因となった。

 

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・京浜電鉄(後の京浜急行電鉄)青山線の地下鉄化(未成)

 京浜電鉄青山線は、都心部への乗り入れを目的に計画された路線であり、品川~白金~広尾~青山~千駄ヶ谷というルートを計画した。このルートは、特許を出願した時の東京市と郡部の境界付近を通っていた(渋谷や新宿が東京市に合併されるのは1932年)。しかし、沿線の宅地化の進行や市内乗り入れを巡る東京市との対立によって進展せず、白金以北は1926年に失効、残る区間も1928年に失効した。

 

 この世界では、13年早い1924年に「京浜地下鉄道」が設立され、青山線の免許を譲渡した。そして、譲渡された免許を一度返上した上で再取得した。これは、一部ルートの変更と千駄ヶ谷~新宿を追加した為である。

 しかし、青山線のルートは大きな集客地が無い事から、採算が取れないとして建設が進まなかった。結局、京浜地下鉄道が「帝都高速度交通営団」に統合されるまで、多少の土地買収を行った以外何も進展が無かった。

 

 しかし、免許そのものは営団地下鉄に持ち越され、新宿~東中野~池袋を追加して「営団地下鉄白金線」として1977年に開業する事となる(白金線のアルファベットは「R」が割り当てられる)。

 

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・湘南電鉄(現・京急の横浜以南)の葉山延伸

 湘南電鉄は、三浦半島を一周する路線を計画した。その計画では、金沢八景から横須賀、浦賀、久里浜、長井、林、葉山、逗子を経由して金沢八景に戻るというものだった。その後、三崎方面への延伸が加わるなど計画の変更がされ、計画の内、本線の金沢八景~浦賀、久里浜線と逗子線の全線が開業した。久里浜線は元々、浦賀からの延伸の予定だったが、トンネルを掘る必要があった事、戦時下で開業を急いだ事から、現在の形となった。それ以外の、逗子~葉山~三崎口~三崎は未開業に終わった。

 

 この世界では、日鉄が積極的な投資を行っている事を見て、湘南電鉄の出資元である安田財閥や京浜電鉄が史実以上に出資した。これにより、湘南電鉄は資金的な余裕が生まれ、逗子~葉山の路線の建設を行った。この理由は、海軍施設が沿線に出来る予定がある事、沿線の別荘開発を予定した事からだった。

 1936年に湘南逗子葉山口(後の逗子海岸)~葉山の路線が開業した。その先は史実と同様に開業せず、戦時中に軍の要請で武山線(衣笠~武山~林)の建設が始まるも、こちらも未完成に終わった。

 戦後、金沢八景~葉山は「葉山線」と命名された。沿線は、海や自然を残しつつ、別荘の開発が行われた事で、関東有数の別荘地となった。

 

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・南総鉄道の鶴舞町(現・上総鶴舞)延伸

 史実では計画倒れに終わり、会社そのものも小規模であった事から1939年に廃止となった。

 

 この世界では、日鉄の地方への拡大を見た安田財閥が、同系列の小湊鉄道との接続を狙っている南総鉄道を傘下に収めた。これにより、史実で廃止の要因となった資金不足はほぼ解消された事で、奥野~鶴舞町の建設が行われた。この区間が開業したのは1937年であり、これにより南総鉄道側の輸送人員は多少増加した事で廃止にならなかった。

 戦時中に、南総鉄道は小湊鉄道に吸収され、小湊鉄道が元から所有した路線は「本線」、旧・南総鉄道の部分は「南総線」と改称された。戦後も、南総線は廃止になる事は無く存続した。




4/30本文追加(湘南電鉄と南総鉄道の部分)
投稿後に思い浮かんだので追加しました。

4/30本文追加(京成電鉄と京浜電鉄の部分)
こちらも投稿後に思いついてしまいました。京成は筑波電鉄との関係から、京浜電鉄は湘南電鉄を統合した経緯から、上に追加しました。


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東②)

すいません、『番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(関東)』に追加するには多過ぎる為、分けて掲載する事になりました。
また、今回は日鉄よりライバルの方が多いです。


〈関東〉

・茨城鉄道[水戸・赤塚~石塚~御前山~長倉]

 史実の茨城鉄道は、1926年に赤塚~石塚が開業し、翌年には御前山まで開業した。しかし、そこから先は長倉や玉川村への延伸が予定されていたが、どちらも開業しなかった。その後、1944年に戦時統合で水浜電車や湊鉄道などと統合して「茨城交通」が成立し、旧・茨城鉄道は茨城線となった。戦後、石塚まで水浜電車が乗り入れるなどされたが、1971年までに全線が廃止となった。

 

 この世界では、日鉄傘下の筑波電鉄が水戸への進出を考え、1931年に出資した。京成もこれに同調した事で、大きな資金源を得た(京成は東京川崎財閥系)。ただ、筑波電鉄は開業前(開業は1934年)であり、先走っていた事は否めない。

 それでも、史実よりも資金的に余裕を得て、史実では開業しなかった御前山~長倉が1934年に開業した。また、当初の予定だった水戸への単独乗り入れも1933年に実現した。

 

 その後、改正鉄道敷設法第38号(『茨城県水戸ヨリ阿野沢ヲ経テ東野附近ニ至ル鉄道 及阿野沢ヨリ分岐シテ栃木県茂木ニ至ル鉄道』)に該当する事から、1940年に国有化され「長倉線」と命名された。

 

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・水戸電気鉄道[水戸~奥ノ谷~石岡]

 水戸電鉄は、水戸街道に沿って水戸と石岡を結ぶという計画だった。史実では、1929年に下水戸~常陸長岡が開業し、1931年に柵町(水戸駅の手前)~下水戸、1933年に常陸長岡~小鶴、1934年に小鶴~奥ノ谷が開業した。しかし、水戸への乗り入れが出来なかった上、目的地の石岡まで開業せず、途中の奥ノ谷までしか開業しなかった。加えて、柿岡地磁気観測所の存在から電化も叶わなかった。1934年に全線休止となり、1938年に全線休止となった。

 

 この世界では、日鉄傘下の筑波電鉄が水戸への進出を考え、茨城鉄道と同時に出資した。これにより、大量の資金を得た水戸電鉄の工事は進み、1933年に水戸~下水戸と常陸長岡~石岡が開業し、非電化ではあったが当初の予定が完成した。

 その後、1944年に水浜電車や湊鉄道と共に統合され「茨城交通」が発足し、旧・水戸電鉄は「水石線」と命名された。

 

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〈他の路線への影響〉

・東武の上毛電気鉄道買収

 筑波電鉄が開業し京成側に就いた事で東武が焦り(筑波電鉄は免許を京成より先に東武に売却しようとして断られた経緯がある)、状況の打開と京成との直接対決を行った。その一環として、上毛電鉄の買収と西板線の開業の2つであった。他にも、伊勢崎線の高崎延伸や東京成芝電気鉄道(東陽町付近から中山、鎌ヶ谷、白井、成田、芝山を経由して松尾に至る鉄道)の開業もあったが、前者は上毛電鉄の買収と重複する事、後者は建設費や社内の内紛から実現しなかった。

 

 史実では、上毛電鉄は東武に買収される事が検討されていたが実行されなかった。それでも、東武桐生線の終点相老(1958年まで新大間々)で接続している事から直通電車が運行されたが、国鉄高崎線との競争に敗れて長続きしなかった。

 

 この世界では、筑波電鉄(実質京成)の筑波・宇都宮延伸が実現された事を受けて、東武と京成の対立は解消出来ないレベルにまで到達した。これにより、東武は京成が進出していない地域の都市間輸送を実施する事となり、その対象になったのが桐生~前橋の上毛電鉄だった。この時の東武は、日光・鬼怒川への進出に全力を注いでいたが、京成への対抗意識と当初の目的を果たす為に同時進行となった。

 1932年に桐生線が新大間々に到達した事で、上毛電鉄との接続が為された。1934年、東武は上毛電鉄に合併交渉を持ち掛けた。交渉は1年に及び、上毛電鉄は東武に合併され、桐生線と共に「前橋線」と改称された。奇しくもその年は、史実では直通運転を一時廃止した年だった。

 上毛電鉄合併後、前橋への優等列車が日光・鬼怒川方面の優等列車の合間に運行された。これが思いの外好評で、戦後も存続した。そして、この路線の開業によって、伊香保温泉への直通運転が計画されるも、この構想が実現するのは戦後まで待たなくてはならなかった。

 

 一方、前橋線から取り残された西桐生~新大間々は「大間々線」として独立するも、戦時中に並行路線が存在する事から不要不急線とされ、1944年から休止となった。戦後も復活する事は無く、1948年に廃止となった。

 

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・東武西板線の開業

 現在の東武大師線(西新井~大師前)は元々、西新井~鹿浜~上板橋の西板線となる予定だった。この路線の目的は、伊勢崎線と東上本線の連絡にあり、浅草から東上本線に乗り入れる予定だった。

 この路線は1924年に免許が下りた。これで工事が始まるかと思いきや、鹿浜から先の工事が進まなかった。鹿浜から先は荒川放水路や東北本線、陸軍工廠などが存在する地域であり、それらを超える為の工事費が嵩んだ。加えて、免許が下りたのが関東大震災後であり、震災後の沿線の人口増加が著しく、土地収用の費用も高騰した。これによって、大師前より先の土地収用が出来なくなり、1932年に鹿浜~上板橋が、1937年に大師前~鹿浜の免許が失効した。

 

 この世界では、京成への対抗意識から西板線の工事を急いだ。特に、人口増加が著しい事から、荒川放水路周辺以外のルートの土地収用だけは終わらせる必要があった。何とか、1928年までに土地の確保に成功し、後は荒川放水路の架橋工事用の土地の収用だけだった。

 1930年、荒川放水路の工事が全て終わると、すぐさま架橋用の土地の収用を始め、西新井~鹿浜の工事を始めた。双方の工事は早く進み、1931年には完了した。その後、残る鹿浜~上板橋の工事も行われ、1933年に開業した。

 

 西板線の開業によって、沿線の宅地化の進行は早まり、浅草から東上本線への優等列車も運行された。この形態は戦後も続いたが、戦後は池袋から伊勢崎線・前橋線・日光線・鬼怒川線への直通運転が増加した。しかし、池袋から直通する事を想定していなかった為、2回スイッチバックする事となった。これを解消する為、中板橋~板橋上宿と大師前~竹ノ塚の支線が建設される事となる。

 

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・(旧)西武鉄道村山線の全通

 西武鉄道は、新宿線系統の(旧)西武鉄道と池袋線系統の武蔵野鉄道が源流である。その新宿線だが元は村山線と言い、当初の計画では荻窪(新宿~荻窪に路線を持っていた)から田無、小平を経由して東村山で既存線(現・国分寺線と新宿線の東村山~本川越)と合流、ここでスイッチバックし箱根ヶ崎へ向かうというものだった。その後、東京側の起点が目白(後に高田馬場)に変更され、1927年に高田馬場~東村山が開業した。

 しかし、そこから先は開業せず、1931年に免許が失効した。この免許の一部を流用して建設されたのが西武園線である。

 

 この世界では、旧西武が執念を見せる形で1929年から建設を行った。八高線の開業が迫っていた(1931年12月)為、工事は急ピッチで行われた。途中、難所だった多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)との交差地点を、多摩湖鉄道に乗り入れる形で解決した。その後、武蔵大和で別れ、箱根ヶ崎へ向かうルートに変更した。

 1931年10月、遂に村山線は全通した。計画から約15年、遂に鉄道が開業した事に沿線住民はこれに歓呼の声で応えた。尤も、沿線の人口は決して多くなく、村山貯水池への観光輸送が主流であった事から常に赤字であり、旧西武からすれば意地で開業させただけに始末が悪かった。この状況が変化するのは、青梅延伸を行う戦後の事であるがそれは別の話である。

 

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・大東京鉄道の開業

 大東京鉄道は金町電気鉄道(鶴見~荻窪~戸田~金町、荻窪~大宮)と北武電気鉄道(田端~越谷~野田)、東京大宮電気鉄道(巣鴨~大宮。埼京線のルートに近い)が前身の会社であるが、本当に鉄道を建設しようとしたのかは疑問である。3社の免許が受理されたのが1927~29年であり、この時期は鉄道行政が混乱していた(免許を出せば、どんな杜撰な計画でも認可されたぐらい)。その様な中で受理された事から、まともな会社とは想像し難い。加えて、昭和金融恐慌や昭和恐慌の時期と重なる為、たとえ本気で建設しようとしても資金面で躓いたと考えられる。実際、多くの免許は1935年に失効した(何故か、旧・北武電鉄の田端~越谷だけは1967年まで残された)。

 

 この世界では、投機目的ではあったが多数の資本家が出資した事で、建設可能な資金が集まってしまった。流石に全線の建設は不可能だったが、鶴見~荻窪~戸田~金町の環状線の開業なら可能な程度はある為、その区間の建設が1930年から行われた。

 それでも、投機目的の出資や昭和恐慌によって資金量が不安定な事から、工事のスピードは遅かった。途中、何度も建設中断が起こり、工事半ばで放棄という事も考えられたが、1936年に何とか全線が開業した。

 

 山手線の外側に環状線が出来た事で、沿線の南北・東西の移動が容易になったが、元々環状線は利益が出しにくい事から、開業当初は赤字だった。この事から、投機目的で株を購入した人々が大東京鉄道の株を大量に放出した。これを受けて、交差する私鉄が影響力を持とうとして株の取得に走った。大東京鉄道の株はマネーゲームの道具にされ、この状況は戦時中の1942年まで続いた。

 マネーゲームの対象となった大東京鉄道は、戦時統合で何処とも合併する事は無かった。その代わり、交差する私鉄(大東急・京王・旧西武・武蔵野・東武・筑波電鉄)が共同で株を保有する形態が取られた。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(東海)

〈東海〉

・藤相鉄道、中遠鉄道[静岡~岡部~大手~袋井~相良~浜岡~袋井~見付~中ノ町~浜松]

 史実では、上記の区間の内、岡部~袋井は静岡鉄道駿遠線、中ノ町~浜松は浜松電気鉄道(と言っても非電化)中ノ町線として開業した。しかし、岡部~大手と中ノ町線は戦前に廃止となり、駿遠線も戦後に段階的に廃止となった。ナローゲージであった事から輸送力の増加がままならず、モータリゼーションが到来すれば敵う筈が無かった。

 

 この世界では、史実の駿遠線の前身である「藤相鉄道」と「中遠鉄道」に日鉄が出資し、1920年に両社を傘下に収めた。そして、両社の接続と、藤相鉄道の静岡延伸、中遠鉄道の浜松延伸が行われた。

 藤相鉄道側は、傘下に収めた時点で大手~相良を開業させており(但し、大井川の部分は仮開業)、岡部への路線も計画中だった。傘下に収まった以降、日鉄の豊富な資金力を背景に

 

 1.大井川への鉄橋による架橋

 2.静岡延伸線の建設

 3.全線の1067㎜への改軌

 

の3つの計画が立てられた。これらは、史実で廃止となった理由を全て潰している。1番目は、充分な強度を持った橋を架ける事で、大井川が氾濫しても流されず、架橋費用や不通による損失を抑えられる。2番目は、大都市と繋げる事で通勤・通学・観光に役立てられる。3番目は、輸送力の強化が行え、国鉄との連絡が容易になる。そして、静岡延伸の際に宇津ノ谷峠を越える必要があるが、ナローゲージだと機関車側の問題から超える事が難しいと判断された。

 

 3つの計画は1921年から始められた。特に、大井川の架橋は輸送のネックになり易い事から最初に手が付けられた。不況や関東大震災による資材の高騰によって工事は遅れたが、史実の藤相鉄道が全通した年(1926年)に鋼製橋梁が架けられた。並行して行われた改軌工事も同年に終わった。静岡延伸は、大井川の架橋と宇津ノ谷峠越えの為のトンネル工事、昭和恐慌よって時間が掛り、宇津ノ谷を越え静岡に伸びたのは、史実では大手~岡部が廃止となった1936年の事だった。尚、静岡~岡部は宇津ノ谷越えを考え、直流600vによる電化がされた。

 

 中遠鉄道側は、傘下に収めた翌年に

 

 1.浜松延伸線の建設

 2.藤相鉄道との接続

 3.全線の1067㎜への改軌

 

が計画された。1番目に沿って、既に開通させていた袋井~横須賀の袋井側のルートを変更し、袋井でスイッチバックせずに浜松に向かえる様に変更した。そして、浜松へのルートの一部になる遠州電気鉄道(史実の遠州鉄道の前身)の浜松~中ノ町を買収しようとした。これに対し遠州電鉄側は、『他の路線も買収してほしい』と回答した。中遠鉄道としては、買収額が増大する反面、目的の路線を買収できる上に、浜松での基盤をより大きく出来ると判断して、遠州電鉄の買収を行った。そして、浜松~中ノ町の路線の電化(直流600V)と専用軌道化、1067㎜への改軌を行い、問題になっていた機関車のばい煙を解消した。これと連動して、袋井~中ノ町の建設と既存路線の改軌も行い、1933年までに浜松~浜岡の路線が開業した。藤相鉄道との接続は、それから3年後の事だった。

 

 これにより、静岡~浜松を私鉄で結ぶ計画は完成した。しかし、元が軽便鉄道であった事、東海道本線より遠回りである事から速度や時間では敵わず、ローカル線の域を出なかった。また、共に日鉄の傘下であり直通運転も行われていたが、この時に合併する事は無かった。

 その後、太平洋戦争中の1943年に両社と浜松鉄道(後の奥山線)、東急系の静岡電気鉄道が合併し「駿遠鉄道」となり、(これにより、静岡鉄道と遠州鉄道は成立しない)、旧・藤相鉄道と旧・中遠鉄道は「駿遠線」として一体運用され、旧・遠州電鉄は「浜松線」となった。

 

 戦後、駿遠線の高規格化・高速化が至上課題となった。積極的な投資を行い、静岡~浜松約100㎞を2時間で走行出来るまでに改良された。これにより、東海道本線とのライバルになるまでになった。

 

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・光明電気鉄道[新中泉(現・磐田)~見付~遠江二俣(現・天竜二俣)~船明]

 史実では、建設目的の喪失や社内の内紛などが原因で資金不足になりながらも建設を強行し、1928年に開業した。しかし、内紛は止まず、資金不足も深刻化し、1932年以降は所有者が頻繁に移り変わり、1936年には全線廃止となった。

 

 この世界では、1932年に日鉄が光明電鉄を買収し経営権を掌握した。同時に、全役員を追い出し、新役員を日鉄からの出向者と日鉄系の鉄道会社からの出向者で固めた。日鉄が光明電鉄を買収した理由は、中遠鉄道のライバルになる可能性を潰す事、改正鉄道敷設法によって国に買収される見込みがある事からだった。

 該当するのは60号の『長野県辰野ヨリ飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道 及飯田ヨリ分岐シテ三留野ニ至ル鉄道』の内、『飯田ヲ経テ静岡県浜松ニ至ル鉄道』の部分である。光明電鉄の未成部分と合わせれば中泉~船明となり、船明から北上すれば三信鉄道(現・JR飯田線の三河川合~天竜峡)の佐久間(現・中部天竜)に繋がる。沿線は天竜川沿いの狭い土地である事から建設は難しいが、国に買収してもらえれば何とかなるとの判断があった。そして、こちらを買収してもらう事で旧・遠州電鉄線を保有し続けたいという思惑もあった。

 日鉄側の思惑によって、光明電鉄の経営権は日鉄のものとなり、船明への延伸工事も再開された。同時に、電化設備は全て中遠鉄道に売却され、電車も他の電鉄会社に売却された。船明への延伸が完了したのは1936年の事だった。

 

 その後、東海道本線のバイパスとして二俣線の建設が行われた際、ルートの一部が重複している事を理由に買収され、中泉~野部(現・豊岡)を「見付線」、遠江二俣~船明を「佐久間線」とした。

 戦後、佐久間線の延伸工事が行われ、1974年に船明~遠江横山が開業するも、遠江横山~中部天竜は工事が殆ど完了するも国鉄再建の煽りを受けて中断された。この区間が開業するのは、二俣線・見付線・佐久間線が第三セクター「天竜浜名湖鉄道」に転換された後の1992年の事となる。

 

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・西濃電気鉄道[大垣~結~墨俣~岐阜、結~今尾~大須~森上]

 史実では、西濃電鉄が大垣~結~今尾と結~墨俣~岐阜の免許を1927年に獲得したが、資金不足によって工事すら出来なかった。その後、沿線自治体も出資者に加えたり、養老電気鉄道(後の養老鉄道。)に譲渡して建設を進めてもらおうとしたが、養老電鉄を吸収した伊勢電気鉄道(後の近鉄名古屋線の桑名~津など)の経営危機によって一部の工事が行われただけだった。戦後、近鉄が大垣~岐阜の免許を受け継ぎ、岐阜羽島への乗り入れなどを目的に建設を計画したが、他の方面での投資やモータリゼーションの進行などによって工事は行われなかった。そして、1959年に岐阜への乗り入れと今尾方面の支線の免許が失効し、1985年に全ての免許は失効した。

 

 この世界では、日鉄が西濃電鉄に出資した事で資金不足が解決し、養老電鉄への免許の譲渡は発生しなかった。そして、今尾から東進し竹鼻鉄道(後の名鉄竹鼻線)の大須を経由して、名岐鉄道(名鉄名古屋本線の名鉄名古屋以北など)の森上に乗り入れる免許を獲得した。

 途中、揖斐川・長良川・木曽川という大河が存在する事から、それらの架橋の為に時間が掛ったが、大垣~岐阜は1933年に、今尾・森上方面の支線は1935年に開業した。これにより、川によって他の地域から隔離された状態だった海津郡(現・海津市)や安八郡の住民は開業を大いに祝った。また、これに接続する形の名岐鉄道の奥田~森上も1934年に開業した。

 

 その後、戦時統合に伴い西濃電鉄は名古屋鉄道に統合された。同時に、大垣~岐阜は「大垣線」、結~今尾~大須~森上は奥田~森上と合わせて「西濃線」となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・名岐鉄道の未成線(奥田~森上)の開業

 このルートは、名岐鉄道と尾西鉄道(現・名鉄尾西線。1925年に吸収)を連絡するルートとして計画された。1927年に出願されるも、1932年に失効した。恐らく、昭和恐慌の影響や利益が出にくいと判断されたのだろう。

 

 この世界では、西濃電鉄との接続という目的が発生した事から、1930年から建設が行われた。名岐鉄道の経営は安定しており内部留保も多かった事から、資金的な余裕があった。その為、「資金不足で工事中断」という事態は起こらず1934年に開業した。難所が無いにも拘わらず開業まで4年も掛った理由は、西濃電鉄側の完成が遅れていた事から単独で開業するメリットが無いと判断された為だった。西濃電鉄が森上に来るのは翌年の事だった。

 その後、西濃電鉄と一体運用がされ、名古屋~大垣の急行運転も頻繁に行われた。戦時中、名古屋鉄道の統合によって西濃電鉄も名鉄に組み込まれ、奥田~森上~今尾~結は「西濃線」となった。

 

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・名岐鉄道城北線(現・名鉄小牧線、勝川線(廃止))の延伸

 名鉄小牧線は、上飯田~小牧を城北電気鉄道が、小牧~犬山を尾北鉄道がそれぞれ免許を獲得し、名岐鉄道が1931年に両社を吸収した。その後、免許の一部が変更され、吸収した同年に上飯田~小牧~犬山が開業した。更に、上飯田~大曽根も開業する予定だったが、どうゆう訳か開業せず、免許も1939年に失効した。

 また、小牧線の開業と同時に、支線として勝川線が開業した。味鋺~新勝川の僅か2㎞の路線だが、元々の計画では味鋺から勝川、鳥居松(現・春日井)を経由して多治見への路線となる予定だった。しかし、新勝川までしか開業せず、勝川線も1937年に廃止となった。

 

 この世界では、西濃電鉄の接続線の建設と同時に、城北線の残存部の建設が行われた。これにより、1932年に上飯田~大曽根と新勝川~多治見が開業した。同時に、大曽根~上飯田~味鋺~小牧~犬山を「大曽根線」、味鋺~勝川口~鳥居松~多治見を「鳥居松線」と改称した。

 上飯田~大曽根の開業で、大曽根で大曽根線(後の名鉄小牧線。当時の名鉄小牧線は岩倉~小牧だった)と瀬戸電気鉄道(現・名鉄瀬戸線)が繋がった為、瀬戸電への乗り入れも行われた。この事により、瀬戸電の名鉄への統合は史実より2年早まる事となった(史実の統合は1939年)。他にも、名古屋~多治見の都市間輸送が形成された事で、史実の勝川線の廃止も無くなった。

 

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・三河鉄道(現・名鉄三河線)の足助延伸の実現

 名鉄三河線の前身である三河鉄道は、吉良吉田~碧南~知立~豊田市~猿投~足助を建設しようとした。しかし、足助への延伸は恐慌やモータリゼーションの進行、土地の買収の遅れなどから進展しなかった。三河鉄道を吸収した愛知電気鉄道(名鉄名古屋本線の名鉄名古屋以東など)に引き継がれたものの、こちらでも完成せず、1958年に免許が失効した。その後、沿線人口の少なさやモータリゼーションの激化によって、三河線の両端部は廃止となった。

 

 この世界では、西濃電鉄の開業を見た三河鉄道が焦った事、他の計画を一時棚上げして足助延伸に全力を注いだ事で、1937年に西中金~足助が開業した。

 それ以降の歴史は史実通りだが、足助への延伸が成った事で、足助への観光輸送に積極的に利用される事となり、20世紀末から21世紀頭にかけて行われたローカル線の整理において、三河線の猿投~足助は存続する事が出来た。




5/5 本文追加(三河鉄道)

5/13 本文追加(名岐鉄道城北線)


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(北陸・甲信越)

〈北陸〉

・加越電気鉄道、温泉電軌、能美電気鉄道、金沢電気軌道[福井~芦原(現・あわら湯のまち)~吉崎~大聖寺~山代~粟津温泉~小松~寺井~辰口~鶴来~金沢、他支線多数]

 概ね、えちぜん鉄道三国芦原線、吉崎鉄道(未成)、北陸鉄道河南線、能美線、石川線とその未成線に該当する。日鉄がこれらの路線を傘下に収め、福井と金沢を私鉄だけで結ぶ事を計画した。

 

 1920年頃から上記の会社を傘下に収めた。丁度、第一次世界大戦後の不況によって資金難に喘いでいた時期であり、日鉄が持つ巨大な資金力という魅力に抗えず、渋々傘下に入った会社も多かった。上記の会社も同様であったが、日鉄側も「これらの会社の免許を全て繋げれば福井~金沢の第二ルートが完成する」という思惑があり、積極的に傘下に入る様に勧めた。

 昭和恐慌直前までに加越電鉄(福井~大聖寺)、温泉電軌(大聖寺~小松)、能美電鉄(小松~鶴来)、金沢電軌(鶴来~金沢)が全通し、福井~金沢の直通運転が行われた。全線電化であったが、北陸本線より遠回りな上、規格もやや低めであった事(国鉄丙線規格、直流600V)から、国鉄にとって大きな脅威にはならなかった。それでも、開業後に高規格化(重軌条化)や急行列車の高頻度運転を行い、少しでも国鉄に優位に立とうと努力した。この努力が実るのは、戦後になってからであった。

 

 その後、戦時統合に伴い、上記の4社と石川県、福井県の鉄道事業者、バス事業者を統合して「北陸鉄道」が成立した(史実の北陸鉄道+京福電気鉄道の福井県内の路線+福井鉄道)。福井~金沢の路線は「加越本線」と命名された。

 

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・能登鉄道[羽咋~三明~富貴~輪島]

 史実の北陸鉄道能登線であるが、この世界では未成に終わった三明~輪島間が開業している。

 

 日鉄が「地方の鉄道網の拡充」を目的に、能登鉄道を傘下に収めたのは1929年であった。当時、能登半島の輪島へ至る鉄道は開業しておらず(七尾線の輪島延伸は1935年)、そのルートも七尾から北上するルートであった為、そのルートから外れる能登半島西岸部の主要地域を経由する能登鉄道の建設を促進する事で、地方の鉄道網の拡充と国に買収してもらう事を検討した。

 工事は順調に進み三明~富貴は1930年に開業したが、富来~輪島の途中は地形的に厳しい場所が多く、日鉄も他の地域に注力していた事から建設が遅れ、全線開業は1936年の事だった。

 

 その後、能登鉄道は鉄道敷設法に沿っている事から1940年に国有化され、「輪島線」と命名された。戦後、沿線に名所が多い事(能登一ノ宮や総持寺祖院など)から、輪島方面の優等列車はこちらを通る事が殆どだった。国鉄再建時、輪島線は能登線共々特定地方交通線に指定され(輪島線は第2次、能登線は第3次)、第三セクター「のと鉄道」に移管された。

 

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〈甲信越〉

・富士山麓電気鉄道[大月~富士吉田(現・富士山)~御殿場]

 現実の富士急行線とその延伸であり、富士吉田から先は籠坂峠を経由して御殿場に至る路線である。このルートは、かつて御殿場馬車鉄道が走っており、富士馬車鉄道と都留馬車鉄道(共に富士急行線の前身)と合わせて大月~御殿場の連絡を行っていた。

 富士吉田~御殿場の免許は1926年に獲得したものの、1930年に御殿場~山中湖、1934年に富士吉田~山中湖の免許が失効した。恐らく、峠越えによる建設費の増大や少ない人口、昭和恐慌によって利益が出ないと判断されたのだろう。

 

 この世界では、日鉄が中央本線と東海道本線(当時の東海道本線は御殿場周り。熱海周りとなるのは1934年)との連絡や富士山麓の観光開発を目的に支援を行った。1927年から工事が行われたが、峠越えや長距離である事、昭和恐慌の影響で工事は遅れたが1934年に開業した。尚、富士吉田~御殿場と合わせて出願された富士吉田~下部(現・下部温泉)は、下部付近の建設が難しいと判断された事、富士吉田~御殿場に注力する事から建設されなかった。

 開業によって富士山麓の観光開発が進むかと思われたが、富士吉田~御殿場の開業直後に東海道本線のルートが変更された。また、開業が戦時色が強くなっていく時期と重なった為、観光そのものが低調となった。

 

 一方で、沿線には陸軍の演習場が存在する事から軍事輸送に活用された。この事と鉄道敷設法62号(『静岡県御殿場ヨリ山梨県吉田ヲ経テ静岡県大宮ニ至ル鉄道 及吉田ヨリ分岐シテ大月ニ至ル鉄道』)に該当する事から国有化も検討されたが、株式の1/3を陸軍省に譲渡する事で国有化を断念してもらった。

 戦後、日本軍が一時的に解体された事で、陸軍省に譲渡した株を買い戻した。その後、沿線に多数の別荘地やゴルフ場が整備され、富士山への登山ルートとしても活用された事で活況に沸いた。また、国鉄や小田急からの直通列車も運行された。

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・善光寺白馬電鉄[長野~鬼無里~信濃四ツ谷(現・白馬)]

 社名にある様に、善光寺の門前町である長野と白馬を結ぼうとした。史実では、南長野~善光寺温泉が1936年に、善光寺温泉~裾花口が1942年に開業したものの、戦時中に不要不急線とされてレールを全て剥がされ休止となった。戦後、国鉄信越西線として復活させる構想が出たものの、国鉄側の都合で具体化しなかった事、裾花口付近にダムが出来る事から再開は事実上不可能となり、1969年に廃止となった。尚、会社そのものは自動車貨物や倉庫などの陸運業者として現存している。

 

 この世界では、日鉄が沿線地域の観光開発(温泉やスキー場の整備)を考えて出資した。同時に、起点を南長野から長野に変更して国鉄との連絡を強化した。史実よりも資金力が付いた善白電鉄の工事は途中の山岳地帯に苦戦するものの、1936年に鬼無里まで開業し、1942年に信濃四ツ谷まで開業し全通した。

 全通後の1944年に長野電鉄に統合され「白馬線」となった。戦後、沿線のスキー開発が進み、国鉄からの直通列車も多数運行された。

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・中信電気鉄道[小諸~望月~立科~蓼科高原~茅野]

 史実では、上記と同様のルートを布引電気鉄道と佐久諏訪電気鉄道が計画していた。

 布引電鉄は、1926年に小諸~島川原を開業させたものの、沿線人口の少なさや信越本線との並行線などの理由で利用客が振るわず、1934年に電気代未納によって休止となり、1936年に廃止となった。

 佐久諏訪電鉄は、1920年に茅野~田中の免許を獲得したものの、殆ど工事が行われなかった。1927年には破綻し、1930年に「中信電気鉄道」と改名して再起するもののこちらでも工事が完了せず、1933年には免許も失効した。

 

 この世界では、日鉄が鉄道空白地帯の解消、蓼科高原の観光開発を目的に両社に接近した。大戦後の不況で両社の資金調達は難航しており、日鉄が株式の引き受けを行う事でそれを解消させた。同時に、1924年に両社を合併して「中信電気鉄道」として、免許も小諸~望月~立科~蓼科高原~茅野に変更した。

 工事は、山岳地帯を通る事から建設費が嵩み、工事期間も長期に亘った。それでも、沿線は長年待ち望んでいた鉄道が通る事から、工事に積極的に手伝ってくれた事で、日鉄の負担は多少和らいだ。1926年に小諸~島川原と茅野~花蒔が開業したのを皮切りに、小刻みに開業していった。1928年に島川原~望月と花蒔~蓼科高原、1932年に望月~立科、1937年に立科~蓼科高原が開業して全線開通した。

 この路線の開業で、蓼科高原の温泉やスキーの開発が進み、茅野から中央本線に乗り入れる列車も設定された。また、日鉄が観光開発の為の企業を設立(1930年に「日本観光開発」設立)し、蓼科高原を軽井沢に並ぶ避暑地・別荘地として整備される事も計画された。

 しかし、全通した1937年は戦時色が強くなっていく時期であった為、観光開発は半ばで断念する事となった。本格的な開発が行われるのは、1960年代に入ってからの事となった。

 

 一方、花蒔や蓼科付近には鉄鉱石が発見された事で、この地域の鉱山開発が進んだ。鉄という重要資源の供給源になる事から開発は早急に行われ、1939年には大規模な露天掘りが行われた。これにより、中信電鉄には鉄鉱石輸送という重要な目的が追加された。この為、中信電鉄は重要路線と見做され、1944年に「中信線」として国有化された。

 

 戦後、中信電鉄はバス・不動産・ホテルなどの経営を行う「中信開発」に名を改め、「中信グループ」を形成していく事となる。また、中信線は蓼科高原などへの観光輸送としても活用され、小海線と共に観光路線として活用される事となる。

 

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〈他の路線への影響〉

・長野電鉄の長野~松代開業(架空)

 史実では(恐らく)計画されていないこの路線が開業した理由は、千曲川の両岸の接続の強化にあった。千曲川の両岸には長野電鉄河東線と信越本線が通っているが、その両線を繋ぐ路線が長野電鉄長野線だけであり、長野の東側の須坂での連絡であった事から、長野の西側での接続を狙って松代への路線が計画された。

 

 この路線の免許は1929年に取得したものの、この直後に昭和恐慌が到来した為、建設は暫く行われなかった。その後、1933年に工事が行われ、1935年に開業し「松代線」と名付けられた。

 戦時中は、松代大本営の建設の為の物資搬入路として、戦後は、長野~松代~屋代の近距離輸送に活躍した。この路線の存在によって、河東線の屋代~松代は存続した。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿)

〈近畿〉

・宝塚尼崎電気鉄道[阪神尼崎~時友~宝塚]

 「尼宝電鉄」とも言われるこの鉄道は、武庫川の改修によって生じた河川敷の跡地の開発を目的とした。そこに、阪神電鉄が支援した。尼宝電鉄の免許が出願された時期(1923年)の少し前に、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄の神宝線)が十三~神戸(上筒井駅、後に廃止)を開業させ、阪神の強力なライバルが誕生した。そのライバルの牙城である宝塚への進出を狙って、阪神は尼宝電鉄を支援した。

 阪神の支援開始後、高速化や第二阪神線(未成)との接続などを理由にルートを変更した。これにより、原案より東寄りとなり直線的なルートとなった。しかし、これが理由で阪急との対立の激化や尼崎や宝塚への乗り入れ方法で揉める事となり、中間部の工事は概ね完了していたものの、起点と終点の工事が出来なかった。

 これにより、尼宝電鉄の開業は絶望的となり、1932年に免許が失効した。その後、一部完成した路盤を活用して道路に転用された。

 

 この世界では、日鉄も尼宝電鉄に支援し、原案での完成を目論んだ。阪神案(史実の変更後のルート)だと、当初の目的が果たせない事、一から土地の買収を行う必要がある事、尼崎界隈の土地買収が困難な事から難しいと判断した。日鉄と阪神で対立したが、尼宝電鉄が原案賛成に回った為、原案での完成という方向になった。阪神側はそれでも阪神案に拘ったが、空中分解を恐れた日鉄が「尼崎~守部は阪神案、それ以外は原案」という妥協案を提示した。阪神としても、ここで決裂するのは拙いと判断してこの妥協案に賛成した。その際、「有事の際、日鉄は阪神の支援を行う事」という交換条件が交わされた。この縁で、戦後の阪神電鉄は中外グループのオブザーバーに名を連ねる事になる。

 この後、阪急との調整(武庫之荘付近での交差、宝塚の乗り入れ)に時間を要したものの、1926年に工事が始まった。元々、空き地に通す予定であった事から工事は順調に進み、翌年後半には尼崎付近以外の工事は完了した。尼崎付近で手間取ったのは、阪神本線を含めた高架化事業とその為の土地の収用だった。第二阪神線も考えると、ルート選びを慎重に行う必要があった。一時は開業すら危ぶまれたが、日鉄が資金を出した事で資金面での不安は無くなり、尼崎付近を全て高架化する事で決着した。第二阪神線も、尼宝電鉄のルートを流用すれば良いと判断された。

 

 これらによって、1928年4月に尼崎~宝塚が開業し、開業直後から梅田~尼崎~宝塚の直通電車が運行された。尚、尼宝電鉄と同時に進められていた第二阪神線は、結局完成する事は無かった。

 その後、1933年に尼宝電鉄は阪神に吸収され「尼宝線」となった。

 

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・南海急行電鉄[恵美須町~堺~浜寺公園~岸和田~貝塚~水間~熊取~犬鳴~東和歌山(現・和歌山)、天王寺~丹比~河内半田(現・大阪狭山市)~光明池~水間、貝塚~泉佐野~多奈川、浜寺公園~槇尾、今池~平野~柏原](架空)

 1920年、大阪市今宮から堺市浜寺を経由し泉佐野に至る路線の免許を、南海急行電気鉄道が出願した。

 しかし、南海急行が申請した阪堺間は、申請した時期だけで南海鉄道の本線と高野線(以上、南海電気鉄道)、阪堺線と上町線(以上、阪堺電気軌道)の4路線が存在した。阪堺間は都市化が進んでいる地域である事から、免許の申請数が多く、他の鉄道会社に免許を譲渡・売却する事が目的と見られた。

 実際、この路線は建設される事は無く、1924年に免許が失効した。

 

 この世界では、1913年に大室財閥が阪堺電気軌道(初代)を傘下に収めた事から始まる。これは、大室財閥が堺に造船所を保有していた事に由来する。これによって、阪堺電車の南海入りは無くなる。

 それから暫く時が進んだ1920年、日鉄が南海急行電気鉄道を傘下に収めた際、大阪側の起点が今宮である事に不満を持った。今宮ではターミナルにするには中途半端というものだった。その為、大室系の阪堺電車への乗り入れが計画された。そして、堺を通る事、泉北地域の開発、何より電機事業の合弁交渉以来拗れていた関係の改善を目的に大室財閥にも出資をお願いした。

 

 大室側としても、日鉄との関係改善は図りたかったし、阪堺電車の件で根津財閥と対立していた事(南海鉄道は根津財閥系)から、南海急行の阪堺電車への乗り入れを快諾した。この時の大室側の条件として、内陸部の開発や工場の誘致を目的として、泉北郡への支線の建設を提示し、日鉄もこれを快諾した。その後、1922年に阪堺電車は南海急行を吸収し「南海急行電鉄」と改称した。これにより、日鉄―大室連合による南海急行が成立した。この頃、史実では未成に終わった平野~柏原が開業した。

 

 両財閥による潤沢な資金供給により、1925年に浜寺~泉佐野が開業したのを皮切りに、1927年には浜寺公園~槇尾の支線も開業した。他にも、水間鉄道を買収し、1934年に水間~犬鳴~東和歌山を開業させ、南海鉄道、阪和電気鉄道(現・JR阪和線)に次ぐ第三の阪和間鉄道になった。また、大阪鉄道(現・近鉄南大阪線など)から旧・南大阪電気鉄道の天王寺~丹比を購入し、そこから河内半田、和泉丘陵を経由し水間に至る路線も1932年に開業した(泉北高速鉄道に近いルート)。加えて、大阪府泉南郡多奈川町(現・岬町)に大室重工業の造船所(史実の川崎重工業泉州工場が置かれた場所)が建設される事になり、そこへの工員輸送を目的に泉佐野~多奈川が1939年に開業した(これにより、南海多奈川線は開業しない。川崎重工業側の代替地は岡山県和気郡片上町=備前市)。

 

 名前こそ「急行電鉄」だがその実態は「軌道」、つまり路面電車であり、実際、恵美須町~泉佐野では併用軌道が多数存在した。そして、路線が南海鉄道の更に海側に存在する為、堺以南に充分なスペースを取れず、8割方が併用軌道となった。その為、スピードアップが出来ず、全線で南海と並行している事、昭和恐慌の最中にも長大路線の建設を続けた事で借入金は増加する一方であり、恵美須町~泉佐野の利用客も殆ど増加しなかった。

 それでも、線路の重軌条化や高架化などを懸命に行った結果、1940年までに京浜電鉄並みの規格を持つ施設に改良した。これにより高速運転や長大編成の運用が可能となり、南海とも競争力を発揮できる様になった。加えて、戦時体制への移行に伴い、堺周辺や泉州地域に工場が大量に誘致された事で、乗客数は1930年代後半から急速に増大した。

 これにより、開業以来の赤字は大きく減少したが、戦時体制が強化されるに従い、交通事業者の統合も進められた。南海急行も例外ではなく、1942年にライバルの南海と統合される事となった(その後、南海も1944年に関西急行鉄道と統合された)。

 

 戦後、旧・南海急行は近鉄から独立し、新生「南海急行電鉄」が設立した。この路線の存在で、阪和間は史実の南海VS国鉄に加え南海急行も参入し、三つ巴の様相を見せた。

 また、南海急行傘下に収まった淡路交通、徳島電気鉄道と直通する為、多奈川~洲本~福良~鳴門~徳島の建設を行う事になるが、これは別の話である。

 

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・高雄電気鉄道[西ノ京円町~鳴滝~高雄]

 高雄山への観光と沿線の旅客輸送、高雄山からの石材や木材の輸送を目的に設立された。しかし、免許の獲得が1928年、会社設立が翌年と昭和恐慌の影響をモロに受けた事で資金不足に陥り、1935年に免許が失効し未成線となった。

 

 この世界では、日鉄が高雄山開発を目論んで出資した。それにより資金不足は解消し、1933年に全線開業した。その後、1938年に鳴滝で接続する京都電燈の電鉄線(現・京福電気鉄道)に吸収され、同社の「高雄線」となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・阪急伊丹線の宝塚延伸と尼崎線の開業

 伊丹線の延伸と尼崎線は、尼宝電鉄が成立した事に対抗して計画されたと言われている。実際、この2つを合わせると、完全に尼宝電鉄の並行線となる。尤も、史実で尼宝電鉄が開業しなかった事でこの2路線の役割も事実上消滅し、現在まで阪急は免許を保有し続けているものの、具体化する見込みは全く無い。

 

 この世界では、尼宝電鉄が開業し阪神と直通運転を行った事で、阪急側は危機感を募らせた。半ば意地で2路線の建設を急いだ。尼宝電鉄が開業した翌年の1929年に尼崎線と伊丹線は開業した。同時に、宝塚駅の拡張も行われ、5面6線を有する巨大ターミナルになった。

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・国鉄福知山線の早期電化

 史実の福知山線の電化は、1956年の尼崎~塚口から始まり、1981年に塚口~宝塚、1986年に残りの宝塚~福知山が順次電化した。

 

 この世界では、尼宝電鉄や阪急尼崎線・伊丹線の開業によって、大阪・尼崎~宝塚に国鉄を除いても2社4路線(前述の2路線と阪急宝塚線・今津北線)が通る事になった。これに危惧した国鉄は、尼崎~宝塚の電化と東海道本線への乗り入れを計画した。

 この計画は、東海道・山陽本線の電化と同時に進められ、1934年に完成した。完成と同時に、東海道本線の電車の一部が福知山線に乗り入れを行い、阪急や尼宝電鉄に対抗した。

 これに伴い、電化区間の複線化も計画され実際に工事も行われたが、戦時に進むにつれ資材不足や労働力不足によって進まず、結局戦前には完成しなかった。完成は1956年までずれ込んだ。

 尚、宝塚以北の電化・複線化は史実と同じ時期に行われる事となる。

 

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・大阪電気軌道(現・近鉄奈良線など)四条畷線の開業

 史実では、現在の近鉄奈良線のライバルを牽制する目的から特許を獲得したが、獲得後暫くは八木線や参宮急行電鉄(共に現・近鉄大阪線)に注力する為、手を付けていなかった。その後、奈良線や四条畷線の並行路線が多数計画されると、それらを阻止する為に四条畷線の建設が行われた。

 しかし、大阪側の起点が定まらなかった事、奈良線の接続地域の土地買収に手間取った事、何より並行路線の免許・特許が相次いで失効した事で建設する理由が無くなった。起終点以外では概ね工事は完了しており、その区間は産業道路として転用された。

 

 この世界では、南海急行の成立によって大軌の並行路線が存在する事から、四条畷線の工事は一層促進された。同時に、一部ルートが変更され、史実では生駒山地の麓を沿う様に通り額田で奈良線に接続する予定だったが、この世界ではそのルートよりも西側を通り石切で接続するルートに変更した。これによって、土地の買収は多少行いやすくなり、奈良へのルートもスイッチバックする事無く行ける様になった。

 また、大阪側の起点は当初の天満橋筋四丁目から延長して梅田に変更して、地下化による乗り入れを大阪市に打診した。大阪市側は、市営モンロー主義や市電の並行線になる事から猛烈に反対したが、大軌側も梅田乗り入れが出来なければ四条畷線は役に立たない事として引き下がらなかった。大軌は、大阪市に桜ノ宮~天満橋筋四丁目~梅田の賃貸料を毎年支払う事など大阪市側に有利な条件を出して認めてもらう様に工作した。大阪市側も、大軌の熱心な説得と大阪市に有利な条件を並べられてついに折れた。

 

 これを切欠に工事は急ピッチで進められ、1933年に梅田~住道~石切の全線が開業した。その後、1939年に阪神の梅田駅が地下化される際、近鉄梅田駅と共用になり、早くから神戸三宮~梅田~奈良の直通運転が行われる様になった。

 

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・大阪鉄道堺線の開業

 このルートは元々南大阪電鉄が計画していたものだが、南大阪電鉄が大鉄に吸収された事で大鉄に免許が移った。その後、大鉄も大軌に吸収され、大軌から関西急行、近鉄に移ってもこの免許は存続した。しかし、堺の市街地化の進行やモータリゼーションの進行などが理由で建設されず、1991年にようやく失効した。実に70年間も存在し続けたのである。

 

 この世界では、堺に大室財閥系の企業が存在する事で堺の重要性は増し、南海急行というライバルが存在する事から建設が急がれた。同時に、建設費の圧縮を目的に、古市起点を布忍起点に改めた。

 大軌の資本力も活用し(1929年に大鉄は大軌の傘下に入った)、1932年に布忍~堺東~堺は開業した。これにより、大鉄の堺乗り入れが達成され、堺市は貧弱だった東西の交通路が完成した事に喜んだ。

 

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・阪堺電鉄の南海入り

 史実では、阪堺電気軌道が南海に合併されたが、この世界では大室傘下に入り南海急行に発展した。その為、阪堺電車は南海に合併されなかった。その代わりに合併したのが阪堺電鉄だった。

 

 阪堺電鉄は、芦原橋から新なにわ筋を南下し、堺、浜寺に至る路面電車であり、南海本線よりも海側を通る。当時の沿線は、海岸か湿地帯で人口が少なかった事から赤字続きであった。しかし、戦時体制になっていくにつれ、沿線に工場が多数置かれた事で利用客は急増したが、これが阪堺電鉄にとって問題になった。短期間で利用客が急増した事で、車輛の手配が付かなかったのである。準戦時体制の為、車輛の新造は制限され、輸送力の増強がままならなかった。このままでは、工場の稼働にも支障を来すと判断され、阪堺電鉄は大阪市に買収され「大阪市電阪堺線(別名・三宝線)」となった。

 戦後、阪堺線は海水浴客や工員の輸送で活躍したが、開発による海水浴場の消滅やモータリゼーションの進行によって利用客は減少し、1968年に廃止となった。住之江公園付近は地下鉄四つ橋線が代替しており、そこから先の延伸計画も存在する。

 

 この世界では、阪堺電鉄の窮状と南海急行への対抗策から、1933年に南海が阪堺電鉄を買収し「阪堺線」と命名した。これにより、阪堺電鉄の輸送力強化は南海の手で行われた。その後、上町線(1909年に吸収した浪速電車軌道)が阪堺線への接続を目的に、1937年に住吉公園~浜口~住之江公園(国道26号・479号経由)が開業した。

 その後、阪堺線と上町線は1980年に「阪堺電鉄」として分離した(この世界の四つ橋線は、国道26号線を南下、堺に至る路線になる)。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(近畿②)

『日鉄財閥が支援・設立した』とありますが、今回は日鉄と一切関係ありません。いや、尼宝電鉄を通じて阪神とは多少縁がありますが、その程度でしかありません。


〈他の路線への影響〉

・名古屋急行電鉄の開業

 戦前の京阪は、太田光凞の下で極端とも言える拡大方針を取っていた。現在の阪急京都線の前身である新京阪鉄道に加え、和歌山方面には阪和電気鉄道(現・JR阪和線)、奈良方面には大軌と合弁で奈良電気鉄道(現・近鉄京都線)、滋賀方面には江若鉄道など、京阪地域から各方面への進出を行っていた。

 その究極的なものと言えるのが、名古屋急行電鉄による名古屋進出である。名急は、馬場から八日市、員弁、佐屋を経由して名古屋・金山への路線を計画した。馬場を起点としたのは、新京阪が西向日~山科を京阪が山科~馬場の路線を計画していた為であり、大阪側には京阪や新京阪に乗り入れる計画だった。名急は、国鉄のみの名阪間の路線に参入し高速電車を走らせる事で、国鉄の長距離客を奪う事を目論んだ。

 免許は1929年に下りたものの、名急とその親会社である京阪は工事に取り掛からなかった。当時、京阪は不況と極端な拡大政策によって、負債が(当時の)1億円に達していた事、京阪が出資していた奈良電と東大阪電鉄(大阪の森ノ宮と奈良を結ぼうとした路線。尤も、目的は他社への免許の売りつけだった模様)が贈収賄事件に巻き込まれ、その影響で京阪と太田光凞にも司直の手が回った事で、京阪は新規事業に取り掛かる処か、現状維持にすら四苦八苦していた。結局、名急は開業する事は無く、免許も1935年に失効した。

 

 これに安堵したのは大軌だった。大軌は、子会社の参宮急行電鉄を通じて名阪間のルート(現在の近鉄大阪線・名古屋線)を計画しており、名急より前に免許を取得していた。もし、名急が先に開業してしまえば、参急の計画は無意味になり兼ねなかった。

 しかし、名急が親会社のゴタゴタに巻き込まれて動けない間に、参急は工事を急いだ。そして、ライバルであった伊勢電気鉄道も贈収賄事件に関わっていた事でガタガタとなり、参急が伊勢電を飲み込みライバルを潰し、伊勢電が保有していた桑名~名古屋の免許線を大軌の子会社・関西急行電鉄に移して、1938年に開業させた。これにより、関西鉄道(現・JR関西本線など)以来の名阪間の私鉄による接続が果たされた。

 

 この世界では、大東京鉄道と同様に、近畿の投機家達が出資した事で建設可能な資金が集まってしまった。これにより建設に目処が立ったが、京阪は早期開業を目論み、京阪との接続から始める事となった。その為、本命であった新京阪との接続は「京阪との接続が完成後、景気が回復して余裕が生じてから行う」とされた。

 また、京阪が保有していた六地蔵~醍醐~山科~馬場の免許を名急に譲渡した。そして、名古屋付近のルートが一部変更され、当初予定では金山まで伸ばす予定だったが、国鉄名古屋駅の西側で接続する案に変更された。他にも、建設費の圧縮の為、当初予定の全線複線は諦め、トンネルなど工事に時間が掛る部分については単線に変更となった。

 一方、車輛については山越えになる事から高規格のままとなったが、車輛のデザインは京阪の1550型や1000型に準じた設計に変更された。これは、京阪と直通する事を優先した為、車輛のデザインや規格も京阪に準拠させた。

 工事は1930年から始まった。しかし、京阪の業績不振や長大トンネルの建設などによって、工事のスピードは遅かった。それでも、京阪は企業体力が落ちている中でも名急に力を注ぎ、努力が実り1940年に名急は開業した。しかし、名古屋進出を推し進めた太田光凞は開業の前年に死去しており、完成を見る事は無かった。加えて、1938年にはライバルの大軌・参急・関急が名阪間を開業させており、優位に立つ事も叶わなかった。

 

 この後、京阪は史実通り阪急に統合され、「京阪神急行電鉄」となった。同時に、名急も阪急に統合された。戦後、旧・京阪が阪急から分離独立し、旧・新京阪が阪急に残るのも史実通りだが、この世界では旧・名急も新生「京阪電気鉄道」に加わり、旧・名急は「京阪名古屋線」となった。

 

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・阪神今津出屋敷線の開業

 この路線は、1922年に宝塚尼崎電気鉄道が免許を申請した事から始まる。

 尼宝電鉄が阪神との繋がりを見せた事で、阪神は尼宝電鉄を通じて梅田~宝塚の運行が可能になる。そうなると、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄宝塚線・神戸線など)は自身のテリトリーを侵害され、路面電車規格の宝塚線では競争に勝てない恐れから、これに対抗する特許を1923年に申請した。そのルートは、伊丹~昆陽里~宝塚と塚口~尼崎~尼崎港~今津であった。これは、「伊丹線・西宝線(現・今津北線)と接続して、宝塚・尼崎・西宮の環状線を形成する」というのが名目だったが、実際は阪神と尼宝電鉄の意思返しであった。

 無論、阪神も負けじと出屋敷~東浜~浜甲子園~中津浜~今津の特許を1924年に申請した。こちらは、尼崎港周辺の土地開発や工場への工員輸送を目的としたが、この特許線は阪急の尼崎~今津と完全に並行線であり、阪急の特許線を潰す事が目的だった。

 

 両者の睨み合いの決着は、痛み分けとなった。阪急は尼崎~今津以外の特許は全て認可され、阪神も申請した出屋敷~今津の特許が認可された。

 その後、阪神と阪急は特許線を建設しようとしたが、その殆どが開業しなかった。開業したのは、阪神側は出屋敷~東浜と浜甲子園~中津浜、阪急側は西宮北口~今津だけだった。

 阪神側の開業した部分は、末端部は太平洋戦争末期や戦後直ぐに休止となった。また、阪神国道線(阪神間を走行していた路面電車)に車輛や施設を合わせていた事が災いし、前者は1962年に、後者は1975年に廃止となった。

 阪急側の開業した部分は通称・今津南線として存続しているが、現在は旧・西宝線と分断されており、西宮北口~今津のローカル線と化している。

 

 この世界では、尼崎に日鉄の工場が置かれている事から、そこへの工員輸送を目的に日鉄が建設を求めた。阪神としても、尼宝電鉄で支援してくれた事から断る訳にはいかず、1926年から建設が進められた。

 しかし、尼宝電鉄への注力や昭和恐慌などによって工事は何度か中断され、1929年に出屋敷~東浜が開業しただけだった。その後、満州事変以降に軍需中心で景気が回復傾向に向かうと、沿線に工場が多い今津出屋敷線は工員輸送に必要だとして工事の促進が行われた。これにより、1934年に東浜~浜甲子園~今津が開業し、今津出屋敷線は全線開業した。同時に、名称は「阪神海岸線」に改められた。

 阪神海岸線は、起点と終点で阪神本線と接続している事から、車輛の規格は本線と同等だった。また、全線に亘り複線の用地が確保されているが、開業当初は単線での開業となった。海岸線が複線となるのは、1950年代まで待たなければならなかった。



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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(中国・四国)

〈中国〉

・防長電気鉄道[三田尻(現・防府)~中関~秋穂~小郡(現・新山口)、三田尻~山口~大田~東萩、小月~西市~大嶺~吉則(現・美祢)~大田](架空)

 1916年、日鉄は三田尻で造船所の建設を始めた(開設は1919年)。これを契機に、日鉄は三田尻を西の拠点として整備しようと考えた。その一環として、三田尻沿岸部の開発とそれに伴う人員・貨物輸送の強化を目的に、造船所付近を通る電鉄の開業を目指した。この様な経緯で、1917年に「三田尻電気鉄道」が設立した。当初は防石鉄道と連携しようとしたが、防石鉄道側が強硬に反対した事で、単独での参入となった。

 

 この様な経緯と同様の区間の免許を防長鉄道も保有していた事から、工事は急ピッチで行われた。1919年に三田尻~中関~秋穂~小郡が開業した。この路線の開業によって、造船所への工員輸送だけでなく、沿線の宅地開発や工場誘致が行われた。

 その後、県都・山口との接続や秋吉台の観光開発、内陸部の輸送路改善、陰陽連絡鉄道への転換などを目的に、1919年に三田尻~山口~大田~東萩と大田~吉則~大嶺~西市の免許を獲得し、社名も「防長電気鉄道」に改称した。これに際して、西市~小月を保有する長門鉄道と、吉則~北川の開業線と北川から秋吉台への免許を有する伊佐軌道を買収した。

 沿線は山岳地帯が多い事から建設に時間が掛った。加えて、内陸部に大量に存在する石灰石の輸送を目論み、直流1500Vで重軌条という高規格で建設した為、建設費も高騰した。三田尻~山口は1923年に開業したものの、そこから先はゆっくりと開業した。その為、西市側からも工事が行われた。1926年に西市~大嶺~吉則、1927年に山口~大田、1932年に大田~東萩と吉則~大田が開業し、予定した路線が全て完成した。

 全線開業によって、沿線の石灰鉱山の開発が進み、それへの輸送で防長電鉄が活用された事で、建設費の返済は当初の予想より早く進んだ。また、秋吉台への観光客も増加し、自然環境や雰囲気を破壊しない程度の開発も行われた。

 

 戦時中、山陽本線のバイパスになる事、陰陽連絡鉄道である事、沿線に重要資源である石灰(セメントの原料)が大量に存在する事、沿線が工業地帯である事から、1944年に全線が国有化された。三田尻~東萩は「防長線」、小月~大田は「長門線」、三田尻~小郡は「三田尻線」と命名された。会社そのもの存続し、戦後は旧沿線のバスや秋吉台の観光開発、不動産開発を行う「防長開発交通」に改称した。

 

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〈四国〉

・琴平急行電鉄[高松~下笠居~坂出~讃岐飯野~琴平]

 琴急は、坂出~讃岐飯野~琴平を走っていた電鉄である。金毘羅山への参拝客輸送を目的に1930年に開業したが、既に国鉄、琴平電鉄(現・高松琴平電気鉄道琴平線)、琴平参宮電鉄が開業していた。加えて、琴急のルートの沿線人口も少なく、開業時点で不利な立場だった。案の定、常に収支は赤字であり、1944年に不要不急線に指定され線路は全て撤去された。その後、琴参に吸収され、路線も1954年に休止状態のまま廃止となった。

 

 この世界では、1926年に琴参が保有していた高松~下笠居~坂出の免許と、史実の琴急の免許を日鉄が買収し「琴平急行電鉄」を設立した。設立後、琴平電鉄が開業間近である事から工事が迅速に行われ、1929年に全通した。高松まで開業した事で、高松からの参拝客を取り込めた事、国鉄の利用客を奪えた事、都市間輸送の実施や沿線の開発などで利用客は急増した。

 

 この後、戦時統合によって琴急と琴参は1944年に統合し「讃岐急行電鉄」と改称した。戦後、本山寺や観音寺への参拝輸送を目的に旧・琴参線の坂出~宇多津~丸亀~善通寺の施設の改良と延伸を行い、善通寺~本山寺~観音寺口を1957年に開業した。

 一方、路面電車のまま残った多度津~善通寺~琴平は、モータリゼーションの進行によって1974年に廃止となった。

 

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〈他の路線への影響〉

・徳島鳴門電鉄(架空)の開業

 徳島から北島、松茂を経由して鳴門に至るこの鉄道は、日鉄ではなく大室財閥が関係している。

 これは、1935年に大室財閥系の大室重工業が、徳島近郊の北島に航空機工場を建設する事が決定した事から始まる。工場への物資輸送や工員輸送を目的に、徳島から工場のある北島を経て、観光地であり製薬などの産業が集積する鳴門に向かう路線が計画された。この免許は1937年に認可が下り、同年に「徳島鳴門電鉄」として設立された。工事は急ピッチで行われ、1938年に大室重工業徳島工場が開設するのに合わせて開業した。

 開業後、沿線の宅地開発(工員向けの寮や社宅が中心)や工場の誘致(工場向けの下請けなど)を行った。徳島工場は巨大(広さは中島飛行機太田工場の8割程度)で大量の工員を有する事から、沿線の開発は大規模になった。また、工員向けに商売を行おうと徳島や鳴門の商業や観光も繁盛するなど、地域経済の拡大に貢献した。

 

 その後、戦時体制になっていくにつれ、軍拡も進行した。新戦力と目された航空隊も拡張され、沿線の松茂に海軍の飛行場の建設が開始した(現在の徳島空港。1941年に開設、その翌年にこの飛行場を本拠地とする徳島海軍航空隊が発足)。これに伴い、徳島鳴門電鉄は飛行場への人員・物資輸送に活用される事になり、空前の利益を上げたが、ピストン輸送によって施設を酷使した事で、終戦時には施設・車両はボロボロだった。

 

 戦後、同じ中外グループの南海急行の傘下に入り、多奈川~鳴門の航路が開設された。この頃から、淡路島の淡路交通線と接続して大阪~淡路島~徳島の鉄道が計画された。この計画が前進するのは、日本鉄道建設公団(鉄建公団)のP線方式(東京、大阪、名古屋とその周辺の民間鉄道を対象として路線を建設、施設を私鉄に貸し出す。建設費などは25年かけて支払う)が整った1972年からである。

 

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・四国横断鉄道の開業

 阿波池田~伊予三島の路線である四国横断鉄道の開業には、日林財閥が関わっている。

 史実では、四国横断鉄道に似たルートの阿波池田~川之江の免許を「愛徳電気」が1928年に取得したが、1934年に失効した。恐らく、昭和恐慌による資金の調達不足と、山岳地帯を通る事による工事の困難さが原因だろう。

 

 この世界では、1930年に日林財閥が愛徳電気の経営権を握り、「四国横断鉄道」と改称した。同時に、起点を川之江から伊予三島に変更した。これは、松山方面の接続を重視した事、三島町(伊予三島市を経て四国中央市)の製紙業者が懇願した事が理由だった。

 経営権を握った翌年から工事が始まったものの、工事の進行速度は遅かった。山岳地帯を通る事からトンネル工事が多い事、当時の日林の金融部門である日本林商銀行の経営が危うかった事でそちらの対応に追われていた事が理由だった。

 それでも、日本林商銀行の方は対処が完了し、本体の日本林産や他の部門については損失が小さかった事から、1935年には全線開業した。開業によって四国山地の木材資源が三島町に輸送される事になり、町の木材業者や製紙業者への原料供給が行われた。また、日林財閥の企業が三島町に進出する切欠にもなった。

 

 しかし、「四国横断鉄道」として存在した時期は短かった。1941年、改正鉄道敷設法第101号(『愛媛県川之江ヨリ徳島県阿波池田付近ニ至ル鉄道』)を理由に国有化され、「愛徳線」と命名された。

 

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・四国中央鉄道の開業

 史実の四国中央鉄道は、1946年に牟岐線の中田から分岐して、内陸部の生比奈村、横瀬町(共に現・勝浦町)に至る路線の免許を獲得した。予定では更に内陸部を進み、最終的に土讃線の土佐山田を目指していたらしい。その後、1951年に分岐駅を中田から立江に変更し、ルートも一部変更となったが、路線は開業する事は無かった(免許の失効は1988年)。

 尚、四国中央鉄道の約30年前に、阿南鉄道(現・牟岐線)が立江から分岐して棚野村(後の横瀬町)への免許を獲得している(1926年に失効)。

 

 この世界では、四国山地内の豊富な山林資源に目を付けた日林財閥が、阿南鉄道の上記の免許に目を付けて購入しようとした。阿南鉄道としても、乗合自動車に旅客・荷物収入が減少している状態では新線建設など夢のまた夢であり、少しでも現金が入るのならばとして、1924年に日林財閥に売却した。

 阿南鉄道の免許を譲り受けた日林財閥は同年、「四国中央鉄道」を設立し免許を譲渡した。そして、その免許の延長線として上勝、木頭(現・那賀町)、物部(現・香美市)を経由して土佐山田への免許を申請した。この免許が認可されたのは1928年の事であり、同年には立江~棚野が開業した。そこから先は山岳地帯、人口希薄地帯である事、昭和恐慌で日林財閥が一時的に身動き出来なかった事から、工事は一時的に停止した。それでも、1934年に土佐山田~物部、1937年に棚野~上勝、1939年に上勝~木頭、1941年に木頭~物部が開業して全通した。しかし、上勝~木頭~物部は物資・資金不足からやや規格を落として開業した(高規格な森林鉄道程度)。

 

 開業によって、沿線の豊富な森林資源と鉱山(主にマンガン・石炭・粘土)の開発が進んだ。また、全線開業前の1936年から、徳島と高知に日林財閥の企業が進出した。本体の日本林産に加え、徳島には日林製紙に日林化学工業、日林陶器に日林特殊陶器が進出し、高知には日林木材工業が進出した。

 戦時中、四国中央鉄道は木材や鉱石の輸送、高知と徳島を結ぶ第二ルートとして活用された。その事から、一時は国有化も検討されたが、他の重要路線(中信電鉄や防長電鉄など)の買収を行っていた事、極端に重要という訳では無い事から買収は後回しにされ続け、そのまま終戦を迎えた。

 

 戦後も沿線からの木材や鉱石の輸送に役立てられたが、木材資源の減少や鉱山の閉鎖、沿線人口の減少などの要因が重なり、横瀬~上勝~木頭~物部は完全に赤字路線となった(他の区間は、通勤・通学などで辛うじて黒字)。それでも、沿線の観光地への輸送や国鉄の優等列車の運行、観光列車の運行などによって、21世紀に入った時点では何とか全線が存続している状態となっている。




今回は、余り日鉄は関わっていません。中国地方って平地や人口集積地が少ない事から、鉄道が通せる地域って限られますね。
後、大阪・和歌山の対岸である徳島の路線が多く、それに伴って工場の設立も多いですから、この世界の徳島は香川・愛媛に並ぶ重要な県となるのではないでしょうか。


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番外編:日鉄財閥が支援・設立した鉄道会社(九州)

〈九州〉

・九州電気軌道、博多湾鉄道汽船[門司~小倉~大蔵~黒崎~折尾~筑前芦屋~宗像~津屋崎~貝塚~新博多、黒崎~香月~直方~宮田~福間]

 現在、福岡と北九州、福岡と筑豊を結ぶ鉄道は、前者は鹿児島本線、後者は福北ゆたか線のみである。しかし、かつて西鉄の前身企業がそれぞれへの延伸を計画していた。西鉄北九州線の前身である九州電気軌道は折尾から福岡を、西鉄貝塚線の前身である博多湾鉄道汽船は津屋崎から飯塚への路線を計画していた。免許もそれぞれ1919年に獲得していた事から、資金の当てが付けば可能な筈だった。

 しかし、昭和恐慌による資金不足に加え、前者は不正経理、後者は贈収賄事件によって資金面の余裕は全く無かった。結局、それぞれ1933年、1936年に免特許は全て失効した。

 

 この世界では、日鉄が1927年に九州電気軌道の鉄道事業を買収して、(新)九州電気軌道を設立した。これは、旧九軌が行っていた電力事業が他社との競争で劣勢になっていた事、偶然から不正経理が発覚した事から、鉄道事業を行う余裕が無くなり、少しでも資金が欲しかったのである。その為、鉄道事業を日鉄に売却した。同時に、鉄道事業を行わなくなった旧九軌は「九州電気興業」と改称した。

 

 兎に角、日鉄が経営を握った九軌は早速、福岡への延伸線(但し、沿岸ルートに変更)と既存線の専用軌道化の工事を開始した。同時に、黒崎から分岐して香月、直方、宮田を経由して犬鳴峠を通り福間に至る筑豊周りの路線の免許を申請した(1929年に認可)。そして、建設費の節約から、福岡側は新規に建設するのでは無く、新博多~津屋崎を開業させていた博多湾鉄道汽船に乗り入れる予定だった。

 これに対し、博多湾鉄道汽船側は当初難色を示した。やはり単独で参入したいし、九軌に吸収される恐れもあった為であった。しかし、博多湾鉄道汽船が1929年の贈収賄事件の影響で新線建設の余裕が無かった事から、方針を転換しこの提案を受け入れた。これにより、新博多~津屋崎の改軌(九軌は1435mm、博多湾鉄道汽船は1067mm)も九軌主導で行われた。

 途中、昭和恐慌があったが「関係無い」「福岡と小倉、筑豊を我らの手で結ぶのだ」と言わんばかりに工事は急ピッチで行われた。既存線の専用軌道化は1930年に終え、沿岸ルートは1933年に開業し、筑豊ルートも1937年にそれぞれ開業した。これにより、福岡と北九州を結ぶ都市間列車が成立したが、人の流れが少ないルートを通っている為、通しの利用以外だと少なかった。その為、沿線の観光開発を盛んに行う事で利用客の増加を行った。

 

 その後、戦時統合によって「西日本鉄道」が成立し(この世界では、九軌と後述の九州鉄道の対等合併で成立)、沿岸ルートが「北九州線」、筑豊ルートが「筑豊線」と命名された。

 

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・九州電気軌道(旧・門司築港)[門司~田ノ浦~東郷~霧岳~下曽根~徳力~北方](架空)

 この計画線の内、門司~田ノ浦は史実の門司築港軌道線だが、そこから先は企救半島沿岸部を通り、小倉電気軌道(史実の西鉄北方線)に接続する路線である。

 史実の門司築港軌道線は1923年に開業したものの、1936年に廃止となった。距離が短過ぎる(2.5kmしか無い)事から利用客は限定され、モータリゼーションの影響を受け易かった事が理由と考えられる。

 

 この世界では、日鉄が九軌の経営権を握った際に、門司築港の軌道線の経営権も握った。同時に、門司築港から企救半島の沿岸部を通る路線の免許も購入した。九軌側と並行して延伸・専用軌条化工事が行われ、1933年に門司~北方が開業した。

 その後、小倉での本線との接続を狙い小倉~北方の小倉電軌を買収しようとしたが、小倉電軌側の業績が良かった事から買収額が高額になると見られ、買収は一時棚上げとなった。その代わり、改軌(1067mm→1435mm)の支援を行い、直通運転の実施に切り替えた。この工事は1938年に完了した。

 その後、小倉電軌が西鉄への統合に組み込まれ、門司~下曽根~北方~小倉の路線が「企救線」と命名された。

 

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・筑肥電気鉄道[福島~山鹿~隈府(菊池)~藤崎宮~電鉄熊本](架空)

 九州鉄道(現・西鉄天神大牟田線など)は、熊本への延伸を計画していた。ルートは、大牟田から延伸して鹿児島本線に並行する形を予定していた。尤も、この計画は大牟田~熊本を「大熊鉄道」として分離してまで完成させようとしたが、昭和恐慌や熊本県側の反対などによって実現しなかった。

 

 この世界では、日鉄が1925年に菊池電気軌道(現・熊本電気鉄道)を買収し、隈府から山鹿を経由して九鉄の福島への免許を申請した。そして、九鉄に乗り入れて福岡~熊本の都市間鉄道を運行する事を計画した。

 九鉄としても、単独での参入はリスクが大きく、九鉄が計画している熊本延伸線は反対が多い事から進んでいなかった。加えて、菊池電軌の沿線には菊池温泉や山鹿温泉などの観光地が多い事から、観光開発を行うにも適しているとして、菊池電軌の計画に賛成した。

 

 菊池電軌の免許が1927年に認可されると、増資と九鉄からの出資を受け入れ、社名を「筑肥電気鉄道」に改称した。そして、九鉄と筑肥電鉄による福岡熊本電車の計画がスタートした。

 工事は、1928年に福島側と隈府側の双方から始まった。同時に、筑肥電鉄の藤崎宮~隈府と九鉄三井線の花畑~福島の専用軌道化、藤崎宮から熊本市中心部への延伸も行われた。沿線は山がちな事から工事の難所は多かったが、日鉄による豊富な資金力と九鉄の熱意によって、難所を悉く突破した。途中、九鉄の経営不振や役員の逮捕というアクシデントによって工事が一時中断するという事態があったものの、九鉄が熊本延伸や観光開発に活路を求めていた事から、途中で放棄される事は無かった。

 

 紆余曲折を経て、1936年に福島~山鹿~隈府が開業した。これにより、2社に跨ぐ形ではあったが福岡~熊本の都市間鉄道が完成した。山間部を通る事からローカル輸送は少なかったが、都市間輸送や観光輸送で多く活用された。

 その後、戦時統合によって筑肥電鉄は西日本鉄道の統合に巻き込まれ、九鉄三井線の花畑~福島と共に「熊本線」と命名された。

 

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・肥筑軌道[城島~崎村~高尾~佐賀]

 史実では、1916年に久留米~佐賀の路線を計画していた。しかし、筑後川の架橋や佐賀市内の発展に伴い土地収用が困難になった事、第一次大戦の終了に伴う不景気や支援元であった鈴木商店の経営悪化などから、1923年に崎村~高尾が開業しただけで、残りの区間は開業しなかった。起点と終点で他の路線と接続していない事、沿線が水田などしかない事などから利用客は増加せず、並行バスの存在などから1934年に運転休止となり、翌年に廃止となった。

 

 この世界では、日鉄が「大川鉄道(後の西鉄大牟田線津福~大善寺と西鉄大川線など)に乗り入れる形で久留米~佐賀の路線を完成させたらどうか」と助言した事で、崎村から大川鉄道の城島への路線に変更した。これにより、建設費の節約が図られた。

 また、この時、肥筑軌道側が日鉄に出資を求めた。肥筑軌道にとっては、大きな後ろ盾になる為だった。日鉄はこれに応じる代わりに、肥筑軌道の出資者の一人である真崎照郷が設立した「日本電気鉄工」への資本参加を求めた。肥筑軌道側もこれを認めざるを得なかった。

 

 日鉄という後ろ盾を得たものの、それでも筑後川の橋梁の費用が重く圧し掛かり、一時は建設半ばで終わる可能性もあった。また、肥筑軌道は914㎜、大川鉄道は762mmと軌間も違う事から、直通運転を行う場合、どちらかが改軌する必要があった。

 これらの問題について、前者は木造橋梁で架橋し、何れは架け替える事で解決した。後者については、城島での接続で我慢する事となった。改軌は、余裕が出た時に行う事とさえた。どちらも問題の先送りとなったが、早期開業を目指すにはこれしか無かった。

 

 兎に角、これらの努力が実り、1927年に城島~崎村と高雄~佐賀が開業した。当初の形とは異なるものの、久留米~佐賀の路線が開業した。

 しかし、筑後川の橋梁が木造の為、氾濫する度に橋を架け直さなければならず、氾濫した年は架橋費用が重く圧し掛かった。それにより、収支は常に赤字気味で、補助金に頼る運営だった。

 

 その後、大川鉄道が九鉄に買収される際に、同時に買収された。そして、西鉄が成立した際、旧・肥筑軌道線は「西鉄肥筑線」と命名された。

 戦後の1949年、大川線の大善寺~城島と肥筑線が改軌・電化工事が行われ(この際、大善寺~城島が肥筑線に編入され、肥筑線も「佐賀線」と改称した)、1951年に完成した。完成と同時に、天神~佐賀の優等電車が設定された。久留米を経由し、筑後川を2回渡る為、国鉄鹿児島本線・長崎本線ルートより遠回りであったが、高頻度運転を行う事で優位に立った。

 

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・国東鉄道、宇佐参宮鉄道、日出生鉄道[杵築~国東~豊後高田~宇佐~宇佐八幡~拝田~豊前二日市~院内~耶馬渓(椎屋耶馬渓)~日出生台~豊後森]

 この路線の運行系統は、杵築から国東半島の沿岸部を通り宇佐へのルートと、宇佐から駅館川沿いを通り、日出生台を抜けて豊後森に至るルートの2つに分かれている。しかし、路線を保有している会社は、杵築~豊後高田が国東鉄道、豊後高田~拝田が宇佐参宮鉄道、拝田~豊後森が日出生鉄道に分かれている。

 

 史実では、国東鉄道が1922年から1935年にかけて杵築~国東を開業させ、宇佐参宮鉄道は1916年に豊後高田~宇佐八幡を全通させ、日出生鉄道が1914年から1922年にかけて四日市(現・豊前善光寺)~豊前二日市を開業させた。その後、国東鉄道は宇佐参宮鉄道と接続して国東半島を一周するルートを、宇佐参宮鉄道は日出生鉄道と接続して拝田への延伸を目論み、日出生鉄道は陸軍の演習場がある日出生台への延伸を目論んだ。

 しかし、その全てが完成する事は無かった。その後、3社は戦時統合によって別府大分電鉄(後の大分交通別大線)を中心とした「大分交通」に再編された。それに伴い、旧・国東鉄道は「国東線」、旧・宇佐参宮鉄道は「宇佐参宮線」、旧・豊州鉄道(1929年に日出生鉄道から改称)は「豊州線」となった。

 戦後直ぐは、ガソリン不足などによって利用客は多かったが、その後はガソリンの流通やモータリゼーションの進行、バス部門への注力などによって、次第に鉄道部門は縮小していった。また、自然災害によって橋梁が流される事もあり、それが原因で廃止になる事もあった。現に、国東線と豊州線は水害によって橋梁が流された事でそれぞれ1961年、1951年に休止となった(その後、それぞれ1964年、1953年に廃止)。宇佐参宮線は、両線より少し遅れて1965年に廃止となった。

 

 この世界では、三田尻に拠点を構えた日鉄が、対岸の大分県への進出や、国東半島や耶馬渓の観光開発などを目論み、1920年頃から3社に対して出資した。特に、国東鉄道と日出生鉄道に対しては強力に支援した。これにより両社の経営権を事実上掌握し、予定線の延伸も進めた。また、日出生鉄道には安心院・日出生台からの延伸として玖珠町(豊後森の事)への路線の免許も申請し(1927年に認可)、宇佐参宮鉄道との直通を鑑み、1067mmへの改軌も行われた。

 国東鉄道は1935年までに杵築~豊後高田を開業させ、宇佐参宮鉄道と接続した事で国東半島を一周する路線が完成した。また、宇佐参宮鉄道は1930年に宇佐八幡~拝田を開業させ、日出生鉄道も1933年までに豊前善光寺~豊後森を全通させた。これにより、国東半島や耶馬渓(椎屋耶馬渓)の観光輸送も盛んに行われ、沿線の農産物や森林資源の輸送にも役立った。

 また、規模こそ小さいものの、杵築に日本鉄道興業の工場が置かれ、日鉄系の部品メーカーなど数社が進出した。これを当てにしたのか、海軍が杵築に近い大神に海軍工廠を設ける計画が立ったが、後に変更となり近海艦隊用の基地が設営されたが、これはまた別の話である。

 

 1940年、この3社は国有化された。杵築~宇佐は改正鉄道敷設法第116号(『大分県杵築ヨリ富来ヲ経テ宇佐附近ニ至ル鉄道』)に該当する為、豊前善光寺~豊後森は軍の施設(陸軍の日出生台、海軍の宇佐海軍航空隊)を経由する為だった。これに伴い、杵築~宇佐~拝田は「国東線」、豊前善光寺~豊後森は「日出生線」と命名された。特に日出生線は戦時中、沿線の軍の施設への物資・人員輸送で賑わったが、大戦後期には宇佐海軍航空隊に対する副次目標とされて攻撃される事も多かった。

 国有化によって鉄道は保有しなくなったが、バス路線は残存した。国有化後、バス専業会社となった3社は戦時統合によって「大分交通」に吸収された。

 

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〈他の路線への影響〉

・宮崎電気鉄道の開業

 史実では、宮崎電鉄に宮崎~本庄~綾の免許が1922年に認可されたが、会社の設立は1928年だった。その後も工事は完成せず、本庄~綾が1933年に、宮崎~本庄が1938年に失効した。

 

 この世界では、日林財閥が1926年に上記の免許を買収し「宮崎電気鉄道」を設立した。沿線に豊富に存在する森林資源の開発に加え、日豊本線(現在の吉都線。日豊本線が現在のルートになるのは1932年から)のバイパスを目的として、1926年に綾~小林の免許を申請した。この免許は1928年に認可された。

 1928年から工事が行われた。宮崎~綾は比較的平坦な事から工事は順調に進み、1931年に開業した。一方、綾~小林は、小林側は小林盆地によって平坦なものの、綾側が山越えの為、トンネルや急勾配が多数必要となった。その為、工事に手間取り、全線開業が1935年までずれ込んだ。

 全線開業まで時間が掛ったが、開業によって沿線の開発は進んだ。特に、宮崎市から近いものの、近代的な交通機関から取り残されていた本庄村(現・国富町)や綾村では、森林資源だけで無く、農産物の増産が進んだ。また、小林町や野尻村(共に現・小林市)では、温泉や霧島連山の観光開発や、綺麗な水を利用した酒の生産が盛んになった。

 

 その後、一時は国有化も検討された(改正鉄道敷設法第123号『宮崎県小林ヨリ宮崎ニ至ル鉄道』に該当する為)が、工業地帯を通る訳でも無い、沿線に重要資源がある訳でも無い、日豊本線のバイパスとしても弱い事から、他の路線より重要度が低いと判断され国有化されなかった。その代わり、戦時統合で宮崎電鉄が中核となり、宮崎県北部のバス事業者と統合して「日向交通」が設立され(宮崎交通は史実通り設立)、旧・宮崎電鉄は「日向交通電車線」となった。



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4章 昭和時代(戦時中):崩壊への第一歩 34話 戦時中:大室財閥(21)

 太平洋戦争によって、国内の企業は自由な経済活動を行う事はほぼ不可能となった。経済には多くの統制が掛けられ、1機でも多くの航空機を、1隻でも多くの軍艦を、1人でも多くの兵士を前線に送る事が急務となった。

 

 大室財閥も例外では無く、「大室重工業」では軍艦や輸送船、航空機、「大和航空工業」は航空機エンジン、「大室電機産業」は工作機械や産業機械、「大室通信産業」は無線機や通信機、「大室化成産業」では火薬、「大室製鉄産業」では鉄鋼、「大室金属産業」ではアルミや銅などの非鉄金属の増産が叫ばれた。それらに原料を供給する「大室鉱業」では、国内鉱山や炭鉱での増産が叫ばれると同時に、金鉱の縮小が行われた。

 増産には施設や人員の強化が必要になるが、戦時中という事で資材や人員不足が著しく、思う様な拡大や増産は出来なかった。大室系の金融機関や、日本興業銀行や戦時金融金庫の様な国策金融会社からの融資によって資金面では問題無かったが、人とモノが無い状態ではどうしようもなかった。

 

 実際、大室鉱業では熟練の鉱員が徴兵に取られ、その代わりに朝鮮半島や中国大陸から来た労働者が入ったが、効率面では下がり、増産処か採掘量の維持すら難しいとされた。

 大室重工業や大和航空産業、大室電機産業など重工系の企業でも、熟練工が取られた事で製品の質の低下が見られた。戦前の外国製の工作機械の大量輸入や工作機械の国産化などによって重工業化が進んだものの、工作機械を扱う熟練工がいなくなった事で、効率的な運用が出来なくなったのである。それでも、残った熟練工による指導や非熟練者でも容易に扱える工作機械の開発・配備が行われた事で、効率は多少向上した。

 大室製鉄産業、大室金属産業、大室化成産業では、原料不足から減産も考えられたが、大室鉱業を始めとした鉱山会社、大室物産を始めとした商社によって原料の供給が行われた事で、減産にはならなかった。しかし、戦争後半には、アメリカの通商破壊が激化した事で原料が届かなくなり、1944年の後半頃からは減産となった。

 

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 大室銀行や東亜貯蓄銀行、東亜生命保険などの各種金融業は、上記の産業部門や国債の引き受けの為に、貯蓄が強力に奨励された。

 元々、大室銀行や東亜貯蓄銀行は預金集めを得意としており、特に大室銀行は開戦時の預金量では安田銀行に並ぶ程だった。そこに、国家主導で行われた貯蓄の奨励、贅沢品が市中に出回らなくなった事で国民の支出が抑えられていた事によって、大量の預金が集まった。

 

 また、国内の金融機関の統合も行われた。1943年に三井銀行と第一銀行が合併して「帝国銀行」となり(1944年に十五銀行も統合)、三菱銀行が第百銀行と統合し、安田銀行が日本昼夜銀行と統合した(1944年に昭和銀行と第三銀行も統合)。これにより、大銀行の整理が進んだ。

 大室銀行も、1943年に日本林商銀行を、1944年に日本鉄道銀行と東亜勧業銀行を統合した。これにより、店舗274(出張所を含む、後に統廃合で213となる)、資本金15億円となり、この合併で安田銀行を抜いて日本最大の銀行となった。また、預金獲得が得意な大室銀行と日本鉄道銀行が合併した事で、大量の預金を保有する事となり、国としても国債の有力引受先と見做す様になった。

 

 東亜貯蓄銀行の方も、東京に本店を置く不動貯金銀行や内国貯金銀行、安田貯蓄銀行などと合併し、1945年に東日本に本店を置く貯蓄銀行が大合同して、改めて「東亜貯蓄銀行」を設立した。同時に、大阪や名古屋など西日本に本店を置く貯蓄銀行が合併して「日本貯蓄銀行」が設立された。これにより、史実の「日本貯蓄銀行(後の協和銀行)」は成立はしない。

 

 地方銀行も「一県一行主義」によって統合が進められた。大室系の銀行は軒並み他行に統合され、大阪府や神奈川県などでは影響力も失った。それでも、青森県の「青森商業銀行」、宮城県の「奥羽銀行」、石川県の「越州銀行」については他行に吸収される事無く独立を守った。また、統合された銀行も、戦後に相互銀行や戦後地銀として事実上復活するものも出てくるが、それは別の話である。

 同様に無尽でも統合が行われた。影響力を持っていた神奈川県の「相武無尽」と埼玉県の「北武無尽」は、他の無尽に統合される所か、県内の無尽統合の中心的役割を果たして存続した。

 

 大室信託や大室證券も、公社債(国債や金融債)や株式、特に軍需企業や特殊会社(植民地経営を行う会社や国策会社)の引き受けによって拡大した。

 特に、大室證券は、日鉄證券や他の中小証券会社と合弁で、投資信託の販売を行う「東亜投資信託」を設立した。銀行や無尽などの地方金融機関が、預金を使って大量に投資信託の商品を購入し、一定額までの収益は非課税とされた為、莫大な利益を上げた。

 

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 また、生命保険部門である東亜生命保険や日本弱体生命保険も、他の中小保険会社を統合する事で保険加入者を大幅に増やした。また、兵士に生命保険が掛けられた事で、大量の保険加入者によって資金は豊富だった。これは、日本政府によって出征する兵士にも生命保険を掛けられる様にする事、戦死した場合にも保険金を全額出す事となった為である。

 

 本来、生命保険では戦死者や自然災害による死亡では保険金が下りない。これは、生命保険が寿命による自然死の統計を基にして資金の運用や保険金の支払いを行う事を目的に設立された為である。その為、一度に大量の死者を出す戦争や天災で同じ事を行えば、大量の保険金を一度に支払う必要があり、保険会社の運営が立ち行かなくなる恐れがある。

 しかし、戦前の日本では日清・日露戦争の時に軍人(将校)が生命保険を掛けて、それによって生命保険が人々に認知され、こぞって生命保険に加入する様になったという経緯があった。また、生命保険会社も軍人という社会的地位と資産も持っている人が纏まった数加入した事で、経営難が解消し、その後の生命保険が人々に認知された事は非常に大きかった。

 

 この様な経緯から、兵士にも保険金を掛ける事となった。当初、政府は戦死者よりも戦傷者の方が多いと睨んでいた事もあり、この動きを進めた。しかし、実際は戦死者の方が多く、生命保険会社は保険金の支払い能力を超える事となり、大きな損失を出し続けた。この状況が変化するのは、戦後のインフレまで待たなければならなかった。

 

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 損害保険の方も、1943年に大室火災海上保険は日鉄火災保険と他1社と合併し、1944年に大室倉庫保険は日林火災保険と他2社と合併して「東亜動産火災保険」と改称した。これにより、大室火災と東亜動産火災は被合併保険会社の契約を引き継いだ事で拡大し、大室火災は大手六社の一角(他は東京海上、大正海上(後の三井海上)、大阪海上(後の住友海上)、安田火災、日本火災)に、東亜動産火災は動産四社の一角(他は日本動産火災(後の日動火災)、東京動産火災(後の大東京火災)、日本簡易火災(後の富士火災))を占める様になった。

 

 通常の損害保険では、戦時中の損害(通商破壊による船舶の沈没や人員の被害)については補償されない為、それらに対して補償が出る戦争保険が開発された。戦時中という事もあり、これに加入する人や法人は多数に及び、大量の保険金が集まった。

 その一方、戦争保険のリスクの高さ(一度に大量の保険金を支払う)から、戦争保険の再保険を行う必要が出てきた。その為に、1940年に損害保険各社の共同出資によって「東亜火災海上再保険」が設立した。

 

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 各種産業や金融以外にも、他の企業は戦争遂行の為に行動した。

 大室船舶は、日本郵船や大阪商船などと共に内地から東南アジアへの兵員や機材の輸送、東南アジアから内地への各種原料資源や食糧の輸入を行った。尤も、これは「船舶運営会」による統制の下で行われた。

 

 大室物産は、アメリカやヨーロッパの支店は閉鎖され、その地域からの情報が途絶える事となった。これにより、大室財閥の武器であった情報を失う事となった。戦後に改めて欧米に出店するが、情報収集・分析能力の復活には更に時間が掛る事となった。

 また、戦時中には占領地での原料資源や食糧の買い付けや鉱山開発、森林開発などを行った。多くが初めての事業であり、商社が行う事業では無かった。しかし、国や軍部から『やれ』と言われれば、やるしかなかったのが当時である。

 大室物産は、主にフィリピンやインドシナ、マレーでの鉱山開発や森林開発、農地開発を行った。多くは、アメリカやイギリスの資産を接収して利用するものだったが、自前で開発する場所も多かった。大室物産は現地での開発に消極的ではあったが、現地住民との摩擦の発生には注意を払っていた。これは、情報収集の一環で得た現地住民との接触や摩擦を避ける方法を活用したものだった。これが上手く行き、大室物産が開発を担当した地域では大規模な反日武装組織の活動が見られなかった。

 

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 大日新聞も、東京の中小新聞社を統合し、後に六大新聞の一角を占めるまでに拡大した。

 一方、戦時中という事で論調が変化した。戦前の大日新聞は、政府に対しては批判しつつも対案を出し、軍に対しては批判しなかったものの擁護もしなかった。論調としては中道右派だった。

 しかし、戦時体制になった事で自由な記事を書く事が不可能となった。論調も変化し、政府や軍の賛美に終始する事となった。戦後、この体制が内部から批判され、一時期は左派色が強くなったが、冷戦構想が鮮明になると、反共色が強くなる一方で、戦前の中道右派路線へ回帰する事になった。

 

 また、1942年にプロ野球チーム「黒鷲軍(旧・後楽園イーグルス)」を譲渡され、「大日軍」に改称した。大日軍は1944年にいったん休止となったが、戦後、大日軍の復活と同時に大日新聞は本格的にプロ野球に参入する事になる。



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35話 戦時中②:日林財閥(9)

 太平洋戦争の勃発によって、国内の生産体制は戦時体制に移行した。これにより、自由な生産活動は制限され、戦時に必要なものに集中させる体制となった。

 

 日林財閥では、木材の大量供給を行う様に厳命された。日林が保有する国内の山林から大量の木材が切り出されたが、それでも不足した。その為、占領地での森林経営も任された。フィリピンやタイ、インドネシアなど東南アジアの占領地に進出し、これらの地域での森林開発と木材の切り出しを行った。

 同時に、開発した地域の植物や樹木のサンプルを持ち帰った。このサンプルは、戦後に製薬や種苗などの分野で生きる事となる。

 

 日林は、伐採一辺倒だと保水や後世の資源の問題から、伐採後の植樹を通常通りに行う予定だった。しかし、政府や軍部は『重要なのは今現在であり、将来ではない。植樹する余裕があるのなら、より多くの伐採して、内地に木材を供給しろ』として猛烈に反対した。日林側は、自分達が長年の森林運営によって得られたデータ、植林しなかった場合の山の末路などを話して強硬に反対した。

 日林の抗議は最終的に通ったが、時間や人員などの問題から、『必要最低限の植樹にする事』とされた。日林の抗議に『ある国が戦争に必要だとして、山にあった木を全て伐採した。山から木を切り過ぎた結果、大雨の時に土砂崩れが発生し、その国で最も重要な工場を直撃した。その影響で、その国は武器などの物資調達に支障を来たす様になり、最後は戦争に敗れて滅んでしまった』と言われれば、軍としても反対する事は難しかった。そして、軍が反対しなければ、政府が反対しても効果が薄かった。

 この結果、日林が伐採した地域については多少なりとも植樹が行われた。しかし、伐採の規模に対して植樹が少な過ぎた為、焼け石に水だった。それでも、東南アジアの現地住民からは『彼らは資源を奪うだけではない』と見られた事で、戦後に宗主国が戻り日本人を処罰しようとした際に、日林関係者を匿ったり逃がしてくれたりなどしてくれた。

 

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 また、日林の主力事業の一つである製紙業の統廃合も行われた。大規模な製紙会社同士の統合は、1930年代の大・王子製紙の成立によって殆ど発生しなかった。日林製紙も、他の製紙業者と統合する事も無ければ、吸収される事も無かった。

 一方、工場の転換が一層行われた。当時、日林製紙の工場の多くが旧式で小規模なものだった。1930年代後半から閉鎖やパルプ工場など他業種への転換などが行われていたが、開戦後はその動きが更に進んだ。国内にあった小規模工場の大半がパルプ工場に転換され、一部はレーヨンの製造工場や火薬の製造工場に転換された。

 

 大規模製紙会社の統合は無かった一方、地方の中小製紙業者の統合は加速した。1942年に、商工省が地方の製紙業者を統合する方針を打ち出した。これによって設立された企業の代表例が、四国の大王製紙である。

 日林の製紙会社は日林製紙が行っているが、地方には日林の系列である中小の製紙会社が存在する。この統合によって拡大し、北海道の「北洋製紙」、東北の「奥羽製紙」、北陸の「越州製紙」、四国と山陽の「瀬戸内製紙」、九州の「高千穂製紙」が成立した。また、1943年に日林製紙とこれら地方の製紙会社と共同出資でパルプ製造会社である「八島パルプ工業」を設立した。

 

 化学部門の日林化学工業も、急速に事業を拡大した。戦前の日林化学は、国内での事業が中心だった。しかし、開戦によって東南アジアを占領すると、現地の工場の運営を委託されたり、日本林産や日林製紙と共同して森林開発や鉱山開発なども行う様になった。上記の八島パルプ工業の設立や日林製紙の工場転換にも関わっており、一時は日林化学工業と日林製紙の統合も検討された程だった。

 同じ化学部門でも製薬系の京師薬品は、軍用に大量の薬品を製造した。しかし、京師薬品単体では供給に追いつかなかった為、日林化学や大室化成産業などにも協力を依頼して対応した。

 また、この3社が共同して、1943年に日本初のペニシリンの大量生産を成功させた。これは、日本にペニシリンの情報が入ったのが史実よりも早く、軍部も重要性に気付いた事から、京師繊維に製造工程の早急なる確立と大量生産ラインに乗せる事を要請された。

 しかし、京師繊維単体では無理があった為、日林化学と大室化成にも協力を仰いだ。その後、東京帝大や京都帝大も協力する様になり、1942年にはペニシリンの製造に成功し、臨床試験でも好結果を出した。これを受けて、1943年に大量生産が行われた。

 これにより、陸軍の医療事情は多少好転したが、これはあくまで補給が届いている地域に限定された。補給が途絶え途絶えの地域では、史実通り飢えと病気に苦しめられる状態だった。

 

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 事業拡大の一方、大室財閥系の同業企業との統合や国家の統制に組み込まれて日林の手から離れた事業もあった。

 

 繊維部門の京師繊維は、大室財閥系の日東繊維工業と1943年に合併し「新東繊維」を発足した。その後も中小の繊維会社を統合して、新東繊維は拡大した。拡大によって、麻や綿などの天然繊維、合成繊維のレーヨンの製造量は拡大した。

 その一方、一部の工場は航空機用の器材(通信機など)を製造する工場に転換された。また、レーヨンの原料となるパルプの製造の為、東南アジアでのパルプ工場の建設・運営などを行うなど、業種の拡大も行われた。このパルプ製造についてはノウハウが少なかった事から、日林製紙との共同事業という形になった。

 

 食品系では、日林系の「日林食品」と大室系の「大室食品産業」が統合して「太陽食品工業」になった。これにより、食肉や魚に強い日林食品と、飲料や穀物関係に強い大室食品産業が一つになった。戦時中は軍用缶詰の製造が殆どであり、この時の経験から、戦後は缶詰や保存食品に強い食品メーカーとして歩む事になった。

 

 金融では、日本林商銀行が大室銀行に、日林火災保険が大室火災海上保険にそれぞれ統合された。これにより、日林財閥は金融事業を全て失い、以降は大室財閥の影響力が強まっていく事になる。事実、戦後の財閥解体後、旧・大室財閥を中心とする企業集団「中外グループ」に組み込まれる事になる。

 

 造船・機械部門の「日林造船機械」は、大室重工業に吸収されて消滅した。造船所は、木造船以外にも海防艦や小型商船などの建造を行った。機械工場の方は、合板の製造機械から工作機械の製造に転換した。しかし、大室重工業との規格やノウハウの違いから、旧・日林造船機械の工場で製造された工作機械の出来が今一つだった為、戦後に旧・日林造船機械の機械部門は「企業再建」を名目に分離独立する事となった。

 

 家具・合板製造部門が「日林木材工業」は、木材加工のノウハウを買われ、木製航空機の製造を要請された。これについては、大室重工業と共同で木製航空機(エアスピードエンボイを基にした小型双発輸送機、後に海軍に「一式双発輸送機」として採用)の開発を行っていた事を買われての事だった。

 しかし、単独では難しいと判断された為、1942年にに松下電器産業と合弁で木製航空機を製造する「日松航空機」を設立した(史実では、1943年に松下電器産業単体で「松下航空機」を設立)。当初、旧式化していた九九式艦上爆撃機の全木製化(「明星」爆撃機)を予定しており、1943年には早速試作機が完成した。試験の結果、生産性や性能などの面から良好と判断されたが、元が金属機の為、運動性の低下や重量の増加といった問題も見られた。

 明星以外にも、機上練習機「白菊」を基にして全木製化と大型化した対潜哨戒機「南海」、昭和飛行機工業と共同して零式輸送機の全木製版の製作などを行った。しかし、明星と木製零式輸送機は、重量の問題や利用場面の減少から試作段階で中止となった。

 一方、南海の方は、海上警備総隊や日本近海の航空隊で重宝された。重要資源であるアルミを使用しない事、磁気探知機への干渉が少ない事、白菊由来の運動性の良さなどから300機近く生産された。しかし、日松飛行機単体では供給に追いつかない為、白菊を設計した九州飛行機、日本國際航空工業など中小の航空機メーカーにも生産を委託した。



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36話 戦時中③:日鉄財閥(6)

 日鉄財閥の中核企業である日本鉄道興業の工場では、大量の機械や兵器が生産された。特に、日鉄の工場では電車や電機の製造経験が豊富な為、電機関係の受注が大量に来た。その為、需要に応える為に既存の設備の拡大や下請けとの連携の強化、外地や占領地での工場の新設と運営などを行った。

 

 日鉄が受注を受けたものの中で特に多かったのが、通信機器と空調機器だった。

 これは、通信技術の向上によって、前線で使用する全ての航空機に安定した性能を持つ航空電話が装備された。また、早くからレーダーの使用が行われた。それらの安定した性能を維持するのに必要な真空管だが、それを製造出来るのが日鉄と東京芝浦電気(後の東芝)の2社だけだった。他の会社も逸品モノであれば同様の性能のモノを製造出来たが、大量生産となると日鉄と東芝に限られた。

 その為、両社による日本における真空管の寡占が進んだが、戦争になると大量の真空管が必要となった。戦争後期の1944年に、両社が持つ真空管の技術を他社に公開する事を軍部が強要した。両社はこれを飲まざるを得ず、東芝は日本電気(NEC)や日本無線(JRC)、川西機械製作所(後に富士通に吸収)などに、日鉄は富士通信機製造(後の富士通)や松下電器産業(後のパナソニック)、大室通信産業などに技術を公開し、技術者を送るなどして増産体制を整えた。

 これにより、高性能な真空管の大量生産体制が整いかけたが、大量生産が始まる前に終戦を迎えてしまい、供給量が揃わないまま終わった。しかし、1944年末から終戦にかけて高性能な真空管の供給量が僅かながら増加した為、本土防空用や機上用レーダーの配備が進んだ事も事実だった。

 

 空調機器の方は、当時はエアコンの製造は無く、冷房も製造されていたが(電車や客車向けに製造経験がある)、専ら扇風機だった。これは、電気があれば何所でも使用出来た事、製造が容易な事、比較的場所を選ばない事などが理由だった。日鉄に限らず、三菱電機や日立製作所などの電機メーカーも扇風機の製造を行い、軍や特殊会社に多数納品した。

 冷房については、大型艦や潜水艦、大型軍用施設(総軍司令部など最重要軍事施設)に限定されていた為、少数生産となった。

 

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 また、海軍との繋がりから船舶用機関の製造経験もある事から、商船や護衛艦用の機関の製造も大量に行われた。しかし、タービンの製造経験しか無かった為、護衛艦用に最も必要とされたディーゼルの製造が出来なかった(代わりに、大室重工業や三菱重工業、川崎重工業が行った)。

 それが変化するのは、1944年に大室重工業が日鉄にディーゼルの技術を提供した事である。これは、商船や護衛艦の大量損失とそれに伴う補充に対し、機関の製造が追いつかなくなった事、燃料の消費を抑える事(同じ馬力なら、タービンよりディーゼルの方が燃費が良い)などから、日鉄もディーゼルの生産を行う事で、少しでも供給量を増やそうというものだった。

 日鉄は、統制型一〇〇式発動機でディーゼルの製造経験はあったものの、それは車輛用であって船舶用では無かった。また、大室が開発したディーゼルは一定の工作精度が要求され、戦時設計で簡略化してもそれなりの精度が求められた。

 その為、製造に間誤付いて予定した量を期間内に製造出来なかった。それでも、ディーゼルの製造経験は大きく、戦後は気動車やトラック用のディーゼルの製造・開発に役立つ事となった。

 

 造船所では、多数の軍艦や輸送船が建造された。今まで、造船部門は利益が出ない分野だったが、日中間の軍事衝突以降、戦時体制が少しずつ強化されていき、対米戦が確実になると、不足しがちな小型艦艇や輸送船の大量建造が計画された。その為、三田尻や千葉、稼働したばかりの大神では連日連夜建造が行われた。

 

 日鉄が建造した艦船の中で最大のものは、大神で建造された大鳳級空母の2番艦「天鳳」だった。1944年に竣工した天鳳は、第三艦隊の主力空母として行動した。

 天鳳以外にも、改雲龍型空母(この世界の雲龍型は、マル急計画で2隻計画され、架空の2番艦「蛟龍」が大室重工業堺造船所で建造、1944年に竣工)である葛城型空母の2番艦「那須」を三田尻で建造している。「那須」は1944年末に完成したが、この頃には空母機動部隊は壊滅状態であり、航空機輸送や哨戒に使われる程度だった。

 因みに、他の葛城型だが、3番艦「笠置」は三菱重工の長崎で、4番艦「生駒」は大室重工の堺で、5番艦「阿蘇」は呉海軍工廠で、6番艦「身延」は川崎重工の神戸でそれぞれ完成し、7番艦「妙義」は三菱重工の長崎で建造中だったが、8割完成した所で終戦を迎え、未完成のまま解体となった。

 空母以外にも、夕雲型駆逐艦を4隻、秋月型駆逐艦を2隻が三田尻と千葉でそれぞれ建造が行われた。また、鵜来型海防艦を4隻、丙型・丁型海防艦や松型駆逐艦を10隻ずつ建造した。

 

 商船や漁船、護衛艦などの建造が行われていたが、上記の様に多数の艦船を建造していた為、既存の施設だけでは需要に追い付かなくなった。その為、日鉄の工場の内、元造船所の工場の土地の一部を活用して、新しい造船所を建設する事が計画された。

 しかし、日鉄単体で行うには余裕が無かった為、土地は日鉄が、ノウハウは日鉄と大室重工が、資金は大室銀行と日本興業銀行が提供し、別会社に行わせる事になった。その目的で1943年に設立したのが「大同造船」である。大同造船の造船所は尼崎と戸畑に置かれ、1944年から稼働した。建造出来たのは海防艦や小型船舶程度だったが、それでも戸畑は丙型、尼崎は丁型海防艦をそれぞれ数隻建造した。

 

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 航空機の生産も活発となった。多くは他の企業の機体のライセンス生産であり、特に愛知の零式水偵が多く生産された。多くは海上警備総隊向けであり、船団護衛や対潜警戒用に当てられた。

 

 一方、自社開発の九七式双発飛行艇は、九七式四発飛行艇(史実の九七式飛行艇)や二式飛行艇の練習機や船団護衛、孤島での哨戒などに使用された。手頃な大きさで整備も容易、信頼性・拡張性が高いなど好評で、多少旧式化している面もあったが、これに代わる機体が無かった事から生産が続けられた。

 一時は、愛知によって双発小型飛行艇が試作されたが(史実の二式練習飛行艇)、九七式双発飛行艇と比較して性能向上が殆ど無かった事から、試作止まりとなった。

 

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 兵器生産を行う一方、輸送力の強化を目的に、鉄道用車輛の大量製造も依頼された。戦時中という事から、極力資材を使用量を抑え、製造工程を簡略化する事となった。一から設計するのは時間が足りなかった為、1930年代から製造していた「日鉄共通規格車輛」を基にする事となった。これにより、国電区間や電鉄会社への大量増備が行われた。

 

 しかし、基が平時の設計の車輛の為、簡易化したとしても限界があった。その為、更に簡略化された電車の設計が運輸通信省(鉄道省と逓信省が1943年に統合)によって行われた。それが63系であり、20m車体に片開き4ドア、薄い外板、座席や屋根板などの内装は徹底的に簡略化など、戦時輸送の為だけに設計された電車だった。日鉄もこの車輛を製造する事となり、日鉄特有の車輛は一旦姿を消す事となる。

 しかし、日鉄の製造担当である初期ロッド150両が終戦までに間に合った事で、戦争末期の輸送力強化に僅かながらに貢献した。また、63系の製造は20m・4ドア車の製造ノウハウの蓄積となり(今まで18m3ドアが最大だった)、戦後も日本車輌や川崎車輛(後の川崎重工業)などと共に日本の大手鉄道車輛メーカーとなる手掛かりを掴んだ。

 

 63系以外にも、D51形蒸気機関車(戦時設計版)、D52形蒸気機関車、EF13形電気機関車の製造も行った。これらは戦争によって生み出された戦時設計の極みと言え、徹底的な簡略化や代用素材の使用、工作精度の低さなどによって低性能は免れなかった。それでも、終戦までにそれぞれ数十両製造(EF13は4両)され、戦争後期・末期の輸送力強化に役立った。

 

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 金融機関の内、日本鉄道銀行は大室銀行に、日鉄火災保険は大室火災海上保険に統合された。これにより、日鉄財閥は自前の金融機関を失い、大室財閥の影響力が強まる事となった。そして、戦後に旧・大室財閥、旧・日林財閥と共に「中外グループ」を形成する事となる。

 

 その一方、日鉄證券は大室證券と合併する事無く独立を保ち続け、戦後は日本鉄道興業と並んで旧・日鉄財閥の中核として歩む事になる。それ処か、中外グループ内で中外銀行(戦後に大室銀行から改称)とグループ内での金融部門の中核を争うまで影響力・資金力が拡大し、グループ内の金融部門が中外銀行派と日鉄證券派に分かれる(住友グループ内の旧・住友銀行と旧・住友信託銀行の関係に近い)程になる。

 

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 日本各地にあった日鉄系の鉄道会社は、他の私鉄に統合されるか国有化された。特に、主要幹線のバイパスになる路線、鉄や石灰岩などの重要資源を沿線に産出する路線、沿線が大規模軍需工場地帯の路線が国有化された。

 その例が、東北鉄道鉱業(石炭・耐火粘土)、南部開発鉄道(鉄鉱石)、中信電気鉄道(鉄鉱石)、防長電気鉄道(石灰岩)であり、それぞれ「葛巻線」、「七戸線・三本木線・五戸線」、「中信線」、「防長線・長門線・三田尻線」となった。これ以外にも、日鉄系の鉄道会社で国有化された路線もある(詳しくは、『番外編:日鉄(+α)による新路線建設』を見る事)。

 尚、これらの会社は路線こそ国有化されたものの、会社そのものは存続している。これは、戦争終了後に路線を戻す予定だった為である。また、鉄道事業以外は買収されなかった為、残ったバス事業や不動産事業を残す目的でもあった。

 

 国有化以外にも、陸上交通事業調整法によって他社に統合された鉄道会社もあった。代表例が、筑波高速度電気鉄道(→京成電気軌道)、南津電気鉄道(→京王電気軌道→東京急行電鉄)、相武電気鉄道(→東京急行電鉄)、南海急行電鉄(→南海鉄道→近畿日本鉄道)である。戦後、南海急行電鉄は独立するものの、多くは合併先の会社の一路線となった。

 一方、日鉄系の鉄道会社が統合した例もある。代表例として、宮城の仙台鉄道、静岡の駿遠鉄道、北陸の北陸鉄道、九州の西日本鉄道がある(詳しくは、『番外編:日鉄(+α)による新路線建設』を見る事)。

 

 因みに、この世界の西鉄もプロ野球団の大洋軍(後の大洋ホエールズとは無関係)を1943年に譲渡され「西鉄軍」としたが、史実とは異なり自主解散しなかった。その為、1944年のプロ野球団の休止の時期まで活動を続け、戦後もすんなり復活した。戦後、西鉄軍は「西鉄ライオンズ」と改称して、戦後のプロ野球で活躍する事となる。



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番外編:この世界の太平洋戦争

 日本時間1941年12月8日、日本はアメリカ・イギリス・オランダに対し宣戦を布告した。後に「太平洋戦争」と呼ばれる戦争が始まった(当時、日本での公式名称は「大東亜戦争」)。

 開戦初日、日本による大規模攻撃は3つあった。時系列で並べると、陸軍によるイギリス領マレー半島への上陸、第一航空艦隊による真珠湾攻撃、第十一航空艦隊によるフィリピン空爆である。この内、マレー上陸とフィリピン空爆は史実通りとなったが、真珠湾攻撃は大きく異なった。

 

 第一航空艦隊による空襲によって、アメリカ太平洋艦隊は大きな被害を受けた。宣戦布告の知らせを受けた事で、将兵に緊急の配備命令が下った。それにより、真珠湾内では将兵の移動で慌ただしい状況となったが、不幸な事にその時に空襲を受けた。これにより、将兵の被害が甚大となり、約8千名が死亡する事となった(史実では約2千4百名)。

 

 また、艦艇の被害も大きく、戦艦4(「ウェストバージニア」「アリゾナ」「ネバダ」「オクラホマ」)が沈没(修理される事無くそのまま除籍)、戦艦6(「サウスダコタ」「インディアナ」「メリーランド」「ワシントン」「カリフォルニア」「テネシー」)は大破着底となり、他にもドックに入渠中の「ペンシルベニア」が損傷した(「コロラド」は本土のドックに入渠中だった為、無事)。これにより、向こう半年間は太平洋艦隊の戦艦部隊は行動不可能となった。

 ここまで被害が拡大した理由は、先述した緊急配備によって中途半端に人員が乗り込み艦を動かした事、被弾しても対処が遅れた事だったが、一番大きい理由は「真珠湾は攻撃されない」と思い込んでいた事だった。

 

 ハワイ攻撃後、第一航空艦隊は再度攻撃か帰投かで揉めた。再度攻撃派は『ここで太平洋艦隊を徹底的に攻撃して、向こう一年間の行動を起こさせない、東南アジアを完全占領するまでは太平洋艦隊に行動させない』というものだった。一方の帰投派は『既に一定以上の戦果は出しており、航空機や搭乗員の被害も意外と大きく、これ以上の攻撃は無駄になる可能性が高い。また、真珠湾に米空母がおらず、所在が分からない以上、この海域に留まる事は危険』というものだった。司令長官の塚原二四三は双方の意見に一理ある事から、何方の判断を採用するか判断しかねていた。

 しかし、ある報告が塚原長官を判断させた。それは、『敵空母発見』である。これは、真珠湾攻撃後に帰投しようとした機体が機位を見失って彷徨っていた所、偶然アメリカの艦載機を発見した。爆装が確認出来た為、進路と逆の方向に空母がいるのではと考えてそちらに進んだ所、その考えが当たり、空母1(「エンタープライズ」)、重巡洋艦3(「チェスター」、「ソルトレイクシティ」、「ノーザンプトン」)を中核とする第8任務部隊(司令官はウィリアム・F・ハルゼー)を発見した。

 『敵空母発見』の報告を受けて、直ぐに別の偵察機がその方面に向かい、詳細な位置と艦隊編制が送られた。塚原長官は『この好機を逃すな!必ず空母を沈めろ!』と厳命し、帰投した第一次攻撃隊と予備機による空母攻撃隊を編成し出撃させた。

 

 日本側に発見された第8任務部隊だが、出来る事と言えば残っている戦闘機を上げて迎撃する事だけだった。発見される前に、前述の攻撃隊や真珠湾への増援などで半数近くの機体が飛び立っていた。そもそも、第8任務部隊はウェークへの航空機輸送が目的でその帰りだった為、事前の搭載機体も少なかった。

 そうして、日本側の攻撃隊がアメリカの迎撃隊と衝突したが、日本側の方が数・練度共に優れていた為、呆気無く突破された。そして、日本側の攻撃は凄まじく、攻撃30分で空母1、重巡2、駆逐艦1沈没、重巡1大破(後に自沈処分)、駆逐艦2中破という損害を受けて壊滅状態となったが、司令官のハルゼーは何とか無事だった。

 これに対し、日本側の損害は3機未帰還、5機着艦後処分という僅かなものだった。

 『空母撃沈確認』の報告を受け、塚原長官以下第一航空艦隊司令部の面々は当初の目的を全て果たしたと考えた。実際、この作戦の目的である「太平洋艦隊の戦艦部隊を長期間動けないようにし、かつ空母を攻撃する事」は達成されたのである。これによって再度攻撃派も満足し、第一航空艦隊は呉に向けて帰投した。

 

 開戦初日の真珠湾攻撃と空母沈没は、アメリカ海軍にとって大きいものだった。真珠湾攻撃によって、太平洋艦隊の主力部隊は向こう1年間の活動は不可能となった。重油タンクが破壊されなかった事は幸いだったが、戦力が無ければ燃料だけあっても意味が無かった。

 それ以外にも、痛い問題が3つあった。1つ目は、空母沈没によって、当時7隻しか無かった空母(太平洋に「コンステレーション」(史実の「レキシントン」)、「レンジャー」(史実の「サラトガ」)、「ヨークタウン」、「エンタープライズ」、大西洋に「ディスカバリー」(史実の「レンジャー」)、「ワスプ」、「ホーネット」)の1隻が消えた。当時の大西洋はドイツ海軍のUボートが大暴れしていた時期であり、対潜哨戒などに空母が使用された為、大西洋から回すのは難しかった。その後、何とか「ホーネット」を太平洋に回したが、これによってUボートが更に暴れる事となった。また、開戦初頭にいきなり空母を失った事でアメリカが空母の運用に慎重となり、マーシャルやギルバートなどで行われた空母によるヒットエンドランも消極的な運用しかされなかった。

 2つ目に、大量の水兵が1日で消失した事である。水兵というのは技術職でありエリートである為、簡単に補充が効かない存在である。それが1日で8千人も消えたのである。その補充の為には、大西洋艦隊からの引き抜きや教育期間を切り上げて出すしかない。その為、アメリカ海軍は終戦までセイラーの数や練度に悩まされる事となる。

 3つ目に、史実と異なり宣戦布告後の攻撃だった為、「騙し討ち」と言えず、ルーズベルトの支持率も高くなかった為、アメリカ国内での戦争支持率は7割程度(史実は9割越え)だった。その為、国内での非戦論が残り続け、「アメリカの団結」を謳えなかった。

 

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 真珠湾攻撃が順調な頃、東南アジア方面の攻略も順調だったが、イギリス東洋艦隊とアメリカアジア艦隊という懸念があった。

 この世界のアジア艦隊は史実の戦力(重巡洋艦1隻、駆逐艦数隻)に加え、巡洋戦艦「レキシントン」「サラトガ」と重巡洋艦1隻が加わっている。巡洋戦艦2、重巡洋艦2と表面上の戦力は大きかったが、内実は寒いものであった。

 レキシントン級巡洋戦艦は40㎝連装砲を4基備え、35ノットの高速を発揮出来るものの、それは竣工当初の話である。開戦時、一部の装甲の増加や大規模補修を受けていない事、対空砲や航空機銃の増設などで最高速力は32ノットに低下していた。加えて、一部の装甲を強化したとは言え、40㎝砲に対する防御力は主要区画に対しては殆ど無く、それ処か20㎝砲で貫かれる恐れもあった。

 また、充分な訓練を行っていない事から、練度面でも不安があった。

 

 これに対する第一南遣艦隊は、天城型戦艦2隻と穂高型重巡洋艦4隻を主力とした。

 天城型戦艦は、元々巡洋戦艦として竣工したが、1930年代の大改装で装甲の強化が行われて、これを機に種別が戦艦に変更となった。40㎝連装砲を5基備え、30ノットの速力を有する。速力ではレキシントン級に劣るものの、攻撃力・防御力共に天城型の方が上回っており、総合的には天城型の方に分があった。

 穂高型重巡洋艦は、鳥海型重巡洋艦(史実の高雄型)の装甲強化版であり、速力こそ33.5ノットと遅くなったものの、魚雷発射管の拡大によって攻撃力は向上している。また、スクリューの変更によって速力が34ノットに向上するなどの改良も行われている。

 

 両艦隊は、1941年12月10日にマニラ湾沖で接触した。アメリカ側は、宣戦布告を聞いて慌てて出撃準備を行ったものの、その直後に渡洋爆撃を受けた。これによって、キャビテ軍港は使用不可能となり、艦隊にも沈没艦こそ無かったものの、多くの艦艇が損傷した。特に痛かったのが、「サラトガ」に2発の爆弾が命中し、その内の1発が煙突付近に命中した事で、最大速力が27ノットに落ちた事だった。

 それでも、南シナ海やジャワ海での通商破壊やイギリスやオランダ艦隊との合流、港外に出て被害の拡大を防ぐ、進行してくるであろう日本軍の迎撃などを目的に12月9日深夜に出撃した。12月に戦争が始まる可能性が高いと言われていた為、出撃の準備が既に整っていた事が、攻撃後直ぐに出撃出来た理由だった。

 

 しかし、第一南遣艦隊はマニラ湾沖でアジア艦隊を待ち受けていた。事前情報で艦隊の陣容や、航空隊や潜水艦からの報告で艦隊の動向は逐一知らされていた。また、フィリピン攻略の為にはアジア艦隊を排除しなければどうにもならない事が分かっていた。

 日付が10日に代わって30分も経たない頃、「天城」のレーダーが艦隊の反応を捉えた。位置や進路からアジア艦隊である事は明白だった。アジア艦隊は、シンガポールに向かおうとしていた。ここに籠もられるとマレー作戦に支障を来たすだけで無く、浮きドックによって修理される恐れもあった。そうなれば、東南アジア海域をその俊足で暴れる事も考えられた。

 そうならない様に、この一戦で片を付ける必要がある。艦隊司令長官南雲忠一は、敵艦隊への突撃を命じた。

 

 アジア艦隊は、レーダーを装備していなかった事からこの動きに遅れた。25㎞前方に敵艦隊を発見した20秒後に発砲炎が見えた。そして、両艦隊の相対速度は46ノット(日本26ノット、アメリカ20ノット)であり、20分程度で距離が0になる程だった。

 第一南遣艦隊が会敵を前提としていたのに対し、アジア艦隊は終始逃げの姿勢だった。その為、ジグザグ航行によって被弾しない様に回避していたが、それが却って逃走する時間を要する事となった。また、「サラトガ」が被弾によって最高速力が落ちていた事もあり、本来なら勝っている速力でも敵わなかった。

 

 そして、砲撃開始から10分程で、先頭を航行していた「レキシントン」に40㎝砲弾が3発命中した。これにより、「レキシントン」の速力は大幅に下がり、12ノットが限界だった。弾薬庫に火災が回らなかった事は幸いだったが、これによってアジア艦隊は事実上シンガポールへの逃走は不可能となった。

 その後、「レキシントン」は更に3発の40㎝砲弾が命中し、その内の1発が後部主砲塔を貫通し弾薬庫に直撃して爆沈した。「サラトガ」も、2発の40㎝砲弾と突撃してきた重巡洋艦から発射された魚雷を3発喰らって大破、その後自沈した。それ以外の艦艇も、重巡洋艦1隻と駆逐艦2隻が沈没、駆逐艦1隻が大破してキャビテ軍港に引き返した。残った艦艇(重巡洋艦1隻と駆逐艦3隻)は何とか離脱し、蘭印へと逃走した。

 一方の日本側の被害は、「天城」に主砲弾が2発命中したものの、大改装時に装甲を強化した事で小破で済んだ。他の艦艇は被害無しという、日本側の完全勝利に終わった。

 

 このマニラ湾沖海戦によって、フィリピン周辺の敵艦隊は事実上消滅し、同日にマレー沖でイギリス東洋艦隊が航空攻撃のみで撃滅した事から、フィリピン・マレー攻略の障害は事実上消滅した。この2つの海戦に勝利した事で、東南アジア攻略は順調に進んだ。

 

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 東南アジア攻略が一段落付いた1942年3月、連合艦隊ではインド洋に後退したイギリス東洋艦隊の撃破が提案された。開戦劈頭にイギリス東洋艦隊は航空攻撃のみで撃滅されたものの、本国艦隊からの増援によって、戦艦5(「ウォースパイト」、「ロイヤル・ソヴリン」、「リヴェンジ」、「ラミリーズ」、「レゾリューション」)、空母3(「インドミダブル」、「フォーミダブル」、「ハーミーズ」)という大艦隊に戻っていた。この艦隊が、ベンガル湾や蘭印周辺で通商破壊をされるのは厄介であり、順調に進んでいたビルマ(現在のミャンマー)攻略作戦に支障を来たす恐れがあるという判断からだった。

 3月26日、スラウェシ島を出港した第一航空艦隊は、セイロン島攻撃の為出撃した。以降の流れは史実通りだが、日本側が既にレーダーを装備している事が、その後の流れに変化が起きた。

 

 4月5日16時頃、「比叡」の機上レーダー(練習戦艦から戦艦に戻す際に試験的にレーダーを装備)が航空機の反応を捉えた。上空警戒に当たっていた零戦が向かいこれを撃墜したが、既に『敵艦隊発見』の電報を打たれた後だった。また、機体がイギリス軍艦載機のソードフィッシュであった事、飛行進路から陸上基地からのものでは無い事から、イギリス空母機動部隊の存在が確実となった。

 これにより、空母機動部隊探索の為に急遽、多数の偵察機が艦隊から放たれた。特に、航空機が来た方向への偵察に重点が置かれた。これが功を奏し、翌日の偵察でイギリス東洋艦隊の主力部隊を発見した。その為、イギリス東洋艦隊に向けて攻撃隊が出撃したが、トリンコマリー攻撃に備えての準備をしている最中に「敵艦隊発見」の報告が入った為、陸上基地向けの装備での出撃となった。当初、対艦装備に転換しての出撃も考えられたが、転換中に逃げられる恐れがある事から、対陸上基地装備の第一波攻撃で敵を痛めつけた後、対艦装備の第二波攻撃で殲滅する事となった。

 

 この後、イギリス東洋艦隊は第一航空艦隊から二波の攻撃を受けて、戦艦1(「レゾリューション」)空母2(「インドミダブル」、「フォーミダブル」)、軽巡洋艦1が撃沈された。それに対する第一航空艦隊の被害は、戦艦1(「榛名」)が敵航空隊の攻撃で小破し、航空機10機が未帰還であった。

 再び第一航空艦隊の完全勝利であり、イギリス東洋艦隊はは再び事実上壊滅した。その後、日本は再びセイロン島攻撃を行い、ここで空母「ハーミーズ」を撃沈した。これにより、インド洋東部の制海権は事実上日本のものとなった。また、イギリスはこの海戦で空母3隻失い、以降海上航空戦力の不足に悩ます事となる。



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番外編:この世界の太平洋戦争②

 1942年4月18日、日本近海に進出した米空母「ホーネット」から16機のB-25爆撃機が出撃した。アメリカは、日本本土を奇襲的に空襲しようとした。

 しかし、この前の段階から日本の哨戒網に探知されていた為、当初予定していた夜間発艦・空襲は取り止めとなった。また、発艦位置も当初予定より遠方となり、航続距離に不安があった。

 

 一方の日本側は、日本近海にまで米空母が進出した事に驚きを隠せなかった。しかし、発見した位置とアメリカの艦載機の性能から、空襲は翌日になると予想した。その前提で日本近海に哨戒網を張った。

 しかし、同日の11時頃、千葉県のレーダーが太平洋方面から東京に向かう複数の航空機の反応を捉えた。陸海軍は、すぐさま関東の各航空隊に迎撃を命じた。

 これにより、数十機の戦闘機が迎撃に上がり、東京や横須賀などの主要拠点では高射砲の準備が完了した。しかし、迎撃に上がった戦闘機の殆どが旧式の九六式艦上戦闘機や九七式戦闘機だった。ゼロ戦や一式戦闘機は前線で運用されており、後方にまで行き届いていなかった。

 その為、武装の貧弱さや速力の面で不安があり、実際、敵爆撃機と接敵しても会敵機会や攻撃機会の少なさで、3機を撃墜した以外は全て逃げられている。また、帝都空襲を防ぐ事も叶わず、川崎や名古屋、神戸など主要工業地帯も空襲を受けた。

 幸いだったのは、大きな被害が出なかった事、横須賀で空母に改装中だった「大鯨」が被弾しなかった事だった。

 

 この空襲で、陸海軍は大混乱になった。陸軍は海軍に防空の不備を批判され、逆に海軍は陸軍に海上迎撃で敵を捉えられなかった事を批判された。

 また、この空襲によって、2つの計画が実行に移された。一つは、海軍は敵空母殲滅を目的としたミッドウェー作戦を検討する事になる。但し、その前に米豪分断作戦の一環であるポートモレスビー攻略がある為、それが一段落する6月以降に実行する予定となった。

 もう一つは、今まで陸海軍で独立していた本土防空を、新設する「統合防空総司令部」の下で一元化する事となった。本土防空では陸軍の方が主となる為、司令官は陸軍、副司令官は海軍から出す事となった。同時に、陸海軍は防空用の戦闘機(陸軍は重戦闘機、海軍は局地戦闘機)の共同開発や配備を推し進める事となった。

 

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 4月18日の本土空襲によって、ミッドウェー作戦が急遽立案されたが、その前にMO作戦(ポートモレスビー攻略)が実行に移された。この作戦にも空母を用いる事になっていたが、第一航空艦隊の空母は今まで大規模作戦を実施し続けていた為、艦の整備や航空隊の補充などを行わなければならない程疲弊していた。その為、この作戦に参加する予定だった第五航空戦隊の「翔鶴」と「瑞鶴」が参加出来なくなった。

 そこで、代わりに参加する事になったのが、「隼鷹」、「祥鳳」、「瑞鳳」の3隻の軽空母である。史実の「隼鷹」は同年5月初頭に竣工したが、この世界では工業力の向上や早期の戦力化を目的とした工事の促進によって、4月中頃に竣工した。これにより、「隼鷹」と「瑞鳳」を第三航空戦隊に臨時に編入した。

 しかし、完成を急がせた為、一部の工事が完了していなった。また、航空隊の手配が追い付いていなかった為、「鳳翔」や「大鷹」の艦載機を回したり、第一、第二、第五航空戦隊から配置転換させたり、訓練を一部繰り上げて編入するなどして、何とか90機程度を配備する事が出来た。

 尤も、搭乗員の多くの練度が低い事、新型機が少ない事(大半が九六式艦上戦闘機と九七式艦上攻撃機、一部には九六式艦上爆撃機や九六式艦上攻撃機も見られた)から、何処まで戦力となるかという不安があった。

 その代わり、ラバウルでの戦力増強が順調に進んでいた事(この世界では、アメリカが緒戦に空母を失った事で、珊瑚海方面でのヒットエンドランが行われなかった。これにより、2月のニューギニア沖海戦が発生していない)から、ラバウル航空隊による支援が見込めた。

 尚、ポートモレスビー攻略部隊とラバウル航空隊の指揮系統の違い(ポートモレスビー攻略部隊は井上成美中将の第四艦隊麾下、ラバウル航空隊は草鹿仁一中将の第十一航空艦隊麾下)から、「臨時措置」としてこの作戦中に限り、ラバウル航空隊の指揮命令権を第四艦隊に移している。

 

 これに対しアメリカ側は、暗号解読によって日本がポートモレスビー攻略を実行しようとしている事を把握したが(予算・人員の増加によって、暗号解読の精度が向上、この頃には史実と同程度の精度を持つ)、ここに回す戦力の問題があった。「エンタープライズ」は既に沈没し、「ヨークタウン」と「ホーネット」は本土空襲の帰りで珊瑚海に回せない。「レンジャー」(史実の「サラトガ」)は修理中で動かせず、「ワスプ」と「ディスカバリー」(史実の「レンジャー」)は大西洋だった。そうなると、消去法から「コンステレーション」(史実の「レキシントン」)しか無かった。

 アメリカは「コンステレーション」を派遣する事となったが、空母が危険に晒された際はどうするかが問題となった。ここで空母を失う事は今後の作戦に支障を来たす為だが、同時にポートモレスビーを失う事も同様に今後の作戦に支障を来たす恐れがあった。

 

 5月1日、ポートモレスビー攻略部隊がトラック諸島を出撃した。これを受けて、アメリカも「コンステレーション」を中心とした第11任務部隊を珊瑚海に派遣した。7日、予定海域に進出した第二航空艦隊は、周辺海域の偵察を行い、居るであろう米機動部隊を探した。日本時間5時30分、発進した偵察機からの『敵艦隊発見』の電文を受け取った。

 しかし、その報告が「空母、重巡洋艦、油槽船」という歪な艦隊編制から、これが本当の報告か分からなかった。その為、再度同地域の偵察を行う様に命じた所、『空母は誤り、油槽船と駆逐艦のみ』という報告が入った。これにより、機動部隊発見とはならなかったが、油槽船がいる事から確実に艦隊がいると判断され、小規模の攻撃隊を向けると共に(2隻共撃沈)、より一層の偵察が行われた。

 6時50分、待望の『敵空母発見』の報告が届いた。しかも、詳細な艦隊内容や位置まで報告されるなど、確度が非常に高いものだった。第三航空戦隊司令官角田覚治は直ちに攻撃隊発進と、ラバウル航空隊にも出撃を依頼した。

 一方のアメリカも、6時15分にポートモレスビー攻略部隊を発見しており、こちらも直ぐに攻撃隊を発進させている。初めての本格的な空母機動部隊決戦が始まろうとしていた。

 

 初めての機動部隊決戦は、日本が制した。

 日本側は、艦載機部隊の練度の低さから、第一波攻撃隊は「コンステレーション」に対して爆弾2発、魚雷1発しか当てられなかった。しかし、その後のラバウル航空隊による第二波攻撃によって更に爆弾2発と魚雷1発を命中させた。これによって、「コンステレーション」は継戦能力を失い、ガソリンタンクが損傷して、艦内に帰化したガソリンが充満した。艦載機第二波攻撃隊の爆弾1発がダメ押しとなり、「コンステレーション」は大爆発を起こした。アメリカ側には「コンステレーション」を曳航する余裕が無い事から、駆逐艦によって自沈処分となった。

 アメリカ側も練度の低さから、当初の目的だった輸送船団を見失った。代わりに発見した機動部隊に攻撃を仕掛けたが、日本は「隼鷹」に装備されているレーダーによってこれを探知しており、迎撃機を多数発艦させてこれを妨害した。それでも、「祥鳳」に2発の爆弾を命中させてこれを大破させている。「祥鳳」は、一時は自沈が検討される程の被害を出したが、賢明な消火活動によって沈没だけは避けられ、護衛を付けてトラックに引き返した。

 

 アメリカは敵空母1隻を大破させたが、逆に空母1隻を失った事で妨害能力を失った。これにより、日本は珊瑚海の敵機動部隊を撃滅したとしてポートモレスビー攻略を続行した事で、目的のポートモレスビー防衛も失敗した。実際、日本は11日にポートモレスビー攻略を実施、16日には陥落させている。

 これにより、日本はオーストラリア攻撃の前進基地を得たと同時に、ラバウルの後方支援基地化に成功した。また、(日本側の視点で)大量の物資や重機を獲得した事で、ポートモレスビーの基地能力の強化に役立った。

 逆にアメリカは、オーストラリア防衛という負担が圧し掛かる事となった。実際、ポートモレスビー陥落後直ぐに、オーストラリア北東部では日本軍機との戦闘が頻発する様になった。

 

 一方、日本はこの作戦での反省点として、空母の脆弱性と各部隊との連携の不備が問題となった。これを受けて、空母の不燃化工事の順次実施と、部隊間連絡を円滑にする法令の整備が行われる事となる。

 

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 ポートモレスビー攻略が成功し、次はミッドウェー作戦となった。この作戦の目的は、第一に出てくるであろう敵空母の殲滅、第二にミッドウェー島の攻略であった。これは、当初はミッドウェー島を攻略して哨戒圏の前身を目的としたもののを、4月18日の本土空襲によって連合艦隊司令長官山本五十六が「敵空母殲滅」を半ば強引に加えた為だった。

 この作戦の要である第一航空艦隊は、インド洋作戦以降休養や整備に注力していた為、艦艇については練度は元に戻った。一方の航空隊は、損耗や多方面への異動によって半数近くが入れ替わっていた。その為、練度の低下が懸念されていたが、艦隊の整備中に猛訓練を行った事で、真珠湾攻撃時程では無いものの高い練度を獲得した。

 

 5月27日、第一航空艦隊は柱島を出撃、2日後に山本長官直卒の連合艦隊主力部隊と第一艦隊が出撃した。この時の艦隊の内容だが、第一航空艦隊は「榛名」がインド洋海戦で損傷した為抜けており、その代わりに「扶桑」と「山城」が編入された。この2隻は、改装によって速力が向上しており、対空火器も増強され、何よりレーダーを装備している事から、空母の護衛に最適と判断された。

 一方の主力部隊は、燃料不足から「大和」、「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」の5隻となり、「伊勢」と「日向」は国内待機となった。また、艦載機が無い事から「鳳翔」の参加も見送られた。

 尚、ミッドウェー作戦に呼応する形のアリューシャン作戦は、珊瑚海海戦での第三航空戦隊の損耗から稼働可能な空母が無い為、アッツ、キスカ、アダックの各島への上陸作戦に変更となった。

 

 一方のアメリカ側は、偽電文に日本が引っ掛かった事から攻撃目標がミッドウェーである事、その主戦力が真珠湾を攻撃した機動部隊である事を突き止めた。その為、ミッドウェーに送れるだけの増援を送ったが、それでも戦力不足と見られた。ミッドウェー島の航空機は増援を含めて総計100機、無理を押して派遣する3隻の空母(「ヨークタウン」、「ホーネット」、「ワスプ」)の艦載機は約240機、合計で350機程度だった。しかしに、日本側は約400機あり、練度でも日本側の方が優れていた。

 

 6月5日1時30分、ミッドウェー沖に展開した第一航空艦隊は、ミッドウェー島攻撃隊を出撃させた。一撃を以てミッドウェー島の戦闘能力を消失させ、現れるであろう敵空母機動部隊を捕捉・殲滅する事を目的とした。

 実際、ミッドウェー島は攻撃隊によって戦闘能力をほぼ消失し、攻撃隊もこれを確認している。その為、第二次攻撃は行われず、以降は偵察に専念した。

 4時30分、偵察機が『敵らしき艦隊発見』の電文を打ってきた。内容が曖昧だった為、本物かどうか不明だったが、その方面に偵察機を放ってその真偽を確認する事となった。そして、5時15分にその方面に向かった偵察機から『敵艦隊発見。空母を含む十数隻の艦隊』とその詳細な位置の報告が届いた。最初に報告してきた機体の位置とは大分離れた場所にいたが、空母が出てきたのは好都合だった。

 直ぐに攻撃隊に対艦兵装の装備を行い、発進準備に取り掛かったが、同時にミッドウェー攻撃隊も戻ってくる時間だった為、飛行甲板では攻撃隊の着艦を、格納庫では対艦兵装の装備と飛行甲板へ上げる準備で忙しくなった。6時30分までに攻撃隊は全機着艦し、7時には全空母で敵空母攻撃隊の発艦準備が整った。そして、全空母の攻撃隊は7時25分までに全機発艦、次いで直掩機のゼロ戦が発艦した。

 

 空母攻撃隊が全機発艦した直後、「比叡」や「扶桑」のレーダーが中空から侵入する航空機を探知した。敵空母から飛来した艦爆(SBDドーントレス)だった。この時、多くの直掩機は雷撃機への対応で低空に降りていた為、この攻撃は奇襲になるかと思われた。

 しかし、新たに発艦した直掩機が艦爆に向かった事で、奇襲を受ける事は無かった。それでも、全ての艦爆を落とす事は出来ず、十機程度が艦隊上空に襲来した。対空砲火や直掩機の妨害をものともせず、数機は空母に爆弾を投下した。これにより「愛宕」と「蒼龍」に爆弾が1発ずつ命中した。

 しかし、多くの機体が出払っている事、艦内の機体の多くが燃料が無かった事などから、延焼する事は無かった。「蒼龍」は防御力の低さから中破となったが、「愛宕」は当たり所が良く、爆弾で空いた穴を塞げば戦闘状態に復帰出来た。

 

 敵空母に向かった攻撃隊だが、最初の攻撃で「ワスプ」を撃沈し、「ヨークタウン」と「ホーネット」を中破させた。100機以上(内3分の1は戦闘機)による攻撃は凄まじく、一撃で敵空母は戦闘能力を失った。それでも、空母を完全に撃沈出来なかった事、巡洋艦などの艦艇がまだいる事から、攻撃隊隊長は『再度攻撃を要す』と打電した。塚原長官も『叩ける内に叩くのが戦いの常道』として、ミッドウェー攻撃隊を休養・整備の後に第二次攻撃隊に編成した。

 9時に第二次攻撃隊が発艦し、1時間後には敵艦隊を視認して攻撃に移った。その結果、残っていた空母2隻を撃沈し、重巡洋艦3(「アストリア」、「ニューオーリンズ」、「ペンサコラ」)と軽巡洋艦1(「アトランタ」)、駆逐艦2を撃沈、若しくは大破させた(大破した艦は後に自沈処分)。これ以外にも、重巡洋艦1(「ミネアポリス」)が中破して航行可能だったが、ハワイに撤退する途中で伊168の魚雷攻撃によって沈没した。

 

 2度の攻撃で、米機動部隊は壊滅した。これにより、敵艦隊は海域から撤退し、ミッドウェー島攻略の障害は無くなった。5日夕刻に主力部隊もミッドウェー島沖に到着し、ミッドウェー島に対して3回の主砲斉射を行った。大口径砲の直撃を受けたミッドウェー島守備隊は、この攻撃によって完全に抗戦の意思を失った。翌日に行われた上陸でも、抵抗の意思を見せる事無く降伏した。

 ミッドウェー作戦は、日本の完全勝利よって完遂した。

 

 この作戦で、日本は目的だった米空母を太平洋から一掃した。また、ミッドウェー島攻略に成功し、ハワイに対するプレッシャーを掛け続ける事となった。

 一方、この作戦後の7月13日、山本五十六は連合艦隊司令長官を解任され、同日付で軍令部総長に親補された。これは、彼の我儘をこれ以上聞けなくなった事、彼の能力上、実戦部隊の長よりも軍政又は軍令の長の方が良いと判断された事だった。これにより、永野修身は軍令部総長を退き予備役に編入され、後任の連合艦隊司令長官は豊田副武が親補された。

 逆に、アメリカ太平洋艦隊は手持ちの空母を全て失う事となった。また、ミッドウェーが占領された事でハワイの防備を固める必要が生じ、大量の航空機や対空砲、数個師団が張り付く事となった。これにより、この後に発生するソロモン方面での戦闘での枷となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争③

 日本はFS作戦(フィジー・サモア・ニューカレドニア方面への侵攻作戦)の前段階として、ソロモン・ニューヘブリデス両諸島の攻略に取り掛かった。5月3日にソロモン諸島のツラギ島に上陸し、水上機基地が設けられた。この基地は、珊瑚海海戦の時は敵空母の攻撃によって破壊されたが、その後再建された。

 その後、水上機だけでは制空権が取れない事、空母を使わずにFS作戦を行えないかと検討された事で、6月中頃にはガダルカナル島に上陸して飛行場の建設が行われた。建設工事には、内地やポートモレスビーで鹵獲した重機を数台持って来た事で急速に進み、7月末には完成が見込まれた。8月5日、ラバウルからガダルカナルへ2個飛行隊(24機)が進出し、現地の制空権を確保した。

 

 日本軍のポートモレスビー占領、ガダルカナル島上陸と飛行場建設は、アメリカにとっては一大事だった。ポートモレスビーを失った事で、南太平洋から北上して日本本土を狙う作戦が根底から崩れ、このまま日本軍が南下すればオーストラリアが戦争から離脱する恐れがあった。

 実際、ポートモレスビー陥落後から行われている珊瑚海方面での航空戦は消耗戦となり、機材やパイロットの練度で日本の方が優れている為、『日本機1機を堕とすのに10機必要』と言われる程、連合軍の被害は甚大だった。これにオーストラリアは悲鳴を上げ、『充分な支援が無い場合は日本と停戦する』と公式で発言する程だった。

 これによって、アメリカとイギリスはオーストラリアを支援する事になったが、イギリスはドイツとの戦闘が佳境に入っている時期であり、地球の反対側という事もあって支援する余裕が無かった。その為、支援するのは事実上アメリカのみとなった。しかし、そのアメリカもミッドウェー海戦の敗北とそれに伴うハワイ方面の防備の強化、大西洋で暴れまわっているUボートへの対応などで、こちらも余裕が無かった。

 それでも、このまま日本軍の進撃を見過ごす事は出来なかった上、これ以上負けが続くのは内政上見過ごせなかった。この頃の大統領支持率は5割強程度しか無く、戦争支持率も6割を維持しているのがやっとという状態だった。現状では講和は少数意見だが、このままいけば国内の大半が講和に傾きかねなかった。そして、民主党は下野して、大統領は弾劾されるかもしれなかった。そうなれば、ヨーロッパでの戦争も停戦となる可能性があり、連合国そのものの瓦解という最悪の可能性があった。

 それを防ぐ為にも、何としても日本に一矢を報いて、来るべき反攻作戦の第一歩を築く必要があった。それが、ガダルカナル島への上陸作戦だった。

 

 8月7日、アメリカ・オーストラリア連合軍はガダルカナル島、ツラギ島への攻撃を開始した。その戦力は、戦艦2、空母2、巡洋艦10以上という、当時アメリカが出せるほぼ全てだった。

 しかし、日本は偵察によってこれを察知、航空隊に上空の警戒を当たらせた為、奇襲にならなかった。それ処か、艦載機部隊が戦闘機の妨害によって満足な攻撃を行えなかった。また、ガダルカナルからの連絡でラバウルから飛来した航空隊の攻撃によって、艦載機や輸送船団の一部が攻撃され、艦載機は3分の1が撃墜され、輸送船も2隻が撃沈された。また、この被害によって空母機動部隊が南方に撤退する事となった。

 一方の日本側も、戦闘機7、攻撃機4損失と大きな損害を受けた。また、ラバウルとガダルカナルの間は1000㎞ある事から反復攻撃出来ず、戦果の拡大も難しかった。

 

 昼間の空襲が終わった後、今度は夜間に艦隊の突撃を受けた。これは、ラバウルにいた第八艦隊であり、重巡洋艦「開聞」を旗艦に、重巡洋艦7(「開聞」、「穂高」、「大雪」、「古鷹」、「六甲」、「青葉」、「衣笠」)軽巡洋艦1(「夕張」)、駆逐艦3という艦隊だった。これの突撃によって、連合軍艦隊の前衛部隊は壊滅した。

 その後、第八艦隊司令長官三川軍一は、輸送船団攻撃かラバウルへの帰還かの判断に迫られた。この海域の制空権は微妙であり、米空母の存在の可能性から留まる事は危険だった。

 しかし、ブーゲンビル島の航空隊の存在や、第二航空艦隊司令長官角田覚治(珊瑚海海戦後、第三航空戦隊を中核に再編成)から『朝には海域で航空支援が可能』という連絡を受けた事で、輸送船団攻撃を決意した。これにより、輸送船団の大半は撃沈するか大破し、陸揚げされた物資にも砲撃した事で、アメリカ第一海兵師団の物資の大半が焼失した。その後、第二航空艦隊とブーゲンビル島に進出したラバウル攻撃隊による反復攻撃が行われ、周辺海域にいた敵艦艇や輸送船は軒並み撃沈し、上陸した敵部隊にも攻撃を加えた。

 これにより、連合軍の被害は巡洋艦8、駆逐艦4、輸送船全てが撃沈され、兵員の損失も陸上と合わせて5千人近くに上った。

 一方の日本側は、「加古」が集中砲火を浴びて大破し、ラバウルへの帰還中に潜水艦の攻撃によって沈没した。また、「青葉」も集中砲火によって中破し、特に艦橋に数発が直撃した事で艦長以下死傷者を多数出した。

 

 この海戦後、海軍陸戦隊が上陸し、飛行場設営隊と合流した。これにより、兵力は約3千名となった。未だに海兵隊との戦力差は大きかったが、制空権がある事から戦闘は有利に進み、一度は奪われた飛行場を取り戻した。そして、早急に修理が行われ、ブーゲンビル島に退避していた航空隊が戻ってきた事で、ガダルカナル島の制空権は日本の手に戻った。

 

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 ガダルカナル島攻略の第一歩で躓いたアメリカ軍は、その後の対策に迫られた。ガダルカナル島には、上陸した第一海兵師団の残りと沈没した艦艇から脱出して島に上陸した将兵が合計1万2千人程残っていた。

 しかし、重機や戦車、食糧などの物資の多くは輸送船毎海に沈み、陸揚げされたものも艦砲射撃によって多くが焼失した。また、ガダルカナル島周辺の制空権・制海権は日本にあり、補給をするにも救援に向かうにも困難が付き纏った。実際、何度か高速輸送船団が組まれたものの、航空隊や現地の艦隊の攻撃によって撃退されている。これによって、島に残された部隊は深刻な飢餓状態にあった。

 それでも、ここで撤退する様な事になれば、本当にオーストラリアは戦争から離脱しかねなかった。そうなれば、戦争スケジュールは大幅な変更を余儀無くされ、最悪の場合は戦争そのものを失う可能性があった。

 それを避ける為にも、アメリカは再びガダルカナル島に兵力を向けた。一個師団の増援と大量の物資を満載した輸送船団を伴って、8月20日にはソロモン諸島沖に進出した。

 

 これに対し日本は、増援の川口支隊を第三艦隊(第一航空艦隊を再編成したもの)の護衛の下、ガダルカナル島に向かっていた。ガダルカナル島にアメリカ軍機はいないものの、近隣のニューヘブリデス諸島やニューカレドニアには進出しており、時折長距離爆撃機が進出して妨害してくる為、海上警備総隊単独では不安視された為である。

 

 8月23日、日本の偵察機が米機動部隊を発見した。しかし、発見が午後を回っており距離もあった事から、この日の会敵は無かった。翌日、両軍の偵察機がほぼ同時に機動部隊を発見し、攻撃隊を放った。

 海戦の結果だが、戦力の差から日本の勝利だった。アメリカは、この海戦に参加した2隻の空母(「レンジャー」、「ディスカバリー」)を失っただけで無く、巡洋艦3、駆逐艦2を失い、戦艦1(「ノースカロライナ」)と巡洋艦2が中破した。また、後方にいた輸送船団も空襲を受け、8割が沈むという大損害を受けた。

 日本の方も無傷では無く、「翔鶴」が中破、「高雄」が小破した。この程度で済んだのは、直掩機の多さや敵攻撃隊の少なさに救われた為だった。

 

 この海戦により、アメリカの救援作戦は失敗した。当然、第一海兵師団は増援や補給を受けられず、今度こそ降伏をせざるを得ない状況になった。その為、今度は第一海兵師団を撤退させる為の作戦が検討される事となった。

 日本も、機動部隊の損傷によって後方に下がる事となったが、増援が送られた為、敵を降伏若しくは殲滅する用意が整った。実際、8月末から敵陸上部隊と戦闘を行ったが、戦力の見誤りや重装備の不足などから手詰まりとなり、これを受けて、本来ならFS作戦で投入する筈の師団規模の戦力を投入する事となった。

 

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 2度のソロモン海での戦闘によって、アメリカ海軍は多くの戦力を失った。特に、虎の子の空母を全てと、艦隊のワークホースである巡洋艦を多数失った事は、艦隊編制に支障を来たす程だった。また、高速輸送船も多数失った事で、輸送能力の低下にもなった。

 戦力の穴埋めは、アメリカの工業力をいかんなく発揮して再建中であり、東海岸の造船所ではエセックス級空母、ボルティモア級重巡洋艦、クリーブランド級軽巡洋艦の大量建造が行われており、輸送船(リバティ船やT2タンカー)も大量建造中だった。

 しかし、短期間で大量の戦力を損失する事は想定しておらず、開戦時並みの戦力になるには1年近く掛かると見られた。また、艦艇と同時に失ったセイラーも多数(現在まで2万5千人程)であり、そちらの補充も行わなければならなかったが、セイラーは技術職であり簡単に補充出来るものでは無かった。その為、前線からベテランが新兵教育の為に相次いで引き抜かれたり、新兵のまま前線に出すなど相次いだ。これにより、アメリカ海軍全体の練度の低下が発生し、そのまま戦線に出した事で損害が拡大するという悪循環になった。

 

 これを受けて、アメリカは当初の方針を撤回し、ガダルカナル島からの一時撤退、ニューヘブリデス諸島やニューカレドニアの防備を固め、時機を見て再度ガダルカナル島に侵攻する事を決定した。その為に、ガダルカナル島にある日本軍の飛行場(ルンガ飛行場)を艦砲射撃で一時的に機能を停止させ、その間に将兵を救出する作戦が立案された。

 9月17日、戦艦「アラバマ」(史実の第二次世界大戦中に竣工したサウスダコタ級戦艦。この世界では、ダニエルズプランのサウスダコタ級戦艦の「サウスダコタ」と「インディアナ」が完成)と「ノースカロライナ」を主力とする打撃部隊と、将兵を救出する輸送部隊がニューカレドニアを出撃した。

 

 一方、日本は南太平洋方面でのアメリカの通信の増加や潜水艦からの情報でこの艦隊を確認したが、輸送船団を伴っている事から大規模な増援と考えた。実際は違うのだが、敵が出てきたのだからこれを叩くのが常道として、当時トラックにいた第一戦隊(「加賀」、「土佐」、「長門」、「陸奥」)を含む艦隊とラバウルの第八艦隊をガダルカナル方面に出撃させた。

 

 両軍共に、空母を伴わない艦隊編制だった。これは、アメリカ軍は運用可能な高速空母がいない事、日本軍は航空隊の再編成や整備で内地に帰投していた為だった。その為、艦隊決戦で決まる古風な戦闘になった。

 

 両軍の激突は9月20日の夜だった。両軍のレーダーがほぼ同時に相手を捉え、方角や反応の大きさから味方では無いと判断し、主砲が火を噴いたのはそれから2分後の事だった。

 艦隊戦は日本の優位に進んだ。数では日本の方が有利であり、目的も日本の方が単純(アメリカは飛行場の砲撃、日本は敵艦隊の迎撃)である事、夜戦を重視した訓練などから、5斉射目で「アラバマ」を夾叉している。

 アメリカ側も応戦し、レーダー技術ではアメリカの方が進んでいる為、夜間戦闘でも充分に効果を発揮した。こちらも、6斉射目で先頭を行く「加賀」と最後尾の「陸奥」を夾叉している。また、戦艦同士の砲撃戦の最中に、水雷戦隊が突撃を開始し、魚雷を発射しており、内2本が「陸奥」に命中してる。

 しかし、数の差はどうにもならず、砲撃開始30分で「アラバマ」と「ノースカロライナ」は沈黙した。特に「ノースカロライナ」は、装甲が対40㎝防御に対応していなかった為、煙突部や後部砲塔に直撃弾を喰らい、速力減少と後部砲塔使用不可となった。火薬庫に火災が回らなかったのはアメリカの高いダメコン能力の賜物だが、速力の低下によって更に被弾する事となり、1発の水中弾が命中して完全に行き足が止まり、その後は2発が主砲塔を貫通して弾薬庫に直撃し轟沈した。「アラバマ」も、「ノースカロライナ」の被弾後に集中砲火を喰らい、主要区画は破られなかったものの、それ以外の区画では火災によって使用不可能となった。その中で、突入してきた「鳥海」、「摩耶」以下の水雷戦隊を阻止出来ず、3発の魚雷を喰らった事で横転沈没した。これ以外にも、巡洋艦2と駆逐艦1を失っている。

 これに対して日本の被害は、集中砲火を浴びた「加賀」が大破し、魚雷が命中後に「アラバマ」の最後の抵抗で「陸奥」も数発被弾して大破した。「加賀」の方は1930年代の大改装で装甲を強化していた事から、消火さえ完了すれば曳航可能な状況だった。実際、海戦後に消火が完了し、「土佐」に曳航されトラックに戻っている。

 「陸奥」の方は、魚雷を喰らって浸水が酷く、曳航は無理と判断された。また、火災も酷く、消火出来るか不明だった。その為、自沈するしかないと判断され、生存者を全員収容後、駆逐艦の魚雷によって自沈処分となった。これにより、「陸奥」が太平洋戦争で初めて日本海軍が失った戦艦となった。

 

 このまま救援作戦が成功すれば、アメリカとしては「犠牲は大きかったが、作戦の目的は果たした」と言えたのだが、残念ながら、救援作戦の方も失敗に終わった。これは、第八艦隊が輸送部隊に突撃をした為だった。これにより、輸送部隊は大損害を受け、特に輸送船については全て沈没するか大破して輸送に使えなくなった。

 帰る手段を失った第一海兵師団は、海戦の翌日に日本の航空隊や艦隊からの攻撃に晒され、その後のガダルカナル島守備隊の突撃に耐えられずに降伏した。これにより、アメリカの作戦は失敗し、ただでさえ数が少ない巡洋艦や輸送船、セイラーを大量に失った。また、将校の損失も大きく、アメリカ海軍の人材面での枯渇は、戦争そのものを揺るがしかねない大問題となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争④

すいません。当初、太平洋戦争の経緯は3話程度で終わらす予定だったのですが、思っていた以上に変化した為、更に続きそうです。


 ガダルカナル島からアメリカ軍を追い出した日本軍は、1942年内にFS作戦を実行する予定だった。しかし、相次ぐ大規模作戦によって、燃料不足が著しかった。また、艦艇や航空隊の損傷、将兵の疲弊による練度の低下から、整備・休養・補給体制を整えなければならなくなった。その為、1942年9月以降は準備期間となり、当初予定のFS作戦は年が明けてからに変更となった。

 

 これに対してアメリカも、戦力不足から動く事が不可能だった。空母は無くなり、巡洋艦も不足、おまけにセイラー不足で満足な活動も難しいという、外洋海軍としては致命的だった。その為、ソロモン戦以降は戦力の充実とセイラーの育成に時間が費やされ、ハワイやオーストラリア南部、ニューカレドニアなどの防備強化が行われた。その一方、潜水艦を用いた通商破壊も積極的に行われた。これらは全て、ある程度戦力が揃う1943年中頃までは守勢防御に徹し、戦力が揃い次第反攻作戦を行う計画に沿ったものだった。

 しかし、通商破壊は戦果が目に見えにくく短期的には分かりにくい為、早急な戦力の拡充が求められた。また、海上護衛総隊の存在から、日本近海や輸送船団への通商破壊は低調であり、常に半数の潜水艦が帰還しなかった。それだけでなく、航空機を用いた妨害や機雷帯航法の採用、商船隊の定時連絡の取り止めなどが行われた事で、輸送船団を発見する事そのものが難しくなっていった。

 

 しかし、これはあくまで日本近海や南洋諸島、東南アジア方面での話であり、ニューギニア・ソロモン諸島方面では一定の成果を出していた。これらの地域は、海上護衛総隊の管轄外である為である。

 それでも、日本はこの地域に常に重巡洋艦を含む艦隊を待機させており、ラバウルの第八艦隊、ポートモレスビーの第九艦隊がこの地域の海上輸送路、特にラバウル―ポートモレスビー航路(通称、ラボ航路)の警戒に当たっていた。

 一度、ラボ航路の一時的封鎖を目的に、1942年12月に潜水艦・重爆撃機・巡洋艦を中心とした水上艦隊の攻撃による攻撃を仕掛けたが、輸送船の半数を撃沈するも、参加した巡洋艦5隻が日本艦隊と航空隊の攻撃で沈没。潜水艦も3隻沈没。航空機も8機撃破されるという大損害を出した。これにより、太平洋方面のアメリカの巡洋艦はほぼ全てが無くなった。そして、この行動が、日本の新たな行動の呼び水となった。

 

 1943年1月、日本はニューギニア・ソロモン諸島でアメリカの圧力が増している事を受け、今後予定されるFS作戦の成功を円滑化する為、ニューヘブリデス諸島・オーストラリア北東部を攻撃し、現地戦力を破壊する作戦を立案した。これは、現地での航空戦による消耗や相次ぐ輸送船団への攻撃によって、このままでは現地を維持する事が難しいと判断された為だった。

 「い号作戦」と命名されたこの作戦は、当時日本が出せるほぼ全ての戦力が投入された。戦艦10(「大和」、「武蔵」、「土佐」、「長門」、「天城」、「赤城」、「金剛」、「比叡」、「榛名」、「霧島」)、空母12(「高雄」、「愛宕」、「蒼龍」、「飛龍」、「翔鶴」、「瑞鶴」、「隼鷹」、「飛鷹」、「龍驤」、「祥鳳」、「瑞鳳」、「龍鳳」)、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦も10隻以上投入され、陸軍航空隊を含む現地航空隊計300機も参加予定だった。ここまで大量の戦力が投入される理由は、現地の防備が厚いという報告から、当初案の航空攻撃だけでは大した被害を与えられないと考えられた事、現地航空隊や機動部隊サイドから戦艦部隊への批判(『自分達だけ安全な後方にいる気か』と言われた)を解消する目的からだった。

 

 2月11日、い号作戦が開始され、戦艦部隊の第一艦隊(連合艦隊司令長官豊田副武直率)と空母機動部隊の第三艦隊はトラックを出撃して南下した。

 アメリカは、潜水艦からの報告によってこれを発見したが、攻撃目標が分からなかった。これは、1943年に日本が暗号を全面改訂した事で、暗号解読に時間が掛っていた為だった。

 その後、潜水艦からの報告で南進を続けていると判明し、南太平洋で大規模な作戦を行うと考え、その方面への防衛として再建なったばかりの空母機動部隊を向かわせた。戦力は、エセックス級空母3(「エセックス」、「ヨークタウン」、「レキシントン」)、インディペンデンス級空母2(「インディペンデンス」、「プリンストン」)、アラバマ級戦艦2(「マサチューセッツ」、「オレゴン」)、ノースカロライナ級戦艦1(「ヴァージニア」)を中心としていた。

 しかし、日本も無線傍受やミッドウェーやギルバートからの長距離偵察でこれを掴んでおり、第六艦隊は予定進路中に潜水艦を待機させた。これが見事に当たり、米艦隊は潜水艦6隻による集中攻撃を受け、空母2(「ヨークタウン」、「プリンストン」)、戦艦1(「オレゴン」)、巡洋艦1、駆逐艦2が沈没、又は大破後自沈処分となった。これを受けて、米艦隊は被害の大きさや日本艦隊の迎撃が不可能になった事から、急遽ハワイに帰投した。

 

 第六艦隊の活躍で米艦隊を撤退させた事で、第一・第三艦隊は敵艦隊による横からの挟撃を心配する事無く、当初の予定通り作戦を進めた。17日、両艦隊が予定海域に進出したのを機に、い号作戦が始まった。

 最初の攻撃は、第三艦隊によるニューヘブリデス諸島・エスピリツサント空襲だった。これまで、エスピリツサントはガダルカナル航空隊による攻撃を受けており、実際、北部を対象にレーダー監視網が設けてあった。

 しかし、機動部隊の利点である行動範囲の広さを利用して、東側から航空隊が侵入してきた。完全に虚を突かれたエスピリツサント守備隊は、直掩機を上げ切らない内に空襲を受けた。これにより、直掩機と地上にいた機の殆どが破壊され、続くガダルカナル航空隊(今作戦の為に、ガダルカナルに進出したラバウル航空隊と陸軍航空隊との合同部隊)の空襲によって、今度は兵舎や港湾施設にも被害が出た。極め付けは、夜間に第一艦隊がエスピリツサント沖に進出して艦砲射撃を行った。これにより、港湾施設や飛行場は完膚無きまでに破壊され(基礎から作り直すレベル)、向こう半年間は再建の為に費やされる事となった。

 

 エスピリツサント攻撃後、珊瑚海に抜けた両艦隊は、続けてオーストラリア東海岸を攻撃した。特に、ポートモレスビーに圧力を掛けている北東部のケアンズやクックタウン、タウンズビル、南太平洋方面の連合軍の拠点であるブリスベーンに対して重点的に攻撃を仕掛けた。各基地は、艦載機と基地航空隊の空襲、艦砲射撃によって徹底的に破壊された。特に港湾部は、艦砲射撃によって一から造り直さなければならない程の被害を受けた。

 同時に、オーストラリア北部のポートダーウィンに対する空襲も強化され、こちらも通常の倍近い機数の空襲を受けて基地・港湾施設に大きな被害を与えた。また、一部の機体は航空機雷を港内や湾内に投下し、この地域における軍事的価値を下げる活動も行われた。

 

 2月25日に、目的を果たしたとしてい号作戦は終了した。日本側の被害は、損失艦艇は無し、航空機を艦載機・基地航空隊を合わせて60機程と、規模の割には非常に小さな被害で済んだ。

 それに対して連合国側の被害は、攻撃を受けた各基地が壊滅し、航空機を800機近く撃墜か地上撃破された。また、港内で失った輸送船や工作艦、潜水艦などを合わせて20万トン以上を失い、将兵の死者も5万人近くに上った(これらの被害は、救援に向かった機動部隊の損害を加えていない)。

 

 この作戦で、連合国(と言うよりアメリカ)は、オーストラリアに大量の物資と兵器、兵員を送る必要が出た。この作戦で生じた被害によって、オーストラリア首相が『これ以上本土に被害が出る事は許容出来ない。連合国による更なる救援が無い場合は、日本との講和も辞さない』と発言した為、オーストラリアの戦争離脱を避ける為にも、大量の軍を置いて民心を安心させ、破壊された施設の再建を行う必要があった。ここで投入された物資は大量で、一時他の連合国向けのレンドリースが減少したり、アメリカ軍向けの兵器の生産が遅延するといった事態まで起こす程だった。

 兎に角、大量の救援をオーストラリアに投入した事で、オーストラリアの戦争離脱という最悪の事態は回避出来た。しかし、ここで大量の物資や兵器を投入した事で、アメリカ軍の再建が2か月近く遅れる事となり、その後の戦争の流れから、オーストラリアに投下した物資や兵器が完全に遊軍化した為、結果からすれば、アメリカは膨大な無駄遣いをした。

 また、南太平洋方面における最重要拠点であるブリスベーンが壊滅した事で、この方面での通商破壊に支障を来たす様になった。潜水艦だけでなく、施設も完全に破壊された為である。施設の再建と並行して、他の方面から潜水艦を持ってくるなどして体制を整えたが、それでも3か月は満足に活躍出来なかった。

 

 一方の日本だが、この成功を受けてFS作戦を実行しようという流れになりかけたが、海軍情報本部と海上警備本部からの報告から、作戦を実行に移す事が難しくなった。情報本部からは「1943年内にアメリカは戦艦4、空母10、巡洋艦と駆逐艦を多数揃え、翌年には43年の数字の倍を揃える」と、警備本部からは「護衛地域が広がり過ぎて護衛艦の数が不足し、そこを突かれて撃沈される輸送船が増加している。FS作戦を予定通り1943年4月に行う場合の輸送船の手配が付かない」という報告が上がった。

 その為、FS作戦の実行を2か月先延ばしにする事となった。しかし、戦局の急激な変化から、FS作戦は幻の作戦となった。

 

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 い号作戦から1か月後、インド洋方面で次の作戦が実行された。それは、イギリス領インド帝国(現在のインド、パキスタン、バングラデシュ、スリランカ)のチッタゴンを陸海の攻撃で攻略するものだった。これは、インドに直接進行する事でイギリスの継戦能力を下げる事、インド洋を経由して行われている援蒋ルートの遮断が目的だった。

 当初、この作戦はビルマ侵攻が一段落した1942年8月頃に行いたかったが、輸送船の手配や海軍が南太平洋に総力を注いでいた事から、作戦が延期されていたものだった。それが、1942年にアメリカのガダルカナル島撤退で南太平洋での戦闘に一段落着いた事、資源輸送に使われていた輸送船の手配が付いた事(戦時標準船の第一弾が完成した為)、海軍もインド洋方面でポイントを稼ぎたかった事から、この作戦が実行に移された。ただ、輸送船の手配に遅れが出た事、1942年末から英印軍による限定的な侵攻作戦が行われた事から、作戦開始が1943年3月に持ち越された。

 

 3月26日、陸路からチッタゴン方面に侵攻した第33師団が攻撃を開始した。戦線は2週間程膠着したが、4月10日に英印軍は海上から戦艦「伊勢」、「日向」による艦砲射撃と、軽空母「瑞穂」(史実通り攻撃を受けたが、当たり場所が良く中破止まり。この時に空母に改装)の艦載機による空襲を受けた。その後、第54師団の上陸が行われた。海上からの攻撃、特に戦艦による艦砲射撃によって英印軍は大混乱となり、そこに陸上からの第33師団と上陸した第54師団による攻撃によって、統制力が完全に崩壊した。これによって、英印軍は総崩れとなり、4月16日に英印軍はチッタゴンを放棄した。翌日に日本は市内に入城し、4月中までに周辺地域の掃討を行って、チッタゴンの安全を確保した。

 

 チッタゴン作戦の成功で、日本はインドへの足掛かりを獲得した。そして、10月21日にチャンドラ・ボースを首班とする「自由インド政府」にチッタゴン周辺部とアンダマン・ニコバル諸島を領土として譲渡した(但し、警備目的で軍の駐留は続く)。

 因みに、チッタゴンの占領によって、ビルマ・インド方面の援蒋ルートの遮断という目的はほぼ達成した事、後述するインドの混乱を利用する目的から、チッタゴン防衛が最重要目的となり、計画中だったウ号作戦(インパール作戦)は無期延期となった。

 

 一方のイギリスは、インド洋東部の良港であるチッタゴンを失った事で、中国への輸送路が遮断された。一応、カルカッタ(現・コルカタ)を利用出来なくもないが、距離が延びる事、チッタゴンからの攻撃がある事から、輸送効率が大幅に低下した。また、通商破壊も積極的に行われた為、中国への物資は予定量の半分程度しか届かなかった。

 自由インド政府樹立後は酷くなり、インド国内ではサボタージュが活発となり、国内の流通が滞ったり、軍の編制が遅れたり、国内の治安活動で軍を動かせなくなるなど、インドの活用が難しくなった。その為、この混乱を早期解消する為に反攻作戦が計画されるが、多方面に注力していた為、実施は1944年末まで待たなければならなかった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑤

 1943年5月末、アメリカはミッドウェー島奪還作戦を実行した。これは、前年に日本軍に占領されている事、占領以降続いているハワイへの妨害を無くす事、一定程度まで海軍が再建された事から、実戦経験を積ませる意味で行われたものだった。この時動員された戦力は、戦艦4(「アイオワ」、「マサチューセッツ」、「ロードアイランド」、「ネブラスカ」:「ロードアイランド」と「ネブラスカ」はアラバマ級戦艦の3番、4番艦)、空母7(「エセックス」、「レキシントン」、「エンタープライズ(史実のバンカー・ヒル)」、「インディペンデンス」、「ベロー・ウッド」、「カウペンス」、「モンテレー」)、巡洋艦8を主力とした。主力艦艇の殆どは開戦後に竣工したものであり、航空機も全て新型(F6Fヘルキャット艦上戦闘機、SB2Uヘルダイバー艦上爆撃機、TBFアベンジャー艦上攻撃機)を搭載していた。

 しかし、練度については余り向上しておらず、実戦不足も相まって、書類上の戦闘能力を発揮出来るかは疑問だった。戦力面でも、日本が機動部隊の総力を挙げて出撃してくる事を前提としておらず(日本が全空母を出動したら大小合わせて12隻が出てくる)、もし日本が総力を挙げて出撃してきた場合は、即座に作戦を中止する予定だった。

 

 日本は、潜水艦とミッドウェー航空隊の偵察によって、ハワイから機動部隊が出撃したという知らせを受けた。この知らせを受けて、トラックにいた第三艦隊(い号作戦時のままの為、戦艦4、空母12という艦隊。2つに分かれており、第一群は小沢治三郎中将が第三艦隊司令長官を兼任して率い、第二群は角田覚治中将が率いる)が出撃し、臨時で「大和」と「武蔵」も編入された。

 日本にとってミッドウェー島は、既に太平洋上に孤立した島でしか無く、占領し続けるだけでも一苦労だった。実際、補給任務中に高速輸送船を10隻と護衛艦隊1個戦隊を失っている。

 その為、これを利用して敵機動部隊撃滅とミッドウェー島からの撤退を行おうとした。この為の検討は占領後暫くしてからされており、機動部隊もFS作戦用に準備されていた事から行動は早かった。

 アメリカ側は、機動部隊出撃を暗号解読と潜水艦からの報告で確認したものの、暗号が複雑化していた事から進出方面を読み切れず、潜水艦も報告直後に護衛艦に沈められた事から、ミッドウェー方面に向かっている事を知らなかった。

 

 6月5日、奇しくも前年の同じ日に日米機動部隊が相対した日に、同じ海域で再び相対する事となった。この日、アメリカによるミッドウェー島攻撃が行われ、1回目の艦載機の空襲でミッドウェー島の各種施設は炎上し、ミッドウェー守備隊の命運は尽きつつあった。

 しかし、2回目の攻撃隊の発艦中に、第三艦隊の偵察機によって発見された。それと時を同じくして、艦隊の周辺海域を哨戒していた機体からも『敵機動部隊発見』の報告が届いた。

 これに慌てたのは機動部隊司令部だった。既にこちらの位置を知られた以上、事前に決められていた即時撤退を行うべきという意見が多数あった。現状で戦っては勝ち目が無く、徒に戦力と将兵を失うだけであり、そうなれば再建が更に遅れる事になる為だった。

 その一方、第一次攻撃隊はまだ戻ってきておらず、ここで移動すると攻撃隊の収容が難しくなる。また、第二次攻撃隊も発進中の為、そちらも戻す必要がある。それに、ここで日本機動部隊を叩いておけば、今後の反攻作戦に有利になるという意見も少なくなかった。

 どちらの意見も間違いでは無い為、決断は司令官であるハルゼー中将に任された。その結果、第二次攻撃隊をそのまま敵艦隊に向け、第二次攻撃隊が戻るまでは防御に徹し、全機収容後速やかにハワイに撤退する方針となった。やや中途半端に思えるが、状況が微妙過ぎた事、日本側との戦力差から、ハルゼーと言えども大胆な判断を下せなかった。

 

 日本側は2回、アメリカ側は1回の攻撃で終わったが、両軍共に大きな被害が出た。

 日本側は、アメリカ軍艦載機の行動範囲を誤り、その範囲内に進出した事で攻撃を受けた。それが間の悪い事に、第二次攻撃隊が発艦中だった。この時は、レーダーによる探知と無線を駆使した防空戦を行った事、未だに高い練度を持つ艦載機の活躍によって、被弾した艦艇は少なかった。それでも、「愛宕」、「蒼龍」、「祥鳳」が被弾し、発艦中という事もあって艦載機や爆弾に引火して大破した。防御力の低い「蒼龍」と「祥鳳」は消火が不可能と判断されて自沈処分となり、「愛宕」は何とか消火が完了して撤退した。他の艦艇も、駆逐艦2隻が沈没し、「榛名」と「筑摩」が小破した。

 アメリカ側はもっとひどく、「エセックス」、「レキシントン」、「インディペンデンス」、「カウペンス」、「モンテレー」が沈没し、他に巡洋艦2と駆逐艦2が沈没した。「マサチューセッツ」、「ネブラスカ」、「エンタープライズ」は大破しつつも航行可能でありハワイへと撤退する所だった。

 航空隊の被害も酷く、日本はアメリカの濃密な対空砲火や、洗練された防空戦によって出撃した3割が未帰還となり、アメリカは空母毎破壊されたり、収容が間に合わずに海に投棄する機体などを合わせて6割を失う事となった。これにより、日本は機体の防御力の強化や集中運用による敵の迎撃能力の飽和を、アメリカは空母の早期戦力化を目指す事となった。

 

 アメリカがハワイに撤退する最中に、『敵戦艦部隊接近中』という報告が挙がった。日本艦隊は22ノットで接近しつつあるが、米艦隊は損傷艦に合わせる必要から14ノットが限界だった。また、距離も100㎞とかなり接近していた為、逃げる事も難しかった。幸い、午後4時を回っており、この後の航空機による攻撃は無いと見られたが、それでも戦艦を含んだ艦隊が突入すれば全滅は免れない。

 その為、損傷艦全てを自沈して退避する意見が強かったが、太平洋艦隊司令部の事前打ち合わせでは『空母を最優先で守る事』と言われていた為、「エンタープライズ」を退避させる為に水上艦艇が囮になる案も出た。両者の意見で再び対立したが、ハルゼーは素早く後者の案を採用した。これは、旧式とはいえ戦艦は取り敢えず数が揃っているが、空母は1944年になるまで数が揃わない為、ここで貴重な空母を失う事は出来ないと考えた為だった。これにより、空母と戦艦以外の損傷艦全て、それらの護衛艦以外の全てを接近する日本艦隊に当てて、空母を安全圏に逃がす方針が取られた。

 

 期せずして、太陽が出ている状態でかつ弾着観測用以外の航空機を用いない正統派の艦隊決戦が発生した。この艦隊決戦で、アメリカ側は戦艦3、巡洋艦4、駆逐艦6を失い、残った艦艇も全て小破した。大損害だったものの、空母を逃がすという目的は果たした。

 一方の日本側は、巡洋艦2、駆逐艦4を失ったものの、戦艦については損失が無かった。しかし、旗艦「大和」に攻撃が集中し、内1発が艦橋に命中して栗田健男中将以下司令部の面々が負傷してしまい、人事不省となってその後の追撃が中止となった。

 

 海戦は日本の勝利に終わった。その後、予定通りミッドウェー守備隊の収容が行われた。これにより、日本は当初の予定通りアメリカ機動部隊を叩き、ミッドウェーからの撤退が完了した。戦術的にも、戦略的にも、日本の勝利だった。

 しかし、ミッドウェーの撤退以降、日本の攻勢は殆ど無くなった。この頃になると、アメリカの生産力はフル稼働状態となり、損失しても直ぐに数倍の規模で展開出来る程にまでなった。実際は、運用する人員の問題から簡単に展開は出来ないが、生産力や人口、後方支援能力によって日本よりも遥かに早く大量に展開した。

 その結果、この海戦から2か月後、アメリカは珊瑚海とミッドウェーの両面作戦を実行する事となった。

 

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 1943年8月1日、アメリカは「ライトハウス(灯台)作戦」を実行した。この作戦は「第二次ウォッチタワー(望楼)作戦」とも言われ、その名の通り、一年前に失敗した南太平洋方面での反攻作戦を再び行うものだった。

 前回と違う点は、目標地点がガダルカナル島では無くポートモレスビーである事だった。この時のアメリカにとって、ガダルカナル島は南太平洋に浮かぶ島でしか無く、飛ばしても問題無いと判断された。それよりも、早急にポートモレスビーを占領して、北上してフィリピンへの足掛かりを築きたいというアメリカ軍、というよりマッカーサーの思惑があった。何しろ、南太平洋で大きく躓いて半年から1年を無駄にしたのである。これ以上、時間を無駄に出来なかった。その為、ミッドウェーには再建された空母機動部隊を、ポートモレスビーには旧式戦艦と護衛空母が大挙して押し寄せた。

 既に撤退していたミッドウェーについては無駄弾を大量に消費しただけだったが、ポートモレスビーは壮絶な戦闘が繰り広げられた。上陸してから1か月半後に、日本軍の大半はポートモレスビーで玉砕し、僅かに残った生き残りは後背のオーエンスタンレー山脈に逃げ込んだ。上陸から占領まで時間が掛った理由は、日本軍による現地の要塞化が進んでいた事、補給が続いた事と備蓄物資が大量にあった事から継戦能力が高かった事が挙げられた。

 

 ポートモレスビーが戦場になった事で、FS作戦の実行は事実上不可能となり、ガダルカナル島を占領し続ける理由も無くなった。また、ポートモレスビーがアメリカの勢力圏となった事で、ラバウルが再び前線となった。その為、南太平洋からの撤退が8月半ばに実施される事となった。

 尚、この作戦が開始される少し前の8月7日に、豊田副武連合艦隊司令長官が辞任した。これは、FS作戦が不可能になった事、この後の戦争に自信が無くなったなど様々な憶測が出たが、重要な時期に辞任した事は大きく批判された。しかし、この重要な時期に司令長官不在は拙い為、高須四郎が代理を務めた後、8月17日に堀悌吉が連合艦隊司令長官に親補された。同時に、後任の海上警備総隊司令長官に古賀峯一が親補された。

 堀悌吉が司令長官に就任後、直ぐに新しい国防体制の構築が御前会議で決定した。その内容は、トラック諸島を外縁に、千島列島、小笠原諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島、ビアク島、蘭印、アンダマン・ニコバル諸島、チッタゴンを結ぶ線を「絶対国防圏」として、その圏内に敵を入れないものだった。堀はこの構想が具体化する前から、戦線の整理と戦力の集中を行う為、南太平洋やギルバート・マーシャルからの撤退を考えていた。

 

 南太平洋からの撤退作戦は「ろ号作戦」と命名され、ガダルカナル島、ブーゲンビル島、ラバウルなど南太平洋地域に展開する航空隊がポートモレスビー沖にいる米艦隊を攻撃、その間にこの地域から兵力をラバウルに撤退するものだった。その後、進出するであろう中部太平洋(マリアナ諸島やパラオなど)に展開する事になっていた。また、第二段作戦として、ギルバート・マーシャル両諸島からも12月から翌年頭にかけて撤退する予定となった。

 

 ろ号作戦は、6割の成功となった。航空機の4割が落とされるか帰還後に廃棄されるなどした為、今後の作戦に大きな影響が出るだろうと見られた。一方、陸上部隊の撤退は順調に進み、2回程米艦隊の夜襲で全滅したものの、それ以外は被害を受ける事無くラバウルに撤退した。

 しかし、第二段作戦は行う直前にアメリカ軍がギルバート諸島に侵攻した為、マーシャル諸島からの撤退のみとなった。この撤退を支援する為、航空隊と潜水艦が大挙して出撃したが、護衛空母と駆逐艦を数隻撃沈したのみであり、逆に出撃した航空機と潜水艦の半数を失った。その後の撤退には成功したものの、中部太平洋方面の航空戦力の多くを失う事となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑥

 1944年2月17日、アメリカ機動部隊はトラック諸島を空襲した。これは、今後半年以内に実行されるマリアナ諸島攻撃の為の前準備として、マリアナ諸島の後背に位置するトラック諸島を無力化するものだった。

 しかし、絶対国防圏の外側に指定された為、この地域から日本軍の主力は既に撤退しており、トラックには航空隊(約300機。殆どが戦闘機であり、多くがラバウルやソロモンから撤退した部隊)と小規模の輸送船団と護衛艦、数隻の潜水艦が存在するのみだった。そして、少数ながら電探監視哨(レーダーサイト)が存在した為、接近してくる敵機の存在を確認出来た。

 

 空襲の結果だが、両軍の被害は甚大だった。

 アメリカ軍は、空母の数が少なかった事(空母4、軽空母2。史実の3分の2の戦力)、現地航空隊の抵抗が激しかった事が理由だった。その為、航空機約400機の内、半数近く(232機)が撃墜されるか帰還後に処分する事となった。それに加え、現地航空隊で僅かに存在した攻撃機と昼間に退避した潜水艦による夜襲を受け、軽空母1と駆逐艦2が沈没し、空母1が中破するなど大損害を受けた。

 日本軍も無傷では無く、現地航空隊の3分の2以上の約220機が撃墜されるか地上撃破され、トラック諸島の航空戦力がほぼ消滅した。また、現地にいた艦艇・船舶合わせて7万トンが沈没か着底した。その他の燃料や食糧など各種物資にも大きな被害が生じ、トラック諸島の継戦能力は大幅に減少した。

 

 この空襲で、アメリカ軍は機動部隊の戦力を大幅に減らす事となった。これにより、空襲後に予定していた戦艦部隊による艦砲射撃は中止となり、トラック空襲後に予定していたマリアナ諸島の空襲も中止して撤退した。その後、失った航空戦力の補充に奔走する事となり、約2ヶ月間は活動する事は無かった。

 一方の日本軍も、トラック諸島の航空戦力の再建はほぼ不可能と判断して、現地からの撤退を検討していたが、それより早くアメリカ軍によるマリアナ諸島侵攻が行われた為、撤退も不可能となった。

 

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 1944年6月11日、アメリカ軍はマリアナ諸島のサイパン島に大規模な攻撃を行った。戦艦11(内、高速戦艦は3隻)、空母8、軽空母8、護衛空母14、巡洋艦24という大戦力だった。

 尤も、戦力と比較して、練度は決して高くなかった。航空隊は2月のトラック空襲の後遺症から数を揃える事を優先した為、練度の向上にまで手が回っていなかった。特に、地上支援が主任務の護衛空母の艦載機はそのしわ寄せを受け、艦隊用の高速空母に大量に引き抜かれたりして、一時は戦場に出す事すら難しいと判断される程、練度の低下が著しかった。

 艦隊の方も、未だに開戦時からのセイラーの大量喪失の後遺症と、1944年になってから急速に艦艇が竣工した事によって、練度の向上が見られなかった。また、今までの戦闘によって佐官クラスが大量に失われた事で、戦隊指揮官の不足も著しかった。その為、大西洋艦隊からの引き抜きや、駆逐艦の艦長を昇進させて指揮させるなどして(駆逐艦の艦長は商船隊から充てる)、何とか頭数を揃えたが、経験不足などから実戦での不安が常に付きまとっていた。

 また、マリアナ方面を優先した為、ニューギニア方面の作戦は一時中断となった。この為、東部ニューギニアやビアク島の上陸作戦はマリアナ方面の作戦が完了した後に実行する事となった。一説には、この方面で作戦を行わなかった事が、マリアナ戦で米軍が敗北した一因と言われる様になる。

 

 最初に艦載機による空爆から始まったが、日本側の迎撃が凄まじく、約300機が撃墜されるか帰還後に破棄された。これは、この作戦で投入された艦載機の2割近くに及び、この後の戦闘に支障を来たすレベルだった。また、艦載機の損害が大きい事から、戦艦を始めとした水上艦艇による攻撃が早められた。

 一方の日本側の被害も凄まじく、迎撃に上がった機体約350機の内、250機が失われた。それ以外にも、地上にいた各種航空機計400機の半数が撃破された。これにより、この地域の基地航空隊を統括していた第一航空艦隊の戦力は半減したが、完全に無くなった訳では無かった為、この後の戦闘で活躍する事となった。

 

 アメリカ軍のサイパン侵攻を受け、6月15日にタウイタウイ泊地を出港した。タウイタウイは、水深が深い上に無風状態が多い事から空母機動部隊が訓練するには不向きだったが、蘭印に近い事から燃料の確保がし易い事、マリアナ諸島や東武ニューギニアの双方に進出し易い事から、1943年後期からここで猛訓練が行われていた。また、対潜戦の訓練も同時に行われ、実際にタウイタウイに偵察・襲撃に来た潜水艦を数隻撃沈している。これにより、航空隊の練度は向上し、開戦時程では無いにしろ高い練度を持った部隊となった。

 その一方、航空母艦の数が多い事から、戦力の補充には時間が掛った。第二次ミッドウェー海戦で「蒼龍」を失ったものの、真珠湾を攻撃した残る5隻は残っており、1944年に入ってから「大鳳」、「天鳳」、「雲龍」、「蛟龍」が相次いで戦力化した事で、大型空母は計9隻あった。軽空母の方も、「飛鷹」や「隼鷹」以下各種合わせて9隻と、合計18隻の艦隊用空母が存在した。空母の数が多い事、後方支援能力や育成能力の低さから、どの空母も定数割れしていた。それが解消されたのが、5月末だった。

 

 日本海軍が出撃した日、アメリカ軍はサイパン島上陸を開始した。前述の艦砲射撃によって多くの陣地を破壊したかと思われたが、損害は軽微であり、上陸してきた舞台に対して激しい銃砲撃を加えた。これは、兵力や武器、砲弾や食糧、コンクリートなど各種物資の輸送が順調だった事で、陣地構築が進んでいた為だった。

 連日の激しい攻撃に晒されながらも、日本軍守備隊は連合艦隊が来る事を信じて必死に抵抗した。そして、18日に第二・第三艦隊がマリアナ沖に進出し、マリアナ諸島・パラオに対して「あ号作戦開始準備よし」の電文が打たれた。

 

 この電文を受け取って直ぐ、艦隊と全航空基地から偵察機が放たれた。濃密な偵察網を形成した事が功を奏し、正午前にテニアン島の偵察機が米機動部隊本体を発見した。先手必勝と言わんばかりに、第三艦隊、マリアナ諸島から航空隊が全力出撃した。そして、後詰めとしてパラオやヤップの航空隊はグアム島に展開した。

 アメリカ軍も第二・第三艦隊から発せられた無電を傍受し、近くに日本艦隊が来た事を知った。フィリピン沖に展開していた潜水艦からの報告が無かった為(日本の駆逐艦に沈められるか追い掛け回されて連絡出来なかった)、日本側の展開は予想外だった。その為、慌てて偵察機を出したものの、日本艦隊を発見する事は出来なかった。

 

 18日の戦闘はマリアナ諸島の残存航空隊が第一波攻撃、第三艦隊の艦載機が第二波攻撃となった。お互いが連携を取らずに出撃したが、偶然にも第一波攻撃の最中に第二波攻撃隊が襲来した為、米艦隊は統制の取れた迎撃を取れなかった。

 しかし、米艦隊の対空砲火は濃密で、多くの攻撃機が撃ち落された。実際、第一波攻撃の攻撃機の8割、第二波攻撃の攻撃機の6割が撃墜か帰還後に破棄となり、合計で350機が未帰還となった。

 それでも、空母1、軽空母2が撃沈され、空母2、軽空母2が損傷した(大型空母2は復旧して戦線に残る)。航空機も、艦内で破壊されたものを含め250機が撃墜か艦内撃破となって使用不可となった。

 その後、夕方になった事からこの日の戦闘は終了したものの、航空隊の帰還が夕方から夜になると見られた為、危険を承知で探照灯を付けて航空隊を誘導した。その結果、アメリカの潜水艦が第三艦隊周辺に寄ってきた為、対潜戦闘も繰り広げられた。幸い、潜水艦が艦隊中心部にまで寄ってこなかった為、空母の被害は無かった。

 

 翌19日、両軍は早朝から偵察機を出して、敵機動部隊の位置を探していた。そして、午前中に日本が米機動部隊を発見したが、その距離が非常に近距離だった(航空機で1時間半の距離)。これを受けて、全空母から全力出撃を行い、基地航空隊にもこれを知らせた。

 一方、これだけ近かった事から、アメリカも日本機動部隊を発見した。しかし、日本側より遅れて正午頃の発見だった。こちらも、護衛空母を含むすべての空母から全艦載機を出撃させた。

 

 この日の戦闘は、両軍に大きな被害が生じた。

 日本側は、空母3(「翔鶴」、「愛宕」、「雲龍」)、軽空母4(「瑞穂」、「龍驤」、「日進」、「千代田」)が沈没し、航空機約380機が撃墜か廃棄処分となった。また、これとは別に基地航空隊の約120機も損失した。

 アメリカ側は、空母3、軽空母2を失い、航空機約320機を失った。前日と合わせて、空母4、軽空母4、航空機約700機を失った。

 

 機動部隊の損失も大きいが、戦艦部隊や輸送船団の被害も大きかった。19日の機動部隊同士の戦闘後、日本の戦艦部隊がサイパン目掛けて進行している事が偵察で分かった。この時点で、日本艦隊と輸送船団との距離が100㎞程度しか無く、時間も間も無く夜になる時間であり、当日と前日の戦闘で艦載機を大きく減らしていた為、航空隊を出す事が出来なかった。その為、戦艦部隊が時間を稼いで、輸送船団と上陸部隊の脱出を手助けする事となった。

 日本側は戦艦7(「大和」、「武蔵」、「加賀」、「土佐」、「長門」、「天城」、「赤城」)、重巡洋艦8、軽巡洋艦2、駆逐艦16が突入し、アメリカ側は戦艦8(「サウスダコタ」、「インディアナ」、「コロラド」、「メリーランド」、「ワシントン」、「テネシー」、「カリフォルニア」、「ペンシルバニア」)、巡洋艦4、駆逐艦16で迎撃した。

 2時間に及ぶ戦闘の結果、アメリカ側は戦艦5(「サウスダコタ」、「コロラド」、「ワシントン」「カリフォルニア」、「ペンシルバニア」)、巡洋艦3、駆逐艦7が沈没し、残った艦艇も駆逐艦3を除いて全て損傷した。

 一方の日本側は、重巡洋艦2(「摩耶」、「開聞」)、駆逐艦4が沈没し、戦艦3(「武蔵」、「土佐」、「天城」)、重巡洋艦4、駆逐艦2が損傷した。日本側は、損傷した艦艇を護衛を付けて帰還させ、残った艦艇でサイパンに突入した。

 戦艦部隊が時間を稼いだものの、2時間では全ての部隊を収容する事は不可能だった。その結果、残っていた部隊と輸送船は日本艦隊の攻撃に遭い壊滅した。海上戦闘を含めて、アメリカ軍の戦死者・行方不明者は約7万人に上った

 

 20日、アメリカ軍は全軍の撤退を命令した。日本軍はこれを確認したものの、2日間の戦闘で弾薬・燃料が危ない状況だった為、追撃は不可能だった。

 日本側は、サイパンの占領を防ぎ、アメリカ軍を壊滅させるという目的を達した為、戦術的・戦略的勝利を手にした。しかし、艦載機・基地航空隊で失った約1400機の補充は事実上不可能となり、この地域の航空戦力は壊滅した。また、艦隊の方も多くの艦艇が傷ついた為、その修理の為に数ヵ月は行動不能と判断された。

 

 一方のアメリカ側はもっと酷かった。5度目の機動部隊の壊滅(第一次ミッドウェー、第二次ソロモン、い号作戦、第二次ミッドウェー、今回)、戦艦部隊も壊滅、陸上部隊も壊滅した上、当初の目的だったサイパン島の占領すら失敗した。これにより、太平洋での戦争スケジュールは大きく遅れ、マリアナ諸島への侵攻は先延ばしとなった。一方、パラオ・フィリピン方面の侵攻を進める事となった。

 アメリカにとって、太平洋方面での敗北よりも、ヨーロッパ方面における苦戦の方が痛かった。日本がイギリス軍の戦力を史実以上に叩いた事、インド洋で積極的な通商破壊を行った事で、ヨーロッパにおける連合国軍の戦力が低下していた。その最たる例が、マルタ島への補給作戦の失敗、北アフリカでのドイツ・アフリカ軍団の主力のイタリアへの撤退の成功、ドイツ軍のスターリングラードからの撤退成功、クルスクの戦いでのドイツ軍の勝利である。この為、ソ連軍の西進は停滞し、一部戦力が再編成を兼ねて本国やフランスに戻った。

 ノルマンディー上陸作戦は成功したものの、戦力と優秀な将兵の多くを太平洋方面に取られた事で、陸への効果的な支援を行えなかった。また、上陸した地域を預かっていたロンメル元帥の構想を受け入れて戦闘を行った為、予想以上の抵抗を受けた。この結果、ノルマンディーの橋頭保の確保に成功したものの、20万人近い死者・行方不明者を出しての成功だった。

 

 この2つの戦闘によって生じた約27万人の戦死者・行方不明者という被害は許容出来るものでは無く、議会からの突き上げは激しく、ルーズベルトはショックを受けて倒れてしまった。元々、体が丈夫では無く、開戦以来負け戦の報告を聞いていた為、ストレスによる体調の悪化が史実より早まった。この後、病状が回復する事は無く、職務続行は不可能と判断された。

 これにより、副大統領のヘンリー・A・ウォレスが大統領に昇格したが、1944年11月に大統領選挙が行われる為、任期はその時までしかなかった。また、前任者のルーズベルトの支持率の低さや戦争指導の拙さから、支持率は5割を僅かに超える程度しか無った。

 それでも、ルーズベルト程独善的では無い事、複数の意見を汲んで最適な考えを出せる事から、ウォレスを支持する者は少しずつ増えていった。実際、民主党からの推薦で次の大統領選挙に出馬する事となった。

 

 また、この時の意見交換の中で、枢軸国への対応の変化が生じた。それは、「無条件降伏の空文化」であった。前任者の反省と今までの外交方針を戻す意味で、この内容は衝撃を以て迎えられた。日独両政府はこの意見に消極的ではあるものの賛成を示していたが、軍部の反対が強くそれを言い出せる状況では無かった。これは、日本側はサイパンの戦闘で勝利した事、ドイツ側はノルマンディーで時間を稼いだ事で余力がまだある事で、まだまだ戦えると考えていた事が理由だった。

 アメリカ側でも反対意見が強く、特に国務省は今まで通り無条件降伏を主軸に進める事を主張し、軍部はこれから反撃という時に停戦を持ち出されたのでは溜まったものでは無いという意見があった。また、ウォレス政権の支持率の不安定さからも、この意見が多数派にならなかった。

 その為、この時の停戦は実現しなかった。しかし、アメリカが無条件降伏に拘らなくなった事は、戦争が政治にと移っていく事を示していた。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑦

 日本はマリアナ諸島での戦闘に勝利したものの、その反面、マリアナ諸島やパラオ諸島、機動部隊の航空戦力を大幅に減少させた。この時の日本の生産力では、この地域の航空戦力の再建はほぼ不可能であり、機動部隊の再建も同様だった。

 

 一方、マリアナ沖で勝利した事で、国内や軍内部の主戦派が攻勢を強めた。新聞社もこれに同調し、再び主戦論が幅を利かす様になった。海軍内では損害の大きさから停戦派が出たものの、マリアナ沖海戦で勝利した事で勢力は大きくならなかった。また、多くの戦力が残っており、特に大和型戦艦の3番艦「信濃」と重巡洋艦「伊吹」が1944年9月に、改雲龍型空母の「葛城」、「阿蘇」、「生駒」が年内までに竣工する事で、戦艦16、大型空母9、重巡洋艦10以上と、まだ戦えるだけの戦力が残っている事(序でに、国内の各種燃料の備蓄も2年分ある)も主戦論が強い理由だった。

 東條英機首相も、この戦闘の結果を基に連合国との交渉を行えないか画策したものの、国内の主戦派の強さや連合国、特にアメリカ国内でも主戦論が強かった事でこの動きが実を結ぶ事は無かった。この事が理由か不明だが、東條首相はこの戦争の行く末に絶望したのか1944年8月に首相を辞任した。

 

 これにより、東條内閣は崩壊し、後任の首相に小磯国昭が就任した。他に、後任の陸相に梅津美治郎、海相に米内光政が就任した。小磯内閣は戦争継続では無く、対等の状態での停戦を目的とした内閣として成立した。しかし、この後の米軍の動きから、当初の目的を果たす事は出来なかった。

 

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 アメリカ軍は、1944年9月にビアクに、11月にパラオに上陸した。両地域とも、約1万人の兵士がおり、要塞化も進んでいた。

 その様な中でアメリカ軍が侵攻してきた理由は、フィリピン攻略だった。この頃、アメリカ軍の戦略が変化し、マリアナ方面の攻略を一時棚上げし、フィリピン方面に全力を注ぐ事となった。その為、マリアナ戦で投入された戦力と大西洋から抽出した戦艦などを投入してこの方面にぶつけた。

 要塞化していた事、アメリカが大量の戦力をぶつけた事で慢心した事で、当初の想定以上の時間が掛った。攻撃を開始してから日本軍の抵抗が終わるまで、ビアクで1か月、パラオで2ヵ月も掛った。

 同時に、アメリカ軍の犠牲も大きく、ビアクで1500人、パラオで4000人が死亡した。負傷者や病人も死者の数倍に上った。

 

 アメリカ軍のこの行動に対し、日本海軍は大規模な行動を起こせなかった。マリアナ沖海戦の傷がまだ癒えておらず、特に航空戦力の再建が進んでいなかった。戦艦を含む水上艦艇はある程度残っており、実際、戦艦を突入させて敵上陸部隊と支援艦隊を殲滅するという作戦が検討されたが、航空支援が無い状態で出撃するのは自殺行為と判断され実行に移される事は無かった。

 尤も、妨害を目的として駆逐艦や潜水艦による襲撃は何度か行われた。当初は上手く行っていたが、その後はレーダー能力の差や戦力差から損失が相次いだ。しかし、この作戦によって最低でも1週間の時間を稼いだ。

 その為、アメリカ軍が上陸しても、日本海軍の主力は出撃する事は無かった。この間、損傷した艦艇の修理、対空兵装の強化、訓練の徹底、航空戦力の再建(比較的損耗が軽かった戦闘機を中心に再建された)を行い、次の作戦に備えていた。

 

 その機会は意外と早く訪れた。1945年1月17日、再建なったアメリカ機動部隊がレイテ沖に襲来、レイテ島周辺にある日本軍の飛行場を攻撃した。同時に、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸した。その戦力は、高速機動部隊で空母7、軽空母8、戦艦4、巡洋艦以下は多数だった。上陸支援部隊は、戦艦6、護衛空母20、巡洋艦以下多数だった。艦載機の数も合計で1500機以上に及び、その瞬間的な破壊力は絶大だった。僅か3日で、フィリピン中部の航空戦力は壊滅し、これに慌てたルソン島やミンダナオ島、台湾に展開していた部隊が攻撃を仕掛けたが、連携が取れていなかった事で、効果的な攻撃が出来なかった。

 しかし、ある程度纏まった数の編隊による五月雨式の攻撃によって、大型空母1大破と撃墜・撃破200機という戦果を挙げた。その一方、フィリピン戦用の航空戦力の多くを失う事となり、戦果に見合う損失では無かった。

 

 同日、レイテ湾入り口のスルアン島に上陸を開始、これを受けて連合艦隊は捷一号作戦を発令し、リンガ泊地にいる第二艦隊(司令長官は南雲忠一中将、旗艦は「信濃」)と本土にいる第三艦隊(司令長官は小沢治三郎中将、旗艦は「大鳳」)に出撃を命じた。

 尚、この時の指揮系統はそれぞれ独立して運用される事となった。これは、両艦隊の目的の違い(第二艦隊はレイテ湾に突入し輸送船団を攻撃、第三艦隊は敵機動部隊の戦力を引き付ける牽制役)、距離の遠さ、昇進時期の違い(海軍には「後任者が先任者を指揮する事は出来ない」という慣習があり、南雲は1939年11月15日に、小沢は1940年11月15日に中将に昇進している。何度か廃止が検討されたが、有耶無耶になってこの時も残っていた)などを鑑みて、両艦隊は独立した指揮系統の方が円滑に進められると判断された為だった。

 

 18日、第二艦隊はリンガ泊地を出撃、第三艦隊も瀬戸内海を出撃した。第二艦隊はレイテ湾に、第三艦隊はフィリピン北東沖に向けて進撃した。予定では、22日にレイテ湾に突入する事になっていたが、時間的に厳しいと判断され、突入日が25日に変更となった。

 両艦隊の出撃はアメリカ潜水艦に発見された。攻撃はしてこなかったし、潜水艦自体も駆逐艦や対潜哨戒機に追い掛け回されて連絡が遅れたものの、北から機動部隊、西から戦艦を含んだ打撃部隊が接近してくる事は分かった。この対処として、アメリカ軍は機動部隊の一部を北方に移動させ、偵察と警戒に当たらせた。

 

 20日、アメリカ軍はレイテ島に上陸した。この頃、第二艦隊はブルネイで燃料の補給中だった。翌21日、全艦艇への燃料補給が完了しブルネイを出撃、一路レイテ湾に向かった。途中、パラワン諸島でアメリカ潜水艦の接触を受けたが、全て駆逐艦と軽空母「千歳」、「瑞鳳」所属の対潜哨戒機によって撃退された。その為、アメリカ機動部隊は東進してくる日本艦隊の存在は知っていたものの、その規模については分かっていなかった。

 お互いは、その存在については知っていたものの、艦隊の内容については分かっていなかった。その為、両軍は日の出と共に偵察機を放ち、艦隊の詳細な位置と内容を探ろうとした。

 

 24日8時10分、アメリカ機動部隊(第3艦隊)の偵察機が第二艦隊を発見した。日本側も9時40分、11時、12時10分にアメリカ機動部隊(の一部)を発見した。

 第3艦隊は、日本艦隊を発見したは良いものの、その艦隊編制に疑問が持たれた。戦艦・重巡洋艦を主力とする水上打撃艦隊は今大戦では時代遅れとなりつつあり、軽空母が同伴しているとは言え、対空戦闘力が低いこの艦隊は囮ではないかと見られた

 一方、戦艦12(「信濃」以下、大和型3、加賀型2、長門型1、天城型2、金剛型4)を中核とする大艦隊が突入してくれば輸送船団と陸上部隊の全滅は避けられない事、これを阻止出来る位置にいる第7艦隊の戦力では太刀打ち出来ないのも事実だった。大和型には過去2回新型戦艦を撃沈されており、それが3隻も存在し、16インチ砲搭載艦も5隻いる事から、水上戦闘となれば勝ち目が無いと見られた。

 その為、この艦隊に対して何度か航空攻撃を掛け、撤退させる方針が取られた。これは、機動部隊を主力と見ていた為であり、水上打撃部隊に時間を掛けられない為だった。

 

 しかし、この日5回に及ぶ空襲を行ったものの、効果的な攻撃をする事が出来なかった。この理由は、軽空母搭載の戦闘機と台湾からフィリピンに進出してきた戦闘機隊の援護があった事、各艦艇の対空火器が増設されていた事、艦隊の回避戦術が徹底していた事、第三艦隊の空襲があった事、何よりアメリカ艦載機隊の練度の低さがあった。

 尤も、第二艦隊も無傷では無く、「千歳」は沈没し、「瑞鳳」も大破し自沈処分となった。他にも、重巡洋艦「開聞」が沈没し、「蔵王」と「乗鞍」が大破し、護衛と共にブルネイに戻った。他にも、大和型3隻が何かしらの損傷を受け、特に「信濃」は戦闘可能だが最高速力が23ノットに低下した。

 5回目の空襲の後、第二艦隊は一時反転し、各艦艇の応急修理と陣形の再編成を行った。アメリカ軍はこの動きを確認したが、撤退と誤認した。実際には、この後17時15分に進路を戻しレイテ湾に向かった。

 

 24日未明、第二艦隊はルソン島とサマール島を分けるサンベルナルジノ海峡に差し掛かろうとした。この時、第二艦隊司令部は敵艦隊の存在は分かっていなかったものの、海峡の状況から何かしらの妨害、特に駆逐艦による襲撃の可能性が高いと見ていた。その警戒として、艦隊から偵察機が放たれた。

 その結果、海峡に魚雷艇と駆逐艦が複数存在する事が確認され、海峡出口には敵艦隊(第7艦隊、旧式戦艦7を中心とする火力支援部隊。この海戦前、機動部隊から高速戦艦2を含む艦艇を編入している)が陣取っている事も確認された。この事から、このまま進めば襲撃を受ける事は確実の為、妨害の意味で偵察機から照明弾が投下され機銃掃射を行った。

 これにより、襲撃部隊は大混乱となり、陣形を大きく崩された。一部の艦艇は、銃弾が魚雷に命中して爆発、そのまま轟沈した。偵察機の攻撃で出だしを崩された襲撃部隊だが、この後は突撃してきた水雷戦隊の攻撃を受けて、活躍出来ないまま沈没するか撤退した。

 

 第7艦隊は、当初の予定だった魚雷艇や駆逐艦による襲撃が失敗した事、照明弾によって発見された事で大混乱となった。そして、この混乱を抑えられないまま第二艦隊と衝突した。

 大規模艦隊同士の夜戦、狭い海域、混乱状態、練度などの要因によって、レーダー射撃という優位を活かせないまま、第7艦隊は良い様にやられた。この海戦に参加した巡洋艦以上の艦艇の内、巡洋艦2を除いて全て撃沈された。駆逐艦も半数近く撃沈されるなど、全滅と言っていい損害を受けた。

 これに対し第二艦隊は、戦艦の砲撃が大和型に集中した事、練度の低さから殆ど命中しなかった事、日本の方が夜戦に慣れていた事などから、「信濃」と「大和」に数発命中しただけで損害は皆無だった。その「信濃」と「大和」も、バイタルパートを破られる事無く、戦闘航行が可能な状態だった。

 

 この海戦の完全勝利によって、第二艦隊を遮るものはほぼ無くなった。その後、第二艦隊は陣形を戻しサンベルナルジノ海峡を抜け、サマール島の沖西を航行、レイテ湾に向かった。

 この途中、護衛空母を中核とした部隊(第7艦隊第4群第3集団、護衛空母6、駆逐艦7)を発見した。対潜哨戒を行っていた偵察機から小型空母を主体とした部隊という事を知り、高速機動部隊(=第3艦隊)では無い事は残念だったが、このまま攻撃しないのは危険な為、戦艦の艦砲射撃で一掃する事となった。主砲に三式弾を装填し、全戦艦が一斉に砲撃した。

 特に狙いを定めずに撃ったが、艦隊上空に全弾飛来し炸裂した。対空散弾の役割がある三式弾が全弾炸裂し、その中に入っていたマグネシウムやゴムが艦艇に降り注ぎ、船体を貫いた。熱せられた弾片が弾薬庫やガソリン庫に命中し、全艦爆沈、全艦生存者無しという壮絶な結果となった。

 これ以外にも、水雷戦隊がこれとは別の部隊(第7艦隊第4群第2集団、護衛空母6、駆逐艦8)を発見し、これに突撃している。こちらも三式弾による射撃に加え、魚雷による長距離攻撃が行われた結果、護衛空母4、駆逐艦3の撃沈が確認された。

 

 護衛空母の機動部隊2郡を殲滅し、第二艦隊の行く手を遮るものは第7艦隊の本隊のみとなった。本隊と言っても司令部程度のもので、戦力は巡洋艦数隻と駆逐艦程度しか無かった。この程度の戦力では抵抗など無謀であり、実際、10分足らずで全艦撃沈された。

 そして、正午頃に第二艦隊はレイテ湾に突入、輸送船団に対する攻撃を開始した。輸送船団の中には、弾薬やガソリンを満載した船が多数あり、1発命中しただけで大爆発を起こし、周辺にいた船も巻き込んだ。それ以外にも、兵員を満載した船や戦車を搭載したLST(戦車揚陸艦)が多数存在し、上陸すれば陸軍に大打撃を与えただろうが、野戦砲を遥かに上回る砲撃を受けた事で利用価値を発揮する事無く海に消えた。

 その後、海上の目標を粗方殲滅した第二艦隊は、レイテ島に向かって砲撃した。これにより、上陸していた数万の将兵が消滅した。輸送船団と上陸部隊に対する砲撃は約2時間に及び、レイテ湾は血に染まった。

 この襲撃で、アメリカ軍の陸海軍を合わせた将兵の死者・行方不明者は8万人近くに上った。道中で沈めた艦艇を含めると、更に2万人増加する。つまり、僅か数日で10万人近い将兵を失ったのである。

 

 襲撃後、第二艦隊はスリガオ海峡を経由してブルネイに帰投した。道中、基地航空隊や護衛空母の艦載機による空襲を受けたものの、空襲の機体の数の少なさや練度の低さ、ミンダナオ島に僅かに残っていた戦闘機による護衛によって、沈没艦を出すこと無く28日に帰投した。

 

 第二艦隊がブルネイに帰投した日、アメリカ軍はレイテ攻略を断念、全部隊に撤退を命じた。陸上戦力の不足、支援部隊の壊滅、何より内政事情が響いた。

 1944年の大統領選挙は大接戦となり、僅差で民主党が勝利しウォレスは続投となった(同時に、トルーマンが副大統領に就任)。その直後にこの大敗北の為、これ以上敗北を続ける事は政権が飛びかねない事から(僅差で勝利した為、政権基盤が不安定)、民心安定や批判を躱す目的で作戦中止がなされた。

 同時に、この作戦が失敗したのは海軍の責任だとして、この海戦に参加した海軍将官の殆どを2階級降格の上で予備役編入し、太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将も引責辞任となった。

 しかし、この大量除籍によって現場の人間の多くがいなくなり、人事不省に陥った。その為、佐官クラスを1階級上げて任務に就かせるなどして数を揃えたが、経験不足は否めず、むしろ現場の中級、下級指揮官が減少した事が大きな問題となった。この一件があり、アメリカ海軍は数ヶ月間動く事は無かった。

 

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 第二艦隊がレイテ湾に突入していた頃、第三艦隊はアメリカ機動部隊が第二艦隊に空襲を掛けない様に牽制していた。通信を盛んに打ったり、偵察機を大量に放つなどして目立つ行為を行った。

 その結果、24日正午に第3艦隊は第三艦隊を発見したが(第二艦隊の偵察機が「第3艦隊を発見した」という報告が、第三艦隊に届いていなかった)、この時までに第二艦隊に対して2回の空襲を掛けていた。第三艦隊は、偵察後に一度だけの全力攻撃(戦闘機72、爆撃機72、攻撃機72)を仕掛けた。全ては、第二艦隊に攻撃を仕掛けさせない為である。

 

 この攻撃で、第3艦隊は混乱した。第4次攻撃隊の発進途中だった為、攻撃が命中すれば大惨事の為である。この攻撃は一度きりだった為、沈没艦こそ軽空母2に留まったが、大型空母2も被弾して大破しかけた。この攻撃で200機近くが一瞬にして破壊され、2割近くの戦力が消滅した。

 一方で、日本側の被害も甚大で、攻撃隊の8割が撃墜されるか近くの友軍飛行場に降りるなどして未帰還となった。この為、第三艦隊の残存艦載機は8割が戦闘機になり(戦闘機182、その他37)、以降は防空戦に徹する事となった。

 

 翌25日、第3艦隊は北方に大量の偵察機を放って日本機動部隊の発見に躍起になった。前日の空襲による被害が予想以上だった事、前日未明からサンベルナルジノ海峡で発生した海戦で第7艦隊が阻止に失敗し壊滅状態になったという報告を聞いて、急いで機動部隊を壊滅若しくは撤退させ水上打撃部隊を攻撃しなければ、作戦の失敗は勿論、挟撃の恐れがある為だった。

 この為、第3艦隊は戦艦を含む打撃部隊を編成しレイテ湾方面に南下し、機動部隊は総力を挙げて日本機動部隊を壊滅させる事が検討されたが、この案は採用される事無く、まず全力を挙げて日本機動部隊を壊滅させ、その後全速力で南下する事となった。前者の案を採用しなかったのは、日本機動部隊が護衛の戦艦4(「扶桑」、「山城」と、中央の主砲塔2基と副砲全てを降ろし、有りっ丈の高角砲と機銃を搭載して防空戦艦に改装された「伊勢」、「日向」)と共に南下、つまり接近してきていると偵察があった事、既に高速戦艦2を第7艦隊に異動させており、こちらには高速戦艦2しか残っていない事、第7艦隊が敗れた事から打撃部隊を編成しても戦力価値は低いと判断された為だった。

 

 その後、第3艦隊は第三艦隊に向けて3度の攻撃を行った。日本側の戦闘機の多さや対空火器の密度の高さ、頻繁の回避運動によって思っていた様な攻撃は行えなかったが、「瑞鶴」、「飛龍」、「蛟龍」、「隼鷹」、「龍鳳」が沈み、「天鳳」も飛行甲板が大破して発着艦が不可能となった(但し、水面下の損傷は無い為、高速航行は可能)。航空機も100機以上撃墜され、日本機動部隊はここに壊滅した。

 しかし、アメリカ側も100機近くの艦載機を失う事となった。また、「大鳳」と「高雄」は残り、残る艦載機と戦艦4を使って巧みに第3艦隊を牽制し、第二艦隊への攻撃を躊躇させる事に成功した。

 

 この戦闘によって、第3艦隊は第二艦隊のレイテ湾突入を阻止出来ず、ブルネイに帰投する最中に攻撃する事も叶わなかった。今海戦の内容から、第3艦隊司令長官ハルゼー大将以下第3艦隊の幕僚全員が2階級降格の上で予備役編入となった。この件で、第3艦隊司令部の再建(実質的な新設)に手間取り、機動部隊の再建もあって、最短で3ヵ月、長ければ半年は動く事が不可能となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑧

 レイテの戦闘で劇的な勝利を果たした日本だが、その勝利を講和に活かす事は叶わなかった。それ処か、マリアナ沖に続いて大勝した事で主戦論が拡大し、講和を打ち出す事すら出来なくなった。特に、陸海軍の中堅層、特に軍政部(陸軍省、海軍省)と統帥部(参謀本部、軍令部)に勤めている者は主戦論が強く、上層部の中にはそれに同調する者も多かった事から、軍部は意見の統一が出来なかった。加えて、大規模戦闘では勝ち続けている事が災いして、未だに戦い続けられると考えている人が多かった。

 しかし、現状では継戦能力が低下している事は事実であり、特に海軍が艦艇の建造・修復、航空隊の再編が追い付いていない事から、海軍上層部では講和論はそれなりに強かった。そして、海軍三長官(海軍大臣、軍令部総長、連合艦隊司令長官)に付いている米内光政、山本五十六、堀悌吉は今こそ講和するべきと考えており、陸軍三長官(陸軍大臣、参謀本部総長、教育総監)の梅津美治郎、阿南惟幾、畑俊六もこの意見には反対しなかった。

 以前であれば講和など不可能だったが、大統領がウォレスに代わった事で、戦争の終わり方を無条件降伏に限定しない事が発表された事で、講和に対する心理的障壁が小さくなった。これにより、政府閣僚では講和論が大きくなり、軍上層部でも「皇室保全が保障されるのであれば講和も可」という意見が次第に拡大した。

 

 政府と軍上層部の講和派の努力が実り、連合国との停戦の窓口を作成する事には成功した。その窓口は、ソ連を介したものを主力とし、予備としてスイスとスウェーデンに設ける事となった。しかし、ソ連は対日参戦を決めていた事から、のらりくらりと返事をするだけで事態は進まなかった。スイス、スウェーデンも同様に進まなかった。

 

 この事態を打開する為に、再度大規模な攻撃を仕掛けて、敵に更なる出血を強いる事で、交渉の打開策にする事が検討されたが、それも敵が攻めてきた場合にのみ有効な為、現状では打つ手無しだった。

 

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 マリアナ沖で勝利し、サイパン、テニアン、グアムが陥落しなかった事で、本土空襲が激化する事は無かった。日本は既にB-29に関する情報を概ね把握しており、マリアナ諸島からであれば余裕で本州は攻撃圏内に入る事が分かっていた。その為、日本軍はマリアナ沖の戦闘で凄まじい抵抗を行い、辛うじて勝利を掴んだのである。

 しかし、パラオや中国大陸奥地の成都からの空襲が月に1回あり、本土空襲が無い訳では無かった。実際、1944年6月から成都から発進したB-29による八幡空襲が行われた。被害そのものは軽微であり、数機のB-29を撃墜若しくは撃破した。

 日本は、被害よりも空襲を受けた事そのものを重視した。特に、本土防空を担う統合防空総司令部は空襲を防げなかった事の責任もあり(実際、総司令部の人員の半数が入れ替わった)、九州北部への防空戦闘機と高射砲の大量配備で当座を凌いだ。その後、本格的な防空戦闘機の開発、既存の機体の中で高度10000mに到達出来、且つ戦闘が可能な機体の増産が行われた。これにより、陸軍からは一式複座戦闘機「瞬鷹」、二式戦闘機「鍾馗(海軍名:雷電)」、三式戦闘機「飛燕」、四式戦闘機「疾風」が、海軍からは局地戦闘機「紫電」が大量生産・配備が決定された。また、高度10000mまで届く高射砲の開発も急がれ、それまでの繋ぎとして九九式八糎高射砲の大量生産と、秋月型駆逐艦で採用されている九八式十糎高角砲を陸上用に転用する事となった。

 陸海軍も、本拠地を叩いてB-29を地上撃破する作戦を検討したが、日本の中国大陸における占領地域(この世界では沿岸部のみ)と成都との距離の関係から、片道攻撃しか出来ない事が判明した為、実行に移される事は無かった。

 

 日本側に多数の負担を強いる事に成功した本土空襲だが、アメリカにとっても負担は大きかった。B-29を使用出来る基地が成都とパラオ(ペリリュー・アンガウル両島)にしか無く、パラオもフィリピンやマリアナからの空襲などがある為、安全に使用出来なかった。成都の方も、補給の難しさ(アメリカから見て地球の反対側、日本海軍がベンガル湾で行った通商破壊)から大規模出撃が月に1回出来ればマシな方だった。

 そもそも、この2つの基地の規模が小さい事(100機も駐機出来ない)、日本から遠い事から、これ以上の規模の拡大は不可能だった。

 一度、漢口に進出して1944年12月8日に佐世保と呉を空襲したが、九州北部と山陽の防空戦闘機隊と高射砲によって手痛い損害を受け、帰還後は日本軍が陸海軍共同で送り狼として送り込んだ爆撃隊の空襲を受け、漢口基地壊滅と全てのB-29の地上撃破という大損害を出した。その結果、空襲を受けない成都に逆戻りとなった。

 

 日本本土防空戦は、見かけ上は両者一進一退の攻防を繰り広げていた。実際は、日本軍は広大な防空圏内に大量の戦闘機と高射砲を揃えなければならない負担が大きく、日に日に日本近海に増加する機雷で徐々に締め上げられていた。

 一方のアメリカ軍も、基地機能の拡大が不可能な事からこれ以上の空襲の規模の拡大が不可能で、それにより空襲を仕掛ける機体が常に少数となる為、出撃機体の1割は撃墜されるか帰還後に廃棄処分になるなどの被害を受けていた。

 

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 本土空襲の被害は大きいものでは無いが、機雷敷設の方が被害は大きかった。B-29が日本近海に大量の機雷をばら撒いた。多くが磁気感知式であり、他にも水圧探知式やなど多くの機雷がばら撒かれた。

 これにより、横浜や名古屋、神戸や博多など太平洋側や中国大陸に近い主要港が機雷で封鎖され使用不可能となった。一応、日本海側の舞鶴や新潟、東北、北海道の機雷封鎖が行われていない為、海運の完全な封鎖とはならなかった。

 しかし、効率の面では悪くなったのは事実で、今まで海運で行っていた輸送の一部を鉄道にした事で、輸送時間が長くなった事、一度に運べる量が減少した事、何より主要幹線の輸送量が限界になった事で、既存の輸送に皺寄せが来た事など、多くの悪影響が出た。

 

 海軍と海上警備総隊は、共同して機雷駆除を行ったが、装備の不足や機雷の性能から、機雷を駆除する船舶の方が、逆に機雷によって撃沈される事が多かった。その為、老朽船を機雷源に突入させて自爆させたり、非鋼鉄船を掃海艇として運用するなど様々な策を取った。

 

 特に大きかったのが、コンクリート船の活用だった。コンクリートであれば磁気感知式に反応しない、船体が破損してもコンクリートで修復出来る、鋼鉄よりも破損に強いなど、対機雷には有効だった。材料となるコンクリートも国内で供給出来(但し、石灰からセメントに精製する設備の限界という問題があったが)、重要資源である鋼材の節約にもなるなど、利点は大きかった。燃費の悪さや排水量の割に運べる量が少ないという欠点もあったが、非常時という事で割り切られた。

 このコンクリート船は1944年6月頃から配備され、同年末までに大量配備が行われた。上記の掃海艇以外にも、本来の近海用輸送船として活用された。これにより、日本近海だけでなく朝鮮や満州、華北との航路にも活用される様になり、機雷で封鎖された港湾でも多少利用出来るとあって活用された。

 

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 日本本土空襲が千日手の状態の中、1945年2月25日に帝都東京に対する大規模空襲が行われた。これは、浅草区や深川区、本所区など下町が対象となった。木造家屋の密集地帯である為、大きな被害が出た。実際、下町の多くが被災し、5000人近い死者を出し、数万人の住宅喪失者を出した。

 

 しかし、アメリカ軍からすれば、この作戦は政治的には兎も角、純軍事的には失敗だった。空襲を仕掛けたのが僅か70機程度(この時の為にペリリュー・アンガウル両島の飛行場を限界まで拡大した)で、これ以上の戦果の拡大が不可能だった。また、パラオ東京間の距離が約3100㎞とB-29の性能ギリギリ(理論上だと、約7トンの爆弾を搭載して6600㎞を飛行可能だが、エンジンの信頼性や迎撃などを考えると、爆弾搭載量はこの半分程度となる)の出撃となった。他にも、途中に目印になるものが無い事(パラオ東京間だと硫黄島ぐらいしか無い)、ナビゲーターの役割をする潜水艦が護衛艦や対潜哨戒機に攻撃されて役割を果たせなかった事、何よりレーダーに探知されて日本本土に辿り着いたら高射砲や戦闘機による大規模な迎撃に遭った。

 これにより、出撃した機体の1割以上の9機が撃墜され、残る機体の殆ども被弾し、その内の28機が修理不可能な損害を受けた。つまり、1度の出撃で戦力の半分を失ったのである。しかも、この時の為に備蓄していた燃料と爆弾をほぼ全て使い切ってしまい、向こう1ヶ月間は出撃不可能となった。

 

 東京空襲によって、日米両軍は大規模作戦を検討した。

 日本軍は、B-29の策源地の内、攻撃が可能なペリリュー・アンガウルへの攻撃を検討した。しかし、航空攻撃では被害が大きくなる割には成果が挙げられない為、戦艦を突っ込ませて灰燼に帰そうというものだった。内容そのものは捷一号作戦を応用すれば良い為、作戦案の作成は1か月程度で完了した。また、この頃には損傷が軽い艦艇の修理が軒並み終わっており、燃料もまだ備蓄が残っており、油槽船の手当てさえ付けば、4月初頭には行える状況だった。

 アメリカ軍は、B-29の基地として再度のマリアナ諸島攻略を検討した。前回は失敗したが、今回は前回以上の戦力を揃え(そしてそれが実行出来るだけの戦力がある)、日本軍の抵抗も小さいと見られる為、今回は成功すると見られた。

 また、護衛戦闘機の基地兼航路の目印として硫黄島の攻略も同時に行う事が検討されたが、同時に行うには戦力不足と判断され、マリアナ攻略後に実行する事となった。予定では、4月1日にマリアナ諸島攻略開始、7月1日に硫黄島攻略開始となった。



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番外編:この世界の太平洋戦争⑨

 1945年4月1日、アメリカ軍が再びサイパン島に襲来した。襲来したのは、高速機動部隊の第5艦隊と火力支援部隊の第7艦隊だった。第5艦隊の戦力は、ユナイテッド・ステーツ級空母(史実のミッドウェイ級空母)1、エセックス級空母8、インディペンデンス級軽空母5、ライト級軽空母(史実のサイパン級空母。この世界ではボルチモア級重巡洋艦から改装)3、アイオワ級戦艦4、アラスカ級大型巡洋艦2を中核とした。他にも、巡洋艦、駆逐艦は全て大戦中に竣工した艦艇で構成されていた。また、第7艦隊の戦力は、旧式戦艦3、護衛空母12を中核とした。

 

 これに対して、サイパン島の日本軍は、1944年6月の一度目の侵攻以降、満州の2個師団をこの地に移動させている。また、大量の武器・弾薬・食糧・施設建設用の資材を輸送した為、前回の戦闘で消耗した分の補充は完了していた。そして、防御施設の建設も進み、『半年はこの地で戦える』と判断された。

 この序でに、サイパン島に残っていた民間人の疎開も行われ(前回の戦闘前にも疎開したが、4割程度残った)、内地に帰還した。

 しかし、航空戦力については多く補充されず、戦闘機が100機近く駐留したものの、練度の問題があった。実際、サイパン空襲の際、40機程度落としたものの、全ての機体が撃墜されるか地上撃破されて戦力価値が無くなった。

 

 撃退される度に規模が拡大していくアメリカ機動部隊だが、その実態はお寒いものだった。大規模戦闘の度に多くのセイラーとパイロットを消耗し、消耗しては新兵の補充を繰り返していた。その為、未だにセイラーや艦載機パイロットの練度が低いままで、特に尉官、佐官クラスの中堅層が大量に消耗した事が痛かった。

 ソフト(将兵)の方も問題だったが、ハード(艦艇)の方も問題があった。緒戦で多くの空母を失い、戦争中盤には空母と戦艦を多数失い、戦争中に多くの巡洋艦と駆逐艦などの補助艦艇を失った。これにより、アメリカ軍では慢性的に艦艇が不足していた。補助艦艇については1945年までに多数竣工するが、戦艦や大型空母については1946年以降にならなければ数が揃わないと見られた。

 特に戦艦については、開戦初期に航空戦力が主戦力になると見られた事で、両用艦隊法で計画されたモンタナ級の建造が後回しにされ、アイオワ級の5、6番艦の建造中止も取り沙汰された。しかし、1943年6月の第二次ミッドウェー海戦によって戦艦部隊が壊滅状態になった事、その中で日本の新型戦艦(大和型の事)の存在から、戦艦の整備も行う必要があるとされ、残るアイオワ級とモンタナ級の整備が急がれた。特に、マリアナ沖、レイテ沖の後には最重要戦力と判断されて、戦力化が急がれた。

 しかし、いくら急いでも、モンタナ級が竣工するのは1946年以降と見られ、現状では間に合わなかった。また、マリアナ沖とレイテ沖で5隻以上の戦艦が一戦で失われるなど想定しておらず、現状では高速戦艦4と旧式戦艦3の合わせて7隻しかいなかった(大型巡洋艦を含めても9隻)。

 

 これに対して日本海軍は、サイパン島襲来を受けて4月3日に横須賀から第二艦隊が、呉から第三艦隊が出撃した。第二艦隊は「大和」を旗艦に戦艦7、重巡洋艦8、軽巡洋艦2、駆逐艦12からなり、第三艦隊は「大鳳」を旗艦に空母4、戦艦2、重巡洋艦4、軽巡洋艦4、駆逐艦16からなっていた。この時期、第二艦隊司令長官は宇垣纒中将が、第三艦隊司令長官は山口多聞中将がそれぞれ就任していた。

 上記以外にも、戦艦「信濃」や「扶桑」、空母「天鳳」や「鞍馬」などが呉や横須賀に残っていたが、修理中や竣工直後で練度の問題があるなどして動かせなかった。1944年半ば以降、空襲圏内に入っていた佐世保の使用が難しく、マリアナ沖やレイテ沖で多数の艦艇が損傷し、損傷の度合いが軽い艦艇から修理を優先した為、修理が遅れていた。

 

 第二、第三両艦隊の目的はシンプルで、第二艦隊はサイパン島に突入し、敵上陸部隊を艦砲射撃で粉砕、第三艦隊は第二艦隊の上空を援護するものだった。既に、日本海軍には大規模海上航空戦を行える航空隊、特に艦載機部隊が殆ど無く、実質的な戦力として存在するのは水上打撃部隊しか無かった為、この様な作戦案しか採れなかった。

 

 4月6日、ここまでは第二・第三両艦隊は何事も無くマリアナ諸島北西沖に進出した。アメリカ海軍も日本艦隊が本土から出撃した事は潜水艦からの偵察で把握していたが、駆逐艦や航空機の妨害で具体的な編成を掴めず、その後の移動も掴めなかった。しかし、サイパン島に向かっている事は予想出来た為、第5艦隊は地上支援を取り止め、空母部隊と打撃部隊に分けた(同時に、打撃部隊に第7艦隊を臨時編入)。空母部隊は北東方面に、打撃部隊は北西方面に北上した。

 しかし、空母部隊は北上する事が出来なかった。大型機による夜襲を受け、大損害を負った為である。これは、陸海軍合同で行われたもので、硫黄島から出撃した四式重爆撃機「飛龍」80機と陸上爆撃機「銀河」50機、四式大型陸上攻撃機「連山」と四式大型重爆撃機「光龍」合わせて50機による特殊攻撃だった。これらの機体には、通常の爆弾では無く自動追尾誘導弾、現在で言う対艦ミサイルを搭載していた。

 

 この攻撃で使用されたのは、「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁自動追尾誘導弾と、「連山」に搭載されたイ号一型戊自動追尾誘導弾である。イ号一型誘導弾は、陸軍によって1944年から開発が始まった。史実では甲から丙の3種類だが、この世界では4番目の丁が開発された。イ号一型丁は陸海軍合同で開発され、陸軍の持つ赤外線誘導装置と、海軍が持つ大型徹甲弾、航空機メーカーが開発したジェットエンジンを組み合わせて1944年3月から開発された。紆余曲折を経て、1944年12月に試験が完了した。その後、何度かの小改良が加えられ、1945年2月に製造が開始され(同時に、大型化したイ号一型戌も生産開始)、この時まで丁と戌合わせて300発が完成した。

 四式大型陸上攻撃機「連山」は、中島飛行機が開発した4発機である。史実では、1942年から計画がスタートし、1944年10月に試作機が完成した。しかし、エンジンの不調や戦局の悪化によって開発が進まず、4機が完成したのみであり(これ以外に生産中の4機があった)、1機を残して全て空襲で喪失した。戦後、アメリカ軍に残った1機が修理してアメリカ本土に移送されたが、エンジンの不調によって研究は殆ど行われず、朝鮮戦争中に廃棄処分となった。

 この世界では、1943年の実機開発の際、陸軍から共同開発したいと申し出があった。海軍もこれを承諾し、中島飛行機と川崎航空機による共同開発が行われた。川崎も、陸軍からキ85(陸上攻撃機「深山」を改良した機体。計画のみ)を依頼されていた事もあり研究ノウハウがあった。これにより、1944年7月には試作機が完成した。エンジンの問題があったものの、1944年末には量産体制が整った。これにより、海軍では四式大型陸上攻撃機「連山」として、陸軍ではキ91・四式大型重爆撃機「光龍」として採用され、この作戦用に合計50機が緊急に生産された。

 

 「飛龍」と「銀河」に搭載されたイ号一型丁100発と、「連山」と「光龍」に搭載されたイ号一型戌50発が、空母部隊から120㎞離れた所から放たれた。赤外線誘導の為、狙った目標に命中させる事は難しく、製造不良などで全ての誘導弾が目標に到達しなかった。

 全体として8割の命中だったが、その効果は絶大だった。空母部隊は、突然の衝撃と大火災によって大混乱となった。航空機が途中で引き返したと思ったら、急に高速で接近してくる飛翔体を多数捉え、それから暫くして後ろから火を噴いて急速に接近してきた。そして、1分も掛からずに艦艇に命中して大火災が発生した。避けようとしても、目が付いているか如く追ってくる事も混乱を助長した。

 結果、エセックス級空母2、インディペンデンス級軽空母3、サイパン級軽空母1、巡洋艦4が沈没するか自沈処分となり、空母「ユナイテッド・ステーツ」、エセックス級空母3、インディペンデンス級空母2、サイパン級空母1、巡洋艦5が中破以上の損害を負った。これらの損害と回避行動の結果、艦隊の陣形は滅茶苦茶となり、艦隊の再編成と損害の確認の時間が費やされた事で北上が不可能となった。

 その後、正午前には再編成が完了して北上を再開したが、航空戦力の半数以上を損失した事、偵察を開始する時間が遅れた事で、夕方に第二艦隊を発見したが攻撃隊を出す事が叶わなかった。その為、第二艦隊の迎撃は打撃部隊に係っていた。

 

 日付が7日に変わるまで後2時間となる頃、第二艦隊と打撃部隊が衝突した。日本の方が戦艦の数が多く、練度も勝っていた。一方のアメリカは、電子機器の質の高さを活かして、夜戦や練度の不利を補おうとした。

 しかし、結果は日本側の大勝だった。この戦闘では、電子機器の優劣よりも、練度の差による瞬間的な反応の差、太平洋で活躍出来る船体かどうかが勝敗を分けた。

 確かに、アメリカの方が電子機器の性能が高かったが、セイラーの方が電子機器の扱いに慣れていなかった。また、練度の低さから咄嗟の判断が難しかった。これにより、被弾した時や回避の時に時間が掛り被害が拡大する事が多かった。

 また、アメリカ海軍の艦艇の特徴として、大量の対空兵器と重装甲がある。これにより、対空戦闘に強く打たれ強いという利点があるが、一方でトップヘビーになりがちという欠点でもある。この戦闘では短所の方が目立った。戦闘が行われた当日、マリアナ諸島付近では小規模の台風が発生しており、海がやや荒れていた。その為、アメリカの艦艇は波によって揺れる事が多かった。これにより、命中率が大きく低下した。

 一方の日本側は、元々日本近海やマリアナ諸島などで艦隊決戦を行う事を目的とした艦隊編制や艦艇の設計を行ってきた為、この地域で戦う事を苦にしなかった。それに、駆逐艦や巡洋艦は兎も角、戦艦はアメリカのと比較して艦幅に余裕がある為、安定性では勝っていた。これが命中率にも表れ、日本の方が命中する数が多かった。また、日本はセイラーの損失がアメリカよりも少ない為、未だに高い練度を持っていた事も、瞬時の判断や細かい調整で優位に立った。

 この戦闘で、アメリカは戦艦4、大型巡洋艦2、巡洋艦7などを失い、それ以外の艦艇も大小の損傷を負いつつ撤退した。日本は、重巡洋艦2、軽巡洋艦1、駆逐艦3を失ったものの、戦艦は最大でも中破の損傷を負っただけで失わなかった。

 

 その後、日本軍は進撃を再開した。そして、4月7日午前2時、第二艦隊はサイパン島沖に到達、停泊中の船舶と上陸部隊に対して攻撃を開始した。第二艦隊を阻止する為の戦力は、多くを打撃部隊に編入した為、巡洋艦2と駆逐艦10程度しか存在しなかった。後は、レイテの時と同様に抵抗する戦力を捻り潰し、輸送船団と上陸部隊に対し攻撃を開始した。硫黄島からの報告で、敵機動部隊は大損害を受けて暫く行動出来ない事を知った為、当初の予定では30分で切り上げる所を、1時間掛けて攻撃した。

 これにより、敵輸送船団の8割が沈没、陸上部隊も半数以上が戦死するか戦闘不能な程の損害を受けた。これに呼応して、サイパン島の防衛部隊が総反撃に移り、アメリカ軍は再びサイパン島から叩き出された。

 

 午前3時、第二艦隊は攻撃を終了し、隊列を整えて日本本土への帰還を始めた。敵上陸部隊を殲滅し、サイパン島を守り切った事で、日本側は作戦を完遂した。

 しかし、8時15分、第二艦隊は再編成が完了した機動部隊から放たれた偵察機に発見された。前日の襲撃で展開が遅れていたが、その後の反応は素早かった。偵察機が発見した報告を受け取ると、既に甲板上に展開していた攻撃隊を発艦させた。そして、9時30分、第二艦隊の南東方面の上空に機動部隊から放たれた攻撃隊が現れた。

 それと同じくして、北方からも航空隊が接近してきた。第三艦隊から放たれた制空隊だった。約60機のこの航空隊は、当時の日本が送り出せる最後で最良の艦載機であった。その機体だが、ゼロ戦では無く四式艦上戦闘機「烈風」だった。

 

 艦上戦闘機「烈風」は、ゼロ戦の後継機として計画された。史実では、「雷電」の設計・開発、ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良に人や時間が取られた事で遅れ、試作機が完成しても今度はエンジンの問題から予定性能を発揮出来なかった。

 この世界では、陸海軍の航空機の共同開発が早期に行われた為、三菱による「雷電」の開発が行われなかった(中島の「鍾馗」がこの世界の「雷電」)。その為、三菱は「烈風」の設計・開発に注力出来た。ゼロ戦や一式陸攻の生産・改良もあったが、史実より人的資源や生産設備に多少余裕がある為、1943年内に試作機が完成した。史実で問題になったエンジンも、誉エンジンの性能の安定化で解決し、1944年8月に四式艦上戦闘機「烈風」として生産が開始された。

 しかし、ゼロ戦以上に複雑化した設計によって生産に時間が掛り、レイテ沖海戦の時までに配備が間に合わなかった。その後、一定数以上の数と訓練によって、1945年から実戦配備される様になった。そして、この時が初の実戦となった。

 

 アメリカ軍は、初めて見る「烈風」とその強さに戦慄した。20㎜機関砲4門という大火力と日本機らしからぬ防御力、ゼロ戦並みの運動性とF6Fヘルキャット並みのスピードを持つ機体が一斉に襲い掛かった。これにより、一撃で30機近くが落とされ、ヘルキャットは追い掛け回された。一部は攻撃隊に向かい、攻撃隊も大きく体制を崩された。これにより、組織的な攻撃が出来なくなり、艦隊に対する攻撃が五月雨式となった。

 その為、第二艦隊も対処が容易となり、「大和」と「武蔵」に攻撃が集中したのも幸いし、他の艦隊は至近弾が数発あるか無いかの被害で済んだ。「大和」と「武蔵」も爆弾1~2発と魚雷を1発喰らった程度で、戦闘航行は可能だった。

 この攻撃で、第二艦隊は「大和」と「武蔵」以外の被害は無かった。第三艦隊の制空隊は7機が落とされたが、代わりに攻撃隊を約70機落とした。

 その後、制空隊は燃料の関係から帰還し、その直後に第二波攻撃隊が接近したものの、機動部隊と第二艦隊との距離の問題や出せる機体の数から、大規模な攻撃とならなかった。それでも、「大和」と「武蔵」、「加賀」と「土佐」に攻撃が集中し、「大和」と「武蔵」は中破した。

 その一方、第二次攻撃隊も被害が大きく、約30機が対空砲火に撃ち落された。これは、大量に増設された対空機関砲や高角砲、対空ロケット弾の存在が大きかった。

 時間の関係からこの日の攻撃はこれまでとなり、以降は機動部隊や硫黄島からのエアカバーによって守られた。

 

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 二回目のマリアナ諸島攻防戦も、日本側が勝利した。アメリカ軍は、この攻勢で再び戦力を消耗した。特に、戦艦の消耗が酷く、これが無ければ地上支援や日本艦隊の接近阻止すら不可能な程だった。

 これに対して、大量の艦載機をぶつけて対処すればいいという意見もあったが、艦載機の方も練度や空母の問題があるからそう簡単にいかなかった。何より、航空機の方が天候に左右されやすい事、時間の制約が大きい事がネックだった。

 

 正面戦力の問題があったが、何より大きかったのが厭戦機運の高まりと戦費だった。開戦以来、対日戦で大敗を喫している事、1944年以降、優勢であるにも関わらず大きな犠牲を払い続けている事は、元々高くなかった戦意を下げさせた。

 これにより、戦時国債の購入が当初予想よりも鈍り、1944年末の予想では、1945年半ばには戦費が戦時国債の購入量に追いつかなくなり、戦費不足で戦争継続が難しくなると判断された。そして、1945年4月の第二次マリアナ攻略作戦が失敗した事で、国債の購入は急激に減少した。これにより、日本だけでなくアメリカも経済的に戦争を続ける事が難しくなった。

 

 経済事情や戦争方針の変更、第二次マリアナ戦の大敗もあったが、何より国内にソ連のスパイが大量にいる事が判明した事で、アメリカは遂に日本との停戦に踏み切った。

 ウォレスが大統領に昇格して直ぐ後に、不透明な資金の動きや情報の流れがある事に気付いた。それを内密に調査した所、ソ連と繋がっている人物が多数存在する事、そしてその人物達が国務省や財務省の高官に紛れている事が判明した。つまり、アメリカの国家機密はソ連に漏れている事であり、アメリカの戦争方針はソ連に操られている事でもあった。

 この時、アメリカとソ連は連合国として共にドイツと戦っていた。その一方で、アメリカへのスパイ行為は容認されるものでは無かった。よく考えれば、ソ連の社会主義・共産主義はドイツの国家社会主義・全体主義と大差無く、アメリカの自由主義・民主主義とは相反するものだった。今は共通の敵がいるからいいものの、それが終わった後は対立関係になると見られた。そして、ソ連の後背を突ける日本は重要な存在だと気付いた。

 

 日本をソ連に対する防波堤とする為には、これ以上の戦闘を停止して、速やかにアメリカの影響下に置く必要があった。その為、5月26日にアメリカは対日停戦を対象としたワシントン宣言を打ち出した。主な内容は、「日本軍の無条件降伏、皇室護持の容認、民主化の実施、南樺太を除く全ての海外領土の放棄、それらの監視を目的とした本土へのアメリカ軍の駐留」だった。

 日本側は、この宣言を受諾する事が御前会議で決定された。皇室護持という重要な問題がアメリカ側から容認されている事から、日本としては受諾し易かった。それ以外の内容については、厳しいものがあるが現状では打開する手段が無い事から、飲む以外に方法は無いとして受け入れる事となった。受け入れ予定日は、6月5日とされた。

 

 それでも、国内にはワシントン宣言の受諾を拒否する者がいた。ここ数戦で勝利を重ねているのだから、更に勝利を重ねれば対等な講和条約を結べるという論拠だった。

 上層部はこの意見は『馬鹿げている』と一蹴したが、中堅層や若手は受諾を拒否しようとしてクーデター計画を打ち立てた。そして、近衛師団の一部は6月4日にクーデターを起こした。目標は、皇居、陸軍省、参謀本部、東部軍管区司令部、警視庁、日本放送協会だった。

 しかし、クーデターは失敗した。目標のワシントン宣言を受諾する玉音盤の入手が叶わず、クーデター後の政権擁立の為の人物の説得にも失敗した。そして、兵が従わなかった事でわずか半日で鎮圧された。

 

 6月5日正午、ワシントン宣言を受諾する旨の玉音放送が放送された。これにより、日本はアメリカとの停戦が実現した。その後、7月2日に正式に終戦となり、同時に他の連合国との停戦が行われた。3年7か月にも及ぶ長い戦争が終わったのである。



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番外編:この世界の戦時中に開業した鉄道

〈北海道〉

・改正鉄道敷設法第128号(戸井線)の開業

 戸井線は、函館本線の五稜郭から分岐して、湯の山を経由して戸井に至る路線として計画された。目的は、青函航路の代替として、青函海峡で最も距離が短い大間戸井間に航路を設立(大戸航路)、その北海道側の連絡鉄道として計画された。

 史実では、1937年から工事が進められ、9割方の路盤は完成したものの、1943年に工事が中止された。その後、青函トンネル建設の際、東側ルートとして検討されたものの、地質や水深の問題から現行のルートが選択された。以降、戸井線は開業する事無く放棄された。

 

 この世界では、戦況の悪化が緩やかだった事、北海道の食糧や石炭などの各種資源を大量に本土に運ぶ目的から、大戸航路の早期整備と戸井線、大間線の早期開業が推進された。途中、工事の中断があったものの、1945年4月には五稜郭~戸井が開業した。

 開業後直ぐに終戦を迎えた為、最大の目的だった青函航路の代替は失われたが、沿線開発という目的は果たされた。今まで交通機関がバスだけだった地域に鉄道が開業した事は大きく、函館市街の通勤・通学輸送に役立てられた。青函トンネルの計画が立った際、東側ルートとして検討されたものの、史実と同じく検討止まりに留まった。

 国鉄民営化後はJR北海道に移管され、通勤・通学輸送だけで無く、湯の川温泉への観光、函館空港の利用客などの輸送に活用された。

 

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〈東北〉

・改正鉄道敷設法第1号(大間線)の全通

 大間線は、大湊線の下北から分岐して、大畑、下風呂、大間を経由して奥戸に至る路線として計画された。目的は戸井線と同じで、こちらは本州側の連絡鉄道として計画された。

 

 史実では、1939年に下北~大畑が大畑線として開業し、大畑~大間~奥戸の工事が進められた。しかし、戦局の悪化や資材・労働力不足によって1943年に工事は中断された。その後、戸井線と同じく青函トンネル計画から外され、工事は二度と再開される事は無かった。大畑線も、1985年に下北交通に移管されたが、2001年に廃線となった。

 この世界では、戸井線の時と同様に工事が促進された。これにより、戸井線より一足早い1945年2月に全線が開業した。同時に、大間港の工事も行わたものの、直後に終戦となった為、港の建設工事は5%程度で中断された。

 

 戦後は、青函航路の代替としては殆ど活用されず(但し、大戸航路そのものは存続した)、沿線から産出される木材資源の輸送が主要目的となった。青函トンネル計画も、検討段階で外された。

 国鉄再建時、大間線は第2次特定地方交通線に指定されたものの、むつ市や大間町が沿線の観光開発や大間原発の対価などを理由に第三セクターとして存続する事が決まり、1986年12月に第三セクター「大間鉄道」として存続する事となった。

 

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〈関東〉

・東武熊谷線の全通

 東武熊谷線は、熊谷~妻沼を結んでいた路線である。これは、中島飛行機への工員・物資輸送を目的に敷設された。戦時中に敷設された為、秩父鉄道の複線用地を利用する、「戦後に立体交差にする」という条件の下、国道を平面交差するなどした。本来は熊谷~西小泉を予定していたが、妻沼~西小泉で利根川を超す鉄橋を建設中に終戦となった為、全通する事は無かった。

 軍の命令で建設した事、それ故に集落から離れて敷設された事、他の東武線と接続していない事から、常に赤字続きだった。沿線からは全通の要請が相次いだが、東武側は廃止したいという話が何度も出た。

 結局、1983年6月に東武鉄道の合理化(この時、最後まで残った非電化路線だった)、熊谷駅の橋上化及び再開発を理由に廃止となった。

 

 この世界では中島飛行機、及び中島飛行機と繋がりがある大室重工業が工事を手伝った事で建設が進んだ。これにより、1944年11月に妻沼~西小泉が開業して全通した(熊谷~妻沼は1943年12月に開業)。

 戦後、熊谷線は沿線開発に活用される事となった。また、1958年に熊谷周辺のルートを変更し、南口から北口に乗り入れた。これにより、秩父鉄道から借りていた土地は返却された。

 1966年には、西小泉~竜舞と熊谷~東松山が開業し、全線複線化が行われた。同時に、熊谷線は東松山~熊谷~西小泉~太田となった。以降、熊谷線は池袋と上毛地域を結ぶ路線となり、池袋~熊谷・前橋で国鉄、後のJRと競合関係を築いていく事となる。

 

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〈東海・北陸〉

・改正鉄道敷設法第70号(渥美線)の全通

 豊橋鉄道渥美線は、豊橋に隣接する新豊橋と渥美半島の中程の三河田原を結ぶ路線である。現在は、豊橋と田原市を結ぶ通勤・通学路線だが、かつては渥美半島先端の伊良湖には陸軍の試砲場への延伸を目指していた。

 その為、前身の渥美電鉄時代に免許を取得しており、黒川原まで延伸したが、そこから先は延伸出来なかった。戦時中、延伸区間を鉄道省が建設したが(全通後は国有化する予定だった)、こちらも戦局の悪化で進まず、終戦によって消滅した。この間、三河田原~黒川原は休止となり、1954年に廃止となった。

 

 この世界では、1944年5月に黒川原~堀切が開業した。渥美電鉄に合わせて電化での開業となった。同時に、渥美電鉄を買収して「渥美線」となり、新豊橋は豊橋に統合された。運用は、飯田線と共用になった。

 戦時中は、伊良湖の軍施設への輸送に活用されたが、終戦によってその目的は失われた。戦後は、沿線の農村部から食糧の輸送に活用され、高度成長期以降は沿線の宅地化が進んだ事で通勤・通学路線として活用された。

 

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〈近畿〉

・改正鉄道敷設法第78号(篠山線)の全通

 篠山線は、福知山線の篠山口から分岐して、篠山、日置、福住を経由して山陰本線の園部に至る路線として計画された。目的は、沿線で産出されるマンガン鉱の輸送(兵庫、京都北部はマンガン鉱が薄く広く広がっている)、山陽本線のバイパス(山陽本線は海岸沿いを通る為、攻撃を受けやすい。同様の目的で敷設されたのが二俣線)があった。

 

 史実では、1944年に篠山口~篠山~福住が開業したものの、福住~園部は未開業となった。篠山駅が篠山市街から遠く離れている事、盲腸線である事から利用客が増加せず、赤字83線にピックアップされ、そのまま1972年に廃線となった。

 この世界では、篠山鉄道(篠山(後の篠山口)~篠山町を結んでいた鉄道。史実では篠山線開業と同時に廃線)を国有化して「篠山線」とし、そこから延伸した。これにより、工事の負担が多少緩和され、戦況が史実より有利に進んでいた事から、工事の中断はされなかった。そして、1944年に篠山(篠山町から改称)~福住が、1945年の終戦前に福住~園部が開業して篠山線は全線開業となった。

 

 当初の目的である山陽本線のバイパスや沿線のマンガン鉱開発は終戦と共に消滅したが、地域開発には大きく貢献した。特に、篠山駅が市街地に近い事、全線が開通して盲腸線とならなかった事は大きく、この世界ではギリギリ特定地方交通線に指定されなかった。これにより、篠山線は国鉄民営化後も存続した。

 

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・改正鉄道敷設法第79号(小鶴線)の開業

 小鶴線は、山陰本線の殿田(現・日吉)から分岐し、美山、鶴ヶ丘、名田庄を経由して小浜に至る路線として計画された。目的は、京都と小浜を一本で結ぶ事(伝統的に、京都と小浜の結び付きは強い)、沿線の木材資源や鉱物資源(マンガンやタングステンが薄く広範囲に存在)の輸送だった。

 史実では、1922年に改正鉄道敷設法に掲載され、1928年には工事線に昇格した。しかし、この後に来た世界恐慌で建設は先延ばしとなった。戦時中は、建設は間に合わないと判断されたのか、省営自動車(国鉄バス)が開通した。

 戦後も建設計画が上がったものの、モータリゼーションの急速な進展や産業構想の変化、林業の衰退、沿線の過疎化に若江線(近江今津~上中)への期待の高まりで、建設への関心は低下していった。極め付けが、国鉄再建法による建設予算の凍結と国鉄民営化による鉄道敷設法の失効だった。これにより、小鶴線が開業する事はほぼ無くなった。

 

 この世界では、1939年から工事が進められた。準戦時体制になるにつれ、マンガンやタングステンといった金属の需要が急増した。これを受けて、国内の鉱山開発が進められ、以前から有望視されていた小鶴線沿線の鉱山開発も進められた。そこへの資材搬入、産出した鉱石の輸送、増加するであろう京都~舞鶴のバイパス線を目的に、小鶴線の建設が行われた。

 工事中に戦争開始となった為、元々の工員が出征するなどして人員不足が深刻化した。その為、1942年に一度建設中断となったが、朝鮮人や中国人が労務者として大量に送られてきて、鉄道連隊の協力もあり、工事が再開された。山岳地帯を通るが、戦時中の為、多数のスイッチバックやループ線で対処した。また、早期開業の為に規格も大きく落とされた(当初は丙線規格だが、後に簡易線規格に落とされた)。これにより、1945年3月に全線が開業した。

 

 開業したものの、直ぐに終戦となった。戦後は、沿線の木材資源や小浜からの水産資源の輸送に活用されたが、規格の低さや災害の多さ(大雨になると土砂崩れが頻発した)がネックとなった。

 それでも、京都と小浜を結ぶ最短ルートである事から、急行の運転も行われ、これに合わせて路線の規格が上げられた(正確には、当初の丙線規格に戻した)。また、沿線の観光開発も進んだ事で、沿線の過疎化が史実より緩やかになった。

 その後、林業の衰退やモータリゼーションの侵攻によって貨物輸送は無くなり、残るはローカル輸送と観光輸送のみになった。また、国鉄再建時に第2次特定地方交通線に指定されたものの、観光開発に活用出来る事、急行の運転が多かった事から第三セクターへの転換が行われ、1987年4月に「丹若鉄道」に転換された。

 

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・八日市鉄道(近江鉄道八日市線)の旅客輸送廃止

 八日市鉄道は、1913年に近江八幡~八日市口(1919年に新八日市に改称)が湖南鉄道として開業した事から始まる。その後、1927年に琵琶湖鉄道汽船(現在の京阪石山坂本線と琵琶湖汽船)に合併されるが、1929年に旧・湖南鉄道線が八日市鉄道に譲渡された。譲渡された翌年、飛行場のある御薗まで延伸し、全線が開業した。

 戦時中の1944年に近江鉄道に合併され、「近江鉄道八日市線」となった。戦後の1946年、近江鉄道本線との接続を目的に新八日市~八日市が開業し、1948年には軍の解体で飛行場への路線の価値が無くなり、新八日市~御薗が休止となった(1964年に正式に廃止)。

 

 この世界では、八日市鉄道に沿う形で1940年に名古屋急行電鉄(後の京阪電気鉄道名古屋線)が開業した。これにより、八日市鉄道の旅客輸送量が大きく減少した。

 戦時中、不要不急線に指定されかけたものの、飛行場への物資輸送という目的があった為、廃止にはならなかった。しかし、旅客輸送は休止となり、貨物輸送のみとなった(この時、近江鉄道に合併)。

 戦後、旅客輸送を復活させる事が検討されたが、京阪名古屋線との競争や本線復興に注力する事から、終戦直後から休止状態となり、1958年に正式に廃止となった。

 

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〈中国・四国〉

・呉線の海田市~呉の複線化実現

 三原~海田市を竹原・呉経由で結ぶ呉線は、呉軍港への物資・人員輸送、山陽本線のバイパスとして活用された。しかし、海田市~呉の開業は1903年に対し、全線の開業の開業は1935年11月まで待たなければならなかった為、最重要目的は呉軍港への連絡であり、山陽本線のバイパスは後に追加されたと見るべきだろうか。

 その重要性から、1939年から海田市~呉の複線化が計画された。これは、戦時体制になるにつれ、軍需工場への工員輸送が急務になった為である。1941年から工事が始められたが、資材の不足で工事が進まないのに対し、工員の急増が激しかった事から、バス輸送で代替となった。工事も終戦によって中止され、半分以上のトンネルは完成するも放棄されたが、呉線電化の際に再利用された。

 

 この世界では、工事の開始が1940年と1年早かった事で工事が進み、戦局の悪化が緩やかであった事から資材・労働力不足が逼迫しなかった事で工事が中断しなかった。これにより、1945年2月に海田市~呉の複線化が実現した。

 

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〈九州〉

・室木線と幸袋線の延伸

 室木線は遠賀川~室木を、幸袋線は筑豊本線の小竹~幸袋~二瀬をそれぞれ結ぶ路線である。筑豊地域の路線である為、沿線の炭鉱から産出される石炭を輸送するのが主要目的だった。

 しかし、そうである為に、炭鉱が閉鎖されれば、後は小規模の旅客輸送しか無かった。実際、両線は国鉄内でも有数の赤字路線であり、赤字83線に指定されている。特に幸袋線は、「飯塚市内を分断している事から早期に廃止にしてほしい」という声が多かった。

 その結果、1969年12月に幸袋線は廃止となった。これは赤字83線に指定された路線で最初に廃止となった路線であり、以降の国鉄のローカル線の廃止におけるモデルケースとなった。

 室木線も赤字83線に指定されたが、この時は廃止にならなかった。その後、山陽新幹線の博多延伸の際、小倉~博多に隣接している事から、レールの輸送に活用された。しかし、その後の国鉄再建時に第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止となった。

 

 両線には延伸計画があったらしく、幸袋線は二瀬から桂川への、室木線は筑前宮田への延伸計画というものだった。理由はそれぞれ、戦時中の筑豊本線のバイパス、延伸予定地域に建設される工業団地への輸送を予定したという。しかし、結果は実現しなかった。

 

 この世界では、筑豊本線のバイパスとして、室木~筑前宮田~幸袋と二瀬~桂川を建設する案が出た。また、戦時体制になるにつれ、燃料資源である石炭の需要が急増する事から、沿線に新しく開坑される炭鉱の輸送手段としても目された。

 1939年から工事が行われたが、二瀬~桂川は兎も角、室木~幸袋は山越えになる事から難工事となった。一時は中断も検討されたが、沿線予定地の炭鉱事業者や成立した西日本鉄道の助力もあり、1945年1月に全線開業となった。この時、遠賀川~室木~筑前宮田~幸袋~二瀬~桂川は「鞍穂線」と命名され(由来は、起点の遠賀川が鞍手郡、終点の桂川が嘉穂郡の旧・穂波郡に所属している事から)、旧・幸袋線の小竹~幸袋は筑豊本線の支線に編入された。

 

 終戦直前の開業となった為、筑豊本線のバイパスという目的は失われた。石炭輸送も、エネルギー革命と炭鉱の資源枯渇によって次第に縮小し、1970年頃には完全に貨物輸送は消滅した。路線の長さや一定程度の旅客輸送がある事から赤字83線にリストアップされつつも廃止されなかったが、第2次特定地方交通線に指定された。

 しかし、沿線に工業団地が出来る事から旅客輸送の増大が見込まれ、廃止は一時延期となった。その後、沿線自治体や進出企業が中心となって、1988年2月に第三セクター「筑豊縦貫鉄道」に移管された。



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5章 昭和時代(戦後):新たなる時代 番外編:太平洋戦争の総決算と戦後の東アジアの混乱

すいません、遅くなりました。

今回は、戦後処理と日本の状況、日本の周辺の変化について書かれている為、非常に長いです。


 1945年6月5日、日本の戦争は終わった。正確には停戦であり、正式に戦争が終わった訳では無かった。それでも、多くの人にとってはこの日が戦争が終わった日と判断された。

 停戦前後、国内や外地、占領地では継戦派、宣言破棄派が戦争継続の為の行動を起こそうとしたものの、日本から有力皇族が特使として派遣され、それによって現地の暴発は避けられた。それでも暴発しそうになった者は、即刻処断した。時間が無かった為、荒っぽい対処となった。

 

 7月2日、応急修理された「ミズーリ」の艦上で、日本は終戦の文書にサインした。これにより、日本とアメリカの戦争状態は終了した。その後、日本本土にアメリカ軍の駐留が開始され、8月2日には日比谷の第一生命館に連合国軍最高司令部(GHQ)が設置された。その初代司令官に、ジョージ・パットン大将が就任した。

 史実では、マッカーサーがその職に就任したが、この世界ではレイテ戦で第二艦隊の艦砲射撃によって吹き飛ばされて死亡した。その為、彼が就いていた南西太平洋方面最高司令官(太平洋方面の連合国軍を統括する)を誰にするかという問題になり、ヨーロッパで活躍しているパットンが適任とされ、急遽ヨーロッパから太平洋方面に送られた。

 この経緯から、パットンがGHQ司令官として日本に赴任した。そして、GHQ主導の下、日本の民主化が始められた。

 

 先ず始められたのが、戦犯の処罰だった。対象者として、閣僚や大本営の幕僚、現地の高級指揮官や財閥のトップなど多岐に亘った。

 当初は天皇も含まれていたが、日本が全力でこれに反対し、米英も「処罰した場合、日本人は最後の一人になるまで戦い続ける」と考え反対した。天皇については、天皇大権を放棄し国民主権に移行、天皇は象徴君主として存在する事で決定した。

 戦犯の処罰だが、史実の様な連合国による一方的なものとはならなかった。これは、日本が条件付き降伏で停戦した事、停戦時の内容に「現行の国際法に則って裁判を行う事」と明記されていた事が大きかった。それに、ウォレス大統領やトルーマン副大統領、パットン最高司令官が「事後法で裁く事は、先進国として、法治国家として許される事では無い」と考えていた事もあり、以降の利益を考えるとここで日本を必要以上に痛めつける事は国益に反すると考え、史実よりも穏便に事が進んだ。

 これに対し、中華民国やオーストラリア、オランダは厳しい処罰を望んだ。アメリカとの意見が平行線となった為、アメリカはこの3国については諦める事となり、そのまま裁判となった。

 史実よりも穏便となったが、アメリカは戦犯の追及に手を抜く事は無かった。目に見える形で処罰しなければ、国内には勝利したと宣伝する事は難しく、日本国内に対しても「誰が悪だったのか」をハッキリさせる為にも、裁判は必要だった。

 

 裁判の結果、死刑を宣告された者は一人もおらず、全員が終身刑か禁錮刑となった。ただ、東條英機は、自身の責任や天皇への申し訳無さなど様々な要因によって、獄中で割腹自殺を遂げた。同様に、獄中で自殺した者は複数人出た。その後、この裁判の被告人となった軍人が亡くなった後、靖国神社に葬られる事無く家族に遺骨が渡った。

 

 しかし、この裁判はここで終わらず、日本側の逆提案によって、連合国の戦争犯罪も裁かれる事となった。これは、日本側の証言で連合国の戦争犯罪が明るみとなった事、この裁判前にソ連が満州や朝鮮に侵攻してそこでの行為が暴露された事から、連合国の正義が疑われた。

 これを払拭する為に、連合国も裁かれる事となった。これにより、現地で捕虜を虐待した者が裁かれたが、処罰の内容が2階級降格の上で除籍処分、禁錮刑など日本側と比較すると軽いものとなった。

 

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 次いで、日本の海外領土をどうするかだった。この対象となったのは、台湾、朝鮮半島、関東州と南満州鉄道、南洋諸島だった。南樺太は除外され、以降も日本領として扱う事が許された(1947年に樺太県に移行、1950年に北海道と南樺太の開発事務を担当する「北方開発庁」が後述する総務省の外局として設立)。

 当初は、日本は無条件にこれらの領土を手放す事になっていたが、日本は「無条件で」という部分に異議を唱えた。現地住民の声を聴かずに、勝手に決めていいのかという疑問を投げかけ、住民投票で決める事を提案した。

 連合国としても、条件付き降伏をした国に対し好き勝手に行うのは長期的に見てマイナスになる上に、民衆の声を聴いて今後を決める方が「民主主義の守護者」としての体面を保てる事から、日本の意見を取り入れた。この結果次第で、日本への対応も考える必要があり、内容によっては「日本を悪の帝国だ」と攻撃出来る材料になる為でもあった。

 

 投票結果、ソ連の占領下にあった関東州や朝鮮北部では独立が圧倒的多数となった一方、アメリカの影響下にあった朝鮮南部、台湾、南洋諸島は日本への帰属が多数となった。

 アメリカとしては、日本を叩く事は難しくなった事は別に構わないが、これらの領土を再び日本が統治する事にも難色を示した。朝鮮半島は独立させる事が決まっており、台湾は中華民国に返還する予定だった。それらの地域が「不正投票だ」と騒ぐ一方で、日本も現状ではこれらの地域は負担になりかねなかった。

 その為、南洋諸島については暫くアメリカが信託統治を行い、朝鮮南部と台湾は独立させる事となった。中華民国が騒いだが、戦時中に殆ど血を流していない事、台湾に侵攻しなかった事などから相手にしなかった。独立は、朝鮮は5年以内に、台湾は10年以内に行う事が決定された。

 

 投票後、日本国内にいる外地出身者は出身地に戻る事となった。ただ、希望するのであれば日本国籍を取得出来るが、その条件が厳しく(犯罪歴の有無、学歴、収入など多数)、殆どがこの条件に通らなかった。同時に、外地にいる日本人の帰還が行われたが、満州や朝鮮北部の日本人の帰還は叶わなかった。

 住民の帰還と同時に、外地にある日本の資金で建設された固定資産は独立予定国が安価で購入するか、日本の在外資産とする事が決定された。朝鮮は猛反発したが、既に取り決められている事から取り消されず、アメリカが大規模な借款を行う事で鎮静化した。ソ連占領地域ではこの取り決めは適用されず、「戦時賠償」として没収された。

 

 朝鮮南部は1948年に「大韓民国」として、台湾は1952年に「台湾共和国」として独立した。

 尚、これに対抗する様に、ソ連が朝鮮北部を1948年に「朝鮮民主主義人民共和国」として、満州を1954年に「満州民主共和国」、内蒙古を「プリモンゴル人民共和国」として独立させた。

 

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 戦犯、領土の問題の後、各種民主化や再編が行われた。ここでは、史実と異なる部分である、軍部(実戦部隊)、中央省庁、経済の順に説明する。

 

 アメリカは当初、日本の軍事力を全て解体する予定だった。しかし、太平洋戦争でアメリカ軍、特に海軍が壊滅的打撃を受けた事で、その方針が変更された。また、ソ連が終戦後に満州や朝鮮に侵攻した事で、日本をソ連に対する防波堤とする事となった。

 その為、軍の解体では無く、軍縮による再編に変更された。そして、アメリカ軍のコントロール下に置かれる事となった。

 

 その中で、軍縮の過程で生じる艦艇、特に戦艦と重巡洋艦を各国に賠償として引き渡される事となった。特に、大和型については各国が欲しがっていたが、「信濃」がアメリカに「メーン」として引き渡され、「大和」と「武蔵」は新生日本海軍の主力艦艇として引き続き使用される事となった。同様に、「天城」、「赤城」、「加賀」、「土佐」、「長門」は日本海軍に残った。

 それ以外の戦艦は、「金剛」と「扶桑」はイギリスに、「比叡」と「山城」はフランスに、「榛名」と「霧島」はオランダに、「伊勢」と「日向」は中華民国にそれぞれ引き渡される事となった。英仏蘭は、自国の艦艇との規格の違いや老朽化(一番新しい「日向」でさえ1918年竣工の為、27年経過している。「金剛」に至っては32年経過している)によって、屑鉄として売却される事となった。ただ、中華民国は、自国海軍の再編成に活用され、それぞれ「定遠」、「鎮遠」に改称された。

 

 空母は、「天鳳」、「高雄」、「葛城」、「阿蘇」が残された。「大鳳」は、アメリカ軍に賠償として引き渡されたが、これは飽くまで研究の為だった。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、「大鳳」は日本海軍に復帰した(同時に「高雄」は退役)。「生駒」はフランスに、「鞍馬」はオーストラリアにそれぞれ賠償として引き渡された。

 軽空母は、商船改造空母しか残っていなかった。状態が良ければ元の商船に戻す予定だったが、「飛鷹」以外は通商護衛で酷使された為、修理する方がコストが掛かるとして解体処分となった。「飛鷹」は中破しており徹底的に改装された事で商船に戻す事は難しかったが、日本に残った数少ない大型優良商船の為、何とかして商船に戻す事となった。これにより、1948年には「出雲丸」として再スタートした。

 

 重巡洋艦は、損傷した艦艇が多く、7隻(青葉型1、妙高型2、鳥海型2、穂高型1、伊吹型1)のみ稼働可能だった。この内、2隻ずつがフランス、オランダ、オーストラリアに賠償として引き渡され、残る1隻(青葉型)は日本に在籍して実験艦として運用される事となった。

 軽巡洋艦は、稼働可能な全て(5500t型3、最上型2、利根型2、阿賀野型3、大淀型2、練習巡洋艦2)を日本海軍に在籍する事となった。

 

 駆逐艦は、艦隊用駆逐艦は2個水雷戦隊分(24隻)まで保有する事が許され、残りは破棄するか各国に賠償とあった。ただ、損失数が多く損傷も激しい為、賠償に回せる分は数隻しか無かった。その為、護衛駆逐艦や海防艦を多めに賠償に出す事となった。

 潜水艦は、保有は16隻まで、航空機搭載可能型はその機能を撤去する事、潜水空母(伊四百型、伊十三型)は全てアメリカに引き渡す事となった。

 

 海上警備総隊は、所属を内務省に移し「海上保安隊」に改称となった。船団護衛の任は新生日本海軍に移され、海上警備を主任務とする事となる。

 

 陸軍は、国内12個師団まで保有可能、内機甲師団及び機械化師団は1個ずつ、近衛師団は廃止、各種装備はアメリカ軍と共通化する事が決められた。だが、後の冷戦の訪れでこれが緩和され、1950年代には16個師団、内機甲師団2個、機械化師団2個まで拡張する事が認められた。

 

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 中央省庁は、内務省と軍政部(陸軍省・海軍省)が焦点だった。GHQは、内務省が戦前日本のファシズム化を進め、非民主的支配を行っていた中核と考えていた為、解体をする予定だった。

 しかし、ソ連との対立が早まり激化した事で、内務省解体論は急速に衰退、緩やかな分割に変更となった。具体的には、

 

・内務省は「総務省」に改称する。大臣官房・地方局(地方行政部門)以外の内局は全て分離する。

・都道府県知事は全て公選とする。

・警保局(警察部門)は総務省の外局「警察庁」に改編する。全都道府県に都道府県警察を設置する。

・警保局の消防部門を分離して外局「消防庁」を新設する。

・高等警察・特別高等警察は都道府県警の公安課、司法省(後に法務省に改編)の外局「公安調査庁」に改編する。

・国土局(土木行政部門)は「建設省」に改編する。

 

というものだった。内務省は名目上は解体されたが、「特高の解体」は行われなかった。その為、内務省解体後も社会主義・共産主義に対する取り締まりは継続した。

 

 軍政部は、陸軍省と海軍省を解体し、「国防省」を新設する事で解決した。これ以外にも、参謀本部と軍令部が解体され、「統合幕僚本部」が新設された。また、法律で統合幕僚本部は国防省の下に置かれる事となり、憲法で国務大臣は文民に限定される事となった為、戦前の問題だった軍政部と統帥部の関係、軍部大臣現役武官制は解消された。

 これ以外に、海軍情報本部と参謀本部第2部が統合して「国防情報本部」に改編となり、軍の情報機関が一本化された。

 

 これ以外では、内閣に付随する部局を統括する「総理府」が新設され、宮内省が「宮内庁」に縮小改編されて総理府の外局となった。厚生省からは、労働部門が分離して「労働省」が新設された。これにより、日本の主な中央省庁は1府13省(1948年当時)となった。

 中央省庁以外では、内閣情報調査局が内閣官房傘下に収まった。他にも、軍と政府、政府間の調整機関、国家の安全保障を検討する「国家安全保障会議」の設立が検討された(実際に設立されたのは1951年)。

 

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 経済では、財閥の解体が行われた。特に、五大財閥と呼ばれた三菱、三井、住友、安田、大室、新興財閥で最大規模の日産、中島の解体は急務だった。

 実際、1946年4月に上記7グループの持株会社は解体された。その後、年内までに他の大規模財閥の持株会社は解散するか分割され、独占・寡占状態の企業は分割されるか株式公開が行われた。翌年には、地方財閥も解体となった。

 また、財閥の称号の使用も禁止され、これが解除されるのは1951年まで待たなければならなかった。

 

 この部分は概ね史実通りだが、解体はやや緩やかだった。極端な細分化は行われず、大企業を数社から10社程度の分割となった(史実では、三井物産や三菱商事が100社以上に細分化された)。分割された企業の大合同についても、早いものでは1951年から進んだ(史実より5~10年早い)。

 

 これと並行して、特殊銀行が普通銀行に転換され、外地の運営機関や戦争遂行に深く関わったとされた機関が「閉鎖機関」に指定されて閉鎖される事となった。特殊銀行は、日本勧業銀行(勧銀)と日本興業銀行(興銀)、北海道拓殖銀行(拓銀)が普通銀行に転換され、他の4行(横浜正金銀行(正金)、台湾銀行(台銀)、朝鮮銀行(鮮銀)、朝鮮殖産銀行(殖銀))は閉鎖機関に指定された。東洋拓殖(東拓)や南満州鉄道(満鉄)など、約20の外地や占領地で営業していた機関は清算される事となった。

 その後、閉鎖機関の残余資産を基に第二会社が設立された。史実では、正金が1946年に「東京銀行」、鮮銀が1957年に「日本不動産銀行(後に日本債券信用銀行に改称)」、台銀が1957年に「日本貿易信用(後に日貿信に改称)」を設立した。

 また、長期信用銀行法が制定されると、興銀は長期信用銀行に転換し、勧銀と拓銀の長期金融業務を継承する「日本長期信用銀行」が設立される。日本不動産銀行も、長期信用銀行として設立された。

 

 この世界では、東京銀行は史実通りだが、他の企業が大きく異なった。

 鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。

 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。

 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。

 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。

 

 国民更生金庫は、「国民産業公庫」に改称して、後に「中小企業金融公庫」に改称した。戦時金融金庫は、融資先を軍需企業から輸出産業としての重化学工業に融資する「日本復興金庫」に改称した。

 

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 日本は6月5日に停戦した。その後、7月2日にアメリカが日本本土に進駐を開始した。以降、アメリカは日本の外地である台湾や朝鮮、日本の影響力が強い満州への進駐を予定した。

 

 これに焦ったのがソ連、正確に言えばスターリンだった。もし、このままアメリカの進駐を見過ごせば、ソ連国境にまでアメリカ軍が来る事になる。加えて、太平洋への出口の獲得は絶望的となる上、アジアへの橋頭保も確保出来ない。そして、荒廃した国内の復興の為の人材や技術の略奪も不可能となる。

 これを危惧したソ連は、8月8日に「連合国各国による日本駐留を行う」という名目で、満州、内蒙古、朝鮮、南樺太、千島列島への侵攻を開始した。

 

 この侵攻は、ソ連にとって綱渡りだった。当時のソ連は、独ソ戦が終わったばかりで軍の移動が済んでいなかった(独ソ戦は、現在のドイツ=ポーランド国境付近で終了。つまり、ドイツ中心部への侵攻が叶わなかった)。その為、この時の侵攻軍は、極東軍管区やザバイカル軍管区、シベリア軍管区や中央アジア軍管区といった独ソ戦から見て後背に位置する軍管区に残存する部隊から抽出されたものだった。それでも不足の為、囚人や政治犯を解放する条件として舞台に編入した。

 これにより、数だけは100万人と揃ったが、武器は旧式なものが多かった。それでも、ソ連側以上に内容がお粗末であり、武装解除状態だった関東軍相手には問題無かった。この時の関東軍は、優良部隊が南方に送られ、現地で招集した人達で編成した部隊で穴埋めしていた状態であり、練度は低く重装備も無かった。

 この侵攻で、満州と内蒙古は瞬く間にソ連に制圧され、その勢いで朝鮮北部も制圧された。南樺太と千島は、現地部隊の抵抗と、現地に展開していたアメリカ軍や海軍の存在から、侵攻は小規模なものとなり、ソ連は直ぐに撤退した。

 ソ連に占領された地域では、徹底的な略奪が行われた。持ち運べるものは全て持ち去られ、持ち運べないものでも強引に持ち去った。人も殆ど強制的に連れ去られ、過酷な労働を強いられた。日本人だと分かれば、更に過酷な現場での工事や鉱山活動を行わせた。満州民主共和国が建国されるとそちらに移住させられたが、この時までに4割が亡くなった。

 

 これに慌てたアメリカ軍は、直ぐさま西日本にいた部隊を朝鮮半島に送った。同時に、ソ連との交渉が行われた。両者の意見は平行線を辿り、決まった事は朝鮮半島の北側はソ連に、南側はアメリカが管理する事だけだった。これにより、朝鮮半島は北緯38度線で南北に分断される事となった。

 ソ連は、アジアでの足場の拡大に成功した。しかし、この行動がアメリカの対ソ戦略の構築を早める事となり、日本が対米協調路線を明確にする最大の要因となった。

 

 ソ連のアジアでの拡大は留まる事を知らず、1947年には東トルキスタンを取り込み「ウイグルスタン人民共和国」として衛星国化した。1949年には北京で「中華人民共和国」の建国が宣言され、中国大陸も共産主義に覆われた。これにより、中華民国は中国大陸から追い出され、海南島に逃走した。

 中国大陸が共産主義化すると、中国にいた中華民国支持者や反共主義者、反体制派や暴力団、及びそう見做された人などが一斉に摘発された。これにより約2000万人が摘発され、その殆どが国内の強制労働に従事されたり、ソ連に武器や物資の「対価」として輸出された。

 1940年代末は、北東アジアでの共産主義の拡大の時代となった。




変更前
『鮮銀は、1952年に残余資産を基に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。台銀は、台湾拓殖や南洋興発の一部が合流して、1952年に「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立したが、こちらは外国為替銀行法を根拠にしていた(外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。殖銀は、東拓や満鉄の一部を統合して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 東拓や満鉄、台湾拓殖など外地開発の企業は、自前の金融機関を持ちたいとして、1955年に長期信用銀行「日本興産信用銀行(興信銀)」を設立した。その後、以前の同門がいる日貿銀と昭和信託、以前のグループ企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

変更後
『鮮銀は、東拓や満鉄など大陸系の特殊会社と合流して、お互いの内地の残存資産を基に1952年に長期信用銀行「日本動産銀行(動銀)」を設立した。
 これと同様の事が、台銀と殖銀でも行われた。台銀は、台湾拓殖や南洋興発などの台湾や南洋諸島の特殊会社と合流して、1952年に外国為替銀行法を根拠とする「日本貿易銀行(日貿銀)」を設立した(外国為替銀行法を根拠にする銀行は、外国為替・貿易金融業務に限定されるが、海外業務において優遇される)。
 殖銀は、動銀や日貿銀に合流しなかった特殊会社の面々と合流して、1952年に信託銀行「昭和信託銀行」を設立した。
 その後、動銀と日貿銀、昭和信託はかつての関係から繋がりを構築し、かつての傘下企業と新たに融資系列に組み込んだ企業と合わせて「新亜グループ」を形成していく事となる。』

長期信用銀行は国策銀行であると同時に、その特殊性から複数行も必要無いと判断しました。実際、日本不動産銀行が設立しようとした際、「既に日本興業銀行と日本長期信用銀行があるから、新たな長期信用銀行は要らない」と言われた程でした。


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37話 昭和戦後:中外グループ前史

久々に本編です。本当に久々なので、設定の多くを忘れていますし、書き方も忘れています。

また、内容に不快になる部分があると思いますが、あまり深く考えないでください。


 終戦後の財閥解体は、大室財閥は勿論、日林財閥、日鉄財閥もこの影響を受けた。その結果、主要企業は次の様になった。尚、この中には、経済状況の変化によるものも含まれる。

 

〈大室財閥〉

・大室本店→解体。1951年に残余不動産を基に「大新不動産」を設立。

・大室物産→「愛宕物産」、「西新商事」など8社に分割されるも、1957年に大合同し「大室物産」が復活。

・大室海運→「大和海運」に改称、1953年に旧名に戻す。

・大室銀行→「中外銀行」に改称、その後は旧名に戻さず。

・東亜貯蓄銀行→都市銀行「協和銀行」に転換(史実の協和銀行と異なる)。

・大室信託→信託銀行「大同信託銀行」に転換、1952年に「大室信託銀行」に改称。

・東亜生命保険→「昭和生命保険」に改称と同時に相互会社に転換、その後は旧名に戻さず。

・日本弱体生命保険→「三洋生命保険」に改称と同時に相互会社に転換、その後は旧名に戻さず。

・大室火災海上保険→「大和火災海上保険」に改称、1952年に旧名に戻す。

・東亜動産火災保険→「昭和火災海上保険」に改称、その後は旧名に戻さず。

・大室重工業→東日本は「大和重工業」、西日本は「大同重工業」に分割。1958年に両社が合併して「大室重工業」が復活。

・大和航空工業→8社に分割される。その後、分割された各社の大合同は行われず、富士重工業や大室重工業に統合される。

・大室化成産業→「大和化成産業」に改称、セメント事業(「大和セメント」)とガラス事業(「大和ガラス産業」)、ゴム加工事業(「大和ゴム」)を分離。1951年に「大室化成産業」に戻すも、分離した事業は統合せず。

・大室鉱業→金属鉱山部門を「大和金属鉱山」、炭鉱部門を「大和鉱業」に分割。1952年にそれぞれ、「大室金属鉱山」、「大室鉱業」に改称する。

・大日新聞→保有する全ての株式を放出。その後、買い戻して影響力を取り戻す。

 その他、大室系の企業は一時的に「大室」の看板を外し、「大和」や「大同」に替えた。また、一部の支店や工場は切り離され、独立した企業となった。その後、多くの企業が1950年代に「大室」に戻した。

 

〈日林財閥〉

・日本林産→解散。林業部門は「東邦林産」、商社部門は「日林物産」として分割。残余不動産を基に、1950年に「日林不動産」を設立。林業部門は、1952年に「日本林産」に戻る。

・日林化学工業→合成繊維や木材加工などを「日東化学工業」として分離。

 

〈日鉄財閥〉

・日本鉄道興業→解散。製造部門は「日鉄重工業」、商社部門は「日鉄商業」として分割。残余不動産を基に、1951年に「日鉄不動産」を設立。

・大同造船→日鉄重工業に統合。

 

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 財閥解体によって、重化学工業や商社といった戦争に深く関わっていた企業、国内で独占的地位にある企業は分割された。

 また、実質的敗戦とそれに伴う大規模な軍縮で、軍需が極端に減少した。これにより、今まで主な需要が軍需のみだった企業が大打撃を受けた。

 大室財閥では、大元の大室本店は勿論、中核であった大室重工業が航空機や軍艦の製造に深く関わっていた事から、優先的に解体された。大室物産も、占領地の経済活動に深く関わっていたとして分割され、大和航空工業は、GHQによる航空機の生産運用の中止によって細分化された。

 ただ、大室重工業には造船や自動車といった商品があり、造船は急増する貨物船の需要(戦時標準船の耐用年数が来る為、代替船の需要が急増)に応える為にフル回転しており、自動車の方もトラックや重機が戦後の復興の為に必要になる事から、こちらも製造ラインをフル回転させていた。その為、元・大室重工業の方は比較的安泰と見られた。

 しかし、実際は朝鮮戦争が起こるまで、日本経済の混乱によって各部門の状況は安定せず、自動車部門に至っては危機的状況になった。

 

 大室物産も、「愛宕物産」や「西新商事」など8社に分割された。しかも、「元・大室物産の部長以上だった人物が、3人以上同じ会社にいてはいけない」とされた為、分割された会社から漏れた人達は、新たに会社を興すか別の会社に引き取ってもらう事となった。

 それでも、戦後の復興に当たって、物資の獲得や商品の輸出入に商社の存在は欠かせなかった。その為、分割された各社と新しく興した会社は順調に拡大していった。

 しかし、順調に拡大していると言っても、1社1社の規模が限定されていた為、今以上の取引の拡大や効率化を推進する為には、巨大な1社に纏まる必要があった。それが、「大室物産」の復活だが、これが実現するのは1957年まで待たなければならなかった。

 

 大室重工業、大室物産の戦後は何とか軌道に乗ったが、大和航空工業はそうならなかった。大和航空工業は航空機用エンジンを供給する目的で設立された為、戦後の転換は上手く行かず、小規模な自動車用・バイク用エンジンの製造で糊口を凌ぐ日々だった。また、エンジン以外に目ぼしい商品が無かった為、1950年代に分割された企業の大合同が行われた時期に、大和航空工業が再び設立される事は無く、繋がりがあった大室重工業や富士重工業に統合された。

 

 これ以外の元・大室財閥の各企業は、戦後の苦しい状況でも自助・共助によって、何とか苦しい状況を切り抜けた。財閥解体後も彼らの繋がりが維持されたが、彼らが表立って再び集結するのは、1950年代になってからであった。

 

 この中で特殊だったのが、大日新聞だった。大日新聞は、資本的には大室財閥に属していたが、財閥の御用新聞では無かった。広告こそ出していたが、それ以上の付き合いは無かった。その為、財閥批判はそれなりに行っていた。

 しかし、戦時中の軍を賛美する記事を書いた事から、GHQから睨まれ、その方針を転向する事となった。その間隙を突く様に、社会主義者・共産主義者が入り込み、一時は「アカの御用新聞」とまで言われた。

 ただ、終戦直後のソ連の蛮行が世に知られた事、GHQが方針を転換した事によって、社内に入り込んだ社会主義者・共産主義者は軒並み追い出され、朝鮮戦争における韓国・北朝鮮の実態が判明した事によって、1952年には大日新聞は完全に元の中道右派に戻った。

 また、戦時中に獲得したプロ野球チーム「大日軍」だが、戦後にチーム名を「大日イーグルス」に改称した。だが、プロ野球が再開した時期と大日新聞の内部の混乱の時期が重なった為、思う様な補強が出来なかった。その為、この時期のイーグルスはBクラスの常連だった。

 一時は同じグループの京成電鉄に身売りの噂も出たが、「戦後の大日新聞の象徴とする」という社主の命によって、身売りは無しとなった(だが、株式の30%の譲渡が行われた)。その後、大日新聞の混乱が収まると球団経営に力が入る様になり、戦後のプロ野球ブームとも重なり、以降は巨人や大阪タイガースなどの強豪チームと渡り合える力を持った球団となっていった。

 

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 日林財閥は、大元である日本林産が解体された。だが、解体と言っても持株会社としての性格を失っただけであり、林業部門は「東邦林産」として、商社部門は「日林物産」として独立した。その後、1952年に東邦林産は「日本林産」に戻ったが、商社部門は合流せずそのまま独立し、後に大合同なった大室物産に合併された。

 戦後の復興期とあって、木材の需要は膨大だった。その為、木を伐り売り出せば、それだけで利益が出る様な状態だった。

 実際は、経済状況の不安定さによって利益が安定しなかった事、戦時中から行われた過剰な伐採によって、木材資源の不足が目立って来た事などから、今後の経営状況は不安視された。植林は積極的に行われ、史実の様な画一的な植林は行われていないが、日林はこの頃には林業の限界を見ていた。この為、他の事業への注力と、自力で木材を活かせる事業、つまり住宅部門への進出が行われた。

 

 本業の林業とは対照的に、化学や機械などの重化学部門の方は順調だった。軍需産業の為、役員の追放や一部事業や工場の分割、海外資産の没収はあったものの、国内資産の多くは残った。その為、戦後の再生は早かった。戦後経済の混乱によって安定していたとは言えないものの、戦後復興に必要な化学肥料や船舶の需要は高く、その後も業績を伸ばしていった。また、戦後の日本の重化学路線の強化によって、この部門が元・日林財閥の主力部門になっていった。

 

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 日鉄財閥は、GHQに日本製鐵(後に富士製鐵と八幡製鐵などに分割)の系列と勘違いされたエピソードがある。勿論、日鉄財閥と日本製鐵に資本関係は無く、GHQにその事を伝える為に、何度も本社と司令部を往復する事となった。

 ただ、このGHQとの交渉の中でGHQ関係者とのパイプを形成する事に成功し、日本語と英語に堪能な人物の紹介や公開しても問題無いレベルでの情報の開示を受けるなど、その後の混乱期を乗り切る為の手段を手に入れた。

 

 日本製鐵との関係が無い事を説明し、GHQとのパイプを作る事は出来たが、財閥解体は避けられなかった。大元の日本鉄道興業は、製造部門の「日鉄重工業」、商社部門の「日鉄商業」に分割された。同時に、戦時中に設立した大同造船は、日鉄重工業に統合された。

 分割された日鉄だが、業績は好調だった。戦時中に酷使された車輛の修繕や新規車輛の製造があった為である。GHQによって新造には制限があったものの、復旧の名目で実際には大量に新造された。特に、電鉄各社向けの63形や各種客車、D51などのSLの需要は大きかった。これにより、日鉄重工業は規模を拡大、後に社名を「日本鉄道興業」に戻し、日本車輌製造や東急車輛製造に並ぶ鉄道車輛メーカーとなった。

 鉄道以外でも、主機の製造経験を活かして、大型船用のタービンのみならず、大型発電機の製造も行われた。だが、このノウハウが生きるのは、もう少し先の話となる。

 

 一方の商社部門だが、こちらは単独での生き残りは不可能と判断された事、大室物産が規模の拡大の為に中堅クラスの商社の統合を行っていた事から、1962年に大室物産に合併された。 

 

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 財閥解体によって、大室、日林、日鉄の影響力は大きく減少した。それだけでなく、税制改正によって莫大な量の相続税が掛けられるなどして、戦前程の影響力を発揮する事が難しくなった。

 創業者一族も、この時を境に影響力を大きく失った。大室家や高田家(日林)、日鉄の六家族は、資産の多くを税金に取られ、株式の多くも放出させられた。また、会社からも追い出された。

 しかし、長きに亘って会社を統治していた影響力は大きく、会社からは秘密裏に支えてられていた。また、彼らは創業者一族であると同時に、実業家でもあった。その為、追い出された彼らが一から起こした企業もあり、戦後の混乱で困窮する事は殆ど無かった。



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38話 昭和戦後②:中外グループ

 戦後の混乱によって、各社の経営状況は不安定だった。在外資産の喪失、財閥間の繋がりの喪失、有力な人材の追放など、挙げればキリが無かった。

 それでも、戦後復興の為に、皆は精力的に働いた。この途中で、デフレによる急速な景気の後退があったものの、1950年6月25日に始まった朝鮮戦争によって、今までの不景気は吹っ飛んだ。

 

 朝鮮戦争中、日本は朝鮮半島の後方支援基地として活用された。被服や食糧、武器・弾薬と言った前線で使用されるものは勿論、機械や造船、鉄鋼や化学など、ありとあらゆる物資の需要が急増した。

 また、日本軍が国連軍の一員として朝鮮戦争に参戦した事で、軍需も復活した。特に、銃器や被服、造船や車輛などの需要が急増した。また、今までGHQによって制限されていた航空機の製造・開発が解禁された(この世界では、日本の航空機開発は民間機や練習機に限定されていた)。

 

 これにより、日本経済は急速に回復、復興が一段と進んだ。生産力増強が進められれ、その後の経済発展の第一歩となった。

 

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 朝鮮戦争の恩恵は、大室・日林・日鉄も受けた。大室が得意の造船、車輛、機械、航空機、日林が得意な木材と化学は、設備をフル稼働して生産に当たった。日鉄も、大室だけでは手が回らない造船や機械を担当した。

 アメリカ軍向けの装備や機械の製造、兵器の修理などを行った事で、新しい技術の獲得にも成功した。特に大きかったのが、電機や精密機械、車輛の部門であり、これらの部門は生産こそ出来るものの、質の面ではアメリカに大きな後れを取っていた。それが、この戦争中に技術提供やリバースエンジニアリングによって技術を獲得、その後に大きく役立った。

 

 国連軍向けの軍需は大きかったのが、それに並んで大きいものが日本軍向けの軍需の拡大だった。この世界では、日本軍は存続したが、敗戦とそれまでの経緯から、大規模な軍縮が行われた。その為、戦後5年間は既存戦力のみで増強しなかった事から、軍需が殆ど無くなった。

 それが、日本軍が国連軍の一員として参戦した事で変化が起きた。今まで装備の充足率が6割程度だったものが、急速に整備する必要が生じた。その為の生産が急務となり、それ以外にも新装備への転換や新しい部隊の編制などが行われた。同時に、アメリカによる軍備の制限が緩和された為、その後はアメリカ軍から極東方面の防衛を担う事となり、その為にも軍備を整える必要があった。

 

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 朝鮮戦争によって、大室系、日林系、日鉄系の各企業の経営状況は好転し、その後は躍進した。同時に、GHQによる旧財閥に対する締め付けが弱くなり、旧財閥名の使用が解禁された。持株会社の禁止や、独占・寡占的企業の存在の禁止こそ残ったものの、経済に対する制限は劇的に緩和された。

 

 各社が元・大室物産、若しくは大室物産の元社員が興した企業であるだけに、行動は素早かった。1956年には主要各社が大合同に賛成し、翌年には正式に「大室物産」が復活した。その後、日林や日鉄、その他多数の中小の商社を合併し、日本有数の総合商社として発展していく事となる。

 

 大室物産に続き、大室重工業も1958年に復活した。大和重工業と大同重工業に分裂した大室重工だが、朝鮮戦争後の高度経済成長によって、業績は回復した。その後、造船や車輛などで上位に名を連ねる様になったが、グループ内で同じ様な形態の企業を複数持つ事の非効率さ、中堅規模の会社を複数持つより大規模な会社を1つ持った方が効率が良く競争力も得られるとして、両社の合併が進められた。両社もこの意見には賛成であり、1957年には翌年の合併が決定した。

 そして、1958年に大和重工業を存続会社として大同重工業を合併、「大室重工業」に名称を変更した。ここに大室重工業は復活した。

 

 それ以外の企業も、元の姿に戻るか社名をかつてのものに戻すなどして、急速にかつての姿を取り戻しつつあった。違うところは、各社の関係が(名目上)対等なところであり、絶対的な親会社が存在しない事である。

 

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 財閥が解体されても、元財閥同士の繋がりが消える事は無かった。これは、人的繋がりの為、規制する事が難しかった。

 実際、1950年には中外銀行や西新商事など、大室直系の10社が集まり「大和懇親会」を開いている。その後、元大室系や新規参入組が加入して、1953年には「大和会」に改称した。

 日林や日鉄も、1950年代半ばには企業グループを形成しており、元の財閥の形に戻ろうとしていた。ただ、戦前との違いは、持ち株会社の下に各社があるのでは無く、各社が名目上対等な立場で存在する事だった。

 

 その後、大室と日林、日鉄が中外銀行をメインバンクにしている事から、中外銀行とこの頃に大合同した大室物産を中心とした新たな企業グループを1959年に形成する事となった。企業グループは、中核となる銀行名から「中外グループ」と命名された。社長会は、全世界に広がる存在になりたい事から「九天会(くてんかい)」と命名された。



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39話 昭和戦後③:中外グループ(2)

未知の業界や慣れない業界の事を書くのって難しいですね。

内容が間違っている可能性がありますのでご注意ください。


 中外グループが形成されるに当たり、大室・日林・日鉄の各財閥の流れを汲む企業の殆どが参加した。それ以外にも、戦後に発足した企業や、戦後に中外銀行や協和銀行と融資関係を持つ様になった企業も参加した。

 

 その中で大きな存在だったのが、テレビ業の「千代田テレビ」、日本各地に設立した相互銀行やノンバンクなどの各種金融機関、小売業の「日本小売(後に「NICCOLI」に改称)」と「共和ストアー(後に「キョースト」に改称)」、食品加工業でお菓子系の「東邦製菓」と飲料系の「愛宕飲料(後に「アタゴ」に改称)」、日本各地の中外系の鉄道会社系の陸運業社、航空会社の「日本東西航空」だった。

 

 テレビ、金融を前編(この章)で、小売と食品加工、陸運、航空を後編(次の章)でそれぞれ紹介する。

 

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 日本のテレビ放送は、1953年2月にNHKが放送開始したのが始まり、同年8月末に日本テレビ放送網(日本テレビ)が放送開始した事で民放も始まった。その後、1955年4月にラジオ東京(後のTBS)、1959年2月に日本教育テレビ(後のテレビ朝日)、同年3月にフジテレビジョン(フジテレビ)、1964年4月に日本科学技術振興財団テレビ局(後のテレビ東京)がそれぞれ開局した。

 テレビ局は新聞社との繋がりが強く、日本テレビは読売新聞、ラジオ東京は毎日新聞(ただ、ラジオ東京の株主には読売新聞や朝日新聞も連ねていた)、日本教育テレビは朝日新聞、フジテレビジョンは産業経済新聞(ニッポン放送、文化放送との繋がりから)、日本科学技術振興財団テレビ局は1973年に東京十二チャンネルに譲渡した事で日本経済新聞との繋がりがそれぞれ構成された。

 

 大日新聞も、他社と同様にテレビ業にも進出した。特に、読売新聞とは共に関東が地盤である事、プロ野球チームを保有している事(しかも同じリーグ)から最大のライバルと捉えており、早くからテレビ放送を希望していた。

 しかし、他社との競合から遅れに遅れ、漸く1960年代に入って、日本科学技術振興財団と同時に認可された。しかも、大日新聞単独では無く、戦前に日産コンツェルンの総裁だった鮎川義介率いる日本中小企業政治連盟との共同での設立となった。

 兎に角、大日新聞系のテレビ局の開設許可が下りた事で、事は急速に進んだ。そして、1964年4月に「千代田テレビ」が放送を開始した。チャンネルは14chが割り当てられた(この為、在京チャンネルは14以降は2つずれる)。

 

 他社から大きく後れを取った千代田テレビだが、その後の巻き返しは早かった。プロ野球という当時最大規模の娯楽を持っていた大日新聞の存在、中外グループと春光グループ(日産コンツェルンが戦後再編されて形成)のバックアップなどがあり、その後は急速に拡大した。この後、開設された地方のテレビ局との繋がりも形成され、地方での市場の獲得にも成功した。

 

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 戦時中の金融機関の統合によって、大室財閥の手から多くの銀行・無尽会社(銀行に似た小規模な金融機関)が傘下から離れた。それでも、青森県の「青森商業銀行」、宮城県の「奥羽銀行」、石川県の「越州銀行」、神奈川県の「相武無尽」、埼玉県の「北武無尽」が傘下に残った。

 戦後、青森商業銀行は県内の青森貯蓄銀行と青湾貯蓄銀行を吸収し、青森銀行と並んで県内の有力金融機関に成長する事となる。また、相武無尽は「横浜相互銀行」に、北武無尽は「埼玉相互銀行」にそれぞれ転換した。

 

 相互銀行とは、1951年に施工された相互銀行法を根拠に設立された金融機関であり、「銀行」と付いているが銀行法を根拠とした銀行とは区別された。また、業務内容にも制限があり、中小企業にしか融資出来なかったり、融資額に上限があるなどがあった。

 因みに、現在は相互銀行法は廃止され、全行が普通銀行(第二地方銀行)に転換した。

 相互銀行のルーツは、無尽会社から転換したもの、最初から相互銀行として設立されたもの、他の金融業態から転換したものであり、無尽会社が源流のものでも、戦前からのもの、戦後の混乱期に乱立した殖産会社が無尽会社に転換したものに分かれる。つまり、相互銀行のルーツは4つに分けられる。

 

 中外銀行や協和銀行、大室證券や日鉄證券は、戦後の乱立した殖産会社を傘下に収めた。そうする事で、地方への進出がし易くなる為である。また、戦時中、大室系や日鉄系の地方銀行が戦時統合によって合併し、影響力を失った事の巻き返しを図る目的もあった。

 この結果、各地域で殖産会社を傘下に収めた。その後、殖産会社が無尽会社に転換する際、同じ地域毎に統合する事が求められた。これにより、中外系の相互銀行は、以下の通りとなった。

 

・北邦相互銀行(本店:札幌、営業地域:北海道)

・関東相互銀行(本店:東京都港区、営業地域:東京)

・浜松相互銀行(本店:浜松、営業地域:静岡)

・東亜相互銀行(本店:大阪、営業地域:近畿・山陽・四国・北九州・東海・北陸)

・神戸相互銀行(本店;神戸、営業地域:兵庫)

・吉野相互銀行(本店:徳島 営業地域:徳島)

・筑紫相互銀行(本店:福岡 営業地域:福岡)

・大分相互銀行(本店:大分、営業地域:大分)

 

 これらの開業により、中外グループの広がりは日本各地に見せた。相互銀行故に、大規模な取引は行えなかったが、地域の中小企業に融資し、地方の振興と貯蓄意識を高めるという目的は果たせた。

 上記以外にも、第一相互銀行(本店:東京)、国民相互銀行(本店:東京)、大阪相互銀行(本店:大阪)、大正相互銀行(本店:大阪)、東邦相互銀行(本店:松山)、高千穂相互銀行(本店:宮崎)を傘下に収めた(これらは史実で存在した相互銀行。大正相互銀行以外は、他行と合併するか経営破たんして消滅)。

 

 その後、東亜相銀は1969年に都市銀行「大同銀行」に転換したものの、1972年には協和銀行と合併して「協和大同銀行」となって消滅した。しかし、この合併により、協和銀行が弱かった西日本方面の支店網を大幅に増やす事に成功した。

 東亜相銀以外の相銀では、相銀同士の合併が相次いだ。1973年に神戸相銀が大阪相銀、大正相銀と合併して「六甲相互銀行」(本店:神戸)に、同年に関東相銀が第一相銀、国民相銀と合併して、新しい「関東相互銀行」(本店:東京)に、1975年には吉野相銀が東邦相銀、土佐相銀と合併して「四国相互銀行」(本店:高松)に、1976年には筑紫相銀が大分相銀、高千穂相銀と合併して、新しい「筑紫相互銀行」(本店:福岡)になった。

 

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 ノンバンクは、預金業務を行っていないが、融資を行える金融機関の事を指す。リース会社やクレジットカード会社、消費者金融がそれに該当する。

 1960年代はこれらの会社の勃興期であり、日本最初のリース会社である「日本リース(設立当初は「日本リース・インターナショナル」、後に経営破たん)」や日本最大のリース会社「オリックス(設立当初は「オリエント・リース」)」、日本発のクレジットカードブランド「JCBカード」の運営元である「ジェーシービー(設立当初は「日本クレジットビューロー」)」、大手消費者金融の源流など、多くのノンバンクがこの頃に開業している。

 

 中外グループもこの流れに乗り、リース会社とクレジットカード会社を設立した。

 リース会社は、中外銀行と大室物産が中心となり、中外グループの主要企業が親会社となって「ユニバーサル・リーシング」を1966年に設立した。設立に際して、アメリカからノウハウの提携が行われたり、出向者にノウハウを学ばせに数年の留学をさせるなど、万全の態勢で設立した。

 クレジットカード会社は、中外銀行と大室信託銀行、日鉄證券が中心となり、中外系の金融機関が総力を合わせて1968年に「セントラルクレジット」を設立した。同時に、京成百貨店や南急百貨店など、中外系の百貨店で使用出来る様に提携も行われた。

 

 両社は設立後、急速に拡大した。ユニバーサル・リーシングは、設備の拡大や更新から始まり、後に大規模な商品(機械や船舶・航空機)を扱う様になった。経済の成長に合わせて需要も拡大していき、日本有数のリース会社として成長した。

 セントラルクレジットは、JCBの様に世界規模のブランドとはならなかったが、国内ブランドとしては有数のブランドに成長した。「C2カード」というブランドが「UCカード」や「DCカード」と同程度の知名度を得て、中外グループ系の金融機関が発行するクレジットカードにも使用されるなどして、国内での発行枚数は増加した。

 

 ここで紹介しなかった消費者金融だが、中外銀行と協和銀行が信販会社経由で消費者金融事業を行っていた。後に、中堅消費者金融会社を傘下に収めたり、自前の消費者金融の設立などを行うが、これは1970年代から80年代にかけての事になる。

 

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 地方銀行・相互銀行の拡大が目立ったが、信託銀行の新規設立も行われた。

 1950年代後半、大蔵省は金融機関の長短分離を進める為、信託業務を兼営している都市銀行・地方銀行は、信託業務を新しく設立する信託銀行に移す政策が取られた。史実では、これによって三和銀行・神戸銀行・野村證券系の東洋信託銀行(UFJ信託銀行を経て、現・三菱UFJ信託銀行)と東海銀行・第一銀行系の中央信託銀行(中央三井信託銀行を経て、現・三井住友信託銀行)が設立された。

 

 この世界では、上記2行に加え、もう1行設立された。それが、協和銀行・北海道拓殖銀行・日本勧業銀行・日鉄證券・信託業務を持つ地方銀行が共同して1961年に設立した「共立信託銀行」である。

 中外グループは既に「大室信託銀行」を持っているが、名前の通り元・大室財閥系で大室銀行・大室證券に近い存在である。

 それに対し、日鉄證券は自身のコントロール下の銀行を保有したいという思惑から、信託銀行の新設を利用した。そこで、協和銀行や地銀、拓銀・勧銀を巻き込み、「地方の大企業・中堅企業・富裕層向けに信託業務を行う信託銀行」として設立された。

 

 こうして設立された共立信託銀行だが、後発故の地盤の弱さと引き継いだ信託業務の少なさから、信託銀行の中では最下位クラスの規模だった。それでも、日鉄證券の後ろ盾、地方銀行との繋がりから生じた地方での基盤を得た事で業績を拡大、「大都市の大室、地方の共立」として中外グループ内では棲み分けが作られた。

 

 しかし、共立信託銀行の設立は、中外グループ内の金融部門の分裂を引き起こした。以前から表面化していた中外銀行・大室證券連合と日鉄證券の対立が、この一件で拡大した。

 これ以降、中外グループ内では、中外銀行・大室證券・大室信託銀行の元・大室系と、日鉄證券・共立信託銀行の元・日鉄系で対立構造が形成された(協和銀行は中立)。ただし、これはあくまで金融部門における対立であり、両者はグループの完全分裂は望んでいなかった。両者は、グループの金融部門の主導権をどちらが握るかという競争関係にあった。

 ただ、共立信託が日鉄證券の先兵として動いたのは、バブル景気以前までだった。バブル景気に入って以降、共立信託は急速に独立色を増し、日鉄證券のコントロールから外れる様になった。




この世界で開業した戦後地銀
・樺太銀行(本店:豊原、営業地域:南樺太)
・両毛銀行(本店:太田、営業地域:群馬、栃木)

この世界で開業した相互銀行(殖産会社組・新規組)

北海地方(北海道・千島・南樺太)
・樺太相互銀行(本店:豊原、営業地域:南樺太)
・道東相互銀行(本店:釧路、営業地域:釧路・根室・網走・十勝・千島)
・宗谷相互銀行(本店:稚内、営業地域:宗谷・留萌・上川・豊原・真岡)
・渡島相互銀行(本店:函館、営業地域:渡島・檜山・胆振・後志)

東北地方
・南部相互銀行(本店:八戸、営業地域:青森)
・三陸相互銀行(本店:仙台、営業地域:宮城・福島浜通り・岩手三陸)

関東地方
・東都相互銀行(本店:東京都新宿区、営業地域:東京)
・多摩相互銀行(本店:八王子、営業地域:多摩地域、埼玉西部、神奈川北部)
・総武相互銀行(本店:千葉、営業地域:千葉)

中部地方
・信濃相互銀行(本店;長野、営業地域:長野)
・金沢相互銀行(本店:金沢、営業地域:石川)
・甲州相互銀行(本店:甲府、営業地域:山梨)
・三州相互銀行(本店:岡崎、営業地域:愛知、静岡)

近畿地方
・両丹相互銀行(本店:福知山、営業地域:京都北部、兵庫北部、福井西部)
・摂津相互銀行(本店:大阪、営業地域:大阪)
・紀州相互銀行(本店:和歌山、営業地域:和歌山)

中国地方
・芸州相互銀行(本店:広島、営業地域:広島)

四国地方
・土佐相互銀行(本店:高知、営業地域:高知)

九州地方
・西海相互銀行(本店:福岡、営業地域:福岡)


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40話 昭和戦後④:中外グループ(3)

 戦後、小売業(スーパーマーケット)の発展は著しかった。モノ不足の反動から、売りに出せば何でも売れた程だった。特に、1950年代後半からは日本人の所得が急上昇し、それに伴う購買意欲の向上から、今までの小売業の形態すら変化させた。

 それでも、少数店舗で中小企業が多数だった為、景気の影響を受け易かった。実際、1964年の東京オリンピック後は、今までの反動から不況になり、中小が殆どだった小売業の倒産が多かった。

 

 中外グループ、正確には中外銀行や大室物産は、今後の小売業は大幅に拡大すると見られた為、倒産寸前のスーパー同士を合併させて、大型スーパーに転換させる事となった。

 これを受けて、関東のスーパー複数社が合併して1966年に誕生したのが「日本小売」だった。誕生当初は、店舗数15、売上高5000万円と小規模なものだったが、全国各地のスーパーを統合していく事でGMS(ゼネラルマーチャンダイズストア)化を進め、1982年には店舗数284、売上高8000億円という大企業になった。そして、今までブランドとして使用していた「NICCOLI」を、正式に会社名に変更した(但し、登録上は「ニッコリ」)。

 

 一方、協和銀行は中外銀行とは別に動いており、関西で同様の事を行っていた。日本小売より一足早い1964年に6社を統合して、「共和ストア」を設立した。その後、共和ストアは日本小売とは異なり、食品スーパーマーケットの路線を歩んだ。その為、GMSの様な躍進は無かったが、安定した成長を見せた。

 1982年には、全国に店舗数162、売上高2000億と拡大、翌年には会社名をブランド名だった「キョースト」に変更した。

 

 「NICCOLI」と「キョースト」、同じ小売業だが異なる業態の為、同じグループ内での関係は比較的良好だった。これは、大都市圏や大企業の面倒は中外銀行が、地方都市や準大手企業・中堅企業・中小企業の面倒は協和銀行が見るという、グループ内での棲み分けが為されていた為である。

 実際、関東に基盤を持ち、衣類に強いGMSの「NICCOLI」、関西に基盤を持ち、食品に強いスーパーマーケットの「キョースト」は、シナジー効果を生み出しやすかった。実際、1985年には両社は提携関係を結び、以降は日本有数の小売グループの一角を占める様になる。

 

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 戦後、今まで統制されていた甘味料の需要が急増した。尤も、この頃は砂糖の供給源だった台湾や南洋諸島を失った事とその後の混乱から、砂糖の供給が不安定だった。その為、当時の甘味料と言えば、水飴か人工甘味料を使用したものが殆どだった。

 砂糖の供給が安定するのは、台湾や南洋諸島の統治が安定してくる1950年代前半からだった。それ以降は、砂糖の輸入が順次緩和され、1963年には粗糖(砂糖に加工する前の段階)の輸入が完全に自由化された。

 これにより、砂糖を原料に使用するお菓子産業は急速に拡大した。その一方、水飴メーカーは倒産するか今までの技術を応用して別業種に進出するかのどちらかになった。

 

 中外グループは、太陽食品工業が主導して国内のお菓子メーカー・水飴メーカー・飲料メーカーなどの食品メーカーの子会社化を進めた。この動きにより、全国の中小の食品メーカーを傘下に収める事に成功した。

 暫くは今まで通りの業務を行っていったが、戦後の復興が進んだ1950年代後半から少しずつ生産内容が変更された。この頃になると、国民の所得が向上し、食の多様化が進んだ。その為、今までの水飴の需要は減少し、チョコレートやビスケットなどの洋菓子の需要が高まった。この動きは、粗糖の輸入の自由化以降は急速に進み、水飴メーカーの整理淘汰が進んだ。

 

 これを受けて、中外グループは太陽食品工業を中核にグループ内の食品系メーカー(他に大室製粉、大室製糖、東亜水産などがあった)の再編を行った。その中で、次の事が決定した。

 

・水産加工・冷蔵食品は「東亜水産」が担当する

・飲料部門は、新設する「愛宕飲料(後に「アタゴ」に改称)」に譲渡する

・製菓・冷菓(アイス)部門は、新設する「東邦製菓」に譲渡する

・製粉・デンプン加工業は、大室製粉から改称した「大和製粉」が担当する

・製糖は、大室製糖から改称した「大和製糖」が担当する

・上記以外の食品加工は、「太陽食品工業」が担当する

・製薬部門は、「太陽製薬」が担当する

 

 この再編は、太陽食品工業がグループの中核会社として統括し、他の会社は業態毎に統合した。これにより、各社で重複していた部分の統合が完了し、経営の効率化が成功した。その後、各社は日本で十指に入る食品メーカーとして拡大していき、「太陽食品グループ」と呼ばれる一大総合食品メーカーとなった。

 

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 戦前、中外グループの旧・日鉄財閥が陸運会社を保有していたが、日本通運設立の際に全事業を譲渡した為、陸運業から離れた。それでも、京成や西鉄、北陸鉄道や駿遠鉄道、仙台鉄道といった日鉄系の鉄道会社が沿線を中心とした陸運業を保有していた。

 

 戦後、旧・日鉄財閥の関係者が「再び全国規模の陸運会社を持とう」という動きが出た。中外グループとしてもこの動きは悪いものでは無かった為、支援する事となった。

 戦後に勃興した中小の陸運会社を傘下に収め、関東の「関東内外運送」、東海の「東海内外運送」、北陸の「北陸内外運送」、近畿の「近畿内外運送」、九州の「九州内外運送」、東北の「東北内外運送」、北海道の「札幌内外運輸」の7社に統合された。この6社は資本関係や人的繋がりがあり、それぞれ京成、駿遠鉄道、北陸鉄道、南急、西鉄、仙台鉄道、石狩鉄道との提携と支援を行っていた。これにより、各内外運送はノウハウを獲得し、鉄道会社は広域的な運送業務を行える様になった。

 

 これらの内外運送が規模が拡大しノウハウが蓄積した1960年代、中外グループは1社に統合させる計画を打ち出した。1つに統合する事で、効率的な業務を行える事、日本通運に並びたいという思惑があった。

 しかし、この動きは提携していた鉄道系陸運業社の猛反対があった。もし統合となれば敵対関係になりかねない事、今まで育ててきた市場や顧客を荒らされる事が理由だった。

 この意見に賛成する企業も多く、何より統合するよりも、各地域毎に任せた方が逆に効率が良い上に、適度な競争によってより拡大していくと判断された事から、統合は白紙となった。

 

 この結果、各内外運送は、提携していた鉄道系陸運業社に統合されて消滅した。中外グループを担う一大陸運会社を創るという計画は失敗したものの、その目的から創られた企業が最終的に中外グループの陸運を担う様になった。そう考えると、この動きは無駄では無かった。

 

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 戦時中の日本の航空会社は、大日本航空に一本化されていた。敗戦によって、日本は航空機の生産・設計は勿論、飛ばす事も不可能となった。その為、大日本航空も解体された。

 その後、GHQによって日本人の手によって航空機を飛ばす事が許されるのは1950年の事だった。この翌年には日本航空が設立されたものの、日本に乗り入れる航空会社(ノースウエスト航空)の委託運行という形だった。自前での国内船運航が行われたのは1952年からだった。

 その翌年の1953年には日本航空株式会社法が制定され、日本航空は民間航空会社から半官半民の特殊会社になった。これにより、日本航空が運航出来る航路が国際線と国内幹線に限定され、それまで運行されていた準幹線や地方線は他の航空会社に移管された。

 

 1952年に航空機の運用の制限が廃止されると、多くの航空会社が設立された。その中には、全日本空輸の前身である極東航空と日本ヘリコプター輸送、日本エアシステムの前身である東亜航空や富士航空、日東航空などがあった。

 

 この世界では、終戦時の大日本航空の解体は行われなかった。事実上の敗戦によって、国際航路だけでなく外地への航路が失われた事は大きな痛手であり、財政難から倒産の危機すらあった。

 それでも、大日本航空は細々と存続し続けた。GHQも、軍用機の生産・開発は事実上禁止していたものの、旅客機・練習機に限れば生産・開発は許していた上、運行も禁止しなかった。その為、日本人による運航や開発が途切れる事は無かった。

 細々と経営していた大日本航空だが、流石に政府としてもこれ以上見過ごす事は出来ないとして、1952年に日本航空株式会社法が制定され、日本航空を設立して大日本航空の一切の業務を移管した。しかし、全てが移管された訳では無く、準幹線や地方線についてはそのままだった。社名も「日邦航空」に改称してそのまま運行を続けた。

 

 この世界でも、史実と同じ様に1952年まで新規の航空会社の設立は認められなかった。これは、航空機の運航は禁止しなかったが、新規の航空会社の設立は禁止していた為である。

 しかし、1952年に航空会社の設立が解禁されると、我先にと大量の航空会社が設立された。史実と同じ会社が設立されるも、一部は中外系の航空会社があった。それが、西鉄と阪急と共同で設立した「西日本航空」、京成・南急系及び大日新聞系の「東阪航空」だった。

 

 西鉄と阪急は、共にパンアメリカン航空との繋がりがあった。共に販売代理店契約を結んでいた事、特に阪急はパンナムと合弁で航空会社を設立しようとした事などがある。その両者が、パンナムの支援の下、1952年に「西日本航空」を設立した。当初は、パンナムが運行し、西日本航空はその委託という予定だったが、海外に日本の空を独占される恐れがあるとして、当局がこの案を嫌った。その後、パンナムが西日本航空を支援する形に変更された。

 この一方で阪急は、南海とも手を組んで別の航空会社を設立した。そうして1953年に設立されたのが「大阪遊覧航空」だが、早々に南海が手を引いた事で阪急単独となった。その後、阪急が2つの航空会社を保有する事の非効率さや路線の重複を解消させる目的で、1956年に西日本航空に統合された。

 

 もう一方の「東阪航空」は、1952年に大日新聞が中心となり、京成と南急を誘う形で設立された。こちらの目的は社名の通り、東京と大阪を結ぶ航路を保有したいというものだった。

 これ以外にも京成は、1958年に日本遊覧航空を子会社化し、1960年には東阪航空に合併した(史実では全日本空輸に合併)。

 

 その後、中小の航空会社が乱立したものの、資本力の小ささや日本経済の小ささから赤字になる企業が殆どだった。この為、1960年代に入ると中小事業者の統合が進められた。その中で1964年に誕生したのが、日東航空・富士航空・北日本航空が合併した「日本国内航空」と、西日本航空・東阪航空が合併した「日本東西航空」だった。日本国内航空は東急・近鉄系で、日本東西航空は京成・南急・阪急・西鉄系の航空会社として成立した。

 

 その後、1970年代に航空業界の再編が行われ、東急・近鉄系の日本国内航空と東亜航空が1971年に合併して「東亜国内航空」が誕生し、その直ぐ後に日本東西航空と日邦航空が合併して「日邦東西航空」が誕生した。更に、翌年には日邦東西航空は横浜航空を合併し(史実では、1974年に日本近距離航空に合併)、規模の上では国内第3位の航空会社となった(実際は、前身企業の赤字やローカル線ばかりを抱えている為、かなり危ない状況)。

 これにより、中外グループである京成・南急・西鉄の影響がある航空会社が設立された事で、中外グループは航空会社を保有する事になったが、日邦東西航空そのものは九天会に加盟する事は無かった上、中外グループから特別優遇された訳でも無かった。

 それでも、大日・阪急・南急・西鉄というジャ・リーグ球団を保有する企業が親会社になった事で、球場がある都市同士の定期便やチャーター便の利用、球場での広告などによって、知名度は上昇し利用客も増加した。



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41話 昭和戦後⑤:中外グループ(4)

 戦前からの企業や戦後に発足した企業、かつては他の財閥・グループに属していた企業が集まって構成される企業グループ、その中の1つである中外グループだが、グループ内においても、躍進している企業と斜陽傾向にある企業とで別れていた。躍進しているのは、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学系と商社であった。

 

 戦後、日本の経済構造は大きく変化した。今まで、日本の主要な輸出商品は繊維だったが、戦後になってからは鉄鋼や造船、後に自動車や機械などの重工業に転換した。国内需要の増大や輸出の拡大が設備の拡大を生み、それが更なる国内需要や輸出の増大を生んだ。

 

 この恩恵を中外グループも大きく受けた。大合同で復活した大室重工業と日本鉄道興業、大室電機産業、大室通信産業といった重工・電機系、大室製鉄産業や大室金属産業といった製鉄・金属系、大室化成産業や日林化学工業といった化学系は、この頃は黄金時代を謳歌していた。作れば売れるという時代だった為、増産に次ぐ増産となり、その為の設備投資も積極的に行われた。

 

 特に造船と製鉄はその代表格だったが、その対応が異なった。製鉄は、既存の設備だけでは不足すると見られた事から、現在の場所を拡大する事と、別の場所に新たな設備を開設する事となった。

 一方の造船は、拡大と同時に再編という形が取られた。合わせて、造船と近い関係にある重工と電機の再編も行われた。

 それ以外の各社も、他の企業と合併したり、事業の統合が進められた。1960年代後半から70年代前半は、グループ内の再編の時代でもあった。

 

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 1960年代後半の日本の大手製鉄会社(ここでの「大手」とは、高炉を持つメーカーとする)は、富士製鐵、八幡製鐵、住友金属工業、大室製鉄産業、川崎製鉄、日本鋼管、神戸製鋼所、日新製鋼の8社があった。その後、富士製鐵と八幡製鉄が1970年に合併して、「新日本製鐵」が誕生した。

 

 当時の大室製鉄産業は、堺と和歌山の2か所に製鉄所を持っていた。堺は大型高炉2基で比較的新しいものだったが、もう一方の和歌山は中規模の高炉1基しか無かった。高炉3基では今後増大する需要に応えられる訳が無い。加えて、1950年代から60年代にかけて新しい製鉄所を建設していた事から、それらに対抗する意味でも新しい製鉄所は必要だった。特に、1961年に住友金属工業が和歌山に、八幡製鐵が堺に建設した事は、テリトリーを脅かされる事になるとして、既存設備の更新・強化と新たな製鉄所を建設する事が求められた。

 

 当初は、京葉方面に建設する予定だったが、八幡製鉄が同時期に君津に建設する事となった為、競合を避ける意味から京浜方面に変更となった。そして、川崎側は日本鋼管が存在する事から、横浜に建設する事となった。1960年代は、横浜市南部の本牧・磯子地域が重工業地帯として整備された為、そこに進出する事となった。

 1962年から建設工事が行われ、67年には高炉に火が入れられた。これ以降、高炉は計4基設立され、首都圏方面に供給された。

 

 堺と和歌山の方も設備の強化が行われた。堺では、今まで2基だった高炉を2基増設して、その後に既存の2基を更新する方向が取られた。これらは1964年から行われ、高炉の建設は69年に、更新は73年に完了した。これにより関西圏への供給が行われたが、完成直後にオイルショックが来た為、その後の不況を受け、当初予定していた採算ラインに乗らなかった。

 それでも、西日本の生産拠点だった事、中外グループで鉄鋼を使用する工場が西日本に多かった事、設備が新しい事で製造効率が上がり生産コストが下がった事などから、想定以上の赤字とはならなかった。その後も、西日本の製造拠点として稼働し続けた。

 

 和歌山の方はもっと深刻だった。当初計画では、大型高炉を2基建設し、建設終了後に使用中の高炉を解体する方針となった。建設は71年から進められ、予定では1977年に全て完成する予定だったが、建設中にオイルショックが発生した為、計画が変更となった。これにより、2基目の建設が延期となり、一方で中型高炉の解体が進められた。75年に高炉は完成したものの、2基目の完成はその後の経済構造の変化や、堺と横浜への集中から白紙となった。

 

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 製鉄所の方は増設が進んだが、造船所の方は拡大と同時に整理が進んだ。

 中外グループ内で造船を行っているのは、元・大室財閥系の大室重工業、元・日鉄財閥系の日本鉄道興業の2社である。大室重工業は長万部・仙台・横浜・堺・多奈川・松山(長万部・仙台・松山は、元・日林造船機械。木造船や小型船が専門)に、日本鉄道興業は尼崎・三田尻・戸畑・大分(尼崎と戸畑は元・大同造船。小型船が専門)にそれぞれ造船所があった。

 両社の大合同以降、中外グループ内では事業内容が重複している企業の整理が行われていた。大室重工業と日本鉄道興業は共に重工であり、商品も似ていた。また、日本鉄道興業の経営が不安定だった事もあり、一部事業の交換が行われ、1975年に以下の通りとなった。

 

・日本鉄道興業の造船部門:大室重工業に譲渡

・日本鉄道興業の弱電部門:大室電機産業に譲渡

・大室電機産業の鉄道車輛部門:日本鉄道興業に譲渡

 

 これにより、中外グループ内で重工系の大室重工業、電機系の大室電機産業、鉄道部門の日本鉄道興業に一本化された。ただ、重電部門については大室電機産業と日本鉄道興業で分立し続ける事となった。

 

 さて、事業の統合が行われる前、大室重工業と日本鉄道興業は別個に造船所の拡張計画を立てていた。大室重工業では、長万部と仙台を分離独立させるものの、松山を拡大して大型船を建造可能にする計画だった。日本鉄道興業も、尼崎と戸畑を分離独立させて、大分の規模を拡大する計画だった。分離独立させるのは、事業内容を大型船に集中させる事が目的だった。

 この一環で、1963年に大室重工業が長万部と仙台の造船所を分離させて「大室船舶工業」を設立、1965年に日本鉄道興業が尼崎と戸畑の造船所を分離させて「大同造船(2代目)」を設立した。その後、グループ内の事業毎の再編によって、1974年に両社が合併して「両大造船工業」となった。

 

 小型船部門の分離に合わせて、両社の造船所の拡大がスタートした。

 大室重工業は、1964年に松山造船所周辺の土地を購入し、大規模ドックを3基持ち、当時最新鋭の造船技術を持つ巨大造船所として建設が開始された。1969年には全ての工事が完了し稼働した。松山以外でも、堺・横浜・多奈川の設備を拡大させる計画があったが、これらは設備の過剰が謳われた事、景気の鈍化、日本鉄道興業との統合から白紙となった。

 一方の日本鉄道興業は、1962年から三田尻と大分の設備の拡大が行われた。共に巨大ドックを1基追加し、1968年から稼働した。

 

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 製鉄は拡大、重工は拡大と再編という流れだったが、他の業態も拡大と再編が行われた。特に大きなものが製紙だった。

 中外グループの製紙業は、元・大室財閥系の大室製紙と、元・日林財閥系の日林製紙の2社に別れていた。戦後、両社は戦後に発足した製紙会社を子会社化したり合併したりと拡大したが、共に準大手クラス止まりだった。当時、その上には王子製紙、本州製紙、十條製紙(戦前の「大・王子製紙」が、財閥解体によって3社に分割された。この時の「王子製紙」は、苫小牧製紙が1960年に改称したもの)が存在しており、その差は巨大だった。

 その3社が1969年に合併し、戦前の「大・王子製紙」が復活した(史実でも1968年に合併が計画されたが白紙となった)。ただ、合併に際して、一部工場の他社への譲渡や、独占状態になる商品の他社への技術提供、王子製紙系の中小製紙会社の他社への株式譲渡などが行われた。

 

 これに慌てた他の製紙業者が、大合併を行い王子製紙に対抗しようという動きが出た。この動きの中心となったのが、日林製紙と大室製紙、芙蓉グループ系の山陽国策パルプの3社だった。1970年に3社が中心となって合併協議に入り、合併によって王子製紙の対抗勢力になる事が決定した。

 1972年に上記三社とその子会社、東洋パルプ、元王子製紙系の東北パルプ、北日本製紙、日本パルプ工業が合併して、「扶桑製紙」が誕生した。これにより、日本第2位の製紙会社が誕生したが、その規模は王子製紙の6割程度だった。

 また、合併直後にオイルショックで紙製品・パルプの需要が急激に減少し、経営が急速に悪化した。加えて、合併後の内部融和とリストラが進まなかった為、競争力でも王子製紙に敵わなかった。この状況が改善するまで10年掛かったが、その後は需要の回復や多角化によって王子製紙に対抗し続けた。

 

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 高度経済成長期、戦後にGHQによって分割された商社の再統合が行われた。これにより、三井物産と三菱商事が復活した。それ以外にも、大手商社が準大手や中堅クラスの商社を合併して規模の拡大に乗り出していた。これにより、オイルショック前には三菱商事・三井物産・丸紅飯田(現・丸紅)・住友商事・伊藤忠商事・日商岩井・日綿實業(以上、後の双日)・トーメン(後に豊田通商に合併)・兼松江商(現・兼松)・安宅産業の10社が「大手商社」や「総合商社」と呼ばれていた。

 後に、安宅産業が海外事業の失敗や架空売り上げなどが原因で実質破たん状態となり、1977年に伊藤忠に合併された。その後は、暫く9社体制だったが、バブル崩壊後は更なる再編が行われたが、これは別の話。

 

 この世界では、大室物産がこの中に加わり、総合商社は11社体制となっていた。中外グループの商社は、大室物産以外にも日林財閥系の日林物産、日鉄財閥系の日鉄商業、大室物産の退職者が設立して大合同に加わらなかった商社が数社いた。

 しかし、中小規模商社では規模や扱う商品の多角化が求められる時代に合わなかった事から、これら中規模商社の大室物産への合併が行われた。1959年には日林物産を、1962年には日鉄商業を合併し、1970年までに他の中規模商社を2社合併した。これにより、大室物産は11社中5位の中位クラスの商社となった。

 因みに、この時大室物産に合併されなかった大室物産出身者によって設立された中小規模商社は、大室製鉄産業系の「大鉄商事」や、日林製紙系の「日紙商事(扶桑製紙成立後は「扶桑紙商事」に改称)」に合併された。

 

 規模だけでなく、扱う商品も多数に上った。大室物産が得意な機械と鉄鋼、化学に資源・エネルギー、日林物産が得意な木材と製紙・パルプ、日鉄商業が得意な機械が合わさった事で、重化学部門、特に機械と鉄鋼に強い総合商社となった。繊維や食品といった軽工業系は弱かったが、大室物産と日林商事が一定程度扱っていた為、極端に弱い訳では無かった。

 統合後、大室物産は海外事業の強化や新事業への進出、投資事業の強化などを行い、更なる拡大へと邁進した。



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42話 昭和戦後⑥:中外グループ(5)

 高度経済成長期、造船や鉄鋼、機械や電機、化学や製紙といった重化学工業は拡大し続けた。オイルショックによる停滞があったものの、成長は続いた。

 

 これに対し、鉱業と林業については衰退傾向にあった。これは、鉱業は国内鉱山の採掘量の減少や採算割れ、海外産の安い鉱石の輸入が、林業も国内の林業従事者の減少、海外産の木材との価格競争が理由だった。当然、中外グループ内でも、大室鉱業、大室金属鉱山、日本林産がその影響を受けた。

 また、繊維も一時は傾いたが、その後の転換が上手く行き、新たな道を歩んでいる。

 

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 大室鉱業は炭鉱を保有していた為、エネルギー革命による影響を大きく受けた。大室鉱業が保有している炭鉱は、樺太炭田、北海道の天北炭田や留萌炭田、東北炭田(岩手県葛巻町)、九州の唐津炭田や北松炭田、天草炭田など中小規模のものが多かった。かつては、国内の他の炭鉱業者と共に、国内の新炭鉱の開発や既存炭鉱のスクラップアンドビルトによる整備によって、優良炭鉱の存続に動いていた。それでも、樺太炭田、天北炭田と東北炭田以外は1960年代までに全て閉山となった。

 

 これにより、大室鉱業は事業転換を余儀なくされた。ただ、いきなり他業種の転換は難しい為、石炭に関連する事業から始まった。主にコークス精錬やセメント、海外炭の輸入、炭鉱跡周辺での砕石事業から始まった。コークスとセメント、砕石事業への転換は成功し、徐々に炭鉱事業者からコークス・セメント事業に転換していった。これにより、炭鉱は殆ど技術継承程度の規模でしか無く、細々と自社向けに採掘する程度となった。

 

 セメントの比重が高まると同時に、大和セメント(大室化成産業のセメント事業が戦後に分離独立したもの)との競合も高まっていった。両社の規模は中小程度でしか無く、他社との競争力強化の為に何度か合併案が出たが、合併案が出た1980年代はビルや空港の建設があり需要があった事から、この頃の両社の業績は好調だった為、合併が見送られた。結局、建設需要が落ち着いた1994年に大室鉱業を存続会社として両社は合併し、「大室セメント鉱業」が成立した。

 

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 大室金属鉱山も、国内鉱山の採掘量の減少や海外からの安い鉱石の大量流入によって、国内の鉱山の内、優良鉱山以外は全て閉山した。元々、中規模鉱山が大半だったので、採算が割れやすかった事も閉山を早めた。それでも、北海道や東北に優良鉱脈を有する鉱山を保有していた為、そちらに注力する事となった。

 

 多くの鉱山を閉山したが、採掘した捨石から多少の資源の回収や、鉱山跡地の鉱毒処理や緑化など、行うべき事は山程あった。当時、多くの鉱山や炭鉱が閉山となったが、そのまま放置して鉱害や土砂崩れの問題になる事が多かった。

 その為、閉山後の鉱山周辺部の緑化を行ったり、かつての設備を利用して廃家電や工業廃液のリサイクルを行うなどして、周辺地域が完全に無人化して野ざらしになる事を防いでいる。流石に、坑道を埋めて陥没を防ぐ事にまでは資金が回らなかった。これは、大室鉱業でも同様だった。

 

 多くの鉱山が閉山した後、残った鉱山での採掘とリサイクルによる金属の精錬が主業務となった。この為、非鉄金属の精錬で重複する大室金属産業との経営統合が検討された。

 しかし、大室金属鉱山が行っている鉱山跡の処理問題や鉱山事故による賠償問題から大室金属産業が難色を示した為、経営統合は白紙となった。以降、大室金属産業は非鉄金属の精錬と関連商品の製造、大室金属鉱山は産業廃棄物からのリサイクル事業、海外鉱山の資源開発と一応の棲み分けが図られた。

 

 因みに、大室金属鉱山と大室鉱業だが、鉱山・炭鉱での採掘に付き物だった排水の処理についてだが、1957年に両社が共同で「大同興産」を設立して、温泉開発を行っている。これにより、北海道や東北、九州で温泉街の開発を行っており、閉山後の観光開発を行っている。これは、閉山後の地域経済への悪影響を緩和する事となり、新規雇用の創出や観光収入の発生などにも繋がった。

 

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 日本林産は、戦後の財閥解体で林業部門と商業部門に分割され、持ち株会社としての性格も失われた上に、「日本林産」の名称も外された。1952年に社名を「日本林産」に戻し、林業事業者として国内最大級の規模を誇った。当時、国内の復興や新規の建設が多数あり、それに伴う木材の需要が高まっていた為、大量の木材が切り出された。その後も、住宅の建設ラッシュによって木材の需要は高い状況が続いた。

 これによって、日本林産は莫大な利益を上げた。ここで上げられた利益は配当だけでなく、新たな山林の買収や品種改良、植林費用に充てるなどして、私益だけで無く公益にも努めていた。

 

 この状況が変化したのは、1960年代からだった。この頃から、安価な輸入木材が大量に流入した。また、品質も安定していた為、あっという間に国産に取って代わられた。国産木材では、安定した品質の木材の供給が難しく、環境や人件費の関係から安価での供給も難しかった為であった。

 

 これに対して日本林産は、あらゆる手を使って国産木材を利用してもらう様に努めた。それは、積極的な品種改良の実施、農業学校系や大学の林業科への支援強化、それと連動する林業従事者の育成、木材を利用した新事業の展開である。

 

 「積極的な品種改良の実施」は、特に安定した品質を持つスギの開発に注力された。スギは、当時の日本の人工林の主力となっていたが、強度が安定していなかったり、含水率(物体内に含まれる水分の比率)が高い為、乾燥させる時間が長くなるなど、建材として使用するには意外と欠点が多い。

 その為、これらの欠点を解決したスギを生み出す事が急務となった。しかし、品種改良は短期間で出来るものでは無い為、1954年から始まったスギの品種改良だが、1975年にようやく実用的な品種の育成に成功した(以降、このスギを「改良スギ」とする)。約20年で完成したのは、戦前から行われていた品種改良の技術、日本林産が保有していた遺伝子資源の存在、始めた時期の早さだった。その後、日本林産が保有する山林だけでなく日本各地の伐採した土地に、改良スギの植樹が行われた。

 改良スギは、品質が外国産のものとも遜色無く、安定した品質を持っている事から、その後の日本のスギ林のスタンダードとなっていったが、成長がやや遅いという欠点が残っていた。また、改良スギが木材として切り出されるまでの間の林業従事者の減少という問題があり、これが解決されなければ植樹した所で意味が無かった。

 

 その為に行っていたのが、「農業学校系や大学の林業科への支援強化」と「林業従事者の育成」である。この2つによって、林業についての教育を強化させ、森林の役割や林業の重要性、林業の将来についての教育を行った。

 この結果、日本林産を始めとした林業会社に従事する高卒者や大卒者が微増傾向になった。同時に、林業の川下産業である製材業の従事者も微増傾向になった。

 

 ただし、日本林産はこれを一時的なものとしない為に継続的に行っていく事を決めていた。現状ではあくまで微増でしか無く、今後もこの状況が続くとは考えにくい為である。その為にも、建設以外にも木材需要を増加する為の産業を育成する必要があると考えられた。それが、「木材を利用した新事業の展開」である。

 日本林産は、古くから家具製造や合板製造、製紙に木材化学、最近では住宅建設や木製建材に進出していた。また、住宅建設に進出した1960年代前半に、過去に分離独立させた家具製造や合板製造に再進出している。これは、住宅需要が急増している事から、自社の木材を利用する目的だけで無く、大室化成産業や日林化学工業、日林木材工業の各社の住宅部門が1961年に独立・統合した「大日住宅産業」への対抗意識もあった。

 木材を利用する産業には粗方手を広げていたが、まだまだ活用出来る分野があるのではと考えられた。

 

 その様な中で発生したのがオイルショックだった。これにより、石油に頼る状況から、石油だけに頼らない経済への転換が図られた。ここで日本林産が考えたのが、間伐材やおがくずを利用した火力発電、今で言う木質バイオマス発電の実施である。

 1960年代から70年代は、アメリカの製材・製紙業者が廃材を利用した火力発電を実施していた為、それを日本でも行おうというものだった。これを行えば、製材時に発生するおがくずや間伐材といった利用価値が低い木材の利用価値が上昇し、工場で使用する電力を自力で賄える事にもなる。

 

 早速、1976年から扶桑製紙と共同で石巻工場に隣接して木質バイオマスによる火力発電所の建設が行われた。1979年に発電所は完成し、稼働した。定格出力は3.5万kwと小型だったが、これは木質バイオマス発電のプロトタイプという意味があった。

 完成したが、燃料の供給体制の不安定、出力の不安定さが浮き彫りとなった。一時は石炭火力発電所に転換する事も考えられたが、木材の効率的な燃料への改良、発電効率の良いタービンへの変更などの研究が進められた。この研究には、日本林産と扶桑製紙だけでなく、大室物産や大室電機産業、日林化学工業など中外グループの多くの企業が携わった大規模な研究となった。

 その後、高カロリーが期待出来る木質ペレット、その木質ペレットを製造する機械、高効率のタービンの研究が進んだが、それらの研究成果が花開くのは1980年代後半まで待たなければならなかった。

 

 以上の様に、日本林産は国産木材の活用法を数多く考えた。これに釣られる様に、他の林業会社も真似した為、国内の林業の壊滅という結果は免れた。

 しかし、林業が衰退傾向にあるのは間違いなく、日本林産も林業中心から「林業・住宅・建材メーカー」としての道を歩む事となった。

 

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 かつて、日本の輸出商品の主力だった繊維だが、高度経済成長期以降は重化学工業が輸出の中心となった。また、繊維の中でも、綿や絹といった天然繊維から、ナイロンやポリエステルなどの合成繊維が中心となった。

 

 繊維大手の新東繊維でも、早くから合成繊維への進出を行っていた。これは、戦前・戦中にレーヨンを製造していた事、グループ内の化学メーカーとの共同開発など、環境に恵まれていた事も背景にあった。

 その為、繊維不況の中でも業績は好調だった。また、合成繊維の製造過程や研究の中で、合成繊維が他の用途にも使用出来る事が判明した。これにより、繊維から化学・医療・素材といった化学メーカーとして変化していった。

 また、合成繊維についても、石油由来だけでなく木材由来の合成繊維の開発や、グラスファイバーや炭素繊維、人工鉱物繊維の研究も行った。この研究開発は短期間では成果が出なかったが、1980年代から相次いで世に出された。

 

 これら新素材の生産や研究が進む一方、既存事業である天然繊維は環境の悪化や生産コストの高騰から、海外製に対抗出来なくなった。また、オイルショックによって石油合成繊維も不調となった。これらの事態が、新素材の研究強化や他事業への進出強化になった。

 また、オイルショックによって大きな赤字を計上した為、不採算工場や天然繊維の工場が相次いで閉鎖された。これらの工場は、一部は合成繊維の工場や他事業の工場に転換されたが、それ以外は郊外型ショッピングセンターやマンションの建設が行われた。これに合わせて、不動産事業への進出も行われた。



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43話 昭和戦後⑦:中外グループ(6)

久々に本編です。
規模が大きくなった結果、自分でも理解している範囲を超えました。その為、内容にちぐはぐな部分が多いです。
また、本編に関するアイデアが無くなってきた事、本編内で昭和50年代に入った事から、昭和末期から平成初期、つまり史実のバブル崩壊付近で本編を終わらせる予定です。その為、恐らく次が最終話となるでしょう。


 オイルショック後、日本経済は失速した。今までの様な高成長は見込めなくなり、低成長時代に突入した。特に、今まで日本で経済をけん引していた重厚長大産業(製鉄や造船、セメントに化学など)と商社の経営が傾き、商社に至っては「商社不要論」まで出てきた。

 それでも、アジア方面で有数の工業力・技術力を有している事、新技術の確立などから、まだまだ成長の余地はあった。今までの様な重厚長大産業から軽薄短小産業(自動車、家電、コンピューターなど)への転換、重厚長大産業における高付加価値商品の開発が進んだのもこの頃からだった。

 

 中外グループもこの流れに乗った。特に、重工や化学などの重厚長大産業や商社の規模が大きい事から、転換は早急に行う必要があった。

 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。その為、今までの様な設備の拡張は、オイルショックによって一時中断となった(後に多くが白紙化された

 また、不採算事業や小規模な施設の分社化を行い、採算が取れる事業や新分野への経営資源の集中も行われた。以降、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造に転換する事となった。

 

 一方、これからの成長産業である電機、新技術の開発が進んでいる繊維などの規模も大きい為、新時代への足掛かりは既にあった。その為、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から企業体力や技術の強化が行われた。

 

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 製鉄や金属、造船など重厚長大産業は、今までの様に「造れば売れる」状況が終わった。また、野放図な拡大を行える状況も終わった。これからは、高付加価値商品を開発や経営のスリム化を行い、より収益を出せる構造にする必要が生じた。

 重厚長大産業が軒並み足踏みしていたが、その中でも拡大していたのがいる。大室重工業と大室製鉄産業である。大室重工は海外との連携と同業他社との競争が拡大の要因となり、大室製鉄はグループ内の他社の新規事業の進出が好機となった。

 

 大室重工は、今までの事業を基に多くの新規事業に進出した。造船の技術を活用して海洋プラットフォームの研究に乗り出した。これは、南樺太や尖閣諸島付近での海上油田・ガス田の開発が検討されていた事が理由だった。

 今まで中東やインドネシアの石油が安価の為、国内油田を開発する意味は薄かった。しかし、中東産の石油が高騰した事で、国内の石油の開発でも採算が合う可能性が見えた事、資源面での安全保障の構築から、国内油田の開発や天然ガスの活用が行われる事となった。

 他にも、ゴミ処理用タービン、メガフロートの研究、航空機用エンジンの国際共同開発、リージョナルジェットの共同開発など、航空宇宙産業を中心に多くのプロジェクトに手を出した。これらの研究成果が出るのは暫く先だが、この時の研究成果は後に大きな財産となった。

 尚、新規プロジェクトの内、最大のものと位置付けていた「リージョナルジェットの共同開発」は、社運を賭けたものである。詳しくは番外編で記す。

 

 また、オイルショックの少し前の1966年に、大室重工の乗用車・トラック部門と傘下の自動車・オート三輪メーカーを統合して「大室自動車産業」を設立している。当時、乗用車部門は傍系だった為(本流は重機やトラック)、重工本体内で保有する意味が薄かった。

 一方、モータリゼーションの影響で乗用車やトラックの需要は年々増加しており、生産量も右肩上がりだった。しかし、重工単体の技術力の不足や造船の需要も増加しており、何方かに注力したいと考えていた。社内での検討の末、大規模で企業体力が必要な造船の方を注力する事となり、自動車は別会社に分離する事となった。

 その為、本体の経営資源の集中、外部からの技術の導入の意味で、自動車部門を分離した。その際、フォルクスワーゲンに技術支援を頼んでいる。

 

 大室重工の新規事業の進出、大室自動車の拡大は、大室製鉄産業にとって恩恵そのものだった。その生い立ちから船舶や鉄道との繋がりが深い事から、厚板や鉄道車両に関する鉄製品の製造技術が高かった。実際、製造量そのものは決して高くなかったが、技術は新日本製鐵や住友金属産業にも劣らなかった。

 また、大室重工が海上建造物を、大室自動車が乗用車を製造するに当たり、鋼材が必要になる。それも、海上で使用するのに錆びにくい鋼材や、軽量だが高い強度を持つ鋼板など、今までとは異なる新素材が必要になる。

 その為、鋼材の製造は多少減速したものの、特殊鋼の開発についてはむしろ加速した。実際、オイルショック以降、技術に関する投資は年々増額しており、特許の申請数も年々増加していった。そして、新日鐵に並ぶ程の技術を有するにまでなった。

 

 それ以外の金属や化学、製紙にセメントなどの企業群も、新分野の開拓や新技術の開発、高収益体制への転換が急がれた。特に、これからの成長産業である半導体や電子素材、機能性高分子などの先端技術に関する研究や生産体制の構築に力が注がれた。

 技術への投資によって一時期業績は停滞したが、技術面での大きな向上が見られた。大学との共同研究も多数行われた事で、多数の技術特許の獲得にも成功した。これらの技術は、生産面や採算面からこの時は活用されなかったが、1990年代に入ってから大きく活用された。

 また、オイルショック後の景気低迷の後、暫く景気は小康状態だったが、1980年に今度はイランイラク戦争を理由とした第二次オイルショックが到来した。しかし、今回は前回の反省から金融の引き締めや省エネルギー化が進んでいた事から、大規模な経済の混乱は無かった。

 むしろ、既に高収益体制が構築されており、大きく業績を落とす事は無かった。また、これを契機に、更なる省エネ化が進められ、技術に対する投資も進んだ。

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 一方、軽薄短小産業の方も技術投資や新技術の開発が行われた。現状、重厚長大産業の停滞や量から質への転換によって軽薄短小産業の伸びは大きいが、これからはこの分野での競争が激しくなると見られた。その為、この頃から体力や技術の強化が行われた。

 大室電機産業は家電と発電機、大室化成産業と日林化学工業は新素材や電子材料、大室通信産業は半導体に電子機器などに注力した。他にも、グループ内での共同開発によって、高性能な充電池や新素材の開発などが行われた。産学連携も活発に行われた。

 

 その結果、1980年代になりそれらの産業が拡大し、新たな輸出産業として成長した。他の企業も同様であり、1960年代の再現となった。

 但し、史実と異なり、国内各社は量的拡大よりも質的拡大を選択した。これにより、精密機械や電子部品の技術が向上し、史実より2,3年早い技術進歩となった。

 また、日本政府が技術面での優位性の維持を目的に、国内各社に新技術に対する積極的な特許申請、国内技術者・研究者の流出阻止、産官学連携の奨励が行われた。これらの政策により、バブル崩壊後の技術者の流出や、それに伴う東アジア諸国の先端技術面での競争力強化が発生しなくなった。

 

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 産業面では、再編と技術革新が行われたが、それ以外の分野では別の様相を見せた。

 商社は、今までの様に流通や貿易、商社金融に頼る体制を維持するのは難しくなった。取引先の企業の規模が拡大するにつれ、自社で流通や取引を行える様になった事で、商社に頼らなくても商品の流通が可能となった。また、今までの売上重視から利益重視への転換、コスト削減などから商社金融も減少傾向にあった。

 その為、オイルショック後の商社は冬の時代を迎え、「商社不要論」まで出てきた。しかし、商社は今までの経験やノウハウを生かし、この難局を乗り切った。それが、多様な人材を抱えている事、様々な情報を持っている事にあった。

 

 大室物産も、今までの売上重視から利益重視に転換し、高収益体制の構築が急がれた。また、新規事業への進出も行い、新たな収益源の確保も急がれた。急速に伸びている小売業やリース業への進出、火力発電事業の共同運営、資源への投資など、ありとあらゆるものに手を出した。

 その結果、国内第4位の総合商社としての地位が固まった。当然、更に上への野望があったが、「身の丈に合った事をするべき」という教えや、グループ内の繋がりの強さによる強み、元から強みのある部門(資源・エネルギー、機械・鉄鋼)など他社と比較して総合面で優れている事から、その地位に納まった。

 

 商社も変革を余儀無くされたが、もう一つ変革を余儀無くされたのが銀行だった。オイルショック以前、企業の体力の低さとそれに伴う信用の低さから、社債や株券を発行しても買い手が付き難かった。その為、企業の資金集めは銀行からの融資が大半を占めていた(間接金融)。

 しかし、オイルショック以降、企業の体力が付いた事で信用が増し、社債を発行して資金を集める企業が増えた。その為、1970年代から公社債市場が急速に拡大、証券会社の規模が再び拡大した(1960年代前半に公社債の投資信託が急拡大した。その後、東京オリンピック後の不況で急速に萎み、恐慌一歩手前の状態となる)。

 証券会社が拡大する一方、銀行は優良な貸出先を失う事となった。その為、銀行は新たな貸出先を開拓する必要に迫られた。

 

 大室銀行と協和銀行も、当然この影響を受けた。協和銀行はリテールに強く、中小企業との取引が多い為、大きな影響を受けなかった。中小企業だと、社債や株式を発行しても信用力の問題から取引されづらい為、間接金融に頼らざるを得ないのである。

 それでも、中堅企業や準大手企業との取引が増加していた為、それらの企業の融資が減少した。その代わりとして、地場産業への融資の強化や、新興企業の育成などを強化する事ととなった。

 

 大室銀行は、多くの大企業と取引していた為、直接金融の拡大の影響は大きかった。重厚長大産業は規模の拡大を止めた事で大規模融資の必要性は薄くなり、公社債市場の拡大によって、社債や株式の発行で資金を調達する比率も増加した。

 その為、銀行離れは深刻な問題であり、早急に別の手段を考える必要があった。その為、流通や金融、情報に電子と言った次世代系産業に対する融資が強化された。

 しかし、むやみやたらに融資する事は無く、将来性や企業体力相応の計画を持っているかなど、様々な要素を確かめてから融資を行った。その為、銀行の調査部門が強化され、後に「大室総合研究所(大室総研)」として国内有数のシンクタンクとして独立した(因みに、中外グループ全体のシンクタンクは「中外総合研究所」として別個に設立)。

 大室銀行の新方針により、新たな企業の発掘と融資の拡大に成功した。この時に大室銀行の方針が決まり、「まず確かめてから行動する」事となった。これにより、情報の精査から始まる為、初動こそ遅くなるものの、リスクを最小限にする行動が取れる様になった。その成果は、バブル景気の時に過剰融資を行わず、堅実な経営を行った事で、その後の不良債権処理に追われずに済んだという結果が示した。

 

 因みに、信託銀行は直接金融の拡大の影響は小さかった。経済力の拡大で、金銭信託や年金信託などの規模は拡大した為である。

 

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 オイルショックによって、日本経済は大規模な再編を余儀無くされた。しかし、それによって新たな成長や技術の獲得に成功した。これにより、約20年間の次なる黄金時代を迎える事となる。

 

 中外グループも同様であり、航空宇宙産業や新素材、電子と言った新産業への進出が強化された。一方、かつての花形である製鉄や造船、繊維と言った産業も、新分野への進出によって新たな可能性が開かれた。



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最終話 昭和戦後⑧・20世紀末・21世紀頭:中外グループ(7)

ようやく、本編は最終回となります。時代は、バブル景気から21世紀の頭となります。中外グループの設定を広げ過ぎて自分でも設定の理解に追い付かず、中身は結構スカスカです。
最後は大分駆け足になりました。

長い間、読んでいただきありがとうございました。本編は終わりですが、番外編はまだまだ続きます。


 1980年代、日本の経済は黄金時代だった。第二次オイルショックによる経済構造の変化、省エネの促進、技術投資の拡大、輸出の増大など、日本経済は順調に伸びていった。かつての高度経済成長期の様な高い経済率こそ無かったものの、平均4~5%台の伸びで安定していた。

 その一方、対日商品最大の輸入国であるアメリカとの貿易摩擦は深刻だったものの、太平洋・アジア方面の防波堤兼進出拠点である事、日本もアメリカ製の兵器や農産物の輸入量を増やしている事、日米両軍の装備の共通性から、史実の様な大規模な対立とはならなかった。それでも、スーパーコンピューターの導入問題やFSXの開発問題、日本市場の開放などは発生した。

 

 1985年9月のプラザ合意、日本電信電話公社の民営化などにより、日本経済は絶頂期に入った。後に「バブル景気」と呼ばれる好景気に突入した。

 1987年頃から、日本政府はバブル景気による税収の増加と乱開発の抑止を目的に、消費税の導入、資産価値が高いものや技術に対する投資の強化、必要以上の設備投資の抑制、土地や株に対する過剰な投資の抑制、投機の制限、北日本と沖縄への投資誘導などを行った。また、アジアでの冷戦の収まりが見えない事から、軍事に対する予算増額や軍事技術に対する投資の強化が行われた。

 これらの政策が功を奏し、史実の様な土地や株への過剰な投機熱は弱かった。それでも、日本全体が金余り状態だった事からそれらへの資金の流入は避けられなかったものの、史実の7割程度となった。また、リゾート開発ブームなどがあり、史実同様国内のリゾート開発は行われたが、史実の8割程度だった。

 

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 バブル景気に乗る一方、新技術に対する投資やバブル終了後の事にも注意を払っていた。日本政府は、第一次世界大戦中や戦後の例から、この好景気は長く続く事は無いと見ていた。その事を経団連など各種経済団体を通じて意見をしており、「現状に甘んじる事無く、どの様な事態が発生しても大丈夫な体制造りをしておく事」、「量的拡大と同時に質的向上の方に注力する事」という方針が取られた。

 これにより、各社は考えて経営を行う様になった。特に大きかったのは、各社が業種とは関係無く土地や株に手を出す事が少なかった事である。得た資金を配当や技術投資に回され、余裕が出た時に土地や株に手を出す事が多かった。

 

 その後、早い段階から金融の引き締めが行われ、段階的に引き締めていった。これにより、景気は緩やかに下り坂となり、正常な状態に戻った。これは企業にとって良性に働き、人員や資産の整理にゆとりを持って行う事が出来た。その為、急激な景気の後退とそれが原因となる企業の倒産は少なかった。

 それでも、過剰な投資を行った事で不良債権を積み上げ、その後の処理に手間取った事で倒産する企業は存在したが、大手や準大手ではその様な例は少なかった。だが、日本長期信用銀行や三洋証券、マイカルといった大企業が倒産した事は大きなニュースとなり、他の企業は倒産を避ける為に不良債権の処理を加速させたり、国際競争力を高める為に合併が促進されるなどの結果を生んだ。

 

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 電機や自動車などの軽薄短小産業は、所得の拡大やバブル景気による需要の拡大で好業績を上げ、質的向上から輸出も増大し、輸出の主力商品となった。

 また、バブル景気による日本経済そのものの好調により、付加価値が高い商品の開発が進んだ。その為、高級車やスポーツカーの需要が拡大した。家電も高級志向になり、生活スタイルの変化から、それらに合わせた新型家電が生まれた。

 

 他にも、通信技術の向上や高度電子化社会(インターネット化)に向けて、情報・通信に対する投資が強化された。電電公社の民営化とその後の通信の自由化によって、今後は通信産業が急速に拡大すると見られた。

 その為、電機・通信メーカーによる通信機器やコンピューターへの投資が強化された。日本のコンピューター開発は1960年代から行われていたが、今までは大型のものが中心であり、今回は小型化と高性能化が目的だった。これらの成果は1980年代後半から1990年代に掛けて花開き、日本の電機メーカーのパソコンのシェア拡大にもなった。

 同様に、半導体に対する投資も強化された。この時、政府から「技術漏洩、特に技術者の流出には注意する事」と釘を刺された。過去、安易に海外移転して共産主義国に技術が渡ったという事件があった為、各企業はこれを厳守した。

 その結果、電子機器や液晶などの分野における日本の競争力は保たれた。これは21世紀に入るまで続き、それ以降は台湾が競争相手となったが、既に市場でのシェアの多くを獲得していた為、優位は揺らがなかった。

 

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 造船や重工、製鉄などの重化学関係も、東南アジア諸国の開発や国内開発によって需要が大きかった。この世界では、中国と韓国の発展が史実より遅い事からその方面での需要が弱いが、その代わりに東南アジアとインドがその役割を担っている事、一部が国内に残り続けている事から、総合的な差し引きはゼロだった。

 特に、日本のお家芸とも言える造船と製鉄は、アジアにおいては日本の独壇場だった。その中でも、特殊鋼などの高級鋼材、大型船舶は日本の右に出るものはいない程だった。

 史実では、中国・韓国の伸びが著しく、日本との競争力を獲得したが、この世界では、朝鮮戦争時のいざこざで韓国との付き合いは疎遠となり、戦後のトラブルや日本の反共主義、文化大革命などにより中国との付き合いも疎遠となった。その為、日本から中国・韓国への技術支援や投資が殆ど無く、大型製鉄所や造船所が史実より遥かに少ない状況だった。

 

 また、軍需の伸びが大きい事も、重化学の需要を上げた。1980年代、冷戦が最高潮を迎えた頃、米ソに合わせる様に日本も軍拡を進めた。特に、海軍の拡大が目玉で、6万t級の大型空母やイージス艦の建造、汎用駆逐艦や哨戒艦の大量建造が進められた。海軍以外にも、陸軍の新型戦車や新型装甲車の導入、空軍のF-15Jの大量導入決定や航空隊の増大など、三軍全てで拡大が進められた。これにより、主要造船会社のドックはフル稼働、各工場もフル稼働となった。

 一方、この時に三菱重工業や川崎重工業などの主要重工・造船メーカーの製造能力が軍需で手一杯となり、民需を満たすには到底不足していた。その為、中堅や中小の造船メーカーへの受注が増加する事となり、これらの規模拡大となった一方、船舶の単価や設備投資の予算の高騰により、中堅・中小クラス単独では規模の拡大が難しくなった。その結果、造船効率の向上と競争力強化を目的に、それらの造船会社の整理統合が進む結果ともなった。

 

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 中外グループも、バブル景気に乗り、その後の終息にも対応した。大室財閥系は流れを読む事は得意であり、日林財閥系と日鉄財閥系も脆弱な組織とは無縁の存在であり、一部の例外を除き各社は大きな損失を被る事無く迎えた。

 特に、電機メーカーの大室電機産業と大室通信産業、化学メーカーの大室化成産業と日林化学工業、繊維メーカーの新東繊維など、軽薄短小産業の企業の伸びが大きかった。これらは、付加価値が高い商品を生産した事、小型の電子機器や新繊維を採用する商品が増加した事などが理由だった。

 それ以外にも、重工の大室重工業、製鉄の大室製鉄産業などの重厚長大産業も、伸びの鈍化こそあったものの大きな受注があった事で拡大を続けた。

 

 それでも、バブル景気終息後の緩やかな経済の降下と経済のグローバル化の進展により、企業グループが単体で存続していくのは不可能となった。その為、銀行の再編に乗じる形で、各企業の再編が進み、企業グループの再編も進む事となった。芙蓉グループ(富士銀行)と第一勧銀グループ(第一勧業銀行)、興銀グループ(日本興業銀行)が統合して「みずほグループ」になり、住友グループ(住友銀行)と三井グループ(さくら銀行)が銀行を通じて合併し、他の企業の連携が進むと見られた。

 中外グループもこの流れに乗った。手を組んだ相手は、三和グループだった。これは、三菱グループだと飲み込まれるのではという恐れがあった。それに対し、三和グループであれば主導権を握りやすい上、バブル景気で傷を負った企業が多かった事も理由だった。

 2001年4月、中外銀行と三和銀行、大室信託銀行と東洋信託銀行、大室證券とつばさ証券が株式移転を行い、持株会社「UFJホールディングス」を設立した。その後、翌年までに中外銀行が三和銀行と合併して「UFJ銀行」が、大室信託銀行が東洋信託銀行と合併して「UFJ信託銀行」が、大室證券とつばさ証券が合併して「UFJ証券」がそれぞれ成立した。同時に、UFJ傘下のリース会社や投信会社などの合併が行われた。

 また、中外銀行以外の中外グループの金融各社の再編が進み、以下の様になった。同時に、各社傘下の企業(リースや投信、信販など)も合併が行われた。

 

〈都市銀行、信託銀行、証券〉

・中外銀行、大室信託銀行、大室證券→2001年4月に三和銀行、東洋信託銀行、つばさ証券と経営統合、「UFJホールディングス」傘下に。翌年、UFJ銀行、UFJ信託銀行、UFJ証券となる。

・協和大同銀行→2001年10月に東海銀行と経営統合、「あすかホールディングス」傘下に。翌年、東海銀行が合併してあすか銀行成立。

・日鉄證券→単独で「日鉄フィナンシャル・ホールディングス」設立。

 

〈生命保険、損害保険〉

・昭和生命保険→2000年4月に千代田生命保険と合併、「昭和千代田生命保険」となる。

・三洋生命保険→2001年4月に新亜グループ系の協栄生命保険と経営統合、「KSライフホールディングス」を設立しその傘下に入る。

・大室火災海上保険、昭和火災海上保険→2002年6月に合併し「大室昭和損害保険」設立。同時に、両社傘下の東邦生命保険も子会社生保と合併。

 

 金融以外でも、商社や化学、製鉄など各社の合併が行われた。これは、グローバル化が進んだ事で単独での存続が難しくなった事、不良債権処理の為、合併が推奨された事が理由だった。

 

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 1989年1月8日に昭和から平成に変わって以降、世の中は目まぐるしく変わった。バブル景気によって日本全体が好景気に沸いた一方、バブル景気終息後は、90年代中頃から後半にかけて中小企業を中心に企業の経営危機が相次ぎ、企業再編のラッシュが押し寄せた。他にも、カルト宗教によるテロ事件や、新聞とテレビの不祥事が一気に噴出してマスコミ改革が行われ、新政党の乱立による政局の混乱などが相次ぎ、安定した状態では無かった。

 また、対外的には、東欧諸国の社会主義体制の崩壊とその後のソ連崩壊によって冷戦が終結したかと思えば、中華人民共和国の影響力拡大や韓国の体制の変化によって、東アジアでの冷戦は終結する処か熱を帯びた。その後、「極東危機」と呼ばれる戦争寸前の状態になるなど、東アジア世界の安定はまだ先と見られた。

 それでも、日本は西側における東アジア・太平洋方面の要であり続け、日本もその任に応えた。そして、その方面で混乱が続く程、日本の重要性が増し、また国内の混乱を早急に収めようと動いた。

 そして、21世紀に入り、東アジアと東南アジアの隆盛と同時に、地域覇権争いが目立つ様になった。その中で、日本はアメリカと日本主導で協調する形で、この地域の安定に勤め続ける事となる。

 

 中外グループも、平成、21世紀に入り、安定した運営が行われている。かつての様な拡張こそ無くなったものの、今までの経験や財産を活かし、今後の不安定な未来で生き残る為、常に動向を察知している。また、グローバル社会で生き残る為、かつての様に国内の競合他社による競争だけでなく、協調して共に成長したり、海外の企業と提携して新技術やノウハウを吸収するなど、やるべき事は沢山あった。

 今後、グループの安泰は不明だが「選択を間違えなければ大きな危機を迎える事は無いだろう」と見られた。取り敢えず、21世紀に入った現在、中外グループのスタートは悪いものでは無かった。今後も、中外グループは成長を続けるだろう。



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番外編:この世界の諸外国の状況 番外編:この世界の日本

原子爆弾が日本に投下される描写があります。投下された場所は、史実では戦後に日本から離れた領土ですが、まだ生き残っている人や親族にいた人などがいるかと思われます。
申し訳ありませんが、「これはフィクションであり、現実とは一切関係無い」と理解してください。


 大東亜戦争を何とか停戦に持ち込んだ日本だが、戦後の道程は平坦では無い処か、山あり谷ありの連続だった。

 

 戦後直ぐは、GHQによる国政への過剰な介入を阻止しようと政治家や官僚が抵抗したり、軍の解体論争が国内だけでなくGHQ内でも勃発するなど、不安定さは戦時中以上とも言えた。それが短期間で終結したのは、国内の共産主義者や反日勢力による武力抗争があり、その鎮圧の為に警察力・軍事力が必要となり、GHQによる統治の甘さもに原因があった為である。

 一時は内戦かと言われた武力抗争も短期間で終結し、その後はアメリカの支援もあり復興に向かった。アメリカは日本を「極東の防波堤」と見ており、第二次世界大戦末期と戦後のソ連の蛮行を見ていた事から、早急な経済と軍事の復活を要望し、その為の支援も惜しまれなかった。その甲斐があり、1949年には「1950年代中頃には戦前経済並みに復活する」と予測された。

 

 そう見られた矢先の1950年6月25日、「朝鮮半島の統一」を掲げた北朝鮮が韓国に侵攻した事により朝鮮戦争が勃発した。史実と同じく韓国軍は釜山に包囲されたが、この世界では韓国は釜山から追い出され、対馬に政府が移転してきた。

 韓国の勝手な行為に日本政府は非難し、国民もそれを支持した。アメリカも日本の肩を持ち、日米両軍の特殊作戦によって対馬から追い出した。

 その後、アメリカ軍傘下の形で日本も朝鮮戦争に参加する事となった。日米両海軍による仁川上陸作戦から始まる反攻作戦によって、北朝鮮軍に壊滅的打撃を与え、38度線以北に撤退させた。

 また、仁川上陸作戦後の10月、援朝ソ連義勇軍(実態はソ連極東軍)が参戦し、対馬周辺での作戦を行おうとソ連太平洋艦隊がウラジオストクから出撃したが、それを日本海軍が一蹴した。「第二次日本海海戦」と称されたこの海戦で、日本国内は久々にお祭りムードとなった。

 

 しかし、それに冷や水を浴びせる事態が起きた。年が明けた1月2日、南樺太の中心都市である豊原市に原子爆弾が落とされた。これにより、豊原市とその周辺部が壊滅した。死者は4万人以上になり、現地に駐留していたアメリカ軍1000人も含まれた。

 前年の第二次日本海海戦への懲罰とされたが、アメリカ軍を攻撃したとしてアメリカが翌日、ウラジオストクに原爆を落とした。これにより、ウラジオストクとその周辺部は壊滅し、都市機能だけでなく港湾施設や軍港の機能も壊滅した。

 ソ連はその報復として1月5日、択捉島の単冠湾に原爆を搭載した潜水艦による自爆攻撃を行った。当時、単冠湾はソ連への監視用に日米共用の大規模港湾施設が建設中であり、その為の建設作業員としてアメリカ軍が多数駐留していた。その様な中で原爆による攻撃を受け、現地にいた住民・作業員・軍人など合わせて3万人近くが死亡した。また、建設中だった港湾施設も壊滅した。

 アメリカは、報復の報復としてハバロフスクとペトロパブロフスク・カムチャツキーに原爆を投下した。攻撃後、「これ以上攻撃するならば、更なる原子爆弾投下も辞さない」という大統領のコメントが発表された。

 流石にソ連も、これ以上の攻撃を受けるのは拙いと理解した。これにより、両者の核の投げ合いは終了したが、この時のトラウマは両者は残っており、核兵器の量的拡大は抑えられる事となる。

 

 原爆投下による多数の死者の発生という事件があったものの、朝鮮戦争によって経済の成長と国家の威信の回復というメリットもあった。実際、これ以降は軍拡やアメリカからの発注で重化学工業が大きく発展した。

 以降、史実の日本とほぼ同じ歴史を辿るが、周辺の緊張が史実以上ある事から、軍事や政治、外交に対しては敏感となっている。また、周辺との緊張が大きい事から、製造業の海外移転も大きく進んでおらず、産業の空洞化も幾分緩やかになっている。

 

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〈領土・人口〉

 史実の日本に千島列島全てと南樺太を足した領土が、この世界の日本の領土となる。その為、領土面積は約42万6千㎢となる。

 

 領土が多い事、戦争中に大規模な空襲を受けなかった事、東南アジアや中国大陸(満州を除く)からの復員・帰国事業が円滑に行われた為、その分の人口が多い。一方、満州や朝鮮北部の帰国事業は進まず、終戦後と朝鮮戦争後に朝鮮人の帰国事業が行われた為、その分の人口が減少する。その為、終戦時の総人口は史実の約100万人程度の増加となる。

 その後、ベトナム戦争やインドシナ各国での内戦に米軍と共に介入した事で、そこからの難民を受け入れるなどして、移民の受け入れが少しずつだが行われる様になる。1980年代以降、労働力不足などを背景に移民規制が緩和され、人口増加に繋がっていく。2015年現在では、約1億3500万人の日本国籍保有者が暮らしており、それとは別に約500万人の移民が暮らしている。

 

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〈政治〉

 戦時中の唯一の政党だった大政翼賛会が戦後になって解散した後、かつての政党が再結成された。立憲政友会の流れを汲む「日本自由党(略称・自由党)」と、立憲民政党の流れを汲む「日本民主党(略称・民主党)」が主要な政党となった。

 尤も、両党は流れを汲むだけで、元政友会所属で民主党に入党した者、元民政党所属で自由党に入党した者もそれなりに見られた。

 また、他にも政党が乱立したが、1950年までにどちらかに吸収された。これにより、日本における2大政党制は確立した。

 共に「親米・反共・自由主義・資本主義」を掲げる中道右派政党であるが、経済や外交の方針でやや異なる。自由党は「大きい政府・公共事業の強化・東南アジアとの連携強化」の傾向が強く、民主党は「小さい政府・製造業や金融業の強化・西ヨーロッパとの連携強化」の傾向が強い。

 

 社会党は成立したものの、日本全体での反共色が強かった為、勢力の拡大は難しかった。また、左派と右派の対立もあり、内部対立で大きな支持を得る事も難しかった。これにより、社会党は左派の「日本社会党(略称・社会党)」と右派の「民主社会党(略称・民社党)」に分裂したままとなった。また、社会党の躍進が無かった為、自由党と民主党の保守合同が発生しなかった。

 共産党は、日本国憲法発足以降、法律で禁止された。その為、多くは社会党に入るものの、一部は過激化した。

 

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〈経済〉

 本土空襲が少なかった事、在外資産の没収が史実より少なかった事(ソ連・中国大陸・朝鮮半島関係は概ね史実通りだが、在米・在英など後の西側諸国の在外資産は一部を賠償に取られるも残った)、戦争が史実よりも早く終わった事から、国富が多く残った。特に、各種兵器や文化財がそのまま残ったのは大きかった。

 また、本土空襲が無かった為、市街地の荒廃はあまり発生していない。市街地がほぼそのまま残った為、開発がやや遅れるが、ほぼ史実通り行われる。それでも、旧市街が存続する為、中心部の開発規制などが多く取られる。

 同様に、本土空襲が無かった為、東京への一極集中は弱まる。東京を中心とする首都圏は政治・行政、名古屋を中心とする中京圏は製造業、大阪を中心とする関西圏は経済でそれぞれ強くなる。その為、大企業の本社機能の東京への集中は弱く、住友グループや三和グループなど関西発祥の企業の東京への本社移転は余り行われていない。

 

 戦後のGHQの経済政策で、戦前の富裕層や実業家の財産は減少するものの、その人達が下野する事が少なかった為、経済人の価値観は連続している。つまり、慈善事業への寄付などが盛んに続いており、企業による社会貢献も多く行われている。

 「お金は貯め込むだけでなく、社会に還元するもの」、「金儲けのためだけに事業を行うものでは無い」という意識が強く、マネーゲームや新自由主義経済に否定的な感情を抱いている。

 

 『「技術力」こそが日本の産業の源であり、諸外国に勝るほぼ唯一の財産』という考えがある為、技術投資が盛んに行われている。それに伴う特許の取得や産官学連携も盛んに行われており、論文の発表も多数行われている。

 技術だけでなく、製造でも世界有数で、特にアジアでは最大規模である。造船や製鉄、化学に電機などの重化学では世界トップクラスであり、半導体などの先端技術、航空宇宙産業などの軍事部門などにおいても同様である。

 

 一方、第一次産業についてはそこそことなった。ジャポニカ米の対米輸出(在日米軍の影響で、日本食ブームが到来)でコメ農家はそこそこ潤っていたが、1960年代になるとアメリカでのジャポニカ米の生産が軌道に乗った事で、日本産のコメの輸出が減少した。日本国内でのコメの消費量の減少もあり、一時は減反政策も検討されたが、オイルショックの影響で政策は変更となった。具体的には、規制されていた企業の農業参入の緩和、高価値商品作物の奨励、飼料米の生産奨励である。これと同時に農協改革も行われ、市場経済に対応した組織作りが行われた。

 農業と連動する形で畜産業の改革も行われる。その為、畜産業の企業化や国産牛肉の高級化路線は早く進み、アメリカ産牛肉の輸入も早まる。

 林業は、日本林産などの林業会社によって、国産木材の奨励が行われる。その為、国内林業の衰退は起きておらず、山林の放棄も少数となっている。

 漁業については史実通りである。

 現在、日本の食料自給率は65%程度となっている。コメは自給出来ているが、それ以外の食糧については輸入に多く頼っている。一方、コメや果物などの農産物が主要輸出品となっているが、アメリカ産などとの差別化として高級路線を取っている。

 

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〈外交〉

 概ね親米・反共外交を展開している。その為、西側諸国との連携を重視している。特にアメリカとの関係は最重要視しており、「日米蜜月」によって太平洋の安定に貢献している。

 

 東アジア・東南アジア方面の外交では、過去の経緯や冷戦構造から対韓国・対北朝鮮・対中国では厳しい対応をしている。冷戦中はソ連との交流も最低限であり、ロシアになってからも同様だったが、

 一方、台湾やタイ、フィリピンやインドとの繋がりは深く、経済・軍事の両面で連携を強化している。

 また、反共政策を採っているが、歴史的経緯から満州との繋がりがある。文化面や経済面では連携の姿勢を見せており、近年では中国の軍事的台頭によって軍事での連携も少しずつではあるが増えている。その満州との繋がりがあるベトナム、ラオス、カンボジアとの付き合いがある。

 

 冷戦中は、朝鮮戦争中の出来事からソ連との交流も最低限であり、ロシアになってからも同様だったが、極東危機の際に日露両国が歩み寄った事で、関係改善に向かっている。

 

 それ以外の地域では史実通りだが、資源(石油)や市場の存在から中東諸国との連携を強めている一方、それらと対立傾向にあるイスラエルとの関係はやや冷却傾向にある。中東関係についてはほぼ国連決議に賛成の立場の為、イスラエルが日本に対して好印象を持っていない事も一因である。

 

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〈軍事〉

 日本軍は軍縮の上で存続する。但し、朝鮮戦争まではアメリカのコントロール下に置かれており、整備も低調だった。また、この頃に士官の教育や武器の規格、階級などをアメリカ側に寄せている。

 朝鮮戦争を境に日本軍の地位が向上し、軍の整備・拡大が急速に進む。同時に、アメリカ軍も極東方面における日本の重要性を再認識し、この地域の集団安全保障を構築する際、アメリカ・日本の二頭体制で行う事を決意する。

 

 冷戦中、日本軍の規模は拡大し、最盛期である1980年代には海軍は3個機動部隊や潜水艦24隻を中心とした大海軍力を有し、空軍は戦闘機・戦闘爆撃機の部隊だけで20個飛行隊展開し、陸軍は20個師団(内、戦車師団2個、機甲師団3個)を有する東アジア最大級の軍事力を保有していた。

 現在では、冷戦の終結で部隊の縮小が行われているが、東アジアでの冷戦が終わっていない為、西日本方面の部隊の縮小は進んでいない。その為、海軍は3個機動部隊はそのままであり、空母型の強襲揚陸艦やイージス艦、簡易イージスと言える防空艦の配備が進んでいる事から戦力的には向上している。

 空軍も、16個飛行隊と数は減少したものの、F-35や国産新型戦闘攻撃機「F-3」の配備が行われている。

 陸軍も、3個師団廃止・7個師団が旅団に改編などの再編が行われたが、装備の近代化や即応体制の強化などで対応している。

 核兵器については、原子爆弾が実戦使用された最初の国という意識から、核武装については否定的だった。一方で、「核兵器には核兵器」という意識もあった為、アメリカとの核シェアリングという形になった。核兵器を搭載しているのは、空母機動部隊の艦載機に限定されている。

 

 東アジア方面の集団安全保障として「太平洋アジア条約機構(略称・PATO)」が存在する。これは、「東アジア・東南アジア版NATO」であるが、史実でも同様の構想は存在したが様々な要因から実現しなかった。

 この世界では、アメリカが日本の重要性を認識している事、日本もそれを行う責務があると認識している事、アメリカと日本のアジアにおける圧倒的なプレゼンツから実現した。原加盟国は、日米に加え、韓国、中華民国、台湾、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイの9か国であり、オブザーバーとしてイギリス、カナダ、フランスが存在した。その後、インドやインドネシア、ベトナムなどの加盟がある一方、中華民国がオブザーバーに降格し、韓国が一時脱退するなど、加盟国に変化があった。

 現在、対外進出を強めている中国をけん制する為に存続しており、南シナ海や中部太平洋、ハワイ沖などでの海軍合同軍事演習や、タイやインドネシアでの陸軍合同軍事演習が行われている。

 特に、海軍合同軍事演習の目玉となるのが、日本海軍を中心とした赤軍とアメリカ海軍を中心とした青軍に分かれて行う模擬空母戦である。

 

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〈教育〉

 概ね史実通りだが、GHQによる教育の変更が無い為、史実の様な自虐史観は極少数意見となる。また、教育勅語は現代語に訳された上で存続し、修身も道徳と名前を変えて存続した。

 その為、道徳観や価値観は否定されていない。戦後の価値観が加わる為、史実の様な価値観や道徳観、民意となるものの、史実よりも考えて行動する様になる。

 

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〈皇室〉

 史実と同じく、戦後の伏見宮系の皇籍離脱は発生しているが、久邇宮家と東久邇宮家だけは離脱しなかった。これは、久邇宮家が皇后の実家である事、東久邇宮家が内親王の嫁ぎ先である事が理由だった。また、戦争が早く終結した事、国内の被害が大きくなかった事から、政府が皇室に充てる予算や皇室財産に余裕が出来、天皇と血縁関係がある宮家は残す方針となった。

 この為、史実で存続した秩父宮家・高松宮家・三笠宮家に加え、伏見宮家の久邇宮家と東久邇宮家の5家が皇族として存続した。



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番外編:この世界での諸外国①(東アジア)

【史実との違い】

〈東アジア〉

・朝鮮戦争の発生は史実通りとなるが、1年で終了する。これは、米ソ両国による限定的核戦争の影響で、両国が妥協した為。領土の分割状況は史実通りとなる。

・韓国の経済発展は諸事情で大きく遅れる(史実の四半世紀程前の状況)。

・北朝鮮は、ソ連の影響下に入った事や後背に満州がある事で、内政的には安定傾向にある。経済も軽工業を中心に発展している。

・旧清朝の領土は、国共内戦の末、中央部が中華人民共和国として成立するも、中華民国の失政や米ソ両国の思惑により周辺部は独立する。これにより、満州・プリモンゴル(内蒙古)・ウイグルはソ連の衛星国として、台湾・チベットは西側の勢力として独立する。また、国共内戦で敗れた中国国民党は海南島と雷州半島に逃れて存続する。

・満州はソ連の政策転換でソ連の衛星国として存続する。

・プリモンゴルとウイグルもソ連の衛星国として独立する。

・香港は独立を選択する。一方でマカオは史実通り。

 

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〈東アジア〉

・大韓民国(韓国)

 領土は史実通り。しかし、後述の人口流出の後遺症から、2015年現在の総人口は約4500万人となっている。また、主要産業も軽工業であり、日米からの投資や技術提供が少ない為、重化学工業の発展が遅れている。その為、史実より経済力が低く、一人当たりの購買力平価では2万ドル程度となる(史実では3万4千~3万7千ドル)。

 

 独立以前から行われた親日派の弾圧、朝鮮戦争や政府の威信の低下が原因で、建国から15年程は人口の流出が激しく、特に技術者、学者、朝鮮総督府からの官僚、軍人などの頭脳が抜けたのが大きかった。また、実業家の国外脱出も多数発生し、斗山や三星などの史実の巨大財閥が台湾に、軍人や官僚は満州に流れた。これらの要因から、その後の経済発展にも影響した。

 その後、多産政策の実施、民族企業の振興、亡命者の帰還事業などを行ったが、資本不足が原因で、経済の拡大は低調だった。資本不足の大きな要因として、日本との関係がこじれたままというのが最大の要因であり、日本からの投資が低調だっただけでなく、日韓基本条約で「補償金は確実に個人に補償する様に」と決められ、事実上の賠償も「日本統治時代に整備したインフラを無償譲渡する代わり、国家に対する補償は今後一切しない」と決められた事で、国家が自由に使用出来る資金が少なかった。

 

 軍事面でも、経済力の低さから大規模な軍事力を保有する事は難しい。一方で、北朝鮮との対立や日本への対抗意識から分不相応の軍事力を保有しているが、装備の老朽化が進んでいる。

 陸軍は史実通りの規模(常備師団22個、予備師団20個、計42個師団)だが、主力戦車がM60とK1の2本立てとなっている。それ以外の装備の更新も遅れ気味となっている。

 海軍も3個艦隊保有しているが、保有している最大の戦闘艦艇が蔚山級フリゲートとその改良型の仁川級フリゲートとなっている。駆逐艦や潜水艦は有していないものの、ソ連や満州、北朝鮮に対する対潜能力は決して低くない。

 空軍も、戦闘機・戦闘爆撃機を各種計500機保有しているが、殆どがF-5とF-4で老朽化が著しい。F-16への更新を検討していたものの、極東危機によってそれが白紙となった。現在は、イスラエルによる改修と他国から状態の良いF-5とF-4の購入、ミラージュの導入で何とかしている状況にある。

 

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・朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)

 こちらも、領土は史実通り。経済面では、史実よりも状態は良いが、軽工業が主体となっている。経済が比較的良好という事もあり、総人口も約2800万人と史実の2割増しとなっている。

 

 朝鮮戦争中の出来事が原因で、戦後は経済・軍事の両面でソ連の影響力が強まった。その為、金日成がソ連の心証を悪くしない様にと民生面へ注力した事、分不相応な重化学工業への偏重をしなかった事、それらを後継者が続けた事で、北朝鮮の経済的破滅は発生していない。これが、経済面で良好な理由となる。

 ソ連主導の国際的な分業体制の枠組みに組み込まれ、農業と繊維業が発展した。その後も、食品加工、皮革、木材加工などの軽工業を中心に発展した。

 重化学も発展しなかった訳では無く、日本統治時代からの製鉄業、鉱業、化学工業も発展した。また、工業の発展と後述のソ連軍の存在から軍備偏重とならず、浮いた分が鉄道や道路などのインフラ整備に充てられた。

 

 軍事面では新京条約機構(略称はSTO。西側諸国のアジア・太平洋方面の軍事同盟「太平洋アジア条約機構(略称・PATO)」に対抗して1957年に設立。加盟国はソ連・北朝鮮・満州・モンゴル・プリモンゴル・ウイグル、本部はイルクーツク)に加盟している。その為、冷戦中はソ連軍が駐留していた。現在も対中国の関係からSTOは存続しており、規模こそ縮小したもののロシア軍の駐留は続いている。

 戦力として、陸軍は50個師団を保有し(約半数は予備師団)、主力戦車はT-72と一部精鋭部隊にはT-90が配備されているが、T-90の増備については後述の核開発のペナルティで遅れている。装甲車の数も多く、対地上用のロケットや短距離ミサイルも多数保有している。

 海軍は2個艦隊存在し、クリヴァク級フリゲートが最大の艦艇ながら、哨戒艇やミサイル艇、小型潜水艇を多数有している。有事の際には、満州海軍と共に東シナ海や日本海での通商破壊任務に就く事になっている。

 空軍はMiG-21が主力ながら、MiG-23やMiG-29、Su-17やSu-25などを多数有している。後述の核開発のペナルティで、MiG-29の追加導入やアビオニクスの更新が遅れている。

 中長距離弾道弾は、ロシアの庇護下にある事から開発はされていない。核兵器については、1990年代に開発を行おうとしたものの、ロシアに全力で止められる。それ以降、核開発計画は放棄され、軍事・経済の両面でロシアの統制も強まった。その代わり、ロシアの援助で原子力発電所の建設が進められた。

 

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・中華人民共和国(中国)

 史実の領土から東北部、内モンゴル自治区の大半、ウイグル、チベットの大半、海南島と雷州半島を除いた領土となる為、約513万㎢となる。総人口は約13億5千万人。

 

 かつての清の領土は、ソ連の対中不信、西側のインドの緩衝地帯を欲した事から、満州、プリモンゴル(内蒙古)、ウイグル、チベット、海南島が独立した(海南島は、中華民国が逃げた先)。その為、その分の人口や使用可能な資源が少ない。また、周辺国全てが仮想敵国な為、軍事力に注力しなければならない状況にある。

 建国の経緯から、資本家や技術者、軍人や官僚など国家の頭脳が周辺国に離散した。その後も、大躍進政策や文化大革命による混乱で多数の難民が発生した。この時、官僚や軍人など主要人物の亡命も相次いた。

 その後、混乱は収まり、市場経済の導入で経済の再建を図ったが、頭脳の流出で政策運営が上手く行かず、周辺との対立もあり外資の流入が少なかった。それでも、香港やマカオ、中華民国と接する深圳、珠海、茂名、台湾の対岸の厦門に経済特区が、天津や上海、広州などの大都市に経済技術開発区が設けられ、イギリスやフランスなどのヨーロッパからの投資は比較的多く、アメリカからも少ないながら投資の流れがあった事で、経済の回復があった。

 現在、東アジア・東南アジアではインドに次ぐ人口を有し、経済力も拡大しているが、日本との関係が良くない事、それに伴う日本の資本・技術の移転が低調な事もあり、史実程巨大な経済力を保有していない。石炭やタングステンなどの鉱業、経済特区や経済技術開発区とその周辺での加工業が比較的発展しているが、製鉄や電機などの重工業の発展は遅れがちとなっている。

 人口増加は未だに続いているが(この世界の中国は、人口の流出が激しかった事から一人っ子政策を採用していないが、1990年代から少産が奨励された)、貧富の差は非常に大きい。前述の経済の遅れ気味もあり、内政状況は不安定となっている。

 

 対外状況の悪さから、経済は常に軍備に優先された。現在もその傾向は強いが、却ってそれが経済の低成長に繋がっている。

 陸軍は兵員数では世界最大ながら、装備が古い。戦車は85式戦車と90-Ⅱ式戦車が主力であり、精鋭部隊に96式戦車か98式戦車が少数配備されている。

 海軍は3個艦隊あり、旅大型駆逐艦と江衛型フリゲートが主力となっており、象徴的な艦として深圳級ヘリコプター巡洋艦が存在する(イメージとして、しらね型護衛艦を1万2千トン級の船体に拡大し、中国製の装備で固めた)。また、原子力潜水艦や弾道ミサイル搭載潜水艦を複数保有し、通常動力型潜水艦も多数保有しているが、設計の古さや技術面の問題から西側より2世代は遅れている。

 空軍は、J-10(史実のFC-1)、J-8Ⅱ(中国版MiG-21であるJ-7を双発にしたJ-8の改設計版)、JH-7、H-6(Tu-16の中国版)が主力となっている。数こそ多いものの、原設計が1950~60年代の機体が多く、近代化改修も遅れ気味となっている。

 第二砲兵(ロケット軍)の装備は概ね史実通りだが、周辺との対立の多さから、史実とほぼ同数揃えている(国土が小さい為、実質史実以上配備)。特に、短距離弾道ミサイルのDF-11とDF-15、準中距離弾道ミサイルのDF-21の配備が進んでいる。

 

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・中華民国(海南島)

 領土は、海南島と中国本土の雷州半島、東沙諸島のみ(約4万2千㎢)。事実上、海口が首都となっている。総人口は約1900万人(史実の同地域だと約1600万人)。

 

 1911年の辛亥革命によって成立した中華民国だが、失政や諸外国の介入などで内政が安定しなかった事、日本との戦闘状態、アメリカからの支援の減少、国共内戦で共産党に敗れた事などの要因で、中華中央部から追い出された。中国国民党は台湾への退避を予定していたが、台湾を占領統治していたGHQ(の主体であるアメリカ)から拒絶された為、残っていた海南島と雷州半島に退避した。その際、舟山諸島や金門・馬祖などの地域は放棄された。

 海南島に逃れた後、アメリカを始めとした西側諸国の支援によって国家体制の再編や国軍の再編成が行われた。中国大陸が東側となった為、その防波堤として補強する必要があった為である。また、この時の支援の見返りなどで、台湾の独立を中華民国に認めさせている。

 その後、農業を中心とした国となるものの、徐々に国内インフラの整備が進んだが、重工業の建設の方は低調だった。これは、中国と接する事によるリスク、台湾やシンガポールの方が整備されている事から、外資の流れが低調だった為である。アメリカや日本からの支援があったものの、過去の経緯から支援に積極的では無く、軽工業や鉱業の支援が中心だった。

 

 主要産業は農業、林業、水産業といった第一次産業、鉄鉱石やオイルシェールなどの鉱業、繊維や食品加工などの軽工業であるが、価格競争で東南アジアに負けている。他にも、中国の経済力が低く経済の連動が望めない事、外資が台湾や満州、東南アジアに流れている事などから、経済の成長は鈍化している。観光立国や金融立国を目指したものの、中国と接するリスクや魅力の面で満州や台湾、東南アジアに劣っている事から、観光客の増加や投資の流れも低調となっている。

 その為、国内資本による経済立て直し、中南米やアフリカへの進出による輸出産業や土建業の強化を行っているが、思う様な成果が上がっていない。

 

 経済が不安定な一方、対中国に備える為の軍備を整えなければならないが、整備が中途半端な状況にある。行政や産業の中心は海南島にある為、海軍・空軍を整備するべきだが、雷州半島も有している為、陸軍の整備も必要だった。その為、どちらか一方に注力する事が出来ておらず、数も質も不安定な状況にある。

 陸軍は、M60やCM11が主力となっている。これ以外にも、装甲車やヘリコプターが多数配備されている。部隊の多くが雷州半島に配備されている。

 海軍は、済陽級フリゲートや鄭和級フリゲート(史実の成功級フリゲートだが、ライセンス版では無くアメリカの中古品)が主力だが、その老朽化が問題となっている。その為、自国造船業の振興も兼ねて、フランスとドイツから技術提供を受けて設計された康定級フリゲート(史実の江凱Ⅱ型フリゲートだが、各種装備は西側に変更)と田単級フリゲート(史実の広開土大王級駆逐艦だが、主砲が76㎜だったり、CIWSがファランクスなどやや装備が軽めとなっている)への更新中となっている。

 空軍は、F-16とF-CK-1の2本立て体制となっている。中国からの圧力の意味が殆ど無い為、最新のF-16の導入が可能となったが、航空産業の維持や対地攻撃能力の獲得から、F-CK-1の開発も行われた。

 

 海南島の経済発展中と同じ頃の1974年、中華人民共和国の国連加盟が実現したが、中華民国の国連脱退は無かった。これは、アルバニア決議(中華民国を国連から追放し、中華人民共和国を国連に加盟する。同時に、中華民国の安保理常任理事国の席を中華人民共和国に移す)が否決され、代わりに中華人民共和国の国連入りが可決された為である。

 これは、この世界の常任理事国の席は米ソ英仏の4つ(当初は5つだったが、5つ目を巡って中華民国とアメリカが対立、その結果「常任理事国の席は4つだが、将来的に増やす」とされた)であり、この世界のアルバニア決議は「中華民国の国連追放、中華人民共和国の国連加盟」であった。これが東西両陣営から否決された一方、代わりに日米両国が提案した「中華人民共和国の国連加盟」の方が可決された事で、中華民国と中華人民共和国が共に国連に加盟している。

 

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・台湾共和国(台湾)

 日本領台湾がそのまま独立した為、領土は史実の台湾(中華民国)の領土から金門・馬祖・東沙諸島を除いた領土となり、総面積は約3万6千㎢となる。総人口は約2800万人となっているが、これは史実の台湾の人口より約2割多い。

 

 日本領台湾が大東亜戦争後にGHQによる占領統治の後、1952年に独立した。その後、国共内戦や朝鮮戦争によって発生した亡命者の受け入れや多産の奨励、中国大陸からの亡命者の受け入れに東南アジアからの移民受け入れで人口を増加させていく。

 しかし、経済の拡大に反比例する様に出生率は低下している。移民の積極的な受け入れで人口減少は目に見える形で表れていないが、将来的には急速な高齢化と人口減少に見舞われると予想されている。

 

 人口増加に合わせて産業の振興も行い、独立当初は農業や林業、水産業などの第一次産業が中心だったが、その後は日本やアメリカからの技術支援や投資によって重化学工業が発展し、民族資本の拡大も進んだ。現在では、造船や製鉄、電機に半導体などが主要産業となっており、一人当たりのGDPにおいて東アジアでは日本に次ぐ高さを有しており、先進国と認識されている。

 また、東アジアと東南アジアの中間に位置する事から、両地域を対象としたサービス産業も発展している。当初は貿易や金融、後にITも発展した。現在では、東京・大阪に次ぐ東アジア有数の金融センターや貿易センターとしての地位を確立しており、東南アジア向けに対しては日本以上の情報・地位を有している。

 

 各種インフラについても、主に日本からの技術移転などによって整備された。特に鉄道は、国鉄とほぼ同様に整備された事もあり、初期は111系やキハ10形、後に103系に165系、キハ58系など当時の国鉄の主力車輛のライセンス生産が行われるなど、「日本国有鉄道台湾支社」と呼ばれる程だった。これに伴い、大都市とその周辺部の人口が増加し、大都市周辺のローカル線の通勤路線化も進められた。

 また、早くから道路と一体の地下鉄整備が行われた事で、台北や高雄では地下鉄の整備が進められている。同様に、台中や台南でも行われたが、こちらは輸送量が少ないと見られた事や新時代の路面電車のモデルケースとされた事で、路面電車の整備が進められた。

 鉄道以外にも、台湾西岸部を南北に貫く高速道路、基隆港や台中港、高雄港などの大型港、桃園国際空港の建設によって流通面の整備も1960年代から80年代に掛けて行われた。これにより、流通コストの低下やハブ機能の充実が見られ、製造業やサービス業の誘致や拡大の要因となった。

 

 軍備については、大東亜戦争後から中国大陸が台湾を保有しようと画策していた事から、その抑止力として空軍と海軍の整備が行われた。陸軍については、在台米軍の存在と、上陸されたら撤退する場所が少ない事から、兵力では無く機動力を高めた軍として整備された。

 陸軍は、M60とそのライセンス版であるT-1戦車が主力となっている。老朽化が進んでいる面もあるが、拡張性の高さや自国で部品を供給出来る事もあり、現在も主力戦車となっているが、数年以内に日本製の08式戦車(史実の10式戦車。日本製兵器の投入が史実よりも2~3年早い)を導入する予定となっている。

 海軍は、対空・対潜装備を充実させている。その為、台北級フリゲート(O・H・ペリー級フリゲートのライセンス版)や高雄級フリゲート(史実あさぎり型の改良型。対潜装備を強化している)が主力として8隻ずつ配備され、対空戦の切り札としてイージスシステムを搭載した鄭成功級ミサイル駆逐艦(基となったアーレイ・バーク級よりも一回り小さい基準排水量5500tの船体を採用)を2003年から配備している。

 空軍は、F-16とF-15Eが主力となっている。現在使用している機体が老朽化した場合、F-35を導入する予定となっている。

 

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・満州民主共和国(満州)

 領土は、かつての満州国と同じであり(約113万7千㎢)、首都も新京のままである。総人口は約1億4千万人となっている。後述の経緯から、多民族国家となっている。

 

 1945年6月5日の停戦と同年7月2日の対日戦の終結に伴い、連合国は日本と外地、衛星国の満州を一時的統治を行った後、民主化を予定していた。満州については、一時的統治の後、中華民国に返還する予定だった。

 この予定が狂ったのは、8月8日にソ連が連合国名義で進駐を行った為である。突然のソ連軍の満州侵攻に現地日本軍や日本に展開するアメリカ軍はおろか、アメリカ政府も驚いた。すぐさまソ連への非難と撤退勧告を出したが、ソ連の侵攻は止まる処か加速し、9月には満州全土と朝鮮半島北部を支配下に置いた。

 満州を支配下に置いた後、現地にある工場や鉄道など価値があるものの多くがソ連本国に持ち去られた。また、現地にいた日本人の多くも連れ去られ、シベリアなどで強制労働させられた。

 その後、東アジアでの発言力強化と中国への不信感から、当初予定の満州の中国返還を変更し、衛星国化する事を決定した。その為、ソ連領内にいる日本人を戻したり、ソ連や勢力圏である東欧から移民を送ったりなどして、強引な人口増加を行った。この後、中国での内戦の激化から難民が多数押し寄せ、朝鮮戦争の影響で難民や亡命者などが多数来るなどして労働力や頭脳が集まった。その様な中で、1954年に「満州民主共和国」として独立した。

 

 建国の経緯から、ソ連の影響力が強い。建国当初、ウラジオストクやハバロフスクなどの主要都市が朝鮮戦争中の事件が原因でアメリカの原子爆弾の投下により壊滅的被害を受けた事で、ソ連極東部再建の為に工業力が活用された。これにより、ソ連極東部の工業力・軍事力の代替として活用され、ソ連もその事を認識していた為、援助は常に優先的に行われた。

 冷戦崩壊と共に、満州も民主化が行われた。国号が「満州連邦共和国」に変更となった1989年に、満州社会党が保守派と改革派に分裂した。保守派が「満州労働党」となり、改革派が民主派の一部を取り込み「満州社会民主党」となった。民主派の内、社民党に取り込まれなかった者を中心に「満州民主同盟」が設立された。同年の選挙で、民主同盟が躍進するも過半数を取れず、社民党と二分するに留まった。労働党は1割弱を手に入れるのがやっとだった。

 現在では、20世紀末の極東危機による混乱によって政局が不安定となり、21世紀に入ると復活したロシアによる再衛星国化が行われた。政治的自由は制限されたものの、経済面では制限されなかった為、外資の導入などによる経済発展が進み、それに伴う国内の安定傾向も高まっている。

 

 国民の多くが漢人であるが、日系人や朝鮮人、ロシア人や東欧系、ドイツ系をルーツに持つ人も多い。これは、建国時の人口増加の経緯から、満州独立前にシベリアに抑留された日本人と朝鮮人、ドイツ人を満州に移住させ、更に人口増加の為にソ連や東欧から移民が送られた為、多民族国家となった。それでも、現地に住んでいた多数派が漢人である事、国共内戦で逃れた人々の殆どが漢人である事から、漢人が多数派となっている。

 尤も、教育の充実や生活の保障がされている事、治安の良さなどから、中国中央部への帰属意識は殆ど無く、「満州国民」としての意識形成に成功している。

 

 経済は、建国当初はソ連からの援助で工業化が進み、満州国時代の遺産である製鉄や化学、農業と合わせて発展する。その後も順調に発展し、ソ連・東欧諸国で不足する繊維や日用品の生産拠点や、ソ連の極東開発の基地としても活用される。また、1950年代に国内で相次いで油田が発見された事で、石油の輸出による外貨獲得も進む。それ以外にも、鉄道車両は重機、電子機器に航空機産業などの重化学工業や先端技術産業の発展も見られ、「ソ連16番目の構成共和国」と言われる程発展し、ソ連も満州に信頼を寄せていた事から、最先端技術や特許以外の技術については輸出していた。

 1980年頃から限定的な自由化や市場経済の導入が行われるも、ソ連の衛星国と合って低調だった。この状況が変化するのは、冷戦の終結と天安門事件後の1990年代に入ってからとなるが、極東危機で再び低調となる。

 極東危機後は好調に戻り、良好な治安や整備された流通網、法整備が為されている事もあり、東アジアでは日本に次ぐ地域大国と見做される様になる。

 一方、地下資源については減少傾向にあり、経済発展に伴う資源消費量の増加により、21世紀に入ってからは資源輸入国となる。資源の多くはロシアや中央アジア、モンゴルなどからの輸入に頼っているが、資源や市場開拓を目的に自力でアフリカに進出するなどして、経済面での自立を目指している。

 

 軍事では、ソ連の極東における要として、ソ連からは重要視されていた。その為、満州人民軍には常に最新の装備が供与され続け、民主化によって満州連邦国防軍となった後もそれは変わらない。また、ソ連軍の大規模な駐留が行われた。冷戦後とソ連崩壊後も、STOに加盟し続け、ロシア軍の駐留が規模を縮小させつつも続いている。

 陸軍では、T-72が主力戦車として大量に配備され、T-90も少数の精鋭部隊に配備されている。また、対中国を睨んで対歩兵戦の強化を行っており、BMPシリーズやBTRシリーズなどの装甲車両、Mi-8やMi-24といったヘリコプターも多数配備されている。

 空軍は、冷戦中はMiG-21が主力だったが、冷戦後期にはユーゴスラビア、ルーマニアと1980年代に共同開発した「88式戦闘機・蒼燕(見た目はIAR95、性能はノヴィ・アヴィオン。共に実機は生産されず)」が主力となった。それ以外については、一部精鋭部隊にSu-27、戦闘爆撃機としてSu-17、Su-24、Su-25、大型爆撃機としてTu-16が配備されている。その他、輸送機、ヘリコプターも多数配備されており、東アジア有数の空軍力を有し続けている。

 海軍は、フリゲート艦が主力となっており、自国製の新京型フリゲート(史実「カシュプ」)や大連型フリゲート(パルヒム型フリゲートを拡大したもの)に加え、ソ連製のタランタル型コルベットが主力となっている。冷戦中は日米の潜水艦を、冷戦後は中国の潜水艦や小型艦艇が対象の為、大型艦は有していないが、対潜装備や小型の水上目標向けの装備が充実している。

 

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・プリモンゴル人民共和国(プリモンゴル)

 総面積は約45万5千㎢であり、この領土は史実の内モンゴル自治区から旧満州国の領域と旧寧夏省の領域を除いたものとなる。総人口は約1500万人であるが、同地域の史実の人口は約1200万人となる。

 

 満州事変後、満州防衛や華北分離工作を目的に内蒙古に進出した。1939年に内蒙古に樹立されたのが蒙古聯合自治政府で、これがプリモンゴルの前身となる。

 終戦後、連合国の進駐より先にソ連軍が進駐し、そのまま居座った。その後、中国への返還がされないまま、1954年に「プリモンゴル人民共和国」として衛星国として独立させた。

 独立後、中国から逃れた難民を活用して、ソ連と満州の支援によって緑化と地下資源の開発が進められ、農業と鉱業が主要産業となる。同時に、両国の影響力が強まり、軍事的にはSTOの一角として対中国の最前線となる。その為、ソ連軍の駐留が行われ、中国に対する要とされた。

 冷戦後、1990年に民主化によって「プリモンゴル共和国」となるも、プリモンゴル社会党(旧・プリモンゴル共産党)の影響力が強く、権威主義的体制となっている。その為、報道規制などが残っているものの、石炭やレアアースなど各種資源の輸出で経済が良好な事から、不満は最小限となっている。

 人口の多くが漢人であり、モンゴル系は少数となっている。国民の半数近くが、中国中央部からの亡命者であるが、経済が良好なプリモンゴルに根差して半世紀近く経つ為、中国中央部への帰属意識は非常に低い。

 

 軍事面では、ソ連製の兵器が殆どを占める。民主化した後もロシア製の兵器が大半を占めるが、小火器や電子機器についてはイスラエル製やフランス製に変更される事が多くなった。

 陸軍はT-62が主力だったが、最近はT-72の改良型への置き換えが進んでいる。尤も、仮想敵国が中国である事から、対人戦装備の方に注力されており、BTRやBMP、BRDMといった装甲車両が主力となっている。戦車の方も、対人戦が中心になる事から、イスラエルによる装備の改良が進められている。

 空軍は、MiG-21とSu-17が主力となっており、少数のMiG-29が配備されている。また、対人戦への強化からMi-24やMi-8といったヘリコプターも多数配備されている。

 

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・ウイグルスタン人民共和国(ウイグル)

 領土は史実の新疆ウイグル自治区と同じ(約166万㎢)。総人口は、史実より1割程多い約2700万人。

 

 国共内戦中、ソ連と中国共産党の間で距離感が生まれた。これは、ソ連側は第二次世界大戦中の中国の動きが消極的だった事に対する不信感から、中国共産党側は満州にソ連軍が居座る続けている事に対する不信感から生まれたものだった。その後、ソ連は中国共産党への支援を続けたが、ソ中両者の不信感は解消される事は無かった。

 ソ連が動いたのは、1947年3月の事だった。中華民国の現地政府と、親ソの東トルキスタン共和国の連合政府である「新疆省連合政府」の主要閣僚を、親ソ系の人物で固めた。これに中華民国と中国共産党は激怒したが、中華民国はソ連の支援を受けた現地軍によって撃退され、中国共産党については支援の強化をする事で認めさせた。また、アメリカも表向きはソ連の拡張主義を批判したが、内心では中華民国の存在に幻滅していた事から大きな反対とならなかった。この様な経緯から、1947年に「ウイグルスタン人民共和国」として(ソ連の衛星国として)独立した。

 ソ連の衛星国として独立した事から、軍事・経済の両面でソ連の従属は必然だった。経済面では、ソ連の合弁会社を通じて資源や農産物の生産が行われ、ソ連・東欧圏で不足している繊維や食品加工品の生産拠点となった。軍事面では、STOの一角としてソ連の駐留が続き、対中国の最前線となった。

 冷戦後、1991年に民主化が行われ、国号も「ウイグルスタン共和国」に変更となった。しかし、国家体制に大きな変化は無く、ウイグル民主労働党(旧・ウイグル共産党)による事実上の一党独裁体制が続いている。尤も、国民はそれに不満を持つ事は少ない。

 

 独立後、独立国家としての足場固めに急いだ。ソ連の後ろ盾があるとはいえ、そうしなければ何れ再び中国の統治下になると考えられた為である。その為にはやる事が多かった。

 中国からの難民やソ連構成国の中央アジアからの移民、多産政策で人口増加を行った。この時、ウイグル系やカザフ系などの中央アジア系の人種の優遇政策も同時に取られた為、漢人に対する同化政策という一面もあった。難民や子供には教育を施し、国民意識の植え付けを行って中国への帰属意識を薄れさせた。こうして、半ば強引な国民意識の形成によって、四半世紀もすると中華への帰属意識はごく少数派の意見となった。

 そして、増加した人口を活用して、地下資源の開発や農場開発、牧場拡大に緑化を行った。これらの政策は独立前から行われていたが、独立後はソ連からの支援もあり大々的に行われた。

 これらの政策により、農業、畜産業、鉱業が主要産業となり、それらを支える食品加工業や繊維業も発展した。現在の主要輸出品は、石油・天然ガス、繊維(羊毛・綿糸)、食品加工品(乳製品・ワイン・ビールなど)となっている。特に、石油・天然ガスの対満・対日輸出が好調な事が、政治的不満が少ない理由ともなっている。

 

 軍事面では、装備についてはプリモンゴルと大差無い。ただ、プリモンゴルより中国からの軍事的圧力が弱い事から、近年では国境警備隊としての性格を強めており、哨戒や機動力の強化に注力されている。

 実際、陸軍は戦車の更新や増備は進んでいない一方、BTRやBMPといった装甲車への転換や更新は積極的に行われている。

 空軍も、戦闘機の更新はMiG-29に統一しているが、その数が少ない。一方、Mi-8やMi-24といったヘリコプター、An-26といった輸送機が主力となっている。

 

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・チベット国(チベット)

 領土は史実のチベット自治区から、東部のチャムド・ニンティを除いた領土となる(約122万㎢。中華民国の書類上の行政区画である西蔵地方とほぼ同じ)。総人口は約250万人。

 

 史実との違いは、1951年の十七か条協定が結ばれなかった事にある。これは、朝鮮戦争が1951年3月に休戦した事で、調印予定だったこの協定がアメリカやソ連に睨まれた事で調印がされなかった。これにより、チベットは中華人民共和国への「統合」が行われなかった。その後、同年6月からアメリカとインドの後ろ盾で正式に独立が決定し、国連による一時的な信託統治を経て、1953年4月に「チベット国」として独立した。

 

 独立後、国家体制の整備が進められた。これにより、バチカンをモデルとした国家体制の構築がされる事となったが、四半世紀掛けてゆっくりと行われた。これは、アメリカがあまり関心を持って行わなかった事、急進的な構築は反発が大きくなると判断された事からだった。

 また、アメリカ軍とインド軍の駐留も続けられた。これは、チベット国軍の整備が進むまでとされたが、防衛範囲の広さに対して人口の少なさや予算問題から単体での防衛は不可能とされ、両国の駐留が続けられた。PATOには加盟していないが、オブザーバーとして参加している。

 

 現在では、中国との睨み合いが続いているが、前述のPATOの存在から大規模衝突には至っていない。ただ、小規模な衝突は何度か発生している。

 経済状況は、小規模な繊維業や畜産業、観光業が主体となっている。地下資源の存在は確認されているものの、環境の厳しさや道路整備の遅れ、内陸国故の採掘・輸送コストの高さから開発は遅れている。その為、一人当たりのGDPこそ低いものの、貧富の格差が小さい為、治安の良さも相まってむしろ安定している。

 

 軍備は、国境警備隊程度しか有していない。しかし、チベット軍の兵士の練度や戦闘技術などはグルカ兵並みであり、高地である事も重なり侮れない存在となっている。実際、人民解放軍との小規模な衝突で先頭経験は充分あり、アメリカ軍やインド軍との模擬戦でも勝利を何度もしている。

 しかし、数が少ないので単独では国を守り切れない為、アメリカ軍やインド軍の駐留が続いている。

 

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・香港

 領土・人口は史実通り。

 

 1997年6月30日までは史実通りだが、翌7月1日にイギリスから独立した。中国への返還とならなかった背景に、冷戦期からの中国に対する不信感や経済格差、日本からの海水淡水化技術による水問題の解消があった。これにより、1980年代に行われた交渉で独立する事が両国の交渉で決定した。その際、租借地だった新界を香港に組み込む事も決定し、その補償金が中国に支払われた。

 独立の経緯から、中国は香港を手中に治めようと画策し、香港は中国に対する不信感や恐怖心からそれに対抗した。一方、両国は領事館を置くなどして、何とか外交関係は維持されている。

 

 独立以降の歴史や経済の状況は、中国からの有形無形の介入や妨害があるものの、概ね史実通りとなる。

 一方、軍事は駐香港イギリス軍が主力となり、香港独自の軍事力を有していない。その代わり、警察組織を拡張して治安の維持を図っている。



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番外編:この世界での諸外国②(東南アジア・南アジア・西アジア)

【史実との違い】

〈東南アジア〉

・カンボジアが満州の影響で社会主義国として成立する。その為、ソ連とも関係が良好となり、ポル・ポトによるカンボジア支配は起きていない。

・ビルマ(ミャンマー)は、1960年代から満州との連携を強め、1977年に親満・親ソの社会主義国となった。

 

〈南アジア〉

・インドが親米国家となり、西側諸国の一員となった。

・インドに代わり、パキスタンが親ソ国家となった。バングラデシュについては史実通り。

・アフガニスタンは、パキスタンと共に早くから親ソ国家となる。

 

〈西アジア〉

・イランは、1979年のイラン革命は発生せず、現在もパフレヴィー朝が続いている。

・イラクは、イランへの対抗を目的に、ソ連の勢力圏に入る。湾岸戦争で政権が倒れた後、親米政権が樹立して安定化に向かっている。

・イエメンは1971年に親ソ国家として統一する。

 

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〈東南アジア〉

・カンボジア王国(カンボジア)

 領土は史実通り。但し、人口は史実よりも2割程多い約1800万人。

 

 1970年のロン・ノル将軍によるクーデターによるクメール共和国樹立までは史実通り。異なるのは、追放されたシハヌーク国王が満州の支援を受けた事である(史実では中国の支援を受けた)。これにより、満州とソ連による支援の下、亡命政府「カンプチア王国民族連合政府」を樹立した。

 その後、内戦によってクメール共和国を打倒し、1975年4月に民族連合政府が首都プノンペンを占領した。これにより、カンボジアの支配者が変わり、国号も「カンボジア王国」に戻った。

 「王国」と名乗っているが、実際はカンボジア労働党による一党独裁体制であり、他の共産主義国と大差無かった。但し、宗教を否定しておらず、立憲君主制の下で社会主義を実施するとされた(イギリスの立憲君主制に、ソ連の民主集中制を足した感じ)。その為、ソ連から反対される事は無かった。

 カンボジア王国樹立の際、クメール共和国の関係者の多くは、国外追放されるか強制労働による思想改造の処分が下った。また、政治路線を巡って対立していたクメール・ルージュの掃討も実施され、3年間に及ぶ掃討戦の末、壊滅させた。

 

 王国復興後、直ちにソ連や満州、ベトナムを始めとした東側諸国が承認した一方、西側諸国は承認しなかった。その後、ソ連や満州の支援で国内の復興や農業の再建が行われた。同時に、食品加工業や木材加工業、繊維業などの軽工業建設の支援も行われた。

 これにより、1980年代初頭には経済は完全に回復し、農業の生産も安定した事で、コメの輸出が出来る程になった。

 また、国内の交通網の整備も進められ、ベトナムとの鉄道の接続が図られた。道路整備も進められ、ベトナムやラオスとを繋ぐ幹線道路の建設も行われた。タイとの鉄道・道路の接続も計画されたが、実現するのは冷戦後となった。

 

 その後、冷戦体制の崩壊によるソ連からの支援の減少、ベトナムとラオスでの市場経済導入に合わせて、カンボジアでも市場経済が導入された。膨大が外資が国内に流れ込み(この頃、西側諸国との国交回復)、人件費の安さと比較的整備が進んでいた繊維業と各種加工業が発展した。軽工業以外では、日本や満州からの支援でバイオ燃料や酢酸エチルの生産が行われている。

 

 軍事力は、基本的に国境警備隊程度となる。かつては、タイ国境付近に比較的重武装な戦力を配備していたが、冷戦崩壊によって大規模な軍事衝突はほぼ無くなった。その反面、国境付近の治安悪化が懸念された事から、非正規戦への適応強化が図られると同時に、軍事力の削減を行って軍事費の削減も図られた。

 

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・ビルマ連邦社会主義共和国(ビルマ)

 領土は史実のミャンマーと同じ。人口は、史実よりも2割程多い約6千万人。

 

 ビルマは、アメリカからの支援を受ける一方、1960年代から満州と接触を行った。これにより、ビルマ国内の社会主義・共産主義勢力は満州とその後ろにいるソ連のコントロールを受ける様になる。当時の政府は余り良い感情を抱いていなかったが、武器や各種軍需物資の膨大な支援があり、国内の武装勢力に対する攻撃が強まり、国内基盤を強める事が出来た事から、表立った反対をしなかった。

 1977年、満州とソ連の後ろ盾を得たビルマ民主労働党によるクーデターが発生、ビルマ連邦社会主義共和国を乗っ取った。以降、中立路線と決別しソ連や満州、インドシナ三国との連携の強化が公表された。

 クーデター後、満州とソ連の支援による農業や軽工業の整備が進められた。元々、農業や林業は発展しており、鉱業の発展も期待されていた事から、直ぐに整備の効果は表れた。コメの生産量は拡大し、綿花や麻、コーヒーなどの商品作物の栽培も行われた。木材の切り出し量や宝石類の採掘も軌道に乗り、経済や輸出品目が多角化した。

 同様に、鉄道網・道路網の整備も進められた。この中で最大のものとして、西部の港湾都市であるアキャブから中部の主要都市マンダレー、ラオス北部のルアンパバーンを経て、ベトナムのハノイに至る道路が建設された。インドシナ半島を東西に貫くこの道路の完成により、ミャンマーとラオス、ベトナムの交流を活発化させ、内陸部の開発促進に寄与した。

 また、今までのビルマ族優遇政策を改め、全ての民族が等しく教育や雇用の機会を得られる様に法整備が進められた。当初、この政策はビルマ族から批判があったが、経済の拡大による雇用創出や周辺地域の民族問題の解消、国民意識の形成などのメリットを説かれた事で、渋々ながら実行された。

 

 冷戦後は、ベトナムや満州と共に市場経済を導入した。識字率の高さや国内の治安の良さを生かして、外資による繊維業や食品加工業など各種軽工業の進出が進んだ。

 現在では、家電メーカーや自動車メーカーの部品工場の進出が見られ、国主導による化学や製薬の振興が行われている。また、21世紀に入ってからは観光開発にも力が注がれ、観光業も発展を見せている。

 

 軍事面では、陸軍が最大規模の戦力となる。これは、長く国境で接する中国との対立、未だに辺境部で残る武装勢力対策から、地上戦力が多く求められた為である。装備は、BMPなどの装軌装甲車が多数を占め、次いでBTRやBRDMといった装輪装甲車が多数配備されている。また、Mi-8やMi-24といったヘリコプターも比較的多く保有している。前述の通り、国境警備や国内の武装勢力が対象の為、戦車よりも装甲車と歩兵が必要な為である。

 空軍と海軍は、陸軍のサポートの役割が主任務となる。空軍は、防空用としてMiG-29が配備されているが、多くはAn-26やMi-8といった輸送機やヘリコプターとなる。海軍は、コニ型フリゲートやタランタル型フリゲートが主力となる。

 

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〈南アジア〉

・インド共和国(インド)

 領土・人口は史実通り。経済力は史実以上。

 

 独立後、暫くは中立路線を取っていたインドだが、朝鮮戦争後は親米路線に転換した。その後、自国産業の保護と育成を行いつつ、アメリカや日本など西側諸国からの支援もあり経済は拡大した。

 1970年代後半から、世界最大の人口と識字率の高さを活かして、西側諸国の工場移転が相次いだ。この世界では、中国の不安定さから投資が弱い為、その分がインドに流れ込んだ。これにより、史実以上の経済の拡大と各種工業の発展が見られた。その為、1980年代後半から「世界の工場」と呼ばれた。

 現在では、外資主導による経済の拡大とそれに伴う民族企業の拡大によって、中間層の拡大や消費の増大が見られる。未だに人口増加が続いている事から、「世界の工場」だけでなく「世界の市場」ともなっている。2010年頃には、名目国内総生産でドイツを抜き世界3位になると見られている(史実では、2017年で7位)。

 

 軍事面では、西側装備で固められている。それでも、アメリカ製やイギリス製、日本製など多種に亘るが、米英日からの導入が主流となっている。

 特に拡大が顕著なのが海軍で、2010年に「老朽化した空母の代替」という名目で、満載排水量4万トン級の空母を2隻保有し1隻建造中となっている(1隻はイギリスに、1隻は日本に発注。1隻は自国建造)。艦載機も、F/A-18スーパーホーネットとAV-8ハリアーⅡが主力だが、2025年までにF-35に転換する予定となっている。

 核兵器については保有しているが、アメリカとのニュークリアシェアリングという形で落ち着いた。その為、独自の核武装は行っていない。

 弾道ミサイルについては、パキスタンやソ連、中国を背後から攻撃する目的から積極的に開発が行われたが、冷戦後は短距離用を除いて全て廃棄された。その代替として、アメリカから格安で各種兵器の購入が認められた。

 

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・パキスタン・イスラム共和国(パキスタン)

 領土・人口は史実通り。

 

 この世界では、インドが親米路線を採った為、インドと対立しているパキスタンは親米路線を採る事が出来なかった。その代わり、親ソ路線が採られ、ソ連製兵器を大量に輸入した。

 冷戦中、パキスタンは南アジアの拠点、インド洋の拠点として活用された。実際、パキスタン南西部のグワーダルがソ連の支援によって軍港として整備され、黒海艦隊と太平洋艦隊から抽出して「インド洋艦隊」が設立された程だった。また、パキスタンとソ連に挟まれたアフガニスタンの親ソ政権樹立にも一役買った。

 冷戦後は、ソ連からの支援は激減した事で経済・軍事の両面で不安定な状態にあったものの、早い段階から各種産業の育成・振興には力を注いでいた為、壊滅的な状態にはならなかった。また、1980年代から外資の導入による経済活性化を図っており、繋がりがあるイギリスを始めとしたヨーロッパからの投資があったものの、多くは人口が多く親米国のインドに流れた為、大きく拡大しなかった。

 現在は、ロシアの復活や民族資本の活性化によって経済が回復している。インドとの対立から外資の導入は依然不安定なものの、アメリカや日本からの投資も少しずつ増加している。

 

 冷戦中、インドと対抗する意味で、ソ連から大量の兵器が入ってきた。それにより、陸軍と空軍は南アジアではインドに次ぐ規模を持っており、現在もそれは変わらない。

 陸軍は、T-62が主力であり、ライセンス生産も行われている。現在、ロシアやフランスからの技術を受けて改良型(砲塔の改良、電子装備の改良など)の生産も行われている。それ以外の装甲車やヘリコプターも多数配備されている。

 空軍は、MiG-21が主力となっているが、年々MiG-29への置き換えが進んでいる。その他にも、MiG-27やSu-17、Su-25も多数保有している。

 海軍は、コニ型フリゲートやタランタル型コルベットが主力で、その他の艦艇も哨戒艇やミサイル艇しか保有していない。だが、海軍航空隊としてSu-24やTu-16、Il-38などの攻撃機や哨戒機を多数保有しており、その対艦攻撃力や哨戒能力は侮れない。

 

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・アフガニスタン民主共和国(アフガニスタン)

 領土は史実通り。人口は史実より3割程多い約4000万人。

 

 史実と異なる動きとなったのは、1963年3月に国王ザーヒル・シャーによってダーウード首相が解任されたが、その後任が親ソ派の人物だった事にある。その人物が首相に就任後、前任者が行っていた急進的な改革は改められ、段階的な改革にシフトしていった。

 暫くは穏健な改革者としての顔をしていたが、それが変化したのは1967年だった。首相が、ソ連とパキスタンの支援を受けた軍部と結託してクーデターを起こした。クーデターは成功した事で、王制は廃止され共和制国家「アフガニスタン民主共和国」となった。

 

 クーデター後、ソ連とパキスタンと同盟関係となり、支援も増加した。国内の政党はアフガニスタン民主同盟が指導政党とされ、それ以外の政党も存在したが衛星政党としてだった。

 クーデター前から行われていた改革はクーデター後も続けられ、農地改革や宗教改革、教育改革に女性の権利の向上などが進められた。その際、宗教関係者や大地主の対立があり、武力衝突に発展した事も少なくなかった。その衝突の鎮圧に協力したのが、満州だった。

 満州は、中満国境での人民解放軍との衝突、国内の馬賊や親中派武装組織の掃討など、非正規戦に対するノウハウが豊富にあり、そのノウハウをソ連も導入した程だった。そのノウハウと多数の教官がアフガンに持ち込まれ、鎮圧に大きく貢献した。

 

 国内の反対派の鎮圧に成功した事、鎮圧する為のノウハウを身に着けた事で、その後の改革は順調に進み、1978年には「改革の完了」が宣言された。その後は、改革中に小規模に行われていた各種産業の育成やインフラ整備が拡大した。これにより、鉱業の開発が大きく進み、銅や鉄、石炭だけでなく、天然ガス、金、ラピスラズリなどの採掘が進んだ。多くはソ連や満州との合弁企業だが、税収や雇用の面で大きな役割を果たした。

 鉱業以外にも、土壌流出を防ぐ目的で行われた植林を活かして林業の発展が見られ、林業に付随する木材加工業や家具製造業の発展も見られた。かつてケシ畑だった地域ではコムギや茶などに転換され、アヘン製造量は年々減少した。

 また、古くから多くの文明が出入りしていた事から、歴史的建造物やその遺跡が多数存在した事から、外貨獲得を目的に観光業も盛んになった。その一環として、フラッグキャリアのアリアナ・アフガン航空や国内の空港設備を拡張して西側諸国を含めた多くの路線を飛ばしたり、首都カーブルにホテルを複数建設するなどした。

 空港の拡張に合わせて、国内の道路や鉄道の整備も進んだ。道路については、国内の主要都市同士を結ぶ幹線道路が多数整備され、ソ連やパキスタンとを結ぶ道路も建設された。これにより、輸出入のルートは確保されたが、輸送量や採算面から効率が悪かった。その為、鉄道の整備も進んだ。

 鉄道のルートは、ソ連側からはウズベクのテルメズからマザーリシャリーフを経由してカーブルへ、トルクメンのクシュカ(現・セルヘタバット)からヘラートへの路線が第一期線として1966年に開業した。その後、カーブル・ヘラート~カンダハル、カーブル~イスラマバード、カンダハル~チャマン(パキスタン)、カーブル~ヘラートの建設・開業が進んだ。これらはあくまで幹線路線であり、それ以外の支線も多く開業した。

 

 冷戦後、ソ連からの支援が減少した事で、一時は経済が不安定となった。それに伴い政治的混乱も生じ、内戦状態一歩手前まで行った。

 しかし、西側諸国からの支援によって1998年には混乱は収まり、その後はアメリカや日本からの支援によって経済と治安の回復が為された。ロシアのプレゼンツはソ連崩壊以降は低下したものの、現在も武器の取引先や主要企業の株主として影響力は維持している。

 

 軍事面では、対ゲリラ戦に特化した装備となっている。

 陸軍では、T-62やT-72といった戦車を装備しているが、主力はBTRやBMP、BRDMなどの装甲車、Mi-8やMi-24といったヘリコプターとなっている。また、目的も「国防」よりも「国内の治安維持」と「国境警備」の方が主任務となっており、歩兵の数が多いのも特徴となっている。

 空軍も、陸軍の任務を支援する為、多くのヘリコプターや輸送機を保有している。MiG-21戦闘機も保有しているが、防空が主任務の為、保有数は多くない。むしろ、対地攻撃が可能なSu-17やSu-25の方が重視されている。

 また、準軍事組織として国境警備隊と国内保安隊が存在する。共に警察系であるが、前者は国境警備を、後者は国内の武装勢力の掃討が主任務となる。国軍は両者と協力して国防や治安維持に当たる事となっている。

 

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〈西アジア〉

・イラン帝国(イラン)

 領土・人口は史実通り。 

 

 史実と異なり、1979年のイスラム革命が発生しなかった為、パフレヴィー朝が続いている。王朝が続いた背景として、1951年のモサッデク首相による海外資本の石油産業の国有化が行われなかった事にある。

 首相は、国内にあったイギリス資本の石油会社の国有化を検討していた。国有化した場合、イギリスは猛反発してくる可能性が高いが、ソ連との関係をつくる事で対処しようとした。

 しかし、朝鮮戦争中にソ連が原子爆弾を初めて実戦使用した事を受けて、ソ連に対する心象が悪化した事から、ソ連を後ろ盾とする事は危険と判断された。その為、当初予定だった国有化案は破棄され、石油によって得られる利益を折半し、石油関連施設の段階的な買い戻しという案に変更となった。

 イギリスはこの案を受け入れ、石油以外の経済部門でも同様の措置を採る事を約束した。この結果、1953年の米英の後ろ盾によるクーデターは発生せず、首相の退任も無かった。また、クーデターが発生しなかった事から国王への権力集中も発生しなかった事が、イスラム革命が起こらなかった要因となる。

 

 国有化未遂後、イランの国内開発はゆっくりとだが進められた。その為、実情に合った経済成長が行われ、特に教育面の向上・改善が優先された。石油輸出による利益がもたらされると、農地改革やインフラ整備、軽工業の整備が進められた。西側諸国からの支援もあり、1970年代には中東で最も経済的に発展した国となった。

 1973年のオイルショックでは、アラブ諸国に代わって西側諸国への輸出を拡大した。これにより、日本とアメリカとの関係強化に成功し、主要貿易相手となりシェアの獲得にも成功した。ここで得られた利益は、軍備拡張、製鉄や自動車製造などの重工業、大学や製薬など科学分野など新分野へ回されたが、依然として民生部門への投資は多く回されていた。

 これにより、国内の不満は抑えられており、宗教関係者との対立も小さかった事もあり、イスラム革命は発生しなかった。それにより、アメリカとの断交は発生せず、その後も西側製兵器の導入が続いている。

 しかし、隣国イラクがイランの軍事力を恐れた事、石油輸出を巡って対立した事から、イラン・イラク戦争は史実通り発生したが、6年で終戦となった(史実だと8年)。

 その後、湾岸戦争ではクウェート解放及びイラク侵攻の拠点として活用され、アメリカや日本、イギリスなどの多国籍軍が駐留した。

 

 現在では、中東随一の経済力を持つ親米国家として、アメリカからの信頼も厚い。実際、暴走しがちなイスラエルや扱いにくい部分があるサウジアラビアよりも言う事が利いており、ロシアの後背を突ける事もあり、中東における陸空軍の拠点となっている(海軍はインド)。

 経済面でも、石油以外にも農業や林業などの第一次産業、鉱業や製鉄、電機に自動車製造などの第二次産業が発展しており、製薬やバイオテクノロジー、情報通信などの新分野への進出も著しい。また、西側諸国の企業の進出も進んでおり、工場を設置するなどしている。

 

 軍事面では、冷戦中はソ連の後背を突ける位置にいる事などから、西側製の兵器が多く導入された。その為、中東ではトルコに次ぐ地域大国であった。冷戦後は、地域の治安が不安定化している事もあり、ゲリラ戦に対する装備の導入が進められている。

 陸軍は、冷戦中からM48やM60の大量導入が行われたが、イラン・イラク戦争で多くが損失した。その後、アメリカや西ヨーロッパからM60やレオポルト1の導入が行われたが、21世紀に入ると老朽化が酷くなった。その為、トルコと共同で戦車の開発を行い、アメリカやドイツからの技術支援もあり、第3世代の主力戦車「ゾルファガール」(トルコ版は「アルタイ」)が完成し、2013年から配備が行われている。戦車以外にも、装甲車やトラック、ヘリコプターを多数保有している。

 海軍は、スプルーアンス級ミサイル駆逐艦の改良型であるコウローシュ級ミサイル駆逐艦(史実のキッド級ミサイル駆逐艦)が主力となっているが、史実ではキャンセルされた5・6番艦が就役した。それ以外にも、ノックス級フリゲートを基にしたアルヴァンド級フリゲートを複数配備するなど、中東最大の海軍力を有している。

 空軍は、イラン・イラク戦争時はF-4やF-5が主力だった。その後、それらが老朽化してきた事からF-16への置き換えが進んでいる。他にも、F-15やF-15Eも多数配備されている。これらは数の多さや練度の高さなどもあり、総合的な戦闘力ではイスラエル空軍以上と見られ、正に中東最強の名を欲しいままにしている。

 

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・イラク共和国(イラク)

 領土・人口も史実通り。

 

 史実では、1970年代からアメリカに接近しているが、この世界ではソ連に接近した。これは、対立するイランが親米国家であり続けた事から、対抗するにはソ連に接近するしか無かった為である。

 一方のソ連も、ペルシャ湾での影響力強化、イランから受ける中央アジア及びコーカサスに対する圧力の分散から、イラクに接近した。

 両者の思惑が一致した事で、イラクはシリアに次ぐソ連の中東における重要拠点となった。これにより、ソ連製兵器が大量に入手する事が出来た反面、西側製兵器は殆ど入ってこなかった(僅かに、フランス製やイギリス製が入ってきた程度)。

 

 その後、湾岸戦争まではイラン・イラク戦争が2年早く終わった事を除けば、概ね史実通りとなる。

 湾岸戦争では、多国籍軍によるクウェート解放後、そのままイラク領内に進攻した。これは、これ以上の対立状態を解消したいイランの考えと、日本など参戦国が増加した事による投入戦力の増加から来るものであった。イラク軍は多国籍軍の侵攻を食い止める事は出来ず、5月に首都バグダッドが占領された事でフセイン政権は崩壊し、戦争も終了した。

 戦後、日米主導でイラクの民主化が行われた。フセイン政権の関係者の多くは戦後の裁判で裁かれたものの、「民主化を手伝えば罪を軽くする」という司法取引を受け入れる形で、多くの関係者が政府・官僚・軍部に戻った(流石に、フセイン大統領以下最重要人物の復帰は許されず、終身刑となった)。これにより、治安の悪化は最小限に収まった。

 それでも、フセイン政権下で押さえつけられていた不満が噴出し、ソ連崩壊による冷戦の終了もあり、1990年代中頃はテロが増加した。その為、最低限の軍事力のみ保有していたが、その後は警察力を中心に軍事力が回復した。

 

 現在では、日米による支援もあり、治安と経済が回復している。20世紀末の極東での混乱に伴うアメリカの一時的プレゼンスの低下によって、再びロシアがパイプを形成するなど変化もあったが、米露両国の緩衝地帯として存在している(実際、経済ではアメリカが、軍事(装備)ではロシアが主導権を握っている)。

 アメリカの仲介もあり、イランとの関係も解消に向かっているが、民間レベルでは未だに不信感は拭えていない。また、近年の対テロ戦を理由とした軍拡も、イランとの対立の一因となっている。

 

 軍事は、湾岸戦争でほぼ壊滅した。その後、再建されたが治安維持程度に抑えられた。その後のテロ活動の拡大に伴いイラク軍も拡大していったが、かつてとは異なり対テロ戦への装備が多数となっている。

 陸軍は、T-72やBTR、BMPが主力となっている。それ以外にも、ハンヴィーやトラックを多数保有しており、機動力の高い軍隊となっているが、練度が低いのが欠点となっている。

 海軍は、海岸線の短さから哨戒艇が数隻と小規模となっている。海岸線や港湾施設の哨戒が主任務となっており、テロリストによる船舶や港湾施設の占拠に対抗する為、特殊部隊が充実している。

 空軍は、再建後は輸送機やヘリコプターしか保有していなかったが、21世紀に入って戦闘機の導入が行われた。2001年からMiG-29が36機導入され、以降少しずつ増備していき、2010年には200機を保有している。それ以外にも、戦闘攻撃機Su-25、C-130やAn-32などの輸送機、UH-60やMi-26などの輸送ヘリコプター、攻撃ヘリコプターMi-28も数多く保有している。

 

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・イエメン民主共和国(イエメン)

 領土・人口は史実通り。

 

 史実では、1990年にイエメン・アラブ共和国(北イエメン)とイエメン人民民主共和国(南イエメン)の統合という形で、イエメン共和国(イエメン)が成立した(実態としては、北イエメンによる南イエメンの吸収合併)。

 この世界では、1971年にイエメン・アラブ共和国と南イエメン人民共和国の統合という形で、イエメン民主共和国が成立した。

 

 史実との違いは、1962年から70年まで続いた北イエメン内戦において、ソ連と満州が共和派への支援を強化した事で、共和派が内戦に勝利した事である。史実では、共和派を支援したエジプトが第三次中東戦争によって離脱した事で支援が不足し、お互いに決め手を欠いた事で1970年に両者の妥協という形で終息した。

 この世界では、エジプトの代わりに満州が強力に支援した事で、共和派の力が増した。これにより、1969年に共和派の勝利で内戦を終わらせた。

 その後、北イエメンはソ連と満州の影響力が強まり、自然と親ソ国家化していった。そうなると、1967年に成立した南イエメン人民共和国との統合も視野に入った。両者の間で統一イエメンの構想は前から存在し、共に親ソ・社会主義共和制である事からハードルは小さかった。

 その為、1970年から両者による統一の交渉は順調に進み、1971年12月に両者は統合して「イエメン民主共和国」が樹立した。首都は旧・北イエメンの首都サヌアと定められ、国内の政党はイエメン社会党に一本化された。

 

 統一後も、ソ連の中東・インド洋の拠点である事には変わらなかった。また、満州からの資本投下や産業への支援も行われ、漁業と水産加工業を中心に食品加工業の発展が見られた。それ以外にも、砂漠の緑化、満州やイラクなどと共同して砂漠での農業の実施、コーヒー栽培の拡大など農業関係の投資も多く行われた。

 冷戦末期には、満州やベトナムに倣い市場経済の導入が行われた。これにより、ソ連からの支援の減少による経済の停滞が解消され、繊維工場や食品加工工場が増加するなどして雇用の拡大が見られた。

 現在は、ヨーロッパからの観光客の増加による観光業の拡大が見られ、それに付随してホテルや運輸業などのサービス業の拡大が進んでいる。一方、ソマリア沖の海賊対策として、アデンが各国海軍の基地として活用されており、軍向けの産業が興るなどしている。

 

 軍事的には大きな戦力を保有していない。陸軍は国境警備、海軍は沿岸警備、空軍は陸海軍のサポートという役割となっている。

 近年、ソマリア沖の海賊対策として、海空軍の拡張に乗り出している。実際、海軍はロシアから哨戒艇を複数購入する計画が立っており、空軍はMi-14の購入が計画されている。



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番外編:この世界での諸外国③(アフリカ・ヨーロッパ・オセアニア)

〈アフリカ〉

・ソマリランド(元イギリス領ソマリランド)が、ソマリア(元イタリア領ソマリランド)との統合を拒否して、「ソマリランド国」として独立を維持する。その後、ソ連と満州の工作により1966年に社会主義革命が発生、「ソマリランド社会主義共和国」となる。

・西サハラ(元スペイン領サハラ)も、満州の支援を受けて独立運動が発生、1976年に「サハラ・アラブ民主共和国」として独立する。

 

〈ヨーロッパ〉

・ソ連の西進がオーデル・ナイセ線でストップした為、ドイツが東西に分裂しない。また、オーデル川河口のシュテッティンとその東側はドイツ領のままで残る。

 

〈オセアニア〉

・パラオ、ミクロネシア連邦、北マリアナ諸島が一つの独立国家「南洋諸島連邦共和国」として独立する。

 

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〈アフリカ〉

・ソマリランド社会主義共和国(ソマリランド)

 領土はかつて存在したソマリランド国と同様(約15万5千㎢)。人口は約500万人。首都はハルゲイサ。

 

 現在のソマリアの成立前、北側はイギリス領ソマリランドに、南側はイタリア信託統治領ソマリア(1950年までは「イタリア領ソマリランド」だった)に分かれていた。1950年代後半に両地域が独立する事が決定した際、統一ソマリアを建国する事が決定した。1960年6月26日にイギリス領が「ソマリランド国」として独立し、5日後の7月1日にイタリア領も「ソマリア共和国」として独立し、同時にソマリランド国を統合した。

 

 この世界では、南部との統合を拒否する集団がイギリス領側の独立勢力の最大派閥となった。これは、人口比率や産業構想から、北部が南部に隷属すると考えられた為である。ソマリ族の氏族への帰属意識も合わさり、「隷属となるのであれば、個別に独立した方がマシ」という考えが大多数を占める様になった。

 これにより、北部においては南北統合は流れ、暫くはイギリス領として存在した。南部の独立から遅れる事2年、1962年8月1日にイギリス領ソマリランドも「ソマリランド国」として独立した。

 独立後も、ソマリアはソマリランドとの統合を諦めておらず、何度も統合を目的とした交渉が行われた。しかし、ソマリランドの指導部は多数決の原理によって自分達が排除される可能性を払拭出来ず、のらりくらりと交渉を躱していた。

 その間に、ソマリランドは独立を保つ為の後ろ盾として、ソ連に接近した。これにより、ソ連製の兵器の導入が進み、ソ連が連れてきた満州が主導して農業や漁業の発展が見られるなどして国力の拡大となったが、同時にソ連と満州のコントロールが強まった。特に、ソ連との繋がりが深い軍部や国営企業はその傾向が顕著であった。

 

 1964年5月、軍部と国営企業、及び親ソ派官僚によるクーデターが発生し現政権が崩壊した。同年6月には「ソマリランド社会主義共和国」と国号を変更し、国内の政党もソマリランド社会党に一本化された。新生ソマリランドをソ連が承認した事で、他の社会主義国も承認した。

 社会主義国となった事で、ソ連と満州からの支援も大きくなった。軍事ではソ連から、経済では満州からの支援によって拡大していった。それに伴い、国内の開発も進められ、農場開発や緑化事業、地下資源の開発に首都ハルゲイサや港湾都市ベルベラの機能強化など多岐に亘った。

 これにより、ソマリランドの経済は好調となり、ベルベラにはソ連海軍の寄港地の一つとなった。また、1974年にエチオピアで革命が発生し社会主義国となると、不安定だったエリトリア地域の使用が難しくなり、ベルベラがエチオピアの外港として活用される事となった。その輸送を円滑にする為、1978年から満州からの支援でジブチ・エチオピア鉄道の輸送力強化(1000㎜から1435㎜に改軌、重軌条化、一部複線化)、途中駅のディレ・ダワから分岐してハラール、ハルゲイサを経由してベルベラに至る路線も建設された(1984年に全て完成)。これにより、エチオピアとの関係が強まった。

 

 一方で、ソマリランドの経済が好調な事は、ソマリアとの対立を強める要因となった。1970年にソマリアも社会主義国となったが、両者の関係は好転する処か悪化した。ソ連からソマリアへの支援が少なかった事もあるが、ソマリランドの経済が好調で内政状況が良好と自国とは真逆である事も理由だった。

 その為、ソマリランドの経済力を手に入れようと「大ソマリ主義」を名目に両国の統合が再度提案されたものの、ソマリランドにその思惑を見透かされた為拒否された。その結果、1977年にソマリアから攻撃を仕掛けられ、一時は南部が占拠されたものの、ソマリアがエチオピアとも戦闘をしている事、ソ連からの支援を受けられた事でこれを撃退した。以降、両国との関係は最悪なものとなっていく一方、共通の敵が出来た事でエチオピアとの関係は好転していった。

 

 冷戦後は、ソ連からの支援の減少から経済危機を迎えたものの、満州からの支援があった事、経済の自由化を行うなどして存続した。また、ソマリア内戦の基地として多国籍軍の基地化、ソマリア沖の海賊対策としてベルベラを解放するなどして、周辺地域における治安維持の為の基地として現在も活用されている。

 現在では、農業や漁業などの一次産業に加え、食品加工や皮革製品などの製造・輸出も盛んに行われている。地下資源の開発も進められ、石油や天然ガスの生産も少量ながら行われている。サービス業では、観光業だけでなく通信業の拡大が進んでいる。

 経済は好調ながら、雇用が多くない事から失業率も高い。その為、中東や満州、アメリカへの出稼ぎも多く、そこからの送金も重要となっている。

 

 軍事面では、冷戦中はソマリアに対抗する為、人口や国力と比較して大きな戦力を有していた。現在はソマリアの脅威の減少とテロの増加から、兵力の削減と非対称戦に対応した装備への変更が行われている。

 陸軍は、戦車を全廃しており、装甲車の増備を進めている。また、戦闘ヘリ・輸送ヘリの増備も進んでいる。

 海軍は、海上警備程度となっている。ソ連製や満州製の中古コルベット艦が少数と複数の哨戒艇、ミサイル艇が戦力となっている。

 空軍は、MiG-21が主力戦闘機ながらアビオニクスは満州製を採用しており、戦闘面では後れていない。これ以外にも、地上攻撃機としてSu-25やSu-17が配備されている。

 

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・サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)

 現実の西サハラとモロッコ南部のタルファヤ地方(旧・スペイン領モロッコの南部)を足した土地が領土となる。総面積は約27万㎢。人口は約170万人。首都はアイウン。

 

 史実では、西サハラは領土の多くをモロッコが領有しているが、「不法占拠」として多くの国からは認められていない。1975年にスペインがスペイン領サハラの統治権を放棄して以来、独立国家となったのか何処の国の一部になったのかが名目上決まっていない状態にある。

 

 この世界では、1957年にスペインはモロッコにセウタとメリリャを除いたスペイン領モロッコの北部、スペイン領モロッコの飛び地であるイフニーを返還した。同時に、残るスペイン領サハラとスペイン領モロッコの南部を再編して海外州「スペイン領サハラ州」として統治力を強化した。これは、一か所に固めて防衛しやすくすると同時に、モロッコからの返還要求を先延ばしさせる目的があった。また、フランスからの支援によって統治力を強化すると共に、フランスからの投資による地域開発も行われた。

 この政策は上手く行き、モロッコから何度も返還要求が来たが、フランスからの抗議によって退ける事が出来た。一方で、サハラ州でのフランスの影響力が強まり、特に経済ではフランスの存在が無ければ回らない程となった。また、植民地支配そのものが時代遅れになった事もあり、フランスはいずれ独立させる必要があると考えていた。

 

 1970年以降、サハラ州での独立運動は活発となった。その後、スペインが武力で鎮圧した事、周辺国やソ連からの支援が来た事で武力闘争へと発展した。フランスはスペインと共同して、武力闘争を鎮圧させると同時に、権益を保持した上で独立させる事とした。モロッコとモーリタニアに介入の隙を与えない様にする為、鎮圧は速やかに行う事とされた。

 しかし、早急な鎮圧に失敗し、1974年には隣国ポルトガルでカーネーション革命、全植民地を放棄する事が決定した事もあり、スペイン側が大混乱となり自然に休戦状態となった。1975年にはスペイン・フランスと独立勢力とで交渉の場が設けられ、交渉の結果、3年以内に独立させる事、域内のスペイン・フランスの利権は引き継がれる事が決定した。

 独立勢力側の大勝利だったが、これを快く思わなかったのが隣国のモロッコとモーリタニアだった。両国は西サハラを合併しようとしたが、国連に止められた上、ソ連の支援を受けた独立勢力の妨害にあって失敗した。

 その間に、政府の設立準備などが進められ、当初の予定よりやや早い1977年6月1日に「サハラ・アラブ民主共和国(西サハラ)」として独立した。

 

 西サハラは、宗主国スペイン、経済的利権を有するフランス、独立時に支援したソ連との関係が深かった。その後、モロッコからの妨害を躱す意味から親ソ化が進んでいったが、国内の外国企業の国有化、農業の集団化などは行われなかった。その為、西サハラは東西両地域における緩衝地帯としての役割を果たしていた。

 また、ソ連との関係が深い事から満州との関係も強化され、国内産業の育成が行われた。特に、水産業と水産加工業の育成に力が入れられた。他にも、地下資源の開発、各種インフラの整備、緑化事業などが進められた。これらの労働力が現地だけでは不足する為、友好国であるイエメンやソマリランド、イラクにシリアなどの移民で対応した。

 

 現在では、各種産業の育成が進み、農業(柑橘類、イチジク、ナツメヤシ、コルクガシ、オリーブ、野菜)、水産業(タコ・イカ、カツオなど)、畜産業(ラクダ)、それらの加工業が雇用・輸出で大部分を占めている。輸出先としては、満州やロシアなど旧東側諸国、フランスとスペインで7割以上を占めているが、冷戦後は日本への輸出が増加している。

 鉱業の発達も進んでおり、特にリン鉱石が最大のものとなっている。近年では、リンを活用した化学産業の発展も見られる。これ以外にも、石油や天然ガス、鉄鉱石にマンガンの採掘も行われているが、共に少量だったり開発が進んでいないなどして、主要輸出品とはなっていないか国内需要を満たす分しか採掘されていない。

 それ以外にも、教育の拡大に伴う金融や通信、IT関連の拡大、便宜置籍船国となる、カジノの誘致などが積極的に行われている。これらの政策が功を奏し、獲得する外貨の拡大や観光客の増加に繋がっている。

 

 軍事面では、モロッコの侵攻を防ぐ目的から陸軍が最優先された。それだけでは不足の為、ソ連やキューバから軍事顧問を派遣してもらうなどして、練度や技能の向上に努めた。

 冷戦後は、大規模な軍事衝突が発生する可能性が減少した事、テロ活動の増加から、軍を解体する代わりに準軍事組織の強化が行われた。これに伴い、軍と警察が統合して「サハラ警察軍」となり、特に武装警備隊(陸軍の事実上の後身)と国境警備隊の強化が行われた。

 武装警備隊と国境警備隊が、陸での武装組織となる。主要装備として、BTRシリーズやソフトスキンなどの装輪車両、小銃に対戦車ロケットなどとなる。戦車については、国軍解体まではT-54/55を保有していたが、国軍解体時に全て破棄された。

 沿岸警備隊は、海軍を合併した。尤も、装備が共通だった事、人員交流も進んでいた事から、大きな変化は無かった。装備は、オーサ型ミサイル艇を基とした哨戒艇が複数、シージャック対策用の特殊部隊が数個となっている。

 空軍は、国軍解体後は武装警備隊航空隊として再編された。かつては戦闘機を保有していたが、国軍解体で戦闘機・戦闘攻撃機は全て破棄された。その代わり、輸送機とヘリコプターの増備が進み、特に戦闘ヘリの強化が見られた。

 

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〈ヨーロッパ〉

・ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)

 領土は樺太南部、千島列島を領有していない事を除けば史実通り。人口も史実通り。

 

 この世界でもソ連は崩壊したが、史実と比較するとマシな状況だった。というのは、国内の農業が壊滅しなかった事、流通網の整備が進んだ事、先端技術における西側との遅れが史実よりも縮まっている事、核兵器の保有量が史実の半分程度だった事、アフガニスタンへの介入が無かった事にある。

 

 1番目の「国内の農業が壊滅しなかった事」は、スターリン批判まで遡る。この世界では、朝鮮戦争中に原子爆弾が使用されたが、それがスターリンの独断であった事が問題となった。米軍の報復でソ連極東部が壊滅した事、ソ連が初めて実戦で原爆を使用した事が国際的に非難され、インドやイランなどとのパイプ形成に失敗した事を受けて、史実以上に批判される事となった。

 その影響で、スターリンと親しかった主要人物の追放が行われ、その中でも農学者トロフィム・ルイセンコの追放が大きかった。彼の追放で、史実では停