左利きのキャッチャー (MAKOTO@)
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1-1

ゆっくり更新。
暇つぶしにどうぞ。

修正中です。(2020.2.9)


「は?」

 

 うっかりと溢れた声は3歳児には似つかないような低い声だった。

とてつもなく衝撃的な出来事から3年ほど経った。もうあれほど驚くことはないと思っていたが現実は甘くないらしい。

小さい脳みそでは処理は追いつかず、テレビの野球中継ではしゃぐ父親とは対照的に私は静かに放心した。

意識を取り戻した後の心境歓喜だったことだけは覚えている。

 

 

 実はこの3歳児は生まれ変わりを経験した。ある日突然、何の脈絡もなく赤ん坊になってしまっていたのだ。だから、それはもう驚きのあまり泣いて泣いてまるで赤ん坊のごとく泣いた。生まれ変わる前の彼女は大学受験間際の一般的女子高生だったはずだ。

 多少驚いて、訂正、大変驚いてお恥ずかしいことに泣いてしまったがしょうがない事である。夜勉強して起きたら、赤ん坊になってるなんて誰も予想できないだろう。夜に泣くことだけは自重した。日に日に隈が酷くなる今生の母親を見たら自然と涙は止まり始めた。

 死因は過労死だろうと彼女は予想した。やはり追い込みのための三徹は良くなかったらしい。彼女は3日目の夜に意識を亡くしポックリと逝ってしまった。今生では何が何でも徹夜は2日だけにするとなんともむなしい決意を胸にする。

 なんともあっけなく死んでしまった彼女だが、今生では彼と言った方が正しいのである。いやあ、びっくりしましたと彼女は割と冷静だった。本当になぜだかアレが付いていた。初めて見たものは看護師の顔でも母親の顔でもなく悲しいことに男の象徴だった。

 

 石の上にも3年、この言葉が骨の髄まで染みる。小さくなった体での生活がこれほど大変だと思わず、苦労の連続は想像以上だった。歩くのも食べるのもこの体では大仕事である。たとえば、ハイハイ歩きから、ひさしぶりに立ち上がろうとすれば高校生と幼児の重心の違いで上手く立てない。腕と口の距離感が非常に分かりにくく、取りづらい。その度に、すっ転んだり、口元からボロボロと食べ物が溢れた。

 欠かさず世話を焼いてくれた母親には一生頭は上がらないだろう。だが、そんな私も男のトイレの仕方くらいは慣れたものだ。これはただのホースと考えることにした。私はすっかり慣れてしまったトイレを済ませてリビングに戻ると、いつも騒がしい父親が、いつもよりも騒がしい。

 どうやら、テレビをご鑑賞中のようだ。どうもこの父親は野球好きらしい。前世では2人の兄が野球に夢中だった。高校時代は、甲子園を目指していた2人の兄の野球談義はいつも流し聞きしていた。

  今生では残念ながら兄はいない。だからこそ父がよく私に構うのはそのせいだろう。

 

「おーい、歩純(ほずみ)、こっち来てパパと一緒に甲子園見るぞ。」

 

 遅れながら、彼の名前は前世でも歩純だった。父が生まれた時に歩純の顔を見てふと閃いたらしい。

 それにしても父親がグイグイと服を引っ張るのはやめてほしいものだ。服が伸びて怒られるのは歩純である。幼児が大の大人に力で敵うわけもない。さすがに父も力加減はわかているのかいないのか、天然な部分が多い父にはゆくわからないというのが、歩純の素直な感想だ。

 

ニコニコと息子を持ち上げて脚の上に乗せながらテレビに熱中する姿は二十代半ばにはまったく見えない。これも親孝行の1つかと思い、素直に父親の上に座り背中を預けてテレビを見ることにした。

 

『6回の表、今回2点を取られてしまった背番号1番のエース、片岡鉄心 。気合のピッチングを見せ、なんとか攻撃を凌ぎ切りました。』

 

 「は?」

 

 歩純からうっかり低めの声が出てしまった。いままで優良な息子を演じていたが、危うくすべて無に還るところだった。

 

 生まれ変わったことで子供らしくしない子供だと自分でも自覚していた。さすがに3歳児と元女子高校生がまったく同じ言動とはいかないだろう。

わがままも言わず聞き分けの良い子供。

そのため大人にはよく褒められたが、苦笑いするしかない。実は猫かぶりした良い子を演じていた節のある歩純である。

 

 話を戻すが、片岡鉄心とは言わずもがな『ダイヤのA』に登場する鬼監督のことである。ダイヤのAは前世で兄達の持っていた漫画の1つだった。2人の兄は元高校球児で漫画好きだ。一年のほとんどを自宅から遠い高校の寮で二人とも過ごしていたから、会う機会はめっきりと減っていたが、少し歳のは慣れた妹を邪険にせずよく構ってもらっていた。もう会えないことを考えれば、不意にとても寂しくなることがないといえばウソになる。

 

ちょくちょく兄達の部屋に入り浸り漫画を暇つぶしに読ませてもらっていた。一度読めばするりと内容を覚えていられる上質な脳をしていたためかしっかりと覚えていた。

 一度読んだ漫画は2度は読むことはないために、2人の兄達によって次々と新しい漫画が追加されるたびに読破していった。そのなかでもお気に入りはダイヤのAである。歩純にとっては珍しくかなり読み込んでいた。アニメなどは滅多に見なかったがこの漫画に関してはアニメ化を心待ちにしていた。

 もし歩純が男で子供の頃にこの漫画を読んでいれば、間違いなく野球を始めていたほどに好きだ。だから生まれ変わり男だと分かった時には嬉しさが強かった。これで野球が出来るじゃないかと。

 それほどに好きな漫画の中に登場する人物の1人が片岡鉄心だ。今テレビの実況解説が名前を口にし、つい懐かしくなりうっかり口元が緩んだ。同性同名で更に投手をしている状況に原作ファンとしてはテンションが上がる。それがたとえ全く別人の空似でも構わない。

 

『2点を追う青道高校、気合の入ったピッチングを見せたエースにバットで答えられるのか!?注目の6回裏が今始まります。』

 

「は?」

 

 またしても低い声が3歳児から飛び出てしまった。父が歩純のことを二度見してきた。続く実況解説と画面に映しだされるエースの顔を見て被っていた猫かぶりが取れかけた。危ない、危ない。

 

よくよくテレビを見れば鬼監督の若い頃の描写にソックリだ。他人の空似だとしても似すぎている。青道高校、片岡鉄心、この2パーツが揃えば出される結論はひとつだ。

うーむ、どうやらただ生まれ変わるだけでなく、漫画の世界に生まれ変わってしまったらしい。

 

 放心状態から回復した私は父親の脚の上でじっくりと考えた。父親の上では妙に落ち着いて、思考することができた。父親にこんな能力があったとは知らず、初めて父親を尊敬したが、落ち着く理由は謎である。父は偉大ということにしておいた。

 まあ思い出してみると、私のよく知る元の世界ではないことの手かがりはいくつもある。受験生の性でついつい前世で志望していた大学を探してしまうことがあった。お正月の駅伝とか、3歳児の主なソースはテレビである。

 そこで知ったのは有名大学と有名高校が知らない名前ばかりで、どうやら私は少し違う地球の日本に生まれ変わったらしいとその時は思った。一番の理由はテレビに映る人の髪がピンクや白の時点で明らかに元の世界では無かった。でも誰もたいして頭髪の色について不思議がってなかったし、些細なことかと思って気にしてなかったが、まさか伏線だったとは、さすがに思わないだろう。

 

 

 




2/27 編集 3/9 編集 3/10編集

2020/2/9 編集


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2話_喧嘩

暇つぶしにどうぞ



 歩純は栄純と初めてキャッチボールをした後、自宅に戻ってお風呂へ入った。歩純は考え方をする時にお風呂が1番落ち着く。2番目は父の足の上だったが、さすがに最近はしていない。

 栄純と出会って既に2年近く立っている。彼も順調な成長を送っている。むしろ、高校生の時と殆ど性格が同じと言えるこの状況は、歩純から悪い影響を受けていない証拠でもある。

 興奮していて正常な判断ではなかったとは先程の一投は出来すぎた。栄純に少なくない影響をたらすだろう。明らかに野球に興味も持に始めるだろう。あの一投後の栄純は2年間一緒に過ごした中でも見ないようなキラキラとした顔をしていた。顔に直撃を受けてトラウマとなってもおかしくないはずなのだが。その辺をまったく気にしていない様子は、それ以上に興味をそそられるものに出会ったということだ。明日から栄純に野球しようぜ、と迫られることは確定だ。歩純には簡単にその光景が眼に浮かぶ。憂鬱である。

 

 そもそも、歩純としては高校生となった栄純の投球ホーム再現のクオリティはもっと低いものだろうと想像していた。初心者の見ようと見まねで、簡単に出来てしまうほど野球は甘くないはずだ。だいたい、小学校前の子供である自分が高校生の体格の投球フォームを真似することは無理があるに決まっている。もし出来るとするならば、そいつがとてつもない、常識はずれの天才だ、ということである。出来ない前提で昂ぶる熱を抑えようとしたはずなのに、未だにマグマのように心の奥底で燻っている。

 沈んだ思考と呼応するように、体までズルズルと湯の中へ沈んで行く。ブクブクと、口元まで湯が来た所で、慌てて上体を起こす。考えごとをすると熱中しすぎる癖は質がわるい。しばらくすると、お父さんが心配してお風呂場まで見に来てくれた。どうやら、僕は思ったよりも長くお風呂にいてしまったようだ。急いで、頭と体を洗ってお風呂場から出ることにした。

 リビングに戻るとお父さんが牛乳を用意してくれていた。汗で水分が失われていたようで、冷めたい牛乳がいつもよりおいしい。そういえばキャッチボール後から何も飲んでいなかった。自分の自己管理の行き届いていなさと、水分不足に気付いていなかった事に若干落胆する。考え事に耽ると、その他のことがおざなりになる癖は早めに直して起きたい。

 コップを洗い戻して、二階の自分の部屋に向かう。祖母の家は築数十年らしいが、リフォームを行い、内装はとても綺麗だ。敷地面積の大きさと部屋の数に初めて来た時は驚いた。キャッチボールが余裕で出来てしまうだけの庭は、前世で住んでいた家よりもはるかに広い。小さな子供であれば、探検心をもって家の中を動き回るだろう。その証拠に僕はしなかったが、栄純は初めて来たとき走り回っていた。

 小学校に上がるということで、たくさんある部屋のなかでも、階段から1番近い一室を自分の部屋として貰った。自室には今はベットと勉強机があるだけだ。将来的には本棚があればいいなと思っている。ひんやりとしたベットに倒れこむと、まだ火照った体には気持ちいい。いつもならば、本でも読んで時間を潰すか、栄純と遊んでいる時間だ。今は本を読む気にはならない、正確には本を読んでも集中しきれないと言った方が正しい。ドロドロと溶けるような思考でまた色々と考えてしまう。

 

 バタフライ効果。初期値鋭敏性、長期予想不能性と予測不能性。カオス理論。エトセトラ、エトセトラ。すべての未来は不定形で観測不可能なものである。故にどのような行動が未来にどんな影響を与えるのか誰にも分からない。

 自分の行動が与える影響が主人公の未来にどのような変化をもたらすのか。原作のファンとしては、名場面、名シーンが起こらない可能性がある以上、出来るだけ可能性は小さくしたいと歩純は決めてた。結局のところは、歩純には選択肢があるようでない。なぜならば、2人が一緒にいることを辞めない限りは、未来が変わることは避けられない上に、いくら歩純が逃げようとも栄純からは逃げられないのである。幸か不幸か、既に歩純は栄純に気に入られてしまっている。歩純としても素直な栄純という存在は憧れでもあり、癒しである。2人ともお互いを避けるといことをしないのである。

 2人が離れないのならば、歩純がこの先で選べるのは、腹をくくって、栄純ともに同じ道を歩くことである。歩純も栄純と出会った時から選択肢は無いということは感じていた。あの押しの強さに自分が押し切られる。とても分かりやすい未来予想図だ。だが、今はまだ決めきれないという想いが強い。2人の自分はこういう時に限って大人しい。野球をするかしないか、早急に決めなければいけない問題だ。

 

 もう一つ歩純を悩ませる問題がある。それがこの右手に感じた違和感だ。利き手と反対の手を同じように使うとすれば誰しも違和感がある。訓練されたものならば、もう片方の手も同じくらい使いこなせる。それでも生まれながらの両利きでない以上、利き手と使う時との僅かな違いは感じるだろう。歩純も訓練された右手を持っていると言っていい。だが、先程投げる時に感じた違和感は別だ。あの時は違和感を全く感じないことに違和感を覚えたのだ。心と体はお互いに影響し合い、2つで1つの存在である。だが歩純は前世から心だけを持ってきている。よくある転生モノの話でいうなら、生まれるはずだった人格を殺して歩純が生まれてきた可能性がある。その証拠に本来の持ち主は右利きだったから、右手を使うことになんら違和感を覚えないと考えれば消えた違和感に説明がつく。体は右利き、心は左利きそんなことは普通はありえない。普通はあり得ないことも、生まれ変わりがあることを加味すればなんら不思議ではない。

 

 あれから栄純のキャッチボールしようぜコールは続いた。

 案の定、次の日に家に来ては真っ先にゴムボール片手に言いのけた。僕としてはこれ以上野球では栄純と関わらないようにしたい。だから、普通に断った。断られたくらいで飽きらめる性格ではないことは2年過ごした中でよくわかっていたが一応である。困ったことにキャッチボールに関しては栄純はしつこかった。

 そもそも僕が断るとも思っていなかったらしい。この日から、僕が栄純を捕まえるために追いかけていた構図は、栄純が僕を追いかけるという構図へと変わった。

 追いかける、追いかけられると基本的なことは変わっていないので側から見れば全く同じことであるが、僕としては大分違う。野球はやりたくない。だが、捕まってしまうと野球をさせやれる。捕まるわけにはいかないデスゲームの開始である。幸いにも、栄純を撒くのは簡単だ。今までも簡単に捕獲できていたのだから、行動は読みやすい。

 やりすぎると拗ねるので調節しなければいけない。どちらにせよすこし面倒くさいのには変わりない。

 

 ほどなくして、小学校入学を僕らは迎えた。両家揃って相変わらず喜んだ。沢村家としてはこんなに頼もしいお目付役が側にいるなんて、といった感じもあった。栄純のキャッチボールコールは小学校に入学してから対処しやすくなった。まず、授業中なら別の意味で騒がしいが、キャッチボールしようとはならない。なお、栄純を静かにさせるのは僕らしい。先生ははやくも歩純に任せた方が良いと判断したらしい。僕らが通う赤城小学校は幼稚園から見知った顔ぶれが多い。幼稚園の数も少なければ小学校の数も少ないのである。たまに、小学校入学に合わせて稀に転校生が来るらしいが今年はなかった。別の幼稚園、保育園の子供もいるが、人見知りの無い栄純がその程度で大人しくなるはずもなかった。

 放課後になれば、グランドでキャッチボール以外に目を向けさせるか、もしくは図書館に逃げるのが良い。最近はクラスメイトと鬼ごっこが1番のお気に入りらしい。あとは適当に遊んばせておけばいいだろう。そうすれば疲れて帰宅の時間になる。なおボール類がしまってある用具庫を低学年が使用することはできず、ボムボール・軟球を使う遊びは出来ない。非常に助かる校則である。

 

 栄純が眠そうな日は図書室に限る。

 体育があった日や給食のお代わりをたくさんした日など意外とチャンスは多かった。さすがの栄純でも図書室で騒ぐのは良くないと理解したらしく、早い段階で黙らせることに成功していた。図書室に入って5分もすれば、栄純がウトウトし出す。高校時代なら、漫画の中で本を読むシーンは多かったが、今は睡魔に勝てないようだ。赤城小の図書室には机と椅子だけでなく、畳の上で本を読むスペースがある。寝るにはピッタリである。ちなみに、司書さんには最初目をつけられたが、栄純の寝顔と僕の小学生っぷりを活かした全力のお願いで許してもらえる事になった。しだいに、栄純の暴れっぷりが知れ渡ると、大変だね、張ってねというお言葉とブランケットまで用意してくれるようになった。有難いのだが、これでいいのだろうか。図書室はこれからも利用したいので司書さんと険悪な関係にならなくて良かった。

 やはり本は良い。漫画も好きだが小説、情報誌、図鑑、新書、専門誌も読みたい。児童向けの本ばかりではなく、実用書も多いみたいだ。学校に貯蔵する本は司書さんも選ぶ権限があるらしく、読みたい本があれば教えてね、と言われるくらい仲良くなった。人生はコネが大事らしい。そうこうしている間に僕らの誕生日が来た。

 

 僕と栄純の誕生日は2日違いだから、誕生日パーティーを両家合同でやる。その方が栄純が喜ぶらしいね。歩純としても、祝ってくれる人が多いとそれだけで嬉しい。沢村家の男性陣の話は聞いていて面白い。栄徳さんの昔話や栄純の父栄治さんのミュージシャン時代の話はいつも盛り上がる。うちのお父さんはどっちかというと聞き役だな。出世しそうな聞き役っぷりだ。女性陣は2人で盛り上がっている。こっちもこっちで男どもの愚痴を言いあっているので聞いてて面白い。本気で嫌がって言ってるわけでもなさそうなので、聞いてても苦にならないのがすごい。うちのお父さんが毎回聞き耳を立ててることに、気付いてわざと嬉しそうに愚痴を言うお母さんには敵わないらしい。

 お誕生日会の主役の栄純と僕は隣同士だ。この日だけでなく基本いつも隣なのだがどこに座っても栄純が隣へ座る。両親達も特にそのことに関して触れることはない。いつもよりテンションの高い栄純を見るのは楽しいが、やりすぎないように諌めるのも一苦労だ。でも今日は誕生日だからしょうがないか。

 

 いつもより気合の入ったご馳走を満腹まで食べる。健康な体づくりには栄養がいるのである。子供の体は高校生の時よりもよく食べなければならないらしい。体の大きさと食べる量の比率を表した時、圧倒的に前より今の方が倍率が高い。この差が男と女の体の違いせいか、もしくは小学生と高校生の体では基本的な燃費が違うせいかは分からない。個人的には、漫画の世界に来てしまったのだから、漫画特有の小柄なキャラの大食い補正あたりだったら感動する。歩純の属性に満腹キャラが追加されたらしい。

 さて、誕生日ケーキのご登場だ。今年で7歳になるわけだが、パッとみたらケーキにはロウソクが14本刺さっている。なるほど、2人分というわけか。去年は普通に6本だった気がするが。もしかして、栄純が去年、何度もロウソク消しをやり続けたせいかもしれない。結局、5回くらい付け直してたはずだ。今回は、本数を立てることで消す行為自体の満足感を高めると同時に、見た目のインパクトで押し切るつもりだな。非常に良い作戦である。僕は例年通り、吹いたふりしておいた。

 このまま何事もなく終わると思われたお誕生日会だが、まさかの波乱が待っていた。両家の父親が席を立ち、包装されたプレゼントを息子達に渡してた。僕としては、プレゼントなので何を貰っても嬉しいし、全力で喜べる自身はある。磨かれた猫かぶり技術の見せ所である。育てられた子供心としてはプレゼントに文句などつけたくは無い。欲しいもの、欲しくないものないものなど関係ないのである。気持ちが大事だと思っている。

 お父さんがくれたものは大きめの箱で外装からは中身は判断出来ない。お母さんからはいつも本が貰えるので今年も本だろう。お母さんの子供の欲しがっているものを見極める力と本選びのセンスが合わさって毎年面白い本をくれる。だから、今年も楽しみだ。ワクワクとしながら包装紙を丁寧に開ける。ビリビリと破る栄純とは違うのだ。やはり読み通り本が入っていた。どうらや本自体もプレゼント用の包装がしてあり、中身がわからないがサイズは図鑑とハードカーバーの2冊だと思われる。こちらの方は一旦置いておいて、おそらくお父さんの方を開ける。

 期待するような目で見てくるので、さっさと開けておきたい。先程から視線だけだが痛い。よほど自信があるプレゼントなのだろう。包装を解き終えると思わず固まった。お父さんは何時ぞやのように嬉しさのあまり魅入ってしまったとおもっているようだが、違う。箱の大きさはおなじだった。だから、おそらく栄純にもまったく同じ物が渡っているのだろう。

 

 プレゼントの中身は左利き用のグローブだった。大きな波乱の予感である。

 

 

 

 

 お父さん曰く、僕がキャッチボールを頑なに避け続けていたのはグローブがなかったから、というのが両家の認識だったようだ。加えて、実は左利きだったため、右利き用のグローブだったことを嫌がったと思われていたようだ。事実はまったく別である。お父さんに利き手を間違えてられたことを謝罪された。これでやっとキャッチボール出来るな!とニコニコするお父さんに一体どんな返事を返したか覚えいない。ちゃんと笑えていただろうか。お礼は言っただろうか。その日の記憶が薄い。また一つ栄純に関わる野球の歴史が変わってしまったかもしれない。

 沢村栄純の高校以前に関する情報は、僕が生まれ変わる前の漫画内ではほとんど紹介されていなかった。中学時代もコミックの半分ほどで終了し、赤城中の生徒は若菜以外に名前すら出ていない。当然に栄純がどのように野球を始めたのか、グローブを始めて手に入れたのかは不明だ。むしろ、分かっていたならたとえ栄純にどんなにせがまれようと断われる。実は栄純が初めてグローブを手にしたのは小学生1年の春だったりしないかな。そしたらこんなに悩まなくて良いのに。僕の悩みのタネはなかなか尽きないが、今回のは特別に厄介だ。

 

 このグローブが元で僕と栄純は初めて大ゲンカした。

 

「もう歩純なんか知らねえ!あっちいけ!」

 

 拗ねる栄純によく言われるセリフだ。

 新しいグローブを手にしてより一層張り切る栄純に対して、以前と同じように出来る限り野球から離れ続けたい歩純。2人ともまったく譲らなかった。栄純としても、なぜそこまで嫌がるのかを理解できず、理由を聞いてもはぐらかされる。歩純としても、本当の理由が実は生まれ変わって云々など話すことは出来ない。ただ理由もなくやりたくないといえば、栄純が癇癪を起こした。この歳にしては滅多に愚図らない栄純も癇癪を起こす頻度がどんどん高くなっていた。お互いの不満が限界まで達したのは夏休みの直前だった。

 

 その日は、七月の半ば、気温も高くなにより湿気のせいで、ベタつく1日だった。不快指数の高い天候は人の判断を鈍らせ、募り募ったわだかまりを爆発させる。いつもより長く感じた授業も終わったが、退屈さだけはいつも通りだ。放課後は学生にとって天国だ。こんな暑い日でも遊ぶことをやめない。栄純もいつものようにキャッチボールに歩純を誘う。最近の栄純が放課後に放つ一言目は決まって同じである。いつも同じような言っているつもりでも僅かながらの棘が目立つ言い方であった。

 

「おい!歩純!はやくやろうぜ!!なんでやらねーんだよ!意味わかんねー!」

 

 暑さ。湿気。騒音。精神年齢で言えばとっくに成人を迎えているが、近年幼児化している気がする。きっとここで耐えるのが正解だと思っていても、ついやってしまった。ついに耐えられず歩純は勢いよく立ち上がり、その拍子に椅子が大きな音を立てる。歩純は大きな音で機嫌の悪さを示す幼稚さをすでに押し殺せない。それすら忘れるほどの子供っぽいことをしてしまった。そばの栄純を一瞥し帰路につく。栄純が酷く悲しい顔をしていた。慌てて栄純が後をついてこようとするが、歩純には一言も話すことはなかった。

 

 あれから、1日目、2日目はまだ周りは歩純と栄純が珍しく喧嘩したことに対して暖かい目で見ていた。今まで、大人びた雰囲気を醸していた歩純の子供らしい一面が見られ、むしろ大人達には安心感を与えた側面があった。あまり子供らしさのない歩純が実は我慢ばかりしているのではないのかと心配していた。特に栄純のお世話を意図的にさせていたことが我慢の1つに起因するのでないかと。しかし、子供の喧嘩というのはよく起こるものだ。2、3日もすればまたいつもの様に2人で仲良く遊び出すだろうと、皆考えていた。

 

 3日目にして、栄純が仲直りしたがる様子が見られたが、歩純には一切それが無かった。5日目、流石に回りも2人の喧嘩を気にし始め、それとなく2人に探りを入れ始めた。このころから、毎日、目を腫らす栄純の姿が目撃され、あまりに痛々しい佇まいに動揺が走る。そして、1週間もの間、2人が一度も口を聞いていないことを受け、やっとただ事では無いという認識が広まった。

 

 喧嘩を始めて7日目の今日から夏休みが開始していた。歩純としては、今日は栄純の姿を見ることが少なく落ち着ける。歩純は珍しく少し遠い市立図書館にまで足を運んでいた。歩純とて栄純のことが嫌いなわけではなく、むしろ好感度を測れるならメーターはきっと振り切れているだろう。歩純はただ困惑していた。これほど意味の無い行為に意地を張る自分に対して、どうしてここまで理性的な行動ができないのかと。栄純と喧嘩するメリットなど皆無に等しい。前世を含めて、ここまで感情を剥き出しにして喧嘩をしたこと無かった。謝れず、近寄れず、どうする事も出来ず、ただ目をそらすために図書館に通っていた。

 

「もぉ、早く仲直りでもしてよ。栄純ずっと泣いて、困ってるんだから。というか歩純、よくそんな難しい本読めるね」

 

 まあね、と適当な相槌でも彼女なら許してくれる。今日は珍しく連れがいて、若菜である。彼女には最初に女の子と間違えられて以来、どうやら僕は男として認識されていないらしい。まだ小学生一年生に男も女もないかもしれないが女子の輪に混ざっていると少し懐かしい。女の子の成長は早いもので、今の歳でも誰々が好きとか嫌いとかの話に花を咲かせいる。よくその会話に僕も何故か参加させられる。やはり男として見られていないらしい。前世でもその手の話題は聞き役が殆どだったから、機嫌を損ねない相槌の打ち方さ熟知している。

 若菜ちゃんとの会話の中でよく話題に上がるのはやはり栄純についてである。いつもは栄純がうるさいとか、しっかり掃除しないとか怒りながらも頬が赤く染めながら話す。本格的な恋の悩み相談ではないが将来的にそうなりそうだ。今日は件の喧嘩について問いただされていた。ただ僕に答える気がないと分かれば、早々に話題を切り替えてきた。なんでもない世間話ではあるが気が休まることは間違いない。だが、今日は僕の手元にある本について調べるためにわざわざ市立の図書館まで来ていたのだ。

 手元にある本は2冊である。この2冊の本は、グローブの印象ですっかり忘れていたが、誕生日プレゼントにお母さんから貰ったもう1つのプレゼントだ。一冊は町の本屋さんでもみかけるような分かりやすいイラストで野球のルールや基本動作などが図鑑大の大きさで纏められている。初心者の小学生に薦める本としてはポピュラーな部類だ。

 問題なのはもう一冊のほうで、明らかに小学生に渡すには読解困難な専門書である。野球に関するコーチング、マネジメント、トレーニング、戦略などが緻密に描かれている。明らかに、高校の監督や大学以上の野球選手が読み手と設定されている文章の書き方だ。

 さらに気になるのはこの本にはよく読み込まれた後があることだ。

 初めは古本でも買って来たのかと思ったが、どうしても気になることがあったので図書館までやってきた。

 自宅でも、インターネットは使えるがなんとなくお父さんにはバレてはいけないような気がしたため、わざわざここを選んだ。この本を調べて行くと、発行年は十数年前で現在は絶版となっており、現在、状態の良いものであればプレミア価値がつくほど人気のようだ。

 スポーツにおいては情報とはどんどん更新され、常に新しいやり方が模索されるにもかからず、未だに価値を見出されているこの本が異常だ。筆者は元プロ野球選手のようだが、どこかで見たことのある名前な気がする。記憶力には自信があったのだが、思い出せない。本を出した出版会社が倒産し絶版になった後、筆者が世界で活躍するプレイヤーにまで成長したために、多くのファンがこぞってこの本を集めたという経緯らしい。

 しかしなぜこの本を両親は選んだのだろうか。この本をだれかから譲り受けたものならば、なんの説明もなくプレゼントとして渡すことはないだろう。ただの偶然か、とも考えたがどうにも違和感が消えない。違和感の正体は掴めないままだ。たとえ古本屋で買ったとしても、もっと簡単で初心者向けのものだっていっぱいあるはずだ。だからこそ謎が深まる。この本でなければならない理由があるはずである。

 思考に詰まった時には発想を変えることが大事である。勘違い、思い違いや見落としがないか、物事を捉えるのは多角的に。パラパラと本を捲ると、本にはところどころマーキングしてある。色とりどりの蛍光ペンできっと重要な箇所にマークしてあるのだろう。これを読んでいたのはやはり学生と思えて来た。10年前で学生なら今は20代半ばから30代である。やはりこれを読んでいた人も、とても野球に打ち込んでいたのだろう。ボールペンで書き込みを加えてあるが、どこかアホっぽい書き込みだ。栄純みたいなコメントの仕方だなと素直に思う。今は喧嘩をして話せていないこともあって、すこし寂しくなる書き込みだ。

 だからこそ、ふと気がついた。知らず知らずのうちに思い込んでいた事実とあるないと思っていた可能性に気がついた時に違和感の正体に気がついた。

 本を一先ず閉じれば、いつのまにか横にいた若菜ちゃんと目があった。まずい、なぜか怒っている。考え事に集中しすぎたせいで、話を1つも聞いていなかった。素直に謝っておいた。その後、しばらくして帰る彼女は「ちゃんと仲直りしなさいよ」と捨て台詞のように吐いていった優しさが心地よかった。

 先程見つけた可能性の事実確認をするために、歩純はもういちどPCを叩く。前世の学校ではプログラミングの授業があった。クラスの中でもそこそこのタイピングスピードを誇っていた。慣れない子供の小さい手にも五分で慣れた。調べることが多いため、なるべき早く事を済ませなければならない。夕暮れ時、あれからどれだけの時間が経ったのか分からないが、歩純はPCを使って事細かに調べていった。

 

 なぜ、あの本だったのかといつことに関しては概ね理解できた。加えて、まさかの事実の発見も出来た。その後は、件の本、タイトルを『野球魂』を読んでいた。直情的なタイトルとは裏腹に論理的な文章で読みやすい。そしてなにより、この本自体がとても良く出来ていて面白い。おおよそ小学生に向けたものではないが、歩純には読み辛さも無い。この本を通して伝わってくるのは、野球は楽しい、というダイレクトなメッセージだった。小難しいことも多かったが、作者が野球を愛しているのだろうとよくわかる一冊だった。野球の楽しさを栄純から図らずしも奪ってしまった、今の僕に自分がいかに醜いことをしているかを指摘されているようだった。

 

 楽しそうな栄純の顔を潰してまで、原作を守る必要があるのかと。

 

 歩純はリュックの中に荷物をしまい帰路につく。図書館を出ると向こうから栄純が息を切らして走って来た。夕日に照らされていることもあり、栄純の火照った頬が更に赤くなっている。歩純の前で止まると、既に泣いているのか目まで赤い。

 

「お、俺、いつもほずみにはめーわくかけてばっかで、わがままいってばっかでごめん!!俺、あやまるからぁ……」

 

 ボロボロと泣き出して最後の方はよく聞き取れなかったが、おそらく許して、と言っていたと思う。大人気ない態度を取ってしまい、謝らなければいけないのは歩純も同じだ。ゴシゴシ、目をこする栄純の手を止め、ポケットから取り出したハンカチで涙を掬ってやる。すると、なぜか驚いたようでもっと泣き出した。優しくすればなき出すし、喧嘩をしてもなき出す。まったく困った幼馴染である。また目を擦ろうとするので、ハンカチを握らせたあと上から栄純の手を握った。

 

「僕の方こそ、ごめんね栄純。1週間も無視しちゃってほんとにごめんね。栄純がいいなら、仲直りしよ?」

 

 優しく言い聞かせるようにゆっくり伝えた。歩純の言葉を聞いて、栄純は頭をブンブンさせて全身で肯定の意思を示す。どうやら相当不安にさせていたようだ。栄純からすれば意味の分からないまま無視され続けていたので、本当に辛かっただろう。ほんとうに申し訳ないことをしてしまったと思う。贖罪のつもりではないが、1つ栄純に提案してみた。

 

「栄純、明日キャッチボールしないか?ボールの投げ方を教えてあげるよ。」

 

 まだ本格的に野球を教える決心はつかないし、教えるられるだけの知識もない。でも、キャッチボールくらいなら許されるだろう。栄純が涙を流すくらいなら、やってあげるほうが100倍良い。そう決めた。歩純がそう言うと、栄純の涙はピタリと止まった。悲しいオーラを放っていたのに、今は心なしか嬉しそうだ。だが、

 

「俺、歩純がやりたくないならやらなくていい。だって、ほずみと友だちでいる方がだいじだから。」

 

 ついつい言葉の1つ1つで嬉しくなってしまう。先ほどまで喧嘩をしていたことはすっかり歩純の頭の中には無い。もし、あの本を読むまでなら、嬉々としてこの提案を利用しただろう。なるべく原作通りに物事を進ませるために。だが、栄純に野球を楽しんで貰うためにはここでそんなことをしていては意味が無い。だから、力強く否定しておこう。

 

「栄純、よく聞いて。僕も本当はキャッチボールしたかったんだ。でもちょっとくだらないことで、やりたくないってずっと言ってたんだ。ほんとうにごめんね。でも安心して、僕と栄純はずっと友達だよ。だから僕とキャッチボールして欲しいんだ。」

 

 言い切ったところで、栄純が嬉しそうに泣き出した。本当にこの男は泣き虫である。ただ笑顔のまま泣いているのでつい笑ってしまった。

 

 

「覚悟しててね栄純。明日から嫌ってほど()()()()()()()してあげるよ。」

 

 キャッチボールのための下半身づくり。キャッチボールのためのストレッチ。キャッチボールのために学校の宿題。キャッチボールのために大人しくしような栄純♡。言外にいい含めればすこし怯えたようなそぶりが栄純に見られる。おそらく栄純はそのままの意味で捉えているだろうが、これほどに上質な餌をただでやるわけにはいかないだろう。つい明日からの光景を思い浮かべてニヤニヤしてしまう。あのイケメンキャッチャーもこんな気分だったのだろうか。だとすればこんなに楽しいものはない。

 

 その日は、2人で手を繋いで帰った。とてもくだらないことを帰るまでにいっぱい話した。家につけば、みんな暖かく迎え入れてくれた。心配をかけすぎたみたいだ。2人で手を繋いでいるのと、栄純のニコニコ顔のお陰で仲直りしたことはすぐ伝わった。手を離してくれないので、その夜はずっと一緒にいた。結局、眠りに落ちるまで手を離してくれなかった。

 




主人公の女子力皆無すぎる。
なので、次回は料理とかお菓子づくりでもさせてみようと思います。2/27 編集 3/9編集


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3話_林間学校

1話及び2話を修正致しました。今後も予告なく編集が入る場合がございます。予めご了承をお願い申し上げます。


暇つぶしにどうぞ


「だあぁぁ〜!思ってたのと違ぁぁぁぁう!!!」

 

 僕は今、約束通りに栄純とキャッチボールしている。

 正確にはまだ準備運動の途中である。キャッチボールへの道のりはまだまだだぞ、栄純。

 このあとストレッチもやると言ったら、もっと面白いだろう。僕達は体力づくりにまずランニングから始めていた。

 

 大人しくしないとキャッチボールは無しという、言葉の威力は凄まじかった。

 小学生であるからには当然に夏休みの宿題が存在する。

 初日から進めて約1週間でほとんど終わらせたのは歩純である。長年の経験からして最後まで宿題を残しておいて良いことは1つもないと身に染みている。

 対して、栄純は予想通り手付かずのままだ。だから、夏休みの午前中は勉強の時間に当たるつもりである。

 朝からキャッチボールが出来ると思っていた栄純は思わず面食らった。後からでも出来ると言い張り、アタフタと慌てる栄純を疑い深い目で歩純は見つめる。じゃあキャッチボールはなしだなと言えば、しばらくの葛藤後、栄純は大人しくペンを持つことにした。

 課題が進まない栄純を手伝いつつ、お昼までの時間を潰した。数ページがお昼までかかったのは、まじめに取り組まない栄純のせいである。この男、やはり体を動かすこと以外で集中出来ないらしい。

 それでも放っておくと最終日まで溜め込むことは分かりきった事であるため、なるべく早く処理させたい。

 

 いつも通り昼食を済ませ、僕たちは外に出た。食後いきなり走ると消化に良くない。本来は二時間ほどのインターバルが好ましいが、午前中から我慢している状況を鑑みれば、さらにそこまで耐えろといのは酷である。

 30分ほど休息と準備体操につぎ込んで、ランニングに出かける。

 栄純にランニングの大切さを説明したがやはり理解してもらえなさそうだ。なぜはやくキャッチボールしないのかという不満の方が大きいらしい。

 そして、冒頭のセリフに戻る。

 

 緩やかな勾配の山道をゆっくりと走る。夏の日差しが緑の葉の隙間からキラキラと溢れて見る人が見ればとても感動的な光景に映るはずだ。ただ今は周りに人がいないので、どんなに大声で叫んでも大した迷惑はかからない。真横で一緒に走っている歩純以外は。

 

「うるさいなぁ、栄純」

「うおおおお、歩純!なんでこんなに走らなきゃいけないんだよ!」

 

 それでも走るスピードを緩めないところは凄い。余裕そうな歩純にチラリと視線を受けた後、対抗心をいただいて、スピードを速めた栄純が先行して走る。

 目指すのは山の麓にある公園であり、僕達の遊び場だ。最近は子供の遊び場としての公園が少なくなっているらしいが、ここの公園でのキャッチボール等は特に禁止されていない。

 家から走るとちょうど良い運動ができるためこれからはここでキャッチボールするつもりだ。ほどよく走ったので水分補給は欠かさない。持って来ていたスポーツ飲料を2人で分け合った。

 つぎはストレッチだ。

 

 栄純の柔らかい体をより伸ばすために柔軟運動は必須である。また怪我の防止にも注意しなければいけないため、ストレッチの重要性は高い。

 小学生の栄純にとって単調でつまらないことの繰り返しであるため、ないがしろにしやすいだろう。ランニングとストレッチの小さな繰り返しがいずれ必ず役にたつはずだ。その時に重要性を感じてもらえれば良い。それまで歩純が上手く誘導するだけだ。

 

 ストレッチを済ませて、ようやくボールに触れる。

 ただ全力の投球はあまりさせることはできないので、どうやっていい聞かせようか悩ましい。

 実は、栄純は野球のルールをよく分かっていない。かろうじて、投げる、打つの場面をテレビで見ていて、なんとなく分かるくらいだ。その中でも投手というポジションに憧れを持ったのは、やはり僕のあの一投のせいらしい。

 おおきく振りかぶって投げる様をカッコいいと捉えてくれたようだ。

 他のポジションをやりたいと言わなくて良かった。結果として、あの一投は間違っていなかったらしい。

 困ったことに、そのせいかただのキャッチボールでも振りかぶって投げたがる。片足で立つにはまだ体は幼く体重を支えるには至らない。転倒の危険が高いのでやめてほしい。

 いずれできるようになる、と慰めれば、渋々振りかぶることは諦めてくれたようだ。

 

 こんな風に夏休みの間中、2人でキャッチボールをしていればそれなりに上達した。ボールの届くギリギリの距離を測り方。柔軟運動も慣れたものだ。なりより栄純の投げる球に癖球の兆しが見えることがなにより歩純の心を楽にさせた。

 投げられる球は取りにくいがその取りにくさが嬉しい歩純だった。

 

 歩純が使っているグローブは左利き用ではなく、右利き用だ。歩純は両方のグローブを持っていたが、今はあえて右利き用を選んだ。

 日によって左右2つのグローブを使い分けていた。せっかく2つあるので使わないのはもったいないということである。

 生まれ変わってからは右手ばかりを使ってきたおかげで、今やどちらも同じくらいの精度で両手を使いこなせる。ただ完璧に同じではないところが難点だ。

 歩純の場合、器用さは右手の方が優っているが、握力や筋力では左手の方が優っている。両利きと言うよりもクロスドミナンス、日本語で交差利きや分け利きといったほうがより正確だ。

 もっとも他者から見れば両利きと見間違うほどの微細な差異しか存在しない。だが、本人からすれば大きな違いがあることは間違いない。

 

 生まれ変わる前は左利き、生まれ変わってからは右利きという実に可笑しな現象が起こっていた。

 こと野球にも歩純の特殊な利き手は作用し、キャッチングの正確さは右手が勝り、返球、送球のスピードは左手に軍配があがる。付け加えるならば、のちに天賦の才とまで謳われるほどに歩純の左右の使い分けは巧かった。

 にも関わらず、右手で投げることに拘ったのは意味がある。

 初めて野球についての専門書を読み込み、歩純は左利きである意味を知った。野球素人の歩純は野球のポジションに利き手が関係していることすら知らなかった。

 なんでも、左利きのキャッチャーはどちらかといえば推奨されるべきものではないらしい。この定説は歩純にとってある種の絶望的な宣告だった。

 

 日に日に、栄純の球を受けるたびに彼の底知れぬ才能に震えた。まだ小学生にも関わらず、成長の予兆が見られる癖球は彼の投手としての可能性の裏付けだ。たかだか夏休みの期間にほんのすこし時間、キャッチボールに付き合っただけで、歩純は再度確信した。

 たとえ、自分という異物が混ざろうと沢村栄純にエースの器が存在することは変わらないのだろうと。

 ゆえに幼馴染という居場所に甘んじている歩純に人間として本能的な欲が沸き起こってしまった。

 もし、栄純に高校時代からではなく、今すぐにでもトレーニングを積ませたら、一体どこまでの投手に成長するのだろうか。

 もし、栄純の成長をもっと近くてより長く見ていられたなら。

 もし、自分が捕手になったら、栄純は喜ぶだろうか。

 そして、一度感じてしまった欲求を忘れてしまうことは歩純にとっても困難だった。

 歩純は上達する栄純を見て、積もり積もる欲求に挟まれる。いずれ日本中を沸かす投手になる栄純に、左利きの捕手では釣り合わうことは叶わないだろうと考える歩純。

 苦肉の策として、右手でなげる練習をしていた。だが、左右の手に与えられた才は悲しくも歩純の望みとは逆手であり、そのことにいち早く気付いた歩純の精神を削っていった。

 その日から、歩純の睡眠が浅く、浅くなり始めたのだ。

 

 

 

 あれから、時は過ぎて、春が来た。

 歩純達が初めて喧嘩した夏から、季節は一周し、さらに新しい春を迎えた。

 2人は無事三年生へと進級するのだった。

 

 その年の春は天気に見舞われず、梅や桜が散り散りに咲いたのだった。

 物寂しい春の景色だ。栄徳さんが花見が出来なくて残念がっていたが、例年と違う春の訪れに歩純は不吉な予感がしていた。

 悪い予感というのは当たるようで、四月に入ってすぐに歩純の祖母の容体が悪化した。三月まではリハビリも順調で、退院も間近だと思われていた。実際、主治医から外泊の許可を貰ったりと、誰もが喜んでいた。

 その後、もしかすれば悪天候が影響したのか、もしくは寿命なのか原因は不明確らしい。そして、4月の中旬に祖母は急死した。容体が急変してから3日目の夜のことだった。

 みんな泣いていた。お父さんもお母さんも。栄純や栄純の両親、栄徳さんも泣いていた。

 お母さんは涙が止まらないらしく、よくお父さんが付き添っていた。お父さんは1人でこっそり泣いているところを見てしまった。それなのに、歩純は悲しむことは出来ても、泣くことができなかった。心が擦り切れ始めた歩純にとって非日常的な風景はまるで他人事のように感じられた。

 

 歩純と栄純の9回目の誕生日は慎ましくも、沢村家のおかげかそれなりに賑やかに行われた。栄純の明るさに何度助けられたか分からない。

 次第に歩純の両親も気持ちが上向きになり始めた。ひとえに、沢村家との繋がりのおかげだろう。沢村家独特の雰囲気は陰鬱な空気を払拭する力がある。

 両親の目の隈も取れ始めたが、息子の隈が取れていないことには気づかなかった。歩純自身が隠すことに長けていることに加え、祖母の死が歩純から注意を逸らさせた。

 

 あれからも、飽きることなく2人のキャッチボールは続き、基礎体力はおろか体の柔軟性は同世代よりも遥かに高くなっている。

 運動することで睡眠を求める身体と、段々と浅くなる睡眠が並以上の精神力を持つ歩純に限界を感じさせていた。その証拠に1年生の頃から十分な運動と睡眠をとった栄純の体はみるみる大きくなったが、睡眠の足りていない歩純の身体は栄純よりも一回り小さい。

 成長速度には個人差があることを加味しても、睡眠不足が歩純に悪影響を及ぼしていることは否定できない。

 

 歩純の異変に気がついていたのは、ただ1人、栄純だけだった。

 度々泊まりに来て、歩純と一緒に寝ていた栄純は彼の寝付きの悪さに唯一気がつけた人物だ。だが、起きているときはいつもと変わらぬ雰囲気の歩純に疑問は抱くものの、心境までを察するのは無理な話だった。

 歩純の心の中で渦巻く悩みは深く、生まれた時から根付いていたものである。歩純にはただひたすらに周りにいつも嘘をついているような罪悪感だけ延々と渦巻いた。

 

 歩純が生まれ変わってから抱いている罪悪感は周りに嘘をついてしまっていることである。自分が普通の子供と比べては非常に奇妙な子であることは間違いなく、そのことを歩純も自覚していた。

 わがままも言わず、聞き分けも良く、教えられることもなくマナーや作法を自然と身につけている。良いことづくしのようだが、たとめどんなに優秀な子供でも知らないことを知っている子供は存在しない。

 もし、歩純の両親が矮小な人物だったなら、我が子を不審がっていたに違いない。

 そうならずにすんだのは、いい両親に巡り会えたからだ。それでも元来義理深い性格の歩純には前世のことを隠しておくことが耐え難い、不誠実なことだと考えてしまった。

 自分のことを打ち明けたいと思う一方で、拒絶されたことを考えれば立ち直れない。その葛藤は知らず知らずに、まるで木綿が首を絞めるようにジワジワと心を蝕んでいく。

 ありたいていなライトノベルなら神様などにでも出会って、使命でも与えられるのがテンプレだ。歩純の記憶の中では誰かに出会った覚えはない。出会ったといえば、それから3年たち、テレビから衝撃を受けて、ありえないほどの奇縁から栄純と出会った。

 神様というのはどうやら、自分達を関わらせたいらしい。そう思ったから極力関わらない方向性を取ってみた。もちろん原作を崩したくない想いもあったが。

 そうしたら、その日のうちに栄純が我が家へ突撃し、そのまま神様の思惑どおりの展開になったのだろう。都合良くボールとグローブが用意され、栄純が投手に憧れを持つように都合よく話が進む。そして、結局のところ栄純と野球を関わらせてしまっている。

 意図して避けていたはずなのに、常識で考えれば有り得ないだろう。同じく、7歳の誕生日に貰った例の本について調べた時に発見したことも、まさに神の力といいたくなるほどのなにか無くしてありえないほどの偶然がある。

 ここまでくれば、誰でも分かるだろう。原作の知識を持つ者が、主人公の幼馴染になり、野球をする環境、知識を得る環境を整えられる意味を。

 おそらく、神様は歩純が生まれ変わった理由に栄純をエースに育て上げることを目的とさせているのだろう。勝手な話だと思ったが、実際に気持ちはその話の方向に流れてしまっている。まるで栄純の球を取りたいという自分の気持ちすら神の仕業かと疑ってしまうことに腹が立つ。

 

 もし神が歩純に対して、精神的な準備期間を設けていたとすれば、おそらくそろそろその期間は終了すると思われる。なぜなら今の歩純達の9歳という年齢はアスリートの運命を決める時期とも言われているからだ。

 プロアスリートを育てるためにはゴールデンエイジ理論が非常に重要視されている。ゴールデンエイジに相当する9〜11歳の子供というのは成長の著しい期間である。

 子供の体だと大人よりも成長が早いという話は誰でも耳にしたことがあるだろう。昨日出来なかったことが、今日は出来たり、教えたことをすぐに吸収できたり、人間の一生の中で最も成長速度の速い時期ともいえる。

 さらに、運動神経や視神経など多くの神経回路がほぼ完成に近づく期間でもある。これらの神経は大人になってしまってはなかなか訓練しても成果が出にくい。発達させるには成長途中の期間内にトレーニングを行うことが良いとされる。

 故に、この期間を逃せば、選手人生が決まると考えるトレーナーやコーチは多い。つまり、プロアスリートの多くはこの時期から十分なトレーニングを始めているのである。

 歩純もゴールデンエイジ理論への理解は深めていた。プレゴールデンエイジと呼ばれる3〜8歳の間は上手く体を動かせない子供が多い。栄純が振りかぶって投げようとして、支えきれなかったように。

 そのためプレゴールデンエイジでは様々な運動を経験させ、自分の体を満足に操作できるための準備期間として置かれることが多い。

 歩純も栄純には色々な遊びの中で様々な運動を経験させていた。プレゴールデンエイジの活動内容としては充分だった。

 

 そして、その黄金期間の始まりはもうすぐそこである。確実にエースへと栄純を育て上げるならこの期間を無駄にすることはまずあり得ない。

 ここまで長く話したが、短く纏めればつまり、原作を壊す覚悟をつける時間はもうすぐ終わりだということである。

 

 

 

 3年生の夏休み前には他の学年と異なり特別なイベントがある。7月の中旬に林間学校が予定されているからである。2人の通う赤城小だけでなく他校生との合同で行う大規模な林間学校だ。

 そのため、この一大イベントを楽しみにしている生徒は多く、もちろん栄純もその1人だった。

 ただ栄純には1つだけ心配ごとがあった。栄純にとってなんでもできる自慢の幼馴染がここ最近、顔色が悪いことである。歩純が悩んでいるのならば力になってあげたがったが、歩純に解決できない問題に自分が役に立てるのか分からなかった。

 直接聞いてみても悩んだ様子すら見せないことに頭を抱えた。どうしてそのまで1人で悩むのだろうか、自分はそんなにも頼りないのだろうかと腹を立てたこともあった。

 二泊三日の野外宿泊は生徒達を大いに盛り上がらせた。スケジュールが近づくにつれ、男子は何をして遊ぶかの話で盛り上がる。女子はどんなパジャマを着るのか、お菓子は何を持っていくのかで盛り上がっていた。娯楽の少ない中の特別な行事は生徒の心を弾ませた。

 そんな三年生たち待望の林間学校の日がやってきた。

 

 林間学校当日、歩純の体調はすこぶる悪かった。

 夜は眠れず、起きていれば嫌なことばかり考えてしまう。普通の小学生とは根本的に違うことを自覚しているせいで、どうやっても周りの目というものが気になってしまう。

 自分に前世の記憶があると知れ渡れば、頭のおかしな人物だと言われてしまうはずだ。だから、子供が多く集まるところでは自分が浮いてしまわないかに、より気を張る必要があった。

 そんな歩純ではあったがついて早々にトラブルが勃発する。まるっきり自分の容姿に無頓着なことが今回の騒動の原因となっていた。歩純は年々成長するごとに男ではあるが女のように育ち、前世の容姿に近づいているのではと思うほどだ。中性的な美少年もしくは美少女といったところだ。

 小学3年生ともなれば、異性に興味を持ち始める時期である。赤城小の同級生達は入学前から歩純のことを知っているが、林間学校で会う他校の男子生徒にとって歩純は興味の的となる。

 歩純を女の子と勘違いした他校の男子生徒が照れ隠しに揶揄い始めたことが発端である。ありがちな、なんでもない悪ふざけの一種であったため歩純は気にしていなかったが、栄純が混じって来たことで話が大きくなった。

 謝罪を求める栄純と意固地になる男子生徒で取っ組み合いの喧嘩に発展するところだった。

 

「おい、お前!歩純に謝れよ!」

「はっ!誰がそんな男女に謝るかよ!」

 

 怒りくるう栄純とそれを鼻で笑う他校生。平行線となる2人を止めるために先生が呼ばれて、事情聴取されることとなった。

 一旦はその場は落ち着いたものの、明らかに両者の腹の虫は収まっていないいない様子だ。

 林間学校は始まったばかりであと2日もあるのに、まだまだ揉めそうだなと思わせる幕引きだった。

 疲れた、ただそう思わせる出来事だ。2人を諌めるために歩純も体を張ることになった。興奮していていつもより力の強い栄純を押さえることに、いまにも殴りかかろうとする相手の対処も必要だ。

 想像以上の重労働に歩純ほとほと草臥れていた。

 お説教から関係者が解放されたあと、歩純は静かな場所を求めて1人で歩いていた。あまり遠くに行ってはまた先生に叱られてしまうがバレなければ問題はない。

 あいにく夕食までの自由時間にはまだ余裕がある。あてもなくプラプラと彷徨っていた。

 すると、たどり着いたのは小さな音楽室のような一室でオルガルの1つしか置いていないこじんまりとしたものだった。小さな部屋に小さなオンガンの置いてある空間は侘び寂びを感じさせる雰囲気がある。

 前世では嫌々ピアノ教室に通っていた経歴があるが、あいにく生まれ変わってからはピアノに触れたことはない。

 最近の歩純は前世の感情に引きずられ過ぎていると自覚していた。精神的に弱った時に、縋ったのは今生に生きている人達ではなく前世の記憶だった。

 結局のところ、歩純はまだ夢でも見ているつもりなのだ。

 だから、祖母が亡くなったときもまるでスクリーンでもみているような気持ちで、涙は出なかった。

 歩純は本当の意味で自分が死んでしまったことを受け入れきれていなかった。

 久しぶりに触れたピアノに忘れ難い記憶が彼方から喚び起さられる。精神的に限界まで来ていたこともあり、しばらく呆然とピアノを撫でた後、はじめて自分の目から涙が一筋だけ溢れていることに気がついた。

 懐かしさのあまり涙が溢れたのだ。傷心の歩純は慌てて涙を掬ったあと、気分を変えるために一曲だけ引いてみることにした。ピアノのレパートリーこそ少ないものの筋が良いと褒められたこともある。

 1番得意だった曲はショパンのノクターンとも言われる名曲だ。

 前世の記憶というのは歩純にとって自我に等しい。前世からの性格を受け継いでいることは、もちろん歩純の行動の原理には前世の記憶が大きく影響している。

 だからこそ、譜面を忘れずに弾けていることは前世の記憶が薄れていない証拠になる。珍しくピアノを弾いている間ばかりは何も考えずただ演奏だけに没頭できた。

 

 終曲が近づき夢心地から現実へと引き戻される。最後の鍵盤から指を掬いなんとも言い難い余韻に溺れる。

 ついには曲を弾き終わった。

 すると突然音楽室の扉が開かれた。余韻に浸る暇もなく、驚く暇もなく歩純はゆったりと扉に目を向けた。

 

「ほ、本当に歩純なのか?一体いつの間にピアノなんて練習してたんだよ!?」

 

 そこにいたのは栄純だった。お説教のあと、フラフラと出歩く歩純をみて心配で後をつけて来ていたのだ。

 ここ最近元気のない幼馴染が彷徨うように歩く姿をみて心配で放っては置けなかった。

 歩純には何も栄純を責める気は無かったのだが、どうしても返答に困ってしまう。すると、栄純はこちらの返答も聞かずに駆け出して行ってしまった。

 栄純と歩純は四六時中一緒にいると言ってもいい。

 そのなかで一度もピアノを練習したことはない。だから栄純だけにはどんな誤魔しもできない。なぜピアノの演奏ができるのかと問われればもう手遅れである。

 さらに歩純は彼にはどんなことも誤魔化したくはない。そう初めて大喧嘩をしたあの日の夕焼けに誓ったのだ。気がつけば外の風景もあの日のような綺麗な夕焼けだ。

 歩純はこれからのことを考えて、どうしようかなと1人苦笑した。

 

 夕食の時間となり、いつも歩純のことを構い倒す栄純が静かである。妙によそよそしい所作に、一同はまた喧嘩でもしたのかと考えた。

 だだ栄純な何か考え込んでいる様子には不思議がった。若菜のみは喧嘩にしてはどこか雰囲気がいつもと違うことに気がついていた。

 だが、栄純の扱いは歩純に任せておけば何の問題もないと信頼していた。誰もが認めるお世話係だからこそなせる術である。

 

「またあのバカはなにしたの?」

 

 持参したお菓子を片手に夕食後、若菜がいきなり聞いてきた。「どーせまたなんか変なことでもしたんでしょ」と栄純をこき下ろす様に、栄純が迷惑かけてるだなあとしみじみしていたら、デコピンされてしまった。

 ありがたくお菓子を頂きながら、答えられる質問には返事をする。といってもあまり真面目には答えていない。いつも真面目に答えていないので、相手も怒っている様子は無い。

 ただ時間潰しに話相手が欲しかったのか、それとも想い人が落ち込んでいる様に居ても立っても居られないのか。あいかわらずの若菜の世話焼きぶりには感謝する。歩純はこの合宿で2人に進展があることを願うばかりだ。

 

 赤城小の男子で大部屋1つに人数分の布団を敷き、就寝の準備が始まる。各自、自分でシーツや毛布などを整える。

 やはり栄純と歩純は隣同士になる。みんな何故か栄純の寝相の悪さが簡単に想像できるらしい。そのことを指摘され、憤慨する栄純だったがおずおずと1番端のところに陣取った。

 最も入り口に近い位置だ。テキパキとベットメイキングを済ませた歩純はだれかを手伝うために周りを見回した。すると1人をのぞいて全員が栄純を手伝ってあげてという視線をくれた。あとの1人とは作業に集中して、気づいていない栄純だ。

 実際、1番遅れておりシワだらけに敷かれたシーツが悲惨だ。若干の気まずさを感じながらも共同作業で栄純と取り掛かった。向こうから何か言いたげな空気を感じたが、人が多いためか言い出すことは無かった。

 その後、初めての場所ではしゃぎすぎたためか皆んなすぐに眠りに落ちた。枕投げ等はしないらしい。

 あいかわらず、歩純は眠れずにいた。

 

 その後、寝静まったあと見回りの男性教諭が点検に来た。その後、眠りにつかない歩純は頃合いを見計らって用を足しに部屋を抜け出した。

 誰も起こさないように気をつける。特に入り口に向かうまでに栄純の近くを通るので静かに歩かなければいけない。

 もしかすれば今日は一睡も出来ない可能性が歩純にはある。せめて体だけは休ませてなければならないが、尿意を感じトイレへと急いだ。

 用を済ませて、手洗い場に立てば鏡に映る自分の隈が目立つ。幸い、栄純以外にバレている様子がなく、彼も誰かに話す様子がないためおおごとになることはないだろう。

 その栄純はさいほどの一件のあと思いつめたような顔をしていたので心配だ。と栄純のことを考えていたら、鏡に栄純の姿が映っていたので本気で驚いた。

 俯いて、暗い顔をしているので、余計に不気味さが際立っているのである。

 

「ほ、歩純、おれ……。」

 

 栄純がなにかを言い出そうとしたところで、見回りの足音が聞こえたので慌てて栄純の口を手で塞いだ。

 顔が近づいたことで栄純と目が合ってしまった。

 そういえば久し振りにちゃんと目を見た気がする。前に見た時よりもすこし目つきが逞しくなっている。初めて会った時から大きくなったな、と感慨深く少し年寄り臭いことを歩純は思ってしまった。

 いい機会だ、栄純としっかり話をしよう、そう歩純は腹をくくる。

 足音が過ぎ去っあと、栄純の手を引いて部屋には戻らずにどこか2人で話のできる場所をこっそり探した。先生に見たがらないように身を潜めて暗い中を歩くだけで、こんな時ではあるがウキウキしてしまう。

 ようやく例の小さな音楽室までたどり着いた。ここなら話をしても声が漏れることはないだろう。

 なぜか先程から驚いた顔ばかりしている栄純の話を聞いてみようじゃないか。

 

「さて、なにから話をしようかな。とりあえず、何か聞きたいことはある?」

 

 歩純はもう隠すことを辞めた。栄純は何かを伝えたいらしいがうまく話が纏まらないのか、なかなか口を開けない。

 しびれを切らした歩純が栄純にいつものような口調で自分の話を聞かせた。遠回りをする話し方で本題には遠い話を淡々と話す歩純だったが、いざ前世の自分のことや未来のことについて話す時が来た時に、声の震えを止めることが出来なかった。

 もし栄純に嫌われれば終わりだ、もし言いふらされたら終わりだ。栄純を信用していないわけではもちろん無い。歩純にとってはただ声に出すだけでもひどく緊張した。

 聞き手は静かに話を聞いていた。栄純はやっと歩純が話してくれたことがなにより嬉しかった。

 自分に何も言ってくれないのは頼りにならないせいだ、と思うことがあった。だから、歩純が話してくれるのをずっと待ちつづけていた。

 ただこの時の栄純に歩純の話している内容は難しく掴みにくい内容だ。いつもなら歩純が栄純のために噛み砕いて説明することが多いが、この時ばかりはそこまでの余裕は持ち合わせていなかった。

 だが、とても大事な話をしていることは栄純にも感じ取れる。じっと歩純の話をひたすら聞いてあげていた。

 自分が実は前世の記憶があること、栄純のことを漫画の中で知っていること、はからずとも自分のせいで無理矢理に興味を持たされたこと、すべてを栄純に打ち明けた。

 どれも栄純には難しい話で、ついて行くだけで精一杯だったが彼にはひとつだけ確かなことが分かった。

 

「いままでずっと嘘ついてるようで嫌だった。本当に済まなかったと思っている。僕のこと軽蔑したか?嫌いになったか?」

「ない!それだけは絶対にない!!」

 

 栄純にとって大人びた幼馴染の歩純はいつも憧れだった。よく落ち着きのない子やしっかりしなさいと怒られる栄純にとって歩純はいいお手本だった。

 もし歩純がそのことを鼻にかけるような人物だったら憧れたりはしなかっただろう。

 自分の幼馴染はいつも自分にペースを合わせてくれたり、物覚えの良くない自分に文句も言わず勉強を教えてくれたりする。自分のことを大切にしてくれていると感じられるからこそ、いつも比較されていても歩純のことを嫌いだと思ったことは一度もなかった。

 

「歩純は歩純だろ?何にも変わらないって。」

 

 実に単純なことだ。歩純に必要なことはただ素直に2度目の人生を受け入れることである。変わっていないと肯定してくれる相手、自分の特異さを受け入れてくれる相手を歩純は欲していた。

 そして、今度は栄純の話を歩純が聞く番だ。

 

「ちょっとは元気でたか?最近寝てなかっただろ?隈とかスゲーぞ。でも元気になってよかった。そんなんじゃ俺の幼馴染はスゲーんだぞって自慢できねーじゃん!そうだ!前に言ってた野球のコーシエン?ってとこ行けば、もっと歩純のこと自慢できるよな?俺と歩純となら絶対行けるって!」

 

 ああ、ああとしか嗚咽の混じった返事しか歩純には出来なかった。

 いつの日か、栄純の涙を掬ったこともあったが、すっかり立場が逆転してしまった。ただただ今は栄純の胸を借りて泣くことしかできない。

 目からは止めることをやめたように涙が零れだす。どういう訳か栄純の言葉は素直に心の中へ仕舞える。素直な性格が言葉にまで乗り移っているのかもしれない。1番そのことをよく知っている歩純だからこそ、1番彼の言葉が届くのかもしれない。

 惜しむべきはこんな時まで野球の話を持ち出す所であり、将来女の子を慰めるときにすこし心配である。

 

「ははっ、歩純の泣くとこなんて初めて見たぞ。あした雪でもふるんじゃね!?」

 

 実にくだらないことまで言う栄純に、素直な笑み零せるほどの活力を歩純は取り戻せたようだ。

 実は歩純が泣いたのは思い返しても赤ん坊以来である。あの春には出なかった涙が今は素直に溢れてくる。この日のことを歩純は一生忘れないだろう。

 後に振り返ってみれば、この時ようやく歩純が2度目の人生を歩み出したと言っても過言ではない。まるで産声のようにしばらくの間、歩純は流涕し続けた。

 

 その後、落ち着いた歩純達は寝床へと戻るためそれなりに苦労した。憑き物が晴れたようにすっきりした気分の歩純だが、肝心の相棒は非常に眠そうだ。

 普段の栄純の生活リズムならすでに寝ている時間である。瞼の重い栄純を連れて、見回りを避けるのは苦労した。主に栄純の動きがだんだと鈍っていくのを繋いだ手から感じたからだ。

 やっとの思いで部屋までたどり着くと、栄純が布団にそのまま倒れ込み、あっという間に寝付いた。世話の焼ける幼馴染に毛布をかけつつ、歩純も眠ることにした。

 窓からちらりも見えた月が綺麗だ。

 ひさしぶりにいい夢が見れそうだ。

 

 その日の夢ははいい夢なのか、ある意味いい夢ではあるが不思議な夢を見た。

 前世の自分と今の自分の2人がいて、まるで離れ離れでいた体と心が1つに混ざり合うような夢だ。人間のみせる夢など特に意味などないと言ってしまえばそれまでだが、眼を覚ますまでの間歩純は神秘的な余韻に浸った。

 デカルトの心身二元論にならえば、人間の心と身体とは別のものであると考えられている。「人間は心と体からなる」という表現や「精神はやれども肉体は弱し」のような体験は誰にでも憶えがある。

 心と身体の不和は歩純にとって深刻な問題であったが、2つが1つに生まれ変わった今はなんでも出来るような晴れやかな気分だ。

 

 

 朝、目が覚めた歩純は久し振りにモヤモヤの晴れた気分で起床した。なにかとても大事な夢を見ていた気がするが、よく覚えてはいない。

 昨晩はいろいろなことがあった。栄純に自分のことを打ち明け、あまつさえ号泣してしまったのだ。

 いまさらながに、恥ずかしさがこみ上げてきて、なぜか自分の手を握りながら眠っている幼馴染の頬を突いた。フニフニと指が埋まるたびに面白い反応が返ってきてついつい夢中でやりすぎた。しばらくして、寝ぼけながらも怒ってている栄純と布団を片付けて朝食のため部屋を後にした。

 

 今日の活動は午前中にまず自然についての講習を聞き、その後森の中でフィールドワークを行う。目を離すと森へと消えそうな栄純を止めることに苦労したのは言うまでも無い。

 昼食は野外炊飯だ。学校ごとに分かれ、そのなかで班ごとに食事を作る。メニューはカレーライスである。

 赤城小の場合、作れても2つの班の班であるため、先生の手が行き届きやすい。人数の多い学校の場合は完成までに非常に時間のかかった班も多かった。

 なお、2人の班は栄純の世話を同級生に託した歩純が手慣れた手つきでほとんどの工程を終わらせた。栄純以外の各自に役割を振り分け、効率よく作業を進めた。

 栄純には後で力仕事を手伝ってもらうことにしている。自重しない歩純は基本的になんでも出来る男だ。前世では料理といっても、手伝いレベルでしかなかったが、やる気を出した歩純は張り切った。自慢の幼馴染って言われてしまったからには張り切らないと男ではない。

 おそらく、全ての班のなかで1番早くに完成した。赤城小のもう1つの班に歩純が手伝いとして入り、ようやく全員揃って食事についた。

 みんなで口を揃えて、美味しいとかすごいとか褒めてくれるので照れ臭い気持ちになってしまう。栄純が1番誇らしげなのはご愛嬌だ。

 歩純もみんなで作ったご飯があまりにも良い出来栄えだったのでおかわりが止まらなかった。大食らいの歩純に男子全員がおかわりを要求し、鍋の底が見えるまでたべきることになった。

 洗い物を済ませてもまだまだ元気な男子達がやることといえば、外で遊ぶことである。

 もちろん栄純と歩純も混ざっており、どこから調達して来たボールとグローブでここまできても野球することになった。

 

 赤城小の男子達が遊んでいるところに、件のトラブルを起こした他校生がいちゃもんをつけてきた。

 なんでも女みてーなやつがいるところが野球してんじゃねーよ、場所を譲れ、ということらしい。流石の赤城小の面々も黙ってはいられず、強い口調で言い返す。歩純もせっかくのいい気分が台無しになり、眉間にシワが寄った。

 また取っ組み合いの喧嘩に発展しそうなは雰囲気である。そこで、歩純が仲介に入り提案してみた。

 どっちがここを使うか野球勝負で決めてみようじゃないかと。

 勝負となった他校生と赤城小の対決を聞きつけた人は多い。

 意外と注目度が高くゾロゾロと観客が集まってきた。その時、多くの女子生徒から声援を受ける歩純を見て、さらに件の生徒は頭に血が上ったらしい。

 

 勝負は1イニングのみで多く得点を取った方の勝ちである。

 だが赤城小の男子生徒は6人のみである。外野を守れるほどの人数はいない。そのため向こうの攻撃のみ内野を抜ければツーベースのヒットになる特別ルールを設ける。

 相手はこちらが素人しかいないと踏んで勝負を受けている。初心者のピッチャーからヒットを打つなど簡単だと思っているのだろう。そこを逆手にとればこちらに必ず勝機があるはずだ。

 両チームで誰がどこを守るか、ポジションと打順を決めるための作戦会議の時間に入った。

 

「栄ちゃ〜ん、どうするんだよ〜。」

「わははは、まかせろ!んで、どうするだ歩純?」

「任せろといって丸投げするなよ。」

 

 頼りない声で栄純に聞いていたのは同級生のなかでも1番心配性の男だ。人数不利を理解して不安になるのであろう。

 もっともな意見だ。栄純と歩純以外は皆同じような顔つきである。

 こちらから勝負をふっかけた以上不利と分かっていても後に引けないのだろう。

 だが、歩純がわざわざ負ける勝負を仕掛けることはない。十分勝ち目があり、向こうからすればまったく想像できないだろう。

 こちらの勝機はひとつである。栄純の持ち味のナチュラルムービングで打ち取る以外の勝ち筋はない。

 うちのチームに野球のルールを知らない子もいる。もちろんグローブさえつけたことがない。

 ゆえに、どこに誰を置くかが非常に重要となってくる。

 先ほど登場した心配性の男は野球で遊んだことがあるらしいので守備の要として置いておく。

 打ち取ることを前提とする以上守備には負担がかかる。そのなかで中心となる責任重大な役目であるが、了承してもらえた。

 内野の人選をおえ、残るは2枠である。

 投手は栄純以外ありえない。そして、また栄純のナチュラルムービングを初見で捕らえられる同年代も少ないだろう。捕手は歩純がやるしかない。

 むしろ初めから決まり切った予定調和だ。そろそろ栄純との個人練習だけでは飽きていたところだ。

 実践に勝る練習はない。大いに相手方には踏み台になってもらうつもりだ。

 

 

 表は相手チームの攻撃だ。件の生徒、歩純をよく揶揄いに来る生徒だが、どうやらジュニアのクラブチームに入っているみたいだ。

 大声でこちらを見ながらそのことを自慢し、こちらを挑発している。

 彼にしてみれば負ける気がしないのだろう。相手チームはその彼を四番に置き、確実に点を取りに来る打順にするようだ。

 さらに向こうのチームにクラブチームメンバーが他にもいないは限らない。そして出してくるなら、おそらく彼より早い打順に置くはずだ。

 

 対戦相手のことを観察しつつ、歩純は()()にグローブをはめた。残念ながら左利き用のキャッチャーミットは用意されていないようだ。左手用のグローブを歩純は感触を確かめように装着した。

 あれから、歩純は左手と右手の使い分けを何度も練習した。それでもやはり左を使った方が捕手として満足のいくプレイが出来た。

 歩純は右よりも左手で捕手をする方がより良い捕手になれる。

 今回左にしたのはどうしても負けたくないからである。前世は女であるが、なんども女、女と言われればさすがにすこし腹が立つ。さらに貶されているような言い方であるため印象が悪い。

 実は澄ました顔をして、歩純の虫の居所は非常に悪いものだったのである。

 

 味方が全員守備につき、相手バッターもバットを素振りしている。歩純は残り僅かな時間で栄純に何を伝えようかと考えていた。

 栄純にとっては初めての真剣勝負である。

 しかも大事な幼馴染を馬鹿にされ、絶対に負けられないと意気込んでいる。明らかに力が入りすぎているのである。

 勝てると言い切った手前、ここで負けてしまっては非常にカッコ悪いし、そんな姿は見せたくない。

 歩純はどう声をかけようか、何を伝えればいいのか悩んだ。栄純にならできるとか頑張れとかは素っ気なさすぎる。

 とはいえ、歩純には野球で語れるほどの哲学を持っているわけでもない。時間がない中で最も栄純の心に響くような言葉を探した。

 それでも探しても見つからないようであれば誰か人の言葉を借りればいいだけである。歩純は若干の申し訳なさを感じながらも、まさか自分がこの台詞を口にするとは思わずつい口元が緩むのを抑えられなかった。

 そうだ、どこかのイケメンキャッチャーの名言を頂こうかなと。

 

「栄純知っているか。最高のピッチングとは何か。」

 

 緊張で強張っていた栄純の顔が歩純のほうに向けられる。掴みとしては成功である。そのままたたみ込むように言葉を伝える。

 

「最高のピッチングってのは、投手と捕手が一体になって作り上げる1つの作品なんだよ。だから栄純は僕を信じて、このグローブに最高の球を投げてくれ。最強の幼馴染同士が組むんだ、最高の作品が作れるに決まってるだろ?あとはよろしく頼むぜ、相棒。」

 

 栄純のグローブの中に球を託す。右手のグローブで栄純の胸をトンと叩く。言わずとも歩純たちの仲ならば伝えられることは多い。それでも言葉に出して伝える大事さを昨日知った。

 どうやら栄純がいい顔になったようだ。

 これならば硬さが取れて、いつもどおりの球が投げられるだろう。その球が投げられるならそうそう打たれることはない。

 あとは歩純が栄純を最大限に生かすリードをするだけである。

 さあ、プレイボールだ。

 




前回のあとがきで言った料理(野外炊飯)ができて満足。さらにピアノまで弾けて女子力高いはず。

次の話は割と早く出来上がるかもしれません。

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4話_バッテリー(前編)

短め

暇つぶしにどうぞ


 施設内のグランドにはきちんとベースが取り付けられており、野球を楽しむ分には全く問題がない。貸し出し用具の中にグローブや軟球が存在したのも野球好きの指導員が昔経費で購入していたおかげだ。施設を利用する子供達に外で思いっきり遊んで貰うために野球だけでなく、サッカーボール、バレーボール、バスケットボールなども用意されている。自然を楽しむのコンセプトの元に運営され、長年愛されている。そのグランドで今、熱い勝負が繰り広げられていた。

 

 ピッチャー栄純、キャッチャー歩純のバッテリーが初めて組まれた瞬間だった。対する相手は、歩純に因縁をつけてきた他校生チームだ。両チームとも負けられない戦いとなっている。

 栄純と歩純チームの顔色が悪いことに対して、相手チームはまるで遊びを楽しんでいるような余裕の雰囲気だ。それもそのはず、実は相手チームには3人もクラブチーム所属者がいる。加えて、生徒数の多さを利用してメンバー選出には運動の得意なものを選んでいる。素人の集まりの赤城小チームに負けるはずはないと考えていた。

 先頭打者がバッターボックスへと入る。相手のバットを構える様を歩純はよく観察した。バットの握り方、足の開き方、重心の置き方。すべての要素から1番はおそらくそれほど野球をしたことがないのだろうと感じた。

 とはいえ油断は禁物だ。足の速さを買われて1番に使われた可能性は高い。たとえゴロでもこちらのチームは初心者が多いためエラーの発生は考慮すべきだ。エラーが重なれば失点は免れない。本当はバットに掠らせさえしない豪腕投手だと1番やり易いがないものは仕方がない。栄純の球だって十分に勝ち目がある。

 

 おそらく原作より早く野球を始めている栄純が小学3年生となった。約2年間のうちほとんど毎日キャッチボールをした。その合間にも歩純によって知らず知らずの内にいろいろな運動を栄純ささせられていた。特に力を入れたのはランニングとストレッチだ。

 傾斜のある山道をよく走りこんだことで下半身の筋肉はバランスよく鍛えられている。これがピッチングを支える柱の1つとなる。軸足と腰回りが鍛えられることでピッチングフォームに安定感が増している。

 もう1つピッチングを支える柱に天性の柔軟力が加えられる。元々の身体の柔軟性をより活かすため、歩純主導で多くの時間を費やしストレッチが行われた。充分なストレッチは怪我を防止し、毎日の疲労を残しにくくした。手首や肩関節の柔軟性の高さは彼の持ち味を際立たせる最たるものだ。そのため、栄純の投球はメキメキと成長した。

 とはいえその年にしては上手い方と言うだけで実際はまだまだ成長途中で伸び代がある。想定外であったのは栄純のためにランニングとストレッチに付き合っているうちに彼と同じくらいに強化されてしまった歩純である。

 栄純の持ち味のナチュラルムービングを磨くことにも余念が無かった。これはいわゆる癖球と呼ばれ、七色に変化する魔球とも呼ばれる。これを栄純は肩関節の柔らかさを利用し、リリース直前に指先でスピンをかけることによって、無意識のうちに投げている。

 またボールの握り方とリリースポイントに一貫性がないことが投げるたびに異なった変化を見せる。原作ではチームメイトに遠慮して全力で投げていなかったが、歩純相手に栄純が遠慮したことはない。

 初めから全力で投げ、まったくグローブに収まらず明後日の方向ばかり飛ばしていた。それもだんだん収束するようにまっすぐ投げられるようになった。栄純の努力の賜物である。

 

 その栄純が歩純によって正しく導かれ、その癖球が磨かれた。しっかりとした足腰のもと、柔軟力に磨きがかかり栄純の癖球はなかなかに厄介なものとなっている。同世代の捕手では初見で捕球するのは難しいだろう。故に赤城小で歩純以外に捕手をさせることは出来なかった。栄純に正確なコントロールやスタミナはまだまだ課題となるが、癖球だけは一級品となっていた。

 歩純の構えたところに正確に投げ分けられるコントーロルがある訳ではない。キャッチボールの時でも座って球を受けることはあったが、厳しく球を要求したことはない。だからこの勝負でも外と内の投げ分けを期待していない。求めているのは原作通りハートの強さである。

 

 勝負に戻りマスクなどないが、初めてキャッチャーをする歩純には驚くほどに緊張感が無かった。負けるつもりなど元々ない上に、並大抵のことでは揺れ動かないメンタルの強さを持っている。まずは様子見のためにど真ん中にグローブを構えた。

 栄純の初球が放たれる。大きく腕が振り切れて降り、いつも通りと言えるだろう。投球練習でも上手く力は抜けており状態は良いはずだ。打者はとりあえず一球は様子を見ていふのかバットを振りにくるそぶりはなかった。

 

「っつ!?」

 

 ドパァン!とキャッチャーのグローブから気持ちの良い音が鳴る。

 相手打者から驚きを噛み殺したような声を上げた。

 ピッチャーから放たれたボールが乾いた破裂音を立ててグローブに収まる。これには打者だけでなく観客も思わず面食らう。実は体感する球速とキャッチャーのグローブから鳴る音に非常にギャップがある。ギャラリーは栄純から放たれた球には本当はかなりの球威があるのかと、外から見ると分かりづらいが実は球速が早いのかと疑問に思った。

 この時の打者には2つの驚きが襲っていた。1つ目はボールが手元で動くこと。変化球を投げられる投手に太刀打ちなどできるはずがないと心が砕かれた。次に実際目にした球の速度では繰り出せないような捕球音が動揺を生んでいた。ありえない現象に混乱極まる。

 対人戦において心を乱すことは形勢が一気に傾くことを意味し、その隙を突く歩純の前では敗北に等しい。この時すでに歩純の策に嵌りこの打者とは勝負がついていたも同然だった。

 

 この2年間歩純は栄純のボールを受け続けた。その中で自分が捕手となるならどうやって投手の気持ちを盛り上げるのかに1番悩んだ。作中ではイケメン捕手が熱い台詞をよく投げていたが、自分に気の利く言葉が言えるか、ことさら疑問だった。

 その時ある野球指導書の中で球を取る際に発生する音が投手の気持ちを盛り上げるとの一説があった。気持ちの良い音はまるで投手に好調だと錯覚させるほどの効果があり、捕手としての技術の1つであると言うことらしい。

 歩純はこれに目をつけ徹底的に球を正確に取る技術を習得しようとした。初めは左手で球を撮る練習をしたがしっかりとこなかった。次に右手で取った時にまるで花を摘むかのように優しく、正確に捕球することができた。明らかに左右の手から感じる感覚が違うのだ。この時初めて自分の左右の手に与えられた才を自覚したのであった。

 右手には球を取ることに関してとてつもない才能を秘めていた。相手に実際の球速以上に速く感じさせ、音によって味方を鼓舞し、相手をを威圧する。

 所詮、音だけかと思いがちだが、より優れたプレイヤーほど視覚だけでなく五感すべてでプレイする。その中で打者の近くで発生する捕球音がどれほど大きい影響を持つかは言うまでもない。いい音を鳴らすことのできる捕手はそれだけで頭が1つも2つも抜けるほどに良い選手と言われる。

 いい音を出しながら捕球することは大変に難しい。それだけでキャッチャーの価値を決めかねないのだから、取得難易度は想像を絶する。なぜなら腕だけで球を取りに行くと衝撃を殺すだけでなく、どうしても音まで殺してしまうのである。衝撃を殺しきれなければ、ボールを後ろに反らしたり、手の中でボールが暴れる原因となる。そうなればすぐにでもその捕手は交代になるだろう。衝撃を殺すことにおいて、栄純と同じくらいに柔らかい身体が非常に役立った。

 歩純は腕だけでなく全身を使って衝撃を緩和する。とても柔らかい身体はボールの衝撃を受けてもブレずに全身へと振動を拡散する。ただ手と腕だけでボールを取るのではなくすこし力を抜き、体全体の力で捕球する。これには自分の身体を正確にコントロールする技術が求められる。昨日の夜に全てを打ち明けたおかげか、歩純の頭と体は非常に軽やかだ。まるで心と体がようやく1つになったかのようで、今の歩純には指先1つまで意のままに操れる自身がある。

 だが、不規則なムービングを優れた柔軟力だけで正確に捕れるわけではなかった。予測不可能に変化する栄純の癖球にも持ち前の反射神経で対応できる。いい音を出すためにはボールを真芯で捉えて、丁度掌で包み込むようにしなければならない。子供の頃から手元で曲がる栄純の球を見ていたことが精神と神経が大人から子供に戻りつつある歩純にとっては運動神経、反射神経をさらに成長させる一因となっていた。全てのことを加味しても、歩純をまさに神の子と称することになんら違和感はないほどの才能といえる。

 今の歩純には癖球を正確に捉えることは難しいことではない。もっとも球を取ることだけに関して言えば難しくはないが、いざ打者として対面した時はどうなるか分からない。

 

 その後、2球目をボール、3球目を空振りとし、早くも追い込んでいた。

 

(くそっ、どうなってるんだ。球はぐにゃぐにゃ曲がるし、球を取る音がおかしい、この音が気持ちを焦らせるんだ。)

 

(いい感じに打者はテンパってるな。それにしても、今まで本気で右手で取ってなかったから栄純驚いてるなぁ。ニヤニヤしすぎだよ。)

 

 焦りに焦った打者を4球目で三振に抑え、栄純と歩純のバッテリーは初めてアウトを取ることが出来た。悔しそうな顔で1番打者がこちらを睨んでくるが何も気にすることはない。勝ちがあれば負けがあるのが道理だ。ただ初めて三振を取ったことに嬉しがる栄純の叫び声が煩すぎる。

 その頃相手ベンチには動揺が走っていた。1番打者はチームにこそ所属していないが、学年の中でも抜群に運動神経が良く足も速い生徒だった。その彼が軽く三振に討ち取られてしまったのだ。すでにベンチに戻ってきた彼から早速話を聞く。

 

「やっぱり、運動神経がいいだけで野球は大したことないな。」

 

 そうクラブチームに所属する例の生徒が口汚く言った。

 悔しさで頭に血が上っている1番の少年は言葉も選ばず、即座に言い返した。

 

「ちっ、ならおまえが打ってこいよ。打たないと思うがな。」

 

 売り言葉に買い言葉でまさに子供の喧嘩である。

 本当は投手の球について聞きたかったのだが、素直になれない時期である。しかも今は喧嘩から発展した勝負の最中である。彼の小さなプライドが尋ねることを嫌がった。そのため4番目の打順が回ってくるまでじっくりと投球を観察するしかなくなった。

 

 続いての二番打者の構えは明らかに野球を知っている者の出で立ちだ。ここで経験者が来るということは3番打者も経験者だと考えて間違いないだろうと歩純は考えた。赤城小全員の認識として、出来れば4番の例の生徒までに終わらせたい。4番打者は他の生徒より一回りも身体が大きく、最も警戒すべき相手であることは間違いない。性格こそいい意味で子供らしいが、悪い意味ではすこし捻くれている。たがあの体格では癖球の弱点ともいわれる圧倒的な力で押されて内野の頭を抜けてしまうだろう。できれば2番と3番を仕留め、こちらの攻撃に移りたい。まさかこう考えるのはフラグか、と思ったがすぐに思考を切り替えた。

 

 二番打者はその打順通りの仕事をして来た。その歳にしては選球眼が優れているようだ。普段練習を積んでいるだけあって初めて見るだろう癖球に反応してくる。バットに当てるだけ精一杯という感じだが上手くファールにしてくる。今の小学生とはこんなにもレベルが高いのかと感心する歩純だったが、どちらかと言えば押されている。相手のバットが次第に球に合ってきている。

 

(へんな方向に動く球だ。捕球音で混乱するがよく見れば球自体は大したことはない。次で決める!)

 

 栄純もよく腕を触れているがボールが嵩んでいる。歩純は打者から嫌な雰囲気を感じる。栄純もその雰囲気に押されたのか、結局フォアボールという結果になってしまった。先程は三振に仕留められたので今回も三振を狙ったのだろう。明らかに最後の1球は焦りを感じる甘い球だった。それにしても今の打者のが一枚上手だったと言わざるを得ない。

 

(危なかった。結構最後のはいい球だった。あのキャッチャーがボールと判定したから助かったものの際どいコースだ。くそっ、俺はただ手が出なかっただけだ。)

 

 2番打者の少年は素直に歩純に敬意を向けた。この試合には主審がおらず、打者と捕手でストライクとボールの判定をしている。最後の一球はどちらにとられてもおかしくないゾーンだった。まるで敵に塩を送るかのような歩純の判定に少年は自分がバッテリーとの勝負に実質的に負けたことを悟った。負けず嫌いな少年にはまるで情けをかけられたように感じたのであった。実際は栄純の球をわざと厳しく判定しているだけであったが、図らずとも彼にライバル視される原因をつくった歩純だった。

 

 ここは一度タイムを取る。1イニングしかないのだ。どれだけタイムをとっても責められる謂れはない。四球の後から栄純の顔がまた強張っている。四球を気にしすぎているのか、それともまた何か別の問題でも起きたのかと思いつつマウンドの方は向かった。

 

「どうした、栄純。なにかあったか?」

 

「あの時の歩純みたいにはどうやって投げればいいんだ。ずっと考えても分かんねえよ。」

 

 

 あの時とはおそらく庭で投げたあの一投のことである。随分昔のように感じるが栄純は度々あの時のことを聞いてくる。おそらく今日の投球もあのフォームを意識して投げているのだろう。だが一度見ただけで栄純が真似できものではない。そのため投げ方のコツを聞かれてもこれまでは有耶無耶に誤魔化して来たが、今は心境が今までとは変わっている。教えてあげることになにも戸惑うことはない。足先の置き方、右手の壁と体の溜め、指先の使い方、教えられることは色々ある。それを全て伝えたところで栄純にすぐ実践できるはずはない。

 

「あまり頭で考えるな。栄純ならもう投げられるはすだ。それでもひとつだけアドバイスするなら右手の壁だ。」

 

 原作で鬼監督から栄純が習ったことの1つである。グローブを持つ手に力を込めて身体を支える壁を作り出す。そうすることで全身の力を溜めてエネルギーを指先に伝えることが出来る。本当なら家に帰ってからじっくりと教えてあげたかったが、仕方ない。今身につけてもらう。草試合ではあるが勝負のなかで人とは成長するものである。対戦相手には栄純の潜在力の開花に手伝ってもらおう。

 原作よりも大分大雑把にだが一通り説明し、練習もなくいきなりのぶっつけ本番である。相手から再開を求める声が届く。今の栄純がどこまでいけるのか測れるいい機会である。

 

 タイムが明け、対峙する三番打者の特徴は身長の高さにある。そして、おそらく野球チームで練習している強敵の1人である。先程の2人よりも長い手足が厄介である。こういう選手にインコースを投げ込めれば楽ではあるが、今は右手の壁のことや初めての対戦で手一杯だろう。歩純は気持ちやや内側にグローブを構えた。

 

 

(歩純の言ってた右手の壁から、全身の溜め。やってみるしかねえぜ。)

 

 始めて歩純が投球に関してアドバイスをくれた。今まで何度聞いても教えてはくれなかった。栄純の目指す明確な目標は歩純が投げたあの一球だ。いつもそのことばかり考えていた。栄純にとって無性に投げてみたくなるようなカッコ良さがあった。いつも歩純を手本にする癖が入ってしまっていることもあるが、あの一球だけはいつまでも真似出来なかった。それが今日初めてコツを教えてくれ、栄純は非常に心踊った。思わずマウンド上でも笑顔が溢れるほどに。

 

 だが、右手の壁と身体の溜めを意識しすぎる栄純の球は乱れた。やはりこのタイミングでアドバイスを行なったのは失敗であったかと考える歩純。ボールが先行し、カウントボール3となった、4球目に栄純の投球に変化が起こった。

 

(っ!?)

 

 今までの投球フォームとは違いやや左腕が遅れて見えた。右手の壁と全身の溜めが作られ、極限まで左腕が引き絞られる原作栄純の投球フォームの特徴だ。まだ相手打者は気がついていない。僅かだが球威が増している。投球フォームが栄純のイメージと一致し始めて、今まで余分に分散された力が指先に集約されている。まだ手の平の中で暴れる球を宥める。まるで投げている本人みたいな球だ。3番打者には悪いがまだまだ栄純の練習に付き合ってもらおう。

 コントロールについてはせいぜい及第点レベルである栄純だが逆球になるようなことはあまりない。逆球とは内角に構えたミットに対して外角に投げ込まれるなど、内と外を意図せず反対に投げこんでしまう失投の1つだ。失投の少なさは今の栄純にとってひとつの武器として使える。だから大まかにはコースを指定しても問題はない。そこであえて打たれてもファールにしかならないところに構え球数を稼がせて貰う。はやく成長するところを見せてくれ、栄純。腹の虫などすっかりと治った歩純はただひたすらに今の状況を楽しんでいた。

 

 投げるごとに栄純のフォームが安定して来ている。打者も球威が上がってきていることに驚いているだろう。歩純もその成長速度の速さに驚いている。本当に一球ごとに進化するのを感じる。

 8球目がファールとなり、5連続ファールである。打者にも疲れが見られ、観客も固唾の呑んで対戦に魅入っている。やっぱり栄純には周りを惹きつける力がある。1番惹きつけられている歩純がそう感じるのだから間違いではないのだろう。

 全員が注目する中、放たれた9級目は惜しくもボールだ。周りの観客は忘れていた呼吸を取り戻すかのように息を吐き、すこし緊張感が抜けた。栄純も悔しそうだ。三振が取れなかったことに対してではなく、良い球が投げられているだけにもっと投げたかったのだろう。だが次の相手は今よりも遥かに威圧感のある相手だ。こんな緊張感はなかなか味わえるものではない。栄純にとっていい経験となるだろう。

 

 そして例の大柄な生徒が4番打者としてバッターボックスに入る。

 2番、3番も要注意人物ではあったが、最も相性が悪いのは4番である。この3人は野球チーム所属だけあって、簡単に行く相手では無い。彼は因縁の相手であり、ランナー一、二塁の場面で対峙するには相当に不利である。ワンアウトに、内野の頭を抜ければツーベースヒット。ここの決着がこの試合が決する。今が気合の入れどころだと言わんばかりに、歩純は栄純に目線を送った。

 

 




漫画とか試合の描写は長いですよね。
書いてて楽しいですね。長くなる理由が分かりました。

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5話_バッテリー(後半)

暇つぶしにどうぞ




 緑に囲まれたグラウンドで対峙するのは彼らにとっては因縁の相手だ。昼下がりの気温はそろそろ頂点に達し、皆一様に汗が滲み出ている。さらに白熱する試合の緊張感に当てられ選手と観客共々に体の奥が熱くなるようだった。ジリジリと燃えるような空気が周囲に漂った。

 いつも通りの長閑な雰囲気が漂う施設内とは裏腹に、グラウンドでは少年達がプライドを賭けて競い合う。

 そんな古びたグラウンドにぽつんと置かれたダイヤモンドも既に2つ埋まり、バッターボックスで迎えるのは4番の主砲だ。この打席を抑えられるかが歩純と栄純バッテリーにとっての正念場になりそうだ。

 4番主砲の剛力 武史は所属する野球クラブ内で将来を期待されるほどのポテンシャルを秘めた3年生である。彼は同年代の中でも特に早熟した体格の持ち主だ。その体格を生かしたバッティングセンスの良さが監督、コーチに買われている。

 既に同学年との勝負では負けしらずで、5年生6年生の選手すら近いうちに追い抜かすのでは囁かれているほどだ。そんな彼にとって単純な打席勝負は得意分野とも言え、普段通りの彼ならばまず間違いなく負けることはない。

 だが、この時ばかりは頭に血が上り冷静な状態とは程遠い。歩純が分析した見立てでは勝敗は五分五分といったところである。

 

 バッターボックスに入るとき、武史はチラリと歩純に視線を送った。相手ピッチャーのことも気になるのだが、武史にとって1番に気になるのは歩純だ。

 気になる理由の1つは、草試合で対戦する相手にしては高すぎる捕球技術に虚をつかれたことである。

 そしてそれだけではなく、実は武史が初めて歩純を目にした時、歩純の性別を勘違いしてしまっていたのだ。少年にとって初めて少女に目を奪われた経験は淡い初恋となるはずだった。

 だが、その後すぐに歩純が男だと判明し数十分で初恋が終わった。ある意味で被害者とも言えるが、そのことになんとなく納得のいかない武史は歩純達に突っかかり始めたのである。

 子供同士の喧嘩の原因など本当のところはそんなものである。

 

 武史は打席へと入る前にいつもの様に数度素振りを繰り返す。彼特有のルーティンだ。空を裂くような鋭いスイングに一同は息を飲んだ。

 そのバットから鳴る音は明らかに今までの打者とは一線を画す。

 スイング音を最も近くで聞くことになる歩純は自分の読みの甘さを痛感した。いままでの言動から彼の冷静さを欠けば勝機が見えると思っていた。

 しかし、たとえ頭に血が上っていようとスイングの質自体は劣化しないらしい。加えて、ここにきて急成長しているとはいえ栄純は試合慣れをしていない。

 そのことが負けを引き込む可能性は十二分にある。先程までの栄純の勢いもあの素振りを見た後では僅かに衰えかけている。

 勝敗を五分と読んでいたが、歩純は確率を四分へと下降修正した。すこし分の悪い勝負になりそうなことに若干の気後れを感じる。が、そのことを一厘すら雰囲気に出さない様子はさすがとも言える。

 相手打者に弱気なところを感じさせることはおろか、栄純にすらそのことを察知されることは許されない。

 なぜなら歩純の心情に栄純は敏感に影響される。この勝負で鍵となるのは間違いなくハートの強さだろう。もし弱気な心が栄純に伝播し、すこしでも負けると感じれば途端に相手の気迫に飲み込まれる。

 だからこそ、歩純は気丈に、まったく負けるとは思ってもいないように振る舞う必要があった。チーム全体をプレーで焚きつける歩純のキャプテンシーの小さな発芽だ。

 

 大丈夫だと伝えるように歩純は胸を叩きながら、栄純に視線を送る。

 2人の目が合えば言いたいことはすぐに相手に伝わるはずだ。

 大丈夫だ、落ち着け。

 そう伝えれば、幸いにも栄純の目に力強さが取り戻される。堂々とした歩純の姿に栄純だけでなく、赤城小全員が覚悟を胸に決める。

 全員の腹は括られた。今一丸となってこの打者を打ち取るのだと。

 スー、ハーと空気を入れ替える栄純の息遣いまで聞こえてくるように辺り一面静まりかえる。誰かがゴクリと唾を飲み下した。そして、静寂の時間は終わり誰もが注目する第1球目が今投げられた。

 

 

 右打者の外角低めに決まったボールはギリギリストライクといったところだ。際どいコースの良いボールである。

 おそらく偶々入ってくれたといって良い。対する打者の武史はいいコースに決まったボールに思わず渋面する。外から見るボールと近くで見るボールの違いに心が踊る。

 コースがストライクゾーンであることに異論はなく、むしろ武史はピッチングフォームに違和感を覚えた。ほんの僅かだが栄純の左手が遅れて見えるスタイルに関心する。

 初めて見るフォームに驚きつつも武史は的確にそれを見極め始めた。すでに憤りや侮りといった負の感情は薄れて、純粋に勝負を楽しむ余裕が生まれ始めていた。

 本来の彼は情熱と冷静を組み合わせたスラッガーだ。その怪物の顔が次第に覗き始めた。

 

(不味いな、相手の打者が勝負を楽しみ始めた。これではただの実力勝負になるな。つまり栄純と相手のお互いの勝負強さが試されるってことか。)

 

 この場面で栄純に求められるのは今まで以上の一球。対して、武史に求められるのは今まで通りの一振り。

 相手は落ち着きを取り戻し始め、スイングに迷いがない。こちらの形勢が一気に不利に傾いたことで、歩純は一考し覚悟を決める。

 ここからはこれまで以上に厳しくコースを責めて勝負する必要がある。栄純の成長をさらに促し、こちらの想像を超えてもらわなければ困る。

 だが、歩純自身リードに関してはまだまだ初心者だ。キャッチャーとしてどのようなリードが投手の成長を促すかなど分からない。今使えるものといえば、これまで栄純と一緒にいた思い出と前世の知識くらいだ。

 それをどう活かすのか歩純のキャッチャーとしての素質、ひいては人を導く力も試されているのである。

 

 2球目、歩純が構えるのは先程と同じコース。

 に見せかけた半歩分だけずらしたコースである。迷わず振ってきた武史に対してボールは内に差し込むように変化した。

 癖球がさらにバットの芯をずらしたのだ。どこにブレるか分からない癖球だが、運は歩純達に向いているらしい。

 豪快に振り抜かれたバットだがボールはファールだ。

 そして、たった2球目にして武史が栄純の球質に気がついた。外からの観察とバットから伝わる感触のみでこの男は判断した。ことバッティングに関してこの男もまた天才の1人と言えるのだ。

 

「なるほどな。あいつの球はもう分かったぜ。次は打つ。」

「そう簡単には打たせないよ。」

 

 返球する歩純に宣言するように武史が話しかけた。それだけを言い切り、おもむろに打席横で素振りし始める。その顔つきはまさに真剣そのもので、正に強打者といった圧倒的な威圧感を放つ。

 

(怖気付くなよ栄純。お前なら超えられるはずだ。)

 

 たとえどんなに強打者であっても原作の栄純は真っ向から立ち向かった。

 今はその彼とバッテリーを組んでいるのだ。よく考えてみればなにも怖気付くことはないと、歩純は笑みをこぼした。

 突然の花を咲かせるよな笑顔に一同は困惑する者と、赤面する者の二者に分かれた。武史は危うく初恋の感情を思い出しそうになり、慌てて目を背けた。

 そして、歩純の正面にいた栄純にもこの気持ちは伝わっただろう。なにせあの幼馴染はいつもは鈍感な癖に、大事な時ほど機敏に感情を察知するのだ。

 

 第3球目、構えるコースはインコースだ。外れても良いから強気で投げろと言葉に出さずとも栄純に伝える。

 カウントはツーストライク、ノーボールこちらに有利な場面だ。一球くらいは外れても良い、むしろ的を絞らせないようにするには効果的だ。

 初めて厳しく構えられたインコースに戸惑いつつも、栄純はリードに従いグローブに向かってへと投げる。だが、ボールは内に大きく外れた。

 打者から文句が来るが歩純は相手にしなかった。そんなことよりもむしろ今の一球は栄純の気持ちが前面に出た良いボールに右手が痺れる。初めてのコースにいつも以上に気合の入れたのだろう。歩純は球に込められた思いをしっかりと受け取れた。

 栄純のテンションも充分となり、ここらが勝負の大詰めだ。

 歩純は迷いもなくど真ん中のコースにグローブを構えた。博打でもなんでもない。

 おそらく栄純の気持ちを乗せるにはここが一番良いはずだ。

 

 

「っ!!」

 

(こういうの好きだろ?なんにも考えなくていい。僕が全部受け止める。だから栄純の最高の球を頼む。)

(ははっ、ど真ん中って。やっぱり歩純は最高だ。心臓がもうめちゃくちゃだぞ。本当に俺は歩純とならどこまでもいけるかもしれない。)

 

 真ん中に構えた歩純を見て最初は驚いた栄純だったが、しだいに口元が緩み始めた。相手バッテリーの様子が変わったことに武史は怪訝に思うが、切り替えて集中する。

 武史もまた次の一球で仕留めるつもりだ。そのためにランナーにはサインを送っていた。

 

 第4球目、ど真ん中に構えた歩純に応えるべく栄純は自分の全てを出し切る。今の自分が歩純からの期待に応えるにはどうすればいいのか。

 栄純は本能的にあの一投をやはり思い浮かべた。栄純の記憶の中でも印象深いのは初めて歩純と会った時とあの一投だ。

 両者とも比喩ではなく栄純の人生を変えるものであったのは間違いない。

 

(右手の壁、身体の溜め。右手の壁、身体の溜め。)

 

 フーと大きく息を吐いた栄純は既に歩純のグローブしか見ていない。1球に対する集中力は今まで以上に高められていた。歩純のアドバイスを頭の中で無意識にリピートさせる。

 

(そういえばあの時、俺ならもう投げられるって歩純言ってたな。じゃあ、やっぱり何も心配することはなかったのか。)

 

 一度タイムをとったあの時、歩純は自信を持って出来ると言った。

 栄純にとって最高のピッチングはあの一投。それを自慢の幼馴染ができると言い、それを信じて待ってくれていると言うのだ。

 ここでやらなければ漢ではないと、栄純の心は決意に満ち溢れた。

 

 第4球目。

 右足を大きくあげ、最高点で停止する。一切ブレることなく停止する姿は誰もが見惚れるほどだ。日差しに照らされながらも疲れを見せることのないピッチングに観衆は感動すら覚える。

 圧倒的な威圧感を放つ打者に対して、栄純は真っ向から立ち向かう意思を込めてボールを振るう。極限まで溜め込まれた下半身のパワーは左手に伝達される。

 かつてないほどに引き絞られた左手は原作の姿と相違ない。柔軟な身体を捻らせて、鞭のようにしならせる左手。

 栄純のここ1番の勝負強さがよく現れた一球だ。

 そして、原作を駆け上がるように成長した栄純に歩純は今までの自分の行動を恥じた。

 栄純はこれほどまでに成長できる。

 それに自分の都合を押し付けるのはあまりにも身勝手だと思えたのだ。

 その時、2人のランナーに動きがあった。

 

(チッ!エンドランか!)

 

 栄純が振りかぶって投げるのを見て、走者は一斉に走り出した。相手もまた武史のバッティングを信頼しているのだ。大事な場面で打てないほどの男ではないと認めていた。

 迷うことなく走り出した様子に後悔などしている暇もなく歩純は次の行動を考える。

 

 栄純の手から離れたボールは綺麗なスピンを描きなが真っ直ぐ進む。途中で加速するような錯覚を起こすストレートは打者の手元で大きくノビた。

 偶然にもフォーシームの握りとなっていた。

 最高のボールが打者の内角を抉る。

 

(ク、クロスファイヤー!)

(本当に栄純は原作を一段飛ばしで駆け上がってるな。)

 

 打者と捕手の両方を驚かせたボールは気持ちのいいほどの音を立ててグローブに収まった。

 武史のバットは目測を狂わせるほどに、手元でノビた栄純の球を捉え損ねたのである。彼にとって最高のスイングと自負できるほどの一振りが栄純の想像以上のノビに負けたのである。

 バッテリー初めての三振は一生忘れられない一戦となった。

 両者共々どちらが勝ってもおかしくない勝負である。ただ今回は栄純に軍配が上がっただけだ。

 偶然の重なりで勝利を手にしたが、運も実力の内だ。栄純の気持ちの強さが勝利を呼び寄せたのである。この打席での勝利の女神は栄純と歩純に微笑んだ。

 

 興奮覚めやらぬまま、歩純は捕球した球を素早く送球しにかかる。飛び出していたランナーは武史の三振に思わず硬直する。このチャンスを歩純が見逃すはずはない。

 一塁と二塁、どちらに送球るかと問われれば二塁だ。ファーストはまったくの初心者が守っている。そのためベースカバーに入れていない。その点二塁へはセカンドがカバーに入る体勢をとってくれている。

 チーム内で1番心配性だった男がファインプレーを見せていたのだ。ランナーが送球の速さに驚く暇すら与えず、歩純は二塁を刺す。

 そのままセカンドがタッチし、あっという間にスリーアウトチェンジだ。

 

 観客と選手は一連の流れに興奮が抑えきれない。栄純の好投、武史のスイング、歩純の送球。地味だったがセカンドのがカバーも野球通の施設職員には評価された。どれもまるで本物の試合のようで観客すべてをハラハラとさせるほど虜にした。

 

 栄純が赤城小メンバーから祝福を手痛い受けているの様子を歩純は嬉しそうに眺めた。興奮する友達に遠慮なく背中を叩かれているが、栄純も嬉しそうに笑っている。叩かれるは勘弁だと思っていたが、次の祝福先は歩純であることをまだ知らない。

 

(お前らいいバッテリーになるぜ。)

 

 一方で武史は悔しさを滲ませていた。歓喜を爆発させる相手チームを見るのは慣れている。

 だが初めて同年代に負けたのだ。今まで負けたチームには年上ばかりだ。

 さらに自分の力不足を痛感されるような負け方だ。悔しくないわけがない。

 ただ自分の最高のスイングだったことは胸を張れる。それゆえに清々しい気分でもある。武史にとってこれからの目標が明確にあの2人となった瞬間だ。負けず嫌いの彼はこれからより一層の練習に励むことを心に誓った。

 その様子にチームメンバーは慰めるよりも、自分達の守備に備えることにした。打席に入る前は1番打者も武史のことを馬鹿にしていたが、あの勝負の後では口を紡ぐほかなかった。4人打席に入った中で自分が1番役に立ていないことが明白だったのだ。彼もまた密かに悔しさを滲ませていた。

 

 そして、ピッチャーを務めるのは協議の結果、武史に決まった。彼が選ばれた理由は彼がメンバーの中で1番マシだったからだ。いつもの彼の守備位置はファーストである。彼に比べれば、栄純のほうが幾分か投手としての質は上だろう。体格を生かした重い球が一番の選考理由だ。

 そして迎える1番打者は歩純だ。

 武史チームの予想では中心核である栄純か歩純がクリーンナップを務める予想を立てていた。予想が外れ、もしかすれば優秀な選手が他にもいるのではとの思惑が湧き上がる。

 しかし、もしそうだとしてもきっちりここを抑えることがなりよりも重要だと彼らは分かっていた。

 

 歩純が1番打者になった理由は自分で立候補したためである。ほかのメンバーも特に反対する理由はなく即決で了承された。

 歩純の持ち味は反射神経の良さと身体の柔軟性が高いことだ。それに加えていつでも冷静な性格と前世からの知識が加えられる。

 

 そして、なぜか昨日の一件の後から歩純の体の調子がすこぶる良い。

 懸念事項がなくなったことが歩純の体に大きな変化を与えていた。

 今まで思考の大部分を占めていた隠し事を打ち明けたことで、一気に思考能力が解放されていたのだ。

 

 歩純の感覚では指先1つまでまるで機械を操るかのように思いのまま動かせるように感じる。歩純は知る由もなかったが、前世と今生の不和がなくなったことにより、心身の一致が始まりつつあった。

 この試合の中で栄純だけでなく歩純も急速に自分の身体を使うという感覚を身につけていったのだ。まるで産まれたばかりの赤ん坊が自分の手足を確かめるように、歩純もまた成長していた。

 その結果、指先まで正確にコントロールできるような充足感を味わっていた。歩純は自分の身体に感じる今までにない成長を早く確かめるべく1番打者に名乗り出た。

 

 まるで放たれるボールの縫い目まで見えるようだ。

 投球練習を見て歩純はそう感じた。それほどまでに感覚が研ぎ澄まされているとも言える。

 体の線が細い歩純が長打を打つには、バットの真芯でボールをとらえる必要がある。だが、今の歩純にとってそれはあまりにも簡単すぎることだった。

 初球、ほぼど真ん中へと放たれたボールがとてもゆっくりと感じられる。このコースなら持ち前の反射神経と柔軟な身体を生かしたバットコントロールすら必要ない。歩純は来た球を素直にそのまま打ち返した。

 カキーンという打撃音から、山形の放物線を描く白球は高く高く上がった。青い空に白いボールのコントラストが綺麗に描かれる。

 誰もがボールを目で追い、陽と重なるところで目を逸らした。

 そして、そのまま森の中へとボールは消えて行った。飛距離も十分、この場合はホームランといっても過分はないだろう。

 幕切れとしては実に呆気ないものだ。歩純の初球ホームランにより、赤城小チームの勝利である。

 

 

 

 その後、赤城小に再戦をお申し込む武史達の前に怒り顔の先生達が立ちふさがった。お話は施設所有のボールを結果的に紛失してしまったことについてだ。

 白級と太陽が重なった後のボールの行方を誰も見ていなかったのだ。探しに行こうにも森が深く断念するしかない。すなおに職員に謝るほかなかった。

 施設側はボール一つなくなったくらいで困るわけではない。だが学校側としてはたかがボールとはいえ甘い処分とすることは出来ない。

 

 林間学校2度目のお説教を食らった歩純、栄純、武史御一行はすっかりと意気消沈した。施設内の掃除を言い付けられ、すべて済んだ頃にはすでに夕暮れ時だった。

 そうなれば外で遊ぶことは叶わず、再戦は持ち越された。

 だが二泊三日の林間学校も残すところはあと僅かだ。結局、再戦することは叶わなかったが、いつかまた勝負しようと固く約束する。

 この約束が果たされるのは彼らが中学生となった時であり、長い間持ち越されることになる。

 

 夕食の時も持ち出される話題は先程の勝負の話である。お説教から解放されたあと、各々の視点から語り始め大盛り上がりした。

 話すタネは尽きることなく相手チームのメンバーもしだいに会話に混ざり始める。

 すでに蟠りなどなく皆一様に和気あいあいとしている。

 そんな中、栄純と歩純のもとに武史が訪れた。

 

「出たな!ゴリ!」

「ゴリは止めろ。似合いすぎる。」

 

 武史を見た栄純が開口1発目にあだ名をつけ、すかさず歩純がツッコミをいれた。おもわず面食らった武史のこめかみがピクリと動くが、単刀直入に話題を切り出すことにした。

 

「お前達はジュニアチームには入っていないのか?」

 

 この質問に栄純はクエスチョンマークを浮かべた。これまでジュニアやクラブについての話題が栄純と歩純の間で出されたことはない。そのため、栄純だけは質問の意図する内容が分からず困惑した。

 歩純が質問に否と返事をすれば、武史にうちのチームにこないかと誘われた。

 武史としては実はこの2人はどこかのチームに所属しているのではと勘ぐっていた。だから所属していないこたに驚き、自身のチームへ誘った。ライバルと認めるに値するが、この2人がいれば日本一も夢ではないと微かに思ったのだ。

 

 歩純は有難いお誘いだが、確答が出来ないと伝えれば、武史は渋々ながらも引き下がってくれた。

 質問の答えを聞き終われば、もう用は済んだとばかりに席を立つ武史を栄純が引き止めた。ジュニアチームについて気になった栄純は今度は武史を質問責めにした。

 栄純の押しの強さに困惑する武史が助け舟を求めるように歩純に視線をくれた。女と間違えた挙句、揶揄ってくれた仕返しだと歩純はその視線を受け流した。しだいに意気投合する2人を見て、いずれ彼らはお互いを高め合うライバルになると歩純も予見した。

 

 夕食の後は林間学校最後のイベント、キャンプファイヤーだ。総勢200人弱の生徒が一堂に会する。そこでは巨大な焚き火を囲みフォークダンスを踊るらしいが、やる気のある生徒は見たところいない。

 日が暮れる頃に外で変わったことをするという特別感が生徒達には広がっていただけだ。

 

 日が沈み、ダンスも終わり沢山いた生徒も散り散りになっている。多くは焚き火の周りではしゃぐ者やいつも通り世間話を楽しむ者たちだ。栄純にダンス中ずっと振り回され続けた歩純は草臥れて椅子に座り込んでいた。

 当の栄純はまだ楽しそうに火の周りを友達と走っている。見かねた若菜がいつのまにか歩純の横に腰掛けていた。

 持ち出される話題は野球勝負のことだ。

 嬉しそうに語る若菜は栄純に惚れ直したらしい。確かにあの勝負の時の栄純はいつもと雰囲気がだいぶ異なっていた。

 たくさんのギャラリーがいる中、その姿をは1番注目されていたと言ってもいい。だから、今は自分と同じ様にカッコいい姿に惚れてしまったかもしれない恋敵の発生に注視しているようだ。

 

 しかし、あの鈍感な栄純が他人の恋心に気付くとは思えない。若菜の気持ちすらまったく気がついていないのに、他校の女子生徒のことなど言うまでもない。

 だが若菜の懸念材料としては、いくらあと鈍感男たちでも、もし告白されるようなことがあればなびいてしまうのでは、ということだ。

 勇ましい姿に惚れた他校の女子生徒がキャンプファイヤーのもとで気持ちを告げる。とてもロマンチックな光景だ。

 学校行事とか修学旅行など特別な時間にというのは告白のいい機会でもある。ならばいっそ若菜が告白すればいいのではと思うが、そんなことを言えば怒られるので賢明な歩純は言わずにおいた。

 

 この後も若菜の栄純への愚痴を聞きながら時間を潰した。そろそろお風呂の時間だと部屋に戻ろうとした時、後ろから女子生徒の集団に声をかけられた。

「頑張って。」や「ファイト。」と声かけられた1人の女子生徒がほずみの前までやってきた。

 どことなく赤い顔はキャンプファイヤーのせいだけではないのだろう。緊張している感じがこちらまで伝わってきそうだ。用事を察した若菜は歩純と女子生徒からすこし距離を取ってくれた。

 

「井川君、良かったらこれ読んでください。」

 

 差し出された手紙は女の子らしく折り畳まれた可愛らしい手紙だ。急造した手紙はノートを切り取って作られており、前もって準備されたものではないのだろう。それでも色使いが工夫されていて、貰った方としてはとても嬉しい。

 もじもじとした言動も可愛いらしいとこの場では言えるだろう。

 感謝しながら手紙を受け取れば、相手の顔がさらに赤く染まった。返事はいつでもいいらしく、最悪無くてもいいということだったがきちんと返事はしようと歩純は決めた。

 手紙を渡し終えたことで女子生徒達が去った後、若菜が興奮気味で近づいて来た。

 

「なんて書いてあるの?はやく開けなよ!」

 

 催促されて歩純が手紙を開ければ、やはりラブレターだった。中身を簡潔にまとめれば好きです、文通しませんかというところだ。

 まだ携帯電話をもっている人が少ない世代ならではといえる。住所と郵便番号がしっかりと書かれており返事はここに送ればいいのだろう。

 歩純にはまたまだやるべきことが多く、申し訳ないが断るつもりだ。「私も告白してみようかなー。」と心にもないことを若菜が口にしたので、できるものならとついつい言い返したら若菜に怒られた。

 実はその光景を見ていた者は多い。女子生徒の集団は思いのほか目立ち、結果として告白シーンも多くの人に見られていた。

 それは栄純や武史だけでなく、ほかの歩純を狙う女子生徒に大きく波紋を与えた。そのために部屋までたどり着く間に同じような光景が繰り返された。

 

「野球してる姿がすごくカッコ良かったです。」

「一目惚れしました。」

「わたしと付き合ってください!」

「今度デートしてください。」

 

 計6人から告白された歩純に栄純達の視線がつき刺さる。手紙をくれたのは2名、言葉で伝えてくれたのは4名の計6人だ。告白してくれた人には申し訳ないが全員断るつもりだ。

 そのことがさらに男子生徒からの顰蹙を買い、歩純は白い目で見られた。なぜこんなにも言い寄られる訳が歩純には分からなかった。

 あの野球勝負では間違いなく栄純と武史の2人のほうが目立っていたはずだ。小学生でモテる奴は目立つやつと相場が決まっている。それならばあの2人のほうがもてるだろと、歩純は頭を悩ませた。

 頭を悩ませる歩純だが答えは簡単だ。

 あの2人に劣らず負けず歩純も目立っていただけである。

 キャッチャーマスクもないため素顔が常に晒され、間違いなく1番美形の歩純の注目度はもとより高い。さらに一球ごとに良い音を鳴らすキャッチャーには自然と視線が向く。加えて、最後のあっと驚くような送球。そしてダメ押しに初球場外ホームラン。

 これだけ注目される要因を増やせば、結果は明らかである。

 そのことに気づいた歩純はほんのすこしだけやり過ぎたなと反省した。夢中になると周りが見えなくなる悪癖は未だに治っていないらしい。

 

 すこしだけ若菜には朗報がある。

 連続告白劇にあの栄純ですら赤くなっていたことだ。あながち告白すれば、若菜も応えてもらえるのでは、とふと思えた。

 

「おまえ、どれだけ告白されてるんだ。羨ましい。言ってみろ!何人だ!」

「うるせーよ、ゴリ。6人だ、6。」

 

 風呂場でたまたま時間があってしまった赤城小と武史達に早速問いただされた。さすがに辟易した歩純の彼らへの対応はおざなりになる。

 思いの外疲れた1日になり疲れを癒すために歩純は湯船に浸かった。

 普段は入れないような広々とした浴槽に思いっきり足を伸ばした。ぐーと足先まで伸ばして全身の筋肉を癒す。まったりとしながら今日の試合の反省点でも考えようかとしていた。

 その時、浴槽に飛び込んできた栄純のせいで顔にお湯がかかり、つい息が詰まった。昨日も同じことをして怒ったはずなのだが、栄純はすっかり忘れているようだ。

 仕返しとばかりに栄純にお湯をかければ、一気にお湯かけ合戦が勃発した。赤城小対武史達の構図が出来上がり、気付けば浴槽のお湯枯れていた。さらに騒ぎすぎた結果、3度目のお説教が始まったことは言う話でもない。

 

 すっかりさめた体を温め直し更衣室へと向かう。湯冷めする前に体をしっかり拭いておきたい。加えて、歩純は栄純が髪を乾かさずに放置するのを止めなくてはいけない。

 そんなことを歩純が考えていると、武史がぼそりと呟いた。

 

「……本当に男だったんだな。」

 

 武史の視線の先は歩純の下腹部だ。呟いたが最後、武史の顎に歩純のアッパーが炸裂した。体格差は圧倒的に劣る歩純が武史を沈めた。一切の容赦の無さに誰もが動きを止めてしまった。

「くだばれ、ゴリ。」とついでに歩純は吐き捨てる。

 それを見た多くの者が湯冷めではない震えを感じた。そして、歩純だけは怒らせないようにしようと、この時赤城小の面々は肝に命じることになる。

 

 

 

 

 

 




武史回です。
オリキャラです。

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