いつか見た理想郷へ(改訂版) (道道中道)
しおりを挟む

幼少編(改訂版)
月は、その夜を眺めていた


 

 

 

 ―――健やかに生きて、フウコ。……私は誰よりも、貴方の幸せを願っているわ。もう貴方は、誰よりも、自由よ。さようなら……私の、愛しき子………。

 

 

 

 かつての母の言葉だった。本当に血の繋がった(、、、、、、、、、)、母の記憶だった。

 

 

 

 ―――平和な世を……必ず、ワシと、そして木ノ葉の子らが実現してみせる。だから、フウコよ……お前はその世で生きろ。

 

 

 

 一度は恨み、けれど惜しみない愛情を捧げてくれた彼は、真っ暗な未来へ、一筋の光を垂らした指針となった。

 

 

 

 ―――頑張れ……フウコ………。

 

 

 

 きっと、彼への愛は、本物だ……。

 

 

 

 

 砂粒のような記憶が、鈍色の光を放ちながら、手の形をした意識から零れ落ちていく。

 

 足元には、真っ赤な血と黒い嗤い声が。

 

 輝く記憶たちは井戸に飲み込まれる蛙のように、血と声に飲み込まれ、あっさりと色を変えられていく。朝焼けを追いかけ、その果てに夜空で命を燃やし落ちていく鳥の姿にも似たその残酷さを、ただ、ぼんやりと眺めることしか出来なかった。

 

 喪失感はなかった。

 絶望も、なかった。

 ましてや後悔なんて……あるはずもなく、確かなものは、灰色の感情が役目を終えた秋の案山子のように立っているということだけだ。

 

 ふと意識を外に向けると、身体は熱かった。

 燃えるように熱く、そして苦しかったかもしれない。

 

 皮膚に塗りたくられている血のせいなのか、鉄臭さと生臭さを放つ自分から逃げるように、視線は夜空を指していた。

 

 満月だった。

 

 青白い光が、薄い雲で研磨され反射され、平等に無機質に、地上に降り注がれている。

 きっと、月も自分がそうであるように、淡々とした感情で、けれど見下ろしているのだろう。何となく、そう思う。あるいは、嗤っているのかもしれない。愚かしいことをしたのだな、と。

 

 たとえ嗤われているとしても、どうでもいい。

 

 雑音は、もう、聞き飽きた。

 この雑音に満ちた世界に期待していることなんて、何もない。

 くだらないことを垂れ流す、壊れた世界なんか……。

 

 

 ―――待て…………、フウコ………。

 

 

 フウコと呼ばれた少女は、血で赤く染まった顔を後ろに向ける。細い顎と小さく閉じられた口、すらりとした鼻筋は顔を端整に表現しながらも、無機質さも伴っていた。長い睫は二重瞼を綺麗に囲っている。少女の両瞳は、長く軽くウェーブのかかった黒髪に纏わりついている血よりも赤かった。

 

 いや、ただ赤いだけではない。

 

 黒い瞳孔を、正三角形の頂点のように囲う黒い勾玉模様が三つ。それらを円形の黒い線がつなげていた。

 

 写輪眼―――うちは一族が持つ、特殊な眼を、少女は持っていた。

 

 憂いも疲れも感じさせない冷淡な視線は、幼い頃から過ごした町の姿を捉える。

 

 町を囲っていた塀は、かつてのように月明りを鮮やかに反射せず、ひび割れ、所によっては抉れていた。道も同様に、抉れ、幼い頃に歩いていたのが信じられないほどに荒れ果てていた。

 

 それらは、戦闘の跡だった。

 

 悲惨な町並み……道の中央に、一人の少年がうつ伏せに倒れている。少年は、痛みと疲れで震える首を動かし、顔をあげていた。口端から血を流し、整えられた顔は痛みで歪んでしまっている。

 

 黒い瞳から送られる視線は、それでも真っ直ぐ、少女を睨んだ。

 

「まだやるの? 私は、やだな。イタチは弱い、弱すぎる」

 

 高級な鈴のような声は深海のような夜を澄ませるほど無機質で、同時に呆れを隠そうともしない重さも持っていた。

 

 少女は、今度は身体ごと少年に向けながら、ちらりと視線をあげる。

 

 少年の後ろには、両眼から涙を流している男の子がいた。倒れている少年と顔立ちが似ている。

 

 ―――どうして……、姉さん。どうしてだよッ!

 

「……姉さん? そんな呼び方、止めてよ。虫唾が走る……、気持ち悪い」

 

 一筋の生温かい風が、少女の髪の毛を柳のように揺らした。

 

「私は……ずっと、我慢してきたの。ずっとずっと……。分かる? 新しい術を思いついても試せるくらいに強い相手がいない、少し本気を出せば何でも出来てしまう、挙句にうちははその身に宿る才能を平和の中でのうのうと腐らせる。嫌になる。こんな事になるなら……平和なんて、望むんじゃなかった」

 

 ―――……嘘だ…………、なら…………なぜ、今になって………………。

 

「何となく。ああ、でも、イタチとの勝負は少し、楽しかったかな。でも、シスイ程じゃない。シスイの時は、もっと、楽しかった」

 

 ―――…………ふざ、けるな…………!

 

「ふざけてない。ふざけてるのは、イタチだよ。結局、イタチは一度も私に勝てなかったね。本当に、本気だったの?」

 

 少女は夜空を見上げた。

 いつも少女は、空を見上げていた。

 

 初めて彼と出会った日も、

 災厄が暴れて辺りが火に包まれた夜も、

 いつの間にか無邪気にアカデミーで過ごしてしまっていた日常でも、

 

 それらの記憶は空の色と重なっていた。

 

 海のように美しい蒼だったり、

 影のように怖く深い黒だったり、

 泣きそうな程に輝く黄金のオレンジ色だったり。

 

 流れ星のように頭の中を駆け巡り、そして消えて行く。もう自分にとって、不要で、いらない記憶たち。

 

 少女の両眼、その瞳が変わる。

 

 左眼は【三角形が三つ、微かにズレて重なった】紋様に。

 右眼は【星の形をした】紋様に。

 

 万華鏡写輪眼。

 

 本来ならありえない筈の、左右非対称。

 

「もういいや。せっかく、イタチと遊ぶのを楽しみにしてたのに。二度と、私の前に姿を現さないで。気持ち悪いから。弱い人は弱い人らしく、平和に生きた方がいいよ。寝て、起きて、ご飯食べて、お風呂入って……きっと二人とも、明日になればそうなるから。じゃあね、バイバイ」

 

 少女は後ろの男の子に視線を合わせた。

 倒れる音が、虚しく響き渡る。

 今度は少年と。

 少女は常に無表情で、少年は気を失うその寸前まで苦しみと怒りと、疑惑を表情に滲ませていた。

 

 

 

 砂粒はもう、無くなった。

 

 彼らと一緒に過ごした楽しく輝かしい日常はどこか遠くへ行ってしまった。

 いつか見た、黄金の時間は暗闇の中へ。

 全ては……過去の中へ。

 

 町から音が無くなる。

 

 それでも、月は青白い光を放ち、その夜を眺めていた。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

青空の下で出会う

 ※追記です。

  場面転換の際、記号を用いることにいたしました。記号の読み取り方は、以下の通りです。

  ☆ ☆ ☆ → 時間経過

  ★ ★ ★ → 時間が遡った


 

 

 第三次忍界大戦が静かな終結を迎えて、およそ一か月が経過した。

 

 これまでの忍界大戦とは比べものにならないほどの消耗戦は、多くの死傷者を生み出した。終結後に、すぐさま木ノ葉隠れの里の上層部は、傷ついた里を修復する為の復興政策と、他里との同盟締結などの外交政策に取り掛かったが、人手不足という物理的な要因と人々に刻まれた悲しみを払拭しきれていない精神的な要因が重なり、里を包む空気は未だ重かった。

 

 昼下がり。

 

 里に侵食する重い空気とは無関心に、馬鹿らしいほどの快晴から、日差しが真っ直ぐに降りている中―――うちはイタチは、里の外側に近い商店街を歩いていた。

 

 商店街と言っても、今は、人はいない。大戦中の襲撃を受けて、軒並み建物が倒壊しているため、住人たちは別の場所に移動しているからだった。

 

 復興の手は、まだ届いていない。

 

 不気味な静寂が鎮座しているせいで、大人さえも不必要に近づかず、たとえ近づいたとしても重い空気のせいで頭を垂れてしまうような場所を、イタチの黒い瞳は辺りをはっきりと眺めながら進んでいく。

 

 特に目的地は設定していなかった。

 

 強いて言うなら、大人たちが口々に囁く【せんそう】という言葉が何なのかを知る為、というのが目的である。自我を持って一番最初に聞いた言葉が、それだったのだ。

 

『戦争をしているんだ。なら、今は悲しんでいる暇はない』

 

 当時は、父―――うちはフガクの言葉も分からず、そして、普段の彼の厳格な雰囲気から離れた暗い表情の意味も分からなかったイタチだったが、四歳になり、人の表情と感情の連携を直感的に理解できるようになってから、疑問を抱くようになった。

 

 フガクも、そして大人たちも【せんそう】という言葉を口にする時は決まって、悲しそうな表情を浮かべていた。

 

 きっと嫌な言葉なのだろうという想像までは、イタチにはできたが、どのようなものなのかまでは分からなかった。他の大人たちに聞いても、教えてくれない。なら、自分の目で確かめるしかない、と思い立ち、今に至る。

 

 ―――これが、【せんそう】…………。

 

 倒壊した建物の無残さを前に、そう思った。

 

 まだ正確には、戦争の全貌は理解できていない。だが【せんそう】という言葉がもたらした結果が、今見ている酷い光景なのだということだけは、はっきりと分かった。

 

 瓦礫の隙間や一部が赤い所もある。

 

 血だ、とイタチには分かった。

 

 巻いた風が微かに砂煙を作り、同時に嫌な匂いがして、片手で鼻を抑える。不快な臭いが、未だ発見されない瓦礫の下に眠る【物】から発せられているという知識がないは幸いだっただろう。イタチは臭いから逃げることだけを意識して、歩みを速めた。

 

 イタチは以前から、落ち着いた子だと、同族の大人たちから評価されていた。しかし、その評価は厳密ではない。

 

 彼には才覚があった。

 

 忍術における才。身体能力における才。

 

 だがそれらも、やはり、厳密ではなく、最も彼に秘められた才覚は、研ぎ澄まされた冷静さである。

 

 ―――ひどい。どうして、こんなことに……。俺は……何も知らないんだな……。

 

 自分は何も知らない。

 

 単純な事でも、気づくことが難しいそれを、イタチは四歳で感じ取った。自分がどのような位置にいるのかを理解できたのだ。何も知らない、ちっぽけな自分。普通の子供なら、感じ取った途端にいじけて、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。

 もちろん、子供であるイタチも、無知な自分にショックを受けていたが、そこで、彼の才能は発揮される。

 

 つまり、冷静さ。

 冷静さとは、思考が停止しないこと。

 

 初めて見る光景に、初めて嗅ぐ臭い。不愉快な感情。何も知らない自分。

 

 それらを理解しても尚、イタチの思考は淀みなく、前に進んだ。

 

 ―――どうすれば……知ることができる……?

 

 どうして戦争が起きたのか、どうすれば戦争を起こさせないことができるのか。

 

 足りない知識を、今すぐ欲しいと思った。

 

 歩いていると、道の真ん中に一冊の本が、無造作に落ちていた。

 

 視線を横に向けて倒壊した一つの瓦礫の山を見ると、隙間から多くの紙切れや本の残骸がはみ出ている。本屋だったのだろう。はみ出ていた本はどれも表紙や本紙が破けている。どうやら倒壊した本屋から落ちたのだろう道中の本も、表紙すらない。

 

 瓦礫に近づいて、一番手前の石をどかしてみる。本が知る為の手段の一つであることは知っていた。

 

 本を読めば何か知ることができるかもしれないと、イタチは無秩序に本を探し始めた。石をどんどんとどかしていくと、奇跡的にほぼ無傷の本を見つけた。手に取って表紙を確認する。【忍の心得・その一】と書かれているが、まだイタチには読めなかった。

 

 漢字を読み解けはしないものの、イタチは本屋から少し離れて、道の真ん中に腰を降ろして何ともなしに開いてみる。

 

 子供の用の本とは異なり、縦書きの文字しかない。漢字ばかりで、やはり内容は分からないが、ページを捲っていく。

 

 ページは左から右へと流れていき、文字の在庫は瞬く間に無くなった。

 

 内容は……一厘も分からなかった。

 

 ―――大人は、きっと分かるんだろうな……。

 

 イタチの中で、基準が生まれた。

 まずは、言葉を知る、という基準が。

 やはり彼の冷静さは、ただの子供が持っているものとは次元が違う。

 

 本を片手にしっかりと持って立ち上がる。

 そろそろ両親が心配して自分を探し始めるかもしれない。イタチは他に状態のいい本は無いかと一通り視線を巡らせるが、すぐには見つからず、とりあえずは諦めた。

 

 踵を返す……と同時に、強く風が吹いた。突風だ。

 

 風で舞い上がった砂埃が目に入る。空いている手で眼を擦って、瞼を開けた。

 

 

 女の子が立っていた。

 

 

 本が零れている瓦礫とは真反対に位置する、瓦礫の山。山は辺りの瓦礫の中で一番高く、元がどんな建物なのかも想像が難しいほど複雑に倒壊している。女の子は、その天辺に細い両脚で立ち、青空を見上げていた。

 

 小さく、息を呑み込んでしまう。

 

 うちは一族の家紋が背中に刺繍された青い半袖と白いハーフパンツ。黒い髪の毛は首筋を隠す程度に長く、風に流されている。見える腕と脚は健康的な肌色だった。イタチからは、彼女が横から見える。横顔は整えられた女の子顔で、赤い瞳が辛うじて伺えた。

 

 快晴の青空から降り注ぐ太陽の光を一身に浴びるかのように、あるいは、戦争で無残になった地上よりも澄んだ青空の向こうに行きたいと訴えるかのように、女の子は一途に空を見上げている。

 

 幻想的な、神秘的な、あるいはその中間。

 

 とかく、女の子の姿は、自分とは違う世界に立っているような錯覚をイタチにもたらした。同時に、不可解さもあった。

 

 うちは一族の子なのに、うちはの町では一度も見かけたことがなかったからだ。

 

「何をしているんだ?」

 

 話しかけると、女の子は変わらず空を見上げながら、呟いた。

 

「空を見てるの」

 

 高級な鈴ほどに澄みながらも、抑揚がまるで無い声は、明確にイタチの鼓膜を心地よく揺らした。

 

「何かいるのか?」

「空がある」

「空が無かったら、空じゃない」

「いい天気だなって。空、見てたの。きっと、どこの里も、こんないい天気なんだろうね」

 

 いったい彼女が、何を言わんとしているのか分からなかった。わざわざ空を見るためだけに、こんな所に来る必要はないのに。

 

 不思議な子だ、というのが、彼女への印象だった。

 

 女の子がイタチを見下ろした。赤い瞳と長い睫。初対面にもかかわらず、微動だにしない無表情は、むしろどこか余裕のある大人びた雰囲気を感じ取ってしまう。

 

 努めて、イタチは言った。

 

「戻ろう。きっと、君の親も心配してる」

「心配なんてしないよ。いないから」

 

 いない。

 

 その言葉が示している意味を瞬時に理解してしまう。

 

 ごめん、という言葉を寸での所で飲み込んだ。そういう言葉を言ってはいけないことだというのは、大人たちの対応を観察して学んだことだった。

 

 彼女にはイタチの戸惑いを感じ取ったのか「気にしなくていいよ」と言った。

 

「私だけじゃないから」

 

 軽やかに女の子は瓦礫から飛び降りた。音もなく着地をして、女の子は一人で歩き始める。イタチも後ろを歩いて、すぐに並走する。自分と同じくらいの身長だと、そこで初めて分かった。

 

 ねえ、と女の子は言う。

 

「どうして、戦争が起こったのか、知ってる?」

「……分からない」

「そう」

 

 素っ気ない返事だったが、彼女が言うと、妙に様になっていて不快さは感じなかった。

 

 きっと【せんそう】が起きた理由を知っている子供はいないだろう。もしかしたら、知らない大人もいるかもしれない。そもそも、子供と大人の境界線が曖昧な気がした。隣の女の子は、少なくとも、自分より大人だ。なんとなく、そう思う。

 雰囲気が、特に。

 

 逆に、道の向こう側から近づいてくる男の子の雰囲気は子供っぽい。

 

 彼よりは、自分は大人だろうな、と思う。

 

 男の子が目の前にやってくる。癖の強い黒髪に負けないくらいの明るい笑顔を浮かべると、イタチと女の子は必然的に足を止めた。

 

「よ、イタチ」

 

 右手を力強く上げて、いつものように声を掛けてきた。

 

「探したぞ。もう大人たちがカンカンでヤバい」

 

 言葉とは裏腹に楽しんでるかのような抑揚に、イタチは肩を小さく透かした。

 

「嘘をつくな、シスイ。もし本当に大人の人たちが怒っていたら、お前じゃなく、他の人が俺を探してるはずだ」

「ニシシ、まあな」

 

 うちはシスイは、並びの良い白い歯を大きく見せて笑った。彼は一番最初にできた友人だった。明るく、物怖じしない性格なのは知っているが、同時に、変に狡猾で悪戯好きであったりもすることも、よく知っている。最近になって、彼の嘘や冗談を見抜くことができるようになっていた。

 

 あっさりと嘘を見破られたことに臍を曲げることなく「でも」とシスイは流暢に呟いた。

 

「フガクさんもミコトさんも、心配してたのは本当だからな。だからシンユーとして、俺が探しに来てやったんだよ」

「礼は言わないからな」

 

 素直じゃないなあ、と笑顔を崩さないシスイにつられてイタチの頬も軽く緩んだ。いつも彼と会話をすると笑ってしまう。いつも、彼のペースだ。同年代の子でペースを崩されるのは、彼だけである。だからこそ、有意義な友達関係を築けている。

 

 対して、隣で木のように立っている女の子は、違う意味で自分のペースをいつの間にか乱している。シスイとは真逆の毛色だ。

 

 シスイが不思議そうに、イタチの隣に立つ女の子の顔を覗きこんだ。どうやら彼も初対面のようで、不思議そうな表情を浮かべている。

 

 女の子は逆に、変わらない無表情を保ちながら、瞳の動きだけでシスイを見た。

 

「で、イタチ。この子、誰?」

「この子は……」

 

 そこで、そういえば、少女の名前を知らない事に気付いた。

 

「なんだよイタチ、名前も訊いてないのか。恥ずかしがりなやつだなあ」

「うるさい。……名前、訊いていいか?」

 

 女の子の髪の毛が、そよ風に揺れた。彼女は小さな手で髪の毛を抑えながら、イタチ、シスイの順に細かく目配せを一秒ほどした。

 

「フウコ。―――うちは……、フウコ」

 

 風が止む。

 

「俺はうちはシスイだ。よろしくな、フウコ」

「うちはイタチ、よろしく、フウコ」

「……うん、よろしく」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 三人は並んで歩いた。フウコを真ん中に、彼女の右手にイタチ、左手にシスイ。よく喋ったのは、シスイだった。彼の饒舌さは今に始まったことではないけれど、その時は、舌によく油が乗っていたのか、すごかった。フウコに色んな質問をした。

 

 うちはの町で見かけたことはなかったけどいつもは家にいるのか、何歳なのか、忍術に興味があるのか等々。質問の字数に対して、フウコの返事は、

 

「うん」

「四歳」

「ある」

 

 など、非常にコンパクトなものだった。けれど、面倒臭そうな雰囲気を感じなかった。歩く動作や目配せなどを見ると、コンパクトさが彼女のポリシーのようだった。

 

 時には、イタチにも話題が振られた。

 

「その本、どうしたんだよ」

 

 片手に抱えた本が気になったようだ。フウコも、視線だけをイタチに向けていた。

 

「拾ったんだ」

「どんな本なんだ?」

「分からない。でも、面白そうだった」

「分からないのに面白そうって、凄いこと言うな。まあ、俺も全然、漢字は読めないから人のこと言えないけど。フウコはどうだ? 漢字、読めるか?」

「見せて」

 

 イタチは表紙をフウコに見せた。彼女の表情は微動だにしない。

 

「忍の心得・その一って、書かれてる」

「こころえ?」

 

 首を傾げるシスイに、フウコは頷く。頷く、と言っても一センチも落差は無い。

 

「こう考えておいた方がいい、っていう意味」

「へー……。フウコって、もしかして滅茶苦茶頭いいのか?」

「え? …………ううん、その、普通」

 

 微かに言葉の抑揚に乱れが生まれたのを、イタチの耳は捉えていた。どうして驚いたのか、分からない。

 その後も何度かシスイがフウコに質問するが、抑揚が乱れたのはその時だけだった。

 

 商店街から抜け出して、うちはの町に近づくにつれて、徐々に、人の姿が見え始めた。先ほどまでいた所に比べれば活気は当然あるが、やはり陰りがあると、三人は感じ取っていた。

 

 人と人の間を進んでいくと、うちはの町の入口が見えてきた。重厚な木造の門である。幕がかけられていて、そこにはうちはの家紋が書かれている。

 

 フウコが突然足を止めた。イタチとシスイは三歩進んでから足を止め、振り返る。

 

 どうした? とシスイが尋ねた。

 

「……私は、こっちだから」

 

 顔だけを彼女は別の所へ向けた。どこを見ているのか、未だ里の建物の並びを知らないイタチからすれば分からない。彼女は両親を亡くしたと言っていた。親を亡くした子供が集まる建物があると、聞いたことがある。きっと、彼女が向いている方向にあるのだろうとイタチは当たりを付けた。

 

 事情を知らないシスイは意味が分からないように、視線がフウコと同じ方向を見ていた。イタチは頷いた。

 

「またな、フウコ」

「バイバイ、イタチ。シスイも」

「ん? ああ、じゃあな。今度は遊ぼうぜ」

 

 二人は軽く手を振って見送るものの、遠ざっていくフウコが振り返すことはなかった。

 

 最初から最後まで不思議さとコンパクトさだけを伝え、そして何より、大人びた雰囲気と聡明さを纏っていた、女の子。

 

 今度会った時は、色々と教えてほしいと、イタチは思った。

 

 そして、次の再会。

 

 イタチとフウコが二度目の邂逅を果たしたのは、およそ一ヶ月後の事となる。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木ノ葉隠れの里と砂隠れの里の間に同盟条約が結ばれ、後に四代目火影が選ばれた。

 

 四代目火影の名は、波風ミナト。黄色い閃光という異名で、第三次忍界大戦において他里から畏れられ、木ノ葉隠れの里に多大な貢献をした忍である。

 

 良い意味でも、悪い意味でも、第三次忍界大戦終戦という時代の節目を迎えたこと、そして老齢という事もあって、三代目火影である猿飛ヒルゼンが勇退を決意したため、次代の火影を選定した末に、彼が選ばれた。

 

 ミナトは、戦争に対する深い悲しみと、それによって散っていった多くの命たちに報いるために尽力した。

 

 その一環として、孤児への環境整備が行われた。

 

 この戦争で多くの子供が戦争孤児となってしまった。

 戦争のために忍術を学んだ子から、まだその年齢にまで達していない子、揚句には戦争で負傷してしまい生活弱者へとなってしまった子まで、様々に。

 

 しかし今の里には、それら全ての戦争孤児を保護するほどの余裕はなかった。

 

 建築物の復興や砂隠れの里以外の他里との細かい同盟。戦後の荒れた里の近辺や内輪の警備と統制。新たな里のシステムの構築など、やるべきことは数多くあれど、けれど中心となって指揮する忍や手足となって実現していく忍の数は圧倒的に少なかったのだ。

 

 そこで提案されたのが、養子縁組。

 

 忍として既に教育を受けている子は里の中で、教育を受けていない子、または生活が困難な程に被害を被ってしまった子などは、火の国の一般的な孤児院へと移す。里の中に残る子は、有志で作った孤児院へと預けられるか、大人が養子縁組として受け入れるかのどちらかとなったのである―――中には、暗部が密かに所有する孤児院へと人知れず送られる子もいたが―――。里に残る大抵の孤児は、戦争前に親同士で親しかった相手方の元へ養子となることが多く、戦後に残った孤児院へと行く子は少なかった。

 

 その中でうちは一族での戦争孤児は少なかった。

 

 元々、忍としての才がある一族である。第三次忍界大戦でも、戦死したうちはの者は少なく、そのため戦争孤児も他の一族に比べれば圧倒的に少ない。

 

 しかし、少ないというだけで、ゼロというわけではなかった。

 

 現にうちはの一族内でも、養子をとっているところはある。

 

 イタチの家も、その一つだった。

 

 フウコがイタチと再び出会うことになったのは、これを経緯としたものだった。

 

 彼女がうちはフガクによって、養子となったことがきっかけである。

 

 家に帰ってきたフガクの手に引かれて姿を現した彼女に、イタチは瞼を大きく開かせた。

 

「……フウコ」

 

 自然と、彼女の名を呟いてしまった。開いた玄関から入ってくる夕日を浴びて、影で顔が暗くなっているものの、間違いなく、フウコだった。

 

 フウコの小さな手を握っているフガクは、まさかイタチが彼女の名前を言い当てるとは思っていなかったようで、瞼が微かに動いた。

 

「なんだ、イタチ。知っていたのか」

「前に会ったんだ。まだ、自己紹介しかしていないけど……」

「そうか、それは良かった。イタチ、これからこの子が、俺たちの新しい家族だ。……フウコ、もう一度、イタチに挨拶をしてあげてくれないか?」

 

 フウコは頷いた。やはりコンパクトに、ほんの少しだけ顔が上下すると、彼女の前髪もそれに合わせて微妙に揺れた。

 

「うちはフウコ。よろしく、イタチ」

「ああ。よろしく」

 

 子供同士の挨拶に、上から眺めていたフガクが小さく笑顔を浮かべた。するとすぐに、家の奥からゆったりとした足音が聞こえてきた。木の床をしっとりとした足が叩く音。フウコとイタチが、同時に音の方を見る。

 

「あら、可愛い子」

 

 イタチの母であるうちはミコトは、フウコを見るや柔らかく笑った。長い黒髪を右手で撫でながら、膨らんだ腹部を左手でさすっている。来年に、第二子―――うちはサスケが生まれるのだ。

 

「フウコ、この人がこれから君のお母さんになる、ミコトだ」

 

 と、フガクが呟くと、フウコは礼儀正しく頭を下げた。まだ短い時間しか彼女と顔を合わせていないイタチだったが、その中で最も大きなアクションだった。

 

「これから、よろしくお願いします、ミコトさん」

「ふふ。よろしく、フウコ。もうすぐ御夕飯が出来るから、ゆっくりしてて。イタチ、フウコを部屋に案内してあげて」

 

 框を跨いだフウコの手を握って廊下を歩く。背中からフガクとミコトの会話が聞こえるが、すぐに遠ざかってささやかな笑い声だけが耳に届くだけになった。

 

「子供ができるみたいだね」

 

 代わりに、フウコの落ち着いた声が後ろから聞こえてきた。

 

「ああ。弟ができるんだ。もう、名前も決まってる。サスケだ」

 

 心なしか、声が弾んだ。事実、イタチは、まだ幼いながらも、弟ができるということを楽しみにしていた。

 

 部屋についた。そこが、これからフウコの部屋になるところだ。イタチが戸を引いて二人は中に入ると、八畳ほどの空間があった。

 

 部屋に入って、フウコは三秒ほど中を見回した。そして、顔を傾ける。

 

「……ここは?」

「フウコの部屋だ」

「物があるけど」

 

 部屋には既に物が設置されていた。

 

 右手には押入れ。真正面には、カーテンが全開になっている窓がある。窓から入ってくる夕焼けは、部屋を彩っていた。左手には本棚と机があって、それらには生活感があった。

 

 明らかに、誰かが使っていた痕跡がある。疑問を抱くフウコに、イタチは当然のように言う。

 

「俺の部屋だからな。これからは、フウコと一緒だ」

「いいの?」

 

 おそらく、自分がいることでこの部屋が小さくなるけど、という意味だろう。彼女の表情からの情報はあまりにも乏しい。ああ、とイタチは頷いてみせたが、やはり表情は揺るがない。ただ、そう、と呟いただけだった。

 

「この本……前のだよね」

 

 フウコの視線が、本棚に収まっている本に止まった。並んでいる本はどれも背表紙がまだ清潔だが、フウコが見たのだけは汚れていた。

 

 それは、フウコと初めて会った時に拾った本だった。

 彼女は手に取る。

 

「読めるようになったの?」

「まだだ。今は漢字や言葉を、他の本を読んで学んでる」

 

 あの日を境に、イタチは言葉を学び始めた。本棚に並んでいるほとんどは、漢字や言葉を学ぶためのものだ。中にはミコトから貰った忍術書もあるが、ようやく一冊を読み終わった程度で、拾った本も読破できていない。

 

 フウコの視線が一通り泳いでから、何も言わずに座って、窓から空を見上げた。イタチも座って、読みかけの本を手に取って腰を落ち着かせる。

 

 気まずさは、不思議となかった。

 

 むしろ、彼女の雰囲気が部屋の空気を整理しているような気がする。嬉しい事だった。

 あまり、賑やかな空気は得意ではない。嫌いと言う程ではないが、そもそも、賑やかな空気に合わせて自分も、という事が出来るくらいにエネルギーがないのだ。そのことを十分に理解している。かといって、同年代の子たちからの忍者ごっこの誘いも断り辛く、苦労しながら輪の中に加わることがあった。他の子たちと一緒にいる時は、静かな時間というのを獲得するのが困難だった。

 

 ページを捲る音さえ聞こえてくる静かさが、しばらく部屋に漂う。おかげで、本の内容がクリアに吸収されていく。

 

「忍術、使えるの?」

 

 そんな中、不意に、フウコの声が意識に割り込んできた。本から顔を上げる。彼女がいつの間にか手に持っていたのは、イタチが読破した忍術書だった。

 

「それに書かれている術だけは、なんとか」

 

 忍術書には、火遁の基礎に関する記述があった。印やチャクラコントロールのイメージなど、どうにか漢字や言葉の壁を乗り越えて学んだ。

 

 イタチの才能は、わずか四歳にして、たったの一ヶ月で火遁・鳳仙花の術を習得させた。

 

「……イタチは、天才なんだね」

「フウコは忍術を使えないのか?」

 

 皮肉や遠回しの自慢ではなく、素直な疑問。

 何となくだけれど、彼女は自分よりも遥かに、優秀なのではないかと思ったからだ。

 少しだけフウコは口を閉ざしてから、

 

「火遁の基礎と、軽い幻術くらい」

 

 あと、

 

「写輪眼くらい……かな…………」

 

 イタチの瞼が大きく開いた。

 

 火遁が使えるのはまだわかる。自分でも、習得できたのだから。

 幻術が使えるならまだわかる。幻術は女性の方が得意だといわれているからだ。

 けれど、写輪眼は違う。血継限界の写輪眼は、学べば使えるというものではないからだ。

 開眼できるかどうか、それは一種の―――才能なのだ。

 

「本当に、使えるのか?」

「うん。使える」

 

 フウコの両眼が、いつもの赤い瞳よりさらに赤くなる。瞳孔の両左右ななめの位置に勾玉のような黒い点が二つ浮かびあがった。父であるフガクが一度だけ見せてくれた写輪眼とは、一つほど黒点の数は少ないものの、紛うことなき写輪眼だった。

 

 イタチは顔を近づけて、じっと彼女の両目を見た。

 

 部屋の外からミコトの「夕飯ができたわよー」という声が入ってくるけれど、二人は静かに互いの目を見ていた。

 

「夕飯を食べ終わった後、少し勝負しないか?」

「勝負?」

「忍術勝負」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夕飯は賑やかだった。

 賑やかと言っても、ワイワイとしたものではなく、互いに気を使わないという賑やかさだった。

 

 フガクもミコトも、フウコのことをある程度理解したらしい。静かな子は多くいる。これが大人だと問題かもしれないが、フウコはまだ子供だ。ましてや、イタチというかなり落ち着いた我が子を持っているため、二人の対応は冷静だった。無理な会話、無遠慮な態度はせず、必要最低限でありながらテンポの良い慎ましい会話を交わしながら、互いに家族になる、ということを実感するという食事だった。

 

 楽しい夕飯が終わり、寝静まる前のささやかな雑談を経て、フガクとミコトが寝静まった、深夜。

 

 イタチとフウコは家を抜け出し、広場へと向かった。

 

 そこは子供たちがよく忍ごっこをするところで、用途が分からない土管が積まれていたり、寂しそうに立つ木が一本だけある簡素な場所。それ以外はただ平らな地面があるだけ。子供の二人が【忍術勝負】をするにはちょうどいいスペースだった。

 

「どうしたら勝ち? どうしたら負け?」

 

 フウコはイタチと離れて呟いた。静まり返った町は、不思議な緊張感を二人の間に置いていく。

 

「お互いに決定打を入れたほうの勝ちだ」

「忍術は使ってもいいの?」

「写輪眼も使っていい」

「いいの?」

「写輪眼がどれくらいの力を持っているのか知りたい」

 

 純粋な気持ちだった。

 同年代の子で写輪眼を使える子。それがどれほどの力なのか。

 

 この時に既にイタチの頭の中には、知識と力を求める感情が強かった。

 

 戦争の被害を目の当たりにし、もう二度とあんな惨劇は見たくないという、小さな願い。

 

 普段、同年代の子とは話しかけられたり、遊びに誘われることはあっても、自分から頼みごとをすることはしなかったイタチである。忍術勝負をしたい、という申し入れだけで、その意思が強いことが伺えた。

 

 イタチはすぐに構えをとった。

 

 まだ詳しく体術の事を知らない彼の構えは子供らしく無駄が多いが、集中力だけは伝わってきた。

 

 対してフウコは、静かに両目を写輪眼へと変えるが、幽霊のようにぼんやりと佇んでいるだけ。

 

 二人の間に、一つの生温い風が吹いた。

 

「ッ!」

「……ッ」

 

 勝負は数秒だった。

 

「私の勝ち」

「………………」

 

 イタチは、夜空を見上げていた。その手前には、自分を見下ろすフウコの顔がある。彼女の右手が自分の襟を掴み、左手は自分の右手を掴んで、地面に押し付けられている。倒された拍子に巻き上がった砂埃が、冷めた夜風の匂いと一緒に鼻に入った。

 

 時間が止まったように動かない二人の周りを、火花がゆったりを漂っていた。それらは、二人の火遁の術がぶつかり合った結果だった。

 

 まずイタチは火遁・鳳仙花の術を放った。たったの一ヶ月で覚えたばかりの術である。人に向けて放つのは初めてでありながらも、印を結ぶ手の動きは洗練されていた。印を結び終わってから術を放つまでの動作も同様に。内心では、上手くできたと思っていた。フウコを相手にするという状況が、集中力を高めたのかもしれない。

 

 渾身の力で放った術は―――しかし、フウコには届かなかった。

 

 イタチは見た。

 

 術を放った後、自分と全く同じ動作で、けれど、自分よりも遥かに速度を凌駕した動きで、同じ術を放つ彼女を。

 彼女の赤い写輪眼は、印を結んでいる時でも、はっきりと、自分を視ていた。

 

 フウコの放った術は、まるで鏡合わせのようにイタチのそれと同じ軌道を描いて、相殺されて、花火のように二人の中間で弾けた。

 

 火花が散る中を、フウコは躊躇いもなく突き進み、イタチの襟と左手を掴んで倒したのだ。

 

 たった数秒のこと。イタチの感覚的には、一瞬に近い。思い出そうとしても、フラッシュバックだ。だからこそ、イタチは、素直に自分の言葉を言うことができた。

 

「……すごい」

 

 悔しさなどは微塵もなかった。

 感心というか、尊敬というか。

 とにかく、見上げる夜空のように吹き抜けた感情に従って出た言葉だった。

 

 フウコはイタチから離れて、服についた砂を払う。けれどイタチは上向きに横になったまま、里の夜空を見上げ続けた。

 

「いきなり、忍術を使ってくるなんて思わなかった」

 

 驚いた風もなく、彼女は呟いた。

 

「どうやって写輪眼になったんだ?」

 

 そう尋ねるイタチに、フウコは淡々と応える。

 

「知らない。気が付いたらこうなってた」

「天才なんだな」

「知らない」

 

 フウコも夜空を見上げ、

 

「今日も、いい天気」

 

 と呟いた。

 確かに、とイタチは静かに思った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 静かな夜だった。

 

 夜なのだから当然といえば、当然かもしれない。そんな当たり前の静寂を獲得するのに、先の大戦で、どれほどの命が散ったのだろう。そして今も尚、閉め切られたカーテンの向こう側で、戦災によって命が失われているのだろうか。

 

 フウコは、眠ることが出来なかった。真新しい布団に身体を包まれながらも、意識ははっきりと身体から手離していない。

 

 興奮しているわけじゃないと、フウコはぼんやりと自分を分析する。そんな豊かな感情を発揮するほど、元気な人格じゃない。けれど、もっと子供らしくした方がいいのだろうか、とも思う。

 

 子供らしい、というものが、どういうものなのかは、分からないけれど。

 

 部屋に、規則正しい寝息が聞こえてくる。横を向く。前髪が視界を微かに遮るけれど、気にしないままに、フウコは髪の毛の隙間から覗くと、眠っているイタチの横顔が見えた。しかし、すぐに彼は寝返りをうって顔の真正面が伺えた。

 

 才能溢れる、不思議で、優しい子。

 

 それが、フウコから見た彼の評価だった。その評価には、彼が自分の兄という、霧の向こうに並ぶ木々のようなぼんやりとした付加価値が付いている。

 

 ―――こんな時代でも……優しい子がいる。

 

 平和な世なのかは、まだ判断できない。間違いなく、その方向へは向かっているが、それが必ず、実を結ぶかと言われれば、そうではないことは知っている。

 

 そして、どれほど長く続いた平和でも、たった一夜で崩壊することも。

 

 ―――もしも、また、戦争が起きたら…………私は……、

 

 そこまで考えて、フウコは思考を止めた。

 

 今は、止めよう。

 

 まだ自分は、子供なのだから。

 

 フウコは瞼を閉じて、意識を沈めていった。

 

 深く、深く、暗闇に。

 

 暗闇の奥は冷たかった。深度と共に、寒くなっていく。

 

 やがて暗闇は晴れて、蒼い世界に意識は下りる。

 

 蒼い空と、砂塵のような雲。それらを鏡のように反射する海。太陽はなく、空と海は水平線の彼方で交わっていた。

 

 意識が海に降り立つと、無音な波紋が一時、生まれる。

 

 目の前には、幾本もの柱が、それぞれ無秩序に傾きながら立っていた。柱は、円形に並んでいる。

 

 フウコは柱の前に立った。

 

「話しをしない?」

 

 声は、蒼い世界に吸い込まれていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去からの足音

 

 短い年月が流れた。復興に動き始めた里にとっては長い時間かもしれないが、イタチにとっては短く、そして充実した時間だったことは間違いない。知らない知識を獲得すること、フウコと共に術を実現していくことは、この上ない有意義さを感じた。

 

 イタチと、そしてフウコは、六歳になっていた。誕生日はイタチが先で、フウコが後。今年からアカデミーに入学することが決まっているものの、既に二人の知識と術のスキルはその枠を超えてしまっている。にも関わらず二人は、特にイタチは努力を休ませることはしなかった。

 

 暇さえあれば書物を読み、知識を蓄えた。家にある本は一通り目を通してしまっているため、最近では、里が管理している図書館に足を運んでいる。里の治安も安定しているおかげで、親同伴でなくとも、何も問題はなかった。

 

 その日もイタチは、図書館に赴いていた。

 

「いらっしゃい、イタチくん」

 

 出入り口を通ると、すぐ脇にある受付カウンターの女性が笑顔で迎えてくれた。何度も顔を出していたおかげで、カウンターの女性とはもう顔見知りになっていた。

 

 イタチが「おはようございます」と礼儀正しく頭を下げると、女性の笑顔が彼の後ろを見た。

 

「あら、今日はフウコちゃんも一緒なのね」

「おはようございます」

 

 後ろにいるフウコは無表情に挨拶をするが、女性の笑顔は変わらなかった。イタチほどではないにしろ、フウコもまた、図書館を利用していた。女性はフウコの事を理解していたのか、無表情で抑揚のない声の挨拶に対しても「おはよう」と何ともなしに返して「それで?」と続けた。

 

「今日はどんな本を探すの?」

「新しい本はありますか?」

 

 女性は天井を見上げながら人差し指を顎にあてた。

 

「忍術書は、新しいのはないかな。歴史書や児童書なら入ってるけど」

「そうですか。ありがとうございます」

「私も、なるべく手に入るように、館長にお願いしてみるから。今日は勘弁してね」

 

 安易な期待をしていたわけではなかったが、やはり、入っていないということには、少なからず残念だと思ってしまう。

 

 忍術の実験は毎日のように行われている。しかし、一朝一夕で開発や解明などが成功したら世話が無い。学ぶとしたら新しいものからという考えがあるものの、まだ子供な自分では、多くは望めないとイタチは心の中で呟いた。

 

 イタチとフウコは女性に小さく頭を下げてから、図書館の奥へと進んでいく。手前の本棚は子供用が多く、二人は見向きもしなかった。

 

 午前中ということもあり、人は多くない。まして、この時間帯にいる人は毎回同じだ。その人たちも、イタチとフウコのことを知っているのだろう。午前中から幼い二人を見ても、奇異な視線を送ることはしなかった。

 

 ある程度奥まで進むと、二人は無言で別々の本棚へと向かった。お互いに読む本が一緒になることはあまりない。

 

 イタチが足を運んだのは、忍術について書かれた書物の本棚だった。まだ読んでいない本を探し、今の自分に必要なものを手に取って、すぐにまた視線を巡らせて気になった本を手に取る。あっという間にイタチの片手には本のブロック塀が築かれた。しかしそれでも、随分と落ち着いた方だ。

 

 一時期、イタチは呼吸をするかのように本を読み耽っていた。

 

 知りたかった知識は、血継限界について。

 

 フウコと初めて忍術勝負をしてからというもの、イタチは一度として、再戦を申し込んだことは無かった。写輪眼の力を知ってから、未だ開眼できていない自分が勝負を申し込んでも、全く意味がないだろうと判断したためだ。

 

 しかし、フウコと再び忍術勝負をしたいという気持ちは小さな身体の中で強く燻ってはいる。どうにか写輪眼を開眼できないかと、イタチは奔走したものの―――良い結果は得られなかった。

 

 そもそも、血継限界という、一族の根幹に繋がる情報を書物に残すわけがない。調べて分かったことは、血継限界は、性質変化の異なる二つのチャクラを同時に扱うことによって可能にしているという概論だけだった。

 

 書物で駄目ならと、フガクとミコトに尋ねてみたこともある。

 

 けれど、

 

「まだお前には早い」

「それよりも、フウコと遊んできなさい」

 

 と返されるだけだった。

 当のフウコに訊いても、

 

「気づいたら、使えるようになってた」

 

 とだけ。人から聞くことはあまりにも期待できないと、イタチはすぐに判断した。―――ちなみに、シスイに訊くことをしなかったのは、どうせ訊いても、冗談で返されるだろうと思ったからだ。

 

 仕方なく、心に燻るフウコへの再戦という思いを抑えて、今はやはり、術を得ることに集中することにした。その過程で、フウコと一緒に修行をすることも多々あった。

 

 得た知識を実現する為に、修行中、互いに考察する。

 

 こうした方がいいんじゃないか?

 どういう場面で使う方がいいのか?

 

 イタチもフウコも、書物の知識通りに印を結ぶと、質はともかく、発現は可能だった。そのせいか、どうやれば質を高めることができるのかというのが焦点になりやすかった。焦点になりやすいと言っても、イタチだけ。フウコがやってみせる術は常に、クオリティは高かったのだ。

 

 修行の最後は決まって、二人で向かい合って学んだ術をぶつけ合う。どちらが、より術を習得できたのか競うのだが、毎回、フウコに負けてしまう。

 

 フウコが家族の一員となってから、彼女の事を色々と知ることができたが、特筆するべき点は彼女が天才であるということ。

 

 忍術と知識の吸収力も、思考も、ほとんどが自分とは段違いに高レベルということを実感した。なら、次の再戦までには、溝を開けられてしまうどころか埋めなくてはならないと判断したのだ。

 

 それらは、イタチが目撃した戦争の傷痕から、平和な世を支えていきたいという、年不相応な強い志の元に構築された偉大な判断だった。

 

 強くならなくてはいけない。

 平和な里を守るために。

 家族を守るために。

 

 大量の書物と言語辞典を両手で抱えながら、イタチは長テーブルに腰を落ち着かせ、一番上の物を淀みなく手に取ると同時に、隣にフウコが座った。隣同士で読むということも、この図書館においては恒例となっていた。

 

 隣から書物を静かに置くフウコの気配を感じ取りながら、手に取った本の表紙を捲った。意識することなく読み進めていこうとした矢先、ふと、視界の端に異変を覚えた。

 

 顔を上げて、その異変を目の当たりにする。

 

 フウコの目の前。そこには、イタチの何倍もの書物の山が出来上がっていた。

 

「なに?」

 

 イタチの視線に気づいたのか、フウコは本の表紙に目線を落としながら小さく尋ねてくる。さも自分の横にそびえ立つ山―――というよりも、もはや大樹である―――が、イタチの表情を固まらせている要因であるわけがないとでも言いたげに。

 

「……そんなに読むのか?」

 

 午前中だけでその分量を読めるのか? という風に本当は尋ねたかったが、そこはぐっとこらえた。フウコという妹は時に、常識からは考えられない行動を取ることがあるからだ。

 

 イタチは書物の大樹に視線を上げていく。ゆうに、五十冊はあるだろう。それも一冊一冊は決して薄くはない。いくら天才である彼女であっても、読み切ることは出来ないだろう。

 

 けれどフウコは、また当然のように「うん」と頷いた。

 

「ちょっと……調べたいことがあって」

「一冊借りていいか?」

「受付のあの人に訊いてみたら?」

 

 フウコの勘違いした返答が終わるや否や、イタチは大樹の頂上から一冊手に取って、表紙を見た。

 表紙には、こう書かれている。

 

『赤ん坊のあやし方 ―――赤ん坊は人の顔を知っている―――』

 

 ああ、とイタチはすぐに事情を察した。硬直した表情は和らぎ、くすりと、つい笑ってしまった。

 

「どうしたの?」

「いや……。そんなに、気にしてたのか」

「何が?」

「そういえば、フウコはずっとサスケに泣かれっぱなしだったな」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 うちはサスケの誕生に立ち会った日のことは、今でも鮮明に覚えている。

 

 それは、弟が生まれたという嬉しさを伴いながらも、反面で、衝撃的な場面でもあったからだ。

 

「ミコトさんッ!?」

 

 異変が起きたのは、昼食を済ませて一刻ほど経ってからだった。

 

 台所から届く、食器の割れる音。そして、緊張を過分に含んだフウコの声。

 

 自分の部屋で読書をしていたイタチは、予想していなかった音と声に、一瞬で焦りを覚えた。すぐさま台所に行くと、そこには慌てた様子のフウコと腹部を抑えて倒れているミコトの姿があった。

 

「イタチ、ミコトさんがっ」

 

 倒れているミコトの脇には割れた食器があり、その下には幾つかの水滴が床に落ちている。

 

 しかし、倒れて乱れた前髪の隙間から見せるミコトの油汗はそれよりも多い。

 

 イタチには事態が呑み込めなかった。知識を蓄えたイタチだが、今、腹部を抑え乱れた息遣いをするミコトの異変が、どこから来ているのか分からない。

 

 フウコと一緒にイタチは床に膝をついて声をかけた。

 

「母さん!?」

「……イ、イタチ…………」

 

 フウコはコップに水を汲み始めた。慌てているようだ。無表情ながらも、緊迫した空気が感じ取れる。イタチはミコトの言葉に必死に耳を傾けた。

 

「お父さんに……ぅうっ! 伝えて……。サスケが…………ッ!」

「ミコトさん、水、飲めますか?」

 

 水をたっぷりと入れたコップをミコトに差し出すが、彼女は力なく―――むしろ力が入りすぎているせいで―――震えながら首を振るだけだった。

 

「私は、何をしたら、良いですか?」

 

 フウコも、何が起きているのか分からないのか、それとも知っているからこそなのか、普段は平坦な声は張り詰めていた。

 

「大……丈夫よ、フウコ…………、心配しないで……」

 

 ミコトの声は、柔らかかった。

 

「……………怖がらなくて、いいのよ?」

「私は……怖がってなんか…………」

「ふふ………大丈夫…………。安心して……、お姉ちゃんに、なるだけだから……」

「お姉ちゃんに……。私が……?」

 

 困惑するかのように、瞳が震えるフウコ。「そうよ」と、ミコトは、言った。

 

「そろそろ、お母さんって、呼んでほしいわ……」

「……でも、私は…………」

「大丈夫。怖いことは、何も……ないわ……」

 

 ミコトの濡れた手がフウコの小さな頭を撫で、苦しい筈なのに、力強い笑顔を浮かべた。イタチには、ミコトが言っていることが分からなかった。ただ、頭を撫でられて視線を落とすフウコを眺めることしか、できない。

 

 フウコの顔が、上がる。

 

 無表情は変わらない。動揺だけが消えていた。まだ、イタチの頭の中は混乱しているというのに。

 

「イタチ、フガクさんがどこにいるか知ってる?」

「え……」

 

 即座に応えることができなかったが、フウコの双眸が強く自分を見つめた。

 思考が、張り詰める。

 

「警務部隊の所に、いるはずだ」

「分かった。イタチはミコトさんの側にいてあげて。私は―――」

 

 そこで一度、フウコは言葉を止めて、

 

「―――私の方が速いから、呼んでくる」

 

 返事を待つ間もなく、彼女は家を飛び出していった。

 

 ―――どうすればいい。

 

 フウコの強い視線に充てられて、少しだけ冷静さを取り戻した。今の自分に何ができるのかを考える。

 

 それでも、微かに震える思考と、何が起きているのかを把握し切れていない状況に答えが見いだせず、焦りが蠢き、無意識にイタチの両拳に力を入れさせてしまう。

 

 ―――母さんが……、

 

「ふふ……これからは……しっかり、しないとね…………イタチ」

 

 震える拳に、ミコトは手を優しく添えた。

 

 熱いくらいの温度を持った母の手は、それでも、イタチの焦りを幾分か、落ち着かせた。

 

「お兄ちゃん、なんだから…………」

 

 フウコも、

 これから生まれてくる子も、

 色んなことから守ってあげれるくらいにならないと駄目よ。

 

 辛そうなのに、苦しそうなのに、ミコトはそれでも、笑顔を浮かべ続けた。

 

 そうだ、自分は。

 強くなると決めたんじゃないか。

 戦争の痕を見て、決意したんだ。

 

 平和を守るために。

 家族を守るために。

 

「……母さん、俺は何をした方がいい?」

 

 焦りは、もう無くなっていた。いや、まだ心の中では焦りは忍び歩いているが、それを無理矢理抑え込んだ。焦りに立ち向かい胸を張るように心に力を入れた。

 手の震えが、無くなる。

 

「そう……ね………、お湯を、沸かせる? あとは―――」

 

 ミコトの指示を受けながら、イタチは家を駆けまわる。

 大量にお湯を沸かした。

 清潔なタオルをかき集めた。

 布団を敷き、布団の上半分だけに多くの掛け布団を積み上げた。

 

「ミコトッ!?」

 

 フガクの声が玄関から大きく入ってきた。

 

 ドタドタドタ。

 

 複数の足音が廊下を叩く。ミコトの汗を拭っていたイタチの前に、汗だくのフガクと白い服に身を包んだ大人が数人、現れた。

 

 フガクは一目散にミコトに駆け寄った。

 

「大丈夫か?」

「……ふふ、慌て過ぎよ…………。イタチや、フウコが………頑張ってくれたのに……」

 

 白い大人たちの一人が「すぐに処置に入ります」とミコトの前に屈んだ。

 

「……イタチが……うぅッ! 準備を、してくれました………」

 

 イタチは静かに頷いて、布団を敷いている部屋を指さした。白い服に身を包んだ大人たちは、持ってきていたタンカにミコトを乗せるとすぐさま台所から出ていってしまった。

 

「よくやったイタチ。お前はフウコと一緒に、居間で待ってなさい。何も心配することはない、安心しろ」

 

 早口に述べてフガクも後を追う。台所は静寂が訪れた。

 

 心臓の音が脳天を乱暴に叩く。手には、ミコトの汗を拭うのに使ったタオルがあることに気が付いた。

 ああ、とイタチは心の中で理解する。

 

 焦りが無くなったのだと。

 

 どっと汗が額から滲み出はじめ、膝から崩れ落ちた。大きく鼻から空気を吸い込んで、口で吐き切ると、頭の隅で思い出す。そうだ、フウコ。彼女はフガクを呼びに行ったが、台所までやってきたのは彼だけだった。

 

 廊下の向こうから、悲鳴のようなミコトの声が届くと再び緊張が走ったが、今回はすぐに落ち着いた。フガクが、頼りになる大人たちが、家にいてくれるおかげだろう。

 

 おそらくフウコは、もうすぐ来るはず。フガクの様子を思い出すと、全力疾走で家に向かったのは間違いないのだから、まだ子供であるフウコが遅れてくるのは当然のことだ。

 

 タオルをテーブルに置いて台所を出てから、イタチは玄関に向かった。居間で待っていろと言われたけれど、あれは、邪魔をしないようにという意味だと思う。なら、玄関にいても良いだろう。

 

 ミコトがよく散歩の時に履くサンダルを借りて玄関から出ると、フウコがいた。

 

 自分の予想に反して、早く家に到着していた彼女に驚きはしたものの、それ以上に、彼女の姿に目を奪われてしまった。

 

 玄関脇の壁に背中を預け、膝を抱えて座るフウコの姿は、淡々としながらも確固たる冷静さを持った普段のそれとはかけ離れていた。

 

「……ミコトさんは?」

 

 フウコの声は、ほんの少しだけ、震えていた。なのに、抑揚に変わりはない。隣に腰掛ける。

 

「心配ない。医療忍者の方々が来てくれた」

「そう、良かった……」

「中に入らないのか? できることはないかもしれないけど」

「医療忍者の人たちだから、手を貸してもらうことがあっても、私やイタチじゃなくて、他の人を呼ぶと思う」

「それでも、ここにいるよりはマシだ」

「……私は、いいよ」

 

 横を見る。

 

 いつも暇な時は空を見上げているフウコだが、今だけは、地面に顔を向けている。髪の毛が垂れて表情は覗けない。いいよ、と言った声がほんの微かに低いということ以外の情報は手に入らなかった。どことなく暗い雰囲気のような気がする、くらいしか予想できない。

 

 どうしてだろうか。空を見上げて考えると、ふと、ミコトの言葉が蘇る。

 

『大……丈夫よ、フウコ…………、心配しないで……。……………怖がらなくて、いいのよ?』

 

 フウコはあの時、怖がっていたのだろうか。思い出そうとしても、少し前まで焦りが頭を支配していたせいで、鮮明には思い出せない。家を出る時に見せた強く真っ直ぐな視線だけが克明に想起されるばかりで、全く怖がっていたようには思えなかった。

 

 ―――でもきっと、母さんには、そう見えたんだ。

 

 大人は自分たちよりも知識も経験もある。

 子供の表情の変化くらい、ましてや、家族の表情を見極めるくらいは、できるのだろう。

 

「……ねえ、イタチ」

「なんだ?」

「ううん……やっぱり、何でもない」

「怖いのか?」

「そういう訳じゃないと、思う。でも……なんだか、私はここにいちゃいけない気がするの」

「馬鹿なこというな」

 

 フウコは顔だけを傾ける。髪の毛の隙間から、彼女の赤い瞳がイタチを見つめた。

 

「イタチは優しいんだね……でも、隠し事は、しないでほしい。嫌なら、嫌って言って……。そうした方が、私は気楽だから」

 

 音もなく立ち上がる彼女の背中は足早に家の中へと入っていった。

 

 イタチも中に入り、二人は居間で、無言の時間を過ごした。いつものクリーンな静寂ではなく、どこか……そう、例えるならば、常に正確に動いていた振り子時計がコンマ三秒ほどのズレを刻み始めたような、現実と日常に差が生じた静寂だった。

 

 遠くから大人たちの声が今も尚、慌ただしく家の中を駆け巡っている。

 

 居間の窓から入ってきていた日差しが、透明からオレンジ色に変わった。ふと空を見上げれば、西の空はピンク色に。産声が鳴り響いたのは、そんな時だった。

 

 イタチは真っ先にフウコの手を掴んで居間を出る。そうしないと、彼女が居間から出ようとせず、むしろ、どこか遠くへ行ってしまいそうな気がしたからだ。

 

 布団を敷いた部屋―――そこは、フガクとミコトの寝室である―――の前に立つと、より一層、赤ん坊の声が届いた。

 

 緊張とは違うことは確かなのに、どういう訳か、心臓の鼓動が大きく速くなる。

 

「父さんッ! 入っていい?」

「ああ! いいぞ、イタチ!」

 

 襖の向こう側から、赤ん坊の声に負けないフガクの声。普段から想像もできない、生き生きとした彼の声だったが、イタチはそんなことを気にするほどの余裕はなかった。襖を開ける。

 

「見ろ、イタチ、フウコ! 俺たちの子だぞ! お前たちの弟だっ!」

「ふふふ……あまり騒がないで、貴方。サスケが泣いちゃうわ」

「二人とも、サスケに顔を見せてやってくれ!」

 

 ミコトの制止の言葉も虚しく高揚したフガクに促されるままに部屋に入ろうとする。

 その前に、一度、フウコを見た。

 赤ん坊の―――サスケの―――鳴き声が弾む部屋に似つかわしくない、微かに俯いた表情をしている。

 

「ほら、フウコ」

「……うん」

「俺たちは、家族だろ?」

「本当に?」

「少なくとも、サスケはお前のこと、姉さんって呼ぶようになると思うぞ」

 

 フウコの瞼が一ミリほど開いた。

 

「大丈夫だ。父さんも、母さんも、俺も、家族だ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『お姉ちゃんだよ、サスケくん。これから、よろしくね』

 

 あの時の、フウコの笑顔を今でも思い出すことができるのは、それほどまでに力強い光を放っていたからだろう。

 

 ぎこちなく、吊り上がった口端は引きつっていた。おっかなびっくりに、瞼は震えていた。なのに、フガクの腕から継がれたサスケを抱く両腕はしっかりと固定されていて、藁で紡がれたような不安定な笑顔は抱いている間は崩れなかった。

 

 サスケが生まれてから、彼女とイタチ、それにフガクとミコトの心的な距離は……変わっていない。

 

 ただ、彼女は暇があると、サスケに顔を見せにいった。

 

 どのような思いがあってそうしているのか分からない。もしかしたら好奇心かもしれない。彼女ならあり得る。けれどその中に、小さな優しさがあるように、イタチは感じていた。イタチも彼女と一緒に、サスケの世話をしているからよく分かる。

 

 不格好で不慣れな優しさが、横からくすぐったく感じ取れる。

 

 ……しかし、である。

 

 残念なことに、彼女の些細な優しさは届かず、サスケは泣き喚くという愉快な選択肢で答えていた。

 

 笑っている時でも、食事の後の眠い時間でも、フウコの姿を捉えようものなら、力一杯に泣き叫ぶ。フウコが下手くそに笑おうが、顔を隠して近づこうが、ところ構わず。

 

 サスケが生まれて一年ほど経過した今になってようやく、どうすれば泣かれないでするのかということを調べ始める彼女が、いつもの彼女らしくない鈍重なものだったため、笑ってしまった。

 

「今更、調べてるのか」

 

 つい言葉にしてしまうと、彼女は鋭い視線を書物から外した。

 

「ミコトさんやイタチから教えてもらったことをしても、上手くいかなかった」

「いや、お前は全然できてない。酷いものだ」

「どこが?」

「笑えてないだろう」

「笑ってる」

「本気で言ってるのか?」

 

 一度だけ、尋ねられたことがあった。

 

 どうすれば泣かないでもらえるか。

 正直なところ、明確な原因は分からない。赤ん坊ではないし、赤ん坊だった頃の記憶もない。完全なイメージだけ。

 

 まあ、思い当たる節は一つしかない。

 

 無表情で、声の抑揚が平坦。

 

 それを指摘したところ、彼女は実践してみせたのだが、結果は変わらなかった。逆に、悪くならなかっただけでも御の字かもしれない。彼女の笑顔は、初めてサスケに見せた時の笑顔よりも酷く、そして不気味なものだった。

 

「もっと普通に笑えばいいんだ。何も難しいことじゃないだろう」

 

 言うと、フウコはため息をついた。

 

「私は、イタチが羨ましい。きっとイタチにとって、笑うってことは、特別ことじゃないんだろうけど、私にはすごく特別なこと。印を結びながら、術を発動するくらい」

「楽しかったり、嬉しかったり感じることはないのか?」

 

 あるよ、と呟き、それを表情にすることが難しいと続けた。どこか寂しそうな、けれど無表情な自分の妹だった。

 

「だからなるべく、調べる。サスケくんに、迷惑をかけたくないから」

 

 それからは、お互いに書物を読み耽った。彼女にはまだ言ってやりたいことが幾つかあったものの、今言っても意味がないと判断した。

 

 時間は簡単に過ぎた。

 

 部屋にかけられている丸時計はあと五分ほどすれば、短針と長針が真上で重なる。ミコトが昼食を作っている。まだ読み終わっていない書物のタイトルをテーブルに備えられている紙の切れ端のようなメモ用紙に書き記してから、書物を返却棚に置いた。

 

 フウコも書物を返却棚に置いたけれど、何処か後ろ髪を引かれているように見える。まだ子供の自分たちでは、親の同伴でなければ借りることができない。

 

 しかしそれでも、書物の知識をすぐさま生かすことにしたのか、図書館を出た後に「帰りに、少し買いたいものがある」と言った。寄ったのは、駄菓子屋だったが、彼女がなけなしのお小遣いで買ったのは、小さな玩具のでんでん太鼓だった。

 

「赤ちゃんは、明るい音が好きみたい」

 

 得た知識が誤りではないかを確かめるようにでんでん太鼓を鳴らしながら歩くが、彼女の視線はどこか不思議そうだった。本当に効果があるのか? とでも言いたげに、矯めつ眇めつ、顔を傾けている。

 

 でんでんでんでん。

 

 フウコの鳴らす音に合わせて、二人は並んで歩いて行くと、でんでん太鼓の音につられたのか、シスイが姿を現した。「よっ」とトレードマークのような笑顔を浮かべながら、片手を挙げた。

 

「図書館の帰りか?」

「ああ。逆にお前は何してるんだ?」

「逃亡中」

「今度は何をしたんだ? お茶碗でも割ったか?」

 

 そんなわけない、とシスイは胸を張って言うが、彼がそうする時はふざけている時だということは知っている。

 

 偶然なのか、隣からでんでん太鼓が、デデデン! と鳴る。まだ性能を確かめているようだ。

 

「昼ごはんに納豆が出たから、逃げてきた」

「いつも思うけど、お前のその行動は何なんだ」

「ジイちゃんがさ、好き嫌いするなって五月蠅いんだ。だから逃げた、すげー逃げた」

「……そうか」

「んで、今は二人に助けてほしいと思ってたりする」

 

 まあそんなことだろうとは、すぐに予想が付いた。逃亡中と言いながら、自分たちを探していたのだろう。

 

 シスイの祖父―――うちはカガミのことは知っている。まだ何度かしか会っていないけれど、優しい老人だったことを記憶している。しかし、シスイの話しに寄ると「あれは鬼だ」とのこと。家族には、特にシスイには、厳しいらしい。自分たちが同伴なら強く怒られはしないだろうと思っているのだろうけれど、一日中、彼の家にいる訳じゃないのだから、意味がないだろう。

 

「自分で何とかしろ」

「あー、やっぱりそう言われるよなあ。まあ、いっか。どうにかなる」

 

 んで、と呟いてシスイはようやく隣のフウコを見た。

 

「さっきから、何やってんだ?」

 

 相変わらずでんでん太鼓の性能を確かめるフウコの奇行に、シスイは尋ねた。フウコはでんでん太鼓に視線を向けたまま言う。

 

「これでサスケくん、笑うと思う?」

「??? サスケって、弟のサスケだろ? 分かんねえけど……まあ、笑うんじゃないか? 赤ん坊なんだし」

「よかった」

 

 我関せずという風に、フウコはさっさと歩いて行ってしまった。

 

「何なんだ? あれ」

「姉としての悩みだよ」

 

 よく分かんねえ、とシスイは呟いた。

 

 ―――まあ、そうだろうな。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夜になった。

 夕食を終えてから、家にはミコトもフガクもいなかった。二人は、うちはの会合に参加している。イタチとフウコには話し合いと伝えたが、その内容までは言わなかった。ただ、早く寝るように言われている。

 

 静けさが漂う家の縁側で、しかしイタチとフウコはまだ起きていた。

 

 でんでんでんでん。

 

 気温が少しだけ下がった夜の空気の中を、でんでん太鼓の軽快な音が駆け回る。

 

「フウコ、今はサスケが寝ているんだから、意味ないだろう」

「でも、いつもなら私が近づいただけで泣き出すから、こうしてた方がいいかも」

「そうなのか?」

 

 イタチの腕に抱かれているサスケは、たしかに可愛らしい寝顔を浮かべている。本当に、でんでん太鼓の効果があるのかもしれない。

 

 変な感性を持っている弟だが、それでも、抱いている腕から届く重さと温もりについ頬が緩んでしまう。

 

 不思議だった。

 

 まだまともに言葉を交わしていないのに、愛情が溢れ出てくる。もう眠ってしまっているサスケを起こさないようにと考えながらも、腕が勝手に揺り籠の如く動いてしまう。

 

「イタチ、変わって。イタチが太鼓を鳴らして」

 

 でんでん太鼓を鳴らしながら、それを持つ手をフウコは差し出してくる。

 

「駄目だ。きっとサスケが起きる」

「イタチばっかりずるい。私だって、サスケくんのお世話をしたい。これまでずっとできなかったから」

「それはお前が悪い。笑う努力をしなかったのが原因だ」

 

 ちょっとだけ、優越感。

 

 これくらいはいいだろう。自分はお兄ちゃんなのだ。それに、こうした方が、フウコが笑う努力を怠らないで済むだろうという言い訳を心の中で、意味なくする。

 

 サスケの寝顔に向けて、無表情ながらも口を「にー」と横に広げて白い歯を見せる彼女の努力を見て、まあでも少しくらいなら、とすぐに思う。

 

 でんでん、

 でんでんでん、

 でんでんでんでん。

 

 

 その時、遠くの方から音が聞こえた。

 

 

 花火のような、

 水風船が弾け飛ぶような、

 木々がざわめくような、

 どこか悲しい音が。

 

 すると、急にサスケが、泣き始めた。

 

「どうした、サスケ。お兄ちゃんとお姉ちゃんがいるから、安心しろ」

 

 言いながら、イタチは少しだけ感じ取っていた。

 

 里の中央の方。そこが、なんだか、騒がしい。

 

 きっとサスケもそれを感じ取ったのだろう。

 フウコの気配だけで泣いてしまう、鋭い子だ。

 イタチはゆっくりと腕を揺らせる。怖くないぞ、という思いを込めながら。

 

 けれど、一向に泣き止む気配がなかった。ともすれば、いつの間にかでんでん太鼓の音が無くなっていることに気が付く。

 

「フウコ、鳴らしてくれないか。サスケが―――」

 

 しかしでんでん太鼓が彼女の手からなり始めることはなかった。

 そもそも、彼女の手から落ちていたからだ。

 

 彼女は、騒がしい気配がする方を、茫然と、見上げている。

 

 消え入りそうな声で、彼女が呟く。

 

「どうして―――」

 

 九尾が(、、、)

 

 フウコの口元が、そう、動いたような気がした。

 

「イタチ、サスケくんをお願い」

「どうしたんだ、急に」

『お願い。サスケくんを、守ってあげて』

 

 写輪眼の赤い瞳が真っ直ぐ自分の眼を見つめると、波紋のように、彼女の声が頭の中に染み渡った。

 

 抗うことができない程の心地よさが、意識を静かに浸食していく。しかしそれすらも、イタチには、感じ取れなかった。

 

「……ああ、分かった」

 

 背を見せ、走り出した妹の姿に、疑問を抱かなかった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 走る、

 奔る、

 逸る。

 

 背中から這い寄ってくる寒気から逃げるように、そして胸の中を駆けずり回る不安の正体を確かめる為に、夜を駆ける。

 

 写輪眼は、既に捉えていた。

 

 深い暗黒が広がる夜空を排するほど、煌々と広がる赤いチャクラを。

 

 フウコは、その中央へと。足にチャクラを集中させた移動は、風を切る速さ―――ミコトの陣痛が始まったあの日に、フガクの元へと赴いた時と同じ程の―――だった。

 

 うちはの町を出て、赤いチャクラの元へと、知っている道の中から最短の物を選択し、走り抜ける。

 

 臭いが変わり始めていた。

 焦げた臭い、鉄の臭い、生臭さが混ざった不快な臭いが夜風に乗せられて顔に張り付く。

 

 首の裏側の産毛が逆立つ。耳の裏もざわついてしょうがない。

 

 声がする。

 頭の奥から。

 嫌な声だった。

 ケタケタと嗤う声。

 

 それを無視して、走り続けると、とうとう、目の当たりにする。

 

 崩壊した町並みを。

 

 その中央に、九尾がいる。血のように赤いチャクラと毛並みを纏った、意志を持つ巨大な災厄。木の葉隠れの里を象徴する顔岩と同じくらいの巨躯は、こちらからは背中側からしか見上げれず、蠢く九つの尾のせいで全貌を正確に捉えさせはしなかった。

 

 九尾が腕を振るう。それだけで、風が吹いて、瓦礫となった建物がさらに崩れる。

 

 そして、九尾に挑んだ大人たちが、紙切れのように吹き飛んでいく。

 

 ―――やめて……。

 

 喉が震える。なのに、声が、出ない。

 恐怖じゃない。

 大切だと思っていたものが、あまりにも簡単に消えて行ってしまうことへの、急激な喪失感に、身体が追い付いていなかった。

 

 遅れて、怒りが込みあげてくる。

 

 ―――よくも、

 

 よくも、里の平和を。

 あの人(、、、)が、守ってきた平和を……ッ!

 

「フウコかッ!?」

 

 その時、上から声が。

 

 向くと、そこには、黒い忍服に身を包んだ老齢の男性が立っていた。白く整えられた短い顎髭を携え、深い皺を刻んだその顔には、本来なら包容力のある威厳を漂わせているはずなのだが、今は複雑な硬い表情をしていた。

 

 三代目火影・猿飛ヒルゼンとフウコの視線が重なった。

 

 フウコは彼の前へ移動する。

 

 ヒルゼンの後ろには、それぞれ異なった面を付けた忍びたちが控えていた。彼ら彼女らは、火影直属の部隊である暗部と呼ばれる者たち。フウコの姿を捉えるや否や、面の向こう側からでも、別の緊張が暗部に走る。

 

 何でここに子供が、という緊張である。

 そしてすぐに、また別の緊張が巡った。

 

「なぜここにおるッ! お主の出るところではないッ!」

 

 ヒルゼンの叱責は珍しいものだった。普段は温厚な彼からは珍しく、ましてや声を向けたのが女の子だったこともあって、暗部は困惑の色を密かに浮かべた。

 

 フウコは怒りを頭の中に感じながら、無表情にヒルゼンを見上げる。

 

「嫌です。私は、このような時の為に(、、、、、、、、、)いるんです」

「ならんッ! ここはワシらに任せよッ!」

「……ミナト様は、どうしてここにいないんですか?」

 

 ヒルゼンは顔をしかめた。

 波風ミナト。

 現火影にして、四代目。つまり、ヒルゼンは先代の火影である。彼でさえこの非常事態に赴いているのに、ミナトの姿は見当たらない。

 

 いやそもそも、九尾が出現しているということ。

 

 これが何を示しているのか、分かっていた。

 

「クシナ様に、何かあったんですね」

「……お主は家に戻れ」

 

 しかし、それが明確な答えになってしまっていた。

 

 里を守る、という目的は、火影を守るというものへと変更される。

 それが、フウコにとっての、優先順位だった。つまり、里の平和は、火影があっての平和だということ。

 

「ヒルゼン様、九尾をお願いします。里を―――」

 

 うちはの町を、という言葉を喉の手前で抑え込んだ。それは今の現状では、あまりにも、身勝手だから。

 

 足にチャクラを集中させる。

 

「待て、フウコ!」

 

 けれど、ヒルゼンの声を置き去りにするほどの速度で、フウコは移動していた。

 

 瓦礫と、死体と、火を脇目に駆け抜ける。奥歯を噛みしめると、目の奥が、痛くなる。

 

 ごめんなさい、と心の中で呟いた。どうしてその言葉を思いついたのかは、分からない。顔も名前もどんな日常を送っていたのかも分からない人たちなのに。しかし、里の平和が壊された原因の一部は自分なのだと、責任を感じていた。

 

 遅れて、遠くから、いや頭の奥底から、また、嗤い声。耳障りな、嗤い声。それを無視して、里の外へ。

 

 暗く、不気味なほどの静けさを漂わせる森を一直線に突き進んでいく。

 

 ―――近い。

 

 暗闇の向こう側から、チャクラの気配を感じ取った。先にあるのは、本来、ごく限られた者しか知らない祠。フウコは、チャクラの気配のする方へと進んでいく。

 

 視界が開ける。

 

 そこには、二人の忍が、今まさに衝突する寸前の光景が広がっていた。

 

 一人は、白地で赤い模様に縁どられたコートを着た、黄色い髪の毛が特徴的な男性―――波風ミナト。

 

 そしてもう一人は、ミナトと対称するように黒いコートに身を包み、歪んだ木の年輪のような仮面を付けた男だった。

 

 瞬間、フウコは、確かに見たのだ。

 

 仮面の男の奥に潜む眼が、写輪眼だったのを。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

トモダチ

 

 その盲目の女の子は歩いていた。

 

 自我を持ち始めてから既に盲目だった女の子にとって、昼と夜は温度と空気の質の違いだけでしか理解できなかった。果たしてどのような色に満ち溢れた世界なのか、分からなかったのである。孤児院の同い年の子たちに訊いても、明確な【色】の説明がなされなかった。女の子にとって、色という概念は構成されていない。

 

 敢えて記述するなら、今は、真夜中―――丑三つ時である。

 

 普通の子供ならおっかなびっくりに歩きながら進む暗闇。しかし女の子にとっては慣れ親しんだ真っ暗闇の世界である。道端の塀に手を触れ、それだけを道標に歩いていた。

 

「……ぅぅっ、っ、ぅぅ…………っ」

 

 女の子は泣いていた。

 

 目元を覆う程に長い白髪―――けれど、髪の毛の根本は黒い―――の奥から、止めどなく涙が溢れ、鼻からは鼻水が垂れている。

 

 初めて、独りで【外】に出た。

 

 いつもは孤児院の子たちと、あるいは、孤児院の主と一緒だった。この場合の【外】というのは、孤児院周辺よりも遠く、という意味だ。普段は孤児院の主から厳しく周辺よりも遠くに行くなと言われており、たとえ行くとしても、同じ孤児院の子たちと一緒だった。独りで【外】に出たのは、これが初めて。

 

 涙が溢れるのは、恐怖のせいではない。

 ただ、孤独だったから。

 

 自分を怖がらせる音は一切なく、自分を痛めつける暴力もない。それは、孤児院を抜け出す時に求めた世界だった。暴言と暴力が理不尽を笠に堂々と闊歩しまわる孤児院が嫌になって、逃げるように求めた【外】。

 

 なのに、いざ、出てみると、何をしていいのか分からなくなってしまった。

 誰かがいる気配もない。

 不気味な静けさと、冷たい夜風が吹くばかりで、何もない。寂しい。しかし、孤児院に戻ろうとも、思わない。あんな地獄のような所に、戻りたくはなかった。

 

 そしてただ歩いている内に、涙が出てしまったのだ。

 

 独りだから。

 

 ただ、歩いていく。

 

 独りで。

 

「……うあっ」

 

 左足を出すと、爪先が何か固い物にぶつかり、その反動で転んでしまった。

 

「……ぅぅぅッ!」

 

 手のひらが熱い、膝も熱かった。ぶつけた爪先は痺れている。

 もう訳が分からなくなっていた。

 自分がどこにいるのか、自分は何をすればいいか分からず、とうとう女の子は、大きな声を挙げて泣き始めた。

 

 誰か、教えてほしい。

 

 今、自分はどこにいるのか。

 何をしたらいいのか。

 何をすればいいのか。

 

 けれど、大人の声はしなかった。

 

 ただ夜空に浮かぶ三日月が、見下ろすだけ。

 

 自分の泣き声で世界が変わらないことが、より一層、女の子の涙を後押しした。

 

 その時だった。

 

「誰?」

 

 声がした。

 高級な鈴のように、綺麗な、女の子の声だった。

 

 声の方に顔を向ける。勿論、見えはしない。しかし、孤児院の子たちと一緒に生活する時に「こっちだよ、こっち」と、会話をする時に相手の方を向くようにしていたせいで、自然と身に着けた癖だった。

 

 涙が止まる。

 

 自分と同じくらいの幼さを含んだ声質は、おかしな表現だが、女の子に一筋の光明をもたらした。足音が近づいてきて「どうしたの?」と、今度はすごく近くから聞こえてきた。

 

「大丈夫?」

 

 問いかけに、少女は鼻をぐずりながら、ゆるゆると首を横に振ることしかできなかった。

 

「独りなの?」

 

 今度は縦に。

 

「君も、そうなんだ。私もそうなの。今は独り。これから、私を助けてくれた人の所に行く途中なの」

 

 途中、という言葉の意味は分からなかった。だけど、声の主のおかげで孤独感はなくなりつつある。

 女の子はもう一度、今度は大きく鼻を啜って耳を傾けた。

 自分と近い年の声質を持つ相手の言葉が、不思議な魅力を持っていたから。

 

「ねえ、一緒に来ない? こんな所から、抜け出そうよ」

「どこに?」

「夢の世界。あの人は、そう言ってた」

「寝るの?」

「分からない。ねえ、名前、何て言うの? 友達になろ?」

「私は……イロミって、言うの…………」

「ふふ、綺麗な名前だね。私は―――」

 

 うちはフウコ。

 よろしくね、イロミちゃん。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 西の空は、まだ氷の気泡のように白い。東の浅いところにゆったりと顔を出す太陽の光を浴びた薄い雲は、紫の影を地上に向けている。湿度は心地よく、昨日の朝日よりも光は柔らかいように思える。木の葉隠れの里は少しずつ、静かに起き始めていた。

 

 うちはの町も同様に、各家で着々と住民は活動し始めた。ある家は親よりも子供が先に起きてはしゃいだり、ある家では妻が朝食をさっさと作ったり、ある家では祖父がいち早く起きて健康の為のささやかな散歩に興じたり等々。

 

 イタチの家も、その中から漏れることはなかった。

 

 真っ先に起床したのは、母であるミコトだった。慣れた動きでやるべきことをこなしていく。縁側の雨戸を開け、居間の窓を開け、家の中の空気を換気する。朝食を作りながら、頭の中で昼食と夕食の献立を考える。それが一番のネックだ。ここ最近、フウコの食欲が増してきた。食べる量は、なんと大人の自分よりも多い。肥満体系が女性にとってマイナスに働くとは考えていないが、忍としては問題があるだろう。カロリーが低い献立を考えなければいけない。

 

 でんでんでんでん。

 

 そんなことを考えていると、廊下の奥から軽快な音が、居間を通り抜けて台所に届いた。ちょうど、おたまに入れた味噌を箸で崩しながら鍋に溶かしている時である。くすりと、ミコトは笑った。

 

 ここ最近、というよりも、およそ一年前くらいから開始された、この家での儀式のようなものである。いや、儀式と言うとネガティブなイメージがある。かといって、習慣と呼べるほど爽やかなのか、少なくとも何も知らない他人が、早朝の一軒家から玩具のでんでん太鼓の音を聞いたらそうは思わないかもしれない。事情を知っているミコトだからこそ、微笑みを浮かべたのだ。

 

 この音が聞こえてきた、というのは、自分の可愛い息子と娘が起きたということ。まだ六歳なのに、もう二人は自分で早起きする習慣をつけている。手間のかからない子だが、少しだけ手間をかけさせてほしいと思ったりする。

 

 でんでんでんでん、どたどたどたどた。

 

 でんでん太鼓の音に相まって、二人が廊下を駆ける足音も届いてきた。毎朝、二人は起きると、真っ先に寝ているサスケの所へいき、挨拶をする。でんでん太鼓を鳴らしているのは、どうやら、それをしておけばフウコが近づいてもサスケが泣かないらしい。確かに、サスケが生まれてすぐの頃は、フウコが近づいただけで泣いていた。

 

 きっと、無表情だからだろう。フウコは変わった子で、あまり感情を表情に出さない。

 

 何度も「お姉ちゃんらしく笑ってみなさい。そうすれば、サスケも怖がらないから」と言ったのだが、ついぞ達成されることはなかった。まあ、一応は、泣かれずに済んだのだからいいだろうと、今は考えている。

 

 フウコのでんでん太鼓は、次々にバージョンがアップしていった。今では【音の鳴る豪華なうちわ】のような見た目になってしまっている。彼女が言うには、賑やかな見た目にしたらどんどん笑ってくれる、とのこと。果たしてあのでんでん太鼓が最終的にどのような形態に成り遂げるのか、地味な将来の楽しみだった。

 

 味噌が溶け終わり、小鉢に少しだけ味噌汁を分けて味を確認する。

 

「うん」

 

 薄味でちょうどいい。釜を確認すると、ご飯も炊けているようだった。

 あとは魚を焼けば―――。

 

「うぎゃぁぁぁああああああッ!」

 

 ミコトの頭の中に、ヒビが入る。母親としての本能が作ったヒビだった。

 サスケの大きな泣き声に続いて、フウコとイタチの慌てた声が遅れて台所に届いた。

 

「サ、サスケくん、ほら、でんでん太鼓だよ。泣かないで」

「フウコっ、とりあえずサスケから見えない所にいろ。そうしないと泣き止まない。あと、でんでん太鼓も鳴らすな」

「嫌だ。サスケくんは、これが好きなの」

「我儘言うなっ。大体、お前がサスケの頬を弄り回すから」

「イタチだって、頭を撫ですぎたから、サスケくんを泣かせた」

「とにかく、早く泣き止ませないと母さんが―――」

「おはよう、二人とも」

 

 きっと、今の自分は爽やかな笑顔を浮かべていることだろうとミコトは確信していた。意識してそうしているのだから、当然だ。

 

 自分でも驚くほど素晴らしい滑舌で挨拶をすると、二人は壊れた人形のような動きでこちらを向く。イタチはしまったという表情で、フウコはどうしようという無表情で。フウコの手から、豪奢な装飾を施されたでんでん太鼓が虚しく畳の上に落ちる。

 

「挨拶は? 折角の朝なんだから」

「お、おはよう……母さん」

「おはよう、ございます……ミコトさん」

「はい、おはよう。じゃあ、まずは―――」

 

 ミコトは渾身の力を込めた。

 右手に。

 

「朝からサスケを泣かさないの!」

 

 ゴン、ゴンッ!

 

 でんでん太鼓の後に、何かがぶつかるような音がした、と家の前を偶々散歩していた老人は後に語った。

 何かがぶつかるような音、というのが、二人に拳骨が落ちた音なのだと分かることは、もちろん、なかった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチとフウコがアカデミーに入学したのは、つい三週間前のことだった。

 

 入学した当初は慌ただしかった。それは、クラスの自己紹介だったり、アカデミーでの過ごし方だったりなどの、つまり恒例行事のようなことではなく、人間関係的なもののことである。

 

 イタチもフウコも、そして同年に入学したシスイも、入学式の時、背中にうちはの家紋が刺繍された黒いTシャツを着ていた。うちはの子が入学する、という情報は出席していた大人から子供へと瞬く間に広まっていった。

 

 そして、アカデミー生活が始まるとすぐに、三人の周りには多くの同級生たちが集まった。それが、慌ただしさの原因だった。

 

 ―――今日はどこで昼食を食べようかな。

 

 しかし、その慌ただしさも、三週間という時間が風化させていった。フウコの周りは、特に著しい。

 

 授業が終わり、昼休み。

 

 午前中の授業で疲れた生徒たちは、各昼食を済ませる為に、しかし活発に動き始めた。友人に声をかけ、どこで昼食を済ませるのかを話し合う、というのが大半だ。九割九分九厘ほどだろう。残りの一厘は、およそ、というよりもほぼ、フウコが占めている。

 

 彼女は、自分の横を通り過ぎていく生徒たちを全く意識しないで、スムーズな動作でノートと教科書を机の中にしまいながら、同時にピンク色のハンカチに包まれた弁当箱を取り出した。

 

 ちらりと、イタチの席を見下ろす。教室の机は階段式になっていて、フウコは後ろの方で、イタチは前の方だった。視線を向けると、案の定、彼の周りには多くの生徒が集まっていた。「飯食いにいこうぜ、イタチ」「一緒に食べよ? イタチくん!」「中庭がいいよ!」などの明るい声が耳に届く。

 

 この三週間で、イタチとフウコの人間関係ははっきりと分かれた。

 

 イタチは整った容姿と社交的な雰囲気は、瞬く間に友人を多く作っていった。特に、女の子の比率が高いのは気のせいではないだろう。

 

 対してフウコは、昼休みに入っても誰からも声をかけられることはなかった。入学当初は、色んな子に話しかけられたが、一週間もすれば人数は半分になり、二週間もすればその半分になり、三週間もすれば誰も話しかけなくなった。彼女の無表情さと、抑揚の少ない言葉は、普通の子供にとっては石像かなにかと思ってしまうのだろう。今では敬遠するような視線がちらほらと向けられるだけである。

 

 ―――イタチも、大変そうだな。

 

 フウコ自身は、今の自分の現状を全く悲観はしていなかった。

 

 仕方のないこと。

 むしろ、静かでいい。

 卑屈になっているわけでもなかった。こうなることは予想できていたし、別段、和気藹々としたアカデミー生活を望んではいない。

 

 そもそも、求めているものは多くない。

 

 ただ、努力する場として。

 力を付ける為の場として。

 フウコにとって、アカデミーは情報提供をしてもらう為だけの場所だった。けれどそれも、失われつつある。授業が退屈だったからだ。

 

 そして昼食は、自分の空腹を解消する為だけの時間である。ただ、騒がしい教室の中で食べるよりも、他の静かな場所で食べた方が、ミコトが折角作ってくれた昼食を堪能できるだろうし、どこで食べようかと考えたのだ。

 

 昨日までは中庭だったけれど、そこはもう他の子たちが姿を見せ始めている。

 どこで食べようか……。

 

「よ、フウコ。一緒に昼ご飯食べないか?」

 

 肩を叩かれ、後ろから聞きなれた男の子の声。

 顔を傾けると自分の黒い毛先が頬に触れる。見上げた先には、シスイが立っていた。いつも通りの、爽やかな笑顔を呑気に浮かべている。

 

「別にいいよ」

 

 彼の後ろには、何人かの男の子が立っていて、おそらくは友人なのだろう彼らはぎこちない笑顔を浮かべている。ようやくの昼休みなのに、と思っているのだろう。明らかに自分が歓迎されていないことだけは理解できた。

 

「私は一人で食べるから」

 

 首を横に振ると、目に見えて、シスイの友人らは安堵の笑みを浮かべる。

 

 シスイはイタチと同じように人気があった。ただ、シスイはどちらかというと男の子の人気の方が比率が大きい。人格の違いなのだろうな、とフウコは判断していた。

 

「今日くらい、いいだろ?」

 

 すると彼らの表情がまた強張った。まるでシスイの言葉が、彼らの表情のスイッチのようだ。

 

「じゃあ明日でもいいってことでしょ?」

「もしかしたら、明日には俺は死んでるかもしれない」

「シスイとお昼休みを過ごしたら、私は死ぬかもしれないね」

 

 現に、シスイの友人たちは自分が来ることが嫌そうだった。あまりの嫌さに殺しに来る可能性も、あるかもしれない。明日シスイが死ぬよりも可能性はあるだろう。

 

 シスイは頑なに誘ってきた。「一人で食べるよりみんなで食べた方がいい」「唐揚げあげるからさ」と。また、友人たちを説得していた。「フウコはこういう性格だけど、悪い奴じゃない」「大丈夫だって」。

 

 フウコは断り続けた。

 

 自分が彼らの輪に入っても、良いことはない。自分にはメリットはないし、シスイは自分が入ったことで折角仲良くなった友人から敬遠されるかもしれない。

 

 どうしようか、と思っていると、ふと、イタチから言われたことを思い出した。

 

『お前があまり喋らないのは仕方がないことで、あまり友達を必要にしないのは、しょうがない。だから俺も、無理にお前に友達を作れとも言わないし、友達を紹介したりしない』

 

 ありがとうイタチ、とその時のフウコは応えた。

 

『だけど、シスイはそうじゃない。あいつはお節介焼きだ。もしあいつのお節介が嫌な時は、こう言え』

 

「シスイ」

「ん?」

「気持ち悪い」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ―――悪いこと、しちゃったかな。

 

 静かな場所を求めて校舎の周りをブラブラと一人で歩きながら、教室を出た時のシスイの姿を思い出す。

 

 まるでクナイで額を打ち抜かれたかのように膝から崩れ落ち、全力で四つん這いになって絶望する彼の姿は、夢に出てきてしまいそうな程の迫力があった。

 

 彼の友人たちはそんな彼を見ても、フウコに何一つ言わなかった。自業自得だと、無言で満場一致したのだろう。

 

 ―――明日は、一緒に食べよう。

 

 そうすれば彼の機嫌は良くなるだろうし、今日のことも謝ればいいだろう。イタチも誘ってみよう、と考えたりもする。

 

 校舎裏にちょうどいい場所があった。正門と反対側で、校庭の端の端。そこに、キノコのような形をした木が一本、暇そうに立っていた。木の足元には太い根っこが地面から露出しているが、存分に広がっている枝葉が作り出す影に隠れているせいであまり目立っていない。

 

 辺りからは人の声がほとんど届いてこない。耳にはっきりと届くのは、風で揺れる枝葉の音と地面に生える群青の雑草が擦れる音だけ。ここにしよう、とフウコは一人で頷いた。

 

 木の根元に腰を降ろして、両手に持っていた弁当を脹脛に置いた。ピンク色のハンカチを解くと、赤色の弁当とピンク色の子供用の箸が入っていた。

 

 蓋を開ける。

 

 直方体の弁当の半分は白いご飯だった。美味しそうだ、と思った瞬間、ご飯の中央で無駄に主張してくる存在に、蓋を持ち上げた右手が軽く硬直する。

 

「……梅干し」

 

 思わず呟いてから、ゆっくりと蓋を自分の横に置く。

 

 梅干しはあまり好きではなかった。酸味しかない物を食べ物というミコトが信じられない。

 

「身体にいいのよ?」

 

 と言うが、なら昆布でもいいのではないかと思う。しかし、残すわけにはいかないので、小さな覚悟を決める。

 

 おかずはというと、野菜ばかり。肉類は無かった。女の子は野菜を取った方がいい、というのもミコトの言葉だった。どちらかというと、こちらの言葉の方に力が入っていたように思う。

 

 箸を手に取って「いただきます」と呟く。

 

 まずはご飯から―――当然、梅干しの浸食がされていない真っ白い部分だが―――口に含んだ。

 

 塩がかかってないおかげで、咀嚼する度に米の甘みが舌の上を転がる。飲み込むと、胃が膨らんで、食欲がより明確になった。

 

 あっという間に弁当は空になってしまった。

 

 食欲に任せて、一心不乱に、食べた。

 

「ごちそうさま」

 

 しっかりと言ってから、弁当をハンカチに包み直す。

 ふう、と小さく息を吐くけれど、実は、あまり満腹感はない。腹三分目、といったところだった。

 

 風が吹く。

 

 食べるという行動によってエネルギーが燃焼されて、身体に熱が生まれる。風は心地よく、同時に、眠気が来た。中途半端な満腹感は、眠気の大好物だ。

 

 欠伸を噛みしめながら、枝葉の隙間から空を見上げる。

 

 澄んだ青と白い雲が見えた。馬鹿みたいな清々しさ。けれど、里も同じくらい、晴れた空気に包まれている。

 

 第三次世界大戦。

 そして、九尾の暴走。

 

 二つの悪夢を乗り越えて、ようやく、本当に、平和が訪れた。

 

 空模様は温かく、綺麗だ。

 戦争が終わったばかりの乾き切った切なさはなく、九尾が暴走した夜のような残酷さも無い。

 干したばかりの布団のような、柔らかさがあるように思えた。

 

 この空がまた、いつ変貌するか、分からない。平和が壊れるのは、一瞬だ。

 

 そんな未来への不安はありながらも、それでもフウコは、たった今の空模様に胸を安堵させる。

 

 無表情のフウコに、微かだけ、笑みが。

 

「……あ、笑った…………」

「え?」

 

 声がした。

 

 上からという、予想外の方向からの声に、フウコの笑みは硬直して、視線を泳がせようとする。

 

 しかし、全貌を捉える前に、事態は起きた。

 

「わ、わ……うわっ!」

 

 枝葉の隙間から通る太陽の光を遮る影が、はっきりと動いた。

 影は雛鳥のように身体をばたつかせ、落ちてきた。

 

 自分の眼の前に。

 

 ガチン、という音が、木の下に響き渡った。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

「名前は、うちはフウコです。よろしくお願いします」

 

 高級な鈴が奏でる音のような彼女の声は、ただの自己紹介だけでも、教室の空気を深海みたいに静かにさせるには十分だった。波紋が広がるように、彼女を中心に、空気が透き通っていくのを、イロミは、確かに感じ取っていた。

 

 入学式を終えてから、アカデミーの掲示板に貼られたクラス分けの表に従って集まった、生徒たちと教師。

 

 これからこの顔ぶれでアカデミー生活を送るから、という名目で、一人一人、自己紹介をしていた。

 

 言うことは、自分の名前と、好きなことや将来の夢とか。誰かが自己紹介をするたび、賑やかな拍手やそわそわとした小さな声が生まれる。そして、その音が広まるたびに、自分の自己紹介の時のことを考えて、緊張をより一層強くする生徒もいれば、さて何を言おうかと強気に頭を悩ませる生徒もいる。

 

 イロミはどちらかというと、その前者だった。

 

 緊張を強くしながら、何を言うべきか悩んだ。好きなことなんて無いし、将来の夢も、特にない。よく他の子は、それらを言えるのだと、驚いていた。

 

 おまけにイロミは、自分に自信が無かった。

 

 白い髪の毛は、しかし根本が黒い。目元を隠す程長い前髪。健康的でも魅力的でもない、虚弱な細い身体。家―――元・孤児院である。今はその機能を果たしていない―――にあった、緑色のジャケットと黒いTシャツ、白い半ズボンは、自分でも地味と思えてしまうものだった。孤児院に残っていた私服の中で、一番埃を被っていなかったのが、それらだった。あとは、両手にはアカデミーが支給するグローブを嵌めている。イロミにとって、そのグローブが一番、まともに見えた。

 

 入学式が終わって教室に入る時も、イロミはぼんやりと、周りから視線を感じた。おどおどと前髪の奥から辺りを見回すと、どうやら、視線は自分の髪の毛辺りに集中しているような気がした。

 

 ―――きっと、珍しい色なんだ……。

 

 前髪を右手の人差し指と親指で挟みながら触る。老人のような、白さをしている。自己紹介が、億劫になった。

 

「じゃあ、次の子」

 

 教壇の前に立つ教師が次の子の自己紹介を促すが、生徒たちの騒がしさが少しだけ小さくなっただけで無くなりはしなかった。教師は仕方がないなあ、と言った表情で苦笑いを浮かべるばかり。

 

 次の子は、女の子だった。

 

 肩まで伸びた黒い髪の毛は滑らかで、教室の明かりを綺麗に反射している。整った顔立ちと真っ赤な瞳。うちは一族の家紋が刺繍された黒いTシャツを着ている。

 

 教室がざわついた。男の子は女の子の顔を見て声をあげて、女の子はうちは一族であるということに驚いている。

 

 ―――綺麗な子……。

 

 素直に、そう思った。

 

「うちはフウコです。よろしくお願いします」

 

 そして女の子の自己紹介に、息を呑んだ。

 

 あまりにも簡素で、しかし、聞き惚れてしまう声。生徒と教師は呆気にとられているようだが、イロミは違う。

 

 フウコという名前、そして、声。

 

 聞き覚えがあった。

 

 緊張と悩みが消え失せる。「……じゃあ、次の子」と言う教師の言葉に呼応するようにささやかな喧騒を取り戻す教室の空気は、もう頭に入ってこなかった。

 

 気が付けば、自分の番。

 

「じゃあ、次の子」

「は、はい……」

 

 立ち上がる。髪の毛の色に周りから奇異な視線が送られるが、イロミの視線は、ただただフウコを見つめていた。

 

 覚えていてくれているだろうか、彼女は。

 

 ぼんやりと窓の外の空を見ているフウコに、祈るように、イロミは言う。

 

「わ、私の……名前は、イロミって………言います」

 

 あの夜―――二年の前の、あの夜に―――互いに、自己紹介をした。もし、フウコが覚えていてくれるなら、顔を向けてくれるはず。

 

 しかし、フウコの顔は、ずっと窓の外を見上げたままだった。

 

 ―――ああ、覚えて………ないんだ……。

 

 けれど、落胆はそこまで大きくなかった。

 

 二年も前の、たった一回の夜を、覚えている方が珍しいのだ。

 

 でも……。

 

 ―――でも……また、友達になりたいなぁ……。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 三週間が過ぎる間に、イロミはずっと考えていた。

 

 どうやって、彼女に話しかければいいのか。

 

 元々、引っ込み思案で人見知りなイロミにとって、一度は友達になったものの、もはや赤の他人に近い関係になってしまったフウコに話しかけるには、並々ならぬ勇気が必要だった。

 

 廊下ですれ違うたび、教室で視線が重なるたび、今だ! と思いながらも、話しかけられなかった。

 

 だから、三週間という時間でしたことは、ほとんど無駄だった。唯一の成果は、フウコの家が分かったということくらい。話しかけようか話しかけまいかと、心の中で右往左往している間に、イロミはストーカー紛いにフウコの後を付けてしまっていた。その結果である。家に帰ってから、猛烈に反省した。悪いことだと思ったのだ。

 

 その日も、イロミは、ようやく訪れた昼休みに、フウコに話しかけようと思った。

 

 授業が終わってすぐにノートと教科書をしまい、同時に、自分の昼食を鞄から取り出す。紫色のハンカチに包まれた中身は、おにぎりが二つだけ。それがいつものイロミの昼食だった。

 

 慌ただしくなっていく生徒の波の隙間から、フウコを見た。彼女にとって、昼休みは魅力的ではないのか、相変わらずの無表情でゆったりとノートと教科書をしまっている。弁当を取り出すが、弁当を包むハンカチのピンク色が、彼女の表情とはあまりにもミスマッチに見えた。

 

 ―――よ、よし……、い、今なら、大丈夫……。

 

 深呼吸を、一つ。

 

 落ち着けぇ、と自分に言い聞かせる。昨日はあんなに練習したじゃないか。まずは気軽に、ねえねえって言って、その後に、お昼ご飯一緒に食べようって。

 

 頭の中で何度も考えてきた台詞を用意して、立ち上がり―――、

 

「よ、フウコ。一緒に昼ご飯食べないか?」

 

 即座に座りなおした。

 

 まさか、シスイがフウコに話しかけるとは思わなかった。二人が仲が良いというのは、この三週間で知り得た数少ない知識だが、昼休みに話しかけているのを見たのは、これが初めて。

 

 ―――どどど、どうしよう……!

 

 シスイの後ろには男の子が幾人かいる。彼がこのクラスで、どのような立ち位置にいるのかを物語っている。

 

 もしも、

 

 もしもである。

 

 あの輪の中にフウコが入ってしまったら、おそらく、雷が自分の脳天を直撃するほどの衝撃を受けない限り話しかけることは出来なくなるだろう。

 

 話しかけようとしたら、口から内臓という内臓が飛び出るかもしれない。イロミにとって、知らない男の子という存在はただの脅威でしかなかった。

 

 イロミは何かに祈るように、机の下で両手を握り合わせる。お願いお願い、今だけは……。

 

「シスイ」

「ん?」

「気持ち悪い」

 

 え? とイロミは口の中で声を出した。

 

 祈りが通じてしまったのか、フウコはシスイの誘いを一蹴したが、彼女らしからぬ言葉が出たことに驚いてしまった。

 

 崩れ落ちるシスイの姿を捉える。同時に、彼のその姿が、将来の自分なのではないかという危惧が生まれた。

 

『あ、あの……フウコちゃん?』

『なに? 気持ち悪い』

『ガーン!』

 

 急激に食欲が減退する。みるみるうちに顔色が青に近づいた。両脚が震えはじめて、心なしか吐き気が……。

 

 ―――どうしよう、どうしよう……!

 

「あ!」

 

 震えている間にフウコがさっさと教室を出ていってしまった。どうやら、一人で食べるようだ。

 

 後を追うか追わないか。

 

 だけど、もしここで追わなかったら、もう二度とチャンスが来ないような気がした。きっと明日も、シスイはフウコに話しかけるだろう。もしくは、兄妹であるイタチが話しかけるかもしれない。イタチの立ち位置も、どのようなものか、イロミははっきりと分かっていた。

 

 思い出す。二年前の、夜のこと。

 

『きっと、また会えるよ! その時は、いっぱい、遊ぼう!』

 

 フウコにとっては、あまりにも日常的なことだったのかもしれない。

 だけど自分にとっては、特別なことだった。

 

 初めての【外】の世界で出会った、初めての友達。

 

 きっとこれは、我儘なんだろうと、イロミは生来の引っ込み思案が暴れ出す。友達になりたい、という言葉が、今になって、酷く汚い言葉に思えてしまう。

 

 それでも……、でも……。

 

 イロミは、立ち上がった。手に包みを持って、教室を出て、フウコの後を追った。と言っても、教室を出た時点で、彼女の姿を見失ってしまっていた。悩んでいた時間が、意外にも、長かったようだ。

 

 迷わず、足を中庭へと続く廊下に向けた。

 

 フウコが昼休みをどこで過ごすのか、把握していた。

 

 小走りで廊下を駆け抜ける。途中で、他の生徒の子と肩がぶつかってしまい、嫌な顔をされたが今のイロミには、それらに一々気を落としているほど、余裕はなかった。

 

 焦りと緊張が足を前に進ませる。

 

「あ、あれ?」

 

 けれど、いざ、中庭に着いてみると、フウコの姿は無かった。いたのは、他の生徒の姿ばかりで、矯めつ眇めつ眺めても、日差しを浴びてきゃっきゃと賑やかなそこには見当たらない。

 

 そもそも、彼女はこんな賑やかな所を好まない。他の所に行ったんだ、とイロミは思って、すぐさま別の場所を探し回った。

 

 なるべく人気のない場所。あと、空が見える所だ。

 

 探す、探す……。

 

 そして彼女を見つけたのは、校舎裏だった。

 

 ちょうど、木の根元に腰を落ち着かせて、一心不乱にご飯を食べている。リスのように頬張っているが、しっかりと咀嚼して、身体にいいリズムで飲み込んでた。

 

 あまりにも熱心に食事をする彼女を見て、イロミは少しだけ考えて、

 

 

 木に登ることにした。

 

 

【予め断っておくが、今のイロミの思考は正常ではない。もはや鬼気迫るものさえ感じ取れてしまうほど必死に弁当の中身を消化していくフウコを前に、果たしてどのように声をかけるべきかと緊張してしまい、かといってこのまま棒立ちでいるのも居心地が悪く、食べ終わるまで身を隠そうと思った末の、トチ狂った選択だった。むしろ、普段のイロミはそんなアクロバットな動きはしない】

 

 

 木の中央から少し上の部分、つまり、幹が分かれ枝葉になる分岐点のところから、フウコを見下ろした。

 

 ―――……どうしよう。

 

 今になって、自分は何をしているのだろうか。深刻な現実を認識した。

 

 これから友達になる為に話しかけようとしているはずなのに。

 

 傍から見たら、友達になるというより、憎き相手に奇襲を仕掛けようとしているようだ。幸いなことに、周りには誰もいないが、それでも冷汗は止まらなかった。

 

 どんなに考えても、この状況から話しかけてはいけないような気がする。話しかけた瞬間、気持ちの悪い変な子、というレッテルが所狭しと貼られることだろう。

 

 頭だけを覗かせて、こっそりとフウコの様子を伺う。隙を見て降りよう、と思ったのだ。

 

「……ふう」

 

 けれど、下を見た瞬間、フウコの顔が上を向いていた。

 

 心臓が高鳴る。

 

 自分の顔を見られた恥ずかしさと、訳の分からない行動をしている自分を見られてしまった緊張が、半分半分。

 

 しかし、彼女の視線が自分ではなく、その脇の枝葉の隙間を真っ直ぐ見ていることに気が付いた。

 

 笑った。

 

 口の端だけを少しだけ上げた、慎ましい笑み。

 

 フウコがほとんど笑わないからか、それとも笑い方のせいなのか、枝葉からの木漏れ日と相まって、宝石のように見えた。

 

「……あ、笑った…………」

 

 つい、言葉が零れてしまった。

 恥ずかしさも、緊張も、潮のように引いていくほどの綺麗さだったから。

 

「え?」

 

 あ、と反射的に思う。

 今度は、はっきりと視線が重なる。

 もう意味がないにも関わらず、イロミは慌てて身を隠そうとした。

 

 手が、滑った。身体を後ろに引こうと幹に添えていた両手に力を込めた時に、滑り、重心が完全に前に傾いてしまう。

 

「わ、わ……うわっ!」

 

 上半身は完全に中空に投げ出された。

 

 両手をばたつかせる。とにかく、落ちてはいけない。

 

 しかし、もちろん、両手をばたつかせただけで空を飛ぶこともとどまり続けることも、できる訳が無く、イロミは落ちた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 互いの額同士が、重力に従ってぶつかった。

 

「ぅぅううぅううぅぅッ!!!」

「……………ッ!!!!」

 

 そこには、額を抑えて悶絶する二人の女の子がいた。

 白い髪の毛をした少女は両手で額を抑え、地面を転がり続けている。片や、黒い髪を携えた少女は額を右手で抑えながらも、頭を垂れているだけ。

 

 二人の間に落ちたおにぎりの入った包みは、間抜けな二人を馬鹿にするように憮然と地面に座っているばかりである。

 

 数分ほど、二人は悶絶し続けた。フウコがようやく、顔を上げたのは、遠くから、校庭で遊ぶ子たちの笑い声が聞こえてくる頃だった。

 

「……なに?」

 

 流石のフウコも表情を歪めている。朝もミコトから拳骨を貰ったが、それ以上の衝撃だった。涙目になりながらも、自分の上から落ちてきた女の子を見た。女の子はまだ、立ち直ることが出来ないまま、転がり続けている。

 

 ―――えっと……、この子は……。

 

 痛みが走る頭で、なんとか思い出す。

 

 たしか、同じクラスの子だったはず。名前は……イロミだったか、イロリだったか、あるいは、全く別かもしれないが、とにかく、同じクラスなのは間違いない。

 

 しかし、それしか知らない。一度だって、話したことはなかったと思う。

 

 もしかしてシスイの友達だろうか? シスイの絶望的な姿を見て、原因である自分へ報復しに来たのだろうか?

 

 だとしたら捨て身過ぎて、後先を考えていなさすぎる。報復としては効果は絶大だが、自分も痛がっているのだから、どうしようもない。

 

「ぅううぅ……い、いだいぃ~…………」

「……大丈夫?」

 

 情けないを通り越してひ弱な断末魔に近い声を出す女の子を前に、一応は、声をかけてみる。何かしらの事情があった、という可能性だって、否定できない。

 

 うん、と涙声が返ってきた。女の子は悶絶を止めて、額を両手で抑えながら、上半身だけを起き上がらせた。

 

 前髪が目元を隠す程に長いせいで、泣いているのかどうかは分からないが、鼻先が赤くなっている。グズ、と女の子が鼻を啜ったが、口はへの字だった。

 

「えーと……、どうしたの?」

 

 正直、目の前の女の子と何を話せばいいのか、分からなかった。

 

 怒ればいいのか、心配すればいいのか。

 

 どちらにしても女の子の背景を理解しないと対応が分からない、というのがフウコの判断だった。―――だとしても、知った所で、フウコの行動に変化はないだろうけれど。

 

 女の子はまた、大きく鼻を啜った。

 

「………………ど、」

「ど?」

「どもだぢに……なり…………だい………」

 

 どもだぢ。

 

 少しだけ考えて、ああ、友達か、とフウコは理解した。しかし、それだけしか理解できなかった。何故、彼女が上から降ってきたのか、説明になっていない。

 

「……わだじ………っ、ぅぅ……ご、ごべん…………ね……」

 

 女の子は、とうとう、涙を流してしまった。

 

 額を抑えたまま、肩が痙攣し始める。顔が地面に向いて、鼻先から涙が滴となって地面に吸い込まれていく。

 

 何度も、女の子は、ごめんねと、涙声で呟き続けた。

 

 その言葉が、どのような意味を持っているのか、やはり分からない。

 

 フウコはただ、こちらに痛みを与えたことへの謝罪なのだと決めつけた。

 

「私は、大丈夫。もう、痛くないから」

 

 すっかりフウコの涙目も引いて、いつもの無表情に戻っていた。

 痛くないのは、本当である。ただ、女の子には伝わらなかったのか、泣き止まなかった。

 

 似たような、懐かしい感覚があった。すぐに、源泉を見つけ出す。

 

 サスケだった。どんなにこちらの意思を伝えても、伝わらない、どうすればいいのか分からない状況は、彼と他面している時と、同じだった。

 

 ―――サスケくんも、私に、謝ってるのかな……。

 

 泣き止まない女の子を見て、ふと、思った。自分は何も不利益を被っていないのに、泣いている。

 

 自分が、イタチや、フガクや、ミコトの本当の家族ではなく、自分が生まれてきたせいで、居場所を奪ってしまうのではないかと、サスケは思っているのではないだろうか。

 

 もしそうなら、サスケは、とても優しい子なのだろう。

 

 目の前で泣いている女の子も、きっと……。

 

「名前は?」

「……えぇ?」

「名前、何て言うの? 君の」

「…………イロ、ビ」

「イロビちゃんって言うんだ」

 

 女の子は、首をゆるゆると横に振る。肩の痙攣は小さくなり始めている。額を抑えていた両手は胸の前でグーの形で留まっていた。

 

「じゃあ、イロヒ、ちゃん? 合ってる?」

 

 違う、と女の子は顔を横に振って否定した。

 

 本当なら、女の子の方から言ってもらった方が楽なのだけれど、彼女はそんな状態ではない。フウコは、彼女の涙声を考慮して、名前を言い当てようと考える。

 

「……イロリちゃん?」

 

 女の子は、今度は何も反応を示さなかった。

 当たったのだろうか?

 そう考えていると、急に、女の子は、顔をあげた。

 

 やはり目元は見えず、まだ鼻先は赤いままだったが、口元はへの字ではなかった。

 

「……フウコ、ちゃん……。お願いが、あるの……」

「なに?」

「私と……と、友達に……、なってくれる?」

「いいよ」

 

 返答は早かった。

 

 きっとこの女の子は、友達になりたくて、上から―――もしかしたら、空から―――落ちてきたのかもしれない。なら、友達になってほしい、という頼みを、断る理由は無かった。

 

 折角、天気が良いんだから、泣かないでほしい。

 

 フウコは立ち上がって、膝に着いた小さな砂を払った。女の子が顔を上げてこちらを見ている。

 

 小さな右手を、女の子に差し出した。

 

「私、うちはフウコ。よろしく」

 

 ふと、思った。

 

 自分は、他人に泣かれることが苦手なのかもしれない。

 

 

 

 こうして、二人は友達になった。




※ 追記です

 次話の投稿は、今月の末になります。申し訳ございません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

形と意味と

 投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ございません。


 夏である。アカデミーに入学してから、三ヶ月ほど月日が流れた。日は長くなり、酉の正刻でもまだ太陽は沈んでいなかった。蝉しぐれは、西の空がピンク色に染まり立体的な雲が紫色になるのに伴ってなりを潜め、ひぐらしがカナカナカナと鳴き始めた。東からやってくる夜色の空に向かって、カラスが飛んでいく。

 

 演習場。

 

 三人の人影が長く伸びて、そこにいる。

 

 一人は、男の子。長髪の髪の毛を後頭部で一つに纏め、ぱっちりとした目の瞳は黒。イタチは真剣な表情で、十メートルほど離れて対面する女の子を見ていた。女の子は、赤い瞳だった。無表情で、氷のような冷たさを持つ整った顔立ち。無造作に伸びている黒髪は軽い横風に流されている。フウコは左側だけの長いもみあげを耳にかけた。

 

 最後の一人は、フガクである。彼は、両手を組み、厳格な表情を保っている。イタチ、フウコの順に二人の表情を確認してから、小さく頷いた。

 

「始め!」

 

 フガクの声が、閑静な演習場に吸い込まれた。

 

 二人が、全く同時のタイミングで印を結び始める。まだ六歳だというのに、印を結ぶ速度は、下手な下忍をあっさりと凌駕している。

 しかしそれでも、先に術を発動したのは、フウコだった。

 

 口腔に溜めたチャクラを、一気に噴き出すと、巨大な炎の塊が生み出された。

 

 火遁・豪火球の術。

 

 うちは一族の基本的な火遁の術である。しかし、基本的であるとはいえ、アカデミー生で術を発現させるには、相当の努力と類稀な才能が必要だ。

 

 そして、フウコが発現させた炎の塊は、直径六メートルは超える大きさである。チャクラの量が多いという訳ではない。練り溜めたチャクラを無駄なく発現することを可能にした、繊細なチャクラコントロールが成せたものだ。

 

 数瞬遅れて、イタチも、同じ術を発現した。大きさはフウコと同等だが、イタチの場合は、背景が少し異なっている。チャクラコントロールは、やはり同年齢の子たちに比べればずば抜けているが、フウコには及ばない。イタチ自身も理解している。その不足分を、フウコよりも多く保有しているチャクラで補ったのだ。

 

 炎の塊は、二人の中央からややイタチ側で衝突し、炎と熱風が四散する。地面の砂が巻き上げられ、視界が悪くなる。

 

 その中を、クナイが飛んだ。フウコが投げたクナイだ。クナイはイタチの腹部を狙う軌道を描いていたが、彼は身体を横に向けるだけのシンプルな動作で躱してみせる。視線は既に、砂煙の向こう側にぼんやりと見えるフウコを捉えていた。

 

 印を結ぼうとする。今度は、別の術を発動しようとした―――が、違和感。視覚から捉えるフウコの姿を、意識が矯めつ眇めつ観測する。

 

 浮いている砂煙が、彼女をすり抜けていた。

 

 途端、真後ろに気配が。

 

 振り向くと同時に、自身の頭部を狙おうとする踵落としを、印を結ぼうとした両手で防いだ。関節と筋肉の収縮を連動させた、重い一撃。筋力ではイタチの方が、やはり上なのだが、身体の動かし方はフウコが上だった。

 

 イタチは姿勢を低くして、一本足になったフウコに足払いをする。彼女の身体が、重力に従って後方に倒れようとするのを、見逃さない。そのまま押し倒せば勝てる、その判断は身体に直結した。踵落としを防いだ両手で、足首を掴んでいた。

 

 しかし、転ばした足が、イタチの胸を強く押す。手が離れ、胸の衝撃に片膝を地面についてしまう。

 

「甘いよ、イタチ」

 

 バク転の要領で体勢を立て直したフウコは滑らかな速度で印を結び、容赦なく術を発現する。

 

「風遁・風瀑逆巻(ふうばくさかまき)

 

 再び、フウコは息を吐いた。だが、今度のは、炎ではない。地面の砂を巻き上げながら進む空気の塊。

 黄金色の夕日を光を歪める程の密度を保った塊は、音を立てて、下方からイタチの身体を押し上げた。

 

 骨、筋肉、内臓を震わせる衝撃に、イタチは顔を歪め、背中から地面に叩きつけられる。

 

 必然と見上げてしまう空は、夜色、蒼、オレンジの三つのコントラスト。カラスが三つの空を飛び抜けていく。その後に、フウコの姿が写る。

 

 両腕が、彼女の両足に抑え付けられた。

 動けない。

 いや、動こうとしても、間に合わない。

 

 拳を作ったフウコの右手が、眼前に―――。

 

「そこまで!」

 

 フガクの言葉が二人の耳に届くと同時に、フウコの拳が、イタチの額の直前で止まった。本気で殴打することを如実に表すかのように、拳に溜まっていたエネルギーが空気を押し出し、イタチの前髪を撫でた。遅れて、じんわりと汗が身体中に滲み出はじめる。緊張の糸が、解けたのだ。

 

 フウコが両足を離した。踏まれていた部分が鈍い痛みを感じ取り始めると同時に、他の部分も感覚が鮮明になってくる。最初の火遁がぶつかった時の熱風で顔がヒリヒリする、風遁をぶつけられた腹部が痺れていた。けれどそれらは、不思議と嫌ではなかった。

 

 数少ない自分の全力が出せた解放感にも似た高揚感、そして敗北してしまった悔しさ、フウコの圧倒的な実力への敬意、それらが胸の中心で混ざり合って、最終的には言葉にできないポジティブな感情が勝った。

 

「大丈夫? イタチ」

 

 足を離したのに立ち上がらないイタチを見て、フウコが顔を傾けて尋ねてきた。どうやら、身体のどこかを悪くしてしまったのかと、勘違いしているようだ。ああ、とイタチは応えて、ゆったりと上体を起こした。

 

「いつの間に、風遁を覚えたんだ?」

「本で読んだの。あとは、ちょっとずつ練習してた」

 

 ちょっとずつ練習したクオリティではなかったように思える。しかし、それは今更のことかもしれない。彼女の才能の広大さは、十分に承知のことだった。立ち上がって、服や皮膚についた砂煙を軽く払うと、フガクが小さく微笑みながら近づいてきた。

 

「大きな怪我はないか? 二人とも」

「私は、大丈夫です」

「俺も大丈夫だよ、父さん」

「フガクさん、どうでしたか? どこか、駄目な所は、ありましたか?」

 

 フウコはフガクの顔を真っ直ぐ見上げて言った。もはや枕詞のようにもなってしまった彼女の【確認】は、正直、必要がないように思えてしまう。むしろ自分の方が訊くべきだ、と思って、イタチも同じようにフガクに投げかけたが、これも、実は毎度お馴染みのくだりである。

 

 フガクの手が、二人の頭に乗せられる。

 

 自分たちとは違う、これまで警務部隊として邁進してきた、硬い手のひらだが、温かくて安心してしまう不思議な手だった。

 

「その歳で、これほど出来る子は、そうはいない。流石、俺の子たちだ」

 

 置かれた手が、優しく二人の頭を叩いた。

 

「今日はもう終わりだ。母さんも、夕食を作って待っているだろうから、帰ろう」

 

 空は、もうほとんどが夜色に変わり始めていた。西の空の根元だけが、ピンク色で、その上が微かに蒼いだけだ。

 

 横を見ると、フウコが自分の頭を触っていた。瞼を細くして、長い自分の影に埋もれている地面をぼんやりと見つめている。

 

 いつも、思う。

 

 フウコがどうして、そんな表情をするのか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フガクから修行を付けてもらうようになったのは、一ヶ月前からだった。突然、彼から修行を付けよう、と言ってきたのだ。どうして急に、とイタチは思ったが、後からミコトから聞かされたことだが、

 

「せっかくアカデミーに入って、色々分からないこともあるだろうから、きっとすごく頼られるだろうって、思っていたんじゃないかしら? なのに、イタチもフウコも、全然頼ってくれないから、自分から言ったんだと思うわ。あの人、ああ見えて親バカなのよ?」

 

 それが果たして真実なのかは定かではないが、とにかく修行を付けてもらうことは嬉しかった。

 

 アカデミーの授業は、正直なところ、あまり魅力的ではなかった。全てが、という訳ではないが、九割ほどは、そう感じてしまう。実技の授業では既に容易く行えてしまうことばかりで、授業の計算問題や言語の授業も簡単だった。楽しいと思うのは、先人たちが築いてきた壮大な軌跡を学ぶことができる、歴史の授業くらいだ。

 

 だから、フガクに修行を付けてもらえるのは、ピンポイントに望んでいたものだった。アカデミーに入学してからも、フウコと二人で修行はしていたが、それらは本を元にしたものだ。しかも、それらは、基本的なものしかない。将来的に考えて、実践的なものは、数えるくらいしかなかったのだ。

 

 これまで警務部隊として活躍してきた父から教えてもらえるのなら、それは、本で学ぶよりも確実に有意義だ。フウコも、同じように思っていたのか、一も二もなく修行を付けてもらうのに賛成した。

 

 修行は、今回ので四回目だった。イタチとフウコはアカデミー、フガクには仕事があるため、予定が重なることがあまりないから。その分、一度の修行では多くのことを教えてくれる。

 

 そして毎回、修行の最後には、忍術勝負をさせてくれる。フガクが審判となって、勝敗を見極めてくれるため、互いに気にすることなく全力を出せる。

 

 楽しかった。

 

 新しい術を教えてもらい、実現し、そして全力を出すことが。

 

 なのに―――フウコは、忍術勝負が終わると、悲しそうな、困ったような表情をする。どうしてなのか、訊いても「何もないよ」と、淡々と答えるだけ。

 

 街頭が付き始めた大通りを、フガクの後ろを歩きながら、イタチは目だけでフウコの横顔を見る。彼女の赤い瞳は、東の夜空に浮かび始めた下弦の月を見上げている。

 

 ―――もしかして、写輪眼を使えないからか?

 

 フウコは、自分が写輪眼を使えるということをフガクとミコトに黙っている。言わないで、と彼女は言うが、理由は知らされていない。だから、忍術勝負でも、一度として使ったことはなかった。そう見れば、彼女は自分と違って、全力を出せていないのかもしれない。不完全燃焼、ということ。

 

 もしかしたら、忍術勝負が終わってから自分の問題点をフガクに尋ねているのは、少しでも大きく成長したいからなのかもしれない。そうなのだとすれば、彼女の表情の原因は、自分だ。

 

 ―――どうすれば、写輪眼を開眼することができるんだ……。

 

 家についた。玄関を開けると同時に、夕食の温かい匂いが真っ先に鼻へと入り込んできた。修行で疲れた身体が、本能的に空腹を訴えてくる。靴を脱いで居間に行くと「まずお風呂に入りなさい。もう沸かしてあるから」と、ミコトに言われた。

 

 フウコ、イタチ、フガクの順番に風呂に入った。ミコトは既に、サスケと一緒に入ったらしく、サスケはもう眠ってしまっているらしい。

 

 夕食の献立は、白身魚の味噌煮と湯葉のお吸い物、サラダ、卵焼きだった。しかし、フウコの目の前だけには茶わん一杯分のきんぴらごぼうが置かれていた。

 

 それは、フウコの為だけに用意された特別な物である。特別、というのは、どちらかというと、ミコトに対しての意味合いが強いかもしれない。

 

 フウコの食欲は、家族の中で最大だった。枯れた井戸に水を垂らすかの如く、際限なく食べてしまう。特に、白飯は毎度必ず絶滅する。家計の全権を任されているミコトにとって、フウコの食欲は脅威だったのだ。そのため、あの手この手で対策を講じてきた。きんぴらごぼうは、今日初めて行われた新たな対策である。

 

 それを五秒ほど上から凝視してから、フウコはミコトを見た。

 

「よく噛んで食べなさい。そうすれば、お腹一杯になるから」

「……ですが、」

「お腹一杯になるから」

 

 食事はいつも通りだった。フウコから話しかけることはなく、何か訊かれたらコンパクトに応える、というもの。フガクもイタチも、フウコほどではないが、似たようなスタンスだ。一番喋るのは、ミコトである。大抵の皮切りは彼女からで、一時期は、フウコから三言引き出す、ということが密かなマイブームになったこともあったりする。

 

 あまり、ワイワイとした賑やかなものではないが、それでも、充実した空気が居間を所狭しと包んでいる。無駄な疲れのない、ニュートラルな時間だった。ミコトが「今日の修行はどうだったの?」と、イタチとフウコに尋ねた。

 

「うん、楽しかった」

 

 イタチの返事に、横のフウコも一ミリほど首肯する。フウコは片手にきんぴらごぼうの入った茶碗を持って、ポリポリと音を立てながらそれを食べている。

 

「そう、それは良かったわ。でも、あまり無理しちゃ駄目よ? 貴方も、イタチやフウコの事を気遣ってくださいね。まだアカデミー生なんだから」

「今のうちに積み重ねていけば、将来必ず役に立つものだ」

「将来って、気が早いわよ」

 

 言いながらも、ミコトは小さく笑っている。おそらく、フガクの言葉の抑揚に含まれた細かい嬉しさを汲み取ったのだろう。その後も二人は、イタチとフウコの修行について話しを続けた。

 

 イタチは内心、修行を止められてしまうのではないかと、ひやひやした。修行は辛くないし、楽しいばかり。今の自分に必要不可欠な時間だ。魚の身を割きながら、二人の会話の行く末を心配していると、突然、隣のフウコが呟いた。

 

「フガクさん」

 

 水面に石が投げ入れられたように、彼女の声は、瞬間的に居間の音を消し去った。

 

 あまりにも前触れがなかったため、三人は一斉に瞼を開きながらフウコに視線を向ける。急に全員の表情が硬直したことに、フウコは少しだけ頭を傾げた。

 

「どうしたんですか?」

「え? ……ええ、何でもないのよ」

 

 ミコトは明らかに動揺を隠しきれていないが、フウコは「そうですか」と呟いて、フガクを見据えた。彼は小さく、喉を鳴らした。

 

「どうした? フウコ」

「実は、お願いしたいことが、あるんですが……」

 

 また、全員の表情に驚愕の色が浮かべた。今度のは、さっきよりもより深い色である。

 

 それほどに、フウコが頼みごとをするのは、奇跡的なことだった。全員が、動揺で箸や茶碗を落とさなかっただけ幸いだった。

 

「なんだ? 言ってみてくれ」

「はい。――来週に、手裏剣術の小テストがあるんです。そのことについて、少し相談が」

「自信がないのか?」

 

 静かに、イタチは思い出す。今日の忍術勝負で、自分に向かって飛んできたクナイの軌道は正確なものだった。

 

 そもそも、フウコは全ての面において、アカデミーでは抜きんでている。これまで幾つかの小テストが行われたが、彼女は全て満点の成績を叩き出している。自分は勿論、フガクもミコトも、そのことはよく知っていて、対面に座っているミコトが、どうなの? という視線をこちらに送っていた。イタチは静かに首を横に振って、フウコの言葉を待った。

 

「私は、問題ありません」

「じゃあ、何が問題なの?」

 

 と、ミコトが尋ねる。

 

「私じゃなくて、私の友達が、手裏剣術が苦手で。何度教えても、上達しないんです。だから、どうやれば上達するのか、教えてほしいんです」

 

 

 とうとう三人の手から箸が一斉に落ちた。

 

 

 フガクに至っては、茶碗をテーブルに落とし、その拍子に御飯が音もなく床の上に着地した。

 

 十秒ほど、三人は言葉を失った。

 呼吸も止まってしまっていたかもしれない。完全に動きは停止していた。

 

 急に動かなくなった皆にフウコは、フガク、ミコトの顔を見てから、イタチを見た。

 

「イタチ?」

 

 呼びかけられても、応えられない。

 いやそもそも、耳に入っていなかった。

 

 食事中、フウコから話し始める。

 食事中、フウコが相談をする。

 私の友達、という言葉。

 

 休憩を許さない速度の巨大な衝撃は、思考を完全停止させるのには十分過ぎるほどの事実だった。

 

 別室から小さく、サスケの泣き声が届いた。

 

「……友達が、できたのか?」

 

 ようやく捻りだした言葉だった。フウコは無機質に「うん」と頷いた。

 

「本当か?」

「一応、その子とは、友達になろうって言われたから」

「……本当にか?」

「信じてくれないの?」

 

 即座に首肯は出来なかった。ましてや、フウコからではなく、その【友達】から、友達になってほしいと言われた、というのが、信じようという気概を大いに削いでいる。だが何とか「いや……信じる……」と、返せた。

 

 フウコは、そう、とだけ呟いて残ったきんぴらごぼうを食べ始めた。ポリポリと、コミカルな音が耳に入ってくる。

 

 天井を見上げた。修行よりも遥かに重い倦怠が、どっと肩にのしかかってくる。遅れて、嬉しさが込みあげてくるのを、イタチは確かに感じ取っていた。視界一面を圧迫する天井が邪魔だと思えてしまうほど、喜びたい衝動を必死に抑える。

 

 すると、ミコトの手が、フウコの頭を撫でた。

 

「友達が、できたのね」

「はい」

「お腹、まだ空いてる?」

「……いいえ」

「嘘おっしゃい。変に遠慮しないの。そうだ、冷蔵庫の中に、明日のハンバーグの材料があったわ。今、作ってあげるわね」

「いいんですか?」

「当たり前じゃない。いっぱい、作ってあげるわ。ほら、貴方。床に落ちたお米、掃除して」

「あ、ああ。そうだな。フウコ、何か欲しいものはないか?」

「え?」

 

 その後。

 

 夕食は一転して、賑やかになり、そして長く続いた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「いつの間に友達ができたんだ? イロリ(、、、)ちゃん、だっけ?」

 

 今までで一番充実した夕食が終わった。夕食が終わってからも、フウコの友達の話題は続いた。特にミコトは、嬉々としてフウコにその友達が、どんな子なのかを根掘り葉掘り尋ねた。

 

 フウコは、友達のことを、イロリ、と言っていた。特徴を聞くと、確かに、そんな名前の子がいたと思い出す。一度も話したことが無く、イタチの友達も一度として話題に出したことが無かったため、あまり記憶にない。けれど、特徴的な髪の毛をした子だという印象だけは残っている。その後に続いた、人見知りで、ちょっと間の抜けた変わった子だ、というのは初めて聞く情報だった。

 

 夜が進み、フウコが大きく欠伸を噛みしめた辺りで、寝よう、ということになった。

 

 自室は暗かった。明かりを消し、カーテンも閉め切っている。全くの無音の中、イタチは声を潜めて、隣の布団で瞼を閉じたばかりのフウコの横顔に尋ねた。

 

「うん」

 

 と、フウコは瞼を閉じたまま応えた。

 

「二ヶ月くらい前に、友達になった」

「俺に教えてくれても良かっただろ。そうすれば俺も、その子と友達になれたし、父さんにも母さんにも教えることができた」

「もしかして、心配してた?」

「あまり友達とかに、興味がないと思ってたからな」

 

 かといって、今、心配していないとは言えない。友達ができた、ということで安心したが、今度は、その友達がいつかフウコを嫌わないか、という新しい心配ができている。

 

 どうにか自分が二人の関係を壊さないよう、間に入りたいと、兄としての使命が小さく胸の中で生まれていた。

 

「人見知りだって言うけど、どれくらい人見知りなんだ?」

「他の子と話してるところを見た事がないから分からないけど、顔を見られるのは、嫌みたい」

 

 そうなのか、とイタチは情報をしっかりと記憶に焼き付ける。

 

 夕食の後、フガクはその友達に修行を付けると言い出した。明日は、アカデミーが休みの日だ。その様子を見て、人に教えるということのコツを学んでほしいと、彼は言っていたが、本心では、フウコの友達を見たいと思ったのだろう。イタチも、明日の修行には顔を出すと既に言っている。

 

 顔を天井に戻した。一度、瞼を閉じたが、あまり眠くはなかった。

 

 明日、イロリとどんな風に話しかけようか。あまり、話しかけない方がいいだろうか。どういう理由でフウコと友達になるだろうか、もしかして彼女の何かを勘違いしているんじゃないか、けれど、フウコは優しい子なのだと、教えてやりたい。

 

 今日はぐっすり眠れるだろうか。そう思っていると、フウコが、

 

「ねえ、イタチ」

 

 と、呟いた。ん? と応えて、視線だけを彼女に向けた。フウコは寝返りをうっていて、布団と黒髪の間から白いうなじが見えた。

 

「友達って、何をすればいい?」

 

 平坦な声には、困ったような色が入っていた。

 

「シスイと一緒にいる時みたいでいいんだ」

「イロリちゃんは、あまり、自分から話す子じゃないから。でも、友達と話すのは、普通なんでしょ?」

「お前はいつも通りでいいんだ。その子が友達になりたいって言ったのは、お前なんだ」

「……いつも通りにするのって、大変なんだね」

「なあ、フウコ」

「……なに?」

 

 どこか眠そうな、フウコの声。

 

「修行は、楽しいか?」

「うん……。楽しい。どうして?」

「まだ、俺はお前と対等じゃない」

「イタチは凄いよ。私は、イタチの才能が羨ましい(、、、、)

「どういう意味だ?」

「ううん。……ごめん、気にしないで。眠いの……」

「そうだな。もう寝よう」

「おやすみ、イタチ」

「おやすみ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フウコはいつも通りの時間に目を覚ました。布団を片付けて、イタチと一緒にサスケの顔を見に行き、朝食を食べ、その後は本を読みながらゆったりと過ごし、昼食を食べて、身支度を済ませた。修行は未の正刻からなのだが、早めに家を出ることにしたのだ。

 

「もっとゆっくりしていったらどう?」

 

 廊下でミコトが残念そうに眉毛をへの字にして呟くが、フウコは首を横に振った。

 

「イロリちゃんを迎えにいかないといけません」

 

 そもそも、今日修行を付けるというのは、彼女は知らない。だから知らせなければいけない。早めに家を出るのは、その、知らせるという作業、そして連れてくるという作業に手間がかかるだろうと思ってのこと。イロミにだって親がいて、もしかしたら、予定があるかもしれない。あまり彼女の家族事情を知らないため、なるべく早く行く必要がある。

 

 それに、もしイロミに予定が入っていたら、早めにフガクやイタチに伝えなければならない。

 

「イロリちゃんは、人見知りなので、説得するのにも、時間がかかると思います」

「うーん……そうなの? 分かったわ」

「では、行ってきます」

「あ、フウコ。今日の晩御飯、何がいい?」

 

 玄関で靴を履こうとすると、尋ねられた。珍しいな、とフウコは思った。いや、昨日の夕食の途中から不思議な空気が自分の周りを包み込んでいるように思うのだけれど、自分に献立を尋ねてくるのは、相当に珍しい。

 

 しかし、深く考えないことにした。自分に課せられた食事制限から、今晩だけでも解放されるのではないかという欲望には勝てなかった。

 

「お肉が良いです」

「分かったわ。今晩は、楽しみにしてなさい」

 

 きっと、お腹一杯に食べることができるのだろうと、心の中で確信した。

 

 家を出る。今日も、昨日のように天気が良かったが、やはり、暑かった。空には高く、重そうな入道雲が浮かんでいる。雨にならないでほしいな、と思う。うちはの町は人通りがまだ多くなかったが、もう見慣れた光景でもある。

 

 町を出て、里の南の方へ足を運ぶ。南の、端の方の、小さな住宅街。第三次忍界大戦、そして九尾の事件の傷痕は、もうすっかり、復興によって無くなったものの、そこは閑散としていた。建物を新しく建て直したものの、人がいないのだ。

 

 自分の足音だけが、住宅街に吸い込まれていく。心なしか、気温も、低いような気がする。住宅街の中央を貫く通りを真っ直ぐ進み、木の葉隠れの里を囲う高い塀の前までくると、一つの建物が建っていた。

 

 住宅街から仲間外れにされたかのように、ポツンと、建物はそこにある。脇には背の高い木が一本立っていて、建物への日差しを遮断しているせいで、全体的に暗い雰囲気が漂っていた。コンクリートの壁には蔓が生い茂っていて、四角い窓の向こうは灰色のカーテンが閉め切られている。茶色い三角屋根は、今にも落ちそうなくらいに朽ちている。

 

 イロミの家族事情は知らないが、どんな場所に住んでいてどんな家なのかは、聞いたことがあった。聞いた通りの位置と見た目だったが、思わずフウコは視線を辺りに巡らせる。想像以上のボロさのため、この家ではないのではないか? と思ったのだ。しかし、他に似通った建物が見当たらなかった。

 

 ため息をついてから、その家の玄関に立ち、呼び鈴を一度鳴らした。すぐに、足音が聞こえてきた。

 

 足音が、ドアのすぐ向こうで止まると、静かに開く。白い頭だけが、小動物のようにひょこりと出た。

 

「はい、なんですか……? ……え?」

「おはよ、イロリちゃん」

「フ、フウコちゃん?」

 

 フウコを確認すると同時に、イロミは身体ごとドアから出した。彼女の衣服に、少しだけ、驚き。

 

 彼女の着ている服が、いつもの服装ではなく、寝巻だった。白と黒の縞模様をした上下の長袖シャツと長ズボン。さながら囚人服のようで、一周回って、積極的な服装だ、とフウコは思った。

 

 本人は別段、気にしている風でもなく、そっと後ろ手でドアを閉めた。

 

「えっと……どうして、ここにいるの?」

 

 彼女と友達になってから二ヶ月近くが経過した。その間で、彼女の声のトーンは安定してきたし、なよなよとした雰囲気もある程度、抑えられてはいる。けれどまだ、彼女の顔は、自分の目ではなくやや下方を向いていた。

 

「今日って、アカデミー……あったっけ…………?」

「休みだよ」

「じゃあ、どうして……?」

「イロリちゃんは、今日は暇?」

「……うん。そう、かな…………えへへ……」

 

 曖昧に頷きながら、乾いた笑い声を彼女は出した。

 

「今日、イロリちゃんに修行を付けてくれるんだよ」

「え? 誰が?」

「フガクさん。イタチのお父さん」

「……フウコちゃんの、お父さん?」

 

 フウコは、ワンテンポ遅れて、微かに頷く。

 

「フガクさんから教えてもらえば、来週ある手裏剣術の小テスト、良い点数が取れると思うけど」

「修行って、これからすぐなの?」

「すぐじゃないけど、出れるなら、今のうちに出た方がいいと思う」

「うん。ちょっとだけ待っててね」

 

 家に戻っていくイロミは、やはり、玄関のドアをそっと閉めた。もしかしたら、家族が寝ているのかもしれない。

 

 イロミはすぐに戻ってきた。アカデミーに行く時の服装で、ドアのカギを閉めると、首を傾けて「えへへ」と笑った。

 

「どうしたの? 何か、面白いことでもあった?」

「休みの日にフウコちゃんに会えたことが、嬉しくて」

「会おうと思えば、いつでも会えるよ?」

「そうだけど……、でも、嬉しい」

 

 二人は並んで歩いた。並んで歩けるくらいには、二人の間には遠慮が無くなっていた。おそらく、フウコのせいだろう。何を尋ねても、淡々と返事をされて、どんなことをしても平然としている彼女には、あまり、遠慮をしても意味がないのだと、イロミは気付いたのだ。

 

 歩きながら、イロミは様々なことを尋ねてきた。どうして今日は修行することになったのか、フガクはどんな人なのか、などなど。それらにフウコは、一言二言で応えた。その度に、イロミは、控えめに笑った。どうして笑うのか、分からなかった。

 

 向かう先は、演習場。しかし、まだ時間には少しだけ余裕があった。早く行っても、しょうがないのだけれど……。

 

 グゥ~。

 

 ちょうど商店街に差し掛かった時に、間抜けな音が二人の間に響いた。イロミの腹が、空白を訴えた音である。

 

「お昼ご飯、食べてないの?」

「今日はちょっと……えーっと、起きる時間が、遅くて」

 

 ああ、だから寝間着姿だったのか、と納得する。

 近くに駄菓子屋があったが、残念なことに、お金は持ってきていなかった。お腹が空いている状態で修行しても、集中力が続かない。

 

 イロミの顔を見ても、彼女は痩せ我慢の笑顔を浮かべるだけで、暗に大丈夫と主張していた。

 

 どうにかしてあげたいな、と思った時、予想していなかった声が聞こえた。

 

「お、フウコじゃん。お前、何してんだ?」

 

 振り返ると、おかしなことに、シスイが立っていた。おかしなこと、というのは、彼に会うとは予想していなかったからだった。

 

 途端に、背中に気配が。顔だけを傾けると、イロミが小動物のように、自分の後ろに隠れたのだ。ああ、自分以外だとこうなるのか、とイロミの別の側面を発見した。

 

 フウコはイロミの行動に対して特に気にせず、不思議そうな視線を送るシスイを見た。

 

「駄菓子屋で何か買おうと思ってたの。でも、お金が無いから、困ってる」

「なんだ、昼メシ食べてないのか? 珍しいな」

「私じゃなくて、後ろの子が食べてないの」

 

 背中の服が弱々しく引っ張られた。話を振らないでと訴えているのかもしれないが、シスイはあまり害のある人物じゃない。

 

「その子、友達か?」

「うん。イロリちゃん」

 

 へえ、とシスイは嬉しそうに笑った。その笑い方は、昨日の夕食に頭を撫でてきたミコトのそれと酷似していた。

 

 シスイが、フウコの後ろに回り込もうとする。

 

「ん?」

 

 と、小さく声が出てしまった。

 

 シスイの動きに合わせて自分の身体が勝手に回転したのだ。シスイの正面を向く。

 

「邪魔するなよフウコ。どんな奴か、見てみたいんだ」

「いや、邪魔してるわけじゃないけど」

 

 またシスイが後ろに回り込もうとすると、身体がそれに合わせて回転する。もちろん、フウコが自分からそうしている訳ではなく、後ろにいるイロミが背中を引っ張って動かしているのだ。

 

 ぐるぐるぐるぐる。

 

 五週ぐらいしてから、そろそろ三半規管がやられそうになったので、フウコは足に力を込めて停止させた。後ろのイロミと目の前にシスイは、同じテンポで肩で呼吸をしている。疲れるまでやらなければいいのに、と思うだけである。

 

「シスイ、お金、持ってる?」

「ぜえ、ぜえ……え、なんだ?」

 

 顔に無意味な汗をかいたシスイは、息も絶え絶えに応えた。

 

「お金。家に帰ったら、返すから」

「……その子を、紹介しろ…………」

「時々思うけど、シスイって引き際がしぶといよね」

「お前の友達は、俺の友達だ」

「……イロリちゃん、大丈夫?」

 

 後ろを向こうとしたら、服を引っ張られて後ろにバランスを崩してしまう。左足で踏み止まった。

 

 どうやら、止めてほしい、ということのようだ。

 

 シスイに向かって首を横に振ると、彼は両手を広げて肩を透かした。降参だ、という意味らしい。

 

「……いくら欲しいんだ? おごってやる」

 

 果たして、彼の財産はどれ程のものなのか。とにかく、駄菓子屋で売られている菓子パンを買ってもらった。その間も、常にイロミはシスイから見られないようにしていた。

 

 菓子パンは、メロンパンである。そこまで高くはなく、後で返す、と言ったのだけれど「おごるって言っただろ」と、頑なに返済はするなと言われてしまった。購入したメロンパンがイロミに渡されると、ようやく、彼女は頭を小さく、フウコの肩越しに出した。

 

「そ、その…………」

「お、ようやく顔を見せてくれたな」

「……あ、ありが…………と…………」

「にしし、気にすんな」

 

 シスイは爽やかに笑った。

 

「俺、うちはシスイだ。よろしくな」

「……私………、イロミ……」

「ん? イロミ? イロリじゃねえのか?」

 

 フウコは無表情のまま驚いた。

 

「イロリちゃんじゃなかったの?」

「そ、その……フウコちゃんは、イロリ、で、いいの…………。あだ名みたいで、嬉しいから…………」

「そう」

 

 よく分からないな、と思った。

 

「よし、イロミ。これで俺とお前は友達だ」

「え?」

「何驚いてんだよ。友達だ、友達。な? だから、そんな怖がるなって。俺はいいやつだぞ? なあ、フウコ」

「良いかどうか別だけど、うん、でも、シスイは怖くない」

 

 おずおずと、イロミが、フウコの背中から身体を出した。メロンパンを持った両手を前にして、なよなよと内股で立ち尽くし、顔も確実にシスイから逸らして地面を向いているが、それでもシスイは嬉しそうに笑った。

 

 不思議だ。

 

 友達になるというだけで、人見知りのイロミの行動が変化した。他に何かが変わったという訳ではないのに。

 

 それとも、シスイの明るい性格が、そうさせるのだろうか?

 

 まだ、友達という関係が分からない。

 

 意味も、役割も。

 明確じゃないのだ。

 他人に親しくするのは、当たり前だ。

 里が平和であれば、そうなるのだから。

 

 じゃあ、どうして、友達が必要なんだろうか。

 

 フガクも、ミコトも、イタチも。

 

 自分に友達ができたことを、喜んでいるように見えた。

 それが、特別なことなのだろうか。

 里の平和の元では、友達ができるというのは、特別なのだろうか。

 

「んで? 二人は何してるんだ?」

 

 隣でイロミがメロンパンを齧っているため、フウコが応える。

 

「これから、修行をするの。フガクさんとイタチと一緒に。来週の手裏剣術の小テストの為に」

「あー、そういえば、あったな。でもお前、成績は良い方―――っていうか、ずっとトップだろ」

「私じゃなくて、イロリちゃんが、苦手なの。だから、フガクさんに、これから修行を付けてもらうの」

「なら、俺も行く」

「シスイは、どうしてここにいたの?」

「ジイちゃんと喧嘩して、勝てなそうだったから逃げてきた」

「昼間から、元気だね」

「納豆が出たんだ。信じられるか? 昼メシにだぞ? 怒らない方がおかしい。納豆ぶつけて、醤油をかけて、カラシを投げつけた所までは良かったんだけど、その後は、危なかった」

 

 もしかしたら、彼は今日、家に帰ったら非常に危険な事態に陥るのではないか。しかし、よくよく考えてみると、いつものことだ。

 

 くぐもった声が聞こえてきた。

 

 横のイロミが、小さく笑うのを我慢していたのだ。フウコに見られた彼女は、慌てて顔を背けた。にしし、とシスイは笑った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 アカデミーにおける、同学年での成績は、トップがフウコ、次いでシスイ、その次がイタチというのが殆どだった。時には、三人が満点の時もあったし、シスイとイタチが同着でフウコが独り勝ちというパターンもある。常に、フウコはトップだった。

 

 そう、意外に、シスイは優秀である。もちろん、成績、と言えども大きなテストではなく、来週控えている小テストのような規模だけなのだが、それでも、フウコは実のところ、シスイは馬鹿なのではないか、と思っていた。

 

 理由としては、やはり、彼の行動が源泉である。

 

 特に、今日のように、彼の祖父であるうちはカガミと喧嘩をして逃げるという、行き当たりばったりの行動はあまり賢いとは思えなかった。だから、アカデミーでの成績を見た時は、少しだけ、驚いたものである。

 

 当然のことながら、来週の手裏剣術の小テストもシスイは楽勝だと言った。

 

「クナイと手裏剣を投げるだけだろ?」

 

 三人は、演習場に向かって並んで歩いていた。フウコを真ん中に、右側にシスイ、左側にイロミである。フウコが真ん中なのは、シスイからイロミへのアプローチの緩衝材として、自然とそうなってしまった。

 

 緩衝材、というのは、つまり視線をシャットダウンするためのもの。やはり、まだシスイに慣れないのか、絶妙に彼の視線を、フウコを使ってブロックしていたのだ。

 

「イロミはそんなに手裏剣術が苦手なのか?」

「基本的に、真っ直ぐ飛ばないし、的に刺さらない」

「うぅ……。フウコちゃん、ひどい…………」

 

 しかし、事実である。昼休みに、何度かイロミの修行を付けたことがある。手裏剣術だけではなく、基本的な体術なども。その結果、彼女は全体的に、能力が非常に低いということが分かった。

 

 シスイが下唇を出した。

 

「お前なあ、フウコ。もうちょっと、言葉選んだ方がいいぞ?」

「どういう意味?」

「イロミ、あまり気にするなよ? フウコはな、口が悪いわけじゃないんだ。悪い方向に、素直なだけだからな」

「う、うん……。知ってる…………」

 

 言葉を正確に伝えるのはいけないのだろうか? と、フウコは思った。イロミを見ると、口の周りにパンカスを残しながらも、メロンパンを食べ終えている。小食なのか、もう空腹の音はしなかった。

 

「そういえばイロミは、イタチのこと知ってるのか?」

「え?」

「うちはイタチ。フウコの兄だよ」

「う、ううん……、し、知らない…………。あ、知ってるけどぉ……」

「イロリちゃんはイタチと話したことがないよ」

 

 横で、大きくイロミが頷いた。

 シスイの言いたいことは、分かる。ある意味、修行より大変かもしれない。シスイの時のように、メロンパンはもう無い。どうすれば、少なくとも、必要最低限の会話ができるくらいにまで友達になって、そして慣れてくれるのか。

 

 すると、シスイは、こちらの心配を余所にあっさりと言ってのける。

 

「あまりビクビクしても良いことないって。あいつは良い奴だから、友達になってくれって言えば、すぐに仲良くなれる。簡単だろ?」

「…………でも、」

「だーいじょうぶだって。少しでもあいつが気に食わなかったから、すぐに俺に言えよ? 俺がお前に代わって、あいつをボッコボコにしてやるからな」

「……シスイくんは…………、そのぅ……イタチくんと、友達なんじゃ……」

「お前も友達だろ? 俺の友達を馬鹿にするやつは、たとえ俺の友達でも、俺は許さないからな。だから、安心して、友達になってくれって言っていいぞ」

 

 演習場に到着した。

 

 既に、イタチとフガクは到着していた。二人の視線が、自分に向けられる。しかし、即座にイロミへと移動した。

 

「うぅ…………」

 

 やはり、イロミはフウコの後ろに隠れてしまった。友達というだけで、シスイにはほんの少しだけ慣れて、それ以外には慣れない。よく分からない。

 

 背中の服を引っ張られる。今回のは、今まで以上に強い力が加えられて、立ち止まってしまった。

 

「ね、ねえ……。あの、怖い顔の人って…………」

 

 怖い顔。

 フガクとイタチの顔を比較する。おそらく、フガクのことだろうな、と考えた。

 

「フガクさん。イタチの、お父さん」

「……怖く、ない?」

「大丈夫だよ」

 

 どちらかというと、ミコトの方が怖い、と密かに思った。サスケを泣かせてしまった時の彼女の恐ろしさは言葉では表現しきれない。

 

 立ち止まっている間に、イタチがこちらへ駆け寄ってきた。ひ、という小さな悲鳴が後ろから聞こえてきた。

 

 目の前にやってきたイタチの前に、シスイが割り込んだ。

 

「よ、イタチ」

「……どうしてシスイがいるんだ」

「いちゃ悪いかのような言い方だな。良いだろ? お前だけ抜け駆けするなよ、俺も修行に混ぜてくれ」

「またカガミさんから逃げてきたんだろ」

「……いい勘してるな、お前」

「フウコ。後ろの子が、お前の友達か?」

「うん。でも、少しだけ、落ち着いて。今この子、すごい怯えてるから」

 

 人見知りである、ということはイタチは知っている。しかし、彼の基準はイロミのそれには一切適していない。フウコは静かに首を横に振った。

 

 フウコとイタチの間に立っていたシスイは笑いながら、イタチに向かって両手を上下させる。落ち着け、というメッセージだった。その後、イロミの後ろに回った。小さな声で、シスイは言う。

 

「ほら、イロミ。頑張れ。ああ、でも、イタチと友達になりたくない時は俺に言えよ? 何とかするから。にしし」

 

 顔だけを後ろに向ける。シスイと視線が重なった。彼は、真っ直ぐ、自分を見つめている。どういう意図があるのか、読み取れなかった。

 

 そうしている内に、驚いたことに、イロミが、ゆっくりと、動いた。

 

 背中から、彼女の手が離れていくのが、はっきりと分かる。

 

 ―――どうしてだろう……。

 

 何も、変わったことはないのに。

 彼女はどうして、動けたのだろう。

 

 全身をイタチの前に出したイロミは、シスイの時よりも、なよなよしていた。いや、震えていた。

 

「あ、あの…………」

 

 声も、不安定だ。喉も、下顎も、震えているせいだ。

 

「……イタチ、くん…………、あの…………」

 

 イタチは、じっとイロミの顔を見て、口を閉じている。

 昨日の夕食に、イロミの顔を見ないように言った。それは、イロミの対人能力の許容量になるべく負担をかけない為だ。きっと、イロミはずっとイタチの前から姿を出さないと、予測していた。

 

 なのに、今のイロミは、そうじゃない。明らかに、いつもの彼女じゃなかった。

 

 原因は、シスイの言葉だろう。

 

 友達のシスイの言葉が、彼女の行動に、大きな変化を与えた。

 

 イロミが、一度だけ、不安そうに、こちらを見た。

 

 けれど自分は何も、言えなかった。ただ、頷くだけ。どういう意味を込めて頷いたのか、自分でも分からない。

 

 友達である自分が、彼女に、何をしてあげればいいのか、そもそも、分からなかった。

 

「私と…………」

 

 その声は、これまでで一番、弱々しいものだった。呼吸すら、まともにできていないのではないかと思えてしまう。

 

「……、その………」

 

 えっと、

 

「友達に……………」

 

 声がそこで、一度止まる。苦しそうだ。

 誰も笑わないし、怒りもしない。

 大きく、イロミの喉が、唾を飲み込んで動いた。細い顎から、汗が落ちた。

 

「……なって、ください…………」

 

 言葉の最後の方は、もう、隣にいるフウコでさえ聞き取れないほど、か細いものだった。それは、イロミ自身も自覚してしまったのか、泣きそうに、どこか悔しそうに、下唇を噛んで、大きく俯いてしまっていた。

 

 イタチは、優しく笑った。

 

「ああ。よろしく。俺は、うちはイタチ。フウコの兄妹だ」

「……う、うん……、よ、よろしく…………、私は、イロミって…………、言うの………。よろ、しく……」

 

 少しだけ、イタチは不可解そうに、微かに眉を顰めたが、すぐに笑顔を戻した。

 

 シスイの時と同じように、イロミの名前に疑問を持ったのだろう。しかし、それを今指摘するのは不必要だと、イタチは判断したのだろうと、フウコは考えた。

 

 イロミはすぐに、逃げるようにフウコの後ろに隠れてしまった。大きなため息が、背中から聞こえてきた。まるで自分はイロミの防波堤のようだ。

 

 それでも、シスイでも、イタチでもなく、自分を必要としてくれるのは、心が安定する。

 

 安定する?

 そもそも自分は、不安定だったのだろうか?

 いつ?

 

 ああ、きっと、イロミが下唇を噛んだ時だ。

 

 彼女の緊張が、自分に感染していたのかもしれない。

 

 友達だから。

 

 シスイの安心が、イロミに伝染したように。

 彼女の緊張も、自分に移ったのだ。

 

 友達だから。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その日、修行は順調に進んだ。少なくとも、来週の手裏剣術の小テストでは、十回に三回くらいは、落第点はギリギリ取らないであろうという段階までには。目覚ましい進歩だ、とフウコは思った。もっと時間があれば、とも、思う。

 

 実のところ、修行自体は一刻ほどしか出来なかった。

 

 原因は、フガクである。いや、フガクのせいというよりも、フガクの顔立ちのせいだと言っても過言ではないだろう。

 

 イタチと友達になることに体力を使ってしまったせいか、あるいは大人と親しくなるという考えを作り上げることができなかったのか、兎にも角にも、イロミはフガクと顔を合わせる度にフウコの背中に隠れてしまったからだ。

 

 イロミ曰く「やっぱり、怖い……」とのこと。生理的に、フガクの顔立ちは、たとえ彼がサスケに向ける優しい笑顔を作ったとしても、受け入れられないようだった。そのせいもあって、フウコは、再びぐるぐると回される羽目になったのである。今回は、三十回ほど回されてしまった。

 

 イタチとシスイが、どうにかこうにか、イロミを説得して、ようやく顔を合わせても隠れない程度までにするのに、ほとんど時間を費やしてしまった。けれど、修行が始まれば、イロミは真摯にフガクの言葉を聞き、没頭した。

 

 フガクの教え方は分かりやすく、自分よりも遥かに丁寧だったように思える。つまり、何度同じ失敗を繰り返しても、根気強く教え続けた、という意味である。

 

 修行の最後には、小テストと同じ距離から、演習場に立っている丸太にめがけて投げたクナイが見事中心に刺さった。刺さった瞬間、それまで何十本ものクナイや手裏剣を外してしまい意気消沈していたイロミは「やったー!」と大いに喜んだ。フウコに抱き付くほどだった。

 

「シスイくんにイロミちゃん、うちでご飯を食べていきなさい」

 

 イタチ、シスイ、フウコ、イロミの四人で、イロミが大量に投げたクナイ(それらの中には、イタチ達が貸してあげたクナイも含まれている)を拾っている時、フガクが呟いた。四人は一斉に、彼を見上げた。既に、夕方である。

 

「……えーっとぉ…………。お父さんが、家で、待ってるので……」

 

 イロミが、困ったように口をへの字にした。嬉しいような、困ったような、表情である。フウコはその表情をじっと見ていた。

 

 逆に、隣でシスイは目を輝かせた。

 

「フガクさん、俺を一生匿ってください!」

「シスイ、お前は帰れ」

「なんだとイタチ! お前、今俺がどんだけ家に帰りたくないか知らないな!」

「帰れ」

「はい、イロリちゃん。クナイ。これで全部だと思う」

「ありがとう、フウコちゃん」

 

 クナイを手渡して、フウコは尋ねる。

 

「今日は駄目なの?」

「ごめんね、フウコちゃん。次は、一緒に食べよ」

「うん、そうだね。―――フガクさん、イロリちゃんを家まで送っていきます」

「いいのか? フウコ。ミコトのやつも、楽しみにしてると思うが」

「また別の機会でいいと思います。イロリちゃんも困らないと思うので」

 

 自分と同じように、彼女にも、家族がいる。きっと、心配していることだろう。半ば無理に、修行をさせてしまった部分もあるから、なるべく彼女の言い分は聞いてあげたかった。フガクは残念そうに眉の尻を下げて呟く。

 

「……そうか…………、確かに、そうだな」

 

 フガクはイロミを見る。優しい笑顔を浮かべ、イロミの頭を撫でた。

 

「困ったことがあったら、遠慮なく言いなさい。フウコの事を、よろしく頼む」

「……は、はいっ」

 

 三人と別れて、フウコはイロミの手を握って彼女の家に向かった。別れ際に、イタチとシスイはそれぞれ「じゃあ、また」「しっかり自分でも練習しろよ~」と言っていたが、イロミはしっかりと二人に頷きで返事をした。

 

「えへへ、今日は楽しかった」

 

 手を繋いだ二人の影は長かった。イロミの足取りは軽いように見えるけれど、修行の疲れのせいで力があまり入っていないのだと思い、手を繋いでいる。

 

 イロミはフウコと二人きりになると、少しだけ饒舌になった。それは、これまで彼女と関わってきた中でも、トップに入るほどに明るい声だ。でも、耳障りじゃない。むしろ心地よく、楽しかった、という彼女の言葉が、修行の時に大喜びしていた彼女の姿を思い出させる。

 

 思い出すと、自分も、楽しかったと、心の中で自然と言葉が生まれた。

 

「来週の小テストも、これで大丈夫かな?」

「百発百中ってわけじゃないから、まだ修行が必要だよ。また、フガクさんにお願いしてみる?」

「フウコちゃんから教えてもらいたい」

「これまで、何回も教えてたと思うけど。うん、でも、いいよ」

 

 頭の中で、今日、フガクが彼女に教えていた光景を思い出す。次に修行を付ける時に、それを参考にしようと思った。

 

 イロミの家が近づいてきた。

 

 やはりボロい見た目の家だが、ここに来た時よりは暗い気分にならなかった。楽しい気分のままである。

 

「あ、フウコちゃんはここまででいいよ?」

「いいの?」

「うん。その……、家族の人を見られるの、恥ずかしいから…………」

 

 ―――あれ?

 

 今、微かに、違和感を覚えた。

 イロミの笑顔が、少しだけ、ぎこちなかった。

 全然、楽しい気分が、彼女から伝染されない。

 

 気のせいだろうか。

 

「フウコちゃんも、早く帰った方がいいよ?」

 

 まただ。

 イロミの声が、どこか、逃げているように、冷たかった。

 どうしてだろう。そう思った時だった。

 

 家のドアが、開いた。

 

「―――あ、」

 

 イロミの口から零れた固い声は、今度こそ違和感が勘違いではないことをはっきりと伝えてきた。

 

 家から出てきたのは、熊のような男だった。身体が大きく、顔に醜い皺を刻んだ、男。まるでイロミとの接点が、男から感じ取れなかった。

 

 男と視線が重なる。腐った粘土のような、嫌な目つきだった。

 

「どうしたの? イロリちゃん」

 

 イロミから、繋いでいた手を離してきた。顔を横に傾けると、真っ青な顔をしている。

 

 男が、大股で目の前までやってきた。途端―――、

 

 

 イロミの身体が地面を転がった。

 

 

「―――え?」

 

 あまりにも、突然のことで、何も反応が出来なかった。

 イロミのいた家から、男は出てきた。男は、つまり、イロミの家族だ。けれど、その男は、たった今、イロミの頭を殴り飛ばした。反応が出来なかったのは、家族、という言葉に含まれる無防備な安全性を信頼していたからである。

 

「今まで何やってたぁあッ!」

 

 怒声が、夕闇に響いた。

 酒臭さとタバコ臭さが鼻に突く汚い声が、フウコの脳を混乱させた。

 

 この男は、何をしているんだ?

 彼女は、家族なんじゃないのか?

 もしかして、何か、勘違いをしているんじゃないか?

 

 自分の中で生まれた疑問に答えが出ないまま、次々と疑問は生まれ続ける。

 

 もう、楽しい気分なんかじゃなかった。背骨に氷を射し込まれたような、不快感だけ。

 

「ご、ごめんなさい……お父さん(、、、、)…………」

 

 地面に倒れていたイロミが身体を起こす。彼女の鼻からは、小さく、血が流れていた。左の頬は、紫色に近く変色している。

 

「すぐに、晩御飯、作るから……」

「さっさとしろクソガキッ!」

「ごめんなさい…………」

「さっさとしろッ!」

 

 また、イロミが殴られた。今度は、左頬だった。

 

 その時になって、ようやく、フウコは理解した。

 身体が熱いことに。怒っていることに。

 両目が、写輪眼になっていることに。

 

 フウコちゃん? と、イロミの声が耳に入った。でも、その涙声は、今のフウコには逆効果だった。

 

 右眼の写輪眼の紋様が、変わった。

 

 星の形をした紋様に。

 

「―――おい、お前」

 

 フウコの声は冷たさしか孕んでいなかった。自分でも、滑らかに言葉を出せたなと、自虐にも似た冷静さが生まれる。

 

 男が不愉快そうな怒鳴り声をあげてこちらを見下ろした。

 何かを喚いて、右手を大きく振りかぶっている。とても遅い動作として、フウコは観測していた。右眼で、男の目を睨み付ける。

 

 男は、一度大きく身体を痙攣させて、地面に倒れた。糸が切れた人形のように、滑稽に。

 

 遠くでカラスが鳴いている。この上なく耳障りな鳴き声に、舌打ちしたくなった。けれど我慢して、クナイを取り出す。

 

「フウコちゃん……駄目だよ…………」

 

 横目でイロミを見る。鼻からも、口端からも、彼女は血を流していた。両の頬が、青紫色になっている。それを見ただけで、怒りが倍増した。

 

 この男を殺さなければいけない。

 

 この男は、この里の平和には、相応しくない。邪魔な奴は、消さないと、いけないのだ。

 

「お願い、フウコちゃん。……わ、わたしは…………大丈夫だから…………」

「イロリちゃん、安心して」

「大丈夫だから……フウコちゃん…………!」

「こいつ、殺すから」

 

 クナイを振り上げる。

 目一杯の、怒りを込めて。

 

 シスイの言葉が頭を過ぎる。

 

『俺の友達を馬鹿にするやつは、たとえ俺の友達でも、俺は許さないからな』

 

 そうだ、自分は、彼女の友達(、、)なのだ。

 そしてこの男は、自分の友達ですらない。

 さらには、この里の平和には相応しくない。

 

 絶対に、許さない。

 許しては、いけない。

 

 クナイを、振り降ろした。




 次の話は十日以内に投稿する予定です。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境界線

「ね、ねえ……フウコちゃん…………、いる……?」

「いるよ。怖い?」

「……手、繋いで…………くれる……?」

「いいよ」

「方向は合ってるのか? イタチ。これで道に迷ったってなったら、笑えないぞ」

「今日は天気がいい。月も星も見える。これなら、方角は間違えない。まあ、本に間違いがなければだけどな」

「おいおい、怖いこというなよ。朝までに帰らねえと、夜中に抜け出したことがジイちゃんにバレる。そうなったら、俺は全力でお前のせいにするからな」

「その時は俺も父さんと母さんに叱られてるだろうから、無理だな」

 

 丑三つ時の夜空には、雲が一つもない。半月の月は薄い光で傘を作り、星々が悠々と浮かんでいる。夜風は凪いで、夜鷹が遠くで飛ぶ。

 

 林の中を、四人の影が歩いていた。雑草が生い茂り、小石が疎らに地面から顔を出している雑多な小道を歩き、その先にある神社を目指す。先頭から、イタチ、シスイ、フウコ、イロミの順に、一列に進んでいた。

 

 懐中電灯は誰も持ってきていない。木ノ葉隠れの里から少しだけ離れたそこは、中忍などの警備範囲である。なるべく目立たないようにするため、持ってきてはいない。月明かりだけを頼りに道を進んでいる。イタチ、シスイ、フウコは暗闇に対して恐怖心を抱いていないようで、逆にイロミはおっかなびっくりと、フウコの手を握った。

 

「帰り道は覚えてるか? シスイ」

「お前は覚えてないのか?」

「覚えてる。ただ、俺だけ覚えていても、間違っていたら意味がない」

「安心しろ、ばっちりだ」

「イロリちゃん、あまり怖がってると、転んじゃうよ」

「フウコちゃんの手でいいんだよね? この手」

「この手は、イロリちゃんの手?」

「……え?」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 自分の両手が、コントロールできない。血液が激怒するかのように真っ赤に力の籠った両手が握ったクナイの切先は、冷たく地面を向いている。

 

 目の前には、意識を失っている、熊のような男が。

 

 クナイを―――振り降ろす。

 

『……え?』

 

 男の首を狙って振り降ろしたクナイは、途中で止められた。

 目の前には、友達がいた。

 毛先が白くて、根本が黒い、特徴的な髪の毛をした、友達。彼女の細い喉元に、クナイが、深々と、突き刺さっている。

 

 鮮血が、音を立てて、目の前を飛び散り、自分の身体に降りかかる。

 

『……酷いよ、フウコちゃん』

『イ、イロリ……ちゃ…………』

『私、死んじゃうんだよ?』

『ご、ごめん……、すぐに……! すぐに治すから……!』

 

 イロミの両手が、自分の首を掴んだ。

 万力のような、締め付け。

 気道が、血管が、軋む。

 

『死んでよ。私を、殺したんだから』

 

 首の骨が歪む。眼球に通う毛細血管が破裂し始め、目端から血が零れ始める。

 

 視界が、紅く包まれる。

 

 声が出ない。

 謝りたいのに、まともに、息すら……。

 

 ―――嫌だ……!

 

 私には、まだ、やらなければいけないことがあるんだ。

 里を守らないと。

 里を、あの男(、、、)から、守らないと……!

 

 意識が感じ取る。

 

 これは……()だ。

 

 そうだ、あの夜。

 彼女を殺してはいない。

 熊のような男も、殺しては、いない。

 

 思い出した。これは、夢だ。夢の、はずだ。

 

 起きろ。

 起きろ! 起きろッ!

 

 起きろッ!

 

「…………ッ!」

 

 フウコは、目を覚ました。

 

「はあ……はあ………、はあ………っ」

 

 意識が身体に戻ってくる。眠っている間に呼吸をしていなかったのか、気が付けば呼吸が荒くなっていた。身体が熱い。額や首筋にはびっしょりと汗が浮き上がっていた。

 

 目の前には、暗い天井が。まだ、夜。やはり、さっきまでの光景は、夢だったのだ。最悪の、夢。そう、夢の……はず。

 

 不安がまだ、頭の中にこびりつく。あれが夢なのだと、はっきりと理解しているのに、もしかしたら事実に基づいた記憶が作ったものなのではないか、と。

 

「今日は……」

 

 何日だろう。自分の記憶が正しければ、あの夜から一ヶ月は経過しているはずだ。それと一致したら、あれは間違いなく夢だ。

 部屋には、時計はあるもののカレンダーはない。居間に、行かなければ。

 

 フウコは静かに状態を起こした。隣の布団には、こちらに背中を向けて眠っているイタチが、タオルケットを腹部に置いて眠っている。

 

 いや、本当に眠っているのだろうか?

 

 もしかしたら、彼は死んでしまっていて、自分が認識している現実とは全く違っているのではないか。

 

 そんな、恐ろしい妄想が首をもたげた。

 

「―――イタ」

 

 彼の寝息が、静かに聞こえてきた。

 落ち着いて眺めてみると、彼の小さな身体は微かに上下していた。彼の頬を、指先で触れる。体温があった。眠っているせいで体温は高くなっているが、安心する熱さだった。

 

 汗を腕で拭ってから、音を出さずに部屋を出る。廊下は静かで、家全体が寝静まっていた。季節が夏に移り変わってから、夜でも風通しがいいように、幾つかの窓を開けている。夜風が廊下を潜り抜けて、生温く首筋を撫でるが、それでも高ぶった体温には心地が良い。

 

 居間に入って、カレンダーを確認する。やはり、あの夜から一ヶ月が経っている。つまり、月日が変わっていた。

 

 よかった、今は、現実だ。

 

 胸を撫で下ろすと、途端に、喉が渇いてきた。元々、喉が渇いていたのだろう。寝巻が身体中に張り付いている。台所の棚からコップを取り出して、蛇口を捻る。あっという間に水はコップから溢れるが、少しの間だけ水を流し続けた。コップを持つ左手の指の隙間を水が流れて、汗や皮膚の油を削ってくれた。

 

 蛇口を締めて、水を一気に飲み干した。口内の熱が一度ほど、洗い流される。飲み込んだ分だけの息を、身体のあらゆるところから吐き出すと、動悸が。まだ強い熱を持った血液が脳に送られ、頭蓋骨が破裂しそうな感覚に襲われる。

 

「大丈夫……、私は、大丈夫…………」

 

 言い聞かせる。

 問題ない。身体は、大丈夫だ。

 

「……あれ?」

 

 頬が、濡れている。

 汗じゃない。そして、目が熱かった。

 

 涙だ。

 自分は、泣いてる。

 泣いてるのは、自分だ。

 苦しかった。

 自分が泣いているということを自覚してしまうと、身体の震えが抑えられなかった。

 

 口端が空気を求めるように歪んでしまう。鼻の奥が熱い。涙が、止まってくれない。

 

 泣きたくて、泣きたくて、止まってくれなかった。

 

「……フウコ?」

 

 声がした。振り向くと、ミコトが立っている。

 ミコトはフウコの顔を見ると、表情を強張らせた。

 

「どうしたのっ? フウコ」

「……何でも、ありません」

「怖い夢でも見た?」

 

 怖い夢? 分からない。嫌な夢ではあった。でもきっと、怖い夢を見ると、泣くのだろう。言葉にできない苦しい感情の根幹は、怖い夢なのだ。

 

 頷くと、ミコトは膝をついて、フウコの頭を肩に抱いた。

 彼女の手が、自分の頭を撫でてくれる。苦しい感情が、少しだけ、落ち着いた。

 

「大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ。安心して」

 

 また、苦しい感情が小さくなる。

 けれどまだ、涙が止まらない。むしろ、さらに目が熱くなって、さっきよりも量が増えた。止めどなく大粒の涙が流れて、頬を伝い、ミコトの肩に落ちた。横隔膜が大きく、上下した。

 

「ミコトっ、さん……、服が、濡れてます…………。離れて、くだっ、さい……」

「私は気にしてないわ。落ち着いて。震えてる」

 

 涙が、止まらない。

 息が苦しかった。

 フウコは、声を押し殺した。

 

 しばらくして、ようやく、涙は止まった。苦しい感情も消え失せて、疲れだけが目と頭に残った。

 フウコが落ち着くと、ミコトは頭を撫でながらも肩から離した。彼女は、優しく笑う。

 

「今日は、一緒に寝る?」

「……いえ、大丈夫です」

「ふふ、恥ずかしい? でもきっと、イタチもお父さんも、そうは思わないわよ」

「私が近くにいると、サスケくんが起きちゃうと思いますので」

 

 ミコトが困ったように笑ってしまった。サスケは、ミコトとフガクが寝ている部屋のすぐ隣の部屋で眠っている。流石に、夜中にでんでん太鼓を鳴らすわけにはいかない。

 

「もう、大丈夫?」

「迷惑をかけて、すみません」

「我が子が夜中、一人で泣いてるんだもの、迷惑だなんてこれっぽっちも思ってないわ。むしろ、もっと私を頼って」

「おやすみなさい、ミコトさん」

「ふふ、おやすみ、フウコ」

 

 部屋に戻る。イタチはまだ眠っていた。

 布団に入って瞼を閉じる。

 泣いたせいなのか、すぐに、眠ることができた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチにとって歴史の授業は、アカデミー生活で唯一興味関心が揺れ動くものだった。多くの知識を獲得してきたものの、未だ彼の胸中には知識不足が渦巻いている。歴史の授業は、そんな知識不足な自分に、視野を広くしてくれる知識を与えてくれた。

 

 これまで、木の葉隠れの里がどのような歴史を辿ってきたのか、それらの中をどのように活動し、平和を築き上げようとしてきたのか。さらに、忍里システムが構築されるまでのことも知ることができる。

 

 他の授業では、密かに忍術書を読んだりしていたが、歴史の授業だけは、真面目に受けていた(他の授業でも、しっかり内容を理解しているため、不真面目という訳ではないが)。

 

 しかし、歴史の授業は他のクラスメイトからは不評だった。それは授業の内容がつまらないから、というものもあるが(イタチにとっては、非常に面白い内容なのだが)、何よりも授業を担当する女性教師が、嫌なのだ。

 

「うちはフウコ、これはなんだ?」

 

 (こよみ)ブンシのドスの利いた声が教室に響くと、生徒たちは一斉に顔を俯かせた。教師が出すには、恐ろし過ぎる声のトーンはイタチでさえも、小さく緊張してしまうほどだった。

 

「医療忍術に関する本です」

 

 それでもフウコは淡々と、取り上げられた書物を見上げながら応えた。ブンシは呆れたため息を深く吐きながら、黒縁眼鏡の位置を左手の中指で調整した。

 

「今は、何の授業だ?」

「……もしかして、いけませんでしたか?」

「真面目に受ける気がないなら、廊下で読んでろ」

「はい、分かりました」

 

 後ろめたさを感じさせないあっさりとした頷きと共に、フウコは取り上げられた書物を掴んで、さっさと教室を出て行ってしまった。教室中の全員が、無表情の彼女の横顔を見送った。

 

 その中には、イタチは勿論、シスイもイロミも含まれている。シスイは欠伸小さく噛みしめながら、イロミは不安そうにおろおろとこちらを見たりフウコを見たりブンシを見たりしている。教室を出て行ったフウコの背中を見て、ブンシはあからさまに不機嫌な舌打ちをすると、額当てでオールバックになっているショートヘアをかいた。教卓の前に戻ろうと、灰色のロングコートを雄々しくなびかせる。教卓に置いた教科書を手に取り、茶色のノースリーブシャツを親指で首元を直した。

 

 緊張が、教室を完全に支配する。一部、恐怖の色もあった。シミ一つない綺麗なおでこに浮かび上がる眉間の皺は、彼女の怒り度数を示している。最上は分からないが、少なくともこれ以上気に食わないことがあったら、教室の窓ガラスを全て割ってしまうくらいには、彼女は怒っている。

 

 ブンシは、短気で、それでいてすぐさま暴力を振るう教師として有名だった。

 

 殆どのクラスメイトたちが俯き怯える中、イタチはあまり、ブンシそのものへの恐怖心は抱いていなかった。彼女は理不尽に不機嫌になることはあっても、理由のない暴力はしないからだ。このまま何もなければ、不機嫌なままで終わるだけだろう。

 

「続き始めるぞ。えーっと、どこまで話したんだっけか? あー、そうだ……、初代影たちの会談の所だな。じゃあ―――」

「あ、あの……先生!」

 

 しかし、イタチのその予想は大きく外れることになる。イタチは他のクラスメイトと同様に、驚いた表情で声の発生源を見た。そこには、ぎこちなく右手を高らかにあげたイロミが立ち上がっていた。

 普段の授業では絶対に、自分から挙手をしない筈の彼女が、恐ろしいことに、ブンシの言葉を遮ったのだ。

 

 ブンシの眉間に、新たに深い皺が三本ほど構築される。これまでのトップスリーに入る本数だった。

 

「……なんだ、イロミ。あと、手を挙げながら発言はしないように。手を挙げる意味がないだろう」

「わ、私も、廊下に立ちます!?」

「……あ?」

 

 さらに五本ほど、皺が増えた。歴代最高である。シスイが笑うのを我慢しているのが見えた。何が面白いのかと、言ってやりたかった。友達が、盛大な自殺をしようとしているというのに。

 

「なんだ、お前は……、初めてあたしの授業で喋ったと思ったら、授業放棄か」

 

 身体中の怒りを吐き出すかのように、深いため息をはいた。

 

「まあ、いい。理由は何だ? トイレか?」

「フウコちゃんが一人じゃ可哀想だと思うからです!」

「………………は?」

 

 教室の空気が一転。ブンシの皺は綺麗さっぱり無くなると同時に、呆れ顔になった。他のクラスメイトも同様だが、シスイだけは、腹を抱えて大笑いしている。「なんだそれ!」と言っているが、誰も見向きもしない。

 しかし、イロミの表情は至って真剣だった。

 

 一拍置いて。

 

 ブンシの顔が無表情になる。呆れ顔でズレた眼鏡を直すと、あろうことか、授業中にも関わらず、ブンシは懐から煙草とマッチ箱を取り出した。慣れた手つきでマッチ棒に火を付けると、煙草の先端に火を灯した。窓際に行き、窓を開けると、口に含んだ紫煙を外に向けて吐く。けれど教室に入ってくる風のせいで、微かに、甘い煙草の香りが教室に広がった。

 

 イロミ、と窓の外を眺めながら彼女を手招きする。とことこ、とブンシの横に立つイロミ。

 

「バケツ持ってこい」

「え?」

「バケツだよ。灰皿が無いだろ。気を利かせろ」

「は、はい……」

 

 教室の隅のロッカーからバケツを両手で持ってくる。

 

「水を入れてこい。火が消せないだろ。たんまり入れてこい」

 

 素直に彼女は水を入れてくる。重そうにフラフラと横に振れながら、再び、ブンシの横へ。煙草の長さは、半分くらいになっていた。

 

「持って……来ました…………っ」

「そうか」

 

 ブンシは呟いて、灰を窓の外に捨てると、煙草を拳の中に握りしめて、強引に火を消した。紫煙が彼女の拳からしばらく漂い、そして消えた。拳を、ブンシは掲げる。

 

「え?」

 

 ゴンッ! 拳はそのまま、イロミの頭に叩きつけられる。

 

「それ頭に乗せて、てめえも廊下に立ってろぉッ! この、クソガキッ!」

 

 

 

 フウコは、本の知識を確実に頭の中に叩き込みながら、昼休みを告げる鐘の音を聞いていた。

 

 隣では、頭の頂点に水入りバケツを乗せているイロミが、身体をフラフラとさせながら、時々両手を使いながらバランスを取って立っている。彼女が廊下にやってきた時は、頭にたんこぶを作って涙と鼻水を流していたが、今では楽しくなってきていたのか、どこかウキウキとしながら、水入りバケツの重心をコントロールしている。どうしてイロミが自分と同じように廊下に立たされているのか、理由は聞いていない。

 

 けたたましく、教室のドアが開けられると、二人は合わせて顔を向けた。隠す気のない不機嫌な表情のブンシが現れた。

 

「ひぃッ! わ、わッ!」

 

 イロミがブンシを見て怖がり、その拍子に不安定になる水入りバケツを両手でがっちりと抑えた。

 

 こちらをじっと見るブンシを、フウコは横目で見つめ返した。少しして、ブンシが鼻から息を吐くと、ようやく、不機嫌な表情は消えた。

 

「……イロミ、もういいぞ。水はそこら辺に捨てて、バケツは片付けろ。もう二度と、あんな頭の悪い発言はするなよ」

「は、はい…………」

「フウコ、お前もだ。成績がいいからって、授業は真面目に受けろ。せめて、同じ教科の予習に留めておけ。そうじゃないと、他の生徒が、成績さえ良ければいいって思うようになる。それは、アカデミーの方針としては、あまり良くない」

「駄目なんですか?」

「さあな。あたしは、悪くはないと思うけどな」

 

 まあルールだ、我慢しろ、とブンシは笑った。彼女の笑顔を見るのは、実は初めてだったりする。そのままブンシはロングコートの端を大きく揺らしながら廊下を歩いていった。

 

「……ブンシ先生って、笑うんだね。笑えるんだ」

「何言ってるの? あと、もうバケツ降ろしていいんだよ?」

「フウコちゃんもやってみる?」

「大丈夫。お昼ご飯、食べよ?」

「うんっ」

 

 水を捨てに行き、空のバケツを持ち帰ってきたイロミと一緒に教室に入ると、至る所からクラスメイトたちの視線が突き刺さる。すぐに視線は逸らされるため、あまり気にならない。自分の机に行き、弁当を取り出す。本は脇に抱えたままにした。

 

 イロミも包みを両手に持ってやってきた。目の前までやってくると「えへへ」と笑う。もうすっかり、自分の前ではなよなよしなくなった。

 

 教室を出る。昼休みの時間を過ごす場所は、もはや固定されている。イロミと出会った、あの場所だった。今では、アカデミーで一番過ごしていたい場所になっていた。おそらく一日中いても飽きないだろう。

 

「フウコ」

 

 教室を出る時、イタチに声をかけられ、二人同時に彼を見る。イタチの横には、シスイもいた。

 

「今日は一緒に食べないか?」

「いいの?」

「ああ」

「俺も問題ないぞ。あ、イロミ、さっきのはめっちゃ面白かったぞ? ブンシ相手になかなかああは言えない」

「わ、笑わないでよ……」

 

 時々、こうして四人で昼休みを過ごすことがある。二人の人間関係には、特に影響がないということが分かってからは、定期的にそうしている。イロミも、二人に対してだけは、もう怯えたりしない。

 

 四人は揃って、校舎裏のところへ行った。

 

 フウコとイロミ、イタチとシスイがそれぞれ別の木の根元に腰掛ける。合わせて食事の挨拶を済ませると、同時に弁当を開き始めた。

 

「いやあ、それにしても、今日のイロミは面白かったな」

 

 真っ先に口を開いたのは、やはりシスイだった。彼は口に物を含みながら喋るような行儀の悪いことはしないが、この四人の中で一番多く喋る。

 

「きっと今頃、教室で話題になってるぞ」

「えぇえ……」

「だってそうだろ? あれは、明らかにフウコが悪かったんだ。なのに、可哀想だからって、ブンシに文句言ったんだからな」

「別に、文句言ったわけじゃないんだけど……」

「イロリちゃん、そんなこと言ったの? 私は別に、何も困ってなかったけど」

 

 残念そうに俯くイロミは、自分の昼飯であるおにぎりを小さく食べ始める。フウコは、膝に弁当箱を広げながらも、左手では医療忍術の本を開いていた。右手で箸を動かし、弁当の中のご飯をつまんでは一口含む。

 

「フウコ、行儀が悪いぞ」

 

 イタチが注意するが、フウコは「ごめん」と言うだけで、止めはしなかった。イロミが不思議そうにこちらを見てくる。

 

「面白いの?」

「もぐもぐ……。うん」

「医療忍術の本だよね。医療忍術って、どんなことができるの?」

「まだ基本的な内容だから、全部は分からないけど。多分、不治の病とか」

「ふじのやまい?」

「えーっと……薬とかで絶対に治らない病気のこと。そういうのは、治せないと思う」

「私のたんこぶとかは?」

「まだあるの? そういうのは治せると思う。でも、まだ練習してないから、自然に治るを待った方がいいよ。無理してやると、逆に悪くなると思う」

 

 ちらりと、イロミの首元を見た。傷一つない、そして虚弱そうな細い首。

 夜の夢がフラッシュバックする。

 食欲が、少しだけ、減退した。表情には一切出さなかったのに、イロミは不思議そうにこちらを見上げた。

 

「どうしたの? フウコちゃん」

「……何でもないよ。きんぴらごぼう、食べる?」

「私、きんぴらごぼう嫌い」

「どうして?」

「食感が、嫌なの。それに、おにぎりでお腹一杯になるから、気にしないで」

 

 謙遜なのか本音なのか、微笑むイロミの表情からは、判断できなかった。本当に、空腹が満たされるのだろうか? 不安だった。訊いてみたい。

 

 どうして、あんな男の所で生活しているのか。

 

 どうしてあの夜、男を殺そうとした自分を止めたのか。

 

 でもきっと、訊こうとしてはいけないのだろう。

 

 あの夜。

 

 クナイを振り降ろした瞬間、イロミは自分の腹部に向かって身体をぶつけてきた。あと一瞬でもタイミングがズレていたら、夢のように喉元にクナイが刺さっていたであろう、ギリギリのタイミングだった。

 

 理解できなかった。

 なぜ、明らかに邪魔者でしかないこの男を助けるのか。

 

 彼女は、泣きながら、言った。

 

 怒らないで、と。

 

 大丈夫だから。

 この人を殺したら、フウコちゃんは悪い人になっちゃう。

 せっかく、友達になれたのに。

 嫌だよぉ……。

 

 と。

 

 まるで祈るように、縋るように、彼女はフウコの身体にしがみつきながら、ただただそう言った。振りほどこうと思えば、振りほどけた。しかし、そんなことをしてしまうと、彼女に嫌われてしまうのではないかと思って、止めたのだ。

 

 今も、事情を訊いてしまえば、嫌われてしまうかもしれない。その不安が、心の中に巣くっている。

 

「そういや、もうそろそろ中間試験だな」

 

 エビフライを食べたシスイが、ふと呟いた。イタチが静かに頷く。

 

「そろそろと言っても、一ヶ月後だけどな。それがどうした?」

「別に、ちょっと思っただけだ。まあ、全員、落第点は取らないだろう。イロミだって、頑張ってるしな。この前の手裏剣の小テストだって、及第点だったし」

「大丈夫かなぁ……」

「小テストで及第点とれるなら、中間試験だって簡単だ。テストっていうのは、そういう風にできてるんだからな」

「不安なら、また一緒に勉強する?」

「うん……。でも、なるべく一人で頑張ってみるよ」

「あまり気合い入れる必要ないぞ。そこまで難しくねえから。それよりさ、今度皆で遊ばないか?」

「またいきなり」

 

 と、イタチは呆れた声を出しながらも、小さく笑っていた。

 

「よくよく考えたらさ、この四人で遊んだことがなかっただろう」

 

 言われてみれば、とフウコは素直に思う。たしかに、他の同世代の子たちのように、遊んだことはなかった。そもそも、遊びたいと思ったことがない。

 

「他の奴は、これから試験対策をするけど、俺たちはする必要がないだろ? ならいっそのこと、遊ぼうぜ」

「何をするの?」

 

 フウコが尋ねると、そこでシスイは腕を組んだ。特に、具体的な考えは無かったようだ。イロミの方を向いても、彼女も頭を悩ませていた。自分も想像できない。自分が知っているのは、忍者ごっこだとか、将棋だとか、囲碁だとか。

 

 三人が頭を悩ませる中、イタチは言った。

 

「なら、冒険に行かないか?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 こうして、四人は、冒険に出かけた。イタチが言うには、以前から、その神社には興味があったらしい。彼は、歴史に強い関心を持っている。忍術書だけではなく、歴史の文献も読んでいて、その神社のことを知ったらしい。

 

 木ノ葉隠れの里から割と近く、それでいて十分に調査された場所のようで封鎖された場所ではないらしい。なら、文献を読めばどのような神社なのか分かるのではないか、と思うのだが、彼が言うには、実際に見てみたいという気持ちがあるようで、文献も冒頭の部分と記載されていた地図と位置情報しか見ていないらしい。

 

 果たしてこれが、遊びと言えるのかどうかは分からないが、他にやることがないのだから、そんなことは関係ない。

 

 フウコの左手は今、イロミの両手が握っている。後ろにいる彼女は余程、林の中が怖いのか、あるいは暗闇そのものが怖いのか、痛いくらいに強く握ってくる。

 

「フ、フウコちゃん……こここ、怖く、ないの……?」

「怖くないよ。どうして?」

「だ、だってぇ……ヘビとか、熊とか、出たら……」

「その時は、私がどうにかするから、安心して」

「本当? お化けとか、出てきても……?」

「お化けは、いないと思うけど」

 

 というより、そんなに怖いのなら、どうしてイタチが提案してきた時に異論を唱えなかったのだろうか。夜中に冒険することは、昼休みの時にはっきりと明言していたのに。

 

 フウコは一度、視線を前を歩くイタチとシスイに向ける。二人は何かを話しながら、進行方向を見ている。そっとフウコはイロミに囁いた。

 

「しっかり、薬、飲ませてきた?」

 

 するとイロミは顔を近づけて、同じく囁く。

 

「う、うん。でも、大丈夫かな」

「身体に害がある薬じゃないから」

 

 薬、というのは、睡眠薬のことだ。

 夜中に冒険するという話しを聞いてから、フウコは睡眠薬を手に入れていた。あの、熊のような男を眠らす為である。そうしなければ、彼女は夜中に家を抜け出すことは出来ないし、家に戻る時に何かと問題があるからだ。

 

 今日、アカデミーが終わってから、薬屋に行き幾つかの薬と睡眠薬を一つ買った。それらを、医療忍術の本で得た知識を生かして配合し、特製の睡眠薬を作り、彼女に渡した。夕飯に混ぜて使わうように、と伝えて。無事に使用したようで、安心した。イロミに渡した睡眠薬は、使用すれば半日は眠り続けるだろう程の効力はある。

 

 流石に半日も冒険はしないだろう。

 

「……ねえ、フウコちゃん」

「なに?」

「フウコちゃんは……あの人のこと、まだ、怒ってるの?」

「…………うん」

 

 本当なら、殺したいくらいだ。どうしてあんな人間が生きているのかすら、悩ましいほどに。イロミの表情が暗くなる。慌てて、フウコは付け足した。

 

「でも、もう、殺そうとしたりはしないから、安心して」

「本当に?」

「本当。だけど、困ったときは、私に言って。どうにかするから」

「……ありがとう」

「あ、おいイロミ! お前の足元にヘビがいるぞ!」

「やだぁあッ!」

 

 シスイの悪い冗談のせいで、しばらくイロミは大泣きしてしまった。イタチはシスイの腹を思い切り蹴り上げ、フウコはシスイの頭を思い切り殴った。

 

 道を進み続けると、林が開けた。

 

 目の前には、塗装が所々剥がれた鳥居があった。鳥居は大きく、不思議な尊厳を持っていた。

 

「イタチ、ここなのか?」

「方向も位置も間違ってない。中に入ろう」

 

 心なしか、イタチの声が高揚しているような気がする。彼はいち早く、鳥居の下をくぐり、石畳の参道の端を歩いていく。遅れて、三人も中に入った。参道はさっきまでの道よりも凸凹していて、暗闇と相まって歩きづらかった。参道の脇には、水が止まった手水舎があり、太く高いご神木が立っている。

 

 奥には、鳥居よりも大きい本殿があった。

 

「文献によると、この神社は、昔この辺りに住んでいた一族が、話し合いで使っていた場所だったらしい」

 

 イタチは本殿前にある賽銭箱の前に立って呟いた。

 

「どうして、神社なの?」

 

 と、イロミが尋ねた。

 

「多分、神様を祀る場所で話し合うということが、その時代には大切な考え方だったのかもしれない。昔は、自然を大切にする考えが、今よりも遥かに強かったのは確かだ」

「自然は自然だろう?」

 

 と、シスイ。

 

「そりゃあ、飯食べる時とか、いただきますとか、ごちそうさまとかは言うけどよ、それ以上に言うことも大切にすることもないだろ?」

「昔は今よりも技術や知識がなかった。畑一つ耕すのに、相当な苦労があったんだ。だから、神様を祀って、苦労を共有する行為を大切にして時代を乗り切ったんだろう。その流れだ」

「そういうもんか?」

「うちはの町にも、神社があるだろ?」

「ああ、そういえば、あるな。南賀ノ神社だっけか? あれはこの神社に比べれば貧相だな」

「きっとうちは一族も、昔は神様を祀っていたんだ。ただ、戦争で神社が潰れたか、あるいは木ノ葉隠れの里に移住する際に、居住スペースとして神社そのものを小さくしたんだと思う。だけど、うちはで大切な話し合いがある時は、あの場所を使ってるみたいだ」

「なら、南賀ノ神社で……って、あそこは大人じゃないと入れないんだっけか」

「本殿に入ろう」

 

 イタチとシスイがさっさと本殿の中に入って行く中、フウコの後ろにいるイロミが「今のって、どういう事なの?」と尋ねてきたので、かなり要約して話すと「昔の人は自然を大切にしてたってこと」と言うと「それって、普通なんじゃないの?」と返ってきた。その通りである。

 

 二人も中に入ると、いよいよ真っ暗闇が広がっていた。本殿の入り口から入ってくる月光が手前までは照らしてくれているが、空間の隅や奥の方は全く見えなかった。

 

「懐中電灯、持ってきた方が良かったんじゃねえか?」

「いや、燭台がある。まだ少しだけ、蝋が残ってるのもあるから、火を付けよう」

 

 イタチの言うように、本殿内には燭台が幾つかあり、まだ微かに蝋が残っているものものある。フウコ、イタチ、そしてシスイの三人は火遁の術でそれらに火を付けると、オレンジ色の光が部屋の隅々を照らした。中は広く、太い柱が幾つも屋根まで続いている。特にこれといった物が祀られているという訳ではなく、そもそも、この神社を厳重に管理している様子もないため、おそらくここにあったもののほとんどは、火の国が収集し管理しているのだろう。

 

「何もないじゃないか」

 

 と、シスイが退屈そうに呟くと、イタチは古びた壁に触れながら頷いた。

 

「そうだな」

「そうだなってなあ、お前」

「でも、凄いと思わないか? この神社は第一次忍界大戦よりも前に建ったものなんだ。それがこうして形になって残ってる。しかも、三度の大戦を経て」

「まあ、きっと、人知れず守った人がいるんだろうな。凄いっちゃあ凄いし、壮大だと言えば壮大だけど、だからって、こんな……うーん」

 

 おそらくシスイはもっと面白そうな神社を想定していたようで、納得がいかないらしく、唇を尖らせながら座った。

 

「ねえねえ、フウコちゃん」

「なに?」

「こういう所って、秘密の財宝とかあったりするかな?」

 

 後ろを振り返ると、明るい灯に感化されたのか、ここまで来る時とは打って変わって楽しそうにイロミは笑っていた。

 

 秘密の財宝という言葉。率直に、無いと思う。徹底的に調査されたのだろうから、そういうのは既に発見されているだろう。しかし、折角ここまで来たのだから「あるかもね」と返事する。万が一発見されていない、という可能性はゼロではないのだから、嘘ではない。

 

 するとイロミはフウコから手を離して、ピョンピョンと跳ねるように本殿内を探索し始めた。夜中に冒険すると決まった時は顔面蒼白だった彼女も、何だかんだと、楽しんでいるようだった。

 

 イロミは壁や床を手のひらで触り始める。傍から見たら馬鹿みたいな行動に見えてしまうが、本人は真剣なようだった。何となくイタチを見ると、彼は小さく笑って見せた。

 

「俺たちも、探してみるか?」

「イタチはいいの?」

「ここに来るのが俺の目的だったからな。この神社がどんな役割だったのかは、本を読めば分かる。それに、こっちの方が、遊びだろ?」

「秘密の財宝が、あると思う?」

「ああ。ある」

 

 イタチのその力強い頷きが、本心ではないことはすぐに分かった。けれど、彼を皮切りに、財宝探しは始まった。

 

 ここにあるんじゃないか?

 いや、きっとここだ。

 いやいや、もしかしたら外の手水舎の下かもしれない。

 フウコちゃん、こことかは?

 鳥居の下にあるかも。

 

 そんな、あまりにも不毛な会話は、何時しか熱を帯びて全力を注いでいた。財宝を探すよりも、財宝があるんじゃないのかということを話し合うことが目的になっていたのである。意味のない話し合いは、けれど、その些細な時間は、楽しかった。

 

 結局のところ、やはり、財宝なんてものは見つかりはしなかった。イロミは非常に残念そうに肩を落としていたが、イタチとシスイは小さく笑いながら「仕方ない」と呟くだけで、フウコは肩を落とすイロミの頭を撫でるだけだった。

 

 夜道を戻る。帰りも一列になって、順番も行きと変わらなかった。

 

「今日は楽しかったね」

 

 行きと同様に左手を握って後ろを歩くイロミだが、声だけは満足しているように明るく弾んでいた。もうすっかり、財宝が見つからなかったことは気にしていないようだ。

 前を歩くシスイが「そうかあ?」と声を挙げる。

 

「ただ神社を見ただけだろ? こんな事なら、花火でも持ってくれば良かったよ」

 

 一番前のイタチが「止めてくれ。大火事になる」と小さく呟くと、シスイは下唇を伸ばした。財宝探しの時の様子を見る限り、二人も、楽しんでいたように思える。

 

 左手が控えめに引っ張られる。後ろを振り返った。

 

「また、皆で冒険したいね」

「……うん、そうだね」

 

 果たして、この口約束がいつ実現されるのか、予想はつかない。

 でも、できれば実現したらいいなあ、という程度の期待を込めて返事をした。

 

 

 

 気配を感じた。

 

 

 

 背筋が寒くなる。楽しい感情が凝固し、身体中の産毛が警報を知らせるように逆立った。

 反射的に足が止まる。

 視線は右から。フウコはその方向を睨んだ。

 林の奥は枝葉が多く重なり、暗闇が濃い。

 

 両眼を写輪眼にする。視点が飛ぶように、暗闇の遥か奥を見る事ができた。

 

 そこには―――仮面を付けた男が、立っていた。

 

 背筋の寒さが消え失せ、代わって、豪雨のような怒りが身体を覆い始めた。

 片目部分だけしか穴が開いていない仮面の奥に―――あれは、間違いなく―――写輪眼。

 

 フラッシュバック。

 

 九尾が里を襲ったあの夜の光景を。

 

 赤いチャクラを纏った巨大な化け狐。

 その足元で燃え上がる町と人の死。

 

 そして、目の前を飛ぶ、大量の血の粒。

 力強く綺麗で長い赤毛の女性と、女性を庇おうと彼女の背中に立つ黄金色をした男性―――その二人の腹部を貫く巨大な爪が赤く染まっている。爪の先を垂れる血の先には、赤毛交じりの黄金色の髪を生やした赤ん坊が。

 

 当時抱いた喪失感と悲しみ、それらを遥かに上回るどうしようもない怒りが、蘇る。

 

 ―――うちは……マダラ…………ッ!

 

「フウコ、ちゃん……?」

 

 イロミの声が、怒りの思考の間に入り込んできた。

 写輪眼のまま、彼女を見る。

 

 イロミは、怖がっていた。

 

「ど……どうしたの…………?」

 

 左手を握る彼女の両手は震えていた。肩も、顎も、声も、震えている。写輪眼で捉える彼女の一挙手一投足が、怖がっているのだということを、はっきりと分析した。

 

 彼女が怖がる姿が、今朝見た悪夢と重なった。

 そして、九尾に貫かれた偉大な二人の男女の血飛沫と、悪夢で見たイロミの血飛沫も。

 

 怒りに、恐怖が、間を刺す。

 

 ―――守らないと。

 

 イロミを。

 イタチを。

 シスイを。

 

 もし仮面の男を殺しにいったら、三人を守れるだろうか?

 他に仲間がいるんじゃ―――?

 三人を守りながら逃げ切ることが……、

 

 怒りと恐怖が混ざり合うと、思考が歪む。正しい方向性を模索することが出来ない。写輪眼が、イロミの足元が震えているのを捉えた。彼女のこの状態じゃ、今すぐ走り出すことも出来ないかもしれない。

 

 今朝の悪夢が、容赦なく現実の視界を侵食し、恐怖が、不安を―――どうすれば、私は―――、今、何を優先すれば…………。

 

「…………え?」

 

 けれど―――、

 

 気配が突然、消えた。

 

 写輪眼で辺りを見回す。チャクラを集中させて、感知も試みるが、さっきまであった気配は完全に無くなっていた。移動した、という訳ではない。仮面の男に付けた(、、、)マーキングの気配は、一切の名残を感じさせることがなかったからだ。

 しかし、フウコが声を小さく出してしまったのは、気配が移動することなく消え去ったことではなかった。仮面の男の力は、一度、目の当たりしている。

 

 驚いたのは、仮面の男が、何をする訳ではなく、いなくなったことに対してだ。それが逆に、フウコの不安をさらにかきたてる。

 

 フウコはイロミの手を振り払うように左手を解放させてから、素早く印を結び、右足の踵で三度、地面を叩いた。フウコを中心に、薄いチャクラの膜が円形状に広がっていく。感知忍術である。難易度は、中忍が使用するレベルだ。チャクラが何人かの人間を感知した。

 

 細かい部分までは分からないが、大まかな輪郭は分かった。

 合点が行く。その輪郭は、木の葉隠れの里の暗部のそれと全くの同一だった。彼ら(あるいは、彼女たち)は、まるで自分を包囲するかのように、配置している。おそらく仮面の男は、暗部の気配を感じ取って逃げたのだろう。

 

 フウコは舌打ちをしたくなる衝動を、奥歯を噛みしめて我慢した。

 

 何故、暗部が自分を監視しているのか―――いや、監視することを自分に伝えなかったことに(、、、、、、、、、、、、)苛立ちを覚える。もし予め伝えてくれていたら、自分の行動は制限されなかった。三人の保護を暗部に任せて、自分は仮面の男を殺すことができた。

 

 ―――……いや、でも…………、

 

 フウコは一度、大きく鼻から深呼吸して、冷静さを取り戻す。明らかに今の苛立ちは、八つ当たりだ。……きっと、何かしらの事情が、あるのだろう。

 

 そう自覚すると、安心が肩に手を置いた。写輪眼を解いて、ゆっくりと振り返る。泣きそうに口をへの字にしているイロミの顔が、あった。

 

「……ごめん、イロリちゃん」

「もう、大丈夫なの?」

「……あれ、見えたの?」

「何か、いたの?」

「ううん、何でもない。ごめんね……もう、大丈夫だから」

 

 大丈夫……その言葉は、果たして、彼女に言ったのか、それとも、自分に言ったのか。

 

 前方の離れた所から、シスイの声がした。「どうしたんだー?」と、呑気な声。イタチも心配そうにこっちを見ていた。

 

 フウコは、自分から、イロミの手を握る。

 

「いこ?」

 

 無言で頷くイロミの手を引いて、二人の前に行く。

 

「どうしたんだ? フウコ」

 

 イタチの不安そうな表情は、どうやら仮面の男や暗部の気配を察知していないようだった。隣に立つシスイも、同様だ。良かった、と小さく心の中で安堵する。

 

「何でもない」

「……本当か?」

「うん。大丈夫」

 

 何も、なかった。

 イタチも、シスイも、イロミも……平和な里で過ごしてほしい。そうすれば、きっと、今日みたいに、楽しい時間を過ごすことができる。

 

 絶対に、里の平和は、守る。だから、あまり、気にしないでほしい。

 

 その後、四人は無事に里に戻り、悲しいことは何も起こることなく、四人はそれぞれの家に辿り着き、静かに眠りについた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 翌日、フウコは、校長室に呼ばれた。

 

 どうして呼ばれたのか、フウコには見当が付かなかった。校長室に来るように伝えてきた教師も、事情を詳しくは知らないようだ。鞄を持って正面玄関へと向かっていく生徒たちの波をかき分けて、廊下を進んでいく。

 

 校長室に着く頃には、生徒たちの喧騒は遠くに感じ取れるほどになっていた。廊下の窓から入ってくる、微かに夕焼け色に染まり始めた光が、フウコを背中から照らしていた。自分の影が映る校長室の重厚なドアを二度、ノックして「失礼します」と言う。返事は無かったが、フウコはそれを肯定と捉えた。

 

 中に入ると、二人の男性がいた。二人は、高級そうな背の低い木のテーブルを挟んで、ソファに腰掛けている。フウコは微かに瞼を開いて、二人に視線を泳がせた。予想外の人物だったからだ。

 

「火影様、ダンゾウさん(、、、、、、)……」

 

 呟くと、二人はそれぞれ異なった反応を示した。【火】と赤い文字を大きく書かれた笠を被り、白い衣に身を包んだヒルゼンは、白髭を携えた顎で優しい笑みを作りフウコを見た。対して、向かいに座っている男は、呆れたように小さくため息を吐くだけだった。

 

 志村(しむら)ダンゾウ。頭部の半分を包帯で覆い、左眼だけを露出させている彼は、ヒルゼンのように温和な雰囲気ではなく、刀のような冷たさを漂わせていた。服装も、白い着物の上に大きな黒い布を右肩から被せるという奇妙なもので、人を近寄らせない雰囲気をさらに強くしている。

 

 しかしフウコは何事もなく二人の横に立った。

 

「どうして、お二人が、ここに……」

「まあ、そう固くなるでない、フウコよ。この場には、ワシらしかおらん。火影様などと、呼ぶ必要はない」

「ですが……」

「友達が、出来たようじゃな。先生方から、よく話しを聞く」

 

 おそらくは、積極的に教師が話している訳ではないだろう。ヒルゼンが尋ねているに違いない。わざわざそんなことを尋ねる必要もないのに、とフウコは思った。同時に、こんな事を言いに来たのか? とも思う。

 けれど、ダンゾウの表情は硬い。ただ話しをしに来ただけではないのだろう。

 

 要件があるなら、失礼だけれど、早めに伝えてほしい。正面玄関で、イタチやシスイ、そしてイロミが待っているのだ。今日はフガクに修行を付けてもらう予定なのだ。自分が遅れて、貴重な修行の時間を取られたくはなかった。

 

「フウコ。お前に、ある任務を任せたい」

 

 すると、ダンゾウが口を開いた。ダンゾウを見る。視界の端で、さっきまで柔らかい表情を浮かべていたヒルゼンは、小さく俯いているのが見えた。

 

「どのような、任務でしょうか?」

「ダンゾウ……やはり、フウコには…………」

「黙れヒルゼン。もはや猶予がないのかもしれんのだ」

 

 遠くで、生徒がはしゃいでいる声が聞こえてきた。烏が鳴く声も、届く。

 どうしてだろう。

 烏の鳴き声の方が、より鮮明に、聞こえた。

 

「その任務は、私にしか出来ない事でしょうか?」

「現状、最適な人材がお前しかいない。だが、安心しろ。俺とヒルゼンも、お前を全力でサポートする」

「……どのような、任務でしょうか?」

「お前には、うちは一族を内部から監視してもらう」

 

 

 

 ―――……え?

 

 

 

「そのためにまず、お前には、来月の中間試験を経て、アカデミーを卒業してもらう」

 

 言葉を、上手く呑み込めなかった。

 明らかにフウコは、動揺していた。視点が揺れる。

 

 うちは一族の監視。

 アカデミーを卒業。

 

 それら二つの言葉に、それぞれ、記憶が刺激される。真っ先に思い出されたのは、今自分が入れてもらっている【家族】の記憶。その次は、このアカデミーでの【友達】の記憶。どちらも、全員が、柔らかく、温かく、笑っている。

 

 なのに、どうして―――。

 

「お前の実力ならば、すぐに上忍になることもできるだろうが、暗部に入隊し、逐一うちは一族の動向を俺とヒルゼンに伝えよ」

「ま、待ってください…………状況を、説明してください……」

 

 ダンゾウの鋭い眼光が、フウコを睨んだ。何かを探るように、見定めるように。

 

「何故、そのような事を訊く。かつてのお前なら(、、、、、、、、)、任務に疑念を挟みはしなかったはずだ」

「それは…………」

 

 だって、

 分からないから。

 その言葉を、フウコは出すことができなかった。

 

「……まあ、いいだろう。フウコ、心して聞け。今、里の平和が、崩されようとしている」

 

 そして、ダンゾウは言葉を続けた。

 

 

 

「うちは一族が、反乱を起こすかもしれないのだ」

 

 

 

 温かな記憶たちに―――冷たい、ヒビが……。

 




 改訂前より一話少ないですが、今回で幼少編は終了です。と言っても、おそらく、字数的には同じあるいはこちらの方が超えていると思いますが。

 次話からは、灰色編に突入します。つきまして、こちらで、灰色編の方向について記述させていただきます。

 改訂前では、同じ時間を何度も繰り返す手法で物語を進めてきましたが、全て一本化して書きたいと思います。つきまして、大まかな話しの流れは変わりませんが、登場人物の動きなどに変化がありますので、ご了承ください。

 次の投稿も、十日以内に必ず行います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

灰色編(改訂版)
今の彼女たち


 里の平和を守ると、誓った。

 

『平和な世で生きろ』

 

 ()は、そう言ってくれたけど、その言葉通りにするのは、あまりに身勝手なのではないかと思った。

 

 一度は彼を心の底から憎み、何度も殺そうと企てたのに。

 彼は自分に惜しみない愛情と多大な知恵を与えてくれたというのに。

 つまり、彼には返しきれない恩義があるのに。

 

 自分だけ、平和な世の中に旅立ってしまうのは、嫌だった。

 

 何とかして恩を返したい。

 旅立ってしまうのは、もう、回避できない。だからきっと、最後の別れなのだと分かっていた。感謝の言葉も、伝えることができない。

 

 だから、せめて……せめて、彼が願った平和な世を、自分が生きている間は、何としても守ると、勝手に誓った。

 

 時を超えて、目覚めたその世は―――しかし、決して平和だと謳うことのできない時代だった。

 

 どうして自分は目覚めたのか、その原因は、当時は分からなかったけれど、それよりも、まずは、戦争の傷跡が残る不安定なこの時代で、非力な自分は、何をすればいいのか、考えた。

 

 とにかく、力を付けなければいけない。

 

 そう、判断した。

 

 力を付けて、平和を守ると―――。

 

 けれどいつしか、力を身に付けようとする中で……平和に過ごしていく中で、平和を守るという誓いが、自分の為のものへと変わっていってしまった。

 

 血が繋がっていない両親と過ごしている内に、温かさを知った。

 血が繋がっていない兄と過ごしている内に、いつも誰かがそばにいてくれることの安心を知った。

 血が繋がっていない弟を見ている内に、愛おしさを知った。

 いつも爽やかな笑顔と力強い行動力のある彼は、友達という言葉の意味を教えてくれた。

 泣き虫でいつも自分を頼ってくる友達からは、他人から受ける影響の尊さを知った。

 

 彼ら彼女らと過ごしている内に、もっとこの時間を過ごしていきたいと、心の底から願うようになっていた。

 

 そう、つまり、自分のため。自分の為に、平和を守りたいと、思った。

 

 いやきっと、平和という意味を、初めて理解したのだ。自分で体験して獲得したその理解は、宝石のように大切なものだったから、それを傷つけたくないと、自分の懐に抱え込めば抱え込むほど、意固地になって、身勝手な子供の用に身体を丸めているのだ。

 

 ―――もう、手放したくない。私は、平和を、守らないといけないんだ。

 

『私だったら、もっともーっと、平和を守ることができるよ? フウコさん(、、、、、)

 

 声がする。

 幼い、けれど嘲笑が混ざった、妖しい声。

 

 ―――どうして、里を恨むの?

 

 語りかけると、自分と全く同じ容姿(、、、、、、)をした少女は、檻の向こうで、口端を大きく吊り上げた。

 

『フウコさんも、いつか分かるよ』

 

 大切な人が、急にいなくった時の、辛さが―――悔しさが。

 

 ―――そんなことさせない。誰にも。里の平和は、私が、絶対に、守る……。

 

 しかし、少女は嗤う。

 嗤い声は、ずっと、続いた。

 

 ケタケタケタ。

 ケタケタケタケタケタ。

 

 

 

「姉さん、起きなよっ!」

 

 耳をつんざく幼い高い声は、眠っていたフウコの意識を覚醒させた。強烈な眠気を引きずりながらも、意識は着々と気だるい肉体へと重なり、閉じた瞼の向こうから、微かに光を感じ取り始める。

 

「んん……」

 

 穏やかな呼吸をしながら、瞼を僅かに開ける。ピントがぼやけた視界の中に、人の顔が映った。徐々にピントが合い始め、見上げた天井を背景に、愛らしい弟の顔がはっきりと見えるようになる。

 

「……おはよう、サスケくん」

「もう昼だよ」

「え……? 朝じゃないの?」

「昼だよ」

 

 うちはサスケは頬を小さく膨らませながら、こちらを見下ろした。不機嫌そうだ、と不安定な思考の中で判断する。しかしその表情も、愛おしく思えてしまう。イタチに似た顔立ちと目端だが、幼さが十分に含まれた柔らかそうな頬や短い髪の毛は、いつ何度見ても、可愛らしい。

 

 上向きに姿勢正しく眠っていたフウコは、顔を傾けて、カーテンが閉められた薄暗い部屋の壁にかけられた時計を見る。たしかに時計は、あとちょっとすれば最も高い位置を示すくらいの時間帯だ。

 

 しかし、今日は特に、任務が無かったはずだ。完全な、オフの日。

 

 フウコは右腕を自分の額に置きながら、小さく息を吐いた。

 

「……私宛に、任務でも来た?」

「来てない」

「じゃあ、どうしたの?」

「母さんが起こして来いっていうから、起こしに来たんだ」

「……そう。おやすみ」

「起きて!」

 

 頬を引っ張られる。痛みのせいで、眠気が和らいでしまった。仕方ない、と思いながらフウコは上体を起こした。起きたばかりで、身体が熱い。身体にかけていたタオルケットが力なく上体から落ちると、少しだけ、涼しくなった。

 

「……姉さん」

「なに?」

「どうして服着てないんだよ」

 

 少しだけ頬を赤く染めて視線を逸らすサスケに、フウコは頭を傾けた。そして、自分の格好を確認する。上半身はランニングシャツ一枚。下はタオルケットで隠れていたが、ボクサーパンツ一枚。

 

 特に、問題はないと思う。

 

「夜、寝ると暑いから。どうしたの? サスケくん、顔、赤いよ?」

「とにかく服来なよ姉さん!」

「身体が寒くなったら着るよ。あ、寝癖ついてるよ」

 

 サスケの黒い髪の毛の一部が跳ねていたから手櫛で直してあげようと手を伸ばしたが、彼はすぐさま手を叩いて「大丈夫だからっ!」と拒絶されてしまった。少しだけ悲しい。

 

 美味しそうな匂いを嗅ぎ取った。もしかしたら、お昼御飯時なのかもしれない。だから、起こしに来たのだろう。

 

 フウコは布団から完全に起きた。立ち上がると、黒い髪の毛が背中を撫でる。彼女の黒髪は長く、腰下まで伸びていた。おまけに、軽くウェーブがかかっている。身体には無駄な贅肉も筋肉もなく、バランスよく端整に筋肉が付いている。軽く身体を伸ばすと、眠気がさらに小さくなった。

 

「今日のお昼ご飯は何だろう。きんぴらごぼうがなければいいなあ」

「あ、姉さん、服っ!」

 

 部屋を出て、サスケを後ろに廊下を歩く。イタチの部屋の前を通り過ぎて、居間に近づくたびに美味しそうな匂いが強くなり、急激に空腹が強くなった。もう眠気はすっかりなりを潜めてしまっている。

 

 かつては共有していた部屋は、今では完全にイタチだけのものになってしまった。お互いに身体が成長してしまったため、一つの部屋で過ごすには狭い。そもそも、フウコがこの家に来た時に、家族になりやすくなるためという目的が強かった。空き部屋はあったのだ。広さ的にはイタチの部屋より少し小さいが、使い勝手としては、申し分は無かった。

 

 居間に着くと、台所で昼ご飯を作っていたミコトの背中が真っ先に目に入った。彼女はフウコとサスケが入ってくるのに気付くと振り向き、そして表情をしかめた。

 

「こら、フウコ。またそんなだらしない格好して」

「だらしないですか?」

「はあ……昔はしっかり服を着ていたのに。もう、誰に似ちゃったのかしら?」

 

 フウコが知る限り、この家で寝巻を着ないで寝る人物を知らない。逆に、どうして他の人は暑いのに着ているのだろうか、と疑問に思ってしまう。

 

 静かにテーブル前の椅子に腰かける。全く、と苦笑いを浮かべるミコトだったが、何だかんだと、すぐに、目の前に昼食を置いてくれた。目玉焼きとサラダ、味噌汁に漬けもの、白飯というシンプルなメニューだったが、フウコにとっては十分なものだった。

 

 もちろん、十分というのは、味的にである。特に、きんぴらごぼうがテーブルに出現していないことが、最も素晴らしい。もう何年も食べてきたきんぴらごぼうは、特に、食感は飽きてしまった。もしどんな味なのか、と他人に尋ねられたら、寸分違わず伝える自信があるほどだ。

 

 隣にサスケが座り、対面にミコトが座った。三人は揃って、いただきます、と手を合わせて、食事を開始する。

 

 味噌汁を一口含む。味噌の味とダシの風味が、味噌汁を呑み込むとすぐさま鼻腔をくすぐった。じんわりとお腹に温かさを感じると、あっという間に胃が大きくなる。白米を食べると、食欲はもう、止まらなかった。

 

「なあ、姉さん。今日は暇だろ?」

 

 箸で目玉焼きを小分けしていると、隣のサスケが呟いた。顔を向けると、口に食べ物を含みながらこちらを見上げている。行儀が悪いわよ、と対面のミコトが顔をしかめていた。

 

「もぐもぐ……。うん。何もなければ」

「なら、今日は修行付けてくれよ」

「サスケくん、アカデミーは?」

「今日は休みだよ。日曜日なんだから、当たり前だろ?」

 

 ああ、そういえば、と思う。

 今日は、日曜日だ。

 あまり、曜日を気にするようなきめ細かい生活リズムじゃないから、忘れていた。

 

「ミコトさん。フガクさんとイタチは?」

「二人とも仕事よ。イタチは、午前中は任務があるって言ってたわね。でも、いつ帰ってくるかは、教え子次第ってとこね」

 

 イタチは上忍になっていた。チームも持ち、今は、下忍の子を三人持っている。イタチは性格も良く、コミュニケーション能力も高いから、きっと何も問題はないだろうと思っていたが、意外にも、苦労しているらしい。下忍の子たちが、それぞれわんぱくなのだと、ぼやいていた。

 

 なるほど、ならもしかしたら、今日は帰ってくるのは遅くなるかもしれない。フガクに至っては、さらに遅いかもしれない。

 

 漬物を食べながら、天井を少し見上げてから、飲み込むと同時に頷いた。

 

「うん、いいよ」

「ほんとっ?!」

「こらサスケ、食事中に大声を出さない」

 

 叱られながらも、サスケは嬉しそうに頬を緩ませて、勢いよく白飯を食べ始める。その姿を見るだけで、自分も嬉しい。あっという間に昼食を平らげた。けれど、まだ腹三分目である。

 

 フウコは嬉しい気分のまま、茶碗を片手に立ち上がり、台所に置かれている炊飯器に手をかけた。

 

「フウコ? 何をしているのかしら?」

 

 冷たい声が、フウコの手を微かに震わせた。

 平静な彼女の声は、しかし、露骨なまでの怒気を孕んでいた。

 恐る恐る振り返ると、冷たい、満点の笑顔。

 

「きんぴらごぼうなら、冷蔵庫に入っているわよ?」

「……その、ご飯が、食べたいです」

 

 ミコトが音もなく立ち上がり、フウコの両手を茶碗ごと優しく包んだ。優しく、と言っても、動作だけで、握られた両手は万力にも似た凄まじい力を加えられ、小さく軋み始めている。

 食卓には程遠い背筋の寒くなる音に、サスケは顔を白くして、身体を小さくしている。

 

「いけないわぁ、フウコ。好き嫌いは。貴方は女の子なんだから、栄養管理は大事なのよ?」

「ミコトさん、落ち着いて、ください。少しだけ、おかわりするだけですから」

「私は冷静よ? ほら、冷蔵庫、開けてみなさい。貴方の大好きな、とっても大好きな、きんぴらごぼうがあるわ。たくさん、食べなさい」

 

 赤ん坊をあやすように甘い声の前に、フウコは静かに頷くことしか出来なかった。

 

 ―――食事が終わり。

 

 フウコは自分の部屋に戻って、服を着た。外出用の服装である。腿の上部分ほどしか丈のない黒一色の着物を着ている。着物には肩口から手にかけて袖がない。腹部に黒い帯を巻いている。黒いスパッツを履いて、全体的に動きやすい格好だった。長い黒髪は後頭部の上部分だけ、黒の髪紐でまとめている。

 

 着替え終わったフウコは部屋の姿見で自身の姿を一瞬だけ確認する。見た目のクオリティの確認では、決してない。ただ、いつも通りの格好であるか、というだけ。別段、いつもと異なっていても、気にしないのだが。

 

 部屋の外から、姉さんまだ? と、弾んだ声が聞こえてくる。

 

「うん、待って」

 

 フウコは壁に掛けていた黒い柄と鞘、そして鍔のない刀を帯に挿して、準備は完了する。部屋を出ようとした時、ふと、忘れ物に気が付いて、背の低い本棚の上に視線を向けた。

 上には、二つの物が置かれている。一つは、でんでん太鼓。しかし、今にして見てみると、ほとんど原型がない。持ち手の部分と紐の付いた石と太鼓の部分だけが、どうにかでんでん太鼓と認識することは出来るが、何も知らない者が見れば、きっと分からないだろう。羽が付いていたり、玩具のビーズが付いていたり、挙句に鈴すら付いている。

 

 しかし、フウコはそのでんでん太鼓を、もうサスケには必要ないと思いながらも大事に持っている。これは、自分の努力の結果なのだと思うと、どうしても、捨てたくはなかったのだ。忘れ物は、その横に置かれていた、額当てである。フウコはそれを帯の上から身体に巻き付けて部屋を出た。

 

「遅いよ! 姉さん」

 

 ドアの目の前に立っていたサスケが賑やかに言った。

 

 そこまで時間をかけていたのかと、尋ねたくなったが、我慢する。きっと、短い時間を長く感じてしまうくらいに、彼は自分との修行を楽しみにしているのだろう。そう思うと、嬉しくなる。

 

「ごめんね、サスケくん。でも、まだ、時間はあるから」

「それは姉さんの都合だろ。俺には時間がないんだ」

「そうだね。行こ」

「早く早く!」

 

 矢のように廊下を走っていくサスケの背中を眺めながら、フウコもゆったりと歩き始める。玄関に着く頃には、サスケはシューズを履いていた。

 

「あ、フウコ」

 

 フウコもシューズを履こうとした時、ミコトに呼び止められた。ついさっきまで皿洗いをしていた彼女は、エプロンで手を拭きながら、玄関まで歩いてきていた。既にサスケは外に出てしまっている。

 

「あまり遅くならないようにしなさいね。折角のお休みなんだから」

「はい。サスケくんには、無理をさせません」

「そうじゃないわ。もう、仕方のない子ねえ」

 

 ミコトは、苦笑いを浮かべると、フウコの頭に優しく手を置いた。

 

「貴方のことよ」

「……私、ですか?」

 

 ええ、とゆったりと頷くミコトを、フウコは小さく見上げた。

 十三歳になったフウコだが、未だ身長では、ミコトよりも少しだけ低い。

 

「私が言うのも、あれだけど…………最近、疲れてるみたいだから。無理はしないでほしいの」

「無理は、していません。疲れてもいないので、気にしないでください」

「気にするわよ。大事な娘のことなんだから。まだ、お母さんって、呼んでくれないの?」

「……すみません」

「ふふ。いつかは呼んでね」

 

 ミコトの手が離れて、けれど、手の置かれた部分には、まだ温かさが残っていた。自分には、あまりある、大きな温もりだった。

 

 玄関の外から「姉さん!」と呼ぶサスケの声が入ってきた。二人が一度、開けっ放しの玄関を見て、また向き合った。

 

「イタチにも言ってることだけど、サスケの修行は、あまり進め過ぎないようにね」

「良いんですか?」

「ただでさえ、貴方やイタチが物覚えの良い子だったから、お父さんはサスケに修行を付けたがっているのよ。あの人の分も、残してあげて」

「分かりました。いってきます」

「はい、いってらっしゃい」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチは午前中、任務に出ていた。上忍になり、三人の下忍の子を教え子に持つ彼だったが、任務の依頼は【迷子の小鳥を探す】という、難しいのか難しくないのか、よく分からない任務だった。命の危険的には非常に楽な任務だが、達成するのには困難な任務だったことは確かである。しかし、難易度は下忍が受ける程度のもので、もちろん、任務は無事に達成することができた。

 

「……はあ」

 

 しかし、丁寧に調理されたサバの味噌煮を割り箸で器用に身を割きながら、彼はため息をついた。うちはの家紋が背中に入った黒いTシャツが元気なく揺れて、その上に着ている上忍に支給される分厚いジャケットが重く沈んだ。

 

 食事処である。

 

 午前中の依頼をこなした後、彼は一度、チームを解散させた。次に集合するのは、午後の演習の時。それまでは昼休みである。チームを解散させたのは、それが現状、最も問題がないと、彼が判断したためである。

 

 任務の途中、ちょっとした喧嘩が起きた。それは、もちろん理性的なイタチが当事者ではなく、教え子の下忍の子たちが起こしたものだ。原因は、些細なことで、つまり、三人それぞれの実力差についての喧嘩だった。

 

 アカデミーを卒業したからと言って、全員の実力が僅差である、ということではない。卒業生の中から三人一組のチームを作る場合、アカデミーでの成績、性格、家系などの様々なことを考慮して、それぞれのチームの実力が【総合的にほぼ同一になる】ようにアカデミー側が構成する。故に、極端な例を挙げれば、【成績最優秀者】と【成績最底辺者】と【そのほぼ中間】というような三人が、チームを組む場合も、あるのだ。

 

 イタチのチームの子たちは、そこまで極端なほどの実力差があるわけではないが、いやむしろ、僅差なのだが、だからこそ問題なのかもしれない。

 

 任務の時、一人の子がミスをしてしまった。そのミスのせいで、捕まえることができたかもしれない小鳥を逃がしてしまう事態になり、もう一人の子がその子を責めた。最後の一人は二人の仲裁に入るつもりが、結局はその子も邪見扱いされてしまい、結局は喧嘩となった。

 

 イタチが一度は喧嘩を治めさせたが、その後はずっと、険悪な雰囲気が続き、任務が終わってからもひきづったため、午後の演習まで、解散することにした。

 

 できれば午後に集合する頃には、少しでも頭を冷やしてほしいものだ、というのがイタチの本心である。しかし、そうなる可能性は低いだろうとも、思っている。得てして子供は素直で、熱しやすく冷めにくい性質を持っているものだ。

 

 ……今にして思えば―――アカデミーの頃を思い出す。ブンシのこと。

 

 彼女はよく、ルールを守らない子供に拳骨を下していた。自分も、彼女ほどではなくとも、多少の鉄拳制裁が必要なのではないか? と、イタチは思い始めていた。

 

「おたくも、ため息をつくことがあるんだ」

「あ、カカシさん」

 

 声をかけられ、サバから視線を挙げると、お盆を片手に立っている、はたけカカシがこちらを見下ろしていた。左目を額当てで隠している彼は、表に出ている死んだ魚のような右眼でこちらを見ながら「ここ、空いてる?」と、イタチが座っているテーブルの対面の席を、マスクで隠している顎で示した。

 

「ええ、空いてますよ。一人ですか?」

「そりゃあね、俺、チーム持ってないから」

「そういうつもりで言ったわけではないのですが」

「冗談だよ。そ、じゃあ、失礼するよ」

 

 彼はあっさりと席についてお盆をテーブルに置いた。どうやら彼も昼食のようで、お盆には野菜炒めをメインとした定食が載っていた。

 

 イタチは少しだけ、緊張した。年齢的にも上忍としても大先輩であるカカシと同じテーブルで昼食を過ごす、ということもあるのだが、何より、彼が食事を取る場面を見れるのではないか、という好奇心を悟られないようにするための緊張である。

 

 彼は常時、マスクをしている。鼻先まで隠すマスクは、これまで多くの人から聞いても、その下を目撃したことがないと言われている。当然、イタチもだ。

 

 もしかしたら、そのマスクの下を見れるのではないか? そう思って、しかし表情には出さない。彼は些細な表情の変化も読み取ってしまう程の実力者だ。

 

「カカシさんは、いつも昼食は外でしているんですか?」

 

 努めて自然な笑顔と声で尋ねる。すると彼は目端を下げて小さくため息をついた。

 

 緊張がばれてしまっただろうか? と思ったが、しかし、そうではなかった。

 

「今日は別だよ。ついさっき、ガイに見つかっちゃってね。また勝負を申し込まれるのも面倒だったから、逃げたんだよ。そのついでに、昼食を済ませようってだけ」

「わざわざ、逃げてきたんですか?」

「なら、俺の代わりに勝負を受けてみる?」

「いえ、遠慮しておきます」

「あっそ。ま、おたくもガイに目を付けられたら、逃げた方がいいよ。年配者としてのアドバイス」

 

 そうなる日は、限りなく高い確率で来ないだろうとイタチは心の中で確信する。

 

 テーブルに備え付けられている箸箱から一本の割り箸を、カカシは手に取った。緊張がさらに強くなる。割り箸を二本に割り、野菜炒めに矛先が向けられた。

 

「………………」

「……あまり、おたくの前で食べたくないね」

「気にしないでください。俺を空気だと思っていただいて結構です」

 

 しかし、カカシは割ったばかりの割り箸をお盆の上に静かに置いてしまった。どうやら今日は、マスクの下を見る事はできないらしい。特に、これといって、失うものは無いのだが、残念だと思ってしまった。

 

「ところで、何か悩みでもあるわけ?」

「え?」

「さっき、ため息ついていたみたいだからさ。何か大きな悩みでもあるんじゃないかなーって、思ってさ。……同僚として、気になったわけだ」

「大きな悩みと言えるものではありませんが……、まあ、その……、今指導している下忍の子たちが、少し、ワンパクで」

「へえ……。うちはイタチを困らせるっていうのは、これまた随分と」

 

 イタチは困ったように苦笑いを浮かべた。茶化すような抑揚だったが、静かな事実も含まれている言葉だったからだ。

 

 どうやら自分は、周りからは、余程の神童として認識されているらしい。事実、彼は、特に戦力を必要とする戦時中ではないにも関わらず、僅か十三歳にして上忍という地位にいる。年不相応な地位に自分はいる、という認識は持っているが、けれど、だからと言って神童という評価は、素直に受け入れがたいものがある。

 

 自分の妹は、さらにその上を行っている。

 

 同い年であるにもかかわらず、火影直属の部隊である【暗部】に所属するのみならず、【副忍】という、これまで存在しなかった暗部のナンバーツーという新たな地位を、ただの実力のみで創り上げた妹に比べれば、程遠い。

 

 ましてや、これまで何十回も行ってきた忍術勝負では、未だ一度として勝てていないのだから、神童という評価に謙遜してしまう。

 

「ま、あまり気負いせずにしたら? 俺は下忍を持ったことがないから、強くは言えないけど」

「妹や友人にも、よく言われます」

「……ああ、そういえば、妹がいたんだっけ、おたく」

 

 急に、カカシの抑揚が上がった。どこか嬉しそうに瞼を細める彼を、イタチは不思議そうに見た。気だるそうな表情がデフォルメの彼にしては、珍しかったからだ。

 

「ええ……。妹と、それと弟がいますが」

「名前はたしか、うちはフウコ、だったっけ?」

「はい。その……フウコが、何か、しましたか?」

 

 突然、妹の名前が出て、不安になる。

 

 フウコは頭の回転や忍としてのスキルはずば抜けているが、如何せんどこか、常識の欠けた部分があったりする。それは彼女の部屋に飾られているでんでん太鼓を見れば分かるように、変に度が過ぎてしまったり、あるいは変な方向に捉えてしまったり、だ。

 

 他人に対しての礼儀などはしっかりしているものの、もしかしたら、という不安が頭を過ぎってしまった。

 

 しかしカカシは「いや、俺には何も」と両手を挙げて否定した。なんだ、とイタチが胸を撫で下ろして、そして、

 

 

 

「ただ……恋人ができたんだって?。よかったじゃない」

 

 

 

「……は?」

 

 思考が停止した。

 

 口をぽかんと開いて、数秒ほど、身体が動かなくなる。カカシの笑顔よりもよっぽど、珍しい表情だった。

 

「え? おたく、知らないの?」

「いや……その…………、え、本当ですか?」

 

 カカシは頷く。

 

 さっきみたいな冗談だろうか? いや、流石にそれは、悪い冗談すぎる。彼は少なくとも、そういう冗談は、常日頃から口走るような人格ではない。かといって、ガセ情報ということも、極端に交友関係の少ないフウコの根も葉もない噂が生まれるのも、考えにくかった。……そしてフウコに恋人ができるというのが、最も、非現実的である。

 

 訳も分からず、とにかく、情報が不足していると思い、尋ねた。

 

「相手は、誰ですか? 俺の知ってる人ですか?」

 

 既にこの時、イタチには二つの選択肢が生まれていた。

 もし、フウコの恋人と語る不届き者がまともな人物ではなかった場合、すぐさま容赦なき処理をしなければいけないし、まともな人物だったら綿密に調査して対応しなければならない。

 

 フウコは優しく、そしてある意味で素直な子だ。ろくでもない人物に、言葉巧みに騙されている可能性も無くはない。いやどちらかというと、その可能性の方が高いだろう。

 

 家族の危機にイタチの脳内は、これまでの人生の中で最も活発に思考を繰り返す。もはや下忍の子たちの些細な喧嘩のことなど、度外視してしまっていた。

 

 無意識のうちに目つきが鋭くなったイタチを前に、カカシは軽く言ってのける。

 

「知ってるも何も、うちはシスイだよ。たしか、おたくと同期の子のはずだけど」

 

 ガタンッ! と、店内に大きく、椅子が倒れる音が響き渡った。一斉に店内の人が音の方向を見る。そこには、一人の少年が、怒りの表情を全力で浮かべて立ち上がっていた。イタチの沸点は今、最高潮になっている。

 

 カカシさん、とイタチは硬い声を出した。

 

「食事の途中で申し訳ないのですが」

「まだ俺は始めてないんだけどね」

「用事を思い出しました。先に失礼させていただきます」

「あ、そ。代金はしっかり払いなさいよ」

 

 叩きつけるようにテーブルに代金を置いて、肩で風を切りながらイタチは店を出た。

 

「あっ、イタチ先生」

 

 店先を偶々歩いていたイタチの教え子が、彼の姿を見て近づいてきた。任務の時、仲裁に入った子である。イタチはなるべく表情を無くして、その子を見下ろしながら言う。

 

「今日の午後の演習は中止にするから、他の子たちにも伝えてくれ」

「え? ……はい、分かりました」

「あと、他にも伝えてほしいこともある」

「なんですか?」

「次喧嘩をしたら、俺は思い切り殴る。覚悟してほしいって」

 

 そう言って、イタチは全速力で走り出した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イロミにとって、身長の高い女性に対する見方は、カッコイイ、というものだった。その原点となる考え方は、もちろん、親友であるフウコを見て、出来上がったものである。自分もいつか、彼女のようにカッコイイ忍になりたいと思っている。つまり、目標だ。

 

 彼女を目標にしたきっかけは、アカデミーの頃、彼女が突然、卒業してしまったことだった。

 

 例を見ない、たった半年―――中間試験を経て―――でのアカデミーの卒業。イタチやシスイが、凄い、と言葉にする傍らで、イロミは涙を流して悲しんだ。

 

 折角、友達になったのに。まだまだ、色んなことをしたかったし、教えてほしかった。なのに彼女は、一足どころか、十でも足りないほどの差を開けて卒業してしまう。何度も何度も、卒業しないでと、彼女に懇願した。

 

『もう二度と、会えなくなるわけじゃないから、泣かないで』

 

 平坦な声で、だけど優しく頭を撫でてくれる彼女の言葉に、当時の自分は赤ん坊のように頭を振って抗議した。

 

『困ったことがあったら、言ってくれれば、すぐに駆けつけるから。修行だって、付けることもできるよ?』

 

 だけど、遊ぶ事ができない。たしかそう、叫んだような気がする。そうだね、と硬い声の彼女の声も、今でも思い出せる。

 

『じゃあ、イロリちゃんが頑張って、私の所まで、来て。同じくらいになれば、きっと、また遊べるから』

 

 それから、イロミは彼女を目標にした。

 またいつか、遊べるように。

 

 もちろん、当たり前のことだが、彼女がアカデミーを卒業したからと言って、本当に遊べなくなる訳ではなかった。フウコが卒業してからたったの二日後に、イタチとシスイも含めて、四人で【かくれんぼ】をしたことは鮮明に覚えている。つまり、遊ぶ事は当たり前のように出来るし、友達という関係が壊れることも無かったのだ。

 

 けれど、イロミはフウコのようになりたいと強く願った。彼女を目標に据えたままにした。それには、少しだけ、暗い理由がある。

 

 時々、フウコが見せる、怖い表情。イロミはこれまで、二度、それを見た事がある。

 

 一度目は、育ての親を殺そうとした時。

 二度目は、夜の冒険の帰りの時。

 

 どちらも、彼女の両眼は、写輪眼―――前者の時は、おそらく見間違いだろうけれど、片目の瞳の紋様が異なっていたような気がしたが―――となっていた。

 

 自分の知らない、彼女がいる。

 

 その不安は、友達という関係に亀裂を与えるほどのものではなかったが、ある小さな危惧を想像させた。

 

 いつか彼女は、何か大きな間違いをしてしまうのではないか。

 そして、何処か遠くへ行ってしまうのではないか。

 

 だから、いち早く、彼女と同じくらいに強くならないといけなかった。

 才能のない自分でも、頑張らないと、いけないと思った。

 

 強くて、カッコイイ忍びに。

 

 ……兎にも角にも。

 

 イロミにとって、身長の高い女性はカッコイイという評価を付ける対象だ。そして自分も、そんな風になりたいと思っている。

 

 しかし目の前の姿見に映る自分の姿は、そのカッコよさとは程遠い、貧弱でちまっこいものだった。

 

「……牛乳、毎日飲んでるんだけどなあ。どうして伸びないんだろう」

 

 アカデミーを卒業しておよそ七年が経過した。つい二ヶ月前に、艱難辛苦を乗り越えて中忍に昇格したイロミだが、黒と白の縞模様の囚人服みたいな寝巻に身を包んだ身体は、身長は同世代の少女の平均よりも少しだけ低く、筋肉や骨格は細く弱々しい。

 

 身体の成長に適度な食事はしているし、筋肉トレーニングも効率的なスパンで行っている。本来なら、もっと身長は伸びて、もっと筋肉が付いてもおかしくないのに、身長の為に費やした栄養はどこかへ消えてしまい、そもそも脂肪すら付かないからトレーニングをしても筋肉にならない始末。

 

 親友であるフウコは身長が高く、それでいて適度でしなやかな筋肉を付けているというのに……どうしてだろうか。

 

「あ、もうすぐ時間だ。早くしないと」

 

 七畳一間の狭い部屋の壁際に置かれている目覚まし時計が、昼過ぎを示していた。今日は任務は無いが、少しだけ予定が入っている。

 

 イロミはすぐさま着替えて、外に出る準備をした。黒のTシャツを着てその上に明るい緑色のジャケット。白のハーフパンツを履いて、深い青のグローブを嵌める。あまり、アカデミーの頃と服装に変化が無いのは、興味が向かなかったからだ。服のセンスを磨くよりも、忍としてのスキルを磨いた方がいいという判断の元にである。

 

 唯一、彼女の服装のセンスが変わったとすれば、首に巻いた緑色のロングマフラーくらいだ。どうしてそのマフラーを付けようと思ったのか、それは単純に、カッコイイから。マフラーは、馬鹿みたいに彼女のひざ裏まで長さがある。

 

 そして、イロミは巨大な巻物を背負った。服装の一部ではなく、忍としてのスタイルである。イロミの身長より少し短い程度の長さと、腕よりも三回りほどの太さ。巻物の中央には【窓】と書かれている。中には、彼女の知識と技術が詰まっている。

 

 イロミは戸締りを確認してから、部屋を出た。木造二階のアパートの外廊下から見上げる空は吹き抜けた蒼。腰の低い入道雲が西の空に浮かんでいた。

 

 中忍になって、イロミはあの家から独立した。あの家にいることが、自分の目指す忍への道の妨げになると、思ったからだ。下忍の頃は、任務を達成しても獲得できる報酬は雀の涙で、報酬の三分の二は、育ての親に渡していたため、独立することができなかった。

 

 中忍へと昇格し、報酬の額も二倍近くになって、下忍の頃に貯金していた金額を総動員させて、どうにか独立を実現することができた。しかし、アパートはボロく、家賃は安い。立地も、里の端の方だ。全八部屋あるが、住んでいるのはイロミだけ。けれど、イロミ自身は、お得な物件だと思っている。夜中は静か過ぎて少し怖いけれど、才能が無い自分は任務前に色々と準備をしないといけないため、物音が近隣住民の迷惑にならない、というのは気楽でいい。

 

 里の中央へと歩いていくと、人の波が大きくなり始める。大通りに沿うように、様々な店が立ち並ぶ。屋台も見える。しかし、用事があるのは、この大通りではない。大通りの一つ横にある、通りだ。イロミは足取り軽く、横道に逸れる。

 

 天気が良いことと、これからの用事を考えると、今日はなんだか、気分がいい。

 絶対に、間違いなく、今日は、何か特別良いことがあるのではないか、と思った。

 

 

 目の前を、友達であるイタチが、風の如く通り過ぎて行った。

 

 

「ひっ!」

 

 横道をあと一歩で抜けようかという時に、突如、凄まじい速度で通り過ぎて行った友達の姿を目撃して、小さく悲鳴を挙げてしまった。

 

 遅れて、突風と砂煙が前髪を持ち上げた。慌ててイロミは両手で前髪を抑える。イタチが巻き起こした風だった。

 

 砂煙が止む。

 すっかり彼の姿は見えなくなっていた。

 

「あれって……やっぱり、イタチくん……だよね………」

 

 一瞬の出来事を思い出しても、やはり、彼だ。長い黒髪を後ろで一本に纏めていたこと、額当てを額に巻いていたこと、黒のTシャツに上忍に支給されるジャケット、そして彼の顔。間違いなく、彼なのだが、しかし、一体何があったのだろう? とイロミは頭を傾けた。

 

 普段の彼は、あんな、街中を全速力で駆け抜けるという訳の分からない行動はしない。もっと冷静で知的だ。彼がああいった意味不明な行動をするのは、もしかして、初めてかもしれない。

 

「……シスイくん、何かしたのかな?」

 

 まあいいや、と頭の中を切り替える。きっと、大した問題じゃない。彼は自分と違って上忍で、耳にする功績はいつだって輝かしいものだ。そんな彼が、悪い話の渦中にいる訳がない。

 

 気を取り直して、イロミは歩き始める。目的の店はすぐ近くだった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フウコは、サスケと並んで演習場に到着した。本当は、ここまで彼と手を繋いで来たかったのだが、うちはの町を出る時に手を握った時「やめろよっ」と強く拒絶されてしまった。

 

 悲しかった。ここ最近のサスケは、冷たい。サスケが言葉を話すようになった当時は、よくおんぶをしてあげたり、ご飯を食べさせてあげたりしていたのに(その頃になると、流石に近づいただけで泣かなくなり、むしろ積極的に懐いてくれた)。でんでん太鼓を持ってきた方が良かっただろうか、と見当違いなことを思っていたりする。

 

 しかし、到着したからには、頭の中を切り替えなければならない。

 

「今日は、どんな修行をしてほしいの?」

 

 誰もいない演習場にフウコの静かな声が吸い込まれていった。

 

 サスケの修行を付けるのは久々だ。というのも、これまではほとんど、イタチやフガクが修行を付けていたからだ。フガクが暇なときは彼が、そうではない時はイタチが。時折、サスケから修行を付けてほしいと言われることがあったが、自分よりも、やはり、下忍の子を持っているイタチの方が、教えるのは上手だと思い「イタチにしてもらった方がいいよ」と誘導していた。

 

 だから、彼が今、どれくらいのことができるのか、分からない。アカデミーに入学して、どんな生活をしているのかは、夕食の時に話しを聞いたりするけれど、それ以外はあまり知らない。

 

 一番最近で、彼にしてあげた修行は手裏剣術だったはず。次は、体術だろうか? しかし、こちらを見上げる爛々としたサスケの視線は、度々、フウコが帯に挿している刀に向けられていた。

 

「駄目だよ、サスケくん」

「まだ何も言ってないだろっ!」

「危ないから、駄目」

 

 修行の時以外にも、以前に何度か、持たせてほしいと頼まれたことがあった。しかしフウコは悉く、刀―――黒羽々斬ノ剣(よるのはばきりのつるぎ)―――を持たせたことはない。サスケの腕力ではまともに扱うこともできないし、何より、この刀は、フウコが半年毎日欠かさずチャクラを注ぎながら作り上げたものだ。切れ味は、そこらの刀とは比べものにならないほどである。

 

 万が一の場合、刀の自重だけで、サスケの骨はいとも容易く切断されてしまう、そう考えると、何が何でも、使わせるわけにはいかなかった。

 

「今日は、修行するんだよね? 他のことなら、教えてあげられるから」

 

 しかしサスケは唇を尖らせて、眉尻を下げた。

 

「俺だって、もう立派な忍だよ。そりゃあ、姉さんや兄さんに比べたら、まだまだだけど……」

「まだ、アカデミーを卒業してないし、任務だってしたことないよね?」

「アカデミーなんて関係ないよ。火遁だって俺、もう使えるんだぞ?」

「凄いね。じゃあ、私も火遁を教えて―――」

 

 言葉の途中、サスケが素早く刀に手を伸ばしてきた。フウコは軽く身体を横にしてそれを回避する。

 

「サスケくん、危ない」

「いいだろ! 姉さんはケチだっ!」

 

 フウコは腰を器用に捻り、そして最小限の位置移動のみで刀をサスケから守っている。日々の肉体鍛錬が功を奏しているのか、踏み込みからの初速が速い。アカデミー生としては、上々だ。

 もちろん、フウコにとっては、写輪眼になる必要はないほどで、サスケの細かい所作を確実に捉えることができるくらいの余裕がある。所々に、サスケの筋肉の運用に無駄があった。もう思考の半分以上は、修行はやはり体術にしようかと考え始めていた。

 

 突然、サスケが距離を取った。こちらを見る彼は笑っていた。

 

「無理矢理にでも取る!」

 

 左太ももに付けたホルスターから取り出したクナイが二本、投擲された。

 素早く、それでいて丁寧な動作だった。しっかり、練習しているんだな、とフウコは思いながら、直線的に向かってくるそれらを、右手を一度横に振って、指に挟んでキャッチする。既に左に回り込んでいたサスケが、低い体勢で、右足で足払いをしようとしているのを、当然のように視界に捉えている。フウコは左足を少しだけ後ろに下げてから踵を軽く上げて、それを阻止した。

 

 サスケが残った左足を突き出し、今度は右足を狙ってくる。右足は前へ出して回避。直後、フウコは下げていた左足をサスケの右足に回して、彼の両足を強く挟む。

 

 げ、とサスケは表情を固めた。苦し紛れに刀の鞘を掴もうと左腕を伸ばそうとする彼の肩の衣服に、先ほどキャッチしたクナイを、手首のスナップを利かせて投擲し、地面に縫い付けた。

 

「はい、これで、私の勝ち。諦めて、修行する」

「やだ」

「ごめんね、服に、穴開けちゃって。家に帰ったら、私が縫ってあげる」

「……それは、止めて。姉さん、不器用だから………。兄さんか、母さんに頼む」

 

 少しだけ悲しい気分を抱きながら、クナイを抜いて、彼を立たせてあげた。相変わらず不服そうな表情を浮かべ、視線は刀に向いている。

 

 サスケくん? と呼びかけても、今度は顔ごと逸らされてしまった。何があっても、使わせてほしいみたいだ。けれど、使わせるわけには、もちろんいかない。かといって、このまま修行しないというのも、なんだか……。

 

「よ、フウコ」

 

 その時、横から声をかけられた。

 明るく、そして力強い声は、アカデミーの頃からずっと聞いていたもので、すぐに誰なのかをフウコは理解した。声の方向に顔を向けると案の定、片手を挙げて爽やかに笑っているうちはシスイがいた。

 

 額に、額当てを巻き、癖の強い髪の毛は今日も健在だった。うちはの家紋が入っている蒼いTシャツに白いズボン、背中には暗部の刀を背負っている。

 

「シスイ……。何か用?」

「用がなきゃ、会いに来ちゃ駄目なのか?」

 

 笑顔を浮かべながら、自然な動作で肩を抱いてくる。特に、拒絶する理由は無いのだけれど、暑い、とだけ思った。

 

 彼と恋人関係になったのは、イロミが中忍に昇格した翌日のことだった。

 

 何の前触れもなく、

 

『俺と付き合ってくれッ!』

 

 と土下座されたのだ。最初は、何か買い物に行くのだろうかと思ったのだが、どうやらそうではなく、恋人関係になってほしいというものだった。フウコが、その意味を知っても尚、それを了承したのは、その時のシスイの土下座があまりにも緊迫していたものだったから、というだけである。

 

 そもそも、恋人、というものをあまり分かっていなかった。友達よりも親しい男女関係、程度の認識である。つまり、重要度はシスイの土下座よりも軽かったのだ。ただ、それだけ。暑い、と思ったのも、恋人に肩を抱かれたから、というようなロマンチックなものではなく、ただただ、シスイの体温が外部から伝わったからである。

 

 傍から見たら、かなり、プラトニックな関係だったが、シスイ自身は特にフウコに要求することもなく、満足しているようだった。

 

「シスイさん!」

「おお、サスケ。なんだ、今日は姉ちゃんに修行を付けてもらってたのか? 羨ましい奴だなあ」

 

 フウコよりも身長の高いシスイを見上げるサスケは笑顔だった。さっきまで不機嫌そうだったのに、とフウコは思う。

 

 シスイは何度か、家に来たことがある。その時、サスケと親しくなった。シスイの明るい雰囲気は、やはりサスケと仲良くなるのに然程時間は必要なく、今も、サスケの髪の毛をくしゃくしゃにするほど乱暴に頭を撫でても互いに笑い合えるほど親しい仲になっている。

 

 実は、シスイが羨ましいと、フウコは思った。こんな簡単にサスケと仲良くなれるなんて、と。

 

「本当に、今日はどうしたの? 何か、用事?」

「ただお前に会いたかっただけだって」

「よく、私がここにいるって分かったね」

「……ミコトさんに、聞いたんだ…………、すげー、怖かったけど……」

「??? どうしたの?」

「なあ、フウコ……俺たちのこと、ミコトさんとかに、言ってないよな?」

 

 フウコは首を横に振る。別段、報告するほどのことではないと思ったからだ。何かあったの? と尋ねても、シスイは青い表情で乾いた笑いを作るだけで、その後「……やっぱり、変に自慢したから、噂が広まったのかなあ。どうしよ」とシスイは口の中で呟いた。しかし、フウコの耳には聞こえていない。

 

「なあシスイさん、姉さんに言ってよ。刀を貸してくれないんだ」

「はっはっは、まあ、しょうがないな。サスケはまだ小さいから。姉ちゃんはお前のことを大事に思ってるんだ。もうちょっと、大きくなってからだな。それまではあれだ、俺ので我慢してくれ」

「……シスイさんの刀は、あまりカッコよくない」

「そりゃあ、暗部に支給されるやつだからなあ。でも、暗部の刀を持つのは貴重だぞ? ほら、ずっと見てると、それとなく、カッコイよく見えるだろ?」

 

 刀を抜いてみせるが、カッコ悪い、と一蹴される。銀色の刀身は洗練されていて、綺麗だとは思うが、納得がいかないらしい。

 

 シスイがこちらを見るが、フウコは否定の意味を込めて顔を横に振る。

 

「……シスイさんは、姉さんのカレシなんだろ?」

「えっ?!」

 

 そしてカエルのような声を出すシスイである。

 

「さ、サスケ……、それ、誰から聞いたんだ……?」

「え、本当に付き合ってたんだ。いや、でも、何となく分かる」

「いいか? サスケ、このことは、誰にも言うなよ。特に、ミコトさんと……いや、イタチだな、あいつには絶対に言うなよ。恐ろしいことになるからな、あいつは怖いやつだ」

「……ねえ、シスイ。ちょっと」

「アカデミーの頃、俺は何度、あいつに恐ろしい目に合わされたことか……」

「シスイ。落ち着いて。あまり、そういうことは、言わない方がいいと思う」

「いや、続けてくれ。シスイ」

 

 兄の声が演習場に響いた。フウコでも、彼が非常に苛立っているということがはっきりと分かるくらいに冷徹な質を持ったそれは、肩を抱いているシスイの手を硬直させるには、あまりにも十分だった。静かに、彼から離れて、すぐ横に立っているイタチを見た。

 

「どうしたの? イタチ。よく、私がここにいるって、分かったね」

「サスケの修行を付けてると思ったんだ。それよりフウコ、何かされなかったか?」

「何かって、何?」

 

 シスイの首が、変な音を立てて、ゆっくりとイタチの方を見る。硬直した顔には、見る見るうちに、大量の脂汗が浮き始めていた。

 

「イ、イタチ。お、落ち着け。冷静になろう」

「そうだな、互いに冷静になろう。少しあっちで、話しをしないか?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 用事を済ませたイロミは、両手に小さな紙袋を抱きながら、親友の家へと向かった。暗部で重要な地位にいるフウコは、今日が非番だとは考えにくいが、もしかしたら、という思いで寄ったのである。

 

 彼女の家に赴くと、玄関に顔を出したのはミコトだった。この数年の間に、イロミはミコトとすっかり親しくなり、今では何の億劫もなく話せる間柄である。自然な笑顔を浮かべ、イロミは「こんにちは、ミコトさん」と明るく言った。

 

「あら、イロミちゃん。こんにちは。もしかして、フウコかしら?」

「はい。今日は、任務ですか?」

 

 いいえ、とミコトは言う。

 

「あの子なら、サスケと一緒に演習場へ行ったわよ。修行を付けてもらうって、朝からあの子、はしゃいじゃって」

「あはは、そうなんですか」

 

 笑いながらも、地団駄を踏みたくなる衝動を抑えた。羨ましい、と心の中で呟く。自分も、フウコに修行を付けてほしかったのに。

 

 イロミとサスケはあまり仲が良くない。というのも、サスケが自分のことを下に見ているのが要因だ。誰から聞いたのか(まあ、間違いなく、フウコだと思うのだが)、自分がアカデミーの頃、中間試験や期末試験、そして卒業試験などの全ての試験に置いて、一度もドベから抜け出すことができなかったことを、サスケは知っている。

 

 それを知ってから、サスケは小生意気に「アホミ」や「バカミ」などと言うようになった。非常に気に食わない。彼がフウコやイタチの弟でなかったのなら、拳骨の一つでも落としてやろうと、何度思ったことか。

 

 しかし、フウコが今日は非番だというのは、嬉しいことでもある。サスケからフウコを奪って、自分が修行を付けてもらおう。

 

 お礼を言って踵を返そうと―――しかし、笑顔だったミコトの表情が曇った。

 

「イロミちゃん。その……シスイくんのこと、どう思ってる?」

 

 よく分からない尋ねに、イロミは頭を傾けた。

 

「友達だと、思っていますけど」

「そういう意味じゃなくてね、その……うーん、何て言ったらいいのかしら…………」

「シスイくんが、何かしたんですか?」

 

 大抵の場合、シスイの名前を呟く人は、彼に悪戯をされた被害者というのがパターンである。フウコと同じく、暗部に入隊した彼だが、アカデミーの頃から性格的に何も変化はしていないように思える。それは勿論、良いことであるのだが、悪戯をしなくなる、という効果が無かったのは最悪なことだ。

 

 ミコトが「そうねえ」と、困ったように顎に右手を当ててため息をついた。

 

「さっきね、シスイくんが来たんだけど、フウコがどこにいるのかって、訊いてきたのよ。おかしいと思わない? フウコが休みの時に、わざわざ」

 

 もしかしたら今自分は、頭のおかしい子なのだと思われているのではないだろうか? とイロミは静かに思った。同じ町に住んでいて仲が良いんだから、おかしくもなんともないはずである。

 

「私思うんだけど、シスイくんって……ほら、幼い頃から、フウコと親しかったでしょ? だから……」

 

 ああ、とようやくイロミは合点がいった。ミコトにしては、要領の得ない話し方だな、と思っていたけれど、つまり、シスイがフウコの事を好きなのではないかと疑っているのだ。実のところ、イロミは、二人の関係について知っていたりする。フウコから「恋人って、何をすればいいの?」と訊かれたことがあり、その流れで、事実を知った。

 

 最初は不安だった。フウコではなく、シスイについてだ。彼はどういった目的で、そんなことを言いだしたのか、何やら良からぬことを考えているのではないのか、と。

 

 しかし、時間が経つにつれて、それが杞憂だと分かった。特に、悪影響はない。きっと彼はチキンなのだ、という判断を最終的にした。

 

 ところで、どうやら、フウコはシスイとの関係をミコトに言っていないらしい。基本的に、尋ねられないと応えないスタンスな彼女が、自分から言うとは思えない。自分がミコトに言ってものなのだろうか? と、イロミは悩む。

 

「ああ、きっと、私の勘違いよね? シスイくんは、そんな子じゃないし、まだ二人とも、十代なんだから」

「気にし過ぎですよ。それに、フウコちゃんはきっと、そういうのに興味がないと思いますよ?」

 

 即座に、イロミは言わない方がいいだろうな、と判断した。

 見えてしまったのだ。

 ミコトの後ろで開いたままの玄関の奥にある廊下、その壁の一部がえげつなく抉れている様子を、そして悩むように顔を覆った左手の甲に、ひっそりと何かを殴ったような跡があるのを。

 

 ―――あ、これ本当のことを言ったら、私死ぬかも。

 

 英断である。シスイが尋ねてきた時、ミコトは廊下の壁を殴って、本当のことを言わせようと脅迫したのだった。

 

 これ以上ボロを出さないように、イロミは平静を装いながら演習場へと向かった。遠ざかるフウコの家から、心なしか、ミコトの訝しげな視線が背中を刺しているような気がする。でも、それぐらい、彼女が大切にされているということだ。

 

 そして、演習場へ。

 

 到着すると、真っ先に目に入ったのは、何というか、殺人現場一歩手前という感じだった。

 

 イタチが全くの無表情でシスイに馬乗りして、両手に握ったクナイを振り降ろそうとしている瞬間だった。

 

「あ、イロリちゃん」

 

 こちらに気付いたフウコが、呑気に声をかけてきた。

 

「これって、どういう状況?」

「見ての通り」

「見て分からないんだけど。とりあえず、シスイくんは何したの?」

「分からない。でも、安心して。しっかりシスイはガードしてるから」

 

 時々思うが、彼女の常識はぶっ飛んでいる時がある。頭が良いことと、常識を持っていることは別なのだと、最近学んだことだった。

 

 ……まあ、おそらく、シスイがまた変なことをしたのだろう。フウコの言う通り、シスイは両手でイタチの両手を掴んで振り降ろさないようにしているため、最悪のことは起きないだろう……と、思うことにした。何だかんだと、これに似た状況は、幾つか見た事があるからだ。

 

 何やらシスイがこちらに向かって助けを呼んでいるが、イロミはそれを無視した。両手に抱えた紙袋を開ける。

 

「それは?」

「この前撮った写真だよ。ほら、私が任務で外に行った時、お土産で買ってきたカメラで」

「ああ。今日、出来上がったんだ」

 

 中忍になって、四度目の任務の時だった。

 

 里の外で行う任務だったが、緊迫したものではなかった。任務の帰りに、イロミはカメラを買ったのだ。そういえば、一度も、こうして、形に残したものが無かったな、と思ったからである。

 

 里に帰り、四人で写真を撮った。それが今日、現像されて、イロミは取りに行ったのだ。

 

 写真を取り出して、見てみる。

 

 フウコ、イタチ、シスイ、イロミ、四人がそれぞれ、一枚の写真の中に、ピントのズレもなく、木々と青空を背景に、写っていた。

 

 爽やかな笑顔を浮かべたシスイが中央いて、手前に小さく笑うイタチと無表情のフウコが並び、さらにその手前にピースをしている自分が写っている。

 

 写真は四枚、現像してもらっていた。一枚をフウコに渡すと、じっとそれを見下ろす。

 

「どう? しっかり撮れてるでしょ?」

「うん、そうだね」

「えへへ。大事にしてね?」

「うん。大事にする」

 

 いつもは平坦なフウコの声に、柔らかさがあるのをイロミははっきりと感じ取っていた。表情は、変わらず鉄面皮だけど、きっと、喜んでくれているはず。イロミも、嬉しそうに口端をあげた。

 

 何の変哲もない、特別でもない、当たり前の日に取った写真だった。

 

 でも、こうして形に残すことはきっと、大事なことだ。

 

 同じ楽しい時間を過ごしたという、紛れもない証。

 

 それを残すこと、残すことができるということは、もしかしたら、難しいこと。

 少なくとも、戦時の時には、困難なことに、違いない。

 つまり、今は、そう、平和なんだ。

 

「おい、アホミ。なんだよそれ」

 

 横からサスケが気に入らなそうにこちらを見上げていた。いつもなら、ここで彼に、デコピンをしている所だが、今は気分が良く、鼻で笑ってやった。

 

「へっへーん。教えないよーだ。ガキンチョサスケ」

「写真だよ、サスケくん」

「あ、教えないでよぉ」

「なんだ、くだらない」

「くだらないとはなんだ! チビの癖にっ!」

「すぐにお前なんて、俺が顎で使ってやるよ。ドベの癖に、バカミの癖に」

 

 折角の良い気分が台無しである。こういう所が、嫌いである。

 

「それより姉さん。もう刀は良いから、修行付けてくれよ」

「いいよ。何したい?」

「新しい火遁の術、教えてくれよ」

「フウコちゃん、私! 私に修行付けて!」

「じゃあ、皆で修行しよ?」

 

 その提案に、イロミは渋々、納得することにした。

 

 サスケと一緒に、というのが気に食わないけれど、でもきっと、今日は楽しい日になるに違いない。そんな、根拠のない、確信。

 

 これからも、ずっと、楽しいことが、あるだろう。

 

 写真も、いっぱい撮れる。それを繋げていけば、楽しい時間が作られていく。空はまだ蒼く、綺麗で、雲になったように、気分が良くなってきた。

 

 遠くでシスイが助けを呼んでいる。

 

 そろそろ真面目に助けないと危ないのではないかと思って、イロミは、未だ緊迫した二人に近づいた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 里が寝静まる―――深夜。

 

 うちはの町。

 

 夜空には、薄い雲が広く、長く敷き詰められている。ぼんやりと、月の光が地上を照らす程度で、星々の姿は見えない、暗い夜。町は、日陰に潜む獣のように、静かだった。

 

 空気が重い。しかし、それは錯覚なのだと、イタチは分析した。自分が抱いている町のイメージが、そう感じさせるのだ。そしてそのイメージが、良くなった日は、自分が中忍になってから、一度もない。中忍になり、そして、うちは一族が企てようとしていることを、父であるフガクから知らされたあの日を境に、町の空気は、重くなった。

 

「イタチ、あまりそう怖い顔するなよ。ただ座ってればいいんだ。もっと自然にしてないと、怪しまれるぞ?」

 

 一緒に歩く隣のシスイが、呑気にそう言った。道を歩いているのは、イタチと、そしてシスイだけである。

 

「まだフウコと付き合ってんのが納得いかないのか?」

「……その件は、もういい」

「大丈夫だって。俺はあいつに変なことしないって。俺を信じられないのか?」

 

 イタチはため息を付きながら、目頭を抑えた。

 信じれる信じられないと言われたら、フウコとの恋人関係の件においては、一寸たりとも信じられない。

 

 どうしてこのタイミングで、フウコに告白をしたのか、理解できなかった。

 

「とにかく、フウコの事は、後にする。お前を信じるか信じないかは、その後だ」

「そう肩肘張るなって。そんな怖い顔してると、疑われるぞ?」

「誰がそうさせたと思ってる」

「―――まあ俺も、色々と考えたんだよ」

 

 シスイを見ると、彼は小さく笑っていた。

 

「色々考えてさ、こうしたんだ。今のうちに、すっきりさせるべき所は、すっきりさせようってな。もちろん、フウコへの愛は、本物だぞ? 冷やかしじゃない」

「……本当か?」

「本当だ」

「なあ、シスイ」

「なんだ?」

「うちはを、止められると思うか?」

 

 小さく風が吹いて、後ろ髪を引っ張られる。

 

 不安。

 

 次にやってきたのは、幼い頃に見た、戦争の傷痕だった。

 

「止められる」

「本当か?」

「本当だ。俺と、お前と、フウコがいれば、止められる」

 

 当たり前だろ? とシスイは笑った。

 

 知り合ってから、彼は、こういう人間だった。

 どんなに分からないことでも、断言してみせる。

 怖気もせず、困難という現実を前に、あっさりと笑ってみせる。

 忍術も頭の回転も、そして、忍としての在り方も含めて、そういう部分を、イタチは尊敬していた。

 

「……そうだな。悪い、変なことを言ってしまって」

 

 不安は消えていた。

 

 三人がいれば、出来ない事は無い。

 

 上手くいく。

 問題ない。

 見上げると、夜空には隙間ができていた。

 

 半月の月が、ぼんやりと、自分を見ている。

 




 次話の投稿は、現状、分かりません。ですが、来月の一日までには、絶対に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗い夜の調

 次回の投稿は、十日以内に行います。

 ご指摘などございましたら、ご容赦なく、感想欄にお願いいたします。


 見上げれば、空がある。

 

 子供はその時、手を伸ばせば、空に浮かぶ雲や、あるいは月であったり星であったり、そういう、当たり前のものは、掴むことができるのだと確信する。遠いものが小さく、近いものが大きく見える、という仕組みを知らないからだ。

 

 それを、大人は無知だと、微笑ましく、どこか傲慢に眺める。

 

 自分たちもかつては同じようなことを考え、あるいは同じように手を伸ばした、ということを、大人はいつしか忘却してしまう。

 子供が抱く無知は、青空のように純粋だ。けれど、大人の無知は、曇天雲のように濁っている。雨も降らせば、雷も生み出し、木々に火を付ける可能性を孕んでいるということを、大人は誰しも失念する。

 

 大人が子供を笑う必要はあるのだろうか。

 

 笑って、子供が綺麗な空を見上げて、それに手を伸ばすという宝石のような好奇心を、それは勘違いなのだと言って、松に針金を巻き付けるように矯正する必要は、あるのだろうか。

 

 うずまきナルトにとって、大人たちは、そう言った、邪悪な存在に見えていた。彼ら彼女らの視線は、針金のように刺々しく、硬く、自分を縛り付けようとする。

 じっとしていろと。

 外を歩くなと。

 視線だけではなく、耳に入る言葉も、同様だった。

 

 何も悪いことはしていないのに、大人たちは自分を縛ろうとする。縛って、自分たちの枠の外に追いやり、留めようとする。やがて、その空気は、自分と同じくらいの子たちにも伝染していき、大した時間と労力も費やさずに、子供たちからも阻害された。

 

 誰も事情を説明してくれない。

 自分が何をしたのか、何か、悪いことをしてしまったのか。

 

 教えてほしい。

 そして、どうか、掴ませてほしい。

 枠に、入れてほしい。

 

 だけど、教えてくれることはなかった。

 

 無言の笑い声。

 無言の矯正。

 外に出れば、それしか無かった。

 

 かといって、外に出ない夜中は、今度は逆に、寂しい時間だった。

 一人で静寂の中にいると、余計なことを考えてしまう。考えないようにと自分に言い聞かせても、考えてしまう。

 苦しくて、辛い、考え。

 自分が雲のように、溶けていなくなった方が、という結論。布団を頭から被り、その考えを振り払おうとしても、考えてしまう。

 

 怖い。

 阻害され続けることではない。

 阻害されてしまう自分を受け入れてしまいそうになる考えに、自分が染まってしまうことが。

 

 手を伸ばさなくなってしまうのが、怖かった。

 

 呼び鈴が鳴った。

 

 途端、頭の中の考えが、力強く霧散する。

 

 頭から被った布団はあっさりと投げ飛ばされ、夜中であるにもかかわらず、ナルトはどたどたと玄関へと向かい、素早くカギを解いてドアを開け放った。

 

 そこには、夜よりも深い、黒一色の服に身を包んだ、髪の長い少女が立っていた。

 

 けれどナルトにとっては、彼女は月よりも綺麗に輝く存在に映った。

 

 笑顔が生まれた。

 

「遅いってばよ! フウコの姉ちゃん!」

 

 フウコは無表情のまま、ナルトを見下ろした。

 

「ごめんね、ナルトくん。今日も、修行しよ?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 自我が芽生えた頃から、ナルトにとって、フウコは一番身近で、そして大好きな人だった。しかし、彼女が、自分の両親ではないことは知っている。明らかに、周りの子の親よりも、彼女は若かったからだ。おまけに、自分と彼女の共通点も全く見当たらない。

 

 けれど、悲しくはなかった。

 

 家族ではないが、彼女は自分に、冷たい視線も言葉も与えてこない。むしろ、家族ではないからこそ、自分は、他人からでも受け入れられる可能性があると、希望が持てる。いや、もう、彼女だけが、傍にいてくれれば、それでいいとさえ。

 

 その日は十五夜。夜空は澄み、雲一つない。音は夜風だけで、世界に彼女と自分しかいないかのような錯覚が訪れる。右手を握る彼女の左手は温かく、その手を中心に自分の体温が構築されているような気がした。

 

 ナルトは、赤毛交じりの黄金色の髪の毛を小さく揺らしながら、ちらりと、フウコを見上げる。

 

 赤い瞳と細い顎。音もなく歩く彼女は、不規則に長い黒い髪を柳のように静かに揺らすが、それを見るだけで落ち着く。つい、笑みが零れてしまった。

 

「??? どうしたの? ナルトくん」

 

 彼女の高級な鈴の音色みたいな声が、鼓膜を心地よく震わせる。けれど、抑揚は平坦だ。それ以外の抑揚を、聞いたことがない。表情も、大きく変化しない。けれど、時と場合で、特に自分に対して、それらを変化させる大人たちに比べれば、遥かに信頼できる。

 

 ナルトは笑みを噛みしめながら、彼女を見上げる。

 

「今日は何をするんだ?」

「まだ、決めてない。でもまずは、ナルトくんがしっかり、宿題をやってきてるかを見ようかな。やってきた?」

「当たり前だってばよ!」

 

 フウコは、定期的に、こうして修行を付けに来てくれる。決まって、今日のような夜中にだ。暗部という、具体的には分からないが、偉い地位にいるようで、昼間はあまり会うことができない。本当はもっと会いたいのだけれど、今はこうして、修行を付けてくれるだけでも嬉しい。彼女が言うには、もっと実力を付けて、中忍や上忍になれば、会う回数を増やすことができるとのこと。だから、彼女が修行の終わりに、必ず伝えてくれる宿題をこなすのが最大の近道のはずで、欠かさずやっている。

 

「アカデミーの宿題とかも、しっかりやってる?」

「え? そ、そりゃあ、やってるってばよ……うん。俺ってば、ほら、真面目だから……」

「本当に? この前もそう言って、やってなかったみたいだけど」

 

 事実を指摘されて苦笑いを浮かべるしかなかった。何とか誤魔化されてくれないか、と乾いた笑いを続けたが、フウコが小さくため息を付いた。

 

「駄目だよ。アカデミーの方も、しっかり勉強しないと」

「だってよぉ……。フウコの姉ちゃんの修行だけで、十分だってばよ。それに、フウコの姉ちゃんだって、アカデミーの授業、真面目に受けてなかったんだろ?」

「でも、小テストの成績は良かったよ」

「ブンシ先生が、そういう生徒は良い生徒じゃないって、言ってたってばよ」

 

 歴史の授業はワーストワンに入るくらいに退屈な授業だが、担当している教師が教師なだけに、ナルトはなるべく居眠りをしないように受けている。ブンシは、真面目に授業を受けない生徒に対して「昔、お前みたいなやつがいたが、そいつよりも最低だ」と、拳骨を振り降ろしながら言っていたことがあった。

 

 フウコは困ったように右手で頬をかいた。珍しい反応だ、とナルトは思い、悪戯心が、追撃するのだと口に命令をした。

 

「それに、イロミの姉ちゃんだって、ずっと試験じゃビリだったんだろ? だけど今は中忍なんだから、アカデミーなんて、どうでもいいんだってばよ」

「……うーん」

 

 またフウコが困ったように、今度は鼻先を指でかいた。すぐに反論されなかった。それが、嬉しくて、くすくすと笑いをかみ殺す。

 

 イロミの顔が思い浮かんだ。特徴的な髪の毛の色と、目元を隠す程の長い前髪、そして長い緑色のマフラーを巻いて、大きな巻物を背負った少女。四回くらい彼女は、修行に顔を出して来たことがあったが、彼女とはもうすっかり、友達である。

 

 フウコの友達が来る、と事前に教えられていた。その時は「きっとクールな女の人」というイメージを持っていて、少し緊張していたが、実際に会ってみるとそのイメージは一瞬で砕かれた。

 

『フウコちゃーん! あでっ!』

 

 軽く明るい声を出し、手を振りながら近寄ってきた彼女は、何もないところで転んだ。

 顔面から地面に落ちるというダイナミックな転び方に、ただただ茫然とするしかなく、フウコと一緒に、生まれたての小鹿のように立ち上がる彼女を眺めてしまった。

 

 クールな女の人というイメージは無くなり、今度は「間抜けな女の人」というイメージに更新される。

 

『大丈夫? イロリちゃん』

『は、鼻血が、出たかも…………、ティッシュ、ある?』

『見せて。……うん、ちょっと血が出てる。治すから、動かないで』

 

 長い前髪を抑えながら赤くなった鼻を見せるイロミと、医療忍術で治すフウコ。二人の姿は、友達というよりも、どこか姉妹のように見えた。

 

 血が止まり、けれど鼻先は真っ赤なイロミは、ようやくナルトの前に立って、すっかり明るい笑顔を浮かべた。

 

『君がナルトくんだね。フウコちゃんから聞いてるよ。私、イロミっていうの。よろしくね』

 

 当たり前な自己紹介。けれど、初めてだった。

 フウコとは真逆の明るさと、大人たちとは真逆な素直な言葉。

 

 ナルトの中で、イロミの印象は「素直で明るい……間抜けな女の人」というものになった。

 

 しかし、そんな彼女は、実は中忍だと聞かされた時は驚いたものである。

 それ程までに成績が優秀だったのかと尋ねと、彼女は「私は卒業するまで、ずっとドベだったんだよ。だから、自分の成績なんて、気にしない方がいいよ?」という、よく分からない励ましをしてきた。アカデミーの成績を気にする必要がない、という思想は、彼女から貰ったものだった。

 

 フウコは少し逡巡してから、ようやく反論した。

 

「イロリちゃんは、確かに、アカデミーの時は成績は良くなかったけど、それは不真面目だったってわけじゃないと思うの」

「それって、逆に駄目なんじゃねえの?」

「けど、アカデミーを卒業してからも、イロリちゃんは努力し続けた。その集中力は、きっと、アカデミーの頃に身に着けたんだよ。全力を出せるようにする練習は大事」

「成績が悪くても?」

「そう。大事な時に、大事な場面で、全力を出せるようになっていることが、大事なの。だから、アカデミーの方も、しっかりしないと、駄目」

 

 演習場に到着した。誰もいないそこは、月の光だけを頼りに照らされている。演習場の周りは、木々の輪郭だけがぼんやりと見えるだけで、あとは、中央に立つ三本の柱だけしかはっきりと捉えることができない。

 

 フウコの手が離れる。それが、修行開始の明確な合図だった。右手に、彼女の温もりが残るが、夜風に晒されると徐々に消えて行った。代わりに、胸のあたりがドキドキする。それは、修行に対しての喜びだった。

 

「まずは、投擲から。宿題通りに、この位置から、あの柱に当ててみて」

 

 ナルトは張り切って、修行の時間を過ごした。最初に出された宿題は、問題なくこなせた。アカデミーで時間を見つけては、油断することなくやっていたのだが、しかし、彼女の前で無事に成功できたのは、嬉しかった。「よくできたね」と頭を撫でてくれた。それが、何よりも嬉しい。

 

 宿題が終わってからは、チャクラコントロールの修行だった。手のひらに木の葉を、チャクラで貼り付けるというもので、これが意外と難しい。これまで、何度かやってきた修行だが、十秒以上貼り付けることができたのは、両手で数えれる程度。しかし今日は、何度か九秒、八秒、と近い所まで成功している。調子がいいのかもしれない。

 

 他にも、体術の修行も付けてもらった。これは、フウコを相手にした修行である。「決定打を当てれたら、そうだね、アイスを奢ってあげる」というフウコの言葉を受けて、本気を出したのだが、一度として、彼女に攻撃を当てることは出来なかった。むしろ、「もうちょっと踏み込んだ方が、力が入るよ」「なるべく、腰を捻ってから、肩を動かして」「力の伝わり方を、イメージして。そうすれば、小さな動作でも、大丈夫」と、指導されてしまった。その通りにしてみると、身体の動きが違う気がした。

 

 あっという間に、修行の時間は終わってしまった。本当に、あっという間だった。アカデミーの、一つの授業の時間は、修行よりも確実に短いのに長く感じるのに……。なんだか、勿体無いような気がする。

 折角、大好きな人と一緒にいるのに、時間は駆け足に過ぎてしまう。いっそのこと、彼女がアカデミーの先生になってほしいと思った。

 

「大丈夫? ナルトくん」

 

 修行で疲れた身体を地面に大の字で寝かせていた。

 

「へへへ……流石に、疲れたってばよ……」

「そうだね。今日は少し、大変だったね」

 

 横でフウコは座り、汗をかいた自分とは全くの対称に、涼しい顔でこちらを見下ろしていた。

 

「ごめんね。次からは、もっと簡単なものにするから」

「大丈夫だってばよ。俺はこれぐらいがちょうどいいんだ」

「そう? じゃあ、そうする」

 

 フウコは視線を空に向けた。細い顎が上を向き、赤い瞳が遠くを見た。

 

 気が付いたら、自分の傍にいた彼女。無表情だが、ここ最近、彼女の心情の機微を感じることができるようになってきたような気がする。というよりも、ここ最近だと、疲れたような表情―――それは、やはり、無表情に分類される表情だが―――が多い。

 

「なあ、フウコの姉ちゃん」

 

 なに? と、彼女は夜空を見上げながら応える。

 

「最近、何か嫌なことでもあったのか?」

「え?」

「何か、疲れてるみたいだしさ。気になったんだ」

 

 言いながら、心の中で、不安が過った。

 大人たちが自分に向ける視線。

 次の瞬間には、夜空からこちらに向いたフウコの視線が、そうなっているのではないかという、不安だった。小さく、唾を呑み込んだ。

 

 しかし、不安はあっさりと却下される。

 

 フウコがこちらを向いた。

 

 目を細めて、

 柔らかい視線、

 彼女の手は、自分の頭を撫でた。

 

「……ごめんね。少し、考え事、してただけだから」

 

 夜風が彼女の黒髪を揺らした。

 

 何となく、嘘なのだと、ナルトは思った。それは、彼女が自分に対しての態度ではなく、考え事をしていた、ということについて。

 

 でも、指摘することができなかった。

 頭を撫でてくれる彼女手が、心地よかったから。

 

 傍にいてくれるだけでいい。本当は、昼間もずっといてくれたら、修行なんていらない。普通の家族みたいに、してくれたら、それだけでいいのに。だけど、それを言うのは、気が引けた。理由は、分からない。きっと言ったら、彼女は悲しい表情をすると、思ったからだ。これまでの彼女は、そう思わせないように行動していたように、思えるから。

 

 フウコの手が離れる。彼女は立ち上がった。

 

「帰ろ。明日も、アカデミーだよね? 遅刻しないようにね」

 

 帰りも、手を繋いで家に帰った。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

「うちは一族が、反乱を起こすかもしれないのだ」

 

 ダンゾウの言葉が、刃のように、フウコの喉を突き刺した。

 情報を処理しようと脳が酸素を求め、心臓が血液を送ろうとするが、呼吸が上手くいかない。

 

 背中が寒いのに、首が熱かった。身体が、この場から逃げようと、小さな眩暈を起こしながら、太腿を振るわせる。

 

 ―――どうして?

 

 心の中で強烈にその言葉が思い浮かぶが、喉はまだ、痙攣して、口から放つことができない。助けを求めるように、震える両眼をヒルゼンに向けるが、彼は、重いため息を付いて、小さく頭を垂れていた。

 

「こちらを向け、フウコ」

 

 ダンゾウの強い声に、フウコは無言で顔を向けた。

 

「事実なのだ」

「……な、なんで…………ですか…………?」

 

 ようやく、震えながら、絞り出すように言えた。けれど、すぐに、後悔する。耳を塞ぎたくなった。

 

 ヒルゼンの様子とダンゾウの表情。それらだけで、これから聞くことになる事情が、正しいのだと無言に自明している。

 聞きたくない。

 だけどもう、ダンゾウの口から言葉が出てしまった。

 

「明確な原因は分かっていないが……、おそらく、先日の九尾のせいだろう。里の者たちが、あれはうちは一族が関与しているのではないかと疑い、その疑念の目に耐え兼ねたのだろう。元々、うちは一族は、現状の地位に不満を持ち、何度か陳情を出していた。その最中での疑念だ。反乱を起こすには、十分のはずだ」

「ですが、あれは別の……うちはマダラがっ」

「フウコ!」

 

 ダンゾウの一括に、言葉は遮られる。そして彼は、声を潜めた。

 

「無闇にその名を口にするな。誰に聞かれているか、分からないのだぞ」

 

 先の九尾の事件は、里は自然災害と、最終的な見解を示した。

 

 うずまきクシナが九尾の人柱力であったことが一般的には知られていなかったこと。事実を知っているのがフウコ一人という、客観的に見て不確かな情報源だけで、かつての里の脅威だったうちはマダラの存在を示すのは、自里のみならず他里への不必要な悪影響を与えるだろうと考慮したこと。主にこれらの二点が、要因だった。

 

 当時、フウコも、里に不穏な空気を漂わせたくなかったこともあり、里のその最終判断に同意した。それが最も無難だと思ったからだ。

 誰も得をせず、損しか生まれない落としどころ。だからこそ、問題は無いのだと。

 

 だから、理解できない。

 

 里の最終的見解を聞いても尚、うちは一族に疑念の目を向ける不特定の人たちがいることに。

 

「なら、今からでも、公表を変更すれば、誤解は―――」

 

 縋るように言う言葉は、しかし、ダンゾウは力なく首を横に振って否定した。

 

「今となっては、それはできない」

「どうしてですか……。簡単なことじゃないですか………」

「もし今、真実を語ったとしても、彼の者が生きているという情報は、うちはに反乱の自信を植え付けるだけだ」

「ヒルゼンさん。火影の貴方なら、どうにかできるのではないですか……?」

「……すまぬ、フウコ」

「謝らないでください。お願いします、誤解を解いてください。きっと、どうにか……。まだ、方法が、きっと……っ」

「フウコ、落ち着け」

「落ち着いています。私は、いつも、落ち着いています、ダンゾウさん。何度も、扉間様(、、、)に、そう言われてきました。扉間様の教えを、私は守っています。お二人こそ、落ち着いてください。今、里は、平和なのです。それを、不必要な勘繰りで、乱そうとしないでください。うちは一族が、そんな、反乱なんて……」

 

 そうだ、反乱なんて、あり得ない。

 何かの、間違いだ。たしかに、うちは一族が、現状の、警務部隊という地位に不満を持つのは、分からないでもない。彼らには、彼女らには、絶大な血継限界がある。実力社会の里では、不当と思っても仕方がない。

 

 それにいずれ、九尾の事件に対する疑念の目も無くなることくらい、十二分に予想ができるはずだ。九尾を暴走させて、うちは一族に何のメリットもないことなのだと、必ず周りは理解する。子供ではないのだから、わざわざ、反乱などと言う大掛かりな方法を取る必要は無い。

 

 けれど、

 

 頭の中で引っかかる部分もある。

 九尾の事件当夜。

 フガクもミコトも、家にいなかった。それは、会合があるからだと、二人は言った。もちろん、事件の当事者ではないことは明白だった。おそらく、会合と事件の関連は無いだろう。

 問題なのは、何故、会合をするのか。

 単に、警務部隊の打ち合わせなどだとしたら、どうして、ミコト(、、、)まで、赴く必要があるのか?

 微かに、反乱という言葉を射し込むことができる不信感。フウコは、それでも、心の中で、否定する。

 厳格なフガクと、優しいミコト。

 あの二人が、そんなことを、考えるなんて―――。

 

「お前は、変わったな。フウコ」

 

 気が付けば、床を見つめていた。

 顔をあげると、ダンゾウが、目を細くしている。

 落胆の色を存分に含んだ、重い視線だ。

 

「変わってしまった」

「あ…………ぅあ………」

「扉間様は、お前に言ったはずだ」

 

 里を前に、

 里の者の命を前に、

 平和を思うなら、

 

「もしもという議論は、必要ないと」

 

 思い出せる。

 白髪と、精悍な顔立ち。

 己にも、他者にも厳しく、

 誰よりも実直で、故に素直で不器用で、

 それでも優しく、公平で、

 自分を、本当の娘のように育ててくれた、大切な人の姿を。

 

「今一度言う、フウコ。これが最後だ」

 

 選択が迫られる。

 無意識に、様々な記憶と思いが奔流する。

 

 大切な人のからの、宝石のような言葉たち。

 この時代で手に入れた、七色の経験。

 受け継いだ理想と、体現された現実。

 家族、

 友達、

 祈り、

 役割、

 それらは、心の中で、泡沫し、それに紛れ込んだ、ある女の子の嗤い声。

 

「フウコ。うちは一族を、監視しろ」

 

 フウコは、呼吸をした。

 深く空気を肺に取り入れ、深く息を吐く。

 まるで、無駄な考えを吐き出すように。

 

「……条件が、あります」

「―――いいだろう」

「ワシたちにできることなら、最善を尽くそう」

 

 二人をそれぞれ、真っ直ぐに、一瞥する。

 

「まず、私への監視は、もう、止めてください」

「流石に、気付いておったか」

 

 つい昨日ですが、とヒルゼンに応えた。

 

「私は、問題ありません(、、、、、、、)。ましてや、うちはへの監視を私がするなら、むしろ危険です」

 

 フウコは、自身の胸に手を添えながら言った。ヒルゼンが、小さく首肯する。

 

「分かった。他には、無いか?」

「イロリちゃんを、知っていますよね?」

 

 ヒルゼンは、当然、頷いた。

 

「あの子の、育ての親を、殺してください」

「…………それは……出来ぬ…………」

「何故ですか? あの男は、里にとって不要です。ヒルゼンさんも、知っているのではないですか? そもそも、どうしてあの男とイロリちゃんを、同じ場所に住まわせているのですか? 理解できません」

 

 しかし、それでもヒルゼンは、首肯しなかった。

 どうしてですか? と尋ねると、重く、彼は口を開いた。

 

「あの子自身が、彼の傍にいたいと言っておる。もし、あの男を殺せば、あの子が悲しむじゃろう」

「イロリちゃんは、私が説得します」

「ワシは、あの子の意思を、尊重したい」

「……分かりました。では、私ではなく、イロリちゃんに、暗部の監視を付けてください。もし、命の危機が迫った時は、容赦なく、殺してください」

 

 それでも尚、彼は、渋った表情を続けた。

 五秒ほどの沈黙の後、分かった、と応えてくれた。

 さらに、フウコは続ける。

 

「最後に、もう一つ」

 

 二人は、嫌悪する表情一つすることはなく、フウコの言葉に耳を傾けた。

 

「ナルトくんを、私に任せてください」

 

 そこでようやく、二人は、驚いた表情を作った。しかし、それは容易に、予測していたことだ。

 

「彼のことを、私は、ミナト様に頼まれました。それに、彼に対して、私は何一つ、偏見を持っていません。最適な人材です」

「できるのか?」

 

 ダンゾウに、フウコは確かな力強さを以て頷いた。

 

「疑念の目が、里に悪影響を与えるのなら、彼への対策もした方が健全です。私に、任せてください」

「俺が心配しているのは、あやつの対応をして、うちはの者たちに疑念を抱かれないか、ということだ」

「問題ありません。私を、信じてください」

 

 夕日が傾き、部屋に影の部分が大きくなっていく。

 いつの間にか、子供たちの喧騒は消えて、静寂だけが、アカデミーを闊歩した。

 

「いいだろう」

 

 彼はそう頷いてみせると、静かにドアの方へと向かった。ドアを静かに開ける。

 

「何かあったら、逐一報告しろ」

 

 その言葉を残して、彼は出て行った。

 気のせいかもしれない。けれど、フウコの耳には、少しだけ、彼の声が、どこか疲れたものが含まれていたように、思えた。

 

「フウコよ」

 

 ヒルゼンが、立ち上がる。

 彼の眼が、潤んでいるのが見えた。

 皺に覆われた手が、頭を撫でた。

 

「すまぬ。ワシが、不甲斐ないばかりに……」

「気にしないでください。仕方のないことなんです」

「扉間様は、お主が、平和な世で生きることを望んでいたのに……こんなことに、なってしまって…………」

「大丈夫です。私が、里の平和を守ってみせます」

「そうか。頼む……」

「外で、皆が待っていますので」

「そうじゃな」

「失礼します」

 

 自分もダンゾウのようにドアを開けて、部屋を出ようとする。しかし「フウコよ」と、呼び止められ、ゆっくりと、振り向いた。

 夕焼けを背景に、ヒルゼンは呟いた。

 

「お主には、ワシらが付いておる。あまり、無理をしないようにの」

「……ありがとうございます。火影様(、、、)

 

 オレンジと影に彩られた廊下を歩く。

 自分の足音だけが反響して、耳に返ってくる。

 頭の中は、クリアだった。

 泣き叫んだ後のように、真っ白で、真っ青で、海と雲のように。

 急激に、眠気がやってくる。温かくて、柔らかい布団で、ずっと眠ってしまいたい。

 

 正面玄関に辿り着くと、イタチだけしかいなかった。

 

「遅かったな」

「イロリちゃんと、シスイは?」

「二人とも、先に帰った」

「そう。ごめん、遅くなって」

「……フウコ?」

「なに?」

「何か、あったか?」

「……ううん。何でもない。私たちも、帰ろ?」

 

 並んで、帰路を。

 自分と彼の足音が重なった。たったそれだけなのに、眠気が、もっと、強く、自分の意識を揺さぶった。

 視界が、端の方から、少しづつ、真っ白になっていく。

 歩いているはずなのに、浮遊感が、全身を包み込む。

 

 けれど、それを繋ぎとめるように、左手に、温かい感触が。

 

「フウコ」

「なに?」

 

 イタチが、手を握ってくれているのだと、気付く。

 

「何か、辛いことでもあったか?」

「……大丈夫だよ、イタチ」

「眠いのか?」

「ごめん。これから、修行なのに」

「俺がいる。大丈夫だ、フウコ」

「本当?」

「俺は、お前の兄さんだ。困ったら、俺を頼れ」

「ありがとう、イタチ」

 

 君が傍にいてくれるだけで、心が安らぐ。

 ああ、これが、やっぱり、家族で、私は、それを守るために―――。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フウコは、ナルトが住んでいるアパートまで送った。街頭が少ないそこは、幽霊のようにぼんやりと暗闇に佇んでいる。アパートの窓には、一つとして、灯りが零れておらず、しかし、住民が眠っている、という訳ではなく、そもそも、誰もいないのだ。

 

 どうして、誰もいないのか、それは、考えるまでもない。鉄製の廊下を二人で、手を繋ぎながら昇る。

 

 カン、カン、カン、カン。

 

 遅いテンポで、足音がアパートに響く。ナルトとの身長さ、つまり、足の長さの差を、フウコがナルトに合わせているのだけれど、それを抜きにしてもテンポが遅い。けれど、フウコはそれを指摘することはしなかった。少しでも、自分と一緒にいたのだろう、と予測した。その感情は、理解できた。自分も、イロミやイタチと手を繋いでいる時に、わざと歩く速度を下げたことがある。

 

「なあ、フウコの姉ちゃん。次はいつ来れるんだ?」

 

 一番奥のドアに辿り着く前に、ナルトが訊いてきた。フウコは無表情のまま、頭の中で、自分の今後の予定を思い出す。

 

「四日後。でも、予定が変わるかもしれないから、その時は、しっかり伝える」

「四日かぁ。もっと早くなんねえのか?」

「分からないけど、多分、無理だと思う。そんなに修行したいなら、イロリちゃん、呼ぶ?」

 

 ナルトは眉をへの字にして、渋るように下唇を出した。イロミも、今では中忍という立派な地位にいるのだけれど、ナルトも、そしてサスケも、どうしても彼女を過小評価する傾向にある。しかし、彼女の雰囲気がそうさせているのかもしれないと、何となく想像できる。

 

 今となっては、イロミの社交性は随分と成長した。別段、自分がそういう風にした訳ではないのだが、彼女が言うには「フウコちゃんの修行が厳しかったから」とのこと。申し訳ないと思えばいいのか、誇ればいいのか、よく分からない言動だった。親しい人を前になよなよすることは無くなり、赤の他人を前にしても、彼女より年上の男性という条件を除けばフレンドリーだ。おそらく、そのフレンドリーさが、年下の二人に過小評価される要因なのだろう。

 

 しかし、彼女の実力は、正しく中忍レベルに達している。

 

 それは、才能がまるで無い彼女にしてみれば、偉大な実績だ。いや、偉大なのは、彼女の努力だ。

 

 いつかナルトも、そしてサスケも、彼女の努力の偉大さを理解してほしいものだ。

 

 ドアの前に行くと、ナルトは名残惜しそうにカギを差し込んでカギを開けた。ドアが開くと、そこは暗く短い廊下。

 

 家には、誰もいない。

 

「しっかり、お風呂に入ってから寝るようにね。あと、夜更かしは駄目だよ?」

「分かってるってばよ!」

「うん。じゃあ、おやすみ、ナルトくん」

「おやすみな! フウコの姉ちゃんっ!」

 

 笑顔のナルトに、フウコは手を振りながら、ゆっくりとドアを閉める。閉まり切る最後の最後まで、ナルトは手を振り返してくれて、フウコもそれに応えて手を振り続け、赤い瞳をナルトに向け続けた。

 

 ドアが二人を完全に別つと、フウコは廊下を歩き、下に降りる。

 下に降りて、アパートから十メートルほど離れると、後方から音が耳に届く。振り向き、視線は上へ。ナルトの部屋のドアが小さく開き、彼がまだ、手を振っていた。フウコは道を折れるまで、再び、手を振り続ける。

 

 曲がり、ようやくフウコは手を振るのを止めた。

 

 別段、苦労するほどの労力ではない。いつものことで、むしろ、可愛いと思っている。

 

 彼は、一人なのだ。まだ、何も知らない、そして知らされない、幼い子。

 フウコは、彼の背景を知っている。

 どうして里から疎まれているのか、どうして疎まれるようになってしまったのか。

 

 彼には、九尾の半分が封印されている。

 そう、半分である。里の人たちは、九尾そのものが封印されていると伝えられているが、しかし、彼ら彼女らにとっては、その事実を知っていようと知っていまいと、大した差は無い。

 

 多くの死傷者を出したあの事件で生み出された恨みと悲しみは、当然、九尾へと向けられた。けれど、事件が終わり、九尾がナルトに封印されたということを知った人たちは、一様に、彼にその苛立ちをぶつけるようになったのだ。

 

 もちろん、彼ら彼女らは、それが、お門違いであることは分かっている。けれど、どこに向けて良いのか分からないネガティブな感情を抱えるには、事件での死傷者は多すぎた。塞ぎこませ続けるには難しいその感情と、幼い子へと向けてはいけないという葛藤が、彼を、遠ざけるという【中途半端】な迫害へと繋がったのだ。

 

 同じだ、とフウコは思った。

 

 今のうちはの状況と、彼の状況が。

 集団と個人の差はあるが、どちらも【中途半端】な迫害を受けている。

 

 なのに、まだ幼いナルトは、たった一人でも、笑っている。

 どうしてだろう。

 多くの大人たちがいるうちはの方が、幼稚なことを考え、幼いナルトは今の現状に頭を垂れることなく笑顔を浮かべる。

 

 どちらが、正しいのだろう。

 

 もしかしたら、両方正しいのかもしれないし、両方間違っているのかもしれない。

 

 自分だったら、どうだ?

 もし自分だけに疑念の目を向けられたら、どうだろう。きっと、何も感じないかもしれない。赤の他人から向けられても、それは、もしかしたら鳥が自分を蔑むように見ているかもしれないという妄想と同じレベルだからだ。

 

 じゃあ、自分だけじゃなく、自分の周りの人も含めたら、どうだろう?

 イタチ、イロミ、シスイが、不確かな情報で嫌な目を向けられる。

 想像しただけで、気分が悪くなった。現実だったら、殺意が身体を支配するかもしれない。迷わず、刀で首をはねるだろう。

 

「副忍様」

 

 後ろから声がした。機械的で、自分よりも平坦な声な声質に、フウコの体温は一度ほど下がった。振り返ると、そこには暗部の忍が一人、片膝をついていた。

 

「何だ?」

 

 フウコは声を硬くする。

 それが、暗部の副忍としての、彼女の声だった。

 自分が一番、嫌いな声。

 

 暗部の忍は男で、自分よりも年上のように見える。しかし、フウコの言葉遣いに何ら個人的な反応は無い。それは、彼が【根】と呼ばれる、暗部の中でも特殊な集団に属しているからだ。

 男は頭を下げたまま述べる。

 

「ダンゾウ様がお呼びです。至急、馳せ参じるように、と」

「要件は伺っていないのか?」

「はい。ただ、参られるように、とだけ、伝えられています」

「それを伝えるためだけに、わざわざ来たのか?」

「………………」

 

 男は困った様子もなく、黙る。

 フウコは小さく息を吐いた。

 

「本当のことを伝えろ。ダンゾウ様からも、そう言われているのではないのか?」

 

 男がしばらく黙ってから、やはり、平坦な声で応えた。

 

「九尾の様子も見るように、とダンゾウ様から指示を受けています。副忍様に問われた時は、このように応えるように、とも」

「いつから見ていた」

「副忍様が、アパートを出た所からです」

 

 そうだろうな、とフウコは小さく安堵する。ナルトとの修行中、一度も気配を感じなかったからだ。けれど、逆に、アパートを出た時には感じ取れなかったのは、少し問題だ。考え事をしていたせいだ。いついかなる時でも、気を張っていないと、と自分を戒める。

 

「分かった。他にはあるか?」

「いえ」

 

 男はこれで役目が終わりだと判断したのか、足に力を入れようとした。

 

「……待て」

 

 フウコが、呼び止める。

 

「何でしょうか?」

「……お前から見て、あの子はどういう風に見えた?」

 

 【根】は、戦争孤児で構成されている。幼い頃から身寄りを無くし、その頃から、忍に特化した教育を受け、【根】に組み込まれる。

 彼ら彼女らには、故に、感情の起伏は殆どなく、効率的に物事を判断したり、あるいは行動したりする。

 

 逆を言えば、至極客観的に、物事を見る。

 

 人間味が欠けているが、偏見の入らない評価を貰うことができる。

 

 彼から見た、うずまきナルトは、里の人たちが向けるような子なのだろうか……。

 

 男は少しだけ黙ってから、

 

「見た目は、普通の子供だと、私は判断します」

 

 と言った。

 あまりにも、皮肉のように思えた。

 感情の起伏が小さい者の方が、正しく冷静な判断をすることに。

 

「では、私はどう見えた?」

「副忍様は、副忍様です」

「……そうか。分かった。お前はもう下がれ。呼び止めて、すまなかった」

 

 いえ、と彼は簡素に応えて、姿を消した。

 

 再び、氷のような、静けさ。

 

 フウコはダンゾウの元へと歩みを進めた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木の幹の中のように、円形の壁に覆われたそこを、フウコは歩く。壁に埋め込まれた小さな灯りは、壁と壁を繋ぐ橋のような廊下の足元を薄らと照らすが、上も、そして橋の下も、奈落のように闇が続いている。

 

 橋を歩き、そして、壁のドアを開けた。

 

「お呼びでしょうか? ダンゾウ様」

 

 執務室。壁の両脇には重厚な本棚が隙間なく覆っている。奥には、デスクが。デスクに乗ったランプの揺蕩う光だけが、部屋を灯している。ダンゾウは右肘をついて、軽く顎を乗せる姿勢のまま、何やら書類を処理していた。

 

 彼は小さく顎を挙げて、左目でこちらを見据える。フウコが後ろ手でドアを閉めると、彼は口を開いた。

 

「今は俺とお前だけだ」

「ですが……」

「気にするな。お前にそう呼ばれると、座りが悪い」

「……特に報告するようなことは無かったはずですが、何かあったんですか? ダンゾウさん」

 

 うむ、と彼は、穏やかに喉を鳴らした。ランプの火が、小さく揺れて、彼の影を動かす。

 

「ここ最近、あやつの世話に、労力を割き過ぎではないか?」

 

 あやつ。

 ナルトのことだ。

 

「無理をしている訳ではありません。うちはにも、気取られていないと思います」

「俺が心配をしているのは、お前のことだ。―――異変は無いな?」

 

 フウコは小さく頷き、自分の胸に手を添える。

 

 瞼を閉じて、意識を少し、内面へ。

 

 静かに、そして、瞼を開いた。

 

「問題ありません。大して、チャクラも消費していないので」

「そうか」

「あの、それを確認する為だけに、私を?」

「今後のお前の動きに関して伝えることがある。まずはこれを見よ」

 

 ダンゾウがデスクに一枚の書類を広げた。デスクに近づき、それを手に取る。

 

【音無し風 うちはフウコ 所属:木の葉隠れの里 暗部】

 

 書類の導入部に、そう書かれていた。それに続く、自分の情報が記された文に視線を泳がせながら、尋ねる。

 

「……ビンゴブックが更新されたんですか?」

「そのようだな」

「随分と、明細ですね」

 

 呑気に呟く。書類に載せられた情報は、確かに、厳密であるけれど、それほど危機を抱きはしなかった。

 

 ビンゴブックとは、有り体に言えば、賞金の掛かった忍を載せた情報本である。賞金が掛けられる忍は、犯罪者であろうと健常な忍であろうと、危険と評価された者なら全てに当てはまる。しかし、はたして誰が何を以て危険だと評価するのか、定かではないが、きっと色んな力を持った人がするのだろうと、フウコは思っている。

 

 実は、フウコの情報は以前からビンゴブックに載っていた。時期は、暗部に入隊したての頃。思えば、その時も、今のように呼び出されたような気がする。当時載せられた情報は、ただ、最年少で暗部に入隊した、うちは一族の神童、などと言った、どちらかというと未来的な危険値を評価した情報しか載せられておらず、尚且つ賞金も十万両と低かった。

 

 しかし、書類に記載されている情報は、格段に明確で現在進行的な危険度を示していた。

 

無音殺人術(サイレントキリング)を用いる】

【忍術、体術、幻術、それらの練度は高く、幻術においては類稀なる技術を獲得している】

【これまで、暗部における任務の達成率は100%を維持している】

 

 などなど。よくもまあ、調べたものだと、むしろ感心してしまう。また技能だけではなく、容姿に関しても情報は記載されている(しかし、写真や絵などは描かれていない)。のみならず、いったい誰が付けたのか、自分の通り名も幾つか記されている。導入部に書かれた【音無し風】以外に、【三百人殺し】【死童の餓鬼】など。しかし、どれもセンスが無いとフウコは評価する。

 

 賞金は、破格の一千五百万両だった。

 

 ―――これぐらいあったら、みんなの生活が楽になって、いっぱい遊べるかも。

 

 そんな、呑気なことを考える。全部を読み終えて、フウコは書類を筒状に丸め、ランプの中に入れる。書類は瞬く間に焦げ臭い煙を出しながら燃焼した。

 

「万が一を考えて、今後、お前には任務を回さないようにする」

 

 万が一、というのは、新たに更新された賞金を獲得しようとする者たちと遭遇することを言っているのだろう。高い賞金を狙ってくる者は得てして、相応の実力を備えているものだ。

 

 ダンゾウの提案は、フウコにとっても嬉しいことだった。

 命の危険についてではない。

 自分の両手を、不必要に汚さなくて済むからだ。

 

「本当なら、お前には、しばらくの休暇を与えるべきだが、状況が状況だ。任務に参加はさせないが、表面上は暗部として動いてもらう」

「任務に参加しなくても良いというだけで、気は楽になります。大丈夫です」

 

 アカデミーの時に、うちはの反乱が示唆されてから、数年。

 フウコはただひたすら、うちは一族にとって重要な人物になろうと必死だった。

 卒業してから、半年で中忍になった―――それは、あまり難しくなかった。

 中忍になってさらに半年で、暗部になった―――それも、難しくはなかった。

 暗部に入隊してからは、人殺しの任務ばかりを請け負った。

 

 小国の反乱分子の暗殺。

 同盟里の抜け忍の暗殺。

 時には、同盟里から依頼される、背景のよく分からない、暗殺。

 

 もう、どれほどの数の人たちを殺してきたのか、どんな人たちだったのかすら、全てを鮮明に思い出すことができないほど、殺していった。

 

 副忍という地位に着いてからも、任務の性質は変わることなく、けれど、それらの血が染み込むほどの努力の末に、今、フウコは、うちは一族にとって無くてはならない存在になっていた。

 

 フウコさえいれば、いつでも反乱―――うちははクーデターと呼んでいるが―――を成功させることは容易だ。

 なら、今すぐにでもクーデターを起こす事もない。

 

 そう言った、精神的な優位を、うちは一族は獲得したのだ。

 それ故の、任務の停止。

 もし今、フウコという中核が無くなれば、うちは一族は破滅的な短絡さを以て、クーデターを起こすだろう。

 

 もちろん、彼女だけが、この数年間でのうちはの突発的なクーデターを防いできた訳ではない。

 

 火影であるヒルゼンが対話という場で粘り強くうちはと交渉してきたことは、大きな要因だ―――しかし、逆に、彼が対話で解決しようとすればするほど、うちはのフラストレーションが溜まりに溜まって、もはや引くに引けない状況になってしまったのも、事実ではあるのだが―――。

 

 そして、イタチが、同じく異例の若さで上忍へと昇格し、うちはの地位を高めたこと。シスイが暗部へ入隊し、うちはに精神的余裕をさらに増幅させたこと。これらもまた、この数年の間、里が平和を保てた理由だ。

 

 本当に心から、彼らの尽力に感謝している。

 

 平和の間に、色んな事があった。

 イロミが、無事にアカデミーを卒業し、下忍になった。

 彼女と一緒に修行をしながら、楽しい日々を過ごし、そして、彼女は見事、中忍になった。

 サスケとナルトは、アカデミーに無事、入学した。

 あまり重要ではないけれど、シスイと恋人関係になった。

 

 それらの記憶は、血生臭い記憶よりも、遥かに鮮明に思い出すことができる。いや、鮮明では、無いかもしれない。何故なら―――記憶は、ガラスの破片が舞うように、光輝いていたからだ。

 綺麗で、輝かしい記憶。

 誇らしさすら、抱いてしまう。その誇らしさが、今の、自分の原動力だ。

 

「なら、シスイも、同じようにお願いします。特に、彼は、私たちの計画の核ですから」

「お前たち三人で、不必要な者などいない」

 

 そう、ダンゾウは強い視線で断言した。

 

「俺は、お前たち三人だからこそ、確実に成功すると判断した。もちろん、お前の判断も加味してだ」

「……ありがとうございます」

「シスイには、お前から伝えろ」

「はい。他に、報告はありますか?」

「下がっていいぞ」

 

 部屋を出て、そのまま真っ直ぐ、帰路を辿った。

 

 うちはの町は、寝静まっている。今日は会合がなかったからだ。人の気配が、家の外には無い。

 会合一つないだけで、町の中を歩く足は軽かった。

 きっと、全てが、正しく終わったら、もっと足取りは軽くなるだろう。

 

 イタチと一緒にアカデミー行くみたいに。

 シスイやイロミと遊びに行くみたいに。

 フウコにとって、あの楽しい充実した時間が、基準だった。

 太陽があれば昼であるように、月があれば夜であるように、けれど雲があると、居心地は良くない。晴れていないと、昼は遊べないし、夜は冒険にいけない。

 

 でも、もうすぐだ。

 

 長かった、灰色の雲は、もうすぐで、取り払える。

 

 また皆で、今度は、何も考えないで済む、気楽な時間を過ごせる。

 

 想像すると、つい、小さく、笑みが零れた。

 家の前。

 もちろん、玄関から入るわけにはいかない。フガクにもミコトにも、自分がナルトの修行を、実は夜な夜なやっているということを知らせていないからだ。玄関の戸口は、ガラガラと音が出てしまう。

 

 細心の注意を払いながら、フウコは窓から、静かに家に入った。

 

 もはや十八番と言っても過言ではない、無音歩行術を駆使して、音を立てることなく自室に辿り着いた。ドアを閉じると、落ち着いた暗闇が身体を包み込む。服を脱ぎ、寝巻に―――着替えようとも思ったが、面倒だったので、いつも通り、下着のまま眠ることにする。

 

 脱いだ服を畳んで、布団の横に置いた。すると、視界の上に、ちらりと見えるものがあった。焦点にはっきりと捉えると、心が澄む。

 

 それは、写真立てだった。

 

 自分と、イタチと、シスイと、イロミが写った、写真。

 横向きの木枠に囲われた、たった一枚の小さな写真だが、それは、自分の基準となる時間が、確かに存在したという純然たる証拠だ。

 

 写真を見ると、記憶が刺激される。

 

 喚起された記憶の温かみは意識を包み込み、つまり脳を包み込み、脳を巡った血液は身体を循環する。体温が上がって、筋肉が弛緩する。

 

 フウコは微かに、本当に、微かに……笑った。




 木の葉隠れの里は、深い森の中にある。森は広大で、近寄らなければ、枝葉が里の姿を目視はさせない。故に、防衛の際には、地の利を生かし、ゲリラ戦を展開できる。

 日が落ち、静かな夜中でも、木の葉隠れの里の周りを巡回する中忍や上忍は、それらに特化した者たちだ。彼らは少数でありながらも、十分な範囲をカバーしている。空を飛ぶ鳥、地面を走る獣、それらを何一つとして見逃すことなく、警戒線を維持していた。もはや、彼らが警戒している内は、夜中の襲撃は不可能に近いだろう。

「コノママイケバ、失敗スルナ」

 その低い声は、木の葉隠れの里を囲う高い塀の、すぐ外を発信源として、森の中に吸い込まれていった。

月明かりさえも満足に届かせない枝葉の影は深く、男はその中から、塀を見上げている。……いや、厳密には、男とは、呼べないだろう。そもそも、人間であるかも、分からない。声の主には、身体が右半分しかなかった。また、白い目の部分を除いて全てが黒く、人間の姿からは、程遠いものだ。

「え? 何が?」

 もう一つ、今度は無邪気な滑舌をした声が、再び森に吸い込まれる。男の声。しかし、それもまた、男と呼べるのか、人間と呼べるのか、分からない姿をしていた。黒いそれとは対称的に、左半分しかない身体、そして全てが真っ白。
 黒いそれと白いそれは、それぞれくっつき、ようやく一人の男性の姿を模っている。しかし、それでもやはり、人間とは判断できない。

 男性の身体は、木のように地面から生えていた。外に出ているのは、上半身だけ。その周りには、枝みたいな白い触手が、これもまた、地面から生えている。

 辺りに木の葉の忍が巡回しているという状況を楽しんでいるような白い存在―――白ゼツの声質に、黒い存在―――黒ゼツは、若干呆れながら返した。

「うちは一族ノクーデターノコトダ」
「ああ、あれね。でも、分からないよ? うちは一族全てを相手にするんだよ?」
「直接ノ武力衝突ハシナイ。ソウナッタ時点デ終ワリダトイウコトハ、アノ女モ分カッテイルハズダ」
「じゃあ、どうするの?」
「オソラク、幻術ヲ使ウツモリダ。フウコハ幻術ヲ得意トシテイル」
「幻術で? それじゃあ、意味ないじゃん。術はずっと続けられないんだからさ」
「何カ、手ガアル。フウコダケデハナク、うちはイタチ、うちはシスイモイル。アノ三人ガ手ヲ組メバ、殆ドノコトハ容易イ」

 一つの身体を共有しながらも、平然と、二人は会話をする。余程長いこと、そういう生態だったのだろう。黒ゼツが身体を横に向けると、必然、白ゼツもその方向を向くのだが、操作に違和感が見受けられないのが、その長い年月を示している。

「ドウスル?」

 横に立つ男を、黒ゼツも白ゼツも、見上げた。
 黒いマントに身を包み、顔には木の年輪のような面が。面には、右眼の部分だけが、くり抜かれて見えるようになっている。

 男もやはり、塀を高く見上げていた。

 どこか、憎そうに。
 どこか、恨めしそうに。
 どこか……懐かしそうに。

「いっそのこと、フウコを誘拐したらどう?」

 白ゼツが、何の考えもなしに言ってみる。もはや、喋ること自体が楽しいようだ。

 仮面の男は「いや」と、低く返事をする。

「俺は里の中には入れない。たとえ、どこから入ったとしても、あの女は俺を感知する。……リスクは、最大限まで回避しなければな」

 忌々しげに呟く仮面の男は、思い出す。

 九尾を利用して、木の葉隠れの里を潰そうとしたあの夜のこと。

『よくも、里の平和を……ッ!』
『扉間様が作った平和をッ!』
『お前は、逃がさないっ! うちはマダラぁッ!』

 幼い姿からは想像できないほどの怒気と殺意に塗れた声。
 自分を睨む、左右非対称の万華鏡写輪眼。
 そして、自分に植え付けた―――マーキング。

 そのマーキングのせいで、里に入ることはできない。フウコの速度は、仮面の男のそれよりも遥かに凌駕している。殺そうとしても、リスクは高いのだ。

 おまけに、うちはのクーデターは、言ってしまえば偶発的なものに過ぎない。九尾の事件で木の葉隠れの里を潰そうと目論んだ結果、良い方向に転がってくれただけ。予期せぬ副産物でしかなく、ましてや、自分が直接手を下せないこの状況は、正直なところ、冷めた目線で眺めているというのが事実だった。。

 かといって、このまま何もしないのも、勿体無い。折角の好機だ。どうにか、この舞台を自分のものにして、今度こそ、木の葉隠れの里を潰すことはできないかと、仮面の男は考える。しかし、最大の障害が、目の前にいる。

 フウコ。
 そして彼女とは血縁のない兄である、イタチ。
 瞬身という通り名が付くほどの才を持つ、シスイ。

 この三人は、確実に、クーデターを阻止するだろう。
 最良の形で、事は成し遂げられる。
 いくら、予期していなかった副産物な火種も、こちらに何もメリットをもたらさないまま消されるのは、面白くない。それに、この先のことを考えれば、うちは一族が完全に木の葉隠れの里の側に付いてしまうのは厄介だ。

 さて、どうしたものか。

「長門を使ったら?」

 白ゼツの思い付きそのままの言葉に、小さくため息。

「あいつを表に出すのはまだ早い。尾獣が殆ど揃っていない状態で、他里から警戒されるたくはないからな」

 では、他に何か手があるのかと言えば、まるでない。
 手詰まり。
 フウコのマーキングが自分に植え付けられている限り、自分一人では、里に直接手を下すことができない。他の者を使うにしても、平時の木の葉隠れの里に侵入するのは、ほぼ不可能に近いと言ってもいいだろう。

 自分のように、余程、特殊な力を持っているものでなければ。知る限り、そんな手駒は、長門しか思い当たらないが、先の理由で動かす訳にはいかない。

 かといって、無理矢理に襲撃するというのは、あまりにも無策だ。
 フウコ、イタチ、シスイの三人を相手にするには、成功するとは考え難い上に、その後にやってくる他里の警戒が鼻に付く。

 やはり、問題なのは、フウコ―――いや、あの三人の存在だ。
 あの中のたった一人でも消えれば、付け入る隙は生まれる。
 あまりにも大きく、好都合な隙間……風穴。

 しかし木の葉隠れの里に直接手を下すことはできない。

 ならば、どうする。

 黒ゼツと白ゼツが、じっと仮面の男を見上げている。

 夜風が仮面の男のマントを撫でた。
 急かすように、あるいは加勢するように、辺りを小さく渦巻き、木々の木の葉を散らす。

「滝隠れの里だ」

 仮面の男は、小さく呟く。

「そこを狙う」
「狙って、どうするの?」
「木の葉と滝隠れは同盟関係にある。あそこを狙えば、必ず、木の葉は動くだろう」

 フウコは自分の存在を知っている。
 なら、七尾の人柱力がいる滝隠れの里を襲撃すれば、フウコは今度こそはと、自分を殺しに、木の葉隠れの里を離れ、滝隠れの里に姿を現す。
 あの夜、自分に向けた殺意と怒気。
 それらを、仮面の男は、皮肉りながらも信頼した。

 もし万が一姿を現さないなら、その時は、この件からは運に任せて手を引くしかない。そのまま七尾は懐に入る。うちは一族のクーデターが治められた後では、七尾の回収は手を焼くことになるはずだ。

 なら、今はある意味で、絶好の機会とも言える。

 フウコじゃなく、イタチでも、シスイでも、釣れればそれでいい。誰か一人でも釣れれば、消せばいい。むしろ、フウコ以外の二人だったら、彼女よりも消すのは幾分か正しい。

 そして、三人同時に釣れることはあり得ない。

 足元に爆弾を抱えた状態では、三人が一気に里から離れるのはリスキーだと、考えるだろう。

 木の葉隠れの里の忍は、得てして、そんな下らない考えを抱くものだ。
 自分たちの足元には、多くの屍と血があるにも関わらず、それを真の平和だと信じ切って、後生大事に抱え込んでいるのだ。
 仮初の平和だというのに。

「誰ヲ使ウツモリダ?」

 そうだな、と仮面の男は逡巡する。

「大蛇丸と角都を使おう。あの二人は、ここらの地形に詳しい」

 それに、未だ木の葉隠れの里が血眼になって探している大蛇丸が姿を現せば、多少は混乱を引き起こせるだろう。

 釣り針は、大きければ大きいほど、効果は期待できるものだ。

「お前たちにも動いてもらう」
「分カッタ」
「分かったよ」

 風が止み、中空に舞った木の葉は、重力に従って、不規則な軌道を描きながら、音もなく、地面に落ちていく。

 地面から生えていた黒ゼツと白ゼツの姿は、もう消えていた。

 仮面の男の姿も、不穏な空気だけを残して、やはり、消えていた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

双頭の風見鶏

 次回の投稿も、やはり十日以内に行います。


「本当に、ダンゾウには不穏な動きはないのだな?」

 

 疑念と嫉妬、苛立ちが含まれた男の声は、上座に座るフウコの鼓膜を不愉快に震わせた。小さな呆れと怒りが、胸を痒くする。できるなら、大きくため息をつきたい気分なのだけれど、今はそれを許してくれるほど余裕のある空気ではない。

 フウコは無表情のまま、男に視線を向けた。

 

「ダンゾウも愚かではありません。今、このデリケートな時期に、ましてや、火影がこちらとの対話に積極的な姿勢を示している状況で、不必要な波紋は、確実に自分の首を絞めます。まだ私たちは、何も罰せられるようなことは一つとして行っていないのですから」

 

 平坦な声は、その会合場に吸い込まれていった。

 

 南賀ノ神社―――本殿。そこの地下に、秘密の会合場が存在する。今ではうちは一族が里の平和を脅かす、という不名誉な目的の為に、定期的に使われるようになっていた。つまり、集会場の存在を知った人数が、かつてよりも―――少なくとも、自分もその秘密を知ることになるまでは―――増えているということだった。

 

 しかし、かといって、現在集会場に集っている、イタチとシスイを除いた、そしてフガクを含めた十数名ほどのうちはの者たちに対して、秘密を共有した仲間という認識を、フウコは持ち合わせていない。むしろ、全くの逆。

 そう、敵だ。

 見下げ果てた欲に駆られ、平和を壊さんとする、敵。

 

 その敵に半ば囲まれ、数本の蝋燭の灯だけで照らされる集会場にいるだけで、相当なストレスを抱えていた。

 

 いつ自分が二重スパイなのだと気取られないか、というストレスではなく、愚かしい考えを真剣にしている相手にいつしか本音をぶちまけてしまわないか、というストレス。

 

 それらの疲労を我慢しながら、フウコは言葉を続けた。

 

「そもそも、知っての通り、私は暗部で副忍という地位にいます」

 

 副忍、という言葉に、周りの者は眉間に皺を小さく作る。それを見るだけで、ストレスが増した。どうしてこんなことで、不快感を抱くのか、と。

 

 たしかに、副忍という地位は、自分の為に作られたものだ。ダンゾウが、自分の実力を明確に示す目的で独断に―――正確には、裏ではヒルゼンも同意の上なのだが―――作ったのだ。

 

 その効果は、すぐさまうちは一族に現れた。

 

 元々、上層部のスパイという名目で暗部に入隊するように言われていたフウコが、暗部のナンバーツーになったのだ。すぐさま重宝され、会合では、うちは一族を統制するフガクの横に座れるようになったのは、何ら不思議でもない。しかし、時が経つにつれ、向けられる視線が、信頼から嫉妬や不満へと変わっていったのも、ある意味では必然だったのかもしれない。彼らから見たら、青二才の少女が、これまで貢献してきた自分たちよりも重宝されるのは、面白くない。そういう思想が、膿のように姿を現し始めた。

 

 馬鹿馬鹿しい。

 

 表面上、うちは一族の思想に同意しているというのに。同じ方向を向いているというのに、どうして、そんな驕った考えを持てるのか、理解できなかった。

 

「ダンゾウに伝えられる情報は、必ず、私に一度通されるようになっています。もし不穏な動きがあるなら、私は察知できるのです」

「しかし、ダンゾウには私兵がいるではないか。そこからの情報は入ってこないのでは?」

「【根】のことですね。たしかに、その可能性は否定できません」

 

 男はしてやったりと言いたげに、小さく口端を吊り上げた。これだから青二才は、とでも言いそうなほどだ。

 くだらない、と呆れて思う。

 疑い始めたら、キリがないのに。

 

 視界の端に、イタチとシスイの顔が見えた。

 

 末席に座る二人の視線は、どこか心配そうにこちらを見ている。

 大丈夫、と言いたかった。言って、彼らを安心させたい。

 代わりにフウコは、はっきりと男に反論することによって、それを示すことにした。

 

「もしかしたら、私の知らない所で、状況は動いているかもしれません。ですが、それの何が問題だと言うのですか? たった暗部のごく一部の集団がこちらに疑心を投げかけた所で、うちはの力がそう簡単に打ち破られるとは、私は思っておりません。皆さまも、同じなのではないですか?」

「まあ、そうだが……。しかし、万が一、というものが、あるではないか」

「安心してください。万が一の事態は、私が抑え込みます。他の方々のお力は、もちろん、お手数をかけますので、必要がありません。些細なことを気にする必要は無いのです」

 

 目一杯の皮肉を込めた言葉に、男は渋ったように顎をなぞるだけで、それ以上言葉を発することは無かった。おもむろに視線を辺りに巡らせると、俯いたり、上を向いたり、総じて、逃げるように視線を逸らす者ばかり。

 しかし、イタチとシスイは違う。

 

 イタチは安心したかのように、ほんの微かに目尻を下げている。シスイに至っては、笑うのを我慢しているのか、緩みそうになった口元をなぞるようにして短く手を添えた。

 

 よかった、とフウコは胸を撫で下ろす。

 

 隣でフガクが喉を鳴らした。もう自分の出番はないらしい。頭を下げて、少し後ろに下がる。

 

「では、次の議題に入ろう」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 一通りの会合は終了したが、まだ一部の大人たちが残って議論を続けていた。残った大人たちは、うちはの計画における中心人物たちで、残って議論を続けるのは、もはや暗黙の恒例行事だった。そこにはフガクももちろん含まれているが、フウコ、イタチ、シスイの三人がそこに加わることはできない。やはり、年功序列的な問題があるのだろう。そればかりは、実力ではどうにもできない。

 

 しかし、そこで話し合われた内容は、次の会合までには伝えられるため、そこまで重要度の高いものでもなかった。

 

 そもそも、クーデターを起こすなら、必ず、自分に伝えられる。うちは一族にとって、クーデターは失敗が許されないものだ。その中心には、自分がいる。うちは一族が自分の力に依存し、そして頼るように、仕向けたからだ。どれほどの嫉妬や不満の視線を向けた所で、フウコが築き上げた現実の前では、蟻に等しい抵抗である。

 

 家に向かう道中は、足取りが軽い。鼻から吸う空気が、会合場の時よりも幾分か美味しく感じとれた。きっと、自分の両隣を歩く二人も、同じだろう。

 

「いやあ。さっきのは、スカッとしたなあ」

 

 右を歩くシスイが、夜空を見上げながら呟いた。両手を頭の後ろで組む姿勢を取っている。彼の横顔は、アカデミーの頃のように、無邪気で爽やかな笑顔を形成していた。

 

「だけど、もっと言い返しても良かったんだぞ? いっそのこと、黙ってろ! このハゲ! くらいでも言えばよかったのによ」

「あれ以上言うのは、流石に問題があると思う。ただでさえ、私は色々と思われてるから。あと、あの人の頭髪はしっかりしてた」

「気にするなよ。どうせ、お前には強く言えないんだ。フガクさんもあの場にいるしな」

 

 どうだろう、とフウコは考える。

 

 今はフガクを筆頭に、うちは一族は纏まりを保っている現状だ。しかし、その影響力も、自分が要因で消えてしまうことも否定できない。

 何によって、状況が変化するか、予測できない面も含んでいるのだ。自分がいるおかげで、いつでもクーデターが成功する、という精神的余裕が生み出した弊害の一つである。自分に向けられる汚い視線も、その一つだ。

 

「シスイ、あまりフウコを困らせるな」

 

 左のイタチが表情を顰めて諌める。

 

「目的を達成するまでは、我慢しないといけないんだ」

「そうだけどよ、だからって、お前だって気に食わないって思っただろ?」

「思っただけだ。あまり感情的に考えるな」

「わーってるって。冗談だよ、冗談。そう怖い顔するなよ。お前は真面目だなあ。もっと肩の力抜けよ。会合の時だって、お前は硬い表情をして。言っておくけどな、お前の真剣な表情はどこか切羽詰ってるように見えるんだよ。それじゃあ、周りの人から怪しまれるぞ?」

「お前の考えが偏っているからだ」

「なあ、フウコ、お前だってそう思うだろ?」

「ううん、イタチは普通。というよりも、シスイの方が不自然だった。笑うの我慢してたから」

「それはお前が面白い返しをするからだ」

 

 周りには誰もいない。

 穏やかな時間。

 今にして思えば、かつては、会合の後の時間はここまで落ち着いた気分になれることはなかった。シスイは当時でも、今みたいに「退屈だったな」とか「眠い」とか、呑気に呟いていたが、二人には心の余裕が無かった。

 

 もしかしたら、明日にでも、クーデターは起きてしまうかもしれない。

 そうなったら……、そこまで考えてしまうと、体温が下がっていく。

 静かな夜は、思考を走らせる。

 良い考えも、嫌な考えも。

 自分とイタチが硬い表情をしていると、シスイが「落ち着けよお前ら」と笑って元気付ける、それが定番だった。今とは大きくかけ離れていた。

 

 長かったように思う。

 

 ここまで来るのに。

 自分たちが、ここまで、落ち着ける段階まで、来るのに。

 

「あ、イタチ。ちょっとフウコ借りるぞ」

 

 唐突にシスイに手を握られたと思うと、身体を引き寄せられ、肩を抱かれた。恋人関係になってから、彼とのスキンシップが増えたように思う。おそらく、サスケよりも多いだろう。秋と冬ならいいけれど、それ以外の季節では、暑いから不必要にしないでほしいというのが、率直な所である。

 

 イタチを見ると、彼は別の意味で表情を険しくした。

 

「シスイ、何を考えてる」

「いきなり疑うなよ。別に、野暮用だって」

「一人で行け。フウコを巻き込むな」

 

 お前は過保護だなあ、とシスイがにやけると、より一層のイタチの顔は険しくなる。

 どうしてこうもシスイは、イタチの神経を逆なでするような発言をするのだろうかと、フウコは思う。彼なりの気遣いなのかもしれないが、いや、逆に何も考えていないのかもしれない。任務以外の彼は、あまり深く考えない性格だ。

 

 野暮用。

 

 そう表現される内容を、フウコは知っている。しかし、野暮用と呼んでもいいのか、迷ってしまう。自分からしたら、野暮と片付けてしまえるようなものではないからだ。かといって、どうやらイタチが心配しているような、危険な類はない。「大丈夫だよ」と言っても、「お前の大丈夫は、時々信用できない」と言われてしまった。そんな風に、自分は見られているのかとショックを受けながら、尋ねる。

 

「イタチは何を心配してるの?」

「フウコ、少し静かにしていてくれ。あと、耳を塞ぐんだ。俺はシスイと話しがある」

「心配しないで。大丈夫だから」

 

 しばらくイタチは腕を組んで瞼を閉じた。何度か、眉間に皺が増えたり減ったりしていたのを確認したが、彼の頭脳の中で一体どんな議論がなされているのか、想像が難しい。

 

 瞼が開くと、彼はこちらに近づき、肩に手を置いてきた。

 

「何かあったら、すぐに逃げて、俺に知らせるんだ」

 

 分かった、とよく分からないまま頷いて、シスイと一緒に別の道を歩き始める。向かう先は、墓地。しかし、うちはの町の外にある慰霊碑ではなく、中にある、普通の墓地が目的地だ。

 

 近年の落ち着いた里の情勢によって、任務で命を落とす殉職者の数は年々減ってきている。ゼロ、という訳にはいかないけれど、里の安定の為、任務の難易度と担当する忍のレベルを厳密に比較するという姿勢が実を結んでいる証拠だった。

 

 その為、ここ最近では、殉職者の数が、寿命や病気などで旅立ってしまう者の数を上回っているという報告がある。

 

 それは、喜ばしいこと、という表現は―――やはり、不謹慎とも思えてしまう。

 

 どれほど平和になっても、旅立つ者がいる。

 何かを成し遂げたとしても、何かを成し遂げれなかったとしても。

 永遠の別れという厳然たる事実が存在する以上、素直に喜ばしいとは、言えないだろう。ただ、改善されつつある、という淡泊な表現こそが、相応しい。

 

 寿命や病気で旅立った者は、慰霊碑に名は刻まれることはない。冷淡なことではあるが、里の為に、忍の役目として、そして何よりも誰に看取られる事もなく、任務で命を亡くした者の命の方が、優遇されるべきという考えだ。慰霊碑に名を刻まれなかった者は、遺族が墓を用意する。その墓の場所は、一族や家系によってそれぞれ異なるのだけど、うちは一族の場合は、自分たちの町の中に墓地を設立し、そこに墓を建てている。

 

 墓地は町の角。

 ひっそりと、そして丁寧に整えられた墓地が、見えてきた。石で造られた背の低い門を抜けて、奥へと進んでいくと、目的としていた墓に到着した。

 

【うちはカガミ之墓】

 

 夜の微かな光を綺麗に反射しながら立つ直方体の墓石には、そう、刻まれていた。

 墓は、シスイの祖父にあたる、うちはカガミのものだった。

 

 墓の前に着くなり、シスイは墓の裏側に回り込んで、地面に生えている雑草をかき分け始める。

 

「どう? まだある?」

「ちょっと待ってろ……。お、あったあった。けど、また買わないといけないなあ。ちょうど二本だ」

 

 墓の後ろ側から顔を出したシスイの右手には、紺色の線香が二本、握られていた。一本を手渡される。

 

「シスイの家には、もう無いの?」

「あるにはあるんだけどな、もう使ってない。探してるのが見つかったら、色々と厄介なんだ。親父も母さんも、もう、ジイちゃんの仏壇には線香もしないからな」

「……ごめん」

「気にすんな気にすんな、しょうがないんだから。それよりも、面倒なんだよなあ、変化の術を使いながら買い物するのって。肩が凝る」

「今度、イロリちゃんに頼んでみたら? イロリちゃん、顔広いから、もっといいお線香、知ってるかもしれない」

 

 そうだな、とシスイは返事をしながら、火遁の術を極めて小さく発現させて、火を付けた。自分も火を付けると、途端に先端から白い煙が、蛇行しながら夜空へと向かっていった。鼻先を撫でる煙を小さく吸い込むと、落ち着く香りが鼻腔を通り抜けた。

 

 二人で同時に、線香を横にして墓の前に置き、手を合わせる。フウコは膝をついて、合わせた両手を額に付ける姿勢で。シスイはその後ろで、立ちながら、両手を合わせている。

 

「……ジイちゃん。あと、もう少しだからな」

 

 穏やかで、だけど、ほんの微かに、薄い煙のように混ざる悲しさを含んだシスイの小さな声が、耳に届く。

 

 本当なら、線香を置く前に、墓石を磨いたり、あるいは供え物をしなければならないのだが、今はできない。死者への礼儀を除外してしまっているが、フウコの胸の中には、もっと丁寧な手順を踏みたいという感情はある。これまでシスイと一緒に何度か来たが、毎回込みあげるこの感情は、衰えることはなかった。

 

 うちはカガミは、二年前に、亡くなった。病死だった。

 

 老齢による抵抗力の減衰、そして重度の病気に罹ったのは、その三年前。当時から既に、余命が宣告されていたらしく、宣告された余命は二年だったらしい。したがって、宣告よりも三年ほど延命できたということになる。どういった要因で彼が余命を延ばしたのか、それは分からないけれど、きっと神様がこれまでの彼の頑張りを正当に評価したからだと、フウコは思っている。

 

 その頃から既に、うちは一族は不穏な動きを始めていたのは、語るべくもなく、その中でカガミは、所謂、ハト派と呼ばれる勢力の筆頭だった。

 穏和な人格と懐の深い理解力、常に先を見越した洞察力を兼ね備えていたことを、フウコは知っている。しかし、彼がハト派の筆頭になったのは、それらのおかげではない。彼の才能は、単に、人を引き付けるためだけに役立ったに過ぎない。

 

 彼は二代目火影・千手扉間から信頼を受けていた人物の一人で、ある意味、うちは一族では特別な存在だった。

 

 当時のうちは一族は、扉間の提案により、警務部隊を担うようになっていた。名誉な任命だったが、うちは一族の極一部からは不満な声が挙がっていたという。

 

 おそらく、不満を抱いた者たちから見れば、邪魔者を政から遠ざける為に【里の治安を守る】という御題目を与えられたと判断したのだろう。

 そんな中、うちはカガミは、その不満を持つ者たちと扉間の間に入って、互いの意思を通らせる【橋】の役割を果たしていたらしく、その献身的な姿に、うちは一族からも扉間からも、強い信頼を勝ち取っていた。

 

 ……しかし。

 

 月日が経つにつれ、里の治安を守る役目を担わされたうちは一族は、里の管理者に時々向けられる疎ましい視線を意識し出すようになる。

 

 さらには、扉間の任務中における殉職と、半ば独断的とも思われる三代目火影・ヒルゼンの抜擢。前者は、カガミの【橋】の役割を希薄化させ、後者はうちは一族全体に疑念の種を植え付けた。

 

 徐々にうちは一族には、最初に不満の声を挙げた者たちを中心に、里への不信感を唱え始める者が増え始めた。その中でも、うちはカガミは里の平和と、自分たちの意思を対話によって実現するように訴え続け、何とか種の発芽を抑えていたが、九尾の事件を機に黒い思想はうちは一族を大きく囲うことになる。やがて、クーデターを最終手段とする強硬的な思想を主とする大多数のタカ派と、平和を唱え対話を重んじる柔和的な思想を持つカガミを筆頭とする少数なハト派の集団に別れた。

 

 そして、カガミは、病気によりこの世を去ることとなった。

 

 既に、ハト派に何の抵抗力も無くなっていることは、周知の事実だった。

 カガミの功績と偉大な人格を失った今、ハト派への圧力的な行動に躊躇いを持つ強硬派はいなくなったのだ。

 

 墓を磨いたり、供え物をしないのは、その為。

 

 もし、うちはカガミの墓が掃除されている、あるいは供え物がされているというのを誰かが目撃した場合、疑いの視線は、シスイに向けられる。

 

 シスイの両親は始めから、強硬派に賛同的な姿勢を示していたが、シスイ自身はカガミと非常に仲が良かったということは、うちは一族なら誰もが知っている事実だ。今は、フウコと同じように、暗部に潜入し、表面的にはスパイをしているということになっているが、彼がカガミの意志を受け継いだと疑われるようになると、色々と厄介な事になってしまう。

 

 だから、痕跡が残るようなことは決してしない。線香は、全てが消え終わるまで墓の前にいて、残った灰だけを息を吹きかけたりなどして飛ばせば問題ない。あとは自然の風が、細かい痕跡を消し去ってくれる。両手を合わせながらも、フウコは辺りに誰かいないか、密かに感知忍術を使用して警戒しているのも、毎回のことだ。

 

 いつか、彼の墓の前で、正しい礼儀を以て、御参りしたい。

 そう、フウコは思っていた。

 

「……お前は、いつも俺より長いんだな」

 

 後ろから、シスイの声が聞こえる。どうやら、もう、彼の御参りは終わったらしい。けれどフウコは、まだ両手を合わせたまま、瞼を閉じている。

 

「うん。カガミさんには、お世話になったから」

「あまり俺んちに遊びに来てなかっただろう。それに、ジイちゃんとだって、そんなご近所付き合いほどに会ってないだろ?」

「でも、私は、カガミさんを尊敬してる。今は、お線香だけしかできないから、せめて御参りだけでも、長くしたい」

「ジイちゃんには花とか饅頭とか、いらないと思うぞ? 花が勿体無い、とか、饅頭は子供の食べるものだ、とか、そんなこと、言いそうだしな」

 

 瞼を閉じた暗闇の彼方から、記憶が蘇る。

 うちはカガミとの会話の記憶。それらが、断片的に。

 

『やあ、久しぶりだな、フウコちゃん。ほら、大好きな御団子がある。こっちにいらっしゃい』

『写輪眼の使い方を教えてあげよう。君ならすぐに使いこなすことができるはずだ。君は昔から、才能に溢れていたからね。いやあ、若いって羨ましいな』

『うちの馬鹿が、また迷惑をかけたみたいで、悪いね。まああいつは、根は真面目な奴なんだ。あまり、怒らないでやってくれないか? まだ子供なんだ。そりゃあ、納豆をぶつけられた時は、俺も怒ったものだけど、やっぱり、孫は可愛いもんだ』

『……フウコちゃん、すまない。君に、重荷を、背負わせてしまって。俺は、ここまでみたいだ。……少し、近くに寄ってきてくれないか? 写輪眼も、もう、使えなくなってしまってね、それに最近は視力も、悪くなってきた。近くに来てくれ。君のお母様に助けてもらったこの命だ、最後は君のことをしっかりと覚えて、あっちに行きたい』

『フウコちゃん…………、あの馬鹿を……、シスイを、どうか、よろしく頼む』

 

 かつて見た(、、、、、)、若々しく、それでいてやはりシスイの祖父である彼の爽やかな笑顔は、老齢と一緒に衰えていたが、しかし、年老いても尚、精神的な若さを彷彿とさせた。何度も面白い話をしてくれて、多くのことを学ばせてもらった。

 

 でも、もう、彼はいない。

 

 悲しかった。

 

 彼は、ほぼ寿命に近い、長い人生を歩み切った。

 人生を歩み切る、たったそれだけで、偉大なことだと、思う。

 けれど、彼が亡くなって、自分に残されたのは、記憶だけだった。

 もう、会話をすることができない。触れる事も、教えてもらうことも、出来ない。

 彼から影響を受けることが、無くなってしまったのだ。

 

 葬儀の日。

 

 何度も、彼の冷たくなった遺体の手を触れた。

 もしかしたら、実はただ眠っているだけで、昔みたいに(、、、、、)、悪戯な笑顔を浮かべて起き上がるんじゃないかと、思った。そう、願った。

 でも、そんなことは、起きるはずもなく。

 ハト派の者と彼の遺族、そしてフガクやミコト、自分やイタチ、そしてシスイを含めた小さな葬儀は粛々と、行われた。

 

 ―――……ジイちゃん。起きろよ、ボケてんなよ……。おい、ジイちゃん。やんなきゃならないことがあるって、言ってただろ? 忍は、成すべき事は必ず全うするって、俺にガキの頃から口酸っぱく言ってたのは、ジイちゃんだろう。里の為に、命を尽くせって。ジイちゃん、起きろよ。なあ……。

 

 カガミの手に触れる自分の横で、小さく呟き、泣いているシスイの記憶が思い浮かぶ。

 大粒の涙を、瞳から、止めどなく溢れさせる彼の表情は、

 苦しそうで、

 辛そうで、

 何よりも、

 理不尽な現実が

 偉大な人を、

 大切な人を、

 家族を、

 いともあっさりと、

 奪っていったことに、

 悔しそうに、

 歯を食いしばっていた。

 

 その翌日、彼は―――万華鏡写輪眼を開眼した。

 

『きっとジイちゃんが、お前が代わりに俺の役割を果たせ、この馬鹿者が! って、言ってんだろうなあ』

 

 そう笑って呟く彼の笑顔を見るのが、辛かった。

 

 けれど皮肉なことに、シスイが万華鏡写輪眼を開眼させ、それによって発現が可能となった【別天神(ことあまつかみ)】は、クーデター阻止に対する最終的な手段を見出せたのだから、彼の言っていることはあながち、間違いではないのかもしれない。

 

 今こうして、少しだけ陰りを見せながらも、心の中からしっかり笑えているシスイは立派だと、フウコは判断する。

 

 ようやくフウコは瞼を開ける。置いた線香は既に、半分ほどまで、炭になっていた。

 シスイと二人で、近くの木を背に座った。線香の香りは、緩やかな風に乗って鼻に届く。夜空を見上げるとより一層、心が落ち着いた。

 

 無造作に雑草の上に置いている自分の手に、シスイの手が温かく重なった。ただ、今は、うっとおしくないし、暑くも思わない。落ち着く、とすら感じる。線香のおかげかもしれない、とフウコは判断した。

 

「なあ、フウコ」

「なに?」

「ナルトの調子はどうだ? 立派な忍になれそうか?」

「まだ分からない。でも、着実に成長してる。ただ……」

「ただ? なんだよ」

「不真面目。アカデミーの授業がつまらないみたい」

「なんだそりゃ、お前みたいだな。似たか?」

「シスイだって、そうだった。私より、不真面目だった。ブンシ先生に殴られた回数は、多分、シスイが上」

「いいや、お前の方が多いな。それにお前は殴られた回数よりも、頭突きされる回数が多かっただろ」

 

 たしかに、拳骨をされるのが嫌で、何度か避けようとしたが、ブンシの素早い両手が自分の頭を捕らえて、その上から頭突きをされたことはある。何度も何度も、だ。思い出すだけで、額が痛い。

 

「……とにかく、難しいところ。シスイも、イロリちゃんみたいに、修行に顔だしてくれたら? きっと、もっと成長する」

「嫌だな」

 

 きっぱりと断るシスイの顔を見る。彼は笑っていた。

 

「イロミから聞くに、随分懐いてるみたいだからな。そんな時に、恋人の俺が姿を見せたら、怒られそうだ。もっとナルトが、色んな事を知るようになってから、顔を出すよ。それまでは、俺のことは伏せておいてくれ」

「……いつ知られるか分からないけど、やってみる」

「あ、もちろん、フガクさんとミコトさんにもだぞ? あと、サスケはしっかり黙ってるようにしておけよ」

 

 そんなどうでもいいようなことなのに、シスイの言葉には力が含まれていて、変だな、と思う。

 

 シスイと二人だけの時は、クーデターの話題は出さないようにしている。この場にはイタチの姿はなく、二人だけで話し合っても、意味がないように思えるからだ。シスイも同じように考えているのか、呑気な話題ばかり。ついこの前は、デートをしようと言われた。デートという行為の形式は分かるけれど、何を目的としているのか、友達と遊ぶのと何が違うのか、鮮明ではない。シスイは「仲良くなるためだから、何でもいいんだ」と言ったが「私は、シスイと仲が悪いとは思ってないけど」と返すと、嬉しそうに彼は笑うだけだった。結局、分からないままだ。

 

 しかし少しだけ、楽しみだったりする。

 つまりは遊ぶのと変わらないのだから。本当は、イタチやイロミと一緒に遊びたいけど、シスイは二人だけが良いと言うから、仕方ない。

 

 楽しみだ。

 いっぱい、遊びたい。

 何も考えないで、ただ、遊ぶ事だけを、意識の中に目一杯詰め込んで、遊んで、笑って、そして夕日が沈む頃に家に帰って、ご飯を食べて、お風呂に入って、ぐっすりと布団に入る。朝が来る頃には、夜中のうちに見た輝かしい夢たちのおかげで、さっぱりと目を覚ますことができるに違いない。

 

 なんて贅沢な生き方だろうか。

 きっと、全てが円満に終わったら、家にあるカレンダーは、遊ぶ予定でびっしりになるだろう。もしかしたら、翌年分のカレンダーも買ってしまうかもしれないし、売っていなかったら自分で作るはずだ。そんな単純な自分の姿が、あっさりと想像できてしまう。

 

 夜空を見上げている意識を、右手の大部分をシスイの手に覆われる感触が擽る。そして、たくさん遊べるという希望。それらが、イタチといる時よりも、イロミといる時よりも、また違う感情が湧いてきた。時間が途轍もなくゆっくり流れるような感覚に基づいた感情は、蛙のようにピョンピョンと跳ね回る姿に似ていた。

 

 長かった。

 

 ヒルゼンとダンゾウから聞かされたうちは一族の思惑から始まり、

 イタチがフガクからうちは一族のクーデターを知り、

 イタチと二人でクーデターを阻止しようと誓い、

 その後にシスイも合流し、

 三人で必死に話し合って、

 考えて、我慢して、力を高め合って、

 そして辿り着いた、最終的な解決方法。

 無血で、平和を保つ方法。

 

 あと、もう少しだ。

 

 残すは、ほんの少しの調整だけだ。

 

 ……線香の香りが、いつの間にか感じ取れなくなった。燃え尽きたようだ。夜空に向けていた視線をシスイに向ける。

 

「ねえ、シスイ。思ったんだけど、やっぱり、デートはイタチやイロリちゃんも―――」

 

 違和感が、そこにあった。

 

 シスイの横顔は、笑ったまま。

 

 なのに、どうしてだろう。

 声をかけているのに、反応が無い。自分が話しかければ、彼はこちらの顔を見てくれたり、あるいは握ってくれている手に優しい握力を加えてくれたりするのに。

 今の彼の表情は、固定されている。

 人形のように。

 

「……シスイ?」

 

 顔を傾けて、顔を覗きこんでも、一切の反応が無かった。

 

 彼の頭が、こちらに傾く。

 

 不自然な傾きは、やがて九十度を超えて、

 

 そのまま、彼の頭は首から零れ落ちた。

 

「え―――」

 

 体温が霧散する。

 シスイの頭は、笑顔の表情を保ったまま、フウコの足に触れる。首から上を無くした身体は、泥のように自分の身体に体重を乗せた。鋭利な刃物で切断された首から、血の柱が迸り、フウコの顔半分を温く覆った。

 

「あ……、あぁ…………」

 

 引いた体温が、今度は急激な心臓の運動によって、過剰な温度を取り戻し始める。呼吸が苦しくなり、眼の奥が震えて熱くなる。

 爆発的な恐怖が、後頭部を痺れさせ、気道を震え上がらせる。

 

「ど、どうして…………なんでっ……」

 

 懐かしくも、恐ろしい感覚。

 それは、幼い頃に見た怖い夢と、あの夜と、同じだ。

 涙が溢れようとする。苦しくなる。あの時は、ミコトが、自分の抑えられない部分を宥めてくれた。でも今は、誰もいない。

 

 気配を感じた。頭に思い浮かんだのは、首と胴体が離れてしまったシスイを助けてくれるのではないかという、見当違いな小さな安堵。しかしその安堵は、顔を挙げると同時に消し飛んだ。

 

 死人が立っている。

 

 彼の身体の中心には、穿たれた大きな穴が。シスイの首の痕よりも杜撰なその穴は、肉片が幾つも、垂れ下がっていた。

 

 黄色い短い髪の毛が、夜風に揺れる。

 

「フウコさん……、どうしてですか……?」

 

 ミナト様。

 

 しかし、その言葉を発することが、出来なかった。

 

 恐怖と懺悔が、意識を絡めとる。

 

「ナルトのことを、よろしく頼むと、お願いしましたよね? なのに、今、ナルトは、友達すらできていないじゃないですか……」

「わ、私は…………、でも、」

「それに里は、こんな不穏な状態じゃないですか。俺は、何のために、命を賭けて……」

 

 腹部から大量の血液を零しながら、彼が近づいてくる。

 フウコの表情が、恐怖と苦痛に歪む。両脚をばたつかせて彼から距離を取ろうとするが、背中の木でそれを許さない。さらに、頭を無くしたシスイの手が身体を抑え込む。血の柱が収まった切り口から見える、人体の内部。それが、生理的な恐怖を与えた。

 

「フウコちゃん……」

「カ、カガミさん…………」

 

 声が横から来て、見上げると、顔が真っ青なカガミの姿が。

 咄嗟に両目を閉じて、両耳を手で力一杯に塞いだ。彼からの言葉が、想像できてしまったからだ。

 光を閉じて、音を塞いで、だけど、血の感触と冷たい体温が、身体を徐々に侵食し始める。長い両脚を引き寄せて、子供のように身体を丸めても、それらは執拗に自分を祟ろうと纏わりつく。

 

 心臓が、恐怖と、罪悪感で、壊れそうになる。

 身体全体から、粘質な汗が溢れ出てくる。

 呼吸は不規則で、頭が痛い。

 

 フウコは、思い切り歯を食いしばった。

 

 奥歯の先端が欠けてしまうほど、全力に。

 

 その痛みが、脳を覚醒させた。

 

 

 

「……いい加減にして」

 

 

 

 恐怖に抑圧されながらも、怒りを滲ませる声で、フウコは言う。

 自分の周りを囲う死人にではない。

 

「こんなくだらないことは止めて。フウコちゃん(、、、、、、)

 

 空間全体に向けて、声はいよいよ、圧力を獲得した。

 声は空気を震わせ、時間を止める。

 氷のように止まった空間にヒビが入った。フウコは瞼を開き、両手を解放すると、死人たちは動きを止めていた。

 

「もう、幻術を止めて」

 

 その声が、幻術の空間を完全に破壊する一石となった。

 

 夜は捌けて、静かな明るさを持つ世界が現れる。

 

 蒼い空と碧い海だけが囲う、単一的な世界。雲も、太陽も、島も、波もない。ただただ、空と海、それら二つが交差する白い水平線だけで構成された、広大な空間に、フウコは立っていた。

 

 フウコは、目の前にそびえ立つ檻まで、ゆっくりと、海の上を歩いた。

 

 トン、トン、と、歩く度に、微小な波紋が均一な円形を描きながら広がり、やがて吸い込まれる。

 

 檻は、柱だけで構成されていた。天井はなく、床は同じ海。幾本もの柱は、それぞれ傾いているが、点は円を描き、間隔も狭い。柱には、幾何学模様がそれぞれ描かれている。

 

「フウコちゃん、どうして、こんなことするの?」

 

 フウコは、自分と同じ名を持ち、幼い頃と同じ姿をしている、檻の中の女の子を見下ろした。

 

「あはは。やっぱり、バレちゃった。今回は、上手くできたと思ったんだけどなあ。でも、フウコさんが少しでも怖がってくれたから、十分かな?」

 

 女の子は、その赤い双眸を、無邪気な笑顔と一緒にフウコに向けた。

 幼い頃の自分と瓜二つの顔立ち。しかし、女の子の作る表情は、フウコよりも遥かに豊かで、同時にアンバランスな妖しさも多分に含んでいる。さながら、芋虫を石ですりつぶして、緑色の液体を見て好奇心を擽られている子供の笑顔のそれだった。

 

「私の質問に答えて」

「ふふ、なーに?」

 

 可愛らしい笑顔で、女の子は顔を傾けると、前髪が軽やかに揺れた。

 

「どうして、私にこんな嫌な夢を見させるの?」

「だって、気持ち悪いんだもん。ベタベタベタベタって、私の身体(、、、、)に触ってさ。好きでもない男に触られるなんて、嫌なんだもん。でも、私はこれくらいしかできないから、幻術を使ったの。どう? 面白かったでしょ?」

「ふざけないで」

「ふざけてないよ。ふざけてるのは、フウコさんでしょ? この身体は、私の身体なの。お父さんが治してくれた、大事な身体なの。早く返してよ」

「今は駄目。うちは一族が、里の平和を壊そうとしてる」

「じゃあ、いつならいいのかな? それまで私、良い子にしてるから。ふふ、ねえ、いつだったら、返してくれるの?」

「返したら、里を正しく守ってくれる?」

「うんうんっ、もちろんだよ! 私、平和、だーいすきだから!」

 

 まるで、案山子の背中にでも話しているような錯覚に陥ってしまうほどの手応えの無さに、フウコは脱力を覚えた。

 フウコがゆるゆると、首を振る。静かで緩やかな曲線を、彼女長い髪の毛は描いた。

 

「……どうして、そんなに里を憎むの?」

「私のお父さんとお母さんが、里に殺されたから」

「今の人たちは、全く関係ない」

「関係ないから、憎いの。忘れようとしてるから、苛立つの」

「お願い、フウコちゃん。私の話しを、ちゃんと聞いて」

 

 ふふふ、と女の子は、口角を異常なまでに吊り上げた。

 

「何を言ってるの? フウコさん。フウコさんこそ、私の話しを聞いてよ。早く、私の身体を、返して。この身体は、私のなの。お父さんが治してくれて、遊べるようにしてくれた、大切な身体なの! だから早く……早く、返してよッ!」

 

 女の子の声は、狂った時計のように急激に絶叫となった。

 もう何度も、聞いたことだろうか。

 彼女の絶叫を。

 二人は互いに、赤い瞳の視線をぶつけ合った。

 フウコは、無表情に。

 そして女の子は、怒りを滲ませて。

 

 女の子は言う。

 これは、私の身体なのだと。

 何度も何度も、

 女の子―――うちはフウコ(、、、、、、)は、それは自分のものなのだと、

 そう、言った。

 




 ―――舞台裏の別れ―――



 音すら逃げるくらいに、暗い病室。狭く、けれど、個室として扱われているそこは手軽な落ち着きを与えてくれる程度には広い。読書には最適だろう。

 うちはカガミは、カーテンを開け放った窓から差し込む淡い月明かりだけを部屋に入れて、老弱となってしまった身体をベットの上に落ち着かせていた。瞼を閉じているが、眠ってはいない。もうそろそろ、誰かが来るだろう、そんな予感がしたのだ。昔から、自分は知り合いに対しての予想はよく当たる。年老いていくに連れて、その勘は冴え渡ってばかりで、逆に日常生活に些細なつまらなさを招くことが多くなった。

 瞼を閉じて、完全な暗闇に身を落としている彼は、思い出す。

 うちは一族のこと。
 かつてのこと。
 憎らしくも可愛い孫のこと。
 そして、彼女のこと。

 ドアが控えめに開いた。同時に、カガミはゆっくりと瞼を開ける。夜更けということもあり、病院の灯りは必要最低限までにダウンしているが、廊下から入り込んでくる懐の深い小さな光は、来訪者の輪郭をはっきりと浮かび上がらせてくれた。

「やあ、ダンゾウ。久しぶりだね」

 顔を傾けて、かつても、そして今も尚、友と認識している男に声をかける。ふん、と鼻を鳴らしながら、ダンゾウはドアを閉めた。彼が呆れるように鼻を鳴らすのは昔からで、けれど基本的には侮蔑の意味合いが含まれていないのは知っている。

 病室にダンゾウの足音と、それに並行して杖が床を叩く音が響く。ベットの横にやってきた彼を前に、カガミは上体を起こした。

「そのままで言い。お前に気を使われるほど、俺は耄碌していない」
「いや、気を使ってるってわけじゃないよ。友としての礼儀さ。ああ、そこに椅子があるから使っていいよ」
「馬鹿にするな。俺はお前と違って、足腰に自信がある」
「じゃあ、どうして杖を使ってるんだ?」
「相手を油断させるためだ」

 カガミは小さく笑った。相手、というのは誰に対して言っているだろうか。しかしそれが昔からの彼の特徴だ。癖と言ってもいいだろう。変に強がったり、変に余裕ぶったり。今では、他人にそんな姿を見せたりはしないけれど、こうして旧友同士でいると、それがぶり返してしまうのかもしれない。自分もそうだ。声も話し方も、つい、昔に戻ってしまう。

「俺を油断させても意味がないじゃないか。ほら、そこにあるから使いなって」
「……お前がそこまで言うなら、良いだろう」
「そうそう、もう降参だ。使ってくれ」

 不承不承と言った感じに、ダンゾウは椅子をベットの横に付けて腰掛ける。目線の高さが同じくらいになった。

 つい、笑みが零れてしまう。
 懐かしい、と思った。年を取ると、どうしても、時間がゆったりと感じられてしまい、暇を持て余すことから逃げるように、昔の事がフラッシュバックしてしまうのが多かった。
 そのフラッシュバックの一部が現実になったことが、嬉しかった。

「今日は、どうしてここに来たんだ?」
「事情は知っている」
「…………耳が良いね、ダンゾウは」

 夕方頃だったはずだ。身体に力が入らなくなって、突然倒れてしまったのは。倒れる寸前に、近くにいた仲間に、倒れたことを周りにしないようにしてほしいと、頼んでおいたのだけど。

「ヒルゼンが来ると思っていたか?」

 カガミは肩を透かした。

「誰かは来るとは、思っていたよ。何となくね。一番の有力候補は、確かにヒルゼンで、ダンゾウは一番下だったね。だから、まあ、少し驚いてる部分はある。全部知っていることも含めてね」
「わざわざ粗末な情報統制をしておいて。ヒルゼンは、お前が倒れたことすら知らん」
「情報統制ってほどではないよ。俺が病院に運び込まれたのって、誰から聞いたんだ?」
「ふん。里の者が病院に運ばれたという情報がすぐさま手に入らなければ、暗部の管理など到底できん」

 流石だ、とカガミは手を叩いて称賛したい気持ちになる。けれど、点滴がされている右腕は、今はもう、殆ど力が入らなくなっていた。代わりに、カガミは軽ろやかに笑って見せた。

 笑いが止まる。

 数秒の沈黙が、病室に、砂煙のように蔓延した。

「……あと、二年くらいしか生きていけないそうだ」

 ぽつりと、カガミは、小さな笑みを保ったまま、呟く。
ダンゾウが、瞼をゆっくりと閉じた。

「まあ、今後の生活次第で、幾分かは長く生きることができるみたいだけど……。俺は、ここまでみたいだ」
「……そうか」
「きっと、タカ派が今後はうちはの主流になると思う。と言っても、突発的なことは、まだ起きないと思うけど」
「何を根拠にそう言っている」
「フガクが上手く、タカ派を統制してくれている。彼は愚直だけど、馬鹿じゃないからね。ただ、このままの状態が続けば、どうなるかまでは、予想ができないけど」
「そのことなら気にするな。万が一に備えて、準備はしてある」
「火影になる準備かい?」
「ふん。さあ、どうだかな」

 二心あり、というのが露骨に伝わってくる小さな笑み。火影の座を虎視眈々と狙っているその様子は、他の者が見たら危険思想の塊に映るかもしれない。けれど、カガミからしたら、昔から続いている小競り合いみたいなものだ。
 ヒルゼンとダンゾウ。
 二人は、昔っから、色んなことで競い合っていた。
 犬猿の仲と思えるほどで、しかし、同時に喧嘩するほど仲が良い、という表現も並走する。

 ダンゾウは火影になりたいという野心はあるけれど、それはあくまで、許される手段の範囲においてだ。彼だって、不穏な方法を用いて、無闇に里を混乱させたくないと思っている。里では、色々と彼に対して不名誉な噂が広がりつつあるが、カガミの評価は、ただ真っ直ぐな男、というものだった。

「カガミよ」

 彼の重い声が、響いた。

「本当に、もう、無理なのか?」
「ああ。悪いな。なんだ? 何か、俺の頼み事でも聞いてくれたりするのか?」
「聞くだけなら、してやらないでもない。お前には、色々と世話になったからな」
「……なら、一つだけ」

 薄らと開くダンゾウの目を見る。
 頭に思い浮かんだのは、一人の少女の姿だった。

「フウコちゃんを、よろしく頼む」

 扉間との誓い。
 彼女が、いつか、平和な世で過ごすことができるようにすると、扉間と約束した。

「あの子を、守ってやってくれ」
「……善処しよう」
「そうか。……いや、そうだよな」

 もう既に、彼女を巻き込んでしまっている。
 ヒルゼンにも、ダンゾウにも、里を守る立場にいるのだ。
 善処する、というダンゾウの言葉は、あらゆることを考慮した、重い言葉だ。

 自分はもう、リタイアしてしまう身だ。本来なら、健全である時に、終わらせなければならないのに、それらの責務と約束から解放されてしまう。ヒルゼンやダンゾウに、身勝手に任せるのは、傲慢だと、カガミは自分を評価した。

 でも、やはり、彼女には、健やかな人生を送ってもらいたい。
 幼い頃に、両親を失い、心を壊し、挙句に、贄とされてしまった彼女を。

 そして。

 願えるなら。
 彼女の中にいる、女の子も、また―――。

 ダンゾウが音もなく立ち上がる。
 ああ、これで別れか、とカガミは小さく、ため息。
 悲しいなあ。

「さらばだ、カガミ。もう……二度と、会うことはないだろう」

 こちらに背を見せ、病室のドアを開ける彼の声は、どこか、我慢しているようだった。気のせいかもしれない。でも、気のせいでないのなら、これほど嬉しいことはないだろう。

誰かが、自分の死を悲しんでくれる。

自分が生きていた意味というものが、微かにでも、感じ取れた。

 だからカガミは、微笑みを浮かべて、頷くことができた。

「ああ。さよならだ。何か、扉間様に伝えておくことはあるか?」
「よい……、俺が死んだら、自分で伝える」
「そうか。ダンゾウ……息災で」

 ふん、とダンゾウは鼻を鳴らした。

「お前もな、カガミ」

 ドアが、閉まり、そして病室は、暗くなる。
 窓の外の夜空を見上げた。
 心なしか、月明かりが温かく感じ取れた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フウコ

 この話では、改定前の文章をそのまま引っ張ってきた部分がありますので、ご了承ください。
 流石に、この話だけを投稿するのは問題があると思いましたので、すぐに次の話を投稿します。


 ここで、厳密にしなければならないことがある。

 

【フウコ】についてだ。

 これまで、部分的にではあるが、【フウコ】という登場人物には不可解な言動が観測されている。

 

 かつて盲目だったイロミが遭遇した【フウコ】が、彼女のことを素直に「イロミ」と呼んでいるにもかかわらず、二度目の邂逅では、イロミのことすら覚えておらず、友人関係になってからは「イロリ」と【フウコ】が呼んでいること。

 

 たびたび、【フウコ】にだけ聞こえる、頭の中からの声。

 

 意識の中に存在する【何か】との対話を試みようとする【フウコ】。

 

 そして、明らかに生前の時代を主として活躍した、猿飛ヒルゼン、志村ダンゾウ、うちはカガミ、さらには千手扉間のことを【フウコ】が知っているということ―――等々。

 

 これらの不可解な側面は、しかし【フウコ】が暗部の副忍という地位に着くまでの間において、彼女が所有する人間関係とそれらによって構成される年月には、一抹の影響を与えることはなく、故に重要性は生じなかった。

 

 しかし前回、同じ名を持つ二人の【フウコ】が対峙することによって、その不可解な側面の大部分が明確化されることとなった。また、二人が現時点では敵対関係―――少なくとも、シスイが恋人として選んだ人格の【フウコ】はそう認識している―――ではないことも、この記述が成されるための要因となった。

 

 つまり、この対峙を最後に、二人の間に決定的な亀裂が発生するということである。

 

 そして―――その亀裂が、後に観測される事実から顧みた場合、巨大な分岐点と判断される可能性を否定できない危険が潜んでいるため、【フウコ】について厳密にする必要が生じたのである。

 

 以上の経緯を以て【フウコ】について厳密にしなければならないのだが、まずは、現時点での【フウコ】という存在そのものを説明する。

 

 イタチやシスイ、フガクにミコトらなどが、【フウコ】と認識されている肉体の中には、二人の魂が内包されている。

 

 一人は、盲目だった頃のイロミと偶然に出会い、友達となり、彼女のことを「イロミ」と呼ぶ、感情表現豊かで、そして檻の中にいた【フウコ】。

 もう一人は、イロミのことを「イロリ」と呼び、感情表現が平坦で、檻の外にいた【フウコ】である。うちは一族のクーデターを止めようとしているのはこの【フウコ】であり、イタチとシスイの二人が出会い、そして現時点に至るまでの間、表に出てきていたのもこちらの人物である。また、彼女たち二人のことについて何ら知識を抱いていない者にとって【フウコ】ないし【うちはフウコ】という名前で認識される魂も、後者ということになる(例外として、イロミに限り、【フウコ】の二面性への疑いは、些細なほどだが獲得はしている)。

 

 続いて、彼女ら二人を知っている者についてだ。一つの肉体に二人の魂が内包されている(、、、、、、、、、、、、、、、、、、)という、この不可思議な事実を知っている者は、幾人かいる。

 

 まずは、うずまきナルトを託した、四代目火影・波風ミナト。

 彼が【フウコ】の背景を知っているのは、その先代の火影である猿飛ヒルゼンから伝聞されていたからである。明らかに年下だと判断できる彼女のことを、彼が【さん】付けで呼んでいたのは、その為である。

 

 次に、波風ミナトの死を招いた、仮面の男。さらに彼の仲間である、白ゼツと黒ゼツ。

 彼らがどのような経緯で【フウコ】を知ることになったのか、それは現時点で記す必要性の無い事実であるため、割愛する。

 

 次に、未だ姿を現していないが、大蛇丸も、名が挙がる。

 彼が蒸発事件(、、、、)を引き起こし、その後、自発的に木の葉隠れの里から抜け出すまでの期間と、まだ盲目だったイロミと【フウコ】が初めて出会った期間は、短いながらも、実は重複している。だが、彼と彼女ら二人には直接的接点は無い。彼の場合、少々特殊な経緯を辿っているため、これもまた割愛する。

 

 最後に、猿飛ヒルゼン、志村ダンゾウ、うちはカガミ……そして、千手扉間。

 しかし、彼らが【フウコ】のことを知る経緯は、上述の者たちとは条件が大きく異なる。その条件とは、【フウコ】についての記述の大きなトピックスの一つと直結するものだ。

 

 波風ミナト、仮面の男と白ゼツ黒ゼツ、大蛇丸。彼らは、何らかの媒体を通して、情報として知った者たちである。

 

 しかし、猿飛ヒルゼン、志村ダンゾウ、うちはカガミ、千手扉間は、経験を通して知った者たちだ。

 彼女ら二人が、どうして一つの肉体に内包されるようになったのか。

 その経緯に関わってきたのが、この四名である。

 正確に言えば、その経緯に関わった者は他にも幾人かいるのだが、この物語の時系列においてタイムリーな登場人物として、あるいは現時点で重要な意味合いを持つ人物として名を挙げているに過ぎない。著名な人物の名を敢えて挙げるならば、初代火影である千手柱間、彼の孫であり後に木の葉の三忍と称される綱手、うちはマダラなどがいるものの、彼らとの関わりは、四名よりも浅いため、敢えて強調はしない。

 

 

 

 さて。

 

 

 

【フウコ】のルーツ。

 

 それは、二代目火影・千手扉間が考案した―――穢土転生の術を原点としている。

 

 死者の魂を本人の遺伝子情報を元に現世へと口寄せし、他者の肉体を媒介として蘇らせることを可能にした―――禁術。

 

 蘇らせると言っても、完全な蘇生ではない。

 チャクラ量は生前のそれよりも少なく、肉体は老いる事はなく、たとえ損傷したとしてもすぐさま塵芥が部位に蘇生される―――言うなれば不老不死だ。

 術者の手腕一つで口寄せされた死者は単なる道具に成り下がってしまうこの術は、死者を冒涜するものとして、禁術とされている。しかし、千手扉間自身は、元々、このような効果を期待して考案したわけではなかった。

 

 考案以前の段階では、死者の魂を必要とせず、死者の遺伝情報を元に、その者が保有していた技術を復活させる術のはずだったのだ。

 

 技術が朽ちることなく受け継がれれば、里の力は衰弱しない。

 全ては、里の為。

 里が、安定した防衛力を保有するためである。

 他里と対等な交渉を行うためには、自分たちが弱くては行えない。

 ようやく訪れた黎明の平和を維持するために、千手扉間は客観的な視点を軸に、その術の考案を行ったのだった。そのため、考案段階では、穢土転生という名すら付けられていなかった。

 

 しかし。

 当時、初代火影として里を収めていた千手柱間は術の開発を禁止した。

 

 ようやく互いに分かり合い始めた今の世に、不用意な事は、後の世にも陰りを指す、と。

 

 同時に柱間は術の危険性を、天性の才気と大局の本質を突く感性によって気づいていた。

 これは開発してはいけない術だ、と。

 

 月日が経ち、千手柱間は亡くなる。火影を継いだのは、実弟の千手扉間であることは歴史が示しているところだ。彼は、柱間の言葉を真摯に受け入れ、術の開発は行わなかった。里も、他里の関係も、良好だったからだ。

 

 そんな時にある人物が、実験を行った。

 

 人物の名は―――うちはヒトリ。

 

 長きに渡る、千手一族とうちは一族の戦乱に、終止符を打った男である。

 

 戦乱の後期になると、うちは一族には大きく分けて二つの思想を持つ集団が生まれ始めた。

 一つは、うちはマダラを筆頭に、千手を滅ぼすために闘争の継続を謳う者たち。一つは、これ以上の不毛な争いを止め、妥協的な停戦に踏み切るべきだと述べる者たち。うちはヒトリは、後者の集団の筆頭だった。

 

『マダラ。私は、もうお前に付いていくことはできない』

 

 彼が妥協的な停戦を提案したのには、理由があった。

 彼には恋人がいたのである。

 名は、うちはナナギ。

 これまで、千手一族を滅ぼすべく、うちはマダラと共に活動していた彼の重心は、彼女と共に過ごす日々へと移り動いたのだ。

 

 このまま争い続けても、彼女との生活には未来を見出せない。

 

 どうやら、同じような思いを持っていた者たちがいたようで、彼の思想に賛同する者は、うちは一族の約四割にも上った。彼ら彼女らを引き連れ、ヒトリはマダラの前に対峙した。

 

『どうしてだ、ヒトリ! 分かっているのか! 今更、妥協案を提示し、受け入れられたとしても、うちはは今後、確実に迫害されていくんだぞ!』

『……分かっている。だが、私は、柱間という男を信じてみようと思う。少なくとも、これ以上の争いで命を落とす可能性よりも、賭けるに値するはずだ』

『結局は、自分の命が惜しいだけか……お前たちは……』

『マダラ、お前は私よりも聡明だ。分かるはずだ。このまま闘争を続けても、命ばかりを失い、得るものは限りなく少ないということを』

『俺は、そんな打算の為に動いている訳ではない。弟が……、そして俺が望む理想の為だ…………。お前のような男に……何が分かる……』

『……友よ、もう一度だけ言う』

『黙れ!』

『マダラさん。お願いします、ヒーくんの言葉を―――』

 

 ヒトリは左手を挙げて、後ろのナナギの言葉を制した。

 

『マダラ……私と共に来てくれ』

 

 しかし、この無謀とも思える交渉は、必然の如く決裂することとなる。ヒトリを含めた多くのうちはの者は、【柱間との対等な対話】を条件に、千手一族に降伏した。

 

 これを機に、千手一族とうちは一族のパワーバランスは加速度的に傾き始めた。うちは一族の大幅な戦力減少、そして千手柱間の雄大な人格の元に集った他の一族の力も借りた千手一族。長きに渡る戦乱の終結は、ヒトリらの離脱から、たった数年の時しか要さなかった。

 

 その後、木の葉隠れの里は創設され、平和の黎明期が訪れることとなる。

 

 うちはヒトリは、技術開発の顧問という地位に就任した。理知的で効率を重視する思想に加え、非凡な知能を有した彼は、それらの才能を十二分に発揮し、木の葉隠れの里に多分に貢献していった。その姿勢に、多くの者は彼に信頼を寄せ、その中には、千手扉間も含まれている。扉間とヒトリは、親友同士で、よく新術の開発などの議論を行うほどになった。穢土転生の術の考案の際も、扉間はヒトリからの意見を度々聞き、ヒトリも彼との議論を楽しんでいた。

 

 ようやく、訪れた平和な世。

 

 ヒトリはナナギとの生活を油断なく育みながら、平和の維持のため、木の葉隠れの里への貢献に尽力していった。

 

 そんな彼が行った、実験とは―――死者を現世に蘇生させるというものだった。

 

 そう。

 

 それこそ正に、後の世に名実を残すこととなった、穢土転生の術だった。

 

 扉間と共に考案していた、技術のみを復活させることを目的とした術とは、一線を画すものである。

 

 しかし実験は―――失敗に終わる。

 

 死者の魂を現世に口寄せする事には成功したものの、魂が肉体に定着することはなく、蘇生された死者は間もなく二度目の死を迎える結果となった。

 

 実験の事を知った扉間は、穢土転生の術を禁術とし、研究を凍結させたが、うちはヒトリに対しては、死者を冒涜するような実験を行ったにも関わらず、大きな処罰は下さなかった。

 

 うちはヒトリには、その実験を行ってしまった、明確な原因があったからだ。

 

 うちはナナギ。

 

 彼女は、木の葉隠れの里が創立されてしばらくの後に、亡くなっている。

 

 

 

 任務において、原因不明の致命傷を負ったのだ。

 

 

 

 ナナギを隊長とした部隊は、彼女の損傷によって任務遂行不可と判断し、すぐさま木の葉隠れの里に引き返した。

 

 運び込まれた彼女の肉体は、幾つもの穴が開いていた。血は勿論、腹部の内臓の欠片も穴から零れ落ちようとし、無残な姿だった。

 

『ヒーちゃん……、フウコを…………、私の分まで……幸せにしてあげて』

『何を言う……、何を言うんだ、ナナギ……。私はお前がいないと、何もできないんだぞ…………、ずっと、私の傍にいると……………、約束したではないかっ! ……医療班、早くナナギを治せッ! お前らの医療忍術は、そのためにあるのではないのかッ!』

 

 彼女と共に幸福な日々を手にするため、果てのない闘争を重ねようとするうちは一族から離反したヒトリにとって、それらの代償として得た冷酷な現実は、あまりにも消化しきれるものではなかった。

 たとえ人としての倫理を、自然の摂理を否定してでも、彼は彼女を取り戻したかったのだ。

 

 友人であり、うちは一族との争乱に終止符を打つきっかけの一つとなった功績、そして何より、愛する者の死。

これらを考慮した扉間は、技術開発顧問の地位剥奪および三か月の謹慎処分を命じるのみとした。ヒトリも、愛する者を二度も死なせてしまった罪悪に目を覚まし、もう二度と実験は行わないと誓い、平和な世を生きていくと誓った。

 

 だが、

 

 僅か、数週間後。

 再び、理不尽が襲い掛かる。

 

 彼には、一人の娘がいた。

 

 娘の名は―――うちはフウコ。

 

 たった一人の愛娘だった。

 当時、四歳。

 

 彼女は事故に遭遇した。

 

 どのような事故だったのか、誰も目撃していないという、奇妙な事故に。

 

 頸椎を損傷したが、医療忍者らの尽力により、何とか命を取り留めたものの、彼女の手から自由が、残酷なまでの無邪気さを伴って剥奪された。

 生涯、寝たきりの生活。

 ナナギと約束したばかりの、娘の幸福。手術を終えて、病院のベットで寝る我が子の額を撫でながら、彼は、嘘をつくことを決意した。

 

『フウコ、よく、聞きなさい。君は病気に罹った。だが、安心しなさい。その病気は、お父さんが必ず治してあげるからな』

 

 首から下を動かすことが出来ない事に不安な表情を浮かべたフウコは、ヒトリのその言葉に希望を宿した。

 その日からヒトリは、医療に関する知識をかき集め始めた。

 

『お父さん、いつ、病気治るの?』

『安心しなさい。お父さんが、必ず病気を治してあげるからな』

 

 フウコが退院してから、ヒトリは一日の殆どを家で過ごした。

 娘のサポートと、娘の身体を治す為の新術開発には、家で行った方がいいと判断したからだ。その日々は、意外と、充実したものだった。

 

『お父さん、絵本読んで』

『どんな絵本が読みたい? お父さんはこういうものを読んできたことがないから、とにかく多くを集めてきたんだ。読んでみたい本を言ってみなさい。お父さんが何度でも読んであげるからな』

 

 身体が治った時に、他の子よりも知識が遅れてはいけないようにと、あらゆる所から、教養に富んだ絵本をかき集めた。娘と同じベットで横になりながら絵本を読んでいると、いつの間にか静かな寝息を立てる彼女の寝顔は、ヒトリに癒しと力強さを与えてくれた。

 

『お父さん、いつ病気治るの? 私、遊びたい。みんなと忍者ごっこしたい』

『……フウコ、あまりお父さんを困らせないでくれ』

 

 様々な人材、様々な知識に頼っても、新術の開発は進まなかった。

 他者を攻撃する為の術は、チャクラや印の知識、あとは稀有な発想さえあれば造りだすことは可能だったのに対し、医療忍術はそれらに加えて、人体の知識も必要だった。

 そしてその時代、人体に関する情報は、あまりにも少なかったのだ。ましてや、神経というミクロの世界の情報など、ヒトリが求めているほどのものはまるで無かった。

 

 焦りと恐怖が、彼の頭脳を圧迫し始める。心の中にあるのは、娘への愛ではなく、ナナギへの約束だけだった。

 

『お父さん、アカデミーにいつ行けるようになるの?』

『フウコ。……大丈夫だ。絶対に…………私が、お父さんが、病気を治してみせるからな………。大丈夫だ…………大丈夫』

 

 それはもはや、フウコを安心させるための嘘ではなく、自分に言い聞かせる妄言に等しかった。何かの呪いにでも憑りつかれたかのように、日に日に彼はやつれていった。

 死の恐怖をも遥かに上回る、約束を果たせない恐ろしさ。

 そしてその後にやってくるかもしれない、全てを失った罪悪と絶望の人生が、意識もしていないのに脳に侵入してくる。その度に、震える両手で頭を抱えてしまう。いつかこの両手が、あまりの苦しみに、自らの首を絞めつけようとするのではないか、そんな妄想を、必死に抑え付ける日々が続いた。

 

 フウコに絵本を朗読し、寝静まった彼女の柔らかい黒髪と丸い頭を撫でながら、ヒトリは静かに涙を流した。

 

『何故だ……、何故、私たちだけ…………。ただ、幸せに暮らしたいだけなのに……。

『ナナギ、教えてくれ。私は、どうすればいい? どうすれば、君との約束を果たせる? フウコを幸せにするには、君の分まで幸せにするには……、私は、分からない。教えてくれ……ナナギ…………。

『何のために、私はマダラを裏切ったんだ! 平和な世を作ったのは、私のはずだ…………! 何故、他の者ではなく、フウコなんだ……、私なんだッ!

『私にだって……幸せになる権利が、あるはずだ……。誰よりも……、他ののうのうと生きる愚かな者の、誰よりも…………!

 

 とうとう彼は、崩壊した。

 

 損得も倫理も関係なく、ただただ―――娘の為に。

 その思想は、ナナギを蘇らせようとした時のそれだった。

 善意でも、悪意でもなく。

 あらゆる障壁を排斥し、何事をも顧みない、無慈悲な嵐のように、

 彼は、術を開発し始める。

 医療忍術ではなく。

 穢土転生の術をベースとした、新たな術を。

 

 遂に、うちはヒトリは、解に辿り着く。

 

 穢土転生の術を参考に開発された禁術―――浄土回生の術。

 

 人一人の健康的な肉体と引き換えに、対象の人物の肉体を再構成する術。穢土転生の術は、生者に塵が纏わりつくが、浄土回生の術は、生者に【健康な生者の細胞】が入り込む。

 再構成された肉体は、穢土転生の術のような不老不死などではなく、確かに老いて、怪我もする、完全な生者のそれ。さらに、チャクラ量は取り込まれた『健康な生者の細胞』との相乗効果で増加し、身体機能も増加する。

 

 うちはヒトリは狂喜乱舞した。

 

 組み立てられた理論には非の打ち所がなく、完璧なものだと確信していたからだ。

 

 予備実験をする時間も暇もなかった。

 一度、扉間に諌められた身だ。

 もし、再び見つかってしまえば、活路は……フウコの未来は閉ざされてしまう。

 何度も理論を見直し、シミュレーションを繰り返し、あらゆる変数を抽出し、処理し、そうしてようやくヒトリは、行動に移す。贄となる実験者は、既に決まっていた。もはや、他者の命について考慮できるほど、彼の思考は柔軟ではなかった。

 

 贄となる人物―――名を、八雲フウコ。

 

 奇しくも、彼の愛娘と同じ名を持つ少女だった。

 

 八雲一族。

 

 木の葉隠れの里が創設される以前から、千手一族と関わりを持っていた一族だ。創設されてからも、柱間は彼ら彼女らと交流を持ち、けれど木の葉隠れの里には加盟しなかった者たちである。

 八雲一族の存在は、一部の者しか知らない。

 千手柱間を始めとした木の葉隠れの里の上層部。扉間が火影になってからは、彼の側近として扱われていた、猿飛ヒルゼン、志村ダンゾウ、うちはカガミ、そして、うちはヒトリ。彼らは、八雲一族と定期的に交流を図った。

 

 しかし、八雲一族は、八雲フウコを遺して、滅亡した。

 彼女は、一族が保有する血継限界によって、心を壊されていた。

 そして、扉間に、我が子のように育てられた少女だった。

 当時、十二歳。

 扉間に育てられ、壊れた心の一部が修復されようとしていた彼女は、既に上忍の地位にいた。

 ヒトリは彼女を呼び出した。

 扉間を喜ばせる、新術が開発できるかもしれない、という言葉を使って。

 彼女は、扉間を心の底から慕っていたのだ。

 

『ヒトリさん、お久しぶりです。私にしかできないこととは、何ですか?』

『ああ、君にしかできないことだ』

『扉間様が、貴方に会いたがっています。また、里の平和の為に貢献してほしいと、願っています』

『そうか。そうだな。しかし、この術の開発が成功してからでも遅くはないだろう。私は少しでも、彼の負担を減らしてあげたいと考えている。君は違うか?』

『……そうですね。扉間様からは、多くのことを教えていただきました。私も、出来ることなら、扉間様への恩を返したいと思っています』

『君は、彼のことを大切に思っているのだな』

『はい。一時は、殺してやりたいと、思っていましたが、今では、もう、そんな風には考えません。母も、私が生きていくことを、望んでいると思います。私に残った最初の記憶が、母の言葉ですから』

『素晴らしい。では、君の為にも、彼の為にも、すぐに準備に取り掛かろう。少し痛みを感じるかもしれないが、我慢してくれ』

『……これは、何ですか?』

『ちょっとした痛み止めだ。飲みたまえ』

『いただきます。ごくごく……。あの、どれくらい痛いのですか?』

『安心しなさい。―――ただ、心臓を抉りだすだけだ』

 

 ……かくして、実験は…………偶然にも、成功してしまった。

 

 そう、偶然にも。

 

 ヒトリの不可解な行動を目撃していたダンゾウが扉間に報告をしてすぐ、彼らはヒトリと八雲フウコが向かった研究室へと向かった。

 

 そこで発見されたのは、生きたまま心臓を取り出され絶叫を挙げる八雲フウコと、彼女の心臓を大事そうに抱える血塗れのうちはヒトリ、そして静かに眠っているうちはフウコだった。

 

 術は完成し、うちはフウコが目を覚まし、難なく身体を起こした。

 

 次の瞬間、その場で何が起きたのか―――それは、想像に難しくない。

 

 かくして、浄土回生の術は成功した。

 

 偶然にも、成功したのである。

 

 後に、うちはヒトリの研究ノートを読み解いた者たちは、口を揃えてこう述べた。

 

 ―――なぜ、こんなものが成功したのか。

 ―――これは、忍術としての工程は踏んでいるが、成功するのは幾億分の一ほど。

 ―――気狂いした者の、妄想だ。

 

 何が遠因となって、成功したのか、誰にも分からない。

 

 ただ、事実として。

 

 うちはフウコの肉体は、八雲フウコを贄として健康体へと再構成され―――そして、八雲フウコの精神は、うちはフウコの肉体に内包される事となる。

 

 

 

 最後に、これは【フウコ】に直接的な事柄ではないが、記述すべきことがある。

 

 

 

 どうして彼女ら二人は、容姿を保ったまま、イタチと出会うことが出来たのか。

 浄土回生の術には、穢土転生の術のような、不老不死の性質はない。それは、イタチと共に成長した【フウコ】の肉体が証明している。

 

 時代を飛び越えた、裏の事実。

 

 それは、千手扉間の、決断によるものだ。

 

 彼は、うちはフウコを殺すべきだと、考えていた。

 いつか彼女は、木の葉隠れの里に大きな災いを呼ぶ。

 母の死を経て、自身の不幸を体験し、そして、目の前で父を殺されるのを目撃し……そして、万華鏡写輪眼を得るまでに至った、哀れな子。万華鏡写輪眼は、八雲フウコの細胞が入ったせいなのか、本来ありえない筈の、左右非対称。

 

 しかし彼は、同時に、躊躇いもあった。

 

 うちはフウコの身体の中には、八雲フウコの細胞も眠っている。

 理知的な彼からは程遠い、情動的な思考。

 本質ではなく、形質を重んじてしまった。

 蘇るのは、彼女を我が子のように育てた、柔らかな記憶たち。

 

 手が震え、奥歯を噛みしめる。

 

 一瞬の躊躇い。

 

 けれどその躊躇いは、思いもしない事態を巻き起こす余地となった。

 

『……扉間様?』

 

 平坦な声。

 聞き覚え、などという表現ではあまりにも足りないくらいに聞いてきた声質に、扉間の表情は、驚愕に包まれた。

 

『……フウコ、なのか?』

『はい。私です……扉間様。今、フウコちゃんを……私が抑え込んでいます』

 

 およそ、干支一周分の年齢差がある二人。

 精神チャクラを大いに上回っている八雲フウコが、身体の【支配権】を奪ったのだ。

 けれど、八雲フウコは表情を歪めた。

 中にいる、うちはフウコの激情が、八雲フウコの精神を痛めつけているから。

 

『……扉間様………、どうか、私を…………私たちを、殺してください…………』

 

 いつかフウコちゃんは、里に復讐をします。

 彼女の気持ちが分かります。

 里の平和の為に、どうか、

 

『私を殺してください』

 

 八雲フウコは、視線を巡らせる。

 

 何か他にいい方法があるのではないかと、辛そうな表情を浮かべながら思案する、猿飛ヒルゼン。

 状況を理解し、そして消化しようと必死に耐える、志村ダンゾウ。

 悲しそうな表情を浮かべながらも、何も言わずに瞼を閉じている、うちはカガミ。

 

 そして、扉間は―――。

 

『フウコ。お主を殺したりはせぬ』

『え?』

『すまぬ……、全て、ワシの責任だ』

 

 屈み、彼の両腕が、八雲フウコの身体を包み込んだ。

 

 彼の肩に、小さな顎が乗る。

 暖かさが、首筋を通り抜けて、背中に広がった。

 苦しみも、悲しみも、全てが和らぐ。

 

 彼の両手が、自分の髪の毛をかき分ける。心地よい、感触だった。

 

『お主を……、封印する。フウコ』

『それは…………、火影としての、判断ですか?』

『そうだ』

『……良かった』

 

 腕が離れる。

 彼は、いつもの、厳格で、実直で……そして、優しい表情を浮かべていた。

 

『平和な世を、必ず、ワシと、そして木の葉の子らが実現してみせる。だから、フウコよ……お前はその世で生きろ』

 

 

 

【フウコ】は封印されることとなる。

 

 長い刻を超えて。

 

 そして、

 封印は、

 解かれることとなる。

 

 第三次忍界大戦―――末期に。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誘惑の排中律

 長い刻―――いつ目覚めるとも分からない封印の中で、フウコは何度も、彼女に対話を試みた。

 

肉体の活動は停止しても、魂の交流は可能だった。はたして、どちらの精神世界をベースとしているのか定かではないが、蒼い空と碧い海が覆うその世界では、魂は自由に動けた。時折、空には砂塵のような雲が生まれたり、冷たい風が吹いたりすることもあるけれど、おそらくは、それらはもう一人のフウコの心情の変化を象徴しているのだろう。雲が何を表し、風が何を伝えようとしているのかは、分からないが。

 

 檻も、まだ作っていない、互いに自由な世界。

 

 けれど、フウコの言葉に、一度も彼女は返事をしなかった。小さな身体を丸めて、顔を挙げてもくれない。だけど、いつか封印が解かれた時、平和な世を破壊するようなことをしてほしくなくて、何度も対話を求めた。

 

 何度も……、何度も…………。

 

 どれ程の時間が経過したのか。

 精神世界では、肉体が感じるべき時間経過を得ることができないため、分からない。ただ、出来れば、扉間が生きている時に、封印を解いてほしいという願いはあった。あったのだが、その願望は、限りなく遠いものだと、悲しく理解していた。

 

 だけど、自分は誓った。

 

 封印される前に、彼に誓ったのだ。

 

 里の平和を守ると。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「この身体を、貴方に返すことはできない」

 

 檻を隔てて、フウコは断言した。

 身体の支配権を渡せば、瞬く間に彼女は、里を壊す。今は、うちは一族という爆弾を抱えてしまっている。何としても、渡すことはできない。

 

「―――ふふふ。酷いなあ、フウコさんは」

 

 ついさっきまで、悲痛な表情を浮かべていた彼女は一転して、笑みを浮かべた。

 自分よりも年下のはずなのに、彼女の笑みは、背筋を寒くさせるほどの妖艶さを放っていた。

 小さな彼女の手が、檻を掴む。フウコは、すぐに精神チャクラを檻に注いだ。

 今、彼女を抑え込んでいるのは、精神チャクラをただ具現化しただけの柱だ。封印術でも何でもない。元々の年齢に差があるため、精神チャクラにおいては大幅な差がある。檻を破られることは万に一つもないのだが、それでも、警戒してしまう。

 

 檻の中からでも、彼女は幻術を行使することが出来てしまうのだ。檻は彼女の精神世界での動きを拘束するだけで、彼女のチャクラそのものは縛れない。

 

 身体の支配権を、虎視眈々と狙う彼女から、どのような不意も食らわないように、檻にチャクラを集中させたのだが、彼女は意に介さないまま、ケタケタと笑った。

 

「人から色んなもの、盗んでおいて。人の色んなものに、寄生しておいて。少し、悪いなあって、思ったりしないの? ふふふ、酷いなあ」

「フウコちゃんも、知ってるでしょ? 今、木の葉は危険な時期なの。もし、私のことが気に食わないなら、全部終わってからにして」

 

 肉体のベースとなっているのは、彼女の方だ。そのため、肉体が獲得する経験や知識を、彼女はフウコと同じように得ている。

 言葉遣いや忍術の知識も、全て、彼女は知っている。もちろん、うちは一族のことも。

 

 逆に、自分が支配権を持っていない時は、外で何が行われているのかを、知ることはできない。そう、自分はこの身体においては【部外者】なのだ。それを証明するのは、この世界での自分の姿。かつての本来の姿ではなく、彼女の身体が成長した姿に、精神の形は模られている。

 

 彼女は「嫌だよ」と、赤い瞳で見上げてきた。

 

「寄生虫みたいに生きてるくせに。人の身体に寄生して、人の家族に寄生して、人の友達に寄生して……ふふふ、気持ち悪い。次は何? 財産とか?」

「静かにして」

「酷いなあ、酷いなぁあ? ふふふ」

 

 神経を逆撫でされる、挑発的な声。

 いつから、彼女の言葉に、感情を揺さぶられるようになってしまったのだろう。

 冷静になるために、客観的に自分を見ようとするが、上手くいかない。

 

 逆に、完全に感情を暴発させられる一言が、フウコの意識を揺さぶった。

 

「きっと、イロミちゃん、悲しんじゃうかもね」

 

 感情が、赤くなる。

 瞼を、無意識に大きく開いていた。

 思い出されるのは、笑顔で自分の名を明るく呼んでくれる、親友の姿。

 

「自分の大切な友達が、本当は、偽物だったなんて知ったら、泣いちゃうかも。ううん、きっと軽蔑すると思うなあ」

「……静かにして」

 

 首の後ろがざわざわと慌てだす。ぐちゃぐちゃになりだす自分の感情を統制できなくなってきた。

 それを察したかのように、彼女は言葉を強め、ニタニタと粘着質に口角を吊り上げた。

 

「だって、イロミちゃんが友達だと思ってるのは、イロミちゃんと友達になったのは、私なんだもんね。フウコさんじゃなくて、わ・た・し! ふふふ。ああ、今でも、しっかり思い出せるの。イロミちゃんと、手を繋いで、あの綺麗で楽しい夜を探検したこと。色んなこと、お話ししたの。それでね、約束したんだ。また一緒に、今度は目一杯遊ぼうねって」

「……黙れ」

「悲しかったと思うなあ、イロミちゃん。アカデミーで、フウコさんを見た時。すっごい悲しかったんだと思うよ? 私も、凄く悲しかった。本当なら、私だったのに。でも、良かったぁ。イロミちゃん、目が視えるようになってて。ふふ、フウコさんは知らないでしょ? 盲目だった頃のイロミちゃんを、純粋なイロミちゃんを。フウコさんは、だから、ただの、寄生虫なの。イロミちゃんの友達ですらないの。偽物だから。ああ、イロミちゃん、イロミちゃん……ふふ、素敵な名前。ねえ、さっさと、身体、返して? フウコさんは、本当の友達じゃないんだから。ねえねえ、早く、返してよ、偽物」

「黙れぇッ!」

 

 喉が裂けるほどの、大声―――それは、意識して出したものではなかった。

 気が付けば、声を荒げていたのだ。

 九尾の事件の時に、仮面の男に向けて荒げた声と遜色ない。ただ、殺意ではなく、純粋な怒りだけが含まれている違いしかなかった。

 

 大股で檻に近づくと、フウコは右手で彼女の前髪を乱暴に引っ張り上げ、自分の額を彼女の額にぶつけた。

 

 痛みで表情を歪める彼女に、フウコは容赦なく言い放つ。

 

「貴方には、絶対に、身体を渡さない」

「……っ、ふ、ふふふ。その身体は、私のなのに、渡さないって。変なの。いっ……!」

 

 前髪を掴む右手に力を入れた。

 

「いい? もう二度と、私の……私たちの邪魔をしないで」

「どうせ、上手くいかないんだから」

「成功させる。イタチとシスイがいれば、絶対に、大丈夫だから」

「いつになったら、じゃあ、身体、返してくれるの?」

「貴方が里の平和に手を出さないって、誓ってくれたら」

 

 この時、フウコは、脳裏に微かによぎった未来へのイメージを無視した。

 

 目の前にいる子が、本当に、心から改心して、里の平和を守っていくと誓った後の未来。

 

 イタチと兄妹として健やかに過ごしていく、彼女。

 シスイと楽しそうに里を歩いていく、彼女。

 イロミと共に頑張りながら忍として生きていく、彼女。

 

 彼ら彼女らの影で、孤独に、置いてかれる自分。

 忘れられていく、自分。

 

 怒りに任せて、フウコは、そのイメージを見ようともしない。

 

 目の前の、彼女が、優しい笑顔を、作った。

 

「嫌だよ、ばぁか。あははははははッ!」

 

 彼女が嗤って否定してくれたのに、安堵している自分がいることを、フウコは、無視した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『もう、会うことはないかもしれないね、フウコちゃん』

『私も、そう思うな。というより、フウコさん、もう二度と、私の前に顔を出さないで。気持ち悪いから』

『さようなら、フウコちゃん』

『ふふふ。もうすぐ……、もうすぐなの……。マダラ様が、私を助けに来てくれる。そして、夢の世界に、連れてってくれるの。ふふふ』

 

 もはや後戻りできない決別を互いに宣言し、フウコは、意識を身体に戻した。

 

 幻術のせいで、肉体に変な負担がかかってしまっていたのか、気だるい疲れがやってくる。

 

「おい、フウコ」

 

 視界がはっきりしてくると同時に、心地の良いシスイの声が、鼓膜を揺らした。頭を垂れていたせいで、真っ先に目に入ったのは自分の両足と地面だった。右手には、彼の手の感触が。顔を挙げて、隣の彼の顔を見ると、不思議そうな表情を浮かべていた。

 

「どうしたんだ? 急に黙って」

「……ああ、シスイ」

 

 どれくらいの時間が経過していたのか、とか。

 意識を底に沈めていた間に自分の身体に変化はなかったのか、とか。

 

 それらの些細な事柄を脇に、フウコは彼の首筋に左手を伸ばしていた。

 

「な、なんだ? くすぐったいぞ」

 

 繋がってる。

 筋肉と血液の温かさが、確かにある。

 幻術だと分かってから、彼の生存は確定したようなものだったけれど、ほんの微かな不安も、あった。

 こうして手を伸ばして感じ取ってみるまで、安心できなかった。

 

 ―――ああ、生きてる。良かった。

 

 安堵と共に肩の力が大きく抜けてしまい、つい、身体が、彼に寄りかかってしまった。

 

「……どうした?」

 

 優しい声。

 フウコは力なく、首を横に振って否定する。

 自分のことを―――うちはフウコの事を話すことは、出来ない。

 それは、ヒルゼンやダンゾウらから、口止めされているからだ。

 

 しかし、どうだろうか?

 

 話してしまえば……、話すと、どうなるのだろうか? 

 

 与太話だと、いなしてくれるだろうか。

 それとも、本当に信じて、この不可思議な自分の状態を解決しようとするのだろうか。

 あるいは、自分を、軽蔑するのだろうか。

 

 予測が難しい。

 

 シスイなら、もしかしたら、この事態を解決してくれるかもしれない。彼の人格なら、ありえる。

 そう思う反面、暗い想像も、影のように心の底で蠢いているのも、想像の中に入り込もうとしているのが分かる。

 

 ―――いや、

 

 もう止めよう、とフウコは判断する。

 もう、彼女に対話を求めても、意味がない。

 つい先ほど、完全な、決別をしたのだから。

 

 この身体は、もう、私の―――。

 

「……お線香は?」

「消えたみたいだな」

 

 そう、とフウコは呟く。

 

「じゃあ、帰らないとね。イタチが心配。怒ってるかもしれない」

「そうだなあ。あまり遅いと、俺が殺される」

 

 そんな筈はない。そう思うと、本当に微かにだけ、笑みを浮かべてしまった。彼なりの、ジョークなのかもしれない。それに、様子が変だと感じているようだけれど、彼が深く訊いてこないのも、もしかしたら気を使ってくれているのだろうか。

 

 二人は立ち上がる。

 

 気だるさを感じながらも、意外と難なく立つことが出来た。シスイと二人で、ここに訪れた痕跡を消す。帰路を歩く時も、辺りに誰かいないかと気配を集中させる。しかし、何だか集中できていないような気がした。

 自分の右手を握ってくれているシスイの体温が、その原因だった。フウコも、彼の左手を強く握っている。

 

「……ああ、シスイ」

「ん? なんだ」

「伝え忘れてたことがあるの。ダンゾウが、今後は、危険な任務はしなくていいって」

「お、それは良いな。サボりたい放題だ」

「いや、でも、形式だけはするようにだって。だから、本部には顔を出して」

「なんだ、そうなのか。まあ、気を利かせてくれたのだけは、嬉しいな。これで、少しだけ楽になる」

 

 ダンゾウが協力的だというのは、イタチもシスイも知っている。しかし二人とも、完全に彼のことを信用している訳ではないのも、事実だ。それでもシスイは、笑顔を浮かべている。

 いつでも、彼は笑顔だ。

 彼ほど、笑顔が似合う人物を、知らない。

 彼の手を握る手が、少しだけ、また強くなった。

 

 ただ、彼が死んだ、あの幻術の映像が、頭から離れない。

 

 あの瞬間に抱いた、喪失感。

 彼の命と、彼と共に過ごすであろう楽しい未来。

 イタチとイロミが悲しむ姿も思い浮かんだ。

 それは、悲しい現実だった。

 

 怖いと、思った。

 何よりも来てほしくない現実だと、思った。

 

 シスイの家の前に着く。会話は特に無かったけれど、あっという間だった。

 

「術の調整は、いつにする?」

 

 術。

 それが示すのは、一つしかなかった。

 

「イタチの予定次第だと思う。でも、明日は会合がないから、夜にでも出来るかも」

「分かった。決まったら、連絡してくれ」

「うん」

「……何か、辛いことでもあったか?」

「え?」

 

 顔を挙げると、シスイの顔は真剣だった。

 けれど、すぐに彼は、また笑って、繋がっている手を軽く上げた。

 

「今日はいつもより強く握ってくれるからな。というか、少し痛いくらいだ」

 

 言われて初めて、フウコは自分の手が予想以上の力で彼の手を握っていることに気が付いた。慌てて、力を緩める。

 

「……ごめん」

「いや、謝らなくていいって。嬉しいけどさ。ただ、様子が変だぞ?」

「気にしないで、何でもないから」

「あんまり、無理するなよ。お前は昔っから、一人になりたがるからな。アカデミーの頃は殆ど友達作らなかったし、さっさと卒業するし」

「ありがとう。おやすみ、シスイ」

「ああ、また明日な」

 

 ゆっくりと、手が離れる。

 

 まず、手のひらから彼の体温が離れた。そして指先。まるで飴細工を扱うように、指の一本一本から、離れていく。

 

「おやすみ、フウコ」

 

 完全に離れてしまった寂しさの代わりに、彼の言葉が入り込んで、安心する。

 シスイが家の中に入っていくのを見てから、フウコも、足を帰路に進めた。

 

 家に帰ると、まだフガクは帰ってきていなかった。既にミコトは寝静まっていて、けれど、イタチは居間にいた。

 

 いったい何をしていたのか。

 

 真剣な表情で尋ねてくる彼が可笑しかった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 全てが、上手くいくはずだった。

 

 少なくとも、強大な邪魔が入る要因は皆無のはずだと、フウコは考えていた。

仮面の男にはマーキングを施し、いついかなる時に木の葉隠れの里に侵入してきても、確実に対応できるようにしている。自分の中に巣くう彼女は、もうこの身体を奪い返すこともできない。

 

 あとは、自分たちが開発した【複合幻術・十五夜之都(じゅうごやのみやこ)】とシスイの万華鏡写輪眼による【別天神】で、うちは一族を沈静化させるだけ。

 

 かれこれ、何度もシミュレーションを行った。

 考えられるアクシデントも話し合い、それに対応する効率的なパターンもシミュレートした。

 何度も繰り返した。

 本当なら、まだまだ、調整は必要なのだけれど、時間が無くなってきたのだ。

 

 翌日、フウコとイタチに、フガクから、とある話しが入り込んできた。

 

 三日後。

 

 うちは一族の中心人物と、火影を中心とした上層部が会談を行うことが決定した。

 かれこれ、どれほど行われてきたのか、もはや回数すら覚えていない、無意味な会談。

 互いに平行線の主張を繰り返し、最終的に分かることは、うちはと木の葉隠れの里には埋められない溝を明確にした、という空虚な現実だけ。

 

 しかし、その会談が、ボーダーラインだと、フウコも、そしてイタチも、言葉を交わすことなく冷静に判断した。次の会談は、行われない。代わりに、クーデターが、準備期間を経て、起きるだろう。

 

 フウコとイタチは、その後、シスイと合流し、話し合った。三人とも、その日は特に予定が無かったのが幸いだった。

 集まったのは、夕方頃。

 場所は、顔岩の上。

 そこで三人は、最後の調整を行った。

 術は、何も問題なく、成功した。

 

「あとはタイミングだけだな。どうする?」

 

 術の調整も終わる頃には、太陽は西の空に消え、三人の影が薄くなり、空そのものが影になり始めていた。

 地面に描かれたうちはの町の図を見下ろしながら呟いたイタチに、シスイが応える。

 

「なるべく、一度にうちは一族を幻術に嵌めれる時がいいな」

「なら、準備期間がいいな」

「他には考えられないか?」

 

 シスイは真剣な表情で自分の顎を撫でた。

 

 本番は、一回限り。ミスは許されない。

 それは、うちは一族に、自分たちの裏切りが発覚するということもあるが、他にも、シスイの万華鏡写輪眼による【別天神】の制約によるところもある。

 

 別天神は、最上級クラスの幻術である。

 

 通常の幻術とは異なり、幻術を仕掛けられている、ということを対象者に認識させない。それはつまり、思考回路そのものを書き換えるのと同意と言っても誤りはないだろう。術は、術者が解除しない限りは永続的に作用される。

 

 しかし、その強大な力のせいなのか、別天神には制約が存在する。

 

 一度使用すると、次に使用できるまでには、長い期間を要するのだ。

 

 右眼と左眼、合わせて二度しか使用できない。

 

 理想を言えば、一度目の使用だけで、うちは一族全員を幻術に閉じ込めたい。しかし、それは里の警備を担う警務部隊に所属するうちはには、夜勤担当者がローテンションで幾人か存在するため、町にうちは一族全員が収まることは、現状ありえない。

 

 そのため、プランとして。

 

 一度目の使用で、大半を幻術に嵌め。

 二度目の使用で、残りを嵌める。

 

 故に重要なのは、一度目のタイミングなのだ。

 

 なるべく、二度目の使用の際の人数を減らしたい。

 

 シスイがフウコを見る。真剣な彼の顔を、フウコは見つめ返す。

 

「ダンゾウには協力を仰げるんだな?」

 

 フウコは頷く。

 

「問題ない。だけど、手数は限られると思う」

「多人数だと、他の人たちに感づかれるか……」

「それに、手を貸してくれるのは、直前だけ。だから、外から、例えば警務部隊の夜勤を別の人に交代させるとか、そういうのはできない。実質手伝ってもらえるのは、私たちが、幻術でコントロールしている時に、万が一、零しがあった場合に、その人を捕らえることくらいだけだと思う」

 

 ダンゾウには既に、自分たちのプランは説明してある。その際に、ダンゾウの対応も聞かされていた。

 暗部は慎重に動かざるを得ないのは、分かり切っていた部分ではあるため、シスイは特に失望したようなリアクションはしなかった。

 

 議論はそのまま続いた。

 

 様々な可能性を模索し、より信頼の高いものを話し合い、しかし、やはり結論として、会談が終わった翌日に決行することになった。

 

 その日なら、多くの者が、せっせとクーデターの準備をするだろうと判断したからだ。

 完全に油断し、同時にほとんどの者たちが街に集まる。

 決行時間は、子の正刻。

 

 それが、三人で導き出した、最終結論だった。

 

「私は、このことをダンゾウに伝えに行く」

 

 イタチとシスイは同時に頷いた。いよいよ本番の日時が決まったことによって、二人の表情は真剣だった。けれど、緊張している訳ではないということが、何となく分かる。おそらく、自分と同じなのだろう、とフウコは判断した。

 

 もうすぐで、こんなくだらない時間が終わる。

 こんな、うちはのくだらない思想に費やさなければならない時間が。

 内側から崩壊するのではないかという不安に駆られる夜にも、愚かしい戯言が繰り広げられる会合に参加する日も、消えてなくなる。

 

 待っているのは、間違いなく、有意義な日々。

 喜びと興奮が、三人の胸の中にはあった。

 

 イタチは家に帰っていく。フウコに暗部の仕事が入ったから今日は帰りが遅い、ということをフガクとミコトに伝える為にだ。

 シスイも家に帰ったが、彼とはすぐにまた会う予定だった。彼はフウコと異なり、本当に暗部の任務が入っている。入っている、と言っても、形だけで、ただ本部に顔を出すだけである。家に帰るのは、暗部として色々と準備する為だ。

「またな」と言って姿を消す時に、ようやくシスイは笑顔を見せた。その笑顔を見るだけで、力が湧いてくる。

 

 心の力。

 

 クーデターを阻止することができるという、確信だ。

 

 全て、上手くいく。間違いない。

 

 顔岩の上に、一人になったフウコは、おもむろに、そこから見下ろす事の出来る里の風景を眺めた。

 すっかり夜になってしまったものの、まだ里の至る所から住居の光が溢れている。街頭の下を歩く人の姿も確認できる。

 もうここからこの景色を眺めることも、もう無いだろう。これからは、自分があの中に入って、平和を享受するのだから。

 

 無意識に溢れ出てくる未来の予測に、フウコの口端は、子供のように、小さく笑顔をかたどった。

 

 

 

「うちはフウコだね」

 

 

 

 予期せぬ、知らない声が、後ろからした。

 男性の声。

 だが、その声は、どこか、楽しそうにはしゃぐ無邪気さが含まれていた。

 

 背筋を一瞬で震わせたその声に、フウコは笑みを消し、振り返る。

 

 そこには―――白い男が、生えていた。

 

 即座にフウコは、刀に手をかけた。

 すぐに切り付けなかったのは、他に仲間がいるのではないかという、瞬時の判断によるもの。

 完全に背後をとっていたにも関わらず、わざわざ声をかけてきたのに、嫌らしい罠の気配を感じ取ったのだ。

 両眼は既に、写輪眼を展開している。

 白い男―――白ゼツは、射殺すようなフウコの視線を受けながらも、飄々と笑って見せた。

 

「おっと! 俺を殺そうとしても、意味がないよ。別に戦いに来たわけじゃないからね」

「お前を殺すか殺さないかは、私が決める。お前は何だ」

 

 低く、冷たい声。

 間合いは、全力で動いて、たったの二歩ほど。

 身体の姿勢から、その気になればいつでも首を切り捨てることができるだろう。

 油断している、という訳ではない。

 ただ本当に、目の前の男には、戦う気が無いのだと、フウコは判断したが、鋼のような集中力を切らすことはなかった。

 

 白ゼツはにやりと笑う。

 

「俺は伝えに来ただけだよ。伝達役、それだけ。むしろ殺したら、損をするから気を付けた方がいいよ」

「なら、さっさと話せ」

「今、俺の仲間が、滝隠れの里を襲撃している」

「……滝隠れ?」

 

 仲間の存在を示す言葉よりも、フウコの思考は先に滝隠れの里に引っ張られた。

 まるで見当違いの方向から飛んできたワード。

 しかし、すぐに、答えに行きつく。

 

「そう。七尾の人柱力を狙っているんだ」

 

 全身の産毛が逆立った。

 七尾。

 尾獣。

 それに関わる、最悪の人物の顔が想起された。

 

「今頃、暗部に救援要請が来ている頃だろうね。早く暗部に―――」

 

 白ゼツの言葉は、そこで途切れることとなる。

 音もなく接近したフウコによって、首を絞められたからだ。

 たったの左腕一本。

 彼女の左手が、白ゼツの首を掴み、身体を引き上げた。顔岩の上に埋まっていた下半身は芋のように引き上げられ、そして、地面に叩きつけられる。

 

 容赦のない動作のフウコの表情は、怒りに染まっていた。

 

 写輪眼で、白ゼツの両眼を見下ろす。

 幻術だ。

 

「言え。うちはマダラはどこだ」

 

 つい先ほどまで笑みを浮かべていた表情は一転し、虚ろな表情になった白ゼツは、呂律の回り切っていない口調で「知らない」と応えるしかなかった。

 

「七尾を狙って、何をしようとしている」

「知ら、ない……」

「襲撃しているのは誰だ」

「角都と、……大蛇、丸…………」

 

 そこでフウコは、左手の握力を強めて、白ゼツの頸椎を圧し折った。

 

 ―――本当に、伝達だけだった。

 

 つまりそれは、男の語ったことが真実であるということを示している。

 深く考えるよりも先に、フウコは全速力でダンゾウの元へと向かった。

 

 怒りと困惑。

 

 それらの混沌とした感情を、歯を食いしばって抑え込みながら本部へ向かう。

 

 ダンゾウは、いつもの執務室に、ただ一人でデスクに腰掛けていた。

 

「ダンゾウさんっ」

 

 無表情を崩し、本部内であるにもかかわらず、様と付けない彼女を見て、ダンゾウの表情は小さく変化した。

 ランプの灯りが、フウコの長い髪の毛の影を揺らす。

 

「滝隠れの里が襲撃されているというのは、本当ですか?」

「……どこでそれを耳にした」

「教えてください、事実ですか?」

 

 彼の表情が硬くなる。

 

 それは―――男が述べたことが、正に事実として起こっていることを示していた。フウコはすぐさま、踵を返そうとする。彼女の心の中には、九尾によって壊された里の姿と、冷たく動かなくなった波風ミナトとうずまきクシナの姿、そして苦しそうに泣き続ける赤子の姿が思い出された。

 

 再び、あの惨劇が繰り広げられようとしている。

 

 怒りに身を任せて、乱暴に部屋のドアを開けた。

 

「待て、フウコ」

 

 暗く重いダンゾウの声が、部屋の壁に響く。

 

「冷静になれ」

「私は冷静です」

 

 彼女の声は、花を踏みつぶすように、荒かった。

 

「まだ、マダラが関わっていると決まったわけではない」

「先ほど、マダラの仲間を殺しました。滝隠れの里を襲撃していると、わざわざ伝えに来たようです」

「だとしたら、尚のことだ。状況を理解しろ、フウコ」

「七尾をみすみす、奪われろというのですか?」

「お前が死んだら、うちは一族はどうなると思っている」

「このまま七尾を奪われても、同じことになります。私は、行かせていただきます」

 

 仮面の男は、九尾を操っていた。

 なら、七尾を操る事も可能なのだろう。

 

 もう一度、あの夜がやってきたら―――誰が止めれるのか。

 

 たとえ止めたとしても、疲弊した里を、うちは一族は容赦なく乗っ取りに動く。

 状況はむしろ、悪化するのだ。

 修正不可能なほどに。

 

 いや、それは方便かもしれない。

 ただ単純に、仮面の男を殺したい。

 

 フウコは、後先を考えない怒りに、従属する安堵を求めていた。

 大切な―――千手扉間が創り上げた平和を傷つけた、仮面の男を殺したいという欲求に。

 

 ダンゾウの目が冷酷にこちらを睨んでいる。

 失望と諦観の入り混じった視線を、怒りを込めた視線で受け止める。

 

「俺がフウコに付いていきます」

 

 二人の視線は、部屋に入ってきたシスイに集中した。

 ダンゾウもフウコも、驚きを隠せない。

 

「事情は大体、他の連中から聞きました。俺も行きます」

「お前らは……自分が何言っているのか、分かっているのかッ!」

「はい、分かっています」

 

 硬い表情で、シスイは頷いた。

 

「その上で、言っています」

「駄目。シスイは里に残って。じゃないと―――」

「ダンゾウ様、フウコには絶対に無理はさせません。危険だと俺が判断した場合、すぐに離脱します。……それでは」

 

 シスイに腕を強引に引っ張られ、部屋を出た。後ろから、強く引き止める声が聞こえてきたが、シスイが速度を上げ、二人は本部を離れる。

 

 寝静まろうとする夜の里を、屋根を跳び、路地を駆け、門を潜り抜けた。そして、滝隠れの里の方向に数里ほど進むと、ようやくシスイは口を開いた。

 

「いいか、フウコ。無理はするな」

 

 冷静で力強い声質。

 

 これまで暗部として何度か任務を共に行ったことがある。【瞬身のシスイ】としての、彼。腕を引っ張られた状態のせいで、彼の顔は見えなかったが、研ぎ澄まされた表情が想像できた。

 

「俺たちにとって、今、重要なのは、里のことだ」

「…………分かってる」

「本当か?」

「お願い、シスイは、里に戻って。うちは一族には、私たちと違うパイプが暗部にはあるみたい。もしこの事態を知ったら」

「お前が里を離れているんだ。お前を抜きに里を乗っ取ると躍起になるほど、うちは一族はも馬鹿じゃない。たとえ暴走した場合、どっちみち、俺が里に残ったとしても、十五夜之都は三人いなければ成立しないんだぞ」

「……だけど―――」

「フウコ、俺は冷静だ」

 

 と、シスイは言った。

 

「お前が里を出るなら、これが、里の為になる適切な判断だと思っている」

「……ごめん」

「責めてる訳じゃない。お前は、俺よりも頭が良い。何か考えがあってのことなんだろ?」

 

 違う。

 冷静な考えなんて、何もない。

 ただ、怒りと殺意だけで、動いている。

 

 自分を信じてくれているシスイへの罪悪感に顔を俯かせるが、未だ胸の中に溢れ出る黒い感情は減らなかった。

 

「大丈夫だ、心配するなよ」

 

 驚き、顔を挙げる。

 ちらりと見えた彼の口端が、確かに、笑っていた。

 日常で見せる、軽やかな声。

 

 すぐに彼の笑みは消えて、声は無機質に近づいた。

 

「無理はするな。いいな、フウコ」

「……分かった」

 

 手が離れ、身体が軽くなる。

 

 二人は、速度を上げた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 滝隠れの里は、その名の通り、滝の中に存在している。

 

 何の変哲もない、しかし壮大な滝の裏に潜む唯一の入り口で侵入者を防ぎ、その奥にある幾つもの大きな水溜りの通路は蟻の巣のように入り組み侵入者を迷わせる。里の者ではない限り、決して里まで辿り着くことは許されない、自然の障害。

 

 しかし―――今、滝隠れの里は、襲撃を受けていた。

 

 いや、もう襲撃し終わったという表現が正しいだろう。もはや、たった二人の侵入者に抵抗できる者はいなかった。誰もが血を流し倒れ、息をしている者の方が数は少ないだろう。必死の抵抗をした跡は、里の中央にそびえ立つ巨木に数えきれないほどの傷を作っていた。

 

 にもかかわらず、二人の侵入者には、目立った傷痕は見受けられなかった。

 

 二人が羽織る黒い下地に赤い雲の紋様が描かれたロングコートに、ようやく砂埃が付着する程度で、傍らに倒れる者達の間を悠々と歩いていた。

 

「この程度で忍里を名乗るなんて、随分とまあ、お粗末なものね」

 

 大蛇丸は嘲る。蛇のような瞳で、憐れむように辺りを見回した。白化粧をした顔の前を、長い黒髪が揺れる。

 

「参考までに訊いておくけど、故郷を破壊するのはどんな気分なのかしら?」

「ふん、何も」

 

 頭巾を被り、マスクで顔を覆っている男―――角都は、言葉通り、感情もなく応える。彼は大蛇丸より少しだけ前を進み、暗に道案内をしていた。

 

「大した賞金首もいない里になど、興味は無い。金にならないからな」

「あらそう。まあ私も、大して珍しいおもちゃもなさそうだから、興味なんて沸かないけど」

「相変わらず、貴様はどうしようもないな」

「貴方に言われたくはないわね」

 

 そこで一度、二人の会話は途絶える。

 同じ組織に所属しているが、かといって友好的な関係が築けるという訳ではない。そもそも、集団とは相いれない者達ばかりなのだから、当然といえば当然である。互いに苛立ちを覚えることは会っても、友人関係のように仲睦まじい気まずさなど生まれる訳がなかった。

 

 二人が進む先には、七尾の人柱力が祀られている祠。小さな門を抜け、薄暗い通路を進んでいく。

 

「七尾の人柱力はどのようなものなの?」

「俺も直接見たことはない。だが、虫だと聞いたことはある」

「昆虫採集ということ……。あまり、気が乗らないわね」

「黙ってろ」

 

 祠の奥には、石で造られた祭壇があった。それなりに歴史を感じる古臭さが祭壇から感じ取れるが、奇妙なことに、祭壇の上に経っている檻は、比較的真新しかった。

 

 そう、檻。

 

 虫篭のように、檻は直方体の形をしていた。

 中には、一人の少女。

 

 緑色の短い髪の毛、褐色の肌。少女は、膝を抱えて、蹲っている。

 

「これが、七尾の人柱力?」

 

 檻の前に立ち、大蛇丸は少女を見下ろす。

 憐憫の感情など湧いてはこない。既に頭の中では、さっさとこれを捕まえてノルマを達成したいという算段しかなく、ただ角都に確認を取っただけだった。角都は小さく頷く。

 

「……貴方たちは、誰っすか?」

 

 少女は、俯きながら尋ねた。

 

「フウを、助けに来てくれんすか?」

「ええ、そうよ。貴方を解放してあげるわ」

 

 どこの里でも、人柱力の扱いは変わらない。

 天災として認識される尾獣を体内に封印された人柱力は、人々から疎まれる。

 この少女も同じだろう。檻は少女を守るためのものではなく、里の者たちを守るためのもの。

 

 故に、これから彼女を攫う自分たちの行為が助けに該当してもおかしくはない。

 

 少女―――フウは立ち上がる。

 

 その表情は、どこか壊れたような、笑顔だった。

 

「……そうっすか。ようやく…………、フウは、自由になれるんすね。もう、里の人たちは、邪魔をしないんっすね」

 

 フウの言葉は大蛇丸と角都、その二人を完全に無視したものだった。

 伝わってくる、フウからの敵対的な空気に、角都は舌打ちをする。

 

「おい、大蛇丸」

「ええ、少し、面倒になりそうね」

「あとは、貴方たちだけ。それで、フウは、自由に―――!」

 

 フウは意識を底に沈め、自分の中に眠る七尾を縛る封印式の前に立った。

 

『今だけは、お前の力を信じてやるっす』

 

 七つの羽を持つ、巨大な体躯と、堅甲な昆虫の兜と角を持つ七尾―――重明は、フウと視線が重なった。

 これまで一度として、まともな対話が成功したこともなく、互いに憎み合っていた相手。

 

 しかし、フウは賭けた。

 

 自分の自由を。

 

『好きなだけ暴れるっすよ、七尾! ずっと、遠くまで!』

 

 フウは、封印式を解除した。

 




 次の投稿も十日以内に行います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不必要な薮中の蛇

「お呼びでしょうか、ダンゾウ様」

 

 部屋に入ってきたのは【根】の者だった。梟に似せた面の奥から聞こえる声は多少くぐもっていたが、たとえ面が無くとも、没個性的な―――あるいは、人間味のない―――抑揚には変化はないだろう。

 戦争孤児の保護という名目の元に、完璧な忍として育てられた彼ら彼女らは、情動に類するものは養われていない。与えられた任務を達成することにおいて、時には身体のパフォーマンスを硬直させる情動は不必要だからだ。

 

 そう、里を守るのに必要なのは、役割を必ず全うするということ、それのみ。

 

 街頭と同じだ。

 感情も何も無く、動くわけでもなく、ただ夜になると灯りを付ける、ただそれだけで重宝される。子供が嫌いだからと、子供が通るたびに灯りを消しては、不必要と判断され捨てられることになるだろう。

 

 結果こそが、大事なのだ。

 

 結果を出すには、スムーズな過程は必要不可欠なのであり、それ故の感情の排斥。

 しかし、それに理解を示す者は、木ノ葉隠れの里にはほとんどいない。だからこそ、【根】の者には、自分の指示のみを最優先するように教育している。使える者が使ってこそ、彼ら彼女らは、使い物になるのだ。

 

 ダンゾウはデスクに腰掛けながら、淡々と述べた。

 

「すぐに部隊を編成しろ」

 

 つい先ほど(フウコとシスイが木ノ葉隠れの里を出て行ってすぐのこと)、救援部隊を送り出したばかりだ。もちろん、暗部内に秘密裏に存在するうちはへのパイプを警戒して、【根】の人員のみで構成した部隊である。

 にもかかわらず、部隊を編成しろという不可解な命令。

 

 男は、納得できないような雰囲気を一切出すことなく「構成は、どのように」と滑らかに尋ねた。

 

「幻術部隊、感知忍術部隊を編成できうる限り組み込め。その他の者も、全て使え」

「配備は?」

「前者の二つの部隊は、うちは一族を監視しろ。間違っても気取られるな。後者の部隊は、こちらに備えさせろ」

「分かりました。他には?」

「ない、下がれ」

 

 男は無言で頷き、部屋を出て行った。

 

 淡泊な静寂を部屋が取り戻す中、ダンゾウはランプの灯りをぼんやりと眺めていた。しかし、頭の中は非常にシャープな思考による軌跡を描き始める。

 

 考えていることは、今、木ノ葉隠れの里において最悪の結果の想定。

 

 男に指示したことは、とりあえずの保険だ。現在、フウコとシスイがいないという状況、そして滝隠れの里の救援の為に【根】の半分ほどの人数を外に出しているということ。万全の状態から考えれば、非常に危険な事態であるという認識は、おそらく過度ではないだろう。一度爆発してしまえば、里そのものが亡くなってしまう可能性があるのだから、今の内に張れる保険は張るべきだ。あとは野となるか山となるか。良い方向に転がることを願うしかない。

 問題は、これから、どのような事態が招かれた時に、最悪の結果という足音が聞こえてくるのか。

 

 最低ラインを導き出してから、ダンゾウはデスクの上に積まれていた書類の山から、一枚の書類を手に取った。

 それには、ある人物の情報が、顔写真と共に記載されている。

 

 目元を隠す長い前髪。

 髪の毛の根元は黒く、先端に行くにつれて白くなる特徴的な髪の毛の色。

 大きな巻物を背負って、緑色のマフラーを巻いた少女の写真だった。

 

「……猿飛(、、)イロミか…………」

 

 戦争孤児として、孤児院で育った少女。戸籍上は、現火影であるヒルゼンの養子という立場にいるが、彼女自身、姓をあまり他言しないため、この事実を知る者は少ない。

 

 火影の養子となる、という、実に例外的な立場にいるこの少女には、それ相応の、特異な生い立ちを持っている。

 

 もしかしたら彼女は、使えるかもしれないと、ダンゾウは考える。

 彼女は実に、タイムリーな立ち位置にいるのではないか。

 

 ダンゾウは書類を眺めながら、次の保険を考え始めた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 チャクラの塊である尾獣は、災厄の一つとして数えられる。

 

 自然発生的な存在であり、人の意志が一切介在しない。何よりも、あらゆる障壁や抵抗を容赦なく払いのけ、多くの命をあっさりと奪いとる暴力が、災厄の中で最も危険な地位を獲得させている。

 これまでの歴史の中で、尾獣を完全に殺せた者はいない。

 軍事力として利用する、外交政策として利用する、そんな打算的な考えが無かったとは言い切れないが、誰もが、尾獣を前には、封印術という妥協策しか行えなかった。

 

 ……しかし。

 

 大蛇丸と角都を前に―――七尾は、苦痛の絶叫をあげていた。

 

「虫は虫らしく、地面に這いつくばってなさい」

 

 七尾が解放されたことによって、滝隠れの里を覆っていた岩盤は崩落していた。もはや里の原型は残されず、瓦礫が転がるだけの荒れ地だった。経緯を知らない者が見れば、すぐさま死傷者がいないか考えるだろう。

 

 しかし、瓦礫の上に立つ大蛇丸を見れば、考えを改めるに違いない。

 

 彼が着ているコートには、些細な傷で作られた生地のほつれが見られるだけで、そもそも彼自身に怪我一つない。

 白化粧をした顔は不敵な笑みを浮かべ、目の前で醜くもがく七尾を見上げていた。七尾の巨躯には、六匹の大蛇が巻き付いている。一匹一匹が、七尾に追随する程の巨大さを誇り、それぞれが関節や羽を固定し、締め上げる音が夜空の下に重く響く。

 

 それでも尚、抵抗しようと、折り曲げられた節足を動かそうとするが、それを、直上から落ちてきた角都が許さない。やはり、傷一つ負っていない彼は、右手首だけを黒く硬化させ、筋力に身体が重力に従う力を荷重させた一撃を、胴体にぶち込んだ。

 

 七尾の身体は背中方向にくの字に曲がり、同時に、蛇たちの締め上げが限界に達する。角都による衝撃によって地面は震え、関節の至る部分が折れる音が、瓦礫の地に、響き渡った。

 

 遠くで、鳥たちが子供のように逃げ、夜空に飛び立っていくのを最後に、残酷な夜の静寂が訪れる。

 

「随分と、手間取ってしまったわね」

 

 言葉とは裏腹に余裕の笑みを浮かべる大蛇丸。事実、手間は取ったが、苦戦をしたという訳ではない。

 何せ、空を飛ぶ相手と戦うのは初めての経験だった。これまで多くの忍と相対し、あるいは多くの忍を実験に投入したが、空を飛翔するという力を持った者はいなかった。相手が尾獣ということなら、尚のこと。

 

 力なく倒れる七尾から角都は下りてくる。目元しか見えないが、どこか不機嫌そうにこちらを睨みつけてきた。

 

「お前がさっさと動かなかったせいだろう」

「役割分担と言ってほしいものね。アナタが虫を落とすし、私が虫を縛る。おかげでスムーズに仕事が終わったじゃない」

 

 しかし、角都の怒りは収まらないようで、まあいつものことだと思いながら受け流してやる。彼の沸点の低さにいちいち構っていたら、むしろ逆効果なことは、これまで不本意に共に任務を行ってきた経験で分かっていた。

 

 さて、と思考を切り替えて大蛇丸は視線を七尾に向ける。

 

 どうやら、まだ七尾には意識があるようで、羽や節足が小さく痙攣している。人柱力の身体が七尾の中に取り込まれていることから、完全に封印から解放された訳ではないのだろう。さっさと意識を沈めて、人柱力の状態で運んだ方が手軽だ。

 

 蛇たちにトドメの指示を出そうとする。

 簡単だ。小さく頷くだけ。一秒もかからない。

 

 突然、風が吹いた。

 

 不自然な風だと、大蛇丸の経験則が警鐘を鳴らす。

 瓦礫の地だが、周りは木々が囲んでいる。枝葉が揺れた音は聞こえなかったのに、風が吹くだろうか?

 

 不気味な風に、大蛇丸の神経は鋭敏になる。かつては木の葉の三忍と呼ばれているほどの実力を持つ彼が戦闘態勢に迷わず入ったのは、流石としか言いようがない。

 

 しかし、それを上回る速度で―――フウコは、角都の肉体を二つに分けていた。

 

「……ッ!?」

 

 声ではない声を出したのは、角都だった。

 右肩から左わき腹にかけて、黒羽々斬ノ剣が背中から一閃し、角都の上半身と下半身を斜めに切り離される。

 意図しない身体の離脱に、角都は驚愕するように両瞼を開いたが、遅れて襲ってくる激痛に硬い息を吐く事しか出来なかった。

 

 黒く、長い、微かにウェーブがかかった髪の毛が、花弁のように舞うのを、大蛇丸は捉えていた。

 漆黒の刀を片手に持つ少女の姿は、温度を持たない人形のような精密さと無機質さを孕みながらも、絶対の殺意を凝縮した鮮烈な冷酷さを放っていた。一瞥するだけで、彼我との実力差を感じ取ってしまう。

 夜に映える、赤い両眼。

 それが写輪眼であると察した時には、既に大蛇丸の肉体は幻術の中に。

 

「まず、一人」

 

 まるで刈った稲穂の数でも数えるような、淡泊で、それでいて高級な鈴の音ほどの透き通った声。角都の上半身がようやく、地面に落ちた。

 

 身体中を締め付ける、鋭い灰色の茨。

 幻術だ。

 だが、そうだと認識していても、身体は痛みを訴え行動を拘束される。解こうと試みるが、目の前の少女の滑らかな動作は、解くよりも先に間違いなく自分を殺すだろうという確定的な未来を示唆していた。

 

 黒い刀身の切先が、月の灯りを鈍色に変えて向けられる。

 数瞬後には、自分の命が刈り取られるだろう。そのイメージが、はっきりと、脳裏に浮かんだ。

 

「狙う順番を間違えたな」

「……!?」

 

 角都の声は、無機質なフウコの表情を微かに驚かせるには十分だった。

 なで斬りにし、即死ではないにしても、もはや瀕死の状態であることは間違いないはずなのに、角都の声には平然とした力強さがあった。

 

 同時に、フウコの四肢を黒く細い触手が縛り上げる。

 

 まるで筋繊維のようなそれは、角都の胴体のみならず、至る所から溢れ出ていた。四肢を縛り、首をも絡めとろうとした。

 

 咄嗟にフウコは右手の刀を、手首のスナップだけで宙に放り投げると、柄を口でキャッチする。身体の方に近かった左腕を縛るそれを切断すると、すぐに刀を握り、他の部位も解放していく。

 

 フウコは振り返る。

 

 角都の胴体は既に、黒い触手を経由して元に戻っていた。

 人間として意味不明な人体構造。

 しかし、フウコは気に止めることもなく、ノータイムで、刀を角都の顔を目掛けて投擲する。

 

 瞬間、印。

 刀を避けて体勢を崩した角都に、容赦なく、口から火遁の炎を放つ。爆発にも近い巨大な火炎が、角都を呑み込んだ。

 

「潜影多蛇手ッ!」

 

 既に大蛇丸は幻術を解いていた。伸ばした左腕の袖から、フウコを締め殺そうと、十を超える大蛇が現れ―――けれど、風遁による風の刃が、一匹残らず首を刈り取った。

 それは、森に潜んでいたシスイが放った術。

 

 もう一人いるのか、とだけ、大蛇丸は頭の隅で理解する。フウコの回し蹴りが、首を狙ってきた。後方に大きく退避して、一度、距離を取るが、フウコの視線は蛇行することなく追い付いてくる。

 フウコが膝を曲げ、跳躍しようとする。その後方で、火炎に包まれた角都が姿を現す。

 

「行かせんッ!」

「それはこっちの台詞だ」

 

 真後ろという予想外からの言葉に、角都は後ろを振り返り掛ける。視界の端に捉えるのは、シスイの赤い瞳だった。

 

「お前の相手は俺だ。風遁・稲荷風(いなにかぜ)

 

 角都の後ろを捉えたシスイが印を結ぶ。幾つもの空気の輪が、すぐ横に連なった。

 輪は風を吸い込み、角都を吹き飛ばす。

 

 拾っておいた黒羽々斬ノ剣を、シスイはフウコの進行方向へと投げ、跳躍したフウコはそれを空中でキャッチする。そのまま大蛇丸の首元を狙って鋭く振るった。

 

 金属音。

 

 大蛇丸の口内から出現した白銀の刀身―――草薙の剣が、フウコの斬撃を寸での所で受け止めた。

 

 木を迂回し、地面を這い、その度に金属音は鳴り、細かい火花が二人の顔を照らしたが、いずれも大蛇丸が防御しているだけで、それも、致命に達する斬撃のみ。既に幾つかの傷痕を刻まれていた。

 

 そして一瞬だけ、互いの視線が交差する。

 

「ぐっ……!」

 

 ほんの一瞬。

 写輪眼が視界に入った。

 水に閉じ込められる幻術が、身体の動きを鈍らせる。

 

 たった一瞬のチャクラの交わりのおかげで、その幻術は、やはり一瞬で解くことはできたが、既にフウコの刀は首のすぐ横まで来ていた。

 草薙の剣を射出する。直後、大蛇丸の首は切断される。

 

 フウコは最小限の首の傾きだけで、草薙の剣を回避し、大きく左足を踏み込んだ。視線は真っ直ぐ、首を無くした大蛇丸の肉体―――いや、抜け殻の後ろを睨みつけ続けている。そこには、身体中を体液で濡らした、大蛇丸が。

 

 どのような忍術なのか、しかし、フウコは気にしない。

 刀を握っていない左手。

 その掌の中央に、チャクラを集中させる。

 

 チャクラはうねりを上げて、一点を中心として、三次元の螺旋を描き始める。

 

 出来上がったチャクラの塊は、完全な球形。

 小さな台風のようなそれは、ある種、完成形が表す美しさを持っていた。

 

「螺旋丸」

 

 左手に溜めたチャクラが、大蛇丸の腹部を捉えた。

 

 圧縮されたチャクラの質量、螺旋による力の方向。

 腹部の表面を一瞬で貫き、背骨を軋ませるほどの力が加えられる。

 逆らえない力に、大蛇丸は後方へと吹き飛ばされ、太い木々を貫通していく。地面に抉り痕を付けて、ようやく止まった。

 

 立ち上がり、即座に臨戦態勢を取る。やはりフウコは、目の前に立っていた。

 

 ―――……強い…………。

 

 忍術と幻術のレベル、写輪眼。

 特筆すべきは、速度だった。

 彼女の速度は、自分よりも遥か上を行っている。

 本来なら、カウンターを恐れ動きを制御してしまうほどの速度を、写輪眼によって全速力のままコントロールすることによる、絶対的な先手の動き。

 しかも動きには洗練された精密さと、相手の動きを読む緻密さが兼ね備えられている。

 

 勝てない、大蛇丸は静かに悟った。

 

「大蛇丸。貴方は私には勝てない」

 

 フウコは冷酷に告げる。

 こだわりはないが、三忍と呼ばれた自分が、何回りも下であろう少女に言われることに、苦味を感じてしまった。

 

 大蛇丸の思考が動く。

 

 真っ先に出した結論は、目の前の敵から逃げることは可能だろう、というもの。冷静な判断だ。元より、単純な戦闘で、余程の目的がない限り、勝ちたいと思うことが無い性分である。プライドというのは、先ほどの苦味だけを感じるだけで十分だった。

 次に、少女が一体、何者であるのか。

 写輪眼を持ち、そしてこれほどの実力を保有している人物。

 

 ふと、思考の端に引っかかるものがあった。

 

 それは、一応はパートナーである、角都の発言からだった。

 

 彼は言っていた。

 

 ここ最近、急激に賞金を上げられた忍がいるのだと。顔写真は無かった、音無し風という異名を付け、黒く長い、微かにウェーブのかかった髪の毛に黒い服装、そしてうちは一族の少女。

 

 名前はたしか―――うちはフウコ。

 

「……貴方、もしかして…………」

「訊きたいことがある」

 

 フウコの名前とそれに携わる知識を思い出し、溢れ出そうになる好奇心を、フウコの静かな声が遮った。

 

 その声色は、無機質さが少し和らいだような印象を受ける。

 視線を、写輪眼を捉えないよう、少し上昇させた。

 

「イロリちゃん…………、イロミという名前の女の子のことを覚えているか?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「貴方に、訊きたいことがある」

 

 後方で、シスイが頭巾の男―――角都の足止めをしてくれている。エントリーする前に、予め互いの役割を決めていた。自分がアタックで、シスイがサポート。今の場合、シスイが角都を単独で足止めしているのだが、問題はないとフウコは判断している。

 シスイは、自分ほどではないが、やはり速い。瞬身という異名が付くのも頷ける。その彼を相手にするのは、余程の速度を持つ物でなければ対応できないだろう。

 

 ましてや周りは木々に囲われ、視界の悪い夜。ヒット&アウェイを彼が行うには、持って来いの舞台だ。角都の速度も、エントリーした際に、大凡の限界値は予測できる。シスイを捉えることはできないだろう。

 

 その隙に、自分はさっさと目の前の男を殺さなければならないのだが……。

 

 目的は……あくまで、里の脅威を取り除くこと。七尾を保護したら、即座に離脱し、木ノ葉隠れの里に帰還するのが、理想的な展開であることは疑いようのない事実。それは、シスイと決めた、チームとしての方針だった。今、こうして目の前の敵に問いを行う時間は、本来なら、無い。

 

 けれど。

 

 あの白い男が、大蛇丸の名を出した時から、考えていた。

 胸の中にある、仮面の男への怒りと殺意。その中に、混入するかのようにあった、大蛇丸への殺意と、そして……自分の大切な友達への、配慮についてを。

 

「イロリちゃん…………、イロミという名前の女の子のことを覚えているか」

 

 写輪眼から逃れるために、視線を微かに下に逸らしている大蛇丸の表情が、不思議そうに固まった。

 

「……さあ? 聞き覚えのない名前ね」

「お前が木の葉にいた頃に持っていた研究所の一つにいた女の子だ。根元が黒で、毛先が白い髪の毛をしている」

「……ああ、アレ(、、)のことね」

 

 アレという表現に、心拍数が上がった。

 当然、大蛇丸への怒りによってだ。

 

「まだ生きてたのね。てっきり、勝手に死んだかと思ってたわ」

 

 厚顔不遜な笑みと言葉に、今すぐにでも、目の前の男の首を刎ねてしまいたい衝動に駆られる。

 だが、我慢しなければならない。

 もしかしたら、分かるかもしれないのだ。

 

 イロミの本当の両親が、どこにいるのか。

 

 フウコは刀の切先を大蛇丸に向ける。

 距離は遠くない。むしろフウコにとっては近すぎると思えるほどの距離だ。瞬きも許さない速度で、彼の喉元を刀で穿つことは、あまりにも容易だった。

 

「私の問いに応えろ。お前は、あの子に何をした」

 

 中忍の頃まで、イロミについて気になっていたことがあった。

 どうして彼女は、あの熊のような男の元で生活をしているのか。

 まだアカデミー生として、自分の力で生きていくことができないという環境は理解できる。たとえどれほど育ての親が最低の人格であろうと、力のない子供はそれに縋って生きていくしかない。

 

 けれど戸籍上、彼女は現火影であるヒルゼンの養子ということになっている。幾らでも助けを求めれば助けてくれるだろうし、ヒルゼンには当然、彼女をあの環境から救い出す力は持っている。イロミも、そんなことは承知のはずだ。

 

 なのにどうして、彼女はあの家から出て行こうとしないのか。まだ自分が中忍で、彼女がアカデミー生だった頃から、気になっていた。

 

 彼女があの家に住む理由は、後に、彼女自身から語られることになるのだけれど、暗部に入隊してから、フウコは彼女のことについて調べることにした。

 もはや彼女の両親は戦争で死んでいるのだが、少しでも彼女の家族のことが分かれば、彼女は喜んでくれるかもしれないと、思ったからだ。

 

 家族の偉大さは、自分が体験している。その体験を、少しでも、分けてあげたかった。

 

 しかし、彼女のことを調べて分かったことは、自分が望んだものとは真逆のものだった。

 

 イロミは……戦争孤児ではなかった。

 戦争孤児という評価は、あくまで、表向きのもの。

 彼女が発見されたのは、戦争によって倒壊した建物の下からでも、戦場の真っ只中でもなく、研究所だった。

 

 研究所―――それは、大蛇丸が、多くの忍を誘拐し、人体実験を行っていた場所である。

 

 多くの忍たちの解剖された遺体が、まるで使い捨てのノートのように、平然と床に転がっているような、気狂いの空間。当時、里の内部で多発していた【蒸発事件】を調査していた暗部は、幾つかあった研究所の一つ発見し、遺体の中に転がっていた血塗れのイロミを発見したのだ。

 

 その後、大蛇丸は、何の情報を残すことなく里を離脱。イロミは、戦争孤児という処理の元、孤児院に送られた。

 

 暗部の報告書によれば、おそらく彼女は、何かしらの実験を受けていたのではないかという見解が示されていた。イロミの眼が無かったのも、そのせいだろう、と。彼女の両親は未だ特定できていないが、人体実験で亡くなったという可能性が、最も高いと思われている。

 

 その事実を知って、苦しくなった。

 

 どうやらイロミ自身は、その事実を知らないらしい。発見された時、まだ数歳だった彼女には、正しく記憶されなかったのかもしれない。あるいは、記憶していても、思い出さないように、意識が抵抗しているのかもしれない。

 

 どちらにしろ、この事実は、彼女には伝えてはならないと思った。

 

 戦争という……子供にとっては災厄に近い環境ではなく、違法の人体実験によって孤独になったというのは、救いようが、あまりにもなかったからだ。

 

 大蛇丸への怒りと殺意は、そこから起因している。

 

 無意識のうちに、フウコの視線は鋭くなり、刀を握る手には力がこもったが、しかし大蛇丸は、呆れた笑みを浮かべた。

 

「何? もしかしてアナタ、アレと知り合いなの?」

「友達だ。私の質問に応えろ」

「友達? ……クク」

「何がおかしい。さっさと―――」

「何もしてないわよ。する価値もない」

 

 嫌らしい笑みを浮かべたまま、まるで自分は関わっていないとでも言いたげに、両手を小さく広げてみせた。

 

 一つ一つの動作が、感情を逆撫でにする。

 フウコの声が少し、鋭くなった。

 

「嘘をつくな。あの子は、暗部に保護された時、両眼が無かった。何もしていないわけないだろう」

「眼は勝手に腐り落ちたのよ。生まれてしばらくしてね。どうせ身体の至る所が腐り始めて死ぬと思って放ったらかしにしたんだけど……なるほど、生きていたの。どうでもいい奇跡ね」

 

 生まれてすぐ?

 大蛇丸の言葉が頭の中で引っかかる。

 蒸発事件は、年単位の出来事ではないはずだ。

 

 つまり、元々、彼女を身籠った母親を監禁し、その途中で出産に至った、ということだろうか。

 

 まあいいわ、と大蛇丸は呟いた。

 

「ついでだから、教えてちょうだい。アレは今、どれくらいまともなの?」

「お前に教えるつもりはない」

「別にいいじゃない、減るものじゃないんだから。折角の研究成果なのだから、知りたいと思うのは、親心ってものじゃないかしら? クク……」

「お前がイロリちゃんの親な訳がないだろう。ふざけるな」

「事実よ。アレは、私が作ったの。浄土回生という術を応用した実験で、偶然生まれたものよ」

 

 

 

 呼吸を、忘れてしまった。

 

 

 

「まあでも、応用と言っても、ほとんどオリジナルなのだけれどね。浄土回生の術は、他者の肉体を贄にして別の他者の肉体を再構成するものだったようだけど、私がした実験は、他者の肉体を繋ぎ合わせて人間そのものを作るというものだった。血継限界を持つ色んな忍の細胞や肉体を混ぜて、それらを一気に継承する人間の創造……、百体くらい試したけど、まともに動いたのはアレだけだったのよ」

 

 大蛇丸の声は、何の感情も込められていない、淡泊なもの。

 なのに、フウコの耳は、どす黒い、邪悪なものとして捉えていた。

 心が震える。

 それは、イロミのことを調べ、知ってしまった時よりも、さらに大きな震度だった。

 

 もしも。

 

 大蛇丸という人物と、彼が抱いている目的を知っていれば、そこまで驚くことはなかったかもしれない。

 

 彼には忍術への飽くなき探求心がある。

 特に、血継限界には、並々ならぬ執着心を持っていた。故に、他者の肉体を取り込み再構成させることができる浄土回生の術を改良し、自由に血継限界を獲得できないかと模索するのは、彼からすれば至極効率的な考え方ではあった。

 

 ましてや、浄土回生の術は、一度だけ―――そう、フウコで―――成功している事実がある。

 彼の好奇心と探求心、そして執着心が、浄土回生の術に鼻を利かせるのは、当然だったのだ。

 

 だが、深く大蛇丸を知らないフウコの目に映る彼は、何か人間ではない恐ろしい化物のようにしか思えなかった。平然と、そんな悍ましいことができる人間がこの世にいるのかと。

 

 大蛇丸は続ける。

 

「それに……ただ動いただけ。貴重な細胞や肉体を混ぜたのに、血継限界は一つも継承しなかった、欠陥品よ。どういう訳か、細胞同士は繋ぎ合わさったみたいだけど、人体構造はちぐはぐ。筋繊維は不連続的で関節と靭帯の連携にはズレが見られたわ。経絡系も所々断線してる反応があった。人の形をした、肉の塊でしかないのよ」

 

 イロミには、忍としての才能は、まるでない。

 身体能力は人並み以下。

 チャクラコントロールなんて、酷いものだ。

 並外れた、尋常ではない努力をして。

 そして創意工夫と、多くの知恵と道具を駆使して、ようやく、中忍。

 

「少しは薬物実験とかのモルモットになると思ったのだけどね……、アレの細胞は異様な進化を遂げていたわ。細胞レベルの刺激や介入は、ある一定レベルまでは全て飲み込んで無効化してしまう。新しく他の臓器を入れてみたけど、拒絶反応を起こさなかっただけで、血継限界の継承は生まれなかったわ。まあ流石に、劇物を投与したら、皮膚が焼けるくらいにはなるけど。額にあったでしょ? 火傷の痕が」

 

『ご、ごめんね……、フウコちゃん。こんな、気持ちの悪い痕があって』

 

 一度だけ、彼女の前髪に隠された額の痕を、見た事があった。

 皮膚が変色し、固まった痕。

 

『触っても……、病気みたいに、移らないから……えっと、ご、……ぐずっ…………ごべんね、ふうごぢゃん。変な、臭いとか、じないげど…………、ごれがらは、ぞの………、ぢがぐに、よっだり……うぅ………じない、がら…………』

 

 泣きながら、額を、前髪ごと抑える彼女に、別段、嫌悪感は無かった。

 でも、額を見られることが、彼女にとっては、とても、嫌なことのようで、できれば、自分が学んだ医療忍術で治してあげたいと、思った時期もあった。

 

『覚えていないんだけど……この痕って、戦争の時に付いたものみたい。私を拾った忍の人が言ってたみたいなの。火傷の痕なんだって。その時に、眼が潰れちゃったみたいなんだけど、あの人が、私に眼をくれたの。だから、私はあの人に、恩返ししたいなって、思って、あの家にいるの』

 

 イロミがあの家に居座っていた理由。

 そして中忍になってからも、定期的に、仕送りをしている理由。

 見た事がある。

 彼女の両眼の瞳の色が、違うことを。

 右は黒く、左は灰色の、オッドアイ。

 

 刀を持つ手が、震え始めた。

 呼吸が、上手くいかなくなりつつある。

 つまり、目の前に立つ男は―――本当に、彼女の、生みの親だ。

 

 血は繋がっていなくても……家族。

 

 自分とイタチのように。

 自分と、フガクやミコト、サスケのように。

 

「ククク。それにしても、あんなものでも中忍くらいにはなれるのね。木ノ葉も落ちぶれたものね。私が見る限りじゃあ、忍としてまともにやっていけるようには到底思えないのだけれど。アレ、まだどこか腐ったりしていないのかしら?」

 

 大蛇丸を殺したいという怒りと殺意に、減少は見られない。

 しかし、動揺は、確実に思考を蝕んでいた。

 

 イロミは優しい人格を持っている。

 優しすぎるくらいに。

 これまで何度も虐待してきた、あの熊のような男にも、眼をくれたという理由で恩義を抱くほどだ。

 

 もし、実験の副産物とはいえ自分を産んでくれた大蛇丸の存在を知れば、彼女は、彼の為に何かをしようとするかもしれない。

 

 こんな、平和とはかけ離れた探究者の為に。

 

 それは決して、彼女の為にはならない。

 かといって自分が殺し、この事実が、何かしらの偶然によって彼女が知れば、きっと、彼女は悲しむ。

 

 頭の中で、無邪気な声が。

 

 ―――この人がイロミちゃんを産んでくれた人なのね! 私とイロミちゃんが友達になれのも、この人のおかげなんだ!

「大蛇丸……、貴方は………、あの術を……」

「ククク……。やはりアナタ、うちはフウコね。初めて見たわ。浄土回生の術の、完成形。ねえ? 少し、身体を解剖させてくれないかしら?」

 

 次の瞬間。

 

 倒れていた七尾が、暴れ出した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 七尾が所構わず暴れまわってくれたおかげで、どうにか、フウコの視界から完全に抜け出すことができた。七尾に纏わりつけていた大蛇たちに、七尾を解放するように密かに指示を出しておいたのが功を奏したようだ。

 

 そのまま七尾と彼女から距離を取り、夜の暗闇と木々の影に身を潜めている。ようやく、一息つく。

 

 もはやチャクラは底をつき、体力も残っていない。冷静な判断を以て、大蛇丸は、この場から離脱することを優先することに決めていた。

 

「木ノ葉ノ暗部ガ向カッテイル。今回ハ失敗ダナ」

 

 植物のように地面から生えて姿を現した黒ゼツと白ゼツ。おそらく、ずっと眺めていたのだろう。別段、加勢してほしかったわけではない。彼(あるいは彼ら)の担当は、伝達及び運搬だからだ。

 

 既に、組織のトップには今回の仕事は達成不可能ということが伝えられているのだろうけれど、問題はない。抜け忍が集まってできた組織には、堅苦しい人事の評価はなく、命を落としてまで仕事を達成しろというブラックな部分は一切にない。そこらの小さな忍里よりも遥かにクリーンな組織だと、大蛇丸は評価している。

 

 木に背を預けている隣の角都も、自分と同じように疲弊しているようだ。彼は大きく息を吐いた。

 

「俺は、まだやれる」

「随分と息が上がっているようだけど……、あと幾つ、心臓は残っているのかしらねえ」

「黙れ大蛇丸。役立たずが」

 

 役に立とうなどという献身的な発想は持ち合わせていないため、鼻で笑ってやることにした。大方、七尾を確保することができなくなったことに苛立っているのだろう。彼は何だかんだと、組織の活動には献身的だ。あとは、大金を逃したことが気に食わないのだろう。折角の賞金首を前に、みすみす諦めることになるのだから。

 

「お金は大事だよね。でも、命はもっと大事だ」

 

 白ゼツが呑気に呟いた。特に何も考えてはいないだろう発言だが、至極正論である。

 角都は露骨に舌打ちをしてから、尋ねた。

 

「このまま、七尾を諦めるのか?」

「仕方無イ。イズレハ全テノ尾獣ヲ集メル。ソレヨリモ、今ハ組織ヲ肥エサセル方ガ重要ダ」

「そうそう。予定に変更はないよ」

「……なら、私はこれで失礼させてもらうわ」

 

 大蛇丸は一人でさっさとその場を離れることにした。最後に、後ろの方から角都の硬い視線を感じるが、今の高揚した気分を前には些細なこと。

 

 そう、珍しく、気分がいい。

 

 一つは、この目で浄土回生の術の、唯一の成功例を見たということ。彼女は間違いなく、その術を経験している。

 

『大蛇丸……、貴方は………、あの術を……』

 

 浄土回生の術を知らなければ、あんな発言はしない。そして、苦しそうに微かに震える彼女の声。経験者だと、物語っていた。アジトに戻ったら、もう一度、試してみてもいいかもしれない、と頭の中で考えると、笑みが零れてしまう。同時に、いつか必ず、あの少女を手に入れてみせると、野望を抱いた。

 

 そして、気分がいいもう一つの要因。

 

 それは、自分が作った失敗作と、唯一の成功例が友人関係であるということ。

 特に、何かを成し遂げたという訳ではなく、新術の開発に役立つ訳ではない。しかし、自分の研究成果が、たとえ失敗作でも、こうして奇妙に自分に導いた偶然は愉快だった。

 

 まるで自分が世界に影響を与え、その恩返しをしに来たかのように。

 

 兎にも角にも、可笑しかった。

 どういう奇縁で出会ったのか、想像して、だから、フウコを前に、つい笑ってしまったのだ。

 

 もしかしたら、フウコと出会えたのも、失敗作のおかげかもしれない。

 

「イロミ……ねえ…………」

 

 作った時は特に名前を決めていなかったが、そうか、そんな名前を付けられていたのか。

 

 彼女も、何かしらの変化をしているのではないだろうか。

 腐って死ぬと思っていたが、意外にも生き延び、中忍となって活動しているらしい。細胞にも変化がみられる可能性も、否定できないのでは。

 ならば、マークしてもいいかもしれない。

 どうせ自分が作った道具だ。

 子も、親に望まれるのならば、本望だろう。

 

 大蛇丸は足早にアジトへと帰っていった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 地面を大きく揺らす七尾の雄叫びが聞こえていた。

 

 早く、七尾を保護しなければいけない。

 感知忍術で、もはや近くに大蛇丸も角都もいないことは確認できている。シスイも無事のようだ。

 

 しかし、頭の中で冷静に状況は判断できているのに、身体が動かなかった。フウコはその場に膝をつき、茫然自失に、地面を眺めているだけだった。

 

 思考が軸も無しに、まるで酸欠状態のように揺れている。

 

 大蛇丸を殺すことができなかった。里の平和を考えれば、抜け忍である彼は殺さなければいけなかったし……殺す機会は有り余っていた。だが、イロミ―――自分の友達の表情が、脳裏にちらつく度に、身体と意識は重くなってしまった。

 

 いつから自分は、こんな幼くなったのだろうか。

 幼く……その表現で、フウコは自己を評価したのは、彼女の【大人】というイメージの原点が、恩人である千手扉間だからである。また、身体の中にいる彼女の感情の不安定さを長らく目撃しているせいもあるだろう。

 

 つまり、感情に左右されるようになってしまった。

 

 任務を達成するために、目的を達成するために、無駄な思考はしなかったはずなのに。今では、七尾の確保という目的をはっきりと認識しながらも、雑念ばかりが頭を埋め尽くし、防ぎようのない不安と怒りが暴れまわっている。どうにもできない心のリバウンドに、身体は倦怠感に包まれ、動こうという気概を見せてくれない。そんな自分が情けなく、苛立たしく、また心が勝手に暴れ出す。

 

 思わず、刀を地面に叩きつけてやりたい衝動に駆られたが「フウコ」と、自分の名を呼んでくれるシスイが目の前に姿を現した途端、心の暴走はピタリと止まった。

 

「大丈夫か?」

 

 見上げる。

 声の質は任務をする時の彼のそれで、やはり表情も、無機質的。

 でも、自分よりも彼の方が大人だということを明確に理解できたことで、フウコは思考を安定させていく。

 

「うん、大丈夫」

「七尾はどうする?」

「私が抑え付けるから、シスイは辺りを警戒して。何か来るかもしれない」

「分かった」

 

 他にはあるか? と彼は問いかけてくる。彼と会話をし、問いかけられ、考える。この循環が、いつの間にか乱雑な思考を整えてくれていた。

 

「なるべく、私から離れないようにして」

 

 頷くと、シスイは影分身の術を使って、分身体を四体ほど作った。

 

 七尾の雄叫びが空気を震わせる。フウコが先導すると同時に、分身体は四方に配備され、オリジナルのシスイは後ろをついてきてくれた。すぐに、七尾が見えてくる。大蛇の姿はどこにもなかった。

 羽を折られ、節足の至るところが破損している七尾の動きは乱暴的だが、位置はほとんど移動していない。七尾の真正面に立つと、シスイが背中合わせにしてくれた。

 安心する。

 七尾が、こちらを向いた。

 自分たちよりも巨大な瞳。けれど恐ろしさなんて、まるで湧き上がってこない。

 

 右眼の写輪眼を―――万華鏡写輪眼へ。

 

 星の形をした紋様を浮かべる瞳で、七尾の眼を捉える。

 

高天原(たかまがはら)

 

 それが、フウコの右眼に宿る、万華鏡写輪眼の力。

 一瞬で対象の意識を刈り取り、眠らせる、最上級の幻術だ。

 しかし七尾相手では、一瞬とまではいかなかった。

 暴れ、悶え、叫び、抵抗する。

 

「………ッ!」

 

 右眼から、血涙が溢れだしてくる。これまで使用してきた中で、最長の時間を要しているせいだ。激痛に、右瞼が痙攣し始める。

 けれど、もう少し。

 あと少しで、七尾を―――。

 

「そうはさせないよ」

 

 七尾の意識を九割ほど刈り取ることができた時だった。巨躯を力なく地面に落とし、もうほとんど、抵抗できなくなった瞬間―――白ゼツの声が、フウコとシスイの身体を、驚愕で固まらせた。

 

 二人を、何十体もの白ゼツが囲む。

 

「フウコ、お前は七尾に集中しろ」

「シスイッ!?」

 

 背中からシスイの温度が離れる。

 駄目だ。

 心が叫ぶ。

 既に視線は、後ろのシスイを向いていた。七尾はもう動けないだろうという判断と、彼への心配が、そうさせた。

 

 瞬身の術を使うシスイの姿は、影の線となって、白ゼツたちを殺していく。

 不安なんてないはずなのに……心配が、胸を震わせる。

 彼を捉えられる者は、そうはいない。

 だけど、確かに見たのである。

 何十体もいる白ゼツたちが、明らかに、一斉にシスイに飛びかかっていく異様な光景を。遅れて

 

 シスイは一瞬だけ、動きを止めた。

 雨のように飛びかかり、隙間をほぼ埋め尽くす白ゼツたちを前に、彼は最短のルートを導き出すために、足を止め、写輪眼で状況を見定めている。さらに、白ゼツらの外側から攻撃しようとシスイノ分身体らが現れる。

 

 その、刹那の時―――フウコに、仮面の男に付けたマーキングの声が、届いた。

 

 地面から両腕が現れる。

 白ゼツのようにゆったりとした動作ではなく、鋭く、正確な動き。

 

 ―――マダラ様だっ!

 

 身体の中にいる女の子の声に怒りを覚える。

 だけど、七尾を抑え込まなければ。

 でも、シスイが。

 今から動いて間に合うか?

 悲しい未来。

 里の為に、優先すべきことは。

 仮面の男への怒りが。

 不安が、心配が―――雑念が。

 フウコの行動が、遅れる。

 

 ようやく動き出そうと足に力を入れるが、

 

 左足が、動かなかった。

 

「悪イガ、オ前ノ足ハ貰ッタ」

 

 自分の左足なのに、そこには、黒ゼツが巻き付いて、膝から下を支配している。

 シスイとフウコに、ほぼ同時に、隙が生まれた。

 

「シスイッ! 逃げてッ!」

「……ッ!?」

 

 フウコの声は―――だが、遅かった。

 

 何もかもが、一手、間に合わない。

 そこからは、無情に時間が過ぎていく。

 

 両足を掴まれたシスイの意識に完全な空白が生まれ、動きが取れなくなる。白ゼツたちの雨は分厚く、たとえ外側の分身体でもオリジナルを助けるまでに至らなかった。

 

 シスイは地面に抑え付けられ、彼の首元には、仮面の男が彼から奪った暗部用の刀が添えられていた。分身体は、仮面の男がシスイに脅迫を行い、シスイが解いてしまった。

 

 そしてフウコもまた―――白ゼツたちに、うつ伏せの状態で、地面に抑え付けられていた。

 刀は取り上げられ、身動きもとれない。

 ……いや、もう、そんな事態ではなかった。

 たとえ動けようとも、動けなくとも……、もう………。

 

 仮面の男は、勝ち誇ったように、写輪眼で彼女を見下ろした。

 

「うちはフウコに、身体を渡せ」

 




 次回の更新は十日以内に行いたいと思います。

 また、以前『全体的に文章がくどい』という貴重なご意見をいただき、今回は実践してみました。ですが、それでもまだ『くどい』ようでしたら、ご指摘いただけたら幸いです(たとえば、心理描写が無駄に多い、や、行動描写が細かすぎる。または無駄に言葉を使いすぎる、など)。

 他にも、何かございましたら、ご報告いただけたら幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

理想論

 この度は、投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ございません。

 今後、このようなことがないよう、努めていきたいと思います。

 次回の投稿は、十日以内に行いたいと思っておりますが、今回の遅れてしまった分を倍以上に取り返そうと思っております。ですので、気持ち的には、五日以内に投稿したい、と思っております。


 

 

 

 七尾―――重明(ちょうめい)には、他の尾獣らに比べると、人間への憎悪はあまりない。

 

 滝隠れの忍たちの気質なのか、それとも第一次忍界大戦以前よりその地に眠っていたからなのか、彼ら彼女らは憎悪の言葉をぶつけてくることはなかった。もちろん、全ての忍がそうではなく、時には「化物」と言われたこともあるのだが、目くじらを立て憎悪を溜め込むことが無かったのは、重明の性格もあるのだろう。重明が人間へ向ける感情は、くだらない、というものだった。

 

 これまで何人かの人柱力に封印されてきた。

 

 誰も彼もが、まるで神と対面するかのような態度を取る。よろしくお願いします、と恭しく言いながらも、両目には薄らとした絶望と恐怖を浮かべているのを見て、くだらない、と思うばかりだ。

 別段、封印式から逃れる為に大暴れしたりするつもりはないし、した事もない。たとえかつて起きた第一次、第二次の忍界大戦で利用され、何回か自由になれたはずのチャンスもあったが、特にアクションは起こさなかった。

 

けれど、巨大な見た目と膨大なチャクラ量を前に、人柱力たちは絶望し恐怖する。絶望は、これから人柱力として自由のない人生を歩まなければならないことへの。恐怖は、こんな「化物」を体内に宿さなければいけないことへの。

 

 だから重明は、必ず人柱力を前にこう言うのだ。

 

「ラッキーセブン、重明だ」

 

 特に深い意味はない。ただこれから、人柱力が死ぬまで付き合わなければいけないのだから、絶望したり恐怖したりされるよりは、まあ、少なくとも顔見知りの他人くらいの関係を築きたい、そんな無関心さが生み出したものだった。

 大抵は、曖昧な苦笑いを浮かべて、後は死ぬまで二度と会話をすることなく、気が付けば新しい人柱力がやってくる。

 

 それが重明のサイクルだった。

 

 苦でもなく、楽でもない。

 

 それでよかった。

 人間には何も期待していない。

 期待するほど、まともではない。

 

「お前が……七尾っすか…………」

 

 しかし、その少女は、これまでの人柱力とは違った。

 絶望を抱くわけでもなく、恐怖を感じる訳でもなく。

 その大きな目には、乱暴な怒りだけが宿っていた。

 初めてだった。

 そんな目を向けてくる、人柱力は。

 たとえ封印術が形成した檻を隔てているとしても、随分と強気な少女だと、七尾は小さな感心を抱いた。

 

「そうだ。俺はラッキーセブンの七尾、重明だ」

 

 重明はいつものように、いい加減にそう答えた。

 どうせすぐに、そんな怒りも萎えるだろう。相手は子供だ。一時の感情で威勢を張っているだけだ。軽く脅せば、折れた小枝のように怯え、二度と話しかけてくることはないだろう。人間なんて、どれも一緒だ。

 

 節足の一つで、精神世界の地面を軽く叩いてやる。地面は震え、檻から突風が生み出されると、少女の褐色の肩は強張り、頭を垂れ、緑色の髪の毛が地面を向く。

 

 小さく鼻で笑ってやる。

 これで終わりだ。

 少女は背を向け、ここからいなくなるだろう―――そう思っていた。

 だが少女は顔を挙げ、睨み付けてくる。

 怒りの色が、ますます濃くなった目付きで。

 

「何が……、何がラッキーなもんすかッ! お前のせいで…………フウの夢が……ッ!」

 

 重明は思う。

 くだらない、と。

 

「文句なら俺ではなく、お前を選んだ連中に言え。俺は何もしていない」

「お前がいなかったら、フウは人柱力なんかに選ばれなかったんすよッ!」

 

 また、くだらない、と。

 

 自分は何も選択してはいない。これまで危害を加えたこともないのに、身勝手に封印しようとするのは、滝隠れの上層部だ。そんな単純なことも分からないのか。やはり子供だ。

 

 重明は呆れ、これ以上、自身をフウと呼ぶ少女と会話をしても無駄だと思い、檻の中で身体を横にする。

 

「おい、フウの話しを聞けっす! お前のせいで―――!」

「黙れ小娘。俺に話しかけるな」

 

 いい加減、邪魔臭くなってきた。

 

「俺も好きでお前に封印されている訳ではないんだ。これ以上ギャーギャー騒いでみろ。貴様を殺すぞ」

 

 これも脅しだ。封印術を前に、人柱力を殺すことは、たとえ尾獣でもそう容易なことではない。それに少女を殺してしまえば、おそらく滝隠れの忍たちは、自分に攻撃をしてくる。

 そんな面倒なことは御免だ。

 だが目の前の少女も面倒だ。

 脅しと言っても、半分本当の不機嫌さを込めた。ドスも利かせている。先ほどのいい加減な脅しよりも、効果はあるだろう。

 案の定、少女の目には恐怖の色が滲み出ていた。

 

 今度こそ逃げていなくな―――。

 

「……殺せるものなら、やってみろっす」

「何だと?」

 

 それでも、少女は、重明を睨み続けた。

 あまつさえ、檻のすぐ目の前までやってきて、両手で檻を強く握りしめる。

 

「さあッ! 本当に、フウを殺せるなら……やってみろ!」

「……黙れ。俺が本気を出せば」

「どうせ、何もできないに決まってるっすッ! お前は、何もできない、ただ身体の大きなだけの、役立たずなんだからッ!」

「貴様……言わせておけば…………」

「虫の癖にッ! ただの、図体のデカイ、虫の癖にッ! 悔しいなら、何かしてみろッ! 何が七尾だ! 何が、災厄だッ! そこらにいる、ただの虫じゃないかッ!」

「言葉を選べ小娘。俺が何なのか知りもしないのに、よくもそうくだらないことを―――」

「知りたくもねえっすよッ! どうせ、テキトーに生まれた木偶の坊に違いないっすッ! そこらの石コロよりも、ずっとずっと……くだらない所から生まれた、能無しっすよッ!」

 

 最後の少女の言葉は、ようやく重明の感情を真剣に苛つかせた。

 

『お前達は離れていても一つ、いずれ正しく導かれる時が来る』

 

 まるで昨日のことのように、思い出すことができる。

 彼の言葉を、彼の姿を。

 それらを穢した、穢された。

 何も知らない、くだらない人間に。

 

 いつの間にか檻は、重明の怒りに呼応するように震えていた。

 

「…………ちくしょう……」

 

 だがすぐに、その怒りは、少女の震えた声のせいで、あっという間に毒気を抜かれてしまった。

 

「……何も出来ないくせに…………、フウの………、邪魔をするんじゃないっすよ……………、どうして、フウが…………」

「………………」

「ちくしょう……。ちくしょう………ッ!」

 

 その後、少女とまともに話すことはなかった。話す気にもならなかったし、少女も少女で同じようだった。これまでの人柱力たちと同じ、後は少女が死ぬまで平穏な時間が過ごせる。当時の重明は確信していた。憎悪だとか、信頼関係だとか、そんな重さのせいで、空を飛べなくしてしまうものは必要ない、ただ自分を産んでくれた者への信頼だけあれば、それだけで満足だ。

 

 そう……思っていたのだけれど。

 

『今だけは、お前の力を信じてやるっす』

 

 気が付けば、再び少女は目の前にやってきていた。

 初めて対面した時よりも健康的に成長した姿で。

 

 ―――全く、こいつはいつもいつも、喧しい。

 

 ほんの時々だが、これまで少女の中から外の様子を伺ったせいで、分かったことが幾つかあった。

 

 少女の名前はフウだということ。いつか尾獣である自分のチャクラをコントロールしようと日夜努力をしているということ。将来の夢が、世界一周だということ。馬鹿みたいに明るく、派手なことが大好きで、総合的な評価としては、自分の眠りを大いに妨げるやつ。

 そして、とかく自分の予想を大いに裏切る少女だということ。

 

 もう二度と会話をすることがないだろうと思っていたのに、あっさりとその予想を裏切ってみせる少女に、重明はため息交じりに視線だけを向けた。

 

 状況は理解している。どうやら滝隠れの里は襲撃を受けたようだ。彼女の目の前に立つ二人組の男を止めようとする者がいない所を見ると、里はほぼ壊滅しているのだろう。つまり彼女は、二人組の男から逃げる為に、自分を解放しようとやってきたのだ。

 

 あの時は何もできない役立たずと言っておいて、と重明は呆れ返る。

 

 檻の向こうに立つ少女―――フウと、視線が重なる。

 あの時と変わらず、絶望も恐怖も宿さない素直な瞳。だが今度は、怒りの代わりに、挑発的な色が込められていた。

 本当に役立たずじゃないというのなら、実力を見せてみろ。

 そう言っているようだった。

 

 ―――身勝手で我儘なやつだ。

 

 心の中で呆れながら……しかし、不思議な感情が巨大な身体の中心で生まれ始める。

 

 ずっと、神のように崇められ、恐れられてきた。

 尾獣という背景のイメージだけでの、上下関係。

 フウもまた、七尾という背景の名称で呼ぶが、態度は苛立たしいまでに対等だった。

 その彼女が挑発的に信用してやると言ってきた。

 

『好きなだけ暴れるっすよ、七尾! ずっと、遠くまで!』

 

 フウは封印を解放する。完全な解放ではなく、根柢の部分では彼女に繋がれたままだが、それでも尾獣化するのには問題ない程度には、封印は解放された。

 

 檻が開かれる。

 

 重明はチャクラを使って、すぐさまフウを絡めとる。膨大なチャクラを流し込まれ、彼女の意識は蜘蛛の糸のようにあっさりと切れた。我儘で予想を裏切る彼女の意識が残っていると、身体を動かす時に面倒だからだ。

 

『お前はラッキーだな』

 

 重明は笑った。

 楽しそうに、口角を上げて。

 

『今日の俺は、気分がいい。……いいだろう、見せてやる。俺が役立たずではないことを』

 

 次に目を覚ました時は、お前が望んだ遠いところだ。

 その時は、認めてもらうぞ、フウ。

 

 重明は飛翔する。

 小さな小さな、そして確固たる、決意を抱えて。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「うちはフウコに、身体を渡せ」

 

 完全に、思考は停滞してしまっていた。

 

 既に詰んだ状況を冷静に判断している思考と、絶対に諦めたくない思考がせめぎ合っているからだ。前者は【大人】の思考を持つ自分で、後者が【子供】の思考を持つ自分。

 

 子供の自分が叫ぶ。

 

 高天原を使えば、マダラを眠らせることができる。

 それに、まだ【天岩戸(あまのいわど)】がある。

 目的は中にいる女の子で、シスイを殺す事なんてない。

 自分の速度なら、脱出してからシスイを助けることはできる。左足に纏わりついていた黒いのだって、もう白いのに移ったから。

 

 大人の自分が、冷徹に答えた。

 

【天岩戸】はマダラにしかかけていない。それに、高天原で眠らせても、他の白い男たちがシスイを殺す。

 シスイがもし死んだら、たとえ自分が生き残っても、うちは一族のクーデターを無血解決することは絶対にできない。

 この状態で動いても、シスイが殺される方が早い。

 

 それでもと、子供の自分は希望的観測と感情論を元に論を喚き散らすのを、大人の自分が一つ一つ、冷徹に切り捨てていく。

 

 呼吸が乱れ、苦しくなる。

 身体中から汗が出て、体温が奪われ、寒くなる。

 

 それは、大人の自分が、拮抗していた思考の領域を大きくし始めていることを如実に表していた。当然だ。どう考えても、大人の自分の方が正論だった。

 

 それでも、と子供の自分を応援したかった。

 たとえ現実逃避でしかないと分かっていても、子供の自分の決断に、従いたかった。

 

「……ッ、お前は、何者だ」

 

 シスイの声は、フウコと同じ高さからだった。彼を見ると、子供の自分が騒ぎ出す。

 助けなくてはいけない、と。

 

 ポキリ。

 

 氷柱が折れるような音は、即座に分析されて、音の出所が分かってしまった。

 仮面の男が、何も言わないまま、シスイの指を一本、折ったのだ。

 

 声を抑えて苦痛の表情を浮かべるシスイを見て、背筋が凍りつく。

 

「……止めて」

 

 怒りが、湧き起こらない。

 まるで懇願するような、震えた声しか出せないのは、子供の自分が、議論を投げ出してしまったから。

 

 ポキリ。

 

 また、音が。

 

「止めて、お願い……」

 

 ポキリ。

 

「止めてッ!」

 

 これほど。

 これほど、耳を覆いたくなる音が、あるだろうか。

 

「もう一度言う。うちはフウコに、身体を渡せ」

「お願い……、シスイには…………、何も、しないで…………」

「早くしろ。この男が死んでも、俺は一向に構わない」

「シスイは……、大切な人なの…………。お願い、これ以上……」

「早くしろ」

 

 分かってる。

 大人の自分はとうの前に答えを出していた。

 どうすることもできないのだと。

 

 なのに、子供の自分が駄々をこねて、意志を重くする。

 

 まだ、何か……、何か…………。

 

「―――フウコ」

 

 シスイが、笑っている。

 アカデミーの頃のように。

 二人だけでいる時のように。

 優しく、頼もしい、笑顔。

 

「シ、シスイ…………、私は……」

「俺のことなんか気にすんな」

「……どうして」

 

 そんな風に、笑えるのか。

 死ぬかもしれないのに。

 死んだら、うちは一族を無血解決して。

 あの楽しい日々を送ることもできなくなるのに。

 

 音が響く。

 今度は、大きく、太く、低音。

 笑顔を浮かべていたシスイが、強い苦痛に苛まれた。

 腕だ。

 彼の腕が、折られた。

 

 仮面の男も焦っている、と大人の自分が冷静に分析する。おそらく、ダンゾウが送り出しただろう救援部隊が近くまで来ていることを、仮面の男は察知しているのだろう。だが、時間稼ぎをしても、何の意味もない。

 

 あくまで……仮面の男の目的は、木ノ葉隠れの里の滅亡のはずだ。

 

 尾獣でもなく、うちはフウコでもない。

 それらは、ただの拾い物だ。

 手に入れば御の字、手に入らなければそれでも良し。

 ここでシスイが死にさえすれば、うちは一族を止める為の計画に大きな変更を迫られる。別天神を使った、無血解決は不可能になる。

 

 でも、シスイが死ななければ……別天神は残される。

 

 人の思考の方向性を導く力が、うちは一族を、木ノ葉隠れの里を、救い出す力が。

 

 もう、子供の自分は、何も言わない。

 

「…………分かった」

 

 奥歯を噛みしめながら、怯えるように鼓動が早くなるのを抑えて、フウコは声を振り絞る。

 

 周りの白い男たちが、ニタニタと笑っている。仮面の男もまた、その仮面の向こうで小さく笑みを作った。

 

「言う通りに、する………。だから、お願い………、シスイには、絶対に手を出さないで……」

「いいだろう。約束しよう」

「おい、フウコッ!」

「ごめん…………、シスイ……。里を……皆を…………、お願い……」

 

 もう一度、彼に名前を呼ばれたような気がした。

 意識は身体の奥へ、奥へ

 

 蒼い世界。

 

 もう二度と、来ることはないだろうと思っていたそこは、憎たらしいほどに快晴で、子供のように走り回る風がフウコの髪を揺らした。

 

「うふふ。マダラ様、ありがとう!」

 

 檻の中の女の子は、青空を見上げながらその小さな両手を胸の前で繋いでいた。嬉しそうにピョンピョンとその場でジャンプしていたが、フウコの姿を視界に収めると、笑顔の質を大きく変えて、檻を形成する柱を掴み、間から顔を出した。

 

 勝ちを確信し、負け犬を見下す視線を、女の子は平然と向けてくる。

 

「ほらほら、早く身体を返して、フウコさん。早く早く!」

「………………フウコ……ちゃん」

「んんー? なぁに? うふふ」

 

 女の子は、無邪気さと邪悪さをわざとらしく滲ませた笑みを浮かべる。

 もはや彼女にさえ自分の言動を予測されてしまうほどに、単調になってしまっている。子供の彼女よりも、自分の方が遥かに子供だと、この状況が示していた。

 

「早くしないとぉ、あの人、死んじゃうよ? いいの?」

「お願い。もう、私に身体を渡さなくていいから…………、みんなを、守ってあげて」

 

 えー、と彼女は大きく頬を膨らませた。

 人工的な雰囲気しか感じ取れないそんな小さな動作でさえ、フウコは大きく動揺してしまう。

 

「うーん、どうしよっかなあ……? うふふ。だってぇ、フウコさん、これまで私のお願い、聞いてくれたことなかったからなあ」

「ご、ごめん…………。お願い、イタチとシスイに、力を貸してあげて。それに………、そう、イロリちゃんも、里が平和になれば、喜ぶと思うから。だから―――!」

「私の友達を、気安く呼ばないで。フウコさんは、イロミちゃんとは友達じゃないんだから」

「イロリちゃんは、私の―――」

「ほら、言ってみてよ? イロミちゃんは、私の友達じゃありませんって。私は偽物ですって。ほらほらぁ」

 

 目の奥が熱くなってくる。

 屈辱的な言葉を、言わなければいけないことに。

 頭の中では、ただの言葉だと、判断できている。ただの言葉を言えば、彼女のご機嫌を損ねない上に、もしかしたら、里の平和に手を貸してくれるかもしれない。

 

 だけど。

 

 友達という言葉の価値を、知っている。

 だって、友達という言葉が作り上げる偉大さを、シスイとイロミが初めて友達になった時に、知ってしまったから。

 

 ただの言葉。

 

 だけど、言葉とは、感情から抽出されるものだ。言葉があるということは、その感情が存在するということ。

 

 苦しそうに奥歯を噛みしめ、今にも溢れ出そうになる涙を必死にこらえながら、フウコは、震える声で言う。

 

「イロミちゃんは……」

「あ、フウコさんはイロリちゃんって言ってね。そのバカみたいな勘違いで付けた最低な名前の方で。友達の癖に、名前を間違えるなんて、信じられない」

「……ッ! イロリ、ちゃんは……。私の、友達じゃ…………」

「ありません」

「…………っ、………ありま、せん……………。私は、偽物……………、です………ッ!」

「ふふーん。あれあれぇ? よく、聞こえなかったけど?」

「え……」

「もう一回、言ってくれない? もっと、大きな声で!」

「……お願い、フウコちゃん。もう…………。里を………」

「ちぇ、つまんない。ふん。まあいいよ。マダラ様も待ってるしね。ほら、早く檻を外して、身体を渡して」

 

 一瞬、檻にかざそうとした右手を躊躇わせたが、脳裏に現れたシスイの姿が、右手を―――精神チャクラを動かした。

 

 女の子が掴んでいた柱は、いとも簡単に動き、狭かった隙間が広くなる。女の子は、スキップしながら目の前までやってきて、両手をさしだしてきた。

 

「身体、返して」

「お願い……、約束して。絶対に、木ノ葉を―――」

「いいから、早くして。早くッ! あの人死ぬよ?!」

「…………ッ!」

 

 震える両手を自分の胸に当てると、白い勾玉が出現する。

 身体の……支配権だ。

 女の子は両眼を爛々と輝かせ、勾玉に釘付けになるのを、逆にフウコは顔を歪めながら見ていた。

 

 音が聞こえたような気がした。

 

 何かが崩壊するような音。

 多分、自分の中からだ。

 これまで、平和の為なら、何を引き換えにしても構わないと思っていた。自分の中心には、千手扉間への恩と、誓いがあった。それを守ることが、全てだった。

 

 でも今は、全く逆のことをしてしまっている。

 悔しかった、情けなかった。

 こんなくだらない状況を作ってしまったのは、全て、自分だ。

 

 何も考えないで感情的に動いて、

 感情に振り回されたせいでシスイが捕まって、

 感情のせいで……女の子を解放しようとしている。

 木ノ葉隠れの里に、止む事のない憎悪を抱いた、彼女を。

 

 さっきの音は、自分の中の大切なものが全て、壊れる音なのだろう。

 

 勾玉を持った両手が、震えながら、女の子の前に―――。

 

 

 

 音が、聞こえた。

 

 

 

「え、なに!?」

「…………ッ?!」

 

 再び、何かが崩れるような音が、今度ははっきりと、響き渡って聞こえてくる。続けて、咆哮が。

 

 絶望を満たしていたフウコの思考は、混乱して精神世界に視線を散らす女の子の思考を一瞬で置き去りにする。

 

 右手をかざす。檻を形成する柱たちが宙に浮き、女の子を囲んだ。

 まだ、外で何が起きているのか予測はついていないだろう彼女は、フウコの態度の急変に危機感を抱き、左手を伸ばして勾玉を奪おうとする。

 フウコは大きく後ろに海を蹴り、女の子の左手は空を切る。

 柱が、女の子の周りの海を穿ち、再び檻に閉じ込めた。

 

「ちっくしょうッ!」

 

 ようやく、彼女も外で何が起きたのか把握したのだろう。身体が返ってくるという喜びを前に、完全に外への意識を放棄していたことに後悔して、彼女は荒々しく柱を叩く。

 

 勾玉を、自分の胸の中に戻す。

 

 ああ! と、女の子は声を挙げた。

 

「そんなことしても、意味なんかないよッ! さっさと身体を返せぇえッ!」

「まだ、終わってない」

 

 詰んだはずの盤面をひっくり返せるかもしれない。

 その興奮は、今までにない速度で意識を急浮上させた。

 

 身体に意識が当て嵌められる感覚。

 白い男たちに俯せに抑え込まれている背中と、土が触れる腹部の感触。夜の風の匂いが鼻腔を擽り、乾いた口がヒリヒリと痛む。

 

 身体に変化は一切見られない。

 

 しかし、周りの状況は変化していた。

 

 仮面の男も、白い男たちも……そしてシスイも。

 全員が、ある一方向を見ていた。

 

 興奮のせいか、全員が完全に自分から視線を逸らしているこの一瞬を無駄にはしないと思考が高速に動いているからなのか、時間をゆっくりと、彼女は観測する。

 

 彼らが見ている方向を見る必要は無かった。

 

 想定は出来ている。

 

 七尾が、暴れようとしているのだ。

 

 おそらく、誰もがその可能性を考慮していなかった。

 傍から見れば、七尾は意識を失っているように見えたことだろう。

 けれど、七尾に高天原をぶつけていたフウコだけは知っている。

 

 まだ七尾の意識を、完全に刈り取ることができていなかったことを。

 

 そして……フウコも知らない事実。

 七尾―――重明の意識の中心にある、七尾としてのプライドと対等な少女から投げかけられた期待への決意を。重明は、半ば狂乱じみた意識だけで、口元に集めた尾獣玉を、今にも射出しようとしていた。

 

 予想外からの介入。

 しかし、一瞬の隙を作りだした決定的な要因は、それではなかった。

 

 仮面の男の思考が、小さく乱れたからだ。

 

 大蛇丸と角都を退かせてしまったのが裏目に出た。尾獣の捕獲が真の目的ではなく、うちはフウコを招き入れることに重心を置いたという事実と、自分の存在。それらを知られるという危険性を考慮したが為に二人をこの場から離したが、今となっては完全な失敗だった。

 シスイを抑え、フウコの動きを警戒しなければいけないこの状況では、自ら七尾を抑え込むことができない。かといって、白ゼツたちにそれができるとは到底思えない。いっそのことシスイとフウコを、七尾の攻撃で消した方が現状ではベストではないか、という思考を巡らせるが、木の葉隠れの里への復讐と自分の計画の成功率を高めたいという小さな欲が、そのスムーズな思考を邪魔している。

 

 故に、仮面の男は、気付くのに遅れてしまった。

 

 彼女の左眼も、万華鏡写輪眼に変化しているのを。

 彼女の身体を、灰色のチャクラが覆い始めているのを。

 

「貴様―――」

 

 別方向からのチャクラの鼓動に、仮面の男はようやく視線を彼女に向けるが、既に灰色のチャクラは白い男たちを弾き飛ばし、黒羽々斬ノ剣を宙に舞い踊らせ、肥大し、異形な姿を形作っていた。

 

 二本の右腕と、鋭い爪を持った三本の左腕を生やした、上半身だけの骸骨が出現する。

 

 須佐能乎(スサノオ)

 

 フウコは、うちはカガミから聞かされていた。

 かつて、うちはマダラが使っていたという万華鏡写輪眼の、第三の瞳術の存在を。

 彼女はすぐさま術の習得に動き、中忍になってすぐに、それを会得していた。同時に、術のリスクも知った。

 

 一度発動してしまえば、その後、碌に身体を動かせなくなってしまうほどの負担が襲い掛かる。

 だが、この値千金の隙。

 そして、シスイの命と、里の未来。

 それらを守るためなら、どんなリスクだって払っても構わなかった。

 黒羽々斬ノ剣を須佐能乎の右手で掴み、手元に引き寄せる。

 

 仮面の男が握る、暗部の刀がシスイの首を掻っ切ろうと動き始めている。

 

「させないッ!」

 

 フウコは左眼の万華鏡写輪眼を通じて、仮面の男に植え付けたマーキングに指示を出した。暗部の刀を握った男の右腕が完全に停止する。

 

「天岩戸か……ッ!」

 

 遅れて、白い男たちは慌ててシスイを殺そうと動き始めるが、あまりにも遅い。

 

 須佐能乎の三本の左手の指先が、シスイを抑える白い男たちと仮面の男の喉元を貫いた。だが、仮面の男を貫く指には確かな手応えはなかった。

 

 ―――シスイッ!

 

 驚くことではない。

 

 波風ミナトと男の戦闘を九尾事件の夜に目撃していたフウコには、そうなることは既に想定できていた。

 三本ある内の一つの手で倒れているシスイを掴み、自分の元へ引き寄せ、須佐能乎の中へ確保する。

 

 瞬間。

 

 尾獣玉が、放たれた。

 

「フウコッ!」

 

 射線は確実に、二人を目掛けていた。膨大なチャクラの塊が迫ってくる刹那、シスイは折られていない左腕でフウコの頭を自分の胸へと抱え込む。

 彼の心臓の鼓動と温かさを、何よりも感じる。気が付けば、両腕を彼の背中に回していた。

 

 ―――……守るッ!

 

 絶対に、彼を、

 守ってみせるッ!

 もう絶対に、危険に晒してやるものか。

 私が。

 私がッ!

 

 須佐能乎の身体から漏れていた余分なチャクラが圧縮され、変化されていく。

 骸骨の姿が限界だったはずが、肉を付け、装束を纏う。

 顔には、左半面が砕けた般若の面が。

 

 圧縮された須佐能乎は、五本の両腕で自身の身体を覆った。

 

 そして、

 

 閃光に包まれ、

 

 音が……消えた。

 

 いや、一度だけ脳を揺さぶるほどの音が二人を襲ったが、その直後に音を感じ取れなくなった。なのに、空気は震え続ける。内臓全体を容赦なく振動させる衝撃は、細かい筋肉の動きさえコントロールさせてはくれない。

 

 横隔膜は不自然に痙攣し、呼吸がままならない。

 

 さらには、須佐能乎の副作用による全身の激痛がやってくる。

 酸欠状態と激痛。

 もはや身体の感覚も喪失してしまっている。生きているのか死んでいるのかすら分からない、朦朧とした意識だけの世界だった。

 

 その意識さえも、飛びそうになる。

 

 ―――……まだ。…………まだッ!

 

 意識を失うのは全部が終わってからでいい。

 身体がバラバラになってもいい。

 死んでも構わない。

 

 まだ須佐能乎を発動できているチャクラの感覚は、儚げに残っている。何としても、その感覚を手放すわけにはいかない。

 

 やがて。

 

 衝撃が止み、激痛と共に身体の感覚が戻ってくる。

 ああ、とフウコは思う。まだ両手には確かに、彼の身体を感じ取れる。鼓動を感じ取れる。生きている。

 

 安堵しながらも、フウコは顔を挙げ七尾がいた方向を見る。濁った水のように歪む視界の彼方には、大量の砂煙が舞い降りていた。七尾の姿は見えないが、血涙を流す万華鏡写輪眼は、砂煙の向こう側に七尾の形をしたチャクラを捉えていた。

 

 七尾は動かない。

 だが、フウコは容赦なく、渾身の力を振り絞って須佐能乎の三本の左腕を伸ばした。

 

 矢よりも早く、槍よりも鋭い十五本の指が、七尾を穿つ。

 

 七尾は暴れた。音は聞こえないが、絶叫したのか風が起き、砂煙が一蹴される。

 フウコたちを中心に出来上がったクレーター。その外側にいた七尾の目を、右眼の万華鏡写輪眼が捉えた。

 今度こそ、意識を刈り取る。

 血涙が頬を大きく汚し、顎から地面に落ちた。血と共に、自分の意識も身体の外へと散らされているような錯覚に襲われる。

 

「…………ッ!」

 

 散漫とした意識の隙間。

 そこに吸い込まれるように、須佐能乎を―――フウコのチャクラを―――通じて入り込んでくる別の意識に、フウコの表情は大きく歪む。

 

『どけ……、小娘……ッ!』

 

 獰猛な重低音の声が聞こえる。

 麻痺してしまった聴覚からではなく、頭に直接響いてくる。

 それが七尾の意識なのだと、フウコは直感する。

 

『俺は、フウを………運ぶのだ……ッ! 邪魔をするなッ!』

「―――ッ?!」

 

 入り込んでくる。

 須佐能乎を伝って。

 七尾の―――チャクラが。

 

 黒く、

 赤く、

 深く、

 底無しの、

 

 怒りのような、

 悲しみのような、

 イメージが、

 そう、七尾がこれまで見てきた、

 人々の争いの記憶、

 そのイメージが、

 圧迫が、

 

 人間の、残酷で残虐な―――くだらなさが。

 

 フウコは叫んだ。

 声に出ていたのか、それとも声なき声だったのか、分からない。だが間違いなく、意識は悲鳴を挙げていた。

 あまりの恐ろしさと、暗さに。

 

 蒼い精神世界すら、汚染浸食されていく。

 

 須佐能乎が揺らぐ。

 装束は焼け落ち、仮面は剥がれ、肉は落ち、骸骨の姿へと戻っていく。

 右眼は、七尾すら捉えていなかった。

 意識が焼き尽くされ―――。

 

 しっかりしろ、フウコッ!

 

 耳元で、本当に微かに、彼の声が、した。

 

 ―――シスイ? ああ、イタチに、イロリちゃんも……。

 

 意識の彼方に、彼らがいる。

 たった半年しか過ごせなかった、アカデミーの頃の、三人が。

 イタチが優しく笑っている。

 イロミが嬉しそうに手を振っている。

 シスイが爽やかに笑いながら、頭の後ろで両手を組んでいる。

 写真のように完成されたその情景は、けれど、一瞬だけしか見えなかった。

 

 でも、一瞬で、十分だった。

 

 理想とする平和な世界が、基準となる世界が、フウコの意識に弱々しながらも、軸を与える。

 

 再び、右眼は七尾を睨む。

 

 ―――高天原。

 

 七尾の意識を刈り取ると同時に。

 フウコも意識を失った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「副忍様。人柱力の保護、無事に完了しました」

「………………そう」

「負傷者の回収も、もうすぐで終わります」

「…………そう」

 

 抑揚なく報告する【根】の男に、フウコは唇だけを動かして応えることしか出来なかった。半ばいい加減な返しに、しかし男は苛立つだけでも呆れるわけでもなく、無反応。まるで報告することそのものが目的でしかないというようで、フウコがいようといまいと関係ないといった感じだったが、生気をまるで漂わせないそこでは、救援部隊としてやってきた【根】の者たちの機械的な後処理はむしろ正しいように思える。

 

「水、貰えますか?」

 

 足を伸ばし切って、木に背中を預けっぱなしに座るフウコ。鞘に戻した黒羽々斬ノ剣は力無く帯に結ばれている。その右横に座るシスイが男に頼んだ。シスイの右腕と指には、骨折の応急処置程度のテーピングがされている。

 男は無言のまま水筒を彼に手渡してから「では」と言って、作業に戻った。これから遺体の回収がされるのだろう、とフウコは疲れ切った頭で判断する。半開きの瞼の向こうで、凄惨な死骸を淡々とした作業で遺体袋に詰めているのが見えた。

 

「飲めるか?」

「……ありがとう。でも、一人で開けられるから」

 

 右手をまともに動かすことのできないシスイが、どうにか左手だけで開けようとしているのをフウコは力無く奪う。しかし、フウコも両手をまともに動かすことはできなかった。疲れと痛みがもたらした弊害は、水筒の蓋を開ける為だけにも関わらず、両手に全神経を集中させても、指は震え力が入らない。しかしどうにか開けて、水を渇いた口内に流し込む。舌触りが心地よかっただけで、渇きは一切消えてはくれなかった。

 

 呼吸を静かに落ち着かせて、水筒を持った左手を地面に置いた。

 

 目を覚ました時には、既に【根】の者たちは到着していた。彼らは、意識を失っているフウコを見て、傍にいたシスイに状況を確認し、尾獣化が解かれた人柱力の保護と負傷者、遺体の回収を行っていたのだ。

 

 シスイは、目を覚ました時からずっと隣にいた。隣にいて、意識を取り戻してから、右手を握ってくれていた。フウコが水を飲み終わってから、また彼は右手を握ってくれる。

 

「シスイ……腕、大丈夫?」

「折れただけだ。気にするな」

「…………ごめん。全部私のせい」

 

 目を覚ましてから、彼は一度として、尋ねてこなかった。

 仮面の男について。

 そして、うちはフウコについて。

 

 おそらく【根】の者たちがいるからだろう、とフウコは考える。けれど、微かに視界の端に見える彼の横顔からは、そういった疑念を抱いているような機微は見られなかった。勘違いかもしれない。疲れてしっかりとした処理が行えないからかもしれない。

 

 彼は小さく手を振って、笑った。

 

「気にすんなよ。結果的にどっちも無事だったんだし、俺はお前に助けてもらったし。俺の方こそ、あれだ……上手くサポートできなくて、悪かった」

「……ううん、シスイがいてくれたから」

 

 彼がいてくれたから、おそらく、結果的にはだが、全て上手くいったのだ。

 感情を剥き出しにしたせいで、こんな事態を招いてしまった。

 けれど、その感情が意識を繋ぎ止めてくれた。

 須佐能乎の副作用にも耐えられた。尾獣玉の衝撃にも堪えることができた。七尾のチャクラにも、屈することはなかった。

 たった一人だったら、きっとこの身体は【彼女】のものになっていただろう。

 そうなったら、全てが終わりだ。

 

 いや、彼だけではない。

 

 イタチやイロミ。

 

 自分が経験した全部が、支えてくれたのだ。

 楽しくて、嬉しい、日向ぼっこをするような、輝かしい記憶たち。それが、これからも積み上がって自分を囲んでくれるだろうという未来への期待。それらが、全て。

 どうして千手扉間らが、平和を守ろうとしていたのか、その偉大な思想が理解できたような気がする。

 

 ふと、思う。

 

 自分の中にいる、彼女。

 彼女は一体、どうしているのだろうか。

 七尾のチャクラは、間違いなく精神にまで汚染してきた。

 彼女の所にも及んでいるかもしれない。

 彼女を囲う檻は健在だ。たとえ今すぐ暴れられても、彼女を抑え込み続けることはできる。だが、珍しい、と微かに思う。

 

 こんなにも自分は疲弊しきっているというのに、幻術一つかけてこない。

 

 不気味なような、安心するような。

 

「副忍様。全ての処理、完了しました」

 

 気が付けば、先ほどの男が報告に来た。彼の後ろには数人の男たちがいるだけで、どうやら他の者たちは、木ノ葉隠れの里へ帰還したようだ。七尾の人柱力の子も、木の葉隠れの里に送られた。

 

「……そう。それで?」

「ダンゾウ様から、副忍様とシスイを無事に連れて帰るように仰せつかっています。動けますか?」

 

 シスイを見ると、彼もこちらを見ていた。

 二人は同時に、小さく頷く。

 

「問題ない。帰ろう」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木ノ葉隠れの里には、何事もなく到着した。何事もなく、というのは、仮面の男の襲撃を、実のところ警戒していた部分があったからである。彼の能力を顧みれば、尾獣玉で消し飛んだということは考えられなかった。【根】の者たちに護衛されるように移動していたが、気休め程度の警戒はしていた。

 

 また、女の子からの幻術も意識していたが、それもやってこなかった。

 

 門を潜って、ようやくフウコの張り詰めた警戒心は解けた。ダンゾウに今回の顛末を報告しに行こうとした時、シスイに肩を掴まれる。

 

「今日はもう帰るぞ。報告は明日だ」

「え、だけど……」

「悪いんですけど、俺たちが無事なことを、ダンゾウ様に報告してもらってもいいですか?」

 

 男がこちらを見る。良いのか悪いのか指示を出せ、ということみたいだ。

 シスイが顔を耳元に近づけてきて、小さく呟いた。

 

「お前も俺も、もうクタクタだ。報告くらい明日でもいいだろう。ダンゾウも、俺たちが無事なのが分かったら強く言ってこない」

「大丈夫かな……」

「今の俺たちを見たら、余計に心配されるぞ。お前なんか、小言を夜中ずっと言われるかもしれない」

 

 まあ確かに、一理あるかもしれない。そう思った途端に、彼は悪戯好きな笑みを浮かべた。アカデミーの頃は大抵、その笑顔を浮かべたら「逃げるぞー!」と言うのだが、流石に今回はそうしないらしい。しかし、あの頃の彼の行動力に振り回された頃を思い出す。イタチがやれやれといった感じにシスイについていき、イロミが困ったようについていき、自分は何となくついていく。そんな、馬鹿みたいな光景。

 少しだけ微笑ましい気分になって、フウコは頷いた。

 

「悪いが、頼む」

「……分かりました」

 

【根】の者たちが姿を消すのを見送ってから、手を繋いで、うちはの町に帰る。

 

 先に着いたのは、イタチの―――自分の―――家だった。玄関から、微かに灯りが漏れている。居間の灯りだ。おそらく、サスケ以外は皆、起きているのだろう。何も言わずにこんなに帰りが遅くなってしまったのだから、きっと心配している。頭の隅で、微かに玄関から入りたくないな、と思った。怒られるかもしれない、と考えたのだ。

 

「正面から入るのか?」

 

 同じことを思ったのか、シスイがそう尋ねてきた。

 

「お前の部屋から入るなら、手伝うぞ」

「どうして?」

「いけないか?」

「イタチが、シスイは絶対に部屋に入れない方がいいって言ってた。悪いことを考えてるって」

「あいつは母親か」

 

 しかし起きているのは間違いないのだから、玄関以外から入ったらそれこそ問題になってしまう。素直に玄関から入ることにした。

 

「シスイは帰らなくていいの?」

「いや、一応事情の説明をしないとな。これ見せれば、信じてくれるだろ」

 

 シスイはテーピングされている右腕を見せた。

 

 玄関を静かに開ける。

 

 いつも自分が過ごしてきた、嗅ぎ慣れた温かい雰囲気が、鼻の先を擽った。

 

「……ただいま、帰りました」

 

 控えめな小さな声が、廊下に吸い込まれていった。右手は変わらずシスイの手を握っている。すぐさま、足音が聞こえてきた。ドタドタと慌てた足音で、あれ? とフウコは思う。イタチの足音じゃない、と。

 

 姿を現したのは、ミコトだった。

 後ろの方で、げっ、とシスイの声が聞こえ、彼の手が強く離れようとする。だが、離したくないな、とフウコは淡々と思い、離さないようにした。

 

「ああ、フウコ。おかえりなさ―――」

 

 そして、ミコトの表情が、心配したものから急激に冷えていく。目が据わり、焦点が弓矢の如くフウコの右手に向かっている。

 音も無く、ミコトはシスイを見た。

 

「あ、ははは。ど、どうも。ミコトさん……その、こんばんは。あのですね……、少し、勘違いをしているみたいですが。ええ。ここは少し、冷静になりましょう、お互いの為に。そのですね、いつだって将来の為を考える時は冷静に―――」

「フウコ、その手、離さないでね。包丁持ってくるから」

「え、あの、ミコトさん?」

「離せフウコ! 俺は逃げるぞッ!」

「右腕見せて事情を説明するんじゃないの?」

「ミコトさん!? 俺の右腕、右腕見てッ! ほら、痛々しいでしょッ! そう、すんごい痛いんですよこれがッ! いいから見てくださいってッ! 任務! 実に健全な任務が急にあってですね、ミコトさん?!―――」

 

 しかしミコトは聞く耳を一切持つことなく、奥の方に消えて行った。遅れて、二人の人の気配があり、駆け抜けていったミコトを見て「どうした?」とフガクの声と「母上?」とイタチの声が聞こえてきた。

 二人は同時に姿を現し、やはりフウコの右手を見て、フガクは厳しい表情を、イタチは呆れたように額に手を当てて「シスイ……」と呟いた。

 

 フガクは口をへの字にしながら、

 

「シスイくん、すぐに逃げなさい。ミコトには、俺から言っておこう」

「ですがフガクさん。シスイと一緒に、その、事情を説明しないと」

「大方、任務だったのだろ? 彼の右腕を見れば分かる。さあシスイくん、逃げなさい。ああなったらミコトは人の話を聞かないんだ」

「ありがとうございます! じゃあな、フウコ。あ、イタチ、俺は何もしてないからな!」

「何かしてたら俺がお前を殺してる。さっさと帰れ」

「……おやすみ、シスイ」

「おう、またな!」

 

 シスイの手が離れ、瞬身の異名に負けない速度で彼は逃げていった。同時に、ミコトの怒りが伝わってくる足音が聞こえ、フガクは肩を降ろしながら廊下の奥に消える。二人の会話が聞こえてきた。

 

「落ち着きなさい。二人は任務だったんだ」

「任務?! 貴方、何を言ってるの。娘の危機なのよ!? いいえ、もう危機が過ぎてしまったのかもしれないのよ!? 信じられないッ!」

「だから、任務だったんだ。それにフウコもそういう年頃だ。別にいいだろう、恋愛くらい」

「フウコにはまだ早いわ。恋愛なんて、きっとフウコは言葉も知らないはずよ。あの子は昔から純粋で素直な子なんだから、私たちがしっかり見てあげないと! とにかくどいて。やっぱり私の予感は正しかったわ。シスイくんはケダモノよ!」

 

 剣呑なミコトの声が聞こえてくるのを背に、イタチは至って冷静に「大丈夫か?」と尋ねてきた。

 

「帰ってこないから心配していたんだ。何かあったんじゃないかって」

 

 言葉とは裏腹に、イタチの黒い瞳は別の心配をしているようだった。

 つまり、計画に支障が出たのではないか? と。

 フウコは言葉を選んだ。

 

「大丈夫。本当にただの任務だったの。シスイは右腕と指を骨折したけど、私が治せば印を結べるくらいにはなるから」

 

 それを聞いて、イタチは笑みを浮かべた。

 

「おかえり、フウコ」

「うん。ただいま、イタチ」

「ご飯は温めればすぐに出来る。でもその前に風呂に入って来い。汚れが酷いぞ」

 

 それからは―――。

 

 あっという間に時間は過ぎていった。

 

 風呂に入るところまでは、時間は正常に流れていたように思える。風呂に入り、身体が温まったあたりから、半分寝ていたのかもしれない。風呂を出てから夕食を食べることにしたのだが、対面に座るミコトが泣きながらに長々と何かを訴えかけてきた。けれど、あまり覚えていない。とにかく、結婚は人生において大切なことで、信頼出来て安心できる相手を選べ、というのが一貫したテーマだったと思う。その上でフウコは、【家族】を除いて信頼でき安心できる異性を思い浮かべると、自然とシスイの顔が思い浮かんだ。

 

 どうにかフガクがミコトを落ち着かせ「もう寝なさい」と言ったので、素直に眠ることにした。自分の部屋の前で「ゆっくり休め。おやすみ」と言ったイタチの表情は、優しかった。

 布団を敷き、その中に入ると、意識は急激に沈んでいく。夢の中にいるように時間は進んでいったが、意識が沈んでいくと、これから本当に夢の中に入るのだと実感できた。

 

 時間が早く感じ取れたのは、きっと、安心してしまったからだと、ぼんやりと思う。楽しい時や嬉しい時は、総じて時間は早く流れるものだ。でも何だか、勿体無いと思ってしまう。不思議な考え方だったが、確かにそう思った。時間が、勿体無い。

 

 もっともっと、長く、ゆっくりと流れてくれればいいのに。

 

 平和な時間はどういう訳か、早く流れてしまう。守る為の労力は多大なのに……不公平だ。

 

 けれど、そんな小さな悪態もすぐに消えた。もう九割がた、夢の中。

 これからは、そう、平和な時代がやってくる。

 自分も無事。

 シスイも無事。

 計画には、支障はない。

 

 これから楽しい、嬉しい時間が、約束されるのだ。

 

 ―――ああ、でも、やだなあ。

 

 考えてしまう。

 ずっとずっと、そんな時代が続いても。

 いつかは、終わってしまうのだ。

 

 脳裏にフラッシュバックする、遺体袋に入れられる亡骸たち。

 いつか、自分も、みんなも、死んでしまう。

 寿命は必ず、やってくる。

 その時は、もしかしたらあっという間に来てしまうのかもしれない。

 

 そう考えると、悲しくなった。

 すごく、悲しくなった。

 

 考えるのは、止めよう。

 

 今日は色々とあった。

 疲れた。

 安心して、眠ろう。

 

 色々な雑念を静かに払いのける。

 イロミの真実や、仮面の男。壊滅状態の滝隠れの里のこと、人柱力のこと。木の葉隠れの里のこと、イタチのこと、シスイのこと、色んなこと。

 

 意識から、音が無くなる。

 

 安定する。

 

 寝よう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「させないよ、ばぁか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え?」

 

 蒼い、

 世界が、

 広がっていた。

 

 目の前には、彼女が入っている、檻が。

 

「どう……して…………」

 

 別に、意識した訳でもないのに。

 ただの夢の中に入っただけなのに。

 どうして、ここに―――。

 

「私が、フウコさんをここに連れてきたの。フウコさんに、お別れを言いたくて」

 

 嫌な予感がする。

 首の後ろ側が、ゾワゾワと。

 檻には問題ない。

 精神チャクラは、間違いなく彼女を抑え込んでいるし、暴れられても問題ない。

 

 なのに、どうしてだ。

 

 目の前の彼女の笑みが、途轍もなく、不気味な空気を放っている。

 

 フウコは恐ろしい予感を必死に抑え込みながら、彼女を見据えた。

 

「フウコちゃん、言ったはず。もう、身体は渡さない。里は、私が守る」

「うん。知ってる。だ、か、ら……奪っちゃうの」

「させない。檻からは、フウコちゃんは、出られない。今までだって、出来なかったでしょ?」

「うふふ……あはははははッ!」

 

 女の子は高らかに笑った。

 何かの確信を得た、力強さを持っている。

 背筋が凍える。

 

「何が、おかしいの……」

「今までは、ね。うふふ。でも……ほら」

 

 彼女が無邪気に顔を傾けると、

 あっさりと、

 檻は、

 破壊された。

 

 混乱し―――そして、空と海が、逆転した。

 

 フウコは、空に、叩きつけられる。

 

 空は海に。

 海は空に。

 

 つまりそれは、精神世界が、逆転したことを意味している。

 

 自分が彼女から、身体の支配権を奪った時に起きた現象と、同じだった。

 

 意識が、重くなる。

 息苦しい。

 そう、ここは。

 彼女の、世界になった。

 

「どうして……」

 

 精神チャクラの量では、絶対に彼女には負けていない。確信できる。

 なのに彼女はあっさりと、それを否定してみせた。

 混乱する思考の中、目の前に立つ彼女は、無邪気に笑う。

 

 その背中に、フウコは見た。

 

 どす黒い、チャクラを。

 

 七尾から感じ取ったものと、同一の、チャクラを。

 

「フウコさんは、アレのチャクラに苦しんだみたいだけど、私は平気だよ。あれぐらいの暗い気持ちなんて、私、へっちゃらだから」

 

 うふふ、と笑い、見下ろしてくる彼女の両眼には、自分と同じ、万華鏡写輪眼が。

 

 ついさっきまで彼女を抑え込んでいた檻の柱が、破壊されたはずの柱が、元に戻り、今度は、自分を狙っている。

 自分の周りではなく、身体を貫こうと。

 

「お願い、フウコちゃん。少しだけ……あと少しで、里は平和になるのッ! 待ってッ!」

「嫌だよ。そんな都合のいいこと、しないよ」

 

 フウコは背を向けて走った。

 

 もう、逃げるしかなかった。

 

 どこに?

 

 この精神世界で、彼女の精神世界で、どこに?

 

 シスイはいない。

 イタチもいない。

 イロミもいない。

 誰も、いない。

 彼女と、自分だけ。

 だけど、フウコは探した。

 

 自分の基準となる世界の欠片を。

 それさえあればまた、きっと乗り越えることができる。

 強い感情があれば、どんな辛い時でも、耐えることができると知ったんだ。

 だから、それさえあれば―――。

 

 一本の柱が、フウコの腹部を破壊した。

 上半身と下半身で分断される。

 今度は、胸を。

 

 声が出ない。

 意識の血と共に、白い勾玉が、宙を舞っている。

 

 手を伸ばす。

 シスイが握ってくれていた、右手を。

 ずっとずっと、伸ばし続ける。

 

 ―――イタチ、

 ―――シスイ、

 ―――イロリちゃん、

 ―――皆……私に、力を貸し

「あははははははははははははッ! バイバイ、フウコさんッ!」

 

 柱が、フウコの頭部を押しつぶした。

 

 もう、フウコは、何も喋らない。

 喋れない。

 動けない。

 

 残った柱たちが、バラバラになるフウコの意識を、押し潰し肉片にしていった。




 ご指摘、ご批評がございましたら、ご報告のほど、よろしくお願いいたします。

 ※追記です。
  最終推敲をしたのですが、白ゼツに奪われた黒羽々斬ノ剣に関する描写が思い切り抜けており、明確ではなかったため、その描写だけを追加で書かせていただきました。申し訳ございません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

羽虫は灯に焦がれる

※今回の話は、一人称視点と三人称視点が切り替わる場面がございます。中道の文章は相変わらず駄文なため、少しでも、視点の切り替わりが分かるよう、一人称視点に切り替わる時には冒頭に【● ● ●】、三人称視点に切り替わる時には冒頭に【☆ ☆ ☆(これは、これまで通りですが)】を用いておりますので、こちらをご留意して読了していただくと分かりやすいと思います。
 尚、【● ● ●】と【☆ ☆ ☆】には、どちらにも時間経過の示唆も含まれております。


 ● ● ●

 

 

 

 ねえ、知ってる? フウコさん。

 

 私はね、ずーっと、我慢してきたの。

 

 扉間とか、ヒルゼンとか、ダンゾウとか、カガミとか、あの人たちにお父さんを殺されて、里のいい加減な人たちのせいで、任務でお母さんが死なされてから、ずーっと、我慢してきたんだよ。

 

 フウコさんに、お父さんが治してくれた身体を盗られてから。

 

 想像してみて?

 

 とっても優しいお母さんのことも、とっても頭が良かったお父さんのことも、私のことも、みんな忘れて、平和を守ろうって、周りが言ってるの。私の言葉は届かなくて、私の身体は勝手に別の人生を歩き始めてるのを、ただ見てるだけ。真実を伝えたくても、誰にも届かない。

 

 すごい、苦しいことなんだよ。

 

 どれくらい苦しいのかっていうのは、まあ、簡単に言えば、七尾のチャクラ? フウコさんが苦しんだアレ。あれが羽虫みたいに五月蠅いなあ、って思えるくらい心に余裕が持てちゃうくらい、苦しいんだ。あ、あれはねえ、檻の中に七尾のチャクラが入ってきたから、五月蠅いなあ、って睨んでたら、勝手に動かせるようになったんだ。万華鏡写輪眼って、凄いんだね。

 

 まあ、とにかくね。

 

 私、凄い我慢してきたから、つい、フウコさんをぶっ潰しちゃった。ごめんね。痛かった? でも、大丈夫だよね。この世界だと、私もフウコさんも、互いに殺すことができないみたいなんだ。どんなにすり潰しても、元に戻っちゃう。どうしてだろうね? 私とフウコさんの身体が混ざってるみたいに、もしかしたら、心も混ざってるのかもしれないね。

 

 ……ねえ、聞こえてる?

 

 おーい、フウコさーん。

 

 ………………。

 

 うーん、起きないなあ。壊れちゃったかなあ。

 まあいいや。きっと、すぐに起きるよね、多分。それに、起きなくても、無理矢理起こすんだから。

 しっかり、見ててね、フウコさん。

 私がどれくらい我慢して、苦しんできたのか、よく見てて。

 

 フウコさんの大切なの、イロミちゃん以外の全部は、私が、殺して―――夢の世界に連れて行ってあげるから。

 

 その時、感想教えてね。

 

 何もできないまま、全部無くして、平和がやってきた時の感想をさ。

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

「わあ、綺麗な空」

 

 それに、気持ちいい風。まだお日様が出てないけど、東の空が海みたいな色で、星も出てて、綺麗。うん、やっぱり、早起きは気持ちいいなあ。お父さんが、早起きは三文の得って言ってたけど、本当だったんだ。でも、正確に言うと、早起きして、窓を開けて空を見上げたら、三文の得だね。空は綺麗だし、風は気持ちいいし、あとは、えーっと、えーっと、うん、頭がすっきりする! よし、三文の得! でも、少し身体が重いかな。昨日、あれだけフウコさんが無理したから、色んなところが痛い。

 

 あ、お腹が鳴った。

 むー、でも確かに、お腹が空いたなあ。どうしよう。

 

 このまま、フウコさんのフリして過ごすのは嫌だな。私が本物の【うちはフウコ】なんだから、フウコさんのフリをするなんて、なんか負けた気分。でも、私のままでいくと、怪しまれちゃうし、特にダンゾウとかに知られると面倒だなあ。

 

 とにかく、朝ご飯のことはとりあえず後にしよう。まだこんな朝早くだと、御店屋さんも開いてないだろうから。

 

 まず何より、マダラ様に会わないと!

 

「……この寝巻、なんかつまんない」

 

 私は自分の姿を見て、呆れてしまった。

 昨日の夜、風呂上りからそのまま着ていた真っ白い浴衣の寝巻。

 カッコ悪い。

 これからマダラ様に会うのに、こんな恥ずかしい恰好は嫌だな。でもフウコさんの服って、あの黒いやつしかないし、あっちもカッコ悪い。

 

 ……うーん。

 

 一通り悩んだ結果、私はフウコさんの黒い服に着替えることにした。寝巻よりも普段着の方が、まだマシだからね。それに、これから里の中を歩くんだから、いつも通りの恰好じゃないと怪しまれるかもしれないし。

 

 着替えた後、私はフウコさんのフリをするために表情の練習をした。つまり、無表情の練習だ。声の抑揚も平坦にしないといけないから、大変だった。

 

 見た目よし、表情よし。

 うん、大丈夫かな。

 

「あ、そうだ。置手紙くらいは、しておこ」

 

 このまま何も言わないでいなくなったら、イタチとかが探しに来るかもしれない。

 

 ペンと紙を取り出し、背の低い本棚で家を出る理由を書いた。

 

【用事が入ったので、出掛けます。いつ帰るかは分かりませんが、安心してください】

 

 うん、それっぽい。

 字も完璧に真似たから、大丈夫かな。

 

 私は紙を本棚の上に置き、脇にペンを転がした。

 よし、じゃあ出発だー。…………って思った時に、あるものが目に入った。

 

 それは、写真立てだった。質素で素朴な写真立ての中には、もちろん写真があって、四人の人が写っている。

 

 フウコさんに、イタチに、シスイに、あと―――イロミちゃん。

 

「…………ふん、つまんない」

 

 私じゃない私が写っていて、私が家族だとも恋人だとも思っていない奴が一緒に写ってる。気持ち悪い。何より、私の友達が、私の偽物と一緒に笑顔を浮かべているのが、気に食わなかった。

 でも、イロミちゃんが悪いんじゃない。フウコさんが悪いんだ。私が話しかければ、すぐにイロミちゃんは、私の方が本物だって気付いてくれる。友達なんだから、絶対に気付いてくれる。

 

 あ、そうだ。マダラ様に会ったら、イロミちゃんのこと、話してみよう。木の葉隠れの里をマダラ様は壊したがってるけど、イロミちゃんもそれに巻き込まれたら嫌だし、マダラ様だって、イロミちゃんのこと、分かってくれるはず。

 

 あ、でもでも、イロミちゃんを連れて行った方が早いかな。

 

「……ま、いっか。イロミちゃん、寝てるかもしれないし。無理に起こしたらいけないから、その時は、私一人でマダラ様に会いにいこ」

 

 そう決心して、私はペンを持った。

 

「えい」

 

 ペンの先っちょを、写真を守ろうとしている薄いガラスに突きたてた。ペキっていう馬鹿みたいな音がして、ちょうどフウコさんの顔の上の部分に白いヒビが入る。そのままグリグリってすると、フウコさんの顔の部分は写真ごと破けて消えてなくなった。

 

「えい、えい」

 

 今度はイタチの所をぐりぐり。勝手に私の【家族】だなんて気持ちの悪いことを平気で言うから、大嫌い。ぐりぐりー。

 

「えい、えい、えい」

 

 最後にシスイ。お父さんが治してくれた大切な私の身体をベタベタ触ってきて、大嫌い。ぐりぐりぐーり。

 

 フウコさんとイタチとシスイの顔を潰した。だけど、イロミちゃんだけは潰さない。だって、私の大切な友達なんだもん。

 

 写真立ての表を下にして、薄気味悪いでんでん太鼓の後ろに隠す。これで多分、バレないかな。よし、大丈夫。あ、額当ても巻かないと。

 

 窓から出て、窓をきちんと閉めて、うちはの町を歩いていく。まだ皆、起きていないみたいで、静かだった。町の通りを巡るのは、涼しい風とその中を歩く私だけ。

 

 どれも、色んな事が、懐かしい。

 空気が肌を撫でる感覚。

 うちはの町の空気の香り。

 ああ、私、身体を取り戻したんだ。

 夢じゃない。

 本当に、元に戻ったんだ。

 

「お父さん、お母さん。待っててね。私絶対、仇を討つから」

 

 そして、全部終わったら、夢の世界で、また会おうね。

 私、すごい頑張ったの。だから、いっぱい褒めて、いっぱいいっぱい遊ぼうね。

 気が付けば私は、身体を取り戻せたことの嬉しさとお父さんとお母さんに会える楽しさで、自然と全力で走ってた。風みたいに、速く、速く。

 

 イロミちゃんのアパートに着く頃には、私は肩で息をしていた。うちはの町を出ても、人の姿はなくて、だからずっと全力疾走したからだ。それに、元々身体が疲れていたからというのもあるかも。

 

 でも、イロミちゃんに会えるかもしれないって思うと、身体の疲れや息苦しさなんて辛くも何ともなかった。

 

 私は、部屋の前に行くのではなく、反対の、アパートのベランダ側に回った。もしイロミちゃんが寝てたら、呼び鈴を鳴らした時に起きてしまう。折角、気持ちよく寝ているかもしれないから、そんなことをしちゃったら可哀想だ。

 

 二階の角部屋。他の部屋の窓にはカーテンすら付けられていないため、すぐにそこがイロミちゃんの部屋で間違いないと思った。ベランダはなく、代わりに窓から落ちないように背の低い鉄格子が付けられている。その上に置かれた物干し竿には、まだ何もかけられていない。朝日も出ていないから当たり前だけど、イロミちゃんが寝ている可能性が大きくなった。それでも、まだ中を見てみないと、分からない。

 

 跳んで、鉄格子に着地する。両眼を写輪眼に変えてカーテン越しに中を除くと、すぐ手前に、イロミちゃんの形をしたチャクラが視えた。身体を横にしている。寝ているみたいだ。

 

「……起こすのは、やっぱり駄目だよね」

 

 でも、本当に寝ているか分からない。

 もしかしたら、起きているけど布団から出たくないのかもしれない。

 

 私は窓に耳を当ててみた。しっかり嵌っていないのかな、少しだけ、ガタって音が鳴ったけど、聞こえてきたのはイロミちゃんの寝息だった。

 

 スピー、スピー。

 

「うふふ。イロミちゃんの寝息、可愛い」

 

 いやいや、でも、まだ分からない、と私はわざとらしく心の中で呟いてみる。イロミちゃんだったら、もしかしたら、そういう呼吸をしているのかもしれない。

 イロミちゃんは努力家だ。身体の中で、ずっとイロミちゃんの努力を見てきたから、知ってる。きっと、そういう特殊な呼吸法をして、修行をしているんだと、私は馬鹿みたいな想像を巡らせた。

 

 もう、イロミちゃんが寝ているか寝ていないかなんて、関係ない。

 

 大切な友達が、この薄いガラスのすぐ向こうにいるって分かったら、とにかく顔だけでも見てみたいと思ってしまった。何度も身体の中で見てきたけど、実際に顔を見ると、より一層、可愛く見えるに違いない。

 

 窓に手をかけて、開け―――あれ、鍵が掛かってる。

 

 えーっと、こういう時、何か都合のいい忍術なかったっけ?

 

「あ。そうだ、あれならいいかも。たしか、印は……」

 

 不本意だけど、フウコさんが蓄えた忍術の記憶を辿りながら、印を結び、チャクラをコントロールする。そういえば、忍術使うのって、初めてだけど、上手くいくかな? フウコさんは、こんな感じでやってたけど……あ、出来た。

 

 右手のチャクラがナイフのように鋭くなる。たしかこれは、チャクラの解剖刀(メス)、だったかな? チャクラが届く範囲なら、切りたいところを切れるっていうやつのはず。

 

 なんだ、忍術って、簡単なんだ。

 

 術を保ちながら、窓に触れる。二つの窓のサッシが重なる部分の、下の方にある窓鍵を、チャクラのメスでコリコリって動かしていく。

 

 むー。錆びてるのかなあ、あまり動かない。この、この。あ、開いた!

 

「お邪魔するねー、イロミちゃーん。うふふ」

 

 静かに窓を開けると、涼しいそよ風がカーテンを自然と退けてくれた。ゆっくりと床に降り立つ。真っ暗だった部屋に、ほんのりと淡い光が、布団で眠っているイロミちゃんの顔を照らした。部屋に入ってきた風が、私の方に向いて眠っているイロミちゃんの前髪をずらした。

 

 細い眉毛と、慎ましい睫。白い毛先の隙間から、火傷痕のように変色したおでこが見えた。

 

「あ、ごめんね。見られたくないんだよね」

 

 すぐに前髪を直してあげる。指先が微かにイロミちゃんの額に触れちゃって「うーん……、スピー、スピー」と寝返りを打ったのを見て、驚いた。でも、起きなくて、だけど、起きてほしかったと思ったり。

 

 ……私は、気にしないんだけどなあ。イロミちゃんは、全部で、イロミちゃんなんだから。私なんて、お父さんに治してもらわなかったら、ずっと―――。

 

 ああ、変なことは考えない!

 折角イロミちゃんに会えたんだから。

 

 そうだ!

 やっぱり、イロミちゃんを起こそう。イロミちゃんとお話すれば、楽しい気分になる。

 あの夜みたいに。

 それで、また仲良くなって、一緒にマダラ様の所に行って、最後は夢の世界で遊ぶんだ。

 

 よーし……。

 

「イロミちゃ―――」

「むにゃむにゃ……フウコちゃん」

 

 ……あれ?

 

「フウコちゃん。私に、修行……」

「………………」

 

 ……あれ、あれ?

 

「いつか……、私も……むにゃ……、暗部にぃ……すごい……忍にぃ……えへへ」

「…………」

「そう、なったら…………、楽しい……なあ…………」

「……」

「……スピー」

 

 気が付いたら、私はイロミちゃんの部屋を出ていた。

 なんだか、嫌な気分に、なっちゃった。

 どうしてだろう。

 

 きっと、うん、そうだ。

 肌で、感じたからだ。

 風とか、空気とかと一緒で、やっぱり、中から眺めてるのと実際に触れるのでは、大きく違う。

 私はアパートから少し離れて、後ろを振り向いた。

 

「……つまんない」

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 イロミちゃんは、悪くない。

 

 だってしょうがないんだから。普通に考えたら、一つの身体に全く別の人が二人いるなんて、ありえないもん。だから、うん、仕方ない。悪いのは、フウコさんなんだから。イロミちゃんへの友達っていう思いは、ちっとも薄れたりはしないんだから。

 

 だけど、嫌な気分は、どうしても晴れてくれなかった。東の空からお日様が顔を出し始めて、雲一つない綺麗な青空が出来はじめてるけど、私の気分はそうはならなかった。

 

 仕方なく、里の外を目指す。

 必ず、マダラ様は、待ってくれてるはず。

 

 あの夜みたいに―――。

 

『うちはフウコか?』

『ここは? お父さん、どこ?』

 

 何も分からないまま、封印が解かれた私の前に立っていたのは、仮面を付けた男の人だった。最初は、まるでお化けみたいで、それに、自分の状況が分からなくて混乱していたから、すごく怖かったけど『俺は、うちはマダラだ』と言った時、私は思い出した。

 

 お父さんがいつも、呟いていた名前。お父さんが知ってる人だって、思った。

 少しだけ落ち着いた私を前に『父に会いたいか?』とマダラ様は尋ねてきた。

 

『うんっ……会いたい。お母さんにも、会いたいよ…………』

『いいだろう、会わせてやる』

『……本当?』

 

 本当だ、とマダラ様は頷いた。

 

『どんな願いも叶う、夢の世界を、俺は作る』

『夢の……世界……? 本当に、そんなことが、出来るの?』

『すぐに作ることはできないが、いずれは作る』

『私も、連れてって……えと………くれるん、ですか……?』

『お前の力が、俺にとって必要であればな』

『何をすれば……いいんですか?』

『簡単だ。木の葉隠れの里を、一人で抜け出してみろ。そうすれば、お前を夢の世界に連れていってやる』

『……分かりました』

 

 だけど私は、里を抜け出すことができなかった。

 途中で暗部の連中に追いかけられて、一度は撒いて、その途中でイロミちゃんと出会って、手を繋ぎながらいっぱい楽しいお話をして。

 でも、暗部の連中は私を諦めなくて。仕方なく、私はイロミちゃんと別れて戦ったんだけど、中にいたフウコさんが暴れて邪魔してきて、それで、捕まっちゃって。

 

 悔しかったし、悲しかった。

 

 もうマダラ様は、私を見捨てたんだと私は思った。ううん、マダラ様の期待に応えられなかった私が悪かったんだ。何度も何度も後悔した。ああしとけばよかった、こうしとけばよかったに違いない。ずっと、考え直していた。

 

 それでも、マダラ様は、私を迎えに来てくれた。

 九尾を使って。

 その時にマダラ様は、フウコさんを隔てながらも、私に言ってくれた。

 

『フウコ。待っているぞ』

 

 きっと、今でも、待ってくれてる。

 絶対にそう。

 間違いないんだから。

 

「あれ? フウコの姉ちゃん?」

 

 あともう少しで里の外に出れそうな所の通りで、後ろから声をかけられた。誰だろう? って思って振り返ると……えーっと、確か、この子は…………ああ、ナルト、だっけ? その子が立っていた。

 

 あ、いけないいけない。フウコさんの真似、フウコさんの真似。……悔しいけど。

 

「おはよう、ナルトくん」

 

 おはようだってばよ、とナルトくんは五月蠅い大声を出しながら、笑って目の前までやってくる。どうやら、私をフウコさんだと思っているみたい。

 なんだ、簡単じゃん。

 あーあ、フウコさん、可哀想。うふふ。

 

「どうしたんだってばよ、こんな朝早くに。これから任務なのか?」

 

 うん、と私はいい加減に頷く。どうせ子供だ、暗部の任務があるかどうかなんて、分かるわけがないよね。

 

「ナルトくんは? アカデミーは、まだ始まってないよね」

「ニシシ、修行してたんだってばよ!」

「こんな朝早くに?」

「おう!」

「アカデミーで寝たりしてないよね?」

「え!? ……そ、そりゃあ、もちろん」

 

 ……いいなあ。

 私も、アカデミーで遊びたかったなあ。

 

「駄目だよ。アカデミーの授業は、しっかり受けて」

 

 寝るなんて勿体無いのに……、ちょっとムカついて、私は少しだけ語尾を強くしてしまった。しまった、と思ったけど、ナルトは苦笑いを浮かべるだけ。それを見ると、さらに、ムカついてしまった。

 

 そういえばこの子……九尾が中に入ってるんだよね。

 

 攫っちゃおうかな。

 

 マダラ様の所に連れていけば、喜んでもらえるかな? ああ、でも、余計なことするとマダラ様の計画に支障が出ちゃうかもしれないし……。

 うーん、どうしよう。

 

「なあなあ、フウコの姉ちゃん。今日は、修行はできねえのか? 任務って、これからすぐなのか?」

 

 五月蠅いなあ。それに、遠慮がなくて、ムカつく。私の方が、年上なのに。

 

 こんな子攫っても、マダラ様も迷惑かも。

 これから私は、しばらくはフウコさんとして動いて、うちは一族のクーデターを成功させて、木の葉を潰すんだから、今攫わなくてもいいかもね。

 

 とにかく、まずは、やっぱり……うん、マダラ様に会いに行こ。

 

「ごめんね、ナルトくん。私、任務があるから」

「えー、少しくらい、いいじゃねえかよー。な、少しだけ! 何か、すっげーカッコイイ忍術教えてくれるだけでもいいからさ!」

 

 何が少しくらいなんだろう。私は任務があるって―――まあ本当は無いんだけど―――言ってるのに。

 

 それでもナルトは手を握ってきて、やたら腕を引っ張ってくる。

 カッコイイ忍術って…………、この子、教えてすぐに出来るの? フウコさんが教えているのを何度か眺めたことあるけど、何か、意味がないことばかり。どうせ教えても身に付かないだろうし、っていうか、早くマダラ様に会いたいし。

 

 でもここで断るのは、何だか、フウコさんっぽくないような気がする。

 

 うーん。……パッと見てカッコ良さそうな術で、見せた後は勝手に一人でやる気を出してさっさと私を解放してくれそうな忍術。

 

 ……あ、あれがあった。

 

「いいよ。じゃあ、少しだけ。ついてきて」

「おう!」

 

 私はナルトくんを引っ張って、一番近くの広場にやってきた。まだ子供は寝る時間で、大人の姿も見当たらない。東の空と西の空の中間は真っ白で、広場はその真下にあるような気がした。

 

 手を離して、向かい合う。

 手を繋いでいたにもかかわらず、まだナルトは私をフウコさんだと確信している。あーあ、やっぱり、フウコさん、可哀想。

 

「いい? ナルトくん。よく、見てて」

 

 私は右の掌を胸の辺りまで上げて、チャクラを練る。たしか、こんな感じにやってたかな? と思い出しながら、掌の中央少し上でチャクラを乱回転させた。

 

 むむむ、意外と難しいかも。

 

 ちょっとだけ苦戦したけど、どうにかできた。

 

「おお。なんかよく分かんねえけど、すげえってばよ……。何て言う術なんだ?」

 

 ナルトの青い瞳が、私の掌の上に出来上がった球体のチャクラを見上げていたけど、すぐに私の方を見て、何だかキラキラとした視線を送ってくる。

 鬱陶しい。

 

「螺旋丸。印も必要ない忍術だから、ナルトくんでも出来ると思う」

「どういう術なんだってばよ」

「これを相手に当てるの。今は、うん、当てるものがないから試せないけど。とりあえず、やってみて」

 

 おう! とナルトは無駄に大きな声を出して、右の掌を私と同じように胸の位置まで。でも、ああ、やっぱり駄目だねこの子。全然、チャクラをコントロール出来てない。写輪眼じゃなくても見えるくらいのチャクラの密度は作れてるけど、それでも本当にぼんやりで、無駄。才能ないなー。

 

「もう一回やるから、見てて。今度は、ゆっくりするから」

 

 意味がないかもしれないけど、とりあえず、これだけで終わらせても「もう少し!」と手を掴んでくるのが想像できたから、もう一度見せることにする。

 ゆっくり、チャクラを動かしていく。もうコツは掴んじゃったから、今度は難しくない。

 

 またナルトが目をキラキラさせてる。

 

「分かった?」

「……チャクラを、回せば、いいんだよな?」

「うん」

 

 ただ回せばいいって訳じゃないんだけどね。でも、どうせできないだろうし。

 

 もう一度ナルトはやってみるけど、やっぱり出来なかった。さっきのと全然変化が無い。なんか、すごい力んでるけど、効果なんて無くて、口をへの字にする頃には肩で息をしていた。

 

「上手く、出来ねえってばよ…………」

「次の修行の時まで、少しでも出来るようにしてて」

「え? もう行っちゃうのか?」

「任務だから」

「もうちょっとだけ! 全然出来なかったからさ!」

 

 何がもうちょっとなんだろう。これ以上教えても、どうせ進歩しないのに。

 仕方なく、奥の手を使うことにした。

 奥の手っていうほど、奥の手じゃないんだけど、何だか、言葉がカッコイイ。

 

「その術はね、ナルトくんのお父さんが使ってた術なの」

 

 小さな呼吸が、ナルトから聞こえてきた。

 

「今の君には、少し難しいかもしれないけど、今回はあまり、私は手伝ってあげたくないの。なるべく、自分の力で習得してほしい」

「………………」

「分からないことは、次の修行までに、はっきりさせておいて。いい?」

「……分かったってばよ!」

 

 よし、上手く誤魔化せた。これでマダラ様に会いに行ける。

 少し離れて後ろを振り向くと、まだナルトは練習していた。アカデミーをサボるのかな? まあいいや。

 

 里を出て、しばらく里の周りをぐるぐる探検してみたけど、マダラ様は見つからない。それもそうか。なんて言ったって、マダラ様はすごい忍なんだから、私が探しても見つかるわけがないよね。

 

「……マダラ様ー。どこにいるんですかー? フウコでーす。お姿を見せてくださーい」

 

 声を細くしながら、神様か何かを探している変な人みたい、私、と思った。

 でも、マダラ様は神様だ。

 私にとって、夢の世界に連れていってくれる、神様。

 だからこうして呼びかけないと、姿を見せてくれないんだ。

 

「マダラ様-。どこですかー?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 仮面の男の中では、もはや、うちは一族のクーデターのことなどどうでもよかった。七尾を獲得することはおろか、うちはフウコを手に入れることも、うちはシスイを殺すこともできなかった時点で、もう同じような機が訪れることはないだろうと判断していたからだ。

 

 仕方ない。原因は、中途半端な欲を出そうとした自分にあるからだ。

 

 損害も特になく、連れていった何体かの白ゼツが全滅したくらいだ。黒ゼツにも自分にも被害はない。

 

 黒ゼツには継続して木の葉隠れの里の諜報を任せた。完全にうちは一族のクーデターが治められるまでは、何が起こるか分からない。もしかしたら、また自分の予期していない爆弾が生まれている可能性があるかもしれない。そんな、糸よりも細い淡い期待くらいは、まだ残っていた。

 

 頭の中では、今後の計画の見直しを行っている。うちは一族が完全に木の葉隠れの里に付いてしまった場合、どう動くのがベストか……、そんなことを考えていた時、白ゼツが姿を現した。身体の半分には黒ゼツが侵食している。

 

 つまり、木の葉隠れの里に変化があったのだと、仮面の男は瞬時に判断した。

 昨日の今日だ。

 うちは一族がクーデターを起こした、というレベルの変化があったのではないか、という期待が薄らとあったが「何があった?」という問いへの黒ゼツの言葉に、一瞬だけ耳を疑った。

 

「ドウヤラ、うちはフウコガ身体ヲ奪ッタヨウダ」

 

 その報告は、期待以上のものだった。

 

「……本当か?」

 

 だが、仮面の男は冷静に問い返す。

 八雲フウコとうちはフウコ。その二人の入れ替わりは、見た目では判断が難しく、ましてや、うちはフウコの方はこれまで一度しか会話を果たしていない。黒ゼツと白ゼツに至っては、一度として邂逅してはいないのだ。

 何を以て入れ替わったと判断したのか、それを質さなければいけない。黒ゼツは数秒ほど沈黙してから、

 

「正直、判断ハ難シイ。ダガ、明ラカニコレマデノ様子トハ違ウ」

「白色お化けって俺は言われたし、黒ゼツは黒色お化けって言われたからね。なんだから、見るからに子供って感じだった」

「必死二オ前ヲ探シテイタゾ」

「………………」

 

 演技か? と、逡巡する。あまりにもタイミングが良すぎだと思ったからだ。おまけに、入れ替わった原因も分からない。どのようにして魂が入れ替わるのか、その原理そのものが判然としないが、少なくとも、これまでは八雲フウコが表に出ていたはず。故に、自力で、しかもどのタイミングでも入れ替わりが、うちはフウコから能動的に出来るとは考え難いというのが、現時点での判断であり、それを踏まえての八雲フウコによる演技の可能性が思い浮かんだのだ。

 

 しかし、どうだろう。

 

 うちは一族のクーデターという爆弾を抱え、こちらから木の葉隠れの里への介入が難しいという状況の元、わざわざアクションを起こすだろうか?

 

「一人か?」

 

 仮面の男が尋ねると、黒ゼツと白ゼツは、もちろん同時に頷いた。

 

「一人ダ」

「探してみたけど、一人だった」

 

 一人、という状況に、ふと、かつてのことを思い出す。

 

 ―――簡単だ。木の葉隠れの里を、一人で抜け出してみろ。そうすれば、お前を夢の世界に連れていってやる。

 

 うちはフウコの封印を解いた時に、彼女に与えた言葉。

 もしかしたら、うちはフウコはそれを忠実に守っているのだろうか?

 

『木の葉隠れの里のある研究所に、うちはフウコという女がいる。いずれ、お前の力になるだろう』

 

 ある男(、、、)から聞かされたばかりの頃。

 半信半疑で彼女の封印を解いたものの、幼い見た目に本当に力になるのかと思ってしまい、半ば投げやりに呟いた口約束。

 足手纏いはいらない。

 そもそも、この計画は自分のものだ。

 あの男の手先など、不要だ。

 

 そう思っていたのだが、結果として、八雲フウコが身体を取り返し、目障りになってしまったのだが―――とにかく、仮面の男はこの状況に明確な判断をすることはできなかった。

 ただ微かに、これまでの八雲フウコの行動からは外れた、不連続な事態だというニュアンスだけが、火薬の香りのように思考にこびりつく。

 

「……分かった。案内しろ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 黒ゼツと白ゼツの案内の元、仮面の男が、うちはフウコの前に姿を現したのは、昼を過ぎ、夕方と正午のちょうど中間頃のことだった。

 

 それまでの間、フウコは里からさらに離れ、里の周りを巡回する忍たちの外の茂みの中に身を潜めていた。それは、里の周りの森の中で突如として出現した黒ゼツと白ゼツに導かれ、そして指示された為だった。

 

「マダラヲ呼ビニ行ク。ソレマデココデ待ッテイロ」

 

 黒ゼツの言葉を素直に受け止めた彼女は、茂みに俯せの状態で隠れたまま、時折目の前を小さく歩いていく蟻やダンゴムシを眺めながら「えい、えい」と小声で気合を入れ、人差し指で潰して暇を消化した。

 

 黒ゼツと白ゼツが戻ってきたのを気配で感じ取ったのは、人差し指にこびりついた虫の体液を興味本位で舐めて、あまりの舌触りの悪さと生臭さに口をへの字にした時だった。

 

「……白色お化けさんと、黒色お化けさん?」

 

 気配は幽霊のように自分の周りを円形にうろうろと動いている。

 どうしたのだろうか? と、茂みから顔だけを出した。同時に、気配は消え、そしてすぐさま目の前に現れた。

 

 ―――やっぱり、植物みたい。地面からにょきにょきって出てくる。

 

 と、呑気なことを考える。

 

「待たせたね、フウコちゃん。何してたの?」

 

 半分しか身体のない白ゼツが、兎のように頭だけ茂みから出している彼女にフレンドリーに話しかける。彼の中では、目の前にいる少女はうちはフウコなのだと確定されているようだった。

 

「虫を潰してたんです。指に、血が付いたので舐めたんですけど、気持ち悪かったです」

「勇気あるね」

「マダラ様はどこですか? もしかして……今日は、来れないんですか?」

 

 不安そうで、それでいて悲しそうな声をフウコが出した時、黒ゼツと白ゼツの横の空間が黒く渦巻いた。その中心から、仮面の男が姿を現す。

 

 男は揺らぐことなく真っ直ぐフウコに視線を向けたが、仮面の奥で、小さな動揺があった。それは、フウコの馬鹿みたいな体勢を見てのこと。

 

 そして、とうのフウコは、仮面の男の姿を見て、長い睫を持つ瞼が大きく見開いた。しかし、ちょうど、仮面の男の後方上部の空に太陽が浮かんでいるせいで、シルエットしか見えなかった。それでもフウコは瞼を細めることなく、目の表面が乾くのを忘れてしまうくらいに見続ける。目の乾きによっての生理現象なのか、それとも感極まったせいなのか、透明な涙を流した。

 

「マダラ……様……」

 

 涙が頬を伝い、口の中に入る。

 先ほどの虫の味など吹き飛んでしまう塩辛さに、余計に、涙が溢れた。

 

「マダラ様ー!」

 

 兎のように、フウコは茂みから抜け出した。

 両手を真っ直ぐと、仮面の男に向けて。

 首から下を黒いマントで覆った、その胸に、飛び込み―――そしてすり抜けた。

 

「うわっ!」

 

 全身全霊の、それこそ心臓から魂が抜き出るくらいの感情の昂ぶりに任せた飛び込みが何の力もなくすり抜けてしまったせいで、男の後ろでフウコは顔面から地面にダイブした。うわぁ、痛そう、と白ゼツが小さく呟くのを傍目に、男は後ろのフウコを見下ろす。

 

「あ、あの……マダラ様? どうしてですか?」

 

 赤くなった鼻先を右手で抑え、さっきよりも余計に涙を流しながら女の子座りをするフウコが尋ねた。

 

「悪いな。正直、事態を把握できていない」

「そんな! 私ですよ! うちはフウコです!」

「俺もそう信じている。だが、昨日の今日だ。俺も念を入れさせてもらう。分かってくれるか?」

 

 ぶー、と可愛らしく頬を膨らませるフウコを見て、男の内心では九割がた、うちはフウコなのだと確信していた。仮面の奥で、予期せぬ好転が訪れたことに笑みが零れそうになるが、それを引き締める。

 

「まずは、どうして身体を奪えたのか、教えてくれ」

「……教えたら、褒めてくれます?」

「ああ。いいだろう」

 

 それから彼女が嬉々として語った、昨日の七尾の戦闘と、フウコが行ったことの顛末は、にわかに信じ難いものだった。

 万華鏡写輪眼による、しかも精神世界において、七尾のチャクラの一部を調伏させたという事実。魂に年齢があるのかは分からないが、少彼女の語り口調はまだ幾歳しかない幼いそれであり、そんな彼女が、尾獣のチャクラをコントロールできるものなのか……素直に許容することはできなかった。

 

 だが、八雲フウコが考えた作り話にしては、リアリティが無さすぎる。むしろ幼いうちはフウコが語るからこそ、微細でありながらも不可思議な現実味があるようにも思えた。

 

 どう判断すればいいものか。

 

 疑心の一割を埋める為の決定的な何かが、ないだろうか。

 

「どうですか? マダラ様! 私、すっごい頑張ったんですよ! マダラ様との約束も守りました! 一人で、里の外に出られたんです!」

 

 立ち上がったフウコは無邪気な満面の笑みを向けてくる。

 声の抑揚はボールのように弾み、八雲フウコの欠片は一つも見受けられない。だが、日常的な感情は、忍なら完全に誤魔化すことができる。まだ、疑心は晴れない。

 

 そんなことを思っていると、フウコの赤い瞳が、プレゼントを目の前にする子供のように淡い輝きを放っているのが見て取れた。

 

「……ああ、よくやった。頑張ったな」

「えへへ」

 

 頬を赤らめ、口端をだらしなく下げて笑う彼女は、どういう訳か、さり気無くこちら側に頭を傾けてきた。すぐには分からなかったが、馬の尻尾のように揺らす長い黒髪を見て、頭を撫でてほしいという意志表示なのだと理解する。

 

 しかし、別の思考が男に巡る。

 

 今なら、首の骨を折ることができるのではないか、と。

 右手で首に手刀を叩き込めば、可能だ。完全にフウコは無防備。両手を後ろに組んで、もはや頭は露骨すぎるくらいにこちらに傾いている。黒髪の間に見える白い首筋は、右腕を半分も伸ばせばすぐに届く距離だ。

 逆に、八雲フウコなら、こんな無防備なことをするだろうか。

 

 ―――いや、ありえない。

 

 一割の疑心は、一厘ほどまでに大きく後退する。

 男は右手をフウコの頭に伸ばした。この無邪気でありながら、七尾のチャクラを調伏する才能を持つ少女を手懐けるには、求められたものを素直に提示し、そして認めること。たったそれだけをすれば、この少女は従順な手駒になる。

 強力で、都合のいい、そう、駒。

 

 あ、とフウコが、自分に伸びる手を見て嬉しそうに声を挙げる。

 

 男はフウコの頭に手を乗せた。

 乗せた―――つもりだった。

 

「…………ッ!?」

 

 息を呑む。

 右腕が、意図していない動きを見せ、完全にコントロールできなくなる。

 右腕は、つい先ほど、男がイメージした軌道を描いて、フウコの首元に手刀を叩き込もうとした。確実に首の骨を折るだろう速度と力で。

 

 だが、息を呑んだのは、右腕が勝手に動いたことにではない。

 

 勝手に動いた右腕を、一秒の時間も要さない刹那的な瞬間であるにもかかわらず、フウコが難なく左手で掴み……そして、零度よりも低いかのような冷たい視線を放つ写輪眼が、こちらを見ていたからだ。

 

「マダラ様? これって……どういう、ことですか?」

 

 皮肉にも、男はこの時確信する。一厘の疑心は消えたのだ。

 八雲フウコの殺意は、無機質的、あるいは業火のような乱暴さを多く含んでいた。

 しかし、今、目の前の少女の殺意は、その二つとは全く異なっている。

 

 未だコントロールの利かない右腕を掴むフウコの握力は、岩をも平気で砕くかのように強力だった。しかし、その労力は息を吸うよりも簡単だとでも言うかのように、フウコの表情は笑い、けれど目は無表情だった。無邪気な声は、ドロリとした粘着質な妖しさを惜しみなく放っている。明確な殺意は、空気よりも軽く、一つでも気に食わないことがあれば殺すという意志が過不足なく伝わってきた。

 

 つまり―――天邪鬼のような、殺意だった。

 

 人の心を見計らって、悪戯をする子鬼。

 問題なのは、その悪戯が、嘘みたいな軽さを持つ、絶対の死だということ。

 ついさっきまで全幅の信頼を置いていたような子供っぽさからのあまりの豹変に、男は息を呑んだのだ。

 

 日常的な感情ではない、衝動的な感情は、完全な誤魔化しはできない。

 少女は間違いなく、うちはフウコだ。

 彼女の殺意が、男を確信に導いた。

 

 フウコは続ける。

 

「私、マダラ様に会うために、すっごく、頑張ったんです。なのに、どうして、私を殺そうとしたんですか?」

 

 右腕がいとも容易く圧し折られる。

 痛みが脳天に鋭く届くが、今はそれどころではない。

 フウコを満足させることができなければ、厄介な事になる。

 

「落ち着け、フウコ」

「ねえ、マダラ様。マダラ様は、私のこと、嫌いなんですか?」

「あの女だ。天岩戸の効果が、まだ継続している」

「……へ?」

 

 フウコが頭を傾けると、虹のように殺意は消え去った。

 そして「ああ!」とフウコは、自分の口を自分の右手で塞いだ。

 

「九尾の時のやつですか?」

「そうだ。俺の意志ではない」

「そっかー。なあんだ、びっくりして損しちゃった」

 

 右腕を圧し折ったことに何の悪びれもなく、フウコは笑顔の質を、また子供っぽいそれに切り替えた。

 ひとまずは、落ち着く。

 少女がうちはフウコだと分かったのは良かったが、しかし、別の問題が男の中に浮上する。とても厄介な問題だ。

 

「マダラ様?」

 

 フウコの無邪気な声が耳に届く。

 彼女の右手には、黒羽々斬ノ剣が。

 

「右腕、切っちゃいますね!」

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 もう、フウコさんったら、いっつもいっつも、私の邪魔するんだから。

 折角気持ち良くマダラ様に頭撫でて貰おうと思ったのに。褒めて貰えそうだったのに。許さない!

 

 私はマダラ様の右腕を切り落とした。完全にマダラ様の身体から離さないと、天岩戸には意味がない。マダラ様の右腕を切るのは残念だけど、すごい忍なんだから、右腕が無くなっても、大丈夫だよね!

 

 あっさりと切れたマダラ様の右腕は地面に落ちた。うへえ、虫みたいにビチビチ動いてる、気持ち悪ーい。

 

 私はそのまま、写輪眼でマダラ様の右腕を見つめる。七尾のチャクラの時と一緒。睨んで、中に入り込む感じ。

 

 すると、気が付けば私は、真っ白い世界にいた。ずーっとずーっと、真っ白。右腕の精神世界? なのかな。まあとにかく、右腕中に入った私の目の前には、フウコさんが立っていた。……フウコさん、だよね? 何か、小っちゃい。というより、ああ、そうか。九尾の事件の時に天岩戸を使ったから、当時の姿のままなんだ。

 

 天岩戸。

 

 それは、私の左眼の万華鏡写輪眼に宿った力。私自身は使ったことはないけど、フウコさんが使っているのを何度か見た事がある。

 

【見つめた対象に、自分の魂の一部を埋め込み、埋め込んだ分だけ、その対象を操作できる】

 

 たしか、そんな感じの力だったはず。あと、埋め込んだ魂とは一定の距離までなら、意識だけで会話ができたりとか、埋め込んだ魂の気配を感じ取れたりとか、そういうのもあったと思う。

 でも私は感じ取れなかったから、もしかしたら、自分の魂じゃないと察知とかできないのかも。ま、私は、天岩戸を使うつもりはないけどね。

 だって、お父さんとお母さんが、悲しんじゃうかもしれないから。

 

 それに寿命とかも縮まりそうだしね。

 

 さてと。

 

「久しぶりだね。小さいフウコさん」

 

 私は幼いフウコさんに近づきながら、呟いた。うふふ、可愛い。すっごい私を睨んで。勝てると思ってるのかな? 小さい魂だけで、私に。

 

「私を解放して」

「やーだよ。うふふ。無理矢理、やってみたら?」

 

 あ、跳んできた。

 でも、うーん、すっごい遅いなあ。

 魂が別れてるから? それとも、この頃のフウコさんって、これくらいだったっけ? 思い出せないけど、とりあえず顔を目掛けて殴ってきたから、避けて、お腹にパーンチ。あ、ミシミシって言った。虫みたい。

 

「ほらほら、フウコさんを解放するんでしょ? 頑張って、小さいフウコさん」

 

 口からすっごいゲボゲボ吐いてるけど、死なないよね? 私、まだフウコさんにいっぱい仕返ししたいから、壊れないでね? ……って、あ、逃げた。

 でも、意味ないよ。

 もうマダラ様の右腕は切り離しちゃったから。

 

「くそっ!」

 

 ほら、すぐに端っこに辿り着いちゃった。叩いても、意味ないのに。フウコさんって、意外に馬鹿なんだなあ。

 私はフウコさんのすぐ後ろまで移動して、右腕で首を持ち上げてあげる。

 さっき、私の首を折ろうとしたから、そのお返し。

 うふふ。バタバタして暴れてるけど、痛くも痒くもないよ。

 

「おね、がい……ッ! 里の……平和を…………まも、でぇ………」

「平和なの? うちは一族がクーデター起こそうとしてるのに?」

「ク……デ………?」

「あ、そっか。まだ知らないんだっけ。残念」

 

 面白い反応が見れると思ったのに。

 まあいいや。

 バタバタ暴れる反応だけでも、面白いし。あ、でも涎とか腕に付いちゃった。いてて、もう、腕引っ掻かないでよ。精神世界でも、何だか嫌な気分。

 あ、ミシミシって鳴った。

 ラストスパート。

 

「ぁぁ……ッ! 扉…………間……ざま…………、ずみば―――」

 

 あ、折れた。

 こっちだと殺すことができるみたいで、糸が切れたお人形さんみたいに両手をだらりとした後、ガラスの破片みたいになって消えていった。うーん、どうして本体のフウコさんは殺せないんだろう。……まあいいや。

 

 小さい魂だけど、フウコさんを殺せて満足!

 

 私は身体に戻って、すぐさまマダラ様を見上げた。

 

「マダラ様! フウコさん、殺しました! 褒めてください!」

「……ああ、よくやった」

 

 マダラ様の左手が、今度こそ私の頭を撫でてくれた。

 嬉しい!

 思わず、私はマダラ様に飛びついた。でも、今度はすり抜けることなくて、安心。あ、マダラ様、何だか木の香りがして、良い匂い。

 ずっとこうしていたいな。

 

「えへへ。マダラ様?」

「どうした」

「次は私、何をすればいいんですか? 木の葉隠れの里をぶっ壊すんですよね!」

「……しばらくは、何もしなくて大丈夫だ」

「えー。どうしてですか? 私だったら、ヒルゼンとかダンゾウとか、すぐに殺せますよ?」

 

 それに、私が二人を殺せば、うちは一族はどうしようもなくなって、クーデターを起こすはず。イタチもシスイも、クーデターを防ごうとする暇もないのに。

 マダラ様は、面の奥で小さく笑った―――ような気がした。むー、マダラ様の顔が見たい。

 

「せっかく、身体を取り戻したんだ。無理をする必要は無い」

「無理なんか、していません。無理でもありません!」

「父と母に……会いたくないのか?」

「……会いたいです」

 

 すごく、会いたい。

 

「ここで無理をし、万が一、捕らえられたらどうする。もう二度と、身体を奪い返すことができなくなるかもしれないのだぞ?」

「……でも」

「……俺は、お前が大切なんだ、フウコ」

 

 頭を撫でてくれるマダラ様の手が、とても温かい。

 

「これまで、多くの仲間を見てきたが、俺との約束を守ったのはお前だけだ、フウコ。だから、無理はしないでくれ」

「マダラ様……」

 

 マダラ様、だーいすきッ!

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「何故、フウコニ指示ヲ出サナカッタ?」

 

 フウコと別れた帰り道の道中で、黒ゼツに尋ねられた。

 あれから、長い間、抱き付かれたままだった。ただ抱き付かれたままというわけではなく、彼女から、イロミという少女について長々と語られたのである。その少女が如何に純粋で、良い子で、優しい子であるかを、感情に任せて、時系列も無茶苦茶に聞かされた。

 最終的には「マダラ様の夢の世界に連れていっていいでしょうか?」と尋ねられ「問題ない」とだけ答えた。喜ぶ彼女だったが、その返事は相当にいい加減なものだったことは、黒ゼツと白ゼツ、そして仮面の男にしか分からない。

 

「木ノ葉ヲ潰ス絶好ノ機会ダロウ」

「そうそう。フウコちゃんは良い子だ。それに強い。命令すれば、すぐにやってくれるはずなのに」

 

 黒ゼツの言葉に、白ゼツも調子良く重ねてくる。

 

 草木が生い茂る、道なき道を歩きながら、男はぼんやりと、オレンジ色を帯び始めた太陽を見上げる。

 

「あれは危険だ。少しでも見誤れば、手が付けられなくなる」

 

 切り落とされた右腕の傷口を抑えながら呟く。血は出ておらず、痛みももう殆どないが、こびりつくのは、右腕を掴んだ時の、彼女の破綻的なまでの人格の脆さ。

 

 彼女と別れる時「マダラ様は、私にとって神様です!」と笑顔で言ったが、神様、という言葉に含まれるエゴイスティックな価値観の差異は大いにあると感じ取った。

 

 うちはフウコにとっての神とは、自分の助けになる存在ではない。

 自分を助けてくれる存在だ。

 

 自分を助けてくれないと判断すれば、すぐさま切り落とす。

 あっさりと。

 この、右腕のように。

 そして、自分を助けてくれる存在であれば、それはたとえ小さな蟻ほどの虫であっても、喜んで縋りつくのだろう。

 

 幼いままに、長い時を超え、そして特殊な環境で過ごし続けた彼女の人格は、感情のストッパーを手に入れることはなく、天賦の才と造られた肉体を余すことなく暴れさせてしまう危険性を伴ってしまっていた。

 

 扱いには、十全な注意が必要だと、男は判断していたのである。

 

「下手な指示を出して、その指示に少しでも疑念を抱かせて暴れられるよりマシだろう。……うちはフウコが俺に心酔している、それだけで俺の勝ちだ」

「ナルホド」

「それにしても、あの子、かなり君を信頼していたね。ずっと抱き付いて、可愛かった」

「……ああ、そうだな」

 

 皮肉と勝利への確信が、男の口角を仮面の奥で吊り上げさせた。

 

 兎にも角にも、良いカードが手元に転がり込んできたのに変わりはない。

 あとは、うちは一族のクーデターを待つだけだ。

 

 ……しかし、その予測は裏切られつつあることを、男は知らなかった。

 

 心酔させていれば、信頼されていれば、言うことをしっかりと聞く子なのだというその評価は、大間違いだったのだ。

 

 うちはフウコは、見た目では、少女。

 しかし、これまで八雲フウコの中からしか外の世界を経験したことがない彼女は、あらゆる経験、社会的暗黙の了解などが、欠落した、幼い女の子のままなのだ。

 

 つまり。

 

 木の葉隠れの里に戻り、しばらくして彼女が、一体、何を思ったのか。

 それは、ただ一つ。

 

 男が彼女を手懐ける為に与えた、褒めるという、砂糖よりも感情を痺れさせてくれるほどの甘い飴。

 それを今度は、もっともっと、沢山貰おうという―――欲深い我儘だった。

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 フウコさんのフリをしろって言われても、何しよっかなあ。

 せっかく、身体を取り返したんだから、今日だけは、色んなことがしたい。

 お買い物とか、探検とか、本を読んだりとか。

 いっぱいいっぱい、したいことがあった。

 

 だから私は、木の葉隠れの里に戻ってすぐ、変化の術を使って姿を変えた。

 その後のことは、あまりよく覚えてない。

 とにかく楽しかったのは覚えてるけど、色んな事やりすぎて、忘れちゃった。あ、でも、一楽っていうラーメン屋のラーメンは美味しかったのは、覚えてる!

 

 気が付けば、夜だった。

 西の空が真っ赤になった時には、もうそろそろ戻らないと、イタチとかが探しに来るのかな? と思ってたけど、もう少しだけ、もう少しだけって思ってたら、すっかり夜になっちゃった。

 

 変化の術は解かないまま、私はうちはの町に続く道の端っこを歩いていた。夜空を見上げると、砂粒みたいな星が、すごく綺麗。

 

 このまま、うちはの町に戻っちゃうと、しばらく私は、フウコさんに成りきって過ごさないといけない。それは、難しくないけど……でも、つまんない。もっと早く、クーデターが起きてほしい。

 

 マダラ様もマダラ様。私のこと、大切に思ってくれるのは、すごく、嬉しいんだけど、でも私は、マダラ様の為に、頑張りたい。それに、マダラ様の為に頑張れば、マダラ様も嬉しいだろうし、私も褒めて貰えて嬉しいから、一番いい。

 

 うん。

 

 マダラ様のお願いを破っちゃうけど、やっぱり私も何かしよっと!

 

 うーん、無理をしないで、私ができること。

 ヒルゼンとか、ダンゾウとかだと、二人の前まで行くのに面倒だし、暗殺が失敗して、もし戦闘とかになったら抜け出すことができなくなる。もっと簡単で、楽な相手―――あ、いた。

 

 うふふ。そうだそうだ、あいつにしよう。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ―――ん……。あれ、私…………。

 

 彼女(、、)は―――静かに目を覚ました。

 重い瞼を開き、鉛のような気怠さを背負う肩を上げて、上体を起こす。周りを見渡すと、柱だけで形成された、檻。その向こうに延々と広がる蒼い世界に、思い出す。

 意識を失う前の、最後の光景を。

 

 焦ったように立ち上がり、檻を両手で掴む。全精神チャクラを両手に集中させるが、柱はビクともせず、ヒビも入らなかった。

 

「うふふ。フウコさん、起きたんだ。おはよう」

 

 檻の向こうに、彼女と全く同じ姿のフウコが姿を現す。

 無邪気で、少し傾けた笑顔の下には、隠す気もない侮蔑が含まれていた。

 

 ―――フウコちゃん! ここから出してッ!

「どう? 檻の中に入った気分は。フウコさんは私みたいに外の様子を見ることができないから、退屈だよね」

 ―――……ッ!

 

 彼女は両眼を万華鏡写輪眼にすぐさま変える。

 柱を睨み、内包されている七尾のチャクラを、フウコがやったように調伏しようとするが、悍ましい光景がフラッシュバックした。のみならず、逆に七尾のチャクラがこちらを呑み込もうとすら、してくる。

 

 ―――ぁあぁああッ!

 

 強烈な痛みの前に、彼女は悲痛な叫びを挙げることしか出来なかった。

 

「あはは! やっぱり、フウコさんって意外と頭が悪いんだね。七尾のチャクラはもう私が操作してるんだから、今更横取りしようとしたって無駄なのに。それにフウコさんはうちは一族じゃないんだから、私よりも写輪眼を上手く扱えるわけないでしょ? ああでも、そういえばフウコさんは八雲一族だよね? 身体を支配してる訳じゃないのに、この世界でも写輪眼使えるんだ。やっぱり、私とフウコさんって、少し魂が混ざってるのかもしれないね」

 

 両眼から止め処ない血涙が流れ、彼女は左手で顔を抑えながらも、普段の赤い瞳に戻ってしまった両眼でフウコを睨み付ける。

 

「もう、そんなに睨まないでよ。この身体は、私のなの。お父さんが治してくれた大切な身体なの」

 ―――私は、里を守ると……誓った…………。

「知ってる。それを今から、私がぶっ壊してあげるんだから。―――これ、見て」

 

 フウコが指を軽やかに鳴らすと、檻の外に円形の鏡が出現する。

 しかし、鏡は彼女を映さない。代わりのように映っている人物を見て―――彼女は恐ろしい未来を、一瞬にして想像し、大きく息を呑んだ。

 

『なんだよフウコ。こんな夜中に用事だなんて。しかも、わざわざ鳥を使って』

 

 鏡の向こうに写る、うちはシスイの声が鼓膜を揺さぶった。

 彼は、どこか不思議そうに首の後ろを左手で掻いているが、フウコ(、、、)に対する疑念を全く持っていないように見える。

 

 ―――嫌……、嫌ぁ!

 

 彼女の震える声が、果たして何によってもたらされたものだったのか。

 蒼い世界は、彼女の声を無情に呑み込みながらも、シスイの声だけは不気味に響き渡らせた。

 

『というか、今日は何してたんだ? ダンゾウがお前のこと探してたぞ。昨日の報告してないっつって、代わりに俺が報告したんだぞ? お前の家に行ってもいなかったし、つーかミコトさんに殺されかけるし、イタチには睨まれるし、大変だったんだぞ?』

『ごめん。少し……その、用事があったの』

 

 別の声。

 それは、誰よりも知っている声だった。

 抑揚のない、高級な鈴のような、声。

 

『珍しいな。個人的な用事だろ?』

『そうだけど……あまり、言いたくない用事で……』

『分かってる、そこまで詮索するつもりはないって。だけど、そういう時は、誰かに言えよ? 俺でもいいし、イタチでもいいからな?』

 

 いつもの優しく、頼もしい声は、しかし、今だけは、柱を掴んでいる彼女の両手を恐怖で痙攣させた。

 乱れる呼吸の中、再び、柱に万華鏡写輪眼を向ける。

 夥しい量の血涙が流れ、強烈な痛みが襲ってくるが、それらを遥かに凌駕する恐怖への焦りが、より両手を震わせた。

 

 ―――くそッ! 動けッ! 動けッ!

 

 彼女の行動を馬鹿にするかのように、ニタニタと笑いながらフウコは眺めている。

 それでも、彼女は諦めない。奥歯を噛みしめ、とうとう、額を打ち付け強引に柱を動かそうとする。

 額の骨が折れる音、裂けた額から溢れた血が柱にぶつかる水音が、蒼い世界に吸い込まれていった。

 だが、

 

 ―――動けッ! 動いてぇッ!

 

 柱は、動かない。

 

「あーあ、可哀想なフウコさん。大切な人に、私が入れ替わっているということに気付いてすらもらえないなんて。うふふ、まあ、ナルトも気付いていなかったけど」

 ―――止めて! シスイには、手を出さないでッ!

「うふふ、みっともない。そんな取り乱しちゃって。マダラ様の時は、素直で綺麗だったのに」

 

 そう、確かに。

 彼女は、あの時のように、諦観はしていなかった。

 むしろ、感情が癇癪を起こしている。

 

 ああ、とフウコは両手を叩いた。

 

「もしかして……うふふ、シスイに恨まれるんじゃないかって、思ってるんでしょ? そうだよねえ。怖いよね、恨まれるのって」

 

 いつの間にか彼女の基準となっていた世界には、シスイとイタチ、そしてイロミからの、楽しい感情だけで満ち溢れていた。

 完璧で、完成された、理想郷。

 けれど。

 その世界が、穢されていく。

 シスイは、気付いていない。

 中の人格が、魂が、入れ替わっていることに。

 もしこのまま、彼が傷つけられ、瀕死の重傷を受けた時―――彼は【フウコ】という人物を、どう思うだろうか?

 

 その未来を創造するだけで、理想郷は修復不可能な穢れに満たされる。

 人生の宝物に成り続けるはずだったのに。

 理想郷が穢されることへの恐怖、穢された後に訪れる後悔、そして何より―――交渉の余地もない、決定的なフウコの殺意に、彼女は、心を乱しているのだ。

 

 いや、それよりも……。

 

 もしかしたら。

 単純に。

 昨日の七尾との戦闘で、彼女はシスイを―――。

 

「これから、シスイを殺してあげる。徹底的にいたぶってあげるんだから」

 ―――お願い……、フウコちゃん……。

「きっと、シスイは死ぬ間際にこう思うんじゃないかな? よくも俺を殺したな、恨んでやるって。うふふ。私は別にいいの、恨まれても。でも、フウコさんはどう? シスイに恨まれて平気?」

 ―――シスイ、気付いてッ! それは、私じゃないのッ!

「ざ、ん、ね、ん、でしたあ。うふふ。見えるけど、声は届かないの。どう? 苦しいでしょ。私も同じ。十年近く、今のフウコさんみたいに、言葉を届けたかったのに、届かないの」

 ―――……………やる…………。

「ん?」

 

 フウコは耳を傾けた。

 彼女の言葉が、あまりにも弱々しく、小さかったから。

 けれど、次に聞こえてきた声は、震えながらも、力強かった。

 

 ―――シスイを……殺したら…………お前を……殺してやる…………ッ!

 

 殺してやる。

 

 それは、フウコへの脅しと本心が、間違いなく、含まれていた。

 

 だが、同時に。

 シスイが殺される未来を無意識に受け入れてしまっている情けなさも含まれていたことに、フウコはニタニタと笑みを強めながら、感じ取っていた。

 

 血涙が作った、頬の赤い川。その上を、透明な涙が、新しい痕を作る。

 怒りと悲しみ。

 その二つが混ざり、口端を大きく歪めていた。

 

 うふふ、と、フウコは、余裕たっぷりに言った。

 

「よかったぁ。フウコさん、ようやく分かってくれた。私もね、そうなの。大切なものを殺されたの。お母さんも、お父さんも」

 

 フウコが大股で、檻のすぐ目の前まで、彼女の目の前まで、歩み寄る。

 乱暴に前髪を掴み、額を打ち付けてやった。

 痛みからなのか、それとも、フウコの邪悪な笑みの前に静かに屈する自分の脆弱さを呪ってなのか……涙の量が、増えた。そして怒りよりも、悲しさに押し負けるように、口端が、下を向く。

 それを見て、益々、フウコの笑みは強くなり、嫌味たっぷりに、言葉を放った。

 

「だからね、私もフウコさんに訊いてあげる。ねえ、どうして、私を恨むの?」

 ―――ごろじで、やる……ッ!

「あはははははは! ばぁか」

 

 

 

 ● ● ●

 

 

 

 うちはシスイ。あいつなら、簡単に殺せると思った。

 右腕は骨折していて、どうせ印なんて結べないだろうし、それに、不必要に近づいても疑われないからだ。これまで何度も、ベタベタって触ってきて気持ち悪かったけど、今回だけはそれを利用してやる。

 

 周りには、誰もいない。森の中にある湖の近くだから、当たり前。

 

「ねえ、シスイ」

 

 私はフウコさんのフリをしながら言う。

 

「……昨日、家に帰ってから、ミコトさんに…………、その、色々言われたの」

「……怒ってたか? ミコトさん」

「ううん。でも、何だか、すごい泣いてた。恋人を作るなら、結婚する気じゃないといけないとか、相手をよく選べとか、そういうのを言われた」

 

 まあ、言われたのはフウコさんなんだけどね。

 

 一歩、シスイに近づいてみる。

 シスイは顔を青ざめながら「ミコトさん、どうして俺をそんなに嫌うんだろう」と夜空を仰いでいる。

 隙だらけ。

 右腕は包帯でぐるぐる巻きになって、動かせそうにないみたい。

 だけど、まだまだ……。

 うふふ。

 

「それで……私も、考えてみたの…………。シスイのこと」

「いつもは考えていないみたいだな」

「まだ、恋人とか、好きとか……あまり、分からないけど…………、もし、フガクさんとミコトさんみたいな家族を作るなら…………、シスイがいいなって……思った…………」

「はっはっは、そりゃあ、嬉しいな」

 

 また一歩、近づく。

 さらに、もう一歩。

 腕を伸ばせば、シスイの首に回せるくらいの距離まで近づいた。

 

「目、閉じて」

 

 ようやくシスイの表情が、驚きに変わった。

 

 ―――………! ……、…………ッ!

 

 うーん、五月蠅いなあ、フウコさん。

 そんなに騒いでも、シスイには届かないよ。

 

「どういうことか……お前、分かってるのか?」

「分かってる。だけど……、その…………、怖いから……。お願い……」

「……分かった」

 

 うふふ、ばぁか。

 なに本当に目閉じてるの?

 そんなつもり、私には少しもないんだから。

 これまで何度も、ベタベタベタベタって、触ってきておいて、都合よすぎ。

 

 ねえ、フウコさん。ほらほら、よく見て。

 これから、フウコさんが作った黒羽々斬ノ剣で、シスイを殺してあげる。

 うふふ、ごめんなさいだなんて、今更謝っても、もう遅いのに。

 

 私はゆっくりと、シスイにバレないように、右手で刀の柄を掴む。

 狙うのは、まず、右足。

 その後は左腕で、次に左足。右腕は残したままにするのは、痛くて動かない右腕をみっともなく動かそうとするのが見たいから。

 

 うふふ。

 それじゃあ、バイバ―――。

 

「―――ところで、一つ訊きたいんだが…………」

「え―――」

 

 右腕が、掴まれた。

 寒気がする。

 これまでみたいに、ふざけた感じじゃなくて、がっしりと、左腕で。

 

「お前は誰だ?」

 

 見上げる。

 どうして、分かったの?

 どうして、目を開けてるの?

 どうして、写輪眼で、私を見てるの?

 

「フウコじゃあ、ないよな?」

 




 五日以内に投稿したいと意気込みましたが、中道には超えられない壁だったようです。そもそも、十日以内に投稿する、という明言を破ってしまったことが原因だったので、今後はそのような事がないよう、励みたいと思います。

 次の話は、十日以内に行います。

 ※追記です。
  次の話を書いている時に【最後の方で平然とシスイが右腕を動かしている】【最後の二人の場所の描写が一切ない】ことに気が付き、その部分だけを新たに書き加えさせていただきました。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

止まる水は、箱を満たす

 今回は、とびっきり話しが進みません(いつものことですが)。ご了承ください。


「なあ、ジイちゃん。漢字を勉強したいんだけど、何かいい本とかないか?」

 

 家に帰ってくるなり、真っ先に祖父の寝室に向かったシスイは、廊下と部屋を隔てる襖を勢いよく開けると、開口一番にそう言った。

 

 八畳ほどのコンパクトな寝室。部屋の真ん中に敷かれた布団から上体だけを起こして新聞を読んでいたカガミは、幼いシスイに顔を向けた。

 

「………………はあ」

 

 ため息をつくカガミ。鼻に乗せた分厚い老眼鏡を外し、几帳面に端を揃えて畳んだ新聞と一緒に布団の横に置くと、彼は皺の深い表情を渋くさせた。

 

「シスイ、ここに来なさい」

 

 布団の真正面を指差しながら部屋に響くカガミの低い声が、シスイの小さな興奮を重く沈めさせた。襖を静かに閉めてから、シスイは布団の正面にチョコンと正座する。

 

 短い沈黙を経てカガミは、まだ幼いシスイを厳しく見下ろしながら呟いた。

 

「今までどこに行っていた」

「ちょっと、外に行ってた」

 

 素直に応えるが、カガミの視線は強くなる。

 

「一人でか?」

「父さんと母さんに、外に行ってくるって言ったよ。俺は、怒られるようなことはしてない」

「言ったはずだ。まだ、外は危険だと。そんなことも分からないのか」

「でも、俺はこうして帰ったんだから、別に、いいじゃんかよ」

「運が良かっただけだ。いいか? シスイ。運が良かったというのは、忍としては恥ずかしいことなんだ。立派な忍になりたいのなら、動く前に、まずは考えるんだ」

「………………父さんと母さんは、外で遊んでいいって、言ったのに」

「返事は?」

「……分かったよ。ジイちゃん」

 

 シスイはつまらなそうに唇を尖らせた。ジイちゃんはいつも気にし過ぎなんだよ、とシスイは心の中で悪態をつくが、それを言葉にする気はまるで無かった。彼の言葉はいつだって正しいのだと、知っているからだ。

 カガミが鼻から息をはくと、渋い表情を一転させて、穏やかな笑顔になる。

 

「それで、何だ、漢字を勉強したいのか? お前にしては、珍しいじゃないか」

 

 好々爺、という言葉がぴったり当て嵌まりそうな声に、唇を尖らせていたシスイの表情は嬉々としたものに変わる。彼のその雰囲気と、尊敬すら感じてしまうような知性が、大好きだった。

 

「アカデミーに入ってからでも遅くはないんじゃないのか?」

「今すぐがいいんだ」

 

 シスイは正座を解いて、立ち膝の姿勢で布団の上を通りカガミの目の前までいくと、彼の乾いた右手が、頭を撫でてくれる。

 

「なあ、いいだろ? ジイちゃんなら、俺でも分かる本とか、持ってるだろ?」

「いつもは遊んでばかりで、まともに勉強もしないくせに」

「俺だって勉強してるんだ。でも、いっつもジイちゃんは、俺が遊んでる時に来る。俺は悪くない」

「お前がうるさくするからだ。遊ぶ時でも、周りに気を配らなければいけないぞ」

「次はそうするからさ」

「調子のいいやつめ。……どれ、少し、どいてくれないか」

 

 どうやら本を探してくれるようだ。そう思ったシスイは素早くカガミの布団から離れる。

 

 よっこらしょ、と言いながら立ち上がったカガミは、部屋の壁に並ぶ背の高い本棚の前に立った。シスイもすぐに、彼の横に立ち、本棚を見上げる。びっしりと並ぶ本たちの背表紙の文字はどれも漢字ばかりで、シスイには一つとして理解できるものはなかったが、隣に立つカガミの真似をして本棚を見上げ続ける。

 

「どんな本がいいんだ。漢字を勉強したい、といっても、勉強本はないぞ?」

「じゃあ、俺でも読めそうな本がいい。読めない漢字があったら、ジイちゃんに聞くからさ。それで、勉強する」

「分からない漢字を全部、聞きに来るんじゃないぞ。話しの流れで、漢字を読んでみるんだ。合っているかどうかは、俺が見てやろう。―――老眼鏡をとってくれるか」

 

 シスイは素早く、老眼鏡をカガミに手渡した。彼は老眼鏡を鼻の上に乗せると、本棚の左上端の本を手に取った。パラパラとページを捲ると、その本を元の場所に戻し、隣の本を手に取り、またパラパラと捲った。

 

「何してんだ? ジイちゃん」

「何って、本を確認してるんだ。お前でも読めそうな本を選ばなければならないからな、読まないと分からんだろう」

「え、読んでんの?!」

「一応な。だが、本はゆっくり読んだ方が、面白いんだ。お前も、いい加減に読むんじゃないぞ?」

 

 言いながらも、もう三冊目に突入しているカガミを見て、すげー、と思った。

 

 どこからどう見ても、ただ流し読みしているようにしか見えない。漫画や絵本というのなら、分からなくもないけれど、彼が見ているのは小説だ。「お前も、これぐらいは簡単にできるようになる」と、彼は呟くが、自分よりも背の高い彼の姿は山のように雄大で、そんな馬鹿な、と思ってしまうほどである。

 

 物心ついた頃から、立派な忍になれと、彼から言われてきた。その過程で、本当に時折聞ける、嘘か誠か分からない偉大な武勇伝は、幼い彼に【立派な忍】という目標を抱かせるには十分だった。

 

 シスイはカガミの真似をするように、本棚の一番下の段から一冊の本を取り出し、同じようにパラパラと捲る。

 

 左から右にページは捲られていくが、最初の一文字すら捉えることが困難だった。改めて、すげー、と思いながらシスイは本を元の位置に戻すと、ちょうどカガミが小さく頷いた。

 

「―――そうだな、これが、お前にはぴったりだろう」

 

 本棚の二段目中央まで進んだところで、ようやく、本を手渡された。紺色の表紙。タイトルは読めなかったが、カガミが教えてくれた。「小説だ」とカガミは付け足す。

 

「フリガナの付いてある漢字が多いからな、お前でも読めるだろう」

 

 既にシスイは本を開いていた。目次を読み、本編の一行目に視線を進める。いきなり漢字が出てきたが、カガミの言うように、フリガナが付けられてるおかげで読むことができたが、残念なことに言葉の意味が分からなかった。初めて見る漢字と言葉を頭の中に入れながら、次の行を読んで、おそらくこういう意味なのだろうなと、前の行に振り返る。

 

 非常にゆっくりと本を読むシスイを見て、カガミは自分の顎を撫でた。

 

「それにしても、本当にどうしたんだ? 漢字を勉強したいなんて」

「さっきさ」

 

 と、シスイは本に視線を落としながら呟いた。

 

「イタチも外にいたって、言っただろ? 会った時にさ、あいつ、女の子と一緒にいたんだ。同じくらいの年の」

「ああ、イタチくんは良い顔をしているからな。あの子は女の子に好かれそうだ。なんだ、いい恰好したいだけなのか?」

「違うって。でも、まあ、綺麗なやつだったけど」

「じゃあ、何なんだ?」

「そいつさ、漢字読めたんだよ」

 

 本を読みながら、思い出す。

 黒い髪と、赤い瞳。

 抑揚のない、けれど高級な鈴の音色のような声。

 そして、動かない表情。

 

 事細かに、彼女の容姿や声を思い出すことができるのは、シスイにとって、彼女との短い出会いは、衝撃的なものだったからだ。

 自分よりも、イタチよりも、頭の良い、同い年くらいの子。いや、漢字が読めただけで、本当に頭が良いのかどうかは分からないけれど、普段、カガミから言われている【立派な忍】というものを、彼女の落ち着き過ぎた雰囲気から感じ取ったのだ。

 

 端的に言えば、大人っぽかった。

 戦争、という言葉を落ち着きなく呟く、頭の悪そうな大人よりも、よっぽど。

 

 そして何より、そんな彼女から相手にされなかったことが、実は悔しかったのだ。どんなに話しかけても、一言二言の返事だけ。貴方みたいな子供には興味がないと、遠回しに言われているような気がした。別れ際に「今度は遊ぼうぜ」と言ったのは、精一杯の強がりである。

 

 漢字を勉強しようと思ったのは、今度会う時は、もっと普通に会話をして、イタチみたいに対等な友人関係になりたいという、子供っぽい理由だった。

 

 けれどシスイは、それらの感情や思惑を大いに省いて「だから、俺も漢字を読めるようになりたいんだ」とカガミに言うと、彼は感心したように口を小さくした。

 

「お前くらいの年で、もう漢字を読める子がいるのか。聡明な子だな」

「そうめい? どういう意味だ?」

「頭が良いという意味だ。その子とは、友達になったのか?」

「多分、なったんじゃないかな。あの子がどう思ってるか分からないけど」

「名前は何て言うんだ」

「うちはフウコ」

 

 何ともなしに、彼女の名前を言った。ようやく一ページ目の半分を読み終わった所で、ふと、カガミが急に黙ったことに気が付く。

 視線を本から外し、彼を見上げる。カガミは大きく瞼を開き、驚いた表情を浮かべていた。

 

「どうしたんだよ、ジイちゃん」

 

 しかし、呼びかけても、彼はすぐに反応を示さなかった。

 腰でも痛めたのだろうか? などと首を傾げると、彼は左手で口元を撫でた。

 

「その子は、どんな子だった?」

「え? 髪の毛は黒くて、目が赤くて」

「見た目じゃない。性格のことを訊いているんだ。明るい子か? 落ち着いた子か?」

 

 おかしい、とシスイは冷静に判断した。イタチと友達になった時、彼はただただ「友達を大切にしなさい」と言うだけで、特にイタチの事について詮索してこなかったのに。それに、うちはフウコという名前を聞いた時の彼の反応。

 明らかに彼は、うちはフウコという女の子に興味を示している。

 

 知ってるのか? と思ったが、彼女が家に来たことはないし、歳だって大きく離れている。とにかく、彼の問いに、素直に応えることにした。

 

「あまり喋らないやつだった。うん、落ち着いた子だったよ。全然、笑わないんだ」

「……そうか」

 

 大きな息を吐くのと同時に出された言葉は重いような気がした。出した分の息を取り返すように大きく鼻から取り込むと、再び彼は、そうか、と言葉を漏らす。その彼の表情は、懐かしむような、だけど、どこか悲しそうなものだった。

 

 カガミが、頭を撫でてくる。

 

「シスイ。その子と、友達になりなさい。そして、いっぱい、遊ぶんだ。いいな?」

「……俺、漢字の勉強しないといけないんだけど」

「ああ、そうだな。勉強も、大事だな」

 

 手が離れる。カガミは「少し外に出る。それまで、分からない漢字は紙に書いておくように」と言ってから、ゆったりとした足取りで部屋を出て行った。

 

 静かになる部屋に取り残されたシスイ。彼の頭の中には、もう殆ど、漢字のことなんてどうでもよくなっていた。

 

 頭の中にあるのは、赤い瞳をした女の子のこと。

 

 この日からである。シスイが、フウコに強い興味を持つようになったのは。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「うぁああああああんッ! あああああああぁぁぁああああッ!」

「イロミちゃん、泣いてばかりじゃ駄目だ。フウコが下忍になるんだから、喜んであげないと」

「やぁあだぁぁあああああッ! うぁああああああああッ!」

 

 アカデミーの中間試験が終わり、成績発表がされた、一週間後の昼休み後の五限目。既に授業はスタートしているが、シスイ、イタチ、フウコ、イロミは、誰もいないアカデミーの校門前にいた。

 

 卒業式が行われたのである。

 

 いや、生徒として参加したのがフウコ一人であったため、式と言えるのか定かではないが、彼女の片手には、確かに卒業証書を入れる黒い筒が握られている。筒には紅白の細いリボンが結ばれており、アカデミー卒業が確定した彼女を無言に祝っているものの、イロミの赤ん坊のような泣き声が快晴の空の元に響き渡っているせいで、その威厳は無くなってしまっていた。

 

「もう泣くなってイロミ。お前が泣いたって、フウコの卒業が取り消される訳じゃないんだぞ。仕方ないんだから、諦めろよ」

「やだ! やだッ! やだぁああああッ!」

「……はあ」

 

 ここに来てから、ずっとこうである。グーにした両手で両目を擦りながら、彼女はしゃがみ込み、泣き喚いている。

 

 フウコの卒業を知ったのは、昼休みのこと。

 

 午前の授業が始まる前に、教室にやってきた教師が「フウコ、教員室に来なさい」と呼び出してから、彼女は午前中、教室に戻ってくることがなかった。昼休みに入って、ようやく帰って来たかと思うと、彼女の手には黒い筒が握られていた。イロミが真っ先に「それ、なに?」と呑気に尋ねると、彼女は、どこか悲しそうに「卒業証書」と応えたのだ。

 

「は? お前、もう卒業するのか?」

 

 尋ねると、彼女は静かに頷いた。

 

「午前中はずっと、卒業試験をやってたの。それで、満点を出したから、卒業だって」

「なんだよそれ。だったら、俺やイタチだって、卒業試験受けてもいいんじゃないか? なあ? 不公平だよな?」

 

 隣のイタチに話しかける。

 

「フウコはこれまで満点しか出さなかったからな、当たり前だ」

「俺だってお前だって、満点くらい出したことあるだろ」

「全てじゃない。至らない部分が少しでもあるなら、俺達にはまだ、色々なことを教えなければならない、ということだろう」

「え? フウコちゃん、卒業って、え? じゃ、じゃあさ、もう、フウコちゃん、アカデミーに……来ない…………の?」

「うん。来週から、チームに配属になるから」

「………そんなぁ」

 

 それから、イロミはずっと俯いたままだった。四人で、いつもの場所で昼ご飯を過ごそうとしたが、イロミが自分の席に座ったまま動かなかったため、仕方なく、彼女の周りの席に座って昼休みを過ごした。

 昼休みの終わりのチャイムが鳴った時に、イタチがフウコに尋ねた。

 

「フウコ、午後はどうなるんだ?」

「私は、もう、家に帰っていいみたい」

「父さんと母さんは、このことを?」

「知らないと思うけど、卒業証書を見せれば、納得してくれると思う。後から、アカデミーから正式に通達が送られるから、大丈夫だと思うけど。……イロリちゃん、ご飯、食べないの?」

「……食べたくない」

「食べないと、午後の授業、集中できないよ?」

「そうだぞイロミ。午後の授業の最初は、あのブンシの授業だからな。腹の虫でも鳴らしてみろ。またあいつ、教室で煙草吸うぞ。俺、あいつの煙草の匂い、嫌いなんだよなあ。何て言うか、ブンシになりそうで嫌だ」

「好きな子なんて、誰もいないだろ」

「そう? 私は、好きだけど。……イロリちゃん、大丈夫? 保健室に行く?」

「……やだ」

「フウコ、一人で帰れるか?」

「時々イタチは、私を凄く馬鹿にする」

「お、そうだ」

「どうした? シスイ」

「俺達三人で、フウコの門出を祝ってやろうぜ。それに、授業もサボれて、一石二鳥だ」

 

 そういった流れで、授業が始まる前に校舎から抜け出し、校門へとやってきたのだが、到着した途端に、イロミは泣き出してしまったのだ。

 

 彼女の主張は、フウコに卒業してほしくない、というものだった。その主張は、分からなくないでもない。しかしそれは、彼女に一度として勝つことができなかったからで、友達だから、という意味合いはあまりなかった。アカデミーでの小テストや実技の授業、そして今回行われた中間試験では、やはり彼女はオール満点を出して、単独トップを維持した。今日で彼女は卒業するが、終ぞ、満点以外の点数を取らないままだった。

 

「ほら、イロミ。もう泣き止めよ。お前が泣いても、フウコの卒業が取り消される訳じゃないんだし」

 

 これまで、イロミがこうして泣く場面は多々あった。大半は、彼女の内向的な性格と壊滅的な成績の悪さに託けて、調子に乗ったクラスメイトからのイジメを受けて、というパターンだ。このパターンは、当事者のクラスメイトに仕返しをすることで容易に解決できる。しかし今回のような、仕返しをする相手がいない時は、決まって事態の収拾に手間がかかる。これまで二度ほど、この面倒なパターンがあった。一つは、ブンシの授業に提出する宿題を忘れてしまったことをイロミが思い出した時。もう一つは、買い物用の財布を無くしてしまった時。どちらも、彼女を泣き止ますのには、時間と手間がかかった。

 

 今回は、つまり、後者のパターン。

 しかも、泣き方や状況は、歴代最悪である。

 

「なあ、フウコからも何か言ってやれ。このままだとイロミ、明日から泣きっぱなしになるぞ?」

 

 両手を頭の後ろで組む姿勢を取りながら、フウコを見る。太陽からの白い光を浴びて光沢する黒髪が横風に揺らされるのを、黒い筒を持っていない方の手で抑えながらイロミを見下ろしている彼女は、どこか、辛そうだった。辛そうといっても、無表情なのだが、彼女と友達になってから今に至るまでの間、彼女の乏し過ぎる表情の変化を見分けれるようになった。

 

「イロリちゃん、泣かないで」

 

 平坦な声。でも、声には小さな湿り気があるように感じる。フウコはしゃがみ込み、イロミの頭を優しく撫でるが、イロミが右手を振り回してそれを弾いた。「やだやだぁああッ!」と、イロミは言う。

 

「もっど、ふうごぢゃんど、あぞびだいッ!」

「うん、そうだね。私も、イロリちゃんと、いっぱい遊びたい。下忍になっても、例えば、私に会いに来てくれれば、予定が空いてたらだけど、遊べるから」

「やだぁッ! 毎日、あぞぶだい……ッ! そつぎょう、しないでッ!」

「私も、出来るだけ、予定は空けれるようにするから。空いてる日は、イロリちゃんにちゃんと伝えるから」

「ぅうぅぅ………。ふうごぢゃんなんで……だいっきらいッ!」

 

 イロミのその言葉に、三人は驚いた。

 

 イロミがフウコに対して、ここまで強い言葉を言ったのは、初めてだったからだ。慌てて、シスイはフウコを見る。彼女の瞼が、微かに開いているのが分かった。ショックを受けている、それが分かる。

 

 きっと、イロミは混乱している。悲しいという感情と正しくぶつける言葉が見つからなかったから、簡単な言葉を選んだだけに過ぎない。イタチを見ると、彼は両手を広げて小さく上下させていた。フウコに任せよう、という判断らしく、イタチもイロミが本心で言っていないことを理解しているようだった。

 

 再び、フウコを見る。

 瞼の位置は元に戻り、無表情だった。

 

「……イロリちゃん?」

「うぁあああああッ! やだよぉ……、いがないでよぉ、ふうごぢゃん……。そつぎょう、じなでぇ…………」

「イロリちゃん。私を見て」

 

 しかし、イロミは、頭を大きく振るだけだった。

 フウコが、イロミの頭に手を置いた。イロミは疲れたのか、今度は、手を振り払おうとはしなかった。

 

「もう二度と、会えなくなるわけじゃないから、泣かないで」

 

 イロミの頭を撫でながら語りかける彼女の声は、これまで聞いてきた中で、どんなものよりも柔らかい優しさに溢れていた。

 

 改めて、思う。

 

 フウコは変わった。

 それは、良い意味で。

 初めて会った時は、彼女を大人だと評価した。もちろん、それは、間違いではないのだけれど、フウコがイタチの妹になってからしばらくして、その評価は核心ではないと分かった。

 

 フウコは、大人だけれど、子供を知らない、大人。それが、今のシスイの、彼女への評価だ。

 忍としての知識や技術、才能は比類ない。けれど、誰もが持っているような常識や感情の機微を読み取る、そういった、当たり前なことを知らない。

 不安定さが、目についたのだ。

 裂傷には強いが、圧力には弱い。

 そんな印象だった。

 だけど、イロミという友達を得てから、その子供が芽生えた。

 本当に僅かだが、表情が豊かになったように思える。

 

「……やだぁ」

 

 イロミが、頭を振って、フウコの手を掃った。

 

「困ったことがあったら、言ってくれれば、すぐに駆けつけるから。修行だって、付けることもできるよ?」

「わだじは……まいにぢ…………あぞびだい……。ふうごぢゃんが、そづぎょうじぢゃっだら……まいにぢ……、あぞべない…………」

「……そうだね。――-じゃあ、イロリちゃんが頑張って、私の所まで、来て。同じくらいになれば、きっと、また遊べるから」

 

 かといって。

 

 フウコに劣化は見られなかった。アカデミーでの成績が落ちることもなく、これまで彼女に挑んだ忍術勝負でも一度として勝つことは出来なかったのは、紛れもない事実だ。

 

 ようやく、イロミが顔を挙げた。白い前髪の毛先から覗かせる鼻先は真っ赤で、口は大いにへの字の形を作っていたが、両手を地面に付けて、フウコをしっかり見据えた。大きく、彼女は鼻を啜る。

 

「ぼんどう……?」

「イロリちゃんなら、すぐに、私に追い付けるよ。頑張れる?」

「……がんばる」

 

 フウコが立ち上がる。

 

「イタチとシスイ、イロリちゃんをお願い」

「ああ、任せろ」

「こいつがイジメられた時は、お前も来いよ?」

「うん。イロリちゃん、もう、泣かないでね?」

「……ながないッ!」

 

 背を向け、フウコは音も無く遠ざかっていく。

 どんどん、どんどんと。

 あっという間に、彼女の小さな背中は、どこからか風に飛ばされてきた木の葉に隠れるくらいに、遠く、小さくなる。

 

 羨ましいと、思えるくらいに。

 凄いなと、尊敬してしまうほどに。

 いつか彼女の隣に立てるようになりたいと、願った。

 

 カガミがどうして彼女の名前を聞いた時に表情を変えたのか、それへの関心は消え失せていた。あるのはただ、フウコという女の子への直接的な関心だけだった。

 

「……午後の授業、どうする?」

 

 フウコの姿が見えなくなると、イタチが非常に現実的なことを呟いた。

 

 まだ時間的に、授業は折り返し地点ですらない。今更教室に戻っても、ブンシに殴られるのが目に見えている。

 

「サボりだ、サボり。それしか無い。お前ら二人が戻っても、俺は逃げるぞ」

「どうする? イロミちゃん」

 

 立ち上がっていたイロミは、両手の人差し指の先端を合わせながら呟いた。

 

「……私は、授業に、出たい。フウコちゃんに…………近づきたいから……」

「二対一だな、シスイ」

「俺は逃げるぞ」

「誰から逃げるんだ、シスイ。あたしに教えてくれよ」

 

 煙草の匂いとドスの利いた声に、シスイだけではなく、イタチとイロミをも震え上がらせた。いつの間に立っていたのか、灰色のコートをなびかせる巨大な影が、三人の後ろから伸びていた。

 三人は、同時に振り返り、見上げる。

 

「おい、クソガキども。なあ、問題児ども。午後の第一授業の教室って、どこだか知ってるか? ぁあ?」

 

 嫌味たっぷり、怒り増し増しの口端には、先端の火を昂らせられてる短い煙草が。不機嫌マックスな表情を隠そうともしないブンシは、乱暴に煙草を地面に落とすと、右足で踏みつぶした。まるで煙草が、自分たちの未来を暗示しているようである。

 

 シスイの顔色は、見る見る真っ青になっていく。隣では、イタチがイロミを守るように静かに立ち位置を調整していた。

 

「泣く準備は出来てるか? 今日のあたしの膂力は、クソうるせえマイト・ガイを超えてるぞ」

「ちょ! ブンシ先生! もうイロミのやつ泣いてるんですッ! 今日は、ちょっとマジ、勘弁してください」

「あぁあ?!」

 

 シスイの苦し紛れの言葉に、指を漢らしく鳴らしていたブンシは目だけでイロミを見下ろす。

 

 二秒ほど、二人の視線は交差する。

 

「おいイロミ。てめえ、泣いてんのか?」

「わ、私は……」

 

 イタチの肩から頭を出したイロミは、一度、大きく息を吸い、そして言い放った。

 

「……泣いてませんッ! 私はもう、泣きません!」

「馬鹿、お前―――!」

「おぅーし、いい度胸だイロミ。お前の時々出すよく分からんその根性だけは、私は好きだぞ。だけどな、お前らはあたしの授業をサボった、これは変わらない……クソガキども、歯、食いしばれッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 そして―――年月は経ち。

 

 シスイは、暗部へと入隊を果たした。同年に上忍になったイタチと同じく、異例の若さ、という枕詞は付いているものの、フウコという少女と比較した場合、その評価は正しくない。

 

 自分が暗部に入隊する頃には、彼女は既に副忍という地位にいた。分不相応、などとは思わない。自分がアカデミーを卒業してからも、彼女と忍術勝負をしたが、勝つことがやはりできず、むしろ、彼我の実力は見る見るうちに開いていた。

 

「どうして、暗部に来たの?」

 

 暗部に入隊した、その日。

 

 共に、仕事を終えた帰り道に、彼女は言ってきた。

 夜道を照らす月明りに照らされた彼女の表情は無表情だったが、不機嫌なのだということは分かっていた。本当に、些細な表情の機微、声の抑揚の変化を理解できるくらいには、彼女のことを理解できている。

 

「予定と違う」

 

 フウコが呟く、予定。

 それは、三人で立てた、計画のことを示している。

 自分とイタチ、そしてフウコの三人で考えた計画。

 まだ自分とイタチは中忍で、イロミはまだアカデミー生で、けれどフウコは暗部に入隊していた頃。

 

 うちは一族のクーデターを、両親から聞かされた。

 

 あまりにもくだらない、幼稚な思想。【立派な忍】とは、ほど遠い愚かしさに、瞬間的な呆れと怒りが沸き起こったが、それをどうにか抑え込み、翌日、フウコに尋ねたのだ。「お前は、うちはのことを知っているのか?」と。彼女は、首肯した。その日の夕方―――イタチとフウコ、そしてシスイの三人は、クーデターを阻止する為の計画を構築し始めたのだ。

 

 その計画では、シスイは、イタチと同様に上忍に就任するはずだった。そうした方が、行動に自由の幅が生まれる。また彼女は「まだ、暗部から協力を仰げるか分からない」と語ったからだ。

 

 それでも、シスイは暗部に入隊することに決めた。これは、イタチにも言っていないことで、後日伝えようと思っていた。

 

「いいじゃねえか、気にすんなよ。それに、親父には暗部に入れって言われてんだ」

「誤魔化さないで」

 

 フウコの声に、微かな怒りが含まれていた。

 

「シスイなら、説得することはできたはず。暗部には、私がいたんだから」

「まあ、しようと思えば、出来たかもな。でも、もう入隊しちまったからな、今更、除隊申請しても色々、怪しまれるだろ?」

「なら、私が除隊を申請する。今の私なら、それくらいの権力はある」

 

 彼女の声と共に、長くなり軽いウェーブが掛かっている黒髪が微かに揺れる。無表情な彼女からは、焦りが感じ取れた。今すぐ引き返し、申請を出そうとしようとするフウコの腕を掴むと、シスイは自然と真剣な表情を作っていた。

 

 メリとハリを付けること。

 

 それは、カガミから教えられた【立派な忍】として必要なことの一つだった。

 

「……ハト派には、もう抵抗力がないのは、分かっているな?」

 

 ハト派。

 

 カガミを筆頭とした、木ノ葉隠れの上層部との平和的解決を唱える、少数派。しかし実質、ハト派はカガミ一人と言っても過言ではなかった。彼のこれまでの木ノ葉隠れの里への貢献と実績は、大多数のタカ派と拮抗するほどの影響力がある。

 

 人は意外にも、筋を通す。

 

 自分の行いが善であろうと悪であろうと、少なからず譲れないポリシー(あるいは、人間性)を持っている。いくら強硬的なタカ派でも、カガミを無碍にしなかったのは、そのせいだろう。

 

 だがそれも、カガミが病院生活を送るようになってからは、タカ派は強硬な発言、時には小さな暴力を振るうようになってしまったのだ。

 

 今ではもう、ハト派の中で、タカ派に意見できる者はいなくなってしまっている。

 

「親父もおふくろも、クーデターの賛成派だ。もし親父のいうことを聞かなかったら、俺はジイちゃん側だと思われる。それこそ、自由に動けなくなるんだ」

 

 自分がカガミを慕っていることは、多くのうちはの者が知っていることである。そんな自分が、少しでも不審な行動を取ってしまったならば、カガミの意志を継いでると考えられても不思議ではない。疑念を抱かれ、行動を抑制されるのだけは避けたかった、という考えは、事実としてある。

 

 フウコは小さく視線を下に向けた。言っていることは分かるけれど、納得はできない、というような表情だ。

 

「……それにな、フウコ」

 

 彼女の視線が上がる。

 固い赤い瞳を安心させてやろうと、シスイは笑う。

 

「ジイちゃんからさ、お前のお守りをしろって言われてるんだ」

「……カガミさんが?」

「お前を心配してる。俺も、お前が心配だしな」

 

 暗部の入隊が正式に決まった日。

 病室のベットで横になるカガミに、頼まれた。フウコを支えてやってほしい、と。

 

 フウコは諦めたように、そう、と呟いて、先に歩き始める。どうやら、暗部の入隊を認めてもらえたようだ。それでも、彼女の肩からは不服さが少なからず溢れていて、それがどこか子供っぽく思えて、小さく笑ってしまった。

 

「なあ、フウコ」

 

 彼女の横について歩幅を合わせながら尋ねた。

 

「これから、ジイちゃんのとこに行くんだけどさ、お前も来ないか?」

「今から?」

「ここ最近、ジイちゃんに会ってないだろ? どうだ? 俺の入隊祝いに」

「……今日は、遠慮する」

「…………そうか」

 

 それでも、シスイは柔らかな笑顔を絶やしはしなかった。

 

 途中で別れて、シスイはカガミのいる病院へと向かった。職員専用の入り口から入る。緑色に発行する非常口マークが照らす廊下を進んでいき、夜勤の医療忍者の人がいる待機センターで軽く挨拶をしてから、カガミの部屋へと向かった。

 

 ドアを静かに開ける。廊下と個室には光度にほとんど差はなく、蝉の抜け殻のような自分の影が室内に浮かぶだけで、それもドアを閉めてしまえば消えてしまった。

 

「……なんだ、シスイか」

 

 ベットの横に立つと、横になっていたカガミは徐に顔だけをこちらに向けて、そう呟いた。

 

 陰りのある、微かに力の無い声に、シスイは震えようとする喉を抑えながら、腰に手を当てて笑って見せた。

 

「孫が来てやったっていうのに、その言い草はないだろ? もっと喜んでくれよ」

「ふん。土産の一つも持ってこないくせに」

「だってジイちゃん、この間持ってきた団子の詰め合わせ、食べてくれなかっただろ」

「病人に甘露を持ってきてどうするんだ、この馬鹿者。持ってくるなら果物だろう」

 

 ごめんごめん、と苦笑しながら、シスイはベットの横に椅子を持ってきて腰掛ける。カガミが上体を起こすと、彼の右腕に繋がっている点滴のチューブが暗闇の中で微かに揺れるのが見えた。右腕がまともに動かなくなってしまった彼に、果物を持ってきても、皮を剥く人がいなければ、意味がない。

 

「っていうか、ジイちゃん、起きてたのか」

 

 今更ながらに尋ねると、カガミはやれやれと首を振った。

 

「誰かが来る気がしたからな」

「勘?」

「忍なら、これくらいの勘を働かせないとな」

 

 そんな馬鹿な、と思うが、ジイちゃんならあり得るかも、とすぐに考える。いつだって彼は、自分の遥か上に立つ指標だ。病で伏しても、それは、変わらない。

 

 時折、シスイはこうしてカガミの見舞いをする。大抵は、何かしらの相談があったり、何かしらの変化が周りで起きた時だ。割合として、3:7ほど。けれど、回数としてはまだ、百も超えていないだろう。

 

 もはやタカ派がうちは一族を統制しているせいで、無闇に昼間からの見舞いをすることは出来なくなってしまった。今ではもう、ハト派の者も、彼に会いに来ることはなく、まともな見舞いをするのは、自分とフウコだけ。かといってフウコも、ほとんど、見舞いに来ることはない。フウコはカガミから「見舞いに来るよりも、里を頼む」と言われていたからだ。

 

 当然、自分も言われているのだけれど、その言うことだけは守れなかった。これまで散々、まあ色々と、幼かった頃は何も考えず反抗していた時期はあったが、今回だけは真剣に考えた行動の結果である。

 

 いつしかカガミも、不承不承といった感じで許してくれているのだから、おそらく、間違ってはいないのだろう。

 

「それで、今日はどうしたんだ?」

 

 と、カガミは尋ねてくる。

 幼い頃に見た、あの好々爺な、優しい笑顔だ。

 遅れてカガミは、ああ、と納得したように息を吐く。

 

「そういえば、今日、暗部に入隊したんだったな。なんだ、ご褒美に小遣いをくれとか言いに来たのか?」

「まさか。……実はさ、ちょっと訊きたいことがあってさ」

「なんだ?」

「ジイちゃんは、どうして、バアちゃんと結婚したんだ?」

「愛していたからだ」

 

 カガミは即答した。

 彼よりも早く、この世を旅立った祖母のこと。

 真剣な表情で、二人は視線を交わす。

 

「どこを?」

「全てだ。あいつと、あいつが愛したもの、全てだ」

「好きっていうのと、どう違うんだ?」

「簡単なことだ。難しいことじゃない。分からないのか?」

「なんだか、感情的には、分かるけど、それを、どう伝えたらいいのか、分からないんだ」

「フウコちゃんか?」

 

 頷くのに、三秒ほどの時間が必要だった。

 彼女がいない所で、彼女への好意を肯定する、という卑しさを乗り越えるための勇気が必要だったからだ。

 

 いつからだろう。

 

 気が付けば、彼女は自分の思考の中心にいた。ただいるだけではなく、思い出すのは必ず、彼女が最も綺麗に見えた時の描写だった。その描写を見る度に、思考は遥か未来のことを、自分の意に反して予想し始めるのだ。

 

 イタチと、イロミと、サスケと、里の多くの人々。

 

 その目の前に立つ自分と、隣にはフウコが立っていて、手を繋いでいる。どうして、そんな場面を予想してしまうのか混乱してしまうが、嬉しく思ってしまうのは事実だった。彼女のことが好きなのだ、と結論を出すのには、そう時間はかからなかった。

 

 ただ、好き、という表現は、彼女だけには当てはまらない。親友であるイタチも好きだし、イロミのことも好きだ。サスケも好きである。しかし、フウコへの好き、というのは、感情的には彼らへのそれとは異なっていた。

 

 その感情の差異が、愛という表現なのかもしれないと思ったのだが、確信が持てなかった。

 

「愛というのはな、シスイ。未来を見据えた言葉だ」

 

 カガミは祝福するように笑った。

 

「好きというのは、現在から過去までのことしか含めていない。だから、些細なことで、その感情が欠けてしまう。脆弱で、即物的な感情だ。しかしだ、愛というのは、現在だけではなく、遥か未来全てを、祝福することなんだ。まだ確かじゃない、何が起こるか分からない遠い未来までを」

 

 お前にはそれほどの覚悟があるのか。

 そう、遠回しに言われているような気がした。

 

「……フウコちゃんには、伝えたのか? 伝えようとしているのか?」

「まだだけど」

「あの子には曖昧な表現はするんじゃないぞ。俺の孫なら、伝わるまで、しっかり言葉を尽くせ」

「分かったよ、ジイちゃん」

「シスイ」

「なんだよ、ジイちゃん」

「お前は、俺の愛する孫だ」

 

 頑張れ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 それでも、すぐにフウコに告白することは出来なかった。

 

 まだ、うちは一族のクーデターを阻止していないから、という言い訳を心の中で呟きながら、いつも通りに過ごした。フウコの人格のおかげなのか、彼女と会話をしても、不必要に緊張することはなかった。

 

 気が付けば、年月は風のように過ぎていき、空の色は何度も色を変え。

 

 別れが、訪れて。

 

 万華鏡写輪眼を開眼してしまい。

 皮肉にも、クーデターを阻止する方法が確立できて。

 時間が少し、流れた。

 

 フウコと一緒に、一回目の、墓参りに行った時、彼女は静かに泣いた。

 

『ああ…………もう……本当に、会えないんだ……』

 

 墓の前で、透明な涙を流す彼女は、今までで最も、不安定だった。

 

 現実とイメージの境界を、擦り合わせることが出来ていない。無理に擦り合わせようとして、その摩耗で生まれた感情が、涙として出ているように見えた。あるいは、彼女の感情が融けて、外に流れていくようにも。

 

 いつしか、彼女は、バラバラになってしまうのではないだろうか。

 

 氷の内側だけが液体になって、その後、些細な圧によって外側が砕けるようになってしまうのではないか。

 

 彼女は、自分やイタチよりも早く中忍になり、そして、うちは一族のクーデターを知らされていた。

 

 うちはの中で、たった一人で、悩んでいたはずだ。

 

 たった一人で、何が出来るのだろう。自分とイタチが加わっても、別天神を開眼するまで、確実な方法を導き出せなかったのに、彼女一人で、実現できる計画なんて……。ましてや、彼女は、特出し過ぎる実力のせいで、うちは一族に期待される反面、黒い感情をぶつけられてきた。

 

 彼女は密かに、限界を迎えつつあったのかもしれない。

 

 たった一人で、いつ暴発するとも分からない爆弾の内側に閉じ込められたような恐怖を、自分とイタチが加わるまでの間、ずっと感じていたのだ。

 

 実のところ、自分も、おそらくイタチも、心の奥底では、彼女に依存していた。

 彼女の力を、期待していた。

 それは、実質今でも尚、彼女一人で戦っているようなものだったのだと、思い知らされた。

 

 翌日、シスイは彼女に告白した。

 

 彼女を支えれるように。

 告白したからと言って、何かが変わるとは限らないけれど。

 どちらかと言うと、告白をして、自分に責任を負わせたかったのかもしれない。

 フウコを支えなければいけないという責任を、自分に科したのだ。

 

 まだ、愛するという言葉に当て嵌まる感情を、明確化出来ていない。

 それでも、やはり、彼女のことを愛しているのだろう。彼女はきっと、自分よりも、愛することを知らないかもしれない。

 もし全てが終わってからでも構わない。

 いつか本当に、彼女が、少なくとも自分と同じくらいに、その言葉に感情を当て嵌めることが出来た時に、本当の答えを聞かせてくれれば。

 それまでは、彼女を守ろう。

 紛うことなく、彼女を―――。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 シスイは、少女の右手を思い切りこちら側に引っ張り、体勢を崩させた。意表を突かれた彼女はあっさりと重心を崩し、腹部ががら空きになる。無防備になったそこに、シスイは、一切の躊躇いの無い膝蹴りをぶち込んだ。

 

 腹部上方をめり込ませ、その奥にある横隔膜は、身体を瞬間的に浮かされてしまうほどの衝撃を受けて痙攣を始める。

 

 呼吸困難に陥った少女は、力無く地面に膝を付き、あっさりと後頭部をシスイに見下ろさせてしまう。それでもシスイは、写輪眼で冷酷な視線を向けながらも、手錠の如く彼女の右手を離そうとはしなかった。

 

「ど……どうじ、で……ぇ……」

「俺が何年、フウコと一緒にいると思っているんだ。どんなにあいつの声真似をしても、あいつの声はお前の百倍は綺麗だ」

 

 目の前の偽者が語った用事という子供騙しな言い訳。そして、余程フウコのことを知っていなければ判別ができない程度の耳障りな声。

 勿論、それだけではない。

 昨日の仮面の男とフウコとのやり取り、昨日のことを報告した時のダンゾウの様子……それらを加味した上で、シスイは、目の前の少女がフウコの偽者なのだと仮説を立てただけ。

 

 そして、現状の様子を判断する限り、仮説は支持された。

 

 同時にシスイは思考を先に進める。

 目の前の女が偽者なのだとしたら、本物はどこに行ったのか。嫌な予感と込み上げてくる怒りを冷静さで鎮火させながら、口から涎を吐き続けている少女に尋ねる。

 

「フウコはどこだ」

「……なぁ、にぃ…………ごれぇ………、いぎが…………」

 

 少女は、まるで初めて鳩尾による呼吸困難を経験しているかのように、自由な左腕で胸を叩いていた。

 

 不自然さを感じる。

 少女の言動が、あまりにも子供っぽかった。

 おまけに、写輪眼で見ても、変化の術を使っているようなチャクラの流れも見て取れない。

 

 声や言動、それは自分の知るフウコとはかけ離れているが、逆にそれ以外は、これまで見てきた彼女の身体だった。

 

「………あぁあ……、ぞっか………、これ……みぞおぢ、かぁ…………」

「応えろ。フウコはどこだ?」

「……ふふふ、フウコは私だよ? 私が、本当の、うちはフウコなの。フウコさんはねえ、八雲フウコって、言うんだよ? 知らなかったで―――」

 

 シスイは再び腹部を蹴り上げる。今度は、鳩尾よりも低い位置。先ほどよりも、少女の身体は浮き、急激に胃の形が変形し、その衝撃で口から大量の胃液を吐き出した。

 

 大きく両肩を上下させる少女を冷酷に見下ろしながら、シスイは言う。

 

「フウコの名字が何であろうと関係ない。さっさと応えろ」

「……口の中、酸っぱい…………」

「応えろ」

「……ごめんなさい」

 

 急に弱々しい声。

 だが、シスイは薄気味悪さを感じ取る。

 

「ごめんなさい、お父さん」

 

 少女は涙を流す。

 

「お父さんが治してくれた身体、傷付けちゃった」

 

 涙声から、徐々に怒りを孕み始めた。

 

「絶対、こいつぶっ殺してやるから、会う時に怒らないで。私、頑張るから」

 

 見ててね、お父さん。

 私、頑張るから。

 こいつを―――ぶっ殺して、やるから!

 

 シスイは三度、今度は、顔を挙げようとする少女の側頭部を右足で蹴ろうとした。しかし、少女はそれを左腕でガードする。脚力と腕力では、前者が勝つ。左腕のガードは一瞬だけで、右足は左腕ごと少女の頭部を狙う。

 

 だが―――ほんの刹那の差だった。

 

 少女の顔が先に、上がりきる。

 

 予想できない事態が、瞬間的な写真として目の前にあった。

 

 少女は―――フウコではない。

 間違いなく、偽者だ。

 だからこそ、ありえない筈だ。

 

 少女の右眼にあるのは、フウコと全く同じ紋様の万華鏡写輪眼だった。

 

 ―――高天原ッ!?。

 

 そう判断した瞬間、両眼から、猛毒のような奔流が意識を絡めとってくる。写輪眼でその奔流を防衛しようとするが、奔流は雨のように自分を覆っていく。

 

 身体に力が入らない。

 もはや、自分の身体の体勢を把握できなった。

 肉体感覚を、喪失していた。

 

 少女の右手は解放されている。刀を握る動作を、写輪眼はスローに捉えた。

 

 ―――……思い出せ。

 

 普段の自分の感覚を。

 どのようにして、足を動かしていたかを。

 

 シスイは記憶と経験、そして感覚を喪失する寸前の体勢を思い出しながら、冷静に、丁寧に、そして迅速に、暗中の左足を動かした。

 

 視界が下後方へと移動する。

 そのすぐ目の前を、漆黒の刀身の切先が横切った。

 

 しかし、二太刀目がすぐさま、上段から振り降ろされようとする。

 隙だらけで大振りの姿勢だが、今のシスイには十分な脅威だ。

 今度は、左腕。

 地面の土を掴んだであろう左腕を、開きながら振った。

 

「うわっ!」

 

 土は少女の顔を塗り潰し視界を塞いだ瞬間、シスイは、森の中へ。

 気配を消しながら、完全に少女の視界から外れる。

 

 そこで、シスイは片膝をついた。

 

 ―――何とか、眠らずに済んだ……。

 

 もし、写輪眼ではなかったら、瞳を見た瞬間に抗うこともできずに眠っていただろう。それでも、まだ感覚は戻ってきていない。まるで、三日間ほど眠っていないような頭痛と鈍重な意識、ようやく戻り始めてきたものの曖昧過ぎる感覚。左手を見下ろしても、震えて力が入らなかった。

 

「あはは、ほらほらぁ、出てきなよー。近くにいるんでしょう?」

 

 少女の声が聞こえる。

 耳障りで、勝ち誇ったような口調だったが、怒りを生み出す程の精神的な余力は殆どなかった。

 

 ここは、逃げるべきだ、とシスイは判断する。

 

 この状態で戦っても、勝てる可能性は低い。暗部へ赴き、ダンゾウに現状を報告すれば、力を貸してくれるのではないだろうか。

 彼はフウコについて、何らかの事実を知っているはずだと、シスイは当たりを付ける。

 暗部に設けられた【副忍】という地位。まるで予め、フウコの為のように作られたような地位だと、常々思っていた。いくら彼女の才能がずば抜けているとは言え、わざわざそんなことをする必要があるのだろうか? と。

 

 さらに、今日、ダンゾウに昨日の事を説明した時の様子にも違和感が。

 

『フウコの様子はどうだった』

 

 という問い。それらが、ダンゾウとフウコの不可思議な繋がりを予想させる要因となったのだ。

 

 同じ姿で、同じ瞳力を持った、凶悪な偽者について。ダンゾウは、知っているはずだ。

 

 ならば―――。

 

「このまま逃げるなら、うーん、そうだなあ。……そうだ。うふふ、イタチを殺そっかなあ?」

 

 意識が、鋭利になる。

 

「それとも、サスケを殺そうかな? あの子なら、あっさり殺せるし」

 

 イタチ。

 サスケ。

 二人とも、大切な存在だ。

 フウコが大切にしてきた、未来だ。

 

「ほらほら、早く出てきなよー。あ、もしかして、寝ちゃった?」

 

 もし、少女が二人のどちらかを殺してしまえば、うちは一族は自暴自棄になる。

 これまで、何だかんだと言って、フウコに依存してきた彼ら彼女らにとって、同族殺しを行った彼女を前に、絶望する。

 

 木ノ葉隠れの里の側に回ったのだと、判断してしまう。

 

 そうなったらもう、自棄になったうちはは暴走するだろう。

 

 今、ここで、食い止めなければ……。

 

 だが、今の自分で、少女に勝てるのだろうか?

 

 実力の半分も出せない状態で。

 それでも、里を守るためには、ここで、止めるしかない。

 止めれるのか?

 いや、

 でも、

 つまり、

 だから……。

 

『お前は、俺の愛する孫だ。頑張れ』

『……ううん、シスイがいてくれたから』

 

 シスイは、立ち上がる。

 逃げるという、応援を呼ぶという選択肢を、捨てたのだ。

 彼の頭の中にあるのは、たった一つの感情だけだった。

 

 言葉に、感情が、当て嵌まった、瞬間だった。

 

 

 

 そして、夜が明け―――。

 

 暗部は動き出す。

 一つの指示が、伝えられたからだ。

 

『うちはシスイを殺害した容疑により、うちはフウコを勾留せよ』

 




 次回から、ほんの少しだけ時間が進みます。

 改訂前の、イロミ編くらいからスタートし、少しの間、フウコ視点は出てきません。イロミ編とイタチ編ほどに話しが伸びないようにしたいと思います。

 次回も十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

嗤う嘘

 玄関が開いた音で、うちはサスケは目を覚ました。

 

 普段なら絶対に起きないであろう小さな音。サスケはぼんやりとした意識のまま、瞼を擦り、むくりと身体を起こした。

 

「……姉さん?」

 

 真っ先に思い浮かんだのは、敬愛する姉、フウコの姿だった。

 

 まだ、日を跨いで一刻しか経っていない、深夜。

 室内の輪郭しか見えない暗闇の向こうから、フウコの声が聞こえてきたわけではないのに、彼女を連想したのは、昨日一日、彼女の姿を一度も見かけなかったからだろう。

 

【用事が入ったので、出掛けます。いつ帰るかは分かりませんが、安心してください】

 

 そのメモを見つけたのは、昨日の朝だった。

 

 その日のアカデミーは午前中で終わる。

 もし、姉の午後が暇で埋め尽くされているのなら修行を付けてもらおうと思い、姉の部屋へ向かった。ここ最近、兄であるイタチに修行を付けてもらっても、いつもいい所で修行を終わらされてしまう。優しくも悪戯っぽく笑いながら「許せ、サスケ」と右手の人差し指と中指で額を小突くのだ。

 

 しかし、フウコならそんなことはしない。未だ、黒羽々斬ノ剣を使わせてもらえないが、それ以外は素直に教えてくれる。強引に頼み込めば、何とかなることを、経験で知っていた。

 

 朝食を食べ終え、アカデミーに行く支度をしてから彼女の部屋に行った。どうせまだ寝てるだろうけど、無理矢理にでも起こして、予定を聞き出してやる、そんな意気込みで入ったのだが、どういう訳か姉の姿はなかったのだ。

 

 どうしたんだろう、そう思っていると、壁際の背の低い本棚の上に一枚のメモ用紙を発見した。

 

 綺麗で均等が保たれた字体は、よく見た姉の文字だった。サスケはメモを握ったまま、居間にいく。そこではイタチが新聞を広げてくつろいでいた。

 

『兄さん、姉さんって今日、任務があるの?』

 

 イタチは新聞から顔を出して小さく笑う。

 

『暗部の任務があるかどうか分からない。フウコに聞けばいいだろう』

『姉さん、もう家を出たみたいなんだ。これがあってさ』

 

 近づいてメモ用紙を渡した。受け取った彼はメモの内容を見て、浮かべていた笑みを静かに消し、真剣な面持ちで眺めつづけた。

 

『……これが、フウコの部屋にあったのか?』

『うん。用事って、何だろう』

『………………』

『兄さん?』

『ああ、悪い。フウコのことは、あとで俺が父上と母上に伝えておく』

 

 その時の、急に作ったような笑顔は、一日中サスケにもやもやとした不安を与えるには十分で、フウコが夜になっても帰ってこなかったことに、いよいよ怖さを感じ始めてしまった。

 

 姉に、何かあったのではないか。そんな想像が頭を過ぎる。

 

 暗部は火影直属の部隊であることは知っている。同時に、行う任務は何よりも困難で危険が伴うことも。その任務で、姉は大怪我をしたのではないか、と思ったのだ。そんなことはない、あるはずがない、と必死に不安と恐怖を振り払った。ミコトに「もう寝なさい」と言われ、部屋に戻ったが、しばらくは眠れなかった。

 

 些細な物音で目を覚ましてしまったのは、きっと、その不安と恐怖があったからだった。

 

 サスケは恐る恐る部屋を出た。

 

「フウコ……!」

 

 途端に、廊下にミコトの声が強く響き届いた。

 身体が強張る。

 ミコトの声には、悲しみで満たされていた。

 

 サスケは足早に、けれど足音を消して、声のした玄関の方へ。

 玄関の灯りは点いていた。ミコトの背中が見え、また、身体が強張る。先ほどよりも、強張りは強かった。

 

 ミコトの前。灯りに照らされて佇むフウコの姿が、悲惨だったからだ。

 

 大雨の中を歩いてきたかのようなびしょ濡れの姿。黒い髪の毛は重く滴を垂らし、前髪は彼女の額に貼りついている。黒の衣服からも、右手に握られている抜身の黒羽々斬ノ剣からも、滴は垂れていた。

 白い二の腕、白い太腿には、幾つもの痣と細かい切り傷が、はっきりと見て取れた。口端の左側も紫に変色していて、血が水滴に滲んでいた。

 

 初めてみる、姉の傷ついた姿。そして、姉の表情は、憔悴と悲しさが同居した、暗いものだった。

 

「……ただいま、帰りました」

 

 消え入りそうな、弱々しく、震えた声。

 よく見れば、フウコの肩は小さく、震えている。

 

 姉が家に帰ってきたことへの安堵は小さく生まれながらも、苦しさが胸を圧迫した。ミコトが彼女を優しく抱く。

 

「大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ」

「ミコトさん……服が、濡れます…………」

「いいのよ、怖がらなくて。おかえりなさい。すぐに、お風呂の用意をするわね」

 

 ミコトが振り返ると、ようやく彼女はサスケが起きていたのに気が付いた。一瞬、驚き困ったような表情を浮かべたが、ミコトは構わず「フウコの着替えとタオルを持ってきなさい」と強い口調で言う。そのまま、彼女は風呂場へと行ってしまった。

 

「ただいま……サスケくん…………」

「お、おかえり……姉さん」

「ごめんね……、起こしちゃって…………」

「気にしなくていいよ。とにかくさ、着替えとタオル持ってくるから、早く上がりなって」

「……廊下、濡れるから…………」

「いいからっ、ほら!」

 

 フウコの左手を握った。

 氷のように、手は冷たかった。

 見上げる彼女の視線は既に自分を見ていない。

 

 いつだって、目の前に立てば、大好きな姉は目を合わせてくれたのに。

 今はもう、どうでもいいかのように、視線は誰もいない廊下の奥を見つめている。

 

「フウコ! 今までどこにいたッ!」

 

 イタチとフガクが入ってくる。フウコの姿を見て声を荒げたのはフガクだった。眉間に皺を寄せて、厳しい表情を浮かべていた。その後ろに立つイタチも同様に、表情が硬かった。

 

「……ただいま、帰りました」

 

 首だけを後ろに傾ける最小限の姿勢で、フウコはフガクを見た。

 

 二人は即座に彼女の異変に気が付いたのだろう。一瞬、表情を固めた。それでも、フガクは不機嫌を治めきれないようで、乱暴にサスケを見下ろした。

 

「何時だと思っているんだ! お前はもう寝ろッ!」

「ご、ごめん……父さん…………」

「フウコ、あとで俺の部屋に来い」

 

 フウコの返事を待つことなく、フガクは廊下の奥へと消えていった。バタン、と力任せに戸を閉める音が聞こえてきた。

 

 何か、大切なものに白いヒビが入ったような気がした。

 

「フウコ、何があった」

 

 イタチが尋ねる。

 

「何も―――」

 

 どういう訳か、フウコがこちらを見下ろす。

 赤い瞳。

 怖いと、思った。

 初めて、彼女のことを。

 

 中身が詰まっていない、伽藍堂のようで。

 外身だけが、動く、人形みたいで。

 

 怖い。

 

何も、なかった(、、、、、、、)

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 翌日。

 

 サスケは、昼頃に目を覚ました。

 アカデミーの休校日だということもあるけれど、昨日の夜のことが布団の中に入ってからも頭の中から薄れてくれることがなかったせいで、寝付くのがかなり遅れたからだ。

 

 粘着質な眠気が身体を重くしている。特に、頭が重い。目を覚ましてから、しばらくサスケは天井を見つめてばかりだった。

 散漫とした思考。天井に思い描くのは昨日の姉の様子で、すぐに、これまで自分が見てきた姉の姿に移り変わった。どちらも無表情なのに、前者は冷たく、後者は温かい印象が中心にあった。

 

 ―――姉さん、何があったんだろう。

 

 物心ついた頃から、彼女は笑わなかった。だけどそれを、不気味だとか、そういった風に捉えたことはなかった。むしろ大人っぽくてカッコイイと思っていた。

 

 優しくて、カッコイイ、それが物心ついた頃から今に至るまで、隙間なく積み重ねられた彼女へのイメージだった。

 

 昨日の姉の姿は、そのイメージから大きく逸脱している。

 まるで別人のようだとすら、思えてしまうほどに。

 

 身体を起こして、部屋を出た。憎たらしいことに、胃が空腹なのだと音を立てて訴えてきたからだ。廊下には昼食の香りが薄く漂っていて、より空腹感が強くなる。居間に近づくにつれて、おそらくミコトが扱っているであろうフライパンが何かを炒めている音が聞こえてくるが、他に音は聞こえなかった。

 

「あら、おはよう、サスケ」

 

 居間に入ってきたのを感じ取ったのか、ミコトはフライパンを軽く振りながら顔を向ける。昨日は何事も無かったかのような、いつもの笑顔。居間にはミコトの姿しかなく、サスケは小さく視線を泳がせてから「おはよう、母さん」と呟いた。

 

「……姉さんは? 今日は、任務?」

「お休み。ただ、疲れてるみたいだから、修行は無理だと思うわよ?」

「どこにいるの?」

「縁側でゆっくりしてると思うわ。あと少しで御昼が出来上がるから、フウコに伝えておいて」

 

 洗面所で顔を洗って歯を磨いてから、縁側に行く。昼の高い透明な日差しを一身に浴びている姉の姿は、すぐに見つかった。白い浴衣の寝巻に身を包んでいる。黒い髪は、普段は後頭部の上の部分を紐で纏めていたけれど、今は下ろしていた。

 

「……おはよう、サスケくん」

 

 右肩を柱に預け、疲れ切ったように裸足を外に投げ出している姉は、横から来たサスケに視線だけを向けた。

 弱々しい声だった。

 いつもなら、透き通るような平坦な声なのに。

 

「今、起きたの?」

「姉さん、大丈夫?」

「え?」

「疲れてるみたいだから……。風邪でも、引いたのかなって」

「ごめんね、気にしないで。修行、付けてほしい?」

 

 逡巡して、首を横に振る。疲れ切った姿の姉に修行を付けてもらいたいとは、まったく思えなかったからだ。

 

 姉の隣に腰掛けると、彼女は空を見上げた。左の口端に貼られた白いガーゼが、痛々しい。

 

「サスケくん、今日、アカデミーは?」

「日曜日だから、休みだよ」

「そう」

「……いい、天気だね」

「そう?」

「だって、晴れてるじゃん」

「そうだね。でも、晴れてるからって、いい天気っていう訳じゃ、ないと思う」

「じゃあ姉さんは、どうして空を見上げてるんだよ」

「昔、イタチも訊いてきた。空に何があるのかって。空には、空しかないのに」

 

 そこで、フウコは言葉を止めた。気まずさはない。姉と会話すると、何も話さないことの方が比率的には多いからだ。むしろ、姉の影響なのか、無駄に話しかけてくる同い年の子が煩わしく感じてしまう時があるくらいだ。

 

 昨日は何をしていたのか、と尋ねようと思ったけれど、今はしない方がいいような気がした。疲れている原因は、間違いなく、昨日の【用事】のせいに違いないからだ。その話題を出してはいけないことくらいは分かる。

 

 二人の間に陽気な風が入り込む。

 

 もうすぐ、昼ご飯が出来上がる頃だろう。良い匂いが届いてくるが、姉はまだ空を見上げている。いつもなら、すぐさま動くというのに。

 

 やっぱり疲れているんだ。そう思った。

 と、同時に、どうすれば元気になってくれるのだろうか、とも。

 

「……そういえばさ、姉さん」

「なに?」

「いつになったら、父さんと母さんに、シスイさんと付き合ってるって言うんだ?」

 

 何となしに訊いた。少しでも、元気になってもらいたいと思ったからで、悪くない話題だと自負していた。

 

 空を見上げていた姉の瞼が大きく開くのが見えた。きっと、この話題は間違いではないのだろうと、確信に変わる。サスケは声の調整を上げて続けた。子供らしい演出だった。

 

「早く言わないとさ、ほら、隠し事してた訳だし。あんまり長く隠してると、母さん、すごく怒ると思うし」

「―――サスケくん」

「それに父さんも母さんも、多分、気付いてると思うんだ。だからさ、もう―――」

「サスケくん……お願い」

 

 姉の赤い瞳。

 その双眸が、見下ろしてくる。

 頬が温かい。

 彼女の右手が、優しく撫でる。

 しかし、見上げる彼女の表情からは、何も読み取れなかった。

 さっきまでの疲れた様子も、かといって、怒っている様子もない。

 

 何も、無いようだった。

 

 続いてる。

 

 伽藍とした空洞。

 

 昨日の姉はまだ、続いている。

 

「もう、シスイのことは、言わないで」

「―――え?」

 

 その時だった。

 玄関の戸が乱暴に開けられる音がしたのは。

 

「フウコはいるか! 出て来いッ! 話しがあるッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……うーん、今日は、しっかり鍵は閉まってるんだよねえ。昨日は開いてたのに」

 

 昼間に目を覚ましたイロミは、寝間着姿のまま、窓のカギを目の前に首を傾げていた。まだ髪の毛には所々に寝癖が残っていて、顔も洗っていないというのに、起きてからに十分近く、窓のカギを前に胡坐をかいて腕を組み、うーんうーんと悩み続けている。やっぱり昨日は自分の勘違いなのではないか、と考えてしまう。

 

「お金も盗まれてないし、食べ物も減ってないし……うーん」

 

 彼女が窓のカギにこだわる原因は、昨日の朝まで遡る。

 

 普段、眠る前には必ず家の戸締りだけはキチンとするようにイロミはしていた。ただでさえボロいアパートで住民は自分だけという、たとえばドロボーにとっては、理想的な環境だと理解しているからだった。

 

 風呂に上がりストレッチをしてから髪の毛を乾かす。翌日の予定を確認してから、食器を洗い、戸締りを確認する。この戸締りはいつも風呂場から行って、最後に居間の窓を閉める、という流れだ。必ず、毎日行う。出掛ける時に玄関のカギを閉めるくらいに、もはや癖になってしまっているほどだ。

 

 だから、目を覚ました時に、家のどこかのカギが開いている、ということはありえない。もしそうなら、自分以外の誰かが侵入したということである。

 

『ぶふぅーッ!』

 

 昨日の朝、歯を磨いていたイロミは、開けた記憶のない窓のカギが開いているのを見て、盛大に歯磨き粉を吹きだした。

 

『え、え……? ちょ、っと、まってッ!』

 

 歯ブラシを片手に、窓の半面程を覆った歯磨き粉の泡を無視して、ドタバタと棚や箪笥、冷蔵庫を漁った。間違いなく、ドロボーが部屋に入ったんだ、そう思ったが、半刻ほど部屋を漁ってみると、金銭や食料、その他の所有物が無くなってはいなかった。

 

 どういうことだろうか? と、イロミは悩んだ。

 

 寝る前に、窓のカギは閉めた……はず。正直、鮮明に覚えてはいない。癖になりすぎて、無意識下の作業になってしまっている。しかし、そんな自分がカギを閉め忘れる、なんてことはないだろう。やはり、自分は閉めて、誰かが開けたのだろうか。

 

 じゃあ、何故、金銭などが盗られていないのだろう。まさか、カギを開けたところで良心の呵責に苛まれた、というわけじゃないだろうに。

 

 自分がカギを閉めて誰かが開けたのか、単純に自分はカギを閉め忘れたのか。

 

 そんなことを昨日は一日、考えていた。買い物をしても、面白い忍具がないか探しに回っても、ちょっとした書類の処理をしても、頭の隅ではずっと考えていたのだ。

 

 結局のところは結論を出すことができず、とりあえずしっかり施錠をしようということで床についたのだが、今日こそは泥棒が入ってきて有り金をかっさらうだけではなく命の危機にも直面するのではないだろうかと不安に思ってしまい、寝る時間がいつもより遅くなってしまった。

 

 そして―――昼間に起きたイロミは、今に至っている。

 

 カギはしっかりと窓を固定したままという、当たり前の光景を目の当たりにしていた。

 

「……まあ、いっかな」

 

 何事も無かったわけだから、深く気にする必要もないだろう、と結論付けた。もちろん、大切な金銭の隠し場所には一工夫する必要はあるが、今すぐというほどでもない。まだ昼間。こんな時間に、盗みに入るほど、木ノ葉隠れの里の治安は悪くない。

 

 イロミは立ち上がり、歯を磨いて顔を洗った。寝癖を落ち着かせて普段着に着替えると、台所で昼食を手軽に作り、あっという間に食べ終える。流し台に食器を置き、水に漬けた。

 

 今日は一日、フリーな日だ。と言っても、中忍という身分である以上、完全に約束されているわけではない。急遽、任務が飛び込んでくる可能性もある。しかしそれは稀なケース。つまり今日は、固定的な予定が無い、ということだ。

 

 巻物を背負って家を出る。目指す先は、親友であるフウコのところ。目的はやはり、修行を付けてもらいたいからである。

 

 家のカギをしっかりと施錠し、道を進む。天気は晴れやかで、空には分厚い雲がちらほらと姿を現しているが、雨が降りそうな気配は無かった。絶好の修行日和だ、と思う反面、今日のフウコの予定はどうなっているのだろうか、と不安に思う部分もある。何せ彼女は、暗部のナンバーツー。自分とは違い、重要な地位にいて、仕事の重要度や頻度も異なるため、特に自分が中忍になって下忍よりも幾分か忙しくなってからは、ごくたまにしか修行を付けてもらえなかった。

 

 道を歩きながら、ふと、思い出す。きっかけは分からないけれど、何となく、アカデミーの頃のこと。

 

 既にフウコは下忍になっていて、自分はまだアカデミー生だった頃。

 

『イロリちゃんは、色んなことに手を出した方が、いいと思う』

 

 いち早く自分も下忍になろうと自分なりに頑張って、けれど自分じゃあ何をしても分からない時があって。

 

 だから、情けないことに、彼女に修行をつけてもらうように頼んだ。知らない上忍に話しかけるのは怖かったし、アカデミーの先生に頼むのも怖かった。かといって、イタチやシスイに一対一で修行を付けてもらうっていう状況にも、異性ということもあり、勇気が必要だった。当時の自分は、素直に頼れる人が、彼女しかいなかったのだ。

 

 修行を開始する前に、突然、彼女からの言葉に、当時のイロミはおっかなびっくりに尋ねた。

 

『え……えーっと……、どういうこと?』

『言った通り』

 

 言われた通りと言われても、分からない。

 彼女は静かに息を漏らした。

 

『今のイロリちゃんは、何の才能も見つかってない』

『うっ……』

『……えーっと、悪い意味で言ったんじゃ……ないよ?』

 

 この頃のフウコは、ちょっとずつ気遣いというものを覚え始めていた。イロミの表情を察ししてその言葉を選んだようなのだが、しかし、何も才能が見つかっていないという言葉をどのようにとれば、悪い意味ではなくなるのか。

 親友の容赦のない言葉を前に、両眼が熱くなってきてしまった。

 

『うぅ……じゃあ、どういう意味?』

『今のイロリちゃんには、他の誰かよりも優れた部分がないの』

『……ひどい』

 

 ぼそりと呟いたイロミの声をフウコはわざと無視した。

 

『才能を作ることは、多分、誰にもできないと思う。だけど、才能を見つけるのは、きっと、誰にでもできることだと思う。そして、才能は、大なり小なり、誰にでもあると思うの』

『…………私に、才能って、あるのかな?』

『ある』

 

 不思議だった。

 彼女の言葉には説得力がある。

 無表情と赤い瞳に見つめられて、イロミは力なく頷いた。

 

『だから、色んな事に手を出すの。些細なことでもいい。木の葉の里だけの技術じゃなくて、他の里の技術も。そうすれば、いつか、イロリちゃんの才能が見つかる。まずは見つかるまで、頑張ろ?』

 

 それからというもの、イロミはひたすら忍術書を読んで、多くの知識と技術を取り込むようにした。忍具も、普通のクナイや手裏剣だけじゃなく、一見どういう風に使うのか分からない奇天烈な忍道具でさえも手に取って使ってみた。それらは全て、彼女が背負っている長い巻物の中に、封印術によって収められている。数は優に百を超える。それらを拙いながらも使いこなし、多種多様な手を使って、ようやく中忍になったのだ。

 

 未だ自分の才能というのが何なのか分からない。

 

 それでも、フウコの言ってくれた言葉は嘘じゃなかった。自分は、本当に少しづつだが、成長できている。実感できる。

 

 これからももっと、色んな事を教えてほしい。

 そしていつかは、彼女と同じ位置に立って、色んなことをしたい。遊んでもいいかもしれない、まだまだ修行を付けてもらうのもいいかもしれない。想像はどこまでも彼方まで広がっていく。

 

 足取りは軽いまま、うちはの町に入る。抵抗は無かった。

 

 木ノ葉隠れの里の中では、うちは一族はエリート、というのが一般的な印象として広まっている。それは間違いではないのだが、その印象には、堅物、あるいは他の一族を見下しているといった、あまり良くないものも付属していたりする。そのせいもあってか、あまりうちはの町に近寄る者はいない。

 

 幼い頃から、フウコ、イタチ、シスイの三人と関わってきたイロミにとっては、エリート以外の印象は特に持ち合わせることはなかった。むしろ、尊敬するばかりだ。フウコに修行を付けてもらったり、中忍選抜試験の前に相談をしようと思ったりと、何度もうちはの町に出入りしている内に他の人たちとも親しくなり、やはり、悪い印象は受けなかった。

 

 道行く人たちに挨拶をされ、挨拶を陽気に返していく内に、もうすぐで親友の家に辿り着く。目の前にある角を曲がれば、目的地だ。

 

 一歩一歩と近づくにつれて、気分は高鳴った。窓のカギのことなんて、もはやどうでもいいくらいに。

 

 ―――今日は、どんな修行、付けてもらおっかな。

 

 イロミは小さく笑顔を浮かべた。

 フウコに修行を付けてもらう光景を想像するだけで、体温が上がっていく。

 角を曲がった。

 

 そして見つける。

 

 親友が、

 

 大切な友達が、

 

 フウコが、

 

 うつ伏せに倒れる三人の男たちの中央に立っているのを。

 

「私は、シスイを愛してる」

 

 その声は、あまりにも、矛盾していた。

 言葉ではなく、声が。

 二つの力が反対方向へと進むような、そんなおかしさを多分に持ち合わせたもの。

 

「嘘じゃない。決して、嘘じゃない。私は、シスイを愛してた」

 

 倒れている男たちは皆、どこかしらから血を流していた。鼻であったり、口であったり、頬であったり。そして、亡霊のように佇むフウコの両手には、微かな血痕が。

 息を呑むと同時に、イロミは状況を理解した。フウコが三人の男たちに暴力を振るったであろうことを理解して、そして、どうしてそんな状況になったのかと混乱した。

 

 視線を上げると、そこには無表情で、けれどあまりにも冷酷な色を含んだ、彼女の横顔があった。

 

 アカデミーの頃に、二度だけ、見た事がある。

 一度目は、育ての親を殺そうとした時。

 もう一度は、あの暗い森の帰り道で。

 

 それら二つの彼女の表情と、同じ部類のものだった。

 

「お前たちのくだらない考えを、私に、わざわざ言わないで。才能だけあって、本当の努力もしないのに、口先だけ。いつもお前たちは、くだらないことばかり言う。あまり、私を怒らせないで」

 

 初めて聞く、彼女の冷たい声。しかし、その声質は、あの暗い森で見た彼女と合っていて、つまり、怖いと、イロミは思ってしまった。

 

 今すぐにでも、彼女を止めないといけない。そう思っても、気が付けば、自分の両足は震えていて、動けなかった。声を出そうと思っても、怖くて、言葉を発せない。

 

「なら……、昨日一日、何をしていたのか言えるはずだッ!」

 

 倒れている三人の中の一人が、声を荒げた。

 両眼を写輪眼へと変化させている彼の声は、怒りと、少しの怯えが含まれている。

 

 どうしてそんな声を、そんな眼を、彼女に向けているのか、分からない。

 

 とにかく、止めないと。

 友達が、大切な友達が、良くない視線に晒されている。

 

 なのに、身体が、喉が、動いてくれない。

 

 いつだって彼女は、自分が辛い時には傍にいてくれたのに。

 

「昨日、私が何をしていたのか、お前らには関係ない」

「なんだとッ! 貴様、それでも、うちはの人間か!」

「黙れ」

 

 さらに重く、鋭く、冷たい、フウコの声。

 横風が、彼女の白い浴衣を揺らして、同じくらいに黒い髪も揺らした。隙間から、彼女の写輪眼が見える。

 

 ほんの、一瞬だけ。

 

 彼女の目が、こちらを向いたような気がした。

 

 けれど風に流される黒い髪が、すぐに彼女の目を、表情を見えなくする。

 

「私は、夢の世界に行くの」

 

 ―――え?

 

 夢の世界。

 聞いたことのある、懐かしい言葉だった。

 

「お前たちみたいに、たった一つしか違わないのに、全部を否定する、そんなくだらないことを言わない、綺麗で、楽しい世界に、私は行くの」

「何を、言って―――」

「分からない? 私の言ってることが。どうして? 同じ言葉を使ってるのに。いい加減にしてよ。言葉が通じないなら、どうすればいいの? 分からない? 分からないなら、邪魔だから」

 

 殺すぞ。

 

 駄目だ、止めないと。

 このままじゃ、彼女は、悪いことをしてしまう。

 遠くへ行ってしまう。

 動け、足。

 何のために、今まで、努力してきたんだ。

 止めないと……止めないとッ!

 

「フウコちゃ―――」

「フウコッ!」

 

 ようやく吐き出す事の出来たか細い声は、全く反対の方向から割り込んできたフガクの声にかき消された。その場にいた全員が、彼に視線を集中させてしまった。フガクはちょうど、フウコを挟んで、イロミの反対の位置に立っていた。普段から厳格な表情を浮かべる彼だが、今だけは、厳格さよりも怒りが上回っているのが、はっきりと分かった。

 

「これは、どういうことだッ!」

「……おかえりなさい、フガクさん」

 

 フウコは輪郭の薄い声を出した。

 

「何でもありません。気にしないでください。それよりも、もうそろそろで御昼ご飯です」

「フウコ……、お前、昨日からどうした。普段のお前なら、無闇に暴力を振るわないはずだ」

「……ずっと、空を見てきました」

 

 空を、見上げた。

 まるで、今から遠い空へと消えていくかのように、両手をぶらりと垂れ下げて、力無く立ち尽くす、彼女。

 

「どうして皆、空を見上げないんですか? 視線を下げて、周りの表情ばかり、どうして見るんですか? 空の方が、何倍も綺麗なのに。私はずっと、綺麗な空を見続けることができる、夢の世界を目指しているんです。それを邪魔する人たちは、容赦しません。できません」

「どういうことだ……ッ」

「色んな事が、私の邪魔をする。つまらなくて、退屈な戒めばかり。楽しくない」

「……もういい。フウコ、これ以上、戯言を言うのなら、お前を牢につなぐぞ」

「ま、待ってくださいッ!」

 

 ようやく、身体を動かすことができた。

 フウコの前に立って、フガクと対峙する。起き上がろうとしている三人の男たちは驚いた表情を浮かべるが、フガクは小さくため息をつく。しかし、怒りは収まっていない。強い怒気が滲み出ている声で、フガクは言った。

 

「イロミちゃん、これは、我々うちはの問題だ。悪いが、口出しはしないでくれ」

「できません! うちはの問題だって言うのなら、これは、私とフウコちゃんの、友達の問題ですッ!」

「君は事態を分かってるのか?」

「分かりません。だけど、少し、落ち着いてください。フウコちゃんを、牢に入れるなんて。……家族を、牢に入れるなんて」

「俺には、大切な役割があるんだ」

 

 異常だ。

 フウコの様子も異常だけれど、フガクの様子も、そしてフガクの横に移動し始める三人の男たちの様子も異常だった。

 

 警鐘が鳴る。

 頭の中で、一つの恐ろしい想像が過った。

 

 本当だろうか?

 

 目の前の、この光景だけが、異常なのだろうか?

 もしかして、うちは一族全体が、何かの、異常なものへと、変貌しているのではないだろうか?

 

 そしてその警鐘は、全く別方向から、おかしな形で肯定されることになった。

 

 後ろに、突如として気配を感じた。同時に、声が耳に届く。

 

「うちはフウコだな」

 

 その声は悍ましいくらいに平坦なものだった。フガクたちが驚愕するのを見てから、イロミは振り返る。そこには、茫然と立ち尽くすフウコ。そこでようやく、彼女の左の口端にガーゼが貼られていることに気が付いた。不自然なガーゼ。

 その後ろに、四人の暗部の忍が立っていた。

 

 遅れて、フウコも振り返った。

 

「……今日は、私は非番のはずだけど?」

「既にお前には、副忍としての権限は一時凍結扱いとなっている」

「どういうこと?」

「我々は、お前を拘束しに来た。―――うちはフウコ、うちはシスイの殺人容疑により、貴様を拘束する」

 

 思い浮かんだのは、四人で撮った、一枚の写真だった。

 

 その写真に、致命的な、痕が。

 

 眼が熱くなり始める。

 顎が震えて、呼吸が細かくなってしまう。

 

「待てッ! 警務部隊には、何の報告も無いぞッ!」

 

 フガクの声が、過分に頭に響いてしまった。

 

「そもそも、何故暗部が動いている。里の中での案件は、我々警務部隊が主導のはずだ」

 

 声のプレッシャーは相当なもので、しかし暗部の男は、箸にもかけずに淡々と返す。

 

「今回は特例だ。暗部の者が同じ暗部の者を殺めるという事例はこれまで確認されていない。ましてや、うちはフウコは副忍という地位にいる。容疑という段階であるとはいえ、不必要な不穏を広める必要は無い」

「あまりにも独断が過ぎる……ッ!」

「もちろん、我々としても、そのことは十二分に理解している。その上での判断だ。火影様からの直々の指示である以上、従ってもらう」

「しかし―――」

「フガクさん、落ち着いてください」

 

 透き通るような声に、一瞬だけ、その場が静まり返った。

 

 イロミは期待する。

 

 この場で、彼女が、そんな、訳の分からない容疑を、いつものように冷静に否定してくれるのを。

 カッコよくて、自分の目標である彼女が、堂々と否定するのを。

 

 だけど、

 

「分かりました。指示に従います」

「ッ! フウコちゃんッ!」

「ですが、少し、着替えさせてください。寝巻のまま事情聴取をされるのは、嫌なので」

「いいだろう。すぐに支度をしろ」

 

 ありがとうございます、と言って、フウコは足早に家の中へと入っていく。イロミは、彼女の後ろを追いかけて、家へと入った。開けっ放しの玄関には、サスケが立っていて、目の前を通り過ぎる彼女を見て「姉さん……?」と不安な声を出したが、彼女はそれを気にも止めないまま、自分の部屋へとさっさと行ってしまう。

 

 後ろから、フガクが暗部の忍たちに言葉をぶつけているのが届く。何を言っているのか、そんなことに、意識を向けれるほどの余裕はなかった。

 

 彼女の部屋。

 

 着替えを始めるフウコ。まるでこれから、買い物でも行くような流暢な動作に小さな苛立ちを覚えながら、イロミは尋ねた。

 

「ねえ、フウコちゃん! 何があったのッ!?」

「何もないよ。安心して。……ごめん、しばらくは修行、付けてあげれないかも」

「シスイくんが、殺されたって、そんなの……どうして、フウコちゃんがっ」

「気にしなくていいよ。修行は、イタチに頼んで」

 

 言葉が定まらない。

 心が震えているせいだ。

 眼が熱くなって、もしかしたら、泣いているのかもしれない。

 それでも、不安の感情は大きくなって、だけど、当事者は何ともないように着替えを終え、着替えている途中で見えた数々の傷痕や痣を見て混乱して。

 

 何かがあったのは明白なのに、彼女は教えてくれない。

 

 それが、何よりも、悔しかった。

 

 友達なのに。

 

 友達の……はずなのにッ!

 

「私の目を見てよッ! フウコちゃんッ!」

 

 ようやく。

 フウコはこちらを見てくれた。

 いつもの無表情で、赤い瞳。

 どうしてそんな表情が出来るのか。

 シスイが殺されたという報告がされたというのに。

 一切の悲しみも苦しみも、伝わってこない。

 どうして。

 自分から見た、フウコとシスイの関係は、不思議な形だったようだけれど、互いに尊重し合った、理想的なものだったのに。

 

イロミちゃん(、、、、、、)

「……フウコ、ちゃん?」

「またね。また、遊ぼうね」

 

 笑顔だった。

 初めてみる、彼女の、子供っぽい笑顔。

 

 いや、初めてではない。

 

 イロミと、彼女は呼んだ。

 あの夜のように。

 初めて出会った、【フウコ】のように。

 そして目の前の笑顔と、未だ鮮明に覚えている声は、頭の中で、時間を超えて合致する。

 

 横を通り過ぎたフウコは、静かに、自室の部屋を閉めた。ドアの向こうから、ミコトの声がする。何を言っているのだろう。耳に届いているはずなのに、意識はそれを処理してはくれなかった。

 

 残されたイロミの頬から、涙が零れ落ちた。

 どうして自分は泣いているのだろう。

 それも分からないまま。

 




 次回の投稿も十日以内に行いたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

煙と灰

「空には何かあるのか?」

 

 子供の頃に、そんなことを尋ねたことがあった。特に理由はなかったと思う。目の前に広がる光景は夕方で、微かに星が見えている。忍術勝負の後で、アカデミーの校庭だった。辺りには人の声も人影もない。熱を持った体を気休め程度に冷ます風が吹いている。

 

「雲と、太陽と、時々カラスとか」

「見ていて、楽しいか?」

「変なこと聞くよね、イタチって」

「お前が変わってるんだ」

 

 短い髪の毛を風に任せて、空を見上げるフウコの声は幼く、声や言葉遣いも極端に平坦だった。

 

「空って、いつも同じだと思う?」

 

 小さく、妹の声。

 

「ずっと空って、続いてると思う? 私は、そう思わない。寝てる間に、きっと空って入れ替わってる。いつも何回も見てるのに、同じ模様がないから、きっとそう」

「急にどうした?」

「イタチは、怖くない? 自分が寝ている間に空が入れ替わってることが」

 

 私はすごく怖い。

 寝ている間に、入れ替わってるなんて。

 何かが大きく変化してるなんて。

 楽しい夜が過ぎて、目を覚まして朝を見上げると、変わってるなんて。

 

 当時のイタチには、彼女の言葉は分かっても、共感することはできなかった。

 

 空は空だ。たとえ入れ替わっていたとしても、自分に影響は無い。雨が降ることも、雷が落ちて空が轟いても、たしかに怖いと思う時はあるが、フウコの言葉はそれらとはニュアンスが異なっているように思えた。

 

 空が入れ替わることが怖い。

 

 その意味、本当の意味で理解するようになったのは、中忍選抜試験を経て、自分が中忍になった時だった。

 

 父であるフガクから聞かされた、うちは一族の思惑。

 

 たった数分の話し。それだけで、今まで当たり前だと思っていたことが全然違ったことなのだと、打ちのめされた。

 

 当たり前だと思っていたこと。

 

 うちは一族への敬意だ。

 個人や集団を、血統や名字で括り評価するつもりはないのだけれど、事実として、自分はうちは一族の一人であり、自分を育ててくれた両親、自分よりも遥かに優秀な妹、愛しい弟、忍として尊敬できる友人、彼ら彼女らは総じてうちは一族で、つまり一族という繋がりが多くの貴重で大切なものを与えてくれたということ。

 そして、うちは一族が担っている役割のこと。

 それらを評価して、敬意を持っていた。

 

 うちは一族が崇高である、という間抜けな考えではない。

 

 純粋な客観に立った評価。

 しかし、その評価があっさりと覆されたのだ。

 

 怖い、と思った。

 

 当たり前だと思っていたものが、気が付けば、そうではなかったことが。

 当たり前だと思ってしまっていた自分が、いたことが。

 

「肩に力入れるなよ、イタチ。いつもみたいに、一歩引いて、親みたいに見守るくらいがちょうどいいんだよ」

 

 上忍になった頃に、シスイにそう言われたことを覚えている。

 

 彼は、自分たちが立てた計画を独断で変更し、暗部に入隊していた。フウコは彼の行動にあまり受容的ではなかったが、イタチは強く否定することはしなかった。シスイが何も考えていない訳ではないだろうという信頼があったこともあるが、フウコをサポートしてくれるだろうと思ったからだ。

 

「お前は、俺達の中で一番頭が良いんだ。それなのに、お前がそうやって、しかめっ面してると、俺は不安だ」

「……俺は一番、頭が悪いと思っている」

 

 互いに任務を終えて、うちはの町へと帰る夜道だった。

 

 これから、うちは一族の会合が行われ、自分たちはそれに出席しなければならなかった。いや、会合という言葉は相応しくない。ただ自分たちの行動が正しいという小さな価値観を共有し、強固にするだけの顔合わせだ。誰もが真剣な面持ちで出席し、真剣に議論を交わしているが、イタチから見れば、彼ら彼女らの内心は取るに足らない高揚感で満たされ喜んでいるようにしか見えなかった。

 

 我らは、崇高なうちは一族なのだと。

 

 主観的で偏りに偏った思想の集い。だが、その会合をくだらないと判断している傍らで、小さな恐怖を抱いていた。

 

 また、入れ替わっているのではないかと。

 

 自分たちが、クーデターを阻止しようとしていることが気付かれているのではないかと。

 あるいは、誰かが突発的に、今すぐ木の葉隠れの里を乗っ取ろう、と騒いだ途端に会合中の者たちが一斉にクーデターを起こしてしまうのではないかと。

 

 それらに付属してやってくる、最悪の未来。

 頭に一瞬でも過るだけで、無意識に表情は固くなってしまう。

 

 謙虚だなあ、とシスイは笑った。

 

「でも、俺はそう思ってる。俺達の中で、お前が一番、周りを見えてるし、きっと冷静だ。頭が良いって言うのは、そういう所を言ってるんだよ。どんな事態が起きても、お前だけは正しく考えてくれる」

 

 単純に性格の違いだと、イタチは思った。それに、冷静さ、という部分ではフウコの方があるように思えるし、冷静になるように強く心掛けるようになったのは中忍の頃にシスイと共に任務を行った際、彼の研ぎ澄まされた集中力を目の当たりにしてから。

 

 シスイが冷静だと言ってくれた側面は、そもそも、原点が彼なのだ。

 

「買い被りすぎだ。俺はそこまで冷静じゃない」

「アカデミーの頃、覚えてるか? イロミの敵討ちをした時、俺もフウコも真っ先に暴れて、遅れてイロミが箒とかバケツとかブンブン振り回してる中で、お前だけは落ち着いてたよな。窓ガラス割らないように立ちまわってくれたり、フウコが火遁使おうとした時とかは止めてくれたりとか」

 

 幾度か、イロミがイジメの対象になったことがある。内気で引っ込み思案な彼女の交友関係が、フウコ、イタチ、シスイだけだったということもあるが、何より授業の成績が悪かったのが原因だった。同じクラスメイト、時には、どういう訳か上級生にイジメられる。

 

 そうなったとき、真っ先にシスイは言うのだ。

 

『敵討ちだッ!』

 

 と。弓の弦に押し出されたように走り出し、フウコがイロミの手を握りながら「みんなでやっつけよう」と言って追いかける。毎回、イタチが一番後ろで彼らの後を追いかけるのだが、決して友達がイジメられていることに腹を立てていないというわけではない。

 

 ただ、他に方法があるんじゃないかと考えようと思っている隙に、シスイたちが行ってしまうのだ。それに、シスイとフウコのテンションのせいで、逆に自分が気を使わなければいけないと思ってしまうだけ。

 

 やはり、冷静、というわけではないと思う。

 

「……何度か、お前たちを止める事ができなかったがな。窓ガラスが割れたこともあるし、軽いボヤ騒ぎになったこともある。おかげで、ブンシ先生に拳骨をもらって」

「フウコは避けようとして頭突きを受けてたよな」

 

 一頻り小さく笑うと、シスイは「だからさ」と、少しだけ声のトーンを下げて呟いた。

 

「あの頃みたいに、俺はさ、あるいはフウコは、意外と冷静じゃないんだよ。特に、身内に対してはさ。だからイタチ、もしそうなったら、お前だけは冷静でいてくれよな。期待してんだぜ? 本当に」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フウコが、シスイの殺害容疑で拘留された。

 

 そのことを知ったのは、家に帰ってきてからだった。

 

「……今、何て…………?」

 

 夕食の匂いが、フガクの部屋に入ってきていた。遠くから虫の鳴き声が聞こえる。静まり返った室内―――いや、家そのものが静寂に包まれている―――に、イタチの震える声が弱々しく溶けていった。

 

 無意識に大きく開いた瞼。双眸が捉えているフガクは、ゆったりと首肯した。

 

「フウコが……暗部に拘留された。シスイくんを殺したという容疑が、かけられているらしい」

 

 一瞬、聞き間違いなのではないかと思った。

 絶対にありえないことだからだ。

 フウコが、シスイを殺すなんてことは、絶対に。

 そして何よりも、暗部がフウコを拘留したことも。

 

 暗部は、こちら側だ。

 かつてフウコも、そしてシスイも語っていたこと。

 なのに、どうして……。

 

「イタチ、何か知らないか?」

「何も……知りません……。フウコからは、何も聞かされては……」

 

 呟いて、迂闊な発言だったと思った。

 

 クーデターを阻止する、その計画の為に、三人で決まり事を幾つか作っていた。その中の一つに【個別で何か妙手を思いついた時は、必ず全員で共有して、判断する。却下されれば、いつも通りに振舞う】というものがあった。

 

 暗部に拘留されるという、本来の計画には全くないアクションを、フウコから聞かされていない。

 

 言葉に出してしまったのは、こちらを意味していた。

 フガクの問いに対して微かに不適切な返し。

 慎重に彼の表情を伺うが「そうか」と、重いため息と共に肩を下げるのを見て、違和感を抱かれていないと判断した。

 

 ―――落ち着け。

 

 心の中で呟く。だが、呼吸は慎重に。

 まだ、状況が不鮮明だ。

 判断できることは、何か、計画に問題が発生した、ということ。その問題を回避しようと、フウコとシスイが動いたのだろう。なら、自分の役割は、二人の意図を読み取り最適に行動すること。

 

「イタチ。今夜、会合が行われることになった。内容は……フウコのことだろう」

 

 頷きながら、思考は先に進めていく。

 

 二人から、何かしらのヒントは与えられていない。

 与える暇が無かったのか、与える必要が無いと判断したのか……。

 

「お前は事実だけを話してくれ。それ以外は何も喋るな。他は、俺が全て応える」

「分かったよ、父上」

「それとだ、イタチ―――」

 

 ……おそらく、後者なのだろうと、フガクの言葉を横にイタチは判断する。ヒントを与える余裕くらい、あるはずだ。

 

 つまり自分に求められているのは、うちは一族としてのイタチ、という役割なのだろう。問題は、いつ、二人と明確に情報を共有するかだ。

 

 うちは一族はこれまで以上に不安定になるだろう。

 今日の会合で分かるだろう、その度合いを伝えなければならない。

 

 フガクは、言う。

 

「フウコのことを、もはや家族だと思うな」

 

 落ち着きを取り戻し始めた感情が、思考が、寒気と共に、ざわついた。

 

「……どういうことですか」

「元々、フウコと俺たちとでは、血の繋がりは無い。あの子は、別の家の子だ」

 

 何を言っているんだ。

 どうして、そんな言葉が思い付くのか、理解できなかった。

 

 血液が熱湯のように熱くなり、ガンガンと痛くなってくる頭の中でも、ある一つの答えが浮かび上がる。

 

 フウコがシスイを殺したという情報。

 うちは一族を統制しているフガクの発言力を急激に失墜させるのには十分な破壊力がある。ハト派よりもさらに、うちは一族から孤立するだろう未来は、もはや確定的だと言ってもいいだろう。

 それを防ぐことができるかもしれない、唯一の策。

 

 ―――フウコを……切り捨てるつもりか…………ッ。

 

 全ての責任を、彼女に押し付ける。

 自分たちは何も知らない。

 フウコは本当の家族ではない。

 そして、その考えは、自分だけではなく、家族で共有していたのだと、言うつもりだ。

 

 自分にそう言ってきたのは、その下地作り。

 

「いいかイタチ。会合で何があっても、そう思い続けろ。何があっても、勝手に発言することは許さん」

「父上、貴方はそこまでして、うちは一族が大事ですか……」

「一族の為ではない、お前たちを思ってのことだ」

 

 あまりにも白々しい言葉に、感情が爆発しそうだった。

 

 今すぐにでも叫んでやりたい。

 ありとあらゆる言葉を尽くして、うちは一族の思惑がどれほどくだらないものかを。

 フウコがどんな思いで、これまで動いてきたのかを。

 

 我慢しろ、我慢しろ、と自分に言い聞かせる。今、感情で動いたら、全てが台無しになってしまうかもしれない。心臓が五月蠅いくらいに後頭部に響いてくる。シスイは言った。最後まで、冷静でいろと。止まれ。止まれ、止まれ。言うんだ、分かったと。たった一言。

 

 言え。

 言うんだッ!

 

「……なんだよ、それ…………」

 

 声は、後ろからだった。

 

 振り返る。

 閉まっていたはずの襖が、微かに開いていた。

 その隙間から、サスケの顔が。

 

「姉さんが家族じゃないって、どういう事だよ」

 

 黒い瞳には、力が無かった。

 襖を開けてサスケは入ってくる。

 

「姉さんは……俺の、姉さんだろ? 血が繋がっていなくても、姉さんは…………」

「サスケ、落ち着け。居間にいるんだ」

 

 イタチは諌めるが、サスケは足を止めない。横を通り抜けようとする彼の腕を掴んで、ようやく止まったが、彼の頬には小さく涙が零れていた。

 

 その様子を見ても尚、フガクは、厳格な表情を以てサスケを睨んだ。

 

「いいかサスケ、お前も同じだ。もうフウコのことを姉と呼ぶことは許さん」

「姉さんが何したって言うんだよッ! 姉さんがシスイさんを殺す訳ないだろッ!?」

「事実であろうとなかろうと、疑われたということが問題なのだ」

「どうしてだよッ! 意味分かんねえよッ!」

「サスケ! 親に向かってなんだその口の訊き方はッ! お前はまだ子供なんだ、黙って俺の言うことに従えッ!」

「ふ……。ッ! ふざけんなぁッ!」

 

 飛びかかろうとするのを、イタチは腕を引き込んで押さえ付けた。

 先ほどまで、苦しいくらいに熱かった思考は、気が付けば、冷却されている。暴れるサスケを抑え込みながら、呟く。

 

「サスケ、落ち着け」

「離せよ………兄さんッ!」

「父上、失礼させていただきます。フウコのことは、分かりました」

 

 無言で頷くフガクに小さく頭を下げて、サスケを引っ張って部屋を出た。そのまま真っ直ぐ、サスケの部屋に行く。きっと居間に行っても、食事どころではないからだ。投げ捨てるようにサスケをベッドに座らせると、彼はそのまま力無く涙を流し続けた。

 

「……どうしてだよ…………」

 

 サスケの涙声が、イタチの鼓膜を揺さぶった。

 

「姉さんが……、シスイさんを殺すわけないのに…………、何かの、間違いだ……」

 

 もう、家族としてフウコを見るな。

 

 残酷な言葉を、聞かせてしまったことに、イタチは強い後悔を抱いた。普段の自分なら、間違いなくサスケが近づいてきていたことは察知できたはずなのに。

 

 感情的になるな、とイタチは心の中で強くその言葉を置く。

 笑ったり、泣いたりするのは、全てが終わってからだ。

 無表情を装いながら、イタチはしゃがみ、サスケと同じ目線に立つ。

 

「いいか、サスケ。父上の言葉に従うんだ」

「……兄さんは、姉さんのことが…………嫌いなのかよ……」

「そうじゃない。表向きだけでも、従えということだ。忍なら、誰しもがやっていることだ。いずれ、フウコが無実だと分かった後、父上が考えを改める。それまで耐えろ。いいな?」

「………………」

「父上も、本当にフウコのことを見捨てたわけじゃない。ただ、父上は公平でなければいけない立場だ。しばらくの間は、我慢しろ」

 

 都合のいい、嘘だった。

 フガクは心の底でも、フウコを既に見捨てている。

 一族という小さな器に拘るがあまりに、あっさりと。

 

 それを、当然、サスケに言う必要は無い。クーデターのことも知らない、そしてうちは一族に誇りを持っているのに、そんな残酷な現実を知らせる訳にはいかなかった。

 

 サスケは瞼を赤く腫らしながら、顔をゆっくりと上げて、小さく頷いた。

 

「……分かった」

「よし」

 

 頭を撫でる。子供らしい、柔らかな髪は抵抗なく指を滑らせた。

 

 嘘が、子供を守ることもある。

 残酷な現実から逃避させていると判断する者もいるが、決して甘やかしている訳ではない。

 大人が足首を痛めても、治った後に歩くことを恐れることはない。けれど子供は、治った後でも、歩くことを怖がってしまう。

 心も同じだ。

 残酷な現実に、まだ心が成長しきっていない子供が耐えられるわけがない。心が成長して、現実を乗り越える術を学ぶまで、どんな方法でも守ってやらなければいけないのだ。

 

 現実というものが、怖くならないように。

 

 イタチは立ち上がる。

 

「もう夕ご飯ができた頃だろう、居間に行くぞ。父上には、謝るんだぞ」

「……なあ? 兄さん」

「なんだ?」

「じゃあさ、やっぱりシスイさんは、生きてるんだよな?」

 

 元気を取り戻し始めたサスケの弾んだ声に、イタチの思考は打ち抜かれた。

 

 そうだ。

 

 どうして、気が付かなかった。

 

 計画に問題が発生した、それは理解できる。

 自分に何のヒントも残せなかったのも、分かる。

 だが、どうして―――シスイが死んだという情報を創り上げなければいけなかったのか。他の情報では、どうして、いけなかったのか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「授業も起きて受けることができねえのかガキ共ッ!」

 

 教壇の前に立つブンシの怒声が教室に余すことなく響き渡ると、居眠りをしていた、秋道チョウジ、奈良シカマル、うずまきナルトは顔を青くしながら、全力で上体を預けていた机から離れて背筋を伸ばした。

 

 さっきまで間抜け面で居眠りをして、今尚口端に涎の痕を残している顔を上げたからと言って、ブンシの怒りは全くと言っていいほど治まることはなく、むしろさらに怒りが生まれてしまい、額に青い筋を生み出した。怒りのあまり、はっきりと舌打ちをしてしまう。

 

 この三人は、授業で居眠りをする常習犯だった。時には、犬塚キバが寝ることもあるが、彼の場合はどちらかと言うと授業をサボる比率の方が圧倒的に大きく、今回は眠らなかった、というだけだ。

 

 これまで何度も拳骨をお見舞いしているが、改善しようという様子は全くなかった。

 

 正直、怒りは溢れんばかりだが、こいつらに何を言っても意味がないのではないかという諦観もあったりする。

 

 それでも、教師という立場にいる以上、何も言わないわけにはいかない。

 

 とりあえず煙草を取り出して火を付ける。窓を開けるのも億劫だ。どうせ他の教師は来ないだろう。生徒たちは一斉にハンカチを取り出して口に当てるのが見えた。たちまち、紫煙が教室に漂い始める。嫌そうにこちらを睨むサスケの顔がムカつくが、視線を問題児に向けた。

 

「おい、チョウジ。てめえ、授業前にまたポテチ食っただろ? だから眠くなんだよッ!」

「だって……、お腹空いたから」

「この授業が終わったら昼飯だろうが、ちったぁ我慢しろッ! おいシカマル、そもそもお前は何で寝てんだ?」

「……授業がつまんねえんすよ」

「言葉を選べッ! 面倒くさがってんじゃねえぞおいッ! んでナルト、お前も何で寝てんだ?」

 

 すると、教室の何人かの生徒が、馬鹿にするような視線をナルトに送るのが見えた。ニタニタとした笑みを浮かべながら、ハンカチの奥で息を強く吐き出さないように我慢している。

 

 ―――何だクソガキ共、その目はよ……。ナルトを怒ってんのは、あたしだってのに。

 

 怒りとは別の、苛立ち。

 気に食わなかった。

 ガキの癖に、汚い視線をするんじゃねえと、ブンシは思った。

 

 思い切り、後ろの黒板をぶん殴ると、生徒たちの視線がこちらに集まる。ブンシが一通り視線を巡らせると、先ほどナルトに向けていた厭らしい視線を自分たちの机へと向けた。

 

 煙草の煙を吸う。嗅ぎ慣れた好きな香りだが、一向に心が落ち着かない。真っ赤っかに熱せられた鉄の気分だ。

 

 ナルトが九尾の人柱力だということを、正確に理解している生徒はいないだろう。そんな知識は無いだろうし、大人たちも、そんなことを教えている訳ではない。ただ彼ら彼女らは、大人たちがナルトに向ける視線に含まれる粘着質な意図をぼんやりと理解しながらも、所謂、子供心で真似ているだけ。

 

 心の底で、ナルトを嫌っているやつなんて、この教室の中には誰一人として、いないのだ。

 

 ぼんやりとした、何となくの、悪意。

 唇に貼りつく油のようで、気持ち悪い。この空気感はこれまで、ナルトが居眠りや授業をサボろうとした時に何度か見ている。その度に黒板を殴ったり、教壇を蹴り飛ばしたりしているのだが、誰もこの意図を汲み取ってはくれなかった。

 

 ある意味、居眠り常習犯の三人よりも、性質が悪い。

 長くなった灰を床にあっさりと落とした。

 

「その……悪かったってばよ」

 

 ナルトの小さな声に「あ?」とブンシは眉を顰めた。

 

「なんだ、今日はやけに素直じゃねえか」

「授業は真面目に受けようと思ったんだ。嘘じゃねえってばよ。ただ……」

「ただ、何だよ。あ?」

「ちょっと、修行し過ぎたせいで……」

 

 ほう、とブンシは思った。思わず口笛でも吹いてしまいそうになるほど、感心したのだ。

 

 これまでのナルトだったら、叱られると分かったら、教室から逃げ出そうとしたり、あるいは下手くそな嘘を並べたりするのだが、今回は違った。本当にすまなそうに俯いて、唇を尖らせている。

 

 これまでの自分の【教育】が、本当にようやく実を結び始めたのか、単純にナルトの気分が元々低かったのかは定かではなかったが、悪いことをしたのだと理解してくれただけでも、ブンシの不機嫌は微かに冷却される。

 

 だがかといって、じゃあ「次から気を付けろ」と言って終わらせるというのはあり得ない。そうなったら、他の生徒が、怒られた時はナルトみたいにすればいいのだと思いかねない。

 

 そうではないのだ。

 

 規則や掟を破ったら、何があっても、必ず罰が下される。

 誰であろうと、平等にだ。

 これから下忍、中忍、上忍、あるいは暗部であったり、もしかしたら火影であったり、それらの地位に就くであろう生徒たちには、それを理解させなければいけない。

 

 決められたこと―――ルールは、守らなければいけないということ。

 そして、ルールを守るということの大変さと、その偉大さを。

 

 ブンシは短くなった煙草を拳で握り消した。

 

「どんな理由があろうとだ、お前ら。授業で寝るなと、毎回言ってるよな? 罰として、いつも通り、ぶん殴ってやる。目の前まで来い」

 

 居眠り常習犯三人が嫌そうに口をへの字にした時と、教室のドアが開けられたのはほぼ同時だった。ブンシも含め、教室内の全員がドアを見る。

 

 茶色の髪、鼻の上を経由して一筋の傷痕。うみのイルカはドアから顔を出すと、教室に立ち込める煙草の香りに顔を歪めた。

 

「ブンシ先生! 授業中に煙草を吸わないでくださいッ!」

「うるせえイルカ。後輩があたしに文句垂れてんじゃねえ」

「いや、ですが……」

「あの馬鹿三人があたしの授業を受ける気がねえようだからな、だったらあたしは煙草を吸うだけだ。文句あんのか?」

 

 チョウジ、シカマル、ナルトの三人を指差す。すぐさま状況を理解したのか、イルカは痛そうに片手で頭を抱えた。この三人にはイルカも世話になっていることは、休憩中の職員室などで愚痴として聞いたことがある。しかし彼は、一度として彼らに手を出したことはなく、説教だけしかしない。

 

 わざわざ頭を抱えるくらいなら、二度と問題を起こさないようにぶん殴ればいいのに、と思いながら、尋ねる。

 

「何の用だ?」

 

 基本的に、余程の用事が無ければ教師が他の教師の授業に入ってくることはない。当たり前のことだが、たとえ忍でも、教師というのはあまり危険がない職業だ。緊急性のある用事と言っても、上忍らに比べれば些末なもの。奥さんが陣痛を起こした、というのが、教師らの中では最も緊急性のある事柄になってしまうほどである。

 

 独身であるブンシには子供の誕生というのはあり得ないが、どうせくだらない用事だろう、とは思った。イルカは近づき、耳打ちする。

 

「暗部が、ブンシ先生を呼んでいます」

「……あぁあ?」

 

 不愉快そうにブンシは返す。ええ、とイルカは頷いた。彼の目は冗談ではなく、真剣なものだった。

 

「何でも、緊急の用件だそうです」

 

 少し、考える。暗部が尋ねてくるほどの何かが、自分はしただろうか? と。しかし、特に思い当たらない。教師ほど、平坦な仕事は無いだろう。

 

 気分が悪くなる。

 

 幼い頃の、あの夕焼け空の下に立つ自分が蘇る。

 人生で一番、胸騒ぎがしたあの頃の。

 鼻の奥が熱くなって、どういう訳か、涙が出そうになった時のように。

 

「……分かった。お前、今授業あるか?」

「え? いや……、ない、ですけど……」

「ならお前があたしの授業を引き継げ。面倒だったら自習にしてもいい」

 

 頷くイルカを横目に握りつぶしていた煙草を、灰を落とした床の上に投げ捨てる。

 

「チョウジ! シカマル! ナルト! おめえらはこれを掃除してろッ! この後はイルカが授業を受け持つ」

 

 途端に、生徒全員が喜びの笑みを隠すことなく浮かべた。ひそひそと口開くと「やった、イルカ先生だ」「今日は運が良い」「なんで授業中に煙草吸うんだよ」と各々に好き勝手なことを話し始める。

 青筋を額に浮かべるのには、十分な子供心だった。

 

「イルカだからって舐めた態度とったら、後でぶん殴ってやるから覚悟しとけッ! この、クソガキ共ッ!」

 

 手ぶらに教室を出る時、力一杯にドアを閉めてやった。金具か何かが壊れたような音がしたが、気にせず教員室へと向かう。廊下を歩き、近づくにつれて、どんどんと気分が悪くなる。さっきの生徒たちの言葉もそうだったが、この先に暗部がいるのだと思うと、最悪だ。歩幅も、廊下を叩く音も、大きくなり、煙草を吸いたくなった。

 

 我慢して教員室に着くと、三人の男が立っていた。息を呑む。三人の内、二人は模範的な暗部の姿をしている。背に刀を背負い、面を付けて顔を隠し、手甲を付けている。だが、息を呑んだのは、残り一人の姿を見た時だった。

 大柄の体型をかたどる黒のロングコート。がっちりとした顎と、頭には黒いバンダナ。男は、ブンシが職員室に部屋に入ってきた音を聞くや、振り返る。

 

「久しぶりだな、ブンシ」

「……イビキ」

 

 木ノ葉暗部の拷問・尋問部隊隊長、森乃イビキは、傷だらけの顔で皮肉るような笑みを浮かべた。それに対して、ブンシは彼を睨み付けた。

 

「なんでてめえがここにいんだよ」

「相変わらず口が悪いな、お前は。その調子で生徒たちに授業を教えてるのか?」

「文句あんのか? ガキどもをどんな風に世話しようが、てめえには関係ないだろうが。んなくだらねえこと言いに来たんなら、さっさと帰れ、ハゲ野郎」

「最初から喧嘩腰か」

 

 と、イビキは肩を透かせて見せる。デスクに座る他の教師たちは、書類の整理や授業ノートを書き込みながらも、チラチラと二人に視線を送っていた。

 

 拷問・尋問部隊とアカデミーの教師が、まるで旧友かのように会話をしていることに、不安を覚えたからだろう。それらをイビキは一瞥すると、口端を吊り上げて言ってのける。

 

「まあ、お前らしいといえばお前らしいな。元、拷問・尋問部隊(、、、、、、、)の同僚としては、元気そうで安心した」

 

 教師たちの表情が一変する。驚きと困惑、それらが入り混じった視線で、イビキとブンシの間を右往左往とすると、室内の雰囲気は生温く煩わしい物へと変わっていった。ブンシはそれらの視線を真っ直ぐに受け止め、睨み返す。

 

「んだてめえら。拷問・尋問部隊の奴が教師になっちゃ悪いってのか?」

 

 慌てて彼ら彼女らは視線を下げる。さっきまでの生徒たちと同レベルだ。

 

 相変わらず、嫌らしい立ち回りをする。

 けれど、大きく心を揺さぶられることはない。彼がそういう手法を用いてくるのは知っていたし、別段、自分の過去の経歴を卑下するほど繊細な人格ではない。

 

「訊きたいことがあんだろ? もったいぶらずに言え。こちとら、おめえらの顔見ただけで込み上げてくる吐き気を我慢してんだ」

「どこか、空いてる部屋はあるかな?」

 

 イビキがすぐ近くの女性教師に尋ねると「今なら、生活指導室が空いてます」と震えながらに応えた。ブンシを含め、四人はそこへ向かう。

 

 教師が暗部に連れられて入る部屋が、生活指導室というのは気に食わなかったが、教員室で長く話す方が嫌だったため、素直に付いていく。簡素な部屋には、テーブルが一つとパイプ椅子が二つ、中央に置かれている。ブンシは無言で奥の方に、ドカリと座ると、暗部の忍がさっさと出入り口のカギを、大きく音を立てながら閉めた。

 

 定石だ、とブンシは判断する。カギを閉める音を大きくするのは、アドバンテージがこちらにあるのだと主張することを相手に暗に伝える為の手法だ。拷問・尋問部隊の頃に学んだ、基礎の基礎だった。

 

「……わりいが、煙草吸うぞ?」

 

 対面に座るイビキは不敵に笑いながら、

 

「ご自由に。ここは、アカデミーだからな」

 

 と手のひらを見せてくる。

 

 立ち上がり、後ろにある窓を小さく開け、マッチで煙草に火を付ける。大きく吸い、紫煙を吐き出して、マッチの火を消して外に投げ捨てた。そういえば、灰皿を持ってくるのを忘れた、と無駄に考える。なるべく、心に余裕を持たなければいけないからだ。

 

 久々の、張り詰めた空気。

 

 拷問・尋問部隊にいた頃の、空気だった。

 

 そういえば、あの頃からだろう、煙草を吸い始めたのは。無表情で、捕らえた他里の忍たちの体重を減らす日々。憂さ晴らしと、自分が規則を守る側に立つという優越感を満足に味わえるようにと、手に取った逃げ道が、煙草だった。針で作られた椅子に座る相手と、それを丹念に削り絶命させないように機械的に道具を扱う自分。煙草を吸うようになって頭が馬鹿になったのか、どちらも人間には思えなかった。その頃の自分が、すぐ目の前に亡霊のように立っている。

 

 遠くの方で、生徒たちの声が聞こえる。野外授業をしているのだろう。はしゃぎ方からして、遊び半分の実習と言ったところか。喧しい、とは思わなかった。野外授業なのだ、楽しくて当たり前だ。これで窓ガラスでも割ろうものなら、怒り心頭だが、問題行動をしなければ、それでいい。

 

「……くだらねえ冗談はいらねえ、くだらねえ駆け引きもいらねえ。要件だけ話せ」

 

 再び椅子に座る。身体を横に向けて、右ひじを机に置くと、手で顎を支える姿勢を取った。煙草は咥えたまま、足を組む。

 

「何でも答えてやる。あたしの歯の数からうなじのホクロの数まで、何でもだ」

「いつ結婚するつもりだ?」

「おいハゲ、次またくそつまらねえ冗談言ってみろ? 殺すぞ」

「分かった分かった。なら、本題を話そう」

「さっさとしろ」

「うちはシスイが死んだ」

 

 ブンシは冷静に怒り、顎を支えていた右手を机に振り降ろした。

 鈍く重い音は数秒、室内の空気を震わせ、熱気のような静けさを生み出す。

 黒縁眼鏡の奥の瞳が、隠そうともしない殺気を放ち、無表情のイビキを睨み付ける。

 

「さっきも言ったはずだ、冗談はやめろってよ。そんなに死にてえのか?」

「事実だ。遺体も既に発見されている。今は、暗部で検証を行っているところだ」

「お前、あいつのことあんま知らねえだろ。ちょうどいい、あいつの成績表を見せてやる」

「彼とは何度か話したことがある。ほんの少しだけだったが、実に聡明で快活な子だった。優秀だということは、暗部の者なら誰もが知っている」

「黙れよ、殺すぞ。もう喋んな」

「受け入れられないという気持ちは分かる。お前は優しい奴だ。だが、事実だ。認めてもらえなければ、次の話しに進めない」

「あたしは授業があるんだ。教師だからな。カワイーカワイークソガキ共の為に、授業しなきゃいけねんだよ。だから……さっさとアカデミーから出てけッ!」

 

 煙草が口から落ち、床に着地する。乱暴に踏みにじりながらも、首筋から汗が滲み出てくるのが悔しかった。机を叩いた右手が、遅れて痛みを訴えてくる。冷静になってしまったのだ。

 

 わざわざ、そんなつまらない冗談を言う為に、イビキがここに来るわけがない。

 

 分かってる、そんなことは、分かってる。

 

 それでも、処理しきれないのだ。

 教え子が死んでしまった、という言葉を。

 言葉だからなのか。ただの言葉だから、処理できないのか。

 忍としてアカデミーを卒業しているのだから、任務で命を亡くすというのは十分に覚悟はしていた。だけれど、やはり、難しかった。込み上げてくる涙を、ブンシは俯くことで抑え込んだ。

 

「……本当なのか?」

 

 これ以上、口を動かしてしまうと、涙が零れそうだった。だが、ああ、と返事をするイビキの言葉が目頭を熱する。

 

 そうか、と心の中で、ようやく納得してしまう。

 

『ブンシ先生、お久しぶりです!』

 

 いつだったか、町中でシスイに会った時のことを思い出してしまった。アカデミーを卒業した頃に比べて格段に背を高くし、骨格が大人に近づいた彼の笑顔は、しかし悪戯っぽさを十分に残していた。暗部の恰好をした彼に、ブンシは眉間に皺を寄せる。

 

『なんだおめえ、暗部に入ったのか? ガキの癖に、背伸びしてんじゃねえよ』

『いや、喜んでくださいよ。この年で暗部に認められたんですよ?』

『あたしが認めてねえよ。身の丈に合った任務を選べ』

『でもほら、アカデミーでの成績、良かったじゃないですか』

『あんなもん役に立つわけねえだろうが。紙の字を誇らしくすんじゃなくて、てめえらがやった問題行動を反省しろ』

『相変わらず、手厳しいなあ』

 

 アカデミーの頃は散々ため口を使っていた問題児は、笑いながらも、自然な敬語を使えていた。もうそんなに、時間が経ったのか、と思った。

 

『イタチとフウコ、あとイロミの馬鹿は上手くやってんのか?』

『問題なくって感じですよ。あ、そうだブンシ先生、報告があるんですよ』

『んだ?』

『ここだけの話しですけど、実は俺、フウコと付き合うことになったんですよ』

『ああ、そう。じゃあな』

『ちょっとちょっとッ! 待ってくださいよッ!』

『うっせえなあ、てめえがどこの誰と付き合おうがあたしには関係ねえんだよ。まだ昼飯何食うか考えた方がマシだっての』

『え、教え子の幸せを祝福してくれないんですか?』

『祝ってほしいなら煙草買って来い。小銭ぐらい持ってんだろうが。ほれ、ジャンプしてみろ』

『あんた本当に教師なのか?』

 

 馬鹿みたいに長々と、フウコとどういう経緯で恋人関係になったのか、彼女のどこが好きなのか、挙句に将来は仲人などと、鬱陶しく語られた。ああ、とか、ふーん、とか、ブンシはどうでも良さそうに返事をしていた。

 

 生徒と教師の関係など、アカデミーの中だけだ。ブンシはそう考えていた。どうでも良さそうに振舞った。だが、内心では、喜んでいた。暗部に入ったこと、恋人ができたということ。教え子が無事に健康に成長してくれて、今尚、教師と呼んでくれること。

 

「それで? あたしに、何を訊きたいんだ?」

 

 鼻先を撫でながら、尋ねる。実はな、とイビキは呟いた。

 

「容疑者は、既に確保している。確たる証拠は調査しているが、状況からして、ほぼ間違いないと考えてもいいという人物をだ」

「……ちょっと待て、容疑者だと? 任務で失敗した訳じゃないのか?」

「うちはシスイは、里の内部で、遺体として発見されたと報告を受けている。つまり、殺人事件だ。俺がお前の所に来たのは、お前を尋問しに来たわけではない。依頼をしに来たのだ」

「……拷問しろって訳か」

「察しが良くて助かる。拷問に関しては、今でもお前が木の葉随一だと俺は思っている。お前に、容疑者の自白を頼みたい」

 

 生徒たちの声が遠く聞こえる。代わって、かつての自分が肩を叩いて、のしかかってくる。ブンシは、そのかつての自分を受け入れようとしていた。

 

 よくも、あたしの可愛い生徒を、殺してくれたな。

 

 忍として死んだのなら、まだ納得はできた。だが、ただ殺されたというのは、消化しきれない。その容疑者に与えれる苦痛を与えてやろう、そう思った。

 

「分かった。あたしに任せろ。これから行くんだろ?」

 

 ブンシの頭の中ではプランが出来上がっていた。つまり、どのような手段を使用して、シスイを殺したであろう人物を痛めつけるかという算段だ。情報を聞き出すということは考えていない。ただただ、痛めつける。

 

 だが、イビキは小さく首を横に振ると、後ろに立つ二人に指示を出した。

 

「悪いが、これから少し込み入った話しをする。出て行ってくれないか?」

「それは許されない。今は、時間が無いことは知っているだろう」

 

 片方の男が、平坦に言うと、イビキは男を睨んだ。

 

「今は俺がお前たちの上司だ。指示に従え」

 

 室内には、ブンシとイビキだけになった。ドアが完全に閉まると、イビキは一番の真剣な表情を浮かべながら、上体を乗り出して顔を近づけてくる。

 どういうつもりだ? とブンシは思った。胸の奥では、今や今やと、拷問のことしか考えていない。今更、何を話すつもりなんだと、八つ当たりに近い怒りが込み上げてくる。

 

「……実はな、ここからが本題だ、ブンシ。心して聞いてほしい」

 

 声を潜めるイビキ。まるで、部屋の外で待機しているであろう暗部の二人に聞かれたくないような考えを感じ取る。

 同時に、嫌な予感が。

 

 ―――怒らなくていいんだ、ブンシちゃん。俺が……悪かったんだ。

 

 頭にちらつく、彼の姿。

 白い髪と、優しい声。

 振り返り、儚い笑顔を浮かべる彼に、幼い頃の自分は馬鹿みたいな言葉を投げかけた。

 

 ―――大丈夫だよ先生! ぜってぇあたしが守ってやるから! どんな時だって、あたしは先生の味方だ! だから、安心しなよ!

 

 かつて先生と仰ぎ、そして、初恋の相手。

 

 木の葉の白い牙と謳われた人物だ。

 

「……なんだよ」

 

 声が震えそうになるのを、必死に真っ直ぐに整える。

 

「いいか? ブンシ。うちはシスイを殺したであろう容疑者は―――うちはフウコだ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 後ろで、鉄製の扉が閉められた音が、その狭い室内に響き渡った。直方体の部屋。右手の壁には、マジックミラーが嵌めこまれ、天井に付けられている蛍光灯が粗末に点滅する度に反射して目に痛かった。

 

「……だれ?」

 

 久しぶりの声に、ブンシの記憶は刺激される。平坦で無機質な、綺麗な声。これまで見てきた生徒の中で一番聞き取りやすく、覚えやすい声は無いだろう。アカデミーの頃の彼女の姿が、思い出された。

 

 無表情で、何を考えているか分からない、出来のいい子。それが第一印象だった。けれど本当は、何も知らない子なのだと、印象は後々になって更新された。

 

 頭でっかちで、不器用で、素直で、優秀な子。

 

 けれど、今、目の前に座らされているフウコの姿は、目を覆いたくなる衝動に駆られてしまうほど、惨めなものだった。

 

 両目を覆うマスクと、肩から足先までの動きを縛る拘束衣。まるで、罪人のように、自由を奪われた姿だった。

 

「あたしだ、フウコ」

「……ブンシ、先生ですか?」

「そうだ」

 

 室内にはブンシとフウコだけしかいない。イビキや他の暗部は、マジックミラーの向こう側でこちらの様子を伺っている。ブンシが本当に拷問をやるのかを監視しているのだ。

 

「どうして、先生が、こちらに?」

「おめえを拷問しに来たんだよ。あたしは、これでも元拷問・尋問部隊だったからな」

「ああ……、だから先生の拳骨は、いつも痛かったんですね」

「お前、シスイを殺したのか?」

「殺していません。私は、シスイを愛しています」

「本当のことを言え。あたしはな、フウコ。お前を苦しめたくねえんだ。……昨日、何をしてた? 誰もお前のことを見てねえって聞いたぞ」

 

 フウコの頭を右手で掴む。首に力を入れていないからなのか、重さをあまり感じなかった。チャクラを集中させる。

 

「応えろ、フウコ。今回は、拳骨で済ませねえぞ。お前は、掟を破ったのか?」

「私は―――」

 




 二度目の公言をものの見事に破ってしまいました。申し訳ございません。

 次の話は、前例同様に、五日以内(できれば三日以内)に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

通っていいんですよ/通っても、いいんですよ

 改訂前の部分を引用している部分がございます。


 

 

 

 ブンシがフウコの元へ、拷問しに行ったほぼ同時刻。

 イタチは家の玄関にいた。

 

 午前中は、チームの子たちと演習を行った。任務をしなかったのは、任務の場合では自由に時間を確保できないからだ。演習は午前中だけ、と子供たちに伝えた時は全員不満そうに頬を膨らませたが、どうにか納得してもらった。次に演習をする時は、みたらし団子を用意するようにという条件を付けられたが、まあ、痛くも痒くもない約束事である。

 

 いや正しくは。

 

 痛みも痒みも感じれるほど、余裕がない、と言った方がいいかもしれない。

 

「イタチ」

 

 シューズを履いているとミコトに声をかけられた。家には今、イタチとミコトの二人しかいない。サスケはアカデミーに行っている。平日だから当たり前だ。しかし、フガクが家にいないのは、特別な理由があるからだった。

 

 振り返ると、ミコトはどこか疲れた笑みを浮かべている。両手に持っている包みを差し出された。

 

「これ……フウコに渡せたら、お願い。きっとあの子、お腹空かせてると思うから」

 

 弱々しい声からは、小さな葛藤があることが伺えた。しかし、その葛藤の構成までは、イタチは判断できなかった。フウコを家族から除外する、という意志は既に家族全員の共通となっていた。ミコトの葛藤が、フウコへの家族としての愛情と、フガクの考えに賛同しなければならないという妻としての役割がぶつかっている、ということをイタチは小さく願う。

 

 差し出された包みを受け取る。フウコがアカデミーの頃に使っていた弁当箱だ。

 

「あいつも、きっと喜ぶよ」

 

 笑いながら返すと、ミコトは前髪を小さく掻きあげながら、ようやく歯を見せて笑った。

 

 今日、フウコに会いに行くということを知っているのは、ミコトだけではない。フガクも含めて、昨日の夜に開かれた会合に出席した者は全員、知っている。昨夜の会合で、イタチに課せられた役目だった。

 

 イタチは「いってきます」と呟き、家を出た。

 

 晴れた天気の下のうちはの町は、表面上は普段と変わりない穏やかさを演出しているが、微かな薄暗さが見え隠れする。フウコが暗部に拘留されたという情報は、子供を除いて、誰もが知っているのだろう。薄暗さはつまり、焦りと不安が混ざったものだった。

 

 人とすれ違うたび、瞬間的な視線を、イタチは感じ取った。どれも疑念に満ちたものばかりで、不愉快さはあったが、感情を荒げるほどではなかった。視線に気付いていないフリをしつつ、一定の速度で町を出る。向かう先は、暗部。しかし、暗部の拠点がどこにあるのかは、イタチは知らない。上忍の身分だとしても、火影の懐刀である暗部の活動は殆ど知ることはできないのだ。

 

 故に、まず向かうべき所は、三代目火影・ヒルゼンの執務室だった。彼は、フウコを通じて、うちは一族の行動を知っている。そして、クーデターを阻止しようとする自分たちのこともだ。彼に会えば、フウコに会わせてもらえるだろう。

 

 もっとも、会えるとは考えていない。もしかしたら、今は、火影は別件でいない可能性の方が高かった。

 

『うちはフウコをどうするつもりだ?』

 

 昨日の会合は、終始、彼女を話題にされた。

 うちは一族を統率するフガクの娘である、フウコの行動は、普段は泥の底のような静けさを保っていた彼ら彼女らに困惑の色を滲みださせるには十分だった。皆が皆、これはどういうことなのだ、と追究する。

 

 フガクは一切、彼女の行動について知らなかったと主張した。元々、フウコの人格は奇異だったこと、家族としては接することはできなかったこと、養子であること。躊躇なく、彼は言ってのけた。

 

 強引で無責任な言葉だったが、フウコの人格をある程度知っていたこと、そしてこの時期にフガクの信頼の失墜による一族の空中分解を恐れる集団的な心理のおかげで、それ以上の追究は無く、しばらくした沈黙を経て、先ほどの言葉が囁かれたのだ。

 

『まずは、情報を精査しなければならない』

 

 と、フガクは呟いた。

 

『本当にフウコが、シスイくんを殺したのかを調べなければ、どうすることもできない。フウコがこちら側なのか、それとも火影側なのか判断するのは、それからだ』

『どうするんだ?』

 

 別の誰かが尋ねると、フガクは頷き、応える。

 

『明日、火影と会談できるよう申請を出すつもりだ。できれば、会談そのものを行えるようにしたいのだが、これまでの会談の事を考えれば、明日には無理だろうが……』

『その会談で、うちはフウコの身柄を警務部隊に引き渡すようにするというのか?』

『里での案件は警務部隊が主導となるのが規則だ。いくら、前例のない暗部内におけるものであっても、強くは言えないはずだ』

『……もし、引き渡さない、ということになったらどうするんだ?』

 

 会合場に張り詰めた空気が漂い始める。

 

 うちは一族として、懸命に努めてきた役割を、公然と否定された時、どうなるのか。空気は、その場にいた者たちの思惑を明確に、けれど無言に、フガクと、そしてイタチに訴えかけていた。

 

 瞼を閉じるフガク。そして、彼は決断した。

 

『そうなった時は、我々は木ノ葉と離別する。皆は、いつでも、その事態になった時の覚悟をしていてくれ』

 

 もはや、クーデターは近い。

 

 会合の終わり際に、フガクは全員の前でイタチに指示を出した。

 

『お前は明日、フウコに面会を申し込め。上忍で、兄妹のお前なら、出来るだろう。フウコから情報を引き出すんだ』

『……分かりました』

 

 町を出ると、空気は一変する。飾り気のない、素直な賑やかさは、吸い込む空気すらクリアにしてくれるような気がした。火の匂いも、肉が焦げるもしない。

 

 足を進める。しばらく歩くと、建物が見えてきた。顔岩の下に大きく立つ建造物は、おそらく、木ノ葉の忍で知らない者はいないだろう。出入り口を行き来する人の波に入り、中に入る。上階へ行き、カーブする廊下を進んでいく。

 

 火影の執務室のドアに立ち、ノックすると「入れ」と、重い声が聞こえてきた。その声がヒルゼンのものだというのは、すぐに分かる。ドアを開けた。

 

「……イロミちゃん?」

 

 大量の書類が積まれているデスクの前には、イロミが立っていた。イタチの声に、イロミは長いマフラーを揺らしながら振り返ると、絞りだすように声を出した。

 

「イタチくん……」

「どうして君が、ここに……」

 

 彼女は、顔を逸らしながら呟いた。

 

「フウコちゃんのことで、ヒルゼンさんに話しを聞きに来てるの。昨日、フウコちゃんが暗部に連行されるところ……見たから」

 

 巨大な巻物を背負う彼女の背中は、小さく、震えていた。

 

 昨日、フウコが連行された時に、彼女がいたということは知らなかった。フガクは、知っていたのだろう。ただ、言う必要性がないと、彼は判断したに違いないと、イタチは考えた。そして、イロミが、シスイの死を知っているだろうことも……。

 

「ヒルゼンさん……どうして、私をフウコちゃんに会わせてくれないんですか?」

「……さっき言った通りじゃ」

 

 デスクに腰掛けるヒルゼンは静かに言う。両肘をデスクに乗せ、顔の前で両手を組んだ姿勢のせいで、彼の表情はほとんど見えなかった。

 

「まだ、事情聴取の最中なのじゃ。フウコに情報を与えることは出来ぬ。容疑が晴れるまで、誰にも会わせることは許されないのじゃ」

「私はフウコちゃんがシスイくんを殺しただなんて……信じていません。だから、フウコちゃんに、そもそも変な事を伝えることはしません」

「ワシもそう信じておる。だが、他の者はそう思わん。ましてや、暗部内での案件。慎重を期さねばならないのじゃ。分かってくれ……」

「分かりませんッ!」

 

 イロミはデスクの前まで立ち、力任せにデスクを叩いた。何枚かの書類が音もなく床に落ちるが、誰もそれに視線を送ることはしなかった。

 

「お願いします、フウコちゃんに会わせてください。フウコちゃんと、話しをさせてください」

「できぬ。諦めるのじゃ」

「勝手にフウコちゃんを犯人扱いしておいて……ッ!」

 

 乱暴にイロミは振り返り、真っ直ぐイタチを見た。

 

「ねえ、イタチくん。イタチくんは、何か知ってるの?」

「……いや、何も。俺も、フウコに面会を申し込みに来たんだが」

 

 ちらりと、ヒルゼンを見る。彼は、イタチの思惑を理解しているのだろう。火、と赤く書かれている笠が微かに上下するのを、話しを合わせてほしい、という意図なのだと判断した。

 

「無理みたいだな」

「……イタチくんは、それでいいの? ……家族…………なのに。駄目だって言われて、会うのを諦められるの?」

「イロミちゃん、一度、落ち着くんだ。フウコは大丈夫だ。シスイを手にかけてなんかいない。すぐに、容疑も晴れるはずだ」

「お願い、私の話しを聞いて。きっと、フウコちゃんは困ってる、苦しんでる。容疑が晴れるとか、そういうことじゃないの。ねえ、教えて。うちは一族で、何が起きてるの?」

「……大丈夫、うちは一族は変わってない」

 

 イタチは、イロミが危うい立ち位置にいるということをすぐに察した。

 うちは一族への疑念、それを抱いている。

 しかし、その程度では何の問題は無かった。たとえ、イロミがうちは一族に「何を企んでいるんですか?」と、根拠もなしに問い詰めても、誰一人として真実を語りはしないだろう。

 

 淡々と返したイタチの言葉に、イロミは両手の拳を震わせた。

 

「……もういいよッ!」

 

 微かな水っぽさを含んだ大声。押し退けるようにイタチの横を通ったイロミは、乱暴な足取りで廊下へと姿を消していった。通り過ぎる瞬間、彼女の頬に小さな水滴が通ろうとしていたのが見えた。

 

 胸をちくりと刺す感情のささくれを冷静に処理する。

 

 彼女が培ってきた膨大な努力を過小評価するつもりはない。正しく評価しているからこそ、巻き込みたくはなかった。

 

 開け放たれたままのドアからは静寂が立ち尽くしていたが、すぐさま、鈍い足音と床を叩く無機質な音が聞こえてきた。ダンゾウが無表情ながらも、イロミが歩いていった方向を眺めながら部屋に入ってくると「なるほど」と呟いた。

 

「少々、面倒な状況のようだな、ヒルゼン」

「フウコの友達じゃ、隠し通せることではないことは、十分予想できたことではあるがのう。念の為……あの子を通さないように指示を出してはくれぬか?」

「俺の部下はお前のように甘くはない。俺が許可した者以外は通しはしない」

 

 ヒルゼンは安堵のため息を深く吐くと「さて」と、組んでいた両手を離し、背筋を伸ばしながらイタチに視線を向ける。

 

「お主も、フウコのことで来たのじゃろ?」

「はい」

 

 イタチは頷く。

 

「ですが、その前に確認したいことがあります」

「なんじゃ?」

「うちは側から会談の申請はありましたか?」

「午前の内にの。会談は明日、行われることとなった。夕刻じゃ。フウコの引き渡しについては、既に、ワシらは引き渡すことで合致しておる」

 

 その言葉を聞いて、ひとまずの安心を抱く。少なくとも、決定的な決裂は回避されるだろう。

 

「では、ヒルゼンさん。俺をフウコと、シスイの元に案内してください」

 

 返事は、すぐにはなかった。

 

 ヒルゼンが微かに俯く。笠のせいで、目元が見えなくなった。彼は、右手で白い顎鬚を撫でた。

 

「……イタチ、実はの………」

「何でしょうか?」

「お主に伝えなければならぬことが―――」

「ヒルゼン、それはお前が言うべきことではない」

 

 後ろのダンゾウがピシャリとヒルゼンの言葉……そして、室内の空気にも、割り込んだ。不自然な沈黙に、イタチはダンゾウを見る。無表情を浮かべる彼からは、およそ顔の半分が包帯で隠れているせいもあるが、意図を汲み取ることができない。

 

 ダンゾウは杖で床を叩いて、姿勢を整えた。

 

「ついてこい、案内してやろう」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 先導するダンゾウに付いていく。わざとなのか、元々そういう作りなのか、随分と入り組んだ手順で、廊下を進んだ。頭の中では、何度右を曲がり、何度左に曲がり、何段の階段を下りたのか、完璧に再生できたが、おそらく次に来る時に同じ手順で進んでも、辿り着くことは出来ないだろう。

 

 廊下は徐々に光度を減少させていく。窓は大分前から姿を見ない。材質も、木製から石製になり、空気の温度も低くなった。

 

 歩いている間、一度も二人の間に会話が生まれることはなかった。少なくとも、前を歩くダンゾウの背中からは、拒絶的な雰囲気を感じ取れた。しかし、イタチ自身も、ダンゾウから今回の事態について聞こうとは思っていない。フウコの口から、シスイの口から聞いて、初めて、情報は共有されるのだから。

 

 そこは、牢獄が連なった廊下だった。

 

 仄暗く、廊下の突き当りは見通せない。地獄のように静かで、不気味だった。ダンゾウは、やはり何も言わないまま、奥へと進んでいくのに、ついていく。両横を通り過ぎて行く牢獄には人の影は無いものの、暗闇の奥に隠れるような汚れが、壁や床にこびりついているのが見えた。

 

 イタチは手に持っている弁当箱をちらりと見降ろす。こんな所で、渡しても、きっと美味しくはないだろう。

 

 ようやく見えてくる廊下の奥。見るからに重厚な鉄の扉が佇む。その両脇には、案山子のように生気を感じない二人の暗部が立っていた。

 

 ダンゾウの部下、根の者らだ。

 

「お前らはしばらく、外で待機しろ。誰も通すな」

「「了解」」

 

 機械的な動作で、ダンゾウの後ろに立つイタチに視線を一切送ることなく、二人は姿を消した。ダンゾウが、扉を開ける。中は暗黒。しかし、開けた扉から入ってくる微かな光によって、中央に座るフウコの姿が確認できた。

 

 両眼を覆い隠すマスクと、身体の自由を完全に奪う拘束衣に、イタチは息を呑んだ。

 

「フウコ……」

 

 拘束衣の上には、六つの黒いベルトが回されている。彼女が座る椅子に固定するためだ。眠っていたのか、頭を垂れていたフウコは、声を頼りに顔をイタチに向ける。

 

「……イタチ?」

「ああ、俺だ」

 

 部屋に明かりが点けられた。ドアの横のスイッチを、ダンゾウが押したのだ。天井にぶら下がる電球が、室内を真っ白に染めた。他の牢獄とは異なり、ここだけは壁も床も清潔だった。だから余計に、自由を奪われている彼女の姿が、悲しかった。

 

「ダンゾウさん、すぐにフウコの拘束を解いてくれ」

 

 平坦な声、だったと思う。

 

 イタチは静かに怒っていた。幾ら、周りの者の目を誤魔化す為とはいえ、密室の暗闇で自由を奪うのは、やりすぎだと思ったからだ。

 

「暗部には、うちは一族と通じている者がいる。万が一に備える必要がある」

「今は、俺とあんただけだ」

「いいの、イタチ。私は、大丈夫」

 

 平坦で、それでも、綺麗な声質。

 どういう訳か、とても、懐かしい感じがした。

 

「それに、拘束衣とマスクは、取り外しが手間取るから」

「……分かった」

「うちは一族は、どうなってるの?」

「かつてないほど不安定だ。誰もが、お前を疑っている」

 

 それは、言葉のニュアンスのほとんどを濁したものだった。うちは一族では、もう、フウコはフガクの子として認めてもらっていない。クーデターを阻止できた暁には、シスイの別天神の力によって、その事実は無くなっているだろうと思い、伝えなかった。

 

「どれくらい持ちそう?」

「明日、木の葉とうちはの間で会談が行われる。お前を警務部隊に引き渡すかどうか、という会談だ。木の葉は、お前を引き渡すつもりでいる。そうなれば、しばらくは大丈夫だろう」

「そう」

 

 室内が、数瞬、沈黙。

 そこでイタチは気付く。フウコの姿を見た驚きで手放しそうになっていた考えを、イタチは口にした。

 

「フウコ、シスイはどこにいる。何故、シスイが死んだという情報を流した」

 

 牢獄はそこまで広くなく、物はフウコが座っている椅子くらいだ。しかし、シスイの姿はどこにもない。

 フウコが、顎を下げた。

 悲しそうに、苦しそうに。

 

「……ごめん」

 

 その言葉だけで、イタチの知性は、状況を理解できてしまった。

 だがそれでも、感情が受け止めきれず、イタチは無意識に首を振っていた。

 

「俺は……怒っていない」

「何に、怒っていないの?」

「シスイが死んだ、という情報で暗部を動かしたことにだ」

「嘘を、付かないで。隠し事は、しないで。イタチなら、分かってるはず」

「シスイはどこだ。あいつは、どこにいる」

「……もう…………シスイは……いないの」

「…………何があった」

 

 自分の声なのに、声は震えてしまっていた。

 悲しんでいるのか、苦しんでいるのか、怒っているのか、自分の感情の判断も覚束ない。瞼を強く閉じて、大きく呼吸する。まだ手に持っている弁当箱が、カタカタと揺れた。

 

「ねえ、イタチ」

 

 フウコの声は、不思議と、淡々としていた。

 

「うちはマダラが生きてるって言ったら、信じる?」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 イロミは家に帰っても、フウコが連行されていく姿が頭から離れることはなかった。印を結ばせないように両手を覆う包帯と鎖、写輪眼を使わせないために付けられた目を覆うマスク。

 

 まるで、罪人のような扱いだった。

 

 けれどフウコ自身は、それらに異議を唱えることなく、むしろそれが当たり前なのだというように従い、両腕を拘束する鎖に引っ張られるまま連行された。遠ざかる背中に、言葉を投げかけることは出来なかった。

 

 フウコが、彼女が、どんな言葉をも、受け付けないような気がしたからだ。

 

 イロミは涙を拭い、フガクやミコトに尋ねた。何があったのか、どうしてこんなことになったのか、と。二人は口々に、こういったのだ。

 

うちは一族は何も変わっていない(、、、、、、、、、、、、、、、)

 

 まるで壁に話しかけると返ってくる反響音のようだった。他の顔馴染の人に聞いても、同じような文言が返ってくる。

 

 薄気味悪い、異常さが鼻に付く。

 

 けれど、これ以上うちはの町で聞いても、意味がないとイロミは判断した。町を出る時には、もう西の空は紅かった。

 

 涙が出てしまうほどに、憎たらしい空だ。重い感情は、身体を疲れさせて、足取りを粘っこくさせる。一歩一歩、家に向かう足取りが、疲れた。

 

 シスイが死んだ。

 フウコが彼を殺した。

 あの夜に出会った初めての友達(、、、、、、)が、実はフウコだった。

 

 衝撃的な情報のせいで、イロミのメンタルは摩耗され尽くされていた。どれか一つでも考えようとすると、鼻の奥が熱くなって、泣き叫んでしまいそうな予感が頭の隅にあり、町を出てからイロミは無心に自分の家に向かった。家に着く頃には、東の端は暗くなっていた。

 

 部屋の灯りを点ける。何度か瞬いてから、部屋が明るくなった。狭い台所、その横にかけられた安っぽいカレンダーが目に止まった。今日の日付が、赤い線で丸く囲われている。

 

「……ああ、そうか…………今日…………」

 

 今日は、お金を渡す日だった。朝からずっと、窓の鍵から始まって、すっかり忘れてしまっていた。イロミは箪笥の中の奥の方に隠していた、中身の分厚い封筒を懐に入れて、再び家を出た。

 

 向かう先は、かつての自分の家だったところ。そう、あの男が住む……元・孤児院だった。懐に入れた封筒は、彼に渡す生活費である。孤児院が経営的に破綻し、育ての親としての養育費の権利もイロミが中忍になったことによって無くなった彼だったが、経済能力はほとんど成長することなく、今でも、イロミの収入を糧にして生きている。月に一度、彼に貯金しておいた金銭を渡す日、それが今日だったのだ。

 

 ちらほらと、電灯に光が点き始める。眩しいとすら微かに思ってしまうほどの道を、しかしイロミはテンポを崩すことなく進んでいく。彼女にとって、汗水を賭して貯めた金銭を渡すのに、躊躇も、ネガティブな義務感も、何もなかった。

 

『イロリちゃんが、そんなことする必要なんて……ないと思う』

 

 脈絡もなく、彼女の言葉が思い浮かぶ。

 

 中忍になったばかりで、懐に入れていた封筒を、道のど真ん中ですっころんだ拍子に中身をばら撒いてしまった時に、たまたま近くにいた彼女にバレてしまった時のことだった。

 

 彼女は無表情だったけど、平坦な声の向こう側には隠しきれていない怒気が込められている事には気付いていた。

 

『あはは……。でも、私が決めたことだから。それにほら、私ってさ、倹約上手なところあると思うし』

『ううん、イロリちゃんはそこまで上手じゃないよ』

『え、本当? ど、どこが!?』

『あんな男にお金渡しても、勿体無いよ』

 

 勿体無い。

 そうだろうか?

 自分がやりたくて、そうしていることだ。物理的に無意味かもしれないけれど、自分自身にとっては価値のあることだと思っている。

 

 彼女も、そうだったのだろうか?

 

 フウコ。

 

 彼女も、何か、価値があるものを見つけて、そうしたのだろうか?

 何か別の価値観が生まれて、シスイを殺したのだろうか。

 

 フウコが恋人のシスイを殺したとは、今でも思えない。うちは一族の男三人を前にした彼女と、暗部に連れていかれた彼女。前後で、連続していなかった。どのような会話が、男三人との間でされていたのかは想像できなかったが、シスイに関することだろう。それも、良くない話題に違いない。

 

 なら、暗部に容疑をかけられた時にも、怒りを露わにしなければならないのに、彼女からは一片の怒りが感じ取られなかった。

 

 どうしてだろう。しかし、そこまで考えて、鼻の奥で涙の匂いがしてきて、思考を停止させた。彼女は絶対に間違い犯さない、そういう思考の逃げ道を作って、歩を進める。

 

 太陽が沈み、月すら夜空に浮かばない、湖の底のような夜。人も里も町も、眠りについて、彼女の足元を照らすのは街灯の重い光だけ。その光は蛍の光のように、間隔を置いて足元を照らし、そして暗闇になり、また街灯の光に……。頭の上から注がれる灰色の光は、汚かった。

 

 家の前に到着する。

 

 昔のあの頃から変わらない、いや、建物の骨格はなるほど変わってはいないが、外装は古臭い石造りの壁にはカビのように這い広がっている蔦にほとんどを覆われ、屋根は埃なのか何なのか、本来の色を失っている。

 

 壁を切り取ったようにある、幾つかの四角い窓からは、内側の光が一切に溢れていなかった。周りにも街灯がまるでないせいで、廃墟のそのものだった。

 しかし、これはいつものこと。毎月顔を出しに行っているイロミにとってはいつもの光景だ。違和感はない。

 

 静かに、呼び鈴を鳴らした。

 

 ジリリ、という虫が錆びた鳴き声を出した時のような呼び鈴音が、暗闇に溶けていった。施設からは、反応がなかった。

 

 泥のように疲れた頭を惰性に傾けた。

 

 ―――………………あれ……?

 

 いつもなら、すぐに反応がある。それが怒鳴り声なのかダルイ声なのかは、彼の気分次第なのだが、どちらにしても、彼は居留守をすることはなかった。金を持ってきた自分を無視することなんてなかった。

 

 もう一度、呼び鈴を鳴らした。

 

 しかし、しばらくしても、物音一つ聞こえてこない。

 寝ているのだろうか。ドアを押してみると、ギィと音を立てて開いた。鍵がかかっていないのは、これまた、いつものことだ。

 

「あの……イロミです……いらっしゃいますか…………?」

 

 何でも吸い込むような闇が、廊下の上を漂い、声を飲み込んでいく。反応はない。中に入って後ろ手に入り口を閉めると、気のせいか、足元に冷たい空気が漂い始めたような気がした。

 

 あまり良い予感がしない。この家で良いことなんて起きないのだけど、それとはまた違った寒気である。

 

 ギャシィ。

 ギィヤシィ。

 

 バカみたいな音が床から軋み聞こえる。

 中忍であるイロミは、夜の任務の時でも十分に動けるように、夜目の訓練は受けている。足元に転がるゴミやら汚れなどを避けながら奥に進んでいく。

 

 広間と廊下を隔てるドアを開ける。

 

 

 そこに、彼はいた。

 

 

 まるで城を築くかのように、積まれ並べられたゴミの山が、部屋の中央に座る椅子を囲んでいた。彼は椅子に座って、こちらに後頭部を見せている。

 

「……あの―――」

 

 そう、声をかけた時だった。

 反応を全く示そうとしない彼から、聞こえてこないことに気が付いた。

 

 息の音、呼吸の音。

 

 聞こえない。

 

 背中から頭の天辺まで冷たい空気がひゅうと通り抜けた。同時に、お腹の中から熱いものがこみ上げて、それが首筋に伝道して顔にゆっくりと脂汗を浮かばせた。

 

 慌てて、彼の前に立った。

 

 静止。

 顔を覗き込む必要もなかった。

 彼の顔は、体ごと椅子の背もたれに預けているせいで、天井を見上げていた。

 いや。

 

 もはや、見上げることさえ、していなかった。

 

 

「……今まで、ありがとうございました」

 

 

 驚きはしなかった。

 来るべき時が、来ただけ。

 

 兆候は見えていた。

 

 不摂生な生活。怠惰な生き方。

 才能を探している最中のイロミは、様々な知識を拙く身に着ける道中で、医療忍術というものもやはり、知識として身に着けていた。かつて三忍と呼ばれ、忍界大戦の際には新たなチームの提案をし多大な貢献を示した【綱手姫】に比べれば、それは海底と空ほどの距離と輝かしさの差はあれど、そんな彼女でも、彼の命がもう長くないことを察することができるほど、彼が患った病は深く濃かった。

 

 何度か、治療をするべきだと言ったこともあった。

 そのたびに彼は

 

 ―――ガキが俺に意見すんのかぁあ?!

 ―――テメエはただ金を持ってくりゃあいいんだッ!

 ―――今までテメエを育てたのは、誰だ、ぁあ? 言ってみろッ!

 

 そう言って、相も変わらない暴言と暴力を浴びせてきた。

 

 

 死んでしまえばいい。

 

 

 子供の頃、何度も思った。

 こんな奴に、育てられたくて、ここにいるわけじゃない。

 好きでこんな時代に生まれて、好きで独りになったわけじゃない。

 

 望んで、眼を失ったわけじゃない。

 

 殴られるたび、蹴られるたび、血を流すたび……そう、思った。

 

「結局、何も、恩返しが……出来なかったな……」

 

 涙なんて、こぼれるはずもなく……しかし、イロミの言葉にはどこか、憂いと悲しみ……そしてほんの少しだけ、喜びがあった。

 喜びは、この男が、今こうして、まるで捨てられた猫のようにしていること。

 憂いは……この男に、恩返しができなかったこと。

 悲しみは……この男から、結局は、本心を教えてもらえなかったこと。

 

 イロミはゆっくりと、頭を下げた。

 

「……今まで、何だかんだ言って…………私を育ててくれて……ありがとうございます……」

 

 長い前髪が、ダラリと、額から離れて、床と垂直になるように垂れる。感謝の気持ちを込めて閉じた瞼。

 

 そこには、大きな火傷の跡。その跡は瞼から上の額まで、大きく残っていた。

 

「私に……眼を与えてくれて……ありがとうございました…………」

 

 彼の遺体は、イロミが自分の手で、家の裏に埋めた。彼が木ノ葉の里の忍ではないことは知っていた。だが、かといって、彼の生まれ里である、雲隠れの里に送り返すことは出来なかった。大戦が終わった今、しかし雲隠れの里は、まるで戦争の準備をするかのように、様々な忍術の収集、開発などを行っている。その活動が果たして、密かに戦争に備えるためのものなのか、それとも戦争を起こさせないための示威のものなのか。

 

 どちらにしろ、他里で、少なからず、軍事兵器である忍の子供を養っていた行動をしていたことを、雲隠れの里は許しはしないだろう。

 

 ましてや、本人も、里へは戻りたくない、と何度もぼやいていた。それが本心であることは、皮肉にもずっと傍にいたイロミがよく知っていた。

 

 だから、この里に埋めたのだ。

 

 もし万が一、彼の遺体を引き取りたいと申し出た人がいた場合を考慮して、遺体が腐らないように封印術を使用して、箱に詰めて。

 

 涙は流さなかったが、気分は沈んでいた。どうして自分がそんな気分なのか、分からなかった。

 

 その後は施設を掃除して、捨てるもの、家に持って帰るものを分けて、ついでに施設にいた子たちの住所を分かる限りメモをして、彼が死んだことを伝えようと思い立った。

 

 掃除をして、すっからかんになった施設を後ろ目に見て、そこを発った。後ろ髪をひかれるなんてことは、なかった。

 

 ―――恩を仇で返すんじゃねえ。

 

 最後に、そんな言葉が頭の中で再生された。

 よくいつも言われた、言葉。

 彼が言ったこの言葉の意味は、邪気を孕んで耳障りこの上なかった。

 けど、言葉そのものの意味だけは、好きだった。

 

 恩を返さないといけない。

 

 こんな自分に、あんな楽しい日々を与えてくれた、フウコに。

 

「しっかりと、恩返しはします。あなたが、教えてくれた、唯一の教訓ですから」

 

 友達だから。

 

 そんな理由だけで、他人を受け入れることができる、ある意味で頭が足りない、ある意味で……純粋な彼女。

 

 そんな彼女が、恋人であるシスイを殺すなんてことは、ありえない。

 

 困ってる。

 

 暗部に連行される彼女の背中。

 その背中は、今思えば、苦しそうだったように思える。

 助けないと、いけない。

 

 いつも困っていた自分を助けてくれた彼女に、恩を返す時が、来たのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ―――家に帰ったイロミは、布団に入って、眠った。その先には、懐かしい夢が待っていてくれた―――。

 

 どうしていつも、前髪を垂らしているの?

 

 フウコが中忍になって、未だアカデミーで底辺の成績を貫いていた自分に、彼女はそう尋ねた。

 

「前、しっかり見えてる? 見えてないから、私の動きを予測できないんじゃない?」

 

 彼女に任務がない日、演習がない日。そんな日に、修行を付けてくれるように、イロミはフウコにお願いしていた。大抵は演習所で、こうして会話をする時は、修業が終わりを迎えた時だった。

 

 あの時は、一度、フウコと忍術勝負をしたのだった。

 

 ただ普通に勝負しても勝てないため、忍術使用禁止、写輪眼の使用禁止、両足で立つの禁止、左手使うの禁止、忍具使用の禁止などなど……。かなりなハンデを背負ってくれた。しかし、結局はイロミが負けてしまったのだ。

 

 フウコからしたら、なぜこんなハンデを与えても、一発もまともに術や体術をぶつけることが出来ないのか不思議に思ったのだろう。真っ先に目についたのが、イロミの長い前髪だった。

 

 イロミは悔しそうに涙声で言った。

 

「違うよぉ……フウコちゃんが凄すぎるんだってぇ」

「イタチなら、きっと勝てたと思うけど」

「イタチ君と私を一緒にしないで!」

 

 フウコは小さくため息をつくと、勝負に負けて尻餅をついたままのイロミに近づいて、顔を近づけた。

 

「私の顔、しっかり見える?」

「見えるよ。当たり前だよぉ」

「前髪あげるね」

「えっ!? ま、待って! やめてっ!」

 

 強引に前髪を上げようとするフウコの腕を掴んで抵抗するが、そんな抵抗も空しく、あっさりと前髪をあげられてしまった。

 

 火傷の跡が、初めて、友人の前に晒されてしまった。

 

 そして、左右、人見の色の違う眼も。

 

「うわぁあああああッ!」

 

 あまりのショックに、尻餅をつきながらも後ろにバックするという荒業を披露して見せた。フウコもこれまで自分がしたことのなかった動きに、面をくらってしまった。

 

「み、見た?」

「凄い動きだったね」

「額のこれ……見た?」

「うん。それって、火傷の跡?」

 

 イロミは、顔を真っ青にしながら頷いた。

 

 見られてしまった。

 

 これまで一度も―――施設に一緒にいた子と施設の主以外には―――見せたことがなかった、火傷の跡。

 

 引かれた……絶対に、引かれた。

 

 自分の顔にあるそれが、他人には拒絶的に受け入れられてしまうことは知っていた。だから、前髪を伸ばして、分からないようにしていた。いくら、変わった感性を持っているフウコでも、この跡を見たら、嫌われるかもしれない。

 いや、確実に、嫌われた。

 

 怖くて、フウコの顔が見れなかった。思い切り走って逃げたい。そんな切実な思いは、修行の疲れで笑ってしまっている膝がそうさせてくれない。

 

「イロリちゃん? 大丈夫? 顔、青いよ?」

「ご、ごめんね……、フウコちゃん。こんな、気持ちの悪い痕があって。」

「どうしたの? イロリちゃん、泣かないで」

「触っても……、病気みたいに、移らないから……えっと、ご、……ぐずっ…………ごべんね、ふうごぢゃん。変な、臭いとか、じないげど…………、ごれがらは、ぞの………、ぢがぐに、よっだり……うぅ………じない、がら…………」

 

 でも、嫌わないで。

 私、本当に、フウコちゃんが、大好きなの。

 どんくさくて、今は、何もできないけど。

 いつか、絶対、フウコちゃんの、役に立つから。

 

 頭の中に浮かんでは沈む、悲鳴にも似た懇願。それを口にしようとするが、その言葉がどれほど卑しく、火傷の跡よりも気持ちの悪いものなのか、子供なイロミでも直感的に理解していた。涙をボロボロと零す体が痙攣して、喉を挙動させて苦しくさせる。そんな状態で出てくる言葉は、自分を自虐する言葉。

 

 気持ち悪いよね。

 ごめんね。

 もっと、前髪、長くするから。

 ごめんね。

 こんなので……ごめんね。

 ごめん、なさい……。

 

 

「……誰に、やられたの?」

 

 

 ―――え?

 

「その傷、誰にやられたの? 教えて」

 

 イロミは、顔を上げた。

 怒った顔。

 いつも、自分が誰かに苛められると、見せる、顔。

 

「許せない。もしかして、あいつ? あいつが、こんな、酷いことをしたの?」

 

 どうして、言ってくれなかったの。

 やっぱりあいつ、痛い目にあわせないと。

 安心して、イロリちゃん。

 私が、敵を討ってあげる。

 大丈夫だよ。

 待っててね。

 

 予想していた怖い言葉でもなく、願望していた嬉しい言葉でもなかった。

 けれどそれは、自分がよく知っている友達の、友達らしい言葉だった。

 

「ど、ど……どうし……て?」

「なに?」

「気持ち悪い……とか、……嫌いになったりとか…………」

「ないよ」

「どうして……?」

 

 さっきまで浮かべていた怒りの表情がゆっくりと無くなって、変わりに、やはりいつも通りの、不思議そうな表情を浮かべた。

 

「友達だからだよ?」

 

 フウコは言った。

 

「えーっと、私……なんか、変なこと……言った? おかしかった?」

 

 変なことだった。

 そんな返事が来るなんて、思ってもいなかったから。

 思ってもいなかったから、目が痛くなって、苦しくなった。

 さっきよりも、さらに泣き始める自分に、フウコは戸惑いの表情を微かに浮かべて、そして、どういうわけか、頭を撫でてきた。

 

 どうしようもないくらいに泣いた。

 

 

 

「覚えていないんだけど……この痕って、戦争の時に付いたものみたい。私を拾った忍の人が言ってたみたいなの。火傷の痕なんだって。その時に、眼が潰れちゃったみたいなんだけど、あの人が、私に眼をくれたの。だから、私はあの人に、恩返ししたいなって、思って、あの家にいるの」

「生まれて、すぐ?」

「うん。戦争で」

 

 演習場の、どこにでもある木に背を預けて、二人は並んで座っていた。

 

「その時に、お父さんとお母さんが死んじゃったみたいで、顔も覚えていないの。……だから、この跡は、あの人が付けたものじゃないの」

 

 言葉の裏を返せば、火傷の跡以外の傷は、彼につけられたと言っているようなものだったが、フウコはそのことに気が付きながらも、前髪を片手で抑えながら喋るイロミを見つめていた。

 

「フウコちゃんは、あの人が、嫌いみたいだけど……」

「好きな人っているの? あんな奴、死んだほうがいい」

「あ……はは、フウコちゃん、はっきり言うね」

「どうしてイロリちゃんは、あんな奴のところにいるの? 絶対に変。もし行く当てがないんだったら――」

「ううん、そうじゃないの。私は、好きで、あそこにいるの」

「……なんで?」

「さっきも言ったけど、恩返しをしたいから」

 

 平然と、イロミは呟いた。

 

「あの家に入れられた最初はずっと、何も見えなかったの」

「………………」

「これが普通なんだって、思ってた。でも、一緒にいた家の子が、綺麗とか、暗くて怖いとか、そういうのを言ってて、ああ、私は違うんだって分かったの」

 

 生まれて間もなく、眼を失ってからはっきりとした自我を持ち始めたイロミにとって、視覚で捉えることができることの表現は自分が獲得することができないものだった。

 いくらどういうものか、と説明を求めても、全員が口を揃えていう言葉は、見れば分からない? だった。色を説明することは、誰にもできない。

 

「家ではずっと私が最後。ご飯の時も、寝る時も、お風呂に入る時も。ノロマで、よくあの人に怒られるの」

「イロリちゃんのせいじゃないよ」

「それで、しばらくしたら、あの人に部屋に来いって呼び出されたの」

 

 おぃガキ、ちょっと来い。

 お前だ、お前。

 気色のワリィ髪の色してる、お前だ。

 

「その時に、あの人に……眼をもらったの」

 

 そこらに転がってた奴らのだ。

 うろうろすんじゃねえぞ。

 今度、俺の生活の邪魔したら、殺すからな。

 

 酷く打算的な発言。優しさなんて、本当に感じられない言葉だったことを、覚えている。

 

 イロリちゃんの為じゃないよ、と鋭く呟いたフウコに、イロミは頷いた。

 

「私も、そう思う」

 

 だけど、

 

「初めて見た色が、すごく、綺麗だったの」

 

 埃まみれの彼の、狭い部屋。

 汚いと、誰もが思うだろうその部屋を、初めて見たイロミにとっては、そんな言葉を思い浮かぶこともなく、むしろ逆の言葉を言ったのだ。

 

 綺麗だ、と。

 自然と、施設にいた子たちが言っていた言葉を。

 

 埃が、窓の外から入ってくる光を乱反射して、輝いていた。

 

「別に、それであの人を許したり、尊敬したりとか、思ってないけど……。それでも、どういう理由があっても、私に眼をくれたことには、感謝してるの。だから、あの人には、恩返しをしないといけないんだ」

「そんなの……する必要ないと、思うよ?」

 

 けれどイロミは、頭をゆるゆると、横に振った。

 これまで、駄々のような否定ではなく、確かな意志を以てのもの。

 

「だって、これのおかげで、フウコちゃんの顔が見えるんだもん。それぐらいのことはしないと」

 

 それに、イタチ君やシスイ君の顔も、見えるからね。

 

 イロミは本心をはっきりと語った。あの家に残っている理由。いつも辛い日々を過ごしていても、あの人間を見離さない理由。

 決して美談と呼べる程ではない、まるで呪いのような理由だった。

 

 実のところ、フウコには、彼女の考えを理解するのが苦しかった。

 

 感謝と恨みを天秤にかけることができるほど、心の中での次元は同じじゃないが、少なくとも人を判断するのは総合的なものがほとんどだ。

 ほぼ毎日、暴力を受けているであろう彼女の、その判断が分からない。その感情がそのまま、無表情という顔になって表れていた。

 

 フウコが、小さくため息をする。

 

「……でも、髪の毛は切ったほうがいいと思うよ?」

 

 考えておくね。

 イロミは笑って、そう言った。

 

 ―――そんな、懐かしい夢を見た―――

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 午前中はずっと眠ってしまっていた。

 

 心の疲れと、心地よい夢を見ていたせいだろう。昼頃に目を覚ましたイロミは昼食を食べないまま支度を済ませて、普段の姿で家を飛び出した。火影であり、書類上では父という関係である、猿飛ヒルゼンに会いに。

 

 建物に入り、真っ先に火影の執務室へ向かった。

 

「―――火影様、滝隠れの里、及び七尾の人柱力の件について、岩隠れの里と雲隠れの里が不満を持っているようです」

 

 ドアの前に立ち、今まさにノックをしようとした時だった。ドアの向こう側から、男の人の声が聞こえてきた。どうやら、ヒルゼンは中にいるようで、彼の声も聞こえてきた。

 

「仕方あるまい。どのような事情があるにせよ、里と人柱力を吸収するのだ。緊張が生まれるのは、当然のことじゃ」

「しかし、滝隠れの里の忍たちの総意による合意です。そのことは、他里にも既に伝えていることなのに……」

「滝隠れの里を襲撃した者の中には、大蛇丸がいたのじゃ。木ノ葉が意図的に行ったのではないか、と思われているかもしれぬな。それにじゃ、滝隠れの里の者たちの総意ではあるが、彼らには選択肢は限られておる。完全な総意ではない」

 

 何の話しをしているのだろうか。しかし、イロミにとっては関係のない話しであることには変わりなく、彼女はノックをして「失礼します」と言った。途端に中の会話は途切れ「イロミか?」とヒルゼンが尋ねてきたのを合図に、ドアを開けた。中には一人の男と、デスクに座るヒルゼンがいた。

 

「……では、火影様、私は失礼します」

 

 男は頭を下げると、イロミの横を通り抜けて部屋を出た。後ろでドアが閉まる音が聞こえると、ヒルゼンはイロミを見て柔らかな笑みを浮かべた。

 

「久しぶりじゃの、イロミ」

「お久しぶりです、ヒルゼンさん」

 

 書類上、イロミはヒルゼンの娘ということになっているものの、一度として父と仰いだことはなかった。歳が離れすぎているせいもあるが、やはり血の繋がっていない彼を父と仰ぐことに若干の傲慢さを感じている部分が大きい。ヒルゼンも、それを悟ってか、嫌がる素振りも見せず、優しく頷いてみせた。

 

「最近はどうじゃ? 中忍の任務には慣れたかの?」

「ヒルゼンさん、お願いがあります」

「なんじゃ? できることなら、何でも力を貸そう」

「フウコちゃんに会わせてください」

 

 ヒルゼンの表情が固まる。

 

「暗部に拘留されているはずです。お願いします、会わせてください」

 




 次話は今月以内に行いたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

狼が来ると、皆が言う

 それは出来ぬと、ヒルゼンの歯切れのいい言葉にイロミは愕然とした。

 

 両肘を、書類がたんまり乗っかっているデスクに彼は乗せる。顔の前で手を組み、目線だけしか見えなくなった。

 

「フウコは容疑者じゃ。まだ、会わせることはできん」

 

 続けられる言葉を上手く呑み込めない。

 

 容疑者だから、会わせることができない。

 そんな事務的な言葉が聞かされるとは思っていなかったからだ。ヒルゼンは、イロミとフウコの関係については理解している。密接な友人関係なのだと、分かっているのに、彼女に会いたいと願った末に返ってきた言葉が、無機質な定型文。

 

 愕然とした意識は、次には怒りを生み出していた。

 

 その時だった。

 後ろのドアが開き、彼の声が聞こえてきたのは。

 

「……イロミちゃん?」

 

 イタチの声には、驚きの色がはっきりと映りこんでいた。怒りを抑えながら、振り返る。

 

「イタチくん……」

「どうして君が、ここに……」

 

 困惑の色を浮かべるイタチに、抑え込んでいた怒りをぶつけてしまいそうで、イロミは顔を逸らした。

 

「フウコちゃんのことで、ヒルゼンさんに話しを聞きに来てるの。昨日、フウコちゃんが暗部に連行されるところ……見たから」

 

 言葉に出してしまうと、どうしても、あの時の場面が呼び起され、感情を逆撫でされる。のみならず、彼の反応も一因となっていた。自分がその場にいたことは、彼の父親であるフガクから聞いているはずなのに。

 

 彼も、他のうちはの者のように、あの異常な演技をしているのだろうか。

 

 いや、彼はそんな人物じゃない。きっと、フガクから教えられていないのだろう。イロミは、そう結論付け、ヒルゼンに尋ねた。

 

「ヒルゼンさん……どうして、私をフウコちゃんに会わせてくれないんですか?」

「……さっき言った通りじゃ。まだ、事情聴取の最中なのじゃ。彼女に情報を与えることは出来ぬ。容疑が晴れるまで、誰にも会わせることは許されない」

 

 また、事務的返事。怒りがより濃厚になる。

 もう限界に近い。もし、次にまた似たような返しがあったら、爆発してしまうとイロミは予期しながら、必死に声を制御した。

 

「私はフウコちゃんがシスイくんを殺しただなんて……信じていません。だから、フウコちゃんに、そもそも変な事を伝えることはしません」

「ワシもそう信じておる。だが、他の者はそう思わん。ましてや、暗部内での案件。慎重を期さねばならないのじゃ。分かってくれ……」

「分かりませんッ!」

 

 イロミはデスクの前に立ち、思い切りデスクを叩いた。

 熱くなってしまう頭を心臓がもっと高温にしようとしているのか、首を大量な血液が通り抜けていく。

 

「お願いします、フウコちゃんに会わせてください。フウコちゃんと、話しをさせてください」

「できぬ。諦めるのじゃ」

 

 諦める?

 出来る訳がない。

 自分は彼女の友達だ。

 なら、助けないといけない。

 

 それを、諦めろと言われる。

 しかも、彼女を連れていった暗部を動かせる人物に。

 

「勝手にフウコちゃんを犯人扱いしておいて……ッ!」

 

 デスクにある書類の山を叩き落としたい短絡的な衝動が肩を撫でる。けれど、たとえそんなことをしても、ヒルゼンは決して首を縦に振らないだろうということは、あっけなく理解できてしまった。

 イロミは振り返り、イタチを見る。

 

「ねえ、イタチくん。イタチくんは、何か知ってるの?」

 

 きっと彼なら、何か知っているはずだ。そして力になってくれるはず。不当な扱いを受けるフウコを助けたいと、彼だって――。

 

「……いや、何も」

 

 ―――え?

 

 その時の、彼の表情は、うちはの者たちと同じ性質を持っていたように、思えてしまった。

 

「俺も、フウコに面会を申し込みに来たのだが。無理みたいだな」

 

 あっさりと、無理だと判断するその声も、全く同じだった。

 

「……イタチくんは、それでいいの? ……家族…………なのに。駄目だって言われて、会うのを諦められるの?」

「イロミちゃん、一度、落ち着くんだ。フウコは大丈夫だ。シスイを手にかけてなんかいない。すぐに、容疑も晴れるはずだ」

「お願い、私の話しを聞いて。きっと、フウコちゃんは困ってる、苦しんでる。容疑が晴れるとか、そういうことじゃないの。ねえ、教えて。うちは一族で、何が起きてるの?」

 

 半ば、縋るように。

 半ば、祈るように。

 イロミは尋ねた。

 彼だけは、どうか、嘘を付かないでほしい。

 冷静で、知的で、優しく、優秀な彼なら、きっと、家族である彼女を助けようとするに違いない。だから―――。

 

「……大丈夫。うちは一族は変わってない」

 

 全く、同じだった。

 気のせいではないと、イロミは苦しく、確信した。

 彼も、他のうちは一族の者と変わらない。

 何かを隠している。

 

 いや、もう、うちは一族だけではないかもしれない。

 自分の知っている人たち全員が、隠し事をしている。

 大切な友達を、遠ざけるように。

 

「……もういいよッ!」

 

 感情任せに喉を震わせた。決壊し流れ出る涙が完全に顎から零れ落ちて床に跡を残す前に、イロミは大股で部屋を出た。カーブする廊下の真ん中を、ドタドタと、感情を発散させるように歩く。

 

 頭がガンガンと痛くて、涙が止まらない。階下に下りて人の目が増え始めた廊下を歩いても、むしろ逆に、涙の量が増えた。

 

 友達なのに、何一つ、力になることができない。そう自覚してしまうと、自分が惨めで、情けなくて、また涙が頬から零れた。

 

 目元を拭う。涙を流す彼女を、通り過ぎる人が不思議そうに眺めていることに、イロミは雑な苛立ちをぶつけてやりたかった。

 泣いてるのが、そんなに珍しいのかと。

 見ているなら、少しは手を貸せと。

 だけど、イロミは言わなかった。ただでさえ情けない自分が、そんな言葉を言ってしまったらいよいよ、大間抜けだ。

 

 建物を出る前に、イロミは大きく目元を拭い、鼻を啜った。

 頭の中を切り替える。

 泣いてる、暇なんてないのだ。

 

 次に向かう場所は、決めていた。

 うちは一族が住む町。そして、フウコとイタチが住む家。昼ご飯時である今なら、どちらかはいるはずだ、と考えていた。うちはフガク、あるいはうちはミコトが。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「うちはマダラが、シスイを殺したの」

 

 おそらく、うちは一族で、その人物の名前を知らない者はほとんどいないだろう。彼の名はもはや、伝説の一項目として語られてしまうほどの影響力を持っている。木の葉隠れの里の創始者である千手柱間と壮絶な争いを繰り広げたことは、木の葉に限らず、他里の者でも知っていることだ。

 

 しかし、伝説はあくまで、伝説。

 

 つまりは過去のことで、マダラが柱間の手によって殺されたことも、既に語られていることだ。

 

 もし今の状況でなければ、間違いなく疑いを以て、妹を見ていただろう。フウコは淀みなく、淡々と続けた。

 

「彼はずっと、木の葉に復讐をしようとしてた。九尾の事件からずっと。暗部に入った頃、彼にマーキングしてから、しばらくは何もしてこなかったけど、最近になって………急に」

「……事実なのか?」

「事実だ」

 

 応えたのは、ドアの前に佇むダンゾウだった。イタチが見ると、彼は瞼を細くした。

 

「九尾の事件は自然発生による災害だと公表されているが、そもそも、そのような事はありえん。九尾は、四代目火影・波風ミナトの妻、クシナが人柱力として封印していたからだ。クシナから封印を剥がさなければ、九尾は出現せぬ」

「だが、それだけでマダラだという確証はあったのか?」

「当時クシナの周りは暗部、そしてミナトが護衛をしていた。それらをかいくぐり、九尾の封印を剥がせる程のスキル、さらには九尾を解放してメリットを得る者と考えた場合、マダラしかおらん。写輪眼を使用していた、という目撃情報も暗部から確認されている。当時でも、マダラだという情報の確度は強かった」

「なら何故……いや」

 

 マダラの存在を公表して対策を打たなかったのか、と尋ねようとしたが、すぐさま考えに至ったイタチは言葉を止めた。

 

 たとえマダラが生きていた事実を、事件後に広めても、木の葉に得はない。他里がマダラの思想に乗っかって戦争を仕掛けることは大いに考えられる。ましてや、うちは一族が、その当時から既にクーデターを画策していたのだとしたら、マダラの名の影響力は計り知れない。自分たちがクーデターを阻止しようと考える前に、クーデターは実行されていた可能性すら十分にあり得たのだ。

 

 イタチは考えを切り替え、フウコを見た。

 

「これからどうするつもりだ、フウコ」

 

 シスイが死んだ。

 

 感情的にはまだ受け入れられていない事実ではあるが、思考としては理解した。同時に、クーデター阻止の計画が、半ば決定的な欠落をしてしまったことも。

 

 クーデターを完全に、そして無血に解決させる為には、彼の万華鏡写輪眼の力、別天神が必要不可欠だった。それを彼と共に失ってしまった今、もはや無血の解決は、出来ないだろう。

 

 どうするつもりだ、と尋ねたのは、力を行使しての解決をするのか、それとも他の策があるのか、という意味を多分に含んでいた。

 

「クーデターまで、どれくらい、時間を稼げる?」

「分からない。だが、二日は確実に持つはずだ」

「計画は、問題なく続けるつもり。まだ手はある。……シスイの眼を使って」

 

 フウコは続けた。

 

「どうにか、シスイの眼だけは守ることができた。その眼を今、動物に移植してる。あとは、私の写輪眼を合図に万華鏡写輪眼を発現できるようにするだけ。それさえ出来れば、問題ない」

「可能なのか?」

「出来るようにする」

「幻術はどうする。十五夜之都のことだ」

「質で抑えることができないと思うから、暗部に手を貸してもらう。多少、計画に変更はあるかもしれないけど、本質は変わらない」

 

 そこで一度、フウコは言葉を切って、深呼吸してから言った。

 

「私は、シスイの意志を無駄にしたくない」

「…………ダンゾウさん、少しだけ席を外してくれないか?」

 

 後ろで、ダンゾウが杖で小さく床を叩いた。

 

「フウコと、話しをさせてくれ」

「……いいだろう」

 

 ドアが開き、重々しく閉まる音が、無音の室内にしぶとく響き渡った。

 

 床に膝を付き、持っていた弁当箱を静かに床に置いて、俯き気味のフウコの顔を見上げる。目を覆い隠すマスクのせいで、彼女の目は見えない。彼女の部分は、ほとんど見えていない。拘束衣とマスク。けれどイタチは、それでも尚、彼女が悲しんでいることを、感じ取っていた。

 

 長く、微かにウェーブがかかった黒髪を指先で避けながら、優しく彼女の頬を撫でた。

 

「フウコ」

「なに?」

「大丈夫だ、怖いことなんて、何もない。安心しろ」

「……ごめん、イタチ。シスイを…………守れなかった……」

 

 フウコは声を出しながら、唇を震わせた。下顎を抑えるように一度、彼女は唇を噛んで、続けた。

 

「きっと……私を…………恨んでる……」

「あいつは、そんな小さな奴じゃない。お前のことが大好きだったからな」

「シスイだけじゃない……、フガクさんや、ミコトさんも、私のことを………裏切り者だって……」

「クーデターを阻止すると決めた時に、それは覚悟してただろう」

「そういう意味じゃ、ないの……。ううん、ごめん…………、そう、だね……」

 

 本来、計画通りに進んでいれば、フウコに恨みの視線が向けられることはなかった。別天神が成功するということは、恨まれることも、なかったのだ。しかし今、彼女は、うちは一族の視線に怯えている。

 幼い頃から優秀だった彼女が、おそらく初めて体験するだろう、視線。

 

 守らなければ、いけないのに。

 

 イタチは笑顔を浮かべる。目を塞がれている彼女には見えないが、伝わっているはずだ。

 

 どうして彼女が、容疑者として暗部に拘留されたのか、イタチは理解した。

 

 もしシスイが殺されたという情報だけが、うちは一族に伝わった場合、彼ら彼女らの疑念は木ノ葉の上層部に向けられるはずだ。突発的なクーデターが起きることも考えられる。

 

 しかし、フウコが容疑者として連行されれば、うちは一族にはストップがかかる。フウコの実力が、うちは一族にとってクーデターの確実な成功への自信となっているからだ。

 

 黒なのか白なのか、そこに明確な結論が出されなければ、うちは一族は動けないとフウコは判断し、行動したのだろう。その判断は賢明で、うちは一族の動きは彼女の予想通りに停滞してしまっている。

 

 どうしていつも、自分は遅いのか。

 

 フウコよりも。

 シスイよりも。

 

「マダラのことは、任せろ」

「駄目。お願いイタチ、無理をしないで」

「分かってる、まずはうちは一族が優先だ。ただ、お前がまだ動けない以上、マダラからの妨害はありえる。そうなった時は、大丈夫だ、俺が木の葉を守る」

 

 恐れなどない。むしろ、目の前にマダラが現れたら、怒りを抑えるのが大変かもしれないとさえ思っている。今でさえ、炎のように背中を焦がす怒りがあった。

 それでもイタチは笑みを浮かべ続け、妹の頬を安心させるように撫でる。

 

 シスイは言った。

 

 いつでも冷静でいてほしいと。

 頼りにしていると。

 

「他に、何か俺にしてほしいことはあるか?」

「明日の夜……会談が終わった後、おそらくうちは一族は会合をすると思う。それが終わったら、またここに来て。状況を教えて」

「分かった。他には?」

「無理はしないで。お願い。イタチまでいなくなったら、苦しいから。いつでも大丈夫なように、準備はしてて」

「泣くな、フウコ。俺がいる。……母上が作ってくれた弁当を、ここに置いておく。食べてくれ」

「……ありがとう…………、イタチ……。また、明日ね」

「ああ。おやすみ」

 

 立ち上がって、部屋を出た。最後に一度、彼女を振り返る。拘束衣で縛られた肩が、息苦しそうに、小さく上下していた。俯いて微かに見える下唇を、彼女は噛んでいた。後ろ髪を引かれる思いに駆られるが、ここにいるよりも、緻密にうちは一族の動向を観察し、正確に状況を判断することこそが、彼女の為になるだろうと判断し、重い扉を閉めた。

 

 部屋を出てすぐ横に立っていたダンゾウを一瞥する。

 薄暗く、彼の表情はあまり見えなかったが、イタチは小さく頭を下げた。

 

「フウコを、よろしくお願いします」

「……ああ、任せろ。俺は、お前たち二人(、、、、、、)を信じている」

 

 暗闇の奥で不敵な笑みを浮かべていたことを知らないまま、イタチは、姿を現した二人の暗部に導かれるまま、外に出た。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 イタチがダンゾウの先導でフウコの元へ案内されている頃、イロミはうちはの町にいた。もうすっかり、涙は収まりセンチメンタルな感情のブレは無くなっているものの、気分が明るいという訳ではもちろんない。空は晴れ、相変わらず天気は良いものの、うちはの町の門を潜って広がる街並みに違和感を抱いたのは、彼女の心情の影響がほとんどだった。

 

 当たり前のように人が行き交い、店先で作られた井戸端会議をする光景は、あまりにも日常。幼い頃から、フウコやイタチ、シスイたちと一緒に何度も通って見てきた。楽しくて朗らかで―――だからこそ、違和感が付きまとう。

 

 フウコが暗部に拘留されたことは、同族意識の強いうちは一族の間には広がっていることは間違いないのに、何も変化が訪れていない。

 

 イタチと出会った時に予想できていたことだが、実際に体感してみると、嫌だった。俯きながら早歩きに進む。もはや、目を瞑ってでも辿り着くことができるであろう、フウコとイタチの家に赴いた。

 

 玄関の前に立つ。

 

 大きく、深呼吸。緊張を和らげてから、呼び鈴を鳴らすと、後ろから視線を感じた。振り返ると、歩いていた幾人かのうちはの者たちがこちらを見ている。イロミと視線が重なると、不機嫌そうに彼らは視線を逸らした。

 

 呼び鈴の残響が吸い込まれて、しばらく、無音が続いた。

 誰もいないのだろうか? そんな思考が思い浮かんだ時に、戸は静かに開いた。戸を開けたのは、ミコトだった。

 

「あら、イロミちゃん。こんにちは」

 

 さも当たり前のように笑顔を浮かべたミコトだったが、イロミは見逃さなかった。戸を開け、視線が重なった瞬間、ミコトが息を呑み込もうとしたのを。つまりは、驚いだのだ。

 

 その驚きをすぐさま隠し、笑顔を浮かべ、いつも通りの挨拶をしたのは、どういう意図があるのか。

 

「こんにちは、ミコトさん」

「今日は、どうしたのかしら?」

「フガクさんはいますか?」

 

 今度ははっきりと、ミコトは表情を固めた。大きく見開いた瞼の奥にある瞳からは、どうしてイロミがここに来たのか、理解したようだった。

 

 そして、ミコトが浮かべた表情は、一転して、暗く冷たいものとなった。気怠そうに腕を組み、片方の足に体重を乗せるように身体を傾けた。

 

「あの人に、何を訊きたいのかしら?」

 

 声は冷酷で、重い。拒絶的で小さな殺意が伴っているような気がして、イロミは固唾を呑み込んだ。

 

「……フガクさんは、いるんですか?」

「今は仕事で、家にはいないの。ごめんなさい」

「いつ、帰ってくるんですか? お願いします。フガクさんから、話しを聞きたいんです」

「どんな話しかしら?」

「うちは一族は、何を考えているんですか?」

「…………フウコのことを聞きたいなら、言うことは何もないわ」

「それは、どういう意味ですか?」

「私はね? イロミちゃん。貴方とはずっと、仲良くしていたいの。お願い。あの子の名前は言わないで」

 

 見るからに、ミコトの様子は、これまでの者たちとは明らかに異なっていた。フウコの存在を無視する演技ではなく、フウコが鬱陶しいとでも本心から思っているようだった。

 

 演技ではなく、自分が求めていた、うちは一族の現実の片鱗が彼女から得られるかもしれない。イロミはそう思いながらも、反面で、怖さも感じていた。知りたくもない情報が、耳に届くのではないかと。

 

 そしてそれは、ミコトの口からあっさりと発せられた。

 

「もうあの子は、私の子じゃないの」

 

 本当に。

 本当にその言葉は。

 やれやれと言った感じの、投げやりなもので。

 だからこそイロミは、彼女の言葉を理解するのに、数秒の時間を要してしまった。その間、完全に呼吸は止まってしまい、ようやく吐き出した息は、細く、震えていた。

 

 ミコトが前髪を掻き上げながら、呟く。

 

「元々、血は繋がっていなかったから」

 

 フウコが、本当のイタチの兄妹ではないということは、知っていた。自分が下忍の頃に、ひょんなことから、フウコから聞いたからだ。

 しかし、かといって、彼女への評価も、彼女の兄であるイタチや両親であるフガクやミコトへの評価も、変わることはなかった。自分も、血の繋がっていない家族がいたからだ。むしろ当時は、微かに、羨ましいと思ってさえいた。

 

 フウコとイタチを見ても、本当の家族のように見えたから。

 フウコと、フガクやミコトを見ても、本当の家族のようだと思っていたから。

 

 他の家族よりも、家族だ、とイロミは思った。言葉としては曖昧だが、つまりは、血の繋がりという付加価値を基準にしない、純粋で強固な力強さがあったのだ。

 

 これからもずっと、彼ら彼女らの家族という繋がりは、何を前にしても崩れないだろうと、確信していた。

 

「だから、お願い。もう、私の前であの子の名前は言わないで」

 

 ボロボロと、音を立てて剥がれ落ちていく。自分の記憶が、自分の感情が。ミコトの後ろにある、親友の家さえも、剥がれて崩れ落ちようとしているような錯覚に陥った。何度も何度も、親友と一緒に通った玄関が、今まさに、崩れ落ちようとした。

 

『フウコちゃん、待ってよー!』

 

 自分の横を、小さな自分が通り抜けた。

 情けない声と今にも泣きそうな表情を浮かべるその自分は、前を駆け抜ける、同じく小さな親友を追いかけていた。

 

『かくれんぼなのに、家に隠れて良いの?』

『範囲は、うちはの町だから。とにかく、イロリちゃんは、屋根裏に隠れて。私は床下に隠れる。あとは、影分身で誤魔化すから。イタチは鋭いから、なるべく呼吸は浅くして』

『えぇえ? やだよぉ。屋根裏って、暗いし、埃っぽいよ。他の所じゃ駄目なの?』

『勝ちたい。勝てば、お菓子を買ってもらえるから』

『あ、待ってよ。フウコちゃん!』

 

 その小さな思い出たちは、崩れようとする玄関の奥に広がる暗闇に呑み込まれていった。同時に、玄関は崩れ、まるで、思い出が叩き壊されたような気分だった。

 

「……取り消してください」

「え?」

「今の言葉……フウコちゃんが、家族じゃないっていう言葉、取り消してください」

 

 怒りの感情と共に、イロミはミコトを睨み付けた。

 

 家族じゃないと言ったのは、フウコが暗部に拘留されたから。原因は、それしか考えられなかった。だが、彼女がシスイを殺すなんてことは、絶対にありえないと信じているイロミにとって、不当な容疑者というレッテルだけで、家族の繋がりをあっさりと切り捨てるミコトが、許せなかった。

 

 ……ふと、イタチのことが頭に思い浮かんだ。

 

 彼も、ミコトと同じようなことを考えていたのだろうか?

 

「フウコちゃんの容疑が解かれた時、フウコちゃんは、じゃあ、どこに帰ればいいんですか? お願いします、今の言葉、取り消してください!」

「……もう、帰って」

 

 ミコトは踵を返しながら呟いた。

 

「ねえ、イロミちゃん。……何があっても…………、貴方は、あの子の友達でいてくれる?」

 

 玄関の戸に手を当てながら呟いたミコトのその言葉は、イロミにはあまりにも皮肉なように聞こえて仕様がなかった。拳が震え、肩が震え、怒りに揺れる長いマフラーの上のイロミの顔は、奥歯を強く噛みしめていた。

 

 当たり前だ、とイロミは心の中で叫ぶ。

 フウコはこれまで、ずっと友達でいてくれていた。

 情けなく泣き叫んでも、どんなにゆっくり成長しても。

 彼女はずっと、手を差し伸べ、言葉で導いてくれたんだ。

 なら、自分もそうしなければならない。自分も、そうしたい。

 

 友達だから。

 

 そのたった一言の言葉の美しさと力強さを、知っているから。

 

「私は、フウコちゃんの友達でいつづけます。ずっと、何があってもです」

「どうして?」

「友達だからです」

 

 ミコトは小さく頷いてから、無言で玄関を閉めた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「イタチ……フウコはどうだった?」

 

 フガクのその言葉が響いたのは、会合場だった。

 

 おそらくは、今日初めて、まともな言葉だっただろう。朝からフガクとは、フウコ引き渡しの申請を彼が行いに行っていたせいで顔すら見かけることはなく、昼にはフウコに会いに行き、家に帰り、夕食頃に帰ってきたフガクと顔を会わせても特に会話はなかった。おかえり、という言葉をイタチが投げかけて、ああ、とフガクが返した、その程度の挨拶だけ。

 

 そして、今日初めて家族―――フウコはいないが―――全員が顔を会わせた夕食では、誰も言葉を発することはしなかった。

 

 原因は、サスケにあった。

 フウコのいない、欠けた家族の食卓。普段最も話すサスケだったが、その異常な状況を前に、日常的な行動をする事への拒絶を、俯き頬を膨らませ、露骨な不機嫌さを出すことによって主張したのだ。フガクはそれを見て、子供の取るに足らない抵抗だと判断したのか、それとも何かを言って明確に反発されることが面倒だと思ったのか、無言を貫いた。

 イタチもミコトも、何も話すことはなく、夕食は灰色のような無意味な時間を過ごしたのだ。

 

 会合。つまり、夜中。

 

 話し合うことは既に、誰もが分かりきっていた事だろう。人が集まり、一時の沈黙を経てフガクがイタチに尋ねたのは、フウコのこと。

 

 フウコはどうだった。

 

 その言葉には、フウコへの配慮は一切無かった。

 ただ、フウコが黒なのか白なのか、自分本位な意志しかない。フガクの言葉に、会合場にいた全ての者は、ギラギラとさせた視線を一斉にイタチへと集めた。

 

 イタチは軽く彼ら彼女らを見渡す。全員が求めているだろう、都合の良いことを判断しようとしたのだ。しかし、すぐに判断することは出来なかった。送られる視線の束。それらは隅から隅まで、矛盾を孕んでいた。

 

 フウコが、うちは一族の側であるかもしれないという期待の色が見える一方で、木の葉の側であるのなら念願のクーデターを実行することができるかもしれないという幼稚な興奮。それらが混ざり合い、けれど当人たちは一切自覚していないようで、だからこそ、ギラギラとした視線の重心が分からなかった。

 

 イタチは一度、息を小さく吸い込み、応える。

 

「フウコは今回の件について、全く身に覚えがないと言っていました」

 

 小さく会合場全体に息が漏れた。どういう感情が込められているのか、分からない。イタチは続けた。

 

「俺が見た限りでは、フウコが木ノ葉と繋がっているというようには思えません。シスイの死についても、嘆いていました」

「だが、それは君の主観に過ぎないのだろう?」

 

 一人の男が呟いた。

 

「うちはフウコには不自然な点が見受けられる。例えば、一昨日、彼女の姿を見たという者は、うちはの中には誰もいない」

「一昨日は、急遽、極秘任務が入ったとフウコは言っていました。どのような任務だったのか、それは教えられませんでしたが、単独の任務だったようです。里にはいなかったと」

「他に、彼女が、確実に我々の側だと判断できるものはないのか?」

 

 まるで子供のようだ、とイタチは思った。誕生日プレゼントが本当に自分の望んだものをくれるのかと、何度も親に尋ねる子供。

 

 確たる証拠など、ある訳がない。暗部の任務に対する機密性は、構造的に強固なものだ。そんなことは、フウコを見て来いと、昨日の会合で指示が出された時点で分かっていたはずだ。兄妹であるイタチなら説得力のある判断が出来るのではないかと、思っていたのではないのか。

 

 言葉以外で、微かにも信用されないというのなら、たとえ、任務記録を持ってきたとしても、誰も信じはしないだろう。

 

 イタチは冷静に返す。

 

「もし今回の件が、木ノ葉による暗躍だというのなら、あまりにも手段が乱暴です。フウコが内通者なのだとしたら、他に手段があったと思います。シスイを殺す理由はありません」

「ではなぜ、うちはフウコは容疑者として拘留されているのだ。辻褄が合わないだろう」

 

 また別の男が、声を挙げた。

 

「うちはフウコが極秘任務に出向いていたのであるならば、暗部は承知のはず。容疑者として名が挙がることは不自然ではないか」

「フウコに会った後で、火影とダンゾウに会いました」

 

 微かに、会合場の空気に緊張が走った。

 

「二人から事情を聞いた限り、今回の件は暗部内でも情報に齟齬が発生しているそうです。フウコが行った極秘任務は、火影から直々に命じられたもの。その事実を知っていた者は、ダンゾウを除いて暗部内でも誰もいなかったようです。任務の性質上、フウコが容疑者となったとしても、事実を暗部に伝えることはせず、容疑者として拘留し、その後、解放する算段だったそうです」

 

 そこでイタチは、フガクを見た。

 彼は腕を組み、じっとイタチを見ていた。

 

「明日、会談が決定したようですね」

「ああ。明日の夕刻にな」

「火影から直々に言われました。今回の件で、うちは一族に不名誉なことをしてしまったと、申し訳ないと、伝えてほしいと。既に、フウコを警務部隊に明け渡す算段だそうです。最終的には、警務部隊でフウコの無実を証明し、釈放してほしいと」

 

 ギラギラとした全員の視線に、安堵の色が滲み始めた。

 最後にイタチは締めくくる。

 

「木の葉の上層部は、まだうちはの動きに感づいてはいないようです」

 

 会合場に気楽な息が零れ始めた。

 さっきまでは、言葉だけでは信用しなかったのに、都合の良い嘘を並べ立てるだけで、瞬く間に信じてしまう。ただただ、呆れるばかりだった。視線はイタチから、フガクに移動する。

 

 その後、会合はスムーズに進んだ。どんなものでも、密度が薄ければ、スムーズに動いてしまうものだ。そこからの会話を、イタチは確かに聞いてはいたのだが、聞いて言葉の意味を理解した端から忘却していった。中身がほとんどなくても、いやむしろほとんど中身がないからこそ、苛立つのだろう。少しでも冷静さを蓄える為に、自動的に思考がそうしたのだ。

 

 耳障りなくだらない話し合い。それを遠目に、イタチの意識は、時間を逆行する。目の前に広がる光景は、自分と、シスイと、フウコの三人が、顔岩の上から眺める、木の葉隠れの里。夕焼けに染まる西日は、暖かく、里を照らしていた。

 

『俺たちはきっと、灰色の世代なんだろうな。黒と白の、ちょうど中間だ』

 

 シスイは、小さく肩を透かせながら、そよ風に乗せて言葉を呟いた。

 

『戦争が終わって、ようやく里に平和が来たと思ったら、九尾が暴れたり、うちは一族がクーデターを考えたり。嫌なことばっかりだ』

 

 でもさ、

 

『きっと、仕方のないことなんだろうな。戦争が終わって、皆が平等に不幸になった訳じゃないんだ。少ししか不幸にならなかった人もいれば、多く不幸になった人もいる。俺たちがアカデミーの頃に満喫してた平和は、その差が見えなかったから楽しめた、曖昧なやつだった。多分、突き詰めていけば、誰も悪くないんだろうな』

『シスイは、優しいね』

 

 フウコの呟きに、シスイは笑いながら振り返った。彼の顔は、西日の影になって見えづらかったが、快活に笑っていることは容易に想像できた。

 

『俺たちが、止めないとな。戦争の酷さも知ってて、平和な時間も知ってる、俺たちがさ』

 

 どうしてその情景の前に、自分の意識が向かったのか、分からない。シスイのその言葉を最後に、意識が浮上すると、会合は終わりに近づいていた。どうやら、明日の火影との会談で赴く人材を選抜しているようだ。その中に、イタチの名が挙がったが、彼自身は特に興味は無かった。誰が赴こうと、既に結果が目に見えているからだ。

 

 その後、会合は終わった。何がどう作用したのか、会合場にフガクとイタチだけを残したそこは、不可思議な安堵感が小さく残留している。

 

「父上」

 

 とイタチはフガクに尋ねた。

 

「クーデターのことだけど、サスケはどうするつもりですか?」

 

 ふと、思ったことだった。

 

 なるべく、サスケには真実を知らせないまま、クーデターを阻止したい。サスケが胸に抱く、うちは一族への憧れと誇りを穢すことは、したくなかったからだ。

 

「いずれ、伝えることになるだろう。だが、まだサスケは幼い。言葉で伝えたところで、全てを理解することは出来ない。クーデターには参加させず、全てが終わってから、伝えようと思っている」

「……サスケは、納得するでしょうか?」

「さあな。サスケは、お前と違って感情が豊かだからな。……しかし、うちはの家紋を背負う以上は、納得してもらわなければならない」

 

 とりあえずは、安心する。クーデターは必ず阻止するのだから、サスケの耳に真実が伝わることはないだろう。

 

 フガクと共に会合場を出た。

 誰もいない、寝静まった町を進む。

 

「イタチ」

 

 少し前を歩くフガクの声は、静かだった。

 

「お前は、俺の息子だ。期待している」

 

 もうすぐで、灰色の世界は、真っ白に変えられる。

 

 その期待感と、浮足立たないようにと冷静になろうとする慎重。フウコが戻ってくるまで、何か出来ることはないかと、頭の中で考えながら、イタチは丁寧に、そして無関心に返事をしたのだった。

 

 薄い月明かりが照らす町の中を、里の中を、イタチは進む。

 

 

 

 そして、イタチが、理想の為に歩むのに対して。

 

 

 

 願望の為に、準備をする者がいた。

 イロミ。

 彼女は、同時刻に、自室の床一面に巻物を広げて見下ろしていた。

 いつもなら既に、彼女は眠っている時間帯である。しかし彼女は、背の低いテーブルに置いてある濃口の緑茶を口に含みながら、忍び寄ってくる眠気を振り払いながら、巻物に書かれている夥しい量の【封】という文字の配置を頭の中に叩きこんでいた。

 

 巻物には、様々なものが封印されている。

 未だ、自分の才能を見つけられないままでいたイロミが、多くの知識と経験によって構築された、スタイル。忍具、薬、液体、とにかく戦闘に利用できるものを全て封印したのが、イロミが普段背負った巻物だった。

 

 巻物に書かれている、軽く千を超える封印は、イロミのチャクラ量あるいは、チャクラコントロールに呼応して解放されるようになっている。それは、巻物を開いて使用するのみならず、【窓】と書かれた部分から出現させることも可能だったが、その際には、どこにどの封印がされているか、どのような封印式を使っていてどんな風にチャクラを操作すれば自分の思った通りのモノを取り出すことができるのか、それらを頭の中に畳み込みチェックしなければいけない。そのチェックは、三刻程の時間を要する。

 

 そう。

 

 才能を見出せていない彼女は、才能を見出せている者よりも、多くの準備をしなければいけない。限られた戦闘の時間で差を埋めることができないのならば、自由に時間を確保できる前準備で差を埋めなければならないのだ。

 

 それが、イロミのスタイル。

 努力をしなければ人並みになることができないと自覚している、正しい戦略だった。

 

 ―――絶対に、任務を成功させる。

 

 次々と封印の位置を確認し、パズルのように頭の中で当て嵌めていくイロミには、小さな決意があった。彼女が、巻物の中身を確認する。それは、任務があるということを意味していた。

 

 フウコの家を離れた後、イロミは、とある人物に会った。

 彼は、イロミが住むアパートの前に佇み、精神的に重くなった足取りで帰ってきたイロミに、声をかけたのだ。

 

『猿飛イロミだな?』

『……貴方は、誰ですか?』

『フウコの上司と言えば分かるだろう』

 

 ダンゾウの言葉に、沈み切ったイロミの心に浮力が生まれた。イロミは、ダンゾウという人物の名前も顔も知らなかったが、しかし、副忍と呼ばれているフウコの上司というのは、火影か、暗部を管理しているトップのどちらかしかいない。ヒルゼンではないということは、つまり、暗部のトップということだ。

 

 心の中に、淡い期待が生まれ始める。

 

 もしかしたら、フウコのことについて何か教えてくれるのではないか。あるいは、フウコに会わせてくれるのではないか。そんな、ご都合な想像。

 

 もう他に、頼れる人物がいなかった。

 ヒルゼンも、イタチも、今だけは、信頼できなかった。

 

 そんな心情の中で、予想外の人物の登場に、イロミは無根拠な希望を抱くしか出来なかった。

 

『お願いします、フウコちゃんに会わせてください。フウコちゃんは、シスイくんを殺してなんかいないんです。絶対、そんなこと、するはずないんです』

 

 声が震える。

 親友に会えるかもしれないという期待と、やはり会えないのかもしれないという不安。

 縋るような声質に、ダンゾウは無機質にイロミを見下ろした。

 

『俺も、フウコがあのような愚かな事をするなどとは思っていない。あいつは暗部には必要な人材だ』

『じゃあ、どうして容疑者として拘留したんですか……』

『シスイの遺体が発見された前日、フウコを見た者がいないからだ。シスイの実力も考慮すれば、フウコが容疑者として浮上するのは必然だった。暗部内での殺人は、前例がない。微かな容疑があれば、拘留する他なかった』

『……私に、何の用があるんですか?』

『フウコに会わせてやろう』

『……ッ! 本当ですか!』

『フウコを拘留したが、あやつは何一つとして語らない。あやつの友であるお前なら、フウコから言葉を引き出してくれないかと思っている。……ただし、条件がある』

『…………何ですか?』

『お前に、単独任務を行ってもらう』

 

 彼が述べた、単独任務。それは、滝隠れの里の様子を見てほしい、というものだった。

 

 近々、同盟関係にあった滝隠れの里は、木の葉隠れの里に吸収されることになったらしい。どうしてそのような事態になったのか、詳細をダンゾウは語らなかったが、滝隠れの里は忍里として機能することができないほどの致命的な襲撃を受けた、とだけ伝えられた。ふと、火影の執務室の前で聞こえてきた会話を思い出す。

 

【仕方あるまい。どのような事情があるにせよ、里と人柱力を吸収するのだ。緊張が生まれるのは、当然のことじゃ】

【しかし、滝隠れの里の忍たちの総意による合意です。そのことは、他里にも既に伝えていることなのに……】

【滝隠れの里を襲撃した者の中には、大蛇丸がいたのじゃ。木の葉が意図的に行ったのではないか、と思われているかもしれぬな。それにじゃ、滝隠れの里の者たちの総意ではあるが、彼らには選択肢は限られておる。完全な総意ではない】

 

 どうやら、ダンゾウの言葉は嘘ではないのだろうと、イロミは判断した。

 

 ダンゾウは言う。この吸収には、危険があると。

 

『表向きは、吸収は互いの合意となっているが、滝隠れの里の者の全てが認めたことではないだろう。必ず、幾人かは不満を持っている。不測の事態が、考えられる』

『……それは、仕方のないことだと思います。ですけど、たった数人だったら、その、わざわざ様子を見る必要なんて…………』

『問題なのは、滝隠れの里を吸収するということに、不満を持っている里が幾つかあることだ』

 

 ダンゾウは杖で小さく地面を叩くと、鋭くイロミを見た。

 

『滝隠れの里の、幾人かの者を唆し、木の葉に混乱を起こし、その隙に攻め入るということが考えられるのだ。そうなった場合、多くの者が命を落とす。それだけは避けねばならない』

『……どうして、私なんですか?』

 

 イロミは尋ねる。

 

『私は、中忍です。努力して、ようやくの、中忍なんです。そんな重要な任務を、どうして、暗部でしないんですか?』

『難しい任務ではない。既に滝隠れの里には内通者が送られている。その者から情報を貰い、運ぶ、それだけの任務だ。暗部は動かん』

『どうしてですか?』

『本来、俺は暗部を管理するだけの立場だ。暗部を動かそうと思えば動かせるが、数に限りがある。ましてや、火影は今、不用意に暗部を動かさないようにしているのだ。滝隠れの里を刺激しないようにというくだらん理由でな』

『じゃあ、他の上忍の人とかは……』

『任務自体は難しくはない。お前を使う理由は、俺がお前を信用していないからだ。フウコから、お前のことを聞いているが、俺が信用することとはまた別だ』

 

 つまり、信用されたければ任務で証明してみせろ、ということだった。

 イロミは逡巡してから、任務を受けることにした。逡巡したのは、その任務を上手くできるかどうか、という計算だった。フウコがシスイを殺すなんてことはありえないと確信している。確信というよりも、イロミの中ではそれは、事実なのだ。

 

 故に、自身が危険を冒すことの必要性を考えた。

 いずれ、フウコは必ず、無実という証明と共に釈放される。その時に、任務で、例えば自分が死んでしまったら、彼女に会うことができない。

 

 その考えは、客観的で冷静なものである。心の底から彼女を信頼しているのならば、わざわざ任務に行く必要などない。

 

 けれど、イロミは、その考えを【自己中心的で醜い考え】だと判断してしまった。

 

 友達なのに。

 自分の身を案じるなんて。

 

 イロミは、そんな、子供染みた決断をしたのだ。

 

 そして家に帰り、任務に備えて準備をしていた。

 

 ―――待ってて、フウコちゃん。絶対、任務を成功させるから。フウコちゃんを、一人に、させないから。

 

 イロミはまた最初から、封印を確認し始める。

 友達の為に。

 フウコの為に。

 万全を期して。

 




 次話は十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 後半部分ですが、改訂前の文章を引用しております。


 

 ―――朝。

 

 いつも起床する時間よりも一刻ほど早く、目を覚ました。しかし、昨晩、眠る時間は遅かったものの眠気は全くと言っていいほど尾を引かなかった。意識ははっきりとし、やるべきことは明確に、思考の中心に座している。淀みなく、支度を済ませた。

 

 長いマフラーを首に巻いて、イロミは、テーブルに置いてある写真立てを見た。部屋にあるどの家具よりも高級感溢れる、漆塗りの写真立ての中には、イロミにとって、最も大切なものが収められていた。

 

 シスイ、イタチ、フウコ、そしてイロミの四人が、楽しそうに笑顔を浮かべている光景。

 

 たった一瞬の絵なのに、それを見ただけで、多くの記憶が奔流する。そして、悲しさも。一番爽やかな笑顔を浮かべているシスイを見ると、鼻の奥が湿った。もう、彼には、会うことはできない。まだ、遺体を見ていないが、暗部が遺体を発見している、という情報には間違いがないだろう。忍の死の報告ほど、確度の高いものはない。

 

 シスイは良く、イロミをからかっていた。

 

 アカデミーの頃も、下忍になった頃も、中忍になった頃もだ。

 やれ、間抜けだの、面白いことをするなあだの、よく転ぶなあだの。

 

 もちろんそれらは冗談だったのだが、冗談だと分かったのは下忍の頃で、それまでは、彼の言葉はグサグサと小心者のイロミの心に突き刺さったりしていた。当時は、涙目になって、その姿を見たフウコが無表情にシスイを蹴るというのが定番だった。だけど、彼の冗談が分かってからは、よく、笑わされた。イタチもフウコも、彼に一番笑わされただろう。

 

 これから、彼の冗談を聞くことは、もうない。

 そして、彼とフウコが会話をしている所を見ることも。

 彼とイタチが話しをしているところも。

 

 ああ、そういえば、とイロミは思う。

 

 今自分が起きた時間は、そう、アカデミーの頃の時間だった。あの頃は、目を覚ますのが、たまらなく待ち遠しかった。眠るのさえ勿体無いとすら思えるくらいに、前日の夜はワクワクした。友達とまた会えて、楽しい時間がやってくる。晴れだろうと曇りだろうと、目を覚ませば、輝かしい朝だった。

 

 もう二度と、あの時の時間は、来ないのだろうか。

 下唇を一度噛み、イロミは部屋を出た。朝の微かに湿った空気が首筋を撫でる。眼下の道を、おそらくアカデミー生だろう子たちがちらほらと歩いているのが見えた。その流れに逆らう方向へと、イロミは進んでいくと、見慣れた子がいた。

 

 赤毛交じりの黄色い髪をした男の子。額にはアカデミー生に支給されるゴーグルをつけている。うずまきナルトはイロミの顔を見るや素直な笑顔を浮かべて、目の前まで駆けつけてきた。

 

「イロミの姉ちゃん!」

「おはよう、ナルトくん」

 

 任務へ向ける緊張感とフウコに会うためという緊迫が伝わらないようにと、努めて笑顔を向けた。バレてはいないだろうか、そう思ったが「ニシシ」と笑った彼を見て内心で小さく安心した。

 

 イロミは微笑み、尋ねる。

 

「今日は珍しく早起きだね。大丈夫? 授業中、また居眠りしちゃうんじゃない?」

「イロミの姉ちゃんじゃねえんだから、んなことはねえってばよ」

「ふふーん、これでも私、授業は眠ったことはないんだよね。授業態度は良かったんだ」

「なのに、一度もドベから抜け出せなかったのか?」

「……まあ、そのことは、別にね、うん……気にすることじゃないと、私は思うんだ」

「都合がいいってばよ」

 

 ナルトとは、フウコが彼に修行を付ける時に友達になったが、その以前から彼のことは知っていた。

 化け狐、九尾を封印された子。

 誰かに尋ねる必要もなく耳に入ってくるそれらの評価には、うずまきナルトという名前が付随していたからだ。しかし、その時から既に、イロミはナルトに対してマイナスなイメージは持ってはいなかった。

 

 ナルトが年下ということは分かっていたということ、常識をあまり持ち合わせていないフウコという友人を持っているということ、何より、イロミ自身がこれまでアカデミーや下忍時代、そして中忍選抜試験で散々な大恥をかいて他者からの評価をあまり気にしないようにしていたことが、要因だった。

 

 実際に会ってみると、やはり大人たちが囁くような恐ろしさや不気味さは垣間見えず、むしろ素直で明るく、そしてひたむきな子なのだと分かった。……多少、悪戯好きな面はあるが、それは子供らしい部分で、一切の脅威はない。

 

 ナルトには、不思議な影響力がある。

 話していると、気が付けば、笑っている自分がいる。彼を見るだけで、微笑ましい気分になってしまう。

 頭の中にあった任務成功の使命感は、少しだけ無くなっていた。

 

「都合が良くても、何でも、とにかく私は中忍なんだよ? ドベだって、そんなのは、関係ないの。中忍になるのは、すごい大変なんだから」

「……イロミの姉ちゃんが言っても、信じられねえってばよ」

 

 目尻を下げて呆然と見上げてくるナルトに、地団太を踏みたくなる衝動に駆られた。

 

 いつもこうである。生意気なサスケもそうだが、どうしてこうも、尊敬されないのか。二人とも、フウコには懐いて敬っているのに。まあ、彼女と自分とでは、忍としての力に雲泥の差があるため仕方はないのだが、それでも自分の方がナルトやサスケよりも年上であり、中忍だというのは間違いない事実だ。

 

 必ずや二人から尊敬の眼差しを受けたい、というのが、密かな野望だったりする。

 

 イロミは固い笑みを浮かべながらも、どうにか落ち着いて言葉を投げかけた。

 

「とにかく、授業は真面目に受けないと駄目だよ。フウコちゃんからも言われてるでしょ?」

「……なあ、イロミの姉ちゃん。フウコの姉ちゃんは、今、忙しいのか?」

 

 笑顔を潜め、俯き気味になるナルトを見て、イロミはどうするべきか迷った。フウコの身に何が起きているのか、事実を伝えた上で、決して過ちは犯していないという自分の考えを言うべきか、それとも、全く別の嘘を言うべきか。

 

「……最近、私も会えてないの」

 

 イロミは、嘘を付くことにした。

 たとえ、フウコへの容疑が間違いであっても、伝えてはいけないことだ。

 

「フウコちゃん、最近、難しい任務をしてるみたいなんだ。しょうがないよ。フウコちゃんは、暗部で重要な仕事を任される地位にいるから」

「………そんなの、知ってるけどよ……一言くらい…………、言ってくれてもいいってばよ……」

 

 子供っぽく唇を尖らせて拗ねているように見えるが、地面を見下ろしているナルトの目には、微かな恐怖の色が宿っていた。

 

 彼は、里で村八分のように扱われている。

 声をかけても無視され、一緒に遊んでくれる相手もいない。

 ずっと孤独に生きてきた。

 親が誰なのかも知らないまま。

 そんな彼にとって、フウコは家族のような存在なのかもしれない。その彼女と会えるのは、夜中の修行の時だけ。しかも、毎日ではない。

 

 きっと、フウコが修行に来なかったのは、今回が初めてで、それに不安を抱いているのだろう。

 

 イロミは膝に手を付いて、ナルトと同じ目線の高さに立った。

 

「大丈夫だよ」

 

 と、イロミは笑った。

 

「フウコちゃんは優しいから。今はただ、忙しい時期だから、来れないだけ。安心して」

「……イロミの姉ちゃん」

「後で私が伝えておくから。何なら、私が今日、夜に修行つけてあげようか?」

「へへ……イロミの姉ちゃんに教えてもらうくらいなら、自分で修行するってばよ」

「なんだとぉ~、この生意気め~」

 

 にしし、と憎たらしい可愛げのある笑顔を浮かべるナルトの頭をくしゃくしゃといじってやった。

 

 日常だ。

 些細だけれど、尊い日常。

 また、この日常はやってくるのだろうか?

 あの写真の頃には、戻れない。

 シスイが、死んでしまったから。

 きっとフウコは、それを悲しんでる。

 いつか体験したあの黄金に煌めく日常は、決して帰ってくることはない。

 もしかしたら、全てがバラバラになって、静かに終わるかもしれない。

 それでもだけど、諦めたくはなかった。

 不謹慎かもしれない、傲慢かもしれない。

 だけど、また、笑っていたい。

 今のように。

 彼女と……友達として。

 

「あんまり悪戯ばっかりしてると、フウコちゃんに嫌われるからね。ほどほどにするよーに。じゃあね」

「分かってるってばよ。イロミの姉ちゃんも、しっかり伝えてくれよな!」

「もちろん!」

 

 手を振りながら遠ざかるナルトに、イロミは手を振り返した。彼の後ろ姿が見えなくなってから、足を進める。たった今までの日常的な楽しさを感じていた意識を、任務への集中力へと変換させる。短い間だったが、それでも、フウコが拘留されてから続いた茨のような辛さからとの高低差のおかげで、久しぶりの充実した時間だったように思える。

 密度の濃い楽しさは、密度の高い集中力を生み出した。

 

 イロミは里を出て、駆ける。

 滝隠れの里へ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 太陽の日差しに、オレンジと白の光がちょうど半分ほどの割合になった―――夕刻。

 あと少しもすれば、アカデミーが今日の終業を告げ、買い物帰りや仕事終わりの人々が里の通りを行き交い賑やかになる頃だろう。前兆なのか、烏が鳴き始めている。

 

 しかし、その横に長い直方体の部屋には、外の賑やかさは一切に届いてはいなかった。片方の壁には窓が付けられているが、分厚いカーテンに遮られ、室内を照らしているのは天井の蛍光灯だけ。防音設備が整えられているせいで、外の音が届くことはなく、重苦しい沈黙だけが漂うばかり。

 

 部屋には、八名の人間が、四対四で細長いテーブルを挟んで座っていた。片方は、うちは一族の代表、もう片方が火影上層部である。イタチが座っているのは、もちろん、うちは一族の側なのだが、会談が始まってしばらく、一度として発言はしてない。そもそも、上忍とはいえ年齢的には若いイタチが、この場で発言できることがないということは、おそらく場にいる全ての者は理解していた。イタチ自身も、何かを言えることはないだろうと考慮していた。

 

 既に、フウコを受け渡すという結果が決められた会談。それでも、会談が始まって半刻は互いに互いの思惑を知らないかのような振る舞いと言葉を、今回のシスイが殺された【事件】の情報交換と共に、表面的に交わしていた。こういった、廊下の隅の微かな埃を取り払うような作業が必要な場面がある、ということは、一応はイタチは理解している。互いに、真剣なのだと認識できなければ感情を制御できない大人が大多数なのだ。

 おそらく、自分がここにいるのも、そういった真剣な空気を共有する為だろう。同じ人数、あるいは火影側よりも多い人数にしたいだけだ、とイタチは予想していたのである。

 

「何故、フウコの引き渡しが明日の夜なのか、理由をお聞かせ願いたい」

 

 どうして暗部が警務部隊の職務侵犯を行ってまで、フウコの身柄の拘束を実行したのか、その事情説明を火影であるヒルゼンが説明をした後、彼女を警務部隊へと引き渡すこと、そして彼女から引き出した情報や暗部が独自に収集した情報も同じく引き渡すこと、これらに合意した後、フガクが尋ねた。

 

 引き渡しは明日の夜、という火影側の判断に、幾分かのきな臭さを感じたのだろう。視線をやや細くするフガクに、ヒルゼンの隣に距離を置いて席に座っていたダンゾウが、会談が始まってから保っていた沈黙を静かに破った。

 

「……幾つかあるが、大きく分けて二つ、理由がある。一つは、うちはシスイの死因、事件当日のうちはフウコの行動と証言、その他の情報の整理が追い付いていない」

「情報提供には感謝する。だが、それらをフウコと共にこちらに提供するという必要性があるとは、俺には思えない」

「そちらがそれでいいというのであるならば従うが……よいのか?」

 

 会談が始まってからは、基本的にヒルゼンが対応していた。穏和で駆け引きのない誠実な対応をしていた彼とは打って変わって、ダンゾウの強気で腹を探るような言葉に、フガクを含めたうちは一族側は小さく息を呑んだ。それには、イタチも含まれている。

 

 ダンゾウは、暗に、その情報提供に何らかの不備があったとしても、ボールはそちらにあることになるぞ、と言っているのだ。わざわざ、うちは一族を刺激するような言葉を選ぶ必要がないだろうと、イタチは思った。

 

 ダンゾウは息を吐きながら、言葉を続けた。

 

「もう一つは、フウコに施した術を解くのに、一日ほどの時間を要するということだ。そなた等も知っての通り、フウコは類稀なる才能を持っている。今回の事件の容疑者として拘束した際、万が一に備え、幾重もの拘束術、封印術を使用した。それらを解くのに、時間がかかる。これが、最も大きな理由だ」

 

 もちろん、そのような封印術は施されていないことは、知っている。フウコと会った時、微々たるチャクラの気配も感じ取れなかったからだ。どちらかというと、前者の理由の方が、真実なのだろう。

 うちは一族が不満を持たないよう、暴発しないよう、偽の情報を纏めた書類。それらを綿密に、作っている。

 

 うちは一族側は、ダンゾウの言葉に反論することなく、フガクが「分かった」と頷き、続けた。

 

「だが、そちらの要件を呑む以上、約束を違えた時は、それ相応の責任を取ってもらいたい。ただでさえ、我ら警務部隊への申し出もなくフウコを拘束したのだ。これ以上、横暴を続けるのであれば、悪いが、うちは一族は木の葉を信用することはできない。里の治安を最も維持してきたのが誰か、よく理解してもらいたいところだ」

「本当に、申し訳ないことをした」

 

 そう応えたのは、ヒルゼンだった。

 

「今回の事態が特例とはいえ、うちは一族を軽視するようなことをしてしまったことは、申し訳なく思っておる。全て、ワシの責任じゃ」

「今後は必ず、我ら警務部隊へ申し出るよう、お願いしたい」

「……これからも、変わらず、里の治安の為に協力してほしい」

「ええ、全くです。こちらとしても、同じように思っています」

 

 頭を下げるヒルゼンに、俯瞰するような皮肉をぶつけたフガクは乱暴に立ち上がった。どうやら、もう話すことはないようだ。他の二人の男も立ち上がり、いち早く部屋を出たフガクを追いかけるように部屋を出て行く。イタチも立ち上がり、ヒルゼンとダンゾウを一瞥してから部屋を出た。

 

 建物を出ると、空の半分はオレンジ色に染まっていた。西へと泳ぐ、薄い鱗雲。それらを見上げながら、イタチは、前を歩くフガクらにばれないように細く息を漏らした。

 

 とりあえず、会談は何も問題なく終わった。うちは一族側が無闇な要求をすることなく、火影側が不必要にうちは一族側を逆撫ですることもなく、無難な平行線だった。フウコが引き渡されるまで、うちは一族は無理をしない。もちろん、油断は出来ないが、今、軽く肩の荷を降ろすくらいは許されても良いだろう。

 

「イタチ」

 

 フガクに声をかけられ、視線を下げる。

 

「そろそろ、アカデミーが終わる頃だ。サスケを迎えに行ってくれ。俺たちは先に町に戻って、仕事をする」

 

 仕事をする。

 その言葉が何を意味しているのか、頷きながら、イタチは理解する。会合をする訳ではないが、中心的なメンバーたちで話し合いをするということなのだろう。わざわざ遠回しに言う必要はないと思うけれど、会談の最初の時と同じで、表面的な演出である。

 

 懐かしい、アカデミーの通学路を進んだ。

 

 イタチは一年でアカデミーを、シスイと共に卒業した。フウコがアカデミーを卒業して半年経ってからである。その時には既に、フウコは中忍昇格の内定が決まっていた。けれど、イロミが未だアカデミーに残っていたこともあり、任務や演習がない日はフウコはイロミと一緒にアカデミーに行くことが度々あった。ちょうど、イタチの予定も空いていた時は、フウコと一緒にアカデミーに行っていた。時には、シスイも一緒に。故に通学路を歩いた時間は、アカデミーで過ごした時間よりも意外と、長かったのだ。

 

 通学路には大きな変化は、あの頃に比べてあまりなかった。並ぶ店先、家の位置。記憶と目に映る光景の大部分は重なる。それに伴って、懐かしさの奥から手を伸ばし、肩を掴んでくる、重く辛い感情。イタチは冷静にそれらを振り払いながら進む。アカデミーが見えてきた。

 

 ちょうど、今日の修行を迎えたのだろう。アカデミーの校門から子供たちが駆け足で通り過ぎて行く。きっと、友達と遊びに行くのだろう。そう思うと、小さく笑みが零れてしまった。校門の柱に背を預けてサスケを待つことにした。

 

 すると、一人の男の子が校門から駆け足で出てきた。赤毛交じりの黄色いの短い髪の毛。男の子がうずまきナルトだということは、イタチは瞬時に理解した。

 

 九尾を封印された人柱力。しかしそれ以上に、フウコに修行を付けてもらっている子という印象の方が強い。フウコが修行を付けている、というのは彼女自身から教えられたことだった。

 

 他の大人たちのように軽蔑の視線を送ることはなく、ただ、彼を直に見るのが初めてだったため、小さな彼の背中を追いかけた。声をかけようか、とも思った時、彼はこちらを振り返り、視線が重なる。

 

「…………?」

 

 ナルトは、じっと優しく見るイタチの様子に首を傾げたものの、すぐに走り遠ざかってしまった。

 

「え、兄さん?!」

 

 校門から出てきたサスケが、イタチの姿を見るなり声を挙げた。視線をそちらに向けると、サスケと、そして後ろには二人の女の子が立っていた。ピンク色の髪をした子と、薄い黄色の髪を短いポニーテールで纏めた子だった。

 

「どうして兄さんがいるんだよ」

 

 明らかに不機嫌な声になり始めたサスケに、イタチは笑顔で見下ろした。

 

「ちょうど仕事が終わった所だ。近くまで来たから、迎えに来たんだ。君たちは、サスケの友達かな?」

「あ、はい! 私、山中いのって言います! ほらサクラ! あんたも挨拶する!」

「えっと……、春野サクラと、言います。よろしくお願いします」

「ああ、よろしく。俺はうちはイタチだ。弟のサスケが、いつも世話になってる」

 

 ただ挨拶をしただけなのに、どういう訳か二人は頬を微かに赤らめた。もしかしたら、かつてのイロミのように、人見知りなのかもしれない。この頃の年頃の子は、男女問わず、年上の相手には距離を取りたがるもので、距離を取ろうとする時のリアクションは人それぞれだ。

 

 サスケの友達である二人になるべく恐怖心を与えないよう、分かりやすく柔らかく笑みを強めた。すると、イタチの黒い瞳から逃れるように、いのが震えながら声を出した。

 

「ね、ねえサスケくん。今日出た宿題、一緒にやらない? 私、分からないことがあって……。教えてほしいなーって、思ってるんだけど…………」

「……俺、今日は修行するつもりだ。悪いが、また今度な」

 

 家の時とは打って変わって、ぶっきらぼうに応えたサスケは早歩きに歩いていってしまった。「あ……サスケくん」と、サクラは消えそうな声を出すが、サスケの歩く速度は変わらなかった。

 

 ―――アカデミーでは、あんな感じなのか。

 

 家と外での、サスケの二面性。人見知り、という訳ではないだろう。むしろ、他人を気にしないと言った感じである。変なところで、姉のフウコに似てしまったようだ。

 

「すまない。サスケは、家ではもう少し明るいんだ。悪気はないと思う。あまり、気にしないでくれないか?」

「え? いえいえいえ! 分かってます!」

 

 いのは声を裏返しながら両手を大きく振った。

 

「サスケくんって、テストや授業で凄いから、その、修行に熱心なことは……知ってましたから」

「これからも、サスケの友達のままでいてくれ」

 

 小さく頭を下げて、イタチはサスケを追いかけた。すぐに追いつき、サスケを見下ろすと、明らかに不機嫌そうに俯いて、ムスッと唇を尖らせていた。頭の中で、サスケが不機嫌な理由を幾つか列挙し、これ以上ヘソを曲げられないような言葉を選んだ。

 

「これから、修行するのか?」

「……そのつもり」

「修行も大事だが、友達と仲良くするのも大切だ。宿題くらい、一緒にやってあげればよかったんじゃないか?」

「アカデミーの宿題なんて、簡単だよ。授業だって難しくないし、この前の試験で全部百点取ったし」

「そこまで焦ってする必要はない。お前はゆっくり、着実に、力を身に付けるんだ」

 

 これまでフウコとイタチは、サスケに本格的な修行を付けたことはない。少なくとも【クーデターに加わって戦力になってもらおう】と、フガクやミコト、その他のうちはの大人たちに思われないように、調整してきた。今となっては、サスケがクーデターに参加するということは、昨日の夜にフガクが述べた、クーデターの事実を達成後に伝える、という言葉から考えて、ほとんどありえない。

 

 ゆっくりと着実に。

 

 その言葉は、半ば願望ようなものだった。

 自分やフウコは、望んで力を付けて、早々にアカデミーを卒業した。里の平和を守れるような忍になりたいと、心の底から願っての、卒業である。後悔はないが、これから完全な平和が訪れる里で過ごすサスケには、その平和を少しでも長く満喫してほしかった。

 

「……俺、強くなりたいんだ」

 

 低く細々と、サスケは呟いた。

 

「姉さんが帰ってきても、安心できるように、強くなりたい。アカデミーの授業受けてたんじゃ、遅いから……」

「……フウコを心配してるのか?」

「だって姉さん……家に帰ってきても、きっと、父さんと喧嘩になる。……もしかしたら姉さん、何も言わないで、家から出て行くかも。俺、そんなの……嫌だ」

 

 フウコが警務部隊に引き渡されるのは、明日の夜。しかし、すぐに家に帰ってくるという訳ではない。うちは一族がフウコに疑いを持っているのは事実だ。しばらくは、警務部隊の本部に拘束されることになるだろう。

 

 たとえ、別天神でクーデターの思想を塗り替えても、フウコがシスイを殺した、という容疑そのものは、無くならない可能性が高い。フガクは、クーデターを考えないうちは一族を前にしても、フウコを家族と呼ばないつもりなのだろうか。

 

「お前がフウコを心配する必要はない。それは、俺の役目だ」

 

 イタチは小さく笑った。

 もし、フウコが家族から引き離されそうになった時、きっと迷わず自分は、彼女の側に付くだろう。里を守り、うちは一族を守った彼女に、そんな仕打ちを受けさせてはいけない。

 

 兄として―――そう、兄として初めて、今度こそは、妹を守らなければいけない。シスイよりも自分よりも遥か先に、一人で、里を守るために戦ってきた彼女を。

 

「大丈夫だ。俺が必ず、父上と母上を説得する。だからお前は、自分のことだけを考えていればいい。フウコもきっと、そう願ってる」

「……でも、俺…………やっぱり」

 

 フウコを心配するサスケの気持ちは、痛いほど分かる。

 それでもやはり、フウコは巻き込みたくないと思うだろうし、イタチ自身も、家族の喧嘩には巻き込みたくはないと思った。

 

 イタチは息を漏らしてわざとらしく笑ってみせ、話題を逸らそうと思った。

 

「お前も変わったな。もっと小さい頃は、フウコが近づいただけで泣いていたのに」

「そ、それは! ……姉さんが、笑わないから…………」

「父上や母上、俺にはすぐ懐いたのにな。流石に覚えてないだろうが、お前が言葉をようやく話せるようになって、フウコを初めて見た時の言葉は【あの人、だれ?】だったんだぞ。そのせいでフウコが、どれだけお前に懐いてもらおうと努力したか」

「そんな昔の事、覚えてないって!」

「だけどな……サスケ。フウコはそれくらい、お前のことを大事な弟だと、心の底から思ってる。唯一無二の弟だとな。お前がフウコを心配する以上に、フウコはお前を大切に思っているんだ。気に病むことはない」

「……分かった」

「修行はいいのか?」

「今日は、うん、いい。宿題があるから」

「そうか」

 

 二人はそのまま一緒に家に帰ったが、ただいまとは言わなかった。特に会話を合わせた訳ではないけれど、フウコが帰ってくるまでは、そう言わないようにしたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 あっという間に、夜を迎え、そしてその日の会合は終わった。

 

 サスケと共に家に帰ってからは、やはり無機質で会話の少ない時間が続き、サスケが寝静まった夜の会合ではフウコが明日の夜に引き渡されるということを伝えただけで、後は中身のない堂々巡りのような議論が繰り広げられた。

 

 あまりにも。

 あまりにも、密度の薄い時間のせいで、

 そう。

 いつどのタイミングで空模様が変わったのか、

 それすら、分からないほど。

 

 イタチは一度、フガクと一緒に家に戻ったが、自室で眠るフリをして、すぐに家を抜け出した。昨日、フウコからうちは一族の状況をまた、教えてほしいと頼まれている。実のところ、うちは一族は、報告するほどの変化は生まれていないが、変化は特に生まれていないという情報を伝えるだけでも、フウコは安心してくれるだろう。

 

 町を抜け出し、とりあえずは火影の執務室に向かったが、その手前、建物の前で暗部の者が数人、里が寝静まった深夜に佇む亡霊のように立っていた。

 

「うちはイタチだな」

 

 極端に平坦な声。ダンゾウの私兵である【根】の者たちだと即座に分かった。ああ、とイタチが頷く。

 

「ダンゾウ様より、お前をうちはフウコの元へ案内するよう指示を受けている。ついてこい」

 

 暗部の者たちの案内に、素直に従った。いくら自作自演の副忍の地位凍結を行ったとはいえ、こんな場面でもそれをする必要があるのか、とは思ったが、そんなことを今議論した所で意味など全くない。

 

 昨日とは全く別のルートを辿ったが、辿り着いたのは、昨日と全く同じ、牢獄が連なった通路。

 

 仄暗く、不気味な通路。

 

 空が見えない、暗黒。

 

 進んでいくと、やはり一番奥には、鉄製の重い扉が鎮座している。その両脇には、また別の二人の暗部―――おそらく彼らも【根】だろう―――が立っていた。

 しかし、ダンゾウの姿は見当たらなかった。

 

「ダンゾウさんはいないのか?」

 

 イタチの言葉に、暗部の者は誰も反応せず、真っ暗な通路を吹き抜けていく。鉄製扉が、重い音を立てながら、開かれ始める。通路よりも濃く静かな暗闇の中に、本当にぼんやりと、フウコの姿が見えた。目を覆うマスクと拘束衣。イタチは中に入ると、暗部の一人が明かりを点け、出て行く。室内には、フウコとイタチだけになった。

 

「イタチ?」

 

 綺麗な彼女の声が耳に届く。

 いつも通りの、クリアで平坦な声に、イタチは静かに胸を撫で下ろし「ああ」と応えた。

 

「よかった……来てくれて。うちは一族は、どう?」

「今の所は、問題ない。会談は、明日の夜、お前の身柄をうちは一族に引き渡すことで合意した。うちはの会合も、何事もなく終わった。移植の方はどうだ?」

「……大丈夫、成功したから。術も、発現できる。あとは、使うタイミングだけ」

 

 そうか、とイタチは返した。

 うちは一族のクーデターを止める計画は、修正された。

 まだスタート地点に戻ったに過ぎないけれど、それでもイタチは大きく鼻から息を吐き、笑みを浮かべる。

 

「昨日渡した弁当は、しっかり食べたか?」

「……うん。美味しかった。だけど、少し、物足りなかった。お腹一杯には、ならなかったから。でもやっぱり、うん、美味しかった。お弁当箱は扉の脇に置いてあるはず」

 

 振り返ると、たしかに扉の脇に、弁当箱は丁寧に置かれていた。

 

「すまない、今日も何か、食べ物を持ってくればよかったな」

「ううん、大丈夫だよ。……イタチは、優しいね。昔から、変わってない」

「当たり前だ。俺は、お前の兄さんだからな。……あまり、お前を守れてやれていないが…………」

「そんなこと、ないよ。イタチがいたから、私は、色んな事を知ることができたの。色んな事が、大切なことなんだって、分かった。私の一番最初に大切だと思ったのは、家族っていう繋がり。イタチは……それを教えてくれた」

「フウコ?」

「……ねえ、イタチ。お願いがあるの。マスク、外してくれる? イタチの顔が見たい」

 

 どうしてだろう。

 何故だろうか。

 寒気を感じてしまった。

 

 フウコの声は変わらず、クリアなのに、明かりに照らされる彼女の輪郭がぼやけているように見えてしまう。

 

 そう感じながらも、イタチは、フウコの目を覆うマスクを外すことにした。彼女は、自分の妹だからだ。フウコの後ろに立ち、マスクを固定する硬い針金と何本もの紐を解いていく。

 

「……やっぱり、イタチは優しいね」

 

 水の中を静かに溶けていく氷のような声が耳に届いた。

 

 そして、

 

『ずっと空って、続いてると思う?』

 

 頭の中で想起される、小さい頃の彼女の言葉。

 

 まずは、針金を全て外した。そして、紐も。マスクをゆっくりと、彼女の頭から外していく。黒く、軽くウェーブの掛かった長い髪を、フウコは軽く頭を振ってならした。

 

「ねえ、イタチ」

「なんだ?」

 

 フウコは、顔をイタチに向けた。

 いや、眼を向けたのだ。

 

 万華鏡写輪眼へと変化させた、その左眼の瞳を。

 

「今まで、ありがとう」

 

 

 

 イタチは床に倒れた。

 

 

 

 同時に、部屋の重い扉は乱暴に開かれる音がした。

 意識ははっきりしている。

 なのに、身体に力が入らなかった。

 まるで何かに身体を乗っ取られたかのように、動いてくれない。

 

 幾つもの影が、部屋の固い床の上を蠢き始めている。

 

「副忍様、よろしいのですか?」

 

 影の一つが、そう言った。

 

「問題ない。すぐに、終わらせる」

 

 フウコの冷淡な声に、イタチの思考は完全な軸を失い、焦りが身体中を支配した。

 焦りのせいか、視界が様々な所で点滅し始める。

 最悪の未来が、アバウトに、けれど瞬く間に、予想される。

 呼吸は不規則に乱れ始めて、体の至る所から不自然な汗が拭き始める。

 

 フウコ。

 フウコ、これは―――。

 思考がスムーズに循環しない。声を出そうにも、身体がいうことを聞かない。

 

「ダンゾウ様は?」

 

 その声を傍らに、イタチの視界は、開け放たれた扉の向こう側からやってくるダンゾウの姿を捉えていた。

 

「俺はここにいる」

「準備は出来てますか?」

「ああ、順調だ」

 

 直感が叫ぶ。

 ダメだ。

 ダメだ、フウコ!

 予感だ。これは、終わりの予感。

 高い所から真下を見下ろすような、絶望的な予感。

 

 どうして。

 

 声は届かない。それでも彼女は、イタチの心の声をしっかりと受け止めていた。

 

「もう、苦しまなくていいよ。あとは、私に任せて。次に起きた時は、気持ちのいい朝が待ってるから。全部忘れた、平和な朝が」

 

 朝。

 

 そう、朝が来てしまう。

 明けてはならない朝だ。

 空が入れ替わってしまう。

 これまで積み上げてきたものが、入れ替わって、嘘になってしまう。

 

「イタチは、優しいから。だから、巻き込みたくない。私の方が冷たくて、優しくないから」

 

 そんなはずがない。

 フウコは優しい、自慢の妹だ。

 自分の、誇りだ。

 

 やめろ、ダンゾウ。

 やめろ!

 

 その眼で、俺を見るな。

 俺を。

 その眼で!

 

 シスイの眼(、、、、、)で、俺を見るなッ!

 

「今まで、家族でいてくれて、ありがとう」

 

 愛してくれて、ありがとう。

 

 兄さん。

 

 さようなら。

 

 笑顔が、見えた。

 

 優しい、妹の、笑顔が。

 

 

「天岩戸」

 

 

 動かせないはずの瞼が無理矢理に開かれ、そして、瞬きを許さないように固定された。

 フウコの左眼の万華鏡写輪眼が、血涙を流している。

 さっきまで浮かべていた彼女の笑顔は、血涙と共に、たしかに、悲しみに歪んでいた。

 そして、ダンゾウの赤い眼が、自分を。

 

 

 やめろッ!

 やめろォッ!

 

 

 

 

 

 

 

「別天神」

 

 うちはイタチ。

 お前はこれまでのクーデターに関する記憶を、思い出すことは、もう、できない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝が、きた。

 




 次話も十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

音、音

「どうしたの? サスケくん。虫でもいた? ほら、泣かないで。でんでん太鼓だよ」

 

 まだ、幼い頃。

 

 まともに言葉を話すこともできないくらいに幼く、記憶も曖昧なものしか保存できないくらいに意識が確固としていなかった頃の―――夢。正確な時期も時間も、朝だったのかも夜だったのかも思い出すことができないほど、原初的な記憶の中。

 

 泣きじゃくるサスケは、辺り一面真っ白な場所に立っている。場所すらも、思い出すことができない。ただ分かるのは、俯くサスケを見上げようと、しゃがみ込んで顔を覗きこむ少女が姉のフウコであること、そして彼女の右手に握られている無駄に装飾の凝ったでんでん太鼓がコミカルな音を鳴らしていることだけだった。

 

「大丈夫だよ? 私がいるから。どんな怖いことも、辛いことも、私が守ってみせるから。だから、泣かないで? サスケくん、でんでん太鼓、好きだよね? ほら。使ってみる?」

 

 どうして自分が泣いてるのか、それすらも思い出すことができない。だけど、あまり重大なことはなかったと思う。転んで膝小僧を擦りむいたとか、あるいは頭をぶつけたとか、そんなことだったような気がする。

 

 フウコの声はとても平坦で、綺麗ではあったが、まるで見当違いな言葉に、夢の中の自分は彼女から顔を逸らし、目元の涙を拭った。

 

 夢の中のサスケはまだ、フウコのことを正しく姉だと認識していない。

 

 同じ家に住んでいる。同じ食卓でご飯を食べる。しかし全く笑わず、不思議な雰囲気を漂わせていたせいで家族とは思えなかった。つまり、意志の疎通が彼女とだけ上手くいかなかったということである。

 

 早く、兄さんに会いたい。お父さんでも、お母さんでもいい。泣きながら、周りを見渡す。

 すると、急に身体が浮いた。

 

「……え?」

 

 夢の中のサスケが顔を降ろす。フウコが、背中でサスケを持ち上げたのだ。

 

 母であるミコトにもしてもらったことのある、おんぶ。しかしフウコの身長では、あまりにも地面が近く、背中はミコトよりも骨の感触が感じ取れた。乗り心地は、悪かった。

 

「はい、サスケくん。でんでん太鼓、持って」

 

 右手に持ったデンデン太鼓を、半ば無理矢理にサスケに握らせると、彼女はしっかりと両腕でサスケの太ももを下から支えた。

 

「鳴らした方が、いいと、うん、思うから。イタチは……あっちにいそう」

 

 何を根拠にしたのか、真っ白な世界を、フウコは静かに歩き出す。

 

 デン、デン、デン。

 

 フウコが歩く度に、微かな揺れを感じ取ったでんでん太鼓が、サスケの意志に反して細々と音を立てた。皮肉なことにその音は、フウコの歩くテンポと相まって、心地良かった。気が付けば涙は止まって、左手は彼女の肩を掴んでいた。

 

「大丈夫。イタチの所まで、フガクさんとミコトさんの所まで、しっかり送るから。それまで、泣かないで。サスケくんは、笑ってて」

 

 フウコを姉さんと呼ぶようになったのは、いつ頃からだか、分からないけど。

 おそらく、この記憶が、彼女のことをほんの少しだけ理解できた原点なのだと思う。それから徐々に―――まるで蟻が迷いながら地面を歩くような速度で―――彼女を理解するようになっていった。気が付けば、彼女の偉大な功績と忍としてのスキルを耳にするたびに、尊敬の念を抱くようになっていた。

 

 いつかは自分も、姉さんのような忍になりたい。もちろん、イタチのようにも、フガクのようにも。

 

 でんでん太鼓が鳴っている。いつの間にかサスケは、握っていたデンデン太鼓を鳴らしていた。おっかなびっくりに、ゆっくりと。白い世界にデンデン太鼓が鳴り響く。

 

 涙は止まっていた。

 乗り心地も、悪くはなかった。

 

 これが、サスケが今朝見た―――夢だった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 アカデミーが午前中に終わるのは珍しいことじゃない。というよりも、二週間に一度の間隔で、そういう日が来るようになっている。どうしてそんな日が設けられているのか分からなかったが、退屈で簡単な授業じゃなく、午後の空いた時間に好きな修行をする事ができるというのは魅力的で、サスケは気にしなかった。むしろ、午前授業だけの日がもっと増えればいいとさえ、思っていた。

 

 午前授業の帰り道。サスケは歩幅を小さくし、ゆっくりと岐路を、一人で辿っていた。これまでの三分の一ほどの速度で、家に帰りたいという感情はこれまでの十分の一にも満たないほどに小さかった。つまるところ、帰りたくはなかった。

 

 理由は、家に帰っても楽しいことがないということ。全くない、という訳ではない。やはり家は自分が育ったところで、玄関をくぐるだけで落ち着けるし、尊敬する兄、イタチの顔を見るだけで心が温まる。逆を言えばそれだけで、他のことは好きじゃなかった。

 姉がいない。

 おそらく、好きじゃないことは全部、それを中心にしている。

 

 父、フガクは、フウコのことを家族から切り離した。

 血が繋がっていないという理由だけで。

 恋人のシスイを殺したと疑われた……という理由だけで。

 

 会話もしたくなかった。一昨日昨日と、碌に話していないけれど、寂しいとは微塵も感じない。馬鹿みたいな反抗だということは、サスケ自身も理解してる。意味のないことだと。ただ家の空気を悪くしているだけだと。それでも、会話することを考えると、風船に穴を作るように意志が萎んでしまうのだ。

 

 父に話しかけることは、姉への裏切りだ。

 家族から切り離した張本人と会話をしてしまったら、それを認めてしまうことになると、サスケは思った。

 

 歩く速度が遅くとも、歩いている限りは、帰路を辿っている限りは、家に近づいてしまう。うちはの町の門を潜った所で、サスケは不運なことに、ミコトと出会った。彼女の両手には、パンパンに膨らんだ買い物袋が二つ、吊るされていた。

 

 ミコトは、サスケの姿を捉えると、明るく笑いかけた。

 

「あら、おかえりなさい、サスケ」

「……ただいま」

「……そうね、今日は、午前授業の日だったわね」

 

 ひび割れたガラスのような空気に二人は包まれながら、静かに並んで歩いた。

 

「まだ、御昼ご飯の用意、出来ていないの。家に帰ってから、少しだけ我慢できる?」

「……うん」

 

 サスケは気のない返事をする。

 

「今日、アカデミーはどうだったの?」

「……いつも通り」

「修行はするの? 最近、日が短くなってきたから、あまり遅くならないようにするのよ」

「……うん」

「イタチは御昼に帰ってくるって言ってたけど、午後もまた仕事みたいなの。一人で修行が嫌なら、そうね、私が教える?」

 

 朝食の時、既にイタチは任務に出掛けた後で、一日の予定は聞いていないが、今日は修行をするつもりは微塵もなかった。昨日、修行しようとしたら、あまりするなと彼から言われたからだ。

 

 ―――母さんは、どう思ってるんだろう……。

 

 ミコトとも、あまり会話をしていない。フウコが家族から切り離されたことは、ミコトも当然知っているはず。そのことを、フガクに抗議した様子はないところを見ると、つまり彼女もフウコのことには納得している、ということだ。

 

『大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ』

 

 夜中にフウコが帰ってきた時の、びしょ濡れの彼女を躊躇なく優しく抱くミコトは、たしかに、母親の姿だった。一日中、家から姿を消し、そして不自然な姿でやってきたにもかかわらず、真っ先にフウコの身を案じていた。

 その彼女が本当にあっさりと、フウコを切り捨てることができるのだろうか。

 

 けれどサスケは尋ねることは出来ないまま、二人は家に到着した。

 

「おかえり、母上、サスケ」

 

 居間にはイタチが新聞を広げて座っていた。彼は新聞を畳むと「持つよ」とミコトが持っていた買い物袋を持とうとするが、ミコトは顔を横に振る。

 

「大丈夫よ、今日はたくさん買い物をしたから。洗剤とか、まあ、色々ね。仕舞う場所、分からないでしょ? 今から御昼ご飯作るから、イタチはゆっくりしてなさい。午後も任務でしょ? あ、まだ時間大丈夫かしら?」

「時間なら問題ないよ。二刻は家にいるから。手伝ってほしいことがあるなら、手伝えるけど」

 

 ミコトは一瞬だけ―――その表情を、冷蔵庫を開けてオレンジジュースを手に取っていたサスケは見ることはできなかったが―――悲しい表情を浮かべてから、力無く笑った。

 

「ゆっくりしてなさい。今日は御昼も、御夕飯も、腕によりをかけて作るから」

 

 オレンジジュースをコップに一杯分、注ぐ。冷えた液体が喉を通るが、気分はスッキリとしない。オレンジジュースを冷蔵庫に戻して、イタチに目配せもしないまま、自室に戻った。鞄を乱暴に入り口横に投げて、飛び込むようにベットに乗った。うつ伏せで顔を枕に押し込むと、視界は真っ暗。大きく息を吐いた。

 

 ―――……姉さん…………。

 

 真っ暗な視界に、姉の姿をはっきりと思い出すことができる。

 

 ご飯を食べる姿、下着姿で平然と廊下を歩く姿、頭を撫でてくる姿。

 無表情で、赤い瞳。聞き取りやすい声質。

 上質な氷のように透き通った記憶だ。

 

 だがすぐに、氷は解けて、ドロドロの記憶が入ってくる。

 

『シスイが、行方不明……ですか…………。私は、何も知りません』

 

 三人のうちはの者たちが家に訪れ、シスイが行方知らずとなっているということを知らされた姉の姿。男たちは、これは異常なことで、同じ暗部、そして恋人関係であるフウコが知らないかと思っていたようだ。

 

 昨日何していたのか、などを尋ねてから、男たちは言った。

 

『今、うちはが大事な時期なのは知っているだろう。もしお前が何かしようとしているなら……分かっているだろうな』

『……ああ、そういうことですか』

 

 その時、後ろからサスケは眺めていた。

 白い寝間着に身を包んでいる姉の後ろ姿は、幽霊のように、力を持っていなかった。

 

『遠回しに言うので、分かりづらかったですけど……私がシスイに、何かをしたって……言いたいんですね?』

『お前の実力は誰もが認めているが……、力が信頼を引き寄せるとは思うなよ』

 

 殺すぞ。

 

 最初、その言葉が誰から発せられたものなのか判断できなかった。男たちの表情が固まるのを見て、その発言が姉のものだと初めて分かった。

 

 無表情だけど、声は平坦だけど、姉はずっと怖い言葉を発する事なんてなかった。出てくるのは優しい言葉だったり、変な言葉だったり。どれも、大好きな言葉たちだった。

 なのに、殺すという言葉は、寒気と恐ろしさだけを如実に伝えてきたのだ。

 

 次の瞬間、姉の姿は影となり、男たちを吹き飛ばした。

 

 ―――……どうして、あの時……怒ったんだろう…………。

 

 シスイは生きている……はずだ。暗部が死んだと言っていたが、サスケはシスイの優秀さを知っている。兄であるイタチと共にアカデミーを一年で卒業し、そして姉と同じ暗部に所属している、自分にとって、もう一人の兄のような人だ。彼が死ぬなんて、ありえない。

 何せ、フウコが殺していないからだ、ということと、兄であるイタチが否定しているという根拠。けれど思考の奥底では、嫌な足音が聞こえてはいる。

 

 本当は彼は、死んでいるのではないかと。

 

 まず、フウコが怒ったこと。シスイが行方不明で、その原因が姉にあるのではないか、という疑惑をかけられたのに怒るのは分かる。だが姉の性格を考えれば、疑惑をかけられただけで、暴力を振るうほど短絡的ではない。

 

 どうして、あそこまで怒ったのか……。

 

 そして何より……シスイが生きていた、ということが耳に入らない。

 

 行方不明ではなかった、あるいは死んでいなかった。どちらにしても、それが分かれば、誰かが伝えに来るはず。フガクは警務部隊のトップなのだ、必ず、誰かしらは家に来る。だが、フウコが拘束されてからは一度も来ていない。

 

『―――サスケくん』

『サスケくん……お願い』

『もう、シスイのことは、言わないで』

 

 そして、あの時の、言葉。

 言葉は、何を意味しているのか。

 

 それ以上考えてしまうのは、怖くて、閉じた瞼に力を入れた。

 

 その時に、部屋のドアがノックされた。

 

「サスケ、入るぞ」

 

 ドアが開き、イタチが顔を出した。

 

「……兄さん」

「母上が心配してたぞ。元気がないって。アカデミーで、何かあったか?」

 

 後ろ手にドアを閉め、壁に寄りかかり腕を組むイタチに、サスケは顔だけを横に向けた。優しい顔でイタチはこちらを見ている。

 

「……何もなかった」

「なら、どうしたんだ?」

「兄さん……俺、やっぱり修行したい」

 

 力無く、サスケは呟いた。

 イタチは何も言わず、ただじっと、サスケを見つめる。

 

「姉さんの力になれるなんて、思ってないけど……、だけど…………何もしてないと……、怖いんだ……」

 

 自分はまだ幼くて、実力はない。アカデミーで、いくら良い成績を叩き出しても、忍としてはまだまだなのは、理解していた。兄と姉が出して来た偉大な足跡を知っているからだ。たとえ努力をしても、すぐには決して追い付かない。

 

 しかし、何もしないと、不安が胸を蝕むのだ。

 

 朝、目を覚ましてから、ずっと。

 

 夢を見たからだ。

 

 姉のフウコにおんぶされ、デンデン太鼓の音が木霊する、懐かしい夢を見たから、不安が生まれた。このまま、夢の中のように幼いだけのままではいけないんじゃないかと、掻きたてられる。

 

 もはや修行をしたいという感情の重心は、実力を付けるためじゃなく、自らの安心の為だけになっていた。

 

 イタチは壁から背を離すと、サスケの横に腰を降ろした。ベットが優しく揺れる。

 

「今夜、フウコに会いに行くか?」

 

 目だけでイタチを見上げていたサスケはその言葉に大きく瞼を開き、すぐさま身体を起こした。

 

「姉さんに会え―――」

「声を抑えろ」

「……姉さんに、会えるの?」

 

 イタチは頷いた。

 

「今日の夜、フウコは警務部隊に身柄を移動される。昨日行われた会談で決まったことだ。このことはまだ、うちはでも知る者は少ない。そもそも、里でさえ、今回のことを知っている者は限られている。これが、どういう事か分かるか?」

 

 姉に会えるかもしれない、というイタチの言葉に嬉しさと興奮で、その問いへの回答をすぐさま出すことは出来ず、イタチは言った。

 嬉しそうに、喜ばしそうに。

 

「フウコを連れていった暗部は、フウコが犯人だと証明することができなかったということだ。もし容疑が確定していたのなら、里内に公表される。ましてや、わざわざ警務部隊に引き渡す必要もない。おそらく、近い内に容疑は解かれて、家に帰ってくるだろう」

 

 火を付けた花火のように、喜びが込み上げてくる。さっきまで枕に押し付けていた顔から、明るい笑みが零れてしまう。

 木の葉の暗部が、姉への理不尽な容疑を解いた。そしてその事実を、尊敬できる兄の口から語られる。これほど信頼できるものはないだろう。もはやサスケの頭の中には、姉への些細な疑いは一切に霧散していた。

 

「いつ? いつ、姉さんに会えるの!」

「落ち着け。母上に聞こえる」

 

 二度目の注意。慌ててサスケは口を抑えるが、それが大変だった。必死に抑えながら、尋ねた。

 

「夜って、何時くらい?」

「正確な時間は、俺も知らされていない。だが、深夜だろう。皆が寝静まった頃だ。フウコのことがあまり知られていない以上、秘密裏に移動させないといけないからな」

「じゃあ、それくらいになったら……」

「言っておくが、フウコに会いに行くのは、本当は禁止されていることだ」

 

 イタチはサスケの言葉を遮って、真剣な表情を浮かべる。

 

「警務部隊の拠点に侵入して、フウコがいる牢に行く。本来、許可を得ていない者が無断で容疑者に会うことは、掟として固く禁じられている。たとえ、フウコの容疑が無いということが確実であっても、名目上は、未だ容疑者だ。分かるな?」

「……普通に、会えないの?」

「無理だ。警務部隊が正式にフウコが無実だと発表するまでは」

 

 そこでサスケは、フガクのことを思い出す。フウコを家族と思うなと言った、彼のこと。

 

 解放されて家に帰ってきても、姉は―――。

 

「安心しろ。父上は俺が必ず説得する」

 

 まるで、本当にサスケの心の中が分かっているかのような、絶妙なタイミングと力強い言葉だった。

 とりあえず、今はフウコが帰ってきてからのことは考えるなと言っているのだ。

 

「どうする? 掟を破ってまで、フウコに会いに行くか?」

 

 サスケは迷わず頷いた。

 

「そうか」

 

 真剣な表情を崩し、イタチは再び笑みを浮かべた。

 

「皆が寝静まった頃に呼びに来る。早めに寝て、起きれるようにしておけ」

「ねえ、兄さん」

「なんだ?」

「修行、やっぱりしたい!」

 

 満面の笑みでサスケは言い放つ。それは不安を打ち消したくて修行をしたいという訳ではなく、姉に会えるという喜びを抱えたまま家で地味な勉強をするのに耐えられないという前向きな感情からである。

 イタチも、サスケの笑みで真意を理解したのか、やれやれと言った感じで鼻から息を吐いた。

 

「俺は午後にも仕事がある。修行は一人でしろ。あまり遅くならないようにな」

「分かった!」

「それとだ、サスケ。母上と……父上の前では、もう少し明るく振舞え」

 

 さっきまで嬉しそうに笑っていたのに、途端にサスケは唇を尖らせた。文字通り萎んだのだ、気分が。二人と仲良くすることは、今少しだけ考えても姉への裏切りだと思う。たとえ表面だけでも、だ。

 

 しかしそんなことは口にしない。口にすると、二人の前では普段通りに振舞っている兄が姉を裏切っているということになってしまうから。

 

「まだ父上のことが許せないか?」

「……だって…………姉さんを家族じゃないっていうから。それに……血が繋がってないだなんて……。ねえ、兄さん。姉さんって、その……本当に…………」

「……ああ。フウコは、俺たちとの血の繋がりは無い。あいつは養子だ」

 

 その事実に―――しかしサスケは、そこまで大きなショックは受けなかった。彼がまだ幼いということもあるが、姉の記憶があまりにも綺麗で温かくて、たとえ血が繋がっていなくても関係なかったから。

 

「姉さんはいつ、家族になったの?」

 

 単純な好奇心で呟いた。

 

「第三次忍界大戦が終わってすぐ、父上に養子として連れてこられた。俺がまだ、アカデミーに入学していない頃だ。フウコは戦争孤児だったんだ」

 

 歴史の授業で、第三次忍界大戦のことは学んでいた。

 

 これまでの戦争よりも遥かに多くの死傷者を出した、凄惨な大戦。それによって多くの戦争孤児が生まれ、孤児院には子たちが溢れかえる程で、木の葉隠れの里は養子縁組の制度を積極的に採用したということも。

 

 サスケの感想としては、そうなんだ、と言った程度のもの。やはり血の繋がりが無いという要因は、姉への思いを否定するほどの大きな力を持ってはいなかった。

 

 その時、部屋の外から「ご飯出来たわよー!」という声が届く。イタチは一度、閉まっているドアに視線を向けてから呟いた。

 

「お前が父上と母上と仲が悪くなったって聞いたら、フウコが悲しむぞ」

 

 落ち込む姉の表情を想像する。

 やはり無表情だけれど、見ただけで悲しんでいるんだなって分かってしまった。

 嫌だな、とサスケは思った。

 

 そこでイタチは立ち上がり、部屋のドアを開けた。

 

「居間に行こう。―――サスケ、普段通りにな」

「……ねえ、兄さん。一つ、訊きたいんだけど」

「なんだ?」

「姉さんが無実なのは、分かったけど……、シスイさんは、やっぱり、生きてるんだよね?」

 

 一拍の間。

 イタチは小さく頷き、無言のまま、部屋を出て行った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「クナイ、手裏剣も持ったし、怪我をした時の包帯も……」

 

 昼食を食べ終わってから。

 サスケは自室で修行の準備をしていた。ベットの脇に座り込みながら、目の前に置いた皮の厚い鞄の中に詰めた物を確認するが、声のトーンはあまり高くはなかった。いつもなら、修行の準備をする時間は、修行をするよりも楽しい時間だと思ったりしてワクワクするのだが、今はどこか陰りを帯びている。

 

 その理由は―――。

 

「サスケ、準備はできたのか?」

 

 部屋のドアが開けられ、顔を出したフガクが無骨な表情のまま尋ねてきた。サスケは固い笑顔を浮かべて、小さく頷く。

 

「もう少しだけ……」

「そうか。いや、焦ることはない。時間はまだまだある」

 

 本心なのか些細な気遣いなのか、分からない。

 

「俺は玄関で待っている」

「う、うん……。分かったよ……、父さん」

 

 ドアが閉まると、緊張した空気は嫌に残留する。フガクの足が廊下を叩く音が遠ざかり、完全に聞こえなくなってから、肩に入った力をため息と共に抜いた。

 

 これからやる修行は―――フガクが付けてくれることになってしまった。

 

 フガクが家に帰ってきたのは、ちょうどイタチとミコトと自分の三人で昼食を始めようとした時だった。

 

 きりの良い所で一つの仕事が一段落着いたため、昼休みを取って家に帰ってきたということらしい。

 

イタチに言われた通り、普段通りに過ごそう。そう思った矢先、急遽始まった四人での昼食に、サスケの勇気は完全に挫かれてしまった。昼食が始まってもサスケはずっと黙りっぱなしだった。

 

 サスケは鞄の中の物を再度確認しながら、心の中でぼやいた。

 

 ―――どうして兄さん、あんなこと言ったんだろう……。

 

 嫌な沈黙が昼食を囲む中、イタチは突然、フガクに言い出した。

 

『父上、昼休みはどれくらいある?』

 

 味噌汁の入った碗を手に持ったフガクは、落ち着いて応えた。

 

『そうだな……。今日の仕事はもう殆ど残ってはいないからな、その気になれば夕方まで昼休みは取れるだろう。どうした、何かあるのか?』

『実は、サスケに修行を付けてほしいって頼まれているんだ』

 

 その時のサスケは、兄の突拍子もない発言に驚き、思わずイタチを見上げてしまった。イタチは小さくサスケに目配せをし、けれど笑みを浮かべたまま続けた。

 

『だけど、俺はこれからすぐ仕事があって修行を付けれない。もし父上に余裕があるなら、代わりに付けてあげてほしいんだ。まだアカデミー生のサスケには、一人で修行するよりも教えてもらった方が上達は早いと思う』

 

 フガクの視線を感じ取り、恐る恐る彼を見た。

 驚いたこともなく、不思議そうなこともなく、普段と何も変わらない無骨な眼差しを送る父。サスケは何も言葉を発することができず顔を下に向けると、フガクは手に持った碗を口に運び、一口、味噌汁を呑んだ。

 

『いいだろう。久しぶりに、俺が修行を付けよう。それでいいな? サスケ』

 

 そこまで強くない言葉だったが、サスケはゆっくりとした最小限の動作で頷いた。普段通りにしろ、というイタチの言葉が頭の中に強く残っていたこと、そして何より状況的に頷くしか選択肢が無かったからだ。つまり、イタチが何も言いださなければ、事もなかったのである。

 

 しかし、今更愚痴った所で変わるわけでもなし、ましてや自分からフガクに断りに行くほどの勇気も無かった。鞄の中の確認を続けていると、クナイの本数が手裏剣に比べて少なかったことに気付いた。

 きっとこの前の修行の時に回収し忘れたのだろう。一応、自室を確認するが見つからなかった。

 

 修行に大きな支障はないが、何となく居心地が悪い。

 どうしようかと少し悩んだサスケは部屋を出て、クナイを借りようと姉の部屋に行くことにした。

 

 既に、イタチは仕事に出掛けてしまっている。イタチの部屋から借りてもよかったのだが、今夜姉に会えるという期待が、彼女の部屋を選択する遠因となった。

 

 姉の部屋に入ると、懐かしい気分になった。

 

 無味無臭で、物がほとんど置かれていない簡素な部屋。最後にこの部屋に入ったのは、姉が連れていかれる三日ほど前で、つまりは一週間も経っていないくらいだが、酷く懐かしく思えてしまった。きっと、部屋の主がいない、という現実がそうさせるのだろう。いつだって、この部屋に来る目的は姉だったのだから。

 

 そこでふと、視界の端―――背の低い本棚の上に置かれた、豪華なうちわを見つけた。いや、うちわはではなく、でんでん太鼓だということはサスケは分かるのだが、しかし何度見ても、一瞬はうちわだと勘違いしてしまう。それくらい、でんでん太鼓を装飾する品々はチープでありながらも大量だった。

 

「……俺って、こんなので喜んでたのか…………」

 

 つい呟いてしまう彼だが、顔は恥ずかしそうに笑っていた。

 

 このでんでん太鼓が自分にとってどういう存在だったのかは知っている。まだ生まれたばかりで、全くと言っていいほど記憶の無い赤ん坊の時の自分は、姉の姿を見るや大泣きしたのだという。寝ていても、姉の気配を感じるなら大泣きし、フウコは困っていたと、いつかイタチは言っていた。

 

 たしかに、姉に対してあまり良い印象を抱いてはいなかった感覚はある。今朝見た夢くらいの年の感覚だが、どういった感情だったのかは、今となっては正確に思い出せない。

 

 でんでん太鼓は、そんな自分に少しでも近づくために姉が使った玩具だ。どうやら赤ん坊だった自分は、でんでん太鼓を鳴らせば泣き止んだという。

 それに気を良くしたのか、姉はでんでん太鼓を装飾していったらしく、今となってはでんでん太鼓の姿形は元の一割ほどしか残っていなかった。果たして、でんでん太鼓の装飾はどれほどの成果を達成してみせたのか、それは自分の記憶にはあまりなく、イタチやフウコからも教えられてはいなかった。

 

 しかし、でんでん太鼓を手に取ってみると、気分が良くなる。それはつまり、自分の知らない記憶の底にはでんでん太鼓があるということなのかもしれない。

 

 サスケは軽くでんでん太鼓を振った。

 

 でんでんでん。

 

 コミカルな音。このでんでん太鼓を、あの無表情な姉が鳴らしていたのかと思うと面白くて、サスケは小さく噴き出した。

 

「……ん?」

 

 でんでん太鼓を元の位置に戻してクナイを探そうとした時―――どうして手に取った時に気付かなかったのかと思えるくらいはっきりと―――でんでん太鼓が置かれていた位置の真後ろに、写真立てが置かれているのを見つけた。

 

 なんだろうか? と考えたが、すぐに合点がいった。

 フウコ、イタチ、シスイ、そしてあの生意気なイロミ、彼ら彼女ら四人が集合した写真。それが入った写真立てである。写真立ては表を下にして寝かされていた。

 

 ―――どうしてこんな所にあるんだ……?

 

 疑問に思う。

 

 写真立ては、でんでん太鼓の隣に立てられていたはずだ。部屋に物を置かない性格の姉が飾るくらいだから、余程、大切なのだろうと分かってしまうほどに強調して置かれていた。なのに、どうして、まるで隠すようにでんでん太鼓の後ろに隠したのだろうか。

 

 サスケはでんでん太鼓を写真立ての横に置いて、代わりに写真立てを手に取った。

 

 息を呑み込んだ。

 

 写真立てに収められていた写真が、異常な形に、傷付けられていたからだった。

 

「……なんだよ…………、これ……………」

 

 ハッキリと覚えている。写真立ての中の写真には、シスイ、イタチ、フウコ、イロミの四人が写り、四者四様な表情を浮かべながらも、完璧な図形のような美しさがあったことを。

 

 だが、手に取り見下ろす写真立ての中の写真は―――四人(、、)の顔の部分が無くなっていた。

 

 きっと何か、細い先端で破ったのだろう。写真を守るガラスは白くひび割れ、その下の写真は無残に擦り破られている。

 

 どうして、写真がこんな状態になっているのか。そんな思考に囚われる。

 考えてはいけない。

 だがどうしても、考えてしまう。

 この部屋が、誰の部屋なのか。

 この写真立てを、わざわざこんなことをするのは、誰なのか。

 姉の姿、言葉、価値観、思想。

 写真立てを持つ手が、気が付けば、震えていた。

 

 頭の中に、姉の姿が明々と、浮かんでしまった。

 

 浮かべてはいけないはずなのに。

 彼女がこんなくだらないことをするはずがないのに。

 

「サスケ? ここにいるの?」

 

 突然、部屋のドアが開かれ、ミコトの声が入ってきた。咄嗟にサスケは写真立てを、自分の後ろに隠し、慌てて笑顔を作った。

 

「ど、どうしたの? 母さん……」

 

 こんな時だけ、あっさりと、普段通りを装うことができてしまう。

 ミコトはドアから顔覗かせると、笑顔を浮かべた。

 

「貴方の準備が遅いから、様子を見に来たのよ。今日は珍しく、用意に時間がかかってるわね」

「う、うん……。クナイが少し足りなくて……、ねえさ―――。から、……借りようって……」

 

 姉さんという言葉は、反射的に濁した。しかし、フウコを家族と思ってはいけないという状況では、濁したところで遅すぎる。

 今、手には写真立てを持っている。もしこれが見つかったら、母はどう思うだろうか? サスケの頬に、汗が浮き出ようとする。

 

 しかし、ミコトは怒る様子も不審に思う様子もなく、むしろ逆に、困惑した表情を浮かべた。

 

「……サスケ」

 

 と、呟いた。

 弱々しい、小さな声だ。

 

「あまり、無理しちゃ駄目よ」

「……え?」

「……クナイだったら、別の所にしまってあるわ。持ってくるから、貴方は玄関で待ってなさい」

 

 最後に笑顔でミコトは姿を消した。

 

 どうしてあんな顔をしたんだろうと、サスケは思った。

 母は、実は、フウコのことをに関しては、心配しているのか。この家で否定的なのは、フガクだけなのか。

 分からない。だけど今、より、気になってるのは……手に残っている写真立てだった。

 

 もう一度、見る。

 やはり写真は、無残な傷が残っている。

 まるで、四人の関係を、憎むかのように、恨むかのように。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 フガクとの修行は、主として、火遁の術に重きを置いたものだった。

 

 うちは一族の家紋。それは、火を操ることを示している。火を―――つまり火遁を自在に操ることができて、初めてうちは一族として誇りを持つことが許されるのだ。

 

 だからだろう。

 

 うちはの町から離れた演習場へ、フガクと共に無言で向かってはいたが、演習場に着くなりすぐに「火遁の術を見せてくれ」と言われた。

 未だアカデミー生のサスケに使いこなせる火遁は、一つだけ。

 火遁・豪火球の術。それだけである。サスケは小さな声でその事実を伝えると「それでもいい、見せてくれ」と言われた。

 

 かつて、フガクにせがんで教えてもらった火遁の術。他の火遁も教えてほしかったが、フガクはそれを許さず、かといって兄や姉に頼んでも、教えてもらえなかった。だから、ただひたすらにその術を磨いたのは、サスケの小さな誇りではある。しかし、兄や姉は、遥か彼方程の多くの忍術を使いこなすのだから、誇りと言っても、他人に見せびらかせる程のものではない、と思っていた。

 

 言われた通り、術を披露する。

 

 フガクに教えてもらった時よりも、何十倍にも大きな炎の球を作り出す。

 まだまだチャクラの操作が未熟なのか、たったの一回だけで口周りが強く火傷してしまったが、それでも今までで一番の大きさだったかもしれないと、サスケは内心で思っていた。

 

 後ろで見守っていたフガクを見上げる。

 彼は表情を変えずにただこちらを見下ろしていたが、小さく、たしかに頷いて、一言。

 

「……さすが、俺の子だ」

 

 その言葉に、サスケは喜びを感じ取り…………そしてすぐに……、姉への裏切りの気持ちがやってきた。一瞬だけ浮かべた笑顔は、膨らんだ風船が萎むように小さくなっていき、最後は俯き、下唇を噛む。

 

 さらに遅れて―――姉の部屋で見た写真が脳裏を過った。ぐちゃぐちゃになりつつある感情の波に、本当にこのまま修行をしていいのかさえ、思い始めた。

 

「他に、火遁の術は使えるのか?」

「え? ……ううん。これだけ」

「そうか。なら、他に簡単な術を教えてやろう。お前なら、すぐに覚えることができる」

 

 それからは、あっという間に時間は過ぎていった。

 フガクから教えてもらった火遁の術は、三つほど。しかし、どれもチャクラの扱いが難しく、豪火球の術のようにチャクラを溜めて吐き出す、そんなシンプルなものではなかった。

 教えてもらった術は、形だけは模倣することは出来たものの、質も量も、フガクの足元にも及ばない稚拙なものだった。

 

 三刻が過ぎ、チャクラの消費のせいで重くなった体を地面に投げ出していると、フガクは呟いた。

 

「今日はここまでにしよう」

「……俺、まだ、できるよ…………?」

「無理はするな。お前はアカデミー生だ、急いで学ぶ必要もない」

 

 昨日、兄に似たようなことを言われた。

 まだアカデミー生なのだから、慌てる必要はないと。

 けれど慌てなければ、急がなければ、兄や姉に追い付く事なんて到底できっこない。そう思うが、それを言葉にして抗議できるほどの体力は残っていなかった。

 

「俺にも仕事がある。続きは、また別の日だな」

「……父さん」

「なんだ?」

「………………」

 

 まだ蒼い空を眺めながら、サスケは躊躇いながら、そして尋ねた。

 

「……姉さんが、例えば、無実だって分かったら、どうするの? やっぱり、家族って、認めないの?」

 

 少しの沈黙。

 あの夜のように、怒られるだろうか?

 だけど、そんな恐れは無かった。疲れたからなのか、修行して気分がハイになったのか、クリアな思考で尋ねることができた。

 

 フガクは踵を返し、歩き出す。

 

 怒らせてしまっただろうか、そう思った時、彼は小さく呟いた。

 

「まだフウコの無実は完全に晴れていない。くだらんことを訊くな」

 

 固く、冷たい言葉。

 だけれど、サスケはその言葉が聞けて、少しだけ、気が楽になった。

 

 フウコの無実が完全に晴れていない。逆を言えば、晴れたら、分からない、ということかもしれない。そんな、希望的な想像を巡らせた。

 

 確実ではない。だけど、それでも、可能性があるんじゃないかと、サスケは思った。

 

「今日はミコトが、晩御飯は豪勢にすると言っていた。遅くならないうちに、帰りなさい」

「……うん、分かった」

 

 そしてフガクの背中は見えなくなり、見上げる空は薄い雲がゆったりと西へと流れていった。

 

 まだ、父と母への不信感は、完全に払拭することは出来ていない。

 だけで、でも、姉が暗部に連れていかれてから、ヒビが入った家族が少しずつ、戻ってきたような気がした。

 

「………………」

 

 だが、頭にこびりつく、違和感。

 姉の部屋で見つけた写真立ての姿。

 それだけが、どうしても、嫌な予感を招き入れてしまう。

 

 サスケは上体を起こした。修行を続けようと、口の中で呟く。まるで逃避するように、サスケは修行を続けた。

 

 

 

 そして、時間は過ぎ―――気が付けば、月が浮かぶ、夜。

 

 

 

 サスケはうちはの町を走っていた。鞄を肩にかけ、慌てて家に向かっている。

 

 その足取りは重くも軽くもない、中性的。

 ミコトが用意しているであろう豪勢な晩御飯も、フガクのことも、あまり気にはしていない。ただ、遅くなってしまい、心配をかけてしまっているのではないか、という微かな思いだけだった。

 

 うちはの町を走る。町は、静かだった。

 

 ―――今日って、何かあったかな……?

 

 ふと、そう思う。夜のうちはの町は、他の町に比べて静かなところではあるが、今はこれまでにないほどに、静かだった。

 

 そもそも。

 

 町に入ってから、人に会っていない。

 まるで丑三つ時かのような錯覚に支配されてしまうほど静かで、空気が重かった。

 

 キョロキョロと辺りに視線を振りまきながらもサスケは走る速度は変えなかった。

 きっと偶々だ、そんな安直な結論を導き出した。

 

 角を曲がり、直線の道を走る。すぐ向こうの角を曲がれば、家に着く。

 家……そう、家だ。

 自分が帰る場所、兄が帰る場所、両親が待っている場所、そして、姉が帰ってくる場所。

 

 今夜、大切な姉に会える。

 本当は、まだ容疑がかかっている姉に無許可で会ってはいけないのは知っているけれど―――そして姉への微かな不信感は残ってはいるものの―――それでも、期待に胸が膨らんでしまう。サスケの心の奥底には、やはり、フウコへの愛情があった。

 

 角を曲がると、すぐそこは、家の玄関だった。

 

「……え?」

 

 家の、玄関の前に、誰かが立っていた。

 うちはの町に入って、初めて見かけた、人の影。

 淡い月明かりのせいで、輪郭しかはっきりと見て取れない。けれど、サスケが息を止めて、足を止めたのは、その輪郭に、あまりにも見覚えがあったから。

 

 黒く長い、微かなウェーブの掛かった髪の後ろ姿。

 細くしなやかな肢体。

 右手には、漆黒の刀。

 

「……ねえ、さん…………?」

 

 自分に言い聞かせ確かめるかのように、あるいは、彼女に尋ねるかのように、言葉を漏らした。

 

 人影は、サスケの声に気が付き、振り返る。

 

 真っ赤な瞳が、こちらを向いた。

 

「……サスケくん?」

 

 高級な鈴のように綺麗で、平坦な声質が、サスケの鼓膜を心地よく震わせた。

 

 ―――間違いない、姉さんだ!

 

 拘留されているはずの姉がどうしてここにいるのか、そんな疑問は、込み上げてくる喜びを前に、思考には留まることを許しはしなかった。むしろ、姉はやっぱり無実だったのだという飛躍した考えすら浮かび上がりそうな程だった。

 

 サスケは彼女に駆け寄る。さっきよりも早い足取りで。

 

「姉さん、出てこれたんだね!」

「うん、出てこれたよ」

「早く家に入ろうよッ! ほら!」

 

 彼女の左手を握り―――そして、彼女の手が濡れていることに、そこで、初めて気が付いた。

 

「えっ?」

 

 汗だとか、水だとか、そんな感触ではなかった。

 熱を持っていて、粘っこい、液体。

 近くまで来て初めて鼻腔を痛めつける、鉄臭さと生臭さ。

 

 サスケは手を離して、自分の手を見た。

 

 赤い。

 

 自分の手に付着したそれが何なのか、すぐに、理解する。

 息が荒くなり始める。心臓の鼓動が強くなり、まるで、でんでん太鼓の音のように身体の中で鳴り響き、脳に警告する。

 写真立ての中に収められた写真には、誰の顔も残されてはいなかった。

 見上げる。

 姉の顔は、あの写真のように、潰されていた。

 

 真っ赤な血で。

 

 姉は―――フウコは嗤った。

 

「ねえ、サスケくん」

 

 頬を撫でてくる。

 赤い血が、サスケの頬についた。

 

「大丈夫だよ、怖がらないで。泣かないで」

 

 今朝、見た夢の姉は、そんなことを言った。

 だけど、目の前の姉は、夢の中の彼女じゃない。

 邪悪で、無邪気で、伽藍堂な、何かだ。

 何かで―――自分の知る、家族の姉ではなかった。

 

「安心して。痛くないように、殺してあげるから」

 




 次話も十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夜空の霹靂

 何度も、公言を破ってしまい、申し訳ございません。

 次の話は、五日以内に投稿したいと思います。また次の話の内容は、ほとんどが改訂前の引用になると思われるので、ご了承ください。


 イロミは、目を覚ます。

 

 視界一面、万遍無く広がるただただ無機質な暗闇が広がっていた。瞼を閉じている訳でもなく、かといって夜中の森の中にいる訳ではない。暗闇の正体が、自分の目を覆う布なのだと、イロミはすぐに気が付いた。

 

 瞼の上を強く覆い、後頭部で結ばれている布か何かの感触がやってくる。それに伴って、身体全身の自由を拘束する感触が伝わってきた。

 

 口にはロープで作られただろう簡易の猿轡。頬が引っ張られるせいで、下顎は碌に動かせない。肩から足先までを覆う分厚い布袋の中に身体はすっぽりと収められており、袋の上から金属物らしいもので縛られている。背中には、おそらく柱だろうものがあり、巻物は背負っていなかった。

 

 慌てて、イロミは両手を動かそうとする。だが、袋の中の両手は何かで覆われているのか、指先一つ動かすことができない。

 

 ―――どうしてっ!? ……私…………いったい……。

 

 自分が今、どんな状況にいるのか、少なくとも安穏出来るほどのものではないことは確かだ。

 

 耳を澄ませる。どうやら、耳は塞がれていないようだ。暗闇の奥から満ち溢れる静寂の隙間隙間から、微かな風音が聞き取れる。風音は遮蔽物を通したように濁っており、布越しに伝わってくる尾骶骨からの感触からして、小屋か何かに自分がいることが分かった。人が動く音は、感じ取れない。

 

 どうして自分が拘束されているのか、イロミは静かに自分の記憶を後戻りする。もしかしたら、すぐ近くに自分を拘束した人物がいるのではないかと緊張しながらも、呼吸を整え平静にする。

 

 ―――たしか……、滝隠れの里に行って…………。

 

 思い出せる限りの記憶の軌跡を辿る。

 そして思い出せた、気を失う前の記憶に、イロミは息を呑む。

 

 ―――そうだ……、内通者の人が…………。

 

 朝方に木の葉を発ったイロミは、昼頃に滝隠れの里に到着した。

 正確には、滝隠れの里だったであろう場所に出来上がった、瓦礫の山に。

 そこには滝隠れの里の忍らが何十人かが、まるで支え合うかのように集まっていた。会話はほとんどなく、まともに動きもしない。里が壊滅したということ、あるいは木の葉隠れの里に吸収されるということ、または両方なのか、絶望的な雰囲気に包まれた滝隠れの里の様子を、イロミは木々の隙間に身を潜めて観察していた。

 

 内通者とのマッチングポイントは滝隠れの里から東に三里ほど離れたところ。その場にイロミは向かい―――そして問題が発生した。

 

 ポイントで、イロミは無事に内通者の人間と会うことができた。

 互いに合言葉(イロミの場合、里を出る前にダンゾウの部下から伝えられていた)を合わせ、そしてどうしてイロミがやってきた事情を説明した。能面のような笑みを(、、、、、、、、、)浮かべ続けた内通者は事態を理解し、情報を記した小さな紙切れを貰った。

 

 鮮明に景色を覚えているのは、そこまでである。

 

 紙を貰った途端に、頭に強烈な痛みが走ったのだ。

 鈍い痛みと脳の一部が潰れたのではないかと思えてしまうほどの衝撃に、意識は抵抗なく沈んでいった。

 

 ―――……まさか、内通者の人が木の葉を裏切ったっていうことは、ない……はず。もしかして、最初からあの人は、内通者じゃなかった? 滝隠れの……?

 

 記憶の軌跡を辿り終わって、イロミは考えを巡らせる。遅れてやってくる右側頭部の痛みに歯を食いしばりながら、内通者のことを。

 内通者が裏切ったのか、そもそも内通者そのものが滝隠れの里の忍―――ダンゾウが語っていた、木の葉隠れの里に吸収されることに不満を持っている者たちだが―――だったのか。

 

 いや、しかし……今、そんなことに思考を巡らせる暇はない。まだ任務は続いているのだ。内通者から情報を手に入れることは出来なかったが、自分がこういう事態に陥った、という情報だけでも十分だろう。少なくとも、滝隠れの里に不穏な動きあり、という事実は確実なのだから。

 

 ―――周りには、誰もいない……?

 

 耳を澄ませるが、人の音はやはり聞こえない。鼻を効かせても、嗅げるのは埃っぽい湿った空気で鼻腔の奥が痒くなる。馬鹿みたいに頭を振ってみるが、自分の行動に対して周りからは何も反応は無かった。

 

 近くに、誰もいない。最低でも、目視できる位置には、いないのだろう。

 

 そこからイロミの思考は植物の根のように多種に渡って分岐する。それが、彼女の思考パターンだった。

 

 一つのことに秀でることのなかった彼女は、手数を以て困難に立ち向かうしかなかった。

 

 一の困難に、十の手段を。

 十の問題に、百の経路を。

 百の脅威に、千の道具を。

 

 数で圧倒し、圧迫し、圧殺する。

 それが、イロミのスタイル。そのスタイルを潤滑にこなすには、思考を枝葉に分けなければいけなかった。

 

 もちろん、彼女の思考が完璧であるという訳ではない。思考経路が多いというだけで、精密であるという訳でも、高速であるという訳でもないことは、彼女の才能の無さの象徴である。それでも、アカデミーの頃のような、慌てふためき、些細な恐怖に涙を浮かべ、何もない所で転ぶ、情けなく無能な彼女に比べたら尋常ではない成長だった。

 

 視界を塞がれ、自由を奪われても、彼女の思考の速度は普段の任務時と何ら遜色ない。

 

 ずっと、教えられてきたのだ。

 大切な友達から。

 任務への心掛け、どうすれば思考はスムーズに行えるか。

 自分よりも遥か先を進む親友から教えられた、宝石のような知識や経験たち。それが、今のイロミの中心だった。

 

 必ず、任務を成功させる。

 友達に会うために。

 何としても。

 

 枝分かれした思考は、それぞれ稚拙ながら最後まで辿り着く。最良の結果を導き出すのではなく、最悪を回避する為の結果を、イロミの思考は収束した。

 

 ―――………………全く動けないなら……ッ!

 

 心の中で意気込むのと裏腹に、イロミは自身の動きを一切に停止させた。呼吸はなだらか。目隠しの下で、敢えて瞼を閉じる。

 

 まるで、石のように。あるいは、木のように。

 

 全く、イロミは身体の動きを停止させた。

 

 空気が止まり―――けれど、イロミの周りには、濃密なエネルギーが漂い始める。

 

 写輪眼を持つ者が、今の彼女を見たら息を呑むだろう。彼女の身体の周りを漂うエネルギーは、彼女のものではないからだ。全て、彼女の周りの万物から溢れだし、露ほどの濃度を保ち続けている。

 

 自然エネルギーは、彼女に吸い込まれ―――そして彼女のチャクラの質が変わる。自然エネルギーを、身体エネルギー、精神エネルギーと共に混合させ、循環させたチャクラ……仙術チャクラと呼ばれるそれを、彼女は生み出した。

 それに呼応するように、イロミの顔にも変化が現れる。

 

 両頬には三本の短い獣のような髭が生え、口周りには黒い痣が浮かぶ。

 

 ―――……ッ! 痛ッ!

 

 身体の細胞がバラバラになるかもしれない、そう想像させるほどの激痛が身体中を駆け巡る。それでもイロミは身体を停止させた続けた。まだまだ、修行が足りないな、と脂汗を顔中に浮かべながらも反省する。

 

 仙術チャクラは、術者に強力な恩恵を与える。

 身体能力の大幅な向上、感覚の鋭敏化、忍術のレベルアップなどなど。だが同時に仙術チャクラの扱いには、それらの恩恵と釣り合うくらいのリスクが幾つか存在する。その中で最も危険なのは、自然エネルギーの供給過多による、身体の石化だ。

 これまで偉大な才能を持った多くの者たちが仙術チャクラを身に付けようと、世界に点在する秘境を訪れ、秘境の長達から仙術を教えられるが、ほとんどが石となり、絶命していった。それ程までに、自然エネルギーの扱いは困難を極める。

 

 では、平均未満なイロミがどうして、仙術を扱えるのか。

 

 それは―――彼女の身体的特徴に起因する。

 

 大蛇丸の研究によって生み出された彼女の身体は、細胞は、細胞レベルの外敵を呑み込み、無力化することを可能にしていた。

 その細胞は、彼女の身体が歳月と共に成長するにつれて、異様な進化を続けた。細胞は、物質的外敵のみならず、自然エネルギーさえも無力化しようと蠢くようになっていたのだ。

 

 イロミが身体に取り込み続ける自然エネルギー。その量は、通常の人間であるならばとっくに石化してもおかしくないほどに、膨大だった。それでも彼女の身体は師範の姿―――イロミが仙術を学んだのは、夢迷原(むめいばら)の主であるダルマという狸なのだが―――に似始めているものの、一部分として石化してなどいなかった。

 

 身体の激痛は、供給過多の自然エネルギーを無力化しきれていない細胞の悲鳴である。だが、細胞は悲鳴を挙げながらも、無力化を停止はさせない。彼女の肉体が石化しないのは、彼女の身体が石化してしまう基準値が、常人よりも遥かに高い位置にあるからだった。

 

 逆を言えば……身体の激痛は修行不足ではなく先天的な要因という、努力によっては克服できないものであるということだ。

 

 ―――……ッ! ここ……は、小屋……?!

 

 激痛は走り続けるが、鋭敏となった感覚は辺りの様子を鮮明にイロミの意識に届けた。空気の流れ、音の反響、臭い、湿度、チャクラが拾う触感。それらの情報は、脳内に立体的に小屋の映像を浮かび上がらせる。背負っていた巻物は、自身の左側の壁に立て掛けられている。

 

 さらには、小屋の外にいる二人の男の気配も。

 

 ―――……もう、限界…………ッ!

 

 激痛が身体の感覚を消失させようと蝕み始める。朦朧とする意識。

 

 それでもイロミは、固定されている下顎を強引に動かし、猿轡を噛む。頬が裂けるが、もう痛みなんて気にするほど余裕のある身体ではなかった。猿轡を噛み千切ると、涎と共に頬から血が首筋を生温くなぞり、落ちる。

 イロミは音を立てないよう、両手を拘束する布を突き破り、さらには身体を覆う袋を右手の人差し指で小さく穴を開けた。

 

 素早く人差し指からチャクラ糸を伸ばす。それも、彼女が学んだ多くの手段の一つ。精度も密度も、仙術チャクラを使用しているにもかかわらず、ハイレベルではなく、死にかけの蛇のように蛇行して進み、しかし、確実に巻物に接続される。と同時に、イロミの身体から自然エネルギーが霧散していった。

 

 ―――……ッ! 解ッ!

 

 チャクラ糸を通して巻物にチャクラを送り込む。

 

 次の瞬間、イロミの身体は、一糸纏わぬ姿で巻物横に移動していた。

 正確には、自分自身を口寄せする術式が解放されたのだ。

 

 緊急脱出用の【仕込み】。一度使ってしまったら、次に術式を書き込まなければ二度と使用することは出来無い上に、自分のチャクラを送り込まなければならないという条件付き。術式を書き込むには巻物を開き、筆で血とチャクラを送り込みながら書かなければならず、つまり戦闘中や今のような不安定な状況では【仕込み】をする事はできない。使い勝手は極端な状況でしか発揮されないが、あらゆる状況を想定した【仕込み】が役に立ったのである。

 

 ―――次からは……、口寄せ増やさないと…………。

 

 イロミの顔からは普段のそれに戻ってはいたが、仙術チャクラの影響で身体中が痺れて力が入り辛い。脂汗が大量に顎から零れ落ち、まるで身体がスポンジのようになるのではないかとさえ思えてしまうほど。

 

 目隠しが取れても、視界は相変わらず暗闇に包まれたまま。暗闇は目隠しをされていた時よりも明るかったが、物の輪郭が見える程度でしかない。仙人モードになっている時に、空気の冷たさから、もしかしたらとは思っていたが、やはり外は夜らしい。

 

 ―――すぐに、里に戻って……。

 

 どれだけの時間、気を失っていたのか。

 まだ気を失った当日の夜なのか、日を跨いだのか、そんな余分な思考が巡ろうとするが強制的にシャットダウンする。考えても答えはすぐに出ないし、出ても変化はない。イロミはすぐさま自分がいた元の場所の衣服を纏い、最後にマフラーを首にかける。耳を澄ませて警戒したが、空気の流れに変化は無かった。

 

 ―――……バレてない、訳じゃないよね…………。多分、警戒してる……。

 

 仙術チャクラに【仕込み】の解放。小屋の外にいる二人の人間には、間違いなくチャクラの流れは感知されているだろう。

 にもかかわらず、エントリーしてこないのは、警戒しているからだ。イロミにとっては、無闇にエントリーしてくれた方が好都合だった。室内だったら、巻物を手元に置いている自分の方が有利だと思ったからである。

 

 しかし、イロミは慌てない。冷静に、先ほど束ねた思考の紐を解き、次の行動を想定する。心臓の鼓動は、さも日常のように、一定のテンポを刻み続けている。

 

 巻物を転がして、一部の紙を床に広げる。およそ二メートルほど、中身を解いた。たった少し解いただけで、夥しい量の【封】という文字が表に出る。

 

 大小様々で、不規則な位置に並ぶ【封】の文字。それでもイロミは、その一つ一つが何なのか、把握している。

 どの状況で、どんな風に使えばいいのかも。

 

 全て、全部。

 イロミのスタイルで、フウコに導かれた、努力の一形態。

 一瞬だけ、フウコの背中が見えた。

 遥か遠くで、つまりそれは、彼女と自分の距離だ。

 何を指標とする距離なのか―――多分、実力の差。

 昔から、その実力差を埋めたいと思っていた。

 彼女に勝つ為ではない。

 彼女の傍で、共に戦えるように。

 共に、楽しい日常を過ごせるように。

 

 イロミは巻物にチャクラを送り込む。

 繊細で、けれど多量のチャクラを。

 

「―――解」

 

 次の瞬間。

 巻物から、まるで津波かと勘違いしてしまうほどの大量の水が溢れ出た。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 血の、臭いだ。

 満月が浮かぶ夜の下を波のように泳ぐ風に乗って唇に貼りつく微かな生臭さは、かつての忌まわしい記憶を容赦なく思い起こさせた。

 

 倒壊し積み上げられた瓦礫の山。

 焦げた肉の臭いと鉄が腐った臭い。

 戦争という言葉。

 まだ何も知らず、何も力を持たなかった頃の、自分。

 

 しかし、あの時よりも血の香りは薄く、見渡す町の光景は何も変化のない日常。火の元からの煙が上がっている訳でも、建物が倒壊している訳でもない。

 

 なのに―――あの時よりも遥かに、鼻を刺す血の香りは強くそして汚い。

 染みのように広がっていく黒い感情を、イタチは生まれ持った強靭な冷静さを以て必死に抑え込んでいた。

 

「にい……さん…………」

「……大丈夫か? サスケ」

 

 腕に抱えるサスケを、イタチは見下ろす。大切な弟の顔には赤い血が付着している。けれど、両眼から止め処なく流れる涙は血の付着に嫌悪している訳でも恐怖している訳でもないということは、彼の表情を見ればすぐに分かった。

 落ち着かせるように小さく笑みを浮かべ、顔に付着している血を親指で拭ってやる。

 

「怪我はないか?」

「姉さんが……、姉さんが…………ッ!」

「安心しろ、サスケ」

 

 

「流石イタチだね。あともう少し遅れてたら、サスケくんは死んでたよ」

 

 

 後ろから、声。

 高級な鈴の音色よりも澄み、聞き取りやすい平坦な声を、これまで何度も聞いてきた。

 優しい妹の声を聞くだけで落ち着けたはずのそれは、今は……抑え込んでいる怒りを増幅させるだけのものでしかなかった。

 

 顔だけを振り向かせ、そこに立つフウコを見た。

 

 イタチの両眼は、意識してなのか、それとも無意識なのか、フウコを睨む双眸は写輪眼。フウコの写輪眼と、視線が重なる。

 

 低い位置に浮かぶ満月を背に立つ彼女の右手には、抜き身の黒羽々斬ノ剣が握られている。切っ先からは血が細々と滴り落ち、地面に小さな水溜りを作っている。

 

 ほんの、一瞬だった。

 ほんの一瞬だけ、何かが遅れていたら、刀はサスケの血を吸っていただろう。

 仕事を終わらせるのが遅れていたら。

 帰り道に寄り道をしてしまっていたら。

 あるいは、町に帰ってきた時、町の異変に気付くことができず、ゆったりと歩いてしまっていたら。

 

 刀を振り上げ、今まさにサスケが切り殺される瞬間には間に合わなかった。

 

 フウコの顔を見る。

 

 冷酷で無表情。その上には、べったりと、血が塗りたくられている。

 顔だけではない。

 彼女の長い黒髪にも、白い腕にも、首筋にも、足にも。

 

 その血が、果たして誰の血なのか……想像に難くない。

 静まり返る、うちはの町。子供の笑い声すら、聞こえてこない。血の臭いは、町の至る所から届いてきていた。

 

 そして―――彼女が作った血の足跡は、横に立つ自分の家から伸びていた。

 開け放たれた玄関からは、一切の灯りは零れていない。

 物音も聞こえない。

 夕飯の香りも。

 人の気配そのものが、無かったのだ。

 

 一瞬浮かび上がる、フガクとミコトの姿。その後ろに連なる何とない日常の光景には、目の前に立つフウコの幼い姿もあった。

 

 無表情で、だけど、彼女の姿は家族としては何ら違和感のないものとして記憶の中に留まっている。決して偏った感情によるものではなく、確かに家族として歩んできたからこその、事実だ。

 

 その記憶が、イタチの冷静さを保たせる。血塗れの妹が決して、こんな凶行に動くわけがないと。たとえ彼女が町を殺したのだとしても、きっと何か理由があるのだと。

 

「フウコ、何があった」

 

 心の中で願う。

 

 何かの間違いであってほしいと。

 何か原因があって、こんなことをしたのだと。

 言ってほしいという、淡い期待。

 

 平和で、平穏だった(、、、、、、、、、)うちは一族を殺した理由を―――。

 

 

「……ふふふ」

 

 

 耳を疑った。

 

 フウコが―――笑ったのだ。

 

 鼻で軽く息を吐きながら笑い、そして、すぐに彼女の笑みは大きくなる。だが、彼女が初めて笑った時のような、サスケが生まれたあの日のような、綺麗で透明なものではなかった。

 

 もっと邪悪で、あるいはもっと無邪気に、嗤いだした。

 

「ふふふ……、あはははははははははッ!」

 

 口端を吊り上げて、目端を下げて。

 子供のように。

 肩が上下し、頭をカクカクと揺らし、壊れた人形のように。

 刀を持っている右腕で腹を抱え、左手で顔を抑えて。

 フウコは嗤う。

 

 静まり返り、滅んでしまった町。それらを嘲笑う甲高い声は夜道を駆け回った。「姉さん……」と、サスケが怯えきった声を漏らす。だが、イタチは、そうではなかった。

 

 フウコへの、

 妹への、

 淡い期待は、

 生まれ持ち、育んできた冷静さが、

 瞬く間に悲しみと怒りが一つとなった殺意によって、浸食されていく。

 

「……分かってるくせに」

 

 指の隙間から覗かせる赤い瞳が嗤うのを止めて、失望した眼差しへと変貌する。

 

 フウコの姿がブレた。ただぼんやりと立っているフウコと、刀を振り上げてこちらに駆けてくる姿の透けたフウコに別れる。

 それは、イタチの写輪眼が捉えた、未来の予測。数瞬遅れて、本体のフウコはその予測に従って向かってきた。

 

 写輪眼を持っていなければ、決して反応できないであろう速度。

 クナイを右手で逆手に取り出し、瞬時に火に性質変化をさせたチャクラを帯びさせ、刀を受け止める。

 

 一切の容赦のない斬撃の重みが腕の筋肉を震わせる。

 目の前には、写輪眼を浮かべ、真っ赤な笑みを貼りつけたフウコの顔が。

 

 どうしてだろうか。

 

 大切な妹の顔が目の前にあるのに。

 心が冷えていく。

 

「フウコ、俺はお前の味方だ。本当のことを話せ」

「本当のこと? イタチは、何を聞けば本当のことだって、信じてくれるの? こんなに分かりやすくしてあげてるのに」

 

 彼女の写輪眼からは、まるで迷いが無い。

 ガラス細工のような透き通った瞳の奥、それをイタチは見つめ続ける。

 微かな曇りがあるのではないか、微かな苦悩があるのではないかと、眉間に皺を寄せて見つめ続ける。

 

「俺は……お前を信じてる」

「馬鹿みたい。血も繋がってない他人を信じるなんて……。イタチって、そんなに頭が悪かった?」

 

 それでも、淀みなく耳に入り込むフウコの声、そして迷いのない眼。

 今まで何度も耳にし、何度も見てきた。

 普段と変わらないそれらに、頭の中に起き上がる、彼女との数々の平和で平穏な毎日。

 

『流れ星って、今まで一度も見たことない。イタチは、見た事ある?』

 

 サスケが生まれる前の、淡々と夜空を見上げる彼女。

 

『でんでん太鼓を鳴らしながらだとミルクあげれないから、イタチがサスケくんを持ってあげて』

 

 哺乳瓶を片手に、真剣にでんでん太鼓を鳴らす彼女。

 

『アカデミーって、勉強以外にやることはあるの?』

 

 入学式を経た後に、どこか不思議そうに首を傾げる彼女。

 

『今日は、いい天気。×××の××××を××れたら、皆でまた、冒険したいね』

 

 ハッキリと思い出すことは出来ない不可思議な記憶の中で青空を見上げ、小さく呟く彼女。

 

「イタチ、分かってるんでしょ?」

 

 そして目の前に、笑みを浮かべる彼女。

 眼の奥が熱くなる。

 怒りなのか―――誰への?

 悲しみなのか―――誰への?

 イタチは奥歯を強く噛んでから、呟いた。

 

「……俺たちは、家族だ。血の繋がりは関係ない。フウコ頼む…………本当のことを言ってくれ。何があった……」

「……つまらないな」

 

 一歩フウコが踏み込んできた。クナイを持つ腕に力が加えられる。

 

「イタチとなら、楽しい勝負が出来ると思ったのにな。フガクさんやミコトさんと同じ。このまま、死にたいの?」

 

 また一歩、踏み込んでくる。

 

「私ね、ずっとこの日を待ってた。今まで貯めてきた努力を、思い切り吐き出せる日を。だけど、力のある人たちは皆、口を揃えて平和を言う。私が任務で殺してきた人たちは皆弱くて口先だけ。もう我慢できなかった。自分がどれくらい強いのか、忍としてどれくらい価値があるのか、知りたかったの。なのに皆、弱かったり、何もしなかったり。ふふふ、うちは一族って口ばっかりの能無しだった。フガクさんとミコトさんには期待してたんだけど、馬鹿みたいに、イタチと同じことを言ってた。つまらないから、すぐに殺したけどね」

 

 ああでも、とフウコは続けた。

 

「シスイは良かった。シスイは本気で私を殺しに来てくれた。あの夜は、楽しかったよ。楽し過ぎて、暗部に拘留されても、ずっと興奮が冷めなかったんだ」

 

 本当に楽しかった。

 凄く怒ってた。

 本気で殺しに来てくれた。

 今までのシスイと過ごした時間の中で、一番、大好きだった。

 

 冷静さと、輝かしい記憶が、塗り潰されていく。

 それでもイタチは、妹を信じる心だけは守った。

 半ば義務感に任せて。

 家族として、兄として、守るしかなかった。

 

 けれど、次に耳にした音が、最後のそのストッパーに亀裂を与える。

 

 骨の折れる音だった。

 まるで小枝が小鳥の足で折られるかのようなコミカルな音は、後ろからだった。

 僅かに顔を傾けて、目の端で捉える。影分身体であろうフウコが、サスケをうつ伏せに組み伏せているのを。サスケは右腕を後ろ手に捉まれ、口元をフウコの左手が塞いでいた。

 

 ポキリ。

 

 また、音が鳴る。

 背筋を凍らせ、頭部を熱くさせる、最悪の音だ。

 痛みに涙を流し、くぐもった声を挙げるサスケは必死にイタチに助けを求めていた。

 

「ほら、イタチ。本気を出さないと」

 

 ポキリ。

 

「サスケくんが可哀想だよ? このまま、身体中の骨を折られてもいいの? イタチは酷いね」

 

 ポキリ。

 

「もう面倒だから、腕を折るね」

 

 ゴキン。

 

 これほど(、、、、)

 |これほど、耳を覆いたくなる音が、あるだろうかと《、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、》、そう思ってしまう。

 

 サスケの両脇に、いつの間にか、フガクとミコトの姿。

 二人は悲痛な表情を浮かべて、こちらを向き、立っている。

 その後ろには、二人のフウコが。

 彼女はつまらなそうに刀を振り降ろし、あっさりと二人の背中を切りつける。倒れた二人の血は無情に地面を濡らし、動きを止めた。

 

 イタチは瞼を閉じた。

 強く、強く。

 

「……フウコ、いい加減にしろ」

「ふふふ。どうしたの? イタチ。私を見て。いつもイタチは、私を見てくれた。どうして今は、見てくれないの?」

「もう一度……訊く。フウコ、何があった」

「何もないよ―――イタチ」

「……そうか」

 

 その言葉を最後に、イタチの冷静さは、確固たるものとなった。

 

 確かに強固となった冷静さは、けれど、全く別のベクトルへと切り替わった。

 業火をも呑み込む怒りと悲しみを手早く纏め、細くし、形を整えた。さながら、刃のように。

 

 楽しかった記憶も。

 嬉しかった思い出も。

 希望に満ち溢れた未来も。

 黄金に輝いていた過去も。

 パズルのように整列させ、どんな埃が被らないように宝箱の奥底へ。

 

 そして刃を手に、瞼を開ける。

 

 世界がガラスのように粉々となった。

 

 幻術を退ける。

 現れた実の姿は、フウコが刀を振り上げこちらへと向かってくる前のそれと、幾分も違わぬもの。

 いや、少しだけ異なっていた。

 

 対峙するフウコには、どこか穏やかな表情が。

 

 イタチはちらりと、後ろを振り返る。

 

「サスケ。お前は離れて、目と耳を瞑っていろ」

「……え?」

「俺はこれから―――」

 

 そこから先の言葉が、喉元で止まる。

 きっとまだ、最後の最後に、彼女のことが大切だと思っている自分がどこかにいるのだろう。

 大切で、自分の誇りで、敬愛する、妹を。

 

 続きの言葉を言ってしまえば、もう、全てが取り返しのつかないことになってしまうのではないかという恐怖が、最後のストッパーになっていた。

 

「やだよ! 俺……だって、姉さんがこんなこと……ッ!」

 

 サスケの言葉と思いに、腕が小さく震えた。

 躊躇いは、けれど、フウコがそれをあっさりと退けようとしてきた。

 

「ふふふ。覚えてる? イタチ。昔、アカデミーの頃、ブンシ先生が言ってた言葉。掟を守れ、って言ってたよね? 掟を守れるくらいに強くなれって」

 

 鮮明に覚えている。

 ブンシの言葉を。

 他の生徒に苛められたイロミの仇討ちをした時、眉間に皺を寄せたブンシが言っていた。

 

 掟を守れ。

 

 どんな理由があっても、掟は守れ。掟は、人々を幸福にしたいという思いが作ったものだ。もし掟が気に食わないなら、それを変える掟もあるのだから、それに準じろ。

 それでも掟が許せないなら、掟を守れるくらいに強くなれ。

 守れないくらい弱いガキのくせに、生意気を言うな。

 どんな理由があっても、同じ里の人を傷つけるのは間違いで、だからあたしはお前らを殴ってるんだ。

 

 拳骨の痛みと共に思い出される言葉は、イタチの刃を強くする言い訳となった。

 

「私は、掟を破ったよ? きっとブンシ先生に怒られる。じゃあ、イタチはどうするの? 掟を破った私を、どうするの?」

 

 小さくイタチは視線を下げた。ちょうど、フウコの足元。

 眼の奥の熱さは上へ昇り、頭を熱くする。

 そして再び、熱は眼の奥に戻り、そのまま【眼】そのものへ。

 

 脳裏に浮かんだのは、いつか彼女の手を握ってアカデミーを出た時の光景。

 その手をイタチは、離す。

 あるいは既に、彼女から手を離されたのか。

 少なくとも幻術から感じ取っていた彼女からのチャクラには、容赦も躊躇いも無かった。

 

 一度、深呼吸をする。

 血の香り。

 最も大嫌いな臭いで、それらが大好きな町と大好きな家からするのが、たまらなく嫌だった。

 

「……いいだろう、フウコ」

「ふふふ。あははははッ! そういえばイタチは、今まで私に勝てたことはなかったよね? でも、殺し合いなら、どうかな?」

「俺は―――」

 

 イタチはゆっくりと顔を上げ、フウコを睨み付けた。

 

 写輪眼は―――三枚刃の手裏剣模様を浮かべた、万華鏡写輪眼へと。

 

「俺はお前を―――殺す」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 右眼の視界が黒くなった。

 暗くなったのではなく、黒く染まった。

 物と物の輪郭が白一色となり、それ以外は全て黒に塗り潰される。

 

 だが、黒い部分は徐々に、焦点に向かって円形に凝縮されていく。黒い部分が凝縮されていくにつれて、右眼は激痛に苛まれ、血涙を流した。それでも黒い部分は揺るがない一定の速度で、焦点に集中した。

 

 さながら、太陽の光を虫眼鏡で一点に集中させるように。

 焦点は、フウコの顔を捉えていた。

 

「……ッ!?」

 

 フウコの表情が一瞬だけ強張る。イタチの両眼が万華鏡写輪眼に変わっていたこと、そして血涙を流す右眼が自身の顔を見ていること。彼女は凄まじい速度で印を結び、両手で道の上を叩いた。

 

「土遁・案山子壁(かかしかべ)ッ!」

 

 フウコの前に、地面が抉れ石の壁が出現する。途端、彼女の顔の位置を防ぐ石の壁に、炎が点火された。

 ただの炎ではない。

 夜よりも深く、太陽よりも熱を発する、黒炎だった。

 

「……それが、イタチの万華鏡写輪眼の力なんだね」

 

 激痛のあまり右手で右眼を抑えるイタチを、フウコは壁の横から顔を出して呟いた。

 

「あまり使わない方がいいよ? すぐに身体が疲れるから」

「……フウコ………お前に手加減ができるほど、今の俺は冷静じゃない…」

「嬉しい。私を本当に殺す気で来てくれるんだね。じゃあ、今度は私の番だね」

 

 石の壁の後ろから、三つの影が飛び出す。

 三体の影分身体。一人は壁伝いに走り、一人は家の上を走り、一人は上空から。

 イタチは右手を離す。

 既に右眼は、激痛のあまり通常の眼へと戻ってしまっていた。左眼の万華鏡写輪眼は左手の壁を走るフウコと上空のフウコの動きを予測していたが、右手の方は捉えきれない。

 

 すかさず、自身も影分身の術を使い、一体だけ影分身体を作る。その一体を、右手の彼女に。オリジナルはほぼ同時に、クナイに炎を纏わせ右手の彼女に投擲し、左眼で左手の彼女と視線を交わす。

 

 写輪眼による幻術で、その彼女を取り囲む。

 

 だが、その幻術も、これまでのそれとは大きく異なっていた。

 相手の意識の中に入り込むような侵入感。肉体と精神の時間の進む速度の乖離が何を示しているのか、イタチはすぐに理解し、左眼の万華鏡写輪眼の特性を把握した。

 

 精神世界においておよそ二十四時間、彼女を押しつぶし続けた。

 絶叫の元に意識を手放した影分身体の彼女は元のチャクラへと霧散した。

 

 そして、左眼にも激痛が。だが、左眼は右眼のようにはならなかった。血涙は流れたが、それでも、通常の写輪眼に戻る程度。既に左眼は、石の壁から顔を覗かせているオリジナルを観測していた。上空のフウコには目もくれない。

 

 オリジナルは印を結んでいた。彼女の片腕しか見えないが、どの印を結んでいるのか、腕の筋肉の微かな隆起と腕の動きで術を予測していた。

 

 上空のフウコが迫ってくるが、右手側に異変から爆発が。

 

 起爆札を忍ばせていた影分身体のイタチが自爆をし、右手側のフウコ諸共吹き飛んだ。爆風は、オリジナルが投げたクナイを真横に軌道を変え、回転しながら上空のフウコの首を切り落とす。

 

 フウコとイタチの間に、上空のフウコが霧散して現れた小さなチャクラの煙が、一瞬だけ視界を遮った。イタチは印を結ぶ。

 

「風遁・風切阿吽(かざきりあうん)

 

 結び終わる前に、フウコは術を発動させた。

 風が音たてて、爆発する。

 黒炎を纏った石の壁は爆発に身を任せて、散弾のように広がりイタチを穿とうとしてくるのを、写輪眼は一つ一つ観測し、その中心点を導き出した。

 

「火遁・豪火球の術」

 

 中心点に目掛け放たれる巨大な炎の塊は、サスケが身に着けたそれよりも三倍ほどの大きさとうねりを以て散弾を呑み込み、塵へと返していく。呑み込まれなかった散弾は壁や家を砕き、抉り、衝撃によってやはり、塵になる。

 燃やすものを失った黒炎は消えてなくなり、炎の塊はそのままフウコをも呑み込もうとする。

 

 普通の上忍や暗部なら、完全に躱し切ることは困難なタイミングだ。

 

 だが、イタチは知っている。

 彼女なら完全に躱して見せることを。

 これまでの忍術勝負で、そうだった。

 忍術でも、幻術でも、体術でも、彼女を捉えきれた試しはない。

 

 彼女は誰よりも速かったから。

 自分よりも遥かに、先を歩いていたから。

 

 だから、イタチは炎の塊を、再び右眼を万華鏡写輪眼へと変貌させて焦点を合わせた。

 黒炎が灯り、炎そのものを燃やし尽くす。

 フウコの姿が見える。彼女の表情は小さく瞼を開き、驚いていた。

 同時に、左眼も再び、万華鏡写輪眼へ。

 右眼の激痛。朦朧とし始める意識は、けれど確かに、イタチの中の怒りを軸に保たれていた。

 

 左眼がフウコの双眸を捉え―――イタチが規定した精神世界へと引きづり込んだ。

 

「……ふふふ、イタチは凄いね」

 

 両腕を吊るされ拘束された彼女の精神は、しかし、目の前に立つイタチを笑ってみせた。孤独で束縛されたというのに、嗤っている。

 

「左眼の万華鏡写輪眼は、幻術系なんだ。でも、イタチも知ってるよね? 私も、万華鏡写輪眼を使えるってこと」

「ああ、分かってる」

 

 彼女が万華鏡写輪眼を開眼しているのは、知っていた。

 どういった経緯で知ったのか、今は、思い出せないが。

 相手の意識を一瞬で眠らせる【高天原】

 相手の身体を操ることが出来る【天岩戸】

 

「同じ万華鏡写輪眼なら、私の方が長く使ってるから、こんな幻術、すぐに解けるよ。いくら幻術の時間を調整できても、意味がないよ」

「そうだろうな。お前なら、俺が何をしても、すぐに終わらせることが出来る」

「次は、何をしてくるの? さっきの炎を炎で燃やすのは、驚いたけど、今度はどうするの? ふふふ。もっと、色んな事してみせてよ。忍術勝負の時みたいに」

 

 彼女の両眼が万華鏡写輪眼へと変わる。

 左右非対称の、不可思議なそれに。

 同時に、世界にヒビが入り始めた。

 もう数秒もすれば、幻術は破られるだろう。

 

 けれど、それは、予測していた。

 冷徹な殺意が導き出した、確固たる予測は、既にフウコを詰んでいた。

 

「終わりだ、フウコ」

「どうして? 幻術に嵌めただけで、勝ったつもり? 幻術が解けても、一瞬しか時間が進んでいないのに―――」

「終わりなんだ、フウコ」

 

 世界が砕かれ、

 現実が現れる。

 フウコの息を呑む音が、すぐ目の前で聞くことが出来た。

 

 イタチの左眼の万華鏡写輪眼の力―――月読。

 それは、術者があらゆることを規定した精神世界に相手を引きづり込む幻術。精神世界の時間も空間も、イタチが決め、相手は実体験と錯覚させられてしまうほどの強力な術だ。

 

 一瞬を何十時間にも引き延ばすこともできれば、逆に、数秒を一瞬に縮めることも、出来る。

 

 精神世界での短い会話は、現実世界では数秒の時間を経たせていた。

 

 精神世界と現実世界でのラグ。

 フウコは、影分身体が経験した月読を元に、現実世界の情景を予測するだろうということを、イタチは読んでいた。故に、影分身体と作り、オリジナルを含め三方向を囲み、今まさにクナイで彼女の急所を捉えようとしているなどとは、フウコは思わなかった。

 

 三体同時。

 

 今から両眼の万華鏡写輪眼で一人を眠らせ、一人を操作しても、最後の一人は間に合わない。

 

 つい先ほど手に入れた、万華鏡写輪眼の力を、イタチは類稀なる才能と、生まれ持った冷静さによって、完全に使いこなすことが出来ていた。

 フウコの思考すら上回る、状況把握能力。

 

「イタチ―――ッ!?」

 

 驚愕に染まったフウコの声が、イタチの耳に届くが、クナイは止まらない。

 

「死ね、フウコ」

 

 そして、

 三体のイタチのクナイは、フウコの皮膚を突き破り、

 

 

 

 折れた。

 

 

 

 金属音が、夜に残響し、思考が停止してしまったイタチの耳に不気味に残る。

 

 どうして、クナイが折れたのか。

 クナイの先には、確かにフウコの皮膚を突き破った肉の感触はある。しかし、そのすぐ下が、鎧を纏ったかのような硬い感触で塞がれている。

 

 印を結ぶ暇は与えなかった。

 肉体の下に鎧を埋め込むなどということは、これまでのフウコの動作からは考えられない。

 

 オリジナルのイタチ―――クナイを胸に突きつけている、真ん中の―――は、顔を上げて、フウコの顔を捉えた。

 

 彼女は嗤っている。

 血塗れの顔の周りには、灰色のチャクラが漂い始めた。やがて灰色チャクラは、彼女の身体の下から浮かび上がるように溢れだし、半面に割れた般若の面が、姿を現した。

 

「ふふふ、残念だったね、イタチ。結局、私には、勝てなかったね。万華鏡写輪眼を頼っても、勝てなかった。弱いね、イタチは」

 

 クナイを折ったそれが、姿を現す。

 左腕三本、右手二本の、チャクラの塊。

 それが両腕を一本ずつを振るって、まず二つの影分身体を吹き飛ばす。

 残った腕はオリジナルのイタチを掴まえた。

 万力のような力が、イタチの身体を押し潰そうとする。

 両腕の骨に、ヒビが入った。

 

「……ッ!?」

「ふふふ、このまま押しつぶしてあげる?」

「兄さんッ!?」

 

 後ろのサスケが声を張り上げ、フウコに向かった。その両眼は、彼が求めていた写輪眼へと進化している。

 フウコはつまらなそうに、チャクラの腕でサスケを払い、後方へと吹き飛ばす。

 

「……フウコ…………ッ!」

「イタチは弱いね。凄く弱い。可哀想なくらいに。あんな虫みたいに弱いサスケくんが助けに来ようとするくらい、弱いね」

 

 頬を優しく撫でられる。

 べっとりと付いた血が付着している左手で。

 憐れむように見上げる彼女。

 二度の万華鏡写輪眼の使用で、イタチの両眼はもう、写輪眼へと戻っていた。本当なら、通常の瞳に戻ってもおかしくないほどのチャクラの枯渇と身体の痛み、疲弊。しかし、怒りだけを糧に、両眼はその状態を保った。

 

「だから、今日だけは、生かしてあげる。もう、弱い人を殺すのは飽きたから。でも次に会った時は、殺してあげる。こんな風に、押し潰して」

 

 さらに力を込められた。

 肋骨に、ヒビが。

 

「……ッ!」

「あはははッ! 怖い? 死ぬのが、怖いでしょ? イタチは弱いから、死ぬのは怖いよね。安心して、殺さないであげるから。だから、もう二度と、私に顔を出さない方がいいよ。きっと、私は怖いから」

「……ふざけるな……お前は、俺が…………ッ!」

「バイバイ、イタチ」

 

 途端に、チャクラの腕から解放される、浮遊感。

 

 そしてフウコの左手には、チャクラの塊が。

 完全な球形のそれは、小さな台風のようだった。

 

「螺旋丸」



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

思い出の裁定

 前話で書かせていただいた通り、今回の内容の殆どは改訂前の文章を九割以上引用しております。

 また、今回の話を境に、改訂前の話は一通りは【改訂終了】ということになりますが、タイトル及び各章の【改訂版】という文言を取り消すことは致しません(改訂した、という事実は変わらないためです)。また、タイトルの前書き部分における注意書き(のようなもの。つまり、※の部分ですね)を削除することも致しません。

 次話は十日以内に投稿したいと思います。ご意見、ご感想などがございましたら、ご容赦なくお申し付けください。


 満月が浮かぶ夜の下には、のっぺりとした幾つもの薄い雲が隙間を大きくとって広がっていた。夜が深まるにつれて、下降していく気温の中を、海中を泳ぐように夜鷹が飛び立っていく。夜鷹の羽が空気を叩き、あるいは裂く音は、足元に広がる森の中に吸い込まれ、木に止まる一匹の梟の首を傾げさせる。

 

 首を傾げた梟の黄金色の瞳には、一人の少女が映りこんでいた。

 

 大きな巻物を両腕で抱き、緑色の長いマフラーを首に巻いた、特徴的な髪の色をした少女。少女の全身は、大雨の中を駆けてきたのかと思えるほどにずぶ濡れになっていた。毛先が白く根元が黒くそして長い前髪はぴったりと少女の顔に貼りつき、衣服は重たそうに身体中にのしかかっている。

 

 イロミはグローブを外した両の指に絡ませている黒い糸からの振動に意識を集中させながら、目の前の梟に大きく息をぶつけた。梟は瞼をしばたたかせると、その柔らかな羽毛を纏った両翼で音もなく夜空へと飛び立った。

 

「……ふう。……何とか、撒いたかな」

 

 口端に入り込む水滴を、座り込む太い木の幹に吐き捨てる。

 両の指に絡ませた、幾本もの黒い糸。それは、辺りに広がっている森の中に十重二十重と張り巡らせられている。

 追跡者の存在を感知する為の【仕込み】。感知忍術を使えない彼女は、糸から伝わってくる振動のパターンによって追跡者の有無を知るという原始的な方法を用いるしかなかった。

 

 木の上に身を潜めて、しばらく。

 

 イロミの指には何の振動も伝わってこなかった。

 獣が触れるには高い位置に糸を巡らせ、鳥が止まれるほど目視が容易くなく低い位置に設置してある。もちろん、完璧にバレないという保証はない。だが、出来うる限りの【仕込み】を使って、逃げたつもりだ。

 

 小屋で大量の水を放出して―――。

 

 イロミは徹底的に逃げに力を注いだ。

 

 相手が二人いるということ、自身の実力を過信していないということ、そして戦うことが目的ではないということ。それらの要因を考慮した上で、イロミは戦うことを避けた。

 

 大量の水を解放したイロミは、水が重力に従って広がる力に身を任せた。小屋の外にいた二人の忍は、流石にその事態を予測していなかったのか、抵抗する間もなく水に呑み込まれ、その隙にイロミは逃げ出した。

 

 特に方向は決めていなかった。

 

 もしかしたら木の葉隠れの里とは反対の方向に走っているかもしれないが、まずは逃げることが第一。進行方向には森が鬱蒼と広がっており、その手前でイロミは全力で【仕込み】を放出した。

 

 巻物の中にある大量の煙玉をばら撒き、光玉と起爆札もばら撒き、さらには煙幕に乗じて無味無臭の眠り薬を粉末状にしたものも大量にばら撒いた。森の中に入ってからは後ろを振り向くことなく、糸の結界を張り巡らせ、そして今に至っている。

 

 追跡者がもし、大量に放出した【仕込み】で気を失っていなかった場合、間違いなく自分は発見されている。身体から零れ落ちた水滴の痕跡はわざと残した。それを辿ってくるはずである。

 しかし、しばらく時間を経たせて待機した結果、エントリーしてくる訳でも、糸に反応がある訳でもなかった。

 

 撒いた可能性は高い。

 

 だが、もちろん安心なんて出来ない。僅かな可能性が残っているなら、無闇に動くわけにはいかない。かといって、また仙人モードになれるほど身体に余裕は無い。

 

 両の指に絡ませた糸を外し、近くの細い枝葉に引っ掛ける。

 

「―――解」

 

 巻物に小さくチャクラを送り込むと、【窓】から黒い丸薬が十個ほど出現した。

 

 兵糧丸と呼ばれる丸薬である。一粒使用するだけで、使用者のチャクラを一時的に増幅させる効能を持つが、イロミにとっては一粒ではほとんど効果はなかった。その本当の理由を、イロミ自身は知らない。体質の問題だろうと、医療忍者の人から言われている程度。一度に摂取しても良い数は十個という診断である。

 

 ガリガリとそれらを噛み砕く。一個なら我慢できるが、十個ともなると口の中に凄まじい苦味が広がった。だが呑み込むとすぐさま身体中が熱くなり、力が漲ってくるのを感じる。【仕込み】の解放で消費したチャクラ分が湧き上がる。

 

 口を大きく開け、猿轡で出来た口端の傷口をわざと大きくした。左手の親指で傷口からの血を掬い、火傷痕が残る額に押し付ける。巻物を背負い、印を結び、幹に左手を添えると、チャクラの放出と共に一瞬だけ術式が浮かび上がった。

 

 口寄せの術。

 

 手を離し、術式から出現したのは、一匹の雄狸だった。

 両腕で抱えれる程度の大きさで、頭には一枚の木の葉を乗っけている。

 その小さな雄狸は、しかしイロミに仙術を学ばせた秘境・夢迷原の主だった。

 

「ダルマ様、夜分にお呼びして申し訳ありません」

 

 ダルマと呼ばれた狸はイロミの声にのっそりと艶やかな毛並みを持つ背中を動かし、眠たそうな目でイロミを見上げた。

 

「……な~んじゃ~、イロミか~? あ~いかわらずお前は~、空気を読めんの~。そしてお前は~、いつ~になったら~、ワシ全部を呼べるようになる~んじゃ~?」

 

 普段から変に間延びした喋り方に眠気が拍車をかけて言葉を聞き取り辛くしたが「すみません」と、夜中に呼び出したことと、一部分しか呼び出せなかったことに頭を下げた。

 

 目の前にいるダルマは、本体の一部でしかない。千変万化(せんぺんばんか)の大狸であるダルマには、もはや正しい形というものがなく、質量は巨大だった。その為、イロミが口寄せできるのはその一部であり、尚且つ目の前に口寄せしたダルマはイロミが敢えてチャクラ量を調整した結果だった。

 

 未熟であると、遠回しにダルマに言われるが、今はそれを気にしない。

 

 イロミは言う。

 

「ダルマ様、お願いがあります」

「なんじゃ~?」

「今、私は追われています。追跡者は二人です。近くにいるか探してください」

「……しかたないの~。仙術が未熟じゃからだぞ~」

 

 呆れながらも、ダルマは下半身を切り離す。離れた下半身は三十ほどに細かくなり、蛇、鼠、兎、蝶など幾つもの生き物に変化し地面へと降り立つと四方八方へと駆けていった。

 

「もう一つ、お願いがあります」

「も~、なんじゃ~」

「木の葉隠れの里を探してください」

「お~まえは~、中忍にもなって~。しようがないの~」

 

 追跡者、という話しからある程度状況を理解してくれたのか、これまた呆れながら残った上半身を四十ほどに細かくし、今度は全てを小鳥にして夜空へ飛び立った。

 

 少しして。

 

 まずは下半身のダルマが戻ってきた。三十ほどいるダルマの一部の内、一匹の蛇が報告した。

 

「辺りには~、だ~れもおらんぞ~」

 

 その報告にイロミは胸を撫で下ろす。仙術チャクラを自在に使いこなせるダルマが散策したのだから、間違いはないだろう。続いて上半身の方のダルマも戻ってくる。四十もの小鳥たちは下半身のそれらと混ざり合うかのように一つになり、元の狸へと戻った。

 

「こ~こから~、南南西の方向に~、里が~、あった~ぞ~。あ~、つまりあっちじゃな~」

「ありがとうございます。この恩は、いつか必ず」

「月見うどん~、十杯~で、ゆるそ~。おやすみじゃ~」

 

 眠たげな声が残響して、ダルマは煙と共に消えていった。すぐさま南南西の方向へと走る。ちょうど、自分が森の中に入ってきた道を後戻りすることはない方向だ。グローブを付け直し、糸をそのままに放置し、枝を蹴る。

 

 暗闇の中には、自分が動く音と微かな風音しか響かない。

 

 もう、追跡者が追ってこないことは分かっている。だからこそ全力で乱暴な動作で駆けるのだが、イロミの足を速くさせるのはそれだけではなかった。

 

 里に戻れば、親友のフウコに会うことが出来る。

 地面を蹴ると、木の太い枝を蹴ると、彼女に会うことが出来るという期待が膨らんでいく。

 たった数日しか会っていない。なのに、友達に会えるというだけで、感情が身体を先行する。

 

 濡れて重くなったマフラーをたなびかせ、進み、そして見慣れた森の風景になってきた。里の周りに広がる森に戻ってきたのだ。この辺りにもなれば、里の周辺を警備している忍が周回しているエリアになる。駆ける速度は向上しなかったが、気持ちは逸ってしょうがない。

 

 止まることなく、スムーズに地面を蹴り、太く大きな木の枝へとしゃがみ込むように着地する。そのまま膝を伸ばして次の枝へと視線を動かす。

 

 着地地点には右足で止まり、体勢は今と同じ、折れそうだからなるべく衝撃を抑えるように……。無意識にそんな計算が頭に流れる。

 

 イメージした通りの姿勢で枝を蹴ろうと重心を前へ。

 

 不意に風が吹いた。

 風は真横からで、唇を優しく撫でた。

 視界の端に見えたのは、ほんの一瞬だけで、けれどその刹那だけの情報によってイロミの中に保存されている記憶が呼び起される。

 

 見えたのは、黒く長い、ウェーブのかかった髪の毛で、呼び起されたのは大切で大好きな友達の後ろ姿だった。

 

 慌てて振り返ると、微かに見える黒い影は音もなく木々を駆けていくのが見え、瞬く間に遠ざかっていく。

 

 そんなことが、ある筈がない。イロミは半ば停止しかけた思考の中で思った。

 

 彼女は、今、里にいるのだから。

 あらぬ疑いで、暗部に拘束されているのだから。

 彼女が横を通り抜けるなんて、ありえないのに。

 

「……ッ、フウコちゃんッ!」

 

 だがイロミは、影が消えていった方向に、そう呼びかけた。

 たとえ一部分でも、大切な友達を見間違えることを、イロミの無意識は許さなかった。

 影はイロミの呼びかけを一切に無視して、里があるのとは全く逆方向へと進んでいく。イロミは慌てて同じく方向を変えて、影を追いかけた。

 

 ―――どうして、フウコちゃんがッ!? ……まさか…………。

 

 影を全速力で追いかけて、脳裏に過る不安。

 暗部に拘留されているはずの彼女が、どうして夜の今に里を出ているのか。

 容疑が解かれて自由になったのだろうか。しかし、その思いは、ずっと胸に秘めていた願いは、どういう訳かゾクゾクと寒気に震える頭が否定しようとする。

 

 里に向かっていたのとは真逆の感情。その感情は先ほどよりも逸り、身体を先行させようとするが、影との距離は広がっていく。

 

 なのに、距離が開けば開くほど、影が彼女だという判断が大きくなる。

 

「ねえ、フウコちゃんなんでしょ?! 私、イロミだよッ! 止まってッ!」

 

 追跡者のことなど全く気にせず、声を張り上げる。間違いなく声は届いているはずなのに、影は止まることなく進んでいく。

 

「……ッ! 解ッ!」

 

 背負った巻物にチャクラを送り込む。

 解放された【仕込み】は、イロミ自身の体格よりも大きく、丸い狸の傀儡だった。頭には唐笠、左手には四角い箱、真ん丸と大きいお腹の中央には『誠』と書かれているそれに、イロミは両の指からチャクラの糸を伸ばし接続する。

 

 傀儡の術・大嘘狸(おおうそだぬき)

 

 イロミが唯一使える、忍術らしい忍術。わざわざ砂隠れの里に赴き、習得した忍術だった。

 

 傀儡に接続したチャクラを動かす。カタカタと口元を鳴らしながら、大嘘狸はイロミを遥かに上回る速度で影に近づくと、そのままの勢いで影に体当たりをした。影は力無く身体を傾けて、地面に着地し、完全に足を止めた。

 

 遅れてイロミも、地面に下りる。影との距離は十メートル後半ほど。イロミは傀儡を自分の後ろに置きながら、叫んだ。

 

「フウコちゃん……フウコちゃんなんでしょ!」

 

 暗闇でも、はっきりと輪郭は見える親友の後ろ姿は、ようやく振り向いた。

 

 満月の下に雲が泳いだのか、森の中ということも相まって、暗闇は深くなった。顔ははっきりとは見えないが、腰に挿している刀の輪郭や髪の毛、それらが全て彼女なのだという確固たる証だと判断できる。

 

「……イロミちゃん?」

 

 どこか果て無く懐かしく聞こえる声。けれど、彼女が呼ぶ名前は、自分の大好きなあだ名ではなく、ただの名前で、違和感が胸に巣くう。

 懐かしさと不安に眼の奥が、熱くなった。

 

「フウコちゃん、今度こそ教えて。何があったの?」

 

 一歩、一歩。

 月明りの届かない暗闇の中だけど、フウコの背中に近づいていく。少しジャンプすれば、手が触れられるくらいに。

 

「私、力になりたいの」

 

 また、一歩近づく。

 

「フウコちゃんに比べたら、その、全然、力不足かもしれないけど……。でも」

 

 また……一歩。

 

「ずっと努力してきたの。色んなこと学んで、フウコちゃんの力になりたくて……。だから……」

「……イロミちゃんは、私の友達だよね?」

「え? う、うんっ! 私は何があっても、フウコちゃんの友達だよ―――」

 

 ずっと、何があっても。

 

 その言葉を投げかけようとした、その時だった。

 満月の下にあった雲が捌けて、鋭く白い光が、木々の枝葉の隙間を縫って、降り注いだ。

 

 投げかけようとした言葉は喉元で堰き止められ、逆に肺に空気が送り込まれた。

 

 涙を流そうとしていた眼の奥の熱が引いていき、同時に、顔の血の気が引いた。

 フウコの姿が、あまりにも。

 フウコの顔が、あまりにも。

 血に染まっていたから。

 

「じゃあさ、イロミちゃん。私と一緒に行かない? 夢の世界に」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 中忍の任務では当然、血を見るものがある。

 

 下忍から中忍へと昇格した当初のイロミは、生きている死んでいる問わず人の体から溢れ出る赤黒く、鉄臭さを出す液体への嫌悪感を抱かずにはいられなかった。だが、シミュレーション訓練を受け、任務途中で仲間が死ぬこと、大量の血に囲まれることなどの状況には耐性ができてしまっている。人を殺めることに何も感じないというほどではないにしろ、任務の為だから仕方がない、殺さなければ殺される、という言い訳の元に我慢できる。。

 

 そうしてこなしてきた任務の中で学んだことは、どこを怪我すればどこの部分に支障を来すのかという人体のことについてと、どの部位を切断すればどんな風に血が噴き出すのかということくらいだった。

 

 だから分かる。

 

 月明かりに照らされて見えるフウコの顔に、そして体に付いている血が、彼女の体から噴き出たものではないと。

 

「……フウコちゃん…………その血って……」

 

 返り血。

 そのことが分かっていても、尋ねずにはいられなかった。もしかしたら、自分の見立てが間違っているかもしれない。そんな願い信じたいために。

 

「これ? うん。私のじゃないよ」

 

 願望は、あっさりと否定された。

 あまりにもスムーズな発音に、逆にイロミの頭には呑み込めなかった。

 そして続く言葉を聞いて、ようやく理解した。

 この現状があまりにも絶望的なことに。

 

「安心して、全部うちはの奴らの血だから。私のは少しもないよ」

 

 至極当たり前のことのように、抑揚のない声で応えるフウコ。彼女は何も変わってない。体中に、顔中に、返り血を浴びているのに、態度も言葉も変わっていなかった。

 ふと頭の中によぎったのは、うちはの町で会った、数日前の彼女の姿だった。

 一歩、彼女が近づいてきた。

 三歩、イロミは後ずさる。

 

「あいつら、弱い癖にしぶといから、首とか胴体とか刎ねないと死ななかったの。全然面白くなかった」

「……い、イタチくんや……サスケくんたちは…………ッ! それに、フガクさんとミコトさんは―――」

 

 思い浮かぶ自分の友人たち、知り合いたち。

 うちはの奴らというフウコの言葉の中に彼らが含まれていないことを祈った。

 

 きっと……そう、そうだ……。

 

 数日前みたいに、いや今日が何日なのか分からないが、あの時みたいに、彼女が、うちはの一部の人たちに囲まれて、しょうがなく。

 正当防衛で、だから……でも、人を殺しちゃったのは事実で、逃げてきて……、きっと、でも、……イタチやサスケには、家族には、手を出してない。

 

 そうだ。そうに違いない。

 彼女は、優しいんだから。

 自分は知ってる。

 いつも無表情で言葉はストレートだけど、初対面の人にもしっかりと礼儀を以って接して。

 すごい才能があっても驕らず、他人を見下さない。凡人過ぎる、もしかしたら凡人以下の自分の頼みにもしっかり応えてくれて。

 いろんなことを教えてくれて導いてくれて、だけど何も恩返しできない自分を、それでも友達だと言ってくれて。

 

 ……そう、友達だと。

 

 友達なんだと。

 

 友達、だって。

 

 言ってくれた。

 

 アカデミーの頃に、木から落ちて頭をぶつけて、馬鹿みたいに泣きじゃくっていても友達になってほしいというお願いを聞いてくれるほど、優しいんだから。

 

 知ってる。

 

 彼女はとっても優しい人。

 

 知ってる。

 自分は、友達なんだから。

 

 

「アレは……つまらなかったよ……」

 

 

 友達……なんだから―――。

 

「せっかくの眼があるのに。何の努力もしないで、ただ過去にすがった一族の末路は酷いね。やっぱり、努力は大切」

「……どうして…………?」

「何が?」

「家族だったんじゃ、ないの? 血は……繋がってなくても……ッ!」

 

 フウコが養子だということは、知っていた。ひょんな日常な会話で知ったこと。

 それでもイロミの目から見たら、フウコはあの家族の一人として過ごし、フガクもミコトもイタチもサスケも、彼女のことを確かに、本当に、血の繋がった家族のように思っていた。

 人の思いの素晴らしさが。

 家族という形が如何に、たかが血脈の有無を度外視することができる力強いものなのかと。

 そう思えてしまうほどに。

 

「うん、家族だったよ」

 

 フウコは頷いた。

 

「それが、どうしたの?」

「どうしたのって……ッ! 家族なのに、そんな……」

「邪魔だったら殺すよ。普通でしょ?」

「……酷いよッ、……フウコちゃん…………」

「そう?」

 

 視界が揺らめく。

 そこに立っているはずなのに、これまで蓄積してきた全てを嘲笑う幽霊のように佇む友達。

 熱い涙が頬を伝って落ちる。

 

「フウコちゃんにとって……、家族って…………そんなものなの……?」

「私には行きたいところがあって、やりたいことがあるの。それに前から、うちは一族は嫌いだったし、どれくらい自分が強いか知りたかった」

「シスイ君を殺したのも……? 恋人同士……っ、だったのに……」

「好きだったよ、シスイのことは。うん、愛してた。でも夢の世界に行くって言ったら、怒って、私の邪魔をしてきたから殺したの。シスイを殺したのがバレたから、ついでにうちは一族も殺した。それだけだよ」

「やっぱり……殺したんだ……」

「邪魔だったから」

「じゃあ―――、」

 

 じゃあ、友達の私も、

 邪魔だったら、

 殺すの?

 

 その言葉は怖くて、涙が溢れるのに伴って震える喉が止めてしまった。

 

 両手が握られる。涙に歪んだ視界を上にあげると、真っ赤な血に彩られた友達の顔の―――笑顔があった。

 優しい、子供っぽい、笑み。

 

「ねえ、イロミちゃん。私と一緒に、夢の世界にいこ?」

 

 羽毛のように柔らかな言葉なのに、首筋が痺れる。熟し過ぎた林檎よりも甘ったるい声質は、これまで一度も聞いたことがなかったからだ。

 目の前に立つ友達は、友達の姿をした、知らない誰か。そんな錯覚を思い浮かべてしまうほど、もはや彼女への信頼は消えていた。

 

「そこで、いっぱい遊ぼ? ずっと何も考えないで、邪魔なやつとかいない、綺麗なところで。空も綺麗で。誰もイロミちゃんのこと馬鹿にしないから、いっぱいいっぱい、遊べるよ? 初めて会った時みたいに、でも、あの夜よりもずっとずっといつまでも、遊べるの。だから、ね? イロミちゃん。一緒に来て」

 

 優しく包まれる両手。けれど、温度は伝わってこなかった。グローブ越しだから、という訳ではないだろう。

 心が温度を失って、死にかけてしまっているのだ。

 恋人を殺して、家族を殺して、なのに、平然としている彼女。

 いや、平然などではない。

 笑っている。

 微笑んでいる。

 その笑顔が怖かった。

 得体の知れない、真っ赤な他人のようで。そう、アカデミーの頃に持っていた人見知りの気質を思い出したかのような、恐怖だ。

 

「ね、ねえ……フウコ…………ちゃん………」

「なに? 私と一緒に来てくれるの?」

 

 顔を挙げて、だけど真っ赤な瞳がこの上なく恐ろしくて、赤ん坊のように涙を大量に流しながら、無言にゆるゆると首を振った。

 彼女の目が微かに、鋭く細くなる。

 

「……イロミちゃん。私たち、友達だよね?」

「フウコちゃんは……どっちなの…………? あの夜に友達になったフウコちゃんなの? アカデミーで友達になった、フウコちゃんなの?」

「私は私だよ。でも、入学式の時に気付いてあげれなくてごめんね。後から気付いてたんだけど、言いだすのが恥ずかしくて」

「……嘘だ。私の知ってるフウコちゃんは、そんなこと、言わない」

「友達の言うことを信じられないの?」

「……貴方は…………誰、なんですか……?」

 

 身体が浮いた。

 後方へ。

 視界が一瞬だけ暗くなったことだけは覚えていて、後頭部が地面にぶつかり、回転して転がる身体と視界。身体の勢いが止まったのは、背負っている巻物越しに木に背中をぶつけたからだ。

 

 遅れて、左頬に違和感。

 痺れたように、左頬の感覚が喪失している。だが、上顎と下顎が上手く噛み合わず、ガチガチと不器用な歯噛み音が頭に届くだけだ。

 

 おそらく、殴られた。全く視認できなかったが、きっとそうなのだろうと思うと、遅れて痛みが顔面を支配した。

 

 三十メートルほど離れた先に、彼女が立っている。

 

「イロミちゃん、最後のお願い。一緒に夢の世界に行こ? こんな馬鹿みたいな世界じゃなくて。もっと綺麗な世界に」

 

 馬鹿みたいな世界?

 綺麗な世界?

 それは……今までの世界だったはずなのに。

 

「……ねえ、フウコちゃん」

「なに?」

「私たちは、友達、だよね……?」

「うん。友達だよ」

「ずっと……ずっど…………どもだぢ………………なんだよね…………?」

「泣かないで、イロミちゃん」

「でも……どもだぢでも……………じゃまだっだら……、わだじも、ごろずの……?」

「うん、殺すよ」

 

 ―――ああ、もう、ダメだ。

 

 決定的だった。

 もう自分と彼女は、立っているところが違うのだと確信するのに、十分過ぎるほど十分だった。

 友達という言葉。

 それが、彼女と自分では使い方は同じでも、発音は同じでも、認識が―――。

 

 自分にとって友達は、何があっても裏切らない大切な人という意味で。

 けれど彼女にとって友達は、状況によって切り捨てることができるという意味で。

 

 自分は絶対的な認識で。

 彼女は相対的な認識で。

 

 どっちが良いというわけでもなく、どっちが正しいというわけでもなく。

 ただの歴然とした違いという事実。

 

 もしも。

 

 もしも、彼女の友達という言葉の認識を予め知っていたら、きっと自分はそういう風に認識しようと努力できたかもしれない。

 

 あるいは逆に、彼女に友達という自分なりの解釈を教えて、話し合って、改善して、理想とした関係が築けたかもしれない。

 

 前者だったら、ここまで悲しい思いをすることはなかっただろう。

 後者だったら、こんな悲惨なことになることはなかっただろう。

 

 生まれてくる後悔は、しかしすぐに消え失せて、代わりに生まれるのは約束の言葉。

 あの時の、フウコの家の前での、ミコトの言葉が頭を思い出した。

 

 

 ―――ねえ、イロミちゃんは―――

 

 

「私、待ち合わせをしてるの。早く応えて。夢の世界に来てくれる?」

「……どこに、行くの?」

 

 流れていた涙が止まっていた。

 ゆっくりと立ち上がり、彼女と対峙する。

 

「イロリちゃんが知っても意味ないよ。早く応えてよ。来るの? それとも、来てくれないの?」

「……一緒には、いけないよ」

「そう。残念。じゃあ、殺すね」

 

 

 ―――何があっても……―――

 

 

「………………殺されない」

「え?」

「私は……フウコちゃんに負けない」

 

 そのために努力してきた。

 彼女と対等になるために。

 彼女の横に立つために。

 

 いや、もしかしたら……、自分が努力してきたのは。

 

 彼女を止めるために、してきたのかもしれない。

 

 赤の他人と思えてしまうくらい、変わり果ててしまった彼女を、止めるために。

 そう、イロミは未だ、彼女を、友達のフウコだと認識していた。

 姿、声、追いかけていた時の速度やスキル、殴られた時の力強さ。

 それらどれもこれもが、イロミの記憶にある友達のそれだと認めていた。

 どれほど赤の他人のように思えてしまっても、拒絶したくても、信頼を失っても、温かな記憶たちはそれを許さなかった。

 

 最後に残った思いは。

 きっと何か事情があるに違いない、という願望。

 そして友達として、彼女を止めるという使命感。

 それだけだった。

 

「私に勝つつもり?」

「ううん……そうじゃないよ……」

 

 頬を伝っていた涙を拭い取った。

 彼女を止めるのに、視界が不十分では到底できない。さらに下顎を手で調整して、上顎と噛み合うようにさせる。

 それらの行為は小さな決意だった。

 

「私はフウコちゃんを止める」

「……イロミちゃんは、私を楽しませてくれるの?」

「絶対……、絶対に行かせないッ!」

 

 

 ―――あの子の、友達でいてくれる?―――

 

 

 当たり前だ。

 どんな時でも。

 友達という言葉が食い違っていても。

 それでも。それでも―――!

 

「私は、フウコちゃんの友達だからッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 忍の勝負は単純な強い弱いだけで決まるものではない。

 

 枕詞のように何度も何度も、特に中忍になってからというもの耳にタコができるくらいに聞かされた言葉。だから戦闘になっても思考を停止しない、そして恐れてはいけない。一瞬の油断が強さと弱さの差を縮めることになる。

 

 だが、これまでの忍の世界を築いてきたのは、天才と呼ばれたり最強と呼ばれたりしてきた、天に愛され躊躇いのない努力を行ってきた者たちが先駆となったこともまた、事実である。

 

つまるところ、強い弱いの差が逆転するには、そもそもの地力がある一定程度、差が小さくなければならないということ。

 

「―――ッ!」

 

 イロミは大嘘狸を跳躍させ、フウコに襲わせる。

 敵に接近することなく、尚且つ大嘘狸に仕込ませている多くの仕掛けには痺れ薬から肉体を蝕む致死性の強い毒などは単純な迫撃戦では一撃必殺の力を発揮させてくれる。少女であること、また筋肉が付きにくいという体質であること、そんな不利な立場にいるイロミにとっては、傀儡の術は都合がよかった。

 

 指を複雑に動かすと、大嘘狸の口がカタカタカタと鳴りながら大きく開いた。どの指を動かせば、どのように指の動きを連動させれば、どの部位が動くのか、把握するのに多大な時間を要した。またどこにどんな仕込みがあるか、チャクラ糸が切れないように長さと比例して一定のチャクラを放出する、からくり人形を操りながら視野を広く確保する。

 たった一つの術なれど、この術は多くのことを学ばなければならなかった。時には同盟国の砂隠れの里に赴いて、本格的に修行をつけてもらったこともあった。

 そしてカラクリ人形の作り方も学び、作り上げたのが大嘘狸だった。

 自分の才能を見つけるために。強くなるために。

 

 大嘘狸の口の中には、粉状の痺れ薬を仕込んでいた。辺りに広がればフウコはもちろんイロミ自身にも及んでしまう。だが、イロミの背中に背負っている巻物には解毒剤が封印されていた。決して闇雲な手ではない。

 

「イロミちゃん、忘れたの?」

 

 大嘘狸の口が開いた瞬間フウコの姿は影になる。

 音無し風。

 それは一流を超えた無音殺人術(サイレントキリング)を行う彼女の異名。しかし、本当は違う。

 音のない風はもはや察知することができない。

 気が付けば首をなぞり、背筋をさすり、気が付けばいなくなる。

 彼女が何故、風と呼ばれるのか。それは、あまりにも一瞬の世界をうごいているから。

 

「大嘘狸の仕込みを一緒に考えたのは、私だよ」

 

 声は大嘘狸の真後ろ。黒羽斬ノ剣を抜いたフウコが、チャクラ糸をバラバラにしていた。イロミには切断された瞬間を目撃することはできない。

 

「これの使い方、今更だけど教えてあげる」

 

 言うや否や、彼女は剣を握っていない手の指からチャクラ糸を伸ばすと大嘘狸に接続した。息を吹き返した大嘘狸は、先ほどイロミが操作していたよりも速く、複雑な軌跡を描く。丸い尻尾が大きく震えようとした。そこには、致死性の強い毒針と、それらを任意の方向へ飛ばすための射出口が仕込まれている。

 

「させないッ!」

 

 イロミは再びチャクラ糸を伸ばし、何とか、大嘘狸に接続し、その動きを制止させることに成功した。

 しかし、それが限界だった。少しでもチャクラ量を緩めてしまえば、一気に主導権を握られてしまう。

 

「ふふふ。イロミちゃんは弱いね。ほら、もっと全力だして」

「……くっそぉ…………!」

 

 フウコは片手の指五本。自分は両手の指十本。

 二倍のチャクラ糸を使っているのに、静止させるのが精いっぱい。

 自分はこれまで何度も何度も傀儡を操るために努力してきた。指がツルまで、時には指先の経絡系に激痛が走って一日二日物を握れなかった日もあったし、激痛で眠れなかった夜もあった。

 なのにフウコは、ほとんど傀儡の術を使ったこともなかったのに、あっさりと片手の指だけで。

 大嘘狸をより長く使っていたのは自分なのに。

 

 見下される言葉と自分の努力が彼女にとってどれほど塵芥に等しいのかを実感して、悔しくなり、奥歯を強く噛みしめた。

 

 だが。

 

 だが、頭に血が昇るほどではなかった。

 彼女と自分の実力は、ずっと自覚してきていたが、天と地ほどある。

 それを始まってしまった戦いの最中に縮めることは可能でもゼロにすることはできない。なら全ての手札を広げるしかない。

 つまるところ全力を出すということ。

 単純で絶対の法則。

 イロミは思考を巡らせた。

 

 忍はいついかなる状況においても思考を止めてはいけない。

 そしてそれは誰にでもできることであって、名を残す忍は皆それを怠らない。

 

 フウコから教えてもらった言葉だった。

 

「解ッ!」

 

 チャクラ糸から大嘘狸にチャクラを送った。

 いくら主導権が拮抗していると言っても、では互いに大嘘狸を全く動かせないかとなるとそうではない。

 互いに細かく動かすことができる部分はある。イロミは動かせる部分にチャクラを送った。

 

 途端、爆発。二人の間に紅色の煙が四散した。

 

 ―――たしかにフウコちゃんと一緒に、大嘘狸を考案したよッ! でも、私の目標は、ずっと……ッ!

 

 その【仕込み】はイロミが独自に作ったもの。

 たとえば大嘘狸の仕込みを全て使い切ってしまった場合、相手に仕込みを理解されてしまった場合、あるいはまともに機能できないほどに破損した場合、そんな最悪の状況を想定した時に仕込んだ自爆機能。

 ずっと、目の前に立つ友人を超えようと考えに考えた末の、使えなくなった道具の使用方法だった。

 

 仕込まれた煙はしびれ薬。一たび吸えば呼吸器を痙攣させ、目に入れば視界を奪い、皮膚に少しでも触れようものなら体が震えて動けなくなる。

 風を感じた皮膚がストレスを抱き、筋肉が痙攣するように。

 

 イロミは肺に大きく空気を溜め込み、背中に背負う巻物を広げて、それを体中に身にまとった。さながらミノムシ。ただミノムシと違うのは、表に見えるのが巻物の内側であり大小さまざまの「封」の文字がおびただしく書かれていることだった。

 

 フウコの影が自分と一緒に飲み込まれるのを巻物の隙間から外を見えていた。

 

「―――いい使い方だね、イロミちゃん。でも、甘いよ」

 

 彼女の声が聞こえた時に、既にしびれ薬の煙は霧散した。

 フウコの影だと思っていたそれが突如爆発したのだ。

 

 影分身。

 

 大嘘狸を斬った時には既にオリジナルと代わっていたことをイロミは察した。凄まじい印の速度だが、驚くことではなかった。

 影分身が立っていたその奥にオリジナルがいた。

 

 分かってる。

 彼女にこんな程度の威かしは通じないことは。

 

 何度彼女と忍術勝負を行ってきたことか。数えきれないほど、そして同じ数の負けを経験してきた。彼女との戦闘で確信を持てる時なんて一時もない。

 彼女が距離を縮めようと小さく膝を曲げようとした最中にイロミは動いていた。

 

「―――解。忍法・烏倶壁(からすぐへき)

 

 イロミを中心に分厚い黒い壁が広がった。それは巻物に封印されていた膨大な忍具が群れを成した、壁。手裏剣やクナイ、矛に剣に鎌に鋭利な盾や―――。全てを見て種類を判別しようものなら壁に呑み込まれて骨すらも粉々にされる。それを証明するかのように、一番近い木々がなぎ倒された。

 避ける隙間もない、円形に広がるこの術に、二次元的な回避は許されない。

 上か下か。

 あるいはこれを弾き飛ばす術を展開して回避するか。

 

 如何にフウコが強い忍でも、人間であるのならその三通りに絞られる。

 だが、それでも足りない。

 彼女を止めるには、まだまだ足りない!

 

「口寄せ・鶴竹林(つるちくりん)!」

 

 印を結んで地に手をかざす。この術もフウコが知らないもの。

 口寄せしたのは千本の鋭く尖った竹。地面を貫き、夜空へ届こうと伸びるそれはイロミの周りから順次現れ、壁に飲み込まれ刈り取られ、壁の速度を飛び越えて先にフウコの足元へと伸びていった。

 足元から突如伸びる槍の如き竹を術で弾き飛ばすことはできない。案の定壁の向こう側からフウコが飛んだ姿がはっきりと見えた。おまけに鶴竹林は地面の下までを貫く長いもの。地面に潜ることも許されない。

 

 烏俱壁がフウコのいたところを飲み込んだ。

 

 中空にいる彼女の選択肢は着地をするか、そこから術を展開するかの二択に絞られた。だが、まだ足りない。

 体に巻き付けた巻物を解く。巻物の芯にチャクラ糸を繋げ動かした。

 それはまるで大蛇を思わせるような動きをしながら、フウコの元へ。

 

 もはや勝負を決めるつもりだった。

 

 弱い者が強い者に勝つには、短期決戦しかない。

 

 それも、彼女が教えてくれたこと。

 

 そして勝負を決する時は、必ず相手に防がれない技を使用すること。

 

【相手の攻撃から目を反らさない、逆に相手の目を反らせるように】

【音は立てない】

【手加減はしないこと】

【相手を信頼すること】

【怖いと感じるよりも前に動くこと】

 

 どれもこれもそれもあれも全部が全部……フウコが教えてくれたことが、どういうわけか頭の中に浮かんでくる。

 子供の時の自分と彼女。

 中忍になった時の自分と暗部の彼女。

 下忍だった自分と中忍だった彼女。

 時間なんか滅茶苦茶で、でも浮かんできたのは辛くても楽しくて楽しくて楽しい時間だった。

 

 ―――フウコちゃん。これが、私の一番のとっておきだよ。

 

 子供のようだった。

 親に自分がどれほど成長したのか、教えたくて示したくて、背伸びをしながらも全力で自分を表現する、子供の心。

 

 紙の蛇は尾を長くしながらもフウコの三百六十度、上下左右斜め全てを球状に覆い尽くしていく。

 フウコの視界には、ゆうに千を超える「封」の字がうごめいていた。

 

 イロミはチャクラを送った。

 その数千の封印を一気に解放する、大量のチャクラを。

 

 着地をすることを許さない紙の蛇の胃の中。

 術で防ぐにはあまりにも多勢の暴力。

 フウコの選択肢はもはや、ゼロに等しい。

 

 だけど心の中には微かな、ここでようやくの、確信が持てた。

 これを発動しても、彼女はきっと死にはしないということ。

 けれどそれで十分だった。死にはしないものの、大きなダメージを与えることはできるはずなのだから。

 

「―――解ッ!!!」

 

 数千の封印は解放され、けれど、何も現れることはなかった。

 

 悲鳴のような音以外は。

 その悲鳴が、数千と束になって襲い掛かる。

 

「忍法・蛇狂破音(じゃきょうわおん)!」

 

 紙の蛇の胃の中で、数千もの悲鳴が混ざり合い、反響し、そして共鳴し、空気を爆発させた。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 ねえねえ、フウコちゃん。

 

 なに?

 

 フウコちゃんは将来、何になりたい?

 

 なりたい? それって、火影とかに、ってこと?

 

 うん。火影だけじゃなくても、うーん、こういう人物になりたい、とか。

 

 あまり考えたこと、ないかな。

 

 どうして?

 

 どうしてって、どういうこと?

 

 だってフウコちゃん、いつも修行頑張ってるから、何か、すごい目標でもあるのかなって、思っちゃって。

 

 夢ならあるよ。

 

 どんな?

 

 ある人のね、お願いを叶えることなの。

 

 え、もしかして、その……お父さん、お母さん、の?

 

 ううん。

 

 じゃあ、イタチ君?

 

 違う。

 

 大穴で……シスイ君だったり? 恋人だし。

 

 全く違うよ。

 

 じゃあ誰?

 

 これは、ごめんね。教えることができないの。

 

 酷い。教えてよ~。

 

 うーん……じゃあ、どんなお願いなのかだけ、じゃダメ?

 

 うん。それでいいよ。それで、どんなお願いなの? 結婚してくれ、とか?

 

 イロリちゃん、何言ってるの?

 

 なんだろ、フウコちゃんは女の子なのに、この乙女心が全くない方向に行ってしまう会話は。

 

 里を平和にしてほしいっていう、お願いなの。

 

 じゃあ、火影になるの?

 

 それで里が平和になるなら。

 

 フウコちゃんならなれるよ。絶対に。

 

 イロリちゃんは火影になろうって、思わないの?

 

 ううん。全然。

 

 そうなんだ。

 

 理由を訊いてよ。どうしてって? さんはい。

 

 どうして?

 

 えへへ……それはねえ……。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 自分が持っている術の中で、殺傷力が一番高い術だった。

 

 どんな相手だって「蛇狂破音」は相手の鼓膜どころか空気の振動で全ての骨を粉砕する術だ。土遁だろうと水遁だろうと振動を防ぐことはできないし、そんじょそこらの風遁なんかでも簡単に防ぎきることはできない。

 大量のチャクラを送った反動で、チャクラ糸を維持することができなくなった。気が付けば地面に膝をついて、肩で呼吸をしていた。酸素が足りないのか、頭がぐらぐらして重い、首に巻いている邪魔なくらいに熱く感じた。体の節々に力が入らない。

 

 しばらく休憩しないいけない。紙の蛇と共に落ちてくるはずの彼女を担いで里に戻ることができないほど、身体が―――。

 

「もう、終わり?」

 

 たったその言葉だけで、体の体温が急激に下がっていくのを感じた。

 

「あれが、イロミちゃんの全部なの? 全力なの?」

 

 ため息交じりに聞こえてくる声はイロミの耳には絶望の陰りを潜んでいた。

 

 そんなはずが……そんなはずない……。

 

 心の中で否定し続けるが、重たい顔を上げるとあっさりと確定される現実がそこにはあった。

 

 体どころか、衣服にすら傷を負っていないフウコの姿が。

 

「ど……うして…………」

「……みんな、それを言うんだね。自分の自身がある術を使って、私がこうして立ってると。術にも勝負にも、絶対はないのに」

「うそだ…………」

「でも、イロミちゃんのは、危なかったかな」

 

 危なかったと、フウコは言ったが、その言葉の軽さは歩いていて転びそうになる子供が言うそれと同じものだった。

 食らえば死んでいたかもしれないけど、油断していなければ食らうことなんてありえない。はっきりとフウコが言ったわけではないが、イロミにはそういう風に言っているようにしか思えなかった。

 死にはしないと予想していた。もしかしたら、その後に戦闘が続くかもしれないと予測していた。だから、地面に倒れながらも意識のある彼女の姿を発見した時は、懐にある残り少ない兵糧丸を使おうと準備していた。

 なのに、それらは全くの夢物語となった。

 いや元々、夢だったのかもしれない。

 実力的に形成が不利だとか有利だとか考えていた。考えていたから、短期決戦に持ち込んだ。蛇狂破音が成功した時は心の中で微かに、優位を感じていた。

 けれど、そんなものはそもそも、彼女と自分の間にはなかったのかもしれない。

 

 彼女を止めようとしていた時に既に、負けていたのかもしれない。

 

 ―――だけど……、

 

「うちはの連中より、楽しかったよ。うん。イロミちゃんの術、後で試してみるよ」

 

 だけど、たとえ最初っから負けているこの状況でも、諦めたくない。

 諦める理由が、どこにもない。

 

「もう立ち上がらなくていいから。痛いのも、感じないから」

 

 震える膝に手を置いて体を立ち上がらせる。朦朧と揺れる意識を意地でも叩き起こし、手を考える。

 まずは距離を取らないといけない。辺りは森。姿を消して、それから―――

 

「イロミちゃん? 何をしても、無駄だよ」

「……まだだよ。忍法―――」

「ねえ、イロミちゃん。しっかり教えたよね。

 

 

 

 どんな時でも、相手の目の前で印を結ぶなんて馬鹿だって。

 

 

 

 残念だな。教えたことをやってくれないなんて」

 

 

 

「え―――」

 

 音が無かった。

 それこそが彼女の所以。

 音なし風という異名を形作った原点。

 音を出さない無音殺人術。

 近づいていることが見えず、通り過ぎたと気づいた時には全てが終わっている、まさに風。

 

 その時に気が付いた。

 彼女の異名の意味を。

 どうして彼女の速度に自分が追いつくことができ、自分の最強の術をあてることが許されたのか。

 つまり、手加減されていたということを。

 

 そして、腹の表面の感覚が一部区切られている感覚と、胃ではない所の腹部内にある異物感、そして分厚い背中の筋肉から何かが飛び出している違和感。

 

 いつの間にか立っていた近距離の彼女の写輪眼から目をそらし、下へ、下へ。

 

 すると腹部に、彼女の手が当てられていた。何かを握るようなグーの形。

 その手はつい先ほどまで、黒羽々斬ノ剣が握られていた手だ。

 

 しゅひん―――。

 

 フウコのその手が引き抜かれる。

 

 赤い。

 うちはの血で染まった、刀身が黒い刀が姿を現す。

 

 本当に?

 

 その赤い血は、今さっきまで漬けられていたかのようにみずみずしい。

 本当にその赤い血は、うちはの血なのだろうか。

 選ばれた一族が身に宿した、上位の血なのだろうか。

 心なしか、色が汚い。

 まるで何の才能も持たない人間の血のようだった。

 

「―――あれ……?」

 

 腹に力が入らない。内臓が腹から零れだしそうだと勘違いしてしまいそうになるほどに。

 

 熱い、熱い。

 

 何が?

 

 お腹が。じわーっと、熱くなる。

 咄嗟に印を結ぼうとした両手をそこへ。

 ぺちゃ。

 

 あ、この音、聞いたことある。

 雨が降らないって思って外に出たら土砂降りの雨が降っちゃって、慌てて雨宿りをした時に、服と肌が水を挟んで揺れる音だ。

 

 ぺちゃ、ぺちゃ。

 

 両の手を離した。

 赤い。

 

「―――ぅぁ」

 

 遅れてやってくる強烈な痛みに悲鳴を……あげることは許されなかった。

 髪の毛を引っ張られ、前かがみに。

 やってきたのは、フウコの膝が自分の喉を思い切り蹴り上げる衝撃。声は出ず、代わりに出たのは口から吐き出される血と鼓膜の奥に届く何かが潰れた音。

 

 視界が、一度前後すると、真っ暗になり、すぐに開ける。彼女の膝が、今度は鼻を潰した。

 

 痛みが来るよりも先に、自分の鼻の形が変わったということを鈍重に伝える得も言えぬ不愉快な感覚。

 反射的に血に染まった両の手が顔を抑えようとしたが、フウコの空いている手がそれを許さなかった。

 

 両手を掴まれ、そのまま、握られる。

 そう、握られた。

 まるでおにぎりを作るかのように握られた。

 イロミの両指が知恵の輪みたいに難解な形に組み合わさる。

 

 合わせて一秒。

 たったそれだけの時間で、風は自分の体を壊していった。

 

「イロミちゃん?」

 

 腹部からの痛みしかまだやってきていないのに。

 イロミの意識はもうほとんどなかった。

 あるのは強烈な眠気だけ。

 あまりの痛みに脳が体の神経から離脱しようと避難体制に入ったイロミの肉体は、優しくフウコに真正面から、抱きしめられていた。

 

 これまで幾つもの命を刈り取ってきた、風に、体が包まれた。

 

「バイバイ」

 

 背中までに回されたフウコの両の腕が締め付けられた。

 自分の両腕とあばらの骨が折れる音を、イロミが聞くことはなかった。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 えへへ……それはねえ……、フウコちゃんを助けることができないから。

 

 私を、助ける?

 

 うん!

 

 私別に……、その………、困ってないよ?

 

 困る時が絶対に来るよ。間違いない。悪い予感はよく当たるんだ、私。多分だけど。

 

 いや、言ってることが分からないんだけど。

 

 絶対に来るよ~。

 

 根拠は?

 

 ない……けど、でもさ、やっぱり忍はチームで動かないと。暗部でだって、一人で動くっていうことはあまりないでしょ?

 

 他の忍はそうだけど、私は基本一人だよ。誰かがいると却って邪魔。

 

 うっ…………、それは、まあ、フウコちゃんにとってはそうかもしれないけどさ。歳とったりするとさ、身体が動かなくなるじゃん。その時は大変だと思うよ?

 

 その時は私もイロリちゃんも、引退してると思うけど。

 

 ごめん、今の忘れて。女の子が歳とった自分の未来を話すのはいけないことだから。

 

 じゃあイロリちゃんは暗部に入りたいの?

 

 フウコちゃんがそのまま暗部に居続けるならね。でも入ってくるなって、フウコちゃんは言うでしょ?

 

 じゃあ、どうやって私を助けるの?

 

 ……そこは考え中。

 

 なんだか、いい加減だね。

 

 いいの! 私はまず根本的に、実力がないんだから。そこをまずしっかりしないと。大きな山をどうやって登るよりも、山を登り切れるのかをまず考えろっていうのが、忍の原則なんだから。

 

 まあ、そうだね。でもさ、

 

 ん?

 

 イロリちゃんは、イロリちゃんのしたいことをすればいいと思うよ。私のことなんて考えないで。イロリちゃんだったら、大分かなり頑張れば火影になれるって、私は思うよ。

 

 やだよ。

 

 ……イロリちゃんって、意外と強情だよね。

 

 そりゃあ、フウコちゃんとイタチ君とシスイ君に散々矯正されたし、フウコちゃんのストレートな言葉にも耐性がついたからね。今じゃ木の葉一メンタルが強いって言われてるよ。

 

 誰が?

 

 私が。

 

 どうして?

 

 どっちの? 私の目標? 私のメンタル?

 

 目標の方。どうしてイロリちゃんは、そうなの?

 

 友達だからね。そしてフウコちゃんは私のヒーローだから、一緒に任務とかしたいなって。別に、単純な理由だよ。

 

 単純、なの?

 

 すごい単純。いつか私はすごい忍になって、フウコちゃんと二人ですごい有名なタッグを組むんだ。

 

 でも、イロリちゃんは……。

 

 足手まといにならないから! 大分すごい頑張れば火影になれるくらいの実力なんだから! それに来年再来年っていう近い話じゃないし!

 

 そうだね。だけど私は

 

 うん、なに?

 

 イロリちゃんと、ただ遊びたい。

 

 ………………

 

 いつか私たち忍って、いらなくなると思うの。世界中の人が平和を守ったら、無くなる。その時代の子たちは、私たちみたいに修行とかしたりしないと思う。私は、その子たちみたいに、ずっと遊んでいたい。

 

 そういう日って、来るのかな?

 

 出来れば、私が作りたいなって、思ってる。

 

 あ、じゃあさ、私もそれを手伝いたいな。うんうん、きっとその時に、私の助けが必要になる時があると思うよ?

 

 あまりイロリちゃんには、危険なことはしてほしくない。でも、うん……簡単な任務なら、一緒にしたいかも。猫探しとか、鳥探しとか、宝探しとか。

 

 もっとカッコイイのがいいな。まあ、その、私は確かに……才能とか、まだ見つかってないし、フウコちゃんの足元にも及ばないけど……。

 

 才能とか関係ないよ。友達と一緒にいるのに、才能なんて、くだらないよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悔しいなあ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして自分に、才能がないんだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ただ、ずっと―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ずっと、一緒にいたいだけなのに……、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 任務とか、助けるとか、もう、どうでもいいのに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 友達と、大切な、友達と、一緒にいたいだけなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうして、自分は忍なのかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 フウコちゃんは、どうして、忍なのかなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 悔しいなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なに?」

 

 もう、意識は白かった。

 どうやって自分の体を動かしたのか、記憶にない。

 心地よい眠気と上半身のほとんどを飲み込む感覚の不連続感は未だに残ってる。

 だけど口元の感触は、確かに自分の歯は何かを噛んでいた。

 力の加減は分からないし、自分がどこにいるのかも全く分からない。

 まさに気が付いたら、だ。

 ただ分かることは自分の体が地面にうつ伏せに倒れていることと、大切な友達の声が真上からしたことだった。

 

 その声も、何を言ってるのか、もう頭では理解できない。

 ただ、思ったことを、思っていたことを口にするしかなかった。

 

「……ゔぃがば、ぶ」

 

 行かないで。

 潰れた喉で呟くがもはや言葉の体をなしていなかった。

 それでも、止まらない。

 

「……ぶぁ、がぁ、ぶぶ、ご、ぢゃ」

 

 行かないで、フウコちゃん。

 

「ヷブ、ジャ、い」

 

 私、何でもするから。

 

「……ダぎゃ、」

 

 だから。

 

 噛んでいた何かが離れる。

 

 ただそれだけで、心が半分にされたように錯覚してしまう。

 

 前髪を持ち上げられた。額の火傷痕があっさりと表に出る。友達の彼女に見られても、もう怖がったりはしない。だけど、今、この状況では、悲しかった。

 

 ああ、もう、終わりなんだ。

 

 終わり。

 

 何が?

 

 頭の中にこれまでの彼女との思い出が無秩序に溢れ出てくる。

 これまでの全部と、これから合ったと思っていた夢のような日常。

 それが、終わる。

 

「もう、話しかけないで。気持ち悪い」

 

 冷え切った声。朦朧と視界に映る彼女の顔はもう見えない。

 

「ヴゥ、ゴ……ぢゃ…………」

 

 私たち、友達だよね?

 ずっとずっと、友達だよね?

 

 潰れた喉とぐちゃぐちゃの意識では、それら全てを発せれない。

 身体中の痛みが頭に集中して、頭も痛くなる。

 そうだ。

 彼女とアカデミーで友達になった時も、頭が痛かった。

 ならきっと、もしかしたら、今回も―――。

 

「才能も無いくせに、私のお願いも聞けないくせに、まだ友達だと思ってるの? 気持ち悪い」

 

 ちくしょう……。

 

 才能があれば。

 才能さえ、あれば。

 

 終わらなかったのに。

 

 止められたのに。

 

「……ヂグ……じょ…………う」

 

 涙が、止まらない。

 

 イロミは意識を失った。

 

 左頬に感じた衝撃を最後に。

 




【孤独にワラウ】


 全てが終わり、全てを終わらせた森の中で、一人の少女は嗤っていた。

 夜空に浮かぶ満月の光は、わざとらしく少女の真上で枝葉に堰き止められている。全身を血糊に纏われた少女は、両手で身体を支え、膝を地面に付けたまま、肩を震わせている。

「……ははははは。あっはっはっはっはッ!」

 獣も鳥も、誰一人として彼女の嗤い声に耳を傾けない。
 壊れた振り子時計のように嗤い続ける彼女の周りには、何一つとして近づこうとするものはなかった。

 そう、辺りには誰一人として無い。

 絶対の孤独だけが、横たわる。



「あっはっはっはっはッ! ……ざまあみろ。………ざまあみろッ!」



 フウコは、嗤う。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談・表

 投稿が遅れてしまい、申し訳ございません。


【うちは一族抹殺事件・最終報告書】

 

 ―――調査班の報告によれば、北北東の森の一部が、何かによって薙ぎ倒された形跡が確認されている。南東に向けて形跡は伸びており、長さは百メートルに及ぶ。形跡には、うちはフウコが所持していた黒刀の刀身部分が折られた状態で発見されており、周囲には大量の血痕も発見されている。戦闘の跡だと考えられるが、うちはフウコ及び相手の遺体は確認されていない。

 また、事件当夜を境に、うちはフウコの消息は途絶えている。一ヶ月に及ぶ綿密な調査の結果、うちはフウコは火の国国内にいる可能性は非常に低いと判断される。しかし、事件発覚一週間後より同盟国ならびに同盟里へ、うちはフウコの逃走の経緯と捜査協力を申し出たが、有益な情報はもたらされていない。継続してうちはフウコの捜索にあたるものの、うちは一族抹殺事件における調査は、調査本部解体を以て終了するものとし、以下の項目は調査本部における最終決定とする。

 

1):うちは一族抹殺事件の実行犯、うちはフウコを抜け忍とする。生存死亡問わず、うちはフウコの身柄拘束は、木の葉隠れの里より懸賞金を支払うものとする。

 

2):事件当夜、うちはフウコに協力したとされる人物は確認されていない。別件である【うちはシスイ殺害】以降より、うちはフウコの身柄は暗部が完全に隔離していたため、事件当夜に警務部隊の拘留施設に身柄を搬送されるまでの間にコンタクトをとった者は―――(斜線で消されている)―――確認されていない。綿密な調査の結果、うちはフウコに協力したと思われる人物はいないと判断され、本案件では単独による実行という決定がなされた。

 

3):うちはフウコの犯行理由は未だ不明。事件の生存者の一人であるうちはイタチからの証言では、自身の実力を測るためという発言がうちはフウコの口から語られたようだが、暗部における普段の言動から顧みるに整合性の取れない発言であるため、参考程度に纏める。うちはイタチの実弟であるうちはサスケにも事情聴取を行ったが、夢の世界へ行く、などという発言をしていた、と彼は語った。両者は共にうちはフウコへの強い憎悪を抱いている様子があり客観性に欠ける。両者の発言から、うちはフウコの犯行動機へと結びつけるには困難であると判断される。

 

4):先述した形跡と木の葉隠れの里の中間地点で発見された猿飛イロミだが、調査の結果、うちはフウコと戦闘をしたと思われる。しかし、現時点で猿飛イロミは意識を回復しておらず、事情聴取は行えない。意識回復をした後に事情聴取を行う予定だが、担当医の診断によれば声帯に多大な損傷が見られ、事情聴取の際には感知忍術を得意とする者の介する必要性が考えられる。また同担当医によれば、本来なら意識を回復しても不思議ではないとのこと。どうやら精神的な要因によって、意識回復が妨げられているとの見解が示された。うちはイタチ、うちはサスケと同様に、客観性に欠ける可能性が十分に予想されるが、意識を回復次第、事情聴取を行う。

 

5):本案件の発覚から二週間後、暗部を統括していた志村ダンゾウが辞職を申し出た。暗部の副忍であったうちはフウコの管理責任は、事件発覚から提唱されていた。火影がこれを了承し、以後の暗部管理は全て火影に属するものとなった。また、志村ダンゾウの辞職と共に、戦争孤児を対象とした【根】は解体となった。

 

 また、事件とは直接関係は無いものの、うちはフウコの逃走により、九尾の人柱力の様子に変化があったという報告がある。九尾の人柱力とうちはフウコには以前より密接な関係があると暗部内で囁かれていた。以後、九尾の人柱力への監視が強くなるという決定がなされ、加えて七尾の人柱力をコントロールするべきだという声が挙がっている。

 

 以上を以て、うちは一族抹殺事件の最終報告とする。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『待て……、フウコ……』

 

 朦朧とする意識の彼方には、満月を背景とした彼女の姿が。

 血に塗れ、生臭さと鉄臭さを纏った彼女の姿は、激痛と疲れでぼやけてしまっていた。しかし、睨むように彼女の見つめ続ける。

 

『まだやるの? 私は、やだな。イタチは弱い、弱すぎる』

『どうして……、姉さん。どうしてだよッ!』

『……姉さん? そんな呼び方、止めてよ。虫唾が走る……、気持ち悪い』

 

 後ろに立つ弟を傷つける冷酷な声。だが、激痛が支配する重い身体は、うつ伏せ以上の姿勢に移すことは出来なかった。

 彼女はため息を漏らして、呆れきった声で彼女は呟く。

 

『私は……ずっと、我慢してきたの。ずっとずっと……。分かる? 新しい術を思いついても試せるくらいに強い相手がいない、少し本気を出せば何でも出来てしまう、挙句にうちははその身に宿る才能を平和の中でのうのうと腐らせる。嫌になる。こんな事になるなら……平和なんて、望むんじゃなかった』

『……嘘だ…………、なら…………なぜ、今になって………………』

『何となく。ああ、でも、イタチとの勝負は少し、楽しかったかな。でも、シスイ程じゃない。シスイの時は、もっと、楽しかった』

『…………ふざ、けるな…………』

『ふざけてない。ふざけてるのは、イタチだよ。結局、イタチは一度も私に勝てなかったね。本当に、本気だったの?』

 

 嘲笑いと呆れ、見下すような声のトーンに、薄れていた怒りと殺意が蘇る。だがそれでも、つい先ほどまで焦げるような黒い感情にコーティングされていた思考は外側からボロボロと感情が剥がれ、その中にある小さな疑問を露呈させた。

 

 だがその疑問を、言葉にすることが出来なかった。

 

『もういいや。せっかく、イタチと遊ぶのを楽しみにしてたのに。二度と、私の前に姿を現さないで。気持ち悪いから。弱い人は弱い人らしく、平和に生きた方がいいよ。寝て、起きて、ご飯食べて、お風呂入って……きっと二人とも、明日になればそうなるから。じゃあね、バイバイ』

 

 ノイズが入る。壊れたテレビのように、砂嵐が入り、それらは彼女の周りの暗闇や万言を呑み込んでいく。

 まるで世界が、彼女を孤独へと追い立てるようだ。

 

 フウコの、左右非対称の万華鏡写輪眼と視線が重なる。ノイズは彼女を蝕む。足を、膝を、手を、腕を、肩を、胴体を、最後に残ったのは彼女の顔だった。

 

『イタチ……』

 

 彼女の顔がノイズに呑み込まれる、その瞬間。

 刹那の時間だけ、声が耳に届く。

 泣きそうな、苦しそうな、辛そうな、湿った声だった。

 

 けれど―――あの夜。

 

 左右非対称の万華鏡写輪眼を浮かべた彼女は何も言わなかった。

 つまりこれは夢の中で、

 耳に届く彼女の声は嘘で、

 そもそも彼女が泣いている姿を見た事は一度もなかった。

 

 それでもどうしてか。

 

 ノイズに呑み込まれようとする彼女の顔は、はっきりと見えてしまうくらいに、泣いていた。

 

『イタチ、助けて……』

『私を、一人にしないで……』

『助けて……』

 

 全てが、ノイズに呑み込まれる。

 彼女の姿も声も消えてなくなり、意識は、真っ暗な奈落へ落ちていく。

 落ちていけばいくほど、意識は圧力を感じて重くなる。

 現実というしがらみ。

 思い通りにならないことが平然と起きて、知らない所で重大なことが起きて、無くしたものが決して取り戻すことが出来ない、不自由で重い現実が、意識に纏わりついてきたのだ。

 つまり、意識は、身体へ。

 

 イタチは目を覚ました。

 視界一面には、天井が。薄暗さと、眠る前の時間帯を思い出して、今が夜明け前なのだとすぐに分かった。しかし、開けた瞼にはまるで重さを感じない。眠気は尾を引くこともなかった。

 

 ただ、身体が熱かった。黒い前髪が額に貼りついている。頭の中に残留する血みどろな夢の跡に、心臓の鼓動が頭の天辺まで届いてうるさかった。

 

「………………」

 

 大きく息を一度吐いて、イタチは上体を起こした。身体に被せていた薄い掛け布団が弛むと、ちょうど腰辺りに、まとまった掛け布団の部分の重さが感じ取れた。夢の中とは違う、確かな重み。

 

 吸う空気も、窓の外から聞こえてくる虫たちの声も、見下ろす手も。

 

 全て、現実だ。

 

 あの事件から、二ヶ月を経た、間違いのない現実。

 血生臭いあの夢が現実ではないということへの安心感。と同時に、あの夢が、かつて起こった過去なのだという事実への空虚感が、夜明け前の薄暗い部屋全体から圧迫するようにやってくる。

 

 八畳一間の、狭い部屋だった。自分の部屋ではない。そもそも、自分が住んでいた、うちはの家ではなかった。木の葉隠れの里から無償で与えられた、安アパート。それが今のイタチ、そしてサスケの、家だった。

 

 サスケは今、隣の布団で眠っている。静かな寝息はスムーズで、こちらに背を向けて横になる姿勢を作っていた。何度か寝返りを打ったのだろう、同じ薄い掛け布団がぐちゃぐちゃになっていて、イタチは器用に掛け布団だけを元に戻してやると、立ち上がり、居間に直接接している台所の蛇口を捻って水を流した。両手で冷たい水を掬い、顔の汗を洗い落とすと、身体の熱が一度ほど下がったような気がする。それでも、夢の跡は、深く抉られた傷のように残り続けた。

 

「……フウコ」

 

 寄りかかるように台所の底を見下ろす。薄い鋼で作られた台所は、薄暗闇の中のイタチの顔をぼんやりと反射させているが、イタチ自身の目には、そこには彼女の顔が浮かび上がっているように見えていた。

 

 怒りが、込み上げてくる。

 

 事件から月日は経ったというのに、怒りのエネルギーはフウコと対峙した時と遜色はなく、震える右手が台所を殴ろうとする衝動を必死に抑えた。こんな夜中に物音を出すと、サスケが起きてしまう。あまりサスケを不安にさせたくない、という、唯一の肉親となってしまった自分の立ち位置が、ちょうど良く抑止力になってくれていた。

 

 大きく息を吸い込む。肺に詰まった熱い空気を吐きだすと、体温が下がったような気がする。ついでに、怒りも収まりつつあった。

 

 怒りが沈静化すると、代わるようにやってきたのは、疑問だった。

 

 もうどれくらい、記憶を遡っただろうか。

 フウコと出会った頃から、シスイを殺害した容疑で暗部に拘留された日までを。

 温かく、楽しい時期。

 辛く、苦しい時間。

 それらをイタチは、明晰な記憶力で遡り、場面を注視し、言葉を拾い。

 

 だけど、その記憶の中には、不自然なものはなかった。

 

 フウコが、うちは一族に対して不満を持っていたようにも。

 力を求めていたようにも。

 サスケが語った【夢の世界】というものを求めていたようにも。

 

 それらの欠片すら、見当たらなかった。

 

 当然だ。もしそんなものが見えたのなら、事件が起きる前に自覚できていたのだから。

 

「どうしてだ……フウコ…………」

 

 どうして、全てを壊した。

 家族も、

 恋人も、

 友達も、

 思い出も、

 日常も、

 未来も。

 全て叩き壊し、嘲笑って。

 

 だが、イタチの記憶の中には、その原因が分からなかった。

 

 どうして彼女が、あの夜を作り上げたのか。

 

【うちは一族抹殺事件】から二ヶ月。

 

 イタチは、迷っていた。

 

 心の奥底に眠り、容易く起きてしまう、激情と。

 フウコと共に過ごした普遍的な記憶が告げる、疑問と―――そして、それを彼女に尋ねたいという願望。

 

 つまりは。

 一族を滅ぼした彼女への復讐か。

 一族を滅ぼした彼女への期待か。

 

 どの感情に従えばいいのか、分からなかった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夜明けはすぐにやってきて、瞬く間に朝の日差しは里全てを照らした。カーテンを開けた窓からの光は、狭い部屋を照らすのには十分で、イタチとサスケは、布団を片付けてできたスペースに折り畳み式の小さなちゃぶ台を挟んで朝食を食べていた。

 朝食の献立は非常にシンプルだった。味噌汁とサラダ、白米に、ベーコンと漬物である。サラダは多めだが、単に野菜を食べやすいサイズにしただけで、味付けもマヨネーズと少量の塩だけだ。

 

 全体的に淡泊な味付けだと、イタチは思う。ミコトが作ってくれていた朝食を思い出しながら、サスケの健康を考えたメニューたっだが、味付けが上手くいかなかった。

 

「……兄さん。今日は、任務あるのか?」

 

 サスケの声は、低かった。

 朝だからということでも、朝食の味に不満があるというわけでも、無い。

 かつてのように、素直で明るい表情はそこにはなく、刃物のように冷たく、鋭く、固い表情で、イタチを見上げていた。

 

「もし無いんだったら、修行、付けてくれよ」

 

 イタチは柔らかく微笑む。

 

「悪いな、サスケ。任務はないが、今日は用事がある。修行はまた今度だ」

「……分かった。…………ご馳走様、美味しかった」

 

 無感動な声で呟くと、サスケは綺麗に平らげた食器らを丁寧に重ねて、台所に持っていった。蛇口から水が流れる音がし、洗剤の匂いが微かに届いてきた。

 

「……また、あいつのとこに行くのか?」

 

 カチャカチャと食器を洗う音を出しながら、サスケは呟いた。

 

「今日でギブスが取れるそうだ。退院はまだみたいだが、必要なものがあるかもしれない。サスケ、お前も久々に来たらどうだ?」

「俺は……いいよ。修行してる」

「そうか。あまり遅くならないようにするんだぞ」

「分かってるよ。じゃあ、いってきます」

 

 洗い終わった食器を慣れた手つきで食器立てに置くと、前日に用意していたアカデミーの鞄を肩にかけ、イタチが用意した昼ご飯の弁当を持って出掛けていった。部屋に中途半端な静寂が訪れると、イタチは浮かべた笑みを閉まって、本当に小さく、息を吐いた。

 

 イタチが退院したのは、今から、およそ一ヶ月半前のことだ。つまり、事件から一週間後ということになる。両手、肋骨のヒビ、腹部内臓の治療による入院。いずれにしても、命に関わる怪我ではなく、今では普段と変わらず任務を行えるほどにまで回復していた。

 しかし、イタチが任務を行う回数は、実のところ、事件以前よりも少なくなっている。彼が持っていた下忍の子たちも、他の上忍に引き継がせていた。

 

 一夜にして一族が滅亡という例を見ない大事件の被害者であるイタチを慮っての処置、という風に表向きはなっている。うちは一族が滅んだという事実は、他国、他里に知られてはいるものの、幸いなことに大きな動きはなく、平穏な日々が続いているため、イタチの処置について異論を唱える者は誰一人としていなかった。

 

 しかし、本当の理由は―――サスケのケアのためである。

 

 イタチが入院して三日目の時に、サスケは退院した。大きな怪我もなく、精密検査の結果身体に何も問題は無いと判断されたからだ。だが、心に強いストレスが掛かっているということを、唯一の肉親となってしまったイタチに、医師は報告した。まだアカデミーに通っているサスケにはあまりあるストレスで、今後の成長過程に大きな問題が発生するかもしれない、と。

 

『傍にいてあげるだけで構いません。無理に距離を縮めようとする必要もありません。ただ話し、一緒にご飯を食べる。同じ空間で生活するだけでいいのです。とにかくゆっくりと、長いスパンで、あの子と接してあげてください』

 

 それが、医師の助言だった。

 

「……ご馳走様」

 

 一人になったイタチは、両手を揃えて呟く。返事は、もちろん、ない。食器を台所まで運び、洗う。ちゃぶ台も吹いて、簡単に部屋の掃除をした。機械的な作業。けれど、不思議なことに、何も考えないで身体を動かすというのが、今では何よりも落ち着ける時間だった。

 

 空っぽな時間。

 たった一人になることが、どうして落ち着けるのだろうか。

 きっとそれは、サスケのケアを、上手くできているのだろうかという不安があったからかもしれない。

 

 ゆっくりと、長いスパンで、接していく。

 

 おそらく医師のその助言は適正な手段なのだろう。専門的な知識と経験に基づく判断からの助言なのだから。イタチから見ても、過度に声をかけたり、無理に優しくしたら、サスケが強く反発するだろうことは容易に想像ができた。

 

 だが、サスケと二人で生活している内に、脳裏にちらつく将来の予測に不安を抱いてもいた。

 

 このままでは、サスケは遠くに行ってしまうのではないかという、不安だ。

 何故、そんな不安が生まれるのか。

 それは、サスケが今、フウコに強い復讐心を燃やしていることに起因している。

 

 一度だけ―――そう、一度だけ。

 サスケははっきりと言ったことがある。

 

 殺すと。

 

 フウコを必ず殺すと。

 

 彼女(、、)の前で、言ったのだ。

 

 そしてサスケは退院してからずっと、憑りつかれたように修行に没頭している。

 毎日、毎日。

 夜になるまで。時には、夜遅くまで。

 

 本当にこのまま、サスケの傍にいるだけで、いいのだろうか?

 このままでは、復讐心に囚われた弟が、フウコの後を追って孤独になってしまうのではないか?

 

 だが、じゃあ、復讐をするなと言うべきか。

 まだ自分がどうしたいのか、どうするべきなのか、迷っているというのに。

 下手に言葉をぶつけてしまえば、サスケとの距離は絶望的になる。どれほど歩み寄っても、近づくことができなくなる距離を作ってしまう。

 

 大切な弟の為に、どんな答えを持てばいいのか。そしてその答えを持つための時間は、どれほど許されているのか。

 

 そんな不安が、いつも胸の中にある。

 空っぽな時間は、その不安から逃避させてくれたのだ。

 しかしやがて、部屋の掃除も終わってしまう。

 

 時計を見ると、まだ午前の真ん中だった。仕方なくイタチは買い物袋を持って部屋を出た。今夜の夕食と明日の朝ご飯と、サスケの弁当に入れる食材を買う為である。と言っても、イタチの料理のレパートリーは絶望的に少なかった。どうにかレパートリーを増やそうと、店先の食材を眺めながら、頭の中に入れた料理本の知識と照らし合わせ、上忍として貯蓄している金銭と相談するため、それなりの時間が掛かってしまう。

 

 仮宿舎に戻ってくる頃には、昼時から一刻ほど前の時間くらいまでになっていた。

 

「……ちょうどいい時間だな」

 

 買ってきた食材を冷蔵庫の中に入れてから、再び、家を出た。道の途中で花屋に寄り、三輪ほどの短い花を買った。お見舞用の花である。事件から二ヶ月が経過し、すっかり平穏となってしまった里の中は、昼時ということもあるせいなのか、先ほど買い物に出かけたよりも人通りが多くなっていた。

 

 誰もが、笑顔を浮かべながら、横を通り抜けていく。イタチはうちはの家紋が入ったシャツを着ていたが、その上に上忍のジャケットを羽織っていたため、うちは一族の人間なのだとはすぐに分からない。顔見知りではない限り、気付かないだろう。主に、主婦の方しかおらず、イタチのことに気付く者はいなかった。

 

 辿り着いたのは、病院だった。

 

 事件から二週間入院していた病院であり、そして―――イロミが入院している病院だった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「…………あ、イタチくん」

 

 狭い個室に、イロミの濁った声が小さく木霊した。イタチは後ろ手にドアを閉めながら小さく笑みを浮かべ、呟いた。

 

「無理に声を出す必要はない、イロミちゃん。安静にしててくれ」

「…………ううん、今日は、喉の調子が良いから。それに、医者の人も、少し声を出して喉を動かした方が良いって言ってるし。無理をしなければ、いいんだって。だから、気にしないで」

「いや、それでも……」

「…………大丈夫、だから。それに、イタチくんだって、花はいらないって言ってるのに、いつも持ってくるでしょ?」

「分かった。だが、無理はしないでくれ。喋りたくないなら、簡単でいいから教えてほしい」

 

 病室の中央のベットで横になっているイロミは微かに頷いた。とても弱々しい動作。二ヶ月にも及ぶ入院生活のせいですっかり長くなってしまった彼女の髪の毛は、彼女の顔のほとんどを覆い隠していた。包帯が巻かれた細い鼻が長い前髪を分断し、本当に僅かに覗かせる口元の笑みだけが、彼女の感情の機微を伝えさせる唯一のものだった。

 

 ベットの脇に置かれている背の低い棚。その上に、花瓶が乗せられている。花瓶には二輪の花が挿されており、幾分か元気を無くしてはいるものの、まだ捨てるには早いくらいではあった。

 三日前に見舞に来た時、イタチが持って来た花である。今日持って来た花と全く同一だったことに、今更ながらイタチは思い出した。

 

 表情に出てしまったのか、イロミはそれを指摘する。

 

「…………珍しいね、イタチくんが困った顔するなんて。もしかして、見るのは初めてかも」

「すまない、別の花を選ぶべきだったな」

「…………気にしなくていいよ」

「水だけを取り換えよう」

 

 花瓶を手に取り、病室に備え付けられている洗面台で水を取り替え、新しい花も一緒に挿した。同じセットの花が二つ、一つの花瓶に入ると、流石に落ち着いた花達であっても、少しだけ煩わしいように思えた。しかし、他に選択肢は無く、イタチは渋々と壁に立て掛けてあったパイプ椅子をベットの横に付けて腰を落ち着かせた。

 

 すると、イロミが上体を起こそうと、腹筋の力だけで起き上がろうとした。イタチは素早く彼女の背中に腕を回し、あっさりと起き上がらせる。

 長くなった彼女の髪の毛は、肩にかかる程までに伸びていたが、腕に振れる彼女の背中はやせ細り、骨の感触が生々しく伝わってきた。

 

 あはは、とイロミは乾いた自虐的な笑い声を小さく出した。

 

「…………やっぱり、まだ一人じゃ起き上がれないみたい。喉の調子が良かったから、もしかしたら、起き上がれるんじゃないかなって思ったけど、まだ、無理みたい」

「肋骨を傷めたんだ、仕方ない。俺は気にしてないんだ。無理に起き上がる必要はない」

「…………もう肋骨は痛くないし、」

 

 そこで一度、イロミは言葉を止めた。口先が震え、一瞬だけ下唇を噛んだのを、イタチは見逃さなかった。

 まるで、何かを怖がるような動作だった。

 

「…………友達……が、お見舞に来てくれてるから、横になったままだと、悪いかなって、思って」

 

 友達。

 

 その言葉は、あまりにも小さい声量だった。

 イタチは彼女に不安を与えないように、腕を離しながら笑ってみせた。

 

「安心してくれ。身体を起こすか起こさないかで、何かが変わる訳じゃない。でも、そうだな、確か、明日からリハビリをするんだよね? だったら、身体を動かしても、いいかもしれない」

「…………ありがとう」

 

 あはは、とイロミは顔を上げて、再び笑って見せた。

 

 さっきよりも声量は大きかったが、必死に明るく振る舞おうとしているのが分かってしまった。笑顔を浮かべる口元の下、喉周りには、包帯が巻かれているのが視界に入るが、イタチは必死に平静を装った。

 

「…………うん、そうだね」

 

 と、イロミは呟く。

 

「明日からリハビリかもしれないから、身体を動かすのは大事だよね」

「ギブスは予定通り、今日外れるのか?」

「…………一応はね。ギブスは外れるみたい。でも、もしかしたら、リハビリはすぐに出来ないかも」

「まだ完治じゃない、ということか?」

「…………ううん、もう、筋肉も骨も繋がってるのは間違いないみたい。だけど、上手く動くか分からないかもしれないんだって。ほら、腕とか手とか、ぐちゃぐちゃになっちゃったから、神経が繋がってないかもしれないみたい。だから、精密検査次第ってことになるらしいけど……」

 

 上体を起こしたイロミの両腕には、分厚いギブスと包帯が巻かれている。二の腕と、両手にである。半袖の白い病人服だが、一瞬だけ長袖なのではないかと見紛うかもしれないほど、彼女の両腕は白い包帯で覆われているのだ。

 

 彼女が同じ病院で入院しているということを聞いたのは、イタチが入院して一週間ほどのこと。フウコが起こした事件について、暗部から事情聴取を受けた時に偶々、彼女の事態を耳にしたのだ。

 

 意識不明の重体で、里の外で発見された、と。

 

 すぐに彼女の病室に赴いたが、その時の彼女の姿は、幾つもの機器と大量の薬品に命を繋がされているような、悲惨なものだったというのは、イタチは今でもはっきりと思い出すことができる。

 

 あと一歩、発見されるのが遅れていれば、命は無かったと医者から聞いていた。

 

 フウコが犯した凶行に、夜明け前の時のように怒りが蠢こうと唸りをあげるのを必死に抑えた。イロミは続ける。

 

「…………まあ、感覚ははっきりとあるから、大丈夫だと思うよ。手なんて、凄い痒いんだ」

 

 それでも、もし、上手く神経が機能しなかったら………。イタチはその言葉を喉元で堰き止めた。代わりに口から零れたのは、希望的なものだった。

 

「きっと、大丈夫だ」

「…………イタチくんがそう言うなら、そうなんだろうね」

 

 そう呟いてから、イロミは顔をあげてイタチを見た。

 

「…………そういえばイタチくん、今日は、どうしてお見舞に来てくれたの? 三日前にも、来てくれたのに」

「ああ。ギブスが外れるなら、何か、例えば本とか持って来た方がいいかな? って思ったんだ。リハビリで忙しくなるかもしれないが、無いよりはマシかと思って、聞きに来たんだ」

 

 三日前に来た時、聞くべきことだったが、やはり事件が終わってから、どこかぼんやりとしてしまっている部分があった。

 

「午後にギブスが外れるようなら、今日中に持ってこよう。何かあるかな?」

「…………それなら、本がいいかな。手のリハビリにも、いいかもしれないし」

「どんな本がいい? やっぱり、忍術書とか?」

「…………何でもいいよ。小説でもいいし、マンガでもいいかな。でも、うん、忍術書だったら嬉しいけど、高いと思うから、大丈夫だよ」

 

 その時、部屋のドアがノックされた。ドアの向こう側から、女性の明るい声が届く。

 

「イロミちゃーん? お昼御飯の時間でーす。入ってもいいかしら?」

 

 どうやら医療忍者の女性が昼食を運んできたようだ。

 イロミは静かにイタチを見る。

 

「…………ごめんね、イタチくん。これから、お昼御飯だから」

「いや、気にしないでくれ。今回は何を持って来ればいいのか聞きに来ただけだ。また、午後に来るよ」

 

 頭の中で買ってくるべき本の種類を選定しながら立ち上がり、パイプ椅子を元の位置に戻した。一度、病院を出るのだ。未だ、喉が完治していない彼女は、流動食しか食べれない。そして、流動食と言っても、スムーズに食べることができないようで、イロミから「あまり、見られたくないから」という理由で、食事時は席を外すようにしているのだ。

 

 別段、そんなことは気にしないが、仕方ない。そう思いながら、ドアに手を―――。

 

「…………ねえ、イタチくん」

 

 その時、イロミが声をかける。

 震えたその声は、振り向かなくてもイロミの様子が想像できてしまい、ドアに手をかけた手がピタリと止めてしまった。

 

「…………前にも、私、言ったかもしれないけど……、フウコちゃんのこと……」

 

 体温が、上がったのか、下がったのか。

 曖昧な感覚に、部屋ごと支配されたような眩暈がやってくる。呼び起されるのは、一度、サスケと共に彼女の見舞いに来た時の光景だった。

 

 意識を取り戻したばかりで、まだまともに声も出せなかった彼女だが、しかし、掠れた声で言ったのだ。

 

『…………わだじ……、ぶうごぢゃんのごど…………、じんじでる……』

 

 きっと、理由があるのだと。

 うちは一族を滅ぼさなければならない理由が、あったのだと。

 

 その言葉に、サスケは声を張り上げた。

 

『ふざけるなッ! あいつは、父さんも母さんも、シスイさんも……殺したんだッ! 信じるもないだろッ!』

『…………ざずげ、ぐん……』

『俺は、あいつを―――フウコを必ず殺す。邪魔するなら……お前も殺すぞ、イロミ』

 

 イタチは、振り返ることができなかった。振り返り、フウコを信じている彼女の顔を見ることが、できなかった。

 

「…………私は、まだ信じてる。だから、フウコちゃんを、探そうって、思うの。退院したら」

 

 震える声。その中には、幾分かの弱さが混じっていた。

 アカデミーの頃に、聞いたことのある声だった。

 上級生に虐められ、泣きながら、だけど、平気だと呟いたあの頃の彼女の声と、同じ弱さ。

 

 助けを求めるような、弱さだったのだ。

 

「…………イタチくんは―――フウコちゃんのこと……どう、思って……」

「はーいイロミちゃん。ご飯の時間よー」

 

 イロミの言葉は入ってきた医療忍者の女性に遮られた。目の前に姿を現した医療忍者の女性は、イタチの姿を見て口に手を当てて大袈裟な瞬きをした。

 

「あら、もしかしてお取込み中だったかしら?」

 

 医療忍者の女性に応えたのはイロミだった。

 

「…………いえ、今、話しが終わった所です。すみません、返事をしなくて」

「いいのよ。そ、じゃあ、失礼するわね」

 

 銀色の台車を押してイタチの横を通った。台車の上には、深く大きな一つの器が乗せられている。台車をベットの横に付けると、女性は優しく笑った。

 

「じゃあイロミちゃん。今日は頑張って、全部食べてみましょうね。あ、もちろん難しかったら、すぐに言うのよ?」

「…………はい、頑張ってみます。じゃあ、イタチくん、またね」

「ああ、また」

 

 イタチは、病院を出た。

 

 病院のすぐ近くには、幾つかの食事処があった。退院したばかりの人であったり、病院に勤めている人であったりが利用するのだろうけれど、あまり混雑はしていないようだった。しかし、空腹を感じることはなく、イタチはそれらの食事処に寄ることはなかった。ぐしゃぐしゃに丸めた紙を広げたような乱雑な思考を整えながら歩いていると、到着したのは、小さな公園だった。

 

 ベンチに腰掛け、空を見上げる。公園には子供の姿も、大人の姿もないけれど、外からは微かな喧騒が耳に届いた。薄い雲が真上を通り過ぎて、ちょうど、太陽の姿が見えなかった。

 

『俺は、あいつを……フウコを殺す。邪魔するなら……お前も殺すぞ、イロミ』

『…………イタチくんは―――どう、思って……』

 

 二人の言葉と表情、そして感情が無意識に思い出される。

 復讐に身を焦がしている最愛の弟と、信頼を繋ぎ止めている友人。

 どちらが間違っているのか、という問題では、きっとない。

 

 いつかは、やってくる選択だった。

 既に二人は、自分の感情に従って選択している。

 このまま、自分が何も選択しなかったら、二人はフウコの元に行ってしまうかもしれない。

 サスケはフウコを殺す為に。

 イロミはフウコを信じる為に。

 

 けれど、二人は、力が足りない。

 殺すにしても、対話をするにしても。

 フウコの前に立ち続ける為の、力が足りない。

 殺される。

 それを止めたいという感情が頭を圧迫するが、じゃあ、自分はどの選択をすればいいのか、分からなかった。

 

 怒りに従って、復讐を望むべきか。

 理性に追随して、信頼を繋ぎ止めるべきか。

 

 そして、その選択をしなければならない時期は、もうすぐなのだろう。いつだって現実は、最良の選択を考慮する時間を許してはくれない。

 焦りが込みあげると同時に、太陽が顔を出した。

 日差しの暑さのせいなのか、じんわりと、首筋に汗が滲み出はじめる。それが益々、焦りを駆り立てた。

 

「……おたく、ここで何してるの?」

 

 日差しの向こう側―――いや正確には、イタチの身体から見て真正面からなのだが―――から、呆れたような声が入ってくる。顔を下げると、そこには一人の男が立っていた。

 

 鼻まで隠すマスクと、左眼を隠すように付けた額当て。そのせいで大きく偏った髪の毛。死んだ魚のような目をした男を見て、イタチは微かに驚いた。

 

「……カカシさん」

「よ、久しぶり」

 

 はたけカカシは気怠そうに右手をあげた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イロミは、泣きたくなる衝動を必死に抑えていた。

 

 ようやくギブスが取れる。

 取れれば、リハビリをする事ができる。つまり、努力することができるのだ。

 リハビリをしたところで、事件前の自分までの実力に戻るのに、長い時間が掛かるだろう。けれど、何もしないよりはマシだ。

 

 大切な友達が、犯罪者と定められてしまった。

 高額の賞金を里側から、抜け忍として付けられてしまった彼女は、賞金首を狙う一部の忍から他里の忍に至るまで、命を狙われてしまう。

 

 友達だから。

 

 今では、その言葉を呟くだけで心が恐怖に怯えてしまうが、それでも、どれほど悩み、どれほど泣いても、その言葉はいつも自分の心の中央にあった。

 

 だから、助けたい。

 遠くへ行ってしまった友達に追い付くために、努力をしたい。

 そう思っていた。

 そしてその思いが、ようやく、達成できると思っていた。

 ギブスが取れれば、努力が取れるのだと、思っていた。

 

「……イロミさん。落ち着いて、聞いてください」

 

 ギブスを外し、チャクラで精密検査をしてくれた担当医が、真剣な表情を浮かべている。彼の下唇は微かに震えているのが、怖かった。

 

 ―――……どうして…………。

 

 イロミは自分の両手を見る。

 骨を折られ、きっと骨片が皮膚を突き破っていたのだろう。無残な跡が大量に残った、ほっそりとした手が、上体を起こした自分の太ももの上で横になっていた。

 

 空気が触れる感覚。

 掛け布団に乗っている感覚。

 それらは、確かに伝わってくる。

 なのに……。

 

 ―――指が……手が…………動いて、くれない……。

 

 指を動かすイメージと、現実の指の動きに、大きな齟齬があった。

 ピクリとも、指は、手は、動かない。

 

 恐ろしい現実が頭の上からのしかかってくるのを、イロミは必死に否定した。

 そうだ。

 きっと、ギブスを取ったばかりだから。

 これからリハビリしていけば、動いてくれるはず。

 心の中で言い訳する。

 だが、目の前にいる担当医の表情と、落ち着いてほしいという言葉に、心が怯える。

 泣きたくなる衝動を必死に抑え込むが、現実は、それを許してくれなかった。

 

「貴方の手は、既に完治しています」

 

 嘘だ。

 だって、指が、手が、動かないのに。

 完治なんて。

 え? そんなことって……。

 

「落ち着いてください、イロミさん。深呼吸をしてください」

 

 落ち着け?

 自分は落ち着いている。

 

 だが、視界が揺れる。

 視界が滲んでいるのだ。

 喉が震え始める。

 現実に心が押しつぶされて、心の内臓が、喉を伝って、悲鳴をあげようとしていた。

 未だ治療中の喉を引き裂くような、絶叫を、イロミは―――。

 

「イロミさん、大きく、深呼吸してくださいっ! 呼吸を―――」

 

 喉が、裂けた。

 視界に赤い血が広がっていく。

 

 どれほど、フウコを信じても、心は爆弾を抱えていた。

 

 大切な友達が遠くへ行ってしまったこと。

 大切な友達が自分との関係を否定したこと。

 それらのストレスは、サスケがフウコを恨んでいるという現実、そしてもしかしたら、イタチもフウコを殺そうと思っているのではないかという不安がさらに重くのしかかっていたのだ。

 

 その心を支えていたのが、努力をすれば―――、という希望的な未来だけだった。

 

 その未来が、今、取り除かれた。

 これまで積み上げてきた物が、音を立てずに崩れ落ちていく。

 

 心を破裂させ、悲鳴を出させた。

 

 視界が真っ白になる。

 遠くて人の声。慌てた声が聞こえてくる。

 

 両手が動かない。両手の感覚が、もう、どこかへ行ってしまった。

 

 どれほど努力をしても。

 印をまともに結べない、クナイも握れないような者が。

 忍として、あっていいのだろうか。

 




 色々と悩んだ結果、一度、後日談を書こうと判断しました。次話も、後日談となります。その後に、フウコ視点の話を一、二話ほど投稿し、灰色編は終わりにしようと思います。

 既に、改訂は済んでいるのですが、投稿ペースは基本的に十日としたいと思います。ですが、これまでと違い、原文などはないため、十日ペースを破ってしまうことがこれまで以上に増える危険性があると、今回痛感いたしました。ですので、もし十日以内に投稿されなかった場合、十日目に必ず活動報告にて報告をしたいと思います。

 次話も十日以内に投稿したいと思います。

 誤字脱字、ご指摘などがございましたら、ご容赦なく、お申し付けください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

後日談・裏

【うちは一族抹殺事件】から、一週間後。

 

 うちはの町は、完全封鎖されていた。町の門は【立入禁止】と書かれた細長い紙が何枚も横断し、さらにその手前には赤色のコーンと白いポールが置かれている。平日の昼間だというのに、門の奥からはおろか、塀の周りは水を打ったように静かで、人影すら見当たらない。

 

 サスケは、たった一人で、町の中を歩いていた。

 

 そう、たった一人だ。

 うちはの町には、もう、誰もいない。

 皆……死んでしまった。町そのものがもう、日常という呼吸をしなくなったのだ。

 

 動くこともなく、呼吸もしなくなってしまった町は無機質な石と同じで、冷たく、吸い込む空気すら乾いているような気さえしてしまう。道の脇に並ぶ家屋、小さな店先、どれも、ついこの間まで―――あの些細で透明だった日常―――と何ら変化が無いのに。

 あの夜。

 あの悪夢のような夜は、間違いなく現実としてあったのだと、無言の町が言っているようだった。これまで、そしてからもずっと、温かい居場所だったはずなのに……。

 

 家の前に着いても、温かさは記憶の中からの残り香からしか感じ取れなかった。

 

 玄関を開けると、ガラガラと引き戸が音を立てた。賑やかなその音は廊下の上を何の抵抗も受けることもなく響き渡って、吸い込まれていく。

 返事は……無い。

 だが、記憶が、幻想を見せた。

 

『あらサスケ、おかえりなさい』

 

 優しい笑顔を浮かべて、前掛けで手を拭きながら声をかけてくれるミコトの姿。

 

『お風呂沸かしてるから、すぐに入るのよ? 今日の修行はどんなことしたの?』

『投擲の修行したんだ』

 

 応えたのも、記憶の自分だった。目の前に立つ幻想の自分は陽気に笑ってミコトを見上げている。

 

『今度、私が教えてあげる? これでも私、手裏剣術は得意なのよ?』

『いいよ。母さん、忙しいだろうし』

『あら、残念。ふふふ』

 

 その幻想は瞬く間に空気に溶けるように消えてしまい、再び、冷たさが足元を覆い乾いた空気が首筋を撫でる。鼻の奥か熱くなった。

 

 ―――……ただいま…………。

 

 家に上がった。ぼんやりとしたまま、目的もなく、ただ廊下を進み、部屋の中を放浪とする。部屋に入るたびに、廊下の歩くたびに、記憶が刺激されて幻想が生まれ、そして消える。

 まるで、これまでの大切に貯めていた記憶が身体の外に抜け出ていって、どこか遠くへ消えていってしまうのではないかと思えてしまうほどに、次々と幻想が溢れ出てくる。

 

『アカデミーの方はどうだ?』

 

 台所に入ると、フガクの声と姿が。

 

『楽しいよ。でも、実習授業は少しつまらないかな……』

『うむ。だが、授業は真面目に受けるんだぞ。いずれ、お前の為になることばかりを教えてくれるのだからな』

『うん、分かってるよ』

『どうだ? 今度、アカデミーが休みの日に、修行を付けてやろうか?』

『だったら、忍術教えてよ。俺、火遁の術を使えるようになりたいんだ』

 

 また、幻想は消える。記憶が抜け出ていくと一緒に感情の出て行ってしまったのか、もはや悲しみや苦しみも感じない。空っぽになってしまったかのような空虚感。それでも、どうしても心の中には、一つの感情だけが木炭のように煌々と熱を持って残っている。

 

「……姉さん」

 

 最後に訪れたのは―――フウコの、部屋だった。

 物があまり置かれていない簡素な室内は、これまで見てきた光景の中では最も無機質さに違和感はなく、静けさが様になっていた。

 死んでしまった、うちはの町の中で一番相応しい空間。

 大好きだった町を殺した人物の部屋。

 

 怒りが―――心の中で燻る唯一の感情が―――蠢き始めた。

 

 そしてどういう訳か、また、幻想が。

 

『姉さん、今日は暇なんだろ? 修行付けてくれよ!』

 

 壁に背中を預けて座り本を読む姉に、跳ねるように声をかける自分。

 そんな自分が、あまりにも、間抜けに見えた。

 

『……暇だけど…………、イタチに頼んだ方がいいよ? 上忍だし、教えるのはイタチの方が上手だから。イタチは今日は、暇のはず』

『兄さんが暇なのは知ってるけど……。いいだろ? たまには姉さんに教えてほしいんだ』

『たまにはって、言われても。教える内容は同じのはずだから、やっぱり、イタチの方がいいよ。イタチが断ったら、私に言って。その時は、教えてあげるから』

『ホント?! じゃあ、待ってて!』

 

 何も知らない馬鹿みたいな自分の幻想が横をすり抜けていく。

 目の前には、本を読み続けるフウコが。だがフウコはゆっくりと立ち上がり、こちらを見下ろす。額から、肩から、服から、赤い血が零れ始めた。

 

 右手には、抜身の刀。口元を大きく歪めて、笑っている。

 

「…………ッ!」

 

 壁の横に置かれている背の低い本棚。

 その上には、でんでん太鼓が置かれている。記憶の古い所にある、まだ背の低い姉の後ろ姿がフラッシュバックして、軽快な音が頭の中をガンガンと叩きまわった。

 

 煩いでんでん太鼓を、フウコの幻影に叩きつけた。

 

 でんでん太鼓は幻影を通り抜けて壁にぶつかり、周りにくっ付いていた多くの装飾がバラバラに外れた。コン、と、紐で繋がれていた石が偶々太鼓の部分を叩く音が部屋に響き、無感情に鼓膜を揺さぶる。

 

 幻影は最後まで醜い笑みを崩さないまま、溶けて消えていった。

 

「……父さんの、言った通りだったんだ」

 

 フウコは、家族じゃない。

 

 あの時。

 フウコが暗部に連行された夜の時に言っていた父の言葉は、正しかったのだ。

 間違っていたのは……自分だった。

 

 父を殺し、母を殺し、兄を傷つけ、一族を滅ぼした、あの女は、家族ではない。

 

 敵だ。

 

 殺さなければいけない、仇を討たなければならない、敵だ。

 

 もう二度と、姉などと呼ぶことはしないと、サスケは奥歯を噛みしめながら心に誓った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……おい、サスケ」

 

 うちはの町の門の前に、ナルトが立っていた。今日は平日であり、まだアカデミーも終わっていない昼間だ。療養という名目でアカデミーへ登校していないサスケとは異なり、ナルトがそこに立っている理由は特にない。だがサスケは、さもナルトがそこにいないかのように平然と横を通り抜けようとする。

 

「無視すんじゃねえッ!」

 

 乱暴に襟元を掴まれ引っ張られる。踏み止まることなく、引っ張られるままに、近距離でナルトの顔が視界に入った。

 アカデミーでも何度か、似たような場面があった。

 体術の実習授業、手裏剣術の授業。

 その度に彼は突っかかってきて、授業だというのに半ば勝負のような雰囲気となってしまい、けれど毎回自分が勝ち、そして喧嘩腰に睨んでくる。正直、鬱陶しいやつだとサスケは思っていた。

 

 今もその評価は変わらない―――いや、今までは、心のどこかでは、面白いやつだと思っていた部分も実はあったのだが―――。鬱陶しいやつだと、投げやりな感情しか湧いてこない。

 

 無気力にナルトの青い瞳を眺めていると、ナルトは怒った表情で声を荒げた。

 

「おい、何があったんだってばよ……。どうして、うちはの町がこんなことになってんだよ?!」

「……お前には関係ない。手を離せ」

「応えろッ!」

 

 耳が痛くなるほどの怒鳴り声だったが、応えるつもりなどなかった。

 あの夜のことも、フウコがした事も、もう二度と思い出したくもないし言葉にもしたくない。

 腕を捻り、手を離させようかと左手を動かそうかと考えた時、ナルトの口から信じられない言葉が出てきた。

 

「なあ、フウコの姉ちゃんは無事なんだろ?! 今どこに―――ッ!」

 

 ナルトの頬を思い切り殴りつけていた。ナルトは横に尻餅をつき、襟元を掴んでいた手が離れる。自由になった肩で、ナルトを見下ろす。

 

 黒い瞳の周りを囲う黒い線。その上に浮かぶ一つの勾玉模様。自覚なく、サスケは写輪眼になっていた。

 

「俺の前で、あの女の名前を言うな」

 

 口の中が切れたのか、口端から零れる血を手で拭うナルトがこちらを睨み付けてくる。

 

「……何すんだテメエッ!」

 

 立ち上がり右手が顔を目掛けて飛んでくるのを、サスケは最小限の動きで躱しながら、右足で腹部に蹴りを入れる。再びナルトは地面に腰を打つが、立ち上がって今度は蹴りで足を狙ってきたが、避け、今度は右手で顔を殴ってやる。

 

 写輪眼はナルトの動きを精密に捉えていた。殴ってくる拳の動き、蹴ってくる足の動き、重心の動き、身体運び。

 

 それら全てから、フウコの動きが垣間見えた。ナルトとフウコの関わりについてどうでもいいことだったが、フウコの姿がナルトの後ろに見え隠れし、苛立ちが高まっていく。叩き込む拳や蹴りに力が入った。

 

 瞬く間にナルトの顔は殴打の痕に塗れ、地面に倒れた拍子に擦った傷が至る所についていた。気を失ってはいないが、力無く仰向けに倒れているナルトを、無傷なサスケは冷酷に見下ろしていた。

 

 ―――……もっと、強くなってやる。

 

 心の中で、フウコの姿をちらつかせるナルトに言い放つと、背を向けて歩き出す。後ろから、ナルトが泣く声が聞こえてくるが、すぐに聞こえなくなった。

 

 ―――あいつよりも……そして、兄さん(、、、)よりも…………ッ!

 

 そうすれば、フウコを殺すことができると、サスケは思った。

 もう自分の中に残っている大切なものは、たったの一つだけ。未だ入院している兄、イタチだけだ。唯一の繋がりで、何があっても、決して手放しはしないもの。

 

 まだ自分は弱い。フウコの足元にも及ばないほど、全くの無力だ。

 これから力を付けていく。誰よりも努力をして、必ずフウコを追い抜いてみせる。だが、フウコを殺すとなった時、きっと、イタチは止めるだろう。危険だからと言って、代わりにフウコを殺しに行ってしまうかもしれない。

 

 あるいは……むしろ、イタチはまだ、フウコのことを信じているかもしれない。

 

 兄は自分よりも、フウコと関わっている時間が長い。それに、優しい人格だ。まだ信じていることもあるかもしれないと、サスケは思った。

 

 そのことを責めるつもりは、全くない。偉大な兄の優しい性格なら、ありえること。あの夜、フウコと対峙した彼の後ろ姿は、殺すと明言しながらもどこか躊躇っているようにも見えたことも、そう思わせる原因だった。

 

 復讐はするな。いずれ、言われるかもしれない。もしかしたら、その時の自分は怒りに震えるかもしれないが、それでも、軽蔑はしないだろう。しょうがないことだと、サスケは思う。

 

 問題なのは、その兄にいずれ、自分の復讐を止められるかもしれないということ。力尽くで止められるかもしれない。

 

 だから、強くなる。

 フウコよりも。

 そして、イタチよりも。

 

 サスケはそのまま、イタチが入院している病院へと赴いた。個室のドアを静かに開けると、静寂な空気が顔に当たる。薄いカーテンの光を背景に、ベットで横になっていた彼がこちらに顔を向けると、微笑んだ。

 まるでこちらを安心させるような、優しい笑み。

 

 けれど、その笑みには、どこか辛さが見え隠れする。

 暗い感情を押し殺したような、固さである。

 

「兄さん、身体の調子、どう?」

「……安心しろ。担当医の方が言うには、もうすぐで退院だそうだ」

「そっか。良かった」

 

 もう二度と、兄に辛い思いはさせない。

 危険なことをしてほしくない。

 あの夜のように、フウコの気紛れなのかどうか分からないけど、死んでもおかしくない状況に向かわせたくない。

 

 父の仇も、母の仇も、一族の仇も。

 

 ―――全部、俺がやる。……俺が、あいつを殺す。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ブンシの友人関係は、意外にも幅広い。決して口が良いという訳でもなく、ヘビースモーカーな上に大酒呑み、さらには怒りの沸点があまりにも低いというのが、彼女を詳しく知らない者たちの基本的な評価だ。至極真っ当な評価であり、ブンシ自身もその評価は間違っていないだろうと思っている。平日の昼間、人が適度に行き交う里の街中を一人で歩きながら、チラチラと飛んでくる尖った視線を背中で受け止めながらも、ブンシは平然と歩いていく。

 

 ―――……昼間はこんな感じなのか。随分、変わったもんだな……。

 

 長閑な雰囲気を、首筋とロングコートを撫でる陽気な風を感じ取りながら、黒縁の眼鏡を通して街中の景色を眺めながら、歩く速度を変えないまま進む。

 

 平日の昼間に―――つまりアカデミーが開校している日に―――街中を歩くのは久しぶりだった。どれくらいぶりだろうか、と考える。少なくとも、五年以上は期間が空いているだろう。

 

 ブンシは今日、アカデミーを休むことにした。教師が休む、という表現が正しいのかどうか定かではないが、風邪を引いたからという、くしゃみが出そうになってしまいそうないい加減な嘘をついたのだから、正確にはサボったと言った方がいいかもしれない。有休を除いて(ブンシは有休をとっても、基本的に【趣味】でアカデミーに顔を出していたのだが)平日の昼間に街中を歩くのは、実は初めてだった。

 

「おや? ブンシちゃんじゃないか」

 

 ちょうど、右手側の食事処の前を通り過ぎようとすると、入口の方向から声をかけられた。見ると、そこには奈良シカクが立っていた。

 

 ブンシは立ち止まり、コートのポケットに入れていた両手を取り出し真っ直ぐ腰の横に伸ばすと、礼儀正しく頭を下げた。

 

「御無沙汰してます、シカクさん。いつも、シカマルくんをお世話させてもらってます」

 

 アカデミーでは決して生徒を【くん付け、ちゃん付け】などしないが、こういう場合には、そう言った言葉の運用が必要な時があることは重々承知している。もちろん、頭を下げたのは彼が年上であり、生徒の親であるということもあるのだが、良好な関係を築いているということもあるからだ。

 

 どれほど親しくても、挨拶だけは礼儀を正すというのが、ブンシのポリシーの一つだった。

 

 顔の右半面に二つの傷痕を残す強面そうな顔を、シカクは優しい笑みに変えた。

 

「相変わらず、ブンシちゃんは固いな。ウチの女房とはえらい違いだ」

 

 頭を上げながら、ブンシは困ったように口をへの字にした。

 

「あの、毎回毎回、奥さんと比較するの止めてくださいって。聞いてるあたしがヒヤヒヤするんすから。あと、ちゃん付けも止めてください」

「まあまあ、いいじゃねえか。ブンシちゃんは俺より年下なんだからよ」

「シカクさんが、奥さんはガサツで口悪いって言ってましたよって、大声で伝えに行きますけど良いっすよね?」

「……それだけは、勘弁してくれ。俺の小遣いが…………また減っちまう」

 

 どうやら上忍である彼の給料は、頭の先から爪先まで、女房に掌握されているようだった。あまり貴重ではない情報である。ブンシはため息をつくと、シカクは呟いた。

 

「今日はアカデミーはどうしたんだ?」

「有休っすよ。ほら、あたしって真面目なんで、たんまり余ってるんですよ」

 

 これも言葉の運用と同じで、あっさりと嘘を付いた。歯が浮きそうになる嘘だったが、シカクは納得したように深く頷いた。

 

「よくシカマルの奴から、ブンシちゃんの―――」

「あ?」

「……【君】のことは聞いてる」

「すぐにキレて、授業中に煙草を吹かす暴力教師だって?」

「どうせあいつのことだ、授業中に居眠りでもしてたんだろ?」

「でも、頭は良いと思いますよ。シカクさんに似て。面倒くさがりですけど、友達もいますし。良い生徒です」

 

 良い部分を曖昧に包んで伝える。教師になって最も身についたスキルはおそらく、嘘は言わないという心構えだろう。

 

「君がそう言ってくれるなら安心だ。どんどん、あいつをぶん殴ってやってくれ」

「……普通、もっと怒り方を工夫しろとか、そういうことを言うべきっすよ?」

「なに、あいつには世の中の厳しさってのを教えてやった方がいいんだよ。それに、君は真面目で優しいからな、そこの所は信頼している」

「はあ……、どうも」

 

 あまり真面目で優しいつもりなんてないのだけれど、とブンシは思いながらゆるゆると頷いた。

 よく分からないのだが、どうやら親しい間柄の人物達からは、ブンシは実は真面目で人情に厚いという風に思われているらしい。どこをどう見ればそんな風に思えるのか分からないが、不当な評価を下されるよりは気楽だったため、落ちている小銭を拾う感覚でその高評価に甘んじている。そして甘んじていたら、気が付けば、それなりに交友関係が広がっていたのだ。

 

「どうだ? まだ昼食を済ませていないなら、一緒に食べないか? シカマルのことも、他にアカデミーでどんな感じなのか知りたいしな」

「あー、すんません。あたしこれから、少し用があるんですよ」

 

 用事。

 今日、アカデミーをサボった理由の中心である。

 

「昼飯はその後に済ませようと思ってるんで、また別の機会ということで勘弁してもらえませんか?」

 

 仕方ない、と頷くシカクと別れて、道を進む。到着したのは、病院だった。【木ノ葉病院】と書かれた石の柱が立つ簡素な門の前には、一人の女性が立っていた。

 癖の強い黒の長髪と額には木の葉の額当て。紅い瞳と長い睫は非常に女性的で、包帯のような短い丈の衣服は、どこか病院には不釣り合いな恰好のように思える。

 夕日紅は、ブンシの姿を見るや否や腕を組み、眉間に皺を寄せて険しい表情を作った。ブンシは懐から携帯型の灰皿と煙草を取り出した。煙草を咥え、マッチで火を付ける。手首のスナップを利かせてマッチの火を消すと、灰皿にマッチを入れた。

 

「よお、紅。待たせたな」

 

 と、ブンシは紫煙を吐きながら呟いた。

 

「なんだ、メシ食ってねえのか? 下手なダイエットしてっと、短気になるぞ」

「……誰のせいで私が怒ってると思ってるのかしら?」

「ったく面倒くさい奴だなあ。いいじゃねえかよ、アスマにだって予定があんだよ。デートに誘うなら、もっと日を選べアホンダラ」

「何の話しよッ!?」

「あ? ちげえのか? なんだ、もしかしてフラれたか? わーったわーった、今度何か奢ってやるから。ったく仕方ねえなあ」

「だから、アスマは関係ないわよッ!」

 

 顔を真っ赤にしながらヒステリックな声を出す紅だった。病院の前なんだから、と思うが、自分も煙草を吸っているのだから文句は言えない。呆れ顔で眺めているブンシに気を抜かれたのか、紅は細く整った鼻から深く息を吐いてから黒髪を撫でて、腰に手を当てた。

 

「……いい加減、私を呼びだす時にドアを蹴るの、止めてもらえない? ポストに手紙だけ置いていきなさいよ。あと、早朝にやらないで。ビックリするじゃない」

 

 紅に声をかけたのは―――正しくは、彼女の自宅のドアを三度ほど蹴り、ポストに日時と待ち合わせ場所だけを書いた紙キレを投函した―――まだ太陽が見えない早朝だった。その時間に起きるのがブンシの日課である。

 携帯灰皿に灰を捨てて、呟く。

 

「もう慣れただろ? ガキん頃からなんだから」

「全然」

「分かった分かった、分かったっての。はいはいあたしが悪うござんしたよ。次から気を付けっから、マジで機嫌直せ。どうせお前、昼メシまだだろ? 奢ってやるから」

「……まあ、それで手を打ってあげるわ」

 

 まったく、と眉間の皺を無くして両手を広げた紅は呆れ顔を浮かべた。

 

 紅とは下忍の頃からの付き合いである。同じチームとして行動していた為、互いの性格は嫌と言うほど理解している。ブンシにとってはおそらく、最も気心の知る友人だろう。アカデミーの教師になってからこうしてプライベートで顔を会わせる機会は極端に減ってしまったが、ズレのようなものは感じられなかった。

 

「それで? 私は何をすればいいの?」

 

 と、紅は呟いた。ブンシは短くなった煙草を灰皿に入れて、灰皿をコートの懐に仕舞った。

 

 何をすればいいのか。何も知らなかった子供の頃から、紅を呼び出す時は何かを手伝ってもらう時が大抵のパターンである。

 

 しかし、今回は、手伝ってもらうことは何もなかったりする。ブンシは少しだけ悩んでから、

 

「ま、流れに任せる」

 

 と応えた。

 

「あんたの流れって、いつもまともな方向に行かないのよね。まあ、大体私も予想はできてるからいいけど」

 

 二人は前後に並んで病院に入った。前がブンシ、後ろが紅である。ドアを開けると、煙草の香りとは真逆の清潔な空気が顔に貼りついて、あまり良い気分ではなかった。教師が病院に訪れるというのは、不吉以外の何物でもないということは、ブンシは理解していた。

 

 正面の受付を無視して、二階に上がる。医療忍者の看護担当の者たちが待機している部屋に入った。いきなり入ってきたブンシと紅に、彼ら彼女らは不思議そうな表情を浮かべていたが、一人の女性が固い笑顔を浮かべて近づいてきた。

 

「あの……、何かご用でしょうか?」

「猿飛イロミの担当医はどこだ?」

 

 ブンシの言葉に、室内の彼ら彼女らの表情が一瞬だけ固まった。火影の養子である彼女の担当医を呼べ、というのは意外だったのだろう。

 

「貴方は……、彼女とどのような……」

「あの馬鹿がガキの頃に世話してたアカデミーの教師だ。んなもん関係ねえだろ。さっさと出せ。いねえわけねえだろ?」

 

 後ろから紅のため息が聞こえてくる。また厄介な事になりそうだと思っているのだろう。それでも文句や注意を言ってこないのは、ありがたかった。きっと彼女以外の人間だったら、厄介な事がやってくる前に止められていたはずだ。

 

 目の前の女性は「分かりました」と頷いてから部屋を出て行った。

 

 部屋の中に残った彼ら彼女らは通常の業務に戻ったが、時折、視線が飛んでくる。この中に知り合いはいない。粗暴なやつだ、と思っているのかもしれない。アカデミーの教師という肩書も本当かどうか、と思っていることも考えられる。普段ならそんな視線は気にならないが、今だけは腹立たしさを覚えてしまった。

 おそらく緊張しているからだろうと、ブンシは心の中で判断する。

 

【うちは一族抹殺事件】から二ヶ月と二週間ほどが経過していた。その間、ブンシは多くを考えた。結局は、感情の混乱も多くの考えにも決着は付かないままだった。心のダメージが大きかったせいかもしれない。事件前からも事件後からも、あまりにも波乱が多かった。実のところ、家を出る時でさえ、多大な決断が必要だったのだ。

 

 煙草を吸いたくなる。

 

 部屋に担当医の男性が入ってくると、彼はブンシと紅に「別室で、話しを伺います」と言い、招かれるままに別室へと入った。

 

 その部屋は、おそらく、従業員の休憩所か何かなのだろう。簡単な机と椅子、壁際に並べられた医療忍術関係の書物や雑誌が並べられている背の高い本棚しか物がない。

 

 ブンシは真っ先に椅子に座ると、対面に担当医と、担当医を呼んだ女性が並んで座った。紅は後ろに立つことにしたようである。

 

「……わりぃけど、煙草吸っていいか?」

「ええ、どうぞ」

 

 と、担当医は頷いてから、室内の窓を小さく開けた。こちらの苛立ちを感じ取っていたのだろう。携帯灰皿を机に置いてから、ブンシは煙草に火を付ける。大きく煙を吸い込み、肺に詰め込むが、緊張は解けなかった。

 あっという間に煙草は短くなり、二本目を取り出し火を付けて、喉元で止めていた言葉を吐きだす。

 

「……イロミの容態について訊きたい」

 

 そこで一度、大きく息を取り込む。

 

「あいつは今……どんな感じなんだ?」

 

 イロミが意識不明の重体だというのは、イビキから聞いていた。というのも、そもそも、【うちは一族抹殺事件】を知ったのが、彼を経由してからだったのだ。事件から二ヶ月と二週間が経った今でも、彼から事件の新情報が無いか聞いているが、およそ一ヶ月前に発表された最終報告を機に碌な情報は手に入っていないようだった。

 

 担当医の目を真っ直ぐ見る。彼は視線を微かに震わせながら呟いた。

 

「貴方は、イロミさんがアカデミーの頃の教員だったと聞きましたが……今でも、イロミさんとは親しい仲ですか?」

「知らねえよ。あいつはあたしの生徒なだけだ。あいつがあたしのことをどう思ってるかなんて、聞いたこともねえ。……早く言え。あいつの身体は治ってるのか?」

 

 今では、イビキから聞けるのはイロミの容態だけである。おそらく、養子ではあるが、イロミが火影であるヒルゼンの娘だからだろう。暗部である彼の耳に逐一情報が流れ、それを聞いている。

 

 ここ最近で聞いたのは「治りかけていた喉の損傷が悪化した」というものだった。自身の身体の状況を知った時に、叫び声を上げてしまったかららしい。アカデミーの頃までしか碌に彼女のことを覚えていないが、泣き虫で臆病者だった彼女は、しかし一度として身に降りかかる事に絶叫をあげることはなかった。特に、友人であるフウコがアカデミーを卒業してからは我慢強く、いくら涙を目に溜めても消して零すようなことはなかった。

 

 そんな彼女が、叫び声を上げたという事態が、異常のようにしか思えない。

 

 担当医は唇を覆うように手のひらで撫でて、頷いた。

 

「喉の損傷を除き、全て完治しています。……ですが…………、おそらく今後、忍として活動することは、難しいと思います」

「……どういうことだ?」

「彼女の両手の甲から指先に掛けて神経が、無くなっているのです。経絡系も喪失していて、両手と指を動かすことはできないでしょう。両手だけではなく、骨折部位も、局所的に喪失している部分があるのです」

 

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が、意識を揺さぶった。シスイが殺されたと知った時、フウコが殺害の容疑者だと知った時、フウコがうちは一族を滅ぼしたと知った時、それらと同レベルの衝撃。緊張しきった意識は逃げるように眠気を誘おうとするのを、歯を食いしばって阻止する。

 

 落ち着け、とブンシは心の中で呟く。

 

「……完治って言うのは、つまり、なんだ…………、もう手の施しようがねえって、意味なのか?」

「そうです」

「……理由を訊いていいか? 普通、両手を複雑骨折してようが、完全に動かなくなんてことはないはずだろ?」

 

 かつて、尋問・拷問部隊に所属していた時に蓄えていた知識には、当然、医学に関するものも含まれている。イロミの両手が複雑骨折による損傷を受けたというのは、イビキから聞いていたが、幾つかの障害が残るとしても、全く手が動かなくなるということはありえない。ましてや、神経や経絡系が断線しているのではなく、喪失しているというのは、たとえ皮膚を突き破った骨が外部からの細菌によって感染症を患ったとしても、おかしな表現である。

 

「……彼女が病院に運び込まれた時、私共はすぐに処置を施しました。あらゆる術を用いて、あるいは薬品を用いて、施術を行いました。ですが…………」

 

 途端に、担当医の歯切れが悪くなる。横に座る女性も目を伏していた。

 

「彼女の身体―――細胞と言えばいいのでしょうか、それは、チャクラや薬品の介入を吸収し、無力化したのです」

「……どういうことだ?」

「分かりません。これまで、多くの方々の治療に携わってきましたが、薬品はまだしも、チャクラさえ吸収し、無力化するような体質は見た事も聞いたこともありません。回復能力とも違い、完全に、無力化するのです。そのせいで……、彼女への処置が遅れました。彼女には、通常のチャクラや薬品の、およそ十倍以上の量が必要だったのです」

 

 また同時に、と担当医は続けた。

 

「彼女の細胞は、異常なまでの生存本能がありました。普通、怪我をした場合、局部の細胞は急激な分裂と増殖を繰り返します。損傷した部位を残そうと働きます。たとえば、指の骨を折ったからと言って命に別状はありませんが、骨や、骨の歪みによって損傷した筋肉を修復しようとします。しかし、彼女の細胞は、たとえ命に関わる可能性の低い部位でも、大きな損傷であれば容赦なく切り捨てるのです。両手の神経や経絡系が喪失した、というのは、おそらく、周りの細胞が捕食し、無力化したのだと思われます。現に、彼女の筋肉や骨、血管の一部も、細胞に取り込まれるかのように液状になりかけていました」

「……もし、最初からあいつの体質を知っていれば、神経とかが食われる前に対応できたってことか?」

「それは……正直なところ、判断できません。彼女の細胞には、まだ分からない部分が多くあります。彼女のことを調べてみたところ、彼女の両眼は彼女自身のものではないようです。どうやら、他者の細胞や血液、もしかしたら臓器などは、素直に適応するのでしょう。不足した血液を彼女に輸血した時は、驚くほどに拒絶反応がありませんでした」

 

 ブンシは俯き、眼鏡の位置を戻しながら、煙草を大きく吸いこむ。

 頭の中で担当医の言葉を要約すると、イロミの体質が特異過ぎて想定外の為に処置が遅れ、その間に神経と経絡系は喪失し、両手が動かなくなったということだ。

 

 ―――……楽な仕事だな…………。

 

 教師という立場なら、どんな状況であっても、生徒が大怪我をしたのなら真っ先に火炙りの形にされるというのに。

 

「…………もう一度訊くぞ、真面目に応えろよ? 本当に、あいつの両手は…………これまですんげー努力してきた、あたしの可愛い生徒の両手は……ッ! 動かねえのか? 治せねえのか?」

 

 怒り半分、願望半分の眼差しで、睨み付ける。

 

 だがあっさり頷いて見せる担当医を前に、殴りつけるように煙草の火を拳で消して灰皿に投げ入れた。

 

 大きく息を吸い込む。そして後ろの紅が、素早く息を吸う音が耳に聞こえた。「ブンシ、落ち着きなさい」という彼女の声は耳に届くが、自制なんて、出来るはずもなかった。

 

 右手で担当医の首を掴み、引き寄せ、机に上半身を抑え込んだ。隣の女性は口を手で覆った。

 

「おいヤブ……ッ。ハッタこいてんじゃねえぞ……。てめえ、医療忍者だろうが……。ちったぁ根性見せろよ……」

 

 担当医の首を思い切り締め付けるだけではなく、手にチャクラを集中させた。右手から、青い火花が―――いや、電気が―――生まれ始める。尋問・拷問部隊で幾度となく使用してきた、雷遁系の忍術。相手の神経に直接介入して、随意不随意の内臓や筋肉に関係なく、支配する術。担当医は何の抵抗もなく、ブンシの支配によって、胃の内容物を口からぶちまけた。

 

「あの馬鹿はなぁ……、おい、聞いてるか? あいつは、頑張ってきたんだよ……。周りの年下のガキ共がさっさと下忍になったり、中忍になっているの悔しがっても、どうにかこうにか努力して、中忍になったんだよ……。それをなんだ……、てめえの知識不足を棚上げして、治療できねえなんて言って許されっと思ってんのか? おいッ!」

 

 アカデミーを卒業してから、随時彼女の近況を知っていた訳ではない。時折、彼女と共に任務をこなした人物から伝聞される程度。ブンシの交友関係は意外と広いのである。大抵は、彼女の実力が低レベルであるということを言葉を選んで伝えられる。それでも、努力は誰よりもしているという評価が必ずついていた。

 

 一度だけ、彼女が中忍選抜試験に参加したのを見た事がある。一対一の対戦方式で行われる、最終試験。ちょうどアカデミーが閉校の日で、何となく見に行ったのだ。ちょうど、イタチとフウコ、シスイの三人もその場にいたため、隠れるように見たのだが。

 

 結果、彼女は一回戦目で、惨敗した。誰が何を言い繕っても、情けない試合だったのだ。多くの忍、あるいは大名の前で惨敗した彼女は、会場の中央で蹲って顔を伏せており、それを会場の殆どの者は嘲笑した。

 

 よくここまで来れたものだ。

 あれで中忍を目指すのか。

 運が良かっただけだな。

 

 それでもイロミは、決して最後まで涙を見せることはなく、油断なく努力をしたのだ。

 

 それがあっさりと、間抜けな医療忍者によって無かったことにされる。

 怒りなどという言葉では物足りないほど感情の激流は、ブンシの額にかつてないほどの青筋を浮かばせ、目に多大な血液を送り込ませた。

 

「何が何でもあいつを治せ……。できねえっつうんなら、今すぐてめえの脳みそ、焼き切ってもいいんだぞおいッ!」

 

 女性がブンシを抑え込もうと手を伸ばしてきたが、ブンシはそれを視線も移さず左手で女性の右手を掴み、チャクラを送り込み、気管支を塞いでやった。

 

「今、あたしが喋ってんだろうが……。邪魔すんじゃねえよ。口から内臓ぶちまけられたいのか?」

 

 のたうち回り、呼吸ができなくなった女性は意識を失った。

 冷酷な自身の声。それは、暗部の頃の声だった。

 

「ブンシ、そろそろ止めなさい。これ以上は、やり過ぎだわ」

 

 紅の声が、真っ赤になりつつある視界の外から聞こえるが、反応できるほどの余裕は無かった。

 

「もう一度言うぞ……。あたしの生徒を治せ……ッ。治せなかったら―――!」

 

 身体が重くなった。

 コントロールが効かない。チャクラが震えて、眠くなる。

 幻術だ、とブンシは判断した。後ろの紅が、幻術を展開したのだ。視界は白くなり、息が出来なくなる。

 

『私は、シスイを殺していません』

 

 白の彼方に、自分の可愛い生徒がいる。

 拘束衣に身を縛られ、目を覆うマスクを被せられた彼女の姿。彼女の頭を右手で掴む自分がいる。

 

『……分かった、信じてやる』

『…………え?』

『安心しろ。てめえのことは、てめえの親の次に分かってんだ。お前がんな頭の悪いことするはずねえもんな。大丈夫だ、あたしがぜってーお前の無実を証明してやっから。それまで、まあ、なんだ、我慢してくれ』

『……信じて、くれるんですか?』

『あたりめえだろうが。あたしは、お前の先生だぞ?』

 

 自分は信じた。

 生徒がルールを破る訳はないと。

 教師の役目なんて、そんなものである。

 大人が子供を教育するという馬鹿馬鹿しさ。大人が子供よりも頭が良いという妄想を信じるつもりはなく、教師の役割は、つまりは、些細な社会的な教訓と、何も知らない子供の背中を押してやることだけだと思っている。

 信頼は、子供を助ける大事なものだ。

 たとえどんな矛盾を孕んでいても、はっきりとルールを破ったと分かるまでは、信じてやらなければいけない。

 

 ―――……なあ、フウコ…………、お前。

 

 意識が薄れる前に、ブンシは思った。

 

 ―――ちったあ教師を信用しろ、ボケ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「あれで、良かったんでしょ?」

「…………やり過ぎだ。まだ頭が痛え……、おい、あたし今、上向いてるよな?」

「しっかり見てるわよ。はい、お茶」

 

 病院の中庭のベンチに力無く座り頭を思い切り背もたれの上に乗せているブンシの横に、紅は腰を落ち着かせる。右手に持っていた缶ジュース(お茶)を手渡される。銘柄を見ると【濃口抹茶】と書かれていた。

 

「……玄米じゃねえのかよ…………」

「売ってなかったんだから我慢しなさい。まったく……本当は私が奢ってもらう予定だったのに」

「あぁあ? 誰が言ったんだよ、んなこと……」

「あんたよ。もう……まあいいわ、奢ってもらうのはまた今度にしてもらうから」

 

 二日酔いにも近い頭痛のせいか、何かを考えることもできない。反射的に言葉を紡ぐ。

 

「……ああ、良かったよ」

「何がよ」

「幻術だよ、やってくれて」

「そのこと。まあ、あんたが流れで任せるって言う時は、大抵は喧嘩事になりそうな時だったからね。もう慣れたものよ、ストッパー役はね」

「慣れてんなら、幻術も調整してくれ……」

「手加減なんかしたら、あのまま医者の人殺す勢いだったじゃない」

「んなこと、するわけねえだろ。それは、ルール違反だ」

 

 缶ジュースの蓋を開けて、お茶を一気に口へと流し込む。半分くらいは飲み干したが、頭の痛みには当然効果はなく、缶を傾けたまま額に当てる。腕が空を見上げていた視界を防ぎ、太陽の光も外してくれた。おかげで、少しだけ考えることができるくらいには、脳内の熱量は無くなった。

 

 考える。

 

 そう、自分は何をすればいいのかを、考えた。大人になると、自分の為ではなく、誰かの為に考えることが多くなってしまう。仕事をするというのは、誰かの為に貢献するということだからだ。だから、給料が貰えたり、何かが貰えたりする。自分のことしか考えられない子供とは違うのだ。

 

「……これから、どうするつもり?」

 

 と、隣の紅が呟いた。ブンシは空を見上げながら応える。

 

「てめえには、関係ねえよ。……今日は悪かったな、無理に付き合わせてよ。奢るのは、あー、あれだ……、アスマと二人の時でもいいぞ」

「話しを逸らさないで。あんた……、あの時と同じ顔してるわ」

「あたしの顔がそんなバリエーション豊かだと思うか?」

「サクモさんの時も、あんた、散々暴れた挙句に暗部に行って―――」

「先生のことは言うんじゃねえよ」

 

 拒絶するように言葉を吐きだすと同時に、思い浮かぶ、かつての自分。

 

 大人たちが好き勝手に、彼のことを侮蔑する。

 今までの功績を無視して、彼の偉大な人格を軽蔑して。

 たった一つの過ちに、砂糖に群がる蟻のように、言葉を口にする。

 全くはた迷惑な、などと。

 同じ忍として恥ずかしい、などと。

 愚か者だ、などと。

 

 優しくて、強くて、そして初恋の相手を、冷たくなってしまった彼が運ばれているのを前に、大人たちは馬鹿にしたのだ。

 

 幼い自分は、彼ら彼女らに、殴りかかった。

 

『取り消せッ! 取り消せよッ! 先生を……馬鹿にするんじゃねえよッ!』

 

 もう、あの頃の子供とは違うんだと、ブンシは心の中で呟く。力が無くて、自分のことしか言わない、ルールも守れないあの頃のクソガキとは違う。……いや、さっきのは傷害事件か? とブンシはぼんやりと思ったりもしたが、熱い頭は深くは考えなかった。

 

「安心しろよ。今のあたしは、アカデミーの教師だ。クソガキ共の模範なんだよ。アホなことはもうしねえ」

「……相変わらず、真面目で、優しいのね」

「バーカ、んなわけねえだろうが。じゃあな」

 

 立ち上がり、残ったジュースを飲み干て、遠くにあるゴミ箱に投げ入れた。紅に背を向けたまま右手を掲げて、その場を離れた。まだ脳だけ水槽に入れられているような不愉快さがあるが、どうにか歩くことはできる。流石に、煙草を吸いたい気分ではなかった。ただ、青空をぼんやりと眺めながら、歩く。

 

『なあ先生。先生は、どうしてあたしに修行付けてくれるんだ?』

 

 澄んだ空の向こうに、クソ生意気なクソガキの顔が映っている。幼い頃のブンシである。

 まだアカデミー生で、たった二週間くらいしか顔を会わせていないのに、完全な一目惚れで勝手に彼を先生と呼ぶ、間抜けな少女。サクモと出会い、そして彼が死ぬまでの期間は、たったの一ヶ月の短い時間の思い出。毎日毎日、彼を探し、見つけては、修行を付けてくれと我儘を言っておきながら、どうして修行を付けてくれるのかという、馬鹿な問いだった。

 

 もちろん、それは、単なる甘えん坊な発言である。

 毎日、修行を付けてくれとせがめば、優しくてどこか臆病な彼は、どんなに短くても修行を付けてくれる。だけどもしかしたら、特別な理由があるのではないかと夢想して尋ねたのだ。

 

 彼は困ったような優しい表情を浮かべて呟いた。

 

『それは……君が修行を付けてくれって言うから……』

 

 年下の女の子にも、おっかなびっくりに応える彼の表情は、当時の自分は恥ずかしがっているのだと馬鹿みたいな想像を働かせていた。今では、単に自分の無遠慮な態度に右往左往していたのだろう。

 

『でもさ! 他にも理由があるんじゃないの? 教えてくれよっ!』

『う、うーん。……そうだねぇ。大人になれば、分かるよ』

『……何かそれ、ズルいな。あたしだってもう大人だよ』

『え!? い、いや……、それはちょっと……気が早すぎるんじゃないかな』

『あぁあ? 先生、今なんか言った?』

『い、いや、何も言ってないよ』

 

 ―――……大人になれば分かる…………かあ。

 

 今なら、彼の言った言葉が分かる。変な誤魔化しでは、なかったのだろう。

 大人になれば、子供は不思議なことに、可愛く見えてしまうものだ。

 

 だが……。

 

 ―――……先生なら、どうしたんだろうなぁ。

 

 多くを失った子供の為に、最善の道を導いてあげたのだろうか。彼ほどの天才なら、それは可能かもしれない。だが自分は、天才ではない。アカデミーを卒業してから幼いながらに暗部に入隊し、拷問の技術だけを身に着けた自分には、そんなことはできない。

 

 自分が出来ることは些細なことだ。

 掟は、ルールは大事なのだと教え、それらを破った者には罰が下されるということ。

 掟やルールを守ることが大変だということ。

 そして、木の葉の白い牙は掟を守れるほどの力がありながらも敢えて破ったということ。

 ブンシはサクモの判断が偉大なものだと、今でも思っている。

 だから、子供たちに言う。掟を守れるくらい、強くなってみせろと。

 

 兎にも角にも。

 

 イロミは、両手が動かないだけで諦めるような利口な人間ではないだろう。また努力をして、フウコに会いに行くことは容易に想像できた。そしてそれは、破滅の道である。

 

 自分がどうするべきなのか、ブンシは決めていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『もしも……カカシさんの大切な人が、犯罪を犯してしまったら…………、カカシさんは、どうしますか?』

 

 イタチの問いに、隣に腰掛けるカカシは左眼を覆う額当てを、左手で軽く撫でた。

 

『……そうだな。俺だったら、そいつの為に出来ることをやる。たとえ、重要な任務のただ中であってもな』

『その人が、掟を破っていてもですか?』

『…………今回の事は、俺はうちは一族で何が起きていたのかは分からない。だから、一概には言えないが……掟を破ったというのなら、どうして掟を破ったのかを知ろうとは、考えるな』

『………………』

『まあ、あくまで俺の個人的な意見だ。お前がどうするべきかなんて、言ってもしょうがない。一つだけアドバイスをするとしたらだ……復讐なんて、空しいだけってことだ』

『……それは、俺も…………分かります…………』

 

 戦争の後に残ったことなんて、何も無かった。

 人の命は尊く、戦争はいけないこと。そんな程度の、ごく日常的に獲得できる道徳だけを手に入れただけ。つまり、堂々巡りに原点に戻っただけなのだから。

 

 それは理解していても、やはり、あの夜の彼女の嘲笑が頭の中に残響すると、怒りが滲み出てしまう。

 

『ま、後は自分でゆっくり考えろ。お前は頭が良い。慌てて答えを出す必要はないさ』

『……ありがとうございます。…………カカシさん、あの……どうして、俺に声を?』

『ん? まあ、お前は俺の同僚で、後輩なわけだ。先輩風を吹かせたかったってとこかな。―――それに…………うちは一族のことは、俺に全く関係のないことじゃ、ないからな。もし何か相談ごとがあるなら、いつでも聞いてやるよ』

 

 笑顔の最後に浮かべた一瞬だけの暗い表情を最後に、カカシは去っていった。

 

 彼の言葉は、少なからずイタチの心のバランスを傾かせた。幼い頃から先人の知恵を尊重してきたイタチは、他者の言葉や考えを、全く別の例外と捉えるようなことはしなかった。

 

 復讐は空しく、もし大切な人が犯罪を犯したらその事情を追究し、出来ることをする。

 

 第三次忍界大戦を経た彼の持論。平均的かどうかは、分からない。ただ、あの大戦に関わった人たちは、何かしら大きなものを亡くしている。

 家族であったり、友人であったり、恋人であったり、それか何か特別なものであったり。だが、それでも尚、大戦を経験した人たちは平和を作り、それを謳歌出来ている。

 

 どうして、彼ら彼女らは、それができるのだろう。

 

 何を信じたのだろう。

 あるいは、

 何を犠牲にしたのだろう。

 

 何かを信じていたのなら、自分は何を信じればいいのか。

 何かを犠牲にしていたのなら、自分は何を犠牲にすればいいのか。

 

 時間をかけて、より考えていけば、決着は付くのだろうか。

 けれど、イタチには、時間は無かった。

 彼が予想していたよりも、時間は遥か早くに、終わりを近づいていた。

 

 カカシと別れた彼は、入院しているイロミの為に本を買い集めた。多種多様な本を、ざっと十冊ほど。忍術書はなく、買おうとは思ったが、流石に気を使い過ぎてしまっているのではないかと思い、取りあえずは娯楽の本と専門書を半々に買ったのだ。カカシと話したおかげか、微かに食欲も湧き、昼食も済ませると、程よく彼女のギブスが外れる時間だった。

 

 本を入れた紙袋を片手に、病院へ赴いた彼は、一度、イロミと話し合ってみようと考えていた。彼女の病室へ近づく。だが、どういう訳か彼女の病室のドアから、獣のような叫び声が鼓膜を揺さぶった。

 

 その声が、イロミのものなのだと分かるのに、三秒ほど時間を要してしまった。

 

 声が止む。遅れて、一人の医療忍者の女性が大慌てで廊下に姿を現した。……イロミの両手が機能不全を起こしているということを知ったのは、翌日のことだった。

 

 それから―――二週間が経ち。

 

 イタチは再び、イロミの病室にいた。

 

 彼女の為に買った本を詰めた紙袋を片手に、ちょうど部屋のドアを開けたのである。中には、両手のギブスが外れ、けれど傷を開けてしまった喉の周りを覆う包帯はそのままの、上体を起こしたイロミと……ベットの前に立つブンシがいた。両手をコートのポケットに入れたブンシの脇には、幾つかの書類が挟まっている。

 

「よう、イタチ。久しぶりだな」

 

 と、ブンシはこちらに笑顔を浮かべながら呟いた。黒縁眼鏡の向こうの目は、しかし、冷たいように思えた。

 

「……お久しぶりです、先生」

 

 舌打ちの音が、病室に響く。

 それは、ブンシが出した音である。

 

「……まあ、ちょうどいい。てめえにも用があったところなんだ、お前ら二人が一緒ってのは、話しが楽だ」

「先生、どうして貴方がここにいるのですか?」

「ったく、病院ってのは面倒くせえとこだよな? 煙草の一つも吸えやしねえ」

「応えてください、先生。その書類は、なんですか?」

「おめえら、フウコのことどうするつもりだ?」

 

 病室が、静かになる。俯き、長くなった髪の毛で顔を覗かせないイロミの肩が小さく動いた。

 

「なあ、イロミ。分かってんだろ? お前はもう、忍としてやってけねえ身体だ。印も結べねえ、クナイも投げれねえ。そんな身体で忍なんかやってけねえよ」

「………………」

 

 イロミが力無く首を横に振ると、毛先の白い髪の毛はゆったりと揺れた。

 まだ忍としてやっていけるという、意思表示だった。

 

「じゃあどうすんだ? まさか、んな身体でフウコを殺そうなんて思ってねえだろうなあ?」

 

 また、彼女は首を横に。

 

「忍は止めないで、フウコは殺さねえ。お前は、何がしてえんだ?」

「ブンシ先生、イロミちゃんにその話は―――」

 

 イタチの言葉は、しかし、ブンシは遮った。

 

「黙れよイタチ。あたしは今、こいつに話しかけてんだ。てめえはその後だ」

「お願いします、出て行ってください。今の彼女には先生、貴方は邪魔です」

「おーおー、ガキがいっちょまえに舐めた口利くじゃねえか。あ? じゃあてめえはどうすんだよ、イタチ」

 

 ブンシの声が低く、荒々しくなる。

 

「てめえ、フウコをどうするつもりだ? ガキの頃みてえに馬鹿みてえに敵討ちだなんて言い出すのか?」

「……俺は…………」

「応えれねえんだったら、口出しすんじゃねえ。ったく、てめえらは昔っから、こいつに甘過ぎんだよ。だからこいつが調子に乗る。何の才能もねえこのクソガキが調子に乗って、出来もしねえこと平然と言い出すんだよ。身の程ってもの教えてやるべきなんだよ、こいつには。ほれ」

 

 脇に抱えていた書類を、ブンシは彼女の下半身が隠れている薄い掛け布団の上に並べた。

 

「おいイロミ、この中から好きな仕事選べ。お前の両手が動かなくても、それなりに稼げる仕事だ」

 

 並べられた書類はどれも、忍としてのスキルを活かさない一般的な仕事の募集要項が記されていた。どのような待遇か、どのような仕事内容か、どのような給料なのかなどが明細に記されており、一瞥しただけでイタチでも、今のイロミが出来そうな仕事なのだとすぐに判断できた。

 

「イロミちゃん。こんな書類を読む必要はない。手が動かないなんて、これからリハビリをしていけば変わるはずだ。どんなに時間をかけてもいい。だから―――」

「…………イタチくん、少し、黙ってて。邪魔だから」

 

 濁り、震える、冷たいイロミの声。彼女はイタチの顔を見ることはせず、そして書類に目を運ばせることなく、ブンシを見上げた。

 

「…………先生、私は、忍を止めるつもりはありません」

「……あ?」

「…………私は、フウコちゃんを信じます。フウコちゃんを、追いかけます。何があったのか、訊きに行きます」

「……てめえ、ふざけんじゃねえぞ。その身体で何が出来るってんだ?」

「…………それを、今から探します。まだフウコちゃんには、全然、届かないけど………………、努力すれば………………」

 

 そこで、イロミは言葉を切った。

 怖がっているように、恐れているように、唇が震えている。

 

「努力をすれば、何だよ。おい、言ってみろよ。努力をすれば、おめえに、何ができんだ? 努力してきたお前が、フウコにボコボコにされて死にかけたお前がッ! ええッ?! 何ができんだよッ! おいッ!」

「…………努力をすれば、きっと、フウコちゃんに―――」

 

 ブンシの唇が震えた。何か言葉をぶつけようと口を開くが、大きく息を吐くと口を閉じ、乱暴に額当てを外した。黒い髪の毛が下りる。彼女は額当てを、イロミの手元に放り投げて、冷たく言い放つ。

 

「……お前、これ持てんのかよ。木ノ葉の忍なら、持てるはずだろ?」

 

 イロミは、額当てに手を伸ばした。糸の切れたカラクリ人形の手のように、手首から先が力無く項垂れた右手が、額当ての鉄の部分に触れる。

 

「……ッ、……ッ。……ッ!」

 

 親指が、額当ての下の部分に入り込むが、あっさりと滑り抜ける。人差し指が鉄の部分を触れるが貼りつかない。何度も何度も、イロミは親指を下に潜り込ませるが、持ちあがらなかった。

 指がすり抜ける度に、イロミの口端は、泣きそうに歪んでいった。

 

「なあおいイロミ、もう止めろ。分かっただろ? てめえの手は、額当ても持てねえんだ」

「……ッ。……ッ!」

 

 指に力を入れようとするイロミの息遣いは、涙ぐんだ。

 

「止めろって言ってんだろうが」

「……ッ! ……ッッ!!」

 

 両手を使い、太腿を動かして額当てを傾かせ、何とか指を深く滑り込ませるスペースを使うが、指は抜ける。

 

「いい加減…………。……ッ! 現実見ろ、クソガキッ!」

 

 それでもイロミは諦めずに、今度は両手を使って、持ち上げようとする。

 ブンシは、右手を振り上げるのをイタチは捉え、咄嗟に彼女の腕を掴み制止させた。

 

「……イタチ、離せよ」

「出て行ってください。これ以上、彼女に負担を与えないでください」

「じゃあ何だよ。お前は、このままこいつが退院して、フウコんところ行って……今度は本当に死ねって言いたいのかッ!」

 

 その時、ふと思った。

 

 どうして、イロミは生きているのだろうか。

 これまであまり深く考えていなかった疑惑だ。

 自分とサスケが生きているのは、フウコの気紛れである。彼女自身がそう語っていた。いつでも殺そうと思えば殺せたはずなのに、彼女の気紛れに助けられた。

 イロミが生きているのも、その気紛れのおかげなのだと、思っていた。

 

 でも彼女は、病院に運び込まれた時、重体だった。

 自分やサスケとは異なり、はっきりと、死ぬかもしれない可能性があった。

 つまり、フウコは彼女を殺そうとしたということだ。

 なのに、生きてる。

 

 あり得るだろうか?

 彼女が殺そうと思った人間が、生きているというのは。本当に殺すつもりだったら、もっと分かりやすく殺すのではないか。

 

 フウコには、医療忍術の知識も、あるのだから。

 

 不自然なことだという小さな判断が、思考に芽生える。

 

 

 

 その時、病室にチャクラが溢れた。

 

 

 

 膨大なチャクラの奔流に、ブンシとイタチは、イロミを見る。

 

 イロミの両頬に三本ずつの髭が生え、口の周りには黒い痣が浮かんでいる。彼女の右手には、ブンシの額当てが、一切指を駆けていないのに貼りつく様に持たれていた。

 

「…………これで……私は、木ノ葉の忍です」

 

 この時、イタチが写輪眼を発動していれば、イロミに何があったのか、一部分は分かったかもしれない。仙術を使えるという【仕込み】を知らないイタチだが、チャクラの流れを見れば、どうして手のひらに額当てが貼りついているのか、分かったかもしれない。

 

 イロミは仙術を発動させていた。手の中の断線した経絡系を一切無視し、膨大な仙術チャクラを手に覆わせて額当てを手のひらに貼りつけさせたのである。

 

 ただ、それも一瞬で。

 

 仙術は解け、額当ては掛け布団の上に落ちた。イロミの顔は元に戻り、肩で大きく呼吸をしていた。

 

「…………ブンシ先生、私は、ずっと努力してきました」

 

 と、イロミは呟く。

 

「…………下手くそでしたけど……努力をしてきました。…………些細ですけど色んな術や、道具を使って……、中忍になりました。……きっと…………私みたいな忍は………………、他の人から見たら……、忍じゃないって……思うと………」

 

 イロミは、咳きこむ。

 血の混じった、湿った咳。口端から血が流れ始めるが、ブンシもイタチも、彼女に声をかけれなかった。

 

「…………フウコちゃんは……、人を殺しました…………、掟を……破りました…………。色んな人が……、フウコちゃんを………犯罪者だって…………言います。…………だけど…………、私から見たら……、まだ…………、犯罪者だって…………決めれないんです………。結果が同じでも……過程が違うってこと…………、下手くそな努力しか出来ない私は……知ってますから……」

 

 それに、とイロミは言った。

 

「…………どんなに、フウコちゃんにボロボロにされても……、もう、友達じゃないって……言われても………………私の記憶が…………ッ! フウコちゃんと過ごした……、思い出が…………ッ! そうじゃないって……、言うんです……! なら、私はそれを信じます……」

「……殺されっかもしんねえんだぞ。今度こそ、死ぬかもしんねえんだぞ?」

「…………それでも……、私は……、今まで培ってきた……記憶も…………努力も…感情も……ッ! 無駄には、したくありませんッ! 無駄にしたら、恩を仇で返すことになります…………、私の記憶に……私に色んなことを教えてくれた…………全部に……」

 

 与えられた恩には、最後の最後まで、返すように尽くす。

 そう言われて、育てられました。

 それは正しいことで、そんな自分の想いに嘘を付きたくない。

 

「それが、私の忍道です」

 

 自分の経験を無駄にしたくない。

 自分の記憶を無駄にしたくない。

 自分の想いに、嘘を付きたくない。

 

 イロミの言葉に、イタチの記憶も刺激される。

 

 フウコと一緒に過ごした時間。

 フウコの言葉と行動。

 夢の中で、ノイズの向こうで、泣いている彼女。

 

『イタチ、助けて……』

『私を、一人にしないで……』

『助けて……』

 

 自分の思いは。

 あるべき、思いの原点は、一体―――。

 

 ブンシが腕を払い、手が離れると同時に、意識は現実を向いた。

 

「忍道だろうが何だろうが……てめえじゃあ何もできねえだろうがッ! フウコに勝てねえんだよ、てめえはッ!」

「…………次は、勝ちます。負けません……」

「泣き虫の癖に、調子乗ったこと言ってんじゃねえッ!」

「…………私は、もう、泣きませんッ!」

「現に今、泣いてんだろうがッ!」

「…………泣いで……ませんッ!」

 

 ブンシが乱暴に、ベットを蹴った。

 

「だったら…………だったら……ッ! 勝手に死ねッ! 気分悪いッ!」

 

 横に立つイタチを殴るように押し退けて、病室を出て行った。

 病室には、涙を零さないように息を強引に落ち着かせようと肩を上下させるイロミの乱れた息遣いだけが響いた。

 

「……イロミちゃん、担当医の人を呼ぼう。落ち着いて、呼吸をするんだ」

「…………ねえ、イタチくん。応えて」

 

 彼女のオッドアイが、前髪の間からイタチを睨んだ。

 

「…………イタチくんは、フウコちゃんをどう思ってるの? 応えて。今すぐ……ッ!」

「………………すまない、俺はまだ……」

「…………どうして? どうして、すぐに応えることができないの? それって、フウコちゃんを殺したいって、思ってる部分があるってことでしょ?」

 

 イタチは、頷いた。

 彼女に嘘を付ける時点は、既に過ぎてしまったからだ。

 

「…………じゃあ、もう、私の前に顔を出さないで……。邪魔だから……。出てってよッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夜中、イタチは仮宿舎を出て、うちはの町を歩いていた。サスケが寝静まり、ちょうど里も寝静まる程の深夜のせいか、死んでしまった町はより漆黒の暗闇に包まれ、夜空に浮かぶ下弦の月の淡い光だけが道を照らしている。

 

 事件が起きてから、うちはの町に戻るのは初めてだった。町に戻ってしまったら、自分の感情が不必要に傾いてしまうのではないかと危惧していたからだ。けれど、町の中を一人で歩いても、怒りが込み上げてくることはなかった。むしろ、心は穏やかで、呼吸は深く落ち着いてできた。

 

 たった二ヶ月と二週間ほどしか経っていないのに、ひどく懐かしい空気の香りだった。血の匂いがしないのは、暗部が現場検証をし尽し、遺体の回収や血を洗い流したからだろう。残った建物から届く香りは、幼い頃からずっと、嗅ぎ続けたものだ。

 

 ―――……答えを、出さないといけない…………。

 

 曖昧なままでは、もう、先に進むことは許されなくなった。

 友達であるイロミの為であったり、弟のサスケの為という訳ではなく、明確な意志を持って、決断を出さないといけないと、イタチは自分を分析した。

 

 先に、進む為に。故にイタチは、町に訪れた。決断をする為に。

 

 イタチはかつての自分の家を訪れた。ガラガラと玄関の戸を開け、真っ暗な廊下を進んでいく。穏やかな心は、ぼんやりとした綿飴のように暖かい記憶を刺激するが、イタチはその中を歩く。フウコの部屋に入ると、部屋は荒れていた。

 

 床に転がる、でんでん太鼓は、その装飾が殆ど外れ転がっている。イタチの頭脳は一瞬で、原因を理解した。

 

 サスケだ。おそらく彼が、でんでん太鼓を壁に叩きつけた。サスケの中にはもう、姉への関係は無くなったのだと、イタチは思った。

 

 背の低い本棚。その上に倒れている写真立てを起こして、中を見る。自分を含めた、シスイ、フウコ、イロミの四人が本来なら映っているはずの写真は、傷付けられ、四人全員の顔が破られていた。

 

 ―――……どうして、自分の顔も…………。

 

 フウコが写真を傷つけたのは、間違いないだろう。他にやる者などいないからだ。

 ならどうして彼女は、自分の顔も潰したのだろうか?

 写真の中の自分が嫌だったからか?

 だが、記憶する限り、写真の中の彼女は、普段と変わらない無表情のはず。日常と何も変わらない、普遍的なものだ。自分自身に嫌悪を抱く理由なんて見当たらない。よく見れば、フウコの顔を潰している傷だけは、他のと比べて乱暴だった。

 

 この中で、自分が最も嫌いだったということなのか? だがそれは、あの夜に狂気的な笑顔を浮かべていた彼女からは、不自然なように思えた。

 

 イロミが生きているということ。

 自分を最も嫌悪しているかもしれないということ。

 

 不自然さが、ちらつく。

 理知的な彼女にしても、狂気的な彼女にしても、おかしい部分である。

 

 もしかしたらフウコは何かを隠していたのではないかという疑問符が浮かぶ。だが、決定打ではない。自分の記憶の中には、フウコの言動に不自然さはなかったから。

 

 もっと、何かないのだろうかと、イタチは家を出る。次に向かったのは―――シスイの家だった。フウコの恋人だった彼の家に、何かあるのではないかと、考えた。

 

 シスイの部屋に入る。彼の部屋はフウコの部屋に似て、遊ぶものや趣味などの娯楽的な物品はまるでなく、けれど一面の壁を覆う広く大きな本棚があった。本棚には様々な専門書、忍術書が収められており、さらに反対側のベットの脇には山積みされた大量の本が置かれている。快活な彼の人格とは正反対な、理知的で整然とした部屋模様。

 イタチは本棚の本の背表紙を撫でる。忍としての彼の偉大な思想が、頭の中にトレースされるような気分だった。

 

 ベット横に積まれた本を眺め、ベットの横に立つ物入れを見ると、写真立てが置かれていた。

 

 

 写真の入っていない、写真立てが、置かれていたのだ。

 

 

 思考が、張り詰める。

 事件が起きてから初めて、イタチの思考は俊敏に動き出した。

 暗部が現場検証で、写真を抜き取ったのだろうか? いや、フウコの部屋の写真立てが抜き取られていないことを考えても、それは考えづらい。

 では、家族が? だが、それでは写真立てがあることに説明が付かない。フウコに容疑が掛かり、彼女の顔が映っている写真を捨てるほど憎いのなら、写真立てごと捨てるのではないか?

 シスイの部屋に入る人間は、彼の家族以外に考えられない。なら、どうして、写真そのものが無いのか。

 

 一つの、答え。

 

 シスイ自身(、、、、、)が、写真を抜き取った。

 それしか、考えられない。

 殺された彼自身が、抜き取ったのだ。

 どうやって? という思考が浮かぶが、それは捨ておくことにする。現状で抜き取ることができるのは彼だけというのが、重要なのだ。

 どうして抜き取ったのか?

 抜き取らなけらばならないということは、どういう事を意味しているのか。

 見つからないようにするため。

 写真が間違っても見つかり、誰かに見られないようにするためだ。

 誰に見つからないようにする為だろうか?

 

 いや……特定の誰かに見つかってもらうように、したのではないか?

 だから、写真を抜き取ったのだ。

 写真に映っている四人の中の誰かが、写真の行方を探すように。

 

 この四人だけが分かる、写真の隠し場所。

 あるいは、四人の中の誰かだけが思い当たることのできる場所。

 残っているのは、自分とイロミ。

 敢えて、自分だけが、その場所を知っていると仮定しよう。

 その上で、普通の人なら無視してしまうだろう、場所。

 

「……カガミさんの、墓?」

 

 イタチが思い出した記憶は、曖昧なものだった。

 

 時期も経緯もはっきりと思い出せないが、ぼんやりと、夜中に自分とフウコとシスイの三人が道を歩いている時の、ノイズばかりの記憶。

 

『あ、イタチ。ちょっとフウコ借りるぞ』

『シスイ、何を考えてる?』

『いきなり疑うなよ。別に、野暮用だって』

『一人で行け。フウコを巻き込むな』

 

 あの時、二人は、どこへ行ったのか?

 

『イタチは何を心配してるの?』

『フウコ、少し静かにしていてくれ。あと、耳を塞ぐんだ。俺はシスイと話しがある』

『心配しないで。大丈夫だから』

 

 大丈夫だからと、フウコは言った。

 

 フウコとシスイの野暮用。

 やはり時期は上手く思い出せないが、二人の背丈は今の自分とそう変わりない。つまり、ここ一年二年の間のことだ。

 

 その時期に、そして夜中に二人だけが、フウコとシスイが関わる場所。

 

 うちはカガミ。

 

 フウコと親しく、シスイの祖父。彼の―――墓だ。この場面を知っているのは、イタチだけである。きっとイロミは、二人が夜中に一緒に墓参りをしていたことは知らないはず。

 

 イタチはシスイの家を飛び出し、彼の墓へと向かった。場所は知っている。

 

 彼の墓の前に着く。イタチはさらに考える。彼の墓だとしても、分かりやすい場所には写真は隠されていないはずだ。シスイの父や母が墓参りに来た時に、見つかってしまう可能性がある。思考は動く。

 

 一般の人は、墓を前にしたら、決して墓の裏側を見たりはしない。墓参りというのは、故人の名が記された墓石を前にする行為だからだ。

 

 墓の後ろに回り、瞼を細くする。墓の裏には雑草が生い茂っていたが、その一部だけ、ほんの僅かに雑草が傾いていた。その雑草の根元に指を這わせると、あっさりと雑草は抜けた。

 

 両手で、地面を掘る。一度掘り起こされたからなのか、土は柔らかく、爪の先にいともあっさりと食い込むが、掘り続けた。

 

 手首一つ分ほど、掘った時、二つに折り畳まれた写真が姿を現した。

 写真は、絵の方を表にして折られている。つまり、無地の面をシスイは土で汚したくなかったということ。

 

 写真を手に取り、ゆっくりと、無地の面を開いた。

 そこには、短い文章が記されていた。

 

 

 

【忍の心得・その一。忍の才とは、忍び耐えることである!

 

 最愛の友人である、イタチへ。

 

 フウコを、信じてやってくれ。

 

 お前を、信じてる】

 

 

 

 幼い頃に、拾った本のタイトル。

 アカデミーに入学した日、シスイから、その本を貸してくれと言われたことがあった。

 本を読みつくしたイタチは素直に彼に貸し、そして翌日に帰ってきたのである。

 

『なあイタチ。この本で一番好きな言葉ってなんだ?』

『そうだな……。忍びの才とは、忍び耐えることである、という文だな』

『お! 俺もなんだよ。何かこー、ぐっと来るよな』

 

 間違いなく、この文を書いたのは、シスイだ。

 写輪眼で筆跡を真似ることはできる。

 忍術で人の記憶を見ることもできる。

 

 だが、写輪眼を使い、シスイの記憶を見た事のある者など、この世にいないだろう。

 フウコがシスイを殺す際にこの文を書いたとしても、まるでメリットがない。

 これは、シスイの、言葉だった。

 

「……そういうことなのか? シスイ」

 

 きっとこの文を書いている時の彼は、瀕死の状態だったのだろう。影分身か何かを使って、書かせたはずだ。そうでなければ、フウコを信じろという、まるで今の結末を予想した文章は書けない。

 

 自分が死ぬという状況。

 うちは一族をフウコが滅ぼすであろうという予測。

 それらを前にしても、彼は、道を示してくれた。

 

 最愛の友人である、イタチへ。

 

 迷っているであろうイタチに向けたメッセージを、命を賭してシスイは残した。

 

 夜空を見上げる。

 遠くで彼の笑い声が聞こえたような気がした。

 

「……分かった、シスイ。俺は、お前を信じる。フウコのことも―――」

 

 涙が零れた。

 心の緊張が解けている。

 妹を恨まなくていいという安心と、妹と共に過ごした記憶が輝かしく守れた安心が、溢れ出た。

 

 土で汚れた写真の中を、月の光が照らした。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 翌日イタチは、イロミの病室にやってきていた。

 

「…………どうして来たの?」

 

 上体を起こしているイロミは、冷たくイタチに言い放つ。

 

「…………帰ってよ。イタチくんとはもう、友達じゃないんだから……」

「昨日、渡し忘れた本を持ってきたんだ。両手のリハビリに良いだろう。全く動かないと言っても、昨日みたいにチャクラを使えば物を動かせるなら、まずは薄くて軽い本のページを捲るのが最適だと思う」

 

 イタチは紙袋をベットの横の棚の上に置く。

 

「…………帰ってよ……。わざわざ、嫌味を言いに来たの? 出て―――」

「イロミちゃん。俺も、フウコを信じることにした」

 

 え? と、こちらを見上げるイロミの目を、イタチは今度こそ真っ直ぐと受け止めた。

 

「一緒に、フウコを追いかけよう」

 

 今ならはっきりと、言葉にすることができる。

 自分の選択を。

 今朝、サスケにもそれを伝えた。

 サスケは「……邪魔だけは、しないでほしい」とだけ、呟いた。これから長い間、彼と対話をしていく必要があるかもしれないが、今は、それだけでいいと思った。現実は意外と、壊れないもので、長いスパンで見れば、弟との関わりは修正できるはずだ。

 

「…………どうして?」

 

 イロミの声は、震えていた。

 

「俺も、考えた」

「…………フウコちゃんを、恨んでないの?」

「フウコには、何かがあった。俺は、そう信じる。あいつは、俺の―――自慢の妹だからな」

「…………本当に、追いかけてくれる?」

「ああ。信じてくれ」

 

 イロミは、俯いた。

 

「…………ありがとう」

「イロミちゃん?」

 

 彼女の肩が大きく震える。

 

「…………本当は、分かってたんだ」

「俺がフウコを信じるということを?」

「…………ううん、そうじゃなくて……、私じゃあ…………どんなに頑張っても、フウコちゃんには勝てないって」

 

 声が湿る。

 

「…………ブンシ先生が……っ、言った通り…………、どんなに……がんばっても…………ッ! フウコちゃんには……、きっと勝てない…………ッ! 話しをする前に、もしかしたら、ころされるがも、じれない! だっでふうごぢゃんは……天才で…………わだじなんがより……どりょぐずるがら…………ッ! だがら……、もじ、ふうごぢゃんに会っても……、また……まげぢゃうんじゃないがっで…………今度こそ………死んじゃうんじゃないかって………ごわがっだ…………」

「大丈夫だ。今度は、俺も手を貸す。二人なら、フウコに追い付ける。だから―――」

「…………ぶん……、ありがどう……。いだぢぐん?」

「なんだ?」

「…………わだじ、ないでなんがいないがら」

「ああ、分かってる。君は、あの日から一回も泣いてない」

 

 あの日。

 フウコが先にアカデミーを卒業した日と同じだ。

 

 彼女が先を行き、その後ろ姿を自分たちは見てる。

 今度こそ、彼女に追い付いてみせる。

 二人は、そう誓った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その日の夜、イタチは家の外で、ある人物と出会った。

 

「イタチよ。これからどうするつもりだ?」

 

 ダンゾウの言葉に、イタチははっきりと言ってやった。

 

「俺はフウコを追いかける。たとえあんたが邪魔をしても無駄だ」

 

 冷酷で鋭利な刃物のような言葉。

 

 フウコに何かがあったのなら、可能性として、暗部が候補の一つだった。

 

 彼の尾ひれの付く黒い噂話を鵜呑みにするほど愚かではないが、フウコが暗部の副忍だった頃のトップだったダンゾウは、もしかしたら敵かもしれない。その思考を元にした、言葉の刃だった。

 

 ダンゾウはしかし、意にも介さない憮然とした態度でイタチを見る。

 

「ならば、俺の元に付け、イタチ。フウコの情報が欲しいならな」

「……いいだろう」

 

 暗部の役職を辞めたダンゾウだが、おそらく力は一切に衰えてはいないのだろう。フウコの情報が手に入るかどうかは別として、敵の懐に入るというのは、悪くない手である。

 身体を半身にし、踵を返そうとする。もう話しは終わりだという表明。その、最後の刹那。

 イタチは、ダンゾウを睨んだ。

 万華鏡写輪眼となった、その瞳で。

 

「だが、俺はあんたの指図は受けない。フウコの情報に関わりのないことは、一切だ」

 

 ダンゾウと別れ、仮宿舎に帰る。

 既に、サスケは眠っていた。もう深夜である。

 イタチは一度顔を洗い、寝巻に着替えてから、部屋の襖を開けた。

 うちはの町に戻った時、自分の部屋から持って来た写真立てが、襖の奥の方に隠されている。手に取る。写真立ての中には、自分が持ってた写真が収められており、その裏側にはひっそりとシスイが持っていた写真を隠している。

 

 写真の中には、変わらず、楽しかった日々の絵が、収められていた。

 笑みが自然と零れた。写真を元の位置に戻し襖を閉める。

 自分は選択した。

 正しいのか、間違っているのか、分からない。

 ただそれでも、今はまだ、自分の記憶は輝かしく光っている。

 今夜はきっと、あの夜の夢は見ないだろう。

 

 たとえ見たとしても、彼女にはっきりと言ってやる。

 

 お前を信じると。

 

 俺たちは、家族なのだと。

 

 布団に入り、瞼を閉じたイタチが次に考えたことは、意外にも……。

 

 ―――まずは……、そろそろ新しい家を買わないとな。

 

 仮宿舎ではなく、本当の家を。

 自分とサスケと、そして……いつか彼女が戻ってこれるかもしれない―――家を。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 夜中、ナルトは一人、修行をしていた。

 彼の幼い顔には、多くの痣が残っている。昼間、サスケに殴られ蹴られた痕だ。痛々しい痕を残した顔はしかし、右手の掌に集中させたチャクラに意識を向けているせいか、真剣そのもので、痛みなど眼中には無いようだった。

 

「…………うわッ?!」

 

 右手の掌に集中させ、渦巻かせていたチャクラは爆散し、その衝撃にナルトは後ろに尻餅をつく。辺りに誰もいない、小さな公園だったが、もはや多くの人が寝静まった深夜では、爆散した風の振動も、ナルトの声にも、文句を言う者はいない。

 

 仰向けになる。夜空は、見えない。分厚い雲が、まるでナルトを嘲笑うかのように佇んでいた。

 

『ナルトくん、大丈夫?』

 

 記憶の中の彼女が、無表情ながらも、心配そうな声をかけてくる。

 そう、いつもなら彼女が声をかけてくれるはずなのだ。

 だけど、もう、彼女はいない。

 

 うちは一族を滅ぼした犯罪者だと、里の大人たちは言っているのだ。

 里の外に逃げた、汚い犯罪者なのだと。

 大人たちの言葉なんて、信用できない。

 だって、何もしていない自分を、勝手に蔑むのだから。あれほど信用できない連中はいない。それに、昼間に会ったサスケだって、信用できない。きっとあいつは、何か勘違いをしているのだ。何も言わなかったけど、きっと、そう、間違っている。

 

 そうナルトは思い続けた。

 

 だけど、どうしてだろう。

 どうして、涙が、込み上げてくるのだろう。

 後ろから忍び寄る暗い感情から逃げるように、再び右手の掌にチャクラを集中させた。

 

 ―――思い出せ、思い出せッ! あの時、フウコの姉ちゃんはたしか…………。

 

 最後に会った、彼女の姿を思い出す。

 

『その術はね、ナルトくんのお父さんが使ってた術なの』

 

 苦しい感情が、

 

『今の君には、少し、難しいかもしれないけど、今回はあまり、私は手伝ってあげたくないの。なるべく、自分の力で、習得してほしい』

 

 悲しい感情が、

 

『分からないことは、次の修行までに、はっきりさせえておいて。いい?』

 

 涙が、零れた。

 チャクラが暴発し、再びナルトは、尻餅をついた。

 螺旋丸は、失敗に終わった。

 

「……ちきしょーッ! なんでできねえんだってばよッ!」

 

 怯える感情を奮い立たせるような、乱暴な言葉に、応えてくれる者はいない。

 

 一人だった。孤独だった。

 

 それは遠回しに、もはや彼女が本当にいないのだと、大人たちが、里が、世界が、言っているようで。

 

 ナルトは悔しそうに口元を歪め、溢れ出る涙を両手で拭った。

 

「……フウコの、ねえぢゃんっ! 次の修行って…………いつなんだよぉ……」

 

 どうして、置いていったんだ。

 ずっと一緒にいてくれると思ってたのに。

 なんで、遠くに行っちゃんたんだ。

 

 本当に……犯罪者となってしまったのか?

 

 頭の中に思い浮かぶ言葉たち。それに翻弄される感情。どういう風に心に決着を付ければいいのか、涙を止めることもできない、孤独で、幼い彼には、道を示してくれる者は誰一人としていなかった。

 

 どこか遠く―――あるいは、身体の内側にも近いところ―――で、誰かが深く嗤う声がはっきりと耳に届いた。

 

 獣のように汚い嗤い声。その声はすぐに聞こえなくなるが、その声こそが、ナルトの感情に、芽を植え付けた。

 黒く、暗く、

 素直で、優しい、

 感情を。

 

「……誰なんだよ…………フウコの姉ちゃんを、遠くにやったのはッ!」

 

 ぜってぇ、許さねえってばよ。

 いつか必ず、見つけてやる……。

 強く、なってやるッ!

 この術を覚えて……フウコの姉ちゃんを、助けに……ッ!

 フウコの姉ちゃんが、犯罪者なわけねえッ!

 だって、

 だって、

 だって!

 フウコの姉ちゃんは、誰よりも優しかったッ!

 他の連中が嫌な目を向けるのに、フウコの姉ちゃんだけは、俺を一人にしなかったッ!

 フウコの姉ちゃんは、優しいんだッ!

 

「見つけてやる……。フウコの姉ちゃんに、悪いものおっかぶせたやつを……絶対にッ! 見つけて…………ぶっ殺してやるッ!」

 

 ナルトの強い感情に呼応するように。

 彼の中に収まる檻の、その檻を堅牢にする渦巻型の鍵が、一周だけ、緩んだ。

 




 次話も十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去と、嘘と、幸福論と

 次話で灰色編を終わりにしたいと思っております。
 ご批評、ご感想がございましたら、ご容赦なくコメントしていただければ幸いです。
 次話も十日以内に行いたいと考えております。

 また、今回の話はフウコによる一人称視点ではありますが、記憶を振り返っているという背景があります。三人称的一人称、というような感じです。冒頭の部分の時間は、うちは一族抹殺事件(公式のネーミングが分からないため、中道が勝手に命名してしまっていますが)が始まる当夜です。その時間から、フウコが【シスイと本物の内はフウコが争う】場面を半ば客観的に想起する、という形式です。
 以上のことを考慮して読んでいただければ、幾分かは、読み難い中道の文章を読み解く手助けになるのではないか? と思い、前書きに書かせていただきました。

 ※追記です。

  あとがきの文章は、ただの三人称視点です。


 私は―――過去に負けた。

 

 徹底的に、圧倒的に、情けないくらいに、負けたのだ。

 

 過去というのは、理想と現実の間に生まれるのだと思う。

 

 誰もが理想を抱く。

 家族と幸せに過ごしたい。

 恋人と結ばれて家族になりたい。

 友達と一緒に毎日楽しい時間を過ごしたい。

 特別であったり、当たり前であったり、壮大であったり些細であったり、個人に差はあっても、人は理想を抱き、それを糧に人生を歩む。

 だけど、理想の前にはいつだって、現実が邪魔をする。

 

 家族との幸せを願っても、嵐のような防ぎようのない不幸が訪れてしまう現実がある。

 恋人と結ばれたいと祈っても、他者の感情が求める全てを提供できる人間はいないという現実がある。

 友達と一緒に毎日楽しい時間を過ごしたいと望んでも、言葉が意思疎通の限界である関係には齟齬が生まれるという現実がある。

 

 理想が現実に打ち破られ、止まらない時間を前に心が足を止めた時、過去は生まれるのだと、今なら分かる。

 

 空が綺麗なのはきっと、空が連続していないからだ。

 空は理想を抱かない。ただそこにあるだけ。現実に身を任せて、晴れを作り、雨を作り、曇りを作り、時には嵐を作る。眠って起きてみれば、空はあっさりと顔を変えて、佇むだけ。だから綺麗なんだ。透明であるものは得てして、綺麗だ。

 

 昔―――【私】というのを、どこから区分すればいいのか分からないけど、【うちはフウコ】として生きることになった、この身体で幼い頃―――私は空が怖かった。綺麗だと思っていたけど、奥底では恐れていた。

 

 また、目を閉じてしまったら……眠りに付いてしまったら、全てが変わっているのではないかと、思ったから。

 いつも大切なものの環境は、私が目を覚ました時には変わっている。空を見るのは、きっと、逃げなんだと思う。大切な人に異変の有無を尋ねた時、もし【有】であったら泣いてしまうかもしれないから。

 空は何も言わない。

 過去もない、透明で、今だけを伝えてくれる。

 だから空を見上げ続けた。

 異変が無いか、監視していたのだ。

 もちろん、そんなことは意味がないんだってことは知ってた。空を見ても、周りの異変なんて分からない。幼い子供でも分かる、屁理屈。それでも、私は空を見続けていた。

 

 彼―――イタチと会うまでは。

 

 イタチは不思議な子だった。幼いのに、戦争の傷痕を前にしても、慌てることもなく、確固たる冷静さを持っていた。一瞬だけ、私と同じようなのではないかと思った。つまり、心と身体の年齢に大きな差を持った子なのではないかと。だけど、それが彼の才能だっただけで、子供らしい部分はあった。サスケくんが生まれた時は、彼は子供らしく柔らかい無邪気な笑顔を浮かべていた。

 

 彼と出会い、誰かが傍にいてくれるということの安心を教えてくれた。彼の冷静な声のトーンが、扉間様に似ていたからかもしれない。家族という言葉が、不思議と、私の心に沁み込んだ。

 

 彼と、そして彼の両親であるフガクさんとミコトさん、さらには彼の弟であるサスケくん。みんなと、当たり前の日々を、寝て、起きて、一緒にご飯を食べて、話しをして、サスケくんの前ででんでん太鼓を鳴らして、お風呂に入って、眠る。

 些細で、当たり前で、平和の象徴のような日々を過ごしている内に、私の心から異変への警戒が無くなった。

 いつしか私の【輪】は広がって、

 シスイが加わって、イロリちゃんと手を繋いで。

 些細だった平和の象徴は壮大になって。平和が見やすくなって。

 空は、私にとって、ただ綺麗なものになっていた。

 

 でも、だからかもしれない。

 私は勘違いをした。

 空を本当に綺麗なものだと見れるようになったから、綺麗で素敵な人たちと関われたから、

 

 

 

 私は、私自身も綺麗な人間になれたのだと―――過去とは関わりのない人間なのだと、平和な未来の中に過ごせる人間なのだと、勘違いをしたんだ。

 

 

 

 今思えば、その勘違い、思い違いが、全ての過ちだった。

 私はずっと、過去であるべきだったんだ。

 心を置いた、誓いを置いた、扉間様の元に留まっておくべきだったのだ。

 平和を守り続けることに専念するべきだったのだ。

 

 たとえ、家族だと言ってくれるイタチの善意を無碍にしても、シスイの好意を拒絶してでも、イロリちゃんの思いを否定してでも……私は、最初から過去になり続けるべきだった。

 

 そうすれば、もしかしたら―――こんなことを考えても、意味のないことだけど―――シスイが死ぬことも……無かったかもしれない。

 

「…………綺麗な……空」

 

 眼下に広がる、夜に包まれ始める里。西の空は燃えるように赤く吸い込まれ、太陽の頭がちょうど隠れた時だった。紫色の空が九割ほどを占める彼方の真下の里は、徐々に人工的な光を灯り始める。夜が来た。

 この里での、最後の夜。

 悲しいとか、苦しいとか、そういう感情はもう無い。持ってはいけないから。

 ずっと、ずっと……。

 牢獄の中で感情を捨ててきたから。

 

「副忍様。間もなく……」

 

 顔岩の端に立っている私に、後ろから【根】の者が声をかけてきた。監視役の彼らは、私一人の為だけに、十人ほどが、扇状に私を囲んでいる。当然だ。一度、この身体を彼女に明け渡してしまったのだから。けれど、こうやって、外に出させてくれるだけでも、まだ信頼されているということかも。

 

 間もなく、というのは、私がうちは一族の警務部隊本部の牢獄に移送される時刻のことを示している。早くしろという威圧的な感情が込められていない平坦な声は、今の私には、秋の乾いた空気のように心地良かった。

 

「…………分かった。そう、終わりにしないとね」

 

 終わりにする。

 この里で平和に過ごしていただろう未来の自分と、この里で育った温かな記憶たちと。

 振り返り、一歩踏み出す。

 

 途端に、記憶がぶり返した。

 きっと無意識の私が、懺悔をするように、最後の感情を切り捨てようと足掻いたのかもしれない。暗部の拘留所の中で捨てた感情―――うちはフウコとして生きていくことになった幼い身体の頃から、シスイと一緒にカガミさんのお墓参りを最後にしたまでの記憶―――ではなく、暗部に拘留されるまでの記憶を思い出して、捨て去る準備をしたんだと思う。

 

 そう。

 

 フウコちゃんとシスイが戦い、そして、今に至るまでの【私】の後悔の記憶を。

 私の意識は、逃げるようにあるいは拒絶するように客観的に棒立ちをしながら、次の一歩までの数瞬に流れた記憶を眺めた。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 私の身体―――同時に、フウコちゃんの身体でもあるけど―――は、フウコちゃんの肉体をベースとしていながらも、私の本来の身体で繋ぎ止めている状態になっているらしい。筋力、身体エネルギーの増幅によるチャクラ量の増加、身体能力に至るまで、通常の成長を遂げている同年代の子と比べると遥か上位にあるのは、私の本来の身体の影響が残っているからだ。写輪眼の瞳力もあってか、相手の遥か先の動きを可能にするほど、身体の能力は高かった。

 だけど、必ず戦闘で勝てるという保証では、決してない。あくまで、優位に戦闘を進めることができるという程度の力。どんな戦闘でも、始まる前から勝てるという確信を得れる力は、この世に存在しない。

 

 ただ、戦闘を限りなく優位に進めるのに必要なものはあると思う。

 それは人それぞれで、一概には言えないけど、私にとっては【経験】だった。

 

 相手の体勢を見て、どのような攻撃が来るのかを反射的に予想する。

 どういうパターンで、人は行動を硬直させるのか。

 人の思考傾向、タイミング、距離感、術を発動させるタイミング。

 

 それらは多く戦闘を重ねなければ手に入らない。いくら写輪眼で相手の動きを先読み出来ると言っても、身体が、もっと言えば意識がついていけなければ、効果は十分に発揮されない。

 ましてや強者相手には、必要なスキルだ。

 

「くそッ! ちょこまかちょこまかってえッ!」

 

 フウコちゃんには、経験が遥かに足りていなかった。私が支配権を持っている時、身体の中から知識として獲得していても、実際に身体を動かすというのは意識を張り詰めた戦闘では思うようにできないようだった。

 

 暗闇の中。辺りを覆う木々の間を、シスイは駆け回っていた。瞬身という異名を持つ彼の速度は、視界の悪い夜中、ましてや遮蔽物の多い森の中では脅威だ。右腕が折られ、高天原の影響で身体が重くなっているのに、フウコちゃんは一度として彼の姿をまともに捉えられずにいた。

 暗闇に紛れ、遮蔽物を渡り、ヒット&アウェイを繰り返すシスイ。フウコちゃんは、彼の攻撃を寸での所で、黒羽々斬ノ剣で防ぐ。術を発動しようと印を結ぼうとしたら、シスイが攻撃を仕掛け停止させる。戦闘が始まってから、そのパターンが続いていた。

 

「こんなはずじゃ……、こんなはずじゃないッ! お父さんが治してくれた身体なんだから……もっと……ッ!」

 

 考えも無しに顔を振り、写輪眼でシスイのチャクラを捉えようとするけど、あまりにも迂闊だった。

 

「……ッ?!」

 

 後ろから微かに聞こえた風音にフウコちゃんは振り返り、左手で暗部の刀を振るシスイの姿を見た。刀は急所ではなく、左脹脛を狙っていたけど、フウコちゃんは左手で刀を振り回し寸での所で弾く。だけど、シスイは距離を再び離す際に足を回して腹部に蹴りを入れた。

 

「……ッ。この……っ。いくじなしッ! 虫みたいにチマチマチマチマってぇえええッ!」

「静かにしろ。フウコの顔で、汚い声を出すな」

 

 苛立ちで注意が疎かになったところを、シスイはまた、真後ろから刀を―――振る動きを見せただけだった。シスイのフェイントに引っ掛かり、反射的に刀を振り回そうとしたフウコちゃんの腕をそのまま左腕一本で絡めとり、腹部に膝を叩き込んだ。

 

『シスイ、そのまま……ッ!』

「黙れぇええええええッ!」

 

 取っているシスイの腕ごと振り払った。受け身を取った彼はそのまま暗闇に消え、闇の中を移動する。

 

 戦闘が始まってからのダメージでも、そして精神的な安定も、フウコちゃんの方が劣勢だった。シスイとフウコちゃんの経験の差だ。総合的な身体能力はフウコちゃんが上でも、シスイは彼女の力を最大限に抑え込んでいる。

 

 徹底してフウコちゃんの視界に入らないように動き、術を使えないという状態での体術のみのスタイル、フウコちゃんの短絡的な性格を読んでの動き。戦闘全てが、シスイの思い通りに動いている。

 

 おそらく、シスイが細心の注意を払っているのは、術を発動させないことだった。術を発動させてしまえば、辺りに異変を知らせることになってしまう。フウコとシスイが殺し合っている。その情報を、うちは一族に知らせないようにしている。

 

『フウコちゃん、諦めて! 貴方じゃシスイには勝てない』

「黙ってッ! あんな奴、私がもっと、しっかりすればッ!」

『今なら―――ッ!』

 

 その時私は、精神チャクラを思い切り檻に送り込んだ。いくら七尾のチャクラを用いていても、戦闘中ではコントロールは難しいはずだと思ったからだ。

 現に、かつて私たちの封印が解かれ、フウコちゃんに支配権が渡っていた時も、暗部に囲まれ戦闘を行っていた彼女の隙を突いて、支配権を獲得した。

 

 だけどこの時は、支配権を取り返そうなんて思っていなかった。

 

 ただ少しでも、フウコちゃんの集中力を削げたら、シスイの身から危険を遠ざけられたら、それだけで良かった。

 

「フウコさんうるさいッ!」

『幾らでもうるさくしてやるッ! シスイは殺させないッ!』

「さっきまでメソメソ泣いてたくせにッ!」

 

 シスイが殺される。

 私のフリをしたフウコちゃんに。

 シスイに、恨まれる。

 

 その絶望に頭を垂れ、額を精神世界の地面に擦りつけていたけど、その絶望はもう既になくなっていた。むしろ、興奮があったと思う。

 シスイはフウコちゃんと私の変化を分かってくれた。見た目は同じで、声真似をしていたフウコちゃんを、その普段ならまるで見逃してしまうような些細な変化を、見逃さなかった。

 

 自分の存在を認められたような気がしたんだ。

 これまで彼と共に過ごした時間が、関係が、繋がりが、光り輝いたような気がして、嬉しかったんだ。胸が締め付けられるような、けれど胸の奥が躍動して首が熱くなる興奮。

 

「中に、フウコがいるんだな?」

 

 フウコちゃんが用意した、窓のようなガラスの向こうに、シスイの姿が入る。十メートルほどで、私でもフウコちゃんでも、十分に先手を取ることができる距離だった。つまり、危険な位置。

 なのに私はどうしてか、彼の姿を見ることができて堪らなく嬉しかった。

 

『シスイ……!』

「……何言っちゃってるの? ふふふ、私がフウコなのに」

「黙れ。お前のことじゃない。……なるほど、あの仮面の男が言ってたのは、お前のことだったのか」

 

 暗闇に浮かぶ彼の写輪眼。緊張と殺意が混ざり研ぎ澄まされた冷酷な瞳だったけど、それでも、涙が出そうになる。

 

 だけど。

 

 すぐに感情を切り替えて、彼の意図を考えた。最優先にすべきなのは、彼が死なないこと。

 

「お前は何だ? あの男の仲間か?」

 

 と、シスイは呟いた。

 

「……ふふふ。あの人は、私を助けてくれたの。私にとって大切な人で、あの人にとって私は大切な人なの。仲間っていうのとは、違うよ」

「どうすればお前は消えてくれる」

「言ったでしょ? フウコさんは偽者なの。それで、この身体は私の。消えるべきなのは、フウコさんの方なんだよ」

「言うつもりはないってことか。……まあいい。お前を動けなくすれば問題ない。後は、山中一族の人の力を借りることにしよう」

「出来ると思ってるの? バッカみたい」

「お前こそ、フウコを偽者だとよく言えたな。フウコの方が千倍強い。俺から見れば、お前の方が遥かに偽者だ」

「……ふざけないで。この身体は、お父さんに治してもらったの。馬鹿にしないでよ!」

 

 蒼い世界が震える。それはフウコちゃんの心に怒りが溢れていることを意味していた。きっと、彼女の表情も怒りを露わにしていたのだろう。それでも尚シスイは続けた。

 

「あの男をお前がどう思うかは勝手だが、あいつはどうせお前の事をただの道具にしか思っていない」

 

 さらに、世界が震えた。それに乗じて、私も彼女に言葉をぶつける。

 

『マダラは他人を信頼しない。貴方は利用されてるだけ。お願い、フウコちゃん。冷静になって』

「あの男がお前を大切な人とか言ったが、本当にそう言われたのか? もし本当なら、どうして今までフウコが―――つまり、お前の身体を動かしていたんだ? どうしてあの男は今まで助けに来なかった?」

『木の葉隠れの里を滅茶苦茶にしても、いずれ、貴方はマダラに裏切られる。その前に、お願い、一度だけでいいから、シスイの言葉に耳を傾けて』

「俺も暗部として活動してきたから分かる。お前は利用されている側の人間だ。自分で何も考えられない―――出来損ないのガキだ」

 

 蒼い世界が、地震する。

 地面を覆う果てしない海は濁り、振動のエネルギーを受け、隆起する。

 ドス黒く盛り上がった海が爆発すると同時に、フウコちゃんは駆けた。

 声ではない声、獣の咆哮のような音を喉から叫び出しながら、一瞬でシスイとの距離を詰める。刀を非効率に、そして乱暴に横へと一閃した。シスイの胴体が二つに分ける。

 

 だけど、私は知っていた。

 いや、分かっていたのだ。

 彼の瞳を見た時に、彼の想いが伝わってきたから。

 

 二つに割かれたシスイの身体は―――ポン、という音を立てて煙になるのを、振り返るフウコちゃんの視界から私は目撃した。

 

 影分身。

 

 右腕が折れ、指が折れていても、彼は印を結んだのだ。

 骨が歪み、筋肉が骨の間に挟まれて痛みを訴えてきても。

 影分身の術の印は簡単で、分身体は写輪眼でも見抜きにくい。ましてや、冷静さを失ったフウコちゃんは、今、油断していた。

 

 怒りが解けたから。

 完全にシスイを殺したと思っていたから。

 どのような状況でも、相手の死体を完全に確認するまでは油断してはいけないという経験が無かったから。

 

 フウコちゃんは、油断し、シスイに大きな隙を与えた。

 

 視界が前に飛ぶ。おそらく、シスイが全力で蹴りを入れたんだ。木に叩きつけられ、腰が地面についた。刀を持つ右手は完全に身体を支える形になる。すぐに、次の動作には移れない。たとえフウコちゃんでも、次の瞬間の攻撃は絶対に躱せない状態と、そしてシスイの距離。彼は、暗部の刀の峰の部分を順手に持って振り上げていた。

 

 顎を狙う気なのだと分かった。顎を叩き、気を失わせる。それは間違いなく成功すると、私は確信していた。

 

 檻を掴み、前のめりになりながら、ガラスの向こう側のシスイに手を伸ばした。

 嬉しさに涙が零れる。

 喜びに涙が止まらない。

 なのに、胸が締め付けられるような感情は、むしろ膨れ上がるばかりだった。

 今は、今だけは、これまでで一番、彼に触れたかった。

 手を繋いでほしい。声をかけてほしい。

 

 

 

 そう思った。

 そう……思ってしまった。

 これがきっと、いけなかったんだ。

 フウコちゃんが里の平和を壊す事への危惧よりも、

 シスイが助けてくれるという感情に意識を囚われてしまったことが、いけなかったんだ。

 許してしまったんだ。

 フウコちゃんが最後の最後に行った、苦し紛れを。

 いやもしかしたら……最初からフウコちゃんは、この事態を想定していたのかもしれない。

 それは、分からない。

 

 

 

『……ふふふ。しょうがないなあ、もう。そんなにシスイに会いたいんだ』

 

 その声は、身体からではなく―――精神世界に姿を現したフウコちゃんのものだった。

 シスイへ意識を向けすぎたせいで、彼女の存在を失念していた。彼女の右手が、私の胸の中を貫いていた。

 

 ニタニタと嗤う彼女の顔は妖しく、熱かったシスイへの思いが急激に冷え込んだ。

 何が起きたのか、その時の私には想像が及ばなかった。

 もっと冷静だったら―――うちはフウコとして生きることを決めた、身体が幼かった頃の私だったら―――瞬時に彼女の思惑に辿り着いたと思う。

 感情の落差による、思考の停滞。

 平坦で、未来を望んだ私への、罪の罰だった。

 

『だったら会わせてあげる。ふふふ』

 

 胸を貫いた彼女の右手が引き抜かれる。

 意識が、かたどられていく。

 身体の感覚に包まれていく。

 気が付けば、身体を支配していたのは私で、目の前には―――文字通り、目の前には―――シスイの姿が。

 

 写輪眼となっていた眼は、シスイの動きを精密に予測していた。

 あと一秒後には、刀の峰は顎を打ち抜く。

 シスイの動作には一切の淀みはない。

 

 

 

 だけど、私は―――私は―――!

 

 

 

「シスイ―――……」

 

 声を、出してしまった。

 

 本当なら、出してはいけない【私】の声を。

 

 茫然自失になっていた私は、思考を取り払われた無防備な心が求めるように、彼の名を呟いた。

 

 途端に写輪眼が予測する映像がブレた。

 

 シスイの表情も微かに変化し、どこか、驚いたように。

 

 その瞬間に、そこでようやく私は、理解したんだ。

 フウコちゃんの思惑に。

 顎を打ち抜くはずだった刀。

 それを振り上げた腕の動作に、静止する力が加えられた。

 

 気付いたんだ。シスイは、今、この身体に宿る人格が【私】なのだと。

 彼の名前を呼んだ。

 ただそれだけなのに。

 気付いて、しまったんだ。

 

「駄目、シスイッ! そのまま刀を―――!」

「フウコ―――」

 

 

 

『あははははははははッ!』

 

 

 

 フウコちゃんの嗤い声が耳に届いた。

 

 もう、思い出したくないのに。

 

 あの時のフウコちゃんの嗤い声が耳から離れない。

 

 たとえ支配権を私が取り戻しても、彼女はいつでも奪い返せたんだ。

 七尾のチャクラを手元に置いている限り。

 私一人では、どうにもできなかったんだ。

 

 こんな愚かで、惨めな私一人では、強大な彼女の過去に太刀打ちできるはずがなかったんだ。

 

 

 

『おめでとう! フウコさんッ! これでシスイに会えたね! でも、お別れの挨拶は言わせないよ? 私だってお父さんとお母さんに……お別れの挨拶が出来なかったんだからさぁあああああああああああッ!』

 

 精神世界に連れ込まれた私は、二度目の意識の喪失をさせられた。

 浮遊していた檻に胸を貫かれ、腕を貫かれ、足を、腹を、打ち抜かれた。宙に舞う支配権を、フウコちゃんが手に取り、胸に収めた。

 

 最後に頭部を打ち抜かれた私は、その後、何が起きたのか、分からない。

 

 次に目を覚ました時―――そう、目を覚ましたんだ。どうしてなのか分からないけど、目を覚ました時、身体を支配していたのは、私だった。

 

 倒れるシスイに覆いかぶさるようにしていた身体を自覚した私の前には。

 腹部を無残に切り開かれたシスイが、いたんだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 暗闇だった。

 月が雲に隠れているせいかもしれない。

 虫の鳴き声も、風の音も聞こえない。

 蛍の光ほどの明るさもなくて、世界に私だけしかいないんじゃないかって思えてしまうほど、真っ暗。

 

「お願い……、お願いシスイ…………、目を覚まして…………ッ!」

 

 だけど、凍えるほど孤独な夜の中を、私の声。

 迷っているみたいに、泣いてる。

 赤ん坊だった。

 生まれたばかりの赤ん坊が泣くのはきっと、誰かの声を聞くため。

 泣けば、自分を必要としている人が必ずリアクションをしてくれると、赤ん坊は分かってるんだ。だから生まれたばかりの赤ん坊は泣くんだ。

 

「私は……ここにいるから……。起きて……ッ!」

 

 涙を流して、声を震わせて。

 横に切り開かれた腹部の中―――切断された内臓や血管を、医療忍術で縫合して、治療しながら、私は泣いていた。

 零れた涙がシスイの中に入って感染症を引き起こさせないように、何度も目元を拭ったせいで、顔は彼の血で塗りたくられている。だけど不快感なんて抱くことはなく、ただただ、彼が名前を呼んでくれることだけを望んだ。

 

 フウコ、と。

 

 明るく、

 優しく、

 豊かに、

 私の名前を呼んで、笑ってくれることだけを、願った。

 

 だけど。

 仰向けに倒れる彼の周りには、致死量の血が溢れ。

 治療する前の上半身と下半身は、背骨と薄く残った背筋だけで繋がれている状態で。

 もう。

 彼が遠くに行ってしまったのだと、頭に叩き込んできた医療忍術の知識が確信させられてしまうほどの説得力があって。

 

 呼吸をするのが辛くて。

 彼を治療する両手が苦しくて。

 頭の中にちらつく、カガミさんの御葬式の空気が嫌で。

 

 理不尽な現実に負けてしまうのが、悔しかった。

 

 

 

「―――……………フ…………」

 

 

 

 呼吸が、

 一瞬だけ、

 止まった。

 そのあと、

 奇跡が起きたかのような現実を必死に認識しようと、

 心臓が躍動し、

 さっきよりも涙が多く溢れて、

 意識の彼方に光が灯った。

 

「シスイ!」

「…………フウ、……コ…………?」

「……うん……………うん……ッ!」

 

 既に、彼の腹部の処置は終わっていた。

 完治という訳ではなかったけど、今できる最大限のことはできている。縫合も終わっていた。

 

 私は両手で止まらない涙を拭い、震える呼吸をどうにか落ち着かせた。

 

「待ってて……、すぐに…………、病院まで……」

「…………どう……した……………」

「―――え……?」

「………………だれ……に…………、いじめ………………………………ら……………た…………?」

 

 夜空には、何もない。

 脅威も、悪夢も、災厄も。

 なのに。薄く開いた瞼の奥の黒い瞳は、私じゃなく、夜空を、焦点を失いながら……見上げていた。

 私は夜空を見る。

 吸い込まれるような暗黒だけが、広がっている。

 怖いと思った。

 こんな恐ろしい夜空は見たことがなかった。

 今まで、明日の朝を楽しみに見上げていた綺麗な空だったのに。

 首の裏から、体温が寒くなっていく。

 空が変わった。

 目を離している内に。

 シスイを連れて行こうとする、夜になって。

 

「…………シスイ、しっかりしてッ! 駄目ッ! 私を見てッ!」

「………………あ…ん………………し……ん………し…………。おれ…………も……………イタチ…………………も、………それ、に…………イロ……………ミ……………だ、て…………いる………………。み……んな…………かたき…………う…………ち…………………」

「行かないで………。シスイ……………ッ。やることがあるって……シスイは…………。目を………覚まして…………。行かないで…………」

「…………だい…………ぶ………………だ……………。おれ………………は……………………お前の………味方………………」

 

 彼の左手が、宙を探っていた。

 左腕が伸びきってしまう前に、私は彼の手を掴む。夜空に掴まれる前に、両手で、彼を奪った。

 

「シスイ……。私は…………ここだよ……」

 

 彼の手は冷たく、固まりつつあった。

 少しでも温めてあげたいと、両手で包み込み、包み切れない指を頬に当てさせた。

 涙が止まらない。

 止まってくれない。

 不規則な呼吸は落ち着いてくれない。

 思考は乱れて、だからこそなのか、意識は真っ白だった。

 彼の言葉に、私は頷くだけしかできなかった。

 

「……………………泣くな……………フウコ……………………。イロミ……だって……………………泣かない………よう、に……………」

 

 うん、と。

 私は、頷いた。

 

「…………イタチ…………………………は………ど……………こ……だ……………? あ…………いつ…………を………たよ………れ………」

 

 うん…………うん……、と。

 私は、泣いた。

 

「……頑張れ……フウコ………」

 

 もう、頷くことも、言葉を出すことも、私は出来なかった。

 

 心が溶けていく。

 形を保てない。

 消えていく。

 彼と過ごした記憶が。

 彼と過ごすはずだった未来が。

 消えていく。

 

「……フウコ………………?」

「………………なに……? シスイ…………」

「愛してるぞ………」

「……私も………………」

 

 愛してる。

 

 私は、そう、彼に返した。

 

 

 

 だけど。

 私はまだ、恋人というのが、愛というのが、分からない。

 記憶の中の私も、現実の私も。

 大切なものへの感情の使い分けができなかった。

 

 ただこの時の私は混乱していた。

 そして、普段彼が何気なく、愛してるって言ってくれよ、と言っていたことを思い出して。

 

 それら二つの要因が混在して、反射的に、言葉にしたんだ。

 

 つまり。

 そう、

 嘘だった。

 遠くへ行ってしまう彼を引き留めたくて、

 奈落の夜空に魅入られた彼の心を手放したくなくて、

 口走った、嘘だった。

 

 

 

「……シスイ…………?」

 

 暗闇は、静かだった。

 孤独。

 彼はもう、私に言葉を向けてくれることはなかった。

 

 私のせいで、

 シスイは…………死んだんだ。

 




 後悔のない人生ではなかったと思う。

 忍として、若年で暗部まで上り詰めたシスイでさえ、自分の人生を振り返っても、後悔する場面はあった。

 たとえば、うちは一族のクーデターを知り、フウコが先にクーデターの問題に頭を悩ませていたこと。どうして自分はもっと早く、彼女の力になることができなかったのかと後悔した。
 たとえば、祖父のカガミが亡くなったとき。どうして彼が存命中に、クーデターを阻止して、平穏な日々を少しでも過ごさせてやれなかったのかと後悔した。

 他にも、大小様々に後悔する場面はあった。

 おそらく、後悔のない人生を歩まなかった人なんて誰もいない。

 幼い頃の夢を叶えた人はいても、世の中にはあらゆる可能性が転がっていて、妥協だとか、あるいは無知だとか、とにかくどんな理由にしろ、全てに関われるほど人の時間は短くて。
 大人になって初めてそれらの可能性を知ることができて。
 だから、後悔は、生まれてしまうのだ。
 もしかしたらあったかもしれない、全く別の【過去】の自分。それを知って、後悔する。

「……ふふふ。バッカみたい」

 暗闇。一瞬だけ、瞼を閉じてしまっているのではないかと思ってしまったが、見上げてしまっている夜空の微かな星々と儚く浮かぶ月、そして自分の愛する者の影が動いて初めて、自分は瞼を開けているのだと分かった。

 遅れて腹部に痛みを感じた。麻痺したような、鈍く、不快感の方が強い痛みだ。下半身の感覚はなく、意識も眠くなっているかのように重かった。

 薄く開けた瞼の奥の瞳だけで、影を見た。

 真っ赤に光る写輪眼。そこで、自分は写輪眼を発現させていないことに気付き、自身の状態を理解した。
 身体エネルギーがあまり残っていない。精神エネルギーと練って生み出せるチャクラの量は、良くて、一回―――いや、二回分の術を発動させれる程度だろう。

「最後の最後で、私をフウコさんと間違うなんて。恋人失格だね。あはははははッ!」

 自分は死ぬだろうと、シスイは思った。鉛のように重い意識だったが、思考だけは動き続けた。
 一、二回分の術では、現状を打開できないこと。
 身体を動かせないこと。
 腹部の感覚から損傷を予測し、あとどれほど生きることができるだろうか、など。

 確定的な死を前にしてもシスイは……考えることだけは諦めなかった。

「……嘘を、つくな」

 腹筋が切断されているせいで出せる声は小さかったが【フウコ】には、届いたようだった。恐ろしいほど静かな夜は、シスイにとって都合が良かったのかもしれない。

「ふふふ。嘘じゃないよ。どうして私が、フウコさんを……」
「それは………お前が…………偽物……だからだ…………」

 視界が霞み始める。
 まだ、意識を失う訳にはいかなかった。
 思考をフル稼働させて、予測する。

 未来を。

 自分がいなくなった、未来を。
 恋人や、親友や、友人や、そして大切な木の葉隠れの里の、
 未来を。

「………結局…………お前は………フウコじゃ………ない…………。俺に…………勝てなかったん…………だからな…………」
「………つまんない」

 右腕に激痛。
【フウコ】が、折れたシスイの右腕を思い切り踏みつけたのだ。
 腹部の痛みよりもはっきりした刺激に、シスイは左瞼を閉じる。

「なに? 最後の負け惜しみ? ふふふ。もっとさぁ、言うことあるでしょ? これまで散々、私の身体にベタベタベタベタッ! 触っておいてッ!」
「………お前に触れた……覚えはない…………」

 これまで触れてきたのは。
 触れようと思ってきたのは。
 恋人の心なのだから。
 愛するという感情がはっきりと分からなかったから、彼女に触れてきただけだった。
 距離を近くすれば分かるんじゃないかと、短絡的な思考に溺れただけ。

「ふん。まあいいや。どうせもう、何もできないんでしょ? だから、そんな負け惜しみが言えるんだよね? ふふふ、うちは一族の癖に、写輪眼にもなれないなんて、惨め」

【フウコ】は残虐な笑みを浮かべて、さらにシスイの右腕に体重を乗せた。
 ありがたい、とシスイは思う。
 腹部の眠くなるような痛みよりも、意識を覚醒させてくれる。
 思考を進めさせてくれる。
 あともう少しで、予測が成立する。
 幾重にも、幾通りにも試行し、思考し、もっとも可能性の高い未来の予測が。

「これからあんたを痛めつけてあげる。私の顔を忘れないように。フウコさんと同じ顔の私を忘れないように。ふふふ……私と一緒に、フウコさんを恨むように」
「…………お前は……、やっぱり………ガキだな……」
「……………………ねえ、死にたいの?」

 頭の悪い質問だな、とシスイは込み上げてくる笑いを我慢する。
 死にたいも何も、もはや死ぬしかない身体なのに。

 ああ、やっぱり。

 フウコとの会話は心地良かった。
 おかしな問答を時には繰り広げたことはあっても、頭の悪い質問をされたことは無かったように思える。過去を振り返っても、彼女との時間は充実していた。彼女がいるだけで、充実だった。

 これからも彼女には、幸福であってほしい。
 そうすれば、たとえ、自分が死んだとしても、満足だ。
 けれど予測した未来は、彼女には決して幸福が訪れないことを示している。
 さらに、思考を前へ、前へ―――未来へ。

『愛というのはな、シスイ。未来を見据えた言葉だ』

 カガミの言葉を思い出してしまう。きっと、人を愛するというのは、こういうことなのだろう。
 自分が死ぬということは分かっているのに。
 どうしても、彼女の未来を考えてしまう。
 引力のように、思考が引っ張られてしまう。
 おかしな思考だ、とシスイは自分を分析した。同時に、悪くない、むしろ心地良い思考の経路だとも、思った。

「ほら、私の顔を見なよッ! これからあんたを痛めつけて殺す人の顔だよ? どう? 憎いでしょ? ほら、ほらほらほら!」

 目の前に【フウコ】の顔が見える。醜く嘲笑うその顔は、しかし、やはり【彼女】の片鱗を微塵も感じなかった。【彼女】への憎しみなんて、生まれはしない。

 あの時。
 刀を振り抜こうとした、あの時。

 やはり、人格は【彼女】だったのだ。

 なら、憎しみなんて生まれる訳もなく、そして、後悔も無かった。
 振り抜こうとした刀を制止させた自分の感情に、
 彼女を傷つけたくないと咄嗟に思ってしまった自分に、
 彼女の声が聞けた喜びに、
 後悔なんて、ありはしない。

「…………やっぱりお前は……偽物だな………」
「まだ言うの? もう、あんたと話しなんてしたくなくなってきちゃった。このまま殺してあげるよ。どうせフウコさんは今、眠ってるんだし。あんたを殺した後に色々、私が言えばいいんだもんね。シスイはフウコさんを恨んでたよって」
「………それは…………無理だな………」
「愛し合ってるから? ふふふ。フウコさんはねえ、愛なんか分からないくらい、頭が悪いんだよ?」
「………バーカ………………、愛してもらおうなんて、思ってねえよ……ま………冗談で言ったことは………あるけどな………」

 シスイはゆっくりと、左瞼を開けた。

 きっと彼女なら、不用意にシスイの目の前に顔を近づけはしなかっただろう。
 たとえ薄く開いた右目が普通の瞳であっても。
 激痛を感じた際に自然に閉じた瞼の奥の瞳が―――万華鏡写輪眼になっている可能性を、彼女なら考慮しただろう。

 暗闇に灯る、シスイの万華鏡写輪眼を見て【フウコ】は息を呑み、彼の思考に追いついたが、遅すぎた。
 未来を見据えた、見据え続けたシスイの思考に【フウコ】は届かなかった。

「…………俺は………、あいつに愛してほしくて………恋人やってんじゃねえんだよ…………」

 忍として常に冷静さを維持してきた彼らしからぬ、乱暴で、強くて、そして………感情に素直な言葉だった。

「好きだから………恋人やってんだ…………。【もう二度とお前は……その身体を動かせない】………」

 別天神。

 シスイのチャクラは【フウコ】の眼を通じ、蒼い精神世界へ。果てしない彼方が広がる海から、出現したのは―――白い鎖。

 うちは一族のクーデターという爆弾を抱えた木の葉隠れの里の中にあっても、
 戦争という黒い時代の陰りを残す灰色の時代に生を受けても尚、
 平和という白い時代を望み続けた、強靭で、美しい、シスイの思いを形にした、純白の鎖は、【フウコ】を絡めとった。

『あぁあッ!?』

 白い鎖に縛り付けられた【フウコ】の胸を白い鎖は貫き、支配権を奪う。

『返してよッ! それは私の―――』

【フウコ】の些末な言葉を雄大に躱しながら、鎖に繋がれた支配権は、檻に押しつぶされた彼女の元へ。

 空と海が、入れ替わる。

 別の天を、シスイは統べた。

【フウコ】は怒りに任せて、七尾のチャクラで鎖を壊そうとしたが―――七尾のチャクラは鎖に触れることすら許されない。
 別天神は【フウコ】が鎖に触れようとする意識を、彼女の無意識に介入して阻止していた。
 膨大で暴力的な七尾のチャクラを以てしても【フウコ】の無意識は、鎖に触れようとするのを避けさせられる。

 そして―――。

「……………ッ!」

 現実世界では。
 シスイの身体の上には、【彼女】の身体が覆いかぶさるように倒れた。
 その衝撃に、シスイは一瞬だけ顔を歪める。
 左眼は既に通常の瞳に。

 意識を失っているものの、彼女が身体が戻ったことへの安堵。だが、シスイはさらにチャクラを消費する。
 左腕を胸の前に持っていき、さらに折れている右腕を持っていこうとする。噛み合わない骨が鈍重な音を響かせ痛みを訴えるが、堪え、胸の前で一つの印を結び、術を発動させる。

「……影………分身の……………術」

 横に、シスイの影分身体が出現した。
 自分のように損傷していない、五体満足な影分身体。だが、長くは持たないだろう。自分を見下ろすもう一人の自分に、シスイは言葉を繋げた。

「…………分かって……る……………な?」
「ああ。あとは任せろ」
「……頼……………む…………」

 影分身体は頷き、姿を消した。
 未来への標を残すために。
 彼に―――イタチに、言葉を残すために。
 思考の果てに描かれた未来。
 それは、彼女が孤独になるというもの。
 おそらく、ダンゾウは自分の死を知った時、うちは一族を切り捨てるだろう。もはや誰の言葉も耳にせず、うちは一族を切り捨て、里の平和を重視する。そして重視した際に使う手立ては、彼女を利用することだった。
 彼女がシスイを殺した、という情報を利用すれば、うちは一族の行動にはストップがかかる。あとは口八丁手八丁に時間を稼いで準備を進める。どのような準備を進めるか、と考えた際に、彼女そのものを使うだろう。彼女の優しさを利用して、あらゆる全てを彼女に背負わせる。

 最も効率的で、木の葉隠れの里の中に禍根を残さない手段だ。これが、一番に可能性が高く、そしてこれから死ぬ自分に介入できることなんて何もない。
 だから、未来に言葉を残すことにした。
 彼女がうちは一族を切り捨て、里を追いやられ、孤独になってしまうことへの対処をした。
 きっと彼女は、イタチやサスケを生き残らせるだろう。ダンゾウも、イタチの力は里にとって有益だと考えるはずだ。彼女がイタチの命、そしてサスケの命を担保する交渉をダンゾウと交わすはず。問題なのは、残されたイタチとサスケが、彼女を恨むことだった。

 クーデターのことを知っているイタチが、彼女を恨む可能性は低い。だが、感情というのは時に、あらゆるものに優先されてしまう。あるいは、全く別の手段で、イタチは彼女に感情をコントロールされるかもしれない。幼く何も知らないサスケに至っては、大いに彼女を恨むのは間違いない。

 故に、賭けた。

 親友の冷静さに。
 親友と彼女が紡いできた輝かしい家族としての絆に。
 自分が言葉を残せば、彼は彼女を、孤独の果てから救おうとしてくれるだろう。
 影分身体に任せたのは、その、言葉を残す作業だった。

 静寂が、シスイの周りを囲う。
 死を招くように、ゆっくりと、ゆっくりと。

 あと、どれくらい、命は残されているだろうか、とシスイは考える。ぼんやりと。思考はもう彼方へは進めない。進める距離は短く、未来への予測は困難だった。
 彼女が目を覚ますまで、命は持ってくれるだろうか?
 持ってくれたとしても、彼女に何か言葉を紡げるだろうか?
 紡げたとしても、自分の意識ははっきりしているのだろうか?
 まともな言葉を紡げるだろうか?
 他に何か手段はあったんじゃないか?

 どんどんと浮かび上がる後悔の可能性に、シスイは面倒くさくなり、深く考えないことにした。
 後悔というのは、考えれば考えるほど生み出せてしまうものだ。
 夢の数だけ、可能性の数だけ、後悔は生まれるのだから。

 意識が―――遠くなっていく。

 後悔のない、人生ではなかった。
 しかし。
 不幸な人生でも、なかった。
 最後にシスイは確信する。
 愛というものを知ることができた。
 死ぬ間際に、誰かの未来を案じ、考え抜くことができた。
 それはきっと、長い人生の中で、たった一度しかやってこない、試練なのかもしれない。
 自分はその試練を、乗り越えることが、できた。
 それだけでも、自分の人生には価値があったのではないかと思えてしまう。
 彼女のおかげだ。
 彼女がいてくれたから、胸の中に広がる幸福に、意識を委ねることができる。

 意識は理想郷に立っていた。
 いつも将来を夢見る時の基準となった、理想郷に。
 アカデミーの頃の、何も考えないで、親友と、好きな人と、友人と、笑いあったあの時に、意識は回顧する。

 ―――フウコ。

 理想郷の中の幼い彼女に、シスイは声をかける。
 彼女は無表情で、不思議そうにこちらを眺めていた。

『なに? シスイ』
 ―――……頑張れよ。

 シスイの言葉の文脈が分からなかったのか、彼女は頭を傾けたが、小さく頷いた。
 本当に、小さく。
 彼女と親しくなければ分からないほど、小さく。

『うん。分かった。シスイ?』
 ―――なんだ?
『ありがとう』



 この後、彼がはっきりと意識を取り戻すことは無かった。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

敗北の彼方。……そして、次の世代へ。

 中道です。

 およそ、一年近くの改訂の末、今回でようやくの灰色編の終了となります。中道の不手際によって、こちらを読んでいただいた方々、そしてご指摘やご感想及び評価などをしていただいた方々に多大なご迷惑をかけてしまったことを、この場を借りて謝罪申し上げたいと思います。

 誠に、多大な時間をいただいてしまい、申し訳ございませんでした。
 今後、身の丈に合った分相応なストーリー構成で精進していきたいと思います。

 前述したとおり、今回で灰色編は終了と致します。また、サブタイトルが打ち切り漫画のタイトルのように思えるかもしれませんが、匙を投げるつもりはございません。次話からは、ナルトの世代を本格的に加えて話を続けていきます。今のところ、次世代編、という名目で作ろうと考えております。

 次話の投稿に関してですが、少しだけ時間をいただきたいと思います。具体的には、今月末日、あるいは来月の一日のいずれかまで、次話は投稿は致しません。

 理由としまして、まず、ここまで書いてきた文章の誤字脱字などの訂正を行いたいと思っております。そちらに時間を幾つか割いてしまうということが一点。さらに、中道のプライベートな理由もございます。
 実は、中道は近々、肉体改造をしなくてはいけなくなりました。親知らずというものと戦うことになっています。しかも二本です。改造後は激痛が残るようで、それによって書くペースが遅れてしまうことが危惧されます。

 以上の理由を持ちまして、次話の投稿は今月末日あるいは来月の一日となります。必ず、そのどちらかに投稿は致します。

 では、灰色編最終話です。およそ三万文字ですので、お暇な時間に軽く読んでいただければ幸いです。

 ご指摘、ご批評がございましたら、ご容赦なくコメントしていただけたらと思います。

 ※追記です。

 書き忘れてしまったことが一つありました。実は、灰色編は構想の中では、もう一話分書こうと思っていたところがあります。ですが、その話を入れても、本編との中心的なストーリーとはあまり関わりが深くないため、没としました。けれど、本編を書きながら、ポツポツと書き進め、いずれはその没になった話を外伝として入れようと思っています(具体的には、フガクやミコト視点などの内容です)。

 ○ ○ ○という記号を今回は用いています。こちらの記号は、時間経過及び三人称視点を示唆するものです。


 私は走った。

 背中から追いかけてくる恐怖から逃げるように、走った。

 

シスイを背負っている。血液が抜け出たせいか、彼は軽かった。人一人を背負っているとは思えない軽さにおびえながら、頭の隅で考える最も人目に付かないルートを選ぶ。

 向かう先は、暗部の元。

 暗部には医療忍術に秀でた者が常備待機されていて、手術を行える設備も用意されている。その設備なら、まだシスイは助かると私は一心不乱に考えていた。

 

 そう。

 

 私はまだ、現実を受け入れられなかったのだ。

 シスイが死んでしまったということを。

 永遠に、彼と会うことができないという事実を。

 二度と、彼と会話を交わすことができない未来を。

 

 暗部の本部に入る。副忍である自分だけが知らされている、裏口から。万が一にも、今の自分の姿をダンゾウさん直轄の【根】以外の者に見られるのは危険だったからだ。

 

 大樹の中のような、上に高く下に深い、薄暗い内部。上下に幾重にも直線の通路が張り巡らせていて、その一つを走っていると、ダンゾウさんが通路を歩いていた。彼の後姿に、私は涙声で呼びかけた。

 

「ダンゾウさんッ!」

 

 震える足から力が抜けて、膝をついてしまう。

 振り返ったダンゾウさんは、包帯が巻かれていない左目で私を見下ろすと、微かに眉を動かしたけど、この時の私は彼の表情の機微に気づくことはできなかった。

 

「お願いしますッ! シスイを………シスイを助け―――」

この者を捕えよ(、、、、、、)ッ!」

「え………?」

 

 ダンゾウさんの怒声が響き渡る。突然の彼の言動の意図を理解する前に、私は十数人もの【根】の者たちにうつ伏せに組み敷かれた。猛獣でも抑えつけるかのように乱暴で、それでいて迅速な対処に、成す術もなく顎を地面に打ち付けられ、背負っていたシスイから離された。首筋に暗部の刀を据え付けられるが、私は乱暴な感情のままに彼に尋ねた。

 

「これはどういうことですかッ! ダンゾウさんッ!」

「黙れ」

 

 残酷さと冷酷さを隠そうともしない声が耳に残響する。彼は私からはっきりと視線を逸らし、一人の【根】の者が抱えたシスイの姿を見た。シスイを抱えた者は迅速に脈拍を測っている。

 

「どうだ?」

 

 と、ダンゾウさんは彼に尋ねた。

 

「死んでいます」

「……そうか」

「違うッ! 死んでなんかいないッ!」

 

 何よりも客観的な判断しかできない【根】の触診を、私は大声を上げて否定した。

 

「ダンゾウさん、お願いしますッ! シスイを………シスイを助けてくださいッ! まだ彼は生きていますッ! ここの設備を使えば、きっと、シスイは………」

 

 そこで一度、私は言葉を切った。

 目を覆われたからだ。

 布か、紙か。とにかく、完全に視界を封じられた。その時になってようやく、事態を把握できた。

 

 疑われている、と。

 

「これから……貴様がどちらかなのかを判断する。―――お前は誰だ?」

「わ……私は…………うちは―――」

 

 首に据え付けられた刀に微かな力が加えられる。

 もしかしたら今の瞬間、私の首が刎ねられてもおかしくなかったのかもしれない。私は改めて、言葉を選んだ。

 

「……八雲…………フウコです………………」

「血継限界の能力は?」

「血を操る……能力です………。副作用として………………、同族の生命が危ぶまれた時………血が……………血脈を残そうと…………暴走します………。相手を滅ぼすまで……、身体を動かされます………」

「八雲一族を滅ぼした一族の名は?」

「……かぐや一族だと、扉間様から聞いています」

「母の名前は」

「………八雲……エン」

 

 沈黙。

 どのような判断がされたのか。

 いや、それはどうでもよかった。

 

「シスイ……。シスイを………助けてください………」

「シスイは死んでいる」

「死んでなんかいないッ! シスイ……起きて…………声を聞かせてッ!」

 

 だけど私の叫びに応えてくれる人はいなかった。

 目隠しが涙に濡れる。

 胸が苦しい。

 後悔が、舌を痺れさせる。

 本当にもう二度と、彼と話すことができないのか。

 生きている限り、彼と会うことができないのか。

 死んだとしても、 会うことができるのか?

 

 もし。

 もしも、

 永遠に彼に会うことが、出来ないのだとしたら。

 私は、彼と最後に交わした言葉が……嘘のまま。

 謝ることも出来ないままだった。

 その恐ろしさと、悲しさに、歯がカチカチとぶつかって鳴り、苦しくなった。

 

「シスイ……、お願い…………目を覚まして………。お願い………」

「お前が殺したんだ」

 

 断定的な宣告。

 その言葉だけで私は死んでしまうのではないかと思ってしまうほど、心臓が大きく動いた。

 

「違う………。わ……私じゃ……。フウコちゃんが……」

「お前があの時、滝隠れの里に行った。その選択が、この事態を招いたんだッ!」

「違うッ!」

 

 私じゃない。

 私じゃ、ない。

 何度も私はその言葉を口にした。自分に言い聞かせるように……ううん、事実、私は自分に言い聞かせていた。繰り返した言葉は、徐々に力を失い、最後には口の中にしか響かないほど小さくなっていた。

 

「すぐに部隊を編成しろ。シスイの遺体は誰にも目に付かぬよう隠せ。間違っても、うちはに情報を与えるな」

 

 了解しましたと、暗部の者たちが口を揃えて返事をした。空気のように軽い言葉は、私の背筋に氷柱よりも冷たい悪寒を突き刺すのには十分で。

 

「ダンゾウさん、お願いしますッ! まだ、うちは一族には手を出さないでくださいッ!」

 

 まだ救える。

 誰も傷つけないまま、無血解決ができる。

 きっと、救えるんだ。

 

 私の、何の根拠もない無責任な言葉たちにダンゾウさんは応えることなく、張り詰めた声で【根】の者たちに指示を出し続ける。

 

「ヒルゼンに伝えろ。もはや時間は無いとな。何か言いたいことがあるなら、俺のところまで来いとも伝えるんだ。後は俺が説き伏せる」

「…………やめてください、ダンゾウさん」

 

 だけど。

 弱々しい私の声がそもそも届いていなかったのか、敢えて無視をしたのか、ダンゾウさんは続けた。

 

「シスイの行方について、うちは側からアクションがあると思われますが」

「大蛇丸の捜索ということにしろ。滝隠れの里の情報を小出しにし、うちは側の動きを抑えることにする。即時、必要書類の作成、及び承認偽装をしろ。既に手回しはしている。その間、感知・幻術部隊の半分はうちはの監視だ。残りはすぐにフウコが辿ってきた道と現場を抑え、不用意な証拠は始末しろ」

「やめて……。まだ……うちは一族は…………ッ!」

「情報を集めろ。滝隠れの里から帰還してから、今に至るまで、シスイの目撃情報をまとめ、辻褄を合わせろ」

 

 何もできないまま、

 うちは一族が包囲されていく。

 木ノ葉隠れの里に、血と、千切れた肉の空気が近づき始めている。

 それでも私は声を張り上げることはできなかった。

 ダンゾウさんの指示が理に叶っていると、思考の底で判断できていたからだ。

 シスイは死んでいないという幻想を抱いても、うちは一族を止めることはまだ不可能ではないと思っていても、 うちは一族の動きを止めることを目的とした場合……間違いはなかった。

 

 だけど、次の瞬間の【根】の一人の言葉とダンゾウさんの短い会話に、私の感情は爆発した。

 

 

 

「うちはイタチはどうしますか? シスイの件について、彼はこちらに疑念を抱くと思われますが」

「捕えろ。どのような手段を使っても構わない」

「その後は」

「俺が奴を諭す。だが―――上手くいかなかった状況に備え、いつでも始末できるようにしておけ」

 

 

 真っ白になった意識。

 すぐに、イタチの姿が、顔が、彼と一緒に過ごしていた日々が連続して流れ出る。

 さらには、サスケくんやミコトさん、フガクさんの顔も、日常も、ぶり返してしまって。

 それらが血みどろの池の中に溶けて、バラバラになって、ぐちゃぐちゃになってしまう未来が、一瞬で予測されてしまった。

 

「…………ッ! やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおッ!」

 

 意識した訳でじゃなかったけど。

 目元を覆う目隠しの奥で、私は両眼を万華鏡写輪眼にしていたらしい。

 須佐能乎を発動させていた。

 

 膨大なチャクラの奔流によって、私を抑え込んでいた者たちは弾き飛ばされる。

 目隠しが吹き飛び、視界が開けると同時に身体が軽くなる。

 そこからは、私は自分の身体をどんな風に動かしたのか覚えていない。気が付けば私は須佐能乎を停止させて、黒羽々斬ノ剣の刃を、ダンゾウさんの首に当てていた。

 あと少しでも腕に力を入れれば、頸動脈をあっさりと傷つける事が出来るほどに。

 

 眼前には、ダンゾウさんの顔が。

 彼のチャクラには、感情の揺れによる乱れは見て取れない。どうやら私は、写輪眼は維持したままのようだった。

 

「ダンゾウさん……今すぐッ! 先ほどの指示を取り消してくださいッ! ―――ッ!? お前ら……動くなぁッ!」

 

 産毛がヒリヒリと逆立ってしまうほどの冷酷な殺気は、全方位から私に向けて放たれていた。視線を一瞬だけ動かすと、円形の壁を覆う、チャクラの粒たちが。全て、【根】の者たちだった。

 

 おそらく、予め配置させられていたのだろう。

 多分、今朝、シスイが滝隠れの里の件についてダンゾウさんに報告に行った時から、この場面を想定していたんだ。私が報告を怠るという事態に違和感を覚えて。

 

【根】の者たちは、私の声に完全に動きを停止させ、だけど殺気は一切収めはしなかった。

 

「……どうやら、俺の知るフウコのようだな」

 

 ダンゾウさんは淡々と呟いた。

 

「うちはフウコなら、今ので俺は殺されていただろうな」

「ええ………………、ええ、そうですッ! これで分かっていただきましたか?! なら、うちは一族には手を出さないでくださいッ!」

「それは出来ん。言ったはずだ。俺は、お前たち三人だからこそ信頼していると。シスイを失った今、考慮する余地はない」

「シスイは―――ッ!」

「死んでいる」

「違うッ! 死んでなんかいないッ!」

「お前が殺したんだ」

「私じゃ……ないッ! フウコちゃんが、」

「お前の選択が招いたことだ。俺は言ったはずだ。冷静になれと。その結果がどうだ? 身体を奪われ、シスイを失った。うちは一族は必ず、この事態を黙ってはいない。万が一にも、シスイが死んだ事実を知られた場合、うちは一族は我々を疑う。その疑心が、全ての引き金に成りかねないのだぞ。……お前は…………、自分がしでかした、事の重大さを理解していないのかッ!」

 

 突き付けられる現実に、腕に不必要な力が籠ってしまって刀がカタカタと震え始める。

 

「選べ、フウコ。これが最後だ。貴様はどちら側だ? 木ノ葉か? それとも、うちは側か?」

「……わ…………私は……………………」

「もし貴様がまだ、扉間様の意志を受け継ぐというのなら、ある程度は要求を呑もう。その代わり、貴様には全ての責を負ってもらう。俺の言葉が、分かるな?」

 

 思考が進まなかった。

 木の葉隠れの里の平和を選択しても、うちは一族のクーデターを選択しても。

 私の未来には……途方もない孤独しか待っていないのだと、考えなくても分かってしまったからだ。

 

「時間は十分に与えたはずだぞ、フウコ」

「…………ぇ?」

「お前がまだ、アカデミー生の頃に、うちはへの潜入任務を与えてから今に至るまで……お前には十分に考える時間があったはずだ。決意を固める時間は、あったはずだ」

「……そんな…………だって……私は………………こんなことに……なるなんて……………」

「なぜ、すぐに答えを出すことができないのだ」

 

 喉が震え、吐く息が湿っていく。

 答えなんて……、決まってる。

 うちは一族のクーデターを無血解決させて、

 木ノ葉隠れの里の平和を守って、

 楽しい時間を―――、

 

 だけど、その答えは、ダンゾウさんが求めている選択肢の中には含まれていない。

 

 呼吸が速く、浅くなっていく。

 額、頬、首筋、背中から、汗が噴き出て、顔を覆うシスイの血が汗と一緒に口端に入った。

 シスイの血の味に触発されて、私はゆっくりと後ろを振り返る。須佐能乎を展開した時の衝撃で転がったのかもしれない。彼の身体は、通路を縁取る鉄柵に背中を預けて横に倒れていた。

 

「もう一度言うぞ、フウコ。シスイは死んでいる。頼るなッ! お前が決めるんだ」

 

 シスイ。

 その時、私は小さく呟いたかもしれない。分からない。私がどうすればいいのか、彼なら答えを導き出してくれるのではないかという期待があったのは確かだった。今すぐに彼は目を覚まして、私の手を引いてくれるんじゃないかと。

 

 だけどシスイは目を覚まさないまま、沈黙な時間だけが数秒、過ぎ去り。

 ダンゾウさんは、刀を持つ私の手を掴んだ。

 

「さあ、決めろ。このまま俺を殺し、うちは一族のクーデターの引き金となるか……。刀を収め、俺の指示の元、木ノ葉隠れの里の平和を守るか……。他に手は無いぞ………八雲フウコッ!」

 

 八雲フウコ。

 それは、私の名前。

 本当の、私の名前。

 うちはフウコではなく、

 イタチの妹として家族に加わった名ではなく、

 シスイの恋人として手を繋いでくれた名ではなく、

 イロリちゃんが友達として笑顔を向けてくれた名ではなく、

 サスケくんやナルトくんが可愛らしく声をかけてくれる名ではなく、

 かつて私を示した名を、

 扉間様に一方的に平和を誓った過去の名を、

 私の……本当の名を、

 ダンゾウさんは示した。

 

 過去になれと、言われているような気がした。

 未来を捨てろと、言われているような気がした。

 

 混乱した。

 だって―――だって………、ずっと、思っていたから……。

 楽しい日々が。

 贅沢な日々が。

 彼方まで、遥か彼方まで、続くと思っていたんだ。

 なのに、未来を捨てろと……そして、イタチやイロリちゃんやサスケくん達の過去に成れと、言われた。

 

『平和な世を、必ず、ワシと、そして木の葉の子らが実現してみせる。だから、フウコよ……お前はその世で生きろ』

 

 扉間様の声が、頭に響いて消えた。

 それを皮切りに。

 また多くの記憶が溢れ出てきた。

 イタチと初めて会った日。

 フガクさんとミコトさんに家族として迎え入れてもらった日。

 ミナト様とクシナ様にナルトくんを任された日。

 シスイと話した日。

 イロリちゃんと友達になった日。

 サスケくんに起こされた日。

 ナルトくんと手を繋いだ日。

 ブンシ先生に怒られた日。

 それらの記憶は、私の記憶だ。

 私だけの、たった一人の私だけの、記憶なんだ。

 捨ててはいけない記憶。だけど、不思議なことに、流れていった記憶は瞬く間に鮮明さを失い、思い出せなくなっていく。

 混乱しているからなのか、心の奥底でそれらの記憶がこれからの自分に不必要だとストッパーをかけているのか、分からない。

 助けて、と私は思った。

 誰に向けた想いだったのか。

 それほど、私の心は絶望的に衰弱していた。

 もう一度だけ、思った。

 助けて、と。

 イタチ―――兄さん―――助けて、と。

 

「……もしお前が、里を守りたいと思うのならば…………イタチとサスケの命は保証してやってもいい」

「―――ッ!」

 

 心が傾く。

 決定的に。

 イタチの命と、サスケくんの命は救うことができる。

 悪魔の囁きだったのか、正しい導きだったのか。

 里を……守る。

 誰の為に?

 

 それは……、

 

『……頑張れ……フウコ』

 

 それは、

 それは―――。

 

『愛してるぞ…………』

 

 それは……もう二度と、会えなくなってしまった、シスイの為なんだと、私は思った。

 扉間様でもなく、イタチやサスケくんの為でもなく―――勿論、彼らのことを全く失念していたわけじゃないけど―――シスイだった。

 最後に彼に付いてしまった、嘘の言葉。

 多分私は、子供のように、誤魔化そうとしていたんだと思う。

 嘘を、嘘じゃなくするために。

 里を愛していた彼の想いを、無駄にしたくないと。

 なら、里の平和を守れば、

 彼に呟いた言葉を本当に出来るんじゃないかって。

 本気で、思ったんだと……思う。

 

 

 

 そして、私は―――。

 

 

 

 ダンゾウさんの首を刎ねることが……出来なかった。

 刀を持つ指から力が抜ける。刀が床を叩いた金属音が鼓膜を揺さぶった。その音はまるで、お前は里を守ることを選択したのだと、未来を捨てることを選択したのだと、訴えかけてきて、

 

「……ぅぁ…………」

 

 身体中から力が抜けた。

 頭を支えてくれる首から力が抜けて、ゆるゆると顔を振ってしまう。

 指の関節から力が抜けて、指が震えてしまう。

 

「……あぁぁ……………っ! ……ッ!」

 

 膝の力が抜けて、床に膝をついてしまう。

 

「……やだ…………。いや……だ…………ッ! やだ……ッ」

 

 心の形を保っていた全ての力が抜けていく。

 どれほどの言い訳をしても、自分の選択を口では拒絶しても。

 選んでしまったんだ。

 

 未来が、繋がりが、無くなることを。

 

 私に残ったのは、

 扉間様に一方的に捧げた誓いと、

 シスイへの愛を本当にするということ、

 それらだけで、

 つまりは自己満足の事柄でしかなくて、

 だから、

 えっと……、

 そう、

 私は完全な孤独を、

 

 

 

 選んでしまった。

 過去になることを、選んだんだ。

 

 

 

 目の奥の力が抜けて……涙が…………止まらなかった。

 

 

 

「うっ……うぅ………ぁ、あああああああああああああああああああああああああああッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 そこから先のことは―――つまり、翌日の朝までのこと―――あまり覚えていない。断片的な記憶だけ。

 

 

 

 

 

 

 

 

【明日、お前を俺の部下が迎えに行く】【血を洗い流してから戻れ。湯浴みの準備をさせよう】【よいな、フウコ。今宵のことは禁とする。呪印術を使用しないことが、お前への最後の信頼だと思え】【お前の役割は……分かっているな?】

 

 

 

【大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ】【フウコ! 今までどこにいたッ!】【フウコ、何があった】『何も―――何も、なかった』

 

 

 

【すまなかった、フウコ。大声をあげてしまって。安心しろ、俺は最後までお前の味方だ】【私もよ、フウコ。だから、正直に話して。何があったの? 今まで、何をしてたの?】『何も……ありませんでした。遅くなって、すみません』【………………】『話しは……終わりですか?』【………ゆっくり休みなさい】【お腹、空いてない? 今、すぐに貴方の好きなものを作るわ。ね? フウコ、少し落ち着きましょ?】『おやすみなさい。フガクさん、ミコトさん』

 

 

 

 部屋に戻った私は、写真立てを見た。

 私、イタチ、シスイ、イロリちゃん。

 四人が映った写真は、けれど、イロリちゃん以外の顔が潰されていた。

 フウコちゃんがしたんだろう。

 私は、残ったイロリちゃんの顔を潰すことにした。

 皆との繋がりを、否定するように。

 

 

 

 その夜、私は夢を見なかった。

 楽しい夢も、辛い夢も。

 真っ暗闇。

 孤独だった。

 そして私は目を覚ました。

 ここからの記憶は、鮮明になっている。

 眠ったおかげで、心が微かに元気を取り戻したのかもしれない。

 

 

 

 瞼を開けると、世界は血みどろだった。

 天井からは粘っこい血が垂れている。私の眼球に入り込んだ。視線を一度、部屋の中に這わせる。鉄分をたっぷりと含んだ血がザラザラと眼球を痛めつけるが、生理的反応な涙を浮かべるだけで、私は特に何かを感じることはなかった。

 

 心と身体が、大きく乖離している。あるいは、心が壊れているのかもしれない。私が眠っていた布団の周りには、多くの人たちが佇んでいた。

 ミナト様、クシナ様。

 カガミさん。

 私がこれまでの任務で殺してきた人たち。

 シスイ。

 誰もが身体中に穴を開け、溢れ出る内臓や血を治そうとしないまま、私をじっと睨んでいる。

 

 ああ、と私は息を吐いた。

 幻術か。

 そう思った途端、彼らは私の首に手を伸ばした。

 締め付けられる。

 抵抗はしなかった。このまま殺してほしいとさえ、思った。

 でも、幻術が私を殺してくれるわけもなく。ただ目の奥の血管が破裂したような偽の感覚が生まれただけで、私は身体を起こした。心はまだ、彼らに締め付けられる感覚を引き摺るけど、私の身体はやはり心と乖離してしまったようで、身体は淡々と部屋を出た。

 

 幻術は止まらないままだった。

 死んでいった人たちは私の周りに纏わりつき、何かを囁いている。廊下には剥がれた頭皮から生える髪の毛や、歯茎に刺さったままの歯が落ちている。

 

【おはよ、フウコ】

 

 居間に行くと、ミコトさんが料理を作っていた。

 血と肉片が散らばる居間では、元々無かった食欲も膨れることはなく。

 天井から大量に零れる血に身を汚しながら、ぎこちない、だけどとても優しい笑顔を私に向けてくれる。

 声は水中にいるみたいに濁っていた。

 

『………おはようございます』

【すぐにお昼ご飯を作るわね。今日はいっぱい材料を買ってきたから、安心して―――】

『ご飯は……いいです』

【え?】

『……縁側で、ゆっくりしてます』

 

 縁側に座る。いい加減、幻術に疲れてきた。

 私を殺してくれないのに、煩くて、邪魔だった。

 周りにいる人たちは、本当の人たちじゃない。姿形は似ていても、私の記憶の中にいる人たちではないんだ。

 

 横から足音が聞こえた。

 視線を向けると、サスケくんが立っていた。

 

『……おはよう、サスケくん。今、起きたの?』

 

 何も考えないまま呟く。考えるほど心に元気はなかった。

 

【姉さん、大丈夫?】

『え?』

【疲れてるみたいだから……。風邪でも、引いたのかなって】

『ごめんね、気にしないで。修行、付けてほしい?』

 

 きっと目の前のサスケくんは本物なんだと思った。まだ血と肉片が降って溢れる幻術の中で、サスケくんだけは何も変わらず、私に話しかけてくれるから。

 でも、心と身体は、乖離したまま。

 身体は反射的に、サスケくんと会話を続けた。

 

『サスケくん、今日、アカデミーは?』

【日曜日だから、休みだよ】

『そう』

【……いい天気だね】

『そう?』

【だって、晴れてるじゃん】

 

 私が見上げている空は、血のように真っ赤で、血の雨を降らせている。

 

『そうだね。でも、晴れてるからって、いい天気っていう訳じゃ、ないと思う』

【じゃあ姉さんは、どうして空を見上げてるんだよ】

 

 ああ、昔、イタチも似たようなことを訊いてきたっけ、と私は思い出す。

 やっぱり二人は兄弟なんだ。

 私と違って、本当の、家族なんだ。

 

『昔、イタチも訊いてきた。空に何があるのかって。空には、空しかないのに』

【……そういえばさ、姉さん】

『なに?』

【いつになったら、父さんと母さんに、シスイさんと付き合ってるって言うんだ?】

 

 一瞬だけ……心が揺らいだ。

 

 淡い期待。

 

 もしかしたら、昨日の夜のことは夢だったんじゃないかという馬鹿みたいな考えが過った。でも、幻術の中には、死人のシスイが立って私の首を絞めていて、一瞬で願望は打ち破られる。

 

 残念だ、と思った。とても軽い感じに思ったのは、きっと、昨日の夜が現実だったということを意識が処理してしまったからなんだと思う。

 あるいは心が乾き切っているのかもしれない。

 

【早く言わないとさ、ほら、隠し事してた訳だし。あんまり長く隠してると、母さん、すごく怒ると思うし】

 

 だけど、乾き切った私の心にも、サスケくんの言葉は苦しかった。

 

 わざとらしくトーンを上げたサスケくんの声は、言葉の端々からシスイのことを思い出されてしまう。思い出される度に、罪悪感が意識を刺し、泣きそうになる。

 心が蘇ろうとする。

 未来を求めようとしてしまう。

 求めようと私が動けば、破滅しか待っていないのに、感情が動き出そうとしてしまう。

 それだけは、防がなくてはいけない。

 

『―――サスケくん』

【それに父さんも母さんも、多分、気付いてると思うんだ。だからさ、もう―――】

『サスケくん……お願い』

 

 サスケくんの頬を撫でる。

 冷たい幻術の中で感じ取れる、唯一の温もり。

 きっともう、二度と、サスケくんに触れることはないと、私は予感した。

 泣きそうになる心を冷却して、思う。

 

 怖がって、サスケくん。

 私を疑って。

 私を憎んで。

 もう私を、姉さんと呼ばないで。

 私は貴方の過去だから。

 振り返らないで、手を伸ばさないで。

 未来だけを見据えて。

 

『もう、シスイのことは、言わないで』

【―――え?】

【フウコはいるか! 出て来いッ! 話しがあるッ!】

 

 ちょうど良く玄関から、男の怒声が聞こえてきた。ちょうど良い、というのは、これ以上サスケくんと会話をしていたら涙を溢れ出てしまうのではないかと、思っていたから。

 

 玄関に向かう。

 

 嗤い声。

 フウコちゃんの嗤い声だった。

 

 ―――ねえねえ、フウコさん。どう? 私に代わってくれたら、辛いことも、苦しいことも感じないよ? ふふふ。ダンゾウの望む通り、うちは一族を皆殺しにしてあげるよ?

 

 特に反応はしなかった。彼女と会話をしても得は無い上に、会話をするほどの元気もなかった。

 玄関に着くと、三人の男が立っていた。三人ともうちはの家紋が記された服を着ている。

 

『……何か、ご用でしょうか?』

【昨日、なぜ会合に参加しなかった?】

『すみません。詳しい事情をお話しすることは出来ませんが、突然の用事があったので、参加することが出来ませんでした。以後、気を付けたいと思います』

【……何故、事情を話せない?】

 

 ここに彼らが来た時点で、ある程度の予想は付いていた。

 鼻に付く、彼らの猜疑心と微かな優越感。

 どうして彼らはそんな感情を作り出すことが出来るのだろうと、この時私は、苛立ったと思う。

 私の選択によってシスイは死んでしまった。

 だけどそもそも、お前らが原因なんだと。

 ナルトくんのように頑張って笑顔を浮かべて、正しい努力をしなかったお前らが、原因なんだと。

 そして、

 だから私は未来を捨てることになってしまったんだと。

 私にだって幸せになる権利があったはずなのだと。

 思った。

 それらの感情を押し殺して、私は続けた。

 

『ご理解いただけませんか?』

【……暗部の副忍として、多くの制約があるのは分かる。だが、今、お前は多くの者から疑われている】

『何を疑われるというのですか? 会合一つ出なかったところで、意味があるのですか? それとも、何かあったのですか?』

【……昨日の会合に参加しなかった者が、お前の他にもう一人いる。シスイだ。彼は昨日の晩から今まで、家に戻っていないそうだ。行方を捜しているが、まだ分かっていない】

『シスイが、行方不明……ですか…………。私は、何も知りません』

【もう一度訊く、昨日、お前は何をしていた?】

『………………』

 

 男たちの視線が隠す気のない怒りを露わにした。

 

 逆に訊きたかった。

 

 お前たちは今まで、何をしていた? と。

 だけど、ここで怒ってしまっても意味がないと思って、私は淡々とした表情を浮かべた。それでも、私の心の中は、無能な男たちへの怒りを抑えるのに手いっぱいで、そして彼らの内の一人が、痺れを切らしたかのように言った。

 

【今、うちはが大事な時期なのは知っているだろう。もしお前が何かしようとしているなら……分かっているだろうな】

 

 男の言葉には一切、配慮がなく、他二人の表情を見ても同じだった。

 男たちには、シスイの安否を気にしている様子はなかった。おそらく、昨日の会合に参加した者たちも同じなのだろう。

 怒りが抑えきれなくなりつつあった。

 

『……ああ、そういうことですか。遠回しに言うので、分かりづらかったですけど……私がシスイに、何かをしたって……言いたいんですね?』

【お前の実力は誰もが認めているが……、力が信頼を引き寄せるとは思うなよ】

 

 笑ってしまいそうになった。

 お前たち程度の信頼なんて、たとえ頭を下げられてもいらなかった。

 

 どうしてこんな程度の人たちが平然と生きていて、シスイは死んでしまったのか。

 あまりの馬鹿馬鹿しい現実に、笑ってしまいそうになり、同時に、怒りは最高潮に達した。

 人生で初めて経験だった。

 ここまではっきりと、人を殺したいと思ったのは。

 平和の為とか、忍の任務としてとか、そんなものは関係のない、純粋な殺意。

 

 気が付けば私は男たち三人を吹き飛ばし、玄関の外にいた。真っ先に思ったことは、よく男たちを殺さなかった自分に対しての驚きだった。無意識に、里の平和を思ったのかもしれない。

 そう、私は守らないといけないんだ。

 シスイが愛した里を。

 

 どれほど馬鹿馬鹿しくても、彼らはまだ、木の葉隠れの里の忍なんだ。

 

 切り捨てられるまでは、まだ。

 

『私は、シスイを愛してる。嘘じゃない。決して、嘘じゃない。私は、シスイを愛してた。お前たちのくだらない考えを、私に、わざわざ言わないで。才能だけあって、本当の努力もしないのに、口先だけ。いつもお前たちは、くだらないことばかり言う。あまり、私を怒らせないで』

【なら……、昨日一日、何をしていたのか、言えるはずだッ!】

『昨日、私が何をしていたのか、お前らには関係ない』

【なんだとッ! 貴様、それでも、うちはの人間か!】

『黙れ』

 

 うちはの人間?

 そのうちはの人間であるシスイの行方が分かっていないのに、どうして彼の心配をしない? 

 それが、うちはの誇りなの?

 言ってて、自分たちがどれほど馬鹿みたいな人間なんだと、思わないの?

 

 男たちを吹き飛ばしても、怒りは少しも減少はしなかった。

 益々、大きくなるばかり。

 このままいっそ、今からでも、イタチとサスケくんだけを残して皆殺しにしてやろうかとさえ思ってしまう。

 

 だけど、その時、視界の端に……彼女が立っていた。

 

 イロリちゃん。

 

 どうして彼女がここにいるんだろう。

 でも、そのおかげで私は冷静さを取り戻した。

 ここでうちは一族を皆殺しにしてしまっては、彼女が巻き込まれてしまう可能性が大きい。イロリちゃんの為だと考えれば、コントロールが出来なかった怒りの感情も簡単に収めることができた。

 

 同時に……私は、考えた。

 うちはフウコとしてではなく、八雲フウコとして、ある一つの考え。

 

『私は、夢の世界に行くの』

 

 ―――え?

 

 フウコちゃんが驚いた声が聞こえた。

 

 ―――夢の、世界? それは……私が、マダラ様と約束したことだよッ!? 急に、どうして……。

 

『お前たちみたいに、たった一つしか違わないのに、全部を否定する、そんなくだらないことを言わない、綺麗で、楽しい世界に、私は行くの』

【何を、言って―――】

『分からない? 私の言ってることが。どうして? 同じ言葉を使ってるのに。いい加減にしてよ。言葉が通じないなら、どうすればいいの? 分からない? 分からないなら、邪魔だから……殺すぞ』

 

 そして私は、自分の役割を演じた。

 うちは一族に【うちはフウコへの疑心】を植え付け、暗部に回収されるために。自分の部屋に戻ると、イロリちゃんが付いてきた。好都合だ。何かを私に訴えかけてきているけど、ほとんどはやはり、反射的に言葉を返してるだけだった。

 

【私の目を見てよッ! フウコちゃんッ!】

 

 ―――イロミちゃん、すぐにこいつから離れてッ! 何かおかしいのッ! 早くッ!

 

 フウコちゃんの叫び声は勿論、イロリちゃんに届くことはない。

 まだ、私の考えに至らないなんて、フウコちゃんは、頭が悪いなぁ。

 

イロミちゃん(、、、、、)

 

 ―――……ッ! フウコさん、まさか…………ッ!

 

 そうだよ、フウコちゃん。

 私は、貴方の言った通り、偽物。

 イロリちゃんの本当の友達じゃない。

 

 だから、貴方に代わって、私が、

 

 貴方の気持ちを伝えてあげる。

 

 イロリちゃんが、私を、貴方だと思えるように。

 

 貴方が、シスイにやろうとしていたように。

 

 貴方もやったんだから(、、、、、、、、、、)私もやっていいよね(、、、、、、、、、)

 

 イロリちゃんが、貴方を恨むように。

 シスイを殺した私を、うちは一族を滅茶苦茶にした、私と貴方を。

 軽蔑するように。

 

 ―――いや……いやぁあッ! 気付いて、イロミちゃんッ! こいつは……私じゃないのッ! だから…………ッ!

 

 ふふふ。

 あはははは。

 あははははははははははははははッ!

 

【……フウコ、ちゃん?】

『またね。また、遊ぼうね』

 

 私は、笑うことができた。

 精一杯の……笑顔を。

 うちはフウコとして。

 そう、私はこれから、うちはフウコを演じる。八雲フウコとして、うちはフウコを演じるんだ。

 名案だった。

 だって私が全てを捨てなければいけなくなったのは、彼女のせいなんだから。

 だったら、貴方も、付き合ってくれるよね?

 私と一緒に、過去になろう。

 私には何も残らない。だから、貴方にも、何も残さない。

 貴方がこの里で手に入れた、唯一のものを。

 友達を。

 絶対に、残してやるもんか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 牢獄に入れられてから、私はずっと軽くすることにした。

 体重ではなく、心の比重を。

 私が手に入れてきた色んな、記憶と感情を処理していった。

 これから、うちはフウコを演じる私には、八雲フウコとしての記憶も感情も不必要だったから。

 

 牢獄に入れられた時に、ダンゾウさんが、

 

【うちはイタチをどうするつもりだ?】

 

 と尋ねてきた。

 私は迷わず応えた。

 

『シスイの眼を使ってください。彼の別天神で、イタチから、クーデターの記憶を封じてください』

【いいのか?】

『そうしなければ、イタチがうちはの味方をするかもしれません。里の平和を守るには、最も越えなければならない障壁です。お願いします。……きっとシスイも、それを願っています』

【分かった。他に、俺に要求はあるか?】

『イタチとサスケくん、そして里の平和を保障するだけで構いません。あ、あと……』

【なんだ?】

『イロリちゃんの育ての親……あの男を、殺してください』

【……いいだろう】

『他には、もうありません。……うちは一族は、私が滅ぼします。根の人たちは、バックアップだけにしてください』

 

 また、ダンゾウさんは【今後、表面上としてお前には拘束衣を施す。暗部からの尋問もあるだろう】とも伝えてきた。別に、それは構わなかった。牢獄の中でたった一人になれるのは、私を捨てるのに必要な環境だった。

 

 目元を覆うマスクは完全な暗闇を作ってくれる。

 身体を縛る拘束衣は私を孤独なのだと思い知らせてくれる。

 心を無くしていく作業は難しくなかった。

 フウコちゃんを地獄に連れていくという憎しみをそのままに、フウコちゃんになりきろうと思えば、自分を捨てることに何も抵抗を感じない。

 

 フウコちゃんと一緒に過去になって、うちは一族を皆殺しにすれば、必然と里の平和は守られる。

 扉間様への誓いも、

 シスイへの愛も、

 本物にすることができるんだ。

 そう思うと、嬉々として自分を捨てていった。

 

 なのに―――。

 

【……分かった、信じてやる】

『…………え?』

【安心しろ。てめえのことは、てめえの親の次に分かってんだ。お前がんな頭の悪いことするはずねえもんな。大丈夫だ、あたしがぜってーお前の無実を証明してやっから。それまで、まあ、なんだ、我慢してくれ】

『……信じて、くれるんですか?』

【あたりめえだろうが。あたしは、お前の先生だぞ?】

 

 現実は私の邪魔をする。

 

 ブンシ先生の言葉と心を触れさせて、私の決心を鈍らせようとする。

 先生に何度、助けを求めようかと、葛藤させられた。私の敵を、困難を、叱ってほしいと、拳骨で倒してほしいと、舌の上までに昇ってきたんだ。

 

 だけど私は堪えて、そして、先生との感情を切り落とした。

 

【フウコ】

『なに?』

【大丈夫だ、怖いことなんて、何もない。安心しろ】

 

 イタチの声に、涙を零してしまった。マダラがシスイを殺したという嘘をついてしまったことへの罪悪感もあったかもしれない。彼が届けてくれたお弁当は、美味しくて、苦しかった。

 

『イタチは、優しいから。だから、巻き込みたくない。私の方が冷たくて、優しくないから。今まで、家族でいてくれて、ありがとう。愛してくれて、ありがとう。兄さん』

 

 そして私は、最後に、兄さんに……兄さんが愛してくれた私に、別れを告げた。

 

『さようなら。―――天岩戸』

 

 この時、兄さんに打ち込んだ私の魂の一部はきっと、家族としての【うちはフウコ】だったんだと思う。ダンゾウさんに移植されたシスイの万華鏡写輪眼による別天神から逃れられないように、瞼を開かせて、視線を固定させる。

 別天神が発動され、途端に周りの【根】の者たちが無防備なイタチを幻術で眠りにつかせる。

 

【これで、もはや引き返すことは出来んぞ】

 

 ダンゾウさんが呟く。傍らでは【根】の者たちがイタチを牢獄の外へと運んでいく。

 

【覚悟は……問題ないな?】

『大分前に、処理しています。引き返せる点も既に過ぎているのではないですか?』

【……そうだな。では明日、任せる】

『任せてください。油断したうちは一族を皆殺しにするのに、不手際なんてありえません。暗殺は……扉間様から一番最初に教えられた技術ですので』

 

 無音殺人術に始まる、私に蓄えられている暗殺術は全て、扉間様から教えてもらったもの。

 安全に、確実に、相手を殺すために。

 黒羽々斬ノ剣を作ったのも、扉間様からの教えに従った結果だった。

 いくら相手に気付かれずに近づけても、得物は必要で。時を越える前の私も刀を使っていた。その技術を使えば、うちは一族を殺し切ることなんて、わけない。

 

『私は、八雲フウコです』

【ああ。そうだ】

『ですが、八雲フウコとして、お願いさせていただきます。イタチの、サスケくんの、ナルトくんの、そして……多くの人たちと、木の葉の里の平和を…………守ってください』

【任せよ。さらばだ、フウコ。息災でな】

『ダンゾウさんも……、御元気で』

 

 

 

 記憶の旅は終わって。

 私は、歩き出す。

 夕焼け空は、跡形もなく。

 夜が進む。

 シスイを連れて行ったあの夜と、似たような夜空で、だけど満月が浮かんでいる。

 

 

 

「……シスイ。私ね……貴方のこと、愛してるよ」

 

 懐から、彼の額当てを取り出す。

 牢獄に入れられる前にたった一度だけ会った彼の遺体から、私が抜き取ったもの。木の葉隠れの里を愛した彼の意志を受け継げるような気がするからだ。

 

「愛してる。嘘じゃ、ないよ。見てて」

 

 これから、貴方が愛した里を壊そうとする、うちは一族を皆殺しにするから。

 私も、里は大好きだから。

 大好きになってしまったから。

 里を愛しているから。

 貴方が愛して、私も愛した里の平和を、守るから。

 

 だから、シスイ。

 

「……愛してる」

 

 

 

 マスクを着けられ、拘束衣で縛られた私は、椅子ごと台車で運ばれている。

 

「ここからは、警務部隊の施設だ。暗部の者は下がってもらおう」

 

 微弱なチャクラの気配は四つ。その内、二つはうちはの人だということは、私が運ばれている道中の二人の会話から判断できた。残る二つは、暗部の人。

 

 そう……【根】だ。

 

 二人は「うちはフウコを無事に警務部隊に引き渡されるのか」という名目の元、監視役として随伴してきていた。

 

「すまないが、俺たちの任務は、うちはフウコが警務部隊に無事に拘束することを確認することだ。中に入らせてもらう」

 

 うちはの人と【根】の些細な口論は続いたけど、最終的にはうちはの人が折れる形で暗部の随伴は続いた。

 台車の車輪がガタガタと不規則に振動する。唇に触れる空気が冷たくなった。辺りは静まり返り、後ろを歩く四人の足音が、微量に残響している。

 

「……ここは、牢獄ですか?」

 

 と、尋ねてみる。すると、私のすぐ真後ろから返答が来た。

 

「お前に教えることは何もない」

 

 苛立ちを隠そうともしない声には、私への疑念と、私よりも優位だという優越感が混ざっているようだった。

十分。

 足音よりもはっきりとした声は辺りを反響し、鼓膜から伝わってくる高低様々な音の波は、脳裏に辺りの状況をイメージさせるのに余りあるほどの情報量だった。

 

 辺りには、私と、うちはの人と【根】の者しかいない。場所は通路で、両脇には檻が連なっている。天井は低かった。警務部隊の施設に入ったことはなかったけど、地下なのだろう。音がどこかへ逃げるような感じはしなかった。

 

 ―――ねえ、フウコさん? 私と代わらない?

 

 フウコちゃんの声が聞こえてきた。うちはの人の声とは違って残響しないせいかクリアに頭の中に入り込んでくる。

 

 ―――辛いでしょ? うちはの人たちを殺すのは。ね? すぐにフウコさんに身体を戻すから。

 

 返答を私はしなかった。フウコちゃんの微かに怯えた声が心地良かったから。

 きっと、イロリちゃんと会う時間はない。もし会ったなら、彼女が忍として行動できないよう、そして、フウコちゃんを恨むように仕向けるつもりだけど。でも、うちは一族を皆殺しにした後にゆっくりしていたら面倒なことになる。

 

 まあ、イロリちゃんに、うちは一族を皆殺しにしたことが耳に入れば軽蔑してくれると思う。

 

 とにも、

 かくにも。

 

 さあ、終わりにしよう。

 

「……今日は、夜が静かですね」

 

 その言葉は、コードだった。

 私がこれから、うちは一族を皆殺しにするという合図。

 二人の【根】の者は静かに、結界術を発動させた。

 私が何をしても、チャクラの波が伝わらないようにするための、結界術だ。

 

「お前ら何を―――ッ!」

 

 台車を押していない方の人が大声を出そうとしたのを、私は防いだ。

 マスクで視界を覆われていても、拘束衣で身体の自由を奪われていても。

 須佐能乎を発現させるのには、何の障害でもなかった。須佐能乎の左腕を一本だけ発現させて、巨大な指で大声を出そうとした人の頭を潰した……音が聞こえた。

 

「貴様―――」

 

 台車を押していた人の頭も潰す。

 

 静かになった牢獄からの空気には、鉄臭さと生臭さが漂い始め、私の唇を湿らせる。舌で拭うと、口の中がザラザラとした。

 

 須佐能乎を収める。身体中の細胞が蠢き、それぞれが別の方向に離散し始めているかのような痺れる痛みに耐えながら【根】の人に尋ねる。

 

「辺りはどうだ?」

「状況に変化は無いようです」

「そう。すぐに拘束衣を外してくれ」

 

【根】の二人は手際よくマスクと拘束衣を外した。自由になった身体を立ち上がらせて、肩や腕の関節を動かすと音が鳴る。足元には、うちはの人の頭のない遺体が。千切れたような首の傷跡からは勢いよく血が噴き出ていた。

 

「副忍様、こちらを」

 

 一人が口寄せの術を発動させ、黒羽々斬ノ剣を出現させて私に渡してきた。

 黒い鞘から刀を抜き、漆黒の刀身を見る。刃こぼれはない。

 

「では、副忍様。我々は、配置に着きます。後は、お願いします」

 

 私は視線を彼らに向け、

 

「ええ。任せて」

 

 二人を殺した。

 

 刀を横に一閃させるだけで、二人の首を切断することができた。身体の調子は良く、二人は一縷の行動が許されないまま、血と一緒に命を身体から手放した。

 

 暗部の遺体も作っておけば、より、私が単独犯だという印象を与えることが出来ると思った。

 

「………………」

 

 足元に転がる、四つの遺体。

 彼らには、大切な人がいたのかと、ふと思う。

 でも、私にも大切な人はいたんだ。

 数は多くないけど、だけど世界の何よりも大切な人たちが。

 そう……いたんだ。

 

「おーい。終わったか?」

 

 暗闇が続く牢獄の向こうから、男の人の声が突き抜けてきた。

 

 印を結んで、遺体の中の人の声を模写する。

 

「ああ、悪い。うちはフウコが少し暴れてな」

「手を貸そうか?」

「そうだな……、手伝ってくれ」

 

 声の主がこちらに近づいてくる。

 私も、声の主に近づく。もちろん、音を立てないで。

 

 夜を……静かにしよう。

 

 灰色を、白くしよう。

 丁寧に丁寧に、シスイが大好きな白い時代を作ろう。

 イタチや、サスケくんや、イロリちゃんや、ナルトくんが、安心して、平和に暮らせる時代を。

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

 火影の執務室で、ヒルゼンは小さく肩を震わせた。寒気を感じたのだ。しかし、夜であっても身を震わせるくらいに空気が冷える時期ではない。椅子に座る彼は、両手を顔の前で組み両肘をデスクの上に置く姿勢を作るが、合わせた両手は小刻みに震えてしまう。大きく息を吐くとちょうど、灯りの点いていない薄暗い部屋の唯一のドアが静かに開いた。

 

 入ってきたのは、かつてからの友人関係であるダンゾウだった。

 

 いや、友人関係というのは正確ではないかもしれない。ヒルゼンはダンゾウのことを友人だと思ってはいるが、彼が今でも自分のことを友人だと思っているのかは分からない。ただ互いの思想や行動は尊重し、理解することは出来ている。

 

「……首尾は、どうじゃ?」

 

 ダンゾウがここに来ることは、予め承知していた。ヒルゼンは両手の震えを彼に見せないように落ち着いた風を装ったが、ダンゾウはそれを見下すように鼻を鳴らした。

 

「俺がここにいる時点で、首尾など有って無いようなものだ。現状、フウコに全てを委ねているのだからな。……今のところ、俺の部下からの報告がない以上、フウコは無事に任務を遂行しようとしている最中なのだろう」

 

 任務という言葉の無機質さに、寒気が余計に強くなった。

 

 遠くで声が聞こえたような気がした。

 泣き声のような、悲鳴のような、とかく、黒く暗い感情を起因としたものだ。

 勘違いか何かであってほしいと思っても、ダンゾウにはフウコが任務を放棄したという報告が無い事実が余計に、勘違いではないのだと無意識に自覚させられてしまう。

 

「言っておくが、ヒルゼン」

 

 ダンゾウは立ったまま、睨むように左目の瞼を細くする。

 

「フウコの邪魔をすることは、この俺が許さん。今……そして、これからもだ」

「……分かっておる」

「本当に、分かっているのか?」

 

 疑うようでも、あるいは、忠告するようでもあった。

 

 分かっておると、ヒルゼンは声をやや強くした。意図して強くしたわけではなく、口から発せられた声を鼓膜が捉えて初めて、自分の声の強さを理解した。

 

「……手が震えているぞ」

 

 その指摘に、ヒルゼンはゆっくりと両手をデスクの下の膝の上に置いた。

 

「ダンゾウよ……本当に、これしか方法が無かったのか?」

 

 とうとう、自身の感情を吐露してしまう。だが、もはやダンゾウも気付いているのだろう。だから念を押すように、分かっているかと尋ねてきたのだ。

 

 ヒルゼンが抱いている、後悔の念に。

 

 ダンゾウは怒りを露わにすることも呆れることもなく、淡々と言った。

 

「ああ。他に手段は無い。これが最も安全で、効率的な方法だった」

「フウコは……何か、言っておったか?」

「うちはイタチ、うちはサスケ、そしてうずまきナルトの安全の保障。そして、里の平和を守ってくれと言われた」

 

 事実を指摘すれば、フウコはそれ以外にもう一つ、言葉を残していた。

 

 イロミを育てた男の暗殺。

 しかし、ダンゾウは勿論、そんな黒い話題を口に出す必要性を感じてはいない。そもそも、部下を差し向けた段階で男は死んでいたのだ。この事実は、フウコ自身も知らないことである(フウコには、男を暗殺したという虚偽の報告をしたが)。この場でその話題を展開しても、誰も得はしない。

 

 ヒルゼンは眩暈を感じた。

 

 自分の未来を捨てた彼女が求めたのは……他者の幸福。

 かつての彼女―――そう、浄土回生の術によって肉体が融合する前の彼女―――なら、他者の幸福は望まなかった。ただ忍としての効率だけを優先して、ただただ、里の平和だけを求めたのに。

 

 彼女は変わった。

 

 一度、心を壊してしまった彼女が無くした、人間性。

 それをこの時代で、手に入れたのだ。

 

 なのに、その時代が、彼女が集めた大切なものを全て奪い去ってしまった。

 

『ヒルゼン。里を任せたぞ』

 

 扉間の言葉が蘇る。

 

『フウコが……、幸福に生きていけるよう。平和な世を―――』

 

 咄嗟に、ヒルゼンは立ち上がる。無意識の行動だった。

 扉間に託された願いを反故にした自分への自責の念に駆られたのかもしれない。ヒルゼンの行動に、ダンゾウは大きく息を吐いた。

 

「……何のつもりだ、ヒルゼン。座れ」

「………………」

「聞こえないのか? 座れッ!」

 

 だが、ヒルゼンは座ろうとはせず、かといって歩き出すわけでもなく、彼の葛藤を表現するかのように、両手に作った拳を震わせて奥歯を噛みしめていた。

 

「何を迷っている。何を、迷うことがある……。もはやお前に出来ることなど何もないのだぞ」

「……ワシは、扉間様から託された。フウコが幸福に、平和を享受できるようにと」

「お前だけではない。フウコを知り、扉間様と関わりが深かった者全てがそうだ。俺も、そしてカガミも……これまで多くの者が、里の平和を願い、努力し、支えてきた。そして俺たちは………負けたのだ……」

 

 負けた。

 

 うちは一族にではなく、時代にでもなく……そう、うちはマダラに。

 

 もし、九尾の事件が起きなければ……あるいは、波風ミナトが生きていれば、結果は大きく違っていただろう。たった一瞬の隙を突かれたせいで、うちは一族は完全に追い詰められ、フウコやシスイ、イタチらがクーデターを阻止しようと行動することもなかった。

 

 自分たちの敗北をヒルゼンは理解できていた。だがそれでも、感情は呑み込めない。

 

 まだフウコの未来を取り戻すことが出来るのではないかと、考えてしまう。

 

「もう一度言うぞ、ヒルゼン。これが最後の忠告だと思え。座れ」

「………………」

 

 それでも座らないヒルゼンに、ダンゾウは部屋に来て初めて表情を怒りに歪めた。

 

「……貴様は…………、火影ではないのかッ!」

「そうじゃ。ワシは火影じゃ……だからこそ、フウコを…………、フウコ一人に全ての責任を取らせるわけには……」

「ふざけるなッ! 火影ならば、フウコの決断を無下にするなッ!」

 

 ダンゾウは荒げる声を静めないまま、ヒルゼンのすぐ目の前まで歩み、そして睨み付ける。

 

「あやつは……フウコは決断したぞ。この世の全ての者から疎まれ、木の葉の者全てから憎まれることをッ! これまで多くの者の命が作った里を、扉間様やカガミが願った平和を守るために、全てを賭けたッ! そして俺も決断した……木の葉の里の者に恨まれることをだッ!」

 

 この時、既にダンゾウは準備を進めていた。

 

 翌日、うちは一族が惨殺されたことは里中に知れ渡るだろう。その結果、暗部の副忍であるフウコが実行犯だということも周知される。彼女をナンバーツーとして置いていた自身はその責任を取るために、暗部の管理職から外される。

 その為の準備をしていたのだ。

 権力を無くしても、今後も、里の平和を守れる準備を。

 

 ダンゾウは乱暴にヒルゼンの胸倉を掴む。

 この時の彼の感情に、火影であるヒルゼンへの個人的な黒い感情が無いということは否定できないが、それでもほとんどは、フウコの決断に対するヒルゼンの曖昧な態度への苛立ちだった。

 

「ならば貴様は……これから死ぬ者たちの恨みくらい背負ってみせたらどうだッ! フウコが背負うものに比べれば、軽いものだろうッ!」

「………………ッ」

「…………良いだろうヒルゼン。フウコの元へ行きたいというのなら、好きにしろ。だが、お前が今、この部屋を出るということは、火影を捨てるということだ。それだけは覚悟しておけ」

 

 敢えてダンゾウは、火影の座を奪うという表現は避けた。そんなことを言ってしまえば、ヒルゼンはその言葉を逃げ道に部屋を出ていくかもしれないからだ。彼はそういった甘い部分がある。

 

 うちは一族と粘り強い対話をしてきたのは評価している。

 人間性を重視した里の政策も評価している。

 これらは、扉間が認め、故に彼が三代目・火影として就任出来た要因の一端だからだ。

 

 しかし今、フウコの元へ行こうとしているヒルゼンを、ダンゾウは一切に評価していない。

 

 それは全てをご破算にする、個人的な私情によるものだ。火影としてあるまじき行動だった。

 憎かった。

 こんな甘い部分を残すヒルゼンが、火影であるということが。火影として一応は評価していた自分が、憎かった。

 

 ヒルゼンは静かに、視線を下に向ける。すると、押しのけるようにダンゾウは胸倉を離し、その反動でヒルゼンは椅子に腰かける形になった。

 

「……お前は、俺を暗部から外す書類でも作っていろ。少し時間をやる。それまで、頭を冷やせ」

 

 そう言ってダンゾウは、部屋から出て行く。

 静かになる部屋。

 遠くで、また悲鳴のような冷たい声が聞こえたような気がした。

 

 それがうちは一族の者の声なのか、それとも、フウコの声なのか。

 

 大きく震えた息を、ヒルゼンは吐いた。

 

「……すまぬ、フウコ」

 

 彼のその呟きは、誰の耳に届くことはなかった。

 

 

 

 ○ ○ ○

 

 

 

「……なに?」

 

 今まさに、イロミの応急処置を施そうと、チャクラを纏わせた左手が止まった。腹部から背中にかけて作られた刺し傷からは血が溢れ出ていて、もちろん、彼女の内臓や重要な血管を傷つけないように配慮したけれど、このままでは出血多量で生命が危ない状態だとフウコは疲れ切った意識で理解していた。

 

 確実に意識を断ち切るほどの痛みをイロミに与えたというのに、彼女はフウコの足首を噛んでいた。

 

「……ゔぃがば、ぶ」

 

 イロミの喉は潰していた。十分に喉を鳴らすことのできない彼女の言葉は、何を言おうとしているのかはっきりとは分からない。潰れた喉が気道を塞ぐ場合もあるのだけれど、今回は気道は塞がらなかったようだと、冷静な医者のように彼女を見下ろした。

 

「……ぶぁ、がぁ、ぶぶ、ご、ぢゃ」

 ―――イロミちゃんッ! 早く……早く逃げてッ!

 

【フウコ】が、身体の中で悲鳴をあげた。

 

「ヷブ、ジャ、い」

 ―――イロミちゃん……、頑張って……。負けないで……ッ!

「……ダぎゃ、」

 ―――こいつは……っ、偽物なの…………。私じゃないの…………。ごめんね………………また、遊ぼうって、約束したのに………。

 

 通じていない二人の会話を前に、フウコは何も感じないまま、噛まれている足を引いた。イロミの口は離れ、フウコは乱暴に彼女の前髪を鷲掴む。彼女の額の火傷の跡があっさりと視界に入った。

 

 ―――やめてよッ! イロミちゃんに、そんな、乱暴なこと……ッ!

 

 鼻から血を溢れさせ、力なく開いている瞼の向こうからこちらを見るイロミを、フウコは無表情に眺めた。

 

「もう、話しかけないで。気持ち悪い」

 

 気持ち悪い。

 特に考えることもなく、その言葉を呟いた。

 イタチから教えてもらい、シスイが大きく落胆した言葉。

 それ以外にフウコは、相手を傷付ける言葉を持っていなかったのだ。

 

「才能も無いくせに、私のお願いも聞けないくせに、まだ友達だと思ってるの? 気持ち悪い」

 ―――お前、ふざけるなッ! イロミちゃんは気持ち悪くなんかないッ! 私の友達を、私のフリをして馬鹿にするなぁあッ!

「……ヂグ……じょ…………う」

 ―――泣かないでッ! 信じないで、こいつの言うことをッ! こいつは、偽物、だから……っ。

 

 大粒の涙を、イロミは流し始める。目尻を落ち、頬を伝い、顎から零れる。

 

 フウコは既に刀を腰帯に挿している鞘に納めていた。空いている右手で拳を作る。

 

 ―――……ッ! 止めて……。これ以上、イロミちゃんを…………。

 

【フウコ】の声を聞き流し、フウコは右手でイロミの頬を殴った。脳に衝撃が伝わるように、やや弧を描くように。それに合わせて、前髪を掴んでいた手を離すと、イロミは回転するように後ろに倒れ、今度こそ完全に意識を失った。

 

 その後、フウコはイロミの応急処置に動いた。しかし、その時、フウコは予想以上のチャクラの浪費に見舞われた。

 

 チャクラを使用した医療忍術は、悉く、効果がなかった。

 

 まるでチャクラそのものが、傷ついたイロミに吸収されるかのような不可思議な現象。フウコはそれでも、残ったチャクラの総動員させて腹部の刺し傷を治した。どうやら、通常の人に比べ、細胞か何かが強靭なようだと、フウコは分析した。

 

 大蛇丸の研究によって副産物的に生まれた彼女の肉体。その前情報があったフウコは、そこまで焦ることも驚くこともなかった。

 

「副忍様」

 

 ちょうど、イロミの腹部の応急処置が終わった時だった。

 暗闇から浮き出たかのように、暗部の者が二人、姿を現した。二人はフウコの横に膝をついている。

 

「……ダンゾウ様の命令か?」

 

 と、フウコは視線を向けることもなく、チャクラを大量に消費しながらもイロミの身体の検診に集中する。

 

「道理で。どうして彼女がここにいるのか分からなかったけど……。万が一の時の保険のつもりだったのか」

 

 おそらくダンゾウは、自分が直前で木の葉を裏切るようなことがあった時に備えて、彼女を捕えていたのだろう。確かに、木の葉隠れの里を裏切るという甘ったれた選択をした自分になら効果的だと、フウコは思う。

 

 シスイが仮面の男に人質として利用された時と、同じように。

 

「申し訳ありません。ダンゾウ様からは、猿飛イロミの拘束のみが指令でしたが、不意を突かれ逃してしまいました」

「いい。彼女の仕込みには、手を焼く」

 

 二人の暗部―――【根】の者だが―――からは、火薬やら薬品やらの匂いが微かにする。彼女が彼らから逃げる際に、大量にばら撒いたのだろう。数という面的な暴力の恐ろしさを、フウコ自身もつい先ほど感じ取った。

 

 蛇狂破音。

 

 イロミが放った音の暴力。フウコは須佐能乎をコンパクトに、そして高密度に展開したおかげで、大事には至らなかったが、逆を言えば他に防ぐ手段はなかった。勿論、大量の忍具や鋭い竹が襲ってきた段階での防ぎ方は、フウコが残ったチャクラの量を考慮したもので、万全な状態であるなら蛇狂破音を放たれる場面にならなかったのだが……それでも、イロミの実力はフウコが追い込まれるほどのものだった。

 

「お前ら、彼女を木の葉に搬送しろ」

 

 検診を終わらせ、写輪眼の瞳で二人を見る。

 治した腹部の傷からの出血以外に、すぐさま命を失うような要因はなかった。ただ、急がなければ危ないという状態ではある。

 

 二人は静かに頷き、一人がイロミを背負った。

 

 そしてフウコは、刀を抜き、背負っていない方の男の首に刀の刃を当てる。

 

「いいか? 必ず、彼女を里の病院まで運べ。迅速にだ。そうすれば、間違いなく彼女の命は助かる。もしも……彼女が死んだということが私の耳に入れば…………貴様らに地獄を見せてやる」

 

 イロミを徹底的に痛めつけはした。

 しかしそれは、彼女が自分に恐怖と憎しみを抱くようにするため。そして、あわよくば、忍の世界から逃げてくれることを願ってだった。

 

 フウコの容赦のない声と視線に、二人は慎重に頷いた。

 

「了解しました」

「さらばです、副忍様」

「ああ。……行け」

「「はっ!」」

 

 木の葉隠れの里へと二人は、風のように向かった。

 

 

 

 真っ暗で、孤独な夜にフウコは置いてかれる。写輪眼を解き、刀を鞘に納め、彼女は歩き始めた。

 

 

 

 特にどこかを目指しているというわけではなく、単に、イロミの血の香りが漂うその場から離れたかっただけだった。しばらく歩き、十分な距離を歩いたが、それでも血の香りは鼻を刺す。身体中に浴びた血の匂い。

 そのせいなのか。

 眠気が、やってきた。

 ふらふらとした足取り。一歩一歩と足を前に出す度に、力の抜けた足首はだらりと爪先を地面に擦らせる。

 

「あ」

 

 ついにフウコは足を躓かせた。前のめりに体勢を崩すが、地面に両手をついたおかげでみっともない倒れ方はしなかった。

 ふと、音が耳に届いた。

 音は頭の中から。

 その音は……【フウコ】が泣いている声だった。

 

「……ははははは」

 

 眠気を押しのけて、笑みが零れる。

 

「あっはっはっはっはッ!」

 

 フウコの笑みは、壊れていた。

 勝ちを確信したかのような傲慢さを秘め、

 自虐的な開き直った情けなさを秘め、

 子供のような素直な悲しみを秘めていた。

 

「あっはっはっはっはッ! ……ざまあみろ。………ざまあみろッ!」

 ―――お前は、よくも……よくもイロミちゃんを……ッ!

 

 壊れた笑みを浮かべたまま、フウコは言う。

 

「これでフウコちゃん……お前は、彼女に恨まれた…………。私と一緒。もう、たった一人。あははははッ! お前に残ったものを、壊した! 壊してやったんだ!」

 ―――今まで散々、私から奪っておいてッ!

「………………フウコちゃんがいけないの……。私からシスイを奪った……。私の未来を奪ったから、だから、仕返しをしただけ。全部、フウコちゃんが悪いんだよ」

 ―――私は……! ただ、お父さんとお母さんに会いたかっただけなのに……。イロミちゃんと、遊びたかっただけなのに……………。

「馬鹿じゃないの? お前にはそんなこと、出来るわけないでしょ? 皆の平和を壊そうとしたくせに……」

 ―――先に、私を壊したのは……、お父さんとお母さんを殺したのは、木の葉でしょ?! どうして……私ばっかり…………こんな……。

「私のお父さんとお母さんも殺されたよ。訳の分からない一族に襲われて。お前の親に私は人生を奪われた……。そしてお前に、私は全部、捨てさせられた。何かいけないこと、したかな……私」

 ―――お前さえ……いなかったら…………。

「私がいなかったら、フウコちゃんはきっと身体は治っていなかった……でも、私の代わりに誰かが、浄土回生の術の贄になってたかもね。……じゃあ、私も。フウコちゃんさえいなければ私は………」

 ―――もっと、幸せになれたんだ……ッ!

「ずっとずっと、大切な人たちと一緒に、大切な時間を過ごせたのに」

 

 お前さえいなければ。

 誰かがいなければ。

 世界はもっと幸福に満ち溢れて、自分はその幸福を享受できた。

 

 だけど、他者はいる。現実はいつだって邪魔をする。

 幸福という枠はどうしても傾いてしまい、高低が生まれてしまう。

 時には枠からはじき出されてしまう。

 そして他者を排除しようとし、現実を否定する。

 

 お前さえいなければ。

 誰かがいなければ。

 

 皆が皆、それを呟く。

 

 身体に痛みが生まれる。

 

 うちは一族を皆殺しにし、イタチと戦い、イロミと戦い。

 

 フウコは多くの忍術を使った。

 

 うちは一族を皆殺しにするのに、影分身を使用し辺りの警戒に使ったり、変化の術を使用し相手を油断させたり、無音殺人術を使用するのに精密なチャクラコントロールを持続させたり、時には天岩戸で相手が声を出さないようにしたり。牢獄から抜け出す時も一時的であるが須佐能乎を使用した。

 

 サスケを殺さないように、常に感知忍術を使用してイタチが助けに現れるギリギリのタイミングを見計らった。

 

 イタチとの戦闘でも須佐能乎を使用した。イタチの月読を破るのに多くのチャクラを消費した。影分身も使った。イタチとサスケを眠らせるのに、高天原を使った。

 

 イロミとの戦闘でも影分身を使い、須佐能乎を使った。彼女の検診や応急処置に、予想以上のチャクラを消費した。

 

 それらはどれも、針の先よりも細く、氷よりも遥かに密度の濃い集中力を要した。

 

 全てを成し遂げて、緊張が解けたせいで、それまでの負担を全て自覚できるようになってしまったのだ。

 

 ―――すぐに私の身体を返してよッ! お前はもう、何もないんだからッ!

「……黙って…………よ………………」

 

 身体の痛みは広がり、強くなり、眩暈すら起こさせる。

 

 ―――私はこれから、マダラ様と一緒に夢の世界に行くんだッ! お父さんとお母さんに会って、いっぱい…………いっぱいいっぱいいっぱいッ! 褒めてもらうんだッ!

「マダラは……私が…………殺す…………。二度と……木の葉には……ッ! 手を……」

 ―――ふざけないでッ! これ以上、私から何を奪うつもりなのッ?! この……悪魔ッ!

「……少し…………黙ってよ……」

 ―――身体を返せッ!

「…………お願い……もう…………しゃべらないで……私は…………、無くしちゃったんだから…………」

 

 もしも心の必要最小限の範囲を決めるとしたら、それはきっと、身体なのだろう。

 痛みを感じたり、味を感じたり、匂いを感じたりするから、それを楽しんだり喜んだりと心が生まれる。他者と触れ合いたいという欲求は、身体があるからだ。

 

 身体の痛みは、フウコの心に触れた。

 

 身体が激痛を訴えるのは、危険を知らせる為だ。危険を知らせ、対処を求めるため。けれど、今のフウコではそれらに対処を施すことは出来ない。

 

 体力も残っていない。

 チャクラも、簡単な術一つ発現させることもできないほど枯渇している。

 

 では誰が、対処するのか。

 

 それは、彼女と親しい者だ。

 家族や友人や恋人。彼女の苦しみを理解できる者。

 だが、今の彼女の傍には誰もいない。

 絶対的な孤独感。

 それをフウコの心は、感じ取ってしまった。

 苦しく、辛く、痛いのに。

 誰も―――助けては、くれない。

 

「……わだじは…………すで……ぢゃっだんだ…………」

 

 捨てたはずの心が―――いや、心を捨てる事なんて誰にもできない。

 フウコは心を捨てたつもりだったが、心を奥底に押し込めただけだった。

 里の平和を守るため、シスイへの嘘を本当にするためというプロテクトで心を守っていた。

 

 それらの心の鎧が、身体の痛みで、剥がされていく。

 

 涙が、溢れていた。

 止まらない。

 怖い夢を見たみたいに。

 怖い夢が現実になってしまったからだ。

 涙が―――。

 

「ぜんぶ…………、っ……すで…………ぢゃ…………っだぁ…………」

 

 

 

『フウコ。お前がどこにいても、血は繋がっていなくとも……俺たちは家族だ。お前の父だったことが、俺の誇りだ』

 

 

 

 フガクの最後(、、)の言葉が蘇る。

 

 

 

『お母さんって、呼んでくれないの? フウコ。私も、どこまで行っても、貴方の家族よ。怖いことなんて、何もないわ』

 

 

 

 ミコトの最後(、、)の言葉が蘇る。

 

 

 

『俺は……お前を信じてる』

 

 

 

 イタチの、

 

 

 

『私たちは、友達、だよね……?』

 

 

 

 イロミの、

 

 

 

『……頑張れ……フウコ………』

 

 

 

 シスイの、

 

 

 

 言葉たちが、記憶たちが、

 声を張り上げて、

 夕日の向こうに消えるような別れを告げていく。

 涙が溢れ、

 心が悲鳴をあげた。

 誰か、助けてと、呟いたかもしれない。

 もしかしたら、最初から最後まで、そう祈っていたかもしれない。

 助けてと。

 一人にしないでと。

 そんな惨めな心を持っていたのだと感じ取ってしまい、余計に心が、叫んだ。

 

 

 

 フウコは泣いた。

 

 

 

 道に迷った子供みたいに。大声で。

 

 そう、彼女は……子供だ。

 

 遊び疲れて布団に包まれながら、明日は何をして遊ぼうかと心を弾ませる子供だった。

 

 子供のとしての心が芽生えたばかりの…………子供だった。

 

 声を押し殺すこともなく、泣き続ける。

 立ち上がり、歩く。

 帰り道が分からない。

 家の場所が分からない。

 家族も、友達も、恋人も、どこにもいない。

 泣きながら、大声を出しながら、森の中をただ一人で歩く。

 

 かつて見た。

 いつか見た。

 アカデミーの頃に過ごした、あの黄金に輝く理想郷は。

 もはや、古里になってしまった。

 二度と戻ることのできない……故郷(ふるさと)に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「八雲フウコだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、現実はやってくる。

 涙を流して現実から逃げようとしても、

 いつだってどこだって、

 現実は……邪魔をしてくる。

 

 目の前には、七つの(、、、)人影が立っていた。

 

 木々の葉が月明かりを邪魔し、判然としない亡霊のような人影。

 七つの人影の内の一つ―――仮面の男はひと際大きな木の幹に立ちながら、仮面の奥に潜める写輪眼をフウコに向ける。フウコは仮面の男を見上げた。

 

 もう、涙は乾いていた。

 

 泣き疲れ、小さな木を背に眠ろうとしていた矢先のことだったのだ。

 

 瞼を閉じて眠りにつく寸前の仮面の男の出現に、フウコは動揺を隠せなかった。

 

「……うちは…………マダラ…………。なんで……」

「お前が木の葉でしたことは、既に知っている」

 

 その言葉に合わせて、仮面の男の横から白ゼツと黒ゼツが姿を現す。ニタニタと笑っている白ゼツの表情だけは、はっきりと分かった。

 

「うちはフウコを返してもらおう」

 ―――マダラ様! やっぱり、来てくれた!

 

 もはや、戦う余力は皆無だった。

 

 それでもフウコは立ち上がり、刀を鞘から抜き、抵抗の姿勢を示す。

 

 だが。

 

 腕が震えた。

 膝が笑う。

 絶望的な状況に、顎がカチカチと怯えた。

 写輪眼すら発動できないほど、チャクラは枯渇している。

 

 せっかく、全部捨てたのに。

 苦しい思いをしているのに…………ッ!

 こんなところで……負けたくなんか―――。

 

 どうして、

 どうしてどうしてどうして!

 いつも、私だけが―――ッ!

 

「抵抗するか。まあ、いいだろう。今のお前に勝ち目はないがな、せいぜい、無駄な足掻きをしろ」

 

 仮面の男は呆れるように嘲笑するが、フウコは既に、地上に立つ六人の男たちに視線を巡らせていた。

 

 勝てる見込みはない。

 

 逃げることを選ぶ。

 どこか隙が無いか探すが、顔中に杭のような物を打ち込んだ男たちは、まるで全員で一つの生き物かのように、一片の隙さえ見つけさせてくれはしなかった。

 

 ―――あはははははッ! フウコさん、ほら? 早く身体を返しなよ。痛い目に合う前にさ。

 

 フウコは歯を食いしばる。

 

 ―――分かってるでしょ? 潔く諦めたら? どうせフウコさんがやってきたことなんて、無駄なんだからさ……。後は、私の中で寝ていれば、

「無駄……じゃない…………」

 ―――何言ってるの?

「無駄なんかじゃないッ!」

 

 その言葉は、誰に向けたものだったのか。

 そして、未来を見据えた言葉だったのか、過去に囚われた言葉だったのか。

 

 フウコは、駆けた。

 逃げるために、生き延びるために。

 

「うぁあああああああああああああああッ!」

 

 今出せる力を振り絞った。

 

 だが、

 しかし、

 けれど、

 やはり。

 

 その速度はあまりに遅かった。下忍と同じレベルのもの。

 刀を振り上げ、狙うは、オレンジ色の髪の毛をした短髪の男。

 

 男との距離は縮まり、刀を振り下ろす。

 刀は正確に男の首を狙っていた。

 この一撃で目の前の男を殺し、あるいはダメージを与え、隙を作り、逃げようと咄嗟に考えた。

 

 自分のしたことを決して無駄にしないために。

 犯した罪を力に。

 渾身の力を全て、両手に込めた。

 

 だが、

 現実は、

 あっさりと理想を否定する。

 

 刀が届くよりも遥か先に、男は右手をフウコの顔に添えた。

 

 

 

「神羅天征」

 

 

 

 世界が、回転する。

 上も下も、前も後ろも。

 全てが曖昧になった。

 起きているのかも、眠っているのかも。

 フラッシュバックのように見える夜空は、後頭部が地面に叩きつけられて、刀が折れ、背中で木々を砕く感触を受け取る度に、白くなっていく。

 

 もう、空は、見えなかった。

 代わってしまっているのか、そうでないのか。

 綺麗なのか、美しいのか。

 

 

 

 

 

 

 フウコは―――負けた。

 彼女の人生を、罪を、苦しみを全て賭した抵抗は虚しく。

 敗北した。

 




 月日は流れ―――

 昼。

【うちは一族抹殺事件】の記憶が、ただの歴史の文字となってしまったかのような穏やかな空気を漂わせる木の葉隠れの里。

 中央の大通りには賑わっていた。ちょうど昼食時で、お腹を空かせた大人たちが行き交っている。今日はどこで食べようか、家に帰って妻の手料理を楽しもうか、今月は給料が厳しいから安いもので済ませよう、一楽のラーメンを久々に食べようか。十人十色の笑顔を浮かべて作られる優しい人波は、正に里がどれほど安定し皆が満足しているのかを象徴しているかのようだった。

 そんな人波を、一人の少女は器用な格好で歩いていた。
 根元が黒く、毛先に近づくにつれて白くなっていく特徴的な髪の色は、彼女が中忍だった頃よりも幾分か伸びていた。真っ白な毛先が肩に乗っかるくらいには長くなり、けれど、前髪は変わらず目元だけを隠している。髪の下には、脹脛の裏まで伸びるほどの長い緑色のマフラーが首にかかっている。緑色の薄いジャケットの下には半袖の黒いインナーがあり、右の二の腕に額当てを巻いている。白いハーフパンツと、膝下まである黒いスパッツ。両手には黒いグローブと、足には忍の模範的なシューズが。そして、背丈ほどある巨大な巻物を彼女は背負っている。

 しかし、混雑する人波を流れるような足運びで誰にもぶつかることなく進んでいく彼女を、辺りの人たちが不思議そうな視線を度々向けるのは、特徴的な前髪や巨大な巻物、異様に長いマフラーのせいではない。

「あんなに買い物して……どうするつもりなんだ?」

 どこかの誰かが、彼女を見て呟いた。きっとこの呟きは、彼女を見た多くの人たちが抱いた疑問を総括したものだろう。

 少女は合計で五つの買い物袋を抱えていた。五つとも、今にも中身が飛び出してしまうのではないかと思えるほどパンパンに膨らんでおり、その全てが食材だった。成人男性の身長よりも頭一つ分身長の低い彼女が、それら全てを、食材一つ腐らせることなく食べ切ることなんて出来るわけがない。

 また、五つの買い物袋の持ち方も彼女に視線が集中してしまう要因の一つだった。

 左腕抱えているのは二つの買い物袋―――中身は野菜類。右腕に抱えているのは二つの買い物袋―――中身は調味料や肉、お買い得な卵パックなど。そして残った一つの買い物袋は―――こちらは果物類だ―――は、なんと頭に乗っけていたのである。器用にバランスをとって歩く彼女の姿に、もはや反対方向から歩いてくる人たちは彼女から避けるようにすらなり始めていた。

 少女―――猿飛イロミは、辺りの視線に全く気付かないまま、頭の中で今晩の夕飯を考えていた。今日は卵が安かったため大量に買ってしまったが、どんな風に料理しようか。目玉焼きでは味気ないし、オムライスでもまだ足りない。折角だから、本格的な卵焼きを作ってみてもいいかもしれない。前回は出汁で味付けをしたが、今回は砂糖を多めに使った、ふっくらでジューシーなものに挑戦するのも悪くない。きっとプリンのように甘いものが出来上がるだろう。

「やあ、イロミちゃん」

 そんなことを思っていると、横から声をかけられた。聞いただけで、彼の知的具合と冷静さが、そこらの大人よりも遥か上位にいるのだと思えてしまうほどシャープで聞き心地の良い声質。イロミは真っ直ぐに伸ばした首だけを動かし、方位磁石のように声の主に顔を向けた。

「あ、イタチくん」

 立っていたのは、友人のうちはイタチだった。彼は成人男性よりも少しだけ身長が高く、顔を上げなければはっきりと彼の顔が見えない。首を軽く動かし、器用に頭の上の買い物袋の重心をズラして、買い物袋を額よりやや上に置く。すると、彼を上手く見上げることができ、整った顔立ちが自然な笑顔を浮かべているのが分かった。額には、木の葉隠れの里のマークが彫られた額当てを着けている。長い黒髪は、後ろだけを一つにまとめていた。首から下は黒いコートで隠されている。

「おはよう。これから任務?」

 と、イロミはイタチに尋ねた。今や暗部の部隊長に就任した彼は、昼夜問わず、突発的に任務に駆り出されることがある。最近は少し忙しいようで、こうして里の中でぱったりと会うのは一週間ぶりくらいだった。
 イタチは小さく首を横に振った。

「いや、もう終わったところだ。今日は調べ物があって、朝からずっと、書類の整理をしていた」
「暗部が事務仕事なんて珍しいね。そういうのは、私の仕事なのに」
「そろそろ、中忍選抜試験が始まる。イロミちゃんや、他の方々も忙しくなるから、そのサポートということだ。荷物、持つよ」
「ありがとう」

 頭の上に乗っけていた買い物袋をイタチが持つと、随分と首が楽になった。本音のところを言ってしまうと、正直、首が痛かったのだ。最初は頭に買い物袋を乗っけるというのはバランス感覚の修行になるのではないかと思ったのだけれど、意外とあっさりと重心を捉えてしまい、歩くにしても特にブレることもなく、歩いて数分で苦行になってしまっていたのだ。

 二人は並びながら、歩き始める。

「じゃあ、これからお昼ご飯なんだ」

 とイロミは呟いた。

「ああ。そろそろ、午前中の演習も終わってサスケが帰ってくるから、久々にあいつと一緒に食べようと思っていたところだ。イロミちゃんも、一緒にどうだ?」
「うーん、どうしよっかなぁ」
「これから仕事でもあるのか?」
「あるにはあるけど、まだそこまで急ぐほどのものはないんだよね。中忍選抜試験の準備で、大名の人たちに出席通知とか砂隠れの里の人たちへの募集要項の書類準備とか色々あるんだけどね。今すぐって訳じゃないの。それに、フウちゃんが凄い頑張ってくれているからね」

 イロミは昇進していた。
 昇進、と言っても、半ば補欠合格といった感じのものだが。今の彼女は、特別上忍という地位にいる。この、特別という表現には人によって変わった意味合いが含まれている。
 例えば、みたらしアンコ。彼女にとって特別というのは、大蛇丸の弟子だったという意味合いがある。
 例えば、フウという名前の少女。彼女もまた、特別上忍だった。彼女にとって特別というのは、七尾の人柱力という意味合いがある。
 イロミにとっての意味合いは、両手が不自由であるということと、猿飛ヒルゼンの娘であるということ、そして彼女自身も知らないことだが、大蛇丸との繋がりがあるということだった。

「なら、どうして?」

 イタチは不思議そうにイロミを見下ろした。他に用事でもあるのか? と尋ねているようである。あはは、とイロミは笑った。

「うーん、やっぱり……サスケくん次第かな」

 あれから月日が経ったが、彼との溝は、まだある。イロミ自身は、彼に対して拒絶的な感情はないけれど、サスケはイロミを邪魔者として考えたままだ。

 いつだって人間関係というのは、一方的な不具合が起きてしまうもので。仕方ないと思う反面、いつかは必ずその溝を埋めたいという思いもあった。

「サスケはイロミちゃんの料理を食べている。そこまで考える必要はない」
「食べてるって言っても、どうせ、他に食べるものがないから食べてるって感じでしょ?」

 イタチは苦笑を浮かべた。

「まあ、そうだな。だが、俺が作る料理はいつも御代わりをしない」
「イタチくんの料理って、薬か何かを食べてるみたいで味付けが薄いからだよ。薄過ぎなんだって」
「濃い味付けだと、俺が食べれないんだ」
「極端過ぎるんだよ。イタチくんは、信じられないくらい料理は不器用だよね。なんか、こう、切羽詰まってる感じが料理から伝わってくるような」
「料理が?」
「うん、料理が。料理がもう、叫んでるみたいなんだ」
「何を叫んでいるんだ?」
「食べたら不味いぞって」
「イロミちゃんは、何か、すごいな」

 風が吹く。
 温かく、柔らかな風。
 ちょうどイロミが通り過ぎた地面にいた一羽の鳥が、風に乗って空に向かって飛んでいく。それをイロミは、微かに顔を上げて見送った。

 空は澄み渡る、蒼い世界。雲は一つもなく、高い位置の太陽は白い光を降らせている。

 ―――フウコちゃんも、空、見上げてるのかな。

 一時期、フウコが死んだのではないかという情報が流れたことがあった。【うちは一族抹殺事件】の調査の時、イロミが発見された場所の近くで見つかった異常な戦闘の跡やフウコの血痕、折れた刀の刀身などの情報。それらに加え、事件以後、一切に彼女が姿を現さなかったこともあり、そんな情報が広がったのだ。

 しかし、彼女は姿を現した。
 事件から一年が経過した時、とある小さな忍里同士の戦争に、彼女の姿があったという目撃情報があった。
 写輪眼を持つ、黒く長い微かなウェーブのかかった少女の姿。写輪眼を持つ少女は、今では、この世にたった一人しかいない。

 フウコは生きている。
 犯罪者として、だが。

 それでもイロミは、彼女に手を伸ばすことは、今でも諦めてはいなかった。

「イロミちゃん? どうした?」

 いつの間にか、足を止めていたらしい。少し前でこちらを振り向いて立ち止まっているイタチに視線を向ける。

「ううん、何でもない」

 二人は再び並んで歩いていると、反対側から見知った人たちの姿があった。

 赤毛交じりの黄色い髪をした男の子。
 イタチとよく似た顔立ちの、青いTシャツを着た男の子。
 桜の花のように綺麗な髪の色をした女の子。
 灰色に近い髪の色をして、額当てで左目を隠し、マスクで鼻先まで顔を隠した、長身の男性。

 ちょうど午前の演習が終わったようだ。

 四人はイロミとイタチがいるのに気付いたのか、様々な表情を浮かべた。

 うずまきナルトはイロミに対して小さく笑顔を浮かべた後、イタチを見るや小さく唇を尖らせた。
 うちはサスケは不愉快さを隠すこともなく、イロミから視線を逸らした。
 春野サクラはイタチを見た途端に顔を真っ赤にし、手櫛で髪の毛を整え始めた。
 はたけカカシは死んだ魚の目でこちらを見て、やる気なく片手を上げた。

 次の世代の子たちが、動き出していた。

 フウコが作り上げた、束の間の平和の中から。

 未来が、生まれた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

次世代編
表と裏:前編


 ―――春野サクラとイロミ―――

 

 

 

 誰にだって内に秘めた感情というものがある。

 

 直接的に身体で表現できる人も全く表現できない人も関係なく、大小様々だが、秘めている。言葉とは、感情の海から一掬いのものしか表現できず、身体は感情を素直に表現するには重すぎるからだ。

 また、他者との関わりを持つ際には、感情全てを表現するのは危険が伴う。これは幼い子供でも理解できることで、大人になればより鮮明に理解できる仕組みだ。

 

 得てして、子供の中では、女の子が内に秘める感情が強い。

 

 どうして女の子の方がそういった傾向が強いのか。おそらく、男の子よりも感情が細かく尚且つ多方面に枝葉が分かれているせいだろう。それら全てを一場面や日常に発揮するのは難しい。

 

 春野サクラという女の子も、内に秘めた感情があった。

 

 大抵は、うちはサスケという男の子に向けた好意の感情だ。しかし、彼への好意はここ最近では落ち着くようになっていた。

 

 最初は彼を見かける度に、火を点けた爆弾のように感情は危険水位を行き来していた。危険水位というのは、つまり、つい身体で表現してしまうのではないかという値である。もし感情が水位をオーバーしてしまい、それがサスケに見られようものなら、彼女は精神的に死んでしまうのではないだろうかと危惧してしまうほど、彼女の内に秘めた感情は荒々しい。

 

 しかしここ最近では、危険水位に近づくことはほとんど無かった。彼と短く会話をしただけで、夜中の布団の中で嬉しさのあまり寝付けない、なんてことは今ではもう無く、心の奥底でじんわりと広がるような身体に浸透する嬉しさを感じるだけだった。

 

 波の国での任務が原因だろうと、サクラは自分を分析する。そう、彼女は頭が良い。

 

 突発的に発生した危険任務。桃地再不斬と白を相手にした、命懸けの任務を経験したせいか、感情を荒立てることのエネルギーの非効率的な作業が億劫になった面があるのかもしれない。あるいは、死地を共にしたおかげで、彼との心的距離が近くなったのかもしれない。

 

 どちらにしてもサクラは、自分が少しだけ大人になったのではないかと思っていた。

 

 つまり、理想とする女性像に近づいたのではないか、と。

 知的で、落ち着きのある、お淑やかな女性。

 それに近づいたように思うのだ。

 大人な女性に。

 

 

 

 ―――しゃーんなろーッ! イタチさん、キタァアーッ!

 

 

 

 ……もちろん、サクラはまだ年齢的には成人ですらない。心が大人に近づいたと言っても、それはあくまで一側面的であって、全てではなかった。サクラが内に秘めた感情は、かつてサスケと同じ第七班として配属が決まった時と似たような方向性で、そして久々の危険水位ギリギリの高揚だった。

 

「よ、お二人さん。こんにちは」

 

 町中を歩いていた第七班は、イタチとイロミの前で立ち止まると、一番後ろに立つカカシがのんびりと、そう呟いた。

 

「おはようございます、カカシさん」

 

 と、イタチは爽やかな笑顔を浮かべた。それだけで、サクラは心臓の鼓動のテンポを一つ上げた。買い物袋を一つ腕に抱えた姿は非常に家庭的な雰囲気を醸し出し、爽やかな笑顔はサクラの目には大人らしいカッコよさと清潔さに満ち溢れているように見えてしまった。後ろに立つ、まるで柳の木の下に立つ亡霊のようなカカシとは、雲泥の差である。

 

 サクラはスピーディに、けれど自然な動作で自分の髪の毛を整える。毎日毎日、丁寧にコンディションを整えているちょっと自慢な桜色の髪の毛。午前の演習が終わったばかりで、もしかしたら変な癖がついているかもしれないと焦ったのだ。

 

 顔が赤くなっているのが、首の熱さを感じて自覚できてしまう。しかし、どうにも興奮が抑えきれない。

 

 イタチがサスケの兄だということは、アカデミーの頃から知っていたことだった。

 

 彼は暗部の部隊長に務めているようで、見かけることはほとんどない。だからなのかもしれないが、こうしてばったりと会うというのは、サクラの中では奇跡に等しい現実である。故に、むしろ興奮するなという方が難しい話しで、極端なことを言えば、ここで興奮しないのは勿体無いということさえ思っていたりした。

 

「どうもです、カカシさん」

 

 さりげなく額当ての位置を直していると、イタチの横に立っていたイロミが頭を下げた。両手に抱えた四つもの買い物袋のせいなのか、頭を下げる角度は小さかった。

 

「買い物帰りか?」

 

 と、カカシは呟くと、イロミは頷いた。

 

「はい。これから帰ろうとしてたところです。それで途中、イタチくんと会って、少しだけ、荷物を持ってもらってるんです」

「……おたく、それ全部一人で食べるの?」

「まさか。いくら私でも、これを全部腐らせないで食べ切るなんて出来ませんよ。まあ、色々と事情があるんです」

 

 えへへ、と曖昧な笑みを浮かべる彼女に、サクラは小さな疑問を抱いた。誰だろうか?

 

 まず目に入ったのは、特徴的な髪の色だった。その次は首に巻いている長いマフラー。身長はカカシやイタチよりも低いが、自分よりも高い。最初は男の人? と、凹凸の少ない彼女の姿を見て思ったが、女性らしい声や肩にかかるくらい長い髪の毛を見て、女性なのだと確信する。

 

 二人は友達なのだろうか? と邪推する。イタチが当たり前のように彼女の買い物袋を持っているところからすると、そのように思えるが、あまりいい気分ではなかった。夜空に浮かぶ満月を霞ませるような薄い雲のような、ちょっとした鬱陶しさが生まれる。サスケの隣に、ライバルである山中いのが立っているのを目撃した時の感情とよく似ていた。

 

「おはよう、サクラ。ナルト」

 

 しかし、そんな嫌な気分も、イタチの笑顔と声で一瞬にして霧散する。

 

 顔を上げ、イタチの顔を控えめに見る。鼓動がまた大きくなるが、自然な優しい笑みを浮かべるイタチに、サクラは精一杯の女の子らしい笑顔を浮かべた。

 

「おはようございます! イタチさん」

 

 明るくハキハキとした挨拶に応えるようにイタチが小さく頷くのを見て、サクラの秘めた感情は大きくなる。

 

 ―――キャーッ! イタチさんが笑ってくれてるッ!

 

 記述しておくけれど……サクラが好意を寄せているのは、サスケである。しかし、やはりというか、好意は別にしても、綺麗なものだったり力強い物にはどうしても目移りしてしまうように、そういった外側の部分の感情というのは、意外とフットワークが軽かったりするのである。

 

「ほらナルト! あんたもイタチさんに挨拶しなさい!」

 

 爆発間際の感情を発散させようと隣のナルトに言うが、彼は唇を尖らせて全く関係のない方向を見ていた。

 

「こら、挨拶しなさい!」

「い、痛いってばよサクラちゃんッ!?」

 

 無理やりナルトの頭を掴み、挨拶させようとする。

 

 ―――もうっ! ナルトったら。サスケくんのお兄さんだからってヘソを曲げるなんてッ!

 

 気軽にナルトのことを呼んでいた辺り、どうやら二人は顔見知りのようだ。きっとサスケの兄だから、気に食わないとか思っているのだろうとサクラは当たりを付けた。

 

 サスケとナルトはアカデミーの頃から仲が悪かった。いや、一方的にナルトが彼に突っかかっているように見える。サスケはサスケでやり返しているような節があるが、それでも、原因は基本的にナルトである。

 

 同じチームになったとしても、その関係は変わらず、任務がある度にその光景を見ていたサクラが、ナルトはイタチのことも毛嫌いしているという想像をしてしまうのはごく自然なことだった。

 

「いい、サクラ。無理にそうさせなくても」

 

 え? と、サクラはナルトの頭を胸くらいの位置まで下げさせた時に腕を止めて、イタチを見上げる。彼は変わらず、優しく笑ったままだ。

 

「俺は気にしない」

 

 落ち着き払ったイタチの態度に、再びサクラは心拍数を高めたが、ナルトが逃げるように腕から離れて「ふん!」と鼻を鳴らすのを見て、小さく苛立つ。

 

 ―――せっかくイタチさんが優しくしてくれてるのに……。

 

「午前の演習は終わったんですか?」

 

 と、イタチがカカシに尋ねた。

 

「そ。それでこれから、偶にはチームで昼食でも食べようかってことにしたんだ。おたくらは?」

「俺達も昼食を一緒に食べないかって考えていたところです」

「どうだ? 俺達と一緒に。イロミも、サクラとは初めてだろ?」

 

 イロミはサクラを小さく見下ろした。

 

「初めまして。私、イロミっていうの。よろしくね、サクラちゃん」

「あ、はい。どうも」

 

 口元だけ見える口が透明な笑顔を作っていた。好感の持てる声で、彼女への警戒心は少しだけ減った。イロミはその笑顔のまま、カカシに顔を向ける。

 

「お昼は皆で、ですか?」

「今のところは。場所は未定だけどね。こいつら、俺が奢るって言ったら急に乗り気になっちゃって、ぶらぶらと食事処を探してたところ」

「え、カカシさんが奢るんですか?」

「どういうこと?」

「なんか、その……信じられないというか」

「俺ってそんなに信用できない?」

「信用されるキャラだと思ってたんですか?」

 

 確かに、カカシが信用されるような人物ではない。見た目がそもそも胡散臭い上に、基本的に待ち合わせには遅れてきては明らかに不自然な言い訳を並べ立てる。実力は同じチームの上忍として全幅の信頼を置けるものの、普段の彼を信頼するというのは難しい。

 

 だけど、とサクラは思う。

 

 見た目が胡散臭く、言動が不自然でも、カカシは上忍だ。しかも、他里に【写輪眼のカカシ】と異名が広がるほどの実力者。

 

 そんな彼に平然と悪口(単なる事実なのだが)を言える彼女は、どういう人物なのだろうか。

 

「……まあ、とにかく。昼食はどうだ?」

「俺は是非」

「私も。あ、でも、お金は出しませんよ?」

「出しなさいよそこは。イロミ、特別上忍でしょうよ」

「下忍の皆に奢るのに、後輩の私には奢らないんですか? なんだか、矛盾してませんか?」

「そういう悪い冗談は好きじゃないよ」

「ふん、俺はパスだ」

 

 突然、サスケが別の方向に歩き出した。

 サクラは慌てて彼を呼び止める。

 

「サ、サスケくん?! いきなりそんな」

「俺はそいつと一緒にメシを食う気はない」

 

 そいつ、というのをサスケは一瞥の視線だけでイロミなのだと示した。

 

「あはは……。すみません、カカシさん。やっぱり私は、素直に帰ります。こんな大量の買い物を持ったまま食事処に行くのも、気が引けますし。ね? サスケくん、私は帰るから、皆とご飯食べた方がいいよ?」

「黙れバカミ。お前の指図は受けない。とにかく俺は一人でメシを食う」

「そう言うな、サスケ」

 

 と、イタチ。サクラがサスケから彼に視線を向けると、ちょうど、黒いコートに覆われた肩から一羽の小鳥が飛び去っていた。サスケは足を止め、イタチを見る。

 

「お前はイロミちゃんと一緒に家に帰るんだ」

「……どうしてだよ」

「任務が入った。これから火影様の所へ行かなくてはいけなくなったんだ。俺の代わりに、イロミちゃんの荷物を持ってやれ」

「バカミなら持てるだろ」

「そう言うな。ついでに、家で昼御飯でも作ってもらえ。日頃からご飯を作ってもらっているんだ。それぐらいはしろ」

「……分かったよ」

 

 踵を返し、サスケはイタチから買い物袋を貰うとさっさと一人で帰路を歩き始めてしまった。

 

「カカシさん、俺もお昼はご一緒できないようです。また別の機会に埋め合わせさせていただきます」

「俺としては、奢る料金が減って万々歳なんだけどね」

「じゃあ私も、サスケくんと一緒にイタチくんの家でご飯を食べることにします」

「あ、そ」

 

 いい加減で平坦に頷くカカシを他所に、サクラの思考は信じられないほどの衝撃を受けていた。

 

 イタチとサスケの会話。そして、イタチとイロミの会話。

 

 日頃からご飯を作ってもらっている。

 イタチくんの家でご飯を食べる。

 

 非常に……非常に聞き捨てならない会話だ。サクラの中にあるセンサーが―――当然のことだけれど、物質的な意味ではなく、彼女の経験が作り上げた、所謂【女の勘】である―――イロミを危険人物だと判定した。どういった危険性があるのかは不明だが、とにかくサクラは、危険だと思いながらイロミを見上げた。

 

 ちょうどその時、タイミング良くイロミが「あ、そうだ!」と声を上げた。

 

「カカシさん。そういえば、前に頼まれたもの、買っておきました。えーっと、えーっと……」

「持つよ」

 

 イロミがジャケットの内ポケットに忍ばせた物を取り出そうと身体をくねらせているのを、イタチは彼女から二つの買い物袋を受け持ってサポートする。「ごめんね」と右手が空いた彼女が笑顔で応える。

 

 とうとう、サクラのセンサーは警報を鳴らす。色は真っ赤だ。

 

 しかし、その警戒心は、ある意味で全く別のベクトルへと突き進んでしまうことになるのである。

 

 イロミが右手(、、)で懐から取り出したのは、一冊の本だった。

 

「はい、カカシさん。この本で、間違いないんですよね? 探すのに苦労しましたよ!」

「え?」

 

 堂々と差し出された本のタイトルを見て、サクラは息を呑んだ。イタチもナルトも、瞼を大きく広げるという表現方法で驚きを隠さなかった。

 

 空気が一瞬だけ、凍り付く。

 

 

 

【イチャイチャファンタジー ~解放された果てに~】

 

 

 

「カカシさん、少しお話があるのですが」

 

 本のタイトルを見るや否や、イタチは目に映らないほどの瞬足でカカシの前に立つと、買い物袋を抱えていない方の右手で彼の襟元を乱暴に掴んでいた。声の質はまるで刀のように固く、そして鋭く。サクラとナルトは怒気に満ち溢れたイタチを見上げていた。

 

「おたく、これから任務があるんじゃないの?」

 

 しかし、とうのカカシ本人はどこ吹く風と言った感じに、とてつもないほどの明後日の方向を見ながら呑気に呟く。

 

「今、俺の前で犯罪が起きたんです。治安維持も、暗部の仕事です」

「犯罪なんて起きてないだろ? イロミにちょっと本を買ってきて貰おうと、この前、頼んだだけ。この本だって、別に普通の本だよ。趣向が大人向きってだけでさ」

「お願いですから、悪い冗談は止めてください。貴方の倫理観はどうなってるんだ」

「カカシ先生……それは流石に、ないってばよ…………」

「最っ低……」

 

 サクラの中で、カカシの株価が大暴落していた。と同時に、いくら上忍の頼みであっても平然と買ってくる彼女もどうなのかと、イロミへの評価も下落した。しかし不思議なことに、センサーからの警報は消え失せ、色も綺麗な緑色になっていた。

 

 イロミが呑気に呟く。

 

「イタチくん、気にしすぎだよ。私だって、まあ、最初は驚いたけどさ、結局は本なんだし。それに私も、こういうのは気にしてないよ?」

「イロミちゃんは黙っててくれ」

「いやいや、イタチくんの方が危ないことしようとしてるから」

「こういうのは、小さい所から潰していかないと、いつかは大きな犯罪になるんだ」

「冤罪も犯罪だよ。イタチくん、落ち着いて」

「とにかくカカシさん。今後一切、俺の友達に変なことを頼まないでください。イロミちゃんも、カカシさんからの頼み事でも、すぐに断るんだ」

「大袈裟だよ。私だってそういう知識は、医療忍術で知ってるし、身体の仕組みなんて飽きるくらい書物で見たんだよ? それにさ、人のって意外と普通だよ? 馬とか犬とかもっとエグイからね。初めて見た時なんか、一週間は肉類食べれなかったくらい。魚なんて、大抵はオスが海に―――」

「イロミちゃん……本当に、黙っててくれ」

 

 どんどんとイロミへの株価は暴落していく。

 

 最終的にイロミへの評価は。

 

 ―――変な人。

 

 その一言に尽きた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ごめんね、サクラちゃん。重い荷物、持ってもらっちゃって」

「気にしないでください。これからイロミさんに御馳走してもらうんですから、これぐらい当然です」

「あはは。じゃあ今日は、腕によりを掛けて作るよ。私、こう見えても料理は得意な方なんだ。あ、サクラちゃんも一品だけ作ってみる? 私、食事処以外で他の人の料理を食べたことないんだ」

「すみません、私、あまり料理はまだ上手く作れないので……」

 

 サクラ、イロミ、そしてサスケの三人は並んで歩いていた。真ん中をイロミが歩き、左手にサクラが、右手にサスケが。ちょうど三人は山の字のような形を作っていた。

 

 あの後、カカシ達と別れて、サクラはサスケの家で昼食を済ませることにした。イロミの荷物を運ぶのを手伝いたいという名目の元、合法的にサスケの家に入れるのではないか、という私欲に塗れた理由が決断させたのだ。

 

 結果、特にサスケから大きな拒絶もなく、イロミに関しては「やっぱり、皆で食べた方が楽しいよね!」と歓迎されることとなり、難なくサスケの家に行くことが許された。

 

「むしろ、出来れば教えてほしいくらいです」

「じゃあレシピは教えるね」

 

 サクラは社交的な笑顔を浮かべるが、内心では、

 

 ―――サスケくんの……、い、家に行けるッ!? お、落ち着くのよ私…………。

 

 と、気を抜いてしまうと鼻血が出てしまうのではないかというほどの興奮を持っていた。

 

「あ、サスケくん。家に牛肉ってまだある?」

「知るか」

 

 三人になってからは初めて、サスケが言葉を発した。彼はイロミの横を歩いているというのに、一度として彼女に視線を向けることはなく、今も視線は全く別の所を見ている。声も低く、ナルトに向ける声よりもさらに乱暴だった。

 

 それでもイロミは目くじらを立てることはなかった。

 

「自分の家の台所事情なのにー」

「お前の方が知ってるだろ」

「毎日私がご飯作ってる訳じゃないんだから。イタチくんだって作るんだし、全部把握するなんて無理だよ。……もう、仕方ないなぁ」

 

 サスケの家に着いた。家は小さな平屋だった。立地は普通の住宅街の真ん中で、昼頃のせいか賑やかだった。平屋は小さくても、賑やかさに押しつぶされないようなみすぼらしさも貧相さもなく、むしろ溶け込むような清潔さがあった。

 

 けれど、サクラにとっては高価な家よりも遥かに光り輝く豪邸に見えていた。

 

「おじゃましまーす」

 

 サスケが家の鍵を開けて入ると、イロミは平然と後に続く。ここで自分も自然に振る舞ってあっさりと入らなければ、不審な考えを持っているんじゃないかと思われる……という妄想をサクラは考えていた。「おじゃまします」と全身全霊の平静を装い、入る。

 

 室内には廊下はなく、すぐ目の前が居間だった。やや横に広い直方体の居間には隔たりのない台所が玄関脇にある。居間にはドアが三つあり、一つは浴室に繋がっているようで霞ガラスが当て嵌められている。残り二つは分からないまま、サスケは台所横に立つ冷蔵庫の前に買い物袋を置くと、居間の中央にある折り畳み式のテーブルに積んである書物の前に座ってそれに手を伸ばした。

 

 イロミもさっさと買い物袋を同じ場所に置くと、冷蔵庫を開けた。

 

「あ! やっぱり牛肉が無い! ……サスケくん!」

「うるさい黙れ」

「鶏肉も豚肉もないし……。もう…………。ま、一応は買ってきたから問題ないけど……」

「何でもいい、さっさと作れアホミ」

「あれ?! 前に買った紅ショウガも無い! サスケくんッ!」

「兄さんがこの前カレーに使ってたんだ。文句なら兄さんに言え」

 

 二人の会話を他所に、サクラはおっかなびっくりに室内を歩く。買い物袋をどこに置けばいいのか、どこに座っていいのかなどと、変なところに頭をグルグルと回していた。

 

 イロミは冷蔵庫を閉めると、書物を読むサスケの横に立ち両手を腰に当てた。

 

「いくらイタチくんの料理が上手じゃないからって、カレーに紅ショウガを使うわけないでしょ?!」

「兄さんはカレーには紅ショウガだって言ったんだよ」

「下手な嘘言ってないで買ってきてよ! ほら、お駄賃渡すから。ついでにアイスも買ってきてね、無くなってるから」

「……なんで俺が行くんだ」

「ここがサスケくんの家だから。イタチくんは任務でいないからッ!」

「お前が行け」

 

 とりあえずサクラは買い物袋を冷蔵庫前に置いて、台所前に棒立ちする。視線は天井。そこが一番健全だった。天井なら、自分の心拍数が暴発することはない筈。しかし、イロミとサスケの会話が耳に届かないほど、サクラの興奮は思考の殆どを埋め尽くしていた。残った思考も、今とは全く関係のないことばかり。

 

 ―――今日、夜は眠れないかも……。

 ―――あ! もし、いのに会ったら自慢しよ!

 ―――だけど、自慢するには今日のことはきっちりと覚えてないといけないわ!

 

「サクラちゃん?」

 

 ―――でも、今日のことを覚えてられるかな。

 ―――あまりじっくり部屋を見てるとサスケくんに怒られるかもしれないし。

 ―――ああもう! アカデミーの頃は教科書の内容はすぐに覚えれたのにッ! しっかりしなさいサクラッ! 今! ここが! 一番覚えるべきことよッ!?

 

「おーい、サクラちゃん。どうしたの?」

「へ?」

 

 そこでサクラは現実に戻った。

 すぐ目の前にはこちらを覗き込むイロミの顔があった。

 サクラは慌てて両手を振った。

 

「あ、ああイロミさん! どうしたんですか?」

「それはこっちの台詞だよ。ずーっと天井見上げて。あ、もしかしてお腹空きすぎてぼーっとしゃってた? ごめんね、待たせちゃって」

「別に、そういう訳じゃ……。あれ?」

 

 イロミから逃げるように視線を右往左往させていると、サスケがいないことに気が付いた。

 

「あの……サスケくんは…………」

「サスケくんなら、お買い物に行ったよ。紅ショウガを買いに」

「あ、そうなんですか」

「そうなんだよ。もう、サスケくんは我儘なんだから。ちょっと条件を出さないと動いてくれないんだから。……私の方が年上なのに…………」

「え? サスケくんと何か約束をしたんですか?」

「ちょっとね。午後の任務が終わったら、忍術勝負をすることになったんだ。まあ、気にしないで、いつものことだから」

 

 どうやら考え事をしている間に、イロミとサスケの会話は終わってしまっていたようだ。よくよく見れば、彼女が背負っていた巨大な巻物も、部屋の隅に置かれている。

 

 少し悲しいような。だけど、彼がいないということへのプレッシャーから解放されて、嬉しいような。とにかくこれで、馬鹿みたいに心拍数が上がることはなくなる。

 

「それじゃあご飯作ろ? 早く作らないと、またサスケくん機嫌悪くなっちゃうから」

 

 イロミは両手(、、)で手早く買い物袋から材料を取り出した。牛肉に玉ねぎ、キュウリと大根ともやし。それらを狭い台所に、重くて固い物から器用に積み上げていく。

 

「今日は牛丼とサラダを作ろうかな。あまり手間もかからないし」

「私は何をすればいいですか?」

「じゃあ、ご飯を炊いてもらおうかな。サクラちゃんはいっぱい食べるの?」

「……いいえ」

「そう? じゃあ、四合でいいかな。サスケくんはお代わりするから。お米はそこにあるから」

 

 米は冷蔵庫脇のボックスに入っていて、サクラは四合を米とぎ器に入れる。米の炊き方くらいは十分に知っているし、実際に炊いたことも当たり前のようにあった。まな板の前で袋に入ったキュウリを取り出しているイロミの横で、米とぎ器に水を入れ、指でとぐ。

 

 指と指の間に水と米がすり抜けていく度に楽しくなっていく。

 自分が今、大好きな彼に料理を作っているのだと自覚してしまうと、自然と笑みが零れてしまう。

 

「イロミさんって、普段からサスケくんやイタチさんに料理を作ってるんですか?」

 

 意外とあっさりとサクラは一番の疑問を口にした。イロミのフレンドリーさのせいかもしれない。もしかしたら、カカシ曰く【趣向が大人向きの本】を平然と買ってくる彼女に遠慮はいらないんじゃないかという感情があるかもしれない。

 

 イロミは「うん」と頷いた。

 

「まあ、いつもって訳じゃないけどね。……サクラちゃんは、うちは一族のことって知ってる?」

「あ……」

 

 そこでサクラは、自分の発言があまりにも無思慮なものだと気づいた。普段の彼女なら、必ず会話をする時は、ある程度の計算の上をするというのに。

 

 自責の念に任せて、サクラは重苦しく頷いた。

 

 うちは一族が滅ぼされた事件。一番最初に耳にしたのは、アカデミーの頃だった。当時は、ただの噂話のように軽い感じでアカデミー中に広まっていた。

 

 今では、単なる噂ではなく、事実として知っている。詳細は知らないけれど、実行犯は【うちはフウコ】という、同じうちは一族の者らしい。

 

『野望はある。一族の復興と、ある女を―――殺すことだ』

 

 アカデミーを卒業して、第七班として自己紹介をしたとき、彼はそう宣言していた。その時はまだ、うちはフウコとサスケの関連性を結びつけることは出来なかった。何せ、事件当時のうちはフウコは暗部のナンバーツーで【音無し風】という異名を持つほどの天才。まだ下忍のサスケが、彼女を殺そうとしているというのは、想像が出来なかったのだ。

 

『おい、サスケ』

 

 そこで不意に、次の場面も思い出されてしまった。

 

 低く、怒気が孕んだ声。この時、サクラは初めてナルトに驚いた。アカデミーの頃、ナルトは何度もサスケに突っかかっていたが、この時の彼の表情は、今まで見てきた中で最も怒りに満ちたものだったからだ。

 

『お前……誰のこと言ってんだよ』

『黙れウスラトンカチ。お前には関係ねえ』

 

「サスケくんとイタチくんには、両親がいないから、私が代わりに作ってるの」

 

 と、イロミは呟いた。

 

『お前、うざいよ』

 

 サスケの言葉を思い出し、サクラは小さく下唇を噛む。彼の家に入れたことに浮かれていたせいで、踏み込んできてはいけないところに踏み込んでしまったのではないかと思うと、背中が熱くなって、汗が噴き出そうになった。

 

「イタチくんは暗部で忙しいし、サスケくんはほったらかしてるとご飯なんてテキトーにしちゃうからね。まあ、毎日って訳じゃないんだけど。イタチくんが早く帰ってくる時はイタチくんが作ってるし。でも買い物は基本的には、私がしてるかな」

「そ、その……」

「ん? どうしたの?」

 

 いつの間にかサクラは、米をとぐ手を止めていた。声が微かに震えるが、一度、固唾を呑み込んだ。

 

「すみません。込み入ったことを、訊いてしまって」

「ああ、気にしないで」

 

 と、イロミはあっさりと笑ってみせる。

 

「私はうちは一族じゃないから。勿論、二人にはこういった話題は駄目だけどね。ああでも、イタチくんには、むしろそうやって暗い感じだと、変に気を使わせちゃうから」

「……イタチさんとは、その、仲が良いんですね」

「うん、友達。アカデミーの頃からね。同期なんだ。あはは、昔からイタチくんには色々、お世話になっちゃってさ。イタチくん、天才だから。……もう、ほらほら、気にしないで。サスケくんが帰ってきた時にそんな顔だと、サスケくんもぶすってしちゃうから」

 

 しかし、すぐに気分を戻すことは出来なかった。あっさりと明るく振る舞ってしまうと、自分が嫌いになりそうだったからだ。

 

「気にし過ぎ。そんなに遠慮してると、逆にサスケくんやイタチくんを哀れんでるようになっちゃうから。二人も、そうされるのは、嫌だと思うしね。私も無遠慮にうちは一族のこと言ったのも悪いんだし。ほら、笑顔笑顔。大好きなサスケくんに向ける感じで」

「えッ?!」

「あ、やっぱりそうだったんだ」

「いや、その、違うんです!」

「え、違うの?」

「違―――くはないんですけど……」

 

 イロミは、あははと笑った。

 

「じゃあ早くご飯作ろうね。サスケくんが怒ると大変だし」

「……はい」

 

 少しだけ気分は戻った。イロミが気を使ってくれたのだろうということ、この話題はもう終わりということを、サクラは読み取った。そして、もう無思慮な発言はしないようにと心掛けると、不思議と、家に入った時のような不必要なエネルギーは消費しなくなった。まだまだ子供だ、とサクラは小さく自虐する。

 

「さてと、まずはキュウリを切らないとねー」

 

 そう言ってイロミは包丁を手に取った。

 

 ―――あれ?

 

 包丁を手に取った瞬間を見たサクラは、違和感を覚えた。

 

 包丁を持った時の彼女の手の動きが、不自然だった。指で握ったというよりか、指に吸い付いたかのように、包丁を握ったように見えたのだ。しかし、握った包丁でキュウリを切る手の動作には違和感はなく、毎日作っているというのは嘘ではないようで、手慣れた感じに千切りへとしていった。

 

 ―――気のせい……かしら…………。

 

 米とぎ器から水を捨て、新しく水を入れる。

 

「ねえ、サクラちゃん」

 

 と、イロミは呟いた。

 

「第七班って、どう? 順調に活動できてる?」

 

 

 

 ―――うずまきナルトは思い出す―――

 

 

 

 ナルトはカカシと一緒に昼食を済ませていた。この場合の一緒に、というのは、同席した以上の意味はなく、つまりナルト一人が食べただけである。一楽のラーメン屋台で大好きなトンコツラーメンをチャーシュー増しの大盛りで食べることができたのは非常に嬉しいことだったが、常日頃からマスクで覆われた顔を見ることができなかったのは悔しかったりする。

 

「上忍にもなればな、メシなんて三日も食わなくてもいいようになるんだよ」

 

 というのは、勿論カカシ談。彼の実力を波の国での任務で目の当たりしたせいか妙な説得力はあったものの、だからと言って昼休みの時くらいは素直に食べていいのではないかとは思った。結局は、マスクを外したくない理由なのだろう。

 

 会計はカカシが払ってくれた。満腹感に現を抜かしながら屋台を離れる。

 

「ぷは~。美味かったってばよ! ごちそうさま! カカシ先生」

「そう言ってくれると、奢った甲斐があったってものだな」

 

 膨れた腹を擦りながら無邪気な笑顔を、財布を上忍に支給されるジャケットの内ポケットに入れるカカシに向けた。

 

「なあなあカカシ先生! 最近、またショボイ任務ばっかでつまんねってばよ。そろそろさ、もっとこう、やりがいがあるっていうかさ、カッコいいってのはねえの? 午後は任務をやるんだろ? カカシ先生から、火影のじいちゃんにお願いしてくれよ」

「俺個人が言ったところで意味はないよ。そういうルールだ。里としても、まだ下忍であるお前やサスケ、サクラに危険な任務を任せて死なせる訳にはいかないの」

「でもさでもさ! 最近俺ってば、なんていうか、調子がいいんだってばよ! もう下忍よりも実力はあるんじゃねえかってくらいに!」

「お前はまだまだ下忍だよ。ま、実力がついてるのは認めるが。だが、任務は諦めろ。ショボイ任務でも、大切な任務だからな」

「ノーセンキューだってばよ!」

 

 ナルトは大袈裟に両手でバツ印を作った。

 

「なあなあ頼むよカカシ先生。俺ってば、もっともっとスゲー任務やって、どんどん実力付けてえんだよ」

「んー……」

 

 カカシは覗かせている右目で笑顔を作りながら左手でマスク越しに顎を撫でた。

 

「ま、任務云々は、やっぱり我慢しろ」

「えー……」

「その代わりと言っちゃなんだが、修行を付けてやろう」

「え、マジ?!」

 

 落ちかけていた気分が一気に急上昇した。カカシから個人的に修行を付けてもらうというのは初めてだったからだ。

 これまではチームワークを中心とした演習ばかりだった。今日の午前中の演習もそれで、けれどナルトにとってはあまり楽しい時間ではなかった。

 

 強くなりたい。

 誰よりも強くなって、火影になる。

 

 それが、ナルトの夢だったからだ。チームワークが大切だということは、今では、はっきりと理解することができているが、それでも……個人的な実力を求めていた。

 

 火影になる。

 だが、本当の夢は全くの別の所にあった。

 本当の夢は―――しかしナルトは、その夢を口にしたことは一度もなかった。口にすることができるほど、許される夢ではなかったからだ。

 

 カカシに個人修行を付けてもらえるということに、足取り軽く演習場へと向かった。ちょうど昼時だったせいか、演習場には誰もいなかった。ナルトとカカシは対峙するように、六メートルほど距離を取って立っていた。

 

「よし。んじゃ、始めるか」

「オスッ!」

 

 どんな修行を付けてくれるのかという期待と興奮が存分に混ぜられた明るい声。心の中では、きっと凄い忍術を教えてくれるに違いないという根拠のない確信に包まれていたが、カカシの一言に、そんな願望はあっさりと否定された。

 

「とりあえず、螺旋丸をやってみてくれ」

「……へ?」

 

 拍子抜けしたかのような声を出し、ナルトは眉尻を下げた。

 

「どうして?」

「ん? 修行。お前の忍術を成長させようと思ってな」

「螺旋丸ならもう使えるんだけど……」

 

 アカデミーの頃からずっと、一人で修行し続けてきた術だ。今ではもう、影分身の術に次いで得意な術の一つで、しかし勿論、完璧ではない。まだまだ未熟で修行が必要だけれど、折角の修行をカカシから付けてもらえるのだから、また別の術を教えてほしいという思いと、この術だけは自力でマスターしたいという思いがあったからだ。

 

 数少ない機会だと思っていたのに、蓋を開けてみれば復習を兼ねたものだったことに、あっという間にナルトのテンションは下がっていった。それでも、修行を付けてくれるというこの機会を無駄にしたくないために、ナルトは声を上げた。

 

「あのさーあのさー! 俺ってばもっと別の術を教えてほしいんだよ! こう、バーッて、カッコよくてすんげー術をさー!」

「何言ってんの。螺旋丸だって、カッコよくてすんげー術だよ」

「そんなこと、俺が良く知ってるってばよ! そーじゃなくて……」

「落ち着けナルト。確かにお前は螺旋丸を使えてる」

「じゃあなんで―――」

「それはな、まだお前の螺旋丸は完璧じゃないからだ。ま、じゃあ、ちょっと見てろ」

 

 そう言うと、カカシは右手を前に掲げ、五本の指を器に見立てるかのように小さく曲げた。

 

「え?」

 

 カカシの右手の形は見覚えのあるものだった。

 何度も何度も自分が実践し、そして、かつて見た彼女の右手の形と酷似している。

 そしてカカシの右手の中空に、球形のチャクラの塊が形成された。

 

 発現された螺旋丸に、ナルトは瞼を見開いた。

 

「カカシ先生も螺旋丸使えたのかよ?!」

 

 まあな、とカカシは頷いてみせると、螺旋丸を発現させている右手を僅かにナルトへと近づけた。

 

「見てみろ。お前が使っている螺旋丸よりも大きさは三回り小さいだろ」

 

 言われてみれば、カカシの指摘する通り、自身が発現させている螺旋丸よりもコンパクトだった。

 そして、自分の目指している過去の思い出と瓜二つ。

 ナルトの蒼い瞳は、懐かしむように、憧れるようにカカシの螺旋丸を見つめ続けていたが、カカシがあっさりと螺旋丸を解くと「あ」という声が漏れてしまった。頭に思い浮かび始めていた大切な人の姿が、霧の向こうに行ってしまったかのように消えてしまう。

 

「いいか? ナルト。螺旋丸は本来、一撃必殺の上位忍術だ。今のお前に説明しても難しいだろうが、ある種、完成された忍術とも言うべき術なんだ」

「完成された……忍術」

「だが、お前はこの術を使いこなせていない。それに、発現させるのに時間をかけ過ぎだ。実戦で使うには、まだまだってこと」

 

 確かに、これまで一度も実戦で螺旋丸を相手に当てたことはなかった。実戦という形式が元々、全体数として少ないのだけれど、質という面ではレベルが高いものしかない。

 

 下忍昇格を認めるためのカカシとの模擬戦。

 任務の為に波の国へと赴く道中での桃地再不斬との戦闘。

 波の国での白との戦い。

 

 どれも自分よりも格上の相手で、特に再不斬と白とは命懸けの戦いだった。

 しかし、どの戦闘でも、螺旋丸を当てることは出来なかった。発現させることは出来ても、使用できているかというと全く別の次元である。

 

「ナルト、まずはやってみろ。俺も、じっくりお前の術を見たことは無かったからな。なるべく小さく、集めたチャクラを押し縮めるようにしてみろ。当然、チャクラ量はそのままで」

「………………」

 

 ナルトはおもむろに右手を構えた。掌を上に、指は器を模るように少し曲げて。チャクラを掌の中心、中空のやや上に集中させ、乱回転。

 

 掌の上に、螺旋丸は発現する。しかし、大きさは、カカシのよりも大きいもの。カカシのがゴムボールほどの大きさだとするならば、ナルトのはバスケットボールほどの大きさで、密度も緩やかだった。

 

 そのまま、チャクラをさらに集中させる。

 

 つい先ほどカカシが見せてくれたものをイメージしながら。

 

『いい? ナルトくん。よく、見てて』

 

 フラッシュバックする。

 いつの間にか、理想とするチャクラの形は、彼女から初めて見せてもらった時のものを、心は目指していた。

 

 何年も前のことで、今までは細かい部分は忘れかけていたけれど、カカシのおかげで今だけは思い出すことができた。

 

 ―――フウコの姉ちゃんが、見せてくれたように……ッ!

 

 チャクラが小さくなり始め、みるみるうちに密度が濃く、鮮明になっていく。大きさは、サッカーボールほどにしか縮まっていなかったが、手応えのようなものは感じ取った。

 

 暴発しそうな感覚が、掌の経絡系に、重い負担となって伝わってくる。歯を食いしばり、耐える。が……。

 

「うわぁッ!?」

 

 チャクラは暴発し、その爆風と衝撃でナルトは後ろに大きく尻餅をついてしまった。近くにいた小鳥は爆風に驚き飛んでいき、舞い上がった砂埃は仰向けに倒れたナルトの鼻先を痒くさせた。

 

 久々の失敗だと、ナルトは青空を眺めながら思った。

 だけど、悔しさとかはなかった。思い出すことができたからだ。

 

 大切な人から教えてもらった、大切な術を鮮明に思い出せた。そうだ、螺旋丸はもっと小さかった。小さくて、綺麗で、宝石のようだったんだ。いつの間にか、あの時の記憶を大きく残してしまっていた。

 

 仕方のないことかもしれない。まだアカデミー生でしかなく、今よりも幼かったのだから。子供の記憶というのは、いつか振り返ってみれば、壮大だったものは意外と当たり前だったり小さかったりするものだ。

 

 ナルトは下半身を大きく折り曲げると、戻す反動で飛び上がるように立った。

 

「なあなあカカシ先生! どうやったら小さくできんだ?!」

 

 修行を始めた時の低いテンションはすっかりと無くなり、意気揚々とカカシを見上げた。カカシは音のないため息をマスクの向こう側から吐いた。

 

「都合がいいな」

「いいじゃんかよ! それはそれ、これはこれだって!」

「あ、そ。……じゃ、とりあえず」

「うんうん!」

 

 ナルトは大袈裟に頷きながら、カカシの言葉を待った。完璧に螺旋丸を使いこなせた彼なら、しっかりとしたことを教えてくれるのではないだろうか。そういう期待があった。

 

 だが―――。

 

「チャクラコントロールの基礎からだ」

 

 その言葉に、大きく落胆することとなる。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 午後の任務が終わる頃には西の空はオレンジ色になっていた。けれど、西の空の一部に低い分厚い雲が途切れ途切れに浮かんでいるせいで、まだ浮かんでいる太陽そのものは見えず、雲に作られる青紫色の影とオレンジ色の光がカーテンのように広がっていた。どこか幻想的な空模様に陽気なカラスが二羽ほど、濁った鳴き声を出しながら飛んでいる。

 

 その鳴き声にかき消されてしまうほどの小さく、けれどどっと疲れたかのような重いため息を、ナルトは自宅のアパート前で吐き出した。

 

「今日は……メッチャ疲れたってばよ…………」

 

 夕食時に近いからか、辺りには誰もいない。ナルトの独り言は誰の耳に入ることもなく、アパートの脇に設けられた階段を上がった足音にあっさりと邪魔される。鍵を取り出して、自室のドアを開ける。身体を滑り込ませてドアを閉めると、オレンジ色の光は遮られ、ぬるま湯のような暗闇に包み込まれた。

 

 ダラダラとフラフラと短い廊下を進み、寝室兼リビングの狭い部屋の八分の一ほどを占めるベッドに身体を簡単に預け、うつ伏せになる。

 

「……カカシ先生ってば…………、螺旋丸のこと、全然教えてくれないし………………任務は無駄に疲れるもんだったし……」

 

 結局、螺旋丸そのものの修行を付けてもらえることはなかった。チャクラコントロールがまだまだという理由、そしてカカシ自身が修行して身に着けた術ではないという理由が原因だった。

 カカシが修行して身に着けた術ではない、ということを聞いた時は驚いたものの、彼の持っている写輪眼のことを考えると必然だったかもしれない。

 

 とにもかくにも、修行は終始チャクラコントロールの訓練だった。波の国での任務で行ったような急ごしらえのようなものではなく、厳格で厳密なもの。そのせいか、午後の任務の前にほとんどのチャクラを消費してしまったのだ。挙句に、修行の最後には螺旋丸をやってみろと言われ、当然のことながら大量にチャクラを消費してしまったせいか、思うように球形を作ることすらできない始末。

 

 チャクラコントロールは幾分かは上達したように思えるけれど、なんだか、遠回りをするかのような修行だった。

 

 チャクラの消費により疲れ切った身体で行った任務は、前に一度行った【猫探し】。しかも、同一の依頼主で探す猫も一緒だった。猫も知恵を付けたのか、前回のよりもすばしっこく、より獰猛だったため、何度もチャンスはあったが手間取ってしまい無駄に体力を浪費したのだ。

 

「チクショー……サスケのヤロー…………」

 

 脈絡もなくナルトはそう呟いた。今日の任務のことを思い出した時、まるで滑り込むように浮かんだ彼の顔に、微睡みが尾を潜めた。

 

『しっかりやれ、ウスラトンカチ』

 

 最初のチャンスでナルトが捕獲するのに失敗した時、サスケは吐き捨てるように言ったのだ。

 

 彼はよく、ナルトをウスラトンカチと評価する。時にはドベと言う時もあるが、ほとんど使われることはない。正直、毎回そう言われるとムカついてしょうがなく、そして今日のその時もムカついた。

 

 しかし……。

 

「今度こそ……あいつより活躍してやるってばよ」

 

 ベッドに押し付ける顔が少しだけ笑みを作ったのを、ナルトは少しだけ自覚すると、ふと、頭の中に過った。

 

 もしもの世界。

 

 もしも、彼女が―――フウコがいたら、どうなっていたんだろうと。

 

 アカデミーの頃からサスケを一方的にライバル視してきた。

 アカデミーを卒業し、第七班として自己紹介をする時に、彼女を殺すと宣言した時は怒りで頭の中がパンクしそうになった。

 

 だけど、もし、フウコがいたら。

 今よりも素直に、同じチームの仲間として、純粋なライバルとして関わり会えたのではないかと。

 

 勿論ナルトは、サスケに対して幾分かの憎しみを持っている。

 

 自分はまだ、彼女を信じている。

 うちは一族抹殺事件の犯人とされているが、きっとそれは、何かの間違いなのだと。本当の犯人はどこかにいて、もしかしたら、彼女はその犯人と戦っているのかもしれないと。

 

 その思いを、サスケは正面から否定する。

 それが許せなかった。多分、また彼女を殺すとサスケが口走るものならば自分はあっさりと怒ることだろう。

 

 それでも。

 そんな憎しみを抱いていても。

 心のどこかで……彼を自分の繋がりの一つだと認識している。

 

 幼い頃から大人たちの冷たい視線にさらされ、唯一で明確な繋がりだったフウコがどこかへ行ってしまったという喪失感を経験したナルトは、たとえどのような繋がりであっても、それを全て否定することはできなかった。

 

『ナルト……お前、どうしてッ!?』

『……うる、せぇ…………。身体が勝手に……動いちまったんだよ…………』

 

 ナルトの繋がりへの思いを象徴する出来事は、波の国での任務のこと。

 線の影を作る白の攻撃を防ごうと倒れているナルトの前に瞬時に移動したサスケを、ナルトは押しのけた。

 

 そこから先のことを、ナルトは覚えていない。

 

 目を覚ました時には建設途中の大橋は半壊し、ガトーの死体と共に終結した戦闘の跡だけだった。

 

 意識を失ってから、何が起きたのか、それはカカシもサクラもサスケも教えてはくれない。今も特に気にすることはあまりなく、強いて言えば……どこかへと行ってしまった再不斬と白のことくらい。

 

 あの波の国での任務ではっきりと脳裏にこびりついて、忘れようとすることができない情景は……目を覚ました時に安堵の表情を浮かべた、カカシとサクラ、白……そして、本当に僅かだが、笑っていたサスケの表情だった。

 

 嬉しいような、そうでないような。

 

 曖昧で強がりな自身の感情がどんなものなのか、それを判別しようとした時、腹の虫が悲鳴をあげた。

 

「……腹減った~。メシ、食うか」

 

 ベッドから起き上がり冷蔵庫に近づくと、冷蔵庫のドアに小さな貼り紙があった。

 

【ナルトくんへ。今日は用事ができちゃったから、一緒にご飯を食べれなくなちゃった。ごめんね。おかずは作っておいたから、食べてね。特にサラダはいっぱい作ったから、残さず食べること! ご飯は炊いておいたから。 イロミより。

 

 追伸:カップラーメン食べ過ぎないように。夜食はほどほどに】

 

 冷蔵庫を開けてみると案の定、どんぶり山盛りのサラダと、鍋ごと入れられた肉じゃがが入っていた。

 

「……イロミの姉ちゃん、作り過ぎだってばよ。俺、兎じゃねえのに」

 

 口をへの字にしながらも、素直にサラダをテーブルに置く。肉じゃがの入った鍋はコンロで強火に暖めなおした。炊飯器を開けると、二合分の米が炊かれている。肉じゃがが温まる頃には、サラダにドレッシングをたっぷりかけて、ご飯を器に盛り、最後に敷いた新聞紙の上に鍋ごと肉じゃがを移動させた。

 

「そんじゃ……いただきますッ!」

 

 サスケへの感情。

 フウコへの感情。

 今はまだ、秘めたものにしよう。

 

 とにかく今は、強くなること。

 強くなって、火影になって、

 そして、

 フウコが帰ってこれるように、里を変えることだ。

 

 

 

 ―――鬼と道具と、人形と風と―――

 

 

 

 ほんの少しのヒビからでも、水は漏れる。もし漏れた下が平坦な床ならば、水は薄く広がるだけ。しかし、もし下り坂ならば、水は止まることなく流れ落ちるだろう。流れを作った水は、容易なことでは止まらない。道中の汚れを全て削り吸い、漆黒に染まりながらも、まるで意志を持つかのように最後まで流れ落ちる。

 

 流れ落ちた先には、きっと汚いものに溢れている。いつだってなんだって、底というのは穢れた、あるいは祟られた死体が転がっているというものだ。

 

 ましてや、死肉を漁りながらも上へ上へともがき叫ぶ鬼がいるのならば、きっとその水は鬼を溺れ殺そうという意志で動いているのだろう。

 

「……白…………お前だけでも……逃げろ…………」

 

 その日は、雨が降っていた。暗闇に溶け込む豪雨。そう、つまり深夜だ。

 

 頭上に分厚く鎮座する巨大な雨雲からの水滴のせいなのか、それとも切り落とされてしまった右腕から出た血液による不足のせいなのか判然としないが、朦朧とする視界の中、桃地再不斬は呟いた。彼の脇―――正確には、彼の左肩を支え、共に歩いている―――の少年、白に言ったのだ。

 

「嫌です……。ボクは、貴方を見捨てたりは決してしませんッ!」

 

 本当なら、女性すら嫉妬してしまうほど整えられ雪のように白い肌を持つ彼だが、今は闇と雨に紛れるために顔に泥を塗りたくるカモフラージュを施していた。再不斬も同等に、顔に泥を塗っているが、豪雨の中をさまよっている間に、二人のカモフラージュはほとんど意味を成していなかった。

 

 二人は、霧隠れの里の【追い忍】に追われていた。

 

 抜け忍である二人の遺体を引き渡そうと、予めガトーが霧隠れの里に報告していたのだろう。遺体を引き渡せば、波の国での些細な出資も帳消しにできるだろうと、ガトーは思っていたのだ。はっきりと自分と白の強さを象徴し、不用意な行動をとらせないように脅しをかけていたのだが、まさかここまであっさりと掌を返してくるとは思っていなかった。

 

 いくら騙し、騙される、弱肉強食の世界だからと言って、あそこまで躊躇いもなく驕る愚か者がこの世にいるということには、これまで強者と争ってきた再不斬にとっては思考の外。本当の弱者を知らなかった、再不斬のヒビだった。

 

 追ってきた追い忍は、総勢で三十人。これまでで一番の人数だった。

 

 勝手知ったる同郷の忍。追い忍も追い忍で、再不斬と白の遺体が素直に渡されるとは思っていなかったのだ。しかし、これまで行方をくらましていた危険人物の居場所が明確に分かった以上は、確実に仕留めに来た。

 

 三十人中、十人は殺した。五人は白が、残り五人は再不斬が。しかし、そこまで来て、再不斬は右腕を失ってしまった。さらには、右ふくらはぎには幾本ものクナイを刺されてしまい、チャクラの消費と戦闘による疲弊で、もはや一人で歩けない状態。追い忍というエリートたちに加え、数の理。腕を失ってからは、逃げることに徹したのだ。

 

「俺の……言うことを聞け。お前は、俺の道具だ」

 

 道具。

 

 その言葉を呟いた時、再不斬の心が震えた。

 

 波の国での戦闘。

 あの日に戦った者たちは決して、互いを道具とは認識していなかった。

 共に戦う仲間。

 馬鹿で間抜けな、綺麗ごとの集団だと最初は反吐が出そうなほどだったが……その認識は傾けられた。

 

 九尾の化け狐。

 

 たしか名は―――うずまきナルト。

 白の攻撃を受け、仮死状態になった彼はあの時……その姿を現した。

 

 目ではっきりと見えてしまうほどの、高濃度で炎のように赤いチャクラを纏い、全身を血だらけにした姿。チャクラは青天井に増え続け、まるで小さな九尾の姿になった彼を……カカシやサスケ、サクラは最後まで見捨てなかった。

 

 その姿が……頭の中にこびりついて離れない。太陽を見た時にしばらく視界に残像が残るかのように、ずっと。

 

 肩を担いでくれている白は呟いた。

 

「はい、ボクは再不斬さんの道具です」

「……なら…………」

「道具は、決して一人で逃げたりはしません」

 

 道具。

 その言葉を呟く白に、先ほどよりも大きく心を揺さぶられた。

 

 霞む視界。それでも、横見るとたしかに、白は笑っていた。

 

「安心してください。再不斬さんは、ボクが守ってみせます。絶対に死なせたりしません」

 

 いつだって彼は優しかった。

 霧隠れの里を出た時に拾った孤独の少年。様々な仕事をしてきたが、ずっと隣にいたのは彼だけだった。長い時間関わってきたせいか、彼の感情はいつだって読み取れてしまう。

 

 波の国での戦闘に苦心していたことも。

 戦闘が終わり、誰も死ななかったことに安堵していたことも。

 切り落とされた右腕を止血している時に大きく悲しんでいたことも。

 

 そして今の彼の笑顔が、誰よりも優しかったことも。

 

 音がした。

 

 豪雨の中、大量の足音を聞き分けることができたのは、再不斬だけだった。

 足音は一直線にこちらに向かい、そして、必殺の速度で近づいてきていた。

 

 振り向いた瞬間には―――既に、一人の追い忍が刃を振り上げていた。

 

 決して避けることはできない間合いと時間。

 再不斬は瞬時に左腕に力を込めて白を突き放そうとした。

 明らかに、生き残るのには不要な動作。かつての再不斬なら、迷わず白を盾にして背負っている首切り包丁で反撃していただろう。

 

 いやそもそも―――白を囮にして、自分だけ安全に確実に逃げ切っていたはずだ。白を突き放した場合、避けようとしても身体のどこかは切り離されることは必須。

 

 どうして自分がそんな無駄な動きをしたのか、再不斬は自身を理解するよりも早く白を突き放そうとしたが―――逆に突き放されたのは、自分だった。

 

 再不斬の首の動き、そして腕の動きで、白は状況を理解したのだろう。再不斬を突き放す際に首切り包丁の柄に彼は手をかけていた。

 

 再不斬さん、お借りします。

 

 白の横顔の口が、そう言ったような気がした。

 まるで別れを呟くように。

 

「―――ッ!?」

 

 意識が時間を細かく刻み、捉える。スローモーションに視界の映像を捉える意識だったが、身体は動かない。走馬灯のように見える光景。その光景の果てを、再不斬は瞬時に予測できてしまった。

 

 間に合わない。

 白が握った首切り包丁が追い忍の首を刎ねる前に、白の首が刎ねられる。

 白も既にチャクラを使い果たしている。いつもの氷柱のような鋭さの速度を出せてはいない。千本も使い果たしている。

 

 首切り包丁を持ったのはおそらく、自分の命と引き換えに追い忍を殺すため。白ならそれぐらい、平然とやるだろう。

 

 道具として、主を守るために。

 

 道具。道具、道具。

 

 彼に科してしまった印を象徴するかのように。

 

 止めろ。

 再不斬は叫んだ。

 いや、心の中で。身体は、意識が刻んだ時間の中を動いてはくれないから。

 

 止めろ、白ッ!

 

 何度も叫ぶ。

 鬼のように。

 それでも時間は進んだ。

 

 追い忍の刃が、白の首を―――捉えようとした瞬間。

 

 黒い風が、追い忍の首を攫った。

 

 

 

 ここで再不斬は、夢から覚めた。

 

 

 

「再不斬さんッ!?」

 

 目を覚ました再不斬の視界に真っ先に入ったのは、天井からぶら下がる裸の豆電球。オレンジ色の光を放つ豆電球だったが、その光を遮り入ってきたのは、白だった。

 

「白…………か?」

 

 確かめるように、彼の名を呟いた。目を覚ましたばかりで、意識が現実と夢を区別できていない。

 

 白は男性にしては長い髪の毛を解いていた。雪のように白い肌は、豆電球を後ろにして影を作っても光を放っているように綺麗で、しかしその表情は安堵と悲しみでくしゃくしゃに歪んでいた。

 

「よかった……っ。再不斬さん…………目を……覚まさないから……ボク…………もしかしたらって……」

「…………ここは、どこだ?」

 

 白が生きていてくれたことに安堵しながらも、逃げるように再不斬は平静を装い、視界を横に動かした。真っ先に目に入ったのは、左腕に繋がれている点滴だった。その向こうには石の壁。

 

「再不斬さん、どこか、身体に痛い所はありますか? 異常がある所とか……」

「無い」

「本当ですか?」

「無い。しつこいぞ」

 

 そう言うと白は嬉しそうに笑い、目端に溜めてしまっていた涙を指で拭った。

 

「ここは……どこだ? 霧隠れの里か? 追い忍の連中は、どこ行った?」

「大丈夫です、再不斬さん。追い忍はいません。ここは、彼のアジトです」

「……アジトだと?」

 

 彼、と白は誰かを指したが、思い当る人物は見当たらない。そもそも、抜け忍として活動してからというもの、自身の足取りが付いてしまう不用意な人間関係は作らないようにしていたし、関わった人間は悉く殺してきた。

 

 強いて言うなら、そう、はたけカカシなど。しかし、カカシのアジトというのはおかしな表現で、そもそもカカシやあの連中が関わってくるとは思えない。

 

 再不斬はゆっくりと身体を起こした。

 

「あ、再不斬さん、無理に起きないでください。死んでしまいます」

 

 特に反応することもなく、そのまま上体を起こした。右腕に違和感を覚えたが、見ると右腕はなくなっている。肩口から先が無い。けれど、落胆することもなかった。ああ腕はなくなったのか、そう思った程度である。

 

 上体を起こすと白は身を引き、再不斬が横になっていたベッドの脇に置いた椅子に腰かけた。

 

 部屋は狭かった。再不斬が使っているベッドと白が使っている椅子。それだけでもうほとんどスペースがない。左腕側の壁は石だったが、上体を起こした真正面と右腕側の壁はガラス張りだった。後ろ側は石壁で、けれどそちらには鉄製の扉がある。

 

 ガラス張りの向こう側には光源がない。部屋の豆電球が微かに向こう側の暗闇を後退させる程度で、それに向こう側の壁は見えなかった。

 

 ふと、ガラス張りの向こうに、何かが大量に置かれている物を発見した。

 

 最初は人の腕や足かと思ったが、よくよく見ると、人間のそれではなかった。

 

「……傀儡人形(、、、、)か?」

 

 呟き、そう思って見てみると、やはり、そうだった。正確には、傀儡人形の腕や足の部品部分が、床に散らばっている。まるで子供が遊んだかのように、乱雑に投げ捨てられていた。

 

「今まで何があった」

 

 白は小さく頷いた。

 

「ボクたちは助けられたんです」

「誰にだ? お前が言った【彼】という奴か? 何者だ」

「助けてくれたのは、別の人です。そう、女の人。ですが、すみません。誰なのか、というのは分からないんです。二人とも、自身の名前を言わないので。ただ、再不斬さんを治療してくれた人は、目を覚ましたら事情を説明すると言ってました」

 

 ちらりと再不斬は視界を這わせる。首切り包丁は見当たらなかった。

 

 その時、暗闇の向こうから扉が開く音がした。重々しい音。再不斬は臨戦態勢に入った。命を救ってくれたのはありがたいが、命を救ってくれた後がありがたいことになるかは別の話し。

 

 忍は騙し騙され、利用する側と利用される側がいるという認識は、今でも揺るがない。ましてや相手は、傀儡人形を扱う者。それは、再不斬が初めて戦うスタイルの相手だった。

 

「……なんだ、生きていたか」

 

 扉を開けた者は、小さく呟いた。コツコツと石の床を叩く足音をゆっくりと立てながら、声の主は近づいてくる。

 

「死んだら、俺の傀儡コレクション(、、、、、、、、)に加えてやろうと思っていたんだがな。まあいい」

「てめえは誰だ?」

 

 すると声の主は鼻で一笑した。

 

「俺が誰だろうと、お前らには関係ない。今お前らは、俺の手の中にいる。お前らは演じる側、俺は劇を指揮する側。それだけ分かれば十分だろう」

 

 つまりは、利用する側と利用される側。

 

 これまで何度も、こういった手合いを経験してきた。大抵は依頼を受けた後には殺してきたが、今は圧倒的に分が悪い。目を覚ましていきなり詰まれている状況は、再不斬は初めてだった。

 

 ちらりと、再不斬は横の白を見る。

 なぜ彼を見たのか。

 その感情をおっかなびっくりに、そして無意識に心の奥に潜ませる。

 再不斬は再び、逃げるように声の主の足音がする方を見た。どうやら外側は、大分広い部屋のようだ。

 

「……何がご希望だ?」

「そう身構えるな、安心しろ。お前たちに危害を加えるつもりはない」

「ほお……。俺たちを今まで雇った依頼主様(、、、、)たちもそう言ってきたが、最後までその契約を反故にしなかった奴らはいなかったな」

「だろうな。だが、事実だ。たとえお前たちが俺を殺そうと、その部屋から出ようとすれば、部屋中に催眠ガスが広がるだけだ」

「眠っている間に殺してくれるってのか……。随分とお優しいご主人様だな」

「そうだな、俺も同感だ。あの女(、、、)の考えは、俺も理解できない。邪魔者はさっさと殺せばいいだけなのにな」

 

 あの女。その情報を再不斬は頭に入れたが、すぐに白が「ボクたちを助けてくれた人です」と呟き、情報を更新する。つまり敵は、二人だ。

 

 声の主は足を止めた。しかし、顔は見えない。首から下はようやく見える距離だ。黒いコートを羽織り、赤い雲のマークが施されている。

 

「その女をここに呼べ、てめえじゃあ話しにならねえ」

「生憎、あいつは寝ている。起こそうと思ってもなかなか起きない。だから俺がここに来たわけだ。言ったはずだ、俺たちはお前たちに危害を加えるつもりはない。というより、あの女がそれを許さないからな。もしお前たちを殺せば、俺が殺される」

「……俺たちは何をしたらいいんだ?」

「俺たちの仲間になれ。そして、あの女の手足になるんだ」

 

 仲間になれ、というのは初めての契約条件だった。声の主は続ける。

 

「もしお前たちが俺たちの仲間になるなら、ここと、そして他にも幾つかあるアジトに入るための印と術式を教える。それさえ知れば、どこからでもアジトに自由に行き来できる上に、アジトは誰にも見つからない。つまり、安全に暮らせる場所を提供する。一カ月籠っていても生きていける快適なアジトだ」

「……断ったら?」

「お前たちを眠らせ、そこら辺の森にでも捨て置く。それだけだ。後は死ぬなり生きるなり好きにしろ」

「………………」

 

 少なくとも。

 敵意は、感じ取れなかった。

 治療を施してくれたこと。

 追い忍を退け、白を助けてくれたこと。

 声の主の平坦な声。

 どれからも、こちらに危害を加えようとはしていないように思える。

 

 ただ、思える、というだけで、確実ではない。いつまたどこからかヒビが入り、水が流れ込むか分からないからだ。

 

「……仲間になって、真っ先に俺たちは何を依頼されるんだ?」

 

 仲間になれ、という契約条件は分かったが、もっと深い、肝心な部分を聞かされていなかった。

 

 声の主は「ああ」と思い出したかのように低く声を出した。

 

「そうだな。忘れていた」

「契約内容を最後まで見ない内は、信用できねえからな」

「あの女の世話で忙しかったからな。メシの用意に薬の調合に、身体のメンテナンス。もしお前らが仲間になるなら、メシの用意くらいはまずしてもらわないとな」

「冗談は止めろ。さっさと言え」

「お前らには、ある男を探してもらう。無音殺人術(サイレントキリング)の天才のお前には、ちょうどいい依頼だ」

「俺を知っていたのか?」

「そこのガキは知らないがな。じゃなきゃ、お前を仲間にしようとは、流石にあの女も思わないだろう」

 

 すると声の主は一度後ろに下がり、何かを探し始めた。ガチャガチャと工具やら何やらがぶつかる音。しばらくすると声の主はこちらに近づいてきた。豆電球の光が、声の主の顔を照らす。

 

 人形のように無機質で、どこか疲れ切ったかのような表情を浮かべている、少年だった。髪の毛は赤。

 

 声の主―――サソリは、手に取った紙を広げて再不斬と白に見せる。紙には、探してほしいという男の写真が貼られていた。

 

「大蛇丸という男だ。名前くらいは聞いたことがあるだろう。こいつを探してきてほしい」

「伝説の木の葉の三忍だと? どういうつもりだ」

 

 サソリは紙を下げると、応える。

 

「この男は、あの女と俺のように同盟関係だったが、ここ最近、連絡が途絶えてな。だが、死ぬような男じゃない。何かを企んでいる。お前らには大蛇丸を探し、俺たちに報告するだけだ。簡単なことだろ?」

 




 登場人物の補足説明

 ここでは、今回の話にスポットが当たった登場人物とイロミについての補足説明をさせていただきます。理由と致しましては、波の国編をこの度は省略するという形になったため、原作様と幾分か異なる部分があるためです。

【春野サクラ】
 :第七班の一人。技術、実力は原作様と大きく変化は無い。人間関係も特に変化は無い。

 サスケに対しての好意も同様で、山中いのとは恋のライバル関係である。しかし、サスケの兄であるイタチに対しては意気投合している模様で、もはやファン仲間に近い。

 ナルトに対しては、アカデミーの頃までは【体術だけが取り柄のナルト】と評していたが、下忍昇格で見せた【多重影分身の術】と【螺旋丸(未完成)】を見て評価を改めている。波の国での【ある出来事】はカカシから禁だと指示を受けているものの、ナルトとは第七班の良き友人だと認識している。

【うずまきナルト】
:第七班の一人。アカデミーの頃は座学全般が壊滅的だったものの、フウコから教えられた体術などを身に着け、体術のみは好成績を叩きだしていた。下忍昇格試験では、カカシ相手に多重影分身の術で不意を突き螺旋丸を実戦で初めて使用、しかし変わり身の術で回避され不発。フウコが里を出てから螺旋丸の術を何度も練習したおかげで片手で発現できるものの未完成で、チャクラコントロールそのものは上達していない。

 サスケに対しては憎しみを抱きながらも、自身の一つの繋がりとして強く認識している。イタチに対しては【苦手意識】程度のものを持っているが、イロミに対しては親しく、晩御飯や部屋の掃除などをしてもらっており時折修行も付けてもらっている。

 サクラ及びカカシへの認識は原作様と大きく変化は無い。

【桃地再不斬】
:霧隠れの里の抜け忍。波の国の道中、及び建設途中の大橋にてカカシらと戦闘する。水牢の術でカカシを抑え込んでいる際に、向かってきたナルトの螺旋丸を足一本で彼の顔を蹴り飛ばすことで回避する。二度目の戦闘では、カカシの雷切を受けそうになった時に【ある出来事】によって戦闘は中断。その後、手下共々を連れてきたガトーを瞬殺しその場を後にする。

【猿飛イロミ】
:特別上忍である。同じ地位にいるが上司である、みたらしアンコに、元滝隠れの里の忍であり友人であるフウ共々こき使われる日々を送っている。ここ最近は、アンコ自身が忙しくなっているせいか、些細な雑務をさっさと終わらせ、近々行われる中忍選抜試験の書類整理をゆったり処理している。両手は機能不全のままであるが、手首からチャクラを指先まで伸ばし吸着などを行っているため、物を掴んだりすることが可能。実力は中忍の中では上位と言われるまでに成長したが、諸々の事情により決して上忍になることはできない現状である。

 次話は十日以内に投稿したいと思っております。また、これまで投稿してきたものは続けて誤字脱字などの推敲を続けていきたいと考えております(文章構成や内容に大きな変化は加えるつもりはありません。ですが、少しプロローグの文章の表現は大きく変えるかもしれません。ご了承ください)。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

表と裏:後編

 ―――うちはサスケの変化―――

 

 

 

 午後の任務が終わってから、サスケは演習場にいた。夕焼け空の下の空気は午前よりも温度は低く、面倒だった任務の後にはちょうどいい。任務は得るものが何もなく、ただ時間と些細な体力とチャクラを消費しただけの不毛な時間でしかなかった。ストレスが溜まっただけだったが、体温が下がると、少しだけ気分は改善されるような気がした。。

 

 ところが、演習場に着き、三本の丸太が立つ場所まで来ると、落ち着きだした気分がさざ波を出し始める。

 

 理由は単純。丸太の上で格好つけて立つ彼女の姿が、単にムカついただけだった。

 

「ふふーん、よく来たねサスケくん!」

 

 イロミは腕を組みながら声を高くする。

 

「その度胸だけは褒めてあげる。でもね、私はまだ怒ってるよ……紅ショウガじゃなくて、柴漬けを買ってきたことにねッ!」

「黙れアホミ。俺を見下ろすな」

 

 苛立ちを隠そうともしない鋭い視線をイロミに向けるが「全く! 貧乏生活の私でも、牛丼に柴漬けを合わせたのなんて初めてだよッ!」と、丸太の上で地団太を踏むという器用な動きをするだけで、それが益々サスケの苛立ちを逆撫でした。さらに「ふふん」と演技がかった笑みを浮かべると、サスケは小さく舌打ちをする。

 

「今日こそは教えてあげるからね」

「さっさと降りろ」

「私の方が年上なんだからねッ!」

「うるさい黙れ」

「それに上忍だからね! 特別が付くけど! 雑務処理しかやらせてもらえないけどッ!」

 

 とにかく彼女は格好つけたがる傾向がある。丸太の上に立っているのも、年上や地位を主張するのも、長いマフラーを年がら年中首に下げているのも、格好をつけるためだ。正直、頭が悪いようにしか見えなかった。頭が悪い相手を見るだけなら何も思わないが、不必要に絡んでくるのは鬱陶しい。

 

 イロミは丸太から飛び上がり、無意味な空中一回転をしてから着地した。

 

「それじゃあ、勝負しよ。勝ち負けの決め方は?」

 

 まるで負ける気がしないというのを露骨に主張する彼女の笑み。

 

 忍術勝負をすることになったのは、昼食時の会話で決まっていた。言い出したのはイロミである。紅ショウガを買ってきてくれるなら勝負をしてあげる、と。結局は紅ショウガを買ってこなかったのだが、そもそも買い物に集中していなかった。

 

 イロミと勝負できる。

 この機会はサスケにとって貴重なものだったのである。

 

 頭が悪そうに見えても、事実として、彼女はサスケよりも強かった。これまで何度も忍術勝負を彼女と行ったが、勝てた試しはない。

 

 里の中で実戦に近い勝負をすることというのは難しい。同じチームのカカシに、サシでの勝負を要求しても実現されない。兄であるイタチに言っても「もっと力を付けてからだ」と言われるだけ。他の上忍や中忍でも、下忍という地位では相手にされないのだ。

 

 その上、任務は地味で不毛なものばかりで、実戦とは程遠い。

 

 皮肉なことに、自分よりも強く、勝負の相手をしてくれるのは、最も鬱陶しく邪魔臭い彼女だけだった。

 

「勝ち負けはいつも通りだ」

「決定打を当てたらだね。他には? いつも通り? ハンデは無し?」

「ああ」

「うん。じゃあ、よろしくね」

 

 イロミは右手を顔の前に持っていく。不自然に曲がったまま固まってしまっている彼女の指は、しかし機械的な動きで人差し指と中指だけを立てる形を作る。忍術勝負を始める前の挨拶だ。サスケはイロミと距離を取ってから、対峙する。挨拶はしない。それが、今のイロミへの、サスケの評価だった。

 

 見下している訳ではない。

 鬱陶しくて邪魔臭いという意味合いはあるかもしれない。

 

 だが、本心では、やはり彼女のことが嫌いだった。

 憎いほどに、大嫌いだった。

 

「今日は―――」

 

 サスケは呟く。

 

「俺が勝つぞ、イロミ」

 

 小さくイロミが息を呑み込んだ音が届いた。彼女の視線は真っ直ぐ、サスケの両眼を見つめていた。

 

 写輪眼。しかし、彼がイロミとの戦闘で用いたことは何度もある。イロミが驚いたのは、写輪眼を発現させたことそのものではなかった。

 

 黒い瞳。その周りに浮かぶ、勾玉模様が、これまでは二つだったのに対して今は……三つ。イロミは一瞬だけ、サスケの写輪眼から、友人であるイタチを連想してしまい驚いたのだ。それによって生まれたイロミの僅かな思考の空白は、全く次の動作を起こそうとしないことを予測したサスケの写輪眼が明確に示していた。

 

 地面を蹴る。波の国での任務を経て毎日行ってきたチャクラコントロールによる、迅速な動き。

 

「うわ!?」

 

 振り抜いた右手をイロミは間抜けな声を上げながら、咄嗟に上体を大きく仰け反らせて避けた。重心を不必要にずらしてしてしまった彼女だが、その反動を利用して右足を振り上げる。特別上忍であるイロミだが、身体能力はあまり高くない。サスケはあっさりと腕で受け止めながら、彼女の左足を蹴る。背負った巻物ごと背中からイロミは倒れる。

 

 即座にイロミが右手をジャケットの中に入れようとするのを、瞬時に左足で踏み抑えた。

 

 彼女の一挙手一投足が、いとも容易く予測できてしまう。

 

「ちょ、不意打ちなんてズル―――」

「油断したてめえが悪いんだろうが」

 

 彼女の左腕も右足で踏み抑え、右手は拳。これを振り抜けば、勝てる。

 

「解」

 

 それでも、イロミは特別上忍だ。身体能力ではサスケより下でも、一応は上忍である。チャクラを巻物に送ると、彼女の【仕込み】が出現する。

 

「……ッ!?」

 

 蜘蛛の節足のような巨大な刃だった。地面を突き進み、イロミの両脇から六本の刃をサスケは後ろに跳んで回避した。流石に、見えない地面の下の物質の動きまでは予測することができず、大雑把な回避である。

 

「よかった、避けてくれて。大怪我したらどうしようかと思ったよ」

 

 すぐさま立ち上がった彼女は安堵の笑みを浮かべながらも、巻物を背から離し、紙を広げる。

 夥しい量の【封】という大小様々な文字。それはただの文字ではなく、脅威の象徴だった。

 

「解」

 

 弾丸のように出現したのは、イロミ特性の泥団子。廃油と泥と多種の粉末を練りこんだ、液状に近い拳ほどの大きさを持つ泥団子を、イロミの足元から順に敷き詰めるように飛来してくる。サスケは避けていった。触れてしまえば、へばり付き鉛のように重い泥団子に動きを制限される。これまでの忍術勝負で何度も手を焼いた泥団子の弾幕は、写輪眼が成長してから容易く避けることが可能だった。

 

(……あの時と同じだ)

 

 波の国での戦闘を思い出す。

 

 白という少年と戦った時のこと。

 

 ある時(、、、)を境に、急に白の動きを予測し捉えることができた。

 

 あの時の感覚が、集中力や危機感による高ぶりなどの一時的な現象ではないということをはっきりと確認した。写輪眼の成長に込み上げる笑みを抑えながら、サスケは印を結ぶ。

 

 写輪眼の力を確認するということ。それが、イロミが提示した忍術勝負に飛びついたサスケの心情だったが、目的は次にシフトする。

 

 先ほど宣言した通り、彼女に勝つ。

 

 印を結び終えたサスケは、態勢を大きく低くして、左手を筒のようにし口の前に構えた。

 

「火遁・豪火球の術!」

 

 口に溜めたチャクラを一気に吐き出した巨大な炎の塊。チャクラコントロールによる効率化のおかげで、直径三メートルにも及ぶ大火は油を染み込ませた泥団子を燃やし分離しながら、イロミを呑み込もうとする。

 

「ふふーん、解」

 

 出現するのは、膨大な水。どこかの池の水を封印していたのか、豪火球の術よりも三回り大きい球形の水は、大火を押しつぶしながらも表面が蒸発し辺りを霧で包み込む。蒸発しきらなかった水は地面に落ちると一気に広がる。

 

 濃霧の中。しかし、写輪眼は確かにイロミのチャクラを捉えている。次の行動も。彼女は巻物を投げてきた。蛇の尾のように紙を螺旋状に引きずりながら近づいてくる。

 

 巻物から距離を取ろうと足に力を入れるが、その時になってようやく、足元が不安定だったことに気付いた。

 

 地面に広がった水。それらが、イロミに近い泥団子の油を浮かせ、足を滑らせようとする。いくらチャクラを足元に集中させていても、乾いた地面と油の浮いた濡れた地面を移動するのでは、微妙な差が生まれてしまう。

 

(くそッ………)

 

 上体を大きく右に傾けながらチャクラを調節。しかし、第一歩を踏み出した時には、すぐ脇を巻物が通過しようとしている。巻物の尾には、イロミの指へと延びる一本のチャクラ糸が。

 

 いくら写輪眼でも、巻物から何が出現するのかまでは、予測できない。あくまで見える行動の予測だけ。巻物の取捨選択は、イロミの思考そのもの。

 

 何が出ても避け切るように、写輪眼の焦点を巻物に合わせるが……それは悪手。木の如く枝葉に分かれたイロミの思考の一つは、サスケの行動に触れていた。

 

(……ッ!?)

 

 上体を傾けたせいで、重心が右足一本に集中してしまっていた。その右足を掬われる。視界の端に、もう一本のチャクラ糸が。糸は、自身の右足に。

 態勢が完全に崩れると同時に「解」というイロミの声が。

 

 巻物の【窓】から出たのは、布のガムテープ。サスケの身体に貼りつき、動きを絡めていきながらも、投擲された巻物の勢いに引っ張られる。

 

「ホイホイ、ホイ」

 

 それからは一方的に、サスケは動きを封じられた。

 

投擲されて伸びた紙の部分をイロミはすぐさまチャクラ糸で動かし、ガムテープに雁字搦めにされたサスケにさらに巻き付けた。【封】という文字が書かれた面を内側に、簀巻きにされる。

 

 勝負はあっという間に決着してしまい、サスケの惨敗で終わった。

 

 ちょうど濃霧が晴れる。わざとらしく胸を張って近づいてきたイロミは、声のトーンを高くして言った。

 

「ふふふーん。もしこれで私がチャクラを送ったら、そこに入れてある槍とか刀とかがサスケくんを串刺しにしちゃうよ?」

「……うるせえアホミ。まだ勝負はついてねえ」

「そろそろ私を、イロミさんって、呼んでくれないかなあ? 呼んでくれたら、もう一回勝負してあげてもいいよ?」

 

 もう一戦できる。魅力的な提案だったが、即答することはできなかった。嫌いなイロミをさん付けで呼ぶということへの抵抗が六割、写輪眼の成長を確認できたことへの一応の目的の達成による諦観が三割。そして、不本意だが……まだ彼女の方が強いということへの認識が一割。それらが、返答を躊躇わせた。

 

 渋っていると、イロミは唇を尖らせた。

 

「もー。意地っ張りなんだから。……まあいいや」

 

 イロミは慣れた手つきでサスケを解放させた。巻物から解放してやり、ガムテープを剥がしてやる。自由になったサスケだが、服や顔には、地面を濡らしてできた泥が付いていた。

 

「ごめんねサスケくん。服とか汚れちゃったね、拭いてあげるからね。えーっと、タオルタオルっと……」

「……大きなお世話だ」

「そう言わないの。家に帰ったら、そのままの恰好で上がらないでよ? 掃除するの大変なんだから。靴とかの泥はしっかり落としてから―――」

「てめえが面倒なことするからだろ」

「私はあまり忍術が使えないからね。こんなバカみたいな方法じゃないと、勝てないの。はっきり言って、私と忍術勝負しても実戦的じゃないよ?」

 

 身体能力、忍術の精度など、忍としての基本的戦闘力では勝っているという感覚はあった。これまでの忍術勝負では、常に距離を離し、巻物の【仕込み】で戦うというスタイルでしかイロミは戦ってこなかった。彼女のことを強いとは思っているものの、彼女のような忍が他にもいるような気はしなかった。

 

(……いや…………里の外には、俺よりも強い奴がいる。当たり前のように……)

 

 思い出すのは、白のこと。

 

 彼は血継限界を持つ者だった。氷の性質変化を使用し、片手のみで印を結ぶことができた彼は、全く想定できなかった人物だ。もしかしたらイロミのようなスタイルの忍が他にいるのではないかという考えが過ると、いつの間にか、彼女を睨んでいた。イロミは巻物からタオルを取り出している最中である。

 

「イロミちゃーん!」

 

 その時、遠くの方から少女の声が届いた。夕焼け時の空気を一切に無視した、あっけからんと底抜けに明るい声。二人は同時に声の方に視線を向けると、演習場を囲う木々の上を器用に飛び回る少女―――フウがいた。

 

「とうっ!」

 

 特に障害物がある訳でもないのに、サスケとイロミに一番近い木から無駄に高いジャンプをすると、別に審判がいる訳でもないのに六回転の捻りを加えた宙返りを披露して、イロミの前に着地し、

 

「ぬがッ!?」

 

 油の浮いた地面に足を滑らせた。ダイナミックに前面から転んだせいで、サスケの頬には跳ねた泥が付くのを、イロミはタオルで拭きながら彼女に尋ねた。

 

「……大丈夫? フウちゃん」

「ぶくぶくぶく、ブクブクブク?」

 

 泥に顔面を埋め込んだままフウは何かを言っているが、もちろん聞き取れない。煩い奴が増えた、とサスケは内心で舌打ちしながら、イロミからタオルを奪い自分で泥を拭き始める。

 

「何言ってるか分からないんだけど。フウちゃん?」

 

 フウは顔だけをイロミに向けた。

 

「…………カッコよかったっすか?」

「相当間抜けだったよ」

 

 同感、とサスケは思う。

 

「どうしてここら辺、濡れてるんすか? 今日は雨が降ってないはずっすけど」

「サスケくんと忍術勝負しててさ、まあ、そこで色々やってさ」

「え?! サスケくんがいるんすか! ってことは―――」

 

 飛び跳ねるように立ち上がった彼女は、泥パックをした顔をキョロキョロと辺りに向けた。

 

「イ、イイイイイ、イタチさんがいるんすかッ?! ど、どこどこどこ?!」

「いや、いないけど」

「……えー」

「イタチくんは任務が入ったみたいだから」

「そんなぁ。…………あ、サスケくん、どもっす。泥塗れで酷い顔っすね」

「お前にだけは言われたくねえ」

 

 はいタオル、とイロミは巻物から新しくタオルを出してフウに手渡した。巻物には油でも塗られているのか、表紙に付いた泥は軽く振るとあっさりと地面に落ち綺麗なままで、イロミが手早く伸びた紙を丸めると元通りになる。それを背負いながら、イロミはフウに尋ねた。

 

「何か用?」

「あ、そうなんすよ。アンコさんがイロミちゃんのこと呼んでたっすよ? 何だか、仕事をしろーとか、叫んでたっす。何かやったんすか?」

「うーん……やっておくべき仕事はやったんだけどなあ。え? そんな叫んでたの? 何か、具体的に言ってない?」

「フウは、連れて来いって言われただけっす」

「じゃあとりあえず、アンコさんの所に行くよ」

 

 どうやら、たとえこれからもう一勝負と言ったとしても無理なようだった。まあいい、とサスケは心の中で呟く。写輪眼の成長を確認できただけでもと、落としどころを設定して、立ち上がる。東の空が夜色になり始めている。西の太陽は完全に隠れたようだ。

 

「あ、サスケくん。晩御飯は冷蔵庫の中に置いておいたから。イタチくんの分もあるから、あまり食べ過ぎないようにね!」

 

 イロミの言葉を無視して、サスケは帰路を辿った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 シャワーを浴び、白の無地の寝間着に着替えた後、お湯で重くなった髪の毛を軽くしながら忍術書に目を通していると、イタチは家に帰ってきた。壁に背中を預けていたサスケは、顔を上げる。窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

「おかえり、兄さん」

「ああ、ただいま」

 

 シューズを脱ぎ、黒のコートを脱ぎながらイタチは自室に入るが、すぐに戻ってきた。コートは自室の衣文掛けに掛けたようである。

 

「晩御飯は食べたのか?」

「まだ。兄さんは?」

 

 食べてないと呟きながら、彼は冷蔵庫を開けた。

 

「イロミちゃんが作ってくれていたようだ。食べるぞ」

 

 二人で夕食の準備をする。準備をすると言っても、イロミが作った野菜の煮物とサラダ、アスパラのベーコン巻きと味噌汁、そして炊いてあった御飯を温めたり器に移しただけである。テーブルの上に食事が並ぶと、イタチは両手を合わせて「いただきます」と言った。けれどサスケは無言に食べ始める。イタチは呆れたように息を吐きながら微笑んだ。

 

「サスケ、いつも言ってるだろ。食事の挨拶くらいはしろ」

「バカミがいないのに、言っても意味ないだろ」

「その呼び方も止めるんだ。イロミちゃんは特別上忍だ。お前よりも努力して、実力もある。恭しくしろとまでは言わないが、敬意は払え」

「どんな任務があったんだ?」

 

 イタチは小さくため息を吐く。食事の挨拶云々というのはいつものことで、サスケ自身は改善するつもりは毛頭なかった。

 

「しばらく、里の外に出ることになった。今日呼び出されたのは、その打ち合わせだ」

「どれくらい外に出るんだ?」

「分からない。だが、二週間以上になることはないだろう。帰ってくるまでは、一人で家の世話をすることになるが、大丈夫か?」

「もぐもぐ……ああ、大丈夫」

 

 と、サスケはアスパラのベーコン巻きに箸を伸ばす。

 

「一応、イロミちゃんに一言お願いしておく。ただ、彼女も忙しくなるみたいだ。あまり、失礼なことは言うなよ」

「………………ああ」

「あとは、そうだな……家を出る時は必ず二回は窓と玄関の鍵は確認するんだ。ガスコンロは元栓を閉めるんだぞ。夜更かしはするな。それとだな―――」

 

 夕食の後半は延々と、一人で過ごすことの注意点を語られた。どれもこれも、いくらまだ子供であっても過度なくらいに用心した注意で、正直、鬱陶しく感じてしまった。

 

 イタチには時々、そう言った過保護な部分があった。忍としても人格者としても心底尊敬しているのだが、その部分だけはいただけない。サスケが子供ながらに悟った価値観は「完璧な人間というのはいない」ということで、話しの最後の部分はかなりいい加減に相槌を打っていた。

 

 夕食が終わると、ゆったりとした時間がやってきた。つまり、満腹による安心感にも似た感覚が頭を支配した。憎らしいことだが、イロミの料理は美味い。少なくとも、イタチが作る薬の如く無味無臭に近い料理に比べれば遥かに美味しいことは間違いない。イタチの料理では、ゆったりした時間はやってこないのだ。

 

 イタチが浴室から出てくる。寝間着に着替え、後ろの髪の毛を解いた彼も、洗った黒髪をタオルで乾かしながら、サスケと同じように忍術書を手に取った。二人は対面に座りながらも、それぞれ別の忍術書を読んでいた。

 

 別段、イタチと話したいと思わない。嫌いだとか苦手だとかではなく、ただ、話すことがないというだけ。むしろ、こういった全くの静かな時間というのは心地いい。何回も同じ種類の飲料水を飲んだ後に、急に冷えた水が飲みたくなるような感覚だ。午前の演習、午後の任務。どちらも不毛な時間で無意味な経験だったが、この時間で洗い流されるような気がした。

 

 だが、

 

 イロミとの忍術勝負のことは、流されなかった。写輪眼が成長したということの事実を洗い流すには、今日の収穫は放置できない。サスケは本から小さく顔を上げた。

 

「兄さん」

「なんだ?」

「兄さんのような写輪眼になるには、どうすればいいんだ?」

 

 うちは一族抹殺事件の時。

 イタチとフウコの戦闘を見ているだけだったサスケは、写輪眼の可能性に気付いていた。

 

 黒い炎に、灰色の巨大な人型のチャクラ。

 

 あの力も欲しいと、サスケは常々思っていた。

 

 イタチは少しだけ考えるように瞼を伏せた。

 

「……お前にはまだ早い。チャクラコントロールが………そうだな、イロミちゃんの三分の一まで上達してからにしろ。身体の一部であっても、写輪眼は忍具の一つだ。それだけに頼っても、いずれ限界が来る」

「………………」

「学びたい術があるなら、いずれ俺が教えてやる。あるいは、カカシさんを頼れ。あの人も、写輪眼を使える。術の多さなら、あの人の方が多いだろう」

「……カカシに頼んでも、はぐらかされる。兄さんみたいに」

 

 くすりと、イタチは笑った。

 

「そうだな、カカシさんは昔からはぐらかすのが得意な人だ。ならきっと、お前にはまだまだ学ぶべきことが多くあるということだ。あの人は、見た目はいい加減に見えるが、人を良く見てる。じっくり基礎を学べ。俺も時間が空けば、手を貸そう」

「……じっくり基礎なんか学んでいる暇なんかない。俺はもう、ガキじゃないんだ」

「お前はまだまだだ、サスケ。だが、下忍の中では抜きんでてはいる。まずは地力を固めろ。写輪眼は―――」

「写輪眼は、成長した」

 

 白との戦闘で。

 ナルトが……倒れた時。

 高ぶった感情が眼に集中するような感覚と、視覚が恐ろしく研ぎ澄まされたかのような感覚を獲得してから。

 

 サスケは、写輪眼を見せつけるように、イタチを見た。

 

 イタチが小さく息を呑むのが、はっきりと分かる。

 

「俺は、強くなりたい」

「……強くなってどうするつもりだ?」

「あいつを………フウコを殺す」

 

 躊躇いもなく宣言したその言葉は本心ではあったが、一瞬だけサスケの脳裏には、ナルトの姿が過った。

 

 身体中に刺さる千本の群れに蝕まれたナルトが、糸の切れた人形のように倒れる瞬間。

 

 命が消えるという喪失感。

 大嫌いで、憎くて、鬱陶しい奴なのに、空虚に包まれる感覚。

 どうしてその光景が思い出されたのか、サスケは無意識に触れないように逸らす。

 

 リビングに沈黙が。

 

 イタチの表情は硬くなり、本を閉じた。左手で唇を覆う仕草は、これまでただはぐらかして修行を付けてくれなかった兄のリアクションとは異なっており、もしかしたら写輪眼について教えてくれるのではないかという期待が膨らむ。

 

「……いいだろう。だが、条件がある」

 

 サスケは固唾を飲んだ。

 

「九日後、七の月七日に、中忍選抜試験が行われる。まだ極秘だが、第七班はカカシさんの名の元に推薦がされた。もしお前が、その試験で合格し中忍になったら、写輪眼のことについて教えてやる」

「……本当か?」

「ああ」

 

 そこでようやく、イタチは表情を和らげた。立ち上がり、目の前までやってくると頭を撫でられた。

 

「だが本当は、試験には参加してほしくはないんだ。写輪眼云々は別にしてな」

 

 イタチは続けた。

 

「中忍選抜試験は、下手をしたら命を落とす。お前の実力は認めているが、それでも心配なことには変わりない。試験を受けるかどうかは、よく考えるんだ。まだお前は子供だ。伸び代も、時間も、十分にある」

「……兄さんが修行を付けてくれれば、試験なんて楽勝だけどな」

「よく考えて、覚悟を決めたら、お前の好きにしろ。試験に合格し、中忍になったら、写輪眼のことを教えてやる」

 

 すると、頭を撫でてくれていた手が離れ、人差し指と中指で額を叩かれる。気が付けば写輪眼は解けていた。

 

「お前の上司はカカシさんだ。俺も仕事で忙しい」

 

 つまりは、今は諦めろということなのだろう。仕方がないと、サスケは思う。イタチは暗部の部隊長で、忙しい身だ。それにイタチが自分と同じくらいの時は、自分の力で実力を付けたようで、だから、自分も同じようにしなければならないという、兄への敬意が諦めさせた。

 

「俺はもう寝る。明日は早いからな。お前も、夜更かしはするなよ」

「分かった。おやすみ、兄さん」

「おやすみ。ああ、明日からは寝る時も―――」

「分かってる分かってる。鍵は確認するし、ガスコンロの元栓も閉める」

「歯も磨けよ」

 

 そう言ってイタチは自室へと入った。

 

 静かになるリビング。手に持っていた本を閉じてテーブルに置き、リビングの電気を落とした。眠くはなかったけれど、自室に入り、押し入れの布団を敷いて横になる。自室は暗く、窓を隠すカーテンからは一切の灯りは入ってこない。暗闇に包まれる天井をぼんやりと見上げていた。その向こうには、明日の予定が浮かび上がっている。

 

 明日は、特に予定はない。任務も演習も無く、自由な時間だった。修行はありったけできる。何を修行しようか。

 

 そう思う反面、どこか、物足りなさを感じている自分がいることに気付く。薄々、ここ最近の自分の変化は分かっていた。

 

 カカシやサクラ、ナルト。鬱陶しく、面倒なメンツと集まるという時間が、自分の日常になりつつあった。どうしてだろう。

 

 カカシはいい加減で、修行を頼んでもろくすっぽまともに指導しようという気を感じられない。何かと話しかけてくるサクラは鬱陶しく、正直、実力だけ見れば第七班では一番下だ。

 

 そしてナルトに至っては、サクラ以上に面倒だった。何かと突っかかって来る上に……未だフウコのことを信じている。それが何よりも苛立たせる。一族を滅ぼし、両親を殺した彼女を信じるというのは、敵と同義だ。

 

 なのに、ほんの少しだけ……認めている部分はあった。

 

 ナルトの境遇は詳しくは知らない。ただ彼がずっと、孤独の中にいたというのだけは、理解している。彼の両親を見かけたことは一度も無く、彼に向けられる視線が彼を孤独に追いやっているということも、何となくは分かっていた。

 

 だからなのかもしれない。自分はまだ、恵まれていると思えてしまうことも、フウコを信じようとする馬鹿みたいな考えも、分かってしまう。

 

 もし、イタチが何かの間違いで犯罪を犯しても、きっと自分は彼を信じるだろう。たとえ全ての人が彼を犯罪者だと決めつけてもだ。今ではもう、たった一つで最上の繋がりだから。

 

 孤独という部分においては、ナルトのことは認めていた。

 あいつもまた、孤独なのだと。

 認めていると言っても、爪の先ほどだ。

 それ以外は勿論、一切に認めてもいない。

 

 とにも、かくにも。

 

 きっと自分は、第七班を認めているのかもしれない。必要なのだと、認めている。カカシの実力も、サクラのここぞという場面に強い胆力も、ナルトの孤独も。イロミの実力を認め、彼女との忍術勝負を必要としているように、第七班と過ごす時間も、必要としているのかもしれない。

 

 だから、考えてしまうのだ。明日を考える思考に、第七班のことを含めようとしてしまうのも。

 

 眠くなってきた。よくよく考えてみれば、今日は忙しかったように思える。無駄に疲れる演習と任務、イロミとの忍術勝負、そして意外と充実した一日を堪能した。

 

 そんな当たり前の子供のような感情を隠して、明日の事を夢想しながら、気が付けばサスケは眠っていた。

 

 

 

 ―――上忍・はたけカカシ―――

 

 

 

 はたけカカシは報告書を出していた。午後の任務の経過と達成、及び依頼主の任務達成の認可が記された書類であり、特にカカシ自身の個人的考えを記すことのない簡単なもので、ましてや下忍クラスの任務なのだから鳥を飛ばして【任務達成】の文字を記した紙を提出するだけで事足りるような気がしないでもない。しかし、やはり任務依頼の為に金を出してもらっているのだから、そういった記録は残すのは義務であり責任だ。下忍クラスの任務は些細な金額で依頼されるけれど、信頼というのはディティールから作られ支えられるものだ。

 

 筒状の灰皿と二つの長椅子が設けられている部屋だった。奥側にある折り畳み式の簡素なテーブルが二つか三つほど並べられ、その上には幾つかの書類が置かれている。ここが、下忍クラスの任務の報告書を受け取る部屋だった。

 中忍、上忍となればもっと格式ばった部屋を使われる。任務の重要度や危険度が異なれば、情報管理も変わってくる。つまり、この部屋そのものがランク分けの指標ともなっているのだ。

 

 部屋には、今さっき入ってきたカカシ以外に人がいた。彼女は長椅子に座り、タバコの煙を吐いていると、入ってきたカカシに顔を向けあからさまに顔をしかめた。

 

「……チッ。んだてめえかよ」

「よ、久しぶり」

「死ね」

 

 会話を初めて三秒で死ねと頼まれるのは人生ではなかなか経験できることではない。だが、ブンシの暴言は今に始まったことではなく、昔からだ。特に、カカシに対しての暴言の速度と飛躍性は群を抜いている。

 

 カカシ自身は特に不愉快に思うことはなかった。黒縁眼鏡と、額を大きく見せるように額当てで前髪を抑える髪型、香りの強いタバコ、それらがブンシの特徴であるように、暴言もまた彼女の特徴だ。割合で言えば、九割を占めているかもしれない。むしろ、ニコニコと上品な笑みを浮かべながら「あら、カカシさんではありませんか。ご機嫌麗しゅう」などと言った日には、神社でおみくじを引いて今日の運勢を確かめる事だろう。

 

「てめえタバコ吹かさねえだろ。なんでいんだよ」

 

 目障りだ消えろと言いたげに彼女はタバコを大きく吸った。タバコは見る見る短くなり、先端が真っ赤っかに燃えた。

 

「任務報告に来ただけだよ。俺、チーム持ってるから」

「しゃべんな。髪型ズレてんだよ。ハゲにして死ね」

「んなむちゃくちゃな」

「ったく、糞面倒くせえ」

 

 短くなったタバコを殴るように灰皿で潰し、もう一度舌打ちしてから彼女はテーブルの裏に回って書類の中から任務依頼をまとめた書類を取り出した。カカシもそれに合わせて、自身がまとめた報告書を出した。

 

「……あー、猫探しの奴か。あのマダム、まだ飼い猫に嫌われてるって分かってねえのか。そろそろ、国の保健所が依頼にでも来るんじゃねえか?」

「俺たち忍としては、顧客様だけどな」

「午後はこれ一本って……どんだけ時間かけてんだよ」

「いい加減、猫も学習してね。ナルト達に任せたら時間がかかったんだ」

「……あいつら、真面目にやってんのか?」

 

 依頼表の中の第七班が担当した欄に○を記しながらブンシは尋ねる。

 

「まあまあだな。心配なのか?」

「誰がてめえの心配なんざするか。てめえの顔見るたび腹が立つんだよあたしは」

「もうあいつらも、立派な忍だ」

 

 報告書を彼女の前に置く。彼女は乱暴に手に取り、報告書の中の【依頼達成】という部分だけを流し読んだ。カカシは続ける。

 

「サクラは真面目で容量が良い上に、チャクラコントロールは抜きん出てる。サスケは全スキルは、おそらく下忍でトップレベルだろう。ナルトは―――」

 

 そこでカカシは一瞬だけ言葉を止めた。一秒も止めていないだろう。しかし、フラッシュバックした映像は克明だった。

 

 波の国で起きた、ナルトの暴走。

 

 九尾の赤いチャクラに染まり、全身を血だらけにした彼の姿を思い出す度に、あの時に何度も死線を掻い潜った緊張感が蘇る。

 

 もちろん、それだけで彼への友好的な評価は変わっていない。

 

「―――真っ直ぐで素直で、努力を欠かさないよ。今はまだダメダメで、予想外の事ばっかりやるが、あいつはいずれ、大物になる」

「……そうか」

 

 報告書にブンシは判子を押した。これで報告書の提出は終了である。

 

「そういやおたく、ここ担当だったっけ?」

「イルカの野郎がアカデミーの残業中でな、アンコの奴に頭下げられたんだよ。手当も出るみてえだし、タバコも吸い放題。断る理由ねえだろ。だけど、自販機が近くにねえのが困ったもんだ。酒が飲めやしねえ。後でアンコに文句でも言ってくれ」

「時期的に、もうそろそろ中忍選抜試験が行われる頃だ。特別上忍は忙しいんだろう。まあ、会えたら言っとくよ」

 

 踵を返し、部屋を出ようとする。タバコを吸う習慣は無く、彼女とあまり会話をするつもりもなかった。彼女の暴言は面白いものの、下手をしたら暴力が飛んでくることもある。当たることはないものの、そういう事態になることが面倒だった。

 

 ブンシとは仲が良いという訳ではない。特に、彼女自身が積極的にカカシを嫌っている。理由は分かっている。彼女が昔、父であるサクモを慕っていて、かつての自分はサクモを軽視していたから。今は父を誇りに思っているが、それでもブンシは許してはくれなかった。

 

 両手をポケットに入れて部屋と廊下の境界線を踏み越えた時「おいカカシ」とブンシに呼び止められた。振り返ると、彼女は困ったように唇を一文字に閉めてから、呟いた。

 

「イロミのアホは……上手くやってんのか?」

「……上手くやってんじゃないの?」

 

 テキトーに応えたように思えるが、実のところ、そうとしか言いようがなかった。

 

 彼女と自分では役割が違う。イロミは特別上忍で、自分は上忍だ。仕事を上手くやっているかどうか、というのは本当のところ、よく分からない。

 

 カカシの答えにブンシは、安心したかのように小さく肩を下した。

 

「気になるなら、彼女に直接訊けばいいだろう。まだ仲直りしてないのか?」

「……てめえに言う必要はねえよ」

「あ、そ。お前が心配するほど、彼女も、それにイタチも子供じゃない。教師なら、それぐらい分かったらどうだ?」

「うるせえ、死ね。ああそうだ、イタチの奴は?」

「あいつは暗部だ。事情は分からない。じゃ、また」

 

 部屋を出た。廊下はタバコの匂いも無いクリアな空気だった。

 

 イロミとブンシの間に何があったのか、詳しくは知らない。イロミから「ちょっと、まあ、色々とありまして。あはは、絶賛、絶交中という感じで……」くらいしか聞いていないものの、ある程度は事情は予測できた。

 

 うちはフウコ。

 

 イロミが彼女の親友だというのは知っている。当時の上忍や中忍の間でも知られていたことだ。アカデミーの頃にブンシの教え子の一人だということも。

 

 まあ、だけれど、あまり深く考えないようにする。当人たちの問題である。それは、自分が受け持つ第七班にも言えることだ。サスケとナルトが、うちはフウコに向けている感情の差によって生じる軋轢も、深くは言わないようにしている。どれほど言っても、結局は自分自身が決断することというのは、第三次忍界大戦でよく分かったことの一つだ。

 

 うちはオビトが死んだ時も。

 のはらリンを殺してしまった時も。

 

 もちろん、それら二つに心を痛めた時は、常に誰かが支えてくれた。恩師である、波風ミナトが一番支えてくれただろう。

 自分もそうあるべきなのだと、カカシはナルト達をチームとして持った時に小さく決めたことだった。守るべき時だけ、サポートできる時だけ、力を尽くせるような上司になろうと。

 

 廊下を進むカカシは、けれど、家に帰ることはなかった。この後、予定があった。報告をしなければならないのだ。廊下の窓から入り込む光は、もうそろそろ夜になりそうな淡さを持っていた。カカシが向かった先は、火影の執務室だった。着き、ドアをノックする。「入れ」と、ヒルゼンの声が聞こえるとカカシは中に入った。

 

「……ん?」

 

 執務室のカーテンは閉め切られていたが、火影のデスクに置かれているランプが室内の光量を保持している。灯りに照らされて壁に貼りつく影は、ヒルゼンの他にもう一人。その人物がいるとは思っていなかったカカシは、小さく眉を傾ける。

 

 イタチはカカシを見ると、小さく頭を下げた。

 

「どうも、カカシさん」

「……どうやら、ちょっとお邪魔みたいですね。時間を置いてまた来ようと思います」

「いや、よい」

 

 と、ヒルゼンは頷いた。

 

「ちょうど、お主の報告を待っていたところじゃ」

「ってことは、イタチも関わっているってことですか。おたく、具体的にどんな風に関わってるの?」

 

 そこで一度、イタチはヒルゼンに視線を送った。話してもいいのか、という意味だろう。暗部の部隊長であるイタチの行動はヒルゼンが握っていると言っても過言ではない。ヒルゼンが重々しく頷くと、イタチは言った。

 

「カカシさんの波の国での報告を聞いてから、俺が独自で調査をしていました。ナルトの八卦封印が弱まっているのではないか、そう思って、手を打つことにしたんです。万が一に備えて」

「して、カカシよ。ナルトの様子はどうじゃった?」

「まあ今のところは、特に変わったことはありませんでしたね」

 

 午後の任務が始まる前に行った、ナルトの修行。あれは螺旋丸を教える為という名目だったが―――実際には嘘ではなく、チャクラコントロールの修行は螺旋丸の使用にはある程度は必要である―――本当の目的は……ナルトの異変を知るためだった。

 

 波の国で起きた、ナルトの暴走。そのことについてカカシは、ヒルゼンに報告をしていた。ナルトが仮死状態になった時に、九尾のチャクラが多大に漏れたことを。

 

 報告を受けたのヒルゼンの見解としては、不明瞭、というものだった。

 

 屍鬼封尽には、まだはっきりとしていない部分が多くある。何せ、使用者は必ず死んでしまうからだ。また、ナルトに九尾のチャクラを封じ込めたミナト自身も、屍鬼封尽に関する資料を残していない。分かっていることは数えるくらい。

 

 九尾のチャクラは、常にナルトの身体を補助するために、微かに循環させられているということ。

 ナルトの感情に呼応して九尾のチャクラの放出が変動するということ。

 

 今のところ、分かっている部分はこれくらいだ。

 

 だから、波の国での暴走が果たして、屍鬼封尽が弱まったことを示唆するものなのか、あるいはミナトが予め封印式の機能の一つとして埋め込んだものなのかは定かではなかったのだ。そのために、幾日かの監視、そして今日の【徹底してチャクラを消費させた後の螺旋丸発現】による、不可解な九尾のチャクラの漏れがないかを観察したのだ。

 

 結果、チャクラの奔流はなかった。それはカカシのみの判断だけではなく、ナルトの修行を監視していたテンゾウという後輩も含めた、双方の見解の一致だった。

 

 カカシの報告に「なるほどのう」とヒルゼンは白い顎鬚を軽く指で撫でた。カカシはドアを閉めながら、デスクに近づく。

 

「まあしかし、封印が弱まっていないと決まったわけではないですがね」

 

 ただ分かったことは【チャクラが枯渇している状態で螺旋丸を使っても、九尾のチャクラが不必要に漏れない】という事実だけ。封印が弱まっているか、という可能性を完全否定するものではない。

 

「それで、おたくの万が一の備えっていうのは?」

「……三忍の綱手様を捜していたんです」

「綱手様を?」

 

 はい、とイタチは頷いた。

 

「綱手様は、かつて初代火影である千手柱間が持っていた特殊な鉱石を持っていると思われます。九尾のチャクラを抑え込む力を秘めた鉱石です。現状、もし八卦封印が弱まっていた場合、ナルトくんが暴走した時の対処が実質ないようなものです。テンゾウさんの木遁でも、完全に抑え込むことができるか分かりません。ですので、綱手様が持っているだろう鉱石を目的に捜索をしていたんです」

 

 千手柱間の孫である綱手が持っているだろう鉱石は、今では採掘も加工もできない伝説的な代物だ。本当に彼女が持っているのかすら怪しいが、しかし、他に手が無いのも事実だ。

 

「それで、昼時に部下が綱手様を見つけたと?」

 

 昼時の鳥による報せは、イタチが持っている部隊の者がやったのだろう。カカシの予想にイタチは小さく頷き、詳細を明確にした。

 

「火の国の端の町、そこの賭場を仕切っている金貸し屋が彼女のことを言っていたようです。目撃そのものは三日前ですが、金貸し屋の連中が火の国の国境を中心に捜索しているということです」

「三忍相手に素人が捜査網って言ってもねえ……」

「もちろん、それは想定しています。ですが、国境を越えての捜索は暗部が勝手に行うこともできません」

「ワシも、他国の大名を通じて国境外での活動申請を行っておる」

 

 ヒルゼンはそう呟いたが、表情は険しい。当然だ。申請というのは手間がかかるものである。下忍の報告書を提出するのにも、書類という形式が必要であるのだから、他国での暗部の活動の認可が下りる頃には、綱手の行方は掴めなくなっていることだろう。

 

「一応は俺も、明日の早朝に目撃現場へ赴きます。もし国境を越えていないのであれば、一日で見つけられるかもしれません」

「見つけたとして、問題は、あの綱手様が里に戻ってくれるかだな」

「そこは、どうにかしなければいけませんが……。最悪、力づくでしなければいけなくなるかもしれませんね」

 

 伝説の三忍相手に平然と力付くでと言ってみせる彼だったが、しかし、決して傲慢な発言でもいい加減なものでもないと感じるのは、彼の実力を知っているからだろう。彼の名が高額の賞金と共にビンゴブックに載ったのは、彼が暗部に入隊して半年経った頃のこと。おそらく今の彼は、火影を除き木の葉で五本の指に入るだろう実力者だ。

 

「―――して、カカシよ。お主に訊きたいことがある」

 

 と、ヒルゼンはカカシを見上げた。

 

「まだ期日ではないのだがの……七の月七日に、中忍選抜試験を行うこととなった。お主は第七班を推薦するか?」

 

 小さくイタチが息を呑む音が、ランプの光で壁に貼りついた影に吸い込まれる。どうしてヒルゼンが、このタイミングで訊いてきたのか。おそらく、推薦日当日に訊かれた場合、ナルトのことを考えて即座に応えることができないだろうという配慮があるからだろう。

 

 しかしカカシは、ノータイムで応えた。

 

「ええ、もちろん。推薦します」

「……ッ!? カカシさん!」

 

 イタチはカカシを睨み付けるが、カカシ自身はやれやれといった感じにイタチを眺めた。イタチの視線からは焦りと、微かな怒りが滲み出ていた。

 

「言っておくけど、お前の指図は受けないよ。俺があいつらの上司である以上、議論する気はない」

「……カカシさんがそう判断するのなら、実力という面では、もしかしたら問題はないのかもしれません。ですが、分かっているんですか? サスケのことを」

「うちはフウコのことだろ?」

「あいつはまだ子供です。何も知らないまま、ただ力と地位だけを与えるのは危険です。それにナルトくんだって、屍鬼封尽がどう機能しているのか判然としていないのに、危険が多い中忍選抜試験に参加させるのは……」

「中忍になるかどうかで、強くなるかどうかが決まる訳じゃない。力があるから、中忍になるだけだ。それにな、ナルトも十分に力を付けてる。怪我をすることはあっても、死ぬことはないだろう。二人とも予想外の行動はするかもしれないが、サクラが良くも悪くもブレーキ役になってくれるだろうから、問題なし。まあ―――」

 

 カカシはわざとらしく肩を透かして見せた。

 

「実のところ、あいつらは一度、痛い目にあった方がいいんじゃないかって思ってるんだけどね」

 

 イタチに襟を掴まれた。

 

 昼時のような、半ば呆れたような手を抜いたものではなく、真剣で真っ直ぐな思いが伝わってくる強さがあった。弟を想う、兄としての力強さだ。カカシは睨み付けるイタチの視線を、今度は真正面に受け止める。

 

「俺は……悪い冗談は嫌いだ」

「ま、最後のは冗談だけどね。だけどなイタチ」

 

 声のトーンをカカシは下げる。

 

「俺は、あいつらの上司だ。うちはサスケの、うずまきナルトの、春野サクラのだ。うちはフウコを憎むサスケの上司でも、化け狐のうずまきナルトの上司でもない。あいつらが中忍選抜試験を受けるに相応しいと判断し、推薦したに過ぎない」

「……貴方の言いたいことは分かります。だが、それでもし、サスケがフウコを捜しに里の外に出たら、どうするつも―――」

「逆に訊くけど、おたく、そうやってサスケを誘導して、最後はどうするつもりなんだ?」

 

 イタチの瞳が少しだけ震えるが、カカシは続けた。

 

「あいつだっていつまでもガキのままじゃない。いずれ、お前に誘導されていたと気付く時が来るだろう。そうなった時こそ、サスケは里の外へ行くんじゃないのか?」

 

 数秒の沈黙があった。

 

 兄としてどうするべきなのか、微かに視線を下に逸らし震える彼の瞳が、多くの葛藤が渦巻いているのを主張していた。やがて……イタチは静かに、襟元から手を離した。兄としての凄みが無くなり、普段の彼の冷静で知的な雰囲気が戻り始めるのを、カカシは乱れた襟元を軽く直しながら呟く。

 

「……俺はね、あくまであいつらの上司だ。プライベートをとやかく言える立場じゃない。部外者だからな」

 

 どれほど仲間を大切に思っても、下忍である彼らとは生きた時代も、境遇も違う。ましてや、チームの上司という名目がある。対等を装って言葉を並べても、彼らの支えになることは、カカシにはできない。できることは、彼らが大人になるまでに、忍としての実力と、自分が経験して得たものを伝えるだけで、彼らの道の行く先は彼らが決めることだ。

 

 家族でもない自分が何を言っても、それらはあくまで助言の域を出ない。

 

 真の意味で対等に言葉を交わし、支え、時には背中を押したり、諫めたりすることができるのは……家族か、親友だけ。

 

 かつての自分も、そうだったのだ。

 

 子供というのは、ただの大人の言葉を聞かない。親友か家族だけで……自分に強く影響を与えてくれたのは、オビトだった。

 

 だからカカシは、どこか託すように、イタチに言った。

 若者がかつての自分のような過ちを犯してほしくないように。

 

「今のサスケと対等に向き合えるのは、お前じゃないのか?」

 

 

 

 ―――道具の過ち―――

 

 

 

 道具。

 

 その言葉に含まれる無機質な信頼性が、白は大好きだった。道具が使われるという現象には、常に使用者からの信頼が与えられている。世の中に溢れかえっているだろう【愛】のどれよりも無償で、【友情】のどれよりも雪の中で作られる薄氷のような透明性が、そこにはある。

 

 何せ、道具には未来の保障がないからだ。愛にも友情にも、あるいは人の感情のいずれにも、利益がある。肉体的にも、精神的にも、あるいは経済的にも。そして利益というのは、未来と同義だ。未来に存在しない利益などありはしない。必ず利益が招かれないと予想されることには、誰も手を出したりはしないのだ。愛や友情を信頼している者は常に、未来があるという想いを抱くことが許されていて、でもだからこそ、未来という漠然としたものに雑念を埋め込んでしまう。

 

 愛を裏切る余地が入り込んでしまったり、友情に溝を作る魔を刺させたり。

 

 けれど、道具は違う。道具には未来など保障されない。使用者が不要だと判断すれば、あっさりと道具は捨てられてしまい、そして、道具には取捨選択が与えられていないから。

 

 でも、だからこそ、使用者から与えられる道具への信頼は、何よりも美しい。

 

 道具が使用者に使用され続ける限り、使用者にとって道具というのは、この世で最上のものだということを示唆していることに他ならないからだ。そして、道具は使用者に使用され続ける限り、必ず役目を全うする。使用者の、為だけに。

 

 道具として拾われた白は、使用者である再不斬の為にどんなことだってしてきた。

 

 人を殺すことは勿論、時には拷問も。相手が男であろうと女であろうと関係なく、再不斬が求める未来の為に道具としての役割を果たしてきた。

 

 再不斬の道具として動く。それが、白の生きる意味だった。

 

 彼から道具として認められる度に、心が温かくなる。頭を撫でられ、よくやったと言われる度に、道具としてこれからも彼の為に全てを尽くそうと応えたくてしょうがなくなる。人を殺すことなんて……何とも…………思わない。

 

 多くの者を殺し、多くの者を絶望させてきた彼だったが、その悲鳴を耳にした時は、驚きを隠すことができなかった。

 

 殺す瞬間に耳にする断末魔でも、拷問の際に届いてしまう苦痛の声でもない、絶叫が、暗闇の向こうから現れた。

 

「ああぁあああぁあああぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああッ!」

 

 声は、女性のものだった。暗闇の向こう側から唐突に聞こえてきて、白と再不斬は同時に声の方向を見た。

 

「やだ……ッ! やだぁああッ! どうして……、なんで…………ッ! あぁあ、嘘だ…………、イタチ……、イロリちゃん……、サスケくん…………、みんな……………ッ。私は……どこで…………まちがって………、ぁ、あぁあああああああッ!」

 

 涙と唾が混ざり、喉が裂けて血が加わった濁った絶叫は、あらゆる絶望を孕んでいた。それを聞くだけで寒気と不愉快さが唇に貼りつくような生々しい錯覚を起こさせるほどに。

 

「……悪いが、少し待ってろ」

 

 ガラスの向こうに立つサソリが、無表情にため息を漏らすと、暗闇の奥へと消えていった。少しして、ガラクタか何かが乱雑にぶつかり合う音が聞こえてくる。その後、ドアが開く音がすると、女性の声が鮮明に聞こえてきた。

 

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……ッ! 私が…………負けたから……、シスイ……怒らないで、恨まないでッ! 私は……」

「落ち着け、フウコ」

 

 と、絶叫を続けるフウコという女性に、サソリは平坦に語りかけた。しかし、フウコの絶叫は止まらない。

 

「やだ、やだッ! 死なないでッ! あぁああッ! ごめんなさい…………ごめんなさいッ! フガクさん! ミコトさん! 失敗して……みんなを、殺して…………ッ!」

「安心しろ、まだ何も失敗していない。ただの夢だ」

「怒らないで……恨まないで…………、私を………ひどりに………しないでぇ…………ぁぁぁあああああッ!」

 

 女性の声には、聞き覚えがあった。

 

 再不斬と共に霧隠れの追い忍から逃げていた時に、聞いたのだ。正確には、一人の追い忍を自分の命と引き換えに殺そうと決心した時にである。

 

 黒く長いウェーブの掛かった髪と、赤い瞳。サソリが着ていたコートを羽織っていた。雨の降る暗黒の中だったが、微かにだけ伺えた彼女の表情は人形のように無機質で、声は高級な鈴ほどのものだったはず。

 

 しかし、今聞こえてくる絶叫は彼女から発せられているとは到底想像ができなかった。延々と絶叫し続ける。ずっとこのまま彼女の声を聞いていると、こちらがおかしくなってしまうのではないかと思ったその時、サソリが呟いた。

 

「……薬、打つぞ。暴れるなよ」

 

 ピタリと、絶叫が病んだ。

 

 徹底的に暗闇に絶望を染み込ませた後の静寂はあまりにも不気味で、白も再不斬も、暗闇から視線を逸らすことができなかった。

 

「…………サソ……リ……………………?」

 

 そしてひっそりと、涙声が届いた。震えて、湿っているものの、自分たちを助けてくれた高級な鈴の音色のような声だった。

 

「起きたか?」

「…………ああ、そっか……。また…………夢……だったんだ………。ごめん……うるさく、してた…………?」

「気にするな、いつものことだ」

「……拘束具、外して」

 

 金具の外れる音が連続して聞こえてくる。

 

 白は再不斬を見て、声を潜めた。

 

「再不斬さん、どうしますか?」

 

 自分の使用者である再不斬が目を覚ました以上、ここにいる必要性はもはや無くなった。ちらりと見えてしまう失ってしまった右腕に心を揺さぶられてしまうが、ここにいても腕が治ってくれる訳ではない。

 今なら、サソリはこちらが見えていない。障害は、おそらく強化材で作られたガラスのみ。右腕を失い、首切り包丁がない彼では困難かもしれないが、自分はまだ五体満足でチャクラも回復している。サソリの監視が無い今なら逃げ出すことはできる。

 

 だが、白は逃げ出すべきかとは決して尋ねなかった。視線でも、訴えかけてはいない。道具が使用者の役に立つことはしても、行動を強く要求するなど、あってはならないことだ。透明で美しい信頼関係を保つためには、自分が道具であり続ければいけない。

 

「……お前はどうしたいんだ?」

「え……?」

 

 それは、予想外の返答だった。

 

 これまで参考程度に意見を求めてくることはあっても、決定権を委ねてくることはなかった。

 戸惑い、躊躇ってしまう。

 

 どこか、道具と使用者という関係性が希薄になったような気がした。まるで波の国で出会った彼らのような、人間と人間の関係のようになったかのような、錯覚が。嬉しいのか、悲しいのか分からない感覚に、頭が痺れさせられてしまう。

 

 返答に戸惑っていると、金属音が止まる。遅れて、水音が。フウコの呻き声に呼応した水音だった。

 

「……ッ! はぁ…………っ」

「我慢なんかしねえで、さっさと吐くものは吐いておけ」

「ごめんね…………、床、汚して……ッ! ぅぁ」

「掃除は後で俺がしておく。タバコ、吸えるか?」

「………ごめんね……、私……、ごめんね……。どうして……私…………こんな………」

「大丈夫だ、落ち着け。誰も責めたりしない。ゆっくり吸い込むんだ。煙管は俺が持つ。お前は吸うことだけに集中しろ、何も考えるな」

 

 暗闇の向こうから、密度の濃い紫煙が漂い、見えてくる。時折聞こえてきた水音はテンポを緩めて、紫煙が十分にガラスに跡を残すとようやく、フウコのすすり泣く声も水音も聞こえてこなくなった。

 

「落ち着いたか?」

「……ありがとう、サソリ」

「顔が酷いことになってるぞ、シャワーでも浴びてこい」

「…………ああ、そっか。あの二人、無事だった?」

「生きてはいる。今は契約の交渉中だが、お前が気にすることじゃない。先にシャワーを浴びろ。あの二人と会うのは、それからだ」

「……分かった。ご飯、ある?」

「吐いたばかりでそれか。用意しておく。さっさといけ」

 

 またドアの開く音が―――音の遠さからして、サソリが入った部屋のさらに奥からだろう―――聞こえた。サソリの足音が近づき、つい先ほどと同じ位置に戻ってくる。彼の右手には、針の太い注射器が握られていた。

 

「悪かったな、話しの腰を折って」

「……依頼主様は薬中のイカレ野郎なのか?」

 

 再不斬が鋭い視線で尋ねると、サソリは「ああ」と右手の注射器を見てから、いい加減に床に放り投げた。

 

「むしろ逆だな。あいつは色々と病んでいてな。薬漬けにでもしないと、すぐに頭のネジが吹っ飛ぶ作りだ。メンテナンスが面倒だが、なに、心配することじゃない。まともな時のあいつは芸術品だ」

 

 メンテナンス、芸術品。

 

 サソリは同盟相手をまるで道具のように評価した。だが、無表情のはずの彼からどこか、先ほどよりも力が抜けたような感じた。どこか憂いた雰囲気。ついさっき、再不斬から感じ取ったものと同じだった。

 

「話しを戻す。どうする?」

 

 と、サソリは呟いた。

 

「俺たちと同盟を組むか、ここを去るか。今すぐ決めてもらう」

「……いいだろう、手を組もうじゃねえか」

 

 再不斬を見る。彼の表情は、これまで多くのチンピラ共と契約した時のような嘲笑と余裕を保った笑みではなく、真剣で落ち着いたものだった。

 

 心の隅で、チクリとした痛みを自覚する。

 誰かと契約をする時、再不斬は決して、相手と対等になろうとする姿勢は示さなかった。あくまで、利用する側と利用される側というスタンスを続けてきた。しかし、今の彼の表情からはそれが感じ取れない。これまでずっと道具として彼に尽くしてきた白だからこそ、再不斬の心の動きが分かる。

 

 心の痛み。それは、本来は生まれてはいけないものだと、白は思った。

 

 使用者が道具に愛着を抱くのは自由だけれど、道具が使用者に執着するのは禁忌だ。つまり、彼がどこかの誰かと同盟を組むことへの……嫉妬にも近い感情である。

 

 ―――……ボクは…………ナルトくん達とは…………違う……。

 

 波の国で出会った彼らの形。凸凹で、不格好で、雑念ばかりの繋がりは……もしかしたら自分と再不斬にもあったのではないかという可能性を示唆しているように、思ってしまったのかもしれない。

 

 仲間という……互いが向き合った、あるいは互いに支えった、線対称のような美しさを持つ形。

 

 だが、それを求めてはいけないと白は強く自責する。仲間という形を求めるということは、自分が再不斬に拾われた、道具と使用者という始まりの繋がりを否定することに繋がってしまう。

 

 再不斬が求めているのは、便利な道具。

 もし自分が、道具ではなく仲間として見てほしいと言ったら、彼は何というだろうか?

 忍には利用する側と利用される側しかいない。その彼の矜持を否定してしまったら、また、孤独に―――。

 

 サソリはガラスの部屋のドアを開けて、二人を案内した。これからアジトを使うにあたり、各々が自由に使用していい部屋への案内である。白は再不斬の左腕に挿したままの点滴を運ぶことにした。

 

 案内された部屋は、殺風景な空間だった。壁も床も天井も剥き出しのコンクリートで、部屋には二つのベッドしか置かれていない。光源は天井から孤独にぶら下がる裸電球だけだった。

 

「ここは自由に使え。言っておくが、物が欲しいなら術で外に出るしかない。全てのアジトには直接の出入り口が無いからな」

「なら、さっさと術を教えろ」

「まあ待て。まずはお前の義手を作るのが先だ。右腕が無い状態で印は結べないからな。すぐにお前に合った義手を作ろう。経絡系も通した、特注品をな」

 

 再不斬は先に手前のベッドに近づいた。点滴の事なんかどうでもいいとでも言いたげに、勝手に動いてしまう彼だったが白は難なく彼の傍によって点滴がスムーズに流れるようにした。

 

 再不斬が乱暴にベッドに腰かける。安っぽく薄いベッドだが、スプリングが大きく軋む音がした。大きなため息を、再不斬はする。右腕を失っての大量出血による、数日もの睡眠による肉体の弱体化による弊害は、膝の上に左腕を置く姿で見て取れた。

 

 白は右腕を見る。無くなってしまった、右腕。義手をする必要があると考える。どうやらサソリが作る義手は印を結び術を発現することができる特殊なもののようだ。

 

「俺の首切り包丁はあるのか?」

 

 軽く俯きながら再不斬が尋ねると、ドアの前に立ったままのサソリは頷いた。

 

「あのバカでかい粗悪な刀のことだな? 保管している」

 

 そうか、と再不斬はどうでもよさそうに返事をした。

 

「……義手はいらねえ」

「なんだと?」

 

 不愉快そうな声を出したサソリだったが、白も驚いた。視線を下すと再不斬とちょうどこちらを見上げていたが、彼は何も言わないままサソリを見上げる。

 

「俺には白がいる。てめえの得体の知れねえ物を腕に付けるより、遥かに信頼できるからな」

「……再不斬さん」

「てめえらの依頼は受けてやる、それなら問題ねえだろう」

「…………そうか。好きにしろ。術はお前の体調が戻ってから教えてやる。それまで寝てろ。飯は後で持って来てやる」

 

 ドォオン、とサソリがドアを閉めると、重い音が廊下と部屋にそれぞれ響き渡った。音の残響が無くなると、再不斬はベッドで横になり瞼を閉じる。白は何か言いたげに口を小さく開くが、下唇を軽く噛みしめて、懐から取り出した千本を一つ壁に突き刺す。点滴のパックをそこに引っ掛けた。

 

 音を立てないように、白はゆっくりと隣のベッドに腰かけた。再不斬が眠そうだったからだ。おそらくこのまま眠りに付くだろう。なら自分は彼に完全な静けさを提供しなければならない上に、念の為にサソリと、そしてフウコという女性に警戒をしなければならない。今までも自分は、そうしてきた。これからも変わらない。

 

 だけど、今だけはと、白は微かに考える。

 

 少しだけ彼と話しをしないと。気分が高揚しているのが分かる。印を結び、忍術を使えるようになる義手を差し置いて、自分の方が信頼に足りる道具であると言ってくれたからだ。

 

 ―――やっぱりボクは、道具の方が嬉しい。

 

 彼らのような形はきっと、性に合わない。愛だとか、友情だとか。勿論、それらは素晴らしいのだろう。誰もが声を高くそれらを求めているのは、素晴らしい何かがあるからで、それらの為に戦争を起こすこともあるからだ。

 だけど、白にとってはもう、使用者と道具という関係の方が永遠と美しいものとなっていた。

 

 未来を求めず、ただ使用者が必要と言ってくれる限り、使用者の為だけに生きる。

 

 これほど上等な生き方は、他にないだろう。

 彼の為のだけに。

 彼の幸福の為だけに。

 彼の夢の実現の為だけに。

 生きよう。

 

 もう、独りになるのは……嫌だった。

 

「……白…………」

 

 再不斬が小さく、名を呟いた。寝言だと一瞬思ったが、瞼が薄く開いてこちらを見ている。白は静かに立ち上がり、膝を折って彼と同じ視線の高さに立ち、微笑む。

 

「分かってます、再不斬さん。ボクは、貴方の武器です、道具です。言いつけを守るただの道具です。安心してください」

 

 白は優しくそして力強く言った。そうすることが、道具として正しい行動だと判断して。

 

 だけど、どうしてだろう。

 

 薄く開いた瞼の向こうの彼の瞳が、微かに、震えたのは。

 

 いや。

 

 もしかしたら、気のせいかもしれなかった。道具として生きる方がいいと思っておきながら、まだ、ナルト達の形を求めているのだろう。まだまだ自分は甘いなと呆れながらも、それは表情には出さず、笑みを保つ。

 

 再不斬が「……フッ」と鼻で小さく笑う。瞳は震えておらず、やはり、気のせいだったのだと白は思った。

 

「……いい子だ」

 




 登場人物の補足説明

 前話と同様に、今回の話でスポットが当たった登場人物、そして今回はイタチに付いて補足説明させていただきます。

【うちはサスケ】
 :第七班の一人。同期の中の下忍の中ではトップの実力者。サクラとの人間関係は原作様と大きく異なる部分はない。

 未だフウコを信じているナルトを憎んではいるものの、殺したいと思っているほどではない。また、ナルトとフウコの関わりについてはほとんど知らないままである。波の国でのナルトの暴走を目の当たりにしたが、そのことに関して興味はない。白との戦闘で反射的にナルトを庇おうとしたところを、むしろナルトに跳ね飛ばされる。その際に、人が死ぬという喪失感が明確に分析しきれない怒りによって、写輪眼が成長した(原作様で言うところの、終末の谷の戦闘後半あたりくらいの瞳力に匹敵する)。しかし、実戦経験が乏しく、成長した写輪眼を使いこなせてはいない。

 家の家事をしてくれているイロミに対しては未だ強い憎しみを抱いている。けれど、実戦形式の修行の相手は彼女だけであり、またイタチよりも料理が上手いという部分においてだけ評価している。イロミの友人であるフウとは顔見知り程度で、やかましい奴としか思っていない。

【はたけカカシ】
 :第七班の一人。ナルトの暴走を心配しているが、ナルト自身の評価に対しては原作様と大きな変化は無く、サスケ、サクラに対しても同様。イタチは良き後輩と思っている。

 ブンシからは嫌われているが、カカシ自身は彼女を嫌ってはいない。

【白】
 :再不斬の道具と自負する少年。波の国での戦闘の後、フウコに助けられアジトへと招かれる。ナルト達の繋がり方を見て、自分と再不斬も彼らのような繋がり方ができるのではないかと考えてしまうが、再不斬の矜持と彼との繋がりの始まりを尊重し、道具として生き続けることを選択。今後、文字通り再不斬の右腕になることを決意する。

【うちはイタチ】
 :暗部の部隊長に就任。実力、知識共に木の葉の中ではトップクラスに入っており、他里から強く警戒されている。

 イロミとは友人同士であり、暗部の仕事に追われ家事が出来ない時に家事をしてくれる彼女に大きな恩を感じている。仕事が無い時は自分から料理を作るが、上達することはなく、実は内心かなりショックを受けていたりする。

 サスケをとても大切に想いすぎるあまり、過保護な面がある。また、サスケがフウコに強い憎しみを抱いているため、あまり実力を付けないようにし、いずれ自立して考えることが年齢になるのを待っていたが、カカシに指摘されてしまい、彼が中忍選抜試験に受けることを了承する。

 ナルトに対しては、フウコを信じてくれている子だと思っている。サスケほどではないが、彼のことも大切に想っているが、ナルトから嫌われていることは自覚している。いずれ溝を埋めていきたいと考えている。

 サクラのことはサスケ、ナルトの良き友人と見ている。

 カカシのことは心の底から尊敬している。

 暗部の部隊長ではあるが、裏でダンゾウと繋がりがあり、ダンゾウから渡された【根】の部下たちを国内及び国外に配置しており、常にフウコの足取りを追わせている。今回、綱手を捜索していたのはヒルゼン直属の暗部の部下であるため【根】の干渉はない。

※以下、次話について。
 前話と今回の話は、原作様で言うところの波の国編を省略したため、登場人物の背景を中心とした結果、共に二万字前後になってしまいました。次話からは一万字ほどに抑えたいと思います。

 誤字脱字、ご指摘ご感想がありましたら、ご容赦なくコメントしていただければと思います。次話は十日以内に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

過去の歪みは、いずこへ?

「もぐもぐ……。じゃあ、いつ帰って来るかは分からないんだ」

 

 早朝。イタチはイロミの部屋の前にいた。静かで気温の下がっ空には雲一つなく、開けられた玄関に向かって朝の冷えた空気が流れていくのを、羽織っていた黒いコートの内側から感じた。

 

 イタチは、イロミに事情を大分端折って説明した。暗部の任務で里の外に出る必要が出てしまったということ、いつ帰って来るのかは状況次第ということを伝えたのである。イロミのリアクションに、イタチは頷いた。

 

「ああ。ただ、二週間以上は時間をかけるつもりはない」

「あ、じゃあ私がサスケくんの食事三食を作った方がいいってことだね」

 

 寝間着姿の―――上下黒と白の横縞模様の囚人服のような寝間着―――彼女は、どういう訳か右腕に抱えた生の白菜を左手のチャクラで吸着させて千切っては口に運び、小さく頷いた。後頭部の髪の毛は寝癖なのか何なのか、まるで子供の蛇がうねったようなヘアスタイルで、しかしイタチは特に深く追究することも無く、申し訳なさそうに小さく笑みを作った。

 

「すまない。サスケには一応、一人でご飯を作るようには言ってある。だが、あいつはあいつで忙しい。万が一というのがあるんだ。ああ、もちろんイロミちゃんも忙しいだろうから、その、できる限りでいい」

「あはは、イタチくんは心配性だなあ。でも、うん、分かったよ。任せて」

「俺が言うのもなんだが、本当に無理はしないでほしい。中忍選抜試験の用意で忙しいんじゃないか?」

「うーん、まあ、忙しくなってきたけどね。問題ないよ、全然」

「何か、あるのか?」

 

 イロミは白菜をまた一切れ毟り口に運びながら「昨日アンコさんにね」と呟いた。

 

「今日から、木ノ葉隠れの里に来る他里の下忍の子たちが、中忍選抜試験を受けようって集まってくるんだ。私と、あとフウちゃんが、まあ、その子たちに宿泊施設を案内したり、色々と説明するってわけ。受付役だね」

「ということは……朝から晩までか?」

「もしかしたらね。到着日時は申請されてるけど、具体的な時刻まではされてないの。だから、分からないんだ」

 

 しまったと思っていると、イロミは優しく笑う。

 

「大丈夫だよ。これからイタチくんとナルトくんの家に行ってご飯作ってくるから。それか、うーん、そうだなあ、レシピを書いたメモでも残せば問題ないと思うし。とにかく、気にしないで」

「……すまない」

 

 暗部に入ってから、ずっとイロミの世話になってしまっている。暗部の仕事をこなしながら、サスケの世話をするというのには、どうしても粗が出来てしまう。フウコを捜すために―――そして、うちは一族抹殺事件の真相を知るために―――暗部に入隊したが、イタチのその真意を知っているのは本当にごく一部。生まれてしまった粗に修正を加えてくれる人物は、イロミしかいなかった。

 

 もちろん、それは覚悟の上だった。非常に多忙になり、彼女に負担を与えてしまうのは。イロミも承知してくれてはいる。が、まさか、ここまで彼女に頼ってしまうとは予想できていなかった。本当に、頭が上がらない。

 

「イタチくんは朝ご飯食べたの? 食べてないなら、これ、食べる?」

 

 白菜を差し出され、申し訳ない気持ちは、不謹慎ながらも撤退してしまう。

 口からつい、彼女と対面してから微かに思っていた疑問を呟いた。

 

「……どうして、白菜を?」

「漬物作ろうと思ったんだけど、余っちゃって。ほら、私の冷蔵庫って小さいでしょ? だから、こうして食べてるの。こういうのを、節約術っていうんだよ。凄いでしょ?」

「……そうか。すまない、凄いかどうかは、よく分からないな」

 

 イロミと別れ、里の出入り口である門から出る。方角を確かめてから、部隊の者とのコンタクトポイントである最寄りの町に向かって走り出す。イタチの速度は、風を追い抜かし、木々に止まっていた小鳥たちを置き去りにしているにもかかわらず、一切の躊躇も無く幾何学的な動線を残していく。

 それでも、彼の全力ではない。写輪眼を展開しない彼が保てる速度であって、写輪眼の彼の速度は今よりも遥かに速い。チャクラコントロールによって集積された足元のチャクラは澄み渡りながらも強固だ。

 

 どれも、たとえ上忍でも容易なことではない。だが、もはやイタチにとっては癖にも似たような感覚でしかなく、頭の中では全く別のことに関心を向けていた。

 

 ―――綱手様が容易に里に戻ってくれるとは、考えにくい…………。

 

 木ノ葉の三忍と謳われる者の一人である彼女が、どのような経緯で里を去ったのか、それを明確に決定づける資料は集めても見つかりはしなかった。しかし、彼女が里を抜け出す前の出来事を調べ、ある程度の目途は付いている。

 

 戦争によって、綱手は弟と恋人を失っていた。おそらく、原因はその二人の人物なのだろう。何を想い、何を考え、ただ当てもなく、国中あるいは他国の賭博場に姿を現し、金貸し屋から逃げ続ける日々を送っているのかは定かではないものの、少なくとも木ノ葉隠れの里への関心は無いはず。むしろ、増悪嫌悪しているということも考えられる。

 

 そんな彼女に、事情を説明したとしても、素直に里に戻ってくれるというのは、現実離れした想定だ。

 

 何通りか手段は考案してはみたものの、綱手と会ったことがない以上、想定外は平然と起きる事だろう。結局は、出たとこ勝負、ということになってしまう。

 

 ―――……とにかく、まずは綱手様を見つけることが…………?!

 

 気配を感じた。

 

 たった一瞬で、砂粒よりも微かな不自然な音だったが、それでも彼には十分な程の違和感でイタチの思考を張り詰めさせ臨戦態勢に変えるには十分だった。

 

 瞬時に足を止めて、コートの下の右腕でクナイを握る。気配を感じとった方向に視線を向けた。気配の質からしてそれなりの手練れ、そう判断したイタチだったが、木々の隙間から幽霊のようにゆったりと姿を現した者の姿に、しかし警戒はそのままに強く尋ねた。

 

「何の用だ?」

「ダンゾウ様からの言伝を運びに参りました」

 

 暗部の姿と顔を隠す面。しかし、全身から漂う無味無臭のプラスチックかのような雰囲気は良く知っている。

 

【根】の者。そして―――暗部の中のもう一つの部下だった。イタチには、ダンゾウの次に、【根】を動かす権限が与えられている。だが、イタチが警戒を強めているのは、未だ信頼など露ほどにもしていないからである。

 

【根】の者はイタチから距離を縮めることなく、淡々と伝えた。

 

「『九尾の人柱力は所詮道具だ。あまり深入りをするな』と」

「……それだけか?」

 

 意識した訳ではなかったが、声が低くなってしまった。あまり好きではない声質。【根】の者に指示を出す時の声と酷似していたが、それよりも低い。はい、と平坦に軽く頷く【根】の者の態度に、さらにイタチの視線は鋭くなった。

 

「くだらないことを伝えに来るな。ダンゾウに言っておけ。俺を動かしたいなら、フウコの情報と引き換えだと」

「他に伝えるべきことは?」

「ない。さっさとフウコを捜せ」

「分かりました。では」

 

 イタチの感情のささくれも横に【根】の者は姿を消した。小さく息を吐きながら、それでも辺りに簡易の感知忍術を展開して、誰もいないことを確認してからようやくイタチはクナイを元の位置に戻した。

 

 ダンゾウの元に付いてしばらく年月は経ったが、決して彼のことを信頼している訳ではない。フウコがうちは一族を抹殺した原因があるはずなのだと考えている。

 

 しかし、どれほど調べても、はっきりとした情報は見つかっていない。ただ、シスイをフウコが殺したであろう当夜と前日の、二人の行動記録に不自然な部分が垣間見えるだけ。その不自然さも、フウコに何かを擦り付ける為の情報操作なのか、フウコという暗部の汚点を誤魔化すための印象操作なのか、判断が難しい。

 ダンゾウに問いただしても、憮然としながらも曖昧な返事しか引き出せない。

 

 明確な黒とも、明確な白とも、言い難い。

 

 だが、それらと警戒するべきか否かとは、また別の問題である。疑わしきは、敵なのだ。ただ利用するだけの、敵。ダンゾウも、自分を利用しようと考えている。ならば、あちらが交換条件を出さない限り、決して協力しなければいい。元々、ダンゾウがフウコを捜して素直に情報を渡すとは限らない。イタチにとっては、利用すると言っても、期待値はそれほど高くはなかった。

 

 ―――……フウコ、今、何をしているんだ…………?

 

 ここ最近、フウコの情報はぱったりと途絶えてしまっていた。

 

 彼女に掛けられた報奨金を目当てとした輩に殺されたということはないだろう。たとえどのような理由であっても、彼女が殺されればビンゴブックから名前は抹消されるはず。つい最近、ビンゴブックは更新されたが、Sランクの欄には彼女の名が記されている。

 

 おそらく―――彼女はどこかに潜伏しているのだろう。そしてこれは単なる勘だが……どこかの組織に属している。フウコの情報がまだ観測されていた時、ほとんどは、戦場だった。小さな国同士の戦争であったり、小さな忍里同士の戦争であったり。明らかに、何かしらの意図を持った行動だったからだ。彼女の意図ではない、誰かの意図。

 

 もしも。

 

 もしも、フウコがどこかの組織に属しているのだとしたら、何を目的とした組織なのだろうか。どれほどの規模の組織なのか。フウコは組織を利用しているのか、組織に利用されているのか。

 

 考えることは山ほどにもある。

 

 心はフウコを捜そうということに引っ張られてしまうが、イタチは目的通り、部下の待つコンタクトポイントに足を進めた。

 

 里の平和を守るということを、今は、優先しなければいけない。

 

 無暗に捜しても効果はない、ということ。その上でさらに、フウコが簡単に死なないだろうという信頼があったからだ。

 

 いつか必ず、彼女の足取りを追い、見つける。

 

 それまではまだ、里の安定を保たなければいけない。

 木ノ葉隠れの里は妹の故郷だから。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「イロミちゃーん」

「なにー?」

「暇っすねー」

「暇だねー」

「こういう日は、きっと、カップルとかが、きゃっきゃうふふって、歩いているんすよねー」

「知らないよー」

「フウは、イタチさんと、きゃっきゃうふふってしたいっすよー」

「イタチくんはきゃっきゃうふふなんて言わないと思うよー?」

「フウが言うんすよ」

「きゃっきゃうふふ?」

「きゃっきゃうふふっす」

「そうなんだ。馬鹿みたいだねー」

「きゃっきゃうふふ言うカップルは、皆馬鹿なんすよきっとー」

「へー」

「……………………」

「……………………」

「あ、帰っていいっすか?」

「駄目」

 

 書類を整理しながらバッサリと帰宅を許してくれなかったイロミに、フウは大袈裟に受付カウンターに項垂れて「はぁ~」と大きくため息をついた。

 

「だって、全っ然来ないじゃないっすか~。まだ一組も来てないって、どういうことっすかッ!」

「今だけかもしれないよ? 一応、今日到着予定の申請は来てるんだからさ」

「イロミちゃんだけでもいいじゃないっすか。フウは腹が減ったっすよ」

 

 んー、とイロミは唇を尖らせながらテーブルの上の置き時計に視線を移した。あと少しで、長針と短針が一番高い所に向く。たしかに、空腹は感じ始めていた。

 

 朝、イタチから事情を聞かされてからイロミは彼の家とナルトの家に向かったが、両方ともカギが掛けられており、結局昼食も夕食も用意することができなかった。きっと、二人とも修行をしているのか、任務か演習なのだろう。

 

 ―――今頃は家に戻ってるのかな? 抜け出せる時に、ご飯を作っておきたいけど……この調子じゃあ、やっぱり、夜まで食い込みそう。

 

 昨日、アンコの所に行ったイロミは、彼女から中忍選抜試験に参加する他里の下忍の受付をするように言いつけられた。受付はフウと自分だけで、他の中忍や特別上忍は別の準備で忙しいらしく、他里の参加者が全員受け付け終わるまでずっとこの担当なのだという。火影の執務室が設けられている建物の出入り口に突如として設けられた簡素な受付は、確かに二人だけでも運営できそうなほど小さいものだった。

 

 受付の役割は単純で、受付に来た下忍のチームとその担当上司に正式な通行許可証を渡すこと、宿泊施設の案内、諸注意事項の説明などなど。正直、二人同時にいる必要はないほどに簡単なものだけれど、アンコが言うには「初日くらいは二人で参加者を迎えなさいねえ」ということらしい。なお、昼食夕食の説明は一切ない。勝手にしろ、ということなのだろう。

 

 ―――いつもアンコさんは無茶言うんだから……。

 

「ねえ、イロミちゃーん。こんな地味なこと、フウはもう嫌っすよ」

 

 地味云々という以前に、まだ誰も受付に来ておらず、何もしていないという表現が正しい。

 

「あー……じゃあ、一組来たら、休憩にしよっか。でも、二人とも離れたら問題だから、最初はフウちゃんでいいよ?」

「え、マジすか!? やったぁ! 早く来いー、早く来いー」

 

 受付を開始してから一組もまだやってきていない状態であり、もはや最初から休憩しっぱなしと言っても過言ではなかったのだが、フウは嬉しそうに両手を上げた。

 

 今日、木の葉隠れの里に到着する予定のチームは、合計で十一組だ。草隠れの里、砂隠れの里、雨隠れの里、あと音隠れの里。何時に到着する予定なのかは、流石にそこまで詳細な申請はされてはいないものの、もうそろそろ一組くらい到着してもおかしくはないだろう。深夜に到着する、というのは規定によって禁じられているため、そろそろのはずだ。

 

 ―――中忍選抜試験かぁ……。懐かしいなあ。

 

 書類整理も終わってしまうと、ふと、思った。

 

 何度も、落とされた。馬鹿みたいに、間抜けみたいに。最終試験の、一対一での戦闘形式の試験では、大名や忍頭たちの前で、情けなく泣いてしまったこともある。今思い出しても、顔から火が出そうになる感情に包まれるけれど、悪くない記憶だった。

 

 あの頃に比べて、自分はどれほど成長できたのだろう。

 

 泣き虫で、弱虫だったあの頃よりも、どれほど。

 中忍選抜試験を構成する側に立ったが、あまり、実感は沸かなかった。実力も付け、知識も多く手に入れた。だけど……どうして、実感が沸かないんだろう。

 

『イロリちゃん。次は、頑張ろ? 私も、教えるの頑張るから』

 

 きっと、やっぱり、彼女がいないから。

 

『全然努力しない人たちを、馬鹿にしてきた人たちを、驚かせよ? イロリちゃんなら、できるから』

 

 自分が頑張れたのは、彼女が言葉にして教えてくれたからだ。彼女が道を示してくれた、手を握ってどれほどの成長が出来たのか、教えてくれた。だから、彼女がいた頃は、成長できたという実感があったんだと思う。

 

 今は、道を示してくれる人はいなくなった。特別上忍という地位には着いたものの、実力を大きく発揮できる任務は回されなくなり、行えることは、雑務処理。彼女を捜すことも許されない。

 

 ―――もっと、努力しないと。……早く、上忍に。

 

「こちらが、受付でいいですか?」

 

 建物の入口から男性の声が耳に届くと、イロミは少しだけ慌てて声の方を見た。隣のフウも嬉しそうに顔をそちらに向ける。入口に立っていたのは、三人の子供たちと一人の男性だった。

 

 イロミは笑顔を浮かべながら「はい。中忍選抜試験参加の方ですね?」と、男性に尋ねた。

 

 男性は背が高かった。長い黒髪を頭頂部よりもやや後ろの所で一纏めにしており、上忍のジャケットを羽織っている。中肉中背で、髭の一つも生えていないスラリとした頬は清潔感を現していたが、目尻が長く蛇のように鋭い視線は男性の用心深さを感じさせた。

 

 額に巻いている額当てには、音符のようなマークが彫られている。手元にある書類を確認した時に、そのマークが何を示すのかは、頭の中に叩き込んでいる。

 

 音隠れの里の忍(、、、、、、、)だ。

 

 男性の後ろには、三人の子供が立っている。内一人は、黒髪の女の子だ。他二人の男の子は、一人は短髪の少年で、もう一人は右腕に分厚い手甲を付けており、顔のほとんどは包帯が巻かれていた。

 

「少し、遅かったですかね?」

 

 と、男性は受付に近づくと、笑みを浮かべながら尋ねてくる。イロミは事務的な爽やかな笑顔で応えた。

 

「いえ。みなさんが一番ノリです。到着早々で申し訳ないのですが、受付作業に時間をいただいてもいいですか?」

「ええ、構いませんよ」

「ではまず、こちらの書類に皆さんの名前の欄に署名、それと親指で押し印をしてください。あと、そちらに届けた仮通行許可証はこの場で回収となります」

「こちらっす。皆さんは音隠れの里からの参加で間違いないっすよね?」

 

 四人はそれぞれ署名をし、朱肉で染めた親指の腹で押し印をした。ティッシュを渡し、仮の通行許可証を受け取り、イロミは口を開いた。

 

「今からみなさんには、中忍選抜試験が始まるまで、及び試験期間中にご利用してもらう宿泊施設の案内、試験期間中における注意事項の説明と誓約書にサイン、最後に正式な通行許可証の配布をさせていただきます。諸々のご質問などは、それぞれの項目の説明が終わってから受け付けますので、ご了承ください」

 

 それから半刻ほど、イロミが一人でしゃべり続けた。決まった言葉なため、特に深く考えることも無くスムーズに話すことができた。フウは隣で、今か今かと休憩のタイミングを見計らっている。

 一通り説明し終わってから、最後に総括の質問を受け付けたが、音隠れの男性は特に何も無いようだった。

 

「以上で、説明は終わりですので、こちら、通行許可証です。無くさないようにしてください。再発行は受け付けておりませんので」

「ありがとう」

 

 四人分の通行許可証を受け取った男性は、下忍の子たちに渡した後、再びイロミに向き直った。

 

「試験開始まで、何かするべきことはありますか?」

「特にありません。先ほど言ったように、他の参加者とのいざこざは避けていただくこと、許可なく里の外に出ること、犯罪に抵触する行為をしないこと、試験規定に違反しないこと、これらを守っていただければ原則的に何をしても構いません。あ、もしよろしければ、観光スポットなど紹介しますけど?」

「いえいえ。そうですか……。もしよろしかったら、私と一緒に昼食はいかがですか?」

「……はい?」

 

 唐突な男性の提案に、イロミは頭を傾げた。

 

 一体目の前の男性は何を言っているのだろうか? 素直にそう思う。それ以外の感情は一切に湧き上がってこない。きょとんとするイロミの横で、フウが「おーっ!」と、ラブコメの女の子のように過剰にキラキラと瞳を輝かせながらよく分からない歓声を上げていたが、対して男性の後ろの子供たちは怪訝な視線をイロミに向けている。

 

「あの……言い忘れていましたが、試験期間前と試験期間中は、特別上忍との不用意なコンタクトは禁止されているんです。お誘いは嬉しいんですけどムグッ!?」

 

 断ろうとするや否や、突然フウがイロミの口を塞いで、強引に後ろを振り向かされた。頬と頬がぶつかるほどの距離まで、フウの顔が近くなる。肩はガッチリとフウの腕にロックされて、ちょっとやそっとでは抜け出せなくなっていた。

 

 フウは目を未だキラキラと輝かせながらも、とても小さな声で呟いた。

 

(何言ってんすかイロミちゃん! ここは、ゴーッ! っすよ!)

 

 ゴーッ! って。意味が分からない。何を言っているんだこの子はと思いながら、イロミは大きくため息を吐いた。

 

(……あのね、フウちゃん。言っておくけど―――)

(四の五の言わないで、イエスって言うんすよッ! ノーって言う暇があるならイエスと言うんす!)

(いや、だからね、私も私で、これからサスケくんとナルトくんにお昼とか、お夕飯とかの準備をしなくちゃいけない訳なの。休憩時間もあまりないんだし。それに、言った通り、ほら、私が目の前の人と食事なんかしたら、色々とね? 試験内容を流出させたんじゃないかとかなんだとかで、面倒だし)

(馬鹿言っちゃいけないっすよッ! 春が来たんすよ春が!)

(試験が始まる頃には七月だけどね)

(言葉遊びなんかどうでもいいんすよッ! いいっすか? ぶっちゃけイロミちゃんには青春が必要なんすよ。ガイさんみたいな全身タイツの暑苦しいやつじゃねえっすけど、こう、なんていうか、将来性? 母性? みたいな、そういった青春が足りないんす。友人として、すげー心配してるんすよ? 将来、しっかり子孫繁栄が出来るのかって!)

(無駄な心配しないでよ……。そんな心配されてたなんて、少しショックだよ)

(いいから、とにかく―――)

(どっちにしても、特別上忍の接触は厳禁なのッ! 離してッ!)

 

 掴まれた肩のチャクラを水のようにスライドさせると、あっさりとロックから抜け出すことができた。フウは勢い余って床に転んだが、イロミは何事もなかったかのように振り返り、男性を見上げた。

 

「すみません。お食事のお誘いは嬉しいのですが、また、別の機会ということでよろしいでしょうか?」

 

 特別上忍になってから学んだ社交辞令という上品な断りを入れた。上品さが、大人に近づくにつれて会話の最初と最後に必要なのだと、ここ最近知ったことである。

 

 男性は「そうですか」と呟くが、特に残念がる様子は無かった。もしかしたら、この男性は軟派な方なのかもしれないと、イロミは思う。

 

「仕方ないですね」

「そうですね、仕方ありませんね」

「でしたらせめて、お名前だけでも教えてもらえませんか?」

「…………………」

 

 名前を聞かれているだけなのに、どうしてだろう。体温が下がっていく。襟からカキ氷を引っ繰り返されて入れられたような感覚だったが、社交的な笑顔を保つことができたことに、イロミは自分に賛辞を送りたくなった。本当なら名前すら教えたくなかったが、仕方なく、教えた。

 

「それなら、ええ、問題はありません」

 

 私は、

 

 猿飛イロミと、

 

 言います。

 

 

 

 寒気がした。

 

 

 

 名前を聞かれた時とは違う、本能が訴えかけてくる切迫したもの。刹那にも満たない瞬間だけ、感じた。

 

 目の前の男性の視線が、狂気に満ちたような色をしたのだ。

 

 男性は貼りついた笑みを浮かべたまま、呟いた。

 

「それでは、失礼します。貴方とは、またどこかで会いそうな気がしますので、その時に」

 

 そう言って、男性は子供立ちを引き連れて、入ってきた入口から外に出て行った。寒気は無く、名残のような動悸だけが残った。

 殺意とも、怒気とも違う、漠然としたもの。暗闇の中を歩くだけで怖くなるのと、同じ。

 

 頬に小さく汗が出ているのを感じ、グローブを付けている右手で拭った。小さく油の混じった汗は、グローブの上にべったりと貼りついた。

 

 ―――どうして、あんな眼をしてたんだろ……。

 

 見えなくなった男性の後姿を眺めながら、呑気なことを考える。殺意だったら、危険人物だと思っただろう。怒気なら、自分に不手際があったのだと思っただろう。あるいは、彼と顔見知りだったのなら、また別のことを思っただろう。

 

 音隠れの里の忍と会ったことは、一度も無い。

 

 その事実が、男性の視線に含まれる好奇心とそれによる高揚を不鮮明させてしまった。

 

「あーッ! イロミちゃんの春が終わったっすー!」

 

 隣で立ち上がったフウは雨乞いをするかのように両手を上げて、悲痛な声を出していた。

 

「これでイロミちゃんは、一生独り身が確定したっす。イロミちゃん、年老いても、フウに介護を申し込まないでくださいっすよ?」

「頼むとしたらもっと歳が離れた人に頼むよ。それよりフウちゃん、休憩行っていいよ」

「あ! そうっすね! どれくらいサボってていいっすか?!」

「……一刻ね」

「了解っす!」

 

 今まで散々とやる気なく受付カウンターで項垂れていたのに、休憩に行く時は異様に足が速かったのには、呆れてため息が出てしまう。いつもあれぐらい頑張ってくれたら、アンコの気分も良くなるかもしれないのに。

 

 イロミは次の参加者が来るまでに、サスケとナルトの夕ご飯の献立を考えることにした。自分が休憩する頃には、二人とも、昼食は勝手に済ませているのだろう。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 蛇口を捻った時に、泥の混じった水が出てきたら、人はどうするだろうか。おそらく、大半の人は別の蛇口を探すか、水道管に詳しい人に事情を説明するだけのはず。どうして水が出るはずの蛇口から泥水が出てきたのか、そこに興味関心を抱く者はいない。

 

 そこには妥協がある。諦観、と言ってもいいかもしれない。

 

 他の誰かが解明するだろう。他の誰かが、智栄に富んだ者に知らせるだろうという、諦めだ。もし近くに蛇口が無かったり、誰も水道管に詳しい人がいなくて、どうしても喉が渇いていた時には、意地でも地面を掘り起こして原因を追究する。そういった、切羽詰まった状況にならなければ、人は動かない。必要は発明の母とは言うが、それは、自分じゃない誰かがやるなどという、確固たる自分を持っていない者だけが、正義の旗印かのように呟くだけだ。

 

 必要こそが、偉大な発明を生み出すのではない。

 

 偉大な発明こそが、必要に当て嵌められるのだ。妥協すること、諦観することは、つまりは、将来の見据えることができない者。平和だと口笛のように口ずさむ者ほど、将来を見ずに、突如として目の前に姿を現した必要―――あるいは、危機―――に、涙し、泥を啜り、そしてまた妥協を繰り返しては、愚かにも必要は発明の母などと言うのだ。

 

 偉大な発明は、いつだって、禁を恐れない先駆者が、真っ暗闇の不条理に恐れることなく足を踏み入れて生まれる。

 

 凡人共は彼ら彼女らを危険人物などと嘯く。変化を怖がり、皆が集う明るく怠惰で妥協の末に作り上げられた唯一の場所で、声高に叫ぶのだ。

 

 妥協することこそが、愚かではないのか。

 諦観することこそが、恥なのではないのか。

 人は、成長し、知を追求することこそが、最上の力ではないのか。

 

 知を追求していけば、あらゆる必要は消え失せる。

 知識を蓄えていけば、あらゆる危機は未然に回避されていく。

 それこそが、正しい平和というものではないのだろうか。

 

 月夜の下に隠れ、長閑な町灯りに身を包んだ木ノ葉隠れの里は平和などではなく、ただ戦争という必要の合間に生まれただけの、成長も進歩も無い妥協の産物にしか見えなかった。

 

「バカみたいな里になったものね」

 

 大蛇丸は、一人そう呟いた。長い年月ぶりの帰郷だったが、その呟きには哀愁も懐郷も無く、ただただ呆れしかなかった。背の高い建物の屋上。そこに設けられた屋根付きの休憩所に、大蛇丸は立っていた。音隠れの里の上忍として里に入る際に被っていた人皮を脱いだ彼は、衣服はそのままだが、黒い髪の毛は下ろし、白化粧をあしらった顔になっている。

 

 辺りには誰もいないことは確認している。蛇のように辺りの熱源を探知することができる彼にとって、誰にも見つからずに平然と故郷の中に立つことは難しいことではなかった。いや、たとえ探知しなくても、平和ボケした木の葉隠れの里の忍では見つからない自信があった。

 

 中忍選抜試験で入っている忍にも、生温いほどの対応しかしていない。同盟国だからというくだらない思想が蔓延しているのがはっきりと分かった。

 

「もし私が試験官だったら、こんな里で六回も試験に落ちた忍は、邪魔だから殺してしまっているわね。貴方もそう思うでしょ? カブト」

 

 屋根を支える柱に背を預けていた大蛇丸は、視線だけを後ろに向けた。月が雲に隠れ、さらには屋根の影になっている暗い部分から、木の葉隠れの里の額当てを付けた薬師カブトが、困ったような作り笑いを浮かべながら姿を現した。

 

「そう言わないでください、大蛇丸様。わざと試験に落ちる演技をするのは、意外と難しいんですよ」

 

 大蛇丸は鼻で笑ってみせる。その難しい演技を六回も行いながらも、未だ木ノ葉の連中から怪しいと思われていないのだから、皮肉以外の何物でもないからだ。昔から、この少年の皮肉と笑みは、面白いと思ってしまうほどの不気味さがあった。

 

 本心を決して見せない行動の機微。相手をその気にさせる話術。どれもこれも、幼少からスパイとして叩き上げられ、さらにその才能を開花させた彼だからこそできる一級品だ。長い間、右腕として使ってきたものの、本当に忠誠を誓っているのか疑問なところはある。

 

 もちろん、疑問と言っても、些細なものだ。戦々恐々とするわけでもなく、自分とカブトの実力は雲泥の差であるため、たとえ不意を突かれても殺すのは容易だ。

 

 カブトは暗闇から少しだけ身体を出し、ようやく雲から出てきた月の光に、そののっぺりとした笑みを見せた。

 

「いかがでしたか? 久方ぶりの、我が子(、、、)との対面は」

「相変わらず、嫌なこと言う子ね、貴方」

「ふふっ、いえいえ。ボクはてっきり、貴方がその気になっているのではと思っていただけですよ」

 

 我が子。

 

 昼間、音隠れの里の忍として受付に行った時に立っていた、特徴的な髪の毛をした少女―――イロミ。間抜けで平和ボケした雰囲気を丸出ししたあの失敗作―――いや、あるいは成功例―――を思い出し、再び鼻で笑う。

 

 彼女のことは、既にカブトに調べさせて、大まかなことは知っている。

 

 木の葉隠れの里の特別上忍。あらゆる忍具を使いこなし、あらゆる知識にある程度精通し、忍術幻術は碌に使えないながらも、数多の【仕込み】によって実績を重ねてきた忍。

 うちはフウコの親友であり、うちはイタチの友人、そして猿飛ヒルゼンの養子。

 他にも彼女の情報は知っているものの、実物を見たのは今日が初めてだった。

 

 自分の研究成果の一つが、多くの物と繋がって目の前に姿を現し、自身を猿飛イロミと名乗った時は、少なからず興奮してしまったものの、今思えば、感想は一つ。

 

「アレは利用できそうね」

 

 ただ、それだけだった。

 

「猿飛先生には感謝しなくちゃねえ。アレを拾って、生き永らえさせてくれたのだから。元々はゴミ山の一つに過ぎないのに、とんだ掘り出し物を見つけた気分ね。できれば、今すぐにでも攫って解剖したいところだけど、流石にまだ早いわね」

「うちはイタチですね?」

 

 鋭い子ね、と思いながら大蛇丸は呟く。

 

「まだ試験が始まる前。もし今、アレを攫ってしまえば、木ノ葉隠れの里は中忍選抜試験を中止する名目が出来てしまう。そうなれば全ての矛は私たちに向けられるわ。ただでさえあの老いぼれがいる上に、神童のうちはイタチを相手にするのは、荷が重い。攫うなら、試験が始まってしばらくしてからね」

 

 しかし内心では、すぐにでもイロミを解剖したい衝動が暴れていた。

 

 浄土回生の術。それを応用したオリジナルの術の、一応の成功例。生まれ落ちてすぐに身体中が溶けて死ぬと思っていたのだけれど、今は何事も無く細胞は安定している。細胞に大きな変化があったのは明白だった。

 

 また、カブトが集めてきた情報にも、気になる点があった。

 

 それは、彼女が【うちは一族抹殺事件】によって負傷し、治療を受けた際に書かれたカルテの内容である。

 

 薬物やチャクラなど、外部からの影響が常人の遥かに少ないということである。カルテには、薬物やチャクラを細胞が吸収し無力化しているようだ、という担当医の意見が書かれていたが……裏を返せば、疫病や細菌すらも飲み込むということ。

 

 どれほどの範囲まで、彼女の細胞はカバーできるのか分からないが、もし……。

 

 もし、彼女の細胞が、森羅万象の疫病や細菌を飲み込み無力化するのであるならば。

 

 それは、万能薬に等しい希少なものなのではないか。

 全ての疫病や細菌を暴食する、悪食な万能薬に。

 自身が研究している、不老不死の道の礎になるのではないかと。

 

 もちろん、イロミの利用価値は他にもある。

 

 例えば、うちはイタチ。彼ともし対峙することになったら、彼女をカードに牽制することができるかもしれない。これから行う計画には、彼の存在が最も邪魔になってくることだろう。木の葉隠れの里の神童と謳われる彼を抑え込むためのカード。

 あるいは―――同盟相手のうちはフウコを牽制するための、カード。

 

 しかしいずれも、決定打ではない。牽制することはできるかもしれないが、あくまで主導権は向こうにある状況に変わりはない。イロミを切り捨てるという判断がなされてしまった時点で、負けなのだ。

 

 念の為に、うちはイタチを抑え込むカードは他にも用意はしている。故にイロミの利用価値はどちらかと言うと、その万能薬の方が比重は大きい。

 

 もし彼女の細胞を手に入れることが出来たのならば、それは有益に使わなければ。

 

 そう、たとえば。

 

 今はまだ、アジトで治療中の―――君麻呂(、、、)に投与する、など。

 

 うちはイタチの牽制役として今回の計画に彼を使い捨てるつもりではあったが、もしその後も使い続けることが出来るのならば、彼の評価も変えなければいけなくなる。

 

 他にも、イロミの細胞を使ってどのようなことが出来るのかと考えを巡らせていくと、妥協と諦観に満ちた里への呆れもすっかりと姿を消してしまった。

 

「……あまり、彼女に執着してはいけないのでは?」

 

 珍しく、カブトの声に小さな硬さを感じ取った。

 視線を向けると、彼は眼鏡の位置を直しながら、その奥にある瞳が怪しく光っている。

 

「あら? 貴方が嫉妬するなんて、珍しいじゃない」

「嫉妬だなんて……。ボクは事実を言ったまでですよ。貴方の目的は、あくまで、木の葉隠れの里を滅ぼすことと、そして―――うちはフウコへの対抗手段を持ち帰るためだったのでは?」

「ククッ……。それもそうね。アレが本当に利用できるからは、やってみないと分からないものね」

 

 一度、我が子のことを思考の外に置き、大蛇丸は続ける。

 

()は今もまだ?」

「ええ。健気にも信用していますよ。うちはフウコ(、、、、、、)のことをね」

「あら、そう。ククッ。じゃあ、彼に教えてあげないとね。うちはフウコが何をしようとして、木ノ葉が何をしたのか」

 

 同盟関係である、うちはフウコ。しかし、大蛇丸にとっては、それは同盟でも何でもない、主従のような関係でしかなかった。

 

『大蛇丸。貴方と同盟を組みたい』

 

 今でも思い出すと寒気がする、あの視線。

 

 人形よりも仄暗く、零度よりも冷たい眼。

 

 目的の為ならば、何千何万の命をも殺すのに躊躇しないという、絶対の死を無機質に淡々と提供する彼女と、大蛇丸は同盟を結んだ。

 

『もし貴方が私の為に動いてくれるなら、貴方に渡してあげる―――輪廻眼を』

 

 彼女から聞かされた、【暁】を裏で動かしている者の情報と、輪廻眼という伝承の存在。

 輪廻眼を手にすれば、あらゆる忍術を追い求めることが出来る。

 

 それは、たとえば―――死者を蘇らせるような、夢のような忍術も。

 

 同盟を組んだものの大蛇丸は、フウコがその契約を果たしてくれるとは露にも思っていなかった。

 

 彼女は余りにも強大過ぎる。かつて滝隠れの里で戦った時よりも、さらに強大となって、正に化物のような力を手にしていた。

 

 実力では、到底太刀打ちできない。

 契約を果たしても、彼女が掌を返してしまえば、輪廻眼は手に入らないだろう。

 この世で最も手にしたい輪廻眼は、今のままでは、手に入らない。

 

 だが決して、妥協や諦観など、大蛇丸はしなかった。

 輪廻眼を獲得したいという確固たる自分を、揺るがせはしなかったのだ。

 

 実力で勝てないのであるならば、別の力で彼女をコントロールすればいい。

 

 親友という力では足りない。

 彼女のかつての家族である、うちはイタチでも、うちはサスケでも、まだ足りない。

 

 そして、たった一つにしか利かないカードではなく、たとえば、自分が所属していた【暁】さえもコントロールし、うちはフウコにぶつけることが出来るようなカード。

 さらには、うちはフウコが自分の人生を犠牲にして守った木ノ葉隠れの里に、強い憎しみを抱き、うちはフウコがどれほど制止をしようがお構いなしに木の葉隠れの里を滅ぼそうと願う愚鈍で素直な、そんな夢のようなカードだ。

 

 そう。

 

 つまり。

 

 大蛇丸が今、うちは一族という希少で有能な肉体よりも確実に、手元に置いておきたいと考える存在。

 

 それは、

 

「ナルトくんも、厄介な子を好きになったものね」

 

 

 

 九尾の人柱力にして【暁】が一番最後に獲得すると決めている、少年。

 

 うずまきナルトだった。

 




 次話の投稿は、十日以内に行いたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

奇遇にも揃う三人

「おっちゃん! このアイスちょーだい!」

 

 七月に入った。七の月の七日。ちょうど、中忍選抜試験が木ノ葉隠れの里で開催される日である。同盟国から多くの下忍の子たちが、今年こそはという意気込みで集結し、普段の平和な空気に包まれている木ノ葉隠れの里が殺伐とした空気になっている頃だろう。時間的にも、間もなく第一の試験が始まる頃だろう。しかし、小さな駄菓子屋の主人にも、声を掛けてきた幼い女の子にも、殺伐とした空気は全く感じさせない。

 

 そこは、木ノ葉隠れの里から遠く離れた、火の国の端の町―――の、その端の田んぼ道だった。殺伐とした空気はない。聞こえるのは、風が田んぼの緑を揺らす音と、時折聞こえてくる虫の鳴き声くらいだ。

 

「お嬢ちゃん一人かい? お金は持って来てる?」

 

 老齢の男主人が柔らかい笑みを浮かべて、レジの向こう側から女の子を見下ろす。

 

 女の子は十二歳ほどの年齢だった。駄菓子屋が立っているのは、田んぼ道の脇。少し先には、民家が幾つか立っている小規模の集落がある。男主人にとって集落の者たちと顔見知りだったが、女の子は初めて見る顔だ。別の集落から来たのだろうか?

 

「うん! はい! これで足りるでしょ?」

 

 女の子が伸ばしてきた小さな手の中には、もう片方の手に収まっているソーダ味のアイスとピッタリの値段だった。男主人がお金を受け取ると同時に、女の子は手早くアイスの袋を開けた。

 

 女の子の髪は、薄い黄色だった。活発さをアピールするかのように髪を一本のポニーテールに纏めている。額には、刺青なのか絵の具で描いたものなのか、ひし形のマークがある。着ている服は袖のない白い服で、けれどサイズがまるっきり合っていないように思える。失礼かもしれないが、もっと成長してから着るべきサイズである。服の上から巻いている帯で無理やりサイズを合わせているようだった。

 

「ねえ、おっちゃん」

 

 女の子がアイスを噛みながら呟いた。

 

「なんだい?」

「このアイスって、当たり付きだよね?」

「そうだよ。でも、当たってもここでしか交換できないからね。他の所だと、多分、難しいんじゃないかな」

「どうして?」

「だって、そのアイスが他の店にあるか分からないじゃないか。すぐそこのベンチで食べてから、もし当たった時に持ってくるんだ」

 

 男主人は顔を上げて、店の入り口を見た。スライド式で両開きの出入り口からは、燦々とした光が入り込み、向こう側に田んぼ、さらにその向こうには山があった。そこで、思い出す。そうだ。たしか、ついさっき、店の前を二人の男女が通り過ぎた。

 

 黒い長髪の男性とショートの女性だ。男性は黒いロングコートを羽織っていた。女性は黒い浴衣のような服を着ていて、子豚を抱えていた。大きな真珠を下げた子豚である。

 

「すぐ近くの小さい空き地のベンチに座ってるんじゃないかい? お兄ちゃんとお姉ちゃんが」

「う、うん……。そう。お兄ちゃんとお姉ちゃんなの。ねえおっちゃん! もし当たったら、一本じゃなくて、二本ちょうだい!」

「はっはっは! ここ最近、めっきりアイスを当ててくれる子がいなくなってしまってね。いいよ、当ててくれたら特別に二本奢ってあげるよ」

 

 女の子は嬉しそうに笑いながら、アイスを口に加えて出て行った。男主人は店奥に入る。畳の敷かれた狭いリビングだった。テレビを付けて、横になる。頭の隅に、女の子が当たり棒を持ってくるかもしれないということを考えながら。

 

 ところで、女の子―――綱手は、男主人とは打って変わって、自分の手にしているアイスの棒が当たり棒だとは、ビタ一文として信じてはいなかった。当たらないという確信、と言ってもいいだろう。まあ、当たったところで、嬉しくはないのだが、万が一、何かしらの間違いが起きて当たった場合、一本買って一本おまけというのは馬鹿馬鹿しい。一つ賭けたなら二つ戻ってくるというのが、賭け事の鉄則であり、そういった理由で男主人に、当たったら二つくれと言っただけであった。

 

 アイスを齧りながら、綱手は近くの空き地に向かった。空き地というよりかは、ただ雑草が生えておらず、くたびれたベンチが対面に二つ並んでいるだけの場所だ。きっと、田んぼを管理していた人たちが自前で用意したのだろう。ベンチの間には、木の丸太が、テーブル代わりに置かれている。

 

「おかえりなさいませ、綱手様」

 

 ベンチの片側に座っていた女性―――シズネは、安心しきったような笑みを浮かべ、緑色の半纏を綱手の肩に掛けた。すると、それに合わせて綱手の身体は、瞬く間に成長していく。正確には、彼女自身が施していた術で身体の姿形を変えているのだ。変化が止まったのは、ちょうど二十代辺りだろうか。若々しい肌と豊満な胸となった彼女の姿は、着ていた衣服にピッタリと収まっており、半纏に袖を通すと様になっている。

 

 大きくなった口でガリガリと粗暴にアイスを齧ると、アイスの棒の頭部分が小さくはみ出した。

 

「ったく、ガキの姿だと身体が疲れてしょうがない」

 

 ドサリと、綱手はシズネの横に腰かける。右手でアイスを摘まみながら、左腕を背もたれに置く。美しい容姿だが、なんだか雰囲気が荒んでいる。端的に言えば、おっさん臭かった。

 

 賭け事が好きという彼女の趣向もあるかもしれないが、やはり、年季が入っているからだろうと―――対面に座っているイタチは静かに思った。

 

 綱手の実年齢は、五十代である。つまり、女の子から二十代の女性に姿を変えたけれど、それすらも本当の姿ではないのだ。暗部の部下から聞いた情報通り、基本的に姿を変えているようだ。あまり理解できる価値観ではなかったが、友好的な笑みは決して崩さないまま尋ねる。

 

「本当に、アイス一つで良かったのですか? 喉が渇いているのならば、まだお金は出しますが……。シズネさんは良いですか?」

「気にしないでください。私は平気です。トントンもまだ大丈夫みたいですし」

 

 シズネの足元のトントンという、首に真珠のネックレスを掛けた豚が「ブヒッ!」と明るく返事をした。シズネも、そしてアイスを食べている綱手も、大きな疲労の色は見せていなかった。

 

 およそ、一週間。碌に眠らずに、逃げる追いかけるを続けたというのに。やはり三忍とその付き人と言った所である。

 

「綱手様は大丈夫ですか?」

 

 微かな眠気をこらえながら、イタチは尋ねる。

 

「いらん! さっさと要件を話せ!」

 

 眠気は無いようだが、幾分か苛立ちは抱いているようだ。乱暴にまた大きく、アイスを齧った。大きく飲み込むと、綱手は小さく舌打ちをする。

 

「お前らのせいでこっちは喉が渇いているんだ! くだらない話しなら、ただじゃ済まさないぞ!」

「……やはり、飲み物を買ってきましょうか?」

 

 イタチの提案は、しかし綱手は鼻で大きく息を吐いて捨てられた。どんなこだわりがあるのかは分からないが、ようやく話しを聞いてくれる段階になったのだ。不必要に気を遣い嫌気を刺され、また一週間も追いかける羽目になるのは御免だ。

 

 イタチは小さく息を吐いてから、言う。

 

「―――単刀直入に言います。一度、木の葉隠れの里に戻っていただきたい」

 

 シズネが気まずそうに、無言に笑みを浮かべる。その傍らで、綱手は侮蔑するようにニヒルに笑った。

 

「大方、そんなことだろうとは、思ってたがな。あのジジイが死んだのか? 言っておくが、私はあの里に戻るつもりはない。何か手伝えというのなら、他を当たりな」

「火影様は健在です。確かに、少し、手を貸していただくことになるかもしれませんが、木ノ葉隠れの里の運営などに携わるものではありません。あまり、お手数をかけることはないでしょう」

「ジジィが生きてるっていうことなら、尚の事、戻るつもりはない」

 

 取りつく島もないと言った感じである。ただ単純に怒りながら拒絶していると言った、子供染みた抵抗ならまだ御しやすいが、手に持ったアイスで虫を掃うように揺らす彼女の姿は、達観した拒絶だった。こういった手合いを動かすには、少し強引さが必要である。

 

「いいえ、綱手様には里に戻ってもらいます」

「戻らん」

「どうしても、戻ってはもらえませんか?」

「しつこいガキだな。どれほど頭を下げようが、戻るつもりはない。さっさと帰れ」

「そうですか―――」

 

 イタチはゆっくりと顔を下げた。額当ての上から垂れる前髪が、イタチの両眼を綱手から見えなくさせる。顔上げた。

 

「では、力尽く、ということで」

 

 写輪眼を見せると同時に、イタチは冷酷な視線と無表情で綱手を睨み付けた。初めて綱手と、そしてシズネから笑みが消える。イタチから放たれる鋭い圧迫感と、研ぎ澄まされたチャクラに、付き人のシズネの表情は険しくなるものの、綱手は真剣みを帯びた視線を送ってきた。

 

「お前……うちはの生き残りだったのか」

 

 イタチは小さく頷く。

 

「なるほど。じゃあ、お前が、あのうちはイタチだったのか。道理で、これまで私らを追いかけてきた暗部の連中とは違う訳だ」

「イタチって、木ノ葉の神童って呼ばれている……。まさか、こんなに若い子だったなんて」

「俺の話しは結構です」

 

 と、イタチはシズネを一瞥し、綱手を睨む。

 

「綱手様。あまり手荒なことはしたくない。ここは火の国の国境付近。事を荒げると、後々、厄介なことになりかねません」

「……まるで、私に勝てるような言い草だな」

「ええ。俺は、アンタより強い」

 

 敢えてイタチは、綱手を下に見るような言葉遣いをした。安い挑発である。綱手も、それは分かっているはず。しかし、彼女は分かった上で、眉間に皺を寄せ、語気を強めた。

 

「私の半分も生きてない餓鬼が。言葉はよく選びな。神童だか何だか言われて調子に乗っているようだが、あまり私を怒らせるんじゃないよ」

「どれだけ生きたかというのは関係ない。勿論、年配の方には常に尊敬の念を抱いています。長く生きるということの難しさは、身を以て体験していますので。忍として長寿というのは、偉大なことだと思います。だが―――アンタは違う」

 

 神経を集中させる。目に見えて、綱手の怒りがどんどんと理性を突き破ろうとしているのが分かったからだ。いくら写輪眼と言えど、この近距離で三忍を相手に無事で済む保証はない。綱手の隣に座るシズネは、さりげなくトントンを腕に抱えていたのは、きっと、ただ事ではない事態になると、付き人としての長年の経験が警鐘を鳴らしているのだろう。

 

 それでもイタチは続ける。

 

 この世に、怒ることが出来る人間はいない。

 誰も彼も彼女も、人は皆、怒らされているのだ。

 何も無く、心の底から怒ることが出来る人間はいない。怒らされているのだ。

 つまりは、綱手はこちらの土俵に上がろうとしてきている。

 達観的な拒絶のような、ヒラリヒラリと言った感じに言葉を交わすのではない。

 真正面から言葉を跳ね返そうとしている。

 交渉という、場面である。

 

 これは、おそらくイタチほどの実力が無ければ、この場面に持っていくことはできないだろう。実力があるからこそ、相手に発破をかけることが出来る。実力のない誘いは、相手が素直に誘いに乗った後は、手詰まりになってしまうからだ。

 

「アンタは木ノ葉から逃げた」

 

 その言葉一つで、綱手の凄みが増した。写輪眼は確かに、背もたれに乗っけている腕の筋肉の動きを捉えている。背もたれの裏に隠れている手は、拳を作っていることが分かった。

 

「多くの人々が命を費やし、作り上げた平和を前に、アンタは逃げたんだ。自分の納得のいかないものだったから、逃げて、一人で生きていけるんだと格好を付けている、ただの子供だ。かつて三忍と言われたアンタでも、尊敬はできない。頭の悪い子供を相手に媚びへつらうほど、俺は馬鹿じゃない」

「貴様―――ッ!」

「やめなシズネッ!」

 

 トントンを抱えていた右腕。袖を捲り、その下から出てきた、幾つかの小さな筒状のものから伸びる紐を引っ張ろうとしたシズネを、綱手は声だけで制止させる。

 

 イタチは驚くことも、緊張に身体をこわばらせることもしなかった。意外と鋭く怒る人だと思っただけだ。写輪眼で容易に予測できていたこともあるが、ここでそんなみっともないアクションを見せては、交渉の場が崩れかねない。

 

 こちらが上で、そちらが下。

 今必要な構成は、それである。そうしなければ、相手を動かせない。

 

「まだ聞いてない部分がある。私は、木ノ葉に戻って何をさせられるんだい?」

「うずまきナルトくんをご存知ですか?」

「……うずまき?」

 

 綱手が眉を微かに傾けた。うずまきという姓に思い当るものがあるのだろう。イタチは助け船を出すことにした。

 

「四代目火影・波風ミナト様の子です。うずまきというのは、ミナト様の妻にあたる、うずまきクシナ様の姓です」

「ああ……九尾のガキか」

 

 イタチは頷く。

 

「実は、ナルトくんに施された屍鬼封尽が弱まっている可能性が出てきました。暗部には、九尾のチャクラを抑える術を持った人がいますが、不安な部分があります。そこで、綱手様には―――」

 

 そこで一度、イタチは言葉を止めた。一秒くらいだろう。しかし、綱手はそれで何かを察したようだ。左手で首飾りの石を隠すように握った。

 

「……俺も、無理にそれを取り上げるようなことはしたくありません。ですので、綱手様自身が木ノ葉に戻っていただけることが、最良の手段だと思っています。それに、たとえナルトくんの屍鬼封尽が解けてしまっても、綱手様のお力を貸していただけるなら、その石の力を借りることも無く抑え込むことも簡単だと思っています。俺の写輪眼もあるので、九尾を抑えるのは、難しくありません」

 

 イタチは一度、そこで小さく息を吐いた。

 

「ナルトくんは今、中忍選抜試験に出場しています」

 

 正確には、出場している可能性がある、というだけである。カカシが推薦したからと言って、必ず出場しなければならないということではないのだ。

 

「もし、その試験が終わるまでにナルトくんに異常が見られなければ、そのまま里を出て行って構いません。いずれ、ナルトくんには、九尾のチャクラをコントロールする術を身に付けてもらうつもりだと、火影様は考えています。今回の試験が終わるまでで構いません。他に、貴方に望むことはありません」

「……本当に、それだけなんだな?」

「はい。したくないこと、たとえば、火影様に会いたくないということでしたら、無理にしていただくことはありません。ただ、里にいるだけで構いません。問題が発生しない限りは」

 

 まあ、と呟き、イタチはそこで、笑みを浮かべた。

 写輪眼も解き、完全な無防備を晒す。

 もちろん、ある種の計算の上での演出だったが、呟いた言葉は、紛れもない本心だった。

 

「今の木ノ葉隠れの里を、見てほしいんです。ようやく到達した、平和な里を。改めて、評価してほしいんです」

 

 綱手がどう思って、里を出て行ったのか分からない。

 だけど、もう一度だけ評価してほしいとは思っていた。

 自分が幼い頃に過ごした、あの時間に、たとえば他人でも、絶望してほしくない。

 綱手は一度だけ、考えるように視線を伏せた。葛藤が生まれているのか、下唇を噛んだ。彼女の額に小さく汗が浮き始める。緊張がこちらまで伝染し、イタチは心の中で固唾を飲む。

 そして彼女は、大きく息を吐いた。

 

「いいだろう。里に……戻ってやる」

 

 その返答にイタチは大きく肩の力を抜いた。綱手の隣に座っているシズネも、嬉しそうに目を輝かせており、トントンも「ブヒッ!」と高い声で鳴いた。

 

「ありがとうございます」

「ただし! 条件がある」

 

 険悪な雰囲気が一変し、綱手は不敵に笑いながらアイスを持った手で器用に人差し指を突き立てた。

 

「なんでしょうか?」

「私たちがこれまで踏み倒してきた借金だが、木ノ葉に全額払ってもらおう」

 

 アヒィッ! と、シズネが素っ頓狂な声を出した。イタチの穏和な笑顔も固まってしまった。冷汗がこめかみを伝う。綱手がこれまで金貸し屋から逃げてきた経歴を考慮する限り、膨大な金額だと分かってしまった。

 

「……正確には、いくら程でしょうか?」

「シズネ」

「……あ、あの、綱手様? 流石にその条件は、横暴過ぎなのでは…………」

「なんだい? 私に文句を言うってのかい?」

「は、はいぃ! 今すぐ!」

 

 シズネはトントンを地面に置くと、懐から分厚い帳簿を取り出し、恐る恐る渡してきた。イタチは手に取り、一番上の紙を見る。一番上の紙の下部に、赤字でこれまでの借金を総合した数字が書かれていた。

 その額、およそ八千五百万両。

 頭が痛くなる数字だった。

 

「シズネさん。これは、桁は間違ってはいないのですね?」

「……はい。恐ろしいことに、何度も検算したのですが、間違いはありません」

 

 頭痛が強くなる。数字を見て頭が痛くなったのは、人生で初めてかもしれない。

 

「……分かりました。火影様に掛け合いましょう」

「言っておくが、びた一文とて値切りは許さんぞ!」

 

 むしろ譲歩することが出来るほど殊勝な心掛けがあるのならば、そもそもこれほどの借金をすることはしないはずだと、イタチは口の中で呟く。まあ、仕方ない。里が滅びるかもしれない未来への備えとして考えると、良心的な値段ではある。

 

 帳簿を預からせてもらうとシズネに断りを入れてから、コートの中に収めた。心なしか、コートの重さが十倍ほどになったような気がしないでもない。

 

 満足したように綱手は立ち上がる。小さくなったアイスの棒をトントンの口に投げ入れると、善は急げと言わんばかりに道を歩いて行ってしまった。

 

「どうも……、なんだか、凄いことになってしまい、すみません」

 

 トントンを腕に抱えると、シズネは曖昧な表情で頭を下げてきた。

 

「気にしないで下さい。綱手様が里に戻っていただけることを考えると、些細なものです」

「私としては……たとえ少しの間だけでも、綱手様が木の葉隠れの里に戻ってくれることは、良いことだと思っています」

 

 ちらりと綱手の背中を小さくなった背中を見た。半纏の後ろ側に刺繍されている赤い丸の中の【賭】という文字が、何とか見えるくらいだ。その文字をはっきりと目に捉えるように、シズネは柔らかく瞼を細める。

 

「今回の事で、少しでも……綱手様の御心が昔に戻ってくれたら…………」

 

 その呟きはあまりにも小さく、何かを呟いたのだとしか分からなかった。

 

 シズネはイタチに向き直り、頭を下げた。

 

「少々事情が特殊ですが、綱手様を木ノ葉に呼んでいただき、ありがとうございます」

「気にしないでください。シズネさんも、木ノ葉を新たに評価してください」

「はい。久々に、ゆっくりさせていただきます。あ、トントン、駄目ですよ。棒も噛むと、お腹を壊しますからね」

 

 抱えたトントンの口からはみ出しているアイスの棒を取った。アイスの味が好みだったのか、棒にはトントンの唾液がべったりと貼りついていて、シズネは口をへの字にした。しかし、棒に書かれていた文字に、すぐに口が開く。

 

「あれ? これ当たり棒ですよ! 珍しい。綱手様が当たりを引くなんて。……こういうのを、普段の賭博でやってほしいんですけどねえ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その日の夕暮れは、綺麗な光を木ノ葉隠れの里に降らせていた。金箔にも劣らない光は、おそらく、薄い雲を通したせいだろう。町並みは当然ながら、小鳥や、些細な電柱さえ美しく、どこか感慨深いものを感じさせる。そのせいか、それら綺麗な風景を堪能しようかとするかのように、人通りが多い。

 

 大抵、そういった、人が多く行き交う時には、路地裏の影に置かれるゴミ袋のような些細な犯罪が行われるものである。夕方、というのも、そういった条件になるのかもしれない。

 

 木ノ葉隠れの里の中心から少し離れたところに、温泉宿がある。木ノ葉ではそれなりにお手軽な値段で泊まることができ、尚且つ日帰り入浴もできるということから、仕事帰りに寄って行く者が多いという。露天風呂もあり、設備は整えられていて、そしてその温泉宿は今日、女性優待日であった。つまりは、女湯の値段が安くなる日なのだった。

 

 企業努力は素直に女性客を集めることに成功し、男湯の露天風呂とを仕切る竹で作られた高い塀の近くには、多くの女性が湯を楽しんでいた。

 

「エヘヘヘヘ。お~お~、絶景かな絶景かな」

 

 顔岩近くで、一人の男性が長い望遠鏡を構えていた。丘というほど広く平坦なわけでもなく、山というにはスケールの小さい、つまりは、顔岩の一部の出っ張ったところである。男性はその大柄な体形を少しでも隠そうと、下駄を吐いた足の膝を限界まで曲げていた。ボリュームのある白髪は夕暮れの光でカモフラージュされ、赤いちゃんちゃんこや大きな巻物、【油】と書かれた特徴的な額当ても、眼下を歩く人にとっては、意識しないと見えにくいものになっている。

 

「久々に、よい取材ができそうじゃ。おー!」

 

 男性は望遠鏡を持った手に、声を上げると共に力が入り、やや前傾姿勢になる。取材、という対象がはっきりと見えたようだが、しかし、彼の持っている望遠鏡の角度は、明らかに下方向に傾いていた。

 

 空でも鳥でも山でもなく、男性の取材というのは、有り体に言ってしまえば、単なる覗きだった。覗き先は―――女湯である。

 

 まあ、もしかしたら―――広い世の中のどこかには、そういった特殊な取材というものがあるかもしれないけれど―――少なくとも男性が恍惚とした表情を見る限りは、合法的なものではないだろう。罪悪感を全く抱いていないその様子は、幼い頃から覗き行為を行ってきたのだという経験を隠すことなく表していた。

 

「やはり夕日というのは映えるのぅ。こりゃ夜も楽しみじゃわい」

 

 辺りに誰もいないことを確信してか、もはや取材という大義名分を暗に捨ててしまっている。しかし、どうせ周りには誰もいやしない。言い訳というのは、誰かがいて初めて行うものだ。

 

「おい、夜の何が楽しみなんだ?」

 

 だからこそ、後ろから突如として声を掛けられた時、男性―――自来也の心臓は麻痺を起こしてしまうのではないかというほど、躍動した。

 

 いや、声を掛けられた程度なら問題はない。そんな少年のようなピュアな心は持っていない。問題なのは、その声には多大なトラウマがあったからだ。かつて、彼女の入浴を覗き見しようとした時に聞いた、般若よりも悍ましいそれと同じである。あの時は、本当に生死を彷徨ったものだ。

 

 恍惚な笑みは真っ青になり、ダラダラと汗が溢れ出てくる。

 

 自来也は、ゆっくり顔を振り向かせた。正に、仁王のような出で立ちの綱手が、額に幾つもの青筋を浮かばせていた。

 

「久しぶりだな、自来也」

「お、おー! 久しぶりじゃのう綱手!」

 

 慌てて立ち上がり、自来也は下手くそな笑みを浮かべて、声を高くした。

 

「元気にしておったか? わしはもう、お前がどこかで野垂れ死んでいるのではないかと、毎夜毎夜枕を涙で濡らしておった! 今から酒でも飲みに行こうじゃないか! ささ! こんな所で語らうのも―――」

「お前、その望遠鏡で何を見てた?」

「まあまあそう怒るでない。取材じゃ。鳥の観察が最近の趣味でな。本も出しておるのじゃぞ? いや、とにかくその話しは―――」

「貸せッ!」

 

 綱手は乱暴に望遠鏡を取り上げると、ついさっきまで自来也が見ていた方向と全く同じところを覗き込んだ。

 

「……ほお? 随分と大きな鳥を見てたんだな」

 

 綱手の声が重く、冷たくなる。

 マズい、と自来也は直感する。これは、あの時と同じ、容赦のないパターンだと。

 今度は二百メートルだろうか? それとも、三百メートル? いや、命の保証が、まずはあるかどうか。

 

「な、なに言っておるのか、わしにはさっぱり分からんのう……。望遠鏡というのは、上を向くもので、わしが見ておったのは、空の方じゃ」

「こんな夕方に見れる鳥なんざ、烏しかいないだろ」

「烏の観察が、わしのブームじゃ……」

「おい自来也。あの子、お前に手を振ってるぞ」

「貸せッ!」

 

 横から望遠鏡を掻っ攫い、綱手が見ていた方向を見る。

 

 そこには健康的な老齢の女性が立っていた。

 

「ババァじゃないか! はッ?!」

 

 言ってから、自来也は失言を自覚する。同時に、綱手から胸倉を掴まれた。

 

「五十のジジィになっても見下げ果てた性根は変わってないみたいだなお前はッ!」

「ま、待て綱手! これには高尚な目的があってだな……!」

「黙れッ! 私の目が黒い内はタダで女の裸が見れると思うなッ!」

 

 空いてる手が拳を作る。冷や汗がダダ漏れし、悲鳴が出そうになる。同時に、懐かしさも感じた。胸倉を掴まれ、殴られそうになる。まだ下忍だった頃の光景が過った。この場にいない、大蛇丸のムカつく笑みも、思い出される。

 

「綱手様、落ち着いてください」

 

 走馬灯のような思い出と綱手の怪力を停止させたのは、後ろに立っていたイタチだった。

 ふん、と綱手はゴミでも捨てるかのように自来也を離す。

 

「おいイタチ、暗部ならこの犯罪者を殺せッ! 私が許すッ! 八つ裂きにしろッ!」

「そうしたいのは山々ですが…………。自来也様で間違いないのですか?」

「ああ。こいつが私と同じ三忍の自来也だ」

 

 イタチは、じっと、地面に尻餅をついている自来也を見下ろした。以前、三忍の資料を見た時に載っていた顔写真と一致したが、何というか、信じられない部分があった。無類の女好きとは知っていたが、平然と犯罪を犯している場面を目撃してしまったため、信じがたかったのだ。里の狂気、とかつては呼ばれていたようだが、もしかしたら実力を比喩した表現ではないのかもしれない。

 

 綱手と共に、つい先ほど、里に到着したばかりだった。途中、里の経費という名目の元、豪遊三昧なことがあったが、何とか一日を費やしただけで戻ってくることができたのは、幸いと考えていいだろう。

 

 里に到着するや否や、綱手が突如として走り出したかと思うと、つまりは、自来也を発見したということだった。もしかしたら、自来也の覗きポイントの一つを、綱手は把握しているのかもしれない。

 

 イタチは小さく息を吐いて、頭の中を切り替える。

 

「自来也様、どうして木ノ葉に?」

 

 綱手からの脅威から逃れられたことに自来也は緊張感を無くし、つまらなそうにイタチを見上げた。

 

「なんじゃ? お前は」

「俺はうちはイタチと言います。暗部の者です」

「……ほぉ。あのうちはの末裔か」

「火影様が貴方様の行方をずっと捜していました。ここで犯罪を犯している暇があるのでしたら、一度、火影様の元に―――」

「どいつもこいつも、見る目がないのぉ。ワシは取材をしておったのじゃ。それに今更、ジジィの所に顔を出すつもりなんざぁねえよ。ピチピチの若い女なら、考えてもやらんではないがのぉ」

 

 綱手から何かが破裂するような音が聞こえたかもしれない。ブンシが授業中にキレた時と同じような音だったので、イタチは敢えて綱手を見ないようにしたが、自来也が足を胡坐の形にして綱手を見上げた。

 

「それよりも、本当に久しぶりじゃのぉ、綱手よ。なぜ、お前も里に戻ってきたんだ?」

「私はこのガキに呼ばれただけだ。事情は言えんが、借金を肩代わりしてもらうことになったんでな。用が済んだら、さっさと里から出ていくよ」

「自来也様は、いつ頃から木ノ葉に?」

 

 尋ねた時にちょうど、シズネが追いついてきた。トントンを両腕で抱えているせいか、三人の中で一番遅かったのだ。シズネが後ろで「こちらは?」と綱手に尋ねている。「ただのクズだよ」としか応えなかった。

 

「ワシは今日来たところだ。特に理由があって来たわけではない。ただの、取材じゃ」

 

 どこか達観したように、里を見下ろす自来也。彼がどうして里を離れたのか、その理由は、三忍の中で一番不鮮明だった。だが、好都合だと、イタチは思った。

 

 自来也はかつて、四代目火影である波風ミナトの師であった。その息子であるナルトの事態を知らせれば、積極的ではないかもしれないが、ある程度の協力を得られるのではないか。既に中忍選抜試験開始から、一日が経過している。試験内容は分からないが、二次試験か三次試験辺りだろう。言い方は悪いが、既にナルトとサスケのいる班が脱落していた方が気は楽なのだが、確かめてみないことには分からない。

 

 もし、自来也が綱手と同じように万が一の時に力を貸してくれるように、イタチは事情を話そうと―――した、その時だった。

 

「イタチさんッ!」

 

 その声は、上空から降り立った。

 

 イタチは、いや他の三人も声の方向を見上げる。一瞬だけ西日が視界を覆うが、彼女の影はすぐに捉えることができた。腰から二本の羽を生やし空を飛ぶフウが、そこにいた。

 

 綱手、シズネ、自来也は、彼女の姿に驚きを隠せなかったようだが、イタチは違った。フウが元滝隠れの里の忍で、七尾の人柱力だということを知っている。腰から生やしている羽は、その七尾のチャクラを利用したもの。

 

 イロミを経由して、彼女とは知り合った。普段から明るく、快活な少女な彼女だが……今だけは、違った。大きな瞳からは涙が零れていた。深い悲しみと、強い怒りが入り混じったように、唇が震えている。

 

 初めて見る、フウの表情に、胸騒ぎが。

 

「今まで……今までどこにいたんすかッ!」

 

 遠くで烏が鳴いていた。

 

 ひぐらしの鳴き声が、冷たく胸に届く。

 

 降り立ったフウは、乱暴に胸倉を掴むと、爆発した感情に従って言葉を散らす。

 

 夕日はさらに傾き、血のように紅い光が里を覆う。

 

 フウは言った。

 

 

 

 イロミが、危篤状態なのだと。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 中忍選抜試験開催当日。

 

 イロミは両手に多くの書類を抱えて、道を歩いていた。中忍選抜試験に参加する子たちが使用した宿泊施設などの領収書や、その他施設からの要望を纏めた書類で、中忍選抜試験を運営する部署に持っていこうとしている最中だったのだ。

 

 ―――結局イタチくん、始まるまでに戻ってこなかったなあ。

 

 もうそろそろで、一次試験が終わる頃だろう。試験内容は、末端のイロミには知らされていない。思い浮かぶのは、ナルトとサスケである。二人は無事に通過できたのだろうか。昨日の夕ご飯を作った時に、二人とそれぞれの家で会ったが、気合十分だというのははっきりと分かった。ただ、気合だけでどうにかなるわけではない。あくまで試験であって、試験官が見えるのは適正なのだ。そういったストイックな部分に気合というアドバンテージは受け付けられない。

 

 ナルトには頑張れ、と伝えた。彼は「任せろってばよッ! 中忍になったら、一楽奢ってくれよな!」と約束させられてしまった。まあ、高級料亭よりかはマシだろう。とりあえず、激励を伝えることはできた。

 

 しかし、サスケに関しては、何も伝えることはできなかった。「さっさと帰れ。俺は寝る」と言われただけ。激励も何もできなかった。きっと、イタチからの言葉が欲しかったのだろうと、イロミは考える。それはそうだ。イタチのような偉大な兄からの激励は、どんな言葉よりも嬉しいはず。だからまあ、イタチが戻ってこなかったことに対して、サスケは可哀想だと、微かに思ったのである。

 

 ―――まあ、あの二人なら、あっさり通過してるかもね。サクラちゃんもいるから、二人にいい具合にストッパーを掛けてそう。ん?

 

 両手に抱えた書類が、ピタリと足を止めたせいで、慣性で微かに揺れた。イロミは、少し離れた先の方に立つ男性を見て、バレないように口をへの字にした。

 

 かつて自分は人見知りだったが、これほど苦手だと思った人物は初めてかもしれない。

 

「これはどうも、イロミさん。奇遇ですね」

「あはは……、どうも」

 

 奇遇という言葉がこれほど胡散臭く聞こえたのも、人生で初めてかもしれない。

 

 立っていたのは、音隠れの里の上忍の男性だった。そう、受付の時に出会った、彼である。あの後も、大量の参加者が受付にやってきたのだが、彼ほど爪痕を残してきた人物はいなかった。彼は貼りついた薄気味悪い笑みを浮かべたまま、近づいてくる。

 

「持ちますか?」

 

 会話が意味不明だった。

 何だ、持ちますかとは。

 そこまで自分は虚弱に思われているのだろうか。

 

「……あの、まだ試験中なんじゃないですか?」

「というと?」

「中忍選抜試験ですよ。教え子の子たちです」

「ああ。もう始まってしまいましたし、やることがないんですよ。これからどうですか? お昼でも」

 

 確かに、中忍選抜試験の主役は下忍の子たちだが、何というか、教え子が頑張っているのだから自分もその緊張感を共有しよう、という考えはないのだろうか。やっぱり、苦手だ、とイロミは思う。笑みを浮かべる瞳の奥が、とても冷たいように感じた。

 

 フウは今はいない。別の仕事をしている。いやしかし、彼女がいたら、むしろ厄介なことになったのではと思ったりする。

 

「私、これから書類を届けないといけないので。その……試験が終わってからなら……」

 

 一応は、そう断りを入れておく。社交辞令という言葉は、非常に便利な交わし方である。

 

 効果はてきめんのようで、男性は「そうですか……」と呟いた。しかし、表情は全く以て残念そうではない。

 イロミは小さく頭を下げてから、男性の横を通り抜けた。

 さっさと書類を渡して、外に出ない雑務処理でもしよう。頭の中でそう考えていた。昼ご飯は我慢してもいいかもしれない。あの男性と一対一で食べるくらいなら、空腹だって我慢できる。

 

 

 

「大きくなったわねえ、イロミ」

 

 

 

 頭の中を突然と重く支配したのは……恐怖だった。

 

 後ろから首の裏を触られ、肩を掴まれる。

 肩を掴む手の力は決して強くなかったが、振り向くことができなかった。

 振り向いてしまえば、自分が死ぬのではないかという妄想に、一瞬で身体中を支配されたからだった。

 

「昔はあんなに、ゴミみたいなものだったのに、ここまで成長してくれるなんて、予想していなかったわ」

 

 男性の声は、全然違っていた。

 男性のような、女性のような―――いや、そもそも、人間のそれなのかも判別できないような声質。ねっとりと、マフラーの下の首の裏側を指が這いずり回る気持ち悪さと寒気は、蛇を彷彿とさせるものだった。

 

 下顎ががガタガタと震え始める。抱えている書類がカサカサと音を立てる。

 

 イロミが向いている方向から、一人の男が歩いてきている。しかし男は、イロミの異常に気が付かない。ただ、男性と少女が何やらひそひそ話をしているのではないかと、どこか不思議そうに横目で眺めるだけで、さっさと歩いて行ってしまった。

 

「……何を、考えているんですか…………?」

 

 どうにか、その言葉だけを吐き出せた。これ以上何かを呟いてしまったら、口から胃の内容物が出てしまうのではないかというほどの、圧迫感がある。

 

「中忍選抜試験のこと? あんなのに興味は無いわよ。私が下忍だった頃は、試験なんか無く、いきなり戦場だったんだもの。生き残ったら、勝手に地位が上がるだけ。でも、傑物を探し出すには、効率的だったわ。実戦に勝る訓練はない。想定と型に嵌った試験をやっても、逆に忍の才を持つ子を埋没させるだけだからねえ」

「―――ッ!」

 

 頬を舐められた。嫌悪感は無く、恐怖が増大しただけだ。さらに男性の息が頬に触れた。獰猛な蛇が、これから噛みつく相手を鮮明に捉えようとしているかのような錯覚がやってくる。

 

「それは別にして―――うちはフウコについて、教えてほしい?」

「え?」

 

 思いもよらない方向からの、彼女の名前。

 今までイタチが調べても鮮明に分からず、自分がずっと追い求めていた人物の名前に、イロミは驚きを隠せなかった。

 

「知りたいのなら、二次試験会場までいらっしゃい。勿論、たった独りで。他の誰にも喋っちゃだめよ? もし喋ったら、彼女のことを教えないから」

「……どうして、フウコちゃんを知っているんですか?」

 

 恐怖を押しのけて、尋ねる。だがやはり、振り返ることはできなかった。

 すると男性―――大蛇丸は、小さく嗤った。

 

「あの子とは少しの間、同盟を組んでいたのよ。ちょっとした縁が合ったものでね」

「フウコちゃんは……、今…………」

「さあ? 生きていることは確かよ。彼女には優秀なパートナーがいるもの」

 

 ちょっとした縁。

 パートナー。

 その情報を、頭に叩き込む。恐怖で集中できていない意識に、必死に。

 

「ああだけど……早く見つけないと、大変なことになるかもしれないわね。あの子、もしかしたら、あともうちょっとで、壊れちゃうかもしれないから。だから、これが最後のチャンスかもしれないわよ? あの子の事を聞き出せるのは」

 

 ―――フウコちゃんが……壊れる…………?

 

「いい? 必ず、一人で来るのよ? 正確な場所は、分かりやすく出してあげるから」

 

 大蛇丸は、言い終わるとポン、というコミカルな音を出して姿を消した。

 

 掴まれた肩も、首筋を撫でられていた感触も消えると、イロミは即座に振り向くが、そこには影も形も残ってはいない。影分身の術なのだと、分かった。

 

 激しい動悸を、ようやく自覚する。身体中から大量の汗が出ていたことも。

 寒気と恐怖の残滓は、まだ背中に貼りついている。気を抜いたらまた後ろから、あの蛇のような感覚が付きまとってくるのではないかと思えてしまうくらいに。

 

 それでもイロミは、素早く大股で歩き始めた。頭の中では、書類を出した後の事だ。

 フウコの事が、分かるかもしれない。勿論、明らかな罠であることは分かっていた。一人で来いなどと言う常套句が使われているのだから。

 

 もしこの時、イタチが里に戻っていたら、彼女の行動に変化があったかもしれない。彼に相談して、大蛇丸への対策を考えることが出来たかもしれない。だが、今、彼はいない。まるでタイミングを計ったかのように、大蛇丸はイロミの前に姿を現した。

 

 ―――二次試験会場……。

 

 場所は分からない。けれど、調べればすぐに分かるだろうと、イロミは考えた。テキトーな誰かに訊いただけでも、分かるかもしれない。試験が始まってしまえば、試験内容というのはあっさりと知ることが出来るはずである。

 

 罠だと分かっていても、イロミは逸る気持ちを抑えることなく、歩くスピードを上げていく。抱えた書類を、左腕だけに乗せ、口で右手のグローブを外す。同時に、口端を噛みちぎり、溢れ出る血を指で拭う。感覚のない指だが、血が確かに付着しているのを確認すると、チャクラで指を固定し、額に付けた。片足立ちにして、浮かせた腿の上に書類を置き、印を結ぶ。

 

「口寄せの術」

 

 唱えると同時に、書類の上に手を添えた。そこから姿を現したのは、イロミの仙術の師である、ダルマだった。

 ダルマは片手に狐うどんの碗を持ち、今まさにうどんを啜ろうとした矢先だったようで、いきなりの口寄せに、のんびりと眉を傾けた。

 

「……イロミよ~、お前はいつも~、間が悪いの~」

「すみません、ダルマ様」

 

 グローブを付け直しながら、イロミは真剣に呟く。彼女の空気を察してか、ダルマはやれやれと言った感じに、彼女の肩に飛び移る。

 

「どうしたんじゃ~今回は~」

「少し……本気で戦わないといけなくなりました。力を貸してください」

「ほ~? お前が最初から口寄せするなんての~。珍しいこともあるもんじゃの~。言っておくが~、お前の仙術は負担が大きい~。最初から使えるほど~、お前は立派じゃないんじゃぞ~? ワシを使った後は~、指一つ動かせなくなるんじゃぞ~?」

「分かってます。だけど、お願いします。今回だけは、最初から全力じゃないといけないんです」

「……いいじゃろう~。次に呼ぶ時までには~、ワシも準備をしておくかの~」

「ありがとうございます」

 

 ダルマは姿を消した。今呼んだのは、その断りを入れておくためだけだった。これから使う、本来なら最後に使うはずの【仕込み】だが、イロミは最初から使うことにした。

 

 そうしなければいけないほどの差を、先ほどの短いやり取りで感じ取ってしまった。

 

 ―――絶対、勝ってみせる……!

 

 そのために、努力をしてきたのだ。

 フウコを追い求める為に。

 

 

 

 しかし、結果として。

 イロミは大蛇丸に、

 凡人は天才に、

 敗北した。

 それも。

 最悪の形で。

 中忍選抜試験・第二の試験初日に、彼女は病院へと運ばれることになった。

 




 次回も十日以内に投稿したいと思います。

 ※ 追記です。次話は、12月15日に投稿したいと思います。詳しくは、中道の活動報告を見ていただければと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ツナガリ、ツナガレ、ツムガレテ

 投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。

 次話の投稿は、今月の30日を予定しております。詳しくは、中道の活動報告を見ていただければと思います。



 第二の試験が始まって、三刻が経過した。

 

 互いの所持している巻物を巡っての、サバイバル戦。それが、試験内容だった。場所は、死の森。所狭しと大樹が犇めき合い、獰猛な動物や有害な昆虫が生息するそこは、ただ歩むだけでも命の危険はやってくる。その上で、参加者たちは【天】あるいは【地】と印字された巻物を二つ持って、中央の塔を目指さなければならない。開始前に渡された巻物は、二つの内のどちらか。もう片方は、別の参加者たちが持っていて、それを奪わなければ合格にはならない。

 

 目的は巻物だが、巻物を手にするには、戦闘は免れない。極端なことを言えば、相手を殺すのが、最も簡単に奪える手段だ。

 

 死ぬ可能性。

 

 それは、試験開始前の契約書にサインをした時には覚悟していたことだった。いや、中忍になれば、殺す殺されるの状況にはいくらでも遭遇するだろう。

 

 ましてや―――あの女を殺すのならば、それぐらいの覚悟は必要だ。その覚悟は、ずっと以前から胸に秘めていたものだ。

 

 ヒリツク緊張感に、サスケは顎から目にかけて流れてくる汗を乱暴に拭った。死ぬ可能性を感じながらも、その動作には怯えは無く、小さな苛立ちだけがあった。

 

 ―――くそッ! 術が通らねえッ!

 

 サスケは地面を見上げた。大樹から歪んで伸びる太い枝に足の裏からチャクラを吸着させてぶら下がっていた彼は、苦々しく舌打ちをしてから、分厚い砂煙の中に視線を集中させる。写輪眼は正しく、砂煙の中に浮かび上がる大蛇の姿をしたチャクラを捉えた。

 

 蛇の大きさは、軽く二十メートルを超えていた。太さは五メートルを上回るだろう。雄大さえも抱いてしまう程のゆったりとした動き出しに、サスケの緊張は強くなる。

 

 ―――ナルトとサクラは無事なんだろうな……!

 

 大蛇は砂煙から巨大な頭を飛びさせた。全身を使った力を一気に放出するかのように、脇目も振らず、毒牙を剥き出しに襲い掛かる。顎を限界まで広げた口は、相手を噛み砕こうなどという些末な本能はない。丸呑みするという強欲が、粘質の強い涎に混ざっていた。

 

 舌打ちをして、サスケは素早く跳躍する。躱すことは容易だったが、チャクラを吸着させていた枝は粉砕され、爆風と共に飛んでくる破片に頬を一筋の傷を付けた。張り詰めた痛みは、しかしサスケの意識には届かない。

 

 生き残ること、そしてナルトとサクラの安堵を考える思考は、痛みに耐える所作を見せることも無く、素早く両手で印を結ばせた。

 

「火遁・豪火球の術!」

 

 込めれるだけのチャクラを込めて、口腔から巨大な炎の塊を大蛇の顔にぶち当てる。炎が蛇の頭を包み、周辺に煙を発生させるが、地面に着地をして煙の奥を見据えると、平然と大蛇は顔をこちらに向けていることが分かった。即座にまた大きく飛び、飛びついてきた大蛇の一撃を交わす。

 

 襲撃は、試験が開始されて一刻も経っていない時に起きた。

 

 三人で試験のゴールである塔を目指そうと、森の中を進んでいた。どの参加者も必ず塔を目指すはず、という考えがあったからだ。先に待ち伏せ、罠を張れば確実に先手を取ることが出来る。

 

 警戒を怠った訳ではなかった。同じことは他の参加者も思いつく程度のもので、あるいは、塔を目指さず、道中でトラップを仕掛けるかもしれないからだ。慎重に、だがスムーズに、移動していたのだ。

 

 だが。

 

 突然の豪風。サスケを先頭に、ナルトとサクラがバックアップという三角形のような隊列の真横から、襲ってきたのだ。おそらく、風遁系の忍術だったのだろう。そう認識した時には二人とは分断されてしまい、探そうと動く間もなく現れたのが、今戦っている大蛇だった。

 

 ―――丸呑みされることはねえが……このままじゃ埒があかねえ…………ッ!

 

 硬い皮膚と分厚い筋肉を身に纏った蛇には、サスケの火遁では致命的なダメージを与えることが出来ていない。写輪眼で動きを予測し、躱すことはできても、命を絶つことが困難だった。

 

 ―――さっさとあの二人を探さなきゃいけねえのに……。何か、もっと、大きな術が……。

 

「サスケくんッ!」

 

 地面を動く大蛇から逃れて樹の幹にチャクラ吸着によって立つサスケは、左下から聞こえてきたサクラの声に素早く反応した。

 

「サクラッ! 無事かッ!?」

 

 見下ろしたサクラの姿は砂埃に塗れてはいたものの、どこか大きな裂傷などは無いようだった。「うん!」と返事をする姿も力強かったが、その声にサスケは微かに表情を顰める。

 

 案の定、サクラの声に反応した大蛇はサスケから彼女へ顔を向ける。舌なめずりをするかのように、先端が二つに分かれた長い舌をしゅるるると鳴らして出したり閉まったりとし始めた。

 

 ようやくサクラは状況を理解したのか、大きく瞼を開け、両手を頬に当てた。

 

 彼女の次の動作と、大蛇の次の動作。それらを写輪眼は精密に予測する。

 

 サクラを制止することは間に合わない。吸着に使っていたチャクラを移動の為に使用し、大蛇よりも速くアクションを起こした。

 

「へ、蛇ーッ!?」

 

 悲鳴が合図だったかのように、大蛇は大口を開けてサクラに飛び掛かる。驚愕と恐怖で足が竦んでしまったのか、迫りくる危機に全く対応できていない。舌打ちをし、大蛇の横を通り過ぎる際にクナイを獰猛な眼に投擲した。

 

 クナイが刺さり、地鳴りのような絶叫と共に大蛇が動きを止めている隙に、サクラの腕を引いて樹の影に身を潜めた。

 

「あ、ありがとう……サスケく―――」

「声を小さくしろ」

 

 樹に背を預けたまま、サスケはサクラに顔を近づけて呟く。樹の向こう側から、大蛇がこちらを探そうと蠢く音が伝わってきており、緊張はまるで解ける余裕はない。細く、深く、息を吐くと、サスケは言う。

 

「ナルトの奴は見なかったか?」

「……ううん、見てない。私はただ、元の場所に戻って来ただけで…………」

「……そうか」

「ねえ、サスケくん。あの蛇って……」

「おそらく、口寄せだ」

 

 分断するかのような奇襲の仕方。

 タイミング良く出現した大蛇。

 ナルトがいないこと。

 

 偶然だと考えるのは安易のように思える。つまり、奇襲を仕掛けてきた相手の目的は、チームを分断しての―――各個撃破。

 

 第二の試験の失格条件は三つある。

 

 その中の一つに【チーム内のいずれかが死亡、あるいは再起不能となる】があった。巻物を二つ揃えても、チーム三人が無事に塔へと到着しなければ不合格ということだ。持っている巻物に価値は無い。相手の誰かを殺してしまえば、容易に巻物を渡してもらえる。

 

 しかし、それは机上の空論だとサスケは判断する。

 

 共に時間をかけて任務を行ってきた仲間を殺された場合、用済みになった巻物を素直に相手に渡すだろうか? むしろ、怒りに駆られて報復のつもりで巻物を、たとえば燃やしたりなんだりして渡しはしないはずだ。最悪、残ったメンバーが襲い掛かってくることだって考えられる。殺しはせず、生かして交渉の材料にする方が効果的だ。

 

 ―――……だが、そんな悠長なことを言ってられるか………?

 

 背後の樹の向こうの大蛇からは、相手を捉えようという術者の意図を感じられない。容赦を抱く間もない、無邪気な殺意しかないように思える。生まれたばかりの雛鳥を、人間が、足の爪先で小突いて転がすような残酷な殺意だ。

 

 しかも運悪く、巻物を持っているのは自分である。巻物と取引をして逃げるという手段を、ナルトは取ることが出来ない。

 

 脳裏に過るのは、血みどろの姿となった、ナルトの姿。

 

 背筋を撫でる寒気と、腹の底が熱くなり始める怒りが同居するが、サスケはその感情の源泉を理解できなかった。

 

 ナルトは……フウコを信頼している。

 うちは一族を皆殺しにした彼女を。今でも、そんなナルトに対する憎悪の気持ちは消えていない。

 

 なのに、どうして……。

 

「……サクラ。頼みがある」

 

 え? とサクラは瞼を開いた。

 

「一瞬だけでいい、あの大蛇の注意を引いてくれ」

 

 混沌とする自身の感情を整理することも無く、意識を大蛇へと向けた。

 とにかく今は、大蛇を殺すことだけを優先する。

 

 ―――ナルトの奴も、さっさとくたばるようなタマじゃねえ筈だ……。

 

 ある意味、チームの中で最も力のないサクラといち早く合流できたのは、好都合だったかもしれない。ナルトならば、たとえ相手が三人相手でも、すぐに殺されたりはしないはずだ。

 

 目の前のサクラは顎に指を置いて思案してから、力強く頷く。

 

「合図を出したら、注意を引いてくれ」

 

 サスケは大蛇に気付かれないように素早く移動し、樹を駆け上がる。

 

 大蛇に大きなダメージを与えることが出来る術を一つだけ思い付いていた。絶対に使うことはないだろうと嫌悪していた術。しかし、自身の命、そしてナルトやサクラの命の危機を前に、その嫌悪感は無意識的に遠ざけていた。

 

 樹の上に立つと、サスケは左手を構える。

 

 写輪眼で見たのは、今までで三度。

 

 一度目は、フウコ。

 二度目と三度目は、ナルト。

 

 二人と同じように、手で、指で、器を作るように。

 

 チャクラの動きのイメージは、乱回転。

 

 サスケは螺旋丸を発現させようと、意識を集中させた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『もし一生下忍になったって……意地でも火影になってやるから別にいいってばよッ! 怖くなんかねーぞッ!』

 

 第一の試験終盤、たしかにそう言った。

 試験会場の教室を十分に満たし響き渡る自身の言葉には……偽りがあった。

 

 怖くなんかない。

 

 嘘だった。

 

 第一の試験の最終問題。

 その問いに挑むか挑まないか、それを問われていた。

 挑まないを選択するのであるならば、不合格。チームのメンバーと共に、退席。

 挑むを選択すれば、もちろん続行。しかし、もし問いに失敗すれば、失敗した者は今後二度と、中忍選抜試験を受験することはできなくなってしまう。もう二度と、中忍以上になることができない。

 

 そんな、理不尽を通り越した、暴力にも似た選択を前に、ナルトは一瞬だけ……恐れてしまった。

 

 足が竦んでしまった。

 

 火影になれないかもしれない。

 火影になれず……大切な人を迎え入れる為の力が、手に入らないかもしれない。

 彼女が握ってくれた手の温もりが、自分を正しく認めてくれる暖かさが、もう、二度と……。

 

 その恐怖を振り払うことができたのは、やはり、彼女のおかげだった。

 

 フラッシュバックする、彼女との日々。

 世界に自分と彼女しかいないような、静かな夜。

 手を握ってくれた彼女の無表情。

 

 自分が悠長に中忍選抜試験を受けている今でも、彼女は世界のどこかで孤独と戦っている。

 犯罪者の彼女の命を狙う者も、多くいるはずだ。

 それなのに自分はこのまま、たかが火影になれないかもしれないという理由だけで、また来年受ければ問題などと馬鹿みたいな考えを抱こうとしている。

 

 大きな声で、最後の問いを受けるという宣言をしたのは、試験官―――森乃イビキ―――に向けたものではなく、実は自分を鼓舞する為のものだった。

 

 もう二度と、逃げない。

 火影になる道にどんな障害があっても、踵を返そうとも、自ら足を踏み外そうとも、決してしない。

 第一の試験を合格し、第二の試験を受ける前に渡された契約書を書きながら、ナルトはそう誓った。

 

 決して曲げることのない―――誓い。

 

 それは、目の前に立つ悍ましい男を前にしても、変わらなかった。

 

「あらあら。私の殺気を受けても、怯えて腰砕けにならないなんて、大したものね。だけど、それくらいの胆力は見せてもらわないとねえ」

 

 長身長髪の男のぬめりとした声質は、発せられる一言一句を細い刃物のようにナルトの鼓膜を痛めつけた。その痛みは足を震わせて、額から大量の汗を出させるが、ナルトの蒼い瞳は慎重に男を見据えたままだった。

 

 ナルトは、右太ももに巻き付けているホルスターに指を掛けながら、目の前に姿を現した男に尋ねる。

 

「お前の持ってる巻物は何だってばよ」

 

 ククッ、と男は笑った。

 

「意外と冷静なのね。もっと馬鹿みたいに突っ込んでくる子だと思ってたけど」

「けっ! お前と勝負して、結局同じ巻物だったなんて馬鹿らしいことは嫌だからな! 勿体ぶってねえで、さっさと言えってばよッ!」

 

 何が愉快だったのか、男は薄気味悪い嘲笑をしてから、巻物を取り出した。巻物には【地】と書かれている。自分たちの持っている巻物―――その巻物はサスケが持っているが―――は【天】。男の巻物を奪ってしまえば、合格条件の一つを満たすことになる。

 

 また一つ、火影に近づくための―――彼女に近づくための―――一歩だ。

 

 自分の夢に近づくという興奮が男への恐怖を退けさせる。強気に笑ってしまう。笑みは彼らしい能天気さを含めながらも、青い瞳の奥には野心が。そして眼光の一部には、小さな優しさも。

 

 サスケとサクラ。

 

 今、二人は近くにいない。もしかしたら、目の前に立つ男のチームメンバーと交戦しているかもしれないという想像が思い浮かぶ。

 

 ―――サスケのヤローがいっから、あっちは問題ねえだろうけど……。

 

 目の前の男を連れて行ってしまうのは脅威だ。

 巻物を持っているということは、この男がチームの中で最も実力があるということ。

 このまま自分が間抜けに逃げて男が二人の所へ行ってしまうのだけは、防ぎたかった。男は人を殺すことに何の躊躇もない。

 

 二人を、危険な目に合わせること。

 

 それだけは何としても、阻止したかった。

 

「いい眼をするわね、君。嫌いじゃないわ。実力が伴うかは、別の話しだけれど」

「うるせえってばよッ! お前なんか、俺の一人でボッコボコにしてやる! 多重影分身の術ッ!」

 

 印を結び、チャクラを放出すると―――ナルトを中心に大量の分身体が出現した。数は、軽く五十を超え、瞬く間に男を分厚く包囲した。

 

 禁術・多重影分身の術を会得したのは、アカデミーの卒業試験の夜だった。ナルトにとって、ある意味忘れられない夜で、ある意味で、忘れたい夜でもあった。

 

 卒業試験に落ち、ミズキの口車に乗せられて禁術が記された巻物を盗み出してしまった。

 

 下忍になりたい。火影になりたい。強くなりたい。

 

 そんな思いに駆られて犯した犯罪だった。ルールは守らなければいけないと、フウコから言われていたのに。

 

 結果として、禁術の巻物をミズキに渡すことはなかった。自分を追いかけてくれた、うみのイルカのおかげで。

 

 今では、影分身の術は一番得意な術だ。

 

 しかし男は、五十以上ものナルトに囲まれても尚「へえ」と余裕を崩さない。口角を吊り上げるだけだった。そしてあろうことか、男は手に持っていた巻物を口の中に押し込み、呑み込んでしまう。

 

「巻物を手に入れるには、私を殺さないといけないわよ?」

「へッ! 腹をボッコボコに殴って、嫌でも吐き出させてやるってばよ!」

 

 その言葉を口火に、男に近い分身体らは男に襲い掛かる。

 何人かは跳躍し上から、何人かは背後から、左右の連中はクナイを握り喉元をめがけ。正面の分身体らは体勢を低く保ちながら、足元を狙う。

 襲い掛かった分身体らは一直線に、さながら男を殺すことに一切の躊躇もないかのように駆ける。しかし、誰一人として男の一挙手一投足に注意を逸らすことはなかった。

 

 アカデミーの頃、ナルトは体術だけは成績が優秀だった。

 

 それは、フウコから教えられたことの大半が、体術に関するものだったからだ。体術の中でも基礎中の基礎。けれど彼女の教えを愚直に、あるいは素直に反復してきたナルトの身体には、体術を行うための体幹や身体をスムーズに動かすための筋力、感覚が十分なまでに育成されていたのだ。

 

 センスを必要とする忍術や幻術。

 考え方を柔軟にしなければいけない座学。

 これらよりも、遥かにシンプルな体術のレベルにおいては実のところ、下忍の中では上位に食い込む。

 

 男の動作を視認したナルトの分身体らの動きには、見て分かるほどの正確さがあった。

 

 しかし、それでも。

 

 ナルトのこれまでの努力を嘲笑うかのように、男の身体運びは尋常ではなかった。

 

「ぐえッ!」

「うわっ!」

「げえッ!?」

 

 ほぼ同時に、両手足を駆使しても防ぐことができないタイミングで攻撃をしたはずなのに、分身体は流れるように霧散していく。次々と代わりの分身体が男に襲い掛かるが、かすりもしない。

 

 男は口の中から刀を出していた。刀を右手に持ち、白銀の光を反射させながら分身体を屠っていく。

 

 気が付けば、分身体は七体と減り、オリジナルのナルトを含めて八体だけになっていた。男の衣服にはおろか、皮膚へは微かな傷も付けられていない。

 

「ククッ。まだまだこんなものじゃないでしょ? もっと全力を出しなさい。じゃないと、君が死ぬことになるわ」

「だったら―――これならどうだッ!」

 

 残った分身体が男に飛び掛かると同時に、ナルトは右手にチャクラを集中させる。三次元的な螺旋の軌跡を辿るチャクラ。それは、これまでよりも一回り程、小さいものとなっていた。

 

 未だ完成形には届かないものの、チャクラの密度は高い。飛び掛かってきた分身体を容易く屠っていた男は、小さな驚きと共に舌なめずりをしている。蛇のような瞳からの殺気に飛び込むように、ナルトは駆ける。

 

「食らえ、螺旋―――えッ!?」

 

 右手を突き出し、螺旋丸を男の腹部にぶつけようとした途端、男は右腕の裾から大量の蛇を出現させナルトをがんじがらめにする。

 

「うわぁッ!」

 

 そのまま、ナルトは投げ飛ばされ、太い樹に叩き付けられた。その際に螺旋丸が樹の一部を吹き飛ばし、爆風と樹の破片が辺りに散らばりナルトの頬を傷付ける。背中の筋肉が痛みを訴えてナルトは表情を歪めてしまう。

 

「私が見たい本気っていうのは、そういうのではないのだけれどね」

 

 男は痛みで地面に腰を置いてしまっているナルトを見下ろしていた。裾から生やした蛇の束は、どこへ収納されたのか、いなくなっている。

 

「でも、珍しい術を使うようになったものね。それ、誰に教えてもらったのかしら?」

「……てめえなんかに言うつもりはねえってばよ」

 

 この術を誰に教えてもらったのか、それを誰かに言ったことは一度もない。

 

 大切な恩人であるイルカにも。上司であるカカシにもだ。

 

 なぜなら、彼女は犯罪者だからだ。

 

 だが目の前の男に言わないのは、単純に、言ってしまえば自分の大切な記憶が穢れるのではないかという想いがあっただけである。

 

 ナルトは立ち上がり、次はどうするべきかと考えようとする。徹底して、逃げるという選択肢は無かった。

 

 ナルトの返答に「あらそう」と男は言ってみせると、驚きの言葉を口にした。

 

「実は私も、その術を使っている子を知っているのよ。名前は確か……うちはフウコだったかしら?」

 

 わざとらしい演技がかった口調だった。

 それでも、ナルトは……呼吸を忘れてしまうくらい、驚愕し、逃げないだとか、勝つだとか、サスケやサクラのことだとか、そう言った考えが一瞬にして吹き飛んでしまった。

 

 懐かしい、言葉だった。

 

 他者から彼女の名前が出たのは、いつぶりだろうか。

 

「なん……で…………お前が、フウコの姉ちゃんのことを……」

 

 震える声。

 どこか縋るような、希望を求めるような、声だった。

 

「知ってるかって? 私、あの子とは少しだけ友達だったのよ。ある目的を共有していてね」

「フウコの姉ちゃんは、今は、どこにいるんだよッ!」

「クク。知りたい?」

 

 知りたい。

 ずっと追い求めていた、眩く光る、最も大切な繋がりの糸口。

 それを今、手に入れられるかもしれないと、ナルトは思った。

 

 しかし。

 

 その言葉が口から出なかったのには、理由がある。

 

 男―――大蛇丸が、口から吐き出したものが、原因だった。

 

 吐き出されたのは、バラバラの遺体。

 

 四肢を切断され、達磨のような形にさせられた遺体が、二つ。顔は抉られたかのように失われていて、傷口からは大蛇丸の体液と混ざり合った血がピンク色になって溢れ出ている。

 

 繋がり。

 大切な、彼女への、フウコへの繋がりだけではなくなっていた。

 今ではもう、繋がりは増えてしまっている。

 

 何かが切れるような音が、頭の奥底で聞こえてきた。

 その音は幼い頃―――フウコが犯罪者となって里を出て行った時に聞いた音と、酷似している。

 

 遺体の顔は分からなくても、髪型や衣服は何とか判別できる。

 

 桜色の髪。

 うちはの家紋が入った服。

 

 心がざわつき、

 叫び、

 怒り、

 ナルトの身体から、赤いチャクラが漏れ出していた。

 

 大蛇丸は愉快に、ナルトを観察するような眼で見下ろす。

 

「なら、本気を出してごらんなさい。君の中にいる化物を、私に見せなさい」

 

 死の森で、二つの衝撃が響き渡る。

 

 暴発した赤いチャクラの波動と、そして、獣のような絶叫が。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 テマリの持っている母との記憶はあまりない。母―――加琉羅がこの世を旅立ったのは、まだテマリが本当に幼い時だったからだ。弟の我愛羅が生まれるとほぼ同時に亡くなり、しかし、加琉羅の死に目に立ち会うことができず、突然と行われた葬式の棺桶に納められた無機質な顔が母との別れだった。

 

 加琉羅と、最後に遊んだ日。不思議と、テマリの中で最も印象に残っている。きっと、加琉羅がいなくなった、という結果が後付け的にそうさせたのかもしれない。

 

『ちょ、ちょっと待って、テマリ』

『えー。さっきもそう言ったじゃん』

『お願い! これで最後だから!』

 

 顔の前で両手を合わせる母の姿に、幼いテマリは唇を尖らせた。これで八度目の待ってである。いくら母が、はさみ将棋が破滅的に弱いからと言っても、こう何度も待ってを言われては、やる気が無くなってしまう。色々考えた末に手を考えているのに、まるで無駄になってしまうようだ。

 

 合わせている両手の力の入れ具合にテマリは素直に「駄目」とは言えず、無言の批難を目線だけで訴えかけると、母は優しい笑顔を浮かべて顔を傾けた。

 

『……駄目?』

『…………これで最後だからね』

『ありがと!』

 

 母は善は急げとばかりに、正座するテマリの前に置かれた将棋盤のコマを、一手前のものに戻した。そして顎に手をやって、うんうんと、頭を悩ませる母を顔では見上げながらも、テマリの視線は密かに母の腹部を観察していた。

 

 膨らんだ腹部。もうじき、弟が生まれる。テマリはそれが楽しみだった。弟は一人、カンクロウがいるのだが、彼はあまり遊んでくれない。ずっとカラクリ人形をいじっているせいだ。だが、もう一人弟が生まれれば、もちろんすぐではないけど、遊んでくれるかもしれない。

 

 いや、もしかしたら、家族が変わるかもしれないと、テマリは思った。

 

 ずっと家族はバラバラだった。

 仲が悪い、という訳ではないと思う。一人一人が、ずれた歯車同士のように互いを傷つけあうような関係ではなく、油が無くなってしまった歯車がズレを積み重ねていったような関係だ。

 

 顔を合わせても、会話はあまりない。きっと理由は、父にあるのだろう。風影という偉大な地位にいて、忙しいのは分かるけれど、彼がカンクロウや加琉羅と長く会話をしているところを見たことがない。

 

 朝早くに誰よりも早く家を出ていき、夜遅くに帰ってきた時は怒ったような表情を浮かべては、母と二、三会話をするところしか知らない。

 

 彼が纏う、固い雰囲気が伝染して、いつしか家族には閉塞感にも似た固い空気が漂い始めた。

 

 だから。

 

 変わるんじゃないかって、思った。

 また、家族が増えたら。

 空気が変わるんじゃないかって。

 

 根拠は、あまりないけれど。

 

『気になる?』

 

 視線に気付いていた加琉羅を見上げると、母らしいほんわかした笑顔だった。頬微かに赤らめてテマリは視線を逸らすと、加琉羅の手が頭を撫でた。

 

『この子が生まれたら、しっかり傍にいてあげてね』

『そんなこと、分かってるよ。母さんに言われなくても』

『ずっとよ? ずーっと』

『どれくらいなのさ』

『勿論、この子だけじゃなくて、お父さんや、カンクロウ……みんなと一緒によ? テマリは私に似て、賢いんだから、支えてあげないと』

『母さんは私よりも頭悪いのに?』

『は、はさみ将棋は別よ! もう、とにかく! 約束して? 皆と、ずっと傍にいるって。貴方たちは、家族なんだから』

 

 その後、加琉羅と指切りとなった。破ったとしても、守ったとしても、罰も何もない、意味のない約束となってしまったけれど。

 

 それでもテマリは、母との約束を守ろうと必死に努力をした。

 

 化物をその身に宿した我愛羅と名付けられた弟と、必死に仲良くなろうとした。殺されるのではないかという恐怖を必死に抑えつけて。

 

 だがその努力は、たった数カ月で途絶えてしまう。

 

 我愛羅を世話する者が、叔父にあたる夜叉丸に変わってしまったからだ。それ以降、父からは我愛羅に会うことは禁じられていた。

 

 そして我愛羅と仲良くなろうという気持ちは、数年で枯渇した。

 

 我愛羅が暴走してしまったから。

 あの夜の恐怖は、今でも拭いきれない。

 

 テマリの中に残ったのは、母との約束だけ。

 傍にいる。

 我愛羅の人格や境遇、想いなどを度外視した、形骸化してしまった、砂のように乾いた約束だけだった。

 

「我……我愛羅、やめなよ……ね!」

 

 辺りに巻かれた血痕が生々しい臭さを放つのを傍らに、テマリは両手を小さく上下させて、冷汗を浮かべた表情で我愛羅をなだめた。

 

「そんな冷たいこと言わないでさ……。姉さんからもお願いするから……ね!」

 

 姉さん。その言葉に、あまり意味は無かった。やはり母との約束。家族として傍にいるという小さな使命感が自然と選ばせただけの、心も籠らない言葉である。

 

 だからなのか、冷酷にカンクロウを睨む我愛羅はテマリに見向きもしないまま、右手を茂みへと向けたまま、何かを握り潰すかのような動作をした。

 

 怖い。

 このまま我愛羅が暴走してしまったら。

 中の化物が起きてしまったら。

 

 自分も、肉片となってしまったつい先ほどの雨隠れの里の忍のような死に方をするのではないか。

 

 その死に方が、その死に至るまでの痛みが、恐ろしかった。

 

 このまま止まってほしいと、テマリは心の中で強く願う。

 これ以上、我愛羅を恐れたくない。

 これ以上恐れてしまったら、母との約束を守れないから。

 

 我愛羅の周りを浮遊する砂が蠢き、合わせて右手に力が入るのが見えた。

 

「我愛羅!」

 

 テマリの叫びと同時に……我愛羅は拳を作る。

 その中には、我愛羅が背負う砂の巨大な瓢箪の栓が握られていた。

 

「………………分かったよ……」

 

 狂気を感じさせない、脱力しきった、声だった。無言のままに栓をし、一人で歩いていく。

 

 空虚感を漂わせる我愛羅の背中に、安堵の息を細く吐いた。

 このまま何事もなく第二の試験を合格し、第三も、その次も、合格して。

 無事に、砂隠れの里に帰り―――。

 

 

 

 チャクラの波動が、伝わった。

 

 

 

「!?」

 

 そのチャクラには凶暴さが溢れていた。

 

 波動はたったの一瞬で、すぐに空気は戻ったが、テマリとカンクロウは同時に波動を感じた方向を見据えた。

 

「今のは……一体何だよ…………」

 

 カンクロウの言葉に含まれた感情は、テマリの中でも同様な反応を起こしていたが、彼女はすぐさま我愛羅を見て……後悔した。

 

 波動を感じた方向を見ていた我愛羅の目が、狂気に満ち溢れていたからだ。

 

 ―――我愛羅…………!

 

 心中の言葉は、声にはできなかった。狂気に満ちた目がこちらを向いてほしくないと、本能が怯えてしまったから。我愛羅が波動の方向へと跳躍したのは、そのすぐの事。

 

「待って、我愛羅ッ!」

 

 テマリはようやく、弟を追いかけた。

 

 弟を心配してではない。

 弟が暴走して、全てを破壊し、それに巻き込まれることが怖かったから。

 

 母との約束を守るだけ。

 テマリにとっての繋がりはもう、ただそれだけに、砂上の楼閣のようなそれに、なってしまっていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

天暴怪々其にして交わる

 

 

 暴力の塊が襲ってきた。

 

 人間が抱えることのできる感情を排し、相手を滅ぼすことだけを一心不乱に詰め込んだ力は、赤い風を撒き散らしながら飛び掛かってくる。狐のような鋭い爪の形を模る赤いチャクラはナルトの右腕を大きく覆い、大蛇丸の顔面を抉り潰そうと振り抜いてくる。

 

 躊躇のない赤い瞳。

 内臓が震えあがるほどのチャクラの圧迫感。

 考える時間も与えてくれない速度。

 

 並みの忍ならば、何もできないまま、その人生を閉じるだろう。

 

 愉快そうに笑みを浮かべ、振り抜かれた爪を躱し、後方の樹をなぎ倒し広範囲を覆う砂煙の向こう側を、別の樹に飛び移っては見下ろし、舌なめずりをする大蛇丸はやはり―――異常だった。

 

 九尾のチャクラを纏ったナルトの一撃を悠々と躱す実力も人間離れしているが、それよりも、楽しむように不気味な笑みを浮かべることへの異常さだ。蛇のような瞳で、砂煙の奥に蠢くナルトを見定める。

 

 ―――……一つ増えただけで、これほどとは。

 

 サスケとサクラの遺体を見せた時―――正確には、連れてきた音隠れの下忍らの遺体を偽装した、偽物のサスケとサクラの遺体なのだが―――ナルトが纏った九尾のチャクラは、一本の尾だけしか模っていなかった。忍術とも体術とも区別できない、純粋な暴力を躱している内に、尾は二つとなり、途端に力も速度も倍増した。その証拠に、辺りの樹や地面に刻まれた暴力の名残は、一本目の傷跡を徹底的に塗りつぶしていた。

 

 砂煙の向こう側から見え隠れする九尾のチャクラが、ゆらりと立ち上がり、こちらを見据える。たったそれだけの動作なのに、頬に触れる空気が剃刀かの様に鋭利になる。

 

 覚えのある殺気だった。

 数年前、滝隠れの里で戦った七尾の時を思い出す。しかし、当時よりも遥かに、九尾の方が冷たく獰猛であることに疑いの余地はない。

 

 耳を突き刺す叫喚が、砂煙を四散させる。ナルトが激突した部分の樹は深くへこんみ、端の方は砕けていた。だが、ナルト自身に傷はなくこちらを見上げている。

 

「ククッ。君、いいわね。もっと見せてちょうだい」

「うるせえ………。てめえは絶対、ぶっ殺すッ! よくも………、サスケを………ッ! サクラちゃんをッ!」

「できるかしら? それに、私を殺せば、うちはフウコの情報は聞けなくなるわよ?」

「だったら―――」

 

 腹に感情を貯め込むように、ナルトは言葉を止めた。剥き出しの歯―――牙と言ってもいいかもしれない照準の如く見せてくると、両手を地面に付け、獣のような前傾姿勢を取った。

 

「てめえの両手足ぶった切って、口だけ動かせるようにしてやらぁあッ!」

 

 ナルトの言葉と呼応し、二本の尾は、三本へ。チャクラの圧迫感がより、濃厚になる。

 

 ―――このまま最後まで見てみたいものだけど、これ以上は危険ね。

 

 大蛇丸は静かに今後の算段を確かめていく。

 

 今は、あくまで確認だけである。ナルトの中に封印されている九尾の力、施された屍鬼封尽がナルトの感情の起伏に応じて九尾のチャクラが漏れ出すように作られているということ。これらを確かめるためだ。

 

 彼女(、、)のから与えられた情報を確かめるために。

 

『ふふふ。初めまして、大蛇丸さん。私、うちはフウコっていうの。本物の、ね?』

 

 まだ、フウコと同盟関係だった頃の、アジトで、それと出会った。

 

 アジトに割り当てられた自室に入ってきたそれは、灯りを消した暗い部屋の中で赤い瞳の写輪眼を浮かべていた。

 

 ねっとりとした甘い声を聞いた時、途方もない吐き気が込み上げてきた。

 

 恐ろしいとか、悍ましいとか、そういう類のものから起因した訳じゃない。かといって、はっきりと言葉で定めれる訳でもなかった。ただ、気持ち悪さだけが、鮮明に伝わってきたのだ。何人も、何十人も何百人もの人間を解体し解剖し、研究し尽くしてきた自分が、初めて純粋な気持ち悪さを、他者に感じたのだ。

 

『ごめんなさい。こんな、フウコさんを幻術で操るような形で挨拶して。でも、こうしないと会話できないんです、ムカつくことに。フウコさんの意識が寝てる間じゃないと、会話もできない。あ、今日はフウコさんは叫ばないから安心してください。ふふふ、毎日毎日、こわーい夢を、たーっぷり見せてるから、今日くらいは安心させてあげないと。フウコさんが壊れちゃったら、お父さんが治してくれたこの身体が動かなくなっちゃうからねえ。ふふふ、代わりに明日は五十回くらい、イタチとサスケがぐちゃぐちゃになるのを見せてあげるから』

 

 勝手にしゃべり始めたかと思うと、突然『ああ!』と【何か】は声をあげて、悪びれる素振りのない笑みを作った。感情の起伏があまりにも不安定なのだと確信させられる。

 

『ごめんなさい。えっと、大蛇丸さん、お願いがあるんですけど』

『……何かしら?』

『フウコさんとの同盟、捨てちゃってください。できれば、あのサソリとかっていう奴をぶっ殺してください。私の身体に変な薬を入れてるので』

 

 普段は人形のように無表情で無機質なフウコを知る大蛇丸にとって、夜中に出会った【何か】は幽霊にも近しい存在に思えた。

 

 これ以上、この【何か】と会話をしてはいけないと本能が訴えかけてきた。ケタケタとした嗤い顔から逃れるように顔を背けようとした時に、彼女は呟いた。

 

『お父さんとお母さんに、会いたいんですよね?』

 

【何か】は勝手に呟く。

 

『フウコさんとの会話、私も聞いてたんですよねー。輪廻眼を使って、貴方のお父さんとお母さんを転生させるってこと』

『その子が』

『フウコさんですね?』

『その子が勝手に言ってるだけよ。私はそんなくだらないことに使うつもりはないわ』

『あらー、そうなんですか。ふふふ、やっぱりフウコさんは馬鹿だなあ。人の気持ちを知った気になって。まあ、私としてはどっちでも良いですけど』

『……貴方は何なのかしら? さっき、本物と言ったけど?』

『まあ細かい所は気にしないでください。フウコさんが偽物だって分かってくれれば、それだけで。それより、どうですか? 私のお願い、聞いてくれます?』

『論外ね。メリットが無いわ』

『実は分かってるんじゃないですか? このままだと、輪廻眼は手に入らなんじゃないかって?』

 

 それは、当時大蛇丸が抱き始めていた考えだった。

 

 フウコとの絶対的な実力差による、契約の反故。大蛇丸の真意を言い当てた【何か】は妖艶な笑みを浮かべて呟いた。

 

『私としても、このままフウコさんに好き勝手やられると困るんですよねえ。だ、か、ら、大蛇丸さんに色々ぶっ壊してほしいなあって、思ってるんです。もし上手くいけば、輪廻眼が素直に手に入るかもしれませんよ? それにそれに、ふふふ、大蛇丸さんの知りたいことだったら、教えれる限りは幾らでも教えます。どうですか? 悪い話しじゃないと、思うんですけど』

 

 そこで、【何か】から色々と教えてもらったのだ。

 

 うちは一族をなぜ滅ぼしたのか。

 その陰で木ノ葉は何をしたのか。

 九尾は誰に封印され、どんな封印がされたのか。

 

 それらの情報を元に、今回の計画を立案したのだ。彼女からは『イロミちゃんを説得してくださいね!』と言われているが、そんなものは知ったことではない。

 

 兎にも角にも。

 

 ナルトの力は見せてもらったことに、一定の満足を得ることができた。後は、面倒にならない程度の始末を付けて、次に移らなければいけない。もし招待状を与えた我が子が、予想以上の無能でなければ、九尾のチャクラを察してもうそろそろ近くまで来ていることだろう。大蛇丸の好奇心はナルトから、我が子(、、、)へと移りつつあった。

 

 だから、だろう。

 

 油断した訳ではなかった。視線を外したわけではない。ただ、好奇心の移り変わりによる、意識の隙間が生まれただけで、その刹那は大蛇丸の表情からも指先の機微からも一切に読み取ることが不可能なほどの、光よりも一瞬の時だった。

 

 大蛇丸の背後に、ナルトがいたのだ。

 

「…………ッ!」

 

 ナルトが移動した訳ではない。未だ下方にはナルトはいる。だが、暴力の気配は間違いなく真後ろから出現し、瞬時に振り向くとそこには、ナルトが―――右手に巨大な赤いチャクラの塊を持っていた。

 

 影分身の術。

 砂煙に紛れている隙に、ナルトが行った機転は、大蛇丸の思考の外。

 暴力の塊が、小技を利かせてきたのだ。

 

 ―――この子……、意外と…………ッ!?

 

 ナルトの評価が更新される。

 野蛮な凡才の暴力だと思っていた。

 直線的な思考の持ち主なのだと思っていた。

 しかし、それは違う。

 九尾のチャクラを身に纏いながらも、暴力に身を委ねながらも、彼には知性がある。

 

 地面を抉り、樹をなぎ倒す、知性を持った暴力。

 

 その暴力の権化となった赤いチャクラの塊が、大蛇丸を呑み込む。赤いチャクラの塊は大蛇丸に必殺の圧力を加えながら分身体のナルトの手から離れ、地面へと向かって急降下する。うねりを上げ、空気を悉く吸い上げながらチャクラの塊は地面へ堕ち、爆発。半球状のエネルギーが地面を押しつぶし、樹々をなぎ倒し、暗闇を退かせる。

 

 だが、その中を、オリジナルのナルトは突き進む。オリジナルはエネルギーの方向を真逆に突き進み、中央で押しつぶされている大蛇丸の顔面を掴む。もはや息耐えているのか、中身のない革袋の様に軽く、エネルギーの中を引きずられていく。

 

 爆発が収まると同時に大蛇丸は投げ飛ばされ、根元の少ししか残っていない樹の残骸に叩き付けられた。

 

「影分身の術ッ!」

 

 さらに、分身体は増える。大蛇丸に奇襲を仕掛けた分身体を含め、四人。それらが先行し、あっさりと大蛇丸の四肢を引き千切る。

 無残な傷口から血が飛び散り、体液が噴出す。言葉通りに、そして先ほど見せられた遺体のようにしたナルトは、けれど迷うことなく大蛇丸の首を掴み、力の限り樹に叩き付けた。

 

「……おい、さっさと言えってばよ。フウコの姉ちゃんは、今…………どこにいんだッ! おいッ!」

 

 あまりの力に樹には亀裂が生じる。

 ナルトの行動と言葉は、過分な程に矛盾を訴えかけていた。

 大切な人の行方を知りたいという想いと、大切な仲間を殺した復讐に駆られた想い。

 大蛇丸を生かして情報を聞きたい。

 大蛇丸を殺して現実を否定したい。

 

 コントロールしきれない感情に決着を付けれないままに、何度もナルトは大蛇丸の頭を首ごと叩き付け続けた。だが、死んだかのように動かないソレを見て、感情が黒く染まる。

 

 止まらない。

 溢れだしてくる。

 怒りが、悲しみが。

 思いが、想いが。

 肉体から乖離し始める意識は、内へ、内へ。

 

 薄暗い、水で満たされた世界。ナルトはその世界が何なのかすら、気にも留めなかった。

 

 ぼんやりとした意識は完全な暗闇となっている彼方を見据えるだけ。息苦しくて、涙のようにしょっぱい水の中は、幼い頃の孤独を思い出させる。

 

 ―――フウコの、姉ちゃん…………。いかないでくれよ……。

 

 水の彼方に、ぼんやりと彼女の背中が揺蕩っていた。

 手を伸ばす。もちろん、届くはずのない距離。見えているのに、太陽のように、月の影のように、水平線のように、ずっとずっと向こう側にいるようで。だけどもう一度昔みたいに、何も言わずに、何も表現しないままに、あの夜だけに繋がれた手の体温を思い出したくて、身体は水中の中を勝手に進んでいく。

 

 ―――俺ってば……頑張ったんだ。だから…………。

 

 何も考えることができない。蜃気楼に浮かぶ清水を渇望するように、彼女の背中を追いかける。その向こう側に聳え立つ、巨大な檻の中の怪物が垂涎を我慢しながら待ち構えてるとも分からずに。

 

 ―――サスケの野郎も、サクラちゃんも、いなくなっちまった……。

 

 身体が軽くなり、速度を上げる。

 あまりにもあっさりと消えた繋がり。また、自分の知らない所で、繋がりが消えた。今度は、永遠の別れ。苦しい思いも悲しい思いも、逃げるように、彼女を追いかける。

 

 あと少しで、手が届きそうだとナルトは思う。そう夢想させる地点は、九尾の手元。

 

 あと、少し。

 もうすぐ。

 もう、目の前―――。

 

 

 

「しっかりしなさい、ナルトォッ!」

 

 

 

 ―――……え?

 

 檻の一歩手前で、その声が響き渡った。

 頭の天辺から針金を通されたように、意識がはっきりと蘇る。

 世界から水が引いていく。どこかの栓を抜いたように、瞬く間に。浮いた身体は地面に付き、ナルトは後ろを振り返る。大切な彼女の反対側―――犯罪者となってしまった彼女の過去の、反対側を。

 

 振り向いた瞬間に、幾つかの人の顔が浮かんでいた。

 

 恩師、うみのイルカは笑っていた。

 上司、はたけカカシは死んだ魚のような目で愉快にVピースをしていた。

 友達の猿飛イロミが手を振っている。

 サスケが、サクラが、いる。

 

 気が付けば、意識は身体に戻っていた。

 

 振り返る動作はそのまま、身体を動かし、荒れ果て壊れ果てた樹々の向こう側には、あまりにも分かりやすい桜色の髪をした少女が、泣きそうな顔でこちらを見ていた。

 

「サクラ…………ちゃん……………………?」

 

 声と共に、焦点が震えた。つい先ほど、四肢を切断された遺体を見たはずで、だから四肢がはっきりと在り、けれど五体満足というほど無傷ではない彼女が生きて立っていることに、混乱してしまっていた。

 

「アンタ、なに一人で先走ってるのよッ!」

 

 涙声だが、その怒った声は間違いなく鼓膜を揺らし、現実だと訴えてくれる。頭を痺れさせていた怒りも悲しも、纏っていた赤いチャクラと尾と共に引いていく。

 

「おいナルトッ!」

 

 そして、サクラのすぐ横に姿を現したのは、サスケだった。

 

「他に敵はいないか!?」

 

 サクラと同じように、頬や腕に擦り傷や砂埃を付けてはいるが、サクラよりも力が余っているようで、鋭い視線で辺りに注意を払っている。乱暴で、苛立ちを抱いてるのがすぐに分かってしまうほど、普段よく聞くトーンの声。だけど、その苛立ちが自分に向けられてはいなかった。

 

「……サスケ……………、お前、生きてんのか……?」

「あぁあ?! 何言ってんだ、当たり前だろッ!」

「だって! さっき………」

 

 二人のものだと思しき遺体があったところを見る。しかしそこには、大きなクレーターのような跡と、その跡に広がる血痕だけで、肉片骨片すら残っていない。

 

 だが、むしろその方が良かったかもしれない。二人の遺体だと思っていた残骸が無かったおかげで、二人が生きているという現実を受け入れるのに、拒絶的な反応は示さなかった。自然と目端に涙が溜まり始める。

 

 ―――……よかった…………。

 

 その感情は、サスケが生きてくれているおかげで、彼の実姉のフウコが、いつか里に帰ってきた時に悲しまなくて済むということへ安堵もあるが、彼自身が生きてくれているということへの喜びも―――曖昧ながら―――あった。

 

 ただ、そこにいる。

 そこにいて、言葉を発している。

 自分の知っている相手が、自分を知っている相手が。

 それだけで喜べた。

 たとえ、それが自分の大嫌いな相手でも。

 

 その不可解な感情の氾濫を言葉にしようとする前に、サスケが言う。

 

「とにかく、さっさとここから離れるぞッ! 他のチームに見つかる前に一旦隠れるッ! 早くしろッ!」

「……へッ! おめえはバテてるみてえだけど、俺はこの通りピンピンしてんだ! コソコソ隠れたきゃお前だけでやってろってばよ!」

 

 ナルトは掴んでいた物から手を離し、ついでに影分身の術を解いてから、小さく指で鼻を掻き笑ってみせる。そんな自分の日常的な仕草に、サスケは明らかに不機嫌な顔を作ったが、それもナルトと同様で、日常的なものだった。

 

「このバカ! サスケくんの言う通りにしなさいッ!」

 

 と、サクラも、普段通りに怒った。すっかり、涙も引いているようだ。

 

「言う通りにしないと殴るわよッ!」

「ちょ、サクラちゃん、そんなのはねえってばよ……」

「いい訳しないッ!」

「……へーい。しょうがないなあ。なーんでサスケの野郎ばっかり」

 

 ぼさぼさの髪を乱暴に掻きながら、そういえば、と思い出す。

 巻物のことだ。怒りで頭の中がぐちゃぐちゃになっていたせいで、すっかり忘れてしまっていたが、男―――大蛇丸が持っていたのは【地】の巻物だった。それを回収すれば、第二の試験をクリアすることができる。

 

 だが……。

 

 振り返り、四肢を切断されて地面に仰向けになっているソレを見下ろす。

 

 ―――……こいつ、食べたんだったよな…………。

 

 ただでさえ無残な死体だというのに、腹を裂いて胃から巻物を取り出すのを想像すると薄ら寒くなってしまう。相手を殺すことに何の抵抗は無いとは言えないが、遺体を傷付けるというのはそれよりも上の次元の抵抗感がある。遺体を傷付けるのは、この世で最も無駄な行為に思えた。

 

 ―――フウコの姉ちゃんのこと、聞けなかったな……。

 

 まばたきをした一瞬、瞼の裏に、彼女の姿が映った。やはり、後姿だけで、瞼を開けるとすぐに消えた。

 

 そこにあったのは、遺体だと思っていた物体が、ドロドロの液体になった姿だった。

 

「な、なんだよッ! これ―――」

「全く、中途半端に手間を取らせてくれたものね。まだ七尾の人柱力の方が可愛げがあったわ」

「……ッ!?」

 

 言葉の途中に割り込んできた、蛇の皮膚のようなぬるりとした声は、すぐ横から。顔を傾け目視するよりも早く、大蛇丸の人外に長い舌がナルトを縛り付けた。

 

 サクラとサスケの二人が、大きく息を呑む音がはっきりと聞こえてくる。ミミズのように地面から出てきた大蛇丸の姿に驚愕すると共に、戦慄したからだろう。捉えられたナルトも同様だったが、腕を自由に動かすことができず、印を結ぶことはおろかホルスターに指をかけることもできない。

 獰猛な目。

 寒気を招く笑み。

 しかしそれらよりも、ナルトは驚愕し瞼を大きく開けてしまうものがあった。

 大蛇丸の顔の皮膚が、右口端から細いエラにかけて、大きく剥がれていた。その下には、白化粧をべったりと塗られた、全く別の男性の顔が。

 

 どういうことなのか、それを考える暇もなく「でも」と大蛇丸は呟く。

 

「聞いた話しよりも強くて驚いたわ。本当ならもっと君と遊んでいたいけど、もうそろそろで私の娘が来るものだから、今回はお暇させてもらうわね」

「離せってばよッ! 気色悪ぃッ!」

「ククク、次会う時はもっと仲良くしましょ? 私、君のこと、嫌いじゃないわよ」

「けっ! テメエみてえな蛇野郎となんか、頼まれたって仲良くしたかねえってばよッ! さっさと離して、そんでもって、フウ―――」

 

 言葉の途中を、右手で塞がれた。顔がより近づき、大蛇丸の潜めた声が細々と聞こえる。

 

「彼女のことはまた今度、教えてあげるわ。それまでは、このことは誰にも言わないようにね? 特に、サスケくんにはね?」

 

 大蛇丸が名指しした彼は、既に動いていた。思わず舌を巻きそうになるほどのサスケの速度は、大蛇丸の背後に完全に回り切り、クナイを振りかぶっていた。怒りとも焦りとも区別できない歪んだ表情には、写輪眼の赤が鋭く光る。

 

 逆手に持ったクナイが大蛇丸の首を掻っ切ろうと一直線に軌道を描く刹那、大蛇丸は予定通りと嘲笑うかのように回し蹴りでサスケの胸部を蹴る。

 

 骨が何本か折れる鈍い音。

 

 呻き声を小さく出したサスケはあばらが折られた勢いに後方へと吹き飛んでいき、地面を転がった。俯きに地面に倒れ、痛みで強張る口端からは血が覗かせているのを、大蛇丸は自虐気味に嗤う。

 

「あまり私の好奇心を刺激しないでほしいものね。今は君に構ってあげれるほど余裕がないのよ。そこで地面でも舐めてなさい。それじゃあナルトくん、また会いましょう」

 

 大蛇丸は印を結ぶと、右手の五本指にチャクラが集中した。

 

 五行封印と呼ばれる、封印術だった。身体を縛る長い舌の先端が、ナルトの服を軽くたくし上げて腹部を晒させた。臍を中心に浮かび、しかし今まさに消えようとしていた封印式を大蛇丸は見て、そして、その上に指を押し付けた。

 

 身体の中のチャクラが分離されていくような痛みに、ナルトは意識を手放した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「てめえ……ナルトに何をしたッ!」

 

 気を失ったナルトを粗末に地面に放り投げた大蛇丸に向かって、サスケは声を荒げた。拍子に、折れたあばら骨が軋み痛みを訴え、肺から込み上げてきた喀血に口の中が鉄臭くなる。立ち上がろうとするが、両腕を動かそうとするだけ胸に激痛が走り、膝が笑ってしまう。あまりにも無防備な状態を続けているにもかかわらず、サスケは敵意をむき出しにした写輪眼を収めることはしなかった。

 

「安心なさい、殺しちゃいないわよ。ただ気を失っただけ。これ以上無暗やたらに暴れられたりして、暗部に目を付けられちゃ困るもの」

 

 困ると言いながらも、ニタニタとした表情を決して崩すことはしない大蛇丸。顔の皮膚が剥がれ落ちた姿も相まって、生理的な嫌悪感が首裏を舐めまわす。大蛇丸が、たった一歩、こちらに向かって歩いてきた。それだけで、嫌悪感が何十倍にも強くなる。サクラも同じく思ったのか、怯えながらも、サスケのすぐ傍に駆け寄り「サスケくんッ!」と、膝を地面に付け意味もなく名を呼んでくる。

 

「それに、君たちにとっても良いことじゃないかしら?」

「何だと……?」

「あら? もしかして知らないのかしら。ナルトくんの中に眠ってる強力で危険な力の事よ。かつて木ノ葉隠れの里を半壊にまで追い込んだ、九尾の化け狐を身に宿してるのよ、ナルトくんは。さっき感じたんじゃないかしら? だからここに辿り着けたのでしょう? あの肌を刺すようなチャクラの波を」

 

 波の国で見た、ナルトの異変。膨大で、暴風のような赤いチャクラ。アレが何なのか、サスケもサクラも、具体的には知らない。何かを知っているかのような素振りを見せるカカシに尋ねてもはぐらかされるだけだった。

 

 知っていると言えば知っているし、知らないと言えば……知らない。

 

 そして―――危険かどうかと尋ねられれば…………。

 

「その子は自覚しているようだけど?」

 

 大蛇丸に見下ろされたサクラは、下顎を震わせながらも、キッと睨み返した。

 

「ナルトは私たちの仲間よッ! バカで、ドジで、滅茶苦茶やるけど、すごい努力する奴なんだから! 危険だとかなんだとか、勝手に決めつけないでッ!」

「あらそう。それは残念ね」

 

 と、どうでも良さそうに大蛇丸は吐き捨てた。

 

「それにしても、あの大蛇を倒してここまで来るなんて、しかも私の予想以上に早く……正直驚いたわ。流石は、うちはの生き残りと言った所かしら? やはり、写輪眼はとてつもない遺伝子ね」

「俺を……知ってるのか?」

「ククク、君が分かっていないだけで、他の子たちや中忍選抜試験を見に来る大名たちの間では、君は有名人なのよ? ましてや、あの神童のうちはイタチの弟なんだから、知ってて当然じゃない。この世に数少ない、選ばれし血統。喉から手が出るほど、私は君に興味があるのよ?」

 

 また一歩、一歩と、大蛇丸が近づいてくる。まだ立ち上がることすら、ままらないというのに。

 

 そして、写輪眼が捉える大蛇丸の挙動が、どんどんと獰猛になっていくのが分かった。

 

 まん丸と太った蛙を前に、身体をうねらせる大蛇のように。

 目をギラギラと輝かせて。

 近づいてくる。

 

 大蛇丸に対する恐怖が、この場は逃げるべきだという本能が、無意識の自分が警鐘を鳴らし始める。痛みを堪えて、十秒ほど思い切り逃げ出せばいい。不必要に相手を刺激する必要がどこにある。

 

 分かっているのに、分かってはいるのに……。

 

 ―――……起きろよ……………ナルト………………………ッ!

 

 大蛇丸の後ろで倒れているナルトを見捨てることが、出来なかった。

 どうしてそんなことを思い始めている自分がいるのか、理解できないまま。

 

 大蛇丸は、目の前に。

 

「ああ、そんな綺麗な眼で見つめられたら、我慢できなくなってきちゃったわ。片方だけでいいのよ?」

 

 片方だけ。

 片方だけちょうだいな。

 

「君の写輪眼、ちょっとだけ―――」

 

 

 

 カタ、

 カタカタ、

 カタカタカタカタ、

 カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ。

 

 

 

 サスケとサクラの前に、

 狸の形をした傀儡人形が、

 不気味な音を立てながら、

 上から降ってきた。

 

「「「―――ッ!?」」」

「解」

 

 どこからか、すぐ近くの樹の残骸の影からか、あるいは遠くの葉の影から、薄い声がサスケの耳に届く。同時に、狸の傀儡人形は、関節の節々から真っ白な煙幕を大量に噴出する。

 

 ―――これは……イロミの大嘘狸…………ッ!?

 

 聞こえてきた声、そして彼女との忍術勝負で二、三度見たことのある傀儡人形の姿と、一度だけ見たことのある、関節から噴射される煙幕に、サスケだけは一瞬で状況を理解する。

 

 どうして彼女がここにいるのか、その疑問は泡沫の如く浮かべて打ち消し、三人の中でいち早く動き出した。

 

 大きく息を吸い込み、肺に空気を留める。足にチャクラを集中させ、肺に留めた空気を決して逃がさないように力強く奥歯を噛みしめ、口を閉じた。

 

 痛みを我慢しろ。

 一つのこと以外、何も考えるな。

 あばら骨が折れただけだ、死ぬわけじゃない。

 

 すぐ近くにいるサクラの顔すら、輪郭だけでしか捉えることのできない濃煙の中、サスケは写輪眼でナルトの位置を確認する。深い煙の中、青い微弱なチャクラの塊が地面に倒れているのを確認すると、サクラの腕を引っ張り、動く。

 

 大嘘狸を大きく迂回するように弧を描きながら、倒れているナルトの所へ。サクラも、サスケが何を考えたのかすぐに理解する。彼女の頭の回転は速い。ナルトを背負うと、そのまま二人はその場を離れていった。

 

「ククク、賢明な判断ね」

 

 不気味な声は真後ろから。追いかけてくる気配はないが、二人は脱兎の如く森の中を突っ走っていく。

 

「いずれ、また会いましょう」

 

 その不吉な言葉を最後に、二人は大蛇丸から無事、逃げ果せることができた。

 

 だが、二人はまだ知らない。

 

 咄嗟に選んでしまった逃げ道には、また別の―――気狂いと血肉を砂に染み込ませた暴力が待ち構えているのを。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 傀儡人形。

 

 その多くは形の中に多種多様な仕掛けが施されており、例に漏れることなく毒が仕込まれている。毒の種類は使用者の趣味趣向や戦闘に対する考え方に大きく作用されるものの、大抵の場合は致死性の高い毒が使用されている。障害を排除する能力、それが最も重要視される忍にとって、相手を麻痺させるものや眠らせるものなどは、正直な所、使用する場面は殆どないからだ。皆無と言ってもいいかもしれない。そんな相手を殺しきれない毒を使用するなら、自身オリジナルの毒を使用し、解毒させる手段を見つける前に死に至らしめるものを考案した方が何倍もマシだからだ。

 

 しかし、どういう訳か、追いかけてくる狸の傀儡人形は、一度として致死性の毒を使用してはこなかった。

 

 鋭い爪には、相手の神経を麻痺させる毒が。

 口から吐き出される毒煙には睡眠薬が。

 丸い尾から飛び出す針には、眩暈を強く起こさせる毒が。

 

 わざとそれらの攻撃を皮膚先だけで受けた大蛇丸は、呆れて大きなため息をついてしまう。

 

 ―――……腑抜けた子ね…………。

 

 大蛇丸の体内には、多くの薬が眠っている。薬だけに留まらず、禁術や、他の忍の細胞から採取した研究成果など、軽く百は超えるだろう。そんな彼に、明確な効き目をもたらす毒を、狸の傀儡人形は持ち合わせてはいなかった。

 

 神経が麻痺する毒を受けても、正座をした時のような軽い痺れだけ。

 睡眠薬を受けても、眠気なんて全く。

 眩暈を引き起こす毒を受け入れても、むしろ視界がクリアになるほど。

 

 平然としている大蛇丸の姿を、おそらく使用者には、既に毒が有効ではないことは分かっていることだろう。だからこそ、先ほどから行われている狸の傀儡人形からの攻撃は、どの毒が効くかどうかを試行しているようだった。一度行った攻撃は、二度行われていないのが、その証拠。

 

 大蛇丸はいい加減、退屈してきていた。印を結び、右腕を前に伸ばすと、袖口から何匹もの大蛇が傀儡人形を絡めとり、ヒビを入れた。

 

「解」

 

 また、声が聞こえてきた。

 

 初めて会った時とはまるで違う、捕食者が纏わせる冷酷な声。その声を合図に、狸の傀儡人形は爆発四散した。

 

 巻き付いていた大蛇らの首は刎ね飛び、さらには傀儡人形の中に仕込まれていた針やら手裏剣やら毒のスモッグやらが四方八方へと不規則に飛び散り、大蛇丸の長い髪を一本、切り落とした。切られた髪の毛はヒラヒラと樹の幹に落ちる。大蛇丸は、先ほどナルトと戦闘していた場所から幾らか離れた場所の、樹の太い枝の上に立っていた。

 

「いい加減、姿を見せたらどうかしら? お人形遊びをするほど、馬鹿な子じゃないでしょう。私に、その顔を見せてちょうだい」

 

 傀儡人形を操っていたチャクラの糸が空中で霧散していく。広がった毒のスモッグは、やがて空気との比重で下へと落ちていき、辺りがクリアになる。

 

 三秒ほどの……間。

 

 それを経て、彼女は姿を現す。反対側の樹の枝。ちょうど、大蛇丸が立っている枝と同じくらいの高さであろうそこに、猿飛イロミはゆっくりと姿を現した。

 

 特徴的な白と黒の髪。首から巻いている長いマフラーと、背負うのは巨大な巻物。マフラーを攫おうと横から吹く風が、イロミの長い前髪を揺らし、その隙間から黒と灰色のオッドアイを覗かせた。

 

「ククク、約束通り、ちゃんと、一人で来たようね」

「ええ、約束通り。私一人で来ました。今度は、貴方が約束を守る番ですよ」

「まあまあ落ち着きなさい、折角会えたのだから、少しばかり昔話でもしないかしら?」

「貴方の昔話に興味はありません。教えてください。フウコちゃんは今、どこにいるんですか? どこで、何をして、何をしようとしているんですか? そして貴方は……この里で、何をしようとしているんですか? フウコちゃんとは、どういう関係ですか?」

 

 風がざわめき立つ。末端の枝葉が揺れ、木の葉が飛び回る。まるで、イロミの感情に合わせるように。

 

「まあ、ちょっとした気晴らしよ。それには、貴方にも手伝ってもらおうかと思っているところなの。その話しを聞いてくれるなら、うちはフウコの事を教えてあげてもいいわよ?」

「貴方が何をしようとしているのか、興味ありません。それに、貴方に手を貸すつもりは、もっと興味がありません」

「そう言わないでほしいものだわ。まるで他人行儀ね」

「ええ、他人ですよ」

「違うわ。私は、貴方の生みの親よ。正真正銘、私が、貴方を生んだの。作ったのよ」

 

 不愉快そうに、イロミの口元が微かに歪む。

 

 別段、彼女を作ったことに誇りなどは無い。所詮は道具だ。だが、道具だからと言って、素直にこちらに手を貸してくれるような気配もない。

 

 だからこそ、利用しようと思った。

 

 この甘ったれた木ノ葉の里の価値観を。

 

 家族だとか、友人だとか、そんな、目に見えることのない、本質をぼやかしたアウトラインを尊重する間抜けな里の空気を、目一杯に吸い込んだ価値観を。

 

 戦争孤児という嘘で育った彼女の立場を。

 親子という関係を。

 

 大蛇丸は語った。

 イロミが一体、どれほどの人間の血と肉と骨と臓物を混ぜ込んだフラスコの中から生まれたのか。

 

 その経緯と、どれほど我が子を愛しているのかという反吐が出てしまうほどの嘘話を。

 




 今年の最後の投稿となります。
 次話の投稿は、1月15日までに行いたいと思います。

 来年も、特に投稿ペースに大きな変化もなく続けていきたいと思います。

 今年も残り一日となります。これを読んでいただいた方、そうでない方も、よい年を迎えられるよう、今年の残り最後まで無事にお過ごしいただけばと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

親と子

 親の事を考えたことが一度もない、という訳ではなかった。アカデミーの頃が、最も多く考えた時期だったように思える。自我を獲得してから視力を持っていなかったイロミにとって、家族という言葉の持つ意味と、孤児院で暴力を振るう主の存在との区別を付ける時期が、他の子よりも遥かに遅かった。眼を貰ってからも、比較対象を詳しく知る状況に巡り会えなかったのも、原因だろう。

 

 イロミがはっきりと家族―――あるいは、両親―――というのを実感したのは、アカデミーの入学式の時だった。父親、母親と一緒に手を繋いでアカデミーの校門を通っていく生徒たちの川。

 

 どうして皆、笑ってるんだろう。当時のイロミは理解できなかった。大人の人と手を繋ぎながら、軽い足取りで歩いていくのを、一人ぽつんと少し離れた所から眺めていた。親同伴でアカデミーに来なければいけなかったのだけれど、孤児院の主は汚い字で書いた委任状をイロミに持たせるだけにしていた。

 正直、孤児院の主が傍にいないことは、安心できた。眼を与えてくれた彼に多大な感謝を抱いてはいるものの、理不尽な暴力や暴言への恐怖は常々抱いている。大人は怖い、というのが、イロミの常識だったのだ。

 

 なのに、どうして、他の子たちが笑っているのか。もし孤児院の主の前で笑えば、すぐに殴られるのに。大人の人はどうして殴らないのだろうか。

 

 不思議に思う反面、羨ましいとも思った。同い年の子たちの笑顔が、あまりにも自由だったからだ。自分のように、すぐ目の前に大人がいても、大人と手を繋いでも、何も束縛されていないことが、たまらなく羨ましかったのだ。

 

 この時に、直感的にだが、家族という形と効能を理解した。……しかしイロミはその後、フウコと出会い、家族あるいは両親への関心のエネルギーは全て、彼女へと向いてしまった。フウコと友達になるまでは、両親の事を考える暇は無く、時間も瞬く間に過ぎた。

 それから、シスイ、イタチと友達になって……。ちょうど、四人で、夜に神社へと探検した日、その翌日くらいから、考え始めた。

 

 きっと、きっかけは、フウコが孤児院の主を殺そうとしたからだと思う。当時は、主の事を「お父さん」と呼んでいた。そもそも、彼の名前を知らなかったこと、猿飛ヒルゼンの養子になる以前に彼の事をそう呼んでいた―――正確には、呼ばされていたのだが―――名残であって、特に深い意味は無かった。

 

 しかし、フウコの殺意を感じて、フウコが「どうしてあんな奴をお父さんだなんて―――」と無表情な不快感を示すのを見て、本当の自分の父親、そして母親はどんなのだろうか? と考え始めた。

 

 優しい人だったのだろうか。

 それとも、怖い人だったのだろうか。

 綺麗な人だったのか、カッコいい人だったのか。

 

 だけど、既に両親が死んでいることは知っていた。自分を拾ってくれた忍の人が言ってくれたのだ。アカデミーに入る前である。しかし、両親の事を考えるようになってからは、その事実が悲しいことなのだと実感してしまい、泣いた夜もあった。

 他の子には、両親がいる。家でご飯を食べる時は笑って楽しい時間を過ごしている。それだけではなく、頭を撫でてくれたり、アカデミーの宿題を教えてくれたりしてくれるのだろう。そう思うと、自分が過ごしている家と、家の中で殴られたり、ゴミのように邪険にされる時間が、どれほど惨めであるのか。

 

 他の人より足りてない。

 両親という、きっと、何よりも大切なものを持っていない。

 戦争で死んだのだと聞かされている。しょうがないことなのだとは、分かっている。

 

 だからこそ、苦しいんだ。

 

 しょうがないこと。どんなに頑張っても、手に入らないものなのだと、言われているような気がして。

 

 そんな惨めな自分を自覚して、泣いたのだ。

 

 眼を与えてくれたのには感謝してる。だけど、感謝と恐怖は、別だ。人の感情は、時と場合で分別できてしまう。一心に徹することは、難しい。幼いなら、尚更だ。

 

「なあ、イタチ。ずーっと見てっけどさ、全っ然、来ねえぞ」

 

 アカデミーの頃の、ある夜。

 

 イロミは、友達と一緒に、夜の下にいた。神社を探検した、三日後の事だ。場所は、うちはの町から少し離れた、小さな公園。どうせ試験まで時間あるから、などと言う、神社へ探検しに行った理由と何も変わらない事情で、夜に集まったのだ。

 

 背の高い滑り台の上に立つシスイは、右手を水平にしたまま額に当て、清廉に晴れ渡った夜空を見上げながら、滑り台を支える細い柱に立ちながら背を預けているイタチに尋ねた。イタチは腕を組みながら、小さくため息を吐く。

 

「まあ、運、だからな」

 

 イタチは面倒そうに呟いた。

 

「俺、そろそろ首が疲れてきたんだけど。なあ、そろそろ次の試合しようぜ」

「駄目だ。まだ一分も経ってない。続けろ。負けたお前の責任だ」

「負けたっつっても、というか、大体、フウコが俺の前の時点で問題があるんだよッ! 順番変えろッ!」

 

 シスイは空気をたんまり含めた慎み深い大声を出し、滑り台の下にある砂場を見下ろした。そこには、フウコとイロミが、砂で小さな建築物を作っていた。シスイの言葉に、フウコは赤い瞳で彼を見上げる。

 

「山崩しが下手くそなシスイが悪い」

「下手くそも何もねえだろッ! お前、毎っ回、俺が棒を倒すギリギリまで砂持っていきやがってッ!」

「そういう勝負だから。シスイだって最初、イロリちゃんが棒を倒すギリギリまで砂を持っていってた」

「限度があるだろ限度がッ! お前みたいに両腕全体を使ってまで砂を持っていってねえよッ! なんだ、あのタコみたいな腕の使い方はッ! お前はイカかッ!」

「何を言ってるの? シスイ」

「おいシスイ、空を見てろ。流れ星が来るかもしれないだろ」

 

 四人は、流れ星を見ようとしていた。天体観測をしようと、シスイが言い出したのだ。しかし、専門的な望遠鏡を持っていない四人は、仕方なく、流れ星を見つけて、願い事をしようと考えたのである。

 

 しかし、夜に集まって一刻。四人全員がずっと夜空を見上げていたが、一度として流れ星を見かけなかった。満点の星空が覗ける、雲一つないクリアな夜空。大気も大きく揺れている訳でもなく、ベストコンディションであるにもかかわらず、見つけられず、いい加減首が痛くなってきた四人は、山崩しで夜空を見上げる担当を決めようと判断した。

 

 今のところ、六戦して、半分以上はシスイが担当している。最初の二戦はイロミで、その後は全部シスイである。理由は単純に、シスイがフウコの静かな怒りに触れたからである。

 

 山崩しの順番は決まっていた。イタチ、フウコ、シスイ、イロミの順番を繰り返しに。山崩しのルールを知っていたのはシスイだけだった。シスイはそれを良いことに、イロミが取れる砂をなるべく少なくしようと画策していたのだが、フウコがそれに怒り、やり返した、というパターンである。

 

 シスイはやれやれと唇を尖らせながら、再び夜空を見上げるのを、イロミは一瞥し、すぐに目の前の建築物を見下ろす。砂場の横にある電灯が白く建築物を照らしている。三角屋根のベターな家を模した砂の塊は、なかなかの出来栄えなのではないかと、イロミは内心思っていたりした。本当なら、もっと角を鋭角にしたいようだが、蛇口から砂場までの距離が遠く、バケツもなかったため、乾いた砂では実現できそうにない。

 

「バケツ、持って来ればよかったなあ」

「え?」

 

 と、フウコは顔を上げた。彼女の前には、ただの滑らかな円錐の砂の塊があった。「どうして?」と、フウコは頭を傾ける。

 

「水があったら、もうちょっと、綺麗に作れるなあって、思ったの」

「しょうがないよ。流れ星を見に来たんだから」

「来ないね、流れ星。私、見たことないの。フウコちゃんはある?」

「何回かあるよ。夜空を見てたら、星がこう、流れていくの」

 

 一度手を止め、フウコは右腕を伸ばして、流れ星の軌跡を描いて見せた。

 

「どうして、流れ星にお願い事をすると、叶うのかな?」

「必ず叶うって訳じゃないと思うよ」

「え、そうなの?」

「多分……。本当に叶ったら、皆、夜中に寝ないと思うけど」

「まあ願掛けだよ、願掛け」

 

 と、シスイ。

 

「神社にお金入れて鈴をジャラジャラ鳴らすよりは、何か、叶いそうだろ?」

「いい加減だな、お前は」

「どうせイタチは、お参りの仕方にもうんたらかんたらで、そういった手順をキチンと踏めばなんたらかんたらもしかしたら叶うかもしれないっていうんだろうけど、流れ星の方がよっぽど神様とかに近い気がするぞ」

「深く考えない方がいいよ、イロミちゃん」

 

 イタチはイロミを見ながら、小さく微笑んだ。

 

「俺も流れ星は見たことがないんだ。それに、あまり見れるものじゃないから、見た方がいいし、どうせなら、願い事もした方がいいだけだ。流れ星は、綺麗みたいだからな」

 

 たしかにそうかも、とイロミは思う。星が流れるというのがどういうものなのか、その神秘性を楽しみにしている部分が大半だったことには変わりない。

 

「ねえねえ、フウコちゃん」

「なに?」

「フウコちゃんは、何をお願いするの?」

「サスケくんが、でんでん太鼓無しで、私を見て泣かないでくれないように」

「まだお前、泣かれてんのか。そんなの、星に願うなよ。もっとこう、壮大な願いをだな―――」

「そういうシスイは?」

「神にしてくれって願う」

「お前……凄いな」

 

 イタチが呆れ切った声を漏らした。

 

「俺は今まで、お前の事を、その、なんだ、色々と……誤解していたかもしれない」

「他に願うことなんかないんだよッ! バカにするなッ! 努力して叶うこと願うより、どんなに努力しても叶わないこと願った方がお得だろうが! そう言うイタチは何を願うんだよ!」

「そうだな。実のところ、俺もあまりない。強いて言うなら、里の平和くらいだ」

「平和だろうが」

「これから先のことだ。願掛け程度のことだ、それくらい想ってもいいだろ」

「イロリちゃんは、何をお願いするの?」

「あ、えーっと……」

 

 本当のお父さんとお母さんに、会ってみたい。

 

 その言葉を、ぐっと、喉元で押し留めた。これを言ってしまうと、フウコが心配して、孤児院の主を殺して、自分を家族として迎え入れようとするかもしれないと、思ったからだ。今日も主には、フウコ特製の睡眠薬を飲ませている。

 

「えへへ……内緒」

 

 フウコは「そう」とだけ呟いた。彼女のそういう、無機質な部分が、イロミは実は大好きだったりする。

 

「おいイロミ、それはズルいぞ。俺とイタチもフウコも言ったのに、お前だけ内緒だなんて」

 

 しかしシスイは、変に食いついてきた。

 

「俺たちは恥ずかしい告白をしたんだぞ」

「俺とフウコを含めるな、神」

「お、分かった。テストで満点取りたいとかだろ?」

「え? いや、そういうのじゃ……」

「大丈夫だよ、イロリちゃん。分からない所は、私が教えるから。だから、他のことお願いした方がいいよ」

「う、うん、最初から、そのつもりだから」

 

 その時、シスイが声を挙げた。「流れ星だぞ!」という言葉が耳に聞こえる前に、彼の興奮した息遣いに、イタチ、フウコ、イロミは同時に夜空を見上げていた。

 

 キラキラと光り瞬く星々。その隙間を、力強い白い一閃の光の軌跡が描かれる。軌跡はすぐさま消え始める儚さがありながらも、たしかに、何かを願えば叶うのではないかという想像が入り込む余地を疑わせるほどの、神々しさがあった。

 

 イロミは、気が付けば、両手を握り合わせていた。

 

 強く願うつもりはない。叶う訳がないことなのだから。それに自分には、育ての親と、また別の父親―――猿飛ヒルゼン―――がいる。だけど、握り合わせた両手は力強い。

 

 この一瞬だけ、この刹那だけ、この時だけ、願わせてほしい。もう、今後、一度だって我儘はいないから、望まないから。

 

 ―――私の、本当のお父さんと、お母さんに、会いたい…………。

 

 この日を境に、イロミは、本当の両親のことを考えることはしなくなった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 第二の試験会場を突き止めるのに、それほど時間はかからなかった。場所を突き止めたイロミはすぐさま死の森へと向かった。どうやって中に入ろうか、移動している時に考えていた。第二の試験の担当は、上司である、みたらしアンコだ。どんな尤もらしい嘘を並べ立てても、素直に通してくれるとは思えなかった。イロミは、死の森に入るために設けられている幾つかの出入り口を遠目で観察して、最も入りやすい場所から侵入しようと考えていた。

 

 しかし、驚いたことに、どういう訳か、全てではないのだが警備を担当する中忍及び特別上忍の姿が見当たらない箇所があった。イロミは幾つか、事情を予想する。

 敢えて姿を見せないで、侵入者を呼び込みやすくするための罠という可能性。

 何かしらの緊急事態が起きて、警備の者がどこかへ行っているという可能性。

 既に、第二の試験が終了している可能性。あるいは逆に、進行が極端に遅れている可能性。

 

 いくら列挙しても、はっきりとしたことは、現状では分からなかった。とにかく、イロミは素早く静かに、入口を潜り抜けた。

 

 途端に、全身を圧迫する強烈なチャクラの波動に襲われた。

 

「―――ッ!?」

 

 本能が、意味もなく呼吸を止めさせてしまうほどの寒気に、イロミの身体は一瞬だけ完全に膠着した。

 

 下忍レベルから逸脱し過ぎたチャクラの波動。突風のように通り過ぎて行ってからも、首筋に十分な寒気を残し、汗を滲みださせる。

 

 ―――今のは………なに……?

 

 一抹の恐怖は、しかし、ここに来るようにと言ってきた男の悍ましさに比べれば遥かに軽く、頭に思い浮かんだ疑問は、すぐさま一つの答えに接近する。

 

 合図。

 

 そう判断し、死の森を進んでいく。巨大な樹の枝を、彼女は独特の動きで突き進んでいった。樹の枝に着地し、再び跳躍するときは、足の裏に溜めたチャクラを風船のように小さく爆発させ。時には、掌に集中させたチャクラで枝に吸着し、チャクラを滑らかに流しながら進んでいく。

 

 チャクラコントロール。その一点において、イロミはどの忍よりも優れた技術を持っていた。それは、機能不全となってしまった両手が起因している。

 

 物を掴むことができない両手。クナイはおろか、筆の一本すら掴むことができない。どうしても忍として活動していくのに、それは壊滅的なペナルティである。それを克服する為に、彼女は、徹底してチャクラコントロールを磨いた。

 経絡系がまだ残っている、両手首から肘にかけてのチャクラコントロールを、特に。手首からチャクラを放出させ、動かない手を覆う。覆ったチャクラを利用して、物を吸着して掴んだりすることができるようにした。

 

 毎日毎日。

 

 今ではもう、何の苦も無くチャクラを動かせる上に、チャクラで手そのものを動かすことさえ可能だった。自分の手が、傀儡人形のようなものなのだと解釈すれば、容易である。その他に、チャクラを液体のように流動させる、風のように回転させる、手を覆ったチャクラでチャクラ糸を出し、チャクラ量の多寡で傀儡人形を操作する、そんなことが、簡単に出来てしまう。

 

 それを体現するかのように、樹を移り飛ぶイロミは水のように風のように、流動的な動線を描いて、突き進んでいった。

 

 意識が研ぎ澄まされていく。

 久々の感覚。

 特別上忍になってからというもの、雑務処理ばかりしかしていなかった。中忍の頃のような、実戦的な任務もなく、地道に努力だけを積み重ねるだけの日常。辺りに気を張りながら、脳内であらゆる状況を想定し、自身の数多の仕込みをどう展開するのか、それを考えるのは、久々だった。

 

 そしてイロミは、その場面に出会う。

 

 膝をついて苦しそうにしているサスケと、傍に駆け寄っているサクラ。二人に対峙するのは、気を失ったナルトの前に立つ、顔の皮膚が破けている男だった。

 

「てめえ……ナルトに何をしたッ!」

 

 サスケの声が聞こえると同時に、イロミは樹の影に姿を隠した。

 最初は、ただの下忍同士の争いなのだと思っていた。どうやら、第二の試験は順調に行われているようだ。しかし、状況は、見る限り最悪だと言ってもいいだろう。

 

 ナルトは気を失っているようで地面に倒れている上に、三人の中で最も実力のあるサスケが大きなダメージを受けている。同じ下忍相手ならば、サスケがそう簡単に負けることは無い筈だ。

 

 本当なら、今すぐにでも手助けをしてあげたい。だが今は、中忍選抜試験の最中。ルール違反は、サスケたちの失格を意味している。万が一、サスケたちが殺されそうになった時に手を貸そうと、彼らの危機が去るまでイロミは、樹の影で見守ろうと考え始めていた。

 

「安心なさい、殺しちゃいないわよ」

 

 男の―――大蛇丸の声に、首筋が薄ら寒くなった。

 聞き覚えのある、という表現すら生易しい。初めて聞いた時と何ら減少がない薄気味悪さ。頭に血が上る。

 

 あの男が、サスケとナルト、サクラの前に立っている。ねっとりとした殺意を隠すこともなく、与え続けている。

 

 考えるよりも早く、イロミは動いた。

 いや、考えながら動いていたと言った方が正しい。

 実戦の彼女の思考速度は常に、自身の行動を先行している。

 かつてよりもイロミの思考の精度は高くなり、イメージを実現する精密さも、両手の機能を失ったビハインド以上のものを獲得している。

 

 そして全ては、予想通りに事態は進んでいった。

 

 サスケたちを離脱させることに成功した―――サスケが大嘘狸のことを知っていることを想定して、煙幕を展開―――。

 大蛇丸をこちらに引き付けることに成功した―――そもそも彼が呼び出しているのだから―――。

 大嘘狸を使用して、彼の実力を一部だが観察できた―――大嘘狸は破壊されたが、イロミにとって痛手でも何でもない―――。

 

 後は……そう。

 

 友達の。

 親友の。

 フウコの。

 情報を聞き出すだけ。

 

「―――と、言う訳よ、イロミ。貴方は私が産んだようなものよ」

 

 大蛇丸の声は、冷気のように、樹の太い枝の上を重たくした。まだ中忍選抜試験は行われているはずなのに、辺りは不気味なくらいに静かで、だからこそなのか、十メートルほど彼と離れているはずなのに、まるで言葉が雨のように身体に浸透して寒気を覚えさせる。

 

 友達の情報を聞くはずだったのに、耳にしたのは、自分の生い立ちだった。

 

 多くの人の血と、肉と、内臓を混ぜ合わせ、繋ぎ合わせて生まれた。親なんてものはそもそもいなくて、元々、まともな人間ではないと。

 

 まるで、安い空想小説のような設定に、話しの初めはイロミも大蛇丸の言葉を強く否定していた。

 

「そんな馬鹿な話しを、私が信じると思いますか?

「訳の分からないことを言わないでください。

「早く、フウコちゃんの事を―――」

 

 しかし、自分が多くの人の命を糧に生み出された生物なのだということを裏付けられるような情報を大蛇丸は並べ立てた。それは、さもイロミの親であるかのように、多くを彼は知っていた。

 

「今まで一度も、病気に罹ったことはないでしょう? それは、貴方の細胞が異常な変化を遂げているからよ。おそらく、身体の害になるものは全部呑み込んで無力化しまうのね。貴方の両手が動かないのも、そのせいよ。複雑骨折でズタズタにされた神経を、細胞が食べてしまったのね。

「今は分からないけど、貴方の身体は不完全なのよ。経絡系が途切れていたり、筋肉と靭帯の連携が悪かったりね。アカデミーの頃、座学以外の成績は良くなかったでしょ? それがその証拠よ。どんなに意識しても、思う通りにできないことが沢山あったでしょう。

「よくここまで頑張ったわね。凄いわ。特別上忍にまでなるなんて。でも、それ以上は無理よ。木ノ葉がどうして貴方を上忍にしないと思う? 私と繋がりがあるからよ。戦争孤児として貴方は拾われたようだけど、本当は私の研究室で発見されたというのが真実なの。私と貴方の繋がりを、木ノ葉は疑っているということね」

 

 確実な説得力を持っている訳ではない。ただの、言葉だ。

 だけれど、どうしてだろう。

 どれも、一度は疑問に思ったことだった。

 

 どうして自分の両手は動かなくなったのだろうかと、医療忍術の知識を得た時に、複雑骨折程度で両手がまるっきり動かなくなるなんてことはありえないのに。

 自分の才能の無さに、アカデミーの頃はいつも不思議に思っていた。想像通りに、身体が動いてくれない。

 上忍になりたいと思ったのに、どうしてなれないのだろうか。

 どうして、どうして。

 

 不確かな疑問に、細々としながらも、解答を与えられてしまったことに、イロミは無意識の内に納得しかけてしまっていた。

 

 ましてや。

 

 面識のない男が突如、声をかけてきたという状況も手助けしてきていた。彼が自分を生んだ張本人だという言葉が、あながち間違っていないのではないか、と。

 

「貴方は……何者ですか?」

 

 その言葉を呟いたのに、深い考えはなかった。

 気が付けば、と言っても過言ではない。思考が混乱し、足を止めてしまっていた。大蛇丸は「ああ、忘れていたわ」と、皮膚が破けた顔の前で軽く腕を振るった。腕が通り過ぎると、そこにあったのは、白化粧をした男の顔だった。

 

「私は大蛇丸。もしかしたら、名前くらいは聞いたことあるんじゃないかしら?」

 

 頷きはしなかったものの、彼の名前と、そして彼が里で何をしたのかを、イロミは知っていた。多くの知識を蓄えてきた彼女が、その過程で、木ノ葉の三忍と呼ばれた彼を知ってしまうのは自然な流れである。

 

 禁術の開発や、行ってきた人体実験の数々。それがまた、大蛇丸が語った事柄に真実味を一つ帯びさせた。

 

 イロミは、一度固唾を飲み込む。

 

「どうして貴方は……木ノ葉に戻って来たんですか…………」

「ちょっと私にも事情があってね、少しやることがあるのよ。一言では言えないけれど、一つは、貴方を迎えに来たの」

「……私を?」

「今まで、一人にして悪かったわね」

 

 甘ったるい―――声だった。

 本当に彼がその声質だったのか、それとも自分の心がそう都合よく聞こえさせたのか。

 吐き出した息が、安堵を含んだみたいに、熱くなる。

 

「ずっと心配してたわ。貴方を置いて行ってしまったあの夜から、ずっとよ」

 

 大蛇丸が大股で一歩、近づいてくると、声がより身体に染み渡った。

 

「里で人体実験をしたのは、ただ、子供が欲しかっただけなの。自分の子供が。生まれた時から、ずっと戦争続きで、私に残ったものなんて何もなかった。だから、たとえ他の連中を犠牲にしてでも、何かを残したかったのよ。何度も何度も実験を繰り返して、ようやく生まれたのが、イロミ、貴方よ。貴方が生まれてくれた時、本当に、嬉しかったわ」

 

 一歩、一歩。

 言葉が入ってくる。

 身体に、心に。

 幼い頃に、少しだけ嫉妬した、家族という繋がりが、頬を舐める。

 

「それなのに、里から逃げる時に貴方を置いて行ってしまって……。生まれた時はまだ細胞が不安定で、もしかしたらもう死んでしまってるんじゃないかって、想像するだけで恐ろしかったわ。……正直に、白状するわ。もう、貴方が死んでると思っていたの。ごめんなさいね。だけど、彼女と―――うちはフウコと会った時に、教えてもらったわ。貴方が、無事に生きていて……それに、中忍になっているだなんて…………」

 

 やはり、声は、甘い。

 蜜のように。

 毒のように。

 強迫的なまでに甘くて、考えることが馬鹿らしく思えてしまうほどの密度。

 もはや目の前に立つ彼からは、敵意は感じ取れなかった。その雰囲気に緊張を緩めないように、イロミは必死に奥歯を噛みしめて、抗う。

 

「そんなの……嘘に決まってます…………ッ! だって、初めて会った時に、貴方は―――」

「ああでもしないと、来てくれなかったでしょ? 彼女の名前を出しただけじゃあ、ただの悪戯だって思われるかもしれないと思ったのよ。それに、貴方は特別上忍。音隠れの里の者として、あまり貴方と長く話せないじゃない。少し強引だったかもしれないけど、あれしか方法は無かったの。ごめんなさいね、怖い思いをさせちゃって」

「じゃあ……フウコちゃんが、壊れるかもしれないって…………」

「ククク。あれは嘘よ。貴方と、こうして会いたくて言ったのよ。全くの健康という訳ではないけど、問題は無いわ。だから、安心なさい」

 

 顎を指先で、撫でられる。

 くすぐったさが、耳の裏を通って、頭の中を駆け巡った。眠たくなるような、刺激だった。

 視界が、明滅する。

 

 流れ星だ。

 

 幼い頃に願った、本当の両親に会いたいという想い。

 目の前の男は、本当の、両親?

 血は、繋がっていない。

 だけど。

 血の繋がりだけが、家族では……ない。

 だって彼女は―――フウコが、そうだったから。

 

「愛してるわ、イロミ」

 

 大蛇丸は呟いた。

 

「私と一緒に来なさい。そうすれば、うちはフウコに会わせてあげる」

「……ッ!? フウコちゃんに、会えるんですか?」

「すぐに、という訳ではないけどね。言ったでしょ? 彼女とは同盟を組んでいたって。今は、少し事情があって会えないけど、あらかたの場所は分かっているの。見つけるのに、長い時間は必要ないわ。それに、貴方が会いたがってるって知ったら、きっと彼女から会いに来てくれるに違いない。だからイロミ、私と一緒に来なさい」

 

 撫でられていた顎から指が離れ、そのまま右手が差し伸べられる。掌を上にした手は、迷子の子供を見つけた親のそれだった。

 

 この手を取れば。

 

 会える。

 友達に。

 ずっとずっと、探し求めていた、友達の元に。

 

 イロミは決意する。右手をゆっくりと、大蛇丸の手へと。

 怯えるように腕が震えている。喜ぶように、肩が震えている。もはや、イロミは彼の手しか見ていなかった。イロミよりも身長の高い大蛇丸が、視界の上で、ニタリと嗤っていることにも気づかないまま。

 

 樹々が、枝葉が、木ノ葉が、ざわめく。

 風は吹いていないのに。

 止めろと、叫んでいるようだった。

 

 手が、手へと。

 

 そして、

 

 イロミは―――大蛇丸の腕を、掴んだ。

 

 正確には、手首だ。がっしりと逃がさないように、素早くチャクラ糸を巻き付ける。彼女の予想外の動きに、大蛇丸は息を小さく呑み込んでしまう。その音を、イロミは聞き逃さない。すかさず、足からチャクラを放出した。

 

「解ッ!」

 

 声とチャクラに呼応して、ちょうど、イロミが掴んだ手首の真下の樹の枝から、大量のガムテープが出現し、二人の腕に巻き付いた。すかさず、懐から一本の針を取り出す。濃い睡眠薬を塗ったものだ。

 

 ガムテープの上から、それを突き立てようと腕を振り下ろすのを、大蛇丸は許さない。

 

「ぐッ!?」

 

 彼は、口から吐き出した草薙の剣の刀身で自身の腕を切り落とすと、そのままイロミの頬を蹴り飛ばす。衝撃は身体を傾け、勢いのままに枝から落ちた。左手から離れる針と共に、空中に投げ出される。イロミは器用に別の近くの枝に手を吸い付け、着地した。

 

 口が鉄臭くなる。コロコロと、硬い物を感じた。吐き出すとそれは、粘質の強い血と、歯の破片だった。痺れるような痛みが、上顎から広がっていくが、涙一つ溢れようとはしない。先ほどの枝よりも低い位置から、イロミは大蛇丸を見上げた。

 

「全く、困った子ね。油断も隙も、あったものじゃないわ」

 

 大蛇丸の右腕から、ドバドバと血液が落ちている。出血を脳裏に浮かべてもおかしくないほどの量にもかかわらず、微かな落胆を浮かばせながらも余裕たっぷりの笑みは不気味だ。

 

「それは、私の台詞ですよ。まさか、何の躊躇もなく腕を切り落とすなんて、思ってもみませんでした。それに―――」

 

 右手にガムテープごと絡みついた、大蛇丸の右腕が突如、蠢く。切断面から、三匹の蛇が、イロミの首を絞め殺そうと伸びてくるのを―――左手から伸ばすチャクラ糸が、逆に絞殺した。

 

「こんな分かりやすい小細工をするなんて、思ってもみませんでした。伝説の三忍はもっと、圧倒的に強いと思っていたのに」

 

 蛇は力なく項垂れ、頭部を地面に落とす。

 イロミはガムテープを剥がし始める。もうそろそろで、仕込みが完成するだろう。なら、ここからが本番だと、自分に言い聞かせた。

 

 その空気を感じ取ったのか、大蛇丸も雰囲気を変える。右腕の切断口から、さも当たり前のように、右腕を生やした。

 

 イロミは、驚かない。

 

 たかが腕の一本や二本、新しく生えてきても、特に感想は無かった。

 

「どうして私の手を取らなかったのかしら?」

 

 と、大蛇丸は呟く。口からは既に、草薙の剣が抜き取られていて、新たに生えた右手が握っている。

 

「……フウコちゃんは、私に会いたいと思っていないはずです」

「あら? それは嘘じゃないわよ。本当に彼女、貴方に会いたいと言っていたわ」

「貴方とフウコちゃんが、どれくらい親密なのかは知りませんが、それだけはありえません」

 

 はっきりと言ってやる。それは、駆け引きなんてものが何もない、イロミの本心。

 

 フウコが会いたいと思っている。それはイロミが願っている可能性である。もう一度会った時は、こちらから伸ばした手を取ってほしいとは、流れ星が降り見える夜でなくとも願っていることだ。

 

 だけど、それを、誰かに言うなんてことは、ある訳がない。

 だって、彼女はそうしなかったからだ。

 

 兄であるうちはイタチにも。

 弟であるうちはサスケにも。

 友達の自分にも。

 

 言わなかったからだ。言わなかったから、だからこうして、自分は彼女を求めている。フウコが何かを隠そうとしていたのは、イロミは知っている。イタチから、シスイの言葉が書かれた写真を見せられたことがあるからだ。

 

 何かを隠すために、うちは一族を滅ぼした。

その過程で、自分やイタチに嘘を付いて、突き放して、里の外へ出て行った。

 

 だから、そう。

 

 その嘘を否定してしまうことを、たとえ親しくとも、あるいは全くの赤の他人であっても、彼女がするはずないと判断しての、決裂だった。

 

 頑固なイロミの言葉に、大蛇丸は鼻で一笑にふせる。

 くだらない、と思っているのだろう。事実、こちらを見下ろす彼の瞳は、侮蔑に満ち溢れていた。

 

「教えてください。フウコちゃんは今、どこにいるんですか? どこで、何をしようとしているんですか?」

「親を眠らそうとする子に、教えるわけないじゃない」

「何度も言いますけど、私は貴方の子供じゃありませんよ」

「作ったというのは、事実ではあるのよ?」

「それがどうしたんですか。子供が、必ずその親の子供という訳じゃありません」

「ええ、そうね。全くその通りね。世の中の親たちに言って聞かせたいものだわ。どんな子供だって、どんな親の子供ではないものね。遺伝子では繋がっていても、子供の人格は、どこかから勝手に生まれたものなんだもの。その人格さえも自分が生んだものだと思い込む親ほど、反吐が出そうになるものはないわ。貴方も同じよ、イロミ。私は、貴方のそんな人格を生んで育てたつもりはないわ」

「私も同じですよ。貴方に育てられた覚えも、貴方がいなくて寂しいと思ったことも、ありません。今の私が一番欲しいのは、フウコちゃんです」

 

 流れ星に願った、あの夜。

 親に会いたいと願った、あの夜の自分は、もういない。

 いるのは、ただ、あの夜の帰り道に、フウコと、イタチと、シスイと、四人で楽しく帰った自分である。

 

 あの頃の自分が、今の自分なんだ。

 

 頭上から、一匹の狸―――ダルマが、イロミの肩に降り立った。

 

「イロミよ~、準備は出来たぞ~」

 

 ありがとうございます、とイロミは、とても冷ややかな声で呟いた。彼女の目は、鋭く大蛇丸を見上げている。

 

 もはや、彼からフウコの情報を聞き出そうとは思わなかった。そんな丁寧な手段は必要ない。

 徹底的に痛めつけて、徹底的に吐き出させる。

 怒りがあった。

 フウコの情報を教えてくれないことへの怒りだけではない。

 彼が、ナルトとサスケを痛めつけていたことへの怒りだ。

 

 もし自分が、彼を見つけるのにあと少し遅れていたら。それを想像するだけで、イロミの怒りは一回り大きくなる。

 

 伝説の木ノ葉の三忍でも、畏怖などは抱かない。

 

「後は好きにするがよい」

 

 ダルマは、普段とはまるで違う重々しく言う。

 

「自然エネルギーのコントロールは、ワシがする。お前はいつもみたく、馬鹿みたいにがむしゃらにやるんじゃ。よいな?」

「はい、ダルマ様。お願いします」

「ククク、まるで私に勝てるような言い草ね。ゴミの分際で、あまりはしゃがないで頂戴。耳障りだわ」

 

 ゴミという評価に、けれど、イロミは悲観することも怒ることも無かった。自身が凡人で、才能がなくて―――そして、ただの人間ではないことは、知っているから。むしろイロミは、大蛇丸の言葉に「おい、小僧」と言葉を返したダルマに、驚いた。ダルマの表情は、今まで見てきた中で、最も苛立ちを生み出しているものだった。

 

「言葉を慎め。イロミへの侮辱は、ワシら夢迷原に巣くう狸への侮辱だと知れ」

「あら、【夢幻の秘境】と呼ばれたところの狸だったの。恐ろしいものね……一体、どんな寝技(、、)を使って、そんな才能の無いゴミを化かしたのかしら? さっさと原っぱに戻って、腹太鼓でも鳴らしてなさいな」

「たかが蛇を使役しただけで、いい気になるでないぞ。どれほど皮を脱いでも、所詮は蛇。手も無く足も無く、己が尾を食らうことしか知らぬ獣など、地面に這いつくばりみっともなく舌を伸ばしておることが真諦じゃ。千に変わり、万に化け、那由他を網羅するワシら狸の足元にも及ばぬわ、痴れ者め。こやつ―――イロミは、ワシら狸の千番目の弟子にして無形の仙女……ゴミなどと、間違っても口にする出ない」

「―――大蛇丸さん、最後にもう一度、訊きます」

 

 と、イロミは二人の会話に割って入る。

 

「フウコちゃんの事を、教えてください」

「言うわけないでしょ?」

「……もう、貴方は私の胃の中にいます」

 

 その言葉に合わせて、イロミの背負っていた巻物が、鮮やかな緑色の木の葉の群れへと姿を変えた。

 いや、元に戻ったと言った方が、正しいかもしれない。

 大蛇丸の前に姿を現す前に、予め、巻物はダルマに持たせていた。背負っていたのは、ダルマの仙術で化かしていた偽物である。

 

 本物は既に、辺りに張り巡らされていた。大蛇丸には、目視することは許されない。大量の【封】の文字が書かれた巻物の紙は、ダルマによって化かされ、樹々に、枝葉に、時には空中に、同化しているからだ。イロミがついさっき展開したガムテープも、展開した巻物の一端を動かしたに過ぎない。

 

 仕込みは、完成した。

 

 ダルマが、液体に姿を変え、イロミの体内へと侵入する。戦闘で動きながら仙人モードを維持することができない部分を担う為だ。

 

 イロミの姿が変わる。

 頬に狸のような髭が生える。口回りに痣は出来なくなったが、その代わりに、耳が黒く変色した。しかし、身体に痛みは無い。

 

愚忍仙術(ぐにんせんじゅつ)八百万(やおよろず)の狸合戦」

 

 次の瞬間。

 大蛇丸は吹き飛んだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 一瞬、大蛇丸は何が起きたのか理解できなかった。

 

 前兆は無かった。油断をしていた訳でもない。突然、腹部を強烈に押しつぶそうとする衝撃が訪れた。全く予知できていなかった攻撃に大蛇丸の身体は抵抗なく後方へ吹き飛び、少し離れた背後の樹に叩き付けられる。

 

「くッ……!?」

 

 幹の表面を砕き、背を埋められてしまった。腹部と背中を中心に広がる痛みが走るが、苦悶を堪能し、衝撃の原因を突き止めようとする暇をイロミは与えてくれはしない。

 

「解」

 

 やや上の空中から、五十を超える槍の群れが襲い掛かる。身体を蛇のように細くし、素早く回避するが、続けざまに襲い掛かってくる、忍具の雨。面を制圧する攻撃ではあるものの、蛇のように躱し続けながら、大蛇丸は忍具の出所を観察する。

 

 そこには、何も無いように思えた。空中から無造作に現れる忍具たち。不可思議な光景だが、大蛇丸の頭脳は粗方の当たりを付けた。

 

 イロミが背負っていたはずの巻物。それが、展開されている。胃の中にいる、というイロミの呟きは、それを示しているのだ。イロミの巻物には多くの技術と道具が収納されていることは、カブトが収集した情報から知っている。それが、さも結界かのように展開されているのだろう。

 目に見えないのはおそらく……。

 

 そこまで考えて、大蛇丸は異変気付く。

 

 イロミ。彼女の姿が見えない。確かに、忍具の雨で彼女の姿が見え辛くなっていたが、完全に見失ってしまうほどの大きな動きはしていなかったはず。視線の移動だけで辺りを探るが、不意な方向からチャクラ糸が首に巻き付き、上空へと引っ張られる。

 

 ―――後ろ……!?

 

 首の血管を締め付けるなんて生易しいものじゃない。首の骨をねじ折る、あるいは首を脊髄ごと身体から引き抜くかのような力だ。チャクラ糸は大蛇丸の背後へと回っており、上の枝を滑車に利用している。しかし、イロミの姿は見えない。

 首吊りのまま身体は上昇し続け、そして、

 

「解」

 

 どこからか、イロミの声。もはやその声は、殺意の玩具箱をひっくり返す死神の声のように聞こえてしまう。滑車代わりの枝から、硫酸を垂らす太い針の塊が。大蛇丸の身体は肉を貫かれ、硫酸によって焦がされる生臭い煙を漂わせ―――その死体の中から、大蛇丸は五体満足のまま這い出てくる。

 

「忍法・亀竹林(かめちくりん)

 

 イロミは手を止めはしない。どこからか口寄せした一万本の鋭い竹が地面から生え、やがて樹にも生え、大蛇丸の場所へと、生える場所を伸ばした。左腕の袖を捲り、草薙の剣を握る右親指の皮膚を噛み破る。溢れた血を、左腕に描かれている模様の上に滑らせる。

 

 剣を口で一時的に持ち―――印。

 

「口寄せッ!」

 

 出現したのは、巨大な蛇。サスケに嗾けた蛇よりも、さらに三回りほども大きな大蛇。背に乗り、安全地帯を確保する。大蛇の硬い皮膚は竹の先端を悠々とへし折り、獰猛な瞳で辺りを探り始める。

 

 蛇には、周りの温度を感知する器官が眼の下に備えられている。思惑通り、大蛇はイロミの体温を感知し、プレスするかのように地面へと身体を投げ出した。

 

 落下する大蛇の頭上から、大蛇丸は確かに見た。

 

 何もないはずの地面の上に、五本のチャクラ糸が出現するのを。

 いや、もはやそれは糸とは呼べない代物だ。五本のチャクラは弾丸のような速度で放たれ、容赦なく大蛇の皮膚を貫いた。仙術チャクラで練られた糸は横薙ぎに振るわれ、いとも容易く大蛇の肉体を六等分に切り分ける。鋭い鋼線のようなチャクラ。大蛇の大量の血が空中を舞い始める。

 

 風が吹いた。大蛇丸が、口から吐き出した、風遁系の術である。血液は広く薄く展開され、地面を覆い尽くすと、ある一部分だけが、立体的な形を表した。

 

 ―――なるほど、透明になる術だったわけね。

 

 血を頭からもろに被ったイロミの姿だった。肌の色も髪の色も服の色もどれもこれもが赤一色に染まっている。染まっていない部分もあるにはあるが、その部分はガラスのように向こう側が透けていた。

 

 ―――所詮は子供騙しねッ!

 

 イロミは被った血のせいで一時的に視界が塞がれているようだ。死んだ大蛇の頭部を蹴り、いち早く地面へ。着地すると同時に、一歩踏み込み、そして……。

 

「…………ッ!?」

 

 驚愕の表情を浮かべるイロミの腹部を剣は―――突き刺しはしなかった。

 まるで空気に通しただけの、虚しい感触。イロミの腹部と接触しているはずの剣から、大量のウジ虫が姿を現し始めた。

 

 イロミは、演技した驚きの表情を解き、口端を吊り上げる。

 

「化かされましたね?」

 

 千に変わり、

 万を化け、

 那由他を網羅する、

 狸の千番目の弟子。

 仙女、イロミ。

 仙人モードの彼女の肉体には、原形などという不自由は存在しない。

 

 肉体を透明にさせることも、

 皮膚と筋肉と血と内臓をウジ虫に変化させ自由に動かすことも、

 ましてや、

 右腕を大蛇に変化させることなんて、造作もない。

 

 大蛇は大蛇丸の身体に巻き付く。のみならず、彼女の下半身全てが、鼠、サメ、トラ、犬、鳥、兎、あるいは分厚い蜘蛛の糸になり、大蛇丸を、今度こそ逃がさんと絡みついた。さらには、辺りの結界から千本、クナイ、鎌が大蛇丸の両足に深々と刺さり、靭帯を切断する。

 

「クッ……!?」

「貴方の変わった変わり身の術は厄介ですけど、ここまで動きを封じられたら逃げられませんよ?」

 

 上半身だけとなったイロミの背中から、鳥の羽が生え、宙を舞わせる。

 

「そして次の攻撃は、絶対に受け流すことはできません」

 

 イロミがチャクラ糸で、張り巡らせた巻物の一部を破って引き寄せる。紙は、筒状に丸められる。内側に溢れんばかりと印字される【封】の文字が、一つ残らず大蛇丸を睨み付けた。

 

「愚忍仙術・音塊情歌(おんかいじょうか)

 

 放たれた音の塊はもはや音を飛び越し、ただの弾丸となって身体全体を圧迫して、大蛇丸そのものを弾丸へと化けさせた。

 

 身体は地面を何度も跳ね、樹々を貫通し薙ぎ倒し、一筋の巨大な跡を死の森に刻み付ける。

 

「まだです。まだ私の【仕込み】は終わりません」

 

 イロミは攻撃を休ませない。再びチャクラ糸で、数百メートルまで飛んでいった大蛇丸の身体を掴むと、乱暴なまでの腕力で引き寄せ、上空へ打ち上げる。

 

「解ッ!」

 

 未だ身体にはイロミの下半身が化けた諸々が絡みついている。そこから放出されるチャクラが、空中の巻物に触れ、数十枚の起爆符を出現させ、爆炎で抱擁する。その外側からさらに、忍具の弾幕が。

 

 肉が千切れる。眼球が焦げる。上も下も、何も分からない。

 

 それでも大蛇丸は、笑みを浮かべていた。

 

 まるでダメージなど受けていないかのように。

 炎の中、忍具の弾幕の中。

 確かに笑っていた。

 

 ―――ククク、まさか、ここまで強くなっているなんてねえ……。

 

 皮肉なことかもしれない。あるいは、親子だからこそなのか。

 

 イロミが巻物に多くの【仕込み】をしているように、大蛇丸もまた、自身の身体に大量の【仕込み】をしていた。

 それも、イロミがそこらの忍具や常識的な力を集約させているのとは対称的に、大蛇丸は、彼の才覚が作り上げた稀有な研究成果ばかりを。

 

 大蛇丸にとって、単純な外部の攻撃は、殆ど意味をなしてはいなかった。

 蛇のような肉体の頑丈さを持ちながらも、蛇の巣のように多くの命を孕んでいる。

 不老不死を追求し続けた彼の肉体はもはや、不条理を闊歩することを可能にしていた。それはかつて、滝隠れの里でフウコと対峙した時よりも、さらに異常な肉体構成。いやむしろ、彼女と対峙したからこそ、彼は自身の肉体の改造を多く繰り返してきたと言っても過言ではない。

 

 ―――嬉しいわ、イロミ。ただのゴミだと思っていたけれど、どうやら、これは予想以上に……使えそうねえ…………。

 

 身体が地面に叩き付けられる。「解ッ!」とイロミの声と共に、上空の枝葉から、巨大な岩石が容赦なく肉体を押しつぶす。血肉が岩石の下から弾けてはみ出ながらも、それでも大蛇丸は自身の興奮が萎えることがないことを自覚した。

 

 ―――貴方に会ってみて、良かったわ。ククク。

 

 カブトにも知らせていない、イロミとの接触。つまりは、大蛇丸は独断で、イロミと会っている。

 

 なぜ、そうしたのか。

 

 彼女が我が子だからという理由―――な訳ではない。

 

 ナルトと一緒である。

 そう。

 彼女の実力を確認する為だった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 岩石が地面に落ちた衝撃で巻き上がった砂煙の中を、イロミはじっと見つめていた。

 

 相手に一切の反撃チャンスを与えない数の力。そして、仙術による奇襲。徹底的なまでに攻撃を仕掛け、普通なら相手が死んでいてもおかしくはないのだが、イロミは決して集中力を切らしはしなかった。

 

 相手は三忍の一人。恐怖ではなく、決して油断はしないという固い決意の元に支えられている集中力である。

 

『イロミよ、もはや樹脂も僅かじゃ。逃げることも念頭に入れよ』

 

 ダルマの声が脳内に響き渡る。はい、ダルマ様、とイロミは口の中で返事をする。

 

 仙人モードを維持するのには、ダルマの協力が必要不可欠だった。しかも、夢迷原に自生する特殊な樹の樹脂をダルマが自身の身体に塗らなければならないという条件付きである。イロミの細胞がどんな些細なものも呑み込む暴飲暴食の産物である以上、同化するダルマ自身がイロミに取り込まれないようにするための、いわば保湿液のようなもの。

 

 それがもう間もなく、食いつくされてしまう。ダルマもイロミも、細胞の性質について詳しく知らないものの、制限時間が設けられているのは分かっていたのだ。

 

 身体にも、徐々に痛みが広がり始めている。もはや猶予はない。

 

 砂煙が晴れる。チャクラ糸は、依然として岩石の下の大蛇丸に繋がったまま。下半身は、既に小さなハエの集まりとなって、イロミへと繋がり、元の姿に戻っていた。

 

 ―――……生きてる。

 

 イロミはそう直感する。仙人モードによる感知能力の向上が伝えてきたのだ。

 

 大蛇丸の気配は地面を伝い、真下へ。羽を羽ばたかせ、大きく上空へ。遅れて、大蛇丸の頭が出現した。

 

 轆轤首を彷彿とさせる、異常なまでに伸びた首。毒々しい歯をギラギラと見せながら、追いかけてくる。

 

「ゴミの分際で、私に勝とうなんて驕るにも程があるわッ! イロミッ!」

「そんな姿で言っても、説得力なんてありませんよ」

 

 チャクラ糸をすぐ近くの樹に接続し、チャクラを送る。

 

「解ッ!」

 

 空気の小さな弾丸が、大蛇丸の首を打ち抜く。初撃に当てたのと同じ、予め巻物に封印していたものだ。今回のは最初のよりも小さいものの、彼の首を引き千切るのには十分だった。

 

「カァアッ!」

 

 千切られた口があまりにも大きく開き、中から、また同じ姿のそれが放出される。

 

 芸がない、とイロミは心の中で呆れてから、気付く。吐き出された彼に、まるで力を感じなかった。貪欲な笑みを浮かべながらも、こちらに近づき剣を振りかぶる彼の動作はどこか、緩慢だった。

 

 チャクラの枯渇。

 

 その可能性を、イロミは推測した。

 いやしかし、と別の可能性も模索する。罠かもしれない。だが、たとえ影分身の術を使用したとしても、これほどまでにチャクラを感じ取れないものだろうかとも思う。感知できる彼のチャクラは、本当に、小さかった。

 

 ちらりと、先ほど千切った彼の首を見る。ドロドロと地面に溶け始めている。アレは、偽物。ならば目の前の彼は本物なのだろうか?

 

「死になさい、イロミィイイッ!」

 

 絶叫にも近い声で剣を振るってくる。

 やはり、緩慢な動作。

 カウンターを入れるのに困難などなく、右腕で思い切り彼の顔面を殴り飛ばすと、何事も無く、地面へと落ちていく。

 

 盛大に地面に叩き付けられた彼は、仰向けになったまま動こうとしないのを、イロミは着地した樹の枝から観察した。

 

「ダルマ様……あれは、本物ですか?」

『お前は、他に動いてる者の姿を感知できるか?』

 

 耳を澄まし、鼻を利かせ、肌で風の流れを読み取る。

 

「……いえ、他に動いている者は、近くにいるようには感じ取れません」

『ワシもじゃ』

 

 ダルマは続ける。

 

『それに、アレは溶け始めたりなどはしておらぬ。どうやら、本物のようじゃな。……すまんがイロミよ、限界じゃ』

 

 その言葉と同時に、ダルマはイロミの身体が離脱した。彼女の頭の上にダルマが狸の姿で現れると、背中の羽も、頬の髭や耳の変色も収まった。

 

「もはや勝負はついたの~。まだ仙人モードは~、持続させようとすれば持続できるが~、これからあの愚か者を運ばにゃあならんからの~。お前の身体も~、限界が近いじゃろ~?」

「そんな……私はまだ…………」

「血が出ておるぞ~」

「え?」

 

 言われて、何となしに鼻をなぞってみると、血が零れていた。喉の奥も、なんだか血生臭い感触で包まれている。グローブの中の指先は、爪の間から出血しているのか、湿っぽかった。

 

「とりあえずは~、どうするんじゃ~?」

 

 イロミは鼻を啜ってから、慎重に応える。地面に倒れているアレが、どうやら本物のようだとイロミは判断した。

 

「ダルマ様は、いつでも私と同化できるようにお願いします。不意を突かれてもいいように」

 

 万が一、アレが偽物であったとして、不意を突かれて、たとえば、首を切断されたり心臓を射抜かれたりしても、即座にダルマと同化すれば、身体を有象無象に変化させて元に戻すことは可能である。頭を吹き飛ばされれば別だが、それほど大きな隙は与えるつもりはない。どんな攻撃が来たところで、ダルマがすぐ近くにいれば、何も問題は無いと判断し、下に降りる。

 

 イロミは彼に近づき、見下ろす。

 生気のない瞳が、ガランとイロミを見つめていた。

 

「これから、貴方を捕縛して、山中一族の方たちに尋問してもらいます。貴方が見てきたことは全て、吐き出させてもらいますので、覚悟してください」

「……どう、して…………」

「それと、音隠れの下忍の子たちも調査します。貴方が大蛇丸だと分かった以上、見過ごすわけにはいきませんので」

「……………どうして…………だ…………………………」

「……何がですか? 私は、貴方の子供ではありませんよ」

「どうして…………なんだ……、どうして………………、どうして、俺を、

 

 

 

 大蛇丸様

 

 

 

 俺を、見捨てたのですか………?」

 

 彼―――ドス・キヌタが絶命すると同時に、被せられていた大蛇丸の皮膚が、溶けだした。

 

「「!?」」

 

 イロミとダルマは即座に同化しようとした。第三者を使った罠だと、即座に判断したのだ。

 

 しかし、二人の行動よりも早く、足元から顔を出現させた大蛇丸の歯は―――イロミの胸を噛んだ。

 

「私の勝ちね、イロミ。やはりゴミは、ゴミだったようね」

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 胸が、熱い……。

 

 燃えているのかのように、熱かった。熱は瞬く間に全身に伝播して、すぐに、身体中が痛くなった。指先から脊髄にかけて、細胞単位で、激痛が。

 

「あぁあああぁああぁあああああああああッ!」

「イロミ、しっかり―――ッ!?」

「もう、何もかも遅いわよ、貴方たちは」

 

 地面の上で悶えるイロミの頭を、五体満足な大蛇丸は上から乱暴に抑えつける。途端、頭の下の地面に文字が浮かび上がった。イロミに同化しようとし、しかし全く異なるチャクラの奔流によって同化することが出来ずに地面に降り立ってしまったダルマは、自身の身体を包み込む彼女のチャクラが抜け出したことを感じ取る。

 

「小僧、口寄せを―――」

「口寄せの契約を強制的に解除する術の一つや二つ、私が知らないとでも思っていたのかしら?」

「イロミよ、すぐにこやつから」

 

 しかし、ダルマの言葉が最後までイロミの耳に届くことはなかった。無常にも、ダルマは夢迷原へと戻されてしまうが、それに気付けるほど、イロミには余裕が無かった。

 

 絶え間なく身体中を蝕む痛みに、涎が零れてしまうことさえ憚らないほどに悶え苦しんでいる。

 

 その様子を大蛇丸は、楽しむように見下ろしていた。

 

「あらあら、可哀想に。ククク、本当なら、すぐに気を失うか、それとも死ぬかのどちらかなのに、貴方の細胞はそれを許さないようねえ。でも、それは素晴らしいことなのよ? この世で貴方だけが、呪印(じゅいん)に対抗しうる遺伝子を持っているのだから。ほら、もっと力を入れなさいな」

「ぐぅう……あぁあッ! わだじは…………まだ…………」

「まあ私も、あまり時間は無いのだけれどね。もうそろそろ、暗部が私を探しに来る頃合い。まだ少し、貴方の経過を観察していたのだけど……まあ、生きているか死んでいるかだけ分かれば十分だわ」

 

 首に、何かが刺さる痛みがした。注射器である。大蛇丸が栓を引くと、イロミの赤い血液が、注射器の中を満たしていった。

 

「貴方の血液は有意義に使わせてもらうわ。さて、じゃあ、本題に入りましょうか」

 

 注射器を懐に戻すと、そのまま、小瓶を取り出す。中には、細かい、黒い丸薬が犇めいているのが見える。激痛の最中、直感する。

 

 あの丸薬は、駄目だ。

 呑まされてはいけない、悪魔の丸薬だと。

 身体を俯かせ、震える両腕を伸ばして地面を掴もうとするが……両手が、動かない。チャクラを使って動かそうとするが、激痛のせいで、ままならない……。

 

「察しの良い子ね。だけど、逃がしたりはしないわよ。そうねえ、また何かやられたら面倒だから……」

 

 前髪を引っ張られ無理やり上を向かされる。背骨が軋んだ。目の前に、恐ろしい研究者としての獰猛な瞳が、爛々と。

 

「ついでだから、貴方の両眼、貰ってあげるわ。どこかの誰かから入れてもらったみたいだけど、もしかしたら、その眼が特別で、誰にでも適用されるものだったかもしれないものね。貴方の細胞の観察と同時に、これも解析させてもらうわ」

 

 大蛇丸の言葉と同時に、彼の指が、瞳と瞼の間に滑り込む。

 

 ミチミチミチミチミチ。

 

 湿っぽく、繊維ばった音は、イロミの絶叫と共に、死の森を駆け回った。

 

 彼から貰った眼が。

 綺麗な色を見る為の、大好きな友達の顔を見る為の、眼が。

 奪われた。

 あっさりと。

 

 気を失いたい気を手放したい今だけは眠りたい。

 

 だが、呪印の痛みが、それを許さない。

 衰弱したイロミの息遣いは、細かった。

 

「あぁあ…………ぁ、…………」

「この丸薬は、醒心丸(せいしんがん)というものでね、貴方に打ち込んだ呪印のレベルを上げる為のものなのよ」

「………ぅ、………ぁ………」

「丁寧な手順で飲ませないと、あっという間に死んでしまうのだけど、貴方なら死なないから安心なさい。だって、私が作った子なのだもの。信じているわ。ククク」

 

 口が開けられる。

 いとも簡単に。

 抵抗ができない。

 真っ暗闇。

 舌の上を、ぬるぬるとした、まるで蛇のようなものが通り抜けていく。それは、大蛇丸が生み出した、真っ白な蛇だった。丸薬を加えた蛇は、舌を通り、喉を叩き、胃の中へと。

 

 もし生きていたら、今度は、私の言うことを聞いて頂戴ね、イロミ。

 

 胸に打ち込まれた呪印は、イロミの全身を覆った。

 紫色に変色していく身体。

 何も見えない。

 何も感じない。

 真っ暗闇の彼方に、イロミは意識を投げ出した。

 

 

 

 みたらしアンコがイロミを発見したのは、その一刻ほど後の事だった。

 




 あけましておめでとうございます。

 次話は1月25日に投稿します。

 ※追記です。

 今回、15日以内に投稿できていませんでした。新年初投稿から誠に申し訳ございません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二の試験が終わって……

 イタチは、木ノ葉病院の正面玄関を通った。未だ涙を溢れさせ、苛立ちを露わに大股で前を歩くフウについていく。イタチの後ろには綱手と、トントンを抱えたシズネがいるものの、自来也の姿は無い。

 

 イロミが危篤状態。

 

 それを聞いたイタチは、綱手を里に連れてきたことをヒルゼンに報告することを放棄して、真っ先に彼女の元へと向かうことにした。フウからは正確な情報は聞き出せず―――そもそも、フウ自身も、イロミがどうしてそういった状態になったのか知らない―――とにかく彼女の容態が気掛かりだった。

 綱手とシズネには、イロミに万が一の事があった時を想定して同行を頼んだ。二人とも、特に綱手はどういう訳か躊躇い気味だったが、強引に同行してもらっている。シズネが「綱手様……様子を見るだけでも…………」と控えめに背中を押してくれたのも、綱手が来てくれた要因かもしれない。

 

 病院の奥側へと進んでいく。受付前とは異なって、光量は少なく、人の声は聞こえてこない。四人の足音がただ、リノリウムの床を叩く音だけ。あまり好きな音ではなかった。

 

 今回で、二度目だ。集中治療室に―――いや、瀕死のイロミの元へ、病院に赴くのは。【うちは一族抹殺事件】と同じくらいの寒気と、そしてそれ以上の疑問が身体を引っ張っていた。

 

 ―――何故だ……。何故、イロミちゃんが…………。

 

 イロミは特別上忍とは着くものの、主な仕事は雑務処理だ。ましてや、中忍選抜試験が行われている最中。彼女が何かしら、試験の裏方として仕事をしているはずである。身に危険が及ぶ場面に遭遇することすら無いはずだ。いくら考えても、破片すら分からない。その不明瞭さがより、寒気を強くした。

 

 空が……入れ替わったのか。

 

 フウコの言葉。妹の言葉。

 空気が似ていたからだ。

 

 シスイが死んだことを知らされた夜と同じ。

 突然、無くなっていく。

 知っている人の命が。

 

 命の連結はイタチの中では強固で、イロミの状態に不安を抱きながら、同時に、サスケやナルト……いや、他の知っている人たちが無事であるかを確かめたがる自分がいる。不安に駆り立てられ、歩く速度が速まりフウの横を歩く形に成っていた。

 

 通路の景色が変わった。壁だけだった通路は、やがて、等間隔を空けて嵌め込みの広く大きな窓が並ぶ姿に。殆どの窓は内側の明かりが消えているせいで黒く光っていたが、その中に一つだけ、残酷な程に清潔な白い光を零す窓があった。

 

 隣を歩くフウが大きく息を呑み込む音が微かに聞こえてくる。そこが、イロミのいる部屋なのだと、すぐに分かってしまった。

 

 窓の前には、一人の男性が立っていた。

 

 白く長い衣を着て、頭には赤い笠を乗せている。イタチと―――そして、綱手は同時に息を呑んだ。猿飛ヒルゼンはゆっくりと、その重々しい表情をこちらに向けた。

 

「イタチとフウか…………それに―――」

 

 ヒルゼンは目だけで、イタチの後ろに立つ綱手を見ると、身体ごと正面を彼女に向けた。

 

「久しぶりじゃな、綱手よ。よく、里に戻ってきてくれたの」

「里に戻ったつもりはない。本当なら、顔を合わせるつもりもなかったよ」

「火影様!」

 

 溝の深さを覗かせる重たい二人の間に、フウは感情的な声が割って入る。彼女はヒルゼンの胸倉に掴みかかった。

 

「イロミちゃんの容態はどうなんすか?! 昨日、医者の人が、今日が峠だってッ!」

「……安心せよ、フウ。イロミの容態は、今し方、安定したところじゃ」

「え……ほ、本当ですか? う、嘘じゃないっすよねッ!?」

 

 ヒルゼンが深く、ゆっくりと頷くと、フウは安心したように大きく息を吐き出した。「よかった……」と消え入りそうな声を出しながら、彼女は床に膝を付いた。彼女の震える褐色の肩と同じ安心をイタチは抱くが、表情には出さない。

 

 一瞬だけ、ヒルゼンは視線を送ってきた。続けて、綱手へ。アイコンタクトに、イタチは小さく顎を引いた。

 

「フウよ、これからワシとイタチらはイロミの正確な状態を、担当医に聞きに行く。お主はここで、イロミの傍にいてやっておくれ」

「え? フウも聞くっす!」

「気持ちは分かるが、我慢するのじゃ。専門的な話しになるからの。……それにの、直にアンコがここに来る手筈じゃ」

「……アンコさんが?」

「イロミの容態を見にの。ワシもまだ、どうしてイロミが、ここまで大きな負傷を負ったのか知らん。アンコは、その報告に来るのだ。すれ違いになるかもしれん。その際に、お主にアンコから情報を聞いてほしいのじゃ。……もしかしたら、犯人が分かるかもしれん」

 

 犯人。その言葉に、フウはゴシゴシと腕で目から零れた涙を拭い立ち上がる。

 

「―――分かったっす! 任せてください!」

「……患者の容態が安定しているのなら、私は帰らせてもらうよ」

 

 乱暴に踵を返した綱手に、シズネは困ったように「綱手様……」と呟くのが聞こえてきた。イロミに万が一の事があった時、彼女の医療忍術のスキルを頼りにしていた為、確かに綱手がここにいる理由は無くなってはいる。ヒルゼンと会話をする必要はない、という条件付きで里に戻ってきてもらった手前、無理に引き留めるつもりはなかったが、ヒルゼンの様子からはどこか、逼迫した何かを感じ取れてしまう。綱手が必要なのではないか、そう思えてしまうほどに。

 

 しかしヒルゼンは綱手を引き留めることなく、彼女は追いかけるシズネと共に暗い通路を戻って行ってしまった。

 

 イタチは、ヒルゼンに招かれ、奥の部屋に入った。おそらくは、患者の状態を親類縁者に医者が容態などを説明する部屋なのだろう。室内は清潔な白が九割を占め、中央には長テーブルが二つ、距離を離して対面に並んでいた。その奥にはホワイトボードが。だが、医者が室内で待っていたのではなく、いたのは、みたらしアンコだった。

 

 アンコはヒルゼンを見ると「火影様……」と、消え入りそうな声で椅子から立ち上がろうとするが、ヒルゼンは片手を小さく上げてそれを制した。彼女は、しかし、立ち上がり、イタチに頭を下げた。

 

「……今回の事は…………すまなかった。私の管理ミスが……招いたことだ」

「……状況がまだ、俺は理解できていません。頭を下げないでください」

「イロミは、第二試験会場の死の森で発見された。私が担当した試験会場だったんだ。責任は、私にある」

「落ち着いてください。いったい、何があったんですか? 今はまだ、中忍選抜試験が行われている最中のはずです。里そのものにも異常は見られないのに、なぜ、彼女が…………」

「イタチよ、まずは席に着くのじゃ。今回の事は、少し、複雑だ。長くなるじゃろう。アンコも、頭を上げよ。お主に責任は無い」

 

 三人はテーブルに着いた。ヒルゼンとアンコは並んで座り、その対面にイタチは座った。氷が溶けるのをじっと眺めるような、とてつもない程に長く感じる数秒の沈黙の後に、イタチは尋ねた。

 

「先ほど、イロミちゃんの容態は安定したと仰りましたが、具体的には」

「安定は……しておる。じゃが回復までには、相当の時間を要すると、医師は診断しておる上に、普段の生活に戻るのは難しいとのことじゃ。……イロミは、両眼を抉り取られておった」

 

 膝の上に置いている両手に力が籠ってしまった。だが、表情には出さない。ヒルゼンやアンコが悪いという訳ではないのだから。

 

 ヒルゼンは続ける。

 

「医師の判断では、眼を指で強引に引き抜かれたような乱雑な痕跡があったようじゃ。現時点で、眼の移植手術を考えておるが……。イロミの体質について、お主は知っておるか?」

「はい。彼女から聞いたことがあります。薬物毒物、細胞に介するチャクラの影響を受け難い体質なのだと」

 

 イロミが退院した時に聞いた時を思い出す。機能不全を起こした両手をチャクラでプラプラと不安定に動かしながら、彼女は笑った。

 

『私の身体って……なんか、変みたいなんだ。薬とか、毒とか、あまり効果がないみたいなの。だから、医療忍者の方も、処置に時間がかかったんだって。あはは、まあ、これが私の初めての才能ってことなのかな?』

 

 嬉しそうで、困惑しているようで。曖昧な笑顔を浮かべていた友人の姿は、どこか無理に、両手が動かないという現実を押しのけようとしているように見えてしまい、その時はただ、彼女に同調するように笑顔で返すことが出来た。

 

 だが、今回は、どうだろうか。

 

 イロミはまた、笑うのだろうか。現実を否定することが、出来るだろうか。たとえ彼女が笑ったとしても、自分は笑い返せるだろうか。適切な言葉を、投げかける事が出来るだろうか。両手はチャクラで動かすことが出来るが、眼を生やしたりすることは、努力では実現できない。

 

「では、移植手術には、準備が必要だということですか?」

 

 頭に浮かぶ悲しい未来を一度、置き去りにする。

 

 ただでさえ眼球の移植には、多くのリスクが付きまとう。戦時中では、応急処置として死んだばかりの遺体から抜き取った眼球を医療忍術で移植させるということはあったが、本当に一時的なものだ。その後は拒絶反応で、傷口が悪化するのがほとんど。

 ましてや、イロミの体質は普通のそれとは大きく異なっている。検査や、準備というのが必要のはずだ。医療忍術の専門的な部分は分からないが、下手をしたら半年ほどの時間は要するかもしれない。

 

 しかし、ヒルゼンは首を横に振った。

 

「お主の言うように、イロミの体質は変わっておる。これまで多くの者を治療してきた医療忍者でさえ、戸惑ってしまうほどにの。故に、イロミの体質―――細胞と言った方がよいの―――に関しては、過去に入念な検査を行っておった。じゃが、今となっては、その検査データも意味のないものとなってしまっておるのじゃ。……イロミの細胞は、大蛇丸の呪印を受け入れてしまった」

 

 思考が全く警戒していなかった方向からの名前だった。

 

「大蛇丸? 伝説の三忍と呼ばれた……」

「あやつが今、この里におる。イロミを瀕死の状態に追いやったのは、あやつじゃ」

「なぜ、彼が?」

 

 それは、なぜ、大蛇丸がイロミを襲ったのかということに重心を置いた問いだった。大蛇丸が木ノ葉隠れの里に戻ってくる理由は、ごまんと考えられたからだ。

 

 里に所属していた頃に行った彼の禁忌は知識としてある。あらゆる禁術の開発に手を伸ばし、多くの人の命を実験と称して攫ったという経歴を持っている彼の事を知らない者は、少ない人の方が珍しいくらいに多い。木ノ葉隠れの里に良からぬ感情を抱いていることも、有名なことだ。里に戻ってきて、いつ身勝手な復讐を企ててもおかしくはない。あるいは、再び、実験と称して忍を攫いに来たとも、考えられる。

 

 しかし、イロミとの繋がりは判然としない。

 先ほどアンコは、イロミは中忍選抜試験の第二の試験、その会場で発見されたと言っていた。責任を感じている彼女の様子から判断する限り、イロミは第二の試験とは無縁の立場にいたのだろう。つまり、イロミは自ら、死の森へと侵入し大蛇丸と対峙したことになる。

 

 イロミは大蛇丸とは面識はないはずだ。いや、彼女と同世代の自分や、それ以降の世代も、あるはずがない。何せ、蒸発事件と呼ばれる凶行を大蛇丸が行い、そして里を抜け出したその頃、まだ幼かった。

 フウコとすら出会っていない。

 その当時、自我があったのかさえ分からない。

 第三次忍界大戦が終わっているのは確かだ。

 おそらくだが。

 イロミはその頃、発見されているのだろう。戦争孤児として、どこかの忍に―――。

 

 そこでイタチは、一つの想像を手に入れた。

 

「……まさか、イロミちゃんは、戦争孤児ではないのですか?」

 

 ヒルゼンは頷く。

 イロミが……あるいは、イロミの両親が、大蛇丸の蒸発事件の被害者。

 重苦しい沈黙が頭にのしかかってきた。

 

「イロミは大蛇丸が幾つか隠し持っていた研究所の、その一つで発見された、事件で唯一の生存者じゃ。どういう経緯で彼女がその研究所にいたのか、今となっては、何も確信は出来ぬ。両親と共に連れていかれたのか、研究所内で生まれたのか、あるいは、彼女だけが連れてこられたのか……」

「確か大蛇丸は、貴方の弟子……。だから、イロミちゃんを養子に?」

「………………」

「……そうですね。今は、そのことを確かめる必要はありませんね」

「すまぬの」

「話しを戻しましょう。―――植え付けられた呪印をイロミちゃんの身体が受け入れたと仰いましたが……未だ、封印術は施されていないということですか?」

 

 その問いに応えたのは、アンコだった。

 

「呪印は必ず、施された部位に印が残るようになっている。大蛇丸の呪印も同じだ」

 

 アンコは襟の高いコートを小さく脱ぎ、左肩に黒く刻まれた【三つ巴紋】を見せた。彼女がかつて、大蛇丸の部下として活動していたことは知っていたが、呪印を植え付けられているということは知らなかった。コートをすぐに着直したアンコは暗い表情で「だが……」と続ける。

 

「イロミの身体には、呪印が見当たらない。私も……呪印を植え付けられた身だ。イロミには大蛇丸の呪印が植え付けられているというのは、チャクラで感じ取れる。だからこそ、イロミは瀕死の状態になったんだと思う。なのに、どこにもないんだ。どこにも……。封印術の施しようもない。ましてや、イロミの呪印は、どこか……違う」

「違う? 特別という意味ですか?」

「分からない。ただ、私があいつを発見した時は、身体が紫に変色していた。私の呪印とは形態が違っていることは間違いないし、それに、強力だった。今はイロミの身体もチャクラも安定はしているが、それは細胞が呪印を取り込んだからだ。私のより、明らかに上位の呪印をだ。慎重に、細胞の検査をしなければならないと医師は言っている」

 

 イロミの容態については、理解できた。正直な所を言えば、安心できる、というレベルではないというのが、イタチの判断である。それは、イロミの事もあるが、木ノ葉隠れの里の事も含めての、判断だ。

 

 無意識の内に考えてしまう。

 

 大蛇丸が、木ノ葉隠れの里にいて、何かを企んでいるということ。

 イロミの容態は、現時点では安定はしているが、強力な呪印を細胞が取り込んでしまっている。アンコやヒルゼンは敢えて言わないようにしているのか、結局は、呪印に対しての対抗策は打てていない。今後、彼女の状態がどうなるか、不確定だということ。

 中忍選抜試験というこのタイミングを見計らって大蛇丸が里に入ったということは、下忍に紛れていたのか、あるいは下忍の付き添いである上忍として紛れたのか。どちらにしても、木ノ葉隠れの里に恨みを持つ大蛇丸の背景には、同様に木ノ葉隠れの里を良く思っていない他国の協力者がいるということ。

 どうしてイロミは、わざわざ、死の森に入り、大蛇丸と対峙したのか。死の森に入る前に、一度どこかで、大蛇丸に会っているのは疑いようもない。大蛇丸と会い、何かの会話をし、そして、死の森に入ったのだ。問題は、その会話の内容が、何であったかということ。

 自来也と綱手は偶然にも里にいるが、もし大蛇丸がここにいて、里に牙を剥こうとしていると伝えたら、協力を仰げるのかということ。

 死の森に大蛇丸が侵入していたのならば、サスケやナルトは接触していないのかということ。

 

 幾つかの問題点を整理し、ピックアップしていく。

 

 時間にして、五秒ほどの沈黙だった。

 

「イロミちゃんは……今後、どのような扱いになるのですか?」

 

 瀕死の状態に追い込まれたとはいえ、イロミは大蛇丸と接触してしまっている。かつて彼の研究所にいたという経歴、そして呪印を植え付けられたという事実は、里としては無視できない。イタチ自身は、彼女が大蛇丸と深い繋がりがあるとは少しも考えてはいない。

 

 だが。

 

 平和の前には、疑わしきは、管理しなければいけないのだ。

 

 同じことをヒルゼンは思っていたのか、しかし、彼は呟いた。

 

「お主に、一任しようとワシは考えておる」

 

 驚きにイタチは少しだけ言葉を詰まらせてしまった。

 あまりにも、火影としての判断ではないように思えない。

 

「大蛇丸とイロミが接触したという事実は伏せておる。知っておるのは、この場にいる三人のみじゃ。イロミの状態について知ってる者にも、戒厳令を布いておる。問題はない」

「……分かりました。まずは、俺の部下に、イロミちゃんの護衛を任せます。再び大蛇丸が、彼女の前に姿を現すことも考えられるので」

「何か、ワシらにできることはあるかの?」

「すみません。今はまだ、正確な判断は出来かねます。火影様には、なるべく多くの情報を集めてほしいのですが……」

「既に暗部を他国に奔らせ、大蛇丸と繋がりが無いかを探っておる。上忍の者たちにも、大蛇丸がいることは情報として知らせ、警戒するよう促した」

「綱手様は、どうするつもりですか? イロミちゃんの容態が急変した際、彼女の力は必要になると思いますが」

「……あやつは、手を貸してはくれぬだろう。綱手にも、事情がある。少なくとも、ワシの言葉では動いてはくれぬはずじゃ。綱手の事も、そなたに一任する」

「他に、自来也様も、里に来ています」

「任せる……。そうか、皆が、この里におるのか」

 

 イタチは退出して、奥の方に備えられている非常口から病院の外に出た。太陽は完全に姿を隠し、空には白い月が傘を作り始めようとしている。コートの上から首筋をなぞる外気に触れ、初めて自分の身体の体温が高くなっていたことを自覚し、イタチは大きく鼻呼吸をしてから、歩き始めた。このまま、ダンゾウの元へ行こうと考えていた。彼の耳には、大蛇丸の事が伝わっていることだろう。【根】の部下たちを動かす許可と、何を考えているのかを聞くために、彼の元へ足を運ぶことにした。

 

 ―――帰りは、遅くなるな。

 

 しばらく時計は見ていないが、感覚的に、夕ご飯時のはず。

 

 中忍選抜試験は夜に行ってはいけないという規定があるため、サスケは家に戻っている頃だ。無事に試験を進み、あるいは、無事に試験に落ちて、夕食を食べているだろうか。病院では、あまりにも個人的なものなため、サスケが中忍選抜試験をどれくらいこなしているのかは聞かなかったが、ヒルゼンが何も言わなかったところを見ると、大事は無いようだ。

 

 ―――……何故、イロミちゃんは大蛇丸の元に。

 

 今度は、意図的に考えてみる。皿にこびりついた脂のように、どうしても、気になってしまったのだ。

 

 イロミの行動は、明らかに不自然だ。大蛇丸に招かれたとはいえ、たとえ繋がりがあるのだと大蛇丸が言ったとしても、誰にも知らさず単独で会いに行くという選択をするほど、彼女は愚かではない。大蛇丸が伝説の三忍の一人で、危険人物だということは、知っているはず。

 あらゆる手段を考え、あらゆる選択を獲得する。それが、イロミのスタンス。なのに、単独で、相手の指定した場所に赴くというのは、おかしい。

 

 なぜ、イロミは自身の行動を制限してしまったのか。

 あるいは……そう、制限を設けられたのかもしれない。いや、その方がより、自然な流れだ。彼女は大蛇丸に制限を付けられた。たった一人で来いと、死の森に来いと、言われた。

 問題は、その制限を付けれるほどの背景を大蛇丸は持っていたのか。その一点。

 

 道を歩く度に、身体の体温が下がっていくような気がした。そのおかげか、思考がスムーズで広がっていく。一組の親子が横を通り過ぎた。小さな男の子が母親に何か我儘を言っているようだ。

 例えば、一度目の対峙の時に大蛇丸がイロミの両親の事について話したとしたら、どうだろうか。

 

 いや、それではあまりにも力が無い。イロミと友人関係になってから、それなりに長い時間が経ったが、一度として彼女が家族に恋い焦がれているような発言を聞いた事が無い。本心ではどう思っていたのかは分からないが、見る限りでは彼女の中心は常に―――。

 

「…………フウコ、なのか?」

 

 イロミを縛り付けることが出来る、絶対のカード。いつだってどこだって、イロミはフウコを中心に動いていた。それを大蛇丸は、使ったのだ。

 

 イタチの思考はもう一歩、先に進む。

 

 大蛇丸とフウコの繋がりについて―――ではない。

 

 どうして大蛇丸が、フウコとイロミが親友関係だったのだと、知っているのか。

 

 大蛇丸とフウコに何かしらの繋がりがあったとして。

 フウコがイロミの事を話すとは考え難い。うちは一族を滅ぼしたのには裏があり、その結果としてイロミを痛み付けたフウコが、その裏側を他人に話すはずがないだろう。

 

 なら、誰かが調べたのだ。つまりは、大蛇丸の協力者である。それも、木ノ葉隠れの里に平然と出入りができる者。そう、木ノ葉の忍だ。他国だけではなく、この里の中にいるのだ。内通者が。

 

 そして。

 

 フウコとイロミの関係を大蛇丸が内通者を使って調べさせたのは何故だ? それは、イロミを動かすため。では、イロミを動かして、何をしたいのか。呪印を打ち込んだ先には、何がある?

 

 しかしそれ以上、思考は先に進まなかった。それ以上の進行は、想定ではなく、単なる妄想の域だ。情報は圧倒的に不足してしまっているのは明らかで、当事者は大蛇丸と、意識を取り戻していないイロミ、そして、木ノ葉隠れの里にいる内通者。

 

 その後、イタチはダンゾウの元へ赴いた。彼からは【根】の自由使用許可はあっさりと降り、すぐさま里の内外に配備させた。イタチ自身は家に帰ることなく、一人で情報整理をしていた。木ノ葉隠れの里にいるかもしれない内通者に当たりを付けるため、大蛇丸が木ノ葉隠れの里で活動していた時期に存命した者を対象に、個人情報を漁った。

 

 詮索の条件は、イタチの中では設定されていた。

 

 内通者の地位は下忍……最高でも中忍のはず。大蛇丸という危険人物と接点があるのならば、内通者は目立たずそれでいて目立たな過ぎることも無い者である可能性は高い。また、プライベートに自由に動ける時間が確保しやすいのも、任される任務の重要度が低い下忍、あるいは中忍だ。

 

 そして、下忍、中忍である場合、年齢が高いのは周りの視線を止めてしまう。勿論、そのような人物が全くいないという訳でもなく、そう言った背景の人物が最も可能性が高いというだけだ。該当する者は、幾人かいた。

 

 それらの人物の一人一人の家族構成や生い立ちなどの経歴を調査し尽くすのに、流石のイタチも時間が掛かってしまった。気が付けば夜を超えて……明朝。

 

 イタチは、幾人かの人物を頭の隅に止める。

 

 その中には、薬師カブトという名前も、入っていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 深い夜の静けさに、テマリは、木ノ葉隠れの里も夜はこんなに静かになるのかと、夜空に浮かぶ月を見上げながらぼんやりと思った。旅館の受付前に設けられた、広めのロビー。しかし、人はテマリに以外に誰もおらず、明かりは壁一面に嵌め込まれた大きな窓ガラスから入ってくる月明かりだけだ。綿あめのような柔らかさを持つソファに腰かけ、自動販売機で買った緑茶を一口飲む。髪を下ろし、ゆったりとした浴衣の上から、小さな安堵が下りてくる。

 

「なんだテマリ、起きてたのかよ」

「……まあ、な」

 

 振り返り、寝癖が付いた髪を掻きながら、浴衣姿のカンクロウを見上げる。小さく欠伸を噛みしめる顔には普段塗っているメイクはなく、半開きの瞼からはすっかり眠たさを表現していた。

 

「お前こそ、どうして起きてきたんだ?」

「喉が渇いただけじゃん。自販機で買おうと思ってただけだ。何飲んでんだ?」

「緑茶」

「いくら?」

「自分で見ろよ」

 

 カンクロウは小さく舌打ちをしてから、反対側の自販機に足を運んだ。ガタン、とジュースを買った音が聞こえてくる。炭酸飲料水を片手に、カンクロウはソファに腰かける。テマリが座るソファと背中合わせに置かれたソファにだ。

 

 ぷはぁ、とカンクロウは一気に半分ほどを飲み干した。

 

「お前も、喉が渇いたのか? それともあれか? 中忍選抜試験を無事突破した興奮で眠れないとかか?」

「ふん。あんな程度の低い連中しかいない試験を突破しても、嬉しくもなんともないね。もっと骨のある奴らがいると思っていた分、むしろ退屈だよ。……ただ、」

「ただ? 何だよ」

「……我愛羅は、部屋に戻っているのか?」

 

 カンクロウが小さく息を呑むのが聞こえてきた。こちらの一抹の不安を理解したようだ。

 

「さあな。あいつの部屋なんざ、怖くて近寄る気にもならねえじゃん。第二試験の時のあいつを見た後じゃあ、声だって掛けれねえよ」

 

 中忍選抜試験は、残すところ、最終試験のみとなった。テマリもカンクロウも、そして我愛羅も、最終試験に進んだ。手応えも無く、困難も無かった……試験に対しては。

 

 一度、恐怖を味わった。死を感じる場面に遭遇した。

 

 それは、木ノ葉隠れの里の忍や、他の参加者たちに対してではなく、我愛羅に対して。

 

 第二の試験で起きた、ある出来事が、我愛羅の心の何か触れた。あの時の怒りに満ちた困惑の表情を浮かべた我愛羅を思い出すと、寒気がする。

 

 あの瞬間、暴走してもおかしくない状況だった。うずまきナルト、うちはサスケ、春野サクラ、その三人を守るかのように立ちはだかった六人の木ノ葉の下忍共々、自分らが死体になっても、何ら、不可思議ではなかった。

 

 第二の試験が終わってから、我愛羅から悍ましい気配は姿を隠したが、逆にそれが恐ろしい。些細な弾みで爆発してしまう、あるいは脈絡も無く暴発してしまう、膨れ上がり過ぎた風船のようだと、テマリは感じ取っている。眠れないのは、眠ってしまっている間に、我愛羅が暴走してしまうのではないかという恐れが、眠気を退けさせたのだ。

 

「……あと、一カ月か」

「なげーよなー。どうせ、俺らが勝ち残るに決まってんじゃん。さっさと里に戻りてえよ」

「そうだな」

 

 最終試験が始まるまで、一カ月の猶予が与えられた。きっと他の参加者は、準備期間だと前向きに捉えるのだろうが、自分にとっては、爆薬庫に火を点けたマッチを抱えながら過ごすようなものだった。

無事に、故郷に帰れるだろうか。

 一カ月もの間、危険な我愛羅と共に、この里の中で、無事を確保できるだろうか。

 

 中忍選抜試験―――最終試験。

 

 そこに勝ち進んだ者たちを今一度、思い出す。

 

 自分とカンクロウ、我愛羅の三人を含め……。

 

 油女シノ。

 日向ネジ。

 日向ヒナタ。

 奈良シカマル。

 うずまきナルト。

 

 この八名のみ(、、、、、、)

 

 ある意味、この最終試験そのものが、危険かもしれない。

 既に抽選によって、対戦順は決まっている。

 第二試合に、我愛羅は出る。

 対戦相手は、うずまきナルト。

 

 我愛羅が興味を示している者の、一人だった。

 

 一か月後に行われるその試合を想うと、不安がにじり寄った。

 




 次話は2月4日までに投稿したいと思います。

 ※追記です。
 中道のプライベートの事情により、2月4日の投稿が出来なくなってしまいました。申し訳ありませんが、2月5日の夜に投稿します。誠に申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

根の下の願い

 投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。


 夜空が白みを帯びてきた。東の空に浮かぶ薄い雲は、これからやってくる朝の冷たい風を運んでくるかのように速く動いていた。目を覚まし始める鳥たちは、朝一番の風を捉えようと羽を広げて飛び立つ。喧騒を生み出し始めるその颯爽さは、やがて、人をも目覚めさせるに違いないだろう。白は、辺りの木々の影から迫ってくるかもしれない人影に注意を払いながら、肩を軽く叩いてきた再不斬に顔を向けた。

 

「どうしたんですか? 再不斬さん」

 

 身長の高い再不斬を見上げるには、羽織っていたコートはやや邪魔だった。深緑色のロングコートは、再不斬と同じものだ。互いにコートに付いているフードを頭に被っていたが、再不斬は邪魔くさそうに頭を大きく振るってフードを外した。口元を隠す白い布の奥から、彼の重たい声が聞こえてくる。

 

「切り上げだ。これ以上は人目が増える。帰るぞ」

「……そうですね。もうそろそろ、朝ご飯の時間ですし」

 

 特別、空腹を感じている訳ではないものの、つい、朝ご飯という言葉を呟いてしまった。一定の場所に戻れば、自然と食事が用意されているという環境は、あまり経験が無かった。これまで利用してきた組織からの食事は、常に警戒して、結局は持参していた。しかし、今利用している―――あるいは、所属している―――集団からの食事は、安心できる。

 おそらく、集団のリーダーが、信用できるからだろう。

 まるで人形のように表情を変えず、メトロノームのように平坦な声のトーン。こちらに対して大きな期待をしている訳でも、不必要に警戒している訳でもない態度。それらが、プラトニックな信頼関係を築かせているのだと、白は判断している。少なくとも、再不斬本人からは、リーダーを警戒している様子は感じ取れなかった。

 

 朝ご飯の時間。

 

 再不斬を相手に……いや、他の誰かに対しても、そんな言葉を言う日が来るとは、昔は思っていなかった。家族が出来たみたいだと、他人事のように思う。形は家族のそれに近似しているかもしれないが、実質は違っていることは確かな事実で、羨望する感情も持ち合わせていない。

 

 再不斬の左腕が白の肩に乗せられる。それを合図に印を結んだ。アジトに戻るための、時空間忍術の一種。二人は瞬く間に煙に包まれ、煙が晴れる頃には、二人の足元は土の地面から硬いコンクリートの地面に変わっていた。

 

 白は真っ先に、部屋の電気を点けた。真っ白な明かりを放つ蛍光灯が、部屋の剥き出しのコンクリートを照らす。

 

「あ、再不斬さん、首切り包丁はボクが外しますので」

 

 すぐさま再不斬のコートを脱がし、壁に打ち込まれた釘に掛ける。彼が背負う首切り包丁を慣れた手つきで外し、丁寧に壁に立てかけていると、再不斬は小さく息を吐きながら簡素なベッドに腰かけた。

 

「ご飯は、少し時間を置いてからにしますか?」

 

 自身のコートも壁の釘に掛けながら、白は尋ねる。男でありながらも長い髪は、集団に属してからは一度も纏めていない。散髪もしていないおかげで、髪は女性顔負けの長さになってしまっているが、対して再不斬は属する時とほとんど変わらない短い黒髪を生やした頭を、疲れたように垂らしたまま呟いた。

 

「……気にするな」

「ですが……」

「さっさと行くぞ」

 

 立ち上がり、再不斬はさっさとドアから出て行ってしまった。足取りは乱暴だったが、微かに見え隠れする疲労に不安を隠せない。右腕を失い、その治療期間は、再不斬は一切の運動を禁じられていた。下手に後遺症などが生まれ、使えなくなったら困ると、サソリから言われていたからだ。体力が著しく低下し、今でも、外に出て大蛇丸の行方を捜索するだけで彼の体力は殆ど残らない程になってしまっている。

 

 本当なら、徐々に身体を元のコンディションに戻してほしかった。しかし、再不斬本人がそれを拒絶しているため、強く願うことも言うこともしなかったが、無くなった彼の右腕の先端を隠す包帯は見る度に、やはり、と思ってしまう。心配を胸に、再不斬の後を追った。

 

 薄暗い通路を進んでいく。通路は基本的に一本道。途中にある二手に分かれた突き当りを右に曲がった。その先にはリビングがある。このアジトで唯一、誰も所有していない部屋である。食事や、今後の活動の打ち合わせなどは全て、そこで行っているが、家具はテーブルと四つの椅子しかなく、それ以外に物は無い。リビングという表現が正しいのか定かではないが、白は勝手にそう名付けているだけだった。

 

 リビングを隔てる鉄製のドアを白が押す。すると、溶かした飴よりも甘ったるい匂いと喉奥に引っかかる煙たさが襲ってきた。明かりの点いていない室内は暗闇一色だが、二人はすぐに中に誰がいるのかを察した。

 

「……誰?」

 

 平坦で、高級な鈴のような声が、暗闇の向こう側から届く。白は腕で鼻を抑え、応えた。

 

「ボクです、フウコさん」

 

 一拍の沈黙を経て「……ああ」と、フウコは声を漏らした。

 

「おかえり」

 

 ただそれだけを呟くだけで、彼女からの声は続かなかった。後ろで、再不斬の舌打ちが聞こえてくる。

 

「おい、煙草を消せ。てめえの煙草は甘ったるくて吐き気がしやがる」

「そう? いい匂いだと思うけど」

「吸うならてめえの部屋に行って吸え。ここで吸うんじゃねえ」

「大蛇丸は見つかった?」

 

 再度、再不斬は舌打ちをした。慌てて白が代わりに応える。

 

「すみません……今日も、特に目立った情報は」

 

 しかし、フウコは「そう」と呟くだけ。喫煙している時の彼女はいつも、ぼんやりとした会話しかできない。

 ドアの脇にある蛍光灯のスイッチを押すと、リビングはすぐさま白い光が溢れだした。紫煙の煙が漂う室内の中、テーブル前の椅子に腰かけているフウコの姿が目に入る。ちょうど、煙を吹いていた。

 

「外はどうだった? 晴れてた?」

 

 フウコは白い浴衣に身を包んでいた。寝間着姿である。椅子に座っているにも関わらず、床に十分触れてしまうほどに長い黒髪には所々、ついさっき目を覚ましたのだと主張するかのような寝癖が付いていた。赤い瞳はぼんやりと、どこか中空を見つめている。

 再不斬が乱雑にフウコの対角線上の椅子に座ると、左腕の肘をテーブルに置き、膝を組みながら体を半身にした。会話する気などない、ということだ。白も、再不斬の横に座り、再度、代わりに応える。もはや、煙草の香りは我慢できるくらいには、鼻は慣れ始めていた。

 

「はい、晴れてました。フウコさんも、外に出たらどうですか? 今日は何か、仕事は……」

「私はもう、ノルマは達成してるから。サソリもクリアしてる。当分は無いと思うけど、そう、晴れてたんだ。じゃあ、楽だね」

「え?」

「買い物。二人が、行くんでしょ?」

「ああ……はい、そうですけど…………。買ってきた方がいいものでも?」

 

 ドアが開いた。再不斬と白が入ってきたドアとは、また別のドアである。リビングには、合計で三つのドアが設置されている。一つは、再不斬と白が通ってきたドア。もう一つは、フウコの私室に繋がるドア。もう一つは、保管庫である。開いたのは、保管庫のドアだった。

 

 ガラガラガラと、台車の車輪が床の上を転がりながら動く音と共に、足音が。サソリは、台車を押しながら入ってきた。

 

「……戻ってきていたのか。その様子だと大した収穫は、無さそうだな」

 

 再不斬は鋭く彼を睨み付けた。

 

「文句あるのか?」

「いや、無いな。元々雲を掴むような依頼だ。放棄は許さないが、すぐに成功するようなものじゃないと俺は考えている」

「だったらいちいち無駄口を挟むな」

「サソリ、ご飯早くして」

「慌てるな。まずは煙草を消せ」

 

 煙管の先端と吸い口を指で塞ぐフウコを傍目に、台車の上に載せていた料理の品々をサソリは手早くテーブルに並べる。テーブル一面を料理が埋め尽くす。明らかに人数に対して量が釣り合っていないように思えるが、夕食に比べれば遥かに控えめな量であることを、白は知っている。素早く自分と再不斬の皿に手を伸ばし、非常に近くに引き寄せ、フウコの魔の手から料理を避難させた。

 

 カチャカチャと、皿の重なる音がリビングを駆け回る。フウコが、並べられた料理を一口二口で食べてしまい、雪が積もるかのように、空いた白い皿が積み立てられていく。食事の度に見ているが、相変わらず、彼女の身体のどこに入るのか不思議でしょうがなかった。しかし、彼女の食事姿を気にしているのは自分一人だけのようで、再不斬はさっさと箸を使い口元の布を外して食事を始めてしまい、サソリはサソリで空いた皿を淡々と台車に載せている。

 

 無言のままに、食事は進行していった。それが、ここでの普段の光景だ。雑味の無いおかげで、食事は素直に進んでいく。料理は美味しかった。

 

 食事はすぐに、そして静寂のままに終わりを告げた。テーブルの上には物が無くなり、食器を片付け終えたサソリはフウコの隣に腰かけた。

 

「フウコ、腕を出せ」

 

 着ているコートの袖から、サソリが一本の注射器を取り出す。「うん」とスムーズに返事をし、浴衣の袖を捲って左腕を差し伸べるフウコ。左腕の二の腕には、何本もの小さな注射痕が残っており、皮膚が青く変色していた。

 

「新薬?」

 

 ああ、とサソリは注射器の空気を抜きながら呟いた。注射器の中身には、薄緑色の液体が入っている。

 

「最近は、身体の調子が良いみてえだからな、新薬を作った。心配するな、死にはしない。確認するぞ、気分はどうだ?」

「食後だから、眠い」

「感情の事だ。悲しいか? 嬉しいか?」

「分からない」

「打つぞ。目を閉じろ」

 

 注射器の中身が注入されるのを、白は静かに見つめていると、サソリが横目でこちらを見た。白は隣を見て、再不斬にサインを送る。

 

 注射器が引き抜かれると、刺し傷から赤い血が落ちる。

 

「大きく呼吸しろ」

 

 十秒ほど、フウコは瞼を閉じたまま深く呼吸を続けた。

 

 このまま何事も無く、時間が過ぎてくれることを白は望む。

 

 急にフウコは大きく俯いた。長い黒髪が、彼女の顔を隠す。「気分はどうだ?」と、サソリは再び尋ねた。

 

「……眠い。すごく、眠いの」

 

 力のない無気力な声でフウコは応える。

 

「もう一度訊くぞ、気分は、どうだ?」

「……ここはどこ?」

「アジトだ。飯を食った後だぞ」

「そうだ……明日は、アカデミーだ。イロリちゃんに…………修行、付けてあげないと。小テストだもんね……。晴れてくれるといいなあ、明日は……」

「……まあ、悪くはないな」

 

 サソリは片手を上げて小さく上下させる。問題は起きないだろうという判断だった。作っていた緊張を解く。意識が混濁しているのか、フラフラと身体を揺らす彼女をサソリは担ぎ、彼女の自室へと運んだ。ジャラジャラと重苦しい鎖の音が聞こえてくる。やがて、サソリだけがリビングに戻ってきた。

 

「寝たのか?」

 

 再不斬が尋ねる。

 

「意識が混濁しているだけだがな。直に眠るだろう。なんだ? あいつが心配なのか?」

「目の前でいきなり実験をさせられるのが気に入らねえだけだ」

「そんな事か。結果的に、お前らは何もしていないだろう。それに、これも契約の内だ。今更文句を言うな」

 

 契約。

 それは、フウコとサソリ、この二人に協力すると約束した時に交わした条件のようなものだ。その中には【うちはフウコの実験の手伝いをする】というものが含まれている。手伝いといっても、サソリが開発している新薬に対する意見を述べるなどといった専門的なものではない。どちらかというと、知識よりも実力を必要とされるもので、手伝いというよりも後始末と言った方が正確かもしれない。

 

 フウコが暴走した時、彼女を抑えつけるのが、実験の手伝いだった。

 

 サソリが開発している新薬は、主にフウコの意識を混濁させることを目的としている。混濁させると言っても、方向性には違いがある。気分を高揚させて意識を支離滅裂にさせるか、気分を落とし込んで意識を重くするか。新薬は、後者の効能を目指しているが、時には全く別の結果が生まれてしまうこともある。

 

 これまで三度ほど、フウコは暴走し、三度も彼女と戦う羽目になった。いずれも、彼女は単調な動きで暴れただけで、サソリと再不斬、自分の三人で抑え込むことには成功している。しかし、簡単だ、と楽観できるほどの余裕を感じたことはない。再不斬は本調子には程遠く、自身は明らかな力不足で、九割以上はサソリが彼女を抑え込んでいるのが現状だ。

 

 本当なら、役立たずと言われても文句は言えない立場なのだけれど、サソリがそう言ってきたことは一度もなかった。

 

「さて……ちょうど良く、あいつが眠ってくれたことだ。少し、込み入った話しをしよう」

「なんだ、ようやくお前らの計画を話してくれるのか?」

 

 皮肉るように肩を透かしてみせる再不斬に「それは無いな」とサソリはあっさりと言ってみせる。

 

「元々、計画の立案者であるフウコが不安定だ。計画自体がご破算になって、また別の計画になるかもしれないのに、今話しても意味がねえだろ?」

「それだけが本心か?」

「まあ信用していない、という訳じゃあないことは事実だ。だが、大蛇丸という前例がある。少しだけ時間をかけさせろ、というのが俺の判断だ」

 

 フウコとサソリが、【暁】という組織に所属していることは知っている。フウコが何気なく、あっさりと教えてくれた。ついでに、二人が【暁】に反旗を翻そうと考えていることも。

 

 ただ、知っているのは、そこまで。それ以上の情報は、サソリがフウコに口止めをさせて、渡されることはなかった。今回も「時期が来たら、教えてやる」と呟くだけで、サソリは別の話しをし始める。

 

「大蛇丸の件についてだが、足取りが分かった」

「……どういうことだ?」

 

 再不斬の声が鋭くなるのと同様に、白も殺気を油断なく零れさせる。

 大蛇丸を捜せと依頼をしておきながら、その足取りを依頼主自身が見つけてしまうという状況が、不愉快だった。

 

「そう睨むな。俺が独自で調査をしていた訳じゃない。ちょっとした伝手で、勝手に教えられたというだけだ」

「伝手だと?」

「ああ。そいつから情報が送られてきた。大蛇丸は今、木ノ葉隠れの里にいるらしい」

 

 木ノ葉隠れの里。

 

 脳裏に、サスケ、ナルト達の姿が思い浮かぶ。

 

「俺たちに、木ノ葉に潜入しろって言うのか?」

「いや、事はそう単純じゃない。今、木ノ葉は中忍選抜試験を行っている最中だ。しかも、大蛇丸が中忍選抜試験に姿を現して、猿飛イロミとかいう現火影の娘を襲ったらしい。そのせいか、警備がかなり厳重でな。おそらく、碌な手段じゃ中に入ることも出来ないだろう」

「猿飛、イロミ……?」

 

 サソリの口から出た人物の名前に、白は疑問を持つ。

 

 イロミ。

 

 確か、フウコが時々にぼんやりと呟く名前に、似たような名前が……。

 

「そいつはフウコの友人らしい」

 

 白の疑問に答えるように、サソリは呟いた。フウコが眠ったタイミングを見計らって、この話題を持ち出したのだろう。彼女の前では、木ノ葉隠れの里の話題は禁句だというのは、このアジトでの暗黙の了解だった。「お前らには―――」と、サソリは話しを戻す。

 

「しばらく、木ノ葉隠れの里の周辺を警戒してもらう。万が一、大蛇丸が里の外に出た場合、あるいは大蛇丸の協力者らしき者を発見した場合は問答無用で捕えろ。それまでは、アジトに戻ってくることも許さない」

「具体的には、いつまで警戒してりゃあいいんだ?」

 

 と、再不斬は尋ねる。

 

「今から二十日後に、中忍選抜試験の最終試験が行われる。火の国や風の国の大名やら忍頭やら、まあ、間抜け共が出入りするが、お前らはその時に潜入しろ。勿論、場合によっては指示を変更することもあるからな。例えば、大蛇丸の協力者を捕えた場合や、大蛇丸自身を里の外で捕えた場合だ」

 

 後者は限りなく可能性は低いだろうがな、と付け足して、サソリはリビングを後にした。再不斬と白も、自室に戻った。再不斬からは、一度休息をとってから、木ノ葉隠れの里に向かうという指示を受けた。それまでは、自由時間。

 

 再不斬はベッドの上で眠りについた。明かりを消した部屋の中には、彼の静かな寝息が耳に届く。だが、自分はあまり眠気を感じなかった。ベッドで横になっているが、瞼を開け、暗闇を見つめている。

 

 ―――ナルトくんやサスケくんは、試験に出ているのかな…………。

 

 もし二人に会うのだとしたら、今度は、敵同士ではない。しかし、抜け忍である自分と純粋な忍である彼らとでは、立場が違い過ぎる。里の中の往来で対面するというのは、出来ないだろう。

 だが、二人が試験に出場しているのだとしたら、もしかしたら、その光景を見ることが出来るかもしれない。波の国の時よりも、二人は強くなっているのだろうか。そう考えると、今までよりも多少は、依頼に対して楽しみを感じてしまう。

 

 ちらりと、横の再不斬を見る。暗闇ではっきりとは見えない。彼は、どう、思っているのだろうか。死闘を繰り広げたカカシに対して、何を、思っているのだろうか。

 

 気が付けば、白は静かに眠りに落ちていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 白がようやく眠りにつく頃には、太陽はすっかり空を飛んでいた。

 

 昼時前の、乳白色を帯びた光り輝く日差しは、広い草原の中央に立つ一本の枝葉を大きく広げる木を斜め上から照らしていた。足元の草には、朝露が微かに降り注いでいる。自然に溢れた光景。辺りには、建物すらない。しかし、その木の下には、笠を頭に被り、赤い雲のマークが散りばめられた黒いコートを着た、背の低い傀儡人形が立っていた。

 いや、傀儡人形だとは、傍から見た者にとっては分からないだろう。口元を隠す布のせいで、顔は目より上しか見えない。その鋭い眼光の作りだけを見た場合、人間だ、と人は無意識に判断してしまうほどの精巧さはあった。

 

 傀儡人形・ヒルコ。

 

 サソリが普段使用している、傀儡人形の一つだ。アジト以外では、このヒルコという傀儡人形の中に潜み、中から操り行動をしている。再不斬、白、そしてフウコと、この三人には既に顔は知られてはいるものの、彼が所属している【暁】のメンバーの殆どは、彼の顔を知らない。

 

 ……いや、もはや彼は【暁】に所属しているつもりなど無かった。

 

 フウコと組んでから【暁】は敵である。

 

 彼女の計画の為。そして、その計画を遂行した果ての報酬として、フウコの【肉体】を人傀儡として提供するというものを目的としてから【暁】を敵と判断している。

 

 ―――面倒なことになったな……。

 

 サソリはヒルコの中で考える。今回の情報についてだ。

 

 大蛇丸が木ノ葉隠れの里に姿を現した。個人的な考えとしては、彼がまだ【暁】に所属していた頃に抱いた殺意があるものの、正直な所はどうでもいいと思っている。木ノ葉隠れの里を消し炭にするなり、粉々に粉砕するなり、好きにすればいい。命が消えようが、勝手に動くものが動かなくなるだけのこと。命の価値というのは、それだけだ。

 

 しかし、問題なのは、フウコだ。

 

 彼女は未だ、木ノ葉隠れの里を想っている。そして、彼女の心には信じられないほどのトラウマが刻み込まれてもいるのだ。言葉一つ、彼女の顔の前に置くだけで、彼女の心が震え、乱れ狂ってしまうほどに。

 

 おまけに、薬を常用してきたせいもあってか、感情のブレーキが壊れかかっている。元々新薬は、彼女の意識がトラウマに触れないように誤魔化し、尚且つ、もう一人の人格からの幻術を感じ取れないように意識をぼやかすことを目的としていた。前者は、薬を使用し続ければ問題は無いのだが、後者は難しい。チャクラの干渉を、物理的である肉体に影響を与えることによって困難にさせるというのは、至難の業だ。強すぎればフウコの意識自体が動かなくなる、弱すぎれば意味がない。

 新薬投入の始まりはフウコの指示であるとはいえ、フウコの枷になりつつあり、そして自分たちの足枷にも変貌しようとしている。面倒なこと、この上ない。

 

 木ノ葉隠れの里に何かがあれば、フウコはすぐさま、里へ向かおうとするだろう。そうなった時の暴走は、今までと比べ物にならない程に強力なはずだ。上手く抑え込めるかという問題が一点。

 

 そして、フウコが明確に【暁】と対立してしまうという問題が一点。現時点で、【暁】のリーダーはフウコを信用していない。元々、彼女とパートナーを組むことになった理由は、フウコを監視するようにサソリがリーダーから言われたからである。薬物に詳しい自分なら、彼女を拘束することは【暁】のメンバーの中では最も有能だろう、という判断らしい。つまり今は、まだ自分はリーダーからは疑われていないということだ。しかし、もしフウコが暴走し、木ノ葉隠れの里へと行ってしまうと、間違いなく【暁】はフウコを敵とみなす。うちは一族を滅ぼし、抜け忍となりながらも、自身のいた里を守るという矛盾を抱えた行動は見逃されないだろう。そうなった場合、自分はフウコの側に立つことになる。問題は、まだ【暁】と対立する時期ではないということだ。依然として【暁】のリーダーの隠れ家を特定できていない。対立するなら、場所を特定できてからだ。

 

 そのために、再不斬と白と交渉したのだ。【暁】という集団に属しているフリをしている以上、自分たちだけで動くには限度がある。二人を助けたフウコは、そう言った考えの元に、あの夜の雨の日に―――偶々、【暁】の依頼の途中だったという偶然も重なって―――再不斬と白を拾ったのだ。

 

 大蛇丸の居場所を突き止めた以上、今回の件が終わったら、本格的に二人には【暁】のリーダーの隠れ家を捜索するように命じようと、既に算段は出来上がっている。だが、その算段以前に、フウコの計画が彼女自身の手で破綻するのではないか。サソリはそれを危惧していた。

 

 ―――……おそらく、大蛇丸の野郎の狙いは尾獣だ。

 

 フウコの元を離れた理由は分からない。こちらに敵意があるのだけは明白で、大蛇丸はフウコの目的を知っている。ならば、彼が優位に立ち回れる配役は、尾獣を確保して【暁】あるいはこちらの、どちらかと取引が出来るようにするということだ。

 

 木ノ葉隠れの里には、人柱力が二人いる。一人は七尾、もう一人は九尾だ。特に九尾は【暁】が最後に手に入れることを決めているため、利用価値は高い。九尾を獲得しようとしていると考えて間違いないだろう。こちらから手を出せないというのが、歯痒いばかりだ。

 

 気配を感じ取り、サソリは一旦思考を停止させた。背後から近付いてきたそれに、警戒態勢を取る。

 

「赤砂のサソリですか?」

 

 平らな声でありながらも、鼻に付くしたたかな社交性を含む滑舌に、警戒態勢は少しだけ緩められた。ヒルコを動かし、振り返る。暗部の面を被った男が立っていた。

 

「遅えぞ」

 

 低い声色に変えて、サソリは呟く。

 

「俺は待つのも待たされるのも嫌いなんだ。上司に言われなかったか?」

「ダンゾウ様より、そう申しつけられておりますが、なにぶん、こちらも忙しいもので」

 

 謝罪は無く、けれど負い目を感じている様子からは、自身は何も考えていないということを如実に語っており、何を言っても無意味なのだと知らされる。待たされたことへの苛立ちは失せ、サソリは【根】の者に話しを促す。

 

「さっさと木ノ葉の状態を教えろ」

「はい。木ノ葉は大蛇丸の捜索、警戒をしながらも、中忍選抜試験は予定通り実行する方針です。大蛇丸が潜んでいるという事実は、火の国の大名らには知らされず、上忍及び暗部のみの機密事項扱いとなっています」

「面子を保つのが精一杯ってことか……。呆れたもんだな」

「ダンゾウ様も、同じ憂いを抱いています」

「そんな事はどうでもいい。【根】は動いているのか?」

「指揮系統は異なりますが。現在、うちはイタチの指揮の元に、【根】は里の警備を秘密裏に行っている状態です」

 

 うちはイタチ。

 フウコの兄で、木ノ葉の神童と謳われる実力者。彼が指揮をしているとなると、やはり、現時点での再不斬と白の潜入は困難だ。不用意にチェックを入れることのできない大名に紛れて二人を潜入させるしか方法はないようだと、サソリは再認識する。

 

「大蛇丸の目的を、木ノ葉は分かっているのか?」

「まだ不鮮明ですが、ダンゾウ様は尾獣ではないかと……」

「うちはイタチはどう考えてるんだ?」

「彼は【根】を信用していません。指示は出していますが、何を考えているのかは判断できませんね。ただ彼は、今回の中忍選抜試験の参加者のリストに目を通していました。これが、そのリストです」

 

 男が出してきたリストをヒルコの腕を使って手に取る。顔写真は載っていないものの、名前と所属している里が記されている。

 その中の一つに、薬師カブトという名を目にし、サソリは舌打ちをしてしまった。

 

「……これはどういうことだ。カブトの名前が、どうして中忍選抜試験の中に含まれている」

 

 薬師カブトがかつて【根】に所属していたことは調査済みだった。

 

「こいつは大蛇丸の部下だ。そのことは、お前ら【根】も、ダンゾウも分かってることだろうが。拘束はしてるんだろうな?」

「彼はあくまで大蛇丸のスパイとして活動しています。【根】も、ダンゾウ様も、その認識で共有しています」

「……ふざけてるのか? んな大っぴらなスパイがいる訳ねえだろ」

「ダンゾウ様は、薬師カブトの拿捕をデメリットと考えています。それは勿論、うちはフウコも同様なのではないですか? 薬師カブトを捕え、大蛇丸とうちはフウコの繋がりを知られるのは危険なのでは? 大蛇丸がどこまで貴方達と親密であったかは定かではありませんが、もしかしたら彼は、うちは一族の事件の真相の事も―――」

 

 男の声はそこで止まった。

 コートの下に隠れていたヒルコの尾。巨大な両刃の刃がムカデの身体のように連なった鋭く、そして怪しく液体を滴らせながら、男の喉元手前で停止した。

 

「それ以上下らねえことを言ったら殺すぞ」

「それは失礼しました」

 

 怯えることも、悪びれる様子も無く、男は言う。

 

「他にお尋ねすることはありますか?」

「失せろ」

「ではこちらからお伺いします。うちはフウコの状態はいかほどに?」

「前と変わらねえ。失せろ」

「またいずれ」

 

 男は音も無く姿を消した。

 

 残ったのは草を撫でるそよ風と、後味の悪い不愉快さだけだった。ヒルコの中でサソリは印を結び、アジトの自室へと戻った。

 

 明かりを点けっぱなしにしていたサソリの部屋は、設計図に溢れていた。再不斬と白を最初に隔離していた保管庫とは違い、こちらには傀儡人形の部品や道具は置かれていなかった。設計図には走り書きでもされたような筆跡があり、簡素なベッドにすら設計図が散りばめられている。壁際のデスクには山積みされた設計図と筆などが置かれている。

 

 ヒルコから出たサソリは、床を侵食する設計図の上を躊躇い無く踏み歩く。

 部屋の中央には、台座があった。横に長い直方体で、人一人分の長さを持っている。台座の上には、何かが乗せられているが、白い布に覆われているせいで、全容までは分からない。しかし、サソリは布の一部を手で捲ると、その下にはフウコの顔があった。

 

 正確には、フウコの顔をした、傀儡人形である。

 

 人形をじっと見下ろしながら、呟いた。

 

「まだまだ駄作だな」

 

 フウコ本人の顔と何ら差異が無いと思えてしまうほど精巧に作られているように見えるが、これまで何百と傀儡人形を作ってきた彼の眼鏡には適わないようだった。不服そうに布を被せ直し、サソリは部屋を出る。リビングに繋がっていたドアとは別のドアからだ。足元を照らす灯りと、細い通路を進んでいく。

 

 サソリの部屋とフウコの部屋は、一つの通路で繋がっている。万が一にでも、唐突に彼女が暴走した時に備えて、すぐに動けるようにアジトを作ったのだ。

 

 彼女の自室に入る。明かりは消えており、通路からの光だけがぼんやりと空間を照らしている。家具が何一つとして置かれていない寂しい部屋。床にはタバコで使用した薬草の燃えカスが大量に落ちており、残り香に溢れかえっているが、サソリは嫌悪の表情を浮かべることなく、壁に貼り付けられたフウコの傍に寄った。

 

「起きてるか?」

 

 彼女の身体には、何重もの鎖が巻き付かれている。身体は直立に立ちながらも、鎖が巻かれていない首は前に傾き、黒髪が彼女の顔を隠していた。反応の無い彼女の顔に手を伸ばす。冷たいのか熱いのか、それすら分からない。首に移動させると、指先が微かに、彼女の鼓動に合わせて動く。

 

「脈拍は正常か。おかしな副作用も無し」

 

 食事時に打ち込んだ薬の効果の安全性を確かめる。これなら、しばらくはこの新薬で、次の新薬を開発するまでの間を持たせることも出来るかもしれないと、小さく思う。

 

「…………勝手に、触らないでよ」

 

 突然、彼女は声を発した。頭を俯かせたまま、唇だけを微かに動かして発する、小さな声。しかし、弱々しい声であるにもかかわらず、刺々しさだけははっきりと分かり、そして誰が話しかけてきたのかも、サソリにはすぐに分かった。

 

「なんだ、お前か」

「なんだじゃないでしょ? 人の身体にベタベタと触らないで」

「お前のじゃねえだろ」

「私のよ。私の、お父さんが治してくれた、大切な身体なの」

「大切だという割には、お前はこの身体を自由に動かせないみたいだが?」

「ふざけた死に損ないが、私に呪いをかけたせいよ。そのせいで、フウコさんの精神を幻術で操らないと動かせない。しかも、動かせるのはほんの少し。本当なら、この鎖を引き千切って、アンタをぐちゃぐちゃにしたいくらいよ」

「そうか。勝手にしろ」

 

【彼女】の言葉の棘を流しながら、サソリはフウコの顔を持ち上げる。前髪を指で払うと、虚ろで半開きの赤い瞳が見える。

 

 顔を右に、今度は左に。上に、下に。角度を変えて眺める。自室で確認した人形と、どこが違うのか、頭の中に叩き込みながら、確認していく。

 

「顎のラインが悪いのか? それとも鼻の高さか?」

「……アンタ、時々こうして私の身体を見に来るけど、何? もしかして人形でも作ってるの?」

「喋るな。頬の筋肉が動くせいで、正確に見れないだろう」

「気持ち悪い。私の身体は全部終わってから貰う筈でしょ? それとも、もしかして諦めてるの? 身体が手に入らないって」

「いや。どのような結果になろうが、フウコの身体は貰う。瞳の色をもう少し濃くしてみるか」

「……ねえ、アンタさ、何がしたいの?」

 

 彼女の髪を取り、指でなぞってみる。髪質がどんなものなのか、実際には感じ取れないが、サソリはじっくりと観察する。

 

「フウコさんと一緒にマダラ様に逆らってさ……。勝てると思ってるの? 今の内に、マダラ様にフウコさんの計画の事を話した方が、アンタの為よ」

「やはり髪の質は、まだまだだな。光沢が足りていない。油分を増やしてみるか」

「ああでも、もしマダラ様に言う時は、あの変な連中には言わないでね。【暁】のリーダーの人? 輪廻眼を持ってるやつね。あいつ、私嫌いだから。……私の話し、聞いてる?」

「いや、油分だけじゃあ足りないな。他に何が必要だ?」

「……………………」

 

 急に黙りこむ【彼女】だったが、サソリはぶつぶつと呟きながら考えを広げていく。

 

 どうすれば、あの人形をオリジナルに近づけることが出来るのか。

 いや。

 どうすれば、あの人形がオリジナルを凌駕することが出来るのか。

 

 考え込み―――だが、途端に、フウコは悲鳴を発した。

 

「あ、あぁあ、あぁああぁぁああああああああああああッ!」

 

 触れていた髪が、不規則に暴れだすフウコの頭に引っ張られて、手から離れていった。ジャラジャラと鎖が擦れ合う耳障りな金属音が、部屋に響き渡る。

 

「助けて、助けてッ!? 私を、誰か……ッ!」

「……面倒な事をしやがる。おい、なんだ? 俺に何が言いたい?」

「……ッ?! ―――ふふふ、ようやく、私の話しを聞いてくれるんだ」

「五月蠅くて仕方がねえからな」

「取引をしない?」

 

 虚ろな表情に戻った【彼女】は呟く。

 

「今からでも、フウコさんを裏切って、マダラ様に事情を話すなら、アンタの事は黙っていてあげる」

「取引になってねえよ」

「それだけじゃないわ。あの長門って奴―――【暁】のリーダーは嘘を付いてるって言って。本当なら、私に掛けられた呪いを解けるはずなのに、解こうとしなかったって。そうすれば、マダラ様は長門って奴を操って、私を解放するようにしてくれる。そうなったら、自由に私の身体を観察させてあげる。どう? 悪くない取引―――」

「却下だ。話しにならねえ」

「……またフウコさんをイジメるよ?」

「言ったはずだ。勝手にしろ。お前がどれだけフウコを壊そうとしても、俺が薬を使って無理やりにでも治して、フウコを舞台の上に立たせるだけだ。お前も知ってるはずだろ?」

 

 フウコの計画に協力する時に、一つの約束をした。

 

『サソリ。今後、私がどれくらい壊れても、貴方は私を動かし続けて。傀儡人形を直すみたいに、傀儡人形を動かすみたいに、計画の為に、私を動かして。どんな事があっても、どんな事が起きても、計画の遂行の為だけを考えて。私は、貴方の傀儡師の力を、信じてる』

 

「……アンタって、最低ね。人を人と思わないなんて」

「そうだな。人を人と思ったことなんざ一度もねえな。フウコの事でさえ俺は、そこらの連中よりも出来の良い人傀儡だとしか思ってない」

「これは、私の身体よ」

「フウコが表に出ている時の方が、お前よりも遥かに芸術的だ。お前を見ていると、どんな芸術品も、持ち手一つでガラクタになるのだと思い知らされる。お前もさっさと寝ろ。今度は五月蠅くするんじゃねえぞ」

 

【彼女】は、何を想ったのか、ただ何も言わずにその人格を潜めた。力なく項垂れた頭は、しかしやがて、ゆっくりと再び、起き上がった。フウコの両目からは、止め処ない涙が溢れ出ていた。

 

「……サソ、リ…………?」

 

 湿った色だったが、聞き慣れた平坦な声だった。震える瞳で辺りを見回して「ああ」と彼女は状況を思い出す。

 

「…………ごめん。また、五月蠅くして」

「気にしてねえよ」

 

 と、平坦な声でサソリは返した。

 

「夢で……私、木ノ葉にいたの」

「そうか」

「懐かしかった。私が暗部にいて、イロリちゃんが……中忍選抜試験の最終試験を受けてて。中忍になってたイタチとシスイと、私で、応援してた。だけど…………」

 

【彼女】に見せられた悪夢を思い出して、大きな涙を零した。

 

「ただの夢だ」

「……ああ、そういえば。今の時期は…………たしか……。木ノ葉で中忍選抜試験が」

「行われてるみたいだな」

「サスケくんやナルトくんは、どうしてるかな? イロリちゃんは、試験官とか、やってるのかな……。イタチはきっと、上忍だと思うから、忙しいと、思うけど……」

「うちはサスケとうずまきナルトは中忍選抜試験を受けているようだ」

 

 先ほど会った【根】の者からのリストの中に合った名前を咄嗟に伝える。

 

「そっか…………。サソリは、色んなこと、知ってるんだね……。すごいね……」

 

 フウコは真っ直ぐと、その赤い瞳でサソリを見つめた。

 透明感に溢れた視線。

 鏡のようだと、サソリは小さく思う。だが、その鏡の向こう側にいるはずの自分の姿が見えてこない。

 

『ねえ、サソリ。貴方は、何になりたいの?』

 

 暁に入ってきたばかりの彼女とパートナーを組んでしばらくの時に、そう尋ねられたことがあった。久しく尋ねられたことのない問いだった。

 

 多くの人を傀儡にしてきた。

 一番最初は両親で、その後は、気に入った造形を持った者、力のある者、とにかく芸術品として価値がありそうな―――極端に言えば、人として価値の高そうな者を、傀儡にしてきた。挙句に、自分自身も、傀儡にして。

 それらの果て。芸術の集大成を問われたのに、サソリは答える事が出来なかった。

 

 彼女の計画を聞き、手を貸そうと思った、足掛かりの疑問。

 その疑問は今でも、分からない。あるいは、思い出せない。

 

「フウコ。お前には俺が、何に見える?」

「サソリは、サソリだよ。変な事を訊くね」

「……そうか。さっさと寝ろ」

「うん。今度は……静かに寝る…………。お休み、サソリ」

 

 彼女の静かな寝息を後ろ手に、部屋を出て行った。細い廊下を戻りながら、考える。

 

 木ノ葉隠れの里のことと、自分らの立ち回りの事について。

 

 おそらく、かなりの高い確率で、木ノ葉隠れの里の平和は脅かされる。それが、大蛇丸によってなのか、それとも大蛇丸をきっかけとして他里も巻き込んだ大規模なものになるのかは、定かではない。どちらにしろ、中忍選抜試験を続行すると現火影が決定した以上、大蛇丸の後手に回るのは明白だった。

 おまけに、独自の私兵を秘密裏に持つダンゾウは、それを良しとしている節が伺える。木ノ葉隠れの里が滅ぶまでは行かせないが、その一歩手前ならば良し、と。

 

 だがこちらとしては、あまり良い事じゃない。木ノ葉隠れの里という舞台で行われるだろう血生臭い演劇をフウコに知られる訳にはいかないのだ。

 ましてや既に、フウコの友人は大蛇丸に襲われている。

【彼女】に延々とトラウマを刻み付けられ、薬の常用で感情のブレーキが壊れかかっているフウコがこれを知られれば、計画の破綻は明白だ。

 

 いや、もはや彼女が知ることは決定事項なのかもしれない。

 木ノ葉隠れの里が大蛇丸の襲撃を受けたとなれば、それなりに大きな事件だ。【暁】の耳に入らない訳がない。そして疲弊した木ノ葉隠れの里から、人柱力を取って来いと、リーダーがメンバーを招集して指示を出すだろう。

 

 ―――打つ手は、ねえか…………。

 

 考えうる限りの想像を巡らせても、妙案は思い付かなかった。

 

 頼みの綱があるとすれば……薬師カブトに目を付けているらしい、うちはイタチの存在くらいだ。彼が薬師カブトを捕え、最終的には大蛇丸を捕え、無理やりに演劇の幕を閉じさせるということ。

 

 大蛇丸の口からフウコの真実が知られる可能性は否定できないが、【暁】と今対立してしまうよりかは遥かにマシである。大蛇丸が捕えられた、という情報が舞い込んでくれば、再不斬と白を使って彼を呼び、直接交渉をすればいいだけだ。

 

 マシと言っても……最悪ではない、というくらいだが。

 

 サソリは自室に戻ると、すぐに新薬の開発に取り掛かった。

 万が一に備え、フウコの自由を徹底的に奪い取るための―――後にどれほどの後遺症を残すことになっても構わない程に強力な薬を、作り始めた。

 




 次話は、2月15日までに投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:1

投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。


 

 中忍選抜試験の第二試験が終わってから―――一週間が経過した。最終試験開始までに設けられた一カ月という貴重な期間の四分の一が過ぎたのである。しかし、あまり切迫した気分ではなかった。カーテン越しに昼頃の日差しが、部屋を鈍く彩っている。天井から吊るされているライトは薄暗く止まっていて、寝起きの視界には、輪郭がぼやけて見えた。

 

「……腹減ったなあ」

 

 うずまきナルトの独り言は当然のことながら、返事をする者はいない。

 

 目を覚ましてすぐに、空腹を感じた。いつもなら眠気を引きずりながらも薬缶に水を入れコンロにかけるのだが、ここ一週間、身体を覆う気怠さのせいで、インスタント麺を食べるのさえ億劫だった。

 

「うーん……。イロミの姉ちゃんが来てくれたら、飯食うのも楽なんだけどなあ。任務でもあったのかな?」

 

 普段なら、三日に一度の頻度でイロミが家に訪ねてくる。食材を入れた買い物袋を持ち、優しく明るい笑顔を浮かべながら「カップラーメンを捨てに来たよー」と凶悪な事を言ってくるのだ。お節介焼きで、毎回の食事には嫌と言うほどのサラダが出てくるのだけれど、料理は美味しく、今では心の底から恋しく思ってしまう。

 

 イロミの事を思い出すと盛大に腹の虫が鳴る。その音を聞くといよいよ我慢できないくらいの空腹感に苛まれてしまい、ナルトは惰性に上体を起こした。腹部に赤い渦巻き模様が描かれた白いTシャツが、上体を起こすと同時にくしゃりと皺を作る。胡坐をかいて、小さく一つ欠伸を噛みしめると目に涙が溜まった。

 身体を起こしたおかげなのか、ぼんやりとした気分は微かにだけ軽減する。おもむろに頭を掻いていると、真正面にある窓の縁に置かれた一つの写真立てが目に入った。

 

 カカシ、サクラ、サスケ、そして自分。第七班のメンバーが映った写真が中に収められている。

 

 全員が満面の笑みを浮かべた治まりの良い画―――という訳ではない。全員が別々の意図を表情に浮かべた、むしろ、ちぐはぐ感が否めない画だ。憎たらしいサスケの姿が自分と一緒に映っているというのも気に喰わない。

 

 けれど、今は、その憎たらしさも―――そして写真が、自分の繋がりを再確認させてくれることへの嬉しさも―――生まれることはなかった。

 

 ぽっかりと穴が開いたかのような虚しさだけが、首の裏を撫でるだけ。その空虚さが原因で、ナルトはここ一週間、修行をしようと思えなかったのだ。

 

 中忍選抜試験の……最終試験。

 

 第七班の中で、そこに至ったのは、自分だけだった。

 サクラもサスケも、第二試験の後に行われた最終試験の前試験で失格になってしまった。

 

 前試験では、第二試験で合格した者同士の、一対一での戦闘である。サクラは山中いのと戦い、相討ちの末に両者不合格となった。実力云々は全くの度外視にして、二人とも、持てる力を全て出し切った後腐れの無い試合だったように思う。彼女が最終試験に進出できなかったのは、同じチームとして残念だったけれど、試合結果に異議を唱えれる隙があるほど緩やかな試合内容ではなかった。

 

 だから、納得はできないけど、納得するしかない……という、よく分からない決着を、ナルトは内心で下していた。

 

 だが―――。

 

「……二次試験の時、一体何があったんだってばよ」

 

 前試験において。

 サスケは、日向ネジと対戦した。

 日向―――つまり、対戦相手は、木ノ葉隠れの里において名門の一族と称される者の一人だった。

 

 結果は、サスケの敗退。サクラと同じだ。しかし、サクラの時とは違い、サスケの失格は消化しきれるものではなかった。

 

 サスケは前試験を受ける以前から、右足を負傷していた。第二の試験の時から、という事である。大蛇丸との戦闘で気を失い、そして目を覚ました時には、サスケの右足首の骨が砕けていたのだ。足首の骨折という診断は、前試験終了後に病院へ運ばれた際に付き添いだったカカシが後で教えてくれたことである。しかし、ネジとの戦闘の時点で既に異常は見て取れた。

 

 ただ立っている時でさえ、左足で全体重を支える姿。柔拳と呼ばれる体術を駆使したネジの攻撃を、写輪眼で予測しながらもギリギリでしか躱すことのできない動き。

 

 まともに体術で反撃することのできないサスケは、火遁の術で一矢報いようとした。それしか、攻撃手段が残されていなかった。

 

『回天ッ!』

 

 だが、ネジが使用する防御術を前に、サスケの火遁が届くことはなかった。

 

 試合は、ネジの攻勢にサスケが躱し続けるという、一方的な体裁を成し、やがて試合はサスケの体力の限界と共に静かに終わりを告げた。試合後に残ったのは、ネジの実力が合格者の中でも上位にあるのだという、合格者やチームを担当する上忍たち殆どの、無言の評価だった。

 

 ―――違う!

 

 ナルトは、心の中で叫んだ。

 

 ―――サスケはもっと、すげーんだ。

 ―――もっと強くて、もっと……もっともっと……ッ!

 ―――怪我さえしてなけりゃ、あんなやつに負けるわけがねえんだッ!

 

 しかし最後まで、言葉を口から放つことはなかった。

 

 担架に運ばれながら、足首の激痛と、ネジから受けた柔拳の痛みに耐えるサスケ。表情を歪めながらも、こちらを見上げ、細く開いたサスケの黒い瞳が、何も言うなと、語ってきたからだ。

 

 理不尽だと感じた。

 サスケが負けた事にではない。いや、負けた事も、やはり理不尽だと感じてしまうのだけれど、何よりも、全力で戦う姿を見ることが出来なかったのが、嫌だった。

 彼は強い。気に喰わないことだし、腹立たしい事ではあるけれど、強いのだ。全力を出せば、きっとサスケは、最終試験に出場できたはずなのに……。

 

 サスケが最終試験に出場しないという事への苛立ちと、彼と一度も拳を交わらせることも無く自分が最終試験に出場してしまう事への虚しさが、ぐちゃぐちゃと混ざり合って、奥歯の辺りが痒くなりそうになった時、家のインターホンが無邪気になった。

 

「……イロミの、姉ちゃんか?」

 

 真っ先に彼女の顔が思い浮かんだ。自慢ではないけれど、家に訪ねてくる者は極めて限られている。空腹のせいなのか、一番家にやってくる回数が多いからか、浮かべたイロミの笑顔を保ちながら、ナルトは家の玄関を開けた。

 

「遅いってばよー、イロミの姉ちゃん。俺もう、背中と腹がくっつきそう……で…………」

 

 昼の眩しい光が辺りの建物を反射して、つい瞼を細めてしまう。狭まった視界の先にイロミが立っていることを前提にしていたが、立っていた人物に、細めてしまった瞼が自然と開いてしまった。

 

 うみのイルカは、暖かな笑顔でナルトを見下ろす。

 

「悪かったな、ナルト。イロミじゃなくて」

「イ、イルカ先生!?」

 

 ナルトの驚いた表情を楽しむかのように、イルカは「よっ!」と無邪気に白い歯を見せた。

 

「どうしてイルカ先生が、俺ん家に?」

「ナルト、もしかしてイロミと何か約束でもしてたのか?」

「え? いや、何もないけど……」

「なら、これから一楽のラーメンでも食べに行かないか? 今日は俺の奢りだ。好きなもの食べていいぞ!」

 

 大好きな一楽のラーメンを自由に食べる事が出来る。普段なら大喜びで飛び跳ねる所だけれど、正直、先ほどまでの気分を引き摺ってしまっているせいで、中途半端に笑う事しかできなかった。

 

「??? どうしたんだ? いつもなら、大はしゃぎするのに」

 

 ナルトの心情をすぐさま気取ったイルカは、不思議そうに頭を傾けた。内心では大慌てで、ナルトは言い訳を呟く。

 

「……イルカ先生。今日はお金大丈夫なの?」

「バカにするなっ! アカデミーの教員の給料は高いんだぞっ!」

「いやだって、前に奢ってもらった時だって同じこと言ってたけど、結局最後は『もうその辺でいいんじゃないか?』って震え声だったじゃん」

「あの時は偶々だっ! 今回は、ちゃーんと持って来てる! とにかく、食いに行くぞ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 食欲というのは単純なもので、一楽の屋台から出てくるヘビーで刺激的なスープの匂いを嗅いだだけで、空腹を消化したいという積極的な感情が湧き上がってきた。中忍選抜試験の事への考えは、屋台のカウンターに置かれたトッピングを全部乗せた特盛のラーメンを前に、一時的に姿を隠してしまった。

 

 あっという間にラーメンを平らげたナルトは、快活な笑顔を浮かべて、普段の黄色を基調としたジャケットの上から少し膨らんだ腹を擦っていた。

 

「ごちそうさま! イルカ先生! 美味かったってばよッ!」

「お前……本当に容赦ないな」

「まだまだ甘いってばよ、イルカ先生」

「…………ま、お前の中忍選抜試験最終試験の前祝いだからな」

 

 薄くなった財布を懐にしまうイルカの発言に、ナルトは瞼を大きく見開いた。

 

「え? これってそういう事だったの!」

 

 イルカは無邪気に笑いながら頷いて見せた。

 

「タイミングは中途半端だが、お前が中忍になったら時間も取れないだろうし、俺も時間が合うとは限らないからな」

「まだ中忍になったわけじゃねえのに」

「最終試験に出場するだけでもすごい事なんだぞ? 参加者全員が脱落して、最終試験そのものが行われなかったなんてこともあるくらいだ。軽い祝い程度してもおかしくない」

 

 恩師であるイルカに、まだ中忍になったことが確定していないとはいえ、祝ってもらえるのは嬉しかった。もし自分に両親がいたら、こんな事をしてくれるのだろうかと想像してしまうほどに。

 

 だけれどその想像は一瞬だけで、頭に過るサスケの痛みに歪んだ表情が気分を重くした。普段なら「じゃあ、中忍になったらもっと豪勢にしてくれってばよ!」などと、勢いに任せて言うはずなのに、何も言えなかった。

 

 その隙に生まれてしまった、数瞬の沈黙。

 

 イルカは、その違和感を見逃しはしなかった。

 

「何か……悩みでもあるのか?」

「え?」

「昼頃になっても、家に閉じこもってたからな。いつものお前なら、最終試験に向けて修行しているはずなのに。玄関で顔を見た時も、お前、何だか困った顔もしてたしな」

「……………………」

「解決できるか分からないが、話しを聞くくらいなら、してやれるぞ?」

「……イルカ先生には、隠し事が出来ねえってばよ」

 

 苦笑いを浮かべたナルトは、一度大きく深呼吸をしてから、スープを飲み干した空っぽのどんぶりを見下ろした。一楽の店主は偶然なのか、カウンターから姿を見ることは出来なかった。

 

「イルカ先生は、最終試験の参加者のこと、知ってんの?」

「ああ。お前と同期で最終試験に行けたのは他に、ヒナタとシノ、シカマル、だったか」

「どう思う?」

 

 ナルトは真っ直ぐにイルカを見た。イルカは何かを察したかのように、頷いた。

 

「サスケのことだな?」

「実はさ……あいつが不合格になったのは…………俺の、せいかもしれねえんだ」

 

 サスケの怪我のこと、そしてその怪我のせいで前試験で敗れてしまったことをイルカに伝えた。

 

「……カカシ先生は、運も実力の内だって言ってた。戦争の時とか、達成困難な任務を言われる時があるって。自分の力以上の事を求められる時もあって、だけど、忍は任務を全うしなければいけない。怪我をしてるとかしてないとか、そんなのは、現場じゃ言い訳にならねえって」

 

 似たようなことは、第一の試験の試験官も言っていた。

 どのような事態が待っているかも分からない任務においても、任務が下された以上は全うし、見事にクリアしなければいけない。カカシの言う【運】というのは、つまり、達成困難な任務が自分に任されるかどうか、あるいは、任務で待ち構えている困難とバッティングしてしまうかどうか、という事なのだろう。

 

『サスケは運が悪かったと言えば、悪かった。第二の試験を突破した中でも、一番悪いだろう。だけどな、運程度に負けてしまうような忍じゃあ、中忍にはなれないよ。おそらく、サスケもそのことを理解したうえで、文句の一つも言わなかったんだろうな』

 

 と、カカシはそうも言っていたのだ。

 

 もしも自分がサスケと逆の立場だったら、きっと、彼と同じように、言い訳などしない。だけどやっぱり、納得できない。

 

「なんつーかさ、あいつが最終試験に出ないって思うと、やる気が出ねえんだってばよ。何か、違うっていうか、なんていうか……。しかも、俺が最終試験に出るって言うのも……」

「修行をする気にならない、か……。だけどな、中忍選抜試験は待ってはくれないぞ?」

「分かってるってばよ……。俺は火影に絶対になるって決めてる。だけどさ……」

「もしかして、サスケに悪いって思ってるのか?」

 

 そう指摘されて初めて、ナルトは自分の心を理解したかのように、小さく頷いた。罪悪感が、ずっと、あったのだ。

 

 負傷していなければ、ネジに負けることなんてなかった。本来の力を出していれば、自分が悔しいと思ってしまうほどの実力を叩きだして、勝っていたに違いない。

 

 本来あるべき結果。妥当な評価。それらをを歪めてしまったのは、自分が……第二の試験で気を失ってしまっていたからだ。

 

 修行をする気が起きなかったというのは、本心ではない。

 修行をしてはいけないと、思っていた。

 だから、一週間も何もしなかった。

 

 一週間も、木ノ葉病院に入院しているサスケの顔を見に行きすら、しなかったのだ。

 

「中忍選抜試験は今年だけじゃないってのは、分かってる。来年受験すれば、あいつはぜってー合格する。けど、このまま俺が中忍になっちまったら、何だかあいつを利用したみたいで、後味が悪いんだってばよ」

 

 きっと、中忍になっても喜ぶことが出来ない。中忍にはなりたいし、火影になって、自分の夢を実現させたい。だけどどうしても、罪悪感が背中を引っ張る。

 夢を叶えたい自分と、罪悪感を抱いている自分。

 本当の自分の感情がどっちなのか、それすら分からなくなって、呆れてしまう。呆れて、そして、泣きそうになっていた。

 どうすればいいのか、道に迷ったみたいに、泣きたくなってしまった。

 

「大丈夫だ。サスケはそんなこと、思わないよ」

 

 頭を、撫でられた。いや、軽く手のひらで叩かれたと言った方が、いいかもしれない。明るい声で、あっけからんとした笑顔を、彼は浮かべた。

 

「それはお前が一番、分かってることじゃないのか? あいつがそんな小さな事を言うような奴だって、お前は思ってるのか?」

「……思って、ねえけどさ…………」

「もしお前が中忍になって、サスケが万が一……いや億が一にも、文句を言って来たら、その時はあれだ、もう一回下忍からやり直せばいい。それで一緒に試験を受ければ問題ない」

「いや、それはだけど……」

「問題ない! どうせ今回で中忍になれるんだったら、次にお前が受けても結果は変わらない。サスケだって中忍になれるのは間違いないんだからな」

 

 確かに彼の言うように、そうすれば問題はないだろうけれど、今の問題が片付いている訳ではないように思える。しかし何かを言おうとすれば「とにかくだ、ナルト」と有無を言わせない迫力をイルカは発揮してきた。

 

「今回の試験結果がどうなろうと、お前一人のものじゃない。カカシさんだったり、サクラだったり、それにサスケだって、お前を期待してると思うぞ? その期待を変な形で裏切ることだけは絶対にしちゃだめだ。それは、分かるな?」

 

 ナルトは頷く。

 

「俺だって、お前に期待しているんだぞ? だから、とにかく全力は出せ。お前の得意なことだろう。もしその後、何か困ったことがあったら、また相談に来い。いいな?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 久しぶりに見る木ノ葉の夕焼け空は、望んでもいないのに懐かしさを運んできた。

 

 酒を呑んだせいなんだろう、と綱手は空を見上げながら思った。木ノ葉の里の中におけるあらゆる経費は全て、暗部持ちとなっている。イタチと新しく、そういう条件を結ばせたのだ。どんな事をしてもタダという破格の待遇なため、里に来てからは豪遊しっぱなしである。普段から賭け事で所持金の九割以上―――綱手の所持金の殆どは、金貸し屋から騙し取ったものなため、そもそも彼女の物ではないのだけれど―――を溶かし、慢性的な貧困状態だったせいで、リバウンドで豪遊三昧。

 泊まっている宿泊施設も一等もの。朝昼晩と贅沢な食事に包まれ、日中に好きな酒を浴びるように呑む。里の外では考えられない生活である。

 

 今日は、少し飲み過ぎてしまったようだと、綱手は自身の顔が赤くなっていることを自覚する。偶々、美味しい酒に巡り合ってしまい、酒屋の店主もなかなかどうして快活な男で、会話の馬が合って、結果的に多く飲まされてしまったのだ。

 まあ、支払いは全て暗部なため、困ることはないのだが、少し酒は控えようと自戒してしまうほどには酔っぱらっている。血行が良くなった首筋に、夜の湿気を感じさせる涼しい風がちょうどいい。

 

 特に目的も無く道を歩いていた。夕涼みとでも言うのだろうか、酒を呑み過ぎたせいで、用意されている筈であろう宿泊施設の懐石料理を食べ切れる自信が無かった。少なくとも、もう少しだけ時間を置かせてほしいという意味もあって、綱手はぶらぶらと散歩しているだけだった。シズネは先に宿泊施設に帰らせ、夕食の時間を遅らせるようにさせた。今は、つまり一人である。

 

 西から送られてくる夕陽。東の空はもう紫色で、立体的でありながらも輪郭はぼんやりとさせる幾重もの雲たちと、その向こう側の星々。いずれも、幼い頃に、ゆったりと見た光景だった。

 

 戦争が起こる前の、平穏だった日々。むしろ、戦時中に空を見た記憶なんてほとんどなく、ましてや空そのものを見ようとすらしていなかった。

 

 戦時中は、大切な人と空を見ただけだ。

 ただ、それだけ。

 その時の空気は、辺りから伝わってくる里の風景からは伝わってこない。

 戦争の空気が無い、平穏だ。

 

 自分と、自分が大切に想った人がいない、平穏。

 けれど、大切な人が願った平穏でもある。

 喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。酔ってしまった意識では、線引きが出来ない。ただただ、昔の空気を―――そう、とても昔の―――思い出すだけだ。

 

『綱手様、帰りましょう。扉間様が心配しています』

 

 綺麗な声で、平坦な声。

 いつも空ばかりを見上げていた、灰色の髪と灰色の瞳を持つ少女。無表情で、人形を強く連想させる雰囲気を持つ彼女の事を思い出した。

 

『アンタだけ帰ればいいでしょ』

 

 木の上で蹲っていた自分は、真下からこちらを見上げる彼女に、折った枝を投げつけた。

 

『大叔父様は、アンタの方が大切なんだから』

『そんなことはありません』

『嘘だ』

『嘘じゃありません』

『嫌だって言ってるのよ。フウコ(、、、)は私の世話係でしょ。私の言うこと聞いてよ』

『お世話をするだけであって、私は綱手様の召使ではありませんので』

『人形みたいなこと言わないで』

 

 今度は少し大きめな枝を投げつける。思い切り投げているというのに、彼女は瞬き一つ怖がることも無く、人差し指で払ってみせた。それだけの動作に、堪らなく憎らしいと思ってしまう。

 

 いつだって彼女は大切に想われている。少なくとも、自分の目にはそう見えた。大叔父である扉間に愛され、多くの技術を教えてもらっている。家族でも何でもないのに、人形みたいに無表情なのに。

 世話係として毎日顔を合わせているが、自分よりも扉間や他の人たちに愛されている彼女が大嫌いだった。

 

 年を取って、思い返してみれば。

 あの当時の自分は、あまりにも無知だった。

 彼女がどういった境遇にいたのか。彼女がどれほど里に尽くそうとしていたのか。

 幼さを言い訳に、家族を言い訳に、彼女を邪魔者扱いして、彼女と接しようとも考えなかった。

 

 ―――私も、歳を食っちまったなあ……。

 

 フウコの事を思い出し、その当時の自身のクソガキ具合に呆れながら歩いていると、いつの間にやら、小さな展望台のようなところに立っていた。半円形に整えられた崖際の台。設けられている柵は大人の胸程の高さまである。夕陽はすっかりと消えてなくなり、西の空には微かに夕陽の残り香のようなピンク色の空だけがあった。

 

「……お前はそこで、何してるんだ? 自来也」

 

 展望台には電柱はあったものの、まだ灯りは点いていない。だが、柵の上に乗っかって、変わらず望遠鏡を持っている彼の姿は、薄暗闇でも腹立たしい程の視界に入ってしまう。

 

 自来也は声をかけられて初めて綱手に気付いたのか「おう、綱手か」と、慌てた様子も無くこちらを見下ろしてきた。

 

「なんじゃお前……昼間っから酒を呑み歩いておったのか」

「当たり前だろ? 私の経費はぜーんぶ、あのイタチって小僧が払ってくれるんだ。遊ばない方が失礼ってもんだし、それに、他人の金で遊ぶほど楽しいものはないからねえ」

「はぁ、昔のお前はもうちっと色気があったというのに、今見てみるとただのオッサンじゃな。歳は取りたくないのう」

「歳を取れば皆、ジジイかババアのどちらかになるんだよ。お前だってジジイじゃないか。しかも、覗きをするような。お前は、昔から全然変わらないようだがな」

 

 本当に、変わらない。まるで覗きが趣味のクソガキがそのまま図体を大きくして白髪になっただけのようにしか思えない。けれど、その変わらなさが微かに、羨ましいと思っていたりもする。

 

「それで?」

 

 と、綱手は自来也と同じように柵の上に立ってみせた。真下はそれなりの高さのある崖で、落ちたら骨の一本や二本は折れてもおかしくはないだろう。しかし、綱手も、そして自来也も気にはしない。

 

「またお前、覗きをしていたのか?」

「ワシを何だと思っておるのじゃ……」

 

 自来也は子供っぽく下唇を伸ばしながら、持っていた望遠鏡を綱手に渡して「見てみよ」と。言われた通り、彼が見ていた方向を見てみると、演習場に一人の少年がいた。

 

 黄色い短い髪と、黄色を基調としたジャージを着た少年。一見、もう夕飯の時間帯であるにもかかわらず修行をしているように見えるが、綱手はすぐさま、彼の顔立ちが誰かに似ていることに気が付いた。

 それだけではなく、今まさに少年が右手に作り出してみせた球形のチャクラの塊を見て、確信する。

 

「……あのガキが、ミナトの息子か?」

 

 自来也は頷いた。という事は、九尾を封印された子でもある、と思い至る。

 

「まさかお前、この里に戻ってきた理由は―――」

「それは違うのう。ワシは純粋に、取材に来ただけだ。ナルトに会いに来たわけじゃない」

 

 ナルト。それが、あの少年の名前。

 イタチが語っていた、九尾の子供。

 

「だがあのガキ、螺旋丸を使ってるぞ。お前が教えていなかったら、他に誰がいるんだ?」

「さあのぅ。ナルトの上司のカカシか、それか他の誰かか。どちらにしろ、分かったところで何も変わらん」

「気にならないのか?」

「まあ、ナルトに直接訊けば分かることだしの」

 

 ナルトが手に作った螺旋丸は、術の開発者であるミナトよりも何回りも大きなものだった。オリジナルを知っている綱手からしたら、あまりにもお粗末で不完全なもの。それを本人は分かっているのか、作ったチャクラの塊を近くの木に放つことなく、大きさを小さくしようとした。しかし、チャクラの塊は暴発し、ナルトはゴロゴロと後ろ向きに地面を転がっていった。

 

「ミナトと違って、才能は無さそうだな」

「ワシは、なかなか捨てたもんじゃないと思っておるがのう。才能なんてえのが、突っ立ってて空から降ってくるもんじゃねえってのを知ってる顔じゃ、あれは」

「なんだ、随分と買ってるじゃないか。教え子の子供だからって、贔屓でもしてるのか? 別にお前が修行を付ける訳でもないのに」

「―――いや、これからワシは、ナルトに修行を付けるつもりじゃ」

 

 別に驚くほどの発言ではなかった。望遠鏡を渡された時の自来也の顔を見れば、ナルトに対して微かな特別な感情があるというのは、すぐに分かったからだ。歳を取ると、腐れ縁のバカの考えの一つや二つ、分かってしまうものである。

 

 望遠鏡を投げるように自来也に返すと、彼は言う。

 

「どうじゃ? お前も一緒に―――」

「あり得ないな。断る」

 

 自来也は小さく笑った。

 

「昔を思い出すのう、そのセリフ……じゃが、少し事情が複雑でな…………いずれ、お前の元にも報せが来るだろう」

「どういう意味だ?」

「この里に、大蛇丸がいる」

「…………そうか」

 

 と、淡々に返事をした。

 驚くことも無く、怒ることも無い。

 

「イタチの奴が、ワシの所に来ての。最初は、里の警備を手伝ってほしいと頼まれた。中忍選抜試験に紛れて大蛇丸が何かをしようとしているようでの。じゃが、ワシが動けば、中忍選抜試験に顔を出す大名共が五月蠅く言い、同盟里にも不用意な勘繰りをさせてしまうからのう。じゃからワシは、里の警備は断った。イタチの奴も、納得してくれての。代わりに、ナルトのボディーガードを頼まれた」

「大蛇丸の狙いが、あいつだと?」

「おそらく、九尾じゃろうなあ。イタチが調べた限りでは、大蛇丸はナルトと接触しておる。まず、間違いないじゃろう。んで、なら、ボディーガードも兼ねて、修行を付けることにした。ナルトの上司のカカシにも、許可を得ておる」

 

 まるで状況の流れで仕方なく、とでも言いたげな口ぶりだったが、再び望遠鏡でナルトを見る自来也の横顔は、孫を見守るような優しさがあった。

 

「私には関係のないことだな。里がどうなろうが、知ったことじゃないよ」

「…………まあ、近いうちにイタチが似たような事を伝えにくるじゃろう。その時は、お前の好きにすればいい。じゃが、万が一にも、大蛇丸に手を貸すようなことだけはするなよ?」

「ふん、誰があいつの手なんざ」

「そうか、じゃあ、もう何も言うまい」

 

 望遠鏡をしまい、柵から自来也は降りた。展望台からさっさと離れていく自来也は、最後にこう言い残した。

 

「これからは、シズネと一緒にいるようにしろ。もしかしたら、里に血が流れるかもしれんしのう」

 

 嫌な予感を残していくような言葉は、すっかり夜となってしまった空に吸い込まれていった。

 




 次話は2月26日までに投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:2

今回は短めで、前回同様、殆ど話が進みません。


 睡眠で獲得する【夢】というのは矛盾の塊だ。そもそも、夢を作り出している本人の意識が、疑似的な体験をするその世界を【夢】だと認識していないことが、おかしなことなのだ。だからこそなのか、無秩序を大いに蓄えた【夢】の中では、贅沢な体験が得られる。

 

 さながら、今まで食べてきた贅沢な料理の数々が空から降ってくるようなものだ。大好きな料理が雨霰と降り注ぎ、料理のスープや材料の一部が口端から入り込んでくる。美味しい美味しい、もっと食べたいと思っていても、料理の欠片は次々と口端から流れ込んで、舌の上を転がる味を塗り替えてしまう。どんなに脈絡のない味のレパートリーでも、どれもこれもが衝撃的な味の数々で、不思議だとは露として思わない。

 

 しかし、当然の事ながら。

 

 その逆というのも、当たり前のように、降ってくる。贅沢な夢と同じように、全く逆のそれも、無秩序にそして連続的に襲ってくる。そして、一度見てしまえば、決して目を覚ますまで終わることのない、という違いが、所謂【悪夢】にはある。

 

【夢】の空模様は、三色だった。

 

 賑やかなオレンジ色。

 暖かな薄い赤色。

 冷たさと美しさを重ねた藍。

 

 それら三色の中に浮かぶ無数の星々を、【夢】の中のイロミは見上げていた。しかし、意識は空に何かしらの想いを秘めている訳ではなかった。気が付けば、突然として空を見上げていただけだったからだ。地面は真っ白で、陰影は見えない。彼方まで平らな地面。それにしては、空を飛んでいるかのような錯覚が鎮座している。

 

 イロミの体躯は、アカデミーの頃のそれになっていた。

 

「あ、フウコちゃんっ」

 

 空を見上げていた視界の下に入り込んだ友達の頭に視線を向けると、やはり彼女がいた。彼女もアカデミーの頃の姿だ。視界の右から左に歩き去ろうとする彼女を、イロミは呼び止めた。

 

「ねえねえフウコちゃん。これからどこかに行くの?」

 

 まるでスキップするかのような軽い足取りで彼女のすぐ後ろを付いていくと、彼女はこちらを振り向いた。

 

 赤い瞳と、まだウェーブの掛かっていない黒髪。無表情な顔を向けてくれた。たったそれだけで嬉しくなって、笑顔が出来てしまう。

 

「私さ、また、冒険に行きたいんだ。夜は、ちょっと怖いから……昼間が良いんだけど…………」

『………………』

「あ、それにさ。前にみんなで行った神社にまた行くなら、今度は色んなもの持って行こ? 秘密の財宝を今度は見つけたいんだ」

『…………えーっと、ごめん。訊きたいことがあるんだけど』

「なに?」

『君、誰?』

 

 彼女は無表情に顔を傾けた。

 

『私、君のこと知らないけど。それに、どうして、皆で神社に冒険しに行ったこと知ってるの? あのことは、私と、イタチと、シスイと、あとイロリちゃんしか知らないのに』

「フウコちゃん、どうしたの?」

『どうして?』

「イロミは私だよ」

『変な嘘、言わないで。貴方はイロリちゃんじゃない』

 

 彼女は人差し指でイロミの右手を指さした。

 

『イロリちゃんは、指は五つだよ。六本じゃない』

 

 右手を見下ろす。

 小指よりも外側。そこに、中指のように長い指が、逆向きに生えていた。六本目の指は自分の意志とは関係なく動いている。

 

「待ってて。じゃあ、すぐに………えい!」

 

 指の存在に違和感を覚えることなく、イロミは雑草を引き抜く要領で六本目を引き千切った。

 

「ほら? これで―――」

『イロリちゃんは手首に指なんか生えてないよ』

「あ、あれ?」

 

 今度は左手首に指が生えていた。人差し指と親指だ。慌ててイロミはそれを引き千切る。だけど、指は引き千切れば引き千切るほど、別の箇所に指が生えてくる。

 

 二の腕に、膝に、首に、頬に。

 

 勝手に動く指が生えてくる。目の前に立つ友人は無表情のままだけれど、指が生える度に、視線が冷たくなっていくような気がして、泣きたくなる衝動を必死に抑えながら、指を千切り続けた。

 

 そして身体中が、指に埋め尽くされようとした、その時……彼女の隣までに、何かが歩いてきた。

 

 何か。そうとしか表現できない。

 黒い靄のようなものだった。子供が、寸胴な大人の輪郭を、黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗ったみたいないい加減な形。黒い靄がもぞもぞと、ノイズのように呟いた。

 

『ごめんね、イロリちゃん。うん、行こ?』

 

 黒い靄と一緒に、フウコは遠くへ行ってしまう。

 

「ま、待ってよ! それ、私じゃないよ! ねえ、フウコちゃん、待ってッ!」

 

 涙声で叫ぶが、フウコと黒い靄は仲良く手を繋ぎながら離れていく。その先には、イタチとシスイが待っていて、二人を温かく迎え入れた。誰も、黒い靄に疑問を抱いていない。

 三色の空が離れていく。空が真っ暗になって、地面もまた、黒くなる。自分の姿さえも見えなくなってしまうほどの暗闇は、大好きな三人の姿を呑み込んでしまった。

 

 暗闇に呑み込まれる瞬間、大好きな三人は、気持ちの悪い化物でも見るかのような、視線を最後に送っていた。

 

「みんな……、行かないで。私、イロミだよ…………どうして……、身体に指なんか……ひッ!?」

 

 指が伸びて、そのまま、手が、そして腕が、生えてきた。

 腕が一斉に、イロミの身体をへし折ろうと蛇のように絡みついてくる。

 

【これ、私の身体だから、返してよねッ!】

 

 一本の腕が囁くと、次々と腕たちが絶叫する。

 

【違うよ、僕のだ!】

【俺のだろうがッ!】

【あたしのだって。邪魔すんなよ!】

【私の身体】

【ずっと返してほしかった身体】

【いっぱい遊びたいな】

【欲しいものがあるから、買い物しましょう】

【美味しいものを沢山、たーくさん、食べたいな】

 

 好き勝手に喚き散らす腕たちが、イロミの身体を粘土でも捏ねるかのようにぐちゃぐちゃにしていく。両腕は肩の内側に押し込まれ、両足は何回も捻じられてしまう。腹部は内側から生えてきた腕に引き裂かれてしまった。

 

 自分が、どんどんと、別のモノに変えられていく。

 

「やだ……、やだッ! フウコちゃん、イタチくん、シスイくん……。助けてぇッ!」

 

【あの三人なら来ないに決まってるじゃん】

【そうそう。アンタは他人なんだから】

【化物なんだから】

 

「違うッ! 私は、フウコちゃんの友達で、イタチくんやシスイくんも―――」

 

【フウコって奴からは、友達じゃないって言われただろう。きっと、気持ち悪いって言ったのは、お前の身体の事を言ってたんだよ】

【きゃはは! 天才なイタチとシスイが、本当に無能なアンタを友達だと思ってるわけないじゃん】

【元々、友達じゃなかったんだよ】

【あの三人にとって、友達のイロミなんていないの】

【君が勝手にそう思ってるだけ。勘違いだよ】

【私たちを】

【俺たちを】

【皆を】

【勝手に混ぜて出来た化物なんだから】

 

「違う違う違うッ! みんな……みんな、私が友達だって知ってくれてるッ! フウコちゃんだって、何か事情があって、里を出て行ったんだッ!」

 

【でも、化物だって知らない】

【本当のお前は化物】

【しかも出来そこないの】

【気持ち悪い】

【才能無いから】

【気持ち悪い】

【他人の身体で生まれたから】

【気持ち悪い】

【自分が友達だと思っている相手から、友達だって思われてるって勘違いしているから】

【気持ち悪い】

【気持ち悪い】

【死んじゃえ】

 

「や、やだ……。フウコちゃん、たすげ……ぎゃ、ぶぇ」

 

 口内を指が這いずり回る。舌の上を動き、歯を揺るがし、歯茎を爪が傷付け、無理やり口を開かせようと―――いや、顎ごと、身体を引き裂こうとしてくる。

 

 涙をボロボロと零しながら、必死に口を閉じる。

 だけど、口を閉じてしまったら、声を出せない。

 遠くに行ってしまった友達に助けを呼べない。

 

 真っ暗闇の中で、たった一人。

 馬鹿みたいに、たった一人で、自分の中の誰かと戦う。

 

 長い時間、イロミは【夢】の中で泣き続けた。

 

 口の中の腕たちが、イロミの顎を引き裂くまで。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「―――貴方が昏睡状態にある間に、幾つか簡単な検査を行いました。今のところ、感染症などによる二次的な症状は見受けられませんが、どこか、身体に異常を感じる所はありますか?」

 

 暗闇の向こうから、比較的近くにいるであろう担当医の言葉に、イロミは力無く首を横に振った。昏睡状態から覚めたばかりで、身体は泥のように重苦しいせいか、あまり力を加えられない。電気で上部を高くしたベッドに、イロミは抵抗なく背中を預けていた。

 

 眼球を失った。

 

 どこか罪悪感を抱いているような弱々しい口調で、つい先ほど、担当医はそう宣告した。ぽっかりと空いてしまった瞼の奥には、顔の筋肉を崩さないようにと義眼が埋め込まれている感触がある。閉じた瞼の上から後頭部にかけて、義眼が零れないように包帯が巻き付けられていた。悪夢から目を覚ましたばかりのせいか、着ている病人服は汗臭さと脂っぽさで、不愉快だった。

 

 イロミの虚ろな様子に、担当医は小さく息を呑み込んだ。

 

「……これは、まだ先の話しなのですが…………。もし、貴方が希望するのでしたら、眼球の移植手術を、私共は考えております」

「そう……ですか…………」

「ご自身の体質については、ご存知ですか?」

「はい……。以前、入院した時に、聞かされました」

「移植手術は、成功する公算が高いと考えています」

「……すみません。まだ、その…………やっぱり、先の事ですから……。それに、起きたばかりで、あまり考えられないんです…………。喉も、乾いちゃいました」

「そうですね。ええ、確かに。すみません。食欲はありますか?」

「しばらくは、点滴での対応だというのは、知ってます。私、これでも、医療忍術の知識はありますので。自分で大丈夫なようだったら、あの、一応、コールをするので……」

「些細なことでも良いので、気になることがあったら、すぐに呼んでください」

 

 担当医が立ち上がるのが分かった。右脇に座っていた。部屋には他に、女性の看護師がいて、担当医が立ち上がると同時に小さく頭を下げてくれた。

 

「……あの」

 

 部屋を出て行こうとする担当医を呼び止める。担当医が振り返り、初老な顔をこちらに向けて「なんでしょうか?」と呟いた。

 

「窓だけ、開けて貰えませんか? 暑くて……」

 

 部屋には、自分一人だけになった。担当医が最後に開けてくれた窓から、少なくとも室内よりは涼しい風が入り込み、汗ばんだ頬を冷ましてくれる。カーテンが揺れて、カーテンレールの石がカラカラと小さく鳴った。

 

 ―――何も、見えない……。何だか、懐かしい。

 

 孤児院にいた頃以来の、真っ暗な世界だった。

 遠も近も分からない。

 黒も白も見て取れない。

 分かるのは、触れる空気や物の感触と、唇と舌を撫でる湿気、鼻から入ってくる空気の香り、音。何も見えないせいか、残った四つの感覚がクリアな気がする。盲目だった頃の幼い自分もこんな感覚だったのだろうかと、ふと思った。それにしては、あまりにも、分かり過ぎてしまうような気がする。

 

 部屋の広さが、空気の流れと音の反響で分かってしまう。

 床と天井の高さが、湿気と埃臭さで分かってしまう。

 左腕に刺された点滴の、その味が―――どういう訳か、分かってしまう。

 

 鋭敏過ぎる感覚に、イロミは咄嗟に右手首で自分の胸の中央に触れた。

 

 ―――毒の、せい……なのかな………。

 

 上に着ている病院服の下の自分の身体は、やはり、肉が無い。肋骨の感触を手首でなぞりながら、大蛇丸に噛まれた傷を探すが、見つけられなかった。

 

 ―――それとも……飲まされたものの、せい?

 

 記憶を探すが、眼球を抜き取られてからの記憶が不確かだった。大蛇丸が何か黒い丸薬を取り出したところまでは覚えているが、飲まされたかどうかは分からない。おそらく、飲まされたのだろうという、口の中を何か長いモノが通り抜けたような、ぼんやりとした舌触りだけを頼りにしたものだったが、右手の指で唇をなぞっても、上手く思い出すことは出来なかった。しかし、状況的を顧みて、飲ませないという選択肢はあり得ないだろう。

 

 丸薬のせいでもあるのだろうか。仙人モードを思い起こさせるほどの、苛烈なまでの感覚は、室内を飛び越えて廊下にいる人物すら認識できてしまう。

 

 二人、立っている。先ほどの担当医と看護師ではない。面を付けていて、手甲を装備している。背負っているのは刀。暗部の人間だと、イロミには分かった。ドアの両脇に門番のように立っている姿からは、警戒が感じ取れた。警戒は、外側にも、そして中にいるイロミにも向けられている。

 

 ―――監視されてる。イタチくんが、指示したのかな? それとも、ヒルゼンさんが……?

 

 どういう経緯か分からないが、大蛇丸と接触したことは知られているのだろう。ましてや……大蛇丸の言葉を借りれば、自分は以前から、彼との繋がりを疑われていたらしい。

 

 暗部が監視しているという事は、ヒルゼンか、イタチが命令したという事だ。

 

 もし、イタチなのだとしたら、彼は以前から、疑っていたのだろうか?

 自分が大蛇丸と繋がりがあるという事を。

 そして、どこまで知っているのか。

 

 不安が込み上げてきて、頭が痒くなってしまい、咄嗟に右手で頭を掻いた。

 

 ―――…………あれ?

 

 その時、イロミは気が付く。

 

 手を動かすのに、チャクラを使っていなかったことに。

 

 ―――……手が、動く。

 

 見える訳でもないのに、頭から右手を離し、見下ろす。軽くベッドを叩いた。

 何度も、何度も。

 確かに手が動いている。

 左手にも同じ動きをさせてみると、同じだった。

 動く。

 チャクラを使わずに、確かに、動いている。

 

 ずっとずっと、チャクラで動かしていた部分が、かつてのように神経を通じて動かせることに―――イロミは、恐怖した。

 

 動くようになった手からは、感触が伝わってこなかったのだ。

 自分の意志で動かしているはずなのに、動かしているという実感は、ベッドを通じた振動だけでしか確かめる事が出来ない。

 

 本当に動いているのか、イロミは、右手を再度、自身の顔へ持って行く。人差し指で頬に触れ、上下させた。

 

 

 

 化物

 

 

 

 悪夢で出てきた、大量の腕の声がフラッシュバックし、感触の無い自身の手と重なってしまった。

 

「――――ッ!?」

 

 込み上げてくる吐き気。咄嗟に唇を手のひらで強く覆ったが、手で抑え込まれる唇の感触と、唇を抑えているはずの手から伝わってこない無の感触、その二つの齟齬がより強い吐き気を誘った。

 夢の最後。

 喉の奥から溢れだす腕の数々が、自身の顎を引き裂き、身体を呑み込んだ恐怖が、胃酸の酸っぱさと同時に競り上がってくる。上手く腹筋に力が入らないが、必死に鼻で呼吸を行う。胃酸を吐き出してしまうと、悪夢の時のように引き裂かれてしまうのではないかと、思ったからだ。

 

 ―――私は……化物じゃ…………ッ!

 

 廊下に新たな人物を感知した。

 

 よく知っている、彼の姿。

 

 彼は、暗部の二人に「しばらくここを離れろ」と強い語気で言った。二人がそそくさと離れていく。イロミは一番の力を振り絞って、大きく息を吸い、食道を無理やりに絞った。ジワリと汗が額や背中から出てくるけれど、室内のドアが開く頃には、イロミは平静を装う事が出来た。

 

「……もしかして、イタチくん?」

 

 などと、イロミはわざとらしく尋ねて見せた。自身の感情を押しのけて、恐怖を殺す。

 

「ああ。目を覚ましたんだね」

 

 入ってきたイタチは、廊下で出した声とは一転して穏やかな声が耳に入り、柔らかい笑顔を浮かべているのだと空気の流れで分かり、同時に、こちらを安心させようとしてくれる気遣いが分かった。彼は頭が良くて、優しい。アカデミーの頃から、ずっとそうだ。

 

 だけど、どうしても、悪夢の内容のせいで、不安が垂れるのだ。

 

 いや、もはや、夢のせいだけではない。

 

 自分が、普通の人間じゃないという大蛇丸の言葉が原因だ。

 その事実を知ったら彼は……どう、思うだろう。イロミは逃げるように顔を俯かせてしまい、イタチとの間に硬い沈黙を生んでしまった。

 

「眼の事は、医師の人から?」

「……移植できる、みたいだね」

「すぐに、という訳じゃないみたいだ。提供できる眼が、今は無いらしい」

「あはは……大丈夫だよ」

 

 無理して笑顔を作る。友達に向ける為、友達だと信頼される為、という意図的な笑顔だった。

 

「アカデミーに入る前も、眼が無かったから……。あ、イタチくんは、知ってるんだっけ? 私ね、昔、眼が無かったんだ。だから、懐かしいなって……、ちょっと、思ってたり」

「無理は、しない方がいい。眼を失ったんだ。もし、間が悪かったのなら、今日は―――」

「ううん。気にしないで。何も感じてないって言ったら、嘘になっちゃうけどさ。私が一人で先走っちゃったせいで、こうなったんだからさ。イタチくんが気を遣う必要はないと思うんだ」

 

 イタチがベッドの横に椅子を持って来て腰かけたのが分かった。彼は少しの間、黙っていた。どういう意図を持った沈黙なのか、小さく考えてしまう。

 

「そういえばさ、中忍選抜試験はどうなったの?」

 

 当たり障りのない事を尋ねてみる。

 

「やっぱり、サスケくんは最終試験まで突破した? ……ああ、でも、そういえば中忍選抜試験が続いているのか、分からないや」

「中忍選抜試験はまだ終わっていない。今年は、第二の試験が終わってから一カ月ほどの猶予が与えられたんだ。サスケは……最終試験には出れない。第二の試験で不合格になった」

「……サスケくんは、どうしてるの?」

「君と同じで、ここに入院している。明日には、一応は退院できるようだけど、怪我の完治までは今月いっぱいは掛かるようだ。今は病室で静かにしてるが、最初は、不合格になったことに不貞腐れていたよ」

「そうなんだ……。サスケくんでも、不合格になっちゃうんだね。レベルが高いなぁ。まあでも、これでサスケくんは私の偉大さを分かってくれたかな?」

「前からあいつはイロミちゃんの事を認めてるよ。だから、いつも君を目の敵にするんだ」

「それだけじゃ、無いと思うんだけどね。フウコちゃんの事が、あるし……」

 

 再び、小さな沈黙が。

 

 けれど、フウコの名前が出て、偶然に切り口が出来た。意図した訳ではないが、自分の知っている事実は伝えなければいけない。

 

「大蛇丸が来たことは知ってる?」

「ああ」

 

 彼の表情が真剣なものになったのが分かった。声も、冷静だ。

 

「君が、大蛇丸と接触したことも。だが、大蛇丸が来たことを知っている人は限られてる上に、君が大蛇丸に襲われたことは、俺とヒルゼンさん、君を見つけたアンコさんしか知らない」

「大蛇丸が、フウコちゃんの事、知ってたんだ」

 

 イロミは続ける。

 

「どこまで事実かは分からないけど、前までフウコちゃんと同盟を組んでたみたい」

「同盟?」

「何をしようとしているのか分からないけど、そう言ってた。今は、フウコちゃんは別の人と同盟を組んでるみたい。それで―――」

 

 一度、イロミは声を呑む。

 

「フウコちゃん……このままだと、壊れちゃうかもしれないんだって…………言ってた」

 

 考え込むように、イタチが腕を組んだ。

 壊れる、という大蛇丸の表現。

 それが頭の中で引っかかったのだろう。しばらくの沈黙の後に、イタチは言う。

 

「他には?」

「……ごめんね。大蛇丸に、第二の試験会場に来いって言われた時に教えられただけなの。それ以上の情報を聞き出そうって、誘いに乗ったんだけど、返り討ちにあっちゃって」

「すまない。責めている訳じゃないんだ。大蛇丸がフウコと関わりがあったという事が分かっただけでも、十分だ。ありがとう」

 

 本当なら、この程度の情報、彼ならすぐにでも手に入れる事だろうと、イロミは思う。そもそも、フウコの名前が出た時に、彼はあまり驚いていないようだった。もしかしたら、ある程度の予想は、出来ていたのかもしれない。

 自分が一人で大蛇丸に会いに行くという不可解さに、彼なら容易に予想しえるだろう。両眼を失ったことを理不尽に彼のせいにするつもりは毛頭ないけれど、もう少しだけフウコの情報を引き出せても良かったのではないかと、自分の才能の無さに呆れてしまう。

 

「失礼します」

 

 一人の男性が入ってきた。暗部の人間。彼はイタチのすぐ脇に立ち、何かを耳打ちした。ごく小さい声だったけれど、今のイロミの聴覚は聞き逃さなかった。

 

【監視対象の一人、薬師カブトが動きました。正式な手続き無く、里の外へと出たようです】

【分かった。可能なら、捕縛しろ。後の責任は俺が持つ】

【了解しました】

 

 影分身体だったのか、男性は煙を出しながらその場で消えてしまった。イタチは、立ち上がる。

 

「今のは……?」

「暗部内で急用が入ったんだ」

「大蛇丸に関係していること、なの?」

「いや、どうやら違うようだ。中忍選抜試験の最終試験に来る大名たちの警護について、大名が訊きたい事があるらしい。部隊長の俺が、その説明をしろ、ということだ」

 

 嘘だ。

 そんなことは一言も、男性は口走ってはいなかった。

 どうして、嘘を付くんだろう。

 

 穏やかな声でありながらも、表情はまるで笑わず、緊迫したものを浮かべているイタチが少しだけ怖くて、尋ねることは出来ず「そう、なんだ」としか言えなかった。

 

「また近いうちに、お見舞いに来るよ。その時は、何か持って来よう。必要なものは?」

「特に、ないよ。あはは、何だかこのやり取りも、懐かしい」

 

 それじゃあ、とイタチは言うと、ドアを開けた。反対側の開けっ放しの窓が空気の入り口になって、ドアへ向かって強く抜けていく。

 

 カラカラカラ、とカーテンレールが音を立てる。

 

「―――そうだ、イロミちゃん。最後に、一つだけいいかな?」

 

 風の中、イタチの声が聞こえる。

 彼の視線は、何かを見定めるかのように、鋭かった。

 

 

 

「どうして大蛇丸が接触してきたのか、心当たりはあるかな?」

 

 

 

 背中が寒くて、お腹が熱くなった。

 

 真実を言うべきなのか。

 嘘を、言うべきなのか。

 

 自分は、大蛇丸が造った、多くの人の命を貪って出来た化物だからと。そう、言ってしまったら、彼はどう思うだろうか?

 

 驚きはするだろうけれど、嫌悪や軽蔑はしないと思う。イタチは優しいから。そんなことで、人を判断したりしないはず。

 

 たかが普通の人とは違う生まれ方をしただけじゃないか。

 

 そう、そのはずだ。

 きっと彼は、しない。

 大切な友達だから、分かる。

 分かっているつもりだ。

 

 だけど。

 だけど……。

 

「少し、分からないかな」

 

 イロミは、言った。

 

「もしかしたら、フウコちゃんから何か、聞いてるのかも。分からない。……イタチくんは、どう思う?」

「俺も、君と同じ意見だ。……それじゃあ、また」

「うん。バイバイ」

 

 嘘を残していった彼に、イロミは手のひらを広げながら右手を振った。ドアが閉まると途端にカーテンレールは静かになり、不気味な静寂だけが訪れる。右手をぽとりとベッドの上に落ち着かせると、軽い振動がベッドを伝って腰に伝わってきて、背中からジワリと汗が、大量に滲み出る。

 

 この身体はお前のじゃない。

 

 イロミの中にいる何かがそう主張するかのように、病院服は瞬く間に汗で重くなった。

 




次話は来月の七日までに投稿します。

ご指摘・ご批評がございましたら、ご容赦なくコメントでお送りください。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

幕間:3

『あはは……大丈夫だよ』

 

 イロミの笑顔からは、ただただ、歯を食いしばって我慢している印象しか伝わってこなかった。アカデミーの頃からずっと友人だった彼女の表情を見分けるのに、時間は一瞬でも、十分だった。

 

 生死を彷徨ったことへの肉体の疲労を隠そうとしていた。

 両目を失ったことへの喪失感と、抜かれた瞬間の恐怖を隠そうとしていた。

 だけど、他にも何かを隠している。イタチはそう判断した。だが、その最後の一つだけは、明確に掬い取ることは難しかった。

 

 ―――……もしかしたら…………。

 

 それでも、一つの大きな予想だけは手にしていた。

 ヒルゼンから知らされた―――イロミの真実。

 それを彼女自身が、大蛇丸から伝えられていたのではないか。その可能性は、十分に想定していたものだった。いや、当事者である大蛇丸からならば、ヒルゼンから聞いた情報よりも正確で―――たとえ当時の記憶を持っていなくても、他人に話したくはないと思ってしまうほど―――凄惨だったのかもしれない。

 

『イロミは大蛇丸が幾つか隠し持っていた研究所の、その一つで発見された、事件で唯一の生存者じゃ。どういう経緯で彼女がその研究所にいたのか、今となっては、何も確信は出来ぬ。両親と共に連れていかれたのか、研究所内で生まれたのか、あるいは、彼女だけが連れてこられたのか……』

 

 ヒルゼンは語らなかったが。

 イロミの特異な体質は、大蛇丸の研究によるものではないかと、イタチは考えを少しだけ広げた。しかし、すぐにその先を中断させる。大蛇丸から自身の真実を伝えられたのかどうかさえ、直接的に尋ねることはしなかった。予想が誤りであった場合、突いてはいけない藪から蛇を出してしまうのではないかと判断したためだ。

 

 故に、遠回しに。

 そして、自然に。

 尋ねた。

 

 どうして大蛇丸が接触してきたのか? と。

 

 もしイロミが、大蛇丸から過去の事を知らされていたのなら、ガードを強くしなければいけない。外側へのガードではなく、内側からのガードだ。どこまで知らされているのか定かではないが、たとえば、両親の事を中途半端に伝えられていた場合、イロミは再び一人で大蛇丸の元へと向かうことが考えられる。

 

 そして、イロミの反応をイタチは観察した。

 

 予想外の問いだったのか。

 イロミは口元を一瞬だけ震わせて。

 慌てたように、躊躇ったように、小さな間を開けて。

 

『少し、分からないかな』

 

 呟いた。

 

 それだけで、彼女が、大蛇丸がどうして接触してきたのか、知っているという事が分かってしまった。さらに続けて、彼女は『もしかしたら、フウコちゃんから何か、聞いてるのかも』と言ったが、やはり内心では慌てていたのか、あまりにも筋の通らない理屈だ。

 

 イタチは自然に肯定を装いながら、部屋を出る。後ろ手に閉めたドアの音は、空洞のように誰もいない通路を抜けていった。木ノ葉病院の最上階。この階には、イタチとイロミ、他にはイロミの部屋を守っていた部下の二人しか、人はいない。

 通路を進み、下に降りる為の階段。その近くに設けられた談話スペースには、先ほど、離れていろと指示を出しておいた部下二人がいた。

 

「彼女の様子はいかがでしたか?」

 

 四六時中、いつどのタイミングで静寂が打ち破られるか分からないストレスに晒されながらも、面の奥からの声には、規律を重んじる丁寧さがありながらも、人間味のある抑揚がある。

 二人は【根】ではない。

 火影直属の暗部で、イタチの本当の部下である。

 

「すまない、話している時間が無くなった」

 

 イタチは少し早い口調で呟く。

 

「指示を変える。彼女の護衛は継続だが、彼女の監視も行ってくれ。気取られないようにだ。少なくとも、病院からは出さないようにしてくれ」

 

 指示に部下二人は確かな判断を以て頷き、返す。

 

「万が一にも、力づくで出ようとした場合は、こちらも相応に対処を?」

 

 部下二人にはイロミが大蛇丸に目を付けられているという情報は与えてはいないものの、状況を鑑みれば、ある程度の察しはついてしまう事だろう。イロミが大蛇丸の元へ向かう可能性を指摘してきたのだ。

 

 イタチに迷いは無かった。

 

「ああ。だが、間違っても殺しはするな」

「本当に、よろしいのですか? 彼女は貴方のご友人では?」

「構わない。気にするな」

 

 イロミに対して。

 一つだけ、嘘をついた。

 それは、一人の部下が―――報告内容が内容だけに、仕方のない事ではあるとイタチは理解を持っているものの―――不用意にイロミの部屋に入り、カブトの動向を伝えに来た時だ。

 

 咄嗟に放った嘘。

 イロミを―――友人を―――傷付けない為に。大蛇丸に繋がる、些細な情報すらも渡さない為に、嘘をついた。

 

 また何も出来ないまま、大切な繋がりを失うのだけは、耐えられない。

 

 ―――あとは全て、俺がやる。

 

「後から、新たに人員を送る。それまでは、二人で彼女を警護、及び監視をしてくれ」

 

 頷く二人を確認してから、イタチは病院を抜けた。木ノ葉隠れの里を正門から出てると、すぐに一羽の小鳥が目の前を旋回し、右手の方向へと飛び立っていった。カブトを捕縛に追いかけている部下が残した印だ。

 思い切り、地面を蹴る。

 決して逃がしはしない。

 どれほどの距離が離れているかは分からないが。

 小鳥が飛んでいった先を写輪眼で見据え続けた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 厄介事というのは不思議なことに、重なるものだ。問題なのは、降りかかる厄介事が一斉に押し寄せてくるのか、それとも連続するものなのかである。どちらのパターンかによって、難易度は大幅に変わってくる。前者が難しいか、後者が容易いか。それらは個人の裁量に依存するが、少なくとも、薬師カブトにとっては、連続するパターンの方が簡単だった。

 何せ、これまでずっとスパイとして、あらゆる場所で活動してきたのだ。些細な一つのミスから、まるでドミノのように一つ一つがズレて行き、厄介事が連続してやってくる、というのは、まだ未熟だった幼少の頃に何度か経験してきている。おそらく、そのせいもあるのだろう。

 

 総じて、厄介事が一斉に降りかかるというのは、ミスを積み重ねた時なのだと、カブトは考える。風船に蛇口の水を少しずつ入れるみたいに、ミスが限界を超えた時に降りかかってくるのだ。

 だが、連続してやってくるというのは、逆に、ミスを一度か二度程度しかしていない時に引き起こされる。つまりは、修正がしやすい。一つや二つのミスを挽回するのに、力はいらない。分析し、解析し、どこか一点の道筋を見つけて実行すれば、簡単に決着が着いてしまうものだ。

 

 故にカブトは考えていた。

 

 どこで自分がミスをしてしまったのか。

 どこで厄介事が生まれてしまう隙間を作ってしまったのか。

 どこだろう、どこだろう。

 

 久方ぶりに、スパイとしての活動に過ちが生まれてしまったのだと、どこか楽しむように考えていた―――のは……つい、数分前の事。

 

 木ノ葉隠れの里を正々堂々と正門から出てしばらく道なりに進み。

 アジトに向かおうとさりげなく方向を変え。

 追いかけてきていた暗部の者たちを殺した。

 その辺りまでは、自身の落ち度を考えていたのである。

 

 ―――うちはイタチか…………。

 

 中忍選抜試験に参加してから、第二の試験後に行われた最終試験の前試験までの、自身の行動を分析しても、ミスらしいミスは見当たらない。

 あるとすれば、二つ。

 一つは、中忍選抜試験が始まる前に一度と、中忍選抜試験を辞退した後に一度、大蛇丸と接触したこと。しかし、その接触でさえ、誰かに見られたという訳ではない。

そしてもう一つは、今まさに木ノ葉隠れの里を抜け出しているということが、極端な見方ではあるが、ミスといえなくもない。

 

 おそらくは、大蛇丸がイロミに接触をしたことが口火だ。あるいは、ナルトと接触したこと。どちらにしても、彼が木ノ葉隠れの里にいる、という情報が知られたことによって、警戒態勢が積極的になったのだ。その結果が、暗部たちが追いかけてきて、こちらを捕縛しようとしてきた事態に繋がった。

 

 うちはイタチの名前が思い浮かんだのは、単純に、木ノ葉隠れの里で最も厄介な人物だからである。

 

 忍としてのスキルも、頭脳も、明らかに他を凌駕している。ましてや、暗部の部隊長という立場に彼はいるのだから、目の前の現状との関連性は強い。

 

 ―――ボクの経歴を調べて、違和感を抱いた程度かもしれないけど……早々に逃げた方が得策かな。下手な芝居を打つよりも。

 

 足元に転がる、暗部たちの遺体を見下ろしながら、カブトは眼鏡の位置を丁寧に直した。逆に、治すべき部分は他にはない。傷一つ、汚れ一つ、付いていない。倒れている暗部たちの遺体は、合計で三つ。現代の忍の戦術としてフォーマンセルが基本の中、三人行動というのは、大蛇丸の部下を捕えるという目的を達成するにしては、少々役不足な感は否めない。

 

 他にも、大蛇丸の部下なのではないか? という候補はいたのだろう。他の候補も監視をしなければならなかったために、人手不足になった。カブトはそう分析した。戦力を拡散させ、いざ監視対象を捕縛しようとした結果、失敗してしまう。

 

 中途半端な戦略だ―――とは、カブトは思わない。むしろ、薄ら寒さを感じてしまう。

 

 数少ない情報を頼りに、こちらが気付かぬ内に、あっさりと襟元まで指を引っ掛けてきた。もし中忍選抜試験の最中に何らかのミスを一つでも残していた場合、指は襟元ではなく首を掴んでいたことだろう。

 

 そして今、暗部を三人殺した。

 この事態をイタチは察知しているのだろう。監視対象の前に暗部が姿を現したというのは、逆を言えば、指揮するイタチに報告が入ったことと同義だ。確実に、彼はこちらに向かってきている。

 

 木ノ葉の神童と謳われる程の才覚の持ち主。

 

 彼と直接対峙をして、逃げ切る自信を無根拠に持つほど楽観的ではない。

 誤魔化しも不要だ。下手な芝居を晒して無害をアピールするよりも、全力でアジトに向かう方が遥かに可能性がある。

 

 カブトはすぐにアジトへの帰路に戻り、移動する。

 

 ―――やれやれ……大蛇丸様にも困ったものだ……。

 

 音を出さず、痕跡を残さず、林を駆け抜けていく。

 辺りの警戒を鉄線のように張り巡らせながらも、カブトは心の中で小さく愚痴る。神社で引いたおみくじの内容を楽しむ時みたいな、軽い口だった。

 

 ―――わざわざ、中忍選抜試験の最中にやる必要なんてないのに。

 

 カブトは二つの小瓶を持っていた。その二つは懐に隠しており、彼がそもそも木ノ葉隠れの里を抜けてアジトに戻る理由は、その二つの小瓶に入れられたサンプルを解析し、可能ならば薬品の一つや二つ完成させる為である。

 

 眼球と血液。

 

 それが、小瓶にそれぞれ入っている。大蛇丸が猿飛イロミから採取したサンプルだった。

 

『本当なら、私が直接解析をしたいんだけどねえ。まあ、誰がしたところで結果は変わらないし、貴方がしてちょうだい』

 

 中忍選抜試験で接触したナルトの九尾について話す前に。

 以前は欲していた―――あるいは今も尚、もしかしたら欲しているかもしれない―――うちはサスケについて話す前に。

 何よりも優先して彼は、この二つの小瓶を渡してきて、そう言った。

 

 邪悪な笑みを浮かべて、楽しそうに。

 

 本来の計画には無かったはずの、アクション。

 

 そもそものミスは、これなのではないかと、微かに思う。懐に隠している二つの小瓶が、厄介事の種なのではないかと。この種から全てが、一つずつズレて、最終的には、何もかもがおかしくなるのではないか。

 冗談九割、真剣一割の割合で、考えてしまう。

 

 考えて、木の枝を蹴り、中空へ。次の枝に着地しようと、無意識に両足にチャクラを集中させ―――そこで、次の厄介事が、真横からやってきたのだ。

 

「―――ッ!?」

 

 それに気付いたのは、些末な、不自然な音のおかげだった。小枝同士が擦れる音。

 風が吹いて動かされたにしては、少しだけ音は力強く。

 鳥が動いたせいで鳴ったにしては、あまりにも弱々しい。

 作為的に音を消そうとして、しかし失敗したかのような、そんな、音だった。

 

 左側。すぐ横だ。左目の視界の端に、それの片鱗を捕え、眼球だけを限界まで咄嗟に動かして、全貌を捕える。

 

 短髪の男だ。口元を布で隠している。額当てを頭に斜めに着けているせいでどこの里の所属かは分からない。上半身はノースリーブの黒いシャツ。下半身は黒い長ズボン。どちらも没個性的で、隠密活動を生業にしている雰囲気を出しているようにも見える。しかし、左手に握られている巨大な刀―――それは、包丁のような形をしていて―――は余りにも、隠密に向いているとは思えない。おまけに右腕は失ってしまったのか、二の腕から先は無く、包帯が腕の先端を隠しているだけ。片腕で巨大な刀を運用するというのは、あまりにもちぐはぐだった。

 

 刀は今まさに、振り下ろされようとしている。しかし、不思議なことに刀は刃が付いていない背の方を下に向けられている。

 

 殺す気はない。

 捕縛するつもりだと、カブトは瞬時に理解する。

 だが、何故―――。

 

 今、カブトは宙に浮いている状態だ。次の枝に着地するまでの間に、刀は振り下ろされる。咄嗟にカブトは左腕で、刀を受け止めた。

 

 骨が折れる音と感触、そして激痛に耐えながらも、本来なら頭部を狙っていた衝撃を受け止める。そのまま身体は地面へと向かい、着地した。

 

 ―――どうして、霧の抜け忍がこんなところに……ッ!

 

 男の顔には見覚えがあった。

 桃地再不斬。

 ビンゴブックに名が載せられているテロリストである。しかし、テロリストと言われながらも、その目的は、彼の名と共に載せられている概要を見れば一目瞭然で、つまり現霧隠れ里の転覆だ。木ノ葉隠れの里の近くに潜んでいる意味が分からない上に、こちらを狙ってくる目的も不鮮明だった。

 

「水遁・時雨千本(しぐれせんぼん)

 

 真後ろから、別の殺気が。

 林の影の見えない向こうから、草木を無残に散らせながら、無数の針が―――水で模られた針が、襲い掛かる。珍しくカブトは舌打ちをして、大きく横に飛んで躱した。

 

 厄介事が連続してやってきた。

 しかも今、うちはイタチが迫ってきている。

 こんな所で、よく分からない経緯で足止めされるのは全くの御免だ。

 

 だが状況は願う方向とは全く逆へと進み始める。

 

 躱した先には、再不斬が刀を振りかぶって待ち受けていた。今度は顎を砕こうと、横に振り抜く。

 

 ―――体術は、あまり得意じゃないんだけどな……ッ!

 

 横薙ぎの攻撃を、上体を後ろに逸らして切り抜ける。と同時に、ホルスターから取り出したクナイを右手に握って、上体を起こす力と共に、再不斬の首を狙う―――しかし、逆に首元を、今度は鉄で作られた千本で狙われた。

 クナイではじくが、その隙に、再不斬の回し蹴りが腹部を捉える。身体は後方へ飛ぶが、完全に体勢を崩すほどではなく、再不斬からの衝撃はすぐに消すことが出来た。

 

「―――動かないでください」

 

 声は、後ろから。

 少年のような、あるいは少女のような、中性的で氷のような声だった。

 

「今、ボクは貴方の首に千本を向けています。もし、攻撃的な行動をすれば、貴方を殺すことになってしまうので、動かないでください」

 

 どこか、殺させないでほしいと懇願するようでありながらも、仕方ない時は容赦はできないという意味も含んでいるような、ハチャメチャな言葉である。だが、鼻で一笑する気にも、無謀に抗うつもりもなかった。

 カブトは骨折してしまった左腕を目線だけで一瞥してから、大きく鼻から息を吐いた。

 

 言葉通りにする、という無言のアピールである。

 

「右手のクナイを捨ててください。横に。横に投げてください。その後は、地面に膝を付いてください。両膝です」

 

 言われた通り、クナイを横に放り投げ、地面に膝を付く。

 

「ありがとうございます。ですが、しばらく、そのままでいてください」

「よくやった、白。上出来だ」

 

 と、再不斬は刀―――首切り包丁を起こし、左肩で持つように佇んだ。眼光をギラギラと鋭く光らせて、こちらを見下ろす。後ろの、白と呼ばれた人物より遥かに容赦のない、冷徹な空気を漂わせている。

 気に食わないことがあれば、殺す。

 そんな、傲慢な鬼のような殺意が、肌を刺してくる。

 

「霧隠れの里を狙うテロリストの貴方が、まさか木ノ葉の近くにいるとは、思いもよりませんでしたよ。桃地再不斬さん?」

 

 けれどカブトは、友好的だとでも言いたげな笑みを浮かべた。訊かれたことはすぐにでも喋りますよ、という笑みだ。

 

 少しでも、相手の情報を引き出さなければならない。

 

 半分は大蛇丸の為。【木ノ葉崩し】の成功率を少しでも上げる為には、利用できるものは利用しなければいけない。あるいは、邪魔なものは排除しなければいけないから。

 もう半分は、すぐにでも逃げるため。訊かれたことを正直に喋っていると相手に思わせなければ、どれほど真実を語っても無駄な拷問や尋問は続けられる。白という人物が殺しに来ないのは、何かを知ろうとしているからだ。ならば、スムーズに。一分一秒でも時間は無駄に出来ない。

 

 もしかしたら、すぐ傍にうちはイタチがいるかもしれないからだ。

 

 首の右側に、感触が。白が右手の親指で脈拍を測っている。嘘をついているかいないかを精査するためだろう。悪くない。これならば、相手に嘘か本当か、確かに伝える事が出来る。あるいは嘘を本当に、本当を嘘に誤魔化すことも容易い。

 

「さっきてめえは暗部を三人ぐれえぶっ殺してたが、木ノ葉で何をやらかしたんだ?」

 

 なるほど。

 最初から、見られていたということか。

 再不斬と白という人物が目的としている人物像は、木ノ葉に敵対する者ということなのだろうか。

 

 けれどここで、本当の事を話すわけにはいかない。

 大蛇丸の指示の元、猿飛イロミという人間の細胞サンプルをこれからアジトに持って行き分析するなどと言っても、ただ単に【木ノ葉崩し】の成功率が下がるだけだ。

 

 ―――全く、厄介な細胞だ……。

 

 懐の小瓶に悪態を付く。何もかもが、この忌々しい細胞のせいだ。

 

 脈拍は自身のチャクラを使ってコントロールする。医療忍術を得意とするカブトにとって、難しいものではなかった。この場は、嘘をついて本当だと信じ込ませることが吉だ。

 

「今、木ノ葉で中忍選抜試験が行われていることは知っていますか?」

「ああ。みてえだな」

 

 と、再不斬は呟く。

 

「ボクは、まあ、その中に参加していたんですよ。ああもちろん、ボクは下忍ではありません。下忍だと偽って参加していただけです。そもそも、木ノ葉の忍ですらないんですよね。情報のブローカー、とでもいえばいいのか……中忍選抜試験に参加するめぼしい下忍の情報を集めて、それを売るのを生業としているんですよ。今回それがバレて、暗部に追いかけられる羽目になり、貴方がたに今こうして捕まっている、という訳です」

「……嘘は、言っていないようです」

「中忍選抜試験に参加していたってんなら、耳にしてねえか?」

「何をですか?」

「大蛇丸って奴が、木ノ葉にいるって情報をだ。あるいは、大蛇丸の部下がいるんじゃねえかって、情報だな」

 

 もし脈拍をコントロールしていなかった場合、表情は平然とすることは出来たかもしれないが、鼓動は一度だけ大きく動いていたことだろう。内心で驚きを示しつつも、遅れて疑問が浮かび上がった。

 

 ―――何故、大蛇丸様が木ノ葉にいると分かった?

 

 里の外に既に情報が広まっているということなのだろうか。いや、それにしては木ノ葉の対応は無茶苦茶だ。中忍選抜試験を中止するという勧告をしないままに、大蛇丸が里の内部にいるという情報を外に漏らすというのは、矛盾している。自分の家に爆弾が仕掛けられてるかもしれないが、パーティーをしよう、と言っているようなものだ。他里からの抗議は避けられない。

 だが、今のところ木ノ葉にそう言った外からの抗議があるようには思えない。とどのつまりは、大蛇丸が木ノ葉にいるという情報は里の外には漏れていないということ。

 

 なのに、この二人は大蛇丸が木ノ葉にいることを把握しているようで、しかしながら、木ノ葉に潜入はしていない。おそらくは極秘扱いになっているだろう大蛇丸の情報を取得しながらも、中に潜入しないというのもまた、おかしな話である。

 

「……さあ、そんな話は耳にしていませんね」

 

 と、カブトは言う。もし自分が先ほど言った嘘の設定の立ち位置ならば、本当に耳にしないのだろう。

 

「ただ、今回の中忍選抜試験は色々とおかしなことが起きていますよ」

「……ほう?」

「そうですねえ。第二の試験の際に、受験者が会場の外で変死体で発見されたりだとか。試験を運営していた裏方の特別上忍の人間が何者かに襲われて、現在療養中だとか。あとは―――九尾の人柱力が半ば暴走をしたとか」

 

 その時、白という人物の親指が微かに震えるのを感じ取った。

 しかし敢えてそれを無視しながら、カブトは続ける。

 

「ボクの耳に入ってこなかっただけで、もしかしたらその一連のおかしなことは、大蛇丸がやったのかもしれませんね。ボク自身は直接見ていないので、何とも言えませんが」

「どうだ? 白」

「嘘を言っては、いません……。あの、一つ、良いですか?」

「ああ、いいよ。だけど、もうそろそろで暗部の増援が来るかもしれない。なるべく手短に頼むよ」

「……その、九尾の人柱力というのは…………男の子だったはずですが…………彼は今、どうしているのですか? それと、彼の友人に、うちはサスケという男の子もいたはずです。二人は、どうなったんですか?」

 

 どうして二人を知っているのかと、不思議に思ったが、くだらない事を訊くなとも思う。

 

「二人は無事だよ。ただ、うちはサスケは途中で失格になった。第二の試験で受けた怪我のせいでね」

 

 そうですか……、と白の安堵の息が髪を揺らす。他者の息が髪に当たるというのは不愉快でしかなかったが、カブトの思考は順調に回転していた。

 

 二人はどうやら、大蛇丸を目的としている。しかし、霧隠れの里の転覆を狙っているはずの再不斬が、なぜ大蛇丸を狙っているのか。

 

 同じ抜け忍ならば力を貸してくれると、そんなチャチな想像を働かせている訳ではないだろう。自慢ではないが、大蛇丸の狂気染みた人格は有名だ。注目こそすれ、仲間に引き入れようと考えるのは、余程に頭がイカレた人物か、自分の力に自信を―――。

 

 ―――……まさか、この二人…………?!

 

 二回。

 二回、あった。

 大蛇丸を仲間に引き入れるという、現象が。

 いたのだ。

 大蛇丸を仲間に引き入れた、おかしな集団と人物が。

 

【暁】と呼ばれる集団。

 そして―――うちはフウコ。

 

 もし、このどちらかと再不斬と白が繋がっていたのならば、事情は理解できる。どちらも、大蛇丸に少なからず恨みを持っている。

 そして……再不斬が【暁】のコートに身を包んでいない所を考えるに、うちはフウコと繋がりがあるのではないか。

 

 厄介事が、連続する。

 うちはフウコと繋がりのある人物が現れた。

 カブトの中で、二人の評価が覆る。

 

 確実に消しておかなければいけない。

 どうして木ノ葉に直接潜入しないのか分からないが、もし大蛇丸がいるかどうか確定していないから、という背景なのだとしたら、消さなければ。このまま野放しにして、大蛇丸の情報が二人を経由してフウコに入ってしまえば【木ノ葉崩し】は完全に失敗する。

 

 消さなければいけない。

 

 しかし。

 

 さらなる厄介事が、やってきた。

 

「その男は嘘を言っている」

 

 うちはイタチは、そこにいた。

 再不斬と白がイタチに視線を送った瞬間、カブトは動き出す。白に後ろを取られた時から既に、左腕の修復を行っていた。

 大蛇丸の実験成果の幾つかを貰い、体内に蓄積していた力。それと同時に、チャクラによる修復を加え、骨折していた左腕は完全に治っていた。上体を大きく横に傾けた力のままに、左肘で白の顎を強く打ち抜く。

 

「ぅ……」

 

 カブトの右腕だけを意識していた白は、予期せぬ方向からの衝撃に脳を揺らし、意識は鮮明としながらも身体のコントロールを一時的に手放してしまう。そのままカブトは白の首をへし折ろうと、彼の後ろに回り込み、両手で頭を持った。

 

 だが、それをさせまいと、イタチが投擲した手裏剣が襲ってくる。絶妙な角度と回転で投げられた手裏剣は、白の背後に回ったカブトの両目を的確に切り刻もうと、大きなカーブを描く。

 

「ちッ!」

 

 白を大きく突き飛ばすと同時に横に飛び、避ける。

 

「調子に乗るな、ガキがッ!」

 

 すると、再不斬が。

 首切り包丁の刃を、今度は間違いなくカブトに向けて、大きく振り下ろす。怒りを十二分に滲ませる重い声と恐ろしい表情。しかし、それは横から回し蹴りを入れてきたイタチによって防がれる。再不斬は横に吹き飛ばされた。

 

「この男は木ノ葉の重要案件の容疑者だ。殺すことは許さない」

 

 体勢を戻した再不斬は、イタチを睨み付けた。

 

「てめえこそ邪魔をするんじゃ―――」

「「動くな」」

 

 二つのイタチの声が重なった。一つは、カブトと再不斬の間に立つイタチ。もう一つは、再不斬の後ろに立っていた、影分身体のイタチだった。影分身体の方は、右手にクナイを持ち、再不斬の首に当てている。

オリジナルの方はじっと、カブトを睨み付ける。微塵の抵抗をも見逃すことはしないというプレッシャーが、真っ赤に燃える鉄のように、肌の上から襲ってきた。

 

 ―――最悪だ……。

 

 カブトは視線を下げ、視界に写輪眼を入れないように努める。だが、それ以上にうちはイタチに抵抗する具体的な手段が思いつかない。再不斬の横っ腹を蹴り飛ばした時のイタチの移動速度を目で追えていなかったという現実が、無情にもカブトの選択肢を絶望的にした。

 

 遥かに、速度ではイタチが上回っている。実力ではおそらく、全く歯が立たない。

 

「お前は確か、桃地再不斬だったな。何故、木ノ葉の近くにいる?」

 

 決して視線はカブトから離さないまま、イタチは呟いた。本人も予想外の事ではあったのだろう。

 

「俺も暇じゃない。もし木ノ葉に良くないことを持ち込もうとしているのなら、見逃してやる。さっさと失せろ」

「……てめえ、その眼…………写輪眼……。うちはのガキか」

「……ああ。以前、サスケがお前と、その少年の世話になったようだな。あいつから聞いている。まさかとは思うが、下忍に仕事の邪魔をされた恨みでもあるのか?」

「んなもんねえよ。カカシの野郎には……個人的にはあるがな」

「なら、失せろ。お前らもこの男に―――いや、大蛇丸に用があるみたいだが、他を当たれ」

 

 再不斬は静かに、地面で身体を震わせている白に視線を送った。未だ、脳の揺れは治っていないようだった。少しの間、倒れている彼を見つめ続け、何を考えたのか、再不斬は大きなため息をついた。

 

「……良いだろう」

 

 と、再不斬は呟く。

 

「木ノ葉の神童とやり合うつもりなんざ、ハナからねえ。損しかねえもんに手を出すほど暇じゃねえんだよ、こっちは」

 

 立ち上がり、首切り包丁を背中に背負う。そのまま、左腕を軽く上げながら、白の元へと近づく。影分身体は常に再不斬の後ろに構えているが、本当にこのまま、見逃すのだろう。

 イタチの最優先は、大蛇丸。

 

「さて、薬師カブト。お前にはこれから、木ノ葉へ来てもらう。事情は、理解しているな?」

 

 だが―――カブトは、それを許さなかった。

 

 厄介事が連続してやってくるものだが、時として、厄介事というのは、互いにぶつける事が出来る。

 服を汚してしまった後に降る大雨は、時に、服の汚れを落とすのに最適であるように。

 火事場に遭遇してしまった時、むしろ現場の金品を誰の目にも触れられることなく盗むことが出来るように。

 厄介事というのは、扱いを間違えなければ―――それとも、扱いを敢えて間違えれば―――最大のチャンスである。

 

 そう。

 

 力はいらない。

 分析し、解析し、どこか一点の道筋を見つけて実行すれば。

 

 修正は、容易いのだ。

 

「うちはフウコ」

 

 カブトが唐突に、その言葉を、高らかに言うと。

 

 イタチは不愉快そうに眉を顰めたが。

 同時に。

 左腕で白を起き上がらせようとしている再不斬の肩を一瞬だけ、大きく震わせた。

 

 ただの可能性であったかもしれない分析が、真実味を帯びた瞬間であった。

 

「うちはイタチ。そのままその二人を返すのは、ボクを逃がすよりもデメリットが大きい。何せその二人は、かつての大蛇丸様のように―――今では彼女と同盟を組んでいる者たちだからね」




 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

 次話は3月20日までに投稿します。

 ※追記です。

 誠に申し訳ありません。次話の投稿は、3月22日に行います。詳しくは、中道の活動報告の【次話、及びさらに次話について】をご参照いただけたらと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

最後の幕間が終わり、崩壊の前兆が悲鳴を歌う。

 投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。


「優先順位の話をしておく」

 

 部屋に入ってくるなり、サソリは無表情にそう呟いた。これから木ノ葉隠れの里へ向かおうと、準備をしていた時だ。右腕に包帯を巻いてくれた白が「キツくはありませんか?」と尋ね、返事替わりに彼の頭を残った左手で撫でようとしていたのを、再不斬はサソリを睨みつけながら中止させた。

 開けたままのドアに体重を預けたサソリが、小さく腕を組む。

 

「分かってるとは思うが……俺も、お前らも、全てはあの女の為だけにいると考えろ。あの女の不利益になることはするなよ?」

「んなことは、てめえに言われるまでもねえ。自慢じゃねえが、俺たちはこれまで御主人様の頼み事は何一つとして破ったことはねえんだ。安心しろ」

「その割には色んなところで恨みを買ってるようだが?」

「誠意って奴を、どいつもこいつも見せやしねえもんでよ。礼どころか、腕を振り下ろそうとしてくるクズ連中に、正しい頭の位置ってもんを教えてやってるだけだ」

「なるほど。なら、俺もあいつも気を付けねえといけねえな」

 

 再不斬は小さくため息をしながら、右腕を白から離した。腰かけている自身のベッドに左足を立て、左腕で抱えるような姿勢で座り直す。

 

「何を心配してんだ?」

「木ノ葉の警備を任されている暗部の指揮を、うちはイタチが担当している」

「うちはイタチ……もしかして、フウコさんが、その……」

 

 白の言葉に、サソリは頷いた。

 

「フウコが壊れた時に、時折叫ぶ男のことだな。……ああ、言ってなかったか?」

「何をだ?」

「うちはイタチは、フウコの兄だ」

 

 短く鋭い呼吸音が、隣の白から、はっきりと耳に届いた。再不斬はそれに気付かないフリをした。サソリは続ける。

 

「まあ、俺の言いたいことはだ。万が一にも、うちはイタチと遭遇することだけは避けろ。大蛇丸の部下が木ノ葉の外に姿を現すってことは、木ノ葉を警備している暗部や上忍が追跡している可能性があるってことだ。お前たちへの依頼は大蛇丸の確保だが、あくまでお前らがここにいるのはフウコの計画を支える為の手足だという事を忘れるな。フウコの不利益になること、そしてお前らが木ノ葉に捕縛されること、ひいては死ぬこと。これらは何を優先にしても避けろ」

「うちはイタチは、あの女を恨んでやがるのか?」

「さあな」

 

 と、サソリは皮肉るように笑った。

 

「恨んでようが、そうでなかろうが、うちはイタチにフウコの情報が漏れることは計画の予定にはない。分かるな? 大蛇丸の部下が目の前にいようが、大蛇丸が目の前にいようが、もしお前らが木ノ葉の連中に捕まりそうな状況なら、迷わず逃げろ。うちはイタチと対峙するなんざ論外だ。分かったな?」

「……ああ。あの女の兄と聞いただけで、面倒そうだ」

「実力に関しては俺も詳しくは知らないが、フウコがうちは一族を滅ぼした際に戦い、フウコが勝っている。少なくとも、実力はあいつより下ということだ」

「気休めになりゃあしねえよ」

 

 既に、フウコの実力は承知している。全てではないが、獣のように闇雲に暴れまわるだけでも、自分とは住んでいる世界が違うのだと思い知らされてしまうほどなのだ。

 

 たとえ右腕が残っていて、体調が万全であっても、足元にも及ばないだろう。

 

 彼女の理性が正しく機能している時の全力は、波の国で戦ったカカシを遥かに凌駕しているのだと予感するのに時間は必要なかった。そんなフウコよりも下の実力と言われても、まるで参考にはならない。

 

「だが、まあ……。うちはイタチは警備の中核の一人だ。イタチ自身が、ハナから大蛇丸の部下を追いかけたりすることはしねえだろう。ましてや大蛇丸の警戒も同時に行わないといけねえんだ。お前らが無暗にバッティングすることはねえだろうが、頭の中には入れておけ」

「……あの、サソリさん。訊きたいことがあるんですが……」

 

 そこで再不斬は、白を見る。男にしては長く、そして不思議と艶のある黒髪は、今は後頭部の上部で小さく一つに丸めている。彼が浅く床に視線を向けているせいで、雪のように白いうなじが、部屋の明かりで照らされる。白の表情は、角度的に見えないが、緩やかに上下する肩からかは、どこか、子供っぽい不安を持っているように見えた。

 

「どうして、フウコさんは……自分の一族を滅ぼしたんですか?」

 

 波の国での事を少しだけ、思い出す。

 

 うちは一族。そのワードに関連して想像される事柄に、抜け忍とそうでない者の間には、大した差はないだろう。写輪眼という血継限界を持ち、誰もが余すことなく忍の才に溢れる、選ばれた一族。その一族の名が、一転して、滅亡の代名詞に挿げ替えられたのは、歴史に新しい。もはや、骨董品にも等しい鈍い輝かしさを放つ名を背負った少年の顔が、脳裏に浮かぶ。

 

 うちはサスケ。

 

 同い年では敵はいないと思っていた白を、最終的には圧倒したあの少年。白は、彼の事を想っているのだろう。いや、もしかしたら、彼と共にいた者たち全員を。

 

 どうして白が、サスケの事を想像しているのか。それは、フウコ自身が壊れた時―――つまりは、正常ではない時―――に、血生臭い絶叫の中に、サスケの名が含まれていたことがあったからだ。

 

 サスケくん、怖がらないで―――と。

 私は君の為に頑張ったの―――と。

 辛かったけど、頑張ったの―――と。

 ねえ、どうして、怖がるの?―――と。

 お姉ちゃん、だよ……?―――。

 でんでん太鼓が必要?―――。

 どうして、私だけが―――。

 憎い―――。

 憎い憎い―――。

 私から何もかもを奪った全部が―――。

 世界が―――。

 木ノ葉が―――。

 皆が―――。

 

 つまりフウコは、うちは一族を滅ぼしながらも、兄と弟を、少なくとも生き残らせたということだ。うちは一族がどれほど生存しているのかは判然としないが、滅亡していると言われているのだから、もはや一族という集団を維持できない人数なのだろう。再不斬本人は、フウコがどういったつもりで一族を滅ぼしたのか、まるで興味は無い。

 

 だけれど白は、気になってしまうのだろう。

 一族を滅ぼすという禁忌に手を染めた、その思想と感情を。

 知りたいと思っているのかもしれない。

 積極的な好奇心ではなく、怖いもの見たさに近い好奇心。

 彼が人生で初めて殺めた、父を理解したいのではないかと、再不斬は思った。

 

「言う訳ねえだろ」

 

 サソリの苛立たし気な声は、その一言だけで、すぐに彼は右腕で自分の顎を持つような姿勢を取った。

 

「……だが、まあ、気になるのも仕方ねえか」

 

 と、一人呟き、こちらを見る。

 

「もし、今回の依頼を無事に成功させたら、お前らには本格的にフウコの計画に加担してもらう。計画の内容も、その時に教えてやろう。フウコが木ノ葉で何をして、これから何をしようとしてるのかをな。だから、ヘマだけはすんじゃねえぞ」

 

 踵を返し、部屋を出て行こうとするサソリだったが、後ろ手にドアを閉めようとした時に、彼は微かに顔を傾けてこちらを見た。

 

「言い忘れていたが、怪しい連中だからって無暗にアジトに引っ張ってくるんじゃねえぞ? 俺もフウコも、【暁】の仕事以外じゃあ誰とも関わらねえタチだからな。無関係な奴と無駄な接触は避けてるんだ。人選はしろ。そうだな……例えば、木ノ葉の忍の奴だとかは、余程の事がねえ限りは、見逃せ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 空気が変わった。

 

 鬱陶しい羽虫を追い払うような拡散的な力加減が、明確な意志の元に一点に集約された力をはっきりと背中に感じる。

 

 嵐のような圧力を放つ暴走したフウコに対して、イタチの圧力は冷気のように身体の外側と内側を痛くするものだ。どちらも、質量という意味では同列なため、フウコの方が上というサソリの評価は間違いではないと確認できるが、今は関係ない。

 

「うちはイタチ、君が里の為に大蛇丸様と繋がりのあるボクを捉えたいというのは分かるけど、どうだろう? 妹のうちはフウコを追いかけたいと思っているなら、今ほどの機会はないと思うけどね」

 

 ―――余計な事をペラペラと喋りやがって………。

 

 再不斬は左手で掴み、中腰のままに固まっている白を見下ろす。すると、白は「問題ありません」とでも言うように、はっきりとした視線で見返してきた。起こしていた脳震盪は治まっているようだが、状況を判断して、動けない演技を装っている。

 いつもながら、年不相応の行動力に驚かされる。

 しかし実力が伴っているかと言えば、そうではない。薬師カブトにも、うちはイタチにも、明らかに白の実力は見劣っているだろう。白の白い顎の一部に出来た、薬師カブトからの肘鉄の痕はまるで、白の身体の弱さを表しているようだった。

 

「再不斬。君からも、何か言ったらどうだい?」

 

 尋問した時の雰囲気から豹変して、丁寧さを滲ませながらも、どこかこちらを見下す傲慢さを滲ませたカブトに、再不斬はゆっくりと振り返った。

 

 影分身体のイタチの顔と、オリジナルの背中。そして、眼鏡の位置を直すカブトが見える。

 

「……てめえが何を言ってるのか、分からねえなあ」

 

 再不斬は自然を装う。

 

「手前の一族を潰すようなイカレた奴と、同盟だ? 悪いが俺は、んな奴と手を組むほど切羽詰まってねえよ」

「なら、どうして大蛇丸様を捜しているんだい? 君たちと大蛇丸様の間に、接点なんてあるわけがないのに」

「俺の依頼主様が、大蛇丸に恨みを持っていてな。伝説の三忍を相手するのは面倒だが、貰える小遣いが小遣いだ。だからこうして木ノ葉まで足運んでんだよ」

「へえ。それはそれは、大変だねぇ」

 

 再不斬、カブト、イタチの間に、さざ波のような沈黙が下りた。

 

「桃地再不斬……お前に訊くことがある」

 

 イタチは背を向けたまま、尋ねてくる。

 期待するように。あるいは、信じるように。

 冷たいプレッシャーは一瞬だけ鳴りを潜め、どこか温かみのあるものに変わった。

 

「フウコは、元気にしているか?」

 

 

 

『うちはイタチは、あの女を恨んでやがるのか?』

『さあな』

 

 

 

 あの時のサソリの表情を、ふと思い出す。

 

 本当は、知っていたのではないだろうか。

 イタチが、フウコを恨んでいないことを。むしろ心配し、追いかけていることを。

 知っていても不思議ではない。どういう訳か、サソリは大蛇丸が木ノ葉隠れの里にいるという情報を手に入れていた。木ノ葉に彼と繋がりを持つ者がいてもおかしくはない。彼の言う【伝手】が、イタチの情報を仕入れて送っていると考えた方が現実的だ。

 

 一瞬だけ、再不斬はイタチに真実を語ろうと考えてしまう。イタチがフウコに好意的な姿勢を持っているのならば、真実を話し、彼を味方に付け、カブトを捕えることの方が効率的ではないか。

 

 だが、サソリからの指示は、逃げに徹しろ。そして指示以前に、目の前の【木ノ葉の神童】と戦って勝てる見込みはどこにもない。

 

 ならば微かな打算も、今は邪魔でしかない。

 逃げ切る。

 白が時空間忍術の印を結ぶ刹那の時間を、見出す。

 

「さっきから言ってんだろうが。んなこと知らねえよ」

「そうか」

 

 イタチは小さく肩を下げた。

 再不斬と白は視線を交わす。

 

「お前たち三人を拘束する」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 熱い。

 熱い。

 熱い。

 

 汗が止まらない。

 腕が、肩が、横隔膜が、顎が、震える。

 窓は開いたままで、涼しい風が時折首をなぞるけれど、体温の上昇は抑制されないままに、乾いた後から汗が噴き出てくる。

 

 一人になってから、急に。

 身体が熱くなった。

 頭痛はしない。寒気もしない。風邪ではないだろう。でもだからこそ、この身体の異常は全く予期できないもので、まるで身体の外側から突然として病原菌が襲ってきたかのような錯覚を思わせる。

 

 身体はコントロールを失い、残ったのは直感的な感情だけ。

 

 お腹が空いた。

 とても、とても。

 喉も乾いた。

 

 何か、傍にないだろうか。

 

 口の中の唾液は、壊れたように止め処なく溢れ出てくる。身体の熱のせいで飲み込むのさえ億劫で、口端からダラダラと零れてしまう。涎が零れる度に、心臓の鼓動は興奮したように高鳴ってくる。

 

 瞬く間に身体の体力は奪われ、意識は朦朧となってきた。

 

 苦しい。

 でも、どうしてだろう。

 この苦しさに身を委ねることに、困難は無かった。

 むしろ委ねれば委ねるほど、心地良くなっていくような気がする。

 海面でもがくよりも、一度大きく息を吸い込んでから、海中に身を委ねるように。

 

 風が吹くと、室内の空気が逆巻いた。

 流れた空気の端が鼻先に触れて、呼吸と共に鼻孔を擽る。

 

 いい、匂いがした。

 

 とても良い匂いだ。

 豊かな香り。

 多くの食事による栄養(どりょく)と、満ち溢れた血(さいのう)をたっぷりと含んだ、高級な牛肉……いや、牛とは限らないけれど、とにかく、今まで食べてきた料理の中で最高級品に値する香りだ。一度嗅いでしまった香りは、風が落ち着いた室内の中を、自身のすぐ横から出入り口のドアに続いている。

 

 ひた、ひた、ひた。

 

 魅了された香りを追いかけて、熱い身体は幽霊のように歩き始めた。

 ドアを開ける。

 匂いはそのまま、階下に向かっていたが、開けたドアの両脇には、また別の二つの香りが。

 

 この二つも、中々どうして、上質だ。室内で嗅いだそれよりかは遥かに劣っているが、今の空腹を少しでも紛らわせるには、ちょうど良い。廊下を吹き抜ける風も、心地良かった。

 

 二つの香りを追いかける。濃さからして、すぐ近く。唾液が多くなって、身体の火照りも強くなっていく。ああでも、最初の香りを堪能したい。ぼんやりとした意識は、何となしにそう思う。

 

『我慢しなさい』

 

 どこからともなく、そんな声が。

 父親のような声質でありながら、母親でもあるような言葉遣い。

 うん、と小さく応える。

 

『まずは、楽な方から食べなさい。好き嫌いをするのは良くないわ。それに、食べ方も学ばないとね』

 

 うん。

 

『沢山食べれば、喜んでくれるわよ』

 

 誰が?

 

『貴方の友達が』

 

 友達。

 その言葉で連想される一つの人影。

 朦朧とする意識は、ぼんやりとしか、その面影を思い出せない。

 だけど、心が温まる、面影だった。

 

『沢山食べれば、身体は大きくなる。貴方は、沢山食べれば、沢山、才能が手に入る』

 

 才能?

 

『ほしいでしょ?』

 

 うん。

 

『友達に会いたいでしょ?』

 

 うん。

 

『嘘をつかれたくないでしょ?』

 

 うん。

 

『なら、食べなさい』

 

 うん。

 

 

 

「猿飛イロミさん、止まってください」

 

 

 

 二人の暗部が、異変に気付き、姿を現した。

 

 強い香りが、鼻孔を刺激する。

 空腹、乾き、汗、唾液、興奮。

 どれもこれもが、強烈になる。

 

「我々が、分かりますか? 隊長であるイタチの部下です。分かるなら足を止めて、何でも構いません、リアクションをしてください」

 

 二人とも男だと、理解する。

 イロミは零れそうな唾液を舌なめずりした。紫色に変色した唇は、彼女自身の唾液で十分に光沢を帯びてしまう。いや、既に彼女の身体全身が、紫色に変色していた。

 

 二人の暗部に緊張が走る。

 姿形は猿飛イロミだが、色の変色と妖艶さを持つ舌なめずりに、中身は別人なのではないかという恐ろしさと、狭い廊下を圧迫するチャクラの奔流が、緊急事態なのだと理解したのだ。

 

「お腹……空いたの」

「もう一度だけ、尋ねます。足を止めてください。隊長も、それを望んでいます」

「隊長?」

「うちはイタチです。貴方の友人の」

「うちは……イタチ?」

 

 思い出せない。

 ぼんやりだ。

 とにかく、お腹が空いて、喉が渇いて。

 直感的な感情が。

 直線的な本能が。

 抑えられなくて。

 どういう訳か、腹立たしさが(、、、、、、)生まれてきて。

 やはり、思い出せない。

 

 

 

「だぁれぇえ? それぇえ?」

 

 

 

 次の瞬間、二人の暗部は背に備えていた刀に手を掛けた。

 やはりイタチの部下として、実に相応しい速度と、常に相手のアクションに警戒を保った抜刀だった。

 

 それでも。

 本能に身を委ね、呪印(、、)に支配された彼女は。

 

 イロミは。

 

 イロミの速度は。

 

 その二人を、置き去りにした。

 イロミはさも当たり前のように。

 大好きな甘露に飛びつく子供のように。

 一人の男に抱き着いた。

 刀を引き抜こうとした腕を右手で握りへし折りながら、左手で男の頭を強引に傾けさせ。

 手頃な角度に露出した首に、口を押し付け、歯を立てた。

 

 血の噴水が、廊下に生まれる。

 

 首に噛みついたイロミは、顎の力と背筋だけで、男の首を引き千切ったのだ。

 

 気紛れか、偶然か。生き残った片方の男は、硬直する。いくら暗部と言えど、異常な光景がそこに生まれていたからだ。

 

 全く関与できなかった速度で移動したイロミは、もはや死体となった男に覆いかぶさり、死肉を貪っていた。すぐ横には、刀を抜いた者がいるというのに、意に関せず、獣のように両手足で死体を固定し、口元を男の首元を食べ、血を啜っている。

 

 首元の肉が無くなったら、腕を衣服ごと引き千切る。カニの身を取り出すように衣服をずらして、出てきた肉を口元に運ぶ。舌で垂れる血を掬い、肉を堪能するように細々と。

 

 美味しいと、イロミは思ったかもしれない。かもしれない、というのはつまり、その感情がイロミの本心なのかどうか分からないからだ。

 彼女自身にも。

 捕食する動作だけが、死肉を堪能しているということを表しているに過ぎない。

 

「キャハハ。おぃしぃいいいいい」

 

 壊れたように、嗤う。

 口元を赤黒く染めて。

 そして、残った、生きた肉に、イロミは顔を向ける。目元を覆う白い毛先も、包帯も、真っ赤に染めて。

 

 男はすぐに逃げる事を決心した。自分一人では到底、手に負えないという冷静な判断がそうさせたが―――遅かった。イロミが食事を堪能している間に、逃げるべきだったのだ。

 

 イロミの背中が、大きく隆起する。病院服を突き破って出てきたのは、巨大な蛇だった。蛇は男を悠々と、その咢で食らいつき、そのまま丸呑みにする。

 

 男の身体は蛇の胴体を隆起しながら進んでいった。何かを叫び、もがく。手に持つ刀で何度と内側から胴体を切ろうとも、切り傷は瞬く間に閉じていき、やがて、男はイロミの胴体に到着する。

 

 明らかに、男の体躯はイロミよりも大きかった。だが、イロミの胴体に到着した瞬間、手品でも起きたかのように、すっぽりと男の身体による隆起は無くなったのだ。

 

 次の瞬間。

 

 果物を潰したように、イロミの身体の節々から、大量の血が噴出した。

 

「キャハハ、ハ? こっちはぁ、美味しくないかもぉ? うぇ」

 

 最後は、口から男の衣服を吐き出し、背中から生やした蛇で一人目の男の死体を丸呑みし、再び衣服を吐き出した。

 

 美味しかった。

 だけど、まだ、お腹が空く。

 早く、食べたい。

 ずっとずっと、部屋から続く、良い匂いの食べ物を。

 

「あ、でもぉ……。こっちでも、良い匂ぃい」

 

 階段の下から、二つの匂いが湧き上がってきたのに、イロミは気付いた。

 

 一つは、硬そうだけど、肉汁がいっぱいありそうな匂いだ。たとえるなら、そう、昆虫みたいなイメージ。とても硬くて、食べるのは大変そうだけれど、硬い物の中には大抵、美味しいものがある。カニやエビ、パイナップルだったり、貝類だったり。昆虫も、そうなのだろう。

 もう一つは、部屋から続く匂いと、とても似た匂いだった。まだ十分に熟成されていない子羊のような匂いの上に、どこか薬品の香りも混じっている。だがそれでも、十分に食べるに値する代物だ。

 

 ああ、お腹が空いてきた。

 喉も乾いてばかり。

 二つの声が聞こえてくると、唾液は再び溢れてきた。

 

「だ、だから言ってるじゃないっすかあ! フウは、その、知り合いの親戚のおばあさんにお見舞いをですねえ……」

「お前、滝隠れの里の忍だろうが。知り合いの親戚が木ノ葉にいるわけねえだろ」

「サスケくんには関係ないじゃないっすかッ! もう、ほら、しっし、っすよ! どっか行ってほしいっす!」

「どうせアホミがいんだろ?」

「え、え? な、なあに言っちゃってんすかあ! イロミちゃんがいる訳ないじゃないっすかッ! どうしてイロミちゃんが、中忍選抜試験中に入院なんてするんすか! おかしいじゃないっすか!」

「お前、アホミと兄さん以外に知り合いいねえだろ」

「ぐっ!? い、いやあ! い、いるっすよー! そりゃあ、いっぱい、いるっす。フウには、いっぱい。カカシさんだったり、紅さんだったり、ガイさんだったり! ……あ、ガイさんはちょっと、今のはノーカウントで」

「アホミの奴に訊いておきたいことがあるだけだ」

「だから、何度も何度も何度も、言ってるっすけど、この先にイロミちゃんは―――」

 

 美味しそう。

 

『駄目よ』

 

 え?

 

『あの二つは、また今度にしなさい』

 

 どうして?

 

『一番美味しそうなものを食べましょう。食べ方は、さっきの奴で分かったでしょ? ほら、あっちよ。あっちに行きなさい』

 

 頭の中に浮かび上がる、白い蛇が、尾で暗闇の向こうを指す。確かにその方向に、一番美味しそうな匂いはなかった。

 

『こっちが近道なのよ。すぐに美味しい匂いが分かるから。でも、いい? 途中で色んな匂いを嗅ぐかもしれないけど、我慢するのよ』

 

 でも……。

 

『仕方のない子ね。じゃあ、食べていいと言った奴だけ、食べなさい。それ以外は我慢するのよ?』

 

 うん。

 

『クク。良い子ね、イロミ』

 

 イロミは血みどろに重くなった衣服のまま、白い蛇の指さす方向―――廊下の突き当たりの非常階段の窓を突き破った。

 美味しい香りの数々が、身体中を包み込む。

 病院の最上階から飛び降りると、多くの香りの中から、部屋で嗅いだ香りが鼻に入る。やはり、何よりも強烈で濃厚な、香りだ。

 

 周りからは、悲鳴が生まれ始める。

 

 身体中を紫色に変色させながらも、血だらけの少女が、突如として空から降ってきたのだから当然だ。

 

『ここら辺のは無視しなさい』

 

 イロミは声に従順に、匂いの先を追いかけて跳躍する。

 屋根を飛び、道を駆け抜け、塀を伝い走る。

 

 その途中、里の中を警備していた暗部の者たちがイロミに接近した。明らかに異常な姿の彼女を抑え込もうとした。

 

 けれど。

 

『こいつらは食べなさい。好きなだけ』

 

 背中から、肩から、腹から。

 

 何本もの蛇に、暗部たちは飲み込まれていった。

 その度にイロミのチャクラは多くなり、移動する速度も上がっていく。

 才能を食べていくかのように。

 努力を貪っていくかのように。

 彼女の機能は、上がっていく。

 

 同時に、里は。

 木ノ葉隠れの意志は。

 彼女を危険人物であると、認識するようになっていく。

 

 

 

 多くの暗部を食らい。

 多くの人々に、その狂気の姿を目撃されたイロミは。

 その日を境に、追われる身となった。

 

 

 

 そして、木ノ葉は。

 

 大蛇丸という憂いと、猿飛イロミという危険人物を内包しながら―――仮初の平和を主張し続け。

 何事もなかったかのように、中忍選抜試験の続行を維持し続けて。

 

 最終試験開始、五日前を迎えることになる。




 次話の投稿ですが、諸事情があり、4月11日の投稿になる可能性が大きいです。

 詳しくは、活動報告の【次話、及びさらに次話について】を参照していただけたらと思います。

 ※ 追記です
 次話の投稿は、申し訳ありませんが、4月15日に行わさせていただきます。誠に、申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ネガティブディペンデンス

 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

 次話は、4月25日に投稿したいと思います。


 確実に殺されるだろうと直感した時、痛みで薄れていく意識の中、湧き上がってきた感情は怒りだった。

 

 自分に対する怒り。

 

 自分の無力さに対する、熱した鉄のような怒りだった。

 

 フウコを殺す。

 

 その為だけに、今まで力を磨いてきた。

 寝ても、覚めても。

 一族の仇を討つためだけに。

 誰の邪魔を許さないように。

 

 研鑽を重ねてきた。慢心した時期など、思い返しても、あるはずが無かった。波の国での一件以来、さらに修行を重ねてもいた。今はまだ、カカシに勝てるとは思っていない。今はまだ、イタチに勝てるとは思っていない。

 だが、自分と同じ世代の子らに負けるつもりはなかった。

 

 だからこそ。

 

 大蛇丸から逃げた先に遭遇した相手に、全く手も足も出なかった自分に、怒りを覚えた。

 今まで自分は、一体何をしていたのかと。

 

「お前に用はない」

 

 サスケの抱く怒りを他所に、我愛羅の声は酷くどうでもよさそうなものだった。

 背負った瓢箪の口から出ている砂の手は、サスケの足首をがっしりと掴み、興味の薄れた人形を摘まむように、彼を宙づりにしていた。ボロボロになった衣服と、身体中に付けられた青白い打撲痕。足首を掴まれ、何度も地面に叩き付けられた痕である。朦朧とする意識は、逆さに吊るされたサスケの頭に血を集め、より一層と混沌を強くする。

 

「お前」

 

 薄く開き、逆さになった視界の正面に立つ我愛羅の視線は真っ直ぐに、ナルトを背負ったサクラを見据えていた。

 

「その男を起こせ」

 

 言葉による返事はない。だが、涙を流しているだろうことは、視界に入らなくても分かってしまう。不安定で急な高低差を作る息遣い。震えているのだろうと、分かった。

 

「早くしろ」

 

 遭遇してから。

 我愛羅は執拗にナルトを狙っていた。

 どうしてなのか、分からない。想像も付かない。接点なんて、無かったはずだ。遭遇して彼は、品定めでもするように、こちらを一人一人と睨み付けた。そして「その眠っている男か」と呟くと、剥き出しの敵意を行動で露わにした。

 砂を操る忍術。

 砂を操り、あらゆる術を未然に防ぎ、相手を傷付けることに躊躇いを持たない力。

 ただただ一貫して、ナルトを起こす事だけに執着していた。

 サクラとナルトを逃がす。どういう訳か、そんな考えに囚われていたサスケの攻撃を、水しぶきを掃うように軽く退けた。

 

「サスケ……くん…………」

 

 縋るようで、怯えるようで。普段の彼女の利口さがまるで感じ取れない、思考を放り投げた声だった。だけど、応える事ができるほどの余裕はなかった。

 視界が上下する。身体を再び、地面に叩き付けられた。サクラの怯えた小さな悲鳴が、ぐわんぐわんと残響する鼓膜の中で、濁って聞こえる。

 

「起こせ。さもなければ、この男を殺すぞ」

「で……でも…………。お願い……みの、がして………」

 

 さっさと逃げろと、サスケは微かに思った。サクラは、胆が座っている時がある。本当に、変なタイミングでだ。今は真っ先に逃げた方がいい。勝ち目なんてない。たとえナルトが目を覚ましても、勝てるかどうか。

 

 ―――いや、あの時のナルトなら…………。

 

 ふと脳裏に浮かぶのは、赤いチャクラを纏ったナルトの姿。

 波の国で暴走し、カカシや再不斬や白ら三人を相手に、それでも尚、圧倒的に暴力を振るい続けた、あの存在なら―――。

 

 砂で足を砕かれた。

 

 森に響く声が、自分の叫び声なのだと理解するのに時間が掛かってしまうほどの激痛は、薄れかけていた意識をはっきりとさせ、けれど同時に、身体の痛みも鮮明にさせた。

 

「早く起こせ……ッ」

 

 サクラは怯えながら、とうとう、背負ったナルトを静かに地面に下ろしてしまった。細い腕で、ナルトの背中を揺らし「ナ、ナルト……。起きて……」と言う。普段とは違い、小さな声だ。そんな声じゃあ、ナルトは起きない。起きたら起きたで、馬鹿みたいな事を言うのだろう。

 

 どうしてだ。

 

 気が付けば、二人の事が分かってしまう。

 チームとして初めて班分けされた最初は、ナルトに対する憎らしさはあったものの、それ以外に興味も関心も無かった。サクラに対しては、より一層なかった。

 なのに今では、まともに見えていないのに、微かな情報だけで想像が広がっていく。

 自分の無力さと我愛羅の殺意が、その想像に限界を作る。先は無い、という限界。そしてそれは、いとも容易く実態となって現れる。

 足首を掴むだけだった砂の手が、体積を増やして身体全身を覆った。卵のように砂は形を作り、四肢の先と顔の半分だけを外に出させる。

 

「サ、サスケくんッ! きゃ―――」

 

 サクラの短い悲鳴。何が起きているのか、微かにでも顔を動かせないせいで分からない。ただ、僅かに見える我愛羅の表情は、不吉な未来を暗示させるばかり。

 

「いや……起きて、ナルトォッ!」

「お前らに―――もう用はない」

 

 我愛羅は両手を開いたまま、掲げた。

 掌が徐々に閉じられていくのに呼応して、纏わりつく砂が圧縮されていくのを感じた。

 

 死。

 

 それを目前に。

 関節を一寸とも動かせない身体の内側から、破裂しそうな怒りが、込み上げてくる。

 無力な自分に。

 また、何も出来ないままに、何もかもを奪われていく惨めな自分に。

 

「―――砂漠棺(さばくきゅう)

 

 圧力が一瞬だけ止まった。

 助走をつけるように。

 首を刈る大鎌を振り上げるように。

 サスケは叫ぶ。

 意味もなく、叫ぶ。

 現実は変わらない。

 砂は押し返せない。

 変わらないならば、意味はない。

 これまでの努力が、ひたむきな憎しみが―――無に帰そうとした時。

 声が、横から聞こえた。

 

「……ッ! 心転身の術ッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 家の玄関が静かに開く音がしたのは、空が白み始めた明朝だった。八月の空気は本格的に暑苦しくなり、湿度も高い。自室の網戸から入ってくる空気の冷たさは気休め程度だった。目を覚ますと、天井はまだ暗い。腹部にかけた薄いタオルケットが横にズレてしまっている。サスケは玄関の戸が閉まる音を無言に聞いていた。

 

 ―――兄さん、帰ってきたのか……。

 

 シューズを履く音。いつもと違って、丁寧さの無い、乱暴な脱ぎ方。床を歩く足音は泥を叩き付けるような重たさがある。イタチが自室に戻る為に戸を開ける音も、投げやりだった。

 

「……ゴホッ、ゴホッ」

 

 乾いた咳だった。三日前のよりも、酷くなっているような気がした。サスケは部屋から出た。居間には、イタチが脱ぎ捨てた黒いコートが投げ捨てられている。彼にしては珍しい乱雑さだった。

 対面の戸が開くと、イタチが着替えを片手に立っていた。

 

「悪い、サスケ。起こしたな」

 

 明かりも付けず、カーテンも閉め切った暗さの中であることを考慮しても、イタチの表情は青かった。優しい笑顔を浮かべてはくれるものの、微かに目の下には薄いクマが出来ており、明らかに疲れが見えた。

 

「……元々、起きてただけだ」

「足が痛むのか?」

 

 サスケは首を横に振る。我愛羅に砕かれた足は、まだ完治と判断はされていないものの、生活に支障は出ないレベルだ。足首に包帯を巻いてはいるが、問題なく歩ける。包帯の下にはシップも薬も塗っておらず、いい加減うんざりしていた薬品臭さは、とうに消えていた。カカシや医者の言う通り、おとなしく修行はしていないが、おそらくそれでも問題は無いはずである。「本当か?」と尋ねてくるイタチに、顎を引くように頷く。イタチは安心したように、疲れた表情でも優しい笑みを作り、サスケの頭を軽く叩いた。

 

「今日、医療忍者の方が来る」

「家にか?」

「ああ。お前の足の状態を診断してくれるよう、頼んでおいた」

「病院ぐらい、俺一人で行ける」

「文句を言うな。その方はただの医療忍者じゃない。診断は間違いないだろう。……医療忍者の方は、昼頃に来る。それまでゆっくり―――ッ」

 

 喋っている途中で、イタチは小さく咳き込んだ。

 本当に、苦しそうに(、、、、、)

 しかし咳が止まると彼は「すまない」と、優しく微笑み「ゆっくり昼間で寝ていろ」と呟いて、風呂に入ろうと、横を通り過ぎた。サスケは、下唇を噛んだ。

 

「……無理…………し過ぎなんじゃないのか?」

 

 つい、言葉が出てしまった。振り返ると、イタチは足を止めていた。

 

「無理はしていない。暗部は里の治安維持の機能も任されているからな。ましてや里に大蛇丸がいるとなれば、尚のことだ。お前が気にするようなことじゃない」

 

 冷静で整然とした言葉。

 だが、その言葉を素直に受け入れることは出来ない。

 背中を向けたままの彼からは、どこか焦りのようなものを感じてしまう。その焦りが、呪いのように兄を衰弱させている。

 

「兄さんこそ、一日くらい休んだ方がいい。ここ最近、まともに寝てないだろ」

 

 彼が家で寝ている時間は、いつも二刻ほどの仮眠だけ。しかも、里の警備と―――そして、何人もの暗部を殺害し、今尚、逃亡と潜伏を繰り返しているイロミを捜索するという作業を、昼夜問わず行っているのだ。体調を崩さない方がおかしい。

 

 イロミの心配をする必要はないと―――サスケは言わない。彼女がどうして、木ノ葉隠れの里に敵意を持つようになったのかは知らない。

 

 しかし、原因の一つは、自分のせいなのかもしれないという予想はあった。

 中忍選抜試験―――第二の試験。

 大蛇丸から逃げる事ができたのは、イロミのおかげだった。彼女が間に入り、隙を作ってくれたからだ。

 その後、イロミが大蛇丸と戦ったという事は、知らされてはいないが。

 イロミが指名手配される前日。

 病院でフウを目撃して、イロミが入院しているのだと分かった。そして、大蛇丸と戦い、怪我をしたのだという事も、容易に推測できた。

 

 普段、鬱陶しくも、穏和な人格の彼女が豹変したのは、大蛇丸と接触したから。

 

 気休めでも、心配しなくても大丈夫だ……とは言えなかった。

 

「お前が気にすることじゃない」

 

 それ以上、イタチは何かを語ることなく、風呂場へと入っていった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 シズネと名乗る女性が家に来たのは、イタチの言った通り、昼間だった。白く縁取られた黒い浴衣を着た、黒のショートヘアの女性。開けた玄関に立っていた彼女は、両腕に真珠のネックレスを掛けた子豚を抱えていて、一瞬だけ、胡散臭い業者に見えてしまったが、「イタチくんに頼まれて、お伺いしました。君が、サスケくんですね?」と、物腰柔らく尋ねてきた時にようやく、医療忍者の者なのだと分かった。

 

「あんたが、医療忍者か?」

「はい、そうです。今日は、君の足の状態を診断する為に来ました」

 

 ちらりと、シズネは包帯の巻かれたサスケの足首を見た。

 

「骨が砕けたという話しでしたが、状態は良いようですね。一応は、診断書や治療履歴を拝見してきましたが、問題ないようですね」

 

 シズネを部屋に招き入れる。家には一人だ。イタチは家にいない。風呂から上がり、やはり二刻ほど仮眠を取ってから、さっさと行ってしまったのだ。食事はしていない。そもそもイタチが、食事を取っているのかすら、疑わしかった。

 

「あ、すみません」

「なんだ?」

「トントンは家にあげても大丈夫でしょうか?」

 

 シズネは腕に抱えた豚を見下ろした。他人の家に来る時点で、その疑問は頭に思い浮かばなかったのだろうかと思う。医療忍者だからといって、頭が良いという訳ではないらしい。

 

「そこにでも置いておけ。部屋を汚すんじゃねえぞ」

 

 苦笑いを浮かべながら、シズネはトントンを三和土に置く。「少しの間、静かにしていてくださいね」と、彼女は言う。トントンに対しても敬語を使う姿はもはや意味不明である。最初の物腰柔らかな印象は消え失せ、そもそも、本当に医療忍者なのかさえ疑わしくなってきた。

 サスケはさっさと座ると、シズネは対面に正座をした。

 

「じゃあ、足を見せてください」

 

 出した足をシズネは手に取る。「軽く動かしてみるので、もし痛みや違和感があったら教えてください」と言うと、足先を掴み、ゆっくりと足首を動かしてきた。色んな方向に足首を動かされたが、痛みは無かった。

 

「骨は完全に修復されていますね。おかしなくっ付きもありません」

 

 足首を動かすのを止め、右手を覆うチャクラを包帯越しに当てながらシズネは報告する。チャクラに敵意は無く、骨を軽く圧迫される感覚があるだけだ。

 

「筋肉の萎縮も、特に無いようですね。もしかして、運動をしてましたか?」

「軽くな」

「怪我をする前と同じという訳ではないと思いますが、これならすぐに任務に復帰できますね。念のために、筋肉を柔らかくしておきますね。あまり、力を入れないでください」

 

 チャクラは質を変える。包帯の下の筋肉が徐々に熱を帯び始めた。足首の長さが変わっているように錯覚してしまうほど、足首の力が緩んでいく。包帯を外され、シズネは新しい包帯を手際よく巻いた。

 

「終わりか?」

 

 足首を動かしてみる。包帯の抑制はあるものの、解された足首の筋肉は想像以上に柔軟に動いてくれた。

 

「はい。もう、完治はしていると思って間違いないでしょう。ですが、あまり無理はしないでくださいね。足首の筋肉や靭帯は良好な状態ですが、身体は足首の動かし方を忘れているかもしれません。下手にいつもの調子で動かすと、強い負荷が掛かり、足首を痛めます。徐々に足首の状態に合わせて、動かしてください」

「どれくらい動かしていいんだ?」

「あ、もしかして修行しようとしてますか? 駄目ですよ、それは。イタチくんから言われているんです」

 

 修行をすることは、サスケの頭の中には無かった。中忍選抜試験で失格となってから、そう言った感情は、全くと言う程ではないが、足首の怪我を抜きにしても、不思議なことに、あまり沸いてこなかった。

 どうしてそんな状態になってしまったのか、自分では分からない。

 ただ、今は、別の感情が―――目的があった。

 シズネは立ち上がると、三和土のトントンを抱えた。診断の間は退屈そうに横になっていたトントンは、抱えあげられると「ブヒ」と嬉しそうに鼻を鳴らす。

 

「あんた、兄さんと仲良いのか?」

「はい?」

「兄さんから、俺に修行させないよう、言われてたんだろ?」

 

 ああ、とシズネは笑顔を浮かべた。

 

「親しいという程ではありません。君の診断をしてほしいというのも、ただ、お願いされただけです。しかも、本当なら私ではなく、別の方が、君の診断をする予定で、イタチくんが診断を頼んだのは、そちらの方だったんです。私は、その……何と言いますか、その方のとても個人的な事情で、代理として来ただけで。君に修行をさせないように言われたのも、私ではなく、そちらの方です」

「………………」

「ああでも、さっきの診断は嘘ではないので、安心してください。これでも、医療忍術の知識と実力は人並み以上にあると自負しているので」

「……なら、あんたでも分かるのか?」

「何をですか?」

「兄さんの体調が悪かっただろ」

 

 思い当る節があるのか、シズネは少しだけ暗い表情を浮かべた。しかし首を横に振り「私からは何も言えません」と小さく呟く。

 

「検診をさせてもらえないので、正確な判断は難しいです。大雑把に、体調は芳しくない、という事だけは分かりますが……それ以上は。ですが、万が一、彼が倒れたりしたら、私に教えてください」

 

 彼女は口で今寝泊まりしている宿の住所を言った。知っている場所だったため、すぐに頭に叩き込み、頷き返すと、シズネは丁寧に頭を下げながら帰って行った。

 

 静かな部屋で、サスケはすぐに足首の包帯を取る。こんな物があったのでは、いざという時に邪魔にしかならない。クナイや手裏剣を入れたホルスターを付け、家を出る。外の天気は、憎たらしいくらいに晴れやかだった。

 

 イロミを捜す。

 

 サスケは、あの夜を想起していた。

 自分の知らないどこかで、何かが大きく変わっていっている。

 そしていつかまた、奪われるかもしれないと。

 イロミを、イタチを、あるいは何もかも。

 それだけは許さない。

 今度こそ、何も出来ないまま、奪われたくはなかった。

 サスケは、怒っていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 音の忍と共に、木ノ葉に戦争を仕掛ける。

 

 中忍選抜試験の最終試験まで進出した報告をする為に砂隠れの里へと帰り、再び木ノ葉隠れの里へと戻ってきたバキは、我愛羅たちが寝泊まりしている宿の一室で、重々しい表情でその言葉を発した。

 砂隠れの里と木ノ葉隠れの里は、同盟を結んでいる関係だ。テマリもカンクロウも、前触れも無く聞かされた【風影】の意向に、異を唱えた。

 

 間違っている、と。

 わざわざ戦争を仕掛ける意味が見出せないと。

 

 しかし、バキは砂隠れの里の実情を冷静に語った。

 

 第三次忍界大戦が終わり、平和な時代がしばらく続くことによってもたらされた、軍縮という流れ。しかも、砂隠れの里の大名は殊更に、その傾向が強い。里への投資を減らそうとしているらしい。今後、砂隠れの里から排出される忍の数も量も激減し、挙句には、木ノ葉隠れの里が滝隠れの里を吸収した時のように、砂隠れの里も吸収されるだろう、という観測だった。

 

 そうなってしまえば、それこそいよいよ、戦争が始まる。

 

 肥大した木ノ葉隠れの里を相手に、他の忍里らが戦争を仕掛ける。忍の世界のバランスを保つために、元の状態に戻そうとする力が行使される。

 

 そして、真っ先に被害を受けるのは、元砂隠れの里の忍なのだと。単なる先兵として、使い捨てられるだけの未来しかない。

 

 風影も苦渋の選択なのだと、バキは語った。

 

 現風影―――それは、我愛羅たちの実の父である。木ノ葉隠れの里に戦争を仕掛けると判断した彼に、テマリとカンクロウが何を思ったのかは定かではない。我愛羅にとっては、砂上の楼閣の天辺に残された砂粒よりも、遥かにどうでもいい事柄だった。

 

 戦争が起きようが起きまいが、やることは変わらない。

 

 他者を殺す。

 

 それだけである。

 

 それこそが価値だ。

 

 生きていくには、理由が、つまりは価値が必要だ。

 

 理由もなく、価値もなく生きるというのは、死んでいるのと変わらない。いや、もしかしたら、死んでいるよりも、無意味かもしれない。

 

 死ぬという事は、当然の事ではあるが、生きるという権利を放棄する事だ。

 

 そして、死んでしまえば、もう二度と、生きることは出来ない。これも、当たり前のこと。しかし、生きている者は、死ぬことが出来る。つまり、選択肢の数という考えでは、生きている者の方が、死んでいる者よりも上位にいる。

 

 死者は、生者に想われる事はない。誰も、死者の肉体を部屋に置き、挨拶をしたり、会話をしたり、共に食事などしない。むしろ、邪険にされる対象だ。生者が想っているのは、死者の生前の記憶だ。死者そのもの……肉体を想ったりはしないのだ。生者にとって死者の肉体は、単なる生前の記憶を蘇らせる為の道具の一種でしかなく、記憶の中でしか出会うことが出来ないからこそ、死者は死者なのだ。

 

 しかし、生者は違う。

 

 挨拶も、会話も、食事も、あるいは遊びも。

 生者の肉体と共に行われる。その肉体から発せられる言葉や行動に価値があるのだと、他者が付与してくれるのだ。故に、その価値を大切に抱き、自身は死者ではなく、生者なのだと理解し、生きていくことが出来る。

 

 選択肢も、肉体の価値も。

 

 生者は死者よりも上である。

 だが、上位の者が、成す術もなく下位の存在と同じ価値を与えられてしまった時点で、価値は崩壊する。大人が子供よりも頭が悪かったら、あまりにも情けない存在になってしまうように。

 価値が必要なのだ。

 理由が必須なのだ。

 生きていく上で。

 死者と同等というのは、あまりにも、惨めだ。

 死者と同じように、ただ肉体があるだけではなく、ただ肉体を邪険にされるだけではなく。あるいは、他者に邪険にされても尚、自身が死者と異なるという確信を与えてくれる理由―――価値が。

 

 我愛羅にとってそれは、他者を、あるいは自らを殺しに来る者を、または殺すべき者を、殺すという事が、自身の生きる価値だった。

 

 他者を殺す事は、死者には出来ない。

 そして殺すという行為は、自身が生まれた時から無意識に行ってきたものだった。

 生まれたばかりの雛鳥が、自身の価値である小さな羽を羽ばたかせるのと同じように。

 我愛羅は、生まれたその日に、母の命を奪った。

 母の命を糧に、自分は生まれてきたのだ。

 殺すという行為を、生まれた頃から行ってきたのだ。

 

 であるならば、それこそが自身の生きる理由。

 

 他者を殺す事ができる自分。

 それを愛せる自分。

 我愛羅。

【我を愛する修羅】

 これほど符号の揃う生き方と、それが行える忍の世界。

 我愛羅にとっての世界は、そんな血肉に塗れながらも、素晴らしいと賛美できるものだった。

 その中で、木ノ葉隠れの里に戦争を仕掛けるという砂隠れの里の意向。

 何の事はない。

 

 ただ【生きる実感】を噛みしめるイベントが出来たに過ぎない。子供が誕生日にテーブルの中央に置かれた特大のケーキを前に、喜ぶのと同じだ。バキから「この任務……我愛羅、お前の働きにかかっている……」と言われた時は、微かな喜びと共に、冷静に返事をしたのだ。

 

 けれど今は―――。

 少しだけ―――。

 違和感があった―――。

 

 それは、一人の少女に、出会ったからだった。

 

『我愛羅くんって言うんだ……。綺麗な名前だね』

 

 当夜。満月は少し欠けていた。分厚い雲が幾つか浮かぶ、静かな深夜だった。【砂の化身】と呼ばれるバケモノを、赤子の頃に憑りつかされた我愛羅は、眠ることを許されない。一度眠ってしまえば、【砂の化身】は、容赦なく肉体を乗っ取り、破壊の限りを尽くす。自分の肉体を、全く別の存在に奪われる恐怖に駆られ、我愛羅は不眠を貫いてきた。

 今では慣れたものだが、何もしないというには、夜の時間は長すぎる。

 月を眺めるか、散歩をするか。

 気分にもよるが、その日の我愛羅は、夜を散歩していた。

 血生臭さが、鼻に付いたからだ。

 湿った夜の冷たい空気。その中を砂煙でも巻き上げるように入り込む、鉄と体液の臭い。自分が【生きる実感】を体験する時に嗅ぐそれに、我愛羅は引き付けられていった。

 そして、辿り着いたのは、古い建物だった。

 薄汚い壁にびっしりと張り付いた植物たち。ボロボロの屋根に、見るからに埃臭そうな玄関。どう見ても、ただの廃墟。しかし、それまでの道のりで眺めた建物らは真新しく、まるでゴミを隠すようにその建物は建っていて、違和感があった。

 明らかに、誰かの意志によって、その建物は残されている。

 

 血生臭さは、濃厚だった。

 

 調教された犬が、主の声に反応して食事を連想し涎を垂らすように。

 我愛羅もその血の香りに、ゾクゾクと興奮を覚えていた。この香りの根源を殺せば、より【生きる実感】を抱けるのではないかと。最終試験までの退屈な時間は、あまりにも殺しを行っていなかったせいもあり、もはや禁断症状化のように、背負った瓢箪から、砂が溢れ出ていた。

 建物の戸を開ける。耳障りな鈍い音の奥には、真っ暗な廊下が。

 

『だれ…………』

 

 と、廊下の奥から、少女の声が聞こえた。

 

『イタチくん…………?』

 

 返事はせず、廊下を奥へ進む。ギャシィ、ギャシィという音が、廊下から軋み出る。

 

『……来ないで』

 

 廊下の突き当りには、ドアがあった。埃臭さは鼻を痒くするが、それ以上に、血の臭いが濃かった。

 

『お腹が、空いちゃうから……。お願い、来ないで……』

 

 戸を開ける。

 

『来ないで…』

 

 中は漆黒。

 

『……イタチくんじゃないの?』

 

 しかし臭いは、部屋の中央からだ。

 

『だれ?』

 

 そこで我愛羅は出会った。

 

 身体中を真っ赤に染めた少女に。

 

 イロミに。

 

 決して死ぬことのない、盲目の少女に。

 

『お前は何だ?』

『私は……イロミっていうの……』

 

【生きる実感】を与えてくれない、不可思議な少女に。

 

『どうして……私を殺したいの?』

『生きる為だ』

『ごめんね……。私の身体、今、おかしくて。死なないんだ……』

 

 そして。

 

 どういう訳か、こちらの殺意に対して、理解不能に手を差し伸べてくる少女に。

 

『独りが、怖い?

『誰かを殺したいくらい、怖い?

『私も、怖い。

『色んな人を、食べちゃって。

『友達と喧嘩しちゃって。

『今は、里の人たちに、追われてるんだ。

『私……里の敵になっちゃった……。

『でもさ……、君の前だと、どうしてだろ……。お腹が空かないんだ。

『帰るの?』

 

 彼女の身体の異常さと殺意の無さに毒気を抜かれて、踵を返した我愛羅の手を、彼女は握ってきた。

 殺意の無い、真っ白で純粋な彼女の行動に、砂のガードは動かない。

 彼女の細い手には、痛々しい傷が、残っていた。

 半ば強引に隣に座らされたことに抵抗は出来なかった。

 イロミは、これまで見てきた、そして殺してきた者たちの誰よりも、違ったから。

 目元を隠す長い前髪。それ以上に、その下を真っ赤な血で染まった包帯が隠していた。

 蔑む視線。

 恐れの視線。

 怒りの視線。

 どれも読み取れず、無防備に手を握ってきた彼女は、初めて出会う不思議な生き物に見えたからだ。

 殺す価値のない、人間ではない、動物か何かに。

 

『お願い……、傍にいて……。

『独りが、怖いの……。

『昔も、何も見えなくて、怖かったから。

『我愛羅くんって言うんだ……。綺麗な名前だね。

『だって、そうでしょ?

『名前って、自分の子供に送る(、、)ものなんだから。

『我を愛する修羅。違うと思うんだ。

『あはは、ごめんね、ペラペラ喋っちゃって……。誰かと話すの、久しぶりで……。よく、色んな人に呑気だって言われる。

『私はこう思うの。

『【私は()愛しています()どんな時でも()】。そう言う意味だと思うな、きっと』

 

 

 

 ところで。

 

 

 

 木ノ葉隠れの里という限られた範囲で、暗部、そして木ノ葉の神童と謳われるイタチの捜索において。

 どうして彼女が見つからないのか。

 捕縛することが出来ないのか。

 それは、単純な話だった。

 中忍選抜試験中という背景の元、捜索することが出来ない場所に彼女がいるからである。

 詰まる所。

 兄弟であるテマリやカンクロウでさえ、恐ろしさのあまり不用意に近づくことの出来ない、我愛羅の部屋に、匿われているからである。

 

「今日の晩御飯は、お刺身なんだ」

 

 部屋に用意された夕飯のお盆に顔を向けて、彼女は呟いた。浴衣に袖を通した彼女の姿は、まるで暗部に追われていることから目を背けるようで、ヘンテコだった。

 助けてと、あの日、彼女は言った。

 年上の彼女は、情けなく、我愛羅を頼り、今に至っている。

 当夜の弱々しい姿は、微かな名残を残すだけで。

 今では、まるで深夜の森をおっかなびっくりに探検する子供みたいに、我愛羅の手を握りながらも、小さな笑顔を浮かべている。

 

 何かを誤魔化すかのように。

 

「ねえ、我愛羅くんは何を食べたい? 私、きんぴらごぼうが苦手なんだ」

「うるさい。黙って食え」

「……ありがとう、我愛羅くん」

 

 木ノ葉隠れの里に戦争を仕掛ける。

 その事を、イロミは知らない。

 いざ、戦争が始まったら。

 彼女を殺せるのだろうか?

 彼女が差し伸べてくる手を払い、殺せるだろうか。

 混沌とした感情を横に、イロミは勝手に食事を始めた。

 




 ご指摘・ご批評がございましたら、ご容赦なく、コメントしていただければと思います。

※ 追記です

 申し訳ありません。次話は27日に投稿いたします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

足元が宙に浮く

 

「エヘヘヘ、エヘヘヘヘへへへヘヘ」

 

 健康的と言えば、健康的かもしれない。真昼間に外に出るという行為自体が、実に健康を気遣っている。忍というのは健康が大事だ。何よりも大事である。日々与えられる任務には万全の状態で応対し、完璧な結果を出さなければならない。健康というのは、神社の鳥居をくぐる際に一礼するのと同じくらい基本的で、忍にとっては大切なのだ。ましてや、そこそこに歳を重ねてきたわけで。いついかなる時にポックリと棺桶に足を突っ込んでしまうか分からないくらいになってきたかもしれない訳で。ならば健康の為に外に出るのは必然である。外に出るのであるならば、楽しんで出るべきだ。おおそうだ、楽しまなければ。楽しまなければ、何事も長続きはしないものである。高い所から下を眺めるのはどうだろう。いいかもしれない。ちょうど、高さの建物もあるし、そこで景色を眺めるのは楽しいだろう。

 

 ……などと言うのは、自来也の頭の中で組み立てられた屁理屈である。もはや言い訳と言っても過言ではないだろう。しかし、言い訳のレベルは幼稚過ぎるため、誰に対する言い訳なのかは理解できない。少なくとも、綱手を前にして通用するはずがない。

 

 全くこの人はと、自来也の後ろで小さくため息を、カカシは零した。彼の手には、自来也が書いた【大人の読み物】が持たれている。勿論、ページを開いたまま。呆れる彼も彼で、同じ穴のムジナであることは周知の事実だろう。

 

「……ここで、何をしてるんです?」

 

 一ページを読み終わってから、ようやくカカシは声をかけた。

 

「見て分からぬか?」

「ええ、まあ……。分からないと、言わせてもらいますよ」

 

 後ろにカカシがいることは気付いていたのだろう。望遠鏡で女湯を覗いている事への罪悪感は無いようで、鼻の下を伸ばした笑みをそのままに、顔を向けないまま尋ねてくる自来也。

 

「全くお前はノリが悪い奴だのう。ちったあ情緒ってもんを分かれってーの。エへへ」

 

 カカシはため息を吐きながら、ゆったりと尋ねた。

 

「ナルトに修行を付けるのは止めたんですか?」

「エヘヘヘヘ。あ、なんじゃ?」

「貴方が言ったことじゃないですが……。昼間から女湯を覗いてるのは、どうしてだろうなって、まあ、思ってた所でしてね」

「なんじゃ、ワシを探しておったのか?」

「いえ、偶々上を見上げたら、貴方がいたもので」

 

 大蛇丸は、四日後に控えた中忍選抜試験の最終試験に姿を現すだろうと考えられている。各国の大名が集まる為、都合の良い足手まといになってくれるはずだからだ。カカシを含めた上忍らは、その日に焦点を当てて、コンディションを整えていた。自来也を見つけたのは本当に偶然で、これ以上身体に調整を加えたり、かつての戦時中の感覚を取り戻す修行を続けていると、当日になって疲労を残してしまうと考え、警備がてらに里を歩いていたのだ。

 

 自来也はやれやれと言いたげに頭を振ると、望遠鏡を畳んで懐にしまった。しゃがみ立ちしていた姿勢を崩し、立ち膝でその場に座る。

 

「しばらく、ナルトの奴には修行は付けてはおらん」

「何故です?」

「さあのう、ワシにも分からん」

 

 言っている意味がさっぱりです。

 

「もう少し、分かりやすく言っていただけたら嬉しいんですが」

「まあ、簡単に言やあ喧嘩をしたんじゃ。ワシとあいつが」

「それはまた、どうしてですか?」

「急にあいつの方から、修行はもういいと言ってきよってのう。修行よりも、イロミという奴を探すために手を貸せともの。ちょっとの間しか修行を付けておらんが、根性はあるあいつがそんな事を言い出すとは、思ってもおらなんだ」

「そういう事ですか……普段から、修行に関しては誰よりも真面目な奴ですからね」

「まあ、ワシの事は里の連中には極秘扱いにしておる。暗部や上忍の連中が里を警備している中で、おちおちと指名手配されとるやつを探して、下手に情報が広まっては大蛇丸の動きも変わってくるからのう。断ったところ、喧嘩した。やれ変態だの、エロ仙人だのアホだのマヌケだの、言いたい放題言いおって。ワシを誰だと……全く、困った奴じゃ」

 

 言葉とは裏腹に、どこか楽しそうに彼は笑った見せた。

 

「そんなわけで、ワシは退屈凌ぎに―――」

「覗きを?」

「取材じゃ」

「どんなですか?」

「読んで字の如くじゃ」

「では、今ナルトは一人という事ですか?」

「一応はイタチの奴に頼んで、暗部の人間を何人か監視に付けさせておる。前に一度、ナルトの様子を見た時は、フウという子が一緒だったのう。イタチが言うには、そやつも人柱力らしい。それも、かなりの実力を持っているとの」

 

 七尾をその身に封印した少女。彼女の実際の実力は、カカシは目撃したことはないのだが、何でも尾獣の力を完璧に制御できているらしい。雲隠れの里にいる人柱力と同程度の実力を持っているのではないかという噂は、耳にしたことがある。

 

「それぐらいに固めておれば、問題は無かろう。もし何かあれば、イタチを通じて即座にワシに情報が来るようにしておるしのう」

「……本当に、大丈夫なんですか?」

「大蛇丸も……馬鹿じゃあない。喧嘩を吹っ掛けるのに十分な状況が用意されとるというのに、わざわざ自分から姿を現す必要はないからのう。あいつは無駄な事はしない上に、どういう訳か、昔から他人を弄ぶかのように振る舞いよる。相手が少しでも翻弄されれば良しというような、いい加減さがある。もし本命がナルトなら、あいつは今、種を撒いておる所じゃ。ナルトを奪う―――ナルトの九尾を奪う為の、種をの」

 

 大蛇丸がナルトを狙っているという情報は、おそらく、イタチから聞いたのだろう。

 第二の試験で、大蛇丸と接触したサスケとサクラから、大蛇丸の様子を一部始終聞いたのはカカシである。その情報を火影に提供し、火影の相談役や、おそらくイタチなどと協議し、精査し、導き出された結果が、ナルトの九尾だというものである。

 それとも、ナルトを利用して木ノ葉を崩壊させるか。

 

「そのイロミという奴が木ノ葉に牙を剥き失踪したのも、大蛇丸の中では木ノ葉に打ち勝つための一つの手段に過ぎん。しかも……上手くいけば御の字という程度のじゃ。失敗することを前提とした手だのう。あいつは手段を選ばんが、だからこそ知らぬ者から見れば全てが最善手に見えてしまう。それが、あいつの手だ。ナルトが捜す為に木ノ葉を駆け回るのも、その計算の上に立っておる。ナルトを止めようが止めまいが、あいつの計算の痛手にはならんのう」

 

 全く、忌々しい奴じゃ。最後にそう呟いた彼の背中は、どこか温かい暖炉を懐かしむように、微かに丸くなっていた。

 

「イタチも、おそらくそれを分かった上で、ナルトの警備を軽くしておる。遊びの手ならば、こちらも手を緩めようと、逆に大蛇丸を誘うようにしておる。こちらが疲れない程度に、同じように、遊びの手をの。まあ、どちらも不発に終わるとワシは睨んでおるがな」

 

 おそらく、暗部も暗部で、手が見つからないのだろう。

 大蛇丸の情報が上忍に伝わってから、今に至るまでの十数日近く。その内の最初の三日か四日ほどで、暗部は木ノ葉の殆どを調査し終わったはず。大蛇丸、あるいは協力者の痕跡を。しかし、目立った成果を得られることはなく、中忍選抜試験の最終試験が近づいてしまっている。ならばと、ナルトを撒き餌に微かな悪意を拾おうとしているのだ。

 自来也ははっきりと、不発に終わると断言した。

 つまりは、出たとこ勝負になる。

 

 中忍選抜試験の最終試験当日。

 

 各国の大名らが集うという、里にとって最も足手まといが増える日に。

 

「それよりもじゃ、カカシよ」

 

 先ほどのトーンとは打って変わって、自来也は単なる疑問を尋ねる子供ような軽い声で尋ねてきた。

 

「ナルトに螺旋丸を教えたのは、お前か?」

 

 逡巡してから、カカシは「いえ、違いますよ」と応えた。

 

「なら、イタチか?」

「どうしてそう思うのです?」

「あの術は、見ただけでは習得できるもんじゃあないからの。そして扱える者は、ワシの知る限り、開発者のミナト、あやつから教えられたワシ、そして……ミナトの教え子であるお前くらいじゃ。ミナトが教えた訳ではあるまいし、ワシは教えとらん。お前でも無いのなら、術を見ただけで習得できてしまう写輪眼を持った、あやつくらいだと思っての」

「……それは、少し込み入った事情があるんですけど…………。まあ、貴方になら話しても問題は無いでしょう。ナルトが修行を放り出したのと、無関係ではありませんし、ね」

 

 本を閉じて、上忍仕様のジャケットの内側にしまう。これから話す内容は、少なからず、語るのにはふざけてはいけない内容だと判断したからだ。

 

「これは、誰かがはっきりと見た訳ではありませんし、俺が暗部を通じて知った事なので、確証はありませんが……。ナルトは、うちはフウコから螺旋丸を教えられたようです」

 

 自来也が不思議そうにカカシを見上げた。「どういう事じゃ?」と尋ねてくる彼の声は、どこか真剣そうで、低い。

 

「暗部の書類には、ナルトの監視と書かれているようで。しかし、どうやら二人は親しかった」

 

 親しかった、という言葉に自来也はどこか不思議そうに眉を顰めた。当然の反応だと思った。

 螺旋丸という最高ランクの術を、どうして、ナルトが使えるのか。下忍の昇格試験を行った際に、まだアカデミーを卒業したばかりの子が、こちらに目掛けて、不完全でありながらも、螺旋丸を発現させた時に思ったことである。

 その疑問は、波の国を終えてからも少しの期間、晴れることはなかった。

 

 ようやく分かったのは、ナルトに、螺旋丸の修行と銘打って行った、調査の時だった。

 自来也と同じように、尋ねた。

 螺旋丸を誰から教えてもらったんだ? と。

 

『この術は、俺にとって…………大切な人から教えてもらったんだってばよ……。いつか……その人に会うために、俺ってば…………火影に……』

 

 アカデミー生の時、あるいは、アカデミーに入る以前にナルトと交流を持っていたのは、暗部の書類を見る限り、うちはフウコしかいない。親しかった、というの評価は、ナルトの言葉に依存したものだが、間違ってはいないのだろう。

 

「うちはフウコが、どういう経緯で螺旋丸を習得するに至ったかは不明ですが……、アカデミーを卒業した時点でナルトは螺旋丸を扱えた事を考えると、時期的に、彼女で間違いないでしょう」

「まさか……ナルトは今も、うちはフウコを想っておるのか?」

 

 頷いて応えると「なるほどのう」と、どこか含みのある声を零した。

 きっとナルトは―――怖いと、感じたのだろう。

 ナルトにとって、イロミは、フウコと同じくらいに大切な繋がりだ。それが唐突に、まるで【うちは一族抹殺事件】の時のように、イロミは姿を消し、里の敵と判断されてしまった。

 養子という形でありながらも、火影の子として認められている彼女を。

 現火影・ヒルゼンは止める事が出来なかったのだ。

 イロミが病院から抜け出した日。

 多くが、彼女の行為を目撃していた。

 暗部の者たちを、身体から生み出した大蛇で飲み込み、捕食している姿を。

 そして、暗部の情報を渡してくれている暗部の後輩であるテンゾウから聞くには、彼女の捜索に出た暗部が何人も、彼女に食べられたのだと。

 同じ里の者を殺した。忍の掟の中で最も重い罪を犯した。

 もはや、抜け忍だ。

 たとえ大蛇丸を捕えたとしても、イロミの罪は贖えない。

 彼女は殺される。

 里の意志に。

 かつての父が、そうであったように。

 

 ―――……ん?

 

 視界の下―――自来也が覗いていた女湯ではなく、それよりも遥か手前の―――に、一人の女性がこちらを見上げているのに気づいた。

 彼女は咥え煙草しながら、黒縁眼鏡の奥にある鋭い眼光をカカシに向けながら、顎を鋭く横に振った。ちょっと面を貸せ、と言っているのだと、すぐに分かった。

 

 ―――やれやれ……、どうにか、ならないもんかね……。

 

 それは、これからブンシに会わなければならない自分に対して呟いた心の声であると同時に。

 少なからず、イロミに好印象を持っていたカカシが、どうにかこの事態を打開できないかと、イタチに向けた言葉でもあった。

 

 ……ふと、思う。

 

 そういえば。

 イタチはここ最近、何をしているのだろう?

 テンゾウからは、イタチは日中、どこかへ行っているらしいと聞いている。

 どこに行っているのだろう。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ナルトがその情報を耳にしたのは、ヒナタだった。

 自来也に修行を付けてもらい、今日は家に帰って休むだけ。クタクタの身体で、夕焼け色に染まった岐路を歩いていると、ヒナタが辺りをキョロキョロと見ながら歩いているのが見えた。

 普段はどういう訳かなよなよとしていて、誰に対しても視線を合わせないくらいに、ナルトから見ればよく分からない事ばかりを気にする女の子だった。白いパーカーに青色のズボン。何をしているのだろうと、ぼんやりと考えた。そういえばヒナタも最終試験に出場が出来ているから修行の帰りなのだろうか? と思ったが、ナルトの顔を見ると、彼女は慌てて近くの電柱に姿を隠してしまった。

 

 いつも思う。

 

 何故、そんな俊敏に姿を隠したりするのだろうか。

 けれど不思議と、嫌われているという印象は受けない。ヒナタは顔だけを出してきた。夕焼けのせいか、白い肌のはずの彼女の顔は赤く染まっている。

 

「ナ、ナルトくん……」

「おっす、ヒナタ。こんな所で何してんだ?」

「え? ……えーっと、」

 

 アカデミーの頃からの同期ではあるものの、いまいち彼女とテンポよく会話する術が分かっていない。彼女と同じチームのキバやシノはどうやって彼女と会話をしているのだろうか。

 とりあえず、ヒナタの言葉を待っていると、十五秒ほどしてようやくヒナタは「ナ、ナルトくんは……」と呟いた。

 

「知らないの?」

「??? 何をだよ」

「イロミさんが、いなくなったこと」

 

 ぞわり。

 

 背中が凍えた。

 

 夕焼けに向かって飛ぶカラスの鳴き声が、かつてのそれと重なる。

 

「いなくなったって……どういうことだよ…………」

「私も、詳しくは、知らないんだけど……。私の家……日向に、そういう話が来たの」

 

 ヒナタが言うには。

 猿飛イロミは、幾名かの暗部を殺害し、里の中に潜んでいるのだという。木ノ葉に潜り込んでいると思われる大蛇丸と、彼女は接触した疑いがあり、彼と同様に警戒が必要だと。

 耳を疑った。

 嘘だと思った。

 そんなはずがない。

 彼女が人を殺すなんて、信じられなかった。

 特別上忍で、その前の中忍の頃は、人を殺してしまう任務があったとは聞いた事がある。人を殺したことも、任務ではあると。忍だから、仕方のないこと。普段の彼女は、誰かを殺める事なんて、絶対にありえない。

 それは誰よりも知っている。

 ずっと彼女の世話になっていたから。

 

『実は私も、その術を使ってる子を知ってるのよ。名前は確か……うちはフウコだったかしら?』

 

 大蛇丸の言葉が過る。

 フウコのこと。

 イロミの異変と無関係だとは思えなかった。

 

 ―――どうしてだよ……ッ! また……ッ!

 

 また、あの時と同じだ。

 自分の大切な人が、突然いなくなる。

 もはやナルトの中には、中忍選抜試験の事は無かった。

 あるのはただ。

 

 今度こそ、助ける。

 

 フウコの時のようにはしないという想いだけ。

 自来也と喧嘩別れし。同じくイロミを捜しているというフウとヒナタを含め、一緒にイロミを捜す日々を続けた。

 

 毎日チャクラの限界まで影分身を作り、里中を探索していった。だが、戻ってきた影分身たちが誰一人として、イロミの姿を目撃することはなかった。

 日を追うごとに、ナルトの焦りは強くなり、無理は限界を超え始めた。つい三日前からは、気が付けば家の布団で眠ってしまっているという事が続いている。チャクラの過剰使用で気を失ってしまい、フウに運ばれたと、ヒナタが教えてくれた。

 

 そして、今日も。

 

「ナ、ナルトくんっ!?」

 

 視界が急に傾いた。

 

 身体の右半身全てに、衝撃が。視点はとても低く、右目のすぐ脇には地面があった。ぼやけ始める視野の中には、こちらに駆け寄ってくるヒナタの足元だけが見える。その奥には、フウの足も。

 

「今日は……ここまでっすねえ。ヒナタちゃん、悪いっすけど、ナルトくんを起こしてもらっていいっすか?」

 

 ヒナタに抱えられ、上体だけを起こされる。「ナルトくん、大丈夫?」と声がすぐ耳元で聞こえてくるが、返事をする体力もなかった。瞼ももはや九割ほど閉じてしまっていて、見えるのは、夜の街の灯りが霞みがかっている、光だけ。

 

 身体が浮く。両腕はフウの肩にかかり、両足の太ももには彼女の腕が回った。

 

「よっこいしょっす。じゃあフウは、ナルトくんを家に送っていくっす。ヒナタちゃんも、途中まで送っていくっすよ」

 

 本当ならまだ、イロミを捜し続けたかった。けれど、油を吸った紙のように重く力の入らない身体は、フウにあっさりと背負われてしまう。悔しさと焦りのせいで、意識だけは身体よりも活発だった。

 

「そういえばヒナタちゃんも、最終試験に出場するんすよね?」

 

 フウの顔がすぐ横にあるせいか、彼女の声ははっきりと耳に届いた。

 

「すごいっすねえ。しかも、今年が初参加なんすよね? ヒナタちゃん、雰囲気に似合わず、実はすっごい子なんすね」

「わ、私は……その…………偶々っていうか……」

 

 ヒナタの声も、耳に届いた。それが、ギリギリ聞こえる音の範囲なのかもしれない。二人の会話以外の音はしなかった。

 

「運が……良かっただけで…………。他の人と比べたら、私なんて……」

 

 ―――運だけじゃ、ねえってばよ……。

 

 最終試験の前試験。

 ヒナタは、同じチームのキバと戦った。

 試合開始当初は、ただキバのテンションに当てられて、防戦一方だったが、最終的には彼に勝ち、最終試験に出場する権利を獲得している。

 正直、フウの言うように、雰囲気や普段の行動からは想像できないほど、特に後半のヒナタの動きには驚いた。

 

「本当にそう思ってるんすか?」

 

 と、フウ。

 

「本当に運だけで勝ってこれたって、思ってるんですか?」

 

 深く確かめるような言葉。

 静かな沈黙が、十秒ほどあった。

 

「……私、自分に自信が無いんです…………。日向一族として、生まれたのに。何も、期待に応えられなくて。妹の方が、私より、何でも出来て。努力しても、どうせ何も変わらないって思っちゃって、諦めちゃうし…………」

 

 だけど、

 

「いつも私が諦めてる傍で、ナルトくんはずっと、困難に立ち向かっていました。どんなに辛くっても、失敗しても、笑って、人一倍努力して。カッコイイなって、思って……」

「ナルトくんは頑張り屋さんっすからねえ」

「中忍選抜試験を、ナルトくんのチームも受けるって、紅先生が言った時は、今回だけはって―――周りの人から見たら、大して変わってないかもしれないけど―――頑張ろうって、思ったんです……。前試験の時も、最初は、キバくんが怖くて頭が真っ白になっちゃったけど……ナルトくんが―――」

 

『ヒナタ! キバなんかに怯えてんじゃねえっ! そんなワンコロ、ぶっとばしてやれってばよッ!』

 

「そう、言ってくれて。少しだけ、勇気が沸いて……。ナルトくんが応援してくれてる私を、少しだけ、頑張らせようって……。だから……」

「運だけじゃ、ないんすよね?」

 

 ヒナタが頷いたのかどうかは、分からなかったが「なら、やっぱりヒナタちゃんはすごい子なんすよ」と、フウの言葉が聞こえてきた。

 

「イロミちゃんとは大違いっす。あの人、何度も中忍選抜試験落ちるんすよ? 知ってるっすか?」

「……そ、その……イロミさんから、直接…………」

「あー、やっぱり。そうっすよねえ。あの人、どうしてか自分から自慢するんすよね。しかもこっちからネタにしたら下手に落ち込んじゃいますし。よー分かんねえっす、あの人は。あ、イロミちゃんを『自分に自信を持ってる』典型例にしちゃ駄目っすよ? あの人は単純に、見栄っ張りなだけっすからね? いつか言ってやってください。あのバカ長いマフラー、ダサいって」

「……フウさんは…………」

「ん?」

「イロミさんとは、仲が良いんですね」

「そりゃそうっすよ。フウとイロミちゃんはマブっすからね」

「マブ?」

「マブダチっすよ。ふふーん、実は将来、イロミちゃんの老後の生活を支える役目を負ってるんすよ? フウは。それぐらい、仲が良いんす」

「え、えーっと……どういう、事ですか?」

「まあ、それは冗談としてっすけど」

「はあ」

「イロミちゃんは、まあ、フウの、初めての友達なんすよ」

 

 それは、ナルトも同じだった。

 フウコが親代わりなら。

 イロミは、友達だった。

 

「知ってると思うっすけど、フウは元々、滝隠れの里の忍だったんすよ。まあ、今じゃ跡形もないっすけど。他の人たちはすぐに木ノ葉になじめたんですけど、フウは少しだけ、ちょっとだけ事情があって、最初はあまり自由に動けなかったんっす。決められた家の中から出ちゃ駄目だったんすね。だけど、外に出たーいって言って、我儘言ってたら、イタチさんっていう超カッコいい人に……あ、イタチさんって知ってますか? サスケくんのお兄さんす」

 

 フウは続けた。

 

「それで、イタチさんがフウの相談役になってくれて、その後に連れてきたのが、イロミちゃんだったんっすよ。今思い出しても笑えるっす。『特別上忍の猿飛イロミです。よろしくね!』って言った三秒後に床に躓いて、鼻血ダラダラ出したんっすよ。鼻折れてるんじゃないかってレベルで。もう信じられなかったっす。今思い出しても、酷いもんすよ。だけど、そのおかげって言ったら変すけど、イロミちゃんとはすぐに打ち解けられました」

「その……なんていうか…………、分かりやすい人だったから、ですか?」

「マヌケだったからっす。きっとこれからも、自己紹介してきた人の鼻血の跡を一緒に拭き取る作業をするのは、イロミちゃんだけっすねえ」

 

 簡単に、想像できてしまい、笑いそうになってしまう。身体に力が入ったら、大いに笑っている事だろう。

 そういえば、彼女と初めて会った時も、そうだった。

 初対面でいきなりずっこけて、鼻を赤くしながら、挨拶をしてきた。

 

 今思えば、マヌケである。

 

「まあでも、あの人は、優しい人っすからねえ。子供っぽくて、ドジで。だから―――今回のも、きっと何かの間違いっすよ。だからフウは、あまり心配してないっす。今はちょっとだけ、怖がって、どっかに隠れてるだけっすよ。あの人、自分はかくれんぼが得意だって、言い張ってましたからねえ。気楽に捜してたら、ひょっこり出てくるっすよ」

 

 ナルトが影分身を使って捜している時でも、フウは空を飛んで巡回していた。もし影分身がどこかで消滅したのを目撃したら、そこにイロミがいるのではないかと、考えたらしい。

 本当なら、もっと捜索を続けたいはずだ。最後の言葉は、つまり、強がりなんだ。

 

 ―――イロミの姉ちゃん……どこに、いるんだってばよ…………。

 

 感覚的に、もうそろそろで、自宅のはずだ。

 不思議なことに、家に近づくにつれて、眠気が大きく膨らんでくる。瞼は完全に閉じ、二人の会話も、聞こえなくなった。

 だけど、眠りたくはない。

 眠ってしまったら。

 また、あの日みたいに。

 フウコがいなくなったみたいに。

 全部が、終わってしまうかもしれない。

 だから―――ナルトは、力を入れて、瞼を微かに開けた。

 ぼんやりと、最初は視界が歪む。

 電柱が見え、灯りが見える。

 そこには、一瞬だけ。

 見えた。

 フウコの姿が。

 

「おい、フウ」

 

 けれど、その姿は見間違いで。

 電柱の下に立っていたのは、彼女と面影が微かにだけ似ている人物だった。

 サスケは苛立たし気に行った。

 

「そのウスラトンカチ、こんな時間まで何してたんだ? あと四日後には、最終試験だろうが」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「その砂、重くないの?」

 

 障子を閉め切った部屋は暗かった。薄い和紙から透過する光は淡く、外の月は雲にさえぎられていないことが分かる。低くも高くもない温度。いや、この旅館に泊まった当初よりかは、平均温度は高くなっている。単純に、人口密度が二倍になったせいだろう。

 

 我愛羅とイロミは、向かい合うように座っていた。イロミは浴衣姿のまま、膝を抱え、包帯で眼を覆った顔を埋めていた。我愛羅は腕を組み、胡坐で畳に腰を下ろし、くぐもった声で脈絡のない言葉を発するイロミを眺めた。

 

 同じ部屋にいて、不必要に無駄な言葉を投げかけてくる。

 

 本来ならば不愉快極まりない行為だが、彼女に対しては、そこまでの不快さが生まれることはなかった。

 

「背中の瓢箪の形をした砂もそうだけど、私に会った時は、身体中に砂を被ってたよね」

「お前には関係ない。さっさと寝ろ」

「ごめんね……。眠れないの。寝ちゃうと、怖い夢、見ちゃうから。夜って、長いんだね」

 

 そう思った事は一度もなかった。

 昼も夜も、同じだと思っている。双方における差異があるのだと、そう評価するほど、この世界を評価していない。ただ殺すべき存在が、広大で何もない平坦な砂漠に広がっているようなものだ。

 

「重くないの?」

 

 我愛羅は何も考えないまま、応えた。

 

「……この砂は、俺が生まれた頃から、常に纏わりついてきているものだ。重いだとか、重くないだとか、そんな感情はない」

「纏わりつく? 何かの、忍術なんだ……」

 

 忍術などと言う生易しいものではないが、特に語る事はなかった。親から無理に与えられた、里の兵器という【物】として与えられた力を、彼女に語る必要はないと考えた。しかし、「すごいね」と、呟いた彼女に、その考えは変わる。

 

「……どういうことだ」

 

 つい、声が暗くなる。

 

「だって、幼い頃からってことは……お父さんかお母さんに、術を施されたってことでしょ? 我愛羅くんは、大切に想われてるんだなって……思ったの。親の人から何かを受け継ぐっていうのは、愛されてる証拠だと、私は思うの」

「愛されてるだと?」

「違うの?」

「違う」

「でも、君はここにいるよ」

「それがどうした」

「親の方が、愛し合っていて、家族が欲しいと想っていたから、君は、ここにいるの。私とは、全然違う。ねえ、親に愛されるって、どんな感じなの?」

「知らん」

 

 愛されていると実感できたことなど、一度もない。

 

「……君も、応えてくれないんだね」

 

 イロミは抱えた膝を、より懐に引き入れる。

 

「イタチくんも……そうだった。私の質問に、何も応えてくれなかった。信じてたのに……フウコちゃんを一緒に追いかけるって約束したのに、嘘をついた」

 

 私が化物だから?

 私に才能が無いから?

 どうして……どうして…………。

 

 蛇だ。

 

 彼女の襟元から、紫色の蛇が、五匹ほど、姿を現した。

 蛇はじっと我愛羅を睨み付けはするものの、舌なめずりをするだけで、イロミの頭に身をすり寄らせるだけだった。彼女を誑かすように、なだめるように、蛇たちは首元から生まれ、彼女に憑りつく。

 

「教えてよ……誰か…………。どうすれば、私は天才になれるの……」

 

 応えて。

 私は化物じゃない。

 私の特別を教えて。

 化物じゃない、別の特別を―――才能を教えて。

 それが私の、

 私だけの才能だって、

 私なんだって、

 誰か……教えてよ…………。

 私はここにいるよ。

 ここにいるのに、友達なのに、どうして、嘘をつくの。

 私がいないから?

 皆の才能に比べたら、私はいないも同然だから?

 じゃあ、教えてよ。

 努力するから。

 皆、天才なんだから。

 どうすれば、私は天才になれるの?

 嘘を付かないでくれるの?

 

「フウコちゃん…………イタチくん……………シスイくん………教えて………。私は、ここにいるよ……」

 

 浴衣の上からでも分かるイロミの細い肩が、震えていた。

 道に迷った子供のように。

 かつての、自分のように。

 

「我愛羅くん……私は、ここにいる?」

 

 何も応えないまま。

 我愛羅は砂を細く伸ばす。

 怖がるように。

 

『ただ一つだけ、心の傷を癒せるものがあります』

 

 かつて信じていた者の言葉と顔が意識を霞めると同時に、イロミの手に、砂が触れた。

 




 投稿が遅れてしまい申し訳ありません。

 今後の投稿に付いてですが、ここ最近の投稿遅れを考慮し、少しだけ、投稿ペースを落とそうかと考えております。投稿ペースを変えず、などと書いてしまいましたが、浅慮な発言でありました。

 まだ具体的なペースは考えておりませんが、プライベートの事情を十分に考慮していきたいと思います。

 一応は、次の投稿は、5月10日を目標としております。
 それよりも早く投稿できるよう、励んでまいりますので、ご容赦いただければと思います。

 ※ 追記です。
 投稿は5月13日となります。長らく延期してしまい、申し訳ありません。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

信頼と賭け値

 日向ヒナタは他人の感情に敏感だった。それは、白眼、と呼ばれる血継限界の瞳を持つからではなく、彼女自身の気質に起因している。有り体に言ってしまえば、小心者、臆病、という表現がなされるかもしれないけれど、空を自由に飛ぶ鳥が風の流れを鮮明に把握しているのと同じように、全てにおいて消極的に捉えている訳ではない。

 

 時には、他者の感情を感じ取って、自分から適切な距離を取り。

 

 相手を不快にさせない為の距離と、自分が痛くない距離を、バランス良く。

 

「そのウスラトンカチ、こんな時間まで何してたんだ? あと四日後には、最終試験だろうが」

 

 夜の下の街灯。配線が古くなっているのか、途切れ途切れに光を瞬かせる。その光と闇が交互に舞台を移動させる明滅の中に立つサスケを見て、すぐにヒナタは、彼の心情を察した。

 

 怒っている。

 

 それも、今までアカデミーなどで見てきた、互いの距離を測るような、そんな見守っててもある程度の安心を沸かせるようなものではなく。相手の胸倉を掴んでくる、遠慮のない怒りだ。

 

 フウと並んでいたヒナタは咄嗟に三歩程、歩幅を小さく、後ろに下がる。本当なら、その二倍は距離を取りたいのだが、視界の端に眠っているナルトの背中が見えてしまい、微かな勇気のせいで、中途半端な距離を取ってしまったのである。恐ろしくなり、右手で左腕を抱えるようにしてしまい、俯いた。

 

「あー、サスケくん。今回は、そういうの無しにしてほしいんすけど……」

 

 フウが気を利かせ、ヒナタを隠すように横に一歩ズレた。

 

「見ての通り、ナルトくんも疲れて眠っちゃってるんすよ。その、ほら、修行のせいで―――」

「修行なら、どうして昼間、そいつの影分身が里中を駆け回っていやがったんだ」

 

 確信していると、ヒナタは感じ取った。

 

 ナルトがイロミを捜していたことに。そして、そのことに付いて、怒っている事も。

 

「ナルトが起きたら伝えておけ。アホミの事なら、俺や兄さんに任せろ。他の事は気にするんじゃねえってな」

「い、いやー、そんなことフウに言われても……」

「フウの姉ちゃんに言われねえでも、聞こえてるってばよ。サスケ」

 

 ナルトは寝起きの重い声を言うと、フウの肩から顔を起こした。ヒナタの位置からでは、ナルトの表情は見えない。だが、最悪のタイミングだというのは、理解している。フウも同様なのか「うわちゃー」と小声で呟いた。

 

「フウの姉ちゃん」

「……なんすか?」

「下ろしてくれってばよ」

 

 首をゆるゆると振りながらも、静かに腰を下ろして、ナルトを下ろしてやる。「ありがとな、フウの姉ちゃん」と、地面に立つと、ナルトはお礼を言う。背負われたまま眠っていたのは身体に負担が大きかったのか、身体を一度、大きく伸ばしてから、ナルトは、一歩前に出た。

 

「……よお、サスケ。こんな夜に何してんだよ」

 

 ナルトの声も、サスケほど表面的なものはないけれど、怒っていた。サスケと同様に、胸倉を掴むような怒り。皮肉るような言葉に、サスケは眉を動かすのが見える。

 

「足のケガ治すから病院行くにしては、夜過ぎるだろ。家でゆっくりしてろってばよ」

「うるせえ、ウスラトンカチ。足はもう治ってる。テメエが心配するような事じゃねえ」

「へっ! だったら俺も言わせてもらうけどよ、俺がイロミの姉ちゃんを捜そうが、テメエに関係のねえことだろ」

「調子に乗るんじゃねえぞ。俺が言ってんのは、テメエみてえなバカが捜したところで意味がねえってことだ。おとなしく修行してろ」

「修行なんざしなったって、俺ってば、ヨユーで試験に合格してやるってばよ。それよりも、イロミの姉ちゃんが行方不明だってのに、んな呑気なこと、してられねえよ」

 

 二人の言葉が、ヒナタにははっきりと、針や刃のような形に見えてしまっていた。

 互いに言葉で切り付けていながらも、痛みよりも感情の苛立ちを前面に押し出しつつある。爆発寸前の風船を前にしている心持ちだ。

 

 人の感情は、怒りでも喜びでも、あまり得意な方ではない。自分の感情もそうだ。自分の感情が爆発してしまうと、どうしてか、涙が出てしまう。既に涙目になりつつあるヒナタは、フウを見上げた。

 

「あ、あの…………」

「そうっすねえ。流石に、こんな夜中に喧嘩するのは―――」

 

 フウがちらりと、明後日の方向を見上げる。何かの確認を取るかのような所作で、視線を追うけれど、ただの夜空が広がっているだけで、何もいない。

 

 そう思っていると、横から。

 

「サスケ……家にいないと思っていたが、こんな所にいたのか…………」

 

 その声は、夜のように心地の良いものだった。皆が、イタチを見る。「イ、イタチさん!?」と、フウが素っ頓狂な声を挙げる。

 

 うちはイタチ。

 

 名前は聞いた事があった。

 木ノ葉の神童と呼ばれる忍。

 そして、サスケの兄。

 

 暗闇のせいで繊細な部分までははっきりと分からないけれど、大まかな顔立ちはサスケと似ている。

 

 彼は、一人一人に顔を向けた。

 

 目線が重なる。

 

 たったの一瞬だったけれど、分かった。

 

 すごく、疲れている。

 

 今すぐに倒れてもおかしくないくらいに、心がぼんやりとしている。

 

「兄さん……」

「帰るぞ、サスケ。シズネさんから聞いている。足は完治しているようだが、リハビリが必要だと。夜中に歩くと、足元が危ない」

「……………」

 

 不貞腐れて顔を逸らすサスケにイタチは近づいた。

 とてもゆっくりとした足取り。点滅する街灯の灯りに晒される彼の顔には、うっすらとクマが出来始めているのが見えた。

 

「イロミちゃんを捜していたのか?」

「……悪いのかよ」

「彼女の捜索は、俺や暗部の方々が行っている。子供のお前が捜したところで、大した助力にもならない。里には、大蛇丸が潜んでいるかもしれないんだ。下手な無茶はするな。―――ナルト、君も同じだ」

 

 と、イタチはこちらに顔を向けた。

 途端に、寒気が。

 イタチからではなく、ナルトから。

 

 感情が変わった。

 

 サスケに向けていたそれよりも、もっと……。

 赤い感情。

 右手が握られた。

 フウだ。

 彼女は強引に手を握ってきて「しっかり、フウの後ろにいるっすよ」と、口元だけを動かし伝えて来た。視線は鋭く、緊張感を持っていた。

 

「君の影分身体が里中を駆け回っているという報告が来ている。君も、イロミちゃんを捜していたのか?」

「―――ああ、そうだってばよ……。どっかの誰かさんが、どっかの天才が、役に立たねえから……!」

「おいナルトッ! てめえ、兄さんの事を―――」

 

 サスケの言葉を、イタチは右手を挙げて制止させる。

 

「イロミちゃんの捜索に手間取ってしまっている事には、言い訳をするつもりはない。だが、信用してほしい。必ず、彼女は見つけ出す」

「信用なんか……できる訳ねえだろ……」

 

 声が、震えている。

 いや、もしかしたら、空気が、震えているのかもしれない。

 

 あの時のように。

 

 第二の試験の時に感じた、あのチャクラの波動のように。

 イタチは、漏れ出すナルトの赤いチャクラを前にしても、無警戒に立ち尽くしたままだった。

 

「ナルト。君は最終試験を控えている身だ。それに専念してほしい。イロミちゃんは、君の成長を楽しみにしていた。彼女の想いを裏切らないでほしい」

「うるせえ……。知った風なこと、言うんじゃねえってばよ……」

「俺と彼女は友達だ。イロミちゃんは、会う度いつも、君の事を―――」

 

 

 

「だったら……だったらどうしてッ! フウコの姉ちゃんを止めれなかったんだってばよッ!」

 

 

 

 フウコ。その名前で連想される人物の姿を、思い浮かべた。

 うちは一族を滅ぼした人物。

 面識は無くとも、その名を知らない者はいないだろう。

 どうして、ナルトがその人物の名を叫んだのか。その疑問が浮上した直後。

 赤いチャクラが、爆発した。

 周囲の空気はチャクラに押し出され、突風を生み出す。フウの後ろにいても、肺が震えてしまうほどの衝撃に、瞼を閉じてしまった。

 

 ―――ナ、ナルトくん…………。

 

 初めて触れる、ナルトの、本当の怒りの感情。

 

 ずっと明るくて、諦めない、カッコいいヒーローのような姿が脳裏を霞める。だが、その記憶があっても、身体が、本能が、恐怖してしまう。それ程までに大きな力。

 

 けれど、その力は、すぐに姿を消した。瞼の外から伝わってくる力が無くなって、代わりに、温かい力が伝わってくる。

 

「大丈夫っすか? ヒナタちゃん」

 

 フウの声に導かれて、瞼を開ける。

 彼女は顔だけを傾けて、こちらに笑いかけてくれていた。

 身体を覆う、青い鎧のようなチャクラを纏って。

 

「あんまり、怖がらないで(、、、、、、)ほしいっす」

 

 と、どこか悲しそうに、呟いた。儚げな笑みの向こうに立つナルトの背中からは、白眼を使わずとも見えてしまう、真っ赤なチャクラが蠢いていた。

 

 最終試験の前試験。

 

 ロック・リーとの勝負で彼が見せた、チャクラだ。

 

 しかし、その時よりも、チャクラは禍々しく、獰猛。

 

「信じろってッ!? フウコの姉ちゃんの時も、今回のイロミの姉ちゃんの時も、アンタは何も出来てねえじゃねえかよッ! 分かってんのか!? イロミの姉ちゃんは…………掟を破っちまったんだぞッ!」

 

 ナルトには、イロミが暗部の人を何人も殺してしまっている事を伝えていた。血相を変えたナルトの圧力に、つい、伝えてしまったのだ。

 同じ里の者を殺してしまうのは、掟を破ったということ。

 しかも、何人も。

 個人的な恨み云々という釈明が意味を持たない人数である。

 

「……アンタ、イロミの姉ちゃんを見つけて…………どうするつもりなんだよ……」

 

 イタチは冷静に応えた。

 

「彼女の異変は、大蛇丸によるものだ。それは、火影様も、他の方々も理解を示してくれている。処罰が厳しいものになる事は無いだろう。俺が彼女を捜しているのは、純粋に、彼女を助けたいからだ。里の治安や、暗部としての責務は、ほとんど関係ない」

「…………信じられねえよ」

 

 赤いチャクラが、濃くなる。

 

「フウコの姉ちゃんだって……、そうだ。……優しかったッ! 一族を滅ぼすなんて、んなこと、ぜってえするはずがねえ人だったッ! なのに、フウコの姉ちゃんを、この里の大人の連中は、犯罪者だって言いやがるッ! どいつもこいつも、好き勝手に言いやがってッ! こっちの(、、、、)……相手の事も知らねえでッ! だから―――」

 

 だから。

 

 その先の言葉を、ナルトは、拳を震わせるだけで続けなかった。言葉が出ない、という風ではなく、言葉を押し殺しているように、ヒナタの眼には映った。代わりにナルトは、気に食わなそうに地面を強く蹴ってから、勝手に歩き始めてしまう。

 

「あ、ナルトくん……待って…………」

 

 ヒナタはおっかなびっくりと、ナルトを追いかけ始めた。普段の引っ込み思案は、すっかりと、姿を隠し、強い怒りの感情を抱えたままの彼が、心配だった。イタチも、フウも、サスケも、彼に声をかける事はしなかった。冷たい、という風には、思わない。三人の感情からは、戸惑いが、はっきりと見て取れたからだ。

 

 そのまま、ヒナタは、二十メートルほどの距離を開けたまま、ナルトの後ろを付いていった。赤いチャクラは、ナルトからは消えている。だが、等間隔に置かれている街灯の明かりに、一定のテンポで照らされる背中に、掛ける言葉が見つからなかった。

 

 ゆっくりとしているはずの時間が過ぎていくのを、焦ってしまう。

 

 自分は、ずっと、彼に励まされたのに。彼の姿に勇気を貰っていたのに。

 

 だけれど、気の利いた言葉を思い付く間もなく、ナルトはピタリと足を止めた。

 

「……わりぃな、ヒナタ」

「え?」

「毎日、俺の我儘に付き合ってくれてよ」

 

 振り返った彼の表情は、いつものような、陽気で明るい、笑顔だった。

 無理をしているような、笑顔。

 

「お前も、最終試験があんのにな」

「き、気にしないで……。イロミさんを捜してたのは、私も自分でしてたことだし……」

「だけどよ……俺のせいで、ここ最近、修行出来てねえだろ?」

「う、ううん……。家に帰ってから、修行、してるから…………」

 

 嘘だった。

 日向の家で修行をしたことは、一度もなかった。

 最終決戦の相手が、義兄であるネジと父が知っているのにもかかわらず、彼はヒナタに何かをいう事も、特別に修行を付けることも無く。いつものように、妹のハナビに修行を付けるだけだから。

 

「あ、あのさ……ナルトくんも、修行、出来てないでしょ? だ、だったら、イロミさんを捜すの、替わりばんこに、やら……ない? そうすれば、お互いに修行も―――」

「大丈夫だってばよ。さっきもサスケの野郎に言ったけど、俺ってば、すんげー天才だから、修行なんかしなくたって、ヨユーで中忍になって、そんで、あっという間に火影になる男なんだからよっ!」

 

 それはまるで、中忍選抜試験に出なくても構わないと、言っているように聞こえた。

 

 もし、最終試験までにイロミを見つけ出せなかったから、そのまま、試験に出場しないつもりなのではないか。

 

 言葉は……出なかった。

 

「ありがとな、ヒナタ」

 

 ナルトは呟く。

 

「イロミの姉ちゃんを心配してくれてよ。それに、サクラちゃんから聞いたけど、第二の試験でも、助けてくれたみたいだな……ありがとな」

 

 第二の試験。

 

 あの時のこと。

 

 キバとシノの三人で、草隠れの里の忍が、我愛羅によって一方的に殺戮されていくのを茂みの中で見ていた後の事である。突如襲ってきたチャクラの波動に、一度は収めた殺意を再び溢れださせた我愛羅を、キバの指示で白眼で追ったのだ。あんな化物ともう一度、出会う事なんて真っ平御免だと、彼は言った。

 

 そして、目撃した光景が、気を失ったナルトと、疲弊したサスケとサクラだった。

 

 その時の自分は、完全に、正しい判断を失っていた。

 

 大切な人が、恐ろしい危険に晒されている。

 咄嗟に走り出してしまったヒナタを、キバとシノは追いかけた。

 

 その場に着いた時には―――山中いのが、我愛羅に心転身の術を放った直後だっただけで、自分たちが到着した後にやってきた、ロック・リーと、その彼を追いかけてきたネジとテンテン。焦ったように姿を現した奈良シカマルと秋道チョウジ。

 

 偶然にも、その場に集まった九人だったが、自分がしたことは本当にごく僅かな事だった。ナルトを助けた、と評価するには、値しない。

 

 ナルトは「じゃあな」と言って、横のアパートの階段を上がって行ってしまった。

 

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「水遁・流細川(るさいせん)ッ!」

 

 白は頬を膨らませ、肺の中の息を一気に吐き出すようにして、術を放った。口から吐き出される水は細く、鞭のように蠢きながらフウコの足元を狙った。当たれた足首の骨に大きなダメージを与えるほどの威力はあるだろうと、遠目から眺めていた再不斬は思った。性質変化の修行の成果と、彼自身の才能によって、精錬された術は、眼を見張るものがある。

 

 しかし、対峙するフウコは悠々と、手に持った刀にチャクラを纏わせ叩き落とす。

 

 いや、正確には、刀の鞘だ。

 

 彼女の身の丈よりも長い―――およそ、二メートルはあるだろう―――刀は漆黒の鞘に納められている。柄と鞘の境目には鎖が巻かれており、南京錠で固定されている。サソリが「あいつに刀を持たせると、いざって時に面倒になるんだよ」と語っていたが、おそらく、刀は彼の許可なしに抜くことが出来ないのだろう。

 

 鞘に纏わせたチャクラの性質は、雷。

 

 水の鞭は霧散し、辺りに薄い水溜りを幾つも作る。

 

 白はフウコの真後ろに移動していた。足にチャクラを集中させた移動法。音も殆どなく、移動速度だけなら十分に中堅レベルだ。

 

 右手に握る千本で狙うフウコの首元を狙うが、彼女は右手の刀で防ぐ。

 白の得意な対峙だ。案の定、すぐさま空いた左手だけで印を結び始めた。

 

「秘術・千殺―――」

「遅い」

 

 フウコが左足で白の腹部を蹴り抜く。容赦ない威力は、白を十メートルほど転がせるには十分だった。口端から涎を垂らし、腹部を抑えながら起き上がろうとする白に、フウコは言う。

 

「遠回しなことするね。わざわざ私と噛み合ってから印を結ぶ意味が無い。折角、片手だけで術を発動できるんだから、移動中に印を結ぶようにしたら? あと、印を結ぶ速度も遅いし、力が無いのに、近づいてくるのも、無駄」

「す……すみません…………」

「どうして、謝るの? 君の修行に付き合ってるだけなのに」

 

 でも、とフウコは息を吐いた。

 

「やっぱり止めよう。私と君じゃ、力の差があり過ぎる。意味が無い」

 

 淡々と事実を呟くフウコに、再不斬は内心で同意した。修行というのは、常に、限界の少し上を目指して行うものだ。それが、勝負形式である事もあるが、その場合は、実力差があまりない事が望ましい。雲泥の差ほどの距離があれば、修行を受ける身の人間は、限界を出し切る前に勝負が終わってしまう。フウコの言う通り、意味が無い。

 

 それに加え、見ていて、あまり面白い光景ではなかった。

 今日は(、、、)、修行を初めてまだ五分ほど。

 しかし、白の衣服は、何度も床を転がされたせいで、すっかり傷んでしまっている。真っ白な床には、白が何度も吐かされた血と唾で何か所も汚れていた。

 

 清廉潔白な、真っ白い部屋だった。高さは三十メートルはあるだろう。横には二十メートル四方の広さがある。壁も床も天井も、それ自体が光っているかのように、白色だけを強調している。

 

 まるで穢れを隠すかのようで、気分が悪かった。

 

「もうそろそろで、晩御飯の時間だから……終わりにしよ?」

「ま、待ってくださいッ! もう少しだけお願いします!」

「修行なら、再不斬に付けてもらえばいいと思う。うん、それか、サソリにでも頼んで。私は、昔から、人に教えるのが得意じゃないの」

 

 ようやく立ち上がろうとする白を片目に触れる事も無く、フウコは歩き始める。再不斬が壁に寄りかかり座っている、すぐ横の出入り口。ドアも純白。上の階に通じる階段が、その奥にはある。

 

 上に戻ろうとするフウコをもう一度呼び止めようと、白は小さな口を開こうとするが、悔しそうに閉口するしかなかった。フウコは、ドアの横の再不斬を一瞥することも無く、真っ直ぐドアに近づく。

 

 すると、ドアは独りでに内側に開いた。サソリが入ってきたのである。

 

「なんだ、もう修行は終わりか?」

 

 言いながら、彼は視線を這わせた。白を見て、床の惨状を見て、フウコを見て、最後に、横に座る再不斬を見下ろす。

 

「……なんだよ」

 

 こちらを見下ろしてくるサソリを睨む。彼は無表情に鼻で笑った。

 

「文句ならフウコに言え」

「どういう意味だ」

 

 さあな、とサソリは呟き、フウコを見た。

 

「ご飯、できたの?」

「まだだ」

「お腹が空いた」

「砂みてえな生米で良いってんなら、すぐだぞ? それでいいのか?」

「じゃあそれ以外なら―――」

「修行は終わりなのか?」

「……うん」

「本当か? あのガキは、まだ修行を続けたいようだが?」

 

 無意識の内に、舌打ちをしてしまっていた。余計な事を、と口の中で言葉を漏らしていたかもしれない。しかし、逆に白の瞳が微かに喜びを滲ませているのが見えてしまい、左手を強く握る事しかできない。

 

「私じゃあ、彼の修行にならない。サソリがしてあげて」

「俺みたいな奴を修行相手にしたところで、意味がねえだろ」

「再不斬は?」

「片腕ねえ奴が相手して、実戦で役立つのか? ……とにかく、我儘を言うな。あのガキの世話はお前にしか出来ねえ。付けるなり、何でもいい、とにかく修行の相手をしろ。俺たちは、まだまだ戦力不足だ。力を育てるのに、面倒くさがるな」

 

 無表情。何を考えているのか、おおよその見当も付かない時間が数秒流れて、フウコは三ミリ程度の頷きをした。

 

「気分はどうだ?」

「今日は調子がいい。多分、フウコちゃんが疲れてるんだと思う。きっと寝てる」

 

 サソリは【暁】のコートの袖から、緑色の饅頭と、小さなカプセルを取り出すと、フウコに放り投げた。キャッチした彼女は、それを見下ろす。

 

「腹が減ったなら、この丸薬を食え。少しは空腹も紛れるだろう。カプセルの方は、いざという時にすぐに飲め。いいな?」

「この丸薬、美味しいの?」

「我慢しろ」

「……分かった」

「俺は再不斬に用があってここに来た。次来るのは、飯が出来た頃だ。それまで修行を付けてやれ。おい再不斬、付いてこい」

 

 白をフウコと二人だけにするという事に危険を感じないわけではなかったが、「安心しろ。今のあいつなら大丈夫だ」と、サソリの言葉に従い、部屋を出る。

 階段は、低い天井からぶら下がっている裸電球のおかげで、どうにか足を躓かせずに済む程度の明るさしかない。あの白い部屋とは異なって、こちらはあまりにも雑な作りだった。口元から首にかけて巻いてある布越しでさえ、埃臭さが届いてくる。

 

 アジトには、そういう面があった。

 

 清廉で整理された部分と、そうではない部分。

 階段を上がりきる。上に押し上げるタイプの、いわゆる天窓式のドアをサソリは開ける。その奥は、フウコの部屋だ。天井の蛍光灯は、階段の暗さに慣れ始めていた瞳には、微かな痛みを覚えさせる。

 

 彼女の部屋は、清廉で整理された部類に入る。

 

 壁際に置かれた大量の鎖と、その鎖を繋ぎ止める為の幾本の杭。いつ使われているのか分からない、丁寧に整えられた薄いベッド。その横には、本が背表紙を同じ方向に向けて積まれていた。使用主と似て、簡素な部屋模様だが、それ以外は異常としか思えなかった。

 壁も、床も、天井も。

 テグスで裂いたパンの断面のように真っ平で、どころか、鏡のように蛍光灯の光を反射している。何か、人形を展示する為の部屋のように思えなくもない。アジトの製作はサソリが行ったらしい。この部屋の造りは、彼の考えが反映されている、という事なのだろう。けれども、その意図は測りかねている。

 

 分からない。

 

 前を歩く男の本心が。

 フウコと同じで。

 あるいは、フウコ以上に。

 

 ―――こいつは、何考えてやがるんだ?

 

 フウコとサソリが口ずさむ【計画】。その全容を、未だ知らないが、分からないのはそうではなく、彼自身の思想―――フウコへの思想である。

 

 明らかに、自分や白を見る時の眼と、フウコを見る時の視線が異なっている。かといって、ではフウコに対して特別な感情を抱いているようにも思えない。平気で薬を打ち込み、予期せぬ薬の副作用で胃から内容物を大量に吐き散らかす彼女を前に「今回は失敗か」と、呟くだけの姿は、単に実験動物に対するそれのように見える。と思いきや、日々彼はフウコの食事を用意したり、彼女が夜な夜な発狂する際には誰よりも先に彼女の対応をする。

 

「どういう風の吹き回しなんだ?」

 

 リビングに到着し、椅子に腰かけたサソリは小さく呟く。再不斬も対面に座り、テーブルに足を乗せながら「何の事だ?」と聞き返す。

 

「あのガキの事だ。木ノ葉から戻って来た時から、やけに献身的だと思ってな。フウコ相手に修行を付けてくれと言うのも、なかなかどうして」

 

 木ノ葉から戻ってきてから。つまり、薬師カブト、うちはイタチと対峙した時のこと。サソリからの依頼を達成することが出来ず、むざむざと手ぶらでアジトに帰還した時の、白の表情を覚えている。言葉も、思い出すことが出来た。

 

『すみません……再不斬さん…………。何の、お役にも立てず…………』

 

 初めて見る表情と声だった。

 

 俯き、暗い表情を浮かべたまま、吐き出される細い声。普段から礼節を重んじながらも、流水のような柔らかさを持つ彼からは、およそ、想像のできない姿だった。

 

 アジトに戻ってからも、彼の姿が改善される事はなかった。

 

 そして、翌日の事である。

 

 突如として彼が、フウコに対して「ボクに、修行を付けてください」と言い始めたのは。

 

「……さあな。俺の知った事じゃねえよ」

「どんな理由があるにせよ、使い物になってくれるってんなら歓迎だ。ただでさえ俺たちは劣勢なんだ。本当なら、猫だろうが犬だろうが、手数が欲しいくらいだからな。再不斬、上手くあのガキをコントロールしてくれよ? 見ての通り、フウコは人に物を教えるような奴じゃない。不貞腐れて修行を投げ出させないようにな」

 

 白の性格を考えれば、投げ出すという事は考え難い。そこだけに関して心配は―――フウコが相手、という別の心配はあるが―――無いと言っていいだろう。

 

 問題なのは……白が実力を付けた後の事だった。

 

「そう睨むな。分かっている」

「何をだ?」

「計画の事を知りたいんだろ?」

「どうせ、まだ教えられねえとか、言うんだろ?」

「いや、教えることにした」

 

 急速に大きくなった心臓の鼓動を隠すように、再不斬はサソリを睨み付けた。

 

「……どういう風の吹きまわしだ。薬師カブトを逃がした挙句、うちはイタチに俺らとフウコの繋がりもバレたってのにか?」

「お前らの報告を訊く限りじゃあ、失敗は事故みてえなものだろ? 薬師カブトの件は、別にお前らを責めるつもりはねえ。うちはイタチに関しても、問題は無い。お前とあのガキが、フウコと繋がりを持っている事を知られたぐれえじゃあ、何の意味もないだろうしな。しかも、嬉しいことにうちはイタチは、フウコを信じているみたいじゃねえか。一族を滅ぼされて、自分も半殺しにされた挙句に、どう転んだらそんな考えが出来んのか分からねえが、こっちとしては利用価値が増したに過ぎねえ。―――どっちかと言うと、猿飛イロミの件が一番厄介なんだがな……。お前に計画の事を話す必要が生まれたのも、そいつがマヌケにも大蛇丸の呪印を受けている事が原因だ」

 

 猿飛イロミ。

 

 見える肌の全てが紫色に浸蝕され、もはや機能していない程に破けた衣服と髪は血で真っ赤に染まった、別世界からやってきたかのような少女。

 

 白と再不斬は、彼女の異常さに。

 

 カブトとイタチは、彼女の登場そのものに。

 

 混乱していた。

 

『キャハハハハッ! イタチくん、会いたかったッ! 見てよ、私ようやく、才能を見つけたのッ!』

 

 口元から血とも唾液とも判然としない液体をダラダラと垂らしながら、狂ったように笑う彼女は、およそ同じ人間だとは思えないほどの人体と力を見せつけ、大いに暴れた。

 

 イタチが苦戦してしまうほどに。

 

 カブトがあっさりとその場から逃げる事が出来てしまうほどに。

 

 再不斬と白は、命の危機を察し、アジトに戻ってしまうほどに。

 

「おそらく、大蛇丸は木ノ葉に戦争を仕掛けようとしている」

 

 と、サソリは言う。

 

「戦争勃発自体は、止められそうにねえ。その事に関しては捨てている。いずれ、フウコの耳にも入るだろう。そこまでなら、まだ、猶予は許された。戦争は止められねえが、木ノ葉が滅びる事はありえないからな」

 

 さもそれが決定事項のような口ぶりだったが、静かに再不斬は耳を傾けた。

 

「木ノ葉が存在し続ける限りは、フウコの暴走は、口八丁手八丁、そして薬を大量に使えば誤魔化す事が出来る。だが―――戦争が起きて、尚且つ大蛇丸の道具として猿飛イロミが使われていると知ったら、誤魔化しが出来ないだろう」

 

 そもそも、誤魔化す段階にすらいかないと続けた。

 

「頭のネジが完全に吹き飛ぶ。今までの暴走は、頭の中じゃあ【計画がある】という理性があったおかげで、全力じゃあなかった。ガキの駄々と程度は変わらねえが、その度を振り切る事になるだろう。もしネジが吹っ飛んであいつを抑制しようとすれば、あっさりと俺たちは皆殺しだ」

「んで? どうするつもりだ」

「もしフウコがぶっ壊れた場合、俺はあいつを止めるつもりはない。そのまま好きなように、大蛇丸だろうが何だろうが、あいつの気が済むまで暴れさせ、ある程度落ち着いたら、また薬漬けにして、言う事を聞かせる」

「容赦がねえな、お前」

「遠慮なんざ必要ねえんだよ。話を戻すぞ」

 

 計画の話だ。

 

「フウコが暴れれば、その動きは間違いなく暁に感付かれる。特に、リーダーの奴はハナからフウコを信用していねえみたいだ。フウコに異常があれば、すぐにでも潰しにかかるだろう」

 

 信用できない人間を、どういった理由で、手元に置いているのか。そんな疑問を口にする前に「お前に計画の事を話すってのは、そういう事だ」と、サソリは言う。

 

 そして、再不斬は。

 

 聞かされた。

 サソリの―――いや、フウコが描いた計画、その全貌を。

 聞かなければ良かったと、再不斬は後に後悔した。

 計画の内容が無謀だったからではない。

 確かに聞いてみれば、成功する公算はある。

 計画の果てが、暗闇しか無かった。

 分の悪い賭けどころの話ではない。

 勝っても得るものの無い、賭けでしかないのだ。

 

 ―――……白…………。

 

 計画の話が終わり、再不斬は静かに彼を思った。

 

「―――以上が計画の内容だが、何か意見はあるか?」

「………………」

「無いってんなら、今後のお前たちの動きについて説明する。まずは、幾つか探して貰うものがある。一つは―――」

 

 サソリの言葉は右から左に、水のように頭の中を通り抜けていく。重要な話のようで、一応は記憶に留める事は出来たが、何を思うわけでもなかった。水面に映る月を見下ろす、フクロウのような気分だった。

 

 いつの間にか、顔だけを微かに下に向けていたようだ。視界にはテーブルに乗っけたままの足が見える。サソリの説明が終わり、小さな沈黙があったことに気が付く。どうやら、こちらの様子を察して反応を伺っているようだった。

 

 ふと、再不斬は尋ねた。

 

「あの女は……全てが上手くいったあとは、どうするつもりなんだ?」

 

 サソリは数秒の沈黙の後、応えた。

 

「あいつが契約を正直に履行するなら、あいつの身体は俺が貰い受け、人傀儡にする。簡単にいやあ、死ぬ」

「それを良しとしているのか?」

「誰がだ? 俺か? それともフウコか?」

「お前らだ」

「ああ、良しとしている。最良だ」

 

 今度の返答に、戸惑いは無い。

 

「あいつは人傀儡にすれば、俺の芸術作品の中で最高の物が出来ると確信している。それを、化物みてえなあいつと戦わず、むしろあいつが全てを片付けるのを少しだけサポートするだけで手に入る。これほど最良な事はねえ。フウコも、自分の命よりも、木ノ葉の平和と、その中のあいつの知り合い共が馬鹿みたいに過ごす事を優先している。ただそれだけの為に、フウコは生きている。互いにとって、最良の契約だ」

 

 逆に聞くが、

 

「お前とあのガキの間の契約は、最良じゃねえのか?」

 

 ガラス玉のような瞳は、じっと、品定めをするようだった。

 道具と、使用主。

 白と自分の間に、どんな契約があるのか。

 

『今日からお前の血は、俺のものだ』

 

 彼を拾った時に言ってやった言葉。

 おそらく、それが、契約内容なのだろう。

 白を道具として縛り付けてしまった、今にして思えば、浅はかで傲慢な言葉だと判断できてしまう。

 もはやその契約は、少なくとも自分には、不要なものだ。

 

「白には、計画の事を話していいのか?」

「好きにしろ」

「―――一つ、頼みがある」

「なんだ? 言っておくが、計画の変更は利かねえぞ? それとも、怖気づいたか?」

 

 怖気づく?

 

 さあ、どうだろうか。

 

 再不斬は自身の右腕を見た。途中で切断され、包帯が巻かれている。鏡を見なくとも、鬼人などと呼ばれるような人間の姿ではない。印も結べず、実のところ、首切り包丁を扱うのだって今では一苦労してしまうほど。右腕が無いというのは、身体のバランスを取ることが困難になる事を意味している。

 

 もはやフウコとサソリの庇護が無ければ、あっさりと霧隠れの里の追い忍共に殺される事だろう。あるいは、そこらにいる賞金稼ぎのクズ共にも、命を刈られるかもしれない。仕事を受ける事も難しい。自分にかけられた賞金と、今の自分の実力は不釣り合いだ。依頼主が、これまで以上に裏切ってくるのは目に見えている。

 

 先の無い人生。

 

 そんな事は、もうどうでもいい。

 

 霧隠れの里を、水の国を、乗っ取ろうなどとは、もう思わない。フウコとサソリに拾われてから―――もしかしたら、カカシ達と戦い、九尾の暴走が始まり、白が危険に晒されたあの時から―――自分の人生の価値を、再不斬は捨てたのかもしれない。思い出しても、価値があるようなものは落ちていない。年老いた犬のように、深いため息を再不斬は吐いた。

 

 ―――……疲れたな…………。

 

 寂しさを抱くほど、曖昧な意志で歩いてきたわけではない。フウコとサソリの計画と同じで、百かゼロかを賭けて、里を抜けたのだから。出目が早いうちに、ゼロを示したに過ぎない。仕方ない。忍の世界とは、そういうものだ。

 

 敗者は何も残せない。

 自分は敗れた。

 たった一人で生きていくことすら出来ないほどに、惨敗だ。

 

 だけど。

 

 白は、まだ負けていない。彼はただ、自分の道具として生きていただけ。彼自身の賭け値は残っている。現に、ビンゴブックに白の名は載っていない。白自身があまり表に姿を現さない事もあるが、今の霧隠れの里にとって、かつてのあらゆる事件は恥部として扱われている。白が孤独になった経緯も、その部分に含まれる。ビンゴブックに白の名が載らないのは、里が彼の存在そのものをひた隠しにしているからだ。

 

 白だけは、一人で生きていける。

 

 道具としてではなく。

 人間として。

 あの、カカシの部隊の、ガキ共のように。

 誰かと正しく繋がり、誰かと正しく生きていくことが。

 

「もし、計画が成功したら……白を、自由にしてやってくれ」

 

 初めて、寂しさが訪れた。

 文字通り、片腕を無くしたかのような、寂しさが。

 




 投稿が大幅に遅れてしまい、大変申し訳ありません。

 次話は、今月中に必ず投稿します。

※追記です。

申し訳ありません、投稿が遅れます。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

say goodbye

 投稿が大変遅れてしまい、誠に申し訳ありません。


 

 髪を切った。

 

以前の自分なら、そんな衝撃的なイベントを迎えるつもりは微塵もなかっただろう。ましてや、自らの意志で行うなど、天地がひっくり返ってもあり得ないと自負していたに違いない。

 行きつけの美容室に入って、ものの十五分。

 後ろ髪の先が腰に触れるかもしれないというくらいまでに伸ばした長さは、すっかりと襟足までになってしまった。またお越しくださいね、と顔馴染みの女性店員が後ろから声をかけてくれる。後ろ手にドアを閉める際にちらりと彼女を見ると、表情は見るからに動揺の色を隠せていない。

 

 ―――そんなに、悪くないと思うんだけど……。

 

 後ろ髪の長さに合わせて切り揃えてもらった横髪を指で遊ばせながら、美容室を離れる。一応は、切り終えた髪型を真正面から鏡を覗いて確認している。決して、他人に引かれるようなものではないはずである。

 

 まあ、でも。

 

 確かに、驚きはするかもしれない。

 

 行きつけの美容室だ。女性店員とは顔馴染みで、髪の調子を上げてくれる時には世間話もしていた。今までの自分がどれほど髪を大切にしていたのかも、よく知ってくれている。なのに、ある日唐突に髪を切ると注文して来たら、それは、そう、引いてしまうだろう。髪を切っている最中に個人的な会話を一度もしなかったが、もしかしたら、気を遣っていたのだろうか? 思い出してみれば、何やら失恋した少女を見下ろすような生暖かさがあったようにも思えた。

 

 もしそうならば、恥ずかしい。しかし、顔を赤らめるほどの羞恥ではなかった。そういう可能性は十分に考えられたことだし、決心したこと。

 

 節目として。

 そして、不甲斐ない自分との決別。

 髪を切ったのは、今まで大切にしてきたそれが、中忍選抜試験において何の役にも立たなかったからであって、色々と切り替える為の決意表明としては、打ってつけだったからだ。

 

 春野サクラは、切り落とした髪の分の軽さを伴うように、足取りに力を込めた。これから、買い物に行くのだ。母から買って来てほしいと頼まれた項目を思い出しながらも、自分の欲しいものも考える。任務などで貯めた貯金で、今日はゆっくりと買い物を楽しむつもりだ。

 

 本当なら、もっと別の事をしたい、とも実は思っている。

 

 例えば、サスケに会いに行くだとか。例えば、第七班の中で唯一最終試験にまで進んだナルトの様子を見に行こうだとか。しかし、どちらも、あまり意味が無いのだろう。既に二人には会っている。

 

 中忍選抜試験の前試験。それが終わって三日ほどに、サスケに会いに行った。身体の容態が心配だったこともそうだが、何より、彼の心が心配になったのだ。サスケは、紛れもなく、下忍の中では抜きんでている。正直、最終試験に出場する殆どの者たちより優秀である事は間違いないだろう。

 

 しかし、大蛇丸というイレギュラーと、日向ネジと勝負することになってしまった不運。もし自分が彼だったら、やりきれない気分がずっと続いてしまうだろう。心配になって会いに行ったのだが、意外にも彼はいつも通りだった。

 長く会話をしたわけではないが、だからこそ、まあ、いつも通りなのだと、判断できた。逆にナルトに会えることは出来なかった。何度か彼の家に行ったが、常に留守の状態。どうせ、修行をしているのだろう。火影になってやると、いつも豪語していて、その第一歩である中忍選抜試験の最終試験まで辿り着けたのだ。きっと彼は、常日頃から変わりなく、努力を積み重ねているのだろう。

 二人とも、おそらく、いつも通り。だから今日は、少しだけ自分に贅沢をしよう。

 長い髪を切って、風通しの良くなった襟足が心地良い空気に触れるのを感じ取りながら、歩いていく。もう自分には、中忍選抜試験に対するプレッシャーも、生き死にの境界を歩く緊張感も無い。

 

 髪を切ったのは、やはり正解だった。

 

 今日という日だけは、シンプルな自分を自覚できる。そしてそのままの自分を維持し続ける事が出来るという確信を抱けた。所属する第七班のメンバーと、これまで以上に良い関係が築けるのではないか、とも。

 今すぐにでも鼻歌を歌ってしまいそうになるが、少しして、その気分は減退する。通りの角から、山中いのが現れたのだ。

 

 彼女はサクラの顔を見るなり、立ち止まり、数秒、瞼をパチクリとさせた。

 

「……え? えぇえッ!」

 

 楽しい感情は、そのわざとらしい驚愕の声に、一瞬にして減退させられてしまう。わざとらしいというのは、そもそも表情が笑っていることもあるのだから容易に想像が付く。それなりに付き合いが長いせいもあってか、もはや彼女が嫌味を言ってくるのか、分かってしまう。

 

 いのは近づきながら、やはり、わざとらしい視線を切ったばかりの後ろ髪に向けてきた。

 

「なになになに? ええ? デコ助サクラが髪を切るなんて……。あ、もしかしてアンタ、とうとうサスケくんにフラれたの? あらぁ、それは同情するわー」

 

 瞬く間にサクラの感情は不安定に―――いや、むしろ強固になったと言ってもいいかもしれない。慣れ親しんだ相手との一対一では、女性というのはなかなかどうして、威風堂々としたものである。

 サクラは満面の笑みを浮かべながら、言ってやる。

 

「なにバカなこと言ってんのよ。アンタなんか、サスケくんと碌すっぽ会えないくせして。嫉妬してるの?」

「頭でっかち相手に嫉妬なんかするほど、私も暇じゃないわよ。アンタこそ、同じ班にいるくせしてなーんにも進展してないじゃない。いい加減諦めなさい。アンタとサスケくんじゃ、全く不釣合いなんだから」

「鏡に向かって言う事を、私に言わないでくれない?」

「額に立派な鏡を付けてるじゃない」

「誰が鏡よ」

「デコ助サクラ」

「花オタク」

 

 互いに奥歯を噛みしめるような笑みを向け合った。その二人の脇を、何も知らない穏和な空気をかき分けて歩いていく。傍から見れば、健やかに話しをしている二人としか、映らないのかもしれない。

 数秒して、二人は同時に「はあ」と、ため息をつく。

 

「……いの、止めましょ。なんか虚しいわ」

「同意。くだらない」

 

 こんな所で静かな罵り合いをしたところで、サスケとの心的な距離が縮むわけでも無し。互いに団栗の背比べ状態で、ましてやサスケが恋愛などに興味が全くないというのは、もう分かりきったこと。

 

 二人は示し合わせたかのように、平坦な空気を作った。

 

「それで、真面目に、どうして髪切ったのよ」

 

 と、いのは訊いてくる。

 

「アンタ、前に自慢してたじゃない。大分前だけど。手入れもしっかりやってたのに、勿体ない」

「別にいいでしょ? 気分転換よ」

「どんな気分転換よ。でも、悪くないじゃない」

「へへーん。やっぱり? 似合ってるでしょ」

「私も髪、切ろうかしら」

 

 後頭上部で一本に纏めた長髪の先(、、、、)を、いのは指先で遊びながら呟く。

 

「いのこそ、何をしてたの?」

「買い物に行く途中。あ、もしかしてサクラも?」

 

 二人は並んで歩き始めた。いのも親に買い物を頼まれたらしい。同じ店で買い物をしてから、二人は近くの甘味処に寄った。寄ったと言っても、店先の赤い椅子に腰かけて、団子を注文したに過ぎない。

 

「あー、なんだか、久しぶりに甘いものを食べたような気がするわ。美味しい」

 

 三色団子を食べながら、いのは言った。確かに、久しぶりのような気がする。同じ三色団子を注文していたサクラは、白い団子を食べた。

 

「明日が、中忍選抜試験の最終試験かあ」

 

 何となしに、呟いてみる。自分の身の回りでは大きな予兆は無い長閑な空気。口の中に広がる甘味が、おそらく明日控える大きなイベントの存在を強調させているのかもしれない。同じことを考えたのか、隣のいのも「そうよねえ」と呟いた。

 

「なんか、色々信じられないわよね。つい一カ月くらい前に、自分も試験を受けてたなんて、考えられない」

「しかも、無事に生きて帰ってこれるなんてねえ。正直私、試験に落ちるってことは、死んでるんじゃないかって、試験前に考えてた」

「あ、それ私も同じ」

 

 と、いのは左手に持った団子の櫛をバウンドさせる。

 

「アスマ先生ったら、やたら滅多に脅してくるんだもの。もうヒヤヒヤよ」

「まだいいじゃない」

「どうしてよ」

「こっちのカカシ先生なんて、なーんにも言わないんだから」

「あー……。あの人はそんな感じねえ」

「サスケくんは緊張している様子は無いし、ナルトはナルトで逆に意気込んじゃうしで、なんていうか、ストレス? 前日とか、夜中眠るの大変だったわよ」

 

 分かる分かる、といのは頷く。彼女の班のメンバーであるシカマルとチョウジの方が、おそらく、こちらが抱いたストレスよりも大きいものだろう。

 

「でもま、試験には落ちたけど、お互いに無事で良かったわよね、本当」

「……………………」

 

 無事に、日常に戻ってくることが出来た。

 だけどそれは、決して自分の力によるものではなく。

 ただ単に運が良かっただけ。

 自分の力が影響したところは、一つとして無かった。

 

「……ありがとうね、いの」

「ん? 何がよ。急に改まっちゃって」

「第二の試験の時に、助けてくれて」

「……ああ、そのこと。別に、感謝されるほどの事じゃないわよ。結局私も、横やり入れた癖に何も出来なかったし。お礼を言うなら、シカマルとか、ヒナタとか、後は……そう、あのロック・リーっていう人に言いなさいよ」

「でも、いのがあの時、術を使ってくれなかったら、今頃私もサスケくんも、ここにはいなかった……」

 

 膨張でも何でもなく、客観的に判断である。

 あの時。

 砂漠の我愛羅。

 大蛇丸という凶悪から逃げる事に成功したというのに、不運にも出会ってしまった、新たな凶悪。

 今でも思い出せる。身体中を覆った、砂の感触。

 あの時、間違いなく自分は死んでいた。

 どのように殺されるか、それは想像も出来ないし、したくもないのだけれど、その結果だけは本能的に察することが出来た。

 

 

 

 正に、我愛羅の術が発動されるだろうという瞬間。どれほど、自分が祈ったか分からない。

 

 神様と。

 助けてほしい。

 こんな終わり方は嫌だ。

 

 涙を流しながら、不規則な呼吸を続けながらも、身体を固定してくる砂は震えさえも、胃の内容物を吐かせる予備運動もさせてはくれなかった。

 

 ああ、死ぬ。

 死んでしまう。

 あと、少しで、自分の人生が―――。

 

『心転身の術ッ!』

 

 だからきっと、あの時、いのが草陰から姿を現し、我愛羅に向けて術を放ってくれたのは、神に祈りが通じたのだと思った。

 

 いのの声。

 

 そして、彼女が得意とする術。自身の精神を相手に放ち相手の身体を乗っ取る術だ。

 砂の圧力が微かに弱まったのを感じ、心底、祈ったことが無駄ではなかったと錯覚した。

 

『おい馬鹿、いのッ!』

 

 遅れて、奈良シカマルの声。彼は、地面に倒れた彼女を抱きかかえた。

 その時点で、時間は五秒は過ぎていただろう。永遠とも判別できない程の、五秒だ。さらに一秒して、秋道チョウジが。

 

『ね、ねえシカマル……戦うの? それとも―――』

『どうせ、いののこった。サスケを助けてえとか、そんなだろッ! チョウジ、砂に捕まってるサスケに突っ込めッ!』

『うん、分かったッ!』

『誰だお前―――ッ!』

 

 全く予想だにしない方向からの敵襲に、テマリが真っ先に反応するが、我愛羅の精神に潜り込んだいのが、我愛羅の身体を使って彼女に飛び掛かる。その隙に、チョウジが倍化の術で身体を肥大化させる。真ん丸と太った身体をパチンコ玉のように地面の上を転がしながら、砂の覆われたサスケに向かって突進した。

 

『んな面倒な事されちゃあ、我愛羅があとでヤバくなるじゃんッ! 邪魔すんじゃねえッ!』

 

 我愛羅が何かの術に囚われていると察したカンクロウがチョウジを見定める。背負っている、包帯で全体を覆ったソレを使おうとするのを、シカマルが許さない。

 

『影真似の術ッ!』

 

 いのの身体を地面に置き、印を結ぶ。草陰の足元から、彼の影がカンクロウを目掛けて地面を這わせた。

 

 おそらくシカマル自身は、カンクロウを術で拘束できるとは考えていなかったのだろう。自身の影を操り、相手と影を接続する事によって、自身と同じ動きを強制させる術。しかし、速度は決して躱せない程のものではなく、カンクロウは舌打ちをしながら後ろに退く。

 

 微かな時間稼ぎ。

 

 それが功を奏してか、チョウジの突進は、砂の拘束ごと、サスケを解放した。そのままチョウジは、サクラを解放しようとする。

 

『サスケ、ナルトを担げッ! さっさと逃げるぞッ!』

 

 シカマルの指示と同時に、サクラも砂から解放された。地面に投げ出される。受け身が咄嗟に取れず、顎を地面に打ち付けたが、死から解放されたチャンスを無駄にしたくないと、笑ってしまう膝に必死に力を入れた。

 役割を終えたチョウジはシカマルの傍に戻ってくる。

 

『よし……チョウジ! いのを背負って逃げるぞッ! 今ならまだ術が発動してるッ! いのの心転身が解ける前に―――』

『ッ!』

 

 そこで、シカマルにとって予想外の事態が起きる。

 

 いのの心転身の術が、急に途切れたのだ。眠ったように力なく地面に倒れていた彼女の殻が極端に振動したかと思うと、上体をがばりと起こし、火事場から逃げてきたかのように荒い呼吸をし始めた。『なに、アレ……』と、顔色が青ざめている。

 

 本来なら、術の活動時間をオーバーするか術者が術を解除しない限り、術者が放った精神は肉体には戻らないはず。

 

 シカマル、いの、チョウジは、我愛羅に視線を向けた。

 

『……貴様ら…………ッ!』

 

 無表情の怒りと殺意を滲ませた我愛羅の砂が、二方向に広がる。

 一つは、シカマルたちの方へ。

 もう一つは、再び、サスケとサクラの方へ。

 まだシカマルたちは躱す事が出来た。体力はまだまだ万全だからだ。

 しかし、サクラもサスケも、躱しきれるほどの体力は無い。サクラはただ、またあの恐ろしい砂が迫ってくるのかと思うと、膝に入れていた力が霧散してしまう。砂は先ほどよりも面積と体積を広げて、気を失っているナルトごと呑み込もうとする。

 

 サスケが動く。

 

 三人の中で最も負担を背負っている彼が、サクラの襟元とナルトの襟元を掴んで、遠くへ投げようとする。

 

 ―――……間に合わない…………ッ!

 

 砂の方が遥かに速く凶暴で、こちらよりもエネルギーが多い。

 サスケくんだけでも……と、声が出ない。大好きな人に対してすら言葉を発せない自分に涙が溢れてくる。

 しょっぱい涙の視界の向こうに、一つの影が。それが、サスケと砂の間に入る。

 

『ナルトくん……ッ!』

 

 とても控えめな声。

 その後ろ姿は、指先を伸ばすように広げた掌で砂を弾いていた。

 

『一人で勝手に無茶すんじゃねえよヒナタッ! 赤丸、行くぞッ!』

 

 野犬のような荒々しい声と『ワンッ!』と応える犬の声。

 

牙通牙(がつうが)ッ!』

 

 我愛羅とすぐ目の前の砂を繋ぐ太い砂のラインを、犬塚キバと赤丸が高速回転しながら突撃し、切断する。

 

『キバ、お前のも無茶というものだ。何故なら―――』

 

 日陰のように小さすぎる声は、けれど不思議と全員の耳に届いた。油女シノは少しだけ離れた大木の上から全体を俯瞰していた。

 

『わざわざ相手のスタイルに突っ込むのは、ただの無謀だからだ。砂を使うなら、こちらは蟲たちを使うまでだ』

 

 地面を蠢く、大量で、それでいて一つ一つが小さい蟲たちが、我愛羅の砂をも呑み込むほどの質量で我愛羅たちを呑み込んだ。

 

 それでも尚―――我愛羅は砂で蟲たちをすり潰していき、テマリは背負った扇で風を巻き起こしカンクロウと共に安全圏を確保する。

 

『次から次へとなんだよこいつらッ!』

 

 とカンクロウが吐き捨て。

 

『我愛羅、少し落ち着いてここは―――』

 

 テマリは我愛羅を見る。

 

『黙れ』

 

 しかし我愛羅は、砂をさらに、瓢箪から出す。

 

『こいつらは皆殺しだ』

『そうはさせませんよッ!』

 

 また、声が増えた。

 我愛羅の後ろにいつの間にか回り込んでいたのは、ロック・リー。太い眉毛と立派なおかっぱ頭な彼は、見た目からは判断できないほど精錬された回し蹴りを我愛羅の頭部目掛けて打ち込む。

 完全に不意を突いた形。それでも、彼の回し蹴りは、我愛羅の意図とは全く関係なく、自動的に砂が動き防いだ。

 

『貴様も殺してやる―――』

 

 砂が手の形に変わり、リーの足を掴んだ。砂に圧力が掛かる前にリーは足を引き脱するが、後退する彼を追いかけようと、手の形へと姿を変えた砂が押し寄せる。

 瞬間。

 彼我の間に、今度は上空から、巨大な手裏剣が。

 地面に突き刺さる手裏剣が半ば盾の役割を果たした。

 

『リーッ! アンタ、何こんな所で油売ってんのよッ! もうッ!』

 

 リーの後方で、テンテンが呆れながら得意の手裏剣術で我愛羅を狙う。砂はどれも漏らすことなく雨のような数の手裏剣を防いだ。効果がないように見えるが、一瞬でも砂の壁が我愛羅の視界を防ぐことによって、リーが退避する隙を作っていく。

 

 リーが引けば、今度はキバと赤丸が我愛羅を狙い、さらには大量の蟲たちが襲っていく。

 

 たったの数十秒。その間に激変した状況に、サクラは―――もちろん、サスケもだが―――戸惑うしかなかった。死の予感から一転して、生き残れるという直感。安堵共に、皆がどうして、こんな偶発的にここに姿を現したのか、不可思議でしかない。

 

 サスケと視線が重なり、同時に頷く。

 逃げるなら、今しかない。

 どうしてシカマルやヒナタたちががここにいるのかは分からないが、結果的に助けてもらう形になってしまい、そんな彼らを置いて行くことになるものの、それを考える精神的余裕が無い。

 こんな状況でも意識を失ったままのナルトをサクラは背負った。

 

『―――ッ! 逃がさんッ!』

 

 逃げようとしたのが、見つかる。

 リーやキバ、躱し続けていたシカマルたちに向けていた砂が、自分たちに―――ヒナタの前に収束してしまう。砂の勢いと量。両手にチャクラを集めた柔拳で砂を弾いていたヒナタの処理能力が追い付けなくなる。

 

『貴方がどこで死のうが勝手ですが―――』

『え?』

 

 冷徹な声に、ヒナタはすぐ横を見た。

 

『俺の前で死なれると、わざと見殺しにしたんじゃないかと周りに思われて、後々面倒なんです。さっさとどいてください』

 

 ちょうど、ヒナタが砂に呑み込まれる寸前だった。彼女を後ろに押しのけた日向ネジは、彼女と似たような体術を用いながらも、遥かに精密で、遥かに高速度で砂を捌いていった。

 

『おい、そこの犬みたいなのと、サングラス』

『あん? 俺の事か?』

『……俺か?』

 

 ネジの呼び声に、キバとシノが反応する。

 

『ヒナタ様を連れて、さっさとこの場から離れろッ!』

『えッ! でも、ネジ兄さん―――』

『お前たちもだ。さっさと逃げろ』

 

 ヒナタの言い分を無視し、白い瞳がこちらをギラリと睨み付ける。砂が襲い掛かってきているのにも関わらず、彼は砂を捌き続けている。サスケもサクラも、ただ頷くだけしかできなかった。

 

『テンテン!』

『分かってるよッ! リー、しっかり合わせなさいよッ!』

『はいッ! それではサクラさん、ゴールでお会いしましょうッ!』

『チョウジ、いの、俺達も逃げるぞッ!』

『分かった! 行くよ、いの』

『う、うん……』

『ヒナタッ!』

『で、でも、ナルトくんが……』

『この場から離れれば、あいつも問題ない。なぜなら、あいつは気を失っているだけのようだからな。それよりも今は、ここから離れる事を優先しろ。ここまで他のチームがいれば、後々混乱する』

 

 テンテン、シカマル、キバが煙玉を大量に放り投げると、咽返るほどの白煙が辺りを覆い。

 誰もが一様に、その場から脱することを迷うことなく選択した。

 

 偶然に集合し、混乱した場。

 

 ネジは、ただの厄介事だと評価した。ここまで多数のチームが入り乱れては、泥沼に嵌ってしまうと。そうなる前に場を均し、後腐れなく逃げる事を選択した。

 

 シカマルは面倒事だと評価した。本来なら隠れて見逃す場面だったが、いのの独断による行動で、危うく死ぬところだった。彼らは脱兎の如く逃げることを選んだ。

 

 ヒナタは、ただナルトの事が心配だった。どうして気を失っているのか、身体に異常は無いか、それだけが心残り。白眼でサクラたちが逃げた先が安全であるかを確認し、安全を確認しながら、消極的にその場を離れる事にした。

 

 そして。

 

 我愛羅の眼には。

 苛立ちを残響させた場に映った。

 まるで、うずまきナルトという人物一人を助ける為に、多くの人間が姿を現したかのように。

 かつて慕っていた、夜叉丸の言葉が、脳裏をかすめた。

 

 

 

「ヒナタやリーさんが助けに来てくれたのは、感謝してるけど、何より、いのが最初に割って入ってくれなかったら、やっぱり、助かってなかった」

 

 空を見上げる。

 綺麗に晴れた天気だ。

 この空を見る事も出来なかったかもしれないと思うと、怖い。

 いのはクスリと笑った。

 

「別に、アンタを助けたくて無理した訳じゃないわよ。サスケくんを助けたくてやったのよ。あ、もしかしてサスケくん、私の雄姿に惚れちゃったり?」

 

 そんな軽口も、今では尊く思えてしまう。「ないない!」とサクラは軽口で返した。いのからの親切を無下にしたくはなかった。

 

 それからは、ただ、他愛もない話しが続いた。半分くらいは、サスケに対しての話題だったが、会話の流れは無秩序で、脱線したり、したかと思えば前の話題を忘れて、話題が飛翔したり。

 

 明日が最終試験だ、という話題も出た。シカマルとナルト。互いに、チームメイトが出場することになっている。意外なメンツだ、と話した。それに、ヒナタが出場している事も、意外だとも。彼女はアカデミーでは影が薄かったため印象はあまり残っていないが、凄いとも。

 

 サクラは心の中では、ナルト、シカマル、ヒナタ。三人は応援したいと心に決めていた。ナルトは同じチームメイトだから。シカマルとヒナタは、助けてくれたから。本当なら、ネジも応援したいのだけれど、サスケを不合格にしたということ、ヒナタの対戦相手という事もある為、応援はしないと考えた。

 

 気が付けば空は、少しだけ赤色が混ざり始めている。

 いのと別れて、帰路を辿る。

 明日の試験会場に、サスケは姿を現すだろうか。行くときに、声をかけてもいいかもしれない。あるいは、カカシが声をかけているかもしれない。あの人物は意外と、生徒のケアをするという意外な一面がある。

 

 サスケ、カカシ、そして自分の三人が、ナルトの応援をする。不思議だが、けれど、おかしさは感じない。彼はそれ相応の努力をしてきたし、実力もある。

 

 チームメイトが、中忍選抜試験で活躍する。

 

 日常の中から、特別が生まれる。その感覚は、誕生日にも似た楽しさがあった。

 

 明日が楽しみでならない。

 

 大蛇丸という憂いがあるけれど。

 

 それは、頭の中では楽観的に捉えていた。

 

 里には、火影がいる。カカシだっているし、木ノ葉の神童と呼ばれる、うちはイタチがいる。最終試験までの準備期間である一カ月の間、特に大きな事件も耳に入ってこない(、、、、、、、、)。つまり、大蛇丸は里に手出しが出来ていない状況という事なのではないか。

 

 サクラは明日の最終試験を楽しみ、鼻歌を歌った。

 

 切ったばかりの髪の毛が愉快そうに、風に流される。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 とうとう、中忍選抜試験の最終試験が控えるのは、明日となった。一段落では、ある。何事もなく前日を迎えることが出来たというのは、幸運と判断して間違いではないだろう。予想外にも―――予想外の事が全く起きなかった。

 

 いや、それこそが、予想の範疇を超えた出来事であると、テマリは頭を悩ませていた。

 

 静か過ぎる。弟の、我愛羅の事だ。

 

 狂気と暴力が、線香の煙のような気紛れさを持つ彼が、パタリと問題を起こさない。正直なところ、人一人くらいは殺してもおかしくはないと予想していた。我愛羅を知っている者なら、誰もが同じことを考えるだろう。

 

 異変に気が付いたのは、二~三週間前の事だった。

 

 我愛羅は、夜の最中に散歩に出掛ける事が多い。散歩の最中に何をしているのかは、恐ろしくて調べようとも思わないが、散歩しに行くことは間違いない。木ノ葉に来た当初も、その傾向は見受けられた。同じ宿で寝泊まりしている者としては、我愛羅が外でブラブラとしているというのは安眠の条件だった。だからこそ、途端に我愛羅が、夜に出歩かなくなったことに違和感を抱いたのだ。

 

 ある日を境に、ピタリと。

 

 豪雨が途絶えながらも、不動の分厚い雲が真上にあるくらいの不気味さ。それに加え、横隔膜が痙攣してしまうほどの恐怖もある。一歩一歩と進むたびに、胃が痛い。何度も唾液を呑み込んだせいで、口の中はすっかり乾いてしまっていた。

 

 これから、明日の【戦争】について、バキから話しがある。話し、と言っても、具体的な行動内容を聞かされる訳ではないだろうと、テマリは判断している。同じチームと言っても、まだ自分たちは下忍だ。砂隠れの里が、木ノ葉との同盟を破ってまで決行する戦争。その詳細を教えるというのは、リスキーが過ぎる。

 

 単純に、意志を確認する為のものだろう。

 

 下忍である自分たちが、本当に戦争に加担できるのか。それを見定める為に。

 

 本来ならば、我愛羅にその確認をする必要はない。彼にとって、人を殺す事が出来る戦争に消極的になる理由が無い。バキも、呼び出しにはテマリとカンクロウだけしか呼んでいない。

 しかしテマリは、一人で我愛羅の部屋へと向かっていた。我愛羅に会うために。

 

 ―――……ったく、私は何やってんだ…………。

 

 心の中で、独り言ちる。自分の行動における矛盾に腹立たしさは、自身の部屋を出てからずっと抱いていた。

 

 格別、必要のない行動だ。我愛羅に会っても、得なんてないのは自明だ。風呂上がりだというのに嫌な汗をかいてまでする意味がないのに。

 

 こんなに自分は頭が悪かったかと、小さく舌打ちをしてしまう。廊下には誰もいない。嫌気がしてしまうほどスムーズに、部屋の前に着いてしまう。

 

 ドア。自分やカンクロウが使っている部屋と全く同じ物なのに、中に我愛羅がいると思うだけで、向こう側には地獄が広がっているのではないかと想像させられてしまう。

 

 やはり、止めようかと、考えが過る。我愛羅に不要に接しても、彼の機嫌が悪くなるのが基本だ。止めよう。

 

『約束して? 皆と、ずっと傍にいるって。貴方たちは、家族なんだから』

 

 下唇を小さく噛む。どうして、母の言葉を思い出したのか。大きく息を吸い込んで、テマリは震える右手でドアをノックした。

 

「我愛羅……起きてるか?」

 

 声は小さく、震えてしまった。ドアの向こうから返事は無い。眠っているのだと、都合の良い事を考えたものの、もう一度だけノックし、言う。

 

「先生が呼んでる。明日の事について、話があるみたいだ」

 

 今度ははっきりと言えることが出来たはずだ。返事が来てほしい、このまま無言であってほしい。両極端の感情がブランコのように揺れ動く。

 

 十秒ほど時間は経っただろう。あるいは、三十分かもしれない。恐怖が体感時間をあべこべにする。とかく、返事は、無かったのだ。

 

 もういい。戻ろう。きっと、寝ているに違いない。仕方ない。そう、仕方ないんだ。誰に向けたものなのか分からない言い訳を心の中で広げながら、踵を返す。身体が軽くなったのか、後ろ髪を引かれるように重くなったのか、それすらも分からない。

 

 モヤモヤとした空気を吐き出すみたいに、テマリは小さく頭を振る。と、後ろから、音。ドアが開く音がした。キィ、と、風が押す程度の速度で開いたのだと直感できてしまうくらいに、小さな音だった。

 

 開いたドアを、テマリは息を殺して、じっと見つめる。我愛羅が出てくるのだと、想像していたからだ。

 

 だが、ドアから姿を現したのは、全く別の人物だった。

 

「…………あれ?」

 

 その人物は、自分よりも少しだけ身長が高かった。女性だと判断できたのは、特徴的な配色をしている髪が、それなりに女性的な長さがあったという事と、浴衣の上から分かる身体の細さからだが、決定的なのは、こちらに気付いた時の声が、女性のそれだったからだ。

 

「君……我愛羅くんと似た匂いがするね…………」

 

 我愛羅の部屋を間違えていたのではないかという考えは、彼女の言葉によって否定される。部屋から出てきた彼女は、急激な緩急の付けて顔を近付けてきたかと思うと、すんすんと、細い鼻を鳴らしたのだ。テマリは驚き、三歩後ろに下がる。

 

 不気味な動きが生理的に危機を覚えたのもそうだが、彼女を危険と判断したのは、彼女が巻いている包帯が原因だ。前髪の下を通し、ちょうど眼があるだろうところを、一本の包帯が巻かれている。包帯は随分とくたびれている。色は、白と淡い赤が入り混じり、顔を近付けてきた時に微かにだけ、死臭が鼻を突いた。

 

「お前……何者だ…………」

 

 テマリは相手を警戒する。大声を出さなかったのは、ここで大声を出して騒ぎを引き起こすのは避けなければいけないからだ。だが、テマリは今空手だ。自身が愛用している巨大な扇は今、部屋に置いてきてしまっている。テマリにとって、狭い廊下、そして近距離というのは得意な環境ではなかった。

 

 おまけに、我愛羅の部屋から相手は平然と出てきた。その異様さも相まって、警戒は最大限に引き上げられる。同時に……我愛羅の事が…………。

 

「あまり、警戒しないで。何もしないから。私はただ、家に帰るだけだから。……もしかして…………我愛羅くんの、家族の人?」

「……あいつの、姉だ」

「そっか」

 

 良かったぁ。

 

 深い安堵の息に包まれたその一言は、不気味な雰囲気を漂わせる彼女には不釣合いで、口者に浮かべた笑顔の透明さの意味が分からなかった。

 

 ただ、どこか、そう。

 懐かしさを感じた。

 イロミと出会うのは初めてで―――厳密には、中忍選抜試験の受付で互いに一瞥しているのだが―――懐かしさは、つまり、本質的な部分だった。

 母の笑顔と同じだ。

 だけど、イロミの笑顔はどこか。

 羨望のような、悲しさと儚さを滲ませたものだった。

 

「―――待て」

 

 開きっぱなしのドアから、今度こそ聞こえてくる我愛羅と共に、砂が姿を現す。

 これまで数え切れない程の血と肉を食んできた、恐怖の象徴。それはやはり、迷いなくイロミを掴みかかった。猛々しい量と動き。彼女の顔部分と足、指の先以外の全てを覆う。

 

 テマリは、すぐさま後ろに跳び退いた。次の瞬間には、目の前の得体の知れない女が肉片に変わるだろうと予測した映像を、間近で目撃したくはないという本能がそうさせたのだ。

 

 しかし。

 

 砂は、イロミを捕えるだけだった。

 

「どこに……行くつもりだ…………」

 

 左手で歪む顔を抑えた我愛羅が、姿を現す。その表情はどこか苦しそうで、かといって、殺意に悩まされているという訳ではないように見える。初めて見る、表情だった。イロミを包む砂が、不安定な我愛羅の感情を表すように震えている。

 

「怖がらないで、我愛羅くん」

 

 そのイロミの言葉は、あまりにも、我愛羅には相応しくない言葉だった。

 

「私は家に帰るだけだから。……多分だけど、我愛羅くんとは、またすぐに、会うと思うの。今までみたいに、一緒にご飯食べたり、お話したりは、出来ないと思うけど…………」

「どういう……意味だ」

 

 短い沈黙。

 

「……私は、もう、何もないの…………」

 

 生まれた時から、家族なんていなかった。

 大好きだった友達は、遠くに行っちゃって。

 三人いたんだけどね。

 ずっと、私の中では、皆と一緒にいる事が、中心だったの。

 ずっと。

 今までも、そうだったの。

 だけど。

 バラバラに、なっちゃった。

 イタチくんって言う友達がいるんだけど、その人が、三人の中で、まだ、傍にいてくれた人なんだけど。

 嘘、つかれちゃったんだ。

 里の掟も破っちゃったし。

 もう……何もないの。

 私も、どこからが自分なのか、もう、分からなかった。

 暗闇の中に立ってる気分で。

 あはは、眼は、今は、無いんだけど。

 自分の身体と暗闇の境界が無い、そんな感じなの。

 

「だから、私、自分の大切な事だけを考えようって、思ったの。忍道とか、どうでもよくなっちゃった。私の中心の為だけに、頑張る事にしたの。―――全部、敵にしても」

「…………何が、言いたい……」

「ねえ、我愛羅くん。君はまだ、家族がいるよ」

 

 イロミは、また笑う。テマリに向かって。

 優しいようで、憧れているようで。

 

「君には、家族が、在るんだよ」

 

 怖がらないでと、イロミは言う。

 君にどんな事情があったのかは、分からないけど。

 だけど……君がここにいるのは、君の家族が、努力したからだよ。

 君の家族が、君が生まれてきてほしいって努力したから、君はここにいるんだよ。

 その努力だけは、評価してあげて。

 

「誰かが傍にいてくれるっていう力強さは、やっぱり、家族が一番なんだよ。血が繋がっているとか、繋がっていないとか、そういうのも、大事なのかもしれないけど……家族に成ってくれた人たちは、必ず努力をしてくれたはずなんだ。それを邪魔だなんて、そんな簡単に見捨てないであげて」

 

 イロミの顔が蝕まれるように紫に変色する。

 蛇の眼光にも似た薄ら寒いチャクラが肌を刺してきた。我愛羅の殺意よりも、もっと、粘質なものだ。

 なのに、どうしてだろう。

 目の前の人物を警戒しようとは、思えなかった。

 

「ありがとうね、我愛羅くん。君のおかげで、気持ちが落ち着いたんだ。ずっと何も変わらない。私はいつも、何もなかった。何が欲しいのか、そのためにどんな努力をすればいいのか、考えが纏まったよ」

 

 紫色に変わったイロミが、水のように、我愛羅の砂の一つ一つの隙間をすり抜けて、出てきた。

 得体の知れない術。

 でも、やはり警戒はしなかった。

 砂も戸惑うように宙を浮遊している。

 

「さっきの怖がらないでって言うのは、私なりの恩返し。お世話になっちゃったし、君が辛そうだったから。安心して、君は化物じゃないよ」

「………………」

「少なくとも私は、そう思ってるから。もし、次に会ったら―――あー、うん、まあ、いいかな。あはは……。バイバイ、我愛羅くん」

 

 素足の彼女はテマリの横を通り抜ける。

 その際に、無意識に尋ねていた。

 アンタは一体―――。

 イロミの耳に届いたのか、彼女は優しく微笑みながら呟いた。

 

「私は、イロリ(、、、)だよ」

 

 去っていった彼女に、取り残されるように、テマリと我愛羅は佇んだ。

 もうそろそろで、バキが言っていた集合時間だろう。

 母の顔と、今さっきまでいた不思議な少女。

 その二人の顔と言葉が重なると、口と喉は軽やかに動いてくれた。

 

「―――我愛羅、先生が呼んでる。明日の事だ。部屋に行くか?」

 

 既に我愛羅の表情は普段の仏頂面に戻っていた。砂を背負っている瓢箪の中に呼び戻しながら、彼は言う。

 

「……ああ。今行く」

 




 補足説明。
 :山中いのの髪は短くなっておりません。春野サクラが音の三人衆と対峙するという場面が存在せず、髪を自ら切り捨てるイベントが発生しなかったことが起因しております。具体的に描写してしまうと、不必要に物語が(かといってこれまでの話しに全く無駄が無かったかと言えばそうではないのですが)長くなってしまうと判断したため、割愛させていただきました。

 次話は6月20日までに投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無色十色

 中忍試験最終試験の会場は、卵のような形をしていた。天井は無いが、晴れた天気の今日に限っては、機能的に問題は無いだろう。空きを作らないほど犇めく観客らもさほど気にしていないようで、ざわざわと喧騒を作っているだけだ。

 

 しかしその喧騒は、会場の中央―――つまり、卵の底に当たる部分で、地面が晒されている場所なのだが―――に集まった下忍らには、大なり小なりとプレッシャーを与えていた。その中でも日向ヒナタは、参加者の中で一番影響を受けていただろう。まだ何も行われていない、ただ参加者が横に並んでいるだけであるにも関わらず、足が震えてしまう。

 

 周りにいるのは大名たちで、まだ試験は始まっていない。落ち着け落ち着け。

 

 何度も自分の中に言い聞かせる。

 

 状況はしっかりと分かってるし、緊張する必要はないと分かっているのに。

 足の震えが止まらなかった。

 

「今ならまだ間に合いますよ」

 

 隣に立っていた日向ネジが、そう言った。ちらりと横見ると、彼は姿勢正しく真っ直ぐ前だけを向いていた。

 

「いくら御当主に見放されているとは言え、大名や忍頭らの前で、曲がりなりにも宗家の者が分家の者に敗れるというのは日向の名に傷を付ける」

「………………」

「御当主にも、そう言われたのではないですか?」

 

 彼の言う通りだった。

 今日、家を出る際に、玄関で。

 父である日向ヒアシから、試験は棄権しろと言われたのである。

 応援でも激励でもなく。

 ただ淡泊に、期待も何もない、平坦な声で。

 

 自分と彼の実力差は、前試験ではっきりと分かってしまっている。才能の差も。

 

 それでも尚、ヒアシを前に無言のまま家を出て、この会場に出る事が出来たのは、微かな意地と、ナルトが応援してくれるという願望があったからだ。彼の前でなら、勇気が沸いてくる。自分を変えようと、迷わずに済む。

 

 だが。

 

 ヒナタは逃げるように視線を泳がせた。そこには、彼の―――うずまきナルトの姿は無い。

 この場にいるのは、七人だった。

 

「逃げるなら今の内です。正直に言って俺は、貴方を目の前にして手加減できるほどの余裕は出来ないでしょう」

「……わ、私は…………」

「はっきり言います。今すぐ棄権してください。間違って貴方を殺したら、俺が死ぬ事になるんです。貴方方宗家の呪いのせいで。そんなくだらない事で死ぬのは御免なんだ」

 

 丁寧な言葉を選びながらも、隠そうともしない怒気に、ヒナタは顔を俯かせ、両手の指を意味もなく触れさせてしまう。心が萎み、空中に吊るされているような感覚に襲われた。

 

「おい、私語は慎めよ」

 

 七人の前に立っていた試験官が顔だけをこちらに傾けて言った。

 

「これから試合をするんだ。こんな所で脅し文句を並べても、仕方がねえだろ」

 

 やれやれと言いたげに呆れた様子だったが、ネジはそれが気に食わなかったのか、戸惑う事もなく言った。

 

「良いんですか? いくら真剣勝負であるとはいえ、不必要な死者を出すのはよろしくないのでは?」

「安心しろ。お前らガキの御遊びぐれえ、死人が出る前に止めてやるよ」

「随分な自信ですね。では、安心して本気を出せます」

 

 その言葉は試験官に向けたものではなく、明らかにこちらに向けられたものだった。益々、心が弱くなる。

 

 逃げたい。

 

 逃げ出して、安心したい。

 

 ヒナタは何も言い返せる事なく、ただ時間が経過するのを待った。

 

 

 

 ―――どうしていないのよ……。

 

 春野サクラは会場に入って真っ先にそう思った。大名や忍頭を優先して入場させたため、入場資格の有る【出場者と同じチームの者、あるいは親族関係者】の者たちは最後の方に会場に入ったのだ。自分より身長の高い大人たちが席に座ってくれているせいで、会場の出入り口に入ってすぐに、参加者の顔が見下ろせた。一列に並び立っている参加者たちの中に、ナルトの姿が無かった事に、愕然としたのだ。

 

「ちょっとサクラ、ナルトのやつがいないじゃない。何してんの? 遅刻?」

 

 隣にいる山中いのも、似たような疑問を抱いたのだろう。しかし、深刻さではサクラの方が強かった。

 

 いつもいつも、耳が痛くなるくらいに、火影になると言っていた彼だ。まさか、遅刻するなんてありえない。むしろ、一睡も出来なかったと、眠気眼に言いそうなくらいなものだ。

 

 彼に何かあったのではないか。

 

 その考えが巡ってしまうと、脳裏に過るのは、大蛇丸の姿。

 

「あ、サクラ!」

 

 居ても立ってもいられなくなったサクラはすぐに踵を返し、上司であるカカシを捜そうとした。彼もこの会場にいるはずだ。ナルトの事を―――。しかし、足はすぐに止まってしまう。すぐ目の前にサスケが立っていたからだ。

 

「あ、サスケくん」

 

 つい反射的に呟いてしまう。だがサスケの硬い視線は眼下の参加者を見下ろしていた。

 舌打ちをしたサスケは、そのままの感情に任せてこちらを睨み付けた。

 

「……あのウスラトンカチの事は気にするな」

 

 吐き捨てるように、サスケは言う。

 

「さっさと席に座るぞ」

「だけど、ナルトが来ないなんて……何かあったんじゃ…………」

「あんな野郎の事を考えても無駄だ。どうせ、カカシが連れてくるはずだ」

 

 サスケはそのまま一人で空いてる席を探しに歩いて行ってしまった。

 普段の自分なら、サスケの言葉に素直に従っていた事だろう。カカシがナルトを連れてくるというのも、十分に考えられる可能性だ。

 

 だけど、不安は消えない。

 サスケの様子が、そうさせる。

 まるで同じチームに割り振られた時と酷似していた。

 

 これまで徐々に良くなってきていた二人の関係が、また最初に戻ってしまったような気がした。

 

 

 

 猿飛ヒルゼンは重々しい面持ちで、会場全体を見下ろしていた。他の観客席とは違い、彼の座る席だけは他よりもさらに高い位置に設けられていた。

 

 席は二つだけ。一つはヒルゼンが腰かけているもので、もう一つは、まだ姿を現してはいないが、風影の席である。中忍選抜試験が木ノ葉で開催される際には、火影と風影が並んで観戦するというのが通例となっている。些細な世間話をし、試験が始まれば、互いの下忍らや他の里の下忍らの実力を楽しむように眺めるのだが、今日に限っては、そのような気分は難しいだろう。

 

「……イロミはまだ見つかっておらんのか?」

 

 横に立つ側近の忍をヒルゼンは見上げた。側近は口元を手で隠しながら、小さく呟く。

 

「何人かで、現在も捜索を行っていますが、痕跡一つ」

「イタチの部隊からの報告はないのか?」

「それが……、イタチの部隊は今日、捜索を打ち切ったようです」

「……そうか」

 

 視線を会場に巡らせると、隅の方で、イタチを見つけた。彼もちょうど、こちらを見上げていたのか、視線が重なる。

 

 イロミの捜索の打ち切り。

 

 イタチがそう判断したという事は、おそらく、捜す必要性が無くなったという事なのだろう。彼の知性を信じる事にした。

 

 ヒルゼンは「そうか」と呟くだけにして、押し黙る。

 

 どうしてこうなってしまったのか、と考える。もう何度目だろうか。寝ても覚めても、ずっとそればかりを考えている。イロミの事。フウコの事。

 

 イロミと親しかったかと言えば、それは是ではない。そもそも、彼女から頼られる場面はまるで無かった。アカデミーの頃から、ずっとそうである。彼女にとって頼るべき存在は、火影ではなく、周りの友人たちと、自分の努力だけだった。それは、彼女の経歴や、ふと街中で見かける姿で分かった。だから、書類上は娘であっても、不必要に関わる事はしなかった。いつか頼られた時にだけ、力を貸そうと、思っていただけに過ぎない。

 

 だが結局は、自分は何もしなかっただけだ。

 

 あの夜も。

 

 何も選ばないまま。

 平和という圧力を肩から着こんだだけでしかない。

 

 そして、今も。

 

 姿を見せないナルトを見て、あの夜が克明に蘇る。今目の前にある現状は酷く、似ていたのだ。

 

 また失われるのではないかと。

 約束を違えてしまうのではないかと。

 火影の席に座る自分が、さぞ滑稽な姿なのではないかと、俯瞰した意識が自虐した。

 風影が到着した。風、と書かれた笠を被り、口元は風と砂避けの布で覆われている。伴いも二人いて、軽く挨拶を交わした。

 

「遠路遥々、お疲れじゃのう」

 

 火影として、声を明るくした。差し迫った危機的状況であるのに、肩書を演じられてしまう老練さから、わざとらしく眼を逸らして。「いえいえ」と風影は物腰柔らかく応える。

 

「今日は天気に恵まれたおかげで、こちらに来るのに大した苦労はありませんよ。むしろ今年は、こちらの方で良かった。未だ現役であるとは言え、火影様らには砂の暑さは厳しいでしょうから」

「ワシなら平気ですとも。あまり、年寄り扱いは勘弁してほしいですなあ」

「年寄りなどと。聞きましたよ。新しい御息女がいらっしゃるようで」

 

 胸がチクリとする。しかし、ヒルゼンは友好的な笑みを浮かべたままだ。

 

「新しい娘など。もう十数年も前の事です。それに、あの子は養子じゃ。ワシがどうのというのとは、また別の話しじゃよ」

「そういえば、一度として顔を見た事が無いのですが……。今日は、いらっしゃらないのですか?」

「生憎、中忍選抜試験の裏方を任されておっての」

「上忍になられているようで。さぞご立派な御息女なのでしょう。私の子供らにも見せてやりたいものです」

 

 風影は中央に立つ参加者らを見下ろす。砂隠れの里の下忍の子らは、ちらちらと、緊張したように彼を見上げ返していた。すると風影は「おや?」と声を挙げた。

 

「たしか今回の最終試験の参加者は、八人と報告を受けていたのですが。一人、いないようですね」

「……いずれ来るでしょうな」

「そうですね。今更、開始時間を遅らせるのは、大名の方々には我慢できない事でしょう」

 

 ヒルゼンは立ち上がる。

 

 中忍選抜試験の最終試験。開催宣言は、その里のトップがするというのが習わしである。

 重たい心を、もはや老人となった身体と共に起こし、声を高らかに言う。

 その姿を、やはり意識は俯瞰した。

 もしもまた、あの夜のような事が起きてしまったら。

 今度は、この自分の滑稽な姿は、どのように立ち回れるのだろうか。

 本心を全く以て隠しながら、清々しい程の声量で。

 

 中忍選抜試験、最終試験が開催された。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 今日その日が快晴に恵まれた事に、大名たちは口々に「良かった良かった」と呑気に呟く。さながら、観光にでも来ているかのような空気だ。傘を使わないおかげで野暮ったい時間を過ごさなくて済む。そんな心の内が透けて見えてしまう。

 

 イタチは階下の大名たち、ないし忍頭たちの空気に、微かな苛立ちを覚えていた。奥歯を軽く噛みしめてから、すぐに、自制する。この場にいる全ての大名、忍頭たちが、中忍選抜試験に興味がない訳ではないのだ。それに、この空気は毎年の事で、しかも大蛇丸という危険人物の介入を知らない。むしろ、彼らの方が立場的には悲惨なのかもしれない。

 

 長く、深く、鼻から息を吸い込み、感情を落ち着かせる。ついでに、眠気も減退させるが、身体の疲れだけはどうしようもなかった。

 

「隊長」

 

 その時に、左耳に入れたイヤホンから部下の声が入ってきた。その声は女性の声だった。イタチは羽織っていた黒いコートの袖を翻すように素早く踵を返し、会場の外側へと繋がる狭い通路に入った。首に巻いた、細いタイの形をしたマイクのボタンを押し「どうした」と応える。

 

「いえ、定時連絡です。異常はありません」

 

 ああ、とイタチは思った。そうだ、と。声の先は、イタチが持っている部隊の副隊長である。彼女からの連絡は全て、定時連絡であるようにと指示していた。情報の混乱を避ける為だ。有事の際は別の者がそれを担っている。

 

 イタチは落ち着いて「そうか」とだけ返した。たかが定時連絡の間隔すら忘却してしまっている。いけないと、イタチは自戒する。

 

「もうすぐ試験が始まる」

「はい、各自に連絡の間隔を狭めるよう指示を出しておきました」

「分かった」

「うずまきナルトと自来也様が合流。フウも傍にいます。自来也様からは、監視は不要と指示を受けましたが」

「なら、従ってくれ」

「分かりました」

 

 副隊長である女性の声は、疑問や不満を一切に含ませる事なく、実直なトーンを維持したままだった。副隊長は忍として優秀であり、仕事に真面目だと評価していたが、常々、融通が利かない面が惜しい部分であると考えていた。しかし今だけは、彼女のスムーズな返答が心身の負担を減らしてくれている。

 

 通信はそのまま切れた。

 

 職業病なのか、通信を終えた後に無意識に情報を整理しようとしてしまう。それだけで、少々―――いやかなり疲れてしまう。

 

 もうどれくらい、まともな睡眠を取っていないだろうか。ネガティブに考えてしまう。今に至るまでの自分の行動が本当に正しいものだったのか、足元を突如として小さく吹き抜けていく風のように考えてしまう。

 

 必死の力で、それを制御する。

 

『ねえ、イタチくん』

 

 だけど。

 

 彼女の声だけは、どうしても。

 抑えきる事は出来なかった。

 左腕に痛み。袖を捲り、肘と手首のちょうど中間に巻いてある包帯を見た。

 それは噛み傷。皮膚の一部が無くなり、筋肉の筋が見えてしまうくらいに抉られた痕が、包帯の下にはある。

 

『私たちって……友達…………だよね?』

 

 確かめるように。

 縋るように。

 脅迫するように。

 そう呟いた彼女の姿が、頭から離れなかった。

 

「よ、イタチ」

 

 後ろから声をかけられ、慌ててイタチは腕をコートの下に隠した。

 振り返る。気怠そうな声から察してはいたが、はたけカカシが立っていた事に驚きつつも平静を装った。彼の気配を感じれないほど、頭が回っていないのか。カカシは挙げた右手をポケットに入れながら「邪魔だったか?」と、本心なのかどうかすら分からない曖昧なトーンで尋ねてきた。

 

「いえ、特には。定時連絡だけだったので」

「あ、そう」

「あの、何か用でも?」

「まあ、そんなところ。伝言を渡しにな」

 

 カカシは五歩ほど歩いて見せる。会場の中央から、ヒルゼンの開催宣言が聞こえ、同時に歓声が届いてくる。通路の口から入ってくる光を防ぐように、カカシの背中は呟いた。

 

「ブンシのやつからだ」

 

 カカシの口から彼女の名前が出た事に、驚きを隠せない。

 

「『困った事になる前にあたしを頼れ、ボケ』だそうだ」

「……本当に、先生がそう言ったのですか?」

「いや、俺がかなり意訳してはいるけどね。何せ、こっちを殺そうとしながらワーワー騒ぐもんだから、上手く全部は聞き取れなかったんだよ。まあ半分以上は、俺の見た目に関する文句だったけどな」

「お二人は親しいんですか?」

「俺は普通。だけどあっちが勝手に絡んでくるんだよ。腐れ縁みたいなものだな」

 

 そんな事よりもだな、とカカシは話しを切り替える。

 

「ブンシの言う通り、少し、無茶をし過ぎじゃないか? 今にも倒れそうな顔だぞ」

「俺なら大丈夫です。気にしないでください」

「大丈夫そうに見えないから言っているんだがな」

「……彼女がああなってしまったのは、俺の責任です。大蛇丸が里にいる中、他の方々に余裕はありません。多少の無理はしなければいけないと思っています」

 

 カカシは困ったように肩から息を吐いた。

 

「サスケの事もそうだが、お前、何でも一人で抱え過ぎじゃないか?」

 

 抱え過ぎ。

 そうだろうか?

 

「たしかにお前の力は抜きん出ている。お前にとって出来てしまう事が殆どだろう。だけどな、潰れたら意味がないだろ?」

「俺なら平気です。ですから―――」

「何でも自分で解決しようとするその考え方は止めておけ」

 

 そのカカシの言葉を、イタチは静かに心の中で、否定した。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「警備は万全です」

 

 ダンゾウの執務室にて、男はそう報告した。相手は勿論、この部屋の主にして、【根】のトップであるダンゾウだ。椅子に腰かけたままの彼は、頭部と右眼部分を覆う包帯の下の表情を無骨に保ったままだった。

 

「プランは全員に浸透させているな?」

「はい、そちらも恙なく。どのようなパターンであろうと、万事、全てをスムーズに遂行する事が可能です」

「イレギュラーも考慮しろ。この里には……いや、里の内外には、爆弾が多すぎる。他里の大名共の根回しも忘れるな」

「承知しております」

「ならいい。些細な事も見逃すな。すぐに報告をしろ。定時連絡も、常時より間隔は短くするんだ。現時点での報告はあるか?」

「ありません。配置に戻ります」

 

 その男は淡々と頭を下げたが、特にダンゾウへの敬意や畏怖を抱いた事は無かった。おそらく、他の感情を持った不完全な忍ならば、彼に対して何かしらの想いを抱くのだろう。

 

 感情を持つ。

 想いを抱く。

 

 その行為がどういうものなのかは分かる。意図的に行おうと思えば行える。

 

 しかし、気が付けば湧き出ている、などと言う現象を体験した事はなかった。

 

 どうして忍という道具であるにもかかわらず、感情という重荷を背負わなければいけないのか。感情があるからこそ、選択肢は幻想的に偏り、人の行動を誤らせる。重心を狂わせる。忍として……平和を支える存在として、誤りはいけない。

 

 何故、感情を皆持つのだろう。

 

 正しく動けないのだろう。

 

「俺はしばらく、身を隠す」

 

 部屋を出ようとした男に、ダンゾウは言う。事前に知らされていないプランだった。男は「いつ頃まで?」と尋ねた。場所を尋ねても意味が無いだろうとの判断である。

 

「里が落ち着くまでだ」

「指揮系統に変更は?」

「ない」

 

 どこからか、指示を送るという事なのだろう。なら、依然として問題は無い。男は部屋を出た。

樹の幹の中のような、上下に円形の空洞。薄暗く、静寂。円形の壁を繋ぐ通路は幾本もあるが、それぞれが捻じれの位置を示すかのように不規則に立体的に行き来している。通路には、同じ【根】の者の姿は見えない。隠れている、という訳ではなく、全員が出払っているのだ。

 

 里の警備の為。

 

 今日行われる中忍選抜試験に向けて、密かに警備を行っているのだ。しかも、通常の警備ではない。これまでにない程のプランと人員を配してのもの。

 

 大蛇丸。

 

 かつて【根】に所属していた危険人物が里に潜んでいるという考えの元、警戒レベルは最大限に引き上げられている。本来ならば、中忍選抜試験などという催しは中止にすべきなのだが、何を思ったのか、現火影の猿飛ヒルゼンが実行を決断した。

 

 まあとやかく言うつもりはない。上がやるというのだから、下はそれを成功させるしかない。そして自身の直属の上司であるダンゾウの指示に従えば、間違いなく、里は守られる。彼は不思議な事に、無理はしない。つまり、勝算がまるでない勝負はしないのだ。

 

 警備をさせるという事は、成功する確率が確かに高いという事である。

 

 ならば考えるべきは、自身の役割の全うだ。通路を歩きながら、男は冷静に、パズルを組み立てるかのように淡々と、暗部に支給される面の奥に潜めた無表情を保ったまま警備の趣味レーションを続けた。

 

 通路を通り、階段を上がる。迷路のように右往左往と道を進む。

 

 再び、円形の空洞に出る。先程、自分がどこの通路を歩いていたのかは、もはや分からない。常に通路は変化する。上にある通路を歩いていたのかもしれないし、下にある通路を歩いていたのかもしれない。外部からの侵入を防ぐためだ。通路は常時、忍術と幻術が併用して行われている。誰がどこで術を展開しているのかは、知っている者はいないだろう。知ったところで、意味など無い。好奇心など、リスクを増やすだけである。感情の有無はやはり、忍としての境界線だ。

 

 忍は道具だ。

 使い捨ての。

 それを寂しいと評価する者がいる。悲劇だと論じる者がいる。

 自分の為に、自由や未来の為に活動する事が、人間的なのだと考えているのだろうか。

 いつ、どこでであっても。

 

 人は自分の為に生きる事は出来ない。自分の自由、自分の未来、そういうものがあると言う者は、それが存在してほしいという願望の裏返しでしかない。言うなれば、妄想だ。妄想に憑りつかれた生き方こそ、寂しく、悲劇だ。ましてや、殆どの者がその妄想に憑りつかれて、共通の認識として諸手を掲げているのは、恐怖でしかない。

 

 道具として潔く、そして不特定多数の平和の為に生きる事。

 

 それこそが、正しい生き方のはずだ。

 

 生きる事を望まず。

 

 犠牲になる事を認め。

 

 死を恐れず。

 

 誰も知らない所で世を去る。

 

 忍とは、そういうものだ。

 

 

 

 その、数分後。

 

 男は死ぬ事になる。

 

 最後まで彼は、忍として適切な行動を貫いた。生物的恐怖が意識を圧殺しようとも、最後まで冷静な抵抗を示し、悲鳴一つ、情報一つ、漏らす事はしなかった。

 

 腕を食われ、足を食われ、喉から食道にかけての筋肉を丸呑みされ。

 ダンゾウの居所を聞いてくる相手に、決して【根】としての律を乱す事はしなかった。

 相手は、最後にこう言った。

 

「さようなら。貴方の記憶は、私が引き継ぐから」

 

 出来そこないのダルマのように、両手足を失い、喉と食道を丸呑みされた男に、相手の言葉に応対する事は出来なかった。

 

 頭から足の先―――いや、足の先を超えて通路の床すら広く覆うほどにブカブカとした、フード付きの漆黒のマント。フードの下から覗かせる口元は粘質の強い赤い液体が、べっとりと滴っている。真紅の小さい舌で口元を一舐めすると、白と赤が混じったピンク色の歯が、大蛇を表現するかのように広げた口から姿を現した。口内で何本も糸を引く唾液と血液、そして鼻先に押し寄せてくる腐臭。

 

 相手の口は、男の額を狙った。

 

 柔らかい感触。それは一瞬で、硬い歯が頭蓋骨を容易に噛み砕いた。

 

 あっさりと、簡単に。

 

 男の身体を持ち上げる細腕も、そうだが。

 

 相手の力は現実感が薄かった。体躯とエネルギーが噛み合わな過ぎた。あるいは、たっぷりと油を染み込ませたメンコのような、ルール外のズルさ。

 

 男の意識は徐々に消えていく。

 睡魔とはまた違う喪失だった。

 考えられなくなっていっている。

 直感だけの感覚。湖に水滴を零して波紋が生まれず、ただただ静かになっていく。

 最後の最後。

 考えるという行為が出来ず、言葉そのものも分からなくなる、その寸前。

 男は相手の感情を、残った思考部位と微かな経験で読み取った。

 怒っているような震え。悲しんでいるような痙攣。

 興奮しているような獰猛さ。逃避しているような必死さ。

 確認するような微かな慎重。否定するような些末な緊張。

 支離滅裂とした感情の片鱗たちに触れて、男は、やはりと、思った。

 感情を持てば、化物になる。

 忍でも何でもない、ただの化物に。

 

 

 

 溢れ返る盃のようだった。

 

 自分の身体が。

 水や、酒や、食べ物や、何から何やらまで。

 ぐちゃぐちゃに、乱雑に、雑多に投げ込まれた盃。元々、その中には何が入っていたのかというのも、分からない。少なくとも、盃の中に入っていたはずの液体は他の浸蝕を容易に許し、もはやどのような味だったのか、香りだったのか、色さえも、見失ってしまっている。そんな、気分だった。

 頭の中には、自分じゃないはずの記憶が渦巻いている。

 記憶だけじゃない。

 記憶に付属する感情も。

 どこからどこまでが、自分にとって正しい記憶だったのか。自分にとって正しい選択をしているのか。自分の行動は、自分の感情が導いた事なのか。

 

 水の波紋のように。

 探れば探るほど波紋は大きくなり、水中を見えなくさせてしまうように。

 考えれば考えるほど、自分を見失う。

 残っているのは、たった一つの、もはや原風景。

 

 四人で撮った集合写真―――いや、違う。

 

 綺麗に晴れた青空。

 心地良い風と、一本の木に生い茂る葉をすり抜ける木漏れ日。

 浮遊する感覚は、あまりにも懐かしい。

 それだけが。

 彼女との繋がりだけが。

 残った自分の証だった。

 確かな、自分だった。

 そして、幸せを感じれる自分がいた時間だった。

 もうそれだけを糧にして、イロミは、化物になって、侵攻した。

 

 真実を知るために。

 

 ダンゾウの執務室に着く。拠点にはイロミしかいない。幻術や結界忍術を使用していた者たちは全て、食い殺した。鋭敏となった感覚から伝わる通路の姿は、詰まる所、ありのままの現実という事だ。術者たちの記憶を探り、全てのルートを網羅していた。問題なのは、先ほど捕食した男の記憶だった。

 

 ダンゾウが行方を暗ます。

 

 予想していなかった事態に、進む速度は逸る。彼女が着ているのは、フード付きの漆黒のコートだった。サイズはまるで合っていない。フードも袖も裾も、あまりにもダボダボとしていて、廊下を駆ける音は風を叩くせいで騒がしい。

 

 匂いが濃くなっていく。奥歯を噛みしめた。吠えたい感情。その怒りだけは、間違いなく、自分のものだ。

 あの大切な日々をぶち壊した相手への、怒りだった。

 イロミは勢いそのままに、ダンゾウの執務室のドアを蹴破った。と、同時に、長い袖の腕を円を描くように振るった。袖の中から、大量のクナイが室内の壁や天井、果てには床までをも覆い尽くす。

 しかし―――クナイが鮮血を生み出す事はしなかった。

 

「………………」

 

 中には、誰もいなかったのだ。

 匂いは二つ。一つは、先ほど捕食した男の匂い。もう一つは、知らない男の匂い。後者の匂いは、部屋の至る所に染み付いている。忘れないよう、空気を吸い、匂いを覚える。どこから部屋を抜け出したのか、匂いの痕跡からは分からなかった。逆口寄せの術のような、一瞬で別の場所へ移動する術を使用したのかもしれない。突如として姿を暗ましたのは、おそらく、こちらの動きが想定されていたという事なのだろう。

 イロミは静かに、部屋を散策した。

 

 嗅ぎ慣れた、紙の匂い。

 

 才能の無い自分の糧となってきた紙の匂いだ。

 大切な友達が指し示してくれた、道の一つ。

 壁沿いの本棚。デスクの中にある書類。

 

 ―――そっか……本、読めないんだ…………。

 

 本棚に伸ばそうとしていた手が止まった。

 今更ながらに、自分には眼球が無いのだと思い出す。触覚や嗅覚のおかげで、物の形や配置は分かるが……文字という、色を見分ける事は出来ないのだ。

 イロが、ミえない。

 もしかしたらと。

 ここには、あの夜の事についての何らかの報告書があるのではないかという希望は、あっさりと頓挫させられる。インクの匂いの強弱で、本や書類に書かれた文字をイメージする事は出来るが、一文字一文字時間をかけて文章を理解するのに、どれほどの時間が掛かるだろうか。

 それならば、聞いた方が速い。

 

 百聞は一見に如かず。

 

 もう見る事は叶わないから。

 暗闇だけ。

 だけど、そう、だからこそ、聞きやすいんだ。

 思い出しやすい。

 彼女の言葉を。

 あの輝かしい時間の声を思い出すのに。

 イロミは部屋を出た。

 向かう先は決まっていた。

 狙うは、ダンゾウではない。もはや彼を見つけ出すのは、曇天の雲海を潜るカラスを捜すよりも困難になってしまった。

 

 ならば、もう一人だ。

 

 もう一人いる。

 

 あの夜を知っているはずの人物が。

 

『……ねえ、イタチくん。教えてよ』

 

 彼にそう尋ねた。

 いつだったか、もう忘れてしまった。

 多分、自分が化物になってしまった日の事だろうとイロミは思う。確か最初にその場には、眼鏡をかけた少年と、片腕の無い男性、そして中性的な少年もいた気がする。よく覚えていない。食欲が強かった。とにかく、食べたかった。彼の才能が欲しかったんだと思う。やはり、よく覚えていない。気が付けば、そこには彼と二人きりだった。

 その場面だけは、覚えている。

 彼の腕を少しだけ噛んで、口の中に血の味が広がった時の事だ。

 美味しくて、悲しくて。

 食欲が少しだけ減退した時で。

 きっと―――自分の中にいるだろう親の記憶が入り込んだ時だった。

 

『うちは一族って、木ノ葉の事が嫌いだったの……?』

『……イロミちゃん、君は、何の事を言っているんだ』

『私だって、分からないよ。でもね、うん……今、頭の中で声がしたの…………。今も、話しかけてくるの。フウコちゃんが、どうしてうちは一族を滅ぼしたのかって』

『苦しいかもしれないが、落ち着いてくれ。その声に耳を貸すな。それは、大蛇丸の―――』

 

 

 

『うちは一族が、木ノ葉にクーデターを起こそうってしてたのは、本当なの?』

 

 

 

 そんな事は考えられない上に、動機もない、と。

 彼は言った。

 しかし、それは嘘だと、イロミは判断した。

 だって彼は、天才だから。

 自分にはない才能をたっぷりと持っている人だから。

 木ノ葉の神童だから。

 

 そう、そもそも、おかしい事だったんだ。

 

 フウコは何かしらの理由でうちは一族を滅ぼしたと、イタチもイロミも考えていた。それは、イタチが見つけたシスイの言葉から受け取れる。そしてシスイは、フウコの行動の背景を知っていたのだろう。知らなければ、フウコを信じろ、という言葉を残すはずがない。

 

 

 

 シスイはいつ、フウコがうちは一族を滅ぼさなければならない理由を知ったのだ?

 

 

 

 まさか、フウコが自分で言った訳ではないだろう。シスイが殺されたのは、うちは一族を滅ぼす前。一族抹殺の情報が、今回の遺言のように、シスイが伝達する可能性をフウコが考慮しないはずがない。

 つまり、シスイはフウコに殺される以前から、知っていたのだ。

 フウコが凶行に至るに足る背景を。

 あるいは―――凶行に至る可能性がある背景を。

 そう考えると、不自然な点がある。

 フウコとシスイが知っていて、じゃあなぜ、イタチが知らないのか?

 うちは一族が滅ぼされたという事は、原因はうちは一族にあると考えて間違いはないだろう。それは、イタチも同意してくれた確認事項だ。だが、何度もイタチに尋ねても、彼からの答えは、

 

「うちは一族は、あの夜の寸前まで、特に不審な点は無かった」

 

 だった。

 一緒にフウコを追いかけようと誓った彼に対して、疑問を抱く事はかつてなかった。

 だって彼は、友達で、天才だったから。

 だからこそ、今まで散々考えても、答えに辿り着けなかった。

 でも、頭の中の声は言ったのだ。

 うちは一族がクーデターを起こそうとしていたという事も。

 木ノ葉隠れの里が、それを未然に防ぐためにフウコを捨て駒にした事も。

 繋がる。

 フウコの凶行の意味も。

 シスイが「フウコを信じろ」という、曖昧な言葉を残した事も。

 そして、フウコがアカデミーの頃に異例な速度で卒業した事も、暗部の【副忍】という異常な地位を確立されそこに収まった事も。

 繋がっていない事は、ただ一つ。

 イタチがずっと、うちは一族に異常が無かったという言葉。

 だから、確かめた。

 あの時。

 うちは一族のクーデターを起こそうとしていたのかという問いに、わざとらしいのか、本心なのか、判断が難しい彼の身体の硬直を感じて、すぐに。

 

『ねえ、イタチくん。私に、嘘……言ってたの?』

 

 ……まだ、彼からの答えは来ていない。

 

「イタチくん、今度は、しっかり答えてね」

 

 イロミは歩きながら一人呟く。

 彼の匂いはよく知っている。それに今は、中忍選抜試験の最終試験、その開催日。大蛇丸という爆弾を抱えている以上、わざわざ顔を見せに来る頭の悪い大名たちの警護の為に、会場周辺にいるはずだ。そこに行けば、すぐに見つけられる。

 あるいは、ダンゾウも。

 ヒルゼンは間違いなくいるだろう。彼から聞いた方が早いかもしれない。

 だが、やはり、イタチに会おうと思った。

 ダンゾウやヒルゼンの匂いを嗅いで、フウコを捨て駒にした張本人たちの匂いを嗅いで、正気を保てるか分からないが。

 

「今度こそ、嘘は言わないでね。だって君は―――」

 

 天才なんだから。

 まるで赤の他人にでも会うかのように、簡素に呟いた。

 




 次話は七月の一週目までに投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

陽を追い、変わる

 

 

 

 人は、自分自身では変わることは出来ない。それは、粘土で工作する子供のような行為だからだ。

 

 どれほど理想的な形を求めても、出来上がった物は、考えていた物とは程遠く、必ず子供は首を傾げる。こんな物を作るはずじゃなかったのにと、口をへの字にする。子供によっては、出来上がった粘土を床に叩き付けるかもしれないし、あるいはひっそりとゴミ箱の中に捨ててしまうかもしれない。

 

 しかし、出来上がった粘土は、間違いなく、当事者が作ったものなのだ。

 

 当事者の理想が、意志が、反映されている。作ったのはその本人で、それ以外の介入要素が無ければ、やはり、粘土を生み出したのは、その本人だ。どれほど否定しても、作ったのは、出来上がった物には、逃れられない自意識がある。

 

 それは、つまり、人格も同じだ。

 

 人は変われると思って、そうして出来上がった自身の人格は、変わる前の人格の理想が反映されたものでしかない。

 

 その人格は―――変わっていると、言えるのだろうか?

 

 おそらく、違うのだろう。

 

 勿論、こんな考え方は屁理屈でしかない。

 

 人は学習する生き物だ。何を行ってはいけないか、何を優先すべきか。それらを客観的に判断して、取り入れる事が出来る。ましてや、他者と関わる事によって、作り上げる人格も自分だけの物ではなくなる。介入が行われる。

 

 理想的な介入ではなくても、振り返ってみればきっと、それらは点と点が繋がるような、綺麗な軌跡を描いて、自分が変わっているはずだ。気楽な大人たちを見れば、そう思える。

 

 しかし、どうしても、頭の中にこびりつくのだ。

 

 理想的な変化が、本当に自分には訪れるのかと。

 

 それすらにも、才能が必要なのではないかと。

 

 あるいは。

 

 前述した屁理屈が、実は、正しい理屈なのではないかと。

 

 考えれば考えるほど、正しいはずの基準から自分の平衡感覚が離れて行ってしまう。奈落に落ちてくような、あるいは坂を転げ落ちていくような、そんな不安定をどれほど夜の布団の中で経験してきたことだろう。泣きたくなって、そして実際に泣いてしまったのは、どれくらいあっただろう。

 

「俺の前に立っただけで、自分が変わったつもりになっているというのなら、それは間違いだ」

 

 ネジの声と言葉は、布団の中で何度も嗅いだ事のある湿っぽさを想い起させた。断定的な言葉に反抗心を燃やそうとするが、彼の強い視線に、ヒナタは視線を逸らしてしまう。自身の情けない行動を自覚し、ネジの言葉の価値を後押ししてしまう。

 

 彼は顔を向き変えて、観客席の見上げた。

 

「御当主も、妹様も、きっと同じことを考えているだろうな」

 

 驚き、ヒナタは視線を追った。父であるヒアシと、妹のハナビが観客席に座っているのが見える。会場には大名だけではなく、里の有力な一族に属している忍も多くいる。日向一族の当主である父の姿があったところで、不思議ではない。

 

 が、たとえ出席しなければいけない立場であったとしても、代理を立てる事は容易なはずだ。ましてや、妹のハナビも連れて来るなんて。

 父と視線が一瞬だけ交差するのを、ヒナタは逃げるように俯かせた。

 

「たとえ俺がここで貴方に勝った所で、宗家と分家の立場は変わらない。中忍になろうが、上忍になろうが、それは変わらない。分家の人間が火影になる事も出来ない」

 

 分かるか? とこちらに向き直る彼の表情は、怒りを滲ませていた。

 

「人は生まれ持った立場、才能で全てが決められる。勝者は常に勝者であり、敗者は常に敗者でしかない」

「それは、違うよ……。頑張れば……、変われるよ……」

「……貴方は本気でそう思っているのか?」

「え?」

「ハナビ様にすら次期当主の座を奪われた貴方が何を言っても、俺から見れば、ただ宗家の落ちこぼれという、安全地帯から物を言っているようにしか聞こえない」

 

 空に投げ出された感情に苛まれた。

 宗家の落ちこぼれ。それが、安全地帯なのだと。その評価は、初めて下されたものだ。

 

「私は……そんなつもりで言ったわけじゃないよ…………。宗家である事を誇りに思ったこと……ない…………。本当に、ただ……努力をすれば…………人は変われるって……」

 

 そう、言っていたのだ。

 彼女が。

 ナルトに時折修行を付けていた、猿飛イロミという人が。

 努力はきっと無駄じゃない。

 歩き続ければ前に進むように。

 努力は自分の理想に近づけてくれる。

 

 偶々、そんな話題になったのだ。木陰からナルトの修行を見る事しかしていなかった時にイロミに声を掛けられ、それ以降何度も会ったりして。彼女の柔らかい雰囲気が心地良くて、同性の中では恐らく一番仲の良い相手である彼女との会話で、そう言った話になった。

 

『努力するのが不安だって言うのは分かるよ。私もね、自慢じゃないけど、本当に自慢じゃないけど、アカデミーの頃なんてダメダメでね。いっぱい頑張っても、成績が上がらなかったり、ドジばっかり繰り返したりしてたの。言っておくけど、ヒナタちゃんくらいの歳の私は、ヒナタちゃんよりダメな自信があるよ』

 

 自慢じゃないと前置きを置いておきながら、当時の自分の至らなさ加減に自信があるという彼女なりのジョークに、ヒナタはあっさりと笑った。それくらい、親しくなっていた。

 

『中忍選抜試験とか、何回も落とされてね。大恥かいたりしちゃったんだよ?』

『……怖く、なかったんですか?』

『努力するのが?』

 

 ヒナタは頷くと、イロミは顎に人差し指を当て、浅く空を見上げた。

 

『努力することが怖いって思ったことは、ないかな。私は、やりたい事があるから』

『やりたいこと、ですか?』

 

 うん、とイロミは頷いた。

 

『昔から、叶えたい夢があるんだ(、、、、、、、、、、)。その夢を叶えたいから、努力してるの。もしも叶わなかったらって考えても、意味が無いって私は思ってる。だって叶えたいんだもん。それ以外は考えない』

『もし、努力しても意味が無かったらって、全く、考えないんですか?』

『意味が無かったら、それは努力の仕方が間違ってたんだって考える。色んな方法考えて、試してみる。それを何回も、繰り返す。勉強と同じだね。色んな暗記方法とか、巻物を纏めるのと一緒だよ。意味が無い努力なんて、うん、無いと思うんだ。効率が悪いっていうのは、あるかもしれないけどね。一番大事なのは、努力をし続けるってこと。努力する癖をつける事だよ。それだけでも、努力しない人から、努力できる人に、変わってるんだから。人は、変われるんだよ』

 

 背筋が凍った。

 イロミとの小さな情景から、現実に引き戻される悪寒。ネジの白い瞳がより色を濃くし、真っ白に。両目脇の血管が強く浮き出ている。

 

 白眼。

 

 日向一族が持つ、血継限界。

 彼のその瞳からは、しかし、自分の持つ才能とは全く質が違うのだと如実に伝えてくる圧迫感があった。咄嗟に両腕が顔の前で交差してしまう。幼い頃から、怖いことがあった時にしてしまう癖だった。

 

「人は変われる……。それは本当に、貴方の言葉なのか? 誰かの言葉を、良いように使いまわしていないか?」

 

 一瞬だけ、ナルトの笑顔が頭に思い浮かぶ。それを見透かしたかのように、ネジは、

 

「うずまきナルトか?」

 

 無意識に固唾を呑み込んでしまったのを、ネジの白眼は見逃さない。

 

「道理で貴方はこの会場に来てから、何度も視線を泳がせていた訳か。最終試験に出場できるはずの彼がいないことに、強い不安を覚えた。前試験では、犬塚キバに防戦一方だった貴方が、彼の言葉を受けてから急に攻勢に転じてもいる。なるほど。つまり貴方は、ただ彼の真似事をしているに過ぎないということだ」

「ち、ちがう……ッ!」

「違わない。結局貴方は、自分が変わった気になっているだけだ。現に貴方は、彼がいないだけで、ただ流れに身を任せてここにいるだけしか出来ていない。腰が引け、戦おうという意志が無い」

 

 指摘されて初めてヒナタは、自分の体勢がみっともなく、身体を縮めようと膝や腰を不必要に曲げているのに気付く。

 

「貴方は努力をしているつもりだが、心の中では本当は分かっているんじゃないのか? 自分が努力しているのは、自分が変わる為じゃない。自分が変わったと思い込む為のポージングだ。貴方よりも才能のあるハナビ様に次期当主の座を奪われても、努力をしたからこそと、予防線を張っているに過ぎないと」

 

 違うと、今度は言葉に出す事が出来なかった。下顎が震え、唇が痙攣するのを、ヒナタは指を添えて止めようとする。そんな事はない、そんな事は無いと、心の奥底で自分に必死に言い聞かせる度に、目頭が熱くなっていく。

 視界が涙で滲み、鼻の奥が苦しくなる。

 

「人は変われない」

「……ッ、…………ッ。……………ッ」

 

 言葉が出ない。

 もしこのまま言葉を出してしまえば、抑え込んでいる悲しい感情が爆発してしまうのではないかと……脳裏にちらつく怖い想像を認めてしまうのではないかと、思ったからだ。

 

 怖い、怖い。

 

 試合開始の合図が始まっているのに、戦おうという気力が、無くなりつつあった。

 

 

 

「ちょっとガイ、おたくの子、悪趣味じゃない?」

 

 試合開始の合図が始まってからただ言葉だけが一方的にぶつけられる異様な光景を眺めながら、はたけカカシは呟いた。観客席の一番後ろ。つまり、一番高いところの、壁際だ。壁に背を預けて、彼は立っている。頭に出来たたんこぶはまだヒリヒリと痛いが、目の前に広がる哀れな状況に比べたら遥かにマシである。隣に立つマイト・ガイは、普段の暑苦しいスマイルを潜めて、深いため息をついた。

 

「一応、あいつには試験前に忠告はしておいたんだがな。真剣勝負に、不要なものは持ち込むなと。口酸っぱく言ったんだが」

「不要なものしか、飛び交ってないけどねえ。まあ、同じ一族の宗家と分家っていうのは仲が悪いのが相場は決まっているものだけど、まさかここまで拗れてるなんてねえ」

 

 ましてや、まだ下忍の子供。にもかかわらず、ネジから伝わってくる感情は、ガキらしいと言えばガキらしいそれだが、それなりに立派なプレッシャーが伝わってくる。中忍選抜試験の最終試験という場でありながら、それにふさわしくない試合―――いやもはや試合と呼ぶにも値しないそれは、大名たちに退屈さを与えているのが、空気で伝わってくる。大名が気に入るか気に入らないか、というのは然程重要ではないけれど、見ていていい気分ではない。

 

「おたく、何か知らない訳?」

「宗家と分家の関わりについては、俺も知らん」

 

 と、ガイは言う。

 

「だが、ネジは元々、冷静なタイプの子だ。任務にも修行にも私情を挟まず、効率よく対処してきたのを俺は何度も見ている。だから、皆目見当も付かん」

 

 それほどまでに、宗家と分家の関わりは拗れているというのか。

 あるいは、全く別の要因なのか。

 どちらにしろ、この試合は長くは続かなそうだなというのが、カカシの評価だった。

 

 

 

 別の席で聞き慣れた声が飛んできた。部下である犬塚キバが「何か言い返せよヒナタァッ!」と、怒声をあげている。しかし当のヒナタには、全く聞こえてはいないようだった。

 

 ―――しっかりしなさい……ヒナタ。

 

 夕日紅は小さく心の中で呟く。彼女の上司として、ここで彼女に何か言葉を送るというのは行ってはいけない。この中忍選抜試験というのは、忍として独り立ちする為の第一歩。その根底を覆す訳にはいかないのだ。たとえここで声を掛け、ヒナタが立ち直り、勝ったとしても、周りの評価は『一人では何も出来ない日向の下忍』という不名誉が付くだけ。正直、キバの怒声も、行ってはいけないものではある。

 

「おい紅、顔色悪いぞ」

 

 と、隣の席に座っている猿飛アスマが、呑気に声を掛けてきた。紅とアスマは隣同士の席に座り、観客席でも前の方に座っている。

 

「これを見せられて、顔色が良くなるわけないじゃない。下手したらヒナタは、もう二度と、中忍選抜試験に出たいなんて言い出さなくなるわ」

「まあ、そうだろうなあ。こんな大衆の面前で泣きながら失格でもしたら、トラウマもんだ」

 

 きっとネジは、それが狙いなのだろう。紅は、日向一族の事については少しだけ―――ガイよりかは―――知っている。情報としてではなく、空気を、である。

 

 日向一族の当主であるヒアシと話しをしたことがあったのだ。いや、話しという程のものではないかもしれない。ヒナタを中忍選抜試験に出場させていいものかと、試験前に尋ねに行った時のことだ。

 本来なら、出場有資格者の本人の意思があれば試験に参加させることは出来るのだが、ヒナタはヒアシの第一子。本来ならば、日向一族の跡取りに位置している。木ノ葉隠れの里において有力な日向一族の跡取りを試験で死なせてしまったとあれば厄介な事になる為、念の為にヒアシに許可を貰いに行ったのだ。

 

 そして、ヒアシの返答は簡単だった。

 

 ヒナタは跡取りとしての力は無い。勝手にしろ。

 

 内容はこんなものである。

 

 つまりは、それが、日向一族におけるヒナタへの評価なのだ。紅が知っている日向一族の情報はそれだけである。もしかしたら、ネジがヒナタを追い詰めているのは、それが要因なのかもしれない。

 次期当主になれないヒナタを追い詰めて、二度と中忍選抜試験に出場させない為に。

 宗家と分家。その間の問題が不鮮明である為断言できないが、ネジからひしひしと伝わってくる感情は、怒りだけ。嫉妬などの不純物の無い怒りだ。人は変われない。その言葉は、ネジの本心なのだろう。

 

 ヒナタの肩が震えている。今すぐにでも泣き出してしまいそうなほどに。

 

 心にヒビが入っていく音が聞こえてきてしまう。

 

 ヒナタの心のヒビだ。

 

 今までずっと引っ込み思案で、けれど自分を変えようと必死で。任務で失敗する度に落ち込んで、自信の無い曖昧な笑顔を浮かべながらも、今日こそはと控えめな熱心を隠すだけだった彼女。しかし、中忍選抜試験に出場すると決まってから、密かに強い努力をしていたのを知っている。

 

 本当に自分を変えようと、今までにない力強さを持った彼女が、あっさりと折られようとしてしまう。

 

 指導不足だったと、紅は後悔した。

 

 実力ではなく、メンタルが。

 もう少し時間を掛ければ、大丈夫だったかもしれない。たとえネジにあらゆる言葉をぶつけられても、自分を見失わないくらいの力強さを持たせてあげる事が出来たかもしれない。

 もはや後悔しても、遥かに遅い。

 あとどれくらいの時間で、ヒナタは地面に膝を付いてしまうだろう。

 あるいは、審判が試合続行不可の判断を下してしまうだろう。

 暗雲のみが犇めく光景に―――やがて、変化が、訪れた。

 

 

 

 ヒナタは息を呑んだ。

 

 頭の中が真っ白。ネジからのプレッシャーも、観客たちの不安定な視線も、その一瞬だけは完全に、忘れる事が出来た。

 

「……え?」

 

 いつの間にか、声を漏らしてしまっている。しかし、それすらも気づかない。ただただ、頭の中に浮かんだのは、たった一つの、疑問だった。

 

 ―――今……なんて…………?

 

 頭の中で言葉が続く。

 

 ―――ネジ兄さんは、何て、言ったの?

 

 まるであまりにも怖い物を見てしまったせいで、記憶が飛んでしまったかのような感覚。数秒前にぶつけられたネジの言葉を、ヒナタは必死に思い出そうとする。わなわなと肩が勝手に震え、お腹の奥がじんわりと熱くなってきていた。

 

 ―――今、ネジ兄さんは……。

 

 思い出す。

 

 彼は、こう言ったのだ。

 

『だがたとえ、貴方がうずまきナルトの真似をしたところで、所詮は相手を見て逃げた落ちこぼれだ。落ち零れの親から生まれた子が、落ち零れになるのと同じようにな』

 

 そう、言ったのだ。

 

「勝てない相手に勝負を挑みもしない。落ち零れの思考そのものだ」

「……ナルトくんは…………」

 

 声は震えていた。

 

 だが、不思議と涙は溢れてこない。湧き上がってくるのは、許せないという、それだけ。

 

「落ち零れなんかじゃない……」

 

 初めての感情だったかもしれない。

 第二の試験でナルトの危機を目撃した時よりも強固で、焦りよりも感情の荒々しさで肩が震えている。

その感情の波は、ヒナタ特有のものだ。

 

 自分に自信が無いからこそ、他者を高く評価する。正しい評価では、無いかもしれないけれど、つまりは心の重心は自分ではなく、他者にあるのだ。故に彼女の怒りの沸点は、自分自身に向けられた言葉の棘ではなく、この場にいない、そして誰よりも好きな男の子に向けられた、不当は評価に対してだった。

 

 ヒナタは真っ直ぐネジを見据えていた。彼女の変化に気付いたネジは、不思議そうに眉を顰めた。

 

「落ち零れじゃない? そう言うなら、どうして彼はここにいない?」

 

 口を開きかけて、ヒナタは言葉を呑み込んだ。彼がイロミを捜しているということを言うのは、この大衆の面前で控えるべきだと、怒りの感情に浸蝕された微かな理性がブレーキを掛けた。

 

 応える代わりに、ヒナタは白眼を発動した。ネジから送られるプレッシャーを跳ね返すように、姿勢を低くし、日向一族が用いる【柔拳】の基本姿勢に入る。左腕を前に少し伸ばし、右腕は腹部の横に。両掌は柔らかく開いた。

 

「ネジ兄さん……。私は、貴方に勝ちます。勝って、人が変われるってこと……努力で才能を超えられるってこと、ナルトくんが正しいということを、私が証明します」

「……いいだろう。来い」

 

 ネジもヒナタと同じ体勢になった。宗家と分家で出自は違くとも、全く同一の基本姿勢。いや微かに、ネジの方が精錬されたものを感じさせるが、ヒナタは怖気づくことはもう無かった。

 大きく息を吸い込み、腹部に力を込める。貯め込んだ力を足に込めて、強い一歩踏み出し、ネジの眼前に向かった。

 

 二人の影が連続で重なる。

 

 互いに両手からチャクラを放出しながらのインファイト。その姿に会場は待ちに待ったかのような歓声が沸き上がるが、二人の間には、互いの攻撃の決め手である掌のチャクラを躱そうと身体を動かし衣服が擦れる音、あるいは腕を払う際にぶつかる骨の音だけしか耳に届かない。

 

 ヒナタの右手がネジの顔のすぐ横の空を切ると、返しにネジが右腕を突き伸ばしてくる。残しておいた左腕でそれを外に掃い、空いた所を左手で―――しかしネジも、腕を払ってくる。

 

 日向一族同士という事もあって、その場その場での最小限の動きや、狙いなど、手の内は分かっている。差が出てくるとしたら、質だ。同じ位置、同じ距離で弓を撃ち合うように、精度と速さだけが、分水嶺。ヒナタは今までの修行で培ってきた精度と速度を保ちながらも、ネジからの動きを細心の注意を消費して観察していた。

 

 緊張や不安によるミスは無い。コンディションとしては、今のヒナタは中忍選抜試験内では一番良いだろう。白眼で捉え続けるネジの姿が、意識へとクリアに入り、それ以外の情報は一切に排除できている。

 

 ―――今ッ!

 

 ヒナタは一瞬の隙を見出し、ネジの右脹脛を狙った。白眼が見通す景色は、彼の体内に張り巡らされている経絡系を捉え、それらに絡みついている筋肉を見透かす。足を狙った攻撃は、ネジの払い手によって寸での所で回避されるが、彼の体勢は偏った。今程よりも大きな隙。身体を回転させ、裏拳を放つ要領で左腕でネジの頭部を狙う。

 

「………………?!」

 

 ネジの表情に微かな驚き。

 その動きは、日向一族が用いる事の無いトリッキーな動き。独自に考えた動きの一つだが、起点はイロミである。彼女の【どんな手段でも用いる努力】という考えの元に、編み出した。一瞬だけ相手に背を見せるが、白眼は自身の背の向こう側すら見通す力を持っている。

 空いたネジの頭部に左手のチャクラは……完全には当たらない。ネジも上体を逸らしてギリギリ躱す事に成功したのだ。チャクラが掠っただけだ。しかしそれでも、軽い脳震盪が起きてもおかしくは無く、ネジの表情に変化は無いが、ヒナタは大きく踏み込み攻勢を緩めなかった。

 日向の型を織り交ぜながら、自身オリジナルの型を見え隠れさせる。タイミングをずらし、軌道を変化させ、徐々に優勢に立とうとする。

 

 ―――絶対に、負けない……。負けたくないッ!

 

 人は変われるという事を。

 大切な人から教えてもらった想いを。

 絶対に、否定させない!

 大きく踏み込んできたヒナタに、ネジが右腕を伸ばしてきた。ちょうど、ヒナタの胸中央を狙った掌底。速度も精度もタイミングも、ヒナタのそれよりも高性能だ。日向の型なら払い手から腕に掌底を打ち込むのがセオリーだが、それでは間に合わない。

 

 ヒナタは、即座に変える。

 

 型を。

 

 日向一族から、自分オリジナルに。

 

 身体を傾け、脇を開ける。掌底をやり過ごし、脇を閉じてネジの腕を捕えた。

 そのまま右足をネジの両足の間に伸ばし、左足を払いつつ、上体で相手を押す。

 ネジの重心は完全に崩れ、後方へと倒れようとしていた。

 自身の右手にチャクラを貯める。ネジの左腕は、ヒナタが密着しているという事と体勢が不安定という事もあり、最速で払い手や反撃は出来ない。この動きも、自分で考えた動きだ。

 狙うは、ネジの胸中央。心臓部位に絡まっている経絡系だ。

 そこを【柔拳】で攻撃されれば、心臓の動きは不規則になり、運動機能が大幅に低下する。

 右手に力を込める。

 目一杯に。

 想いを込めて。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチは少しだけ、昔の記憶に浸っていた。眠気と疲労による、意識の回復効果を無意識が図ろうとしたのかは定かではないが、試験会場の中央で戦う日向ヒナタという子の姿を見て、夢見心地に意識は懐古していた。

 

 試合開始の合図すぐの、肩を震わせる姿。

 意を決して一心不乱に立ち向かう姿。

 のみならず、創意工夫を用いる姿。

 かつて、イロミが中忍選抜試験で見せた姿のそれに似ていたのだ。イロミの場合は、ヒナタの一連の動きや感情の変化は、イロミが最終試験に出場する事に見せたものではあるが。

 一回目の出場では、緊張と不安で何も出来ず、逃げ回った挙句に惨敗。

 二回目の出場では、今度こそは頑張った結果、やはり惨敗。

 三回目にしてようやく、まともになって、辛勝の上に、中忍昇格。

 懐かしく思うと同時に、悲しさも蘇ってくる。

 

 最終試験に残るのはいずれも、特出した才能や、有意義な努力を重ねてきた者たちだ。そして毎年必ず、総合的に大きく秀でた者が現れる。それは、試合内容を一見するだけで分かってしまうほどの差が、生まれるのがパターンだった。

 

 目の前で行われる試合は、正に、それだった。

 

 いったい、どれほどの者たちが気付いているだろうか。二人の攻防に目を奪われているせいで【柔拳】が当たったか当たっていないかのみに、大半の者は気を奪われている事だろう。さらには、二人の両手だけにしか焦点が行っていない者もいるかもしれない。イタチは疲弊した意識であるにもかかわらず、そして写輪眼を使うまでもなく、両者の攻防を意識の片隅で正確に分析し、眼前に留まる光景の結果の正当な帰結を認めていた。

 

 ヒナタがネジの胸に打ち込んだ右手には、チャクラが一切込められていない事に。後方へ倒れ込みそうな姿勢だったネジが、右足を大きく後ろに引いて体勢を保っている光景に。

 

「……どうして…………」

 

 会場の中で理解できていない者の中で、おそらくヒナタが最も驚愕した事だろう。平然としているネジの姿に、零してしまった声を最後に完全に動きを止めてしまっていた。

 

 両手にチャクラを貯めて放つ【柔拳】は、普通の忍にとっては常に意識しなければならない攻撃手段ではあるが、それを基本武器として戦う日向一族にとって、もはや無意識の領域だ。掌底一つ一つに、チャクラの運用を意識する事はしないのだろう。

 

 ましてやヒナタの視線は―――あるいは、意識は―――常にネジのみを追っていた。視界に映るはずの自身の手にチャクラが込められていない事に気付いていないのは、最初の攻防で判断できていなかった時点で、それを察する事が出来た。

 

 ネジは容赦なく、動きを止めてしまったヒナタの腹部に掌底を打ち込む。彼の手には確かにチャクラが込められていた。驚愕で弛緩していた腹部に、力を込められた掌底。ヒナタの身体は一瞬だけ宙に浮き、地面に膝を着く頃には吐血していた。

 

 ―――点穴を狙う……。サスケが負けたのも、仕方がないな……。

 

 前試験でサスケかがネジに負けたというのは、中忍選抜試験参加者のリストや試験内容の経過を調べている最中に知った事だった。負傷していたとはいえ、サスケが負けた相手というのはどのような子なのかと、試合開始前に微かに思ったことだったが、なるほど、たとえサスケが万全であったところで、敗北はしていただろう。

 

 最初の攻防、その数撃の時点で、ネジはヒナタの腕を払うと同時に指で点穴を打ち抜く動きをしていた。そして、ヒナタが回転するように打ち込み、ネジの頭部を掠めた左手の掌底が一切の効果が無かった事で、その時点で彼女の【柔拳】が無力化していたことが分かった。

 

 特出した才能。

 

 そして彼の攻防を見る限り、かなりの研鑽を重ねてきている事は十分に伺えた。

 

 勝負は決した。イタチは昔の記憶を仕舞い込み、定時連絡を待つ準備をした。準備と言っても、ただ意識を休ませる為に、思考をスリットにするだけである。瞼を微かに閉じるだけも今は効果絶大だが、警備中であるため止めておく。

 

 その時、会場に動きがあった。

 

 膝を付いたヒナタがフラフラと立ち上がったのだ。

 

 手には、クナイが握られている。彼女は何かを呟き、ネジは何かを言い返している。声は再処理も小さすぎる為、ここまで届かない。やがてヒナタはクナイを口に加える。そこで初めて、彼女が何をやろうとしているのか、察した。

 

 

 

 息が苦しい。口の中が鉄臭く、喉の奥に貼りついているせいで、呼吸が上手く出来ない。

 

「これが結果だ、ヒナタ様」

 

 頭上から、声が。腹部の痛みは、内臓が取れてしまったのではないかと錯覚してしまうほどに重かった。地面の匂いがして初めて、自分は倒れているのだと自覚する。

 

「貴方の独特の動きには驚かされましたが、所詮落ちこぼれの浅知恵。自分の武器が碌に使えなくなっていた事にも気付けなかった時点で……いや、俺と戦う事が決まってから貴方は、負ける運命にあった」

 

 息一つ乱れの無い、平坦な声。喜びも落胆も、何も無い。彼にとって、この結果は、決められた事がありのままに起きた事なのだという事なのだろう。倒れたままヒナタは、視線を上に向ける。立ち上がろうとする意志が反映されたのは、そこまで。膝も震え、腕も震え。すぐには立ち上がれなかった。

 

 足音。ネジが離れていく音だった。もはや勝負は決したのだと、言いたげだ。

 

 ふと。

 

 視線の先に、父であるヒアシの姿が見えた。隣には、妹のハナビ。ヒアシは瞼を閉じており、逆にハナビは驚きの表情でこちらを見ている……いや、ネジを、見ていた。

 

 きっと誰も、自分を見ていないのだろう。誰もが、次の試合を待ち望んでいるに違いない。

 

 両腕に、今更、痛みと痺れがやってくる。点穴を突かれた痛み達だ。チャクラを放出する事も出来ない。【柔拳】無しで、ネジに勝てる見込みなんて―――。

 

「…………まだ……」

「……!?」

 

 ヒナタは立ち上がった。

 フラフラと、みっともなく。

 それでも、こちらを振り向くネジの両目を見据えて。

 

「まだ……負けてない…………」

「………………」

 

 ネジはこちらを不愉快そうに睨み付けた。

 

「負けてはいないが、もう貴方は負けるしかない。柔拳を封じられ、立っているのもやっとの貴方が、どうやって俺に勝つというんだ。いい加減、運命を受け入れて、楽になれ」

「……運命?」

「人は変われない」

「ネジ兄さんが……そう、思いたいだけだよ…………」

「事実だ」

 

 平行線。こちらが負けそうなのは、確かに、事実だ。

 もしも。

 彼なら、こんな場合、どうするだろうか。

 ナルトなら。ヒナタは思う。

 もうこの会場内で期待を寄せてくれている人は殆どいないだろう。キバもシノも紅も、応援はしてくれているけれど、客観的に見れば、こちらが圧倒的に不利なのは覆せない事実だ。

 こんな、たった一人の状況で。

 

 ―――……ナルトくんなら、どうするかな…………。

 

 想像してみる。結果、すぐに思い描けた。

 

 絶対に諦めたりしない。

 

 最後の最後まで、立ち向かう。影からでしか見ることが出来なかったけれど、それは、間違いないはずだ。もしかしたら、俺が火影になって人が変われるってところを見せてやるとまで、豪語するかもしれない。彼ならやりそうである。

 

 だけど、今の自分では言えそうにない。まだそこまで、自分に勇気を持つことが出来ない。

 

 真似事するだけでは、意味が無い。

 

 彼への憧れを、本当に自分の為だけにするのには。

 

 自分だけの勇気が必要なんだ。

 

 立ち上がって、最後まで諦めない。

 

 それが、今自分に出来る最大の―――最大以上の勇気だった。

 

 それに……。

 

 ―――……ナルトくんを馬鹿にされたままじゃ…………諦められない………………ッ!

 

 ヒナタはホルスターからクナイを取り出した。震える指と手では危うく落としそうになるが、しっかりと、握りしめる。

 

「今更クナイで俺と戦おうとでも? 審判、これ以上は何をしても無駄だ。ヒナタ様が死ぬぞ?」

 

 ネジの提言に審判の者は「どうなんだ?」とこちらに尋ねてきた。

 頭の中には、一つの方法が思い浮かんでいる。今まで試したことのない、今さっき思い付いた、裏技みたいなものである。創意工夫、どんな手段でも、というイロミの考え方が、やはり起点に。

 ナルトの姿と。

 イロミの思想とを。

 組み合わせた行動に、ネジは驚きを隠せなかった。

 クナイを口に咥え、長袖を捲る。皮膚には、点穴を突かれた青黒い痣が。

 

「柔拳が使えれば……、まだ……戦えます……」

 

 審判も、ネジも、ヒナタの意図を察したが、行動に移す前にヒナタは既に動いていた。

 

 止められたチャクラの流れは、両腕だけのはず。今までしたことは無かったけれど、口内からチャクラを放出させてみる。微量だが、チャクラは放出され、さらにその半分が、クナイを包み込んだ。

 

 咥えたクナイを振りかぶり、狙うのは、青黒い痣。そこには間違いなく、点穴がある。

 

 チャクラの放出によって点穴を突かれたのならば、同じ方法で点穴を突けば、チャクラはまた元通りになる。それが、ヒナタの考えた裏技だった。

 

 問題なのは、点穴の深さ。自分程度の才能の白眼では、ネジのそれのように点穴を捉える事は出来ないものの、痣の位置で横は分かる。深さだけが分からない。下手をしたら、点穴が潰れ、チャクラが二度と出ないようになってしまうかもしれない。

 

 しかしそれでも、構わなかった。

 

 大切な人を不当に評価されたのだから。

 

 絶対に、勝つ。

 

 諦めない。

 

 それは、自分で言った言葉で。

 

 捻じ曲げてはいけない言葉だ。

 

 ネジが動き出すのが視界の中で見える。それよりも速く、クナイは痣を貫こうと―――。

 




 大幅に投稿が遅れてしまい、誠に申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

カーテン・コール

 会場の呼吸を停止させたのは、三つの遺体だった。会場を囲う高い塀から放り投げられた遺体らは、ちょうどヒナタとネジの間を分断するかのように落とされた。遺体の損傷は激しく、地面に叩き付けられた遺体からは肉と骨が混ざり合う音が静かに、けれど無音の会場には十分なくらいに響き渡った。

 

 遅れて、血の雨が微々と降った。その血が、三つの遺体のどれらのものなのかは、分からない。一つの遺体は、四肢が鋭利に切断されていた。一つの遺体は身体中にクナイや手裏剣が打ち付けられ、一つは関節という関節が捻じれ歪み骨が内側から肉を突き破っていた。それぞれがまるで違い過ぎる手段で、殺された形跡。

 

 イタチは、息を呑み込んだ。その遺体らは、自分の部下だったこともあるのだが……何よりも、その遺体を作り上げた人物が脳裏を過ったからだった。

 

 

 

『ねえ、イタチくん』

 

 

 

 霧雨のように降る血が、記憶の想起に抗うように、スローモーションになっていく。

 

 

 

『私、特別上忍になったんだけど……なんだか、うーん…………あまり、嬉しくないんだよね』

 

 尖らせた唇に箸の先を当てながら、イロミは不満そうに呟いた。食事処。普段から世話になってしまっているため、その恩返しとして、昼食を奢ったのだ。尖らせた唇は小さくため息を吐き、もはや問題なくチャクラの運用が出来てしまう彼女は、注文したざるそばを少しだけ口に含んだ。

 

『どうしてだ?』

 

 対面のイタチは頭を傾げる。自身が注文したものは、茶碗蒸しだった。恩返しをする立場の自分が、彼女よりも高い値段のものを頼むわけにはいかないと、品書きの中では茶碗蒸しが何とか低い値段で、昼食らしい昼食だったのだ。

 

 イロミは『だってさ』と言う。

 

『特別上忍は、里の外で任務が出来ないんだって。里の中で、事務的な仕事をさせられたりするみたいなんだ』

『ああ……そういうことか…………』

『そりゃあ、うん、一応は上忍になれたことは、嬉しいんだけど……。それぐらいの実力が身に付いたっていう評価なのかもしれないけど……里の外に出れないんだったら……、捜しに行けないんだよね……』

『中忍のままという訳にはいかないのか?』

『それじゃあ、もっとランクの高い任務を選べないよ……。きっと、些細な場所に、いないから』

 

 敢えて主語を抜かした表現を、彼女はした。食事処には他にも人がいる。フウコの名前を口にしないように、彼女はしたのだろう。背もたれに体重を預け、天井を、彼女は仰いだ。

 

『どうすれば、上忍になれるんだろうなあ。早くしないと、駄目なのに』

 

 低く、細く、呟くその声には、深く察する必要が無い程の疲れが含まれていた。

 

 正直なところを言えば、彼女の年齢で特別上忍にまで上り詰めるのは並大抵の事例ではない。彼女自身は認識してはいないかもしれないが、周りから秀才―――あるいは、天才―――という評価を受けても、不自然ではないほどに。

 

 だが、たとえそんな評価を受けても、彼女は一切に満足する事はしないだろう。彼女の目的はあくまで、フウコに会い、里に呼び戻すこと。

 

 おそらく、特別上忍への昇格が、表面的には嬉しくないという風に留めているが、心底気に食わなかったのだろう。

 

『あ、そうだ』

 

 と、イロミはガバリと顔を突き出してきた。前髪の隙間から、彼女のオッドアイが覗けた。

 

『暗部に入るのって―――』

『駄目だ』

『えー……』

 

 明らかに落胆した表情で深く椅子に居座るイロミ。イタチは声を潜めて言う。

 

『前にも言ったはずだけど、暗部の中には、うちは一族の事件に精通している者が必ずいる。ましてや君は、あの夜の前日に、ダンゾウと接触している。危険だ』

『危険なのは承知の上だよ。それに、本当に危険なら、私は今頃死んでるって』

『暗部に入ると余計に危険だと言っているんだ』

『でも、それじゃあ私にできる事が、いよいよ無くなっちゃうんだけど』

『君の実力は間違いなく上忍に適している』

 

 時折行う忍術勝負をしているイタチは断言する。彼女の的確な【仕込み】の運用、そして仙術の力。友人という評価を勿論除外しても、間違いのない評価だった。それでも納得がいかないのか、イロミは口元をへの字にして鼻から大きく息を吐いていた。

 

『いずれ、上忍に昇格する。それまで俺も、暗部の中でうちは一族の事件に関して情報を集めておく。あいつの情報も集める。一番大事なのは、俺たちがあいつの前に立つことなんだ。そして俺たちは、おそらく……まだ力が足りない。必要な準備は、絶えず行うべきだ』

 

『……言ってることは、うん、分かったよ。特別上忍の仕事は、我慢するよ』

 

 

 

 でもね、イタチくん―――。

 

 

 

 血の雨は地面に落ち、禍々しい模様を描いていく。

 

 強制されている訳でもないのに、会場の静けさはお化け屋敷のように重かった。その重圧に決定的なヒビを入れるように、それは塀の奥側から跳躍してきた。

 

 全身を黒いローブで身を包んでいた。袖も裾も、まるで体躯には合っていないほど長く、深々と被っているフードは顔を碌に覗かせはさせない。昼間の太陽の光を受けても尚、それの足元から伸びる影との境目が見えないほどに、漆黒だった。

 

 ちょうど黒いローブは、ヒナタとネジ、二人の等距離に降り立った。三角形を作るかのような、位置だ。ヒナタは咥えたクナイを落としてしまい、ネジは警戒心を露わにし、そして審判の上忍は密かな戦闘態勢に入った。

 

 誰もが、死体を作り上げた張本人だと察し。

 誰もが、不吉なものだと理解した。

 そしてイタチは、分かってしまった。

 たとえローブを着ていても、その背丈は、あまりにも日常的に見ていた彼女のそれと、同一だったからだ。

 

 風が動く。

 

 会場内に配備されていた、幾人かの暗部。その内の三人が、動いた。動作に迷いは無く、瞬間的な動きであるにも関わらず、それぞれが別々の動きを見せ、多角的に攻め入った。

 

 一人が、今まさに黒いローブを着た人物に、背負った刀で切りつけようとする。

 

 ―――……ッ!

 

 それでも、尚。

 黒いローブは徐に、顔を上げ、こちらを見た。

 

 いや、いや。

 

 イタチの意識が、知覚できる時間を圧縮させたのだ。

 あまりにも衝撃的な光景だったから。人生に別れを告げる走馬灯のように。

 被っていたローブは角度を上げ、口元を垣間見せる。その口元の微か上には、白い前髪が。

 

 

 

 でもね、イタチくん―――。

 

 

 

 私、頑張るから。

 

 

 

 今度は、力になるから。

 

 

 

 だから、一人にしないでね。

 

 

 

 記憶の残滓にも近い、その中で映った彼女の笑顔と。

 ローブの下の口元が重なった。

 黒いローブは。

 

 イロミは。

 

 イタチに向かって。

 

 小さく呟いた。

 

 イ

 タ

 チ

 く

 ん

  。

 こ

 た

 え

 あ

 わ

 せ

 し

 よ

 ?

 

 ―――……イロミちゃん…ッ

 

 時間の流れが、正しく現実のそれと、同期する。

 

「解」

 

 そのイロミの声を聞くことが出来たのは、彼女に攻め入った三人の暗部だけだった。とても簡素で、機械的な発音。だが、その声が意味する死の強度を、三人は知らない。彼女が木の葉隠れの里の敵となる決断をし、それを実現とする為の【仕込み】は、あまりにも、相手を殺す事しか考えていない。

 

 イロミのチャクラに呼応して、ローブの黒に隠れて―――いや、ローブを黒くしている何重もの【封】という文字が頭を上げた。背後に迫った暗部の男は、背中から出現した幾十本もの槍に貫かれ、その勢いのままに塀に貼りつけにされる。

 

 その光景を目の当たりにした二人は、瞬時に印を結び忍術を発動させようとした。近づくのは危険だと、判断したのだろう。だが、それよりも速く、イロミは動いていた。

 

 背後で貼り付けにされた死体。その死体を貫いた槍にチャクラ糸を接続し、死体を引き裂きながらも、槍を二人へと投擲し―――同時に、長い袖の中から小さな玉が幾つも地面に転がり落ちる。

 

 煙玉だ。

 

 地面をバウンドした玉が小さな爆発音を出すと、瞬く間に彼女の周りは白い煙に覆われる。しかし、暗部の二人は後方へ飛ぶように煙から姿を現した。追いかけるようにイロミも姿を露わすが、彼女は二人になっていた。片方は、煙から出る時に空気の対流は見受けられなかった。実力者ならば片方が【分身の術】による幻影なのだと分かるだろう。分身の方に追いかけられていた暗部の者も理解し、すぐさま本体を狙おうとするが……それが最後のミスだった。

 

 分身体の後方。ちょうど、煙幕と分身体の間には、傀儡人形が潜んでいた。イロミが愛用していた大嘘狸のように、写実的な傀儡人形ではない。蛇の尻尾が付き、猿のような頭。胴体は狸で、虎なのか猫なのか分からないしなやかな四肢を持っている、混沌とした傀儡人形だった。

 

 人形はイロミの両指のチャクラ糸に接続されていた。混沌とした四肢が鋭く巨大な剣山を生やしながら男に抱き着いた。即効性の毒と傷口を溶かす硫酸がたっぷりと塗りたくられた剣山は、男の命をあっさりと身体から零れ落とさせる。

 

 そして、残った一人。彼は驚きを隠せなかった。

 

 暗部に入隊するという事の実力の証明。それを嘲笑うかのように、仲間を殺された事にもそうだが、何よりもイロミの速度だった。もはや完全に懐に入り込まれてしまった。果たして彼女の服から何が飛び出すのか、予測が困難なスタイルを持つ相手。おまけに、完全に背後を取った相手に対して瞬間的に忍具を展開する反応速度。先手を取っても、結果的には先手を取られてしまう。

 

 どうすれば、相手を上回れるか。その、刹那の思考が、既に、詰め路だった。

 

 今のイロミには―――仙術を使用していないイロミには―――生来の身体能力のハンディというものは存在しない。大蛇丸の呪印を吸収しきってしまった彼女の身体能力は、完全に上忍のそれと遜色はない。

 

「解」

 

 チャクラで促す。胸元から現れたのは光玉だ。閃光が、イロミと男の間で生まれる。男は視界を塞がれ、視界が元から無いイロミ。済む世界が違う二人の差は、決定的。光の中、イロミは袖の中かから長く分厚い刀を取り出し、男の足を地面ごと刺し込んだ。

 

 男は咄嗟に刀を抜き、右上段から左下段に目掛けて振り下ろす。

 

 空振り。イロミは軽く跳躍していた。

 

 前転に宙返りをし、地面に着地せず、イロミは男の肩に両足を掛け顔を股に挟んだ。長いローブの裾が蛇の口のように、男の上半身を覆った。

 

「邪魔、しないで……」

 

 くるり。

 

 あっさりとイロミは、上半身の反動を利用して身体全体を半周させた。骨が、歪み切れる音が一瞬。男は力なく、イロミの体重に従って、顔が向いていない前方に倒れた。

 新たに遺体が三つ作り出されてしまった。

 

 しかも、木ノ葉の暗部の者が、あっという間に。

 

 予想も何も、全く出来る筈もない、外部からの介入。ましてや、大名たちは、イロミの存在を知らされていない。

 

 いよいよ会場の静寂は―――しかし、会場に配備されていた暗部たちの中に身を潜めていた薬師カブトの幻術が、それを保たせた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 猿飛ヒルゼンにとって、イロミの存在は多様に特別だった。一番最初のきっかけは、やはり大蛇丸の研究所で発見された赤ん坊という符号による、罪悪感。どこから連れてこられたのかも定かではない、盲目の赤ん坊。その子の泣き声は、まるで大蛇丸の凶行を知りながらも中途半端に野放しにしてしまっていた自分への恨みを叫んでいるように、ヒルゼンには聞こえてしまったのだ。

 

 故に、養子とした。しかし、時期が時期だった為に、彼女を育てる為の人材は彼の手元には無かった。第三次忍界大戦末期は、誰もが、里の為、ひいては自分の為だけにしか力を発揮できないほどに疲弊しており、ましてや火影という立場である自分には赤ん坊を満足に育て上げる事は出来なかった。そのため、彼女を施設へと送ったのである。

 

 いずれ里が落ち着き、平和を過ごす事が出来るまでと。もしかしたら、イロミを確かに育てる為に、次期火影を選出しようと考えたのかもしれない。罪滅ぼしの為に。今となっては、その当時の感情は思い出せない。それ程までに、戦後の里は不安定で、それに対処する為に奔走していた。

 

 やがて時間が過ぎて。

 

 イロミが赤ん坊から、子供になって。施設を運営していた男の元に居続ける決断をし。アカデミーに通うようになり。

 

 気が付けばイロミには、友達が出来ていた。

 

 どういう偶然か、相手は、フウコ。

 

 その頃から、イロミへの評価は変わり始めていた。

 

 千手扉間から託されたフウコの幸せを成就させる為には、友達が必要だ。まだフウコは幼い。平和という言葉を、言葉としてしか理解していないだろう。平和な時代を過ごす為には、手を繋ぎ笑い合える友達が、そう、必要なのだ。

 

 だが、口出しをするつもりは無かった。ただ自分は、フウコが、そしてイロミが頼ってきた時にだけ、力を貸そうと考えていた。自分からイロミに何か言える立場ではない。彼女は自分の罪だ。教え子の暴走を止める事が出来ずに、被害を受けてしまった子。一方的に力を貸すというのは、動物に首輪を無理やりつけて連れまわすような、身勝手な考えである。

 

 ただただ、自分は、見守るだけ。

 

 けれどその選択は、誤りだったのだと思い知らされる。

 

 うちは一族の事件。

 

 火影という立場であるにも関わらず、里内の問題を、フウコ一人に背負わせてしまった。そして、イロミに大きな傷を残してしまった。大蛇丸の時と同様、また自分は、何も出来なかったのだ。

 

 罪が重くなった。

 

 それでも、火影という立場を捨てなかったのは、やはり、扉間からの信頼と、フウコとの約束……イロミへの、謝罪も兼ねていたからだ。うちは一族の事件を機に、火影を辞任する事も出来なくはなかった。暗部が当時、ダンゾウが管理してはいたものの、暗部のあらゆる権限は火影に収束されていたのだから。

 

 火影を辞めよう。そう、思ったこともある。だがそれでは、逃げなのだ。

 

 罪を背負うと覚悟した。

 

 うちは一族の恨みを。

 

 フウコの苦しみを。

 

 フウコに罪を背負わせ、傷を与えてしまったイロミの苦しみを。

 

 火影という責務を全うし、フウコが残していった平和を守り、イロミの傷を忘れさせていく。それがフウコの望みで、自分の、望みだった。

 

 だが。

 

 イロミは、フウコを追いかける事を選択した。フウコにズタボロにされたというのに。友達という繋がりを彼女は求めたのだ。それは……ヒルゼンが望んでいなかったこと。イロミが望むあらゆるフウコへの情報を渡す事は出来ず、手助けも。

 

 何とか彼女の行く末を変えようと考えたが……考えた、だけだった。

 

 どうして行動に移す事が出来なかったのか。

 

 きっと、フウコとイロミの仲の良さを見たことが、あったからかもしれない。

 あるいは、そう。

 フウコを本当に、連れ戻してくれるのではないかと。

 自分ではできなかった事を実現してくれるのではないかと。

 里の平和を守るという扉間との誓いと、

 フウコの犠牲を無駄にしないという覚悟と、

 それら二つに板挟みにされ、何も選択できない、脆弱な自分には出来ないことを。

 実現してくれるのではないかと。

 そんな期待があったからかもしれない。

 その期待も、もはや、打ち砕かれた。

 

「全く、もう少し楽しんでからでも良かったのだけど……」

 

 暗部の遺体が転がり、そして幻術で意識を失っていく大名らを見下ろしていると、横から声が。

 ヒルゼンは静かに、風影を見た。風影もちょうどこちらを見ていたのか、視線が真正面からぶつかる。笠と口元を覆う布の間から見える瞳は、怪しくギラギラと光を放っていた。

 

「あの子が暴れ始めたなら、始めるしかないわね」

 

 その声色は、確かに、聞き間違いなどではなく―――覚えのあるものだった。

 

「お前は……」

「お久しぶりですね、猿飛先生」

 

 風影―――いや、大蛇丸は、笠と口元の布を投げ捨てると、挑戦的に立ち上がった。

 

「大蛇丸―――!」

「ククク、ぜひ、楽しんでください。木ノ葉崩しを」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……やべ、寝すぎた…………」

 

 いつの間にか電池が無くなり動かなくなった目覚まし時計を見下ろしながら、ブンシは呟いた。カーテンを開けたままのベランダの窓からは太陽の光が高い角度から挿し込んでおり、昼間の時間であるという事を眩しく伝えてきている。ブンシは一度大きく欠伸をしてから、寝癖が付いた黒髪を乱暴に手櫛で直し、布団のすぐ横に転がっている箱の中から煙草を一本取りだした。マッチも手に持ち、火を点ける。眼鏡をかけ、紫煙を吐きながら、ベランダを開け外に出た。

 

「あー……今日もいい天気だなあ、おい」

 

 特に呟く事柄もなく、ただぼんやりと見上げた空に対して文句を言う。ランニングシャツとボクサーパンツのみというラフな寝間着だが、身体に熱が籠ってしょうがない。悠長に一本吸い終わり、部屋の灰皿で煙草をもみ消して「シャワーでも浴びっか」と呟いた。

 

 今日は休みである。アカデミーには、教師に与えられたカリキュラムが存在する。どの時期までにどの程度の事を生徒に教えるか、というものだ。一見すれば、簡単なものかもしれないが、意外にも、カリキュラム通りに進めるのは難しい。特に、実技を担当する教師がそうだろう。忍の世界では、実力の水準は年々変化する。それは、単に他里の忍のレベルが向上していたり、あるいは国同士の情勢であったり、はたまた迷惑な事に大名の気分転換ないい加減な考えの元に軍縮を行われたり、などなど。それに伴い、教師は生徒への教育方針を変えざるを得ないのだ。時として、カリキュラムを大幅に遅らせてしまう、という事もある。

 

 ブンシの場合、ただただ歴史を教えるだけなため、カリキュラムとして遅れるという事は無い。今日は、つまり、実技の担当教師の一人がカリキュラムに遅れが出た為、本来ならばブンシが使うはずだった授業の時間を、その担当教師に与えて穴埋めする、という形が取られたのだ。そのため、休みとなった。

 

 水九割お湯一割のシャワーを浴び、髪を乾かし、着替える。さっぱりとした気分になってから、煙草に火を点ける。本日二度目の煙草。しかし、寝起きと違って、煙草の香りがはっきりと鼻孔に伝わってきた。

 

「今日は、何、すっかなあ」

 

 暇である。いや、やりたい事はあるのだけれど、それは今、禁止されてしまっている。外出をするな、と言われたのだ。元同僚のイビキから。

 

 正確には、不必要な外出は、であるが。

 

『お前が猿飛イロミを捜しているのは知っている』

 

 カカシを殴った後。

 夜中までイロミを捜していたブンシの前に、いきなり現れたイビキがそう言ったのだ。

 

『んだよ、悪ぃのか? 別にテメエら暗部の邪魔してる訳じゃねえだろ。むしろ手助けになってんじゃねえか?』

『彼女を見つけて、お前はどうするつもりだ?』

 

 まるで信用の無い鋭い視線で、こちらを睨んできた。平然とブンシは睨み返す。

 

『テメエに言う訳ねえだろ? あたしに構ってる暇があんなら、とっととあのバカを見つけて、あたしの前に連れて来い』

『それはありえないな。猿飛イロミは、忍としての掟を破った。同じ里の者に手をかけている。お前の前に連れて来る事など、曲がり間違っても起きないだろう。昔のお前なら、十分に理解しているはずだ。掟を破った者には、どんな制裁をも加えてきたお前ならな』

『いちいち昔話を語るんじゃねえよ。イロミが掟を破っただ? こちとら、カカシから話しを聞いてんだよ。大蛇丸が関係してんだろ? それに、あのバカの実力じゃあ、碌すっぽ暗部一人を殺す事だってできやしねえよ』

『理由があれば、人を殺してもいいと?』

『理由じゃねえよ、不可抗力だ』

『同じだ。たとえ不可抗力が許されたとしても、疑わしきは罰する。それが尋問・拷問部隊のやり方だ。勝手に潔白と判断するな』

『生憎、今のあたしは教師だ。アカデミーのな。テメエらクソ吐き気のする連中の道理なんざ、知ったこっちゃねえんだよ』

『……もう一度言うぞ、ブンシ。明日以降、お前の外出は禁止する』

『勝手に言ってろ。掟気取りも、ほどほどにしとけよ』

 

 イビキの影が揺らいだ。一瞬にして背後を取り、彼は右手を大きく振りかぶっている。振り向き様にブンシは左手で彼の服の上から腹部に触れ、チャクラの性質を電気に変えた。

 

 神経を辿り、脳へ電気信号を送り、彼の意識をショートさせようとしたが―――。

 

『―――……ッ!』

 

 チャクラが通らなかった。イビキの右手がブンシの首を掴み、そのまま地面へと押し倒す。後頭部をコンクリートの地面に強く打ちつけられ、視界が明滅した。

 

『テ、メエ……。わざわざ……』

『お前の術は全て知っている。同じ尋問・拷問部隊で働いていたから。対処させてもらった』

 

 イビキの服の下には、ゴム製の帷子が用意されていた。しかもチャクラの電気を通さない、特別製。ブンシは彼の右腕を両手で掴むが、そこにも帷子が敷き詰められているせいで、チャクラが通らない。

 

『いいかブンシ、今は、俺がルールだ。お前を大蛇丸の協力者と見なし、拷問椅子に掛ける事も出来るぞ』

『勝手に……掟を気取ってんじゃねえよ…………。ホラ吹いて、掟を利用すんじゃねえ……』

『無法者が法を語るな。本来なら、あの日にお前を拷問にかけても良かったんだぞ』

 

 あの日。

 

 うちはフウコを、信用した、あの日のことだ。

 

『俺は今まで、お前の意志を尊重してきた。尋問・拷問部隊での、お前の活躍。どれほどの情報を引き出し、どれほど無残な死体を積み重ねても、徹底して職務に身を費やすお前を、尊敬すらしていた。たとえ、暗部を抜け、教師という立場に身を置くことになっても、そこで忍の掟を守らせようとする姿勢があったからこそ、俺はお前を良き元同僚として尊重してきたんだ。どんな私情があれ、お前の行動は里への貢献になっていたからな』

 

 だが、

 

『今のお前は、単なる邪魔者だ。鋭さも抜け、掟を守らせるという信念も緩んできている。正直言うとな、ブンシ。あの日、うちはフウコへの拷問を行わなかったお前の考えには、失望させられた』

『元々……信頼してねえだろうが』

『今のお前にここで留めている事が、最後の信頼だ。そして、よく言葉を選べ。猿飛イロミを見つけて、お前は、どうするつもりだ?』

 

 ブンシは、無言のまま、イビキを睨み返すしか出来なかった。

 もしそれを口にしてしまえば、自分は、拷問されるだろう。いや、別段、拷問自体は怖くない。本心だ。問題なのは、イロミを見つける事が出来なくなってしまう事である。

 イロミを見つけ、助けるという事が。

 掟を破った彼女への失望はありながらも、ブンシの中には確かに、彼女への心配も、あった。

 掟は守らなければいけない。

 今でも、その決意は変わっていない。

 しかし。

 いくらなんでも。

 

 彼女を、罰するのは―――。

 

『よく聞け。今回だけだ。今回限りだ。お前の横暴を許すのは。これ以上は、俺の誇りが許さん。もし、破れば……そうだな』

 

 そこでイビキは、悪魔的な笑みを、浮かべた。

 

『アカデミーの子が一人、いなくなるだろう』

 

 背筋が凍る。

 

『ふざ、けんな……ッ! んな事が、許される訳ねえだろッ!』

『この里には大蛇丸がいる。全ての者には知らされていないだろうが、いずれ周知される事だろう。子供の一人や二人いなくなろうが、全て彼に押し付ければ問題ない』

 

 嘘だ、とブンシは考える。いくら里の為とはいえ、そんな無法が許される訳がない。イビキお得意の、脅しに決まっている。

 

 だが。

 

 それでも。

 

 あり得るかもしれないとも、思ってしまう。

 かつて尋問・拷問部隊に身を置いていたブンシの思考は、イビキが示した可能性を濃厚にしてしまった。

 

『お前が言った言葉だろ? 【一人の人権よりも、掟の方が重い】と。同じ里の犯罪者をペンチで細切れにしながらな』

 

 そのままブンシは、家に帰ったのだ。家に帰り彼女は、涙目になりながら何度も壁を殴った。何もかもが、納得できなかったからだ。

 ブンシは、家を出る事にした。アカデミーに行こうと思ったのだ。アカデミーに行くことだけは、イビキから許されている。家のドアから出て、軽く視線を辺りに向ける。監視らしい監視は見当たらないが、諦めて、いつも通る道を進んだ。

 今日、中忍選抜試験の最終試験があるからかもしれないが、心なしか人通りは少ないように思えた。

 アカデミーに着くと、ちょうど昼休みが終わる頃だった。校門を抜けると同時に、校庭で遊んでいた生徒たちが、鐘の音と同時にそそくさと帰っていく。何となく、こちらをちらちらと見て足早になる子もいるが、気のせいではないだろう。生徒からの畏怖の視線はもう、慣れたものだ。

 

「あ、ブンシ先生だ」

 

 一人の生徒が、不思議にも話しかけてきた。顔を向けると、短い髪の毛をツインテールのように二つに纏めた、茶色の毛をした生徒である。

 

「おう、カミナじゃねえか」

 

 女の子の名前をブンシは覚えている。明るく真面目な、優秀な生徒。そしてどういうわけか、気軽に声を掛けてくる生徒だった。彼女は可愛らしい笑顔を浮かべて、目の前まで走ってきた。

 

「珍しいね、ブンシ先生が遅刻するなんて。いけないんだー」

「うっせえ。今日は休みなんだよ」

「嘘言っちゃだめだよ? 休みなのに来るはずないでしょ」

「ばーか、教師はそういう仕事なんだよ。お前はさっさと教室に行って勉強しろよ。キミとクラタと一緒に……って、あのバカ二人はどこだ?」

 

 いつもカミナは三人で行動している。キミという男の子と、クラタという男の子だ。休み時間は決まって三人で遊んでいるのだが、今は二人の姿が見えない。

 

「かくれんぼしてたんだけどね、見つけられなかったの」

「はあ?」

「でも、すぐに戻ってくると思うんだ。チャイムも鳴ったし」

 

 一瞬だけ、頭の中に恐怖が。

 

 イビキの言葉。

 

 もしかしたら、と……。

 

 ブンシの様子を他所に、カミナは「それじゃあ、バイバイ、先生!」と笑顔を浮かべながら手を振りながら、校舎へと姿を消していった。ブンシはすぐさま、二人を捜し始める。不安がどうしても、脳裏に。

 

 ―――……クソガキどもッ! 真面目に授業くれえ遅れないで出ろよッ!

 

 可愛い生徒がいない。

 もうそんな、恐ろしいのは、止めてくれ。

 

 しかし。

 

 その行為は、やがて、別の事柄のせいで、邪魔される事になった。

 

「……なんだよ、アレ…………」

 

 見上げる。

 里を覆う、高い塀。

 その向こう側から突如現れた大蛇の群れが、アカデミーすぐ近くの塀を、破壊したのだ。

 




 次話は8月15日までに投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勿忘草は蛇に抱かれて

 投稿が大変遅れてしまい、申し訳ありません。


 

「ククク、是非楽しんでください。木ノ葉崩しを」

 

 風影に扮していた大蛇丸のその言葉と同時に、彼の傍にいた二人の男の内、一人が白い煙幕を発生させた。それが、明確な合図。

 

 猿飛イロミが身勝手に会場を混乱させた時よりも。

 薬師カブトが幻術を発現させ大名らを眠りに落とした時よりも。

 

 はっきりと迷いなく、会場に居た部外者たちはアクションを起こした。

 

 真っ先にアクションを起こしたのは、音の忍たち。彼らは、大名らを護衛する者に扮し、あるいは召使として、はたまた木ノ葉の里を出入りする商人などに扮して、会場へと辿り着いていた。だが数は、五十と超えない。質より量などという曖昧なものを嫌う大蛇丸の思想が反映されているのか、それとも大蛇丸の部下の数がこの程度だという事なのか。

 

 どちらにしても、単なる寄せ集めというチープな雰囲気を持っていないことは確かだった。彼らはじっと、観客席最前列の背の低い壁に立っていた。

 

 彼らが睨むのは、木ノ葉の忍。カブトの幻術を易々と破り、眠りに落ちなかった者たちだ。その中には当然、はたけカカシ、マイト・ガイ、猿飛アスマ、夕日紅などといった者たちもいる。

 

 数秒の間。

 

 音の忍たちは、力量を推し量るように木ノ葉の忍らを睨み付ける。逆に木ノ葉の者たちは、殺意に溢れた視線を受けても、大樹のようにどっしりと構えていた。

 

「こいつは、ちょっとマズいな……」

 

 カカシが小さく呟くと、隣のガイは返した。

 

「大名らを守りながら戦うというのは面倒だな。数は同じくらいだが……」

「まあ、相手さんも一から大名を狙うつもりじゃないようだけどね」

 

 音の忍も分かっている。忍同士の争いは、決して長続きするものではない。最速で一瞬、遅くても数分だ。それは逆に、互いの一つ一つの動作が、致命に繋がる事を意味している。大名を殺そうとする、たったそれだけのモーションでも、命取りになるかもしれないのだ。故に彼らはまず、障壁である木ノ葉の忍を狙う。

 

 勿論、それはあくまで可能性に過ぎない。もしかしたら、音の忍の中で大名を殺す側と木ノ葉の忍を相手にする側で、役割分担がされている事も否定できない。

 

 大名が殺される可能性。

 

 それがあるだけで、木ノ葉は不利だった。

 しかし。

 カカシが言った、マズい、という表現の主語は、その部分ではなかった。

 

 視線をちらりと横に逸らす。

 

 離れた場所。

 

 音の忍たちではなく、その奥に佇むイロミをじっと見つめるイタチの横顔があった。

 

 遠目からだが、彼の頬に小さな汗が浮かび始めているように見える。もし汗ならば、それは寒気を招く嫌な汗に違いない。

 

 普段の彼ならば。

 

 知性的で規律を重んじる彼ならば、物見櫓に煙幕が出現した時点で、その場へと向かったはずだ。しかし、現場へと向かったのは他の暗部の者のみ。耳に付けたイヤホンからは、彼の部下の指示が入ってきていないのか、それとも聞き逃しているだけなのか、イタチの口元は少しも動くことは無かった。

 どちらにしろ、この状況で誰よりも動こうとしない彼に、カカシは危機感を抱かざるを得なかったのだ。

 あまりにも、良い状況ではない。

 

 ―――下手な事だけは、するなよ。

 

 カカシの内心の呟きとほぼ同時に、音の忍と木ノ葉の忍は、眠る大名たちの頭上で激突した。

 

 次にアクションを起こしたのは、砂の忍であるバキだった。物見櫓の煙幕を見るや否や、彼はすぐに、自分の部下である我愛羅、テマリ、カンクロウの元へ移動した。しかしそれは、鮮血が飛び交う戦場の最中の部下を慮っての行動ではなかった。

 

 あくまで彼は、木ノ葉隠れの里を崩壊させようとする大蛇丸の協力者だ。

 

 彼らの元へ移動したのは、むしろ……。

 

「どうした?! なぜ動かないッ!」

 

 と、バキは三人に向けて怒声を放った。既に三人には、砂隠れの里は木ノ葉隠れの里との同盟を破棄し、そして戦争を仕掛けるという事は伝えている。三人の―――正確には、我愛羅の―――役割も伝えた。

 

 しかし。

 

 明確な合図が出されたにもかかわらず、三人は観客席最前列から動こうとはしなかったのだ。たとえ下忍であっても、本来ならばアクションを起こしてもおかしくはないはずなのに。

 テマリとカンクロウが、戸惑いの表情でバキを見上げた。

 初めて触れる戦争の雰囲気に恐怖を抱いている―――という訳では、無いようだった。二人はそれを示すかのように、同じ方向を見る。

 

 バキも追いかけ、そして、息を呑んだ。

 

 血と汚臭が漂い始める会場の空気。

 

 狂気が駆け足で近寄ってくる雰囲気であるにも関わらず。

 

 我愛羅は。

 

 そう、我愛羅は。

 

 真っ先に暴れ始めてもおかしくはない、我愛羅は。

 

 ただじっと、険しい表情を浮かべたまま……会場中央に立つイロミを見ていた。

 今すぐにでも殺してやろう、という殺意に溢れた表情ではなく。

 理解できない存在への不快感、という戸惑いの表情でもなく。

 見定めるような、評価するような。

 初めて見る表情だった。

 

 ―――我愛羅は、あの女を知っているのか……?

 

 鷹のように突如として姿を現し、暗部の遺体を連れ、暗部の遺体を生み出した、謎の少女。大蛇丸との連絡係であるカブトからは、イロミの事を聞かされてはいなかった。中忍選抜試験に、半ば殴り込みをかけるように現した姿からは、自分らと同様に木ノ葉を滅ぼそうと考えている者にも見えなくはないが、雰囲気が、他の音の忍とは異なっている。殺意ではなく、別の感情を身に宿している。

 

 得体の知れない少女と、我愛羅。かけ離れているはずの二つの点の繋がりの経路を一切予想出来ない。しかしながら、周りの状況は変化しつつある。

 

 バキは背後からの殺気を察し、後頭部を狙おうと投擲されたクナイを振り向き様に叩き落とした。カラン、と音を立てるクナイを投げたのは、木ノ葉の忍。相手の目線は、明らかにこちらを訝しんでいる。

火影と風影が座っていた物見櫓での煙幕。

 

 つまり、風影がアクションを起こした事に、砂隠れの里の者を敵対勢力と判断したのだろう。相手の敵意はバキのみならず、後ろの三人にも向けられている。それでも我愛羅の様子に変化は無かった。

 

 辺りの殺意や死に、興味がないかのように。

 

「……テマリ、カンクロウ、お前らは我愛羅を連れて退け」

 

 というバキの指示に、テマリは困惑した。

 

「でも、先生………任務が……」

「いや、状況が変わった」

 

 バキは一瞬だけ視線を逸らした。

 うちはイタチ。

 木ノ葉隠れの里における、火影に次ぐ最大戦力。

 本来ならば、我愛羅が相手をしなければいけない相手なのだが……。

 

「今はあの女が、イタチに用があるようだ。まだ我愛羅の力は必要ない。一度引き、機を見てうちはイタチを殺せ」

「先生は―――ッ!」

 

 その時。

 

 最後のアクションが起きた。

 

 物見櫓の煙幕。そこへ向かった幾人かの暗部らは、煙幕の手前に突如として現れた一人の少年に殺されていた。

 健康的な骨のように白い髪と白い肌。丸い眉毛と、切れ目の眼の下瞼には赤い化粧が。袖が長く、鎖骨を広く見せたゆとりのある白い服装は、イロミのような不気味さはなく、現実から消えいりそうな儚さがあった。

 

「大蛇丸様の邪魔はさせない」

 

 中性的な顔立ちだが、その冷酷な声は男のものだった。両掌から皮膚を突き破っている骨は鋭く、殺した暗部らの血を振るい落とした。その姿には、ナルトやサスケと近い歳である体躯であるにもかかわらず、暗部を殺してみせた事に恐れも疲れも見せなかった。

 

 彼―――君麻呂は、他に大蛇丸へと近づく者がいないか、視線を泳がせ、危険がない事を確認してから、小さく視線を下した。彼もまた、イタチや我愛羅のように、イロミを見たのだ。

 

 しかしその眼には、暗部を殺した冷徹さよりも、あるいはイタチや我愛羅のような読み取りが難しい混在とした感情はなく、はっきりと明確なものだった。

 

 ―――あれが、イロミ……。僕の身体に、力を戻してくれた人……、大蛇丸様の娘…………。

 

 彼女を見る眼には、羨望の色があった。

 

 君麻呂は本来、木ノ葉崩しに参加する予定ではなかった。できる身体ではなかった、と言った方が良いだろう。

 

 大蛇丸の片腕として、特に人体の構造や医術に関する知識のエキスパートである薬師カブト。彼を以てして、症状の進行を遅らせるのが限界だと断ぜられた病に、君麻呂は侵されていた。

 神聖視する大蛇丸の役に立てるどころか、落胆と諦観を与えたまま、緩やかに薬のチューブに身を繋げて穏やかに死を迎えるだけだった身なのだ。

 その現実を否定してくれた細胞。カブトがアジトに持ち帰った細胞。それを元に、半ば試験的な速度と手続きで開発された新薬によって、君麻呂は木ノ葉崩しに参加する事が出来たのだ。

 肉体を蝕んでいた病を、君麻呂自身の細胞ごと食む、諸刃の薬。完治というよりも、病の代替えに近い効果なのだけれど、病を持った細胞を食べつくしたイロミの細胞はそのまま、君麻呂の細胞へと成り代わったのだ。そして成り代わった細胞は、今も尚、彼の細胞を楽しむ様に食べ続け、成り代わり続けている。

 自身の骨の形や強度を自在に操る彼の血継限界は、イロミの細胞のせいで精度は欠いてはいるが、大蛇丸の呪印を身に宿した彼にとっては小事でしかない。

 

 背後の煙幕で動きがあった。ヒルゼンの首を後ろから、クナイを頬に押し付けるように腕で抱えるような形で、物見櫓の屋根へと飛び移った。

 辺りを警戒しながらも、君麻呂は心の中で、強くイロミを求めた。

 

 もはや自分の役割は九割方終わっている。たとえ今から木ノ葉の忍が大蛇丸に近づこうとしても、大蛇丸の持ったクナイの方が先にヒルゼンの命に届く。無暗に近づける者はいない。

 

 ならば、イロミの元へ。

 

 声を聞きたい。

 触れてみたい。

 何より、感謝を告げたい。

 

 君麻呂の中で、イロミへの評価は、この世において大蛇丸に次ぐものになっていた。それは、大蛇丸の力にまたなれるという喜びを与えてくれたという事と、大蛇丸の娘であるというカブトの冗談を半ば本気で信じてしまっている事が起因している。

 

 勿論、そんな願望を君麻呂は口にはしない。

 今重要なのは、大蛇丸の木ノ葉崩し。

 故に優先順位として、必然的に君麻呂はイロミへ近づくことは許されず、大蛇丸の計画がある程度までに進行するまでは自由が無い。

 

 しかし。

 

 君麻呂の願望はすぐに、叶うことになる。

 それは、物見櫓に降り立った大蛇丸が、風影に変装する為に被っていた笠と、口元の布を取り去った瞬間の事だった。

 警戒を怠ったわけではないが。

 君麻呂のすぐ真横を、うちはイタチが通り過ぎようとし。

 その尋常ならざるイタチの速度に追いつくイロミが、咄嗟にイタチへ攻撃をしようとした君麻呂の腕を掴んだのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 時折、脳細胞が歓喜したかのように頭全体から背筋にかけて痺れるような衝撃が走る時がある。好奇心と呼ばれる、原始的な感情だ。人間の最も奥深くに根付いているはずなのに、どの感情よりも激しく身体を動かし、時には他の感情をも巻き込んで暴れ回る。大人になればなるほど、それを飼いならす術を身に付けてしまうのは、気が付けばとても寂しいものではあるが、だからこそ、もはや老齢と言っても過言ではない年月を過ごしてきた今となっては、その衝撃は久方ぶりに垂涎してしまうほどの感動を思い知らせてくれる。

 

 全く期待していなかった、失敗作。

 

 丹念に考えた計画に、微かに纏わりついてくる埃を払う程度くらいには役に立ってはくれないだろうかと、特に深く考えずに唾を付けておいたそれは、想像を超える動きを見せてくれたことに、大蛇丸は昆虫の身体を解剖する子供のように瞼を大きく開いた。

 

 うちはイタチ。

 

 木ノ葉の神童と呼ばれる彼を、大蛇丸は最も警戒していた。他の木っ端な上忍や暗部ら、果てには火影であるヒルゼンすらも凌駕してもおかしくはない才覚を持つ男。風影として会場に入ってから今に至るまで、気付かれないギリギリのところで警戒をし続けていたにも関わらず、彼の移動速度を捉えきれてはいなかったのだ。

 

 唯一、はっきりと彼を視認できたのは、たったの刹那。君麻呂のほぼ真横。物見櫓の縁の部分で、ようやくイタチの動きを視認できた。その前までは、会場の観客席にいたというのに、時間が切り落とされたかのように、それこそ一瞬で、イタチは移動してきたのだ。

 

 観客席から物見櫓までは、高低差がある。同じ高さの観客席内を移動するのに速度は変わらないが、どれほどの脚力とチャクラコントロールを以てしても、重力が一定である以上、跳躍する瞬間、あるいは着地の瞬間に速度にズレが生じる。イタチの姿を視認できたのは、そのズレによるものだった。

 

 神童と謳われるにふさわしい才覚。ただの移動でさえも、圧倒的に思い知らされる。

 しかし、大蛇丸は大きく戸惑う事は無かった。

 その程度の事はやる。

 何せ、うちはイタチなのだから。

 なによりも、大蛇丸は一度だけ、うちはフウコと戦っている。

 滝隠れの里で、一度。

 あの当時の彼女の速度を目の当たりにすれば、たとえ曇天から降り落ちる雷の速度でさえ可愛く見えてしまうくらいなのだから。

 

 創設した音の忍。そして、それなりに育ててきた手駒たち。しかしそれでも、イタチを止めるには役不足だとは、木ノ葉崩しの計画段階で既に想定は出来ていた。

 

 故に、策は用意してあった。

 

 うちはイタチという傑物を殺す事は出来なくとも。

 足止めをする程度には役に立つ役者を。

 しかしながら、その手札を使うことなく。

 

 君麻呂の真横にフラッシュバックのように姿を現したイタチを捕えたのだ。

 

 イロミが。

 

 浄土回生の術の唯一の成功例で。

 人間としては致命的な失敗作が。

 

「イタチくん……私は、ここだよ?」

 

 反射的にイタチへ攻撃を仕掛けようとした君麻呂の右腕と、君麻呂の脅威を全く意に介しないまま移動を続けようとしたイタチの左腕を、イロミは中空で逆さのまま、掴んだのだ。

 

 イタチも、君麻呂も、ヒルゼンも、そして大蛇丸も。

 

 彼女の移動速度に驚愕した。

 未来を予知しない限り、動き出しはイタチの方が速かったはず。そしてイタチを見る限り、彼は全速力で、無駄なく移動してきたのだろう。つまりは、最高速を維持し続けた。

 その速度に、イタチの後から動き出したイロミが、追いついた。

 

 つまり。

 

 同時に動き出した場合を考えれば、イロミはイタチの速度を追い抜いたという事になる。

 予想も想定も、大きく飛び越えた、イロミの力。

 好奇心が刺激されない訳が無かった。

 

 イロミは顔を微かに、君麻呂へ向けた。彼の表情は、驚愕から、感嘆へ。目元を包帯で覆われているが、イロミの顔を見れたことに、小さく息を吐いた。

 

「私の邪魔をしないで。イタチくんに用があるのは、私なの」

 

 言い終わるや否や、黒いコートから、大量の札が解放される。

 起爆札。

 自身をも爆風に巻き込むことを厭わないかのように、イタチと君麻呂の周りに舞い散った。

 札が、小さく火花を発し始める。

 爆発の兆候。

 イタチは咄嗟にイロミの腕を引いた。

 彼女が爆発に巻き込まれないよう、助ける為に。

 

 しかし、間に合わなかった。

 

 爆発の寸前。

 

 イロミの後方から急速に接近した砂の塊が、イロミを呑み込むのに、間に合わなかった。

 

「砂漠棺―――」

 

 その砂は、観客席にいた我愛羅のものだった。

 砂に呑み込まれたイロミは、イタチと君麻呂から強制的に手を離されてしまう。

 途端に、札が爆発する。

 発生する爆発の連続は辺りの空気を硝煙と共に外側へと吹き飛ばし、突風を巻き起こし、物見櫓の煙幕を吹き飛ばしながら、今度は灰色の煙が、煙幕の時よりも広範囲に視界を覆い尽くす。それは、大蛇丸とヒルゼンの位置にまで広がった。

 

「―――ッ! 全くあの子は、力は付けても不器用ねえ」

 

 砂に呑み込まれたイロミを心配する様子もなく、淡々と大蛇丸は呟いた。彼女の成長に、砂程度で死なないと思っているからなのか、彼女の事をやはりどうでもいい存在と思っているのか。

 

 分かる事は一つ。

 

 うちはイタチには、ダメージが入った。

 完璧なタイミングと、完璧な範囲だっただろう。たとえイタチの速度を以てしても、広範囲に広がった爆風と熱から避け切る事は出来ない。死にはしないだろうけれど、右か左、どちらかを重度に火傷したことは確実だ。爆発するその瞬間までイタチは、イロミが広げた起爆札の中にいたのだから。

 

「クク、これで役者を正しく登場させられそうね」

 

 と、大蛇丸は小さく笑うと、ただ無言に灰色の煙の中を見るヒルゼンへ目を向ける。

 

「折角のご対面なのだから、もう少し情緒的にしないと―――」

 

 そこで、背後から殺気があった。

 凍えるような冷たさと、燃やし尽くしそうな熱さを同居させた、矛盾した殺気が。

 振り返る。

 灰色の煙。

 その一部分が、不自然な揺らぎを見せると同時に。

 クナイを握った無傷のイタチが、目前に迫っていた。

 これは流石の大蛇丸も、恐怖を感じない訳にはいかなかった。

 無傷のまま、彼が背後に迫っているのは、ありえない。

 印を結べる程の瞬間的な余裕すら無かった。どれほどのチャクラコントロールを行っていた所で、無傷はありえない。ましてや彼は直前に、イロミを助けようと腕を引いている。砂にイロミが呑み込まれた瞬間、微かにだが、彼は体勢を崩していた。

 

 ダメージが無いのはおかしい。

 

 しかし、その疑問の答えを導き出す前に、大蛇丸は動く。ヒルゼンの首を抱えている右腕とは逆の、空いている左腕。それを、風影の変装で着ている白い着物のの袖の中へと引っ込ませる。

 だが間に合わないと、大蛇丸の経験が分析してしまう。

 ダメージが入っていれば、おそらく間に合っただろう。

 隠し玉を取り出すのに。

 イタチの瞳が写輪眼に変わっていた。

 思い出す。

 滝隠れの里で見た、うちはフウコの瞳を。

 あれと全く同じだ。

 いや、今度は間違いなく避けきれないだろう。

 クナイが、大蛇丸の喉元を―――。

 

「……ッ!?」

 

 イタチの瞳が大蛇丸から、その横へと、移動する。大蛇丸から見て、右側だ。

 最初に見えたのは、細い足だった。黒いタイツを履いているのか、黒いブーツから膝上にかけて真っ黒の足が、視界の端から侵入してきた。

 

 そしてその足はそのまま、イタチの腹部を蹴り飛ばす。

 

 イタチのクナイは大蛇丸の喉元に、あと一寸の所で阻まれ、彼は身体ごと横に横転してしまった。

 足がイロミのものだと分かったのは、イタチが灰色の煙の向こうに消えてからすぐのこと。先程まで着ていた黒いコートはどこかへ行ったのか―――我愛羅の砂の拘束から力尽くで脱出した際に、蛹の殻ように脱ぎ捨てたのだが―――、イロミは一枚のシャツだけの姿だった。袖は無く、肩から先は健康的な肌を見せ、襟もない。ピッタリと彼女の肌に貼りついた、窮屈そうな黒いシャツだった。

 

 煙はやがて、晴れる。

 

 物見櫓の屋根には、イタチ、イロミ、大蛇丸、ヒルゼンの四人だけしかいなかった。

 

「……クク。流石、私の子ね」

 

 と、大蛇丸は安堵に笑みを浮かべる。

 

 確信した。

 総合的な判断は難しいが。

 少なくともイロミの速度は、イタチを凌駕している。

 反応速度も、移動速度も、索敵速度も。

 イタチという脅威を完全に防いでくれるという安心が、心に居座った。

 

「親の危機を救うなんて、娘冥利に尽きるでしょう?」

 

 言葉に出したせいか、微かに彼女への愛着が沸き始めてきたことを自覚する。自分の予想と想定を飛び越えてくれる存在に、いつだって彼は関心を持つのだ。

 袖の中に引っ込めた左腕を、すぐ傍に佇むイロミへと伸ばした。小さな頭を引き寄せ、長い舌で彼女の頬を舐める。

 

「愛しているわ、イロミ」

「気持ち悪いので、止めてください」

 

 イロミは素っ気なく腕を払うと、頬に付いた唾液を忌々しく、グローブをはめた手でさっさと拭い落とした。

 

「貴方の計画なんて、私には関係ありません」

「クク、そうね」

「私はただ、知りたいだけなんです」

 

 と、イロミはヒルゼンに顔を向ける。ヒルゼンは逃げるように、盲目のはずの彼女から顔を逸らしてしまった。その姿が滑稽過ぎて、大蛇丸の笑みはいよいよ狂気に変わり始める。

 

「おやおや、猿飛先生。彼女から目を逸らすなんて、随分と冷たいじゃありませんか。彼女は知りたがっているんですよ? うちはフウコの真実を」

「大蛇丸……貴様…………ッ!」

「まあ、イロミ、こんな老いぼれに聞いたところで、世迷言しか出てきやしないわ。真実を知りたいのなら、彼に聞きなさい」

 

 よほどの力で蹴られたのか、腹部を手で抑えるイタチの口元からは血が零れていた。大蛇丸は彼を顎で示してみせると、イロミはゆっくりとイタチに顔を向けた。

 

「彼なら知ってるはずよ。いいえ、知っていなくてはおかしいのよ。何せ彼は―――」

 

 天才なんだから。

 木ノ葉の誰よりも。

 うちは一族を代表する一人なのだから。

 

「ねえ? イロミ。だからアンタは、下で彼と楽しんでらっしゃい」

 

 イタチの視線が、イロミから大蛇丸へ。

 大蛇丸は写輪眼からの幻術から逃れるように視線を下げながらも、彼の口元はギリギリ見えるように視線を下げた。

 それでもはっきりと伝わってくる、怒りを隠さない怒気。だが、今だけは心地良い。

 何せ、睨み付けるという行為は。

 ぶつけたい感情をぶつけることが出来ないという示唆でしかないからだ。

 イロミが一歩、前に出た。

 

「イタチくん。私ね、今はまだ、君のこと、友達だって思ってるよ」

「イロミちゃん……俺は…………」

 

 残酷な言葉をぶつけると同時に、彼女は移動した。

 誰よりも速く。

 食べてきた者たちの身体能力と、呪印をも呑み込んだ彼女自身の細胞と、それらを総合した、化物のような速度で。

 イタチが反応できない程の速度で。

 写輪眼の予測を遥かに置いてきぼりにする速度で。

 彼の眼前に顔を置き。

 彼の顔を優しく、両手で包み込んだ。

 

「だから、ね? しっかり、答えてね?」

 

 イロミは再び、イタチを蹴り抜いた。

 骨が折れる音。

 肋骨が折れた音だった。

 そのままイタチは、イロミは。

 会場の中央へと、降り立った。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

「ちょっとアンタさぁ、イタチくんやシスイくんにベタベタし過ぎじゃない?」

 

 わざとしているのか、それとも自然体なのか、判別の付かないような巻き舌な女の子だった。もしわざとなら、本人はカッコいいと思っているのだろうか。少なくとも、カッコよさはあまり感じ取れはしなかった。ただただ、よく分からない恐怖を押し付けて来るだけ。怒っているという感情を伝えるのには、十分ではあったけれど。

 

「そうそう。成績悪いのを良い事に、イタチくんやシスイくんに勉強教えてもらってるんでしょ。少しは自分で努力してみなさいっての」

 

 と、別の子が言う。喋り方は普通ではあるけれど、あまりにも無責任な言葉ではあった。最初の子は怒っている感情をぶつけてきたから怖くて涙目になってしまったけれど、こっちの子は無情な現実と理不尽な考えを押し付けてきたせいで、目端から涙が零れそうになってしまう。

 

「君みたいな子がいるとさ、他の子が困るの。変な髪の色してるし、気持ち悪いしさ」

 

 最後の子は、脈絡なく暴言を言ってきた。変な髪の色をしているのは分かっているけれど、気持ち悪いと思われているかもしれないとは思っていたけれど、それとイタチやシスイと関わっている事が悪であるという評価にどう結び付くのか理解できず、呼吸が不規則になってしまった。

 

 アカデミーの放課後の事だった。

 

 日はオレンジに変わり、半分以上が影に覆われる教室。校庭からも生徒の声は聞こえてこなくなり、もう殆どの生徒は帰ったのだろう。自分も早く帰って、色々と支度をしなければいけない。晩御飯の買い物も、晩御飯の用意も、それに明日の朝ご飯や昼食の用意もしなければいけない。そうしなければ、家主に怒られる。怒られたら、疲れてしまって、夜な夜な一人で修行なんて出来ない。

 

 もう、彼女は卒業してしまったんだ。

 

 一人で頑張るって、決めたんだ。

 

 だから、少しでも時間が惜しいのに。

 

 どうして、こんな事になっちゃったんだろう。

 

 イロミは、些細な不運に泣き出しそうになってしまった。

 

 教科書を忘れたのだ。最後の授業で使った教科書。授業の内容が分からなかったから、家に帰って復習しようと思っていたのに、イタチやシスイが「学校の裏側で投擲訓練するけど、一緒にどうだ?」と声を掛けられ、慌てて一緒に修行しようと教室を飛び出してしまったため、机の中に忘れてしまったのだ。

 修行が終わり、教室に戻った先にいたのは、女の子が三人。三人とも、家に帰るわけでも、勉強するわけでも、校庭で遊ぶわけでもなく、ただ教室で喋ってたんだろう。だが、イロミが一人で教室に戻ってくると、急に近寄ってきて、文句を言ってきたのだ。

 

 第一声はこうだった。

 

「イタチくんとシスイくんと、三人で修行してたんでしょ? 私たち、話聞いたんだから」

 

 であった。そこから、三人の圧力に押されるように、壁際に押しやられてしまい、囲まれたのだ。

 

 三人の主張はこうだった。

 

 イタチくんやシスイくんの事が好きなんでしょ?

 いい気にならないでよね。

 

 イロミには、全く身に覚えのない文句だった。

 たしかに、二人の事は好きだ。大切な、友達だ。だが、三人が抱いているような、恋愛的なニュアンスは全くない。これっぽっちもだ。一瞬だって、そんなことを思ったことが無い。そんな事を想えるほどの余裕は、自分にはないのだ。

 

 イロミは素直に三人にそう言ったのだが、返ってきたのは、

 

「好きな人に限って、必ずそういうのよね」

 

 だった。じゃあ何と言えばいいのか、途方に暮れてしまった。

 

 そこからはただ延々と、理不尽な文句と主張が連続するだけ。

 ただの言葉なのに。

 ただの言葉だからか。

 身に覚えのない事を言われるだけで、涙が溢れそうになる。

 しかし、イロミは必死に耐えた。

 

 ここで泣いてはいけない。泣かないと、誓ったんだ。涙が零れなければセーフ。

 

 それに、逃げたくもなかった。全力で逃げてしまえば安心して泣いてしまうかもしれないし、大切な友達だったらこんな場面でも平然として言葉を返してるに違いない。

 

 負けちゃいけない。

 彼女に追いつくって、決めたんだから。

 だけれど、言葉を出そうと思っても。

 喉が震えてしまっているせいで、何も出せない。

 言葉を出してしまったら、涙が零れそうになるのを経験で知っている。

 

「あのさ、はっきり言うけど」

 

 と、巻き舌の女の子が言う。既に何度もはっきりと言われてると、イロミは小さく鼻を啜って思った。

 

「アンタさぁ、もうアカデミーに来ないでくれない?」

「……え?」

「来てもいいけど、イタチくんとシスイくんに、近寄らないで」

 

 どういうつもりで、彼女は言っているのだろう。

 言っている意味が分からない。

 イタチやシスイの両親に言われるならまだしも。

 同級生に、どうしてそんな事を言われないといけないのだろう。

 

「忍として才能無いんだし、努力もしないんでしょ? だから、あんなに成績悪いんでしょ?」

 

 才能が無いのは知ってる。

 でも、努力はしているんだ。

 実らないだけで。

 他の子が凄いだけで。

 悔しいけど、頑張ってるんだ。

 とにかく。

 そんなの、友達の関係には必要なのだろうか。

 イロミはただ肩を震わせ、下顎を震わせるしか出来ない。それを見かねたのか、別の子が言った。

 

「とにかくさ、私たちに謝ってよ」

「な……なんで……?」

「君のせいで、もうこんな遅い時間だし、嫌な気分になったから」

 

 遅い時間。

 教室の時計を見る。

 まだ夕方だ。それで遅い時間なのだろうか。勉強も、修行もして、寝るまでにはまだ、八刻以上、あるではないか。

 

「や、やだよ……」

「はあ? どうしてよ。アンタ、自分の立場、分かってる?」

 

 イロミは唾を大きく呑み込んでから、必死に腹に力を加えて、言った。

 

「イタチくんや……シ、シスイくんに……、その……、好きっていうのは、私には、無いの……。み、みんな……が、二人のこと……、どう思ってるか……分からないけど、私は、その……邪魔をしたりするつもりは……、ないし……。告白とか……、好きなら……しても……、いいと思ってるんだけど…………」

「なに嘘ついてるの?」

「えぇ……?」

「色んな子が、二人に告白してるの。でも、イタチくんもシスイくんも、フってる。どうせ、アンタが二人に変な噂流して、邪魔してるんでしょ?」

「そんなの……知らないよ…………」

「とにかく謝ってよっ! 土下座して、土下座!」

 

 頭を上から抑えつけられる。

 

 意味が分からないまま、けれどイロミは、決して床に膝を付こうとも、謝ろうともしなかった。抵抗するイロミに、三人がかりで頭を押してきたが、それでも、腕を振り回したり、頭を振り回して、抵抗し続けた。

 

 泣きたくない。

 

 負けたくない。

 

 頑張りたい。

 

 彼女のように、強くなりたい。

 

 その一心で、頑張った。

 瞼をぎゅっと閉じ、零れそうになる涙を抑え込む。

 耳から罵詈雑言が入ってくる。頭を叩かれたりもする。

 それでもイロミは、抵抗を続けた。

 すると―――。

 

「いやぁ、まさか弁当箱を机ん中に忘れる日が来るなんて思ってなかったな」

 

 と。

 明るく快活な声が耳に届いた。

 聞き慣れた声。

 教室のドアが開く音と同時に聞こえてきた。

 遅れて。

 

「弁当箱ぐらい、しっかり持て」

 

 と。

 今度は落ち着いた声。

 こちらも聞き慣れた声だった。

 一瞬の安心。

 けれど同時に、心の中で思う。

 マズい、と。

 

「だって仕方ねえだろ? まさか弁当に納豆が入ってるなんてよ。んなもん、持ちたくも―――」

 

 そこで、シスイの言葉は止まった。

 頭を上から押してきた女の子たちの手の力が消える。

 空気が凍ったように、静まり返った。

 一人の子が、怯えた声で呟いた。

 さっきまでとは違った、可愛らしい声だった。

 

「あ、あのね、イタチくんにシスイくん……これは…………」

「―――ッ! お前らッ! イロミに何してんだッ!」

 

 ドタドタと近寄ってくる乱暴な足音が聞こえてくる。瞼は開けれない。泣いてしまうから。

 すぐ近くまで、シスイが近寄ってきたのが分かった。そして、一人の子「きゃッ!」と叫ぶ声も聞こえる。

 イロミは大きく鼻水を啜った。涙が幾分か引っ込み、頭をあげて瞼を開けてみると、女の子の胸倉を強くつかみ、今まさに殴りかかろうとしているシスイの姿が、そこに。

 

「待て、シスイ。暴力は良くない」

 

 振り上げた拳を、イタチは寸での所で掴んだ。しかし、彼も怒っているという事が分かる。冷たい目線で、女の子たちを見たのだ。

 

「これは、いったいどういう事なんだ?」

 

 女の子は誰も応えない。三人が三人とも、まるで責任を押し付け合うように視線を泳がせた。

 その姿に呆れたのか、イタチはため息をつくと、イロミに顔を向けた。すぐに彼の表情は変わり、心配してくれる優しい笑顔になる。

 

「大丈夫か? イロミちゃん」

 

 必死に、イロミは考える。

 とにかく、イロミは笑顔を浮かべた。

 

「あ、あはは。だ、大丈夫も何も、うん、何もないよ」

 

 と言うと、イタチは小さく瞼を大きくした。

 今度はシスイがこちらを見る。納得がいかないような表情だ。

 

「嘘つくなよイロミ。お前、またイジメられてたんだろ。安心しろよ。今すぐこいつら、俺がボコボコにしてやるからよ」

「だ、駄目だよ、シスイくん。本当に、何もないんだから」

 

 無理やりイロミは、胸倉を掴んでいるシスイの手に身体を割り込ませ、女の子を解放させた。

 ここで二人に助けられては駄目。

 彼女みたいに、なれない。

 

「二人とも、えーっと、心配し過ぎだよ。本当に、本当に、うん、何でもないから」

「何でもないって、頭押されてただろお前。何言ってんだよ……」

「あれはちょっと……私が転んじゃって……」

「はあ?」

 

 イロミは必死に考えた。

 言い訳を。

 

「その、転んだ拍子に、三人にぶつかっちゃって。だから、私が、うん、悪いの……」

「お前……俺たちに嘘ついて―――」

「あ、シスイくん、忘れ物したんだよね?」

 

 イロミは強引に話題を変えて、さっさとシスイの机から弁当箱を取り出した。

 

「ほら、これだよね?」

「だから、イロミ、そんな下手な嘘ついたって―――」

「帰ろ? じゃ、じゃあね。あ、ぶつかっちゃってごめんね」

 

 二人の背中を無理やり押しながら、イロミは教室を出た。

 

 その日の夜、イロミは必死になって考えた。

 

 あの三人に説明しよう。

 誤解を解こう。

 そうしなければ、いけない。そうしないのは、逃げる事と一緒だ。

 強くなるんだ。頑張るんだ。

 翌日からイロミは、イタチやシスイの目を盗んでは、三人の子たちに話しかけた。

 何度も、何度も。

 誤解だと。

 その証拠に、三人を応援したいと。

 だが三人は聞く耳どころか、イロミに言葉すらぶつけてくることは無かった。

 それでも諦めず、声を掛けた。

 

 しかし、一週間経った、昼休み。

 

 いつもなら教室にいるはずの三人がいないことに気付いたイロミは、三人を捜す事にした。昼休みならじっくりと、話し合えるのではないかと思ったからだ。シスイの目を盗み、ちょうどイタチは教室にいないタイミングで教室を抜け出す。

 

 アカデミーの校舎を捜しまわる。すると、とある空き教室で三人を見かけた。そしてそこには、イタチの姿も。

 

「しばらく、彼女には近づかないでくれ」

 

 そう呟くイタチに、イロミは息を呑んでしまった。

 

「だ、だけど……イタチくん…………私たちは……」

 

 巻き舌で話していた女の子は、目に涙を浮かべていた。他の二人も同様だった。イタチの姿は後ろからしか見え

ない為、どんな表情をしているかは、分からない。

 

「俺からも、イロミちゃんに言っておく。何があったかは聞かないし、無理に謝ってほしいとは言わない。ただ、お互いにしばらく、関わり合わない方が良いと思っているだけだ。お願いだ。これ以上、彼女をイジメると、シスイが今度こそ暴れる。フウコの耳にも入るかもしれない」

 

 フウコの名前に、三人は恐怖の色を示した。

 彼女の成績や忍としての実力、そして、あの石像のような無表情は、今でも同級生の間では恐怖の象徴なのだろう。三人は小さく、うん、と頷いた。

 

「もし、もう一度、彼女をイジメたら、今度はシスイを止められる自信がない。俺も、我慢が出来ないかもしれない。それだけは、しないでくれ。いいな?」

 

 分かった、と三人は同時に呟いた。

 

 それ以降、イロミの周りで三人の女の子が近づくことは決してなかった。体術の授業で同じ班になっても、何も、起きはしなかった。

 

 イタチがたった一人で、終わらせたのだ。

 

 あっさりと。

 いとも容易く。

 

 その時。

 

 イロミは―――。

 




 次話は、今月中に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鉢、枝、衣、珠、貝

 

 

 

 血の臭いが濃かった。胃液と血が混ざりあった液体は舌触りが最悪で、口内で唾液とさらに混合されたせいもあるかもしれない。軽く吐き捨てると幾分か血の臭いは薄れるが、根本的に、鼻先に脂っぽく貼りついてくるような臭いは解決されてはいない。血の臭いの原因は、外側からだ。

 

 いつも血の臭いは、外側からしてくる。

 

 幼い頃からだ。イタチにとって、子供が獲得する原風景は、フウコと初めて見た時の綺麗な空と、倒壊した街並みから漂う血の臭いが同居したものだった。血の臭いを嗅ぐ度に、背筋が凍る。ましてや、自分が全く関与していない血の臭いというのは、最悪だ。

 

 誰かが、誰かの命を奪う。

 

 あっさりと人の命が消えていく。

 

 価値の無い命は、きっと、この世にない。

 

 たとえ、今まさに自分を殺そうとしている相手だとしても。

 

 そして消えた命からもたらされるのは、血と、腐った臭いだけ。

 

 まるで命は汚いものなのだと訴えかけてくるようだ。さながら、会場はそう、廃棄場にも似た場所と化していた。

 

 木ノ葉の忍と音の忍の争い。木ノ葉の方が優勢だと、イタチは判断した。一秒と見た訳ではないが、転がる死体は音の忍らだけだ。いくら、この場において音の方が数が優っているとはいえ、ここに顔を出している木ノ葉の忍はエリートばかりだ。そう易々とは崩れない。直に会場は木ノ葉によって制圧されるだろう。

 

 だが、問題はある。

 

 三つだ。

 

 一つは、会場にいるサスケの事である。彼がこの会場にいることは既に察知していた。他にもサスケや、サスケの同期らしい子たちがいるのも分かっている。カブトによる幻術で眠ってしまっている子もいれば、幻術返しで無事に意識を保っている子もいる。サスケが意識を保っているのは、ついさっき確認した。カカシやアスマ、ガイ、紅などが積極的に彼ら彼女らを音の忍から守っているおかげで無事だ。しかし、危険な場所にいる事には変わりはない。忍の戦闘において、絶対というのはありえない。いち早く、サスケを安全な場所へと避難させてやりたいという感情があるが―――先ほど確認した際に見えたサスケの表情は、どうしても不安を拭えない要素だった。

 怒りと、困惑。それらが混ざり合った表情だったのだ。

 

 二つ。それは、火影であるヒルゼンのこと。物見櫓の屋根。そこには、結界術が展開されてしまっている。半透明に紫色の、縦にとてつもなく長い直方体。四紫炎陣と呼ばれる結界術だ。四人がかりで展開される結界術で、強固さは、術の中でも上の方だ。少なくとも、争いが行われている最中……しかも、結界の前には暗部の数人を瞬く間に殺した君麻呂が控えている状態では、結界を破るのは困難だろう。

 結界の中には、大蛇丸と、その部下らしき四人の少年らと、ヒルゼン。部下の少年らは、結界の内側で結界を維持させているのに集中している為、実質、大蛇丸とヒルゼンの二人だけだ。

 どうだろう。

 どちらが上だろうか。

 少なくとも大蛇丸は、ヒルゼンに勝てる公算があるはずだ。無ければ、わざわざ一対一の状況を作らない。火影が敗れるというのは、良くない状況だ。ましてや、争いの最中にその【もしも】が実現してしまえば士気に関わる。この争いの先が不鮮明になってしまうのだ。しかしこの問題は、完全に、ヒルゼンに任せるしかなかった。

 

 三つ。そう、この問題が、何よりも、厄介だった。

 

 いや、厄介と言うのは、語弊があるかもしれない。けれど、それ以外の表現が分からなかった。雨に濡れても大きく困る事が無いというのに、帰り道につい傘を使ってしまうのと同じだ。勝手に意識が、厄介だと、認識してしまっているのだ。イタチは写輪眼のまま、じっと、友人を見たまま、視線を一切に振らなかった。

 

「―――隊長」

 

 後ろから、声。女性の声だった。イタチが持つ部隊の、副隊長。彼女は会場が争いに包まれる中、イタチの所まで駆けつけてきたのだ。通信機を経由せずに。

 

 つまり、それ程までに部隊が混乱をしているということなのだろうと、イタチは即座に理解した。

 

「部隊はどうなっている」

「警備をしていた部下たちの、約半数を失いました。アレに……殺されて」

 

 アレ、という表現を用いた彼女に、しかしイタチは冷静に尋ねる。

 

「残った者はどうしている」

「マニュアル通りに、里の住民を避難させています」

「なら、継続させろ。だが、残った者の何人かを、アカデミーに行かせてくれ。子供を死なせるな」

「分かりました」

「それと、この子を避難所へ」

 

 イタチが示したのは、左後ろに倒れているヒナタの事だった。幻術返しを使えないのか、それとも試験での疲労のせいなのか、幻術に嵌り眠ってしまっている。「了解しました」と副隊長は彼女を抱え上げる。

 

「君も、この場から避難するんだ」

 

 今度は、右後ろにいるネジに尋ねる。彼は幻術には嵌っていなかった。初めて経験するであろう大規模の争いを前にしても、取り乱す様子はなく、白眼を発動させて警戒をしていた。彼はイタチを見上げて、呟く。

 

「アンタ、うちはイタチか?」

 

 イタチは「ああ」と応えた。

 

「それがどうかしたのか?」

「何が起きているのか分からないが、これは砂隠れの里と音隠れの里が戦争を仕掛けてきたということなのか?」

「君がそれを知っても、役に立つことはない。今は上忍の方々や、俺たち暗部に任せろ」

「……ふん。自分の身くらい、自分で守れる。アンタの指図を受けるつもりはない」

「言う通りにしろ。―――死にたいのか」

 

 強烈な寒気が、ネジの肩を襲った。

 

 鋭い殺意というよりも、押しつぶすような怒りが、イタチの肩から押し寄せてきたのだ。今までで経験したことのない圧力に、気が付けばネジは頬に一筋の汗を垂らしてしまう。

 

「…………彼を、避難所に案内してくれ」

 

 大きいため息を吐きながらの指示に、副隊長の女性は「了解しました」と言い、ネジの肩を強引に掴んで会場から脱出させた。

 

 数秒の間が座り込む。もしかしたら、彼女は、待っていたのかもしれない。

 

 邪魔者がいなくなるのを。

 

「イタチくん」

 

 彼女は、そう呟いた。

 

 真正面。二十メートル程、距離は離れている。その距離は、彼女と、時折行う忍術勝負での距離だった。声のトーンも、その時と酷似している。

 

『今日こそは、君に勝つからね!』

 

 いつもの彼女なら、そう続ける。

 

 忍術勝負ができる事に嬉しそうに笑いながらも、心の底から勝ちたいと思っているのだろうと分かりやすい笑いを隠しているのも。透明で裏表のない笑顔。だが今は、対峙する彼女の表情は、違った。

 

 微かに浮かべた笑みは硬く、何か別の感情を強く抑えているようだった。

 

「何だか、すごい久しぶりな感じがするね。二、三週間ぶりかな?」

「ああ、それぐらいだな」

 

 争いの最中であっても、イタチは彼女に笑顔を浮かべる事が出来た。ぎこちないものだとは、本人も感じながら。

 

「あ、そうだ……。私の巻物とかは、どうなってるのかな。もしかして、捨てられてたり?」

「保管している。君がいつも大切にしていたマフラーもある」

「ありがとう。あはは、服とかは安物だから、別にいいんだけど、巻物は作るのに時間が掛かるから、あまり無くしたくないんだよね。さっきまで着てたコートも、作るのに一晩かかっちゃった。折角用意したんだけどね、無駄になっちゃった」

 

 計算用紙を丸めて捨てるような、無駄、という言葉。

 

 彼女が用意したという黒いコートが、何を目的としたものなのか、深く考える必要もなかった。イタチは尋ねた。

 

「イロミちゃん……君が望んだ状況なのか? これは」

 

 硬い笑顔は消えて、イロミの口元は一文字に結ばれた。やがてイロミは、静かに顔を物見櫓の屋根を見上げた。

 

「これは、あの人が勝手にやったことだよ。木ノ葉を崩壊させるつもりみたいだけど、私は手を貸そうとも、邪魔しようとも思ってない。ただ、他の人たちに邪魔されたくなかったから、利用しているだけ」

「逆だ……大蛇丸が、君を利用している」

「関係ないよ。イタチくんとこうして、二人で話したかったから」

 

 屋根から、再び、イタチに顔を向ける。前髪の毛先が不気味に揺れた。

 

 互いに動いていないのに、イロミとの距離が、突然遠くなったような気がしてしまった。親しい距離は無くなり、まるで、そう、敵対するような、距離。

 

「体調が悪そうだけど、大丈夫?」

「……ああ。問題ない」

「そう? あばら、折れたはずだけど」

 

 たしかに、あばらは折れている。鈍い痛みは継続している。呼吸をするたびに、痛みが主張してくる。だが、骨が肺に突き刺さっているような感じはしない。医療忍術に関する知識はあまりないが、肺を破っていれば、もっと苦しい状況であるはずだ。

 

「君が、そういう風に調節したんじゃないのか?」

 

 殺してしまえば。

 

 あるいは、口が聞けなければ、出ないのだから。

 

 答えが。

 

「調整はしたよ。だけどね、私、この身体の事をあまり分かってないんだ」

 

 と、イロミは淡々と呟いた。

 

「身体がスポンジにでもなったみたいでさ。動く感覚はあるのに、触れる感覚もあるのに……なんだろう、ぼんやりとしてるんだ」

 

 どこまで、本気を出せるんだろう。

 どこまでが、最小限のコントロールなんだろう。

 色んな人を食べたから。

 ついさっきも、色んな人を食べたから。

 

「分からないんだ。だから、調節できた自信もない。それに、イタチくんは天才だからさ。この身体の動きに、どこまで反応されるのか、分からなかった。イタチくんは私の動き、どこまで見えてたの?」

 

 正直なところを言えば。

 見えては―――いた。

 イタチの才能は、写輪眼は、間違いなく、イロミの動きを精密に観測していたのだ。手の動き、足の動き、毛先が揺れる方向と角度。どれも、観測し、予測していた。そして、予測通りの動きでイロミは目の前に姿を現し、予測通りに蹴りが行われた。

 

 何も……反応する事が出来ないまま。

 

 そう。

 

 見えているだけだったのだ。

 

 あばら骨の骨折に隠れていた身体の重みが、忍び足にイタチの意識の後ろ側から近付いてきた。込み上げてくる咳を……それでもイタチは、強引に息を呑み込んで、抑え込む。そのせいで、イロミの問いに応える機会を失してしまった。

 

「まあ……いいや。君に聞きたいのは、別の事だから」

 

 心臓が大きく震えた。

 それに呼応して、折れたあばらが軋む。

 

「ねえ、イタチくん。あの時の私の質問に答えて」

 

 辺りは、争いの音が駆け巡っている。嘘を許さないと言いたげな鋭く低い彼女の声は、サスケの元までは届かないだろう。

 

「うちは一族の人たちは、本当に、クーデターを起こそうとしていたの?」

「………………」

「調べて……くれたんだよね?」

「………………」

 

 イタチは、応えない。

 

 言葉が出ない、という訳ではなかった。

 

 出せる言葉を、持っていないのだ。

 

 この、正解の分からない問答の、答えを。

 

「……どうして…………応えてくれないの?」

「すまない、イロミちゃん」

 

 出したのは、答えではなく、保留にも近い、逃げだった。

 

 頭の中で、微かな既視感が一瞬だけ、生まれる。

 

 呟いた言葉が、どこかで聞いたかもしれない、あるいは似ているだけだったかもしれないフレーズだからだ。視界が暗転したのは、たったの一秒。瞬き二回程度で消費してしまう時間でも、その暗闇に浮かび上がった人のシルエットは、どこか懐かしさを抱いてしまった。

 

 だが、その残影も無くなり。

 

 イロミの口端が怒りに歪んでいる現実が、目の前に立ちはだかっていた。

 

「それって……ねえ、イタチくん…………どういう、意味なの?」

「……うちは一族の動向について、調べた」

「うん。それで?」

「君の言う……うちは一族の企てに関する証拠は―――なかった」

 

 ずっと、イタチは調べていた。

 

 ありとあらゆる書類を。うちは一族抹殺事件がフウコの手によって行われる日から、それこそ、イタチがアカデミーに通っていた頃までの全ての、些末なものから何でも、調べた。毎日毎日。まともに眠る選択を放棄してまで、ずっと。

 

 のみならず、イタチは影分身の術を使用して、うちはの町をも調査していた。イタチとサスケ、たった二人ではあるが、うちは一族の生存者がいる手前、完全撤去をせず、町は残っていたのだ。オリジナルは書類を調査しながら、影分身体は町を調べる。

 

 しかし。

 

 書類は、言ってしまえば元も子もないのだけれど、その気になればいくらでも改竄が可能だ。暗部の書類に関しては、当時、管理者はダンゾウである。

 

 そしてうちはの町に至っては、事件から時間が経ってしまっているということ。事件発生後、徹底的に調査されたということ。うちは一族がクーデターを行っていたか否か、その証拠が残っているはずもなく。

 

 それでも、イタチは微かな可能性を信じ、そして友人を助けたい一心で、調査し続け。

 

 得られた結果は―――前進も後退もしない……依然として、不明のままだった。

 

 どうしてフウコがうちは一族を滅ぼしたのか。

 

 分からないまま。

 

 そもそも、調べた程度で分かるならば、今の今まで、二人で頭を悩ませる必要がないのだから。

 

「……ふざけないで」

 

 イロミの声は、怒りに震えていた。

 

「それで私が、納得すると思ってるの? 馬鹿にしないで……。何もなかったら、フウコちゃんはあんなこと、絶対にしない」

「それは俺も同じ考えだ。だから君の言う、うちは一族がクーデターを考えていたというのは、否定しない」

「私が知りたいのは、否定されない材料じゃないの。肯定してくれる材料なの。ねえイタチくん、本当に、調べてくれたの?」

 

 彼女の声は、まるで、亡霊のように、冷たかった。

 寒気がしてしまうほどに。

 

「私はね、調べたよ」

 

 ダンゾウの部下を何人も食べて、その人たちの記憶を手に入れたよ。

 他の暗部の人を食べて、記憶を調べて。

 食べて食べて食べて食べて、分からなくて。

 ダンゾウの所まで行って、食べようとしたけど、分からなくて。

 ついさっきも、イタチくんの部下を何人か食べたんだ。

 里の外を警備していた暗部の人たちも。

 それでも、分からなくて。

 もう私は、里の敵だから。

 頑張ったんだけど、

 努力したんだけど、

 分からなかったんだ。

 

「ねえ、イタチくん」

 

 君はそこまでして、調べてくれた?

 フウコちゃんの為に、努力してくれた?

 

「本当のこと、教えてよ。ね? あるんでしょ? 私に気を遣って、嘘を言ってるんだよね? イタチくんは昔から、優しいから……」

「……嘘じゃない」

「……あ、はは、止めてよ……。イタチくんは、天才なんでしょ? 馬鹿みたいな努力しか出来ない私より、ずっとずっと凄い、天才なんでしょ? なのに、そんな、頭の悪い答えしか用意してないの? ふざけないで……ふざけないでよッ!」

 

 怒りの声は微かに湿りを帯び始めた。

 何も、応える事が出来ない。

 ただ、そう。

 

「イロミちゃん……」

 

 名前を、呼ぶだけ。

 

「私を……イロミって呼ぶなあッ!」

 

 しかしそれも、彼女は、否定する。

 

「お前みたいな嘘つきに、名前なんか呼ばれたくないッ! それに私の名前は、イロリだッ! フウコちゃんが付けてくれた、大切な名前があるんだッ!」

 

 ちくしょう……。

 ちくしょう……ッ!

 

 イロミは、壊れたように。

 頭を掻きむしる。

 血が、彼女の特徴的な髪の色を、染めていく。

 壊れていく。

 ヒビだらけの壺が、水漏れを起こすように。

 大切な友達が、壊れていく。

 壊れる?

 いや、入れ替わってしまうのだ。

 あの夜の、フウコのように。

 大切なものが、遠くへ。

 未だ大切に隠している、四人で撮った写真。

 まだ、二人が残っていたから、繋ぎ止めていた写真の記憶は。

 たった一人になって、

 写真が、

 記憶が、

 感情が、

 散り散りになり始めてしまう。

 あの夜の恐怖が。

 あの夜の後の苦しみが。

 

 イタチの心臓を苦しめた。

 

「まだ、フウコの件について何かが決定した訳じゃない。落ち着いてくれ。それに、今ここで全てを放り投げたら、それこそフウコを追いかけられなくなってしまう」

「……フウコちゃんを、追いかけられない?」

 

 写真を。

 友達を。

 イロミを。

 繋ぎ止めようとした言葉は、

 逆に、彼女を、遠ざけてしまう。

 

「―――……ッ! フウコちゃんを追いかけられないのは、お前たちが邪魔するからでしょッ!? 里がッ! 皆がッ! 君がッ! ……私に嘘つくから…………邪魔するからッ! 私はここにいたんじゃ、何も出来ないッ! 努力しても……どんなに努力してもッ! 意味が無いんだッ! 意味が消されちゃうんだよッ!」

 

 だけど、とイロミは叫ぶ。

 

「特別上忍の立場を無視してッ! 君が里にいないことを良い事にッ! 一人で大蛇丸の所に行ったら、すぐにフウコちゃんの事が知れたッ! 分かる?! これがどういうことかッ!」

「大蛇丸の言葉が真実である保証はない。君を利用する為の虚言の可能性だってある」

「本当だっていう可能性もあるッ! もしかしたら、もう二度と来ないかもしれないチャンスなんだッ! 里の中じゃ絶対にやってこないチャンスなんだよッ! 私はそれに手を伸ばしただけだッ! そして私は、フウコちゃんの事を知ったんだッ! どこで何をしようとしているのか、少しだけだけど、教えてもらったッ!」

 

 君がいなかったおかげでッ!

 

「…………だけど、すぐに君が邪魔をしてきた……大蛇丸に近づけさせないようにッ!」

「……ッ! 当たり前だ…………。君は……死にかけたんだぞッ!」

「それがどうしたっていうのさッ!」

「友達が死にかけて、何もしないわけないだろうッ!」

「死にかけたくらいがどうしたッ!」

 

 血で赤く染まった、グローブを嵌めた両手を突き出しす彼女の顔が、頭皮から垂れる血が前髪の後ろから姿を現し、頬を零れ、顎からしたたり落ちる。

 

「君には分からないよッ! 天才な君には、才能を持ってるだけで、命なんか掛ける必要もない君にはッ! 私には才能がないんだッ! 私自身には、何もないッ! 努力に助けてもらう以外で使えるものなんて、私自身の命くらいなんだッ! 君にとって何も()()()必要のない安全な任務でも、私にとっては命を()()()()()出来ない危険な任務なんだよッ! 死にかけなんか、私にとっては大成功だッ! 賭けた命が戻ってきてるんだからさあッ!」

「なら……なら君は…………今度こそ死んでもいいって言うのかッ!」

「死んでもいいよッ!」

 

 イロミの顔が、いよいよ、血で真っ赤に彩られる。

 

「死ぬのは、怖いよ……。怖いけど…………。フウコちゃんを追いかけられないなら……、フウコちゃんがいないまま生き続けるなら……、死んだ方が良いッ! だって、私が生きたいって思うのは―――」

 

 今日お布団で寝たら、またフウコちゃんに会える。

 夜が明けたらフウコちゃんと遊べる。

 また次会った時に、フウコちゃんに、イロリちゃんって呼んでもらえる。

 楽しい明日がある。

 

「そんな風に、今日を想えるから、明日も生きたいって思うんだッ! ……今日を想えないで寝るくらいなら、ずっと眠ったまま、死んだ方がマシだッ! …………お願い……お願いだよぉ………………」

 

 お願い、イタチくん。

 本当の事を教えて。

 君は、うちは一族の中にいたんだよ?

 書類の情報なんかどうでもいいよ。

 今だけ。

 今のこの瞬間だけ。

 君の。

 君の記憶だけを。

 信じるからぁ。

 教えて。

 本当に何も知らないの?

 覚えてないの?

 

「教えて……イタチくん…………」

 

 懇願するような、弱々しいイロミの声は……直感的に、最後の問いなのだと分かった。無意識の内に、未来を想定してしまう。ほんの、数秒先の、未来だ。

 

 問いに、正しく答えられなければ。

 

 また、あの夜がやってくる。

 

 昼間の空に化けた、悍ましい夜の空が。

 

 だけれど。

 

 それでも。

 

 イタチの意識は。

 

 真実に到達する事は、叶わなかった。

 

「―――そっか……。そうなんだ…………。あ……あははは………………。ずっと、友達だと、思ってたんだけど、っ、なぁ…………。ずっと……()()()()()()、最後は……無視だなんて………」

「俺は……君の味方だ………」

「―――黙ってよ、敵のくせに」

 

 皮肉な事に。

 ()()の力が。

 里を平和へと導こうとした力が。

 里の平和を崩壊させる化物を生み出してしまう、

 友達を化物へと導いてしまう、

 力となったのだ。

 

「……もういいよ」

 

 イロミは呟く。

 

「もう、全部、どうでもいいや……。全部食べれば、いいんだから。そうすれば分かる。里にいる人をみんな食べれば、分かるんだから」

 

 その言葉がイロミの心の方向性が歪んでいるのを示すように、首元が、肩が、紫色に変色し始める。その紫は、赤く見えてしまう。血の様に、赤く。

 

 あの夜に立つ、フウコが見えてしまった。

 

 あの夜が再び、目の前に。

 

「お願いだ、イロミちゃん。まだ君は、里に戻る事が出来る」

「こんな里に居たくない。ここには、フウコちゃんがいない。私の大切な人がいない……」

「フウコは必ず助ける。約束したじゃないか」

「でもイタチくんは、私に嘘を言う。ずっとずっと……あの時だって君は、嘘を付いた。悔しかった……。努力してきたのに……。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 長いイロミの前髪の奥から垂れ続けている血液が。

 彼女の涙のように、見えてしまった。

 

「フウコの事について、嘘を付いた事は一度もない。本当だ……、信じてほしい……」

「信じられるわけ……ないでしょ……。もう君は……敵なんだ…………」

 

 君だけじゃない。

 里の全部が、敵だ。

 私の大切な人を奪った、木ノ葉隠れの里が。

 私の大切な人がいない平和を楽しんでいる、全ての人が。

 敵だ。

 敵なんだ。

 恩返しなんて、もう、どうでもいい。

 ここに恩なんて感じない。

 全部。

 全部全部全部全部全部全部全部。

 

「食べてやるッ! 食べ尽して―――」

 

 イロミの叫びを、大量の砂が、横から呑み込んだ。物見櫓で一度、彼女を呑み込んだ砂である。しかし量もチャクラも、先ほどの二倍はあるだろう。イタチは咄嗟に、砂の使用者である我愛羅を見る。彼はちょうど、観客席から降り立ったところだった。観客席では、我愛羅の行動が理解できていない表情のテマリとカンクロウが。イタチにも、理解は届かない。

 

 我愛羅がどうして、イロミを二度も砂で呑み込んだのか。イタチと我愛羅の二人の視線が一瞬だけ交差する。その交差には、互いに敵意が滲んでいたが、その二つは別の所に集中した。

 

「キャハハハハハハハハハァッ!」

 

 気狂い声のする、イロミを呑み込んだ砂を、二人は見た。

 

「イィィィィィィタァァァァァァチィィィィィィィッ!」

 

 砂が四散し、呑み込まれたイロミが、姿を現す。

 

 金属音同士が強く擦れ合うような耳障りな甲高い声は、あまりにも本来の彼女とは程遠く。見える肌の色は濃い紫色で。唾液と血が混ざった体液を、歯茎をも見せる大きく歪んだ口を開き。何より、彼女の腰後ろからは、蛇にも似た巨大な尻尾が、彼女のパンツを突き破って生えていた。

 

 心臓の痛みが、いよいよ、耐え難い激痛へと変貌し、喀血を呼び寄せる。

 

 その隙を、化物は許さず嗅ぎ取った。

 

 屋根の上で見せた速度をさらに上回る速度と暴力で、イロミはイタチの眼前へと迫った。自身の血で染まった両手が、イタチの両頬を捕まえた。

 

 優しく包み込む様に。

 腹部を蹴られる直前の、再現の様に。

 

 だがイタチにとっては、まるで異なっていた。

 蛇が獲物の味を確認するように、二つに分かれた舌の先端を伸ばしているそれのように思えて、寒気を感じたのだ。

 

 イロミはイタチに顔を近付ける。

 

 互いの息が掛かるほどまでに、近くに。

 

「キャハハハッ! イタチくん……ああ、良い匂い……、美味しそぅ……」

 

 ずっとずっと、食べたかった。

 君を。

 君の、その才能が。

 欲しかった。

 

「いぃぃぃただぁきまぁああああああすッ!」

 

 歪みに歪んだ笑みを浮かべるイロミの顔は、自身の包帯をズラした。何周にも巻かれた包帯は下に、上に、ズレて。さらに彼女の前髪は彼女自身の速度のせいで、重力に逆らって毛先が宙に舞っていた。

 

 暗い穴が、二つ。

 

 穴からは、赤い液体が。

 血が。

 その血は、イロミの歪んだ口端に流れ込み。

 

 今まさに、彼女は口を開けた。

 

 唾液と血が混ざった体液が糸を引いている。

 

 その悍ましい口は、イタチの眼を狙っていた。

 

 才能の塊を。

 

 捕食しようと。

 

 友達が、

 

 化物が、

 

 問いの不正解への、

 

 難題への不正答への、

 

 代償が、

 

 近づいてきたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 魂が鈍くなっていく。

 

 遺伝子が予め組み込んだものだったのか、身体の衰えと共に、感性というものは砂時計にもさも似たようなもので、気が付けば擦り減っていく。そう感じたのは、別段ごく当たり前の日々の中だった。

 

 ふと見上げた夕焼けの赤に心を震わされたのは、いつだろう。初めて見た時のような感動を手に入れた最後の日は、果たしていつだっただろうか。

 

 幼い頃に、初めて夜更かしをして、そして燃えるような朝焼けの空と、遅れてやってくる空の蒼と冷えた空気を吸った時の、彼方まで心が震えたあの衝撃を得たのは、いつだっただろうか。

 

 いつかまた、同じような感覚はやってくるのだろうか。

 

 新しいものを発見する度。

 知らなかった事象を観測する度。

 徐々に衝撃は小さくなっているような気がする。

 

 知識という言葉に変換されて。

 経験という安易に凝結されて。

 

 魂が、錆び付いた羅針盤のように、機能しながらも、鈍い音を立てている。

 

 動かないものへの情緒というのは、鈍くなった魂が求める、最後の感動なのかもしれない。

 やがて、全ての存在は消える。

 消えて、失せて、どこの何者の中にも残らず、消え失せる。

 

 その虚無は、生きている間では、理解できない。

 

 死ぬ間際の何かを見て想像するか。涙を流し、その量と情動で感じ取るか。はたまた、理解を放り投げて、きっと楽園が待っているのだろうと、昼行燈の如く鈍い光のような妄想を繰り広げるか。つまりは、動かないものへの情緒は、それらと同じだ。

 

 消えゆく過程のシミュレーション。

 

 一度経験する事によって、恐怖を和らげる。

 

 怖いものに目を指で塞ぎながらも、微かな隙間から覗く子供と、何も変わらない。隙間から覗いても恐怖が和らぐ訳ではないというのに、その行為に意味があると確信している。動かないものに情緒があるというのも、空想だ。

 

 身体という器が壊れかけているという事を言い訳に。

 

 幼い頃に体験した躍動や、魂の溌剌を、無思慮の産物だと愚かに鼻で笑いながら。

 

 情緒があるなどと、魂の鈍さを顧みない、馬鹿げた行為だ。

 

 魂は鈍くなる。

 

 必ず。

 

 気が付かない間に。

 

 砂時計のように。見ている間は大した動きではないけれど、微かにでも目を離せば、あっという間に砂の位置が逆転しているように。

 

 ならば、魂を磨かなければいけない。

 ならば、魂を潤さなければいけない。

 

 動かないものへ、徹底的に反逆しなければ。

 感動を、躍動を。

 夕焼けに飛び込みそうだった、あの果てしない感動を。

 朝焼けに涙を零しそうだった、あの止まらない躍動を。

 

 無知の感動を、また。

 

「想像するだけで、ワクワクしてしまいますねえ。五大里の中でも、今や最大勢力の木ノ葉が崩壊するのは。ましてや、猿飛先生。貴方の弟子である私と、貴方の養子であるアレが、この里を破壊するというのは」

 

 感動を渇望した日を一瞬だけ想起し。

 そして今、その渇望が満たされ始めようとしているのを、大蛇丸は確かに、自身の内側から感じ取っていた。挑発的でありながらも、物腰柔らかな言葉遣いとは裏腹に、四紫炎陣の結界越しにでも伝わってくる空気の振動は、まるで魂の震えと同調するかのように、身体を空の彼方へと押し上げるほどのように思えてしまった。

 

 紫色の結界が、周囲を囲んでいた。縦に長い直方体。高さは窺い知れず、空を突き抜けているかのように高かった。その足元の四隅には、四人の忍が。大蛇丸が育てた、弟子たちである。弟子といっても、大蛇丸にとっては単なる手駒に過ぎないが、結界を張っている四人の少年たちは、一様に張り切っている。君麻呂と同様に、大蛇丸への信仰を持っているようだった。

 

 結界の外で、巨大な蛇たちが暴れまわっているのが見える。家屋よりも格段に大きく、里を囲う塀よりも蛇は巨大だ。塀を易々と破壊し、本能に任せて暴れているのか、蛇の下には砂煙が立ち込めている。

 眼下の会場では、音の忍と木ノ葉の忍の争いが繰り広げられている。一瞥しただけでも、音の忍が劣勢であるのは分かった。仕方ない。ここにいるのは、木ノ葉のエリートばかり。しかし、特に期待もしていない。木ノ葉のエリートらも、音の忍らも、大蛇丸にとっては、どれも小さな羽虫程度の力量だ。たとえ音の忍が全滅したところで、恐ろしいとすら思わない。

 

 木ノ葉崩しにおいて、厄介だと判断したのは、二人―――いや、()()だ。

 

 しかし、その内の二人は既に抑えている。

 

 一人は、うちはイタチ。彼は今、会場の中央で、足止めを食らっている。全く期待していなかった失敗作を相手に。何やら二人は会話をし、イロミが何かを叫んでいる。はた目から見ても、爆発寸前な空気だと分かる。いつ爆発するのだろうと、ワクワクしてしまう。さあ見せてほしい。イロミ。貴方の暴力を。失敗作の、成果を。

 そして、一人は、すぐ目の前にいる。今まで一度として向けてくれなかった、本気で本物の殺意を彼は向けている。

 

 猿飛ヒルゼン。

 

 自分がまだ幼かった頃、直々に忍の技術を教えてくれた、唯一の師。

 

 ゾクゾクと、ワクワクと、肌が逆立つ。彼と本気で争った事など、一度もない。どんな状況になるのだろうと、花火の火薬を集めてマッチ棒を擦ろうとする子供のような危険な好奇心がやってくる。

 

 ああ、と大蛇丸は思う。

 

 今確実に自分の魂は満たされている。幾月幾年ぶりの潤いだろうか。

 

 延々と、この興奮が、時間が、続かないだろうか。

 

「お前は昔から変わらぬの。知的好奇心の為ならば、倫理や人の心の領域を容易く踏みにじる」

 

 ヒルゼンの低い声に、大蛇丸は愉快に返した。

 

「歳は取りたくはありませんね。忍の神と呼ばれ、数多の忍術を扱えた貴方が、探求への歩みを、たかだか倫理や価値観如きで止めようとするなんて。倫理など思い込みに過ぎず、価値観など基準に過ぎない。つまり、どれも幻想でしかないのよ。平和だとか、秩序だとか、そんな二束三文と同じよ。それを後生大事に抱えるなんて、馬鹿のする事よ。木ノ葉の長が、そんな愚か者だなんて」

「多くの者の命が集った里を治める者として、平和と秩序を守るのは当然の事じゃ」

「平和と秩序? それを守ろうとして、散々と愉快な事が起きてきたじゃありませんか。その結果が、今なのではありませんか? うちはフウコが里を出ていったことも、猿飛イロミがああなってしまったのも」

「ワシの努力不足が……招いた事に過ぎぬ。フウコの事も……、イロミの事も……。そして、お主の事もの。だからワシは、責任を、誰よりも負わなければならんのじゃ。里の平和と秩序を守る事と、そして―――」

 

 火影の衣をヒルゼンは投げ捨てた。衣の下には、黒い忍び装束があった。

 

「それを破壊する元凶を排除する事を。それがたとえ何者でも容赦はせぬ。ワシの元弟子であってもだ……大蛇丸」

「……衣の下に、忍び装束だなんて…………、先生はせっかちですねえ。まだ見世物は残っているというのに。ほら、見なさい。貴方の娘が、私の娘が、天才を食い殺し始めますよ」

 

 イロミの叫びが、結界を震わせ、その中の空気を振動させる。

 

 作ったばかりの時は、弱々しい泣き声を出していたというのに。立派な絶叫を出せるようになったではないかと、大蛇丸はほくそ笑む。

 

 いや、どうだろう。

 

 空気が震えているのは、イロミの咆哮のせいだけではないだろう。

 

 ヒルゼンの殺気が、溢れんばかりのチャクラの猛りが、生み出しているのだ。

 

 ヒルゼンは、イロミとイタチの対峙を見たくないかのように、じっと大蛇丸だけを睨み続けた。

 

 今すぐにでも、自身の魂の鋭敏を身体に実行したい。木ノ葉崩しを実行したい。

 

 しかし。

 しかし、まだだ。

 まだ、戦い始める訳にはいかない。

 戦いを始めてしまっては、他の演劇を始められないかもしれないのだから。

 

 戦う訳にはいかない。けれど、大蛇丸の我慢を他所に、ヒルゼンは動き始めた。手裏剣を一つ投げ、次の瞬間には印を結ぶ。とても老齢とは思えないほどの印を結ぶ速度。投擲された手裏剣は大蛇丸に届く前に、印を結び終える。

 

「手裏剣影分身の術!」

 

 投擲された一つの手裏剣が、瞬く間に多量に分身し始める。影分身の術と同様に、分身した手裏剣は、チャクラによって実在するものとなっている。同時にヒルゼンは、大量の手裏剣の軌道をチャクラを用いて操作した。大蛇丸を追い詰めるように、多角的な軌道で手裏剣は彼の命を狙う。

 

 ―――まあ、順序がズレてしまうけれど、仕方ないわね。

 

 演劇のアドリブは時として、本来の台本を凌駕する。

 順番がズレてしまうというスパイスも、演劇には、魂の潤いには必要なのかもしれない。

 大蛇丸は、印を結ぶ。

 役者を登場させる為に。

 

 ―――穢土転生の術ッ!

 

「一つッ!」

 

 大蛇丸の足元から、一つの棺桶が出現―――いや、口寄せ―――する。棺桶には「一」と、炭で大きく書かれていた。その文字と棺桶の形を見て、ヒルゼンの表情は驚愕へと変貌した。

 

 その中に入っているであろう遺体の事を。

 

 そして。

 

 次に口寄せするであろう、人物の顔と、約束を。

 

 ヒルゼンはすぐさま新たに印を結んだ。穢土転生の術を阻止する為の、妨害用の忍術。大蛇丸のチャクラに干渉し、次の口寄せを何としても阻止しようとしたのだ。

 

 しかし―――間に合わない。

 

「二つッ!」

 

 棺桶がもう一つ、出現する。「二」と書かれた、棺桶。それら二つは、大蛇丸の盾であるかのように、大量の手裏剣たちを受け止めたが、まだ、穢土転生の術は終わらない。さらに三つ目の棺桶を、呼び寄せようとし。

 

 そして、それは阻止されてしまう。

 

 ―――まあ、二つ目まで呼べただけでも十分でしょう。

 

 残念半分、達成半分。少なくとも、ノルマは達成できただろうと確信する。二つの棺桶の隙間から、大蛇丸はヒルゼンの表情を伺った。

 

 先ほどまでの殺意は薄れ、どこか、怯えたような色が見え隠れする。

 

「クク、猿飛先生。何をそんなに恐れているのですか?」

「…………よもや、お二方の遺体を暴いておるとはの」

「本来なら、貴重な遺伝子を使いたくはなかったのですがねえ。ですが、貴方とサシで勝負するとなると、出し惜しみなんてしてられないわ。それに―――」

 

 貴方も会いたかったのではありませんか?

 この二人に。

 言葉が終わると同時に、棺桶は静かに蓋を開けた。棺桶の中身は勿論、人間。けれど、その状態は、遺体ではない。けれど、生者でも、無かった。その中間―――というのも、相応しくはないかもしれない。

 

 ただ、いるだけ。在るだけ。

 石のように。

 坂道を転がる、石のように。

 生きてもいないし、死んでもいないけれど、動き、喋る存在だった。

 

「久々のご対面ですよ、先生。まだ木ノ葉崩しは始まったばかり……。役者が揃うまで、少し世間話でもしていてくださいな。―――初代火影、二代目火影のお二人と」

 

 特に、二代目とは積もる話しもあるのではないですか?

 うちはフウコの事について。

 

 棺桶から現れたのは、二人の男性だった。

 

 大蛇丸は笑った。

 

 己が魂が潤っている事に。

 

 ヒルゼンが、この難題にどんな答えを見出すのか。




 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

 次話は、9月15日に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

契約の真贋

 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。


 

 

『ふふ。扉間さんは、私とこうして二人きりになる度に、同じことを言うのですね。けれど、私も同じ返答です。私たち八雲一族は、木ノ葉隠れの里に加わるつもりは微塵もございません』

 

 身体の病弱さを隠そうともしない白い顔。しかし、柔らかい彼女の笑顔は、彼女の心の豊かさを表して、見た目の線の細い身体と上手く相殺されていた。いやむしろ、それが彼女の中心である。夜風に揺れる、黒い布で高い位置で纏められた灰色の長髪も、木々の葉の隙間から零れる月明かりに照らされた長い睫毛と細い眉も、繊細な指が長い前髪を耳にかける動作も、蝶のように広い袖をした漆黒の着流しも、全て、彼女の豊かな人格を装飾するものでしかない。彼女を前にすれば、どれほど殺伐とした空気でも、和やかになってしまうのだろう。

 

 生まれ持った資質なのか。

 育まれた素質なのか。

 

 彼女の雰囲気は、どこか、兄である千手柱間と似通ったもののように思えてならない。

 

 どこか人を引き付ける。

 どこか人を魅了する。

 同じ言葉を使っているはずなのに、どうしてか、質が異なる。

 

 だからこそ扉間は、何度も、彼女に声を掛けた。

 

 木ノ葉隠れの里に参入してほしいと。

 

『これで何回目でしょうか?』

 

 と、彼女―――八雲エンは悪戯っ子のような笑顔を浮かべた。

 

『もう数えるのも億劫なくらいにお誘いを受けてしまいましたが、女としてはあまり、誇れるような数ではございませんね。こんな静かな獣道で、ましてや、口説き文句ではなく、一族郎党、自分の里に入ってくれというのは。私は毎回、扉間さんから声を掛けられる度に、もしかしたら今日こそはなどと、乙女心が爆発してしまいそうだというのに』

『嘘を言うでない。そなたにそのような心があるというならば、頬の一つでも染めて見せたらどうなのだ』

『ええ、嘘でございます』

 

 ふふ、と小さく彼女は笑った。嘘を付くのが大好きという、彼女らしい笑みだった。

 

『これでも、かつては旦那がいたので。今更、殿方に声を掛けられて慌てるほど、歳は若くありません』

『ワシは本気だ。頼む、エン殿。どうか、木ノ葉隠れの里に加わってほしい』

『お断りさせて頂きます。この決断だけは、覆しません』

 

 きっぱりと言い放ちながらも、エンの表情は笑顔のままだった。今まさに鼻歌でも呟きそうで、長い髪は意気揚々と左右に振れている。彼女に並走していた扉間は、静かに足を止めた。

 

『……今、木ノ葉は分解しようとしている』

 

 扉間の言葉に、エンは背を向けたまま立ち止まる。

 

『木ノ葉にはまだ、足りないものが多すぎる。掟の厳密な制定。里を維持、機能させていく役職と規模の設置。他にも、里を形作る為の全てが不十分なのだ』

『……それが、我々八雲一族と、何かご関係が?』

『今までは、兄者が多くの一族たちを纏めていた。だが、兄者が死に、ワシが火影になってからは、兄者の人望で埋められていた隙間が露わになり始めたのだ。今では、各々の一族が身勝手に主張をし始めている』

『仕方がございません。信仰というのは、自分の内の言葉を代弁してくれるだろうという期待でしかありません。柱間さんがお亡くなりになられて、今まであの方を信仰していた方々が、絶望や不安を言い訳に我儘を申すのは、ごく当たり前の事です』

『それは分かっていた……。だが、あまりにも、主張する者が多すぎる。このままでは、里を離れる一族が出てきてしまう。それだけは、何としても防ぎたい。あと一歩の所まで来たのだ……。こんな所で瓦解させる訳にはいかん』

『事情は理解しましたが、先ほどの質問の答えになっておりません。我々八雲一族が木ノ葉に参入したとして、その状況がどのように変化するとお考えで?』

『……八雲一族には…………、いや、エン殿には、身勝手に主張する者たちの相談役となってほしいのだ』

 

 第一次忍界大戦が終わり。ようやく得られた、平和の黎明。その終着点は、里という、血脈や過去とは関係の無い、新しいコミュニティの形成だった。

 

 血脈という符号があるから、吟味せず他者を評価してしまう。

 過去という幻想があるから、未経験の嫌悪を相手に押し付けてしまう。

 

 それらを払拭するには、一定の位置が必要なのだ。

 

 当たり前のように同じ位置を行き来し、道ですれ違い、会話をし、個人が個人を意識する事が出来る、位置。家のようなものが、必要だ。だが、家が出来上がる前に、住民が出て行ってしまっては意味がない。

 

 人の想像力は、未だ世界を把握しきれていない。広大過ぎる世界を前に、人は自分を安定させる為にまた、血脈や過去を利用してしまう。だからまだ、里が必要なのだ。

 

 柱間が描いた、この世界の誰もが正しく手を取り合う、争いの無い世界を作る為の、基礎としても。

 

 今、瓦解し始めている木ノ葉には、エンの人格が必要だった。

 

 誰とでも変わらず、穏やかに、豊かに接する事が出来る者が、身勝手に主張し続ける者たちの相談役となれば、正しい対話が出来る筈だ。そして、八雲一族の者たちが里に参入してくれれば、彼ら彼女らの空気に触れ、平和の価値を理解してくれるかもしれない。

 

 八雲一族は誰もが、争いを好まない。

 

 エン程ではないにしろ、穏やかで、素晴らしい者たちばかりだ。

 

 だから―――。

 

『答えは変わりませんよ、扉間さん』

 

 振り返るエンは、やはり柔らかい笑みを浮かべて応えた。

 

『貴方は私共を買い被り過ぎです。我々にそのような状況を打破できるほどの力はございません。ただ臆病に、ただ古き悪しき血脈を、ただ怠慢に生き永らえさせているだけに過ぎません』

『ワシは、そうは思っておらん。エン殿も、他の者たちも、正しく豊かに過ごしている。その証拠に、サルやダンゾウ、カガミも、誰も八雲一族を嫌悪していない』

『それは皆さまの方が正しいからです。その証拠に、フウコは皆さんに懐いているじゃないですか。あんなに人見知りだったあの子が、皆さんが来るたびにはしゃいじゃって。ふふ、親として羨ましく思ってしまいます。いずれ皆様を後ろから包丁で刺してやろうとさえ思っておりますよ?』

『………………』

『あら? 怒っておりますか? ご安心ください、皆様を刺そうなどとは思っておりませんよ。嘘ですので』

『……どうすれば、木ノ葉に来てくれるのだ?』

『そうですねえ。扉間さんが、私を妻に迎えてくれたら、考えましょう』

『エン殿。どうか、真面目に話をしてほしい。つまらん嘘は止めよ』

『ええ、嘘です。たとえどのような条件を付けられたとしても、木ノ葉に参入するつもりはございません。他の者たちに問うても、変わらないでしょう。諦めてください』

 

 むしろそちらの方が嘘であってほしいと、扉間は願ったが、彼女が自ら嘘だと打ち明けないという事は、本心なのだろうと分かってしまう。八雲一族の中で最も親しい彼女の行動は、事細かに分析できてしまう。

 

 二人は静かに歩き始める。また並んで。

 木ノ葉隠れの里の長と。

 八雲一族の長が。

 

『―――先ほど、扉間さんは我々が豊かだと言いましたが、それは間違っております』

 

 唐突に、エンは呟いた。

 

『魚は、陸の上では貧しく死んでしまいますが、海や川の中では豊かに泳ぎます。鳥は、木の枝では蛇に貧しく食われてしまいますが、空の中では豊かに飛びます。どんな者にも、豊かに生きる事が可能な場所があるということです。八雲一族の者たちが豊かに見えるのは、きっと、この場所だけなのです。そしてそれは、真に豊かだとは言えません。扉間さんや、ヒルゼンさん、ダンゾウさん、カガミさん、他にも木ノ葉にいらっしゃる方々こそが、豊かなのです。他者と関わろうと努力する人こそが、豊かなのですよ』

 

 我々には、その豊かさがありません。

 エンは続ける。

 

『我々の身体には、他者との繋がりを否定する血が流れております。故に我々は、山海の森林奥底に小さな集落を構え、外界との繋がりを拒絶してきたのです。そしてその考えは、親に教え込まれ、もはや思想の奥底まで根付いてしまいました』

『だが、今はワシらと繋がりを持っている』

『ふふ。そうですね。ですがそれは、皆様が無害であると判断したからです。安全だと、臆病に評価したから、繋がれているだけです。そしてたとえば、皆様が急にこちらへ足を運ばなくなったところで、一族の者たちは皆様に会いに行こうとはしないでしょう。ただ、あるがままを受け入れる。あるものだけを享受する。それを豊かだと仰るのは、いささか無理がございます。我々は、貧しさに甘んじているだけに過ぎません』

『だが、争いが無い』

『発展もございませんね』

『争い、命が無くなって生まれる発展に意味など無い』

『だから皆様のような方が生まれたのです。誰も傷つかず、けれど、発展していく為に。途方もない遠回りだと分かっていても、その道を進もうと決意した、皆様が。―――我々には、それが出来ません。発展していくことも、遠回りをすることも。ただその場で貧しさに甘んじるだけの、悪しき血脈なのです』

『………………』

『ですから、諦めてください。八雲と木ノ葉は交じり合う事はございません。雲と葉が、触れる事など無いのです』

 

 どうしてだろうか。

 彼女の言葉を聞けば聞くほど。

 無機質な壁が、自分と彼女を別け隔てるような感覚が襲ってくる。

 木ノ葉隠れの里に参入してくれるという望みは、前々から、かなり低いと分かっていたのに。

 冷えた空気が首筋をなぞるような寂しさが、やってくる。

 

『ですが―――。もし、ですよ?』

『……何だ?』

『もし、私共に……そう、たとえば、フウコが大人になって、何か、特別な事が起きたら、奇跡とか、そういう事が起きて、フウコが悪しき血脈から解き放たれた時には、木ノ葉に連れて行くのは、良いことかもしれませんね。あの子は、八雲一族で唯一の子供ですので、未来は末広がり。そういう事が起きないとは、限りませんからね』

 

 彼女の言葉の意図が分からず、返答に困った。すると彼女は『ふふ、すみません。変な話をしてしまいましたね』と、彼女も困った笑顔を浮かべた。

 

『そうですね。木ノ葉に参入は出来ませんが、応援は致します。扉間さんは、御呪(おまじな)いを信じておりますか?』

『呪い事など、興味がない。そんな事をする暇があるならば、考え、行動した方がマシだからな』

『ふふ。扉間さんらしいですね。しかし、私にできる事はこれしかありません』

 

 足を止めた彼女に、扉間も合わせて足を止めた。柔らかく笑う彼女の顔はこちらを真正面と向き、右手を扉間の胸辺りまで上げると、小指だけを伸ばしてきた。

 

『指切りをしましょう』

『……それは、呪いではないのではないか?』

『約束を守る呪いではあります』

『子供騙しだ』

『ええ、そうですね。ですが、嘘ばかりつく私との指切りならば、大人も騙せます』

『屁理屈は好きではない』

『多少の理屈があれば、意味があるというものです』

 

 のらりくらりと、のほほんと、あっさりと言ってのける彼女のペースは、厳格さを基盤とした扉間のペースを大いに狂わせる。納得のいかないままに、諦めた扉間は大きくため息をついて、自身の小指を彼女のそれに交わらせた。

 細い彼女の指は、扉間の無骨の指であっさりと折れそうなほど大きさに差があるものの、不思議と、安心感が沸いた。

 こんな事をしても、何も現状は変わらないというのに。

 

『兄を失って、混乱がやってきてはおりますが、木ノ葉隠れの里をどうか発展させてください。約束ですよ?』

 

 夜風が吹いて、木の葉が舞う。

 数秒の沈黙の後。

 何も現状は変わらないままに、けれど扉間は、確かに応えた。

 

『……約束しよう』

 

 嬉しそうに、エンは笑う。

 

『約束を破ったら……そうですねえ、やはり、針を千本ほど、飲んでいただきます』

『嘘なのだろ?』

『ふふ。さあ、どうでしょう』

『嘘なのだな』

『ええ、嘘です。だって扉間さんは、約束を守ってくださると、信じておりますから』

『相変わらず、食えない御人だ』

『ふふ。未亡人を食おうなどという健啖家には、扉間さんは見えませんね』

 

 その時、歩いてきた道の方から、声が聞こえた。

 

 お母さんと大きな声で呼んでいる。

 

『あら、フウコが追いかけてきてしまいましたね。家でお留守番を頼んでおいたのに……寂しがり屋な子ねえ』

『カガミたちにも頼んでおいたはずなのだがな……。あやつら、先に寝おったな』

『フウコー。貴方のお母さんは死んじゃったから、家に帰って葬式の準備をしなさーい』

 

 ええッ!? と、暗闇の奥で素っ頓狂な声がする。

 

『実の子に趣味の悪い嘘を付くでない』

『子は親の嘘を聞いて成長するものなのですよ。さて、本当に戻りましょう。あの子にいじけられては、嘘の付き甲斐がありませんので』

 

 小指はあっさりと解かれ、エンはすたすたと来た道を戻り始めてしまった。

 

 文字通り、来た道を戻った結果しか、扉間の中には残らなかった。木ノ葉隠れの里が空中分解する危機は依然として存在している。問題は山積みで、時間は無く、その貴重な時間は、エンの嘘とのらりくらいとした対応のせいで無駄になってしまったというのは、大きなロスである。

 

 しかし、蛍の光を見た時のような、不思議な感覚だけは残った。思考に余裕が生まれながらも、遠くを見通せる。そんな気分だった。気分の中心は、小指から。

 

『扉間さん』

 

 見下ろしていた小指から顔を上げると、少し離れた所で振り返っていた。

 

『信じてますよ、木ノ葉隠れの里を発展させること。平和の実現を』

 

 そして願わくば。

 

 フウコが過ごせる未来を―――。

 

 

 

 やがて扉間は、エンと誓いを交わし。

 その誓いを果たすべく、木ノ葉隠れの里にも、フウコにも、尽力した。

 結末は、誰もが予期せぬ方向へと進んだが。

 木ノ葉隠れの里の機能の基盤を無事に確立し、扉間は、エンとの誓いとフウコとの誓い紡ぎ、未来へと託した。

 決して伺う事など出来ないはずの。

 遠い未来にあるべき、木ノ葉隠れの里の平和を。

 

 

 

 そして。

 

 魂は外法によって未来へと蘇った。

 

 始まりの分からない意識の開闢は、夢を見る時よりも不連続で、寝起きよりも残滓が無く、それこそ正に、瞬きをしたら場面が変わっていたという、不可思議でありながらもどこか日常感を引きずったものだった。

 

 視覚からの情報は、何一つ滞ることなく取り込まれる。思考の網は法則的で、乱雑な情報を精密に構成し直し、最終地点の意識に読み取りやすくしてくれる。

 

 足場の瓦屋根。

 紫色の結界。その向こうでは、巨大な蛇が里の中へと侵入し暴れているのが見える。

 かつて見た街並みはアウトプットを残しながらも、ディティールは変わっている。

 

 それらの情報と、死んだはずの自分が呼吸もなく意識を戻している事に、扉間は小さな落胆と達観を抱きながらも、目の前に立つ老人の懐かしい面影に、息を吐いた。

 

「久しぶりよのう、サルよ……」

 

 どれくらい程の間、その名を呼んでいなかっただろう。自分の記憶の中では、一日も過ぎていない。しかし、久しぶりと呼んだのは、分かっていたからだ。自分が時間を超えて、蘇ってしまったのだと。

 

「ほぉ……、お前か……。歳を取ったな、猿飛……」

 

 隣で、声が。

 黒の長髪と赤を基調とした忍び装束。

 自分よりも先にこの世を旅立った筈の兄―――千手柱間が立っていた。

 彼も自分が蘇った理由が分かったのだろう。落ち着き払い、そしてこの場において、全く介入するべきではない立場ではない事を重々承知している様子だ。

 

「……本当に、お久しぶりですのう。柱間様、扉間様」

 

 振り絞るような声で、ヒルゼンは応えた。自分が生前の頃は、大人ではあったが、まだまだ子供を見守るような感覚が生まれてしまうほどの未熟さがあった。しかし、年老いた彼の姿には、当時のようなそれは無い。

 ただ単に歳を重ねてきただけという訳ではない。自分が授けた火影という地位を背負い、努力をしてきたのだろう。

 喜ばしいと思う反面。

 だが、この現状。

 戦争かどうかは定かではないものの、エンと誓った平和ではない事に。

 

 振り返る。自分や柱間が入っていたであろう棺桶は力なく瓦屋根に倒れ、その奥に立つ男の姿をはっきりと見させる。

 

 白化粧をした長髪の男だった。

 

「穢土転生か……。という事は、貴様がワシらを……」

 

 ええ、と大蛇丸は頷いた。

 

「偉大な火影である御二人の力をお借りしたくて、お呼びさせて頂きました」

「木ノ葉を滅ぼす為にか?」

「面白いとは思いませんか?」

「とんだイカレ者か……」

 

 だが、タダ者ではない事は分かる。穢土転生の術は、印や仕組みを理解していれば使用できるような単純な術ではない。忍としての、才がいる。しかし、それでもやはり、まだまだ未熟ではある。そのせいで、蘇った肉体は不完全だった。生前の時の何分の一の力も出せない。おかげで、自身の行動に大きな制限がある。

 

「はあ……いつの世も争いか……」

 

 と、柱間がぼやいた。もしも、彼が生前通りの力を持っていたならば、穢土転生の術の支配など瞬く間に打ち破っているはずだ。

 

 できる事は、些細な所作と、単なる会話。

 すぐにでも自分たちの意識は閉じられ、純粋な兵器としてヒルゼンと戦う事になる。翼を持たない蛇がどれほど願っても空を飛べないように、現状として抗うことは絶対的に不可能なのだ。生来から持ち、鍛えられてきた冷静さは淡々とし、幽世から現世へと蘇りながらも、扉間はその事実を前に大きな感慨は抱かなかった。

 ヒルゼンが。

 木ノ葉の子らが。

 この現状を打開してくれるだろう。

 そんな信頼があることも、扉間も、柱間も。

 冷静でいられるのだろう。

 

 しかし。

 

 扉間にとってただ一つだけ、尋ねたいことがあった。

 誓いの、確認である。扉間はヒルゼンに向き直る。

 

「サルよ……この場で訊くには場違いな気もするが、一つだけ教えてほしい」

 

 エンとの指切り。

 一つ目は、里の発展と平和の実現。

 しかし、実はもう一回、指切りをした。

 彼女は笑いながら『あの時の指切りは無かった事にしましょう。嘘だったのです』などといい、新たに書き換えられた指切りをしたのである。

 フウコを平和な世に導き、人生を謳歌させる。

 それが、彼女との本当の誓い。

 

「フウコは今、どうしておる」

 

 今の世が具体的にどうなっているかは分からない。他の忍里を巻き込んだ大戦中かもしれないし、あるいは互いににらみ合った冷戦状態かもしれない。フウコの封印を解くのは、完全な平和がやって来た時だとヒルゼンには伝えてある。この伝聞も、これから続く火影たちへと引き継がせていくようにとも。

 だがもし目覚めているのだとしたら。

 聞きたい。

 彼女がどうしているのか。

 エンとの誓いを守れているのか。

 フウコは健やかに過ごしているのか。

 楽しく人生を謳歌できているのか。

 里が今、酷い状態ではあるが、無事なのか。

 それだけを―――。

 

 

 

「貴方の言うフウコなら、数年前に里から出て行ったわ」

 

 

 

 扉間の問いに応えたのは、ヒルゼンではなく、大蛇丸だった。

 

 一瞬だけ、言葉の意味が分からず、ヒルゼンの反応を見てしまった。ヒルゼンの表情は、その言葉があまり良くない方向の意味合いなのだと、そして事実なのだと証明するかのように、奥歯を噛みしめた苦いものだった。

 

「……何故お前がそのような事を知っているのだ…………」

「クク、今となっては有名な話ですよ。彼女の名前を尋ねれば、誰もが同じこと言うでしょう。死んでいた貴方には分からないかと思いますが、彼女は数年前、とある事件を起こし、里を追われたのです。今では他里からも恐れられる、犯罪者の中でも一等に危険な人物として認識されているのですよ」

「虚言をほざくな。あやつがそのような事をするはずがない」

「彼女がどんな性格なのかは、正直私にも分かりかねますが、少なくとも彼女が里を追われたのには、そこにいる老いぼれと、そしてこの里の存在そのものが関わっているのですよ。有り体に言えば、木ノ葉隠れの里が彼女を追い詰めたのです。そうですよね? 猿飛先生。まさか、この期に及んで否定するなどとはしませんよねえ? 彼女に、うちは一族滅亡を指示した一人なのですから」

 

 フウコがうちは一族を滅ぼした。

 

 荒唐無稽な話は、しかし、眼下に広がる光景が現実味を持たせる。

 

 警務部隊に配属が決定したうちは一族がいながらも、果たして木ノ葉隠れの里がここまで荒れる事はあるのだろうか、と。

 

 沈黙を続けるヒルゼンに、扉間が真実を聞こうとした―――その時のことだった。

 

 結界の外に立っていた一人の少年の、震えた声が聞こえてきたのだ。

 

「どういう……ことだってばよ…………、それ……」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 その洞窟には、外界へと繋がる通路は存在しなかった。故に、昼間であるというのに外の光は一切に届かず、完全な暗闇が唯一の支配者である。どのような経緯で、その空間が生まれたのかは分からない。

 自然の衝突が生み出したものなのか、それとも誰かが人為的に生み出したのか。利用者たちの中でそれを知る者はいない上に、知ろうとする者もいなかった。ただ都合の良い、静かな空間。彼ら彼女らが抱いている共通の認識である。

 

 そう。

 

 出入り口の経路が無いその洞窟には、七つの影が立っていた。

 

 影―――不思議な事に、その影は光っていた。矛盾した表現であるけれど、事実である。影は、チャクラの塊である。つまり、術者のチャクラによって映し出されたものだった。

影は人の形をしている。影の縁は怪しく仄かに発行しており、それが洞窟内の唯一の光源となっていた。縁以外は、どれも、漆黒だった。七つの影は意識した訳ではないものの、会談でもするかのように円形に陣取っていた。

 

「……おいおい、まーたあの女とダンナは遅刻かよ、うん」

 

 影の一つが苛立たしく声を出した。

 

「もう勝手に初めてもいいんじゃねえのか? どうせ、あの二人に何言っても意味ねえよ、うん」

「おやおや、デイダラにしては珍しく正しい事を言うじゃあありませんか」

 

 影らの中で一際、大柄な形をした影は、皮肉る様に呟いた。すると、デイダラと呼ばれた影は小さく舌打ちをする。

 

「なんだよ鬼鮫。珍しくってのは」

「いえ別に。ただ貴方とペアを組んでいると、色々と貯め込んでしまうものがありまして。貴方は何かと爆発させて拡散させているようですがね」

「そりゃあオイラの芸術の近くにいれば、鬼鮫は干物になっちまうからなあ。ちったぁ芸術を受け止める教養を身に付ければいいんじゃねえか? うん」

「花火を振り回す子供の遊びに付き合う身にもなってほしいものですねえ」

「……おいテメエ、今オイラの芸術を、ガキの遊びだっつったのか? うん」

「遊びではなかったのですか?」

「表出ろオイッ!」

「今、私たちは外なんですがねえ」

「やめるんだ、二人とも」

 

 チャクラの影であるとはいえ、まさに喧嘩を始めようとした時、別の影が制止させる。声は平坦で、威圧する硬さもなかった。しかし、デイダラと鬼鮫は、納得いかなそうではあったが、互いに黙り込む。それは、制止させた影の男が、この集団のトップである事を遠さ回しに現していた。

 

「あの二人が遅れてくるのはいつもの事だ」

 

 と、男は呟く。

 

「ましてや、二人ともノルマを達成しているからな。少しくらいは大目に見てやれ。……今回の要件は、緊急のものでもない訳じゃない。二人が来るまで、黙っていろ」

 

 男の指示通りに、洞窟内は無音に満たされる。ただ、誰もがその静寂が無駄だと言いたげに、無言の不服を言っていた。数分くらいだろうか。ようやく、その二人は現れた。

 

「ごめん。寝てた」

 

 現れた一つの影は、高級な鈴のような声質。影の声は少女だった。

 

 遅れてきた事は自覚しているのだろう。しかし、平坦な声のトーンと、悪びれる様子もない率直な事情説明に、デイダラは露骨過ぎるまでに大きな舌打ちをした。自身の身長ほどにもある長い髪を静かに揺らして「なに?」と、その影がデイダラを見ると、彼は不機嫌そうに視線を逸らした。

 

「別に、何でもねえよ、うん。なあおいサソリの旦那。アンタからは何かねえのか?」

 

 逸らした先には、もう一つの影。その影は、他の者らの影に比べて背は極端に低い。サソリと呼ばれた影は微動だにしないままに「俺に文句言うんじゃねえ」と、呆れた声を出す。

 

「こいつの保護者じゃねえんだよ、俺は。文句があるならフウコに言え」

「文句?」

 

 と、フウコは頭を傾げる。そして「ああ」とすぐに、頭の位置を戻した。

 

「少し遅れた程度で、腹が立ってるの?」

「どこかの遅れてくる奴の態度がでけえからな、うん」

「そう。貴方の器が小さいだけでしょ」

「んだとぉッ!」

「五月蠅いから静かにして。起きたばっかりだって、言ったでしょ?」

「ククク。今日は姫のご機嫌が斜めのようですねえ。サソリ、しっかり食事を与えているのですか?」

「何度も言わせるな。俺はこいつの世話係じゃねえ」

「うん、そう。お腹が空いてる。早くご飯が食べたい。サソリ、今日のご飯は?」

「黙れフウコ。さっき食ったばっかだろうが」

「嫌だ」

「くだらない世間話はそこらへんにしておけ」

 

 再度、男は制止を加える。

 

「全員が集まったところで、話をしよう」

 

 

 

 サソリは、嫌な予感を抱いていた。今回の招集のタイミングが、あまりにもピンポイントだったからだ。

 

 時期が被り過ぎている。

 

 アジト内で【暁】のトップの男から、忍術による遠隔のコンタクトを受けた瞬間に脳裏に浮かんだのは、木ノ葉隠れの里で行われている中忍選抜試験―――最終試験。試験の具体的なプランは知らないが、試験が行われるのは昼頃のはずだ。大名が顔を出している、試験の最中。大蛇丸が木ノ葉に戦争を仕掛けるのは、つまりは、今頃だ。

 

 そのタイミングでの、招集。

 

 この符合への嫌な予感は、おそらく、気のせいで済まされるものではないだろう。

 

「……再不斬、白。準備をしろ」

 

 サソリは、同じリビング内にいた再不斬と白に呟いた。ちょうど、昼食後だったのだ。白は、フウコが積み重ねた空き食器を片付け、再不斬は白の作業が終わるのを待っているかのように、テーブルに空いたスペースに足を乗せて瞼を閉じていた。サソリの呼びかけに、再不斬は鋭く睨み返してくる。

 

「実験でもすんのか?」

「いや、今回は別件だ。……だが、今まで以上にぶっ壊れるかもしれねえ」

「…………まさか、アレか?」

 

 以前に話した、フウコが暴走するかもしれないという事を思い出したのだろう。再不斬の眼光が鋭くなるのを傍目に、サソリの中で大きな狂いが起きる。

 

 早い。

 

 あまりにも、早過ぎる。

 

 サソリの中には、大蛇丸の企てがフウコの耳に入るのは、大蛇丸の木ノ葉壊滅が失敗に終わってから、という筋書きがあった。

 

 何せ、忍里の中で起きている事象なのだ。企てが失敗してからというのなら、火の国からの資金や物資の援助、その流れで【木ノ葉隠れの里に何かがあった】と察知するかもしれない。それとも、復興によって人員を割かれた事による、任務引き受け数の減少や忍の質の変化でも、察知されるかもしれない。

 

 情報はどこからでも漏洩してしまう。

 

 どれほどの大樹でも、風が吹けば葉が擦れ合い音が出てしまうように。葉そのものが落ちどこか彼方に着地してしまうかのように。

 

 だが、リアルタイムというのはおかしい。それは、監視していた、ということだ。

 

 監視。

 

 ―――どうして木ノ葉を監視してやがる。今はまだ、価値がねえはずだろうが。

 

 サソリの内心の苛立ちが示す通り、今の木ノ葉隠れの里には価値が無い。価値が生まれるのは、まだまだ先のはずだ。監視する必要が全くないという訳ではないが、監視する暇があるならば、本来の予定を進行させるのに労を費やした方が効率的だ。そして【暁】のリーダーは、効率的な考えをする人格だというのが、サソリの評価だった。フウコを疑いながらも、彼女の実力を評価して組織の部品に仕立て上げているのもそうだし、いつでもフウコを消せるように自分をペアにしたのもだ。

 

 ではどうして、知ることが出来たのか。

 

 予め、大蛇丸の行動を予見していたからか?

 

 いやそれもおかしな話しだ。【暁】から見れば、大蛇丸は自分たちの計画を知る者。いち早く消し、今後の予定への障壁を取り除きたいはず。木ノ葉に大きな隙を生み出すという事を差し引いても、大蛇丸の動向が分かっていたならば、彼を消す方がいいはずだ。

 

 どうしてだ。

 

 疑問は解けない。

 

「どうすんだ?」

 

 と、再不斬は低い声で呟く。

 

「お前の予定通り、あの女を暴走させるのか?」

「駄目だ」

 

 今フウコが暴走すれば、彼女は間違いなく木ノ葉へと赴き、大蛇丸を殺すだろう。

 そうなってしまっては、こちらの計画が破綻しかけない。

 

【暁】と敵対してしまうのは仕方ない―――いずれは敵対するシナリオなのだから―――。

 フウコが暴れて、しっちゃかめっちゃかに世の中を壊しまわり、何千何万という人間を殺し、挙句にイタチやイロミや他の知り合いを皆殺しにするのも仕方ない―――計画に大きな支障が出ないから―――。

 

 だが。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なんだよ、また予定変更か? 前々から思ってたが、お前の考える演劇ってのは随分と曖昧なんだな」

「シナリオを書いたのがフウコだからな。しかも結末しか書かれてねえポンコツだ。俺がやってるのは、とにかくあいつが描いた部分を実現させるのに手を尽くす事だけでしかねえ。過程なんざ不格好でもいいんだよ」

「じゃあどうする」

 

 どうすると言われても、招集指示が出てしまっている。出ない訳にはいかない。もしかしたら、全く関係の無い事での招集かもしれないからだ。

 

「考えている時間はねえ。おい小僧」

「はい、何ですか?」

 

 食器を片付けていた時の呑気な雰囲気は無くなり、白は真剣に頷いた。

 

「俺の部屋のデスクに注射器と薬がある。すぐに持ってこい」

「……分かりました」

 

 白はすぐさまサソリの部屋へと向かった。アジトの中の互いの部屋は、位置は把握していた。下手にアジトに迷い、サソリやフウコの部屋に入ってしまう事によって招かれる疑念を避ける為だ。

 

「再不斬、お前はいつでも逃げられる準備をしろ」

「いいのか?」

「ああ。お前ら二人は今後も、あいつの為に役立ってもらう。こんな下らねえ事で死ぬのは俺が許さねえ」

「いいだろう。……だが、出来る限りは手を貸させてもらうぞ」

「ほう。いつになく殊勝だな」

「あの女でもテメエでも、手足だろうが爪先の垢だろうが、何にでもなってやる。その代わり、契約は守れよ」

 

 サソリはリビングを出た。

 フウコの部屋。

 暗闇だが、微かな紫煙が漂っている。食後に、煙草を吸ったのだろう。煙草の葉はサソリが調合したものだ。依存性を極端に強くしている上に、食後と眠る前に吸うように言ってある。今の彼女は、意識が迷妄しているはず。

 

「フウコ。起きてるか?」

「……うん」

 

 彼女は部屋の端に小さく蹲っていた。白い寝間着だが、長い黒髪のせいで、彼女の身体の殆どは暗闇に溶け込んでしまっている。足元には煙管が転がっている。子供が壊れたおもちゃを前に泣いてるような姿だと、サソリは思った。

 

「確認したいことがある」

「なに? あいつに呼ばれてるから、早めにいかないと……。私もサソリも、何度も遅れてる……」

「今更気にする事じゃねえ。確認するぞ」

「うん」

「俺たちの計画を覚えているか?」

「うん」

「俺たちの契約を覚えているか?」

「うん」

「本当か?」

「私は、復讐をしたい。私から大切な全てを奪った、全ての過去に、復讐したい」

「俺は、お前の身体を貰う」

「私が壊れても」

「俺が直す」

「私が逃げようとしても」

「俺がお前を舞台に戻す」

「私はいらない。私が何かを考えれば、何もかも上手くいかない。―――だから、サソリが必要なの」

「お前の全ては、俺に任せろ。何も考えるな。舞台もセッティングも、俺がする。―――だが、最後は、お前の全てを貰う」

「覚えてるでしょ?」

「最後に確認するぞ。お前は本当に、復讐がしたいんだな? その為なら、全てを捨てられるな?」

「うん。全部捨てる。今度こそ……捨てて…………あいつを……あいつらを…………」

 

 震えるフウコの声。しかしそれは、怒りに震えているだけではないと、サソリには分かっていた。

 

 怯えている。

 

 いつも【暁】の招集では、彼女は怯えてしまう。遅れてしまうのは、それが原因。

 

 薬のせいもあるのだろう。今では、彼女の心はズタボロだ。彼女の中にいる別の人格が、毎日毎日彼女の心を踏みにじるせいで、初めて会った時のフウコは名残だけだ。滅多に本来の彼女を見ることが出来ない。もはや、幼児退行と言ってもいいだろう。怯えが素直に出てしまっている。

 

 詳しくは知らないが、【暁】のリーダーに酷く痛めつけられたらしい。その時のトラウマが、彼女を怯えさせてしまっている。

 

 だからいつも、サソリは彼女を立ち上がらせる。怯えた彼女を、舞台に立たせる為に。

 

「安心しろ、フウコ」

 

 彼女の頭に手を添える。

 無骨に。

 無表情に。

 

「お前の演劇は、俺が成功させる。お前は何も考えるな。ただ、契約と、復讐の事だけを考えろ」

 

 そして二人は、招集場所に現れた。

 

 他のメンバーとの些細な口喧嘩をするフウコの姿に、とりあえず今は問題ないと判断した。あとは、この後の展開次第。

 

「全員が集まったところで、話をしよう」

 

 来たかと、サソリはリーダーの影に視線を向けながらも、すぐ横のフウコへの気配りを集中させた。

 

「大蛇丸の所在を突き止めた」

 

 まるで道端に転がっていた落とし物を見つけたかのような軽い調子でリーダーは言ってのけた。情報を持たないフウコはどうでもよさそうに無反応だが、サソリにとっては最悪の展開だった。

 

「そいつは朗報じゃねえかよ! うん!」

 

 集まった者の中でデイダラだけが呑気にテンションを上げている。他の面々は別段、大蛇丸の所在が分かったことに喜ぶことも、その程度の事で招集をかけるとはなどと落胆することもなく、淡々とリーダーの言葉を待った。その中には、勿論サソリも。ヒルコの中でじっと、息を潜めて。

 

「別件でゼツを動かしていてな。その途中で見つけたらしい」

 

 そこでリーダーは視線で話しを渡した。視線の先には、チャクラの影からでもニヤニヤとした半分の顔が伺える。彼はわざとらしくフウコを見た。

 

「そうそう。大蛇丸はね、木ノ葉隠れの里にいたんだよ。何やろうとしてるのかは分からないけど、凄いよ? 今、木ノ葉はぐちゃぐちゃになってる」

 

 ―――いちいち突っかかってきやがって。

 

 フウコは何も応えず、無関心を装っている。サソリには、手に取る様に分かってしまう。

 

 今、フウコの心は間違いなく、荒れている。

 

 火の中に入れられた竹のように、破裂寸前だ。いつ木ノ葉隠れの里へ行き、大蛇丸を殺すか分からない。

 

 招集前に打ち込んだ薬の効果もあるのだろう。しかし、そんなものは気休めだ。手加減した薬の効力では、彼女の強情は抑えきれない。

 全ては彼女の意志。

 復讐を心の底から望む、意識。

 それだけが、この場面を取り繕う背景だ。

 

「大蛇丸を殺しに行くのか?」

 

 別の影―――角都が興味なさげにリーダーに尋ねる。

 

「いや。奴を消すのは、今は難しい」

「なんでだよ?」

 

 と、デイダラが。

 

「今は木ノ葉が滅茶苦茶になってるんだろ? だったらそのゴタゴタに紛れて消せばいいじゃねえか、うん。何だったら、オイラの芸術で木ノ葉ごと吹き飛ばしてやってもいいぜ?」

「……今回、皆に招集をかけたのは、大蛇丸を消す為じゃない。奴はちょうど良く、こちらの計画を進める機会を作ったに過ぎない」

 

 計画。

 

 この場に集まった者ならば、共通の認識を想起させる言葉だった。

 

 そして、このメンバーの殆どは、知っている。

 

 計画の為に必要な【尾獣】と呼ばれる存在。それが、今話題となっている木ノ葉に、何匹いるのか。

 

 そしてサソリは知っている。

 

【尾獣】を宿している少年と、フウコの微かな繋がりを。

 

「経緯は不明だが―――木ノ葉で九尾が暴走している」

 

 ガギリと。

 

 何かが砕ける音が微かに聞こえた。

 その音が、フウコが自身の奥歯を噛み砕いた音だと分かるのに、一秒も時間は必要なかった。

 




次話は今月中に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

舞えよ、舞えよ、散れよ、散れよ。木ノ葉よ

 投稿が一カ月ほど遅れてしまい、誠に申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿いたします。


 

 全ての始まりは……二代目火影、貴方から生まれたのですよ。貴方が推し進めた、木ノ葉隠れの里を、明確な忍里として機能させる為の整備の一環として行った、うちは一族を中心とした警務部隊の設立。それが、彼ら彼女らに小さな芽を与えたのです。

 

 まだ、初代火影によって束ねられただけだった、木ノ葉隠れの里の黎明期。一族らがただ集まり、一族そのものが単なる役割に従うだけの、烏合の集を、貴方はほぼ分け隔てなく混ぜ合わせた。一族という括りを力の象徴ではなく、単なる血脈の誇りにまで落とし込んだその手腕と先導力は、歴史の教科書では淡々と描かれていますが、大した偉業だと私は判断している。本来なら里そのものが空中分解してもおかしくない政を、無事に完遂させたのですから。

 

 しかし貴方は、うちは一族だけは、その整備から外した。警務部隊。里の治安を守護するという重要な機能を、たった一つの一族に依存する形をとった。

 

 勿論、今を見渡せば、一族がある種の機能を担っている部分があるわ。例えば、山中一族は他里の忍の記憶を見る為の、所謂、尋問を任とした事が多い。けれどそれは、一族に伝わる秘術や、特性に依存しているに過ぎないわ。仕方ない、という事。しかし、うちは一族が警務部隊を担うのは、仕方ないことではなかった。

 

 おそらく貴方は、里を守護する者として、中途半端な力では不十分と考えたのでしょうね。うちは一族は、その全ての者が十分な力を有している。常に一定のエリートを輩出してくれるという観点で、警務部隊の中心とした。傍から見れば、誤った選択肢ではなかったでしょう。

 

 しかし、うちは一族から見れば、その選択はあまりにも非情なものに映ったのでしょうねえ。実力があるのにも関わらず、任せられた仕事は、あくまで里の警備。

 

 しかも警務部隊には里の政に口出しする権力は与えられていない。まあ、里の警備―――裏を返せば、里で一、二を争う武力を持った集団が政に口出しを許してしまえば、いずれは武力の高低で発言力が決定してしまう。その事態を憂慮したのは当然の流れ。けれど、それは納得いかない事だった。

 

 うちは一族と千手一族の確執。実は、貴方も薄々は感じていたのではないですか?

 

 木ノ葉隠れの里が誕生する前。まだ、第一次忍界大戦だった頃。うちは一族と死闘を繰り返してきた千手一族。つまり、初代火影、二代目火影、貴方方の事です。御二方が、火影になったという事が、うちは一族にとっては納得のいかない事だった。

 

 どうして、千手一族と力は変わらないのに、扱いが全く違うのか。

 

 それこそが、うちは一族が木ノ葉隠れの里の転覆を望む―――クーデターの始まりだったのですよ。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 涙が混じる湿った息の中には、埃臭さが入り込んでいた。おまけに、息苦しさ。どんなに鼻で呼吸しても、まるで空気が薄くなってしまっているかのようだ。いや、きっと、薄くなっているのだろう。

 

 肩に乗っかる何か、足先を圧迫する何か、背中を押す何か。視界は真っ暗。分かるのは、ただ、自分が瓦礫の中で偶然と出来た狭いスペースにいるという事。いつ押しつぶされてもおかしくない、そんな不安定な場所に、身体を小さくしているだけだという事だった。

 

「……だ、誰か…………―――ひッ!?」

 

 零れる涙を止める事が出来ない。怖い、怖い。助けてと、叫ぼうとした時、耳の横で小さな石の粒が落ちるのが分かり、声を止めてしまった。声の反響で、瓦礫が落ちてきて、トマトのように押しつぶされてしまうのではないかと、少年は怯えたのだ。

 

 男の子は、大きく後悔した。かくれんぼをしようと言い出したのは、自分だった。昼休み中、目一杯遊びたくて、それに、かくれんぼなら、授業に遅れても言い訳が出来る。隠れるのには、自身があった。だから、かくれんぼが良いと、言ったのだ。

 

 ついこの間、見つけたばかりの、隠れスポット。そこを使えば、もしかしたら、アカデミーが終わるまで隠れ続けられるかもしれない。そう、思ったんだ。

 

 けれど。

 

 地震のような大きな揺れが、今の現状を作った。

 何も見えない、何も出来ない。

 ただ、外から誰かが助けてくれるか、外からの小さな力で押しつぶされるかというそんな状況。

 いや、誰かが見つけてくれる可能性は低い。

 

 だって、自身を以て、見つからない場所に隠れていたんだから。

 

「……ごめんなさい…………」

 

 つい、そんな言葉が零れてしまう。授業をサボろうとしたことに対してだ。呟いてしまうと、涙がボロボロと、量を増していく。頭に思い浮かんだのは、怖い怖い、ブンシの顔だった。彼女はよく怒る。怒らない授業が全くないと言っていいほどに、彼女は怒る。ほんの少しでも、悪い事をすれば、必ず怒鳴って、目の前までやってきて、拳骨を起こしてくる。たとえ黒板に文字を書いていても、後頭部に目が付いているのではないかと思えるくらい、悪い事を見つけ、怒る。

 

 今だけは、彼女の怒鳴り声が聞きたい。今、自分は悪い事をしている。アカデミーの授業をサボっている。だから怒鳴りに、目の前に来てほしい。

 

 男の子は何度も「ごめんなさい」と呟いた。小さく、小さく。瓦礫の向こう側には絶対届かないだろう、声量で。

 

「ひっ」

 

 瓦礫が小さく震えた。もしかして、瓦礫が崩壊するのだろうかと、脳裏に過る。そして、自分が潰される映像が想像できてしまう。頭からなのか、肩からなのか、足先からなのか。ガタガタと身体が震えると同時に、瓦礫の揺れが大きくなっていく。振動は真正面から。じゃあ、足先が潰れる。必死に足を引っ込めようと膝を折るが、もはやスペースが無い。恐ろしさのあまり、瞼を強く閉じる。暗闇の深度は変わらない。だけれど、強く閉じて、閉じて、そして―――。

 

「おら、キミ、見つけたぞ……」

「……え?」

 

 瞼の向こうから、白い光が透き通り、女性の声が聞こえてきた。驚きで瞼を開けると、綺麗に前髪を額当てで上げ、そこに幾つかの砂埃の汚れを付けたブンシの顔があった。

 

「せ、せんせい……なの?」

 

 キミは涙声にそう尋ねた。ブンシは四つん這いになっているのか、顔を突き出した姿勢のまま、不機嫌そうに顔を歪める。

 

「あぁあん? いつ、あたしがアカデミー首になったよ、ったく。まあ今日は非番だから、先生じゃねえと言えば、先生じゃねえけどな」

「ど、どうして先生が、あの……」

「お前を見つけられたかって?」

 

 小刻みにキミは頷いた。

 

「テメエの隠れる場所なんざ、あたしにゃすぐ分かんだよ、バカタレ。教師舐めんな。ほれ、外に出るぞ」

 

 差し伸べてきたブンシの手は、外からの光で照らされて、所々に生まれた小さな傷を露わにした。瓦礫を素手で押しのけて出来た傷なのだろう。けれど、握ると、安心してしまう。いつもは頭を殴ってくる拳なのに、今だけは、安心できた。

 

「このまま引っ張るからな。どっか、挟まってる部分はあるか?」

 

 キミは顔を横に振る。さっきまで挟まっていた足先は、ブンシのおかげで自由になっている。

 

「なら、安心だ」

 

 ブンシは握った手を引っ張りながら、そのまま後退する。

 

 外に出た。そこは、校舎内にある用具室。普段は鍵がかかっているそこは、実は外の空気を輩出する為の小さな通風孔がある。キミは昼休みの間、その通風孔を辿って中に入っていた。

 

 引っ張り出されたのは、校舎の廊下側。だが、天井は無く、天井だったものは床一面に瓦礫となって積まれており、壁という壁は穴だらけ、もしくは壁そのものが無くなり、外の空気を漠然と通している。

 

 異様な光景。そんな光景は、けれど、目に入らず、真っ先に入ったのは、友達のクラタとカミナの姿だった。二人はキミの姿を見るなり、貯めていた涙が零れ始めた。

 

「ああ、キミ。良かったぁ」

 

 と、カミナが顔をくしゃくしゃにする。

 

「大丈夫か? どっか、ケガとかしてんじゃないのか?」

 

 クラタが慌ててキミの身体の心配をした。

 

 二人とも、身体中に砂埃や小さな傷を付けている。けれど、さっきまでの暗闇と全く正反対の、いつもの二人を見ただけで、安心が生まれた。嬉しくて、涙が零れてしまい、つい、二人に抱き着いてしまった。

 

 無事で良かったと、三人は互いに伝え合う。

 

 良かった。

 本当に、良かった。

 怖かったよぉ。

 良かった―――。

 

「うっせえぞクソガキどもッ!」 

 

 そして三人は床に崩れ落ちた。

 

 強烈な拳骨が、三人の脳天を叩いたのである。

 

「勝手に喜び合ってんじゃねえ。ったく。元はと言えば自業自得だろうがッ! はしゃいでんじゃねえッ! いつも言ってんだろうが! 授業は遅れねえでちゃっちゃと出ろってッ! テメエらのせいで、あたしの眼鏡や服が汚れたぞ、どうしてくれんだッ!」

「「ご、ごめんなさい……」」

「あ、あの、先生」

 

 と、カミナが小さく手を挙げる。

 

「私は、真面目に授業を受けてたんだけど……」

「かくれんぼの鬼なら、しっかりこのバカ二人を見つけろ」

「そんなぁ……、無理だよぉ……」

「無理でもやれ。友達なんだろうが」

 

 苛立ちを隠さない大きな舌打ちをしてから、ブンシはキミとクラタを両腕で抱え、カミナの股下に頭を入れて強引に肩車した。「さっさと逃げるぞ」と、彼女が呟き走り出すと、むわっとした熱い空気が顔一面に貼りついた。

 

 校舎―――今では、瓦礫と、中途半端に残った屋根や壁が残っているだけの建物だが―――の外は、台風でも過ぎ去ったかのように、荒れていた。校舎のように倒壊している建造物、空へと昇る大きな砂煙。日々、当たり前のように眺めていた光景を思い出させないかのような強烈な情報量に、キミ、クラタ、カミナの三人は恐怖を抱いた。何が起きているのか分からない、濃霧のような漠然とした恐怖。やがて否応なしに視界に入り込んでくる巨大な蛇たちに、息を呑んだ。

 

 蛇たちは皆、里の中央へと進んで行っている。アカデミーには見向きもしない。距離は遠い。だが、もし間違って、人よりも大きな眼がこちらを見下ろしでもしたら、絶叫してしまう事だろう。

 

「いいから、お前らは静かにしてろよ」

 

 と、ブンシは小さく呟いた。半分以上が呼吸で含まれている、慎重なものだった。彼女の表情は授業で怒るそれとは異なっていた。蛇が里の中央に向かっているのとは逆方向―――歴代火影たちの顔が彫られている、顔岩の方へと向かっていた。どうしてそこに向かって移動しているのか、すぐには分からなかったが、顔岩の下には避難所が用意されている。緊急時の事が起きた場合、そこに移動するという事は、授業で学んだ。

 

 緊急時。

 

 それが今、起きている。

 

 アカデミーの友達や、家にいるだろう親は大丈夫だろうか? と、ようやく自分以外に心が向き始める。この世で一番怖いと感じているブンシが、傍にいてくれるからかもしれない。彼女よりも怖いものを、今は知らない。

 

 顔岩に近づいてきた。あともう少しの所。建物の間隔が少しだけ広い通り。蛇が通った跡のせいで、殆ど、広場のような見晴らしになってしまっている。あともう少しで、避難所だ。

 

「止まれ」

 

 その声が聞こえるよりも、先だったように思える。ブンシが、足を止めたのは。

 

 急激なブレーキによる慣性で血液が頭に偏った。遅れて、彼女の足元の地面にクナイが突き刺さると、ブンシは舌打ちを鳴らして、クナイが飛んできた方向を睨んだ。キミたちも、つい、顔を向けてしまう。

 

 崩れた瓦礫の山の上。そこには、黒いマスクと頭巾で顔を覆った男が。唯一覗かせる目元は、子供でも分かるくらい、冷え切った視線を飛ばしてきていた。額には、音符のマークが彫られた鉄板が。

 

 木ノ葉隠れの里に、他の里の忍がいる。加えて、里の惨状。

 

 歴史の教科書でしか知らない知識が、現実となって現れたのだと、ようやく三人は思い知る。

 

 戦争だ。

 

 ブンシが授業で言っていた、戦争が、目の前にある。

 

「木ノ葉の忍だな」

 

 と、男は尋ねる。だが、肯定しようと否定しようと、大して意味など無いことは、男の冷たい視線が物語っていた。

 

「……だったら何だよ。こちとらガキ連れでよ、面倒事は勘弁してくれたら嬉しいんだけどなあ」

 

 ブンシは小さく、汗を額に浮かべながら呟いた。

 

「なあに、すぐに終わる。ガキ共々、殺してやるよ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 勿論、うちは一族がクーデターをすぐに起こそうと思うわけはなかったわ。政から外されたからと言って、警務部隊という大きな組織の中核を担うというのは、他の一族から見れば一つ抜きん出た厚遇ですものね。当時はおそらく、小さな不満程度だったのでしょう。

 

 しかし、月日が経つにつれて、その小さな不満は世代を超えて蓄積されていくわ。里の治安を担う、争い事を治めるという立場は、どうしても角が立ってしまうもの。忍としての実力は他の一族よりも抜きん出ているというのに、時には不当な声をぶつけられなければいけないのかという不満が蓄積されていく。そこで、一度は火を消した、政に参加できないという不満が起きたわ。

 

 里の中で最も貢献しているというのに、里への影響力はまるで無い。

 

 この頃ではありませんか? うちは一族が、抗議の声を出し始めたのは? ねえ、猿飛先生。貴方の性格なら、いちいち馬鹿みたいに対応していたのでしょうねえ。そして、駄目とも了承とも言えない、つまりは現状維持。私の時と同じ。亀のように鈍重な改善。それがやがて、クーデターの芽に水を与える事になったわ。

 

 でもまあ、それだけならうちは一族はまだしばらく行動を起こす事は無かったでしょうねえ。エリート集団とはいえクーデターを起こすとなれば、五大里の中でも筆頭の木ノ葉隠れの里全てを相手にしなければいけない。一か八かの大博打ですもの。そこまで彼らは愚かではないわ。……とある転機がやってくるまで。

 

 一人の天才が誕生したこと。

 

 うちはフウコ。

 

 稀代の天才が生まれた事が、うちは一族の背を押してしまった。彼女が成人し、十分な力を付ければ、木ノ葉隠れの里を転覆させることが可能になると、一族が思ってしまった。

 

 まあ、()()()()()があるかもしれませんが、それを語るのは野暮というものですよね? 猿飛先生。ナルトくんもいますし、本題に入りましょう。

 

 うちはフウコが、頭角を現し始めるのとほぼ同時期に、うちは一族の動きが不穏になってきた。具体的には知りませんが、急に抗議の回数が増えたとか、あるいはぱったりと減ったとか、そんな所ではありませんか? そして、うちは一族を監視し始めた……いえ、おそらく上層部は、その事態を想定していたのでしょうねえ。

 

 そうでなければ、うちはフウコへの厚遇が、あまりにもスムーズ過ぎる。

 

 最年少での暗部の入隊。かつて暗部には存在しえなかった【副忍】という異例の地位の設立。全ては、うちは一族の中核にさせる為のアピールでしかなかった。彼女が中核になればなるほど、うちは一族の監視の精度は高くなる。

 

 そう。

 

 貴方々は、うちはフウコを自分たちの手元に置いていた。

 

 うちは一族がクーデターを企てようとしているという情報を伝え。

 

 里の平和を担保に。

 

 半ば脅迫したのですよ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ギャァアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああッ!」

 

 生き物が共通して出す、知性も理性も捨て去った絶叫は、足元を転がる友人が確かに発したものだった。その声はどこか彼方から聞こえてくるかのように、遠く感じる。思考は限りない白。

 

 指先の感覚を喪失してしまうほど、寒く感じた。

 

 彼女の声は遠く聞こえるのに、未だ治まる気配の無い木ノ葉と音の忍たちの戦闘の音は、酸素を大量に求める脳をガンガンと圧迫してくる。

 

 呼吸を何度しても、空気が肺を満たしている気がしない。水中にでもいるようだ。動悸は激しく、胸が痛い。大きく上下する肩には不必要な力みが拘束してくる。そして体全体が震えていた。じんわりと滲み出ていた汗が、やがて大きな一粒となって地面に落ちるのを、イタチは半ば茫然自失に視界の中に捉えていた。

 

 地面と、地面に膝を付き、乱暴に頭を振るっている友達の姿が。

 

 イロミ。

 

 呪印に全身を侵食させた。

 大切な友達は。

 口元を両手で抑えていた。

 

 特徴的な髪と長い前髪、ほどき掛けている包帯と両手の隙間から覗かせるのは、黒い炎。それが、イロミを苦しめ、傷付ける元凶だった。

 

「い……いらぃッ! いらいよぉッ! いらぃいいいいいいいいいッ!」

「………………イロミ、ちゃ―――……ッ!?」

 

 顔の右反面に激痛が走った。イロミに伸ばしかけた左手が反射的に顔を抑える。

 自分の体温よりも、そこは熱かった。激痛は原点を示すかのように、箇所を明確にしていく。右眼。眼球そのものが痛みを訴え、流血をもたらしていた。

 その流血は間違いなく、万華鏡写輪眼の発動による負荷の証明だった。

 右眼の万華鏡写輪眼に宿る、天照が、発動したのだ。

 

 ―――何故……天照が…………。

 

 顔から離して見える左手に付いた血と。

 写輪眼を解いてしまっている事が感じ取れてしまう左眼が。

 訴えてくる。

 間違いなく、天照は発動したのだと。

 お前が、発動させたのだと。

 手が震える。

 呼吸が荒くなる。

 

 天照は容易に発動できる術じゃない。間違ってだとか、咄嗟にだとか、思考を省略して実行する事は出来ない。最速でも、数秒。しかし、あの瞬間。

 

 イロミの口内が視界すぐまでに迫った、あの瞬間は。

 間違いなく、発動できる時間は無かった。

 一秒も猶予は無かっただろう。

 思考も、完全に追いついていなかった。

 避けようとも。

 助かろうとも。

 何も思っていなかった。

 だから発動する訳がないのだ。

 発動させようという意志が、思考が、生まれていないのだから。

 ありえない。

 頭の中でそんな結論を導き出しても、現実の結果がそれを跳ね返す。

 

 天照は発動してしまい、写輪眼を食らおうと開いたイロミの口内を焼き尽くしているという現実は、揺るがない。

 

 つまりは。

 そう。

 自分は。

 思ったのだ。

 助かりたいと。

 死ぬわけにはいかないと。

 いや……もっとそれ以上のことを思ったのではないか?

 だって、そうだ。

 似ている。

 感覚と、状況が。

 酷似している。

 また、あの夜だ。

 あの夜の光景と情景が、蘇る。

 フウコを殺すと。

 心の奥底から溢れ出た悍ましい殺意に、意識全てが支配された、あの夜。

 イメージした訳でも、意図した訳でもないのに。

 天照は、発動した。

 あの時と、同じだ。

 勝手に術が、発動したんだ。

 イタチの殺意に応じるように。

 そして今回は。

 あの時よりも遥かにスムーズに、術は発動されてしまった。

 導き出される答えは、一つ。

 

「…………そんな、はずは……」

 

 思ってしまったのか?

 心のどこかで。

 いや、心の中心が、奥底が。

 死んでしまえと。

 自分ではなく、お前が死ねと。

 思ったのか?

 友達を前に。

 友達の死を。

 闘争を、願ったのか?

 妹を連れ戻したいという強い想い。

 それを最優先に。

 あの夜の自分が。

 フウコを連れ戻そうとする自分を殺すなら。

 

 

 

 お前が死ねと。

 

 

 

 無意識の内に。

 

 死ねと。

 

 死ねと。

 

 お前は。

 

 お前のような化物は。

 

 フウコよりも、大切ではないのだと。

 邪魔するなら、死ねと。

 

 殺意が……。

 

 ―――違うッ!

 

 あの夜の自分は、もういない。

 

 フウコを信じると決めたあの日から。

 

「―――ッ!?」

 

 肌を刺す殺気と、左眼からの視界の端に映った砂の塊を前に、イタチは横へ跳躍した。たった一歩の跳躍は、獰猛な獣のように迫ってきていた砂の塊を一瞬で置き去りにし、けれど天照に苦しめられるイロミからは遠ざけられてしまう。

 

 天照は狙った対象を燃やし尽くすまで、対外の事象によって消す事の出来ない術である。術者が制御しない限り、消えない炎。

 

 ―――また、この砂か……ッ!

 

 すぐにでもイロミを燃やす天照を消したいというのに、砂の塊は、イロミから遠ざけるように追いかけてくる。やがて砂の塊は分裂し、片方はそのまま追いかけ続け、もう片方は寄り添うようにイロミの傍へと動きを変えた。

 

 明らかに、砂はイロミを守ろうとしている。砂を躱しながら、我愛羅を見上げた。瞳孔を広げた怒りの無表情が、こちらを見下ろしている。

 

 ―――どうして彼女を……。

 

 顔に見覚えはある。大蛇丸の内通者を見つける為に、中忍選抜試験の関係者、参加者のリストを見た時だ。我愛羅。砂隠れの里出身者。現風影の息子であること以外に特出した記述は無かった。普通の、中忍選抜試験に初参加した子供だ。

 

 にもかかわらず、初対面であるはずのイロミを助けようとしている。

 

 心の中で浮かぶ疑問。

 

 その疑問に耐えうる幾つかの可能性の生産。

 

 無意識化で行われる答え合わせは、しかし、すぐに中断させられる。

 

「ぁぁぁぁぁぁぁぁあぁあああああああぁぁぁあああああッ!」

 

 イロミの絶叫がイタチの思考を引き寄せた。

 

 助けなければ。

 

 刻一刻と、天照は彼女の口内を焼いている。やがては肺を、その隣の心臓を、あるいは頭部を内側から焼いてしまうだろう。

 

 友達を殺してしまう。

 

 その恐怖が、冷汗をさらに多くさせ。

 

 と、同時に。

 

 砂の動きが、戸惑いを見せるかのように一瞬だけ硬直した。イロミに纏わりつく砂の端々が微かにだけ右往左往と震えたのを、イタチの写輪眼は見逃さない。

 

 速度を限界まで上げて、イロミの傍へ。纏わり付いている砂の隙間に腕を伸ばし、イロミの細い肩を掴んだ。慌てて砂が動き出す頃には、イタチは会場の端に。砂との距離は十分で、天照を消す時間もある事を視認する。

 

 運び出したイロミの両手を取る。彼女が嵌めているグローブは強く拳が作られ彼女自身の血で濡れていた。掴んだ手首にまで血は垂れ。右目を万華鏡写輪眼にし、痛みで痙攣し俯いているイロミの口内を見ようとした。

 

「すまない、イロミちゃん。すぐに炎を消す。顔を―――」

 

 いや、待て。

 

 彼女を助けたいと願うイタチとは別に、冷静な人格のイタチが語り掛けてくる。

 

 おかしい。

 

 どうして。

 

 血が、出ている。

 

 なぜ、血があるんだ。

 

 天照は全てを燃やし尽くす術だ。

 肉も、骨も、血管も、血液さえも。

 何もかもが跡形もなく燃え尽きてしまうまで燃え続ける業火なのに。

 今も尚、彼女の口内は天照が煌々と燃えているはずなのに。

 どうして。

 

 血が。

 

「ぅぅぅぅ…………―――ヒ………ヒヒヒヒヒヒ……」

 

 太く歪んだ声―――いや、音。そう、パイプにただ空気を強く送り込んだような、音だ。

 

 彼女はゆっくりと顔を上げる。

 

 口元は無かった。

 

 唇は溶け、歯と歯茎は消え、舌は燃え。

 

 焦げ臭さと小さく残った喉だけ。声の太さと歪みは、口内に音を調整する器官が全て焼き尽くされていたからだった。

 

 眼球が無く、口は無く、肌は紫で、前髪は自身の血で赤く染まっていた。

 

 もはや見る影もない友人の姿に、イタチは悪寒を走らせてしまう。

 

「ヒヒ、ヒヒヒヒ。おいい、あっあ……」

 

 音を発するイロミの口から、生臭さと焦げ臭さが攪拌された汚臭がイタチの鼻先を撫でる。天照は、どこにもないのは確かだ。だが、ただただ、人間の成れの果てのような悲惨な顔の彼女に、イタチは恐怖だけしか抱けない。

 

 彼女をこんな姿にしてしまったことの。

 彼女のこんな姿を見てしまったことの。

 

 恐怖。

 

 頭が痛い。

 

 脳の神経がショートしそうなほど、感情が、思考が、乱雑になっていく。それはまるで、オバケを見てしまった子供のそれと酷似している。現実から目を背けたい衝動だけが最も強くイタチの後頭部を熱くした。だが、写輪眼を解かず、イロミを見続けていた。

 

 そして見る。

 

 何もかもが燃え尽きたはずのイロミの口内が、蠢くのを。

 

 白い歯が生え始める。

 

 歯茎が上顎と下顎を押し上げて土台を作る。

 

 唇はドロドロと零れ落ちる血と体液が形となって肉を得た。

 

 そして、彼女は言う。

 

 生えたばかりの長い舌でべっとりと新しい唇を舐めてから。

 

「キャハハハ。熱かったけど、美味しかったぁ。前にイタチくんを齧った時よりも、イタチくんの味が、匂いが、スゴイィ、濃かったぁ」

 

 まるで天照を食べ終わったかのように、イロミは胃の中の空気を吐き出した。

 

「ねえ、イタチくん。もっとぉ、食べさせてぇ?」

 

 本当に彼女は食べたのか。

 

「まだぁ、まだぁ? キャハハ、私を殺そうとしてよぉお……」

 

 口は治ったが、本当に大丈夫なのか。

 

「さっきの炎、出してぇ。その……キレイな眼からぁ……」

 

 そんな考えを他所に、未だ発動している右眼の写輪眼は、イロミの挙動を先読みした。

 

 両手がまた顔を捕えようとするビジョン。

 

 彼女の顔は、邪悪に嗤う。

 

 その所作には、一切の躊躇は無く。

 

 押し寄せてくる死の恐怖に、イタチの本能が身体を動かした。

 

 ―――……ッ!?

 

 二人の動き出しは全く同時だった。

 ビジョンをなぞるイロミの両腕。その両腕を止めようと、クナイを一瞬で取り出す。投擲されるクナイはイロミの両肩、両肘の関節を間違いなく打ち抜いた。肩から先の部位が、肘から先の部位が、力を無くす。

 

 しかし、イロミは止まらない。痛みを楽しむかのように、イロミは「キャハハ」と嗤いながら、両足と巨大な尾を駆使して、弾丸の如く身体全身を前に押し出した。

 

「……くそッ!」

 

 全力で身体を傾け、彼女の突進を躱す。そのままイロミの身体は観客席側の壁に激突した。石造りの壁は音を立てて崩れ落ち、立ち上る砂埃がイロミの姿を隠す。イタチはじっと写輪眼で見つめ続けると、ビジョンが生まれる。そのビジョンに従い、イタチは横に飛んだ。コンマ数秒遅れて、頭上から降りてきたイロミの踏み付けが、地面を大きく砕いた。生まれる突風。弾き飛ばされる砂と石のつぶてが、イタチの頬の皮膚を切る。

 

 左眼の写輪眼はまだ、発動できない。チャクラを練ろうすれば、激痛が走り、反射的に瞼を閉じてしまう。たとえ予測が立てられなくとも、高速で動き回る彼女を前に、片目だけで対峙するのは困難だ。

 

 だがすぐに、別の思考が入ってくる。

 

 ぐちゃぐちゃと、五月蠅く、やかましく。

 

 そんなものは言い訳だろう? と。

 

 語り始める。

 

 お前が彼女をじっと見るのは、殺されたくないだけか?

 殺す為じゃないのか?

 アレは、化物だ。

 里を壊す、災害だ。

 掟を破った、敵なんだ。

 忍は……何よりも、平和を支えるのが、第一だ。

 フウコが帰ってくる家なんだ。

 なら、殺さなくてはいけないと、思っているはずだ。

 

 ―――今は、余計な事を……考えるなッ。

 

 イタチは必死に自分に言い聞かせる。

 天照が勝手に発動したこと。

 自分が本当に彼女を殺そうと思ったのか? という事。

 それらを全て、思考の外に無理やり追いやる。

 今、最も大事なことは。

 友達を救うこと。

 目の前で起きる悲劇を、今度こそ止めることだ。

 だが、思考の一部を追いやるという行為は。

 つまりは、意識してしまうという事に他ならない。

 オバケなんていないと呟いてしまえば呟いてしまうほど、心がオバケを肯定するように。

 

 追いやった自分が、強く主張してくる。

 

 天照は、お前が使ったんだと。

 あの夜と同じ、お前が。

 そうでなければ、術は発動しない。

 何度も言わせるな。

 自分の身体だ。

 自分がよく知っているはずだろ?

 

「キャハハハハッ! イタチくんはぁ、やっぱりスゴイァナ? 食べさせてよ……。さっきの炎だけでもいいから………あ、アレレ?」

 

 再度、弾丸のように突進しようと膝を曲げたイロミは、力なく、前のめりに倒れた。イロミの踏み付けによって砕け、周りのよりも低くなっている地面のせいで、何が起きたのかはすぐに分からなかった。だが、両腕と尾を駆使してイロミが地面から這いずって出てきて、理解した。

 

 両足が―――膝から下の部位が、ぐちゃぐちゃに折れ曲がっている。

 

「ア、レレ……足が、壊れちゃったぁ………?」

 

 不思議そうにイロミは頭を傾げる。痛みを、感じていないのか―――それとも、視覚を失ったせいで状況整理に意識が追いついていないのか。立ち上がろうと何度も試みるが、イロミは何度も地面に倒れ、バタバタと両手を動かしている。

 

 自分の能力を、理解できていない。イタチはそう判断した。本人自身も、言っていたではないか。

 

 身体の感覚がぼんやりとしている。

 スポンジみたいだと。

 

 おそらく、櫓での速度が、彼女の限界だったのだ。呪印に呑み込まれ、荒れ狂う情動に従ったままの動きは、本人の身体の強度と釣り合っていない。

 

 このまま暴れさせたら、いずれイロミが壊れてしまう。

 

 殺せと、別の自分が乱暴に叫ぶ。ガンガンと頭を叩き、身体を勝手に動かそうとする。里を守る為に。きっと、その主張は正しいのだろう。

 

 だけれど、あの夜を過ぎて、誓ったのだ。

 

 何も、失わないと。

 

 奪われることは決してしないと。

 

 イタチの両手が紡ぐ印は、封印術。呪印を封じ込めようと、イロミを助けようとする意識の方が上回った。印を終え、チャクラを右手に。そのチャクラをイロミの頭部へと当てようとする―――だが、砂が、間に割って入った。チャクラが、届かない。

 

 何度も。

 何度も何度も、邪魔を―――ッ!

 

 苛立ちによって感情は逸る。その速度に追随しようと、思考は進むが、着地点が見つからない。散漫とした思考経路は結論を出せないまま、腕を絡めとろうとする砂から離れる動作を余儀なくされた。

 

 ―――先に、術者を始末した方が……。

 

 また一つ、思考は分岐してしまう。

 術者を殺すほどの余裕は与えられるだろうか。

 動けないでいる今しか、イロミを救えないのではないか。

 影分身の術を使用したとして、今はピッタリと隙間なくイロミに貼り付いている砂を排除し、イロミに封印術を施せるのか。あるいは、再び、天照が暴発しないか。

 

 枝分かれは止まることを知らない。

 

「火遁・豪火球の術ッ!」

 

 そんな時に聞こえてきたのは、弟の声だった。

 声の先を見ると、巨大な炎の塊が一直線に、我愛羅を目掛けて放たれていた。炎は巨大な爆発を巻き起こし、観客席にいるカンクロウとテマリに向かって熱気を生み出させ、我愛羅の姿は炎で完全に見えなくさせた。

 

「サスケッ!」

 

 イタチは観客席に立つサスケを見上げた。術を放ったのは、彼だった。

 

「ここはお前の力は必要ない。避難所に行くんだ!」

「そんなこと言ってる場合じゃねえだろッ!」

 

 写輪眼となった彼は苛立たし気に叫んだ。

 

「さっさとアホミを止めろよッ! そうしねえと―――ッ!?」

 

 炎の中から襲い掛かってくる砂を、驚きの表情でサスケは躱した。サスケは炎の中を見据える。彼の眼には、炎の中に揺らめくチャクラの塊がはっきりと映っていた。やがて炎が消えると、身を守る砂と共に、我愛羅が冷徹な視線を送ってくる。

 

「邪魔をするな」

「それはこっちの台詞だ。アホミの奴から離れろ」

 

 サスケと我愛羅が対峙する。

 

 思考が、やはり、また、分岐する。

 

 木ノ葉と音の忍の乱戦だ。いつ、彼に火の粉が飛ぶか分からない。早く避難させなければ。

 

 イロミを助けなければいけない。

 

 サスケを避難させなければいけない。

 

 フウコが帰ってくる木ノ葉を、守らなければいけない。

 

 幾重にも渡る思考と想定は、同時に、イタチの感情を引き裂き始めていた。

 

 考えれば考えるほど、何かを切り捨てなければいけないものばかりだ。イロミを助けようとすれば、サスケが助からないかもしれない。サスケを助けようとすれば、イロミが助からないかもしれない。はたまた、全てが、終わるかもしれない。

 

 大切なものが一つ一つと、想定の中で失われていく。その恐怖が、焦りを生み、冷静さを蝕んでいく。

 

 時間は刻々と葬り去られ。

 

 状況は蛇の胴のようにうねり始める。

 

「まだ……私は、戦える…………」

 

 イロミを見た。

 

 残った両手を駆使して、身体を起き上がらせようとしている。狂気の笑みではなく、歯を食いしばった表情だった。

 

「今は、戦ってるんだ……。()()()()……、戦ってるんだ。足が、壊れたくらい、大丈夫……。身体が壊れたなら……食べれば、いいんだから。ここには、いっぱい、ご飯がある。生きてるのも、死んでるのも……ッ!」

 

 全部食べればいいんだ。

 最後は、全部食べるんだから。

 食べ尽すんだからッ!

 

「ギィイイイァアアアアアアアッ!」

 

 犬歯を剥き出した彼女の絶叫は、痛みと怒りを孕み、彼女の尾は闇雲に地面を叩き始める。会場の殆どの者の視線を招き入れてしまった。戦闘の音が一瞬だけ静かになる。

 

 イロミの背中が、盛り上がる。

 頸椎以下から、尾てい骨に渡って。

 つまりは、背骨丸ごと。

 筋肉や臓腑が内側から意志を以て皮膚を突き破ろうと、凸凹と背を蠢き始める。上半身の衣服は盛り上がりに耐え切れず破れ、彼女の肌が露わになる。紫に変色した上半身。背の皮膚が、いよいよと突き破られると大量の血液が噴出する。

 

 痛みによるイロミの絶叫は乾いた息の比率が大きくなる。血は、彼女自身の肌を真っ赤に染めた。

 

 背中から現れたのは、人一人を簡単に呑み込んでしまうほどの大蛇。

 

 しかも、それは六匹いた。

 

 イロミの血で皮膚を赤く染めた蛇たちは、獰猛な瞳を動かして、平たい舌を俊敏に口から出し入れしている。まるで、イロミに代わって眼を使い、餌を求めるかのように。

 

「ギヒヒヒヒ……ヒヒヒヒヒヒヒヒ…………見て、見て……イタチくん。これが、私の才能…………。周りには、いっぱい、私の才能になってくれる人が……。全部、全部、食べれば……ッ!」

 

 君を食べられるかなあ?

 

 大蛇は身体を伸ばす。体内に折りたたまれた大腸を引き延ばしたかのようだ。大口を開けた大蛇は、木ノ葉も、音も、生きている者も死んでいる者も、有象無象関係なく、捕食し始めた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ナルトくん。

 

 貴方は不思議に思わなかったかしら?

 

 どうして、うちは一族の中で、サスケくんとイタチだけが生き残ったのか。

 

 それはね。

 

 木ノ葉が出した条件だったからよ。

 

 うちはフウコも人の子。同族を殺す事を考えるだけでも苦しかったでしょうねえ。親を殺す事を考えるだけでも、身を切る思いでしょうねえ。そして、愛する兄弟を殺す事を考えると、いざ平和を担保にしても、傀儡にはなってくれない。最悪、大切な人だけを連れ出して里から逃げ出してしまう可能性も十分にある。

 

 故に、二人の命を助ける事だけは、木ノ葉は許したのよ。

 

 でもまあ、それでも。

 

 彼女は苦悩したでしょうねえ。

 

 一族を滅ぼせば、里の平和は守られる。けれど、親を殺してしまう。犯罪者として里から離れ、死ぬまで平穏の中に戻る事は無い。大切な人と会う事が許されないのはおろか、兄弟からは恨まれ続ける。自分の人生を捨てるに等しい行為よねえ。死ぬよりも辛い選択。

 

 不安が消える日は無かったはず。

 恐怖に苛まれない夜は無かったはず。

 朝の陽を見る度に現実を否定しようと思ったのは毎日だったでしょうねえ。

 

 けれど彼女は、実行した。

 

 自分の人生を全て賭けて、木ノ葉を守った。

 

 分かった? ナルトくん。

 これが、簡単ではあるけれど、うちはフウコの真実よ。

 彼女自身から、私が確かに聞いた真実。

 クク、どうしたの?

 そんな怖い顔をして。

 貴方が知りたがっていた真実を語ってあげたというのに。

 もっと、嬉しい表情を見せてほしいわね。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 夜だ。

 

 夜が在った。

 

 吸い込まれるような漆黒の夜空。薄い雲が疎らと浮かび、星々がひっそりと浮かんでいる。里の灯りは街灯を残して消えているというのに、夜はぼんやりとした白い光に照らされていた。夜空に浮かぶ満月のせいではないのかもしれない。

 

 そう。

 

 これは、夢。いや、意識は身体から離脱していない。身体は確かに、半透明の紫色の結界の前に立っている。【戦争】の音が鼓膜を圧迫もしている。結界に押し付けた両手が焼けている痛みも、確かに感じる。

 

 それでも、見えてしまうのだ。そこに在るんだ。

 

 夜が。

 

 大切な人と、唯一会う事が許された時間が。

 

 いつ頃なのかは分からない。きっと、修行後なのだろう。

 

 目の前には、彼女がいる。汗だくで地面に横になっている自分のすぐそばで、片膝を立てて座っていた。そよ風に、長い黒髪が揺らされているだけの横顔は、綺麗だった。

 

『疲れた?』

 

 と、彼女は訊いてきた。赤い瞳が、何の雑味もないクリアな視線を送ってくる。当時の自分なら強がって呑気に笑ったはずだ。こんなの、大したことじゃないと。疲れている様子なのは、むしろ、彼女の方で。そのことは分かっているのに、彼女と話しがしたくて、彼女に頑張ってる姿を見てほしくて。そもそも、結局のところ、かまってほしくて。

 

 ―――あの時、フウコの姉ちゃんは……、ずっと、一人で……。

 

「サルよ……この男の話は誠か?」

 

 結界の向こう側にいる扉間の声に、ナルトの意識は半分ほど、現実に向き直る。

 

「木ノ葉が……フウコを里から追いやってしまったのか?」

 

 フウコの事を、まるで知っているかのように語る、白髪の男。まるで乾いた紙粘土のようなボロボロとした皮膚で、生気を感じない姿だが、彼の声は静かに震えていた。フウコと彼が、どういう関係なのか、疑問に抱けるほど、余裕はない。おもむろに、ヒルゼンに視線を向けた。

 

 ヒルゼンは……彼は、応えない。

 

 苦しんでいるかのように、悲しんでいるかのように、逡巡するかのように。

 

 下唇を噛んでいた。ヒルゼンと、短く視線が交差する。

 

「…………なあ、じぃちゃん」

 

 と、ナルトは声を漏らしてしまった。

 

「うそ……だよな?」

 

 そんな言葉を、選ぶつもりはなかった。

 本当なのか、と聞きたかった。

 どうして消極的な言葉を選んだのか。

 フウコの真実を確かめるべきなのに。

 だから。

 試験会場に到着した時に、イロミではなく大蛇丸の元へ―――イロミを助ける意味合いも込めて―――向かったのに。

 何よりも、優先すべきなのに。

 頭の中で、何かが訴えかけてきたのだ。 

 

「真実よ。何から何まで」

 

 答えたのは、大蛇丸だった。

 

「何か反論があるなら、すぐにでも出来る筈よ。なのにしないというのは、することが出来ないということなのだから」

「じゃあ、本当に……フウコの姉ちゃんは…………」

 

 里を守って―――。

 

「木ノ葉は、今までひた隠しにしてきた事の落とし前を、彼女一人に背負わせた。二代目や、猿飛先生らが生み出してしまった事を、何の関係もない世代の彼女が、背負わされ、謂れのない汚名を囁かれる。狂気の沙汰ね。ナルトくん、貴方も分かるでしょ? この里がどれほど狂ってるか。皆、呑気に平和を過ごして、その平和を支えた張本人の不名誉を語る。だから、あの子も戦っているのよ。うちはフウコを取り戻す為に、この里を滅ぼす為に」

 

 キャハハと、嗤い声が聞こえてきた。それは、眼下で暴れているイロミの嗤い声。振り返る頃には、抉られた地面の中心で前のめりに倒れているイロミの姿があった。遠目からでも、彼女の両足が無残に壊れているのが分かる。

 

「イロミを……あやつにあのような事をさせているのは―――」

「私はあくまで呪印を与えたに過ぎないわ」

 

 ヒルゼンの言葉を大蛇丸が遮る。

 

「たしかに、私の呪印には闘争本能を極端に助長させる副作用があるわ。けれど、呪印を使用するかどうかというのとは、別の話よ。あの子が望んで、里の敵になったのよ。木ノ葉を、うちはフウコに罪を被せた木ノ葉を、彼女が望んで闘争に挑んでいるのよ。ただ、自分には才能が無い。それを分かっているから、呪印に身を任せているだけ。うちはフウコの真実を知りたいと言った彼女に、真実と力を、私は与えただけなのよ」

 

 まあ、と大蛇丸はイロミを見下ろした。

 

「今となっては、自分が何をしたいのかなんて、あの子自身にも分かってないでしょうけどね。呪印から解放された頃には、何も覚えていないでしょうねえ。たとえ木ノ葉を食らい尽くしても、実感なんてありゃしない。……だけど、それ程までに許せなかったのでしょうね。―――友達を奪った、この里を」

 

 今度は、別の夜が姿を現した。

 そこには二人の姿。

 イロミとフウコが隣り合って立っている。

 

『ねえねえ、フウコちゃん。やっぱりね、思うんだけど、こんな暗い夜で修行なんて危ないよ』

 

 と、イロミは言う。危ないという割には、どこか、探検でもしている子供のそれであるかのような、弾んだトーンだった。

 

『今日は満月だから、大丈夫』

 

 対してフウコの声のトーンは変わらない。

 

『満月だけどね。そりゃあ、見れば分かるよ。明るいもん。でもさ、お月様は毎日満月なわけじゃないよね? それに、曇りとか、最悪雨の日とか、ある。そういう日も修行してるの?』

『雨の日は家で勉強させてるの。曇りの日は、やってるけど』

『じゃあ、今日より暗いわけだね。うん、危ないよね』

『任務は朝と夜は選べないよ。これも修行のうち』

『ナルトくん、今からでも良いから私に弟子入りした方がいいよ? この調子だとフウコちゃん、任務じゃ衣服も選べないからって理由で、裸で修行をさせてくるかもしれないよ?』

 

 本心なのかジョークなのか分からない事を、真顔で言ってくる彼女に、ナルトは小さな笑みを浮かべてしまう。イロミの横では変わらず無表情のフウコは、状況を理解できていないようだった。

 

 ボールのように弾むイロミと、水面のように平坦なフウコ。まるで正反対な二人の姿は、けれどパズルの破片のように、ピッタリと完全な形だったように思える。二人がアカデミーの頃からの友人だという事は知っているが、それ以上に深い関わりは知らない。日々どんな事をしていたのか、どんな話をしていたのか。しかしそれを聞かずとも、二人の繋がりが深い事は見るだけで十分に分かった。

 

 それは今、絶叫を上げ、背の内から六匹の大蛇を生み出しても尚、覆るものではない。むしろ、あんな人の姿を半ば捨てているような彼女は、彼女がどういう想いであそこにいるのかが分かってしまう。

 

 純粋な怒りと憎しみ。

 

 泣いているようだと思った。

 

 そしてイロミの絶叫は、ナルトの感情を誘い乱す。

 

 また、別の、夜。

 

 けれど、毎日の、夜でもあった。

 

 修行が終わってから、家に帰るまでの短い時間。

 

 フウコと手を繋いで歩いた夜道。

 

 今までで、何よりも最上級だったあの時間が、呼び起こされる。

 

 他愛もない会話をした。一方的に自分が喋った時もある。

 

 だけど何よりも、ただ二人静かに、夜道を歩いていた時が、美しかった。

 

 完成されていた。

 

 手の温かみは今でも思い出せる。

 

 それこそが、ナルトにとっての全てだった。

 

 火影を目指すと志した、ナルトの全て。

 

 大切な人と再び会う為の、全て。

 

「……なあ、じいちゃん。本当、なのか?」

 

 振り返りヒルゼンを見つめるナルトの両目には、涙が溜まっていた。表情は悔しそうにも、苦しそうにも、あるいは最後の希望に縋る様でもあった。

 

「じいちゃんの口から言ってくれ……」

 

 本当に。

 本当に!

 本当にッ!

 

「フウコの姉ちゃんに、うちは一族を滅ぼすように言ったのか? あんなに優しかったフウコの姉ちゃんに、そんなひでえこと言ったのかよッ!」

 

 今度こそナルトは、正しく尋ねた。

 

 信じたくはなかった。

 

 ナルトにとって、木ノ葉隠れの里というのは、フウコと共に過ごした場所、という以外の意味が付属されてしまっている。唇を震わせているヒルゼンを見ながらも、ナルトの頭の中には、幾人かの人物の顔が思い浮かぶ。

 

 イルカであったり、カカシであったり。

 サクラであったり、サスケであったり。

 

 他にも、まだ数えられるくらいの人物ではあるけれど。

 

 大切な人がいる。

 

 アカデミー生だった頃のように、大嫌いな大人達が住む場所だけではなく。

 

 大切な人が住む場所でもあった。

 

 だから。

 

 そう。

 

 彼ら彼女らの顔が浮かんだのは。

 

 ストッパーだった。

 

 意識のどん底―――いや、意識の外側から重々しく響き渡り始める、獰猛な獣の唸り声から守る為の、最後の。

 

 

 

 そして。

 

 

 

 この場面。

 

 木ノ葉崩しという舞台における、この場面。

 

 ナルトが、扉間の前にいるヒルゼンに、正しく、真実の有無を尋ねるという場面。

 第二の試験でナルトの実力と、九尾のチャクラの引き金の条件を確認してから。

 大蛇丸が思い描いた、理想の瞬間であった。

 

 ―――さあ、どうしますか? 猿飛先生。

 

 ヒルゼンの唇は震えている。視線は空を見る訳でも、大蛇丸を見る訳でも、ましてや扉間やナルトを見る訳でもなく、地面だけを。彼が何を考えているのか、大蛇丸には手に取る様に分かってしまう。

 

 ―――もし里を第一と考えるならば、この場は私の話を否定すればいい。けれど今は、目の前の御二人への義理を通す事、ナルトくんに真摯に向き合おうとする事に迷っている。

 

 大蛇丸は、フウコから事情を聞いている。

 浄土回生のこと。

 それ以前のこと。

 うちは一族の真実も。

 

 本当の、()()()()()()から。

 

 そして、答えは出た。

 

「……すまぬ、ナルト」

 

 勝ったと、大蛇丸が確信した瞬間。

 

 四紫結界が震えた。

 

 いや。

 

 空気が震えたのだ。

 

 赤いチャクラの柱が木ノ葉隠れの里の青空を貫く。

 

 戦争は、ほんの束の間、止まり。

 

 木ノ葉隠れの里に一瞬だけ舞い降りた静寂を、獣の叫びが巨大に叩き壊す。

 

「あらあら、()()にもなると、そんな姿になるのね」

 

 大蛇丸は勝ち誇りながら笑う。

 

 紫色の結界の向こう。

 

 そこには、全身を血の様に赤く染め、四本のチャクラの尾を生やした、小さな化け狐の姿があった。

 

 

 

 ? ? ?

 

 

 

 ―――……お願いします。

 

 ―――どうか、彼を。

 

 ―――ナルトくんを。

 

 ―――助けてください。

 

 ―――今の私ではもう、止められません。

 

 ―――ナルトくんの身体を動かす事も、もう。

 

 ―――波の国のようには、もう。

 

 ―――だから、どうか、御力を。

 

 ―――御二人の、御力を、どうか里の……いいえ、ナルトくんの、為に。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

七足す二は、九

 その瞬間……殆どの者は呼吸を忘れてしまった。

 西の空に浮かぶ、不吉を余すことなく含ませた巨大な入道雲を見てしまった衝撃を何十倍も濃くした間だった。そして、肺から全ての空気が抜け出るようなため息を零す。たった一秒でも気を抜くことが出来ないというのに。

 例えば、試験会場で音の忍と戦闘を繰り広げていた者たち。

 例えば、街を襲う巨大な蛇に立ち向かう者たち。

 例えば、非戦闘員を避難所へと誘導させる者たち。

 

 そう。

 

 例えば。

 

 不安定さが目に見えてしまうイタチと、まだ幼いサスケ、そのどちらを助けるべきかと、イロミの背から生まれた大蛇を躱しながら逡巡していたカカシ。

 ナルトを守る為にいたはずなのに、大蛇の襲撃と共に目の前に現れた白い着流しの灰色の髪をした女性によってそれを阻まれた自来也。

 始まった木ノ葉と音の忍による戦闘、そして目の前に飛ぶ血飛沫を浴びてその場を動けなくなってしまった綱手。

 

 役割も状況も異なり、危機的な事態である者たちは、その瞬間、その刹那だけは、見上げたのだ。

 

 日常を象徴とする蒼い空に意を唱える、真っ赤なチャクラの柱を。

 

 数瞬の遅れを経て、チャクラの波動はやってきた。感知忍術に長けた者でなくとも、それこそ直感的な認知しか持たない赤子でさえも感じ取れてしまうほどの衝撃。震える空気が、木ノ葉に悪しき記憶の残滓を呼び起こさせようとさせる。やがて、獰猛な声が響き渡ると、記憶は起きる。

 

 九尾の化け狐。

 多くの命を貪り屠った、化物。

 

 記憶の起こりは当然のように恐怖を招き入れる。苦しく悲しい記憶は、身体と思考を硬直させる。たとえ、エリートと呼ばれる上位の者であっても、そう簡単に動き出すことは出来ない。

 

 それは、はたけカカシにとっても例外ではなかった。九尾が暴れた事件以前から家族のいない彼にとっても、事件への恐怖はあった。九尾との戦闘には加わりはしなかったが、短い時間だけではあったものの、人の命が紙吹雪かのように消えていく光景は生物的な恐怖を抱いたものだ。

 

 だがそれでも尚、恐怖に震えながらも、カカシは真っ先に動き出していた。

 

 ―――こんな時に……ッ!

 

 観客席を駆け抜けている間に邪魔してくる大蛇を容易に躱しながら進んでいく。片目は写輪眼。戦闘の為に発動させたが、今は殆ど意味を成してはいなかった。

 

 音の忍たちの殆どが、殺されたのだ。

 

 イロミが背から生やし動かす、六匹の大蛇に。

 

 上半身か下半身を噛み砕かれるか、全身を丸呑みされるか。次々と捕食されていった音の忍は、今ではもう数えるくらいしかいない。戦闘はもはや崩壊している。まだ誰一人として欠けてはいない木ノ葉の忍たちは、大蛇から意識を失っている大名や下忍の子らを守ろうと動き始める。

 

 心の中で微かに祈る。

 

 不安定さが目に見えているイタチと、無謀にも好戦的なサスケ。その二人をサポートしてくれる者が現れてくれることを。

 

 本当なら、自分がすぐに対応をしたかった。

 する、予定だったのだ。

 

 九尾―――ナルトが、姿を現すまでは。

 

 真っ直ぐに、櫓の上にいるナルトを見る。波の国で見せた姿と同じだ。濃すぎる九尾のチャクラによってボロボロと剥がされ、全身が血に染まっている。人間の知性を失い、獣のように四足歩行の姿。ギラギラとした開き切った瞳孔は、熱すぎる呼吸を静かに漏らしながら試験会場を、いや、木ノ葉隠れの里全体を見下ろしていた。

 

 ―――まだ……尾は四本…………。だが―――

 

 様子がおかしい。

 

 波の国の時の暴走は、いつ弾けるか分からない爆弾のように思えたが、微かな指向性があったように感じた。目的の物を破壊さえできれば、その他の全てが粉々になっても構わないといった、本当に、ごくごく小さな狙い。

 

 だが、櫓の上にいるナルトには、それが感じ取れない。

 

 もう何でもかんでも、壊れてしまえばいい。

 

 壊れて消えて、いなくなってしまえばいい。

 

 そんな感情が……感情をかなぐり捨てた本能が、見えたのだ。

 

 どちらにしても。止めなければいけない。

 

 里を守る為ではなく、ナルトを守る為に。

 

「おっと、ここからは先にはいかないでほしいものですね」

 

 およそ観客席の端に近付いた時、一人の男が前に立ちはだかる。木ノ葉の暗部の面を被り、白いコートに身を包みながらも、くぐもった声は聞いた事のあるものだった。確かな面識は無く、一度見て、一度声を聞いただけ。中忍選抜試験の二次試験会場でだ。

 

 カカシは足を止める。

 

 その者の動きが、単なる下忍のソレでは無いことに、経験的な警戒心が働いたのだ。

 

「……お前、薬師カブトか…………」

「すぐに分かりましたか。流石に、貴方ほどになると簡単な変装は意味がないみたいですね」

 

 薬師カブトは落ち着き払った所作で面を外した。余裕たっぷりの表情には、カカシへの警戒心は然程持ち合わせていないようで、だからこそなのか、場慣れした空気を感じ取る。

 

「まさか、木ノ葉の下忍が、大蛇丸の部下だったとはな。道理で、音の忍が多く中に入り込めるわけだ」

「ええ、まあ……。確かに大蛇丸様の部下ではあるんですけど……。単なる下忍だと思われたままだと、僕としてはいささか不愉快ですね」

「悪いが、今はお前の自慢話に付き合っている暇は無い。邪魔をするのなら」

 

 警戒を解く。

 守る体勢から、攻める体勢へ。

 

「死ぬ羽目になるぞ」

「それは御免ですね……。なら、僕ではなく―――彼が相手をしましょう」

 

 カブトの言葉を合図に、背に隠れていたのか、君麻呂が姿を現す。低く這うような姿勢で駆けてくる彼の右手からは、鋭い骨が皮膚を突き破って得物と化していた。下段から首元を正確に狙いすました骨の軌跡は鋭い。

 

 しかしそれでも、カカシにとってはまだ遅い部類として評価される。写輪眼を発動していなかったとしても、容易に観測できてしまう。

 

 攻撃を躱しながら、カカシは姿勢を崩した反動を利用して君麻呂の顔面を蹴り抜く。

 

 顔面の骨を砕く勢いと力で蹴り抜いたのだが、君麻呂は気を失う事は無く、後ろに吹き飛ばされる衝撃を床と足の接着面でブレーキを掛けながら、数メートルほど後ろに後退するだけだった。

 

 君麻呂の顔は、骨を砕かれてはいなかった。

 

 口の中が切れた事による出血を、口端から少しだけ零すだけのダメージ。

 

「頬を固めたはずなんだが……ただの蹴りでさえ、剥離させられるとはな……」

 

 浮かべる無表情は強がりではなく、自然体。

 冷静に力の差を分析しているのだ。年齢は、ナルトやサスケと大して離れていないだろうその体躯とは見合わない、不釣合いな場慣れの空気を感じる。

 

 ―――何か、特別な術を使っているな。

 

 子供であっても、成人の忍を殺せてしまう者はいる。

 得てして、予想外の術を使用する。

 そういう手合いは厄介だ。

 上忍クラスの忍術のような、シンプルな力強さが無い。変則的で、初見で逃れるのは困難というのが相場が決まっている。写輪眼を以てしても、最悪の場合は大いに考えられる。

 

 だが、今は慎重に戦っている暇は無い。

 

「カブト先生……ここは全て、俺に任せてください」

 

 君麻呂が、静かにカカシを見据えながらチャクラの質を変化させているを、写輪眼は確かに捉える。泥の中から見え隠れする鋭い金属片のような、恐ろしさ。

 

 呪印。

 

 イロミが自身の肉体を大きく変貌させた際に感じ取った物と、ほぼ同一のチャクラだ。

 

 首筋から幾何学的な模様が浮かび始める。

 

「いいのかい?」

 

 と、カブトは薄く笑いながら尋ねた。

 

 予め想定していたと言わんばかりに。

 

「いくら身体の状態が回復しているとは言え、まだ試験段階だ。呪印を発動すれば、どんな事になるか、僕ですらも予想が付かない。控えた方が良い」

「いえ……やらせてください。今は、大蛇丸様の為に……彼女の為に…………自分の全力を出したいんです」

 

 幾何学的な模様はやがて、君麻呂の皮膚全てが紫色に埋め尽くされようとした。

 チャクラの質はより濃密に、鋭利を増す。

 厄介さは、最悪な地点に近づいた。

 

「キャハハハハハハハハッ! そこに、美味しそうな匂いぃいいいいいッ!」

 

 イロミの奇声に呼応して、大蛇の毒々しい眼球が君麻呂たちを捕捉した。咢を限界まで開けた口はもはや壁に等しい。君麻呂、カカシ、カブトの三人はそれぞれ大蛇から逃れようと後退。三人がいた場所は座席事粉砕される。

 

 ―――やれやれ……。アレにも困ったものだな。いくら悪食だからといって、君麻呂まで食べようとするなんて。

 

 と、カブトは心の中でため息をした。

 

 やるべき事は殆ど残っていない。

 

 木ノ葉の下忍として侵入し、ナルトの調査。

 砂隠れの里の忍との連絡役。

 猿飛イロミの細胞と彼女に移植されていた眼球の解析と、試薬の開発。

 音の忍を木ノ葉隠れの里に潜入させる。

 

 大蛇丸が用意し、復活させた代物を、ナルト誘拐に使い―――こちらは、どちらかというナルトを護衛していた人物らを振り払うだけの効果しかなかったようだが―――、ナルトにフウコの真実を伝える。

 

 残された仕事を言うならば、大蛇丸を死なせないこと。暴走したナルトやイロミの牙が大蛇丸に向くのではないかという危惧くらい。四紫炎陣は、九尾の力では破壊されてもおかしくない。イロミの力も、何人もの人間の努力と才能を捕食したせいで、限界値が予測できない。

 

 今の木ノ葉は、静電気が溜まった枯れ葉が敷き詰められている状態に等しい。

 

 いつ火が付き始めるか。そして、火がついてしまえば燃焼は一瞬にして全てを灰にする。木ノ葉を滅ぼすタイミングを見極めなければいけない。さもなくば、滅びの火の粉が飛んできてしまう。

 

 ―――……まあそれも、あの方の気分次第だけどね。

 

 見上げる櫓。大蛇丸の姿は見えず、九尾に化け始めたナルトがいる。

 

 きっと大蛇丸は、嬉しそうに笑っている事だろう。

 

 その無邪気でありながらも邪悪な、ちぐはぐとした狂気染みた感性が変に転ばない事を祈るばかりだ。

 

 ―――と思っている間に……まずはここが危ないな…………。

 

 ナルトの足―――四足姿勢である今は、後ろ足と言うべきか―――が大きく曲がる。鋭い眼光は試験会場を一心に見つめているのは、明らかにここへ降り立とうとしている。

 

 いや、降り立つなんて言う生易しいものではないはずだ。

 

 突撃するつもりだ。

 

 砲弾のように。

 

 弾丸のように。

 

 試験会場をあらかた消し飛ばすつもりで。

 

 咄嗟に避難することを考える。

 

 暴走したばかりのナルトを止められないようにとカカシの前に立ったが、その必要は無さそうだ。頭の中に入れておいた逃走ルートに移動しようとする。

 音の忍や砂の忍の事も一切考えず。

 むしろそう、イロミも死んでくれてしまえばいいと。

 

 あんな。

 

 あんな出来そこないも、巻き添えに死んでしまえばいいと。

 

 しかし奇しくも、そのルートを使う必要性は唐突に消え去った。

 

 カブトは驚きに眼鏡の奥の瞼を大きく開く。

 

 試験会場の、全くの場外からの介入。それは高速で空を飛び、青いチャクラの軌跡を残しながら、跳躍しようとしたナルトを横から突進し、そのまま遠くへと連れて行った。

 

「あれは……フウかッ!?」

 

 ナルトを抱えたフウをカカシは視線で追いかける。写輪眼はフウの姿をはっきりと見通す。

 

 青いチャクラが鎧のようにフウの身体を分厚く覆い、七本の尻尾のような細い羽が空気を叩きながら飛翔しているのを。

 

「ぐぎぎぎぎッ! ナルトくん、正気に……戻るっすよッ!」

「ヴォォオオオオオオオッ!」

 

 高速飛翔によって耳に入り込む空気の荒波。それをかき分けて入ってくるナルトの雄叫びは、完全に理性を失っている証拠だった。

 

 理性を捨てた凶暴性は、容易に力を行使する。

 

 風圧をものともしないのか、チャクラによって構築された右腕をナルトは振り上げる。その指先は、鉞よりも分厚い爪が。

 

『フウ。こいつをさっさと捨てねえと痛い目にあうぞ』

 

 内側から、呆れと落ち着きに満ちた声が。

 

「分かってるっすよッ! 重明、人がいない所はッ!?」

『自分で探してみろ』

「さっさとするっすっ!」

『……あそこだな』

「本当っすね?! 嘘ついてたら承知しねえっすよッ!」

『勝手にしろ』

 

 重明の意志に従い、ナルトをその地点に投げ落とす。

 

 爪は、重明のチャクラを抉りながらもフウの眼前スレスレで通り過ぎる。

 

 避難が完了した住宅街の区画に、ナルトは叩き付けられ、爆発的な衝撃を辺り撒き散らす。地面はへこみ、土と砂は舞い上がり、近くの建物は崩壊する。

 

 普通の人間なら原形も留められないほどに身体は吹き飛ぶだろう。

 

 だが、相手は九尾に支配されているのだから。

 

「重明ッ! チャクラ、少し多く寄越してくださいっすッ!」

『いいだろう。今日の俺は―――』

 

 フウは高く空へ飛び、背面から急降下。

 両手を前に突き出し、身体は地面と垂直になる。

 

『気分が良い。ラッキーだったな。好きなだけ、力を貸してやる』

 

 重力に任せるだけではなく、七本の羽で空気を押しのけ、さらに身体を横軸に回転させ空気抵抗を減らす。両手の先には、カブトムシのような分厚い角のチャクラが形成される。そのまま、真下のナルトを目掛けて地に落ちる。

 

 チャクラの角はいよいよ音の壁を超えて、空気が弾ける音が鳴る。同時に、弾丸となったフウはナルトに着弾した。

 

 尾獣のチャクラに完全に呑み込まれたナルトを相手に、手加減は出来ない。殺すつもりで立ち向かうのが、ちょうどいいという判断だった。

 

 ―――入院コースは、覚悟してもらうっすよッ!

 

 手応えはあった。

 

 地面を数メートルほど沈ませる程の衝撃によって二度、砂煙が舞った。

 

 ―――どうにか、ナルトくんの意識が途切れてくれれば……。

 

『フウ、避けろ』

「え?」

 

 目の前を覆う深い砂煙の向こう側から爪が姿を現し、肩を掴まれる。大型の獣に噛みつかれたかのような痛みに表情が歪むが、次の瞬間にナルトの顔が眼前に迫ってきた事に驚きが隠せない。

 

 視線を下げる。

 

 チャクラの角が、ナルトの片腕と四本の尾に防がれていた。

 必殺にも近い一撃が、大したダメージを与える事が出来なかったへの驚愕が、フウの身体の自由を奪うきっかけとなってしまう。

 

 身体が浮く。自分の意志による飛翔ではない。投げ飛ばされた。

 

 強烈な力で投げられた身体は、七本の羽を駆使して姿勢を戻す暇を許さぬまま、残骸となった瓦礫に身体がバウンドさせられる。

 

「―――ッ!?」

 

 回転する視界の中に、ナルトの姿。

 振り下ろされる鉤爪を両腕を交差させて防ぐ。ダメージは無いが、衝撃は、空転している最中では抑える事は出来ない。そのまま、まだ倒壊していない建物数件を貫いた。

 ようやく勢いが収まり、道路の往来に仰向けに投げ出されていた。

 戦争が起こっているというのに、間の抜けた青空が視界一面に広がる。フウは小さくため息をついた。

 

「……くっそー、ナルトくん。容赦、ないっすねえ」

『お前が言えた口じゃないだろ』

「ははは」

 

 と、フウは乾いた笑みを浮かべる。

 

「ナルトくん、強くなり過ぎっす。アレで無傷って何なんすか。フウのシマじゃ反則っすよ」

『九尾のバカに憑りつかれてるんだ。あんなものだろう』

「というか、重明。ちょっと情けないんじゃないんすか? 七本も尻尾あるくせに、四本に負けるなんて」

『俺が本気を出せば、あんなのに負けはしない。お前の身体が脆弱なせいだろうが』

「……人が気にしている事を」

 

 人柱力として。

 

 フウは自身を不適切であると判断していた。

 

 重明のチャクラを使う事は出来る。身に纏い、空を駆ける事は、出来る。だが、それだけだ。十分に、使い切れてはいないのだ。

 

 いくら重明がチャクラを渡してくれるからと言って、膨大な量のチャクラ全てを身に纏えば、身体が持たない。

 

 強靭な肉体も、特別な資質も、フウは持ち合わせていないのだ。

 

 あくまで、小さな忍里である滝隠れ出身の中では、少しだけ、封印の器として適正だっただけだ。扱う器としては、適正ではない。尾獣化が出来ているのは単に、重明がチャクラを調整してくれているだけに過ぎない。

 

 かといって、重明のチャクラを使えばフウの実力はそこらの忍の比ではない。渾身にも近い力を平然と防ぐナルトが、桁外れなだけである。かといって、重明に全てを委ねてしまえば……木ノ葉は今以上の被害を生んでしまう。

 

 止めるならば、今しかない。

 

 まだ、尾が全て生え揃っていない、今。

 

 ―――といっても、フウは封印術なんて、使えないっすけどねえ。

 

 自分の役割はただ、ナルトが被害を拡大させないようにすること。

 

「……重明…………今回は、最初から最後までフウに任せるっすよ」

『勝手にしろ』

 

 辺りは静かだ。どうやら言っていた通り、避難が完了した地区なのだろう。

 フウは記憶を掘り起こす。あとどれくらい時間を稼げばいいのかを考える間に、ナルトが、やってくるのをチャクラの波で感じ取る。上体をゆっくり起こす。

 

「……何がそんなに気に食わないんすか、ナルトくん」

 

 問いかけてみるが、返ってくるのは獣の唸り声。

 

 怒りと憎しみが、チャクラ越しに伝わってくる。

 

 いつもは明るく素直な子なのに。

 

 火影になる。そう、言っていたのに。

 

 伝わってくる感情の方向には見境はなく、木ノ葉を滅ぼそうというものしか分からない。

 

 どうして、そういう感情に至るのか。

 

 いや、彼だけではない。

 

 友達のイロミも、そうだ。

 

 試験会場の上空を飛んでいた時、一瞬だけだけれど、イロミを見た。

 

 イタチと対峙しながら、見たこともない姿になっていたのを。

 

 ―――イタチさん、イロミちゃんを任せるっすよ……。

 

 こんなに。

 

 別の里の出身で、人柱力である自分を受け入れてくれる。

 

 こんなに平和な場所を。

 

 どうして二人は憎んでいるんだ。

 

「いいっすよ……。相手してやるっす」

 

 立ち上がり、対峙する。

 

「今のフウに出来る事って言ったら、これぐらいっすからね。さあ、こいっす。木ノ葉を、絶対に守ってやる……ッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 四紫炎陣の向こう側で、一人の少年が尾獣化した。ヒルゼンとの会話を聞くに、フウコを慕った子だったのだろう。

 

 うちは一族をフウコが滅ぼし、犯罪者となって里の外へと追いやられた。しかもその最たる原因は、自分が進めてきた政策によるもの。歪みの発端は、自分が死んだ後の時代にも影響を及ぼし、今も尚、一人の少年が里を破壊しようと姿を変えてしまった。

 

 誰よりも、何よりも。

 

 里の平和と発展を望んで、行ってきた営為は。

 

 多大な時間と人の命を食らい、悪しき地脈の震源へとなってしまっていたのである。

 

「アレは……七尾の人柱力ね。折角、先生の目の前で里が消し炭になる光景を見られたと思ったのだけれど……無粋ね」

 

 青い軌跡がナルトを連れ去っていくのを、後ろの大蛇丸はつまらなそうに呟くが、すぐに視線をヒルゼンに向けると、表情は再び愉快そうに歪んだ。

 

「それにしても、不器用な方ですね、猿飛先生。嘘でも言えばよかったものを」

「……フウコの事について、扉間様の前で偽るつもりはない」

「わざわざ死人に義理を通すなんて、愚か以外の何物でもないわ。おかげで、今生きている下の連中が死体になるというのに……。まあ、先生のそういうところを信頼してこういう場を設けたのですが、お気に召していただけたでしょうか?」

「……申し訳ありません、扉間様」

 

 震えた声でヒルゼンは言う。

 

「ワシは……扉間様との約束を…………エン殿との、約束を守ることが―――」

「フウコに、友が出来たのか?」

 

 扉間の予想もしない問いに、ヒルゼンは驚いたように瞼を大きく広げる。対して大蛇丸は不愉快そうに眉を顰めた。

 

「何を仰っているのですか?」

「大蛇丸と言ったな。貴様の話が、もし真実であるならば、辻褄の合わぬことがある。どうして、フウコが犯罪者となったのかだ」

「気でも違えましたか? うちはフウコは、うちは一族を滅ぼして―――」

「ならば何故、うちは一族がクーデターを起こしてから、うちは一族を滅ぼさなかったのだ」

 

 その言葉に、扉間の言わんとしている事を、ヒルゼンも大蛇丸も察した。

 

「ワシの知るあやつは、そのように効率的ではない事をするような子ではなかった。ワシの言いつけを守り、誰よりも無駄を知らない子だったのだ。それは、あやつを育てたワシが、誰よりも知っている。わざわざ自分が犯罪者になる事もなく、うちは一族がクーデターを起こし、里の者たちにうちはの脅威が知れ渡ってから、堂々とうちは一族を滅ぼせばよい。あやつには、ワシの教える事の出来る全ての技術を与えた。ましてや、あの身体(、、、、)だ。不可能な事ではない」

 

 だが、と扉間は続ける。

 

「あやつはそうしなかった。自分が汚名を被ってまで、非効率な手段を取った。ならばあやつには、汚名を被らなければいけない理由があったのだろう。他の誰でもない、自分が被らなければならない、理由が。ほんの少しでも、里を傷付けたくない理由が、有ったに違いない」

 

 その言葉は決して、希望的な観測による願望ではなかった。

 フウコは子供だ。

 何も知らない、何も教えられていない。

 未熟な子供だ。

 無邪気に遊ぶことを知らず、無思慮に楽しむことを知らず。

 どうすれば知れるかを考え。

 どうすれば学べるかを考え。

 それだけしか出来ない、子供なのだ。

 無駄が無い。無駄というものが、分からない。

 誰よりも知っている。

 八雲一族が滅び、唯一生き残った彼女を、親代わりに育てた扉間だからこそ断言できる。

 自分の知るフウコは、そんな事はしない。

 わざわざ汚名を被るという、過ちは。

 ならば、答えは一つだ。

 非効率的な事をしなければいけないほどに、大切なものが出来てしまった。効率的なやり方では、全ての人間の命が等価であるという効率的な考えをしては、いけないと。

 つまりは―――そう、他者の存在だ。

 

「会ってみたいものだ」

 

 と、扉間は呟く。

 

「あやつを友だと思う者は、かなりの酔狂者に違いない。それでいて、素直な子なのだろう。フウコと対話をするには、変に穿った考えを持っていては、疑心暗鬼になってしまうからな」

 

 そう、彼女は変わり者だった。初めての出会いが、木の上から落ちて、額同士をぶつけるというとんでもない出会いをするほどに。

 

「あるいは、余程快活な子やもしれぬ。あやつの腕を無理やりにでも引っ張る様な、悉くフウコの価値観をぶち壊してくれる、愉快な子か?」

 

 彼は誰よりも先を進んでいた。誰よりも勇気があり、誰よりも正しく、誰よりもその輪に話題を持ち出し、日常という者だった。

 

「それとも、フウコと同じくらい聡明な子か。それが一番しっくりくる。落ち着いていて、冷静で、正しくフウコを誰よりも理解してくれるような頭の良い子だ」

 

 彼は友というより家族だった。彼には卓越した知性があった。正しく人を評価し、いついかなる時も正しい道を模索し続けることが出来る者だった。

 

「サルよ…………フウコの友は、どのような者たちなのだ?」

 

 そしてフウコは、その友達にどのような表情を浮かべたのか。それも知りたい。友達と関わっている時のフウコの全てを知りたい。もっともっと、ヒルゼンに問いかけたい言葉はあった。

 

 だが、状況がそれを許さない。

 

 時代も、里の環境も、知らない。そして結界の外では、おそらく戦争が。時間がどれほど残されているのか分からない。

 

 穢土転生の術で現世に降り立った身として、今の時代の邪魔をするのは極力避けたい。といっても、これから穢土転生の術者―――大蛇丸によって戦わされるのは確実なのだが、それでも、力を貸せるならば……。

 

 ヒルゼンは言葉を選ぶように、視線を微かに揺らめかせるが、大きく息を吸い、

 

「……扉間様が仰った、良き正しき者たちでした」

「そうか……」

 

 やはりフウコは、その友の為に、汚名を被った。

 汚名を被ってまで、その友と、その友と過ごした時間が美しかったという事。

 少なくとも、里には平和な時代があったのだ。

 

「―――サルよ……、里を守れ」

 

 扉間は言う。

 

「たとえ犯罪者となろうと、この里は今も尚、フウコにとっての宝だ。何としても守れ」

「ククク」

 

 笑ったのは、大蛇丸だった。

 

「良いのですか? 彼を裁かなくて。彼は、うちはフウコを里から追いやった張本人だというのに」

「うちは一族の件は、全てワシの責だ。サルの問題ではない」

「死人がそう語ったところで、問題は常に、今を生きる者たちの眼前にあるというのに。それに……彼女はそれを許すかしら? 貴方の亡骸の傍に在った(、、、、、)、彼女が」

 

 勿体ぶった言い方。

 しかし、言葉の文脈を辿れば、大蛇丸の語る【彼女】という意味はすぐに分かった。

 

「なるほど……ワシや兄者だけではなく、エン殿も口寄せしたか」

「ええ。今は、どこかの街の方で暴れていることでしょうねえ。すぐにでも、こちらに口寄せする事も出来ますが如何しますか?」

「……ふ、止せ。あの者がここに来てしまえば―――下らぬ嘘話を聞かされてしまう」

 

 地獄を旅行中でしたのよ、などと。

 きっと彼女は細やかな笑みを浮かべて言うだろう。そして、フウコの事を聞いたとして、彼女は淡々と、

 

『あの子が選んだ事です。どれほど辛い選択であっても、親というのは、子のそれを称えなければいけません。誤っているなどと、言うつもりもありません。あの子が友達の為に汚名を被った。素敵な事ではありませんか』

 

 そう言うに違いない。

 彼女の教育方針はいつだってそうだ。

 嘘と、放任と、尊重。

 いささか、彼女と会話をしてみたいという感情はあるが、止めておこう。

 今は、今の時代の木ノ葉の子らが胸を張らなければいけない。

 

 死者が陽炎のように立ち、大切な者を思いながら、語らい合うというのは、駄目だ。

 

 死者はいつだって、過去でなければいけないのだ。

 

 過去に成り、草葉の陰で称えなければいけないのだ。

 

 いついかなる時も。

 

 今を傷付けてしまうのは、過去だから。

 それはもう、何度も経験した事だった。

 真後ろに大蛇丸の気配を感じ取る。穢土転生の術を理解している扉間にとって、それがどういう意味を持っているかは、即座に分かった。

 

「扉間の言ったことは、至極的を射ているな」

 

 今まで閉口していた柱間が、口を開いた。

 

「猿飛よ、迷う事は何もないであろう? お前は、火影なのだぞ」

「……はい。承知しております」

「ならばやることは一つだ」

「はい」

 

 ヒルゼンと視線が合う。

 

「さらばだ、サル」

「ええ、おさらばです」

「木ノ葉を―――守るのだ」

 




 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

 次話の投稿ですが、中道のプライベートが多忙になりつつあるため、期間が少し空くと思われます。今月中に投稿できるかと思いますが、ご承知いただきたく思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼方より木の葉の書が届く

 ―――……あまり、悠長に時間を割いておる暇などありゃあせんというのに。

 

 つい先ほど強烈なチャクラの波を感じ取った自来也は、苦虫を噛みしめるように奥歯を震わせていた。額に薄く貼りついた砂煙を、小さな冷汗が垂れながら拭い取り、濁った水滴となって顎から地面に落ちる。今すぐにでもフウを追いかけ、ナルトの元へ向かいたい。

 

 しかし、今はそれが叶わない。木ノ葉の三忍と謳われ、歳を重ねながらも実力は未だ衰えの無い自来也であっても、久方ぶりの感覚だった。向かいたい所へ行けないという、至極単純な行動さえ制限されるのは。

 

「……っ、…………ッ、ッ?!」

「流石のお主も……コレを力尽くで突破するのはできんじゃろう。指先一つ、動かせまい」

 

 勝ち誇ったように笑みを浮かべる自来也だったが、微かに上下した息遣いや鋭い視線は未だ緊張を解いていない事を現している。両手を合わせ、練ったチャクラを自身の髪に送り続け、相手―――女性の動きを完全に封殺していた。白い髪は長さと太さを変え、大注連縄のように女性に巻き付いている。のみならず、毛先は鋼の強度を誇り、女性の全関節を貫き固定していた。自来也の言う通り、指一つ動かす事は出来ないが、あまりにも過度な拘束とも言える。だが、相手の実力を目の当たりにした自来也にとっては、この状況を作り出してもまだ、不安は拭えない。

 

 辺りは、さながら隕石でも落ちてきたかのような惨状だった。音の忍が戦争を仕掛けてくる前は―――フウと共にナルトと歩いていた時である―――人の往来があったが、今では人の姿は全くなく、広い道は抉れ、道沿いの建物は無残に倒壊している。その殆どは、自来也が作り出したものではない。相手の一挙手一投足が生み出した。

 

 腕を振れば空気が動き衝撃が広がる。

 足が振るわれれば地面が捲れ石が弾丸の如く飛来する。

 

 単純なまでの力押しだが、個人が持てる極致とも言える暴力は一瞬の隙すら許さない。ましてや相手は、どういう訳か、不死の肉体。どれほどの忍術をぶつけても、たとえ頭部を吹き飛ばしても、身体は地面の塵芥を吸い寄せ元に戻る。自来也の拘束も、本来ならば激痛で顔を歪めるか、あまりの痛みに気を失う、あるいは、絶命してもおかしくはないのだが、女性の表情は、血の気の引いた蒼白ではあるものの、淡泊なものである。感情の機微を喪失した人形のようである。灰色の髪と白い浴衣。細い顎は端整な顔を装飾している。単なる初対面ならば、すぐにでも口説いてしまうとこだろう。今の自来也にはそんな呑気な事を想像する余地は無い。彼女さえいなければ、面倒な事にはならなかったのだ。

 

 ―――大蛇丸め……、ワシやフウがいることを知っておったな……。

 

 イタチから、ナルトが大蛇丸から狙われている事は聞かされていた。大蛇丸がどうしてナルトを狙っているのか、憶測は出来ずとも確信は持てず、だがナルトを守るのには自信があった。自惚れではなく、客観的な認識。

 その認識を真正面からぶち破るかのように現れた女性に襲われ、自分の意志で大蛇丸の元へと向かったナルトを追い駆ける事を許さない状況となったのだ。

 

「自来也様ッ!」

「イビキか!?」

 

 残骸の上に姿を現したイビキに、自来也は目だけで視線を向けた。

 

「封印術に長けた奴を連れて来い!」

 

 状況を察したのか、イビキはすぐに部下を呼ぶ。部下たちは巻物を取り出すと、自来也の髪ごと女性を覆う。その手際は熟練の域を当然のように跨いでいた。巻物を巻く者、符を取り出し巻いた巻物の上から貼る者、封印術のチャクラを行う者。術が女性を侵食しているのが、チャクラを纏った髪から伝わってくる。女性の力が弱まってきていた。

 

 もう殆ど力が伝わってこない。髪のチャクラを解き―――刹那、巻物を貫いて、女性の右腕が動いた。

 

 自来也の警戒が寝た子のように起きる。イビキや部下たちも緊張を走らせ、一時的に封印術の進歩が慎重になる。しかし、巻物の隙間から覗かせる瞳は、戦っていた時とは違って生気を戻した潤いを持っていた。

 

「……ここは、木ノ葉隠れの里…………なのでしょうか?」

 

 初めて聞く声。細く、綺麗な声質に、自来也は徐に応えた。

 

「そうじゃ……」

「ああ……そうなのですか…………。どうやら私は、木ノ葉隠れの里にご迷惑を、おかけしてしまったようですね……。今は、戦時中なのでしょうか?」

「お主は……何者じゃ?」

 

 女性は瞼だけを柔らかく動かした。

 

「ふふ、さあ、何でございましょう。一度、晴々しく死んだはずなのですが……。強いて言えば、そうですね、千手扉間さんの正妻と言えばよろしいでしょうかねえ」

「……嘘を言うな。二代目は生涯、妻を娶った事はないはずだ」

「ええ、嘘でございます(、、、、、、、)。こう見えても、未亡人ですので。ふふ、死んだのに、未亡人というのは、なかなかオツな洒落でございますね」

 

 瞳と瞼だけだが、何ともまあ、言葉にはし難いやり辛さというものを強制してくる。自来也が口をへの字にしてから溜息を吐くと、女性は尋ねてきた。

 

「戦時中ではないのでしょうか? 木ノ葉隠れの里は、それ以前は、どういった状況だったのでしょうか?」

「戦時中ではない。コレは、ワシの知り合いが勝手に起こした事じゃ」

「まあ。随分とやんちゃな方とお知り合いなのですね」

「…………木ノ葉隠れの里は、まあ、平和じゃった」

「つまり貴方は、里を守る為に励まれたのですね。そうですか……。それ程までに、木ノ葉隠れの里は、重要なものへとなったのですね。扉間さんは、約束を果たしてくれた。それでは―――」

 

 あの子(、、、)の事も、きっと、心配はいりませんね。

 

 八雲エンの消え入る呟きは誰にも届かず、だがそんな事はどうでも良さそうに、笑みだけを残した表情を巻物は覆い隠した。エンの全てを、幽世へと帰還させようと覆い隔てる。

 

【どうか―――】

 

 未練でも残すかのように、最後に言葉が聞こえてきた。

 

【木ノ葉隠れの里を守ってください。ここは、扉間さんの夢の地で、あの子にとっての新しい故郷だと思いますので】

 

 封印術は成功した。

 

 束の間の静寂は疲弊した両足の力を無意識の内に抜けさせるには十分だった。地面に尻餅をつく。

 

「……どこの誰かは知らんが、言われんでも木ノ葉隠れの里は守ってやるってえの」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

「おーらおら。お前ら、何泣いてんだよ。どっかからまた変な奴が来るかもしれねえんだぞ」

「だってぇ……」

「いいから泣き止めって。ぶん殴るぞ」

 

 普段通りに脅してみても泣き止む気配の無い三人の生徒たちを前に、ブンシは珍しく困った表情を浮かべた。戦闘で乱れた黒髪をボリボリと掻くと、砂粒が絡みついている感触が指に触れて不愉快だった。空いた手で煙草を取り出し、火を点ける。戦闘の最中はずっと吸えなかった事もあるが、久しぶりに身体を動かして汗を出した為、やけに煙が脳天に響いてくる。しかし、悪い感覚ではない。

 

 大きく煙を吐き捨ててから、ブンシはしゃがみ込む。地面にしゃがみ込んでしまっている三人と、なるべく同じ視点になった。

 

「ったく、何が怖いんだよ。あたしより怖い奴なんていねえだろうが。授業でキレた時よりも泣くなんざ、ふざけんなよなあ」

「ブンシ先生が……し、」

「し?」

「……死んじゃうんじゃないかって…………」

「………………」

 

 音の忍との戦闘には勝利した。だが、簡単な勝利ではない事は、衣服がズタボロと破けているブンシの姿を見れば誰もが分かる事だろう。眼鏡も片方はひび割れ、額当ても傾いて前髪が微かに垂れてしまっている。

 

 ―――まあたしかに、あたしは弱い方だし、心配させたかもな……。

 

 暗部の拷問・尋問部隊では数々の功績を出してきたブンシではあるが、特別、忍での戦闘力が高いという訳ではない。マイト・ガイのように身体能力が高い訳でも、はたけカカシのように才能がある訳でも、夕日紅のように幻術に長けている訳でも無い。人体に電気を流し意のままに操る独自の忍術を持っているだけだ。しかし、戦闘において、そもそも相手に直接触れる事が可能な場面は多くない。

 

 ほんの一瞬だけだ。

 使える場面は限られる。

 

 しかし、今回はその場面が丁度よく訪れてくれた。生徒を守りながら立ち回るブンシを前にして、忍術を主体として戦っていた相手は動きを変え、不用意に生徒に近付いたのだ。その時には既に、ブンシは防戦一方で、痛みと疲弊で身体は殆ど動かせない状態だった。

 

 動かなければ、生徒が。

 大切な生徒が殺されてしまう。

 ブンシは自分のプライドだけを糧にして、自身の身体に電気を流した。動かせない身体を、意識という糸を絡めとって、強制的に動かした。勝ち誇った男の頭を、トマトを握りしめるかのようにがっしりと掴み、男の意識を刈り取るには十分な電気を脳に直接ぶち当てた。

 

 意識を失った男を生徒から遠ざける為に遠くへ投げ込んだ。まだ、男の身体は動いていない。

 

「バーカ、あたしが死ぬ訳ねえだろ?」

「だって……、先生、ボコボコに………」

「うっせえッ! 演技だ演技ッ! それ以上なんか言ったら、ぶん殴るぞッ!」

 

 授業の時の調子で言ってみせると、カミナたちの涙の量が増えた。

 

 それでいい。

 

 教師は生徒たちに怖がられるのが仕事だ。教師より怖いものなんてないと思われれば、生徒は何だかんだと前を向いて励んでいける。優しさというのは、教師が持ち合わせるべきではない。優しさというのは、親でも友人でも構わない。だが怖さというのは、親や友人が持ち合わせ難いものだ。子供にとっての初めての赤の他人に近い教師が、怖がられなければ。

 

 だからブンシは、彼はあまり教師として適正ではないのではないかと考えている。姿を現した波野イルカは、慌てた様子で駆け寄ってきた。

 

「ブ、ブンシ先生ッ!? 大丈夫ですか?」

「遅えぞイルカ。こんな事態だってのに、ガキの世話も出来ないのか」

「せ、せんせーッ!」

 

 ブンシを押しのけて生徒たちはイルカの足に抱き着いた。安心でもしたのか、ブンシがただ単に嫌だったせいか、抱き着くとわんわんと泣きじゃくる。教師ならここで叱り、周りの人間がどれだけ心配したかだとか、そういうテーマを語るべきなのだが、イルカは柔らかい表情を浮かべて生徒たちの頭を撫でた。

 

 ―――ったく、ちったぁ仕事しろっての……。ガキたちの為になんねえだろうが。……まあ、ちょうどいいか。

 

 ブンシは「おい、イルカ」と呟いた。

 

「お前はこいつらを避難所に連れてけ。どうせすぐに暗部の連中が動くだろうから、避難所までは安全だろ」

「ブンシ先生は……」

「あたしは少しやることがあるんだよ。さっさといけ」

 

 それでも心配性な彼は納得がいかないのか、一歩前に出た。ブンシは分かりやすく、地面に倒れている音の忍を視線で示した。

 

 ブンシが、教師の職に就く以前は拷問・尋問部隊に所属していたのをイルカは知っている。教師たちが頭悪く噂話を広めてしまったのだろう。イルカ本人からも無遠慮に「変な噂を聞いたんですけど……」と、まあおそらくはブンシを擁護する為に確認してきたのだが、それに対して素直に「ああ。その噂、本当だから」と肯定したのである。

 

 これから行う事。

 

 生徒には見せられない暗部。

 

 イルカは理解してくれたのか、小さく頷いた。表情は賛同してくれている様子は全く見られないが、カミナたちの小さな背中を押すようにして進み、避難所へと向かった。

 

 姿が見えなくなるその間際に、カミナたちは全員同時にブンシを振り返った。どこか不安そうだった。さっきまで叱られて泣いていたというのに、こちらに見せた表情は、親から離れて不安になる赤子のそれと酷似していた。

 

 仕方ない。初めて体験する戦争だ。不安になってしまうというのは、むしろ、正しい反応だ。こんな場面で冷静だったり、無表情だったりというのは、あまり良くない。子供らしく一人で頑張ってしまい、無理をしてしまうから。

 

 新しい煙草に火を点けて、音の忍の頭を掴む。すぐ近くの倒壊している建物の中に連れ込んだ。

 

 倒壊したばかりで埃臭く、風は流れない。煙草の匂いは停滞し、自分にとって得意な空間になってくれる。咽返るほどに煙が濃度を上げていくと、昔の自分が戻ってくる。音の忍の両手足を、無残に折れ太くささくれ立った幾本かの柱に打ち込む。肉が裂け骨が砕ける音。血の臭いが、空気中に混ざってきた。

 

 脳が痺れる。

 

 残虐な昔の自分が頭を上げる。

 

 ―――懐かしい感じだ。

 

 世界が終わる様な夕焼け色の煙草の火をブンシはしばらく見つめていた。時にはゆらゆらと揺らし、煙と戯れる。気分が乗って、鼻歌を歌った。無表情に、ただ、目の前の音の忍をどのように拷問してやろうかと、考える。手足を柱のささくれに打ち付けられた際に目を覚ましていた音の忍は、ブンシの異様な空気を察して、小さく冷汗をかいていた。

 

「……今から、あたしはお前を拷問する」

 

 死刑宣告をする裁判官のように、ブンシは言った。しかし音の忍は、最初からそれを覚悟していたのか、大きなリアクションを取る訳でも無く、むしろ掛かって来いと言わんばかりに鼻を鳴らした。

 

「別に脅かすつもりはねえけど、忍だったらそういうのは覚悟できてるんだろうけど、あたしの質問には正直に応えてくれ。お前をぐちゃぐちゃにしたら、可愛い生徒たちが避難してる所に行かなきゃなんねえんだ。血生臭い所にずっといると臭いが移っちまう。さっさと吐いてくれると嬉しい」

「俺から情報を聞き出しても無駄だ。大蛇丸様と同胞たちが、もうじき木ノ葉を滅ぼすことに変わりはない。さっさと逃げた方が賢明なんじゃないか?」

「木ノ葉は滅びねえよ。たとえ、伝説の三忍の一人が味方していようが関係ねえ。夕陽を拝む前にお前らは皆殺しだよ」

 

 音の忍は喉の奥で笑った。

 

「何が愉快なんだ?」

「お前ら木ノ葉がだよ」

「そうか」

「五大里と崇められている連中だから、どんな恐ろしい者たちかと思ったが……どうだ、見てみろ。里の状態を。皆殺しになりかけているのは貴様らの方だろうが」

 

 倒壊した建造物たち。黒い煙が蜘蛛の糸のように空へと何本も立ち昇っている光景は、確かにどこから見ても滅亡の憂き目に会っている、そのものだ。

 

 大蛇丸に拾われるまでは忍として満足に活躍することも出来ず、誇りも何も無かった音の忍たち。木ノ葉隠れの里に生まれたというだけでで任務にありつける者たちへの嫉妬と僻み、そして自分たちの新たな将来の為に力を付け、木ノ葉崩しに参加した。

 

 たとえ、ブンシによって拷問され、死んだとしても本望だ。

 

 彼にとって、今の状況は悲観するものじゃなかった。勝ち誇った口調に、しかしブンシは淡々と、むしろ呆れたように煙草の煙を吐いた。

 

「……お前みたいに、勘違いしている奴らがいるんだよなあ。たかだか、建物ぶっ壊したり、ダチがワイワイはしゃいでるの見て勝った気になる馬鹿が」

 

 強がるな、と音の忍は言いそうになる。単なる屁理屈だ。本当は優勢だと言いたいのなら、今すぐにでも対抗して殲滅すればいい。しかしそれをしないというのは、混乱し、後手後手に回っているという事に他ならない。だからこそ、ここで笑ってやるつもりだった。

 

 しかし、ブンシの表情は一縷の不安や強がりも染み込んではいなかったことに、躊躇いが生まれてしまう。そして彼女は吸っていた煙草の先端を、男の左眼に押し付けたのだ。悲鳴が男の喉と舌を支配した。

 

「これでお前が木ノ葉を見られる光景のチャンスは、残り一回になったわけだ」

 

 まあ、どうせ死ぬけどな、と彼女は言いながら新しい煙草を取り出し火を点ける。

 

「里の状況はお前らにとって好都合かもしれねえけど、あたしたちにとっても好都合な状況でもあるんだよ」

 

 片目に宿る、文字通り焼ける痛みに、男は声を発せれない。

 

「テメエらは歴史の勉強をしっかりしてきたか? 木ノ葉隠れの里が、一体どれほどの歴史を歩んできたのか勉強してきたか? 木ノ葉隠れの里が、どんだけの命を糧に大樹になったか、知ってんのか?」

 

 ブンシは煙を吐いた。

 

「三度もの大戦を経験した木ノ葉が、何の進歩もしていない訳ねえだろ。いくら平和な里になろうが、ガキ共が平和ボケして忍の授業をサボろうが、木ノ葉に貢献してきた先祖たちの命の糧に大樹の根元は、五大里筆頭だ」

「……何を言って―――」

「木ノ葉にはな、里を襲撃された際のマニュアルがあるんだよ」

 

 もう一度、煙を彼女は吐いた。アカデミーの生徒たちが時折嗅がされてしまう煙の香りを、音の忍も聞いている。そう、つまりは授業だった。

 

「スケールが違うんだ。お前ら音の忍は、木ノ葉を滅ぼすか滅ぼされるかの博打勝負を仕掛けてるつもりかもしれねえけどな、こっちはそんな事を端にも気に掛けてねえんだよ。気に掛けてんのは、里にいる人間の命だけだ。言うなれば、目の前のお前らなんて眼中にねえ。考えてるのは、明日の朝、誰が生き残っているか。それしかない。今お前らが好き勝手暴れているのは単純に、マニュアルの第一段階に過ぎねえってことだ」

 

 伊達に、三度の大戦を経験した訳ではない。

 

 無暗に、人の命をテーブルをひっくり返すように失った訳ではない。

 

 里は学習する。

 集団は進歩する。

 大樹は成長する。

 

 初代が苗木を集め、二代目が樹形を整え、三代目が大きく成長させ、四代目が希望を抱いた巨樹。そして今も尚、葉を芽吹かせ、枝を伸ばし、成長している。

 

 吹く嵐に耐え忍ぶ術よりも、火の粉を振り払う術よりも。

 

 大樹は、新たに芽吹く葉を第一に考えるようになった。

 

「もうすぐ、避難は終わる。そして次の段階に行く。むやみやたらに暴れるお前らを、木っ端微塵にする為に、反撃をする。山津波のようにお前らを呑み込むんだ」

 

 そこでブンシは指を伸ばし、先ほど焼き潰して半液体になった眼球を留めている眼孔抉った。指をグルグルと中で動かす度に男は激痛に震えるが、ブンシは足で男の頭を壁に押し付け固定する。

 

「さっきお前はくだらない事を言ったな。情報を聞き出しても無駄だってよ。無駄じゃねえよ。これから、お前があたしに吐いてくれる情報には価値がある」

 

 そのままブンシは指を曲げた。釣り針のようにし、眼孔奥から男の頭を引っ張り上げる。

 肉が引っ張られる違和感と激痛。

 悲鳴は止め処なく零れる。木ノ葉へと襲撃した時の高揚と、取り戻しかけていた忍としての誇りを跡形もなく霧散させてしまった。それでも尚、ブンシは指を動かし続ける。今度は下に、今度は右に左に。指を新しく入れ、眼孔を広げようともした。

 最も恐ろしかったのは、彼女の表情だった。

 楽しんでいる訳でも無い。怒りに任せている訳でも無い。

 無表情。むしろ、つまらなそうにしている。

 

 その表情は、彼女が今までどれほど、こんな光景に遭遇し、そして今や飽き飽きとしているのかを伝えてきている。

 

 指を引き抜いたブンシは、眼孔の体液と血に塗れた指で、男の顔を無理やり自身に向けさせた。

 

「こっからは大人の授業だ。まずは、人間どこまで体重を減らしても生きていけるか、実験しようじゃねえか。安心しろよ。死んだら、地面に埋めて樹の栄養にしてやるよ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

【暁】の連絡会は終わった。術を解き、サソリは静かに瞼を開ける。電球が死にかけているのか、不愉快な点滅を繰り返す薄暗い部屋の中で、再不斬と白が存在感を消すように壁際で身構えている。二人とも視線は鋭く、臨戦態勢。招集が掛かってから、二人に指示を出していた。

 

 フウコが暴走する可能性がある。

 

 かつてない程の暴走を。

 

 サソリは片手を小さく上げて、二人に待機を命じながら、顔をフウコに向けた。

 

 彼女はこちらに背中を見せて立っている。他意は無いのだろう。連絡会に顔を出す際に、偶々、そういう姿勢だっただけだ。けれど、物言わぬ彼女の背中からは、冷ややかな空気が放たれているように感じる。声を掛ける事さえ躊躇わせるほど、不気味な空気。ちょうど、彼女に薬を投与しなければいけない時間だ。

 一番、不安定なタイミングである。

 

「……サソリ」

 

 フウコの声は平坦だった。逆にそれが、恐ろしい。

 

「ねえ、サソリ」

「なんだ?」

「知ってたの? 貴方は、知ってた?」

「何をだ?」

「今、大蛇丸が木ノ葉隠れの里に戦争を仕掛けてるって」

「知る訳ねえだろ」

「ううん、知ってた。貴方は知ってたはず。知っていなきゃいけないはず。絶対そう。貴方は知ってた」

 

 何の理屈も証拠もなく、何度も彼女は「知ってたはずだ。知ってたはずだ」とぶつぶつと言い続ける。意識の骨格を支える螺子がカタカタと緩み始めるような音に、サソリの耳は捉えていた。再不斬が静かに動こうとしているのを、サソリは人差し指を上下させて制止する。まだ、完全にタカが外れた訳ではない。

 

「いいか? フウコ。俺が知っていようが知っていまいが、今はそんな事は重要じゃねえ筈だろ」

「……そうだね。今重要なのは、木ノ葉の事」

「そうだ。だが、分かってると思うが、今俺達にはどうすることも出来ねえ。下手な考え起こさねえで、ジッとしてろ。飯でも作ってやる。それ食ったら―――」

「お腹は減ってない。だって―――」

 

 振り向いたフウコの眼は、真っ赤に血走っていた。

 

 表情に向けられるはずの感情は現れず、逆にそれが両の眼に集中してしまったのか、血走った写輪眼を浮かべていた。

 

「私の目の前に裏切り者がいるというのは、何よりも許せないから」

 

 視界が歪むほどの重圧が室内を満たした。

 

「ぐッ……!?」

「チャクラだけで……?!」

 

 再不斬と白の声。肌を刺すなどという生易しいものではない。肉体をすり潰すような圧力だ。チャクラが室内を充満し、フウコの殺意が鎌のように肌をなぞる中、サソリだけは平然と佇んだまま、フウコを見つめていた。

 

「テメエが俺を裏切り者呼ばわりしたことは、今だけは許してやる。だから頭を冷やせ。木ノ葉は滅びはしねえよ。大蛇丸一人で滅ぼせるような里じゃねえってのは、お前が一番知ってるだろうが」

「あの里は、私にとって大切な里なの。私だけの、私たちだけの里なの。傷を付けていいのは私だけ。他の誰かが傷を付けるのは、我慢できない」

 

 髪を揺らしながら、彼女は近づいてくる。

 もし生身の人間ならば、胃の中の内容物が全て出てしまうほどの恐怖なのだろう。

 

「傷を付けた大蛇丸は殺す。それに漬け込もうとする暁も、私が皆殺しにしてやる。私の大切なものを少しでも傷付ける奴も、悲しませる奴も、一人残らず。そしてサソリ、裏切り者の貴方もそう。今すぐ殺してやる」

 

 フウコは右手首に仕組んだ印字に指を這わせ、刀を取り出した。

 

「よく聞け、フウコ」

 

 と、サソリは溜息をついた。

 

「テメエが俺を殺してえのは分かった。そんなもん、全部が終わってからにしろ。だがな、今、木ノ葉にお前が行って大蛇丸を殺すのも、戦争が終わってもし暁が木ノ葉に襲撃をした時それを邪魔するのも、それだけはするんじゃねえ。計画が台無しになる。テメエはそれでいいのか?」

「五月蠅い黙れ。喋るな」

「そうやって過ちを繰り返すのか? お前が里を追われたのは、お前がガキみてえに感情任せに動いたからだろうが。それで何を失ったか、覚えてるだろ。兄弟を傷付け、家族を殺し、一族を皆殺しにし、挙句の果ては、お前の絶対の味方だったうちはシスイを―――」

「お前がシスイの名前を言うなぁッ!」

 

 折角手に取った刀を使わず、激情に任せた彼女の叫びに応えるように、須佐能乎が出現した。半分に割れた面を持つ巨人。ただ姿を現しただけで、室内に収まりきらない巨躯が壁にヒビを入れ、天井の一部が崩れる。指先が槍のように鋭く尖った三本の左腕。その一本がサソリを鷲掴んだ。

 

 身体が軋む。関節のギミックがひび割れ、胴体の内側にある歯車の一部が止まり掛けようとしていた。須佐能乎の握力は、このまま潰し殺しても構わないというフウコの感情を素直に反映させていた。

 

「おい、これ以上は―――」

「いい。お前らは動くな」

 

サソリは、再不斬をまだ動かそうとはしない。

 

 フウコはサソリを引き寄せた。その表情は、無表情が剥がれ、病気に侵された狼のように歯を剥き出しにし、口端からダラダラと涎が溢れ出ていた。

 

 そして、彼女の口からもたらされたのは、喚き散らした一定性を喪失している言葉と汚らしい声だった。もはや正気を保った人間が発するものですらない。螺子は彼方に沈み、脳は腐ったトマトのように溶けているのかもしれない。

 

 直視するに耐えない。そう思いながらも、サソリの視線はフウコの瞳の奥を見つめ続ける。

 

 ―――感情の震えに漬け込みやがって。

 

 フウコの理性部分を感じさせない暴言の端々。どこにも彼女らしさが消し飛んだように見えるが、物を見極める眼を持っているサソリには、彼女の背景に別の意識があるのだと判断していた。

 

 もう一人のフウコが、内部から幻術を使って意識を混濁させている。おそらく、フウコの中でケタケタと嗤っているに違いない。これは自分の身体なのだと長々と主張し続けた彼女だ。フウコを追い込めば、サソリを殺せる上に、身体を薬漬けにされる事も無くなる。

 

 今度こそ。

 今度こそはと。

 もう一人のフウコは、勝ちを確信している。

 

 今まで何度もフウコを誑かし、痛め付けてきた彼女だが、須佐能乎を発動させるまでに至ったのは今回が初めてだ。あと一押しすれば、殺せる。殺しきれる。ケタケタと嗤う彼女の笑みが、フウコの髪の隙間から覗かせるかのように見えてくる。

 

 須佐能乎の握力に、右腕の関節部位が破壊された。胴体にもヒビが入り始める。しかしサソリの表情は歪まない。

 

「……おいフウコ、これで終わらせるのか?」

 

 その声は、厳しいものだった。

 

 演劇を監督する者が、本番直前のリハーサルを止めてまで粗を指摘するような程に。そしてフウコの顔が、獣から、怯え始める子供のように静けさを宿し始めた。

 

 言葉ではない。

 

 サソリの声質が、もう一人の分厚い幻術を通り抜けて、フウコの琴線に触れたのだ。

 

「手前勝手な理由で俺たちを巻き込んで、今度は手前勝手に演劇を潰すか。呆れたものだな。しかも木ノ葉を守る為だと? 下手くそな言葉を並べてんじゃねえ。単に、テメエが大切にしてる連中を触りに行きたいだけだろうが」

「……違う」

「お前は全部を捨ててここにいるんだろう。そう俺に言って、誓ったんだろう。そのお前が、そいつらに会ってなんて言うつもりだ? お前たちの為に犯罪者になって頑張ってるぞとでも言うつもりか? お前たちのせいで犯罪者になって苦しんでるぞと言うつもりか?」

 

 違う、違うと、フウコは震え始める。須佐能乎が氷のように溶け始める。チャクラの圧迫は引き始めるのを、再不斬と白は感じ取るものの、同時に疑問を獲得してしまう。

 

 フウコの身に何が起きているのか。

 

 ただ言葉をぶつけているだけ。声の質が多少変わっただけだ。何度か暴走したフウコを目撃している上に、止めるのは毎回薬を打ち込む為だ。現に今、白はサソリに言われた通りの薬を懐に隠し持っている。だがまるで、そんなものは必要なかったのだと言いたげな状況が出来上がっている。

 

 そんな心持の二人を尻目に、サソリは言葉を続けた。

 

 既に須佐能乎の拘束は解け、自由に歩ける。右腕は肘から先が外れ、床に落ちる。サソリは落ちた腕を一瞥すると、鼻を鳴らした。

 

「良かったな、俺が人傀儡で。これが普通の人間だったら、腕一本取れただけでも致命傷になりかねねえぞ」

「ご……ごめ―――」

「頭を下げる余裕があるんなら、黙って座り込んでろ。木ノ葉の事は心配するな」

「………………」

 

 うん、と消え入る声と共に、フウコはその場に座り込んだ。足を腕で抱えた姿勢。足と胸の間に顔を埋めると、彼女はピクリとも動かなくなった。無音が、彼女を中心に広がった。

 

「まあ、出来は悪くないと言ったところだな」

 

 大きく息を吐いたサソリに、再不斬は「おい」と声を掛けた。

 

「これはどういう事だ」

「ん?」

 

 と、サソリは何食わぬ顔で振り返る。

 

「何の事だ?」

「今の茶番劇の事だ。そんな簡単にそいつがおとなしくなるんだったら、どうして今まで使わなかった」

「ああ、そのことか。いや、隠していた訳じゃねえ。単純に、使えるかどうか分からなかったからだ」

「ああ? 説明になってねえぞ」

「説明する時間が勿体ねえ。とりあえず、おい小僧、持ってきた薬を寄越せ」

 

 白が手渡してきた薬と注射器をフウコに使用する。首元に針を差し込み、薬を投与する。たちまちフウコの四肢は弛緩し、軽く押すだけで床に仰向けになった。うすぼんやりとした瞳の焦点は不動のまま、瞼は微かにだけ開いている。軽く目の前で指を振るが、彼女に反応は微かも無かった。

 

 意識は失ったようだ。

 

「よし、これで安全圏だ」

 

 空となった注射器を放り投げると、サソリはフウコの傍に腰を下ろした。再不斬や白に背を向けたまま、サソリは言う。

 

「……今やったのは、催眠術みてえなもんだ。お前らも分かっていただろ? 俺の声が変わったのを」

 

 再不斬と白の聴覚は、確かに捉えていた。深い霧の中で暗躍できる二人の聴覚は鋭い。フウコに異変が起きたのは、サソリの声が変わってから。

 

「今後計画が進行していく場合、俺がこいつの傍にいない場面も出てくる。そんな中で勝手にぶっ壊れるのが最悪だ。それを防ぐために、薬を打ちながら、フウコに縛りを加えておいたんだ。色々、こいつの頭の中をいじりながらな」

 

 フウコを調整する薬もタダではない。失敗作も、何度造った事だろうか。その失敗作をただただ失敗だと諦めるよりも、サソリは有効的に使おうと考えた。

 

 薬を使わず、声さえ届けばフウコを制御できる手段。

 

 失敗作で苦しみ悶えるフウコに、声質を微かに変えて語り続けた。何度も何度も。

 

 死にたいのか?

 このままだと死ぬぞ?

 いいのか?

 ああ、死にたいのか。

 お前が死んだら、他の連中も死ぬぞ。

 破滅するぞ。

 死にたいなら死ね。

 もう二度と、何も触る事のできない地獄に落ちろ。

 

 いつしかサソリのその声は、フウコに強制力を持った。鈴を鳴らせばペットが涎を垂らして食事に期待を持つように、サソリの声がフウコに痛みと苦しみと恐怖を想起させるようになった。

 

 そのことを滔々と語ったサソリは、「そんな事よりも」と話題を切り替えた。

 

「お前らに依頼を出す。すぐに木ノ葉へ行け」

「……木ノ葉は滅びねえんじゃねえのか?」

 

 突如の依頼に、再不斬は声を荒げる事は無く尋ねた。サソリからの依頼は、いつどんなタイミングかというのは分からない。だが、導入部の無いシンプルさは、悪くはなかった。

 

「木ノ葉は滅びない……だが、傷は付けられる。その傷が大きければ大きい程、フウコの―――」

 

 サソリは言葉を止めた。

 白は不思議そうに彼を見つめるが、再不斬は言葉を待つことなく尋ねる。

 

「木ノ葉に行って、何をすればいい」

 

 単純だとサソリは、溜息のように呟いた。

 

「木ノ葉を守れ。どいつもこいつも、一つの漏れなく、命を救って来い」

 




 あけましておめでとうございます。

 年を越してからの投稿となってしまいました。誠に申し訳ありません。

 去年は投稿ペースが下がってしまった年となってしまいました。今年はなるべく、以前のようなペースに戻したいと思っております。

 今年は、あるいは今年も、ご清栄な日々を、これを読んでいた方、そうでない方も、お過ごしいただけたらと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

友達と別れ、また、友達と会う

 

 空が、青い。

 

 憎らしい程に。

 

 今、木ノ葉隠れの里の平和が壊されているというのに。

 

 変わらず空は青く、白い雲が悠長に泳いでいる。

 

 嘲笑するように、見下すように。

 

 お前には何も出来ないのだと、言っているように思えた。

 

 あの夜のように。

 

 静か過ぎる、あの夜のようだと、イタチは思った。

 

 今度は何を奪っていくのか。

 

 空は。

 

 自分から何を奪い、去って、さも平和を見下ろすのか。

 

 入れ替わってほしい。

 

 シスイと、フウコと、イロミと、自分の四人が走り回った、幼い頃の透明な空に。

 

 ―――どうして、そう、考えるんだ……?

 

 空が入れ替わる事なんてあるはずないのに。

 

 そんな事、考えたはずもないのに。

 

 きっとそれは、フウコの姿を思い出したからかもしれない。

 

 彼女はずっと空を見上げていた。

 

 どうして彼女がそうしていたのか、確かな理由を聞いた事はなかった。ただ、綺麗だから、という感情的な事以外は。

 

 もしかしたら彼女は、空を、見張っていたのだろうか。

 

 瓦礫の上から。

 

 戦争を導き、何かを持ち去っていく空を。

 

 そうさせない為に、研鑽を積んできたというのに。

 

 身体が徐々に重力の鎖に囚われていく。数秒だけの浮遊感は、イタチの前髪を上に持ち上げた。そのまま、空中に投げ出されたイタチの身体は真下の試験会場の中央へと落ちようとする。空は遠ざかっていく。身体は重くなり、意識は徐々に速度を落とし、重力と比例するかのように、緩やかな時間は速度を速めた。

 

 次の瞬間には、目の前にはイロミの姿が入り込んでいた。

 

「死ぃぃいねえええええええッ!」

 

 右腕を弓のように振りかぶり、口角を限界まで吊り上げたイロミが、さらに上空から降ってきた。

 

 食事(、、)を終えたイロミの拳。木っ端な音の忍らを余すことなく平らげた彼女の身体は、挽かれたようにズタズタだった両足を再生させる事に止まらず、身体能力の次元の桁をさらに外させた。背から生えていた大蛇たちは死んだように動かなくなり、イロミの肉体から離れている。それも合わせてか、もはや、彼女の挙動一つが破壊の現象。

 

 イタチの写輪眼は、身体の重さに関係なく、イロミの挙動を読み切っていた。両眼の写輪眼は元の状態に戻っている。食後の彼女の攻撃を躱し続け、けれど攻撃の余波で刻まれたダメージを背負いながらも、振り抜かれたイロミの右腕が腹部を吹き飛ばそうとしたのを、胴体を捻り寸での所で回避した。

 

「………影、分身の術ッ!」

 

 生み出したもう一人の自分がイロミの両手を掴み拘束する。今の彼女にはまるで意味の無い拘束だが、目的はそこではない。

 

 距離を離すこと。

 

 イタチは影分身体の背を蹴り、空中でありながらも姿勢をコントロールした。チャクラを練り、印を結べる程の余裕。そして、化物染みたイロミの身体能力であっても、何も無いままに空中で移動が出来る訳もなく、彼女からの反撃は届かない距離を作れた。

 

 術の性質は水遁。

 

 イロミを地面に叩き付け、ほんの微かな隙を作る為だ。

 少しだけでもいい。

 幻術で支配できれば、彼女を救い出せる。

 月読は使えない。

 彼女自身には、万華鏡写輪眼を見る為の視界が無いからだ。だが、月読に頼らずとも、イタチの扱う幻術のレベルは木ノ葉の中においてトップクラスだ。一度幻術に呑み込まれてしまえば、自力で解ける者などそうはいない。

 

 それだけが、もはや言葉の届かないイロミを救う為の、唯一の手段だった。

 

 幻術で支配し、意識を落とし、封印術を施す。

 その為の、刹那。

 術を当てれれば、終わらせれる。

 

「―――……まだまだぁああッ!」

 

 身体が、引っ張られる。

 

 影分身は依然としてイロミの両手を拘束している。影分身を蹴り落としたせいで、そもそもイロミの手足は届かない距離のはずなのに。

 

 視界が回転する。身体を引っ張るのは腹部を絡めとる何か。

 

 それを、視線が捉える。

 

 イロミから伸びる尻尾だった。

 

 蛇ともトカゲとも分からない長く巨大な尾が巻き付き、イタチの姿勢を揺るがした。尾はうねり、イタチを地面へと投げ落とす。

 

 ―――時間が足りないか……!

 

 距離も時間も、全ての速度が上回る彼女にはその二つを掌握されてしまっている。幻術を使う隙どころか、隙を作る為の大きな術一つ発動できない。簡単な術では、彼女にはビクともしないだろう。

 

 試験会場にいた音の忍らを捕食した彼女を前にしては、ただ一つの隙を見出す事すら至難だった。

 

 地面に叩き付けられる寸前に姿勢を戻し両足で着地する。思考は既に、上から落ちてくるイロミの追撃を予想していた。即座に地面を蹴り、距離を離す。思い描いた自身の身体のコントロールは、意識だけしか扱えていなかった。

 

 胸に激痛が走る。

 脳を踏み潰すかのような痛みだ。

 食事を終えたイロミとの交戦による疲労が限界を迎えたのか、それとも別の要因なのか。

 

 臓器という臓器が発熱し、筋肉の繊維一つ一つが細切れにされているような錯覚。踏み出そうとする足が、動かない。

 

 致命的なタイムロス。

 

 イロミが落ちてくる。

 

 鋭い歯が眼前に―――。

 

「木ノ葉剛力旋風ッ!」

 

 太い声と共に視界に割り込んできた緑色の足が、イロミの背を蹴り飛ばした。身体全身を回転させた蹴り技は、イタチの影分身ごとイロミを壁へと吹き飛ばす。壁を砕き、会場外へとイロミの身体は投げ出され、影分身が消える煙と共に壁の破片が粉塵となった。

 

 イタチを助けたマイト・ガイは、粉塵を鋭く見据えている。イロミを警戒しているというのが、即座に分かってしまった。

 

「無事か? イタチ」

「ガイさん……どうし―――!」

 

 言葉の続きは肺から込み上げてきた喀血で止められてしまう。咄嗟に口元を手で覆うが、指の隙間から血が零れ落ちていく。

 

 心臓が痛い。

 

 苦しい。

 

 吸う空気が針の束かのように、肺を痛めつける。

 

 視界が揺れる。

 

 声が、出せない。

 

「お前一人で無理はするな」

 

 違う。

 無理なんかしていない。

 友達を助ける事のどこに、無理が必要なんだ。

 

「少し休め。ここは、俺たちに任せてほしい」

 

 違う。

 それは、正しくない。

 彼女がこうなってしまったのは、自分の責任なんだ。

 友達を守れなかった自分の。

 だからこの場は、自分が責任を取らなければいけない。

 

 里は今、脅威の只中。

 

 尾獣化したナルトや、街にいるだろう音の忍ら。それらを対処する事こそが、里を平和に戻すための正しい選択なんだ。

 考えを伝えようにも、舌は血に塗れて言葉が上手く出せない。ガイの後ろには、猿飛アスマ、夕日紅ら、他の上忍たちも控えている。全員が、イタチを守る様にしている。彼らにとって、里の脅威の排除は、つまるところ、ここが最重要だと判断しているのかもしれない。

 

 九尾のナルトには、七尾のフウが。

 街には、他の者たちが。

 しかしここには、抑制する力がいない。

 

 それが、この場においての意志だ。自分とは無関係なはずの、総意。

 

「邪魔ぁ……するなぁああああッ!」

 

 反発する怒声が砂煙を吹き飛ばすと、ガイたちの警戒心を強固にする。隙を見出させない警戒は、並の忍なら先に攻撃を仕掛ける事を躊躇するだろう。そんな彼らに対して、歯を剥き出して怒る彼女は「折角、良い所なんだよッ!」と叫んだ。

 

「正気に戻りなさいイロミ。大蛇丸に加担しても、木ノ葉が滅びるだけよ」

「キャハハッ! 紅さん、木ノ葉なんて消えて亡くなっちゃえばいいんですよッ! こんな嘘吐きしかいない里なんて! 紅さんも下手な嘘は言わないでください。こんなバケモノ、死んでしまえって思ってるんじゃないんですか?!」

 

 夕日紅はイロミとかつて任務をこなした事があった。忍として同性という共通項もあったおかげだけではなく、任務の時に健気に尽くす彼女の姿を見て、良き友人となった。

 変わり果てた姿を見ても尚、紅はイロミを助けようとした。

 

「俺は……妹にそんなこと思えるほど、人間止めてるつもりはないんだけどな」

「アスマさんとは家族ではありませんよ。血の繋がりはありません。血の繋がりが無い家族ほど、冷たいものはありませんよ。イタチくんはそうやって、フウコちゃんを切り捨てたんですから」

 

 猿飛アスマとイロミの関係はあまり深くは無かった。書類上でのみの血縁関係。それでも、彼にとって、繋がりというのは単なる言葉や文字ではなかった。木ノ葉隠れの里を支えていく大切な未来という強い意志も含まれている。たとえ、血の繋がりの無い妹であっても。

 

「ガイさん……私は今、人生で最高に調子がいいんです。キャハハ、今まで、努力なんかしてたのが、馬鹿みたい。才能があればいいんだ。無いんだったら、貰えばいいんだ。殺してでも、その才能の地位にさえいれば良いんですよ。奪って食べればいい」

「……君は本当に、そう思っているのか?」

 

 マイト・ガイはイロミの努力を評価していた。自分のように、ただ愚直に努力をする訳ではなく、創意工夫を凝らした別の努力。方向性は違っても、その情熱の力強さは自分にも負けず劣らずのものだった。故にガイは、彼女の事を知っている。

 

「キャハハハ。ああ……今、良い気分。すごい、身体が熱い……。ようやく、食べたのが無くなったみたい……。今なら何でも、出来る気がする」

 

 そっか。

 

「イタチくんはいつも、こんな気分だったんだ。だったら……天才は強いよね。こんな気分でいたら、本当に、何でもできるよね。いいなぁ、キャハハ。ああ、でも。イタチくんのすぐ傍まで来れた。これなら、すぐに―――」

 

 揺れる。

 

 風に動かされる稲穂の頭のように。と、同時に、写輪眼は未来を予測した。

 

 ガイたちは、後ろに立つイロミに気付かないままに立っている。次のイロミの動きに、視線も思考も、完全に置き去りにされているのだろう。イタチの眼前に立つイロミはただ、こちらに迷わず顔と身体を向けている。

 イロミの右手は鉞のように平たく鋭く広げられ、心臓を貫こうと振りかぶる姿には躊躇いは無い。このまま何もしなければ、殺されるのは間違いなかった。

 

 ほんの少し。

 

 微かにだけでも身体を動かし、致命傷を避ける事が出来れば、幻術を仕掛ける事が出来るかもしれない。しかしその想定は、写輪眼が映した予測の景色が、黒に染められ、あらゆる存在の輪郭が薄い白で縁取られた。いや、景色の色が変わったのは、視界の半分だけである。

 

 右眼が、激痛に蝕まれた。

 

 予感と怒り。

 

 ―――……どうしてだ…………ッ!? 俺は、今は………!

 

 助けたいと願っているのに。

 再び天照が、蠢き始めている。

 映し出された予測に従うように、黒の染めはイロミの右腕を焼き潰そうと焦点を絞っていく。それに随伴して、予測に現実が追いつこうと縋りつき、いるのかいないのか不可視不明の醜い生存本能がそれを払おうと強制してくる。

 

 今すぐに右眼を手で覆いたいものの、意識できている時間の中で動けるのは思考だけ。やがて現実は追い縋り、予測を忠実になぞりながら、イロミの右手に黒は収束する。

 

 今度こそ焼き切ってやろうとする小さな口火。右手から、身体全身を消し炭にしようとするのだ。

 

 叫びそうになってしまうほどに、心は反発する。

 友達を殺したいなどと、まるで思っていないのだと。

 その反発が、イタチの身体を重くした。

 今、動かなければ。

 微かに動き、イロミの攻撃点を動かさなければ、彼女の右手は自身の心臓を貫く。しかし、右眼の反乱に抗う事にのみ心は向いてしまっている。

 

 もう、間に合わない。

 

 黒点は小さく……小さく……。

 

 そうとは知らず、イロミは小さく言った。

 

「―――勝ったッ!」

 

 

 

「土遁・針鋳地獄(しんちゅうじごく)

 

 

 

 黒点が正に炎になろうとした瞬間、イロミの右手は宙を舞った。

 

 血と共に。

 

 クルクルと軽やかに。

 

 赤い血飛沫と共に、彼女の身体から離れた。

 

「え………?」

 

 間の抜けた、殆ど吐いた息に近い、小さな声が、果たしてイタチのものだったのか、イロミのものだったのか。

 

 地面から脈絡なく生えた十数本の、長く鋭い槍のような岩石が。

 

 イロミの手首を、膝を、肩を、尾を、片腹を、腰を―――心臓を。

 

 貫いた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 全ての根回しは終わった。大蛇丸によって崩された木ノ葉隠れの里の平和の回復に必要な経費と物資の要請。木ノ葉隠れの里に先に刃を向けたのは、大蛇丸を首謀者とした音隠れの里の主戦力と、彼によって謀れた砂隠れの里の一部の者のみであるという見聞の拡散準備。他里に情報が回らぬようにする為の情報規制と、他里からの先手を抑制する為のかく乱情報の用意。また、直接的な大名らへの遠回りな脅し。等々。

 

 全ては恙なく遂行出来た。それもこれも、うちはイタチという名が手元にあるおかげである。たとえ、こちらの指示を一切に無視し、自分勝手に動いてはいるが、うちはイタチが自分の部下という既成があるだけでも、大名たちは渋々と首肯してしまう。木ノ葉の神童と呼ばれる彼の名を脅しに使ってしまえば、大名たちには抵抗する手段が思い浮かばない事だろう。

 

 元々ダンゾウには、イタチを御すことなど頭の中には無い。

 

 彼は実に優秀で、正に正道な忍だ。誰かの下に就くような器ではない。勿論そこには、うちはフウコの兄であるという、幾分かの情緒的な配慮があるのは否定出来ないが。

 

 ―――残る問題は……猿飛イロミを排除した後の…………後始末か……。

 

 大蛇丸に囚われ、木ノ葉隠れの里に敵意を示した、今となっては魑魅魍魎の如く狂った化物だ。そして、うちは一族抹殺事件の真実を、おそらくは知っている者。もはや、排除しなければいけない人物である。

 

 親もおらず、同じ里の者を殺めたという排除されてもおかしくはない大義名分を持っている。排除しても、里からは異論は出ないだろう。例外を除いては。

 

 まずは、うちはイタチ。彼は間違いなく、異を唱えてくる。もしかしたら、大蛇丸の事態が収束してから、二次災害のように敵意を示すかもしれない。そうなった場合、彼をも排除してしまうのは得策ではない。最悪の場合、まだ残っているシスイの眼で、さらに幻術を使わなくてはいけないかもしれない。

 

 さらにもう一人。うちはフウコ。親友であるイロミが排除された事を、もし彼女が知れば、どう動くか予測が出来ない。サソリからの報告では、もはや薬が無ければ、碌に思考を保てないほど、ボロボロになっているらしい。イロミの死の情報を規制するか、サソリの抑制を信じるべきか。

 

 薄暗い廊下を歩きながら、事態の収束後の整えばかり、ダンゾウは考え続ける。つい先ほど、火の国の大名相手に予算やら何やらと、話の決着を付けたばかりだが、疲れなどない。木ノ葉隠れの里の事を考えるのに時間は必要だが集中力が多く削られるほど、彼にとって慣れ親しんだ思考経路だった。

 

 うちはイタチに関しては、まあ、今急く程ではない。別天神が手元にある以上、彼の記憶をまた、封じ込めればいいのだから。やはり問題はフウコだ。彼女にはなるべく、おとなしくしていてほしい。

 

 一応は、彼女の事はかつて、妹のように可愛がってあげた身だ。扉間からの約束も―――今となっては残滓に近いようなものとなってしまってはいるが―――ある。敵意を剥き出して来た彼女を、排除したくはない。うちはマダラの事もある。イタチもフウコも、強烈な手札だ。残せるならば残しておきたい……が、望めないならば仕方ない。

 

 全ては里の為である。

 間引くならば徹底的にしなければ。

 だからこそ敢えて、大蛇丸の意図に乗っかった。敢えて動かず、大蛇丸が本格的に動いてからも部隊を少しだけ遅く動かすようにした。平和という時間に付けられてしまった脂肪を払い落しながらも、今後、正しい形へと変えていく為の下地として。

 

 用意した部隊は、精鋭。

 

 イロミの実力はある程度承知している。まさか【根】の最深部にまで侵入してみせ、あと寸での所で自身の前に立とうとした程の力を付けているのだから。正直なところ、精鋭たちでも彼女に真正面から戦い、排除しきれるかと言われれば、確実ではない。

 

 だが今は、今に限っては、状況は特異。

 

 イタチが彼女を助けようとする。そして部下たちの報告によれば、イロミはイタチに執着している。今頃は、二人は争っている事だろう。

 

 ならば、付け入る事は出来る。

 

 イロミの動きを分析すること。

 イロミの考えを掴み取ること。

 全てを解析し、一番の隙を狙い致命を与える事も。

 

 世は事もなし。

 

 問題はやはり、後始末。

 

 ―――だがそれも……猿飛次第だがな。

 

 ヒルゼンがもし、この事態に存命する事が出来れば、また考える項目も変わってくるだろう。しかし、それもまた小事。

 

 火影が死のうと。

 

 里は、滅びない。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 天照の黒い焦点がイロミの右手を燃やそうとした瞬間、見上げていたイロミの右手が地面から生えた岩石が手首を貫き、身体から離されると、そこには憎らしい青空が見えた。黒点は空に呑み込まれ、代わりに、赤い点が宙を舞う。

 

 血だと、イタチはすぐに分かった。忍としての性、あるいは経験としての条件反射にも等しい程の情報処理は、一秒にも満たない短い時間でそう判断させられる。だが、その血が誰のものであるか。それが、すぐには分からなかった。

 

 血はやがて重さを持ち、顔に大きく塗りたくられる。

 顔が熱くなる。血を被ったせい……だけではない。

 

 分かっている。

 

 その血が誰のものであるか。

 だが、それを認めたくなくて、思考を真っ白にした。

 息が止まってしまうほどに純白に。

 顔が熱いのは、止めていた息が、無理やり抑えていた心臓の悲鳴が反動で強烈になって、脳の細い血管を強引に伸ばし身体が反発しているのだ。

 

 血が流れ、白い思考は生気を帯びる。

 

 空のように青い。青白い。気色の悪い生気を。

 

 冷静に、思考は分析を始める。

 

 イロミの状態を。

 

 四肢は無残だった。右半身は、右手が吹き飛び、右膝の下は地面に転がっている。左半身は左腕がまるまる身体から離れ、左足は腰の部分から離脱してしまっている。生えていた尾は、途中で千切れている。

 

 地面から生えた岩石の槍―――いや、針。それらは剣山に突き立てられた蟲のように、イロミの殆どを貫き、持ち上げていた。

 

 腹も、肺も、心臓も。

 

 臓器という臓器が、壊されている。

 

 医療忍術の知識が無くとも、分かる。

 

 致命傷だ。

 

 即死でも、おかしくない。

 

 そこでまた、思考は止まる。

 

 進みたくない。

 進みたくないッ!

 

 心が叫ぶ。

 

 息を止める。止めなければ、呼吸をしようと気道を動かそうとすれば、逆に声が出そうになるから。無意味な叫びを出し、思考を投げ出してしまうからだ。いわば、生存本能に近い。

 

 ここで思考を止めてしまえば、冷静さを失ってしまえば。

 

 友達の命が。

 

 まだ助けられるかもしれない命が、消え―――。

 

「お怪我はありませんか?」

 

 平坦で機械的な声が、真横から。串刺しとなったイロミから逃げるように、イタチは反射的に顔を向けてしまった。声だけでも察する事が出来たはずなのに、顔を背けて、消え入っているかもしれないイロミの命から意識を逸らした。

 

 そこに立っていたのは、暗部の面を被った男が一人。

 

 顔は見えないが、確信する。

 

「お前は……お前たちは―――ッ!」

「はい。ダンゾウ様の部下です。あの方の命令で、貴方を助けに参りました」

 

【根】

 

 ダンゾウの直属の部下。

 それをようやく理解して、込み上げてきた。

 今ここで、どうして登場するのか。誰が術を放ったのか。

 ダンゾウの意図に、一瞬で追いついた。

 

 ずっと彼は―――あるいは、他にも潜んでいるだろう【根】の者たちは、観察していた。分析していたのだ。イロミの行動を、動きを、思考を。同時に、イタチの反応を。

 

 そしてここぞというタイミングで、術を放ったのだ。

 

 一直線に突っ込んでいくイロミの動き。そして、動き回り、写輪眼以外ではまともな目視が不可能なイロミの動きがようやく止まったタイミングでの、言うなれば術の決め打ちのようなもので待ち構えていた。

 

 最初から―――そう、全くの最初からだ。

 

 イロミが里の敵になったと分かった時から。

 ずっとダンゾウは、この瞬間を思い描いていたに違いない。

 

 ふざけるなと、男の首元にクナイを突き立てようと怒りが誘ってくる。こういう時こそ、天照が発動しなければいけないのだとさえ考えてしまうほどの激情だ。それもまた、現実から逃げようとした、イタチの無意識だったのかもしれない。

 

「……タチ…………くん……………?」

 

 か細い、掠れた声が、イタチに触れる。顔を……現実に向けた。その途端に、彼女の身体が倒れてきた。彼女の小さな頭が、肩に乗る。

 

 身体の殆どを失って、非情な軽さが、肩に。

 

「イロミちゃん……今……! すぐに…………医療忍者を……」

 

 口で言いながら、虚しさが心に溜まる。両腕で彼女を抱えるが、止め処なく零れ落ちる血液がただでさえ軽い身体をより希薄にしていく。医療忍者が来るよりも、イロミの死が近いのは明白だ。臓器が全て、潰されているのだから。

 

「……どこに…………いる………の? ………イタチ…………くん……イタチ………く…」

 

 肩に乗る彼女の声は、とても近くに聞こえる。

 久しぶりのような気がした。

 気が狂った声ではない、弱々しい声を聞くのは。

 アカデミーの頃から何度も彼女はそんな声を出していた。

 泣いて、泣いて。あるいは、泣くのを我慢して、目に涙を目一杯貯めながら下手くそな笑顔を浮かべて。

 そしていつも自分は……自分たちは、彼女に手を差し伸べる。

 友達だから。

 彼女の友達は、もう、自分しかいない。

 真っ先に先頭に立つシスイも、手を引いてあげていたフウコも、いないのだ。

 

「ごめんね…………」

 

 と、彼女の声。とても小さい声量のはずなのに、死にかけている彼女の声だけしか頭の中に入らない。辺りの音は―――我愛羅の絶叫や、ガイたちの声―――聞こえているが、靄が掛かったようで。血の臭いが濃く、腕に触れる重みは軽く。

 

 積み重ねてきた努力も、思い出も。

 たった今、崩れていく。霧散していく。

 止められない。

 ただ無力に、イロミの言葉に耳を傾けるしかできない。

 

「……届くと…………思ったんだけど…………なぁ…………。今なら……真正面からでも…………勝てるって…………君に……君の…………才能に…………」

 

 そこで彼女は口から大きく血を吹き出した。

 

「…………ごめんね……。ごめん……ね………」

「大丈夫だ。すぐに―――。里には、綱手様がいる」

 

 そう。

 

 奇しくも、木ノ葉隠れの里には、医療忍術のプロフェッショナルがいることに、イタチはようやく、言葉を出してから気付いた。

 

「あの方なら、君の怪我は治せる……ッ!」

「ごめんね……。ごめんね」

「すぐに俺の部下を呼べば、連れてきてくれる。時間もかからない」

「……ごめんねぇ……………私………」

「喋らないでくれッ! ガイさん、紅さん、アスマさん! すぐに、俺の部下を―――」

 

 イロミに駆け寄ってきた三人を見上げた。彼らの表情は間違いなくイロミを心配してくれている、彼女の繋がりたち。

 

 イロミの努力を正しく評価した人。

 イロミの人格を同性として理解した人。

 イロミとの微かな繋がりを大切にした人。

 

 彼らならすぐに動いてくれる。イロミを化物と見ないで助けてくれる。きっと部下たちを見つけてくれる……あるいは、綱手自身を見つけ、連れてきてくれるはずだ。

 

 縋る様に見上げた彼らが、イタチの意図を理解し、頷こうとした。

 

 だが。

 

 彼らが頷いてくれたのかどうか、はっきりと見る事は叶わなかった。

 

 

 

 衝撃が、腹から、背へ。

 

 

 

「ごめんね……イタチくん……。こんな、騙し討ちみたいな形で、勝っちゃって……」

 

 

 

 胸の痛みが消えた。

 

 イロミと戦い始めてからずっと、身体を腐食させるような蝕み。

 

 それが。

 

 ふ、と。

 

 消え失せた。

 

 代わりに生まれたのは、違和感だった。

 

 身体の中心の感覚がごっそり消えたのだ。いや、消えたのではない。何かに遮られた。

 

 視線を下へ向ける。

 

 穴だらけで、血塗れのイロミの小さくなった背中がある。その、下にあった、それが、イタチの腹を貫いていた。

 

 尾は、貫かれ、途中で千切れていた筈なのに。

 

「優しいね、イタチくんは」

 

 耳元の彼女の声は、いつの間にか、淡々と冷徹になっていた。イタチの腹を貫く尾を悠々と揺らしながら、イタチの内臓を痛めつけていく。

 

「昔から、変わらないね。本当は、もっと真剣な君と戦いたかった。君を殺す時は、君の才能をぶち破った時は、目の前から堂々としていたかったのに……。こうやって、君の前に居れるんだから、この手を使うしかないんだ……。私は、真剣だから。だから、ごめんね。騙し討ちは、嫌だったんだ……。心配してくれる必要なんて、無かったのに」

 

 イロミの身体が離れた。ボロボロと穴の開いていた身体が、再生し始めている。失った四肢は内側から不気味に現れ始めた小さな蛇たちが、縄のように纏まりながら肘を、手を、膝を、足を、形成していく。心臓や腰も同じ。元に戻る。

 

「私はこんなのじゃ死なないよ。いっぱい、食べたから。キャハハ。そこら辺の連中の肉が私のものなんだからさぁ? バカみたい」

 

 身体に戻ったせいなのか、彼女の狂気が起きるを、彼女から発せられる雰囲気が肌を刺す。

 

「「「―――ッ!?」」」

 

 駆け寄っていたガイたちはすぐにイロミに対応しようとする。彼女を拘束しようと、初動するが、

 

「さっき言ったよね? 邪魔するなってぇええええええッ!」

 

 尾が暴れる。腹から抜き取られた尾は、イタチの内臓の断片がへばり付きながらも、ガイたちをただ一蹴する。一度振るっただけで、空気が震え、地面の砂が大量に舞う。避けれるほどの距離でも無く、反射神経が間に合う訳でも無い速度の振りに、三人は吹き飛ばされた。

 

「キャハハハハハハハハ! ほらぁ、立ってよ、イタチくん。天才なんでしょ? 私より才能があるんだから、しっかり立って、見下ろさないといけないよ? 立てない? 立てないならぁ、私が立たせてあげる。ほら」

 

 元に戻ったばかりの手で、イロミはイタチの首を掴む。軽々しく身体は持ち上げられた。

 

 抵抗も何も出来ない。

 

 腹筋を大きく貫かれたからだ。消えていた感覚が、激痛へと変わる。肩を、腕を、微かに動かそうとするだけで、身体が痛みを訴え、これ以上動かさないように筋肉を痙攣させる。彼女に掛ける言葉すら、出させてくれない。苦痛に表情を歪める事だけが、許されたイタチの権利だった。

 

 イロミは歪めた笑みを途端に収めると、呟く。

 

「もう、これで最後だと思うから、言っておくね」

 

 痛みに意識が持っていかれ始める。視界は白く―――。

 

 

 

「私ね……君の事が、大嫌いだったんだ」

 

 

 

 白い視界の向こうには、誰かが立っていた。

 小さい子供だ。

 友達だった。

 イロミと、シスイ。そして、妹のフウコもいる。

 

 

 

「嘘吐きな君が」

 

 

 

 並んで白い向こうに歩いていく。

 仲良く歩いて。

 

 

 

「私から、フウコちゃんを奪った君が―――お前がッ!」

 

 

 

 本当に並んで歩いているだろうか?

 幼い自分も含めた四人は、一直線だろうか?

 少しずつ、一人が。一人だけが、離れていく。

 離れて?

 違う。

 遅れているんだ。

 歩く速度が、遅いんだ。

 他の三人と違って。

 その子は泣いている。

 どうして自分は、歩くのが遅いんだと。

 泣いている。

 

 

 

「大嫌いだった。殺したくて、君の才能を乗り越えて、殺したくて。それが、今、叶う。ようやく………お前を殺せる。もう、お前は、私の友達じゃない……。ううん、友達ごっこから終わる。お前は友達じゃない。私の友達は、ずっと……ずっとッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「よ、イタチ。久しぶりだな」

 

 彼はいつもそう言って、軽々しく片手を上げる。晴れだろうと、大雨だろうと、友人への絶対的な礼儀こそがどんな状況にも優先されるべきだと言いたげに。たとえ、上も下も何もかもが真っ白な、どことも知れない不可思議な空間であっても。

 

「シ、スイ…………なのか…………?」

 

 慌てて上体を起こしたイタチは、矯めつ眇めつ、目の前に立つシスイの顔を見上げた。

 

「おいおいなんだよ、その返事は。お前は俺の顔を忘れたのか? この親友の顔を」

 

 シスイらしい、取るに足らないジョーク。かつてなら、当たり障りのない返しを呆れながらにしたものだが、イタチは状況を整理するので精一杯だった。死んだはずのシスイが目の前でこうして笑って立っている状況。しかし、どれほど考えを巡らせても正解は見当たらなかった。

 

 自分は死んでしまったのか。

 

 たしかに、腹は貫かれた記憶はあった。そして、イロミの言葉も。

 

『私ね……君の事が、大嫌いだったんだ』

『嘘吐きな君が』

『大嫌いだった。殺したくて、君の才能を乗り越えて、殺したくて』

 

 もし自分が死んだというのなら―――あまりにも情けない、最後だった。

 

「ま、お前はアカデミーの頃からそうだよなあ」

 

 と、シスイは言う。

 

「どんな時でも憮然としててよ。女子に告白された時もそうだった。普通は顔を赤らめたり、動揺したりするはずなのに、お前は爽やかに断った。逆にこっちが驚いたよ。なんで冷静なんだよって」

「何の…………話をしている」

「しかも、フった筈なのに、お前に告白した女の子はみんな、その後もお前と良い友人関係になってるから不思議だったよ。俺なんて、毎回断っては、顔を引っ叩かれたっていうのに」

「……一応聞くが…………他に、誰かいたのか? そういう場面には」

「いたぞ。フウコがな」

 

 イタチは小さく頭を抱えた。

 

「どうしてあいつがいるんだ」

「お前がどんな子を選ぶか興味があってな。フウコは俺が誘ったんだよ。面白そうだったし、あいつの反応もみたかったからな」

 

 大方、お前の姉が見られるとか、そんな事を言ったのだろう。フウコの興味をそそらせるには十分な嘘である。

 

「まあ、フウコは途中から興味無くしたみたいで、最後の方は俺一人だったけど。暇潰しにイロミにも声を掛けてみたら、あいつは顔を赤くして逃げ出すしで……俺は寂しかったんだぞ? 一人で」

 

 どちらかと言えば、たった一人になってもその現場を抑えるシスイの嗅覚と方向性を誤った興味関心に、こちらが驚かされてしまう。寂しい思いをしていたと聞かされても、自己責任ではないのだろうか。

 

 そんな、心の隙間に生まれた小さな安堵を自覚する。ついさっきまで抱いていた苦しさや辛さが、たとえ状況不明な最中でも、親友を前にすればあっさりと心が和らいでしまう。

 

 ああ、そうだ。

 

 シスイとはこう話していた。

 

 シスイと話している自分は―――フウコが里から出て行ってしまうまでの自分は、こうだったはずだ。

 

 何も考えないまま、思ったままに、会話をする。

 

 いつからだろう。

 

 ずっと何かを意識しながら、言葉を選ぶようになったのは。

 

「なあ、シスイ」

「どうした?」

「俺は………………死んだのか?」

 

 イタチの声は、自嘲するように、重いような軽いような、中途半端なものだった。

 死んだはずの親友が目の前に立っている。

 そんな非現実を前にして、イタチは半ば、何かを放り投げたような心持だった。

 

「バーカ、死んでねえよ。お前が死んだら、フウコが悲しむだろ?」

「だが、お前はここにいる。お前は……死んだはずだ」

「ああ、そうだな」

 

 心の隙間に生まれた安堵が、涙を湿らせたように重くなる。

 

「ならこれは、幻術か?」

「誰のだ?」

「そうだな……。イロミちゃんとかだな」

「今のあいつに、幻術を使える余裕がある訳ないだろ? というかあいつ、幻術使えるのか? アカデミーの頃は小銭を糸でぶら下げて練習してたけど、上手くいった試しがないだろ」

「じゃあお前は何だ?」

「親友だよ」

「シスイは死んだ。俺の目の前にいる訳がない。お前が本物なら、俺が死んだという事だ」

「だから、お前は生きてるよ。ここは、お前の内面だ。俺はお前の中にずっといたんだぜ」

「つまりお前は、俺の願望か」

 

 それならば理屈に通る。

 生死の間際に、友達から拒絶された事への、逃避。

 意識が逃げてしまった。

 全てを守ろうと決意して積み重ねてきた自分の道程が、結果的には全てを破壊する結果でしかなったのだ。心の中で、もしかしたら―――シスイならと思っても、おかしくない。彼はずっと、誰よりも前を見据えて、怯みなく走っていたから。

 

 気が付けば、頭を垂れていた。白い地面と自分の足、そして影がある。それだけしか、今の自分には無かった。

 

 頭上から、ため息が落ちてきた。

 

「お前はそうやって、俺も切り捨てて、一人で何でも終わらせようとするのか? そうやって、何でも背負い込んで、血ぃ吐いてよ」

 

 彼の声はすぐ目の前からで、きっと足を曲げて姿勢を下げてくれているのだろうけれど、イタチは顔を上げる事も出来なかった。

 

 疲れたように、泥のように思考が動かない。そんな状況に、安堵してしまっている自分がいた事に、乾いた笑いが出てきそうになる。考えないという事が、こんなに楽な事なのか……いや、正に、簡単な事なんだ。

 

 考えるというのには、他人がいる。

 

 自分の事だけを考える事が出来る自分なんていない。自分だけを顧みる場合は、考えるではなく、想うが、正しい表現。

 

 考え続けてしまうというのは、つまり、臆病という事なのだろう。

 

 他人が傷つくのを見たくないという臆病な心が作り上げる、心の抵抗だ。

 

 自分が傷付くのは、我慢できる。だが、他人が傷付くのは、我慢しても意味がない。その無力感が、たまらなく嫌なのだ。

 

 だけど、もう。

 

 友達を失った。

 そもそも、友達ではなかったのかもしれない。

 ただ自分が良かれと思ったことは、ただ彼女にとっての悪しきことだった。結果だけ見れば、邪魔者だった。何がいけなかったのか、それさえも分からない、最低の害悪だったのかもしれない。

 

 失い、そしてきっと、逃げたのだ。逃げてここにいる。

 

 何かを考える意味は無い。

 自分には何も、無い。

 

 家族を守れず。

 友達をいつの間に傷付けて。

 最後は、自分の頭の中に逃げ込んだ。

 

 もうすぐ、この願望も消えるだろう。現実のイロミが終止符を打つ。

 

 自分は何も出来ないままに。

 

 また―――ため息があった。

 

「……さっきのお前が告白されていた時の話じゃねえけどさ。アレだ…………少しだけ、俺たちがガキだった頃の話をしようぜ? まだ、頭でっかちで、誰かに頼ろうなんて考えなかった、クソガキだった頃の話をさ」

 




 次話は、二月中旬を目標に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

主観的輪郭

 その情景は懐かしさを抱かせながら、同時に、苦い思い出を想起させるものだった。

 

 西の空は夕焼け。波打つ稲穂のような色と雲をした空が、その日のアカデミーを終えて帰路を辿る二人の男の子の影を細く長くしている。

 歩いているのは、幼い頃のイタチとシスイだった。この頃には既にフウコは卒業している。アカデミーからの帰り道は大抵、二人だけになってしまっていた。

 

 イタチが、シスイの少し前を歩いている。それは二人の心的な距離を示すかのようで、いつもならば、帰り道はずっとアカデミーの出来事を面白おかしく語るシスイが、今の情景の中では、両手を頭の後ろに組む姿勢を取ったまま何も話していない。彼と一緒に、うちはの町に帰る時に静かだったことは数える程しかなく、どれも印象深く残っている。

 

 特に、フウコが卒業してからというのは、この一度しかなかった。

 

「なあイタチ。あれは流石にやり過ぎなんじゃねえか? イロミの奴、頑張ってたのによ」

 

 ようやく言葉を発したシスイの声は、イタチを刺激しないよう親しみを込めながらも、どこか納得のいかない、小さな硬さを宿していた。

 

『この日のこと、覚えてるか?』

 

 と、別のシスイの声。

 今の情景を見せてくれている、おそらくは妄想であろう彼の声である。こちらは子供を諭すような柔らかい口調だった。

 

『お前の事を好きだった女の子たちがイロミに難癖付けてから、まあ、何日か経った日の帰り道だ。お前が一人で勝手に全部終わりにした日の、アカデミーの帰り道だ』

 

 イタチは黙ったまま、その情景を眺めていると、幼い自分は振り向きもせず淡々と返事をした。

 

「イロミちゃんが頑張っているからこそ、俺はこうするしかないと思った」

 

 尤もらしい理屈を並べて、背伸びをした大人のような事を語っている。シスイは口元を微かに、気に食わなそうに歪めた。

 

「お前の気持ちは分かるけどよ……。あいつらは、イロミともう話したくないって感じだったし、イロミがどんなに話しかけても避けてたしな」

「どうしようもない状況だった。これ以上、イロミちゃんが頑張っても進展する事はない。ただ傷つくだけだ。なら、原因の俺が責任を取らないといけないだろ」

「だからって、お前が全部解決してもしょうがねえだろ。あいつだって頑張ってたんだぞ? 今でも他の奴と会話するだけでもオドオドするあいつが、しかもイジメてきた奴らに話しかけて、勘違いを直してもらおうとしてたんだ」

「ああ、分かってる」

「本当か?」

「イロミちゃんがフウコに近付こうと、色んな事に頑張ってるのは、分かってる。だけど、頑張っても解決できない事があったら……」

 

 そこでイタチは言葉を切った。

 頑張っている彼女の姿が、やがて一人で蹲り静かに泣いているものに変わりそうで、言葉にはしたくなかった。シスイも察してくれたのか、言葉を呑み込んだ。

 

「……俺は全て、今回みたいに、口出しをするつもりはない。ただ、俺にも非があった上に、彼女一人じゃどうにもできなかった。これからは……なるべく、気を付ける」

 

『先に卒業したフウコに近付くんだって言って、頑張ってたあいつは、あまり俺たちに相談しなくなったよな。宿題も、忍術の授業で出来なかったことも、それ以外も。だから俺たちは、あいつの頑張りを邪魔しないようにしようぜって決めたの、覚えてるよな?』

『……ああ』

『だけどお前は、この後もイロミの手助けをした。特に、イロミの事を良く思っていない奴らに対して』

 

 イロミをイジメた女の子たちのように、似たような考えを持っていたような子は当然いた。直接イジメる事は無くとも、視線や表情で遠回しに、そして言い訳の余地を挟み込めるようにして、イロミを除外する者はちらほらといた。シスイはイロミに「あんなの気にするなよ。気にしてると馬鹿になる」と伝えていたが、彼女は辛さを隠す笑顔を浮かべるばかりだった。

 

 イタチは思い当る子たちに声を掛け、説得していった。

 

 静かに、緩やかに。イタチはイロミの邪魔をする子たちを抑えていった。

 

 

 

 帰り道の場面は移り変わって、アカデミーの廊下になる。

 

 

 

 窓から入り込む夕焼けの光が廊下の明暗をおぼろげにする中、生徒の誰もいない静かなそこで、イロミは壁に背中を預けて無言に足元を見つめていた。彼女は下唇を小さく震わせてから呟いた。

 

「……あ、あのさ…………シスイくん…………」

「おう、どうした? お前から呼んでくるなんて珍しいな。宿題で分からない所でもあったか?」

「ち、違うよ……っ。分からないところは……うん、ある……けど…………。そういうことじゃなくて……」

 

 唇を尖らせて抗議するが、すぐに彼女の表情は曇った。そこに映るイロミの表情は、フウコが卒業した後のアカデミーの頃には見た事が無かった。

 辛い事や苦しい事に我慢している表情でも、努力して頑張っている表情でも無い。雨の中を道に迷う子犬のような、ぐったりとした顔。

 

「もしかして……なんだけど…………何か、してる………?」

 

 ふざけた調子の笑みを、シスイは静かに仕舞い込んだ。一度、唾を呑み込んでイロミは尋ねる。

 

「……最近ね………周りの子たちが……その、変なんだ……………。私を見る時って、いつも……嫌な目を向けてきたりしてたのに………。時々、笑い声とかもね……聞こえてたんだ」

 

 だけど、

 

「今は、目を向けてもくれない……。それで……ちょっと…………気になって……。シスイくんなら、何か……知ってるんじゃないかなって、思ったんだ」

「イタチには訊いたのか?」

 

 イロミは小さく頭を横に振った。

 

「どうして、あいつに訊かなかったんだ?」

「シスイくんの方が、詳しく知ってるんじゃないかなって……」

「お前の事を嫌な目で見てたのって、大抵は女の子のはずだぞ。それは、俺もイタチも、フウコも知ってる。悔しいけどよ、イタチの方が女の子たちと仲が良いんだよなあ。お前だって知ってるだろ?」

 

 バツが悪そうに、イロミは唇を尖らせて小さく俯くと「きっと、イタチくんは」と消え入りそうに言う。

 

「私には………本当のこと……言ってくれないと思うから……」

「嘘でもつかれたのか?」

 

 小さく、頷いた。

 

「この前……私が、その………女の子たちに、髪の毛引っ張られてた事が、あったでしょ?」

 

 肯定も否定もしないシスイに、イロミは静かに、自分がしてきた事と、イタチがしでかしたことを語った。

 イタチへの好意を邪魔している、という勘違いを直してあげたかった。あまり、上手くできてなかったけど、頑張ってみようと思ってた。自分のせいで、起きた事だから。今までずっと、フウコやイタチやシスイに頼ってばかりで、自分一人でどうにかできた事なんて殆どなかったから。少しでも、一人で解決できることがあるなら、やってみたかった。

 

 だけど。

 

 イタチが一人で、瞬く間に終わらせてしまった。

 

 次の日にイタチに訊いてみたと、イロミは言った。遠回しに、尋ねたのだという。

 

 昨日、イタチくんどこにいたの? 宿題の事で訊きたいことがあったんだけど、と。

 

 すると彼は笑って言ったのだ。

 

「すぐに家に帰ったんだ」

 

 嘘を、言われたのだ。

 

「イタチくんは友達だけど………、今は、信じられなくて……。シスイくんに……」

「心配してたんだって。分かるだろ。あいつは優しい奴だからな、嘘を言ったのだって、別に悪気がある訳じゃ―――」

「悪気が無かったら……何をしてもいいの?」

 

 情景の中にいるシスイも、外にいるイタチも、息を止めた。逸ったイロミの声には、微かながらも、普段の彼女からは一切に感じ取る事のない苛立ちが染み込んでいたのだ。肩も震えている。小さな両手は怒りと怯えを混ぜ合わせてしまったのか、ズボンの裾を強く握っているのが見えた。

 

 イロミは震えた声で続けた。

 

「優しくしてくれるのは………嬉しいけど……。私は……一人で頑張らないと、いけないの……。イタチくんも、シスイくんも、きっと、フウコちゃんみたいにすぐ卒業しちゃう。そうなったら私は……本当に一人で頑張らないといけないの。その時になってから、頑張っても、意味ないんだ……。今のうち、だけなの……。強くなれるのは」

 

 前髪が揺れ、その隙間からは、涙を溜めて充血した瞳がシスイを見据えていた。

 

「それにこれからだって…………、そうなの……。私が下忍になっても、皆は中忍になってる。中忍になっても、上忍になってる……。私が上忍になるのは、いつ頃になれると思う? ううん……今のままで、私……上忍になれるの?」

 

 誰もが抱く不安だった。

 

 努力で成長する事は出来ても、夢を叶える事は出来るのか。もしも夢が叶わなかったら、費やしてきた時間は最初から最後まで無駄になってしまう。組み立てた積木が土台から崩れ落ちて、理想とした形とはかけ離れた、単なるブロックになる様に。全ての価値が無くなってしまう。

 

 今まで素直なまま―――あるいは、無思慮に―――日々を過ごしてきたイロミにとって、フウコが突然として卒業したのは、危機感という感覚を植え付けていた。

 

 子供ながらも。あるいは、子供だからこそ。イロミは怯えながら、努力している。才能が無い、努力で夢を叶える事が出来るのか分からない。恐怖が彼女の背中を押し続けていたのだ。

 

 たとえ勘違いによってイジメられても、助けてくれたイタチとシスイを前に笑顔を浮かべた。一人でも頑張れるように。いつか二人が卒業して、一人になってから頑張れるように。自分をイジメてきた子と仲直り出来るくらい、立派に。

 

「イタチくんが心配してくれてるのは……本当に、嬉しいんだ…………。でも……お願い……。頑張ってる時は、邪魔……しないで…………。どうしようもできない時………困った時は、二人を呼ぶから……」

「本当か?」

「うん。本当」

「……分かった、信じるよ」

 

 大きな嘆息をして、シスイは唇を大きく尖らせた。

 

「ブンシの言う通り、お前って変な所で根性があるよなあ。普通、辛い時とか苦しい時は、友達に頼るんだけどな」

「ご、ごめん……」

「責めてる訳じゃねえって。むしろ、すげえって思うよ。俺なんて、ジイちゃんと喧嘩して勝てないって思ったら、すぐ逃げてイタチとかフウコに匿って貰おうとするんだけどな」

 

 本音か冗談か分からないシスイの言葉は、涙を浮かべていたイロミの口元に笑みを戻させた。それを見てシスイも柔らかく笑った。

 

「お前がどんなつもりで頑張ってるかってのは、よく分かったよ。邪魔はしない。だけど、本当に、無茶だけはするなよな? 身体壊したりでもしたら、俺とイタチがフウコに怒られる。いいか? 約束だぞ?」

「うん……」

「イタチの奴にも言っておくよ。そうすりゃあ、あいつも―――」

 

 あ、とイロミは声を漏らした。

 

「イタチくんには、その……このこと、言わないでほしいんだ……」

「はあ? なんでだよ」

 

 だって……と、イロミは両手の人差し指を突き合わせ、モジモジと自信なく言う。

 

「イタチくん、優しいから、どうせ言っても……今度こそ私にバレないように、やろうとすると思うし」

「いや、しないだろ、流石に」

「それに今回のことだって、イタチくんは私に嘘を付いたから……その……」

「お前がイタチの嘘に気付いてる事がバレたら、気まずくなるって?」

 

 イロミの小さな頭が上下すると、シスイは頭を軽く抱えた。

 

「つまりアレか? イタチにはこのこと言わないで、もし次イタチがお前の努力の邪魔をしようとしたら、俺がそれとなーくイタチの邪魔をしろっていう事か?」

 

 さらにまた、頭が上下した。落差で言えば、先ほどよりも大きい。昼休みの時に話しがあると呼び出してきた本当のお願いというのは、きっとこちらの方だったのだろう。

 

 何とも難しいお願いをされたものである。

 

 イロミはイタチとの仲が悪くなるのは嫌で、しかも御節介をされたくはない。イタチはイタチで、イロミの事が心配で御節介を焼きたがってしまう。噛み合わない岩石のような二人の間に上手く滑り込め、という事だ。

 

 今度こそ大きく頭を抱えたシスイは、あまりの難題に膝を曲げて悩み始めた。

 

『この時は正直、迷ったよ』

 

 と、シスイは言った。

 

『お前も頑固だが、イロミも頑固だ。俺が断れば、いずれお前たち二人がぶつかり合うんじゃないかって思った。だけど、お前にバレないように邪魔するのはかなり難しいとも思ってな。下手したら、俺とお前とイロミの大喧嘩が始まるんじゃねえかって、思った。子供だよな。こんなこと、普通に話し合えば、それで済む話だったのによ。ガキの頃の俺は、あの頃が楽しかったからな。仲が悪くなるのだけは、嫌だったんだ。それは、お前もイロミも、同じだろ? だけど、お前もイロミも本心を相手に話さない。俺だって本当は、イロミの奴に本心を話さなかった』

 ……何を、話さなかったんだ?

『お前がそんな事で嫌な気分にならないってことをだ。だけど、結局俺はそれを言えなかった。イロミが泣き出して、仲が悪くなるんじゃねえかって思ったんだよ』

 

 情景の中のシスイはようやく立ち上がり、両手を軽く広げて見せた。

 

「分かったよ。やってやろうじゃねえか」

「……自分でお願いしておいて、あれなんだけど…………大丈夫?」

「大丈夫だ。何て言ったって、俺は将来、神になる男だからな」

「……ゴメン、やっぱりさっきのお願いは…………」

「引くなよ! 流れ星の時のお願いを冗談で言っただけだって! 心配するな! 絶対、上手くやってみせるからッ!」

 

『お前さ、俺がお前の邪魔を密かにやってたこと、分かってたか?』

 ……いや。普段のお前の悪ふざけだと思っていた。

『それはそれで嫌だな』

 

 

 

 情景は白の中へと溶けていき、場面はまた変わる。

 その光景は―――今度は、イタチも知っているものだった。

 

 

 

「……殺されっかもしんねんだぞ」

 

 ブンシの声が病室に響き渡る。

 

「今度こそ、死ぬかもしんねんだぞ?」

「…………それでも……、私は……、今まで培ってきた……記憶も…………努力も…感情も……ッ! 無駄には、したくありませんッ! 無駄にしたら、恩を仇で返すことになります…………、私の記憶に……私に色んなことを教えてくれた…………全部に……」

 

 そして時間が途切れるように進み、

 

「…………ブンシ先生が……っ、言った通り…………、どんなに……がんばっても…………ッ! フウコちゃんには……、きっと勝てない…………ッ! 話をする前に、もしかしたら、ころされるがも、じれない! だっでふうごぢゃんは……天才で…………わだじなんがより……どりょぐずるがら…………ッ! だがら……、もじ、ふうごぢゃんに会っても……、また……まげぢゃうんじゃないがっで…………今度こそ………死んじゃうんじゃないかって………ごわがっだ…………」

「大丈夫だ。今度は、俺も手を貸す。二人なら、フウコに追い付ける。だから―――」

 

『イロミの奴が、お前に助けを求めて、お前はそれに、応えたよな? だけどお前は、嘘を付いた』

 

 また時間は進み、しかし場所は再び病室だった。

 部下が丁度、部屋を出て行ったところだった。ベッドで上体だけ起こすイロミが尋ねる。

 

「今のは……?」

「暗部内で急用が入ったんだ」

 

 情景の中の自分は、あまりにも自然に、嘘を言ってみせた。

 

「大蛇丸に関係していること、なの?」

「いや、どうやら違うようだ。中忍選抜試験の最終試験に来る大名たちの警護について、大名が訊きたい事があるらしい。部隊長の俺が、その説明をしろ、ということだ」

 

 イロミを危険から遠ざける為に嘘を付いた。

 しかし、今思い返してみれば、その嘘が、イロミをフウコから遠ざけた事になってしまった。

 

 ……彼女が言った、俺の嘘というのは―――。

『これも、あるんだろうけどな』

 

 含みを持たせた言葉だった。

 

 ……俺は他に、嘘を付いたのか?

『ああ、言ったな。フウコが俺を殺した疑いで捕まった後の事だ。イロミがお前に問い詰めただろ? うちは一族で何があった? ってよ。それでお前は、何も無いって言ったんだ。覚えてるだろ?』

 ……本当に俺は、覚えていないんだ。

『そこじゃない。お前は覚えていないかもしれないが、疑問に思わなかったのか?』

 ……何をだ?

『どうしてお前はすぐに、何も無いって断言できたんだ?』

 ………………。

『フウコがいきなり捕まったんだ。なら少しは、うちはの町に何かがあったんじゃないかって、ある程度は考えるだろ? おかしいとは思わなかったか?』

 ………分からない。

『まあ、仕方のない事なんだけどな。それでも、イロミの目には、お前がどう映ったと思う?』

 ………………。

『あいつ、我慢してたんだろうな。お前が何も言わなかった事について。お前もフウコに傷付けられたからな。我慢して、それで、一緒にフウコを追いかけようと言ってくれたお前に対して、もう一度だけ、信頼を寄せたんだよ。友達だからな。だけど、お前はまた、イロミを突き放した。大蛇丸に近付けない為に』

 ……俺は、これ以上、彼女に傷付いてほしくなかった。彼女の実力は、まだ……。

『だったら素直にそう言えば良かっただろ?』

 ……言える訳ないだろ。

『それが、あいつにとって一番苦しい事だったんだよ。努力を否定されるくらいなら、あいつはムキになって頑張る。だけど、努力の邪魔をされるのは嫌なんだ。フウコの為に頑張っているのを、お前は邪魔をした。遠ざけた。あいつの努力を、帳消しにしたんだよ。そりゃあ、怒るだろ』

 ……イロミちゃんは、何を知っているんだ?

『分からねえよ。大蛇丸の呪印がどんなものか、俺は知らない。けど、全部知ってるんじゃねえかな。だから木ノ葉を憎んでる。そして、お前の事を何よりも憎んでる。努力を邪魔したお前を。フウコを里の外に追いやった、俺たちを』

 ……どういうことだ?

『なにがだ?』

 ……イロミちゃんも言っていた。俺がフウコを奪ったと。俺たちは、何をしたんだ?

『それは言えないな、悪いけど。恥ずかしいじゃねえか』

 ……おい、シスイ。

『お前が怒るなよ。どんなに頑張っても、それは教えられねえんだ。これだけ言えば、分かるだろ? お前の中に、俺がいるのもな』

 

 情景はそこで終わりを迎えた。

 

『少し短いが、元々時間は足りないしな。これで終わりだ。気分はどうだ?イロミの努力を無視した御節介を、ずっと続けていた気分は』

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「俺たちは、誰かに頼るべきだったんだ」

 

 情景は消え失せ、残った真っ白な世界で、彼は言った。

 幼い頃からイロミが思っていたこと。

 頑張ってきていたこと。

 それを見せられたイタチは、ただただ、閉口する事しか出来なかった。

 

「これは自分たちの問題なんだって、蓋をして、誰にも迷惑を掛けたくないなんて大人染みた言葉を並べて……結局、俺たちは負けた。勝手に頑張って、勝手に自滅して。俺たちは友達だったはずなのに、最後は全員で嘘を付き合っちまった」

 

 後悔するように語る彼の言葉が何を示しているのかは知らないはずなのに、イタチの眼から薄く、透明な水が零れ落ちていく。

 

「どこかで、頼っていれば、きっと、お前やイロミに苦しい思いはさせなかっただろうし、フウコも里から出る事は無かったんだと思う」

「シスイ……お前も、死ななかったか?」

 

 さあな、とシスイは自嘲気味に笑って見せた。

 

「少なくとも、イロミの奴には全てを話しても良かったんだ。うちは一族とは関係ないからって理由で遠ざけちまったけど、あいつにとってはそんなこと、関係なかったんだな。あいつにとって俺たちの問題は、うちはの問題じゃなく……友達の問題だったんだよ。俺と、お前と……大好きなフウコとのな」

 

 それが、

 

「気が付いたら俺は死んでて、お前は大怪我をしてて、フウコは犯罪者になって里の外に出て行っちまってる。そりゃあ、流石のあいつだって怒るよな。ふざけるなって、どうして仲間外れにしたんだ……ってな。折角努力してきたのに、意味が無かったって思ってるかもしれない。おまけに、お前は下手な嘘まで付いて……ああ、いや、あれは不可抗力か」

 

 苦笑いを浮かべながら、「とにかくさ」と続けた。

 

「俺たちは、アカデミーの時にあいつをイジメてた奴等と、やったことは変わってねえし、きっと、うちはの大人たちとも変わってない。あいつを遠ざけて、うちはの問題だって言った。それであいつ、泣いてるんだろうな」

「……泣いてる?」

「??? 分からないか? あいつ、ずっと泣いてただろ?」

 

 泣いて、いたのだろうか。

 シスイが馬鹿にするように、笑ってきた。

 

「そうだろ? あいつが痛かったり驚いたとき以外で大声出すのは、大抵泣いてる時か、泣きそうで強がってるときだったろ」

 

 そうだ。

 彼女の泣き方は、声が大きい。

 忘れ物をした時も。

 財布を無くした時も。

 フウコが卒業して見送った時も。

 その後すぐにブンシに注意された時も。

 ブンシに忍を止めないと言った時も。

 

 イロミがあまり泣かないように努力し続けた日のスタートが、幼い頃だったから、忘れてしまっていたのかもしれない。昔の自分だったら、彼女の姿を見て、どう思っただろうか?

 

 シスイと同じように、彼女が泣いていると思えただろうか。

 

 子供の頃に持っていた感性は、思い出せない。大人になるにつれて、錆びていく。感動や感激が鈍くなっていくと共に、情動が重くなっていくと共に、だからこそ大人は思考を巡らせる運動量を増やしていく。思考を鋭利にしなければ、重くなっていく感情に与える新たな発見という刺激が手に入らないから。

 

 新しいものを手に入れては、古いものを捨てる。その工程が成長というのだろう。

 

 自分はどれほどのものを捨ててきたのか。

 気付かないまま、捨てるばかりだったのか。

 

「まあ……今回の事は、あれだ。お前だけのせいじゃねえ」

 

 心を見透かしたように―――いや、きっと見えているんだろう。シスイは申し訳なさそうに小さい笑みを浮かべて、頭を掻いた。

 

「お前とイロミを置いて行って死んだ俺も、我儘突き通して里から出て行ったフウコも、悪いんだ。もっと……あの時に、誰かを頼ってれば………。もしかしたら、イロミを含めて四人で知恵を出し合えば……結果は変わってたかもしれない………。俺たち全員が、間違えていたんだ」

 

 直感だったが、シスイが語っている【間違った時間】は、イロミが知り、自分が知りたい真実の時間なのだ。言葉の端々に見え隠れする片鱗たち。それらをヒントに頭の中で当て嵌めようとしても、どれ一つ、引っ掛かりすら感じ取れない。

 

「ああ、今は無理だ」

 

 またシスイはイタチの考えを掬い取って話を進めた。

 

「何回も言うが、分かるだろ?」

 

 頷き応える事はしなかったが、はっきりと分かる。

 フウコが里を出て行った経緯をまるで覚えていないこと、覚えていない事に違和感を抱けなかったこと。そして、目の前のシスイの存在。

 それらは全て、忍術による影響なのだと、イタチは行き着いた。

 記憶を改竄している、というレベルの術ではない。覚えていない事を、覚えていない。人間の無意識に干渉し、完璧にとっかかりを消し去る幻術など、聞いた事も無い。いや……それすらも、幻術の影響なのだろうか。

 

「誰が、俺に術を掛けた」

「それは―――」

 

 真っ白い世界の外側から、絶叫が振動を伝えてくる。

 イロミの声だ。

 

『ぁあぁあああああああぁあぁぁぁぁぁぁぁああああッ!』

 

 喉が裂け、肺が潰れ、舌が渇いてしまっているような、絶叫。

 イタチは息を呑む。

 今になって、ようやく。

 その声が、イロミの泣き声なのだと感じ取れた。

 失くしたものが見つからなくて、グーにした両手で目元を拭っている。

 そして一瞬だけ、光景が見えた。

 シスイが見せた情景ではない、本当に自分の記憶から蘇った記憶だ。

 そこには四人がいる。自分と、シスイと、イロミと、フウコが。 

 

「時間切れか」

 

 と、シスイは白い空を見上げると、背を向け、ゆっくりと歩き始めた。

 

「俺とフウコの頼みだ。代わりに謝っといてくれ。仲間外れにして悪かったって。そうすれば仲直りできるだろ。ああ、あと、邪魔して悪かったとも言えよ。それはお前が謝るべき事だからな。大丈夫だろ? 女の子の告白をフっといて、友達のままでいられたんだから」

「待ってくれ、シス―――」

 

 立ち上がって遠ざかるシスイを追おうとするが、どういう訳か、両足が白い地面から離れない。困惑しながらも、何も語らぬままのシスイにイタチは声を掛ける。

 

「シスイッ!」

「なんだ」

「一つだけ、応えてくれ」

「言っておくが、お前に術を掛けた奴の事も言えねえぞ」

「違う」

「じゃあ、なんだ?」

「……俺たちがしていた事は…………、正しい事だったのか……?」

 

 フウコを里の外に追いやってしまったこと。

 封じられた記憶。【間違った時間】で行おうとしていたことは、正しい事だったのか。シスイが命を落とし、フウコが里の外に行ってしまうほど、重要な事だったのか。

 それだけが、知りたかった。

 勇気が欲しかったのだ。

 正しい事をしていたのだと。

 そうすれば胸を張って、彼女の前に―――。

 

「正しい事だったよ。フウコも、俺も、お前も……イロミの奴みたいに、楽しい時間を求めて頑張ったんだ。アカデミーの頃みたいに、四人楽しく過ごせる時間を」

 

 そうか、とイタチは微笑みながら涙を流した。

 シスイは白い世界に溶けるように消えていく。彼は背を向けながら軽く手を振った。

 

「次はしっかりしろよな。本当なら、お前をぶん殴るつもりだったんだからな。イロミの奴にも言ったんだ。俺の友達を馬鹿にする奴は、たとえ俺の友達でも許さないって」

「だったら、殴ってくれ」

「言っただろ。今回は、俺たち全員が悪いんだ。だからチャラにしてやる」

 

 意識が浮上していくのが分かる。

 イロミの泣き声が耳に届き始める。そこを中心に、身体の感覚が纏わりついてきた。

 

「だけど、他にもイロミを泣かせてる奴がいるだろ? 本当ならお前とイロミだけの喧嘩を、横から囃し立てて木ノ葉を巻き込んでる奴が。イロミに正しい言葉を使わせない奴が。そいつは、お前がどうにかしてやれ。もう俺はいないけど……言う事は、分かってるだろ。ガキの頃からずっと続けてきた事だ」

 

 ああ、分かってる。

 任せてくれ。

 

「じゃあな、親友。イロミと仲直りしたら、あの日の俺たちを見つけてくれよな」

 

 チャクラが奔流する。

 イタチの身体から放出される大量のチャクラの色は、青から輝ける黄金色に。黄金は質量を持って、やがて、人の形を模り始める。最初は禍々しい髑髏に。徐々に肉を付け、衣を纏う。上半身のみだが、それは巨人―――須佐能乎だ。

 

「あああぁぁぁぁぁああああああああッ! ああッ! あぁぁぁあああッ!」

 

 須佐能乎の片腕に握られ、身動きが取れないイロミは、獣のような呻き声だけを喉から鳴らし、唾と赤い涙を撒き散らしていた。立ち上がり、須佐能乎を発動させたイタチの姿に怒りをぶつけているようにも、喜んでいるようにも、見えなくもなかった。

 

「部分……影、分身の術……」

 

 両手で印を結ぶと、腹に空いた傷が塞がれる。影分身を応用した忍術だった。身体の一部をチャクラによって再構成した術は、少なくとも、断絶された血管の間を零れ落ちているはずだった大量の血液を循環させる役割を果たしていた。

 

 ―――これなら……まだ、死にはしない…………。

 

 医療忍術の知識は深くないが、内臓の機能不全によってすぐに死ぬ事は無いだろう。微かに神経が鈍くなっているのか損傷してしまっているのか、下半身に力が入り辛くなってしまっているが、須佐能乎があれば問題は無い。幸いにも……この里には、綱手がいる。彼女ならば、治療してくれるだろう。

 

 勿論、確実ではないが。それくらいの賭けはしてもいいだろう。今までの行いを考えれば、それぐらいの賭けが相場だ。

 

 助けているつもりだった。

 

 守ってあげられているつもりだった。

 

 頑張る事しか出来ない彼女には、それらが必要なのだと。

 だけれど、違った。それらが全て、彼女には毒だった。

 もう泣かないと、彼女は決意した。悲しいという感情を表には出さないという決意の裏に隠れた、成長していくという力を持つようになったのだ。それを、ずっと、邪魔してきた。

 

 一人で立ち上がろうとする赤子を、危険だからと椅子に縛り付けるように。

 遠くの景色を見たい子に、危険だからと写真だけを見せて家に閉じ込めるように。

 

 それと同じだ。為にならない、御節介ばかり。イロミは、その御節介が、努力しようとする自分には毒なのだと、分かっていたのだ。遥か遠くにいる大好きな友達に近付こうとしていた彼女には、猛毒に。

 

「……イロミちゃん。今から俺は、君を徹底的に叩きのめす」

 

 呪印に縛られながらも、彼女が言った言葉はどれも、本心の一つのはずだ。

 勝ちたい。才能を乗り越えたい。

 努力し続けていた彼女はきっと、心のどこかに、そんな欲求があったのだろう。

 ならば、真正面から応えてやる。

 万華鏡写輪眼という才能と、今まで自分が積み重ねてきた努力、全てをぶつける。

 それで負けても、彼女は、努力を止めないだろう。

 負けた事を反省して、次の努力を続けるはずだ。ならば、全力で、叩きのめす。自分と相手の距離を正確に測れるように。

 

 そこで、ああ、とイタチは小さく思う。

 

 ―――サスケにも、少し、過保護過ぎたな……。

 

 ずっと修行を付けてやれていない。サスケもイロミと同じような事を、想っているのだろうか。

 

「それで、全部終わったら、また喧嘩をしよう」

 

 互いに持っている考えをぶつけて、理解して、正しい努力の仕方を学んで。

 

「そして最後に、謝るよ。今までのこと、嘘を付いたこと。全部知ってから」

 

 仲直りをして。

 真実を知って。

 強くなって、フウコの元へ。

 その為には……邪魔者を排除しなければ。

 

『しっかりやれよ?』

 

 親友の声が、頭の中から。

 

「ああ、分かってる」

『行くぞ』

 

 昔のシスイのようにイタチは胸を張った。走り出す事は出来ないが、真っ直ぐ、前を向いて。

 里を守る為に。

 真実を知る為に。

 妹に会う為に。

 そして何よりも、友達と喧嘩をして、謝って、理解する為に。

 迷いを無くしてイタチは言った。

 

「敵討ちだ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「本当に良かったのか? イタチに、何か言わなくて」

 ……何を、言えば良かったの?

「頑張れとか、仲直りしろとか、ゴメンとか」

 ……私にそれを言う資格は、無いよ。

「兄妹以上の資格なんて、そうそうないだろ?」

 ……だって、私………二人を、傷付けた。イタチの眼を使って、イロリちゃんに―――天照をっ。

「あの時は仕方なかっただろ。お前があの時ああしなかったら、イタチは間違いなく死んでたぞ。イロミの奴も、イタチを殺してた」

 ……でも………ッ、だけど………ッ。

「泣くなよ。お前は何も、間違った事なんてしてないって」

 

 目の前で蹲って涙を流すフウコの頭を、シスイは優しく撫でた。

 

 天岩戸。

 

 自身の魂を相手に埋め込み、操る万華鏡写輪眼の力。そのフウコは、あの日―――獄に倒れたイタチに埋め込まれた本体の断片だった。

 

 ダンゾウに渡った別天神をイタチに掛けさせる為に埋め込んだ魂。しかし、本当の目的は、自分が里の外へと行ってしまった後、イタチの為を思って術を使用したのだ。

 

 もしもイタチが危険に晒された時。彼の身体を強制的に操り、助ける為に。イタチの思考速度を置き去りにして発動した天照は、フウコが発動させていた。

 

 イタチを助ける為とは言え、焼き殺してしまうかもしれない絶大な術を、友達に向かって。

 

 助けてあげたい。二人に真実を話して、争いを止めてもらいたい。引き裂かれる思いは、二人が戦い始めてから、ずっとあったはずだ。

 

 だが、それは出来ない。

 

 原因はシスイだ。彼がイタチの中にいる以上、うちは一族抹殺事件の真実を、内側から伝える事は出来ないのだ。

 

「全く……俺たちって、なんか、噛み合わないよな」

 

 嘆息交じりに、本音を零してしまう。

 

 イロミはみんなに追いつこうと努力し続けて、みんなの足を引っ張らないように頑張っても。

 

 イタチは優しすぎて、それを止めようとしてしまう。嘘を付いて、友達を守ろうとしてしまう。

 

 フウコはそんな二人が大切だからこそ、一人で全てを背負って、里の外に出て行ってしまって。

 

「俺は俺で……お前らの事を大好きなのに、負担だけ残して、死んでしまって。死んでからも、お前たちが仲直りするのを邪魔しちまって」

 

 どうしてだろう。

 

 友達なのは、間違いないのに。

 皆が、全員を大切に想ってるのに。

 もどかしさが、悲しさばかりを生んでしまう。

 

「だけど……今度こそ、あいつらは大丈夫だ。仲直り、してくれる」

 ……シスイっ、やだよ……。私、もう……チャクラが残ってない……。

「ああ、安心しろ。俺が最後まで、あの二人を見届けておく」

 ……離れたくない。イタチとも、イロリちゃんとも、シスイとも。ごめんね……、シスイ……あの時、私が油断したから……シスイを……。

「気にしてねえよ」

 

 フウコの身体が端から砂のように分離し始めた。二回の天照の発動。その内の一回が完全に発動しなかったとはいえ、身体の持ち主であるイタチの意識を飛び越えてまでの強引な肉体とチャクラの操作は、分け与えられたフウコの魂のチャクラを殆ど消費させてしまっていた。

 

 互いに本体から分離した魂。しかし、別れる悲しさは、本体と遜色のないものだ。

 

 大粒の涙を零すフウコの顔を無理やり上に向かせて、シスイは笑う。

 

「俺もすぐに、そっちに行く。仲直りしたあいつらなら、すぐに、俺たちを見つけてくれる。そうなったら、アレだな……遊ぶか。あの世の宝物でも探しに行こうぜ」

 ……私……本体の、十分の一くらいだけど……。

「相変わらずお前は、面白いこと言うよな」

 ……シスイ、さようなら。

「ああ。またな」

 ……そうだね……。またね。

 

 白い塵となって、フウコは世界から姿を消した。フワフワとした塵を、シスイは掌の中で握ったり離したりして、名残惜しそうに、空の彼方へと消えていく塵の軌跡を目で追った。

 

 世話が焼けるな、と小さく笑う。

 

「あいつら、俺が先頭に立たねえと、動かないんだよなあ」

 

 イロミがイジメを受けた時、真っ先に先頭に立つのはいつも自分の役目だった。イタチはイロミの為に事を荒立てまいと考えてしまい、フウコは泣き続けるイロミを宥めるので精一杯。だから、三人を引っ張り、道を示すのは、自分なのである。

 

 まさか死んでからも、そんな役をさせられるとは思っていなかった。死者が生者に御告げをするなんて。いやもしかしたら、子供の頃に願った、神にしてほしいという願いが叶ったのかもしれない。神となった自分が、友人たちに御告げをして、背中を押してやる。なかなかどうして、やりがいのある役目だろうか。

 

 でも、その役目は今回で最後だろう。

 

 別天神が解かれれば、自分は消える。そして二度と、どこかに姿を現す事は無いだろう。自分はおそらく、イタチが生み出した幻想だ。写輪眼に残ったチャクラが、別天神によってイタチの内部に侵入し、彼の記憶や感情がチャクラと混ざり合って生まれた、幻想でしかない。故に解かれれば、跡形もなく消える。

 

 名残惜しい。今後も、彼の中で、彼がどんな道を歩んでいくのか見守ってやりたい。イロミの努力の行く末も。

 

「……頑張れよ、親友」

 

 白い世界に腰を落ち着かせ、最大限の冷やかしと尊敬を、シスイは一人呟いた。

 

「お前は天才なんだ。簡単に、諦めるんじゃねえぞ」

 






 次話は、できれば今月中に投稿したいと考えておりますが、最悪でも3月上旬に投稿いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

しかし彼は道を選ぶのに杖を使った

 その男の子は自分をコントロールできていなかった。左右から延々と交互に、殴られているかのような頭痛は、抑えきれない感情が身体中の血液に混ざって頭の中で暴れているせいである。眩暈すら呼び起こす苦しさを前にしても、男の子は溢れ出る涙を止める事も、両手で必死に引っ張る母親の手を離す事も、決して諦めはしなかった。

 

 倒壊した建物の前で、男の子は泣いていたのだ。

 

 ついさっきまで手を繋ぎ歩いていた母親は、建物の下敷きになってしまっている。地面と瓦礫の隙間から唯一覗かせるのは母の左手だけだ。その下からは、地面の砂を取り込みながら面積を広げる、濁り切った血液が。

 

 声がする。

 

 瓦礫の下敷きになりながらも、我が子を想う母は弱々しい声で遠くへ行くように言っている。

 

 人がいる所に行きなさいと。

 ここは危険だからと。

 

 しかし、母の声は届かない。暴れる無垢な感情に囚われた男の子は、一心不乱に母の手を引っ張るばかりだ。遠くで起こっている争いも当然、男の子の意識には届かない。

 

 その時、地面が大きく揺れた。上下にバウンドしたかのような大きな揺れに、男の子は前のめりに膝を付く。掌を地面にぶつけ、痛みが走った。溢れる涙の量は増すものの、男の子はすぐに立ち上がって、母親の手を再度引っ張る。

 

 状況は変わらない。

 

 母親の声が、先ほどの地面の揺れを経てから、ほんの微かにだけ、強くなる。

 遠くに逃げろ。

 建物が崩れる。

 早く、大人のいる方へ―――。

 

 瓦礫が悲鳴をあげる。鈍く、錆びた鉄同士が擦れ合うような、酷い音。それは男の子の頭上から、覆いかぶさるように近付いてきた。

 

 屋根の骨格部分。倒壊した時にはまだ原形を微かに留めていたそこは、先ほどの揺れで致命を与えられ、最後の雄叫びを上げながら、崩れ始めたのだ。

 

 外側の石が剥がれ、骨格部分の鉄柱が、ゆらりゆらりと傾いていく。

 

 男の子は気付かない。

 

 感情に任せるだけで、何も男の子には届かなかった。

 

 また、地面が揺れた。男の子は尻餅を付き、その時になってようやく、鉄柱が自分を狙っている事に気が付いた。その気付きはたったの一瞬で、本能的にイメージできてしまった死の恐怖に身体は凍結させられる。唯一出来た現実への抵抗は、瞼を閉じる事だけだった。

 

 真っ暗闇。

 

 暗闇の底で、母親の温かい手を求めた。血に染まった手ではなく、建物が倒壊する前に繋いでくれていた温かさを。

 

「―――おい、小僧」

 

 低い、男の声が上から降ってきた。

 男の子は恐る恐る、瞼を開ける。

 

 そこには―――鬼がいた。

 

 身体の至る所を血に染め、巨大な包丁を背負っている。片方しかない腕は、落ちてきた鉄柱を後ろ手に支え、筋肉が盛り上がっている。双眸は、獲物を正確に見定める為に付いているかのように鋭かった。

 口元から首全てを巻いて隠す包帯の奥から、鬼の声が飛び出した。

 

「さっさと失せろ。殺すぞ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木ノ葉隠れの里を救う。

 

 桃地再不斬にとって、これまで受けてきた依頼や任務の中で最も難しいものであった。

 

 なによりも、具体性が無い。何を以て完了なのかも、失敗なのかも分からない。もしかしたら、依頼主であるサソリの匙加減や、大本のフウコの気分次第で成否が決められてしまうことは十分に考えられる。

 ある意味では、不安要素が最も付き纏うものだった。

 

 それでも二言もなく了承をしたのは、ひとえに白の為だった。

 

 サソリから捨てられること無く、フウコの癇癪に巻き込まれないように。

 白と共にアジトを出て、辿り着いた木ノ葉隠れの里は、確かに死に体の近くにはあったかもしれない。滅びに向かう里というのは、こういう経緯を突き進むのだろうと思わせる程度の感慨を持ちはした。

 

 もしも野望を捨てなければ。

 

 自分は白と共にこの光景を作っていたのか―――いや、作ることが出来たのだろうか。

 これほど困難な光景を実現できただろうか。

 里を囲う高い塀に腰かけて、数分程、別の可能性の自分たちの末路に小さく恐怖していた。

 

「……ナルトくん…………」

 

 隣で白が小さく呟いた声には、悲しみが詰め込まれていた。

 

 里の中央から離れた区域。並んでいた建物が方円状に軒並み吹き飛ばされているそこには、全身を赤く染めたうずまきナルトが咆哮を上げているところだった。波の国で争った時よりも、チャクラの尾を増やし、より狐の姿に近付いた姿は、もはや人間ですら無く、里を滅ぼす最前線のようにしか見えない。

 

 おそらく、アレ(、、)を消せば、里を救う事に繋がるのは間違いない。

 

 だが。

 

「あんなのとやり合うつもりはねえ」

 

 再不斬は別の選択肢を選んだ。

 言葉通り、尾獣化したナルトと争っても勝ち目が無いという事が半分。白が、彼と争う事に抵抗を感じさせないという事が半分。どちらにしても、白を大事に思っての判断だった。

 

 再不斬はシンプルに、音の忍を刈っていった。

 

 無音殺人術(サイレントキリング)を駆使したゲリラ戦法。倒壊した建物の影から影へ。敵の背後から、また別の敵の背後へ。背負った首切り包丁を片腕で巧みに操り、一人また一人と、雑草を刈る様に命を消していく。

 

 何も考えずに、今までの経験を再現するだけ。楽な行為だった。

 

 白には索敵を任せている。効率が良い、という言い訳を指示として出しておいた。危険は無いだろう。里の中央付近で暴れている巨大な蛇らは、いずれ木ノ葉の忍に消されるはず。尾獣化されたナルトも、時間が経てば元に戻るのだろう。サソリは予め、木ノ葉隠れの里は救われると語っていた。ならば、危険を冒さなければいいのだ。

 救うも、救わないも、関係ない。

 これはフウコの癇癪を治める為のポージングである。

 意味の無い、結果しか観測されない行為。

 それはサソリも承知し、指示を出したはずだ。

 音の忍を殺しているのは、サソリの意図したもので間違いないだろう。

 サソリの指示に従い続ければ、白の救いが近づいてくる。

 何も考えず、何も見通さず、経験を再現するだけでいいのだ。

 

 そう、思っていた。

 

 つい数秒までは。

 

 なのに、どうしてだろうか。

 

 目端に引っ掛かった子供を捉え、落ちてくる鉄柱の間に身体を滑り込ませたのか。

 

 見逃せばいいのに。

 

 たかが子供一人。死んだところで、木ノ葉が滅びる訳ではない。そんなものは、分かっていた。いくらサソリと言えど、子供一人見捨てた所でこちらを見捨てたりはしないだろう。あるいは子供の死すら報告しなかったところで、名もなき被害者が増えるだけだ。どちらにしても、仕方がない、と彼は呟くだけだろう。そのことは、すぐに想定できた。昔の自分なら気にも止めていないのは間違いない。

 

 それでも子供を救ってしまった自身の不可解な行動に、再不斬は頭を悩ませた。瞼を大きく開き腰を抜かしてしまっている子供を見下ろしながら考えても、動いた事への正当性の証は見つけられなかった。

 

「おい、聞いてんのか。さっさとどけ!」

 

 有耶無耶とした自身の行動への苛立ちを、半ば八つ当たりのように声を荒げた。残りの半分は、折角助けたというのに、腰を抜かして動けなくなっている子供に向けた単純な怒りである。子供とは言え、忍里の人間ならば、いくら命の危機だったとしてもみっともなく動けなくなり続けるなど、話にならない。

 

 自分が同じくらいに幼い頃では人を殺している。死線も何度か潜り抜けた。それでも、動けなくなるほど怯えた事など無い。

 

 怒鳴っても動こうとしない子供に舌打ちをする。鉄柱を支える左腕にチャクラを集中させた。支えていた鉄柱を軽々しく横に弾き出すと、地面は軽く揺れ、鉄柱は誰もいない地面に突き刺さった。

 

「……立てるか?」

 

 ぶっきらぼうに尋ねる。子供は涙を零し続けながらも、リアクションは無かった。

 

 再び、舌打ち。

 

「死にたくなかったら、そこらへんに縮こまって隠れてろ。分かったな」

「…………―――――ん、が……」

「あ?」

「おかあ、さんが……」

 

 ようやく出てきた言葉に、再不斬は眉を顰める。ふらふらとした指で示す、倒壊した建物を眺め、そこで、どうして子供がここにいたのか理解した。

 建物の下から零れ地面を這う赤い液体。その上に横たわるのは人の手で、ああ、と再不斬は嘆息する。

両親なのか、知り合いなのか。子供は助けようとしていたらしい。

 

 まだ微かに指は動いている。生きているという事は分かる。また逆に、もうそろそろ、手の主人が死ぬ事も分かってしまう。何度も死の間際の人間を見てきた再不斬にとっては、空模様を眺めるのと同じくらい簡単な事だった。

 

「おね、がい……」

 

 気が付けば、子供が足元にしがみついていた。

 震えた声と震える足。しがみつく腕の力は弱く、軽く動かしてしまえば腕そのものが身体から引き千切れてしまうのではないかと思うほど体重を依存させてしまっている。

 子供と目が合った。頬を濡らす涙は、目を真っ赤にさせて、感情の痛々しさを訴えかけてくるものの、再不斬にとってはただ、煩わしいだけの光景でしかなかった。

 

「おかあ、さんを……たすけて…………」

 

 助けるつもりはない。

 

 瓦礫の下の母親は、じきに死ぬ。瓦礫から身体を出したところで、殺す術しかない自分には、結局のところ、死から遠ざける手段など持ち合わせていないのだ。ならば、もはや死体のそれに相応しい者に時間を費やすよりも、これから死体にさせられるかもしれない者を殺そうとする、音の忍らを消した方が効率は良い。

 

 里は救いに来た。

 

 しかし、人を助け(、、、、)に来たわけではない。

 

 今度こそはと、再不斬は足を一歩動かし子供の腕を払った。勝手にしろと、心の中で大きく言ってやる。特に目指す方向も無く、子供から歩み遠ざかる。頭の中を切り替えた。いや、戻したと言った方がいい。

 

 過去の自分に。

 

 つい先ほどまで音の忍らを刈り殺していた時の自分に戻らなければいけない。まだ里の脅威は消えていないのだ。

 つまりは、ポージングは続けなければいけない。

 戻そう。簡単な事だ。これまでの経験を思い出す。首切り包丁が骨を断つときの衝撃を、致命傷に至る部位を断つ為の思考パターンを。冷静冷徹を取り戻すにつれて体温が下がっていくような気がする。悪くない感覚だった。

 

 しかし、そこで―――子供は泣き出した。

 

 再不斬の背中に向けて罪悪をぶつけるように、音の忍の存在など気にも止めない大声だ。耳障りで甲高い、死にかけの鳥のような音だった。

 

 体温が上昇するのを感じる。鉄柱を腕で支えた時のような、原因不明の衝動と似た感覚だった。だが、浮上してくる苛立ちの矛先が見つけられなかった。子供に対しての苛立ち、自分の感情の無制御さへの苛立ち、どちらとも厳密ではないのは、自身が正確に判断できる。

 

 歩みを止めたのは、白が姿を現したからだった。

 

「ここの近くには、音の忍はいません」

 

 と、彼は呟いた。殆ど音を出さないままに姿を現したこと。フウコとの戦闘技術における修行とは別に、再不斬自身が教えていた忍としての技術だ。無音歩行術。随分と上達した、そう評価できる程度には、体温は下がっていた。

 

「里の状況はどうなってる?」

 

 白の微かな視線の動きを、再不斬は見逃さなかった。鳴りやまない大声を出し続ける子供を、白は一瞬だけ見た。その瞬間だけ、ほんの微かな刹那だが、白の表情に曇りが出来ていた。

 

 抱き、滲ませてしまった感情を瞬時に隠したのだと、再不斬は判断した。零れてしまった感情は、白らしい、優しいもの。しかし彼は無表情を徹底し、応えた。

 

「徐々に音の忍たちは刈られていっています。暗部も動き出しました。少なくとも、もう間もなく、大蛇丸以外の者たちは排除されるでしょう」

 

 下手をすれば、その排除の流れに巻き込まれるかもしれない。再不斬と白は同じ事を考えていた。里に到着した時は滅ぼされる過程を進んでいたかのような姿だったが、今はまるで違う。懐に入ってきた音の忍たちを囲い、殲滅し尽くそうとしている。

 その余波は、たとえ音の忍ではなくとも、木ノ葉の忍ではない自分たちをも巻き込んでもおかしくはない。

 救おうとしている相手に殺される、そんな大間抜けは御免だ。

 引き時か……。音の忍は、それなりの数に減らしたはずだ。雑魚に関しては、もう放っておいても構わないはずだ。残るは、大蛇丸と、ナルト。

 

 どちらの対処についても、サソリは指示を出さなかったが、ナルトは別にしても、大蛇丸が里にいる事は知っているのは間違いない。フウコが暴走しようとしたのも、大蛇丸が里にいるという事を【暁】から知ってからなのだから。

 ならば、無視をしろ、ということか。

 ナルトにしても、同様のはず。大蛇丸の所在を突き止めた【暁】ならば、ナルトの事も察知していてもおかしくない。集合の際は、報告がなされただろう。

 大蛇丸に関しても、ナルトに関しても、つまりは、ノータッチ。触れなくていい。

 下手な火の粉を被る前に、離れた方が―――。

 

「お願いだから……お母さんを………」

 

 足を、掴まれた。

 後ろで泣いていた子供に。

 今度こそは離さないという、微かな強い意志を持ちながら。

 

「助けてよ……」

「………………」

 

 子供の腕を払うのは、簡単だ。さっきと同じように、軽く足を動かすだけでいい。難しい事じゃない。今までの経験を思い出せばいい。

 自分たちを雇い、身勝手に契約を反故にし、報復を与え、怯え、命乞いをしてきた雇い主たちの時のように、足元の雑草を払うように。

 

 だが再不斬は……じっと子供を見下ろしたまま、微かにも動こうとはしなかった。

 

 子供の意志を受け取ったから、などという人情的なものではない。

 すぐ隣に、白がいるからだった。

 きっと普通の―――ごくごく普通の人間なら、助けようと思うのだろう。

 カカシ達のような連中はきっと、こういう場面では、子供の頼みを聞き入れるのだろう。死のうが、生きまいが、自分たちには何の影響も与えてはくれない赤の他人であっても、助けようとする。

 それが普通の感覚に違いない。

 そして白は、サソリの計画の果てに、その感覚が溢れた世界に行かなければいけない。

 その感覚の切れ端を、自分があっさりと破棄していいのか。思考が渦巻きを描き、流転し、そしてまた、自分の感情を見失う。子供を咄嗟に助けた時と同じ感覚だった。

 何を、今更。

 白はフウコの修行を受けているのを、なら、どうして止めなかった。

 サソリから木ノ葉隠れの里を救えと依頼を受けた時、どうして白を連れてきた。

 今更だ。

 今、その段階を考えるべきじゃない。

 白が普通の世界に戻る為の下準備はまだまだ先で良いと思っていたんじゃないのか。

 どうして考える。

 言い訳のような、考えを。

 無駄な、贅肉のような考えを。

 

「……再不斬さん、行きましょう」

 

 そう呟いたのは白だった。

 

「もうサソリさんからの依頼は達成したと思います。これ以上、木ノ葉にいると、僕たちが危険です」

 

 忍としては、正しい。

 だが、白の無表情は、自分の言葉に針を吐き出すような悲痛を抱えているのが伝わってくる。本当は子供を助けてあげたいと、思っているのだ。

 

「……お前がそんなこと言うんじゃねえよ」

「え? 再不斬さん……?」

 

 口元で小さく愚痴る言葉は、白の耳に明確には届きはしなかった。

 再不斬はしゃがみ込み、子供の頭を思い切り掴んでやった。

 

「いいか、小僧。これから俺の言う事をよく聞け。そうすりゃあ、テメエのおふくろを助けてやる。分かったな」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ゆっくり進んでいきましょう、綱手様。無理はしないペースで。もうこの辺りには、敵はいないようですし」

 

 柔らかい、穏やかな口調でシズネは言ったが、綱手から返事は来なかった。声すら聞こえていないだろう。それでも温かな笑みを浮かべた、震える綱手の肩を両手で支える。細やかな木枯らしにすら劣る、緩慢とした歩みの主導権は綱手だが、それを少しでも動かそうとはしない。シズネは静かに、綱手を観察する。

 

 ―――だいぶ、落ち着いてきてはいる……。だけど……。

 

 今にでも壊れてしまう水鉢のようだった。所々にヒビが入り、隙間から水滴が少しずつ零れていて、微かな衝撃を与えてしまえば粉々に壊れてしまう寸前のようだ。この場合、身体の事ではなく、心がだ。

 中空を見つめる瞳は小刻みに震え、外界の情報を殆ど受け取っていないように見える。両手は首飾りの鉱石を握りしめているせいで、自身の身体を抱くような姿勢になっている。綱手にとって、外界の情報はもはや、そこに在るだけで心を破壊する情報なのだろう。夜中の布団の中で、窓の外の木の枝のさざめきに怯える子供のようだった。

 

 身体に外傷は無い。一つとして。しかし、まだ微かに彼女の身体からは、血の臭いがあった。綱手自身の血ではなく、他者から浴びた血の臭い。白い肌に付いたものは綺麗に拭き取り、血を浴びた上着は途中で脱ぎ捨てさせたが、それでもまだ、鼻に纏わり付く。あるいは、周りからの臭いもあるのかもしれないが、それらが、未だ綱手の心を正常に戻させなかった。

 

 血液恐怖症。

 

 綱手が患っている、精神疾患である。

 血に触れるだけ、血を見るだけで、綱手の身体と心は強く委縮してしまう症状に今、彼女は苛まれている。

 

 ―――まさか、木ノ葉に戦争を仕掛けてくるなんて……。

 

 運が悪かった、などという域を逸脱している。他里の忍との小競り合いはよく聞く話だが、里そのものに襲撃するなど、今の世においては沙汰の外だ。巨大な蛇が里の塀を破壊してから、瞬く間に戦闘は始まった。音の忍と木ノ葉の忍が建物を飛び交い、酒屋で酒を飲んでいた自分たちの上空から血が降ってくるなど、いったい、誰が想像できるだろう。

 血を浴びてから、綱手はしばらく動けないでいた。その間、幸いなことに、戦闘に巻き込まれる事はなかった。そのまま、動けるようになってからは、静かに気配を消しながら、細心の注意を払って移動していた。疾患に苛まれている綱手を傍に戦闘をするのは避けたかった。

 できたことは、綱手を慮りながら、避難所へ向かう事だけだった。綱手と共に木ノ葉隠れの里を離れる以前から、避難所の位置は把握している。年月と共に場所の変更はあったかもしれないが、他に手立てがない。このままの状態で一定の場所に留まるよりは、遥かにマシだ。

 

「綱手様。安心してください。もうすぐで安全な場所に着きますので」

 

 もはや何度目かも分からない、綱手を安心させる言葉をシズネは呟いた。言葉以上の効果を発揮しない事を証明するかのように、綱手はやはり、返事もしない。それでも着実に歩みを進める。

 

 子供の叫び声が聞こえてきたのは、その直後だった。

 

 不吉と不幸を隠そうともしない金切り声。シズネでさえ寒気を抱き、木ノ葉隠れの里の状況と相まって、容易に子供の事態を把握できてしまいそうなほど、はっきりと空気を震わせた波は、当然、綱手にも大いに伝わった。

 

 ピタリと綱手の足が止まった。そして、肩の震えが強くなるのを両手で感じ取ると、シズネは鋭く周囲を見回した。音の忍がすぐ近くにいる可能性を真っ先に予見したのだ。

 

 襲われているかもしれない子供。

 辺りの倒壊した建物に反響して広く響き渡る叫び声。

 その声に群がってくるかもしれない音の忍たち。

 幾通りの想定を重ね、綱手の一番弟子であるシズネの、その意識の警戒網を―――白は網目からすり抜ける水滴のように、悠々とすぐ眼前へと姿を現して見せた。

 

「―――ッ!?」

 

 音も無く、視界の外に霧のように気配を現した白を見た瞬間、シズネの思考はシビアになった。

美しい均整の取れた顔立ちをした子供。少女なのか、少年なのか、それすらも判別は難しい。木ノ葉隠れの里の忍なのかどうかすら。

 

 それらの情報を一切合切にシャットアウトし、綱手を守る為だけに身体は動いた。躊躇いなく袖の中に潜ませていた暗器を露わにする。暗器は指程の大きさをした筒状の射出機だった。数は五つ。中には毒液を染み込ませた針が装填されている。

 

 針の毒液は、皮膚を軽く削るだけでも十分に人体に害を及ぼせるほど強力なものだ。

 

 殺しても構わない。

 

 直感だ。

 

 目の前の相手は、少なくとも、木ノ葉隠れの里の人間ではないという直感が微かな躊躇いを踏み殺し、針を射出する紐を引いたのだ。紐から指が離れると、針は毒液を細かく飛沫させながら射出される。

 

 人の手で投擲される物よりも早く、そして目視難い小さな針。

 

 しかし、白はそれを悠々と指先で挟む様にして捕えた。

 

 すかさずシズネは術を放とうと印を結ぼうとした時、「安心してください」、と白は穏やかに呟いた。

 

「御二人と争うつもりはありませんので」

「……なら、どうして気配を消して近付いてきた」

 

 シズネは決して警戒を解くつもりは無かった。針をあっさりと捕えた事に脅威を感じた訳ではない。

 戦場となっている木ノ葉隠れの里の只中で、赤の他人を前に、子供らしい優しい笑みを浮かべている異常さが、シズネの琴線を弾いたのだ。見た目に反して、場数を相当数こなしているのが分かった。

 

 白は応える。

 

「ボクに修行を付けてくれる方の教えでして。常に気配を消して相手に近付けと、教えられています。誰かが近づいているのは分かっていたので、確認も兼ねて、そうしたまでです。木ノ葉隠れの里の方だと最初から分かっていれば、誤解を生まないで済んだのですが」

「どうして私たちが、木ノ葉の者だと?」

「今、木ノ葉を襲っている人たちとは恰好が全く違いますし、ボクがこうやって話している間も、警戒しかしていません。殺気も、もう収めてる。襲撃する側の人としては、いささか生温いです。襲っている側の人ではないのなら、木ノ葉の方だというのは、すぐに分かります」

 

 ですが安心してください、ともう一度、白は言った。

 

「ボクは木ノ葉の人間ではありませんが、敵でもありません。味方という訳でもありませんが……」

 

 言葉の信頼を得ようとするかのように一歩、彼は距離を取った。遠すぎる訳でも、近すぎる訳でもない、曖昧な距離。しかし、絶妙だった。言葉が本心かどうかは別として、不必要な敵意と過剰な好意だけを振り落とす位置関係。

 

 巧みさが鼻に着くものの、いやむしろそのわざとらしさが、本心を話しているのですよという奇妙な誠実さを伝えてきたのだ。

 

「……ならば、私たちを見逃していただけないですか? 敵意が無いというのなら―――」

「いいえ、それは少しできません」

 

 穏和な笑みから一転し、鋭く視線を細くした白に、そこで初めてシズネは違和感に気付いた。気配を消して近付いてきたというのならば、途中で分かっていたはずだ。こちらが音の忍ではない事に。なのにわざわざ、姿を現したという事の矛盾。

 目的がある。

 どんな目的か。

 もしも、要求してきた事を拒絶した場合、敵対ではないと言ったグレーの関係がどう変色するのか。

 

「……この針に付いているのは、毒ですね?」

 

 指に挟んでいた針を、毒液ごと指から払うようにして地面に捨てた。

 

「ボクの雇い主の人もよく毒を開発したり使ったりするので、分かります。その人は、人体に詳しいのですが……貴方も、それに類する方ではないですか?」

 

 もしそうであるならば、お願いがあります。

 

「向こうで、瀕死の女性がいるんです。治療が可能ならば、助けてあげてください」




 申し訳ありません。今回は難産だった為、大幅に更新が遅れてしまいました。次話はスムーズに行くと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

万の夜を超えて 前編

「あぁぁぁぁぁああああああぁぁああッ!」

 

 タガが完全に外れてしまったのか、イロミはただ絶叫しかあげなかった。須佐能乎を形作る強固なチャクラの塊を振動させる声は衝撃そのもの。空気は震え、地面を揺れさせ、試験会場の者たちの動きを止めさせる。

 

 誰もが耳を両手で塞ぎ、頭痛に瞼を歪める中、イタチだけが、彼女を真っ直ぐと見据えていた。激痛が全身の感覚に成り果て、立っている自覚すらおぼろげだ。しかし、イタチの表情は死への恐怖を抱いている脆弱さを宿してはいなかった。

 冷静そのもの。

 将棋盤を前に、劣勢の盤面を覆す一手を考える棋士のようだった。いや、確かに彼は考えていたのだ。どうすれば、友達を叩きのめす事が出来るのか。それ唯一を考え抜いている。今ある自分の手札と、それ以外の手札を、条件に照らし合わせて。

 

 条件。

 

 つまり、自身の状態である。

 イタチは……もう、一歩も動けなかった。もし一歩でも動いてしまえば、身体の中心が欠落してしまっている今では、激痛が意識を貪ってしまうだろう。腹部を覆う部分影分身の術は解け、血液も内臓も、命と共に身体から抜け出て、終わる。

 

 動いてはいけない。

 術を発現させる為の印も結べはしないだろう。

 

 出来る事は、極めて僅かだ。須佐能乎を動かす事と、写輪眼の力。

 

 これら、二つだけだ。けれども、どちらとも強力な力ではあるものの、イタチは絶対の信頼を寄せてはいなかった。須佐能乎を発現している今でも、激痛は時間を重ねる事に痛みを招いてくる。ましてや、写輪眼はチャクラを多大に消費する。使い続けるには、払うべきリスクがあるのだ。

 

 無手にも近い状況。

 

 それでも、イタチの思考は進んでいく。

 激痛に狂わされる事無く、死への恐怖に竦むことなく。条件という石を躱しながらも軌跡は輝きを以て前進する。

 手放してはいけない。親友が繋ぎ、紡ぎ続けてくれた意識と、時間と、絆を。

 イタチの集中力は、あの夜(、、、)を寄せ付けないほどの強度を誇っていた。

 だがそれを押し潰さんばかりの圧力を、イロミは放つ。

 

「ぎぃいぃいいいいいいいいぁぁぁぁぁあああああああッ!」

 

 絶叫が、より強くなる。しかし、先ほどの絶叫と異なっている事を、写輪眼が視界として捉えていた。須佐能乎に捕まれたイロミの周りに、チャクラが集まり始めたのだ。集まったチャクラはイロミに入り込んだが、すぐに余剰分が溢れだし、冷気のように地面へと降りていった。

 

 その一部が、須佐能乎の手と腕に纏わり付く。

 そして―――石化(、、)したのだ。

 チャクラの塊であるはずの須佐能乎の腕は完全な物質である石となり、自重を支えられなくなったせいか、ヒビが生まれ、脆くなる。イロミは腕力で、石像となった手を砕き、そのまま腕をつたって迫り来る。

 

 ―――そんな事も出来るのか…………。

 

 しかし、イタチの思考には乱れは生まれない。新たにイロミへの情報を更新させるだけ。徹底してクレバーに考えながら、須佐能乎を操作。残った腕で薙ぎ払い、イロミを塀に叩き付けた。

 

 ―――微かに触れた部位だけでも、石になるのか。だが、衝撃は通る。

 

 イロミを払った掌の表面が、石となって崩れ落ちていくのを観測する。石になった面積も体積も、先ほどよりも小さい。捕える事は難しくとも、イロミにダメージを与える事は可能だという、一つの答えを手に入れる。

 

 ―――須佐能乎の腕を石にした……なら、術はどうだ…………。

 

 イタチは右眼にチャクラを集中させた。

 視界が深く、黒く染めあがる。勝手に発動した時よりも、黒には一切の躊躇いは無かった。黒は集約し、起き上がろうとする彼女の中心を捉え、

 

 ―――天照。

 

 発火する。

 

「ああぁぁぁぁぁぁぁぁああああああッ!」

 

 黒炎に焼かれ悶える。

 右眼の視界は痛みに歪み血涙に滲むが、冷徹と言えなくもない無機質な視線を向け続ける。煌々と燃え続ける炎は、しかし、イロミの身体を焼き尽くす勢いを失い、火の元から徐々に石に成り始めた。

 

 ―――この術でも石にされる。他の術も、石にされると考えた方がいいだろうな……。

 

 また一つ、イタチは答えを見つける。詰将棋のように、一つ一つ、丁寧に、思考の道筋に条件という石を置き、選択肢を明確にしていく、追い詰めていく。自身の不利を覆す為に、勝率を上げる為にだ。

 

 勝敗を決する条件が双方同一である場合。

 勝負する前から、勝敗が決まっている勝負は存在し得ない。

 勝負が始まる寸前までは、常に勝率は五十パーセントなのだ。

 勝敗は目に見えていると、勝負の前に語る者は、勝負が始まった瞬間から加速度的に変動し得る勝率を捉えきていない事への諦観を受け入れているに過ぎない。逆転劇を目撃し、奇跡と言うのと原理は同じだ。必然的な結末を、奇跡などという言葉で蓋をしているに過ぎないのと、全く同じなのだ。

 

 手持ちのパーセンテージを勝負が始まった瞬間から、どれほどキープできるか、あるいは増減の配分を上手くコントロールできるか。勝つ、負ける、という現象はその上で導き出されるものである。努力も才能も、勝率を確保する手段を実現させる、その可能性を、あくまで高める為のものでしかないのだ。

 

 故に、努力とは単純ではない。

 故に、才能とは扱い難いのだ。

 

 頑張れば報われるというのは幻想だ。頑張ったことを実現できた時に、報われるのだ。勝率を動かす為の努力のみが、本当に報われる努力なのだ。頑張っている、やる気がある、それらは全て、装飾に過ぎない。

 

 才能の広域性はアンバランスだ。勝率という点をカバーしながらも、ピンポイントに動かす事は出来ない。足が速いだけでは勝てない、腕力があるだけでは勝てない、だからこそ才能を持つ者は皆、自身の才能のバランスを取る為に努力するのだ。

 

 今、イタチは、ゼロではない程度の勝率を動かそうと、努力をしている。須佐能乎、写輪眼、それらの才能のバランスを取り勝率を変動させる為に、分析という努力を。

 

 ―――何故、天照を最初のように吸収しなかった……。選択が出来るのか?

 

 チャクラを吸収する事も。

 チャクラを石にしてしまう事も。

 自在に動かせるのだろうか。

 

 ……いや。

 

 ―――もう、チャクラを食えないのか………?

 

 須佐能乎で掴んでいた時に写輪眼が捉えた、外部からのチャクラ。そのチャクラは、イロミに吸収され、余った分が須佐能乎を侵食し石にしていた。それに、彼女は多くの人間を捕食し、途中から止めた。

 

 イロミ自身が許容できるチャクラ量が限界値になっている。勿論、あくまで可能性ではあるが、もしチャクラを吸収する力を行使できないならばやり易い。

 チャクラを石にされるなんてものは、何の障害でもない。

 

 天照が完全に石となって、朽ち果てる。纏わりついていた天照の残骸を振りほどき、イロミは突進してきた。

 

 須佐能乎の腕で彼女を叩き落とそうとするが、速度はやはり届かない。振り抜いた須佐能乎の腕を潜り抜け、イタチ目掛けてイロミは腕を振り抜いた。須佐能乎のちょうど胴体。イタチの顔面を吹き飛ばす事への躊躇いが一切と無い拳は、高密度のチャクラで形成されている須佐能乎を大きく振動させ、周囲の空気を弾き飛ばす衝撃を生む。しかし、チャクラの表面が石にされるだけで、拳はイタチにまでは届かない。

 

 何度も、彼女は須佐能乎を拳で殴る。時には額で。その度にチャクラは石と変えられ、剥がされていくが、量は少ない。ガラスの板を、細い針で削るにも等しい行為。全くの無駄ではないが、費用対効果から見れば挙げられる選択肢にすら入りはしない。

 

 ―――いつもの君なら、こんな無駄な事はしない。

 

 忍術勝負の時のイロミは、もっと多様な手段を使っていた。多角的で包括的な、ありとあらゆる武器、術、道具。それらを駆使し、予測を困難にさせる先手の攻めと、分析によって変化していく手段の効率化。その彼女ならば、一度二度、拳で殴り効果が薄いと判断して次の手段を即座に実行する事だろう。もしかしたら、術の継続によるチャクラ消耗を判断して、そもそも長期持久戦という最善手を打ってくるかもしれない。

 

 それに比べれば、獣のようにただ牙を剥き突き立ててくる今の彼女は、どれほど御しやすい事か。

 

 地面を抉り、岩を砕く一点の力。それは絶対的才能だろう。覆し難い、現実だ。

 

 しかし、如何に強大な才能も、乱雑な純朴さを保有したままでは、さらに強大な才能の前ではあっさりと凡愚に成り果てる。

 才能のアンバランスさ。

 一点を穿つだけの力では、勝率は動かせない。

 

 普段の彼女ならばすぐに理解したであろう。知性を失い、呪印の力に身を委ねた獣は牙を剥く。ただ闇雲に放つ拳は、殴る度にイロミ自身の手の皮膚を、肉を、骨を砕き、同時に桁外れの速度で再生を行っている。

 

 ―――力が、自分の身体に追従できていない。

 

 つまり、おそらく今の力が、彼女の力における限界の近似値。須佐能乎の防御力は、決してイロミには突破できないという事実の証明でしかない。

 

 須佐能乎の腕を動かした。獰猛なイロミを軽々と捕まえる事が出来てしまう。完全に彼女の理性は吹き飛んでしまっているようだ。手を石と変えられる前に、イロミを地面に叩き付けた。

 

 バウンドし、口から血を吹き出す彼女。イタチは容赦なく、空中にいる彼女を上からさらに、須佐能乎の拳を振り下ろした。地面は砕かれ、その隙間からは大量の血液が。もはや致死量を大きく超えている量だが、写輪眼は、捉えている。

 

 未だイロミに纏わり付く大量のチャクラを。それらが須佐能乎の腕を石にしているのも。

 腕は砕かれ、五体満足のイロミが再度突進してくる。

 闇雲に拳をぶつけ、突進してくるのだ。

 何度も潰し。

 何度も塀に叩き込み。

 時には拳の中で握り骨を砕こうとも。

 

 イロミは絶叫を伴って襲い掛かってくるのだ。

 

 もはや須佐能乎を以て、彼女に残された異常さは、異常な再生能力だけになってしまっている。

 イタチの頭の中には、彼女を叩きのめす手段は九割方、構築は出来ていた。問題は、残りの一割。その部分がどうしても足りない。自分の今の状態だけでは、決して、埋めれない部分。

 

 頭の中の候補として、他者の力を借りる事。

 

 情けない、とは露ほどにもイタチは考えていない。親友の、一人になるのか? という激励を受け止めたからだ。むしろ、頼れる他者がいる、というのを力と捉えた。イロミもまた、他者の力に頼っている。他者を食らって、自分のものにしているのだから。

 

 しかし、その他者も、一割を埋めれない。

 

 カカシでも、ガイでも、紅でも、アスマでも、他の上忍でも……足りない。

 

 彼女を止める為の、一瞬の刹那を生み出してくれる、力を持つ人物。

 

 その時……須佐能乎に砂が纏わり付いた。砂の量は、膨大だった。

 

 イタチは我愛羅を見上げる。

 

 砂だ。

 

 砂を纏った、何かが居た。

 

 何か。表現が難しい姿だったが、連想したのは、イロミの姿だった。砂の形をした、尾骶骨付近から一本の尾が生えている。そこから上は、全て、分厚い砂の鎧―――あるいは、皮膚―――に覆われ、手先は獣の鉤爪の形を作り、頭部は獣の顔を模ろうとしている。しかし、口には砂は無く、狂気なのか、怒りなのか、ただただ獰猛さだけを伝えてくる。そして、口と同様に砂の覆われていない目の部位の中心で光る黄色の瞳はギラギラと光ながら、イタチに狙いを定めていた。

 

「―――死ねえッ!」

 

 砂の化身の声に反応し、須佐能乎に纏わり付いた砂たちは圧力を掛けてくる。圧力は、イロミの腕力にも匹敵するほどのものだったが、しかし、須佐能乎の防御を上回れはしなかった。

 

 ―――振りほどこうと思えば、出来る。だが、どうして……。

 

 操作している砂だけでは力不足と判断したのか、化身は、砂を纏わせた腕を大降りに、観客席から飛び降りる形で須佐能乎に鉤爪を突き立てる。

 

 響き渡る金属同士がぶつかり合うような音は、互いにダメージが無かった事を表すだけだった。砂の拘束をものともせず、須佐能乎の腕で振り払う。我愛羅の身体は受けた衝撃そのままに地面を転がった。

 

 ―――どうしてこの子は、イロミちゃんを守ろうとしているんだ?

 

 イロミの事……あるいは、自身の過ちの事で精一杯だったが、今になって思考の中心に移動してきた。須佐能乎を展開し、イロミからの攻撃を防げるという優位のおかげか、そのことを考え始めてしまう。当然、暴れ襲い掛かるイロミの攻撃を防ぎ払いながらではあるが。

 

 我愛羅の存在。彼は、イロミを守り続けていた。会場に彼女が姿を現してから、ずっと。何より分からないのは、どうしてそこまで、彼女を守ろうとしているのかという事だ。

 

 砂隠れの里は木ノ葉隠れの里にとっては、敵側である。それは、サスケとテマリの戦闘で明確に分かった。音と砂が同盟を組んでいるのだろう。それでも、イロミを守る理由にはならない。

 

 イロミは言った。大蛇丸とは、関係が無いと。彼女の目的は答え合わせで、そして音の忍を見境なく捕食していた。たとえ木ノ葉の忍だろうと、音の忍だろうと、砂の忍だろうと、彼女を守ろうとする人物は、親しい人間を除けば、存在する訳がない。

 接点が生まれたのは、おそらく、彼女が木ノ葉の敵になってから。親しさというのが、時間経過と完全に比例するとは限らないけれど、彼女は積極的に交友関係を作ったのだろうか? 

 

 あまり、想像は出来なかった。

 

 単なる勘。はたまた、友人としての経験則。

 イロミは怒っているのだから。

 泣いているのだから。

 積極的に他者と関わろうとは、しないはずだ。

 

 ―――…………なら……。

 

 印を、結ぶ。発現した術は口寄せ。何羽かの烏を呼び寄せ、会場内を羽ばたかせる。

 

「兄さんッ! クソ、この女ッ! 邪魔すんじゃねえッ!」

 

 サスケの声が、観客席から届く。その声を遮るのは、

 

「おいテマリ、さっさとここから離れるぞッ! 我愛羅がああなっちまったら、いずれここはぶっ壊れるッ! そうなる前に、逃げるのが得策じゃんよッ!」

「分かってるッ! だが―――」

 

 少女の声は、一瞬だけ間を置いた。

 この時、少女―――テマリの脳裏に過ったのが、母との小さな約束だったことは、誰にも分からない。

 

「我愛羅を一人にさせる訳にはいかないッ! 相手はうちはイタチだッ! 間には入れないが、周りの邪魔を止めるくらいは出来るッ!」

「兄さんの―――」

「我愛羅の―――」

「「邪魔をするなあッ!」」

 

 爆風と爆炎が、観客席で生まれた。

 思考が一瞬だけ、ブレてしまう。

 大切な弟の命が危ない事への、条件反射。身体が動こうとしてしまう。いや、正に、一歩踏み出そうと、身体中の痛みを無視しようとした。家族を失ってしまった、あの夜の喪失感は、やはりまだ、心の奥底で燻っている。

 それを押し留めたのは、爆風と爆炎によって生まれた煙の中に入っていくカカシの姿が見えたからだ。

 そしてすぐさま、サスケを脇に抱えたカカシが煙の中から姿を現し、一瞬だけ、視線が交差する。互いの考えが、片鱗だけだが伝わる。

 

「おい離せッ! カカシッ!」

「悪いけど、その頼みは聞けないな。今お前がする事は、イタチのサポートじゃなく、足手纏いにならないよう、避難区画に行く事だ」

 

 カカシに合わせて、アスマ、紅、他の上忍らも動き始める。自身の部下たちを、あるいは大名らを試験会場から避難させる為に担ぎ、離れ始める。

 

 この場では、足手纏いでしかない。

 

 イロミとイタチの間に入れないと、彼らは同時に判断を下したのだ。そして、他の事に徹した方が良いと。

 

 冷静である……と同時に、冷徹でもあっただろう。須佐能乎を発動させているとはいえ、瀕死にも等しい状態のイタチにイロミの相手を任せるのは、あまりにも責任が勝ち過ぎている。

 

 しかし、それはイタチが願った事だった。

 

 口寄せした烏たちが、イタチの意図を伝えたのだ。

 

 ここは、任せてほしい。

 無茶をしている訳ではない。

 独りよがりでもない。

 ただ。

 今は、別に必要な力がある。

 大丈夫。

 信じてほしい。

 

 捉えようによっては、盲目的な独断で個人的な無謀だ。イタチの実力を知っているからこそ、独断の判断を敢えて引き受けた者もいるかもしれない。同じ行動を取ったからと言って、全員が同じ理解の経緯を辿ったという事にはならない。

 

 たとえばカカシは、彼の実力そのものは度外視していた。独りよがりではない事をイタチは自覚している。その上で、信じてほしいと語った。不安は拭い切れはしないが、ここで彼の言葉を信じなければ、今度は自分が前までの彼と同じ立場になってしまう。

 他者を頼らず、他者の責任を自分が背負ってしまうのだ。

 同調を捨て、彼の言葉と彼自身を信頼してカカシは動いた。最後に彼を一瞥したのは、確認だった。他者を騙す為の言葉ではなかったのか、と。しかし、それは杞憂だった。

 

 カカシはサスケを連れ、観客席で身を低くしているサクラの元に連れてきた。

 

「サスケくんッ! 大丈夫!?」

 

 と、サクラは勢いよく身体を起こした。下忍ながらも幻術返しを扱える彼女はカブトの幻術に嵌る事無く意識を保っていたのである。けれど、上忍たちの争いとイロミの背から現れた大蛇の暴食、そして、ナルトの尾獣化。度重なるイレギュラーと死の恐怖に、意識を保ったものの、何も出来ないでいたのだ。

 

 上司であるカカシと、頼りにしてしまっているサスケが近くに来たことで、緊張が解けた。涙目を浮かべる彼女だったが、サスケは意にも介さずカカシからの拘束を解いて彼の胸倉を掴んだ。

 

「おいカカシッ! 邪魔するんじゃねえよッ!」

「それはこっちの台詞。お前がこの場にいるだけで、邪魔になってるよ」

 

 普段の掴みどころのない飄々とした口調でありながらも、彼の表情は緊張感を伴っていた。

 

「言いたいことは分かっているつもりだけどね、今はお前の意見を聞いている時間は無い」

 

 そう言うと、カカシは印を結び、口寄せの術を行った。現れたのは、十前後の犬たちである。大きさも、おそらく品種も異なるだろう犬たちであったが、全員が木ノ葉の額当てが付けられた青い頭巾を付けていた。

 

「パックン、みんなと手分けして医療忍者を連れてきてほしい。連れて来れる限り、連れて来るんだ」

 

 パックンと呼ばれた、呼び寄せられた犬たちの中で最小の犬がカカシの言葉通りに頷くと同時に、犬たちは四方八方へと散り散りに動き始めた。

 

 当然ではあるが、イタチには、カカシの指示や忍犬らの目的は見聞きする由も無かった。イタチの思考は――勿論、襲い掛かってくるイロミの攻撃を防御しながらであるが―――導き出した答えを実行に移していた。

 

 既に、彼は我愛羅の瞳を見ていた。

 

 いや逆かもしれない。我愛羅が、イタチを見ていたのだ。

 

 その瞳に充満する殺意と怒りの源泉を見定める為に、月詠を、発動させた。

 

 幻術空間が、我愛羅の内部に構築されていったのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

『牛丼にね、柴漬けって意外と合うんだ』

 

 最後に人の手に触れたのは、いつだっただろう。そんなふとした疑問を思い浮かばせておきながら、それをあっさりと吹き飛ばすように二転三転と切り替わる彼女の話題は、鬱陶しいものだった。

 食事中にわざわざ隣に座ってきては、手を握ってくる。こちらから話題を振っていないのに、どこから湧いて出た話題を出してくる。夜中になって勝手に寝静まるだろうと思ったら、急にメソメソとさざめき泣く時もあった。

 

 嫌が応にでも自分の感覚に割り込んでくる。

 

『サスケくんっていう子がいるんだけどね……。その子が、間違って買ってきたんだよね。だけど、いざ作ってみたら、悪くなかったんだ。今度、試験が終わったら、食べてみたら?』

 

 そして、なんとなく。

 

 彼女は全部を無くそうとしているようだった。自暴自棄になって、自分を消したくて、抱えてきた色んなものを投げ捨てたくなっているように見えた。我愛羅自身にも、そういう感情を経験した事があっただろうか。

 

 もう、何もかもがどうでもいい。積み上げてきた何もかもを信奉することのくだらなさ。その感情の表れ方が違うだけで、同じように見えたのだ。積み上げてきた事を口に出して、消えて無くなろうという意志が見えた。

 

 けれど、その意志はか弱くか細く、どこか、何かに縋ろうとしている。

 

 手を握ってくるのは、そういう意図があるからだ。

 

 彼女は何がしたいのだろう。

 どうして、語り掛けてくるのだろう。

 小さな疑問が、徐々に生まれていった。稚拙なものだ。靴に付いた砂埃程度だった。あくまで我愛羅の彼女に対する評価は、鬱陶しい、その一言に過ぎない。殺すべき相手でも無い、という意味では、テマリやカンクロウと同じ程度だ。むしろ、殺したい相手よりも関心は低い。

 

 最後に―――イロミが、我愛羅の元を離れた日―――彼女が言った言葉が、我愛羅にとって、関心を高めた。

 

『我愛羅くん。君に会えて……良かった』

 

 風が吹く、その様だった。名残りだけを一方的に押し付けるだけ押し付けて、姿も形も消え失せていく風。最悪には、砂埃を巻き上げて網膜に傷を付ける。

 

『君が傍にいて、君がいてくれて、良かった』

 

 意味も無く、鬱陶しいだけの時間を共に過ごした狭い部屋から出て行った彼女の後ろ姿は、嫌に目に焼き付いた。突飛に、さも当然だというように、呟かれた言葉。彼女にどんな意図があったのかは、分からない。ただ、言われたという事実が、衝撃的だった。

 

 他者とは、殺して初めて価値がある。

 

 自分という存在に恐怖し、そして抹殺して来ようとする他者を殺し、自分の存在価値を実感させてくれるだけの。

 

 我愛羅にとっての、絶対的価値観だった。

 

 今まで、何もしていないのに恐怖され、蔑まれ、孤独へ追い込まれ、実の父から命を狙われた人生が積み上げてきた基準。他者を殺してようやく、我愛羅は自分を認識してきた。

 

 しかし彼女は、違った。

 

 自分に恐怖する訳でもなく、殺そうとする訳でもなく。

 ただ同じ空間にいて、ただ一方的に話しかけてきておいて、ただ一方的に手を握ってきて。そして、そこにいて良いのだと、言ってきた。

 

【だから君は、彼女を助けようとしたのか?】

 

 助ける。積極的な感情は、無かったように思える。

 知りたかった、と言うだけだ。

 彼女が離れてから、彼女が何を思ったのか。それを知りたくて、砂を動かした。彼女が衣服から大量の起爆札を出した時も、呪印に完全に呑み込まれそうだった時も、イタチと対峙してしまった時も。

 

 結果的には、助けてしまったことになっている、と言えるだろう。

 

【どんな事を聞きたいんだ?】

 

 尋ねられても、答えは出なかった。

 何を尋ねようとしていたんだろう。

 

「シャハハハハッ! ただぶっ殺してえだけに決まってんだろうォッ!」

 

 背後上部から汚い笑い声が入ってくる。一日中ずっと、意識を圧迫してくるソレの声は聞き飽きてしまっているが、目の前に立つ彼の赤い瞳が、ただただ不愉快さだけを示すままに砂の化身を見上げた。

 

【少し黙っていてくれ。俺は彼と話をしているんだ。邪魔をするな】

 

 彼が軽く右手を上下させると、砂の化身は呆気なく霧散した。圧迫し続けていた意識は軽くなったが、完全に消滅したという訳ではないだろう。あの化物が静かにしている程度。奥底では、忌々し気に、化物の唸り声が鳴っている。

 赤い瞳がこちらを再び見つめる。

 

【力を、貸してくれないか?】

 

 彼は言った。

 

【もし彼女を助けたいと思っているなら】

『……お前にとって、あの女は何だ?』

【友達だ】

 

 彼はまた、断言した。けれど、その言葉とは裏腹に、二人の繋がりは言葉の性質を宿しているようには思えない。少なくとも、彼女は友達と言う関係を否定し、敵とまで言っていた。

 

 そう、敵。

 

 なのにどうして目の前の彼は、友達だと、そのまま言えるのだろう。彼の瞳には殺意や怒りと言ったものは見受けられない。

 

『殺すのか?』

【そんな事はしない。ただ、今は……少し、仲違いをしているだけだ。だから、仲直りする為に、彼女と喧嘩をして、話し合う。どうすればいいのか、話し合う為に】

『あの女はお前を殺そうとしているのにか? 話が通じるとでも?』

【そうまでして、俺に伝えたかった事があったんだ。俺がそれに気付いてあげられなかったから……気付いてあげようという努力が足りなかったから、彼女はその手段を使わざるをえなかったんだろう。彼女に―――イロミちゃんに、失望されただけだ】

 

 失望された。

 だから、殺すという手段を用いてきた。

 彼の見解は、果たして、あの時の夜叉丸にも当てはまるのだろうか?

 失望ではないにしても、夜叉丸は自分に伝えたかった事があったのだろうか?

 

【失望させてしまったのなら、困らせてしまったのなら、俺はそれを改善する。だが今は、彼女は俺に言葉をぶつけてはくれる状態じゃない。言葉以外の暴力を全て、彼女から奪う必要がある】

 

 だが、と彼は続けた。

 

【もしかしたら、彼女は追い詰められた時に、俺の前から姿を消してしまうかもしれない。そうなった場合、俺はそれを防げない】

 

 今のイロミはチャクラを限界まで吸収した状態で戦っている。肉体の限界を超えながらも、異常なまでの再生能力で誤魔化し、がむしゃらに向かってきてくれている。けれど再生に使ったチャクラが少なくなれば、また彼女は食事を始めるだろう。あるいは、試験会場から離れて、別の場所で食事を始めてしまうかことも考えられる。一歩も動くことの出来ないイタチでは、追いかける事は不可能であり、泥沼になってしまえば、負けるのはイタチだ。

 そうならない為に、上忍たちに他の場所へと移動してもらい、そして我愛羅に交渉を持ちかけた。彼の忍術は、イロミを拘束する条件では適している。近付いてしまい捕食される危険も無く、拘束させるには十分な力も持っている。

 

【イロミちゃんを助けたいと思っているなら、力を貸してくれ。君が、彼女の事を想っているなら】




 投稿が大幅に遅れてしまい、誠に申し訳ありません。どこまでで話を切るべきか悩んでしまいました。結果、前編後編で分ける事に致しました。

 次話は来月になってしまうかもしれません。今回のような期間にはならないと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

万の夜を超えて 中編

 投稿が遅れてしまい申し訳ありません。話しの区切りが付かず、長くなってしまいました。後編は、今夜(あるいは明朝)に投稿します。


 テマリの意識が完全に我愛羅に集中してしまっていたのは、試験会場の中にいた木ノ葉隠れの里の上忍らが大名らと下忍らを避難させ、もはや敵対する相手がいなくなったせいもあるだろう。勿論、物見櫓の上に展開されている四紫炎陣の前にただ立ち尽くすだけの暗部の者らが幾人かはいるが、彼らの警戒範囲の中には常に君麻呂がいる。君麻呂がイロミの邪魔にならないよう暗部の者らを牽制しているおかげで、実質的にテマリとカンクロウを狙う者はいなかったのだ。

 

 しかし、たとえ、敵対する者がいたところで、テマリの変化に差が生じたのかと言えば、決してそうではない。起こりえない事が、起きたのだから。

 

 我愛羅の暴走が―――治まったのだ。

 突如として。

 前触れも無く。

 

 見た限りでは、我愛羅が誰かからの干渉を受けた様子は無かった。と、言うよりも、つい一瞬まで彼は、うちはイタチに対して獰猛な感情に任せて攻撃を仕掛けていた。しかし、身体に纏わり付いていた邪悪な模様の砂が消え失せた後の彼は、普段の冷たい無表情のまま。そして、イタチへの攻撃をパタリと止めたのだ。

 

「おい……これって、どういうことじゃん………?」

 

 隣でカンクロウが震えた声を出した。テマリは応えない。カンクロウの言葉が耳に届いているかも定かではなかった。

 

 我愛羅は静かに、イタチの横に立つ。

 

 彼が見据えるのは、イロミ。殺意に光っている訳ではなく、破壊衝動に憑りつかれている訳でもない。その眼に宿している色が何なのか、テマリには分からなかった。そして同時に、イタチに対しても同様の疑問を抱いていた。

 すぐ横に立つ我愛羅には、須佐能乎の巨大な腕が簡単に届いてしまうはずだ。だが腕は我愛羅を密かに狙うかのような微かな緊張は無かった。

 

 幻術に嵌ったのではないかという考えが、テマリの頭を過った。

 写輪眼。

 三大瞳術の一つ。ましてや、うちはイタチだ。こちらが気付かなかっただけで、写輪眼の幻術が発動していたのではないか。

 

 しかし、我愛羅の周りを漂う砂の動きがその考えを否定した。柔軟にゆらりゆらりと漂いながらも獰猛な気配を滲ませる砂の動きは、普段の我愛羅のソレと遜色は無かった。これまで彼の傍で―――あるいは遠くで―――眺めていたテマリだからこそ理解できる、経験則。表情の機微が少ないからこそ、彼を象徴する砂の動きの表情は、詳しかった。

 幻術に掛けられてはいない。

 見解は出ても、我愛羅と、そしてイタチの二人の変化が理解できる訳ではなかった。

 

「あ……はははは………………」

 

 静寂の中を、二人と対峙するイロミの乾いた笑い声が歩き回った。

 全身全てが血に染まったバケモノ。

 月の形を連想させるように歪み開いた口からは、微かにだけ白い歯が姿を現す。全身の赤が強烈過ぎるせいか、僅かに見える歯の白は生々しく光っていた。

 

「……あ、ははははは……………。あははははッ! キャハハハハハハハハハ! 美味しそうなのが、一人……ふえたぁあああああああッ!」

 

 一閃の影となったイロミの照準は我愛羅を一直線に捉えていた。

 我愛羅の砂が、弾丸と成った彼女を捕まえようと動き始めるが、あまりにも速度が達していなかった。ようやく触れる事の出来た数粒の砂が大きく弾かれる残滓の前に、イロミの拳は我愛羅の顔面を叩く。イロミの速度が拳を伝達し、我愛羅は観客席側の壁に衝突した。

 

 ちょうど、テマリたちの真下だ。

 

「……!? 我愛羅ッ!」

 

 壁の破片に包まれ姿を見下ろせない我愛羅に向かって、テマリは咄嗟に叫んでしまった。観客席にまで伝わってくる衝撃は、たとえ我愛羅であっても無事では済まない事を予感させるものだったのだ。

 返事は無い。

 薄ら寒さに、テマリは汗を滲ませる。

 嫌な予感がした。

 そう、我愛羅の身を案じたのだ。

 

 いや。テマリが一度として、我愛羅の身を案じなかった日は、無かったかもしれない。

 

『気になる?』

 

 砂の輝きのように、温かい声が浮かんだ。

 母の言葉。そして見上げる母を見て笑う小さい自分が見えたが……絶叫に、かき消される。

 

「死ぃねぇぇぇえええいいいいいいいいッ!」

 

 間髪を許さない追撃を知らせるイロミの雄叫びに、戦慄が走った。

 我愛羅の砂では、イロミの暴力を受けきれない。たとえまだ我愛羅が無事であっても、今度こそ、殺されてしまう。

 反射的に観客席から降りようとしたが、それより速く、須佐能乎の腕がイロミと我愛羅の間に割って入った。腕にぶつかった衝撃は空気を震わせるが、軽々と須佐能乎はイロミを反対側の塀に叩き付けた。

 

「力を貸してくれるのはありがたいが」

 

 イタチは背を向けたまま、小さな忠告をした。

 

「君を守りながらでは、どうしようも出来ない。本末転倒だ。距離を取っていれば、彼女から狙いが外れる。そこから砂を使えば―――」

「黙れ」

 

 破片から現れた弟の姿に一瞬だけ胸を撫で下ろすが、すぐに彼の状態に息を止める。

 

 ふらふらとした足取りは、ダメージが意識にヒビを与えている証左。背負っていた砂の瓢箪は形を崩し、我愛羅の足元を弱々しく動いている。壁にぶつかる間際、瓢箪をクッションとして機能させたのだろう。だが、震えている小さな背中が、砂のクッションがダメージを受けきれなかった事を示すばかりだ。

 

 ボロボロと、我愛羅の表皮を覆っていた砂も剥がれ落ちていく。その中には、血を含んだ砂もあった。いや、砂が剥がれ落ちても尚、血は落ちている。今まで我愛羅を見てきたが、初めて目撃してしまう程の出血量だった。

 

 我愛羅に宿る、砂の化身の力。宿主である我愛羅を自動で守る砂の力を以てしても尚、吐き出されてしまう血の量は、イロミとの力量差を示している。

 

 おそらく。

 

 砂の化身に乗っ取られていない状態においては、最も力量差がある相手だ。本来ならば、強い相手を前にした際、我愛羅の昂りに合わせて化身による意識の侵食に伴った砂の鎧が生まれるのだが、砂自身にその兆候は見られない。

 

 ―――どうして、化身は動こうとしないッ!

 

 口元の血を拭い捨て、砂は動く。

 イタチの忠告は一切に無視して。

 低く速く、砂はイロミの足から絡めとろうと―――。

 しかし、捉える事は出来ない。

 砂を置き去りにする速度。

 砂の端に触れても振り払う力。

 イロミの拳は、我愛羅の頬を振り抜いた。衝撃はそのまま我愛羅の身体を横に吹き飛ばすが、初撃よりかは、身体は浮きはしなかった。寸前、拳と自身の間に砂を滑り込ませたおかげだろう。砂の量も、さっきよりも多かったのも衝撃が軽減された要因だ。吹き飛ばされながらも確かに両足で姿勢を保ったまま砂を行使するが、やはり、結果は変わらない。イタチが何とか、須佐能乎でイロミの攻撃が我愛羅に届かないようにするが、彼の攻撃すら当たらない。

 

 やがて、戦況は明確に提示される。

 イロミは休まず、我愛羅とイタチに攻勢を仕掛け続けた。須佐能乎の拳に弾かれようと、中空で姿勢を整え壁を蹴り、我愛羅に、イタチに、突撃する。二人とも、彼女を完全に捉える事が出来ていなかった。

 

 ―――どうして……………。

 

 と、テマリは奥歯を噛みしめる。

 イタチは我愛羅を守ってはくれているが、全てではない。イタチのサポートを潜り抜けて、イロミの拳が幾度も我愛羅の肉体に埋め込まれる。

 

 ―――どうして、化身は我愛羅を守らない……ッ!

 

 我愛羅はイロミに向ける砂の量を調整している。砂が空振りした場合に備えて、守る為の砂に配分を多くし、ダメージを減らす為。オートで守れる砂であっても、イロミの初速に対して、攻めから守りに切り替えるまでの砂の挙動が追いつかないからだ。

 

 だが、ならば。

 

 砂の鎧に身を包めば、そんな手間をしなくても済む。

 化身に意識を侵食され始めた彼ならば、身に纏った分厚い砂の鎧が、少なくとも、ダメージを今よりも遥か安全に防げるはずだ。

 宿主である我愛羅が傷付き続けているというのに。

 いつもは恐ろしいくらいに……我愛羅の強さを支えてくれたというのに。

 

『しっかり傍にいてあげてね』

 

 傍に。

 傍に、いてあげる。

 我愛羅の、家族の、弟の。

 

 そうだ。

 

 今はいない。

 アイツは。

 あの、バケモノは動かない。

 我愛羅を守る事が出来る力が発動していないのだ。あの悍ましい力は無い。

 そして、我愛羅は今、何かをしようとしている。何かを達成しようとし、傷ついている。

 今だけは。

 たったの、今だけは、我愛羅への恐怖は、これまでよりも幾許か。

 あるいは。

 恐怖に押し潰されようとしていた家族への感情が、頭を上げる。

 

「……約束、したんだ…………」

「……は?」

 

 気が付けば口にしてしまっていた言葉に、隣のカンクロウは不思議そうに瞼を大きく開いた。

 あの時、自分は愛していた。

 まだ見ない弟を。

 これから見えてくる弟を。

 その想いを元に母と、約束をしたのだ。

 

「……私たちは、家族なんだ。母さんと、約束したんだ…………」

 

 確認するように。

 自分に、言い聞かせるように。

 もしかしたら寝ていた化身が起きるかもしれないという恐怖を押し殺すように。

 守らないと。

 約束を。

 我愛羅を。

 傍に。

 

「お、おいテマリ! お前、何を―――」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 限界が近付きつつあることをイタチは理解していた。自身のチャクラ量は僅かで、肉体に襲い掛かる激痛は意識を保てる水位の僅か上を揺蕩っている。現状の劣勢が続いた果ての結末は、想像に容易い。

 そうなる前に、打開策を講じなければいけない。

 

 手段は―――ある。

 

 だが、なるべく、使いたくはない手段だ。この手段を用いれば、たとえ事態が全て治まったとしても、元通りになる事はない。仲直り(、、、)が出来なくなってしまうかもしれない。

 

 故に使うのは、最後の最後。今ある手の内でどうにか、戦況を打開したかった。

 

 イタチは我愛羅をサポートするように須佐能乎を綿密に動かしている。

 イロミを捕まえようとする砂の速度は徐々に速くなっていっているが、それは、砂の量が少なくなってきているからだ。つまり、自身を守る為の防御用に回してしまっている事が起因している。

 

 イロミを助けたいという想いと同時に潜む、自分が傷付きたくないという小さな恐怖の芽。その芽を自覚してしまっている自身の苛立ちと、自分の力が及ばない事への怒りが、我愛羅からは汲み取れた。

 

 本当は、我愛羅にはイロミが逃げないように広範囲の砂の檻を作ってくれるだけでいい。イロミのターゲットにならない距離でじっくりチャクラを練り、強固な檻を作ってほしいのだ。実際、我愛羅のサポートをしないだけでもチャクラの消費は減らせる上にイロミを真正面から叩き潰せるのだから。

 けれど、イタチは静かに、我愛羅の意図を尊重するようにサポートを続けている。

 

 それぐらいの事を、しなければ。してみせなければ。

 

 我愛羅の砂の運用が効率的になるように、須佐能乎である程度、イロミの攻撃の方向性を縛っている。我愛羅自身もそれを理解してくれたのか、次第に防御に回す砂の量は一定量から増えなくなっている。

 

 問題は、攻めだ。

 

 イロミの動きを封じるには、彼の砂は有効だ。だが、微かにでも防御に砂を回されては、拘束に必要な砂の量が足りない。

 たった一瞬だけで良いのだ。

 一瞬。

 その瞬間だけ、防御の砂全てを、イロミを封じるのに使ってほしい。

 しかし、それは賭けである。

 イタチ自身のチャクラは残り少ない。

 つまり、イロミの動きを一瞬だけ封じれる回数が限られている。

 出来れば、一度目で完全に封じたい。

 

 どうすれば、彼が一歩でも前に、勇気を振り絞ってくれるか。

 

 と、その時。

 

 風が、吹いた。

 

 鋭い、そう、空気を裂くような風で、空気を呑み込むような風だった。

 風は今まさに跳躍し我愛羅に攻撃を仕掛ける寸前だった空中のイロミを捉える。風が、イロミの攻撃の軌道を逸らし、振り抜いた拳は我愛羅の顔の横を通り過ぎた。予想外の事だったのか、イロミは受け身を取る事も出来ないままに壁に激突した。

 

 イタチと―――そして、我愛羅は風がやってきた方向を見上げた。

 

 そこには、身の丈の大きな扇を広げた少女が、目端を震えさせて、こちらを見下ろす姿があった。

 前触れの無かった介入に、流石のイタチも思考に乱れが生まれた。

 

 結果だけを見れば、イロミの攻撃を防いでくれたことになるが……。イタチは彼女―――テマリとサスケが戦っている場面を目撃してしまっている。その場面が、イタチに微かにテマリへの微かな警戒心を与えてしまった。

 

 けれどすぐに、警戒心は解ける。

 

 テマリは観客席から飛び降りると、我愛羅とイロミの間に立った。

 

「邪魔をするな……テマリ」

 

 イロミの攻撃を受け、出す言葉さえ不安定な我愛羅の声は、微かばかりの苛立ちを伝えてくる。

 

「どけ……っ。あの女は、俺が―――」

「私も、手を貸す」

 

 扇を後ろ手に構えたままテマリは、ゆらりと立ち上がるイロミを睨み続ける。

 

「私の風じゃ、アイツの動きを完全に止める事は出来ないが、攻撃の軌道をズラすくらいは出来る。そうすれば、砂をもう少し回せるだろし、他の砂を使うチャクラも回せるはずだ」

 

 強い進言だったが、扇を握る手はイロミの狂気に当てられ震えていた。

 ダラダラと止め処なく零れる大量の血液をイロミは長い舌で舐め取っていく。

 いつ、どのタイミングで動くのか。写輪眼を持っているイタチや、自動で動く砂の盾で守られている我愛羅ならばいざ知らず、テマリにとっては火花の見えない爆弾がすぐ目の前に置かれているようなもの。

 

 それでも彼女は、扇を強く握りしめ、闘争心を翻しはしない。

 

「いいから……、邪魔だ、テマリ。どけ」

「………………」

「お前と、あの女は関係ない。俺が、あの女に……用が、あるだけだ。ただでさえ、面倒な事態なんだ………足手纏いは、御免だ」

「………………」

「さっさと……どけ。言う事を聞かないなら………」

「―――ッ! お前こそ、私の言う事を少しは聞けッ!」

 

 その瞬間だけ、テマリの震えは消えていた。

 

「私は……お前の姉だぞッ! 家族だぞッ! 今の今まで散々お前の我儘を聞いてきたんだッ! 今くらいは、私の我儘を聞けよッ!」

「何を……都合の良い事を言っている…………。何が………家族だ……………。勝手に化物と、呼んでおきながら……………」

「一度も、呼んだことは無いッ!」

 

 そう。

 テマリは、ずっと。

 我愛羅そのものを化物と呼んだ事はなかった。

 彼の中にいる化身と、我愛羅は、テマリの中では常に別の存在として認識していた。勿論、我愛羅の人格には欠落があり、その上危険性も孕んでいるという認識も持ち合わせてはいる。牽強付会にも等しいものではあるものの、テマリは一度として、我愛羅を化物という侮蔑で呼んだことも、カテゴライズした事も無かった。

 

 どんなに怖くても。

 どんなに恐ろしくても。

 どんなに。

 どんなに悲しくても。

 毎日、朝を迎える度に。

 毎日、夜を超える度に。

 

 我愛羅が家族という認識は、無意識に、再構築していた。

 

 だって、彼は、

 

「お前は……弟なんだぞッ! 私の弟だッ! それだけは、ずっと、変わったことは無い」

 

 とても、当たり前の言葉だった。

 

 当たり前で、けれど日常的には出さない、だからこそ大切な言葉だった。

 

 伝えたかった。日に日に、孤立していき、それを受け入れてしまった我愛羅に、伝えたかった。

 

 死んでしまった母の想いを。自分の想いを。

 

 しかし、幼い頃に我愛羅の中の暴走を目撃してしまった彼女には、その光景はあまりにも強烈で恐怖そのものだった。

 

 だから、言えなかった。

 

 そう。単純に、怖かったから。

 

 言えなかった。言ってしまえば、我愛羅の琴線に触れてしまうかもしれないと、思ったからだ。

 

 しかし今は違う。

 

 我愛羅の中にいる化身は動かず。

 

 ともすれば我愛羅よりも恐ろしい悍ましい存在が目の前にいる。

 

 ならば言葉を止める理由は失している。

 

「……手を貸す。私を足手纏いにしたくないなら、お前が、何をしたいのかはっきり言え。―――うちはイタチ」

 

 突如、名を呼ばれたイタチは目線だけを彼女に向けた。

 

「なんだ?」

「アンタは、我愛羅の敵じゃないんだな……」

「ああ」

 

 イタチにとっては、少なくとも、敵ではない。かといって、信頼できる仲間という表現もどうやら正しくはなく、味方という認識も誤っているだろう。同じ方向を見ているだけ、というのがしっくり来る。

 

「おい、カンクロウッ!」

 

 テマリは叫んだ。

 

「お前も降りて来いッ! 手を貸せッ!」

「ちょ……おい待てよッ!」

 

 観客席から、大慌ての顔をカンクロウは出した。

 

「我愛羅でさえ手こずるような相手に、俺らが敵う訳ないじゃんッ! それよか、我愛羅を連れてさっさとこっから―――」

「早くしろッ!」

「どうしたんだって、急にッ! 状況考えろよッ! 俺たちが出る幕じゃねえってッ!」

 

 カンクロウの躊躇いは正常だった。非常に正しく、明瞭な判断と言える。彼自身も、自分の判断は間違っていないと自負していた。

 

 しかし、どうしてだろう。

 

 こちらを見上げるテマリの表情が、それは違うと瞳を介して伝えてくる。

 テマリが頭の良い人物である事は弟であるから良く知っている。だから伝わってくる意志は、正しいと自信を持っていた判断を揺るがしてくる。

 

 そして、ふと、合ってしまったのだ。

 

 たった一瞬だけ、こちらを一瞥した我愛羅の視線と。

 我愛羅からは何の意志も伝わってこなかった。

 何も伝えて来ようとしなかったのか、そもそも何も意志が無いのか。

 カンクロウが感じたのは、ただ一つ。

 

 怒りだった。

 

 今まで何度と我愛羅の態度には怒りを覚えた。辺り構わず殺戮衝動を出そうとし、それを止めようとすると身勝手に殺意をこちらに向けてくる。その視線には、ただただ、邪魔だと、鬱陶しいという感情以外は何も込められていない。

 

 だが、今の我愛羅の視線は、空っぽだった。

 期待も何もしていない。

 それが、カンクロウの感情限界を崩壊させる重大な要因となり、檻のように留めていた観客席の縁を容易に飛び越えさせた。

 

 着地した足は、衝撃を受け流すばかりか、伝い昇る衝撃を真っ向から押し潰すかの如く地面を踏みつけた。

 

「ああッ! 分かったよッ! やればいいんだろッ!」

 

 吐き捨てる言葉に勢いを付けるように、カンクロウは背負っていたモノを包んでいた包帯を解いた。中からは、カンクロウの背丈と同じ程のカラクリ人形が姿を現す。人の形を元に、腕を六本持つ、黒いボロ衣を纏った人形。十指からのチャクラ糸は流麗にカラクリ人形【烏】へと接続され、カタカタと口を鳴らした。

 

「おい、我愛羅ッ!」

「……なんだ?」

「手ぇ貸してやんだから、しっかり俺を守れよッ! もし俺が死んだら……化けて出てやるじゃんッ!」

 

 彼の言葉に、我愛羅は返事をしなかった。だが、拒絶をしなかったのは、やはり、普段の彼とは何かが違うのだろう。砂は静かに、薄く広がり、テマリとカンクロウの足を過ぎていく。

 

「……さっきの術を使うのか?」

 

 我愛羅が問いかけたのは、イタチだった。やはり、互いに視線を重ねる事はしない。だが、気のせいか、我愛羅の声は落ち着きを確保しているように思える。

 

 さっきの術。

 

 月読の事だろうとイタチは察し、首を横に振った。

 

「イロミちゃんには……今、眼球が無い。俺の眼を見る事が出来ない以上、月読に落とし込むことは不可能だ。他の幻術を使う」

「上手くいくのか?」

「難しい事じゃない」

 

 と、短く応えたのは、半ば、嘘だった。

 

 幻術に落とし込むことは可能だ。超速の彼女の動きを止める手立てもあり、他の幻術による成功は、事実として難しくは無い。幻術は成立する。

 しかし、問題が全く無い、という訳ではない。

 何よりもの問題は、成立した幻術がどれほどの時間を保つ事が出来るかであった。イロミの保有するチャクラは膨大だ。並の幻術では、成立した途端にチャクラの統制が破綻しかねない。並大抵の幻術では弾かれる。

 高位の幻術は絶対条件だ。しかし、それを発動したところで、確実な制御が実現できるかと言えば、不定である。

 

 失敗すれば、チャクラを無駄に消費されるだけだ。

 

 もちろん。

 

 失敗したとしても、最後の手段はある。こちらの手段は間違いなく成功するが、使うのは望ましくない。禍根が、残ってしまうから。

 

「眼があれば……使えるんだな」

 

 表情にでも、出てしまっていたのか。身体のコントロールが遠くなっているのだろう。我愛羅の言葉に、イタチはようやく視線を彼に向けた。

 

「どういうことだ?」

「時間は掛かるが、砂を使えば、あいつの視神経を通した義眼を作れる。それでも可能か?」

 

 おそらく、可能のはずだ。

 幻術における媒介は、あくまでスイッチに過ぎない。一つの媒介を互いの共有認識として、チャクラの波長を合わせ、相手のチャクラを巻き込み操作するのが幻術の基本的な原理だ。月読も、それに漏れる事はない。

 

 義眼であっても、イタチの万華鏡写輪眼の模様を共通認識として獲得させる事が出来れば、月読は成立する。「可能だ」とイタチは首肯するものの、「リスクが高い」とも続けた。

 

「医療忍術の分野でも、他人の視神経を繋げるのには時間が必要だ。ましてや戦闘の最中では―――」

「動きを止めればいい」

 

 切り捨てるように言葉を割り込まされる。

 

「その為に、俺はここいる。あの女を止める為に」

 

 どうするべきなのか―――などと、迷う余地は無かった。

 

 月読を使えば、話せる。

 

 呪印に囚われてしまっている彼女を解放して、対話が出来る。

 

 そう。

 

 今回の騒動が全て、綺麗に恙なく、収束し解決したところで、イロミとの対話が実現するかは分からない。

 掟を破ってしまっているのだ。

 拘留は免れない。

 そして、大蛇丸の行動に乗じたと判断されてもおかしくは無い参加。大名らも気を失う前に彼女を目撃してしまっている。もはや、彼女を擁護できる要素は皆無に等しい。確定的な未来は、今だけは明細にしないまでも、彼女との対話が許される時間は、皮肉にもこの時間だけかもしれないのだ。

 

 無言のままのイタチの意志を感じ取り、我愛羅は砂を動かす。背負った瓢箪も、身に纏っていた薄い砂の鎧も総動員に、会場の地面を覆った。

 

「テマリ、カンクロウ」

 

 と、我愛羅は二人に言う。

 

「あの女を止める。時間を稼げ」

 

 口調は普段と変わらない。

 それでも、命令口調であろうと、初めての微かな信頼を背に受けたテマリとカンクロウは無言のままに大きく頷いてみせた。

 

「……キャハハハ。いいなあ、いいなあ? 私も、ソレ、欲しいぃ。お腹、いっぱいになりたいよぉ」

 

 空気が冷え込む。殺意が腹を空かせて虫を泣かせているようだった。

 イロミが身を低くした。動く構え。その象徴として、両足の大腿部が太く張り詰め、彼女のズボンを引き裂くのが目に見えた。

 

「カンクロウッ!」

「あいよッ!」

 

 テマリの合図に、カンクロウは動く。

チャクラ糸を駆使し、烏の肘から黒い弾丸を射出させた。弾丸はイロミの遥か手前の地面に着弾すると同時に、紫色の煙を噴射する。

 

 毒を粉末とした煙だった。一吸いでもすれば身体機能に悪影響を及ぼすものの、今の彼女には大した効果が望めない事は、戦闘を見ていたカンクロウは充分に認識している。イロミは毒霧の向こうから、黒い影を一瞬だけ残した速度でイタチへと突撃した。

 

 やはりイロミの拳は須佐能乎の身体を貫くことはなかった。

 

 しかし、打撃によって石と化し剥がされるチャクラの欠片は先ほどよりも大きかった。

 

 チャクラのコントロールが限界に来ているのか、コントロール出来ているチャクラの量が枯渇しかかっているのか。須佐能乎を象っている装束も希薄になりつつある。

 

 チャクラの流れを察知したのか、イロミは一段と長く拳の振り幅を長くし、砕くというよりも穴を開けるかのように拳を強くした。

 

 その瞬間を、テマリは見逃さなかった。

 

「カマイタチの術ッ!」

 

 扇を駆使して生み出される突風は鋭く、イロミの肌を切り刻みながらイタチから切り離す。突風は地面から逆巻き、イロミの身体を空中へ浮かせた。

 いくら身体機能の天井が破壊されているイロミとは言え、蹴る事も殴る事も出来ない空中では移動は出来ない。

 息を合わせたかのように、カンクロウが烏を空中へと飛翔させる。チャクラ糸で支えられたカラクリ人形は、術者のチャクラが残る限り移動に制限は無い。

 今度は、至近距離。毒霧を含んだ弾丸をぶち当てる。さらに―――。

 

「まだ……練習中(、、、)なんだけどなッ!」

 

 毒霧はあくまで目暗まし―――正確に言えば、彼女の目の代わりとなっている嗅覚を鈍らせる役割だ。そして、たとえ霧で視界を遮られていても、カンクロウのイメージは忠実にイロミの空中の姿勢を捉えていた。本来ならば、黒蟻と言う、もう一体のカラクリ人形を使った技なのだから。

 

 烏は四肢が分解される。いや、頭部もだ。それらの付け根には、骨の役割を果たしていたかのような長く鋭い刃。それらが、イロミの人体の急所に狙いを定め、貫く。

 

 勢いそのままにイロミは壁へと貼り付けられる。

 

「いくら傷が治るからって、ずっと刺さりっぱなしじゃあ、すぐには治らねえじゃんッ!」

 

 さらには刃には液体状の毒が仕込まれている。イロミの肉体を蝕む毒は、当然ながら彼女の細胞が暴食し尽くすが、その毒がある意味膜となって刃を守っていた。刃はすぐには外されない。

 

 ほんの刹那の時間の停止。それが、カンクロウに安堵という油断を与えてしまった。いや、たとえ油断があったとしても、イロミの身体機能の強靭さを減退させるにはあまりにも力不足である事は、揺るぎない事実だ。

 

 問題なのは、次のアクションへの反応が遅れてしまった。これもまた小さな要因である。もし油断をしていなかったところで、どうだっただろうか。その想像は、当のカンクロウ自身が獲得できていたかどうか……。

 

「え……?」

 

 烏の刃を、四肢の部品もろとも粉々にし、突進してきたイロミを前に、カンクロウは何も出来ずに立ったまま。目の前まで開いた貪婪の口は悍ましさだけしか意識に残らない。烏も何も、手元には無い。

 防ぐ手立ては何も無い。

 だが、カンクロウとイロミの間に、三つの力が入り込んだ。

 砂と、風と、巨大な手。

 薄い砂が微かにだけイロミの衝撃を緩め、

 風がイロミの軌道を逸らし、

 巨大な須佐能乎の手が確実にイロミを弾いた。

 

「なにボヤッとしてるんだッ! カンクロウッ!」

 

 気が付けば腰を抜かしてしまっていたカンクロウを、テマリは上から叱咤する。弾かれた勢いそのままに空中へ投げ出されたイロミを、そのままテマリは扇を振るい上昇気流を作りさらに上へと打ち上げ、自由を奪う。

 イロミを顔を上げて見上げ、カンクロウは気が付けば我愛羅を見ていた。彼はチャクラを地面一杯に広げた砂に注ぐのに集中している。

 砂が、守ろうとしてくれていた。

 見間違いではない。薄い砂の壁だったが、確かに。

 どうして。

 どうして―――。

 

「馬鹿にするんじゃねえよッ!」

 

 いよいよ、カンクロウは声を荒げる。

 彼の声に、テマリは驚き、我愛羅は瞳だけを向けた。

 

「お前はさっさと砂を集めればいいんだよッ! くだらない気を回すんじゃねえッ!」

「だったら安心なんかするな。こっちも、回せる砂は多くないぞ」

 

 カンクロウは舌を打つ。今は、一粒でも回される事が、何よりも屈辱だ。

 

「もう二度と同じ真似はするなよ。それに―――」

 

 指からチャクラ糸を出し、胴体だけとなった烏を手元に引き寄せる。

 

「俺の烏は死んじゃいねえよ」

 

 空高く浮かばされたイロミが、重力に捕まって落ちてくる。その速度と重さは、テマリが操る風の力の限界値を超えたものとなっていて、手が出せない。

 

 イタチもまた、イロミに手を出さなかった。考えている事は、チャクラの残量だ。

 

 須佐能乎の維持だけでも、チャクラは多大に消費されていっている。残りはそう多くは無いだろう。月読分を差し引けば、天照は二度、放つ事が出来るかどうか。放つところが出来たところで、須佐能乎は消え失せるだろう。

 

 慎重に使うべきだ。

 

 今は、自分に出来ない事をしてくれる人間がいる。

 無理はするな。

 見極めろ。

 ミスは許されない。

 そこで、イタチの眼はイロミの次の行動を先読みした。が、それが意図するものが分からなかった。

 ただ、空中でイロミが口を開けている。

 大きく、限界まで。

 遅れて―――気付く。

 ちょうど、写輪眼の先読みにイロミが追いついた時である。

 つまりは、リアクションの遅れだった。

 

「ギィイイイイイイイイいぃいイイイイヤァァァァぁアアアアアアアアアアアッ!」

「「「「――――ッ!!!!」」」」

 

 忍術も幻術も、ともすれば体術でさえかなぐり捨てたイロミの攻撃手段が、単なる打撃だけだと思い込んでしまったのは仕方がない。写輪眼が捉えるチャクラの流れも何も関係の無い、ただの声が、暴力に成りえるのだと知る忍は、いないだろう。

 

 音が四人の鼓膜を破壊せんばかりに震わせ、その奥にある三半規管を狂わせる。さらには脳を殴るかのような衝撃に、テマリとカンクロウ、そして我愛羅は咄嗟に両手で頭を抱えるように耳を塞いでしまった。それは、完全な無防備な状態。

 

 辛うじて、須佐能乎の中にいたイタチだけが音の衝撃を緩和された状態で受けている。だが、イタチでさえチャクラコントロールが崩される。須佐能乎がさらに希薄となり、肉体は崩れ、骨格だけとなってしまう。

 

 イロミの声が残響となり、木ノ葉隠れの里全域に吸い込まれるような木霊を残しながら、彼女自身が地面に降り立った。そして、驚愕する。

 

 どうしてイロミが声を張り上げたのか。

 

 攻撃が目的ではなかったからだ。

 言うなれば気合を貯めるようなもの。口を大きく開けたそこには、チャクラの塊が生み出されていた。

 尾獣化したナルトが放とうとした弾丸と、酷似している。

 偶然か、それともナルトの攻撃を見て真似たのか。

 写輪眼はチャクラの弾丸が高密度である事ははっきりと分かる。

 須佐能乎の胴体ならば、防ぐ事は、出来る筈だ。しかし、テマリとカンクロウ、そして我愛羅は無理だ。彼らは今、三半規管を歪められてまともに動けないでいる。須佐能乎の腕を伸ばす事が出来るが、それだけで防ぎきれるだろうか。

 

 かと言って、天照で軌道修正は出来ない。イロミ本人に当てたところで、軌道を変えられるかどうかは博打である。

 

 時間は無く、故にイタチは即座に動いた。

 チャクラを無理に使い、須佐能乎を立て直す。そして、さらに須佐能乎の形態を次のステップに移行させる。

 肉を纏い、衣を纏い、安定した須佐能乎。それが、今のイタチが実現できる須佐能乎の限界だった。

 弾丸が放たれる寸前、須佐能乎が持っていたチャクラの盾を我愛羅たちの前に構えさせた。

 

 八咫鏡(やたのかがみ)

 

 イタチの須佐能乎が所有する能力だった。忍術、物理問わず、全ての攻撃を跳ね返す絶対の守り。

 弾丸が放たれる。

 衝撃が、会場を吹き飛ばした。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「おい、今の声って―――」

 

 ブンシは建物の上から、耳に届いた衝撃波のような声の発信地を見た。そこは中忍選抜試験会場。いや、問題は、そこではない。その声は、聞き覚えがあったのだ。

 

 泣き虫で、変な所で根性を出す、可愛い元生徒の。

 

「ブンシ。こいつらから情報を引き出せ」

 

 隣からイビキが指示を出してくる。彼の前には、音の忍らが三人ほど拘束されている。もはや、鎮圧が完了近い状況であり、暗部は次の予定へとシフトしつつある。

 

 今後、音の忍らはどんな企みをしているのか。

 

 音の忍らの情報。

 使用する忍術。

 また最悪の場合は、音隠れの里へと戦争を仕掛ける事も考えられる。

 必要とされる情報には余分は無い。

 アカデミーで音の忍から徹底的に情報を搾り取ったブンシは、その情報をイビキに伝え、暗部全体に確固たる統制を張り巡らせるのに成功した。

 

 襲撃は、二度は無い。

 

 一度の襲撃に彼らは全てを賭けたのだ。

 役目を終えたブンシはそのまま暗部に合流し、鎮圧に参加し、今はようやく、一息ついた所だったのだ。

 咥えていた煙草が地面に落ちる。先端に点いている火は寂しく紫煙を立ち昇らせていた。

 

「……ふざけんなよ」

 

 ブンシは足元の煙草を乱暴に踏み潰し、立ち上がったが、それをイビキは目の前に立ちはだかった。

 

「止まれ、ブンシ」

「邪魔だ。どけよイビキ。便所だ」

「ならこいつらを拷問してから行け。お前なら時間もかからないだろう」

「うるせえ。こんな雑魚の拷問なんざ、他の連中でも出来んだろうが。兎に角、あたしは行くぞ」

「いいのか?」

 

 横を通り過ぎるのと同時に、イビキの声は低くなった。

 

「お前が今行けば、その後……どうなるか」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 会場全体が、砂塵に包まれる。もはや砂嵐とは差異の見られないほどの濃い砂塵は、数メートルすら目視させない。足元すら覗かせないほどだ。

 

 そんな中であっても、イロミの感覚は完全に砂塵内のターゲットを感知していた。

 

 四人とも健在。いや、健在とは言えないだろう。

 

 チャクラの臭いは小さい。

 

 先ほどまでに展開されていた巨大な人型のチャクラは無い。そして、その代わりに才能の臭いが先ほどよりもはっきりとしている。イロミは呪印に浸蝕された紫の唇をベロリと舌で舐めた。

 

 彼女には今、理性は無い。

 才能が欲しいという。

 才能が憎いという。

 人を食べたいという。

 純朴な欲求だけだった。

 

 イロミの四肢は爆風によって、おかしな方向へと曲がってしまっているものの、自身は特に気にすらしていない。痛みは欲求の前では無に等しい。そして、呪印によって自動的に治される四肢は、骨が無理やり形を矯正される際の痛みも同様だった。

 

 完全に身体は元に戻る。

 戻った身体は空腹を訴えた。

 身体中は力で溢れかえっているというのに。

 

 矛盾は関係ない。

 

 臭いのする方向に全力を以て突撃する。

 最も嫌いな臭いに向かって。

 砂塵は、眼球が抜かれた伽藍の中に容赦なく入り込んでいるが、それもまた沙汰の外。

 臭いがすぐ目の前―――鼻先にやってきた。

 チャクラの臭いは限りなく小さい。

 いや、全ての臭いが薄い。

 それでも開いた口は―――首元から狙いを逸らさない。

 肉の味が、血の味が、忘れられないからだった。

 相手の動きは遅い。

 そう、遅い。

 まるで動かない。

 それだけで、口内の唾液は潤沢になる。

 食べれる。

 ようやく。

 ようやく。

 ようやくッ!

 食べる事が出来るッ!

 光沢を帯びた鋭い牙が、首元に食い込んだ―――。

 

「――――ッ!?」

 

 イロミの感情が初めて空白になった。周りの、そして自身に内包される矛盾を全て気にも止めなかった彼女の意識がストップする。

 

 血肉を裂く最高に心地良い瞬間が無かったのだ。

 牙に伝わるのはジャリジャリとした不愉快の不連続。舌に残るのは、豊潤だった唾液が吸い取られる理不尽な乾き。

 間違いなく、鼻先から入ってくる匂いはイタチのそれだ。

 なのにどうして、砂が。

 砂が、そこに在るんだ。

 遅れて噴出してきた怒りに両手は振るわれる。砂は剥がされ、中から出てきたのは、硬い何かだった。いや、イロミはそれを知っていた。つい先ほど壊したはずの人形。その残骸が、チャクラの糸に継ぎ接ぎに組み合わされているだけの状態だった。牙が裂いたのは、人形の表皮を覆っていた砂だった。

 

「ったく……こんな状況でコレ使うなんて………烏を直すのに、どれだけ時間が掛かるか分からねえじゃん。あちこちに、砂が入り込んじまってる…………」

 

 そして、匂いにも違和感を抱いた。

 表皮の砂からは、イタチの匂いは一切感じ取れない。匂いは、その周り。いや、人形の背後から、だ。

 爆風による気流と、砂塵という匂いが限定されやすい環境化で、イロミは感じ取れていなかった。

 風が吹いている。

 本当に微かな、意図的な風。それが、イタチの匂いを運んでいた。

 

「しょうがないだろ。下手したらこっちが死んでいたんだ。我慢しろ」

 

 二つの声はどちらとも、砂塵の向こう側からだった。

 即座にイロミは声の方向に顔を向けるが、既に遅かった。

 砂塵の向こうから射抜くようにイタチの写輪眼は、イロミを捉えていた。

 

 黒炎が生まれる。

 

 イロミの腹部中央に、黒炎は灯されたのだ。

 小さな黒炎は、即座に辺りを浮遊する砂塵に燃え移る。燃焼速度は単なる炎とは一線を画する。砂塵の粒を渡り歩く極小の黒炎らは、瞬く間に周辺の空気を膨張させた。

 粉塵爆発が、黒炎を乗せながらイロミを呑み込む。

 

「あ、あぁぁぁぁあああああああッ!」

 

 通常の天照とは比にならない程の熱と衝撃だった。

 爆風が天照を燃焼させ、イロミ全身を呑み込んでいく。衝撃に吹き飛ばされ、全身に付着する黒炎の道標を残す最中、反対側には砂のドームが出来上がっている。

 

「あぁぁぁぁあああッ! おいアンタッ!? 俺の烏が粉々に―――ッ!」

「準備は出来たか?」

 

 継ぎ接ぎの烏がとうとう爆風で粉々になるのを青い顔で叫ぶカンクロウの後ろで、イタチは冷静に隣の我愛羅に状況を確認した。イタチの須佐能乎は解けてしまっている。爆風による衝撃と八咫鏡によるチャクラ消費が原因だった。咄嗟に無防備となったイタチを我愛羅の砂が運び、代わりにイタチに偽装した烏を動かし、そしてテマリがイロミを誘う風を慎重に送っていた。

 チャンスを紡ぐため。

 

 須佐能乎をもう一度、発動させる事は出来ないだろう。

 

 視界がぼやける。

 意識は届くか……。

 我愛羅は―――。

 

「十分だ」

 

 写輪眼が捉える、地面全てを覆い尽くした我愛羅のチャクラ。応えてくれた我愛羅は、表情の変化は無かったが大量の脂汗が限界を現していた。

 

 チャクラを張り巡らせられる時間は少ない。

 

 ―――だが、問題は無いッ!

 

 天照をもう一度だけ、発動させる。

 今撃てる、最後の天照だ。

 もはやイロミは天照に全て覆われる。皮膚一つ見えなくなってしまう程の濃さ。彼女の悲鳴とも絶叫とも区別できない低い呻き声が、やがて、天照を石に変えていく。

 

 だが、それがイロミを拘束する。

 

 黒炎は、既にイロミの身体を侵食していた。熱で皮膚を焼き、爆風で肉を溶かし、最後の天照で骨を焦がしていた。全ての関節、全ての筋繊維、全ての靭帯に入り込んだ黒炎が石と成り、イロミ自身を拘束する。身体を動かせる要素が石に呑み込まれたのだ。

 

 完全に動けなくなったイロミに我愛羅は砂を―――いや、地面を揺るがした。

 

 所持していた砂によって、地下以下の全ての鉱石を砕かれ砂へと還元された、膨大な量の砂を我愛羅は操っているのだ。

 

「―――砂漠棺ッ!」

 

 地面全てが砂の棺となり、イロミを呑み込んでいく。完全に全てを呑み込みながらも尚、砂は次々と棺へと姿を変えていく。会場の地面がさながらクレーターのような残骸へと変わり果てた頃、砂は動きを止めた。

 完成された棺は球体。

 内側からの全方位への衝撃を均等に防ぐ事の出来る形だった。

 砂はさらに圧縮される。砂同士の隙間に、細かい砂が埋め込まれ、その上からまた砂が重ねられて隙間を消していく。液体―――いや、空気すらも通さない。

 鉄格子が折り曲げられるような重厚な音を最後に、棺は静寂する。

 そして我愛羅はチャクラの運用を変化させた。

 棺の内部では、イロミの眼孔に砂が入り込み始めている。視神経の電気信号を解析すべく、奥へ奥へ。それに伴い、棺の上、僅か上空に現れ始める、砂の眼球がイタチを見据えた。

 あとは、電気信号をキャッチできれば―――。

 

「なっ………」

 

 同様の声を零したのは、砂を操作している我愛羅自身だった。

砂を通して感知される電気信号。それらが、あまりにも、乱雑過ぎる事に息を呑んでしまったのだ。

 

 まるでイロミの中に、数多の意志があるかのように、視神経の電気信号は滅茶苦茶だった。我愛羅自身も、完全に電気信号をキャッチ出来るとは考えてはいなかった。自分自身の視神経を繋げるのにも時間が掛かるというのに、ましてや他人のものを拾うなど、経験が無い。

 

 故に、本当に微かにだけ……イタチの眼だけでも捉えられる程度だけを最低ラインとしていた。

 

 しかし、乱気流の如く暴れる電気信号の中から、正解すら拾えない。

 焦りが足元を焼く。

 このチャンスだけが、全てなのだと。

 もう一度、同じ棺は作れない。チャクラの残量が足りないからだ。

 紡がなくてはいけない。

 それでも―――。

 

「―――ガァァァァァァァアアアアアアアアアッ!」

 

 棺の奥から、死霊の声が全てを震わせる。

 たとえ強固な棺であろうと、音の伝播だけは許してしまう。

 鼓膜を劈き意識を歪ませる。

 

 棺に、微かなヒビが。

 

 テマリが、

 カンクロウが、

 イタチが、

 紡いだ道筋。

 今まで、自分が歩いてきた潔癖な道とは違う、頼りなくけれど地質がしっかりとした道。

 

 その上に成り立ったチャンスを潰さんとする意志は、鼓膜を破ろうとするイロミの絶叫に揺らいでしまう。

 結果、棺の一部が崩落したのだ。崩壊したのは、棺の上部。棺を構築するにあたって、自重を支える必要のある下部にチャクラを集中させてしまっていたせいか、チャクラが僅かに薄い上部が崩壊したのだ。

ちょうど、イロミの頭だけが現れる形となった。

 

 我愛羅だけではなく、状況が絶望へと変わったことを直感したのは他の三人だった。テマリとカンクロウは思考が空白となるものの、イタチだけは悲観してはいなかった。

 

 最後の手段を使わなければいけなくなっただけでしかない。

 

 その術を発動させるのに、我愛羅たちに対する失望も、迷いは無かった。

 友達の為。

 謝る為。

 仲直りする為。

 混在しながらも中心に据えられた意志の固さは、スムーズに術を発動させようとした。

 

 空から、怒鳴り声が届く前までは。

 

「泣き止め、クソガキィッ!」

 

 上空から降ってきたブンシが、イロミの頭上に拳を振り下ろした。

 音が止む。

 

「―――先生ッ!?」

「おらイタチッ! テメエ、何やってんだッ!」

 

 驚愕する一堂を、眉間に皺を寄せ青筋を最大まで浮かべたブンシが砂の上から見下ろした。

 

「さっさとこいつを泣き止ませろッ! お前の役目だろうがッ!」

 

 役目。

 

 その言葉が頭の中で、パズルのピースのように未来を予見させた。

 

「先生ッ!」

「んだ!? つーかもうお前の先生じゃねえってのッ!」

「イロミちゃんの眼を見えるようにすることは出来ますかッ!?」

 

 ブンシの忍術をイタチは把握していた。ダンゾウの部下として暗部へと入隊した彼は、うちは一族の事件を調べる過程で、現在過去を問わず、暗部に関わりのある人間を全て調査し、ブンシが過去に暗部の尋問・拷問部隊の所属だったことを知った。

 

 どのような拷問を行ったのか、それは、後の拷問部隊の技術向上の為に資料として残されている。

 

 ブンシが得意とした拷問。

 それは、忍術を電気信号として相手の感覚を操作するというものだった。

 疑似的な痛みや、恐怖を与えながらも、肉体に損傷は無く延々と拷問を続ける事の出来る画期的な手法だった。さらにはその合間に、現実の拷問を組み合わせ、人体の損失という恐怖を織り込ませる事によって拷問の効率は飛躍的に上げていた。

 疑似的な感覚の体験。

 視神経が喪失していようとも、電気信号を操れるブンシならば、無理やり視神経を作り出し、脳に映像を捉えさせることが可能ではないか。

 イタチの問いに、ブンシは即座に事態を理解した。

 

「眼がねえと、映像は送れねえぞッ!」

「我愛羅ッ!」

「分かった」

 

 砂によって作られた眼球が即座にブンシの前へと移動した。

 ブンシの左手は眼球へ。右手は、イロミの眼孔へ繋がれる。

 

「ギィイイイイ―――ッ!?」

 

 本能が察したのか。イロミは再び声の暴力を発動させようとしたが、それは、眼孔に指を滑り込ませたブンシの術によって強制的にシャットダウンさせられる。

 

「ぎゃあぎゃあ騒ぐなクソガキッ! テメエ、いつものよく分かんねえクソ根性はどうしたぁあッ!」

「ギ、ィ、ァアア……ア…………」

 

 声が出したくても、出せない。

 悔しそうに、苦しそうに。

 イロミの口は泣くのを我慢しているように見えた。

 その顔はブンシにとって、可愛くて、どうしようもなく、苦手な表情だった。

 イロミの絶叫が耳に届いた時から、こんな予感はしていたのだ。

 こんな、最悪な予感。教師の勘という奴だ。

 今まで見てきた生徒の中で、最も出来が悪く、色んな意味で問題児で、色んな意味で記憶に残って。卒業してからも目を離せないほど出来が悪い、残念な生徒だが。

 誰よりも努力してきた生徒だ。

 生徒を不平等に扱うつもりなどさらさらない。

 だが出来の良い生徒と出来の悪い生徒と言うのはいる。

 ならば平等にする為には、出来の悪い生徒の面倒を多く見なくてはいけないのだ。

 ましてや、努力が報われない、残念な生徒は。

 だからここに来た。

 わざわざ、イビキに宣戦布告までして。

 

「……………もう泣かねえって……あたしに、一丁前に言っただろうがッ! しっかりしろッ!」

「………だぁ……。い………や……………だぁ…………」

 

 その言葉は、ブンシにだけ聞こえるほど小さいものだった。

 

「………ここ………までキたんだ………………こん、な…………ところまで……キちゃ……たん……………だ…………。負け……た………ら…………………、わ……たし…………は…………もう………………………木ノ葉に……………」

「―――ッ! イタチッ!」

 

 逃げるように、ブンシはイタチを見た。

 

「繋げるぞッ!」

「お願いします」

 

 ブンシが神経を作り。

 その神経を我愛羅が拾い。

 作られたイロミの義眼を、月読が貫いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

万の夜を超えて 後編

 漆黒が当然の如く居座っていた。

 

 明暗は全て均一で、他に物があるのか、輪郭すら捉えさせてくれない。だが不思議と、地面はあった。シューズ越しに伝わってくる地面の感触は、浅瀬を歩いているような、弾んでいるようで硬いようで、曖昧なもの。

 

 万華鏡写輪眼の瞳術、月読。

 

 幻術空間における全ての質量、時間を自由に操作できる瞳術だが、歩む空間はイタチが望んだものではなかった。それでも彼自身は特別大きな驚愕を持っていない。月読を発動させた瞬間に感じ取ったチャクラを捕食されるような感覚。そもそも、幻術が成立するかが不安として過った程で、月読の力を最大限に発揮できないとは言え、こうして辛うじて幻術を作り出せた事を僥倖とさえ考えていた。

 

 歩き、進む。

 方向をイタチは、闇雲に決めている訳ではなかった。

 

 広がる闇。

 

 この空間は、意識的か無意識的か、イロミによって作られたものだ。本当に微かだが、黒の中でもチャクラの流れがあった。流れは不規則では無く、どこか中心があるかのような流線型だ。

 

 中心へと進んでいく。

 

 言葉(、、)がきっと、そこにあるはずだ。

 

「――――――」

 

 音が聞こえてきた。言葉ではない。イタチは足を止めて、暗闇の中、微かにだけ輪郭を持つソレ(、、)を見た。

 

 子供の落書きのような、ぼんやりとしたものだった。人の姿にも見えなくは、ないかもしれない。頭があって、肩の凹凸があり、足のような部位がある。輪郭が少しだけ黒から遠く、身長は高くなかった。

 ソレはたどたどしい足取りで小さく近づいてくると、イタチの手を取って、ねだる様に引っ張ってきた。

 

「――――――――」

 

 小さな口らしき輪郭がボソボソと動くが、届くのは息遣いの音だけで、言葉は一つも聞こえなかった。

 

「――――――――」

 

 音。

 ただの音だ。

 音程も、音韻も、どれも平らで、分析は不可能。

 

 ソレが何なのか、イロミにとってどういう意味を持つのか、何を伝えようとしているのか。

 

 何一つとして判然とはしないままに、ソレは残念さを露骨に頭に乗せながら手を離した。数歩ほど距離を取って、先端がぼんやりとした手が、進もうとしていた方向とは少しだけ違うところを示していた。

 

 そっちに行ってほしいという事なのだろうか。あるいは、中心に行かないでほしいという事なのか。逡巡し、イタチはソレの示す方向を目指す事にした。

 

「ありがとう」

 

 と、礼を言い進む。その場で立ち尽くしたままのソレを後目に、チャクラの流れに少しだけ抵抗する形で進んでいく。やがて、暗闇に明暗が生まれ始めた。地面に灰色の波紋が、空間に灰色の風が、空かもしれない上部では雨のような灰色の線が生まれ始める。

 

 生まれては消えていく、灰色。

 

 その、灰色と灰色の、つまりは隙間とでも言えばいいのだろうか。波紋の度に、風の度に、雨の軌跡が次の雨で書き換えられる度に。

 

 言葉が、淡い光景が、一方通行に生まれていった。

 

 

 

【待ってよ、フウコちゃん】

 

 

 

 幼かった頃の声で、小さな足だけが駆けていく波紋の隙間があった。

 

 

 

【今日は何するの?】

 

 

 

 風の隙間からは、楽しそうな声が生まれては過ぎ去っていく。

 

 

 

【雨だね……。外で、遊べないね。修行も出来ないし……】

 

 

 

 雨の向こう側から膨れっ面な声が響いてくる。

 進めば進むほど、声も情景も、頻度は増えていく。

 

 

 

【楽しかったなあ。また、みんなと遊びたいな。

【宿題、忘れてきちゃった……。うぅ、どうしよう…………。

【フウコちゃんは、こう、投げてたけど、難しいなあ……。えっと、こういう風に―――! 投げても、的に刺さらない……】

 

 

 

 まだ、アカデミーの頃の姿と声の片鱗が多かった。

 

 

 

【お願い! 中忍試験の対策教えて!

【今日……中忍の初任務なんだけど…………。し、死んだり、しないよね………?

【あのね? サスケくん。何回も言うけど、私の方が年上で、特別上忍で、つまり偉いんだよ? 敬語まではいかなくても、うん、名前くらい呼んでほしいなあ、って、思ってる訳なんだよね】

 

 

 

 波紋も風の名残も雨の間隔も、速くなっていく。

 声が、声が、声が。

 言葉が、重複していき、重くなっていき。

 何気ない言葉が脅迫する刃物のように押し寄せてくる。

 これが自分の積み重ねてきた感情なのだと、努力なのだと、主張するようで。しかしイタチは、それらの言葉に耳を傾けながらも、淀みの無いテンポの足取りは常に前進を選択する。

 この先が、中心なのだろうか。

 イタチの確信を後押しするかのように、声が、言葉が、吐露し始める。

 

 

 

 良いなあ、みんな。

 羨ましい。

 私に出来ない事を、みんなが出来る。

 フウコちゃんも、イタチくんも、シスイくんも、他にも。

 凄いなあ。

 どうして出来ないんだろう。

 頑張ってるのに。

 こんなに、頑張ってるのに。

 認めてもらえない。

 褒めてももらえない。

 才能が無い、才能が無い。

 どうしてそんな事を言ってくるの?

 頑張ってるのに。

 頑張ってるのに!

 頑張ってるのにッ!

 才能、才能。

 お前らだって無いじゃないか。

 経験が有っただけじゃないか。

 なのに、どうして私だけを馬鹿にするの?

 才能が無くても、才能が有る人くらいは見て分かる。

 馬鹿にするな。

 お前らだって無いんだ。

 才能なんて、私だけが持ってないんじゃない。

 どいつもこいつも、お前らだって―――。

 

 

 

「見るな」

 

 足を止めた。

 目の前に、また、黒い何かが立っていた。先ほどのより輪郭は白くはっきりとしていて、背丈は今の彼女そのものに酷似している。全身が黒く、亡霊のように、両腕をだらりと下げ、イタチを見上げてきた。

 

「見るな」

 

 と、ソレは再度、呟いた。

 泥臭く、掠れ切った声だった。

 

「その薄汚い眼で私を見るな。見下ろすな」

 

 私と、ソレは言ったが、果たして彼女が中心なのか、判断はまだ早い。先ほどの小さな彼女の例もある。小さな彼女のように、理解してもらいたいという役割を持つ心の機能を持っているのかもしれない。あるいは、中心を危険から遠ざけたいという防衛機制かもしれない。

 

「君は、イロミちゃんにとってどういう役割なんだ?」

「分かるだろ?」

 

 波紋を、風を、雨を、ソレは見回して示した。いつの間にか、それらに作られる言葉の群れは、イタチの知らない彼女の叫びに埋め尽くされていた。

 

 

 

 欲しい。

 欲しい。

 才能が、欲しい。

 両親がいないから?

 才能を与えてくれるはずの両親がいないから?

 憎い。

 憎い憎いッ!

 家族が有る奴らがッ!

 両親がいる連中がッ!

 才能が有る人達がッ!

 そして。

 それを、全部全部、持って、持て余して、笑ってるあいつらが―――。

 

 

 

「アイツの怒りだよ。私たちの怒りだ」

 

 言葉たちが立体的に蠢いてくる。

 波紋は胴体に。

 風は鱗に。

 雨は鋭い瞳孔に。

 蛇の群れとなって、大蛇の塊となって、イロミの怒りに纏わり付いて、白い舌を敏感に出し入れしながらイタチを睨み付けた。

 今すぐにでも捕食してやろうかという明確な殺意の提示。いや、既に何匹かの蛇たちはイタチの足に絡み付き始めていた。やがて蛇らは腰に、肩に、首にと、ぬるりぬるりと位置を上げてくる。

締め付けてはこない。

 だが、蛇を模るイロミの怒りが耳に届いてくる。

 

 

 

 イタチくん。

 イタチくん。

 君が憎い。

 お前が嫌いだ。

 お前が大嫌いだ。

 どうして、お前みたいな天才が、私の友達なんだ。

 お前がもっと、もっともっと、凡人だったら良かったのに。

 凡人で、私と一緒に頑張ってくれるような人だったら、良かったのに。

 お前は天才だから、私を心配する。

 鬱陶しいくらいに。

 きっとお前は正しい。

 天才だから、皆が認めるから。

 正しい。

 だからこそ、嫌いだ。

 正しい者が、正しい事を言えば、そうじゃない者の権利は何も無い。

 どんなに頑張っても、正しい事柄には、決して勝てない。

 世の中には、正しい事をしたくても、出来ないくらい呆れ果てた凡人がいるんだ。

 正しい事を言いたくても、それを実現できない、無力な人間がいるんだ。

 そんな凡人でも。

 そんな人間でも。

 プライドはあるんだ。

 欲しい物があるんだ。

 頑張ってみたいことがあるんだ。

 明確なルール違反なら、抗うつもりは無い。

 だけど。

 だけど。

 才能だとか、努力だとか、正しいとか、そうじゃないとか。

 そんな曖昧な、波が立って風が吹いて雨が降れば、変わってしまうような他人の評価の中で、唯一正しい線の上に立たせて貰えなかっただけで、心配だとか、可哀想だからだとか、そんな正しい言葉の前に何もかも邪魔されるのは。

 許せないんだ。

 だから。

 憎い。

 嫌いだ。

 お前なんか。

 才能が有って、その才能が皆に認められて。

 ルールを破らなければ。

 ルールの内側。

 いや。

 ルールの外側(、、)でさえ。

 何もかも正しいお前が、大嫌いだ。

 

 

 

「帰れよ。アイツの前に、お前が顔を出しただけで、全部が壊れるんだ。だから―――」

「彼女の中心は、どこに居るんだ?」

 

 ソレの言葉を怯みの無い綺麗なトーンで遮った。

 

「お前、そんなにアイツの嫌な事をしたいのか?」

「喧嘩中、だからな」

「……ふざけるな。笑えない冗談を言える立場だとでも思っているのか?」

「冗談のつもりは別段、ある訳じゃない。本心のつもりだよ。喧嘩中で、だから俺は、イロミちゃんの本心を聞きに来た。そして、謝りに」

 

 暗闇が小さく震え始めた。

 

 最初はとても緩やかだったが、ある一定を境に振動の幅と間隔が急激に上昇していった。伴って、人工的な波紋や風と雨が黒を覆い尽くしていく。

 

 ポチャリ。

 ポチャリポチャリ。

 

 地面の一部が振動で跳ねて、そして地面に落ちた音に溢れ返り、波紋は大きく、高く、唸り起きて、大蛇が頭を上げた。

 

 たった一匹の、けれども、遥か巨大な蛇が、その咢を限界まで広げてイタチの真上を覆ったのだ。

 

「なら……私がアイツの代わりに教えてやる。喰われろ」

 

 ソレの意志―――あるいは、方向性―――に合わせて、イタチに巻き付いていた蛇たちは身を縮め身体を拘束してきた。逃がさない為、と言っても、イタチの真上を覆う大蛇の口は暗い上部を完全に埋め尽くしていたのだが。

 

 大蛇がイタチを呑み込んだ。

 

 いや、もはやそれは、押し潰したという表現が何よりも適切だった。

 イタチを呑み込んだ大蛇は、地面にぶつかると同時に黒い液体となって津波となった。

 地面は津波の波紋によって一面を灰色にし、豪雨のような飛沫が灰色を重ね―――弾け飛ぶ。

 

「……まだ、喰われる訳にはいかないんだ」

 

 津波を跳ね除けたイタチは、何事も無かったかのように立っている。幻術空間の主導権はイロミであっても、イタチ自身の主導権は勿論、彼が持っている。自身の精神だけは、月読の力によって完全に守られているのだ。

 イロミの怒りも、そのことを最初から理解していたのか、イタチの姿を見ても特別な苛立ちを滲ませている様子は無かった。亡霊のままにイタチを見上げたままだった。

 

「お前なんか、大嫌いだ」

「ああ。身体に穴を開けられるくらい嫌いだというのは、知っている。だから、謝りたいんだ。そして、しっかり、話し合いたい」

「知らない。私は、アイツの怒りだ。お前を許す事も、話し合う事も出来ない」

「場所を、教えてくれないか?」

「自分で探せ。やっぱり、私じゃあお前を喰う事が出来ないんだからな。アイツの役に立てないんだ。もう、お前と話したくもない」

「いや、君からも、教えてほしいんだ」

「何をだ?」

「イロミちゃんの怒りを。全てを」

「……だからお前は、アイツを苦しめるんだよ。天才」

 

 そこで初めて、ソレの声が鋭くなった。波紋も風も雨も、全てが凪いでしまっているが、ソレの白刃の如き声の方が遥かにプレッシャーがあった。

 

「なあ、天才。自分にとって一番の味方って、何だと思う?」

 

 突然の問いだった。

 自分にとって一番の味方。

 最初は家族が思い浮かぶ。しかし、友人というのも、すぐに浮かんだのだ。どちらかが上位、下位というのを判断するのは、理屈的には整理が付くが、感情的には納得は出来なかったせいで応える事は出来なかった。

 

「答えは、無意識(わたしたち)だよ」

 

 ソレは言う。

 

「お前をここに案内した私も、アイツの怒りを抱える私も、全員がアイツの味方だ。アイツの無意識たちが、アイツの一番の味方なんだよ」

 

 無意識。

 目の前にいるソレも、言葉を発しなかったアレも。

 イロミの無意識なのだとソレは言った。

 

「アイツが壊れないように、私たちは色んな役割を、アイツの為だけに行使してる。ましてや、アイツは泣き虫で、何の才能も無いからな。すぐに、助けてやらねえと駄目になるんだよ」

 

 じゃあ、

 

「友達って、何だと思う?」

 

 また、問い。しかし、今度は意図的に沈黙を選択する。

 目の前の無意識が、本当の意味でこちらの答えを求めている訳ではないと理解した。

 

「お前ら友達っていうのは、私たちの代弁者なんだよ」

 

 ソレは、知ってて当然だろうと言いたげな、苛立った声だった。

 

「私たちは、アイツに気付かれる事は無い。絶対に。だけど、アイツは気付かない内に何気ない行動で外に出してたりするんだよ。私たちの一部を」

 

 泣いたり、

 笑ったり、

 怒ったり、

 表情の一つ一つ。

 行動の一つ一つ。

 言葉の一つ一つ。

 韻の端々。

 

「そうして、友達は、それをちょっとずつ拾って、アイツの味方になっていくんだ。私の代わりにな。そう言うのが、以心伝心ってやつなんだよ」

 

 ソレの声は火の熱が伝導してくるように、徐々に語気を強くしていった。

 

「それをお前は、拾ってやったか? アイツの機微を察したか? 私たちを理解していたか? してねえだろ」

「………………」

「心配だ、危険だ。そんな正しい言葉を並べて、私たちを蔑ろにしただろう。アイツの味方である私らを殺してきただろう。本当なら、私たちを理解して、お前が言葉を選んだり、リアクションの細かい部分を見せて、アイツに伝えなくちゃいけねえのに。お前の事を理解してるって、お前の味方が何を思っているのかってのを知ってるって」

「……君は―――君たちは、ずっと俺に…………」

「ああ、言ってたよ。フウコちゃんが外に行ってから、ずっとな」

 

 本心(アイツ)は、きっと理解してないだろうけどな、とソレは自嘲する。

 

「心配だ、危険だ。そんな事は、アイツも分かってるんだよ。お前の優しい部分を知って、理解していたんだよ。だから、アイツの小さな怒りをちょっとずつ私が抱えて、アイツが負担にならないようにしていたんだ。だけど、私にも抱えれる限界がある。アイツ自身も、自分の苛立ちを感じ始めていた」

 

 特別上忍という事務的な立ち位置に置かれてしまっているということ。

 うちは一族の中におけるフウコの出来事とイタチへの不信感。

 進展しない、フウコとの距離。

 そして、大蛇丸との遭遇と、イタチの嘘。

 

「だからお前は、友達じゃねえんだよ。無意識(わたしたち)を理解できねえお前は。アイツはずっと、望んでたんだ。少しだけでも、味方になって欲しかったのに。理解しないで、味方にならないで、上っ面の友達って言葉を後ろにおいて、正しい言葉を並べ、私たちを殺し続けたんだから。敵なんだよ、お前は」

 

 でもさ。

 

 と。

 

 急に、ソレの声が柔らかくなった。

 

「フウコちゃんと、シスイくんは、アイツの味方だった。私たちを、理解してくれていた。二人は、アイツの友達だった。あの二人が居た時は、子供の頃は、私の役割なんて、本当に、何も無かった。穏やかで、満ち足りてた」

 

 波紋が微かにだけ揺れた。

 

 先頭で四人を牽引していくシスイ。

 その後ろをやれやれと付いていくイタチ。

 前を見ながらも後ろを気にしながら、シスイとイタチの距離を適度に保つフウコ。

 その三人を、たどたどしい足取りで、時には地面の凹凸に爪先を引っ掛けてしまうイロミ。

 

 四人の姿が映った。

 

 不満な表情を誰もしていない。躓き掛けているイロミでさえ、口元は嬉しそうだった。三人を追いかけるだけでも、楽しそうで。

 

 新しい波紋が生まれた。

 

 その波紋には、成長した姿のイロミが立っていた。悔しそうに歪んだ口元の遥か先には、背だけを見せるフウコが。そして、イロミのすぐ目の前には、自分が立っている。

 

 音も無く、イロミは手を伸ばす。指先はイタチに触れる事は無く、その手前で、ガラスのような透明な壁に阻まれた。

 

 壁を叩く、叩く。掌で。叩く度に力を強く込めているのが分かった。やがて、拳を叩き付け始める。壁は歪まず、純然と有り続けた。

 

 イタチは微笑みながら、一方的に頷いてみせると、フウコの背を静かに追いかけ始めた。

 

「どうして、お前が友達なんだ」

 

 イロミは膝を崩して、壁を引っ掻いた。

 下唇を噛みしめて、声と涙を抑えながらも、小さく頷く。

 

「お前が友達じゃなければ、こんな壁、ぶち壊してやったのに。お前が天才じゃなければ、こんな壁、無かったのに。どうしてだよ」

「……すまない」

「私に言うんじゃねえよ」

「イロミちゃんの中心がどこにいるか、教えてくれないか? 今度こそ、友達になりたいんだ」

「……条件がある。その条件を、守れるか?」

「ああ。絶対に、守る」

「アイツの前で…………私たちを……殺さないと誓え。お前の、その眼が、その才能がッ! ガラス細工じゃないって言えッ! 言ってみせろッ!」

 

 簡単に吹き飛ばされない為に深く杭を打ち込むように、重く頷いた。果たして、そう言った表面的な意思表示が他者にどれほどの影響を与えるのか分からない。行動における反省において、言葉の信頼性というのは限りなくゼロに等しい。結果によって、初めて反省は観測されるのだから。

 故にイタチは、ソレから中心を教えてもらえる確証は無く、たとえ教えてもらえなかったとしても、それは正当な帰結であるとも受け入れる準備も出来ていた。

 反省しているのだから、それを許容しろ、などというのは、脅迫だ。過剰な拒絶ではない限り、正しく受け入れなければいけない。友達に、なるのだから。

 

「…………アイツは、もう、すぐそこだ」

 

 ソレは指で、チャクラの流れの中心を示した。

 

「こっちじゃないのか?」

 

 最初に在った無意識が示していた方向を指さして確認してみると、ソレは鼻で笑った。

 

「あの私は、お前と私を合わせたかったんだろうな」

「あの君は、どういう無意識なんだ?」

「仲直りしたい、アイツの無意識だよ。どうせ、私を理解しないままアイツに会っても、意味が無いって思ったんだろ。実のところ、あの私は何を考えてるか分からない」

「同じ無意識なのにか?」

「あの私は言葉を知らないんだよ。一度も話さなかっただろ?」

 

 イタチは頷いた。

 

「仲直りしたいけど、喧嘩をしたことが無いから、喋れないんだよ。喧嘩なんてした覚えはないし、駄々こねても、フウコちゃんが頭を撫でてくれたからいろんなこと、水に流れちゃったしな」

 

 ソレと別れ、再び、チャクラの流れに抗うように歩みを進めた。

 もう波紋も風も雨も無い。

 ただ、暗闇だけだった。

 そして、

 そして。

 そして―――。

 中心に、出会った。

 

 

 えーん。

 えーん。

 えーん。

 

 

「どうしたの? イロミ。泣いてはいけないわよ」

 

 

 さみしいよぉ。

 こわいよぉ。

 だれもいないよぉ。

 なんにもないよぉ。

 

 

「安心しなさい。見なさい、周りを。貴方には立派な才能があるわ。誇りに思いなさい」

 

 

 やだよぉ。

 こんなさいのういらないよぉ。

 ともだちがぁ。

 ともだちがほしいのぉ。

 

 

「才能があるんだから、気にする必要なんて無いのよ。ほら、こっちにいらっしゃい。外の友達がいらないなら、私の言う事を聞いてなさい」

 

 

 ……うん。

 

 

「クク。良い子ね」

 

 イタチは呼吸を忘れてしまった。あまりにも中心は、醜さと悍ましさだけが在ったからだ。

 地面も空も、向こうの彼方も、やはり基調は黒だった。

 黒からは、手足が生えていた。

 所狭しと、雑木林のように生えた手足の全ては、皮が剥がされ爪が無かった。本当に、ここが中心なのかと疑わざるを得ない。極めつけは、その手足の林に囲われた、肉の釜倉だった。

 手足の無い人が積み重なった釜倉。人の口のように開いた入口の奥に、二人は居た。

 林を抜けて、釜倉の前に立つ。そこで、中に居た大蛇丸がニタニタと嗤った顔を向けてきた。ようやく来たのかとでも言いたげに。

 

「何もかも遅いわよ。この子は、もう私のモノになったんだから」

 

 膝を折り、両腕で包み込む様に抱えている彼女の小さな頭を満足気に撫でていた。

 彼女の―――イロミの姿は、幼かった。アカデミーの頃よりも体躯は小さく、すっぽりと大蛇丸の両腕に収まってしまっているが、覗くことの出来る小さな手は大蛇丸の腰回りに伸びている。

 

「彼女から離れろ」

「見当違いも甚だしいわね。この子はね、この可愛い私の子はね、私を離してくれないのよ。とっても甘えん坊で、仕方のない子よ。クク」

「何を言って―――」

 

 そこで視界に捉える事がようやく出来た。

 イロミを抱いている大蛇丸の、その首元―――いや、脊髄から背中全てに掛けて、床下に沸く蛆よりも数の多い小さな蛇が群れていたのだ。大蛇丸の背中に噛みつき、悶えている。蛇たちの尾は、イロミの足首へと収束し、血肉を吸い込んでいるのか、彼女の足首の血管は張り裂けんばかりに浮き上がっていた。

 

「ここに来た連中は……いえ、喰われて来た連中は、みんなこうして尽されるのよ。吸い尽くされ、しゃぶり尽されて、喰い尽くされる。いらない部分はそこらに突き刺して、ね。この釜倉は、つまり、喰い尽くされた才能たちよ」

 

 釜倉にも、小さく長い蛇が管のように伸び、イロミの首筋に繋がっている。

 

「これが、この子の才能よ」

 

 大蛇丸は嬉々としていた。

 

「この子を産んであげた時は、ただ単に、他の細胞を、他の才能を、呑み込んで無力化するだけかと思っていたけど、そうじゃなかったわ。この子は他の全てをしっかりと食べていたわ。ただ、身体がその才能を表現できないだけで、内側で貯め込んでいたの。産まれた時に混ぜ合わせていた連中の、木ノ葉で食べた連中の、全てを。私の呪印が、ようやくこの子を完成させた。クク、呪印の効果と、貴方への怒りで、才能を出しきれてはいないけれどね。いずれ、呪印もこの子が喰い尽くす。そうすれば、この子は私の夢を叶えてくれるわ。食べるだけで、人の才能を身に宿し、あらゆる術を知り導く箱舟になる」

「イロミちゃんがそうなったところで、お前の願いを彼女が叶える事はありえない」

「そうね。現に私も、この子に喰われ続けているわ。何とか、呪印を介して、この子のチャクラを私に循環させているから喰われ尽されないままでいるけど。まさかこの私が、食べられる側になるなんてね」

 

 呪印を介して。つまり、イロミを抱いている大蛇丸は、呪印の中に組み込まれたチャクラの集合体か、あるいは別にイロミへと潜らせたものという事だろう。イロミ自身も、大蛇丸からフウコの事を教えてもらったと語っていた。

 写輪眼で見る限り、大蛇丸のチャクラ自体は脅威に値しない。問題なのは、イロミが大蛇丸を取り込もうとしている事だった。

 大蛇丸を消そうと思えば、出来るだろう。果たしてその場合、イロミ自身に影響はあるのか、その不安がイタチの足を止めていた。写輪眼で大蛇丸のチャクラを注視した。

 

「まあ、時間は幾らでもあるわ。この子にも、私にもね。こうして頭を撫でてあげ続ければ、言う事くらいは守ってくれるかもしれないもの」

 

 イタチに語り掛けながらも、大蛇丸の手はイロミの頭を撫でている。涙を流しながらも、甘えるように大蛇丸の胸に顔を擦りつけていた。その動作に、彼は何を思うのか、撫でる手が柔らかくなったように見える。

 

「クク、可愛い子。今なら、少しは分かるわ」

「何がだ?」

「子をどうして欲しがるのか、という事がね」

 

 イロミの泣き声が、耳に届いてくる。

 こわい、こわい、と。

 

「こんなに私の想像通りに応えてくれないのに、なかなかどうして、私の呪印(ちから)で想像を超えてくれる事の面白さ。思い通りにならないとすぐに泣きついてくる可愛らしさ。期待できるモルモットくらいへの好奇心程には、愛着が湧いてくるわ。―――ほら、怖くはないわよ。あそこに、友達がいるわ」

 

 友達?

 小さな声は、イタチを向いていた。

 毛先の白い長すぎる前髪。泣きべそを隠そうともしない、への字に曲がった口元。それが、イタチを見た途端、より一層、酷くなり、大蛇丸の胸に再度顔を埋めた。

 

 

 友達じゃない、と震えた声が届いた。

 あの人、怖い。

 怖いよ。

 どうして、ここにいるの?

 嫌いなのに。 

 大嫌いなのに。

 苦しいよ。

 怖いよ。

 怖い。

 怖い。

 コワイ。

 

 

 彼女の心がどよめき出す。手足の林がカタカタと人形のように震え、肉塊の釜倉は呻きを輪唱した。

 林は牙に。

 釜倉は胃袋に。

 空間そのものが巨大な肉の蛇となり、足元は口内に姿を変えた。口が完全に閉じ切る寸前、柱を足場にイタチは脱していた。再び暗い地面に立ち、見上げる。現れた蛇は、木ノ葉隠れの里を襲っていた大蛇を遥か凌ぐ強大さだった。

 肉塊の蛇は見下ろす。額には、上体だけを苗木のように生やした大蛇丸だけが。

 

「これが……この子の、本当の姿よ………。どう? 綺麗でしょ?」

「何が綺麗だ……。ふざけるな」

 

 写輪眼に微かな怒りが宿ってしまう。

 

「お前が彼女をこうしたんだろう」

「違うわ。これは、運命なのよ」

 

 怒りの色が濃くなった。

 運命という言葉は、大嫌いだった。

 イタチの怒りを、大蛇丸は嬉しそうに見下した。

 

「うちはイタチ。貴方に写輪眼という才能がある様に、これも才能なのよ。いずれ開花されていたわ。何かの拍子に人の才能を羨み、欲し、手を伸ばし、人そのものを欲するようになるのは時間の問題だった。才能とは……いずれ突如として、自身の前に現れる暗幕。呪印は、これから幾多とあった機会に過ぎないの。木ノ葉の敵になったのも、当然の帰結よ。最初から決まっていた、運命なのよッ!」

 

 蛇が咢を広げ、やってくる。

 現実のイロミとほぼ、同じ速度。しかし、質量は百を乗じても足りないほど。たとえ蛇の皮膚に触れるだけでも身体が吹き飛ぶ。

 避けるのが最善手。

 躱しながら隙を伺い、大蛇丸本体を攻撃するのがベストだ。

 それはすぐに導き出せた答えであり、

 幻術世界のイタチにとって避けるのは困難でも何でもない。

 イタチは―――真正面から、蛇を捻じ伏せた。

 須佐能乎を顕現させ、蛇の頭を地面に押し倒したのである。

 

「ぐッ!」

 

 と、呻き声を挙げた大蛇丸を、イタチの写輪眼は冷酷に見下ろしていた。

 氷のように―――いや、イタチは、うちは一族。火を操る偉大な一族だ。彼の眼に宿るのは、静かでありながらも灼熱の業火だった。

 

「―――たとえ、イロミちゃんが……人を食べなければいけない運命だったとしても、そんなものは俺には関係ない」

 

 あまり、イタチは自分の願望を口にはしない。

 忍は耐え忍ぶ者であるからだ。耐え忍、己が胸に秘めた想いを静かに実行する。それを実現可能にしてきたのは、彼の強靭で研ぎ澄まされた理性が可能にしていたのだ。

 特に。

 フウコが里を出てから。

 自身の本心をストレートに語る事はしなかった。

 

「どんな強固な運命だったとしても、俺がそれを許さない」

 

 それが、イタチの忍道だった。

 フウコが里を出て行ってから。

 イロミが自身の忍道を口にしてから。

 シスイが……いなくなってしまってから。

 常にイタチの中心に、在った。

 大蛇丸が絶句する。

 本心を語るイタチの須佐能乎が、何もかもを燃やし尽くす黒炎を纏い始めていた。

 既に大蛇丸はイロミからチャクラを搾取されるだけの存在だということを、写輪眼で確認していた。

 

「お前如きが、俺の友達の運命を語るな。失せろ」

 

 黒炎は瞬く間に蛇ごと大蛇丸を呑み込んだ。

 絶叫すら炎は食い潰し、蛇を小さくしていく。

 最後に残ったのは、小さな女の子だった。

 辺りは、変わり始める。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 女の子は砂場で遊んでいた。夜の、砂場である。空は曇天で月明かりは見えない。近くには、無人の遊具が並んでいる。滑り台、ブランコ、ジャングルジム、雲梯。遊びたい放題の環境でありながらも、女の子はただ黙々と、砂場で山を作っている。

 意匠も何も無い、砂の山。

 山の天辺には、枝が立てられていた。

 女の子は、砂場の砂を全部、山にしようと、その小さな手でゆっくりと砂を集めている。膝を内側に曲げてちょこんと、座りながら。

 

「……イロミちゃん」

 

 小さな男の子が女の子の後ろにやってきた。

 端整な顔立ちに、知性的な面持ちは歳不相応さが明確だが、口から零れる声は落ち込んでいた。

 

「ごめんね、イタチくん。迷惑……かけちゃって」

 

 女の子は静かに呟いた。

 

「酷い事も……言ったよね」

「本心……だったんだろ?」

「……うん。でも、正確じゃないんだよね」

「それは、呪印のことか?」

「言葉が正しく選べていなかった、ってことかな」

 

 あはは、と彼女は笑った。

 

「イタチくんの事は、今でも、友達だって……思ってるよ。これは、嘘じゃないよ。今は、大嫌いだけど……。本当に、そう、思ってるの。イタチくんは、嫌いだけど、私の友達。敵だって言ったのは、あの時の私は、そう言う風にしか言えなかったの」

「俺も、君の事、友達だと思ってる」

 

 ありがとう、と。

 彼女はまた笑った。

 寂しそうに。

 悲しそうに。

 イロミは、振り向かない。

 砂を集めて、山を作ってる。

 

「―――本当は、うちは一族の事、知ってたんだ。全部」

「え?」

「あ、フウコちゃんが里を出た後の事じゃないよ。呪印を受けた時。大蛇丸の記憶が入ってきて……あの夜に、何があったのか、分かってたの。フウコちゃんが、何をしようとしていたのか。シスイくんがどうして死んだのか。イタチくんが………どんな事をしていたのか。全部じゃないけど、概要くらいは、知ってた」

「つまり、フウコが……大蛇丸に?」

 

 そこでイロミは小さく、俯いた。頷くではなく、俯いた。

 記憶に映ったフウコが自分の見てきたフウコとは、様子が異なっていたからだ。

 

「……だから私は、知りたかったの。イタチくんが、私の敵かどうかを。フウコちゃんを里から追い出した人なのか、知っていたけど教えてくれないだけなのか……それか、フウコちゃんを助けようとしていたのか」

 

 だけど、

 

「君は何も知らないって言った。……まさか、そんな事を言うなんて、思ってもみなかったから、頭に血が昇って、呪印に頼っちゃって。あんな酷い事を、言ったり、したりして」

 

 イタチは何かを言おうと、彼女の小さな肩に触れようと右手を上げて……下ろした。シスイの事を語ったとしても意味が無い。今は、そうではない。

 彼女の対面に回って、座り込む。するとイロミは、砂山の端の方に手を伸ばして山を削った。

 

「イロミちゃん」

「……なに?」

「ごめん」

 

 イタチも、砂山を削った。

 

「俺はずっと、君の気持ちを何も考えていなかった」

「……それは、私もだよ。私、ずっと、自分の気持ちを伝えてなかった」

 

 怖かったんだ。

 言いながら、イロミは自分の分の山を削った。イタチの砂よりも、量は少なかった。

 

「私は……フウコちゃんや、シスイくんや、イタチくんみたいに、天才じゃない。才能も見つかってない……。だから、私なんかが我儘言ったら、みんなに嫌われるんじゃないかって、ずっと……思ってた。私にとって、みんな、凄く大切な友達だから。傍に……居てほしかったから。何も言わなかった………」

「だけど、俺は気付くことが出来たはずなんだ。シスイは……気付いてた」

「ありがとう……。でも、ゴメンね。私……泣き虫で…………弱虫だから」

「俺も…………ごめん。君の事を分からないまま。何も、考えないで……君を傷付けないようにしてた」

 

 イタチも砂を取った。

 

「傷付かないと……私は前に進めないんだ。ううん、違うかな。前に進む為には、必ず傷が付いちゃうんだ」

「言っていたけど……フウコの為なら、死んでもいいのか?」

「うん」

 

 今度は、イロミが砂を。

 天辺の枝が傾いた。

 

「勿論、死なないように全力を出すけど………手を伸ばせる可能性があるなら、どんなに危険でも、諦めたくない。才能があるとか、努力をしてきたからとか、そんなのは、関係無いの。私が、私だから、そうしたいの」

 

 言っておくけど、

 

「フウコちゃんじゃなくても、里を出て行ったのがシスイくんやイタチくんだったとしても、私のこの気持ちは少しも変わらなかったよ」

「……分かった。他に………その、俺に、言いたいことは?」

「いっぱいあるよ」

「だったら、言ってほしい。もう、友達と喧嘩をするのは嫌なんだ。すごく………怖かった」

 

 山を削るイタチの手が、震えていた。砂の量はイロミよりも少なくなってしまっている。

 

「うん」

 

 と、イロミは小さく頷いた。

 

「私も……。呪印に―――ううん、怒って、感情に任せて暴れて………イタチくんに酷い事を言ったり、傷付けたりしたのは………すごい、怖かった。苦しかった。どうして、私………大切な友達に、こんなこと、しちゃってるんだろうって……………涙が、止まらなかった。私を、知ってほしかっただけなのに………私が、イタチくんに想いを言えば良かっただけなのに……」

 

 イロミの手も震えていた。砂の量は、けれど、先ほどのイタチと同じくらいの量だった。

 枝はまた、傾いた。

 

「あのさ……。今のうちに聞いておきたいんだけど……」

「なんだ?」

「言いたいこと、言うけど……。その…………友達で………いてくれる?」

「……ああ。俺も、言いたいことを、言ってもいいかな?」

「私も……ずっと……イタチくんの友達でいたいから」

 

 砂山はちょっとずつ、小さくなっていった。

 二人が交互に、言葉をぶつける度に。

 

 

 

 嘘はつかないでほしい。どんなことでも良いから。言いたくない事があるなら、言いたくないって、言ってほしい。そうすれば、それ以上は訊かないから。

 

 気が付かない内に邪魔をしてしまっていたなら、言ってほしい。言葉を選ばなくても良い。傷付いてしまったのなら、教えてくれ。

 

 イタチくんに傷付けられたのは、いっぱいあるんだ。私、色んな事、頑張ったのに、何もさせてくれない。暗部に入りたいって言ったのに、入れてくれなかった。

 

 あれは、ダンゾウが危険だからだ。君だって知ってるだろ?

 

 私は特別上忍なの、知ってるよね? まさか、知らないなんて言わせないよ。

 

 単純に、君が上忍に上がるのを待っていたんだ。君なら、すぐにでも、上忍に上がれると思っていたから。すぐに君が上忍になれるように、色んな方に打診もしていたんだ。だけど……。

 

 ……私が、大蛇丸の娘だから、成れなかったんだね。あ、これも、呪印から知ったの。色んな人の細胞をくっつけて、生まれたんだって。気持ち……悪い?

 

 全然。

 

 本当?

 

 嘘は、もう、言わないよ。誰だって、自分じゃない細胞から、生まれてるんだ。普通の事だよ。

 

 他にもね……色々、傷ついた……。というよりも、イタチくんが私の為にしようとしてたことが、殆ど、嫌だった……。お節介が、凄いよ…………。

 

 分かった。気を付けるよ。

 

 私も、本当に、言うから。嫌な事は。

 

 だけど、死んでもいいだなんて、絶対にもう、言わないでくれ。もし、そんなつもりがあるなら、俺は何があっても、君を止める。

 

 ごめんね。もう、言わない。

 

 あと、君は無茶をし過ぎる。

 

 言ったと思うけど、無茶をするのが、私に出来る事なの。

 

 ならどういう無茶をするのかを教えてくれ。

 

 またお節介?

 

 邪魔はしない。君の無茶を、無茶じゃなくするくらいの手助けをするんだ。俺の出来る範囲で。もう、止めない。一緒に行くよ。

 

 でもイタチくんは、暗部で―――。

 

 ダンゾウには、俺が話を付ける。

 

 大丈夫?

 

 木ノ葉崩しが終わったら、ダンゾウに会うつもりではいたんだ。だけど、手伝ってくれるなら、心強いな。

 

 じゃあ、手伝う。

 

 ありがとう。

 

 本当にイタチくんは、フウコちゃんの事、知らないの?

 

 知らないんだ。いや、思い出せないようになってる、と言った方がいい。

 

 もしかして……忍術…………?

 

 幻術。それを掛けられてる。解く手段は分からないけど、術を掛けた奴は知っている。必ず、記憶を取り戻すよ。

 

 私からも、教える事が出来るよ?

 

 いや……大蛇丸からの記憶だけを頼るのも危ない。俺が記憶を取り戻してから、答え合わせをしよう。

 

 矛盾した事、言うけどさ。

 

 うん。

 

 ずっとね、イタチくんの事、嫌いだった。

 

 うん。

 

 友達だから、好きだけど、大嫌いな部分があるって言った方がいいかも。

 

 うん。

 

 イタチくんは何でも出来て、私の出来ない事を当たり前のように出来るから。ううん、それだけじゃなくて、私が必死になってしたいことを邪魔して、代わりにやっちゃうのが、大嫌いだった。まるで……私なんて、いてもいなくてもいいんだって、言われてるみたいで。

 

 ごめん。

 

 ずっと、苦しかった。

 

 ごめん。

 

 フウコちゃんに殺されかけて、病院でイタチくんが一緒にフウコちゃんを追いかけてくれるって言った時は嬉しかったの。本当に。だけど……。

 

 本当に、ごめん。

 

 分かってくれるなら、うん、いいよ。あはは、行動で示してくれたら。イタチくんなら、実現してくれるって信じてる。

 

 今度こそ、実現するよ。俺は、君をしっかり見る。その為の、眼だ。

 

 私に……写輪眼使うの?

 

 いや、そういう訳じゃない。

 

 あとね……――――。

 

 他には? …………―――。

 

 ――――……そんな事………思ってたんだ………。

 

 ――――………君だって、俺の事を……。

 

 ――――――――。

 

 ――――――――。

 

 

 

 夜空の雲が回天していく。

 早いような、ゆっくりとしたような。

 やがて雲は切れ、散り散りとなった先には、流れ星のさざ波が広がっていた。

 月は満月。流れ星の尾が白い線となって夜空を淡く彩る。

 風が吹いた。

 木々も草花も無いはずの夜の地面は、不思議な事に、風に撫でられるさざめきが聞こえてきた。奏でられる静かな音の合唱が少なくなった砂山に、ようやく支えられていた枝が音も無く地面に倒れた。イロミが砂を削った後のことだった。

 

「きっとね」

 

 と、イロミは残念そうに笑いながら言った。彼女の顔には涙の痕があった。言いたいことを言ってしまい、言いたいことを言われて、流れた涙の痕。悲しかったり苦しかったり、嬉しかったり楽しかったり、そんな綺麗な感情が涙と一緒に溶け落ちて、残ったクリアな感情だけがイロミの中にあった。

 

「サスケくんも、イタチくんに言いたいこと、あると思うんだ」

「……ああ」

 

 イタチも似たような笑顔を浮かべた。彼の顔にも、涙の痕が。

 

「あいつとも、一回話し合わないとな。カカシさんにも、言われていたのに、今になってようやく、分かったよ。フウコの事も話さなければいけないな」

 

 白い線の束が一つになっていくと、夜空に溶け込んでいく。それは、夜明けを表していた。白が強い地平が東なのか。夜が終わるのを、二人は察していた。

 イロミが残念そうに俯いた。夜明けが強くなればなるほど、二人の影は濃くなり、どういう訳か、影が離れ離れになっていく。

 

「イロミちゃん」

 

 と、イタチは小さな手を前に出した。

 

「今更かもしれないけど、改めて言わせてほしい。その………仲直り……してほしい」

 

 声が震えていた。

 イロミの中に、仲直りしたいものの方法が分からない、という無意識があったのと同様に。

 イタチの中にも似たような無意識はあった。

 彼自身も他者との喧嘩は初めてだった。天才的な理性を持っていたが、逆に感情を剥き出してしまうのは苦手だったのだ。

 怖い、という感情ではないだろう。

 恐ろしいというものでも、苦手というものでも、無い。

 分からない。

 ただ、声が震えてしまう。

 差し出した手が震える。

 ああ、とイタチは思った。この震えは、フウコと対峙した時と似ていた。あの時は怒りが身体を震わせていたのかと思ったが、きっと、理性が覆い保っていたリミッターが外れて感情が暴れてしまったのも要因だったのだろう。

 仲直りをしてほしい。

 仲直りをしたい。

 理性が選んだ言葉ではなく、感情が吐露した言葉だった。他に、イタチには手段が思い浮かばなかったのだ。喧嘩をした事が無く、仲直りもした事が無かったから。

 もしも、この手を払われたら。

 そんなイメージが過る。

 手はより震えた。

 その手を、イロミは弱々しく取った。そして、イロミは涙を流しながら謝った。

 

「………うん、仲直り、したい………………」

 

 したい、という願望を伝える言葉の後に、イロミは続けた。

 

「本当に……ごめんね」

 

 彼女の涙は、再び、大量に零れていく。

 

「弱虫で、泣き虫で……ごめんね。こんな私で…………ごめんね。もっと才能があれば…………もっと、頑張れれば………もっと……………もっと…………」

 

 もっと、何かがあれば。

 自分には足りない、足りなさ過ぎる何かが、もっともっとあれば。

 過ちは、起きなかった。

 

「仲直り……したい。だけど…………私は、もう……………木ノ葉の……敵なの…………掟を破った…………。色んな人を食べた……。君とも……敵なの…………」

 

 木ノ葉崩しが終わっても。

 イロミの罪は消えない。

 かつてナルトに語った、イロミの罪が大蛇丸の所業が原因だという訴えは、おそらく棄却される。

 理由があれば人を殺して良いという考えは許されないのだ。

 ましてや、イロミが捕食してしまった人の家族には、大蛇丸とイロミの関係があろうと、意味が無いのだ。そして里にとっても、イロミの凶行を容認してしまえば、反感が生まれ前例を作ってしまう。

 もしかしたら死罪は免れるかもしれないが、それが最低ラインでもある。

 イロミはそれを良く理解し、受け入れても、いるのだ。握っている彼女の手は、強く固められていて大きく震えていた。

 

「どうして……もっと、努力できなかったのかな…………。どうして、もっともっと考えて………頑張らなかったのかな……………。分かってた……はずなのに…………。……私に、まともな才能なんて………無いって………分かってたのに……………。どうして……いつか分かってもらえるって…………思っちゃったのかな……………………。………伝える努力を…………諦めちゃったのかな………………」

 

 努力は認めてもらうものじゃない。

 努力は、認めさせるものなのだと。

 認めさせて初めて、努力は花開くのだと。

 才能とは違う。

 勝手に認めてもらってしまう才能とは。

 だから重ねるのだ。

 努力に重みを積んでいくのだ。

 重ね、重ね尽して、相手の頭を下ろさせ、認めさせるのだ。

 努力をしたのだと頭を垂れさせる。

 それが、努力の終着点。

 

「ごめんね……。イタチくん…………。ごめんね……」

 

 夜が明ける。

 また、世界が変わる。

 いつだって世界が変わるのは、夜明けと一緒だ。

 イロミの世界が変わる。

 月読でさえ、追い出されるのだ。

 イタチは……言葉を選ばないままに………、握ってくれているイロミの手を両手で握り直した。

 

「ごめん………イロミちゃん。俺のせいだ………………」

 

 感情が零れ出る。

 

「フウコを一緒に追いかけるというのは、嘘じゃない………。本当に、思っていた。だけど……大蛇丸に殺されかけたという話を聞いた時は………恐ろしかったんだ……………。シスイだけじゃなく、君も、死んでしまうと思うと……………怖くて………。知っている人が…………いや、人が死ぬのは…………………あんな、酷い臭いを嗅ぐのは、酷い光景を見るのは………もう二度と……嫌なんだ………」

 

 頭の中にちらつく、幼い頃に見た戦争の成れの果て。

 死臭。

 死を象徴する血肉。

 そのどれもが、イタチの奥底で粘り気を伴って貼りついている。

 シスイの死。

 フウコが殺した一族たちと両親。

 そして、二度に渡るイロミの瀕死。

 死の向こうに訪れる、乾いた静寂。

 イロミを大蛇丸から遠ざけたのは、単純に、怖かったからなのだ。

 冷静に見えたイタチの姿は、あくまで、彼の才能が、理性が、トラウマを抑え込んだ上に成り立った虚像に過ぎない。

 

「だから……嘘を付いた。君を守れればいいんだと…………。もっと……他に………しなければいけない事が………あったのに……………」

 

 才能があったのに、過ちを犯してしまった。

 嘘を付いた。

 嘘という、安易な方法しか使わなかった。

 だから。

 嘘が。

 彼女の無意識を殺し続けてしまった。

 友達として一番、使わなければいけなかった才能を、使わなかったから。

 友達なのに。

 友達だったのに………才能を正しく使えなかった。

 イロミは罪を犯した。

 もはや逃れる事は出来ない。

 時間なんて、当然、戻らない。

 決定してしまった罪だ。

 だが、全ての罪が彼女のものではない。

 自分も背負う。

 才能を使って。

 この才能を、間違いなく、使って。

 

「イタチくん」

 

 震えるイロミの声に、イタチは顔を上げた。

 彼女は、笑っていた。

 

「私………イタチくんの、友達で良い?」

「……ああ」

「ずっと、ずっと……友達のままで、いてくれる?」

「ああ」

「……ありがとう。私も、友達のままで、いる。イタチくんと」

 

 冷たい空気が音も無く近づいてくる。手を握ってくれているイロミは微かに、希薄に。

 終わる。

 時間が。

 イタチは言葉を紡いだ。

 

「今度こそ、俺は正しく君を見るよ。ずっと、君の友達のままでいる。邪魔はしない。手を貸すよ。だから―――」

 

 だから、

 だから、

 言葉。

 伝えたい言葉。

 約束の言葉。

 

「俺を信じてくれ。君を、裏切らない」

 

 ずっと。

 ずっと。

 イロミは安心したように笑った。

 

「それじゃあ」

 

 夜が、明ける。

 間違った夜が手を振って彼方へと。

 新しい朝が慎ましい足取りで頭上へと。

 イロミは笑ったまま。

 イタチも笑っていた。

 

「さようなら」

 

 イロミの声と共に、月読は。

 月は。

 夜は。

 消えて、いなくなった。

 




 次話は、8月中に投稿したいと思います。

 ご指摘等ございましたら、ご容赦なく。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

山鳴りは、ようやく、海風を運んできた

 音の忍らの殆どが制圧され、木ノ葉の忍たちの半分ほどが事後処理の段階へとシフトしていく中、残った半分は忙しなく里の中を駆けている。制圧できていないソレの情報は瞬く間に拡散され、精査され、多種多様な忍らに必然的な役割を与えていく。

 

 封印術を得意とする者、攻撃力に特化した者はソレを制圧に。

 

 結界術に秀でた者は、二次的な被害に巻き込まれないように非戦闘員らの保護の強化を。医療忍者は制圧に出た者たちのサポート及び被害者らの治療を。また、索敵能力を得意とする者は、里の外へ行き、情報が広まらないように他者がいないか察知を。

 

 各々が、里の危機を理解していた。それは、音の忍らが襲撃してきた際、直感的に抱いた危機の水位を大幅に飛び越える程の、明確なものだった。

 

 九尾が暴走した。

 

 その情報を訊いた者たちはいずれも同じ光景と恐怖を想起した事だろう。

 だからこそ、彼ら彼女らは迅速に且つ正確に動き、感情は一振りのブレも無かった。誰もが覚悟と決意を秘めている。死んでしまうかもしれない覚悟も、大切な事柄を守る決意も。

 

 しかし、彼ら彼女らの意志から逃げるように、木ノ葉隠れの里の塀を内側から吹き飛ばしながら―――フウは、ナルトを外へと押し出した。

 

「よう……やくッ! 捕まえったっすよぉおおおおッ!」

 

 塀を突き破り、里の周りを覆う深い森を構成する木々を薙ぎ倒しながら、フウはナルトを運んでいく。彼の腹部に回した腕には、木々を砕く度に重い衝撃が伝わってくる。両腕を組んでいる指たちの筋がミシミシと悲鳴をあげるが、まだ、離す訳にはいかない。

 

 ようやく捕まえることが出来たのだ。初撃のタックルの勢いを殺さぬように、七つの羽で空気を叩き続ける。それは、風圧によって呼吸が上手く出来ないほどの速度を叩きだす。

 

 まだ、遠くへ。

 

 少しでも里から……遠くへッ!

 

「―――ッ!? クソッ!」

 

 しかし、木々を薙ぎ倒す内に勢いは萎みを見せ、壁代わりとなってくれていた分厚い風圧はナルトの行動を許してしまう。横薙ぎに振るわれる、九尾のチャクラを纏った右腕に触れる瞬間、勢いそのままにフウはナルトから離脱する。

 空中の支えを失ったナルトは勢いそのままに木々を薙ぎ倒し、そして地面を削る様に転がり大きな砂煙の軌跡を作った。

 一度、フウは森の上へと上昇し、今の位置と木ノ葉の距離を見る。とりあえずは、互いに暴れ回っても被害が届くような距離ではない事に、フウは安堵する。

 

 ―――あとは、ナルトくんがフウだけを見るようにすればいいっすね。そうすれば、木ノ葉にはいかないっす!

 

 そして、急降下。

 

 眼下には勢いを殺そうと四肢と五本の尾を地面に刺しているナルトの姿が。その直上から、フウは蹴りを叩きこんだ。衝撃はそのまま地面を貫き、深く砕かれた地面は根を張った周辺の木々を吹き飛ばすものの、ナルト自身は姿勢一つ崩さない。こちらは足首に重い衝撃を受けて痺れているというのに。しかし苛立ちを滲ませながらもフウはすぐさま上空へ距離を取った。ナルトの五つの尾が、フウを捉えようと蠢き始めていたのだ。

 そのままフウは上空を、時には木々の間を、高速で動き回りながら攻撃を加え続けた。速度は、確実にフウが上回っている。初速、機動性はナルトの攻撃を躱し、死角に入り込み多少の打撃を与える。里の外を出る前から、フウはこのスタイルを貫いていた。いや、そのスタイルしか選べなかったというのが正確な事実だ。

 

 チャクラの質が違い過ぎたのだ。

 

 ナルトを覆っている真紅のチャクラは、ナルト自身の肉体組織を破壊してしまうほど、宿主の肉体を考慮していない乱暴なものだ。さらには蝕んだ肉体組織を蘇生させる役割も同時に果たしており、密度という面で言ってしまえば出鱈目な水位にある。対してフウのチャクラはそうではない。封印式は機能し、そして重明がチャクラの質を調整してくれている程度だ―――と言っても、平均的なチャクラの密度で考えれば、それでも十分な密度ではあるのだが、ナルトのそれに比べれば雲泥の差がある。

 

 つまりは、圧倒的なまでの強度の違い。

 

 こちらの攻撃はさながら、岩石に向かって虫が体当たりをしているようなもの。いや、もしかしたらそれ程の差は、実のところ無いのかもしれないが、目に見えた効果は観測されてはいなかった。ならばさらにチャクラを重明から渡してもらえればいいのだけれど、里の中で人柱力が二人争えば、被害は拡大してしまうだろう。

 里の外に出したのその為だ。いくら強度に差があるとは言え、勢いを付けてタックルをすれば外に運ぶことは可能だった。

 周りの被害を気にせず、尚且つ自由に動き回れる場所。フウにとって悪くないシチュエーションだ。

 

「重明ッ! まだまだ、いけるっすよッ!」

 

 木々の間を、重明のチャクラが線となって軌跡を生む。その軌跡は、フウの合図によって色濃くなり、七つの尾に叩かれる空気は一段と厚みを増した。

 

『調子に乗るとすぐ死ぬぞ』

 

 頭の中に響く重明の声が呆れている。理由は分かる。まだいけると言ってみたものの、既に身体の末端は痺れ始めているのだ。

 

 いくらチャクラの質を調整してもらっていても、当然ながら限界はある。

 

 七尾の人柱力として、単なる封印の器としての限界だ。元々、フウは七尾のチャクラを制御する事を目的に選ばれた訳ではない。

 滝隠れの里という、今は亡き忍里は小さかった。七尾のチャクラを使い回して力を誇示しようものなら、辺り一面が敵となって瞬く間に滅ぼされる。故に、あくまで抑止力としての張り子の虎でしかなかったのだ。

 こちらには最終手段の七尾がいるのだぞ、という友好的な脅迫手段の為の。

 

 運用するつもりなど里側には一切なく、一方的に、ただ封印術に耐えうるチャクラと身体機能を持ったフウが選ばれただけに過ぎない。重明のチャクラは毒という程ではないけれど、強大なそのチャクラはフウのチャクラと身体では重すぎるのだ。

 

 重明は、フウの身体のキャパシティを理解してくれている。だが、伝わってくる彼の感情は心配というよりも、呆れが強い。

 

 自分の身体の事も分からないのかと、馬鹿にしているような。

 

「だったら、死なないようにフウに力を貸してほしいっすよッ! このままじゃあ、ジリ貧っすからねッ!」

 

 今度はナルトの脇腹に両足の蹴りを叩きこむ。速度を乗せた蹴りはナルトを横に吹き飛ばす。木々を薙ぎ倒し地面を転がりながらも、即座に体勢を直しているのを見ると、やはりダメージは殆どないのだろう。

 ナルトの腕が伸びる。忍術でも何でもない。単純にチャクラが手の形を模っているに過ぎない。腕から逃れる為に上空へ。そしてちょうど、チャクラが増えた感覚が脳を重くする。飛んでいるはずなのに、落ちているような、あるいは止まっているような。やがて感覚は鋭敏となり、頭が真っ白になっていく。

 

 赤い腕。

 迫ってきている。

 避ける。

 尾は空に、頭は下に。

 尾を小刻みに痙攣させる。

 走り出す前に屈伸するように。

 息を止めて、そして、落ちる。

 初速で空気が弾け飛ぶ。

 下へ、下へ。

 回転しながら、空気を巻き込んでいき。

 ナルトに突き刺さる。

 

 里で行った時よりも、衝撃は強大で、もはや地面は岩へと起源を移し、クレーターが生まれる。だが、それだけではない。フウが巻き込んだ空気は重さのある竜巻となって、さらなる衝撃がナルトに襲い掛かる。その重みを尾で叩きながら、さらにナルトを地面に押し込む。

 フウが捉えたのはナルトの腹部だ。両手で抑え込むのは、ちょうど横隔膜。

 

 ―――いくら九尾に憑りつかれても、ナルトくんは人間っすからね……。意識を落とせば……ッ!

 

 横隔膜を押し潰し、意識を落とす。手からは、九尾のチャクラを歪めているのが分かる。チャクラで伸びた腕は竜巻に巻き込まれ元には戻せないが、伸びた腕の中から本物の腕がフウの顔を引き裂こうと触手を震わせる。

 

「させないっすよッ! 重明ッ! チャクラを、もっとッ!」

 

 チャクラは増幅し、比例して、身体中が震え始める。平衡感覚が狂い始めているのが分かった。

 羽ばたかせている尾の内、二本をナルトの腕へ。突き刺し、動きを封じる。空気を叩く羽の数は減ったが、チャクラの増加分と相殺され、ナルトへの圧力は変わらない。抑え込んでいる腹部が痙攣し始めている。呼吸がままならない事を示していた。

 もう少し、とフウは尾を羽ばたかせる。尾を羽ばたかせる為のチャクラコントロールは、よりフウの意識を凝縮させた。それは、頭に激痛を走らせるほどであり。

 横の地面から姿を現したナルトに反応するのも、一瞬だけ遅れる程だった。

 

 ―――どう、して……?

 

 真横に、強烈な殺意があった。

 止めていた呼吸は、肺に目一杯と詰めた空気があるはずなのに、ヒュッ、という音を立てて、空気をさらに吸い込んでしまう。思考が真っ白になってしまった証だった。

 腕を突き刺している尾も、腹部を抑えている両腕も、間違いなくナルトを抑えている。なのに、どうして。

 

 そこから先の思考は時間が許してはくれなかった。

 

 鉤爪が振りかぶられる。

 離脱は?

 難しい。

 空気を叩ける尾は五本だけ。七本で作り、五本で維持した勢いを、同じ五本で覆すには時間が必要だ。あまりにも、時間は足りない。

 駄目だ、間に合わない。

 やられる―――ッ!

 

『ラッキーだったな、フウ』

 

 重明の呟き。

 同時に、横から、エントリー。

 

「螺旋丸ッ!」

 

 小さな台風が、風を引き連れながら、鉤爪を構えたナルトを吹き飛ばした。

 

「自来也さんッ!?」

「ギリギリってぇ、トコかのうッ!」

 

 自来也の登場に、フウは呼吸を正しく取り戻す。獲得してしまった安心感は、自来也の姿を目撃してすぐに、無意識の内に、地面をバウンドして遠ざかっていくナルトを追ってしまっていた。近距離で、しかも無防備な真横からの殺意は、フウに不用意な警戒心を与えてしまっていたのだ。

 それを自来也がカバーする。フウの腹部を抱え、尾に刺されていた方のナルトが仕掛けてきた攻撃を寸での所で回避させた。フウの衝撃によって地面に抑えつけられていた筈の尾が、地下を強引に掘り進み、フウを貫こうと姿を現したのだ。

 

 もはや槍。だが、自来也の三忍としての経験がそれらを事前に回避させた。フウを脇に抱えたまま、自来也は充分な距離を取った。即座の攻撃にも対応でき、尚且つ、二つになったナルトの姿を見失わないベストな位置だった。

 

「フウ、無事のようじゃのう」

「……どうもっす。助かりました」

 

 と、フウは苦々しく笑って見せた。

 

「ナイスタイミングっすよ、自来也さん」

「お? もしや惚れてしまったかのう? いやいや、ワシも罪な男だのう」

「相変わらず、面白い事を言うっすね。状況分かってるんすか?」

「……そりゃあのう。嫌というくらいにの。忍術でも何でもない、ただのチャクラだけで分裂など、聞いた事ないぞ」

 

 ナルトが二人になった理由が、ようやく見て取れた。

 螺旋丸によって飛ばされたナルトと、フウに抑えつけられていたナルトが、チャクラで繋がっている。腕の形を模ったチャクラと同じ。自分自身を模ったチャクラ。

 驚くべきことは、それが、忍術ではないという事だ。

 ただただ、真っ赤なチャクラが形を成しているだけ。膨大な量のチャクラを、怒りと狂喜が、沙汰の外から形を作らせているのだ。理解の外の現象だった。

 

「こりゃあ……予想よりも、ヤバい感じじゃのう」

 

 悠々と呟いてみせるが、彼の額には疲れではない汗が静かに浮かんでいた。彼の視線の先には、螺旋丸で吹き飛ばした方のナルトが。完璧なタイミングで、そして確実に当てたにもかかわらず、彼は依然、立ち上がる。チャクラを分けたナルトが吸収され、低い唸り声を上げる。

 獰猛でありながら、悲痛な叫びのように、フウの耳には届いた。自来也に下ろされ、両足で立ち上がる。重明のチャクラを過剰に使用してしまった反動で、身体の節々に力が入り辛くなってしまっているが、

 

 ―――重明。言っておくっすけど、フウは全然平気っすよ。

 

 彼は『そうか』と、心底どうでも良さそうに呟くだけだった。

 

「フウよ」

 

 と、自来也はナルトを見据えながら低い声を出した。

 

「お主、封印術は得意かのう?」

「聞いて驚かないでください」

「ほう?」

「大の苦手っす」

「………まあ…………そうじゃろうのう」

「なんすか? その含みのある感じは?」

「いやなに、経験則じゃ。お主のような快活な奴は、大抵下手くそだ」

 

 中の重明が『こいつがそんな繊細な術を使えるわけないだろ』と呼応してみせる。腹立たしい。人間、得手不得手があって当然である。

 

「そういう自来也さんはどうなんすか? フウから見たら、自来也さんも中々不器用に見えますけど?」

「馬鹿言え、伊達に男を磨いてきた訳じゃねえっての。じゃが―――」

「ヴォォォォオオオオオオオッ!」

 

 チャクラと怒号が混ざり合って、文字通り、爆発する。砂煙が、石つぶてが、木片が、さながら矢の如く飛ばされてくる。即座に自来也もフウも、木の陰に身を隠すものの、視線のギリギリはナルトを捉えていた。チャクラの波の禍々しさが、一段二段と、飛躍したのだ。

 自来也は呟いた。

 

「じゃが……ワシの封印術で、どうにかなるレベルの問題じゃなくなってきたのう」

 ―――気分はどうっすか?

『何がだ?』

 ―――あともう一本で、同じ本数になっちまうっすよ?

 

 フウと自来也は見た。

 ナルトの尾が、五本から六本へと数を増やすのを。

 そして、赤い、朱い、チャクラに纏わり付き始めた骨格のようなものが現れたのを。

 二人は即座に直感する。

 もしも……尾が九本になったら。

 九尾は―――。

 そして、人柱力は―――。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「…………んぅ………」

 

 日向ヒナタは静かに目を覚ました。

 瞼を開けて確保される視界はぼんやりと歪み薄暗かったが、のっぺらと平らなそれが天井なのだというのは簡単に分かった。仰向きに寝ていた、と言うのを自覚して、ああ、とヒナタは小さく息を漏らす。どうして自分がそういう姿勢になっているのか、それは眠る前までの記憶が鮮明に導いてくれたからだ。

 

「お、ヒナタ。起きたか」

 

 聞こえてきた声の方向に顔を傾ける。ただ、首を傾けただけだったのに、全身の至る所が脆い繊維が千切れるような痛みに襲われ、ヒナタの表情は一瞬だけ歪んでしまう。

 

「キバ……くん…………」

 

 すぐ隣で座っていた彼の名を呟くと、犬塚キバは軽快に笑って見せる。

 

「無理に声とか出さなくていいぞ。身体痛ぇんだろ。そのまま寝てろよ」

 

 キバの頭に乗っていた赤丸が心配してくれているのか、可愛らしい鳴き声を合わせてくれる。彼なりの気遣いだというのは分かる。自然と笑みが零れてしまった。

 

「キバの言う通りだな」

 

 そして反対側からも声が。キバ同様、声だけで、誰なのか容易に想像できる。顔を向けると、やはり案の定、油女シノが座っていた。口癖なのか「なぜなら」と言葉を続けたのも、想像通り。

 

 だが、続けて出た言葉は疑問を抱かざるを得ないものだった。

 

「やることが何も無いからだ。なら、静かに寝ていた方が良い」

「………? やる……こと………?」

 

 ヒナタは視線だけを逸らし、周りを見た。薄暗い天井と壁の境界。視界に入った壁には装飾は無く、自身が横になっている床も石の肌がそのまま出ている。壁際には、奈良シカマル、秋道チョウジ、山中いのが並んで座っていた。

 今度は反対側に顔を向けてみる。そこには、ロック・リー、テンテン、そして日向ネジが壁に背を預け立っていた。一瞬だけ視線が、ネジと交差する。

 苦しさと悔しさ。それが微かに鼻の奥を刺激するものの、未だ身体に残る痛みと疲れに、多くを考える事はしなかった。遅れてヒナタは緩やかに視線をズラし、すると先には、春野サクラとうちはサスケがいた。サクラは膝を抱え、どういう訳か顔を埋めていた。その隣に座るサスケも、片膝を左腕に抱えて、苛立たしそうに左手を開いたり閉じたりしている。

 

「……キバ…………くん……」

 

 ん? とキバは、膝に降り立った赤丸の頭を撫でながら反応した。

 

「なんだよ。ていうか寝ろよ」

「……ここ…………どこ…………?」

 

 病院ではない事だけは分かる。どこだろうか。

 薄暗い室内に、大きな機能を求めていないような簡素な様式。そして何よりもの疑問は、中忍選抜試験に参加した者たちが―――厳密に言えば、最終試験まで勝ち残ったメンバーを持つチームが―――集っていて、全員がどこか暗い空気を出していること。

 

 どういう状況で。

 どういう目的で。

 この室内は、出来上がったのか。

 考えながら視線と顔だけを動かして室内を見回していくと、そこで、大切な人がいない事に気付いた。

 

 いない。

 

 彼が。

 

 うずまきナルトが。

 

 どうして。

 

 そして、思い出す。

 気を失う直前の記憶を、鮮明に。

 空か降ってきた死体。

 それらと共に姿を現したイロミ。

 嫌な予感がした。

 

「―――ッ! 痛ッ!」

 

 ナルトの姿が見えない事に慌てて、咄嗟に上体を起こしてしまった。痛みが脳を焼き切らんと襲い掛かってくる。それでも、視線を動かす。室内は広くなく、ナルトがいない事は、あっけなく分かってしまった。「寝てろよ」と語気を強くするキバを、ヒナタは見た。

 

「ね、ねえ……キバ、くん。ナルトくんは…………?」

 

 問いに、キバは応えなかった。ネジから受けた点穴への攻撃のせいで、未だ白眼を発動できない状態であるものの、他者の感情に機敏なヒナタにはすぐに、キバの感情が分かった。

 きっと、彼自身も、ナルトがどうしてこの場にいないのか、知らないのだ。だが、どうして知らないのか。それは、キバの表情からは見て取れなかった。

 ならばと、ヒナタはサクラに尋ねようとしたのだが、サクラは突如として立ち上がった。

 そして彼女は、いのの前に立ったのだ。サクラの表情は、怒っていた。

 

「いの。少し、力を貸しなさい(、、、、、、、)

 

 強い語気を頭の上から振り下ろされるが、いのはサクラが何を考えているのか、即座に理解してしまった。

 心配と苛立ち。それが混ざったような表情を、いのは浮かべる。

 

「アンタ……何考えてるの?」

「ナルトを探しに行く。その為にはまず、この避難所の結界術を破らないといけないわ。いの、アンタの心転身の術で、術者の人を操って結界を破ってちょうだい」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「また貴様か………小娘。忌々しいうちはに紛れた化物め。二度もワシの邪魔をしておきながら、今もまた、邪魔をしに来るか」

 

 だが、と低く、けれど勝ち誇ったように流暢に紡がれる言葉は、冷たく暗い奈落の底に響き渡る。

 

「もはや、貴様では止められん。木ノ葉を憎み、木ノ葉に怒り、木ノ葉を滅ぼしたいと願った。そして、力を求め、ワシを受け入れたのだ。誰にも止められはしない」

 

 巨大な檻。その奥から覗かせる獰猛な九尾の大きな瞳は鋭く、自身の述べた言葉を証明するかのように、檻の目前に膝を抱える男の子を見下ろした。

 

 男の子は泣いていた。

 苦しそうに、辛そうに、そして何よりも、悔しそうに。

 涙を流し、頬から涙を落として。

 落ちた涙を拾うかのように、男の子真下には、檻の隙間から伸びる九尾の赤く黒いチャクラが水溜りを作っている。チャクラは渦巻き、男の子を分厚く覆い、今も尚、厚さは増している。九尾のチャクラは止め処なく、男の子―――うずまきナルトに注がれていた。

 

 邪悪で、暗いチャクラ。

 

 触れるまでもなく、近付いただけでも皮膚が焦げて肉が焼かれるほどの重いチャクラが、ナルトを中心に広がっていく。それはさながら、まだ残っているナルトの感情や意識全てを、侵食し、掌握しようとしているようだった。

 

 赤と黒のチャクラの領域の中。

 

 女の子は毅然と無表情に、檻の向こうの九尾を、その赤い瞳で見上げた。

 

「ナルトくんは、お前を受け入れてなんかいない」

 

 九尾の声が古びた重い鐘がぶつかる音のように低いのに対して。

 女の子の声は洗練された高級な鈴の音である。

 涙を流しているナルトと、歳は大きく離れていないだろう。アカデミー生と言っても、疑う事の難しい体躯の女の子は、獰猛な九尾のチャクラの領域に踏み込んでも尚、恐怖の色を表情に出す事はしない。

 

 ただただ、無表情。

 

 しかし、彼女を深く知る者がいれば、そこには珍しい、怒りの感情があったと判断できる事だろう。

 女の子―――フウコは言った。

 

「ナルトくんは、何も知らないだけ。それが悔しいだけ。お前は何も知らないこの子に、色んな事が悔しいこの子に、むやみやたらにチャクラを送ってるだけに過ぎない」

「嗤わせる」

 

 と、九尾は口端を吊り上げた。

 

「たとえお前の言う通りだとしても、同じ事だ。こいつが何を思っていようが、ワシのチャクラを使っている事に変わりはない。木ノ葉隠れの里を恨んでいる事に変わりはない。木ノ葉は滅ぶ。そしてワシは、外に出る」

「私が出させない」

「クククッ。その身体でか?」

 

 フウコは瞳を写輪眼に変化させ、九尾の獰猛な赤い瞳を直視した。九尾のチャクラを調伏させようと、残された僅かな魂で―――。

 

「…………ッ!」

 

 視界が強烈に明滅する。至近距離で爆発の閃光を見てしまったような、けれども光は黒く、脳を溶かされるような、矛盾した光だった。フウコは光の強さに表情を歪め、咄嗟に双眸を手で覆ってしまった。

 掌に熱いぬめりが。血が眼孔を焼き、血涙が滴った。

 

「……くそッ! くそぉッ!」

 

 いよいよフウコは、舌を打った。アカデミーの頃の彼女ならば、自身の想定を超えた場面に遭遇したところで、表情に、そもそも感情にすら小波を出さないはずなのに。

 それは、ナルトの中で外の出来事を知り、感情を獲得してきたからに他ならない。

 ナルトを助けたい。強く育った彼女の感情は、一心不乱に再度、発現させた写輪眼で九尾を見上げるが、既に彼のチャクラはフウコの足元に及んでいた。

 魂が削られていく。

 残り僅かの魂。数に示してしまえば、三年分の魂ではあるが、実際に活動できる時間は一刻も持たない。元々、本体のフウコから分けられた魂は十余年。だが、波の国でのナルトの暴走で七年分を使ってしまっている。

 

 七年。

 

 それほどまでのチャクラを使っても、九尾の暴走を完全に防ぎきる事は出来なかったのだ。たった三年分で、何が出来ようか。

 

 それはフウコ本人も頭では理解できている。だが、諦めるという感情の選択肢は無かった。頭の中で膨れ上がる不安と恐怖、そして罪悪感が、九尾のチャクラへの抵抗の源泉だった。手足の端々から、水分を無くした砂の塊が崩れ落ちるように、削られていく。

 

 必死の抵抗は、実を結ばず、フウコはついに膝を崩してしまった。

 

 彼女の姿を、九尾はつまらなそうに上から見下ろすだけだった。

 

 つまらなそうに。

 くだらなそうに。

 呆れ果てたように。

 これまで眺めてきた、くだらない人々と全く同じように。

 

 九尾はナルトにチャクラを、さらに量を増して与えた。すると、ナルトの涙の量が増える。

最後の仕上げだ。これでナルトを完全に掌握し、檻の封印を彼自身を使って封印を破らせる。

 

 ようやくだ。

 ようやく。

 解放される。

 こんな子供から。

 こんな、力強いチャクラを持つ子供から。

 これまで何度、檻の隙間からチャクラで背を叩いても、磨き抜かれた鏡の如くチャクラを弾き返される。

 本来ならば、チャクラに晒され続けただけで壊れてしまってもおかしくないというのに。

 血か、と。かつて九尾は苦虫を噛みしめた。

 しかし。

 解放されるのだ。

 そして解放され、人の世を破壊し尽す。

 こんな、理想からかけ離れた、彼の者の理想の残骸ですら成りえなかった、世界から。

 ようやく、解放されるのだ。

 

「………だったらぁあッ!」

 

 フウコの写輪眼がナルトを見据えた。すると、ナルトを覆っていた九尾のチャクラは弾け飛ぶ。

 

「―――小娘ッ!」

 

 微かな苛立ちが、達観していた九尾の瞳に宿った。

 その瞳を、しかしフウコは睨み返さず、ただナルトを見て、守った。

 

「お前そのものを抑えられなくても、漏れてる程度のチャクラを邪魔するくらいは出来るッ!」

「下らん。お前を消せばすぐに終わる事だ、無駄な足掻きをする」

 

 九尾はチャクラの指向性を変えた。ナルトに向けていたチャクラを全て、フウコに向けたのだ。膨大な量のチャクラがフウコを覆い尽くした。

 砂塵のように消えていった四肢は、瞬く間に、業火に揺蕩う紙屑のようにボロボロと崩れていった。

 絶叫。

 悲鳴。

 自分の力が消え失せていくのを実感してしまう悲痛が込められた声でさえも、チャクラに燃やされようとしている。

 かつて本体のフウコが浴びた重明のチャクラを凝縮し、抽出したような、憎悪と絶望の深淵とも言える力だった。

 

 それでも尚、フウコはナルトを見て、守り続ける。

 見守り続ける。

 少しでも。

 少しだけでも。

 ナルトから、九尾のチャクラを遠ざける為に。

 フウコとナルトは、九尾を始点に一直線上に並んでしまっている。フウコにチャクラが集中してしまっていても、その通り道の上にナルトは座り込んでいるのだ。

 だから、そのチャクラを遠ざける。

 

 ―――あ……あと…………もう……少し………。

 

 ナルトの足元を完全な無地にした。

 

 ―――これで……ナルトくんは………安…………ぜ……。

 

「そんな事をして何になる……」

「あぁぁぁあぁぁぁぁぁぁあああああッ!」

 

 フウコはボロボロに崩れ………もはや、首だけに。

 

 顎が、唇が。

 頭が、額が。

 崩れて、右眼まで侵食され。

 最後は左眼だけになっても。

 フウコはナルトを九尾のチャクラから守った。

 そうすれば、問題は無いから。

 九尾のチャクラを奪うのに。

 奪い尽くし、紡ぐために。

 

 ―――あとはお願いします………。

 

 ミナト様。

 

 クシナ様。

 

 二人の名を想い願った時、フウコは消滅し。

 

「ありがとうございます。フウコさん」

 

 フウコを食らい尽くした九尾のチャクラを、彼は掴んだのだ。

 自身のチャクラを掴まれたことよりも、九尾は、彼の姿に……そして、その後ろに立つ彼女の姿に、怒りを抱く。

 

「お前らは―――ッ!」

「久しぶりだね、九尾」

「正直……アンタともう一度会うのは、嫌だったんだけど。ナルトに会えるんだったら、嬉しい限りだってばね」

 

 波風ミナトは笑い。

 うずまきクシナは怒っていた。




 次話は今月中に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼は言ったのだ。ただ、柵のようなものになれればいいんだと。

 波風ミナトとうずまきクシナ。九尾にとって二人への憎悪は、長い年月を体験してきた中でも比類ない。これまで多くの人柱力に封印されてきた中で、何の力も無いただの赤子に封印したからだった。

 ナルトの精神世界に姿を現した二人をチャクラで喰い尽くしてやろうとした途端、ミナトに掴まれたチャクラが、吸い寄せられる。

 

「ミナト……貴様―――ッ!」

 

 九尾は即座に激怒と憎悪を収めて、ミナトに吸い取られようとしている自身のチャクラを押し留める。鋭い牙同士を噛みしめるほどの力を入れるものの、檻を挟んで立つミナトのチャクラを引く力と拮抗する状態を維持するだけだった。

 

 ようやく、九尾はミナトらの目的を理解した。

 

「ワシのチャクラを……奪うつもりかッ!?」

 

 屍鬼封尽の使用者であるミナトならば、緩んだ封印を締め直す事は容易なはずだ。波の国の時のように、暴走したナルトを止めた時のように、今回もまた邪魔しに来たのだと。だがもはやナルト自身は正気を完全に手放し、泣き叫びながら弱い両手が強烈に力を求めてしまっている。たとえミナトが間に入ろうと、ナルトが木ノ葉隠れの里へと向ける激情を抑える事は出来ないのだ。

 

 だからこそ、ミナトとクシナが姿を現しても、今回は問題ないと考えていた。

 

 しかし違う。

 

 ミナトとクシナは、力を奪いに来たんだ。

 

 奪い、ナルトに渡すつもりだ。

 

「……本当は、ナルトが自分で出来るようになってほしかったんだけどな」

 

 九尾とのチャクラの引っ張り合いをしながらも、ミナトはどこか達観した表情を浮かべた。まるで、九尾の引力など、どうでもいいと言いたげだ。チャクラを引っ張られながらも、チャクラの束を細く切り離し、ナルトを目掛けた。

 ナルトにチャクラを繋げる事が出来れば、ミナトはチャクラを奪うことは出来ない。だからこそ、フウコは消える間際にナルトをチャクラから切り離したのだ。奪うチャクラの経路にナルトがいたら、ナルト自身のチャクラも奪ってしまうからだ。

 

 九尾の画策は―――クシナによって阻まれる。

 

 ナルトの周りを、気丈に、強固に、守り立ちはだかる潔白の鎖が現れ、九尾のチャクラは弾かれた。

 

「もう、この子に手出しはさせない!」

 

 前任の人柱力であるクシナの力は―――うずまき一族の力は―――九尾は嫌と言うほどに知っている。ミナトにチャクラの本筋を掴まれてしまっている以上、クシナの力を突破する事は出来ない。

 巨大な舌を打ちながら、ミナトとのチャクラの引っ張り合いでしか、自身が外に出ることが出来ないという事を察した九尾は獣の瞳をギラつかせながら、ミナトを見下ろした。

 彼もまた、九尾を見ていた。真っ直ぐと。九尾は声を荒げる。

 

「貴様らは分かっているのか……? このガキは、木ノ葉の敵になったんだ。こいつにはもう自由はない。お前たちが、ワシをこいつに封印したおかげでな。今更、ワシの力を与えたところで変わる事は何も無いんだぞ」

 

 ナルトが幼き頃、木ノ葉隠れの里の大人たちから敬遠され続けてきたが、完全に暴走してしまった姿を晒してしまっては、いよいよ、かつての記憶が蘇るだろう。試験会場や里の外でも響かせた獣のような声。あるいはフウが咄嗟に尾獣玉を撃たせないようにと空を滑空した時。あるいはチャクラの波を感知。里の者たち全員ではなくても、何人もの人物が知ったはずだ。

 

 一人が知れば、二人に言葉を流し。

 二人が知れば、四人が聞く耳を立てる。

 四人も知れば、十人へと広がり、十人の言葉は信頼を獲得して噂が跋扈し始める。

 もしも封印されている人間がクシナならば、幾分かの信頼は残っただろう。

 

 あるいは。

 

 多大な実績を積み重ねた偉大な忍ならば、信頼への影響は無かったかもしれない。

 

 しかし、今の人柱力は、ただの子供だ。

 

 無邪気で、感情の起伏や方向性に予測を当てられない、ただの子供。

 故に大人が恐怖し、そして九尾への殺意を、これまでよりもぶり返してしまう可能性は色濃い。少なくとも、ナルトの自由は消え失せたのは間違いない。

 

 視界の端でクシナが下唇を噛んでいる。人柱力であった彼女ならば、かつて幾度も耳にしていたのかもしれない。人柱力と呼ばれる者たちが、一度、多くから恐れられてしまえば、どのような顛末を迎えるのか。

 

 愛すべき我が子が、その結末を迎えようとしてしまう。その恐ろしさと罪悪感が、クシナの心を締め付けていたのは間違いなかった。

 

「そうだね、九尾。お前の言う通りだ」

 

 ミナトは淡々と、そう呟いた。

 

「正直、ナルトが木ノ葉で色んな人の信頼を得る道のりは、とてつもなく遠くなってしまった。もしかしたら、もう道も無いのかもしれないな」

 

 だけど、

 

「今でも俺は、ナルトにお前を封印した事は間違いではないと思ってるよ。ナルトはいつか、お前の力を使いこなす」

「何の力もない、このガキがか? このワシを? 笑わせる」

「力が無いのは仕方ないさ。ナルトはまだ子供だからね。それでも、頑張る事が出来る子だよ。紆余曲折があったけど、見よう見まねで、不出来だけど、螺旋丸を覚えたんだからね。頑張れる。それは、大人になれば分かってしまうけど、とても貴重な才能なんだ」

 

 子供というのは、頑張ってもいいという、自由な環境にいる。頑張ってもいいし、頑張らなくてもいい。子供に対する保障は、家族という最低限の枠組みがあるからだ。

 

 家族。

 

 機能を考えれば、一人で生きていくことの出来ない者を守る為の力場。

 大人になってしまえば、それは消えてしまう。頑張らなくてはいけない事を強いられてしまう。そうしなければ、力場を失った先の荒野では、生きていけないからだ。

 うずまきナルトはこれまで、頑張ることを、努力する事を途絶えさせはしなかった。

 方向性が間違ったこともあるだろう。正しい分析の上に成り立ったものなど殆どないだろう。

 それでも彼は、努力への歩みを緩めはしなかった。

 我が子のその歩みを、ミナトとクシナは、フウコを通じて見聞きしていた。親の色眼鏡が無いとは言い切れない。だけど、事実はある。曲がりなりにも、不出来でありながらも、螺旋丸を体得したのだから。

 九尾は一笑した。

 

「奈落のような檻の中で無意味に足掻くことが、こいつの末路であることを誇りと断ずる。愚かにも程がある」

「そうなるかどうかは分からないけどな。まだナルトは子供だ。何も知らない上に、本当に力は無い。だから言うならこれは、ちょっとした前借りみたいなものだ、九尾」

 

 手加減をしていたのか、あるいはこれこそが限界なのか。

 チャクラを引っ張る力が増した。

 苦悶の表情を作った九尾に対して、ミナトの表情は穏やかながらも凄みを生み出している。

 

「この先、ナルトは困難な道を歩んでいくだろう。何も知らないままに、何も経験できないままに。それは、とても辛い道だ。俺でも、途中で膝を折ってしまうかもしれない」

 

 それはナルトに九尾の力を封印した責任ではなく。

 守ってあげるべきはずだった親という立場を、あまりにも早く、死して失くしてしまった事への責任だった。

 一方的に期待と信頼だけを渡してしまい。

 我が子を託した者にも負担を残してしまい。

 火影という重要な地位を引き継ぎながらも、命を失った事によって、むしろ木ノ葉隠れの里に混乱を与えてしまった事への。

 やはり何よりも、ナルトの親としての誠意だった。

 

「力があれば」

 

 とミナトは言い、その姿を見てクシナは力強く九尾を見上げた。

 

「力があれば、多くを知る時間を確保できる。力があれば、様々な経験を得る事は絶対にできる。そして、ナルトが求めている道へ進む為の成長が手に入る。だからお前の力、渡してもらうぞ」

 

 ミナトが腕を振るうと、九尾を抑えていた檻が開かれる。

 九尾の力を奪うには、封印の檻はむしろ邪魔でしかなかった。その行為そのものが、九尾からチャクラを奪えるという確信の下に成り立っているのだと分かり、九尾は怒りに雄叫びを上げた。大言壮語だと。

 それでも、息子を前に立つ父と母の背は一直。

 

「クシナ……悪いけど、ちょっと無茶してもらうよ」

「今更よ。ナルトを守りながらでも、アンタのサポートくらい余裕だってばね」

「ありがとう。―――ナルト」

 

 きっと二人の声も、九尾の雄叫びすら聞こえていないのだろう。ぐずり泣くナルトの小さな背中へ、背中越しに、ミナトは優しく語りかけた。

 

「お前はいつも通り、頑張り続けろ。どんな事でも良い。胸を張れ。父さんと母さんは、お前がどんな道を進んでも、こうして背中を守ってやる」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 自来也とフウの緊張に僅かな違和を与えるには、尾獣化したナルトの異変は充分な衝撃だった。

 

「急に……おとなしくなりおったの。どうしたんじゃ…………」

 

 腹の力が微かに緩んだような一言は、決して油断を抱いた訳ではないが、言うなれば、生物的な反射だった。全身の疲労と、至る所に残る痛み。原形を留める木々は辺り一面と無く、抉られ、あるいは隆起と陥没をアトランダムに繰り返す大地、それらの八割ほどを作り上げたのは、ナルトの暴力に他ならない。尾を六本へと増やしたナルトの、あらゆる挙動は死を呼び込むほど。骨格のような骨がさざめく度に、死が歌う。フウという強力な味方がいたとて、既に尾を増やしたナルトの力を完全に止めるには足りないものが多すぎた。

 

 死と隣り合わせ、などとはあまりにも生温い。

 死が首の周りでとぐろを巻いている。

 明確な打開策など見いだせないまま、体力と気力だけが削られていく、行き詰まりの崖の先。

 そんな最中に、突如として、ナルトの動きが止まった事に対して、本能が息を吐くのはどうしようもない事なのだ。

 

「重明……これは………?」

 

 倒れている大木に膝を付きながらフウは尋ねる。

 

「もしかして、封印術が復活したとか?」

『さあな。分からん』

「……封印されてる身の上の癖に、興味無さすぎじゃないっすかねえ」

『俺の封印式と、あのバカに掛けられてる封印式は違う。どういう仕組みなのかなんて、分かる訳がねえだろ。お前も、俺に身体を預けたらどうだ?』

「ゴメン被るっすよ。そういう台詞は、イタチさんみたいなイケメンに言われるもんなんす」

『どっちにしろ、今がチャンスだ。あのバカを眠らせるには』

 

 自来也もフウも、そして同じ尾獣である重明でさえ、ナルトの身に何が起きたのか理解は追いついていなかった。いや、自来也は多少の推測は立てられてはいる。波風ミナトが施した封印術なのだ。何かしらの予防策を施していたのだろう。

 

 しかし、仕組みを考えるのは後で良い。

 

 今は、最初で最後かもしれないチャンスを逃さない事だけを考えるべきだ。

 

「フウ、自来也様!」

 

 二人の後ろに、カカシが姿を現した。彼の後ろには、幾人もの忍が隊を成して付いてきている。その中には、暗部の装束に身を包んだテンゾウの姿もあった。

 

「遅れてすみません。封印術に長けた連中を集めていました。……これは―――」

 

 フウや自来也程ではないが、カカシもまた戦闘の痕を衣服と身体に刻んではいる。いずれも重傷とは言えないものの、消耗しているのは見て取れる。幾許かの疲労を浮かべていたカカシだが、ナルトの尾の本数と異形。そして、不自然に身体を震わせながら殺意と怒気を潜めている姿に眉を顰めたのだ。

 

「波の国と同じ……いや、それとはまた、違うか………?」

 

 カカシの脳裏に浮かんだのは、波の国でのナルトの暴走と、突如の鎮静。目の前のナルトは、鎮静の兆候に酷似していた。だが、違和を覚えるのは、波の国では鎮静が始まってから元の姿に戻るまでに、殆ど時間を要さなかったからである。

 ―――波の国で、封印術の仕掛けは無くなったと思っていたが、まだ何かがあるのか……。

 

 兎にも角にも。

 九尾の暴走を抑える為に封印術に長けた者……何より、テンゾウを連れてきてよかった。まだ残っている仕掛けが、どれほどの結果を導き出してくれるか、分からないのだから。

 

「テンゾウ、すぐに封印に取り掛かってくれ。他は、ナルトの動きか、テンゾウの負担を減らせるようにチャクラを削ってくれ」

「任せてください、カカシ先輩」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 薬師カブトの幻術が、試験会場を包み込んだ時。木ノ葉隠れの里の上忍及び暗部を除いて、幻術返しを使用し、カブトの幻術から逃れた者は幾人かいる。

 

 うちはサスケ。

 春野サクラ。

 奈良シカマル。

 日向ネジ。

 

 四人は下忍という立場でありながらも、卓越した頭脳や、蓄積していた知識、あるいは先天的なセンス、いずれかに大いに富んだ者たちであり、カブトの幻術が展開されたその時に瞬時に対応していた。

 けれど、実はその他にも、もう一人、カブトの幻術から逃れた者がいたのである。

 

 それは、山中いの。

 

 彼女が幻術返しを実行できたのは、主に二つの偶然に起因している。

 猿飛イロミが死体と共に試験会場へ乗り込んできたことによる、本能的な危機管理が、いつどのような事態に対してもすぐさま反応できるように、いのの理性が鋭敏になっていたこと。近くの席に座り、同じ班のシカマルが、カブトの幻術が展開された際に幻術返しの印を結んでいる瞬間を、偶々、視界の内に捉えていたということ。

 

 もしもイロミが姿を現さず、試験会場に緊張を与えていなければ、いのはカブトの幻術に囚われて意識を失っていた事だろう。

 

 いのは、幻術返しの印を結んでいたシカマルが咄嗟に、他の者たちと同じように意識を失うフリをして地面に倒れたのを目撃し、それに倣って彼女も地面に倒れた。すぐ隣のチョウジは見事に意識を失い、大きな身体を座席に預け、ブラリと弛緩した太い足を押しのけながら、いのはシカマルの元へと身体を小さく這いずらせながら近づいた。

 

「シカマル、シカマル!」

 

 声量の代わりに吐く息を多くして、狸寝入りをしてこちらに後頭部を向けているシカマルに語り掛けた。

 

「………………」

「シカマル、起きてるんでしょ! 知ってるのよッ!」

「………………」

「……ちょっと」

 

 徹底して狸寝入りを続けるシカマルに苛立ってしまい、彼の後頭部に拳を叩き付ける。彼は一瞬、痛みに身体を震わせたが、彼は殴られた部位を軽く手で掻いただけで、言葉だけは返してくれた。

 

「痛えな。何すんだよ」

 

 不機嫌さを隠しはしないながらも、彼もまた同様に、声を潜めた。

 

「いい加減、口より手が出るそのガサツさ、直した方がいいぞ」

「アンタが無視するからでしょッ!」

「……状況考えろ。明らかにヤベえだろ。大名やらお偉いさんがいる試験会場全体に幻術を使うなんて、普通じゃない。血生臭い感じがする」

 

 同じ班になってから知った、シカマルというチームメイトが持つ危機察知の精度と思考速度。任務でチームが行き詰った時に、彼はいつも、良い作戦を考え出し、作戦の手続きが問題なく成立した場合は確実に良い結果を導き出してくれる。

 

 大抵の場合は「めんどくせえ」などと口ずさむが、狸寝入りをしている今においては、その言葉が出てこない。

 

「無駄に喋ってっと。巻き込まれるぞ」

「………………」

「あと、チョウジのやつを、いい感じに床に倒しておいてくれ。座席で居眠りするよりかは安全だ」

 

 シカマルの言う通りに、静かにチョウジを床に転ばせ、息を潜めた。やがて現状は、シカマルの言うように、血生臭いものとなっていった。

 

 木ノ葉の忍と音の忍の乱戦。

 試験会場に乱入してきた女性の奇声と、背から生まれ出た巨大な蛇の群れが暴れ回り、音の忍は喰い尽くされ。

 静かに吸う空気が、血と腐臭に塗れた頃には、いのの呼吸は乱れていた。

 恐れたのは、巨大な蛇を背から生やした少女だ。試験会場の音の忍らももう、物見櫓にいる者たちを除いては、彼女に捕食し尽くされてしまったようだ。

 

 食べられる。これほど恐怖心を震わされるものがあるだろうか。

 

 呼吸を乱してはいけない、震えてはいけない。

 その決意は、女性の奇声が聞こえる度に揺るがされていく。肩や足が震えて、糸のように細く吐いてる息の音が大きく聞こえてしまう。自分の身体というものが、これほどまでに音を生み出してしまうものなのか。

 

 音が止んでほしい。

 

 いや、もっと他に、そう、大きな音が周りにあれば、紛れてくれるはずだ―――既に、イロミの大蛇らの暴食は終わり、静かになっていたのだが、いのの意識には周りの状況は入ってきてはいなかった―――。

 もっと。

 大きな音があれば。

 そう願った時だった。

 獣の雄叫びが会場を満たしたのは。

 

 生存本能が希った耳をつんざく音。突然、鼓膜を殴る音に心臓が跳ね上がったが、そのおかげか、獣の声が鳴り止んだ時にようやく、蛇たちの暴虐が収まっていたことに気が付けた。

 

 いのは顔を上げる。冷静さが戻り始めたせいで、気になったのだ。

 獣の声の根底に、聞き覚えがあった。喧しく喧しく、そして喧しいイメージだけが頭の中に浮かび上がる。

 下からゆっくりと視線だけを上へと昇らせていく。

 

 そして、見つけてしまった。

 

 物見櫓の鮮やかな瓦屋根。その天辺から、蒼天を貫く紫色の結界が異常を作り上げているが、そのすぐ近くに、真っ赤な獣がいた。

 不吉で、おどろおどろしいチャクラの波。尾を四本も生やしている姿は御伽噺にでも語られそうな非現実さが膨れ上がり、イロミへの恐怖とは違った悍ましさが首筋をなぞる。

 アレは、見続けてはいけないモノだと思いながらも、しかし、いのの視線は、ごく僅かではあったものの、獣を見上げていた。

 

 引っ掛かったからだ。

 

 獣の姿、そして声。

 

 逆立った髪の毛と背丈、顎のラインに見覚えを抱くのは、不服にも、アカデミーの頃、そして中忍選抜試験の時でさえも見かけ続けていたからだろう。

 

 ―――え……あれって………。

 

 いやけれど、気のせいかもしれないと。

 いのは頭の中に浮かんだ彼のイメージを、疑問符を付随させながらも、やがて来てくれるアスマの助けまで、いのはシカマルと共に狸寝入りを続けたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 そして、いのの頭の中に沈めていた疑問符のイメージは、サクラの言葉によって再浮上した。しかも、避難所には当然、命を奪いに来る存在も無く、思考が冷静さを基盤に正常さを保つのには最低限の条件を満たしてしまっている。

 

「ナルトを探しに行く。その為には、まず、この避難所の結界術を破らないといけないわ。いの、アンタの心転身の術で、術者の人を操って、結界を破ってちょうだい」

 

 言葉だけを聞けば、なるほど、避難所に姿の無いナルトを心配しているチームメイトに見えるだろうけれど、いのにとっては、彼女の言葉には疑惑を問わざるを得ない。

 

「……急に何を言い出すかと思えば……………。そんな事、出来る訳ないでしょ」

 

 真剣に詰め寄ってきたサクラの広い額が小さく震える。彼女の表情が、さらに、いのの疑問符を強くした。

 この場にいないチームメイトを心配している、というのとは違う気がする。じゃあどんなものなのかと考えると、明確には導き出せないが。

 

「どうして、出来ないの?」

「……アンタさ…………。自分で何を言ってるか、分からないほど馬鹿じゃないでしょ。ここは避難所よ。つまり私たちを安全に匿ってくれる場所なの。それをわざわざ抜け出したりなんかしたら、どうなると思ってるの?」

「そんなことは、後から考えればいいのよ」

「後? 後ってものが、そもそもあると思ってるの? まだ外がどうなってるか分からないのに、もしかしたら外に出た途端に死ぬかもしれないのよ?」

「いのは結界を壊すだけでいいの。私を外に出してくれさえすれば。どのみち、心転身の術を使えば、貴方は動けなくなっちゃうんだから」

 

 言葉の矛盾とでも、言えばいいのだろうか。

 

 チームメイトの所在がはっきりしていない事への不安や心配があるのならば、本当なら、手を貸せとも言うべきだ。いや、サクラなら必ずそう言うはずなのだ。

 手を貸してほしくないのか。

 それとも、一緒に来てほしくないのか。

 直感が言ってくる。サクラは、あのナルトを探しに行くのだ。一目見ただけで、邪悪さを頭の上から押し付けてきた、あの獣の所に。

 

 危険だ。

 

 絶対に行かせたくない―――。

 

「……シカマル。手伝って」

「はあ?」

 

 横に腰かけていたシカマルがあからさまに嫌な顔をした。

 

「話、聞こえていたんでしょ。なら手伝いなさい」

「聞こえてねえなあ、さっぱり。そんな、面倒くさそうな話はよ」

 

 いや、シカマルも間違いなく、あのナルトを見たはずだ。彼の危機察知の高さを言えば、試験会場に殴りこんできた邪悪なチャクラの波の元を目撃しない筈がない。そして、自分でも辿り着いた、獣がナルトなのではないか? という疑問を手に入れているのは間違いない。

 聞こえていない。これは、シカマルからの遠回しの否定だ。サクラといのの会話を聞きながら、雲を眺められない室内での暇潰し代わりに、もしかしたら想定していたのかもしれない。

もし、外に出たら、どうなるか。

 

 あのナルトと対峙したら、どうなるか。

 

 行くなと。行くべきではないと。それは詰め路なのだ、と。

 賢い彼が示した帰結が、それだったのだ。

 けれど、いのは食い下がる。

 

「真面目に答えなさい。手を貸して」

「……無理だな」

 

 と、シカマルははっきりと言ってみせた。

 

「まず、外の状況が分からねえ以上、出たとこ勝負になる。しかも、木ノ葉に攻め込んできている連中だけじゃなく、今、外で戦ってる上忍や暗部の連中にも隠れながら動かなくちゃならない。前者は殺されるかもしれないから、後者は保護されちまうかもしれないからだ。どっちにしろ、サクラやいの、俺よりも力がある奴しかいない。そんなガッチガチに条件厳しい中で動くなんてほぼ不可能だし、意味があるとは思えねえよ」

「なら、サポートに来たって嘘を吐いて―――」

「ガキの俺たちがそんなこと言っても、信じてもらえる訳ねえだろ。第一、俺たちが行って何になるんだよ」

 

 つまりは、力が無いだろ、とシカマルは言っている。

 たとえ、結界の外で戦闘が終わっていたとしても、あのナルトを前にして対抗できる実力をそもそも持っていない。この避難所にいる誰もが、だ。

 

「今は、アスマとか、上忍の連中、暗部の連中に任せておけば―――」

「任せられるわけないでしょッ!」

 

 シカマルの声を遮ったのは、サクラの声だった。室内の誰もが、彼女に視線を向けた。

 サクラはカカシから、波の国での出来事については禁を指示されていた。ナルトのあの姿は、木ノ葉隠れの里にとっては認識されてはいけないものなのだ。

 もしも認識されてしまえば、どうなる?

 波の国において、互いに命の削り合いをしていたカカシと再不斬が、ナルトのチャクラを感じて咄嗟に戦闘を止めるほどの危険性。

 

 今。

 

 ナルトは上忍や暗部に囲まれているのだろうか?

 考えたくも無い想像。

 だからこそサクラは、意識しないままに声を張り上げてしまったのだ。ナルトを探しに行くと言い出したのだ。

 いのもシカマルも、言葉を発さない。室内は弾かれた弦が元に戻ろうとしているような嫌な静けさに支配された。

 その静けさを押し出すように、避難所の出入り口から、子供の声が入り込んできた。

 

「ねえねえ、お姉ちゃん。どうして、あの鬼みたいな人と、お母さんを助けてくれた人たちはどっか行っちゃったの?」

 

 足音は二つだった。

 一つは軽い、スキップをしているような足音。

 もう一つは、ゆっくりとそして重々しい足音だった。

 子供の声はおそらく軽い足音の方だろう。子供に応えた重い足音は、しかしながら、声は中性的で穏やかだった。

 

「あの方は、人の多い所が苦手なんです。他の御二人は、君のお母さんみたいに、困っている人を助ける為に別の所へ行ったんです。安心してください、あの方がいれば、御二人も安全ですので」

「鬼の人に、ちゃんとありがとうって、言ってなかったんだけど……」

「では、僕が後で伝えておきましょう」

「ほんとう!?」

「はい。だから君は、ここで寝ているお母さんと一緒にいてください。すぐに、目を覚ますと思いますので。……あと、僕は男ですよ」

 

 足音は近づいてきて、そして、姿を現した。

 小さい男の子と、

 意識を失った女性を背負った美少年が。

 いのの後ろで、ひゅ、とサクラが小さく息を呑む音がはっきりと聞こえる。

 美少年―――白は、室内で一度立ち止まる。サクラを見てから、室内を見回し、座っているサスケへと視線を重ねる。

 

「どうして……ここに…………」

 サクラの声はあまりにも小さく、ようやく聞き取れたのはいのとシカマルくらいだった。白は優しく笑みを浮かべ、サクラに向き直った。

 

「お久しぶりですね。まさか、こんな所で出会うなんて。無事で何よりです」

 




 投稿が遅れてしまい申し訳ありません。モチベーションの面ではなく、中道の周辺環境(生活環境なども含む)が変わってしまい、忙しかった為でした。まだ忙しない時期が続いてしまうかもしれません。投稿は今月か来月の頭ほどになるかと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ポーカーフェイス

投稿が大変遅れてしまい、誠に申し訳ありません。

次話は今年中に投稿します。


 春野サクラが外に出ると言い始めた時、うちはサスケの脳裏には二人の人物の背中が浮かび上がったのは、本人さえもどこか無意識の内に仕舞い込んでしまう疎な風だった。一人は、兄である、うちはイタチ。呪印を飲み干して沙汰の外へと足を踏み込んだイロミの力は、これまで見てきた者たちを遥かに上回っていた。イタチが負けるなんて一縷も信じていないが、どうしても、フウコの夜がフラッシュバックしてしまう。助けたい、もう傷付いてほしくない。だが、自分の実力では間に入れはしないというのも分かっている。願望を追い求める感情と動じない現実に抑えつけられる感情の板挟みにされていた。

 

 そしてもう一人は、うずまきナルト。彼に対しては、心配や不安というものは生まれなかった。かといって、他の感情が隆起したかという訳でもない。ナルトのことは変わらず嫌いだ。憎いとすら思っている。未だフウコを想い、信じている能天気さ。邪魔で、目障りだ。なのに、絶叫が。櫓の上で紅く染まったナルトの絶叫が頭から離れない。恐怖ではない。言葉には難しい、胸騒ぎが巣くっていた。

 

 分析も制御も出来ない感情。それが苛立ちを積み上げ、サスケの理性がギリギリにまでその積み上げられた感情の塔を支えていた。

 

 そんな折に姿を現した白に対して、サスケの感情に何ら力が働かなかったと考えるのは、いささか現実離れしてると言えるだろう。その感情の振動が、かつて波の国で争った相手に対する緊張でも、木ノ葉隠れの里にいるはずもないことへの驚愕でも、無かった。

 初めは、ただ、サスケは白を睨み付けるだけだった。

 

「ど、どうしてアンタがここにいんのよッ!」

 

 声を挙げたのは、サクラだった。彼の事を知らない者にとっては、美少女とも美少年とも表現できる人物に途端に怒鳴った光景にしか見えなかっただろう。白の姿は、意識を失った女性と戦争から難を逃れた子供を助けてきた人物、という認識だけだった。それも、微笑ましい笑顔は好印象を与えるばかり。サクラの声は大きな違和感を、室内に持ち込んだだけだった。

 

 まるで親しい知人に会ったかのように、白は軽く会釈した。

 

「本当に、久しぶりですね」

「お姉ちゃん、この人と知り合い?」

 

 そうですよ、と白は子供に笑いかける。背負った女性を壁際に寝かせると、子供の頭を撫でながら「お母さんがそろそろ起きるから、それまで傍にいてあげてくださいね」と呟いた。子供は力強く頷いてみせ、静かな寝息を立てる母の手を、小さな手で握り座った。

 

 白は静かに振り返る。彼はサクラを見つめたが、振り返る際、ほんの一瞬だけ、サスケと白の視線が重なった。偶然ではない。まるで、何かを確認するようだった。視線の意図に、サスケの苛立ちはさらに強くなった。

 

「この子の傍にいてあげてください」

「……はあ?」

 

 とサクラは口を開けてしまう。

 

「子供の方は怪我はありませんが、母親の方は重傷を治療したばかりです。専門の方が言うには、問題は無いようですが、日常生活に後遺症が残ってしまうような症状が、今後現れるかもしれません。異変があれば、すぐに結界術を張っている方々にご連絡を。外は落ち着き始めていますし、すぐに医療忍者を手配してくれるはずです」

「はあ? ちょっと、なに勝手に言ってるのよッ! 私の質問に応えなさいよッ!」

「応える気はありません。それでは」

 

 白は有無を言わせない飄々淡々とした笑みを浮かべたまま、入ってきた出入り口に爪先を向けたのである。

 その行為がいよいよ、サスケの身体を動かしたのだ。即座に、白の正面に立ちはだかった。

 

「どいてください、サスケくん」

 

 咄嗟に足を止めた白は、単純に目の前にサスケが動いたからだけではなかった。サスケが無意識下で放った殺気の濃度が、臨戦態勢のそれに近似していたからだ。

 緩やかな笑みの下には洗練された集中力が構築されている。

 

「お前がいるということは、再不斬の野郎もここに来ているのか」

「ええ。外にいます。それがどうかしました?」

「ここに、どうしてきた? 大蛇丸と手を組んでるのか?」

「もしそうなら、僕はこの場に来た瞬間に、君に千本を投げているところです」

「だろうな」

 

 張り詰めた空気は静かに室内に充満していく。

 

「外はどうなっている」

「もう殆ど、制圧は完了しています。間もなく、木ノ葉隠れの里は安定するでしょう。里の内部でまともな戦闘が行われているのは、櫓の上での、大蛇丸と火影のものくらいです」

 

 白の言葉は実に明白に、里の状況を示していた。

 大蛇丸と火影以外の戦闘は決している。

 戦争と呼ばれる状況下において、各所における戦闘の終了とは即ち、捕縛か死者の発生のいずれかとなる。

 イタチと対峙したイロミの状態を、サスケは克明に覚えている。

 殺意と激怒。

 狂気と異常。

 その権化の彼女が、イタチを捕縛するという行動を取るなど、ありえない。

 戦闘が終わったという事は、どちらかが、死んだという事に他ならない。

 

 聞かなければ良かったと数瞬前の自分を恨んでしまう。だがそれでも、兄が、イタチが、心配だった。

 

 白がどういった目的で木ノ葉隠れの里にいるのかは、鮮明ではない。しかし、ある程度は認識しているはずだ。室内にナルトの姿が無かったのに対して、白は何らリアクションを取っていなかった。

 ナルトが暴走した事を知っている。

 波の国でのナルトを知っているのならば、そのナルトから目を離すはずがない。いつ何時、暴走したナルトの牙が自分の喉元へ伸びるのか分からないからだ。いや、ナルトだけではない。木ノ葉だろうが、音の忍だろうが、いつどのような状況で戦闘に巻き込まれるか分からない。

 アバウトであっても、全容を把握する手段を用いているはず。

 白ならば知っているだろうと尋ねたのだ。

 続けて、言葉を。

 兄の明確な安否を尋ねる―――言葉を。

 

「君の兄である、うちはイタチさんは無事ですよ」

 

 潮騒を吹き飛ばす、一時の暴風のような衝撃。やってきたのは、瞬間的な心の安定だが、すぐに訝る感情が頭を起こす。白から兄の安否の確認をしたかったというのに、今度はそれを疑ってしまう。子供のような身勝手で矛盾に満ちた感情だ。

 

「どうして分かる」

 

 困ったように頬を人差し指で撫でながら、白は逡巡して、呟いた。

 

「……木ノ葉隠れの里の至る所に、眼を貼っています。まあ、僕の新しい忍術です。その眼が僕の眼に情報を与えてくれます。その情報の中にイタチさんが暗部の方々に運ばれる姿もありました。見たところ、大きな外傷はありませんでした。気を失っているだけのようで、女性の方と一緒に運ばれていきました」

 

 女性。イロミだとサスケはすぐに理解し、思考の外へとすぐに弾き出した。イタチは無事、その情報がようやく心に足を付ける。が、すぐに警鐘を鳴らす。

 

「…………嘘じゃないだろうな」

「嘘を言っているつもりはありませんが、信じていただきたいとは思っています。そうでないと、外に出られないようですし。本当に、信じてください。僕は……君と争いたくはないので」

 

 一瞬だけ。

 

 言葉の最後の方だけ、透明感のある白の笑みが、悲しそうに映ったような気がした。本当に気がしただけだろう。彼からそんな表情を向けられる理由など、ありはしないのだから。

 

「もしも嘘だというのなら、僕が外に出たら暗部の方を呼びましょう。簡単です。霧隠れの術でも使えば、異変に気づいて一人や二人はすぐに来るでしょうから」

 

 信頼関係なんて、あるはずもなく。だからこそ、言葉だけの情報を支える信頼性は情報発信者から拾えるだろう虚飾の有無だけだ。白からは、それが拾えない。嘘かどうかの判別は、困難を極めた。

 かと言って、ここで争ったところで、真実を知れる訳でもない。ましてや、白の実力は知っている。戦争中の木ノ葉隠れの里に容易に潜入し、避難所へと足を運び、言葉が真実ならば至る所に眼を貼り付けられるほどのスキルを身に付けていることを考慮すると、実力は波の国の時よりも上がっているのは間違いない。こんな狭い場所で争ったところで、自分も白も、そして周りの者も全て巻き込むだけで無益だ。

 外に出るべきか、と考える。考えてしまうと、感情がひっくり返る様にどよめき始める。駄目だ、止まれ。サスケは奥歯を噛みしめる。今の自分ではまだ、イタチの足手纏いにしかならない。白が嘘を付いている場合、まだイロミとの戦闘は続いているかもしれない。その間に割って入れるほどの実力があるとも、割って入ってどうにか出来るほどの実力があるとも、思ってはいない。そこまで感情的でも盲目的でも無い。カカシの手によって避難所に入ってから時間も少なからず経ち、一定水準の冷静さはあるのだ。

 

 それに。

 

 白の言葉が真実であった場合、イタチの容態の詳細を知る事は叶わないだろう。暗部に保護をされたというのなら、イタチの情報が外部に漏れることは万に一つ、ありえない。

 

「もう、用はありませんね」

 

 まるでサスケの考えを誘導するかのようなタイミングだった。既に―――いや、最初から―――白への用件は無くなっていた。

 

「外で再不斬さんが待っているので。あ、先ほど言ったように、暗部の方を呼びますので。イタチさんに関しては、そちらから訊いてください」

 

 横を通り抜けようと白が音も無く一歩踏み出すのを、止めるつもりはなかった。他に、白に用は無い―――はず。

 

 ………………。

 

 いや、もう一つある。

 外の状況で、確認したいことが。

 だけど、そう。

 自分の感情がどうして、彼の様子を心配しているのか、不鮮明だったからかもしれない。過行く白を引き留めるのに、言葉も、手も、出なかった。

 

「ちょっと待ってッ!」

 

 白とサスケの間に生まれて、そして消えていくはずだった静寂を、サクラの声と手が割って入った。サクラの手は、白の右手を掴んでいた。

 

「アンタ、外に出るんでしょ!? なら、私を外に出して!」

 

 初めて白の顔から笑みが消えた。瞼を微かに開き、サクラを見つめている。驚いた表情だが、それと同じ顔をサスケは浮かべていた。

 

「えっと………どうしてですか?」

「ナルトがどこにいるか、知ってるんでしょ?」

「……いえ。貼り付けた僕の眼でも彼のことは―――」

「ここに入って来た時、部屋を見回したのに、ナルトが居ない事を訊いてこなかったのはどうして? あのバカがどこにいるか、知ってたからじゃないの?」

 

 脳裏にナルトの姿が浮かび上がる。

 背中だ。

 あの時。

 波の国で、白の攻撃から庇ってくれた時の、背中が残滓していた。

 同じ空間に白がいるのが要因かもしれない。

 

「……彼の元へ行って、何をするつもりですか?」

「助けるに決まってるでしょ」

「貴方の手助けは不要です。上忍のみならず、暗部の方々も動き始めている。もう間もなく、問題は無くなるんです」

 

 白の言う通りだ。波の国の時とは違って、木ノ葉隠れの里には当然、多くの忍がいる。封印術のスペシャリストや、あるいは、ナルトの状態を封じる直接的な手段を持った者もいるかもしれない。いずれにしろ、そう、五大里筆頭である木ノ葉隠れの里が、たとえ法外の域にいる力一つで崩落してしまう訳がない。

 いずれ、ナルトは元に戻る。

 そして……どうなる?

 ナルトのあの姿は、里にとっては暗黙に伏せられたナニカなのだという、サクラと同様の認識をサスケは持っている。ナルトの姿が朱く染まった途端に動き出したカカシとフウの行動で確信に変わってもいた。

 これまでイタチで殆どの思考を埋めてしまっていたせいか、ようやく、辿り着く。サクラが想定した、木ノ葉崩しの先にあるだろう、日常の一部の欠落を。

 サクラは変わらず、白に懇願している。けれど、白は淡々と冷静に、如何に外に出ることが無意味であるかを語りサクラの言葉を尽く否定する。理屈の上で白は完全な優位を確保しているのは、誰にでも分かることだった。

 徐々にサクラの言葉は重くなっていく。頭の良い彼女であっても、明白な理屈の重心を揺さぶることはできない。何もかも、白が正しい。

 

 咄嗟に、サスケは白の肩を掴んでしまっていた。そして、言葉も。

 

「サクラだけじゃない。俺も外に出せ」

 

 ナルトを助ける。少なくとも、今だけはそう考えた。

 憎く、大嫌いな奴に借りを残したままというのは、耐え難い屈辱だ。そんな安易な結論を抱えて。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……たしかに、俺はお尋ねものだがよ………。狙われる義理はねえぞ」

 

 再不斬は頬に付いたばかりの血を肩で拭いため息を漏らす。肩に入っていた力を微かに抜くものの、緊張は解いてはいなかった。真っ当な戦闘が久方ぶりなせいか、身体に無駄な力が入ってしまっている感覚がある。言うなれば、身体が重く硬い。さらには殺してはいけないという条件も重なれば、苦手ながらも言葉による交流を選ぶのは当然のことだった。

 

「俺は、大蛇丸とは関係ねえ。むしろ、人助けをしたところだぞ? 俺に構ってる暇があるってんなら、化け狐になりかけてるガキのところに行くか、それかそこで動けなくなってる使い物にならねえ女を避難させるのがいいんじゃねえのか?」

 

 しかしながら、返答は皆無。七………いや、バックアップとして何処かにもう一人いるだろうから、八人だろう。寝枕の傍に佇む亡霊のように囲うのは、暗部の者ら。霧隠れの里―――ではないのは当然か。木ノ葉隠れの里の暗部である。暗部特有の面を被った者たちだ。

 彼らは、避難所に入っていった白を待っている再不斬に突如として襲いかかってきたのだ。目的を言うわけでもなく、再不斬が木ノ葉隠れの里にいることを尋ねるでもなく。

 

 ―――何なんだ? こいつら。

 

 暗部としての行動と見れば正しいのは言うべくもない。しかし、違和感を覚えてしまう。霧隠れの里の暗部とは違う、というものではない。むしろ、ほとんど変わり映えはしていない。突き詰められた隠密とは、つまりは無駄を極限までに削ったことに他ならない。似通うのは当然だ。

 

 だが……いやだからこそ。

 

 鼻に付く。

 

 暗部が無駄を削るというのならば、なぜ、攻撃してくる。化け狐が暴れている状況で、しかもまだ戦争状態は解かれていない。ならば暗部が動くべきは、木っ端なお尋ね者を捕縛する事ではないはずだ。

 穏和な態度を一向に示さない彼らを前に、再不斬は舌を小さく打った。苛立たしげに、足元で気を失っている暗部の身体を蹴ってやる。最初に襲ってきた足元の男の実力を見る限り、手強いが、逃げ切れないものではない。

 化け狐はいずれ静まる。木ノ葉隠れの里が全力を以て挑むだろう。

 

 ならばとっとと逃げるだけだ。

 

 問題なのは、白が戻ってくるまでここで時間を稼げるか、あるいは戻ってきた時に白が即座に動いてくれるかだが、期待するしかない。

 暗部の者たちは動く。まるで人形を相手にしているかのような錯覚を思わせる迷いのない動きと、軌跡が描く三次元的な幾何学模様はスムーズな連携を示唆する。誰がいつ、どのタイミングで攻撃を仕掛けてくるのか、忍術を使うのか、それを悟らせない為に複雑な動きと高い速度を駆使してくる。生まれ、そして処理する情報は多い。

 しかし、再不斬にとっては意外にも、苦ではなかった。

 

「話を聞くって言う言葉は……木ノ葉様にはねえってのかッ!」

 

 音も無く背後に近付いてきた男を、首切り包丁の背の部分で殴り倒す。たとえ人形みたいな暗部の人間でも、殺してはいけない。と言っても、再不斬の振りは容易に男の肋骨の半分を折るほどの力が込められている。命を狙われている以上、再不斬も手加減こそしてはいるのだけれど、それはあまりにも大雑把なものである。暗部ならば、骨の十本二十本折れたところで死なないだろう、というもの。

 クナイが縦横無尽に飛んでくるのを寸でのところで躱し、狙い来る忍術を大きく避けていく。緩急をつけるように迫ってくる暗部の格闘術を首切り包丁で叩き伏せ、数を更に二つ減らした。

 

 ―――あのイカレ女の動きに比べれば、遥かに遅えんだよ。だが………。

 

 白とフウコの修行光景を眺めていただけだが、それでも動体視力は鍛えられているようだ。動きが見える。対応は可だ。しかし、二人を気絶させるまでに無傷ではない。的確に両足の太腿にクナイが刺さっている。むしろ、その二人はクナイを突き刺すためだけに向かってきたのだ。

 

 ―――こいつら、本当に何なんだ。

 

 人形のような雰囲気の割には、攻め方が異様な執拗さを持っている。殺意も静謐だが本物だ。だからこそ、よりいっそうと分からなくなる。何が、目的なのか。

 

「再不斬さんっ!」

 

 そこで背後から白の声が届いた。もちろん、振り返らない。視線を外すのは危険だ。暗部の者たち全てを視界内に。しかし、不思議なことを目撃する。面を被って表情と視線を読まれないようにしているはずの暗部の者ら全ての顔の向きが、背後―――白に向いたのだ。

 瞬間、暗部の者らは同時に動いた。

 再不斬を避けるように広がり、横を抜けようとする。

 

 ―――目的は白かッ!?

 

 どうにか追いつき、一人は叩き伏せた。

 どうして白を狙うのか、理解が及ばない。彼はビンゴブックはおろか、存在も名前も、もはや無いはずだ。なのに、どうして。

 白は即座に対応する。千本を取り出し、右手で正面の男の斬撃を防いだ。だが、他の者らは白を狙うように収束し始める。白の命が危ういのを察した再不斬は全力を以て地面を蹴った。

 

「「―――ッ!?」」

 

 そして白と再不斬は、暗部らの動きに驚愕を抱いた。

 彼らは白に向かって収束したのではなく……その後ろに立っていたサスケとサクラの二人を目掛けて…………いや、違う。厳密に言えば、サスケを、狙っていたのだ。

理解が届かない。ビンゴブックに名が載るような危険人物から、木ノ葉の忍を助けるというのならば分かる。しかし、そもそも再不斬から少し離れた位置に、綱手とシズネがいるのだ。その二人に対してのアクションは今まで無かった。

 

 何故だ。

 

 嫌な予感が首筋をなぞる。

 

 下忍であるサスケを戦争から守る、という御立派な目的ではないのだろう。保護ではないのならば、保護以外の目的であるのならば、マズイ。

 

 サスケは。

 

 サスケは、そう。あの女の弟だ。

 

 この里の中で一にも二にも、傷つけてはならない対象なのだ。

 再不斬は咄嗟に首切り包丁を投擲しようとする。

 

「忍法・鳥獣戯画」

 

 平坦で幼い声がどこからか。すると、何かに腕を掴まれた。

 見やる。

 黒い墨のような何かが、自身の腕に蛇として形となって絡まっていたのだ。

 投げれない。

 

「氷遁―――」

 

 再不斬の動きをカバーするように術を発動させる。それは、暗部の者らは流石に想定できていなかったのだろう。まさか片手のみで忍術を発動させる者がいるのかと。

 

「血氷柱牢ッ!」

 

 避難所周りの地面を染めていた血が凝固し、逆立つ。そして白を中心に茨のような歪な形状を作り、固まる。鉄分を豊潤に含んだ氷結の血は黒く、先端は鋭い。しかし作られた牢は相手を貫くのを目的とせず、サスケを掴もうとする暗部らの身体を弾き飛ばすためだけに構築された。

 狭い隙間だけを許す牢を前に、白と噛み合っていた男もろとも、暗部の者らは弾き飛ばされる。

 白は即座に、握っていた千本を再不斬を捉える黒い蛇へと投擲し突き刺さる。黒い蛇は形を崩し、単なる墨汁へと変わり果てた。再不斬は術者の居場所の特定よりも、白の元へと行くことを優先した。白に背を向け、弾き飛ばされた暗部らを前に構える。

 

「おい、白。そのガキ共はいったいどういうことだ?」

 

 言いたいことと聞きたいことは山のように頭のなかに累積しているが、順序立てて尋ねなければいけない。白が何を考えて、爆弾を抱えて避難所から出てきたのか。彼の目的を聞かなければ動けない。

 

「すみません、再不斬さん」

 

 と、白は言う。

 

「後ろの二人が、ナルトくんの元に行きたいと言って………」

「……ああ、なるほどな」

 

 短いその言葉だけで、状況を理解できた。最悪な不運だと、再不斬は考えた。

 避難所という限られた空間。さらには避難してきていたのだろう多数の木ノ葉隠れの者もいるのだろう。白も馬鹿ではない。そんなところで争うよりも、広い外で拘束した方が良いと考えたのだ。

 白自身もよく理解している。うちはサスケに危険が及んだ際のリスクを。だからこそ即座に暗部らから感じた違和を払いのける為にノータイムで術を発動させたのだ。白に責任は無い。むしろあるのは―――。

 

「うちはのガキ。さっさと中に戻れ。今は御子様が顔を出すような状況じゃねえんだよ」

 

 再不斬の声は重低音だった。半ば脅し、半ば本心の苛立ちを混ぜたものである。しかしサスケは怯むどころか、逆に強気な語気で返してきた。

 

「木ノ葉の忍でもねえお前にだけは言われたくねえよ」

 

 腹立たしいこと、この上が無い。すぐにでも顔面を殴り飛ばしてやりたいが、そんな暇を許してくれるほど目の前の暗部らは人情的ではない。先程のサスケへのアプローチに対する釈明も一切なく、隙間を見つけるようにこちらを眺めている。

 

 どうにも、きな臭い。これは、血の匂いだ。ああ、そうだ。あの時に似ている。あの夜の、あの雨のような、底の泥。

 目の前の暗部らは、そういったのに特化した連中だ。

 

「―――うちはサスケを渡してもらおう」

 

 暗部の一人が、ようやく言葉を発した。高圧的でも低姿勢でもない、風が吹くような平坦なものだ。単純でシンプルだ、と再不斬は感じ取った。言葉を発したというのも、きっと、交渉という平和的な思惑があるわけではないのだろうなどと容易に察することができる。

 白が避難所に入っていったタイミングで襲ってきたのは、片腕の人間相手ならばすぐに始末できるだろうと思っていたのだろう。外の人間を殺し、避難所に入り、サスケを攫う。

 その目論見がハズレ、白が外に出てきたのを前にして、下手な消耗はなるべく避けたい、というのが本心に違いない。言葉を返せば、相手は白の実力を知っている、ということ。

 

 ―――白を知ってる連中はカカシのチームくらいのはずだ。あとはサソリと、あのイカレ女くらい……。まさか俺たちを騙してるわけじゃねえだろうな。

 

 一瞬だが、サソリがこちらを裏切ったのではないかと考えてしまったが、すぐにそれは棄却する。わざわざ木ノ葉の暗部を使って処分するような手間暇をかけるほど、再不斬と白、サソリとフウコの実力は拮抗していない。サソリがフウコをテキトーな言葉を使って動かせばいい話だからだ。

 

 ―――ってことはだ……白のことを知ったのは木ノ葉に入ってから。白が術で眼を貼り付けているのを眺めて、判断した………。なら………。

 

 再不斬は白に尋ねる。

 

「白。貼り付けた眼はどうなってる」

 

 数秒して、白は息を呑んだ。

 

「……全部、おそらくですが、潰されてます」

 

 嫌な予想が的中してしまった。木ノ葉隠れの里がもう間もなく大蛇丸が作った混乱を制するという間際に、全体図を見失う。そして目の前には、こちらを狙う暗部が。

 逃げ道が消えていくのを明確に予感する。

 すぐに逃げるべきだと、再不斬の経験は警鐘を鳴らすが、後ろには爆弾があるのだ。ただ逃げるだけではいけない。戦うのも論外だ。サスケ……さらには、サクラや綱手とシズネなどの木ノ葉隠れの里に関わる者も置いていくわけにはいかない。わざわざ暗部の姿のまま目の前にいるのだから、自分らの行為を見られたからには対象を消すだろう。それもまた、フウコを爆発させてしまうかもしれない。

 

 再不斬は考えながら、言葉を返した。

 

「このガキに何の要件があるってんだ。随分と穏やかじゃねえ雰囲気だが?」

「渡すのか? 渡さないのか?」

 

 もちろん、決まっている。渡すつもりは無い。

 だが、戦うことはない。逃げるならば、今しかない。

 ただ逃げるだけではいけない。

 暗部から逃げ切れる道を。あるいは撒くことができる環境を。

 暗部たちはサスケを手に入れることを目的としているのは確定した。避難所へ逃げても、自分はビンゴブックに名を載せてしまっている犯罪者。避難所の者たちは、暗部の一声で敵になってしまう。

 

 どうすれば暗部は手を引く。何が嫌だ……。

 

 ―――………サソリの野郎…………、アジトに戻ったら、しばらくは羽根を伸ばさせてもらうぞ………。

 

 導き出した最善策は、最悪(、、)なものだった。

 

 暗部を撒くためには人目が必要だ。それも、大多数の目が。

 そして尚且つ、暗部の一声だけでは敵までにはならない程度の混乱が必要だ。桃地再不斬という人物の名前が霞んでしまうほどの大混乱がある場所。

 

 思いついた。

 

 皮肉なことではあるが。

 サスケとサクラが求めている場所。

 そして再不斬が決して関わることはないと確信していたはずの場所。

 ナルトの元へ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 あらかた、周りへの根回しは済んだ。戦後復興の為の資金や物資、火の国に隣接する小国らへの牽制、砂隠れの里及び風の国への情報収集、その他多く。殆どが完了した。残っているのはほんの少し。しかし、その中に一つだけ、面倒な案件が残ってしまっている。

 

 未だ、その案件の処理完了を告げる報告が届いていないことに、志村ダンゾウは厳格な面持ちで執務室の椅子に腰掛けていた。

 

 彼が気にかけていたのは、うちはイタチのことだった。

 

 つい、先程。イタチとイロミの戦闘が終わったという報告が部下から―――つまりは、彼が密かに抱えている【根】の者たちである―――届いた。イタチはその後、自身の持つ部下に保護されたとのこと。ダンゾウの部下の観測手からの報告によれば、イタチには外傷が殆どない……いや、無くなっている(、、、、、、、)、ということだった。

 

 ―――まさか、そこまで辿り着いていたとはな……。いや、当然といえば、当然か。

 

 その報告を聞いたとき、浮かんだ選択肢は二つだった。

 一つは、イタチの療養。彼が行った事への代償を補填しなければ駒としての魅力が半減してしまう。事実、今回の根回し―――特に、隣接する小国らへの牽制では、うちはイタチの名前を出すだけで簡単に行えた。今後も彼を駒として使っていきたい。

 だが同時に、もう一つ、考えたことが。それは、彼が真実に辿り着いてしまったのではないか、ということだ。

 

 猿飛イロミ。

 

 大蛇丸の人体実験によって生まれた人外のナニカ。彼女は大蛇丸と接触し、その後、木ノ葉隠れの里に牙を向けた。その行為の根幹が、うちはフウコの真実なのではないかという疑念は抱いていた。本来ならば、早期に、はたまたイタチとの戦闘での隙間を突いて処理する手筈だったのだが、尽く外れてしまった。最悪なことは想定できてしまう。

 

 もしイタチが真実を知ってしまったならば……こちらにはカードが必要になってくる。イタチの実力は、もはや木ノ葉隠れの里において随一であるのは疑いようもない事実だ。彼が木ノ葉隠れの里に、イロミのように牙を突き立てたのならば、里への大打撃であると同時に、彼を使っていた自身の信用にも関わってくる。

 イタチを抑制し、コントロールするためのカードを手に入れなければ。

その為に、部下たちを戦場に紛れ込ませ、探させた。イタチの弟であるサスケを拘束し、そして……。

 

 ―――まだシスイの眼は、もう一つある。

 

 記憶を改竄させる。

 まだまだ、イタチは利用しなければいけない。

 猿飛イロミは処分しよう。彼女は言い逃れできない罪を背負った。処分するのに異論を唱える者は多くない。ヒルゼンやイタチ、イロミを知る者たちが異論を唱えたところで、里の総意を覆らせるのはできないだろう。大蛇丸の娘であるという事実もある。イタチの部下が保護したようだが、秘密裏に処理しても問題は無いだろう。

 その際に気にしなければいけないのは、フウコだ。イロミが死んだとなれば、いよいよ、彼女がどうするのか見当がつかない。

 サソリにコンタクトを取っておくべきか……。もしかしたら、意外と早く、彼とはコンタクトが取れるかもしれない。大蛇丸の企てが始まってすぐに入った、一つの報告がそれを予想させる。

 部屋のドアがノックされた。この部屋に来るのは、部下だけだ。入れ、と応えると静かに部下は入ってきた。

 

「うちはサスケの拘束に参加している、サイからの報告です」

「どうした?」

「現在、交戦中とのことです」

 

 その報告は予想していたものとは異なっていた。

 うちはサスケの拘束に向かわせた部隊は実のところ、そこまでの精鋭というわけではなかった。

 里の内外の諜報や、音隠れの里の位置の特定、あるいは単純な里の防衛。あらゆる面に部下を吐き出させてしまっている為、人手が不足しているのが現状だった。それでも、避難所に入ったサスケを拘束する程度ならば問題ないだろうと、無い手札から選んだ部隊だった。たとえサスケや、避難所に匿われた下忍らを相手にしても時間はそう要さないはず。そもそも、交戦中という報告自体が誤りではある。任務の完了失敗の報告だけが必要なのだ。

 つまりは、その交戦がイレギュラーだということ。部下は続けた。

 

「桃地再不斬、及び部下と思われる少年が妨害を。幾人かの増援が必要だと」

 

 なるほど、とダンゾウは得心する。

 

 再不斬と白が木ノ葉隠れの里に侵入したという報告は受けていた。しばらく監視を指示してみたところ、どうやら彼らは木ノ葉隠れの里の住人を助け、そして音の忍を処理してくれている、という答えが出た。

 ならば監視は継続しながらも泳がせ、木ノ葉隠れの里の為に役立ってもらっていた。

 何故、彼ら二人が里に姿を現し、木ノ葉隠れの里を助けてくれるのか、推測でしか想像はできなかったが、ようやく曖昧な想像に肉が付く。

 

 おそらく、ではあるが、再不斬はサソリと繋がりがある。これは高い確率だ。そもそも、フウコを使っているサソリからすれば、木ノ葉隠れの里が襲撃されているという事態を何もせず指を咥えるばかり、というのがおかしな話である。破綻してしまっているフウコを考えれば、いずれ木ノ葉隠れの里の襲撃は【暁】を通じて耳に入る。その際にフウコが怒り狂うことは明白だ。何かしらのアクションはあるとは考えていた。大蛇丸の動向も以前に伝えているのだから、尚の事。

 再不斬が木ノ葉隠れの里の住人を救助、支援しているという不可解な行動も理解できる。サソリが、再不斬と白を動かした。

 

 ―――となれば……再不斬は、うちはサスケをこちらに渡すことはしないだろうな。このまま見過ごせば、厄介だな。うちはサスケを拘束しようとしたことは、サソリの耳に入るだろう。ならば……。

 

「増援を送る。指示は変わらない。うちはサスケの拘束と、目撃者は全て殺せ。最悪、桃地再不斬とその部下を殺すだけでも構わん」

「報告の中には、三忍の綱手と、付き人の者が付近にいるようですが」

「殺せ。証拠は残すな」

 

 ノータイムで返答し、部下に増援を送る部隊の名を伝える。部下は速やかに部屋を出ていった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

フラクタル

 壊すのは容易く、生み出すのは何より難い。

 

 それは、大樹を育てるのは時間が掛かり、けれど火を付けて燃やすのは簡単だと、大人が子供に言い聞かせる例え話として説明されることが多い。しかしながら、全く以て不思議なくらいに、真逆な事象はある。

 

 ましてや秩序というものは、その最たる例かもしれない。

 

 秩序を作るのは困難だ。簡単などと軽々とは語れない。だが、完全に構築された秩序を壊すのは、それよりも遥かに難しい事だろう。

 

 秩序とは人の思想……意思の純然たる結晶である。

 

 いや、結晶というのは誤りだ。秩序には力が備わっている。ただ単に格子を組んで、内部の力を安定させるだけに留まらない。秩序に反するもの、その全てを自ずから淘汰する能動的な性質も持ち合わせているからだ。

 

 つまりは、外部からの圧力を跳ね返そうとする防衛本能。

 

 秩序の完成度が高ければ高いほど、防衛本能はより強固に、そしてより流動的になる。秩序の中にあるエネルギーたちが、自身らの安定を守る為に蠢き始める。

 

 秩序を壊す事は、その防衛本能と立ち向かわなければいけない。秩序の中に数多とあるエネルギー全てを破壊しなければいけないのだ。

 

 個人では到底太刀打ちできない。では、多くの同胞を抱え込めばいいのだろうか。

 

 秩序と同じくらいのエネルギーを抱え込み―――コミュニティを作り―――立ち向かおう。

 

 そこには、気が付けば、もう一つの秩序が不思議と出来上がってしまうのだ。

 秩序を破壊するには、予めまた別の秩序を持たなければいけない。故に秩序は、破壊するよりも生み出すほうが簡単なのである。

 秩序と秩序のぶつかり合い―――言うなれば、戦争という光景を、猿飛ヒルゼンは何度も目にしてきた。

 

 戦争の終焉。

 

 収束していく殺意と争いの、その空気は、たとえ結界の中であっても感じ取れてしまう。木ノ葉隠れの里という秩序と、その中に生まれた平和のエネルギーが、大蛇丸の思想を打ち砕かんとしているのを。

 そして。

 戦争で消えていく命の小波が、自分にも来たのだということも。

 

 

 

 ―――こいつ、厄介な力を使うな……。

 

 君麻呂は驚きと共に苛立ちを抱いていた。

 

 自身の骨を操り、あるいは生み出す血継限界を、こうもあっさりと打ち破ってくる人間がいるとは、まるで予想していなかったのだ。ましてや、自分の左腕を折られるなんて。骨を折られるというのは生まれて初めての経験だった。

 

「おい、このガキ。なにあたしの生徒を捕まえようとしてんだ? あぁあ?」

 

 目の前に立つ女性―――暦ブンシは額に青筋を立てながら指の骨を鳴らす。余程、彼女は怒っているのか、試験会場のほぼ中央だと言うのに、さながら鋼鉄同士をぶつけ合ったような重い骨の音は大いに響き渡る。

 

「どいつもこいつも……最近のガキは常識ってもんを知らねえっ。授業サボって隠れんぼするわ、隠れた先で泣いてるわ、挙句に裸同然でダチと喧嘩するわ、自分の骨をブン回すわ……ちったあこっちの迷惑も考えろッ!」

「……何を言っている?」

「あたしはムカついてるってことだよッ!」

 

 一直線に駆けて来た彼女は単調な動きで上段に蹴りを繰り出してくる。君麻呂は上体を後ろに反らし躱すのと同時に、流麗な動きで、右手に握った自身の骨の切っ先でブンシの顔面を貫こうとする。

 が、骨は顔面を貫かず、その手前で捕まれ静止させられる。

 即座に君麻呂は握っていた骨から手を離そうとする。しかし―――。

 

「離すな」

 

 ブンシは骨に電気を流し、君麻呂の指を制御する。そのまま彼女はより、多くの電気を流そうともう一方の手で君麻呂の手首を掴もうとするが、彼はそれを許しはしない。即座に足でブンシの腹を蹴り飛ばした。痛みと衝撃でブンシの術は解除され、すぐさま君麻呂は距離を取った。

 

 ―――電気を流す術か……。接近戦では、こっちが不利だな………。呪印を使うか……?

 

 ちらりと、とある方向を見る。その方向は、イロミが暗部の者に運ばれた方向だった。

 イタチとイロミの喧嘩が終わってすぐ、暗部の者らが姿を現した。予め予定されていたのか、それともタイミングが良かっただけなのか。暗部の者らはイロミとイタチを保護し、すぐさま試験会場から離脱したのである。

 君麻呂はそれを防ごうとした。イタチではなく、イロミを狙って。

 だが、ブンシが間に入ってきたのだ。

 生徒を守るため。

 里の事はもはや、彼女には無い。だが、彼女の根源は常に、平和を―――秩序を土台としている。

 秩序の中で出来た、可愛い生徒。それに伸びる魔手を捻じ伏せることだけが、今、彼女の感情の中心にあった。ブンシは冷酷に、考える。

 

 ―――骨のせいで、上手く電気が通らねえな。頭に触れさえすれば、殺せるのによ……。

 

 大蛇丸への信仰。

 生徒への愛。

 その二つの秩序がぶつかろうとした時、その足元をまた別の秩序が、砂と共に動き始めていた。我愛羅が静かに、君麻呂へと砂を向けていたのである。

 

 

 

 身体の痛みが消え行くのと同時に、視界がボヤけ、傾いていく。

 その時間が、あまりにも、長く感じた。空を飛んでいるかのようにも思え、風の川を流れる木の葉の気分のようでもあった。

 多くの記憶。多くの関わり。それらが瞬く間に浮かび、そして消えて行く。消えた先がどこへ向かうのかは分からない。ただ、ヒルゼンにとっては、それらを思い出すだけでも十分だった。

 後悔も、心残りも、当然ながら、悲しいことに、付き纏ってしまうけれど。

 それでも、託せたものはある。

 それでも、託せる者がいる。

 不器用ながらも、火は紡いだ。

 力及ばずながらも。

 それでもきっと、自分の火は、必ず、多くの者の元へと行き、微かながらも力になってくれるはずだ。里の罪を背負わせてしまった、彼女の元へも、きっと―――。

 

 

 

「グゥォォオオオオッ!」

 

 尾獣となったナルトは獣の唸り声を上げる。身体に巻き付く太い樹の幹が万力のごとく締め付けているから、だけではなかった。木遁の奥深くに眠る、千手柱間の微かなチャクラと、チャクラを吸い込む木遁の術が、九尾を苦しめていたのだ。

 

「……やはり、結晶石がないと完全には難しいか」

 

 はたけカカシは苦々しく呟いた。

 既に、綱手の捜索はさせている。いつ綱手がここに到着してもいいように、テンゾウにはその前段階として、木遁による拘束とチャクラの吸収を行ってもらっている。あとは結晶石あれば、すぐにでも封印術を発動させることができるのだが……。

 

「グォオオオッ!」

「―――ッ! 危ないっすッ!」

 

 拘束していた六本の尾の一つが、幹を砕き辺りの者たちに襲いかかろうとしていたのをフウが寸前に防いだ。即座にテンゾウが拘束に掛かるが、拘束すると同時に今度は別の尾が暴れだす。

 拘束しきれていない尾の暴走をフウが常に防いでくれているが、それ故にカカシを含めた周りの忍らは攻撃が出来ないでいた。九尾のチャクラを纏ったナルトには、生半可な術では大したダメージは与えられない。しかし、フウが近くにいては大きな術は出せない。

 かと言ってナルトの尾の速度と不規則性に対応して至近距離で術を発動できるかといえば、それは不可能にも近いだろう。写輪眼を持つカカシでさえ、目で追うのがやっとだ。

 フウだけが、尾の速度に追い付いている。

 

 だが―――。

 

「―――痛ッ!?」

 

 時折溢れる、フウの小さな叫び。

 彼女に限界が近付いて来ている。

 

 ―――イチかバチか、仕掛けるか。

 

 自来也と視線を重ね、頷き合うと、彼は即座に印を結び始める。何かしらの封印術を発動させる準備だ。その隙を作ろうと、カカシも印を結んだ。

 雷切。

 ナルトを殺すためではなく、ただ意識を向けさせるための陽動に過ぎないのだが、リスクはあまりにも重い。

 

 ―――尾の一本でも削れれば、上出来か……。

 

 右手に集中させたチャクラの性質が雷へと変化させる。

 タイミングを合わせるかのように、テンゾウは木遁へのチャクラを多く注ぎ込み、ナルトを締め上げた。

 地面を蹴る。

 尾が一本拘束を破った。

 フウがそれを、カカシの眼前で防ぐ。

 衝撃と風が写輪眼の瞳を撫でるが、瞬き一つ許されない。

 速度は殺さない。

 一気に、拘束されている尾の根本を狙う。

 

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオッ!」

 

 これまでの絶叫とは違う、一際大きく重い叫びが空気を震わせる。

 何がキッカケだったのか。

 拘束されていた尾の一本が急激に蠢き、解放されてしまう。

 槍のようで、

 矢のようで、

 尾は一直線にカカシの頭部を狙っていた。

 写輪眼はその動きを捉えていた。

 だが、間に合わない。

 カカシの経験は如実に未来を予想する。

 自身の頭部が吹き飛ばされる瞬間を。

 回避は間に合わない。

 自来也は寸前で速度をあげ、封印術の印字が浮かび上がった右手をナルトの額に押し当てようとするが、それより早く尾が届く。

 フウは一本目の尾を受け止めた衝撃動けないだろう。

 テンゾウの木遁も間に合わない。

 死が、目の前に―――。

 

 

 

 ぼやけた視界の中、大蛇丸の恨めしい表情が微かに見えた。

 何かを叫んでいるようだが、残念な事に、耳に届かない。

 残念?

 どうしてだろうか。

 木ノ葉を滅ぼそうとしていた彼の言葉を、残念に思うのは。

 ああ、とヒルゼンは思う。

 彼もまた、木ノ葉の同胞だったのだ。

 幼き頃の彼の姿がいつの間にそこにある。

 フウコだけではない。

 彼にも、過去を背負わせてしまったのだ。

 戦争を。

両親の死を。

 手を伸ばしたい。

 大切な教え子だ。

 彼にもいずれ、届くだろうか。

 自分の火が。

 

 

 

 尾が、叩き伏せられる。

 

 視界の頭上から振ってきた彼によって。

 思考は追い付かないが、間違いなく、彼だ。

 

 桃地再不斬。

 

 彼は首斬り包丁を振り下ろして、カカシの頭部を狙った尾をねじ伏せた。

 雷切を放とうとする身体は止まらない。そのまま、再不斬とはすれ違い、ナルトの尾を一本、根本から切断した。

 ナルトが痛みに叫ぶ。

 その瞬間を見逃さず、自来也の封印術がナルトの額を捉えようとした。

 

 が。

 

 反動か、怒りか。

 

 瞬間。

 

 拘束していた尾が全て暴れ、解放されてしまった。

 

 一本は自来也を吹き飛ばし。

 一本は動き出そうとしていたフウをなぎ倒す。

 一本はカカシを目掛けて動くが、今度は雷切で防いだ。

 再不斬に抑えつけられた一本は再不斬を持ち上げ。

 先程フウが防いだ尾は横薙ぎに辺りを吹き飛ばし、濃い砂煙と共に、テンゾウをも襲った。

 

 テンゾウの木遁は衝撃で一時的に術が解ける。

 

 九尾の拘束は完全になくなった。

 

 マズイ、とカカシは直感する。

 

 そこへ―――砂煙の向こうからサスケが姿を現した。彼の左手には、小さなチャクラの塊である、螺旋丸が発現していた。

 

 

 

 木ノ葉隠れの里を俯瞰した光景に移り変わった。

 毎日のように眺めた、最も愛した風景。

 それがどんどんと暖かく、そして端の方から白くなっていく。

 

 

 

 ―――どう……して、サスケくんがいるん……っすか……ッ!

 

 いや、今はそれを考える場面ではない。

 

 考えるな。

 

 守るべきものは明白だ。

 

 人の命は重く輝かしいのだから。

 

 動け、動けッ!

 動けッ!

 

「重明ッ!」

『どうなっても知らねえぞ』

 

 身体中がいよいよ弾け飛びそうになる。

 

 それでも、身体は動く。

 

 不思議な事に。

 

 人を守らなければいけないという常識的な感覚が、痛みを忘れて身体を動かしてくれる。

 

 振り下ろそうとしていたナルトの右手。地面を抉り、木々をなぎ倒す程の破壊力を持つその右手を、超速で移動し、掴み止める。

 

「サスケくん、こんなところにいないでさっさと―――」

 

 逃げろ、と言おうとするが、言葉よりも先にナルトの尾が動き始めてしまった。

 サスケはあと一歩のところまでナルトの傍まで来てしまっている。写輪眼を発動させている彼でも、この距離では予測すら一瞬をも超えるだろう。

 

 防げない。ナルトの尾の方が一瞬早い。

 

「こっちを見なさいッ! ナルトッ!」

 

 サクラの大きな声がナルトに届く。

 直後に投擲された何十本もの千本と、一本のクナイがナルトの背に突き刺さったのは、果たして効果があったのかは定かではない。

 しかし、一瞬だけの硬直がナルトには生まれたのだ。

 そしてサスケは一歩、踏み込めた。

 

「目を覚ませ、このウスラトンカチッ!」

 

 螺旋丸をナルトの腹部にぶち当てると同時に、二人の視線は重なった。

 

 

 

 ―――……木ノ葉は………………、――――――美しく………。

 

 

 

 その暗闇の中には、確固たる愛という秩序と、大きなエネルギーがあった。

 二人の夫婦が小さい男の子の頭を撫で、時には肩を抱いている。

 夫婦の一人は、こちらを向いて微笑んだ。

 

「君は、ナルトの友達でいてくれるか?」

 

 サスケは―――。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「うちはフウコの様子はどうだ?」

 

 暗闇に彼の声は響いた。

 場所は、つい先程に【暁】のメンバーが集合したどこぞと知れない洞穴だ。そこには【暁】のリーダーと、そして、サソリの姿を象ったチャクラが佇んでいた。

 

「……やっぱり、わざとだったのか」

「気付いていたか。流石だな」

「ふざけるな。言ったはずだ、俺はあいつの世話係じゃあねえんだ。あいつを抑えるのに、また薬が山程トんだぞ。また集めてもらうからな」

 

 普段通りにサソリは悪態をついてみせた。自分を操るということほど、簡単なものはない。

 うちはフウコの監視役。

 リーダーから、他のメンバーに知らされていない秘密裏の任務を任されたサソリにとって、たった二人となっての会合というのは、頻度としては珍しいものではなかった。

 

「やはり暴れたか」

 

 と言ったリーダーの言葉に、サソリは舌を打った。

 

「分かってたんなら、くだらねえ茶番劇は止めろ」

 

 先程のメンバーの集まりが、フウコの反応を見るためのものだったのは明白だ。

 大蛇丸が見つかった。

 大蛇丸が木ノ葉隠れの里を滅ぼそうとしている。

 現状では経過観察に留めるが、全てが終わってからはこちらも動く。

 

 指示を出すわけでもなく、単なる報告会でしかなかったというのは、他のメンバーも理解しているところだろう。まあ尤も、そういった不毛な呼びかけというのは極端に珍しいものではない、という認識を誰もが持っているのは事実であるが。

 

「うちはフウコは何か言っていたか?」

「いつも通りだ。木ノ葉を守るんだとよ。病気みてえに一字一句間違えずにな」

 

 勿論、嘘の報告である。【暁】を滅ぼすという業火の反逆を、わざわざ相手に伝える意味はどこにもない。リーダーは淡々と「変わらないか」と呟いた。

 

 変わらない。

 

 その言葉の真意を未だ測りかねる。

 リーダーは――フウコの【暁】への敵意を把握している。

 まだ、フウコが正気を保つ時間が長かった頃に聞かされた。【暁】に入る経緯を。

 元よりフウコは、【暁】のリーダーとその背景にいる人物を憎悪している状態のまま、組織に招き入れられたのだ。内側にいるもう一人のフウコと、そしてリーダーによりトラウマを植え付けられ、さらには背景の人物(、、、、、)に爆弾を仕込まれたまま。

 

「……そろそろ始末しても良いんじゃねえのか?」

 

 監視役であるサソリ、という配役に徹する。役の性質上、サソリ自身もフウコの反逆を知っている立場だが、これまでリーダーとの会合では、これと言った提案はしていない。ただリーダーの指示に従っていただけだが、ここらでフウコの始末を言ってもおかしな流れではないだろう。

 

「限界か?」

 

 と、尋ねてくるリーダーにサソリは呆れる。

 

「俺か? あの女か?」

「お前だ」

「面倒なだけだ。もうあの女は薬の後遺症で、頭のネジが緩みきってる。いずれ、落ち葉を見ただけで発狂するかもしれねえな。そんな奴の世話は御免だ」

「薬を調合できるのはお前だけだ」

「ブツは用意してやる。使用法も全部紙にでも纏めといてやるよ」

「他の奴らは意外に大雑把だ。結局のところ、全員が投げた匙がお前に戻ってくるだけだぞ」

「だから言ってんだよ。殺して良いんじゃねえか? ってよ」

 

 是とも非とも分からない灰色の沈黙が暗闇に零れ落ちた。

 サソリの行動は、フウコの計画への影響は全く無いと言えるものだ。言うなれば、単なる好奇心だ。どうせ怒り狂ったフウコが寝静まっている今、目覚めた時に怒りが再発しないよう薬を入れ、その後には平静になれるように多種多様な薬を投入しなければいけないのだ。木ノ葉隠れの里には再不斬と白を送っている以上、個人でできる事は全くと言っていいほどない。暇潰しにはちょうどいいだろう。

 

「前々から気になってたんだが……どういった腹積もりであの女を仲間にしたんだ?」

 

 どうしてリーダーはフウコを【暁】に招き入れたのか。その真意を聞いてみたい。

 もう一人のフウコは、裏切り者とリーダーを嫌っていた。マダラの裏切り者だと。つまりリーダーは、もう一人のフウコとマダラの意志に逆らったということなのだろうか。尤も、リーダーの思惑が此方側に親しいとしても同盟に加えようとは微塵も無いが。

 

「……なに、賭けをしているだけだ」

 

 リーダーは呟いた。

 

「俺の理想と、そいつ(、、、)の理想、どちらの理想が果たして重心となるか。その賭けをしている。【暁】にフウコを招き、追い詰める。その後のフウコの行動次第で、俺とそいつの勝敗が決められる」

 

 そいつ。

 

 リーダーが呼称する人物とはマダラの事だろうか。あるいは全く別の人物か。気になってしまうが、微かな好奇心を理性で押さえつけなければいけない。下手なアドリブは不信と不快感を与えるものだ。

 

「その賭けってのは、組織に反抗的な奴を入れるくらいに重要なことなのか?」

「そうだな。重要だ。何よりも。―――この賭けに負けるのはだけは、許されない」

 

 言葉の最後は、普段は淡々としていたリーダーにしては珍しく、微かな感情の憤りが語気に混ざっていたように思えた。

 

「あの女がどうすれば、お前の勝ちなんだ?」

 

 無言で返してくるリーダーにサソリは首を軽く振る。

 

「アンタの賭け事を俺のせいにされるのは困るんだよ。ああ、ならいい。俺は、なんだ、今まで通りあの女のメンテナンスをしていれば良いんだな」

 

 チャクラ越しではあるものの、リーダーの雰囲気が些か鉄格子のように固くなったのを感じ取る。まだ話題に対して踏み込んでも、多少の強引さは伴うが、フウコの監視を任されるサソリという配役の動きとしては自然と言えなくもない。逆に、不自然と思えなくもないラインだ。

 このまま無難に会話を済ませるべきだというのが、サソリの判断だった。意識は半ば、フウコのメンテナンスの段取りを考えていた。

 

「いや、次は少し変えてほしい」

「………あ?」

 

 そこで予想外の返答に、反射的に声を重くしてしまったサソリは自身の意識を素早く諌めた。

 怪しまれたか?

 微かな疑念は、けれども、リーダーの言葉によって払拭され、と同時に、大きな衝撃を与えた。

 

「近々、お前とフウコには木ノ葉隠れの里に行ってもらう」

 

 脳裏にフウコの暴走する姿と、計画への致命的なズレが、浮かび上がる。それは演技に錆を生み出すような異物だ。脅迫的な思考に呑み込まれてはいけない。

 速やかに演じろ、とサソリは自分に言い聞かせる。

 

「あいつと俺は、ノルマをクリアしているはずだが?」

「先程、大蛇丸の襲撃が失敗に終わったという報告をゼツから受け取った」

「ほう。ソレは結構なことじゃねえか。デイダラ辺りにでも七尾を捕らえさせた方が良いんじゃねえか? あの蛇野郎の襲撃を受けたんだ、今なら簡単なんじゃねえか?」

 

 いや、とリーダーは否定する。

 

「人的な被害は殆ど無いようだ。今では上忍や暗部を総動員して、火の国の任務を行いながら他里からの襲撃に備えている。その状況下で、秘密裏に尾獣を攫うのはリスクが余る。我々はまだ、表舞台に姿を現す訳にはいかないからな」

「目的はなんだ?」

「情報収集だ」

 

 リーダーは続けた。

 

「木ノ葉隠れの里が大蛇丸の襲撃を受けたという情報は、おそらく他里も入手しているだろう。だが、襲撃後の木ノ葉の対応が迅速過ぎるせいか、里の情報を盗もうとする者たちが木ノ葉に近付けないでいる。そこで我々が情報を提供する事にした」

 

 言うなれば、資金集めの一環だ。

 

「上忍暗部の厳重警備の中では、ゼツは役には立たない。あいつの能力は特殊だが、力自体は下の下だからな。フウコならば木ノ葉の地理にも強く、実力は折り紙付き。人選としては最適だ。ついでに、大蛇丸や七尾、九尾の情報を集められれば、組織にとっても有益になる」

「さっきの話の後でそれを信じろってか? 迷惑は御免だ。あの女が急に木ノ葉に寝返る事もあるかもしれねえんだぞ」

「だから言っている。フウコの調整を変えろと。あの女が正気を保ち続けられるようにしておけ」

「…………あの女がそれでも、木ノ葉に戻ったらどうするんだ?」

「その時は賭けは俺の勝ちというだけだ。我々の計画に支障は無い」

 

 その言葉を最後にリーダーのチャクラは姿を消し、サソリのチャクラと意識も強制的に本体へと帰依した。会合の時にはずっと閉じていた瞼を開くと、薄暗い自室が待ち構えていた。部屋には自分以外に誰もいない。

 

 サソリは椅子に腰掛けていた。目の前にはデスクがあり、中途半端に残った薬品やら散乱した設計図の紙やらが乗っかっている。薬品も設計図も必要なものだ。運がいい、とサソリは大きなため息を零す。もしもデスクに失敗作の傀儡人形の部品があったならば、手に持って床に叩きつけて、あらた感情を吐き出していたことだろう。

 

 歯車のような精密な人傀儡になっても、突発的な感情の爆発というリスクは無くならない。感情任せに身体を動かせば、身体に負荷がかかってしまう。感情的になっても得はない。

 

 ―――やっと軽いメンテナンスが終わったところだってのに。

 

 会合が終わってようやく考える事の許される時間が降りてくれる。嬉しいことではないのだが、今、あるいは明日から木ノ葉隠れの里に行けと言われるよりかは遊びがある。

 

 薬のルーティーンを変える算段を考えながら、サソリは自室を出た。廊下を進んでいく。リビングだ。室内には再不斬とフウコがいる。しかし無言で、そもそも、フウコが寝間着姿のまま、何も無い壁見つめながら棒立ちしているのだから当然といえば当然である。再不斬はそれを、椅子に腰掛け左腕をテーブルに投げ出して、まさにつまらなそうに眺めているだけだ。

 

「様子はどうだ?」

 

 と、サソリは尋ねた。

 

「人間、ここまで行くと骨董品だな」

「脳みそにカビが生えかけてるからな。いずれグズグズに溶けて鼻から薬になって出て来る」

「冗談をマジで返すんじゃねえ。コレ、どうにかしろ」

 

 コレ。つまり、フウコの状態の事だろう。「無理だな」とサソリは素直に応えた。

 大蛇丸の画策が失敗に終わった後、アジトに帰還してきた再不斬と白から、木ノ葉隠れの里の状態の報告を聞かされた時、フウコはまた暴れ出した。

 

 いや正確には、泣き出してしまったのだ。

 

 サスケ、ナルト、イロミ、イタチらの少なくとも必要最低限の重要な情報を再不斬らは報告してくれた。彼ら彼女らは無事に生きている。木ノ葉隠れの里そのものも、殆ど被害を被っていない。

 しかし、フウコはその報告の殆どを空想と妄想で補完してしまったのか、サスケ、ナルト、イロミ、イタチの名前を聞いただけで涙を零し始めたのだ。

 

『みんな、ああ、みんな……どうして………、私、私……』

 

 両手指の爪を全て噛みちぎり血を吹き出させ、その手で目をこすり始めた辺りから薬を打って眠らせた。指の治療をしてから、その後は、徹底的に感情を沈め思考を単一にする薬を投与し続けたのだ。

 

 出来上がったのは、偏執的な現実認識に留まる人形となったのだ。

 

 薬の効果が切れて体力が回復すれば元には戻るが、その時に反応次第ではまた薬を使わなければいけないかもしれない。日々、これの繰り返しである。もはや見慣れた光景であるのだが、再不斬らにとっては違うようだ。

 

「白がこの部屋を通るたびにビビって困ってんだよ」

「日常茶飯事だ。慣れろ。慣れてみれば面白いぞ。壁のシミが大切な家族にでも見えるらしい。もうすぐ壁に語りかけて、涎を垂らして、最終的にはこいつの足元には吐瀉物の絵画ができる」

「怖えんだよ」

「途中で、でゅヘヘって笑い出すぞ」

「だから、怖えんだよ」

「まあこういう状態のこいつは何をしても暴れはしねえから無害だ。ただ、身体が震え始めたら風呂場にでも投げ込まねえと、後々の掃除が面倒になるからな。気分良くメシを食いてえなら、目は離すなよ」

「んなことを俺にさせるな。お前がやれ」

「羽を伸ばさせろと言ったのはお前だろう。俺は色々と面倒を抱えさせられているんだ、手足は黙って言うことを聞け」

 

 露骨過ぎる舌打ちをしてから、再不斬はテーブルに投げ出した腕を折りたたんで自身の顎を乗せてから、静かに尋ねてきた。

 

「【暁】の頭から、何か指示が出たのか?」

「……顔にでも出ていたか?」

 

 くだらなそうに再不斬が鼻を鳴らす。

 

「木ノ葉であんなデケえことが起きたんだ。何かしら、動きがあってもおかしくねえ」

「お前の脳みそには、カビは生えてねえみたいだな」

「指示でも来たか? お前らはノルマをクリアしてんだろ」

「その話はメシの後にする。白のやつはどこだ?」

「あのガキを監視してる。ガラクタ部屋だ、そこにいる」

 

 そうか、とサソリは再不斬の言う『ガラクタ部屋』に続く別のドアへと歩み寄る。ドアノブに手をかける瞬間ふと尋ねた。

 

「おい」

「んだよ」

「白の料理の腕はどうなんだ?」

「達者だと思うか?」

「お前よりは、と思っているが」

「ガキの頃から俺と一緒にいるんだ。メシを作ったことなんてねえよ」

「ああ、そうか。どいつもこいつも」

 

 どうして人傀儡である自分が人の身の連中の為に食事を作らなければいけないのか、最近少しだけ考えるようになってしまった。フウコと二人の時は、頭のネジが吹っ飛んでいるため已む無し、と考えていたが、再不斬と白は違うのだから少しくらいは負担を減らしてほしいものだ。

 

「ん? おい、おいサソリ。こいつ震え始めたぞ。これか? 話が違えぞッ! 段階踏んでねえじゃねえかッ! おい、サソリッ!」

 

 面倒な事は勘弁願いたい。さっさと白のいる部屋に向かった。

 

「あ、サソリさん」

 

 部屋に入ると、白は部屋の中央にある椅子に座っていた。こちらに顔を向けて、女性も羨むほどの健気な笑顔を向けてくる。彼のすぐ後ろには、ガラスで区切られた空間がある。ここは、そう。再不斬と白を連れてきた時に使用した部屋である。

 ガラクタ部屋、と再不斬に言われるのは不本意ではあるものの、まあ、たしかに、部屋には傀儡人形の残骸は変わらず転がっている。

 

「様子はどうだ?」

 

 白の横に立ちガラスの空間に視線を見やる。中には、拘束された一人の少年が。白も中にいる少年を見つめるが、首を横に振った。

 

「何も話しませんね」

「まあ、そうだろうな」

 

 拷問も何もしないまま、世間話のようにただ尋ねるだけなのだ。忍なら、そんな簡単に答えはしないだろう。

 

「少しこいつに用がある。お前はメシでも作ってろ」

「え、僕が……ですか?」

「片腕の無い再不斬と、壊れかけのフウコがメシを作れると思うか?」

「だったら、その、サソリさんの用事が終わってからでも……。フウコさんは、その、あの状態ですよね? あの……」

「今はシミと会話してねえよ」

 

 白は安堵の溜息を吐いた。余程、頭が空っぽの状態のフウコが苦手のようだ。気持ちは、多少なりとも、理解はできる。人間の果て、人体の限界値、思考の終焉にも違わない彼女の今の姿は悍ましい。

 

「ああ、なら。まあ、料理くらいなら……味の保証はしませんが」

「どうせ俺は食わん」

 

 白が部屋を出ていった。サソリは白が座っていた椅子に代わりに座し、ガラスに囲われた少年の目を睨みつけた。

 

「さて―――初めてか。お前とこうしてじっくり話すことができるのは。再不斬と白がお前を連れてきてから」

 

 再不斬と白が木ノ葉隠れの里から持ち帰ってきたのは情報だけではなかった。ガラスの空間にいる少年―――サイを、連れてきたのだ。連れてきた理由として、再不斬は「どうにもきな臭かった」と語っている。

 

「貴方が……サソリですか?」

 

 能面の無表情を真っ直ぐに向けてきた。ああ、とそれだけで理解できる。目の前の少年は確かに、ダンゾウの部下だ。

 

「そうだ」

「初めまして。僕はサイと、呼ばれています」

「挨拶はいい。これからお前を判断する。正しい挨拶はその後だ」

 

 ピッタリと張り付いた表情に恐怖も強がりも無い。サソリは足を組み、背もたれに軽く体重を掛けた。

 正しく、見定めなければいけない。

 ダンゾウが此方側なのか、それとも此方の後ろに立つ側なのか。

 

「木ノ葉で、ダンゾウからどんな指示を受けていたんだ? 再不斬の野郎の口ぶりだと、随分と勝手なことをしてくれたようだが」

「うちはフウコを守る為です。木ノ葉では、あの時、九尾の人柱力が暴れていました。万が一に備えて、うちはサスケを保護しようとしたまでです」

「途中から、再不斬と白を殺そうとしていたようだが?」

「あの時はまだ、彼らが貴方の同胞だとは分からなかったもので。桃地再不斬は名の広がっている犯罪者。命を狙うには、十分な背景です」

「なるほど……筋は通ってるな。で、今は何を考えている?」

 

 サイは淡々と応えた。

 

「以前より貴方とダンゾウ様のパイプ役となっていた者が、今回の大蛇丸の計画の最中に、猿飛イロミという者に殺されました」

「代わりに自分がそのパイプ役になると?」

「ダンゾウ様の指示ではありませんが、機会としては十分かと」

「お前は俺たちと、その周辺の事は知っているのか?」

「うちはフウコが貴方の仲間であるということくらいしか」

 

 つまりは末端、ということなのだろうか。年端も考えれば、納得は行く。だがその末端でさえ、フウコの情報が漏れていることは疑問を抱かざるを得ない。

 

 はたしてそれは、いざという時のためにフウコをサポートする為なのか。

 あるいは、フウコを処分するための下地なのか。

 

 睨みつけても変化しないサイの人工的な笑顔からは、まだ判然としない。なかなかどうして、しっかりと教育されている。

 

 ―――使えそうな駒では、あるかもしれねえが……。

 

 木ノ葉隠れの里に潜入しなくてはいけなくなったこと、その最中にしなければいけないことのプランは大方、頭の中では組み上がっている。問題点は多々あるが、サイがいれば幾らかはクリアにできる。

 

 だが、いざ本番になって背後から……というのは勘弁願いたい。まだまだ、ダンゾウには働いてもらわなければ。

 

 ―――フウコの脳みそがまともになるまで、保留にでもするか。

 

 写輪眼を持つ彼女ならば、サイを幻術に落として白状させるのは簡単なはずだ。メンテナンスが完了するまでまだ時間は掛かるものの、まあ、木ノ葉隠れの里に潜入するまでにはどうにかなるだろう。

 

 そう思った矢先に、部屋のドアが静かな音を出してゆっくりと開いた。

 

 サイとサソリは同時に入り口を見る。まるで大雨の中を歩いてきたのかと思わせるほど、頭の先から寝間着をくまなく濡らせたフウコが立っていた。入り口の奥の方から白の「風邪引いちゃいますよッ!」という慌てた声が入ってくる。どうやら再不斬は彼女を風呂にぶち込んだらしい。湯を沸かしていた記憶が無かったため、ただ水を頭から被せただけだろうけれど。

 

「サソリ」

「なんだ?」

 

 応えながら観察。びっしょりと濡れた前髪の隙間から覗かせる特徴的な赤い瞳は、僅かな振動はしながらも、声とともに規律を保っている。頭が覚めたのか、それとも再不斬が半ば苛立ち任せに頭でも殴ったのか、さっきよりかは平常だ。

 

 フウコは言った。

 

「お腹、空いた」

 




 今年の最後の投稿となります。
 次話の投稿は、1月中には行いたいと思います。

 来年はほんの少しだけでも、投稿ペースの向上、及び誤字脱字などが無いよう努めたいと思っている次第です。

 これを読んでいただいた方、そうでない方も、よい年を迎えられることを切に願わせていただきたいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

下準備

あけましておめでとうございます。

次話2月中に投稿します。

今年も投稿スピードを僅かにでも上げたいと考えていますが、とてつもなく長い目で見ていただければ思います。


 戦争の完全な終わりは、静寂が知らせてきたのだ。

 

 状況も、損傷も、抱える心情も、もはや他者と同一などというのはありはしない泥梨の淵で、けれど明確な合図や疎通もないままに、全員がそう思ったのだ。

 

 終わったのだと。

 

 喜びや悲しみを噛み締めたものは誰もいない。砂に落とした水が消えていくのを眺めるているような、空虚でシンプルな感情の抜け殻を頭に抱えて、不意に降りてきた静寂を全員が認知する。

 そこから先の時間の進みは曖昧で、早いようで、遅いようで、記憶に残るようで残らないようで。唐突に襲い掛かってきた大蛇丸の毒牙への衝撃に未だ頭が追い付いていないのか、それとも非日常的な時間を過ごした事への逃避なのか、あるいは事後処理と要救助者への対処のために無駄な情報を捨てたからなのか。

 しかし確実なことは。戦争が終わり、戦争の結果を見定め終えた……翌日に行われた葬儀の雨音が、現実に正しく即した時間の運動を示していたことだった。葬儀の時間こそが、木ノ葉隠れの里に正しき時間を取り戻させたのである。

 

 葬儀。

 

 死者が――出たのである。

 

 音の忍らの奇襲に対し上忍暗部らは十分な対応をし、それでも零れ落ちそうになってしまう者を再不斬と白が掬い上げても、届かなかった者たちがいたのだ。

 

 無論、亡くなった者らの数は、戦闘に参加した木ノ葉と音の忍らの規模を考慮すれば、成果としては十全であると言い切れる。しかし、死者は死者なのだ。もう二度と、生者にはならない。

 生者が失った時間と、生者のままの時間を合わせるような静かな葬儀は粛々と行われた。

 亡くなった者らの写真と、その手前に並べられる手向け。

 その中には――三代目火影・猿飛ヒルゼンの遺影もあった。

 

 

 

 空に浮かぶ座布団のような雲が、風に押されて東へと消えて行くのを、顔岩の下の物見場から見上げていた。透明感のある空に溶かされるかのように、東へと向かった雲たちは纏まりを失って散り散りとなっていく。何かを強く連想していた訳ではないけれど、侘しさと言えばいいのだろうか、虚空な心に湿っぽい感覚が微かに生まれてしまったのを感じ取った。水の匂いかもしれない。昨日、地面が吸い込んだ雨水がまだ乾いている途中なのだろう。

涼やかな風に紛れる慎ましい湿度は、けれども、思い出せる限りの幼い頃の記憶よりかは薄いように感じた。歳だからか、などと自嘲する。鼻が鈍ったか、身長がガキの頃に比べれば高くなったからか。いずれにしろ、当たり前だが、昔に比べて時間が進んでしまったからだ。

 

 幼い頃は生意気だった。早く明日になれば良いと、早く優れた忍になるんだと、持て余してしまっている時間を大量に消費した先に理想的な未来があるのだと疑わなかった。膨大で曖昧な理想の中で叶うものは、極々僅かな一滴に過ぎないというのに。

 

「まさか、あの綱手姫がとうとう男風呂を覗く日が来ようとは。嘆かわしいのう」

 

 ふざけ倒したしわがれ声に不快感を少しだけ含ませた視線で後ろを振り返る。肩越しに見えたのは、自分の幼い頃とは比肩できない程の生意気っぷりを発揮していた腐れ縁だった。自来也は緊張感のない笑みを浮かべていた。視線を戻し、空ではなく里を見下ろした。

 

「お前じゃないんだ、男の裸に興味があるわけないだろ」

「本当かー?」

「殴るぞ」

「ワシの言葉を信じんくせに、自分が疑われると手を出すとは……昔から変わらんのう」

 

 そうだろうか。確かに、そうだったかもしれないと思うが、しかしながらまともに暴力を振るったのは自来也が大半である。むしろ昔の自分ならばこの時点で顔面を殴っていたというのに、溜息一つで済ませている辺り、成長したのではないだろうか。

 

「……で、本当は何しておったんじゃ?」

 

 隣に立つ自来也を横目で一瞥する。感慨深く、それこそ、昔の彼からは想像できない深く穏やかな顔があった。

 

「やることがないからだ」

 

 綱手は自嘲する。

 

「シズネから言われたよ。三忍の私が復興の場に姿を出せば、無理矢理にでも医療の現場に向かわされるだろうからな。医療ができない私の実情を広めるわけにはいかないってさ。代わりにシズネが行っている」

 

 傷者の殆どの様態が、命に別状の無いものだということをシズネから報告を受けている。重傷の者も以後の処置を誤らなければ後遺症も残らないものであるとのこと。

 

『だから、綱手様が責任を感じることはありません』

 

 報告の後に続いたシズネの言葉が脳裏に浮かんだ。

 

 責任。

 

 ソレの厄介さは知っている。

 

 幼い頃に持つ自我の拡散性を歪め、鎖を付けようとする重圧だ。大人になる、というのはその責任性が確かに自分のものであると自覚し、自我を拡大させる力を持っている者のことを示している。けれど、一度、責任に押し潰されてしまえば子供になってしまう。

 自分のせいではない。

 悪いのは、自分ではない何かだ、と。

 

 ――シズネには、そういう風に見えたのか……?

 

 責任から逃げているように。

 

「だから、私は此処で暇を潰しているんだよ。人を治せないからな………」

 

 再度、自来也の横顔をちらりと見やる。彼の目にも、自分は逃げているように映っているのだろうか。彼の長い白髪が微風に揺らされた。

 

「じゃが、お前はワシを救ってくれた。それは事実じゃ」

「………あれは、偶然だ」

 

 偶然か、とくつくつと笑ってみせる自来也だったが、笑った拍子に腹部に違和を感じたのか「おお、イタタタ」などと素っ頓狂な声を出しながら腹に手を当てた。

 血と腐臭。

 轟音と絶叫。

 連続性も現実感もグチャグチャとごった煮したあの時の記憶は、今になってようやくだが、冷静さを取り入れて思い出すことができる。

 

 偶然。そう、偶然なのだ。自来也を救ったのは。

 

 尾獣化したナルトの近くにやってきたのは、再不斬と白に連れてこられたから。

 再不斬も白も、自来也もフウも多くの者が彼の元へと馳せ参じる光景を眺めていただけで。

 九尾の抵抗による爆風で自分らは砂煙と共に跳ね飛ばされ。

 血の水滴が顔に張り付き。

 その瞬間に自来也の身体が飛んできたのだ。

 受け止めたのはシズネだった。いや、ぶつかったのだ。

 自来也の巨体に押された彼女はそのまま、背後の木に圧迫されて気を失ってしまい。

 自来也の腹部には、太い木の枝が刺さっていた。枝の形と太さ、そして人一人が簡単に吹き飛ぶ衝撃と、自来也が口から出るどす黒い血。

 経験則が感覚的にはじき出す。自来也の命の残量を。

 シズネは気を失い、辺りは自来也の事態を察知できていないほどに混乱を極めている。

 救えるのは、自分だ。自分だけで、そして彼を殺すかもしれないのも、自分だ。

 木ノ葉隠れの里を離れてから初めて直面する親しい者の死は、木ノ葉崩しが始まってから重なり続けた恐怖への耐圧が吹き飛んでしまった。咄嗟に集めた両腕のチャクラの流動は、意識の外。もはや無意識にも近い医療忍術の知識の想起と、身体に染み付いた経験が自来也への処置を可能たらしめた。

 

 そう、本当に。

 

 偶然なのだ。

 

 自身の意志が介在していないのだから。

 

「たとえ偶然でも、ワシは感謝しておるよ」

 

 自来也は、暖かく笑った。

 

「現に、お前があの場におらんかったら、今頃ワシは死んでおった。ワシだけでなく、他の者も多くが死んでおったことじゃろう。ナルトを元に戻すことができたのは、偶然だとしても、あの場にお前がいてくれたからじゃ」

 

 自来也の言葉に、綱手は首飾りの結晶石を指の腹で触った。首飾りがナルトの尾獣化を抑えたのに役立った、というのも今では思い出せる。

 パニック状態のまま自来也への応急処置を終わらせた後、彼が首飾りを貸してほしいと言ったのだ。ナルトを止めなければ、と。

 

 しかし彼は首飾りを強引に持っていくことはしなかった。結果的には首飾りを渡したのだけれど、綱手が力無いながらも許諾の頷きをするまでは差し出してきた掌は、一定以上の距離を縮めようとはしなかったのである。

 

 木ノ葉と、ナルトの為に。

 

 あの時の自来也は、そう言ったのだ。

 

「……あのガキは、どうしているんだ?」

「暗部の拘留所で隔離されておるそうじゃ」

「それで?」

「そこから先をワシが知っておるとでも?」

「火影にならないか、って話が来たんだろ? なら、そういった話も、お前だったら相談役に訊いていると思っていたんだがな」

「……相談役の二人、話が早すぎるのう」

 

 つい先程のことだった。相談役の二人から、火影への就任を薦められたばかりだ。

 どうして自分の名前が火影の候補として挙がったのか、その理由を尋ねた結果、推薦人が自来也だったということが分かったのである。

 

「自分が火影にならない口実を、私の名前を出して作るんじゃない」

「いやなに。本音じゃ。ワシよりもお前の方が火影に向いておるよ。……一応訊いておくが、どうするつもりなんじゃ? 火影の話は」

「二つ返事で断ったよ。いざ戦場に出ることも出来ないやつが火影になっても、意味が無いだろう。それに」

 

 それに、

 

「火影は私には無理だ」

 

 イタチに木ノ葉隠れの里に連れてこられてから、大蛇丸が姿を現すまでの束の間の日々は綺麗だった。

 血の臭いはまるで無く、殺伐とした空気はどこか彼方へ。

 この光景はきっと、いや間違いなく、大切な弟と、大切な想い人が描き願ったものだ。

 だからこそ、その二人がこの世にいない事に僅かな怒りと、微かな憎しみと、大きな呆れが生まれてしまう。

 

 それでも。

 

 この里にいるものたちは、決して慢心はしなかった。

 散っていった者たちが築き上げた平和の上に胡座をかいたりはしていない。

 

 戦争の良いとこ取り。

 平和の横取り。

 

 そんな考えは誰も持っていない事を、暴走したナルトに立ち向かっていた者たちの姿や、今見下ろす者たちから感じ取れる。

 

 火影になる。

 

 平和を願い、平和の礎になった者たちの想いを背負うのは、そして亡くなった偉大な師の跡を継ぐというのは、だから、今の自分には無理だ。

 血液恐怖症の事もあるが。

 何よりも……一度、木ノ葉隠れの里を捨てた身としては。

 

「ま、そんなことよりもだ」と、綱手は自来也を見た。

「あのガキはどうなっているんだ? 訊いたんだろ」

「……ナルトの奴は今、暗部が持つ秘密の牢に拘束されておるようじゃ」

 

 まあ、それが妥当なところだろうとは、綱手は予想していた。

 どういった理由、どういった原因があったにせよ、人柱力の暴走というのは忍里のみならず、国一つ滅ぼしかねない災厄の種だ。今まで暴走しなかった、という希薄な保証を前にギリギリの理性を保っていた里にとっては、おいそれとは自由にさせる事など出来るはずがない。むしろ、今までのナルトの待遇は他里の者からすれば異例中の異例なのである。

 厳密な隔離こそが、人柱力の扱いとしては間違いは無いだろう。

 勿論、それが絶対に正しい訳でも、人道的であるという訳でもない。人道的な考え方を棚に上げたままの、誤った接し方ではあるが。

 

「大名共はナルトをこのまま閉じ込めておくべきと考えておるそうじゃ。とにかく危ないの一点張り。試験会場にいた大名らも含めて、幻術で眠らされたままでナルトの姿を目撃した者は誰もおらんというのにの」

「相談役は何て言っているんだ?」

「ナルトの暴走の理由がはっきりとしない内は、保留にするらしい」

 

 自来也は続ける。

 

「まだナルトは子供じゃ。負けん気も根性も見どころはあるがの、それでも感情の起伏は激しい。にも関わらず、あやつが暴走したのは今回のを含めてたったの二回じゃ」

「だが、たったの一回でも封印が解ければ、里は滅茶苦茶になる」

「じゃが、ナルトはあんな無茶な九尾のチャクラを纏った後でも、今のところ、身体に異常は出ていないそうだ。ミナトがどうしてあやつに九尾のチャクラを封印したのか、理由は明白だのう」

 

 つまりは、人柱力として優れた素質を持っている、ということなのだろう。

 

「ナルトにとってそれが、喜ばしいことなのかはともかくとして、ミナトはナルトなら九尾のチャクラを使いこなせるという確信があったのじゃろう。相談役も、ジジイも、きっとそれを信じている」

 

 このまま監禁して、ただ九尾の人柱力という名前だけの軍事力の一部にするべきか。

 それとも、人柱力として大成し、そして人としての道を十分に歩ませてあげるべきか。

 今回の暴走の原因が、何かしらナルトの琴線に触れたものであるのか、それとも単純に封印の弱まりかあるいはイレギュラーな不安要素が生まれたのか。その線引は、軍事力の塊である忍里にとっては大きな決断だ。

 

「だったら、尚の事お前が火影になるべきだったんじゃないか?」

「………………」

「お前が火影になって、ナルトを解放してやれば済む話だろう。違うか?」

 

 三忍という背景もあり、実力は確かにある。実務能力はおそらく壊滅的ではあるだろうが、彼に火影になる、と言われて反対する者はいないだろう。たとえナルトの自由を独断で決めたとしても、自来也が直々にナルトに修行をつけるという条件を明示すれば、完全にとまではいかないにしても、ナルトに良くない印象を持っている者の大半は口を閉じるはずだ。

 

 だが、自来也の返答は「ワシも保留だ」というものだった。

 

「ナルトのやつが、今何を考えて、そして何をするかによって、ワシは立場を考えなければならん。火影の椅子に固定されていては、動き辛いからのう」

「いいのか? そんな悠長にしていて。次の火影次第では、あのガキは――」

「火影の候補は既に、決まっておる」

 

 は? と口を開いた綱手を横目に、自来也は続けた。

 

「本人からの立候補と、カカシの奴からの推薦らしい。実力も実績も、それに知名度も、十分持ち合わせた奴がおる。おそらく、そやつが次の火影になるじゃろう」

「ちょっと待て。なら、どうして相談役は、お前や私に火影の話を持ちかけてきたんだ?」

「幾つか、不安要素があったからじゃ。一つは年齢。そやつはミナトが就任した時よりも年齢は若い。火影の椅子に座らせるには些か心許ない、という判断じゃ。もう一つが、そやつの資質というべきか、体質というべきか、それが少しネックでの。火影になった際、どうなるか少し不安だから、という判断。まあ後者の方は、全く問題は無いと思うがのう。実力も名誉が不安要素を木っ端にするはずじゃ」

「なら、どうして相談役は私らに話を?」

「もしワシかお前が火影になると言えば、そやつは候補から外れていた。今頃、そやつに話が言っている事じゃろう」

「大丈夫なのか? そいつは」

「問題ないじゃろう。カカシの推薦も受けておる上に、里の事を見てくれるやつじゃ」

 

 それに何より、

 

「今、この里であやつ以上の天才はおらん」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「そういうことだ。一方的だが、理解してほしい」

 

 病室のドアに手をかけるのと殆ど同じタイミングで、室内からイタチの声が届いてきた。これが、暗部の部隊長である時のイタチの声なのだろうと直感させられるような、厳かなものだった。

 

「ですが……隊長…………」

 

 女性の声が聞こえてくる。隊長、という言葉から、声の主は兄の部下なのだろうと理解した。

 

「私は……隊長の後任として、実力不足だと考えています」

「それは当然のことだ。最初から隊長の実力が備わっているなら、俺はお前をもっと上の職に推薦している。そしてお前なら、いずれ十分な部隊長として活躍できると信じているからこそ、後任を任せたい」

「……うちはイタチの後任というのが、一番の私の壁なのですが…………」

「我慢してくれ、としか言えないな」

 

 はあ、と大きな溜息を女性は吐いた。

 

「分かりました」

「分かってくれたか」

「これまで何度も、隊長の無理難題をこなしてきましたので」

「お前なら出来る、という確信があったんだがな」

「ならば、今回も信じさせていただきます。隊長、お世話になりました」

「もしかしたらだが、今後もお前たちの上司にはなるかもしれないからな。困ったことがあれば、言ってくれ。出来得る限りのことはしよう」

「そう言っていただけると肩も軽くなります」

「可能性の話だ」

「そう言って隊長は、実現させて来たじゃないですか」

 

 失礼しますとの呟きは、ドアの近くに足音を運んできた。ドアを開けようとした手を下げて、サスケはドアから一歩だけ距離を取る。

 ドアが開いた。背の高い女性がサスケを見下ろすと、驚いた仕草を口元にだけ浮かべたものの、何かを言うわけでもなく、彼女は静かに会釈した。返すと、女性は無言に横を通り過ぎていった。

 

「サスケか」

 

 開きっぱなしになったドアの向こうのイタチの声が耳に届く。

 締め切った薄いカーテンから透かされて通る淡い白の光は、病室のベッドで上体を起こしているイタチの笑みを薄くしているようだった。

サスケは中途半端な視線の逸らし方をした。

 暖かな優しい笑みを浮かべる兄の顔。しかし、そこには、大切なものが一つ欠けていたからだ。

 

 右眼。

 

 その瞳が、真っ白になっている。

 

「仕事の話でもしてたのか?」

 

 ゆっくりと室内に入り、後ろ手にドアを占める。薬品の匂いなどは一切なく、空調の効いていない室内は日差しからの熱を受けて、少しだけ暑かった。イタチは困ったように眉に皺を作った。

 

「聞かれていたか」

「暗部を辞めるのか?」

「そうだな………俺は暗部を抜ける」

 

 ベッドの横に椅子を付けて座る。

 兄が暗部を辞める。特別な失望も落胆も無かった。兄そのものを尊敬し、逆に超えるべき人物だとは思っていたが、兄の選択について誇りに感じたことはなかったからだ。

 

「少し、俺の環境が変わるかもしれない。そうなった場合、暗部にはいられない。今のうちに副隊長―――さっきの人に事情だけを説明しておいた」

 

 ふと、視線が兄の右眼へと向かってしまった。

 失明してしまった、右眼。

 兄の力の全てが写輪眼によるものではないということは、誰よりも知っている。ましてや、たとえ右眼だけではなく左眼も失明したとしても、家族という大切な繋がりには何ら影響は無いという認識は確かなものだ。

 けれども、心が少し重くなってしまう。哀れんでいるつもりも、あるいは悲しんでいるつもりも毛頭ない。イタチ自身からも悲観した感情は読み取れなかった。

 

 苦しいような。

 辛いような。

 具体的でピンポイントな言葉がイメージすらできない。

 

「―――いたっ!」

 

 すると唐突に額に痛みが走り、無理矢理に天上を向けさせられた。

 

「ああ、すまない。間違えた」

「兄さん……少し、強すぎ」

 

 人差し指と中指で額を小突かれたのだと理解した。普段よりも力が強く、僅かながら爪の先が額の皮膚に食い込んだのもあって、もしかしたらクナイで刺されたのではないかと錯覚してしまったくらいである。

 

「他意はないんだ。まだ、遠近感が掴めていなくてな」

「だったら……言葉で言ってくれ」

「あまり、人のこういうところを黙って見るものじゃない」

 

 イタチは失明した右眼の瞼を軽く叩いた後「分かったな?」と、笑いかけてくる。まるで凝視されていた事に関してはどうでもいいように。

 

「それで……どうしてここに来たんだ?」

 

 あまりにも自然体だった彼を前に、失明した理由を尋ねる事は出来ないまま問いが飛んできた。そしてすぐにイタチは「ああ」と独りでに頷いた。

 

「写輪眼の事について聞きに来たのか?」

「え?」

「悪いが、まだ教えるつもりはないぞ。お前は中忍選抜試験に最後まで残れなかったからな。約束は約束だ」

「……それは、別にいい」

「そうか?」

「何だよ」

「お前のことだ。何かしら下手な言い訳を使うんじゃないかと思っていたからな」

 

 実のところ、写輪眼について教えて欲しいという約束は完全に記憶の中から消えていた。中忍選抜試験の途中で脱落してから今に至るまで、イロミの暴走や大蛇丸の企てが立て続けに起きていたせいで、気にもしていなかった。

 

「なら、どうして来たんだ?」

「………………」

「どうした?」

「ナルトとアホミ――イロミのやつは、どこにいるんだ?」

 

 大蛇丸の画策に手を貸してしまった形になってしまったイロミの姿と、カカシに禁と言われていた暴走したナルトの姿。葬儀の日にも姿を見せなかった二人の行方が、どうしても、今に至るまで脳裏にくっついて離れなかった。

 カカシは今、任務で招集を受けて不在の状態。他の上忍も、同様だ。イロミとナルトがどうなったのか、それを知る人物で時間に余裕のある人物が、イタチしかいなかった。

 静かにイタチは瞼を閉じる。何かを思案するように。

 勿論、木ノ葉崩しが終わってから入院しているイタチが二人の行方を知っている可能性は高くないことは客観的に見れば明白だ。だが、病室に部下が来ていた場面を目撃してしまった以上、期待してしまうのは仕方のないことだ。何の状況も把握しないままに、引き継ぎなど、するものではないはずだ。

 

「今、木ノ葉は―――」

 

 瞼を閉じながら、そう、イタチは口火を切った。

 

「幾つもの重要案件を保留のままにしている状態だ。砂隠れの里との同盟関係を如何とするか、大蛇丸の企てを前に今後の木ノ葉の体制の見直し、また他里への今回の木ノ葉で起きた情報開示の線引とそれらによってもたらされるだろう情勢の変化の予測……事細かく数え上げればキリがないような、それこそ、今真っ先に処理する必要のないものでさえも、もしかしたら時間の区切りを無理やり付けられるような、そんな事態に陥っている。火影様―――ヒルゼン様が殉職なされたからだ」

 

 おもむろに開いた瞼の先の瞳が、サスケを見つめた。

 

「木ノ葉隠れの里には、火の国の大名らからの管理が希薄な面がある。おそらく、木ノ葉隠れの里の成り立ちが影響しているからだろう。ほぼ―――というよりも、もはや全てと言っても過言ではないくらい、木ノ葉隠れの里は火影と、その周りの相談役らが管理と裁定を行っていた。今も、相談役らが木ノ葉隠れの里の復興を担っているものの、それ以外は何も出来ていない。というよりも、行ってはいけない、と言ったほうが正しい。まず、この前提を頭に入れてくれ」

 

 なぜ、そのような前提を説明されたのか、疑問を横に置いたままサスケは小さく頷いた。

 

「それら重要案件の中には……現在、暗部が秘密裏に抱える留置所に拘束している、イロミちゃんとナルトくんへの処遇も含まれている」

 

 処遇。

 その言葉は、あまりにもサスケには鋭い意味を持つものだった。

 切り捨てたはずの……純朴な頃の自分が、微かにだけ波紋のように頭に浮かんだ。

 

「二人共、今回の大蛇丸の企てに関係していると判断されている。少なくとも、報告を受けた大名らと、相談役たちにはな」

「あいつらは……どうして、あんなことになったんだ?」

「お前は、二人の事をどれくらい知っている?」

 

 それは容姿性格を尋ねたものではなく、いうなれば、二人の背景の事だというのは分かる。しかし、どうしてイロミが大蛇丸の企てに参加したのか、どうしてナルトがあんな人外染みた力を秘めているのか、知らない。沈黙を前に、イタチは「今から話すことは、他言するな」と硬い語気で呟いた。

 

「本来なら、今のお前に話す必要のない事だ。いや、もしかしたら今後一生、知らなくていいはずの事かもしれない。そして、お前がそれを知ったところで、二人への助力になれるような事は、一つも無い。お前はまだ下忍で、力も権限も無い。二人の事を知ったところで、ただの子供であるという事実が揺らぐことは決してありえない」

 

 それでも、知りたいか?

 

 イタチの言葉には、強固な選択が潜んでいることを暗に示していた。

 もしも二人の事を知らないままでいるならば、これ以上は関わるな。あとは、こっち処理する。お前は子供なんだから、何もするな、という―――透明な壁だ。

 

 いや、壁ですらないのかもしれない。

 

 向かい合うイタチと自分の間にある、白い線のようなものかもしれない。

 踏み越えるのは簡単だ。ここで何も考えず頷くだけで、線を飛び越えることができる。

 問われているのは、その先のこと。

 線を越えた先。

 その先にはきっと、イタチと同じ視線があるのだろう。イタチがこれまで見てきた、ナルトとイロミの姿が。つまりは、その線の向こう側の二人は、今まで自分が見てきた姿とは異なっているという事を示し、同時に、二人への印象が今とは変わるということをも示しているのだ。

 

 二人の事は―――大嫌いだ。

 

 まだ二人がフウコの事を信じているから。

 父と母、そして一族を滅ぼし、兄を傷付けた、あの女を信じているから。

 当事者じゃないからだと、今でも思っている。

 失ったものが無いからだと、今でも考える。

 

 それでも。

 それでも。

 それでも。

 

 イロミの狂気に染まった姿を見て。

 ナルトの怒りに満ちた姿を見て。

 そして、二人のことを思い出し考えても、まるで二人の事を知らないから。

 何よりも。

 

 そう。

 

 暴走したナルトを写輪眼で捉えた、あの瞬間。

 眼が捉えた、ナルトの心象世界とでも言うべきあの世界と、同時に頭に入り込んできた悲しみと苦しみの情景が。

 孤独が。

 孤独から助け出すかのように差し伸べられていた、フウコの手が。

 もしかしたらと、自分の中の無意識(だれか)がそう零すのだ。

 そして、全く同様に、プライドも言うのだ。

 何も知らないままの、あの馬鹿な二人に、現実を叩きつけたいとも。

 あるいは別の感情も、様々と語りかけても来るのだ。

 自分が分裂したような茫然自失の、多方からの感情の小波。

 それが、イタチの提示した選択を前に、唯一と同じ方向を向き始めた。

 

「……俺はまだ、兄さんの言うように、何も出来ないガキだ。ガキのままだ」

 

 フウコがうちは一族を滅ぼしてから、努力を続けてきた。

 慢心することなく、弛むことなく。

 一心不乱に、怒りと憎しみを胸に、進み続けた。

 それでも、上には上がいて、世界というのは朝と夕の光を赤く染めるほどに残酷な広さと深さを持っていて。

 陽炎のような、眼には捉え難い、それでも確かにそこに存在する現実があるのだ。

 

 だけど。

 

「だけど」

 

 俺は、

 

「このまま、何も知らないまま、何もかもが終わっているのを見るのは、もう、嫌だ」

 

 線を跨ぎ。

 

 イタチは、穏やかな、けれどどこか苦しさを呑み込むような笑みを浮かべて。

 

 

 

 そして、語ったのだ。

 

 

 

 イロミが、大蛇丸の実験で生まれた少女であるということ。

 ナルトの中に眠る、九尾の存在と、そして彼の孤独の理由。

 人柱力という言葉。

 今後二人が、次代の火影次第で処遇が大きく変わること。

イロミは危険人物として秘密裏に処刑されるかもしれないこと。

 ナルトは人柱力として他里への影響を主張しながらも、今回の暴走を契機に完全な隔離がなされるかもしれないこと。

 語られる情報の量は決して膨大とは言い難いものだったが、重さという点においては、途中から耳に入ってくる言葉を無意識の最低限さを担保とした処理へと移行させてしまうほどのインパクトがあった。

 情報を捨てる訳でも、膨張する訳でもなく。

 ただ、二人の背景に組み込むだけ。そこから先の予測という思考は働かなかった。

 

「―――大名らは、何も考えず、イロミちゃんの処理とナルトくんの管理を提言しているらしい」

 

 気が付けば、自分の膝下を見下ろしてしまっていた。

 感情は何も抱いていない。完全な虚無である。

 頭はただ、情報に押されているだけで、ナルトとイロミへの印象についても、何の感情の発露を起こせなかった。

 

「……大名の奴らの、その考えを覆すことはできるのか?」

「現状、困難だろうな」

 

 淡々とイタチは応えた。

 

「ナルトくんの中の九尾の件は、大人たちならば誰でも知っている事だ。今まではヒルゼン様の考えもあって、ナルトくんは自由に行動できていたが、今回の暴走でナルトくんへの見方が大きく傾いているのは間違いない。イロミちゃんも、人を殺めている。ましてや大蛇丸の企てに手を貸した形になってしまった以上、擁護は難しい。少なくとも、今の俺ではな」

「じゃあ……どうするんだよ」

「だから俺は暗部を辞めて――上に行く」

 

 暗部の……上。

 その言葉と、最初に説明された前提が繋がった瞬間、咄嗟にサスケは顔を上げた。片眼の光を失ったイタチは柔らかく微笑んで、こう、呟いた。

 

「まだ、可能性の話だがな」

 

 途端に、病室のドアが開き。

 

 相談役が入ってきた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

信頼があるからこそ、傲慢は在り、対立は必然となる

 うちはイタチはベッドのシーツを丁寧に伸ばしていた。大した皺も付いていないシーツではあるが、癖といえばよいのだろうか。サスケと二人暮らしをしている内に身に付いてしまった、いわばルーティンのようなものだ。ベッドの下方にズレ一つなく重ねて畳まれた掛け布団と毛布が置かれているのも、その一環。もはや、丁寧に片付けられた空間を眺めるだけで、山の頂に登った時のような清々しい気分を獲得できてしまうほど、心の呼吸として染み込んでしまったのだ。

 

 ―――そう言えば、サスケは布団を干しているのか?

 

 ふと、そんなことまで考えが及んでしまう。サスケが言うには、自分らの家はどうにか無傷だったらしく、イタチが入院している間は不自由なく生活ができていたようだ。

 家に帰ったら掃除洗濯を徹底しなければいけないだろうな、などと鼻で一笑する。そんな時間がすぐに手に入れば、良いのだけれど。

 

 病室のドアがノックされた。

 

「どうぞ」

 

 と、イタチが応えるとドアは静かに開き、入ってきたのは真珠の首飾りを付けた豚だった。

 

 トントンはのっそのっそとイタチの足元までやってくると、理由は分からないが、満足そうに鼻を鳴らした。

 

「……衛生的に、大丈夫なんですか?」

「問題は無いと思いますが……」

 

 自信なく応えたのは、遅れて入ってきたシズネだった。彼女は曖昧ながらも優しい笑みを浮かべながら後ろ手にドアを閉める。

 

「トントンの面倒を見られるのは、私か綱手様だけですので。放っておくと、何を食べるかも分かりませんし」

「ええ、まあ。そうだとは思いますけど………」

「あ、そうすぐには人に噛み付いたりもしないので、安心してください」

 

 そう言った部分には不安を抱いているつもりは露も無いのだけれど、しかしながら、病院内に入る事を許されているというのは意外だった。医療忍術の知識は特別持っていないが、そもそも、医療忍者界隈の認識というのは、案外常識の外だったりするのかもしれない。

 トントンはシズネの足元へと戻っていくと、彼女は優しくトントンを両腕で抱きかかえた。

 

「退院、おめでとうございます。イタチくん」

「大きな怪我はありませんでしたが……。ただ本当に、病院に居ただけですので」

 

 やんわりとイタチが言うと、シズネはおかしそうに笑った。

 

「仕方がありません。状況が状況でしたし、片眼の失明に加えて、怪我が全部消えていたんですから。どこか異常があると、医療忍者なら誰だって考えてしまいますよ。たとえ身体に異常が無いと分かっても、ある程度の経過観察はしなければいけないので」

 

 ましてや、とシズネは続けた。

 

「次期火影だと分かれば、おいそれとは退院なんてさせられませんから」

「…………………」

 

 次期火影。

 その言葉が他者から述べられると、どうしても、肩が重くなってしまう。表情に出てしまっていたのか、シズネは眉を僅かに下げながら尋ねた。

 

「やはり、不安ですか?」

「……不安は、たしかにありますが。それ以外の事が、少し気掛かりでして」

 

 自分で選んだ道なのだから、不安はあっても、怖気づいているということはない。

 問題なのは、外側からの介入だった。

 

 志村ダンゾウ。

 

 今、彼が考えているだろうことは想像に難くない。

 シスイの言葉と。サスケから聞いた、大蛇丸の画策の裏で動いた暗部らの行動を顧みれば、自ずと、分かってしまう。

 

 おそらく、彼は火影になろうとする道を邪魔してくるだろう。

 

 火影という、木ノ葉隠れの里において最上位の地位からの権力から、これまで隠してきた真実を逃すために。

 

「綱手様はどうでしたか?」

 

 シズネは目を伏せた。

 

「分からない、と。一言だけ、仰っておりました」

「……そうですか。いえ、こちらも無理をお願いして、すみません」

 

 予想は、十分出来ていた。

 

 火影になる為の後ろ盾として、綱手と自来也に声を掛けていた。入院している以上直接会えない為、自来也には見舞いに来てくれたカカシを経由して、綱手にはシズネを経由してお願いしておいた。

 自来也の返事は既に、否、と貰っている。理由は綱手と同様、明確には応えてくれなかったが、綱手共々、仕方がない事だ。二人が木ノ葉隠れの里に来たのは、元来、全く別の目的があるのだ。こちらとしても、ダメ元ではあった。

 

「ですが、綱手様はしばらく、里に残ると仰っておりました」

 

 どこか嬉しそうに、シズネは微笑んだ。

 

「真意は定かではありませんが、今までの綱手様なら、そんなことは決して言わなかったと思います。君のおかげです」

「俺は何もしていません。木ノ葉を支えてきた方々の御力だと思います」

「あ、あともう一つ仰っておりました」

「はい?」

「あの……………もし火影になったら、約束はキチンと守ってもらう、と………」

 

 目まぐるしくイタチの記憶は遡り、反芻する。今日が退院日だというのに、不思議と、体調が悪くなってきたのは気のせいだろうか。

 

「……考慮すると、伝えてもらっていいですか?」

 

 シズネは困ったように頷いた。

 既に着替えは済ませてあった。背にうちはの家紋が記された黒のシャツを羽織り、ゆとりのあるズボンの下には忍のシューズがピッタリと履かれている。最後に上忍のジャケットを羽織ると、イタチは病室のドアに指を掛けた。もうすっかりと片目だけでの遠近感には慣れていた。

 

「――イタチくん」

 

 ふいに、背後からシズネが語りかけてきた。

 その声は無機質で、医療忍者としての彼女の診断が告げられるのだと直感的に理解した。

 

「君の身体は、少し危険な状態にあります」

 

 首だけをイタチは振り向かせた。

 

 シズネが告げる診断は、昨日、彼女がイタチの容態の最終確認として病院側が呼んでくれた時に行ってもらった時のものである。その際、彼女は深刻な表情で「もしかしたら」と、イタチの身体の状態の可能性を告げてくれた。

 

 つまりは、その可能性の是非を彼女は述べてようとしてくれている。

 

 自覚症状があった事もあり、イタチは冷静に最悪な事も想定していた。

 

「具体的には?」

「今すぐ、というほど緊急の事態ではありません。まだ、初期段階の、さらに兆候の段階です。内臓器官が、君と同じ年齢の子と比較すると異常に疲労を累積しています。君は若く細胞も力を残していますが、今の状態が続けば、取り返しのつかないものになることは間違いないでしょう」

 

 勿論、とシズネは続けた。

 

「本当に、早急の事態ではありません。あと二年ほどは猶予があると言っても問題ないでしょう。ですが、そこから先は治療のリスク等が伴ってきます。私が言っているのは、今すぐ治療に専念すれば、リスクもなく時間も多くは掛からないという事です」

「……治療に専念というのは、療養するという事ですか?」

「内臓器官ですので、食事や私生活は制限されます。………おそらくですが、君の容態は精神的な部分の影響がかなり大きいと思います。里の状態が状態だけに、きっと、火影になれば負荷は大きいはずです」

 

 シズネはゆるゆると頭を振ると「本来なら」と呟いた。

 

「退院を止めるべきなのでしょうけど……」

「すみません」

 

 と、イタチは笑った。

 

「いずれ、治療をお願いさせてもらいます」

 

 今は時間が足りない。

 

 火影になるまでの時間も、火影になってから(、、、、、)の時間も。

 

 シズネはそれ以上、診断について深く述べることはしなかった。ただ、後から薬を送る、とだけ。

 階段を降りて、そのままに正面出入口を出た。退院手続きは終わっている。出入り口を出て、歩きながら空を見上げる。晴天の下には座布団のような雲が距離を離して浮かんでいる。空気は熱くも寒くもない。こういった、つまり、安穏とした時間というのは、まさに束の間でしか味わえない高級品になるのだろう。

出て、歩きながら空を見上げる。晴天の下には座布団のような雲が距離を離して浮かんでいる。空気は熱くも寒くもない。こういった、つまり、安穏とした時間というのは、まさに束の間でしか味わえない高級品になるのだろう。

 

 僅かな緊張感はある。

 

 綱渡り、と言えなくもないだろう。

 

 だが、全てを救うには――いや、それは傲慢と言える代物に違いないが――あるいは手を伸ばすには、選ばなくてはならない。安穏を犠牲にするからこそ、次の安穏に指が掛かるのだから。

 

「退院、おめでとうございます。イタチさん!」

 

 病院の敷地を出ると、フウがいた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 三代目火影・猿飛ヒルゼンの事を、フウはあまり知らない。直接話した回数は数える程で、いずれも、簡単な会話ばかり。お互いの事を理解しよう、というような腰を据えたものはなかった。

 

 木ノ葉での生活はどうか。

 困ったことはないか。

 分からないことはないか。

 

 道や通路ですれ違う度に一言、二言、そんな事を尋ねられただけだった。

 しかし、それでも、彼のことを尊敬し好意的に仰いでいたのは決して、偏った見方ではないだろう。彼のお陰で、自分は木ノ葉隠れの里に馴染めたのだから。

 彼が他里の人柱力である自分に自由を与えてくれて、尚且つ、イロミを初めての友達として動かしてくれたから、木ノ葉隠れの里を愛する事が出来たのだ。自分の居場所を作れて、自覚することができたのだ。

 

 葬儀の日。

 

 ヒルゼンの遺影の前で小さく誓った。

 他の方々と一緒に、木ノ葉隠れの里を支えると。

 だから、フウは、イタチの誘いを受けた。彼が火影になった時、彼の直属の部下として活動する約束を。

 

「火影になると、聞いているが?」

「間違いはない。俺は火影になる。今まで世話になった」

 

 仄暗い、地の底のような空間。だけど、広い恐ろしい空間に、イタチと共にやってきた。ここがどういう場所なのか、フウは知らされていない。それはつまり、知ってはいけない場所なのだろう。

 人柱力として、尾獣と化したナルトを前にしても恐怖を跳ね除けて立ち向かったフウだったが、直接的な死への恐怖とはまた違う、悍ましさが足元からヌルリと感じた。寒気が肩を震わせる。

 上も下も、暗黒に呑み込まれている。立っている場所は、円形の壁と壁を繋ぐ細い通路だ。浮遊を錯覚させるのも、恐怖の一因を担っているかもしれない。

 

「どうやら……こちらの意図が伝わらなかったようだな」

 

 通路の端。今までこちらへ無防備に背を向けていた、杖をついていた男が振り返る。

 顔の半分ほどを包帯で覆い隠した老齢の男性が、鋭い視線を送ってきた。

 志村ダンゾウは――淡々と述べた。

 

「それが許されると思っているのかと、俺は訊いたぞ?」

 

 不気味な雰囲気に押されるように、フウは無意識に唾を呑み込んだ。

 

「推薦は受けている。相談役からも了承は既に得た。幾つかの条件は付いているが、なんら問題は無い。手続きの上では、俺は火影になる権利を得る立場にある。アンタの許可は必要ない」

 

 そして、自分の前に立つイタチの背。

 その背中からは、ただただ、冷酷さしか感じ取れなかった。

 初めて見る、忍としての――いや、暗部としてのイタチの姿だ。その姿を、ダンゾウは睨める。

 

「火影になって、何をするつもりだ? よもや、あの者らに恩赦でも与えようとでも言うつもりか?」

「どうだろうな」

「それとも、他に何か目的でもあるのか?」

「アンタが一番、それを分かっているんじゃないのか?」

「貴様は何を知っているつもりになっているんだ?」

「何も知らないから、俺はここにいるつもりだ」

「火影になれば……お前は里の柱として、フウコを追うことは叶わないぞ。ましてや、他の者にあやつを捕らえる実力があるとでも?」

 

 フウコ。

 

 その人物の名を、これまで何度か聞いたことがあった。イロミとイタチが時折、懐かしむように呟いたこともあれば、うちは一族が滅んだ経緯を語られる際に必ず出ても来た。

 そして、その人物が――イタチとサスケの家族であるという事も。

 

「だから俺は火影になるんだ」

 

 イタチは言った。

 

「あいつは……そう簡単には捕まらない。誰よりもあいつと忍術勝負をしてきたのは俺だ。あいつの実力は、俺が知っている。それまで、俺はやらなくてはならない事がある。それだけだ」

「なるほど。確かにな………。フウコの事をよく知っている。冷静だ」

 

 だが、

 

「お前が死ねば、フウコが死ぬのと結果は変わらないぞ」

 

 背筋に氷柱が突き刺さったような悪寒が走る。

 それが、一瞬、意識の空白を生み出してしまった。

 視界の端。

 暗闇に紛れて、潜み動く影がイタチの両脇から。

 身体の反応が追いつかない。

 

「……もう一度言う」

 

 イタチの声は薄暗闇を縫うように、そして二つの影を割くように、白い琴線の調べとして強く響き渡った。

 二人の暗部を捌き気絶させたイタチの挙動は影をも置き去りにするほどの速度で、その刹那、紅く光る写輪眼を覗かせた。

 

「許可はいらない。俺は――火影になる」

 

 足元に転がる気を失った男二人を脇目に、イタチは力強く一歩を踏み出した。

 

「片眼であったとしても、お前らを捻じ伏せるくらいは出来る」

「それは脅しのつもりか?」

 

 イタチの後ろに立っていても伝わってくる、圧力。それを前にしても尚、ダンゾウの佇まいに濁りはなく、真正面から受けて立っている。フウは二人の空気を前に一歩さえ踏み出せなかった。

 単純な力ではない、全く別の力が支配する空間。

 初めて感じ取る世界だった。

 

「まあ、よい」

 

 ダンゾウは静かに息を吐く。

 

「わざわざ、それだけを言いに来たのか? 七尾の人柱力まで引き連れて。大層なことだな」

「フウを連れてきたのは、暗部が拘束している二人に会わせる為だ」

「……なるほど。こちらはついで、というわけか」

「二人のところへ案内をしてくれ」

「場所は知っているだろう。好きにしろ」

 

 イタチは無言に振り向いて「行こう」とフウの横をすり抜けた。その時には既に、イタチの左眼は黒に戻っていたが、肩から発せられる圧力は僅かにしか収まっていないように感じ取れた。

 合わせてフウは踵を返す。すると、後ろのダンゾウが静かに一人、呟いた。

 本当に、微かな声で。

 

「すまぬな、ヒルゼン。お前の遺した言葉を、俺は躊躇わず踏み潰すぞ」

 

 言葉は実際、フウの耳には届いていない。振り返って見た彼の姿は、まるで目に見えない何かが浮かぶ中空を眺めているようだった。

 

 二人は下へと向かった。イタチは何も喋らない。歩く速度は落ち着きに溢れていて、怖さはなかった。通路は狭くなっていき、天井と壁が現れ始め、階段はずっと下方に続いている。時折、平坦な通路も現れ、右に左に、と曲がった。まるで、迷路のようだった。

 

 互いの足音しか残響しない空間。フウは神経を尖らせて、辺りの警戒を強めた。火影になるイタチの部下として、先程のような突発的な危険を防がなければいけない。

 

 しかし、他の暗部に出会う事はなく、やがて、不気味な石造りの通路に出た。天井に吊るされている燭台の列は薄暗く、切れ目の見えない通路を照らしていた。位置が低いからか、足首に触れる冷気は湿気っているような気がして、背筋が震える。

 

 通路の両脇には等間隔に、分厚そうな鉄扉が並んでいる。扉の上部には細い覗きな穴が設けられているが、見える限りの扉からは光は漏れていない。ましてや、息遣いなどと言った、人の気配も。

 

「最初は、イロミちゃんに会いに行こう」

「……どうして、っすか?」

「特に、意味は無いよ。ナルトくんが隔離されている場所は、もっと下だからだ」

 

 イタチが進んで行くのを、フウは慌てて追い付いた。

 

「詳しいっすね。ここも……暗部の施設なんすか?」

「非公式の施設だ。第三次忍界大戦まで使われていたらしい。それを、あの男が継続して使っている。火影直属の暗部は使用していない上に、知っている者は殆どいない」

「あの人は……誰っすか?」

「君は知らない方が良い。ここの事も、ここを出たら忘れるんだ」

「……わかったっす」

 

 勿論、外で語るつもりなんてない。それが目的で来たわけじゃないからだ。

 通路の最奥がやってきた。

 一層と大きく、分厚い扉。覗き穴すら無く、そして、扉を開ける取っ手もなかった。まるで、二度と開かれないことを誇示しているようだった。

 

「…………誰?」

 

 そして、扉の向こうから――声が。

 鉄扉の分厚さに遮られていても、その声質が分かった。

 

「イロミちゃんっすか?! フウっす! あと、イタチさんもいるっすよ!」

「ああ……来てくれたんだ。うん、ありがとう」

 

 似つかわしくない穏やかな声だった。衰弱しているようではなく、何かを悟ったような空っぽの声。気が付けば、フウは扉に両手を付けて、少しでも声が届くように顔を近付けていた。

 

「大丈夫っすか?! 何か、拷問とか、その、酷いこととか――」

「大丈夫だよ。痛いことはされてないし、ご飯も……美味しくないけど、食べさせてもらえるし。ああ、でも、お風呂とか入ってないから、ちょっと、この中はかなり酷い臭いだから、入ってほしくないかな。あはは。それに、見た目も悪いし。身体中、色んなものでグルグル巻きにされててさ、禄に動けないんだ」

 

 咄嗟にイタチを振り返る。扉を開けてほしい、と目で訴えかけるが、イタチは無言に首を横に振るだけだった。下唇を噛み締めてしまう。

 

 彼女は、悪くないのだ。

 

 大蛇丸に誑かされただけなのに。

 

「イタチくん」

 

 と、イロミは淡々と尋ねた。

 

「身体………大丈夫? 大怪我だったと、思うんだけど」

「というよりも、致命傷だったな」

「あはは。やっぱり凄いね、イタチくんは。そんなに日にち経ってないのに、もう大丈夫なんだ。でも、本当に、大丈夫?」

「右眼を失明しただけだ。それ以外は、元に戻ってる」

「……ごめんね」

「仕方ないことだった」

「そう言ってくれると………うん、ありがとう」

「イタチさん、どうしても、開けること出来ないんですか?」

 

 いいよ、と応えたのは、イロミだった。

 

「私は、犯罪者なんだから。そんな簡単に外に出られるわけないよ」

「いや……だって、イロミちゃんは、何も…………」

「悪いよ。私は…………ほんの少しだけでも、殺したいって、思っちゃったんだから…………気の迷いなんて、言い訳にしかならないんだよ。私の感情は、私だけしか作れないんだから……」

「だけど――!」

「いいの。フウちゃん。気にしないで、覚悟は出来てるから」

 

 覚悟。

 そんな覚悟を求めているつもりはない。

 もしも、彼女がこの場で、助けを求めてくれるなら、今すぐにでも鉄扉を蹴破ってもいい。

 

『おい、フウ。くだらねえこと考えるんじゃねえぞ』

 

 意識の奥で重明がぼやく。

 

『最初からイタチに言われてただろうが。今日は、会うだけだ』

 

 そんなことは、分かっている。イタチが最初から彼女と、そしてナルトを開放するつもりは無いのだと。それは、火影になってから行うことなのだろうけれど、感情は納得がいかない。

 

「イタチくん。今日は、何しに来たの? わざわざ、こんなところまで来て」

「イロミちゃん……俺は、火影になる。それだけを、今日は伝えに来た」

 

 微かな沈黙が、扉を挟んで座り込んだ。

 

「……そうなんだ」

 

 たったの、一言だった。それ以上の語りはなかった。

 

「また来る。その時は、君の意見を教えて欲しい」

 

 意見。

 それは、彼が火影になることに関してのものなのだろうか。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 二人の遠ざかる足音が、顔の殆どを覆っている布を通り越してようやく届いてくる。安心するのと、口が乾くような辛さが、頭の中を緩やかに回った。もしかしたら、あと数秒でも二人が扉の向こうに立ち続けていたら、涙を流していたかもしれない。未だ眼球が無い状態で涙を流したらどうなるのかと、くだらない想像を働かせたが、呪印で暴走した時の記憶では視界への影響は何もなかった。涙を流す、という行為は、きっと、自分には不要なものなのだろう。いや、涙を流すだけではなく、今では呼吸以外の自由は何も無い。

 

 身体中の至る所には何十もの細い針が刺され、筋肉と靭帯の自由は奪われている。両手足首は鎖で固定され、それらに連結している鎖は首をきつく締める首輪に繋がっていた。顔に巻かれている布には墨の匂いが強く染み付いている。おそらく、封印術の一種なのだろう。墨は首より下の肌にも塗られていて、チャクラを操作できない。

 

 自由が認められない。

 

 当然だ。掟を破ったのだから。

 

 考える事が許されているだけでも、十分と言えば、傲慢だろうか。

 

 完全な無音が訪れた。二人は、ナルトの元へと足を進めたのである。それは正しく、同時に健全でもある。

 

 ナルトの方が、自分よりも立場は複雑だ。

 

 ただの犯罪者と比べるまでもない。

 

 彼は木ノ葉隠れの里のみならず、他里への影響力も持ってしまっている。ましてや、まだ、子供なのだ。火影になると望むイタチの判断は、ナルト自身と木ノ葉隠れの里、ひいては全体的な安定を視野に入れた素晴らしいものだろう。

 

 火影。

 

 その言葉を前に、ふと、イロミの思考は足を止めた。

 

『イロミちゃん……俺は、火影になる。それだけを、今日は伝えに来た』

 

 それだけ――彼は簡単に済ませたが、今となってようやく、ああ、信頼されるという事の重さ、イロミは理解した。

 

 彼の性格なら、きっと、火影になる(、、、、、)、と考えはしない。

 

 象徴として里を支えるよりも、実務で里を支えたいと、彼なら合理的に判断するはずだ。それは、彼の才能が導くものであり、そして正しくもあるのだけれど、ある意味では、他者を慮ってしまう優しい性格に起因するものでもある。

 

 だから、そう。

 

 もしかしたら。

 

 火影になる、という選択は、彼が望んでいないことなのかもしれない。

 

 それを――それを――。

 

「私が………させちゃったのかな……………はは」

 

 自分が情けない。

 頭が痛くなる。鼻の奥が熱くなって、苦しくなって、怖くなる。

 ああ、これが、そうか。

 

「……信頼(、、)なんだ」

 

 今まで自分が、どれほど、甘やかされてきたのか。

 

 イタチは信じてくれている、という思考を迷わず進むという――恐怖。

 いや、進むことは、怖くない。

 彼をまるで誘導したかのような、この状況を許容してしまう自分の姿が、どうしても傲慢に見えてしまって、それを良しとしてしまう事が、怖いのだ。

 

 才能も無いくせに。

 

 努力を一度、放棄したくせに。

 

 傲慢であるということ。

 

 これまではずっと、与えられてきた優しさを我慢するだけで良かった。

 

 自分が我慢すればすぐに終わっていた。

 

 周りに何も影響を与えない。それがどれほど、気楽だったのかよく分かる。

 

 フウコも、イタチも、シスイも。

 

 だって、天才だったから。

 

 彼らは自分で正しい判断をするのだから、自分が影響を与える必要は無かった。

 

 友達としての責任を、放棄していたのだ。

 

 ただ優しさに甘えていたのだと、はっきりと、分かった。

 

 イタチを信じたい。いや、信じる。それは、彼の眼と繋がって互いにぶつけた感情の過程があったから。だから、信じてる。彼の言葉を。

 

 彼の言葉と、彼の言葉の()を。

 

 つまり――つまり――彼が火影になったのは、フウコに辿り着くだけではなく、自分を助けようとしてくれている。

 

 それは、嬉しくて。

 

 フウコを追いかける事もできて。

 

 やっぱり、嬉しくて。

 

 だけど。

 

「………ははは……辛い、なあ………………」

 

 心の中の誰かが叫ぶんだ。

 

 お前は死ねと。

 人を殺したんだ。

 もう、お前が殺した人は、願いを叶えられないのに。

 お前だけが願いを叶えるのか。

 他者の権利を貪っておいて。

 自分の権利を掲げるのか。

 死ね、死ねと。

 

 絶叫が頭蓋骨を内側から破壊しようと、暴れだす。

 

 その罪に、伏したい。

 

 死んで、この多くの命を捕食してしまった身体を消してしまいたい。

 

 なのに外側と、内側の中心が、叫びを押しのけるように指を引っ掛けるんだ。

 

「フウコちゃんに………会いたい……。また、昔みたいに――ううん、昔のほんの一部みたいに」

 

 笑いたいんだ。

 

 話したいんだ。

 

 疲れ果てて死の一歩手前の位置でも。

 

 眠りにつくような充実を胸にしてでも。

 

 遠ざかる黄昏を並んで眺めるだけでもいい。

 

 イタチもそれを望んで。

 

 自分もそれを望んでしまっている。

 

 信頼が引っ張ってくれる。

 

 傲慢が努力を訴えてくる。

 

 あと――。

 

 あと、どれほどのものを。

 

 努力と、

 

 信頼と、

 

 罪悪と、

 

 過去と、

 

 命と、

 

 ありとあらゆる、

 

 自分のものにしてしまった全てを背負って。

 

 あと、どれほど。

 

 

 

「私は………傲慢になってみせないといけないのかな…………」

 

 

 

 それでも、進まないといけないのか。

 

 もう戻るのは――諦めるのは――イタチが悲しんでしまう。そんな事をしても、何も解決しないということは、むしろ不幸を招いてしまうのは、彼が命懸けで語りかけてくれた事実なのだから。

 

 生きないといけない。

 

 正しく生きることはもう、できないけど。

 

 進まないと。

 

 苦しくても、悲しくても、傲慢に――振る舞ってやる。

 

「ははは……そう言えば…………私の親って……みんな、我儘な人だったっけ……」




 次話は来月中に投稿いたします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

願う先の相違

 脆弱性を隠そうとしない、貧相な牢だった。さながら、牢屋、というワードを聞いただけで即座に思い浮かべる事が出来てしまう、シンプルな形。ヒビ割れた石造の立方体の室内。埃は隅に溜まっていて、不快な湿り気が室内に充満している。一つの壁際に置かれた簡易なベッドは病院の物よりも粗く、寝心地は悪そうだ。むき出しの洗面所からは腐臭は無いが、水が出るのかさえ怪しい。通路と牢を分割する檻は、隙間の広い鉄の棒が縦に等間隔に並んだスタイルを適用している。鉄の棒は所々が錆に侵食されているせいか、軽く押してしまえばポキリと折れてしまうだろう。

 罪を犯した者への収容所として、ある種の風情とでも言えばいいのだろうか、身の丈にはお誂え(、、、)向きな空間と言えるだろう。性根まで腐り切った罪人ならば、もしかしたら、オンボロの牢を見て邪悪な笑みを浮かべるのは間違いない。

 

 いつ脱獄してやろうか、そんな安易な考えに足を踏み入れる。

 

 しかし、それこそが暗部――いや、ダンゾウの狙いだ。

 

 たとえ木ノ葉隠れの里の掟を破った者とは言え、元々は里の住人。どんな言い訳をしたところで、掟を破った者への罰は必定だが、かといって里側に一切の要因が無かったのか、と言えばそれはまた別の問題である。その為、余程の重罪を犯したと言えど、一縷の人道的配慮を木ノ葉隠れの里は行ってしまう。

 

 だからこその、脆弱な牢である。

 

 もし本当に人道的配慮を与えるべき人物であるならば、たとえ押せば倒れる檻を前にしても、決して立ち上がることはしないはずだ。たとえ、碌な食事や生活空間を与えられず、ストレスに苛まれ時折脳裏に宿る餓死への恐怖にも身を服すはずなのだ。

 

 ならば、逆に。

 

 脱獄を図った者には恩赦を(さしはさ)む余地など一切存在しない事への証明ともなる。

 追いかけ、捕らえ。

どのような拷問尋問を行い、その末に出来上がった悲惨な肉体を道端に野晒しにしても――良いのだ(、、、、)。むしろ、牢を出ろ、とダンゾウは考えたのかもしれない。木ノ葉隠れの里を守る為には、不安要素は完全に消さなければいけない。その重罪人を殺した際の里への損失が巨大であってもだ。

 

 勿論。

 

 うずまきナルトには、脱獄などという考えは一切浮かぶことはなかった。牢の中で目を覚ました時から、一度として。

 

 ――もう何日………経ってんのかな…………。

 

 外の光が差し込まれない、空腹と気怠さに身を任せて、ナルトは壁に背を預けて床に座り込んでいた。項垂れる頭に、額当ては無い。牢に入れられた際に取り上げられたのか、九尾に取り憑かれた時にどこかへ落としたのか。大切な物だが、もう自分が付けて良いような物ではない。

 ナルトは自覚していた。

 自分が行ったこと。

 木ノ葉隠れの里が行っていたこと。

 後悔と憤怒は、目を覚ましてから何巡もした。何巡も、何巡もして、感情は爆発しながら擦り切れていって、やがて辿り着いたのは【考えていても仕方がない】という、疲弊に導かれた諦観だった。

 決して、自分にとって大切な者たちへの想いを放棄した訳じゃない。ただ、あまりにも考え過ぎて、考える事に抵抗を覚えてしまった事への免罪符なだけである。言うなれば、次に巡回する為の休憩時間だ。

 

『ガキ、外に出たいとは思わないか?』

 

 まただ、とナルトは辟易した。

 いつも決まって、ぼんやりとした時間に九尾は語りかけてくる。獰猛な獣が、雑木林の影から兎が足を止めるのを今や今かと、だらしない垂涎をしながら待っていたかのように。

 

『ワシに任せれば、こんな牢如き軽く吹き飛ばしてくれる。勿論、お前が憎んでいる木ノ葉も粉微塵に出来る』

 

 目を覚ましてからというもの、これまで以上に九尾が話し掛けてくるようになった。今までは――波の国の時も、そして短かった自来也での修行の時も――こちらから喝を入れてようやく反応していた九尾が、今はやたらと言葉を放ってくるのに対して、僅かに疑問を抱いた。

 瞼を瞑る。つい、眠ってしまいそうになった。牢の中は、眠る事だけに関して言えばそう悪くない環境だ。意識を下へ下へ。錯覚ではなく身体の感覚が希薄化していって、錯覚ではなく、後頭部、肩、背中へと徐々に意識が離れていくのが分かった。

 背中を預けた壁、腰を置いている床の感覚が消える。身体の感覚も無いのに、けれど、自分の意識がある、というのだけははっきりと分かった。瞼を開けた訳でもないのに、暗闇一色の視界が徐々に光を帯び始める。

 

 黒と黄を帯びた白い光に照らされる空間がそこにはあった。光源(、、)は自身の背後。一度、ナルトは振り返りそれを見上げた。

 

 まるで社に奉るように四方を鳥居(、、)で囲われ浮かぶ、煌々と光を放つ巨大なチャクラの塊。

 

 どうして、そのチャクラがあるのかは分からない。目を覚ました時には既にあったのだ。九尾のチャクラであることは、九尾のチャクラを身に宿したナルトには直感的に分かったが、どこか質が違う。

 

 どこか暖かいような。

 どこか見守ってくれているような。

 そんなチャクラの塊。

 

 足元から伸びる長い影は、九尾との関係を象徴するかのように檻へと繋がっていた。

 そう、九尾を封じている檻だ。

 檻の隙間から覗かせてくる巨大な瞳が睨めてきていたが、ナルトは怯む様子は微塵もなく睨み返した。

 

「いい加減、ウルせェってばよ。何十回頼まれても、俺はお前の力を借りねえし、牢屋から出ようとも思ってねえよ」

 

 本心で言い放った言葉だ。感情的だと言っても間違いはない。

 しかし、九尾は見透かしたようにケタケタと笑ってみせた。

 

『だったら、どうするつもりだ? 一生こんな惨めな牢屋に閉じ込められたまま死ぬつもりか? 復讐も出来ずに』

 

 復讐。九尾が言い放った、たった一言が黒い感情を呼び起こす。意識がぐちゃぐちゃになってしまいそうなほど灼熱のような衝動が足元を焦がしてくる。

 木ノ葉隠れの里が、うちはフウコに罪を負わせたこと。

 

「俺は……木ノ葉に何かをするつもりはねえってばよ」

『木ノ葉は、うちはフウコに罪を擦り付けたのにか? あの女への執着は、その程度だったのか』

「そういうことじゃねえッ!」

『なら、どういうことだ? まさか、そんな事実は無かった、あれは嘘だ、とか言うつもりではないだろうな』

 

 咄嗟に口が開いたが、舌が上手く動くことはなかった。その自身の反応を自覚すると、ナルトは奥歯を噛み締めてしまう。

 大蛇丸の言葉と、それを肯定した猿飛ヒルゼン。木ノ葉崩しの最中という緊迫した状況で手に入れた情報。決して嘘ではないと、分かってしまっているのだ。

 そして、生まれてしまった復讐心を、否定できない。

 九尾はせせら笑った。

 

『お前がどういうつもりだろうが、木ノ葉は変わらない。このまま野垂れ死ぬか、お前がここから出るか、二つに一つだ。いくらお前が間抜けであっても、答えは分かるはずだ。ワシを使え。お前の願いなぞ、いとも容易く叶えてやるぞ?』

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「アンタは、フウコの姉ちゃんのこと……知ってたのか?」

 

 うちはイタチは、ナルトがそう問うて来るだろうことは想定できていた。彼が尾獣化してしまった経緯はそれしかあり得ない。本当なら、真実を手にして彼の前に姿を現すべきだったのだろうけれど……。

 貧相で、そして暗部らしい老獪さをひた隠す牢屋。彼は檻とは対面に当たる壁に寄りかかって座っていた。衰弱しているようで、手足は脱力に任せて床に投げられてはいるが、こちらを見上げてくる青い瞳には感情が燃えているのが分かった。

 隣のフウは悔しそうに下唇を噛んでいる。同じ人柱力として、彼の環境を看過出来ないのだろう。今まさに檻を壊さんばかりだが、予め、彼の状況は伝えておいた。今は耐えてほしい、とも。

 イタチは応える。

 

「まだ、全てを知っている訳じゃない。君は、何を知っている?」

「……お前ら、うちは一族が、木ノ葉にクーデターを仕掛けようとしていて…………フウコの姉ちゃんが、それを止めた…………。だけど――」

 

 木ノ葉は、

 

「フウコの姉ちゃんに、うちは一族を殺した罪を着せられた……ってことを、知ってる」

「……そうか」

 

 その証言は、イロミの言葉と合致している部分がある。きっと、それは真実。今の記憶のままでは信じることは難しいけれど、理解は出来てしまう自分に僅かな驚きを抱いてしまう。

 ナルトが尾獣化したのは、大蛇丸とヒルゼンがいた物見櫓の上。大蛇丸か、ヒルゼンか、あるいは双方が、ナルトに語ったのだろう。

 今、この場でそれらが真実であると確証という言葉を他所に騙る(、、)ことは出来る。しかし、彼が求めているのはきっと真実の是非じゃない。

 サスケと同じだ。うちは一族が一夜にして滅んだ事実に呻吟した、サスケと。青い瞳の奥には、燻りを隠すことをしない真っ赤な感情が渦巻いている。もしもここで嘘を使えば、またあの日のようにナルトは一時の安寧を手に入れるだろう。けれどそれは、この牢の様に脆いものだ。そして嘘の檻が瓦解した結末が凄惨への口火だという事も、木ノ葉崩しで経験した。

 

 嘘は現状を保留するための道具じゃない。

 

 真っ直ぐ向き合わなければ。

 

「……フウコの身に何が起きたのか、俺はまだ知らない」

 

 空気が重くなる。比喩などではなく、檻を隔ててナルトのチャクラが溢れ出し、重圧となって肌を押してきた。寒気を感じさせる熱い胡乱なチャクラが足首を掴みに掛かると、フウが咄嗟にイタチの前に出ようとした。

 漏れ出したチャクラが九尾のものだと、同じ人柱力であるフウは感じ取ったのだろう。イタチは片手で制した。まだイタチは写輪眼にはなっていない。

 

「だが、俺は……おそらく君が知った事実に深く関わっている。フウコを助ける事が出来た立場にあったかもしれない」

「言ってる意味が……分からねえってばよ………」

「ナルトくん。もし、俺や、他の誰かがフウコの事柄に関わっていることを知って、その後は、どうするつもりだ?」

「…………分かんねえよ……」

 

 震えた声でナルトは呟いた。

 

「今すぐ……ぶっ殺してやりてえ。そいつらのせいで、フウコの姉ちゃんは木ノ葉から追い出されて……悪いように言われて…………、犯罪者にさせられて。他の連中も、フウコの姉ちゃんのこと、よく知りもしねえで悪口を言いやがる………。ぶっ殺してやりてえよ」

 

 だけど、だけど……!

 

「フウコの姉ちゃんは、そんなこと、絶対望んじゃいねえ……。イルカ先生も、カカシ先生も………望んでねえ……」

「……………………」

「なら……じゃあ、どうすればいいんだってばよ……。フウコの姉ちゃんは、無実なんだ。うちは一族を滅ぼしたかもしれねえ……、でもフウコの姉ちゃんが望んでやったわけがねえ。フウコの姉ちゃんが木ノ葉のこと大好きだったってのは知ってる。なのに、うちは一族を滅ぼしてえって望んだ連中が何も無くて、フウコの姉ちゃんが罪着せられるってのも、納得出来ねえ……。もう、訳が分かんねえんだよ……ッ」

「……ナルトくん」

 

 イタチは淡々と呟いた。

 彼が抱く感情や、身に起きた事を推し量ることは決してしない。そうやって眺めてしまうことが、彼を疎遠とさせた者らの視線と同質だから。

 

「フウコに罪を着せた者をこれから見つけるつもりだ」

「どうやってだよ……」

「火影になる」

 

 ナルトの瞼がピクリと震えた。

 

「いずれ、そいつらを必ず見つけ出す。だが、見つけても、誤魔化されてしまうかもしれない。嘘で塗り潰されてしまうかもしれない。あるいは、真実を語らないままに姿を消してしまうかもしれない。真実を知るには、どうしても力が必要だ」

「……ちから……………」

「君の力が必要だ。もし、俺が火影になったら力を貸してくれないか?」

「……それって…………俺の中にいるバケ狐の力がほしいってことかよ……」

「それは――」

「違うっすよ!」

 

 否定しない。

 そう、告げようとした時、フウが割り込んできた。

 イタチとナルトの視線が同時に、フウへと向かった。彼女は一瞬だけ気まずそうに視線を伏せたが、すぐに顔をあげた。

 

「フウもイタチさんから力を貸してくれって言われたっす。きっと、中の重命――七尾の力が必要だから……でも、イタチさんはそんな短絡的な考えはしない人っす。もしもフウやナルトくんが、木ノ葉隠れの里を襲った大蛇丸って人みたいな性格してたら、絶対に声なんてかけたりしないはずっすよ」

 

 そりゃあ、とフウは続けた。

 

「七尾の力を持ってるってだけで疎まれてきたっす。その力を貸してほしいって言われたら、良い気分がしないってのは分かるっすよ? それに、自分で求めた力でもないのに、勝手に訳の分からないのを押し付けておいて、都合が良い時にって」

 

 でも、でも……。

 

「七尾の力を使えるのは……七尾と対話して協力してもらうことが出来るのは、今、この世でフウだけなんすよ。それって、イタチさんやサスケくんの写輪眼と同じってことじゃないっすか? 才能みたいなもんなんすよ。だから、その……えっと…………」

 

 フウは言葉を詰まらせてしまった。まだ他にも伝えたい感情があるのに、どうして言葉がついて行かない。歯痒く、悔しそうに俯いてしまった。

 

「ありがとう、フウ」

 

 後は引き継ぐと意を示すとフウはコクリと力無く頷いた。

「彼女が言ってくれた通りだ、ナルトくん。九尾の力を持ってる人間が必要なんじゃない。九尾の力を持っている君が必要だ。力を貸してくれ」

 

 どうか、どうか。

 

 頷いてほしかった。

 今のナルトは不安定だ。たった一つの些事で、彼の理性が抑え込んでいる怒りが暴発してしまうかもしれない。そうなれば、いよいよ火の国の大名は新たな人柱力を探し始めるだろう。つまり、ナルトの命が失われるということを意味する。

 フウコとナルトの繋がりは知っている。ナルトの命が失われることは、彼女は絶対に望まない。そして、自分も。

 ナルトの命を救う為。それがここに来た目的だった。

 

「……俺がアンタに力を貸せば、フウコの姉ちゃんを追い出した連中をぜってぇ見つけられるのか?」

「約束する」

 

 沈黙。

 そして、ナルトは尋ねた。

 

 

 

「フウコの姉ちゃんを、里に連れ戻すことも、出来るのか?」

 

 

 

 それは。

 それは。

 

 イタチにとって、最も尋ねて欲しくはなかった(、、、、、、、、)問いだった。

 

 想定はしていた。尋ねられる可能性が高いことも。それでも、彼が凶行へ走ってしまう前に言葉をかけることの方が優先順位は高かったのだ。

 

「すまない、約束は出来ない」

 

 フウコに罪を着せた者らを罰することは出来ても、フウコに着せられてしまった罪を消すことは困難だ。たとえ火影であっても。なぜなら、フウコの罪が虚偽であると里の者全てに浸透させるということは、うちは一族がクーデターを起こそうとした事実と、それをフウコに被せたという事実を公表しなければいけない。

 一体誰が、罪を偽装する里に住もうと考えるだろうか。ましてや一つの血脈を滅ぼしたのだ。瞬く間に里を離れる者は出て、里は崩壊する。それでは、元も子もない。

 

 他にも、障壁はあるが。

 

 実現は困難を極めるのは事実だ。諦めている訳ではない。あらゆる手段を尽くす覚悟はあるが、届く(、、)かどうか。

 

「………だったら……俺は手伝うつもりはねえってばよ…………。フウコの姉ちゃんが……帰って来ねえなら…………」

「フウコが戻って来られるように俺は全てを尽くす」

「もう、一人に……してくれ…………。考えさせてくれってばよ……」

 

 これ以上、ナルトに言葉をかけることはしなかった。確証のない未来を明示しても、ナルトの想いを馬鹿にする行為だ。

 

「ゆっくり考えてほしい。俺が火影になったら、すぐに君の釈放を大名らに訴えるつもりだ。それまでに、答えを聞かせてほしい」

 

 返事は無く牢から離れた。後ろから「ちゃ、ちゃんと、メシは食うんすよッ! 良い料理運んでもらうように言っておくっすから!」とフウの声が届いた。同じ人柱力として今のナルトの状態を彼女も分かっているのだ。何度も声をかけてもナルトの返事は無かった。

 階段を二人は上っていく。足音だけが虚しく響き、それ以外の音はしない。イタチの頭の中には様々な思惑が渦巻いていた。

 火影になると決めたのはフウコやイロミ、ナルトの為だけではない。考えなければいけないのは山のようにある。一人の忍として正当に火の意志を継ぐ覚悟だ。

 

「……イタチさん」

 

 フウの力無い声が聞こえてきた。

 

「うちはフウコって……何なんすか? うちは一族を滅ぼしたっていうのは、知ってるんすけど……。どうしてナルトくんはあんなに――」

「俺の妹だ」

「え?」

 

 血は繋がってはいないがな、とイタチは続けた。

 

「イロミちゃんとはアカデミーからの親友で、ナルトくんを育てたのがフウコだ。多くの意味で人を区別しない奴でな、アカデミーでずっと最下位の成績だったイロミちゃんや、九尾を封印させられたナルトくんには慕われていたんだ。うちは一族をアイツが滅ぼしたというのを聞いた時から二人は、フウコの行動に疑問を感じていて……大蛇丸の企ての最中で話を聞いたんだろう。だからイロミちゃんと、そしてナルトくんは木ノ葉に立ち向かったんだ」

「木ノ葉が、その人に罪を着せたってやつっすか? でも、それって大蛇丸が嘘を言ってることは……?」

「イロミちゃんだけならそうかもしれないが、ナルトくんの場合はヒルゼン様がいた物見櫓の上で尾獣化した。おそらく、ヒルゼン様がフウコの真実について語ったんだ。まず間違いない。木ノ葉は……うちは一族のクーデターを止める為にフウコを使って、その責任を全てアイツに被せた」

 

 字面だけを見れば木ノ葉隠れの里が行った事は非道のように思えるが、やむを得ない事態だったのだろうという考えはある。

 

 うちは一族抹殺事件前後の記憶は残っていないが、木ノ葉隠れの里は、うちは一族と何度も対話を重ねた筈だ。当時、火影であったヒルゼンならば必ず、必要な手順は踏み、出来れば対話で終息させたいと思ったはずである。

 けれど、対話は進展を示さないまま分水嶺を過ぎてしまったのだ。それはシスイがフウコに殺されたのが、決定的だったのだろう。シスイの死を契機に全てが急転し始めたのだから。

 止められないクーデターを前に、抹殺させるという判断は最終手段というよりも、里の存続を前に、その手段しか残っていなかったのだ。

 どちらも引くに引けない――うちは一族がどのような価値観を以てクーデターという思想を抱いたのかは、イタチには未だ判然としないものの――からこそ、非合法の力を使った。

 まるで自分とイロミのように。

 非道だとは思うが、悪だと評しはしない。仕方が無かった、と言えるのかもしれない。フウコが自分の全てを賭けてまで実現してしまったことでもあるのだから。

 

「イタチさんは……もし、その、うちはフウコっていう人に罪を着せた人を見つけたら、どうするつもりなんすか? 罰を与えたり、するんすか?」

「表立って、罰することは出来ないだろう」

「でも、それじゃあフウは納得出来ないっす。悪いことしたのなら、罰は必要だと思うんすよ。じゃなきゃ……イロミちゃんやナルトくんが、可哀想っすよ…………」

「どういった経緯であれ、里が、自身が保有する一族を滅ぼしたんだ。それは集団としてあってはならない行為。正式に罰するには、どうしても里全体に、罰に至る理由を説明しなければいけないが、それが出来ないんだ」

「でも、ちゃんと説明すれば、里の皆は…………あ、」

 

 フウは、そこで気付き、声を弱めてしまった。

 

「………そうっすね……。言葉だけで分かってもらえるなら、フウもナルトくんも、苦労はしなかったっすね」

 

 決して、滝隠れの里や木ノ葉隠れの里の人々が冷酷である、という訳ではない。むしろ、温厚で優しいからこそ、言葉だけでは足りないのだ。

 人の心なんて目に見える訳じゃない。だからこそ、その人の行動や考え方を知って、人となりを朧げながらに形をイメージするしかない。信頼とは、つまり、見えない部分を見える部分の延長線上として考えた上で、より大きな可能性に賭ける行為なのだ。

 大切な人生を歩んでいる者。

 大切な人がいる者。

 そういった者たちが両里に多かったからこそ、可能性が十分に確保できるまで慎重になるのだ。

 

「正直なところ」

 

 と、イタチさんは呟いた。

 

「罰を与えるべきかどうか、というのも決めかねている」

「……どうしてっすか?」

「もしかしたら――もう既に、罰を受けているかもしれないからだ」

 

 シスイは、あの日の俺たちを見つけてくれ、としか言わなかった。

 真実を知れ、とだけ。

 それ以上を彼は望んでいない。望む必要がないということだ。

 忍は、忍び耐える者。

 かつて日向一族がそうしたように。

 血の涙を呑み込まなければいけないのかもしれない。

 その時、自分は冷静でいられるだろうか。

 イロミやナルトのように、あるいはうちは一族のように、里を敵に回しても構わないと思ってしまうのだろうか。

 そして――サスケも。

 

「フウ、改めて聞かせてほしい」

 

 力が必要だ。

 自分を抑え込める力を。

 自分を支えてくれる力を。

 自分では手が届かない大切な者を守れる力を。

 自分が自分ではなくなっても、抑え込んでくれる(、、、)力を。

 

「俺の力になってくれ」

 

 フウは即座に応えてくれた。

 安心を与えてくれる、力強さで。

 

「フウは最初っから、イタチさんの味方っすよ。初めて会った時から。勿論、イロミちゃんやナルトくん、サスケくんも、皆っすけどね」

「――ありがとう」

 

 感謝の言葉ではない。

 弱音だった。

 大切な全ての為に、あらゆる力を利用しようとし始めている傲慢な自分を自覚してしまったイタチが、初めて零したかもしれない心の破片だった。

 大切な者の為に、同じくらい大切な者を少なくとも安全であるという信頼(、、)を担保に利用してしまう矛盾はあまりにも重かった。

 信頼するという傲慢。それを貫こうと、今一度、心の奥底に根付かせた。

 

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 実際のところ。

 

 木ノ葉隠れの里の内部では、ナルトが尾獣化した、という情報は然程深刻なレベルでは広まっていないのが現状である。要因は幾つかある。

 試験会場にいた大名ら、あるいはそれに追随する御歴々や、下忍等を含め非適正戦闘員が薬師カブトの幻術によって、ナルトの尾獣化を目撃していないこと。

 木ノ葉隠れの里が用意していたマニュアルによる避難誘導が迅速であったこと。

 フウがナルトを木ノ葉隠れの里の外部を主とした戦場としたこと。

 これらによって、直にナルトの姿を目撃した者が多くなかった為に、情報は広まっていないのだ。また、木ノ葉崩しの規模が予想よりも大きかった、というのもある。ナルトの尾獣化のチャクラの余波は確かに巨大なものではあったものの、騒乱の最中ではまともに感知できた者は多くない。さらには、ナルトを抑え込みに向かった者たちの冷静な判断力も要因の一つになっている。まだ復興が完全ではない中で、人柱力が暴走した、という情報を広めるのは不要だ、と。三代目火影・猿飛ヒルゼンがいない状況下でも、情報統制がなされているのである。

 

 けれど、その情報統制も完璧ではない。尾獣化したナルトを目撃した者らの中には徐々に不穏な感情が生まれ始めている。情報が広まるのは、時間の問題だった。 

 

 日向ヒナタがナルトの現状を知らないのには、そういった背景があった。

 

 木ノ葉崩しが終息してから一度も、ナルトの姿を目撃していない。葬儀の日にも。

 

 上司である夕日紅に尋ねても、

 

「ナルトなら大丈夫よ。心配しないで」

 

 と、応えるばかり。具体的な詳細は教えてもらえないまま、彼女は任務へと足を運んでしまっている。木ノ葉隠れの里が今、復興に力を注いでいる中、依頼の数は木ノ葉崩しの前後で変わりはない。上忍は任務から任務へと、動き回ってしまっているのだ。

 

 紅だけではなく、アスマやカカシに至るまで捕まらなかった。

 

「ナルトの奴は無事なんだろ? だったら心配する必要なんてねえじゃねえか」

 

 ぶっきらぼうに投げられる犬塚キバの言葉に、ヒナタは頷く事も出来なかった。俯きがちに小さく歩きながら、意味もなく足先を眺めるだけ。呆れたのか、キバは溜息をついた。

 里の街並みは随分と整理されてきていた。二人が歩いている通りは一見においては傷一つ見当たらない。行き交う人々も復興としてではなく、単純に自身の生活のために店に出入りしている。

ヒナタが通りを歩いているのはそのどちらでもなく、ナルトを探していた。特に当ては無かったけれど、ただじっとしているのは怖かった。

 

 ナルトを探しに行くと、避難所から出て行ったサスケとサクラ。あの二人の様子がどうしても、瞼の裏に貼り付いてしまったのだから。

 

 その途中でキバと出会った。彼は赤丸を散歩に連れて行く途中なのだという。本当は修行をする予定なのだろうとは思うけれど、口にすることはしないまま、並走している。

 

「そんなに気になんなら、サスケにでもサクラにでも聞きゃぁいいじゃねえか。どうせ俺らみたいに暇してるはずなんだからよ」

「二人共……見つからなくて…………。家も……知らないから………」

「ああ、そういやそうだな」

 

 と言うよりも、そもそもキバや、同じチームである油女シノの自宅さえまだ知らない現状であったりする。アカデミーではそもそも交流は無かった上に、下忍になってからも交流は屋外のみだからだ。

 

 キバは尋ねてこなかったが、実はナルトの家は知っているのだが彼の家に行く勇気は、当然ながらヒナタは持ち合わせていない。だからこそ、人の流れが多い通りを歩いていたのだけれど。

 

「ま、アイツだったらその内、顔を出すだろ。無事だって、紅先生は言ってるんだから」

「……うん。でも――」

 

 でも。

 

 その先の言葉は言えなかった。言ってしまえば、実現してしまうようで。

 これは何となくな予感だけれど、確信めいたものがあった。

 いつだって彼は、臆病な自分よりも遙か先を走っていて。

 だけど、あの日から。

 

 本当に彼が、どこか彼方に――行ってしまうのではないかと、思ってしまっている。

 

 不安はいつも抱えているから。

 気の所為であってほしいと、ヒナタは願った。

 





 次話は4月中に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

霞の味

 懐かしい空気だと、うちはフウコは思った。唇をくすぐるそよ風の温度も、嗅ぐ匂いと湿度も、耳たぶを叩く穏やかな賑わいも、ああ、と充実した息を漏らしてしまうほどに心地が良かった。うん、気持ちが良い。

 

 ──気持ちが、良い? ……どうしてだろう。私、今までどんな空気を吸ってたんだっけ……。

 

 ただ、大切な人たちを守りたくて。

 だから……えっと、なんだっけ。

 ずっと、怖い夢を見てたような。

 いや今も見てるかもしれない。

 景色は蜃気楼なのか揺らめき動いているし、日差しも強いはずなのに目には痛くない。なんだか不自然だ。そうだ、もしかしたら今は、楽しい夢を見ているのかも。

 ああ、そうかもしれない。今日はいつぶりに見ただろうも分からない吉夢の中だ。楽しい気持ちが溢れ出てくる。

 

 ――イタチ、火影になったんだ……。顔岩、似てる。

 

 木ノ葉隠れの里を見下ろすように構える、歴代の火影らの顔を彫刻した巨大な岩塊。白い日差しを浴びて陰影を強くしたそれらには、血の繋がりの無い兄の凛とした顔が掘られていた。

 夢に違いない、フウコは確信する。

 イタチの性格上、火影になるという考えは生まれない。象徴としての機能よりも、実務としての機能を重んじる彼ならば、むしろ暗部に身を置くだろう。里の前途を阻む存在を消すよりも、里の前途を紡ぐような価値のある行いを目指すだろう。

 

 良い夢だ。久しぶりに。

 

「腹でも減ったか?」

「……え?」

 

 横から飛んできた声は、横や前後をバウンドする喧騒とは違う、針のように脳を刺す声だった。ぼんやりとしていた意識が急に重くなる。夢心地は足音を出さないままに遠ざかって、陽光の朧は輪郭に線を与えた。

 右に向けた視線の下方。上から見下ろした形では、ただそこには笠と赤い雲の模様が斑に刺繍されている黒い衣を被った、低い何かがあった。下手をすれば旅支度にも見えなくもない。同じ笠と衣を羽織っている以上、その認識は即座に改められるが。

 笠が傾いて、その下から刃のような眼光が覗かせる。

 

「馬鹿みたいに突っ立ってるな。目立つぞ」

「サソリ……」

 

 フウコはようやく、夢から覚めて現実に引き戻された。さっきまで胸にも頭にも充満していた束の間の幸福は形も残滓も残さないままに、淡々と地続きの記憶を引き継がせる。

 

「ああ、いたんだ」

 

 サソリは溜息を漏らした。傀儡人形のヒルコの中に彼はいるはずなのに、随分と明瞭な溜息である。

 

「最初からいたぞ」

「うん、ごめん。視界にあまり入らないから、忘れてた」

「言っておくぞ、視界に入らないのは機能美の一つだからな。それ以上何か言ってみろ。晩飯は生米にするからな」

「だったら、今ご飯を食べよう。そういえば、お腹が空いてきたような気がする。食事処でご飯を食べよう。蕎麦がいい。麺類はあまり食べてないから」

 

 アジトでは米が主食として出されている。サソリが言うには、楽だからとのこと。蕎麦やうどんと言った粉物は触感が調整が必要で、傀儡人形の身体である彼には困難ではないにしても面倒なのだろう。対して米ならば、基本的に分量を守っていれば大抵は平均値を保てる。

 説明された理屈は納得できてしまい、仕方ないながらも、これまで限られた食事を我慢してきたのだから、今日くらいは良いだろう。そう思っていたが、サソリは声を潜めて、そして低く忠告した。

 

「遊びに来たわけじゃねえんだぞ。目的を忘れるなよ」

「分かってる。でも、ご飯くらいは食べても問題ないでしょ? 大丈夫、私は正気。心配はいらない」

「……火、消えてるぞ」

 

 フウコは、右手に持っていた赤い煙管から紫煙が消えているのにようやく気が付いた。

普段は絶え間なく吸って空中に浮いているような気分を堪能しているけれど、口内と鼻奥を埋め尽くしていた甘ったるい香りを今は吸いたくはない。けれどサソリは油断なく釘を刺した。

 

「煙は常に吸っとけ。こんなところで頭が吹っ飛ばれでもしたら元も子もねえ。テメエも、全部ご破算にはしたくねえだろ?」

 

 衣の内側からマッチを取り出す。もう中身が少なくなっていて、箱を開けるとカラカラと内側のマッチ数本が音を立てた。マッチ棒の火を付ける。火をタネに当てながら煙管に空気を送ると、紫煙が昇り、そよ風に流された匂いが鼻を通って頭に充満する感覚がやってきた。

 

 また景色が淡く擦れて、記憶も、残骸に成り果てる。

 

 それでも、残骸の中に見え隠れする鈍色が告げてくる。

 

 壊れるなと。

 

「ご飯、食べに行こう。サソリは何が食べたい?」

 

 食わねえよ。サソリは忌々しげに呟いた。

 

 二人は人の流れに交ざって行くが、二人の出で立ちはあまりにも浮き出ていた。まるで紛れていない二人の姿は、自身らが侵入者であることを誇張するかのようだった。事実、二人が木ノ葉隠れの里に侵入したことは、上層部には知られている。

 多角的な方向からの視線をサソリも、そしてフウコも察知していた。

 予定は順調だった。

 暁のリーダーから指示されたのは木ノ葉隠れの里の偵察及び九尾と七尾の情報、そしてあわよくば、七尾の奪取。遂行するつもりは毛頭ない。言うなれば、ポージングである。指示通りに動いて、リーダーが納得する程度の情報を提供するだけ。

 

 しかし、二人には──思考能力が著しく低下しているフウコを敢えて除外すれば、サソリには、別の目的があった。

 

 目的達成への経路は今の所、恙無い。

 と言っても、まだ、序幕ではあるのだが。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 フウコとサソリが来る少し前のことである。

 

 火影に正式に就任したうちはイタチには、実は補佐役であるフウと、更には補佐役代理のシズネにも知られていないままに、最大の危機が迫っていたのである。

 

 歴代最年少。

 

 木ノ葉隠れの里の史に名を刻んでいるうちは一族の出。

 

 異例と称されながらも火影に就任したイタチだったが、木ノ葉隠れの里の内部からは不満の声は挙がっていない。彼の人格や実績が積み上げてきた信頼が表に出た形である。一時は実務への不安が肯定的な雰囲気に滲んだ声もあったが、それらは木ノ葉隠れの里の復興への貢献によってすぐに無くなった。

 

 順調といえば、順調だった。

 

 そもそもスタート地点が、木ノ葉隠れの里の復興、というマイナスからであったために、成果が目に見えやすくなったことも後押ししたのかもしれない。

 火影の業務はこれまでの業務の比ではない精密さと責任を問われながら、大量の案件を処理しなければいけなかったものの、自分の想定外の事態は瀬戸際で起きることは無かったのだ。

 しかし、そのイタチの前に、重大な事柄が突如として降り立ったのである。

 

「イタチくん。正直に答えて」

 

 鉄扉の向こう側から届くイロミの低い声に、イタチは固唾を呑み込んだ。反動で吐く息はどうしてか乾いていて、対して、火影に就任してからフウに渡された右目を覆う黒の眼帯の裏側にじんわりとした汗が貼り付く。

 もう、イロミに嘘を使うことはしないと心に決めたのだ。

 本来なら、正直に答えてほしいという問いにはノータイムで応えることが出来る。

 だが、今…今だけは、それに躊躇いが生まれてしまう。彼女の問いに正直に応えた際の事態の想像が出来ないのである。

 

 イタチは思う。

 

 ──自来也様なら……こういう場合は、どう応えているんだ?

 

 忍として、そして人生の先駆者として、彼から多くの話を聞きたいと思ったことはある。火影になってからというもの、これまで以上に木ノ葉隠れの里を知りたいと思うようになり、ふと彼や綱手から話を聞く機会がないかと思案したことがある。

 

 だが。

 

 だが、である。

 

 自来也に限っては、彼の所業に関して尋ねることは決してないだろうと思っていた事柄が不意に目の前にやってきてしまったのだ。おそらく自来也ならば、こういう危機に対しての処世術があるはずである。

 

 自来也から教えを請いたい。

 どうすればいいのか。

 どうすれば。

 

「イタチくん。聞こえてる?」

 

 と、イロミは声を通してきた。蛇が獲物の周りに自身の胴体を回して逃げ場を防ぐような容赦のない声だった。

 イタチはどうにか声を出すことが出来た。

 

「あ、ああ。聞こえてる」

「よかった。そうだよね、ドアがあるからって、声が聞こえないなんて無いもんね。あはは」

 

 その時のイロミの声は、本当に明るい質だった。普段の彼女の声。しかし、

 

「──じゃあ、応えてよ。イタチくん」

 

 次の瞬間に聞こえるのは恐ろしく冷たい声である。汗が粒となって首筋を通り抜ける。その汗を、イタチの焦りを舌舐めずりをして待っていたかのように、イロミは、再びイタチの前に脅威を明示した。

 

 

 

 

 

「イタチくんさ…………私の裸……見たよね?」

 

 

 

 

 

 イロミの言葉だけを捉えれば、イタチがかつて、あるいは拘束されている今のイロミの肌を覗き見たかのような誤解を与えかねないものだが、当然のことながらイタチはそのような行為に踏み切ったことはおろか、考えに思い浮かべたことは一度としてありはしない。うちはイタチという人物は実に健全で堅実で、強靭なまでの理性を持った人物である。

 

 イロミがイタチにこのような問いを投げかけたのには、しっかりとした文脈があるのだ。

 

 そもそも。

 

 イタチが、イロミを拘束している暗部の牢へ足を運んだのには訳がある。

 木ノ葉隠れの里の復興が進み、ようやく一息吐ける段階にまでは業務が落ち着いた為、イロミに現状の里の情報を渡しに来たのだった。その後はナルトにも話を伝えに行き、そして最初に話した時の返事を聞きにも来たのだが。

 里が安定してきたということ。

 中忍選抜試験のこと。

 イロミと関わった我愛羅らのことや、砂隠れの里で秘密裏に起きていた風影暗殺や、大蛇丸の被害者であった砂隠れの里への情状酌量など。

 他愛も無い世間話も含めて、イロミに伝えた。ずっと拘束され、未だ眼球のない彼女を慮っての交流だった。

 本当ならフウを連れてきたかったのだが、タイミング悪く彼女は別の業務で空いていなかった為に、一人で来たのである。

 

 その末で、イタチは更にイロミに尋ねたのだ。

 

「他に、何か聞きたいことはないか? もしかしたら、すぐに応えることが出来ないものもあるかもしれないが、その時は次の時までに情報を集めておく」

「うーん……今は、まだいいかな。良い話をいっぱい聞いちゃうと、背中がムズムズしちゃうから」

 

 最初に牢の鉄扉を挟んで会話した時よりも声に自然さが戻っていた。何かしらの、心の区切りが付いたのだろうと、イタチは安心していた。

 

「どんなことでもいい。本当に、何でもいいんだ」

 

 促したのは、彼女の抱えるストレスを少しでも減らせないかと思っての配慮だった。

 イロミと──ナルトの処遇は未だ決定を残していない。大名との議論中、と言えば聞こえは良いが、現状は単なる平行線。普段は木ノ葉隠れの里の管理に興味を持たない大名が、イロミとナルトの釈放には難色を示している。それほどまでに二人のインパクトは強かったのだ。二人の釈放はまだ時間が掛かってしまう。

 朗報を未だ届けることの出来ないことへの、せめてもの償いとして深く尋ねたのだ。

考えればこれが過ち──あるいは、地雷原への第一歩──だったのだ。

 

「あー……じゃあねえ…………ずっと、うん、実は気になってたことがあったんだ」

 

 戸惑いがちのイロミにイタチは心で構えを取った。もしかしたら、木ノ葉崩しのことについてだろうか、と思うと案の定、

 

「私が、暴れてた時のことなんだけど」

 

 やはりか、とイタチは思った。だが、正直に、真正面から応えようと鉄扉を見つめた。

 

「私ね。呪印に身を任せていたけどさ……何をしていたのかは、はっきり覚えてるんだ。色々……うん、えっと、言っておくけど、本当に私は、自分がしたことを自覚してるからね、あまりその時の事をイタチくんに訊いたりして逃げようと思ってないんだ。訊きたいのはね、単純に、イタチくんと私だけの問題で、だから、深く考えないでほしいんだ。本当に、些細なこと……だから」

「分かった」

「えっと……私、イタチくんと戦ってる時にさ、背中からいっぱい、蛇みたいなの生み出したよね」

 

 その時の光景をはっきりと思い出すことが出来た。

 口寄せの術ではなく、ただ肉体を変容させて姿を現した巨大な蛇たち。忍術というよりも技術にも近い現象は今まで見たことが無かった為に、状況も相まって記憶には克明と刻まれている。「ああ」と、イタチが即座に肯定すると、イロミはいよいよ尋ねたのだ。

 

「私の勘違いじゃなければ、だけど……。その時の私って……殆ど、裸………だったよね?」

 

 そこでようやく、イタチは事態を理解したのである。

 

 次に投げかけられるであろうイロミの問いへの応えを瞬時に導き出そうとしたが、流石のイタチの頭脳を以てしても、正しい返答が思い至らなかった。

 

 いやそもそも、投げかけられた時点で、正しいというのは存在しないのではないか、とさえ思ってしまった。

 

 そして、イロミは尋ねたのだ。

 

 裸を見たのかと。

 正直に応えろと。

 挙げ句に、あまつさえお前は写輪眼だっただろう、という理詰めさえ飛んできた。

 

「………………」

 

 見たと言えば見た、というのがイタチの正直な考えである。いやしかし、その判定は客観的に見ればグレーだという意見も、イタチの中には浮上していた。

 なぜなら、その時のイロミの衣服は殆ど無かったが、代わり彼女の肌は彼女自身の血液で真っ赤に染まっていたのだから。呪印に侵食された紫の皮膚だったことも相まって、およそ人間の肌はしていなかったのである。

 だから、そう。

 見てはいないとも言えるのだ。

 

 ──……確信を持っているはずだ……………。下手な言い訳は……。

 

 邪な感情を普段抱えないイタチではあるが、こういった状況における理屈と暴論の合間を進むような発言が決して良い印象を与えないだろうことは、何となく理解できてはいる。綱手を木ノ葉隠れの里に招いた日に、自来也が下手な言い訳を並べた時の現状が参考資料の一つだった。

 

 そしてイロミの声質や問い方が、明らかに、イタチが見たことを決め付けている。この問いが軸足となっているのは、つまりは、儚い期待だ。

 

 何かの間違いで見ていないのではないだろうか。

 

 状況が状況だっただけに、記憶に残っていないかもしれない。

 そんな淡い期待だけが後押ししたのだ。イロミは見ていない、あるいは記憶にない、という返答を期待しているはず。彼女の期待通りに応えれば、ねっとりとしたイロミの問いは止まるだろうが。

 

 残念な事に、イタチの記憶力は優秀なのだった。

 鮮明に思い出せてしまう。

 一糸纏わぬ、血を隙間なく浴びたイロミの上半身を。

 そして、嘘を言わないというのをイタチは約束した。真っ直ぐ友達を見ると。

 

 いや勿論、友達として冗談の一つや二つは言うだろう。サスケに恋人が出来ただとか、カカシは実はマスクをしたまま食事が可能なのだとか、そういった冗談は言うだろう。分かりやすい、まあ、嘘と言えば嘘なのだが、分かりやすい、そしてイロミも嘘だとはっきり分かるようなものをだ。

 

 だが、今回のはどちらに分類されるだろうか。

 

 血に塗れていたから裸ではないという無理矢理な冗談を通すべきか。

 正直に、見たけれど血塗れで殆ど見たとは言えないと、通すべきか。

 

 ──分からない…………。

 

 兎にも角にも。

 

 脅威である。

 

 信じられない方向からの脅威がイタチの前に来たのである。

 

 そしていよいよ、イタチは決断した。

 

「その……不可抗力で、見てしまった」

 

 不可抗力、という言葉を付け加えてしまったのは、意図したものか、こういう事態に直面したことが無かったことへの抗体の無さか。

 不穏な静寂が鉄扉を右往左往した。これほど、恐怖でも、緊張でもない、けれど切迫してくる沈黙な時間があっただろうか。

 そして、イロミの声が聞こえてきた。

 

「…………………ああ……そうなんだぁ」

 

 とてつもなく低く、そして乾いた声だった。慌ててイタチは弁明した。

 

「いや、イロミちゃん。待ってくれ。冷静になってほしい。たしかに、その、見たが、君の全身は血に塗れていたから、厳密には、見ていない。うん、きっと、世の中の誰が見たとしても、あれが君の裸だと評価する者はいないだろう。全く、裸に値しない」

「イタチくんがぁ、屁理屈をぉ、言ってるぅ。かなりぃ、頭の悪い感じぃ」

 

 友達の精神が変調してきているようだった。

 

「違う、違うんだ。誤解しないでくれ。俺は、見ていない」

「急激なぁ、前言撤回が来たぁ」

「服を着ていない君の姿は見たが、その、肌の部分は見ていないという意味で」

「湯気があったからぁ、女湯の女性の裸をぉ、見てないってぇ、言ってるようなぁ、ものだぁ。女性の裸っていうのはぁ、どんな状況でもぉ、私服を着ていないっていうのと同じなのにぃ」

「そういった邪な考えは俺には無い。そう、そうだ。あの時の君の姿は、全く、女性としての魅力が無かった。それは、女性の肌としてはありえないことのはずだ。だから、そう、俺は見ていない」

「ちょっとまってそれってどういう意味?」

「……え」

 

 イタチ本人が気が付かない間に地雷のど真ん中を踏み抜いていた。当然ながら、彼自身に問題は一切ない。全て避け難き事態の連続であり、そしておそらくは最善手を何度も指しているのだが。

 イロミの声がおどろおどろしくなって、おまけに呪印のチャクラのような冷気が鉄扉の隙間から漏れてきているような気がした。

 

「そりゃあね、私も自覚してるよ。寸胴体型なのは。もうね、諦めてるよ。成長期らしい成長期が特に無かったからね。もう身長は伸びないし、食べても食べても身体に肉は付かないし。それでもね、頑張ってた部分はあるんだよね」

 

 何も言葉が出てこない。そういった努力をしていた痕跡を、今までイタチは感じ取ったことが無かったからであるが、そもそもとして、イロミのそういった努力を理解していた人物は木ノ葉隠れの里には誰一人としていなかった事実があることを忘れてはならない。

 

 悲しい事にイロミの魅力への努力は、忍のそれとは熱量も工夫の質も圧倒的に低かったのである。

 

「でもね……裸を見られたのに見てないって言われたり、魅力が全く無いって言われたりするとね、なんだろうね、込み上げてくるものがあるんだよね。久しぶりだよ、こんな感じ。フウコちゃんが、最近肩がこるって言った時以来だよ。あの時は本当にフウコちゃんの頭をぶん殴りたくなったよ。じゃあ私が任務とかで抱えてくる肩こりは何なんだって」

 

 急に浮上してきた肩こりの話に、当然ながらイタチはついてくることが出来なかった。彼の疑問符を置いてきぼりにしてイロミは「うぅぅぅぅぅ」と不気味な唸り声を出し始めた。

 

「憎ぃ。ぅぅぅぅ、私より女性っぽい人が憎ぃぃぃ。特に身長と胸がある人は憎ぃ。うぅぅう。分厚いのが憎いぃ。辞書とかぁ、湯豆腐とかぁ、金塊とかぁ、うぅぅぅ。憎いぃ」

「…………イロミちゃん?」

「どうせ皆、私のことを紙切れだとかぁ、湯葉だとかぁ、小銭だって思ってるんだぁ。薄っぺらい価値だけどぉ、希少な価値なんだぞぉ。馬鹿にするなぁ。繊細なんだぞぉう。芸術と一緒で、繊細の果てに出来上がったんだぉう。ぅぅぅぅ敬ぇええ。うぅぅぅぅ」

 

 いよいよイタチは部下を呼ぼうかと真剣に思い始めた。鉄扉から溢れ出る冷気が何を以て生み出されているのか全く分からず、そしてイロミの心理状態がどういうものなのかも分からなかったからだ。

 あるいはシズネか、フウならば、分かるのだろうか。いやもし二人だけが分かるという話ならば、イロミの友人としての自信を無くしそうだとも勘ぐってしまった。

 

「イタチさんッ!」

 

 暗い通路に吹き込んできた声の主は、助けを呼ぼうと思っていたフウだった。

 イタチもフウも、ダンゾウの持つこの牢の施設を、イロミとナルトの面会という要件のみに使用できるようになっている。おそらく、ダンゾウにとっては都合が良いからだ。わざと自由に出入りさせて問題が起きる事を待っているのだろう。勿論、イタチもフウも、そしてダンゾウさえも、そんな事態が起きるとは露にも思っていないのだが。

 

 しかし、イタチに安心が生まれることはなかった。彼女の声の強張りが、何か予想外の事態についての報告なのだろうと分かったからだ。

 

「どうした? フウ。」

「それが、つい先程なんすけど──」

「うぅぅぅぅぅ。フウちゃんの声が聞こえるぅ。フウちゃんも私よりも女の子ぉぉぉぉ」

「え、え? どうしたんすか? イロミちゃん。もしかして……何か、拷問でもされたんすか!?」

「イタチくんにぃぃぃ」

「はあッ!? イタチさん、ちょっとどういうことっすかそれ!」

 

 流石のイタチでも状況を端的に説明できる自信が無かったため「報告をしてくれ。イロミちゃんは、おそらく元気だ」とだけ言ってフウを制した。そしてフウはイタチの耳に口を近付けて、潜めて言う。

 

「侵入者っす」

 

 大蛇丸の木ノ葉崩しを受けた木ノ葉隠れの里には多くの来訪者(、、、)がやってくる。それらの者には里を囲う警備部隊が対処しているはず。それを突破されたということは、あまり悠長に出来る事態ではない。

 

「侵入者の特徴は?」

「二人っす。どちらも、広い笠と黒い衣を着ています。衣には、赤い雲の模様が刺繍されているっす」

 

 その情報にでイタチが思い浮かべたのは──【暁】という集団のことだった。火影に正式に就任してすぐ、自来也が情報を渡してくれたのだ。必要になるだろう、と。その集団の異様さと、一部のメンバーの情報、目的、そして姿。侵入者は【暁】だろう。

 と、同時に。

 フウコが来ているのではないか、という予感も生まれていた。【暁】にはフウコが所属している、というのが自来也の情報の中核であったのだ。

 そして続けて出た情報に、イタチの予感は確信に変わった。

 

「一人は極端に背の低くて、もう一人は背の高く、長い髪の人です」

「……分かった。フウはすぐに部下たちに監視の継続の指示を出しに行ってくれ。それと、カカシさんとガイさん、あとアスマさんにも声を掛けてくれ。人手が必要になる。それが終わり次第、自来也様の元で待機してくれ。フウは近付くな」

「どういう意味っすか?」

「相手の目的が、君だからだ。分かったな?」

 

 フウは頷くと来た通路を戻っていき、しかしその途中で「イロミちゃんに変なことしないであげてくださいっすね! その人、変に繊細なんですから!」などと言葉を残した。

 

 繊細。

 

 それは知っている。子供の頃から彼女は些細な事でも大事にしてしまい、そしてちょっとしたことで涙を浮かべてしまう。

 

 けれど、それは子供の頃の話で。

 

 大喧嘩をした後は、彼女も自分も、そして関わり方も変わった。だからイタチはイロミに言ったのだ。

 

「イロミちゃん。もしかしたらだが、フウコが里に来たかもしれない」

「…………え?」

「どうする?」

 

 意思を尋ねる。もう、こちらの事情だけで友達を誘導するつもりはない。

 

「……私は」

 

 と、イロミは震えた声だった。

 

「私は、フウコちゃんに……会いたい」

「なら──」

「でもッ!」

 

 もしもイロミが牢を出た場合のあらゆるリスクを明示しようとするイタチの声を、彼女は遮ったのだ。

 

「今、私は……犯罪者だから。ここを出ちゃ、ダメだから」

「出すことはできる。君が牢を出たことも揉み消すことも可能だ」

「だけど、きっとそれが弱みなる。私が出なければ、もしかしたらフウコちゃんをイタチくんが連れてきてくれるかもしれないのに、出たら最悪……もう、あの時のフウコちゃんの真実を知れなくなる。だから、私は、ここを出ない」

「……無理は、していないか?」

 

 イロミは絞るような声で「……してる」と言った。

 

「本当は、拘束を突き破って、ここを出て、フウコちゃんと会って、話がしたい……。抱きしめたい……、思い切り、顔をぶん殴ってやりたい。我慢なんて、したくない。でも……今のこの状況は、私が全て招いたことで、出ない方がメリットが大きいなら、私は諦める。私は、私の為に、諦めてるの」

「……そうか」

 

 それに、とイロミは言った。

 

「イタチくんは私の友達だから。一緒に、フウコちゃんを追いかけてくれるんだよね?」

「ああ。それは約束する」

「だったら、我慢できるよ。イタチくん、私が言うのもアレだけど、無理はしないでね。片眼なんだから」

「分かってる」

 

 彼女に別れを告げてから、イタチは足早に外へと向かう。その途中でイタチは影分身の術で二体の分身体を作った。二体をそれぞれ、サスケ、そしてナルトの元へと送り込んだ。

 二人もフウコとは関わりが深い。そして隠していても意味が無いと判断した。

 火影としても、家族としても。

 

 外に出て、考える。

 

 侵入者の【暁】。もしも予感の通りにフウコだとしたら。

 目的はなんだ。

 尾獣を集めていることは知っている。だが、だとしたらタイミングが遅い。小国同士の争いに時折、姿を現す非合法組織である【暁】ならば、その情報網はある程度の広さを持っているはずだ。大蛇丸の木ノ葉崩しも、発生直後は別にしても、失敗に終わった直後ならば手に入れられることだろう。

 復興があらた片付いた今になって姿を現すというのは妙だ。

 別の目的があるはず。

 

 ──揺動か?

 

 だとしたら、どこを狙う?

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「サソリは食べないの?」

「食うわけねえだろ」

「美味しいのに」

「身体に違和感はねえか?」

「別に」

 

 流石のサソリでも、口から採取した食物を消化しエネルギーに変えるという機構を自身の傀儡人形には持たせていない。チャクラを生み出し、思考を司る生身の部分は存在するものの、その部位には特殊な手段で栄養を送っている。そもそも、身体機能が失われかねない損傷でもある程度の可動が出来るのが傀儡人形の美点の一つである以上、臓器などという争いにおいては弊害以外の何ものでもない機構を施す意味などない。

 

 ──毒は……入ってねえみてえだな。

 

 茶碗に山盛りとなっている白米を食べるフウコの顔をサソリは注視する。目の下に僅かなクマを浮かび上がらせながらも、頬や唇の血色は悪くない。もしかしたら、食事処で提供される料理に毒が混ぜられているかもしれないと考えていたが、杞憂のようだった。まあ尤も、毒が入っていようが死にはしない程度には抑えられるだろう。

 アジトには多種多様な薬品がある。それこそ、非合法的で表では手に入らないような薬品もだ。御立派な忍里が抱える毒など、問題には値しない。

 

 問題があるとすれば、やはり、フウコ。サソリとしてはフウコと共に歩く木ノ葉隠れの里は、蝋燭を抱えて火薬庫の中を歩くようなもの。

 

 いつ爆発してもおかしくはなく、そして爆発を抑えきれるかどうかも分からない。

 薬品を使っても、声による操作を使っても。

 予測が出来ない。計画の上では、フウコが木ノ葉隠れの里に入ることは一切想定していなかった。尾獣も、リーダーから木ノ葉隠れの里の七尾を捕らえるような指示を受けないためにさっさと他の尾獣を集めたというのに。

 

 ──これで収穫ゼロっていうなら、流石に気分が悪いな。

 

「ねえ、サソリ」

「なんだ?」

「二人はどこにいるの?」

「……………………」

 

 ぼんやりと焦点が合っていないような赤い瞳がこちらを見下ろしてくる。

 時折、フウコから出てくる脈絡のない会話の切り口は今でも慣れない。薬で調整しているからこそ出てきてしまう伽藍な意識。

 

「誰のこと言ってんだ?」

「えっと。片腕がない、大きな刀を持っている人と、あとは、うん、女の子(、、、)……?」

 

 名前が思い出せないのか。

 記憶が吹っ飛んだか。

 

「再不斬と白なら、別件だ。ここに来る前に話しただろうが」

 

 ああ、とフウコは唇の端に白米をくっつけて息を漏らした。

 

「そうだったね。うん。忘れてた。あの二人、上手くやってくれるかな」

「お前が気にすることじゃねえ。さっさと食え」

 

 フウコは頷いて、呑気に再び食事を続けた。よくもまあ食えるものだと、ある意味で感心してしまう。

 ヒルコの中にいるとは言え、木ノ葉隠れの里に侵入してから伝わってくる多方向からの視線。熱くも冷たくもない、常に首筋の周りに手の平をかざされているような温さ。

 

 十分、視線は集まったか。あとは、二人がうまく交渉を進める事を願うばかりだ。

 

「ねえ、サソリ」

「なんだ?」

「デザート注文していい?」

「勝手にしろ」

 

 注文して、そしてしばらくしてデザートがやってきた。

 水羊羹である。

 

「サソリ」

「もう黙って食え」

「食べないの?」

「…………………」

「??? どうしたの?」

「さっさと食え」

「美味しいのに。勿体無い」

 

 味が分かるほど、お前はもうまともな身体じゃねえだろ。

 そんな言葉をサソリは面倒そうに呑み込んだ。

 




 次話は来月中に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ノンストップ

 兄が火影になったことは心底、誇りに思った。うちは一族で初の火影選出、ということではなく、兄の忍としての実力と、そして里の者が認めてくれたという事実にだ。と同時に、ようやくイタチは決意してくれたのかもしれないと、期待を持ってもいた。

 

 イタチが火影になったということは、個人としてフウコを追いかけることが出来ないということだからだ。うちは一族を滅ぼした罪は、いくら火影の裁量でも無くすことは出来ないだろう。罪を軽減させる事も、出来ないはずだ。

 

 フウコを裁く──殺すことを決意してくれた。

 

 イタチが火影になってから、サスケの修行は苛烈さを増した。フウコを殺す、そのための憂い──兄と争わなければいけないという未来が払拭されたから。

 

 けれど。

 

 

 

「今言った条件を守るなら、フウコの元へ連れて行くが……どうする?」

 

 

 

 

 強要するわけでも、抑止するわけでもない、フラットな声調が室内に溶けていくのを、驚愕と徐々に湧き上がってくる苛立ちを自覚しながら感じ取った。

 

 フウコが里にいる。

 

 修行の休憩と昼食を兼ねて一度、家に帰ってきていたサスケの前に現れたイタチは──彼は自身を影分身体だと──脈絡も無く、そう語った。

 

 どうしてフウコが木ノ葉隠れの里にいるのか。

 

 何が目的なのか。

 

 木ノ葉隠れの里のどこに今、いるのか。

 

 それらの考えを思い浮かべる前に、サスケの身体はすぐに動いてしまっていた。ただフウコへの殺意が血液を熱くして、指先までに不要な力を入れさせた。イタチのすぐ横を無言に通り過ぎようとした時に、腕を掴まれて制止させられてしまった。

 

「話は終わってないぞ?」

 

 と、イタチは言った。掴まれた腕が全く動かせない。それでも、彼の声に真剣さはあっても咎めるようなものは無く、サスケの熱くなり過ぎた頭に僅かに冷静さを取り戻させてくれた。奥歯を一度強く噛み締めてから、絞るような息を吐きながら兄を見上げる。

 

「……どうして、ここに来たんだ?」

 

 普段の彼ならきっと、わざわざ影分身体を遣ってまでフウコの情報を伝えることはしない。そもそも、必要に応じた分の人員に伝えて、フウコに対応するだろう。悔しいけれど、自身の実力はイタチが必要としてくれるレベルには達していない。

 もはや見慣れた眼帯を付けたイタチの顔は、ここに来たのが、援助を求めたものではないことを明白に示していた。イタチは言う。

 

「お前をフウコの元に連れて行く為だ」

「アイツを……遠目から眺めてろってことか? 父さんを、母さんを、一族を……殺したアイツを………ッ!」

「そうだ。フウコの対処には俺や、他の人に任せろ。今のお前では、フウコの前に出ても何も出来ない」

「なら……どうして俺を連れて行く」

「真実を知るためだ」

「なんだよッ! 真実ってッ!」

 

 収まり始めていた苛立ちが言葉になってぶり返す。

 

「アイツは……あの女は、父さんを殺したッ! 母さんを殺したッ! 一族を滅ぼしたッ! それ以外の何があるって言うんだよッ! 兄さんはまだ、そんなこと考えてるのかよッ!?」

 

 イタチはフウコをまだ信じている。火影になってもその考えは変わっていない、いやむしろ、フウコを強く信じるようになったからこそ火影になったのだ。

 

 どうして。

 どうして。

 同じものを見たはずなのに。

 同じ思いをしたはずなのに。

 どうして兄は、こうも自分と違う考えを持っているんだ。

 

 ナルトやイロミとは、違うんだ。

 フウコの真実がどうであろうと、彼女は大切なものを奪った。奪ったものはもう二度と戻ってきてはくれない。事実は、変わらないのだ。

 知りたいとも考えないし、知ったとしても意思は変わらない。

 

「サスケ。よく聞いてほしい」

「うるせえ…………」

「今日だけだ。今日、たった今だけだ。俺の話を聞いてくれ。一方的に、言葉だけを伝えて、お前を縛るようなことはもうしない。これが……最後だ。聞き終わって、これから言う約束を守ってくれれば、お前の好きにしていい」

「俺は……フウコを殺す。兄さんがそのまま、フウコを守るっていうなら、兄さんでも容赦しないぞ」

 

 意識したわけではない。

 両親や、一族への裏切りにも等しい思いを、フウコが里にいるという状況下でも持ち続けるイタチに対して向けた、怒りも通り越した殺意が、両眼を写輪眼へと変化させていた。

 

「それでいい」

 

 写輪眼は捉える。

 イタチの表情が、かつてのように──まだ、うちは一族が滅ばなかった頃のように──真正面からこちらを見据えてくれる、優しいものになっていたのを。

 

「同じ家族でも……同じ血を分けていても、考えが違うことはある。お前はもう、自分で考えることができるからな」

 

 だが、

 

「違う考えをしていても、同じ情報を持っていなければ意味がない。だから、その情報を聞きに行く。フウコから……お前は、それを見ていてほしい。それだけだ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「聞いてた話と違うな。俺は、テメエがサソリの奴の協力者だと聞いていたんだが? こりゃあ、どういう了見だ?」

 

 背中越しに再不斬の声を聞きながら、白は纏わり付く薄気味悪い殺気を振り払うように、暗闇の奥に潜む暗部の者たちへ視線を滑らせた。どうにか目視できる数は十から二十ほどだろうか。新月の夜よりかは明るいが、広い空間のせいか壁際までは完全に見通せない。僅かな陰影の起伏があるだけだ。

 肌に刺さるような緊迫した殺気ではなく、のらりくらいとしたのっぺりな殺気は、霧隠れの里の暗部に近いが、周りを囲む者たちの方が人間的ではないように思える。

 こちらが警戒していようがいまいが、関係ない。ただ待ち構えられるだけの雰囲気は白にとっては嫌な緊張感を与えていた。

 白は背中合わせに立つ再不斬に声を潜めて伝える。

 

「……再不斬さん。僕はいつでも動けます。勝てない数ではありません」

「まあ待て、白」

 

 再不斬は淡々と応えた。

 

「ドンパチすんのは、あっちが動いた時だ。お前はいつでも動けるようにしておけ。俺たちは、取引をしに来たんだからな。サソリの野郎に小言言われるのも不愉快だ、警戒だけにしておけ」

「取引か……。面白いことを言うな。桃地再不斬」

 

 声は白の後ろ──つまりは、再不斬の正面からだった。サソリと協力関係にあるはずの志村ダンゾウが、二人とは距離を取って立っている。

 

「霧隠れの里の抜け忍が、俺に何の用だ。本来、お前たちは木ノ葉とは何の関わりもないはずだが」

 

 再不斬は鼻を鳴らした。

 

「くだらねえ腹の探り合いは止めてもらおうか。とっくに知ってるんだろ? フウコが里に来てるのは。時間はねえぞ。サソリが調整したが、いつ頭のネジが吹き飛ぶか分からねえらしいからな。完全にネジが飛んだら、こっちはそれに合わせて動かなきゃならねえんだ。そりゃあ俺たちとしても、お前らとしても楽じゃねえだろ?」

「さあ、どうだろうな。戦争が起きたとしても、木ノ葉は滅びはしないが」

「本当にそう思ってんのか?」

「…………………」

「いいんだぜこっちは。フウコの奴が好きに暴れてくれても」

 

 勿論、ハッタリだ。だが、重要なハッタリでもある。

 白と再不斬が共にダンゾウの下へやってきた目的は二つあった。

 その一つが、ダンゾウが未だ協力者としての立ち位置を貫いているかどうかの確認である。

 サソリたちは犯罪者で抜け忍であり、ダンゾウは木ノ葉隠れの里に所属する忍。いずれはどこかで敵対するのは避けられないが、だからこそタイミングというのはシビアになってくるものだ。サソリは、再不斬たちが報告してきた暗部の違和のある動きに、眉を顰めたのである。

 牽制を込めた、協力関係の確認。

 サソリとしては、今すぐ裏切られようとも問題はないと考えているらしい。問題なのは、背中を警戒できるかどうか、ということ。

 

 ダンゾウは溜息を吐くと。

 

「まあ、いいだろう。さっさと要件を話せ」

「まずは、テメエがまだ俺たちの仲間なのかどうか。説明してもらおうか」

 

 再不斬の問いに合わせて、白は半分ほど印を結ぶように手の形を作っていた。もしもここでダンゾウの返事が否だった場合に備えて。

 だが、ダンゾウが間を然程設けないままの答えは拍子抜けしたものだった。

 

「何を言ったところで、信用しない相手に語っても時間の無駄だ」

 

 再不斬は舌を打った。彼の苛立ちは分かる。これまで何人かの碌でもない依頼主の下で動いてきたが、その中でもダンゾウの腹に抱える黒い強かさは、群を抜いている。今の現状も、そして大蛇丸の企ての最中で見せたうちはサスケへの敵意も、明らかに部下たちを使って良からぬことを考えていることを主張していたというのに、それがどうしたとでも言わんばかりの姿勢だ。

 

 なるほど、と白は一人で納得する。霧隠れの里の暗部よりも更に薄気味悪い、自分らを囲う彼らの異様さの根源はたしかに、彼の思想を中心にしているのだろう。

 

 しかし、反論をすることも出来ない。彼の言う通り、何を言われたとしても、こちらは確たる判断材料は持ち合わせていないせいで彼が前にいるのか後ろにいるのか分からない。囮であるフウコとサソリ側に時間制限──囮として機能できる時間と、フウコ自身が機能できる時間──がある以上、水掛け論に近い信用の有無を問いただす時間は無い。 

 

「取引とやらの中身を聞こうか」

 

 対面した時から、こういう状況を予想していたかのように、流暢な言葉が飛ばされる。

 アジトの中でサソリが「本当は俺が出向いた方が簡単なんだがな」と嘯いていたのがよく分かると、白は苦々しく思う。自分たちには、相手から言葉を出させるという技術が無いのだ。

 

 再不斬もそれを自覚してか、頭を切り替えるように舌打ちをして、尋ねた。

 

「テメエが持ってる写輪眼を二つ程、寄越してくれねえか? 俺たちの計画には必要なものなんでな」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「食後の煙草って、何だか、眠くなる。不思議」

「本当に寝るなよ?」

「寝ると思ってるの?」

「腹いっぱい食ったあとは大抵寝るだろ、お前」

「大丈夫だと思う。今日は気分が良いし、うん、天気も良い。大丈夫」

「根拠になってねえよ」

 

 目指す場所もなく、ただぶらぶらと、フウコとサソリは歩いていた。いや、一応は人通りの少ない道を選択して歩いているのだけれど、如何せん、フウコの意識が半分は眠っているような状態で歩いているのだ。どうしても移動が不規則になってしまう場合がある。

 

 まあもっとも、どのように歩いていても困ることはない。あと少しほど時間を潰してから、テキトーに騒ぎを起こして逃げればいい。【暁】への言い訳にもなる上に、再不斬と白が里から逃げる為の囮にもなる。

 

 実のところ、二人の方が役割としては重要だ。

 

 本当ならば自身がダンゾウの前へと赴きたかったのだが、【暁】への建前とフウコの管理をしなければいけない以上、あの二人に任せるしかなかった。交渉を上手く進めてくれるか。

いや、期待はしていない。再不斬は交渉事に向いているとは思えず、白は白で再不斬の指示が無ければ基本的に動かない。

 

 ──せめて、写輪眼を持ってることくらいは、聞き出してほしいもんだな……。

 

 あくまで、推測でしかないが、フウコが滅ぼしたうちは一族の遺体はダンゾウが回収したのではないかとサソリは考えていた。

 

 忍の遺体は情報の宝庫である。それは人傀儡を作るサソリが誰よりも承知している事柄の一つだ。当時、暗部を統括していたダンゾウならば、その情報を無駄にはしないだろうという、根拠を持たない推測だ。

 

 だが、確率は高いとも踏んでいる。人形や道具のように扱われ、それを許容する部下たちの姿から、彼の効率を追求した思想が見て取れた。なのに、うちは一族の遺体だけをみすみす見送るというのは考え難い。

 

 計画には、写輪眼が必要だ。たった二つだが、欠かせない骨組みである。交渉の最中で僅かでも、ダンゾウが写輪眼を確保している事への取っ掛かりを拾ってくれれば、今回は及第点としよう。

 

 二人は広場に出た。

 

 昼食時の街中から外れたそこには偶然にも人は見当たらず、長閑な風が静かな音を立てて広場中央に埋め込まれている大きな池に微小の波を作り出していた。

 

 上品で贅沢とも言える、止まったような密度の濃い静寂だが、サソリの経験は警鐘を強く鳴らしていた。

 

 ──ここらあたりで来るか……。こっちもこっちで、やるべきことはやんねえとな。

 

「そういえばサソリ」

 

 紫煙を口端から零して尾を残すフウコを見上げる。

 

 起床してから十分に時間は経過した。食事も、食費が圧し潰されてしまうくらいに与えた。薬の投与も適切なはず。薬煙草で効果も継続させてきた。アジトを出てからこれまでを観測してきて、内側(、、)からの干渉は見られない。

 

「私たちって、どうしてここにいるんだっけ?」

「…………………」

 

 意識と記憶は最低水準だが、まあ悪くはない、とサソリは判断する。ベストコンディションではないが、仕方ない。内側(、、)からの干渉を意識が獲得できないよう、徹底的に脳の機能を腐らせる調整をしたのだ。十分である。

 

「……散歩だ」

 

 もう何を言っても記憶に残らないだろう会話に、サソリはいい加減な答えをぶつけた。

 

「散歩? そうなんだ。へえ」

「食後にはちょうどいいだろう」

「うん、そうなんだけど。私たち……さっきからずっと見られてるね。本当に散歩? 何か……えっと…………あったんじゃなかったっけ? 凄く、空気がひりついてる。散歩には、ちょっと合わないかも」

 

 流石に抜け殻に近いフウコでも、集約しつつある視線との距離を感じ取っていた。赤い瞳が退屈そうに辺りを見回す。その時、風がほんの少しだけ、強く吹いた。

 

 フウコの黒い長髪が揺れた。そのまま、彼女は空を見上げた。

 

 逃げるように、求めるように。

 

 そして、サソリは足を止めた。

 

「いい天気だな、フウコ」

 

 まるで、単なる世間話の皮切りであるように、声は広場の脇から歩いてきたのだ。

 木ノ葉隠れの里にとって敵であるはずの彼女に対して、とても穏やかな声で。

 

「うん、そうだね。綺麗な空」

「昔、聞いたと思うが、空には何がある?」

「変なこと聞くね。空には、空しかないのに」

「顔色が悪いが、しっかり食べてるのか?」

「食べてるよ。味は、そんな良くは無いけど。そっちはしっかり食べてるの?」

「問題ない」

「右目、虫にでも刺された? 眼帯なんて」

「少し忍術を使ってな。失明した」

「イザナギを使ったんだ。やっぱり、イタチは弱いままなんだね」

 

 と、初めて二人は視線を交わした。

 フウコは、火影の笠を外しながら微笑むイタチを真っ直ぐ見つめ、その彼女の横顔をサソリは矯めつ眇めつ、観察する。フウコがどのような反応を示すのか、興味と計画の為の材料として。

 フウコの顔は、無表情。

 

「それなのに片眼になるなんて。もっと弱くなった」

 

 けれどサソリには──そして、イタチにも──殺意が溢れているのが分かった。

 

「それで私を殺せるとでも、思ってるの? 言ったよね、イタチ。私の前に姿を見せたら、殺すって。なのに私の前に出すってことは、私を殺すってことでしょ? 弱いままで、私を殺せるの?」

「……殺せるかどうかは分からないな。俺もお前も、あの頃から時間は経った。それに、昔からお前との忍術勝負で、命の取り合いはしたことがないだろ」

 

 向けられてはいないはずのサソリでさえ、いつ壊れて暴れ回るか分からないフウコに警戒をしているというのに、目の前に立つイタチは何とも無しに肩で笑ってみせる姿は、言葉通り、争いを前提としているようには見えない。

 

 ──最悪なパターンで来たか……。

 

 【暁】からの指示が来た時点で、多くの想定を積み重ねてきたが、一番厄介だったのは、イタチがフウコを説得しようとすることだった。

 再不斬と白がイタチと接触した時の状況と、こちらの事情を知っている大蛇丸の登場。イタチが真実に至っている可能性は十分に考えられた。

 面倒だ。

 さっさと逃げるに──。

 

「なら、今度こそ殺してあげる」

 

 フウコが動く。彼女の両手には封印術の印字が。合わせる事によって開放されたのは、彼女の身長を超える長さの、鞘に収まった長刀。鞘を鎖で封じられたそれをそのままに、フウコは上段から振り下ろした。

 

 同時にサソリはヒルコを動かす。チャクラ糸が繋がる彼の両指の操作は、フウコの長刀の速度を遥かに追い越しながらも精密さを極めた完璧なものだ。ヒルコの鋭い尾がイタチの首元を狙いながらも、既に毒煙を広める動作も起動させ始めていた。

 

 避けられたとて、毒煙が視界を塞ぎ、動きも封じてくれる。あとはフウコを声で操作すれば問題ない。

 そこまで思考を進めた時に、ヒルコの尾が裁断された。材質を厳選し、鍛え上げた刃たちは力を無くして宙を舞った。

 

 裁断したのは、猿飛アスマだった。彼が両手にハメたサック状のクナイに纏った鋭利なチャクラが、サソリが培った刀工技術を上回ったのだ。そして、そのチャクラの刃がヒルコの部位大半を解体するのに最適なのだと確信した。

 

 毒煙の展開と同時に回避動作を指の動きに組み込むが、カカシが一歩早く、ヒルコの上空を取っていた。サソリが上空のカカシを察知できたのは、彼の右手に発現している忍術のチャクラの強力さだった。

 これまで見てきた忍術の何よりも濃縮された、雷の性質に変化したチャクラ。雷切と呼ばれるその忍術が、文字通り、雷を切り裂いたとされることを知らないサソリにとっては、さながら、(いかづち)そのものに見え、そして雷の如く直下してきた。

 

 ヒルコが粉砕される音と、フウコの鞘が地面を砕いた音は、正に同時だった。

 

「……フウコ。俺は、お前の味方だ」

 

 雷切が直撃する寸前にヒルコから脱した。フウコが振り落とした鞘を交わしたイタチの言葉を苛立たしげに耳に取りながら、サソリは池の中央へと着水──いや、着地(、、)する。人工の経絡系は当然、足の細部にまで通してある。チャクラによる水面歩行はサソリにとっては容易い事で、いやむしろ、先天的に経絡系が組み込まれた人体よりも、サソリがオーダーメイドした自身の機構の方がチャクラコントロールは繊細だろう。

 しかし、接近戦においては、その身体は不利を否めない。

 触覚を持たない傀儡の身体ではどうしても、衝撃を受けた際の抵抗が難しいからだ。

 故に。

 眼前に入り込んできたマイト・ガイの上段蹴りを防いだ両腕は、僅かな軋みを訴え、サソリを更に後方へと吹き飛ばした。

 

 背を水面に打つことはなく、足でスライドしたように後退してしまったサソリは恨めしそうに呟いた。

 

「大蛇丸の野郎……俺たちを裏切っただけじゃなく、売りもしやがって…………計画が前倒しだ」

 

 イタチがフウコの真実を手にしているのは確定的だ。この状況はつまり、その手にした真実を確かめる為のものだ。わざわざフウコとこちら側を分断してまでするなんて、手の込んだことをする。これでは、声でフウコの動きを止めても確保することが出来ない。

 

 久方ぶりにアジト外で晒す自身を土台として模して作った肉体(くぐつ)。茶色の彼の眼球は、フウコとの間を寸断するように立ち構えるアスマとカカシ、ガイを映した。

 

「言っておくが、俺達は戦争をしに来たわけじゃねえんだ。ヒルコをぶっ壊した事には、腹立たしいが……特別に目を瞑ってやる。このまま見逃してくれるってなら、俺達は何もしないで帰ってもいいが?」

「お前……赤砂のサソリか?」

 

 不思議そうに、アスマは煙草をくわえた唇を引き締めた。

 おそらく彼には、サソリが砂隠れの里の抜け忍としてビンゴブックに載った顔写真がはっきりと思い浮かんだに違いない。十年以上前にビンゴブックに載った、砂隠れの里を抜けた当時の写真と殆ど変化の無いサソリに驚いたのだろう。

 自身の技術が評価された事は素直に喜ばしいことだが、殺意を緩めるつもりは一切ない。

 カカシは言った。

 

「見逃せって話だけど、そういうわけにはいかないよ。こっちとしても、上司の命令は守らなきゃあいけないわけだ」

「そこをどうにかしろと言っているんだが?」

「なら、はっきり言ってやろうか。お前を拘束する」

 

 プランを移す。

 一番シンプルなプランに。

 徹底的に、やれるところまでやる。

 スマートではないが、ある意味では最も成功率の高いプランであった。

 

「まあ、これもいい材料だ。今のアイツがどこまで動けるか、観察するのも必要だからな。うちはイタチを相手にするのは悪くない」

 

 イタチのおかげで、フウコの意識のレベルは引き上がってくれた。本領までは発揮してくれなくても、今後、フウコを実戦投入する場面でのシミュレーションとしては十分だ。

 それに、

 

「こっちとしても試したい事があったからな」

 

 言いながら、サソリは懐から一本の巻物を取り出した。

 黒一色の模様も何も描かれていない、小さく短い巻物だ。縁を縛る紐を解くと、少しだけ中身を表に晒した。そこには、封印術の印と一つの文字が書かれていた。

【偽】

 封印術が解かれる。

 

「あれは……」

 

 ガイが太い眉を警戒するように動かしてしまった。

 封印が解かれたそれが、忍具か、あるいは契約した動物か、いずれかを予想していたからだろう。姿を現した、人間と見間違ってしまうほど精巧に造られた傀儡人形が、フウコの姿をしていたことに、ガイのみならず、アスマとカカシも驚きと、不気味さを抱かざるを得なかった。

 

「コイツの耐久性も試しておきたかったからな。単純な耐久テストはしたんだが、実戦は予想外の負荷が大きい。ちょうどいい機会だ」

 

 池に落ち沈みかける傀儡にチャクラ糸を接続する。

 音もなく、静かに、池の上に立つ。傀儡の内部には、別の人間の一部から作り出したチャクラの機関が組み込まれている。稼働し、人工の経絡系が機能して、人傀儡の一歩手前といった、中途半端な傀儡が印を結んだ。

 

「さてまずは……忍術に対する耐久度だ。水遁・水竜弾の術」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「……フウコ。俺は、お前の味方だ」

 

 どうして、こんなに苛立つのだろうか。

 どうして、こんなに苦しい気持ちになるのだろうか。

 

 彼は、イタチは、兄妹なのに。

 

 優しく笑ってくれているのに。

 

 どうしてだろう。

 

 視界が、赤い。

 

 血のように。

 

 ああ、そうだ。

 

 あの時も、彼はそんなことを言っていた。

 

 あの時?

 

 いつのことだろう?

 

 分からない。

 

 ただ、殺さなければいけないという感情だけが背中に立っている。

 

 半身に身体を逸して、鞘を躱したイタチをフウコの眼光は鋭く睨んだ。

 

「味方? 面白い事言うね」

「家族だからな」

 

 家族(、、)

 誰が?

 誰と?

 

「ふざけたことを言わないで。私は、貴方と家族じゃない。血も繋がってない。だから」

 

 だから。

 

 フウコの中で疑問が次々と生まれ、そして薬によって希薄になった意識の空白へと消えていく。答えは出ないままに、けれど言葉だけは何も考えられない頭から出てしまう。

 きっと、苛立ちが、苦しみが、悲しみが、言葉を紡ぐのだ。

 

「貴方を殺す」

 

 あるいは原点がそうさせるのかもしれない。

 たった独りになった原点の全てが、そうさせるのかもしれない。いやそれ(、、)さえも残骸の残滓へと成り果てて、知っている者は自身ではなく、他者のサソリと、敵である彼女(、、)だけだというのに、言葉を紡ぎ使命を押し付けながら、目的の為に突き進んでいく。

 

「フウコ。イロミちゃんが、犯罪者として拘留されている。お前の真実を知ったからだ」

「…………え?」

 

 残骸の残滓の歩みが、足を震わせた。

 イロミ? と意識は首を傾げるのに、遠くで泣いてる声が聞こえたような気がした。もっと一緒にいたいと叫んでいるようだった。

 

「俺は、イロミちゃんから真実を知った。あとは、お前が手を伸ばしてくれるだけだ」

「どういう……こと……………?」

 

 音が聞こえる。

 足元にある地面が崩れていく音だ。

 苛立ちが頭を痛くする。

 苦しみがフウコの両眼を写輪眼へと変化させる。

 悲しみが、規則正しすぎる心臓に負荷を与えた。

 

「うちは一族がクーデターを企てていたのは、本当なのか?」

 

 うちは一族?

 クーデター?

 記憶の前後(、、、、、)も分からない今の彼女では、その言葉からのイメージには到達できない。

 ただ、赤い視界が、黒い夜色になってくる。

 そよ風がどうしてか血生臭い。

 

「お前は、それを止めようとしてくれたのか?」

 

 熱くて、寒い。

 後ろで彼女(、、)がケタケタと笑ってる。

 

 ──あーあッ! ぜーんぶバレちゃったねぇえええ?!

 

「教えてくれ、フウコ」

 

 残骸の残滓が絶叫した。

 

 自身の意識さえも認識できない奥底の無意識で。

 

 それを彼女(、、)は笑っている。

 

 無表情に変化はなく、意識はただ一つの答えだけを導き出した。

 

 殺さなければいけない。

 

 殺して、それで、それで──。

 

 そうだ。

 

 散歩の続きをしないと。

 

 今日は、良い天気だから。

 

「もういいよ」

「もう一度だけ言うぞ、フウコ。俺は、お前の味方だ」

「そうなんだ。でも、関係ない。私と貴方は、家族じゃないんだから」

 

 ──キャハハハッ! フウコさん、がんばってねぇえ?

 

 

 

 そして。

 

 

 

「なんだよ……クーデターって…………」

 

 二人のその会話を、サスケは広場の脇に茂る木々の隙間から聞いていた。

 




 次話は来月中に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

誰も掴めない手

 投稿が大変遅れてしまい申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿します。


「クーデターって……どういうことだよ…………」

 

 イタチとフウコが対峙しているのを、サスケは広場の横に広がる茂みの中から見ていた。

 いや、彼は瞼を開いてはいるものの、眼から入ってくる視覚情報に対して意識が処理を完全に怠っていた。故に、見てはいるものの、視界は揺らぎ、あるいは僅かな暗闇に陥っていたのだ。

 

 耳に入ってきた、イタチが語った言葉。

 

 うちは一族がクーデターを企てていた。

 夜の街中を歩いている最中に後ろから鈍器で頭を殴られたような衝撃が、サスケの視界を塞いでいたのだ。ついさっきまで抱え、必死になって抑えていたフウコへの殺意は霞のように消え失せて、ただ疑問だけが、そこにはあったのだ。

 咄嗟に、耳に入れていたイヤホンに手をやってしまった。

 任務の際に渡されるインカム。オリジナルのイタチが懐に隠し、フウコとの会話を盗聴したものが届いたイヤホンが、本当に耳に入っているのかを無意識に確認してしまったのだ。

 何かの幻聴か、それとも、自分の中にいる甘ったれた考えが生み出した幻想なのか。しかし、イヤホンは確かに耳に装着されていて、イタチの懐で僅かに動く衣擦れの音が届き正常に可動していることを訴えてくる。

 

 確かに、イタチは言ったということ。

 

 サスケは横に一緒に控えているイタチの影分身体に目を向ける。

 

「なに……いきなり…………わけわかんねえこと言ってんだよ…………」

 

 下顎が震え、声に力が入らなかった。怒りなのか、困惑なのかさえも、サスケ自身にも判別できない感情の渦巻きを察したのか、影分身体は落ち着いて頷いだ。

 

「証拠は現状……何もない。ただ、イロミちゃんが大蛇丸から聞いた情報、というだけだ。だが、確証は高いと俺は考えている。イロミちゃんが、ああまでして木ノ葉に対して怒りをぶつけたんだ」

 

 敢えてイタチは細かい説明を省いた。大蛇丸から受けた呪印。その呪印から受け取ったという、情報は、この場では不要だと判断したためである。

 

 そしてイタチは語った。

 

 これまで、うちは一族が木ノ葉隠れの里成立以来、まともに(まつりごと)に参加させられなかったということ。警務部隊という地位を与えられたが、それは実質的に木ノ葉隠れに対する影響から遠ざけられてしまったということ。警務部隊として誇りを手に入れたと同時に里の住民から疎まれていたということ。

 

 かつて発生した九尾の事件によって、うちは一族に掛けられた嫌疑と疑惑のこと。

 

 それらが重なった果てに、クーデターを考えていた、ということを。

 

「うちは一族がクーデターを起こそうとしていた、というのは、現実的ではないとは思えるが、可能性としては十分に考えられる事だ。それを……フウコが止めた。俺とお前だけを残して」

「だけど」

 

 イタチから語られる情報が、不思議にも意識が追い付いていかなかった。頭の中で情報が蓄積されているのに、どこか他人事のように感じてしまう。それでも、衝撃だけは強かった。イタチが語っているという事と、筋道が立てられた情報だったからだ。

 

 信じたくない。

 

 大好きで、誇り高かったうちは一族が、クーデターなどという、まだ子供である自分でも分かる愚かな行為を行おうとしていたなんて。

 

「そんなの……父さんと母さんが考えるわけないだろ…………。それに、兄さんは何も知らなかっただろう……知ってたら…………あの時……………」

 

 もしも本当に、うちは一族がクーデターを企てようとしていたというのなら、どうしてフウコと対峙したあの夜に、その事を指摘しなかったのか。あの夜のイタチは、本当に何も知らない様子だった。

 そんな事、あるはずがない。

 うちは一族がクーデターを考えていたなら、当時──いや今も尚、他の忍よりも実力が飛び抜けている彼に、その話が行かない訳が無い。いや、もしその話が行ったとしても、彼ならばクーデターを止めようとするはず。フウコと同じ立場を取るはずだ。

 

 だから、その。

 

 考えが纏まらない。纏めようとすると、考えに矛盾が起きる。

 つまり……クーデターという話は、誤っているのだ。間違っている。

 

「俺も……正直なところ、まだ完全には信じる事が出来ていない」

 

 イタチは呟いた。

 

「だからこそ、ここにいる。確かめる為に」

 

 ここもまた、イタチは伏せた。自分に掛けられている幻術の存在の可能性について。それは、蛇足というものだからだ。

 

「もし……フウコが何も言わなかったらどうするんだ?」

「その時はまた、考えるだけだ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチとフウコの写輪眼が視線を重ねる。それは、単なる忍同士の駆け引きの領域を超えていた。

 相手の動きを正確に予測することが出来てしまう写輪眼では、同じ眼を持つ者同士の争いは動き出した段階で、半分以上の戦闘は終わっていると言えるだろう。

 互いに見る相手の動きへの予測は、さながら可能性の追求だった。

 フウコの動きに対して、自身の動きを。

 イタチの動きに対して、自身の攻撃を。

 どちらが先に優位を築く事が出来るか、どちらが先に相手を戦闘不能に出来るか。

 もちろん、予測も永遠には続けられない。予測の分岐は膨大で、予測の時間を先に進めれば進めるほど、予測の精密さは失われていく。だが、近い未来の予測であれば、それはもはや予知と差異は無い。

 

 奇しくも、二人の予測には重なりがあった。

 

 かつて、うちはの町で戦いながらも、年月が経って互いの実力がどれほどなのか不鮮明である中で、まるで鏡合わせのように予測が重なっていく。

 予測の上では、フウコの方が優勢か。

 イタチは写輪眼を片眼しか保有していない事が主な原因だった。死角が生まれ、どうしてもそこからの攻めにはワンテンポの遅れが生まれてしまう。勿論、イタチほどの忍ならばそのワンテンポと言っても、一秒にすら到底満たない時間の隙間だ。だが、その隙間を精密にフウコは狙っていく。

 守り、防ぐばかり。だが、イタチには焦りは無い。

 目的は真実を確かめることだからだ。

 時間が稼げればいい。

 風が二人の間を駆け抜け、水面に波を作り──水面が止まる。枝葉に分かれた予測の波乱が、一点に収束し安定した事を示したかのようだった。

 フウコが動き出す。

鞘に入ったままの刀を下段から水面を叩いた。作られる数多の水飛沫だが、もはや威力だけならば幼子の投げるクナイよりあるだろう。少なくとも、眼球に当たれば大きな損傷を与える程度には力があるだろう。

 

「火遁・豪火球の術」

 

 返すのは巨大な火球。イタチにとって、忍術に必要な印は、一息よりも簡単で、そして素早く行える動作だ。水の弾丸に視界の殆どを覆われながらも、イタチの冷静さは盤石だ。細かい水飛沫を跡形もなく蒸発させる。

 

「水遁・蛇腹牙柱(じゃばらがちゅう)

 

 火球がそのまま襲いかかってくるのを、フウコも忍術で相殺した。刀を一瞬だけ手放した隙に結んだ印の速度は、イタチと同等。水面から四本の水の柱が生まれ、火球を絡め取ると、火球と水柱は消え、蒸発した水分が濃密な霧となって二人を飲み込んだ。

 

 ──なあ、フウコ。どうすれば、お前の味方になれる?

 

 真実を語ってほしいと願っている。どうしてうちは一族を滅ぼしたのか、イロミが語っていた事の裏付け、うちは一族がクーデターを起こそうとしていた事が微塵も記憶に残っていないのか、それらを語ってほしい。

 僅かでも構わない。

 けれど、彼女は語ろうとしないだろう。それは、霧越しに伝わってくる彼女の殺意が訴えかけてくる。

 黙れ、と。

 関わってくるな、と。

 それでも、とイタチは思う。

 霧の流れが一部、偏る。予測の中にあった一つの選択肢。死角である右に視線を動かす。フウコの黒髪が揺らめき、殺意に満ちた赤い瞳がこちらを見つめていた。振り上げていた鞘に収まった刀が今まさに振り下ろされようとしているように見えるが──イタチの写輪眼は、その違和感を見逃しはしない。

 刀は空中に放り投げられただけだ。

 目に映るフウコは、忍術の基礎にも近い分身の術で生み出された幻影。刀を振り上げている動作は、フェイクだ。袖下からクナイを取り出し、左側へと振り向きざまに刃を立てる。

 クナイの切っ先は、反対側から拳を構えたフウコの前髪を数本切り落とすだけ。クナイを持った腕をフウコは掴み、対してイタチもフウコの拳を掴んだ。

 

「フウコ……本当に、うちは一族はクーデターを考えていたのか?」

 

 イタチの予測では、この段階で腹部を蹴られた衝撃で距離を離され、忍術を叩き込まれるというのは分かっていた。だが、それを言葉というノイズで歪める。

 両眼があった時には、大切な友人をしっかりと見ると言ったのだ。

 家族である彼女を、たった一つになっても尚、見続けられないでどうする。

 

「もしそうなら…………今からでも遅くない。いや、ずっとそうだ。俺はお前の味方だ。出来ることなら、何でもする」

「言ったよね? 弱いなら、私の前に出て来るなって」

「俺を殺すのか?」

 

 わざと、挑発してみせた。

 フウコの瞼が震えながら細くなる。

 怒りが溢れているように見えるが、イタチの眼には確かに別の感情を掬い取っていた。

 イロミとの喧嘩で──あるいは、シスイと精神の中で出会ったからか──相手の感情がこれまで以上に分かるようになった。

 

 フウコが、動揺している。

 

 その揺さぶりは、絶好の機会だ。

 

 友達と喧嘩した。

 

 なら、兄妹とも喧嘩しよう。殺し合いではない、喧嘩を。

 

 そのためには、言葉を引き出す。

 

「そして、サスケも殺すのか? どうなんだ」

「うるさい。そんなこと、貴方が気にするようなことじゃない」

「答えろ。俺たちを殺して、お前は満足するのか?」

「だから……そんなのは…………」

「お前はそこまでして、俺たちを殺したいのか?」

「…………ええ、そう。貴方達を殺したいの。弱いからッ! 目障りなの!」

 

 嘘だ。

 確信を持つ。

 皮肉なことに、今まで嘘を駆使してきたイタチだからこそなのか、はっきりとした

 フウコの腕が震えている。怒りを演出する鋭い眼光からは怯えが見える。さらに揺さぶれば、と思うと同時に、こうもあっさりと彼女の感情を読み取れるものだろうかと疑問も獲得してしまう。

 いや、これが……大蛇丸が語り、イロミが聞いた、壊れるという事なのだろうか。

 うちは一族を滅ぼした時の彼女よりも、表現は奇妙だが、脆くなっている。単なる言葉だけで、ここまで彼女が感情を滲ませるのは異常だ。

 

「私は……お前たちみたいな弱い連中が嫌い。弱いから、すぐに間違える。間違えて、色んな人を不幸にする。努力出来るのに、出来る環境なのに。そう、出来るのに……」

 

 フウコの瞳孔が震え始めた。

 

 今にも零れそうなコップのようで、そしてその比喩が決して的外れではないように、不安定な言葉たちが無秩序に出てきた。

 

「ずっとずっと──もう不幸自慢はうんざり────どこでも、もう、どいつもこいつも、────今日の晩御飯はなんだろう……苦しいのに、お腹が空くの──寒いよ……寒いのに、幸せなの……………だから、どうして、私は────」

 

 ただ、みんなと過ごしたかったのに。

 その言葉が、本当に耳が感じ取ったのか、幻聴なのか。けれど間違いなく、口元はそう動いたのは写輪眼が間違いなく観測している。真意を問いただそうとするが、フウコに腹部を蹴り上げられた。

 距離が離れてしまう。

 腹部に受けたダメージは然程ではないものの、言葉をぶつけられる距離ではなくなった。あくまで、火影という地位にいる自分が、重犯罪者であるフウコに言葉を投げかけるというのは、サスケやイロミなどに聞かれも見られもしてはいけない。

 フウコが水面を踏み込みながら刀を拾い上げ迫り来る。

 予測も何もない乱暴な速度に任せた一直線の軌道。下段からの切り上げをクナイで何とか捌く。

 

「フウコ……」

「弱いなら、私に関わってくるな。みんなみんな、弱いくせに、奪うことばかり。どうしてそっとしておけないの? どうして? なら、私が殺すしかないの」

「誰の事を──」

 

 捌いた刀が上段から振り下ろされたのを躱したが、刀は水面をへこませ、反動で吹き上がる水飛沫が下方より二人の顔を叩いた。

 

「言っている!」

うちは(、、、)の全てだッ! お前ら全員だッ!」

「うちはが何をした」

「全部ぶち壊そうとしたんだッ!」

 

 上空へ上がった水飛沫が雨のように降ってきた。

 ざあざあ。

 ざあざあざあざあ。

 フウコは呟いた。

 

「だから、私は────」

 

 水飛沫のせいで、髪を濡らした彼女が顔を上げる。

 赤い瞳。写輪眼が解けていた。涙を流しているようで、苦しかった。

 うちは一族はやはり──。

 

 

 

「え? イタチ?」

 

 

 

 殺意が消えて、真っ白な表情に、フウコはなった。

 今まさに目を覚ましたように瞳孔を震わせて、辺りを見回し始めた。

 

「ここ…………木ノ………葉………? どうして…………? 私…………何を言ったの…………? もしかして……フウコちゃんが…………? また、私…………」

 

 何かに怯えたフウコが刀をあっさりと手放して、信じられない事にイタチへと縋り付いた。掴みかかってきた両手には強い力が込められながらも、軸を持たない大きな震えに苛まれていた。

 疑問と困惑ばかりがイタチの冷静さを絡め取る。写輪眼が予測するフウコの行動には、一貫して敵意も殺意も感じ取れない。そして予測は、信じられない光景を捉えてしまい、イタチは咄嗟に息を呑んでしまった。

 そして予測は現実に追いつかれる。

 

「……イタチ……………助けて……」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「流石に、木ノ葉の上忍三人を前にコイツ一体だけで叩くってのは、無理があったか」

 

 もはや可動させるには各部位の部品を削ぎ落とされた、ガラクタにも紛う無残な姿となったフウコの傀儡人形を呆れ果てたように、サソリは見下した。膝はひしゃげ、右腕は無くなり左腕は逆向きへとねじれ曲がっている。人工皮膚は到るところが剥げて、サソリが凝らした芸術性は見る影も無い。

 しかし十分に情報は手に入った。十分だろう。復元には時間は掛かるが難しいことじゃない。性能の利点と欠点が今回の戦闘で明確になってくれた。

 

 ──再不斬と白も、里から離れた頃合いか。さっさとアジトに戻れればいいんだが……。

 

 相対するカカシ、ガイ、アスマらを一度見やる。彼らにダメージは殆ど見受けられない。防戦一方だった為に、大したダメージを与えられなかったのである。元々、傀儡人形には純粋な戦闘力を求めてはいけない。

 人間を模しながらも、人間には不可能に近い挙動や仕掛けを駆使する事が最大の利点だ。一瞬の隙、刹那の油断、それらに針を通して死を貫く。フウコの傀儡人形には、そういった特徴は一切搭載していない。

 この人形は、限りなく人体に近い構造に作ったからである。

サソリ自身も狙われたものの、フウコの傀儡人形を駆使しながらも回避に専念していたためにダメージは無い。傀儡師としては、自身がダメージを受けない事が第一条件である。

 サソリは警戒をしながらも、フウコの方を見た。

 

 ──壊れたか。いや、壊されたか。

 

 イタチの腕に縋り付くフウコ。自分の立場と今後の計画を理解していれば、たとえ相手を騙す演技だったとしてもありえない選択肢だ。目と下顎は震えている。

 

 幻術の影響下にある、というのはこれまでフウコを観察していて分かっていた。

 

 薬が切れかかっている、という訳ではない。薬でも抑え切れないくらいの情報が入り込み、意識が覚醒しかかっているのだ。その意識の塊に、もう一人のフウコが幻術を内側から送り込んでいるのだろう。

 ということは、イタチはフウコから、うちは一族を滅ぼした真実を知ったのだろう。つまり、味方になってしまった(、、、、、、、)ということだ。再不斬や白が、木の葉隠れの里の外で出会った時のような疑惑ではなく、確定的。

 

 いや、この場にイタチが姿を現した時点でフウコの味方だったのかもしれない。

 

 ──大蛇丸の野郎。さっさと殺しておくべきだったか……。

 

 しかし、今は計画の修正は後回しである。根本的な部分から見直す必要があるために、時間は必要だ。時間にも精神にも安定が図れるアジトに行くのは絶対だった。

 問題はどのようにしてこの場を切り抜けるか、であるが……。

 

「なあおい、お前ら。俺たちはこのまま何もしないで帰ってやる。だからもう構うな。なんなら、お前らに囲まれて正々堂々と正門から出ていってやってもいいぞ?」

「無理だな。うちは一族を滅ぼしたうちはフウコと、砂隠れの抜け忍である赤砂のサソリを見過ごす訳にはいけない」

 

 答えたカカシに、ガイもアスマも同様に頷いてみせた。木ノ葉崩しに加担した形となってしまっている砂隠れの里への交渉のカードとして、サソリの捕縛はメリットが大きい。同盟里としての関係を遺恨無く健全なものへと戻す為だった。

 

 それはサソリにも把握できていること。予定ではフウコを頼りにして逃げる事を考えていたが、やはりイタチの登場が余分だった。いや、しかし、そもそも【暁】のリーダーから木ノ葉隠れの里に行けと言われた時点で無理筋だった。

 

「……話の分からない連中だ。なら、こっちも好きにさせてもらうぞ。死んだら、まあ、人傀儡にしてやる」

 

 フウコの傀儡人形を巻物に封印し直し懐に戻そうとする瞬間、カカシらは無言で迫ってきた。三者の速度は言わずもがな。それを前にサソリの行動は簡単なものだった。

 【暁】の衣の袖下から出したのは手のひらサイズの黒い球──サソリが自作した煙玉だった。水面に叩きつけると同時に煙玉はいとも容易く破裂し、溢れ出てきた黄土色の煙が瞬く間に湖を覆い、端の煙はさらに低く広がっていく。

 煙の濃度は濃く視界を自身の足元さえも見失う程だが、殺傷能力は低い。せいぜい、皮膚からの痺れと吸い込むことによる筋弛緩程度。それでも、即効性は強い。

 

 当然ながら、人傀儡であるサソリ自身には大きな影響はない。

 

 サソリは煙の中からカカシたちに言葉を投げた。

 

「じゃあな。俺たちは帰らせてもらう。それでも追ってくるなら、こっちも面倒だが相手してやる。どうせ俺たちが来たことは下っ端共には知らせてねえんだろ? だったらこれで勘弁しろ」

 

 カカシたちの身体には既に痺れが現れ始めていた。煙の色から既に何らかの影響があるだろうとは予測していた彼らは呼吸を止めていたが、症状が出始めてきた以上、さらに警戒は強くなってしまった。

 結果、彼らはひとまず煙から脱するという選択肢を選んだ。彼らにとって得体のしれない煙の中で戦うというのはリスクが大きすぎたからだ。

 煙の外に脱し、痺れを感じながらも煙の流れを注視する。木ノ葉隠れの里から出る為には、当然ながら煙から出なければいけない。時空間忍術を用いられればどうする事もできないが、忍術が発現する瞬間ならば隙は生まれる。その一瞬だけならば煙の影響も大きく受けることなく、捕らえる機会としては十分だとリスクとの天秤で判断したのだ。その一瞬の機会を手に入れるかどうかは問題だ。

 

 しかし、サソリにとっての懸念はそんなところにはない。

 

「さて……フウコの奴を連れて帰れるかどうか…………」

 

 錯乱しイタチにしがみつく彼女を引き剥がしながらも、イタチの攻撃を至近距離で受けきれるかどうか。そこが最大の問題だ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 サソリの煙は当然ながらイタチとフウコも飲み込んでいた。

 既にイタチの指先は痺れの兆候を示している。けれど、イタチの両手は、袖を握ってきたフウコの手首を掴んでいた。

 離さないように、遠くに行かないように。

 そう、兄として。

 家族なんだ。

 手を離すなと、イタチの中の想いが身体を動かした。

 

「アイツが、来る……マダラ(、、、)が……………私、もう、木ノ葉から離れたくない!」

 

 マダラという言葉にイタチの脳裏に浮かんだのは、うちはマダラという、うちは一族における伝説の人物だった。

 しかし、彼は故人のはず。どうして今のタイミングでフウコが、彼に怯えているのかは理解が及ばない。それでも、イタチは力強く頷いてみせた。

 フウコが大罪人であることも、自分が火影であることも、全て理解しながらも彼女を助けようとした。煙の中であり、辺りからの視線が外れていることも、イタチの行動を後押したのだ。

 

「分かった。すぐにお前を匿う。だから立てっ。必ずお前を助けて──」

「どうして私を助けてくれないのッ! こんなに……あんなに(、、、、)……………私が苦しんだのに、どうしてイタチや皆は幸せそうなのッ!」

 

 イタチの言葉を遮る彼女の言葉は脈絡を完全に無視したものだった。

 助けたいのに、手首を掴んでいるのに、フウコにはこちらの言葉が聞こえていない様子だった。

 月読が使えれば、きっとフウコを気絶させることが出来る。けれど、それは不可能だった。右眼は既に、イロミとの戦闘でイザナミを使用(、、、、、、、)したために光を失っている。

 フウコに何が起きているのか。

 理解したい。心の奥底から願った時だった、声がしたのだ。

 

【キャハハハハハハ! これでぇ………フウコさんが費やした、うちはの人たちを皆殺しにしたことは無駄になっちゃったねえ! せっかく、頑張って隠してたのにぃ! キャハハハハハハッ!】

 

 気が付けばイタチの意識は、空と海だけの世界に立っていた。水平線の彼方だけが世界を囲う、遠く広く寂しい世界だ。木ノ葉隠れの里ではない。そして、幻術の類で無いことは、イタチ自身がはっきりと自覚していた。

 目の前には抜け殻のように膝を折って座るフウコと……もう一人。その子は、幼いフウコの姿に酷似──いや、そのもので、イタチに背を向けて立っているが、その姿は幼い頃に初めて会ったフウコそのものだった。彼女はフウコの前に立ってケタケタと嗤っていたのだ。

 

「ん?」

 

 女の子はイタチに気付き、振り返り顔を見せる。

 顔はやはり、幼い頃のフウコだ。しかし、それでも、醜く歪み切った笑みを浮かべる口端は、決して大切な妹が作るはずのない表情だった。女の子は「ああ」と、さらに唇を伸ばして笑みを強くした。

 

「兄さん」

「……お前は、誰だ」

「何言ってるの? 私は──うちはフウコだよ? キャハハハハハハ」

「フウコに何をしたんだ」

「何って……何よ、その言い方は」

 

 完全に身体をこちらに向ける女の子は勝ち誇ったように自分の胸に手を当てた。

 

「私がフウコさんをグチャグチャにしてあげたから、知れたんだよ? フウコさんが、うちは一族を滅ぼした事をね? ああでも、はっきり言わなかったかな? 幻術で動かすのも苦労するんだ。サソリの薬のせいで、フウコさんを上手くコントロール出来ないから。でも、おおよそ、分かったでしょ?」

 

 女の子は言う。

 

「フウコさんは、うちは一族がクーデターを起こそうとしていたから滅ぼしたの。あ、言っておくけど、これは真実よ? どう? 気分は。私は最高。今までずーっと、フウコさんが隠して、辛い苦しい思いをして、それがぜーんぶ、ぶち壊してあげたの。それにサソリの計画も大きく狂う。これでマダラ様は私を褒めてくれる。ふふふ、ああ、いい気分。アンタもそうでしょ? ほら、フウコさんをサソリから助けてあげたら? 火影なんでしょ? お父さんを殺した、あの扉間と同じ火影なんでしょ? ま、どうせマダラ様が私を助けてくれるけど」

「マダラというのは……うちはマダラか?」

「そう。本当なら私が私の身体を動かしてマダラ様と一緒に夢の世界に行くつもりだったのに、フウコさんと、シスイとかいう奴に邪魔されて、身体を動かせないの。でも、フウコさんを虐め続けて、今じゃあすっかり、私の幻術で思い通りに動かせるの。見て、このみっともない姿を。ほら」

 

 女の子が左手をフウコの頭に添えた途端だった。

 虚ろのフウコの身体が内側から張り裂け、内部から泥のような灰色の液体が吹き出た。液体は少しづつ形を作っていく。それらは全てフウコの姿だった。フウコの像は幾多も生み出され、それらが全て空に向けて手を伸ばしながら柱のように連なっていた。

 

《わたしはぁ………わたしわぁあああ》

《こわい》

《ひとりは……くすりも……………もう……やだぁあ》

《たすけてぇ》

《なんでわたしだけ……こんなにぃ…………》

《つらいよぉ》

《ころしてぇ………………………ころしてぇええええ》

 

「キャハハハハハハ!。すごいでしょ? サソリの薬が無ければ、もっとグチャグチャに出来るんだけど、アイツ、根本まで腐らそうとしてるから幻術を当てても反応が無いの。もう少しなのに」

 

 身体は心に直結している。心の気分一つで体調は悪くなり、身体の健康が保たれれば心は恒常性を強くする。

 だからこそ、サソリは徹底的に薬を用いて、心の奥の奥まで影響を強めていた。故に、中から(、、、)の幻術における影響に対して敏感ではありながらも、完全な崩壊の不安はなかった。

 

 しかし、イタチにはそうは見えてはいなかった。

 

 壊されている。

 妹が。

 自分の記憶に残る、彼女の姿が、壊され、いつか、確実に壊されてしまう。

 

「やめろっ!」

「キャハハハハハハ。もうここから出て行けよ」

 

 女の子の肩を掴んだ瞬間、身体が後ろに引っ張られる感覚に襲われた。重力が、空気が、肌に纏わりついてきた。

 

「フウコッ!」

 

 遠ざかる空と海の世界。視界が急激に黒に塗りつぶされるその瞬間、フウコの像が涙を流した。

 

《イタチ………ごめんね》

 

 意識が肉体に──現実に引き戻された。

 

「フウコ」

 

 サソリの声が煙の向こう側から力強く響いてきた。フウコは何かを察したように、イタチの顔を見上げる。

 たった一瞬だけ、イタチとフウコの視線が重なった。フウコは首を横に振った。

 

「たす…………けて…………」

 

 絞るような声は、次の瞬間にはパタリと止んでしまった。

 

「その男から離れろ」

「────ッ!」

 

 サソリの指示にフウコは人形のような直線的な動きをしてしまう。顔を伏せながら、両の腕を強引に上下に振り、イタチの袖から手を離すと同時にイタチの手から離れた。

 濃い煙の中でも、微かに見えたのはフウコの背に接続されたチャクラ糸。それらがフウコの身体を引っ張り、煙の向こうへと誘った。

 

 手を伸ばす。

 

 だが。

 

 手は煙を掴むだけ。

 

 即座にフウコが消えていった方向へと直進する。手の感覚は失われ、膝が笑う。それでもイタチの速度は本来の速度に多少の陰りが見受けられる程度。イタチの写輪眼が煙の淀みを読み取り、進む。

 サソリに抱えられるフウコの姿。クナイを、フウコに当たらないように、精密な投擲をした。クナイが手から離れると同時に印を結ぼうとするが、察知する。写輪眼の予測が──煙の影響もあり、予測が確立されるのに時間や精度の誤差が生まれていたせいだが──ここで見せる。

 

「遅かったな。だが、いいタイミングだ──白」

 

 クナイがサソリの肩と両膝、そして頭部に刺さるが、それは分身体だった。

 水分身の術。

 術は解かれ、サソリとフウコは水に姿を戻すが、その中には人の頭部ほどの大きさをした球体が現れる。水分身の術に潜ませていたのは、先程の煙玉よりも一回りほどの大きさのものだ。

 咄嗟にイタチは火影の衣を脱いで自身の前に広げ──球体が破裂する。

 破裂と共に飛んできたのは薄く小さな……毒針だった。

 一つ目の煙玉に入れていた煙を濃縮した液体に漬けられていた千本の大半は、火影の衣に幾つかの穴を作り出し、イタチの両肩、脹脛へと突き刺さる。

 刺さりどころが、悪かったのである。下半身は筋肉が集中し、肩は関節だ。イタチの意識は前へ前へと急かすのに、身体は言うことを聞いてくれない。

 さらには周りの煙がイタチの身体を侵食していく。

 

 ──………フウコ……………。必ず、助けるからな。

 

 強く噛み締め奥歯が鳴るのを、イタチは耳障りに感じた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「よく俺たちの居場所が分かったな、白、再不斬」

 

 木ノ葉隠れの里から離れ、予め、再不斬たちと合流する地点へとサソリはいた。

 そこは、神社だったのだ。古い木造の神社は、辺りの深い森に紛れるように立っている。境内の真ん中にフウコを寝かせながら、横に立つ再不斬らを見た。

 応えたのは白だった。

 

「念の為、お二人の様子を見に来たのです。そしたら毒を撒いていたので、もしかしたら、と」

「俺たちの依頼主なんだ。勝手に死なれたらこっちが困るんだよ」

 

 腹立たしげに後を継いだ再不斬にサソリは笑ってみせた。

 

「随分と、手足としての自覚が出てきたな」

「そう思うなら、今度こそゆっくりさせてほしいもんだな」

「大した趣味もねえくせに」

「悪趣味なお前に比べればな」

「まあ、暫くは身を潜めねえとな。リーダーの奴にも、木ノ葉隠れの里に顔を出したってのには、十分な理解は貰えるだろうしな、お前らには暇を与えてやる。それより、ダンゾウの方はどうだった?」

「ほらよ」

 

 再不斬がズボンのポケットから取り出し、それを放り投げてくる。

 受け取ったのは小さな小瓶。中には、写輪眼が入っていた。しかし──。

 

「一つか」

 

 小瓶に入っていた写輪眼は一つだけだった。再不斬が不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「不服か?」

「いや、一つ貰ってきただけでも十分だ。ダンゾウは何か言ってたか?」

「これからもサポートは惜しまないとほざいてたぞ」

 

 鼻で笑い「古狸が」と嘯く。まあ、サポートをするという姿勢は一応は、確かにあるのだろう。今は、だが。

 ならば、裏切られるまで利用させてもらおう。

 

「その目玉は、その証拠だとよ」

「なるほど。素直に渡してくれるとは考えていなかったがな。とことん、俺の計画はズレるようだな」

「ハナからズレた計画だろうが」

「まあな。だが、今回の件でかなり修正が必要だ。うちはイタチに、フウコの真実がバレた」

「まさか……僕たちのせいで…………」

 

 白の言葉にサソリは「違う」と呟いた。

 

「大蛇丸が情報をバラしやがったんだ。遅かれ早かれ、こうなっていた。気にするな。大幅な修正が必要だが、頓挫ってほどじゃない。とりあえず、さっさとアジトに戻るぞ。白、術の準備をしておけ」

 

 言いながら、サソリは注射器を取り出す。太い鉄の針が境内の入り口から入り込む日差しを怪しく反射した。白は針から目線を逸し、印を結び始める。

 注射器の中には、強力な睡眠薬が入っている。

 

「やめ…………て………。サソリ…………」

 

 脱力しきっているフウコが虚ろな声を出した。

 

「もう……薬は………………やめて……。おねがい……。あそこに、イタチがいたの。きっと、サスケくんも、ナルトくんも、いる。イロリちゃんだって、いるの。私は、あそこに……」

「おい再不斬。一応抑えておけ。針が血管に入ると面倒だ」

 

 やれやれと再不斬はフウコに近づき、フウコの右腕を持ち上げ、膝に乗せるようにして固定した。ほんの少しでも体重を、掴んでいるフウコの手首に掛ければあっさりと腕が折れてしまいそうな程にフウコの身体には力が入っていない。サソリが声でフウコを縛り付けているからだろう。しかし、こんな状態のフウコにでも薬は必要なのだろうか。

 

「手首でもいい、血管を締め付けろ」

「おねがい……私は……………もう、苦しみたくない……………。どうして………どうして、私だけが……こんな目に……………」

「テメエが言ったんだろう」

 

 どんなに壊れても。

 どれほど壊れても。

 計画を続ける。

 それが、契約だった。最初から、こうなる自分を想定していたのだろう。サソリの耳には、今のフウコの言葉に価値を見出さない。

 

「グダグダ抜かすな」

「やだ…………やだぁ…………………助けてぇ………」

 

 注射器を刺し、濃度の高い睡眠薬を適量の速度で入れていく。

 ガクガクと指先が痙攣したが、やがてフウコの瞼はゆっくりと閉じ、眠りに落ちた。

 

「サソリさん。いつでもアジトに戻れます」

 

 白が弱々しい声で報告してくる。フウコの姿に何かしらの感情を抱いているのだろう。淡々とサソリは呟いた。

 

「さて、帰るか」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

さようならの前の夕焼けに

 投稿が大変遅れてしまい、申し訳ございません。次話は今月中に必ず投稿します。


 もう、どれくらい。

 

 どれくらいの時間を、牢の中で過ごしたのか。睡眠の回数だけは覚えているけれど、時間の感覚がぼんやりしているせいで、回数なんて当てにならない。起きて一刻ほどで寝ているのかもしれないし、一日過ぎてから寝ているのかもしれないからだ。

 

 寝ている。

 

 いや、その感覚は違うのかもしれない。

 

 寝覚めの殆どは疲れを伴っていた。身体よりも心が重かった。これを睡眠と呼ぶには、少々の強引さがあるだろう。少なくとも、うずまきナルトにとっては、牢の中での睡眠は疲労によるものだけではない。

 

 準備は(、、、)……整った(、、、)

 

 あとは、動くだけ。なのに、身体を動かそうとは思わない。

確かに疲れはある。碌に身体を動かさないまま牢にいるせいだろう。食事も、満足に食べてはいないものの、必要最低限には食べているつもりだ。実際、身体は簡単に動かせる。思い切り動けるという確信もある。

 

 ──ああ、やっぱり…………オレってば…………

 

 暗闇の牢。しかし、瞼を閉じると、光量は一切の変化を齎さないものの黒の思考には夜空が浮かぶ。

 夜空は昔から見上げてきた。

 フウコが傍に居た時も、居なくなってしまった時も、ずっと見上げてきた。

 瞼に映る夜空は、昔よりも遥かに星々を浮かべている。その星々は強い明滅を繰り返して、一瞬の強い明かりの中には、見知った人物たちの顔が浮かぶ。

 

 イルカ。

 カカシ。

 イロミ。

 ヒナタ。

 ヒルゼン。

 それに、他の同期の者たち。

 そしてサクラとサスケ。

 

 輝きは涙のように暖かく、大切にしたいと直感的に思ってしまう。錯覚でも何でも無い。きっと、自分の持っている繋がりが身体を動かす事の出来ない理由だ。

 

「よぉ、ナルト。元気にしておったか?」

 

 しわがれた声に、はっとナルトは瞼を開いた。壁に背中を預け、膝を抱えて座っていた為か、首の後ろ側と膝が凝り固まっている。もしかしたら、意識の半分が眠っていたのかもしれない。

 顔を上げると、いつの間にか牢の柵の外側は僅かな光を受けていた。誰かがランプでも点けたのだろう。その光を背に、自来也が腰に手を当ててキザな笑みを浮かべて立っていた。

 

「なんだ……エロ仙人か……………」

「何だとは何じゃ。お前の偉大な師匠じゃぞ? エロ仙人などと、ワシをバカにしおってからに」

「顔が腫れてるってばよ。どうせ……女湯を覗いてたのバレて、誰かに引っ叩かれたんじゃねえのか?」

「……変なところは鋭い奴じゃの」

 

 鋭いも何も、自来也の左頬には真っ赤な紅葉型の跡が付いているのが見える。彼に修行を付けて貰ってから日はそこまで長い程ではないが、女湯を覗く偏った習性を持っていることは知っていた。

 

 そして、彼が優しく、そして愉快な人物であることも。

 

 カカシやイルカ、ヒルゼンなど、年上の人と親しくなってきたけれど、自来也はどうしてか一番短い時間で親しくなることが出来た。それは、彼が最初から面白くおかしく接してきてくれたからかもしれない。

 実際に、彼の姿を見ただけで安心が生まれていた。

 自来也は腫れた左頬を指先でなぞりながらいると、彼は自嘲するような笑みを浮かべた。

 

「イタチの奴から、聞いておるぞ」

「何をだってばよ」

「牢から出ないと、言い張っておるようじゃの」

 

 フウコが木ノ葉隠れの里に姿を現してから、そしてその日の内に去ってから、イタチから話を聞いた。フウコの言葉と、そして、殆ど確信に近いレベルでの、うちは一族のクーデター。つまりは、大蛇丸の発言を裏付ける情報をイタチから聞いてから。

 ナルトは外に出る事を許されていた。

 それはイタチ個人の判断ではなく、木ノ葉隠れの里の上層部、そして火の国の大名から受けた正式なものであった。

 しかし、ナルトはその申し入れを断っていた。

 

「どうしてじゃ? 外に、出たくないのか?」

 

 と、自来也は穏やかに尋ねてきた。他意を感じさせない、フェアな声調だった。

 

「今なら、誰にもバレぬ良い場所を教えてやってもよいぞ?」

「エロ仙人から聞いても、信用できねえってばよ……なあ、エロ仙人…………」

「なんじゃ?」

「エロ仙人は……知り合いとか、友達だとか、そういうので……………、大切な人が、いなくなっちまったことって、あるか………?」

 

 自来也が、木ノ葉隠れの里に在籍していた頃の情報を僅かにでもナルトが知っていた訳ではない。ただ本当に、気になっただけである。

 どういう答えが返ってくるのか。

 自来也は腕を組んだかと思うと、静かに、牢を背にして柵に身体を預けた。まるで、顔を見られたくないようだった。

 

「……ああ、あるのう」

 

 微かに湿った声。陽の光が差し込まない牢だからこそ、偶々、そういう風に聞こえたのかもしれない。

 

「エロ仙人は、そん時、どうしたんだってばよ」

「どうして、それを聞く?」

「……………オレってば…………ずーっと考えてたんだ………。つっても……オレってば、そんなに頭良くねえし、答えなんて……………。どうすれば……色んな人に迷惑かけないで………全部、丸く収まるかって…………」

 

 大切な人が増えた。

 

 それは、嬉しく、誇らしく、何一つとして卑下するような部分なんて無い。

 

 でも、だからこそ、苦しくなってしまう。

 

 自分が今、考えている事を実行すれば…………それは、きっと──。

 

「昔の──」

 

 と、自来也は呟いた。

 

 何かを決心したような、静かな呟きだった。

 

「ワシは、そやつと喧嘩別れをしての。いや、喧嘩だと思っておったのは、ワシだけじゃったかもしれないがの。そやつは、随分と身勝手なヤツでの。基本的に、自分一人で勝手に動いて勝手に考えて、しかもワシを見下していつも不敵に笑っているような、嫌味なヤツでのう。心底ワシは、そやつが好かんかった」

 

 それでものう、

 

「不思議と、そやつがいなくなると知ると、無性に苦しかった。ふざけるなと、一人でそやつの下へ行き、止めようとしたのじゃ。結果は、まあ、ワシが喧嘩に負けて、そやつは勝手に遠くへ行きおった。最初から、そやつはワシの事なんか、心底、どうでも良いと思っておったのかもしれないのう」

 

 今にして思えば、と自来也は更に続けた。

 

「ワシが一人でそやつを止めようと考えたのが、間違いじゃったのかもしれんの。他にも、そやつを少なからず思っておった者もいたというのに、ワシは唯一人で、止めに行った。あるいは、たとえ一度は遠くへ行っても、時間を掛けてそやつに会っていれば、また違う結果があったかもしれん」

「……エロ仙人は、後悔してんのか?」

 

 一拍おいて、彼は頭を少しだけ振った。

 

「少なからず、の。正直なところ、分からん。じゃが、一つだけ言えることは……一人で動いても、良い結果が出る事は無い、ということじゃ。気分が一時的に落ち着いても、一人で動くのは良いことじゃない」

 

 自来也は振り向き、力強く親指を立てて自分の顔を示した。

 

「この油の乗ったイカした仙人が言うのじゃ。間違いないのう」

「……覗き魔がよく言うってばよ」

「うるさい。取材じゃ。大作家であるワシには取材がかかせないんでのう」

 

 何をキメ顔に言って見せているのか。おかしくて、ナルトは笑った。

 ああ、久々に笑った。どれくらい久しぶりだろう。気を抜いてしまえば、涙が出そうになる。

 

「気が向いたら、外に出てみよ。こんなカビ臭い所におっても、気が滅入るばかりじゃ。今日は散歩をするのに良い天気だしのう。お前には、いくらでも時間はある。ゆっくり考えるんじゃ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 牢へと続く階段を逆方向に進みながら──つまり、ナルトと話し、別れた後である──鼻から溢れそうになる溜息を押し留めていた。

 

 ──危ういのう……。

 

 ナルトが、うちはフウコに対して強い思いを持っているのは、イタチから聞かされて知っている。そして、フウコが木ノ葉隠れの里に姿を現したことも、つい先日に聞かされ、更にその事をナルトに伝えているということも。

 故に不安になって、ナルトの下へと顔を出した。

 まだナルトは年相応の幼さがある。そのため、これまでは、木ノ葉隠れの里に被害を与えてしまった事へのショックなどから、心を落ち着かせる時間の為に敢えて顔を合わせないようにしていたが、流石に今回のフウコの登場には顔を出さずにはいられなかった。

 

 そして、嫌な予感が当たってしまった。

 

 ナルトは、フウコを追いかけようとしている。

 一度はイタチに問い詰めた。フウコの事を伝えてどうするつもりだと。

 

「いずれ……フウコの事はナルトくんの耳に入ります。それほどまでに、彼はフウコを想っています。たとえ今、隠し通せても、彼は自分の力で真実を知る事でしょう。なら、隠さず伝える他ありません」

 

 イタチの言葉は、正しいのだろう。フウコが使っていたとされている螺旋丸を使い続けて来たナルトである。成長し、力を付けていけば、やがて自力でフウコの下へ辿り着き、多くを知ることになるだろう。

 

 だが、まだ幼いナルトには伝えるべきではない、とも自来也は言った。

 

 子供は先を急いでしまう。年老いた者から見れば、子供には可能性も時間も多くあるように見えるのに、子供は自分の未来がとてつもなく短いものだと錯覚してしまうのだ。いや、だからこそ、子供の成長速度というのは凄まじいものを秘めているのだろう。

 

 ナルトは、木ノ葉隠れの里の外に出ていく可能性がある、ともイタチに伝えると、

 

「それは……俺も考えてはいます。本当なら、ナルトくんには、木ノ葉隠れの里に残ってほしいとも思っています。けれど、彼はやはり、特別です。良くも、悪くもです。そして俺の立場では、きっと彼に正しい言葉を伝える事は出来ないでしょう。フウコが里を出て行った要因の一つが、俺かもしれませんから」

 

 イタチは続けた。

 

「ナルトくんには、既に外に出ても良い、という正式な通達が出ています。しかし、彼は外に出ようとしません。本当なら、外に出て、彼と親しい方々と接して、多くを考えてほしいと思っています。それでも、もしも……ナルトくんが外に出てしまった時には──」

「イタチくん」

 

 言葉の続きを聞くことは、叶わなかった。

 通路を歩いていた二人の前に姿を現したイロミが彼の言葉を遮ったからだ。

 ナルトと同じように牢に繋がれていたはずの彼女は、黒いロングコートに身を包んで、幽霊のように佇んでいた。特徴的な白い前髪の下には、目元を隠す長い包帯が巻かれている。

 ナルトが外に出る事の自由は保証されているが、彼女はどうなのだろうかと、自来也はふと思った。その時にイタチと話していたのは、火影の執務室の直ぐ側だった。

 

「少し、話があるんだけど、いいかな?」

「……ああ。分かった。先に執務室で待っていてくれ」

「うん。ごめんね、忙しい時に。自来也様も、すみません。じゃあ、先に行ってるね」

 

 イロミは通路を進んでいくのを見送ったイタチは、小さな溜息を吐いた。

 

「……ナルトくんがもしも、里の外に出てしまった場合の保険は、一応は考えています。ですが、尽くせる最善は尽くしたい」

 

 保険。イタチが語るそれに、自来也は一応の信頼を示した。と同時に、その保険が必要だという可能性をイタチが示唆しているとも言え、そしてそれが今日、ナルトと対話をしてみて明確になった。

 ナルトが外に出ていく可能性は、ある。

 まだその決心が、出来上がっていないのは確かだ。ナルトがこちらに尋ねてきたのがその証左。

 かと言って……こちらの言葉を素直に聞くとは、思えない。それは、大蛇丸を追いかけた当時の自分が、そうだったから。大蛇丸が里を抜けた後、周りからは、どれほど説得しても意味が無いと言われた。それでも、追いかけた自分と、今のナルトはおそらく同じだ。

 

「ミナトよ……、お前なら、ナルトの奴にどんな言葉をかけるかのう」

 

 今は亡き弟子に問うても、当然、答えは返ってこない。

 師を失い、弟子を失い……そして、弟子の子をも、遠くへ行かせてしまうのか。

 それだけはしたくなかった。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

「なあ……兄さん」

「どうした? サスケ」

 

 うちはサスケは、前を歩くイタチの背中を見上げた。

 火影の衣に身を包み、悠々と歩く彼に投げかけようとしている言葉は、どこかチグハグなように思えたけど、サスケは躊躇いなく投げかけた。

 

「身体……大丈夫なのかよ」

「お前が気にすることじゃない……と、言いたいところだが、そうだな、心配を掛けてしまったな。だけど、問題ない。シズネさんと綱手様から、しっかりと診断してもらって、まだ安全なラインである事は保証してもらっている。いよいよとなったら、治療に専念する。安心してほしい」

 

 時間は、フウコが木ノ葉隠れの里に姿を現し、その日の内に去っていた、その後に遡る。三日後だった。イタチとサスケは、イロミが繋がれている牢へと足を運んでいた。

 

 どうして三日の時間が必要だったのか、というと、それはイタチ自身に要因がある。

 

 フウコとの戦闘。影分身の術の使用や他の術を使ったものの、大きな戦闘のダメージは無かった。しかし、精神的な負荷が大きかったのである。そのために、戦闘が終わってから、イタチの体調は僅かに傾いた。

シズネを通じて、綱手がイタチの診断を慎重に行ったのである。本当ならば、今すぐにでも治療に専念してもらいたいと、シズネからは再三にイタチに言っていたのを、サスケは診療室のドアの隙間から聞いていた。

 

 以前に、シズネからイタチの体調が芳しくない事は聞いていた。しかしイタチの様態が、いずれ命を危険に晒す前段階にあったというのは、かなりショッキングな話だった。一時は、フウコの話が頭の中から消えるほど。

 

 それでも、イタチは「まだやらなければいけないことがあるので」と語り、簡単な点滴と軽い薬で済ませ、後は容態に大きな変化が見られないか安静にしていた。

 

 それが終わってすぐに、イロミの下へと足を運ぶのには、彼女に、フウコの話をしなければいけないからだ、とイタチが言ったからである。イロミにフウコの話を伝え、そして今後自分たちがどのように動くべきかを話し合うまで本来、サスケとフウコについて話し合うつもりは無かったらしい。

 

 一人で考えてみてほしい。フウコが姿を消してから、真っ先に言われた言葉がそれだったのだ。だが、一人で考えても、感情も思考も何一つ纏まらない事はすぐに分かった。

 

 だから、ふざけるなと、イタチに言ったのだ。

 

 父と母を殺したフウコへの憎しみや、とても幼い頃に持っていたフウコへの思いや、弱々しく助けを求めていたフウコの脆弱さや、自分が確信していたあらゆるものが揺らぎ傾く感覚や……ナルトがフウコを信じていたことや。

 

 色んなものが混ざって、壊れて、あるいは新しい形を作ろうとして、けれどすぐに崩れて。

 

 そんな、形容し難い感覚への苛立ちを、半ば八つ当たりのようにイタチへ言葉としてぶつけてしまったのだ。イタチは穏やかに、こう返してきたのだ。

 

「なら、イロミちゃんと一緒に、考えよう」

 

 そして二人は一緒に、イロミの下へと赴いたのだ。

 歩きながら、サスケは小さな寒気を足元から感じていた。三日の時間があったおかげか、イタチにぶつけてしまった苛立ちは波を引いている。冷静さは担保されていた。その代わりなのか、感情は別のものに対して敏感になっているのかもしれない。

 

 歩く通路は暗く、湿度が高い。まるで、同じ木ノ葉隠れの里の敷地内にいるとは思えない不気味さが通路にはあった。かつて使われていた施設を使っている、とイタチは語っていた。ここに、イロミが収容されているというのは、思うところはある。

 

 大蛇丸が里に来てから、殆ど彼女と会話をしていない。

 

 昔から、何かと顔を出してきてはくだらない事を言ってくる面倒な奴だった。だが、今イロミの下へ歩きながら、ふと、彼女とどんな風に会話をしていたのかを考えてしまう。

 

 いや。

 

 大蛇丸が里に来る以前からも、まともに彼女と会話をしたことは無かったかもしれない。

 ただ怒りと憎しみだけを、彼女にぶつけていた。

 うちは一族でも無い癖にただ一心にフウコを信じると言ってのける彼女に、何様のつもりなのかと。

 だが、もしかしたらイロミが正しかったのかもしれない。

 そう思うと──。

 

「サスケ、お前こそ、大丈夫なのか?」

 

 唐突にイタチが語りかけてきた。

 

「何がだよ」

「……俺もな、最初は…………訳が分からなかったんだ」

「え?」

「フウコが里を出て行った後……ずっと考えていた。父や母を殺され、一族を滅ぼされて、腸が煮え滾るくらいにな、憎しみが止まらなかった。なのに、フウコの事を信じたいという考えもあった。考えが纏まらなくて、頭の中がグチャグチャになった。だからな……無理はしないでほしい」

「……無理はしていない」

「そうか」

 

 通路を進んでいくと、やがて分厚い鉄扉に突き当たった。その目の前でイタチは立ち止まる。ここが、イロミの牢屋なのだろうか。

 

「……イタチくん? あとは……………えーっと、サスケくん……かな? この匂いは」

 くぐもった声が鉄扉から飛んできた。懐かしいような、イロミの声だった。湿った不気味な通路であっても、彼女らしいどこか明るい、あるいは間抜けな声である。

「久しぶりだね、サスケくん。元気にしてた?」

「お前に心配されることじゃねえよ」

「あー……イタチくんの料理は美味しくないもんね。うん、気持ちは分かるよ。不機嫌になっちゃうよね。私が前々からレシピを書いておけば──」

 

 ああ、とサスケは思い出す。

 こんな面倒な会話だった。彼女との会話は。

 苛立ちのような、楽しいような感覚が首筋を痒くする。イロミが一人で「だけど、イタチくんでも美味しく作れるレシピを書くのはちょっと……」などと呟き続けている。そんな彼女にイタチは呼び掛けた。

 

「イロミちゃん」

「ああでも……うーん、美味しい卵かけご飯くらいなら、ああでも、それって料理と呼ぶにはちょっとなあ。だったら味噌ラーメン作ったほうが良いと思うし」

「……イロミちゃん?」

「そもそも、うん。イタチくんに真面目に料理を教えておけば良かったんだね。私の責任だね。ごめんね。それでもイタチくんは忙しいし。だからね……」

「イロミちゃん。ちょっと待ってくれ。ストップだ」

「え? ああ、ごめんね。何?」

「フウコに──会ってきた」

 

 鉄扉の向こうでイロミは静かになったが、驚いた様子もなく言葉が返ってきた。

 

「フウコちゃん、元気そうだった?」

「……大蛇丸が言っていたように、少し、不安定だった」

「そう………なんだ……………。うん、フウコちゃんは、いつも、一人で頑張っちゃうからね。無理をしてでも、全部一人で、終わらせようとしちゃうからね」

「フウコの事について話がしたい。中に、入ってもいいかな?」

「いいの? 色々と、問題とか……」

「牢の外に出すわけじゃないんだ。問題は無い」

「……ちょっとだけ、待ってて。中の掃除とか、したいし。あ、後、扉はこっちで開けるね。火影のイタチくんが開けるのは、色々と問題だと思うから」

「イロミちゃんが開けていいのか?」

「外に出るわけじゃないから」

 

 サスケは一度、通路を振り返る。この場には自分たち以外には誰もいない。わざわざ形式を重んじる理由が分からなかったが、もしかしたら何かしらの忍術が施されているのかもしれない。

 鉄扉の向こう側から静かな物音が聞こえてくる。そして静まり返ると、鉄扉が重々しく内側から開いた。

 

「入っていいよ。色々と片付けたけど、臭いが酷いから。お風呂も入れないからね。それでも良いなら」

 

 中に入る。室内は通路よりも暗く、広さが分からない。鉄扉の前には、椅子に拘束されていたイロミの姿があった。

 身体を拘束衣で縛られ、その上から忍術を発動させる封印術の印字が記された包帯が多く巻き付けられている。それは彼女の頭部や首も含めてだ。彼女の身体は一切見えず、髪の毛すら見受けられない。さらには、その上から何十本もの針が刺されている。おそらく、点穴を突いたものだ。

 室内には腐臭や、汚れが溜まった臭いが漂っていたが、イロミの姿を前にしては気にすらならない。人の身体がここまで無機物的になってしまうのは、死体を見るよりも気分が重くなってしまう。

 

「ごめんね。こんな姿で。解こうと思えば解けるけど、流石にこれを解くわけには……。それに、私一人でこれを着直すのは面倒だから」

「気にはしない。むしろ、まだ君の拘束が解かれないのを申し訳なく思ってる」

「いくら火影でも、鶴の一声って言うわけには、いかないよ。イタチくんのせいじゃないから。サスケくんも……ごめんね。私が、色々と、迷惑かけて。怖い思いも……させちゃったかな」

「…………テメエ程度にビビるわけ……ねえだろ」

 

 あはは、とイロミは笑った。包帯で隠された彼女の表情は当然ながら見えず、口元を隠している包帯が僅かに上下するだけだった。けれど、その上下はすぐに止み、静かな声でイタチに尋ねた。

 

「フウコちゃんは、なんて言ってたの?」

 まるで友達からの葉書の内容を確かめるような気軽さだった。どうして彼女は、フウコが来たことに対して、冷静でいられるのか。

「助けてほしい、と。それと、やはりうちは一族がクーデターを起こそうとしていたのを止めたことを言っていた」

「……そっか。フウコちゃん、そんなに追い詰められてるんだ」

「フウコと共に来ていたのは、赤砂のサソリだった。カカシさんたちからも証言を貰っている。どうだろう? 大蛇丸の記憶には、それがあったか?」

「うん。あった。全部じゃないけど、そういう名前の人がフウコちゃんの傍にいるのは分かる」

「どうやら、サソリがフウコを無理矢理に動かしているようだった。どういう目的で木ノ葉に姿を見せたのかは、まだ分からないが………」

「そうなんだ……でも、これで、間違いないね。うちは一族は──」

「クーデターを起こそうとしていた」

 

 サスケは、怒りを沸き上がらせた。

 父と母の死が、脳裏を過ったからだ。

 だけど……だけど……。

 フウコの助けを求める声が耳から離れない。

 そして、イタチから聞いたうちは一族の立場や心情が、心に楔を打ち込んだ。

 だからこそ、サスケの声は中途半端に震えたものとなってしまった。

 

「どうして…………そんな簡単に信じられるんだよ……………」

「……サスケくん」

「お前は、フウコに殺されかけただろう………。兄さんは、父さんも母さんも殺されただろう……。なのに、どうしてそんな馬鹿みたいに、信じられるんだよ………」

 

 まるで、答えを求めるように。

 一人では答えを出せない子供のように。

 すると。

 イロミは笑ったのだ。

 

「あはは。馬鹿みたい……か。うん、そうかも。もう、確かな事なんて、殆ど無いもんね。証拠とか、そういうの、無いし。もしかしたら、フウコちゃんがまた、嘘を言ってるのかもしれないもんね。それか、うん……イタチくんが嘘を言っているのかもしれない可能性だって、完全にゼロじゃないもんね」

「だったら──」

「でも……だから、信じるんだよ」

 

 イロミは続けた。

 

「私は、フウコちゃんも、イタチくんも、信じるって決めたの。いちいち証拠とか、そういうの探してたら、キリが無いから。それだけ。馬鹿みたいでしょ? それだけのことで……でも、うん、難しいよね。信じるのって。私、最近知ったよ。相手を信じるって、相手を信じないっていうくらいに、すんごい自分中心に考えないといけないんだって。だから、私は自分勝手に決めてるの。フウコちゃんは私の友達だから、私は信じるって」

「俺も同じ考えだ、サスケ」

 

 イタチが引き継ぐように言った。

 

「俺は……まだ当時の記憶を思い出せてはいない。それに、父や母を殺された怒りも、完全に消えているのかと言われれば、そうとは言えないかもしれない。それでも、最後の最後まで、フウコを信じると決めただけだ。お前がどうするかは、お前が決めるんだ」

 

 決める。

 誰を、何を、信じるか。

 木ノ葉隠れの里を。

 うちは一族を。

 父を母を。

 兄を。

 姉を。

 姉の友達を。

 ナルトを。

 自分の記憶たちを。でんでん太鼓の音が聞こえてくるような気がした。自分と同じくらいか、それよりも幼い姉の姿が。

 

【大丈夫だよ? 私がいるから。どんな怖いことも、辛いことも、私が守ってみせるから。だから、泣かないで? サスケくん、でんでん太鼓、好きだよね? ほら。使ってみる?】

 

 そんな彼女の声は、けれど幾つもの、自分の繋がりが星々のように明滅して呑み込まれ、そして──光に微かな重心が生まれる。

 

「俺は、木ノ葉を──」

 

 

 

 サスケの決意を聞いたイロミは、そして、淡々と呟いたのだ。

 

「ねえイタチくん。私の我儘を、聞いてくれる? 私ね──木ノ葉隠れの里を、抜けようと思うの」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

望む別れ

 その日(、、、)は、何かしらの事柄が暗黙の内に潜むような、特別な日ではなかった。個人的な規模としては別かもしれないが、木ノ葉隠れの里という集団においては、実に、素朴であると殆どの者が予見していた日であったことに間違いはない。

 

 静かで白い空が広がる早朝から、青の昼を下り、オレンジとピンクが彩る光の絵を瞬いて描く夕暮れを経て、夜の密かな輝きまで。平凡とした、些細な贅沢な日だと、無意識に思っていた。いや、もはや思うなんてレベルですらないかもしれない。つまりは、単なる日常がそこにはあった。

 

 多くの物事が、おおよそは平均値の周辺に行き着く日常ではあるけれど、やはり、個人の規模としては、大きな幸福、大きな不幸を獲得してしまうことも侭あるものだ。

 

 日向ヒナタにとって、その日の、その時(、、、)──まだ、朝日も姿を見せていない、灰色な薄暗い早朝だった。

 

 道を歩いていた。

 

 電灯は消えている。空には、少しだけ、分厚い雲が。小鳥の慎ましい囀りに耳を傾けながら、ヒナタはポツポツとした足取りだった。他には、人影は見当たらない。

 修行の帰り、というわけではない。今日は朝からチームで訓練がある。修行をして体力を使って、いざ訓練についていけなかったら元も子もないからだ。そもそも、最近では、修行を家の外で行わなくなっていた。

 

 それは、日向ネジが関わっている。

 

 中忍選抜試験が終わってからだ。ネジの様子が、ほんの少しだけ、変わったのである。態度や雰囲気はきっとそのままではあるものの、修行をしている時に何度か声を掛けてもらった。そして、苛立ち気味の指摘を受ける、というのが最も多いパターンだった。時には、実戦形式を取る事もあった。

 指摘は鋭く、実戦形式のものは厳しさがあった。

 それでも戦闘での考え方が変わりつつあるのが実感できた。ネジからは、苛立ちはあっても中忍選抜試験の時のような殺意にも近い感情は読み取れない。だからなのか、ほんの少しだけではあるが、彼との距離が縮まったような気がしたのである。

 

 そして、同じ日向の者との、半ば修行のような事が出来たのが嬉しかった。

 

 どうして、ネジがそういう態度を示すようになったのかは分からないけれど、もしかしたら。

 

 もしかしたら、中忍選抜試験で、自分が勇気を示す事が出来たからなのかもしれない。

 

 大好きで、尊敬しているナルトのように。

 

 だからこそ、心配の種が解消されない胸中は重くなっていったのだ。

 

 何日も、幾週間も、ナルトを見かけていない。

 

 彼とは毎日のように顔を合わせるような間柄ではない事は自覚している。それでも、日常生活を送っていれば週に一度くらいには、少なくとも見かけるくらいはしたというのに。

 

 早朝に外を歩くのは、そういった感情が起因していた。

 

 確証は、ない。

 

 ただ、昼間では見かけないから。夜では、探すのは大変で。早朝ならば、と考えただけで、後は感情任せに歩き回ってた。かれこれ繰り返して、十日は経っただろう。

 今日もナルトを見かける事のない日が来てしまうのだろうか。

 

 ──今日も、ナルトくん……いないな……………。いつまで、今日みたいな日が続いちゃうんだろう…………。

 

 日常の一部になってしまいそうな、静かな変化がやってくる恐怖が、早朝の寒さを超えて背筋を冷たくしていた。

 だけど、その日のヒナタには小さな幸運が──あるいは、大きな不幸が、起きてしまったのだ。

 

「……………え? あれって……」

 

 もうそろそろ家に帰らなければ、もしも父が起床していた時に叱られてしまう。そう思い、後ろ髪を引かれながらも踵を返そうとした時だった。

 道の向こう側に、黄色い髪を携えた少年が見えたような気がして、咄嗟に、振り返ろうとした顔を向き直す。

 

 やはり、間違いない。

 

 ──ナルトくん……!

 

 心臓の高鳴りに足が駆け出した。

 

 ジャリジャリと地面を蹴る慌ただしい足音は静かな軒下たちを跳ねて、反響する。鼓動と相まって、耳の奥が痛いくらいだ。

 ナルトに近付き、そしてナルトもヒナタの音に気がついて、振り向いた。

 

 互いの目が合う。

 

 ちょうどヒナタがナルトの前にやってきた。

 

 大した距離を走っていないというのに、ヒナタの息は十分に上がってしまっていた。それでも、顔を上げて、驚いた様子のナルトを見た。

 

 ああ、間違いないと、ヒナタは思う。

 彼だ、と。

 青い瞳に赤毛混じりの黄色い髪。青とオレンジのジャケット。

 

「え、ヒナタか……?」

 

 そして、鼓膜を震わせる彼の声を聞き間違えるなんて事は、ヒナタにはありえない。

 

「ど、どうしたんだってばよ、そんな慌てて。というか、こんな朝早くに何してんだ?」

「え? えーっと……それは…………」

 

 ようやくナルトを見かけて安心するが、そこで言葉を詰まらせてしまう。言うなれば、ヒナタの素の部分が現れてしまったのだ。

 視線を下に向けて、両手を胸の前に構えてしまう。ナルトを見つけたのは良いけど、何を話せばいいものか。まさか、ナルトを探していたなどとは、ヒナタには口が裂けて天地がひっくり返っても言えるものではなかった。

 不思議と、鼓動が走った時よりもテンポが早くなって、顔が赤くなってしまう。

 どうしよう、どうしようと、心の中で右往左往としてしまっていると、ナルトが柔らかい息を吐いた。

 

「久しぶりだな! ヒナタ。元気にしてたか?」

「う、うん……………」

 

 ただ頷くことしかできない。

 

 本当なら、色んな事を聞きたい。

 

 大蛇丸の企ての時は無事だったのか。

 

 今まで姿が見えなかったけれど、大丈夫だったのか。

 

 聞きたいことが山のように頭の中で山積みになって喉の奥までせり上がっているのに、ナルトの言葉に辿々しく答えるだけで、嬉しくて、満足している自分がいる。

 

「里がメチャクチャになった後に、キバやシノ、他の奴らも無事だって聞いていたけど、やっぱ心配でよ。どうなんだ?」

「えっと……みんな、元気にしてるよ?」

 

 聞いたというのは、誰から?

 

「そっか。そいつは良かったってばよ。毎日、不安でさ」

「大丈夫……だよ。みんな、元気にしてるよ」

 

 毎日というのは、どこで過ごしたの?

 

「でもま、元気そうにしてるってんなら、安心だってばよ」

 

 どうして、どうして。

 どうして……そんな、辛そうな笑顔を浮かべるの?

 ナルトと会話ができて嬉しいのに、満足しているはずなのに、心の中で勝手に浮かび上がっていく疑問たち。言葉は喉の奥で、不本意な渇きと一緒に堰き止められてしまう。

 尋ねてしまえば、まるで彼がどこか遠くへ行ってしまうような気がしたからだ。

 いつの間にか、静かな恐怖が背後に。

 ヒナタは何気ない言葉で、彼を繋ぎ止めるように呟いた。

 

「ナルトくんは……これから…………修行、するの?」

 

 一拍。

 ナルトは答えなかった。

 そして、彼は彼らしく、両手を頭の後ろで組んでみせた。

 

「まあ、そんなとこだってばよ」

「じゃ、じゃあ……その、私も一緒に…………」

 

 その言葉は、普段のヒナタが呟いたものではなかった。

 引っ込み思案で、周りを気にしてきたヒナタが意図せずして培ってきた観察力が、警鐘を強く鳴らして零させた発言だったのだ。勇気でも、何でも無い、半ば懇願にも近い弱々しい言葉だった。

 自分の言葉の弱さを自覚してか、ヒナタは言葉を繋げた。

 

「最近、ネジ兄さんが修行を付けてくれるの……。修行って思ってるのは、私だけかもしれないけど………でも、強くなってるって、気がして……。ナルトくんに見てもらいたいんだ…………」

「ヒナタはもうすげえってばよ。キバにも勝ったし、あのいけ好かねえネジのヤローには根性見せたし。俺が見るまでもねえってばよ」

「でも……」

「それに」

 

 と、ナルトは呟き、どうしてかこちらに背を向けて、もう間もなくの距離で潜ろうかという里の正門の向こう側を見上げた。そこに何かがあるように。

 

「俺ってば、今から行かねえといけねえんだ。だから、ちょっと、無理だってばよ」

 

 どうしてだろう。

 どうしてだろう。

 ナルトは木ノ葉隠れの里の忍なのに。

 彼が遠くへ行くなんて、きっと、誰も考えないようなことなのに。

 振り返り浮かべる笑顔が、薄雲に見えかける太陽の日差しのようで、そこに光があるのによく目に見えないような、悲しい透明さがあった。

 ポン、と軽く頭を叩かれた。

 

「じゃあな、ヒナタ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 最後にヒナタと出会ってしまったことは、ナルトにとっては幸運なのか不運なのかは、分からない。

本当なら、誰にも見つからずに、静かに里を出ていくつもりだった。その為、ヒナタに出会ってしまった時には心の底から驚いた。人気の無い早朝を選んで外に出たというのに。

 

 いや、けれど、それでも。

 

 ほんの少しだけ、気分が落ち着いた。

 

 牢の中で、それなりの期間を一人で過ごしていたせいかもしれない。

 

 ずっと鬱蒼とした、湿った森の中を延々と歩き続けるように、頭の中で物事を考えていたせいだ。喋ることも無く、静かな牢の中は、考える事を強迫的に推し進められてしまう。だから、同世代で顔を知っているヒナタとの短い会話は、本当に、何も考えないで真っ白な自分を表に出すことが出来た。

 

 言うなれば、ガス抜きにも近い感覚。

 

 それと同時に名残惜しさと、僅かな不安が胸に掬った。

 

 自分の行おうとしている事が正しい事なのか。

 

 多くのものを遠ざけてまでするべき事なのか。

 

 自来也の言うように、誰かと相談すべきだったのではないか。

 

 ──イルカ先生に、こっぴどく怒られるかもしれねえなあ………。カカシ先生にも…………。

 

 里の外に一人、静かに出る。木ノ葉隠れの里の外はまだ静かなままの森が広がっていた。人の出入りは皆無。ヒナタと話すことが出来ていた自分を引きずりながら、ふと、イルカやカカシ、サクラの姿、そしてサスケの事を思い出す。

 

 ──サクラちゃんも怒るだろうなぁ。意外とサクラちゃんって、怒ると手が出るのがはえんだよな。

 

 もしかしたら、自分が姿を消してもカカシやサクラは何のアクションも起こさないのでは、という悲観的な考えをナルトは持たない。ナルトは正しく人を見る目を獲得し、そして不当に彼らを貶めるような考え方を持つ事は彼らに対して失礼だと、誠実な考えを持っている。

 

 カカシが本気で、しかし真っ直ぐに叱ってくれている視線。

 サクラが両手に拳を作って、立派な額に青筋を立てている姿。

 

 それらが、もう昔のように懐かしく感じてしまい、クスリと笑った。

 

 そして、サスケ。

 

 ──アイツは、どう思うかな……。

 

 苛立つだろうか、呆れるだろうか。彼なら、どちらでも考えられる。いや、もしかしたら、サクラと同じように怒りながら、そして連れ戻しに来るかもしれない。

 

 それは、大蛇丸の木ノ葉崩しの事が起因している。

 

 ノイズの破片のように残っている、記憶の片鱗。九尾に呑み込まれてしまった自分に立ち向かっているサスケの顔があった。ナルトにとって、その記憶は意外性を持っていた。

 

 サスケはずっと、自分を嫌っていた。

 

 理由は明らかで、フウコの事を信じているからだ。逆に自分は、フウコを殺すと宣ってみせる彼の事が嫌いだった。

 

 けれど。

 

 自分がサスケを嫌っていたのは、半分は、羨ましさが含まれていたのだと、牢の中で考えたのだ。

 自分は深夜にしか、フウコに会えなかった。だけど、サスケは彼女の家族で。だから、毎日いつだって会うことが出来る。子供らしい、些末で素朴な嫉妬だ。

 おまけにサスケはアカデミーでは人気者で、成績が良かった。

 悔しさも相まって、さらには、フウコに自慢できるように、彼をライバルだと心の中で密かに決めつけた。決めつけて、けれど、フウコが木ノ葉隠れの里から離れてしまって、サスケがフウコを殺すと言って……。

 

 ──サスケの野郎とは、話しても良かったかもな……。

 

 イタチから、フウコがどうして木ノ葉隠れの里を抜けたのかを教えられた。木ノ葉崩しの時に大蛇丸から聞かされた事、そしてヒルゼンが肯定した事と大きな違いはなかった。きっと、サスケも知らされたはずだ。

 別段、意趣返しのような事は考えていない。

 どういう風に考えているのか、それが聞きたいだけだ。

 もしかしたら……サスケと──。

 

「…………俺ってば、もう木ノ葉に戻るつもりはねえってばよ」

 

 ナルトはピタリと足を止めて、そして考えをも止めた。

 

 道の両脇に茂る木々の隙間に潜む殺気を、ナルトは拾い上げた。朝の冷えた空気に淀み無く紛れる殺気は、容易に察知できる雑なものではない。

 

 はったりか、と木々に潜む者たちはナルトの様子を見定めようとするが、彼の目が迷いなく彼らを見据えたのだ。

 

 赤い瞳。

 

 それらを見た彼らは、姿は現さないものの、警戒を強くした。

 

「もし黙って見逃してくれるってんなら、あんたらをどうこうするつもりはねえ。あんたらが、フウコの姉ちゃんに関わってねえってんなら、傷つけたくねえ」

 

 風が吹く。

 

 早朝の清々しい風のはずが、木々の葉をざわめかせる風は重苦しい。

 

 そして──ナルトは溜息を零した。

 

 苛立たしげに。

 悲しげに。

 もう、後戻りはできない。

 いや、後戻りはしない。

 自分にはやらなくてはいけない事があるんだ。

 木ノ葉隠れの里を再興する為に。

 大切な人たちを傷つけないまま、フウコが帰ってこれる、木ノ葉隠れの里を作るために。

 邪魔な連中だけを、取り除くために。

 力を手に入れるために。

 

「だったら……容赦しねえぞ」

 

 意識が深く沈んでいく。

 九尾が封印されている檻が目の前に。しかし、ナルトが手を差し伸べたのは──対面して座する巨大なチャクラの塊。それに意識のナルトは手を伸ばす。

 

 決意した眼差しで、チャクラに触れた。

 

 不思議な気持ちだった。

 

 牢の中で、このチャクラの扱いを細かく修行してきた。だけど今だけは、どうしてか、僅かな温かさが背中を押しているような気がした。

 

 背中は任せろと、誰かの声が聞こえたような気がしたのだ。ナルトの後ろには、九尾が嗤っている。

 

 チャクラに触れ、肉体に発現する。

 

 感情に色があるならば。

 

 ナルトの感情は、漆黒だった。

 

 喜びも悲しみも、辛さも優しさも。

 大切な人たちへの七色の感情も、大切な人を追いやった者たちへの緋色の感情も。

 全てが重なり凝縮された、完全な黒。そこに、僅かに入り込む、木々に潜む者らへの怒気を示す朱色がチャクラとなって漏れ出し、ナルトを覆った。

 朱が縁取る黒いチャクラ。それはさながら、ナルトの衣服を纏うようにして発現される。

 木々の者たちは──【根】の者たちは瞬間に警戒から臨戦態勢に意識を切り替えていた。どのような事態に発展しても対応できるように。

 

 ナルトが消える。

 

 瞬きすら、許していないのに。

 

 そして一人の【根】の者は、背筋に感じ取ったのだ。

 

 振り返る。

 

「殺しはしねえから、安心しろってばよ」

 

 その者は錯覚した。

 

 巨大な九尾の顎が口を開いている姿を。

 

 

 

★ ★ ★

 

 

 

「自来也様と何を話してたの?」

「ナルトくんの事について、少し」

「……やっぱりナルトくん…………フウコちゃんを追いかけようとしてる?」

「全ては分からない。だが……彼が木ノ葉に抱いている不信感は、誰よりも強い。九尾が封印されている人柱力としての立場も今まであった」

「自来也様なら、ナルトくんを引き止めてくれるかもってこと?」

「そうなってほしい、とは思っている」

「もしもだけど……ナルトくんが、私みたいに木ノ葉を出ていくってなったら、どうするの?」

「君と同じだ。話し合う、最悪で喧嘩をする。それだけだな。里を抜ける事自体は、大きな問題じゃない。自来也様のように、里から抜けても罰さない例もある」

 

 自分で言いながらも、その事例がかなり極端なものであることは自覚している。ナルトは人柱力だ。内外ともに、個人の意思による自由で木ノ葉隠れの里を出入り出来てしまうほど、最悪を想定した際の影響力は無視できない。

 

 もしもそれが可能だったとしても、その環境を整えるのには大いに時間が必要だ。木ノ葉隠れの里の尽力では足りない。ナルト自身が、他里にまで信頼されるほどの関係を築かなければならない。

 

 長い、長い時間だ。

 

 そして、その時間が経過する頃には、フウコはどうなっているのか。

 

 何事も時間というのは足りないもので、選択肢は限られているのに迫ってくる。それは、ナルトにとっても、自分にとってもだ。

 

 イタチは火影の執務室の窓から月を見上げていた。自来也と通路で対話したその日の夜である。彼の背後には、イロミが。彼女は自由にも、現火影であるイタチのデスクに腰掛けていた。彼女は逆に、イタチに背を向けている。二人の間には、火影の笠が、窓から差し込んでくる淡い月明かりを浴びて沈黙を保っていた。

 

「本当に……里を出ていくのか?」

 

 イタチは尋ねた。

 うん、とイロミは淡々と答える。

 

「言っておくけど、自暴自棄になったって訳じゃないからね?」

「自暴自棄になっていたら今度は俺から喧嘩を申し込むよ」

「全部、フウコちゃんの為……じゃないね、皆の為に私は出ていくの。あの時、シスイくんやイタチくん、私、フウコちゃんの四人が一緒にいた、あの日の為なの。イタチくんが火影になったのと、理由は同じだよ。君が火影になったのって、フウコちゃんの為でしょ?」

「……君とナルトくんを助ける為でもあったんだけどな」

「そういう言い方は、少しズルいかな」

「友達として、里の外に行ってほしくないと言っているだけだ」

「自来也様のような事例があるよね?」

「……そういう冗談は、好きじゃない」

 

 イロミは情状酌量の余地によって、牢から出る事を許可されている。勿論、未だ非公式であり、本来彼女が正式に外へ出られるのは、まだ少し先のことである。つまり、今彼女が牢を出ているのは、個人的な特例に過ぎない。

 そんな立場の彼女が抜け忍となれば、只事ではない。

 

「私は、もうしばらくは自由に外に出られないはずだよ? ダンゾウが、私の情報を大名たちに流したはず。きっと、私を縛り付けて、イタチくんの足止めにしようって考えてるんじゃないかな?」

 

 イロミの推測は当たっていた。

 

 彼女が大蛇丸の研究所で発見されたということを軸に、大蛇丸の企てに加担した可能性は高く、尋問によって大蛇丸の手掛りを獲得すべきだと、ダンゾウは大名に提言した。

 

 分かりやすい挑発。大蛇丸が自身の手掛りとなる彼女を残して木ノ葉隠れの里から手を引くなどという愚挙をするはずがない。手掛りなど出ようはずもないというのに。

 

 しかし、忍の世界に疎い大名らはダンゾウの言葉に耳を傾け、あまつさえ賛成の意を示さんとしていた。

 

 イタチは彼女の人間性や、これまでの里への貢献、そして不審な行動が一切に見受けられなかった点などを提示したが、ダンゾウは、それらは友人関係という誤謬が含まれているとしながら、更には自身がかつてイタチの上司だったという事を理由にイタチが冷静な判断が欠けていると、議論の余地を残さないように立ち回った。

 故に、イロミの身が自由になるのに条件を付けられたのだ。

 暗部の者の監視が絶対であるということ。

 特別上忍としての地位を剥奪し、中忍として活動すること。

 万が一にでも不穏な動きがあったとされるならば、捕縛し、尋問を行うこと。

 それらを折衷案として、大名は決めてしまったのだ。

 沈黙するイタチに、イロミは呟いた。

 

「ダンゾウは、イタチくんが部下だったという事実だけが欲しかったんだ。今後、君が何かをしようとしても、大名に自分のこれまでの立ち位置を示せば、強引な言葉でも押し通せるし、君の言葉も抑え込むことが出来る。フウコちゃんを追いかけようとする君を見て、そうしたんだ」

「……いずれ、ダンゾウを抑え込めるようにする。だから、もう少し時間をくれないか?」

「イタチくんは、どうして火影になったの? 私だけを助ける為じゃないはずだよ?」

 

 イロミとナルトを助ける為。

 それは、あくまで火影になった一工程。

 あくまで目的は、フウコを助けること。いや、全てを助けること。

 だからこそ、イタチにとって、イロミが木ノ葉隠れの里を出ていくというのは看過できない事だった。

 

「私はね、イタチくん」

 

 イロミがデスクから降りた音が耳に届き、イタチは彼女を見た。

 木ノ葉崩しに参加した時と同じ、大きな黒いコートを着ている。新しく、彼女が作ったものだ。目元を隠す長い包帯。それを、彼女は解いた。

 

「苦しくない訳じゃ……無いんだよ?」

 

 長い前髪。その奥に、月明かりを反射させる、翡翠の瞳があった。

 牢に捕らえられていた時にずっと、彼女は呪印のコントロールを行おうとしていたらしく、彼女は自分の身体を、文字通りに自由に動かせるようになっていた。眼球は、捕食してしまった者たちの細胞を運用して、新しく作ったのだという。

 その眼の下には、涙の跡があり、それを追うように涙が溢れていた。

 

「本当は、木ノ葉から離れたくない。君とも、サスケくんとも、色んな人とも。だけど、そう言ってられないのが、今の状況」

 

 さようなら。

 

 イロミの精神世界で彼女が最後に呟いた言葉。

 

 あの時から、既に彼女は決めていたのだろう。部屋に入ってくる前から、イロミの顔には涙の跡があったのは、牢の中で溢した涙なのだろう。

 

 これまで怒っている時に流していた涙は、今は、決意と悲しみが混ざった涙を流していた。

 

「私が、間違っちゃったから……。それを都合よく無くすなんて出来ない。でも、私はそれを利用する」

 

 意思を固めるように、イロミは自分の胸に手を当てた。

 

「犯罪者の私は、木ノ葉で誰よりも自由な身。家族ももういない。失うものなんて何もないの。だからこそ、私はフウコちゃんに誰よりも近い位置にいる。私に監視や拘束がついてからじゃ、フウコちゃんから遠ざけられる。それじゃあ遅い。遥かに遅いの。フウコちゃんの時間が持たないなら、私が近付いて時間を持たせる。そのためには、今しかないの。誰の拘束も受けていない今しか」

「君の言いたい事は分かる……。だが……」

 

 その後はどうする?

 フウコ一人でさえ、うちは一族を滅ぼした罪を帳消しにする事に光明が見出だせていないのに、そこにイロミも加わるというのは。それに、自分の立ち位置は火影だ。家族と友人を一人ずつ里に帰還させる。それは、どのような題目を掲げたとしても、不信を抱かせる爆弾となる。

 

 それこそ、他の一族がクーデターを考えるような事態に繋がる可能性もある。

 

「私とフウコちゃんは、もう木ノ葉隠れの里に戻れなくてもいい」

 

 イロミの言葉に、イタチは息を呑んだ。

 

「だって、木ノ葉の外にいても中にいても、私とイタチくんは友達でしょ? フウコちゃんとイタチくんは、家族でしょ? なら、場所は関係ない。ずっと、ずっとだよ。だから、イタチくん。私を、行かせて……そして、私達に追いついてきて」

 

 真っ直ぐとこちらを見つめるイロミの眼には、涙の他にも強い光が宿っている。全てを投げ出した訳ではない、確固たる意志が。

 

 アカデミーの頃とは違う。

 涙目のままにフウコに付いていっていた彼女ではなく、自分の意志で駆けていこうとしている。

 

 止める事はもう出来ない。

 いや、イタチの中では、彼女を止めようという考えは殆ど無かったと言ってもいいかもしれない。あわよくば、といった、軽い期待だけ。むしろ期待以上の答えが来てくれた。

 真っ直ぐな意志。そして、ヤケになっている訳ではない、という考えを。

 安心して──悲しい、安心だが──彼女を見送れる。

 イタチは優しく微笑んだ。片目に涙を浮かべて。

 

「分かった。必ず追いつく。それまで、時間稼ぎを頼む」

「任せて。私のよく分からない根性、見せてあげる」

「もしもサポートが欲しい場合は、言ってくれ。手段は任せる。フウや自来也様、綱手様には事情を説明しておこう。サスケにも。そうすれば、君とのコンタクトは難しくないはずだ。火影の力を使って、出来る限りの事はしよう」

「サスケくんとフウちゃんは怒るかもね。その時は、お願い」

「君の意志は伝えておく」

「えっと、うん、あはは。一応、会うのは、里の中では最後ってなるのかな? まだ数日は牢に入って準備をするけど」

「かもしれない。もう、牢に近付くことはしないだろう。何度もしていると、ダンゾウに怪しまれる。いや、君とフウコが里に帰ってこれるように尽力するつもりだ」

「そうなんだ。じゃあ、期待しておくよ」

「していてくれ」

「それじゃあ」

「ああ」

「またね、イタチくん」

「また」

 

 明日、と。

 何気ない毎日の終わりに使う言葉。

 その言葉だけを必死に呑み込んだ。

 

 

 

 そしてイロミは牢の中で準備を行った。

 木ノ葉隠れの里を抜ける準備と、更に──ダンゾウと対峙する為の準備を。

 奇しくも、その日は。

 ナルトが木ノ葉隠れの里を出て行った日だったのだ。

 




 次話は9月中に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その夜は、しかし、かろうじてまだ、明るかった

 投稿が遅れてしまい、大変申し訳ありません。

 また、前話のタイトルが71話、となっていた事に気が付きませんでした。修正させていただきます。

 ご指摘、ご批判がございましたら、ご容赦なく。


 イロミが木ノ葉隠れの里を去る事を止められない事実は、日を跨いだ今となっても尚、サスケの胸中に引っかかりとなって刺さっていた。まるで、魚の小骨のようだ。そう。些細な事のはず。イロミの事は、どんな事柄であっても、小事のはずなのだ。

 

【今日こそ、私の事をイロミさんって、呼んでもらうからね!】

 

 昼過ぎの、自室の天井を見上げていた。畳んだ布団が足元で小さくなっていて、その上を細く通る光が僅かに舞う埃を照らしている。その光は、明かりを消した部屋を淡く照らし、畳に寝そべるサスケの視線の先にある天井を薄く見せている。

 頭の後ろで手を組み、天井を見上げていると、これまで何度と見たイロミの生意気な笑顔を思い出す。天井と彼女の関連性は、おそらく無いだろう。今日が、彼女が木ノ葉隠れの里を出ていく日だから、その影響だろう。

 

 ──……くそっ。

 

 些細な事。

 それは、過去の価値だった。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 イタチと共にイロミの牢へと赴いた日。サスケは──一つの決断をしていた。

 

 フウコの事を信じる、という選択だ。

 

 その選択を手に取ったのは、陽の光が落ちた深夜。

 

 家に帰り、自室で一人、考えたのだ。グルグルと二つの意志が一つの意識の中で螺旋を描き続けた、長いようで短い時間を、サスケは過ごした。イタチは火影としてまだ帰宅していない、静かな屋内。明かりを点けるのも億劫で、状況は今と似ているかもしれない。昼か夜か、という違いくらいだろう。今もイタチはいない。

 

 二つの意志。

 愛する父と母を殺したという事実と、血に塗れたフウコの姿。

 愛する家族との幸福であった記憶と、無表情ながらも温かく頭を撫でてくれるフウコの姿。

 怒りと憎しみと、復讐心。

 喜びと嬉しさと、悔しさ。

 

 それらが頭の中を廻転の軌跡を描きながらせめぎ合った。これまではフウコを殺したいという、事実に基づいた殺意が、柔らかい記憶を鏖殺してきた。それほどまでにフウコが行った行為は許し難く、そして悍ましいものだったからだ。

 

 事実は記憶を凌駕しない。

 

 しかし、その事実はやがて記憶となり、新しい事実が現れた。

 

 イタチが語った、うちは一族がクーデターを起こそうとしていたこと。

 

 イロミの述べた、大蛇丸の呪印から手に入れた情報。

 そして、フウコがイタチに助けを求めたこと。

 多くの事実が、やがて、楽しかった日々の記憶の背中を押したのだ。

 

 気がつけば、涙を流していた。

 

 涙の意味を、その時は自覚できなかった。どうして、涙が出るのか、自分の感情がどういった方向へ進み、その涙を誘発しているのか、分からなかった。

 

 ただ、涙が出た事が分かってしまうと、苦しさだけが意識を支配した。涙を出すのに身体がエネルギーを消費し、酸素を求めて呼吸は不安定となって、身体が不規則になってしまう。頭の中が出血したように痛みと熱に満たされる。

 

 ただ、涙だけが出る。痛みと熱で、思考も纏まらない。苦しくて、辛くて、意味が分からなくて。

 

「……どうした? サスケ」

 

 気が付けば、イタチが家に帰ってきていた。

 頭を軽く撫でられる。子供扱いされているようで、あまり好きではない彼のその動作に、けれどサスケは何も応えられないままに涙を溢すだけだった。

 

「辛いことでもあったのか?」

 

 優しい声だ。

 ずっと、兄の声は優しいもので。

 うちは一族が滅ぶ前と、何も変わらないものだった事に、気が付いた。それは、つまり、と。サスケは、自分の考えが変わったのだとはっきりと自覚した。

 

「…………なあ、兄さん」

「なんだ?」

 

 と、イタチの声が上から降りてきた。

 

「どうして……姉さんは…………シスイさんを殺したんだ?」

 

 大きな意図の無い問いだった。ふとした疑問である。

 うちは一族のクーデターを止める為にフウコが一族を滅ぼしたのは、理解は、出来た。だが、シスイを殺したのでは、という一族の者が家に尋ねてきた記憶が疑問符を作ったのだ。

 

「……憶測だが…………いや、憶測と言うには杜撰だが……アクシデントがあったんだ」

「……何だよ、それ」

「俺の記憶が、幻術で封じ込められている話をしたのは、覚えているな?」

 

 サスケは頷く。

 

 イロミの知る事実と、イタチの知る事実の齟齬は、先日の牢の中で知っている。その原因が、幻術によるものだというのも。

 

「おそらく……俺も、フウコと一緒にうちは一族のクーデターを止めようとしていたんだろう。だから、記憶に術を掛けられた。真実を隠すために。俺が関わっていたならば、シスイも関わっていたのは間違いない。もしかしたら、俺たちは三人で、別の手段でうちは一族を止めようと考えたのかもしれないな。だが……どこかで、問題が起きた。フウコがシスイを殺す事は考えられない。ならば、別の者がシスイを殺して、その罪をフウコが背負ったんだ」

 

 その三人で……。容易に想像できてしまう。

 自意識が芽生えてから、三人は──勿論、イロミも含まれている為に、正確には四人だが──常に一緒で、その光景を眺めているのは意外と楽しく、記憶に強く残っている。仲睦まじい彼らの関係をどうして、忘れていたのだろうと、涙の量が少しだけ増えた。

 

「フウコの事を恨んでるのか?」

「……分かんねえよ…………」

「どうして、泣いてるんだ?」

「……分かんねえって……………」

「お前は、どうしたいんだ?」

「……分かんねえって、言ってんだろ……………」

 

 声が震えた。

 

「あいつは…………昔っから、無表情で、何も言わねえし…………何考えてるかも、分からねえから………何した方が良いのかなんて……分かんねえよ…………」

 

 だって。

 あいつは。

 フウコは。

 姉さん(、、、)は。

 そこまで言葉を紡いで、また、思い出す。

 

 姉は、ただただ、優しかった。

 

 でんでん太鼓の音が遠くから聞こえる。

 

 大丈夫、大丈夫、という声も。

 

 ああ、そうだ。涙を流している理由が、分かった。

 

 どうして一縷も疑いを持とうとしなかったのか、という罪悪が流させているのだ。

 

 理由があれば、父も母も一族も、滅ぼしていいというわけではない。だけれど、理由を聞くことは出来る。いや、家族なら聞かなければいけないはずなのに。

 

 たった一つの出来事だけで、今までの全てを否定するような事をした罪悪が。

 

 姉への罪悪が、涙を流させた。

 

「そうか」

 

 イタチはそれだけ呟くだけだった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 サスケは考える。

 

 もしも、である。

 もしも、イロミよりも先に、自分がうちは一族の背景等々を聞いていたら、どうしていただろうか。そう考えると……イロミが牢へと繋がれ、木ノ葉隠れの里を出ていくという考えは、決して、否定できるものではない。

 フウコは言うなれば、木ノ葉隠れの里を救うために、全てを背負ったということ。木ノ葉隠れの里に怒りを向けてしまうのは必然だった。いや、今でもそうだ。木ノ葉隠れの里への憎しみが、まるでフウコから移り変わるように向かっている。今すぐにでも、フウコに罪を背負わせた者を殺してやりたいとさえ、思ってしまっている始末だ。

 

 その思想が身体を突き動かさないのは、イロミとイタチがいるからかもしれない。

 

 イロミが木ノ葉隠れの里に牙を剥いた姿を見た。自分の全てをかなぐり捨てた彼女の姿は、あまりにも悲壮的で、絶望に溢れていた。彼女のそんな姿を見たからか、復讐への踏ん切りにストッパーが生まれていること。そして、そんなイロミを止めようとしたイタチの姿が、おそらく、何よりも強い印象だった。

 

 きっと。

 

 自分が同じようにしたとしても、兄は必ず、真正面から止めようとするに違いない。

 

 どんなに傷付いても、ボロボロになっても。

 

 だから、木ノ葉隠れの里への憎しみを押し留めていて、そして感情を発露できない事へのストレスも無かった。

 

 イタチが、イロミが、フウコを助けようとしている。

 

 ならば自分も、その手助けをしたい。そう、想いを抱いている。

 

 なのに……イロミは、木ノ葉隠れの里を出て行くと言い出した。そして、火影であるイタチも強く止めようとはしていないのを、牢の二人の会話で理解している。

 

 もう、イロミのいる牢へは赴くことが出来ない。イタチから禁じられているからだ。あの牢は特殊な立ち位置にあるらしく、火影であるイタチでさえ──そもそも、犯罪者と火影が過度な接触を行ってしまう事自体に問題があるのだが──不用意に近付くことが許されない場所とのこと。

 

 そして何よりも、イロミが木ノ葉隠れの里を抜けた時に、あらぬ疑いを掛けられる可能性がある、というのが最たる理由だった。サスケから見れば、酷く淡白なものに見えた。

 

 にもかかわらず。

 

 イロミが里を抜けると言い出したというのに、イタチは、多少の驚きを示したものの、里を抜けた後の事、その後の行動について積極的に尋ねた。それに対して、イロミは意見を述べる。

 

 淡々と、堂々と。

 

 心配だとか、不安だとか、そんな感情の一部を伝える言葉は飛び交わない。確かめる必要など何もない、というだけで、シンプルに事柄の可能性だけを追究していく。その過程で、議論が一周して、抜け忍となる事についてさえ議論の的になった。

 

 しかし、そこではイロミがたった一言【そこだけは譲れない】と述べるのだ。

 

 このまま木ノ葉隠れの里にいれば、フウコを探すために外へ出る事ができなくなる。それは嫌だと。その後は、議論が繰り返された。

 

 今まで、イロミとイタチの会話は眺めた事があった。イタチがイロミの意見を、彼女の意思ごと抑えるような会話だと、ずっと感じていた。これまで、ずっとそれは普通だと考えていた。

 兄は優秀で、イロミは平凡な忍だから、言い包められてしまうのは仕方がない、と。

 けれど、牢で議論する二人の関係を見て、今までの関係が歪だったことを理解した。

 相手の気持ちは絶対条件として、その上で最良の選択を模索していくこと。二人の関係が、木ノ葉崩しを経て変わっていた。

 

 議論の末に、イロミが木ノ葉隠れの里を出ていく事は確定し、彼女は──とある人物の元へと赴く事になった。それは、イタチとの多くの議論と、条件を含めた決定事項。

 

 止めるのは敵わない。

 

 彼女を木ノ葉隠れの里に繋ぎ止めれる環境も、条件も無い。力づくであったとしても、呪印をコントロールできると自負するイロミを相手には善戦も出来ないだろう。

 

 また、誰かが遠くへ行こうとしている。

 

 ましてや、そう。

 

 フウコを信じていたイロミが。

 

 ひたむきに努力し、そしてずっとこちらを見つめてくれた彼女が。天井にふらりとイロミの馬鹿みたいな表情が浮かぶ。眼が痛くなった。

 

 涙が溢れる訳じゃない。

 

 ただ、眼球が振動するように痛みを発し、視界が僅かに霞むようになった。痛みも霞みも時間は短い。サスケは一度、眼を瞼越しに擦った。痛みについて、サスケは深く考えなかった。

 

 ──……どうにかなんねえのかよ…………ナルトの奴も……………。

 

 ふと、ナルトの顔も天井に投影された。彼の場合は、イロミとは対称的に怒った表情ばかり。思い起こせば、彼がこちらに向ける感情は怒りばかりだった。

 

 ナルトも、もしかしたら外に出ていってしまうのではないだろうか。嫌な想像が頭を過る。ナルトには、フウコの話をしたのだろうか。聞いてみたい。聞いて……そう、例えば、ナルトと話をしても、良いかもしれない。

 

 今日、任務はない。演習も。ナルトが牢に繋がれている以上、チームとしての活動を行っていないのだ。

 

 ナルトの牢へは、赴くことが出来るかもしれない。サスケは上体を起こして、立ち上がろうとした。静かな部屋を抜けて、シューズを履く。そして家を出ようと、ドアノブに手を掛けようとした時だった。

 

「サスケくん! いるッ?!」

 

 ドアの向こう側から乱暴なノックが届き、張り詰めた声が鼓膜を大いに揺さぶった。予期せぬ来訪にサスケは不愉快そうに眉間に皺を寄せたが、声の主が春野サクラであったことに、一抹の不安を抱いた。

 

「どうした? サクラ」

 

 ドアを開ける。昼間と言っても、明かりを付けない薄暗い室内にいたせいもあって、差し込んでくる光に瞼を細めてしまう。ドアの向こうにいたサクラが、険しい顔を浮かべ、走ってきたのか、細い顎に汗を浮かべている事に気が付いたのが少し遅れてしまった。サクラは口早に尋ねてきた。

 

「一応、確認なんだけど……ナ、ナルトって、見かけてないよね?! その、ついさっきとかッ!」

 

 最初、サクラの問いの意味が分からなかった。しかし、不意に別の景色が思い浮かんでしまう。

 意図しない、状況の変化。

 

 それは、あの夜に似ていた。

 

 サクラは続ける。

 

「ナルトのやつ、ほら、イタズラが好きでしょ? だから、ちょっと、人に誤解とかされることってよくあるし……だから…………もしかしたらって……」

 

 そして、サクラの慌てよう。平静を装おうとしているけれど、伝えようとしている情報の背景を抜け落としているのは、サクラの──いや、ナルトに何かがあったということ。

 

 ナルトはまだ、牢にいるはずだ。

 たとえナルトに異変があったとしても、どうしてそれをサクラが察知できるのか。

 

「ナルトは見てない。あの馬鹿に、何かあったのか?」

「それは──」

「そっからは、俺が説明する」

 

 開いたドアの後ろから姿を見せたのは、はたけカカシだった。覗かせる片目は鋭く細め、緊迫した状況である事を、サクラよりも如実に伝えてきた。

 

「何があった」

 

 カカシとサクラから伝わってくる不穏な雰囲気を跳ね返すように、声を固くした。それでも、心の中には、真夜中のような暗闇が広がっていく。サクラが視線を下に向ける。目を腫らして、涙を我慢している。

 

 涙は嫌いだ。

 

 流すのも、見るのも。

 涙は悲しみで、悲しみは、失うことだ。

 一族を失い。

 家族を失い。

 姉を失い。

 対立しても見ててくれた恩人を失おうとし。

 そして──。

 カカシは語る。

 

「端的に言う。ナルトは──木ノ葉を出て行った」

 

 ──また、俺は……何も出来ないまま、失うのか…………。

 

 眼が痛くなる。

 

「今、イタチ……いや、火影様がナルトを追うように人を集めている。お前にも声が掛かった」

「……どうして、俺なんだ?」

 

 自分はまだ、下忍だ。

 里は落ち着き、動かせる忍は多くいるはずなのに。カカシは首を横に振った。

 

「さあな。とにかく、時間が無い。火影様の元へ行くぞ。すぐに準備しろ」

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「はたけカカシ、到着しました」

 

 火影の執務室に入る。カカシを先頭にサスケ、そしてサクラが続いた。室内にはイタチと自来也、ヤマト、そしてシズネがいた。シズネの腕にはトントンがいて、カカシらに太い鼻先を向けている。到着を知らせるカカシを脇目に、サスケは、デスクにつくイタチを見据えた。火影の笠を深く被ったイタチの顔は、最初は見えなかったが、彼が顎をあげると、真剣な表情がそこにはある。

 じっと、数秒、イタチはサスケの顔を見据え、そして呟いた。

 

「サスケ、カカシさんから話は聞いてるな?」

 

 頷こうとするが、つい、サスケは尋ねてしまった。

 

「ナルトの奴は……本当に、木ノ葉から──」

「里の外で、暗部の者が負傷しているのを、巡回していた者が発見している。彼らは、ナルトくんが里から出ていくのを止めようとしたが、返り討ちにあったと語っている。ナルトくん自身も、里を出ると言っていたらしい。今、ナルトくんが里の中にいないか捜索しているが、現時点まで見つかっていない」

「実際、ナルトの匂いは里の外に向かっている。パックンたちに跡を追わせている」

 

 イタチの言葉を引き継ぐように、横に立つカカシが言った。二人共、表情は冷静だが、言葉の重みが現実に即していると、サスケは感じ取ってしまう。

 

 本当に、ナルトが里を抜けた。

 

 どうして? という感情が、サスケの胸に巣食う中、イタチは指示を出す。

 

「ナルト君を連れ戻してくるんだ。チームは、カカシさん、自来也さん、ヤマトさん、シズネさん、そしてお前のファイブマンセルだ」

「イタチさん! あの、私も!」

「駄目だ、サクラ。君は行かせられない」

「どうしてですか!?」

 

 サクラは目を腫らしながら、イタチを睨みつけた。それを真正面から、イタチは受け止める。

 

「……君は、ナルトくんが九尾のチャクラを持っている事は知っているな?」

 

 サクラは即座に応える事がしなかった。一度、カカシに視線を彼女は送る。ナルトの九尾については禁とされていたからだ。カカシが小さく頷くと、サクラも恐る恐る「知ってます」と呟いた。

 

「負傷者が言うには、ナルトくんは九尾のチャクラをコントロールしていたとのことだ。ならば、力不足の者をチームに入れるわけにはいかない」

「でも──」

「サクラ」

 

 すると、彼女の言葉を、今度はカカシが制止させた。

 

「ナルトを追いかけたい気持ちは分かるが、今回は抑えるんだ」

 

 カカシは続ける。

 

「どれくらいナルトが九尾のチャクラをコントロール出来ているのかは定かじゃないが……正直なところ、俺ですらまともにやりあって勝てるか分からない」

 

 普段ならサクラも、そしてサスケも、そんな事は無いと言うだろう。ナルトは確かに強くなっている。それでも、カカシが負けるような状況は想像できない。

 しかし、サクラも、サスケも、知っている。

 九尾のチャクラで暴走してしまったナルトを、知っている。

 

「なら、どうして俺を呼んだんだ?」

 

 カカシと、そしてイタチを見る。

 

「サクラが力不足なら、俺も似たようなものだろう」

「いや」

 

 と、イタチは語る。

 

「お前の力が必要になるかもしれない。正確に言えば、写輪眼の力だ。写輪眼には、九尾を抑える力がある。今回、お前を入れているのは、その為だ。他に自来也様、ヤマトさんも、九尾の力を抑える術を持っている」

 

 サスケはヤマトと自来也を見た。彼にとって、二人は初対面であったが、九尾のチャクラを抑えることが可能という事は、それなりの実力者なのだろうか。二人はサスケと視線を合わせると、申し訳程度に笑顔を返してきた。

 

「サクラ、今回はナルトくんを連れ戻すのに、最適な人員を用意したつもりだ。実力も申し分ない。信じて待っていてほしい」

 

 他に、サクラは言葉を見つける事が出来なかった。ただ、自分の無力さに涙を溢すだけだった。言葉を掛けれない。

 

「……兄さんは追いかけないのか?」

 

 ふと、その言葉が口をついて出た。

 写輪眼の力というのならば、兄の方が優れている。ならば、彼が追いかければ良いのでは? 視界の端で、シズネが少しだけ視線を下げた。すると、彼女はおもむろに、一歩前に出る。

 

「イタチくん──火影様は、今、戦闘に参加させる事は出来ません。私が止めました。ですので、出るのは私達だけです」

 

 その言葉で、サスケは理解する。医療忍者である彼女が、イタチの戦闘を許さない、という言葉の意味。イタチは呟いた。

 

「あとは皆さん、よろしくお願いします。ナルトくんを──俺達の木ノ葉の子を、連れ戻してきてください」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ナルトが里の外に出る。

 その現実を前に、けれど、サスケは不思議な事に……違和感を覚えるような事ではなかった。

 フウコが、うちは一族のクーデターを阻止するために木ノ葉隠れの里の犠牲になった。

 もしも。

 もしも、そう。

 もしも自分の傍らに、イタチやイロミのような……フウコを信じ続けている者がいなければ…………あるいは、また別の要因が無ければ……里を出ていくのは自分だったかもしれない。

 胸の中に、未だ僅かに隠れて蠢く、木ノ葉隠れの里への怒り。それに身を任せていただろう。そして、里を抜け出し……今回の様に、木ノ葉隠れの里の者たちに追いかけられて…………あるいは、追い付かれたら、容赦なくその者たちを傷つけているかもしれない。

 なんとなくだけれど。

 もし、自分が木ノ葉隠れの里を抜け出した時。

 ナルトは追いかけてくるのではないだろうか。

 そんな予感があった。

木ノ葉隠れの里の正門下で、何となく思ってしまった。

 

「サスケ。お前は隊列の最後方だ」

 

 追いかけるナルトへの隊列をカカシは判断していた。どうやら、彼が一応のチームのリーダーになったらしい。並びとしては、先頭が自来也、二列目がカカシ、三列目がヤマト、四列目がシズネ、最後尾が自分になった。

 

「サスケとヤマトは極力、戦闘に参加しないでくれ。ナルトが九尾のチャクラをコントロール出来ている場合、それを抑えるのに、特にヤマトとサスケは要だ。最悪、俺と自来也様、シズネを残してナルトを追いかけてほしい」

「他に、ナルトを追いかけておる者がいる、ということかの?」

 

 まるで他者の介入を想定した発言に、自来也が疑問を呈する。

 

「パックンたちの報告では、どうやら、音の忍がナルトの傍にいるみたいです」

 

 大蛇丸。

 またか。

 また、アイツが周りをメチャクチャにしようとしているのかと、サスケは驚きと共に怒りを覚えた。

 イロミを利用し、イタチを傷つけ。

 今度は、ナルトを連れ去ろうとしている。

 ナルトとは、一度話をしなければいけない。

 ずっと、ずっと、自分たちは平行線だった。

 フウコを挟んで、背中を向けあって。

 だから……。

 

「なら、ゆっくりもしてられませんね。行きましょう」

 

 ヤマトの言葉によって、五人は歩き始めようとした時だった。

 

「サスケくん!」

 

 後ろから、サクラに声を掛けられ、サスケは振り返る。そこには、ついさっきまで姿が無かった、日向ヒナタが、目を赤くしながら立っていた。サクラはヒナタの背中を押すように、彼女の肩に手をおいている。ヒナタがサスケの前までやってきた。

 

「……あの…………サスケくん……………」

 

 消え入りそうな、ヒナタの声。ついさっきまで涙を流していたのか、頬には涙の跡があった。ヒナタと話す事は、おそらくではあるけれど、殆ど機会は無かった。

 それでも、ヒナタの震える声が、悲観を表している事は容易に分かった。

 

「……ナルトくんを……………お願い………」

 

 その、たった二言を呟いただけで、ヒナタは涙を溢れさせてしまった。

 きっと。

 木ノ葉隠れの里には、他にも、ナルトがいなくなって悲しむ者がいる。

 今度は、大蛇丸に対してだけではなく、ナルトに対しての苛立ちも抱いていてしまう。

 これまで、フウコを信じると言っていたナルトに対してではなく、また別の、怒りだった。

 どうして勝手に去っていこうとするのか。

 フウコも、イロミも、ナルトも。

 ヒナタは──涙を溢しながら続けた。

 

「私……ナルトくんを、止めようと思ったんだけど…………全然、駄目で……。ナルトくん……なんだか…………苦しそうで……だから…………」

 

 ヒナタの言葉は、少しだけ、感情を優先した、文脈の乱れたものだった。サクラが呟く。

 

「ヒナタ……里を出る時のナルトと会ったみたいなの。でも、気絶させられてて……。サスケくん、ナルトの馬鹿を、必ず連れ戻してきて。お願い」

 

 拳に力が入ってしまう。サスケは言った。

 

「必ず、あのウスラトンカチを連れて帰る」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチは静かに、デスクについていた。

 また、別れが来る。

 それは、とても悲しい事だった。失うということには常に、再現性が無い、という可能性が含まれている。物事は常に変化していって、時には不可視の場所で、変化は大きな唸りを作って、突如として目の前に現してしまう。

 おそらく、ナルトが木ノ葉隠れの里を抜け出した事は、サスケにとっては突然の出来事の様に、映っただろう。

 フウコの情報をナルトに渡した時点で、こういった想定はしていた。

 

 ナルトが里を離れる可能性を。

 

 それでも、隠し続けるという事は出来なかった。彼に隠し続けてしまえば、いずれは、大きな変化を引き連れて、取り返しの無い事態に発展していたかもしれないからだ。

 

 が。

 

 かといって、簡単にナルトを里の外へ行かせる訳にはいかない。

 

 彼には多くの繋がりがあって、そして、フウコも、自分も、多くの者も、彼のその選択を望んではいないからだ。

 

 だからこそ、サスケをチームに加えた。

 

 写輪眼の力がある、ということも確かな理由ではある。九尾のチャクラをコントロールしている、という情報を、負傷していた暗部の者──ダンゾウの部下だというのははっきり分かってはいるが──が語った時には、即座に自分が赴かなければいけないと判断はしていた。けれど、シズネから、そして綱手からも、止められたのである。

 

 九尾のチャクラをコントロールしているのならば、戦闘は苛烈さを増すだろう。ましてや、ナルトから見れば自分はフウコを見捨てた存在に見えている可能性もある。

 

 そうなった場合、まだ問題ない範囲の自分の肉体は、加速度的に悪化すると、彼女たちから診断された。戦闘はさせられない、と。

 

 サスケを選んだのは、写輪眼の力だけでは、決して無い。

 

 ナルトと同じチームである、というのが最大の理由だった。

 

 きっと、サスケなら。

 ナルトと対等な立場でぶつかる事が出来る。

 自分と、イロミの様に。

 それは、執務室にやってきた時のサスケの反応を見て、確信した。ナルトの九尾のチャクラを押さえ込みながら、感情をぶつけることが出来るだろう、と。

 

 カカシ、自来也、シズネ、ヤマトには事情を説明している。彼らから否定は受けていない。

 

 それに──。

 

「……イロミちゃん。もしもの時は、頼む」

 

 火影の衣の袖に隠した、通信機にイタチは小さく呟いた。

 

『任せて、イタチくん』

 

 そう、イロミの声が返ってきた。

 




 次話は、今月中に投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

見えぬ賽の三面

 うずまきナルトが木ノ葉隠れの里を出て行った事を、音の忍──大蛇丸の部下たち──が察知できたのは、些細な切っ掛けと偶然があった。それらが薬師カブトにとっては、どうにも不吉なものに感じてしまったのである。

 

 ナルトは九尾の人柱力で、そして【暁】の標的でもある。手元に引き入れるには、不安要素は大きく、そして将来的な面倒事が確定している。いずれ【暁】にナルトの所在を突き止められてしまう事だろう。

 

 ──やれやれ、大蛇丸様にも困ったものだ。けど確かに、このままみすみすナルト君を【暁】に渡すわけにはいかないからな。

 

 ナルトが木ノ葉隠れの里を抜け出した事を知った切っ掛けと、偶然。

 

 切っ掛けは、大蛇丸の発言だった。

 

 三代目火影・猿飛ヒルゼンが使用した忍術によって、両腕の魂だけを抜き取られてしまった大蛇丸は、新たな肉体に乗り移った。結果、しばらく大蛇丸は身体の自由を殆ど失っている状態となってしまった。

 

 その為、大蛇丸が動けない間は、カブトが音の忍らに指示を出していたのだ。勿論、大蛇丸の考えを元に、である。自由を失ったとは言え、全くの植物状態というわけではい。日常的なレベルの活動は容易に行えるのである。

 

 大蛇丸の考えの中には、木ノ葉隠れの里の動向を観察する、というものがあった。

 木ノ葉崩しが失敗に終わった後に、木ノ葉隠れの里が報復に来る可能性を考慮してのものだった。

 部下に木ノ葉隠れの里──当然、木ノ葉側も警戒をしていたために、監視の距離はまるで遠かったものの──の監視を命じてから、しばらく。志村ダンゾウから、情報が渡された。正確には、ダンゾウの部下からである。

 

 情報は、こういうものだった。

 

【うずまきナルトを引き渡す】

 

 たったその情報だけ。しかし、あまりにも大きな情報でもあった。

 

 九尾の人柱力。

 

 軍事力という観点から見れば、強大過ぎる程の力をいとも容易く、渡すと言ってきたのだ。

 

 ダンゾウと大蛇丸の交流は、秘密裏に行われていた。初代火影・千手柱間の細胞の提供と、滅ぼされたうちは一族の者たちの眼球の移植、そしてそれらを連結させる(すべ)。そのかわりに、木ノ葉隠れの里の情報や、自分らの誤情報を広めることなどのサポート。

 

 しかしながら、互いに互いの事を信用していなかった。

 

 腹に一物を抱える相手だ。ギブアンドテイクのみの、距離を離した提携に過ぎない。故に、その情報が企図する物事にカブトは警戒していた。けれど、大蛇丸はクスクスと、乗り移ったばかりの身体で、肉体と、大蛇丸の本体が適応するのを助けるための施術を覆う包帯の奥で笑ったのだ。

 

「……なるほど…………。古狸め……、計画の事を知っているのね……」

 

 計画。

 その言葉が指し示すものを、カブトはアウトラインだけ知っていた。

 

 【暁】を滅ぼし、うちはマダラを殺す。

 

 フウコとサソリと同盟を組んでいた時に、大蛇丸が知らされたものだ。具体的な内容は知らされていないが、大蛇丸はかつて「頭のイカれた、腐れ三文の台本に過ぎないわ。関わるだけ無駄よ」と唾棄していた。

 大蛇丸は、しばらく黙して思案した。

 

「まあ、ちょうど良いわね。他に手があるわけでもなし。興が乗ったわ」

 

 そして、きっとそれは偶然だったのだ。どういった心境の変化が訪れたのか、定かではないものの、何かしらの小さな変化があったのだろう。

 これまでなら、遊ぶようにリスクを背負う事はあっても、致命的なリスクを背負うことはしなかった。

 興が乗った程度で、一度袂を分けたサソリたちの計画に、再度足を踏み込むなんて事は、大蛇丸はしない。相手には、フウコと、そして桃地再不斬に白と呼ばれる優れた少年もいる。面倒な事この上ない。

 

 そもそも、どのようにしてナルトを渡すというのか。

 

 渡したとして、どのような要求をするのか。

 

 情報が曖昧な環境のままに、大蛇丸はナルトを受け入れる事を承認した。承認といえど、ダンゾウへの返答も無いままに、部下を配備しただけだが。

 

 ──音の四人衆たちなら、呪印も使える。人数を多くしても、ナルトくんを渡される前に他の連中にバレてしまう恐れがあるからね。まあ、問題ないだろうね。

 

「カブト先生……どうでしょうか?」

 

 場所は、大蛇丸が幾つか隠し持つアジトの一つ。その中でも、カブトだけに与えられた一室である。室内は薄暗く、けれど滅菌がなされているような生暖かい空気が流れていた。その中を揺蕩う静かな声は、君麻呂のもの。彼は室内のちょうど中央に設けられたベッドに横たわり、身体の到るところに管の付いた注射針を刺されていた。管には、彼自身の血液が通って、そのまま、ベッドの周りに並ぶ機器へと接続され、分析が行われていた。

 

「今の所は問題ない……と、言いたいところだけど……徐々に侵食が進んでいるね。血液にまで影響を与えるという事は、もう骨髄までに至っている。いずれ、体全身を蝕まれてしまうだろうね」

 

 カブトは、機器から抽出されたデータを示すディスプレイを眺めながら呟いた。表示されるデータは、以前、君麻呂から採取した彼自身の細胞が示したデータとは異なっていた。

 

 猿飛イロミの細胞。

 

 それを標本に薬を作ったが、その薬にはほんの僅か──全体の比率で見れば一%にようやく至る量を用いているのだが、その量だけで、今や君麻呂の血液や骨にまではっきりと影響を与えているのだ。

 

 末恐ろしく、悍ましい。

 

 血継限界を持つ君麻呂の、強固な骨の内側にまで侵食している。

木ノ葉崩しの直後は、彼の肉体を蝕んでいた病はイロミの細胞に捕食し尽くされ、一時期は完全な健康体となっていた。しかし、今は病と取って代わるようにイロミの細胞は君麻呂の細胞を捕食し、そして全く別の細胞へと変貌し始めている。

 

 君麻呂は、自身の骨を自在に動かし、尚且つ生み出す事が出来る血継限界を持っている。骨は侵食されてしまえば捨てて新しく作れば問題ないが、作った骨はしばらくすると紙細工のように脆くなってしまうそうだ。

 呪印の発動は今のところは問題ない。しかし、それも時間の問題か。

 折角かぐや一族の生き残りなのだ。細胞に蝕まれて使い物にならなくなってしまうのは勿体無いという事もあり、治療と研究を行っている。と言っても、治療は殆どできていない状態ではあった。

 

「もう少し、猿飛イロミの細胞があれば、多くの試行で分かってくる事もあるんだけどね……。現状は、明確な治療は難しい」

「……あの方は……………」

「大蛇丸様かい?」

「大蛇丸様の……娘様です。イロミという名の」

 

 君麻呂が彼女の名を呟くと、ディスプレイを眺めていたカブトの瞳に影が指した。

 

「アレは娘じゃないよ。大蛇丸様はそうおっしゃっているけどね。失敗した実験作だよ」

 

 あんな。

 あんな、他者を繋ぎ合わせて生まれただけの人形が、娘という確かな地位に就けるはずがない。確かな物が何一つとしてない、あんな人形に。

 

「イロミ様は……どうなっているのですか?」

 

 君麻呂の問いの真意が分からず、つい振り返ってしまった。彼はベッドで寝そべったまま、天井を見上げていた。カブトは、とりあえず呟いた。

 

「きっと今頃、牢にでも繋がれているかもしれないね。新しい火影が、アレの友人であるうちはイタチになったようだけど、木ノ葉隠れの里に牙を剥いたんだ。そう安々と表に出られる訳じゃないだろうね」

 

 もしかしたら、処刑されているかもしれない。その言葉は、何とか理性が喉元でストッパーとなってくれた。

 君麻呂は、イロミの細胞を元にして作った薬を服用してから、彼女に強い関心を持ち始めていた。それは、大蛇丸への信仰にも近いものだと、カブトは危惧していた。

 

 自身の肉体をまだ動かせるようにしてくれた存在であり、信仰する大蛇丸の娘という誤解が興味を強く押していた。

 

 ここでいい加減な事を言って機嫌を損なわれるのも困る。彼は音の忍の中でも群を抜いて優秀で、そしてイロミの細胞を元にして作った薬の被験体としても必要だ。

 

「まあ、前火影の義理の娘でもあるわけだから、いずれは外に出て、普通の忍として生活する事になると思うよ?」

 

 そうですか、と君麻呂は呟くと、突如として話題を変えたのだ。

 

「音の四人衆は、木ノ葉隠れの里に向かったと聞いたのですが……」

「そうだね。誰から聞いたんだい?」

「多由也からです。うずまきナルトをこちら側に引き入れる為だと」

 

 秘密裏の任務ではないのだけれど、元々音の五人衆として活動していた君麻呂の耳に入れたくはない、という素朴な配慮だったが、耳に入ってしまっているのならば隠す必要は無い。「そうだね」とカブトは頷いた。

 

「木ノ葉隠れの里にいる──志村ダンゾウという人が、ナルトくんをこちらに渡すと情報を送ってきたんだ。大所帯で行くのもアレだったから、音の四人衆に行ってもらったんだ。呪印を使える彼らなら、ある程度は問題ないよ」

 

 おそらくではあるけれど。

 ダンゾウ側にも、ナルトを確実にこちらに引き渡す為の策を考えているのだろう。向こうにはイタチがいて、自来也もいる。もしかしたら、イロミを使ってくるかもしれない。そう考えれば、ダンゾウも単純に引き渡そうとは思案しないはず。

 君麻呂が、おもむろに起き上がった。

 

「先生……俺も、木ノ葉へ行かせてください」

 

 その言葉に、カブトは眉をひそめ、眼鏡の位置を戻すように人差し指で縁を触った。

 

「君が行く必要は無い。まだ身体機能への影響が大きいわけじゃないけど、戦闘し、あるいは呪印を強く使えばどうなるかは分からない。現に、木ノ葉崩しに参加しただけで、君の身体はボロボロだった」

 

 正確に言えば、身体の細胞が入れ替わろうとしていた、といったところである。まるで病原菌のように。異なるのは、熱や冷却程度では活動が停止しない事。むしろ、活動が活発にさえなってしまう場合があるようだ。

 

「ナルトくんを引き渡さない為に力のある連中が追いかけてくるだろうね。木ノ葉崩しの時よりも、面倒な相手が来るだろう。もしも呪印を発動すれば、どうなるか予測が難しい。君が、例えば細胞に殺されてしまえば、大蛇丸様にとってどんな不利益があるかは、想像できるよね?」

「あの四人では不安があります。ナルトくんが手に入らないという事になる方が、例えば、俺が死んだとしても、ナルトくんが手に入れば十分だと思います」

「不利益は無いに越したことはない、という事だよ」

「それでも、確実です。俺が行けば確実に、ナルトくんは手に入ります。大蛇丸様の為ならば、どのような事でも実現させてみせるのが、俺がここにいる、最低限の役割です」

 

 そうして、やがて、また一つ偶然が重なったのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 そして──これは偶然と呼ぶには、些かに疑問を呈し、更には強引と呼べるかもしれないが──また一つの偶然が、地下で重なっていた。

 

「サソリさん。ダンゾウ様から情報が届きました」

 

 偶然を告げてきたのは、サイだった。

 近所の家の玄関を叩くような気軽さと無神経さを合わせた彼の声は、デスクに備えられたライトだけが照らす薄暗いサソリの部屋に吸い込まれた。デスクに着いていたサソリは溜息をつきながら、振り返る。彼のデスクには書類が並べられていた。

 

「言ってみろ」

 

 木ノ葉崩しの際に捕えた彼が、アジトの中を一人で歩いている環境に、さした不愉快を抱いている訳ではないようで、淡々と用件を促した。

 

「計画に賛同しよう、と」

「ほう?」

 

 サソリからしてみれば、予想外の言伝であった。サイはつい先程まで、ダンゾウの部下から情報を受け取る為に外出していた。

 

 フウコと共に木ノ葉隠れの里へ赴き、そして、おそらく──いや殆ど確実に、うちは一族の真実を知られてしまった。まして、イタチは火影だ。その気になれば、幾らでも理由を付けて人員を動かせるだろう。流石に【暁】と木ノ葉隠れの里、双方を相手取る(、、、、)のは手が回らない。

 

 だからこそ、木ノ葉隠れの里の状態を確認する為にサイを送りダンゾウから情報を提供してもらったのだ。だが、送られてきた情報は、意外の一言に尽きるものだった。

 

「他には何か無いのか?」

 

 計画に賛同する、という言葉。意外な返答だが、しかし、彼の立ち位置は共犯(、、)として最初から、一応の一貫は示してきた。

 

 わざわざ賛同するという言葉を伝えて来る。その違和感の行く先は、言い換えれば「誤解しないでくれ」と言っているようなものである。

 

「うずまきナルトを、大蛇丸に引き渡すそうです」

 

 サソリの思考は時間を飛ばした。

 

 計画の終着点を目指して、これまでの手と、木ノ葉隠れの里、そして他の忍里(、、、、)などの動向を加味して。

 苛立ちと笑みを同居させた、不思議な薄い笑みを浮かべた。

 

「ふざけやがって、あの狸が……。どいつもこいつも、こっちの事情を知らねえで」

 

 言葉とは裏腹に、ついさっきまで計画の大幅な修正を加えていたところだったこともあり、思考は回転してダンゾウの意図による計画修正の加点とする。

 

 イタチにうちは一族の真実を知られ、フウコの味方になってしまうだろうという事態。それを、ナルトが大蛇丸の元へ行くことによって、最大の障壁となるはずだった環境を回避できるということ。

 

 ダンゾウの意図を、サソリは理解した。

 

「……その事をフウコの奴には話したか?」

「話せ、ということなら」

「なら話すな。黙ってろ。それと、今からしばらくはフウコの世話をしておけ。俺と再不斬、それと白は外に行く」

「具体的に、何をすれば良いですか?」

「生米だろうが生野菜だろうが、面倒だったら生水でも詰め込んでおけばなんとかなる。薬の使い方は──」

 

 サイに薬の種類と服用のタイミングを説明して、足早に部屋を出て行った。

 自分たちに情報を与えてきたという事は、こちらに要求があるということだ。それは当然、ナルトを里に連れ戻そうという動き。言うなれば、追い忍の存在だ。

 

 それを邪魔しろ、と言ってきているのだ。

 

 わざわざ、計画に賛同する、という言葉を付けたのは、手を貸せば最終的にはそちらにもメリットがあるぞ、と潜めているのだ。勿論、明確で確実なメリットを得るのはダンゾウだろう。

 

 それでも、確かにメリットはこちらにある。

 

 ──再不斬の言う通りだな。最近は忙しい。少し休みたい気分だ。

 

 どうして自分はここまで、外のゴタゴタに振り回されてまで献身的に動かなければいけないのか。西へ行ってはアジトに戻り、東へ行ってはアジトに戻り。

 

 しばらくは自分も休みたいものだ。

 人傀儡の身でありながら、休みたいなどと嘯く自分に不愉快な気分を味わいながら、アジトの中央の部屋に行く。すると、フウコと白がいた。再不斬はいない。フウコは何を思ってか、寝間着姿のままに椅子に腰掛け、膝に乗せた白を後ろから、ぬいぐるみでも抱きかかえるようにして両腕で抱いていた。

 

「何をしてるんだ?」

 

 白に尋ねると、彼は困ったような表情でありながらも、平然と答えた。

 

「僕も、何がなんだか。ただ無言にこうさせられました」

「慣れてるのか? お前、確か男だよな?」

「普段のフウコさんを見てると、何と言いますか、異性として見れないと言うか……」

「意外とお前、口が悪いんだな」

「いや、え? そうですか? サソリさんは、じゃあ、どう思っているんですか?」

「少なくとも、人間としては見てないな」

 

 最終的に人傀儡にする相手に感情を抱いてどうするというのだ。その意識を反映するように、サソリは無表情にフウコを見た。

 

「フウコ。白を借りる。寝るならサイにでも抱きついてろ」

「………………」

 

 フウコの視線の焦点は定まっていない。

 いつも通りと言えば、いつも通りの状態。ただ、白に抱きついているというのが解せない。これまでに無かったパターンだ。

 

「腹でも減ったんなら、簡単に作ってやる。何か言え」

「イロリちゃんが、いるの」

「そうか」

「だから、もう離さないようにしてる。ずーっと、傍にいてほしい。こうしていれば、大丈夫」

 

 ね? イロリちゃん。

 一緒にいてくれるよね?

 でも、うん。

 うーん。

 大好きで、大切だから。

 やっぱり、遠くにいてほしいかな。

 ずっと遠くに。

 私の傍にいると、危ないから。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 木ノ葉隠れの里を出て行ったナルトだったが、実のところ、特に目的地を決めてはいなかった。最終的な目的は決めてあるし、フウコに会うというのも決めてはいるのだけれど、さて、その第一の目的であるフウコの元へ行く為には、どうすれば良いのか。まるで見当がつかず、とりあえずはと、気分転換に川で身体を洗っていた。

 

 洗うと言っても、流れる水に衣服ごと入るだけだったり、顔を洗ったりといった程度である。それでも、大切な人がいる木ノ葉隠れの里を抜け出した現実を払拭するには、僅かでありながらも効果があった。

 

「あ……そういやぁ…………」

 

 川の水で顔を洗った時に、指先に硬いものが触れた。

 額当て。

 それは、アカデミーの最後にイルカから貰い受けたものだ。

 牢から出てから今まで、ただ里から離れることだけを考えていたせいで、外すのをすっかり忘れてしまっていた。

 額当てを外し、木ノ葉隠れの里のマークが刻まれた鉄板を見下ろす。なるべく考えないようにしていた事が不意に頭の中に浮かんでしまい、涙を誤魔化すように強くまた顔を洗った。

 

【そんな事で、お前は望みを達成できるのか?】

 

 頭の中で、クツクツと笑みを浮かべながら問いかける者がいる。

 愉快そうに、嘲るように。

 ナルトは不愉快そうに鼻を鳴らした。

 

「お前が心配することじゃねえってばよ」

【お前がちんたらしているからだろう。何だったら、俺が力を貸してやろうか?】

「暇だからってチャチャを入れてくるなってばよ。まずは、フウコの姉ちゃんを見つけねえと」

 

 どうすれば彼女を見つける事が出来るだろうか。

 

 【暁】という組織が自分を狙っている事は知っている。その組織にフウコが属している、というのを、牢にいた頃にイタチから聞かされていた。つまり、その組織に自分が木ノ葉隠れの里から抜けた事を知らせれば、向こうからアクションがあるはず。問題は、どのようにして自分が外に出たと知らせるべきか。

 

 ──しばらくは、隠れておいた方が良いよな……。木ノ葉に追いかけられながらだと、面倒だからな。

 

 テキトーな場所を見つけて、修行をしようと考え始めたその時、ふとナルトは感じ取る。

 

 人の気配と視線。

 

 九尾のチャクラを、自身の意図によって扱うようになってからは、多くの気配を広範囲に感じ取れるようになった。

 

 気配の数は四つ。背後の林の中だ。

 

 しかし、こちらを囲うようではなく、四人は一箇所に纏まっているようで、しかもこちらに対して強い意図は感じ取れない。

 

 四人はナルトが視線を送ってくると、躊躇いもなく姿を晒した。

 三人の少年と、一人の少女。

 全員が、腰に注連縄を巻いている。

 

「貴方がナルト様ですか?」

 

 そう尋ねてきたのは、首の頚椎辺りにもう一つの首と頭を持つ不気味な少年だったが、何よりも不気味だったのは、見ず知らずの相手から様付けされることだった。

 

「お前らは?」

 

 不愉快そうにナルトは眉間に皺を寄せながら尋ねると、薄い赤の髪の少女が応えた。

 

「あたいらは大蛇丸様の部下です。貴方様を迎えにあがりました」

 

 大蛇丸。

 怒りに染まった赤い感情が、ほんの少しだけ首の裏を撫でた。

 

「大蛇丸様は、貴方様を迎え入れ、有益な情報を与えると仰っているぜよ」

「……具体的には?」

「うちはフウコという人物についてです」

 

 腕が六本の細めの少年と、四人の中で最も大きな少年が続けた。

 フウコの情報が手に入る。それは、今の自分が最も望んているものだ。

 けれど。

 

「帰って大蛇丸に伝えろってばよ。後でテメエのところに行って、フウコの姉ちゃんの事を洗いざらい吐いてもらうってな」

 

 大蛇丸を信頼する事も、そして大切な木ノ葉隠れの里を襲撃した事実を水に流す事も、許せる訳じゃない。ナルトの怒りは威嚇ではなく、純粋な本心だった。

 

 四人に分かりやすく伝える為に、わざと、九尾のチャクラを、僅かにだけ纏ってみせる。それだけでも、空気はまるで怯えるように震え、川の流れが大きく歪められる。ナルトにとってみれば、九尾のチャクラを三割ほど纏った程度。けれど、四人には、恐ろしい重圧にでも感じたのか、表情が強張っているのが見て取れた。

 

「大蛇丸様は──」

 

 と、それでも、頭部を二つ持つ少年は言葉を吐いた。

 

「もう、木ノ葉隠れの里に興味を持っていないそうです。貴方様が望むならば、一切の干渉をしないとも、言葉を受け取っています」

「そんなもん、俺が大蛇丸の野郎をぶっ殺せば済む話だってばよ」

「それに、力を貸すとも仰っておりました。うちはフウコという人物を探すには、その手前に、邪魔が必ず入る。その邪魔を、こちらで排除するとも」

「んなもんいらねえってばよ。全部、俺一人で片付けてやる」

 

 その為に一人で里を抜け出し、九尾のチャクラを扱えるようにしたのだ。

 

 誰も頼らない。

 誰も巻き込まない。

 そう、決意したのだ。

 ましてや、木ノ葉隠れの里を滅茶苦茶にした大蛇丸から協力を受けるというのは、自分が許せない。

 

 もう、面倒だとナルトは静かに思う。

 

 戦闘するのも、得は無い。逃げようか。九尾のチャクラを使えば、風だって置き去りに出来るだろう。そう思った際に、後ろ──ちょうど、川を挟んで反対側だ──に、多数の気配を感じ取る。

 

 気配の大きさは、犬ほど。犬たちの中には、パックンがいるのが分かる。ということは、おそらく、カカシにも情報は伝わるということ。その気になれば、今すぐにでも、忍犬を制圧する事は出来るけれど、ナルトは気付かぬふりをした。

 

 あくまで、ナルトの目的は、木ノ葉隠れの里への復讐ではない。

 

「──暁という組織の情報も与えましょう」

 

 そして、声は別の方向から飛んできた。

 彼の声にナルトは淡々と視線を傾け、そして四人の者たちは各々と驚きの表情を作った。

 

「君麻呂っ、テメエ、なんでここにいるんだよッ!」

「黙れ多由也。お前らだけでは心許ないから、僕は来た。案の定だな」

 

 白い少年はどこからともなく姿を現し──ナルトは既に気付いてはいた──ナルトが放つ九尾のチャクラに、丸く整えられた眉を僅かにも動かすことはないままにナルトを見据える。

 

「木ノ葉隠れの里を抜けた、ということは、ある程度の目処はついているということでしょう。暁という組織の名は、ご存知のはず」

「……それがどうしたんだ?」

 

 と、ナルトの問いに君麻呂は答える。

 

「大蛇丸様は以前、その暁に所属しておりました。構成メンバーの内容、組織の目的、それらは貴方にとって有益な情報です。もしかしたら、うちはフウコ自身の情報よりも。僕たちは、そして大蛇丸様自身でさえも、言うなれば貴方のサポートを目的としています。勿論、僕たちにも目的はあります。貴方が僕たちを利用すれば、自ずと目的は達成される。だからこそ、貴方を迎え入れに来たのです」

「…………………」

「たった一人でも、貴方は暁を滅ぼす事が出来るかもしれません。しかし、時間も労力も掛かる。リスクもあるでしょう。それを、僕たちが引き受けるという事です」

「大蛇丸は木ノ葉隠れの里を滅茶苦茶にしやがった。今更、信用なんかできねえってばよ」

「信用はいりません。ただ、利用してほしいだけです。危害を加えるつもりはありません。まずは、話だけでも聞いていただきたいと、大蛇丸様から仰せつかっています。もしも来て下されば、無償で暁への情報の一部を渡しましょう」

 




 次話は11月中に投稿したいと思います。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

空は誰の元へと繋がっていますか?

 投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿致します。


 視界の端をすり抜けていく葉々や枝々の隙間を埋める白い光たちが、まるで急く自分らを嗤うように感じてしまった。サスケは、苛立たしげに、飛び移った枝葉を蹴り次の枝葉に移る。

 

 木ノ葉隠れの里を出てから、殆ど景色は変わらない。自来也が先導している以上、目的地には向かっているのは間違い。なのに、どうしても、進んでいる実感が無いのは焦りが原因なのは、サスケも十分に自覚できている。

 

 事態の急転に、もしかしたら、まだ意識が追いついていないのかもしれない。

 

 いや、理解は出来ている。納得も……多分。

 

 風を置き去りにしようとするかのような速度で走っているというのに、追いかけてくる記憶は遠ざけられない。あの夜が忍び寄ろうとしている。音もなく。

 

 太陽は、傾き始めている。

 

 まだ十分に高いが、夜を迎えてしまえば、ナルトに追い付くのは絶望的。

 

 それが、焦りを招くのだろう。

 

「サスケくん、落ち着いてください」

 

 前方を走るシズネの声が耳に届いた。

 等間隔の距離を保っていたというのに、シズネはすぐ目の前にいた。普段のゆとりの多い衣服でなく、木ノ葉隠れの里指定の上忍装束だ。

 

「私達は、確実にナルトくんの元に進んでいます。そして、間違いなく追いつきます。少なくとも、この中の誰かは、必ず」

「……分かってる」

 

 シズネの言葉を納得していないような仏頂面に、彼女は困ったような笑顔を浮かべると先に進む。間を開けて、サスケも進んだ。

 

「カカシよ。まだ、ナルトは音の忍と共におるのか?」

 

 移動によって風が耳を叩くが、忍としての鍛えられた聴覚はサスケにしっかりと自来也の声が届いていた。

 

「パックンが尾行を続けていますが、そのようですね」

「バレていないのですか?」

 

 ヤマトの言葉に、カカシは頷くと「おかしいのう」と自来也は呟いた。

 

「ナルトの奴は、大蛇丸がしたことを知っとるはずじゃ。なのにどうして、音の忍と共におるのじゃ。今のナルトならば、そうそう振り切れぬ相手もおらんじゃろうに」

「フウコが──」

 

 サスケの声に、先頭を進む自来也以外の三人がこちらを振り向いた。

 

「姉さんが……関わっているからじゃ、ないか?」

 

 昔から、ナルトの行動はフウコを中心にしていた。

 だから木ノ葉隠れの里を抜け出したのだ。音の忍──大蛇丸の部下と共に行動しているのならば、フウコに出会うのに有用だと判断したからだろう。

 けれど、どうして大蛇丸がフウコとの繋がりを持っているのか。

 

「それは考えられんのう」

 

 と、自来也が応えた。

 

「確かに大蛇丸は、かつてはうちはフウコと共に、ある組織の一員だった事はある。じゃが、奴は既に組織から離反した身じゃ。わざわざ抜け出した組織の者と、未だコネを持つような奴じゃあない。もっとも、口八丁手八丁で嘘を吐くというのは、あるかもしれんがの。しかし……それでも、ナルトの奴が素直に大蛇丸の方へ進むとは考え難いが……………」

「先輩。ナルト君のところまでは、あとどれほどで?」

 

 ヤマトの問いにカカシは応えようと、耳につけたイヤホンからパックンの情報を聞こうとした。

 

「ああ。やっぱりテメェがいやがるのか」

 

 その時だった。

 

 話しながらも、ナルトに追い付くまでの時間がありながらも、五人は決して警戒を怠ったつもりは無かった。むしろ、警戒は強い方だったと言えるだろう。ナルトと共にいる音の忍たちが、追いかけてくる木ノ葉隠れの忍を想定しないはずがない。いつ、どのようなブービートラップがあるか分からない状況なのだ。

 

 それでも、その声は悠々と横から入ってきた。

 

 ちょうど、カカシの真横辺りからである。

 

 真っ先に視線を向けたのは、当然、カカシだ。彼はちょうど、次の木に移ろうと空中を移動していた時である。臨戦態勢を常に作っていたカカシは、片目だけの写輪眼で、声の主をはっきりと捉えていた。

 

 その後に、後ろのヤマト、シズネ、サスケ、遅れて先頭の自来也の順だった。誰もが、その声が耳に届いてからのアクションが遅れてしまった。

 

「──再不斬ッ?!」

「また会ったな、カカシ」

 

 至近距離だった。

 左腕で振られる首切り包丁が、腹部を狙っていた。

 即座にクナイを抜き、せめて腹部に刃が届かないようにチャクラを覆わせ強度を高める。同時に、背後でヤマトとシズネが動き出した。その後に、自来也が動き出そうとし、サスケが最も遅く動き始めた。

 しかし、四人の行動は制限される。

 頭上から降り注ぐ、氷の針によって。

 

「もう一人?!」

 

 医療忍者であるシズネは、培ってきた危機回避能力で真っ先に反応し、メンバーの中で一番戦闘能力に不安を持つサスケを庇おうとした。

 

 その瞬間、クナイと首切り包丁がぶつかった。

 

 前へ移動していた力と、再不斬の膂力を背負う首切り包丁は、カカシのクナイを砕くことは出来ずとも、それを支える彼の腕の力を上回ってカカシを後方下部──つまり、地面に叩き落とすことに成功する。いくら写輪眼を発現させて不意打ちの攻撃に対応できたとしても、完全に防ぐことは出来なかった。どうにか受け身を取り、追撃への姿勢を整えるが、それでもサスケの下を通り抜ける程の衝撃だった。

 

 続け様に、再不斬は追撃を仕掛けてくる。

 

 首切り包丁を縦に構えて迫ってくる再不斬に、カカシは今度こそ力を込めて受け止めた。

 

「再不斬……お前がどうしてここにッ!」

「悪ぃな。こっちもこっちで、面倒だと大いに思ってんだ。文句は言うんじゃねえぞ?」

 

 その時、辺りを濃霧が包み始めた。

 サスケたちからは、カカシの姿は完全に見えなくなってしまった。

 

(どうして再不斬の野郎が……ッ。それに、さっきの氷の術……………白もいやがるのか………)

 

 深い濃霧が鼻先を湿らされる感覚は、波の国での戦闘を無理にでも思い起こさせ、と同時に、木ノ葉崩しの際の二人の行動も想起してしまう。

 

 疑問が浮かぶ。

 疑問。

 疑問、疑問。

 また、疑問だ。

 

 いつだってどこだって、予想外の事は平然とこちらの意識に入ってきて、試してくる。

 だが疑問に答えを出す時間は無い。状況から考えて、今回彼らは、こちらの邪魔をしてきていると、投槍気味な意識を作り上げる。

すぐ傍にいるシズネ以外は、もはやヤマトも自来也も見えなくなってしまっていた。

 非常に危険な事態。そして何よりも、カカシが再不斬と対峙していることが、問題だった。

 

「おい、カカシッ! どこにいやがるッ!」

 

 写輪眼を発現し、濃霧のどこかに姿を消している白の奇襲に備えながら尋ねると、声だけが奥から届いてきた。

 

「こっちは任せろッ! それよりも、先に行けッ! 後で追い付く」

「ふざけるなッ! んなこと──?! おいッ!」

 

 腕を引っ張られる。

 

 シズネだ。彼女はサスケの腕を引っ張りながら、濃霧の中とは言え、つい先程まで進んでいた道筋を精密に進み始めた。

 

「サスケくん、行きましょう。私達の任務は、あくまでナルトくんの捕縛──いえ、奪還です。この濃霧の中でカカシさんを助けに行くのは得策ではありません」

「相手は二人だッ! しかもアンタ、相手がどういう連中か知らねえだろうがッ! 何を勝手に──」

「いえ……知っています」

 

 その言葉は、その場凌ぎの虚言や、単なる強がり等の類ではなかった。

 シズネは、二人に出会っている。実力を目の当たりにしてはいないが、どういった人格であるのかは、一部分ではあるが理解しているつもりだ。だからこそ、彼女は、忍として矛盾しているが、ある種の信頼を寄せていたのである。

 

 それに、状況も。

 

 シズネの語る、ナルトの捕縛は、忍としては実に正しい考え方である事はサスケも理解できている。ただ──。

 

「カカシさんは、忍の中でもトップクラスの人です。最悪の場合は、任務から離脱する事も考えるでしょう。それを含めての、先程のカカシさんの言葉です」

 

 深い霧を抜けると、自来也とヤマトは既に先を目指している。

 こちらを一瞥する彼らの目には、音の忍ではない予想外の人物の介入への訝しさを滲ませていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 濃霧の中で、金属同士がぶつかり合う音が響いていた。

 

 鼓膜を刺して、頭蓋骨の内側を叩かれるような、不愉快な音。しかし、カカシはその音に違和感を抱いていた。

 

 波の国で争った時と似たような状況。しかし、再不斬は接近戦を挑んできている。構築した濃霧を十分に活用しようとしない。

 

 斬撃にも、一撃目程の力が入っていない。片腕だから、という訳ではないだろう。

 

 時折、千本が飛んでくる。明らかに牽制だけを目的とした急所を大きく外した投擲。躱しながら再不斬に対応していると、やがて、霧は晴れていった。

 

 互いに、相手の行動に確実に反応しきれる距離を保ちながら立っていた。白の姿は、見当たらない。

 

「……どういうつもりだ、再不斬」

 

 カカシは呆れを込めた溜息を溢しながら呟いた。

 

「大蛇丸の時も、そして今回も……どうしてお前がここにいる」

 

 写輪眼で彼を見据える。左腕だけの彼は、首切り包丁を肩に乗せるように持ち、こちらを警戒しながらも、どこか淡々と清ました様子だ。

 一度、間を取るように再不斬は溜息をついた。

 

「ま、こっちにも事情があるってことだ、カカシ。あのガキを追いかけるのは諦めてもらおうか。そうすりゃこっちも楽だからな」

 

 ガキ。

 その言葉が、サスケを指しているのか、ナルトを示しているのか。

 いや、間違いなくナルトの事を言っているのだろう。ならば、ナルトの情報をどこで手に入れたのか。

 

「そういうわけにはいかないな」

「ふん。お得意のナカヨシごっこか。相変わらずだな」

「再不斬……どうやってナルトが里を抜けた情報を手に入れた?」

「それを言うつもりはねえよ。こっちの要求は唯一つだ。ガキを追いかけるのは止めろ。そうすりゃあ、こっちもこれ以上は手出ししねえよ」

「誰の差し金だ。大蛇丸か?」

 

 言いながらも、その可能性は非常に低いと考えている。木ノ葉崩しの際に、再不斬は暴走したナルトの阻止に加担したのだからだ。

 カカシの問いに、再不斬は溜息をついた。

 

「テメエには借りがある。ここで返すのも悪くねえ」

「片腕で俺に勝つつもりか?」

「俺には……優秀な道具がいる。前のようにはいかねえぞ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 四人となった今、速度を変えないままに進んでいく。

 

 先頭を変わらず進む自来也は、迷わず先導している。事前にカカシから方向を聞いていたのか、それともナルトを追いかけているパックンとの合流地点などを知らされていたのかもしれない。

 

 誰も、カカシへの言葉は無かった。それが、やや、冷酷に見えてしまうのは、まだ自分が下忍だからだろうか。

 

 

 

 やがて四人は川に辿り着き──ナルトを、見つけたのだった。

 

 

 

 とても、あまりにも自然に。まるで散歩の途中で休憩しているかのように、ナルトは川の傍の大きめの石に腰掛けていた。こちらに背を向けて、首を傾けている。空を見上げるように。

 

 自然な風景。

 

 

 それでも、状況はあまりにも不自然である事は、誰もが理解していた。捕縛対象であるナルトが目の前にいるというのに、四人は警戒するように距離を置いて立ち止まった。

 

「……おい、ナルト」

 

 声をかけたのは、サスケだった。

 他三人は辺りを警戒している。

 明らかな罠だ。

 追手が来ないことを考えていないはずがないナルトが、呆けている訳がない。

 それはサスケにも十二分に理解できている事だ。

 だが、写輪眼を発動できていないのは、彼が感情的になっているから。

 

「テメエ…………何してんだよ……」

 

 言葉の切り口は突然で、前口上なんて必要すら無かった。

 ナルトはこちらを振り向くことも無く、呟いた。

 

「てっきり、カカシ先生とかが追いかけてきてるのかと思ってたけど……なんだ、お前もいんのかよ、サスケ」

「テメエがこんな事しなきゃ、わざわざここまで来ることも無かったんだよ」

 

 違う、そうじゃない。

 ナルトに言うべき言葉は、そうじゃないのに。

 違う言葉が出てきてしまう。

 

「じゃあ、来なきゃいいじゃねえかよ」

「うるせぇ。さっさと──」

 

 里に戻るぞ。

 その言葉が、一瞬だけ喉元でつっかえる。

 もしも、その言葉を出してしまえば、結果が出てしまいそうで。

 だが、先にナルトが答えを出してしまった。

 

「里には……戻らねえってばよ」

 

 立ち上がる。

 振り返る彼は、諦観に近い笑顔だった。片腕には、口元と四肢を縛られたパックンが抱かれて暴れている。

 

「わざわざここまで来てもらって悪ぃけど、帰ってくれってばよ」

「──ッ!? ふざけ」

「そういう訳にはいかんのう、ナルトよ」

 

 感情に任せてナルトに飛びかかろうとしたサスケを、自来也は手を広げて制止させた。

 

「……エロ仙人」

「その呼び方を直して、ワシにしっかりと敬意を示してくれるまでは、木ノ葉隠れの里を出ていかせるにはいかんのじゃ」

「うっせえ。んなもん、いつだって呼んでやるってばよ」

 

 ニシシ、と笑ってみせる彼の姿は、日常だった。

 

「他の……その二人は知らねえけど…………。とにかく俺ってば、里には戻らねえから。他の連中にも、言っといてくれってばよ」

「うちはフウコの元へと行くのか?」

「……ああ。そうだってばよ。場所はまだ分からねえけど、今から探す。木ノ葉隠れの里にいても、どうせ見つけられねえんだからよ。俺ってば、掟を破っちまったからな」

「お前の拘束は既に解けている。うちはイタチ……火影も、自由を保証してくれるじゃろう」

「……俺がアカデミー生の頃も、自由(、、)だったってばよ」

 

 誰も言葉を返す事は出来なかった。

 過去という蓄積が、ナルトの言葉に説得力を持たせてしまったのだ。他人の作った過去が生み出した前例を覆すのは、強固という表現他ない。

 静かな風が川の音を攫っていくのを、ナルトは俯き、息を吐いて流した。

 次に顔を上げた時は、やはり、これまで何度も見せてきた、屈託の無い笑顔だった。

 

「じゃあな。俺ってば、木ノ葉隠れの里を出るってばよ」

 

 完全な別れの言葉。

 

 それが引き金となって、自来也の制止を振り切ってサスケは走る。

 

 遅れて、自来也が即座に動き出す。

 

 ヤマトは印を結び、ナルトを捕縛しようと木遁を発現させようとし、シズネがカバーするようにクナイを取り出していた。

 

 だが、しかし。

 いや、もはやというべきか。

 盤面は詰んでいたのだ。

 

 その後ろの木々の隙間から、起爆札が巻かれたクナイが空へと垂直に投げられ、起爆する。その音が、合図だった。

 パックンが大慌てに口を動かし、ようやく縛られていた紐を僅かに抜け出して伝えた。

 

「すぐにこの場から離れるんじゃッ! ここは結界の範囲内じゃッ!」

 

 言葉は遅く、同時に、四紫炎陣は展開された。

 

 自来也たちの察知範囲から十分に離れた四点に潜んでいた音の忍たち。彼らは、右近の投擲した起爆札を合図として、同時に忍術を発動させたのだ。

 

 紫炎の壁が四方を囲んて高く立ち上る。

 

 脱するには間に合わないと、自来也、ヤマト、シズネは察する。

 

 サスケはそんな事を気にする余裕は無かった。

 

 左手を彼に伸ばす。

 

 届けと願う。

 

 だが、やはり、それも──。

 

 ナルトは呟いた。

 

「サスケ。またな。次会う時は、ぜってえ俺の方が強くなってっからよ」

 

 その言葉を残して、ナルトは消えたのだ。

 既に結界は完成されている。変わり身の術を使ったところで、結界から抜け出すには距離がある。

 

(……おちょくってんのか…………あの野郎ッ! 影分身でわざわざッ! それを言う為だけにッ!)

 

 頭が痛い。血液が首筋を昇って急激に酸素が熱せられていく。目の奥が熱くなって、痛みすら感じてしまう。

 

(絶対に連れ戻してやる。両手足へし折ってでもッ!)

「まんまとしてやられましたね」

 

 後ろでヤマトが呟いた。彼は冷静に四紫炎陣を見上げていた。

 

「これほどの範囲で四紫炎陣を発動させるなんて……並みの相手じゃないですよ。どうします? 自来也様」

「正攻法なら、各四点にいる術者を叩いた方がいいのじゃが……」

「んな悠長な事、してられねえよ」

 

 サスケは歯噛み、声を震わせた。

 

「さっさとあのウスラトンカチに追いついて、首根っこ引っ掴んで里に戻る。あんたらがちんたらしても、俺は行くからな」

「分かっておる。ワシもそのつもりじゃ。シズネ、パックンを見てやってくれ。これからナルトを追うのに、パックンの力は必要じゃ。ヤマト、辺りに何かおるか?」

 

 シズネは素早く縛られているパックンに駆け寄って、診断を開始する。その横で、ヤマトは木遁分身を何体か生み出して、索敵に出した。

 

「いないようですね。分身からのリアクションが無いので。結界は完全な足止めでしょう」

「なら問題ないのう。真正面からではこちらに勝てないと吐露しているようなものじゃ。そんな連中は無視に限る。さっさとナルトを追おうかのう」

「結界をどうにか出来るのか?」

「このワシを誰だと思うておる。結界に閉じ込めた程度でどうにか出来るなら、ワシは三忍とは呼ばれたりはせん。伊達に男を磨いてきたわけじゃあない」

 

 不敵に笑ってみせる自来也が右手を握っては開いてを繰り返した。軽い準備運動とでも言いたげだ。しかし、余裕を見せる自来也の態度に、サスケは急かすように強く睨みつけていた。本当なら、こんな会話も必要ないのではないかとさえ、考えてしまっている。

 

 自来也は、溜息を溢した。

 

「サスケよ。少し肩の力を抜け。頭に血を昇らせたままじゃあ、出来る事も出来ん。足手まといが増えるのはゴメンじゃ」

「………………」

「もしも無事にナルトのところまで辿り着きたいというのなら、感情は抑えよ。年長者のアドバイスじゃ。参考にしておけ」

 

 さあてと、と自来也は肩を回した。

 

「結界はワシが破る。パックンの状態が確認出来次第、動き出そうかのう」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 彼女には、声が聞こえていたのだ。

 

 白が悠久に続く、果て先も此方も境の無い、距離という考え方を持たせない脅迫的なまでの世界で、ぼんやりと上を見上げていた。不思議と、上下の概念は在ったのだ。

 

「……私は────」

 

 誰だろうか?

 ふと、彼女は思う。

 ずっと、どこかへ行こうとしていた。そんな、感情というべきか、幻想というべきか、確信だけはあった。外側が無いのに、中身だけがある。不思議な感覚だけがあった。いや、正しくは、外側も内側も透明で、その更に周りを漂う何かだけがある、と言ったほうが良いかもしれない。

 彼女──フウコは歩き出す。

 その方向が、自分の行くべき道だと思ったからだ。

 先に何が在るのかは、分からないままに。

 

 意識は進んでいく。その意識が、他者からの介入によって動かされているものだとは分からずに。

 

 さながら麻薬だ。

 一歩、一歩と。

 進めば進むほど、幸福感が高まっていく。幸福感が鮮明になればなるほど、内側が満たされていく。自分の家族の事、大切な人たち。それらの顔が浮かび、恍惚となってしまう。

 その意識の動きが、身体にも反映されてしまっていった。

 

「どうかしましたか? フウコさん」

 

 幽霊のように立ち上がったフウコに、サイは尋ねた。彼の警戒心のないような機械的な声は、しかし、着流しのフウコの意識には届かない。

 

「ああ……みんな……………待って……」

 

 フラフラとした足取りで、何もない壁へとフウコは向かう。

 

 またか、とサイは思った。フウコが唐突に動き出し、脈絡のない行動をするのは見慣れた。不気味さをサイは感じない。ただ、壊れていると感じるだけのまま観察を続ける。一応は、サソリから世話をしろと言われているからだ。

 

 フウコが壁に額をぶつけた。怪我をしたかもしれない。よく眺めると、額から血が垂れていた。救急箱はどこだっただろうかと思っていると、フウコはブツブツと声を発した。

 

「え? この壁……なに? …………向こうに、みんながいるのに………。邪魔だな……………」

「フウコさん。向こうには何もありませんよ。ただの壁だけです」

「削れば、行けるかな?」

 

 またフラフラと方向を変えて歩く。

 壁に立てかけられている長い刀を手にとって、そのまま目の前の壁を、鞘ごと刀を振って削り始めた。その行動が、サイには僅かな寒気を招かせる。何度見ても、慣れても、湧き上がる感情──サイ個人としては、抱くものは生物的本能だと解釈しているが──には耐性が出来上がらない。

 

 人間の成れの果てを見ているようだったからだ。

 死ぬのは怖くない。

 忍だからだ。いつでも死の覚悟は出来ている。

 

 けれど、彼女の姿は、その一歩手前なのだ。

 

 死ぬことも出来ず、生きて何かを成す事も出来ない。

 生きてきた意味が完全に彼女は喪失し、結果を出すことも出来ないのだ。

 人間がそうなってしまう姿が、いずれ自分にも訪れるのかという恐怖。それが、怖かった。

 

「ダメだ……削れない……………」

「フウコさん。座りましょう。きっとサソリさんの部屋に治療道具があるでしょうから──」

「そうだ……外に出れば(、、、、、)、良いんだ。遠回りになるけど、裏側に出口とか在るはず。そうだ。うん、それがいい」

「え?」

 

 耳を疑った。

 今、何と言った?

 あまりにも脈絡がなかった。

 

 外に出れば?

 

 そう、言ったのか?

 救急箱を探しに行こうと視線を逸していた時である。慌ててサイはフウコを見遣った。

 白い着流しに、腰には黒い帯がだらしなく巻かれている。その帯に、刀を差し込んで、両手を空けていた。その両手が、空気を丸めるような形を取っているのが見える。

 印を結ぼうとしている。

 

 サイにとっては予想外の事だった。

 

 意識が鮮明になっていない時のフウコは、忍術を使えない。肉体エネルギーはまだしも、精神エネルギーが不安定な状態で忍術を発動するのは困難を極め、チャクラを練る繊細さも持ち合わせていないからだ。それは、サソリから知らされている事実。チャクラを使った暴走はあっても、忍術は発動しないと。

 

 だから、予想の外。

 

 時空間忍術で、外へ行こうとするなんて、全く思っていなかった。

 

「フウコさ──」

「イタチ、イロリちゃん、サスケくん、ナルトくん……みんな…………今、行くからね」

 

 ただのイタズラに過ぎない。

 

 悪質で、悪意以外の要素を持たせない、彼女の中の彼女がもたらすイタズラ。鬼の居ぬ間に。サソリの居ない間に、イタズラをしようと考えただけ。そのイタズラにさえ、フウコはもう、逆らえない。

 

 フウコは、外へ。

 

 たった一人で、青空の下に投げ出され、白い光に身を任せる。

 室内とは違った心地よい湿度と風が、鎖骨を撫でた。

 裸足を一歩、前に出す。素足は尖った石を踏みつけ皮膚を破ったが、痛みは届かない。

 目指す方向、辿り着きたい座標。

 それは持ち合わせていない。ただただ、彼女の中の彼女が生み出した蜃気楼に向かっていく。周りは木々だけ。それも、木ノ葉隠れの里の近くだった。

 

「今日は、良い天気」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

選択する孤独

 投稿が大変遅れてしまい申し訳ございません。

 次話は2月中に投稿します。


 ──君麻呂のヤロウ。あたいらを時間稼ぎに使いやがってッ!

 

 四紫炎陣を維持させながら、多由也は舌を荒々しく打った。彼女の苛立ちは、広範囲に展開する四紫炎陣に多くのチャクラを消費している事に加え、何よりも、君麻呂に完全な駒扱いされた事から沸き立っている。

 

 確かに、彼は音の五人衆(、、、)の中で最も力がある。血継限界のみならず、彼が持つ天性の戦闘センス、術に対する見極めといった忍に必要なスキルがズバ抜けているのだ。実際に、彼とは何度も──模擬戦ではあるものの──戦ったが勝てた試しが無い。

 故に、音の五人衆でも序列はあった。実力による、純然たる覆す理屈を挟む余地の無い、絶対な序列。

 

 だがそれでも、だ。

 

 気に食わない。

 

 血継限界だろうと何だろうと、見下されるのだけは我慢できない。いくら、理に適った作戦であっても。

 

 ──さっさと大蛇丸様の元に着いて、知らせを出せってのッ! 四紫炎陣は、一日中も続かねえんだぞッ!

 

 ぶつけようのない怒りを噛み締めながら、チャクラを維持し続ける。仕方ない、と。今は術を継続するしかない。そう自分に言い聞かせて、頭を冷静にする。安心を胸に置いたのだ。

 

 彼女には──いや、他の音の忍も、安心があった。

 

 発動している四紫炎陣は、結界術の中では高位のもの。優れた上忍であろうと、安々と打ち破れるものではない。いや、殆どの上忍は突破できないと言っても良い。攻撃性は結界にのみ付与され、それ以外は術者自身も行動が一切できないが、四人の術者を要する術であるが故に、防御性は高い。

 

 相手には、木ノ葉の三忍である自来也がいることは右近から情報が入っている。最初に耳にした時は驚愕したものだ。だが、ナルトが注意を引いてくれたおかげで、先手をこちらが打つことが出来た。

 

 戦闘的な勝利は手に入らないものの、目的達成という立ち位置からみれば完全な勝利が手に入る。ナルトがアジトに辿り着けば、後は逃げるだけ。四人散り散りに動き、呪印を駆使すれば逃げ切ることは、自来也であっても可能だと予測していた。予測は確信にも近かった。

 

 だが、安心も確信も、あっさりと打ち破られる。

 

 強い衝撃が、結界を大きく震わせ、ヒビが入り。

 

 破られた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ま、こんなものじゃろう。ふん、ワシにチャクラをじっくり練らせるなど、愚の骨頂じゃ」

 

 泥団子でも作ってみせたように、キザったらしく言ってみせる自来也を、サスケは後ろから呆然と見ていた。

 

 息を呑み込んでいたのだ。

 

 彼が放った忍術が、螺旋丸だったということ。

 ナルトが使っていた螺旋丸よりも密度は高く、球形が遥かに大きかったこと。

 

 三忍と言えど、老齢である彼を完全に見誤っていた事実。

 それらに驚嘆した。片手しか使用しない術だが、意味もなく手を叩く彼の背中が、やけに大きく見えてしまうのは、彼自身の体躯だけではないかもしれない。

 

「すごい………」

 

 シズネも同じような驚きを抱いたのか、深い溜息を吐いた。

 

「おうおう、惚れられてもワシは責任持てんぞ?」

「いえ、そのような事はありませんが……」

「つまらん奴じゃ」

 

 唇を子供っぽく尖らせる自来也を横目に、ヤマトは辺りに視線を巡らせながら呟く。

 

「パックン、ナルトくんの匂いを追うことは出来ますか?」

 

 口を閉じられていたパックンは、シズネが開放し、素早い手際で彼の身体に異常が無いか診断していた。どうやら、問題は何も無いようで、シズネは診断の為に集めていた手のチャクラを薄める。

 

「なんとかな」

 

 と、パックンは答えた。

 

「ナルトの奴はそう遠くは行っておらん。だが、ここからは森の中を進んでいく事になる。どんなことが起きるか分からん。ましてや──」

「追手はワシが片付ける」

 

 パックンの言葉を、自来也が引き継いだ。

 

「先程の広範囲な四紫炎陣を発現する連中じゃ。大蛇丸にとってはそれなりに信頼を置かれる程度の力はあるのじゃろう。もしかしたら、呪印を持っておるかもしれん。それを四人相手にできるのは、ワシくらいじゃろう」

「大丈夫ですか?」

 

 問うたヤマトの冷静な表情は、自来也を心配してのものではない事を物語っている。

 気にしているのは、自来也がナルトの元へと辿り着くまでの時間が許されているかどうか。ナルトが九尾のチャクラを操れるならば、自来也の力が必要だと、ヤマトは判断していたのだ。

 

「問題無い。気にするべきは、お前たちが辿り着くかどうか、じゃ。先程、カカシと相見えた連中のように、音の忍だけが関わっているようには思えん。他にも、予想外の事態があるかもしれん。警戒はしておけ」

「分かりました。目印は残しておきます」

「いらぬ。どうせ追手の連中からアジトの場所を吐かせれば行き着く先は同じじゃ。とにかく、今は速度だ。速さが重要じゃ。今すぐ行け」

 

 ヤマトとパックンは同時に頷き、川を越えて先へと進んだ。それに続き、シズネが。サスケも彼らに続こうと自来也の横を過ぎ去ろうとした時。

 自来也に肩を掴まれた。

 

「今のうちに言っておくぞ。万が一があっても、覚悟はしておけ」

 

 重々しい声が頭の中にずっと響きながら、サスケは不安を肩に乗せて先を急いだ。

 一人となった自来也。

 彼は、背中からヒシヒシと伝わってくる殺気に、軽々と首を鳴らした。

 

「言っておくがの、お前ら。もし、先へ行った者たちを追いかけようとワシに背を向けたら──命は無いと思え」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 先行するパックンについていく。パックンの後ろはヤマトが続いているが、その後ろにサスケ、そして最後尾がシズネという隊形に変わっていた。

 

 後ろで自来也が、四紫炎陣を展開していた連中を足止めしてくれているものの、万が一にでも追手が来ないとも言い切れない。他にも潜んだ忍がいるかもしれないと、シズネの提案があったのだ。カカシと自来也がいなくなったことによって、前方からの奇襲に対して弱くなってしまった為に医療忍者としては後方にいることが望ましい、という事らしい。背後のみの警戒ならば、自分でも十分だというのも、理由だった。

 

 しかし、サスケは、それは嘘だと感じていた。

 

 明確な要因があったわけではない。理屈も通っている。単なる直感に過ぎない。ただ、そう感じたのだ。シズネの優しい笑みや視線の僅かな動き、指先の動きから、何となく。

 

 彼女の目から見て、自分はまだ冷静さを取り戻せていないと判断されたのだ。

 

 たしかにまだ、心が逸っている。

 

 焦っているのか、怒りに染まっているのか、他の何かか。カカシと離れ、自来也とも別れた状況が、より混沌とさせてくる。

 

「ナルトまでの距離は?」

 

 前方のヤマトがパックンに尋ねるのを、集中して耳を傾ける。内側から湧き上がってくる逸りから逃げるように。

 

「そう遠くへは行っていないはずだ。匂いも途切れていない。だが、追いつけるかどうかは分からん。大蛇丸のアジトがどこにあるのか、見当も付かんからな」

「少なくとも、まだここらではないはず。木ノ葉から近すぎる。なら、こっちが先に届くはず」

 

 このまま何もなければ。

 そう、パックンが言おうとした時だった。

 反応したのは、最後尾のシズネである。そう、襲撃は後方からだった。

 

「敵ですッ!」

 

 声に、パックンを含む全員が視界の端で後方を見遣る。

 まさに今、クナイを構えたシズネと、ボロ布に身を包む一つの人影が交差しようとしていた。

奇襲は想定していたが、それよりも別の驚愕が平等に誰の心の中に巣食う。いや、パックンだけは更に大きい衝撃があっただろう。

 

 後方。つまり、自分たちが通ってきたルートからだ。

 

 索敵は怠らなかった。パックンの嗅覚は、意図的であろうとも、異質な匂いは獲得してしまう。その範囲は人間の、訓練された忍を遥かに凌駕する。

 

 にもかかわらず、感じ取れなかった。どれほどに匂いを消しても、人間ならば匂い(、、、)はあるはずなのに。

 

 金属音が響く。

 

 シズネの構えるクナイと、人影の腕から生える刃が交差した。

 

 ──これは……傀儡人形?!

 

 相対したシズネだけが今、事実を手にしてしまう。

 ボロ衣で全体を曖昧にしているが、眼前のボロ衣の隙間から覗かせる顔は、木材で構成された人形のソレだった。腕の部分から生えている刃は、木材が可動して伸ばされて出されている。刃には液体が。

 

 既にシズネは自身の失態を理解する。人間とは全く異なる行動を可能たらしめる傀儡人形に対して、完全な接近戦は無謀だ。

 

 即座に離れようと、木の枝を蹴ろうとする。しかし、傀儡人形の稼働が早かった。

 クナイで塞いでいた刃。その刃を生やす腕が急激に曲がり、シズネの腕を捕えた。そして、手首から新たに刃を剥き出しにし、シズネの肩を切り裂いた。

 

 鮮血が、飛び散る。

 

 痛み。そして、刃に塗料されたおそらく毒が、体内に侵入した事への苦悶を浮かべながら、人形を蹴り飛ばし距離を取る。

 

「おいシズネ──」

「大丈夫ですッ!」

 

 サスケの声を遮り、彼女は指示を出した。

 

「それより、糸を見てくださいッ! 傀儡人形にはチャクラの糸が着いていますッ! それをッ! その先をッ!」

 

 写輪眼で人形を見る。シズネの言う通り、人形にはチャクラの糸が伸びていた。糸は側面。森の中だ。森の暗闇の中に、しかし、チャクラの塊を感知する。

 

 左手と右手にクナイと手裏剣を、所構わず手に取った。

 

 片方は森の中、そしてもう片方は、まるで反対側の森に投擲したのだ。

 

 チャクラの塊から、まだ幾本ものチャクラ糸が伸びていたのだ。木々を経由して迂回し、そう、背後に回っていたのだ。背後に迫っていた傀儡人形二体に突き刺さるが、止まらない。

 

 それは分かっている。クナイと手裏剣はあくまで標。

 

 ヤマトが追い打ちで木遁を発動させるための目標に過ぎない。彼の手から発現する太い木が、背後の傀儡人形二体を絡め取り、粉砕する。しかし、チャクラの塊を捕らえる事は叶わなかった。

 素早く動くチャクラの塊。

 更に、糸が増えるが、その先から傀儡人形が姿を現そうとはしていなかった。

 

「傀儡人形……砂の忍か?」

 

 辺りの警戒をしながら、ヤマトは呟いた。

 

「パックン。数はどれくらいいる?」

「それが……匂いがしない。全くだ。数なんて見当もつかん」

「傀儡を動かしてる奴は今の所一人だ」

 

 チャクラの動きは追えている。近付こうとも、遠ざかろうともせず、一定の距離を保ったままだ。シズネが蹴り飛ばした傀儡人形も、チャクラ糸は繋がったままだが、ピクリとも動こうとしない。

 

 様子を伺っている、という風には、サスケには感じ取れなかった。

 

 動かないなら、こちらは何もしない。そういった水面下の意思表示を感じる。敵意が無いのだ。写輪眼で見られている事も相手は理解しているのか、牽制するようにチャクラ糸を揺らめかせている。

 

 チャクラを視認できないヤマトは、次の攻撃に備えて、サスケとシズネの間で身構える。

 

「シズネ、怪我の方はどうだい?」

「問題はありません。刃に毒が塗られていましたが、今、殆どを抜きました」

 

 シズネは血塗れの掌の、その上にチャクラで抽出したであろう白紫の液体が浮いていた。毒を抜いたと言っても、異物が体内に入っているというのに、医療忍者だからか、シズネは平静そのものだった。

 

「どうする? 相手は明らかに足止めを狙っているぞ」

 

 パックンが鼻を震わせながら、声を潜めて言ってくる。未だ数が特定できていない様子だった。サスケも、チャクラの塊に意識を向けながら小刻みに視線を巡らせているが、際立ったチャクラの塊は見当たらない。

 

 いや、たとえ。

 

 数が多くても、一人でも、どちらにしろ。

 

 引き返すという選択肢は、サスケの中には無かった。一切、ありはしない。

 

 ただヤマトたちが任務続行不可能と判断してしまえば、彼も彼女もパックンも、サスケにとっては障壁となる。不要な犠牲を出さない為に、という名目の下に。

いつの間にかサスケは、視線の中にヤマトとシズネを入れていた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ──このまま黙って尻尾巻いてくれりゃあ、苦労はねえんだが……。

 

 傀儡人形と同じボロ衣を頭から羽織ったサソリは、森の暗闇の中で悠々と佇んでいた。視線の先には、木ノ葉隠れの忍が三人と、忍犬が一匹。その中には、面倒なことに、フウコの弟のサスケがいる。

 

 写輪眼が赤い光を放つように、こちらを睨んでいるのが分かる。暗闇に潜んでも、チャクラを捉えているのだろう。ヒリヒリとした敵意が伝わってくるが、隠れるつもりは無い。姿を見せていれば、牽制になるだろうし、チャクラ糸を森に隠した傀儡人形に接続しておけばより、仕掛け辛いはずだ。

 

 目的はあくまで、ナルトを大蛇丸の元へと届けること。戦闘は二の次だ。

 

 ましてや、フウコの弟がいるとなれば傷を付けるわけにはいかない。彼の血液が付着し、フウコの嗅覚がそれをキャッチしてしまえば面倒だ。

 

「おい、白。そっちは順調か?」

 

 視線を彼らに向けながら、サソリは首元に着けた、チョーク型の無線に声を当てた。

 

【順調ですが……その…………】

「なんだ、何かあったか?」

【再不斬さんが、少し、熱が入り過ぎてしまっているようで……隙あらば殺しそうな勢いです】

 

 ああ、とサソリはどうでも良さそうに溜息を零す。まあ死ななければ問題無いだろう。木ノ葉隠れの忍であるカカシを殺すのはいただけないが、そこら辺は白がコントロールしてくれるだろう。逆に再不斬が死んでも、遺体を回収さえすれば人傀儡に出来る。

 

「とりあえず、そこで足止めをしておけばいい。だが、派手にやるなよ? 人柱力が里から抜けるなんざ、暁の耳にいつ入ってもおかしくない大事だからな」

【その……】

「なんだ」

【サスケくんが……いたのですが】

「俺の前にいるな。安心しろ、傷つけるつもりはない。俺も、後々フウコに暴れられたくはないからな」

 

 再不斬がカカシに、白がサスケとナルトに執着や関心を抱いているのは、彼らを同盟に加えた際に経緯を説明してさせた時に理解した。再不斬はカカシに対しての愚痴を愉快そうにも不愉快そうにも語り、白は単純に嬉しそうに語ったからだ。

 気配りなどと、センチメンタルなものではないが、同盟を潤滑にする為の些細な手入れだ。

 無線から白の溜息が聞こえてきた時。

 サスケたちが、自身らの足元の太い枝に煙玉を叩きつけたのだ。白い煙が広がり、彼らの姿が見えなくなる。

 

「白、再不斬に言っておけ。あくまで俺達は時間稼ぎだ。殺しも殺されもするんじゃねえぞ」

 

 言い残し、無線を切る。

 チャクラ糸を展開する。森の中に隠した幾つもの傀儡人形。いずれも、複雑な機構ではないシンプルなものだが、毒は十二分に仕込んでいる。

 

 六つの傀儡人形で即座に煙の周囲を包囲した。

 

 無闇に攻撃は、当然、出来ない。木ノ葉の忍がナルトを追ってくるだろう予想の下に、使用している毒は全て痺れ毒にしているが、クナイの投擲や刃が、万が一にでも致命的な部位に当たれば、人間は簡単に死んでしまうのだ。

 

 傀儡人形を稼働させ、毒液を滴らせる刃だけを出す。

 目を凝らす。煙の微細な動きを逃さない。

 彼らの中には、不可解な事に、木遁らしき術を使う者がいる。初代火影のみが使用できたとされる、もはや伝説にも近い術。それも、ほぼノータイムで出し、絡め取ってくる厄介さがある。

 

 僅かに緊張が。

 

 動く。

 

 煙を引っ張るように出てきたのは、その木遁の術を使う男だった。他に動きはない。

 

 ──陽動か?

 

 こちらが一人であるという事がバレてはいないはずだ。写輪眼でチャクラが捉えられても、木々の裏側などに潜んでいる可能性を見捨てるわけがない。ましてや、こちらは人傀儡と傀儡人形。そして、匂いも消している。嗅覚でも精密を欠くだろう。彼らからしてみれば、幽霊を相手にしているようなもの。

 

 そんな不確かな環境で、無闇な陽動は考えがたい。

 

 ならば、男がナルトを追う側で、残りがこちらを狙ってくるのか? それならあり得る。写輪眼でこちらの位置はバレている。狙ってくるか。

 

 チャクラ糸を動かし、三体を男に当てながらも、視野には煙の動きを収めている。

 

 男が術を発動する。やはり、木を掌から生み出した。

木遁。サソリ自身、その術を目の当たりにしたことは無かったが、確信に近いものを感じた。初代火影は、その木遁で九尾を御したとされている。なるほど、男がこの場にいるのは得心する。

 

 ──なら、お前を真っ先に潰さねえとな。

 

 男を戦闘不能にすれば、残るは医療忍者らしき女とサスケと忍犬のみ。抑え込める。

 

 三体の傀儡人形は木遁に絡み取られ粉砕されるが、サソリは即座に一本のチャクラ糸を、空中に舞う傀儡人形の腕に接続した。

腕には刃が。

 動かし、男の脹脛(ふくらはぎ)に突き立てた。まずは動きを。すぐに、突き刺した腕から糸を外し、また別の腕に接続。

 今度は肩部に。外し、今度は脚に接続し、脇腹に。

 男の動きが止まる。十分だ、とサソリは判断し、他三体を動かし、四肢全てに刃を突き立てた。

 煙に動きはない。

 

 ──仕留めた。後は……ッ!?

 

 残った二人を抑え込もうとした時である。

 

 風が吹いた。

 

 右から左へと流れるような横向きではない。

 下から上へと流れる上下の気流。

 

 風は後ろからだ。

 

 視線を、初めて大きく外し、振り向く。そこには、男──ヤマトがクナイを構えていた。彼の足は、まるで海から跳ねた魚が作る波紋のように、木の幹に溶け込んでいた。

 

「木遁には、そういう移動手段もあるのか」

「自慢話をする趣味はないよ」

 

 逆手に構えたクナイが顔面を狙ってきた。

 どうにか顔を下げて躱すが、予想だにしない動きに体勢が僅かに崩れる。その隙を狙って、ヤマトは空いてる手で足場の枝を叩いた。

 すると、彼の掌を中心に、サソリの逃げ場を囲うように半円状の木造のドームが構築された。一瞬で袋小路を作られる。そして、ドームの内側を満たし破裂させるように、幾本もの木造の柱が、ヤマトの掌から斜めに迫ってくる。

 

 潰される。

 

 サソリに選択肢は一つしかなかった。

 

「久しぶりだ、自分を使うのは。焼け死にたくなけりゃあ避けろ」

 

 特別な感情もなく、ただただ面倒そうに、サソリは人傀儡である自身を使った。

 

 両手を上に向ける。木造のドームの天井だ。掌から黒い筒を出し──炎を吐き出させる。高温の熱は瞬く間に木を侵食し、脆くしながら、ドームの中を回転し逃げ道となるヤマトへと向かったが、サソリは気にしない。後は強引に身体をぶつけ、無理矢理にドームから逃れた。直後、柱がドームを貫通する。

 

 ──炎を避けなかった? いや、違う。

 

 燃えるヤマトを、サソリは見遣る。炎が容赦なく空気を吸い込みながら燃えるが、その中心にいるヤマトは木遁で生み出された分身体だった。

 

 つまりここまでが、陽動。いや、時間稼ぎ(、、、、)

 

 視線を煙に向けた時には、本物のヤマトとサスケが動き始めていた。

 

 ──させるか。

 

 木造のドームでチャクラ糸が遮られたが、即座に傀儡人形たちに接続した……が、動かない。先、傀儡人形たちで刺したヤマトも分身体。それも、木の、だ。突き刺した刃が抜けず、木の重みで重くなっていた。

 重くなっているなら、刃を切り離し追えば良いのだが、その時間をシズネは与えなかった。

 

「毒霧ッ!」

 

 シズネが口内から吐き出した紫の煙が、サソリを覆った。

 

 奇しくもヤマトの分身体を燃やした火が、写輪眼を持たないシズネでもサソリの位置を把握できたのだ。

 

 シズネにすれば、相手の視界を奪い、少しでも傀儡人形の操作を鈍らせればそれで良いと考えた仕掛け。しかし、サソリには絶大な効果を与えていた。

 

 サスケを傷つけられない。毒霧が塞ぐ視界が、サソリに一切の傀儡の操作を許さなかった。即座に霧から脱したが、サソリが煙の動きに注意を払っていたのと同様に、シズネも注意を払っていた。

 

 動きを予測され、眼前に。

 

「先程の毒、お返ししますッ!」

 

 彼女が握るクナイには、ついさっき抽出した毒が塗られている。

 

 躱せないタイミングだというのが、シズネの確信だった。それほどの近距離と姿勢。首元を正確に狙った機動を描く。首は血流が激しい部位だ。頸動脈を切れなかったとしても、毒は瞬く間に全身に回るだろう。

 

 クナイを握っている右腕が僅かに、痛みや出血を遠因とする痺れとは違う違和を感じ始めている。極微量の毒でも痺れが出るのだ。首を切れば、十分なはず。

 だが、サソリにも確信はあったのだ。

 

「えっ……ッ!?」

 

 クナイの感触にシズネは声を溢した。

 人体を切り裂く感覚ではなく、鉄か何か固い物にぶつかった衝撃が腕に響いた。

 

「悪手だったな、女」

 

 驚愕に硬直を示したシズネの腕を、サソリは片手で掴む。

 人傀儡であるサソリの握力、身体能力は、サソリが自身の身体にどれほどチャクラを注ぐかによって決まる。掴んだ力は、万力の固定だった。

そして空いた手でチャクラ糸を、近場に潜ませた傀儡人形に接続する。

 

 カタカタカタ。

 

 その音は、すぐに、シズネの背後で音を鳴らしたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ナルトが足を止めたのに、君麻呂は不思議そうにこちらを振り向き、同じように足を止めた。

 

「どうかしましたか?」

 

 大蛇丸の元へと赴くことを決めてから、君麻呂は敬語を使うようになった。不愉快ではないが、どこか居心地が悪い。森の中に偶発的に出来たであろう小さな原っぱを揺らす風の方が、まだ耳に優しい。

 その風の中で、密かに気配を感じた。

 

九喇嘛(、、、)。少しチャクラを貸してくれってばよ」

 

 小さく呟くと、心の中で彼が鼻を鳴らした。力強いチャクラが腹部から湧き上がっているのを感じ、同時に、感覚が鋭敏になっていった。

 

「君麻呂」

「なんでしょうか?」

「お前、どれくらい強いんだ?」

 

 彼からすれば、脈絡のない問いだったのだろう。一拍の間をおいて、君麻呂は応えた。

 

「少なくとも、さっきの──多由也たちが束になってきても、勝てるくらいには」

「木ノ葉の上忍を相手にして勝てるか?」

「一対一なら、大蛇丸様とカブト先生を除けば、確実に」

 

 謙遜なのか、事実なのか判然としないのは、君麻呂の表情が乏しいせいだ。ナルトは唇をへの字にしたが、仕方ない、と言いたげに鼻から深い溜息を溢した。

 

「なら、一人は任せるってばよ」

「一人?」

「大人の方だってばよ。あと、犬かな? それも頼む。他は──サスケは、俺が相手をする」

 

 その言葉に、鉄面皮だった彼の表情が一瞬だけ強張る。

 

「それは出来ません。僕の任務は、貴方を大蛇丸様の元へと送り届けることです。邪魔な相手は、僕が全て相手します」

「あー、そういうのは良いってばよ。俺は俺のしたい事をするんだ。大蛇丸のところに行けばいいんだろ? 道もさっき聞いたし、大丈夫だって」

「万が一があります。もしもナルト様が捕まるようなことがあれば──」

「そんなもん、俺の勝手だろうがよ」

 

 低い声で、遮られる。

 

 ナルト自身からすれば、小さな苛立ちを言葉に乗せた程度。けれど、君麻呂が抱いた寒気は、喉元に極大の牙が突き立てられるような、避けようのない死を想像させてしまうほど強烈なものだった。

 

 無意識に君麻呂は、一歩、片足を後ろに下げていた。そんな経験は、君麻呂にとっては初めての経験だった。

 

 殺されるかもしれない。自身の感情が血液の温度と共に冷えていくのを感じた。

 

「大蛇丸んところには行く。お前が言った、フウコの姉ちゃんの計画について、聞かなきゃならねえからな。絶対に捕まらねえよ。サスケには……ぜってぇ負けねえ」

 

 君麻呂は、何も言い返してこない。それが、ナルトにとって少しだけ、寂しさを与えた。

 

 自分が何かを言えば、必ず誰かが言い返した。

 

 カカシや、サクラや、サスケや、イルカや──。

 

 また風が吹く。殺風景な空へと空気が昇っていくのを、首筋が感じた。空を見上げると、ああ。ふと、実感が降ってくる。

 

 静かで、返事のない場所。

 

 懐かしい実感だった。

 

 孤独だ。

 

 ただ、息苦しさは無かった。吸う空気は心地よい。ただ、肩の後ろ辺りが寒い、そんな不思議な孤独だ。

 

 きっと、自分で選んだからだろう。押し付けられた孤独じゃない。

 

 けれどどうしてだろう。

 

 今さっきまで、君麻呂をここに置いてさっさと先に進もうかと考えていたのに、気配が近づくにつれて足が重く

なっていく。

 

 そして、彼はやってきた。

 

「ナルトォッ!」

 

 聞き慣れた、怒鳴り声。けれど、これまでの何よりも、苛立ちを孕んだ乱暴さがあった。それでもナルトは、つい、笑みを浮かべてしまった。幸いな事に、その笑みは、背後から迫ってきたサスケたちには見えない位置だった。

 

 自分が背を向け、サスケが追ってきた。

 

 その状況は、まるで逆だった。

 

 フウコが里を抜けた、その後。

 

 うちはの町の入り口で、相対した時と、逆だ。

 

 おかしくて、でもやっぱり、どこか寂しくて。ナルトは、吹っ切るように、笑ってみせた。

 

「なんだ、遅かったじゃねえか。サスケ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

朧月のアマテラス

 今にして思えば。

 

 ナルトとこうして対峙するのは、初めての事かもしれない。里を抜けた者と、それを追う者、という状況を指し示しているのではない。ただ、少しだけの距離を取り、互いに立って向かい合う。そんな、ともすれば、日常の中でひょんなタイミングに顔を出してしまうくらい、単純な事。

 

 いや、いや。

 

 何度かはあった。

 

 互いに、そう、まるで鏡合わせのように、睨み合うような事態だったが。

 

 鏡は──フウコ。

 

 いつも、間には彼女がいた。

 

 自分はフウコを憎み。

 ナルトは、フウコを慕い。

 

 真反対の感情を抱いて。

 

 だけど今は、そうじゃない。サスケはフウコへの、かつての家族としての感情を(にわか)に抱いている。フウコという鏡は横にズレ、対面するナルトの顔が、今、ようやく見えたような気がした。

 どこか嬉しそうに、どこか悲しそうに、笑みを浮かべているナルトの顔が。

 

「というか、追いかけてきたんだな。わざわざ御苦労なこって」

「それが任務だからな。逃げるテメエを追いかけるのは当たり前だろうが」

 

 逃げる。

 

 その言葉を知らず知らず選んでいた。

 違う。彼が逃げているのではない。追いかけているだけだ。これまでの彼と変わらない。ただ真っ直ぐ、信じているものへ進んでいるだけ。

 

「さっさと里に戻るぞ、何度も同じことを言わせるな。そこの音の奴は、俺が始末してやる。シズネも自来也も、あとカカシも面倒を背負い込んでいるんだ」

 

 サスケは写輪眼で隣の白髪の男を睨むと、君麻呂はゆらりと脱力しながらも敵意で身体を満たした。ヤマトも構える。

 だが、ナルトはあっさりと述べるのだ。

 

「さっきも言っただろう。里には、戻らねえってばよ」

 

 返事の内容は変わらない。半分は期待して、半分は予想外──いや、「も」だ。悪い方の期待通りだったのだ。

 

 きっと、きっと。

 そう、きっと。

 

 自分がナルトの立場だったら、同じように応えただろう。

 あるいは何も言わないで、大蛇丸のところへ行っていたかもしれない。いや、分からない。考えたってしょうがない。

 

「どうして戻らない……。兄さんは、フウコのことを──」

「あー……そういう話は………ちょっと、し辛いってばよ」

 

 ナルトの青い瞳が、ちらりとヤマトとパックンを見遣る。果たして彼らは身構えるが、ナルトは気軽に背を向けてみせた。

 

「場所、移そうぜ。君麻呂。あと、頼むってばよ」

 

 そう言い残して奥へと駆けようとした瞬間、ナルトは確かにこちらに一瞥をくれた。

 挑発するような陽気な視線に、頭の中で何かが切れたような感覚が。もはや感情に任せた声すら出なかった。気が付けば、奥の森へと消えていくナルトを追うために駆けていた。迫りくる君麻呂の動作さえ気にしないほどに。

 

 君麻呂は既に眼前だった。

 

 だが、溶岩にも近い激烈の感情を抱えても尚、サスケの動きには無駄がなかった。クナイを抜いて持つ逆手から精密に君麻呂の眼球を狙った。

 しかし、君麻呂はそれを躱し──そのまま、後方のヤマトへと迫ったのだ。

 

「サスケは通すつもりなのか? なら、サスケ! 君は先に……って、ああ、もう!」

 

 ヤマトの声が届くよりも先に、既にサスケは森の中に姿を消していた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 サスケがナルトを追いかけた瞬間に、既にヤマトは術でのサポートの準備をしていた。こちらにはパックンがいる。たとえ君麻呂との戦闘で時間を割かれても、パックンの嗅覚がナルトとサスケを追うことが可能だ。

 相手を子供とは考えず、最短最速で潰し切る。それを想定していたおかげで、サスケを通す、という事態にも即座に動くことが出来た。

 

 左手で地面を叩く。君麻呂の足元から、幾本もの太い木の幹が立ち昇り、絡め取る。

 

「木……木遁か? まさか、お前は──」

「昔話は好きじゃないんだ。特に、大蛇丸の部下にはね」

 

 身動きできないにも関わらず無表情を解かないこと、自分の過去の一端を知っている様子だったこと、それらがヤマトに不気味な焦りを与えた。それでも、想定した動きを続ける。

 

 印を結び、木遁。

 

 確かな殺意を以て、両手を合わせた。

 

「木遁・双木壁(そうぼくへき)

 

 巨大な分厚い双璧の木が、空気を低く弾く音と共に君麻呂を挟み潰した。

 まともな忍ならば、もはや人間の原型すら留めない圧力。だが、双璧の隙間が無いというのにチャクラを注ぎ続け圧力を強めた。

 

 それは──。

 

「早蕨の舞」

 

 血の一滴も溢れない壁の隙間から、溜息にも近い声がゆらりと、通った。

 壁を貫く無数の鋭利な骨たち。地面に突き刺さり抉るもの、中空へ禍々しく突き立つもの、地面と平行に行き場を求めて伸びるもの。無秩序に暴虐に伸び、貫きに迫ってきた。

 

「木遁・木錠壁(もくじょうへき)!」

 

 咄嗟にシェルター型の木造を生み出す。

 

 が、骨の大津波は鋭く貫いた。想像以上の力と硬性。頬と肩口を僅かに切られながらも、後退し躱す。避けて、下がり、ようやく骨の勢いが止まった。

 

「鉄線花の舞・花」

 

 間髪すら許さない攻撃は、上空から。気配に顔を上げると、上空へ歯牙を向けていた骨から分離するように君麻呂が現れていた。全身が濃い紫へと変色し、巨大な尾を付けた、異形の姿。それを何よりも象徴するのは、彼の右腕に構築される、骨の(やじり)だ。ネジレを加えたそれは、見るからに分厚い質量を持っている。

 

 ──躱せる……か?!

 

 両手から木遁を発現し、角材状の木で強引に地面を叩いた。

 直後。

 自分が数瞬前にいた地面が、君麻呂の骨の鏃が落ちる。

 

 砂を、土を、石を岩を、軽々と砕く耳障りな音。それらの破片が、衝撃によって吹き飛ばされ、破片がヤマトの肉体を襲った。皮膚と肉を貫く事はなかったが、痛みは脳を痺れさせる。

 

 それでも、視線は塞がない。両腕で細かい破片を防ぎならも、腕の隙間から確かに君麻呂の次の動作を確認する。

 

 今は砂煙が深く立ち込め、君麻呂は見えない。

 

 だが、チャクラの禍々しさは伝わってくる。

 

「お前を大蛇丸様の元へ持って帰れば御喜びになるだろうが、あの方の──イロミ様の細胞を頂いてから、術の加減が難しくなっている。半殺しで済む程度には、抵抗しろ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 赤いチャクラの名残だけが手掛かりだった。

 全速力でナルトを追いかけている。太腿の筋肉が小さな痛みを出し、足首に溜まる疲労が重さと硬質を小刻みに蓄積させてくる。なのに、ナルトは木々に阻まれている事もあるものの、視界に入らない。チャクラの名残があるおかげでどうにか追えてはいる。

 

 九尾のチャクラ。

 

 脳裏にそれが過る。波の国で、暴走したナルトが見せた力。そして、木ノ葉隠れの里でも。彼の持つ──いや、抱える力は、コントロールが出来ないものだと、ずっと思っていた。

 だけど、今は違う。チャクラの名残には冷静と丁寧さがあった。きっと、彼は意識的にコントロールしている。それも、わざと(、、、)速度を落として。

 

 疲労と苛立ちが積み重なるままに、森はやがて開けた。白い日差しの先には、高い滝があった。

 

 終末の谷。

 

 かつて、初代火影・千手柱間と、うちはマダラが袂を分かち、その決着を付けた地とされる谷である。しかし、かつてはただの平野だったのだ。川が流れる、川辺。その長閑(のどか)な光景は、二人の争いによって形を変えた。地面は隆起し滝を作り、その下には広い川と森がある。善悪は別として、偉大な二人の忍の姿を模した巨大な石像が、滝と川を挟んで向かい合うように作られていた。

 

 ナルトが足を止めたのは、うちはマダラの巨像の頭部。それに合わせるかのように、サスケは、千手柱間の巨像に足を止めた。

眼下には、元々は平坦な川だったであろう、壮大な滝が音を立てている。水が細かくなって生まれた湿り気は二人の頬を軽く濡らすまでに至った。なのに、どうしてだろう。乾きを、サスケは抱いていた。嫌な乾きだった。

 

 だが、声が出ないのは、それだけじゃない。

 

「なあ、サスケ」

 

 辺りは静かだった。滝の音は聞こえるが、低音だ。喧騒な風も木々のざわめきも無い。ナルトの声は、酷く耳に届いた。彼は、やはり笑みを浮かべて、ようやくこちらを振り返った。

 

「お前、フウコの姉ちゃんのこと、どう思ってんだよ。まだ恨んでんのか?」

 

 うちは一族が滅ぼされ、うちはの町の前から、ずっと。互いに、その言葉を確かにぶつける場面は無かった。まるで、タブーにしているように。ナルトがフウコを慕っていること、サスケがフウコを恨んでいること、それは共通の認識にも等しいものだったからか。

 

 サスケは、ナルトの問いに小さな恐怖を抱いた。

 

 本当の本当に、ここが、分け目。分水嶺。

 

 返答次第で、ナルトは有無も残さず、今度は全速力で逃げるかもしれない。そうなると、もう、届かない。

 嘘を語るには、けれど、ナルトの視線は真っ直ぐ過ぎた。

 

「……ああ、まだ恨んでる」

 

 サスケは、はっきりと言った。

 

「父さんや、母さん……うちはの皆を、殺したんだ。恨まねえ理由なんざ、あるわけねえだろ………」

 

 イタチやイロミは、信じると言っていたが、それでもやっぱり、すぐに信じるなどというのは出来ない。恨み続けた時間は、心に怨恨を根付かせ跡を残すには十分過ぎた。

 

 それでも。

 

「だけど……フウコをどうするかは…………フウコに会って、決める事にはした」

 

 もしかしたら、信じているのかもしれない。サスケは、その言葉を小さく呑み込んだ。うちは一族の繋がりを否定してしまうような、そんな、子供らしい恐怖が胸を刺していた。

 

「そうか」

 

 ナルトの囁きは、二人の間を流れる風と滝の音に揺らがされながらも、確かに耳に届いた。

 

「ならよ。俺と一緒に、フウコの姉ちゃんを追いかけねえか?」

 

 まるで遊びに誘うように、気軽な調子で手を伸ばしてきた。

 強い風が吹く。

 

 ごう、ごう、と。

 

 互いの前髪が、視界を僅かに遮りながら揺れる。

 もう、ナルトが止まらない事を、サスケは直感させられた。

 

「知ってるかもしれねえけど、俺はこれから大蛇丸のところに行って、情報を集める。力も付ける。そんで、フウコの姉ちゃんを助けんだ」

「……ッ! そんなもん、里にいたままでも──」

「木ノ葉じゃ出来ねえってばよ。何より、フウコの姉ちゃんは、もう木ノ葉には帰れねえ。どんだけ説明しても、フウコの姉ちゃんは犯罪者なんだ。牢にぶち込まれて、裁かれる」

「今は兄さんが火影だッ! 何か別の、フウコの罪が許されるような手段を考えてくれるはずだッ! 時間は掛かるかもしれない、それでも、いつか必ず、フウコは……姉さんは帰ってくるッ!」

「帰ってきて……どうするんだってばよ」

 

 落ち葉のように軽やかで、深根よりも暗い声だった。落胆と諦観が不均等に混ざりあった声だった。

 

「ずっと……言われ続けるんだぞ…………。犯罪者だって……………ずっと……」

 

 可哀想。

 可哀想。

 そんな言葉が、頭の中で逆巻いた。

 うちは一族が滅ぼされてから、里の中を歩くたびに、憐憫の声を耳にした。本人たちは届いていないと思っているのだろうか。視線も、声も、サスケには耳目を覆っていた。煩わしく、苛立たしく。声は、今では届かないが、視線は時折背中を撫でてくる。

 

 過去は消えてくれない。

 

 消そうと思っても、周りが足跡に光を差し込む。何度も、何度も。時間という風で、足跡が見えなくなるまで。誰も、足跡を付ける本人を見ようとはしないのだ。

 

 そして、それは、ナルトも同じだった。いや、彼の方が、その重みを知っている。ずっと孤独を押し付けられてきた。

 

 一つの一族を滅ぼしたという罪は。

 

 たとえ言葉を尽くし、持ち得る善意を全て他者へ与え、痛みの全てを抱えてようやく、贖えられる権利を手に入れられる程度の可能性しか見出させてはくれない。

 

 憐憫を貰えるかもしれない。

 孤独という安心を手に入れられるだろう。

 そうして、終わりは確実に来るのだ。

 

「俺は……フウコの姉ちゃんに助けてもらった。楽しかった。修行も付けてくれた。だから、このまま、フウコの姉ちゃんを木ノ葉に連れて戻る訳にはいかねえんだ」

「テメエは今までッ! どんな連中にも言ってきただろうがッ! 火影になるだのなんだのッ! その調子で、フウコに指を向ける連中を説得してみせたらどうなんだッ! 木ノ葉には、バカな奴らだけじゃねえッ! サクラや、カカシや……イルカや、それにヒナタも、お前の言葉を信じてくれる奴らがいるだろッ!」

「……分かってる。でも、やっぱ駄目なんだ」

 俺は。

 俺は。

 俺は。

「フウコの姉ちゃんに、悪いもん全部おっ被せた連中を、一番許せねえ。そいつらをぶっ殺す為に、俺は大蛇丸の元に行く。そんで──」

 

 

 

 俺は、木ノ葉隠れの里を再興する。

 フウコの姉ちゃんが安心して住める、住んでくれる事を許してくれる連中だけの木ノ葉隠れの里を俺が……火影になって作り直してやる。

 

 

 

「だからよ、サスケ。俺は里には戻らねえ。たとえお前が、どんなに俺を追ってきても、どんだけ腕引っ張ってもだ。今の木ノ葉は……俺にとって敵だ」

 

 ナルトが、目の前にいた。

 

 写輪眼でさえも、軌跡を辿れないほどの速度。ナルトを追ってきた時よりも、濃く禍々しく揺らめく赤黒いチャクラを纏ったナルトの瞳と対面する。

 

 赤く染まった瞳に、鋭く縦に伸びた瞳孔。

 

 そして、写輪眼だからこそ捉えてしまったビジョンがあった。

 

 巨大な赤い体毛を持つ、九尾の邪悪な笑みが。

 

「…………ッ?!」

 

 衝撃が、腹部を深く沈ませた。

 

 肉が、靭帯が、軋む音が背骨を伝って脳へ。足に浮遊感が齎されると同時に、横隔膜が押し上げられて息が吐き出される。

 

 身体は軽々と後方へ。像から落ちる事はなく、石に身体を叩きつける前に受け身を取ったが、呼吸を戻そうと意識を働かせる事は……しなかった。

 

 ナルトの追撃が迫ってきたのだ。

 

 やはり、軌跡が辿れない。時間が消えたように。

 

 彼の拳が狙うのは、右顔面。腕で防ごうとするが、間に合わない。腕でガードしようとしたが、届いたのは指先だけ。衝撃の殆どは視界を揺れ動かし、脳を震わせ、再び身体は飛ばされる。眼下の滝壺が、落下する感覚の思考に映し出された。

 青い空を反射するような青。滝から離れた川の流れには、まだ白泡が姿を残している。

 その慌ただしい青と白の上に、ナルトが立っていた。青を弾き出す獰猛な赤いチャクラがある。

 

 ──ふざけんな…………ふざけんなぁッ!

 

 フウコを信じている彼が、木ノ葉隠れの里を抜け出す。

 そんな自分勝手な──真っ直ぐな感情を突き進む彼に、いよいよ、サスケは理性を切った。印を結ぶ。

 

「火遁・業火球の術ッ!」

 

 全力の火炎玉を吐き出す。チャクラのコントロールすら半ば放り投げて生み出された熱量は、自身の顔さえも熱するほど。湿度の高い空気は膨張し、半ばサウナのように蒸し暑くなる。

 ナルトを易易と呑み込んだ火炎玉は、川を蒸発させながら高い飛沫を生み出した。

 遅れて、サスケが着水する。足にチャクラを溜めて水表に降り立った。水蒸気が視界を覆う中、サスケが見るのは水面。荒々しく揺れる波の中を観測し続ける。

 

 どれほど速くとも、水面では波が立つ。

 

 なら、それを合図に動けば──だが、その狙いはあっさりと覆される。

 

 水面に波は立つ。

 

 たったの、一瞬で、幾連続も。

 既にナルトは後ろ。どうにか振り返り、視界の端でなんとか姿を捉える事が出来た。

 滝の飛沫が視界に僅かに入る。その向こうに、赤い瞳。

 

 赤。

 

 赤い瞳だ。

 

 そう、彼女と同じような、赤い瞳だった。

 

 夜が意識を呑み込んでいく。

 

 ──また、何も出来ないのか……?

 

 ナルトの右拳が、顔面を殴打した。

 身体は後方に転がり、勢いのままに水表を転がる。

 廻転する視界。青い空と青い川の視界は上下を見えなくさせ、意識を鎮静させてしまう。意識は暗くなっていく。

 

 夜が、呼び起こされる。

 

 どうして、どうしてだ。

 どうしていつも、止められない。

 イロミを。

 ナルトを。

 フウコを信じると、ずっと胸を張って言ってきた者たちが、誤った道を辿るのを、ただの呼び止めさえも叶わないのか。きっと──そう、サスケは認めていたのだ。少なくとも、フウコは完全に(、、、)悪ではないと──二人が正しいのに。

 フウコへの恨みはまだ、やはりある。

 それでも、牢で決めたのだ。

 イロミとイタチの前で。

 信じようとは……すると。

 

 それなのに──。

 

「悪い……サスケ。やっぱ、お前はこっち(、、、)に来んな」

 

 気が付けば、仰向けに浮かんでいた。

 

 視界が揺れる。頭が痛い。そう、眼球の奥が痛い。

 

 殴られたのは、顔面だったが頬だ。奥歯が欠けたようだったが、眼底などの損傷は無いはず。川水が目端から溢れる。涙じゃない。だが、泣いているように、眼が痛い。

 

 フウコが遠くへ行った夜も、最初は眼が痛かった。

 

 実際に、涙も流していた。また、あの時と同じだ。

 

 違う。

 

 あの時とは、今は、違う、はずなんだ。

 

 フウコを殺すために修行してきた。力を手に入れてきた。だから、今回こそは、止められるはずなんだ。

 

「お前には……家族もいるんだからよ。血の繋がった」

「…………フウコは………俺と血は、繋がってねえ…………ッ」

「……は?」

 

 ナルトの緩んでいた表情が、固まった。

 

 ああ、とサスケは思う。

 

 そうか、知らないのか。それも、確かに、そうだ。あれほど、尋ねなければ応えない姉である。自分が養子だった、などと語る訳がない。

 

「おい……どういう意味だよ──」

「そのまんまの意味に……決まってんだろうが…………」

 

 ナルトにはきっと、侮蔑の意味を込めたように聞こえたのだろう。

 

 だが、自分で血の繋がりが無い、と語って、サスケの中に感情が芽生えた。再確認できた、という事だ。

 

 どうして、ナルトを追いかけたのか。

 

 火影であるイタチの命令だから。

 

 彼の方がフウコを信じていたのに、木ノ葉隠れの里を抜けようとしているから。

 

 違う。

 

 繋がりが、消えるからだ。

 

 ナルトとはずっと睨み合ってきた。アカデミーを卒業して、同じ班になってからは、碌な記憶もない。

 

 だけど──。

 

 胸ぐらを掴まれ、無理矢理に起き上げさせられるが、サスケは真っ直ぐ怒りを滲ませたナルトを睨んだ。

 

「あいつは………養子だ……………。兄さんとも、血は繋がってねえ。テメエの考えてるような、馬鹿みたいに単純な関係じゃねえ……」

「そう……だったのか」

 

 うちは一族が滅んで、この事実を知っている者は、どれくらいいるだろうか。

 安堵して息を溢すナルトを睨んだまま、胸ぐらを掴む彼の手首を強く掴んだ。

 

「だから……血の繋がりだとか、そんなもんは、関係ねえ。ただの……繋がり(、、、)だ。テメエもだ………ナルト………。どんな手ぇ使っても……木ノ葉に連れ帰ってやる」

 

 今にして思えば、嬉しかったのだ。

 

 姉を信じ続けてくれて。

 

 そして、波の国で救ってくれて。

 

 フウコの事を知っている彼が、繋がりが、消えてしまうのは、だから、嫌だった。

 

 血の繋がりなんて、サスケは幼い頃から感じたことがない。うちは一族の誇りはあっても、それは、うちは一族が警務部隊の中心にいたからだ。血ではなく、形の繋がりによる誇りだ。

 フウコも、きっと、そうだ。家族という形で繋がっていた。血の繋がりだなんて、気にした事なんて無い。幼い頃から、傍にいたのだから。

 

 きっと。

 

 そう、きっと。

 

 単純な繋がりは、始まりは……ナルトだったのかもしれない。

 

 もしもフウコが里を出なければ、純粋な友達になれたのかもしれない。フウコを通じてだが、同じ相手に似たような感情を持って、関わり合っていた。

 

 あるいは、全く別の様相で繋がりを持っていたかもしれない。

 

 アカデミーで落ちこぼれで孤独な彼と、アカデミーなんて興味を示さない孤立する自分と。まるで鏡合わせのような、不思議な繋がりが、あったかもしれない。

 

 そんな感覚は、ナルトにもあるのだろうか。

 

 強引にナルトの腕を引っ張ると、意外にもあっさりと振りほどけた。咄嗟に距離をとり、向かい合う。赤いチャクラは依然としてナルトを覆っているが、敵意はなく、ごく自然に立って……笑っていた。

 

「ようやく、お前と向き合えた。何だか、嬉しいってばよ」

 

 眼が痛くなる。

 

 ナルトの言葉に衝撃を受けたものの、感動的とも情緒的とも言えない感覚。やはり、涙は出ない。鼻の奥がツンとする感覚も無い。なのに、どうしてだろう。痛い、視界が黒くなっていくような気がする。

 辛うじて、彼の表情が笑みから、強気な鋭い眼光が上書きされるのが見える。

 

「だったら……決着付けようぜ。ずっと俺は、お前とこうして……戦ってみたかった」

 

 言葉の分水嶺が通り過ぎ、もはや白と黒を付けるだけのシンプルなものへと移行した。それなら、分かりやすい。

 だが……、今の自分で勝てるのだろうか? 恐怖が忍び寄る。

 今のナルトの速度を、写輪眼ですらまともに捉えきれていない。反撃の手立てが一切ないのだ。速度でも届かない。忍術は、最大にチャクラを込めた術でもチャクラに弾かれてしまう。それ以上の術となれば、時間が必要になる。そんな余裕を許してくれはしないだろう。

 

 勝てない。

 

 暗雲が思考に立ち込め始める。視界が揺れる。熱い、熱い。

 

 ナルトが一歩踏み込んでくるのが、事細かく観測できた。いや、時間が緩やかになったのだ。急激に。それに比例するかのように、視界が黒くなっていく。

 

 黒く、黒く、深く、深く。

 

 視界が黒くなり、だが、物の輪郭だけは白く光っていた。

 

 黒は夜空。白は、月明かり。そんな連想が促される。

 

 夜。

 

 ああ、やっぱり。

 

 あの夜と同じなのか。

 

 ──ふざけんな……。

 

 実力を付ける為に、修行をしてきた。フウコを殺すために。

 

 白と戦闘し、修行の量を増やした。

 

 なのに。

 

 ──…………動けよ……。

 

 ナルトの速度は未だ緩やかに観測できるが、自身の身体は重い油に塗れたように言うことを聞かない。水飛沫が視界に入り、光を乱反射して黒い視界の中で白く輝く。星のように、乱雑だ。

 

 ──………動けって……………姉さんを………追うんだろう………。

 

 あの夜を晴らしたい。

 

 あんな夜は、二度と経験したくない。

 

 もう。

 

 ──あんな……夜は……ッ!

 

 フウコに裏切られたと信じ切ってしまった(、、、、、、、、、)、あの夜を想起し、振り払おうとする。

 

 繋がりが絶たれないようにと。

 あの夜の──父と母、そしてうちは一族が滅んだ事を示す血の香りに対しての──喪失感が、方向を反転して、フウコへ。

 そして、ナルトに向かうことによって、確信へと変わる。

 失いたくない。

 大切な、繋がりを。

 眼が、痛い。

 同時に、夜が捌けていく。

 黒い視界が外側から円形に、虫眼鏡で太陽の光を集めるかのように、収束していった。

 

 脳が痺れて、そして──夜を祓い、(そら)()らす黒炎へと至る。

 

 ほんの僅かな、炎だったが。

 




 投稿が遅れてしまい大変申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

怒りと暴走。そして、怒りと暴走。

 黒炎がナルトの右肩に灯る瞬間を、サスケは直接目視する事ができなかった。黒に覆われた視界が徐々に収束し、ただ一点になった途端に、左眼の痛みが限界を超えたのである。眼球そのものが爆ぜたような感覚と、左側の視界が明滅した衝撃に、思わず手で覆ってしまった。

 

 右手に感じ取れる生暖かい液体の粘性が、涙ではない事を如実に語る。

 

 突如として生まれてきた痛みと出血。しかしそれよりも、サスケの脳裏に起こるのは、ナルトの事だ。

 痛みで目を覆う。それだけの動作だが、今のナルトなら攻撃を実現するのに十分な隙だ。なのに、何も起きない。

 

「うおッ?! 熱ッ! あちぃッ!」

 

 どころか、彼の間抜けな声が聞こえてくる。ナルトは足を止め、左肩を灼く黒炎に悶えるように、右手で炎を払っていた。

 

「なんだ?! 火が消えねえってばよッ」

 

 手で払い、挙げ句に川の水をすくい上げて黒炎に当てるが、面積は徐々に広がり始めている。

 消えない黒炎。

 尋常ならざる炎に、ナルトだけではなく、右眼だけでも眺めるサスケでさえ驚きを隠せなかった。

 

 ──俺が……出したのか…………?

 

 その黒炎には、見覚えがある。

 

 かつてフウコと争ったイタチが発現させた忍術。思い起こした時、右眼で短く辺りを見回した。もしかしたら、と兄の姿を探したのだが、見当たりもせず、右手をゆっくりと離した。案の定、手のひらには血が溢れ、痛みを堪えながら薄く開く左眼の視界には血液の赤がのっぺりと纏わりついている。

 

 そんな視界でも、サスケには別な違和感を抱かせた。

 

 まだ黒炎を消せていないナルトの姿。視界の上を彩る青空。奥の森たち。それらが、どういうわけか、視える(、、、)。今までと何かが変わったのか、言葉が思い付かないのに、視えていると確信出来てしまう。

 

 ナルトの動きが秒未満の細かさで観測できる。

 空の色の極細な変化が見て取れる。

 森の葉葉(、、)たちの動きが遠くないのに音よりも早く観測しきってしまう。

 

 そして──。

 

【ほう。貴様のような餓鬼が、ワシを見通すか】

 

 もはやそれは、見通すという次元で語られる状況ではなかった。

 瞬きをした訳でもないのに、巨大な赤毛の狐の姿がナルトの背後に現れていた。しかし、現れたのではなく、自分がキツネの前に姿を出したのだ。

 辺りは森も空も滝も無い、果てが見えない空間。振り返ると、祭壇のような櫓があり、その上には太陽にも見紛う巨大な球体のチャクラの塊が。そのチャクラからの光が力強く、しかし仄暗く巨大な狐の体毛の赤を強調させていた。

 

「お前は……九尾か………?」

 

 見上げる狐の背後に九つの尾が、山の背に並び立つ木々の唸りのように蠢いていた。波打つ尾の数が示すのは、カカシから聞かされていた、ナルトの内に封印されている者の存在。状況が理解できない最中でありながらも、自然と問いが口をついていた。

 九尾は獰猛な瞳の視線をサスケに送りながらも、喉を鳴らして低く笑って見せた。

 

【無意識にここを見通したのか。貴様のような餓鬼だろうと、目の前にやってこられるのは不愉快極まりないことだ。さっさと失せるがいい。どうせお前にはナルトを止めることは出来ん。尻尾を巻いて木ノ葉に帰れ】

 

 不敵に笑う九尾の口角が動揺を消し去り、声を荒らげさせた。

 

「おい、今すぐナルトにチャクラを送るのを止めろッ!」

【止める訳がないだろう。儂はナルトと契約をしたのだ。ナルトが木ノ葉を滅ぼすまで、力を貸すという契約だ。アイツがチャクラを求めるなら儂は送り続ける。それにだ──】

 

 九尾は視線を上げ、サスケの後方のチャクラの塊を見据えた。

 

【たとえ、儂がチャクラを止めたところで、ナルトはアレを使う。だから儂は協力する事にした。どちらにしろ、ナルトは止まらないからだ。ならば、力を貸す。ましてや木ノ葉を滅ぼすのだからな。愉快だ】

「ナルトは……ただ、木ノ葉を作り変えようとしているだけだッ!」

【結果は変わらない】

 

 と、九尾は豪語する。

 

【ナルトが木ノ葉を変えようとすれば、木ノ葉も抗う。どの戦争もそうだ。儂は何度も見てきた。どいつもこいつも大層な事を言っておきながら、最後は戦争に行き着く。そしてナルトは負けん】

「…………だったら──」

 

 木ノ葉隠れの里を出る時、イタチは言った。

 写輪眼には、九尾を抑え込む力があると。

 幻術に分類されるのか、封印術に値するのか。チャクラの運用が分からない。それでも、写輪眼にチャクラを注ぎ。

 弾かれた。

 

【失せろ】

 

 九尾にとっては鼻息を鳴らした程度だったのかもしれない。

 赤いチャクラの奔流に身体を浮かされ、押し出される。空間から。そして身体は重さを失い、そこで一度感覚は完全に途切れ、やがて現実に戻った。

 身体に重力が伸し掛かる感覚。呼吸の感覚。更には、眼球の激痛。視界には、時間にして一瞬も経過していないのか、黒炎にまだ苦戦するナルトの姿があった。

 

 ──もう一度…………いや…………。

 

 再度、サスケはナルトの中に見通そうとしたが、途中で思考を切り替える。九尾を抑え込む選択は捨てる。たとえ、術を持っていたとしても、意味がない。ナルトには別のチャクラがある以上、抑え込んでも止まらない。

 なら。

 なら。

 

 ──お前をぶっ飛ばした方が……手っ取り早いッ!

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 サスケと視線が重なった時、ナルトは肩を黒炎に灼かれながらも、少しだけ嬉しい気分になったのだ。

 

 片眼から血を流し、おそらく湧き上がってくる激痛を捩じ伏せるような、怒気に満ちた形相。

 

 ようやく。ああ、ようやく。

 

 本気で戦える。

 

 ずっと、こうしてみたかったんだ。

 

 木ノ葉隠れの里を抜けると考えた時は、ひたすらにフウコを想っていたせいで忘れていたのかもしれない。それか、木ノ葉隠れの里を再興する際に、戦えば良いとでも、どこかで思っていたのか。

 音の五人衆と合流し、影分身体を残した時に気付いた。その気付きは、偶発的なものだった。

 

 影分身の術。

 

 その術が持つ特性をこれまで知らなかったナルトにとっては、影分身体が消えた瞬間に獲得した記憶が、まるでサスケが後ろから肩を叩いてきたような錯覚を与えたのだ。

 

 アカデミーに入学した日。

 

 サスケは周りから注目を浴びていた。

 背中に刺繍された、うちは一族の家紋。それが、周りの大人や子供たちの視線を奪っていたのは、里で疎まれた視線を送られ続けてきたナルトにとっては目に見えて分かったのだ。そして、ナルト自身も、その家紋に興味を持った。

 

 生まれた時からずっと傍にいてくれたフウコと、同じ一族の子がアカデミーにいる。しかも同い年だ。

 本当なら、すぐにでも声を掛けたかった。夜にしかフウコとは会えない。だから、昼間の時の彼女を知っているのか、聞いてみたかったのだ。普段もあんなに無表情なのか。暇な日とか彼女にはあるのか。イロミの他に、彼女に友達はいるのか。

 

 だけど、それを尋ねるには、やはり視線が邪魔だったのだ。

 

 周りの子たちは、こぞってサスケに声を掛けていたから。

 教室の中でも、授業の最中に教師の視線を掻い潜ってでも。彼は人気者だった。

 そんな彼に声を掛けられるほど、ナルトは無神経ではなかったのだ。アカデミーに入学してからは、彼に話しかけようか、それともフウコにサスケの事を訊いてみるべきか。曖昧な感情を悶々と抱える日々が続いた。

 

 いよいよ、フウコに尋ねる事にしたのだ。

 

 彼女は言った。

 

 サスケは自分の弟なのだと。

 

 嬉しいような、羨ましいような、そんな感情が背中を走った夜を覚えている。フウコの弟なら、もしかしたら、友達になれるのではないかと。

 

 でも、それは叶わなかった。

 

 彼は優秀だった。

 

 天才だった。

 

 自分よりも遥かに忍としてのスキルに富み、座学では雲泥の差だったのだ。

 そんな彼に、教師やクラスメイトが視線を向けない訳がない。その視線がナルトの足を重くし、教室の床に貼り付けた。

 初めての同年代の友達になるかもしれない。そんな期待が、もしかしたら、自分が彼に声を掛ける事によって破綻してしまうのではないかという恐れ。アカデミーで大した成績が残せていない自分が声を掛けて、良いのだろうか? と、ナルトは子供らしい背伸びをした考えを持ったのだ。

 

 せめて、自分がアカデミーで優秀な成績を残さないと。

 

 そうすれば、周りもきっと評価してくれるかもしれない。

 

 そうすれば、他にも友達が出来るかもしれない。

 

 そうすれば。

 

 サスケと友達になれるかもしれない。

 

 だから、フウコの修行を真剣に行った。教えて貰える事が、彼女との繋がりの再確認になった上に、サスケと友達になれる近道。一石二鳥だと考えた。残念な事に、どうにも勉強は苦手だったナルトは教室内の授業では居眠りが多少あったりもしたものの、スキルの面では徐々に力を付けてきた。

 

 いつしかナルトは、サスケを目標にしていたのだ。

 

 授業では、体術の模擬戦が行われる事が何回かあった。その時に、彼と対峙して、対等に戦えるようになれば……そんな事を考えていた。

 木ノ葉隠れの里の中では、終ぞ、その望みが叶うことは無かった。

 

 だから、嬉しかった。

 

 本気で怒りを滲ませる彼を前にするのが。

 追いつかれた時に挑発するように話してみせた。挑発するように追いかけさせた。挑発するように、言葉をぶつけた。勿論、本音ばかりの行動でもあったが、ここでようやく、彼は怒ってくれたのだ。

 

 真剣に、怒ってくれた。

 涙が。

 ああ、涙が。

 涙が出そうなくらいに、嬉しいような──悲しいような。

 ここはもう、木ノ葉隠れの里ではないのだ。

 

【今更、情でも湧いたのか?】

 

 内側で九喇嘛が嘲笑ってくる。

 

【だったら、今すぐにでも身体を寄越せ】

 ──ウルセェってばよ……、九喇嘛。分かってる。

 

 肩を灼く黒炎の痛みが感動や情緒というものを消し去ってくれる。

 真剣に戦う。それは手段だ。目的は、遙か先。

 

 チャクラを──九喇嘛から送られてくる九尾のチャクラを加えた──強く放出する。その強さに、自身の肉体がチャクラに押し潰されてしまうかのような重圧を感じ取る。チャクラの純粋な放出は、対象を燃やし尽くすまで燃焼し続ける術でさえ肉体から離脱させ霧散させた。

 肩口の衣服は炭になって、その下にある皮膚は真っ赤に腫れ上がっている。

 

「今の術、何だってばよ。全然消えねえし。そんな術、持ってたのかよ」

 

 九尾のチャクラの重圧に耐えながらも、余裕な笑みを浮かべて見せると、サスケは怒りを滲ませながらも、手についた血涙を川に落とすように軽く手を振った。

 

「……テメエに教える訳ねえだろ、ウスラトンカチ」

「へっ、そうかよ」

 

 もう、互いに言葉は必要なかった。

 

 視線が重なったまま。

 

 一枚の木の葉が、二人の間の川面に降り立ち、寸にも及ばない波を生み出した時、互いに足を踏み出した。

 速度は、やはりナルトが上。一歩の踏み出しで、サスケの五歩分の距離を移動する。右手を振りかぶり、拳を叩き込もうとした。ナルトがまともに発現できる影分身の術は、九尾のチャクラを纏った今は使用できない。

 あまりにもチャクラの量が多いということが原因だ。ただでさえチャクラコントロールが苦手なナルトは、修行も無しに影分身の術を今の状態で発現できないのだった。

 

 体術偏重の攻め。

 

 投擲するクナイよりも早く動けるナルトにとって、まともな攻撃手段はそれだけだった。

 振りかぶり、そして放つ拳。

 それをサスケは、身体を半身にするようにして躱した。

 滑らかな動き。これまでの彼とは違う、鋭さを無くした脱力したかのような動きは、ナルトの拳が眼前の空を切ったのを観測しきった途端に早くなる。腹部を蹴り上げられた。

 

「……ッ!?」

 

 九尾のチャクラと言えど、チャクラはチャクラだ。物質ではない。直接的な力に反発する程の硬さはない。チャクラコントロールを行わなければ、力を発しないのだ。

 サスケの蹴りをまともに受けたナルトは後方へ身体を飛ばされた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ──視えるッ!

 

 ナルトの動きが、さっきまでよりも鮮明に、細かく観測できた。同時に、観測できる予測に対しての正しい動きが瞬時にイメージされる。まるで視界が脳に指示を出しているかのように。

 

 右拳が左顔面を撃ち抜こうとしてきている。

 身体を反らす。

 蹴りを入れる。

 蹴り足にはチャクラを集中させて、押し出すイメージで。

 それらの動作に、サスケの意思は全く介在していない。

 

 家の鍵を掛ける時の無意識のように、とも自然と行えたのだ。

 

 後方へ飛ばされたナルトが水面に着水する。その瞬間にビジョンが視界に映し出された。縦横無尽に動き回り、撹乱してこようとするナルトの次の動作。

 現実のナルトが同じ軌道を描いて動き出す。

 速い、とサスケは感じながらも視界からは逃さない。

 

 ──あのバカも、自分の視界を失わない速度でしか動けねえんだ。俺がアイツを見失わねえなら……ッ!

 

 カカシのオリジナル忍術である雷切を、サスケはふと思い出す。

 右手にチャクラを集中させた一点突破の攻撃特化の忍術。波の国で、暴走したナルトに使用されたその術は、単純に集中させたチャクラで相手を突くというシンプルな運用がされている。

 

 彼が言うには、攻撃という面ではトップクラスの術であると同時に、使い勝手の悪い術でもあると語った。

 

 長く持続できる術ではなく、そして突くという使用方法であるために、カウンターを完全に避けれる保証が無ければ使用が出来ない。そのために、カカシは片眼の写輪眼と併用することによって、ようやく使用に至っている。

 

 ナルトも同じだ。

 

 どれほど速度を上げても、九尾のチャクラを纏っても、カウンターに対処できる──最低限でも、攻撃対象であるサスケを見失わない──速度でなければ意味がない。

 写輪眼を持たないナルトの速度は、確かに速い。上忍と対峙した事はないが、九尾のチャクラを纏ったナルトの動体視力がどれほど底上げされているか分からないが、こちらが動きを見通せる(、、、、、、、、、、)というなら、動体視力という土台ではこちらが上だ(、、、、、、)

 

 ナルトが背後に来た瞬間には、既にサスケはカウンターの姿勢をとっていた。

 

 左手にクナイを握り、右手を前へ。まるでそこに収まるように、ナルトの蹴り上げが。右手で足を僅かにいなし(、、、)ながら懐へ。

 クナイを腹部目掛けて突き出すが、その時、ナルトのチャクラが動き出す。

 さながら九尾の鉤爪が、クナイを受け止める。

 

 ──九尾が動かしてんのかッ!

 

 チャクラを鉤爪に変形させるなんて、そんな繊細なチャクラコントロールがナルトに出来るはずがない。

 九尾の不敵な笑みが思い出される。彼がナルトのフォローに回っている事に、サスケは舌を打つ。邪魔をするな、という言葉さえ口から吐き出しそうになったが、その前にナルトがいなされた蹴りをそのままに一回転するように回し蹴りを放ってきた。

 

 突如の九尾の介入への驚嘆が、写輪眼の予測を意識から外してしまっていたのだ。

 寸でのところで右手でガードするが……威力が違った。

 骨が折れる音が、耳に響いた。

 枝葉を摘むような軽々しさと共に、力の入らなくなった腕ごと衝撃は顔面を捉えて、川を転がされる。

 激痛が脳を(つんざ)く。

 

 ──……流石に…………あの距離じゃ対応できないか……………。

 

 蹴りをガードしたのは、およそ右手首。指一つ動かそうとすると、赤を通り越して青く膨れ上がった手首が悲鳴を上げる。

 印は結べない。が、どうでもいい。

 今のナルトの速度に追いつける忍術を、サスケは持っていない。

 

 ──むしろ……術に頼らねえ方が、頭がスッキリする。

 

 下手な欲を出さなくて済む。戦闘の緊張と、怒りを抱えるサスケの思考は、手首の痛みさえも置き去りにして前進する。写輪眼をナルトに向けた。

 

 観測が。

 

 ナルトは動き、蹴りを、拳を。

 

 サスケは躱し、対応し、迎撃し。

 

 二人の動きは対称的だった。

 

 サスケは動かず、彼を中心にナルトが縦横無尽に動き回り、時折二人の影が重なる。クナイの音がぶつかり合う音が聞こえる事もあった。

 

 打撃を与えているのはサスケの方だった。ナルトの攻撃を躱しながらも的確にカウンターを入れる事が出来る、視力の差である。それでも、決定打とは言えない。ナルトにダメージを与えても、九尾のチャクラがそれを補っているせいだ。

 もう何度目かの攻撃の交差。二人が互いを弾くように吹き飛んだ。

 ナルトはサスケの蹴りをまともに食らい。

 サスケは九尾のチャクラの打撃を躱しきる事が出来なかった。

 

「くそッ! ふざけやがってッ!」

 

 拳を、蹴りを、ナルトに打ち込むほど。

 クナイが互いにぶつかり合う度に。

 苛立ちは積み重なっていく。

 思い通りになってくれない全てに。

 ナルトの意思も。

 置いてきた自来也たちが未だ追いついてこない事にも。

 九尾の意思にも。

 今の自分が……ナルトを止める力を持っていないのも。

 全てへの苛立ちが──。

 

「これじゃあ、埒が明かねえってばよ」

 

 起き上がるナルトは、微かなフラつきを肩に着せて、子供っぽい笑みを浮かべていた。何度も打撃を与えていたおかげか、凶悪な九尾のチャクラを纏いすぎたせいか、どこか眠たそうな、柔らかい笑みだった。

 

「こっちの攻撃は当たらねえわ、九喇嘛の奴が勝手に手ぇ出してくるわ。……これで、最後にするってばよ」

 

 言葉を紡ぐと共に、ナルトの表情は重々しくなり、ふと右手を空中にかざしてみせた。

 最初は空気が逆巻いたのだ。立体的な渦がナルトの右掌で形成されていく。赤いチャクラが集約し、集い、一極点へと纏まっていく。

 

 写輪眼を発動していなかったとしても、そこに形成されるのが何か、サスケはあまりにも知ってしまっていた。

 

 カカシの下忍承認試験で使ってみせた、術。

 

 螺旋丸。

 

 膨大な量のチャクラは一纏めにされて、完全な球体を作り出す。その結果は、彼が積み上げてきた努力の結晶だった。これまで直向きに努力してきたナルトだからこそ成し得た忍術。

 

 躱せない。それが、サスケの意識が導き出した答え。

 

 ナルトの攻撃を躱すことが出来たのは、写輪眼とナルトの動体視力との差が、自身の反射神経と身体能力が幾分か上回っていたからだ。故に、自分から攻めることはしなかった。自分の速度ではナルトに追いつけず、そして自分の速度とナルトの速度が合わさった攻撃の交差は、写輪眼で動きを完全に捉えても、自身の反射神経と身体能力が追いつかない速度の世界だから。

 

 ギリギリ(、、、、)のところを確実(、、)に躱してきたのは、ひとえに、ナルトの攻撃の範囲が限られていたおかげだった。

 

 作られた螺旋丸は、人の頭を軽々と呑み込んでしまう程の大きさ。

 

 回避は間に合わない。螺旋丸に対抗できる術も。

 

 苛立ちが……サスケの前進を止めさせはしなかった。

 

「来いよ。俺もいい加減、お前を思い切りぶっ飛ばしてやりたかったところだ」

「何度も殴る蹴るをしてたじゃねえかよ」

「うるせえ。黙れ」

 

 黙れよ。

 話が出来るなら。

 もっと別の話をしろよ。

 フウコの話とか。

 火影になる話とか。

 

「いくぜ、サスケ」

 

 本当に、黙れよ。

 左手にチャクラを。

 写輪眼を長く使った影響で、残り少ないチャクラを全て集中させる。

 付け焼き刃の螺旋丸を形成する。ぶつかれば、間違いなく吹き飛ばされるだろう小さなチャクラの塊を前にしても、サスケは言ってみせた。

 

「さっさと──来いッ!」

 

 まるで、鏡合わせのように。

 二人は同時に踏み込んだ。

 互いに視線を一切に逸らさずに。

 ぶつかる。

 互いの衝撃は、ほんの一時の音と強い光を生み出したが、様相はすぐに傾いた。サスケが押され始めたのだ。

 

 ──何がなんでも……止めるんだッ! こいつを……ナルトをッ!

 

 強大なナルトの螺旋丸を、脆弱な自分の螺旋丸が押し留める事を可能にしているのは、サスケの精神力だけだった。チャクラは肉体エネルギーと精神エネルギーの混合物だ。怒りを込めたチャクラの強度が、押し留めていたのだ。

 

 衝撃を受け止めた左腕は感覚が無い。肉体エネルギーの底が付きかけている事を示している。折れているかもしれない。

 

 疲れが脳を固くしていく。

 

 眠気が怒りを重くし、精神エネルギーさえも呑み込もうとしていた。

 

 螺旋丸は、形を解き始めてしまう。

 

 激痛と、眠気が、意識を──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 サスケくん、大丈夫?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、幻聴だった。幻聴であったのは、間違いない。

 

 姉の声。

 

 もう意識を失ったのかと、矛盾した事をサスケは考えてしまった。

 

 ここに姉がいる訳が無い。声をもし自分が拾っていたのなら、ナルトにも聞こえているはずだ。気がつけば頭を垂れていたようで。意識を失ったのは一瞬だけだったようで。

 

 まだ身体は勝手に、螺旋丸を継続させていた。

 

 心が起き上がらない。

 

 怒りが、足りない。

 

 ──……え?

 

 チャクラがもはや枯渇しかかっても、惰性のように螺旋丸を維持させようと顔を上げた時だった。

 

 

 

 フウコが、奥の森に立っていたのだ。

 

 

 

 白い着流し。

 

 年月を経て長くなり過ぎた、ややウェーブのかかった黒髪。

 

 赤い瞳。

 

 ──姉さん?

 

 彼女は、ただ森の傍で佇むだけで、こちらを眺めている。

 幻じゃない。

 写輪眼はまだ、継続できている。

 

 確かに、そこにいるのだ。チャクラを纏って。

 怒りが。

 喜びが。

 悲しみが。

 感情が、脳を焼き、神経を焦がし、眼球を痛めた。

 

「────────────────ッ!」

 

 声は出せなかった。

 身体が疲弊しているせい。

 それでも、叫んだのだ。

 

 姉さん、と。

 

 螺旋丸が黒炎に包まれる。

 

 意図した訳ではない。意図できるほど、サスケの意識は定まっていなかった。

 

 力の暴走。

 

 暴走は感情に引きづられ荒々しく、残り僅かなチャクラでさえも放出してサスケの肩からユラユラと立ち昇る。

 

 立ち昇り、広がり……人の形を──。

 

 自身の左手に、巨大な紫の人の手が重なった。黒炎を巻き込み漆黒となった螺旋丸は、辺りの空気を膨張させて、巨鳥(おおどり)が鳴くような音を出させた。黒炎はナルトの螺旋丸に移り、チャクラを外側から削っていく。

 

 黒炎を押し込むように、サスケの左手に、巨大な紫の人の手が後押しされる。

 

 チャクラはぶつかりあい──そして──。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 歩いて。

 

 歩いて。

 

 気分は、宝探し。

 

 森を歩くのは久しぶりだった。

 

「ふーん、ふーん。ふふーふん。ふーん♪」

 

 平坦な鼻歌を唱えながら、フウコは歩いていた。無表情な彼女だったが、頭の中は美しい思い出に囲まれていた。

 

《ほらほら、フウコちゃん。一緒に鼻歌しようよ》

 

 幻術に魅入られたフウコの視界の前には、自分の手を引いてくれる親友の姿があった。

 

《どんな宝物があると思う?》

「綺麗なものがあるんじゃないかな」

《今日もいっぱい、遊ぼうね》

「そうだね。イロミ(、、、)ちゃん」

 

 フウコの中にいる、もう一つの人格が、おままごとをするようにフウコを動かす。自分が遊べないなら、代わりにフウコを使って遊んでいる。フウコにとっては屈辱的な幻術でも、意識はそれに逆らえない。

 ただただ歩いていく。

 

 彼女(、、)の嗜虐的な遊びが、その偶然を招いたのだった。

 

 終末の谷。

 

 そこで争う二人の少年らの姿を見た。

 中の彼女は悪魔的な発想をここで思い浮かべ、幻術を解いた。ケタケタと嗤う彼女の声は届かないままに、フウコは正気を取り戻してしまった。

 

「……あれ? ここは……………」

 

 夢にでも覚めたように、フウコは辺りを見回した。

 アジトじゃない、明るい外。滝の飛沫が潤す豊かな空気は唇を優しく包み、吸い込む空気が洗われるようでもあった。

 久しぶりの外に驚きと、そして気分が晴れていく感覚に感動したが、すぐに心臓を強く跳ね上がらせる程の不穏が視界に入り込んだ。

 見渡した景色の中。そのほぼ中央に、二人の少年が、川の上に浮かんでいた。共に上向きに浮かんでいたせいで、すぐに誰だか分かってしまった。

 

 大切な子供二人。

 

 サスケとナルトだった。

 

 それを目撃したフウコは──凶悪な笑みを浮かべた。

 

「ああ………フウコちゃんの幻術か」

 

 森から足を踏み出す。

 足の裏は地面や枝に傷つけられ、皮膚が剥がれ、肉の間には泥が入り、強烈な痛みを与えているというのに、フラフラと近づいていく。

 

「二人が、こんなところにいる訳が無いのに。こんなのを見せて私を動揺させるつもり? ふふふふ、馬鹿みたい。腹立たしい。私が外にいるのもオカシイんだ。これは幻術(、、、、、)幻術なんだ(、、、、、)。だから、だから………」

 

 邪悪に嗤うフウコは、はっきりと口にした。

 

「ムカつくから、この幻術はぶっ殺さないと」

 




 必ず、と明記しておきながら投稿が遅くなってしまい、大変申し訳ございません。

 次話は4月中に投稿いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

はじめまして……覚えていますか?

 投稿が長らく停滞してしまい申し訳ありません。次話は今月中に投稿いたします。


「キヒ……ヒ、ヒヒヒ…………」

 

 ふらふら、ふらふら、と。

 瞳孔が開き切った赤い瞳を震わて、一歩一歩とフウコは、倒れているサスケとナルトへと近付いた。

 

「私は……守ったんだ…………皆を。だから、こんなの……こんな、幻術………不愉快だ」

 

 苛立ちと共に視界が立ち眩みを起こしたように光の明滅を捉えた。込み上げてくる吐き気を匂わせる息には、きっと胃液だけしか混じっていない。力なく揺れる指先が、着物の帯で備えられた黒刀に伸びる。

 

 まるで、心と身体が乖離しているようだった。

 

 幻術だと思い込んでも(、、、、、、)、身体がそれを否定しているかのよう。それでも、身体は心に引き摺られてしまう。

 

 倒れる二人の前に立つ。

 

 視覚が、はっきりと見下ろした。

 

 嗅覚が、二人の匂いを感じ取る。

 

 それでも、もう、彼女の壊れた心は呟いてしまう。

 

 

 ココニフタリガイルハズガナイ。

 

 

 刀をゆるりと抜き、宣戦布告するように切っ先を空へ向けた。黒刀は光に白く照らされる。だが、対してフウコの顔は影に染まる。赤い瞳は裏返らんばかりに上を向き、拒絶反応を続けたが、やがて、カクカクとした眼球運動がサスケを捉えた。

 

 もう、止まらない。

 

 止められない。理性は既に、溶かされ溶けて……過ちを──。

 

「まずは………キヒヒヒ、コイツから──っ!?」

 

 超えてはならない過ちを止めたのは、タイミングだけを見れば奇跡的なものだった。

 フウコの眼前をクナイが鋭く通り過ぎた。ピタリと、刀を静止する。

 

「あ……?」

 

 苛立ちが、気狂いの笑みにヒビを入れた。

 クナイは左から。そして、上方から下方にかけて投げられていた。斜めの形で地面に刺さったクナイとは反対方向を睨みつけた。四方が森に囲まれた土地だ。フウコが睨む先は当然ながら深い森が広がっている。太陽の光を浴びて、そして遮る暗闇の中。

 

 そこに、一つの人影が、木の幹に佇んでいた。

 

 影。そう呼ぶしか出来ない。

 

 頭の天辺から爪先まで、フード付きの黒いコートがのっぺら坊のようにそこにいた。両手さえも、長い袖に隠れてしまい素肌は何も見えない。顔ですら、目深く被るフードと影のせいで伺えない。

 

「誰? ……お前」

 

 悪意の黒に晒され続け。

 

 毒と薬の鈍色に溶かされ続け。

 

 空と海の違いも分からない、水平線さえも見当たらない、隔たりの無い世界だけしか見て取れないフウコであっても、不思議な事に、目の前に現れた黒いコートだけには、彼女自身の僅かに残った意識が嫌悪を示した。

 

 振り上げて、幻術と定めた愛する弟への凶刃を完全に静止させて、カクリと、下手くそな案山子人形のように首を傾けた。

 

「お前、何?」

 

 黒いコートは答えない。滝の音が、やけに五月蝿い。ざわざわと、首の裏が痒い。フードを目深く被っているせいで、顔は見えない。両手もグローブで隠れている。分かるのは、高くない身長と細い体くらい。

 

 なのに、どうしてだろうと、ぼんやり思う。

 

 もうこれ以上、ソレとは相対してはいけない。会話をしてはいけない。目を合わせてはいけない。頭の中で、何かが叫んでいる。絶叫している。

 

 けれど、フウコの脳は殆ど、サソリの薬で緩んでいた。緩慢な口調で言った。

 

「どうせ幻術だろうけど、後で殺してあげるから、あっちに行ってて」

 

 どこか整合性を欠いた言葉に、黒いコートは一歩、こちらに近付いてきた。短い動作。だけど、その動作には未熟な、あるいは無防備な震えがあった。指先が震えている。

 殺そうと思えば、すぐにでも殺せる。間違いない。その確信があっても、振り上げた刀を向ける事が出来ない。

 

 どうして?

 どうして?

 分からない。

 どうして。

 どうして。

 

 幻術を消そうとして阻まれているから?

 

 違う、違う。

 

 何か、目に見えない壁が、そこにあるように思える。とても分厚い壁だ。窓ガラスのようにも、単なる距離のようにも、時間(、、)の壁のようにも。

 

 いや、でも。

 

 そんな壁は、いとも容易く壊せるはずだ。でも、その壁は、壊してはいけない壁なのだ。

 大切にしてきた壁なのだ。大切な大切な全てをかなぐり捨てて積み上げた、壁なんだ。

 

 だけど。

 どうして。

 どうして。

 

 

「どうして?」

 

 

 と。

 

 強固に積み上げたはずの壁は。

 

 たった今、ヒビが入った。

 

 震えたその声を出したのは、黒いコートの方だった。今にも泣き出しそうな、弱虫の声色なのに。いとも容易く入れられた亀裂はそのまま、フウコの恐怖心を突いた。

 

「ねえ……どうして?」

 

 と、黒いコートは続ける。

 

「どうして、ここにいるの? こんな……こんな、簡単に…………会えるなんて……ふざけないでよ………………どうして…………」

 

 震え涙の湿り気を感じさせていた声は、徐々に怒りを滲ませ始めるのを、フウコは恐怖した。

 

 その声は、捨てた過去だからだ。

 

 自分は過去に敗北した。いつだって、敗北は過去が連れてくる。

 

 幻術だ、とフウコは逃げるように足元で気絶するサスケとナルトを見下ろした。

 

 そうだ、そうだ。ああ、そうだ。

 

 サスケとナルトは、木ノ葉隠れの里にいるんだ。二人の事は、ダンゾウに頼んでいる。たった二人でここにいるわけがない。やはり、ここは幻術の中なんだ。

 

 だから──だから、こんな、懐かしくて甘い、綺麗な声を出す人間がいる訳がない。

 幻術だと決めつけようとしたフウコの揺らぎを察してか、黒いコートは叫びながら俊足で地面を走り向かってきた。

 

「こんな近くにいるなら、連絡くらい寄越してよッ!」

 

 まるで寂しがり屋が語る日常会話。そんな黒いコートが地面を蹴る度に高い土煙を生み出し、コートの裾を細かく靡かせて近付いてきた。右手の裾から刃が見え始める。

 

 刃は日差しを怪しく反射させながら、フウコの首元を狙い突いた。

 

「五月蝿い。邪魔するなッ!」

 

 振り上げていた黒刀を振るい刃を弾き、腹部を蹴り上げる。鈍い音と感触が足先に伝わり、小さな呻き声を出して軽く宙に浮く黒いコート。その際、距離が近付き過ぎたせいで、匂いがより鮮明に鼻をくすぐってきたのだ。

 

 懐かしい匂いがする。

 葉っぱの匂い。

 僅かに血の匂いがするが、どうしても、懐かしい匂いに、過去の情景が思い出される。壊され、溶かされた脳が震える。

 

 夕暮れの、冷たくなり始めた空気が。オレンジと紫と浅い青が広がる穏やかな空の下で、クナイを投げる子供たちが。

 

 コン、コン、と。

 

 情けなく丸太から弾かれるクナイを見て、口元をへの字にする友達の──。

 

「う、うぁ……あぁぁぁぁああああああッ!」

 

 幻術だ。

 これは、幻術なんだ。

 幻術じゃなきゃ。

 自分は──また、負けたって事に…………。

 

「フウコちゃ──」

「喋るなァああああああああッ」

 

 黒いコートの胸倉を掴み、半狂乱に投げ飛ばした。その際の腕力は、掴んだ握力を支える左の二の腕から肩にかけての筋肉が膨張の果てに裏返り、あるいは千切れるほど。ブチブチと音をたてて振り抜かれた腕から放たれた黒いコートは、投擲槍のように離れた木に叩きつけられる。

 

 もう、フウコには足元のサスケとナルトは見えてはいない。

 

 50メートルは軽く超えた黒いコートとの距離を一心不乱に駆ける。一秒も時間は満たしていないだろう。叩きつけられた黒いコートが地面にすら落ちていない速度だった。

 

 黒刀の切っ先を、勢いそのままに……黒いコートの腹部へと深々と突き刺した。

 

 肉を割く感触。弾力のある内臓がプルプルと震える感触。それらの感触が、夜を思い出させた。苦しくても、泣きたくても、我慢し続けた、最悪の夜の一つ。

 

 違いがあるとすれば、そう、刀が途中で骨を砕いた感触があったくらい。腹部の奥に眠る脊髄の端を砕いたのだろうか。だらりと、黒いコートの下半身が力を無くす。それでも、腹を貫き後方の木をも貫いた黒刀のせいで倒れる事が出来ないまま、黒いコートは激痛に肩を痙攣させている。

 

 そしてあろうことか、みっともなく右手を伸ばしてきた。距離はあるのに、空を指が虚しく掻き分ける。

 

 こちらを追い求めるように。

 

「フウコちゃん。私だよ? イロリだよ?」

 

 名乗って見せられる。

 名前を呼ばれる。

 まるで囲炉裏のような暖かさで。

 だけど背筋が凍る。

 

 それは、フウコだけじゃない。

 

 中にいる彼女(、、)さえも、気を狂わせるほどの懐かしさに溢れていた。

 

 これは幻術だと、フウコは呻き声をあげながらストレスで自分のこめかみを掻きむしってしまう。

 

 友達を傷つけたと、中の彼女(、、)は絶叫しすぐさまフウコを遠ざけようと幻術を施した。

 

 視界が、黒いコートを中心に歪みを伴って虚実を生み出そうとした。

 

『すぐに、すぐに助けるからねッ! だから、頑張っでぇ!』

 

 予想外の登場に、慌ててチャクラをフウコに送り込もうとする。兎に角、フウコが恐れている何か──そうだ、うちは一族を滅ぼした夜の再現を──……だが、フウコの感情はチャクラでコントロールできるほど、生易しいものではなかったのだ。

 

 敗北。

 それが、フウコの感情の全てを押し潰した。

 

 負けた。

 負けた。

 負けた。

 

 自分の持てるモノを全て投げ売って手に入れてしまった覆しようの無い敗北。

 

 仮面の男に負け。心臓に呪印を打ち付けられ。もはや逆転の目を潰され、日に日に自分自身が内側の幻術から壊されていく焦燥に駆られながらもサソリと同盟を結び、自分が消えても過去を排する事を目指し続けた。

 

 計画の果ては……大切な人たちの幸福。

 

 木ノ葉隠れの里の中にいる人たちの幸せだ。

 

 その幸せが、崩れた。フウコはそれを直感する。

 

 こちらを安心させるように呟いた、イロミの声色が全てを物語っていた。大切にしていた自分だけの呼び名も添えて。

 

 イロミは、まだ──友達だと思ってくれている。

 

 全てを投げ出したのに、友達が手を差し伸べてくれる感動が……フウコの気を狂わせる。安全な場所に置いてあげた(、、、)のに、こっちに来ようとしているんだ、と。

 

 ふざけるな、と。

 

 ──違う…………違う違う違う違う違う。これは……イロリちゃんが、私のことを、追いかけてくるなんて、ありえなぃいいいいい。

 

 眼球がこむら返る(、、、、、)ように動き、思考が溶けて動かなくなる。

 気が付けば、イロミの眼前に立ち、両手を伸ばしていた。柔らかく、細い首に手を這わせ、指で首後ろの猫毛のような髪を掴みながら──締めていていた。

 

「ぅぁ……あっ、…フウ…………コ…………ちゃ………ん……………?」

 

 指先が深く皮膚に押し込まれていく。

 柔らかい。温かい。

 手のひらに脈が伝わってくる。圧力を加え続ける指を、イロミは自身の指を絡ませようと爪を立ててくる。引掻かれる痛み。不規則に溢れるイロミの息の匂い。

 どれもが、否応なしに、押し潰さんと、現実だと伝えてくる。

 

 ──違う。違う。これは、幻術。最低最悪の……。

 

 それをフウコは、否定する。

そして、中の人物もまた、現実から遠ざけようとしていた。涙をボロボロと零しながら、イカれにイカれたフウコを幻術に落として操作しようとした。

 

『ちぐじょうッ! よぐも……イロミぢゃんをッ!』

 

 大切な友達を殺そうとするフウコへの激情が、大切な友達が殺されようとする悲劇が。

 

「────あ………」

 

 

 

 屍を蘇らせた。

 

 

 

「あ、あぁぁ……………あっ」

 

 視界が、うちは一族の屍に覆い尽くされた。

 首が半分に裂けた女性たちが。

 (はらわた)を曝け出す男性たちが。

 血に塗れた子供たちが。

 クチャクチャと崩れた歯と歯茎を咀嚼する老人たちが。

 フウコの腕に、首に、胸に、足に、鼻に、耳に、髪の隙間に、手を、舌を、腕を、体を。

 寄せ、伸ばし、這わせ、入れ、蠢く。

 

「ひっ」

 

 よくも、と女性たちが言う。

 

「わ、私は……」

 

 よくもよくも、と男性が叫ぶ。

 

「だって………お前たちが…………」

 

 酷い、と子供たちが足元に絡みつく。

 

「だって、だってッ!」

 

 失せろと、死ねと、老人たちが祟ってくる。

 

「あ…………あぁぁぁああ………」

『キャハハハッ! 逃げろよッ! 離れろよッ! 私の友達からッ! 全部捨てたんだよね?! だったらみっともなく馬鹿みたいに尻尾巻けよッ!』

 

 心が爆発の兆候を見せる。

 恐怖に弾け飛びそうになる。

 イロミの幻術を破壊してやろうという怒りに暴発しそうになる。

 混濁する感情は、内側の少女の悪意を押しのけながらも侵食された。

 結果。

 視界が明滅する。

 イロミの顔と、屍たちが交互に移り変わっていく。

 徐々に、徐々に、けれど加速していく視界の変化。

 まるで虫が飛び立とうとする瞬間のような速度だ。ゆっくりと見えていたはずの二つの視界は、やがて重なり、唯の光のようになって、感情を──弾けさせた。

 

「あぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああッ!」

 

 爆発したエネルギーは両手に全て押し込まれた。

 

「──ッ?! フウ…………ゴ……? ぢゃ…………」

 

 イロミの口が開ききり、口端から涎が溢れた。小さな舌が空気を絡め取るように伸び切って右へ左へ。その姿はもう……フウコには届かない。

 

「消えろッ! 消えろッ! もう、消えろよッ!」

 

 指がめり込んでいく。イロミの顔は滞る血液に赤く染まり、紫へと変色し始めた。下唇から顎にかけては、泡になった涎が光を反射していた。

 

 イロミは何かを訴えようと、必死に唇で言葉を作ろうとしている。それでも、届かない。

 

 大丈夫だよ。

 大丈夫だよ。

 必死に、辛うじて、その言葉を唇で形作る。息も乗らない、音無き声。

 目が血走り、締める腕がガタガタと震えるフウコを、まるで宥める母親のようにイロミは唇を動かした。

 

 怖くないよ。

 

 私、知ってるから。

 

 シスイ(、、、)くんから、聞いたんだ。会ったんだよ。

 

 ダンゾウから、情報を引き出したんだ。

 

 全部、知ってるから。

 

 だから──フウコちゃん。

 

 怖くな──。

 

「消えろぉおぉぉぉオオオオオオッ!」

 

 

 

 人間の頚椎が手折れる音が、響き渡った。

 

 

 

 残ったのは、肉体が弛緩しきった一人の少女と、

 

「……へ?」

 

 あまりにも生々しい現実を叩きつけられた、少女だけだった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 泣き声が聞こえる。

 視界は暗闇。夜のようだ。

 黒い景色の中で聞こえる泣き声というのは、悲しいけれど、聞き慣れた安心感があった。

 

 ──……ああ、フウコちゃんも………イタチくんや、シスイくんも…………泣き虫な私を、こんな気分で見てたんだ…………。そりゃあ、心配するよね……。

 

 身体に力が入らない。首から下の神経の働きが、頚椎を境に分断されてしまっているからだ。呼吸も出来ない。内蔵も筋肉も、信号が分断されて動かせない。視界が暗いのは、眼球運動が出来ず裏返ってしまっているからか。

 

 本当なら、普通の人間なら……凡人なら。

 

 ここで、脳に残った血液の酸素だけを寿命に、虚しく死んでいくのだろう。親友の悲しい嘆きを最後に、人生の幕を閉じていただろう。

 

「嘘、だ………。こんな、幻術のはず………だって……………だって………っ、わ、わた……私っ、が………殺すわけ、ない……イロリちゃん………嘘? だよね…………」

 

 幻術。その言葉が引っ掛かる。

 

 誰かが幻術を?

 

 分からない。彼女が安々と幻術に落ちるというのは、想像が出来なかった。

 

 ──大丈夫だよ………大丈夫、だよ。私は、死んでないから……。

 

 だって、友達だもん。

 

 友達に殺されるなんて、ありえない。

 

 身体が勝手に修復を開始する。顎を掴まれた蛇が、さも当然のように相手の腕に絡みつくように、反射のように粘っこく、しぶとく、身体を直していく。これまで食い散らかした他者の細胞を運用していく才能を遺憾なく発揮していく。

 

 細かい肉体の損傷は瞬く間に元に戻り、腹部の刀の傷は、刀ごと溶かして修復する。頚椎が徐々に回復されると同時に、身体に感覚が戻ってくる。

 

 瞼をゆっくりと開ける。

 

 視界の中には、今ちょうど、身体を突き刺していた刀がコロリと地面に落ちる瞬間が映し出される。もう痛みは身体には無い。

 ただ、顔を上げた瞬間、心に激痛が走った。

 大切な友達が、血塗れだったから。

 

「幻術だ、幻術だ。そうだ、そうに違いない。幻術だぁ。早く、早く覚めろ……。イロリちゃんを私が、殺すわけないんだぁ」

 

 身体を修復している間に、どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 

 幻術から逃れようとしたのか、それとも心が壊れたからか、彼女は、自傷行為を行っていた。

 

 頭部から出血し、雫となった血液が顔を伝い、白い浴衣の襟を染めている。きっと、爪で引っ掻いたのだろう、両手指の爪の殆どは捲れ上がっている。硬質を失った指先はそのままに、頬や腕、首筋をガリガリと引っ掻き続けている。皮膚は赤く腫れるだけで、爪が捲れた指先は損傷を激しくして、出血は大量になっていく。

 

「どうして? どうして、どうしてどうしてどうして。幻術が解けないのぉ? イロリちゃんが、消えてくれない………。やだぁ………嫌だよぉ…………。イロリちゃぁん」

 

 壊れる。

 

 大蛇丸の言葉が自然と思い出されてしまった。

 

 その言葉通りだ。

 

 今、フウコは壊されている。幻術──いや、眼球運動が明らかに幻術に落ちている際のモノとは違う。薬物による中毒症状に近い。そして、精神状態は恐慌。立ち上がって見せても、視線はこちらを向かず、フラフラと斜め上の中空を見つめては痙攣していた。

 

 フウコなら、この挙動だけでこちらに反応を見せてくれるはず。

 

 なのに、自傷行為を止めないままに、着物を赤く染め続けている。

 

「ああ……もうっ。困ったなあ!」

 

 身体の修復が完全に終わったのを確信して、イロミは一歩踏み出した。不思議な感情を胸にして。

 

 ナルトを追いかけて、木ノ葉隠れの里を抜け出した。悲しさがあった。

 

 抜け出す前に、ダンゾウと争った。怒りがあった。

 

 そして、どういう奇跡か、親友と出会った。強い怒りがあった。

 

 親友が自分を痛めつける姿を見た。酷く悲しかった。

 

 今は、不思議なことに、半ば不謹慎に──喜びがあった。

 

 ずっと、ずっと、彼女の為に強くなりたかった。

 でも決して彼女は、弱い姿を見せてくれなかった。

 いつも平坦で、強くて、頑張って。

 うちは一族の一件でも、心を水墨のように染めて伸ばして溶かしてまで、事実を隠した。

 そんな彼女を、助ける事が出来るかもしれない。

 そのために努力をして、不本意な才能を見つけてしまったのだ。

 

 ──医療系の知識は一応あるけど。どんな中毒症状か分からない……もしかしたら、幻術かもしれないけど………こういう時に大事なのは、荒療治!

 

 呪印を解放する。

 

 呪印が身体に馴染んだのか、身体が呪印を順応させたのか、よく分かる。呪印には段階があることに。

呪印の段階を一つだけ上げて、波紋の模様が全身に張り巡らせる。力が有り余る感覚が二の腕に纏わりついた。

 拳を握り、

 

「起きてよッ!」

 

 フウコの顔面を振り抜いた。

 

 自分でもスッキリしてしまうほどの清々しい打撃感。鼻を折りながらも、首の骨を痛めない程度の分かりやすい刺激を脳に与える。

 

 雲のような軽々しさでフウコの身体は浮き、後方へ転がった。だらりと大の字になって仰向けに倒れた。長い黒髪は乱れに乱れ、顔全面に貼りついて表情すら見受けさせられない。

 完全な無防備。ピクリとも動かない様子は、気を失ってすらいるのではないかと予想させてしまうだろう。

 しかし、イロミは跳躍し、再び拳を握る。気を失っている訳が無いと、イロミは判断したのだ。相手はフウコだ。油断できない。ここで徹底的に、フウコの選択権を奪い去る。

 ただ、昔みたいに接したいから、奪う。

 

 ──ほんの少しだけ……ほんの少しだけでも、話ができればいい。あるいは、安静にしてくれれば良い。そうすれば……。

 

 そうすれば?

 そこで、考えが足を止めてしまう。

 ここに来るまで、木ノ葉隠れの里の忍と、音隠れの忍、そしておそらくフウコの同盟者たちがいた。しかしいずれも、素直にこの場へ馳せ参じる事が出来ない状況だ。辺りにいるのは、気を失ったナルトとサスケを除いて誰もいない。

 

 フウコを同盟から離反させたとして、どうする?

 

 木ノ葉隠れの里に連れていく事は出来ない。イタチが火影になっていても、里は彼女を許さない。

 だが、離反させ続けるには、今の──いや、これから向かう伝手では危険過ぎる。

 単独で動くべきか?

 

 ──考えるな、考えるなッ! 私は……凡人なんだッ! 今だけは、壊れていても、フウコちゃんを止めるのに、無駄な思考は……邪魔でしかないッ!

 

 殆ど直上から迫り、拳を腹部へと狙い澄ます。

 

 ──届

「うるさいなぁ」

「ッ!?」

 

 右手で顔を掴まれる。

 

 そう感じ取れたのは、顔を掴まれた後(、、、、、、、)の事だった。

 あの夜の、単純な速度によるものじゃない。

 本当にただ、時間(、、)が切り取られたような感覚だ。

 

 ──何が……ッ!

 

 フウコはそのままに起き上がり、イロミの顔面を鷲掴んだまま後頭部ごと地面へと叩きつけた。

 頭蓋骨が凹む音が耳の奥にこだました。

 

「ああ。やっぱりぃ、幻術だぁ。生きて(、、、)るんだもんねえ」

 

 指の合間から僅かに見えるフウコの狂い笑みがこちらを見下ろしている。

 

「ブウ……ゴ………ぢゃ……………」

「ごめんねぇ。ごめんねぇ、イロリちゃぁん。こんな幻術と見間違えちゃってぇ」

 

 力が増す。より、後頭部が歪まされる。

 

 駄目だ。

 このままだと、殺される。

 ふざけるな。

 殺されてたまるか。

 

 ──どこの……誰が原因か分からないけど。

 

 私は、友達なんだ。

 邪魔するな。

 

「ぅぁあああああああッ!」

 

 身体を変容させる。

 

 両腕を突き出し、腕の肉を小さな蛇に。

 全身に絡ませる。引き剥がすのが目的じゃなく、拘束し、首を締めて窒息させること。関節を適切に固めて、残った蛇たちを首に巻き付ける。

 

 が、首元の蛇は完全には締まらず、蛇と首の間にフウコは空いていた左腕を滑り込ませて、圧力を軽減させていた。

 

「大蛇丸……?」

 

 と、フウコは冷たい無表情になって呟いた。

 

「最低な幻術。イロリちゃんは、あんなに純粋なのに……アイツみたいに蛇を使わせるなんて…………」

 

 更に、頭を押し込まれてしまう。髪の毛が血に濡れ、地面に吸い込まれていくのがはっきりと分かる。

 

 蛇の関節拘束は、自傷行為で溢れた血液が潤滑油となってしまって弱くなっている。

 

 止める事が出来ない。

 

 かといって、力で引き剥がせそうにない。呪印を一段階しか上げていないとは言え、フウコの筋力とチャクラが振り切れてしまっている。

 もう一段階上げるか?

 

 ──それだと………私自身が、正気を保てる自信がない…………それじゃあ、意味がないッ!

 

 フウコを殺す事が目的じゃない。

 

 友達なんだから。

 

 コートの仕込みも、ダンゾウとの争いで殆どストックも無く、残っているのは殺傷能力の高いものばかり。そもそも、フウコと遭遇する事を想定なんかしていなかった。

 

 肉体の変化じゃ、力負けする。

 

 なら、

 

「おね……がい…………。多由也(、、、)ちゃん………君麻呂(、、、)くん」

 

 使えるモノは、何でも使う。

 たとえそれが道中で自来也から助け、あるいは、ヤマトとの争いの最中で声を掛けた他者でも。

 

「早蕨の舞」

 

 イロミの背。それはつまり、地面から。骨が、イロミの肉体ごと貫きながら、突き出した。

 骨はそのままに、蛇たちの殆どをを貫き、フウコの肉体を浅く突き刺し、筋肉を損傷させる。

 顔面を掴む握力が弱まった。残った蛇を動かし、顔を開ける。口が自由に動かせる。

 

「多由也ちゃん、幻術を乱してッ!」

「ったくッ! もし大蛇丸様の子供じゃなかったら、後で覚えてろよッ!」

 

 荒々しい口調の声がどこからか。口調に反して奏でられる笛の音は流麗で美しい完全一度。チャクラの乗る音に、フウコの表情が、心の乱れをそのまま映し出すように歪んだ。

 

「うるさい……何…………この、音」

「目覚まし……時計かな?」

「何……言ってるの?」

 

 多由也の音のおかげか、なんだか普通の会話が成立しているような気がした。

 

 気のせいかもしれない。

 

 昔から、彼女との会話は微妙に噛み合っていなかった。

 

 懐かしい。

 

 そんな気分に、後頭部の激痛も、骨に身体を貫かれた痛みも、和らいでしまう。

 

 和らぐと言っても、身体の修復が追いついていないせいで、四肢は碌に動かせそうにも無いのだけれど。

 

 それでも、首は動く。

 

 ちょうど地面に押し付けられたせいで振りかぶるスペースは、僅かながら確保されていた。

 

「そう言えば、アカデミーで友達になった時も、こんな感じだったね」

 

 また、友達になろうね。

 

 そんな意味を込めて、また蛇を動かし、フウコの頭部を引き寄せ。

 自分は渾身の力を込めて、頭部を振りかぶる。

 

「これで今度こそ、起きてね………私を、思い出してねッ! だって、」

 

 私は……友達だからッ!

 

 アカデミーでは、自分は上で、友達は下だった。

 

 でも、今は逆。

 

 思いは変わらない。

 

 友達として隣に立てるように。

 

 同じ視線で見られるように。

 

 追いつけるように。

 

 

 

 

 そんな想いを込めて、親友の脳天に頭突きを食らわせてやった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

また、涼しい茜色の空の下で、綺麗な東雲を眺めよう

 懐かしい、激痛だった。

 

 懐かしい? と、フウコの意識はぼんやりと、寝ていた子が毛布から顔を出すような覚束無さで疑問符を浮かべた。

 

 記憶が遡る。不思議な事だったのは、遡る記憶が、清流のようにスムーズだったことだった。激痛が白糸となって、記憶を引っ張っていってくれる。いつもなら、前後左右も分からないが、統一性もない想起が嘘のようだった。

 

 記憶の中で激痛は幾つかあった。頭部の痛みとなれば、数は少ない。

 

 最初に見えた記憶は、目覚めのものだった。頭の内側を虫が這い出るような現実感の無い、けれど確かにズキズキと痛みを発している。その記憶の中で自分は悲鳴をあげていた。すぐに、サソリが様子を見に来ては、慣れた手付きで注射器を取り出している。普段の記憶だ。場所は室内で、夜のように暗い記憶だった。

 

 次の記憶は、敗北のものだった。視界には六人の男たちが、こちらを見下ろして佇んでいる。いや、七人だった。七人目は忌まわしい仮面を被り、他の六人は顔中に黒い杭のようなものを打ち込んでいている。自分は両手足を折られながらも、半分ほどになった黒刀を片手に惨めに抵抗している。そんな自分を、一人の男が手を伸ばし、顔を抑え込んできた。後頭部を地面に押さえつけられる自分は、止めろ、と、殺す、と無力にも喚き散らすだけ。次の瞬間に訪れた斥力のような膨大な力が襲いかかってきた。何度も、何度も。場所は夜で、全てが打ち砕かれた記憶だった。

 

 最後の記憶は、衝撃のものだった。

 

 真っ昼間の、天気の良い昼間。その記憶では、視界いっぱいに一人の少女の顔が映っていた。

 

 ──ああ、イロリちゃん……私の、大切な……………。

 

 懐かしさは、その記憶にピッタリと当てはまった。

 

 その当てはまりは力強く、夜空の一等星にも劣らない輝きを放った。輝きは一条の光となって、これまでの記憶を紡ぎ合わせ、そしてフウコという人格を取り戻していく。

 

 幻術で溶かされた意識はやや(、、)固まり、薬で焼かれた理性はやや(、、)紡がれる。平静を手にして、認識が頭の中に入り込む。

 

 正確な意味で、フウコは目を覚ましたのである。

 

「…………え? イロリ……ちゃん…………どうして………ここに?」

 

 視界の中には、かつて遠ざけた親友の姿が。

 そして、まるで。

 

 親友はさながら───そう、イロミは昔からその言葉を使うタイミングを考えてはいたのだ──昨日の約束事のように当然と言ってみせた。

 

「会いに来たよ! フウコちゃんっ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 

「会いに来たよ! フウコちゃんっ!」

 

 咄嗟に叫んでしまった言葉。君麻呂の術で身体中を貫く硬質な骨から起き上がり、大量の出血をしながらも、声は意外なほどに力強く出せた。

 

 ずっと、親友を追い求めてきたからだ。

 思いが、届いたのか。

 

 仰向けに倒れていた親友が立ち上がると、その表情は、狂いも(ひずみ)もなく、割れて出血する額をそのままに、迷子のような呆然としたものだった。手を伸ばせば、もしかしたら握ってくれるかもしれない。そんな錯覚を与えてくれる程に、今度こそ完全な無防備なのだと分かった。

 

 追いつく。

 

 そして、助けられるかもしれない。

 

 親友を壊し続ける何かから。

 

「待ってて! お願い! すぐ、傍に……ッ!」

 

 一歩踏み出すが、痛みに身体が囚われる。感情が先行して、肉体の損傷に気が回っていなかった。急所が三箇所と、大関節が二箇所、内臓の殆どが損傷している。出血は足元に水溜りを作って、手足が痺れを通り越して、冷たい。

 

 死ぬかもしれないとは感じない。身体中の細胞が蠢き、修復している感覚がある。でも、治り切るまでは動かせない。

 

「大丈夫ですか? イロミ様」

 

 と、地中から出てきた君麻呂が姿を現し、横に立つ。彼の身体には既に呪印が広がっていて、どういうわけかフウコに殺意を向けていた。

 

「私は……っ! 問題ないから……………。君と、あと、多由也ちゃん? ……だっけ。二人は……ナルトくんを大蛇丸に届けるんでしょ? そっちに集中しておいて。フウコちゃんは、私が………」

「ですが……」

「いいからッ!」

 

 大蛇丸への手土産として助けた二人。だが、今となっては単なる邪魔者だ。しかもどういうわけか、君麻呂には懐かれて様付け。フウコが目の前にいるのに、間に入られてたまるか。

 

「……あと、ナルトくんの傍に倒れてるサスケくんには、手を出さないで」

 

 君麻呂は一拍の間を置いてから、フウコを迂回するようにしてナルトの元へ移動した。後方にいた多由也も合流し、君麻呂に追随する形でナルトの傍へと寄った。

 これで、邪魔者が離れてくれた。いや、しかしフウコは、不思議そうに君麻呂たちに視線を向けている。状況を把握しようとしているのか、状況が把握できていないのか。

 

 折角会えたのに、どうしてだろう。

 

 平行線じゃないと思う。ねじれの位置、でもないと思う。今は。

 

「………ねえ、イロリちゃん」

 

 震える小さな声で、ようやくフウコから声を掛けてくれた。まだ、顔はこっちを向いてくれない。

 だけど、それだけで、もう、何だか嬉しかった。

 痛みと、修復の違和に耐えながらイロミは笑顔に努める。

 

「うん。なに?」

「どうして、サスケくんと、ナルトくんが……ここにいるの? いつから、二人はここで、倒れてるの?」

「ついさっきかな、多分だけど。ナルトくんとサスケくんが、ここにいるのは、えーっとね………さあ、うん。分からない」

 

 一歩、一歩と、ゆっくり近づく。歩幅は小さい。もっと早く、身体が治ってほしいと歯噛みするばかり。

 

「イロリちゃん」

 

 と、ようやく。

 フウコはこっちを向いてくれた。

 片目に涙を浮かべて、瞳孔を震わせながら。

 

「イロリちゃんは、ど、どう……して? ここに……いるの?」

「フウコちゃんを助けるためにだよ」

「そんなの……私は、望んでない」

「どうして?」

「イロリちゃんが、ここにいるって事は、私が……負けたって、ことに…………なっちゃうでしょ。どうして(、、、、)……ここにいるの……?」

「負けたって……誰に?」

「何で? どうじでぇ………あんなに、苦しい想いをして……………全部捨てたのに……………」

「落ち着いて、フウコちゃん。大丈夫だよ。ほら、木ノ葉──じゃないね。もう、戻れないし。どこか、二人で逃げよ? 私、強くなったんだから」

「……話が違う」

「え?」

「次に目を覚ます時は……全て用意しておくって………言ったのに……」

「何の……話?」

「この前は、イタチにも会った……全部…………何もかも、話が違う……………ふざけるな………」

「フウコちゃん。待って……私の手を、取って。私、助けに──」

 

 

 

「話が違うッ! どうなってるのッ!? サソリィッ!」

 

 

 

「きっとそりゃあ、全員(、、)が思ってる話だ」

 

 男の声。真上からだ。

 匂いはしなかった。気配は……ああ、そうだ。フウコに意識が傾いていたからか。

 顔を上げる。コートを空気抵抗に靡かせて、おそらく跳躍したのだろう声の主は、緩い放物線を描きながらフウコの元に辿り着こうとしている。

 

 直感する。

 

 アレが、大蛇丸の語った同盟相手。

 

 止めなければ。

 

「……解ッ!」

 

 身体が動かないけれど、殺傷能力の高い仕込みは残っている。コートの肩部分から、起爆札を巻きつけた矢十数本を射出する。

 相手は空中。

 移動は──。

 

「やはり、猿飛イロミか。再不斬の野郎……素通りさせたのはムカつくが、報告したのは上出来だ。最悪は免れた」

 

 コートの男が細い腕を軽く振るっただけのように、イロミには見えた。しかし、その実、彼は十本の指からチャクラ糸を伸ばし、指の数よりも多い矢に接続していた。軌道を変えさせては、次の矢の軌道を変更。その手捌きは、常軌を逸していた。

 

 全ての矢は男に掠る事も、そして起爆札の爆炎さえも男の後方で意味もなく空気を押し返すだけだった。

 

他の仕込みを……しかし、身体の激痛にチャクラを練る事が出来なかった。込み上げてくる血液の鉄臭さに奥歯を噛み締めながら、イロミは男を睨みつけた。

 

 早く。

 

 早く、治れ。

 

 怒りを双眸に込めた。

 

 男は悠々とフウコの傍へと着地する。その際に、ふわりと、コートのフードがズレた。赤い髪と、幼い男の顔。相手の顔が見えた事で、イロミの怒りはより鮮明になる。

 

「ああ、いや、待て」

 

 口内の血に染まるイロミの歯を見て、サソリはさも、冷静に会話をしようとでも言いたげに片手を突き出した。

 

「お前に色々と言いたい事はあるが……とりあえず、そこの餓鬼を連れてさっさと失せろ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 白から連絡が入ったのは、シズネを眠らせた時だった。サソリは、全身に切り傷を受け、傷口から侵入した大量の薬品で動かなくなった彼女をつまらなそうに見下ろしている時に、その衝撃が飛び込んできたのだ。

 

「猿飛イロミが通っただと?」

『はい。コートを着ていて、速度も凄まじかったので一瞬しか見れませんでしたが、間違いありません』

 

 フウコの管理の一貫で、彼女に親しい人間の情報は、手足である彼らには伝えている。人相も、白自身は木ノ葉崩しの際に忍術で生み出した【眼】で獲得していた。

 

 見間違いだ、と容易に切り捨てる事が出来るほど、サソリは無深慮ではない。

 

 どうして、このタイミングで姿を現したのか。

 

 再不斬らをダンゾウの元へ送り込んだ際に、猿飛イロミは投獄されているという情報を与えられていた。おそらく、イタチの判断だ。そして、イロミがここにいるのも、おそらくイタチの──。

 

「お前らは」

『今、そちらに向かっています』

 

 と、白は素早く応え、続けた。

 

『再不斬さんと一緒ですが……カカシさんは見失いました』

「損傷は?」

『大きなモノはありません』

「なら、お前らはとっととアジトに戻ってろ」

『……いいんですか?』

 

 珍しく白の声が重くなった。納得がいかないようだ。

 

「目的は、うずまきナルトを大蛇丸の元へ行かせる事……そのサポートだ。おそらく、猿飛イロミの目的も、俺達と同じだ」

『どうしてですか?』

「猿飛イロミを外に出したのは、うちはイタチだろうな。他に考えられない」

 

 ダンゾウの可能性もあるが、サソリは話題として出すことはしなかった。ダンゾウがイロミを出すメリットは、フウコやイタチに対するカードとして重宝できる点から見れば皆無に等しい。大切に残虐(、、)に囲って、里に留まらせるはず。

 

「火影になったばかりの奴が、罪人のイロミを外に出して手に入るモノなんて何もねえ。そもそも、里で大暴れしたナルトを外にすら出させないはずだ。わざと、里の外に出したんだ。理由は知らねえがな。イロミを外に出したのは、ナルトの跡を追わせて守らせる為だろう。罪人にはうってつけの任務だ」

『彼らは、友人だったのでは……?』

「どうあれ、猿飛イロミは姿を現した」

 

 今にして思えば。

 

 ナルトを追うメンバーには違和感があった。

 

 どうして、サスケがいるのか。

 

 下忍の中で見れば優秀ではあるだろう。しかし、戦力不足なことは明白だ。写輪眼を使えたとしても、九尾を抑え込む事が出来る瞳力を持っている筈もない。木遁使いの忍がいた事も考えれば、いよいよ彼の必要性は見い出せない。

 

 初めてメンバーを見た時、まるで、サスケを護衛するかのような陣形に見えた。

 

 きっと、その印象は間違いではなかったのだろう。

 

 サスケをナルトに会わせる為に。

 

 そして、保険(、、)としてイロミを出した。

 

 ナルトを捕らえる事が出来なかった時の保険ではなく……ナルトが捕らえられてしまった時の保険。

 

「どういう考えなのか知らねえが、今回はイタチがこっちの為に動いてくれたようだ。無駄にお前らが外にいる必要はねえ。養生でもしてろ」

 

 

 

 しかし、サソリにとって誤算はあった。

 

 

 

 一つは、通り過ぎたとしているイロミは、先の木遁使いとの戦闘をあっさりと終わらせていた事。嬉しい誤算だった。後ろから不意を突かれたのだろう。森の切り目に広がる草原は、オブジェのような巨大な木々や、鋭い牙のような骨らが、地面に突き刺さりあるいは地面から突き出し、嵐のように見受けられた。その中で、衣服に傷は残りながらも、ほぼ無傷で倒れている木遁使いを横目に先を急いだ。

 

 そして、第二の誤算。

 

 どういうわけか。

 

 フウコがアジトから出て、猿飛イロミと出会っていた。

 

 傀儡人形の肉体ではあるが、呼吸を忘れてしまう、という感覚を錯覚してしまったのは久方ぶりの出来事だ。

 

 サイはアジトで何をしているのか、だとか。

 

 フウコ自身の意志で外に出たのか、あるいは内側の者の意図か、だとか。

 再不斬と白を離脱させたのが裏目に出た、だとか。

 

 そんな些末な思考は一瞬で投げ捨てていた。

 

 気配を消し、音を消し、動く。

 

「話が違うッ! どうなってるのッ!? サソリィッ!」

 

 跳躍する瞬間、フウコが激怒する。

 

 話が違う。

 

 その言葉に、しかしサソリは憂いなど感じていない。

 

 元から、そんな、未定のような計画なのだ。

 

 契約時も、フウコは語っている。

 

『私がこの先、何を言っても、気にしないで。人の考えは、良くも悪くも、変わるから。うん、空模様みたいに』

 

 本人自身でさえ、すり減る自身の精神に確信を持てていなかったのだ。暢気に空を見上げながら。

 

「きっとそりゃあ、全員が思ってる話だ」

 

 イロミの殺意を前に、攻撃を避け、フウコの傍へ。

 

 彼女の眼球を見据える。

 

 感情が高ぶって瞳孔が絞られ、眼球運動は不安定だが、表情筋や呼吸の動きは、通常の人間の怒りのソレと近似だ。

 

 珍しく親友と会って平常に戻ったのか。

 

 ──だったら、さっさとアジトに戻ればいいものを……。

 

 人は変わる。

 

 契約時の彼女なら、冷静に印を結び、冷徹にイロミと別れを行っただろう。心が、甘い蜜を求める蜂のように、求めてしまったのか。

 

 安心できる環境を。

 助けを求め、応えてくれる環境を。

 

 ──まあ、どうでもいいが。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「行くぞ、フウコ。ったく、どうしてここにいやがる。サイの野郎は何してやがんだ」

「説明してよ……今、計画は…………」

「アジトに戻ってからな」

「させないッ!」

 

 身体の修復が終わる。動ける。

 

 ──力を……、フウコちゃんに追いつける、力をッ!

 

『ええ。貸してあげるわ』

 

 蛇のような艶めかしい声が頭の中に響いた。

 

 呪印が身体に広がっていく。段階は1。波紋の模様が全身を覆った。

 

 サソリがフウコの襟元を掴み跳躍すると同時に、こちらも地面を踏み込んだ。距離が縮まる。手を伸ばすのは、サソリではなく、フウコに。だが、届かない。サソリは空いた手でチャクラ糸を滝の上へと伸ばした。

親友の長い黒髪が指先に触れ、けれど、離れていく。跳躍は空振りに終わり、地面へと着地してしまう。けれど、躊躇う事も、当然諦める事も、ありはしない。着地と同時に曲げた膝に力を加え、大腿筋が極度に肥大する。

 

 見上げ、定める。

 

 狙い澄ませ。

 

 怒りを、憎しみを。

 

 アレが。

 

 あの男が……私の友達をッ!

 

「ギィィィィヤァァァアアアアアアアッ!」

 

 感情に任せて、呪印が無意識に段階を上げる。意識が怒りに囚われる。しかし、木ノ葉崩しでイタチに向けた時よりも心地良さを感じてしまう。邪悪だ、と残った理性が呆れてしまう。

 

 ──それでも、いいや。

 

 蛇の道は蛇。いや、邪の道は……蛇だ。

 

 ──フウコちゃんを……壊そうとする()は、殺す。

 

 殺意を解放する事に躊躇いはない。それを象徴するかのように、彼女の尾てい骨から、巨大な尾が。全身は濃い紫へと変色した。

 

 次の瞬間、時間がゆっくりになった。

 

 世界が遅く──違う。自分が速くなったのだ。

 

 普通の感覚で一歩を踏み込んだはずなのに、空中にいるサソリは全く動かない。

 視覚が、聴覚が、触覚が、嗅覚が、そして空気が舌に触れる時の味覚が、全て全て、凝縮される。

 

 千手柱間とうちはマダラの巨像。その間に流れる滝を、イロミは駆け上がる。落ちる水を蹴り上へと昇る彼女の足跡は、さながら大蛇のようだった。

 

 未だ、空中に留まっているサソリと、同じ高さに。ようやくそこで、サソリの眼球がこちらを向き、動きを変えようとしていた。

 

 しかし、こちらの()が早い。イロミは口を広げる。唾液にまみれた犬歯をこれ見よがしに逆立てて、サソリの胸へ。そこに、肉の香りがしたからだ。食べれば美味いに違いない。

 

「食いたいなら、食ってみろ」

 

 イロミの速度に驚いた表情は見せつつも、サソリは冷静に対応してみせる。

 必要最小限の動きで、そしてシンプルに、イロミの目の前にフウコを差し出してみせた。

 互いに至近距離で、顔を見つめ合った。

 

「イロリ……ちゃん…………?」

 

 刹那の時間。

 

 確かに、フウコは、震えた声で呟いたのだ。

 

 その言葉だけで、ああ、想いが届けられてしまう。

 

 どうして、そんな姿になってるの? と、幻聴が耳に。

 見ないでと、イロミは後悔した。呪印に囚われながらも、化物地味た食欲に垂涎を許しながらも、心が絶叫する。

 フウコちゃんのせいじゃないよ。

 私が望んで、この姿を手に入れたの。

 だから……。

 

「ッ!?」

 

 立てた牙を収めた瞬間に、サソリの空いた手に顔面を掴まれ、眼下の川に投げ落とされる。

 

「サソリッ?! イロリちゃんに──」

「これぐらいは目を瞑れ。アジトに戻るぞ」

 

 そんな会話が遠ざかり、川の中へ。

 呪印の段階が落ちていく。冷たい川に火照った肉体が冷まされているからか……いや、フウコに見られたから。

 

 心配を掛けたくない。

 

 もう、心配されるような関係は、嫌だ。

 

 ──それに、フウコちゃんと、少しでも話を……。

 

 呪印は完全に解かずに、段階1で留める。それでも十分な力は発揮できる。

 

 コートを脱ぎ捨てる。水を吸って動き辛い。コートの下は機能を優先した、黒のタンクトップに薄いハーフパンツ。全て黒色だが、仕込みは施されていない。誤作動によるコートの破損を恐れた為だ。

 

 しかし、首元には、長いマフラーが。

 

 親友への憧れと、自分の目標を兼ね備えた、薄っぺらく長いマフラー。水流に抗い泳ぐ中で重く靡くマフラーを、呪印の段階1の肉体で引っ張り進む。

 このまま、まともに話が出来ないまま、また、離れるなんて嫌だ。

 

 ──ずっと、言いたかった事を……。

 

 上半身を水面から出し、見上げる。びっしょりと額に張り付く前髪の隙間から、サソリとフウコが、滝の向こう側に姿を消した瞬間が見えた。

 まだ、きっと、間に合う。

 

 ──間に合わせるッ!

 

 段階1の呪印のギリギリを保つ。

 爆発しそうな感情に誘われて段階を上げないように、理性を強固に、水上を駆ける。その一直線に進む軌跡と打ち上げられる水飛沫は、再び大蛇の軌跡を作る。さっきよりも、力強く、真っ直ぐに。

 

「待ってッ!」

 

 再び、向き合う。

 うちはマダラと、千手柱間の巨像……その二つの陰に隠れるように流れる川を挟んで。

 だが、向き合ったのはサソリとだった。フウコは彼の傍で、夜の怪談話を聞かされた子供のように、両手で顔を覆って、震えている。

 

 見てくれない。

 

 それが、悲しかった。

 

 どうして、そんなに怯えているのか。

 

 助けてあげたいのに。

 

 助けたくて、頑張ってきたのに。

 

 まだ、努力が足りないのか。

 

 イロミはサソリを見た。

 

 フウコの同盟相手。

 

 けれど、こうして見れば、彼は、そんな対等な位置にいるようには思えなかった。フウコを道具にして、人形にして、良いように利用しようとしている、悪魔のように見えた。

 

「貴方は……貴方たちは、何をしようとしてるの?」

「知ってどうする?」

 

 と、淡々とサソリは応え、怯えるフウコの髪を乱暴に掴み頭を揺らして見せた。

 

「見てみろ。コイツの惨めな姿を。お前が姿を現しただけで、声を出すだけで、このザマだ。こっちの予定じゃ、お前とコイツが会うのは、まだまだ後(、、、、、)の筈だったんだがな。丁寧にメンテナンスしてきたのが、全て御破算だ。アジトに戻ってからも、面倒な事になる」

 

 髪を掴まれて、頭を揺らされるフウコは、怒りも表さず、何かを呟いているように顎が細かく震えていた。声を、出しているのかもしれない。川の音が、その言葉をかき消している。

 

「お前に出来る事なんざ、今となっては何も無い。お前がそこにいるだけで、コイツは壊れるんだ。親友だとかぬかすんなら……二度と関わるな」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「私は……負けたの? また……またぁ……またぁ………」

『キャハハハッ! バァカ。負けたに決まってるじゃんッ! イロミちゃんは、全部全部ぜーんぶ知ってるんだってぇッ! きっと、イタチも知ってるよ? 残念だったねえ、残念だったねえ? あーんなに頑張って、こーんなに苦しんでるのに、計画がパアだねえ? これで、フウコさんの味方が増えちゃったねえ? 皆皆、死んじゃうねえ?』

「違う……違う違う違う違う…………。イロリちゃんはぁ……私を恨んでるの……………、大嫌いなのぉ…………」

『バーカバーカバァァァァァァヵアアア???? 私とね、イロミちゃんの友情は、誰にも負けないの。イロミちゃんはね? 私と初めて会った時から、ずーっと友達なんだから。その友情が? キャハハハ、お前の間抜けな演技に勝ったんだよ』

「…………ぢぐじょう…………どうじでぇ…………」

『ね? フウコさん。諦めよ? 諦めて、マダラ様のところに行こ? シスイの奴が残したこのウザったい鎖を解いてもらお? そうすればね、イロミちゃんだけは、助けてあげられるよ?』

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「ふざけないでッ!」

 

 イロミは、叫んだ。

 川の音なんかに、サソリの言葉に、負けない精一杯の力で。

 

「友達に、二度と関わるなって言われて……はいそうですかなんて、頷くわけ無いでしょッ! 馬鹿にしないでッ! 私は、フウコちゃんの友達なんだからッ!」

 

 ずっと、諦めないで進んできた。

 

 紆余曲折を経て、決して正しい道ではないけれど。

 

 それでも、少なくとも、他人から二度と関わるなと言われて素直に従える程、安い感情ではない。

 

「お前はコイツを壊したいのか?」

「何も教えてくれない癖に、勝手ばかり言う癖に、壊れるとか、壊れないとか……そんな、そっちの同盟の事情なんて知らないよッ! 私には……私の…………友達の事情があるんだッ!」

 

 どんなに泣きじゃくって、大丈夫だと言っても、敵討ちだって手を引っ張る友達がいるんだ。

 どんなに我慢して、大丈夫だと言っても、大きな御世話を焼いてくれる友達がいるんだ。

 何も教えてくれない他人の事情なんて、知ったことじゃない。

 傍迷惑ばかりで、喧嘩ばりで、傷付いてばかりで、デメリットばかりを被りながらも、嬉しくて楽しいという、些細な夢の時間を喜べる小さなメリットを、互いに共有するのが友達なんだ。

 

「フウコちゃん!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「フウコちゃん!」

『うふふ。イロミちゃんが私を呼んでる。私の事が、大好きなんだ』

「……お願い、イロリちゃん…………もう、呼ばないで…………」

「私ね、ああ、もう……はっきり言うからねッ! 私を見なくて良いから、よく聞いてね!」

『ほらほら、フウコさん。早く早く、マダラ様のところに行こうよ。イロミちゃんが、きっともうすぐ、私達に手を伸ばすよぉ? その手を掴んで、ね? 分かるよね?』

「やだ、やだっ。友達なんかじゃないのぉ………、巻き込みたく無いの………」

「私は──」

『なぁに? イロミちゃん』

「いや……いやぁ……」

 

 

 

「お前なんか……大っ嫌いだぁぁぁぁああああッ!」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「フウコちゃんなんて、大っ嫌いッ!」

 ずっと、ずっと、言いたかった言葉。

 

 訳の分からない理由で大怪我をさせられてから。

 

 うちは一族の問題を何も言ってくれなかった時から。

 

 うちは一族の真実を知ってから。

 

 ずっとずっと……心の奥底で閉じ込めていた感情をぶつけた。

 

 イタチにぶつけたように、彼女にも、胸を張って、ぶつけてやる。

 

 友達は……対等に言い合える仲なんだから。

 

 大嫌い。そんな言葉を使ったのは、彼女が、アカデミーを卒業した日以来だった。あの時も、彼女は勝手に、先へ行ってしまった。

 

「もう、本当に、頭にきてるんだからッ! 両手グチャグチャになって、喉も痛くして、今は平気だけど、生活大変だったんだからッ! 分かる? お風呂とかトイレとか、ああもう、フウコちゃんと話をしてると、乙女の方向に行かないのも昔から気に食わなかったよッ! いや、そんな事はどうでも良いのッ! 良くないけどッ! 兎に角、怒ってるんだからッ!」

「イロリ……ちゃん?」

「怒ってるから、私グレたんだからね?! 大蛇丸の呪印を貰って肌とか髪染めちゃったし、犯罪者になったし、イタチくんと大喧嘩したし裸見られたし、どうしてうちは一族は写輪眼なんか持ってるのさあッ! その後も、しばらくお風呂に入れないで一日中縛られてたしッ! それも全部腹立たしいよッ! サスケくんからは馬鹿にされるし、ナルトくんには何だか尊敬されてるようなされてないような中途半端な扱いだしッ! こんなに必死こいて努力してきたのに皆邪魔ばっかりしてくるしッ! 特別上忍って何なのさッ! もう訳が分からないのッ! それもこれも全部全部ぜーんぶッ! フウコちゃんのせいなんだからッ! 謝ってよ頭が高いッ! 身長も胸もデカイッ! それすら不愉快だよ今となってはあッ! 寸胴まな板で何が悪いのさ希少価値だよ女性的魅力の一つだよだぁから勝手に老後の心配するなあ!」

 

 今まで溜めてきた鬱憤が爆発する。

 

 嫌いだ、嫌いだ、大嫌いだ。

 

 そんな言葉を大声で叫んでやる。

 

 何を勘違いしてるんだと、言葉で殴ってやる。

 

 まるで大好きだから追いかけてきたんだと勝手に考えて、だから遠ざけたいんだと言いたげに言葉を並べて態度で示してきた彼女に、本当の気持ちを目一杯にぶつけてやった。

 

 いつの間にか。

 

 サソリも、

 

 そしてフウコも。

 

 こっちを見てくれていた。

 

 二人共、間抜けな呆けた顔で。

 

「嫌い嫌い大っ嫌いだよ本当にッ! 私を馬鹿にしてッ! 何が天才だよッ! 天才の癖に、そんなボロボロになってさあッ! 昔からフウコちゃんはそうだよッ! だらしない、身嗜みを気にしないッ! 自己管理が出来なくて何が天才だよッ! そんなのだから、失敗ばかりするんでしょッ! 恥ずかしくないの?! 私は恥ずかしいよ! それに悔しいよ! そんなフウコちゃんが私よりも天才で、女性的なところがさあ!」

「……ッ」

「悔しかったら何か言ってみてよ、このヘタレの大間抜けッ! 頼んでないこと胸張ってやってみせたらボロボロになった、大間抜けッ!」

「……誰の…………為にやったことだって…………思ってるの?」

「何?! 聞こえないよ! このタコ! このイカ! 無表情!」

「誰の為にやったって…………言ってんのよッ!」

 

 川の音に遮られて聞こえなかった親友の言葉が。

 

 はっきりと感情をぶつけてくれる親友の言葉が。

 

 ようやくまともに、耳に届いた。

 

 しっかりと二本足で立ち上がってくれている。

 

 真っ直ぐ、赤い瞳で見てくれる。

 

 それが、本当に、懐かしい。

 

「イロリちゃんを守りたくて……皆を守りたくて、酷いことしたのに……………勝手に追いかけてきて、勝手に私の邪魔をしてきて……勝手な事言わないでよッ!」

 

 隣に立つサソリが、驚いたように、瞼を大きく開いていた。

 

 きっと、同盟相手の彼にとっても、驚愕の出来事なのだろう。

 

 昔の彼女から見ても、衝撃的な事かもしれない。

 

 ずっと無表情で、淡々としていたのに。

 

 今じゃ、両眼からボロボロと涙を零して、叫んでいる。

 

「イロリちゃんが才能見つけられないから遠ざけたのに……大蛇丸の呪印でしょ? それ! それを貰って、こんなところまで来て…………犯罪者になったって……ふざけないでよッ!」

「フウコちゃんが、何も言わないからでしょッ!」

「言っても何も出来ないから、私が守ってあげたんでしょッ!? 昔みたいにッ!」

「頼んでないッ!」

「言っても何も出来ないって言ってるの!」

「何も出来ない訳じゃないッ! それが私を馬鹿にしてるって言ってるの!」

「馬鹿でしょッ! 手裏剣クナイまともに投げられない癖にッ!」

「いつの話してるのさ?!」

「何も出来ない、何も上手く行かない、ただの任務でさえ命懸けだって言うイロリちゃんを、巻き込みたくなかったんだッ! それなのに……色んな人、殺したのに…………こんな、事に……何で、じゃあ、あの人達は……フガクさんや、ミコトさんは…………」

 

 うん、ごめんね、フウコちゃん。

 

「どうして……ねえ、どうしてッ! どうして私を、追いかけてきたの……? 私の事、大嫌い…………なんでしょ?」

「そうだよ。大嫌いだよ」

「だったら……どうして…………」

 

 大嫌いだけど、友達だからだよ。

 また、大好きな友達同士に、なりたいからだよ。

 大嫌いと、友達だっていうのは、両立できるんだよ。

 

「どうして」

 

 人は。

 

 よく、人は。

 

 人が変わるから、友達ではなくなるという。けれど、それは嘘だ。友達同士が変わるなら、互いに変えて、また友達になれるはずだ。

 人が変わらないから、友達ではなくなるという。だけど、それも嘘だ。変わらないなら、友達が変わるはずがない。

 どうして仲が良かった記憶が尊いのか。

 それは、確信だからだ。

 互いに全てを受け入れたからではない。互いに、共有できる部分があったという、その、確信が、仲が良い記憶を素晴らしいと述べたらしめるものなのだ。

 どれほど嫌い合っても。

 共有できた部分があったという確信が、実績が、在るから。

 友達は、友達で在り続けられる。

 

「友達だからだよ」

 

 と、イロミは言った。

 

「……言ってる意味、分からないよ、イロリちゃん」

「大嫌いだけど、友達でいよう、ってこと」

「好きだから……友達なんでしょ?」

「仲直り出来ると信じてるから、友達なんだよ。好きだっていうのも、嫌いだっていうのも、そんな前提があるから、成り立つんだよ」

 

 ねえ、フウコちゃん。

 

「フウコちゃんは、私を遠ざけたかったの?」

「傷……付けたくなかった」

「嫌われたかった?」

「嫌ってほしかった。なのに、イロリちゃんは、ここにいる」

「大嫌いも、大好きも、我儘なんだよ」

 

 イロミは続ける。

 

「さっき言った、グレたとか、乙女の話に行かないとか、それは全部、フウコちゃんのせい。私のせいじゃないよ」

 

 でもね。

 

「もしも今の状況が、フウコちゃんが自分のせいだって思ってるなら、それは違うよ。だって、大嫌いだから。大嫌いって我儘を押し通したから、私はね、ここにいるんだよ。だから、そう、だね。こうなったのは、フウコちゃんのせいじゃないよ。大好きだって思っても、きっと私は、ここに来た。フウコちゃんの目の前にやってきた。我儘を押し通した」

「違うよ。私のせいだよ」

「それは違う。強いて言うなら」

 

 空を見上げる。

 誰が悪いか、とふと考える。

 

「悪いのは、私を友達にしたことだね。うん」

「……ふふ」

 

 雲を運ぶ風のような、笑い声が聞こえた。

 アカデミーで額をぶつける前に見た、笑顔だった。

 

「何? それ」

「良い天気だね」

「どういうこと?」

「ねえ、フウコちゃん。私、フウコちゃんの事、大っ嫌いだけど」

「うん」

「仲直り……して、くれないかな…………」

 

 また、友達になってほしいな。

 横に、立たせて、ほしいなあ。

 

「そして、ね? 私に、フウコちゃんの手伝いを──」

 

 その言葉を言い終わる前に。

 フウコは、後ろから姿を現した再不斬に後頭部を掴まれ。

 頭部を前のめりに、地面に叩きつけられたのだ。

 

「フウコちゃん!?」

「状況が状況だったからな、サソリ。勝手に動かさせてもらったぜ? 文句ねえだろ」

 

 再不斬の声に、サソリは驚きの表情を収め、再び人形のように淡々とした顔を作った。

 

「悪くないタイミングだな。アジトに戻ったんじゃねえのか?」

「サイのガキに聞いてな。フウコが外に出たと言ったもんだからよ、もしかしたらと思ってな」

 

 フウコはピクリとも動かない。細かい音は届かないが、ゴリゴリと、岸の石たちに顔を押し付けられているのが分かった。

 気絶をしているのか。

 折角、仲直り出来る時間だったのに。

 

「再不斬。フウコを担げ。戻るぞ」

「アレは、良いのか?」

 

 顎でこちらを示す彼に、サソリはこちらに視線を向けた。

 

「おい、猿飛イロミ」

「……何?」

「テメエが何をほざこうが、こっちの予定を邪魔してるのは変わりねえ。関わってくるな」

「それは──」

「死なねえ事だ」

 

 え? と、イロミは息を飲む。

 

「とりあえず、死ぬな。死んだら、コイツも死ぬからな」

「……そんなの、分かってる」

「うちはイタチにも、伝えられるなら伝えておけ」

「イタチくんも分かってるよ。それよりも、お前が、フウコちゃんに──」

「どいつも勘違いするんだがな、俺はコイツを壊してねえ。メンテナンスをしているだけだ」

「じゃあ、どうしてフウコちゃんはそんな状態に」

「知るか。コイツの仕組み(、、、)なんざ」

 

 完全に四肢を脱力したフウコを再不斬は片腕で担ぎ上げる。

 

「さっさと、うずまきナルトを抱えて失せろ。木ノ葉に連れて帰られると、いよいよあのガキは大暴れするぞ?」

 

 完全に背を向けたサソリは、もう二度と話す事はしないと言いたげに、印を結び始めた。サソリの言う通り、自分は、イタチとの相談の末に定めた、ナルトを大蛇丸の元へ送り届ける事が仕事だった。

 

 でも。

 でも。

 

「フウコちゃん、もしも聞こえてたら、聞いて!」

 

 何て頭の悪い言葉だろうかと思いながら、最後に、叫んだ。

 

「大嫌いって言って……ごめんね! 私、頑張るからッ! 努力……するから!」

 

 また、

 

「また、会おうね!」

 

 フウコは何も、応えないままに。

 サソリたちは姿を消したのだ。

 




 度々、投稿が遅れてしまい申し訳ありません。

 今月は投稿が難しいかもしれませんので、来月中には必ず投稿いたします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

原始の繋がり 《影》

 投稿が遅れてしまい申し訳ありません。

 次話は今月中を目処に投稿をしたいと思います。


 部下の暗部から、サスケたちの帰還が伝えられた。

 

 誰一人欠ける事無く、そして、増える事も無く、と。

 

 イタチは落胆とも安堵とも付かない、了解と共に、部下を下がらせた。伝えられた場所は、火影の執務室である。

 

 予定通り、と言えば、予定通りである。

 

 理想は、サスケがナルトを説得して引き止めるという事を望んでいたのだが。

 

「今回協力を頂いて、感謝します」

「気にするでない~」

 

 デスクの上に視線を向けると、薄っすらとした輪郭が、ノンボリとした声とともに現れる。

 透明だった輪郭は瞬く間に色を帯び、質量を伴うようにはっきりとした影も生まれた。

 人の肩に乗るほどの小さな狸が、そこにはいた。

 

「あくまで~、あの愚か者への別れの為じゃ~」

「それでも、イロミちゃんが里を抜け出す為に御助力頂いたのは……。一番、困難な事だと考えていたので」

 

 もしも、ナルトが大蛇丸の元へと赴いた際の保険(、、)として、イロミを抜け忍にする。それは、イロミがフウコを追いかける為に里の外へと行く過程で見出したものだった。

 

 しかし、イロミが抜け忍となるならば、火影である自分は部下たちに全力を以て追わせなければいけない。助けを行うことは出来ない。呪印発動時の彼女の速度ならば、捕まる事はないと確信してはいるものの、失敗は許されない。囚われてしまえば、今度こそ彼女の命を断たなくてはいけなくなる。

 

 その折に、突如としてダルマたち化け狸が里の外へ集い、木ノ葉隠れの里周辺一帯を幻術で覆ったのだ。その中を、彼女は単独で駆けていった。

 

「イロミちゃんとは、無事に別れを?」

 

 ダルマは呑気に溜息を零した。

 

「破門にしたの~。元々~、あやつには仙術の才能が無かった~。そして~、少し目を離しただけで~、呪印などという力に興味を持った~。あやつは~、一つの事に留まっては強くなれないのじゃろう~。破門に決まっておる~」

「彼女は何と?」

「世話になったと言っておったの~。まあ~、あれほど手間取る弟子もおらなんだからの~。世話しかしとらんと返してやった~」

 

 そうですか、と応えると、ダルマは緩やかにデスクから降りた。

 

「そうれじゃあのう~、あの愚か者の友よ~。息災での~」

「もう、行かれるのですか?」

「やることが無いからの~。次に~、あの愚か者に会うときは言うといてくれ~。狐蕎麦を奢れとの~」

 

 軽いジョークを最後に、ダルマは部屋を出て行った。

 

 執務室の広い窓から、写輪眼を発現させて眺めた。蜃気楼のように分厚く揺らめいていたチャクラは、木枯らしのようにあっさりと消え去った。化け狸たちの幻術の影響は、里の内側の人々には大きく与えていないだろう。イタチ自身も、イロミを心配して顔岩の上から写輪眼で眺めていた時にようやく気付けたレベルだ。

 

 いや、しかし。

 

 既に里の内側……ごく、一部ではあるが、問題が起きている。

 

 イロミが抜け忍となったこと、それ自体。

 

 火影である自分と彼女が友人同士であるという事は、周知の事実だ。彼女が里の外へと旅立ったという事は、あらぬ誤解──実際に、意図はあるのだが──が、生まれてしまう。

 それはつまり、獲得した火影という地位が崩されてしまう可能性があるのだ。

 早めにケリを付けなければいけない。言うなれば、根回しだ。

 

 そう……根回し。

 

「笑えない冗談だ」

 

 自嘲気味に一人小さく笑って見せて、立ち上がる。

 

 もはや、全ての記憶(、、)は元に戻った。

 

 真実を知る事が出来た。

 

 もう一人の自分が、突如として意識に入ってきたような感覚である。その感覚に伴って、様々な感情が胸中に渦巻いていた。怒りや憎しみが半分、悲しみが半分。イロミが里を抜け出した直後──つまり、記憶を取り戻した時である──には、記憶の奔流と共に涙を零した程に、心は荒ぶった。

 

 兎にも角にも。

 

 ダンゾウの元へ。

 

 その時だ。

 

 執務室のドアの向こうから、荒々しい声が届いた。

 

「ちょ、ちょっと待ってくださいっすよ! アポもなしにいきなり火影様に会うなんて──」

「うるせえッ! 何が火影だッ! イタチのアホがあたしより偉いってのかよッ! ああん?! おいこらイタチィッ!」

 

 そして、ドアが荒々しく蹴り開けられた。

 

 向こう側には、目を血走らせたブンシと、その後ろには、ブンシの服の襟を掴んで必死に制止させようとしているフウの姿があった。

 

 ブンシの怒りの表情。

 

 これまでで一番、怒りに溢れた表情だったのは、すぐに理解できた。そして、何に怒っているのかも。

 イタチは、大股に近づいてくるブンシの顔を見つめながら、されるがままに胸倉を掴まれた。

 

「テメエ……何してんだよ」

 

 と、ブンシは低く言う。

 

「いや、ちょっと、待ってくださいよッ! アンタ、何なんすか?! 火影様にいきなり喧嘩腰過ぎっすよッ!」

「フウ。いい。彼女は、そういう人だ」

 

 今にも押し倒し殴りかかってきそうな剣幕を前にしても、イタチは平静のままに、襟を掴んでいるフウに部屋を出てほしいと伝えた。問題ない、とも伝えると、フウは不安そうに渋々と部屋を出て行った。

 

「先生、お久しぶりです」

「挨拶なんざいらねえんだよ。あ? イロミのアホの件だよ聞きてえのは。何勝手に……外に出してんだよ。抜け忍にしてんだよ。……お前は……今度こそ(、、、、)、死ねって言ったのかッ!?」

「違います」

「違うなら、じゃあどうしてアイツは外に出たッ! フウコの奴を追いかけて行ったんだろ?!」

「それも、違います」

 

 イタチは敢えて、冷たく言い放った。

 そして一度……それは、呼吸としては現れていなかったが、イタチは意を決して言った。

 

「確かに、彼女を牢から出してしまったのは警備に問題がありました。大蛇丸の部下(、、)と分かっておきながら、不十分でした。抜け忍として、手配を出すように今後は動きます」

 

 イタチは。

 

 火影を演じた。抜け忍と火影が繋がっているという情報は決して、誰に対しても与えてはいけない。それが、イロミを気にかけるブンシであっても。

 

「すみません先生。これから、所要があるので」

 

 失礼します、と。

 襟を掴んでくるブンシの手を、半ば強引に振り払おうとした。本心を言ってしまえば、これ以上彼女の顔を見たくなかったからだ。

 

 火影を演じた時の、ブンシの表情。

 

 今まで一度も見せたことはなかった、失意の表情だった。

 

 アカデミーという長いようで短い期間。その殆どが、元気が有り余るような怒りの表情だった彼女が、初めて見せたそれは。

 

 無表情を構えたままのイタチの内心を強く抉っていた。

 

 しかし、だ。

 

 振り払おうとした手が、勝手に離れた。

 

 そして、

 

 

 

「だからクソガキだって言うんだッ! お前らはッ!」

 

 

 

 執務室、力強くも乾いた音が一度、響いた。

 

 顔を、引っ叩かれた。それを実感したのは、片方の頬がヒリヒリと痛みだしてからだった。

 

 ──え?

 

 と。

 

 イタチは、心の底から、状況が理解できなかった。

 叩かれた。

 ビンタだ。

 

 あの、ブンシが、だ。

 

 どうして?

 

 呆けてしまっているイタチに、ブンシは言う。

 

「テメエらは、そうやっていつもいつもッ! 自分たちが納得してりゃあ良いみてえな顔しやがってッ! お前らが納得したから何だ! 他の連中が納得すると思ってんのか?! いい加減にしろッ! 周りの人間が……どんだけ…………」

 

 荒々しかった言葉は、最後の方には、震え振り絞る声になっていた。

 

 それだけで、もう、分かってしまった。

 

 確信や確証があるわけではないものの……ブンシは。

 彼女は、イロミを助けようと動いていたのだ。

 

 犯罪者となった彼女を、元拷問・尋問部隊という経歴を使って、どうにかしようとしていたのだ。刑を軽くしようとしていたのかもしれない。人脈を使って彼女に会おうとしていたのかもしれない。あるいは、形だけでも拷問・尋問部隊に配属させて僅かな自由を与えようとしていたのかもしれない。

 

 結論から言えば、彼女の行動は、たとえイロミが里を抜け出さなくても実現はしなかっただろう。それほどまでに、イロミの行動は──言うなれば、大蛇丸と共謀して木ノ葉隠れの里に牙を向いたという事実は──あまりにも、衝撃的だったのだ。

 

 イタチがブンシに同調したところで、他の者たちは賛同は決してしない。

 

 その結末はきっと、いや間違いなく、ブンシは理解していたはずだ。彼女はバカではない。

 

 けれど、抗っていたのだろう。

 

 どうしても、彼女にとっては否定してやりたい現実だったに違いない。

 

 その現実を……イタチとイロミ自身が、別の形で実現させてしまった。

 

「ふざけんなよ…………ふざけんなよぉッ!」

 

 ブンシが怒りを顕にしているのは、自分の努力が否定された事にでは、きっとない。イタチは、目が血走り、涙袋を湿らせている彼女を見て、読み取った。

 

 ──また、俺達は……。

 

「おい、答えろ。あのバカはどこにいった!? 応えろッ!」

 

 ──すみません、先生。

 

 記憶を取り戻して。

 

 イロミを、うちは一族と関わらせないようにと、独断に動いていた自分達を後悔したばかりなのに。

 

 他者の繋がりというのは、深く不可視な事か。

 

 そして自分は……その繋がりの集合体である里の、長を務める火影だ。里の全ての者の望みを叶える事は出来ない。

 

 胸が、重圧で苦しくなった。

 

 覚悟を持って火影の道を選んだ。フウコの為だけじゃなく、心の底から、火影としての任も全うしようと。けれど、まだ、繋がりに対しての視野が、狭窄だったのかもしれない。

 

「……本当に、すみません」

 

 と、小さく呟いたイタチの言葉に「あん?」と、ブンシは声を出した。

 

「今、何つったんだよ? よく聞こえなかったぞ?」

「貴方にこれ以上、申し上げる事が無いと、言ったんです」

「……テメエ……………」

「すみません。これから、用事があるので」

 

 今度こそ、ブンシの横を擦り抜けて執務室を開けた。

 後ろ手にドアを閉めようとした際に、

 

「……今度こそ、あたしを頼れよ…………」

 

 そんな声が聞こえてきた。

 ドアのすぐ横で、壁に寄り掛かっていたフウを連れて廊下を進む。目指す場所は、ダンゾウの元だ。

 

「大丈夫っすか? 頬、その、赤いっすよ?」

「引っ叩かれたからな。歴代の火影で、殴り殴られた人はいても、頬を叩かれた人はいないだろう」

「自慢にならないっすよ。あの人、火影様の先生だったんすか?」

「アカデミーの頃のな。よく叱られていた。いつもあんな感じだったな」

「え? 火影様、不良だったんすか? 意外っす」

「いや、俺の周りがな。殆ど俺は、巻き添えを食らっていたようなものだった」

 

 何もかも自由に出来た……無根拠に自由だと思っていた、あの頃とは違う。

 

 そう、何もかも、だ。

 

 妹は犯罪者としてどこかで空を見上げ。

 親友はこちらに別れを伝えてきて。

 友達は妹の後を追って犯罪者になった。

 

 アカデミーの頃には、まるで想像していなかった現実。それでも、進み選ぶのは、その頃が、在ったからだ。

 全てが元通りになるとは思わない。

 

 けれど、あの頃の、あの時の片鱗をまた、取り戻したい。

 

 皆がそうだ。

 

 誰もがそうだ。

 

 生まれてきて手に入れてしまった、自分の原風景を取り戻したくて、再現したくて、進んでいる。

 

 それを過去に留まっている、つまらない風景に固執する老人だと、揶揄するものもいるだろう。退屈だと、退化だと、蔑む者もいるだろう。

 

 それでも、熱烈に求めて止まない。

 

 輝かしい日々を取り戻したい。

 

 心が疲弊して血を吹き出しても。

 

 肉体が病に侵され細胞が破裂しても。

 

 多くの人々に負担を課してしまっても。

 

 いつか見た理想郷を、欠片でも、手にしたい。

 

 記憶を取り戻したイタチは、そう、強く胸に秘めた。

 

「フウ」

 

 と、イタチは隣のやや後ろを歩く彼女に問うた。

 

「俺に力を貸してくれるか?」

 

 彼女は笑った。

 

「当然っすよ。きっとイロミちゃんがいたら、私の肩を掴んで、貸してあげてとか言うに決まってるっすからね」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 イロミは、気が付けば真っ白な世界に立っていた。

 

 つい先程まで、怒りに身を任せていたのに。

 

 自分の身体を溶かし、ダンゾウを侵食して、シスイの写輪眼を動かそうとしていたのに。

 

 幻術だろうか?

 

 ふと、自分の衣服を見直した。

 

 服が変わっている。黒いコートではなく、かつて着ていたものだ。

 

 壁があるのか無いのか。そんな事さえも判別できない程、純白均一の世界。何かがこちらを害して来るわけでも無い。むしろ、どこか、そう、不思議な懐かしさがあった。

 

「ここは……?」

「よ。久しぶりだな」

「え?」

 

 その気軽い声は、真後ろからだった。

 

 アカデミーに登校する途中で、まるで後ろから声を掛けてくるような、いや、事実、そういう日はあった。後ろから頭をポンポンと軽く叩きながらの挨拶。相変わらず身長が小さいなあ、などと冗談にも言いたげな様子で、彼は挨拶をしてきたのだ。

 

 声の懐かしさに喉が震え、驚きに下顎がわななく。

 

 振り返ると。シスイが、立っていた。

 

 少しだけ距離を空けて、片手を挙げて、いつもの爽やかな笑顔で。

 

「シ……スイ……………くん……? え? どういう、こと?」

「言っておくけど幻術じゃねえぞ。俺は、確かに死んだ、本物だ」

 

 ジョークにしては、あまりにも重すぎる、とイロミは意外にも冷静に、心の中で呟いた。昔から、彼はそうだ。悪いジョークを口にする。今でも尚、夜の古びた神社へ探検しに行った時のジョークは根に持っている。

 

「ん? どうした。もしかして、まだ幻術だって疑ってるのか? ああ、ならそうだ。昔話でもしようぜ。アカデミーの頃の──」

 

 幻術であるかどうか、そんなものは関係なく。

 イロミはシスイの顔面に拳を叩き込んだ。

 

「がッ?!」

 

 フック気味に振り抜いた拳は、確かな感触を伝えてきた。気が付けば、身体中に呪印の文様が広がっていた。予想以上に力を出してしまったのか、シスイは白い地面を勢いよく転がっていった。

 

 感触程度で、殴る程度で、幻術かどうかを判断できるなんて考えてはいないけれど。

 

 友達に触れた……その事実が、イロミには衝撃的だった。

 

「本当に……シスイくんなの?」

「……殴ってから、確認してほしくはなかった」

「そう……なんだ……」

 

 頭に、血が上っていく。

 

「お前、力強くなったな」

 

 と、シスイは呟いた。

 

「……そうしないと、フウコちゃんのこと………追いかけられないと思ったから。色んなもの犠牲にして、強くなったんだ………」

「努力したんだな」

 

 喉が震える。

 

 努力を放棄してしまったからこうなったのだと、事実を言えなかった。

 

 アカデミーの頃に、彼には打ち明けた、努力の邪魔をしないでほしい、という言葉を嘘にしてしまった事への後悔と……そして──身勝手な怒りが。

 

「イタチくんと、喧嘩したんだ……」

 

 逃げるように、言った。

 

 上体を起こそうとしているシスイの目の前に立つ。

 

 吐く息が熱い。

 両手は拳を作って、力を入れて、入れすぎて……震えていた。

 

「そうか」

 

 と、またシスイは呟いた。

 まるで分かりきっていた事だと言いたげに、安心したような笑顔を彼は浮かべている。

 

「仲直りはしたのか?」

「……した」

「お前らなら、出来ると思った」

「……どうして?」

「ん?」

「…………どうして……」

「何となく。お前らなら」

「そうじゃ……なくてさぁ……」

 

 涙が、ボロボロと、溢れてしまった。

 

「どうして……死んじゃってるのさ……」

「……ごめんな」

「シスイくんがいればさ……私達、今でも……昔みたいにさ…………ずっと………さぁ」

 

 いつか、夢の中で見た景色。

 

 それはかつての景色で。

 

 今も時々、強烈に恋い焦がれる。

 

 無根拠に無思慮に、ただ大切な人達と過ごす喜びが、永遠に続くだろうという期待感に包まれた時間を。

 

「本当に、悪かったって、思ってる」

 

 シスイは、胡座の姿勢のままに頭を下げた。

 

「お前を、仲間外れにした。仲間外れにしておいて、失敗した。イタチの記憶は歪められて、フウコは里を出ていって、全部を滅茶苦茶にした」

 

 分かってる。

 

 彼が、どれほどの後悔や自責の念を腸に抑え込んでいるのかを。

 

 全部が無茶苦茶になったのは、彼のせいではない。イタチやフウコのせいでも、ない。

 

 彼らは里を止めようとしていたのだ。

 

 そんな彼らを、妨害しようとしていた何かがいる。

 

 イタチと何度も話し合って導き出した答えの一つ。

 うちは一族がクーデターを起こそうとしていた。そこまでは、ほぼ間違いなく、分かっている事柄だ。呪印を受けた時に、大蛇丸から貰った情報とも一致する。

 

 だけど、一つだけ釈然としない部分があったのだ。

 

 どうして彼らは、クーデターを止める事が出来なかったのか。

 

 どうしてシスイは死んだのか。

 

 そこの情報が、大蛇丸の呪印からの情報でも、明らかにはならなかった部分だった。

 

 それを確かめる為に、そして怒りを爆発させる為に、ダンゾウの元へ赴いたのだ。

 

「何が……あったの? あの夜。どうしてシスイくんは……」

 

 死んだの?

 その問いに、シスイは顔をゆっくりと挙げた。

 人差し指と中指。

 二つを、彼は自身の顔の前に立てた。

 

「お前がイタチに伝えられるか分からないが、教えておきたい事がある。だが、一つはお前の判断に任せる」

 

 そこでイロミは知っている名前を二つ耳にする。

 うちはマダラという、伝説の忍の名前。

 もう一つは。

 

 もう一人のうちはフウコ、という不可思議な名称だった。

 

 

 

 そして、イロミは。

 

 

 

 

 里を抜け出した。

 

 抜け出す際に、ダルマら狸たちが手を貸してくれた。数百匹の化け狸たちのおかげで、追い忍たちから逃げ切る事が出来た。彼らのおかげで、道中の自来也の目を曇らせ、ヤマトの隙を突いて気を失わせる事が出来た。

 

 親友(、、)と出会い、文句を言ってやった。

 

 ナルトと、音の忍たちを連れて、彼の元へ。

 

おかえりなさい(、、、、、、、)、イロミ。流石は、我が子。よくここまで、ナルトくんを連れてきてくれたわね。それに、君麻呂と多由也も無事に引き連れてくれて。褒めてあげるわ」

 

 君麻呂に先導される形で、アジトへとイロミは足を踏み入れていた。

 

 アジトへと到着すると、薬師カブトが能面のように貼り付けた笑顔で迎えると、そのまま大蛇丸の元へと招かれた。カブトは今、椅子に腰掛ける大蛇丸の横に静かに立っていた。

 

「言ったはずですが…………私は、貴方の子のつもりはありません」

 

 不愉快さを隠さず伝えたものの、大蛇丸はくぐもった笑い声を出すだけだった。

 くぐもった、笑い。きっと、それが限界なのだろう。

 全身を包帯で包み、ゆとりのある黒い浴衣を来た彼は、木ノ葉隠れの里で遭遇したときとは身体つきが異なっていた。特に、髪の毛は、黒の長髪ではなく、明るい色の短髪になっている。

 

 声調は同じなことが、より、違和感を強くした。

 

「ナルトくん。よく来てくれたわね。歓迎するわ」

 

 包帯だらけの隙間から覗かせる蛇のような瞳を、ナルトへと移す大蛇丸。そんな彼を、イロミの後ろに立つナルトは下から睨みつけた。

 

「フウコの姉ちゃんについて教えろ」

 

 その声には、大蛇丸に対する怒りが、一点の曇りも無く隠す気のない雄々しさで溢れていた。気に食わない事を言えば、この場で殺しても構わない。そんな想いが、空気を破裂させんばかりに伝わってくる。

 にもかかわらず、大蛇丸は甘ったるい程の余裕な声を出すのだった。

 

「まあ落ち着きなさいな。当然、約束は守るわ。だけど、説明の途中で居眠りされても困るわ。まずはゆっくり休んで、そうね、身体を綺麗にしなさい」

「今すぐ教えろ。じゃなきゃ、ここに用はねえってばよ」

「そう。でも、今の君じゃあ、彼女の元にたどり着けても、連れ戻す事は到底出来ないわ。たとえ、使いこなせるようになった尾獣の力を用いたとしても。何故なら、彼女がいる組織は、そういう力を掻き集めている集団だからよ。もし、今すぐ。例えば、君が彼女のいる組織に殴り込んだ場合、組織の一人や二人は殺せるでしょう。だけどその後は囚えられ、頃合いが来れば中の化け狐を引き抜かれて……そして死ぬわ、間違いなく」

「…………………」

 

 小さな沈黙が、一つ降りてきた。

 

 しかし、伝わってくる怒りは、更に強くなった(、、、、、)

 

「ナルトくん。君に修行をつけてあげるわ。今の君が扱っているのは、ただの暴力。山を均し、木々を薙ぎ倒し、平地を湖に変える事は出来るでしょう。でも、人を殺すには、あまりにも弱い力よ。特に訓練された人間を殺すには、無力ですらあるわ。まあ、家を建てるには都合が良いかもしれないけれど……その暴力を、私が力に変えてあげるわ。うちはフウコを取り戻したいというのならば、まずは風呂に入りなさいな」

 

 静かで、怪しい蛇の甘言。けれど同時に、事実でもあるのだろうと、イロミには分かった。

 ナルトはそのまま、カブトに先導される形で別室へと招かれた。

 

「多由也と君麻呂も休みなさい。ご苦労さま。貴方達二人だけでも戻ってきてくれたのは嬉しいわ」

「大蛇丸様」

 

 と、君麻呂は呟いた。

 

「その御身体は……」

「まあ、間借りしてるだけの身体よ。あのジジイの術のせいで、こうなるしかなかったのよ。貴方が気にすることではないわ」

「……申し訳、ありません。僕が…………」

「良いのよ。娘を連れてきてくれたのだからね。貴方こそ、身体はどうなのかしら? どこか、問題は?」

「全く」

「なら、休みなさい」

 

 二人は静かに部屋を出て行った。出ていく際に、君麻呂がこちらに一瞥を送ってきた。その意味はイロミには分からなかったが、大蛇丸の娘、ということである程度の特別視を受けるのは慣れなければいけない、という覚悟は出来た。

 

 室内には、二人。

 

「それで?」

 

 口火を切ったのは、イロミだった。

 

「私にも、力をくれるんですか?」

「ええ、あげるわ」

「修行でも? 言っておきますけど、私は物覚えが悪いですよ?」

「重々承知よ。何せ、貴方を作ったのは私なのだからね。貴方に相応しい成長のさせ方を思いついているわ」

 

 来なさい、と言い立ち上がる大蛇丸に着いていく。

 ナルトたちが出て行ったドアとは違う、別のドア。そこから長い廊下を歩き、これまた長い階段を降りていく。地下なのか、湿り気が唇に触れて、前髪が鼻先に貼り付いて不愉快だった。

 

 辿り着いた室内は、さながら、手術室のような場所だった。ような、という表現の原因は、部屋の中央に手術台が置かれていながらも室内があまり衛生的ではない汚れが合った事だ。

 

 汚れからは……血の臭いがした。

 

「ここは?」

「実験場よ。最近ではあまり使っていなかったけど、貴方には丁度いいかもと思ってね。うちはフウコを取り戻したいのでしょ? そのためには、貴方の身体をイジるのが手っ取り早いわ。色々と、研究も捗りそうだしね」

「……具体的には?」

「とりあえずそうね、服を脱いでおきなさい。邪魔になるから」

 

 衣服を全て脱ぎ去ると、手術台に鎖で固定された。自身の肌に、天井に吊るされた白色電球の光が熱を持って照射される。大蛇丸の包帯だらけの顔が、眼前にやってきた。

 

「大きくなったわね、イロミ。ここまで成長してくれるなんて、親冥利に尽きるわ」

 

 気持ち悪い。

 それがイロミの感想だった。自身の裸を観察されても、羞恥心の欠片も湧いてこない。

 大蛇丸は、包帯越しでも好奇心に満ちた笑みを浮かべながら、どこからともなく、小さな小瓶を取り出してきた。小瓶には、樹皮のような破片が一つ入っていた。

 

「これが、何か分かるかしら?」

 

 いえ、とイロミは淡白に応えた。

 

「これはね、私が昔、ちょっと墓荒らしの真似事をして手に入れた、かなり希少な細胞なのよ。今からそれを、貴方に移植するわ」

「それっぽっちの細胞で、私は強くなれるんですか? そんなもの、私の身体は簡単に食べ尽くしますよ」

 

 感覚的にイロミは、自分の肉体の仕組みを理解していた。

 普通の人間とは程遠い、ある意味で凡人とは異なった肉体。だが、そんな肉体があるからこそ、フウコを追いかける自信にも、そして大蛇丸が気にいるだろうという算段にもなったのだ。

 大蛇丸は語った。

 

「そうかも知れないし、そうじゃないかも知れないわね。この細胞は、貴方が食べてきた安物じゃないのよ。分かるかしら? 初代火影……千手柱間の細胞なのよ」

 

 千手柱間。その名前を、イロミは知らない訳ではない。

 

 木ノ葉隠れの里を作った偉大な人物の名であり、そして、忍史上唯一の《木遁》を使った者。

 

「この細胞は、本当に残り滓にも近いものだけど、それでも、人間に移植すれば細胞に侵食されて死に至るくらいの力はあるのよ? 全身……樹皮のように固まってね」

「……それを…………私に?」

「勿論。このまま放っていても骨董品にしかならないものね。さあ、貴方の才能と、柱間の才能。どちらが、勝つのでしょうね?」

「………………」

「ああ、死んでも構わないわよ? 貴方の遺体を分解して、薬とかを作ってあげるから」

 

 娘だと言いながらも結局は自分の事しか考えていない、気を違え、開ききった瞳孔がこちらを見下ろしていた。

 

 死ぬかもしれない。

 

 元が頭に付くものの、三忍の一人である彼が言うのだから、その可能性はかなり高いのだろう。

 

 ──いきなり、死ぬかもしれない、かぁ……。

 

 イタチとは、一応の約束をした。

 

 死なない、という普遍的な約束だ。しかし、大蛇丸の元へと赴くという性質上、ある程度の危険も伴う。

 

 だから、見定める。死ぬ危険に対して、明確な対策を立てる。自暴自棄で動かない。

 親が子供に言い付けるような言葉であり、忍としては当たり前の言葉でもある。

 それでも、彼は友達として許してくれた。

 一緒に頑張ろうと。

 頼む、と。

 イロミは深く息を吐いた。

 

「私は、死にませんから。絶対に」

「……クク。ええ、そう信じているわ。私の娘だもの。貴方には、期待しているわ」

 

 嘘つけ、と心の中で舌を出してやった。

 

 きっと。

 

 これから自分の身体は、どんどんと、成長という名の、異形の進化を経ていくのだろう。(よこしま)で、悪徳に、多くの細胞を埋め込まれて行くのだろう。

 

 幼い頃に比べれば、随分な道を歩いてきた。

 

 もしかしたら、道から転げ落ちて、醜い蛇のようにうねり泥水を啜りながら進んでいるのかもしれない。アカデミーの自分が見たら、どうしてそうなったんだ、と涙ながらに訴えてくるかもしれない。

 それでも自分は、子供な自分に胸を張って応える事が出来る。

 

 君たちが羨ましいからだ、と。

 

 君たちみたいにまた、輝いていたいから、頑張ってるんだ、と。

 

 盲目から、凡人と成って。

 

 凡人から、曲がりなりにも仙女となって。

 

 仙女から、蛇になって。

 

 そして蛇から、今度は、どうなるのだろう。

 

 だけど、だけど。

 

 彼女との友達という関係だけは、変わらない。

 

 喧嘩しても、どうしても、変わらないんだ。

 

 細胞が、植え付けられた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「久しぶりに、夢から覚めた気分。ずっと、寝ていたのかもしれないね」

 

 アジトで目を覚ましたフウコは、ベッドの上でそう呟いた。薄暗い天井が見える。明かりは、床に置かれた小さなランプだけから発せられているが、天井に取り付けられている電灯を付けないのはどうしてだろうか? とフウコはぼんやりと考える。

 

「寝ぼけるにしても、程度っていうものがあるだろう」

 

 声は横からだ。サソリだ、と、フウコは今更ながらのように彼がベッドの横にいる事に視線だけを横に向けた。身体は動かせない。ベッドごと、身体中を幾重もの鎖が巻き付いているからだ。まともに動かせるのは、首から上だけ。

 

 横にいるサソリは、視線は合わせてくれなかった。ややうつむき加減に、椅子に腰掛けている彼に、フウコは尋ねる。

 

「……明かり、点けたら?」

「お前がどっちかによるな」

「私は、私だよ」

「もしお前が演技をしているなら、明かりを点けて視線を合わせた途端に、面倒事がやってくる。まずは診断からだ」

 

 相変わらずだ、とフウコは思った。

 

 何を以て相変わらずだろうか? とも。

 

 いつぶりくらいだろうか。サソリと、こんな晴れやかな気分で会話が出来ているのは。晴れやか、と言っても、額には痛みがあるのだけれど。

 

 ──イロリちゃんの頭突き、痛かったなあ。

 

「胸部、開くぞ」

「いいよ」

 

 サソリは立ち上がると、フウコの胸を圧迫していた一部の鎖を緩め、間隔を空けていった。丁度、握り拳3つほどだろうか。薄暗い天井を見つめていても仕方ないと、フウコは瞼を閉じる。

 直後、胸から痛みが。

 乳房と乳房の間の皮膚が、肉が、鋭い刃物によって切られたのだ。続いて、内部の肋骨を切断。激痛に、けれどフウコは僅かに眉を顰めるだけだった。

 

「麻酔を使うか?」

「慣れてるから」

「心臓を見られるのがか?」

「昔は、ある人に、抉り出された事もあったから」

 

 フウコ自身は、サソリが見ているであろう光景を直視は出来ない。首を目一杯に稼働させても、鎖が邪魔で満足には覗けないだろう。

 

 胸部の内部。薄暗い中でも、その異物(、、)は順調に稼働しているのを、サソリは目撃した。

 

「どう? 私の心臓は。しっかり、動いてる?」

「お前のじゃない。俺が作った傀儡(、、、、、、、)だ」

「今は、私のだと思うけど」

「殺すぞ?」

「ごめん」

 

 そこには、心臓の形を模した、傀儡人形が収められていた。

 

 いや、人形とすら呼べないかもしれない。木製か、鉄製か、あるいは別のものか。巾着のような楕円形の物が、フウコの大動脈らと結合し、一定のペースで振動しているだけの傀儡だった。

 

 ドクリ、ドクリ。

 

 脈拍を、フウコは頭の中でしっかりと感じ取れている。

 しかし、それはサソリの作った傀儡が生み出す、偽りの脈拍。嫌悪感は無いものの、脈拍に耳を傾けていると、中々どうして、人間というのは単純な生き物だと呆れてしまう。

 

「脈拍は正常だな。お前も、どうやら本物らしい」

 

 と、サソリは呟いた。

 

「脈を測るなら、別に胸を開く必要は無いと思うけど」

「ニセモノならギャアギャア喚き散らすだろうからな。あっちはお前と違って、表情は豊かだ。フリをしていても、ここまでされて不自然さが無いってのは考えづらい」

「曖昧だね、基準が」

「お前らの成り立ちがややこしすぎるだけだ」

 

 そう呟いたサソリの表情は、どこか皮肉げな笑みを浮かべていた。

 人傀儡を作る彼にとって、一つの肉体に二つの魂が入っているというのは、贅沢にでも感じたのかもしれない。

 

 贅沢な訳が、無い。

 

 自分の意識に、他者が介入していく。

 

 見ている光景が、現実かどうかも分からない邪魔が入る。

 

 勝てたはずの事柄にも、敗北を持ってくる。

 

 煩わしいだけ。怒りだけが込み上げてくる。

 

 敗北に敗北を重ねられ、挙げ句に仮面の男に、心臓に呪印を施された。手駒として、利用する為の呪印。傀儡の心臓は、サソリと同盟を結んだ時に、彼に施術されたものである。

 

 常にチャクラを消費して稼働する傀儡。運動量に比例して血液の循環量を変動させる傀儡は、しかし、通常の動きよりも遥かに体力を消耗する。肉体の疲労と、チャクラの疲労が、段違いである。

 尤も、まともな意識で身体を動かせた事は、殆ど無かったのだが。

 

「ねえ、サソリ」

 

 傀儡をメンテナンスをしているのか、サソリはカチャカチャと音を立てて胸部に両手を入れていた。彼は視線をこちらに向けないままに、応える。

 

「なんだ?」

「今、すごく気分が良い」

「そうか」

「イロリちゃんに、大嫌いって言われた。ふふ。相変わらず、イロリちゃんは、我儘。いつも、私の予想を裏切ってくれる」

「笑ったのか?」

「さあ」

「随分と上機嫌だな。鎮静剤でも打つか?」

「青空を見てる気分だから。空が、見たいなあ」

 

 親友と喧嘩した。

 

 いつぶりくらいだろうか。

 

 親友は大泣きして、自分は無表情で。

 

 そんな騒がしい世界に、かつて自分は、いたのか。

 

 今では、敗北に敗北を重ねて、心の臓腑は傀儡となって生き永らえる程度の身なのに。まるで、奇跡だ。そんな感動が、秋の澄み渡った朝の空を見上げているような気分になった。涙が、溢れる。

 

 ああ。

 ああ。

 

「ああ……勝ちたいな」

 

 今度こそ、勝って。

 綺麗な世界を作りたい。

 

「泣いてるのか?」

「……さあ」

 

 頭が、痛くなった。

 

 彼女が癇癪を起こしたのだ。

 

 折角、気分が良いというのに。もう、はっきりした意識は、これで終わりか。これから、あらゆる絶望を与えられるに違いない。意識がまた、バラバラになって、何が何だか分からなくなるのだろう。

 

 空が、また、悪意に塗り潰される。

 

「サソリ」

「何だ?」

 

 と、彼は淡々と呟いた。

 

「寝るのか?」

「うん。後は、お願い。私を、勝たせて」

「次に起きた時には、舞台を整えておこう」

「あと……そうだ。再不斬と白に、ごめんって、えっと、伝えておいて。今まで、怖い思いとか、面倒かけさせて」

「あいつらの仕事だ。まあ、伝えておく」

「じゃあ、また」

「またな」

 

 意識が暗闇に、引っ張られた。

 そこには、瞳孔を開ききった彼女が、引き攣った笑みを浮かべながら涙を流して立っていたのだ。

 

 

 

 お前のせいで、イロミちゃんに嫌われちゃった。

 

 

 

 その言葉と共に、また。

 絶望に呑み込まれる。

 

「ぃぃぃぃいいいいいいいいいいやぁあぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああッ!」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

原始の繋がり 《未来》

 あけましておめでとうございます。

 そして、投稿が大幅に遅れてしまい申し訳ありません。


 目を覚ました時、真っ先に思い浮かんだのは、どんな夢を見ていたのだろうという、間の抜けた錯覚だった。白く、けれど薄暗さを残した天井が、より寝起きの思考を重くした。

 

「……ここ…………は……?」

 

 意識もせずに呟いていた言葉は、そのまま自分自身への問いへとなった。

 

 首が硬い。痛みと、そして疲労のせいだろう。いや、全身がその状態なのだと、感覚が起き始める。血液が急速に駆け回っているのか、体全身が熱かった。喉も乾いて、剥離のような痛みが。関節の殆どが包帯で固定されているのは、不愉快以外の何ものでもなかった。

 

 どうして、身体が痛いのか。こんな状態なのか……。

 

 そして、ふと、眼球に痛みが走り。

 

 思い出した。

 

「──あの、ウスラトンカチッ!」

 

 脳裏に焼き付くように現れたフラッシュバック。

 

 それは、ナルトの背中。

 

 顔じゃなく、遠ざかっていく背中だった。

 

 慌てて上体を起き上がらせる……が、筋肉の筋が切れるような感覚が腹部と背中から、同時に吹き上がる。肉体の反射が、寝かされていたベッドの上でサスケの動きを止めた。

 汗が湧き上がってくる。肉体からの危険信号だ。お前は碌に動けない、そんな当たり前の事を指し示してきた。

 

「……ッ! おいッ! 誰かいないのか!」

 

 怒りなのか、悲しみなのか、暴れ回る感情を言葉にして吐き出した。自分が寝ていた場所が、病室だというのは瞬時に理解できた。そして、どうして自分が病室にいるのかというのも。

 自分の記憶には、ナルトを連れ戻した光景は無い。

 

 だが、自分ではなく、カカシか自来也、ヤマトが連れ戻した可能性は十分にある。それに──フウコも、あの場にいた。

 

 見間違いじゃない。願望が映し出した幻視でもない。鮮明に、覚えている。

 

 もしかしたら、という希望が全く無いとは、サスケの胸中に無いとは言い切れない。フウコが、ナルトを木ノ葉隠れの里に戻してくれたのではないだろうか、と。

 

 木ノ葉隠れの里の為に血と泥と汚名を被った姉ならば、あり得なくはない、と。

 

 そんな希望的観測に応えるように、静かに、ドアが開かれた。

 

 現れたのは──。

 

「よ、起きたか」

 

 はたけカカシだった。

 

 いつもどおりの、気の抜けた声。意図して、そんな声を出している訳ではない事は、分かっている。ただ、普段通りの彼の声や様子が、苛立ちを湧き上がらせる。だが、そんな様子を歯牙にも掛けないように、カカシは呟いた。

 

「どうだ? 身体の調子は」

 

 彼は言いながら、ベッドの横のパイプ椅子に腰掛けた。

 

「命に別状はない、というのが医師の診断だ。後遺症も特に無し。だが、全身の筋肉がズタボロ。無理なチャクラの使い方をしたな。経絡系ごと、筋繊維が壊れかけているらしい。まあ、つまりだ。しばらくは休養、だな」

「……おい、カカシ」

「なんだ?」

「ふざけてんのか?」

 

 目が、激高に震える。

 

 もしも、身体が万全だったならば、写輪眼を無意識に発現させていてもおかしくはない程の怒り。睨めるサスケを前に、カカシは飄々と、けれど言葉の裏を察したかのように、深い溜め息を、口元を隠すマスクの下から吐き出した。

 

「里に運ばれてから、およそ、三日だ」

 

 出された、三日、という数字。

 やや一瞬だけ遅れて、意味を理解する。

 

「お前が、眠っていた期間だ。もう四の五の言ったところで、全てが手遅れだ」

 

 と、重すぎる事実が、背中から押し寄せてきた。

 

「ナルトは、おそらく──いや、十中八九──大蛇丸の元へと行った。任務は……失敗だ」

「……失敗だろうが、何だろうが…………あのバカが消えていなくなった訳じゃねえ。探せば見つけ出せるはずだ」

「今も、火影様が情報を集めている。が、たとえ見つけたとしても、すぐには動けない。ナルトは……ナルトに封印されている力は、他里、そして他国からすれば、それこそ戦争を起こしてでも手に入れたいものだからだ。もし、不用意に情報が外に漏れれば、ナルトを巡って、水際での小競り合いが起こる可能性も十分にある。情報収集も、捜索も、そして奪還にも、それ相応の根回しと準備が必要だ。今回、俺達がナルトを追いかける事が出来たのは、まだ情報が外に漏れていないことが確実だったから、そしてナルトを追いかける事が確実に出来たからだ。見失ってしまった今、また別の動き方をしなくちゃいけない」

「だから……関係ねえだろうが…………」

 

 理屈も、意味も。

 

 そんなものよりも。

 

「あのバカが、血迷った事してるってのに、当たり前なこと言うんじゃねえよッ!」

 

 フウコを追いかける為に、里を抜け出した。

 里がフウコに、全てを負わせたから。

 痛いほど分かる、その感情。だからこそ、連れ戻して、言ってやりたい。

 そんなのは、姉さんは望んでねえって。

 だから、ナルトが、姉が自ら進んだ暗い道を完全に踏破する前に。

 

「兄さんは……どこにいる」

「会いに行ってどうする?」

「テメエに言うつもりはねえ。失せろ」

 

 カカシは、何も言わなかった。驚きや、感情に任せているサスケへの怒りなどでは無い。まるで見定めるように、あるいは、何かを考えるように、こちらを見据えている。

 そして、タイミングを見計らっていたかのように、病室のドアが開いた。

 

「ありゃ? 何だ、サスケくん起きたんすか。カカシさんもいたんすね」

 

 入ってきたのは、フウだった。

 

「どーしたんすか? 二人して、睨み合って。サスケくんは怪我人で、カカシさんは大人なんですから、穏やかにしてくださいっすよ」

 

 わざとらしく重苦しい空気を出す二人を横目に、フウは抱えていた花を、病室に備え付けられている花瓶へと移し替える。

 

「フウ。兄さんはどこにいる?」

「知らないっすねえ。用事があるとか言って、どっか行っちゃったっす。最近、忙しいんすから。火影様は、下忍や中忍とは違って、今後の為に色々としなくちゃいけない事があるっすからねえ」

 

 サスケは荒々しく舌を打った。

 

 仕方ないと、ベッドから重い身体を降ろそうとすると、フウが真正面に立ちはだかる。

 

「サスケくん。火影様に会いに行くのは自由っすけど……順序があるっすよ」

 

 言葉の意味を理解できないままに、フウは視線で病室のドアの方を示した。

 そこに立っていた二人の人物に、カカシや、淡々としていたフウへの怒りが急速に静止する。

 

「……サクラ…………それに、ヒナタか……」

 

 二人と視線が重なったが、すぐに逸らされてしまった。無意識に、サスケも視線を下へ向けてしまった。

 

 互いが互いの感情を瞬時に読み取ってしまったのだ。

 

 おそらく、二人がここに来たのは、偶然なのだろう。フウと一緒に、見舞いにでも来た。その時に、自分は目を覚ましたのだ。

 

「カカシさん」

 

 と、フウはカカシに話しかける。それだけで、カカシは「そうだな」と応えてみせて、立ち上がる。二人は退室するようだ。

 

「サスケ、少し頭を冷やせ」

「………………」

「お前が焦るのは分かるが……焦って、思い通りの結果を出した忍は、俺は知らないな」

「……テメエが知らねえだけだろ」

「一人で何かをやろうとしても碌な事は起きない、という事は知っている。お前はまだ、恵まれているんだ。協力してくれる仲間がいるからな」

 

 重々しい言葉を残してカカシと、

 

「君の気持ちは分かるっすよ。勝手にいなくなられると、ムカつくっすよね……」

 

 そして、フウは出て行った。

 

 代わるように、ヒナタとサクラがベッドの横にやってくる。備え付けの椅子に座ったのは、ヒナタの方だった。彼女の顔の位置が、やや自分よりも低い位置に来たせいか、距離感が近い錯覚を与えられる。

 

 無音、無言。

 

 やがて、サスケは呟いた。

 

「悪い、ヒナタ。アイツを、止める事が出来なかった」

「ナルトくんは……その、何か………」

 

 そう尋ねてくるヒナタの言葉は、悲しみを必死に抑えたものだった。

 どうして連れてこれなかったのかと、きっと、言いたいはずなのに。いや、もしかしたら、既に言っているのだろうか? 今回、ナルトを追ったメンバーの誰かに。

 

 そこまで考えて、ふと、ヒナタの目元が赤く成り始めているのを見てしまった。

 

 サスケとヒナタの関わりは、これまでまるで無かった。そもそもサクラやナルト以外で、同期の中に関わりがあった者はいない。

 

 けれど、それでも分かってしまう。

 

 今、まさに涙を零しそうになっている彼女が、一体どれほどの感情を抑え込んでいるのかを。

 

「……木ノ葉を再興する。そう言ってたな」

「どういうこと?」

 

 尋ねてきたのは、サクラだった。驚きの表情。それは、ヒナタも同じだった。

 

「少し、話が長くなる」

 

 どこからだろうか、とサスケは考えながら話した。

 

 果たしてどこから、どこを始まりとして、今の現実へと繋がったのか。

 

 フウコという姉の事。うちは一族の事、そしてフウコとナルトの事。話しながら、今ながらようやく、ナルトとフウコの繋がりに疑問を持った。ずっと、恨みが頭に在ったからだ。

 

 そもそも、二人の接点が生まれる共通項というのがまるで思い当たらない。

 

 年齢が近いという訳ではない。姉がアカデミーの教師である訳でもなく、かといえばナルトにうちは一族との接点も無い。

 

 答えが見出だせないまま、話は終わった。と言っても、うちは一族がクーデターを企てようとしていた、という事実は敢えて伏せていた。もしも、うちは一族が自分一人ならば、素直に話していたかもしれない。兄であるイタチが火影である以上は、自分一人の判断では語るべきか判断できなかった。

 

 ただ、うちは一族と木ノ葉隠れの里との不和が問題だった。その事柄は、そう、濁したのである。

 

「……ナルトの言う、木ノ葉の再興っていうのは、姉さんに罪を着せた人間の排除なんだろう。その為に、里を抜けた。木ノ葉の中じゃあ、アイツはもう、自由に動けないだろうからな」

 

 話している間、ヒナタもサクラも言葉を発しはしなかった。話し終わってからも、しばらく、歪んだ静けさが室内を圧迫した。

 

「再興……なんだ」

 

 ふと、言葉を漏らしたのは、ヒナタだった。涙を目端に溜めて紅潮している顔だったが、まるで驚きに固めてしまった肩を撫で下ろすような安堵を含んだ声だった。その声のトーンに、サクラとサスケは不思議そうに彼女の顔を覗き込んでいた。

 

 ヒナタは「あ、えっと……」と、どこか慌てたように視線を上下させた後に、小さく微笑んだ。

 

「ナルトくんが、木ノ葉を出て行ってから、ずっと、不安だった。ナルトくんにとって、木ノ葉は、もうどうでも良くなっちゃったのかな……って。今まで、ナルトくん、すごく、頑張ってきたのに、サクラちゃんやサスケくん、キバくんやシノくん、他の人たちとの繋がりが、アカデミーやイルカ先生とか、無くなっちゃったのかなって………」

 

 ヒナタは続けた。

 

「でも、再興ってナルトくんが言ったなら……無駄じゃなかったんだなって…………少し、安心しちゃって。だけど……やっぱり、ナルトくん……………」

 

 無駄じゃなかった。

 

 その言葉の主語を、ヒナタは語らないまま、溜めていた涙をとうとう零してしまった。

 

 もしも、ナルトが本当に、木ノ葉隠れの里を見放したのならば、再興などという表現は使わなかったはずだ。

 

 フウコを見つけ出してから、例えば、遠くの地へと足を運ぶ事の方が行動としては当然だ。あるいは、強烈な怒りを抱いているのならば、滅亡と言った表現を使うだろう。

 

 再興。

 

 それは、ナルトなりに描いた理想的な時間がどこかにあったという事。きっと、彼にとって多くの繋がりがその基礎になっている。自分も、中に入っているのだろうと、サスケは漠然と考えてしまった。

 

 それが、ヒナタは安心したと語った。心のなかでは、嬉しさもあるのかもしれない。

 

 だが、サスケには怒りがあった。

 

 再興なんて紛らわしい言葉を使わないで、単純に、手を貸してくれと言えばいいじゃないか。

 そう思うだけで、今まさに怒りが爆発してベッドから飛び降りてやろうとさえ身体が震えてしまうが、同時に、その衝動は自分だけではないということを、サクラとヒナタから無意図に伝えられてしまった。

 

 彼女たちも、あるいは、他の誰かも。

 

 自分が意識を失っている間に、訴えていたはずだ。

 諦めるなと。ふざけるなと。

 それでも今、彼女たちが木ノ葉隠れの里に留まっているのは、現実的な手段が見当たらないことによる諦観と──。

 

「サスケくん。私ね……ううん、私だけじゃなくて、ヒナタや、他の人たちも、ナルトの事を諦めてる訳じゃないの」

 

 俯き涙を零すヒナタの手を握りながら、サクラは同じように目を腫らし、気丈にサスケを見据えた。

 

「正直、今すぐにでもナルトを追いかけて、思い切り顔をぶん殴ってやりたい。だけど今動けば、今度は私達が命令違反で拘束されちゃうかもしれない。最悪の場合、ナルトに近付けてさえくれないかもしれない」

 

 カカシとの会話を聞かれていた……いや、聞こえてしまっていたのだろう。

 こちらを見るサクラの瞳、そして静かに顔を上げている見つめてくるヒナタの表情。二人の鬼気迫る顔が、物語っていた。

 

 ナルトの味方が、この里にはもう、数少ないと。

 

 そうだ。

 

 ナルトが木ノ葉隠れの里を抜けたこと。それを、今まで、フウコに固執していたせいで、狭い範囲でしか理解していなかった。

 

 多くの者が、大蛇丸の木ノ葉崩しの際に、ナルトが暴走しているのを目撃している。

 そのナルトが里を抜けた。それが、どれほど木ノ葉隠れの里の信頼を裏切った事か。

 サクラとヒナタが病室に来たのも、偶然じゃない。彼女たちはずっと、様子を伺ってきたんだ。

 もう、里ではナルトが抜け忍となったことは知られてしまっている。様々な言葉や視線が、いないはずのナルトに向けられているはず。それを前に、少しでも、ナルトを連れ戻す為の味方をと。

 

「お願い、サスケくん。今度こそ、ナルトを連れ戻すために、耐えて………」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「はい、今日の晩御飯。豚骨ラーメン」

 

 自慢げな声で目の前に置かれる湯気立つ丼ぶりをナルトは見下ろしていた。

 

「今日は自信作だよ。我ながら、凄い苦労した」

「……一応聞くけど、イロミの姉ちゃん。どこで豚骨取ってきたんだ?」

「知らない。カブトさんに聞いたら、どっかからか拾ってきたみたい」

 

 不安で仕方がなかった。本当に、大蛇丸のアジトでは食料というものはどこで確保しているのか、想像が出来ない。豚骨をあっさりと出せる程の食料供給路があるのだろうか。

 

「食べないの?」

 

 と、イロミが顔を覗き込んでくる。

 

 彼女の顔は、包帯で覆われていた。大蛇丸の研究の一環の影響だと、彼女はいつも笑って語るが、包帯の隙間から覗かせる皮膚は、枯木の樹皮のように醜い凹凸が浮かんでいた。

 

「食べるってばよ」

「うんうん、お腹が空くと修行もままならないもんね」

 

 そう言って、イロミはテーブルを挟んで対面のソファに座る。ナルトも座り、低めのテーブルに載った丼ぶりに手を付けた。

 

 味は相変わらず旨い。箸が進んだ。

 

 対して、イロミも食べようとしているが、上手く箸で麺を掴めないのか何度も麺をスープに落としては再度掴むという事を繰り返していた。

 

 今、彼女の身体は機能不全を起こしているらしい。

 包帯は顔だけではなく、体全身を、それこそ指の先まで巻かれている。特に、右腕は重点的に分厚くされていて、肘でさえも曲げるのに一苦労している様子だった。

 それでも彼女は食事を用意し、普段と何も変わらない雰囲気で生活している。

 

「九喇嘛……くん? さん? だっけ。どう? 仲良くやれてるの?」

「全然」

 

 と、ナルトは応えた。どこか不満げに唇を尖らせる。

 

「アイツ、俺の事、やれ餓鬼だの馬鹿だの弱いだの、事あるごとに言ってくる。仲良くなれる気がしねえってばよ」

「でも、力は貸してくれるんでしょ? それで、ここに来た時、大蛇丸の頭潰してたじゃん」

「まあ、そうだけどよぉ……」

 

 言われたくない事を言われて、つい唇を尖らせてしまった。

 

 大蛇丸がイロミとナルトを受け入れた日、彼は確かに言ったのである。バケ狐、と。だから、その日の内に頭を潰してやった。大蛇丸は当然のように生きてはいる。そのせいもあって、正直なところを言えば、今すぐにでも殺し尽くしてやりたい衝動は僅かにある。

 

 しかし、大蛇丸の言う、殺す力。

 

 暴力では止められる。それは、自分が暴走した時に思い知っている。二度も、止められているのだから。

 研ぎ澄まし、力を付ける。

 そのためには、大蛇丸を殺す訳にはいかなかった。

 

「イロミの姉ちゃんは……身体大丈夫なのかよ」

「ん? うん」

「本当?」

「朝と昼と夜に毎回、吐くくらいだよ。あと時々、体中がバラバラになるくらいに痛いくらいだよ」

「大丈夫じゃねえじゃん」

「大丈夫だよ」

 

 と、イロミはコロコロと笑った。

 

「自慢じゃないけど、今の私は首を切られても復活出来るくらい生命力に溢れているからね。まあ、眠かったり一日中お腹が減っていたりするのに不便だけど。それでも……ちょっとずつ、力が身体に染み付いている感じはするよ」

 

 おいナルト、と。

 

 内側の九喇嘛が声を出した。

『どうしたんだってばよ。急にいきり立ちやがって』

【この女──ヤバいぞ。あの男の匂いがする。あの、千手の匂いだ】

 

 何を言っているのかは、ナルトの知識では及ばない。

 ただ、今にもチャクラを放出させてイロミに害を与えんばかりの圧力を諫めた。

 

『イロミの姉ちゃんは、そんな人じゃねえってばよ』

【ワシ等を止めに来た訳じゃないと? 本気でそう思っているのか?】

『その事については何回も話し合ったじゃねえか。イロミの姉ちゃんが俺たちを止めようとしてるなら、ここに着いてねえってばよ』

 

 サスケと戦い、その末に気を失っていた自分をここまで運んできたのは、イロミ自身だ。もし、イロミが友人であり火影であるイタチからの内通者だったのだとしたら、目を覚ました先は木ノ葉隠れの里でなければならない。

 

 それに、大蛇丸のアジトに来てからイロミが自由でいられる時間が極端に少ない。大蛇丸の実験に付き合わされるのが殆どで、他は眠っているか、今のように食事を作ってくれるか、それだけだ。自分から見ても、彼女が不審な動きをしているのを見たことが無い。

 

【あくまでフウコを追いかけるという所で合致しているだけだ。お前の言う、木ノ葉の再興というものに賛同してはいないだろう】

『言ってねえからな。それに……賛同してねえのは、お前も一緒だろ? 九喇嘛』

 

 ふん、と九喇嘛は小さく嘲笑ってみせた。

 

【ああ、そうだな。ワシは最初から木ノ葉の再興などと、半端な事は望んでおらん。ワシを封印してきた木ノ葉の滅亡だけが望みだ】

『相変わらずお前は物騒で、無愛想だってばよ』

【お前は脳天気な餓鬼だろう】

 

 サスケとの戦いの際──いや、それ以前にも何度か、九喇嘛からはチャクラを貰っていた。両親であるミナトやクシナが、九喇嘛から取り上げたチャクラを用いている訳ではなく、直接、チャクラを貰っているのだ。

 それは、互いの歪な協力関係を継続する為にナルトが九喇嘛に提案した形態だった。

 木ノ葉隠れの里を滅ぼしたい九喇嘛と、木ノ葉隠れの里を再興したいナルト。

 近いようで、実態としては真逆の事を考えている互いではあるが、起点としては同じ。

 木ノ葉隠れの里。

 どちらも、ここを起点としている。

 そして今やどちらも、木ノ葉隠れの里から遠ざかった身だ。

 

『……ま、俺達には馬鹿みたいに時間があるんだ。木ノ葉隠れの里をどうするかなんて、ゆっくり考えようぜ』

 

 だからこそ、そんなナルトの気楽な提案が、成立している。

 

【ふん、餓鬼が】

 

 そう言い残して、九喇嘛はチャクラを収めた。

 

「ねえねえ」

 

 と、イロミはようやくまともに箸で摘めた麺を口から垂らしながら言う。

 

「もぐもぐ……。もし、もう十分に力が付いたって……ごっくん。感じたら、ナルトくんはフウコちゃんのところに行くの?」

 

 ナルトはすかさず頷いた。ちょうど、麺をたらふく口に入れていたせいで、言葉で返事が出来なかったのだ。そっかぁ、とイロミは困ったように溜息を零した。

 

「じゃあ、私も頑張らないとね」

 

 ようやく麺を呑み込んで、尋ねる。

 

「どれくらいで、大蛇丸の実験っていうのは終わるんだ?」

「さあ、どうだろう。あの人の好奇心は、なんというか、病的だから。1つの実験が終われば、また次の実験とかさせられるかも。でも、まあ、いよいよってなったら動く(、、)つもりだよ。こうしてる間にも、フウコちゃんは苦しい想いをしていると思うし。ナルトくんは気にしないで、私の事はね。先を見据えていてくれれば、いつか追いつくからね」

 

 今は自分の事だけを考えて。

 

 そう言って、イロミは笑ってラーメンを食べようとして、箸を落とした。




 次話は今月中に投稿致します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

原始の繋がり:信頼

 投稿が遅れてしまい申し訳ありません。

 今回の話で次世代編は終わりとなります。

 次話は今月中に投稿できればと思います。


 感情があるから、人は速さから取り残される。

 

 重大な決断を遅らせ、決断した後にも挙動を鈍らせる。

 

 感情は一方向だけのエネルギーではないからだ。風船を膨らませるように、他方へと力が広がるのだ。問題なのは、そのエネルギーが均一ではないこと。歪に蠢き内側から暴発しようとしている風船のようだ。

 

 そして風船が破裂してしまえば、人は後先を考えられなくなる。

 

 忍は軍事力。遅く、そしていつ誤作動を起こしてもおかしくないものなど、災害に他ならない。

 

 かつての忍界大戦がそうだった。

 

 うちは一族の反乱もそうだった。

 

 そして──彼女の犠牲もそうだった。

 

 全ては、感情があるからこそ、招かれてしまったのだ。

 だからこそ、その感情の無い部下を作り上げた。だからこそ、感情を利用して他国とのパイプを作り上げた。そのパイプを使い、サソリとのコンタクトや【暁】の情報も仕入れることが出来たのだ。

 

 積み上げてきたもの。

 

 その、一切合切を、彼女に……イロミに打ち砕かれた。

 

「……俺を、笑いに来たのか?」

 

 【根】の拠点。その最深部の、暗く、あまりにも広すぎる廊下に腰を落ち着かせていたダンゾウの耳に、足音が聞こえてきた。

 無遠慮で、しかし他意を感じさせない素直な足音。ただ話に来たのだと言いたげなそのテンポを奏でる者は【根】にはいない。いや、現時点では、【根】の者たちは動けすらしないだろう。暴虐の限りを尽くし、けれど誰一人として死なせる事の無かったイロミの手によって、気を失っているのだから。

 

 そう、今は、イロミが木ノ葉隠れの里を抜けた後である。

 

 こんなタイミングでやってくる者など、やって来ることが出来る者など、一人しかいない。

 

「イタチよ」

 

 うちはイタチは、ダンゾウとやや距離を離して、立ち止まった。

 

「貴方を笑う意味がない。何を笑えと?」

「お前の望み通りの状況に、なっているではないか。猿飛イロミを里から出し、俺の部隊を壊滅させている。後は、俺を殺せば、全てを丸く収めたつもりなのだろう? そして、イロミはナルトの世話係。上手くコントロールし、いずれは里に戻す腹積もりだろう」

 

 イタチは応えない。

 まるで見当違いも甚だしいことに、いちいち反論する必要も無い、とでも思っていそうな無言だった。

 ダンゾウは「ふっ」と鼻で自嘲した。

 

「貴様がやっている事は所詮、火種を遠ざけているに過ぎない。問題の先送りだ。いずれ、うちは一族の時のように、どこかで問題はやってくる。避けようのない形でな。その時、お前はどうする?」

「そうですね……皆と協力して、問題を解決します」

 

 とてもフランクに、イタチはそう応えた。

 その表情が、被って見える。

 猿飛ヒルゼンに。

 いつも彼は、目の前の問題に対して軽く笑って見せた。憎らしいのは、その笑みが無責任な判断によるものではなかったということ。彼は彼なりの責任を感じ、そして最後には、死んでいった。

 

「ただ、言っておきますが、俺は問題を先送りにしているつもりはない」

 

 イタチは言った。

 

「ナルトくんを里から出すつもりはなかった。出来ることなら……共にフウコを追いかけてほしかった」

「なら、なぜ止めなかった? 貴様自身が出向けば、止める事が出来たはずだろう」

 

 たとえ火影という地位にいても、抜けていったのは人柱力だ。里から出る口実としては里の内外共に十分のはずだ。

 

「俺が止めに行っても、いずれはまた、彼は自分で外に出ると思った。それこそ、問題の先延ばしにすぎないと。なら、外に出して……彼を信じてみようと思った」

「お前らしくない。そのような賭けを──」

「だから、イロミちゃんを外に出した。賭けを賭けじゃなくする為に」

 

 イタチは、しかし平坦に語った。

 

「大蛇丸なら、彼女を手元に置く。彼女の身体は、大蛇丸の研究材料として魅力的だ。それに、手駒としても十分な力を、前の中忍選抜試験の反逆で示している。そして、今も」

 

 ダンゾウと、その部下たちを打ちのめしたのだから。

 しかし、ダンゾウにとって、やはりそれは賭けでしかない。

 たった一人の少女が、何を変える事が出来るのだろう。確かに力は恐ろしさすら感じる程だ。

 

 ダンゾウはイロミと戦った。

 

 全力を費やして。

 

 うちは一族の眼球と千手柱間の細胞を移植した右腕。その右腕を使用した、うちは一族に秘密裏に伝えられていたイザナギを用いて、何度もイロミを追い詰めて、殺した。

 頭を潰した。心臓を貫いた。全身を燃やしてやった。首の骨を砕いてやった。

 何度も、何度も。

 それでもイロミはあらゆる手段──彼女曰く、仕込み──で、あるいは呪印の力で。暴れに暴れた。争いの様相は、ダンゾウの忍術が発動が出来なくなるか、イロミの命のストックが無くなるかといった、泥沼となっていった。

 

 結果は、向こうの命が勝った。

 

 そして、彼女は自身の細胞を、イタチの記憶を取り戻す為に、シスイの眼球を埋め込んだ右眼へと延ばした。

 

 彼女は涙を流し、大いに泣いて、里を抜けていった。

 涙を流す。

 それは感情に他ならない。

 感情は……遅く、暴発する。コントロールの利かない、欠陥だと言うのに。

 

「お前も、ヒルゼンと同じ過ちを犯すのだな。あいつも、人を、人の心を信じ、そして死んでいった。いつだって、敗北の始まりは人の心からだ。そうだろう? うちは一族よ」

「……だが、俺やあんた、そして木ノ葉があるのも、人の心だ。血や習慣、秩序といった、記号じゃない」

「それを問題の先延ばしだと言うのだ」

 

 心が、感情が、意志が。

 火のように紡がれる。聞こえは良いが、それは責任の引き継ぎの免罪符にもなり得る。どこかで誰かが、感情を押し殺して問題を終わらせなければいけないのだ。

 けれど。

 その言葉は、果たして。

 イタチに言ったのか。

 それとも……かつての──。

 

「そう言う貴方だからこそ、俺はここに足を運びに来た」

 

 と、イタチは一歩足を踏み入れた。

 そこで初めて彼は、小さく笑みを浮かべた。自嘲気味な、爽やかな青年らしい笑顔だ。

 

「正直……忍に感情が不要という考えは共感できる。完全に否定するつもりはありません。ただ、人の感情と……向き合うという事を友達から学んだ。感情を捨てる前に、行うべき事柄があると学んだんだ」

「………………」

「それでも、俺一人では行えない事は山のようにある。もしかしたら、貴方の言う、感情に囚われて判断を過ってしまうかもしれない。火影という地位、それをフウコを追う事の為だけに使うつもりは毛頭ない。だが、過ってしまえば、うちは一族の血と歴史を持つ俺は、他者から見れば俺は復讐者(、、、)に見える。それだけは出来ない」

「結局は、自分の為か……」

「他人を慮ってばかりでは、感情とは向き合えない。お前の眼は節穴か? ちゃんと見ろと、友達に言われたばかりだからな」

 

 イタチは続けた。

 

「貴方なら……木ノ葉隠れの里を支えてきた貴方なら、俺の過ちを見極める事が出来るはずだ」

「……お前は、どうして火影になった?」

 

 イロミとナルトを里から出し、そして自分自身もうちは一族という背景を持つ火影となった今、身勝手に動くことは許されない。

 もはや、今のイタチにとって火影になるメリットなど皆無に等しい。

 

「まだ俺が子供だった頃……木ノ葉に九尾が現れ、暴れた事件があった。その時から、ずっと疑問に思っている事がある。あれは本当に災害だったのか? と。うちは一族自らが行う筈がない。あの事件が、うちは一族がクーデターを考える決定打になったはずだからだ」

 

 もし、

 

「あの事件が、人為的なものならば……九尾を意図的に動かせる人物は、限られている。更に言えば、あの夜、フウコは俺に幻術を掛けてどこかへ行っている。赤子のサスケを溺愛していたフウコが、勝手にどこかへ行ったんだ。そして……あいつが黙ってどこかへ行くのは、今まで、それを含めて二度ほどあった」

 

 一つは、九尾の事件の夜。

 そして一つは、

 

「シスイと共に暗部の任務に行った時だ」

 

 ダンゾウは、黙ったままだった。

 

「あの夜、うちは一族は末期に近い状態だった。いつ、勝手にクーデターを起こしてもおかしくはない程度に。だからこそ俺達は協力して、うちは一族を止めようと考えていた……にも関わらず、あの二人が一時的にどこかへ行っていた。シスイが行くのは分かる。フウコが傍にいたからだ。では、フウコは? あいつがどうして、どこかへ行く必要がある? ずっと、それが気掛かりだった。記憶を取り戻しても、それだけは分からなかった。だが、フウコの感情から考えれば、答えが出た。重大な仮説だが……うちは一族という爆弾を目の前に、赤子のサスケを目の前に、あいつがどこかへ行ったのは、明確な敵がそこにいたからだ。違うか?」

「だったら……どうしたというのだ?」

「俺は、全てを守りたい。人の感情からそれを学んだ。秩序という歴史からそれを学んでいた。だから、火影になった。フウコの敵は、かつての泥沼のような大戦から端を発する、泥川のような歴史の延長線上にいる。俺は火影として、その男から全てを守りたい」

 

 だから。

 だから、

 だから。

 

「ダンゾウ、貴方の積み重ねてきた全てを使わせてくれ」

 

 俺は。

 

「近い将来……五影会談を開くつもりだ。貴方が広げていった人脈ならば、可能なはずだ。そして俺と、木ノ葉隠れの里の将来を、また一から見定めて、支えてほしい」

 

『木ノ葉と、木ノ葉の子らを……頼む』

 

 長ったらしい、ヒルゼンらしい遺書の一文を、ダンゾウは頭に思い浮かべた。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「おう、イルカ。お前、煙草吸うか?」

 

 アカデミーの職員室だった。

 

 昼休み。午前中の授業が終わって、職員室に戻ってきたところのイルカは、自身のデスクに着いたタイミングを見計らうように声を掛けられた。アカデミーでタバコを吸い、そして職員室にも関わらず堂々と煙草を吸うと発言する人物は、一人しかいない。

 

 イルカは驚いた表情を一瞬だけ浮かべてしまった。

 

「あの……吸いませんが」

 

 互いに教師として同じ学び舎で活動している筈なのに、それすら知られていない事がイルカにとってはややショックな事だった。ブンシとは特別親しい間柄でもなく、そして将来的にもなる事も無いはずであり、けれども同じアカデミーの教師という職業上の関係としては尊敬しており、そんな彼女がこれまでこちらに一切関心が無かったというのは、自分のこれまでの教師としての存在感が希薄だったのだと叩きつけられたようだった。

 

「あたしとお前、どっちが先輩だ?」

「……はい?」

「あたしだよな?」

 

 何か悪いことをしてしまったのだろうか。イルカは本気で考えてしまった。状況としてはカツアゲされているにも劣らない。

 他の教師たちに視線を送るが、彼ら彼女らは一様に顔を伏せるばかりだった。

 

 もう一度、ブンシを見上げる。

 

 額を大きく出したヘアスタイル。その額には、青筋は立っていない。しかし、表情はどこか無表情。

 分からない。怒っているのか、怒る前触れなのか、平常運転なのか。

 イルカは恐る恐る応えた。

 

「勿論、ブンシ先生が、先に教師になっていましたので」

「じゃあよ、茶、付き合え」

「……はい?」

 

 脈絡が分からなかった。

 煙草の次は茶。

 

「えっと……今は、昼休みですが……」

「文句あんのか?」

 

 額が僅かに震えるのを確かに確認してしまった。

 あと数回もすれば、拳が飛んでくる事は間違いない。問題なのは、その数回というスパンが極端に短いパターンがある事だった。

 

「あたしが奢ってやっから。何食いたい?」

「えーっと、何か話があるのでしたら、ここでも……」

「酒でも何でも奢ってやっから、さっさと言えゴラァッ!」

 

 青筋が一瞬で三本に増えた為、テキトーな食事処を言うとブンシはさっさと教員室を出て行った。どうやら、付いてこいという意味なのだと、彼女の背中が語っていた。他の教師たちに視線を送っても、やはり彼ら彼女らは顔を伏せたままだった。

 

 アカデミーを出て、しばらく、二人で歩いた。二人で歩くといっても、ブンシが前を歩き、その後ろを三歩ほど離れてイルカが歩くという、微妙な距離感での移動だった。

 

 何度か声を掛けて、この気まずい雰囲気を払拭しようとしたが、ブンシは無言のままだった。表情は後ろからでは見えず、重い空気が漂っていた。

 食事処に着くと、店員に案内される。提供の早い定食屋だった。

 

 意外にも、ブンシは案内される際に「二名でお願い」と普通の様子だった。

 

 席に着く。店内の個室。狭いながらも、互いに話すには、紙一枚程ではあるが機密性は担保された場所だった。

 

「煙草、吹かしていいか?」

「ええ……どうぞ」

「お前は?」

「ですから吸いませんよ」

「他の連中への建前じゃなかったのか」

 

 どうして煙草を吸わせたがるのだろうかと思っているとブンシは慣れた手付きで火を点けた。喫煙席のようで、用意されていた灰皿を手元に寄せた。

 煙草を口端に加えながら、淡々とブンシはメニュー表を開く。

 

「何食いたい? 何でもいいぞ。これでも金はある。気にすんな」

「……あの」

「んだよ」

「何か、話があったのでは?」

「あ?」

 

 黒縁メガネの奥の瞳がじろりとこちらを見た。怒っている様子が無いことは額から予想出来てしまい、イルカは静かに伝えた。

 

「ブンシ先生に奢ってもらえるというのは初めてのことですよね? だから、何か話でも……」

「そうだな。だが、それよりも先に飯だ。あたしは決めた。お前も決めろ」

「……はい」

「あ、酒飲むか?」

「終業してませんよ」

 

 ブンシは親子丼、イルカは煮魚定食を注文した。

 料理はすぐに来た。昼休みという事もあり、匂いで空腹が強く、ブンシが箸を取り親子丼を黙々と食べ始めるのを見てから自分も箸を付けた。黙々と昼食にありつく。

 

 ブンシはあっという間に食べ終わってしまった。自分はまだ、三分の一ほど残っている。食後の一服をブンシが始めると、ようやく、彼女は独り言のように呟いた。

 

「仕事したくねえよなあ」

 

 煙草の誘いから、奢りの話から……また唐突な言葉が出てきた。

 それも、衝撃はかなり大きい。ブンシは粗暴なイメージがあるが、仕事には熱心な教師だというのは、生徒も他教師たちも理解している部分だった。

 

「最近のあたしはストレスで頭がパンクしそうだ。カカシの野郎をぶん殴って、イタチも殴って、怒鳴り散らして……喉が痛ぇよ。なのにガキ共の世話をしなくちゃいけないってのは、何か、嫌だよな」

 

 大きく紫煙を天井に向けて吐いて、彼女は灰を落とした。

 

「あたしはまあ、そんな感じでストレス発散? してるけどよ。お前はどうなんだよ。ナルトのやつ、里を出て行っちまったぞ」

 

 その、言葉は。

 

 アカデミーの教師としての義務や、業務といったものを吹き飛ばすには、あまりにも強すぎた。

 自身の箸が、ピタリと、止まった。

 

「あたしさあ」

 

 と、ブンシは呟いた。

 

「もうさ、二回。可愛い生徒が里を出て行っちまってさ。教師なのに、なーんも相談もされず、頼られもせず、手を貸してやる事も出来ねえでやんの。ガキ共の為につって教師やってんのに、そのガキ共は想像以上にやんちゃで、気が付かねえ内に成長してるの見るとさ、あたし惨めだよなあとか、んなこと、考えちまう訳」

 

 普段のブンシとは程遠い、穏やかでフランクな語り口。けれど、その言葉は、まるで鏡写しであるかのように思えてしまった。

 誰の?

 それは、自分の。

 気が付けば箸を握った手は、膝の上で固まっていた。

 

「もうベテランな訳だ、あたしは。だからよ、イルカ」

 

 そう言いながら、ブンシは眼鏡を外して、小さく笑った。

 頬を赤く染めて、涙袋を腫らして、そして、涙を溜めながら。

 

「今日はよ……学校…………サボっちまうか……? サボってよ……ヤケ酒でもさぁ…………飲まねえか?」

 

 ああ、そうだ、とイルカは思い出した。

 

 ブンシ(、、、)の教え子も、抜け忍となっている。

 うちはフウコと猿飛イロミ。

 ブンシの目から、ボロボロと涙が溢れていく。

 今まで溜めてきた涙を止められないかのように。

 けれど、彼女はすぐに涙を拭った。顔を伏せ、赤くなってしまったみっともない顔を見られたくないように。

 

「……今のは忘れろ。いいな?」

「……はい」

「後輩のくせに、世話焼かせるなよ。顔に出過ぎなんだよテメエは。ガキ共がこぞって、テメエを叱ったんじゃねえかってあたしに言って来るたびに、腹が立ってしょうがねえ……じゃあ、お前の番だ」

「え?」

「先輩に奢ってもらったら、本音を言うのがルールなんだよ。ナルトの事、どう思ってんだよ……。先輩が、このあたしがだ! ここまで気ぃ使ってやってんだから、察しろ」

 

 今の木ノ葉隠れの里では、ナルトの話題はどこかタブーのようになってしまっている。中忍選抜試験で見せた九尾の暴走。それが、あまりにも強烈過ぎた。

 そして、ナルトが抜け忍となったのは未だ公表されていない。ナルトが抜け忍となったと聞いたのは、カカシからだった。ブンシも、おそらくは、彼から聞いたのだろう。

 そんな状況の中を、きっとブンシは理解している。理解……してくれている。

 話せるのは……。そう、ヤケ酒のような事が出来るのは。

 

「ナルトが里を出ていったのは……、きっと、何か理由があるのだと思っています」

「どうして、そう思う? 嫌な言い方をするが、あいつは、里では疎まれてたぞ?」

「もしもそれで里を抜けるなら、もうとっくの前に出て行ってます。だけど、それをあいつは、しなかった。真っ直ぐな目で、火影になる、そう言うんです。皆に認めてもらう為に、敢えて困難な道を進むと言っていたんです。その道を変えて、里を出て行った……それは、決して楽な道である筈がない。そして、自分よりも誰かを守るために出て行った。俺は、そう信じています」

「……そうだな。ナルトのバカは、そういうやつだな」

 

 相槌が彼女の本心かは、分からない。アカデミーの教師であるブンシがナルトを知っているのは当然ではあるけれど、もしかしたら、こちらに気を使っているだけの事もあるだろう。

 そうは分かっていても、共感してくれるだけで、込み上げてくるものがあった。

 

「だから……あいつが、里を抜けたと聞かされた時は、あいつはあいつなりに大きな決断をしたんだなと、その、火影を目指すと言い出した時みたいに、また別の夢が出来たんじゃないかって、親心とは、全然違うのかもしれないんですけど……」

 

 言葉を、出せば出すほど。

 自分の感情が分からなくなっていく。本当に自分が抱いていた感情が、どこかへ行ってしまったかのようだ。

 

 ブンシに対して虚勢を張っている訳じゃない。嘘をついているつもりはない。本当だ。なのに、自分の感情に見合った言葉が口から出ない。酒を呑んで酩酊してしまったみたいだと、イルカは思う。思考がフラフラする。

 

「何か、すみません。変……ですよね?」

 

 逃げるようにブンシに尋ねてしまった。

 

「変じゃねえよ。良いんじゃねえか? そういう考えがあっても。それぐらい、お前はあいつのこと、見てたってことだろ?」

「……最初は、そう思っていました。ただ、えっと……だから」

 

 ナルトは自分が想像している以上に、成長していった。

 下忍候補生を尽く落第させていったカカシの班に入る事が出来たし、中忍選抜試験にも出場できるようにもなって、最終選抜にも選ばれて。

 だけど自分は、かつて九尾に親を殺された時から足を止めてしまっていて。ナルトと和解してからは、また進み始めたけれど。

 

 年上ながら、ナルトは。

 

 自分よりも先に進んだ子だった。

 彼がいなくなって、そういう関係になってしまっていたんじゃないかと、不安に思った。

 だから……。

 

「だから……」

 

 涙が。

 

「なぁ……ナルト…………俺って……そんな、頼りなかったかぁ……? どうして、相談してくれなかったんだよ……」

 

 不安な事柄という訳じゃなくてもいい。戸惑いの話という訳じゃなくてもいい。

 いつもの一楽で自慢気に語る口調で将来の事を話してくれるだけでも、良かった。

 木ノ葉隠れの里を出ていく前に、どこに行くのか、話して欲しかった。

 最後までナルトの味方でありたいと、心の底から想って、そして自慢気に語る話がどんどんと膨れ上がっていくのを楽しみにしていたのに。

 

 分かってる。

 

 ナルトが木ノ葉隠れの里を出ていくまで、牢に繋がれていたのは分かっている。顔を出すことが難しかったことも。それでも……。

 感情がぐちゃぐちゃになる。

 

「やっぱ……そう思うよなあ。ガキって身勝手だよなあ」

 

 どこか嬉しそうに、どこか楽しそうに、ブンシは言う。

 

「でもさ、ナルトはよ、お前に相談するのを忘れてたりだとか、嫌がったりとかしなかったんじゃねえか?」

「え?」

「あたしの生徒なんてよぉ、ひでえもんだぞ? 一人は鉄でも埋め込んでんじゃねえかってくらいに無表情で何考えてるか分からねえし、一人は訳分からねえ所で根性出して変なことしだすしで、正直、自信無くすけどよ。ナルトの奴はちげえだろ。あんな分かりやすい奴、そうそういねえよ。お前に、迷惑かけたくなかっただけだろ? 抜け忍になるわけだし」

「…………それでも、」

「相談してほしいよなあ」

「そう、思いますよ……本当に」

「そんな飯で足りるか? 他に食いたいもんがあるならちゃっちゃと注文しろよ」

 

 涙が流れて、頼ってほしかったという感情がきっと自分にとっての正確なものなのだと分かると、急激に空腹が襲ってきた。

 

 残った食事を一気に口にかきこみ、飲み込む。

 

 味なんて分かったものじゃない。それでも、少しだけ、そう、午後の授業はまともな顔で行えそうだと想った。

 

「学校、サボるか?」

「いえ……大丈夫です」

「本当か?」

「ええ。俺は……ナルトにとって、立派な先生ですから」

 

 ブンシは新しい煙草を取り出して火を点けた。漂う細い紫煙の奥で、ブンシは笑った。

 

「まあ、あたしの生徒も、お前の生徒も、もう立派な忍だ。あたしらもな。傍にいるいないでジタバタクヨクヨすんのは、一度きりにしようぜ。気長に、次に会う時はもっと立派になって帰ってくるだろうって、腰据えて待つことにしよう。それに、今の火影はイタチだ。つまりあたしの生徒だ。ナルトの捜索に力入れろって、ケツ叩いといてやるよ」

 

 だから、

 

「信じて待って、いざあいつらが頼ってきた時は、いの一番に駆けつけてやろうぜ」

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 人間は学習する生き物だ。

 

 とりわけ、痛み、という現象はより学習には強い力を秘めているだろう。痛みが分からなければ、生きていく事が出来ない。相手が何者であるのかと悠長に考えていたら、生きてはいけない。だからこそ、痛みという直感的な部分で知らせてくれるのだ。

 

 痛みは学習を促す。痛みを知らなければ、人は徐々に痛みを忘れていく。自分の行動が、他者の行動が、どれほど広大に、どれほど無遠慮に何かを痛めているのかを分からなくなっていく。

 

 その不理解は、やがて突如として大きな歪みとなって目の前に現れる。

 それが争いの火種だ。

 火種は束になり、重なり、炎となって人を焦がし駆り立てる。

 終わらない、不毛な闘争に。

 

「だからお前は、痛みを与えるのか?」

 

 その空と海の世界で、彼は問いかけてきた。

 死者である筈の彼は、白い鎖から姿を現し、こちらの腕を掴んできたのだ。とても真っ直ぐに、見据えてくる。写輪眼をその男が持っているからなのか、彼特有のものなのか、全てを見通すような印象を受けた。

 

「全ての人間が痛みを受ければ、世界は、次の痛みを止めようとする。痛みを知っていれさえすれば、そう、お前たちうちは一族が感じた事を木ノ葉の者も理解できたかもしれない。お前も、そう思わないか?」

「全然、思わないな」

 

 と……シスイは言った。

 

「痛みが無ければ他人を思えない程、人間は馬鹿じゃない」

 

 うちはシスイがどのような経緯で、うちはフウコの内部にいるのかというのは粗方知っている。白ゼツと黒ゼツが、僅かながらにも細々と木ノ葉隠れの里に潜入して情報は手に入っている。

 既に死者となった彼にとって、もはや干渉できるのは、フウコの内部のみ。彼自身も、それは知っている事だろう。もしかしたら、外部の情報だけは彼に届いているかもしれない。もしもそうであるならば、今の状況は彼にとっては絶望以外の何ものでもないだろう。

 それなのに、

 

 ──どうして、そんな目が出来る。

 

 シスイの目には憎しみも怒りも、荒々しい感情は伝わってこなかった。

 分からない問題を先生に尋ねるような子供の、その瞳に等しかった。

 

「うちは一族のクーデターは決して、木ノ葉に痛みを教えるための……復讐なんかじゃなかった。そういう人達がまるでいなかった訳じゃない。だが、根本的な部分として、未来を案じて、クーデターを考えたんだ。でなければ、クーデターなんてとっくの前に起きている」

「その未来というものを案じ始めたのは、痛みを与えられたからだ。その始まりを根絶やしにする。全ての世界に、最後の痛みを与えることが出来れば、お前たちのような人間はいなくなる」

「それはありえない」

 

 平行線。

 

 それを確信してしまう程に、シスイの語気は強かった。

 

「あんたの言う痛みは、酷く狭窄的だ。単なる嗜虐心や、理不尽な憎悪、そんな限られた状況だけの想定だ。痛みは、赤の他人に対してだけ生まれる訳じゃない。仲が良いからこそ、痛みが生まれる事もある。少なくとも俺の友達は……校門で大泣きしたり、一人で勝手に努力して相談しようとしなかったり、痛みばかりだ。ましてや爺ちゃんとなんか、買い言葉に売り言葉が当たり前だった」

 

 痛みを与えれば、

 

「そんな言葉を皆が繰り返して、戦争が起きているんじゃないのか? 大切なのは、単純な事のはずだろ?」

 

 怒りを感じたのは、男の方だった。シスイのその言葉が、かつての親友を否定し、そして些末な戦争の被害者へと貶めるように感じた。

 

「ねえ、ちょっとさあ。どーでもいいけど、さっさとそいつ殺してよッ!」

 

 その時、一人の女の子ががなり声を挙げた。

 男が抱いた怒りよりも乱暴で、密度が薄く、爆発する風船のような怒り。

 

 声は、シスイの背後から。そこには、二人の人物がいた。

 

 一人はフウコだった。しかし、彼女はピクリとも動かない。現実世界で徹底的に痛め付けられ、肉体に精神が合わさるように、四肢の骨がひしゃげて、腹部には穴が空いている。自分がそうしたとは言え、見るも無残な姿だ。だが、そうしなければ彼女は止まりはしなかったのである。

 声を出したのは、もう一人。女の子の方。彼女は、全身を白い鎖で巻かれ倒れ込んでいた。まだ幼子でありながらも、浮かべる憎しみの表情は、彼女の顔に深い皺を作っていた。

 

「マダラ様の友達でしょ?! だったら、そいつ殺して、この邪魔っくさい鎖を解いてッ! そのために、あんたは来たんでしょ! グダグダ話してないで、早くしてよ!」

 

 女の子の言う通り、男はシスイの写輪眼が発現できる【別天神】を解くためである。最上位の幻術に位置する【別天神】といえど、男の瞳術を使えば、時間を要するが不可能な事ではない。

 

 本来なら、解除の目処を立ててからフウコを治し、それから事を進めるつもりだった。

 だが、その予想外に、シスイが姿を現したのだ。

 そしてシスイは……言葉として出してはいないものの、実直な眼で伝えてくるのだ。

 

 

 

 いずれ、お前の過ちは断絶される。

 

 

 

 と。

 

 死者でありながら、それを一切に疑わないその姿勢が、男にさらなる苛立ちを抱かせた。自身が死に、一族を皆殺しにされ、大切な者が大罪人として抜け忍となった現実を直視できていないのではないかとすら思えてしまう程のシスイの姿勢に、男は──賭けを申し出た。

 

「なら、この女の中で見定めてみろ」

 

 男はシスイの腕を振り払った。

 真っ直ぐ、彼の瞳と対立する。

 

「お前は、痛み以外にも平和を築くことが出来ると言ったな。なら、それが真実か、確かめてみろ。いずれ、この女は自身の痛みに疑問を持つようになる。どうして自分だけが、こんな苦しんでいるのかと。そして、多くの人間が痛みを知れば、と思い至るだろう」

「…………」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよッ! ふざけたこと言わないでよッ!」

 

 二人の間に、女の子が声で割り込んだ。

 

「あんた、マダラ様を裏切るつもり?! 私を解放しろって──」

「俺とお前に直接の繋がりは無い。お前がいなくとも、問題は無い」

「はぁあああああッ! ふっざけんな、この裏切り者ッ! マダラ様に言いつけてやるッ!」

 

 男は女の子の罵声に耳を傾けず、視線さえももはやシスイだけを睨んでいた。

 

「お前の言う、単純な事というのが如何に子供じみた理想か、よく見ておけ」

 

 そして、男はその世界から出て行った。

 背中から「俺の友達をナメるなよ」と、シスイの言葉が届いたような気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

間話 知られざる想い

 投稿が遅れてしまい申し訳ございません。

 次話から、最終章に入る予定です。

 また長くなり、そして投稿が遅れてしまうかもしれません。気長に、手隙の際にでも読んで頂ければ幸いです。

 次話は今月中に投稿を行えればと考えております。


「お前はお前の信じる道を、俺達は俺達の信じる道を進んだだけだ。胸を張れ」

 

 父親として不器用だった彼は、やはりこの時も、不器用だった。言葉の中に忍としての気構えを含めてしまいながらも、彼は真っ直ぐに言葉を紡いできた。

 

「貴方の選んだことだもの。私は誇らしいわよ。だから、ね? そんな辛そうな顔しないで」

 

 母親として目一杯の愛と伝えてきた彼女は、やはりこの時も、愛を伝えた。言葉だけだが、言葉しか伝える事を許さない娘の決意を前に優しく微笑んだ。

 

「道が違っても、どんな事があっても、俺達は家族だ。お前が胸を張って行う全てを、俺達は認める。迷うな」

「あまり偏食をしないようにね。いっぱい食べるのは良いけど……身体に、気を付けて」

 

 静か過ぎる夜に。

 静か過ぎる夜だから。

 静か過ぎる、夜なのに。

 雨のような音が、聞こえてくる。

 

「さあ、早く終わらせるんだ。イタチとサスケが帰ってくる。今ここで決着を付けなくては駄目だ。最後までしっかりやるんだ。大丈夫だ。お前なら出来る」

 

 うる……ざい………だまれぇ……。

 がっでなごど……を……おまえだぢ………は、……かぞくでも…………なんでもぉ……。

 

「ずっと、私達は家族よ。ただ、道が違っただけ。私達は、うちはの幸せを願ったの。勿論、イタチやサスケ、貴方のことも」

 

 うるざい……うるざい………。

 ふざげるな……おまえだぢが……こんなごど…………こんな……ひどいことを……。

 

「やれ、フウコ」

「頑張って、フウコ」

「フウコ。お前がどこにいても、血は繋がっていなくとも……俺達は家族だ。お前の父だったことが、俺の誇りだ」

「お母さんって、呼んでくれないの? フウコ。私も、どこまで行っても、貴方の家族よ。怖いことなんて、何もないわ」

 

 月は、その夜を知らない。

 

 

 

   ★ ★ ★

 

 

 

「出掛けてきます」

 

 昼食を食べ終えると、イタチはそう言って玄関に向かう。第三次忍界大戦が終わってから、そんな暗黙のルーティンが出来上がっていた。

 

「今日も御散歩かしら? これからアカデミーが始まるのに、勉強しなくていいの?」

 

 まだ戦争の傷跡が残る木ノ葉隠れの里。そこに行くのをフガクもミコトも、あまり心地よくは思っていなかった。遠回しに留めようとするミコトに、イタチは知ってか知らずか、年不相応の落ち着いた笑みを浮かべながら、玄関で靴を履いてこちらを向いた。

 

「大丈夫だよ。帰ってきてからしても問題ないから」

 

 言葉尻は幼さを残していながらも、たしかにイタチの地頭の良さは親であるミコトは十分に知っている。我が子ながら自慢の息子だと、今の時点で十分に感じているのだけれど、戦後という特殊な環境では少し複雑な気分ではあった。

 

 今は、家に夫のフガクはいない。警務部隊の仕事に行っている。未だ、木ノ葉の人々に深い傷を残している今では、様々な所で小さな衝突が起きている。当然だ。大切な人を失ってしまった者もいるのだから。

 

 そういった小さないざこざを監視・無くすのに奔走している。

 

 いや。

 

 それだけでは、無いのだろうけれど。

 

 ミコトは、イタチがそういった小さないざこざに巻き込まれないのか不安だったのだ。

 戦争で他一族に比べて死傷者の少なかったうちは一族は、多くの人々から疎まれている。それは、警務部隊という、里の治安を守る立場にいるのも要因の一つだ。

 

「暗くならない内に戻ってくるのよ? いいわね?」

「うん」

 

 こちらの小さな不安を余所に、イタチはさながら林道の景色でも眺めに行くのだと言わんばかりに家を出て行った。

 

 もうすぐ、子供が産まれる。

 

 もう名前も決めてある。サスケだ。戦争が終わり、これから平和な世の中が訪れるのだと、そう信じて身籠った子である。健やかに育ってほしい、イタチと共に。

 けれど、今の里の治安──いや、うちは一族の状況が、どうにもミコトには嫌な知らせを告げてくるのだ。

 

 イタチが年不相応に知的で冷静な子であるのは、きっとサスケを助けてくれる。

 

 けれど同時に、不安もあった。では、イタチを救ってくれるのは誰だろうか?

 

 アカデミーで友達を作って欲しい。

 

 母親として、そう願うばかりだった。

 

 

 

   ☆ ☆ ☆

 

 

 

「それで、フウコちゃんを養子に迎えた訳か。最初は驚いたぞ。お前の家に、知らない女の子がいたからな。実直なお前の家庭が複雑なんだと、腰を抜かしそうになったもんだ」

 

 コロコロ笑うカガミを横目に、フガクは鼻から重い溜息を零した。

 

「ご冗談にしても、あまり言わないでください。フウコは俺の娘です」

「ああ。分かってる。いや、フウコちゃんに対して言ったわけじゃないんだがな……。お前に対しての皮肉だぞ?」

「分かってます。それを含めて、言わないでくださいと言ったんです」

 

 すると、やはり彼は小さく笑った。穏やかさを残した彼の表情は、良い年の取り方をしたのだとはっきりと分かるくらい、懐の深さを伺わせる。勿論、彼がうちは一族からの信頼や発言力を獲得しているのは、それだけではないのだけれど。

 

 遠くで子供たちが修行をしている。

 

 イタチ、フウコだけではなく、カガミの孫であるシスイと、そして三人の友達であるイロミという少女だ。訓練場に置かれている三本の太い丸太に向かって投擲の修行をしていた。

 

 イロミが投げては失敗し、すぐにフウコが御手本と言わんばかりに投げて見せ、イタチが言葉で伝えようと丁寧に教え、シスイが横でそれらを眺めている。そんな、賑やかな光景だった。

 

「まあ、ワシと話してても楽しくは無いだろう? あの子らに修行を付けてやったらどうだ?」

 

 二人して、訓練場を囲う林の木に背をもたれて立っていた。まだ、イロミはフガクの仏頂面に苦手意識を持っているのか、修行は最初、子供たちだけで行うようになっていた。

 

 我が子とその友達が修行をしているのを見て、自分が修行を付けてあげたいと思うのは、子を持つ忍ならば誰もが抱くことなのだろう。カガミの言葉は、正にそれを促すような言葉であった。

 

 だが、フガクにとってはまた別の意味に捉える事が出来てしまった。

 

 ふと、背後の林に視線を送る。太陽はまだ十分に高く、透明な強い光を地上に降ろしているが、枝葉が重なる林の中は微かに薄暗い。視線を凝らさなければ、誰かが身を潜めていることも分からないかもしれない。

 

「誰もおらんよ」

 

 フガクの様子を察してか、カガミはそう呟いた。

 

「状況が状況だ。ワシも、そこら辺には細心の注意を払っておる」

「……そうでしたか」

「そもそも、ここでこうして話している事に目くじらを立てる奴はおらんよ。せいぜい、お前がワシを取り込もうとしているくらいにしか思われんさ」

 

 辺りを警戒してから、不意に入ってきてしまった、不穏な空気に、自責するようにフガクは顔を伏せてしまった。わーわーと賑やかな子供たちの声が、本当に、遠く感じてしまう。

 

 うちは一族がクーデターを考えている。

 

 その事実がどうしても、フガクの頭の中に、暗い緊張を根差してくる。

 ようやく平和になって、子供たちが楽しそうに日々を過ごしているのを毎朝毎夜眺める日々が訪れて、家族の未来を心待ちしてしまう日々がやってきたというのに。

 

 ある日、声を掛けられたのだ。

 

 話がある、と。

 そして夜に集会所に集まってみると、部下たちが神妙な顔で言ってくるのだ。

 自分たちの力を木ノ葉に示してやろうと。

 

「そう思われるくらいには、フガク、お前さんは良く皆を纏めている。お前さんのおかげで、まだうちはと木ノ葉で話し合いの場が保たれているんだ」

 

 警務部隊の隊長である自分が、クーデターをと声を立てる者たちのリーダーとして選ばれたのは、ある意味では自然の流れだったとも言える。それは、彼らがフガクに対しての信頼度の現れでもあるからだ。

 

 その信頼が、フガクに無言で脅迫してきた。

 

 もしも此方側に立たないのならば貴方も敵だ、と。

 

 話を聞き、彼らのクーデターに対する誤った静かな熱狂を感じたあの日の絶望を、フガクは今でも鮮明に思い出す事ができる。目の前に突如、火の着いた爆弾を置かれたようなものだった。

 

 その日を境に、フガクはクーデターの先頭に立つことにした。

 

 

 

 いずれ、クーデターが無くなる機を手にするその日まで、一族を管理するために。

 

 

 

 カガミが、皆を纏めている、と言ったのはクーデターを起こさせない(、、、、、、)ように、皆のフラストレーションを絶妙に宥めてコントロールしているという意味だった。

 時には賛同を。

 時にはより良い選択肢を。

 時にはリスクを明示して、うちは一族という名目を掲げて冷静な立ち振舞をしよう、と。

 そうやって、フガクはうちは一族の感情をコントロールしてきた。

 

 うちは一族の抱えている不満は分かる。フガク自身も、怒りを超えた事が何度もあった。しかし、それを抑える事が出来たのは、妻のミコトの存在と子供たちの姿だった。

 

 誤ちを犯してはいけない。それを行えば、家族が巻き込まれてしまう。

 

 その思想は、クーデターの話を耳にした時でさえ同様だった。

 

 だから、わざと自分がクーデターの首謀者として先頭を切るようにしている。でなければ、制御を失った彼ら彼女らは、いつ動き出すとも分からない暴徒となってしまう。コントロールし、いずれ訪れるだろう、例えば木ノ葉側からの妥当な提案を引き出す事が出来れば、全てが丸く収まる。

 

 そう、考えていた。

 

 けれど……。

 

「日に日に、皆の不満が強くなっています。今はまだ、木ノ葉との対話が成立していますが、どちらかが不当な動きを示せばクーデターが起きてしまう。貴方の方から、火影に進言は出来ないのですか?」

 

 現火影、猿飛ヒルゼンとは何度かの会談を行っていた。こちらの要求に対して、ヒルゼンはうちは一族だけではなく、木ノ葉隠れの里全体を考慮した提案をしてくれてはいる。フガクから見れば、至極当然な提案だったものの、他の者たちには納得のいくものではなく、平行線のような会談が続いていた。

 

 カガミは、クーデターを画策するうちは一族の中でも数の少ない穏健派の中心人物だった。二代目火影・千手扉間に仕えていたという経歴と、忍としての実績を背景とした彼の発言は、うちは一族の中でも群を抜いていたのだ。フガクだけではなく、カガミの発言もまた、クーデターを抑える大きな要因となっていた。

 

 そんな彼は、今でも火影との強いパイプを持っている。現火影、猿飛ヒルゼンとは旧知の仲だ。彼ならば、その平行線の会談を──この袋小路の状況を打破してくれるのではないかと思ったのだ。

 

「……すまないが、それは無理だ」

 

 と、カガミは深く呟いた。

 

「ワシが言った所で、うちはの意見が変わらぬ限り意味が無い。何せ、うちは一族の要求がそもそも受け入れ難い、という問題だからだ。ワシがヒルゼンに進言できる事はない」

「だが、貴方が火影に意見をしてくれるだけでも変わるかもしれない。貴方を見る目を変え、言葉に耳を貸すかもしれない」

「そう信じたいが……これまで、何度も言った。うちは一族が警務部隊である事は責任の押し付けではない、名誉だとな。しかし、一向に届きはしなかった。その想いも……分からないまでもない。うちは一族を疎んでいる者たちの心もな」

「……あの事件さえ無ければ…………」

 

 九尾が復活した、あの忌まわしき事件。

 あの事件を機に、うちは一族の方向性は決まってしまった。

 これまではクーデターを視野に入れた程度の懐の深い会合が、クーデターを第二の手段として考えた狭窄的な会合としたのだ。

 

「いつの時代も……大きな不運はやってくるものだ。戦争もあった。三度もだ。だが、その中でも不運を跳ね返そうと多くの者が全てを賭けた。嘆く暇は無い。嘆けば、イタチくんもフウコちゃんも、その友達のイロミちゃんも、そしてワシの自慢の孫も、不運に巻き込まれてしまう」

 

 四人を見る。

 彼らはまだ、投擲の練習をしている。

 手に持っているクナイを手渡したり、投げ方を真似してみたり、指で指し示し合ったり、手を叩いて笑ったり。

 

「ワシも、出来得る限りの手は考える。ワシなりの考えでな。だからお前も、不運に頭を垂れるな」

「……はい」

「ほれ、暗い話は終わりだ」

 

 カガミが話を終わらせたのは、イタチがこちらに歩いてきてるからだった。

 友達との楽しい時間の名残を残す笑顔を浮かべた彼は、目の前に立ってこちらを見上げた。

 

「父さん。そろそろ、修行を付けてほしいんだけど」

「イロミちゃんの投擲か? まだ俺は怖がられていると思うが……」

「大丈夫だと思う。それに、もうフウコだけじゃ教えきれてないから」

 

 見るとイロミは膝を抱えて丸くなってしまっている。その上を、フウコが不思議そうに指で突いている。何やら色々と限界が来たようだ。

 

 少しだけ楽しもう、とフガクは思った。

 

 イタチの頭を叩くように撫でながら、子供たちの輪の中に入っていった。

 

 

 

   ☆ ☆ ☆

 

 

 

 うちは一族と木ノ葉隠れの里の溝が日を増す事に深くなっていってしまっている。夫のフガクがそう語ってから、うちはの町を見る目が変わってしまったような気がする。

 

 人々が往来する道。軒先で話している住人。無邪気に走り回っている子供たち。それらが全て、仮初のように思えてしまった。

 

 自分の愛する人達が大切……だからクーデターを起こす。

 

 その発想を、ミコトは許容出来ないでいた。

 

 理解は出来る。愛情は時には、暴力を誘発させてしまうものだ。しかし、その理解の先には必ず、最悪の想定が待ち受けている。愛する者が、今度は暴力を返されるという想定だ。その想定は、誰もがするはずなのだ。

 

 なのに、踏み込んでしまう。

 

 その感情の暴走が、分からなかった。

 クーデターを計画しながら、平和を演じる町。仮初の空気が、ミコトは嫌いだった。

 その中を、一人の女の子が歩いていた。見知ったどころではない、一目見て全てが分かってしまう我が子だ。

 

「フウコ」

 

 足早に近づいてそう呼び止めると、フウコはこちらを振り向いた。面倒くさがり屋で伸ばしっぱなしになった黒い髪は、ミコトの腹部ほどの身長の彼女のちょうど背中の真ん中に触れる程に長くなって、振り返ると毛先が振れて可愛らしさが増しているように見えた。当然、親の欲目という部分はあるが。

 

「ミコトさん」

「今日はもう、任務が終わったの?」

 

 まだ昼下がりの時刻だ。中忍にしては、帰路につくには早すぎる時間だった。

 

「終わりました」

 

 と、フウコは淡々と応えた。嬉しそうにも悲しそうにもしない娘に、いつもどおりだと、ミコトは安堵してしまう。

 仮初の平和の中であっても変わらない。もう少し笑えば良いのにといつも思っているが、こういう時だけは嬉しい限りだった。

 

「ミコトさんは、買い物ですか?」

「ええ。私も、ちょうど終わったところよ」

 

 二人は並んで歩き始めた。

 

 意外にも、貴重な時間であった。フウコと一緒に外を歩くというのは、数える程しか無い。基本的には、フウコは家にいる。サスケがいるからだ。どちらかというと、イタチと一緒に歩くことの方が多い。イタチの方が社交的で、買い物に行くと言ったら手伝ってくれる。

 

 貴重な時間を堪能しながら、フウコと会話を弾ませる。

 

「今日の晩御飯は何だと思う?」

「ハンバーグですか?」

「食べたいだけでしょ」

「食べたいです」

「んー、残念」

「そうですか。残念です」

「もう少し野菜とか食べないといけないわよ。お肉ばっかり食べてると、大人になったら胃が弱くなっちゃうんだから」

「今のうちに痛め付けたほうが強くなると思います」

「もう十分痛め付けられてると思うわよ?」

 

 家に着いた。

 

 あっという間だと、仮初の光景が過ぎた嬉しさと、フウコと一緒に並んで歩く時間が無くなってしまった物寂しさを抱えて居間に入った。フウコも後ろから付いてくる。もしかしたら、買い物袋から何か食べ物をくすねるのではないかと微笑ましく彼女を眺めていたが、彼女は素直にテーブルに着いたのだ。

 

 そんなにお腹が減っていたのだろうか? とミコトは不思議に思いながらも、仕方無しと料理の下準備に入る。鍋に水を入れ、味噌汁から作ろうと考えた。

 

「ミコトさん。サスケくんは寝ているんですか?」

 

 ふと、フウコはそんな言葉を零した。

 

「ええ。そうよ。ぐっすり寝てるわ」

 

 と、ミコトは何となしに応えてから……疑問を抱いた。

 どうしてそんな事を聞いてくるのだろう。そもそも、いつもならサスケの所へ行って、丹精込めて作ったでんでん太鼓を鳴らす筈なのに。

 

「イタチは……まだまだ帰って来ないですか?」

「多分……ね」

 

 嫌な予感がする。

 フウコの声は変わらず平坦なのに、どうしてだろうか。

 不安に駆られ、振り返ってしまった。

 赤い瞳がこちらをじっと見つめている。

 

「訊きたい事があるんですけど」

「何かしら?」

「フガクさんの事です」

 

 ……お願い。そう、ミコトは願った。

 

 ただ、幸せを享受して欲しい。

 きっと幸せな時代に生まれてきたのだから。

 間違いなく、幸せな家族のままで、いられたのだから。

 仮初に変わらないで欲しい、と。

 

「夜、よくフガクさん、外に出掛けていますよね? どこに行ってるんですか? 何か、あるんですか? そう……例えば、警務部隊の人達とかと、会合とか……」

 

 ──それ以上は、言わないで。興味を、示さないで。

 

「私、警務部隊に凄く、その、興味があるんです。フガクさんや、うちは一族が誇りを携わっている部隊なので。もし、そういう会合なら、参加したいと思ってるんですけど。私も、中忍になりましたし」

 

 駄目だ、駄目だ。

 連れて行く事は出来ない。

 フガクがコントロールしているクーデター推進派の中に、大切な愛娘を連れて行く訳にはいかない。フウコが行ってしまえば、いつかイタチも連れて行かれる。いずれは、サスケも?

 

 そんなの、地獄じゃないか。

 

「フウコには、まだ早いわよ」

 

 涙を、絶叫を抑えて、ミコトは笑顔を作った。

 優しい嘘で、覆い隠そうとした。

 

「子供だからですか? でも、子供でも、中忍です」

「中忍って言ったって、特別扱いにはならないわ。うちは一族は中忍になるなんて当たり前。私はとても素敵なことで自慢出来るけど、警務部隊はそんな甘いところじゃないの。もう少し立派になったら、私からお父さんに薦めてあげるわ。貴方は先の事よりも、そうね、もうちょっと友達を作りなさい。イロミちゃんとシスイくんだけが友達なんて、たとえ会合に出ても変な目で見られるわよ?」

 

 冗談調子に、そして饒舌に説き伏せようとする。気が付けば料理を作る手が早くなっていた。きっとこの子なら、料理が目の前に出れば無我夢中で食べるに違いない。そこからは、また幸せな家庭の時間が始まる。

 

 それだけでいい。

 

 それ以上の成長なんて望まない。

 

 夫が奥歯を噛み締めて家の外を守ってくれている。

 なら、妻は子供たちを守らなければならない。

 

 どうか、どうか。ミコトは願った。フウコがこれ以上、前に進まないように。子の成長を、この時だけは、止まって欲しいと願った。

 

 ……しかし。

 

「実は──」

 

 カサリ、と。

 フウコの方で紙が擦れる音がしたのだ。

 霊佇む木枯らしのような不気味で不吉な音。

 沸騰し始めた味噌汁の鍋の湯気が、冷たかった。

 

「暗部の方から、入隊しないかと打診の文を頂きました。まだ内定した訳ではなく、話をしないか、と。ミコトさん。暗部入隊は、うちは一族でも誇れる実績だと──思うのですが」

 

 仮初だと思っていた外の光景が、家の中にまで入ってきた。

 

 

 

   ☆ ☆ ☆

 

 

 

 おそらく、終わりが始まったのだろうとフガクは予感した。

 

 これまで抑え込んできたうちは一族のフラストレーションは、近い内に歯止めを無くす。クーデターのトップである自分が諌めても、それはクーデターを望む者たちが怒り、こちらに刃を向けかねない程。

 まだうちは一族は、いや、フガク自身でさえも、その終わりの切っ掛けというものを分からずにいるのだが、それも近い内にやってくるだろう。もしかしたら、朝の鳥が鳴くよりも早く知らせが来るかもしれない。

 

 それは、今日の夜遅くに帰ってきた、フウコの様子で察する事が出来た。

 

 無表情に淡々と、この家にやってきた時と同じ表情。しかし、フガクには、確かな親心というものがあった。それは、イタチにもサスケにも分け隔てなく指し示したものである。その心を表立って出すには、彼の人格や父親という立ち位置が邪魔してしまい、いうなれば不器用という凡庸な表現で終わらせてしまえるのだが、確かに親心があった。それが叫んだのだ。

 

 娘が、泣いている。

 

「ねえ。貴方」

 

 寝室で一向に眠りにつくことが出来なかったフガクに、隣の布団で横になっていたミコトが静かに声をかけてきた。彼女も、眠れなかったようだ。

 身体を横に向けると、彼女は既にこちらを向いていた。

 障子から透けて入る月明かりの薄暗い中でも、ミコトの目から一筋の涙が溢れているのが分かった。

 

「子供たちを……助けてあげて」

 

 フウコの様子に、ミコトも同じことを感じていたのだろう。

 イタチとフウコが会合に参加するようになっても、いずれはサスケも巻き込まれてしまうのではないかと悪い未来を想定しても、二人で子供たちを支えようと誓った。だが、それが今日の事でミコトは初めて、絶望を感じたのだ。

 

「お願い。もう、あの子たちの苦しそうな姿……見たくないの」

「……それは出来ない」

「どうして?」

「もう、うちはは、止まらない。俺が言った所で、彼らは裏切られたと判断する。そして、イタチもフウコも敵と判断される。サスケも、その中に入ってしまうかもしれない。それだけは回避しなければならない」

「このままだと……また、あの子達は辛い想いをするわ」

「それは──覚悟を決めていた事だ」

 

 フガクとミコトは──フウコとイタチ、そしてシスイがクーデターを止めようとしている事を知っていた。

 

 いくらフウコとイタチに忍の才があるとは言え、フガクもまた、エリートと呼ばれる警務部隊の隊長である。同じ屋根の下で過ごし、夜更けに家を抜け出す子供たちに何も感じない程の凡人ではない。

 

 子供たちが裏で動き、クーデターを阻止しようとしている。その事をミコトと話し合い、出した結果は、自分たちはこのまま続けよう、というものだった。

 

 子供たちを此方側に引き入れても意味がない。フガクがクーデターのトップに立っている以上は、クーデターを進める以外の意思表明が行えない。であるならば、自分たちはあくまで子供たちの敵として立つ方が、きっと子供たちに最も累の及ばない最良の選択だと信じたのだ。

 たとえそれが……クーデターが始まってしまった時に、子供たちと対立するという構図になったとしても。

 

 二人は既に、フウコとイタチに殺される覚悟をしていたのである。

 容易な覚悟では無かった。

 本当なら、子供たちと一緒に、心の底から笑顔で日々を過ごしたかった。

 それでも、うちはと木ノ葉隠れの里との確執……過去が、家族を縛りあげた。

 二人で耐えよう。

 その誓いが、砕かれつつあった。

 

「……最近、夢を見るの」

 

 力無く、ミコトは呟いた。

 

「イタチとフウコとサスケが、一緒に家に帰ってくるの。夕方に。サスケが下忍くらいになっててね、修行を付けて欲しいって我儘を毎日言うから、イタチとフウコが修行を付けてあげてるの。……お風呂に入って皆で食卓を囲んで話をするの。食器を洗って、ゆったりした時間を過ごして、寝て。朝起きて、また皆の御飯を作って──。ねえ……これって、そんなに難しい夢かしら? 子供たちが苦しんでいるのを、歯を食いしばって我慢してようやく、手に入る夢なのかしら?」

 

 涙の道が徐々に大きくなっていっている。

 

「ただ、私は……あの子達に笑っていてほしいの。健やかに、未来を見てほしいの。うちは一族の過去なんかじゃなく……もう、どうにもならないの?」

「……すまない」

 

 その夜、ミコトは静かに泣き続けた。

 これから起こる、あまねく全てに備えて、流せる全てを流し尽くすように。

 フガクは、声を必死に抑えながら涙を流すミコトの頭を撫でながら、呟いた。

 

「俺達があの子達の重しになってはいけない。お前は最後まで、あの子達を暖かく迎えてやってくれ。俺は、あの子達が迷い無く進めるように背中を押す。だから、もう少しだけ、頑張ってくれ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 別れの日がやってきた。

 

 ミコトは、そう直感した。何かの前触れがあった訳ではない。とても静かな夜だ。あまりにも静か過ぎる事が、ミコトにその覚悟をさせたのかもしれない。それでも、虫の知らせと何ら変わりのない不思議な感覚がミコトの背中を触れたのだ。

 

 彼女は、今から始めようとしていた料理の手を緩やかに止めた。手に取っていた包丁をまな板の上に起き、出していた野菜類は冷蔵庫に収めた。これから、全てが終わるというのに、とミコトは小さく笑ってしまいそうなりながらも、目端にじわりと浮かんだ涙を感じていた。

 

「やだ、もう。分かってたことじゃない」

 

 我が子達の為に、血の涙を抑え、絶叫を呑み込み続けてきた。

 そして自分は十分に幸福を感じてきた。

 

 優しく聡明な息子がいる。

 

 不器用で強い娘がいる。

 

 元気で可愛い息子がいる。

 

 短い時間でも──いや、十分過ぎるほどに、長かった──幸せが在った。

 

 だから、泣いてはいけない。

 

 泣けば、子供たちを否定することに成りかねない。親の涙は、子に不幸を伝播させてしまう。これから、多くの辛い時間を過ごすであろう子供たちが少しでも、頑張れるように、笑っていよう。

 

 コン、コン。

 

 玄関から、音がした。

 

 ミコトは玄関へ足を進めていく。

 いつものように、笑顔で。

 

 ──さようなら、イタチ、フウコ、サスケ。

 

 戸を開ける。

 

 ──私は……私達は幸せだったわ。間違いなく。今までも……これからの最後の瞬間までも。

 

 

 

 全身を血に染めた娘が、怯えた様子でそこに立っていた。

 

 

 

 まるで、家にいないで欲しかったと願っていたように。

 

 母親が家にいるのは当たり前じゃないかと、頭を撫でてあげたかった。

色んな夢が打ち砕かれてしまったような、泣きそうな顔を胸に抱いて、一緒に布団に入って宥めてあげたかった。

 

 でも、それは出来ない。

 

 これまでの全てが、必然であったとしなければいけない。

 

 つまり、我が子らの責任なのではないと、命を賭けて教えてあげなければいけない。

 

 悪いのは全て、私達なのだと、責任を取らなければいけない。

 

 だから、せめて、心の中だけでも。

 

 ──大丈夫よ、フウコ。怖いことなんて、何もないわ。

 

 

 

「おかえりなさい。フウコ」

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

破戎編
新しき不穏


 その日は、酷く快晴だった。

 

降り注がれる陽射しを遮るものは無い。直射日光の暑さは十分に空気にも伝播し、分厚い陽炎が尾を振るように揺れている。不愉快な暑さだった。風は多少あるが、その風もまた不愉快極まりない。見渡す限り黄土色の砂漠の世界は、巻き上がる風にひっくり返されては、視界を遮り身体の至る所に入り込もうとしてくる。

 

「いやぁ、酷い(、、)天気だなあ、うん。晴れは見栄えが良くなるが、こうも暑いと気が滅入っちまう」

「うるせえ。だったら黙ってろ」

「旦那は良いよなぁ? うん。勝手知ったる故郷だ。この暑さも、旦那にとっちゃあ風呂にでも入ってる感覚なんだろ? 羨ましいぜ、うん」

「その減らず口を閉じろ。殺すぞ」

「おお、怖い怖い」

 

 砂漠を歩く二人は、不愉快な環境の中に在って、しかし奇天烈な格好をしていた。幅の広い笠を被って直射日光を防ぎながらも、縁にはまるで目元を隠すような紙の飾りが囲うように飾られている。着ているのは黒い衣。赤い雲を刺繍されている様子は不気味で、何よりも、こんな暑い気候で着るべき色ではなかった。

 

 そんな二人は、どうやら仲が悪いようだ。

 

 笠の下からニヒルに笑う金髪の青年と、極端に背と声の低い男性。二人は並んで歩いているが、さながら互いの喉元に刃物を突き付けているかのように空気が張り詰めていた。

 

 金髪の青年──デイダラは、片目で背の低い男性を見下ろした。デイダラの片目は、何やら器具が付けられている。

 

「にしても、久々にサソリの旦那とチームを組むな。うん。どうしてだろうな?」

 

 デイダラの言葉に、サソリと呼ばれた男性は面倒そうに呟いた。だが、サソリは何かを語る訳でもなく、ましてや一瞥すらしない。

 

「砂隠れにアンタの部下が入ってるなら、オイラじゃなくて、あの大飯食らいの女でも良さそうなもんだけどな、うん」

「あの女は、もう脳味噌が動いてねえからだろ」

「あー。そういや前の集まりじゃあ、碌に舌が回って無かったなあ。うん。前々から頭がおかしいと思っていたが、あそこまでいくとはな。薬を打ってたんだって?」

「元々、あの女はイカれていたからな。薬で長持ちさせていただけだ。限界が来ただけだ」

「なら、とっとと殺しちまおうぜ。うん。この仕事が終わったら、あの女を連れてきてくれよ、サソリの旦那」

「ああ……お前が生きていたらな」

 

 二人の歩みの先には、極端に巨大な砂岩が姿を現した。山のように高く、そして広い砂岩。風が強く、遠目からでは珍しい砂岩にしか見えないだろう。

 しかし、そこは、風の国が所有する忍里──砂隠れの里であった。

 

「今代の風影は人柱力らしいからな。オイラの芸術には丁度いい。うん。天気も良いし。最高だ、うん」

 

 彼らが今日、その時に足を運んだのには訳がある。

 

 人柱力であるのは、当然の事。彼らが所属する【暁】という組織は、その中に眠る尾獣を回収する事を第一の目的としているからだ。

 

 そして、今日来たのは。

 

 彼らにとっても予想外の出来事が起きるという情報が手に入ったのである。

 

 五影会談。

 

 木ノ葉隠れの里の長、うちはイタチが、その会談を行う事を宣言したのだ。

 

 会談が行われる前に尾獣を回収する。

 

 それが、この時に彼らが足を運んだ理由だった。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 ここしばらく、任務が無かった。下忍から中忍、中忍から上忍、階級が上がれば上がるほど、こなしていく任務というものは難易度を増し、温和な日常の時間が少なくなっていくのだと思っていたが、事実として上忍というのは暇だった。

 

 よくよく考えてみれば、自分の上司──あまり認めたくはないが──だった(、、、)、はたけカカシは、大して忙しいという様子を見せた事が無かった。むしろ、遅刻を繰り返す辺り、むしろ時間に余裕さえ感じてしまう。下忍の育成などを任されている辺り、やはり上忍が任務にあまり赴かないというのは間違いないだろう。

 

 それほどまでに、今は平和だという事だ。少なくとも、火の国においては。

 

「──そんな事を言うと、嫌味に聞こえるかな。父さん。母さん」

 

 うちはサスケは、父と母の墓石の前で小さく笑ってみせた。

 

 そこは、かつて、うちは一族の町が構えられていた区画だった。つい最近──と言っても、一年ほど前なのだけれど、現火影の指示によってうちはの町は解体されたのである。木ノ葉隠れの里において最大の惨劇とも言われ始めている事件は、忍里にとっては扱いが難しかった背景を持っている。

 

 これまで木ノ葉隠れの里に警務部隊として貢献し続け、しかし殉職したというには評価が難しく、そして忍としての才能は一族全体が飛び抜けていた。そういった背景を持っていたために、うちは一族の町は整理はされながらも無人の区画となっていた。

 

 しかし現火影は、

 

『もう、過去の事だ。勿論、無礼を働くつもりはない。十分な弔いと、そして彼らが残した遺産は保管する。町も、人の魂も、安らぎを与えるべきだ』

 

 と述べた事を端として、町は解体され、区画の端にうちは一族だけの名を記した慰霊碑と各人の墓石、そして神社が建てられた。神社は、南加ノ神社を移設させたものであるが、神主は設けられておらず、無人だった。

 

「でもさ、俺はやっぱり……みんなで過ごしたかった。こんな時間を、ずっと……」

 

 静かで、そして丹念に掃除が行き渡った墓地に、清々しい風が吹いた。

 

 サスケの髪は伸びていた。任務に支障が出ないように適度な長さで前髪は整っているが、後ろ髪はうなじが隠れる程度には伸びている。特段、意味があるわけではなかったが、強いて言うならば面倒だった、ということだ。

 

 身長も高くなり、衣服も変わった。うちは一族の家紋が刺繍された、白くゆとりのある白い上衣とゆとりのある黒い下衣。腰には柄のない刀を挿していた。額当ては、利き手ではない右の二の腕に。

「近々、五影会談が開かれる。兄さんが約束を取り付けたみたいなんだ。どういう話をするのかは、まだ聞かされていないけど……きっと【暁】の奴らについてだと思う」

 

 それは、先日の事だった。

 

 前々から予告されていた五影会談。サスケだけではなく、他の上忍も周知している。何を話すのか、それは重大な議題な為、情報漏洩の観点から知られてはいないが多くの者が興味を示していた。

 

 火影であるイタチが現時点で発表しているのは同行者のみ。フウと綱手、ヤマトが選ばれている。

 

 サスケが会談内容に当たりをつけたのは、単なる勘としか言いようがない。けれども、それ以外の事は考えられないというのも事実だ。平和と呼ぶに、些かの疑問符は浮かぶものの、しかし戦時では決しない世情で会談する事など数少ない。

 

 ましてや、五影会談など一朝一夕で成立する事柄でもないはずだ。ずっと前から根回しをしていたのだろう。ならば、その時から計画していた事に違いない。

 

 もしかしたら、火影になる前から……。

 

「駄目元でも、兄さんに同行を許可して貰えないか頼んでみる事にするよ。上忍でもある訳だし、可能性はゼロじゃないからな。父さんと母さんが願ってくれたらもしかしたらって、今日は来たんだ」

 

 任せろ。

 任せなさい。

 そんな声を運んでくるように、足元から小さな風が吹き上がったのを、サスケは鼻から息を零して笑ってみせた。

 

「じゃあ。また来る」

 

 花とお供物を置く。花は、山中いのの家から買ったものだ。墓参りにはピッタリだと言って、勿忘草や幾つもの鮮やかな花を渡してくれた。勿論、金は払っている。お供物はシンプルに饅頭を持ってきた。よくよく考えれば、フガクとミコトの好きな菓子というものを深く知らなかった。初めの墓参りは、それが少し寂しく涙が込み上げてきたが、今では冗談として呟けるようにはなっていた。

 

 軽く墓石を掃除し、墓地を後にした。

 

 今日はこれから、カカシと会う予定が入っていた。任務は入っておらず、そしてサスケはチームを持っていなかった。下忍の子を育てる、という意味でのチームだ。だが、カカシと会うのは久しぶりだった。彼も、今は下忍を育てていない。

 

 その理由は──きっと、ナルトが関係している。

 

 町を抜け、かつての、そう、初めてカカシと会った演習場へと足を運んだ。

 

「…………懐かしいな」

 

 つい、口から溢れてしまった言葉。

 

 記憶の中ではたった数年しか経っていないのに、意識が懐かしさを感じてしまった。あの頃は、何も知らないで、何も疑わないで、自分だけを信じて辺りを拒絶していた。

 

 ナルトとはぶつかり、サクラのことを気にも留めず、カカシには苛立ちばかり。

 

 それでも、今ではあの時、あの日常が、懐かしさと不思議な楽しさを運び、同時に悲しみも運んでくる。ナルトが里を出てから、ここの演習場だけには足を運んではいなかった。

 

「あ、サスケくん!」

 

 遠くからサクラの声が耳に届いた。

 横を向くと、こちらに駆け足で走って来ている。黒いグローブを嵌めた手を小さく振りながら、彼女はサスケの横に立った。

 

「なんだサクラ。お前も呼ばれていたのか?」

「あ、じゃあサスケくんもなんだ。カカシ先生ったら、ただ演習場に来い、としか言わないから。最初はどこの演習場なのよ、って思ったけど、サスケくんがここに来てるって事は、間違いないわね」

「……いや、俺も正確な場所は指定されてないが」

「あはは……んまあ、ここしか無いわよね。カカシ先生が言う演習場って」

 

 苦笑いを浮かべながらも、彼女も演習場へ顔を向け、中央に立つ三本の丸太を見つめた。同じ懐かしさを感じているのだろうか。

 

 サクラは中忍へと昇進していた。しかも、医療忍者として。師は綱手。ナルトが出て行ってから、彼女なりに自分に必要なモノというのを模索した結果、その道を選んだのだろう。

 

 当初は綱手本人の意向で弟子にさせてもらえなかったらしかったが、何百と訪ねたところ綱手が折れたらしい。その際に綱手は「少しでも腑抜けたことをしたら叩き出す」と言い放ったらしい。

 

 しかしサクラは、今でも綱手の弟子として修行を続けている。それなりに認められつつある、という事なのだろう。何だかんだと言って、サクラは自分たちの中で一番肝が据わっている。

 

 綱手の下で修行を重ねたからか、中忍としての自信が身についたからか、彼女は昔のような少女らしさよりも強い女性の印象が強くなった。髪は短くしながらも綺麗に整えられ、衣服も袖の無い赤いジャケットと黒いズボンという機能が優先された服装に変わった。かつての頼りなさは無くなっているのはすぐに分かった。

 

「んで……相変わらず、カカシ先生は来てない訳ね」

 

 大きな溜息を零して、サクラは眉をへの字にした。

 

「中忍になって分かったけど、やっぱりあの人って特別に時間にルーズなのね」

「前から分かってた事だろ」

「忍としては尊敬できるけど、人として最低な人は、カカシ先生だけよ」

 

 そして垢抜けしたサクラは、ところどころ言葉の端に棘が見えるようになってきた。嫌味という訳ではなく、軽い冗談のようなものではあるが、それでも下忍の頃に比べると遥かに話しやすかったというのを感じる。

 

 ナルトがいなくなってから、色んなものが変わった事を感じさせられる。

 

 そう思ってしまうのも、この場所に来たからなのだろう。

 ここの、この光景だけ変わらないというのが、より一層、変化していった事柄を強調させてしまうのだ。

 

「あー、悪い悪い。遅れた。いやぁ、途中でおばあさんが困っててなあ」

 

 更に変わらないものがやってきた。

 気怠そうに、テキトーそうに、分かりやすさを隠そうともしない大嘘をついて、カカシはやってきた。

 

「はい嘘ッ!」

 

 とサクラが指を向けて大声で言うと、丸太の上に立っていたカカシは飄々と困ったように肩を落として見せる。

 

「すぐそうやって上司を疑うのは止めたほうがいいぞー。出世の妨げになる」

「部下に大嘘吐く方が最低に決まってるじゃないッ!」

「嘘じゃないって」

「いや嘘だろ」

 

 サスケも嘘だと言うと、カカシは大きく溜息を零した。

 

「なんか、俺への威厳とか無くなってない?」

「元からありません」

「無いな」

「……肩身が狭くなったな」

「「最初から広くない」」

 

 わざとらしく頭を振った後、カカシは丸太から飛び降りて、二人の前に立った。

 

「それで?」

 

 と、サスケが言う。

 

「今日はどんな用なんだ? サクラも呼んで……どういうつもりだ?」

 

 実際のところ、どうしてカカシに呼び出されたのか理由が思い付かなかった。演習場に呼んでおきながら、まさかこれから飯でも食べに行くわけでもなし。サクラを呼んでいるのも気掛かりだった。任務の打ち合わせにしても、少々場所がおかしい。そもそも、任務ならばフォーマンセルが基本だ。スリーマンセルは、むしろ悪手とさえ言われている。

 

 すると、カカシは「んー」と首を傾げた。

 

「まあ、色々と事情がある訳だが……とりあえず、お前ら。これ、覚えてるな?」

 

 おもむろにカカシが取り出したのは……ヒモの着いた鈴。

 サスケもサクラも当然覚えていた。アカデミーを卒業してすぐに、カカシの部下として配属されるかどうかを決めた試験だ。

 

 だが、どうして今更?

 

「今から、あの時と同じ事をやる」

「え? いや、ちょっと──」

「話がいきなり過ぎる。カカシ、事情を話せ」

 

 いくら演習とは言え、だ。

 

 何の事情もなしに行えというのには、サスケもサクラも賛同できなかった。演習であっても、戦う事には変わりない。それも下忍の頃に比べて実力も付けている。手加減を互いに出来るほど、大きな差は無いとサスケは驕り無く実感している。

 怪我をするだろうし、下手をすれば大怪我だって考えられる。

 人として尊敬できないが、忍としては大きな信頼を寄せているカカシの指示とは言え、簡単に頷くことは出来なかった。それはカカシも理解していたのか「だよね」と首肯しながらも、渋々と言った感じに呟いた。

 

「ま、イタチ──火影様には口留めしておいてほしいと言われていたんだが……もうお前らもガキじゃなし。事情くらいは説明してやろう。俺も、何も言わないで演習するのも気が引ける」

 

 イタチが口留めを図っていたという言葉が気になったが、サスケは口を紡いだまま、次の言葉を待った。一度、カカシは鈴を持った手をポケットに入れてから、語り始める。

 

「お前ら、今度、五影会談が行われるのは知っているな?」

 

 

 サスケとサクラは同時に頷いた。

 

「各隠れ里の影たちが集う場。本来、そこでの戦闘は、言うなれば里そのものへの宣戦布告にも繋がりかねないデリケートな空間だ。そのため、会談には影を含めて数人の者だけしか参加は許されていない。人数が多ければ多いほど、些細な因縁が顔を出すというわけだ。三度の大戦で、未だ各隠れ里には深い怨恨があるからな」

 

 例えば、雲隠れの里による日向一族の百眼を狙った過去。

 例えば、砂隠れの里が大蛇丸と共同で起こした木ノ葉崩し。

 

「おまけに、影が外に出るということはそれだけ、面倒事も増えていくという事でもある。影を殺そうという輩も、まあ、いない事もない。殺さずとも、捕らえてしまえば一攫千金だからな。故に、同行者は厳選される。今回は──」

 

 と、カカシは指を三本立てた。

 

「七尾の力を宿すフウ。今は現役から退いているが三忍の綱手様。そして俺の後輩のヤマト。この三名が同行者となるわけだが……実は、他にもう一人候補者がいてな。綱手様と同じ三忍の自来也様が、最後の候補者だった」

 

 だが、

 

「自来也様はそれを辞退した。何でも、個人的な任務があるとか無いとかで。──そこで、だ。何と俺に白羽の矢を立ったわけ」

 

 話の流れは理解できたが、そこから演習に繋がる理由が分からなかった。

 

「俺としては会談内容に興味があるからやぶさかでは無かったが……」

「まさか……俺たちの名前を出したのか?」

 

 カカシの言葉を引き継いで応えると「そ」と彼はあっけからんと肯定した。

 

「俺にだって一応は、会談の内容には予想が付いている。まだ確認していないが、ま、十中八九と言って間違いないだろう」

 

 【暁】

 

 その組織の名前がサスケ、そしてサクラの脳裏にも浮かんだ。サクラがその組織を知ったのは、ナルトが出て行ってからの事だった。サスケ自身から【暁】についてと、自分とイタチが追っている組織である事も。

 

 一緒にナルトを追うために。

 

 そして半分ほど──ナルトと同じくらいにではあるが──姉を追うために。

 

「人数は多くしたくはないが、自来也様一人に対して上忍が二人と中忍が一人。まだまだ戦力としては不十分だが、悪くはない。そもそも自来也様程の実力者の代わりになる人材は、木ノ葉にはいないだろう。もしも俺達が同行するとなれば、ヤマトを外す事になるが、まあアイツの事は俺に任せろ。問題なのは……」

「俺達の実力ってことか」

 

 言葉を出すと、サスケに小さな笑みが浮かんだ。隣に立つサクラは準備万端と言いたげに、手に嵌めたグローブを付け直すようにした。

 

「最初っからそう言ってくださいよ」

「悪いな。これも火影様の意向だったんだ。全てを知ってから対応するなんてのは、下忍のすることだとな」

「余計な世話だな、兄さんも」

「十分な配慮ではある。火影の同行中に死者が出る。それだけで、会談が御破算になることが容易に考えられるからだ。そして襲撃されたならば──」

 

 カカシは傾いた額当てを上げ、写輪眼を開いてみせた。

 

「完全な捕縛、あるいは徹底的な戦闘不能に追い込まなきゃいけない。無用な火種を付けたまま会談に赴く訳にもいかないからな。あらゆる想定と確かな実力が必要な訳だ。ま、演習と言うより試験に近いな」

「じゃあ演習の理由を訊いた時点で、私達は減点?」

「いや? さっきも言ったが、それについては俺も最初から話すつもりではいた。減点されるのは──」

 

 

 

 サスケとサクラの足元が、突如、泥と化した。

 

 

 

「「ッ!?」」

「言ったはずだぞ、二人共。あらゆる想定と確かな実力が必要だと」

 

 幻術だった。

 足は深々と泥となった地面に絡め取られ、抜け出せず。

 そして、カカシは背後に。

 既に試験は──。

 

「これじゃあ、不合格だな」

 

 後頭部目掛けて振り下ろされる拳は……しかし、

 

「誰が──」

「──不合格だって?」

 

 途端、カカシは自身に返された(、、、、)幻術を理解した。

 カカシは一歩もその場から動いておらず、泥に足を絡め取られているのは自分自身だった。サスケとサクラの足元は、ごく当たり前の土の地面。

 二人はしてやったりと笑ってみせる。

 

「どうかしら? これで、加点してもらえる?」

「この程度で加点も何も無いだろうが……単純過ぎるぞ」

 

 二人の幻術返し。

 その速度と質に、カカシは驚きよりも安堵を感じていた。

 サクラがいくら幻術系統に強い素質を持っていたとしても、サスケがうちは一族の才能を持っていたとしても、まだ若い二人が自身の幻術をあっさりと返すのは容易じゃない。

 それ程の努力を、この数年で積み重ねてきたということ。

 

 そこには……その二人の視線には、やはり彼の影がある。

 

 ナルト。

 

 彼を追いかける為に並々ならぬ努力をしてきた。

 それは、ナルトへの想いの強さに比例するもの。

 月日が経っても、必要とされる存在。

 間違いなく、ナルトが求めていた1つの形がそこには在った。

 

 いや、この二人だけじゃない。

 

 イルカも、ヒナタも、他の者も。

 

 未だにナルトを心に想っている。

 

 その想いをナルトに届け、再び里に戻す事。それが達成するまでは、第7班のチームを持ち続ける(、、、、、)とカカシは誓っていた。

 

 同じ里に居ても、こうして演習する事はまるで無く、サクラは綱手の下、サスケはイタチとダンゾウ(、、、、)の下で実力を付けていった。その成果を確かめることが出来る今が、喜ばしかった。

 

 ──これなら、こいつらも、ナルトも心配ないな……。

 

 カカシは言った。

 

「なら、試験開始だ。鈴を取ってみろ」

 

 あっさりと幻術から抜け出し、カカシは影を残すように姿を消した。

 

「今度こそ、完全に奪い取ってやるよ」

 

 サスケは瞳を写輪眼へと変化させ、不敵に笑う。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「フウコさん。御飯が出来ましたよ」

 

 薄暗いアジト。埃臭く、簡素な家具しか置かれていないそこでは、白の声はよく響いた。サソリの仲間になってから月日は経って背が高くなり、手足は長くなったが、中性的な顔立ちはどういう訳か女性的な印象がやや強くなっている印象がある。長くなった髪は頭の後ろで丸く纏めているのも、その印象を強めているのかもしれない。

 

 ましてや、今ではメンバーの中で家事を中心に行っている。料理に掃除、そして振り切ったフウコの世話。まるで母親だな、と再不斬は台所に立つ白を見て溜息を零した。

 

「今日はですね、フウコさんの好みの肉類ですから。座りましょう。お絵かきは止めて、ね? お腹も空いたでしょう?」

 

 テーブルと椅子の置かれた、言うなればリビングに近い部屋。再不斬は先に椅子に座っていた。黒いシャツにズボン。口元を隠す布だけが、服装において色が違かった。その布の奥で鳴らされる舌打ちは、部屋の隅にしゃがんでいるフウコに向けられた。

 毎日見ている光景。けれど、慣れなどするはずがない。

 

 ──人間、ここまで来るものか……。

 

 白が台所からフウコに近づいていく。両手を下に広げて歩幅を小さくして近づく姿は、赤子にするような仕草だった。

 フウコは、指先の皮膚を食い破って垂らした血で床にグルグルと絵を書いている。いや、絵というよりも、落書きと言った方が正しい。ただ指を延々と、同じ場所に這わせているだけ。出来上がっている落書きは、血が乾いて赤黒くなった洞穴のようなものだった。

 

「ほら、フウコさん」

「今ね。私、頑張ってるから」

 

 フウコの声に、白は悲しそうに微笑んだ。

 

 白もまた、彼女の様子には慣れず、毎回のように悲しんでいる。

 

 自分たちを助けて来た時のような姿は欠片も無い。声の調子も、彼女はある日を境に、子供っぽい抑揚が現れ始めていた。

 

「……そうですか。どんな絵を書いてるんですか? 教えて下さい」

「皆を救う計算をしてるの」

「上手くできそうですか?」

「ここのね、風車が邪魔をするの。どうして曲がってくれないんだろう……」

「あ、えっとですね。うーん、そうですねえ。難しいですね」

「そろそろね、ほら、ここの。猫さんが動き出すんだ。ああ、ほら。レロレロが動いてる。見て、ここ。ここ」

 

 幻覚を見て発狂するなら分かる。拷問されている忍もそんな風になるのを知っている。

 気分の浮き沈みが激し過ぎるのも分かる。現実に押し潰されないようにとする心の防衛の1つだと知っている。

 

 だが、今のフウコは違う。

 

 幻覚を見て、感情のコントロールが出来なくても、けれど彼女の中ではそれが全て成立しているのだ。

 

 助けたくて、考える。けれど上手くいかない。だから邪魔をするなと、彼女は言っているのだ。通常の文脈とは全く異なる表現で。その文脈を用いて、どうして答えが出ないのか、本気でフウコは不思議に思っているのだ。

 

 自分は間違っていない筈なのに、どうして正しい答えが出ないのだと。

 

 正しい地図を持っている筈なのに目的に着くことが出来ないのを不思議がる旅人のように。

 

 今、フウコの頭の中は、全く別のルールが敷かれている。

 

 誰にも分からない世界で、フウコの頭は満たされたのだ。

 

「おい白。さっさとそいつを席につかせろ。話なんか聞いても意味なんざねえんだ。飯の前に座らせれば黙るだろ」

 

 再不斬が苛立たしげに言った。それは、テーブルに並べられた料理に対しても、フウコの不気味さに対してでも無い。フウコが言葉を発する度に戸惑う白が見ていられなかったからだ。

 

 白は戸惑うようにフウコに視線を向けると、彼女は真っ赤な瞳で彼を見上げた。

 

「どうすれば、皆と遊べるかな? 燕がよく言うの」

「え?」

「遊びたいならミミズの行列みたいに仲良くしようねって」

「……フウコさん。御飯よりも、寝ましょう。ゆっくり寝て………そうだ、サイくんともお絵描きするのが良いかもしれません。別の部屋に──」

「お絵描きはもう良いの。皆がそう言うの」

「ほら、立ってください。お願いです、どうか」

「流れ星が約束したの。紙飛行機が花札をしようって手を振りながら鏡と握手だ。ほら、ここのビー玉の頭蓋骨にも友達の蛙の子供は料理だよ。皆手を繋いでかごめかごめって、夏の陽射しが水鏡へと囀る尾骶骨が子供の鼻提灯だったの。手紙が皆で食べたんだ。誰を売り飛ばそうかっていうのを私の中の森が囁かないでって。三日前は……誕生日?」

「おい白。さっさとフウコを──」

「遊びたいのッ! 私はッ! ジョウロがそういうの! その蛇口から、花柄の狸がドロドロ歩き回ったのッ!」

 

 声が震え、声を高くする。

 

 ああまたか、と再不斬は大きな溜息を零した。癇癪だ。

 

 フウコは白に掴みかかって、意味の分からない声を張り上げ始める。忍術も体術も幻術も、何も無い。もはや自分の身長よりも長くなった黒髪を振り回し、着ている白い着物は乱暴な動きに気崩れていく。

 白が必死になって彼女の頭を抱きかかえ、宥めようとしている。

 

「大丈夫ですよ? 落ち着いてくださいっ。そうですね、布団で寝ましょう!」

「みぃいいんな、ぐびがないのぉッ! でるでるぼうずがそこ! あっちぃ! だから御飯なんていらないの! お腹が無いんだからッ! 見てよ! そうやって君は、私の二等辺三角形を馬鹿にするんだッ! 私が御月様なのに、てんとう虫みたいな事言わないでッ! うちわのゴミ箱だってタンスの中に住む砂崩しなんだからッ! キラキラ光る写真の裏側を私が隠したお線香はそうやって捨てられたのッ!」

 

 サソリは、限界が来たと、フウコが完全に壊れた時にそういった。脳味噌が崩れて、配線のような神経がこんがらがったのだと。

 

『問題無い。これも計画には織り込み済みだ。最後の最後にこいつがまともになればいい。それまで、どんだけ壊れようが、死にそうになろうが、知ったことじゃねえ。お前らで世話をしろ』

 

 世は事もなし。

 

 さも興味なさげに語るサソリには、ほとほと呆れてしまった。

 

『最後には動かなくなるだろうから、その時は無理矢理にでも飯を食わせろ。腹割いて入れても良い。もう発狂して暴走して、破壊衝動も沸かないくらいに壊れてるからな。白には施術の仕方は教えてある、自由に使え。だが、目だけは離すな。こいつが死んだら、テメエらの責任だぞ』

 

 ──ここまで壊したのはテメエだってえのに。

 

 再不斬はフウコとは反対側に位置する扉に怒鳴り声をぶつけた。

 

「サイッ! こいつを寝かせろッ!」

 

 すると。

 彼は静かに扉を開けた。

 能面のような薄ら笑みを浮かべて。

 

「分かりました。またいつものようにやっても?」

「いつものってのを知らねえよ。ガキの世話だと思ってテキトーにやれ」

「分かりました」

「御人形の囲炉裏が手を繋いでくれるのッ! いたちごっこは花一匁(はないちもんめ)って陶工左介(とうこうさすけ)を渦潮で引っ張りだこだったんだッ! そうなんだッ! 葉っぱの中の観音みたいな段々原の狐火はこっちを見て漁港近くで私を馬鹿にしたんだ! 水が止まった! 水が止まった! 鏡が光ってる! すごいよぉ! だから御飯は……いらないのッ! 邪魔しないでッ!」

 

 フウコの声に眉を顰めながら、再不斬は食事を始めた。

 

 腹を満たしておかなければいけなかったからだ。

 

 どれほど悲痛で理解できない声が耳に届こうと、同盟は守らなければいけない。

 

 フウコが叫んでいる。

 

「邪魔しないでッ! 邪魔しないでよッ!」

 

 邪魔しないでッ!

 

 怖いよぉ近寄らないでッ!

 

 明日は……アカデミーなんだからッ!

 

 




 次話は来月投稿します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

不惑な思惑

 投稿が大変遅くなってしまい、誠に申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿したいと思います。


「──ほれ、我愛羅。五影会談の資料じゃん。目ぇ通しておけよな」

 

 カンクロウは言いながら、分厚い書類の束をデスクに置いてきた。風影になってから多くの書類の束を見てきたが、今回は、より一層の分厚さと文字の密度を誇っていた。子供なら眉を顰めて足を遠ざけるような代物に、我愛羅は淡々と手を伸ばし目を通していく。

 五影会談に提出する砂隠れの里の実情と課題。これらの書類は、既に他里に提出されている。この資料は、同じように他里から提出された内容と擦り合わせたものだ。

 五つの里が同時に会するのだ。それぞれの事情や課題に対して、即座に質問をして即座に答えるという事は、殆ど不可能だ。ましてや、限られた時間で無駄なドモリがあってもいけない。事前に質疑を用意し、回答を準備する。細々としたアドリブはあるかもしれないが、これらを頭に叩き込まなければいけない。

 

「あまり根を詰めすぎねえ方がいいじゃん。時間はまだあるし、当日は俺もテマリもいるからよ」

「ああ、そうだな。迷ったら、テマリに頼む事にする」

「何でだよ!」

 

 カンクロウの驚きに、我愛羅は口端にわずかだけ笑みを浮かべた。

 

「冗談だ。カンクロウ」

「悪い冗談じゃん」

「頼りにはしている。だが、俺がしたいだけだ。里を豊かにするのに、五影会談は貴重な機会だ。無理はしない」

 

 言葉に嘘はない。

 信頼というものを、我愛羅はこの数年間で学んだ。

 テマリとカンクロウを家族として信じて。

 他の人達も、信じて。

 困難とも、苦痛とも分からない、酷い不安定な時期ではあったが、それでも続けてきた。

 

 木ノ葉崩し。

 

 あの時に出会った少女の言葉と、あの場所で暴れていた少年を見て。

 続けた方がいいのだろうと、思ったのだ。

 気が付けば、信じ合えるという環境が手に入っていた。

 今では、砂隠れの里が愛おしい。

 書類に目を通していると、ふと、一つの文字に視線が止まった。

 

 暁。

 

 五影会談開催の通知の際に、木ノ葉隠れの里から出された議題の一つである。小国の戦争に介入する傭兵集団。集団と言えど、確認出来ている規模は少数だという。特徴として統一された衣と笠を身に着けている事だけが書類に記されている。

 

 カンクロウがまとめてくれた資料に載っている【暁】の情報は、表面的なものに過ぎない。忍の集団であるのだから、情報が手に入らないというのは珍しくはないが、それにしても全く入ってこないのは異常だ。傭兵集団という以上、他国はどこかで彼らと接触していなければいけない。あるいは、戦った相手からでも情報というのは漏れるものだ。

 

 それが一切ない。

 

 構成員やどのような術を使ったのか、何を目的としているのか。それらが何一つ分からないというのは、集団の異常さを表している。

 だが、である。

 たとえ異常な傭兵集団であったとしても、わざわざ五影会談で出すべき議題だろうかと我愛羅は考える。

 

 たしかに今は平和な時代だ。だが、傭兵集団が悪かと言われれば否定も出来ない。国は力が無ければ成り立たない。力を維持するには、金が必要だ。金さえ払えば、一時的にとはいえ力を手に入れられるならば、そちらを選ぶ国もあるだろう。風影となった今では、里を維持し続けることの難しさは理解できた。数年前、大蛇丸に踊らされたとはいえど、木ノ葉崩しを行い忍里としての価値を示そうとしたのも、納得できないものの理解できてしまう。

 だから、どうしてわざわざ議題に出すのか、分からなかった。

 

 いや………。

 

 ──猿飛イロミ…………それか、うずまきナルトか?

 

 思い浮かんだのは2つの名前。

 1人は直接的に関わりがあり、もう1人は間接的(、、、)な関わりがある人物だった。どちらとも、木ノ葉隠れの里から離反した抜け忍である。

 

 それと関わりがあるのではないだろうかと、ふと、思った。

 

「んで?」

 

 と、カンクロウは呟いた。

 

「五影会談へは、俺とテマリが同行ってことでいいのか?」

「ああ。頼む」

「……本当にいいのか?」

 

 急にカンクロウの声質が低くなり、我愛羅は書類から顔をあげた。さっきまで笑顔を浮かべていたカンクロウの表情は、少しだけ重い表情をしていた。

「五影会談に参加する風影の、その護衛として同行できるのは素直に嬉しいじゃん。けどな……見方を変えれば、身内贔屓っていう風に思われる訳じゃん。俺とテマリなんざ、そういう視線はオヤジの時に慣れてるけどよ…………」

 

 そこまで言って、一度、カンクロウは口を噤んだ。彼なりの気遣いに、我愛羅は小さく笑って答えた。

 

「それくらいのこと、考えていなかった訳じゃない。実際、他の者から一言貰っているからな」

 

 それでも、と続ける。

 

「俺はお前たちに来てほしい」

「……いや、その言い方だと」

「半分は身内贔屓だ。もう半分は、実際にお前達と一緒ならば、いざという時の連携に問題無いからだ。実力も、地位にも問題ない」

 

 二人には、見てほしかったのだ。

 

 五影会談。

 

 その話が出た時に、最初に胸に去来したのは、緊張だった。他の忍里の影たちと、砂隠れの里を背負っての会談をする。里のメンツや今後の里同士の連携……ひいては未来の大きな出来事の問題の引っ掛かりにもなってしまうかもれないと、我愛羅は感じてしまった。

 だが、尻込みする気も、我愛羅にはなかった。

 毅然と、他影と対面しよう。そう、心に決めたのだ。

 その自分の姿を、ただ、家族に見てほしかった。それが、本心だった。

 流石にそこまでは口には出せず、資料に再び視線を落とした──その時だった。

 

 鳥の小さな影が、紙面に落ちたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「火影様。触診の時間ですが、よろしいですか?」

 

 シズネが執務室に入ってきた。窓から外の風景を見ていたイタチは、椅子をゆるりと回転させながら、優しい笑みを浮かべて軽く肩を透かして見せた。

 

「今日は特に、何も不調は無かったのですけど」

「はい。毎日ですね」

「そろそろ、触診はせずともよいのでは?」

「関係ありません」

 

 女性らしい懐の深い笑みを浮かべながらも、堂々と目の前までやってくる。今では、まるで火影専門の医療忍者のような立ち位置となってしまったシズネだが、その仮称に違わぬ堂の入った様は、イタチ自身でさえ怯みを感じてしまうほどだった。

 

 デスクに医療バッグを置くと、シズネは横に立ち静かにイタチの手首を取った。脈を計るように指を置きながら、チャクラの小さな圧力を感じた。

 

「ここ数年、身体に異常は出ていないのですから、もう定期検診は必要ないと思うのですけど。診療所はよろしいのですか?」

「お気になさらずに」

 

 どうして笑顔を浮かべる女性の言葉というのは、不思議な圧力があるのだろうかとイタチは小さく思った。

 

「今は綱手様が一人で回しています。診療所を開いた頃に比べて、だいぶ落ち着きましたから」

 

 と、どこか嬉しそうにシズネは呟いた。

 

 木ノ葉隠れの里に留まる選択をしてくれた綱手とシズネは、街の隅にひっそりと住居を構えた。ひっそりと言っても、それなりの金銭をはたいたような土地と高さを持った家だ。それらの資金が木ノ葉隠れの里の予算から出されてしまっているのは、火影に就任したイタチが初めて行った汚い仕事と言えなくもない。

 

 伝説の三忍の一人である彼女が、里に住み始めた。その噂の広がる速度は、流石は忍里と言うべきなのか、瞬く間に広まった。おそらくは、高齢の人々が噂を広めたのだろう。彼女の顔を知る者は綱手の姿を見ては、診断してくれと、井戸端会議のように訪ねていった。

 気が付けば、綱手の住居は診療所としての機能を持つようになってしまった。

 

 当初は、綱手はそのような機能に否定的だったが、時間の流れか、人との繋がりか、診療所という名前は定着してしまい、機能もいよいよ綱手が渋々という形で成立してしまった。

 

「綱手様は、御元気で?」

「毎日、愚痴を零しながら患者さんと向き合ってますよ。夜には、完治した方と酒を呑んで、チンチロをしたりして、殆ど賭場になってますよ。あ、お金は実際に賭けていないので……まあ、落ち着いています。どうしてか、貯金が出来ませんが……」

「これ以上、お金は出せませんよ?」

「あはは、分かっていますよ。むしろ、今のままでいいんです」

 

 シズネは手を離し「問題ありませんね」と言った。

 

「俺が言った通りでしたね」

「五影会談を控えているんです。僅かでも体調を崩されたら困ります。ましてや、ギリギリの長期療養でしたから。完治しても、油断は出来ません。火影様には前科がありますからね」

 

 そう言われてしまうと、反論のしようが無かった。

 

 身体の病を治す為に安静をするようにと、当時診断をしてくれていた綱手から言われていた。火影の業務に徹していた。弟のサスケの修行も僅か(、、)にしか行っていない上に、自身の鍛錬はまるっきりしていない。

 

 だが、身体は一度、悲鳴をあげた。

 

 元々爆弾を抱えていたような身体だった。それを長いスパンで無くしていこうという試みで、綱手の治療を受けながら生活していたのだが、気が付かない内に身体に火が燻ってしまっていたようだ。膝を折り、血を吐いた。

 

 命に達する程の症状ではなかったが、それでも、綱手からは心底呆れられた。

 

『死ぬなら、私から見えない場所で勝手に死ねッ!』

 

 予想以上に弱っていた身体に、嘆息はするものの、悲観は無かった。

 急いても、上手くいく訳じゃないのは分かっている。

 準備はしてきた。

 

 五影会談という()を張って。

 

「火影様!」

 

 報せが来る。

 来るだろうと思っていたのは、イタチだけだ。シズネは驚いた様子で、イタチと報せを持ってきた者の間で視線を動かす。報せを持ってきたのは、フウだった。

 

「来たっす! 砂隠れから!」

「ありがとう。すぐにカカシさんと……あとは、そうだ。テマリが里にいるはずだ。彼女を連れて行ってくれ」

「二人だけっすか?」

「そうだな……サスケと、きっとサクラも近くにいるだろう。その二人も頼む。くれぐれも、無理はするな。特にサスケは感情的になるかもしれない」

「了解っす!」

 

 風のようにフウは部屋を出て行った。

 

 ようやく。

 

 ようやく、相手の尻尾を掴むチャンスが訪れた。

 

 これまではずっと、亡霊のような相手が、見えない暗闇から攻め続けてきた。

 

 だが今回は違う。

 

 こちらが攻め立てる。

 今回の機会を逃しても、あらゆる手段を使って追い詰める。

 不可視は、もう通用させない。

 あらゆる手段を、権力を、情報を、全て使って陽の下に引きずり出す。

 焦土をも燃やし尽くさんばかりの情動と、氷河を生み出す冷静さを秘めつつ、イタチはシズネに顔を向けた。

 

「すみません。今から砂隠れに向かいますが、シズネさんはどうしますか?」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 懐かしの砂隠れの里の空は、砂と爆炎が交錯していた。

 起爆粘土で作られた巨鳥に乗り空を飛び回るデイダラと、一尾の人柱力の戦闘を、サソリは人気の無い路地から見上げていた。

 

 繰り広げられる空中戦。自分が捕らえると意気込んでいた割には、苦戦しているようだった。だが、正直なところ現在の風影に勝てる忍がいるのか、という疑問をサソリは抱いていた。

 

 明らかに規格外の忍だ。一尾の人柱力だとは知っていたが、

 

 ──相変わらず、センスの無い里だ…………。

 

 久方ぶりに帰ってきた故郷。

 殺風景でシンプルな建物たち。細かい粒の混ざっている乾ききった空気。どれもこれもが、空虚を掻き立てる。里を出て行った時と殆ど変わっていない。哀愁も何も、感じはしなかった。

 

「本当に来るとはの。知らせを聞いた時は心臓が止まるかと思ったぞ」

「どうせ死んだフリだろうが」

「その声に、その口の悪さ、そしてヒルコ……本当に、サソリなのじゃな」

 

 ヒルコの中から、サソリは建物の端に視線を向ける。そこには、険しい表情を浮かべるチヨバアが立っていた。

 警戒しているようにも、呆れを表しているようにも、苛立ちを抑えているようにも見える顔。それなのにサソリは退屈そうに──変わらないな──と、心の中で呟いた。空で、大きな爆発が起きる。

 そろそろデイダラの起爆粘土が底を尽く頃だろう。

 風影が勝つのか、デイダラが勝つのか、どちらにしろ、戦いの終わりは近い。

 

準備(、、)はできてるんだろうな?」

「ヒルコから顔でも出したらどうじゃ? せっかく会うたんじゃ。一方的に、何の説明もなく要求を突き付けておいて顔も出さぬとは、どういう了見じゃ」

「世間話をしに来たわけじゃねえんだぞ」

「なら、話はこれで終わりじゃな」

 

 淡々としたチヨバアの表情からは、心底、諦観が感じ取れた。今、デイダラと争っている風影の保証や、その他全てがどうでもいいという、乾いた表情。

 

 今回の計画をチヨバアに伝える手段として、サイを活用した。彼から聞いた出生と今までの経歴は、伝達係として非常に適していた。

 

 その彼にチヨバアへ今回の計画を伝えている。計画後についてもだ。

 

 だが、チヨバアはどこ吹く風。サソリは苛立ちを覚えた。

 

 チヨバアを計画の一部として組み込むのには、サソリ自身にも不安があった。理由は単純だ。目的が共有できるかどうか、その一点。

 サソリは数秒、沈黙を作ると、やれやれとボヤきながら、ヒルコから姿を現した。

 

「これで、満足か?」

 

 暁のメンバーの一部と、そして同盟メンバー以外に見せた事のない本体(、、)を。

 乾いた表情だったチヨバアに、驚きが。そして、数秒して、悲しみの色が滲み出した。

 

「……人傀儡か」

「よく知ってたな。ああ、そうだ。どうだ? お前が見たかった顔ってのは。俺自身が作った顔は。いい出来だろ?」

 

 生身だった頃の姿をそのまま複製したのだから、出来の良し悪しも無いのだが、何となしに皮肉を呟いてしまった。

 そして、何となく、チヨバアも人傀儡なのではないかという考えが浮かんだ。

 チヨバアも自身と同様、かつての頃と何も変化が見受けられない。もしそうならば、何ともおかしな話である。出来損ないの人形が会話をしているのだから。

 

「んで、準備はどうなってる?」

「……出来ておるよ」

「上々だ。なら、手筈通りにしろ」

 

 ちょうどその時、デイダラの右腕が風影の砂に纏わりつかれていた。そして、急激に砂が凝縮したかと思うと、水袋を握り潰したかのように、砂の隙間から血が弾け飛んでいた。辺りから、砂の忍らの歓声が聞こえてくるが、サソリから見れば今の瞬間に起爆粘土を砂に仕込んだのは一目瞭然だった。

 

 風影は驚異的な強さだ。

 

 だが、恐ろしさは感じられない。

 

 砂を操る術を駆使すれば、その気になればデイダラを一瞬で砂で絡め取る事が出来るだろう。そうしないのは、大量の砂を操れば、デイダラの攻撃が分散してしまう事を恐れてだ。

 丁寧に、繊細に、砂をコントロールしている。

 どうやら、デイダラが敗北するという楽なプランは進みそうにない。

 

「サソリよ」

 

 ヒルコに戻ろうとすると、チヨバアに呼び止められた。

 

「なんだ?」

 

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

「あん? サソリの旦那が裏切ってるだって?」

 

 デイダラがその話を聞いたのは、リーダーからだった。【暁】に所属してからそれなりの月日を過ごしてきたが、リーダーが個別に話がしたいと声を掛けてきたのは初めての事だった。

 

「ああ、そうだ」

 

 声を掛けてきた、と言っても、いつもどおりの忍術を介してである。相変わらず鮮明な姿も分からず、そしてよく通る声だけが、集合場所の暗闇の洞窟に響いた。

 

「……ふーん。で? オレにサソリの旦那の始末をしろって言いたいのか? うん?」

「正確には違うな」

「あん?」

「裏切りに関しては、かなり以前から把握はしていた。だが組織としては、簡単に始末するには、サソリの力、そしてうちはフウコの力は惜しかった。特に、うちはフウコの実力は、資金稼ぎの為には役立っていたからな。サソリを切れば、うちはフウコも切ることになる。まだ尾獣回収も進んでいない今、戦力が削られるのは大きな損失だ」

 

 その言葉に、デイダラは「ふーん」とまた、興味無さそうに相槌を打ちながらも、嫌な気分であった。

 

 いつの段階でサソリが離反を考えていたのか。そして、どうしてリーダーはそれを察することが出来たのか。まるで尾獣回収が進めば、足手纏はあっさりと切り捨てるような口ぶり。

 

 それらいずれもが、僅かにデイダラに組織への不信感を抱かせた。

 

 ──ま、いざとなったら、オレの芸術で吹き飛ばしてやるけどな、うん。

 

 【暁】にいる理由は単純に、自由に自分の芸術を追求できるからに過ぎない。デイダラの【暁】への忠誠心はそこまで高くはなかった。

 

「だが」

 

 と、リーダーは言葉を続けた。

 

「状況が変わった。早々にサソリとフウコを切るか切らないかを決めなければいけない」

 

 状況。

 

 その言葉が示す認識は、つい先日の集まりで共有している。

 

 五影会談が開かれる。

 

 どういった議題が開かれるのか、その全容までは把握できていなかったが、尾獣を集めている【暁】にとっては、里の連携が強まるのは面倒だったのだ。

 

「今度、お前とサソリで一尾の回収をしてもらう。その際に、サソリに不穏な動きがあれば、お前の判断で構わない。サソリを殺せ」

 

 自分の判断でサソリを殺す。

 それはデイダラにとって──嬉しい権限だった。

 

「……おいおい、サソリの旦那。今のは流石に、冗談になってねえんじゃねえか? うん。マジでオレを殺す気だったじゃねえか。いくら芸術家としてのセンスがオレよりも下だからって、不意打ちで消そうなんてのは駄目じゃねえか。うん」

 

 鳥を上昇させながら、デイダラはサソリから十分な距離を取り呟いた。

 

 浮かべる表情は笑顔。サソリとはいつも、その顔を浮かべている。まだ、サソリを切るには早い。もっと状況を揃えなければ──というのは、デイダラ自身も気付いていない建前だった。

 

 自分の判断でサソリを切っていい。

 

 しかも、リーダー直々の指示である。

 

 実のところデイダラは、サソリと正面から戦いたかったのだ。同じ芸術家として、どちらが上か。追求せざるを得ない。そしてデイダラには、サソリに勝つ絶対の自信があった。芸術家としての、もはや傲慢と同位の自信。

 その自信が無意識に、サソリの失望した姿を求めたのだ。

 裏切りを予測されていなかった時の表情を引き出してから、吹き飛ばす。そんな無意識が働いていたのだ。

 

「ああ、殺す気だったからな」

 

 と、サソリは平然と言ってみせる。

 

 まるで普段通りだと言いたげに。

 ここで、なるほど、とデイダラは感心した。

 傀儡人形は変化も何もないつまらないガラクタだと思っていたが、こうして対面してみると、表情が読み取れないというのは確かに効果的である。まず、どうやってヒルコから引きずり出そうか、そんな算段を考え始める。裏切りの確信が欲しいという建前を作って。

 

「どうしたんだい、旦那? 今日はヤケに短気じゃねえか。あの女の世話で疲れでも溜まってるのか? うん。それとも、マジでオレを殺しに来たのかぁ?」

 

 軽い挑発と探り。

 だが、当然ながらヒルコの表情は動かない。ゆらゆらと長い尾を揺らしながら、こちらを見上げるばかりだ。

 

「何か言ったらどうだい? うん。あまりだんまりだと、オレも変な気が起き上がってくるぜ? せめて顔でも見せてくれないかい? なあ? 旦那。アンタ……どういうつもりで、オレを殺そうとしたんだ?」

 

 サソリは、何も言わない。

 

 互いの間に吹き込む風は、いつの間にか冷たさが降りてきた。

 

 既に、デイダラは探り合いを捨てていた。サソリ本人の顔を見ながらならばまだしも、対面しているのは物言わぬ傀儡人形。サソリ自身も、余程の事が無い限り姿を出さないだろう。

 こっちには一尾の人柱力がいる。次、いつ目を覚ますか分からない以上、ぐだぐだしているのも面倒の先延ばしだ。

 

 さっさと、芸術の一部にして──。

 

「ペラペラ喋りすぎだ」

 

 残り僅かとなった起爆粘土を手に取ろうとしたのと、サソリのその言葉が発せられたのは同時で、そして、急に視界に影が差したのもまた、同時だった。

 影が差し、背中から明確に伝わってくる強烈な殺気。見下ろすサソリから視線を逸し、背後にいる何かに備えたのは正しい判断だった。

 起爆粘土で作った鳥に乗り、確保していた空中という安定。

 にもかかわらず、背後にいたのは、隻腕(せきわん)の鬼が、巨大な刃を振り下ろそうとしていた姿だった。

 

「誰、だよテメエッ!?」

 

 起爆粘土を握った左腕を鬼の眼前へ──そう思ったが、再不斬の振りが早かった。容易く切り離される左腕と吹き出る血が、再不斬とデイダラに弾け飛ぶ。

 

 脳裏に走る激痛。

 

 だがそれに悲鳴を上げ心を不安定にするほど、デイダラの追究への道程は単純ではなかった。起爆粘土を生成する為に施した両腕の口や、その他の部位にも施した術。それらを実現する為と、そしてデイダラ自身の感覚が既に、腕を切られる痛みを凌駕していた。

 

 ノータイムで動き出す思考。

 

 その速度のおかげか、これまで反社会的な活動をしてきた経験則か。

 下方から射出された幾十もの毒針を、鳥の翼で受け取め、二振り目を放とうとする再不斬をもう一翼で払い飛ばした。

 

「くっそ……旦那ァッ!」

「その花火みてえな軽口は収まったか? テメエがペラペラ話しているおかげで、こっちの手足が間に合った」

 

 手足。

 

 そう称される男を見下ろす。黒い短髪の、口元を布で隠した男だった。奇しくも、デイダラは抜け忍に関する知識は乏しかった。名前も知らない相手に腕を切られた。それが気に食わない。のみならず、こちらを見上げているヒルコの視線が、まるで内部に閉じ込もっているサソリが嘲笑っているようにも見えたのだ。

 

 先程までの子供のような嗜虐心はひっくり返り、後先を顧みない怒りだけが、激流となった血液と共に頭へと上り詰める。

 

 芸術家としてのプライドは、サソリの挑発を前に冷静さを引き寄せるほど、強固ではなかったのだ。

 その怒りへと心が囚われた瞬間こそが、サソリが求めていた瞬間だった。

 

 ──ッ?! 身体が……ッ!

 

 両腕を失い、それでも尚、激情に任せ不安定な鳥の背の上で前のめりになった瞬間、下半身の感覚が失われた。突如として身体を束縛する浮遊感。

 

 忍術ではない。

 幻術でもない。

 だが、身体が動かない。

 そこでようやく、デイダラは首の違和を感じ取った。何か、細い──針のように、とても細い──ものが射し込まれたような感覚だった。

 

 他にもまだ、サソリの手足があったのか。

 冷静であれば、考えに至れたかもしれない。

 冷静であれば、一尾の人柱力の確保を優先して退くことが出来たかもしれない。

 

 ──やっば………。

 

 鳥から落ち、身体は宙へ投げ出される。

 眼前にはサソリの毒の刃と、無骨な凶刃が待ち構えていた。両腕は無く、下半身は動かない。いざという時の術も、間に合わない。

 その刹那。

 サソリと再不斬の背後に、1つの影が。

 

「これはこれは、懐かしい顔がありますねえ」

 

 干柿鬼鮫がニタニタと笑いながら、立っていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ピカイアの嘘

 投稿が遅れてしまい誠に申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿いたします。


 サソリと再不斬は、デイダラの視線が自分たちに向けられていない事に、同時に気が付いた。

 自分たちの背後。後ろで、声が。

 

「これはこれは、懐かしい顔がありますねえ」

 

 サソリは……そして、再不斬も…………その声には聞き覚えがあった。

 湿った海のような粘着質な喋り方と、深海のような冷たさを放つ声質。そして連想される巨躯は、振り返った瞬間に眼前へと確かにあった。鞘代わりの布に包まれた巨剣を振り上げ、ギラついた眼光は一直線にこちらを見下していた。

 

「再不斬さんッ!」

 

 干柿鬼鮫。彼の巨腕が振り下ろそうとしていた矛先は、再不斬を目掛けている。術で姿を透過させていた白は、サソリと再不斬よりも速く動いていた。幸運だったのは距離が離れていたことと、何より白の中心には再不斬がいることだった。空中へ放り出されていたデイダラよりも、再不斬の身の安全を優先しての最速の動き。

 

 既に白は、鬼鮫の真横にいた。未だ姿は上質な氷のような透明度を保っているが、移動による砂煙でもはや意味をなしていない。透明ながらも、白の動きに同調するサソリと再不斬。

 

 ヒルコの口元の布を取り、開口して毒針を射出するサソリ。

 

 刃を翻し、振り向きざまに鬼鮫の剣撃を弾こうとする再不斬。

 

 だが、三人の速度を、パワーを、鬼鮫の膂力は嘲笑うかのように弾き飛ばす。ぶつかりあった鬼鮫の大刀と再不斬の首切り包丁は、一瞬で優劣が決した。首切り包丁は砕かれ、そのまま大刀は軌道を逸して砂の地面へと衝突し、粉塵が巻き上がる。

 

 デイダラの起爆粘土にも勝るとも劣らない力は、砂粒を放射状に吹き飛ばし、弾丸の如く飛散する。

 白と再不斬は、飛散した砂粒を回避しようと後ろに退いてしまった。射出した毒針も風圧で吹き飛ばされてしまう。

 

「チィッ!」

「裏切り者を消すつもりでしたが、まさか貴方がいるとは思いませんでしたよ」

 

 ニタニタと笑う鬼鮫は、二の太刀を横薙ぎのようにしてヒルコを粉砕した。

 強度を修正したばかりのヒルコだったが、たったの一振りで粉々になってしまったのを、ヒルコから脱出しながらサソリは歯痒んだ。

 砂の上へと降り立ち、サソリは低く舌を打った。

 

「テメェがここにいるってことは……」

「ええ」

 

 と、鬼鮫は軽々と巨剣を肩に乗せて笑ってみせた。

 

「貴方を殺すように言われていますよ。まさか貴方が組織を裏切るなんて半信半疑でしたが……本当に裏切っているとは…………しかも、カワイイ子鬼を連れて」

 

 およそ三角形の頂点のように、サソリたちは立っていた。その中央に鬼鮫、そして上空から受け身も取れずに落ちてきたデイダラがいる。彼は再不斬に視線を寄越しながらも、白を一瞥した。先程の粉塵で、術が解けていたのだ。

 

「再不斬……随分とみっともない姿になっていますねぇ、鬼人と呼ばれていた姿はどこへやら。まるで老いた魚だ。昔の貴方なら、こんな連中とつるむ(、、、)なんてあり得なかったというのに」

「大きな世話だぜ、鬼鮫よぉ。テメエは相変わらず、裏切り者を始末するチンケな使いっぱしりをさせられてるんだな」

「クックック。かつてならそんな減らず口を叩く前に、噛み付いてくるというのに」

「おい、鬼鮫ッ! くっちゃべってねえで、さっさとオレを起こせッ! うん! こっちには人柱力がいるんだぞ!」

 

 鬼鮫の足元で起き上がれずにいたデイダラが声を張り上げる。まるでそれに合わせるかのように、起爆粘土の鳥が降り立ってきた。鳥の尾に包められた我愛羅は、未だ目を覚まさない。

 

「まったく貴方は。この場で一番マヌケな姿ですねえ。……なるほど、千本ですか」

 

 首の千本を鬼鮫はぞんざい(、、、、)に引き抜いてみせたが、力加減も抜く角度も、白の目からは霧隠れの里の技術を踏襲している事が分かった。

 デイダラは針を抜かれると、あっさりと立ち上がる。

 

「来るのが遅えんだよ、うん」

「私は早いと思っていたくらいなのですがねえ。まさかこうもあっさりと窮地に陥るとは、夢にも」

 

 こういう状況は──想定していなかった訳ではなかった。

 これまでデイダラとペアを組んでいたのは、鬼鮫である。にも関わらず、今回の任務ではペアを組まされた。その時点で、きな臭さはあった。それでも尚、姿を消し隠密に徹していた再不斬らには計画停止の合図は出さなかった。

 

 きな臭さがあったからこそ、計画は進めた。

 

 もはや後退はありえない。裏切りが発覚してしまったのならば、こちらが先手を打たなければいけない。こちらは四方八方が敵だらけだ。正規の忍里、暁、そもそも手配されている身の上である。後手後手に回れば、最後には絡め取られる。

 それに、計画の前提条件はようやく……ようやく整ったのだ。

 目の前には無能同然のデイダラと、万全の鬼鮫。

 こちらは、ほぼ無傷。だが……。

 

「いくら融通の利かない大国の忍里でも、風影が捕らわれたとなれば………流石に、もうそろそろ動くことでしょう」

 

 時間は限られている。

 

 砂影を奪還するには、綿密なプランを要するが、それでも斥候としての者が一人や二人……あるいは、複数人は来るかもしれない。

 

 裏切った裏切らないというのは、まだ、暁での内輪もめでしかない。同じ衣を纏っている者を見れば、所構わずとなるだろう。

 

 砂隠れの里に捕まる程度なら……問題(、、)はない。

 問題なのは、中途半端な邪魔のせいで、こちらに死傷者が出るということ。

 それは、鬼鮫も同じような事を、思ったのだろう。

 数的には不利であるにも関わらず、どこか紳士的な余裕の笑みを浮かべて、大刀を振るって見せる。

 

「裏切り者に、子鬼、そして……半人前。大した時間はいらないでしょう」

 

 その言葉は同じく、サソリも思っていた事だった。

 

「ああ、同感だな」

 

 チャクラ糸を、伸ばした。

 向かう先は──起爆粘土で作られた鳥…………その尾に包まれた、我愛羅の砂化粧(、、、)を施された傀儡人形。

 

「いい仕事をした、チヨバア」

 

 些細な、簡単な操作をしただけで。

 傀儡人形は爆発した。

 

 

 

 ★ ★ ★

 

 

 

 我愛羅が見慣れぬ鳥を風影の執務室で目撃した時、まるで示し合わせたかのように、入り口のドアが開いた。

 

「今、外に出てはならぬぞ、風影」

 

 入ってきたのは、チヨバアだった。

 突然の訪問と脈絡のない言葉に、近くのカンクロウは小さく驚きの声をあげた。

 

「チ、チヨバア様……どうしてこちらに…………」

「何じゃ? 死にかけのババアが、ここにいたら悪いか?」

「い、いえいえ! そういう意味では……」

「出てはいけないとは、どういう意味だ? チヨバア様」

 

 対する我愛羅は、冷静に尋ねた。

 

「虫の報せが入ったまでじゃ」

 

 そしてチヨバアは、侵入してきた者が【暁】と呼ばれる集団の一人であるということ、目的が里への戦闘行為ではなく我愛羅自身であるという情報の提供。そして、我愛羅は戦闘に出ず、チヨバアが操る傀儡人形を表に出し、我愛羅自身は別の場所で砂の操作し、わざと人形を捕まらせてほしいという提案をしてきた。

 我愛羅もカンクロウも、唐突に出てきたチヨバアからの【暁】の情報に驚きを顔に浮かべながらも、途中で口を挟むことはしなかった。普段から巫山戯調子の彼女が、声は荒らげないものの真摯に語りかけてきていたからだった。

 

「その情報、どこから?」

 

 チヨバアの話が全て終わり、我愛羅は訊いた。

 

「……言えぬ」

 

 だが信じてくれ、という言葉を、年齢を深く刻んだ喉元が必死に抑えているように、我愛羅は感じ取った。カンクロウが我愛羅の様子を静かに見つめている。常識的に考えれば、明らかに不自然な情報提供である。

 これまでチヨバアは、砂隠れの里には干渉してこない立場だった。常にどこかで、安穏に過ごし続けている姿しか、少なくとも我愛羅は知らない。

 罠だという可能性もあるだろう。カンクロウが送ってくる視線には、そのような意図が隠されているようだった。

 

「分かった。チヨバア様、力を貸していただきたい」

 

 しかしながら、我愛羅は即断した。

 

「カンクロウ。お前は部隊を編成し、暁が里の外に出たら追跡できるようにしておけ」

「分かったじゃん」

「誰にも気付かれないようにしてほしい。不自然な動きを見られれば、向こうに気付かれるかもしれない」

「木ノ葉には?」

「それもまだ早い。俺の人形が捕らえられてからだ」

 

 一瞬の逡巡も無く指示を出す我愛羅と、それに応えて部屋を出ていくカンクロウ。その二人の動きに、チヨバアはどこか呆けたように立ち尽くしていた。

 

「……こんな死にかけのババの言葉を、あっさりと信じるものじゃな」

「俺は……風影として、ここにいる。里の代表だ。ならば、俺も里の者を信じる強さが無ければいけない。たとえ罠であったとしても、それさえも跳ね除ける程に強くなければいけない。ここで貴方を疑うような風影が、五影会談に出て、何を語るというんだ」

 

 我愛羅は席から立ち上がった。

 

「傀儡人形での戦闘だが、最初からでは、万が一にも損傷し、敵側に気取られる可能性がある。ギリギリまでは俺が戦います」

「ああ……そうじゃな。その方が、良いな。そこまで頭が回らんかった。ボケたかの?」

「御冗談を」

 

 かくして、我愛羅は背負う砂の瓢箪の中に傀儡人形を伏せてデイダラと戦闘を行う事とした。

 事実として、我愛羅は手加減は一切行ってはいなかった。

 全力での戦闘。戦闘段階で捕らえることが出来れば、万事問題なく進むはずだった。守る立場の者と、守る必要のない者としての圧倒的なアドバンテージ。デイダラが、砂隠れの里そのものに危害を加える動きを見せ、巨大な起爆粘土を投下したことが、傀儡人形との入れ替わりの要因となったのだ。

 

 この入れ替わり。

 

 我愛羅にとっては、苦渋の選択であった。

 

 戦闘で勝てるという驕りがあった訳ではなく、風影の責務から来るものでもなく。

 ただ、砂隠れの里の者を守る行為によって敗北した──戦闘を見ていた砂隠れの忍たちには、そう映った──ことへの、自分の弱さに対して。

 

 チヨバアの進言が無ければ、今頃は捕らえられていた。

 五影会談を控えたまま、風影が不在となれば、どれほど里の者たちが悔しい想いをするのか。

 その想いが、無事に生き長らえながらも、我愛羅の心を重くした。

 もっと、強く。

 想いを乗せるようにして、我愛羅は、爆発音と共に砂漠の砂を走らせた。

 我愛羅はずっと、彼らのすぐ近くを、砂の下から追跡していたのだ。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 計画通りにチヨバアは傀儡人形を仕込んでくれた。作り自体は、起爆装置を付けただけの単純なもの。精巧なのはむしろ、その傀儡人形を砂の鎧で本物と瓜二つの姿を表現してみせた事だった。

 

 おそらくは、風影が施したものだ。

 

 ということは、近くに彼はいる。

 

 我愛羅の人形をマヌケにも連れてきたデイダラと会ってから、その予感があった。

 

 ──奴は、どこまで話が通じる相手だ?

 

 傀儡人形の爆発は、視界を砂煙で覆い隠す程の、十分な威力を発揮した。間近にいたデイダラと鬼鮫の意表を完全に突く事に成功したのも、はっきりと確認は出来た。デイダラも鬼鮫も、回避動作ではなく、防御に徹した。ダメージは確実にある。

 

 爆風はサソリの肉体にも、ヒビという形で刻んでいったが、非可動には程遠い。

 

 そして、視界が塞がれたとはいえ、完璧な状況だ。

 何せこちらには、無音殺人術(サイレントキリング)のプロフェッショナルがいる。言葉として言わずとも、既に再不斬と白は動いていた事は、砂煙の流れで分かっている。折れた首切り包丁でも、抑え込むことは出来るだろう。

 捕らえたか?

 

 と、その時だ。

 

「水遁──爆水衝波ッ!」

 

 砂煙の向こう側から、大津波が押し寄せてきた。

 

「チィッ!」

 

 鬼鮫の忍術。

 砂漠の真ん中を忘れさせられる程の膨大過ぎる水が押し寄せてくる。

 水の勢いに砂煙はかき消されると同時に、胴体に直撃する水圧は、ヒビの入った肉体にさらなるダメージを蓄積させる。

 即座に足元にチャクラを集中させ、即席に出来上がった大海に立つ。再不斬も白も、似たような状況。移動はしているが、距離に大きな変化はない。

 

 変化は2つ。

 

 1つはデイダラの姿が消えているということ。

 そしてもう1つが、鬼鮫の背負っている大刀を覆っていた布が消え、中の刀身が全て出ているという事だった。そこで、サソリは理解する。爆発の衝撃を、鬼鮫は大刀で防いだということ。怪力を持つ彼ならば、爆発による熱と飛散する破片さえ凌げれば、圧力などは問題ではないのだ。

 と、その時。

 

 視界が若干、暗くなった。

 

 上にいる。

 直感と共にサソリは大きく一歩下がるった。と同時に、自分が立っていた所に、クナイの斬撃が通った。

 

「ちっ、勘がいいなあッ! サソリの旦那ァッ!」

「……しぶとい野郎だ」

 

 デイダラは爆風の力で上空へ意図的に吹き飛んでいたようだった。彼の衣は無残にも消し飛び、背中から血肉が焦げた煙が漂っている。両手を失い、口にクナイを咥えた姿は、狂気すら覚える。

 

「人柱力が替え玉だってんなら、あんただけは殺さねえとなあッ! うんッ!」

 

 血走る眼球。だが、違和はその下にあった。

 デイダラの腹部が、徐々に膨れ上がっていたのだ。

 

「こんなつまんねえ所で見せるのは馬鹿馬鹿しいが……旦那を道連れに出来るのなら、オイラの芸術はアンタを超えた証になるッ!」

 

 自爆。

 

 その言葉が、頭に思い浮かぶと同時に、再不斬たちに視線を送った。

 鬼鮫に向かって、再不斬と白が接近する。

 足場が水という状況は、鬼鮫同様、同じ霧隠れの里の二人の方が与し易い。

 

「氷遁・氷柱波(つららなみ)ッ!」

 

 印を結び発現する白の氷遁は、足場の膨大な水に津波を起こさせながらも凍てつき、万の巨大な氷柱が襲いかかる。

 

「所詮は……子供の氷遊びですねぇッ!」

 

 逃げ場を完全に潰す氷柱の波を、鬼鮫は大刀のたったの一振りで粉々に砕いてみせた。そのまま返す刀で、死角から折れた刃を向ける再不斬の斬撃を跳ね除けた。

 

「片腕で私に対抗しようなどと、驕るにも程がありますよ?」

 

 再不斬の握力も腕力も、常人を遥かに超えている。だが、鬼鮫のそれは常識の外だった。跳ね除けられた首切り包丁を手放しはしなかったが、腕は完全に力に流され、胴体ががら空きになった。

 対する鬼鮫は、既に大刀を切り込む姿勢になっている。

 白が、その瞬間を逃さないように指に挟んだ千本を、鬼鮫の頚椎に差し込もうと背後に近付いたのは正しい判断だった。白の速度は、水を蹴る水飛沫を置き去りにする程だ。完全なタイミングだった……相手が、鬼鮫だけでなければ。

 

「確かに速い。ですが、再不斬の片腕を埋めるにはおよそ足りない!」

 

 背後の白を見ることも無く、空いている左腕で的確に彼の側頭部を殴る。首の骨をも折りかねない打力に、白は水の上を滑り転がった。

 

 大刀が振り下ろされる。

 

 鎖骨から左腹部に掛けて切り傷──ではなく、削り傷が刻まれる。

 

「弱い……弱すぎる…………再不斬。あんな餓鬼を連れているから、貴方は弱くなった。まるで角の折れた鬼だ」

 

 再不斬たちはその気になれば、逃げ切ることは出来るだろう。もはや問題は、デイダラだ。

 自爆を考える程の考え。

 考慮が出来ていなかった。

 

 が。

 

 いざ、爆発せんとばかりに膨れ上がるデイダラの姿を見て、サソリは小さく納得をしてしまう。

 同じ芸術家として、自分自身を削ってでも、成し遂げようとする狂気は、初めて自分と似ていると感じた。

 

「いいか? 旦那ァ。冥土の土産に教えてやるぜ…………やっぱ芸術ってのはなぁ、うん、爆発なのさぁッ!」

 

 青天井に大きな声に、ようやっと鬼鮫と再不斬、そして白は気付いたようだ。

 デイダラが自爆しようとしている様子を。

 サソリを含め、四名はただ、逃げることだけを選択した。

 彼の身体が、限界までに膨れ上がる。

 爆発は──。

 

「──砂縛柩」

 

 海の向こう側から競り上がった膨大な砂によって、覆い潰された。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 水が引いていく。

 それは、術者である鬼鮫が、離れていった事を示唆していた。

 彼はどうやら逃げ果せてしまったようだ。デイダラは自爆。つまり、収穫はゼロに等しい。いや【暁】への裏切りを明確にした分、マイナスだろう。

 

 ──今は、まだ考える必要はない。

 

 サソリはただ、現状をどうするか考えていた。

 

 砂を動かした人物。

 

 現風影。我愛羅が、そこにいた。

 対面する我愛羅の視線は、疑惑と感謝が滲んていた。そしてそれは、彼が操る砂の動きにも呼応していた。自分らを囲い、蠢くばかり。砂は自分らの辺り一面は砂漠だ。拘束するだけなら、今すぐにでも出来るだろう。彼の実力は、デイダラとの戦いで十分に分かっている。

 冷静なやつだ、とサソリは評価した。

 不用意に信頼する訳でも、過剰に警戒する訳でもない。

 

 歳は20を超えていないだろうに、影としての器は十分だった。

 

「悪いが、拘束させてもらう。抵抗はしないでもらいたい」

 

 背後で再不斬と白が僅かに動こうとしているのを、サソリは片手を上げて制した。

 

「再不斬、白。お前らは退け」

「……ああ、そうさせてもらう」

「サソリさん。後は任せてください」

 

 頼もしい事を言ってくれる。サソリは小さく笑った。

 二人の返答があると同時に、周囲の砂が押し寄せてきた。我愛羅が、逃走の意ありと考えたのだろう。しかし、それよりも、白の術の速度は上回る。足元の砂でさえ足を絡め取ろうとせり昇ってくる最中に、再不斬は白の方に手を置き終えると同時に時空間忍術を発動させた。

 

 視界全てが砂に覆われ、けれど、まるで一陣の風が吹いただけのように、あっさりと視界は晴れ渡った。サソリは視覚で、自身の身体を眺める。どうやら、拘束はされていないようだった。

 

 広い砂漠で、風影と二人、静かに対面する。

 

「お前達の目的は何だ」

「さあな」

「我愛羅ッ!」

 

 ようやく、砂の忍がやってきた。風影が連れ去られたというのに、何とも遅い動きだ。なるほど、大蛇丸の計略に乗せられて木ノ葉隠れの里に戦争を仕掛けるわけだ。サソリは納得しながらも、しかし、人柱力である風影を追ってきている部分に関しては、なるほど彼は里からは信頼を獲得できているらしい。

 

 まあ、兎に角。

 

 怒りと疑念。それらを込めた数十の忍に囲まれながらも、サソリは両手を悠々と広げてみせた。

 

 ──ここまでは、予定通りだ。

 

 ようやく動き出せる。

 計画を。

 サソリは小さな笑みを噛み締めて、呟いた。

 

「お前達に投降する。洗いざらい何でも話そう。だから、分かっているな? 丁重に扱え。里を落とされたくなかったらな」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 翌日──大蛇丸アジトにて。

 

「姐さん? おーい、イロミの姐さん。起きてるかー?」

 

 多由也は気怠そうに、さも心底面倒そうに、眼前の扉を叩いた。もはやノックとしての機能を果たしていない力加減と、通りの悪い覇気の無い声質は、むしろ何も起きない事を願っているかのようにも思えた。

 ノックと呼び声を止める。そして数秒。何の返事もなかった。

 

「よし、寝てるな。じゃあ、寝かせておくか。しゃーねえなあ姐さんも。まあ毎日毎日実験やら何やらで忙しいだろうし、今日は起こさないで──」

「誰に言い訳をしているんだ? 多由也」

 

 何事も無く平穏ここに極まれり。そう言わんばかりの鮮やかな姿勢の切り返しを、真後ろに立っていた君麻呂に咎められた。多由也は驚いた様子もなく、がっしりと掴まれた肩と、その掴みに巻き込まれた長い髪の毛が引っ張られる痛みに、小さく舌を打った。

 

「何だよ君麻呂」

「大蛇丸様から、イロミ様を起こすように言われていただろ。返事が無いなら、起こす必要があるだろ」

「きっといないんだろ。どっか出掛けてるんだよ。何回かあったろ?」

「いいから中に入って、確認しろ」

 

 相変わらずの仏頂面。そして命令口調。もう音の五人衆は無く、ただイロミの部下という立ち位置に落ち着いて、上下という格差は無いはずなのに。いや、君麻呂は元々、そういうやつだ。表情が乏しい上に、ものの言い方が直線的だ。

 

 彼の態度や口調よりも、だ。

 

「……お前がいけよ」

 

 観念したかのように、しかし多由也は顎でドアを指し示した。

 

「無理だ」

「何でだよ」

「お前とイロミ様は同性だろう」

「んな理由もうどうでもいいんだよッ! あの人、もう倫理観狂ってんだからッ! この前なんて毛布一枚だけで過ごしてたんだぞ! 気ぃ使う必要ねえだろうがッ!」

「行け」

 

 有無を言わせぬ、議論の余地も無いと言いたげな口調。こうなったら、君麻呂は動かない。そういう奴だと言うのは、嫌なくらいに知っている。

 

 クソ野郎が、と意趣返しのように呟き、扉の前に。

 

 正直なところ、イロミを起こす時に良い思い出は無かった。基本的に彼女は、寝相がとんでもなく悪い。それは、ベッドから落ちているとか、寝癖が酷いだとか、そういった常識的な事ではないのだ。

 扉を開けた瞬間に、巨大な木の根に腹を打たれた事があった。

 中に入って彼女を起こそうと肩を揺らそうとすると、大量の蛇に雁字搦めにされて窒息しそうになった。

 

 時にはイロミが殴りかかってきた時もある。勿論、寝ぼけてだ。寸前で避けた際は、イロミの拳は石壁に深々と突き刺さったのは、真剣に恐怖を抱いたものである。

 

 今回は何が出るのか。

 

 警戒しながら、静かに、扉を開けた。

 

「姐さーん。入るぞー。頼むから、何も──」

 

 開けきった扉の向こう側から現れた大蛇に、多由也は丸呑みされた。彼女の身長は決して低くはない。そんな彼女を軽々と一口で丸呑みにした大蛇は、何と扉の枠よりも大きかった。大蛇は半ば枠を壊しながら巨大な頭を出し、大口をただ閉じるだけで、多由也を飲み込んだ。その時、君麻呂は多由也が驚きのあまり間の抜けた表情をしていたのを確認していた。

 

「君麻呂~ッ! 助けろォッ!」

 

 一部が膨れ上がった大蛇の腹部から、多由也の声が濁って聞こえてきた。大蛇の腹の中では、得意の音も効果が無いのかもしれない。ましてや、大蛇がイロミの身体(、、)から生み出された生物である以上、強度は計り知れないだろう。

 

 君麻呂は腕の肉から鋭く鋭利に形成させた骨を一本、生み出した。硬度も生成速度も、数年前の彼とは比較できないレベルへと成長していた。

 

 大蛇が君麻呂の淡白な殺意を感じ取り視線を向けた束の間、彼の速度は多由也が飲み込まれる速度を置き去りにした。

 頭部を真っ二つに裂き室内へ。そして、既に絶命した大蛇の胴体を不規則な螺旋状に切り捌いて、そして、一つのベッドの前に辿り着いた。

 

 切り裂いた蛇だった肉片からは、その体躯に相応しい大量の血液が石造りの床に広がるが、その朱色を感じさせない程に、室内は真っ暗だった。壁一面には夥しい数の書物と、液体に付けられた動物の死骸が詰められた瓶が飾られている。

 

 知識も、細胞も、遍くものに貪欲になり過ぎた、成れの果ての最高駄作(、、)。大蛇丸が一度彼女の事を、そう称していたことを聞いた事がある。

 

 実際に、彼女の細胞も実力も、今のナルトに勝るとも劣らないように、君麻呂には見えた。ただ、制御の可否を度外視した場合である。

 

「……もう、姐さんを起こす役はやらねえぞ…………」

 

 唾液と胃液、そして血液でドロドロになった身体で、近寄ってきた。毎回、彼女は同じことを言う。しかし、大蛇丸に指示されれば素直に起こしに来るのだ。

 

「おい……姐さん。起きてくれー」

「イロミ様。ご起床を」

 

 二人は静かにベッドで、薄いシーツだけを掛けて横に眠るイロミに近寄った。彼女の右肩が天井を向き、肌が見えている。だが、その見えている肩の、おそらく肩甲骨だろうか、そこからは先ほどの大蛇の尾が繋がっているようだった。

 イロミが生み出した大蛇。それは、忍術でも何でも無く、数年に渡る大蛇丸の実験によって象られた、もはや人間と評するには謙虚なほどに、異常発達を繰り返した異常の一つである。

 伸ばしきった髪は先端にいくに連れて白くなり、根本は真っ黒。そんな彼女は、静かに声を出した。

 

「……ん、どうしたの?」

 

 顔を向けず、背中を掻くような気軽さで、繋がっていた尾を体内に引っ込めた。

 

「大蛇丸様が御呼びです」

 

 と、君麻呂が言うと、イロミは心底、深い溜息を零した。

 

「何? 何の用……ムニャムニャ…………なの?」

「【暁】のメンバーの一人が、砂隠れの里で拘束されたという情報ですよ。さっさと起きてくださいよ」

 

 答えたのは多由也だった。

 イロミは寝返りをうつ。多由也の態度が気に食わなかった、というような理由は全く無く、その証拠に目元を隠している白い前髪の下の口は、眠気を残しながらも嬉しそうに笑っていた。

 

「ああ、うん、じゃあ、起きないとね。そっかぁ……うん」

 

 イロミが上半身を起こすと、はらりとシーツが折れて倒れる。そこには、細い身体と、そして右半身が老木の樹皮のようなヒビが深々と刻まれていた。

 

「フウコちゃんに、会えるかなあ」

 

 その嬉しそうな笑みに、どうしてか、多由也と君麻呂は背中を寒くした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

異都、糸、意図

 大幅に投稿が遅れてしまい申し訳ありません。

 次話は今月中に投稿が叶えば幸いですが、もしかしたら年を跨いでしまうかもしれません。ご了承いただければと思います。


「退いて良かったのですか? サソリは、組織の情報をあっさりと渡しますよ?」

 

 砂隠れの里から遠く離れた森の中。鬼鮫は腕を組み、背を木に預けながら呟いた。話しかけているのは、同じ組織に所属する白ゼツと黒ゼツである。彼らはいつものように地面から生えて現れてはいたが、鬼鮫からは少しだけ距離を取っていた。

 

 というのも、笑顔を浮かべている鬼鮫だが、その瞳には怒りが浮かんでいたからだ。同じ組織の者に向けるべき視線ではなかった。

 

 同時に、白ゼツと黒ゼツは静かに思う。

 

 此処まで怒りを滲ませる鬼鮫も珍しかった。

 

 彼には獰猛なまでの才能がある。組織で最もタフネスであり、チャクラの量も多く、そして何よりも扱う水遁はどれも規格外のレベルだ。術の巨大さという面では、組織一と言っても過言ではない。

 しかし、その莫大な力を律し繊細にコントロール出来る、身体の巨大さには不釣り合いな紳士的な面があるのも、組織で唯一と言ってもいいかもしれない。

 

 冷静で空虚。

 

 そんな彼のイメージから遠く離れてしまっている。白ゼツと黒ゼツが鬼鮫から離れているのは、それが大きかった。

 

「サソリノ裏切リハ見過ゴセナイ。ダガ、人柱力ガ健在ナラバ、無理ヲシテアノ場ニ残ルノハ危険ダ」

 

 黒ゼツが語ると、白ゼツは少しだけ怯えた笑顔を浮かべながら、軽薄に続ける。

 

「最初からサソリは、自分を引き渡すつもりだったみたいだね。あわよくばデイダラを捕らえて、一緒にという算段だったのかもね」

「それがどうしたのです?」

 

 鬼鮫は肩を上下させた。

 

「現にこちらは、デイダラは死に、人柱力も確保できていない。サソリの思惑通りに進んでしまっている。必ずサソリの情報は、五影会談で出され共有される。尾獣回収は諦めるという事ですか?」

 

 サソリの捕縛はそのまま【暁】の目的の露呈を意味している。

 尾獣を集めていると分かれば、疎遠だった五大里は連携する。1つの里の尾獣が奪われるという事は、自分が保有する尾獣も奪われることの証左になるからだ。

 ただでさえ、尾獣は半数も確保できていない。粒揃いの【暁】とはいえ、五大里を相手に継続的な活動は不可能だ。

 

「今後、暁ノ活動ハ大キク方向転換ヲスル」

「方向転換?」

「尾獣ノ回収ハ変ワラナイ。ダガ、手段ヲ変エル」

「ほう?」

「暁ハ──」

「ブハァッ!」

 

 と。

 

 二人の間に。

 デイダラが土から這い出てきた。

 

「…………………」

「…………………」

「…………………」

 

 急激に、間の抜けた空気が、鬼鮫と白ゼツ、黒ゼツの間に流れた。デイダラは必死に地面の下を潜り抜けてきたからか、長い黄色の髪を頭ごとブンブンと左右に振り土埃を振り払うのに必死だった。

 

「白ゼツ、黒ゼツ。貴方に兄弟がいたとは知りませんでしたよ」

「バレた?」

「違ウ」

 

 と、白ゼツは笑い、黒ゼツは淡々と応えた。

 

「よく生きていましたね、デイダラ。驚きですよ。華々しく死んだと思っていたのですがねえ」

 

 鬼鮫が呆れ半分、可笑しさ半分と言った具合に口角を吊り上げているのを、デイダラは不愉快そうに見上げた。

 

「五月蝿えッ! お前のせいで、砂ん中で溺れかけたんだぞッ! うん」

「貴方が地面の下に潜るなんて想像、組織の誰が想像できます?」

「白ゼツ、黒ゼツ、オレの腕を取ってこい、うん」

 

 両腕が無い状態でもなんとか地面から出てくると、デイダラは「それで?」と呟いた。

 

「何の話をしてたんだ?」

「国盗リノ話ダ」

 

 毅然として呟いた黒ゼツの後に、白ゼツがニヤリと笑った。

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 テマリは焦りを禁じ得なかった。

 木ノ葉隠れの里で行われる中忍選抜試験の協力者として、砂隠れの里から出向という形で訪れていた彼女は、半ば軽い観光気分であった。特に、料理という部分では木ノ葉隠れの里は明確に砂隠れの里よりも秀でている。

 

 役得などと考え、我愛羅やカンクロウ、それに部下たちにも軽い土産を持って帰ってもバチはあたらないだろうと考えていた時、フウという少女から急報が届けられた。

 

 砂隠れの里が襲撃を受けている。

 

 耳を疑った。

 

 信じられない、という感情の揺れよりも、何を言っているんだコイツは、という軽い怒りが出ていた。全く知らない赤の他人から自分が危険だと言われる。不愉快だった。

 だが、遅れて姿を現した、はたけカカシ、うちはサスケ、春野サクラらの説明で、彼女の語った事が事実であると分かった。

 

「フウさん。フウさんの力で、私達を運ぶことって出来ないんですか? それの方が、速いと思うのですが……」

 

 カカシ、サスケ、フウ、サクラ、そしてテマリは砂隠れの里に向かってひた走っていた。テマリを先頭に、道案内をしてもらっている状態である。

 最後尾のサクラは、縦列に走る隊のちょうど中央にいるフウに声を掛けた。人柱力という特異な背景を持つと同時に、メンバーの中で最も瞬発力に長けた彼女がメンバーの中央にいるように指示したのは、カカシである。

 

 フウは前を向きながら応えた。

 

「確かに、フウと重明なら一気に運ぶ事は出来るっす。だけど、今は無理っす」

「何故だ?」

 

 尋ねたのはサスケである。

 

「それは……えーっとっすねえ」

「フウの力は、おいそれと外に出す訳にはいかない」

 

 代わりに応えたのは、カカシだった。

 

「フウの力は大き過ぎる。火影様の情報通りなら、砂隠れの里の風影が危険に晒されているという事だ。他の国からすれば、値千金の状況だろう。風影が狙われている事は分からずとも、同盟里の木ノ葉が砂隠れの里に向かったという情報を出す訳にはいかない」

「だけど、ここから3日も掛かるわけでしょ? それだったら……」

 

 そこで、サクラの言葉は途切れ、静かに背中に伝わってくる躊躇いをテマリは感じていた。

 

「いい、気にするな」

 

 連続する木を蹴り移動を続ける。

 

「我愛羅の心配はしていない。あいつの強さは折り紙付きだ」

 

 強さ。

 その言葉は、今となっては恐怖の意味は一切込められていない。

 ただひたむきに人を信頼し、そして信用されるように、誠実に生きてきた。他者の死という、自分の外側だけに何かを求めるような不安定な依存性は無くなり、人間的な強さが備わった。

 そして、これまでしてこなかった修行をするようになった。

 自分の中にある力と向き合って、完全に制御できるように。

 我愛羅の力は今や、信頼され信用される程に強く、安心を里の者に与えた。

 

 不安は──。

 

「おい、フウ。今回の指示……本当に兄さんからなのか?」

「はい? 急に、どうしたんすか? そんなの、当たり前じゃないっすか。まさか、フウが会った火影様が偽物だったとでも言いたいんすか?」

「……いや、いい」

 

 それから、三日三晩、彼らは走り続けた。

 

 砂隠れの里に到着し、そして……。

 

「カンクロウッ! 話は聞いたぞッ!」

 

 風影の執務室があると思われる建物に招かれ、出迎えてきたカンクロウを見ると、テマリは大股で彼に詰め寄った。

 

 彼女が聞いたという話は、一度は我愛羅が連れ去られた、というものだった。しかし、我愛羅は無事に帰還し、結果として砂隠れの里には大きな被害を出すことはなく、何よりも【暁】の1人を捕縛したとのこと。

 

 重要な機密情報ではあるが、風影の姉弟だからだろう。テマリの姿を見るや、幾人かの忍たちが状況を報告してきた。同時に、木ノ葉隠れの里の忍である疑問を持っていたが、そこはテマリからの説明があった。

 

 そして、あらましを聞いたサスケたちはテマリに牽引される形で建物へとやってきたのだ。

 カンクロウは近付いてくるテマリに両手を出すようにして、慌てて口を開いた。

 

「ま、まてまて! おい、テマリ! いきなりキレるってのは順序飛ばし過ぎじゃん?!」

「うるさいッ! 先代の風影と同じような事が起こる所だったんだぞッ! お前は何をしてたんだッ!」

「だから、それには事情があるんだよ! とりあえず落ち着けよ、テマリ。ああもう、面倒じゃん。我愛羅に直接事情を聞いてくれ。執務室にいるからよ。後ろの人たちの報告も必要じゃん? 後は俺が対応しておくから」

 

 テマリは肩を小さく震わせていたが、張っていた肩を下ろして、カカシに一礼をしてから建物の奥に入っていった。テマリからの圧力から解放されて、カンクロウは「やれやれ」と頭をかいて、カカシたちに向き直った。

 

「悪いな、アンタら。わざわざ遠出してもらって何だが、風影は無事だ」

「いや、無事で何よりだ。道理で、里全体が落ち着いている訳だな」

 

 木ノ葉隠れの里に比べて、単一色の強い砂隠れの里は、軽く風が横切るだけで細かい砂埃が舞い上がる。それは、サスケにとっては煩わしいものだったが、カカシの言う通り、砂隠れの里の忍たちには何てことはないようで、特に警戒も緊張した様子もなかった。むしろ、どこか浮ついているように見えるのは気のせいだろうか。

 

 カンクロウは「とりあえず中に入るじゃん」と言い、サスケたちを建物の中へと案内した。廊下を歩きながら、サスケはとうとう、気になっていた部分を尋ねた。

 

「襲撃してきた相手を捕らえたという話を聞いたが、それは本当か?」

 

 その情報は、砂隠れの里に到着した際に、テマリに対して状況報告をしてきた忍から聞いたものだ。

 

 我愛羅が自力(、、)で脱出し、そして襲撃者の1人を拘束した。

 

 襲撃者は、赤い雲の模様が刺繍された黒い衣を纏っていた。

 

 それが【暁】だというのは分かっていた。

 

 冷静な抑揚ながらも、サスケの内心は高揚していたのは、カンクロウに尋ねた事でカカシにもサクラにも、もしかしたらフウにも感じ取られていたかもしれない。

 姉であるフウコを追いかける、最も考えられる限りの最短ルート。

 そして、カンクロウの問いは──。

 

「ああ。そうだ」

 

 肯定である。

 

「正確には、襲撃してきた奴らの仲間じゃん」

「会わせてくれ」

「あん?」

「そいつに会わせてくれ。今すぐ」

「いや……無理じゃん」

「どうしてだ?」

「我愛羅から止められてる。俺やテマリ、砂の忍でさえ無理」

「……どうにか出来ないのか?」

 

 カンクロウは首を横に振るだけで何も言わなかった。

 

 本当は、今からでも風影に赴いて願いたい所だが、そこは、サスケはストップを掛けた。彼はもう、子供じゃない。つまり、自分以外の誰かもいるという事を自覚しているという事だ。

 

 火影は自身の兄であるイタチだ。彼もまた、フウコを追いかけている事は知っている。

 

 ならば、彼は必ず、交渉をするはずだ。それに、当然ながら、砂隠れの里の者はまだ【暁】との関係──フウコとの関係性を知らない。強引に頼んでも、下手な邪推をされるばかりだ。

 

 目の前に最大のチャンスがあると分かりながらも動けない。

 

 ましてや、捕らえた【暁】の人間をどうするのか、という話がいつ行われるのかは分からない。既に砂隠れの里は情報を共有できているのか。未だ、というのならば自分が木ノ葉隠れの里に戻ってもいい。

 

 奥歯で苦いものを噛み締めながら、歩く通路はT字に分かれた。その時だった。

 

「あ、ちょっといいっすか?」

 

 フウが声をあげたのだ。彼女らしく、片手を真っ直ぐあげて。

 

「何だ?」

 

 と、ちょうどT字を曲がろうとしていたカンクロウが振り返り足を止めた。

 

「実は、火影様から風影様へ言伝を頂いているんすよ」

「え? フウさんそんなこと頼まれていたんですか?」

 

 サクラの疑問は当然だった。イタチからの指示の伝達と、彼女の力を風影奪還の為の戦力として来たという認識だったのだ。

 フウはニカリと笑いながら「そうっすよ」と応えてみせた。

 

「えっと……アンタは火影様の部下ってことでいいのか?」

「はいっす。火影様の直属の部下、フウって言うっす」

「一応、確認させてもらうが、言伝の内容っていうのは?」

「明日、火影様がいらっしゃいます」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 イタチが砂隠れの里に到着したのは、サスケたちが到着してから翌日の事だった。

 火影が他里に直接赴く。風影が狙われたという背景を考慮しても、あまりにも異例の出来事。事実、砂隠れの里の忍はざわついていた。

 

 無事に風影が戻ってきた──サソリやチヨバアによる工作は表向きは露見していない状態である──その翌日に、火影が来る。

 

 異例の出来事の連続。

 

 しかし、決して悪い意味では捉えていない。数年前に犯してしまった砂隠れの里の襲撃。形式上は同盟里として、そして例年通りの中忍選抜試験を合同で開催できる間柄。そういった部分では変わりない友好関係が築けているものの、腹の奥底ではどうなのか、という部分があった。

 イタチ自らが赴くことによって、木ノ葉隠れの里の意思が示された形となった。

 砂隠れの里は木ノ葉隠れの里にとって重要な同盟里なのだ、と。

 

 が。

 

 サスケは、全く別の事を考えていた。

 

「風影。無事で何よりだ」

 

 風影の執務室に足を運んだイタチは、おおらかな笑みを浮かべて、机に座す我愛羅と対面した。

 

「……わざわざ遠方から足を運んでもらってすまない。心配を掛けた」

 

 執務室には、イタチと我愛羅、そしてサスケだけである。だが当然ながら、執務室の外には砂隠れの里の忍が万が一(、、、)に備えての人数が備えられている。テマリとカンクロウもいた。

 

 サスケは壁際に背を預け、イタチと我愛羅の対面を眺めていた。

 

 特別、二人の会話に興味は無い。ただ同席しているのは、イタチとすぐに会話をする為だ。

 

 移動中から感じていた違和。

 

 砂隠れの里が襲撃を受けてから情報が木ノ葉隠れの里に伝わるまで速度。そして、すぐさま里から出発した迅速な行動。

 

 全てが想定内だったのだと、言外に述べている。

 

 おまけに【暁】の1人の捕縛に砂隠れの里は成功しているのも。

 

 我愛羅と視線が合った。

 

 砂漠のように無表情な彼は、すぐにイタチに視線を戻したかと思うと、尋ねた。

 

「火影は最初から、こうなると考えて五影会談の開催を?」

 

 単刀直入な物言い。

 同じ影同士。国、里の規模があれど、上下は存在しない。けれど、その問いはあまりにも強気であった。迂遠であるが、言葉を変えれば【こちらが襲われるのを知った上で、こうして目の前に立っているのか?】という事になる。

 

 サスケも、それは考えていた。

 

 砂隠れの里から見れば、迅速に行動した木ノ葉隠れの里と映るかもしれないが、あまりにも、速すぎる動きだ。

 忍が走リ続けて3日かかる距離。その距離がまるで無かったかのように、情報は伝達された。まるで想定されていたかのような、迅速にも過ぎた速さだ。

 

「……全てではない、とだけ」

「それはどこまで?」

「応えられない。続きは、五影会談で話そうと考えている」

「………………」

 

 嫌な沈黙が、訪れる。

 我愛羅の表情は変わらない。だが、空気が乾いてきたように感じる。

 

「なら、別の事を尋ねよう」

「何だ?」

「猿飛イロミ、そしてうずまきナルトについてだ」

 

 我愛羅は続ける。

 

「何故、あの二人を里の外に出した」

「……二人が望んだ事だ」

「本人が望めば、何をしても黙認すると?」

「自らの活動の場所を求める事に、黙認も否定も無い。黙認かどうかは、これからだ」

「居場所が誤りである事もある」

「そこまで二人は、弱くない。少なくとも、俺はそう考えている」

 

 我愛羅は、どこか暖簾に腕押しな柔らかな声に、一度は深く瞼を閉じた。

 

「それで、どうしてこちらへ? わざわざ、火影自身が赴く必要もないだろう」

「単刀直入に……捕らえた【暁】と会わせて欲しい」

「……いいだろう。だが、そうだな………テマリ」

 

 我愛羅がドアの向こう側に声を掛けると、静かにドアは開いた。開く際に「テマリかよ」とカンクロウが唇をへの字にした小さい声が入り込んできていた。

 

「何だ? 我愛羅」

「火影と……そして、彼を牢のところまで。他の者は連れていくな」

 

 再び我愛羅と視線が重なる。おそらく、カンクロウから話が通っていたのかもしれない。わざわざ、イタチとの兄弟関係というだけで同席を許してもらった自分も面会を許されるというのは、そうとしか考えられない。

 イタチも遅れてこちらを向く。

 

「一緒に来るか?」

 

 いつもと変わらない優しい声。

 ところが、彼の思惑が分からない。

 信じてはいる。隠し事があるのは仕方ない。もう、そんな事で怒りや疑惑を込み上げる事は無い。

 ただ、気になるというだけだ。

 テマリに案内されるままに執務室を出た。廊下には砂隠れの里の忍たちと、その外側にはフウとサクラがいた。イタチを見ると二人は近付いてきたが、フウはイタチに笑顔で、サクラは不安そうにサスケをそれぞれ見た。

 

「火影様、会いに行かれるのですか?」

「二人は少し、カカシさんと一緒に待機していてくれ」

「了解っす」

「あの……」

「なんだ? サクラ」

「今回の件について、ご説明はいただけるのですか?」

「君やサスケ、カカシさんが納得する形では、無いかもしれないが。必ず」

 

 イタチとサスケはテマリに案内されるままに、件の人物が収容されている牢へと着いた。その間、二人の間にも、テマリとも会話は無かった。

 

 牢は地下にあった。

 

 砂漠の地下牢というのはどうにも不安定に思えたが、考えれば、脱走を企てる者からすると恐ろしい環境ではある。力づくで逃げようとすると、術か何かで固められた牢全体があっさりと崩落してしまうのだから。

 

 しかも風影の我愛羅は砂を操る。

 

 捕らえた者だけではなく、言うなれば他里のイタチとサスケも、下手なことはここでは出来ないような環境だ。問題を起こすつもりは毛頭ないが、変な緊張感があった。

 延々と砂の階段を下りていく。階段の脇には時折、扉があったが脇目も振らずに一直線に下っていく。

 やがて着いた場所には、1人の老婆が待っていた。

 

「チヨバア様」

 

 テマリが老婆の名前を呟くと、老婆は静かにこちらを向いた。老婆は、堅牢な鉄の扉の前に椅子を設けて腰掛けていた。

 

 か弱い蝋燭の火に照らされたチヨバアは、静かにこちらを向いた。

 

「何じゃ? そやつらは」

「木ノ葉隠れの里の火影様と、その忍です」

 

 チヨバアは「ほぉ……」と溜息を零すような呟きをした。

 

「これは、随分と仰々しい事になっているようじゃの……。こちらに来たということは……。サソリに用か」

「チヨバア様!」

「すぐに、ヤツだと分かるじゃろう。隠し立てする事でもあるまい」

 

 サソリ。

 かつてフウコと共に木ノ葉へやとやってきた男。砂隠れの里の抜け忍だったが彼が、まさかの捕縛者だったというのは、意外だった。意図的にすら、思えてしまうほどに。

 

「初めまして。火影の、うちはイタチです」

「チヨじゃ」

「貴方が、捕縛者の監視を?」

「監視と言う程でも無いがの……わざわざ来たという事は、あやつと話を?」

「砂隠れの里と風の国に不利益になるような情報は聞き出しません。捕縛者の所属する組織について、幾つか」

「同席をしても?」

「構いません」

「なら、断る理由は無かろう。テマリ、下がってなさい」

 

 テマリは何かを言いたげだったが、チヨバアという人物を信頼しているのだろう。頷き、踵を返してその場から離れていった。

 完全に彼女の気配が消えた頃合いを見て、チヨバアは呟いた。

 

「さて、ではサソリと一緒に聞かせてもらおうかの。お主が……お主ら(、、、)が何を考えているのか」

 

 牢が、開かれる。

 

「……何だ、お前か」

 

 牢の中は暗闇だった。闇に呑み込まれているサソリの姿は見えず、声だけが通ってきた。

 拘束されている者にしては、随分と声に余裕を感じた。

 

「久しぶりだな。うちはイタチ」

 

 

 

 ☆ ☆ ☆

 

 

 

 雨の音は、今日は一段と強かった。

 

 誰にでも平等に濡らす雨。大切な人と繋がりを持ち、そして大切な人を失った天気でもある。怒りも、喜びも、けれど今は感じない。虚しさと、そして一摘みのぎこちなさが心にはあった。

 

「サソリの裏切りは、予想外だったか?」

 

 高い、縦に長い塔。その最上階から見下ろせる雨隠れの里の輪郭はすっかりぼやけている。それ程までに、今日の雨は強かった。耳に届く雨音は、鉄骨と石で作られた塔を低く振動させ、洞窟の小さな唸り声にも聞こえなくない。

 その音の中、くぐもりながらも、芯の通った力強さのある男の声が耳に届く。怒りも苛立ちも込められていない声でありながらも、こちらが優位に立っているのだと言わんばかりの明確さに、長門は小さく息を吐き捨て、半身になって振り返る。

 

「想定外ではなかったな」

「だが、サソリは裏切り、奴は自ら砂隠れの里に投降した」

「防ぐことが可能だったと?」

「……ふん、まあいい」

 

 男はソファに腰掛けていた。直方体の室内の主は長門であるが、そんな彼を差し置いて自分が中心だと言うように深く腰掛けている。姿勢は前傾で、膝の上に両肘を置き、両手を組んでいた。顔には影が落ちて深く覗けない。だが、元々暗雲のせいの暗さは元より、そもそも彼は仮面を被っている。もはや、彼の顔が見えるか見えないかという問題はとうの昔に過ぎている。

 

 仮面の男。彼は【暁】の衣を身に纏っている。

 

 しかし、彼を仲間だとは思っていなかった。

 

 互いに利用しているに過ぎない関係である。つまりは、互いに、腹の中を見せていない、という事だ。

 

 表向きは、尾獣回収という目的を掲げながらも、そこから先のことは全く別の事を考えている。少なくとも、長門はそう感じていた。かつての友の亡骸を動かし、その身体に埋め込まれた輪廻眼によって見定める長門の視線には見せかけだけの協力的な物言いが混ざっている。

 その視線を返すかのように鋭く、けれど重く仮面の男は返した。

 

「サソリの事は、ひとまずは保留だ。こちらはこちらで手を打たなければいけない。出来れば、五影会談が成立する前に、な」

 

 今から【暁】のメンバーを招集し、今後の動きを伝える予定だ。ゼツ達の情報によると、デイダラの両腕が使い物にならなくなり、角都に修復してもらう必要があるという事だ。デイダラの腕が治り次第、招集をかける予定だ。

 

「ところで」

 

 と、長門は尋ねた。

 

「アンタが直接、サソリを始末すればいいのでは?」

 

 仮面の男の力。

 それを使えば、捕らえられいるサソリを殺すことも容易いのではないか。

 

 そもそも。

 

 どうして、この男はフウコを組織に置くことを許したのか。

 フウコの内部にいる1人の少女……本物のうちはフウコに掛けられた幻術を解く事を敢えて嘘をついて見過ごしているが、それでも、組織に身を置くことを彼は許可した。

 

 明らかに裏切りを腹の底に抱えているというのに。

 

 長門にとっては、賭けの対象でしかなかった。

 だが、仮面の男はどうだ?

 うちはフウコという、内部に存在する魂の少女には利用価値があると仮面の男はかつて語った。だが、裏切りの可能性を見逃してまで、うちはフウコに価値はあるのだろうか?

 

「……どうしてサソリはこのタイミングで裏切りに出たのだと思う?」

 

 仮面の男は問いには応えず、けれど問い返してきた。そして、問うてきたにも関わらず、仮面の男は続けた。

 

「未だ【暁】は人柱力の半分も確保できていない。ましてや、七尾、八尾は人柱力として十分な実力を持ち、九尾は行方知れずだ。五影会談が開催される事は確実な状況で、今更、裏切るのにメリットはあるのか? 黙っていれば、一尾はこちらの手だが、それ以外は自由だ。自身に制限も掛からない」

「……砂隠れの里に情報を渡すためではないか?」

「サソリには、フウコというカードがある。厄介なカードだ。それを使えば、九尾も、火影であるうちはイタチにも有効だ。わざわざ、このタイミングで裏切る必要はない」

 

 それに、

 

「うちはイタチの動きが速すぎる。砂隠れの里にデイダラを向かわせて、その日の内に動いている。情報の伝達が異常だ」

 

【暁】は今まで、水面下で、秘密裏に、周到に慎重に、行動してきた。悟られず、悟られれば消し、尾獣を集めてきた。

 

 だが、今はまるで逆だ。

 

 そして不可解なのが。

 

 果たして今の状況は、誰の思惑の上にあるのだろう。

 サソリは自ら投降した。

 うちはイタチはそれに合わせたかのように行動した。

 雨は何も語らず、遠くを隠していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。