布都姫、安らかに眠れ (喜来ミント)
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布都姫、安らかに眠れ

 飛鳥時代の時代考証については割といい加減ですがご容赦ください。


 母の記憶。そう言われて、あなたはどんな顔をするだろう。

 あの紅白の巫女なら、口にしたことのない料理の味を想うような顔をするだろう。

 あの白黒の魔女なら、昔には好きだった駄菓子の味を想うような顔をするだろう。

 私は――どんな顔をするだろうか。

 

「屠自古お――」

 

 どんな……顔を……。

 

「屠自古―! おらんのかー!」

 

 顔を……。

 

「返事をせんかー! 帰ったぞー!」

「うるせえなあ! 黙って帰ってこいよ!」

「うるさいのはお前だ馬鹿者! 出迎えぐらい静かにせんか!」

 

 そう。このちんちくりん――物部布都こそ、自分の実の母……のはずだ。

 

「二人とも」

 

 いつの間にか現れた太子が二人をたしなめる。

 

「もう遅いのですからあまり騒がずにね。布都は里に出た怪異の調査でしたっけ? 一日中出かけていて疲れたでしょうし、早くお休みなさい。湯の用意はできています」

「むう……。分かりました。屠自古よ、今日はこのくらいにしておいてやろう」

「こっちの台詞だ馬鹿野郎」

 

 おざなりに言い放ち、屠自古は布都の後姿を見送る。

 

「やれやれ。喧嘩も程々にしなさいよ」

 

 太子もその一言を最後に、軽く笑って去ってしまう。

 

「喧嘩、ですか」

 

 ぽつりとつぶやく。屠自古は部屋に戻りながら一人考えた。

 娘と母親の喧嘩。それは当たり前のようのことでも、自分にはそんな記憶はない。

 母は遠い存在だった。物部でありながら蘇我に嫁ぎ、宗教戦争の裏で糸を引き、斎宮の仕事の傍ら太子とともに道教を極め、そして尸解仙となった。

 太子のおこぼれのような形で道教の世界に足を踏み入れた自分にとって、物部布都姫(モノノベノフトヒメ)という存在は酷く人間離れして思えたものだ。

 しかし今の布都は、自分に対して母親面することはない。むしろ対等の親友として、太子の臣下という仲間として扱おうという気持ちが見える。

 それが心地よく、しかし一歩踏み込めない。それでいいじゃないか、という気分がどうしてもぬぐえない。

 布都は変わった。生前の母は、あんなに気安くはなかった。もっと背も高かったし幼くはなかった。声に艶があり髪の色も黒々としていた。

 しかしその口調やふと見せる表情、面影は間違いなく母のものだ。

 

「なあ、布都」

 

 そして屠自古は筆をとる。

 

「お前は、本当にお前なのか」

 

 そっと、布都の部屋の扉に耳をつける。思った通り、風呂から上がった布都はさっさと眠りについたようだ。小さな寝息が聞こえてくる。

 

「お前は、私の母親なのか」

 

 そして静かに扉を開けると、蛤の碁石のペンダントを握り、すやすやと眠る布都の姿が見えた。屠自古は布都が目を覚まさないように注意しながら、明かりをほんのりと灯すと、枕元へとそっと腰をおろして紙を広げた。

 

「教えてくれ……」

 

  *

 

「ここは……」

 

 暗く湿った土と、鉄錆が入り混じったようなにおいが鼻をつく。かすむ視界が焦点を結んだ時、目の前にいたのは――。

 

「目が覚めましたかな、兄上」

布都姫(フトヒメ)……か?」

 

 女狐。血を分けた妹ながら、そう評するしかない美貌を持つ彼女はつややかに笑った。

 

「おや兄上。(ワレ)の顔をお忘れになるとは……耄碌なされましたかな?」

「その物言い。間違いなく布都姫だな」

 

 目をやれば、両腕は壁から伸びた鎖につながれている。

 どうやらどこかの地下室のようだ。布都姫の背後は闇に溶け、全容がうかがえない。布都姫の提げた灯りだけが頼りだ。

 

「死んだ気分はいかがかな、兄上」

「やはり……御前(オマエ)の姦計であったか。(オレ)を嵌めたのだな。迹見(イツミ)の若造も御前の傀儡か」

 

 記憶がよみがえる。蘇我と物部、仏教と神道の戦い。

 その筋書きは、あまりによくできていた。物部が何か行動を起こせばそれは世を乱すことに因果づけられ、蘇我が仏法を信奉するほどに世は良い方向へと向かっていった。そして追い詰められた物部は、迫りくる蘇我と朝廷の軍に対して反抗し――。

 とうとうあの時、自分は矢を受けて木から落ち……気付けば今ここにいる。

 

「嵌めた? それは違う。血よりも重んじることがあっただけのこと」

豊聡耳(トヨサトミミ)に取り入ること、か?」

「兄上。お言葉ですが」

 

 布都姫の爪先が鳩尾をえぐった。

 

「がっ……」

「兄上は死んだのです。四方を囲まれ、樹上から射落とされ、首を取られたのです。もう物部守屋(モノノベノモリヤ)などという者はこの世におりませぬ。その係累もろとも物部は滅び、(ワレ)が辛うじて残党をまとめ上げているに過ぎないのですよ」

 

 守屋の前髪をつかみあげ、笑う。

 

「死人をどうしようが我の勝手。精々我の役に立っていただきます」

「何を……するつもり、だ」

「何を? 兄上がおっしゃったことではありませぬか。豊聡耳皇子(トヨサトミミノミコ)に取り入るのです。彼の妻に我が子を推し、関係を深め、そして未来永劫あの方にお仕えするのです」

「無茶を言う。人など長くとも五十年も生きれば死ぬ。(オレ)も齢三十五にして――御前の言を信じるならば死んだのだろう?」

 

 またも蹴り。

 

「口応えが過ぎますな。いつかは死ぬゆえ、未来永劫など戯言だと? なれば簡単なこと。死ななければよいのです」

「噂は、本当であったか」

 

 布都姫は、豊聡耳皇子ともども大陸の外法に手を染めている、などと。

 大陸出身の風貌の客人がたびたび布都の屋敷を訪れていたというのが噂の発端だ。それが本当だとすれば……。

 

「人の口に戸は立てられないなどと言いますが、兄上にすらこうも知れ渡っているとは。いっそのこと我が屋敷の下女をすべて、術で傀儡にすべきやもしれませぬ」

 

 布都姫は眉間にしわを寄せた。

 

「まあ、知っているなら話は早うございます。噂で言うところの外法、仙法には様々な丹を用います。それが我らにとって有用なものか、無用なものか……確かめるにしても、中には危険が多いものもありましょう」

 

 ぞっとした。まさかこいつは。

 

「誰かに試さねば、怖くて自らには使えませぬ。そしてその試金石には、血の近いものこそがもっともふさわしい。そうは思いませぬか?」

「御前、は」

「血を分けた兄妹ならば、きっと我の体に用いたときと同じ結果が得られましょう。さあ、兄上」

 

 布都姫は嫣然と微笑んだ。

 

「我のために、生きてくだされ」

 

  *

 

「はあっ! かは!」

 

 胃の腑がひっくり返りそうな感覚。いや、実際にひっくり返っているに違いない。単に吐くものがないだけで、口の中に胃液がこみ上げてくるのが分かる。

 

「ああ……これはなかなかの拒否反応」

「ふ、と、ひめ」

「おや、喋れますか。なればもう少し危険度を低めに見積もってもよろしいかな」

 

 布都姫のやり口は単純だった。

 丹や術を作る。守屋で試す。良かったものは自分の身にも施す。

 その結果がこれだ。もともと年よりも若く見えていた布都姫の肌は、髪は、日に日に輝きを取り戻していった。一方体に毒をため込んだのか、守屋は目に見えて衰弱していた。

 頬は落ちくぼみ、髭は抜け、髪は色が白け、唇が渇く。一応生きながらえるだけの食事は無理矢理与えられているものの、本音を言うなら飢えて死んでしまいたかった。殺せと言ったのも百や千ではきかない。

 もはや日付の感覚もわからない。とりあえず、布都姫が「おはようございます、兄上」という時を一日の始まりとして数えた。布都姫はほとんど毎日守屋を使って実験を繰り返しているからだ。斎宮(さいぐう)の職で人前に出ないのをいいことに、自分の時間のほとんどを仙術の研究に裂いているようだ。

 もはや苦しみからの逃避に近いが、意地でも守屋は日付を数えていた。しかしそれでもなお数えきれないほどの年月がたっていた。

 おそらく今日まで、自分が死んだことになってから二十年以上が過ぎたはずだ。

 

「おはようございます、兄上」

 

 一日の始まりだ。今日は何か。丹か。液か。薬草か。

 

「もう飽きた。殺せ」

「その台詞こそ聞き飽きましたぞ、兄上。今日とて生きていただきます」

 

 と、布都は嬉しそうに手を打った。

 

「そうそう、良いお知らせです」

「……何だ」

「豊聡耳皇子がもうじき死にます。あと五年か十年もしないうちにです」

 

 笑顔のまま告げられ、ぞっとした。

 

「な、に」

「死にます。我と分担して独自の研究を、自身を試金石として進めていたためでしょう。もはやその身を蝕む病は取り返しがつかなくなったのです」

「は、は、は。笑い物だな。不老不死の研究で寿命を縮めるなど」

「全くですな、兄上。さて、話には続きがあります」

 

 くるん、と円を描くように布都は指を回した。その仕草の意味は分からない。

 

「青娥娘々……と言っても分かりませぬか。我らの道教の師。つまりは大陸からやってきて我らを邪道に引き込んだ女……彼女が再び我らの前に姿を現したのです。以前に仙術の基礎を教えたきり、我らの前から姿を消していましたが……あの女にも何か都合があったのでしょうな」

「それが、朗報だと」

「ええ。そうです。自分が不在の間に進められた研究のせいで豊聡耳皇子の体がもう持たないことを悟った青娥は、こう提案したのです。尸解仙になってはどうか、と」

「尸解仙……」

「本来我らは生きたままその命を長らえ自然と同化することを目的としておりましたが……この際、死ぬくらいならば尸解仙になるのも悪くありますまい」

 

 と、そこまで言って布都姫は急に口を閉ざした。

 

「く、くく……あはははははははは!」

 

 そして哄笑する。

 

「ああなんと馬鹿らしい! 全くですな! 笑いものに他ならぬ! やはり、豊聡耳は本当に愚か者だ!」

 

 ふ、と布都姫は息を整えた。

 

「我の体は未だ以て清らかにして健やか。尸解仙になる必要などないのです」

「それは、己を使っているからだろう。己という試金石を手に入れた幸運があればこそ……」

「幸運?」

 

 ぴしゃりと布都姫は言う。

 

「ふふふ……言ったはずです。兄上の身はもはや我のものだと。そのために、我はずっとずっと手を回していたのですから。幸運ではなく成果ですよ」

「何だと?」

「そう。ずっと。仏教が伝わってからずっと。蘇我と物部の対立が始まってからずっと。青娥が初めに我らの前に現れてからずっと!」

「馬鹿な……」

 

 それでは、まさか。

 

「まさか、あれだけの人々が、物部の全てが、犠牲になった――今までが、御前の、御前の!」

 

 あまりの動揺に、言葉が続かない。

 

「御前の、今の、このためか! このためだというのか!」

「ええ。そうです」

 

 にっこりと。女狐が笑う。

 

「我が実験に最適な試金石を手に入れ、誰の邪魔も入らない地位を得る。そして豊聡耳に取り入り、人知を超えた仙道の力を得る。……そのために、我はあの穢らわしい蘇我の男に肌を許し、穢れた血を分けた子を産んだのです」

 

 うっとりと腹を撫でながら布都姫は言う。

 

「嗚呼、全ては今この時のために。そしてこれからのために!」

 

 両手を地下室の天井の向こうにある空にさし上げ、布都姫は笑う。

 

「我はこれから豊聡耳皇子も、馬子(ウマコ)も、刀自古(トジコ)も全て裏切り勝利を掴む! そしていつか、誰の手も届かぬところへ……!」

「気狂いめが……!」

「誰もがそう言うのです! 誰もが理解の及ばぬ理想を気違いだと貶める……! 理解など不要! むしろ理解される理想など、叶える価値があろうものか!」

 

 布都姫の目はうっとりと潤み、今にも零れ落ちそうだった。

 

「そしてこれだけではないのです。豊聡耳は、ともに尸解仙になろうと我に言ったばかりか……我に実験台になれと。死を恐れ、尸解の秘術の効き目を確かめてから己に施したいと」

 

 布都姫は装束が汚れるのもいとわずに、土がむき出しの床に膝をついた。

 

「嗚呼、あの時の顔。何も知らない豊聡耳。自慢の耳すら衰えた老木菟(ミミヅク)。きっと我がこの身を差し出せば、きっと満足して仮の死の床に就くでしょう……」

 

 顔を覆い、喜びに身を震わせる布都姫に、守屋は無粋な言葉を差し込んだ。

 

「それは、結局御前も尸解仙になるということか?」

「まさか! 御免被りますぞ。我は青娥殿に話を通し、あくまで死んだふりをする。そして豊聡耳と、刀自古――そう、あの娘も豊聡耳に囲われてともに尸解を行うのです――あの二人が我の死に様を見届け、仮の死の眠りについたなら、それを本当のものにして差し上げるのです」

「穴があるな。その青娥とやらが裏切ったらどうする」

「あり得ませぬ。兄上も万が一会えたなら、きっと分かることでしょう。あの女は、常に自らの味方。自身の(ヨク)(エツ)を決して裏切ることはない」

「よりにもよって、そんな女か」

「ええ。金も命も、地位も名声もあの女には褒美たりえない。只、愉しみこそが動因にして甘露。そしてあの女は、豊聡耳よりも我の方が面白いと言った。それが何よりの保証です」

 

 そして布都姫は丹を取り出した。

 

「さあ、話はこれくらいにいたしましょう。我が研究もとうとう大詰め。兄上のお望みの死も、もう目の前でございます」

「……ああ」

 

 この日。布都姫に囚われてから初めて、自分の胸に絶望以外の感情が灯ったことを守屋ははっきりと自覚した。

 

  *

 

 その日から、布都姫はもはや後先を考えず守屋に投薬を行った。食事を与えることを忘れることもしばしば。もう用済みということか。もう死んでもいい。そうだろう。豊聡耳と刀自古を葬れば、あとは青娥とやらから直接教えを乞えるのだ。

 それでも守屋は生きていた。他ならぬ自分の意志で命をつないでいた。途切れそうな意識を奮い起こし、取り返しのつかない眠りに落ちないように、ずっと、ずっと己に呼びかけていた。

 時は近い、と。

 そう思い始めて十年以上が経とうとしていた。

 

「おはようございます、兄上」

 

 そしてとうとう、その一日が始まった。

 

「よいお知らせです。とうとうこの時が来ました。今日、我は死にます」

「……そうか」

「そして、兄上も……今度こそ本当の死を差し上げましょうぞ」

 

 布都姫は振り返った。背中越しにかけられた別れの言葉は、あざとい妹にしてはやけにあっさりとしたものだった。

 

「さようなら、兄上。貴方は本当に我の役に立ってくださった」

 

  *

 

そして布都姫が歩み去ってから、どれだけの時間がたっただろう。

 するり、するりと音が聞こえる。最初は小さく、だんだんと大きく。近づいてきているのか。強いて言うならば、見事な切れ味の包丁で肉を苦もなく裂く音。そんな音がとうとう、耳のすぐ横で響いた。

 

「おや。おやおやまあ」

 

 そして、本当に久方ぶりに、布都姫以外の声を聴いた。

 

「本当にいるなんて……。生きてらっしゃいます?」

 

 ぺちぺちとこけた頬を叩かれる。顔を上げて目の焦点を合わせれば、見慣れぬ女がそこにいた。

 

「霍、せい、が」

「あら、私のことを知っていらっしゃるの? 布都姫さまから聞いたのね」

 

 この女もまた、布都姫とは趣が違うが女狐だ。人を食い物にし、それを喜ぶ輩だ。本当に一目でそれが分かる。

 

「お初にお目にかかりますわ、物部守屋様。霍青娥と申します」

 

 青娥はこちらの返事も待たず、嬉しそうに言葉を続ける。

 

「私も貴方のお噂はかねがね聞いておりますわ。なんでも弓の名手でいらっしゃるとか。軍勢が衝突するよりはるか前に、貴方を笑った相手の大将の眉間を射抜いた、なんて冗談も……」

 

 ふふふ、と飲みを頬に添えて笑う。

 

「一体、どうすればそんなことができるのでしょうね。本当に興味深いですわ」

「なに、をし、に、き、た」

 

 ようやく絞り出したのがその一言だ。会話の脈を無視してでも、聞いておきたいことだった。

 どうして今、ここに御前(オマエ)のようなものが現れた。

 愉悦に飢えた女狐が欲するものがあるというのか。

 あるというならば。

 

「おやおや。ずいぶん衰弱してらっしゃる。無理もありませんわね。布都姫様が死んでから一週間。水も食べ物もなしでしょうから……。そもそも御歳も七十近いでしょう。よく持っているものですわ」

 

 青娥は仙丹を懐から取り出した。

 

「さ、どうぞ。一粒で元気百倍ですわ」

 

 胡散臭すぎて口にする気も起きない。そもそも、衰弱しすぎて何かを自力で口にするのが難しい状況だ。守屋がじっとその丹を見つめていると、青娥はそれを察したのか手を打った。

 

「おや。甘えんぼさんですねえ」

 

 そして何を察し間違えたのか、その丹を口に含んで噛み砕き、守矢に口づけた。

 

「……!?」

「ぷは。さあ、たんとおあがりなさいな」

 

 喉の奥へと押し込まれた丹が、胃の腑に熱を落とし込む。

 

「ぐ、あ、が」

 

 まるで腹の中に太陽が生まれたようだ。底知れない活気と、それを上回る苦痛が全身という器に満ちて溢れようともがいている。

 

「ぐぐぐぐ」

 

 そしてそれは唯一の逃げ道へと駆け上り――。

 

「ぐおあああああああああああああああ! があああああああああ! おおおおおおおおおおおおおお!」

「ほうら、元気百倍」

「貴様アアアアアアアアアアアアア!」

「ふふ。喜んでくれて何よりですわ」

 

 青娥は手に頬を当ててほほ笑んだ。

 

「さて、先ほど述べました通り、布都姫様が死んでから今日で一週間。豊聡耳様も尸解の秘術のあらたかさを知ってくださいました。布都姫様の計画も大詰めですわ。豊聡耳様と刀自古様を葬れば、あとは陰謀の証拠が詰まったこの屋敷を消し去るのみ」

 

 青娥は簪代わりの鑿を引き抜くと、壁を丸くくりぬいた。あの日、布都姫はこれの真似事をしていたのだ。

 

「もうすぐ布都姫様の手のものがこの屋敷に火をつけに参ります。この屋敷の構造は大変特殊でして、ある点に火をつけると、焼けた煙と瓦礫がこの地下室になだれ込むようになっていますの。勿論それは、貴方を確実に葬るための仕掛けですわ」

「はははは! 布都姫もずいぶんと甘いものだ!」

 

 空元気が体中を駆け巡り、叫ばないとまともに声も出せない。

 

「直接(オレ)を害さんとは、牙が折れたか女狐め!」

「いまだに縛られてるのに威勢のいいことですわ。それでは、またお会いできたら」

 

 青娥はそういうと、壁に開いた穴にさっさと身を投じてしまう。時を同じくして、何かが燻るような臭いが守矢の鼻に伝わった。

 

「何するものぞ! 布都姫エエエエエエエ!」

 

  *

 

「間違いなく、死んでいます」

 

 豊聡耳皇子は、傍に立つ刀自古郎女(トジコノイラツメ)――自分の妻に告げた。

 

「まるで眠っているみたいなのに……」

「ですが脈もない。光を当てても瞳孔が広がり切ったまま。……なのに、いつまでも腐らない」

 

 棺の中に横たわる布都姫は、まるで眠っているかのようだった。自分の手で確かめて尚、死んでいるとは皇子は思えなかった。

 

「これで分かっていただけましたか、豊聡耳様」

「太子様……」

「大丈夫ですよ、刀自古」

 

 皇子は一度目を伏せてから青娥に向き直った。目も耳も曇っている自覚はある。しかし今、これを信じずにいれば野垂れ死にをするだけだ

 

「よろしくお願いします。尸解の秘術を、我らに」

「謹んで」

 

 青娥は慇懃に深々と礼をすると、指を振って説明を始めた。

 

「改めて説明いたしましょう」

 

 青娥は今いる場所――廟に横たわる三つの棺を示した。うちの一つでは布都が眠りについている。

 

「この棺は表向きのもの。豊聡耳様たちの本当の棺はこの真下、私たちのみが鍵を持つ、ここと全く同じ間取りをした廟にありますわ」

 

 青娥は鑿で床を示した。

 

「対応する棺にはすでに、死した後魂が宿る憑代(ヨリシロ)が入ってございます。生前から行っていた儀式と投薬により、貴方がたと棺の間には『道』が通ってございます。故に、もし今この場で不慮の事故があろうとも、直ちに魂は憑代に宿ることでしょう」

「なんてことを!」

「よしなさい刀自古。そう声を荒げずとも、重々承知のことです」

 

 刀自古をたしなめつつも、皇子自身も青娥の物言いには眉を顰めていた。

 

「それと、どうにも疑問なのですが……棺ではなく憑代そのものへと『道』を通すことはできないのですか。もし棺の中に不純物でも混ざっていようものなら……」

「それは散々確かめたじゃありませんか。それに、真の廟への鍵は私たちの体に直接刻まれているのです。誰にも手出しはできませんよ」

 

 青娥はからからと笑う。

 

「まあそういう事情を差し引いても、『道』を直接憑代に通すのはお勧めできませんわ。憑代はこれから先、豊聡耳様の体となるのです。それに術を直接刻むことこそ、不純物に他なりませんわ」

「む……」

 

 皇子はその説明に渋々納得し、更にいくつかの質問を重ねた。そしてそのすべてについて一応の納得を得たのち、青娥と刀自古と連れ立って廟を去っていった。

 そしてその扉が閉まってからどれほど経っただろう。棺の中で布都姫の目が開いた。

 

「嗚呼、遂にこの日が来たのか」

 

 そして起き上がり、全身の凝りをほぐしていく。

 

「外は真夜中か……。いい時に起きるよう青娥が取り計らってくれたようだ」

 

 布都姫は念のため周囲の気配を探ると、廟の外に隠しておいた壺と剣を持ち込んだ。

 

「両日中にでも豊聡耳と刀自古は死の眠りにつく……その時、魂を宿す憑代が替えられていれば……」

 

 そして、地下の真の廟への扉を開いた。他ならぬ、自分の体に正当に与えられた鍵を使い、堂々と。

 

「そしてその憑代が、青銅の剣と焼かれていない壺であったなら……!」

 

 高らかに笑う。

 

「朽ちた憑代から零れた魂は行き場を失い、死の眠りは本当のものとなる!」

 

 真の廟に据えられた、皇子と刀自古に対応する棺を暴き、その憑代をすり替える。ただそれだけだ。

 布都は首尾よく元々の憑代を目立たない場所に仙術で掘った穴に放り込んだ。剣は何ともなかったようだが、壺の方は割れる音が小さく響いた。

 そしてそれにやはり仙術で土を被せると、何事もなかったかのように元々眠っていた棺に横たわり、用意しておいた丹を含んだ。

 そして、その静かな犯行だけで、布都は勝利への最後の鍵を手に入れた。

 ……はずだった。

 

  *

 

「布都姫様。布都姫様」

 

 その声に目を開けると、辺りはすっかり明るくなっていた――いや、あれからすぐ翌日ということはあるまい。豊聡耳と刀自古の葬儀が終わり、ほとぼりが冷めてから起こすように青娥に言い含めておいたのだ。そうしなければ、布都姫が目を覚ますところが誰かの目に触れてしまう。

 体を起こすと、傍らで青娥がほほ笑んでいた。

 

「おお、青娥殿……! 我を起こしたということは、全て首尾よく運んだか?」

「ええ。その眼でご覧になってください」

 

 布都は自分の棺から起き上がると、自分の棺に並ぶように置かれた、蓋がされた二つの棺を見た。目に霊力を込め、中を見通す。

 

「……間違いなく、体は死んでいる。豊郷耳も、刀自古も」

「ええ。そして……」

 

 床を見る。その下、真の廟にある二人の憑代が入った棺を見る。

 

「間違いなく、すり替えた憑代に魂が宿っている……!」

「ふふふ……。さあ、感想をお聞かせ願えますか、布都姫様」

「最高だ……。嗚呼、遂にこの時が来たのだ。長かった。我が人生を捧げた計画が、遂に、遂に……!」

「捧げたのは御前の人生だけではあるまい」

 

 無粋な声が、喜びを断ち切った。

 あり得ない。その声がするはずがない。しかし弾かれるように振り返った布都姫の目に、声の主ははっきりと映っていた。

 

物部(モノノベ)も、蘇我(ソガ)も、豊聡耳(トヨサトミミ)も、刀自古(トジコ)も、(オレ)も……」

 

 襤褸切れのような服の上から借り物の上着を羽織り、弓を背負っている。落ちくぼんだ目に爛々と光を宿し、布都姫を見つめている。

 

御前(オマエ)のために、死んだのだ」

「兄、上……?」

 

 物部守屋(死人)がそこにいた。

 

  *

 

 時は少々遡る。

 

「……遅かったか」

 

 焼け落ちた布都の屋敷の前に、馬で乗りつけた二人がいた。

 その一人、一際豪奢な装束を身に着けているのは髭を生やした初老の男だ。

 そしてその息子、蘇我蝦夷(エミシ)は焼跡を見渡すと父に向かって声をかけた。

 

「父上。念のため、何か見つかるかどうか……」

「よせ、蝦夷。この様子では、覚書きの一つも残っていまい」

 

 素っ気ない父の返事に、蝦夷は拍子抜け気味に言葉を返した。

 

「しかし物騒な話ですな。母上がお隠れになって早々、その屋敷に火が放たれるとは……。石上(イソノカミ)に取り次いでいる間にこんなことになってしまうなら、父上だけでも石上の了承を待たずに屋敷にお入りになっていれば――」

「よい、と言ったのだ。我が妻ながら、人の恨みをよく買う女であった。その始末がこれならば、因果応報というものだ。形見の一つも持ち出せなかったのは心残りではあるが……」

「……父上がそう仰るならば、この蝦夷、最早何も言いませぬ」

「済まないな蝦夷よ。布都姫は我が妻である以前に御前の母。御前に形見の一つでも持たせてやりたかったのは俺も同じよ」

「父上……」

「さて、戻ろうか。豊聡耳様と刀自古の具合も悪いと聞く……。家族を立て続けに失うことは想像したくもないが、せめて今際には……」

「父上。せめて、馬を少し休ませてからではいけませんか。生者より死者を貴ぶことを許してくだされば、ですが……」

「……そうだな。少しの間、布都姫を偲ぶとしよう。ここで妻が暮らしていた時のことを……」

 

 馬子の言葉を遮るように、がらり、と何かが動く音がする。とっさに蝦夷が構え、馬子が制する。音の出所を慎重に探り、二人はとうとうそれに目を止めた。

 

「腕?」

「誰か、埋もれているのか」

「まさか。これほどの屋敷が跡形もなく焼け落ちる火に巻かれて、生きているなど……」

「生きていなくとも、葬ってやらん理由にはなるまい。手伝ってくれるか」

「是非もありません、父上」

 

 馬子と蝦夷は、瓦礫が積もって不安定な足場に悪戦苦闘しながらも腕のもとへとたどり着いた。

 そして理解する。この腕の主は生きている。指がぴくり、ぴくりと動いているのだ。

 

「父上!」

「ああ、手伝え! 一刻も早く……」

 

 二人は急いで瓦礫をかき分け、とうとうその腕の主を引っ張り出すことに成功した。

 

「……な、そんな、馬鹿な」

「父上?」

「御前は……死んだはずだ」

 

 そして、馬子は愕然とする。実に三十五年前、死んだはずの男だ。生まれたばかりだった蝦夷は知る筈もない男。いや、その時より若返っている気すらする。

 

「守屋……」

「守屋? まさか父上、物部守屋のことですか」

「……やれやれ、誰かと思えば馬子か」

 

 守屋はうっすらと目を開けると、乾いた唇を動かして口を動かした。

 

「空元気で戒めを解いたはいいが、崩れつつある屋敷から抜け出るには今一歩足りなかったようだ。手を貸してくれて感謝するぞ」

「守屋。その声、間違いなく守屋か。だがなぜ今ここに、しかもそんな風体で、髪も真っ白に……」

「御前の髪も白いではないか、馬子よ。老いたな。一目ではわからなかったぞ」

 

 馬子の手を掴み、守屋は言う。

 

「言いたいことは山ほどあるであろう。だがそれより先に己の頼みを聞いてはくれんか。まずは飯と水、そして馬と弓が欲しい。やらねばならんことがある」

「守屋……」

「如何なさるおつもりか、父上。もしこの男が本当に守屋ならば、父上のかつての宿敵のはず。手を貸すなど……」

「うむ……」

 

 馬子は目を閉じ、頭を振った。

 

「蝦夷よ。俺はどうかしているようだ。こやつに手を貸してやりたくなっている」

「父上!」

「それに今決めたではないか。生者より死者を貴ぶとな」

「父上……。分かりました。早速、食事の用意を」

 

 蝦夷が馬に駆け戻る。馬子はもう一度守屋に向き直った。

 

「何をするつもりだ、守屋よ」

「子細を語るには時間が足りぬ。我が妹の不始末を片付けに行くとだけ言っておく」

「布都姫のか。いったい何を企んで……いや、今は聞くまい。それを語る英気は別のことに使うがいい」

「感謝する」

 

 そして守屋は行動を始めた。食事を、水を腹に詰め込むと、身も清めないまま蝦夷から受け取った装束を羽織り、用意してもらった弓と矢を携え、借りた馬を休ませず丸一日走らせた。

 そして馬を乗り捨てる勢いで、廟の前へと乗り付けたのだ。

 

「……その様子では、遅かったようだな」

「兄上? 本当に兄上なのですか?」

 

 布都姫は振り返り、きっ、と青娥を睨んだ。

 

「青娥殿……! よもや何か手出しをしたわけではあるまいな!」

「いいえ? 私は何も手出しなど」

 

 口出しはされたがな、と守屋は馬鹿なことを考えた。

 

「ここで――二人の眠る場所で言い争いなどしたくない。表に出ろ」

 

 守屋が背を向けると、拍子抜けしたような気配が伝わる。そのまま布都姫は廟の表へと大人しくついてきた。

 適当な広さがある場所で守屋は向き直り、口を開く。

 

「布都姫よ。今、己がここに来た理由が分かるか」

「それは勿論。まあ、大方我への復讐と言ったところでしょう」

 

 布都姫は平静を取り戻すと、守屋へと答えた。さすがの切り替えの早さというべきか。

 

「物部の一族と、あるいは蘇我とそれに連なる者たちと、豊聡耳と刀自古……。そう、我はそれら全ての命を踏みにじってここにいる。恨まれるのは道理でありましょう」

 

 そして笑う。

 

「しかし、兄上に何ができましょう? この身に宿す神の血の素養、幼き頃から身に着けた物部の秘術、何十年にもわたって積んだ仙術の功夫(クンフー)! その全てを持つ我を打ち倒そうというのですか? ただの一武人にすぎぬ兄上が?」

「そうだ」

「馬鹿なことを……。今一歩遅かったと言わせていただきましょうぞ、兄上。もし豊聡耳と刀自古を葬る前にこうなっていれば、多少我を困らせることはできたことでしょう……。しかし今、我はこの場で成すことなどもうないのです。我も表向きは死に、もういつでも青娥殿とこの地を発てる。我が計略は完遂した。止めるも何もないのです」

 

 守屋はため息をつくと、馬子から借りた弓に矢を番えた。

 

「ならばせめて、この一矢をくれてやる」

 

 守屋は弓を引き絞り、矢を布都姫に向けた。

 

「どうした。構えないのか?」

「ふ、ふふふ、あはは! あなたも豊聡耳に劣らぬ愚か者だ! 我は指一つで、念ずるだけで兄上を灰にできるというのに!」

 

 布都姫は守屋を指差した。

 

「いいでしょう! どうやってあの屋敷から抜け出したかは知りませぬが……それが望みだというのなら――もう一度、今度こそ、骨の一片も残さず焼き尽くして差し上げましょうぞ!」

 

 そして布都姫の背後に炎の龍が現れる。彼女の言葉通りに守屋の身を食らいつくそうとする。それに対し、守屋はただ、矢を放った。

 竜が砕け散った。

 

「へ?」

 

 矢は勢いを失わぬまま、茫然とした布都姫の肩口へと突き刺さる。一秒、二秒経って、ようやく布都姫は事態を理解して悲鳴を上げた。

 

「い、ああああ? 何故、何故――!?」

 

 布都姫は先ほどの落ち着きはどこへやら、肩に手をやり、みっともなく尻餅をついている。守屋は弓をおろし、口を開こうとした。しかし。

 

「あら、分かりませんの?」

 

 声は柔らかく。しかし肉をえぐるような語調の青娥の言葉を聞き、守屋は彼女に任せることにした。

 

「今起こったことは単純ですわ、布都姫様。貴方様の放った仙術の竜は、守屋様の矢に込められた仙術に相殺され、矢だけが布都姫様に届いたのですわ」

「そんなことは言われずとも――」

「そして」

 

 と、布都姫が言い終わるのを待たずに青娥が続ける。

 

「どうしてそんなことができたのでしょう? これもまた単純ですわ――守屋様は、貴女様がとっさにどんな仙術を放つかを瞬時に見極め、それを相殺できるだけの術を瞬時に矢に込めてあなたに飛ばしたのですわ」

「そ、そんなことが――」

「出来るはずがない? でも今実際に起きたことですわ」

「しかし、それではまるで――」

「ええ。まるで、赤子の手をひねるかのような出来事でございました」

「まさか! だ、だったら――」

 

「いい加減現実を見なさいな」

 

「え……」

「守屋様は貴女など足元に及ばない仙術の使い手。それが現実。その腕を持って屋敷を抜け出し、今も貴女を打ち破った」

「し、しかしどうすればそんなことが出来る! 兄上は三十年以上も我の実験台になっていたのだ! 功夫(クンフー)を積む時間など――」

「あったのよ。貴女は四六時中守屋様の傍にいたわけではないのでしょう?」

「だ、だとしても! 我がいない間に術や気功を極めていたとしても、そんな知識をどこで――」

「あったじゃない。すぐそばに、頭の上に。貴方のお屋敷に大量の資料が」

「だからそれをどうやって知りえたというのだあっ!」

 

 はあ、はあ、と布都姫は荒い息を吐く。

 

「こんなお話がありますわ」

 

 青娥は再び、優しく諭すような口調に戻る。しかしそれは、心をえぐる刃物を一度引き戻したに過ぎない。

 

「守屋様と戦争を行おうとした敵軍の将が、軍勢が衝突するよりも前に守屋様の悪口を言ったところ――どこかから飛んできた矢に眉間を射抜かれたとか。どうすればそんなことが出来るのでしょうね」

「どう、やって……」

「どうやって。ここで私が疑問に思ったのは、弓の腕もそうですが――どうやってその将が自分を笑ったことを知りえたか、ですわ」

 

 布都姫の顔がじわじわと青ざめていく。

 

「それは――」

「遠目と遠耳。それくらい、物部の秘術にもありますわよね」

「あ、あ、あ――」

「そう。守屋様はそれを使って貴女の留守中に仙術の資料を覗き見ては、地下で縛られたまま功夫を積み続けた。いったいどれだけの間? 五年? 十年? もっと?」

「だ、だが、我は、三十年以上も――」

「あら。貴女様が一日中、仙術の修行以外何もしていなかった、だなんて知りませんでしたわ」

「は――?」

「はっきり言って差し上げましょう」

 

 青娥は嫣然と微笑んだ。

 

「貴女が豊聡耳様に取り入ったり、陰謀を張り巡らせたり、そんなくだらないことをしている間に――守屋様は寝る間も惜しんでずっと功夫を積み続けていたのよ」

「嘘だ」

「それに素養でも叶わないでしょうね。他ならぬ貴女が、守屋様の体に施した丹は数知れず。上澄みだけを掬って喜んでいた貴女とは比べ物にならないほど体が作られていますわ」

「嘘だ――」

「何よりその気概ですわ。あの眼の色をご覧なさい。貴女のその腑抜けた信念では足元にも及ばない。そんな気力でずっと己を高め続けていたのですわ」

「嘘だ……」

「初めて見たときは豊聡耳様より面白いと思ったのに。布都姫様。今じゃこんなに、ああ」

 

 青娥はため息をついていう。

 

「本当に――つまらない女ですわ」

 

「嘘だ、嘘だぁ……」

 

 泣き崩れ、全ての自信を失った布都姫。それを見て、守屋はそっと呪文を唱えた。

 途端に布都姫の方に刺さったままの矢が爆ぜ、布都姫の肩から胸までを木っ端微塵に吹き飛ばした。血肉がまき散らされ、当然布都姫のすぐそばにいた青娥にも、しとどに降りかかる。

 

「あら、いやですわ」

「すまんな」

 

 守屋は血に塗れることを厭わずに、転がった布都姫の首を拾い上げた。その眼は絶望に満ちたまま見開かれている。間違いなく即死だ。

 

「妹は、自分が死んだことすら理解できずに、失意のうちに死ぬ必要があった。御前に合図をするわけにはいかなかったのだ」

「あら、それはどうしてまた」

「怒りを持ったまま死ねば怨霊にもなろう。それだけは嫌だったのだ」

 

 その首をそっと抱き、頭をなでてやる。

 

「己の方こそ、この妹に対し抱く恨みは数知れんよ。だがな、死してなお兄を恨み続けるという業を、妹には背負ってほしくなかったのだ」

 

 その死に顔をじっと脳裏に刻みつける。決して忘れないように。

 

「それではまさか、布都姫様を超える功夫を持ちながら、この瞬間まで牙をむかなかったのは――」

「左様だ。長年の計略が実り、絶頂にある瞬間。その時にこそ、こいつを殺す必要があったのだ」

「は」

 

 青娥が笑う。

 

「は。はは。ははは」

「笑いたくば、笑え」

「ああ、まさか、貴方――」

「このために、己は豊聡耳と刀自古を見捨てたのだ」

「ははははははは! ああ、よかった! 本当に貴方に手を出してよかった! まさか、こんなに面白い御人だったなんて――!」

「なんとでも言え」

 

 ずっと、このために。布都姫のために。あの日、布都姫が外道に落ちたと知ったあの日から――ずっと、このために。

 そして成った。布都姫は死んだ。豊聡耳と刀自古は死んだ。

 己が殺した。

 

「これがせめてもの、兄から最期にしてやれることだ。許せ、布都姫。……安らかに眠れ」

 

 己が布都姫を殺した。

 

「愛している」

 

そっと彼女のまぶたを閉じてやる。

 

「ああ――、いい気分ですわ。それで、守屋様。これからどうするんですの?」

「あの二人は、どうなっている」

「豊聡耳様達のことですか? もう完璧に手遅れですわね。今更憑代を取り替えることは不可能です。あのままでは壺は朽ち、剣は錆び、魂は行き場を失い――それこそ怨霊にでもなることでしょう」

「そうか……」

 

 守屋は立ち上がると、青娥に頭を下げた。

 

「では一つ、頼みがある。下らぬ頼みだが聞いてほしい」

「まあ、頼みだなんて。何でもおっしゃってくださいな、守屋様。それで、どんな?」

 

  *

 

「それで――御前が代わりに尸解仙になると、守屋よ」

「話を聞いておったのか、馬鹿馬子め」

 

 ぱちん、と石を打つ。

 

「尸解仙となり、布都姫になり替わる――だ。青娥に頼み、蘇った暁には布都姫に瓜二つの姿となるように細工を施してもらうつもりだ。それでも年恰好やら、完全に同じにすることはできんし……何より、失った髪の色もどうにもならんらしいがな。まあ、目覚めるのは何十年も先だ。面影があれば本人だと言い張れるであろう」

「そうして何になる。御前が仙人になったところで、ほかの二人は蘇らんだろうに」

 

 ぱちん、と馬子も石を打つ。

 

「まあな。――結局あの二人の憑代は掘り起こしたのだが、壺の方は駄目だった。剣は豊聡耳の棺に供えてきたが、最早意味などあるまいな。良くて怨霊として化けて出た時に振り回すくらいであろう」

「豊聡耳様と刀自古が怨霊となれば、その怒りの矛先は布都姫――いやさ、なり替わった御前に向けられるのだぞ」

 

ぱちん。

 

「それでよい。それで二人の気が晴れたなら、己の身は役目を終えたも同然よ。そもそも、あの二人は己が殺したようなものだ」

「酔狂な……。何年かかるかもわからぬ、妹の尻拭いか。三十余年も閉じ込められていた恨みはどうした?」

「その恨みを持ったまま死なん為でもある。あやつを殺したところで、己の時間は戻らん。物部の一族の失われた命も戻らん。それが分かっているだけに、今なお腹の底で怨念が渦巻いているのを感じる」

 

 ぱちん。

 

「だがな。死してなお、叶わぬ妹への恨みで化けて出るなど真っ平御免だ。そんな風になるなら仙人にでもなってやるし、豊聡耳と刀自古の恨みくらい買ってやろうぞ」

「重ねて、酔狂な奴よ」

 

 ぱちん。

 

「それと、すまんな。飯も服も、馬も結局乗り潰してしまったし……。適当に己の財産から対価は持っていくがよい」

「いや、構わんとも。御前とこうして碁を打てるなら安いものだ。弓と同じくらい碁の名手として名高かった御前とは、一度こうしてみたかった」

 

 ぱちん

 

「……ふふ。己が生きておったころは、御前がそんなことを思っていようとは、想像もしなかったぞ」

 

 ぽとり。

 守屋の手からこぼれた碁石が床に弾む。

 

「……もう、逝くのか」

「ああ……。もう尸解の準備は済んでおる。己が死ねば、その魂は布都姫の代わりに皿に宿る……。正直、もう目も霞んで見えんでな……。歳はもとより、やはり長年の幽閉と実験が堪えたようだ。妹を亡き者にするまでよくぞ持ってくれたというべきか」

 

 石を探るが拾えはしない。だが、あと一手だけでも。

 

「己と一度碁を打ちたかった、か。御前がそんな風に言ってくれたというのに、終わりまで打てずに、本当に済まんな……」

 

 こちらの手に、碁石を握らせる手があった。

 

「馬子……?」

「この一手は取っておけ。いつか御前が本当に天に召される時まで、よく考えておくがいい。浄土で先に待っている」

「……ふ。浄土か。それはいいな。楽しみ、だ――」

 

 かくん、と守屋の体は崩れた。

 

  *

 

「というわけで、かくして我の最初の人生は幕を閉じたのじゃあ……むにゃむにゃ」

「ふう」

 

 屠自古は筆をおいた。そして思わず気を緩めたところで。

 

「おや、なんですか、これ」

 

 どこからともなく現れた太子に手元の書き物を奪われた。

 

「わー! わー!」

「布都が起きますよ?」

「ぐ……」

 

 言う間にも、太子は人並外れた速度で屠自古の書いたものを読み進めていく。

 

「ふむ。なかなか面白いおとぎ話ですね」

「おとぎ話、ですか」

「いやはや、屠自古に小説家の才能があったなんて知りませんでしたよ」

「いえ、違うんです。これは……」

 

 眠りこけている布都を見る。

 

「こいつの寝言がどうにも、一貫した物事を語っている気がして……。それで、書き留めてみたんです。時系列がバラバラでどうにも苦労しましたが、多少の憶測こそあれ、筋が通る話にはなったはずです」

「ふーむ。しかし、信じられますか?」

「それは……」

「この布都の正体は物部守屋で、本当の布都姫は私たちを欺いて葬るつもりでいたけれど守屋になり替わられて、当然青娥も一枚噛んでいて、今なお私たちにずっとそれを秘密にしているだなんて」

 

 神子は布都の寝顔を見てくすりと笑った。

 

「ご覧なさい、この寝顔を。そんな大層な隠し事など布都にはできませんよ。それに……」

「それに?」

「もしこれが本当だとしたら、私は死に怯えて布都姫と守屋にまんまと騙されたピエロみたいじゃないですか!」

「そこですか」

「重要なことです!」

「大きな声を出すと布都が起きますよ」

「ぐぬぬ」

 

 神子は書き物を屠自古に返すとため息をついた。

 

「まあ、今となっては確かめる術などありませんよ。私は神霊化したせいか、この宝剣に宿るも離れるも自在になってしまっていますし……証拠となる青銅の剣も、先に目覚めた布都が隙を見て始末するくらいは簡単だったでしょう。何より、青娥が一枚噛んでいるなら、他の細々とした証拠など残すはずはないでしょうしね。屠自古の憑代をすり替えたのは自分がやったことだと『この』布都が言い張る以上……それを信じるほかありませんよ」

「太子様……」

「さて、もう遅い。亡霊の君にも、一応眠りが必要でしょう。書き物で程よく頭も疲れているでしょうし、もう休んでは?」

「ええ。では、お先に失礼いたします」

 

 屠自古は筆を片付けに部屋を出て行った。神子は布都の掛布団を直してやると、眠っている顔を指で突いた。

 むずかるように眉を歪める布都に、神子は言う。

 

「寝言はともかく――君は致命的なミスをしている。屠自古は女狐じみた母親を怖がり、あまり歩み寄ろうとしていなかったから知らないようだが……布都姫は、弓と碁が何より嫌いだったんだよ」

 

 布都の手に握られているのは(ハマグリ)の碁石のペンダントだ。

 

「理由は簡単だ。その二つでは決して兄に勝てなかったからだよ。そんな彼女が、心血を注いだ仙術ですら君に劣っていると知った時、どれほど打ちひしがれたことだろうね」

 

 神子は頬杖をついて布都を眺める。

 

「恨んで憎んで殺したはずなのに、最後はあんな情けをかけた。それほど妹を想う君にとって、絶望に打ちひしがれる彼女の姿を毎夜の夢に見ることは、どれほどの責め苦なのだろうね」

 

 答えはないはずの問いに、おぼつかない寝言が返ってくる。

 

「ゆるせ……ふとひめ……やすらかに……ねむれ……」

 

 つと、その頬にわずかに涙が伝う。

 

「あいしている……」

 

 そっと神子はその涙をぬぐおうとしたが、躊躇うように手を戻した。

 

「あるいは、その責め苦こそ君の生きる意味なのか」

 

 部屋の扉を開け、豊聡耳神子は立ち去った。

 

「あなたこそ、どうか安らかに眠れ」

 

  *

 

 毎晩のように夢を見る。妹の打ちひしがれる姿を見る。

 眠るのは怖くない。訪れる責め苦は、己の罪にふさわしい罰だからだ。

 それでもいつか、この妹の顔を思い出せない日が来たならば。罪を全てすすぎ終えたと思える日が来るならば。

 この蛤の石を持って、一手を打ちに浄土へ行こう。

 それだけを夢に見る。

 



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