鎌月鈴乃さんに変な属性をつけた話。(はたらく魔王様) (ほりぃー)
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属性1 酒乱

酒は怖いですよね。特に本気で酔っ払った人は怖いです。


「ここまでは買わなくてもよかったな」

 

 キッチンというには少しみすぼらしいアパートの台所で、その女性はため息をついた。

 おちついた藍色の着物に、頭には手拭いをつけたその小柄な女性は目の前に置いた一升瓶を見ながらどうしようかと考えている。その表面についたラベルには墨跡でなにか書いてあるが崩して書かれた字に味はあっても意味は分からない。

 この一升瓶にはお酒、日本酒が入っている。女性はこれを使ってなにか手の込んだ料理をしようかと思いついて買ってきたのだが、いかんせん台に置いた状態とはいえ、女性の目線まである一升瓶は多すぎる気がしてならない。

 普段は女性も「まわり」もお酒を飲むような習慣は持っていないから残ることは決まったようなものだった。

 

「はあ」

 

 我ながら、浅慮だったと女性は思う。返してくるかとも考えながら少しだけ緩んだ手脱ぎを締め直した。とりあえずは仕事に行っている彼らが帰ってくるまでには夕飯を用意しておかなければならない。

 そこで女性は苦笑した。そもそもが「彼ら」とは仲間や家族と言った間柄ではない。むしろ少し前には敵対していた間柄だ。厳密に言えば今も敵対しているはずなのだが、戦うことすらもう考えることが難しい。

 

「ねーベル―、お腹減ったんだけど」

 

 眠たげな声が女性の後ろから聞こえた。女性――ベルはぴくりと反応しつつもその声の主には何も言わずまな板や包丁を準備する。

 

「ねーえー。僕、お腹減ったんだけど」

「漆原。……そういうならなにか手伝うか」

「あれ、今日はぼくのことそう呼ぶんだね、でなんか食べるもんある?」

 

 ベルはあきれた様子で振り向いた。手伝うかどうか聞いたのに声の主である漆原はそのことをすべて無視したのだ。彼女が振り向くと、半そで半ズボン、まさに少年と言った容姿の男がお腹を掻きながら眠たげにしてそこにいた。

 ちなみに漆原とは本名ではなく、本名をもじった日本風の名前だ。普段はベルも本名を呼んでいるのだが、今はわざと冷たく言った。

 

「にーと……」

「い、いきなりなに。ちがうよ! 僕は働きたいんだけどはたらけないだけだよ」

「それもそもそもが自らの悪行の結果だろう。全く、働かぬもの喰うべからずとはよく言ったものだ」

「それだと僕、餓死しちゃうんだけど……」

 

 漆原が日の高い時刻、それも平日に家の中にいるのは彼の言うとおり事情があった。だがそれは昔の自分がした「悪行」の結果なうえ、働かないどころか家事の手伝いもせずネットサーフィンにうつつを抜かしている漆原にベルは同情する気はなかった。

 

「手伝うという発想はないのか?」

「うーん、考えとく」

 

 そういうと漆原は適当に冷蔵庫を開けて中を物色する。その間も「なんだよ、なにもないじゃんか」などと小声で悪態をつくのがベルには耳障りだった。

 ただそうはいってもいつものことだ。漆原が手伝うとはベルは思ってはいないし、今更怒鳴る気にもならない。一応この少年「漆原」はベルの何十倍もの長い時を生き抜いてきた者だ。それを叱るのは、なんというか情けない。

 先に書いた通りこの漆原含めベルの待つ「彼ら」は敵同士である。それを「叱るのは情けない」などと感じるのは、もはやベルの心に「敵」などというよりも家族に接しているような感情が芽生えていることをものがたっていた。だがむろんベルは自覚していない。

 冷蔵庫を物色する漆原だったが、何もはいっていないその冷涼な箱には興味を無くしたらしい。その無駄に伸びた髪を払いつつ、ベルの横にあった一升瓶を見つけて手に取った。少しだけ重そうにして漆原が抱える。

 

「あーこれお酒じゃん」

「あっそれは後で返しに行くからそこに……」

「えっ?」

 

 ベルの言葉よりも早く漆原は瓶のキャップを開けていた。

 固まる二人。漆原もベルもみつめあったまま何も言わない、ただしベルの視線はとても冷たい。ベルはさっき出した包丁を持ったまま漆原に一歩近づいた。包丁は無意識ではあったが漆原の目が怯えた。

 

「……貴様……働きもせずによけいなことばかりして……返品できないだろうが」

「ち、ちがうよ。ていうか、返しに行くとかわかる筈がないじゃん。あ、危ないってそれ、死んじゃうから!」

「はあ…? ああ」

 

 やっとベルは包丁を持った自分に気が付いてその刃物を流しにあるまな板の上に置いた。それからきっと漆原を睨みつける。だが漆原はにへらと笑う。機嫌を取り結んだつもりではあろうが、その顔がベルには馬鹿にされているように思えた。

 いったん治めそうになった怒りがベルを包んだ。

 

「きょ、今日と言う今日は許せん。そこになおれ、ルシフェル!」

「く、くそう。なんだよ、こんなところに無造作に置いてベルが悪いんじゃないか!」

「な、なんだと。言うに事欠いてその言動! 堕ちたとはいえ天使であった自覚もないのか」

 

 ルシフェルとは漆原の本名だ。彼はある「魔王」に従って数年前にある世界で戦争を戦った堕天使である。それは人間世界でニートをやっているのだから世の中は分からない。

 

「く、なんだよ。姑みたいに!」

「姑! 私のどこがそう見えるんだ」

「格好からしてそうじゃない! なんだい、着物なんて着ちゃってさ、日本かぶれ!」

「ぐうう。こ、このおいうに事欠いて……!」

 

 わなわなとふるえるベルの腕。少なからず気にいっている服装を馬鹿にされ「日本かぶれ」などと言われて怒りが限界に達しそうだった。だが一度しゃべりだしたニートの不平不満は生半可なものではない。自分でやらないから、批判は得意だ。

 

「今日だって、日本酒なんてかってきてさ」

 

 調理用に買ってきただけとは漆原は知らない。

 

「僕はワインの方が好きだしね。日本酒ってなんか辛いし、お酒として強いしでいいとこないよ」

「…………」

 

 ベルは何かが切れた気がした。いうなれば息子に反抗された母親のような気持ちだとでも言おうか、その憎悪は熱しやすく冷めやすい。だが今熱したばかりだ。

 

「もう知らん! 今日は帰る!!」

 

 赤い顔のまま、ベルは漆原から一升瓶をひったくるとづかづかと玄関から出て行った。アパートだから台所から玄関まで数歩しかない。漆原はぽかんと口を開けたまま閉じていくドアを見つめていた。

 そのうち隣の部屋で力強くドアの閉まる音が聞こえた。

 

「ご飯は……?」

 

 漆原は力なく呟いた。言いすぎたと感じながらもうそう言える彼は間違いなくニートの素質を持っていた。

 

 

 

 

 

 

 

「で今日鈴乃は帰っちまったと」

 小さなテーブルを男三人で囲み話し合う。その中の一人は漆原だが、後の二人はベルの待っていた「彼ら」だった。ちなみに鈴乃とはベルの仮の名前だ。(以下、鈴乃)

 

「まずいな。芦屋」

 

 最初に口を開いた黒髪の男がもう一人の長身の男に話しかけた。長身の男は芦屋というらしい。彼はそのこめかみを手で押さえて、苦悶の表情を浮かべた。少し長い金髪が彼の容姿を際立たせる。

 

「ええ、真奥さま。遺憾ではありますが鈴乃殿にはこの魔王城(アパートのこと) の家事、食事、育児と多大な助力を受けております。仮に今彼女にへそを曲げられたままということになりますと……その被害は尋常ではないかと」

「ちょっちょっとまって芦屋! 育児って何?!」

「黙れルシフェル。そもそもが貴様のせいだろうが」

 

 漆原は芦屋に睨まれると横を向いて小声で不平を漏らした。だが芦屋はそれを無視しつつ黒髪の男、真奥に目を向けた。

 

「どちらに致しましても。彼女からたまにいただく、うどんや何かの食材の類はわが家の家計を支える重要な兵站ともいえるでしょう。真奥様……」

「いい、芦屋」

「はっ? し、しかし」

「黙って聞け」

 

 真奥目が紅く光った。ぶると芦屋は身が凍るような感覚に襲われる、そして口をつぐみ次の真奥の言葉を待つ。

 真奥の眼光。それは伊達の物ではなかった。ルシフェルが漆原のように芦屋も真奥もそれぞれ「真の姿」と名を持っている。それはかつて異世界を震撼させた巨大な名だった。

 真奥。真奥。魔王。

 そうその名前は多くの悪魔を率いた大悪魔の名。世界を混沌に落としいれた男。それが真奥だった。その彼が口を開く。

 

「たしかに鈴乃には迷惑をかけた。だがな、芦屋それは謝って済むような問題じゃねえ」

「はっ、おっしゃるとおりです魔王様」

 

 いつの間にか芦屋の言葉づかいもさらに重くなっていた。彼はかつて悪魔大元帥と言われその知謀を恐れられた男だ。

 

「魔王様。この状況を考えるに漆原を煮詰めて」

「そんなの絶対おかしいよ」

「やかましい漆原。貴様に拒否権はない」

「そんなの絶対おかしいよ!」

 

 同じことをいう漆原と芦屋に真奥は言う。

 

「漆原の言うとおりそれじゃあ何の償いにもならねえ。芦屋!」

「はっ」

「例の計画を前倒しで発動するぞ」

「…?!……そ、それは。魔王さま……、我々の命に係わります」

「かまわぬ。いざとなれば毎日ハンバーガーだ」

「そ、そこまでの覚悟を……この芦屋、承知いたしました」

 ちなみに魔王はとあるファーストフード店で働いている。

 漆原は二人の様子をみてただならぬものを感じた。

「計画って、なに?」

 

 彼には何の情報も与えられていない。

 

 

 

 

 

 

 いい匂いだった。

 三人の悪魔が会議を行ったテーブルの上にはぐつぐつと肉や野菜の煮えたぎる鍋が置かれていた。さらに横には御代わりのお肉。表面が鮮やかなほど赤いそれは、まぎれもない高級肉だった。

 

「なーんだ。すき焼きでつるんだ」

 

 漆原はあきれたといった感じで呟く。もちろんこの鍋を用意したのは漆原ではない。悪魔大元帥であるアルシエルこと芦屋だった。彼はベルが悩んでいた台所に立ち、なにかを用意している。白い麺だった。

 

「最後はこのうどんで閉めます。真奥様」

「ああ、よくやった芦屋」

 

 真奥が芦屋の後ろから声をかける。漆原ははあと息を吐いてから言う。

 

「何が計画だよ、少しビビったじゃないか」

 

 その声に芦屋と真奥が振り返った。漆原がたじろぐ。

 

「な、なに芦屋」

「ルシフェル貴様。このような高級な食事を計画していた時期よりも『前倒しで用意して』明日からの食事ができると思うなよ。そんな食費は我が家にはもうない」

 

 その言葉に漆原はさーと血の気が引いた。間違いなく自分の食事が減る。

 

「し、死んじゃうよ」

「安心しろ、貴様にはもやし方面軍をまかせる。育てなければ死ね。あとゲームやパソコンは禁止だ」

「びえっ!」 

 

 ゲームパソコンの禁止を言い渡されて、漆原は奇声を上げた。まさかそんなと絶望した顔で真奥を見る。だが真奥は首を振るだけでなにも言わなかった。漆原はとどめを刺されたように肩を落とした。

 芦屋と漆原を見比べて真奥は言った。

 

「そろそろだな、俺は鈴乃を呼んでくるぞ」

「真奥様、それは漆原に」

「いや無理だろう、あれは」

 

 芦屋は放心状態の漆原を見る。こんな時でも役に立たない。

 

「……申し訳ありません。真奥様」

「かまわん。では行ってくる」

 カッコよく真奥は玄関を出た。そして行く。隣へ。

 

 

 

 

「おーい鈴乃―」

 

 こんこんとドアを叩きながら鈴乃を呼ぶ真奥。いるはずなのだが、部屋には明かりはない。しかしひきこもりの達人である漆原が隣にいるのだ。外出したならわかるはずだろう。

 

「開いてる…」

 何となく触ったドアノブが開いた。不用心とは思う真奥だが、鈴乃はこのあたりの男よりも断然強い。無駄な心配かと苦笑しつつ真奥がゆっくりドアを開いた。

 

 居た、鈴乃が目の前に。

 

「ドワッ!」

 

 驚いて真奥はのけぞる。暗い部屋に市松人形のような彼女が立っていたのだから、そうなるだろう。

 鈴乃の顔が窓から漏れる月明かりで映える。紅い。

 真奥はそのことに心がのけぞった。体ではない、もしかして今日のことに傷ついて泣いていたのではないだろうか。そう思ったのだ。

 

「鈴乃、今日はその、なんていうか悪かった……な」

 

 頭を掻きながら謝る真奥。

 

「そんでお詫びと言ってはなんだけどよ、すき焼きを用意したんだ。食べにこいよ」

「…………」

 

 鈴乃がすっと手をだした。真奥は一瞬たじろいだが、なんとなく手を握る。熱い。

 

「いこうぜ……」

 

 真奥が引く、鈴乃はついていく。

 鈴乃の部屋を出てから、真奥の部屋まで数歩だけ。何も言わない鈴乃を不気味に思いつつも真奥は彼女の手を引いて歩く。

 だがドアの前に来て開けようとした時に真奥は気が付いた、酒臭い。

 

「おい鈴乃。なんか――」

「ひっく」

 いきなり真奥は振り払われた。

「うおおお」

 すごい勢いで半開きのドアに突っ込む真奥。そのまま部屋の中に叩き込まれた。

 

「な、なに?」

「魔王様!」

 

 真奥に駆け寄る漆原と芦屋。だが次の瞬間彼らの目は別の方向に釘付けになった。

 

「わ、わたひのさけが。のめないのか」

 

 顔が紅い鈴乃がわけのわからないことを言いながら部屋の入ってきたのだ。その手には一升瓶が握られていて半分ほど、減っていた。

 あの後鈴乃はお酒を飲んだらしい。普段全くと言っていいほど飲まないくせに強靭な体を持つ彼女は一升瓶の半分を消し去っただろう。

 さらに、やけ酒は悪く酔う。

 

 

 

 

 

 

「だーからおまえたちは」

 

 首を斜にして姿勢を崩す。普段なら絶対に鈴乃がやらないだろう行動を今日の鈴乃はやっていた。彼女は横に座った真奥になにか説教めいたことを言う。なんども。なんども。同じことを繰り返した。

 時折、鈴乃は芦屋の用意したコップに日本酒をうつしてあおるが、そのあとに一層真奥に絡み始めた。

 鍋は煮えている。だが誰も食べる気にはならない。

 芦屋も漆原も台の横で正座している。ちらちらと二人が鍋を見るのは意味が違う。方や早く食べたい気持ち、方や鍋の出来が気になる男。

 

「ねえ、芦屋。あれ、くいだめしておかないと」

「うるさぃい」

「ぐげ!」

 

 鈴乃の投げたティッシュ箱が漆原を直撃した。なにかいいながら転がる。漆原。

 

「だから、きーてるのか、まおうぉ」

「聞いてるって、でも鍋が」

「きいてなーい」

 

 鈴乃が叫ぶ。真奥は焦った、このままでは近所迷惑になりかねない。

 

「わ、わかった真面目に聞くから! と、とりあえず鈴乃さん鍋食べようぜ」

 

 飢えた獅子をなだめるには肉しかない。そう思って真奥は鈴乃に箸を渡した。すでも真奥は彼女へさんづけで呼んでいる。

「うー」と奇妙なうめき声を出しつつ、鈴乃は箸を観察する。

 

「肉」

 

 それだけ言って鈴乃は真奥に箸を返す。真奥はいぶかりながら受け取ったがやがて意味が分かった。

 

「よそうのか」

「!真奥様、それはこのアルシエルが」

「いやいい。我が忠臣よ。ここは我に任せよ」

「ま、真奥様」

 

 感動する智将。よそうだけなのに戦場に行くような凛々しい顔をする魔王。

(ふふふ。普段のバイトで鍛え上げた眼力で鈴乃が満足するようによそってやるぜ)

 真奥はそんなことを思いながら。鍋を見つめた。あの肉だ。見ためからわかる柔らかさといい煮え具合と言いこれ以上はない。

 箸でとる。まだ誰も手を付けてなから、菜箸はいらない。

 

「まずはひと……ん、なんだよ鈴乃」

 もう一つ取ろうとした真奥の袖を鈴乃が引っ張った。

 

「ん」

 鈴乃を振り向いた真奥。その目の前で、

 

 口を開ける鈴乃。

 

「えっ?」

(まってくれ、これよそうだけですよね鈴乃さん。なんで口を開けてるんですか?)

 

 汗が真奥の頬を流れる。まさかこの魔王に「あーん」を行えと、そう言っているのだろうか。真奥は頭を振った。

 

「ん」

 

 近付いてくる鈴乃。芦屋は口を開けて呆然としている。漆原は勝手に肉を取って食べ始めた。

 真奥は手元の肉を小皿にとった卵につけて、よくからませる。その様子に芦屋が立ち上がった。

 

「魔王様!」

「座れ! 芦屋。」

「し、しかし」

 

 目だけで真奥は芦屋を見る。その顔は穏やかだった。

 

「部下の責任は俺の責任だ。心配するな」

 

 そういいながら真奥は手もとの肉に卵を絡める作業に戻った。芦屋は力なく座るとその下を向いて、言った。

 

「ご立派です魔王様」

「ばかみたい」

 すばやく漆原の頭を掴む芦屋。だが真奥はそちらに注意力を割くわけにはいかなかった。今恐ろしい敵を前にしているのだ。

 ごくりと喉に絡んだ痰を飲み。真奥は恐る恐る肉を鈴乃の口元に持って行く。口を開けてぱくり、と擬音をつけたくなるほど強引に鈴乃は肉を食べた。それからもぐもぐと噛んでから、喉を通す。

 終わった。そう真奥は安堵のため息をついた。人間に「あーん」をした魔王といえば別の意味で箔がつくことは間違いないだろう。しかしここには忠臣である芦屋と彼に押さえつけられている漆原。そして一人の酔っ払いがいるだけだ。外に漏れる確率は少ないだろう。

 鈴乃はもう一度口を開けた。

(おかわりっだと?? 小鳥かこいつ!)

 餌を待っている小鳥のように真奥に顎で催促する鈴乃。くわせろ。その意思が伝わってきて、真奥は脂汗を流した。いつまで続くんだ。

 

 結局5枚ほど肉を頬張って鈴乃は満足したらしい。それは真奥の屈辱の回数ともいえる。

 真奥は無言で自分の白飯をかきこんだ。肉は少なくても大量の飯を食べられるのは貧乏生活で得たスキルの一つだった。ちなみに芦屋も漆原も無言で鍋をつついている。

 魔王の横でとくとくとコップに酒を注ぐ鈴乃。透明な酒が小さな渦を作って、コップを満たしていく。真奥はそれを横目にみて言った。口を滑らせたといってもよい。

 

「も、もうやめたほうがいいんじゃないか?」

 

 芦屋が顔を上げた。最初に真奥を投げとばして侵入してきた酒乱である鈴乃に酒で抗えば、いい結果が生まれるとは思えない。真奥が鈴乃に襲われようものなら飛びかかってでも彼を守り抜くつもりだった。

 だが意外にも鈴乃はその赤く火照った顔でゆっくりコップと真奥を見比べた。それだけでコップには口をつけなかった。だが真奥を見るのはやめない。

 鈴乃の少し熱さを持った目が真奥にはなにか不気味なものを感じさせた。鈴乃は唇を動かした。そこから聞こえてくる声は真奥にとっては厳しいものだ。

 

「なら、お前がのめ」

 

 な、に。と真奥はたじろいだ。

 鈴乃はその真奥の前になみなみと注いだコップを置いた。そのあとに一升瓶を掴む。

(えっ? なんでその瓶を持っているんだ? もしかして、御代わり用か?)

 真奥は直感した。目の前のコップを干したところで光の速さで鈴乃に潤されるのだろう。それは終わらない地獄のようなものだ。これはうけてはならない。

 

「す、鈴乃さん。俺明日はやいからさけは……」

「……のめない、のか……わたしのさけが……」

 

 低い声を出して真奥を睨みつける鈴乃。そこに芦屋がフォローに入った。

 

「そうです。真奥様は我が家の大黒柱。飲ませるのならこの穀潰しに」

「そっそれって僕のこと? やだよ、好きじゃない」

「漆原! こんな時くらい役にたて」

「いつも役にたっているじゃん!」

「なんの話だ!」

 

 芦屋と漆原が口論し始めた時。二人の注意が鈴乃から反れた、それはよそを向いていた真奥も同じだった。だからにじり寄る鈴乃に警戒できなかった。

 

「わたひの酒を、のめ!」

 強い鈴乃の声に、漆原と芦屋が振り向いた時だった。

 

 真奥と鈴乃の唇が重なったのを見たのは。

「まおうさまあああああ」

「なっなにこれどうなってんの?」

 

 数十秒前。

 

「そうです。真奥様は我が家の大黒柱。飲ませるのならこの穀潰しに」

 芦屋が真奥を助けるために言った。真奥はその言葉でなんとか鈴乃の矛先が変わってくれるように願った。だがすぐに漆原が抗議の声を上げて、どうにも魔王軍きっての智将でも鈴乃の意思を変えられそうにはない。

 

「うん?」

 

 真奥が気が付いた時彼の目の前にコップはなかった。疑問に思い真奥が横を向いた時だった。その魔王の頭を細い腕が掴んだ、真奥は驚愕に目を開いたが、もう遅かった。

 

「わたひの酒を、のめ!」

 

 目の前に鈴乃の顔。引き寄せられて、柔らかい感触が真奥の唇を覆う。

(!!! はっ離せ)

 鈴乃は真奥の頭を抱きしめながら、強く唇を押さえつけてきた。真奥が多少もがいても離れられない。

 鈴乃の口元から真奥になにかあったかいものが流れてくる。

(これは、酒?)

 味がする。お酒の味が口に広がる。ここで真奥はやっと鈴乃の行動を理解した。

 酒を飲まなかったから無理やり口移しに出たらしい。なくなったコップの酒は鈴乃が飲んだのだろう。いや、「今、真奥が飲んでいる」。

 遠くで真奥の耳に声が聞こえた。なにか驚いている声だった。それを芦屋と漆原の驚愕の声とはさすがの真奥と言えどこの状況ではわからなかった。

 鈴乃がさらに真奥を強く抱きしめる、当てた唇を動かしながらお酒を流し込んでくる。熱いのは鈴乃の頬。真奥はだんだんと頭がぼんやりしてきた。二人に口元を飲みきれなかったしずくが流れていく。それは艶めかしい光景だった。

 

「げほっげほ」

「真奥様。御気を確かに」

 やっと解放されてむせる真奥の背中を芦屋がさすってあげた。だが当の真奥は情けない声で。

「あ、芦屋。もうだめかもしれん」

「そんな。まだ我らの覇道は完成しておりません! このようなところで……」

「いや、見ろ」

 真奥が芦屋を目でただすとそこでは鈴乃がコップを傾けて、酒をあおっていた。いやこの場合には「補充」と言った方がいいかもしれない。

 鈴乃は口に酒を含むとゆらりと振り返った。その熱い目が真奥をみている。

「まーぉーう」

 変なイントネーションで近づいてくる、赤い顔で迫ってくる鈴乃。いつの間にか漆原は消えていた。おそらく押し入れに隠れたのだろう。

 近付く「魔物」に芦屋はごくりと息をのんだ。だが真奥は達観した様子で。

「俺は今日。こいつに酔いつぶされるのか……」

 明日は遅刻。間違いない。

 

「う、うーん」

 鈴乃が朝日を受けて目を瞬かせた。ゆっくりと目を開けてから、頭部へ急な痛みが走る。

「いだっ。なっなんだ」

 鈴乃は頭痛の意味が分からずに起き上ろうとした。だが目の前にある何かが邪魔をして起き上れない。その黒い影のようなものに鈴乃は抱き着いたように寝ていた。

「なんだ? これは」

 必死になって起き上ろうとするのだが鈴乃を押しつぶすその黒い影は動かせない。寝転んだまま全力で鈴乃は影を押した。影はごろんと今度は嘘のように転がった。

 影の正体が分かった。動いたのは自分で転がったのだろう。

「ま、真奥????? なんで私の部屋に?」

 死んだような顔をしている真奥を鈴乃は驚愕の顔で見た。少なからず顔を赤く染める。

 鈴乃は昨日、漆原にいろいろ言われた後ムキになってお酒を飲んでいたことしか覚えていない。だが今の鈴乃は正常、あたりを見回すとここが自分の部屋ではなく、真奥たちの部屋だと分かった。テレビすらないのだから、違いは明白だった。

「さ、さけくさい」

 鈴乃は手で鼻と口を覆った。きつい匂いが部屋に充満していた。

「まさか私は、こいつらに酒宴にさそわれたのか?」

 誘われたというより引きずりこんだ、のほうが正しい。鈴乃は立ち上がって、部屋に寝ている三人の悪魔を見た。

 

 なにかに襲われたような顔をしたまま寝ている漆原。

 壁にめりこんだように倒れている、芦屋。すき焼きのコンロが消えているのは彼の働きに違いないだろう。

 そして目の前で倒れている真奥。よく見たら白目をむいているが鈴乃は気が付かなかった。

「仕方ないやつらだな」

 ふうと息をはいてほほ笑む鈴乃。とりあえずは掃除をしてやらなければならない。鈴乃は世話の焼ける隣人たちの為に動き始めた。

 彼女が真実を知る日は、そう遠くはない。

 

 

 

 

 

 

 




お疲れ様でした。感想いただけましたら喜びます。


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属性2 猫耳メイド

単発じゃなかった。でござる。

思いついて、一日で書いたものなので、遊び心はゆるしてください


 

 これは家族会議ではない。

 最低限の家具以外は何もないアパートの一室で4人の男女が無言で向き合っていた。一人はこの部屋の主である真奥貞夫。そしてその従者、およびヒモをしている男の子と主夫をしている長身の男、それぞれ漆原と芦屋。

 その3人の前に紺の和服を着た女性、鎌月鈴乃が座っていた。彼女の表情は固く時折目が泳いでいる。もぞもぞと足を動かしては布が擦れる音がした。

「……鈴乃。もう一度聞かせてくれ」

 真奥は鈴乃に発言を促す。特に追求や糾弾のつもりはない。それがわかるほど穏やかな声だった。だが漆原はなぜかびくりと体を動かして、鈴乃に目をやる。漆原の顔には玉の汗が浮かんでいた。

「ああ……」

 鈴乃がゆっくりと口を開いた。どこか遠慮がちに真奥を見つつ、一度唇をかむ。そうしてから真奥だけではない、芦屋と漆原を彼女は見た。漆原は変わらず真剣な表情で鈴乃を見ているが芦屋はなにか思案顔だった。

 鈴乃は意を決したように言う。

「財布を……落とした……」

 

 あの「酒宴」から幾日かが過ぎた。あれからすっかりと機嫌を直した鈴乃と悪魔3人組の関係は良好だと言ってもいい。もちろん「酒宴」の詳細については、真奥たちの間で緘口令が敷かれている。

鈴乃は4人でバカ騒ぎをしたという認識らしいが、実際にバカ騒ぎをしたのは鈴乃一人だった。真奥たちはこのことを外へ漏らせば間違いなく面倒なことになる。その認識の元での緘口令だった。

 ちなみにこの時にゲーム、パソコンを禁止された漆原は緘口令に従うかを材料に交渉を行い、禁止令の解除を叶えている。その折に芦屋は苦虫をかみつぶしたような顔で「おぼえておけよ……」と言っていたのが漆原には気がかりだったが無事ニートライフは戻ってきた。

しかし、ある問題がのこった。食費である。

 そもそも、あの酒宴自体が真奥たち3人の財産を食いつぶしたうえ、鈴乃のせいであまり食べられなかった。それでも、しばらくは真奥が働いているファーストフード店の処分品で過ごす3人の悪魔だったが、朝にハンバーガー、昼にハンバーガー、夜にハンバーガー。冷蔵庫にハンバーガー、机の上にハンバーガー、真奥の土産がハンバーガー、芦屋の家計簿の文字にハンバーガー、漆原の幻覚にハンバーガーといろいろと追いつめ始められていた。

 そんな状況を見かねた鈴乃は、真奥の給料日まで悪魔3人の食事を預かることを申し出た。酒宴の経費で真奥たちの財布事情が危機的状況だったことが彼女にも責任を感じさせてしまったのかもしれない。

 その日のご飯は簡単に作ったうどん。それを漆原は涙を流しながら食べていたのだから、彼の神経の衰弱ぶりがわかるだろう。鈴乃は困惑しながらも自分の作ったものを悦んで食べる悪魔達を微笑ましく思っていた。

 

 そこで鈴乃は財布を落とした。銀行のカードごとだ。それが冒頭。

 つまるところ、鈴乃には現在真奥たちを養う金がない、と言うよりも自らの食費すらも怪しかった。同じ穴のムジナ、またはミイラになったミイラ取りだ。銀行と警察には鈴乃は届けたが、数日間は生活費がない。

「……」

 無言で腕を組んで何も言わない真奥。鈴乃が財布を落として、現在無一文だということが彼らにとってどれだけ危険かは分かっていた。それは芦屋も同じだ。だが彼はやはりなにかを考えるように、顎に手を当てていた。

 ちなみに一番この状況を理解しているのは漆原である。彼の頭の中にハンバーガーの軍勢が攻めてくるイメージが膨れ上がっていた。あのケチャップの味、なんでいれるのかわからないピクルス。家で作るハンバーグとは味の全く違う肉。それが口の中に詰め込まれる幻想を見始めていた。

 だんと頭から倒れる、漆原。

「なっ?! どうしたルシフェル!」

 鈴乃があわてて駆け寄り、真奥と芦屋は憐れみの目を彼に送る。なんで倒れたのかは彼らにはわかっていた。

「は、ん、はん、はんばー」

 痙攣しながら何か言う漆原。

「しっ、しっかりしろ!」

 漆原の背中をさする鈴乃。だがかつてはエンテ・イスラを震撼させた悪魔大元帥であるルシフェルの心は崩壊寸前だった。

「真奥様。私に一計がございます」

「なに? 本当か芦屋」

「はっ。多少の危険は伴いますが、ここにいる4人が生き残ることができるでしょう……」

芦屋が真奥を見る。彼は彼の策に鈴乃を入れている。自然なのか、甘いのかそれとも毎日家事を手伝ってもらっている義理なのかわからないが「悪魔」というほど、芦屋は狡猾ではないらしい。

「これをごらんください」

 ごそごそと部屋の隅にあった袋をまさぐってから芦屋は何十枚というチラシを取り出して見せた。真奥と鈴乃は一枚ずつ手に取る。漆原は耳だけを傾けている。

「!……芦屋、これは」

「はい真奥様。これはこの近所で行われている無料で食べられる店のチラシでございます」

 真奥はチラシを何枚か掴んで目を通す。たしかにそこに踊るのは「無料」の文字、ただし、

「これは、なにかをしなければならないのではないか?」

 鈴乃の言うとおりこのチラシたちには「なになにができたら無料」と書いてある。簡単なものならば時間制限以内に大盛りご飯を食べる、などの条件が書いてあった。

 芦屋は「近所」と言ったが、これだけのチラシの枚数分、無料キャンペーンをしているわけがない。チラシの何枚かは遠くの住所が書いてあった。

「鈴乃殿の言うとおり、これは無料と書いていながらただではありません、真奥様。ですが我々にはこの手段しか残ってはいないと考えます。特に漆原は限界でしょう」

「だが芦屋。まだ俺はハンバーガーに負けてはいないぞ。それに漆原にはポテトを優先的に与えればいい」

 ハンバーガーがいやならポテトをたべればいい。真奥の言葉に芦屋は首を振った。

「それは漆原の幻覚にポテトを加えるだけでしょう……。それに私もこのごろジャンクフードにお腹が痛くなってきました」

「ジャンクフードっていうな! っ……しかし、このままでは魔王軍は全滅だな。しかたない、芦屋!」

 真奥はキラリと目を光らせて、立ち上がった。

「はっ」

「今すぐに計画を立てろ。俺のバイトのシフトは渡している通りだ! バイト先からも行ける距離を見繕え。あと鈴乃と漆原の食事もお前に一任する」

「おまかせください、真奥様」

 うやうやしく拝命の礼をする芦屋。その様子を鈴乃はあきれた顔で見ていたが、彼女は当事者、それになにかを言う気はなかった。

 

 部屋に戻った鈴乃はある雑誌に目を通した。

 日本語で「こんにちは! 仕事」と書いてある求人雑誌だ。さすがに同じく金のない真奥達に食事を頼るのは気が引けた。だから当面は自宅にある食料で食べ繋ぐからと、芦屋の計画から外してもらった。人数が少ない方が彼も計画を立てやすいだろう。

 ぱらぱらとページをめくる鈴乃。彼女が探しているのは日雇い、日給の仕事。来月の給料では餓死してしまう可能性もあった。

 だが出てくる仕事は工事現場や引っ越しのバイトばかり。もちろんそれらの求めているのは屈強な男。鈴乃はその体に見合わず強靭な肉体と聖法気による肉体強化の術を持っているが面接で撥ねられるだろう。

 もちろんその面接で怪力を見せつけてもいいのだが、鈴乃も女。それは絶対にやりたくなかった。その上、頭にタオルを巻いてヘルメットをしてツルハシを振っている自分など考えるだけで恥ずかしい。最近はツルハシなぞ使わないことを彼女は知らない。

「むっ?」

 雑誌のある場所で目が留まった。カフェと書いてある。しかも二週間程度の短期バイトで日給制。しかも時給は他よりも高い。

 その広告は黒いベストにブラウス、それに長い黒のスカートを穿いた女の子が「明るい職場だにゃ!」という奇妙なメッセージをかいた写真だった。なぜか写真の女の子が少し猫背なのが気にはなったが、料理ならば鈴乃は得意なうえに接客ならばなんとかなるかもしれない。

「カフェか……こちらで働くのは初めてだが……ここなら」

 彼女はそう思って携帯を手に取った。

 

 明日出てきてくれと、対応してくれた可愛い女の子が言った。

 メイドカフェ。と言う単語を鈴乃が知らないのは当たり前だろう。

 

 

 秋葉原。鈴乃はこの街に来るのは初めてだった。

 妙に複雑な駅をでて、そこらを歩くコスプレの人々に違う意味で目を奪われながら鈴乃は求人雑誌片手に街をあるいた。着物を着た彼女もこの街では溶け込んでいると言えよう。彼女もコスプレの一人に数えられていることを知らない。

「ここか」

 少しだけ歩いて、鈴乃は目的の場所を見つけた。求人雑誌と店の看板を見比べて間違いないと確認する彼女。それからうんと頷いて、店の中に入る。

「たのもう」

 変な掛け声とともに。

 

「おかえりニャさいませ! ご主人様」

「にゃ、にゃ? なに??」

 いきなり二人の少女に迎えられて鈴乃は面食らった。よくよく見れば、求人雑誌で写真にのっていた二人だ。一人はピンク髪にツインテール、一人は長い金髪でおっとりした目をしていた。

 二人は両手を胸の前にだして猫のようなポーズをとっている。その頭にも猫の耳をかたどったのだろう、カチューシャをつけていた。

「えっえっと私は」

 未知との遭遇に鈴乃はしどろもどろになる。だがツインテールの女の子が鈴乃に近づいてきてじーと「口で言いながら」彼女を観察した。

「もしかして、鈴にゃんさん、かにゃ? 昨日電話してくれた!」

「す、すずにゃん??」

「やっぱりそうにゃ! 来てくれてありがとうにゃ」

 そういうとピンクの髪の女の子は鈴乃に自己紹介した。だが彼女の言う明らかに本名ではない横文字に鈴乃はくらくらする。なんとかにゃんにゃんと言う源氏名を覚えきれず、とりあえずはリーダーと覚えた。またおっとりした女の子とも鈴乃はあいさつした。

 リーダーは金髪の女の子に何か指示をしてから、鈴乃を奥へ誘った。

 完全に空気に飲まれていた。

 

「これがすずにゃんの制服だにゃ」

 奥の更衣室ではいきなりリーダーに制服を渡された。写真で見た制服よりも、小物が多かった。

 無意識に受け取った鈴乃だったが、あわてて聞いた。

「きょ、今日は面接ではなかったのか?」

「えっ、面接かにゃ?……」

 リーダーはいきなり黙って鈴乃に近づいた。その目線に鈴乃はたじろいだが目を逸らさず向き合った。というかリーダーの目力が強すぎて引き込まれたと言った方がいいのかもしれない。

 見つめあう二人。鈴乃は持ってきた手さげに入った履歴書を完璧に忘れていた。

 急にリーダーが目線を外してふっと笑った。

「イイ目だにゃ」 

 リーダーはぱちりとウインクする。まるで星が出そうなほどかわいいウインクだった。だが口調は中二病の様だった。

「もうおしえることはないにゃ! 合格だにゃ!」

「えっえええ? いっ、今のまのが面接なのか!??」

「そうだにゃ、――の目に狂いはないにゃ」

 リーダーが自分の名前を言うが、鈴乃の頭に入らない。鈴乃は一度制服を見た。昨日今日で電話したはずなのに、もう制服が用意されているのは最初から雇う気だったのか、本当に今の数秒で見抜いたのかはわからない。

 それでも鈴乃には後がないことは変わらなかった。小銭をかき集めて、電車にのるほどに困窮している。

「わ、かった。働くからには一生懸命はたらこう」

「その意気だにゃ! で、制服の一部なんだけどー、これをつけてほしいにゃ」

 そういってリーダーは鈴乃にあの猫の耳がついたカチューシャを渡した。フリルもついてかわいらしい。

「これをつけるのか……私が?」

「そうだにゃ。それとすずにゃんはこの店の中ではすずにゃんだにゃ。あとあと、スマイル+ニャーでお願するのにゃ」

「ん?」

 今数秒。鈴乃の思考が固まった。これまで彼女はカフェで働く程度の認識しかなかったのだが、よくよく考えればこのバイトの先輩であるリーダーや金髪の女の子のやっていることは自分がしなければならないことだと今更ながらに気が付いた。

 

『お帰りにゃさいませ! ご主人様』

 ふりふりのスカートをひるがえして、ぱちんと想像上でウインクする鈴乃。

 

 ぶる。と体が震えた。

 鈴乃は未来の自分を無意識想像してしまったことで、背中に冷たいものが流れるのを感じた。彼女の唇が動く、「やっ、やっぱり」と辞退の言葉が出そうになった。

「でもすずにゃんがきてくれて本当に助かったにゃ」

「ぐう」

 リーダーの攻撃。鈴乃の急所にあたった。

「最近二号店、三号店の計画があって、人手がいっくらあっても足りないのにゃ。……ああ、そうそうこれ交通費だにゃ!」

 リーダーが何か封筒を鈴乃に渡した。中が透けて、野口英世が見える。鈴乃にはその心遣いと封筒が重かった。そんな彼女をリーダーが気遣った。

「どうしたのかにゃ? すずにゃん」

「い、いやなんでもない。なんでもないぞ」

「ダメだにゃ。そこは『何でもないにゃー』っで最後は――」

 ぱちんとウインクするリーダー。鈴乃は一瞬目の前が真っ暗になった。リーダーが可愛かっただけではない。それを自分がやるのが恐ろしかったのだ。

 それでもこんなバイトをする上では最初は慣れ。リーダーは目で鈴乃に促した。鈴乃はごくりと息をのんでから震えて言う。

「な、なんでもないにゃ……」

 

 鈴乃はスカートを足に通して、ボタンを留めた。脱いだ着物はきちんとたたんでロッカーに入れてある。リーダーのブラウスは胸を強調するような形だったが、鈴乃のそれは少し余裕があった。少しほっとする鈴乃だったがそれは鈴乃の胸がリーダーに比べてどうか、を表していることに後で気が付く。

 ベストを羽織る鈴乃。そして首元に赤のリボン。なぜか片手だけのフリルのついたリストバンド。

「これは、なんだ?」

 鈴乃はニーソックスを手に取った。だが鈴乃には「長いソックス」としか見えない。だがあるからにはきらねばならないだろう。

 部屋のある椅子に座って細い指からニーソックスを足に通す、鈴乃。わずかに足をあげなければ入れにくので、足をあげながら穿く。

「こんなものか」

 鈴乃はソックスを履いてから立ち上がり、ぱんぱんとスカートをはたく。あとは一つだけだった。カチューシャだ。

「…………」

 メイド服姿で固まる鈴乃。さすがにこれをすんなりと頭につけるのは難しい。鈴乃はぐぬぬと唸ってから、目をつぶった。顔が紅くなるのは止められなかった。

 カチューシャをつけるすずの。それについた、猫耳は柔らかい素材なのか先が少しだけおちた。鈴乃は冷や汗を流しながら控室にある姿見をみた。

 

 すこし振り返った格好をしたメイドさんが其処にいた。白と黒のコントラストが、可愛く映える制服に黒いニーソックス。それに支給品のリボンのついた黒いくつ。

 そして頭にある猫耳。

 違う意味で赤くなる鈴乃。以外に似合っているのが余計恥ずかしかった。

 鈴乃はちらちらと姿見を見ながらも頭につけた簪をぬいた。サイドテールがはらりと崩れて、長い黒髪が下がる。この服には、こちらの方が合っているようだった。

「さっそく、ポーズの練習かにゃ! すずにゃん」

「あびゃあ!」

 急に声をかけられて、鈴乃は奇声を発した。その後ろから控室に入ってきたリーダーがむふふと言った顔で近づいてきた。

「すずにゃんは可愛いにゃー」

「かかかっかかわいい???」

 よく考えらたら、そんなことを言われたことはない。鈴乃は赤面して、両手で両頬に手を当てて、リーダーから顔を背ける。頭から湯気が出そうだった。

 リーダーは腰を折って、下から鈴乃を見上げつつにっこりと笑う。人を引き込む笑い方だった。鈴乃もその笑顔にほっとする。

「じゃあ。初仕事に行くにゃ!」

「えっ?」

 

「えっ?」

 控室と同じことを言いながら、鈴乃は店の入り口付近に立っていた。その横には最初に会った金髪の女の子が立っている。鈴乃よりも年下のはずなのだが、胸の大きさが違う。

「すぐにゃんさん。がんばろうねー」

「す、すずにゃんじゃないかな」

 おっとりしながら間違える金髪の女の子にやんわり訂正するすずにゃん。もはや彼女の中でも「すずにゃん」らしい。

 すずにゃんである鈴乃は持っているトレイを握りしめた。これから入ってくるお客様の、いやご主人様に「お帰りにゃさいませ、ご主人様」と笑顔で言わなければならない。まさか昨日電話した時にこんなことになるとは思わなかった。

 まさに今日は激流のような日だった。

 鈴乃と金髪の女の子がしばらく立っていると、扉の向こう側に二人組の男が居た。店の前のメニュー表を見ながらなにかを相談しているようだが、すぐに入ってくるだろう。

「あっすずにゃん。ご主人様がきたよ。あー、あれは……」

 店の前に来た知り合いらしく、扉の向こう側にいるご主人様の名前を口にする金髪の子。だが鈴乃は心の中で「人人人人人人人人人人人人」と唱えるのに忙しい。

 からんと鈴が鳴って二人の男が入ってきた。

「おかえりにゃさいませ、ごしゅじん――」

「おおおおおかえるなう。がう」

 舌を噛む鈴乃。くっと腰を折りつつも涙目で振り返ると。

「おかえりにゃさい、ませ、ごひゅじんさま」

 何とか言った言葉は少し震えていた。というか少しだけ発音がおかしかった。

 金髪の子が「大丈夫、すずにゃん」と聞いてくるが。それよりも早く。

「い、いまのキタオ」

 男の一人は異常なほど太っている。それでも頭にキャップをつけているのが妙に似合っていた。その男が呆然と涙目になっている、鈴乃をみて言う。目を光らせて叫ぶ。

「きたーーーーーーーーーーーーーーーーー!」

「なにもきていない。それよりも俺は早く、冷たいものが飲みたいのだ」

「で、でも今のやばいっしょ」

「ただ噛んだだけではないか。それよりも俺の一秒の損失は世界の損失なのだ!」

 太り気味の男の横いるもう一人は、なぜか白衣を着ている。鈴乃はわけのわからない会話を聞きながら、変人ばかりだと思った。

 

 それから数日間、鈴乃はバイトを続けた。

 リーダーはいい人で同僚もにこやかな人が多い。いい職場だと思いつつ、何回もあの恥ずかしい挨拶をすると慣れてしまった。この頃は、金髪の女の子と並んで猫のようなポーズをするようになる始末。エンテ・イスラでの彼女を知っている者ならば笑うしかないだろう。

 そう、笑うしかないのだ。

 

 早朝。金髪の女の子とリーダーが控室で話していた。

「ということで、今日からオムライス無料のキャンペーンを開始するにゃ」

 リーダーがなにかを説明し終わったらしく、そう締めた。金髪の子は怪訝そうに言う。

「でもそれじゃあ、お店がつぶれちゃうよー」

「ふっふっふっ。そこは大丈夫なのにゃ! メイドさんにじゃんけんで勝ったら無料。でも負けたらオムライスの値段が二倍の真剣勝負なのにゃ。それにじゃんけんに勝てばふふふ。あっちなみに先着20名様までだから、ちょっとしたキャンペーンにゃ」

「ああーそれなら、たのしそうだよー」

 金髪の女の子は納得したように言った。リーダーはうんと頷いてから付け加える。

「すずにゃんが来たら伝えていてほしいにゃ」

「わかったよー」

 

「さすがにアキバはデュラハン号でも、きついな」

 真奥貞夫は「デュラハン号」などというけったいな名前の自転車を押しながら、手に持ったチラシと目の前の店を見比べた。

 なんでも、猫耳のメイドカフェらしいがそれについては真奥にはどうでもよかった。ここでオムライスが無料で食べることができるというのだ。

「くっくっく、このような遠くの情報まで網羅しているとは、さすがは我が忠臣よ」

 真奥はそうやって芦屋をほめた。悪魔大元帥として無料チラシを分析することに関し、彼の右にでるものはいないだろう。

「いくか」

狭いが専用の駐輪場に止めて真奥は店に向かった

 

 

 

 今、身震いがした。

「?」

 鈴乃は控室でわけがわからず、きょろきょろとあたりを見る。当たり前だが、なにもおかしい事はない。今日は少し早く来てくれと言われたので、早出の同僚はすでにホールにいて、控室には鈴乃しかいない。あの金髪の子は厨房担当にお使いに行かされたらしく「会っていない」。

 控室のドアノブに手を変える鈴乃。妙にドアノブが冷たい。朝だからだろうか。

 鈴乃はいぶかりながらホールにでた。今はまだお客さんがまばらで静かだった。一緒に働いている同僚が鈴乃を見て言った。

「あっすずにゃんさん。入り口お願いできますかにゃ」

「承知したにゃー」

 軽快に奇妙な対応をする鈴乃。だがもうそんなことは疑問に思わない。

 純粋にいい職場だと思う。リーダーは部下思いだし、やめたくなるような要素は鈴乃にはない。全く。と彼女は苦笑しながら思う。最初は嫌がっていたのに。

「ん」

 店の前にご主人様が立っている。何度もやるうちに、入ってきそうな人間は分かってしまった。鈴乃はふうと息をはく。

「そういえば最初は、ひどかったな」

 心で「人」の文字を何回かいたのかわからない。くすりとその記憶を笑う、鈴乃。

 ドアがゆっくりと開いていく。からんと鈴がなる。

 ぱあっと笑顔を作りながら、鈴乃は腰を折った。それから入ってくる男に言う。

「お帰りにゃさいませ! ごしゅじんさまぁあああぁあ???」

「……タ、タダイマ」

 真奥は笑うしかなかった。鈴乃は可愛いポーズのまま、固まった。顔が赤かった。

 

 

「お、オミズデス。ゴシュジンサマ」

「あ、アリガトウゴザイアマス。エット」

 席についた真奥はお冷を持ってきた鈴乃のネームプレートを見る。「すずにゃん」と書いてあるやつだ。

「スズニャンサン」

 真奥は鈴乃と目を合わせようとはしない。あまりに恥ずかしいからだ。自分がではない。いつも取り澄ました顔をしているメイドさんを見るのが。

「で、デハ」

 ロボットのような動きでテーブルから去っていく鈴乃。二人とも変な秘密を共有してしまった。

 真奥は急にお腹が痛くなってきた。多分ストレス性胃炎だと彼は思う。素人見だが、明確な自信はあった。

「は、はやく。オムライスを食べて、帰ろう……そしてわすれよう」

 真奥はそう言いながら。あることを閃いた。ぎらりと彼の灼眼が煌めく。

「鈴乃!」

 テーブルですずにゃんを呼ぶ真奥。返答はトレイが飛んできた。間一髪で白刃どりする真奥。冷や汗が出た。

「ナンデショウカゴシュジンサマ」

 怒りのマークを頭につけて、鈴乃が近寄ってきた。もうお前と関わり合いたくはないと纏う空気が言っていた。だが真奥には大切な用事があった。

 トレイを渡しつつ真奥は真剣な目を鈴乃に向けた。

「今日はオムライスを食べに来たんだ」

「はい、オムライスですね。すぐにお持ちいたします」

 食ったら帰れ。と言わんばかりに鈴乃は伝票をかいて背を向けた。真奥はあわてて止める。

「ち、違う。この無料のオムライスだ」

「無料? そんなのウチにあったか?」

 真奥は疑問を覚えながら、テーブルにいてあった紙を渡す。

 

「真剣勝負!? メイドさんとじゃんけんで勝ったらオムライスむりょうで食べさせてもらえるキャンペーン!」

 

 確かにかいてある、鈴乃は「聞いてないな」と思いつつも真奥を見た。

「これが、どうした?」

「よく見ろ、鈴乃。これは『メイドさん』とじゃんけんをするんだろ。お前はメイドさんだろ」

「! 八百長をやれというのか」

「しー、声が大きい。よく考えろ、鈴乃。ここで負ければ、俺は財布のなかみがなくなる!完璧にだ。一円も残らねえ。給料日まではあと6日。餓死するか、どうかは鈴乃っ」

 ギラリと真奥が鈴乃を見る。

「お前にかかっている」

「し、しかしだな」

「鈴乃ただでとは言わねえ。この借りは必ず返す」

「でも、この計画は穴だらけにゃ」

「まっ、穴! どういうことだ」

「それはだにゃ、裏切り者がいるのにゃ。情報がただもれにゃ」

「う、裏切り?漆原か」

「真奥! そ、その声は私ではない」

 鈴乃の声に真奥がはっと後ろを向いた。そこにはピンク色のツインテールのリーダーが居た。ニコニコ笑っているのがさらに怖い。

「り、リーダー」

「だめにゃすずにゃん。不正に手を貸そうだにゃんて」

「い、いや私は」

「言い訳無用にゃ」

 鈴乃はうぐと口をつぐんでしまう。その鈴乃とリーダーの会話を脂汗を浮かべながら聞く、真奥。その真奥にリーダーが腰を折って目を合わせた。

「ご主人様、――はかなしいのにゃ……」

「フェ、なに? い、いやこれはだな」

「でも、記念すべき一人目の挑戦者をむげに帰すなんて、面白くないのにゃ!」

「じゃあ、無料の挑戦をさせてくれるのか」

「もちろんだにゃ。負けたときはオムライスのお値段にきゅっぱだにゃ」

「2980円!? オムライスが??」

「だにゃ。不正をしようとしたからには逃がさないのにゃ!」

 にゃふふふと色っぽく笑うリーダー。鈴乃はその本性の一部を垣間見た気がした。

 

 鈴乃は死にたかった。目の前には真奥がいる。

 ここは店で一番目立つ一角。来店中のご主人様の目が一手に集める場所。

「さー、今日初めての挑戦者は、このかっこいい黒髪のご主人様だにゃ」

 マイクを持ちつつ、解説をするリーダー。さらに続ける。

「そのお相手をするのは、期待の新鋭すずにゃんだニャー」

「「「おおおおお」」」

 真奥の時は全く聞こえなかった感性が鈴乃の紹介で起こった。そう今から鈴乃と真奥は不正をした策した罰としてじゃんけんをするのだ。勿論、鈴乃が行うのはただのじゃんけんではない。

「すずにゃん。今からお手本を見せるから、よく見ておくにゃ」

「はっはい」

 リーダーはそう言うと、店のお客に向かって体を向けた。ひらりとスカートが翻る。それだけで店の中がどよめいた。

「にゃん」

 リーダーが横を向いて、手を猫のようにくねらせる。足は片足を上げる。

「にゃん」

 今度は逆方向をむくリーダー。繰り返すがこれは鈴乃のお手本である。つまり全部彼女が行う。

「じゃんけん」

 ぱちりとウインクするリーダー。最後に両手を胸の前に置いて、ぐっと両手を握る。これがぐーだ。ちなみにチョキ、パーは手の形を変えればいい。

「ぽん」

 歓声が大きくなった。

 

「…………」

「…………」

 真奥と鈴乃は同時に青ざめた。汗が滝のように流れていく。真奥は鈴乃があれをやるのかという困惑、鈴乃はあれを私がやるのかという驚愕。思っていることは実は一緒だが当事者とそうでないかという違いがあった。

「す、ずず」

 鈴乃。と真奥がいう前にすずにゃんがきっと彼を睨みつけた。もう彼女は鈴乃ではない。

「やるにゃ! ごしゅじんさま」

「にゃ、にゃ?」

 赤面しつつ言うすずにゃんにリーダーが頷く。

「さあ、これからが本当の勝負にゃ! オムライスを挑戦者は食べられるのか、それとも皿洗いか。さあ勝負にゃ」

 さっきの話を聞いていたからか真奥がお金を持っていないことは知っているらしい。それでもエンターテイメントに仕立て上げるあたりリーダーはやり手である。

 すずにゃんは意を決した。スカートをひるがえして、猫耳を揺らす。

「にゃん」

 泣きそうだった。もうこれだけで半端ない精神的ダメージがあった。

「にゃーん」

 間延びしてしまった。それで店のお客たちが感嘆の声を上げる。

「じゃんけーん」

 ぱちりとウインクを真奥にするすずにゃん。目が、赤い。それでも彼女はやめなかった。腕を胸の前に持って行く。そうして真奥を見ながら最後の言葉を言う。

「ポン」

 真奥も応じて手を出す。彼は終始無表情だった。こんな時どういう顔をすればいいのかわからない。

 

 鈴乃は「グー」。真奥は「パー」。真奥の勝ちだった。

 

「きまったあぁ。挑戦者の勝ちにゃー」

 リーダーの遠い声をすずにゃんは涙目で聞いていた。勝ちたかった。できれば真奥に恥辱の報いを受けさせたかった。皿洗い、すればよかったのに。

だがまだ彼女の地獄は終わらない。

 

 

「あ、あーんごしゅじんさま」

 スプーンにたっぷりとオムライスを乗せて、横の真奥の口に持って行く鈴乃。多めにスプーンに乗せているのは、とっとと食べさせて帰したかったからだ。

 

「真剣勝負!? メイドさんとじゃんけんで勝ったらオムライスむりょうで食べさせてもらえるキャンペーン!」

 

 これがこのキャンペーンの名前だ。無料で食べられる、ではない。無料で食べさせてもらえるキャンペーンなのだ。

 

 スプーンが震える。鈴乃はにこやかに真奥の口へ、オムライスを持って行っては食べさせる。噛むのを待つ時間などない。のどに詰まらせてくれればいいのに。

 ちなみのこれは衆人環視。お店の中のお客さんがみんな彼らの「あーん」を羨ましげに見ている。鈴乃は知らないが一応、あーんの「お返し」と言えないこともない。

「……」

 真奥はじゃんけんの時から無言である。今日おみくじを引こうものなら大凶の自信が彼にはあった。口の中の物は味がしない上に、無限に追加してくる鈴乃の攻勢にむせそうだった。

 そんな中、リーダーが真奥に近寄ってきた。

「お疲れ様だにゃん、ご主人さま」

 すすっと笑顔を向けるリーダーに真奥は一瞬驚いた。だがリーダーは何かを真奥に握らせた。「コーヒー無料券」そう書いてある。

「また来てくれるにゃん?」

 きらきらとした目で落としにかかるリーダー。真奥は乾いた笑顔を張り付けたまま言う。リーダーの笑顔に押し切られたといってよい。

「……い、いいとも」

(に、二度と来るなー)

 鈴乃の心の叫びは誰にも聞こえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




おつかれさまでした。



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属性3 改名夢想

今回は少し短めです。あとこれはまおすずルートに入りました。

御気を付けください。あと「改名夢想」はわかリにくいとおもいますが、読んでくださればわかると思います。


 ああ、朝か。そう思いながら鈴乃は布団から身を起こした

 目を少しだけ擦るだけで鈴乃はぱっちりと目を開ける。表からは鳥の鳴き声が聞こえる、朝の静寂。ひんやりとした空気が彼女の頬を撫でる。

 鈴乃は布団からゆっくりと出て、部屋の窓を開ける。朝日が眩しい、今日もいい天気になりそうだった。鈴はゆっくりと目を閉じて、朝日からの暖かさを身に沁みこませる。それだけで心が洗い流されていくようだった。

「……今日は、バイトはなかったな……」

 呟きは小さい。誰に言うでもないからそれでいい。鈴乃は少し考えて、から布団を直そうとした。

鈴乃が布団に歩きより、その端を掴んだ。それは一晩寝たにしてはシワも少なく、清潔な白が陽に映える。これは彼女の几帳面な性格を表しているのだろう。

鈴乃はふと手を止めた。そして壁にかけてある、ものを見る。

それはメイド服。ブラウスとベスト、それに黒のスカートがかわいらしい鈴乃の制服。鈴乃はじっとそれを見ながら、あることを思いだした。

 

『あ、あーんごしゅじんさま』

 

 忌まわしい記憶が鈴乃を駆けめぐる。彼女の顔がみるみるうちに赤くなり、いきなり鈴乃は布団へ頭を突っ込ませた。そして布団を羽織って、中でもぞもぞと動く。

「あああああ……ぁ」

 布団の中から聞こえる、変な呻き声。整っていたシーツが皺を作っていく。鈴乃は足を動かし、手を動かし何かを振り払うように体を動かした。

 

『お帰りにゃさいませ! ごしゅじんさま』

 

「違うんだ! 真奥!」

 ばっと体を起こして、ここにいない人物への弁解を始める鈴乃。彼女はあたりを意味なく見回して、ふうふうと荒い息を吐く。

 正直なところ、これは何度目だろうか。あの忌まわしい日から何度も、何度も鈴乃はこの調子であった。実際、真奥に会うたびに睨みつけたり恥ずかしがったり、気まずかったたりと困ったことになっている。

「はあ」

 落ち着いてから鈴乃はため息をついた。この頃、変なことに不運が付きまとっている気がしてならない。財布を落とすは、真奥に変なところを見られるはと頭の痛くなることばかりだった。

「まったく……あの日から、だな」

 あの日。あまり覚えてはいないが、漆原に悪態をつかれてやけ酒をするなどと言う、聖職者にあるまじき行為をした日。それも悪魔達と酒宴をしたというのだから、余計に問題だった。

 そういえば、と鈴乃は思い出した。あの酒宴の次の日のことだ。

 酒臭い中で漆原や芦屋、そして真奥と鈴乃は一つ屋根の下に気絶するように寝ていた。最初に起きたのが自分でよかったと鈴乃は今さながら、安堵せざるをえない。

「…………ん?」

 鈴乃は何かに気が付いた。というよりも違和感を覚えた。彼女は顎に手を当てて、記憶を探った。違和感の正体を見極めようとしたのだ。実際にはしない方がいいのだが、彼女はそこに隠された「真実」を知らない。

 鈴乃は思い出す。

(あの日は。ルシフェルは変な格好で寝ていた。アルシエルは壁に寄りかかって寝ていた。……真奥は、私の目の前で寝ていたな……あれ?)

 そこで鈴乃は気が付いた。あの朝、目が覚めた時に鈴乃の目の前には真奥の影があった。それもたしか――。

(あああああああのときわたしはまおうにだきつくようにねてなかったか???)

 先ほどとは別の意味で顔を赤く染める鈴乃。頬を両手で包み、唇をかむ。理解できない記憶の光景に目を泳がせる。彼女は頭をふりつつ「違う、何かの間違いだと」また心の中で弁解をした。

 だが、覚えている。

 鈴乃が何度否定しても覚えている記憶が否定を否定する。どうあってもあの時の光景は真実だとしか考えられない。

 あの時、真奥は完全に寝ていた。彼が起きたのは鈴乃が起きたずっと後だ。と言うことは長い間、真奥と鈴乃は隣り合っていたと考えた方が自然である。

(な、ならなら私は、まままおうとひとばん添い寝をして、ててて)

 鈴乃の心が乱れる。今自分がどんな顔をしているのかがわからない。頭の中は真奥のことでいっぱい、と言えば乙女チックであるが少々違う。だが、鈴乃は困惑しながらもあることに気が付いていない。自覚はないが嫌悪を感じていないのだ。

「た、たしかめ……たしかめよう、あの日何があったかを……」

 鈴乃は激しくなる胸の鼓動を抑えながら、決意を固めた。今日の朝がこれから始まる奇妙な2日間の始まりでもあり、ここ数日の珍妙な事態の終わりでもある。

 

 

 

「真奥。弁当だ」

 取り澄ました顔で鈴乃は真奥に弁当を渡した。

「サンキュー、たすかるぜ」

 真奥は軽く礼を言って鈴乃の渡した黒縁の弁当箱を手に取る。そうやって脇からだしたスーパーの袋にそれをいれると玄関から飛びだして行った。彼は朝早くからアルバイトがあったのだ。

 ここは鈴乃の部屋の隣。いつもの魔王城である。部屋の中には寝転んだまま、足をぶらぶらとさせている漆原と何かの帳簿をつけている芦屋が居た。鈴乃は台所に立って、手を洗う。彼女の格好は前掛けに頭頭巾。

「さて、真奥は行ったな……」

 手をふきながら鈴乃は冷静な声で言う。その実さっきから心臓がうるさいぐらい鳴り続け、手汗が出て仕方ない。そもそも真奥の顔を見た瞬間、変な声を出しそうになって危なかった。

「もうこんな時間か……」

 そういいながら立ち上がったのは芦屋だった。ぴくりと漆原と鈴乃が反応する。それぞれ別の思惑を持っていた。

「さっき言っていた、朝の特売にいくのか?」

 鈴乃は声が上ずらないように慎重に芦屋に聞いた。芦屋は頷いてから言う。

「ああ、午前10時から商店街のスーパー始まるからな。もう出ねばならない。……すまない,鎌月さん。今日は炊事を任せきりにしてしまって」

 そういって芦屋は鈴乃に頭を軽く下げた。家事をしてもらったからお礼を言うなど悪魔として大丈夫なのだろうかと鈴乃は思う。そもそも今は午前8時。あと二時間はある特売の時間に何故今行くのだろう。

 鈴乃は疑問がいくつか浮かんだが、全てのみ込んだ。今は芦屋にいられたら困るのだ。

 鈴乃はあの日のことを聞くことを朝からずっと考えていた。だが真奥自身に聞くなど言語道断。恥ずかしくていやだ。次に芦屋だが、魔界一の智将である彼に聞けばうまくはぐらかされる可能性が高い。残るはあほの漆原。尋問するには奴しかいなかった。

 だからどんな事情にしろ芦屋が居なくなるのは鈴乃にとって好都合だった。彼女は頭を下げる義理堅い悪魔に苦笑しつつ、優しく声をかける。

「気にする必要はない。まえに酒宴にさそって……いや、隣のよしみだ」

 今、口を滑らせそうになった。鈴乃は冷や汗をかいたが、芦屋は再度礼を言うと、エコバックを持って、アパートを出て行った。

 

(本当に、悪魔だろうか)

 何度思ったか知らない疑問をまた、鈴乃は思う。エコバックをなどと言う環境に配慮したものを悪魔が所持しているだけでおかしいのに、スーパーで普通に買い物をしに行く芦屋は奇怪な存在としか言いようがない。

「暴れられるよりも……ましだろう」

 そういって鈴乃は自分を納得させる。この答えも考えたのは数か月も昔のこと。それだけこの疑問を鈴乃は繰り返していた。

「ねーベル」

 漆原が鈴乃に話しかける。ベルとは鈴乃の本名だ。

「なんだ、ルシフェル」

 鈴乃はじっと常時だるそうな顔をした漆原に聞き返した。よくよく考えれば、今聞くのがベストなのだがどうも言い出せない。

(あっ、そういえば、どう聞きだせばいいだろうか?)

 鈴乃は悩んだ。まさか「真奥と添い寝していたのだが、何があった」などとは口が裂けても言えまい。

「ベル? なんか顔が赤いよ?」

「はっ、い、いやなんでもないぞ!」

「そっそう」

 漆原の言うとおり、頬をほんのり染めた鈴乃は手を大きく振って否定した。その仕草から、何かあると感づいた漆原だが「まあ、いいか」とながした。

「なんかさー。宅急便が届いたら、ぼくがでるから。気にしなくてもいいよ」

「?……ああ、承知した」

 何故そのようなことをわざわざ自分に言うのかはわからないが、鈴乃は何となく頷いた。鈴乃はごほんと咳払いをする。そうしてから睨むように漆原を見てしまった。

「な、なに?」

 困惑した顔で漆原は身を下げる。多少怯えているのは酒宴の日に「酒乱」に襲われたからだろうか。鈴乃ははっと漆原が下がったのに反応した。少し頬に入った力を抜いて、彼女は表情を緩める。

「いや、なんでもない」

 なんでもないわけないのに鈴乃は言ってしまった。それを聞いて漆原は逃げるように、部屋の隅へ行ってしまった。そうしてからパソコンの電源をつけて、ヘッドホンを耳につける。

 完全にタイミングを外してしまった。鈴乃は去っていく、漆原に手を出して止めそうになったがすぐに下げた。今は、まだ。などと自分が聞かないことを正当化してしまった。

 

 台に雑誌を開いて鈴乃は読む。彼女の姿は前掛けや頭巾はとり、簪を刺したサイドテール。

鈴乃の前で漆原はネットサーフィンをする。完全にニートの息子と主婦の構図だ。だが鈴乃は真奥の部屋にあった雑誌を広げてはみたものの頭に入ってこない。さっきから漆原に声をかけるタイミングを計っては、言い出せない。

 その漆原はヘッドホンをしているから、生半可な声では反応しない。それに鈴乃は彼に近寄って聞くのも恥ずかしいから何の進展もなかった。

 コンコンと扉を叩く音がした。鈴乃は振り返ると扉の向こうから、「宅急便でーす」と間延びした声が聞こえた。鈴乃は漆原を見たが、彼は全く気が付いていない。気にするなとは言われたが出ないのも失礼だろうと鈴乃は立ち上がった。

「おまたせした」

 鈴乃が扉を開くと、青い服を着た男が居た。その手には少し大きめの段ボールが抱えられている。漆原が待っていたものだと鈴乃は思うが、よく考えたら彼に支払能力があるとは思えないから真奥のお金で買ったものだろうと鈴乃はあきれた。

 宅急便を持ってきた男は出てきた和服の女性に一瞬驚いた。だが直ぐに笑顔になる。なかなかに「慣れた」男らしい。

「えっと。真奥様のお宅でお間違いなかったですか?」

「ああ、間違いない。先に荷物を預かろう」

「ああ、すみません。重いので気を付けてください」

 男は鈴乃にゆっくりやさしく荷物を渡す。鈴乃はその心遣いに好感を持ちながら荷物を受け取ると横の流し台の上に置いた。男はまたにこやかにしながら、胸のポケットからペンを取り出した。そして右手に持った伝票を鈴乃に出す。

「じゃあ奥さん、ここにサインをお願いします。あっ、カタカナかひらがなで『まおう』で大丈夫ですよ」

「承知した。ここだな」

 さらさらと鈴乃は「まおう」と伝票にサインする。そこで気が付く。「奥さん」だと。

「ちょっ、ま――」

「ありがとうございましたー」

 にこやかに爆弾を投げて去っていく男。鈴乃は靴もはかないまま、外へ飛び出しそうになった。だが足をもつれさせて、流し台に手を突くことしかできなかった。

「…………」

 真奥鈴乃。

「にゃあああああああああ?!」

 変な想像をして鈴乃は奇声を上げた。猫みたいな声は仕事癖と言っていいかもしれない。その声に漆原は後ろを向いた。

「な、なんなの? 今の、てっ荷物とどいてんじゃん」

 一瞬で鈴乃から興味を無くした彼は荷物に駆け寄った。テープで蓋が閉められているダンボールを力任せにあけていく漆原。とりあえず引っ張って開ける。鈴乃はその姿を恨みがましく見るが彼女は、部屋の中に戻ると、本棚に置いてある小さな箱からカッターを取り出す。なにがどこにあるのかわかっているのがどういうことなのか、鈴乃は気が付かない。

 自分が荷物をとるようなことを言っていた漆原だが、彼は鈴乃が宅急便を取ったことを気にしていないようだった。

「ルシフェル。これで開けろ」

 漆原の横に膝をついて、カッターを渡してやる鈴乃。「さんきゅー」と軽い口調で漆原はそれを受取った。そしてあける。

 中には梱包されたゲームを中心に漫画などが入っていた。それだけではなく、トランプや知恵の輪などという無駄なグッズも入っていた。鈴乃はまた呆れながら聞く。

「な、なんに使うんだ」

「えっ? 持ってたら便利じゃん」

 持っていたら便利。特に目的意識のない買い物を散財と表現するが、まさにそれだった。

「……………」

 箱の中から出てくるガラクタ。適当にネットの販売サイトをクリックしたとしか思えない統一性のないものたち。鈴乃は一緒に入っていた伝票を手にとって、羅列された商品名を眺めていた。

(こんなに買って。また真奥達に怒られるのだろうな……)

 そこでふと、思いついた。

「……ルシフェル」

「んーなにー?」

 「オセロ」と書いてある箱を見ながら漆原は反応する。鈴乃は伝票を握りしめながら、ごくりと唾をのんだ。彼女は決意を固めた。彼女の掴む一枚の紙切れが、後押ししてくれた。

「幾日か前の酒宴の夜……何があった?」

 前置きなく、短刀直入に聞く鈴乃。そして目を見開く漆原。心の中で「なん……だと」とつぶやく彼のネット脳。だが驚愕しているのは本当だった。

「さ、さあ」

「…………」

 無言で漆原に伝票を見せる鈴乃。言わなければばらす。そう漆原には聞こえた。口に出さないのは、恥ずかしさが残っている証拠。それは朝の「添い寝」の件に触れないのことに現れていた。

 汗が出る。漆原の背中に冷たいものが流れていく。

 そもそも漆原にとって、あの夜のこと「鈴乃と真奥がキスしてたー」なんてどうでもいいことだった。だが彼はそれを言うわけにはいかない。なぜなら、それを秘密にする代わりに禁止されていたゲームやパソコンをする権利を守ったからだ。もちろん漆原がしゃべれば、明日からは無味乾燥なニートライフが待っている。それはいけない。

 しかし、漆原は言わなければならない。なぜなら真奥や芦屋に秘密で買った目の前のグッズがばれようものなら、地獄を見るのは明らかだ。

 前門の芦屋、後門の鈴乃。漆原は絶体絶命の危機に陥っていた。よくよく考えれば1から10まで自業自得なのだが、そんなことを考えるほど堕天使ニートは甘くない。パソコン、ゲームをやり放題かつ目の前の商品を守りと通さねばならない。

「ルシフェル……?」

 怪訝な顔で聞く鈴乃。漆原があまりに何も言わないので、そこに重大な「秘密」があると想像してしまった。だがそれが「何」か、は彼女にはわからない。それがわからないから不安が大きくなってしまう。

「おい、ルシフェル」

 口調が強くなった。鈴乃は漆原の肩を掴んだ。ぎょろりと漆原の目が鈴乃を向く。

「な、なん……だ」

 あまりに奇妙な動きに鈴乃は引いた。精神的にも、肉体的にも。漆原はじっと鈴乃を見ながら言う。こいつを、だまらせないと優雅な生活が、危うい。殺気にすら見える漆原の怠惰への欲求。

「勝負だ……」

「はあ?」

「僕にしゃべらせたいのなら、これで勝負だよ、ベル!」

 ばっと漆原は手に持ったオセロの箱を鈴乃に見せる。彼女は一瞬困惑したが、つまるところ勝負をして勝てば話すと言っているらしい。見れば単純なボードゲーム。漆原相手になら負けないだろう。

 鈴乃は漆原の心の葛藤を知らない。窮鼠猫を噛む、とはいうが勝手に追い詰められた漆原もそれにあたるのだろうか。鈴乃はうんと頷いた。さっさと終わらせて、彼の口を割らなければならない。

 血走った目で鈴乃を睨む漆原を、鈴乃は見くびった。

 

 

 

 




これがやりたかったんや。短くしたのはそのためです。


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属性4 敗北者

漆原は台の上に箱を置いた。その中から、折りたたまれた黒の縁をしたボードを取り出す。そのボードの表面が緑に光る。まだ一度も人に触られたことがない、そうボードが言っているようだった。

 漆原はボードを開くと、中には黒白の「石」が入った別の箱が二つ入っている。漆原が箱から「石」を一枚出す。それは「石」と言うのには柔らかな感触と見た目。これがオセロ特有の磁石入りの駒。

漆原はその箱を取り出して、片方を目の前にいる鈴乃に渡した。鈴乃も漆原のように一枚取り出して「石」を見る。おそらく漆原には負けまいが、油断は大敵。鈴乃は「石」を手で弄びながら思った。

「……じゃあ、僕が黒を使うからね……あと、どっちからやる?」

「どっち? ああ、ならば私が先攻をもらおう」

「…………」

 漆原はそれを聞いて、軽く頷くだけ。無言で四つの「石」を台に置かれた盤上に並べた。四つの「石」の2つは黒、2つは白。漆原は四つを対格的に置いた。

 鈴乃はいきなり無言になった漆原に少なからず訝しさを覚えたが今からやるのは変哲もないボードゲーム。何を企もうが程度は知れている。そう彼女が思ったがそれは間違いだった。今、漆原が考えているのはそんなに生易しいものではない。

「ルシフェル? 初めてもいいか……? 私が勝てば、しゃべってもらうからな……」

「ああ、分かったよ……」

 漆原は俯いたまま答える。鈴乃は箱から一枚取り出して、盤上に置いた。

 

 数手、交える。口を開かない漆原に引きずられるように鈴乃も何も言わない。ぱちぱちと「石」を置く音だけが、部屋に響いた。

 盤上に石が置かれていく。緑が隠れ、黒と白が交差していく。

 鈴乃が白の「石」を置くと挟まれた黒がパタパタと裏返っていく。今の盤上では白が圧倒していた。つまり鈴乃が優勢だった。だが漆原はなんのリアクションも起こさない。

(ふむ……)

 鈴乃は盤上を見つめる。間違いなく、白の方が多い。黒は固まっておくことすらできず、盤上に虫食いの様に置かれている。ここからの逆転の方法を鈴乃は思いつかない。

 鈴乃は。思いつかない。

 漆原の手番。彼は手に「石」を持ったまま、じっと黒の少ない盤上を見ていた。鈴乃はそろそろ降参してくれないかと思う。早く聞きだしたい気持ちがはやり、鈴乃の視野を狭くしているらしい。

 ぱちり。と漆原が黒を置く。

「あっ!」

 鈴乃が声を出したのは必然ともいえる。今の漆原の一手で、白の一列が黒に代わっていく。そこは鈴乃には盲点の場所だった。彼女は悔しげに唇を噛みつつ、漆原に言った。

「くっ、やるなルシフェル」

 反撃にと鈴乃も一手打つ。だが先ほど取られたほどは奪い返すことはできなかった。

 漆原の目が動く。鈴乃を見た。そして口を開く。

「……ベル」

「?……なんだ」

「君はもう、負けている」

 何かの漫画のようなことを言う漆原。鈴乃はなにと驚愕の表情をする。

「な、なにを言っているんだ? まだ勝負はわからない……あっ」

 鈴乃がしゃべるうちに漆原がまた「石」を置いた。それだけで二列、黒が増える。先ほど漆原がとった「石」が橋頭堡になって鈴乃と漆原の形勢を逆転させる。

 そもそも鈴乃は確かに優勢ではあったが、有利であるというわけではない。オセロとは「最後に多くの石を取った」ものが勝つのであって、途中にどれだけ「石」を取ろうと関係ない。それを鈴乃は理解しておらず、漆原は理解していた。

鈴乃はばんと台に手をついた。

「な、こ、こんなことが」

 汗を流し、目を見開き。目の前の盤上を食い入るように見つめた。信じられない、自分が漆原に負けそうな現実が。だが、それは事実だった。鈴乃はできる限り多くの「石」をとれるように反撃する。

 手番を交代して漆原がまた「石」を置く。それだけで鈴乃の陣地が黒く浸食される。鈴乃は悔しげに唸るが、明らかにこの勝負で逆転する方法がない。

「…………」

 漆原は不気味に何も言わない。彼は今、死と生の狭間にあった。この勝負に負ければゲームも漫画もパソコンも禁止されてしまう。それはニートとしての死を意味するのだ。それだけは絶対に避けなければならない。

 だから容赦しない。漆原はすでに勝負のついた盤上に、黒を置く。それでか細く生き残っていた白が消えていく。さらに漆原に頭脳的なゲームで負けるとは思っていなかった鈴乃のプライドにひびが入っていく。

「あ、……そこは……」

 なにか哀願するような声で鈴乃は呟く。それでも漆原は手を抜かなかった。鈴乃は震える手で白を置くが、置いた途端にとられるのだからむなしいこと限りない。

 二人の勝敗を分けたのは執念の違いだった。

 

「…………」

 ギュッと手を膝元で握り、鈴乃は黒く染まった盤上を見つめていた。完璧な敗北である。だが勝利した漆原はニコリともせずに鈴乃を見ていた。

 漆原の頭はかつてないほどに澄んでいた。確かにこの勝負は自分が勝った。だがそれでも鈴乃の方が状況的に有利なことにはかわりない。なんといっても彼女は漆原の弱みを握っている。芦屋に告げ口をされてしまえば、死ぬ。

 堕天使として、漆原は考えた。この目の前にいる、女の子を完全完璧に黙らせる策を頭で練る。この瞬間、この場面だけで言えば漆原の知略はアルシエルこと芦屋に匹敵するかもしれない。それだけ怠惰への欲求は計り知れない。

 にやりと漆原は笑った。

「ベル……もう一回勝負しよう……。ぼくに勝てば話してあげるよ……」

「なっ、情けのつもりか!」

「違うよ……」

 充血した目を鈴乃に向ける漆原。そう情けなどかけてあげるつもりは一切ない。それどころか彼の精神はエンテ・イスラで戦っていたころほど冷酷になっていた。こんなしょうもないことにしか本気になれないのは問題だが、今の彼はまさに悪魔大元帥である。

「ベルがあまりに弱すぎたからね、僕としてもかわいそうになったから……」

「き、貴様。そこまでの侮辱をしてただで済むと思っているのか!」

 ただで済ますと思っていないのはこっちだ。漆原は思う。ニートからモニターを奪えば座禅でもするしかないではないか。働くなんて高尚な思想を彼は持ち合わせていない。

「い、いいだろう! こんどこそ、私が勝って聞き出してやる」

 鈴乃が言った時、薄く漆原は笑った。

 

 二戦目。今度も漆原が黒、鈴乃は白だ。

 初手、漆原を睨みつけて鈴乃は石を置いた。黒が一枚ひっくり返る。彼女は真剣そのものだった。漆原も石を置いて、白をひっくり返す。

(なにを考えている……ルシフェル)

 鈴乃は漆原の真意を測りかねた。実際にはこの勝負、漆原にはなんのうまみもない。先ほどの勝負は彼の勝利だったのだからそのままであれば鈴乃はあきらめて、次の策を考えなければならなかったところだ。

 その「次の策」を漆原が恐れているのはさすがの鈴乃にも気がつけなかった。もしもさらに漆原の秘密を盾にされてしまえば万事は窮す。この勝負はそんな考えも起こらないほど、鈴乃を恐怖のどん底に追いやるためのものだった。

 鈴乃が石を置いた。黒が白に代わる。

 間髪入れずに漆原が石を置く。彼はその冷たく光る眼で鈴乃をジトリと見る。鈴乃はその目になにか不気味なものを感じる。しかし、彼女の頭の中には変わらず「単なるボードゲーム」という固定概念があった。

「……」

 鈴乃は無言で石を置く。

 

 勝負は続く。盤上は一進一退。まさに互角のように見えた。

 鈴乃は汗で手のひらがじんわりと濡れる。ごくりと息をのむ。ここで負ければ二連敗。それだけは絶対に嫌だ。そんな感情が表に出たように鬼気迫る表情だった。

 反対に漆原の表情は変わらない。最初の敵意に似た眼光は影を潜め、氷のような無表情を保っている。そんな彼が次にいう言葉を鈴乃は驚愕とともに聞いた。

「パス」

「……は?」

「パスだよ、ベル」

 そういって漆原は自分の石を鈴乃に渡した。オセロの場合、パスをするときは自らの石を相手に渡して、代わりに打ってもらう。勿論相手には相手の手番があるから、二回連続で打つことになる。

「……本気かルシフェル?」

 鈴乃は石を受け取りつつ聞く。漆原は何も言わずに無言を保つ。

「容赦しないぞ」

 鈴乃は漆原の石を置いて白の陣地を増やす。それだけでなく、自分の手番でさらに白をおいて黒を消していく。一回の行動分鈴乃は有利になった。そして目で漆原に促す。次はお前の番だと。

「パス」

「なっ?!」

 漆原はそういって鈴乃の目の前に石を置く。鈴乃はそれを反射的に受け取りつつも、怒気を含んだ声で言った。

「ルシフェル。ふざけているのか」

「…………」

 漆原は鈴乃に何も言い返さない。その態度に怒りを覚えつつも、鈴乃は石を置いた。

 

 それから数手。漆原は時折パスを交えつつ、勝負は続いた。明らかに手を抜かれているような気がして鈴乃は肩を震わせたが、先ほど負けたことと不気味な漆原の沈黙が抗議や不満の声を抑えた。

「……」

 ふと、漆原の手が止まった。じっと盤上を見つめる堕天使。そこから漆原は笑った。

 邪悪な笑みだ。目を見開き、口を開けて。声なく鈴乃を哂う。鈴乃は背筋に冷たいものを感じた。何かが、来る。オセロで。

 一瞬の静寂のあと。漆原が石を置いた。

 パチンというマグネットの接合音が、鈴乃の耳に響く。どくんと彼女の心臓が動いた。先ほどの漆原の笑みからなにかとんでもないことをされると思ったのだ。

 しかし、漆原の一手は平凡だった。数枚の白をひっくり返しただけで、特に形成を決定づけるというほどのものでもない。それに、盤上をみれば鈴乃が白を置けば大量に黒をひっくり返すことができる場所は多い。鈴乃はほっと息を吐いて、自分の石を取る。

 真ん中一列。それが鈴乃の狙いだ。そこを全て白にすればかなり有利になる。それに真ん中の列は二個分の空きしかない。ここでとれば――

「あ、あれ」

 鈴乃は石を置こうとして止まった。さっきの漆原のようだが彼とは違い鈴乃は困惑しているだけだ。

 今、置こうとした場所には黒の点があった。固まっておかれているわけはではない。唯、一点。黒が離れて置いてある。それが絶妙な位置にあった。

 確かに今真ん中の列を白にすることはできる。だが次の漆原の一手で、取った駒ごと黒にされるのは明らかだった。鈴乃はなるほどと感心した。先ほどの笑みはこの策略のためかと。

「……やるな、ルシフェル」

 賞賛の言葉を言いつつ、鈴乃は目標を変えた。直線がダメなら、斜めにとる。そう思いつつ石を置こうとした。ここも取れれば大量に白にすることができる。

「あ、あれ」

 同じ言葉を出す鈴乃。今おこうとした場所にも、巧妙に黒が置かれている。ここも白がとればすぐに黒へ変換されるだろう。だから鈴乃はまた目標を変更する。

 

 そこでも、同じだった。

 

「なっな?!」

 変な声をだして立ち上がる鈴乃。上から見れば、よくわかった。どこに置いても鈴乃の石は黒へ飲み込まれる完璧な布陣。それが見えた。これを作る為にパスを交えつつ、漆原は一手を重ねたのだ。

 漆原の最後の一手は平凡だった。だがそれはゲームが始まってからの線をつなぐ最後の一手でもあった。あの笑みは完成の合図だった。

 確かに漆原はアホだ。それは間違いない。しかし鈴乃は忘れていた、一日中パソコンの前に座ることしか能のないこの漆原には無限に等しい暇があるということをだ。オセロのゲームなどネットにはごまんと転がっている。そして全国を通じたネットワークが構築されているのだ。日本中の暇な強敵たちを相手にしてきた漆原にとって鈴乃など元から相手にならない。

 百戦錬磨。それがこの漆原の正体。暇を持てあましつつ、ブラウザゲームからハンゲームにまで手を出している彼はニート。その前では鈴乃もアリジゴクの前のアリに過ぎない。ただし、ゲーム限定の。

 

 驚愕を顔に表す鈴乃。肩が震える。汗がとめどなく流れていく。彼女はその震える視線を動かして、漆原を見た。

 漆原も見ていた。鈴乃をその顔は冷徹そのもの。ゆっくりと開く唇が、舐めるような声を出す。

「わかっているよね、ベル」

「あっ、あ」

 口を開けたは閉める鈴乃。彼女はしばらくそうしてから、悔しげにこう言った。

「……ぱ、パスだ……」

 石を受け取った漆原は容赦なく石を二つ置く。盤上の二列が黒へ変わった。おまけに隅が一角取られる。だが布陣は崩れてはいない。この陣形を崩さない限り、鈴乃には反撃のチャンスすらなかった。

 しかし、現実は甘くない。

「パスだ……」

 どこに置いても取り返されるこの状況ではそれしか鈴乃には手がない。反撃どころか、石すら置けないこの絶望的場面。それが彼女のプライドを崩していった。実際には漆原の超人的強さには超人的怠惰が潜んでおり、誇れることでは全くないのだがそこまでは鈴乃も知らない。

 

黒に染まっていく、白が消えて行く。

鈴乃は自らの築きあげた全てが目の前で犯されていくのをただ呆然と見ているしかなかった。たまにパスではなく、石を置いてみたりもするが次の漆原のターンでとった石以上のものが奪われるのだからどうしようもない。

「…………ひ、ひどい……」

 そうして、全てが黒くなった。盤上には一点の白もない。

 漆原の完全なる勝利だった。

 

「ベル。僕の勝ちだ」

「見れば、わかる」

 がっくりと肩を落として鈴乃は悔しがった。ここまで完膚なきまでに負けるとは思わなかったのだ。だがまだ漆原の悪魔的謀略は終わらない。そもそもこのオセロの勝負に勝とうが負けようが主導権は鈴乃にあるのだ。それは彼女が漆原の秘密を握っている限り、絶対に変わらない。それを打ち崩さねば明日はない。

 漆原は最後の仕上げにでた。それは鈴乃にとって残酷な結末を意味する。

「……ベル、話変わるんだけど」

「なんだ、ルシフェル」

 鈴乃が反応すると漆原は後ろを向いて、パソコンのスイッチを押した。スリープモードの画面が光り、鈴乃にはよくわからない壁紙の張ってあるデスクトップが映し出された。そこには大量のアイコンが張ってある。

 漆原はマウスを動かす。彼はパソコンを向いているから鈴乃には後ろ姿しか見えない。

「最近サー、いろんなジャンルを調べてるんだよね。僕さ」

「……? それがどうした」

「でさー、ここは某巨大掲示板なんだけど」

 漆原がマウスをクリックすると、「お気に入り」アイコンからその「某巨大掲示板」にとんだ。画面にはなにか文字の羅列が浮かび上がる。少なくとも鈴乃にはそう見える。

「ルシフェル。私はぱそこんについてはよくわからないぞ。だからなにを聞かれても……」

「うん……だろうね。じゃあさ、このスレだけ見てほしいんだけど」

 スレと言うのは簡単に言えば、人数制限のないチャットのようなものだ。それには題名がそれぞれついている。先ほど鈴乃が文字の羅列と思ったのは正しくはスレの羅列だ。それをクリックすれば誰でも覧できる。

 漆原はその中から一つを開いて鈴乃に見せる。

 

――かわいいメイドさんの写真を晒すスレ

 

「みゃ!」

 飛び上って奇声を上げる鈴乃。それからがたがたと震え始めた。漆原は気にせずスレッドをスクロールしていく。だが彼は、コメントなどは気にせず画像ファイルを一つ開いた。

 ピンク色の髪をした、猫耳のメイドさんが映った画像だった。

(り、りぃだぁ!)

 心の中で絶叫する鈴乃。

「あっこれじゃないや」

 漆原は後ろを振り向くことなく、画像を消す。

「メイドさんってさ、なんだか憧れるよね。ねえ、ベル」

「そそそそうだな。るふぇいす」

「ルシフェル、だよね。ベル」

 明らかに動揺する鈴乃を漆原は振り返らない。そして彼はある一点でスクロールを止める。それからカチリと画像ファイルをワンクリックする。ダブルクリックしないから、ゆっくりと画像が表示されていく。

 鈴乃は滝のように汗をかき始めた、青ざめた顔で震える彼女。焦点が合わず、視界が揺れる。心臓の音がどくどくと耳に響く。

 そんな鈴乃をちいさく、ちいさく動きながら漆原は振り返った。ディスプレイの光が彼の顔を照らし、陰翳がその不気味さを増す。

画面にはゆっくりと、猫耳で、猫のように腕をまげて、可愛く笑顔で舌をだしている、メイドさんの姿が現れてくる。それは黒い髪が鮮やかなメイドさんだった。

鈴乃は声にならない悲鳴を上げた。そのメイドさんはこの世の中で最も知っている人物なのだから驚くのも無理はないだろう。

漆原は画像を指さしながら、言う。その目はぎらりと光る。

「このメイドさん。ベルに似て――」

「ひ、人違いだ!」

「そうかな、ねえ。ベル。いや」

 そこで漆原は一呼吸置いた。そうやって口角を釣り上げる。紅い舌が、動いて。いつものように斜に構えた彼の姿勢が、さらに鈴乃を圧迫する。

 漆原は言う。どこで手に入れたのか「あの名」を口に出す。

「ねえ? す、ず、にゃん?」

「……ぅあああああああああああ!」

 鈴乃は逃げ出した。背を見せて、この悪魔の少年から。だが慌て過ぎたのか足をもつれさせてしまった。彼女は倒れつつも玄関のドアノブに手をかけて、がちゃがちゃと動かす。

 その後ろからパソコンのモニターを抱えた、漆原が迫る。彼は画像を拡大して、画面いっぱいにメイドさんを表示させていた。

「ねーえ、これどういうことなの? すずにゃん」

「す、すずにゃんっていうなああ」

「秋葉原で働いているんだよね? 意外だなあ、僕はすずにゃんはこんなことに興味はないと思っていたんだけどなあ……」

「あけえ、あけえ!」

 慌てふためいて、開き戸を引く鈴乃。漆原とモニターはゆっくりと近づいてくる。鈴乃はそれを涙目で振り返り、唇をかむ。

 振り返った鈴乃の見たのは悪魔の姿だった。邪悪な笑みを浮かべながらモニターを持って近寄ってくる少年、漆原。鈴乃はこの世界にきてこれ以上ないほどの恐怖を味わわされている。こんなことが最大の恐怖でいいのかは別の話だ。

「ぁ……!」

 鈴乃が悲鳴を開けた瞬間ドアが開いた。一瞬漆原に気を取られてしまったことで、無意識にドアを押したのだ。鈴乃は地面に手を突きながら、なにか言いつつ部屋から飛び出ていく。漆原はそれを追わなかった。

 開け放たれたドアから勝利の風が吹き込んできた。漆原はモニターを台におろすと、両手を上げて勝利のポーズをとった。

「正義は勝つ」

 けだるげに言う、漆原。これで全てが終わったのだ。迂闊には鈴乃も漆原の秘密をばらすことはできないだろう。できればもっと効果的に使いたかったのだが、大切なものを守るためにはしかたなかったのだ。

「なにをやっている、漆原」

 開いたドアから長身の青年、芦屋が顔をのぞかせた。彼は買い物が終わったあと寄り道せずに帰ってきたのだろう。早い帰りだった。その手に持った膨らんだエコバッグはそれを物語っていた。

勝利のポーズのまま固まってしまう漆原。まだ、オセロもその他の入ったダンボールも片づけてはいない。これで全てが終わった。漆原の。

 

 

 

 

鈴乃は敷いた布団にもぐりこんだ。

 悔しくて、どうしようもない。鈴乃は布団をかぶったまま、ぎりと歯を鳴らす。こうなった原因はなんなのか、彼女の熱した頭が考える。

 

あの酒宴、あの日のことをなぜあそこまで漆原は頑なにしゃべろうとしないのか、鈴乃の中で思考が回る。だが答えがでない。本当に何をしたのか思い出せない。

「真奥ぉ…」

 隣の部屋の家主の名を口にする鈴乃。

「今夜、帰ってきたら……」

――直接、聞きだしてやる。

 鈴乃の中で悔しさが執念へと変わる。今夜、必ず奴から聞き出す。それが漆原から受けた屈辱を晴らすことになるだろう、そう彼女は考えた。

 

 そんなことを考えたせいで、明日彼女は人生初のデートをする羽目になる。




お疲れ様でした。次はからぬるぬると行きます。


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属性5 三つ指

 虫の声の聞こえる夜。テレビもない真奥の部屋で真奥本人と芦屋、漆原の三人の悪魔が机を囲んでいた。机の真ん中には小さな皿に漬物が数切れ乗っている。それ以外はなにもない。

 今朝に芦屋が特売へ買い出しに言った食料は「保存食料」にせざるをえないほどこの魔王城は窮迫していた。先月から食費のピンチが続きすぎて芦屋は腹部に痛みを覚える。

 三人はそれぞれお椀を持っていた。小盛りの白飯は皆同じだが、漆原は少しだけ少ない。そもそもここまで質素な食事をしている原因が彼にあることを考えれば、食事をさせてもらえるだけ寛大なことなのかもしない。

 三人は無言。部屋の中では漬物を噛む音と白飯を咀嚼する音とたまに食器の鳴らす高い音だけが支配している。

「…………」

 しかめ面の芦屋が目を真奥に向ける。真奥も気が付いたのか見返した。

「真奥様……。このような、粗末な食事しか用意できず、申し訳ありません」

「いや、お前のせいじゃねえだろ」

 真奥はそう言うとお椀を机に置いた。きんと音が鳴り、真奥は息を吐く。

「まあ、やっちまったもんはしかたないしな……今回はいろいろ開けちまっているから返品は難しいかもしねえけど。できるんなら、芦屋調べておいてくれ」

「はっ。お任せを」

 芦屋もお椀を置いて、真奥に礼をする。家計を預かる者としてこの危機は絶対にのりきらねばならない。ちなみに返品とは漆原が買ったオセロを始めとするガラクタ一式のことである。

 芦屋も真奥も漆原に対して何も言わないのは、いろいろと諦めているのか。それとも溜めに溜めた上で怒りを爆発させる為なのか。漆原は平静をよそっているが、背中は濡れていた。まるで針の蓆で正座させられている気持ちである。自分から乗ってきたのだから、同乗の余地もないが。

「……ところで、漆原」

 こめかみ青筋をたてて芦屋が振り向く。びくりと漆原の体が跳ねた。どうやら、溜めた怒りを爆発させる方だったらしい。

「な、なに?」

 震える声で漆原は聞いた、さりげなくお椀を置くのは逃げる準備。芦屋は立ち上がって上から彼を見下ろしつつ言う。

「貴様というやつは、何度も何度も……。今回はただで済むと思ってはいないだろうな?」

「で、でもさ。芦屋、ベルに秘密がばれずに済んだじゃん。あれのおかげだよ」

 漆原がばっと部屋の隅を指さす。そこには「返品予定」と紙の貼ってあるダンボールがあった。そこの中にはオセロも入っているから、秘密の保持に一役を買ったと言えばうそではない。

「なにが秘密がばれずに済んだだ! そもそも貴様が全ての元凶だろうが!!」

 元々漆原と鈴乃の喧嘩が情報の秘匿、その原因であり喧嘩自体も漆原が多分に悪い。元凶と言われても仕方なかった。それでも漆原は抗弁しようとした。このままでは芦屋は彼のもっとも恐れることを言いかねない。

「…ぁ、でも」

「もういい。漆原、貴様のパソ――」 

 

 コンコンとドアが鳴る。

 芦屋は言葉を言い終わる前にドアを見た。こんな時間に来るとは誰だろう。真奥に目で問いかけるが、真奥も首を振る。と言うことは彼の主人の用事でもないらしい。もちろん芦屋の目の前に転がっているいい年をした幼児にも関係はあるまい。

芦屋がドアに近寄り、誰ですかとドア越しに聞いた。

ちなみにこの時漆原は心臓がばくばく鳴って止まらない。あと二秒、外の客が来るのが遅ければ間違いなく「死刑宣告」が言い渡されていた。誰だかしらないが、彼は訪問者に感謝する。

「私だ」

 外から聞こえてきたのは鈴乃の声だった。ああ、と芦屋は言いながら鍵を開けてドアを開く。そこには間違いなく和服姿の鈴乃がいた。彼女の両手は少し大きめの鍋、その取っ手を持ち鍋を抱えている。

「夜分にすまない。……これを茹でたのだが、少し多く作りすぎてしまった。良ければ、食べてもらえないか?」

 鍋の中からはいい匂いと湯気が立ち上がっていた。蓋はしていて中は見えないが、大体はおすそ分けの内容を芦屋は把握する。白い麺類だろう。窮乏していた彼らにはまさに渡りに船だった。

「いつもすみません、鎌月さん。……今日は家のあれが迷惑をかけたようで」

「うっ…い、いや、なに気にすることはない。……事の顛末は、聞いたのか」

 動揺した様子で鈴乃は芦屋に探りを入れた。ちなみに彼女の聞いているのはオセロのことではない。そのあとのことだ。

「ええ、ボードゲームで。賭けを強要したとか……」

「えっ? それだけか」

「えっ? それ以上のことが?」

「い、いや! 気にしないでくれ。それ以上は何もなかった!」

 どうやら芦屋は「あのこと」を聞いていないらしい。実質的に考えて、真奥と漆原の知っている「あのこと」を芦屋が知っていようがいまいがあまり変わりはないだろうが、それでも鈴乃は気にしている。

「そうですか……?」

 鈴乃の様子を疑うように芦屋は言う。これ以上詮索されればまずい。鈴乃は軽く笑ってから「それよりも、冷めてしまう」と部屋の中に入って行った。

「おっ、鈴乃じゃねえか」

「真奥、夜分失礼する」

 鈴乃は黒髪の家主に会釈した。真奥は真奥で笑って彼女を迎える。本当に悪魔か、と鈴乃が聞きたくなるほど屈託のない笑顔だった。

 真奥鈴乃。

「……!」

 へんなことを思いだした鈴乃が鍋を持ったまま、赤くなる。急に止まった鈴乃に真奥が「どうした?」と聞くと、鈴乃は我に戻った。

「な、なんでもない。それより、これはおすそ分けだ。良ければ食べてくれ」

「ほ、本当か鈴乃! 今日は漬物しかなかったんだ」

「つけもの……」

 鈴乃が見ると台の上には漬物しかない。なにか憐れみのようなものを鈴乃は彼らに感じてしまう。

 真奥が漬物の数切れ残った皿を机から下げると鈴乃がかわりに鍋を置こうとした。

「あっ待ってください鎌月さん」

 鈴乃が鍋を置く前に芦屋が机にタオルを敷いた。礼を言って鈴乃はこんどこそ机に鍋を置く。全員が手慣れているのは、鈴乃の「おすそ分け」がこの悪魔達の生命線になっている証左ともいえよう。漆原が手伝わないのは誰も気にしない。

「中身は飾り気のない、素うどんですまないな」

「そんなことねえよ。ほんとに助かる」

「そ、そうか」

 この頃の真奥達の食事を見ればこれでも高級品のような感があった。少なくとも一日中のハンバーガーよりははるかにいいだろう。鈴乃は真奥が正直に喜んでくれるので、はにかむしかなかった。

「真奥様、おつぎいたしましょう」

 芦屋はそういって、4つ器を用意する。鈴乃の分が入っているのはいいが、これには漆原の分も入っているのだから、芦屋はあまかった。

 

 さて、どう切り出すか。

 鈴乃は手にもった器を見ながら思案する。中の汁が自らの顔を映す。

 鈴乃がうどんを茹でたのは偶然でもなければ、作り過ぎなどと言うようなことでもなかった。これは口実に過ぎない。真奥が帰ってくるころに合わせて茹でたのだった。

 目的は一つ。あの夜のことを聞きだすこと。少なくとも今は問題なく食事に紛れ込むことができた。問題はここからだ。

 それでも鈴乃は「作りすぎた」と言った手前、自分の分は自宅にあることを伝えたも同然である。今でも鈴乃が、よそってもらったうどんの入った器を持っているのはあまり自然ではないかもしれない。だから時間はなかった。

 余談だが、真奥の帰りを待ちながら食事を作る鈴乃。これは意味を変えれば面白いことになるのだが、彼女は気が付いていない。

「なあ、真奥」

「ん? なんだ」

 鈴乃の問いかけに真奥は反応した。手に持ったどんぶりの器にはなみなみとうどんがつがれている。逆に少なめになっている鈴乃の器を考えれば、芦屋は分量を考えているらしい。その芦屋は自分でよそったうどんをもぐもぐと食べている。その横では同じように漆原が座って食べている。

「鈴乃?」

 鈴乃は真奥の言葉にはっとした。あいまいに返事をしつつ、思ったことを口に出してしまう。彼女は単刀直入に聞いてしまう。あの酒宴でなにがあったのかと。

「あの酒――」

「あしやぁ! うどんふやしてくれ!」

「はっ! 真奥様!」

 さすがは魔王と言うべきか。一瞬で鈴乃の言葉を飲み込んだ真奥は即座にうどんの増量を要求した。それを受ける芦屋ことアルシエルの返事も絶妙だった。鈴乃にその先を言わせない速さが芦屋も鈴乃の意図を飲み込んだことを表している。

 その上鈴乃は「自然にもぐりこめた」と思っているが、昼にあの酒宴のことを聞きだそうとして漆原に負けたことを考えていなかった。すでに悪魔達は重々承知。真奥達はここに鈴乃が来た時点で大体の要件は察していた。

「真奥様。うどんはこのぐらいでよろしいですか!」

「あ、あの」

「お、おう、芦屋!それぐらいで」

「あの時私は……」

「やっぱりもっと入れてくれ! たりねえ!!」

 鈴乃の声をかき消すぐらいの大声でしゃべる二人。漆原は箸を口に咥えたまま耳を両手でふさいだ。真奥はうどんの詰め込まれた器をうけとり、食べ始めた。

「ご、ごほん」

 わざとらしく咳払いする鈴乃。真奥は聞いているが、反応しない。芦屋もしない。漆原はわれ関せずとうどんをすするのである意味反応してない。

「真奥、聞きたいことが」

「麦茶ぁー! 芦屋ぁ」

「ただいまぁ!」

 芦屋は素早く冷蔵庫に駆け寄ると扉を開けて麦茶の入った容器を取り出し、さらに食器入れに入ったコップを二つ取ると、それらにお茶を注ぐ。そして急いで真奥に渡した。真奥は感謝の言葉を口にしつつ、一気に呷った。鈴乃はその二人の態度に声を荒げた。

「真奥! 聞きたいことが!」

「鎌月さん。お茶です」

「あっ、すまない。いただく」

 無意識に芦屋の出したお茶を鈴乃はとり、お礼まで言う。芦屋はこのためにコップを二つ取り出したのだった。これによって鈴乃は完全にタイミングを失ってしまった。しかしさすがに真奥たちがなにかを隠していることには勘づいたらしい。

 真奥も芦屋もうどんを食べ始めた。わざとらしく口いっぱいに含んでいる姿から、しゃべる気はないという意思が伝わってきた。

 鈴乃は手にしたお茶を飲み、ふうと息を吐く。それで少しだけ頭が冷えた。

「なあ、ルシフェル」

「えっ? ぼ、僕?」

 矛先を変えた鈴乃に真奥と芦屋はうどんを口に含んだまま、驚く。漆原は漆原で完全に蚊帳の外だったのにいきなり言われて戸惑ってしまった。言葉を噛みながら彼は鈴乃に向き直った。うっかりとしゃべりそうな顔ではある。

だが、この状況はそう悪くはない。芦屋は思った。

(甘いな……今朝オセロに勝ったことを口実にすれば、漆原はなにも言う必要はない)

 そう今朝「勝ったら全てしゃべる」という条件の元、鈴乃と漆原はオセロで勝負して勝利したのだ。今、漆原が何かをいう義務などない。悪魔一の智将はうどんを口に含んだまま目で漆原に合図を送る。それは部屋の隅を示していた。合図は鈴乃の視界の外で行われるから彼女は気がつかない。

 漆原の目が動いた。完全に芦屋に気が付いている。その彼の目は下卑た光を放つ。

「っと、ベルは『あの酒宴』でのことを話してほしいんだよね」

「?!……そうだ」

 今からどうやって聞き出そうか考えていたところに漆原の方から言われて、鈴乃は少し驚いた。だがそれ以上に芦屋と真奥が驚く。二人はこれから漆原がなにを言うつもりかと冷や汗をかく。

「漆原!」

 芦屋は思わず言ってしまった。しかし、鈴乃が怪訝な顔で振り返ったので力なく目を背けた。公然の秘密と言おうか、一応には芦屋と真奥は「何も知らない」体をとっているのだからこれ以上突っ込むことはできない。全ては漆原次第だった。

 漆原がにやりと笑う。

「別に知っていることを全部話してもいいよベル」

「ほ、本当か?」

「うん、芦屋次第だけどね」

 ここにきて芦屋は漆原の意図に気が付いた。こいつ利益を引き出そうとしている。いわば外交である。しかもこの狡猾さと言ったらない。仮に芦屋が漆原の求める利益(おそらくパソコン、ゲームへの不干渉要求) を飲めば、鈴乃の矛先は間違いなく芦屋へと変わる。漆原はそこからまた、あとは知らないと逃げ出だすだろう。これ見よがしにパソコンの電源をつけるかもしれない。

 要するに漆原は楽をしてほしいものだけを手に入れようとしていた。

「く」

 歯ぎしりをする芦屋。まさかこのような場面で裏切るとは。伊達にニートをやっているわけではないらしい。恩も義も食べられるか否かしか漆原は見ていない。

「……?」

 良くわからない、と言った顔で鈴乃は首を傾げた。彼女は最初真奥に聞こうとして、叶わなかったから漆原に質問をしただけで、策謀というには幼稚な考え方しか持っていない。逆に言えば純粋と言ってもいいのかもしれない。

 だから漆原の黒光りする、欲望に気が付かなかった。

この狭い部屋に黒い渦ができそうなほど濁った要求を言外にしている堕天使。芦屋はニートの要求を飲まざるをえないのかと悔しがった。

 

「もう、いい」

 真奥が言った。

「真奥様!」

 いきなり暗闘を遮った真奥に芦屋は振り返った。真奥は自らの忠臣にうんと頷いてから、優しく笑う。それだけで芦屋は全てを飲み込んだらしい。いや、今からの真奥の言動を理解する準備をしたと言った方がいいだろうか。

 ある意味では部外者になっていた鈴乃も真奥に向き直った。漆原は下手に芦屋を脅したばかりに「もういい」とか言われ、全てをしゃべりそうな状況に怯える。完全に自業自得。

「もういい、とは。なんだ真奥」

 鈴乃はその鋭い眼光を彼に向けた。真奥は頭を掻きつつ、返す。

「これ以上は不毛な争いにしかないなりそうにねえからな。……全部話してやるよ。でも黙っていたのは鈴乃」

「な、なんだ」

「お前の為なんだぜ? それでも聞くのか」

「…私の……? い、いやそれでも聞く」

「そうか……芦屋。頼む」

 言った真奥が芦屋を見る。芦屋は頷いた。

「よろしいのですね?」

「ああ、全部喋ってもかまわないぞ」

「かしこまりました」

 受け賜わった芦屋が鈴乃に膝を向けた。そしてじっと彼女を見つめたまま、口を紡ぐ。

「……どうしたのだ。話をしてくれるんじゃ…ないのか?」

「……鎌月さん。先ほど真奥様が言われた通り、このお話はあなたの為に秘匿をしていたのです。本当に聞かれるのですか?」

「……聞く。おそらく、私の為というのはお前たちの言うことだから本当かもしれない。それでも、ここ数日のけじめはつけたい。頼む」

 そういって鈴乃は芦屋に頭を下げた。芦屋は難しい顔を作りつつ、「わかりました」と重々しく言う。それが肝心だった。

 さきほど真奥は行った「全てをしゃべっても構わない」とそう「しゃべっても『も』かまわない」のだ。ということはしゃべらなくてもいいことはしゃべらなくてもいいのだ。芦屋は真奥の真意を完璧に読み取った。

 

「ではお話しましょう」

「う、うむ」

 できる限り勿体付けなければ、情報の価値が下がってしまう。そこで鈴乃が「それだけ?」とでも思ってしまえば、さらに追及されるだろう。それをされては不確定要素が増えてしまう。だから最初の一言は衝撃的でなければならない。

「あの夜。お酒に酔った鎌月さんが……奇声をあげて、暴れまわったです」

「は?へ?」

 鈴乃は呆然とした顔で今の言葉を聞いた。だが言われたことが理解できなかった。それでも芦屋は淡々と続ける。

「あの日、うちの漆原が鎌月さんに迷惑をかけたことに我々も責を感じまして、夜にお食事へお誘いしようと真奥様が呼びに行きました」

「そ、それで?」

 鈴乃はそのあたりのことを全く覚えていない。

「ええ、その時にはすでに泥酔されていたようで……真奥様を我が家に力任せに放り込み、一升瓶を片手に我が家へ……」

「…………」

 鈴乃の瞳孔が開いていた。今芦屋が言っていることは夢か何かを聞いているような心地だが、実質その日はお酒を飲んだことを覚えている。それから次の日に目覚めるまでそんなことをしていたのか。羞恥と驚愕で、彼女は汗を流した。それでも聞く。

「そ、それから、どうなった?」

「はい、それから鎌月さんは我々に約二、三時間同じことを繰り返し説教をしつつ、お酒を飲み、肉を食べと…………ある一点で、アルコールの度が過ぎたのでしょう。暴れ始めました」

「……ぁ…ぃ……」

鈴乃は言葉にならないうめき声を出して、顔を赤くする。俯きながら手が震えていた。本当にそんなことを自分がしたのかと言う疑問と、申し訳ないという感情が心に渦を作っている。

 その様子を見て芦屋はうまくいったと胸をなでおろした。これでこれ以上追及はされまい。彼は真奥に目を向ける。

(よくやったぞ、芦屋……鈴乃にはわりいが、これ以上はだめだ)

(お褒めにあずかり光栄です魔王様。鎌月さんのことについては、いずれなにかの埋め合わせを……)

 アイコンタクトで会話する二人。この話のみそは嘘を一切言っていないということだ。ただし全部は言ってはいない。どこをつかれても答えることができる。芦屋はとりあえず、鈴乃を慰めて部屋に帰そうと声をかける、その前に漆原が口を開いた。

 

 

 

「そうそう、そこで真奥とベルがキスしてんだから、驚いたなあ、あの時」

ケラケラ笑いつつ暴露する漆原に部屋の中の視線が集まった。

「は? なん、だと?」

 鈴乃は反射的にだろう、聞いた。漆原は今まで我慢していた分だけ、流暢にしゃべりだす。

「ベルがさーお前は私の酒が飲めないのか―とか言って。真奥に押しかかってんの。そんな時は空気に飲まれちゃったけど、よく考えたら面白いよね! ねえ真奥、芦屋?」

(ダメだ)と真奥。

(こいつ)と芦屋。

 漆原はなんにも理解してなかった。言葉通り全部喋りだす。鈴乃は「は、はは」となにか良くわからないと言った様子で笑う。引きつった笑顔。という単語がこれ以上似合う表情もあるまい。

「そそうなのか?」

 鈴乃が問うと、漆原は笑顔で言う。

「ははは、真奥に「あーん」ってするよう要求してたじゃん、ベル! 真奥も真奥でお肉食べさせてたし、あっあとさー。ずっと真奥の横にいたよね、今思えばねこみた――」

 芦屋が飛んだ。漆原に。

「げふう」

 何か言いつつ、芦屋に抑え込まれる漆原。

「だっだって、言っていいって……」

「だ、だまれ!」

 芦屋は言うが、漆原が口を滑らせたわけではないから性質が悪い。彼は利害関係で言えばどうでもよかったのかもしれないが、実際のところしゃべりたかったのかもしれない。そのあたりの機微はどうあれ、今の言葉は全部鈴乃の頭の中に入っていった。

 鈴乃の肩が震えていた。頭の中では漆原の声が反芻している。なんだかなんども聞いているうちに嘲笑われている気さえする。

「ま、まぅおお」

 鈴乃はいきなり声を出した。真奥と言えずとも彼の元に手をついてにじり寄る。真奥は逃げることもできずに鈴乃に腕を掴まれた。

「す、ずずの」

「いいいまの話、嘘だろう? 嘘だろう?」

 縋るような目で真奥を問い詰める鈴乃。彼女の顔を汗が流れ落ち、真奥を見ているのだが目が泳いでいる。完全に混乱していることは傍目にもわかった。

「お、落ち着け鈴乃。俺は気にしてねえ」

「……ぁ」

 気にしてねえ。それは完全なる肯定の言葉に他ならない。気にするかどうかは、その事象がなければ成立しないからだ。真奥の言葉は鈴乃を気遣ったつもりだろうが真逆の効果を得てしまう。

「ほ、本当に私は真奥と、そ、そのき、き……す」

 一言しゃべるごとに顔がゆでだこのようになっていく鈴乃。それは頭の中には覚えていない記憶を妄想で固めていくのだから熱が上がっていく。

真奥はしまったと思ったが後の祭りだった。ここからフォローのしかたを思いつけない。そこでいらないことを言ってしまった。

「鈴乃、俺達はキスはしてねえ」

「へ? ほ、ほんとうか真奥ぉ」

 ぐいぐいと真奥の腕を引っ張りながら鈴乃は聞き返す。もうここまでくれば、真奥が言っていることは気休めとわかりそうなものだが、そんなことを気にできないほど鈴乃の頭は熱く。それが伝道したのか頬が赤い。

 真奥は鈴乃の目を見て口を開いた。

「口移しで酒を飲んだだけだっ」

 

 一瞬時が止まった。鈴乃の体の動きが今の刹那、本当に止まった。それから彼女の体はがたがたと震えはじめる。

「そっ、そっちのほうが卑猥じゃないか!」

 言われてみればそうである。真奥はさらなる失点に後悔した。もう、自分の力ではどうしようもない。彼は頼れる側近へ目を向けた。

 芦屋は真奥に見られて、小刻みに首を横に振った。つまり無理らしい。それならば今芦屋に抑えられている。漆原こと元凶であるが、彼に期待してはいけない気が真奥にはした。

 ここは無理だろうがなんだろうが、鈴乃をなだめなければならない。

 そんなことを真奥が考えていると、目の前の鈴乃は真奥の顔を見ながら泣き始めた。大粒の涙が朱に染まった頬を流れ落ちて行く。ひくひくと鼻を鳴らし、声を出さないように唇を噛んでいる姿は可憐というよりはけなげと言える。

 そこで真奥は気が付いた。もうどうしていいのかさっぱりわからない。それは鈴乃も同じだろうが、解決策がないことには変わりない。しかも真奥はいつも気の強い人間に泣かれて、心にボディーブローを入れられている気にすらなる。

「……と、とりあえず。落ち着こう鈴乃」

「ぞ、そうだ……な」

 鈴乃は顔を俯かせて真奥の言葉に従った。実質それ以外ない。ここで落ち着いて話を話し合いでもするしか――

 

「もうベルが責任をとるしかないんじゃないの?」

 漆原がもがきつつ言う。はっと芦屋は彼を押しつぶそうとするが、漆原は抵抗するからできない。苦しげにしつつも、漆原は口を動かす。

「だっ、だってさ。お酒で襲い掛かってきたのがベルだし……責任を取るのは……げぐ」

「もう寝ろ、漆原!」

 芦屋が漆原を羽交い絞めにして締める。青ざめていく漆原だが、すでに時遅し。鈴乃のような真面目一徹な人間にそのようなことを言ったからには、彼女の行動は一つしかなかった。

漆原の言葉は鈴乃の心に届いていた。

 真奥の前で鈴乃は俯いたまま、身を下げた。その肩はやはり震えているが、手を前に出して三つ指をつき、涙を含んだ湿りのある声で真奥に言う。

「ふ、ふつつかもので――」

「待て! 鈴乃ストップ! 今何を言おうとした!」

 真奥はあわてて鈴乃の行動を止めにはいる。だが鈴乃は真奥の手を振り払うことはなかった。だがやめる気はないらしい。

「で、でも私にはこれしか……」

「い、いや絶対あるだろ! 短絡的すぎるぞ」

「ま、真奥は私ではふ、不満なのか……?」

 だめだ。真奥は思う。話が変な方向にカーブして戻らない。これも全て、名前だけは有名な忍者と同じ漆原半蔵のせいである。かき回す才能は天下どころか天界、魔界、エンテ・イスラ、それに地球。4つの世界でも一級品だろう。本人に自覚がないので救いもない。

 

 

 

「私に考えがあります」

 ようやく漆原を締め落した芦屋が立ち上がった。この時ほど真奥はこの男に感謝した瞬間はない。芦屋は真奥と鈴乃の二人を見比べて、一度眉間にしわをよせる。考えがあるとは言ったがそれには苦渋の決断を伴うものなのかもしれない。

「……鎌月さんに責任を取ってもらうのです」

「なっ!」

 真奥は絶句する。それではいろいろと問題が起こるではないか。鈴乃は鈴乃で肩をビクリト動かしたきり何も言わない。覚悟はできていると言った風情なのだが、不安げに唇を噛む。

「あ、芦屋、それはだめだ。それにあの時の鈴乃は酔っていたし、実質的には責任は……」

「いえ、真奥様。大の大人が酒の席とはいえ不祥事を起こせば責任を取るのは至極当然のことです。それは鎌月さんも承知のはず」

「……ああ……」

 鈴乃は力なく頷く。芦屋は冷静な目で彼女見てから、言葉を紡いだ。

「ですから、鎌月さんには……明日一日だけ、真奥様の……なんといっていいかわかりませんが」

 言葉を濁してしまったのは芦屋にも何を言えばいいのかわからないからだ。

 それでも、ともかく芦屋は言う。

「一日だけ、デートしていただきましょう。それで今回の件は解決です」

「なっなにを言い出すんだ芦屋! どう考えたらそうなんだよっ?」

 いろいろと端折った言い方をする芦屋に真奥は詰め寄った。芦屋も恋人やら思い人やらいえばいいのかもしれないが、一応真奥は魔王。この場合「伴侶」や「妃」と言った方がいいのかもしれない。ゆえに「一日デート」と言う言葉に落ち着いた。

芦屋は真奥の目を真っ直ぐ見つめて、小声で話す。真奥が詰め寄ってきてくれた分話しやすかった。

「……真奥様。今、鎌月さんが求めているのは『けじめ』です。どんな形であれ、責任を取りたいのでしょう。……ですからこちらから条件を出してクリアしてもらえれば、万事は解決するはずです」

「だ、だが」

「真奥様はアルバイトの身で結婚なさるおつもりですか?」

「そ、そんなことはいってねえ」

「ですがさっきの鎌月さんの行動は……それですよ? 妥協点として、一日程度のデートです」

「……わかった」

 真奥はあきらめたらしい。芦屋にすべてを任せるしかないようだ。芦屋は納得してくれた主君から身を下げて、鈴乃に聞く。

「鎌月さんもそれでよろしいですね?」

 少し高圧的に聞いたのはこれで解決させるという芦屋の意思の表れだった。だがどっちにしろ鈴乃に否応はない。彼女は俯いたまま、声を出す。

「……承知した……」

 

 

 鈴乃が自分の部屋の帰ったことで静寂が戻ってきた。

 真奥と芦屋は白目を剝いて倒れている漆原をみて、ため息をつく。

「真奥様、こやつが寝ているうちにエミリアの部屋の前にでもおいてきましょうか?」

「やめとけ、電車賃がもったいないし意味わかんねえ。それにこいつも俺の部下だ……やったことについては俺のせいでもある」

「真奥様……」

 感激した芦屋は軽く頭を下げる。尊敬の念を表したのだろう。だが真奥は別のことを考えていた。それは深刻な悩みだ。

「なあ、芦屋。……鈴乃を連れていくにしても、金なんてねえぞ」

 それが問題である。まさかファーストフード店巡りなんぞするわけにもいかない。それに洒落たところは無論、銭がかかる。だが芦屋はそこまで考えていたらしい。慌ても驚きもせずゆっくりと立ち上がった。

「芦屋……?」

 真奥の横を芦屋が通る。彼は表情は暗いが何かを決意を秘めた顔でもある。

 芦屋は部屋の隅おかれた本棚をずらした、裏側をまさぐって一枚の封筒を取り出す。どう見てもへそくりである。

「お、おまえ。それ!」

「申し訳ありません、真奥様。本当の危機が訪れた時のたくわえに私の一存で隠しておいたものです。五万強入っております。お納めください」

「あのカツカツの状態でこんな、大金を。……いや謝るな、芦屋。お前の忠誠しかと受け取った。やはりお前がいなければならない」

「真奥様……」

 十万円にも満たない金額を大金と言う、魔王と悪魔大元帥。漆原が目を開けて入れば突っ込んでいたか「PS4を買おうよっ」と言うかどっちかだっただろう。だが今の彼は夢の中だ。

 芦屋は真奥に言う。

「戯れとはいえ、これも悪魔の沽券に係わることです。明日はびた一文たりとも鎌月さんには出させませんようお願いいたします」

「ああ、分かった。これで明日の軍資金は大丈夫だ、鈴乃に出してもらう必要はねえよ。……んじゃあ、今日は歯磨いてねるかっ」

 その二〇分後彼らの部屋から明かりが消えた。

 

 

 

 真逆だった。真奥達とは。

 部屋に戻った鈴乃はすぐさま布団を敷いて潜り込んだ。着替えもしていない、そんな精神的余裕もない。それでもいつまでたっても眠ることができない。

一人になるとさっきまでのことが冷静に思い出せてしまう。三つ指ついていたことやその他諸々のこと。多少錯乱していたとはいえ、完全に覚えていた。

「ぁぁぁ……」

 布団がしゃべる。知らぬ人が見れば、そうとしか思えないほどのうめき声が布団から出てくる。中で鈴乃がもがいているのか、布の擦れる音がする。今朝も同じことをやって気がするのは気のせいではない。

枕が布団に中に引っ張り込まれた。鈴乃はそれを顔に押し付ける。

(…………でぇと)

 鈴乃は思う。明日一日だけだと。

 だからだろうか、さっきからずっと黒髪の青年のことを思うたび、心臓の音が一段と大きくなる。

(まおう、さだお)

 名前を心に唱えるだけで、嬉しくなるのはなんなのだろうか?

 

 

 

 




次回から朝、昼、晩のデートです。
つまり残り3話。最後まで読んでいただければ嬉しいです。


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属性6 外人

23日 修正


 黒い上着の裾を伸ばして、デニムの皺を手で撫でる。

「よし、準備できたぞ」

 服装を整えた真奥は後ろを振り返り、芦屋に言った。声をかけられたその長身の男は、頷いてから「完璧です、真奥様」と返した。彼はおべっかを言う性質ではないからそれは本当に思ったことだろう。

 今日は鈴乃の出かける日。少なくとも真奥はいつも着ているシャツで遊びにいくわけにはいかなかった。とは言っても昨日決めたことだから、家にある服を漁って整えた服装ではあった。だがなかなかに様になっている。

 真奥自身はその正体からは考えらないほどに好青年である。短く切った黒髪に、ギラリと光る眼光。それでいながらどこか幼さを感じさせて、バランスが取れている。その上、毎日の激務で鍛えられているのだろうか、細身にしては筋肉がある。

 真奥は鏡の前で変な顔をしながら、最後のチェックをした。芦屋はできる限りその変顔を見ないようにする。本人は精悍な顔つきで、俗にいえばイケメンなのだかあまり気にしていないらしく繕ったりしない。それはそれで良かれ悪しかれだろうが。

「よし」

 ぱんと顔を叩いて真奥は立ち上がった。とりあえず鈴乃を迎えに行かなければならない。ちなみに今は朝の八時三〇分、漆原はまだ寝ている。正確に言うと、昨日から気絶したままだ。

「真奥様、財布です。二つに分けましたので一つは後ろのポケットに入れてもう一つは別のどこかに小さいものを入れておいてください」

 芦屋が財布を差し出した。その黒の長財布ともう一つのがま口には彼が心魂を込めて溜めあげた5万強が分けて入っている。芦屋の手が震えているのは、虎の子を使ってしまうことへの不安だろうか。

「おう、サンキュー」

 真奥は長財布を受け取ると後ろのポケットに入れた。がま口は上着のポケットにいれる。二つに分けたのはリスク分散の為だろう。真奥は良く考えてくれる芦屋の感謝しつつ、玄関に向かっていく。

 真奥はヘラを掴んで、靴を履く。とんとんとつま先を地面で叩いてから履き心地を確認する。彼はそれからドアを開けた。そこまでの気負いはないつもりだが、多少はそれがあるのかもしれない。

 ドアを開けると、朝日が差し込んできた。いい日だと悪魔の親玉は腕を伸ばす。

「御気を付けて」

「芦屋も今日は頼んだぞ」

 真奥はかるく言い、部屋を出た。口笛を吹き始めた彼は、存外に上機嫌だった。

 

 

「おーい、鈴乃?」

 真奥は徒歩五秒の隣人宅、そのドアをノックする。だが返事はない。真奥は真面目な鈴乃のことだからと、起きてないとは思わない。さらにどんどんと叩く。

「うん? 準備してんのか、それともどっかに行ってる、ん?」

 真奥がそんな疑問を口にしながら、入り口の横についた窓に目をやると、鈴乃の部屋の中で影が動くのが見えた

 いる。いるけれど居留守を使っている。しかも今窓際の影が動いたということは、外の様子を伺っていたことに他ならない。

「おーい。起きてんだろっ」

 鈴乃の存在に気が付いた真奥はドア越しに呼び掛けた。だが何の返事もない。鈴乃には珍しく往生際が悪い。真奥は困った、どうすればいいだろうか。

「鈴乃、いや鈴にゃ――」

「やめろ、近所でその名を呼ぶな!」

「うおっ」

 慌てた様子で鈴乃が飛び出してくる。勢い余って、鈴乃は真奥を後ろの手すりに押し付けた。つまり、鈴乃と真奥は朝から密着することになる。

 しばし、目が合う。鈴乃はいつもの和服のまま真奥によりかかっている。

「……お、おう。おはよう鈴乃」

「ま、まま、まおぉ」

 真奥に突進した女の子は勢い余って、彼に抱き着く形になった。その女の子、鈴乃は顔を真っ赤にして部屋に逃げ帰ろうとした。だが真奥はそうはさせない。部屋に入った彼女がドアを閉めようとする一瞬。足を挟み込んだ。これでは閉めることはできない。

「なっ、真奥! 足をどけろ」

「いやっどけたらダメだろ。もう観念……い、いてえ。す、鈴乃、力入れすぎ!」

 多少混乱した鈴乃はドアを力いっぱい閉める。それで真奥の足が締まった。それで彼は悲鳴を上げたのだ。鈴乃は痛がる真奥にはっとして、力を緩めた。

「す、すまない」

「千切れるかと思った……」

 真奥は屈んで足をさする。鈴乃はおろおろとしながら、彼を気遣った。

「本当にすまない……」

「いや、いいさ、やっと出てきたしな。おはよう、鈴乃」

「あ、ああ。おは、……その」

 鈴乃は真奥に言われて、顔を下げた。そしてぽつりと言う。

「……おはよう……」

 彼女の口元がちょっとだけ、ほころぶ。

 

「で、何を着て行けばいいかわからないから逃げて……いや。出てきにくかったのか」

 鈴乃の部屋で二人は向かい合って座っていた。

真奥が話を聞くと鈴乃は真奥とのお出かけに行く服装を悩んでいたらしい。経験がある女性ならそこまで悩むまいが、残念ながら彼女にはそれがない。鈴乃はバツの悪そうな顔で言った。

「あ、ああ。こんなことは、その、初めてだからな。普段着では良くないと思ったが……」

「ん? 気にする必要はねえよ」

 真奥は気遣って言ったつもりだろうが、鈴乃はむっとした。彼女は口をとがらせて言う。

「気にするに決まっているだろう! これでも朝早くから起きて悩ん……ち、ちがう。なんでもない!」

 怒ったかと思うと鈴乃はすぐに羞恥の表情へと変わる。真奥はなんとなくコロコロと変わる鈴乃の表情におかしみを感じつつ、思った。

(まあ、気遣ってくれていたんだな。じゃあ……)

「買うか」

「は?」

 急な真奥の言葉に鈴乃は疑問の声を出した。今の真奥の言ったことが、理解できない。なにを言っているんだろう。と彼女の顔に書いてあった。だから真奥は補足する。

「だから、買に行くんだよ。新しい服を」

「なっなにを言っているんだ。……それに私はあまりお金なんて」

「いや、言い方が悪かったな。買ってやるよ」

「!?」

 鈴乃は今が一番驚いたらしい。少し誇らしげにしている真奥の顔を覗き込みつつ、鈴乃は聞いた。昨日まで漬物を食っていたような貧しい彼らだ、そこから考えられることはひとつ。

「まさか、真奥……消費者……金融?」

「ちげえ! 借りてねえぞ、自前の金だ!!」

「なに! 昨日はすさまじく貧しい食卓を囲んでいただろう、憐みを覚えていたんだぞ昨日は!」

 そんなことを鈴乃に言われて真奥は情けなくなってきた。良く考えればこれも漆原が悪いのだが、彼は、そのことを言わずに正直に話す。

「芦屋が秘密で溜めてた、その、機密費? を持ってきたんだよっ。借金でもクレジットでもなくてキャッシュで買ってやる!」

「き、機密費?」

 要はへそくりなのだが、少し真奥は見栄を張る。

 鈴乃はそんな大切なものをこんなことに使っていいのかという困惑と、純粋な喜びとが交じり合った複雑な感情になった。どうあれ「機密費」とやらは大切なものだろう。それを鈴乃の為に使おうとするのは、彼女のことが大切だと思われている、ともとれる。

「し、しかし……わけもなく買ってもらうわけには……」

「いいって、気にすんな。それに今日は全部俺に任せとけ!」

「あ、う」

 どんと胸を叩く真奥に鈴乃は二の句を繋げない。一度目をつぶってからやっと言う。

「この……埋め合わせはいつか……する」

 律儀だな。真奥は思った。その後もう一つ彼は思う。

(ユニシロじゃ……だめだよな?)  

 

 

「ま、真奥! こ、こは」

 鈴乃は困惑した表情で真奥を振り返った。

 真奥達が鈴乃を連れてきたのは、近所のアパレルショップ。そう広くない店内をシーリングライト(天井に直接つけるもの) が照らすなかなかに瀟洒なお店だった。ユニシロくらいしか知識のない真奥が何となく歩いていて「おしゃれそうな店」に入ったのだから、当たり前かもしれないが。

それよりも問題は品揃えだった。ここには最近の若いものが着るような、可愛らしい服やちょっと大人びたものくらいのものしか置いてない。当然和服など置いてはいない。

 休日とはいえ朝早いからか、客はまばらだった。しかし、店員も少ないらしくいまのところ頼れそうにはない。そうなると自分たちで選ばなければならないのだが、それが最大の難問だった。

普段は鈴乃が着ることは絶対にないような物ばかりだ。だから鈴乃は真奥を振り返った。

「ここで、買い物するのか……言っては悪いが、私はこんなところで服を買ったことはほとんどないぞ」

 鈴乃にそうは言われても、てきとう見つけた店に入った。などとは口が裂けても言えない真奥。彼は鈴乃を見て頷く。内心すごく焦ってはいるのだが、平静を装う為に腕を組んで言う。

「まあ、たまにはいいんじゃねえか? こういうのも」

「し、しかしだな。」

 真奥は心中の焦りを出さないように、横にかけてある服を取って鈴乃に見せた。

「そう言わずになんか試着してみろよ。これとか」

真奥の手には紅いワンピース。胸元が無駄に開いている。取り繕う為に取ったのだから真奥は良く見てなかった。鈴乃は身を下げて、恐る恐る聞いた。

「そ、それを私に着ろというのか……真奥?」

(しまった、近くにあるので一番変なのをとっちまった)

 鈴乃は買ってもらう立場だ。それならば彼女にきてくれと頼めば、変なもの以外はきてくれるだろう。鈴乃は施しを受けて文句を言うような性格ではない。真奥は手に持ったワンピースを下げて言う。

「い、いや。いろいろ見てみようぜ」

 

 

 

 

「…………」

 鈴乃はフリルのついたスカートを見ながら、ため息をついた。まったくわからない。服のセンスが違い過ぎて、言いも悪いもわからない。それは真奥も一緒だった。彼は店内を歩き回りつつ、時折見繕った服を持ってくる。

 真奥の持ってくるそれはなんの飾り気もないようなものか、逆にゴテゴテとした飾りのついた両極端なものばかり。そのたびに鈴乃はやんわりと断った。

 鈴乃は頭が痛い。外を見ると、日差しが強くなってきたらしく道行く人々が明るく照らされている。今日一日しかないのだから、できる限りは時間を有効に使いたい。

 そこまで考えて鈴乃は気が付いた。今の思考。「有効に使うということは」できる限りは真奥と一緒に――。

「ち、ちがう、ちがう」

 なにかを否定しながら鈴乃は頭を振った。

「と、とにかく。早く決めないとな」

 鈴乃は言うが、やはり洋服のことは分からない。

 

 それは真奥も一緒だった。彼もできる限り頭を使って考えるのだが、いかんせんその知識が薄い。さっきから空回りばかりしている気がした。

「芦屋を連れてくるべきだったな」

 真奥はため息をついた。芦屋ならば以前真奥の服を選んでもらったこともあり、鈴乃の服も選べるかもしれない。だが彼を連れて来れば、デートとは言い難い。

彼は、店に置いてある服付きのマネキンを見ながらつぶやく。

「いっそ、これ一式ください、て言うか……だめだろうなあ……ん」

「なにか、お探しですか」

「うわっ」

 いきなり話しかけられて真奥はのけぞった。彼が見ると、店の店員だろうか。首にネームを下げている女性が立っていた。女性は清潔感のあるシャツと黒のパンツ(この場合、ズボンのこと) それに肩までかかった茶髪にはウェーブがかかっている。ネームプレートがなければ真奥と同じ客に見えてしまう。

 なかなかにスタイルのいい女性だが、少し目が細い。遠くから見ると眠っているように見えるかもしれない。真奥はごほんと言いつつ、聞いた。

「いえ、実は女性用の服を探しているのですが……私も、連れもそのことに疎くて悩んでいるんです」

 無駄に丁寧な口調なのは職業病だろう。鈴乃が横にいれば「本当に魔王か?」といつもの疑問を投げかけられそうだった。

「そうなんですねー、よろしかったら、お手伝いしましょうか」

 女性は屈託のない笑顔で真奥に言う。真奥も負けじと笑顔で言う。なんで対抗心を燃やしているのかは自分でもよくわからない。同じ接客業をやっているからだろうか。

「できれば、よろしくお願いします」

「わかりました。で、お連れ様は……」

「あ、あそこです」

 真奥が指さしたところには鈴乃は居た。真奥にとっては鈴乃がただ立って服を見ているだけなのだが、女性にとっては違う。彼女ははっと目を開けた。びくりと真奥が身を引く。

 女性の視点では、そこに和服の美女がいるのだ。しかも服を選びに来たという。女性の心の中にメラと欲望の炎が沸き起こった。

「あの、和服の方ですか?」

「えっ、ああ。そうです。まあ、あんななりですから、服選びに困っていて」

「わっかりました」

 女性はいきなり、真奥の両手を掴んだ。開かれた目がキラキラしている。

「わたしにお任せください! あ、あんな方なら大歓迎です」

「そ、そうですか?」

 女性と言う生き物の特性を真奥は知らない。彼女たちは、服を着るのよりも「着せる」ことに熱を向けることがしばしばある。今がそれだった。

 女性の目にはもう鈴乃しか映ってはいなかった。あの人形のような人を、私がコーディネイトできる。それだけで女性はわくわくしてたまらない。それにこのような玄人には鈴乃が無知なのも「いい」。

「お、お客様。あちらの彼女様の御名前は?」

 震える声で女性は真奥に言う。真奥は彼女に畏怖を覚えた。良くわからない凄みを感じてしまう。だから「彼女」の言葉に反応できなかった。

「す、鈴乃。えっと鎌月鈴乃です……」

「わかりました。鈴乃さんですね!」

 女性は真奥の手を離すと鈴乃に向かってダッシュした。真奥の両手を掴んだ時の強引さで女性は鈴乃の手を取った。むろん鈴乃は驚いたが、ぐいぐいと女性に連れて行かれる。

「な、なんだ??」

「あちらの彼氏様から、頼まれて……」

「か、彼氏? な、なん……」

 真奥には、目の前の光景が激流のように過ぎていく。顔を赤らめる鈴乃をあっと言う間に女性は店の奥まで連行していく。最後に鈴乃は真奥を見て、

「ま、まお、た、たすけ――」

 それが彼女の最後の言葉だった。鈴乃の体は棚の陰に消えて、見えなくなった。

 一人残された真奥はぽつりとつぶやく。

「死には、しないよな」

 

 

 真奥は手持無沙汰にしながら、店のソファーに腰掛けていた。たまに他の店員が声をかけてくれるのだが、あの女性店員を待っていることを伝えるとみな一様に、憐みの表情を浮かべて去っていく。

「あの人何者だ……」

 どうやら、この店で最も奇異な人物に捕まってしまったらしい。真奥は鈴乃がどんな格好で戻ってくるのかが心配だった。水着とかできたらどうしよう。真奥は未来へのリアクションに困った。

「メイド服なら大丈夫だ」

 リアクションの話だ。真奥は一度、鈴乃が着ているところを見ているから反応はできるだろう。それでもその後のデートはメイド服女性と、と言うのは勘弁してほしかった。

 

 

 その時鈴乃は試着室にいた。彼女にはあの女性がついている。なぜかカーテンのしまった試着室の中から二人の声が聞こえてくる。

「あ、あのこれスカート短いんだが……太ももが……」

「大丈夫! このニーソックスで引き立ちますよ」

「なっなるほど。ん? まて、引き立てたらだめだろう!」

「大丈夫ですよ。これで彼氏さんもいちころです。それに膝上一〇センチくらいだから、見えませんって。それにこれも着てもらいますし」

「これを着るのか、なぜ? それもこのシャツは腋が開いているんだか……いやそれよりも彼氏って」

「ああ、かっこいいですよね。妬けちゃいます」

「いや、そういう話ではなくて」

「あっこのリボンを胸元につけますねー。あとサイドテールもいいんですけど、今日はおろしてみませんかー。はあはあ」

「へ、変な息を出すのをやめてくれ。……わっ変なところを触るな!」

「採寸が合っているか調べないといけないんですよ。胸まわりはぎりぎりにしましょうね」

「なっなぜ!?」

「そっちのほうが彼氏さん喜びますよ。男ですし」

「だんだん変な方向に話が言っている! 真奥! この店はまず――」

 

 

 

「おっそいな、鈴乃」

 てきとうに選んだとはいえ、この店へ鈴乃をひきずりこんだのは真奥だ。しかし彼はソファーで大きく欠伸をしていた。彼は服を買いに来たわけではないから、本当にやることがない。

「真奥」

 後ろから声がかかった。真奥はやっと終わったのかと思ってソファーから立ち上がった。振り向いた彼は、信じられないものを見る。

「あんた、なにやってんの?」

 腰まで伸びる赤い髪に鷹のような鋭い眼光。その人、いや彼女は真奥こと魔王がこの世で最も苦手とする人間だった。

「え、エミリア。なんでここに」

 普段、真奥は彼女のことを「恵美」と言うのだが今日は思わず、本名で読んでしまった。

 勇者エミリア。そこに腕を組んでたたずむ彼女は、かつてエンテ・イスラにおいて真奥と死闘を繰り広げた女性だった。そもそもこの世界に真奥が来なければならなくなった元凶でもある。それに彼女もまたこの世界に真奥を追ってきたんだから、境遇としては同じかもしれない。

 遊佐恵美。それは日本での彼女の名前。

 恵美はぴりと敵意を表しながら、真奥に聞いた。

「なんでここにって、服を見に来たのよ。ち……いや連れの子とね。その子は今、ちょっと薬局に行っているけど。あんたこそ……買い物? ここはレディース専門なんだけど」

「お、おう。町内会の仮想大会で使うらしくてな、買いに来たんだ」

 必死になって誤魔化そうとする真奥。別に隠すことでもない気はするが、言うべきことでもない。それに鈴乃とデートをしているなんて言えば「なにを企んでいるの?」とお決まりのセリフを言われるのは目に見えている。

(鈴乃まだ、もどってくるなよ)

 たらたら汗を流しながら、真奥は恵美に愛想笑いをする。別に媚びているわけではなく、誤魔化したいだけだ。恵美はじろじろと怪しみの視線で真奥を見つつ、一度壁にかかった服を見た。どう見ても女性用だ。

「まさか変態趣味に目覚めたの?」

「そんなわけあるか! どういう想像してんだ!!」

 真奥は冷や汗をかいている。何も知らない鈴乃が戻ってきたら万事は窮す。まず間違いなく恵美はめんどくさいことをいい。めんどくさい事態になる。それは真奥としても嫌だ。

「あ、あの」

 真奥の後ろから声がかかった。鈴乃が戻ってきたのだろうか。

ん?と言った顔で恵美が首を伸ばして、彼の後ろを伺う。真奥は歯を食いしばった。もうどうしようもない。彼もゆっくりと振り返った。

 想像した「鎌月鈴乃」はそこにはいなかった。代わりに一人の女の子がそこにいた。

 その子は穿いた短めの黒いスカートの裾を片手で下に引っ張りなりながら少しずつ近寄ってくる。もじもじしながら真奥の方をみる女の子。

 顔を少し動かすと胸元にリボンのついた白いブラウスのが映える。そして腰まで伸びた鮮やかな黒髪が印象的だった。

 スカートの下は少しだけ肌色が見えて、そこからニーソックスで隠れている。彼女が手でスカートを少しでも下ろそうとしているのは、肌色を隠そうとしているのだろう。足元をみると落ち着いたブラウンのブーツを履いていた。

(だれだ、こいつ)

(誰? この子)

 恵美と真奥は同時に疑問符を浮かべた。だが一瞬その女の子が恵美を見てなにかをくちばし立った。明らかに恵美の姿に動揺している。

「……ぇ…み…」

 驚きにそまる表情を見て、真奥は確信する。

(こいつ、鈴乃だ! だ、だれかわかんなかった。あの店員すげえ)

「おきゃくさーん。これを忘れていますよ」

 鈴乃らしき女の子の後ろから、あの店員がよってきた。彼女は手に持った赤い布のようなものをその女の子に渡す。布はチェック柄で大きい。

 無言で布をもらう女の子。店員は真奥を見て、ふふんと鼻を鳴らす。彼女の手には大きな紙袋があった、中にはおそらく「和服」が入っているのだろう。

「彼氏さん、どーですか。かわいくなりましたよ」

「あ、ああ」

「……かれ、彼氏。真奥! あんたどういうことよ」

 恵美が叫ぶ。真奥はめんどくさいことになったと唇を噛んだ。店員からはすさまじくめんどくさそうな顔をした真奥の顔が見える、だが恵美からは見えない。

「もしかして……修羅場、ですか?」

 こそっと女性の店員は真奥に耳打ちする。真奥は違うと思うのだが、修羅場は修羅場な気もする。どうこたえて言いいかわからない。店員はその真奥の態度で何を思ったのか。

「あら、ら」

 と他人事のように声を出した。

 

 恵美が真奥の肩を掴む。ぎりぎりと力を入れてくるので、地味に痛い。

「あんた。いったい何を企んでいるのよ!」

 さっき真奥が予測した通りのことを恵美は言った。真奥はこの場をなんとか乗り切らねばならない。幸い、目の前の女の子が鈴乃だとは恵美も気が付いていない。真奥は恵美の手を払った。彼女に向き直る。

「勘違いするな、恵美。こちらは、こちらはだな」

 真奥は鈴乃を見た。鈴乃は肩を振るわせる。額に汗が流れ、目の焦点が合ってない。それでも声を出さないのは恵美にばれないためだろう。真奥はそんな鈴乃を見つつ、思う。

(服を変える人がかわったみたいだな……? いや、それよりも誤魔化さねえと)

 偽名を真奥は考える。とりあえず、この女の子を鈴乃ではないだれかだと恵美に思わせなければいけない。普段の鈴乃とは似ても似つかない容姿と偽名があればこの場面をのりこえることができるかもしれない。だが肝心の名前が思いつかない。真奥は焦る

(そうだ、あのバイトでの名前……すずにゃんだったっけ。だ、だめだ、そんなこといえばこの暴力勇者俺を殴りかねえ。というか鈴乃も殴りかかってきそうだ)

 恵美は次の言葉を待っている。真奥を睨んだまま、仁王立ちである。

「で、その子は誰なの。というか変なことに巻きこむ気でしょう!」

「ち、ちげえよ。そんなことはねえこの人は、この人の名前はなあ」

 真奥は鈴乃を見る。それから口を開く。思いついたことをそのまま口に出してしまった。

 

「アメリカから来られたスズ=ニャーン先生だ!」

 

 恵美と鈴乃は同時に真奥を見た。両方とも驚愕の表情ではあるのだが、鈴乃の方が驚いている。至極当たり前だろう。いきなり自分がアメリカ人になれば。

「あ、あめ。外人!? この人。日本人にしか見えないんだけど」

 なにかに驚く恵美に真奥は思う。

(お前も外人だろうが!)

 真奥は鈴乃、いやニャーン先生に言葉を投げかけた。先生とは言ったが、それを言い出した真奥本人もなぜアメリカなのか、何故先生なのかわからない。それでも彼は無茶ぶりをする。

「そうだろ、先生」

「へっ?……ああ、うん」

 思わず返事した鈴乃は頷く。なにがなんだかわけがわからないが、ここは真奥に合わせておく方がいいと思ったのだろう。だが今日本語を使ったことで、恵美は疑いを持った。

「い、今。日本語」

「使うわけねえだろ! なあニャーン先生」

「……ま、まいねーむいずスズ=ニャーン……」

 スズ=ニャーンは「流暢な」英語で返す。そしてさらにつなげた。たしかいつか見たテレビ番組で英語の解説をしていたはずだ。彼女は必死になってその場面を思い出した。

「あ、あいふぁいんせんきゅー(訳。私は元気です、ありがとう)」

 本人もよくわかっていない英語は「訛り」が強すぎて、英語を話すことのできる恵美にもわからなかった。恵美は英語のような言葉で話しかけられてしどろもどろになり、うっすら笑う。完全に日本人が困惑した時に行う、笑い方だった。

「い、いえーす(訳・はい)」

 鈴乃と恵美は通じているんだが、通じていないのだかわからない会話をした。

「HAHAHA、はは」

「あ、あはは」

 必死に外人っぽく笑う鈴乃。それにつられて恵美も笑う。真奥は自分で作り上げた、奇異な光景に一時呆然としつつもはっと気が付いて、言った。

「わ、分かっただろうが、恵美。先生は日本に来られたばかりだから、服を買いに来たんだよ!」

「で、でもさっきあんたのこと彼氏って」

 そこであの女性店員が入ってきた。

「ああー。あれは私が勝手に言っていたんですよ。申し訳ありません」

 ぺこりと謝る女性店員。こういわれては恵美もどうしようもない。だが彼女の心にはある引っ掛かりがあった。じろじろと恵美は鈴乃を見て、疑問を口にする。

「……ニャーン先生は、えっとどこかで、あれ? スズ=ニャーン……スズ、鈴、んん? ベル…」

「あはははばっかだなあ恵美。鈴乃がこんな変な格好をするわけないだろう! 今日は鈴乃に漆原の世話をしてもらってるしなっ」

 恵美の連想が確信に触れそうになったところで、あわてて真奥は打ち消した。だがその真奥の言葉に鈴乃の耳がぴくりと動く。とは言ってもなにも言わない。だから何も気づかず真奥は続けた。

「だから、恵美。俺達はもう行くぜ。いいだろ!?」

「えっええ……いや、まちなさい。理由はどうあれあんたなんかに先生を任せてはおけないわ」

「お、お前に先生のなにがわかんだよっ」

「うるさい。何を企んでいるのかは知らないけど、あんたの思い通りにはさせないわよっ!」

 がるると唸りそうなほど、真奥を睨む恵美。理屈よりも直感で嘘を見抜いているのかもしれない。真奥はやはりめんどうくさいことになったと思った。

 そんな彼に女性店員がすすっと近づいてきた。そして小声で言う。

「お客さん露骨に反応しないでくださいね、この場は私に任せてください」

「なっ。どうにかできるんですか?」

「ええ、とりあえずお支払は……しめて29800円になります」

「ごぶっ」

 真奥は今日一番の衝撃を受けた。鈴乃に服を買うとは言ったが、高くて1万と思っていたところにニキュッパだ。それも五桁という大金。

 おそらく芦屋が数か月を費やした「機密費」はその半分以上が消え失せる計算になる。しかしこの状況では、真奥に選択の余地はない。

「お、お願いします……おつりは、いりません」

 悲痛な声を出す真奥。彼はこっそりとポケットから財布を出して、中から福沢さんを三人取り出す。そして女性店員にそれを掴ませた。

「まいどあり」

 ニヤリ笑う、店員。彼女はお金を受け取ると、真奥の手に紙袋を渡した。ずっしりとした重みは和服と、その他諸々の鈴乃の私物。その重み。女性は彼が受けったのを見てから、えいと真奥を両手で押した。

彼はうおっと小さく悲鳴を上げてよろける。だがここで彼のとった行動は早い。店員に非難の声を出すのではなく、恵美になにか言うのでもない。

真奥は鈴乃の手を取った。

「さんきゅー、恩に着るぜ」

 真奥は鈴乃の手を引いたまま、店から飛び出していく。恵美はとっさに追おうとしから、その腰を掴まれた。恵美が見るとそこには張り付いていた、あの女性店員が。

「は、はなして。あいつを野放しにはできない……っ」

「うふふふふ。紅い髪がすごくかわいいですねお客様。もっとかわいくしてあげますよ」

 ずりずりと恵美を奥へ引きずり込み始める女性。真奥に持ちかけた提案の半分は彼の為ではあっただろう。だがあとの半分は彼女の欲望でできていた。鈴乃とはベクトルが違う恵美もなかなかに弄り甲斐がありそうだ。

「い、いや。ちょっと。力強い……はなしてえ」

 恵美は悲鳴を上げながら。奥へ、連行された。

 

 

 

 街中を奔る。真奥は鈴乃の手を引いて、駅まで全力で走った。

 鈴乃も遅れずについてくる。むしろ真奥が重い荷物を持っていることを考えれば、彼女の方が楽なのかもしれない。しかし、鈴乃が無言なのは別の理由があった。真奥はまだそれに気が付いていない。

 真奥は急いだ。いつまたあの勇者が現れて、厄介なことになるかわからない。彼は店員に連れて行かれる恵美を見ていないから、なお急ぐ。

 平日で人が道に少ないのがありがたかった。休日ならばもっとスピードを緩めなければならなかっただろう。あの店から一〇分程度走ると、やっと駅についた。

 

「はあ。はあ、こ、ここまでくれば恵美も追ってこないだろ……。なあ、鈴乃」

「…………どーだかな」

「えっ、な、なにを怒ってんだ」

 真奥が振り向くと鈴乃は口をとがらせて、そっぽを向く。少し膨れ面の鈴乃は明らかに不機嫌だった。真奥はいきなり鈴乃にそんな態度をとられて、困惑する。

「怒ってなどいない」

「いや、どう見てもおこってんだろ。いてっ」

 ぎゅっと鈴乃は真奥の手を握った。多少聖法気で強化したのだろうか、真奥の手に激痛がはしった。彼は何かを叫びつつ、鈴乃から手を離してのけぞった。

「な、なにするんだ……あ」

 

「あはははばっかだなあ恵美。鈴乃がこんな変な格好をするわけないだろう! 今日は鈴乃に漆原の世話をしてもらってるしなっ」

 

 

「もしかして、鈴乃……俺に『変な格好』って言われて怒ってんのか」

「っ、そんなわけないだろう!」

 といいつつ、鈴乃はさらに顔を背けて、そのうえ真奥に背を向ける。彼女は口よりも行動の方が分かりやすかった。

 真奥は頭を掻きつつ、バツの悪そうな顔をする。あの時は恵美に気が付かれないように必死で考えて言った言葉ではない。だがそれが鈴乃を傷つけたのなら、真奥としても謝らなければならない。そう、彼は思う。

「なんつうか、ごめんな……あの時は必死だったからな」

 鈴乃は反応しない。

「で、でも。なんていうかさ」

 真奥はいったん言葉を切った。その先はなんとなく気恥ずかしい気がしたからだ。だが「それ」を言うことをやめはしなかった。

「似合っていたと思うぞ……本当だ」

 鈴乃は、全く動かない。真奥に背を向けたまま、無言を保った。

 

「……鈴乃。機嫌をなおせよ」

 しばらくして真奥が鈴乃の顔を覗き込もうとした。

 くるりと鈴乃は身をひるがえす。真奥には顔を見られたくない、と言うように別の方向を見る。真奥は「まだ怒ってんのか」と思いつつ、とりあえずは対面して話をしようと鈴乃の前にまわろうとする。

 鈴乃はまたくるりと体を廻した。すでにさっき顔を背けていたこととは、意味を変えている。

「おい、鈴――」

 真奥は顔を覗き込む。鈴乃は顔を背ける。

「いい加減に」

 鈴乃は頑なに真奥には顔を見せようとはしない。今真奥に顔を見られるわけにはいかない。だが真奥は鈴乃の前に出ようと、性懲りもなく動いた。

「い、いい加減にしろっ真奥!」

 いきなり鈴乃は真奥にどなった。もちろん顔は背けたままだ。真奥はおうっと驚いた。鈴乃はそんな彼の手を掴む。そして駅に向かって歩き出した。

「もう時間がないぞ。は、はやくいかないとな……」

「お、おい鈴乃。引っ張んな」

 手をつないだ二人が、歩いていく。先を行く鈴乃の頬は、ほんのり赤い。

 

 

 

 

 




朝はこれで終了です。昼はいろんなところに行きます。

行くかはわかりませんが、コメントに書いてもらえて場二人の目的地が増えるかもしれません。


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属性7 勘違い

おかしい、3話で終わる筈が終わりそうにない。


 窓の外は景色が流れていく。

 鈴乃は電車のドアについた窓へ手をつき、情景を眺めていた。しかし、窓に映った彼女の顔は険しい。何かに怒っているようにも見えるがそうではなかった。

 窓に映った彼女の姿はいつもの和服ではない。おろした黒髪が白のブラウスにかかり、真ん中についたリボンが可愛らしさを引き立てている。窓には映ってはいないが、彼女は普段穿かない黒のスカートが恥ずかしいのか、さっきからもじもじと足を動かす。

 平日の中途半端な時間で電車の中には乗客は少ない。とはいっても東京の中心へ向かう電車にしては、少ないだけだ。それは鈴乃ともう一人が座れることができなかっただけでわかるだろう。

 鈴乃は少し顔を伏せた。がたがたと電車の揺れ動く音が耳に響く。

 

「似合っていたと思うぞ……本当だ」

 

 急に鈴乃は顔に手をやった。彼女の手に持っていた赤い布へ頬を擦り付けて、何か言いそうになる自分を押さえつける。彼女はさっきから、心臓がばくばくと鳴り続けていることが分かった。なんでそんなに緊張しているかわからなければ問題だろう、だが彼女はこの異常の原因は分かっていた。

「おい、鈴乃」

 鈴乃の後ろから「原因」がしゃべりかけてくる。鈴乃は振り向くことなく、できる限り平静を装って口を開く。それでも力んだせいだろうか、口調が強くなった。

「なんだ、真奥」

「な、なんだ? まだ怒ってんのか」

 つり革を掴んだ真奥は困惑したように言った。彼は何も荷物を持っていない、鈴乃の「和服」が入った紙袋は駅のロッカーに預けてきた。

真奥の様子を見ると、どうやら鈴乃の「装い」は成功したらしい。なんといっても彼に自分が怒っていると印象づけることができたのだから。だが鈴乃はそれが不満だった。どうすればいいのか鈴乃すらわからなくなっている。

「怒ってなどいない!」

 怒ったように本当のことを言う鈴乃。彼女は怒ってはいない。逆の感情を、隠したくて隠したくてたまらないから声が大きくなってしまう。そのせいで真奥には彼女の心が届かない。

「……怒ってんじゃん……」

「っ……」

 意思疎通とはこの世で最も難しいことなのかもしれない。鈴乃は、はあとため息をついた。いったん心を落ちつけてから、後ろを向く。真奥の姿が見えた。

 黒髪の青年。真奥貞夫がそこにいる。

 落ち着いたはずの鈴乃の鼓動が速くなる。彼女の顔が紅潮する。それを隠すためにまた、鈴乃は不満げに横を向いてしまった。

 真奥は焦る。なんで鈴乃が怒っているのかわからない。さっきのことならばもう謝った筈なのだ。ここまで根を持たれるとは思わなかった。と思っている彼は完全なる検討外れである。鈴乃に張った「根」は真奥の思っている物とは種類が違う。

「……と、とりあえず次の駅で降りて、飯にしようぜ! えっと。鈴乃は腹減ってるか?」

「……いや、そこまでは」

「そうか、あー。そういえば俺もあんまりへってねえな……どうしようか……おっと」

 電車が減速したらしい。真奥は体をよろけさせた。だがすぐに体勢を立て直す。

 そこにおなじようによろけた鈴乃が倒れこんできた。

「ま、まお」

「あっと。アブねえ」

 真奥は鈴乃の体を支えてあげる。鈴乃の背丈は小さいから真奥の胸のあたりに倒れこんできた。鈴乃は真奥と一瞬目が合って、ドキリとした。不可抗力とはいえ真奥に抱きかかえられる今の状況が鈴乃を紅く染める。

「……は、はなせ」

 あわてて鈴乃は真奥から離れる。突き放された真奥は「なんだよ?」とやはりわけがわからないと困惑するしかない。最初から微妙にすれ違っているのが、いいのか悪いのか。それは彼らにもわからない。

 真奥は「怒っている鈴乃」にやんわりと提案した。

「まあ、今朝から不良(エミリア) に絡まれたりしたからな……。座れるところに行ってなんか軽く食べねえか? あと少し喉乾いたしな」

 真奥の言った勇者に対する冗談を鈴乃は聞き流したが、どこかで休みたいのは鈴乃も同感だった。このまま、真奥とただ一緒にいるとおかしくなってしまいそうだ。彼女は横を向いたまま、言う。

「しょ、承知した」

 口調が固い。声は震えている。

 

 

 降りたのは新宿駅だった。鈴乃が電車から降りると、少しだけスカートが揺れた。すぐに彼女は手で押さえる。スカート自体、中が見えるような捲れ方をしないように作られているので必要はない行動なのだが、初めてミニスカートを着た鈴乃にはわからない。

 電車の入り口から少し離れてから恥ずかしげに鈴乃は振り返り、真奥を睨みつける。真奥はなぜ自分が睨まれたのかわからずに一歩下がった。

「な、なんだよ」

 スカートの中を見られたのじゃなかろうか。鈴乃はそんな疑問を持っているのだが、そんなこと真奥に聞けるはずがない。だから真奥を睨むしか方法がない。真奥からみれば本当に意味がわからないだろう。濡れ衣といってもよい。

「い、いや。わからないなら……いい」

「そ、そうか」

 鈴乃はふんと前を向いて歩きだす。真奥はそのあとを追う。彼は鈴乃の横へいくと並んで歩く。そのまま二人は新宿駅の階段を下りていく。

 

 

 改札を出て真奥は悩んだ。

(どこで食べようか……) 

 駅の構内には多くの店がある。あまり高望みしなければ大抵の物は食べることはできる。しかし鈴乃はそこまでお腹は減っていないと言っていた。それは真奥自身も同じだ。

 そうは言っても今日一日歩き回るわけだから何も食べない、とはいかないだろう。それは後々に後悔するのが目に見えている。真奥は難しい顔をしながら、歩いた。

(お、怒っているのだろうか……)

 鈴乃は何か勘違いしつつ、真奥を見る。さっきから大人げのない態度をとりすぎたと今更ながらに申し訳なく思う。彼女の手には汗がじんわりと浮かぶ。まるで先ほどとは立場が逆転したようだった。

 鈴乃は肩を並べて歩きつつ、恐る恐る聞いた。

「ま、真奥?」

「あ?」

 薄目を開けて真奥は鈴乃を見る。それが不機嫌そうに見えて鈴乃はぐっと息をのんだ。彼女はやはり怒っているのだろうと勝手に結論付ける。真奥は単に「カレーかカッツドゥーンかそれとも…」と悩んでいただけなのだが鈴乃はしゅんと肩を落とした。

「……そ、そのだな」

 片手に掴んだ赤い布が皺を作る、鈴乃の手には力が入っている。彼女はなにを真奥へ言っていいのかわからない。謝ればいいのかそれとも、機嫌を取ればいいのか。唇を噛んで彼女は悩む。

(うどんか……やっぱり)

 真奥は別のことを考えている。鈴乃の好物を食べようかと考えているあたり、彼女のことを考えているも同然なのだがどうにも伝わらない。口に出していないからと考えれば当たり前かもしれないけれど。

 ふと、鈴乃の目にいつか見た看板が見えた。それは丸い緑の縁の中に黒塗りの男が書かれたロゴ。

(あそこは……たしか恵美殿と行った、カフェ?)

 ムーンバックス。都内だけでなく、日本各地でチェーン展開しているカフェである。二年後には山陰地方にも開店し話題になるのだが、真奥達はまだ知らない。

 以前、エミリアこと遊佐恵美と鈴乃はここへ来たことがあった。だから鈴乃はここを見つけて救われたような気持ちになった。それは多分に「真奥と話す材料」ができたことへの喜びからくるのだが、そこまでは自覚していない。

「おい、鈴乃軽くうどん……」

「真奥! あそこへ入ろう」

 鈴乃が指をさすのが一瞬速かった。まだ真奥は「うどん」しか言っておらず「食べよう」までは言えなかった。

真奥は鈴乃の指した方向を見た。ああ、と彼は頷く。普段ならばコーヒー一杯に四百円前後かかる店には入らないだろうが、今日は懐に大金を抱えていることで気持ちが大きくなっている。それにあの店でも食べ物を多少扱っていたなと彼は思考する。

逆に鈴乃は「うどん」の単語でお腹が空いた。聡い彼女は真奥が「うどんをたべよう」と言ってくれようとしたことが分かる。それだけでさっきまでの苦悩を忘れて食べたくなるのだから現金と言えばそうだろう。

「じゃあ、あそこで軽くたべるか」

「あ、ああ」

 誘った方の元気がない。鈴乃は小さく鳴ったお腹をさすりながら店に向かう。真奥は特に考えることもなくなったのでにこにこし始めた。そんな真奥の様子をみて鈴乃は思わず聞く。

「真奥? 怒ってないのか……?」

「はあ?」

 真奥は先ほどの鈴乃のように否定するではなく、いきなりなんだと表情で表した。彼にとっては慮外のことだったのだろう。それで鈴乃は悟った。真奥は怒っていないというよりもそんなことを考えてもいなかった。

「は、はは」

 乾いた笑いを浮かべる鈴乃だが、内心ほっとしている。

「そうか」

 安心したような声を出す鈴乃。真奥は何かわからないが、彼女の声が柔らかくなったことに安堵する。やっと機嫌を直してくれたかと思ったのだが、そもそも鈴乃は最初からご機嫌である。ご機嫌だから怒って見えたわけだが、そこまでは真奥にも分からない

 真奥は店に入る前に、ある疑問というより不安を口にした。

「あッ、そういえば俺あんま入ったことないんだよなあ……ここ。普段自分のコーヒーなんて自販機かスーパーの安物で作るからな……」

 鈴乃は真奥の言葉にぴくりと肩を動かした。

 端的に言おう。鈴乃は喜んだ。彼女は得意げに真奥に言った。

「そ、そうか。では私が頼んできてやろう。真奥は席を確保してくれ」

「ん? まじで? ここに鈴乃は良く来るのか」 

「ま、まあな」 

 鈴乃も一度か二度しか来たことがない。それでも見栄を張っているのはどういう心理なのだろう。単に自分が役にたつのが嬉しいのか、はたまた「真奥」が喜びそうだと思ったから言ったのか。

 鈴乃にもわからない心の機微は真奥にはわからない。だが彼は鈴乃に顔を向けてニカッと笑った。その笑顔を悪魔の王がするものだとはだれが信じるのか、しかし少なくとも――

「頼んだぜ鈴乃。これ財布な、あとなんかてきとうに食べられるものを買ってきてくれ」

「あ、ああ。……まかせろ!」

 魔王の笑顔はここにいる女の子の顔を綻ばせる、それは間違いない。

 

 

 

真奥が店の入り口に立つと自動ドアが開いた。彼が入ると、鈴乃も続く。中から店員の「いらっしゃいませ」のコール。

鈴乃が店内を見ると前に来た時と相違なく、いくつかの丸机が窓際に並んで置かれている。そこには会社員だろうかスーツを着た男がコーヒーを片手にノートパソコンを開き、何かを打ち込んでいる者やまたはラフな格好をした若者が分厚い参考書を開いていたりしている。

鈴乃が前に来た時も、ムーンバックスでそんな人達を見た気がした。もしかして同じ人間かとも思ったが、彼女の来た店舗は別の場所だ。つまるところ客層が固定化されているのだろう。

店内には多くの人がいたが、真奥は素早く空いていた席を確保に奥へ移動した。そこは接客業をしているからか、席をとることの重要性を知っているのだろう。その動きには無駄がなかった。

 

 

 真奥と別れた鈴乃は注文をしに行った。だがレジの前には数人の列。しばらくかかりそうだなと鈴乃は思いつつも、最後尾にならぶ。手に持ったチェックの赤い布を真奥に預ければよかったと彼女は思う。

 店員の一人がそんな鈴乃を見て、近寄ってきた。その店員は、グリーンの前掛けをつけて、耳にインカムをつけた女の子だ。彼女は鈴乃に笑顔で言う。

「あっこれメニューです、よかったらどうぞー」 

「ん? ああ。ありがとう」

 店員から一枚のメニューを受けとった鈴乃は、それに目を通す。先にメニューを渡されれば、客には待っている間に注文を決められる。その上回転率をあげたい店側にとってもメリットがあるのだろう。鈴乃は良く考えているなと感心した。

 

「えっと、真奥が好きそうなものは……」

 真奥はてきとうに買ってきてくれとしか言っていないのに「好きそうなもの」を探す、鈴乃。しかし、メニューには「なんとかモッツァレラ」とか「なんとかサラダ」などとよくわからない横文字が羅列されている。

(……あれは、たぶん餅の一種か。わ、私と真奥は同じもので……いいだろう)

 違う。「モッツァレラ」である。良く調べもせずに選ぶからこういうことになる。

(あとは飲み物だな)

 鈴乃はチーズの一種を餅と勘違いしたまま、飲み物を選別した。だがこれもただ「コーヒー」などと書いてくれればよいのにラテだのフラペチーノだのと小難しい単語が並んでいる。鈴乃はだんだん順番が近付いてくることも相まって、急いで選んだ。先ほどは一緒の物に決めたが、今度はなんとなく気恥ずかしく鈴乃は別々に選んだ。

(真奥は……あの「ばにらふらぺちーの」とかいうのにしよう)

 お昼ごはんと一緒にバニラの浮いた甘ったるいものに決められた真奥。

(私は……あっ。コーヒーがあるな、たしか恵美殿と来た時もあれにしたはずだ……)

 鈴乃は前に来た時と一緒の物にした。とりあえずは注文するものを決めて。内心ほっとする。だが鈴乃はその気持ちに疑問を覚えた、たしかさらに困難が待っていた気がするのだが思い出せない。以前は恵美の同伴でそこまで悩んでいないから、その「困難」に対して記憶が薄い。

「いらっしゃいませー。お客様、こちらにどうぞ」

 鈴乃の前の客が注文を終えて、横にずれる。そこでカウンターにいた髪の短い精悍な顔をした男性店員が鈴乃を誘導した。彼は光るような笑顔を鈴乃に向ける。

「あ、ああ」

 鈴乃はそれに気圧されながらも、ごほんと一息。そのあとに注文を伝える。

「あのもっつぁれらさんどを2つと……あとは、ばにらふらぺちーのとアイスコーヒーを一つずつ頼む」

 自分の注文だけは流暢に言いつつ、鈴乃は青年に伝えた。青年はにっこり笑ったまま、「かしこまりました」と言う。そして、カウンターに置かれたメニュー表を指さしながら言った。

「お飲み物のサイズはどうなさいますか?」

「む?」

 鈴乃がメニューを見て唸った。

 

Short

Tall

Grande

Venti

 

 なんだこれと鈴乃は目を疑った。全く読めない。というかどれが大きくて、どれが小さいのかすらも鈴乃にはわからない。

(あ、アメリカ語か。ど、どうすれば)

 焦ったあまり変な勘違いをする鈴乃。そもそもこのサイズ表の主要な単語はイタリア語であり、「英語」ではない。

 鈴乃は思い出した。

「あっあの時」

 恵美と一緒に来た時、彼女は注文の最後の方で「ぐらびで」とか「書道」だとか法術用語のようなことを店員に言っていた。あれはこれのことだったのだ。と鈴乃はすさまじくあいまいな記憶を思い出した。当時は勇者と対面したのが初めてで些末なことはほとんど覚えていない。

「あっ、ま、おう」

 鈴乃は遠くにいる真奥を見た。彼は奥の席を確保して、座っている。こっちに気が付いたようで鈴乃を見ているので助けを借りられないことはない。だがさっき任せろと言った手前鈴乃は助けを求める声を出すことができなかった。

 となれば、自ら解決するしか方法がない。

「あの、えっと」

 もごもごと鈴乃はなにかを言う。青年は「?」と疑問符を浮かべた顔で彼女を見る。その空気を察したのか鈴乃も汗をかく。彼女の後ろには大勢のお客が並んでいるから、あまり自分ばかりが手間取るわけにはいかない。

 鈴乃は意を決した。このメニュー表を見れば「Grande」が真ん中にあるから、それが牛丼やらでいう「並」だろうと勘違いしたまま決定する。鈴乃はとりあえず、サイズだけは決定した。あとは青年に伝えるだけだ。

ここにおいて真奥のバニラが増量されるのだが、それは別話。

 鈴乃は口を開いた。単語の読み方がわからないが、アルファベッドならわかる。

「こ、このじーあーるえー、な、なんとかを、ふ、二つ。あっあとミルクとシロップをつけてくれ」

 後ろの客が口に手をあてて、肩を震わせはじめる。

「あっ、……かしこまりましたー」

 優しい青年は満点の笑顔でかしこまる。「グランデ」などと野暮なことは一言も言わなかった。青年はさらに会計を進めて鈴乃との金銭のやり取りを終える。

「では横にずれてお待ちください」

青年にそう言われた鈴乃はやりきった顔でレジの横に行く。あとでメニューを指さして注文すればよかったと後悔するが、それも別の話。

 

 

 

「なあ、鈴乃? これが俺の昼めしか?」

 大きな容器に入ったバニラフラペチーノを片手に真奥は鈴乃に聞いた。サイズが大きいので、これだけでお腹に溜まりそうだった。

「あ、ああ。悪魔も、あ、甘くなったほうがいいと思ってな」

 鈴乃はアイスコーヒーを持って、愚にもつかぬ言い訳をする。それにこれ以上真奥に甘くされれば本当に彼を魔王として見ることができなくなるだろう。

鈴乃が目を泳いでいるのが、彼女の困惑を表している。

(ばにらってバニラアイスのことなのか。す、すまない真奥)

「……真奥。食べないのか」

 罪悪感を覚えつつも鈴乃は真奥に謝れず、かといってほかに言うこともないので食事を勧めた。それはそれで鈴乃も素直に謝れないことにさらなる罪悪感を募らせる結果になるので悪循環としか言いようがない。

「お、おう」

 真奥は鈴乃の買ってきた「餅が入っているらしい」という包みを開けた。暖かいパンズにキノコに「餅っぽいの」がかかっていているサンドでなかなかにおいしそうだ。

(も、ち?)

 とろけたチーズを見つつ真奥は疑問に思ったが、とりあえずフラペチーノの容器を机に置いて食べてみた。包みを両手で持って、かぶりついた彼を鈴乃は心配そうに見る。

――おいしくなかったら、どうしよう

不安とともに鈴乃は真奥を見る。真奥はパンを具ともに口ちぎり、口の中で咀嚼する。それから飲み込んで鈴乃に言った。

「こ、これおいしいな」

 鈴乃はどきりとする。自分で選んだものを真奥に「おいしい」と言われた瞬間、心の底から何かが湧き上がってきて口元がほころぶ。だがそれを真奥には見られたくないという気持ちもあり、俯いてしまう。ただ、その肩は震えていた。

「あちっ」

 真奥は食べながら、チーズの熱さを感じた。彼は横に置いていた「飲み物」を取り容器に刺さったストローを咥えて飲むのではなくすする。バニラの甘さと冷たさが口の中に広がる。白い甘さに、先ほどのチーズの味や温かさは全てが飲み込まれていく。

(……口の中で味が喧嘩してる……)

 真奥は甘い物を飲みつつ、渋い顔をする。俯いている鈴乃にはそれが見えなかった。

「鈴乃は食べないのか?」

「あ、ああ。食べる」

 鈴乃は真奥に促され、自分のサンドの包みを開けた。彼女は真奥と同じように両手で包みをもち、食べる。真奥のように口にこそ出さないが、少しだけ目を見開いた。つまりおいしかったのだろう。

「あつい」

 ここは真奥と同じように感じたらしい。鈴乃もアイスコーヒーの容器をとって、ストローから飲む。コーヒー独特の苦みが鈴乃にはおいしく感じられた。

それを真奥は恨めし気に見ている。ぷはとストローから口を離した鈴乃は真奥のような苦悩を抱えていないことが表情からわかる。飲み物を飲む、いや「すする」たびに味のリセットが行われる真奥からみれば、なるほど不公平だろう。

「すこしくれよ、鈴乃」

「は? 貴様、自分の分があるだろうが……。あまり食い意地をはるな」

 真奥の言っているのはアイスコーヒーのことだったが、鈴乃はサンドのことだと思った。ここでも微妙に勘違いしているが真奥としては拒絶されたことですこし、むっとした。

(じ、自分だけコーヒー飲みやがって……俺のはデザートじゃねえか!)

 鈴乃はコーヒーの容器を台に置いた。真奥の目がきらりと光る。

 一瞬のことだ。真奥は鈴乃前からアイスコーヒーの容器を取った。

「あっ。真奥、なにをする!」

「だから、すこしくれって言っただろうが。けちけちすんなよ」

「それのことだったのか……まあいい、いや、ん? 待て、真奥!」

 やっと勘違いに気が付いた鈴乃だが、彼女は「あること」に気が付いて真奥から容器を奪い返そうとする。しかし真奥も、手を動かして回避する。

「鈴乃、今、いいって言っただろ。フェイントかよ汚ねえぞ」

「ち、違う、ともかくそれを返せ!」

「……すこしだけだって。口の中が甘いんだよ! さっきから」

「そういうことではな……あっ」

 鈴乃がなにかを言い終わる前に、真奥は容器のストローからコーヒーを飲んだ。鈴乃はそれを呆然と見つつ、震えはじめる。真奥が音をたてて飲むのを見て、鈴乃はなにかうめき声のような声を上げる。

 

さっきあのストローで自分も飲んだのだから、そうなるのは当たり前だろう。

 

「あっあ、ままお」

「……な、なんだよ。そんなに飲ませたくなかったのか?」

 鈴乃の顔が赤くなっていく。その様子を見て、真奥はさすがに申し訳なく感じた。彼はストローから口を離して鈴乃に返す。

実際のところ返されても鈴乃は困ってしまう。今、目の前で真奥が飲んでいたものだ。口をつけるのは、いろいろと勇気がいる。鈴乃は容器を凝視しつつ、無言になった。

「…………」

(鈴乃……そんなにコーヒーが好きなのか。まあ、ここのは高いからめったに飲めねえしな)

 鈴乃がいきなり黙ったので真奥は「無言の抗議」とそれを受け取った。その上で自分はあまり飲まないから鈴乃も飲まないだろうと勝手な推測を付け加える。事実はそこまで単純ではない。

 真奥はサンドの入った包みを取って、食べ始める。鈴乃が何も言わなくなったのでなんとなく気まずくなったと彼は思ったが、鈴乃はそれどころではない。

(こ、これ。どどどどうしようか。わ、わたしのだから飲まなければいけない、だろうな)

 鈴乃はコーヒーの入った容器を見つめながら考える。さっきから心の中で真奥への非難とやら真奥への好意やらが――

「ち、ちがうちがう」

 いきなり何かを否定する鈴乃。彼女は頭を振って、邪念を払う。真奥は「なにやってんだ」とは思ったが、口の中でものを咀嚼しているためしゃべれない。

 鈴乃は容器を手に取った。両手で包み込むように持ったから、冷たさが皮膚にしみる。容器が震えるのは鈴乃のそれが伝わっているからだろう。

(の、飲んだのは……ま、真奥がかってにやったことだからな……そ、それに私は)

「私は喉が渇いているんだ!」

「えっ? ああ、そうなのか……?」

 急に自己主張する鈴乃に真奥は驚いた。だからコーヒーを頑なに渡そうとしなかったのかとも思う。だが鈴乃は喉の渇きなどどうでもよい。今は心臓がうるさくてしかたがない。

(このコーヒーは私のだからな、全て飲まなければ……その作ってくれた者にも悪い、だ、だから)

「これは仕方ないことだからな! 真奥!!」

「な、なにが?」

 いちいち言い訳をする鈴乃に真奥は返答する。だが鈴乃が何を言っているのか真奥もわからなくなってきた。だから思考する。さっきから鈴乃はなにをいっているのだと考えた。完全に藪蛇である。

 そんな真奥の心境はつゆ知らず、鈴乃は震える両手で容器を口に近づけた。心の中では「仕方ない、仕方ない!」となにかにたいして言い訳をしている。

 鈴乃はほんのりと赤らめた顔を容器に寄せる。桃色の唇が開き、ストローを咥えようとする。鈴乃は最後に目をつぶった。

 ストローを噛む、鈴乃。目をつぶったまま中のコーヒーを吸う。だがその味はわからない。別のものを味わっているのだから、それもそうだろう。

「あっ、新しいストローもあるぞ鈴乃。ほらっ、いらねえのか?」

 やっとそのことに思い至った真奥がなにかを言うが、鈴乃の耳はそんなことは届かない。彼女は味のしないコーヒーを飲む。そして数分後の鈴乃はこう、真奥に言うのだ。

「は、早く言え!!」

 

 

 

「そういや鈴乃」

「ん? なんだ、真奥」

 すでに真奥と鈴乃はサンドを食べ終わっていた。

鈴乃はあたらしいストローをさしたコーヒー容器のふたを開けて、小さな入れ物に入ったコーヒーミルクを取る。最初からミルクをいれるべきだっだのだがさっきはそれどころでなかった。鈴乃が開けた拍子にミルクが少しだけ飛び、机に白い点を作った。

だがなぜか鈴乃は気にする様子もなく、真奥の問いかけに顔を向けた。

「おい、ちょっと飛んだぞ。いや、今日のことなんだけどよ。どっか行きたいところはあるか?……お前は、あんまり。遊びはできそうにはないからな。無理して、言わなくてもいいけどな」

「……真奥、私をばかにしていないか?」

 じとりと真奥を睨む鈴乃。彼女はその容姿から感じるよりもすこし年齢が高い。そんな女性に本当のこととはいえ、「遊びができない」といえば失礼にあたるだろう。鈴乃も多分に漏れず、そんな意地がある。

「ふん、たしかにで、デートなど。来たことはないがな……真奥!」

「あ、ああ」

 真奥を威嚇するように鈴乃は言う。だが「デート」も噛まずに言えない彼女の男性関係など推して知るべしである。それでも鈴乃は腕を組んで真奥に語り始めた。真奥も実は鈴乃はいろいろと知っているのではと思う。彼も経験が浅い。

「……聞いたことがある」

(あっ、だめだこいつ)

神妙な顔をしている鈴乃を見て真奥はそう思った。どこに行きたいのかと言ったはずなのだが、まるでなにかの伝承を話すような口ぶりの鈴乃から彼は全てを悟った。はかない鈴乃への期待だったが、それでも彼は口をはさんだりはしない。

 鈴乃はなにかを思い出すように、たどたどしく言い始めた。

「でーというのはだな、その、集まってからご飯を食べ、そのご『からおけ』やら『げーせん』やらに行き遊ぶのだ」

 おおっと真奥は驚いた。案外に現実的な話を鈴乃はしている。だが発音が怪しいから本当に又聞きかテレビの受け入りだろうなとも彼は思った。しかし鈴乃の話はまだ終わってはいない。

「……そして最後はホテルに行ってから終わりだと聞いている」

 真奥はこめかみに皺を作って、渋い表情を浮かべた。今、鈴乃はなんといったのか。行く気だろうか、最後の場所へ。おそらく勘違いしているのだろうが、本気で言っている可能性もある、真奥はどう返そうか、本気で悩んだ。

 真奥が苦悩しつつ、無言になったことで鈴乃は不安になった。なにか間違ったことを言ったのだろうか、彼女は真奥へおそるおそる聞いた。

「そ、そのだな真奥。私としてはホテルというのは……性に合わない。できれば『旅館』に泊まってみたいと前々から思っていたのだが、どうだろう?」 

 どうだろうと言われた真奥は一層苦悩の度合いを深めた。だが一つだけわかったことがある。鈴乃は「ホテル」を単なる宿泊施設にしか考えていない。だから「旅館」などといったのだろう。

 伝えるべきか、伝えざるべきか。真奥は歯を食いしばって考える。ここ数日でもっとも悩んだ。

彼は言う。ゆっくりと。

「鈴乃……お前。俺が最初のデートでよかったな」

「なななにをいきなり! そ、それは私と来て、その…真奥は…嬉し……とい……こと」

 最後の方はよく聞き取れなかったが、真奥は顔を赤く染めて唇をかむ鈴乃のことを本気で想った。このまま放置していたら、大変なことになりかねない。彼は居住まいを正して鈴乃に向き直る。その顔は真剣そのものだった。

「鈴乃」

「っ……」

 鈴乃は名前を呼ばれて体中が熱くなった。彼の赤い眼光を、真っ直ぐ見れない。

「鈴乃」

 真奥はもう一度、彼女の名前を呼んだ。鈴乃はなんとか搾りだすような声を出す。

「な、んだ」

「大切な……話がある。聞いてくれ」

「た、大切な、話……?」

 鈴乃の心臓が鳴る。この状況で言う、大切な話とはなんなのだろうか鈴乃は考えた。まさか、まさか――。

「わ、わかった。聞こう……」

 鈴乃は期待と焦燥とが入り混じった心境で返事をする。それでも「聞く」と言ったのは、つまり前者の気持ちの方が強いのだろう。真奥もうんと頷いて、鈴乃に顔を近づけた。

「耳を、貸してくれ」

「あ、ああ」

 唯々諾々と従う鈴乃。彼女は真奥の顔に耳を寄せる。口を閉じ、目をつむる。今から真奥の言う言葉を、早く聞きたかった。真奥は一度あたりを見回して、聞こえる範囲にだれもいないことを確認した。言うことが言うことだから彼は周りのお客さんに配慮したのだ。そのせいで鈴乃は焦らされた。

 やっと真奥が口を開く。

「実はな……ホテルっていうのはだな……」

 鈴乃の耳に真奥の声が届く。近くにいる分、彼の声は鈴乃には良く聞こえた。

 鈴乃の目がゆっくりと開かれて、首筋から赤みがさらに増していく。口が開いて「あああ」と良くわからないうめき声を出し始めた。

「その、だからなあまりそういうことは言わない方がな、いいと思うぜ?」

 真奥の言葉は続く。まるで拷問の様である。

 鈴乃がいきなり真奥の胸倉をつかんだ。そのまま引き上げる。

「ま、真奥おおおおお!」

「は、はい!」

 店中の視線が彼らに集まる。真奥の配慮は水の泡になった。多くの人が「痴話げんかか?」と奇異な目で彼らをみた。そんな話ではない。

 鈴乃は真奥だけを見つめて言う。

「ささ、さっきの言葉は、わすれろぉお!」

 鈴乃は泣きそうな声だった。 

 

 

 

 

 店をでてから鈴乃は真奥と目を合わせようとはしなかった。それどころか彼の前をずんずんと歩いていく。片手には赤い布。

 真奥はそこでふと思った。

「おい、鈴乃?」

「なんだっ!」

 勢いよく振り向いた鈴乃の目には敵意に似たものが燃えている。真奥はその目に気圧されつつも疑問を口にする。

「いや、それずっと手に持ってるだろ? なんだ、それ」

「あ、ああ。これか」

 鈴乃は赤い布を広げた。広げてみると、意外に大きくなる。鈴乃はそれをひるがえして、肩から羽織った。チャックの布が彼女を包み。真奥に向き直った。

「こうやって着るそうだ。ぽんちょとか言っていた」

「ぽんちょ? ああ、ポンチョか。着てる人多いよな」

 なるほどと得心したように真奥は頷く。鈴乃はポンチョの前に付いたボタンを閉めた。ポンチョ自体にはあまり飾り気はないが、少し胸元が開いておりブラウスのリボンが見える。あの店員が計算したのだろう。

「ど、どうだ。ま、まあ貴様のことだから、変なことを言いかねんが」

 鈴乃は少しだけ、腰を回す。赤いポンチョが揺れた。

 真奥はそれを見て言う。

「あ? なんだ、その評価。似合ってるだろ」

「…………貴様というやつは」

「な、なんだよ!? 変なことは言ってねえだろ」

 変なことを言わないから問題なのだ。鈴乃はポンチョの裾を手でめくり、顔に当てた。

 




お疲れ様でした。カフェでご飯食べただけなのに、長くなった気がします。

書いてて楽しかったのでイイですけど!


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属性8 正直者

遅れて申し訳ない。


「今は、2時半か……」

 真奥は携帯で時間を確かめてから呟く。

 あのカフェを出たあと真奥と鈴乃は新宿駅の周りを目的もなく歩いた。二人とも大した地理感覚もないためにどこに行くとも目標がない。昨日の夜に決まったデートであれば、計画も杜撰なのはあたりまえかもしれない。

 しかし今日の真奥には「秘策」があった。それを考えるだけで真奥の顔がにやけてくる。彼が時間を気にしていたのはそのためだ。その秘策は昼には使うことはできないので時間を潰さなければならない。

「真奥?」

 鈴乃は不気味に笑う真奥を覗き込んだ。真奥はあわてて、顔を背ける。

「い、いやなんでもねえよ」

「……なにがだ?」

 訝しげに眼を細める鈴乃。真奥は取り繕うように言う。

「あ、ああー。あのさ鈴乃。カフェでお前言ってたよな。デートっていえば」

「忘れろと言ったはずだ!」

「それじゃねえよ! だれもホテルとか言ってないだろ!」

「言っているじゃないか!」

 不毛な言い争いをする二人を道行く人が見ていく。真奥も鈴乃もその実年齢にそぐわないほど若い容姿をしているからか通り過ぎていく人は微笑ましげでもある。

「とにかくだ」

 真奥はいったん話を区切った。このままでは平行線のままな気がしたのだ。鈴乃もそれを感じていたのか、真奥が言うと口をつぐんだ。それから真奥は一つ咳払いをしてから鈴乃に提案する。

「言ってたじゃねえか、デートっていえば『ゲーセン』だの『カラオケ』だの。そうだろ?」

「あ、ああ。それは確かに言った記憶はある……」

 そうだろと念を押す真奥に鈴乃は頷いた。彼女の否定または忘却したい「失言」はそのあとに言った言葉だから、今真奥の言うことに反論する必要はない。彼女は又聞きの知識とはいえ、間違いなくデートは真奥の上げた場所に行くものだと言った。

「だからだ。行こうぜそこに」

「…………別にかまわないが、私はほとんど歌えないし、ゲームもしたことはないぞ」

 鈴乃の歌えないというのは音痴なのではなく、現代の歌そのものをほとんど知らないのだろう。それは彼女が異世界人であるため、多分にしかたがなかった。とは言ってもその点では真奥もあまり変わらない。だから彼は言う。

「それは俺も一緒だ。カラオケは……いけねえことはねえけど無理だな。だから行くとしたらゲーセンだ。そっちもあんま行ったことはねえけど、大丈夫だろ」

「まあ、私には異存はない」

「よし、決まりだな。まずはゲーセンを探さねえとな」

 

 

実際には探すまでもなかった。真奥と鈴乃がいたのは新宿駅周辺なのだからゲームセンターなど徒歩数分の範囲にいくつかある。彼らは一度新宿駅に戻ってから、そこの駅員に道を聞こうとしていたが、駅に行くまでに見つけた。

「ここがげーむせんたーか」

 「タイドーステーション」と大きな看板を下げたビルを鈴乃は見上げながら言う。そのビルは一面赤に塗られていて、なにか宇宙人を模したようなキャラクターが店名の上に描かれている。この建物一つ全てが「店」なのだ。

「この店たまに見かけるんだけど。入るのは初めてだな」

「そうなのか? 真奥」

「ああ。基本的には俺はバイトだし、芦屋は家計にうるさいし漆原は家でゲーム派だからな。そうそう行く機会はねえよ」

 そういう真奥の顔がほんのりと嬉しげだ。鈴乃はその表情からあることを思った。

「……行ってみたかったのか?」

「ばっ、や。おお俺は魔王だぞ! そんなわけねえだろ」

 何を恥ずかしがっているのか真奥はあわてて否定した。これだけで全てを白状したのと一緒である。

 真奥貞夫は芦屋、漆原の二人を食わせている関係で娯楽施設にはあまり行かない。たまに家計を預かる芦屋の目を盗み映画館へは行くこともあるが、頻繁ではない。

 だから興味はあったのだろうが、ゲームセンターには行けなかった。

そんな彼を鈴乃は小さく口元をほころばせる。

「す、鈴乃。何笑ってんだ」

「いや。貴様も体面など気にするのだな……少し意外だっただけだ」

「お、おまっ。それじゃあ、いつも俺が気にしてないみたいに……」

「アルバイトしている魔王にそんなものがあるものか」

 鈴乃の言葉に「ぐぬぬ」と真奥は黙ってしまう。鈴乃は彼を見て笑顔になる。今日一日、何度この男に心を揺さぶられたかわからない。だから今反撃が成功したようで、少しだけ嬉しかった。

 それに鈴乃も真奥が楽しみにしているなら、ゲームセンターに入ってみたい。

「真奥」

「……ん?」

「早く入ろう」

 もう一度にっこりと笑って鈴乃は歩き出した。その笑顔は自然に出たものだろう、真奥は一瞬、そう一瞬だけその笑顔に心が鳴った。

「?」

 真奥はなんだろうと自分の気持ちを思い、頭を掻く。それから鈴乃の後を追った。

 

「いろいろなものがあるのだな」

 鈴乃が店内の案内板に目を通した。この建物は全6階建、それも地下も存在するので実際にはもっと大きなものだ。もちろんその一階一階には多くのゲームが置いてあるのだろうから初心者の鈴乃には目もくらんでしまう。

 彼らがいるのは一階。やはり入り口だからか、レースゲームやクレーンゲーム等のいわば「客寄せ」の物が多く置かれている。ただし今日は平日だからか客はまばらだった。

「鈴乃」

「なんだ」

 案内板を見ていた鈴乃を真奥が呼んだ。少しだけ真奥の顔がにやけている。その笑いはさっきの彼のようにわくわくしている顔ではない。それはなにかを企んでいるような顔だった。鈴乃は少しだけ身構える。

「真奥?」

「ただ、ゲームするんじゃ楽しくねえし、勝負しねえか?」

「勝負、だと?」

 真奥は頷く。彼は店内をぐるりと見渡す。

「そうだ。ゲームで勝負だ。勿論負けた方は罰ゲームをする!」

 握り拳を作り、ぐっと腕を突き出す真奥。いやに気合が入っているなと鈴乃は思ったが、ふとあることを思う。

「まさか真奥。さっきの『体面』の話のことを気にしているのか?」

「ぐっ」

 真奥が一歩下がった。鈴乃の推理は当たっていたようだ。

(魔王としての体面をと言っていたはずだが……ゲームで取り返すつもりか)

 そう考えるだけで鈴乃はおかしくなってしまう。そんなことで「魔王の体面」とやらは保たれるらしい。彼女はこらえきれないようにふきだした。

「……ふ、ふふ」

 だが今度の鈴乃は真奥に正面から笑顔は見せなかった。彼女は横を向いて口元に手をあてて忍び笑う。それでも真奥の目の前で笑うのだからバレバレだった。真奥は言う。

「くっ。そうやって笑っていられるのも今の内だからな! 罰ゲームになってほえ面をかくなよ」

 鈴乃は笑いを収めて真奥に向き直った。ふふんと鼻を鳴らし、腕を組んで挑発するように言う。さっき真奥もゲームセンターにあまり来ないと言っていたから勝負は五分だろうと彼女は思っている。

「わかった、その勝負受けてやろう。だがほえ面をかくのは私ではない」

「い、いってろい」

 真奥は無駄に自信満々な鈴乃に怖気づく。彼は啖呵を切ったというほどでもないが、ここで負ければ格好が悪い。別に実害があるわけではないのだが、それでも「体面」がそれを許さない。ただしそれは鈴乃の言うとおり、あるかないかわからないようなものだが。

 鈴乃はふうと息を吐いた。それから真奥に目をやる。

「で? 真奥が受けることになる罰ゲームとはなんなんだ?」

「か、かってに俺が受けることにするな! それはこいつだ」

「これ?」

 真奥はポケットをまさぐり何かを取り出す。そして何かを握った手を鈴乃にみせる。

 携帯電話。それが真奥の手に握られたものだった。鈴乃はきょとんとするほかない「罰ゲーム?」と頭の中に疑問を浮かべた。だが当の真奥は「どうだみたか」という感じで鼻を鳴らす。

「真奥? 携帯をかけて勝負するのか」

「ちち違う! たけえんだぞ携帯は」

 真奥の持っている携帯電話は「アンテナが伸びる」タイプのものだからそう高くはない。だから彼の言う高いとは、買い換えた場合の話だろう。真奥は鈴乃から携帯を隠してから言った。

「漆原に電話して決めてもらう!」

「なっ?」

 鈴乃の背筋が冷たくなった。あの自堕落ニートの考えることはまるで信用ができない、漆原に決めさせるなど自殺行為にも等しい。いったいどんなことを設定するか、文字通り想像できない。

「まっ。まて真奥」

 慌てはじめた鈴乃を見て真奥はほくそ笑む、彼も重々この行動のリスクについては理解している。だがさっきからやられっぱなしだった気がするので、今の鈴乃のリアクションが心地いい。彼は携帯で通話ボタンを押した。ちなみに漆原は携帯電話を持ってはいないのでつながるのは漆原がパソコンにつなげた通信機器だ。

 余談だが、漆原がその通信機器を使ったのはあろうことか真奥や芦屋を利用して、携帯用ゲームを取りに行かせた時と言ういわくつきのものだ。

「あっ」

 鈴乃が手を伸ばす。真奥は避ける。

 真奥の耳に呼び出しのコールが響く。鈴乃は焦って真奥にとびかかった。今すぐに携帯を奪い取らなければ何を吹き込まれるかわかったものではない。

「やめろ、真奥!」

 鈴乃は真奥から携帯を奪おうとするが彼女よりも真奥の背が高い為にうまくいかない。鈴乃は真奥に体を押し付けるように手を伸ばす。真奥は体をそらして、漆原が出るのを待つ。客観的に見れば密着している形なのだが、それに気が付くほど鈴乃に余裕はなく真奥は気にしてない。

 ――出ねえ。

 真奥は携帯を奪おうとする鈴乃を何とか躱しながら「早く出ろ、漆原」と念じる。まさか寝ているのではないだろうかとも思ってしまう。もしそうであるならば真奥の策は水泡に帰す。それも実害はないが自信ありげに鈴乃に言った手前、恥ずかしい。

「ま、まおう」

 ぐぐぐと鈴乃が手を伸ばす。真奥もさらに体を斜めに反らして奪われまいとする。完全に抱き着くようになっている。身長が低い鈴乃は時折、つま先立ちになって携帯を奪おうとするからスカートが揺れる。しかし鈴乃の上半身は「ひっかかり」がないために色気はあまりない。

『はいはーい。なに』

「漆原か!」

『そうだよ。何?』

 やっと出た漆原。真奥は早く出なかったことについてはなにも言わず、鈴乃を見た。意外に近くに顔があった。目があった。数秒二人は止まる。

「う、うわあああ」

 先に離れたのは鈴乃だった。彼女は真っ赤になって真奥から離れる。携帯を奪おうとするあまり、真奥に抱き着いていたことに今更気が付いた。だが真奥は恥ずかしがるよりも「しめた」と思う。今の内だった。

「漆原! 今から鈴乃とゲームで勝負する。罰ゲームを考えろ」

『はあ? なんで僕が。やだよ、めんどくさい』

「…………」

 まさかの拒絶である。ぎりと真奥は歯ぎしりをしてしまった。今目の前に漆原がいればぶん殴っていたかもしれない。だが彼は今ニートとしての正位置、つまり自宅にいる。手は届かない。

「漆原……。死ぬか、罰ゲームを考えるか選べ」

『な、なんで僕の命と罰ゲームなんかが天秤にかかってんの!? おかしいでしょ! ていうかそんなの負けた方が裸踊りでもでもすればいいじゃん』

「真面目に考えろ。夕食を抜くぞ」

『……』

 電話口から「なんだよもう」などとぶつぶつと愚痴が聞こえてくるが真奥はそれを無視した。

「早くしろっ。おっと」

「くっ」

 無音で鈴乃がとびかかってきたのを真奥は避ける。さすがは魔王と言うべきか、彼は警戒を怠ってはいなかった。鈴乃が体勢を崩している隙に真奥は少し離れた。

「おい、まだか漆原。携帯代がかかってんだぞ」

 携帯代を気にする魔王。

 鈴乃はきっと真奥を睨みつけた。彼の口ぶりからは考えればまだ漆原はなにも言ってはいないはずだ。早く奪い取らなければならない。そう思って彼女は間合いを詰める。

じりじりと真奥と鈴乃は近付く。ゲームセンターに入っていく客は彼らを奇異な目で見ながら歩いて行った。店員も二人の奇行には気が付いているが暴れているほどでもないので見守るほかはなかった。つまるところ衆人環視だ。

『ちょっとまってねー』

 軽い漆原の声が真奥の耳に届く。彼は足を動かして鈴乃を牽制する。鈴乃も一歩進んで腕を動かしとびかかるそぶりを見せる。真奥は反応しない。

 両者ともゲームセンターの入り口でフェイントを交えつつの心理戦を展開していた。この後ゲームで対決することを考えれば前哨戦と言ってもいいのかもしれないが、魔王と死神と呼ばれた女性のやることではない。単に携帯電話の取り合いなのだ。

 ――漆原。まだなのか。

 真奥の携帯。その通話先からはキーボードを叩く音が聞こえてくるが肝心の漆原は何も言わない。真奥の額を汗が流れる。

 鈴乃が突然横を向いた。真奥はなんだと鈴乃と同じ方向を見る。そこで彼は鈴乃の狙いに気が付いた。注意が、反れた。

「真奥! 隙ありっ」

「しまっ」

 鈴乃が掛け声とともに踏み込んだ。一瞬で間合いを詰めて真奥から携帯を奪い取る。真奥は取り返そうと手を伸ばすが、鈴乃の離脱も早い。たっとステップを踏んで真奥から離れた。

 鈴乃は高い戦闘技術を有している、いったん主導権を握れば話すことはないだろう。こんなところでそれを発揮するのはどうか、と問われれば彼女はなんと言うかはわからないが。

「す、鈴乃。返せ」

 今度は真奥が鈴乃にとびかかった。だが鈴乃は軽く避ける。こと対人戦に置いては真奥よりも鈴乃の方が得意だ。そもそも魔王の目の前に人間がたてば灰になるだけなので、そんな技術は本質的に真奥には必要がないことも大きい。

 しかし今は逆だ。

「こ、このお」

 真奥は手を伸ばす。鈴乃は膝を柔らかく使って身を下げる。一瞬のことだ。鈴乃は真奥の後ろを取る。

「な、なんだと」

 真奥は驚愕の声を出した。鈴乃が使ったのは武術で言う「めくり」である。それは相手の背後を取るという高等技術だ。だんだんと鈴乃が本気になっている証拠ともいえよう。繰り返すが彼らは戦っているわけではない、携帯を取り合っているだけだ。

「往生際が悪いぞ真奥!」

 鈴乃は体勢を崩した真奥の隙をついて携帯に耳を当てた。今のうちに漆原に一声かけてから携帯の電源を切ってしまわなければならない。ついでに今日という日が終わるまでは携帯を預かっておこうとも考えた。

 それが甘かった。仮に漆原を黙らせたいのなら、問答無用で携帯の通話を切ってしまうべきだった。一声かけてやろうと言う温情があだになったと言ってもよい。

 鈴乃は漆原に言った。

「るしふぇ」

『おでこにキスでいいんじゃないの? 罰ゲーム。あれ、ベル?』

「なな何を言っているんだ!」

『まあいいや、別に誰でも。今さー、ネットでググったんだけど、無難なんじゃないの? おでこにキスくらいが。あっでもベルと真奥はもうキ――』

「だ、黙れ!」

 漆原が何を言うのか悟った鈴乃は素早く通話を切った。機械には強くない彼女だがその程度の操作は問題ない。だが彼女の頬は赤く染まり、息が乱れている。

「お、おい鈴乃。漆原はなんて言ってたんだ?」

 真奥が聞くのを鈴乃はきっと睨みつけた。真奥はぐっと一歩下がった。鈴乃の気迫に押されたと言ってもいいだろう。

「な、なんだよ」

「……る、ルシフェルは」

 ここは正直には言えない。鈴乃は言いながら考えた。今、なんとか罰ゲームをでっちあげなければならない。別に鈴乃が罰ゲームをするとは決まっていないのだから、言おうと言うまいと不利益はない。というのは的が外れている。

 「おでこにキス」などと言うこと自体が鈴乃は恥ずかしいのだ。

「や、奴はな」

 鈴乃は頭を回転させる。抜けているところはあるが、彼女は聡明と言っていい程度に切れ者だ。ただ率直に言えば嘘はへたなのだが、鈴乃は考えた。

(そ、そうだ。ルシフェルは負けた方が新宿駅を一週する罰ゲームを言ったことにしよう)

 鈴乃は発想が体育会系である。しかも真奥は「新宿駅」についてはなにも漆原に言っていないから稚拙な嘘と言っていい。頭がいいとは言っても、やはり彼女は人を騙したりすることが本質的に向いていないのだろう。

「鈴乃?」

 真奥が近付く。鈴乃はそれに反応して顔を上げた。心の中でさっき考えた「嘘」を繰り返す。真奥に伝えるためだ。

 鈴乃の目の前に真奥の顔。赤い目をした彼がじっと鈴乃を見ている。

 

 まともに彼の顔を鈴乃は見てしまった。

 

「……っ」

 鈴乃は体が熱くなっていくのを感じた。胸のあたりから暖かい何かが広がっていく。彼女は真っ赤になった顔で呻く、

「あ、あがが」

「あがが? 何だそりゃ?」

 真奥が訝しげに近づく。

(ち、ちかよるな)

 近付かれると嬉し――慌ててしまう。鈴乃は心臓の音が聞こえる、今日は何回目なのだろう。彼女にもわからない。それが不快だと不快でもないのに思ってしまうから、さらに彼女の心がねじれる。

「る、るしふぇるはな」

 鈴乃の頭は真っ白になった。そんな状態で鈴乃は口を開く。

「や、奴はだな、その」

「お、おう」 

 嘘を、嘘をつかなければならない。鈴乃は心に強く念じた。真奥はそんな彼女を見て、どんなことを言われたんだと身構える。彼の息が鈴乃にかかった。それがとどめと言っていいかもしれない。

「おでこにキスをすればいいといって、た」

(あれ? 私は)

 鈴乃は今の言葉に疑問を持った。なにかとんでもないことを言った気がする。

(嘘を、言ってない?)

 鈴乃の手が震え始めた。なにを正直に言っているのだろう。などと自省の気持ちが彼女を震わせているのではない。目の前に真奥の顔がある。真奥のおでこが見える。目の前、目の前なのだ。

 鈴乃の唇が、小さく動く。彼女の頭にある「映像」はすでに、鈴乃と真奥が。

(あああああああああああああああああああああああ)

 急いで鈴乃は妄想を振り払う。声は出さず、心で絶叫する。それをやめれば間違いなく、頭の中で「映像」がつくられるだろう。

 そんな鈴乃のことはつゆ知らず、真奥は顎に手を当てて考えた。

(漆原が考えたにしては無難だな……減るもんはねえ)

 実際には漆原は考えてはいない。単にインターネットと言う大海から引き揚げた言葉を鈴乃へ伝えただけだ。しかしそんなことを真奥は聞いてはいない。それに聞いたとしても、どうでもいい。

「くくく、決まったな鈴乃」

 まさに悪魔というように真奥は笑う。鈴乃はなんとか返事をする。

「な、なにがだ?」

「罰ゲームがだ!」

「撤回しろ!」

「速ええよ! それに別にいいだろうが、額にキスくらい」

 ――キス、くらいだと?

 真奥の不用意な一言。それが鈴乃の心の熱さ、その意味を変える。

くらいなどと考えるならここまで苦悩したりはしない。鈴乃は真奥を睨みつけた、すでに彼女の心は真奥への怒りに燃えている。そこには少しぐらい気持ちを読み取ってくれてもいいではないかという怒りも入っているのだが鈴乃には自覚がない。

「……いいだろう、真奥。貴様のあるかないか程度の体面など……埋葬してやる」

「か、勝手に俺の体面が死んだことにすんな! そこは埋葬じゃなくて、壊すとか殺すとか言うべきだろ」

 細かいことを気にする真奥に鈴乃は携帯を突き出した。先ほど彼から奪ったものだ、終日預かっておこうと彼女は考えていたが、漆原との連絡が終わった今では持っていても仕方がない。

「速く取れ、真奥」

 真奥は鈴乃が持っている携帯を見た。今にも握りつぶされそうなほど鈴乃はしっかりと携帯を掴んでいる。握りつぶすとは比喩ではなく、鈴乃がその気にさえなれば聖法気の肉体強化で可能である。だから真奥は焦った。

「わ、わかった」

 真奥は鈴乃の手の上から携帯を掴かもうとした。それは鈴乃の手を握る形になってしまう。

「……っ」

 鈴乃は手を触られて反応する。急に力が抜けて、彼女の手から携帯が抜ける。重力に従って携帯が落下する。床に落ちた携帯はかつんと音をたてて、跳ねた。

「うっうおおおおおおおお! なんで離すんだよっ」

 真奥は絶叫しつつ地面から携帯を取り上げる。幸い外傷は少ないようだが、大切なのは内側である。それは見ただけでは確認できない。彼は必死に動作確認をした。古い型の携帯だが壊れれば多額の出費が出る。今の魔王城には本当の意味で余裕がない。

 

 鈴乃は真奥に触られた手を見る。それだけで胸が鳴る。そんなことに反応してしまう自分が憎らしい。鈴乃は情けない行動をしている真奥を睨んだ。

「ぜっ絶対負けないからな! 真奥」

「くっ、それは俺のセリフだ。携帯の恨みだ!」

 ばちばちと火花を散らす二人。だが鈴乃は忘れていることがあった。自分が勝ったときはどうなるのかを、彼女は忘れている。

 

 




次は対決します。


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属性9 逃亡者

御待たせしてもうしわけありません。前回の更新内容から、倍程度の分量になっています。

わざと話は分けていません。


 マリオカート。1990年代にスーパーファミコンのソフトとして発売された、レースゲームである。マリオの名を冠することからわかる通り、名作「マリオシリーズ」のキャラクター達が、敵味方入り混じってカートでレースを行うものだ。

 このソフトは発売当初から高い人気を誇り、その後に続くハードでも続編を出し続けた。そして2005年、満を持してアーケードゲームとして登場し、以来数々の名勝負を生み出してきた。

 今では全国のゲームセンターで、このゲームの筺体を見ることができる。その筺体の形としては、他のレースゲームと同じく車の運転席を切り取ったような形だから、設置されていればすぐにわかる。だから、「彼ら」はこれを見つけたのだった。

 いくつか並んでいるマリオカートの筺体に真奥と鈴乃は座っていた。隣り合って座っている姿は、傍から見れば仲睦まじく感じるかもしれないが、彼らは今から尊厳を賭けた真剣勝負に興じようとしていた。

「いいか、鈴乃。まずはこのまりおかーと、とか言うので勝負だ」

「いいだろう。真奥。この形から察するに、車のゲームなのだろう? それならば、貴様に負けるとはおもえないな」

「なっ。ほ、ほえ面をかかせてやるからな!」

 むきになって言い返す真奥。彼は今、この勝負に「魔王」としての誇りを賭けていた。こんなことにそんな大切なものを賭けるなどと、彼の部下が聞けば涙を流して嗚咽するだろう。

「ふん、ほえ面をかくのは貴様の方だ、真奥!」

 その点で言えば、この黒髪の女性。鎌月鈴乃も同様だった。彼女の言動は余裕の表れのようにも思えるが、そんなことは全くない。なんといっても、これから始まる勝負に負けのならば「おでこにキス」を罰ゲームとしてしなければならない。一応、真奥とは敵対関係にある鈴乃としては、避けなければならないことだった。

 二人は、それぞれ譲れないものを守る為に、今から遊ぶ。彼らは、互いに睨み合ってから、ふんと顔を背けた。敵対しているはずなのだが、妙に息が合っている。だが、ともかくお金をいれないことにはゲームを始めることもできない。

 真奥は小銭入れをかちゃかちゃとまさぐって、お金を筺体に投入した。今、これを芦屋あたりが見れば、「魔王の誇り」を投入しているようにも見えただろう。どこの世界に小銭入れなど持っている魔王がいるのだろうか。

 そもそも、片目で真奥がお金をいれるところを見ている鈴乃も、お金を出してもらっていることをすまないと感じていた。おそらく、ニートの考えた罰ゲームさえなければ、この二人はもっと親しくしていたのかもしれない。

 ――いやふうううう

 軽快な声を、画面のひげ面の男が出した。彼がマリオである。日本で育ったものならば、彼のことを知らない人はほとんどいないだろう。それほど、彼は有名である。

「なんだ、こいつ」

 真奥はいきなり現れた髭のおっさんを見て言う。なんで、いきなり奇声をあげて出てきたのかさっぱりわからない。真奥は、日本に来て数年たっているが家には長いことゲームなどなく、今でもテレビすらない。この髭の中年をどこかで見たことがある気はするのだが、真奥はピンとこなかった。

 この時点の真奥は、まさか自分の働くファーストフード店のハッピーセットのおまけにこのひげ面の男がなるとは思っていなかった。だがこれは蛇足だろう。

「なかなか、ふくよかな体をしている御仁だ……たぶん、審判かなにかだろう」

 そこを言えば、鈴乃の方がひどかった。彼女にはマリオが肥った中年にしか見えないのだ。彼女が日本に来たのはつい最近出である。一応彼女の部屋にはテレビもあるが、いかんせん少し前まで「人の入った箱」と思っていたのだから、まだ情報の吸収力が弱い。

「審判か……なるほどな」

 鈴乃の言葉に納得した真奥は適当に筺体のハンドル、その中央を押した。車ならクラクションに位置する場所に、決定ボタンがある。それで画面が切り替わり、モード選択になる。「グランプリモード」と「VSモード」と画面に表示された。

(VS? 鈴乃との勝負だからこっちか)

 真奥はそう思ったので、VSモードを選択した。鈴乃は真奥の方を見ながら、操作しているので同じ選択をする。

「うおっ、なんかいっぱい出てきた。なんだこいつら?」

 真奥は驚いて声をだす。画面はさらに切り替わり、キャラクター選択の画面に入っている。そこにはゴリラやらキノコ頭やら、はたまた恐竜やらと多種多様なキャラクターとその愛機が表示されている。

「…………」

 そんなキャラクター選択画面で鈴乃はある一点を凝視している。彼女の目線は、赤い服を着た髭の中年に向けられていた。

(し、審判じゃなかったのか……)

 知ったかをしてしまったことで鈴乃は、こめかみに手を当てた。純粋に恥ずかしい。だが真奥は特に気にする様子はなく、てきとうにキャラクターをスクロールさせる。そして、彼もあるキャラクターに目を止めた。

(こ、こいつは。ぜ、ぜってえ強え)

 巨大な体躯。禍々しいほどにむき出しになった牙、そして燃えるような赤い髪に飛び出した太い角。真奥はそのキャラクターをキラキラとした目で見る。それに反応したわけではないだろうが、画面の中のキャラクターも腕を組んで、ギラリと光る眼を真奥に向けていた。

その名はクッパ。主人公マリオの永遠のライバルであり、魔王クッパの異名を持つ男である。

(勝ったな)

 真奥はにやりとした。こんなに強そうなキャラクターが負けるはずがない。そう彼は確信した。なんか魔王っぽいところも大いに彼は気にいった。

 実際には、クッパは上級者向けのパワータイプなのだが、真奥は迷うことなくクッパを選択した。そんな彼の表情はすでに勝ち誇っている。

 一方の鈴乃はマリオを選択した。何となく間違ってしまい、申し訳なかったからだ。もちろん真奥はそれをみて、一層勝利への確信を深めた。

「ふふふ」

「な、なんだ真奥、気持ち悪い笑いをするな」

「この勝負は俺の勝ちだな……見ろ、この俺のクッパの威容を」

 真奥はビシッと画面を指さす。鈴乃はそれをみて、なるほど強そうだなと思った。だが、ゲームであるので負けるかどうかは分かるまいとも思う。それでも真奥の次の言葉には、反応せざるを得なかった。

「俺は魔王。方や鈴乃は……」

 ちらりと鈴乃の画面を見る魔王。そこにはマリオがいる。

「審判じゃ、相手になんねえよ!」

「し、審判ではない。れっきとした、そ、その選手だ」

「えっ? でもさっきお前」

「うるさい! さっさと勝負するんだろう!」

「お、おう」

 鈴乃にせかされて真奥は画面に向き直った。次の画面は「50」だが「150」だかの数字が並んだ画面だったので、とりあえず「150」にしておいた。そしてレースコースの選択である。

 真奥の目が光る。彼はいきなりそっぽを向いて言う。

「あっ、あれはなんだ」

「はっ? な、なんだ」

 鈴乃がそっぽを向いている隙に、真奥はコース選択をした。鈴乃が気づいた時には遅い。

「真奥! き、貴様、汚いぞ」

「くくく、悪魔に汚いなどという言い訳が通用するか」

 悪魔的な笑みを浮かべた魔王の選んだのは、灼熱の世界が広がる「クッパ城」である。彼はあの一瞬で「クッパ」の文字を見極めたのだ。鈴乃もその名前から、すぐに真奥のキャラクターのホームだと気が付いた。彼女は悔しげに顔を歪める。

「卑怯な……」

「ふははは、甘いぜ、鈴乃。勝負はもう始まっているのだっ!」

 真奥は普段の青年真奥の口調ではなく、少し砕けた魔王口調でしゃべっている。彼は彼で賭けている物があるので負けるわけにはいかないのだ。ちなみに、マリオカートではホームコースでアドバンテージが受けられるシステムはない。

「さあ、始まるぞ人間!」

 別に有利になるわけではないのに、上機嫌な真奥。

「くっ、こんな卑怯な相手に負けるものかっ」

 ハンドルを強く握る、鈴乃。

 一瞬、画面が暗転する。次の瞬間にレースの注意書きや、スタートのコツなどが簡単にかかれた画面を過ぎて、BGMが大きくなった。

クッパ城がその巨大な姿を現した。城の下は溶岩が流れていて、その上に架けられたコースに二人のキャラクターがその姿を見せる。

真奥の目の前にクッパ、鈴乃の目の前にマリオそれぞれがカートに乗って、スタートラインにつく。画面の中央に、巨大なシグナルが現れてカウントを始める。

 ――3

(私は、負けるわけにはいかない。そ、そのキスなんてし、したく……な……えっと)

 ――2

(くくく、鈴乃よ。貴様は気が付いておらんだろうが、さっきの説明画面で【スタートダッシュ】の説明があったのだ。ふはは、この勝負まさに盤石!)

 ――1

 ノリノリ魔王モードの真奥と、自分の言葉を最後まで言いきれない鈴乃。二人の心拍数があがっていく。

 ――スタート

 クッパが飛び出した。ものすごいスピードでマリオを突き放していく。マリオはのろのろとスタートした。

「なっ!」

 鈴乃は驚愕の声を出した。明らかに、スタートのパワーが違う。これはどういうことだと真奥を見る。真奥はニタニタしながら、ハンドルを切りながら鈴乃を見返した。

「はははは。スタートダッシュ成功だあっ」

「スタートダッシュだと、そ、そんなものが?」

 やはり気が付いていなかったようだな、とほくそ笑んだ真奥。そして彼の操る、クッパは軽快な走りでマリオをぐんぐんと離していく。鈴乃はしまったと臍を噛んだ。

(こ、このままでは、わ、私が負ける。まずい。まずい!)

 鈴乃は点の様になったクッパを追いかけるべく、アクセルを踏む。だが元々、クッパの方がパワーがある。加速力はマリオだが、トップスピードでは勝てない。さらに離されることになった。

「ははは。鈴乃、やっぱりこの勝負は俺の勝ちだなっ」

 カチンとした鈴乃は、真奥を見た。真奥も鈴乃を見ている、二人とも画面を見ていない。正確に言うと相手方の画面だけが見えた。

「鈴乃。次のゲームを何にするかきめておいたほうがいいぞっ」

「な、なにを言う……まだ勝負は……!」

 言いかけて鈴乃は目を見開いた。彼女の目は真奥を見ていない。相手の画面。つまり真奥の画面のクッパを見ていた。

 鈴乃にはクッパがコースから豪快に落ちていく姿が見えた。下のマグマにダイビングする姿は、滑稽だとか言いようがない。

クッパはトップスピードでカーブを曲がりきれなかったのだ。そもそも操作している人間がそっぽを向いているのだから躱しようがなかった。だがそれでも真奥は鈴乃を見ているので、全く気が付いていない。

「まおう……貴様、あの……」

「なんだ鈴乃? 命乞いなら今の内だぞ」

 鈴乃は少し、真奥を見た。明らかに勝ち誇ったその表情。さっきまでの優勢を笠にきた態度。そしてマグマに落ちたクッパ。全ての要素が、真奥の道化っぷりを修飾していた。

 途端にドヤ顔になる鈴乃。

「ふふふ、笑っていられるのも今の内だぞっ、真奥」

「負け惜しみは醜いぜ……クッパああああああああああああ!?」

 やっと自分の操作キャラがコースアウトしたことに真奥は気が付いた。真奥の絶叫に鈴乃は笑いを必死にかみ殺しつつ、マリオの操作に戻る。これでかなり距離が縮まった。だがまだ最初の遅れは取り戻せてはいない。

「おお!」

 真奥が声を上げた時、マグマの中からお助けキャラの「ジュゲム」がクッパを助けだした。ジュゲムは小さな雲に乗った、亀の様なキャラで、手には釣竿を持っている。それで釣り出して、コースアウトの選手を助けるのだ。

 鈴乃は焦った。このままでは追いつく前に、真奥が先を走ってしまう。それでは追いつくことができないかもしれない。だが現実は非常。ジュゲムはクッパを助け出して、コースに素早く戻した。それで真奥の高笑いも復活する。

「ふはは、魔王は不死身だ!」

 良くわからないことを言ってクッパは走り出した。実のところ、クッパはその重量ゆえに、走り始めが遅い。しかし、テンションの高い真奥はそのことに頓着しなかった。鈴乃に抜かれていない、ということもある。

 だが、マリオはすぐ後ろにいた。真奥は焦ってアクセルを踏む。

(ここが勝負だ、真奥)

(ぬ、抜かせっかよ、がんばれ、クッパ)

 マリオとクッパが並んだ。マリオの方がトルクがあり、クッパはスピードに乗るまでが遅い。鈴乃と真奥は同時にアクセルを全開にする。

 クッパ城のコースを、クッパとマリオ。二人のライバルが行く。お互いのエンジンが唸り声をあげて、並走する。それは、真奥と鈴乃の負けられない気持ちが伝わったかのようだった。

 走りながら、真奥は驚愕する。

(なんだ、あれ!)

 コースの先にブロックがあった、それは「?」などと書かれて、道いっぱいに広がっている。その七色に光るブロックを避けるのは至難の業と真奥には思えた。

(さすが、クッパ城。一筋縄じゃいきそうにねえ) 

「?」ブロックを障害物として認識する真奥。しかも、クッパが巧妙に設置したものだと思っている。だがブロックには鈴乃も気が付いたらしく。

「わ、わ」

 などと、焦っている。

 マリオが遅れた。鈴乃のアクセルが緩んだのだ。そして逆に真奥の心のアクセルがともる。ここが勝負の分かれ目だと、真奥は確信した。

 クッパはスピードを緩めない「?」ブロックに向かって全力で突っ込んでいく。

「!」

 鈴乃が一瞬、驚いた顔をした後、すぐに気付いた。真奥はここで勝負を仕掛けて、鈴乃はここで手を抜いた。歴然たる勝負師としての差である。いや、魔王という支配者と教会に仕える者の差なのかもしれない。ピンチはチャンスなどとはよく言われるが、それを行えるものは少ない。少なくとも鈴乃はできなかった。

「あ、あああ」

 そう、勝負を放棄した負け犬には、唸ることしかできない。

 マリオとクッパの差が開く。時間にすれば数秒の時間、その間に鈴乃は心で負けた。

「いっくぞお」

 真奥は「?」ブロック恐れず向かった。そして、その「?」ブロックの敷き詰められたラインの一歩手前で、ハンドルを切る。クッパの車体は、華麗に「?」ブロックの間をすり抜けていく。

「よっし」

 ふうと緊張を解いて、息を吐く真奥。反面、鈴乃は青ざめていた。ここで離されれば、もはや逆転は難しいかもしれない。少なくともあの「?」ブロックのラインを無傷で通過しなければならないだろう。

 悲壮な決意で鈴乃はアクセルを踏む。それでも真奥はさらに前を行くのだから、鈴乃の心は焦りでいっぱいである。

「あっ」

 鈴乃は「?」ブロックの前で、ハンドルを切りそこなった。そのままマリオは、「?」ブロックに突っ込んだ。

「くっ」

 鈴乃は目を閉じる。彼女の頭の中には、クラッシュしたマリオの姿が浮かんでいた。だが、次に目を開けた時、彼女は不思議な光景を見た。

 マリオは健在だった。ぶつかった衝撃もペナルティーのようなものもなく、軽快なエンジン音を出しながら疾走している。しかし、画面には一つだけ変化が訪れていた。

「なんだ、これは」

 画面上のアイコンが点滅、いやシャッフルされていた。鈴乃は良くわからなかったが、とりあえずハンドルの真ん中を押す。すると、シャッフルされていた反応がとまって、ひとつの絵が表示された。

 トゲのついた「青い亀の甲羅」。それが鈴乃の画面に出てくる。

「なんだ、これは」

 もう一度同じことを言ってから、なんとなく鈴乃はハンドルのスイッチを押した。

 

一方の真奥はマリオこと鈴乃のはるか先を走っていた。初めてやったゲームであるとはいえ、高い知能を誇る真奥である。そろそろ運転にも慣れ、ぐんぐんと鈴乃を引き離している。

(とりあえずは一勝できるな)

 真奥は鈴乃との距離を測りつつ、心の中でそう思った。ここから負けることは考えにくい。自分は操作に慣れてきたし、現在の距離は圧倒的にクッパに優勢である。

(さすが、クッパだぜ)

 さっき知ったキャラクターに知ったようなことを思う真奥。だが、職業的に一緒なためだろうか、彼らの相性は抜群だった。それは今の真奥の走りを見ていれば、一目瞭然だった。

「ま、真奥」

「ん、なんだ。鈴乃? 今度こそ、降参か」

 さっきのことで学習した真奥は、流し目で鈴乃を見た。体ごと彼女を見るようなことをすれば、またコースアウトしかねない。今の彼には油断はなかった。だが、真奥が鈴乃を見ると、彼女は憐れむような目で真奥を見ていた。

「なっ、なんだよ」

「い、や。その。なんだ……。私もよくわからないのだが……。真奥の方にだな……その」

「はあ?」

 真奥は困惑した。彼には鈴乃がなにを言っているのかさっぱり理解できない。それなのに、鈴乃は彼を気遣うような、申し訳ないようなそんな表情をしている。

「なんなんだよ……。まあ、でも今度こそ負けねえぜ! だってあの、コーナーを曲がれば、半周差くらいつくしな」

 真奥の言った通り、彼の走るコースの先は大きく湾曲していた。そこを曲がれば、一週走り終えることになる。マリオははるか後方なので、余裕がかなりある。だが、鈴乃はないかを心配するように。

「そうだな……」

 と憂い顔で言うだけだった。

「……?」

 真奥は鈴乃が何を言おうとしているのかは分からなかったが、気にせずハンドルを切った。モニターの中の、クッパが半身になってドリフト走行をしながら華麗にコーナーを曲がっていく。

 そのクッパのどてっ腹に「青い亀の甲羅」が直撃した。いきなりのことにクッパの車体が浮いた。クッパのカートは中に浮いたまま、彼を載せてコース外へ飛びだした。完全に位置が悪かったとしか言いようがない。

「ふぁ!?」

 なにがおこったかわからずに奇声を上げる真奥、目を背ける鈴乃。きりもみ回転をしながら、マグマに落ちていくクッパ。もう助かりそうにない。

「クッパああア?」

 悲痛な声を上げる真奥が「?」ブロックがアイテムボックスだと知るのは、数分後の話である。ちなみに「青い甲羅」は追尾機能を持った高性能な攻撃アイテムである。

 

結局、最初の勝利は真奥の物だった。元々、差が開いていたこともあるが、走っている真奥に甲羅をぶち当てた鈴乃が、気を抜いた為でもある。

「な、なんだ。真奥……」

 真奥はじとっとした目で、鈴乃を見ている。鈴乃は汗をかきながら、真奥から目線をそらした。彼女は「なんだ」などと言ってはいるが、なぜ真奥が非難がましい目を自分に向けているのかはよくわかっている。なんといっても。崖から突き落としたようなことをしたのだから。

 真奥は恨みを込めた目のまま、鈴乃に言った。

「……ひきょうもの……」

「だ、誰が卑怯者だ! それに、あの勝負は貴様が勝ったのだからもういいだろう」

 そもそも、あのアイテムはゲーム機能の一つなので、鈴乃は別段卑怯なことをしているわけではない。だが真奥としては、最高のタイミングでマグマに落とされたのだから、どうしても顔と言葉に出てしまう。

 真奥は、しかたなく顔を上げると鈴乃に言う。

「まあそのとおり、これで俺の一勝だからな」

「ぐっ」

 鈴乃はさっき自分で言ったことを、真奥に言われて焦りを覚えた。自分で言うのと、他人に言われるのはどうしてここまで、違うのだろうか。

(たしかに、このままでは私は……真奥に……)

 鈴乃の頭のなかで、真奥と鈴乃が向かい合うイメージが浮かびあがった。なぜか真奥は腰を曲げて、鈴乃の顔の前に額を持ってくる。そして、想像上の彼は言った。

 ――いいぜ、鈴乃。

「何がいいんだっ!」

「おわっ?」

 真っ赤になって、なにか叫ぶ鈴乃に真奥は驚いた。さすがの彼も、まさか自分が鈴乃のイメージ内で彼女を口説いているとは思うまい。だから彼は恐る恐る聞いた。

「いきなりなんだよ。いったい何が、いいんだ? 鈴乃」

「…………」

 真奥が鈴乃の前に来て、彼女の顔を覗き込む。まさに鈴乃のイメージどおりと言ってよい。だが、鈴乃はそんなことをされてはたまらなかった。

「は、はなれろ」

 頬を染めて、真奥から離れる鈴乃。彼女はすぐさまそっぽを向いて真奥から、顔を見られないようにする。真奥はなにがなんだか、わからず頭を掻いた。

「本当にどうしたんだよ……」

(い、言えるものか。わ、私が……真奥の、いや貞夫の……)

 おもいっきり、首を左右に振る鈴乃。頭の中で勝手に下の名前がでてきたことが、恥ずかしい。彼女はスカートの裾を握って、はあはあと荒い息を整える。これで、平静を取り戻せるはずだった。

(気の迷いだっ。気の迷いだっ。そもそも、貞夫は偽名じゃないか! )

 頭の中でぶつぶつと言い訳をする鈴乃。彼女の思うとおり「真奥貞夫」は魔王サタンの偽名なのだが、どうしても「貞夫」と思うたびに、心が小さく反応することを止めることができない。彼女は目を閉じて、呼吸だけに集中する。

(平静に、平静に)

 暗い闇の世界で呼吸を心臓の音に合わせる、鈴乃。それで、かなり落ち着いてきた。彼女はふうと息を吐いてからゆっくりと目を開ける。

「熱でもあんのか?」

 目の前に真奥の顔。沸騰する鈴乃の顔。しかも、悪いことに真奥は鈴乃の「イメージ」の通りに腰を曲げて、彼女に背丈を合わせている。だから、真奥の紅い目が鈴乃を覗き込んでいた。

「ま、真奥お」

「おわっ」

 鈴乃は沸き立つ衝動を抑えるために、というよりも自分と真奥を誤魔化す為に、彼の胸倉をつかんで引き寄せた。そんなことをするから、さらに,真奥と鈴乃の顔が近くなる。鈴乃の顔からほんの目と鼻の先に、真奥の顔があった。

(まままあああ、真奥アが目の前に)

「は、はやく次の勝負に行くぞっ! は、はやくしろお」

「お、おう」

 自分でやったことで、さらに赤くなった鈴乃は真奥の腕を掴んで、引きづるように歩いていく。

 

 マリオカートを選んだのは真奥だった。そのため次に、ゲームを選ぶのはなんとなく鈴乃の役割になる。別段取り決めをしたわけではないので暗黙の了解ではあった。

 鈴乃は真奥を後ろに引きつれて、ゲームセンター内をぐるぐるとまわり、とあるゲームの前でとまった。そのゲームの筺体は正面に大きなモニターが付いており、なぜか足元には「←↑→↓」と十字の方向が刻まれたものである。左右には大きなスピーカーが付いている。

その名はダンス・ダンスレボリューション。通称DDRとは一世を風靡したダンスゲームの名前である。

二十世紀末。いわばゲームセンターの熱気が最高潮に高まった時代である。今のようにネットゲームなどが発達しておらず、プレイステーションやセガサターンなどが活躍した時代だが、当時のゲーマー達はそんな家庭用ハードに満足せず、ゲームセンターで熱い戦いを繰り広げていた。

 そんな中で一線を隠したゲームがある。それこそがDDRである。

 DDRはゲーム筺体に張り付いてからかちゃかちゃとレバーを動かすのではなく、ステージと言われる台の上で十字の矢印を踏み鳴らすことによって、本当にダンスをするように動くゲームである。

 本当のようにと言ったが、それは誤解があるだろう。当時の人々は間違いなく「ダンス」を楽しんでいた。ゲーム自体はいわゆる「音ゲー」として、画面に表示される十時のマーク通りにステージ上で踊るだけである。だが、コアなファンはそれだけでは飽き足らずにあらゆるパフォーマンスを付け加えた。

 軽快なステップを織り交ぜ、体全体での表現。中には若い女性がくるりと回って、スカートの裾を揺らす。そんな若者達の情熱が人を引き寄せた。

 ひとたびDDRで踊れば、人だかりができる。そして、ダンサーと観客が一体となって遊ぶ光景が全国で見られた。そのことがゲームセンターとは不良のたまり場と言う一般概念があったが、DDRの登場によってその敷居を叩き壊すことになる。

 そんなことを鈴乃は知らない。なんとなく体を動かすようなゲームな気がしたから選んだだけだ。

(も、もう負けられない)

 汗をにじませた手をぎゅっと掴んで鈴乃はDDRを睨みつける。その後ろで真奥は腕を組んで、DDRの筺体を見ていた。

「これにするのか? 鈴乃」

 真奥が聞くと、はっとした鈴乃が彼を振り返る。

「ああ、これで勝負だ。真奥。今度は、私が必ず、絶対勝つ」

「くくく、聖職者のくせに後ろから狙うやつには負けねえ」

「な、なにっ。ま、まだ根にもっているのか。魔王のくせに度量が浅いぞっ」

「……い、いいやがったな!」

 魔王と聖職者がしょうもない言いあらそいをしながら、ばちばちと火花を散らす。

 

 なにはともあれ練習である。とりあえず真奥はステージに上がった。お金を入れてあるので、前方のモニターを見ながらモード選択をする。

「ん? よくわかんねえからこれにするか」

 よくわかんない真奥はモードを「EXPERT」に設定する。さしもの魔界の王とて知らないことは知らない。その後ろで、鈴乃が睨むような目で見ている。二人対戦ができるので、二人でやればいいのだが鈴乃はまず見たかった。

 真奥は設定をなんとなく進めていく。音曲のこともほとんど知らないから、曲名が女々しいうんぬんと書かれたものにした。ちなみにDDRはそのダンスの出来不出来に対してEから最高のAAAまでのランク付けがされるしくみになっている。

「黄金爆発? なんのことだ」

 真奥は横文字で書かれたアーティストの名前を直訳しながら、設定を進める。そして、全ての設定が終わったらしく、画面が切り替わった。そして真奥はステージの真ん中に立って腕を組む。その顔にはどことなく余裕があった。

「おい見てろよ。鈴乃」

「…………」

 鈴乃は真奥の言葉にうんともすんとも言わず、じっと険しい表情で彼の足元を見ていた。

「おい、鈴乃? 鈴乃さん?」

「…………」

 真奥がなんと言おうと、鈴乃は口を開かない。変わらずじっと見ているだけである。真奥はしかたなく、ゲームに向き直った。

 (要するに、画面の通りに踊ればいいんだろ! 楽勝じゃねえか)

 いきなりスピーカーから音楽が鳴り始める。ゲームが始まった。

「よしっ。うおっ?!」

 画面をすさまじい勢いで矢印が通り過ぎていく。その矢印に合わせて真奥は踊らなければいけないのだが、まるで音の濁流のように速く、多い。真奥はあわてて、足を動かしてもモニターを見ている目とダンスを踊る足がついてこない。

「は、はええ、なにこれ、はええ」

 真奥は必死に足を動かしてくらいつこうと努力する、それでもモニターを流れる矢印は止まらない。真奥はそのほとんどを踏み外している。

「こ、このちく、おっ」

 素っ頓狂な声を出しながら踊る真奥。ダンスというよりもてんてこ舞いと言った方が似合いそうな踊りだった。だんだんとステージを力強く踏み鳴らすのだが、単にべた足のせいで無駄に力が入っているだけである。

「…………」

 鈴乃はそんな真奥の無様な様を笑うこともなくみている。じっとじいいと擬音が付きそうなほどであった。

「う、おおお」

 真奥が動く。音が流れる。矢印が流れる。三つそろってミスが成立するのだ。そしてDDRはそのミスによってモニターの端にある。ゲージが下がっていく。そのゲージが0になった時が終わりの時だった。

 

ゲージが0になって曲が止まった。真奥はステージにつけられたポールに寄りかかって、はあはあと荒い息を吐いた。そんな頑張りもむなしく、画面には最低ランクの「E」が表示されている。

全力でダンスをしたはずなのだが、全く歯が立たなかった。正直言えばどこかの勇者よりも攻略に手間取りそうである。

「はあ、はあ。す、鈴乃、のばんだ、ぞ」

 急激な動きで、一時的にがくがくと震える足のまま真奥はステージを降りた。そして鈴乃の方を見る。鈴乃は難しい表情をしながら、赤のポンチョを脱いで真奥に手渡した。やはり無言である。

「……鈴乃?」

 訝しげに聞く魔王を無視して鈴乃はステージに上がった。その背中から、青いオーラがわずかに出ている。それで真奥も気が付いた。

「せ、聖法気!」

 聖法気。それは魔族にとっての魔力と対をなす、人間の力である。その力はあらゆる術式を構築する元素として使われる。さらに空を飛ぶことや、時空を通るゲートを作ることも熟練者であれば可能だ。そして何よりも、身体能力の強化という根本的なベースアップをすることができた。

 鈴乃はゲームで、それを使う気だった。

「ほ、本気、過ぎるだろ」

 真奥は額に汗を流しながら、鈴乃を見ている。鈴乃はちょっと真奥の声が聞こえたらしく、びくっと肩を揺らしたがそれでも無言で、振り向かずにゲーム画面に触れた。今、振り返れば恥ずかしがっていることがわかるので、絶対に振り向くわけにはいかない。

 DDRは真奥が失敗したからと言ってもすぐにゲームオーバーになるわけではなかった。さすがに大衆向けのゲームだけあって、ワンコインで何度か遊べるのだ。勿論、ゲームオーバーも存在してはいるが二曲目以降のことだった。

 鈴乃は真奥の真似をして設定していく。難易度も、曲も全て同じである。マリオカートの時もそうだったが鈴乃はずっと真奥を見て真似をしている。だが今度が違った。

 設定をし終えた鈴乃がふうと深く息を吸い、吐く。それは集中している証し。

「あんまりむりすんなよー。鈴乃」

 真奥は経験しただけあって、鈴乃にそう言った。だが、鈴乃は無理をする気はないが、引く気は毛頭ない。ここで勝たなければ、真奥のおでこにキスする羽目になるのだ。

 (絶対、負けん)

 鈴乃は心の中で誓った時。スピーカーから音楽が流れ始めた。モニターにはいきなり、大量の矢印が流れてきた。真奥は驚きの声を上げる。さっきまで自分はこんなものをしていたのかという、客観にたった驚きである。

 しかし、真奥の驚きはすぐに意味を替えた。

 鈴乃の体が揺れる。足が、動く。たたっと軽快な音を鳴らしながら、ステージの上の矢印を踏む。モニターに表示される大量の「GOOD」の文字。

「おおっ!」

 真奥が感嘆の声を上げた時。鈴乃には世界がゆっくりと見えていた。聖法気による身体の強化と精神の集中が合わさって、彼女の動きはもはや素人のそれではない。

 スカートが揺れる。鈴乃は鍛えた武術の足さばきを駆使して、重心を移動させている。

 黒い髪が鮮やかに流れる。体全体で小さな体を無駄なく使う。

「すげえ!すげえ!」

 やんやと真奥が囃し立てるが鈴乃には全く聞こえていない。ただ目の前のモニターと、足さばきのみに鈴乃は集中していた。彼女は全く足元を見ていない。そのためにさっきまで真奥の動きと、ステージを見ていたのだ。

 ゲームの概要も、筺体の形も鈴乃の頭の中に入っている・

 鈴乃は腕を振る。DDRは先に説明したとおり、足を動かすゲームであるがその実、ダンスを行うために体の使い方が重要しされる。勿論、ポールに捕まってやるやりかたもあるが、鈴乃はその方法をとらない。

 ゆえに自然に鈴乃は踊っていた。足を動かすときの最適な体勢を、数々の鍛錬を乗り越えた体が選択する。ステージの上で、鈴乃は腰を振って踊る。

「おおおおおおおおおお!」

 真奥は大声で驚く。そんなことをするから、周りの人がなんだなんだと一人、二人と集まってきては、DDRの上で踊る小さな女の子に魅了されていく。

 人だかりができ始めた。子供やカップル、または、何故かこの平日のいい時間にスーツの青年など様々な人がDDRの筺体を囲んだ。まるでここだけが十年前に戻ったようだ。

 そんなことを知らない鈴乃は最後の数秒で動きを速めた、周りから歓声が上がるが気に留めない。正確に言うと聞こえていない。ちなみに歓声の中心は真奥である。こんな時だけ魔王としての求心力というカリスマ性を発揮するのだから性質が悪い。

 モニターの矢印が途絶えた。あと少しで踊りきる合図だ。鈴乃は最後の矢印をみて体を動かす。たっと鈴乃が飛んだ。そして、ステージの中心でぴたりと動きを止める。少し斜に構えた姿勢と、モニターを見る流し目。そして美しい黒髪。様になっていた。

 (ど、どうだ)

 鈴乃はわずかに息切れしつつ、モニターを見た。ここまでやれば真奥よりも上であることは間違いないのだが、踊ることに集中しすぎていて忘れていた。ついでにこれは勝負ではなく練習であることも完全に忘れている。

 

モニターが暗転して、ポイントが表示される。鈴乃にはその数値が何を意味するのかさっぱりと分からないが、どくどくと心臓の鳴る音が彼女には聞こえた。周りの観客も固唾をのんでモニターを見ている。

――AA

表示されるランク。それは、最高ランクの一つ手前の物。だが、真奥にたいする大金星。鈴乃は思わず、飛び上って、ぐっとガッツポーズする。火照ったからだが、解放感か高揚感でなのだろうか、とてつもなく心地よい。

(勝った。勝った!)

鈴乃は思わずにやけてしまった顔のまま、真奥を振り向いた。そこには悔しげな顔をしている彼がいるはずである。

「みたか、ま――」

 万雷の拍手。店中に鳴り響く、大勢の拍手が鈴乃を包んだ。鈴乃からしたらいつのまにやら、大勢の人々が自分を囲んでいるのだからわけがわからない。

鈴乃はなにが起こっているのかわからずに口をぽかんと空けたまま、ぎりぎりと首を動かして、真奥を見る。

「すげぇな鈴乃」

 真奥はキラキラした目で、全く悔しそうなそぶりを見せずに鈴乃に近づいた。真奥は鈴乃の手を取って、はしゃぐ。

――彼氏さんかな。

――仲好さそう。

 冷えてきた鈴乃の頭に、観客の声が聞こえる。あきらかに自分たちのことを言っている。違うと心の中で否定しても、誰にも聞こえない。それでも大衆の前で真奥は手を取ったまま、鈴乃に話している。

「鈴乃! あれ、教えてくれ」

「ま」

「は? ま?」

「ま」

 鈴乃は金魚のように口を開け閉めするしかない。だんだんと冷えたはずの頭に血がのぼってくることを彼女は感じていた。頬が赤くなり、目に涙がたまる。

「あほう!!」

 「真奥」と「阿呆」が合体した言葉を叫んだ鈴乃は真奥の手を引いて、人ごみの中に飛び込んだ。パフォーマンスなどではない、鈴乃は単にこの場から逃げようとしているのだ。しかし観客はそうはとらずに「すごかった」やら「かわいかった」などと囃し立てながら、二人を通すための道を作った。鈴乃と真奥の為の道である。

「う、ああああああああ」

 変な声をあげながら鈴乃はその道を通って逃げさった。

 

 

「貴様、ど、どういうつもりだ。あれは」

 真奥の胸倉をつかんで、ぎろりと鈴乃は睨んだ。ただし目は涙がうっすらと浮かんでいるので、あまり迫力はない。

「な、なんのはなしだ」

 苦しげに真奥は唸る。彼からすれば今何故怒られているのかさっぱりと検討が付かない。しかし聖法気によって腕力を強化している鈴乃に締められているのだから、たまったものではない。

「……れ、練習だったけどさっきのは鈴乃の勝ちでいいだろっ。て、手を、ぐるじい」

「…………」

 鈴乃は黙ったまま手を放した。だが、ふんとそっぽを向いて不満をあらわにする。真奥は乱れた襟を直しつつ、鈴乃に言った。

「ま、まあいいじゃねえか。みんな楽しんでいたし」

 みんな。それが問題なのだ。どこの誰かもわからない大勢の人々の中で鈴乃は踊ったのだ。真奥の魔王としての求心力というべき「サクラっぷり」がその元凶なのだが、彼は気が付いていない。ついでに鈴乃は彼が意図的に集めたのではないかと思っている。

 それに鈴乃としては真奥が悔しそうにしていないことも不満だった。

「二勝」

「あん? 鈴乃」

「さっきのは二勝分だと言っている!」

「そ、それはないだろ! 逆転されちまうじゃねえか」

「うるさい! も、もとはと言えば貴様が、あの、あのみんなの目の前で」

 手とか繋ぐから。と言いかけた鈴乃はあわてて、真奥の後ろを指さした。

「つ、次はあれだ」

「……なんだよいきなり。次は俺の番じゃないのか?」

「いいいだろう! 別に」

「お、横暴だ」

 鈴乃は照れ隠しもありつつ、怒っていることもあり、さらに喜んでいることもあるという、何とも複雑な心境である。真奥はしかたなく肩をすくめて、後ろを見る。

 UFOキャッチャーのコーナーが合った。巨大な筺体がいくつも並んでいる。

さすがに鈴乃も真奥もそれは知っていた。

「あれ、勝負できるのか?」

「……先に、景品を取ったら勝ちだ」

 自分で言っていてなんだか変な気持ちになってきた鈴乃。少なくともUFOキャッチャーに対戦モードはない。

 

「むう」

 幾度目かの挑戦に失敗した鈴乃は唸る。なんどやっても景品が取れない。ちなみに比較的簡単に取れる、小さなUFOキャッチャーは真奥も鈴乃もしていない。

「これは、弱すぎるのではないか」

 鈴乃はアームと呼ばれる、UFOについた景品を取る場所をじとっとした目で見た。うまくアームを景品に対してひっかけてから、引き上げるのがこのゲームの趣旨なのだが、どううまくひっかけていてもアームが景品を取りこぼしてしまう。

「鈴乃」

「む。真奥……」

 真奥は今鈴乃がプレイしていたのとは違うUFOキャッチャーをしていたのだ。もしも彼が景品を持っていれば、それだけで鈴乃は負けになる。

 だが、真奥の手には赤いポンチョだけが握られていた。真奥は首を横に振ってから、そのパンチョを鈴乃に返す。

「だめだ。どうやっても取れそうにねえ」

「……これだけやっても、か」

 さっきから真奥と鈴乃は述べ十プレイはしているはずだった。しかし、どこをやってもなかなか景品は手に入らない。鈴乃は釈然としないものを感じたが、引き分けを考えた。

「真奥、とりあえずはこの勝負」

「おおっ。あれ恵美の好きな奴じゃねえか?」

「恵美殿の?」

 真奥はとある筺体を指さして言った。鈴乃は彼の見ている方向に目を向ける。

 すぐ近くにあったそのUFOキャッチャーの筺体の中には、大量クマのぬいぐるみが入っていた。そのクマ達は目元が垂れていて、だるそうな顔を一様にしている。

「ああ、確か恵美殿が集めていた……りらっくすぐま、と言ったな」

「いつみても変な趣味だな、あいつ」

 恵美とは今朝あった遊佐恵美のことである。UFOキャッチャ―内のクマことリラックス熊は、世間では上々の人気を博しており、勇者のくせに可愛いものを好きな遊佐恵美もそのファンだった。ただし、真奥が苦い顔をして、鈴乃が眉をひそめていることからわかる通り、敵にも味方にも理解されてはいない。

「まあ、これで最後にすっか。とれたらあいつにやろう」

 そう言いながら真奥は、筺体に近寄ってお金を入れた。鈴乃はその様子に知らず、むっとする。なぜかは分からない。

「あれ、このなかに入ってんのは恵美だけじゃねえな」

 リラックス熊こと遊佐恵美のような言い方をする真奥。彼はガラスケースに張ってある、景品紹介のシールをみて言う。

「えっと、く、クマき――なんだこれ」

 そのシールには青いシャツを着た涎を垂らしているクマのぬいぐるみが載ってあった。よくよく見ればガラスケース内にもいくつかある。その造形たるや面妖であり、鈴乃はぞわっとしたものを覚えた。

「ま、まおう。あれはとるな」

「えっ? でも、とれば勝ちなんだ」

「ダメだ! と、とにかくあれはだめだ」

 真奥は少し考えたが、まあいいかと承諾した。真奥が手前のコンソールを動かすと、中であUFOが動く。鈴乃はそんな彼の背中を見ていた。ふと、鈴乃は小声で言う。

「…………さだお」

「あん? なんかよんだか」

「よ、呼んでいない!」

「でも今、さだ――」

「呼んでいないと言っているだろうが!」

「お、おこんなよ」

 鈴乃は焦って取り乱したことで、また後ろを向いた。彼女はふうと息を吐きつつ、ポンチョを羽織る。

(魔王が買ってくれた服をきている……冗談のような、話だな)

鈴乃はポンチョの裾を握りつつ、そう思った。数か月前ならば、絶対にありえなかっただろう。そもそも、真奥と自分が敵対する関係にあることは、特に変わっているわけではないのだ。

鈴乃は少しだけ頭を振った。それで真奥から目線が反れる。彼女はこれ以上、無言のまま真奥を見ていたくはなかったのだ。それは、自覚してしまいそうで恐ろしかった。

「おい、ケン、カツジ。はやくこいよー」

 鈴乃の目の前を子供たちが走っていく。もう学校は終わったのだろうかと鈴乃は思い、かわいらしい子供たちの様子にふっと笑う。

(本来ならば、勝負するのではなく、あの純粋な子供たちのようにするのがいいかもしれないな)

鈴乃はそう思うと、きゅっと胸を締め付けられるような痛みに襲われた。また、彼女は首を振って思いを振り払う。彼女の思考「子供たちのようにする」というのは「誰と」と言う言葉がない。今更かもしれないが、この状況は仕方がないものなのだと、一応でもしておかなければならない。

「うおっ」

 真奥が叫んだ。鈴乃ははっとして彼を見る。

「どうしたんだ真奥」

「いや、あ、あれ」

「?」

 真奥が指を刺す。その先にはガラスケースの中。アームの先である。

 涎を垂らしたクマのぬいぐるみが引っ掛かっていた。鈴乃が絶対にとるなと念を押したものである。そのぬいぐるみは自らアームにへばりついた形で、ゆっくりと真奥達の元へ向かってくる。

「まま真奥! 貴様、あれはとるなと言っただろう!」

「いや、そんなこといっても……あれ、俺はいらねえ」

「わ、私だっていらないからな!」

 慌てふためく二人。そんな様子を勘違いしたのか、店員がよってきた。

「お客様。宜しければ取りやすいところに景品を置きましょうか」

 完全に勘違いしている店員。取れていることが二人を慌てさせているのだから、余計なお世話である。しかし、このことで真奥は悪魔のひらめきを得た。彼は途端に営業スマイルを作って、店員に向かう。

「実は、あの商品をあげます」

「えっ、あの実は?」

 わざと分かりにくい日本語を言いつつ真奥は、鈴乃を連れて逃げ出した。とにかく逃げることの多い日である。

 




お疲れ様です。
明日発売ですね。新刊。


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属性10 卑怯者 前篇

「漆原がいったぞ!」

 真奥は手に持った赤い銃をリロードしながら、鈴乃に言った。

「わかった!」

 鈴乃は真奥とは色の違う青い銃で「漆原」を狙い撃つ。電子的な発砲音がして、モニターの中で「漆原」がのた打ち回っている。

「とどめだ!」

 真奥もリロードの終わった銃で「漆原」をめった撃ちにした。たまらず「漆原」は悲鳴を上げて。倒れこんだ。しかし、最後に真奥と鈴乃に血走った目を向けて言った。

『僕を倒しても……第二、第三の僕が現れる……』

 それから「漆原」は赤い霧になって消えて行った。真奥と鈴乃はそれでも、銃を構えたまま油断しない。「前のステージ」ではやったと思った時に奇襲を受けたからだ。だが、真奥達の目の前にスタッフロールが始まり、製作者の名前は流れ始めた。

「や、やったのか」

 真奥はやっと銃を下ろして、呟いた。そう言ってから彼は、だんだんと胸にこみ上げてくる喜びに堪えられなくなった。

「そのようだな……まお」

「やったぜ、鈴乃! 漆原を倒した」

 真奥は思わず鈴乃に抱き着く、子供の様に彼は鈴乃へ笑顔を向けてはしゃいだ。だが鈴乃にはたまったものではない。

「なななのんあにうてょい」

 なにを言っているのか、鈴乃は悲鳴を上げる。それでも真奥は気がつかずに言う。

「千円以上コンテニューしたからなー。本気で嬉しい……。あ? 嬉しくねえのか、鈴乃」

「は、はなれろおお」

「おっと、わり」

 鈴乃の言葉に自分が抱き着いていることを自覚した真奥は、すっと彼女から離れた。別段恥ずかしそうにしているわけでもなく、抱き着いたのは本当に無意識かつ、漆原打倒で嬉しくなったからだろう。しかし、反面に鈴乃はそんな余裕などない。

「お、お前は、げ、ゲームぐらいで、こども。のように、そ、の恥ずかしくないのか」

「なんだよ、鈴乃だってすげえむきになってたじぇねえか。ラスボスが漆原に似ているからってよ」

「し、しかないだろう。いちいちあの顔で挑発されては腹も立つ……」

 

 彼らのやっていたのは無論ゲームである。

 ゲームセンターでは定番と言ってもいい、ガンシューティングを行っていた。当初は一人一人でプレイしていたのだが、この手のゲームはなかなかに難易度が高く、結局は一時休戦という形で二人プレイをしてしまったのだ。

 ちなみに彼らの言う「漆原」とはゲーム内のラストボスの顔が、ニートに似ていたためにそう呼んでいただけで。本当のニートは滅んでいない。設定上はこのゲーム内の「漆原」は吸血鬼の末裔らしい。

 真奥と鈴乃はそれぞれコードが筺体から伸びた銃を返してから、お互いに顔を見合わせた。真奥はその赤い目で鈴乃を見下ろす。鈴乃は、一瞬だけ目を合わせただけで、顔を背けてしまった。

「んだよ……。そんなに怒るなって……」

 真奥は言うのだが、鈴乃は怒っているのではない。これはコーヒーショップを選んだ時と同じ反応である。しかし、そんなことを気取られたくはない鈴乃は口をとがらせたまま言った。声は不機嫌にしないと不自然であるから、そうする。

「ふん。いきなり抱き着かれ……、あ、んなことをされてば、怒りたくもなる」

 噛みつつも鈴乃はなんとか真奥へ言う。真奥はさすが軽率だったと反省するのだが、本当に軽率だったのかはどうだろう。

「悪かったって。じゃあ、次のゲームはお前が選んでいいからさっ」

「…………」

「どうした?」

「いや、今私たちは休戦中だったな?」

 確かにそうである。ガンシューティングのゲームをクリアするために二人は勝負を一時預けている。真奥は少し考えた、「そうだな」と返した。

 鈴乃は真奥の返答を片耳で聞きながらも何も言わない。どことなく、そわそわしているようにも見える。真奥はいぶかしげに、彼女の顔を覗き込んだ。

「それがどうしたんだ?」

 真奥の目を見て、鈴乃は小さく肩を震わせた。だが今度は無言を通すことはなく、彼女は真奥へ提案する。

「あ、いや。どうせなら、休戦中にやっておけるものはしておかないと、といや別にいやならば」

「あっ」

 察した真奥が途端ににやにやし始めた。その顔に鈴乃は一歩下がったが真奥は一歩近づく。真奥にじっと見られて、鈴乃の目が泳ぐ。

「ななんだ、真奥」

「鈴乃。いろんなゲームを遊びたくなったんだろ?」

「っぐ」

「仕方ねーなー。休戦を少しだけ伸ばして、協力プレイできそうなやつとかかたっぱしからやるか―」

「わ、私はそんなことを言ってはいない!」 

 たしかにまだ言ってはいない。だから真奥は振り返った。彼は鈴乃と付き合いは数か月ではあるが、その性格上、意地を張ることは知っている。

「じゃあ、おれが鈴乃と遊びたい」

「は?」

 呆けた顔で鈴乃は「折れた」真奥を見る。真奥は鈴乃を見返しつつ、ふっと笑った。

「だから。俺が、遊びたいんだって。それじゃダメか?」

「えっ。い、いや。き、貴様がそういうのならば、別に」

「じゃあ決まりだなっ。良し、太鼓をたたきに行くぞ、さっき見つけた」

「太鼓? そんなものが置いてあるのか」

 鈴乃の返答を聞いた真奥はクルリと踵を返して歩き始めた。鈴乃はその後ろから、少し嬉しそうについていく。今の対応から真奥は自分を気遣ってくれたのだと彼女は思っているから、一層心が温かい。

 そんな鈴乃の前を行く魔王の顔は、邪悪な笑みを浮かべていた。

(くくく。まさかおれも他のゲームしたかったなんて、思ってないだろうな。ふはは、人間よ我が望みの糧となるがいい)

 糧と言うのはつまるところ、真奥も勝負抜きで遊びたかったのだが言い出しかねていたところ、鈴乃の態度を利用したということだ。先に鈴乃は意地っ張りであると書いたが、真奥も同じである。つまり先に言いだすのが真奥か鈴乃かのに鈴乃が言ってしまったのだ。

 つまるところ真奥も鈴乃と遊びたかった。

 

 ――もう一回遊べるドン 

「だあ? 意外に難しいなこれっ」

「いや、真奥が不用意にむずかしいモードにばかりするからだろう……。というよりも、貴様はここにきてからずっと難易度を高いものばかりにしていないか?」

 太鼓の達人を二人で並んでしながら、鈴乃は真奥の難易度のチョイスにあきれていた。マオリカートしかりDDRしかり、初心者のくせに真奥はとりあえず難しいものばかりに挑戦する傾向がある。

「だってよ。難しいもんをクリアした方が、達成感があるだろ」

「……それでさっきの踊るゲームでは私に完敗したのだな?」

「がっ、あ、あれは鈴乃が聖法気使ってただろっ」

「…………い、言い訳か。魔王も地に落ちたな」

 今日二度目のしょうもない言い争いをしつつ真奥と鈴乃は太鼓のばちを振るう。

 

 次に真奥達の来たのはメダルコーナーだった。最初真奥はメダルでゲームをすることを知らずに百円をゲームに投入しようとしたが、隣の人に諌められてなんとかメダルの存在を知った。

「ははは」

 と世界を震わせた真奥が知らなかったことを取り繕う為に、乾いた笑うを浮かべていた。

ちなみにその時、冷や汗をかきつつ鈴乃はそっぽをむいて、知らない人のふりをしていたから真奥は言う。

「ひ、卑怯者」

「ぐう」

 鈴乃はなにかに打ちのめされるように後ろへ下がる。真奥としても本気で罵倒しているわけではないから、完全にじゃれあいである。

 気分を取り直しつつ、真奥と鈴乃はメダルコーナーの中を見回した。ビデオゲームコーナーとは違って、モニターのついたゲームは少なく、代わりに装束が華美で巨大なガラス張りの筺体がおかれている。中には、メダルが入っているので、それを取る遊びだろうとなんとなく真奥は理解した。

 鈴乃はじゃらじゃらとメダルの鳴る音を聞きながら、真奥の後ろについていく。筺体の間は狭いのでそうしなければうまく歩けないのだ。

「うおお!?」

 真奥の声に鈴乃は体を震わせた。純粋に驚いたのだ。

「どうした?」

「見ろよっ鈴乃! 競馬をやってるぞ」

「ケイバ? ……競馬か? 馬鹿な、そんなものをやっているわけないだろう。こんな狭い場所で……」

 鈴乃は真奥を押しのけて彼の前に出た。何を見間違えたんだと内心では呆れながらである。もちろん真奥もそれを察してか、むっとした。

しかし、次の瞬間に鈴乃の表情が凍った。

 巨大なスクリーンが其処にはあった。その中にはでは、多くの馬がその速さを競っている。スクリーンの前には観客が座る用だろう、手元にミニモニターのついた椅子が整然と並んでいた。数は十から十五はあるだろう。

「こ、こんなところで競馬だと、ど、どうなっているのだ」

 鈴乃は目を見開いて驚いた。スクリーンに映っているのだCGによる疑似競馬なのだが、そんなことをとっさにわかるほど彼女は文明人ではない。

 真奥は鈴乃の横に立って言った。

「鈴乃さん? さっきこんなところでなんだって?」

「…………」

 鈴乃は己の間違いを的確についてくる悪魔の王へ肩を震わせつつ、思いっきりその悪魔の王の足を踏んだ。

「いってええ!」

 

 真奥と鈴乃はとにかくかたっぱしからやりこんでいった。時には、音ゲーと言われるような専門性の高いものから、はたまたアイスを取るような簡単なクレーンゲーム。ただし、さっきやったUFOキャッチャーには絶対に近づかなかった。

 休戦協定を結んでいるはずなのだが、時々思い出して二人は勝負した。それからまた忘れたかのように二人で遊ぶ。つまるところ勝負と銘打っているが遊んでいるだけである。

 まあ、当たり前のなのかもしれない。デートなのだから。

 真奥と鈴乃はさっきやったゲームについて、話ながら歩く。

「戦場の絆とか言うのは、すげえ操作難しかったな」

「ああ、貴様はなにをしたのか知らないが、敵に真っ向から突っ込んでいったからな」

「う、うるせい。ていうかビルの間に挟まってたやつにいわれたくないやい」

「な、なんだと。あ、あれはだな、この世界での銃撃戦では建物に隠れながらやるのがセオリーなんだ!」

「……後ろにまわりこまれてたくせに」

「く。貴様こそ、弾が切れたからと言って泣き言を言って気だろうが!」

 仲よく歩いていた二人は、数歩歩くだけで喧嘩をし始めた。それはそれで気が合っているのかもしれないが、彼らは一応のこと勝負中なので言い争いではすまない。

「いいだろう。真奥。決着をつけてやるっ」

「望むところだっ」

 いがみ合っているように「見える」二人の最終決戦が始まった。ちなみに彼らは今までやってきた勝敗の合計を覚えていなかった。

 

 ストリートファイターII。それが真奥と鈴乃の選んだ、最後にゲームだった。

 このゲームは、格闘ゲームの金字塔と言っていいほどに人気を博した、伝説のゲームである。1991年に発売されてから、爆発的な人気を誇り、一時期はこのゲームの勝敗によって乱闘が起こったこともあるといういわくつきでもある。

 ゲームの内容的には、いわゆる普通の格闘ゲームである。だが、勘違いしてはいけない。現行の数々の対戦格闘ゲームでいう「ふつう」を作り出したのは、ほかならぬこのストリートファイターIIである。

 今では当たり前な「コンボ」という概念を作ったのもこのゲームが奔りである。元々、単にバグの一種に過ぎなかったのだが、現在ではそれも広まり、格闘ゲームにはなくてはならない存在になっている。

 勿論、そんなことを真奥と鈴乃が知る由もない。彼らがこのゲームを選んだのは、単に二人で激高しあっていたときに、近くにあったからにすぎなかった。

 対戦用に作られたストリートファイターIIは筺体が向かい合うようになっている。真奥と鈴乃はそれぞれ反対側に座った。

「いいか鈴乃。この勝負に勝った方が最終的な勝者だからなっ。罰ゲーム忘れんなよっ」

 今の今まで完璧に罰ゲームを忘れていた真奥はそう鈴乃に言った。鈴乃は一端身を引きつつも、力強く言い返す。

「だ、誰が、貴様にき……などするか! 最初に言った通り、ほえ面をかくのは貴様だ。真奥!」

 筺体を間に挟んでいるので、二人は顔が良く見えない。しかし、お互いの気持ちが伝ったのか二人は互いに怒りの表情を見せた。「互いの気持ちが伝わる」とう状況で、怒りあうのはこの二人くらいのものである。

 真奥は筺体にお金を入れた。そして、さあゲームを始めようと――。

「なんだよ、鈴乃」

 いつの間にか、彼の横に鈴乃がいた。なんだか申し訳なさそうにしつつも、か細い声で彼女は言った。

「……お金を、ください……」

「お、おう」

 真奥は鈴乃にお金を使わせない宣言をして連れてきていたので、鈴乃は財布じたいもってきていない。真奥は複雑な心境で、鈴乃に数百円渡した。鈴乃は小さくお礼を言ってから、自分の席に戻った。

「よ、よし。始めようぜ」

「ああ……」

 真奥は必死に声をだして鈴乃を励ました。だが、なんだか鈴乃は彼の声を聞くたびに、情けなくなりそうだ。

「あーあー。こ、こんなにキャラクターがいるんだなー」

 真奥はわざとらしく、モニターに映ったキャラ選択画面について言った。

 ストリートファイターIIのキャラクターは、いろいろな国々の戦士や格闘家をモデルにしている。たとえば主人公のリュウは日本人であり、胴着に鉢巻と言う典型的な日本人格闘家の姿をしている。

 またはアメリカのガイルは金髪に筋骨隆々の軍人である。はたまた、中国では女性のキャラクターでチャイナドレスを着ている。余談だが、現在でも中国のキャラクターである春麗は人気が高い。

 しかし真奥の選んだのは、そのどれでもなかった。

(こ。こいつ。絶対強いだろ!)

真奥のの選んだのは全身を紅い衣装に包んだ大男である。その名はベガ。秘密組織シャドルーを束ねる悪の大物である。その顔には不敵な笑みを浮かべて、自信を現したような眼光が真奥にはストライクだった。蛇足になるが公式設定ではベガの好きなものは「世界征服」。真奥との相性はぴったりだった。

「勝ったな」

 真奥はそう言って勝利を確信した。鈴乃は特に声を上げることなく、黙ってキャラクターを選択している。彼女はなんとく優しそうな顔をした「ダルシム」を選択した。

画面が切り替わる。

 真奥と鈴乃は双方のキャラクターが、日本の京都を舞台に対峙する。何故ここにステージがなったかと言うと、単に真奥がてきとうに決めたからである。

「くくく。はははは」

 真奥は高笑いした。それもそうだろう、不気味な威圧感を持つベガに対して鈴乃のダルシムは貧相そのものの肉体である。真奥が侮ったのも当然である。

 その点では鈴乃も同じだった。

(まままずい)

あわあわと内心鈴乃はあわてる。明らかにベガとダルシムでは見た目の格が違う。それでも負ければ罰ゲームであるのだから、たまったものではない。良く考えずに決めたことを鈴乃は後悔した。

「ま、真奥。もういちど、選択し直して」

「勝負の世界は非情なんだよっ。さあ、いくぜ!」

 真奥が目の前のスティックを動かす。操作説明はコンソールにシールで張ってあったから、問題ない。しかし、勝負の前にあんなことのあった鈴乃には、そんなものを確認する余裕などなかった。

「あ、ああ」

 鈴乃はあわてた。操作が良くわからない。それでもベガ近づいてくる。

(も、もう駄目だ)

 鈴乃は悲壮なことを思いつつ、手前のボタンを押した。それはなにか狙ったわけではなく、ただで負けるのは悔しいと思ったことが行わせた無意識の動きだった。

「ヨガ」

 ダルシムが動く。ベガが近寄る。鈴乃は目を閉じる。

「うおっおお?」

 暗闇の中で鈴乃の聞いたのは真奥の悲鳴だった。

「?」

 鈴乃は目を開けて、画面を確認する。するとどうであろうかベガの体力ゲージが減っているではないか。何が起こったのか鈴乃は分からずに驚く。

「く、くそ卑怯だぞ。鈴乃」

「は?」

 真奥がなにか言っているが鈴乃はさっぱり状況がつかめない。彼女はとりあえず、さっき推したボタンをも一度押した。ダルシムは変な声を上げる、

「ヨガ」 

 インドの怪僧のダルシムの手が「伸びて」ベガにパンチをする。ベガはのけぞって、体力を減らした。そのダルシムの驚異的なリーチは、優に二メートルはあるだろう。これはさしものベガも近寄れない。

「……」

 代わりに鈴乃のダルシムがベガに近寄ってきた。真奥はあわててスティックを動かして後退するが、いかんせんステージはそう大きいわけではないので簡単に追い詰められてしまう。

 かちゃかちゃと鈴乃がいわゆる「がちゃ操作」を行う。どのボタンがどういう動きを擦るのかわからない初心者の動きである。しかし、どんな熟練者でも読むことのできないとリッキーな動きをするのでかなり厄介である。

「ヨガ、ヨガヨガ」

 なにかしら鈴乃がダルシムを動かすたびにダルシムパンチやダルシムキックが炸裂するので、手もなくベガはのけぞり傷つく。真奥は操作説明を見ただけの「にわか」であるために対応できない。

 ベガはダルシムよりかなり離れたところで、キックしてみたりパンチしてみたりと、悪の大物にしては無様なことをしていた。

「べ、べがあ」

 変な声を上げる真奥。クッパの時もこんなんだった気が鈴乃にはする。

「ふ、ふふ。この勝負は私の勝ちの様だな……」

 優しそうだな、などと言う理由で選んだキャラクターを使い、鈴乃は有利に立ったのだが、彼女は得意そうな表情を浮かべた。

 ダルシムとは曲者ぞろいのストリートファイターⅡの中でもさらに、色物なキャラクターである。そもそも格闘家ではなく、ヨガの達人である。健康体操をどのようにしたのかはわからないが、手足がゴムのように伸びると言う全キャラクター中最長のリーチが最大の持ち味である。だが――。

 ――K・O

 画面に表示される、真奥の敗北の文字。ベガは力なく、地べたにたおれた。

「……これで、私の勝ちだ」

 鈴乃は筺体からほっとした顔で立ち上がりかけた。だが真奥はギラリとした目で彼女を制する。

「まだだ……このゲームは二勝した方が勝ちなんだよ。お、おれのベガはまだ負けてねえ」

「……いいだろう。どうせ貴様のベガとやらは近づけもしないんだ。何度でも勝ってやろう」

 絶対の自信とともに鈴乃は真奥とにらみ合った。

 




お疲れ様でした。


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属性10 卑怯者 後篇

 二戦目である。

 画面にはベガとダルシムが雌雄を決するべく、互いに睨み合っている。

 ストリートファイターⅡの対戦モードは通常、二本先取の勝負である。つまり無様に倒れた真奥ことベガもまだ負けているわけではないのだ。しかし、悪の秘密結社の首領がたかがヨガの達人に手も足も出ずに負けた事実は変わらない。

「…………」

 真奥は集中していた。ここで負けるわけにはいかないのだ。罰ゲームうんぬんよりも魔王として負けるわけにはいかない。というか、自分が使っているベガのメンツにかけて負けるわけにはいかなかった。

 一方の鈴乃は内心ほっとしていた。どうやら罰ゲームを自分で行うことはなさそうであるとさっきの勝負の結果が彼女に思わせているのだ。少なくとも、今から新しく勝負をしようともダルシムの攻撃に真奥が対応できるとは思えない。

(真奥には悪いが……速戦で叩く!)

鈴乃はそう思うのだが、彼女も真奥と同じ素人である。速戦と言うのは以下に早くボタンを押してパンチやらキックを繰り出すかというものだ。したがってどれだけ速くがちゃがちゃできるかである。さっきの闘いでコツを掴んだと彼女は思っているが、かなり勘違いしている。

 ベガが動いた。赤い巨漢が素早く突進する。すかさず鈴乃のダルシムが伸びる腕で攻撃する。ベガの顔にダルシムのパンチがクリーンヒットする。

ダルシムよりも数歩離れた場所でのけぞるベガ。彼の顔がどことなく、悲壮感を増した。もしもゲームキャラクターに自我があるのならば、彼は自身の醜態が信じられまい。

それでも体勢を立て直したベガは再度の突進をする。そしてダルシムの攻撃にのけぞる。

まるでさっきの焼き直しの様な光景が繰り広げられていた。

(真奥……なんのつもりだ)

 鈴乃は真奥が無策でベガに突進させるのに違和感を抱いた。しかし、迎撃しない訳にはいかない。鈴乃は近づいてくるベガに対して、先ほどと同じようにパンチを繰り出してのけぞらせた。

 そう、同じようにである。

 画面のダルシムが一歩前に出る。ベガは再度突進する。すでにベガの体力のゲージは半分を切っている。翻ってダルシムの体力は満タンだった。優勢なのはどちらなのかは明白である。だが優勢であるから勝利できるとは限らない。

 再度ベガが突進した。鈴乃は完璧にタイミングを掴んでいる。

「もらった。とどめだ」

 鈴乃がボタンを押す。ダルシムの手がベガに迫る。これで勝負は決まったかに思われた。だが、そのくらいで終わるものはない。

 ベガが飛んだ。なんとジャンプしたのである。ダルシムのパンチはベガの足元を通過して、戻っていく。

「甘いぜっ、鈴乃」

「な、なに」

 筺体の向こう側から聞こえてくる真奥の声。鈴乃はあわてて再度の攻撃を敢行した。しかし、ベガはすでに間合いを詰めている。鈴乃がボタンを押そうとする。

 ベガの拳がダルシムにつきささった。強パンチをもろに喰らい、ダルシムはたたらを踏む。鈴乃はあわてた、この状況になるのは初めてだ。今日初めてストリートファイターⅡをやったのだから当たり前ではあるのだけれど。

「うおおお」

 真奥が叫ぶ。鈴乃の向こうの側でボタンを連打する。必殺技とかコンボとか難しいといいうよりも知らない。それでもベガの拳が脚がインドの怪僧に突き刺さる。そのたびにゲージが減った。

「う、ああ」

 鈴乃はとにかくボタンを押しているのだが、ダルシムの弱点はインファイトには長い手足が邪魔となり、向かないことである。たまらず後退した。

「逃がすかっ」

 ベガが迫る。ここでやらなければベガのメンツがまずいことになる。実際ジャンプしてからの強と弱パンチ連打をしているだけなので、別にすごいことなど一切していない。それでも真奥はある必殺技を閃いた。

「後ろが……」

 ダルシムがステージの一番後ろに追い込まれてしまった。逃げ場のない空間でベガと戦わなければならない。ダルシムは必死に応戦するがどんなに足掻いてもインファイトでは不利である。しかも後ろには下がることができない。

 これぞ伝統の技「壁ハメ」である。遊びの対戦で使うと間違いなく嫌われる技であり、全盛期には大人が喧嘩する要因の一つになった。勿論真奥も鈴乃もそんなことを知ることはないし、これは真剣勝負である。

 ダルシムの顔に拳が突き刺さる。ふわりと彼の体が浮いて、地面にどさりと落ちた。

 ――KO

「ま、負けた」

 鈴乃は呆然としていた。何が何だかわからないうちに体力を削られて負けてしまったのだから、それも仕方ないかもしれない。画面の中ではそれはもう嬉しそうにベガが喜んでいる。

「鈴乃」

 ふと、真奥の呼ぶ声がした。鈴乃は顔を出して彼の様子を伺う。

 真奥も顔を出して、ふふんと勝ち誇っている。鈴乃はそれを見てぐっと頭に血がのぼることを覚えた。たかが一戦敗北しただけなのだが、彼女は悔しくて仕方がない。ついでに真奥の態度が気にくわない。

「き、貴様、真奥。まだ勝負はついていないぞ、それなのになんだその顔は」

「くくく、もう鈴乃の闘い方は分かったからな」

「なんだと!」

「今ので我が盟友ベガの闘い方も分かった、もう負けることはないぜ」

 盟友。いつの間にかベガはそんな需要なポジションになっていた。悪の組織の首領として、悪魔の大将に魅入られるとは彼も本望ではないだろうか。

「……真奥、おまえ……」

 そんなこととは関係なしに、鈴乃としてはここで負けるのが本当にだめなのだ。真奥は罰ゲームのことを忘れているのか、気にしていないのかは彼女にはわからないが、おでこにキスをするなんてとんでもない。

 鈴乃は無言で勝負に戻った。実際のところ、ベガに懐に入られれば負ける。逆に言えばアウトレンジでの攻撃を的確に行えば近づかれることなく倒すことができる。

 自然と鈴乃の手に力が入った。負けるわけにはいかない。これに負けて行うことは、酒の力を借りたようなことではない。自分の意思で真奥にキスをしなければいけないという、そんなものなのだ。鈴乃はここ数日のことを思いだした。全てはあの日の喧嘩から始まった。

「全部あのにーとが悪い……」

 よくよく考えれば、全部漆原が悪い。こんな状況なのも、真奥と罰ゲームを争っているのも全てがあれのせいである。かといっても鈴乃は安易に漆原を憎むことができなかった。この状況が鈴乃にとって良くないことかというと、彼女にもわからない。

「とにかく、勝たなければ」

 鈴乃はそう気合を入れなおした。ここで負ければ恥ずかしい目にあわされるのだ。とりあえずそれは回避したい。それに真奥の勝ち誇った顔も癪に障る。

 

 画面に三戦目の文字が映った。正真正銘これが最後の決戦である。

 右にベガ、左にダルシム。お互い一勝一敗同士の闘いである。ゲームには引き分けもあるが、それはほとんど起こらないだろう。

 じりじりと両者が距離を狭める。ベガはダルシム間合いの一歩外。ダルシムはゆっくりと近づく。ダルシムは無駄に攻撃をしようものならば、間合いに入られる危険がある。そこを行くとこの勝負は常にベガの先手であった。

 ベガが動く。すかさずダルシムのパンチ。ベガはかろうじて後退して、躱す。互いにダメージはない。時間だけが過ぎていく。

 まるで剣豪同士の闘いの様だがそんなに二人の技量は高くない。単に素人同士で拮抗しているのだ。それでもぴりぴりとした緊張感がある。

 ベガが動いた。今度はダルシムの圏域に深く踏み込む。しかし安易に踏み込んだからだろう、素早くダルシムが迎撃のパンチを繰り出して、オープニングヒットを当てる。すこしだけベガの体力が減少した。

「よし」

 鈴乃は息が詰まりそうな戦いの中で先手を取り、ほっとする。それは緊張のゆるみだった。

 ベガはすぐさまダッシュを繰り出す。鈴乃はさっきのことで、ワンテンポ反応が遅れてしまった。ダルシムが攻撃するが、ベガにジャンプをされて躱される。「しまっ」と鈴乃が呻く前に、ベガはダルシムの前に降り立った。

 鈴乃がガチャガチャと操作する。制空圏を突破されたことでさっきの敗北が脳裏をかすめた。それで慌てたのだ。

 鈴乃の押したボタンに反応したダルシムがジャンプする。その足に、ベガのパンチがヒットした。

 吹き飛ぶダルシム。少し遠くに倒れて、すぐに起き上った。鈴乃は幸運と言っていいだろう、これでベガとダルシムは互いにワンヒットずつ、それに間合いはスタート時のままである。

鈴乃はそれでも油断しなかった。先ほどはオープニングヒットを当てて油断したせいで、危うくインファイトまでもつれそうになり、負けそうになったのだ。顔の見えない真奥はさっきから黙っているが、おそらく集中を切らしてはいないのだろう。

 鈴乃はダルシムに攻撃させる。ここで、弱パンチはそれなりにけん制効果があるのではないかと思ったのだ。その弱パンチが画面でベガに数発当たったのは、ベガの突進を数度阻止したことに他ならない。

 それでも決め手にはならなかった。ベガに間合いに入られれば負けである。いくら体力が残っていようと、鈴乃の技量ではどうしようもないからだ。

鈴乃はベガを牽制しつつ、額に玉の汗を浮かべた。本気の目である。

 ベガもダルシムも若干ダメージを負っているが、まだ互いに危険な領域にはない。そもそもこの勝負は体力よりも、間合いの計りあいであるといっても過言ではない。

「……」

 鈴乃は牽制をしながらも一歩近づいた。それが勝負の合図になる。

 ベガが突進する。全力でダルシムの方向へ向かってきた。ダルシムのキック。ベガはジャンプをしようとして間に合わない。そのまま後ろへ倒れる。

 ベガは立ち上がった、ここで勝負に来るのだろう鈴乃は直感する。ダルシムを一歩前に出す。これが勝負を受けたのだというサインのつもりだった。

 再度ベガの突進。ダルシムのパンチ。ベガにヒットして、ダメージを与える。だがすかさずベガはダルシムに向かって行く。彼には前進の二文字しかない。悪の首領として引くわけにはいかない。

 ダルシムは伸縮自在の足でキックを繰り出す。かろうじてベガはジャンプするが、先ほどのように鮮やかにダルシムに接敵できない。それは鈴乃の腕が戦いの中で進化していることを表している。

 ちなみに二人ともガードのやりかたを知らないので、基本的にノーガードである。うまくなっているとしても二人とも三戦目でしかない。

 ベガが飛んだ。ダルシムが迎撃の手段がなく後ろへ後退して、距離を稼ぐ。

「ぐ、しまった」

 鈴乃は唸った。ダルシムの後ろは壁である。先ほどのように追い込まれた状態で戦えば、まず間違いなく負ける鈴乃は冷や汗をかきつつボタンを押していく。ベガはそれにひるんだわけではないだろうが、中々突っ込んでは来ない。

 ベガはその場で拳を素振りする。ダルシムのように牽制ができるほどリーチは長くないので、あくまで動きによるフェイントだろう。だが、真奥も鈴乃も思いもよらぬことが起きた。

 ダルシムのパンチがベガの素振りに当たってはたき落されたのだ。ダルシムはそれで体勢を崩してしまう。このインド人の手には実のところ当たり判定があり、タイミングよく攻撃することができれば、それでダメージを与えることができた。

「いまだっ」

 真奥が叫ぶ。なんでダルシムがダメージを受けたのかなど、どうでもいい。今こそ間違いなく勝機である。全力で突進するベガを止めることはダルシムにはできない。

「あっ」

 鈴乃が叫んだ時にはもう遅かった。ダルシムの一歩手前にはベガがその凶悪な顔で立っていた。彼のダメージも大きく、あと数発も持たないほどゲージが減ってはいるが、その不敵な笑顔は嬉しそうである。

「いくぜ、鈴乃」

 鈴乃は真奥の声が遠くに聞こえた。このままでは負ける。だが起死回生の手はない。後ろは壁、現状は絶望的。ただ無意識にガチャ操作をする。

 ベガの手が引かれる。強パンチのタメを作っているのだ。

 ダルシムのお腹が膨れた。そしてベガのパンチの届く刹那、なんと火を吐いた。

「ヨガファイヤー」

 ダルシムの口から勢いよく日が噴き出る。これはダルシムの必殺技の一つ「ヨガファイヤー」である。ガチャ操作でてきとうに出したのは、鈴乃にとっても偶然の産物でしかない。

業火に包まれてベガが飛ぶ。体中を燃やしながらのグラフィックはなかなかに刺激的である。

「べ、べがああ」

 泣きそうな真奥の声が鈴乃には聞こえる。なんでいきなり自分のキャラクターが火を吐いたのかさっぱり訳が分からない。しかも明らかに、パンチやらキックを出した時よりも威力が上である。

「ひ、卑怯だぞ鈴乃。格闘技で魔術なんて使いやがって!」

 情けないことを言う真奥。

「し、しかたないだろう、わ、私だってわからないうちにでたんだ!」

 一応ベガにも「サイコパワー」という一種の超能力を使った技もあるが、今度の勝負ではボクシングよろしく「強パンチ」と「弱パンチ」しか使っていない。まさにクリーンファイトである。そのせいでダルシムが火を使ったことが、なおさら悪く見えた。

「く、くそおお、ベガ。すまねえ俺がふがいないばっかりに……お、おい」

 真奥が驚きの声を上げた。鈴乃ははっと画面を見ると、火を纏って倒れたはずのベガが起き上ろうとしているではないか。まだ彼の闘志は尽きていなかったのだ。

「が、がんばれベガ」

 応援する真奥。鈴乃もベガの雄姿に一瞬釘付けになってしまった。

 ベガはゆっくりと立ちあがると、瀕死の身でありながらも両手を上げてファイティングポーズを取った。その顔にはあの不敵な笑顔を張り付けている。こんな状況でもくじけない彼は、まさに悪の首領にふさわしい。

「うおおおお、さ、さすがだ、ベガっ!」

「…………うう」

 真奥も鈴乃もベガの行動に感嘆の声を上げた。それにこたえるかのように、ベガはその場でシャドーボクシングをする。おそらく真奥がボタンを押したのであろう。

「よし、勝負はこれからだ。行くぜベガ」

 真奥がベガに激励の言葉をかけると、そのままダルシムに突っ込んでいった。鈴乃はそれを倒すのが忍びない。パンチを繰り出せば倒せるのかもしれないが、それではだめな気がする。完全に心をシンクロさせている真奥とベガに心が負けていた

 だが、現実は非情である。

 ――タイムアップ

 画面にその文字が映し出された。

 

 結論から言うと鈴乃の勝ちである。ストリートファイターⅡに限らず、多くの格闘ゲームでは勝負ごとに制限時間が設定されている。それまでに決着がつかなかった場合。その時点で体力ゲージの残りが多い方が勝者となる。今回の場合はダルシムであった。

「ふう」

 鈴乃は釈然としない何かを感じながらも安堵の息を漏らした。これで真奥へキスをするなどと言う醜態をさらすことはなくなるのだ。

(少し残念な気も……するわけないだろう!)

鈴乃は自分で想ったことを即座に否定した。かといって、完全に否定されたかというと怪しいことこの上ないが、それでも彼女はストリートファイターの筺体から立ち上がった。

 (……まあ、真奥の悔しげな顔でも見よう)

 自分が先ほど思った不穏な思考を消すために、彼女は無理にそう思った。だが、さっきの勝負の途中で真奥は勝ち誇った顔を鈴乃に向けてきたのである。それはそれで、やり返したい気持ちがないわけではない。

「こほん」

 少しわざとらしく鈴乃は咳払いすると反対側の筺体へ目をやった。そこでは黒髪の青年が少し悔しげな顔をしている。鈴乃はそれで多少、溜飲を下げた。しかし、当の真奥は口をとがらせたまま何も言わない。

「おい、真奥?」

 鈴乃が訝しみながら彼に近寄る。

「……」

 真奥の紅い瞳がちらりと鈴乃を見た。それで鈴乃はぐっと身を強張らせてしまう。真奥の顔が少しだけ、凛々しく見える。そこにはふざけた様子はない。

「……?」

 鈴乃はなにか感じながらも首を傾げるしかなかった。椅子から立ち上がった真奥はそんな彼女に真正面から向き合う。じっと赤い目で見られると鈴乃は気恥ずかしさで目を逸らしそうになった。しかし、真奥の声に止まる。

「鈴乃」

「な、なんだ」

「多少は俺も恥ずかしいからな……さっさと終わらせておこうぜ……」

「は? なんの話だ」

「あれだよ。あれ。まあいいや、動くんじゃねえぞ」

 真奥は鈴乃の頭に手を載せた。鈴乃はがっと顔が熱くなる。思わずその手を払いのけた。

「な、なんのつもりだ! ひひとの頭に」

「いや、だから」

 怒る鈴乃に真奥がなにを言っているんだとばかりに言う。

「罰ゲームだろ、でこにキスが。髪をのけようとしただけだって」

「…………ア!」

 そこではたと鈴乃は気が付いた。今まで鈴乃は「自分がまければ真奥のおでこにキスをする罰ゲーム」ばかりを想定していたが、そもそもそんな約束など最初からしてはいない。この戦いの罰ゲームは「おでこにキス」だけである。勿論やるのは敗者、受けるのは勝者だ。

「あ、あああ。い、いや真奥、そ、それは」

「んだよ。今更言い訳なんてしねえよ。負けた責任はとるに決まってんだろ」

(そ、そこは言い訳をしろお)

鈴乃の心の叫びは真奥には届かない。彼は言う。

「だってよ。ここで勝敗をあいまいにしちまったら、ベガに悪いだろ」

 ベガのせいで真奥が言い訳をしないとなると、彼は悪の首領兼恋の使徒であるのだろうか。

「まっ、とにかく、早く終わらせて……」

「ま、まて真奥」

「なんだよ」

「そ、そのこんな人の多いところで、あの」

「ああ?」

 真奥はそう言われてみればとあたりを見回した。当たり前だがゲームセンターの中で、人通りは多い。確かにこの空気の中で罰ゲームをするのはいささか抵抗がないでもない。

「そうだな、ちょっと恥ずかしいかもな」

「だ、だろう。だから。な」

「ああ、場所を変えるか」

 (ち、違う。そうじゃない!)

 真奥から言い訳をしてくれたのなら鈴乃としても「あきらめがつく」のだ。鈴乃はどくどくとなる自分の心臓の音を聞きながらも、なんとか真奥へ言う。

「あ、あの真奥」

 すっと真奥が鈴乃の方向を向く。大きな赤い瞳。今朝から何度もみたその美しい目が、鈴乃の言葉を奪っていく。彼女は人形のように真奥を見て固まってしまった。

「何回もどうしたんだよ」

「……い、や。なんでも、ない」

 そう鈴乃は言ってしまった。言うべきことなどいくらでもあるだろう。良識問えば、常識聞けば突き放してでも真奥を止めるべきだろう。だけれども鈴乃にはそれができない。彼女は自分ができない理由に気が付く、一歩手前にいる。

「? まあ、いいか。なんかあれば言えよ」

「……ああ」

 真奥はそういうと鈴乃を目で促しつつ、歩き出した。とりあえずは人の少ない場所を探さなければいけないのだ。

 

 そんな都合のいい場所などそうそうない。真奥はきょろきょろと店内を見回しながら探し、鈴乃はその後ろをとぼとぼという擬音の似合いそうな歩調でついていく。

「あっ、そうだ」

「どうしたのだ……」

 真奥はなにか思いつように言うと、鈴乃はびくっと体を震わせて聞いた。

「中に入ってするゲームの中でなら誰も入ってこないだろ」

 真奥の言っているのは、例えば体感型ガンシューティングのようなものだ。筺体一つがかなり大きく、車一つ程度の大きさであるものが多い。プレイヤーはその中に入ってゲームをするというものだ。

 無論、真奥は今から鈴乃とゲームする気はない。そんなゲーム筺体を探して、罰ゲームを敢行してようとしているのだ。

「そ、それはどうだろうな。……それなら外にでて路地裏にでも」

 今鈴乃と真奥の間で罰ゲームが行われていない理由は一つ。場所の問題である。それが解決されそうで鈴乃は焦った。断ることはできないが、積極的にしようとも思わない。だからあいまいな提案を彼女はする。

「いや、なんかこそこそ隠れてすんのは俺は嫌だ。まあ……あんまり変わんねえかもしれないけどな」

 真奥は腕を組んで返答した。鈴乃はそれで黙らざるを得ない。理屈ではなく「嫌だ」などと言われれば、もはや言う言葉はないのだ。彼女はもじもじと左右の指を絡めては解く、という不思議な行動をしている。

(まるで針の蓆だ…………さっき真奥にキ……あれをさせてしまえば、こんなことはもう終わっていたのに)

鈴乃はそう思うと。瞬間、頭の中に映像ができてしまった。真奥と鈴乃が向かい合って、唇と唇を――。

「そういえば、なんかあのでかい箱みたいなのいいじゃないか? 鈴乃あれに」

「うあああ、やめろお!」

「ぐへえ」

 いきなり鈴乃が真奥のみぞおちに正拳突きを食らわす。真奥は何とか持ちこたえた。

 理由は分かりやすい。さっきから「おでこに」と言っているのに、鈴乃の頭が自動的に作成した映像が、それに反していたから彼女は耐えられなくなったのだ。勿論真奥はわけわからない。

「な、なにをする……だ」

「ち、違うんだわざとじゃ、その真奥」

 思わず無抵抗な真奥を殴ってしまっておろおろとする鈴乃。真奥は少し青い顔で遠くにある「大きな箱」のようなものを指さした。それもゲームの一種なのだろうか。その「箱」はいくつか並んでいて、若い女性が大勢周りにいる。

「あ、あそこでやろうと、言ったんだが、い、いやなら拳じゃなくて、口で言え」

「い、いや。いやとか。そういうのではなくてだな」

「じゃあ、あそこでいいな?」

「う、うむ」

 多少、怒気を募らせた有無を言わせぬ真奥の言葉に「うむ」と答えた鈴乃はしまったと臍を噛んだ。もうどうしようもないだろう。彼女は否応もなく、真奥の後ろをついていくしかなかった。

 

 箱のようなものは、入り口にすだれがかけてあって。中に入る前にお金をいれなければならないらしかった。真奥としては、ただで使わせてもらうのも悪いので、しっかりとお金を投入する。ただしゲームの説明などは一切調べなかった。正直言えば、どうでもいい。

「なんか履歴書を取る時の証明写真の奴みたいだな」

 履歴書の話をする魔王こと真奥は、箱の中に入ってそうつぶやいた。中には巨大なモニターが置いてあり、シンプルなボタン配置がされているだけである。

正確に言うとこの箱はゲームではない。

 ――フレームを設定してね!

 そう機械音線を響かせるその名は「プリントクラブ」。説明の由も必要もないほどに有名なゲームセンターの定番である。真奥もその存在は知ってはいるのだけれど、そうそう男所帯でプリクラはとらないし近寄らない。だが「証明写真」のようだというのは的を得ていた。

ちなみに鈴乃は過去に撮ったことがあるのだが、

(人人人人人人人人人人人人)

 現在の彼女は緊張しなくなる呪文を緊張しながら唱えるのに忙しいので全く気が付いていない。

鈴乃はここに近づくまでに頬の紅さを増して行った。今ではゆでだこの様である。

 真奥は鈴乃の方を向きなおった。さっきからときおり「フレームを設定してね」などと聞こえるが、元からプリクラなど撮る気もなく、これがそうだとも気が付いていない真奥は気にしない。

「鈴乃」

「は、はひい?」

「……?……はっ。へんな声を出すから驚きすぎて、ぼやっとしちまった! な、なんだ今の!?」

「ち、違う。私は断じて緊張してない!」

「緊張? なんで」

「してないと言っているだろう!」

「わ、わかったから、近い近い」

 いつの間にやら鈴乃は真奥へ詰め寄っていた。鈴乃はそれに気が付くと、わなわなと肩を震わせて下がろうとする。それを真奥が両肩を掴んで止めた。逃げようとした彼女の目が真奥を真っ直ぐ見てしまう。

「は、ななにを」

「いや、さっさと罰ゲームを」

「意味の分からないことを言うな!」

「い、いや。そのためにここに来たんだろうがっ。とにかくでこを出せ」

「…………」

 鈴乃の目が泳ぐ。真っ赤にした頬に小さく噛んだ唇。一目で緊張しているとわかる。真奥はなんだか罪悪感すら感じてしまう。しかし、うやむやにしてしまえばベガに申し訳が立たない。

「鈴乃。落ち着け」

 優しい声音で真奥は鈴乃を諭す。それで鈴乃ははっと真奥を見た。真奥の顔が目の前にあることが、改めて認識してしまう。

「ま、まおう」

「おう」

 名前を呼ぶ。返事をされる。それだけで鈴乃はどくと心臓が動くのが分かった。

 真奥に掴まれた肩が熱い。指が動く。足が震える。情けないほどに鈴乃は自分のことが分かってしまう。ただ、ある一点いや一線は自覚してはいけない。そう彼女は心に思う。

 ――フレームを設定してね!

「落ち着いたか?」

「あ、ああ」

 真奥が言う。鈴乃が答える。短い会話が鈴乃には心地よい。機械音が頭に入らない程度には。

 真奥の右手が鈴乃の方を離れて、彼女の頭にのる。それから鈴乃の額を覆っていた黒髪を優しくかき分ける。彼はそのまま、顔を近づける。鈴乃は怖いのか、それとも他の感情があるのか目をぎゅっとつぶった。

 ――フレームを設定してね!

 何回も響く、その機械音はだんだんとテンポを速めてくる。

 真奥の顔が近付く。鈴乃のおでこに軽く、唇を触れた。

 ――ハイチーズ、カシャ!

 何か撮ったような音が響いて、フラッシュがあたりを包む。

「ん?」

「?」

 真奥と鈴乃は同時に疑問符を浮かべた。「なんだ今の音と光は」とその顔は言っている。鈴乃はそれでもはっと気が付くと、真奥から離れた。

「こ、これで終わりだからな! ま、真奥」

「えっ? ああ、おう」

 気のない返事をする真奥はきょろきょろとあたりを見回している。さっきの音はなんだろうかと思っているのだ。反面鈴乃はそっぽを向いて、俯いた。

 感触が残っている。目をつぶっていたから良くわからないがそれでも間違いなく、鈴乃の額には記憶があった。それだけで、

 (あ、ああ)

 体中が火照ってしまう。今朝から何度も感じたそれが、何度真奥と接しても消えない。

 (わ、私は)

 彼女は思う。自分の気持ちのありかを、だがそれを自覚することはいろいろなものへの背信を伴う。絶対にそれだけは避けなければならない。それを思うと、体温が急に下がっていく気が彼女にはする。

「おい鈴乃」

「……いきなり話しかけるな」

「普通に話しかけただけなんだけどな。まあ、いいや。もう六時近いし、ゲーセンを出ようぜ」

「わかった……」

 鈴乃はうんと頷いて、振り返った。多少冷静になったからか、真奥とは普通に話をすることができた。

 だから分かる。ここに見覚えがあることが。

 前方に張り付けられた、巨大なモニター。今鈴乃と真奥のいる、大勢の人間が入ることのできる空間。昔の記憶。

 (ここ、ここは? 確か……ぷりくらとかいうところでは……はっ)

 鈴乃は何かに気が付くとばっと外へ飛び出した。いきなりのことに真奥が面食らってしまったが、鈴乃は遠くに行ったのではなく、筺体のすぐ手前で足を止めている。だから慌てることなく、真奥も外へ出た。

 ところでプリクラの機種によっては、お金を入れてなんの設定もしなかったり、いつまでたっても撮影しなかった場合。キャンセルされたり、自動的に撮影されてしまうものがある。後者の場合は筺体の外につけられた取り出し口から、プリクラが出てくる。

 鈴乃は後者だと分かった。彼女は筺体の前にしゃがみ込んで、なにか紙のようなものを掴んでいる。それはさっき筺体から出てきたらしく、ほのかにあったかい。

 それは真奥と鈴乃が互いに目をつぶって、鈴乃がおでこにキスをされているプリクラであった。しかもフレームを選ばなかったあてつけなのか、ハートマークのフレームまで勝手に設定されている。しかも、プリクラは一枚の写真を数枚のシールに分割するものだから、なんと一六分割。それが鈴乃の手元にあった。

「鈴乃。それなんだ?」

 びくうと鈴乃は肩を震わせた。もはや声もない。数秒間プリクラを眺めているうちに、彼女の中で何かが崩れた。元々、さっきのことも意図的にあいまいにして、考えないようにしていたのだ。

「しょ、証明写真か?」

 ひょいと鈴乃の手元を覗いた真奥は、さすがに自分と鈴乃が写ったプリクラを見つけて、乾いた笑いを浮かべた。さすがに一六分割は精神的に来るものがあるらしい。冗談にもキレがなかった。

 鈴乃は何も言わない。彼女は顔を見せることもなくすっと立ち上がると無言で走り去る。その背を丸めて走る姿は、逃げて行くようだった。

「あ、おい!」

 真奥から見ればもはや鈴乃は点である。元来身体能力の高い鈴乃である上に、とっさに追いつこうとしても人ごみが多く、どうにもならない。真奥の近くでは女子高生らしき女の子達が「ケンカ?」などと、ひそひそと話している。

 真奥は頭を掻いて、考えた。

 

 

 トイレのドアを締める。鈴乃はそのままドア背を預けて、息を整えた。さしもの真奥も女子トイレの中までは探しには来ないだろう。いや、どこにいたとしても探しにきてもらったらもう、だめだった。

 鈴乃は両手で持ったプリクラを見る。それを見るたびに、いや、

 ――何度見ても

 ――何度見ても

 ――何度見ても

 (まおう)

 嬉しくて、仕方がない。

 鈴乃は両手でプリクラを持って、胸に押しつける。見てしまわないように、離してしまわないように。そんな相反する気持ちが鈴乃の中で渦巻く。

 もう鈴乃は隠すことも、偽ることもできなかった。

 (まおう、まおう)

 その名を呼びたい。もう少し近くに居たい。ただ、そう思う。

「だめだな、私は、そんなのはダメだ……」

 だが口から出るのは、自重の言葉。

 (だめ、なんていやだ)

 胸の内にあるのは、彼女の気持ち。

 鈴乃が真奥へ好意を向けること。それは道徳的の倫理的にも間違っている。それに鈴乃の立場は、基本的に真奥達とは敵対せざるを得ない立場である。つまり、彼女の気持ちは一個人の物を超えて、多くの人間への裏切りになってしまう。

 彼女が組織を大切にするのなら、友人を大切にするのなら。今ここで、全てを諦めてしまうことが、何よりも正しい。それは誰もが認めてくれるだろう。もしかしたら誰かが褒めてくれるかもしれない。

「いやだ……いやだよ。真奥」

 他の誰かが認めてくれなくても、鈴乃はそれを否定できない。しかし、彼女には他の誰かを否定できるほど、敵対できるほどに勇気も蛮勇もない。今の関係が、今の自分の境遇の全てを取りかえることが、彼女にはできない。

 それでも鈴乃は、

 (真奥のことが、すきだ)

 声には出せない。それを出してしまえば、もはや言い訳は聞かない。心の奥底に置いておくだけの、そんな気持ちであらなければならない。鈴乃はそれを思い、ははと自らを嘲るように笑った。

「私は卑怯者だな」

 そうではないだろうか。何を変えることもせず、もしかしたらと言う希望に縋っているだけで、それ以上のことはなにもできない。自らの気持ちに立ち向かうことも、他人の心と対峙することもしないことは彼女にとって卑怯そのものだった。

 (ここ数日いろんなことがあったな)

 多少の逃避を込めて、鈴乃は思い出す。

 ――漆原と言い合いになって、酒のことで暴れまわったらしい。

 ――新しく初めてみたアルバイトでは、散々な目にあったが楽しかった。

 ――オセロで負けて、その後真奥に三つ指をついてなにか言った。

 ――今日、朝から真奥と出かけて、洋服なんて着てみて、普段いかない場所でいろんなことをした。

「ああ、ああ――」

 現実逃避をしていたはずなのに、どんな時でも、どんな記憶にも彼がいる。「真奥貞夫」がいつも、そこにいる。たいてい、彼は笑っている。

 鈴乃はポンチョの裾をたぐって、顔に当てた。そうしないと、視界がぼやけてきてしまいそうだったからだ。鈴乃は暗闇の中であることを思いだした。

 

 ――「一日だけ、デートしていただきましょう。それで今回の件は解決です」

 

 それは真奥の部下の声。芦屋の言葉だった。そう、今日彼女の真奥が一緒にいるのはそういう約束の上でしかないはずだった。鈴乃は顔を少しだけあげて、もう一度手に持ったプリクラを見た。

 真奥と鈴乃がそばにいる、そんな光景。鈴乃はそれを大切そうにしまうってから言う。

「卑怯者は、卑怯者らしく……今日一日くらいは……」

 鈴乃はごしごしと目元をぬぐってから、首を振った。あと数時間しかない、この時を大切にしていくしか自分にはないのだと思おう、彼女は自分に言い聞かせるかのように言う。これは裏切りではないとも自分を納得させる。

 

「居た!」

 真奥は鈴乃の姿を見かけると、すぐに走ってきてくれた。

「ああ」

 鈴乃は少し目線をそらして、真奥に言った。赤い目など見せたくはない。

「……大丈夫か?」

「すまないな。取り乱してしまった」

「いや、俺ももう少し気にしておけばよかったとは思うからな」

 鈴乃はできる限り感情を抑え込みながらしゃべる。真奥の方向を向いていはいないから、彼の様子は分からない。あとわずかの時間しかないのに、と思ってもどうしようもない。

 だが、真奥が先に動いた。鈴乃は彼を見なかったから気が付けなかったが、彼は手に白い紙袋を持っていた。そこから何かを取り出す。

 ぬっと出てきたのは、だらけた顔をしたクマ。リラックス熊だった。

「真奥それは、さっきの」

 鈴乃はそのクマの人形を見て言う。これはさっき真奥とやったUFOキャッチャーの景品だったはずだ。それを今真奥が持っているということは、彼がとってきたのだろうか。鈴乃は目で真奥に聞く。だが彼は少し複雑な表情で、

「取れればよかったんだけどな……店員に頼み込んでもらった。あっ、勘違いすんなよ! しっかりと金は払ったからなっ」

 なにかどうでもいいことにむきになる真奥だが、彼は手に持ったクマを鈴乃に押し付けるように持たせた。

「デパートの中でとかなら、いろいろ探せるんだけどな。ここじゃこれくらいしかなかった……すまん」

 鈴乃はその柔らかい肌を持ったクマを受け取ると、じっと見つめる。恵美が虜になっているのはこのなにも考えてなさそうな顔なのだろう。普段ならば、あまり興味を引かれないが、鈴乃はぽつりと言う。

「私も……好きになりそうだ」

「えっまじで?」

 渡したくせに驚く真奥。彼は彼なりに考えて、鈴乃へもらってきたのだろう。鈴乃はそのクマに顔をおしつけて、ぐりぐりとそのクマの腹で顔を撫でる。真奥は鈴乃が気にいったようで、少しだけほっとした。

「とりあえず、ここを出ようぜっ。とっておきの場所があるんだよ」

「とっておきだと?」

「ああ、聞いて驚くなよ。東京タワー」

「ありきたりじゃないか」

「違うって、途中だっつーの。東京タワーと同じ高さの景色が見れる場所があんだよ。この近くに」

「すかいつりいではないのか?」

 真奥はひるむ。スカイツリーはそれなりに遠い。がネームバリューやその大きさは当巨タワーよりもはるかに上だ。

「い、いや。そうじゃねえ。それを言われるとつらいんだが……東京都庁に行くぞ」

 鈴乃はぽかんとした。今から役所の親玉である新宿「東京都庁」などに言ってどうするのか。訝しげに鈴乃は真奥を見る。彼は鼻を鳴らして言う。

「いいか都庁には展望台があって、東京タワーレベルの高さがあるんだ。しかも無料でなっ」

「東京都庁、無料……」

 鈴乃はそれを繰り返してから、ぷっとふきだした。一応はデートなのである。だからいろいろと考えて上で空回り、ひねくれてそんな場所になったのだろう。

「は、ははは都庁か……あはは」

「と、都庁は悪くねえぞ。ち、ちかいし。いったことねえけど」

 何を焦っているのか真奥は弁解する。鈴乃は別に怒っているのはなく、あまりに「真奥るらしい」考えに笑ってしまったのだ。それだけで、鈴乃の心が温かさを取り戻していく。

 反対にさもおかしそうに笑う鈴乃へ真奥が膨れ面を見せた。それはそれでまた真奥らしくて、鈴乃はつい笑い声を大きくしてしまう。

「だ、だめなのかよ」

「いや。唯、魔王らしい場所ではないなと思っただけだ」

「く」

 悔しげに唸る真奥をみてまた微笑む鈴乃は、わざと仕方なさそうに言う。

「それでも、連れて行ってくれるんだろう? 私を」

 今だけは自分のことを考えてくれている、真奥へ鈴乃は言う。真奥は膨れ面のまま頷いた。少ししてさすがに大人げないと気が付いたのか、真奥は鈴乃を促す。

「いこうぜ」

「ああ、いや」

「えっ? 嫌なの?」

「ち、がう。い、今のはだな。その」

 引いてしまいそうになる体を、鈴乃は止める。自分は卑怯者で、今日はどんなことでもやれるのだと、そう願う。思うのではなく、自分に懇願する。

「その、だな」

 鈴乃はクマのぬいぐるみで顔を隠しながら唇を開いた。真奥へそれを頼む。

 

 二人は、手を繋いで外へ出る。

 

 

 

 



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属性11 御姫様

あけましておめでとうございます。


 下を向いて歩く。鈴乃はゲームセンターを出てからずっと目を上げることができなかった。只々自分の足元を見て歩いていく。

 それでも鈴乃は迷うこともなく、また足取りを緩めることはない。なぜならばその手を引いてくれる人がいるからだった。

 真奥が半歩だけ前を歩いていく。それ以上離れることはない、いや正確に言うと離れることができないのだ。彼の手はしっかりと鈴乃の手と握り合っているからだった。彼は速く歩きすぎないようにしながら、脚を動かす。

 二人とも無言だった。それでも体はそれなりに近い。時折、真奥が持った紙袋の中で布の擦れる音がするのは、そこに入ったリラックス熊のぬいぐるみの音。

 鈴乃が少しだけ指に力を入れる。ぐにぐにと真奥の指を押してみる。真奥は「ん?」と不思議そうな顔をして振り返るが、なにも言うことはなくまた前を向いた。鈴乃も別段なにかを真奥へ伝えたかったわけではない。

 あたりはすでに暗い。だがここは東京の中枢である新宿である。街灯は煌々と街路を照らし、真奥と鈴乃の歩く横の道を自動車が流れていく。

 彼らの向かっている場所は東京都庁である。

 東京都庁は言わずと知れた、東京の政治を担う根幹である。そんなところへ、なぜこの二人が行くのかと事情を知らなければ疑問に思うだろう。しかし、東京都庁には東京タワーの高さに匹敵する高さの展望台がある。真奥と鈴乃はそこへ行くつもりだった。

 さきほどいたゲームセンターからは少しだけ距離がある為、二人ともこうして歩いて向かわざるを得なかった。いや、鈴乃としては何かの乗り物に乗ってしまえば「今日」の終わる時が早くなってしまいそうで怖かった。だから、これでよかったのだろう。

「なあ、真奥」

 鈴乃は小さく真奥へ声をかける。

「なんだ?」

「……いや、なんでもない」

 真奥の名を呼んで、鈴乃はそう言っただけだった。彼女はなんでもないと言ったが、真奥が彼女の呼びかけに応じてくれただけで、もう用事は済んでいる。彼に声をかけて、彼に振り向いてもらいたかっただけだった。傍から見ればじゃれているようにしかみえない。

「すまないな」

 鈴乃は自分勝手だなと思いつつ、真奥へ謝る。今日一日だけの我儘だと、自分に言い聞かせて少しだけ前に出るための行為。それが先ほどの呼びかけだったのだ。他愛もないことも彼女には貴重なものだった。唯振り向いてくれるだけで嬉しかったのだから、自分に嘘はつけない。

それでも自鈴乃は分の感情については口には出さない。真奥も鈴乃の様子を茶化すことも文句を言うこともない。それは、彼の手を握っている手が少しだけ強く握ってきたからだった。

「…………」

 真奥は口を開いてから、何も言わずに閉じる。なんといっていいのかが、分からなかった。少しだけ、手を握り返してあげただけだ。

「ああ、近くなってきたな。おい、鈴乃。ほら、都庁」

 はっと真奥の声に鈴乃が顔を上げる。

 東京都庁は二百メートルを超える。目の前までくれば、圧倒されるほどに大きかった。少なくとも鈴乃はそう感じた。

 その摩天楼は二つの塔を持っている。左右に分かれたそれらはそれぞれに展望台を持っており、東京を一望できるその高さは「都」のシンボルにふさわしいものだろう。

 鈴乃はそれを見て、きゅと胸を締め付けられるような気がした。

 もう空は暗い。今日は終わろうとしているのだ。この都庁でほとんどすべてが終わってしまうのだろう。自然と彼女の手に力が入ってしまう。ぐっと握りこむ。真奥の指を挟み込むようにしながら。

「痛い、痛いって! マジで!!」

 指が折れそうになりたまらず叫ぶ真奥。鈴乃は自分が力を入れすぎていたことに気が付いて、自分から真奥の手を放した。

「す、すまない。つい力がはいってしまった」

「……指が変な方向へ曲がるかと思った……」

 多少恨みがましい目で鈴乃を見る真奥。鈴乃はたまらず彼に駆け寄った。

「大丈夫か……ほんとうにすまながっ」

 急に真奥に顔を掴まれる鈴乃。彼女のほっぺたを真奥が両手でつまんだのだ。そのままぐりぐりと指でこねるように真奥は鈴乃の頬を動かす。

「にゃ、にお」

「なんかさっきから暗くねえか? 鈴乃」

「……すまない」

「…………」

 真奥から見れば、怒るだろうかというぎりぎりのことをしているのに、殊勝に謝る鈴乃。彼は何が気に食わないのか、さらに頬を抓る。なにか変な声を出しながら、鈴乃は抗議した。

「な、ないを。やめろ」

「少し太ったんじゃねえのか? すげえ柔い、マシュマロみたいな感じなんだが」

「!」

 鈴乃は急に真奥の手を掴むとぐっと力を入れた。真奥は痛さで手を離す。だが、その顔は不敵に笑っていた。鈴乃はそんな真奥を睨みつける。

「やりやがったな!」

「き、貴様。婦女子に言ってはならないことを……」

「婦女子が正拳突きしてきたり、手をひねったりするか! あと、女子は言い過ぎだろ」

「き、貴様あ!」

 思わず真奥へ飛びかかる鈴乃。真奥はぱっと持っていた紙袋からリラックス熊を取り出して、鈴乃の前に出した。うっと鈴乃の動きが止まる。いきり立ったところにだらっとしたクマの顔が出てきたら、そうなっても仕方ないだろう。

「もらったぜ!」

 真奥はぽんとリラックス熊を鈴乃へ渡す。思わず受け取ってしまった鈴乃の行動が一歩遅れてしまった。その隙に真奥は彼女の後ろへ回る。

 鈴乃はあわてて真奥を目で追った。後ろを取られようとも反撃することはたやすい。先にも書いたが、こと対人戦闘に置いてはだけ言えば真奥は鈴乃に敵わない。魔王としてそんな技術は必要ないからだ。

鈴乃もそう思っていた。その腋に手が入ってくるまでは。

「ひっ」

 鈴乃は急に腋を触られて驚く。真奥はそんなことには構わず、くすぐる。さすがに男として鈴乃を殴ったりするわけにはいかない。だからと言ってなにもしなければ、逆に殴られそうである。だからとっさに出た苦肉の策である。魔王としての精神HPを削りながらする捨て身の攻撃であった。

「あ…………き、あ」

 こみあげる笑いを鈴乃は唇を噛んで押し殺しつつ、動こうとした。真奥は離すまじ、とばかりに彼女の肩を掴む。それから思いきり両手で鈴乃をくすぐり始めた。

「あ、あはは、やめろ。まおう、やめ」

「ここまできてやめれるか!」

 やめたら殴られるかもしれない。やめなかったらセクハラっぽい。それでも真奥は鈴乃をくすぐった。ここで負けるわけにはいかない。

 鈴乃は耐えられないといった様子で涙目になりながら言う。

「はははは、ちょっ。ほんと。やめ。わかった、はは。こうさんする。降参するから」

 その降伏の宣言に真奥は両手を離した。そして両手をじっと見つめたまま固まる。こんなことをして勝って何が嬉しいのだろうか。いろんなものを失った勝利であった。真奥は喪失感とともに、勝利を味わった。

「……勝った」

 悲しげに言う魔王。こんな勝利で本当にいいのだろうか。

逆に解放された鈴乃は膝から力が抜けていき。地面にへたり込んだ。荒い息を吐きながら鈴乃は片手をつく。もう片方の腕にはリラックス熊が抱かれている。目には涙が浮かんでいた。だが、真奥は次の鈴乃の言葉にさっと顔を青くすることになる。

「貴様……せくはら、で訴えるぞ……」

「ぐ、い、いや今のは、そのなんだ、し、しかたねえだろ!」

 鈴乃は少し赤い顔で立ち上がった。じっと責めるような目で真奥を見る。真奥は傍目からでもわかるほどに汗をかいていた。だが、弁解するのは違う気がする。だから彼は言った。

「い、いや。鈴乃は笑顔の方がいいだろ?」

「…………見え透いたことを……」

「な、なんだよ」

 そこで、ふっと鈴乃は笑った。

 (励まそうとでもしてくれたのか? 真奥)

 鈴乃は心の中で、目の前の彼に問いかける。しかし口には出さない。出す必要もない。さっきまで悩んでいたことが、少しだけ楽になったからだった。真奥の真意がどこにあろうとも心は軽くなった。

「手を出せ」

 鈴乃はそれだけ言った。真奥はびくびくとした表情から、ホッと安堵した表情になった。どうやら鈴乃はこれ以上追及する気はないらしいと思ったのだ。多分、これから手を繋いで都庁へ歩くのだろう。そう彼は勘違いした。

 真奥は無言で手を差し伸べる。開いた右手を鈴乃へ。にたりと鈴乃はしながらその手を掴む。しっかりと指を絡ませる。

「い、いてえええええええええ?!」

 思いっきり、真奥の手が握られた。元気づけられたことと、公衆の面前でくすぐられた屈辱は別の話である。

 

 

 都庁についた二人は玄関から中に入り、エントランスを抜けて展望台行きのエレベーターの前に向かった。そこでは警備員が手荷物の検査をしている。二人の手荷物と言えばリラックス熊くらいしかないのですんなり通れた。

 それでも何人か真奥達と同じ展望台へのお客のいる中で、リラックス熊を検査されるのは真奥にも鈴乃にも恥ずかしかった。

 エレベーターには数組がまとめて乗る。それは混雑を防ぐ意味合いもあるので、真奥と鈴乃は少しだけ待ってから自分たちの組になって乗り込んだ。

「まだ、手が赤いんだが」

「自業自得だな」

 エレベーターの中で真奥の抗議の言葉を鈴乃はしれっとした表情で流す。真奥が先ほど握られた指をさすりつつ、「ばかぢから」と恨み言を言うのを鈴乃はくすりとしてしまう。

 エレベーターの中は多くの人がいた。真奥と鈴乃は壁際に自然に寄せられてしまう。お互いの肩の当たるほどに近い距離。案内員がしばらくしてドアを締めると、鈴乃は圧迫感を感じた。エレベーターは上へ動き出したのだろう。

そんな中で鈴乃はちらりと真奥を見た。彼の横顔が見えた。

 (真奥?)

 心で呼びかける鈴乃。勿論、届かないことくらいは分かっている。それでも、もしも彼がそれが分かってくれるならばと淡い期待を持ってしまう。

「なんだよ、鈴乃?」

「え、は?」

 急に真奥が鈴乃の方へ顔を向けた。鈴乃は思わぬことに驚いてしまう。まさか心の声が聞こえたとでもいうのだろうか。

「俺の顔になんかついてるのか?」

 やっと鈴乃はじっと真奥を見つめていた自分に気が付いた。真奥が鈴乃を見たのは、彼女が真奥のことを見ていたからだろう。

「なんでも、ない」

 あわてて顔を背ける鈴乃。頬の熱がわずかに上がる。真奥は今朝から何度も鈴乃の言う「なんでもない」を聞いているので、特に気にすることもなく目線を戻した。

「そうか」

 真奥はエレベーターの壁に背中を預けて、頭上についている階数表示をじっと見つめる。なにを考えるでもなく、なんとなくそうしてしまう。鈴乃が気が付くと真奥だけでなく、エレベーターに乗っているほとんどの人々が上を向いていた。

「?」

 その様子を不思議に思った鈴乃も顔を上げて階数表示に目をやった。これでほとんどの乗客は上を向くことになる。

 ふと真奥は鈴乃のことを見た。すぐとなりにいるので鮮やかな黒髪がそこにある、ふわりとしたいい匂いが少しだけする。真奥はそんな鈴乃の横顔をじっと見つめた。彼の赤い瞳は彼女だけを映している。

鈴乃は階数表示を見ていて、真奥の視線には気が付かない。乗客が多いので、背の低い彼女は背伸びをしながらみんなと視線を合わしている。

 そんな鈴乃を真奥は、見ている。

 痛がる、真奥をみながら鈴乃は苦笑した。そのまま彼女は都庁を見上げる。

「しかし、こんな形でまた、ここに来るとはな……」

 

 

 都庁の展望台は広い。そこには食堂や、土産屋まであるのだからかなりの人数を収容することができる。また、中央には広場がありそこでは音楽の演奏や、簡単な見世物を日替わりで行っている。

「おおおお! おい鈴乃。あそこ東京タワーじゃないか」

「ん、どこだ? あの赤い塔か?」

 真奥達の眼下には「東京」が広がっていた。夜の闇に人口の光が無数に散らばる、日本の首都。真奥達の言う東京タワーも遠くにその紅い姿が見える。天気の良い日であれば富士山まで見えるのだから、まさに東京を見渡しているといってよいだろう。

「車が小さいな」

 窓から鈴乃は下を覗き込んだ。数百メートル下では、小さな光が整然と並びながら、動いている。鈴乃の言うとおり、それはこの世界有数の都市で生きている人々の動きだろう。実のところ真奥にしろ、鈴乃にしろ浮遊の術が使えるので「高い」ことはあまり刺激にならない。彼が見ているのはどちらかというと、上からじっくりと見る「人の動き」である。

「なあ、真奥。あそこにあるのはすかいつり、あれ? 真奥?」

 鈴乃が後ろを見るといつの間にか真奥はいなくなっていた。慌てて彼女は彼を探す。

「鈴乃、すごいぞ。水道水が売ってる」

 真奥の声に鈴乃は振り向いた。お土産のコーナーのある場所で、真奥は鈴乃を呼んでいる。鈴乃の周りでくすくすと笑う声が聞こえた。彼はお土産コーナーの商品のワゴンの前で何かに驚いている。彼の前のワゴンには、なにかいろいろなものが雑多に置いてあるのが見えた。

先ほど笑ったのは他の客だろう、それはなぜ笑っているのかはわからないが鈴乃には真奥が子供の様にはしゃいでいることへの笑いだと思った。恥ずかしがりながら鈴乃は「それでも、魔王か」とこめかみに指を当てて彼に近づいた。

「何をはしゃいでいるんだ、全く。それに水道水などと言うものが売っているわけがないだろうが」

「これ」

 真奥は言葉で答えるよりも鈴乃へ一本の缶を差し出した、その表面にはでかでかと「水道水」と明記されていた。「ミネラルウォーター」などの文字や「何とかの水」と言う洒落たことは一切書いていない、唯々「水道水」と書いてあるのだ。

「な、なぜこんなものが? 売れるわけないだろう」

「そうか? なんか味が違うんじゃねえの。買ってみるか」

 真奥はそういうと缶を一本掴んで、レジへ行こうとする。だが、鈴乃がそれを止めた。

「おい、待て」

「あん?」

真奥は呼び止められて、鈴乃を振り向いた。鈴乃はもじもじしながら、言う。

「い、いや。もう一本買っても、だな」

「飲みたいのか?」

「う、うむ」

 真奥がはしゃいでいるのが恥ずかしくて注意した鈴乃が真奥と同じものをほしがる。それはそれでミイラ取りがミイラになった瞬間ともいえよう。

 ところでこの東京は過去に水がまずいことで有名であった。そのことから東京の水道局がいろいろと模索した結果、水道水をつめた飲料商品を製作したという経緯がある。つまり、真奥達の期待するものは正真正銘、まぎれもなく単なる「水」であった。

 

 広場にあるベンチに二人並んで座る。

 真奥と鈴乃は少しだけ期待している目で「水道水」の缶を開け、同時にぐっと飲んだ。

「…………」

「…………」

 一口目を飲み終え、同時に無表情になる鈴乃と真奥。その顔は明らかに落胆していた。真奥はぼそりと言う。

「本当にただの水道水じゃねえか……」

 真奥は手に持った缶をじとっと目で見た。真奥も鈴乃も裏切られた気分ではあるのだが、最初から「水道水」と書いてあるので、「まさか本当にただの水道水ではないだろう」というのは彼らの勝手な思い込みでしかない。

 鈴乃と真奥の横をコーラを持った子供が通り過ぎた。二人の目が無意識にそちらを向いてしまう。なんでこんなものを買ってしまったのだろうと真奥は思った。ついでに缶なので、飲み干すしか選択肢はない。実際にはペットボトルのものもあるようだが、真奥は缶を買ってしまったからには仕方がなかった。

 真奥はぐっと「水道水」を飲んだ。ごくごくと喉を鳴らして、味も何もない水道水を腹の中へ流し込む。ワゴンの上に載っていたので別段冷えているわけでもない。

「ぷはあ」

 一気に飲み干して、真奥は空になった缶を一旦ベンチの上に置いた。鈴乃はちらりとそれを見ていた。自分の手元にある缶にはまだ「水道水」が3分の2程度入っている。

「…………」

 鈴乃も意を決したように缶を傾ける。真奥と同じように喉を鳴らして水道水を飲む。だが、急にそんなことをしたからだろう。鈴乃は「うっ」と唸ると、げほげほとせき込んだ。真奥は驚いて、鈴乃を気遣う。

「鈴乃? 大丈夫か」

「ああ、だ、大丈夫だ。おい、口からこぼれて……あっ、待ってろ」

 真奥はポケットをごそごそと何かを探して、黒のハンカチを取りだした。そのまま、鈴乃の口元に持って行って拭く。こんなものを常備しているのは間違いなく、智将アルシエルのおかげである。黒のハンカチにはアイロンがしっかりかかっている。

「じっとしてろ」

 真奥は鈴乃の口元を自分のハンカチでふくと言う、まるでどこかの淑女のようなことを真剣にやっている。勿論なにか考えての行動と言うよりは、とっさの行動と言った方がいいだろう。鈴乃はしばらく、とはいっても数秒間だけなされるがままにしていた。だが、はっと気が付いた。

「や、やめろ。子供みたいだろうがっ!」

 鈴乃は真奥から身を引いた。今、普通に考えるならば真奥が鈴乃にされるべき様なことを、鈴乃が真奥にされていた。彼女の言ったようにそれは子供の様に。

「おっ、おい。アブな――」

 鈴乃は真奥の声を聞きながら、視界が動いていくのを感じた。ぐっと上に引き寄せられるような感覚がして、天井が見えた。あわてて真奥から離れようとして、その体勢を崩してしまったのだ。このままでは椅子から落ちる。

「ま、まお」

 もどかしいほどにどうにもならない状況で、鈴乃は何かを言った。それは焦りの言葉である。体勢を崩してから数秒も立っていないはずなのに、自分が頭から床に落ちることがしっかりと鈴乃にはわかった。彼女は目をつむり、唇を噛む。それしかできない。

 

 落ちない。鈴乃は自分の体に衝撃がこないことを不思議に思った。それでも体は斜になっていて。どう考えても、椅子に座っているような感じではない。それだけは目をつむっていてもわかる。

「……?」

 ちくりと鈴乃の小さな鼻に刺さるなにか。鈴乃はくすぐったさを覚えて、ゆっくりと目を開けた。目の前には先ほどの同じように広場の光景が広がっていた。唯目の前には真奥の姿がない。そう、「目の前」には。

「あ、あぶねぇ。ほ、本気で焦った」

 鈴乃の横で聞こえる、そんな声。息遣いすらも耳に響く、そんな距離。鈴乃はだんだんと事態を把握し始めていた。体が動かないのは、誰かに抱き留められているからだとゆっくりと認識し始める。

 両手が動かない。それは両腕ごと掴まえられているから。

 背中に圧迫感を感じる。「彼」の両手にしっかりと擁(いだ)かれているから。

 頭が真っ白になって行く。それはどうしてなのか考えるのは、鈴乃にはわかり過ぎている。

「まおう?」

「き、気を付けろよ。まじで今のはシャレにならなかった……落ちるかとおもったぜ」

 洒落にならないと言えば今の状況そのもののことだろう。鈴乃はこの広場の真ん中で、真奥にしっかりと抱きしめられているのだから。

 それも軽く、というものではない。鈴乃が全く身動きを取れないほど、強く抱きしめられているのだ。これも真奥が鈴乃の身を守る為に動いた結果なのだろう。それでも鈴乃は自分の顔のすぐ横に「真奥の顔」があることでどうしようもなくなってしまう。

 真奥の髪が頬に当たる。鈴乃の指がぴくぴくと動く。なにか言おうと思うのだが、口が動かない。開いては閉じてしまう。

 そんな混乱の極みにある鈴乃の目にある光景が飛び込んできた。

 ここは公共の施設の公共の場である。だから、鈴乃と真奥以外にも多くの人々がこの広場にいるのだ。鈴乃の視界の中に「彼らは」いた。それも皆が真奥と鈴乃の様子を見ている。あるものは手を口に当て、あるものは口元をほころばせている。

 (ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ?あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ)

 心の中で絶叫する鈴乃。今日一日の記憶が走馬灯のように脳内を駆けめぐっていく。真っ赤になった彼女の姿を、好奇の目で見る人々。方やよこの真奥は「焦ったぁ」などとのんきな言葉を繰り返している。本当に焦ったのだろう、今の鈴乃の比ではあるまいが。

「あ、わり」

 真奥はやっと鈴乃に抱き着いた格好であることに気が付き、彼女を離した。唯、腰に手を回して椅子に座り直させるというアフターサービスのせいで、鈴乃の心臓の音が大きくなる。

「鈴乃?」

「ひい」

「…………はっ! またゲーセンの時みたいに呆けちまった。その変な声で返事するのやめてくれ!」

 (そ、そんなことをいったってえ)

 涙目で鈴乃は抗議する。勿論声などでないから、視線を使ってである。不可抗力とはいえ、あんなことをされてしまったあとなのだ。体中が真奥に「抱きしめられた」感触を覚えているのだから、どうしようもない。

「ま、まおう。か、かたじけな、なな」

 呂律のまわらない舌で、なんとかお礼を言おうとする鈴乃。そんなことまで律儀にしようとする彼女は間違いなく善人なのだろうが、今はその性格があだになっていた。頬はほんのりと桃色で、目も少しだけ赤い。

「お、おまえ、すごい熱だぞっ。つうか、うまく言葉がいえてないし!」

 そういうと真奥は鈴乃のおでこ手を当てた。熱い。真奥は本気で鈴乃のことを心配した。

「やべえな。今日の疲れが出たのか? とにかく、早いところ病院に行かねえと」

 いうがはやいか真奥は鈴乃を抱きかかえる。背中と膝の裏に手を回して状態のそれは、まぎれもなくお姫様抱っこ。

 (えっ?)

 鈴乃と周りのギャラリーの心の声が一致した瞬間であった。あまりの真奥の決断の速さに誰もついていけてない。だが鈴乃は当事者である。そのうえ、熱とは言っても病気などではないので正常な思考能力はまだ残っている。

 (ま、まお。えっ?)

 見上げた先に真奥がいる。その彼は目線を下げて、歯を見せて笑った。

「安心しろ、鈴乃。下まで連れていってからタクシーを捕まえてやるからな」

 安心しろというのを言葉と態度で表す真奥だが、完全に見当違いである。なぜならばこの状況が一番安心できない。それでも立ち上がった真奥はその状態で、入り口にあるエレベーターまで彼女を連れていく。エレベーターの前は、今から降りようとしている人々が十人程度とその人たちを案内する警備員一人だけいる。真奥はその警備員の男にいった。

「警備員のおっちゃん! 鈴……この子が熱を出して、具合が悪いんだ! エレベーターに乗せてくれ」

「わ、わかりました。すぐに呼びます。お待ちのみなさん申し訳ないですが。急患が出ました! 次の搭乗はご遠慮ください」

 警備員はそう搭乗を待っている人々に言うが、特に非難の声は出なかった。それは鈴乃の顔が本当に赤いことと真奥の必死な様子に納得したからだろう。それから警備員は肩から下げた無線で何かを下に伝えていた。

「鈴乃、気をしっかりもてよ」

「……あ、あうう」

「くっ、変な声しか出ねえのか。今日一日なれないことをさせちまったからな……すまねえ、鈴乃」

 鈴乃はにはわかっている。この場の全ての人間が真奥達、主に自分を見ていることを。それだけでもう声が出せる状況ではない。

「つきました、お客様!」

「ありがとうございます!」

 真奥は警備員に敬語でお礼を言う。これもアルバイトで培った社交性と言うものだろう。彼の目の前でエレベーターのドアが開いた。下の人々も気遣ってくれたのか、誰も乗っていなかった。

 真奥は小走りでそこに乗る。一度振り返って、警備員やその他大勢のまってくれた人々に一礼する。そしてコンソールで一階に行くボタンを押した。

 (…………)

 鈴乃は無言で自分の顔を手で覆った。もはや恥ずかしすぎてわけがわからない。彼女はゆっくりと閉まっていくエレベーターのドアを指の隙間から見るしかなかった。

 ドアが閉まり、上から圧迫感を感じるのはエレベーターが動き出した証拠だろう。二人きりの空間が地上数百メートルから降りていく。

「……まおう……」

「ん? 大丈夫か」

「わたしは……病気……じゃない。別に苦しいようなこともない……」

「えっ、で、でも」

 真奥はその言葉に焦った。いろんな人に頼んでこの状況になったのだから、鈴乃が病気じゃないとなると別の意味で申し訳がない。だが、彼はそんなことで文句を言うような男でもなかった。

「まあ、それならよかったな」

 どこかほっとしたような真奥の声。鈴乃はそれを聞きながら思う。

 (もっと、しっかりと魔王らしくしてくれれば、私は……好きになったりしないのに……)

「真奥」

 もう一度鈴乃は呼ぶ。その後に続く言葉は絶対に言ってはいけない言葉。だからそれで黙ってしまう。真奥はいぶかしげに彼女に聞いた。

「やっぱり具合が悪いのか?」

「いや……」

 言ってしまいたい。自分の気持ちを。言えばどれだけ楽になることができるだろうか、それだけで苦しむこともなくなるかもしれない。しかし、それでも彼女は絶対に言うことはない。それを言うのであればすでに「鎌月鈴乃」ではない。

 鈴乃の唇が震える。理性が彼女を止める。お腹が鳴る。

「…………」

「…………」

 別の意味で赤くなる鈴乃。ごほごほとわざとらしく咳払いをする真奥。彼は鈴乃を気遣ってこういった。

「なんか俺、腹減ってきたなあ。そういえば夕飯は食べてなかったな」

「…………」

 わざわざ「俺」を強調するわざとらしい説明口調の真奥。黙り込んだままの鈴乃。

「最後に飯食いに行こうか。鈴乃はどこに行きたいんだ?」

「…………うどん…………」

 半ばやけくその気持ちで鈴乃は言う。真奥はうんと頷いてくれる。彼女がそれを好きなのは、彼も知っているからだ。しかし、ひょうたんから駒という言葉のとおり。思いがけないことは、思いがけないところで起こることもある。

 

 蛇足になるが一階に降りた真奥と鈴乃はいつの間にか「お姫様だっこ」から「おんぶ」に代わっていた。前者は恥ずかしいというのがその理由だが、都庁のエントランスを「おんぶ」で歩くのとはどっちが恥ずかしいのだろうか。

 





お疲れ様です。補足ですが、東京の水はペットボトルで売ってます。どうでもいいですね。


次は最終回です。最後までお付き合いいただければ嬉しい限りです。




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属性12 クレスティア・ベル

 

 空を見上げると、丸い月が浮かんでいた。鈴乃は冷たい夜風を肌に感じながら、もう少しで終わろうとしている「今日」に寂しさを覚えてしまう。

 (明日になれば、全ては元通りになるのだろうな……)

 鈴乃はできる限り、感情を伴わないように思う。だから、真奥と並んで歩いていても足を遅らせることはない。ここまでくれば、真奥に気が付いてもらいたくはなかった。

「おい、鈴乃。こっちでいいのか?」

 真奥は鈴乃を見て聞く。鈴乃はこくりと頷いてから返す。その時、彼の手に持った紙袋が音を立てた。中には例のぬいぐるみが入っている。

「ああ、間違いない。それにしても、よかったのか? さっきは動転し……思わずうどんなどと言ってしまったが……別に私はお前の好きなものでも文句などないぞ」

 二人は今、夕食をするために「うどん屋」に向かっていた。それは鈴乃があのエレベーターの中でとっさに「うどん」と言ってしまったことが成り行きで決まったのだ。真奥としても不満はないし、鈴乃はその手に店ならば少しだけ詳しい。

「ああ? ……あー好きなもんか。いや、ねえな。普段あんまり名前のあるものを食べてねえから、とっさには思いつけねえし」

「名前のあるもの……?」

 鈴乃は小首を傾げて考えてみた。普段真奥が食べている物といえば、少ない食費をやりくりしつつアルシエルが作った創作料理やそもそも「白米」としか言えないものを食べている。本当に切羽詰ったときにはきゅうりに蜂蜜を付けて食べるなどということもやっていた。

 そこで鈴乃は気が付く。確かに「うどん」や「ハンバーグ」などという名前のあるものを真奥は食べていない。「ハンバーガー」ならば、食べているのだがそこは彼も気を使っているのだろう。

 鈴乃はそこまで考えて、くすりとしまった。小さく顔を綻ばせる、鈴乃を見て真奥は安心したようにみてから、視線を前に戻した。彼女は気が付かない。真奥とて、なにも考えていない訳でもないし、相手のことを思いやることがないわけでもないのだ。

 気がつけない冗談。食べ物の名前などいくらでもだせる。それをださない。

「で、鈴乃の行きつけの店ってのはうまいのか?」

「行きつけと言うほどではないのだが……先日、評判の店をルシフェルにぱそこんで教えてもらった折に何軒か回ってみて、心に残った場所ではあるな。まだ5、6回ほどしか行ってはいない」

「……多くね?」

 真奥と鈴乃では少し価値観が違うらしい。それでも二人は一緒に歩むことができるのだから、同じ場所に行きことはできるのだろう。

 

 着いた店の看板には「月屋」と書かれている。真奥と鈴乃はその看板の前で止まった。

 都会特有の縦に長く建築された木造の建物。真奥が目を上げると、二階があるのだろう窓がついていて中は明かりがある。

 月屋はそう大きな店と言うわけではない。しかし、東京の真ん中で敷地は狭いが二階建ての店を持てているだけ「大きい」のかもしれない。面積というよりは、比較の問題だろう。

 鈴乃は店の玄関の取っ手に手をかけて、中に入ろうとした。しかしそこでふと手が止まる。彼女が後ろを見ると、真奥が外に設置されているお品書きを見ていた。

「真奥? 入ろう」

「ん、おう」

 軽いやりとりをして、彼らは中に入る。

 

 店の中に入ると熱気が鈴乃の顔を撫でた。それに伴って、ほのかにうどんのものだろう、スープの匂いがする。

手前にはいくつかテーブルが置いてあり、奥には座敷がある。しかし、鈴乃が見るとなかなかに客が多いらしく、開いている場所は見つからない。会社帰りらしき青年や、家族連れなど、客層も広い。

「いらっしゃい。何名様?」

 そう言って二人を迎えてくれたのは人のよさそうな中年の女性だった。白いエプロンをつけて、そのしわのある顔で歯を見せる、くしゃくしゃの笑顔。思わず、鈴乃はつられて笑ってしまった。だが、すぐに顔を引き締めて、言う。

「二名です。できれば奥の座敷がいいのですが……空いていますか」

 丁寧に鈴乃は女性に言う。真奥は少しだけ普段とはちがう口調に、驚いた。

「ごめんなさいね今はちょっと。……あなた?」

 女性は目を細めて、鈴乃を見た。明らかに訝しんでいる。鈴乃は一歩下がってしまった。女性はそれでも彼女をじろじろと見る。鈴乃は「な、なんでしょう」と不安げに言ってしまった。だが、女性はそれには答えることなく質問する。

「あなた、もしかしてよく着物で来る方?」

「えっ。あ、ああそうです」

「そっちは……」

 女性は真奥をちらりと見る。それでも何もかも諒解したような顔をして、はじけるように笑った。

「あはははは。そうかい。あの子がねえ。ちょっとおしゃれすれば、こんなになるんだねえ。しかも……」

 女性はむふふと笑って鈴乃を肘でつつく。鈴乃は「?」を顔に張り付けて、愛想笑いをするしかなかった。真奥はもっと訳が分からないが、特に何も言わず女性が目を向けてきたときに会釈する。それだけで真奥の評価が、女性の中で上がったらしい。

「なんていうか、お似合いだねえ」

「オニアイ? オニアイ……お似合い……まっ!」

 鈴乃はそこで気が付く、先ほどから女性が何を言っているのかがやっとわかったのだ。彼女は抗議しようとして、口を開けてから、何も言わない。その目はまだ何もわかっていないだろう真奥をちらりと見る。

「なんだ?」

「い、いや」

 特に変わりのない真奥の様子に、内心ほっとした鈴乃は視線を女性へと戻す。そうするといつの間にか目の前から、女性がいなくなっていた。

「あ、れ」

 鈴乃はいつの間にか消えていた女性に驚いた。全く気が付いていなかったのは彼女の注意が真奥に注がれていたこともあるだろうが、女性の行動があまりに素早かったことにある。しかし、女性は鈴乃の前に戻ってくることも速かった。女性は奥の厨房から、ひょっこりと出てきて、鈴乃の元へ小走りに戻ってくる。それから口を開いた。

「ああ、悪いね。お嬢ちゃん」

「悪い……空いていませんか」

「二階の個室しか空けないわ」

「………………あけない??」

 鈴乃は困惑した。二階の個室しか空いていないのではなく「空けない」といわれたのだ。聞き間違えたのかと思い、記憶を反芻してみるがそう言われたとしか思えない。

「まあ、いいじゃないの? 父ちゃんもそれでいいって言ってるんだし」

「ご店主が……い、いや。私たちは普通に食べることができればそれで……」

「だめよ」

「ぐ、ぐう」

 一刀両断。まさに女性の言葉はそれである。どんな言葉も、彼女の「だめよ」には敵わないだろう。そして女性の言う「父ちゃん」とはこの店の主人のことらしい、そう真奥は鈴乃の言葉から思った。女性がそういうのならば、彼女は「ご店主」の伴侶なのだろうとも彼は思う。

「とにかく、こっちよ」

「あ、あの」

 強引な女性に鈴乃は手を引かれていく。弱ったという感じで真奥を鈴乃は見るが、一階だろうと二階だろうと何の不満もない真奥にはどっちでもいい。ここには鈴乃と「うどん」を食べに来たのだから、彼女さえいればどこでも構わない。

 真奥は遅れて鈴乃についていく。なんだか小動物みたいな鈴乃に口元が、ゆるむ。

 

 

 女性の案内で店の奥にある階段を上り、二階へ上がった真奥と鈴乃は短い廊下を過ぎて、部屋へ案内された。その入り口は襖になっており、案内の女性がそこを開けると畳敷きの部屋だと分かった。

 それだけである。

 後は部屋の中になにもない。畳の上にはテーブルもなければ、調度品もない。殺風景極まる部屋であった。強いて言うならば、部屋の隅に座布団が置かれていることくらいと床の間にがあることくらいだろう。女性はその座布団を二つ敷いて、真奥と鈴乃を誘った。

「なんにもないっておもったでしょ?」

「えっあ、あの」

 鈴乃はなんて答えればいいのかわからずに困った。唯、単に思ったことを言えば失礼ではないだろうかと思ったのだ。だが、女性は「あはは」と朗らかに笑う、部屋の奥へ入っていく。奥とは言っても入り口から数歩ではある。

 そこには障子で仕切られた窓があった。女性はそこをからりと開ける。

「あっ」

「おお」

 真奥達が驚くのは無理もないだろう。窓の外は月が真ん丸として、浮かんでいる。煌々と金色の光が、この部屋の明かりに負けないような美しさがあった。まさに窓というよりは一枚の絵画のようである。

 つまりこの部屋には、これだけしかない。月の見える部屋。それだけだ。

「二階は満月の時にくらいしか使えないんだけどねえ。元々、店の名前はこの部屋に由来……いや、そんないいもんじゃないね。てきとうに気分で決めたんだよ、20年くらい前に」

 女性はなぜかはにかみながら言う。もしかしたら、彼女の若いころを思い出しているのかもしれない。

「ご婦人……痛み入る」

 鈴乃はそんな女性に頭を下げた。この部屋を貸してくれるのは、明らかに好意からだろう。何故そんなことをしてくれるのかは鈴乃にもわからないが、それでも律儀な彼女はお礼を言う。真奥もそんな鈴乃に合わせて頭を下げて、丁寧に礼を言う。

 女性は目をぱちくりさせてから、にやりと言う。

「似たもの同士だねえ。そんなにかしこまらなくてもいいわよ。初めて来た時みたいに『たのもう』って言ってくれればいいのさ」

「がっ」

 鈴乃はのけぞった。この店に、真奥は来たことがない。鈴乃の案内で来たのだ。それだから、今女性がいった「たのもう」を言いながら店に入ったのは誰なのか明らかだった。

 女性はあわてる鈴乃の様子を可笑しそうにしながら、手に持ったお品書きを一冊だけ鈴乃に渡すと。

「また、注文でも聞きに来るからね。がんばんなよ」

 と鈴乃の肩を叩いて出て行った。鈴乃は何をがんばればいいのかわからない。

 

 

「なんだか、すごい人だったな」

 真奥は手に持っていた荷物を下ろして言う。

「ああ、なんどか来ただけなのだが……顔を覚えられていたようだ」

「そりゃあ、着物で来た女性が『たのもう』なんて言えば、誰だって覚えるだろ」

「! い、いやあの時はその」

「まあ、鈴乃らしいけどなあ」

 からかうでもなく、真奥は鈴乃のいつかの行動をそう評価する。鈴乃はそう言われて、返す言葉もなく、肩からポンチョを脱いで手で巻く。そして、真奥の置いた紙袋の横に置いた。

 真奥はとりあえず、先ほど敷いてもらった座布団に腰を下ろした。よくよく考えれば、都庁で少し座った以外は歩いてばかりだったので、座布団の柔らかさが心地よかった。しかし、特にこの部屋には月以外見るものがないので、なんとなく見回してしまう。

 真奥の左手側には狭い床の間があって、引き戸が壁にはある。真奥はなんとなくそれをひらいてみたが、何も入っていないので鈴乃を振り返った。

「すず――ぶ」

 ちょうど鈴乃がブラウスを脱いでいる時である。彼女はブラウスの前のボタンを開けている。真奥はあわてて、彼女を止めにはいった。

「お、おまえ! 何をやってんだ」

「ん? なにをとは」

「い、いや、なんで服を脱いでんだよ」

「服を……はっ、な、なにをい、いやらしいことを考えているんだっ」

「お、おれが? いきなり脱ぎ始めたのは鈴乃だろうがっ」

「ち、ちがう!」

 鈴乃は真奥に向き直った。彼女は真っ赤になりながら、両手でブラウスのすそを掴んで、まくり上げた。真奥には中には黒インナーを着ているのが見えた。それごと鈴乃はまくり上げたのだ。

 つまり、鈴乃はブラウスだけを脱ごうとしていたのだ。決して、真奥の考えたようなことを鈴乃は考えてはいなかった。

「き、貴様。いらない疑惑をかけるな! そもそも、私がそんな人に肌を見せるようにみえるか!?」

「……み、見えてるんだが」

「なに」

 ブラウスと一緒にインナーまでまくり上げたために、鈴乃のお腹が見えてしまっていた。小さなへそが見えている。

「う、あああああ」

 あわてて、鈴乃はブラウスを引き下げる。それから、何故か真奥を睨んだ。真奥はうっとしてしまう。

「お俺は悪くないだろ。今の」

「もとはと言えば貴様がろくでもない想像をしたのが悪い」

 こんなところにきてまで、二人は喧嘩をし始める。

 

 

 

 鈴乃は黒いシャツの姿になった。脱いだブラウスは、とりあえず畳んでポンチョに重ねる。黒の無地にみえるが、よくよく見れば彼女の首元に桜のワンポイントが付いている。

 鈴乃は真奥の横に敷かれた座布団に座る。ゆっくりと足をまげて、正座をした。そのまま彼女はある疑問を口にする。

「なぜ。お品書きが一つしかないのだろうか……」

 落ち着いてから二人は肩を並べて、お品書きを眺めた。あの女性は一つしかお品書きを渡さなかったので、そうするしかなかったのだ。わざとなのか、それとも単なるミスなのかは鈴乃には分からない

 お品書きとはいっても、ファーストフード店やファミリーレストランなどのように写真が付いているようなものではない。たが墨書された字はなかなかに趣のあるものだと真奥は思う。

 横に座っているとはいっても真奥と微妙に肩を触れないように鈴乃はお品書きを見る。お品書き自体は真奥が持っているので、身を乗り出さないと彼女にはみえない。そんな鈴乃の様子を真奥は見つつ、お品書きをめくる。

 ――きつねうどん 五百八十円

 ――月見うどん  六百八十円

 ――天ぷらうどん 六百八十円

 ――たぬきうどん 六百八十円

 ――大盛りぜんざい 七百八十円

 ぺらぺらとページをめくりつつ、真奥は言う。

「せっかく来たんだから、たかいのにしようぜ」

「…………、そう高価なものは置いていない。そうなると月見うどんなどが高いのではないか」

「そうだな。この部屋のはちょうどいいかもな」

 なにかを無視しつつ、二人は話を進めた。真奥は、鈴乃の横顔を見てから、少しだけ動きを止める。それでも、わずかな間だった。

「じゃあ、さっきの人に言いに行くか」

「承知した。」

 真奥が立ち上がって、部屋の襖を開けた。そして、下の階に向かって注文をしにいく。呼べばいいのかもしれないが、わざわざ注文をしに行くのは彼の人がいい為だろうか。悪魔としてはどうなのだろう。

 

 しばらくして真奥が戻ってくる。そして、また鈴乃の横座った。

 それきり二人は無言になる。向かい合うのではなく、横に座るのだから、とにかくしゃべりにくい、それは物理的な話もあるのだが、精神的なものもあった。

 鈴乃は真奥の見えないところで指を擦る。別に意味などない。何となくの行為だった。今、真奥が隣にいて彼女は嬉しい反面、刻々と近づいてくる終わりの時間への寂しさを感じ始めていた。

「真奥」

「……」

 なぜか真奥は返事をしない。それだけで鈴乃は不安になってしまう。今日一日、いやいつもどんな時でも彼は彼女に対して、返事をしてくれていたのだ。それを止められてしまうだけで鈴乃の心がきゅっと痛くなってしまう。

「真奥!」

「うおっ」

 少し大きな呼んでしまう鈴乃。真奥は驚いて、なんだと鈴乃に目で問う。しかし、鈴乃とてなにか目的が合って呼んだわけではない。呼んだ彼女は真奥に訝しげな眼を向けれられて、内心焦ってしまう。だが、不思議なことに話すことには困らなかった。考えるでもなく口に出てきたのだ。

「今日は、楽しかった」

 (……なにを私は言っているんだ)

 鈴乃は何故自分がそんなことを言っているのかわからない。彼女は考えて、真奥の目に誘われるように口を動かしてしまったのだ。真奥は、少しだけ目を見開いてから顔を鈴乃に向ける。鈴乃は続ける。

「いろんなところに行けたことももちろんだが……その」

 鈴乃はそこで口を一旦だけ閉ざしてしまう。なんだかこれを言ってしまえば、全てが終わってしまいそうだった。それでも彼女は言ってしまう。できる限り、明るい声で、顔に笑顔を張りつけて。わずかな告白をする。それは一線を越えないように、心を隠しながらのものだった。

「お、お前と、居れてよかった」

「…………」

 真奥が驚いたように鈴乃を見た。それから鈴乃の顔からゆっくりと目を背ける。それから言う。

「ああ……」

 いつもの軽口はない。何かを考えているように、真奥は目を閉じる。

 

 

 

 

「失礼します」

 部屋の外から声がする。真奥と鈴乃がなんだと入り口を見ると、襖が開いて先ほどの女性が入ってきた。手にはお盆と、その上に湯気をたてたどんぶりが二つ置いてある。

「お待たせしました。ちゃんとお話しできたかしら」

 女性は鈴乃と真奥を交互に見ながら言う。鈴乃は乾いた笑いを返しつつ、真奥はきらりと光る眼を向ける。彼の表情は特に変わらない。

「あら、やっぱりお邪魔だったかしら」

 言いながら真奥と鈴乃の前にうどんを置いていく女性。ほのかに良い香りのする白い湯気を立てたどんぶりには、白い麺とその上に卵の「月」が浮かんでいた。鈴乃はごくりと思う。こんな時にもうどんに、反応する自分が少々情けない。

「ああ、まってね」

 女性はそういうと部屋からあわただしく出て行く。そして、一階に降りたのだろう、とてとてと音がした後に、もう一度戻ってくる。今度も何かを二つ重ねて抱えていた。それは木でできた台だった。それを見て、鈴乃はがばっと体を動かす。

「そ、それは」

 ぶるぶると女性の手にもっている「台」を見て鈴乃は体を震わせる。どこか嬉しそうな顔をしながら、彼女は聞く。

「そ、それは時代劇で良く見るものでは?」

「! そういえば、そうねえ。正確には懸盤というものよ。あら、実は時代劇なんかが好きなの……あっ、いつも和服だものねえ」

 女性は何を納得したのか、うんうんと頷いてから懸盤を二つ降ろす。そして月見うどんをひとつずつとそれぞれに箸を載せてから、真奥と鈴乃の前に置いた。それから、女性は真奥に向き直って言う。

「お兄さんは、もう成人よね?」

 真奥は少し複雑な気持ちで答える。成人になる年齢の約十五倍程度の歳をとっているのだからそうなるだろう。だが、彼は丁寧なアルバイト用接客口調で言う。

「ええ。一応20歳です」

「一応? でもお酒は大丈夫よね」

「お酒?」

 真奥はうんと考えるが、そんなことはおかまいなしに女性は、どこからか「とっくり」と「お猪口」を取り出して、真奥の台に置いた。とっくりが動くとと、中で「ちゃぷ」と水の動く音がする。お酒が入っているのだろう。

「サービスよ」

「えっと。お酒は」

「じゃあ、またごゆっくりね、あっ電気は消していくから」

 そう言って女性はいそいそと外へ出て行く。彼女は出て行くときに、宣言したとおり電気を消していった。部屋の明かりが消えて、ふっと夜の闇が広がる。真奥と鈴乃はあっけにとられて呆けてしまう。だが、しばらくすると鈴乃が声を上げた。

「な、なぜだ」

 鈴乃には何故女性が電気を消して行ったのかはさっぱりとわからない。彼女は暗くなった部屋で立ち上がろうとした。だが、その手を真奥に引かれる。

「多分、あれを見せたかったんだろ、みてみろよ」

 真奥は鈴乃の手を掴んだまま、目を後ろへ向けた。そこは窓のある場所。鈴乃はそれを見て理解する。この部屋は、電気を消しておく方がいいのだと。

 窓の外にある月の光が、部屋に差し込んでくる。青い月光が、真奥と鈴乃をやさしく照らしてくれる。鈴乃はなにも言わずに、すとんと座り直した。

 

 真奥も鈴乃も手元にある台から、丼ぶりを取って食べ始める。

 淡い光だけしかない部屋で、二人はうどんをすする。手元は暗いのだが、月光はなかなかに明るく、食べるだけならば特に不自由はしない。

鈴乃は時折、真奥の様子を上目使いで見るのだが、彼の表情には特に変化はない。鈴乃は箸を握る手に、少しだけ力が入ってしまう。口に入れたものの味が分からない。

 (このまま、でいいのだろうか)

 鈴乃は自問する。今日は終わるだろう、だがまだ終わってはいないのだ。今のまま、このまま今日を終わらせていいのかと彼女は思う。もう少しでも、あと少しでも彼女は真奥と話しておきたい。今日話すことは、きっと明日話すこととは違うことだろうから。

「なあ、真奥」

「どうした」

 どうした、と言われれば鈴乃には何もない。彼女は少しだけ考え込んでしまう。そんな時に彼女の目に「とっくり」が映った。

「ああ、酌をしてやろうと思ってな」

「…………?」

 鈴乃は自分のどんぶりを懸盤に置いてから、真奥ににじりよった。

「な、なんだよ」

 何故か真奥は警戒して、身をかわす。それを見て鈴乃はなんでもないように装いながら言う。

「そう邪険にするな。単にお前の酌をしてやろうと思っただけだ」

「……ああ……酌? 鈴乃は飲まないんだよな」

「私がか? そんなつもりはないのだが……! お前、まさか」

 鈴乃はじろりと真奥を睨む。

「また、私が酒に飲まれて暴れるとでも思ったのか」

「ぎくり、い、いやそんなこと思ってねえよ。ちょっとしか」

「や、やはりか! あ、あれはルシフェルに怒ったのが悪かったんだ。す、好きで飲んだわけではない。そ、それに記憶はないが、あのときにお前に……」

 そこまで行って鈴乃は恥ずかしくなってしまった。あの時の光景をおもい出すのではなく。想像してしまったのだ。伝聞でしかしらないが、鈴乃はあの時に真奥へ――。

「と、とにかく貴様はそのお猪口を持て」

「お、おう」

 真奥は半分ほど中身の消えたどんぶりを台の上に置いて、白いお猪口を手に取った。普段は全くと言っていいほど酒を嗜なまない彼ではあるが、別段に下戸と言うわけではない。

 鈴乃は反対にとっくりを掴んで、両手で持つ。それからじわりと膝を使って、真奥へ近づく。真奥は座布団に上で胡坐をかいている。

「もう少し前に出せ」

 鈴乃は真奥にそう言ってから、手を伸ばさせた。そして彼女は両手でとっくりを真奥の手にある御猪口に傾ける。熱い酒が、小さく音をたててお猪口に入っていく。

 月の中での光景である。悪魔の王と神に使える物が行うそれは、幻想的なのか喜劇的なのか、はたまた悲劇的なのかは誰にもわからないだろう。それでも、時間はゆっくりと過ぎていく。

 真奥は軽く礼を言ってから、酒を干した。大した量ではないが、一息に飲み干す。それから彼は鈴乃に言った。

「なんか、あん時と逆だな」

 逆とはあの日に酒を飲んでいたのが鈴乃で、真奥が鈴乃へ御飯なりなんなりをよそっていたことを言ってるのだろう。

「…………そのことを私は覚えていないと言っているだろうが」

「まあ、衝撃的ではあったぜ。まさかアパートの中に投げ飛ばされるとは思わなかったからな」

 鈴乃は恥ずかしげに顔を赤らめて、横を向いた。手にはまだ中身が残っているとっくりが音をたてる。しばらくして、彼女はため息をついて真奥へ言う。

「まあ、貴様も監督不行き届きはあった。ほら、もう一献飲め」

「ああ」

 真奥がもう一度、御猪口を差し出す。鈴乃はさっきと同じようにとっくりから入れてやる。

 真奥が酒を飲む。今度は一息ではなく、口の中で味わうように飲んだ。彼の目には少しの酔いもない。

「酔ったな」

 真奥は言う。それから、鈴乃へ歯を見せて笑った。

「なあ鈴乃、あの日のことを知りたくはねえか」

「な、なにを……。ひ、人の恥ずかしい過去をなんだと思っているんだ!」

「いや、そうはいってもおまえ。全く覚えていないんだろ」

「……」

 真奥は続ける。

「漆原を投げ飛ばしている時は嬉しそうだったぜ。なんか悪魔みたいだったしな」

「き、貴様言うに事欠いて、私のことを悪魔だと」

 真奥は赤い眼を動かす。その瞳で鈴乃をじっと見つめた。鈴乃はたまらず、目を逸らしてしまう。

「……別にそれでもいいんじゃねえの」

「い言い訳ないだろう! ほら、もう終わりだ。全て飲んでしまえ」

「い、いや結構ペース早くないか?」

 弱い口調で抗議する真奥を無視して、鈴乃は彼の御猪口を出させる。それからとっくりに入っている酒を全てそこに入れてしまった。元々、大きくはないとっくりだが、最後とばかりに入れすぎて真奥の手に少しこぼれた。

「おおお」

「す、すまん」

 さっきまで怒っていたのに、鈴乃はそう言いながらあたふたとふくものを探した。空になったとっくりは邪魔にならないところに置いた。

「いや、気にしなくていい。それよりも、鈴乃」

「な、なんだ。あの女主人殿はおしぼりを忘れているような……」

「鈴乃」

 びくっと鈴乃は真奥を見た。いきなり、呼ばれて彼女は黙ってしまう。真奥はすぐには要件を言わず、手元の酒を飲みほした。それからお猪口を台の上に置いた。そして口を開く。

 それは昔話だった。つい、数日前の昔話。

「たしか、あんときは鈴乃がいきなり俺に酒をのめのめって迫ってきたんだよな」

「ぐ、ぐう。そ、そんなことを私に聞かせるつもりなのか」

「いや、聞けって。 芦屋とかが変わろうとしたり、俺は飲めねえって雰囲気をだしていたりしたんだけどな、お前は全く話を聞こうともしなかったからな」

「……さすがにそれは……め、面目ない」

 しゅんと鈴乃は視線を落とす。記憶はないが、それをやったのは事実だろうと彼女は思っている。真奥や芦屋、漆原は抜いたとしても彼女のなかで「悪魔」をそれだけで疑うことはもうできなかった。

「……あんときは、こうしてきたな」

「えっ」

 真奥は鈴乃の肩を掴む。そして、ぐっと引き寄せた。

 鈴乃の髪が動く。彼女の背中から腕がだきよせる。

「は?」

 もういちど、鈴乃は言う。彼女の頬に真奥の肩が当たる。

「たしか、こういう風にされたっけな」

 真奥の声が遠い。鈴乃は全身から力が抜けてしまう。そんな中で、彼女は頭の中で必死になって動こうとしているのだが、思考はそうでも体は動いてはくれない。だんだんと真奥の力が強くなってくる。

 (ま、まおう、まおう。なにを)

 何とか動いてくれる思考の断片を鈴乃は組み合わせる。それでも彼女はどうしようもないほどに今の状況が理解できない。そんな混乱した鈴乃を抱きしめるように、真奥の腕に力が入る。鈴乃の体がさらに真奥に引き寄せられる。

 (だ、ダメだ。まおう。わ、わたしは)

 この状況が怖い。全てが崩れてしまう、そんなこの今が鈴乃は怖い。しかし、受けいれてしまいたいような魅惑に彼女はとりつかれてしまう。彼女は思う。「ダメだ」と言わなければいけないと。

「だ」

 そこまでは鈴乃には言えた。あとたった二文字。それだけで今が終わるだろう。鈴乃は口を動かして、それを言おうとする。言うことを聞かない手足を動かそうとする。真奥はそんな彼女に言う。

 鈴乃には真奥の顔が見えない。彼がどんな表情をしているのか、それすらもわからないのだ。彼がどんな気持ちなのかをよみとれるほど、鈴乃には余裕がない。

 そんな鈴乃に真奥は言う。

「少しだけ思いだしてもいいか?」

 耳元で声がする。鈴乃は冷静になろうとした、思考を使って彼の言葉を考える。

 (思い出す? もしかして、あの日を何があったのか、それを)

 鈴乃はそこまで考えて、何故か体が軽くなった。そう、これはただ思いだしているだけなのだ。決して「裏切ったり」しているわけではない、そう彼女は結論した。理屈がどうというよりもそう思いたかったのだろう。

 鈴乃は自分から、力を抜いた。今はただ、思い出しているだけだと自分に言い訳をしながら。

 ――ひきょうもの。

 もう鈴乃は抵抗をしない。真奥は言う。

「めっちゃくちゃ強い力でつかんできたよな、そういえば」

「…………」

 真奥の手が鈴乃の髪をなでる。さらさらとした黒髪が、月の光でうっすらと光っている。鈴乃はただ、真奥の声を聞いて、その体温を肌で感じる。それでも、あと一歩を踏み出さないように彼女は思う。

 ――卑怯

 鈴乃は気が付かない。自分の中での声に。だんだんと明確になって行くその声に。

「まおう」

 鈴乃は口を開く。自分の言葉から逃げ出したかったのだ。それでも真奥は彼女の問い賭けにこう、答えた。

「ん?」

 ただ、それだけである。飾りも何もない言葉。いや、言葉と言うよりは声や音と言った方がいいかもしれないほど淡泊な返事。しかし、鈴乃にはそれだけで十分だった。別に仰々しい言葉を真奥からもらいたいわけではない。

 庶民的な魔王。どちらかというと軽薄、それでいながら妙なところだけ鋭いこの真奥。それが鈴乃が好きになった真奥だった。

「……それで、私はどうしていたんだ」

 鈴乃は真奥の話を進めてほしいように言う。真奥はまた「ん」と声を出して、鈴乃を抱きしめる。彼は顎を彼女の小さな頭にのせて、少し考えてるように沈黙した。

 その沈黙が、何を意味していようと鈴乃にはどうでもよかった。心の奥では、彼を信頼してしまっているのだろう。

「なあ、鈴乃」

「なんだ」

 短い会話。鈴乃はそれを楽しみながら、「心の声」を無視する。

 ――あと、一歩前に

 ぐりぐりと鈴乃はじゃれつくように真奥の胸元に顔を押し付ける。真奥はそれになにも言わず、彼女の髪をなでる。お互いが、傍にいるのに少しだけ遠い関係。それが今の二人だった。

 だから、真奥が一歩だけ前に出る。

「鈴乃、いや…………べる」

「!」

 鈴乃は目を見開いた。真奥のささやくような声が、今の彼女を貫く。それはこの世で最も、特別なものを真奥が口にしたからだった。

 クレスティア・ベル。それが鎌月鈴乃の本当の名前。

 鈴乃、いやベルは唇を噛んだ。どうしようもない嬉しさが、こらえきれない。彼女の右手が真奥のシャツを掴んで、握る。皺のできたシャツだけが、彼女の反応だった。この期に及んでも彼女は真奥にそれだけしか伝えることができない。

 真奥はそんなベルの額に自分の額を寄せた。近すぎる距離に反射的にベルは下がろうしてしまう。それでも彼女は真奥に抱き寄せられて「逃げることができない」のだ。そう、これは「仕方がない」ことである。

 真奥の息遣いが耳元でする。ベルはそれを目を閉じて聞いている。目の前で真奥がどんな顔をしているのか、それを彼女は見ることは怖かった。

 悲しげな表情していたら、自分は彼にどういえばいいだろう。

 嬉しげな表情していたら、自分は彼に何を言うだろう。

 どちらも何かを越えなければ、何かを捨てなければいけない。だから、ベルは自分の意思よりもあるがままに身を寄せてしまった。それでも、この優しい真奥は彼女を裏切ることはない。

 ベルの唇に何かが触れる。抱き寄せられた彼女が何かに押し付けられる。

 ベルは握った真奥のシャツに力を入れて、こみあげてくる気持ちを必死になって押し殺している。あと一歩でれば、あと少し考えればベルは思いを遂げられるかもしれない。ベルはそれを自覚することを拒絶し続ける。

 それでも、ベルには今を見ることなくに過ぎ去っていくことはできなかった。彼女は戒めの為に、つぶっていた目を少しだけ開けて目の前にいる「彼」を見た。

 「彼」の紅い目が其処に合った。「彼」は「彼女」のように目を逸らすことなく、全てを見ていた。「彼女」の表情も、仕草も、それは見えていないはずの心の中までみているように。

 「彼女」はもう一度目をつむる。それから、顔を少しだけ動かして前に出す。気が付かれないだろうか、それは彼女が思ったことだった。

 淡く小さな、彼女の思いを月だけが照らしている。

 




お疲れ様でした。あとは、少しだけエピローグをだしてこの話はおしまいにしたいと思います。詳しくはその時に言いますが、これは悲哀のお話ではないです!

最後まで付き合ってくださってありがとうございました。また、お待たせてして申し訳ありませんでした。


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エピローグ

「ほら、真奥。弁当だ」

「さんきゅ、助かるぜ」

 仏頂面の鈴乃が朗らかに笑う真奥へ風呂敷に包まれた弁当を手渡す。彼女の格好はいつも通り、抑え目の色をした和服。髪型はサイドテールだった。

ここは魔王城ことヴィラ・ローザ笹塚201号室。悪魔の根城としては少々手狭すぎるきらいはあるが、日当たりのよい部屋ではあるのだが、その反面夏は地獄と化す。そんな場所である。

 あのデートから二日。この三人の悪魔達は、数日の間だけ鎌月鈴乃に朝食の用意を一任していた。おしつけたわけではなく、鈴乃が自らそれを言い出したのだ。ここ数日迷惑をかけてしまったことに責任を感じているのだろう。というのが漆原と芦屋の出した結論だったのだ。

 つまるところ、帰ってきてからの二人には何ら変わったところがなかった。それで漆原は不満げな表情をし、芦屋はほっと胸をなでおろした。彼とて、多少は懸念があったのだろう。

「ねえー。芦屋」

「うるさい漆原、黙っていろ」

 漆原は鈴乃と真奥を見て言う。だが、それを遮ったのはこの悪魔上の「会計上の王」と言ってよい芦屋四郎だった。ただ、黙れと言った彼も二人の様子を観察するように見ている。

「デートってすればさー、なーんかあるもんじゃないのー?」

 蒸し返すように言う漆原だが、すぐにつまらなさそうに畳に転がった。芦屋は、そんな彼を睨みつけてから言う。

「あるわけがなかろう。貴様は千年程度生きていて、その程度もわからないのか? 最近のゲームに毒され過ぎだ。一時間だけにしろ」

「いや、どちらかというと芦屋の方が毒されてない? その発言、主に人間に」

 漆原の口応えに、芦屋が反論しようとした時。真奥が掛け声をかけた。

「いってくるぞー、芦屋、漆原」

「いってらー」

「はっ。今日も一日よろしくお願いいたします。真奥様」

 漆原と芦屋はそれぞれ個性のある返答をしつつ、玄関から出て行く彼を見送った。

 鈴乃はもっと近くで真奥の出て行くのを見た後に、ぎゅっと手を握った。それからひょっこりと玄関から顔を出す。足には何も履いてはいないので玄関から足を延ばして外へ顔を出している。

「真奥、その弁当なのだが」

 鈴乃は真奥に向けて言う。彼は今からアパートの階段を降りようとしていたところに声をかけられて、彼女の方を向きながらゆっくりと足を滑らせて、そのまま階段から転げ落ちていく。すさまじい音をたてながら真奥は鈴乃を視界から消えた。

「……はっ!」

 鈴乃は目の前で起こった珍奇な光景に一瞬我を忘れた。だが、すぐに正気に返るとあわてて駆け出した。履物を気にしている余裕はない。彼女は階段の前に行くと、階段の下で仰向けに倒れている真奥の姿があった。

「真奥っ!」

 かんかんと錆びついた階段を鳴らしながら鈴乃は階段を下りる。後ろでは騒ぎを聞いた芦屋が来ており、何かを言っているような気が彼女にはしたが聞き取れなかった。もちろんそこには漆原の姿はない。

「いてて」

 鈴乃が近付く前にむくりと真奥が起き上った。彼は手で鈴乃に平気だと示す。鈴乃はその姿をみてほっとした。しかし、次に彼の言った言葉に少しだけむっとすることになる。 

 真奥は言う。

「あー大丈夫、無傷みたいだしな」

 半身だけ振り返り真奥は鈴乃にそう言った。鈴乃はあきれるように彼を見る、肘を擦り剥き血が滲んでいる。あれだけ豪快に落ちたのだから、もしかするとどこか打撲をしているかもしれない。

「ど、どこが無傷だ」

 真奥のことに怒る鈴乃。彼女は真奥に駆け寄って、膝を落とす。見ると真奥の胸元には風呂敷が抱かれていた。その中には弁当が入っているはずだ。

「いや、だからこれが無傷だって」

「…………」

 最初から真奥は自分のことを言ってなどいない。それは鈴乃が勝手に思ったことだ。だから彼女は彼に言うべきことが見つからなくなってしまった。

「真奥様大丈夫ですか」

 遅ればせながら芦屋が下りてきた。真奥は「平気、平気」と彼にも手を振って見せる。

「全く、魔界の王たるものがこんなところで躓いていてどうするというのですか」

 比喩表現ではなく本当に躓いたのだから、これは笑い話なのだろうか。少なくとも真奥は軽く笑って部下に謝った。鈴乃はにこりともせずに、顔を俯かせる。その頬が少しだけ赤い。

「とりあえず行ってくっか。悪かったなお前ら。あっ鈴乃」

「……なんだ」

 真奥が立ち上がったのに合わせて鈴乃も立つ。少しだけ目線が下がっているのは、彼の目を今見るのは恥ずかしいからだった。

「いや、呼んだのはお前だろ。弁当がなんだって」

「ああ、そのことか。それはもう別にかまわない。あまり揺らすと偏ると言いたかっただけだ。揺らしすぎているから、もう関係はないだろう」

「ぐへえ」

 聞かない方が良かったとばかりに真奥は顔を歪める。そんな彼を鈴乃は小さく笑ってから、見る。

 黒い髪に赤い眼。悪魔には見えない好青年。

「ああ、あと言っておくことがある」

 鈴乃はさりげなく芦屋に背を向ける。真奥だけに顔を見せるように。

 真奥は鈴乃の顔を見る。まっすぐに彼女は彼を見ていた。

「 」

 鈴乃の口元が動く。だが声は出さない。

「 」

 もう一度。

「 」

 そして最後にも一回だけ。

「 」

 鈴乃は言い終わった顔をして「?」マークを浮かべている真奥の手で押した。

「そろそろいかなければいけないのではないか?」

「あっそうだ。やばい、芦屋。今何時だ」

「私が部屋を出てきたのが7時20分だったかと」

「うおお。8時までにいかないかんのに」

 真奥はそれだけ言うと弁当を持ったまま、駐輪場に走っていく。それから彼がデュラハン号と名付けている自転車にまたがって、アパートの入り口から出て行った。

 鈴乃はその後ろ姿に小さく手を振る。それは芦屋に見えないようにだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 真奥はバイトへ働きに、芦屋はスーパーに買い出しに。そして漆原は部屋でぐうたらする。

「まるで、昔話の様だと思ったが貴様だけは蛇足だな」

「へあ?」

 漆原は何かの雑誌をごろ寝しながら読み、どこに隠していたのかポッキーを口に咥えたまま鈴乃に目を向けた。すでに日は中天にかかろうとしているというのにこの男はなにも変わってはいなかった。

 鈴乃が受け持ったのは朝食だけだったから、別に今の時間に真奥の部屋のいる必要はなかった。だが、今日だけは昼食も用意してやろうと彼女は思ったのだ。

 ある意味ではここ数日の元凶となり、全ての因果を作った男である漆原半蔵に鈴乃は多少だけ、感謝していた。とは言っても彼は何一つ「いいこと」をしているわけではないのであくまで今日だけ昼食を作ってやろうと思っただけだ。

 そのことを「感謝」の言葉を使わずに、「昼食をつくってやる」とだけ彼に伝えると彼はこういった。

「あっそうなんだーさんきゅー」

 鈴乃はそれで少しだけ自分を抑えなければならなくなった。しかし、いつものことだと気を取り直して、エプロンをつけて台所に向かう鈴乃。

 とりあえずはまな板を水で洗い、その後に包丁を洗う。そうしながら彼女は思った。

 (そういえば、私がルシフェルに怒ってしまったのが事の発端だったな……)

 鈴乃は少しだけ口元を綻ばせる。彼女はこの煩わしい男は意外なことを引き起こすのだなと思う。

 (どちらにしろ、私も修行が足りないな……ルシフェルはまだ子供と変わらないのだ。多少のことは聞きながさければ)

 そう鈴乃は思うのだが、ルシフェルはすでに千三百年ほど生きている。いつになったら彼は周りから大人と認識してもらえるのだろうか。

 そんな千三百歳児が鈴乃に向かって口を開いた。寝そべったまま。

「ねえーべる。ベルってさ、時代劇とかすきじゃん」

「む、まあ。多少は見ているが」

「あれでさー。暇つぶしにネットで見たんだよねー。そこで疑問がでてきてさー」

 雑誌を読みながらしゃべっている漆原の声は間延びしていて聞きづらいが、鈴乃は台所で調理器具を洗いながら聞く。少しくらい聞き逃してもどうでもいい話題と思っていた。話の内容を彼女はしらないが、しゃべっているのは漆原である。

「でさーベル。日本の江戸時代って大人になるのがはやいじゃん」

「ああ、それは元服と言って男児ならば大体一五歳程度で大人と認められる。昔は栄養が悪いからな、世代交代が早かったのだろう」

「エンテ・イスラも同じ感じでしょ? でさー」

 鈴乃はぞくりとした、今すぐにでもこの話題を切り上げないと大変なことになると思ったのだ。それでも彼女は直感を信じることなく、漆原の話を聞く。

「日本の江戸時代は女性も十代には結婚してたらしいんだよねー。んで、エンテ・イスラと江戸時代って同じぐらいでしょ」

「なにが、いいたい」

 手が止まる。鈴乃は漆原に見えないように真顔になる。だが、空気を読めない男がそんなこと、彼に見えていたとしても気にするはずはない。

「ベルって二十代でしょ、もしかして」

 びきびきと鈴乃は腕に力が入る。

「いきおくれ?」

 ばきっとまな板があり得ない音をたてた。

 一つの話が終わっても、時間は進んでいく。綺麗なスタートはあまり望めそうにはない。

 

                  了

 




これにてこの話はおしまいです。最後までお付き合いいただきまして誠にありがとうございました。


鎌月さんは4か月程度の連載になり、正直いえば元々はラブコメではなかったですし、この話が生まれた理由もそもそもが本当にひょんなことから生まれたものです。それでも長期(あまり長くはないかもしれませんね) 連載をすることができて楽しかったです。

今考えるとああすればよかったな、というのはこの話にはあまりなかったのでなかなか未熟なりには書くことができたのではないでしょうか。

重ねてにはなりますが、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。


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