【完結】BLEACH ー鬼神覚醒ー (春風駘蕩)
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零之章 旧き時代
0.Legend of nobody


 聴こえるか この音色が

 あなたを想って響く 私の鼓動だ

 聴こえるか この歌声が

 あなたを想って響く 私の悲鳴だ


 天正二年 神無月

 

 荒々しい波が、岩ばかりの岸辺に向かって勢いよくぶつかり、激しい水飛沫を生じさせる。曇天から吹く風は重く、轟々と恐ろしげな音を響かせている。

 荒れた海に向かい、ただ無言で岸辺に佇み祈りを捧げているみすぼらしい格好の者達がいた。一人を中心にして柵を張り、列を作って全く同じ姿勢でこうべを垂れている。

 中心にいるのは、他の者とは違って真新しい白装束を纏い、貝殻や金属で作った装飾品を身につけている、若者のようだ。体の細さから、おそらく女性であろうと推察できる。

 これは、生贄を捧げる儀式だ、と誰もが一目で理解する光景だ。

 ふと、生贄の娘が顔を上げた。

 荒れ狂う波の動きが変わり、一点を中心として大きな渦が発生し始めたのだ。

 海水を飲み込んで行く渦の中心にはボコボコと白い泡が発生し、大きな波が広がっていく。その下には黒く巨大な影が近づき、その全貌を徐々に露わにし始めた。

 そして、それは現れた。

 蛇のように長い体に鰐のように長く伸びた顔と鋭い牙、鷹のように鋭い目に鮫のように硬い鱗、獅子のように豊かな鬣に鹿に似た角という、屈強な生物の肉体を掛け合わせたかのような歪で凶悪な外見の怪物ーーーオロチと呼ばれる魔物が、海中から堂々と姿を現した。

 

「ギィィァァアアアアア‼︎」

 

 オロチは大気を震わせる咆哮を放ち、陸地に我が物顔で這い上がっていく。同時に、オロチの肩に乗っていた二つの人影が、冷たい目で生贄を見下ろした。

「約束を果たしに来た」

「約束は果たしたようだな」

 全く感情を感じさせないほど平坦な声で、魔物とともに現れた存在ーーー童子と姫と呼ばれるオロチの同類が笑みを浮かべた。

 烏帽子に立派な仕立ての着物を纏ってはいるが、常人とは明らかに異なる雰囲気を放つ彼らからは、恐怖感しか感じられない。

 

「お前たちは餌を差し出し、お前たちは生き残る」

「俺たちは餌を食い、俺たちはお前たちを食わない」

 

 差し出された生贄をいまにも食い殺しそうなオロチを鎮めながら、童子と姫は人間たちとの契約を検める。

 犠牲を払い、生き残る。まるで生きながら家畜となるような屈辱的な契約が、この生贄のいた村では長年行われていた。

 そして今宵もまた、罪なき命が無残にも貪られようとしていた。

 本来ならば。

 

「ギィァアアアア‼︎」

「!」

 

 童子と姫が同時に表情を変える。生贄の娘に食らいつこうとしていたオロチが、苦痛の悲鳴をあげて飛び退いたからだ。

 警戒心をあらわにして睨みつければ、生贄の娘が何かを咥えているのが見えた。

 金色の小さなそれは、顔のような物が装飾された笛だ。三本の角を生やした鋭い目つきの顔が、娘に吹かれて甲高い音を鳴らしている。

 笛の音は大気を揺らし、波紋を生じさせる。生贄の娘は口を離しても鳴り続ける笛を額の前にかざし、ニヤリと笑みを浮かべた。

 途端に娘を中心として風が巻き起こり、空気を歪ませて娘の姿をくらませる。竜巻きのように巻き起こる風の中で、辛うじて見える娘の姿が歪んでいくのが見えた。

 

「ーーーハッ‼︎」

 

 不意に竜巻の中から手刀が伸び、竜巻が切り裂かれる。その中から姿を現したのは、生贄の格好をした娘ではなかった。

 全身を覆う青い不思議な光沢を放つ身体に、鎧のように巻きついた金色の管。腰の前には三つ巴の紋章が入った鋼鉄の帯が巻かれ、側面には円盤が備わっている。のっぺりとした顔には金の装飾が施され、三本の角が天に向かって伸びていた。

 文字通り風を裂いて現れたその姿、まさしくーーー。

 

「……鬼か」

「……鬼だ」

 

 姿を見せた介入者を前にして、半仮面の童子と姫が平坦な声で呟く。すると一瞬のうちに、童子と姫の顔が異形のそれへと変貌していった。

 魔化魍と呼ばれる人を喰らう忌まわしき存在、その真の姿である。

 鬼と呼ばれた者は、仮面の下から二人と一体を見据え、腰に下げた銃を持って身構える。

 忌々しいと言わんばかりに、オロチが凄まじい咆哮を放った。

 

 人が人と争っていた時代から。

 魔物と人ならざる者の戦いは、人知れず起きていたのだ。



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壱之章 明日の歌
1.Boy meets girl


 ーーー日本海沖 午前十一時五十九分

 

 航海をするには若干肌寒くもちょうどよさげな秋の空の下、一隻のフェリーが波をかき分けて進んでいく。

 

 ーーー黒崎一護/高校生

 

 天気は良好。風も穏やか。海鳥までもが心地よさそうに天を舞う青空が広がり、太陽に照らされた雲が悠々と流れてゆく。

 そんな快い雰囲気の中、フェリーはまばらに人を乗せてある場所へと向かっていた。

 

 ーーー髪の色/オレンジ

    瞳の色/ブラウン

 

 都会から離れた港を出て、はや数十分。短い船旅を満喫する客の中に、彼はいた。黒崎一護という、少し変わった青年は。

 

 ーーー特技/ーーー

 

「……だぁっくしょい‼︎」

 

 盛大にくしゃみをこぼし、青年は欄干にもたれかかって海を眺める。ぼんやりとしたまま風に吹かれていたためか、少し体が冷えてしまったようだ。

 

「……なんで、こうなった」

 

 誰にともなく問いかけ、答えの返ってこない虚しさに風の冷たさが混じる。

 

「なーに仏頂面してんだよいっちっごーーー‼︎」

 

 通路の向こう側から、やかましい程の声音とともに疾走する靴音が聞こえて来る。他の客も驚いて道を譲る中、気色の悪い笑みを浮かべて駆け寄って来たその声の主は。

 

「フンッ‼︎」

「ごべっ⁉︎」

 

 額に青筋を立たせた一護のラリアートによって、迎撃された。走る勢いはそのままに繰り出された一撃により、クラスメートの一人である浅野啓吾は後頭部から床に沈んだ。

 

「オメーのそのテンションの高さは一体なんなんだよ⁉︎ たまには自重しろ馬鹿野郎‼︎」

「ひ、ひどい……せっかく一護と遊ぼうと思ったのに」

「一護()遊ぶの間違いなんじゃないの?」

 

 気色の悪い女の子座りでさめざめとなく啓吾。そんな彼に無表情ながらも呆れた視線を向けるのは、同じクラスの小島水色。二人とも、一護とはよくツルむ仲である。

 

「何もそんなカリカリすることないじゃんかぁ⁉︎ どうせ一護だって暇を持て余してたくせにッ‼︎」

「うるっせぇよ‼︎ ったく……人がせっかく嫌なこと忘れようとしてたのによ」

 

 かなりスキンシップが激しいというか、うっとうしい域に達している啓吾を黙らせるとそう言って、再び海を眺めてのんびりしようとする一護だったが。

 

「黒崎くん、黒崎くん‼︎ イルカだよ⁉︎ イルカがすごい近くにいるよ⁉︎」

「井上さん、とりあえず落ち着いて……」

「チャドくん見て見て‼︎ あんなにいっぱい……ってすでに食い入るように見てる⁉︎」

「…………」

 

 右を見れば、クラスメイトの友人たちが思い思いに騒いでいらっしゃるのが見える。女子である井上織姫と、いかつい見た目に反して可愛いものに目がない茶渡泰虎が食い入るように海面を泳いでいるイルカを見つめている姿が見えた。

 もう一人の学友、石田雨竜はそのテンションの上がりっぷりについていけていないようで、むしろクラスメイト以外の客からの視線に居心地悪そうにしていた。

 

「いーるーかーがーいーるーよーたーくーさーんーいーるーよー…♪」

 

 適当な替え歌を歌い、イルカに釘付けになってはしゃいでいる友人達を見て一護は思う。

 全然のんびりできねぇ。

 

「そんなかったいこと言わずにさァ、俺に構えよ我が友いちーーー」

 

 懲りずに突進しようとする啓吾の顔面に肘鉄が当たる。この程度は日常茶飯事であるため、だんだん扱いが雑になり始めていた。

 

「おぶっ⁉︎」

「なんでテメーは旅先でもじっとできねーんだよ」

 

 さっき黙らされたばかりであるのに、すぐに復活した啓吾にジト目を向ける。

 普段もテンションは高いやつだが、今日のウザさは拍車がかかっていた。

 

「社会見学ごときではしゃぎすぎなんだっての」

「だってさぁ! 旅行には違いないじゃん⁉︎ 田舎でも旅先じゃん⁉︎ 旅館で泊まったりナンパしたりしても合法で済むじゃん⁉︎ はしゃいだっていいじゃんかよう‼︎」

「全部お前の願望だろうが」

「もぶっ⁉︎」

 

 欲望をダダ漏れにさせる啓吾に、今度は背後から衝撃が襲いかかる。再び啓吾は白目を剥き、うつ伏せにバッタリと倒れ伏した。

 

「お前はどこにいてもそんなんばっかか」

 

 強烈な踵落としを食らわせた女生徒は、フンと満足げに鼻息を漏らして腰に手を当てる。

 一護は振り下ろされたかかとの持ち主、有沢たつきに気づくとよくやったと言わんばかりにサムズアップを贈った。

 

「おう、悪いなたつき。このバカ預けるわ」

「任せろ。悪さできないように体に教え込んでおくから」

「人目にはつくなよ。他の客の迷惑になるからな」

「分かってるって」

「いやぁぁぁヘルゥゥゥゥプ‼︎」

 

 ほぼ一瞬で完全犯罪を目論んだ一護とたつきに、啓吾は本気で悲鳴をあげる。だがズルズルと襟首を掴まれ、引きずられていく彼に逃れるすべはあいにく存在していなかった。

 たつきと啓吾が裏に消え、ようやく静かになると一護も深く息を吐いて一服する。

 その隣に、石田が静かに立つ。織姫たちは別の場所で騒いでいるようだった。

 

「急にも程があんだろ。この時期に校外学習なんてよ」

「まぁ、ね。色々と事情があるんだろうけど、確かに少し迷惑だったかな」

 

 そう、一護達のこの旅行は急に決定したことだった。

 恒例行事でも、事前に連絡があったわけでもない。唐突にフェリーの目的地である島に社会見学に向かうことが決定したのだ。

 一護が不機嫌な理由は、それだった。事前に決まっていたならまだしも、他人に急に予定を変えられることは、どうにも腹立たしく思えたのだ。

 

「つーかどこだよ、この夜刀神島って。聞いたことねぇだろ」

「そのための観光PRのつもりなんじゃないのか? 過疎化した島をもう一度盛り上げようとか、そういうの」

「……世知辛いな。最近は」

 

 若い島民が都会へと渡り、島の活気が衰えて来ているのだ。それを挽回するため、若者を呼び寄せる企画を島の誰かが考えたのだろう。

 考えてみると、かなり悲しい話だ。

 

「ま、なんにせよ来たからには楽しませてもらおうじゃないか。……たかが三日だ」

「ああ……」

 

 石田はそう言い、自身も中に入ろうとしてか出入り口の方へと向かって行く。残された一護は、欄干に背を預けて空を仰いだ。

 一護の案ずること。それはもう一つあった。それは一護達が住む街、空座(からくら)町で一護が担っている秘密の役割が関係しているのだが、それにしばらく関われないことが心配だった。

 その役目は本来の責任者がいるのだが、若干腕に不安がある人だった。

 

「…ん?」

 

 もやもやと考え込んでいた一護は、ふと視界の端で動いている小さな人影に気づいた。

 まだ二、三歳の小さな男の子が置かれていた台の上によじ登り、海に向かって無邪気に手を伸ばしている。好奇心旺盛で恐れを知らない子供が、親とはぐれたのかたった一人で遊んでいた。

 親は何をしているんだと思いながら、一護は危なげな子供の一人遊びに目をやりながら背筋を伸ばして、嫌な予感につい身構えた。

 その姿が、ぐらりと揺れるまで。

 

「ーーー危ねェッ‼︎」

 

 足を滑らせたのか、男の子の体が欄干を越えて傾いていく。

 一護は血相を変えて走り出し、声も出せずに頭から落ちていく男の子に必死に手を伸ばす。あとわずかだけ、手が届かないと確信してしまっていたが、そうせずにはいられなかった。

 だがそれよりも早く、一護のそばを通り過ぎる影があった。

 

「⁉︎」

 

 目を見開く一護の前を影は猛スピードで駆け抜けると、欄干の手すりを台代わりに跳躍して飛び越えていった。

 一瞬呆然となった一護は、すがりつくように手すりに掴みかかり真下を覗き込んだ。その時よぎった嫌な予感は、一瞬にして消え去った。

 

「いっ⁉︎ いだだだだだ‼︎ 掴むでない掴むでない‼︎」

「きゃはははは!」

 

 苦痛に満ちた声と笑い声が、欄干の下から聞こえて来て、一護の目が大きく見開かれる。

 一人の黒髪の少女が、フェリーの壁のわずかな凹凸に指をかけ、鷲掴みにするようにしがみついていたのだ。その上片方の手は男の子を抱えるために使っているため、自分と子供一人分の体重を五本の指に預けている状態であった。

 

「ちょっ、ちょっと待ってろ‼︎ 耐えろよ⁉︎ 頼むから耐えろよ⁉︎」

 

 一瞬呆けていた一護だったが、すぐに我に返って少女と子供に手を伸ばそうとする。このままでは落ちるのも時間の問題、早く引き上げなければ。

 だが、身を乗り出そうとした一護に、しがみついている少女が消え入りそうな声をかけた。

 

「……おい、そこのオレンジ頭の若いの」

「‼︎ あ、ああ! 待ってろ、今引き上げて……」

 

 助けを求める声だと思った一護は、もう一度少女に向かってから手を伸ばそうとする。だがその寸前、下を向いていた少女が、顔を上げて一護に目を向けた。

 

「邪魔じゃ。どけ」

「…………は?」

 

 しらっと鬱陶しそうな目を向ける少女は、慌てふためく青年に向かってそう告げた。

 助けようと手を伸ばしていたところで受けた思わぬ返答に、一護が惚けた声を上げた瞬間だった。

 

「よっ、こい……」

 

 壁の凹凸をつかんだ右腕が、気の抜けた掛け声とともにボゴンッ‼︎と倍近い太さにまで膨張する。鉄製の壁がアルミ箔のように掌の形にひしゃげ、間近で見ていた一護の目が点になった。

 

「……っしょぉ‼︎」

 

 そして少女は、自分に片腕の力のみで子供二人分の体を浮き上がらせた。

 

「んなっ……」

「うおおおおおおおおお‼︎」

 

 少女のものとは思えない野太く逞しい雄叫びをあげ、少女と子供が宙を舞う。あんぐりと口を開ける一護の頭上を軽々と飛び越え、少女はくるんと気取ったように宙返りを披露し、ズシンとガニ股で着地した。

 呆然としている青年をすておき、少女は抱えた男の子を優しく下ろすとヨシヨシと頭を撫でてやる。自分に何が起きたかもわかっていない様子の男の子は、無邪気に笑いながらそれを受け入れていた。

 

「! こんなところにいた!」

 

 そこへ、慌てた様子の若い夫婦が駆け足でやって来る。少女に撫でられている我が子を見つけると、半ばひったくるようにして抱き寄せた。

 

「もう、どこに行っていたの!」

「迷子になっておったようじゃ。今度からしかと見張っておけ」

「すみません……ご迷惑をおかけしたようで」

 

 夫婦は少女に頭を下げると、今度は逃がさないとばかりにしっかり抱きしめてその場を後にする。どこか古風な喋り方をする少女はニコニコと笑いながら、手を振って来る子供に手を振り返す。

 呆然となっていた一護はそこでようやく再起動を果たし、ぎこちなく少女を凝視して声を絞り出した。

 

「……お前、すごいな」

 

 慄く一護の声に、少女はフンと鼻で笑ってみせる。

 少女を改めて前にした一護は、まずその少女の小ささに驚いた。小学生高学年から中学生程度の背丈しかなく顔立ちもそれぐらい幼い。なのに、袖や裾から見える腕と脚は鍛えられているためかしなやかで、胸元もかなりの膨らみが目立った。

 額を中心に左右に分けられた、おかっぱに似た髪型がさらに見た目の幼さを助長させている。とても先ほどの剛力ぶりを見せたものとは思えなかった。

 少女はそのまま一護に一瞥もくれることなく、くるりと背を向けて歩き始める。

 

「ま、鍛えておるからのぅ」

 

 驕るでもなく、誇るでもなく、まるでこれが当然であるかのように言いのけ、少女は一護の前から歩き去って行った。

 残された一護は、少女のその背中が見えなくなるまで見送ることしかできなかった。



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2.who lurk on the island

「はーい! 空座第一高校から来たみなさーん! こちらに集合してくださーい!」

 

 それから数十分後、フェリーはようやく目的地である夜刀神島の港に到着した。窮屈な船の中から解放された生徒達は、案内に訪れた女性の声も聞かずにそれぞれではしゃいでいた。

 

「ここからの案内は私、蛇園が担当いたします。皆さん、よろしくお願いします!」

 

 大きな声で自己紹介する蛇園だが、残念ながらまともに聞いている者はあまりいなかった。皆それぞれでグループを組んでは、ざわざわと騒ぎ合っているばかりだ。

 しかし蛇園はへこたれず、パタパタと旗を振って生徒達を港に近い建物の方へと導いていく。

 どんなに無視されようと、常に笑顔をキープしている様がどうにも気味が悪く、一護は過疎化した地域で働く大人の闇を見ている気分になった。

 

「ではまず、私の方からこの島の歴史をざざざっと説明してまいりますので、資料館の方へ移動していただきまーす!」

 

 ニコニコと過剰なほどに笑う蛇園にどこか薄ら寒い気配を感じながら、一護はあたりの景色を見渡してため息をつく。

 その時だった。

 

「何でぃあのねーちゃん。美人なのになんかお近づきになりたくねーな」

 

 自身のリュックの中から、聞こえるはずのない声が聞こえてきたのは。

 一護はすぐさま集団から離れると、近くにあったベンチの陰にしゃがみ込んでリュックの口を開く。そしてその中で窮屈そうに押し込められていた〝奴〟をギロリと睨みつけた。

 

「お前、何、してんだ?」

「何とはなんだコノヤロー! いざって時のために俺様が随伴してやったんだろうがブフッ⁉︎」

 

 ふてぶてしくも文句を言うソレ、どう言うわけか口を聞いて動き回るライオンのぬいぐるみのコンの顔面をガッと掴み、いちごは他の誰かに聞かれないように押し殺した声を発した。

 何をしているのだこの無機物もどきは。

 

「いらねーんだよんな気遣いはよ……旅先にぬいぐるみ持って来てる高校生ってなんなんだよ……⁉︎」

 

 確かに、必要になる時はあるかもしれない。だが時と場合を考えろ、と一護は血走った目でコンを睨みつける。

 ただでさえ不名誉な噂が囁かれていると言うのに、こんな旅先にまで厄介ごとを起こされるのは真っ平御免だった。

 

「大人しくしてろよ。頼むから!」

「わーってるって! いやしっかし……びっくりするほどなんもねぇな」

「……確かにな」

 

 不安要素を背負いつつ、一人グループから離れて港や他の場所を見渡す一護。港にあるのは一護達が乗ってきたフェリーと数隻の漁船のみ、他は何もない殺風景な場所だった。

 石田の言っていたことが事実かもしれないなと思い、逆にこんな有様では余計に人が離れて行くのではないかと心配になっていた。

 

「寂れるのも時間の問題なんじゃねーか?」

「そりゃそうじゃ。大した名産もないからの」

 

 そんなことを考えていた一護の後ろで、ガチャンと大きな金属音が響いた。振り向いた一護の目の前を、宙に浮いた巨大なリュックが遮る。一護は慌てて背中のリュックの口を押さえつけ、コンの姿を隠した。

 視線を横にずらすことで、それが大きな荷物を背負い直した一人の少女であることに気づいた。そしてそれが、先ほどの怪力っぷりを見せた少女であることに。

 

「! お前、さっきの」

「おう、さっきの若いの。高校生じゃったか。青春を謳歌しているようで何よりじゃ」

 

 相変わらずの見た目と釣り合わない口調に、一護は知り合いの黒猫のことを思い出す。

 というか、見た目と実年齢の差が激しい連中と良く付き合っているからか、この見た目が明らかに中学生、あるいは小学生の少女が一体いくつなのか判断がつかなかった。

 

「…………」

「ん? なんじゃ?」

 

 思わずじっと見つめてしまっていた一護に、少女は訝しげな視線を返した。

 

「……いや、年上か年下か、今はとりあえずそれだけ聞かせてくれねぇか?」

「しばくぞ」

 

 一瞬で一護の考えを読み取ったらしい少女が、こめかみに血管を浮き立たせて低い声で脅した。見た目に関してはやはりタブーだったらしい。

 

「わしは花の17じゃぞ⁉︎ もっと気を遣わんか戯けが‼︎」

「わ……悪りぃ。じゃなくてすんません」

 

 一護は素直に謝り、拳を握りしめて一歩踏み出してくる少女から距離をとった。自分の体重よりも重そうなリュックを軽々と背負っているこの少女に逆らうのは、どう考えても良策ではないというのは明らかだった。

 若干ビビっている一護の態度を反省と捉えたのか、少女は拳を引いて苛立たしげに腕を組んだ。

 

「ったく失礼なガキじゃのぅ……まぁ良いわ。観光なら忠告しておこうと思っての」

「は?」

 

 不意に雰囲気を変えた少女に、今度は一護が訝しげな声をあげた。

 半目で見つめる一護に、少女は睨みつけ、戒めるような視線を向けて口を開いた。

 

「……つまらんからといって、森の奥へは入るなよ」

 

 有無を言わせぬ強い口調に、一護は眉を寄せながら既視感を覚えていた。少女の纏う雰囲気は、一護の友人達に通じるものがある。

 規律を重んじる組織である彼らと似た感覚が、少女からは感じられた。

 

「何言って……」

「ではの。忠告はしたぞ」

 

 少女は一護の返答は聞かなかった。必ず従わねば許さないというような空気を残して、少女は一護を置いてその場から歩き去って行った。

 

 

「これが島が誇る最長老の杉、夜刀神大杉です」

 

 蛇園の案内で、生徒達は若干窮屈な資料館の一室をクラスごとに見学することとなる。

 その一室の壁には大きな写真が飾ってあり、大きく育った杉の樹が写っていた。一緒に写っている島の職員らしき人との対比から、その巨大さがよくわかった。

 

「ほー、こりゃ確かに立派だな」

「推定樹齢は500年。いわゆる戦国時代からこの島を見守り続けてきた、島の人からは守り神と呼ばれている大樹ですよ」

「……現物は見れないの?」

 

 啓吾が杉の大きさに感心したように声をあげるも、蛇園は申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「申し訳ありません……観光地化される前に訪れた旅行者のマナーの悪さが原因で、大杉の近くも荒らされてしまいまして。現在一般公開はされていないんです」

「なんでぇ、つまんねぇな」

 

 啓吾がぼやくが、それは周りも同じことだった。見られないなら最初から紹介するなよ、とい言いたげな雰囲気が漂い、その場にいた全員のテンションが著しく低下し始めた。

 それでも蛇園はへこたれず、旗を振って全員の注目を集めると再び貼り付けたような笑顔を浮かべて誘導を始めた。

 

「はいみなさん! お次は役所の方を見学します! しっかり将来の職場を見ておいてくださいねー!」

「……うわー、絶対嫌だー」

 

 さらに啓吾たちのテンションが下がり始めた。それでもついていかねば予定が進まないため、心底嫌そうな表情になりながらついて行く他にない。

 だが、ある二人の女生徒はもうそんな気分にもなれなかったようだった。

 

「あーん、もうだるいー」

「今時社会科見学とかまじしんどいしー」

 

 見るからに、というほどではないが、今時のギャルっぽい着崩した格好の女子生徒二人が、ぞろぞろと歩いて行く生徒たちの列を見ながらぼやく。高校生にもなって、みんなで一緒に行動するなどという行為に意味を抱けなかった。

 

「このままバックレる?」

「いいじゃん、行こ行こ」

 

 クラスメイトの注意が自分たちに向いていないことをいいことに、二人はそっと資料館から抜け出した。

 そんな二人に、気付くものは一人もいなかった。

 

 

「へー……変な資料館とかよりこっちの方が断然気持ちいいじゃん?」

「ほんとほんと! なんだろ、マイナスイオン満喫してるって感じ?」

「そうそう。たまにはいいかもねー、こういうとこに来んのも」

「これだけは感謝かもねー」

 

 資料館を抜け出した女子生徒二人は、歩いてすぐの森の中にいた。裏口から出てみれば、すぐ目の前に森が広がっており、少女たちの向けて大きな口を開けているように見えた。

 

「でもこんなところで働くとかまじ勘弁ー」

「あはっ、言えてる!」

 

 人の足が全く入っていない獣道を進んでいく二人は、滅多に堪能できない清純な空気を肺いっぱいに吸い込み、大きく伸びをする。

 都会では決して味わえない感覚を、堪能していた時だった、が。

 

「やっぱさー、あたしたちには田舎暮らしとか考えられなーーー」

 

 片方の少女の声が、不意に途切れた。まるでテレビの電源が急に切れたかのように不意に、何の前触れもなく。

 

「……あみ? ちょっと、どこ行ったのよ?」

 

 声も気配も消えた友人に一拍おいて気づいたもう一人が、立ち止まって辺りを見渡す。

 道は一本道だ。よほどの方向音痴かバカでもない限り逸れるはずもないし、まだあたりは昼近くで明るい。逸れれば、間違いなく気づくはずだった。

 

「やだ……変な冗談やめてよね」

 

 悪ふざけで姿を消したんじゃないか、と考えるも、徐々に体に走る寒気は強くなっていた。

 友人の姿を探して、おぼつかなくなり始めた足でゆっくりと歩きだす。さっきまで視界はクリアだったはずなのに、いつのまにか白く濃厚な霧が辺りに立ち込め始めている。

 すると女性とは、足元に落ちている桜色の布に気づき、しゃがみこんで拾い上げた。ふわふわとした素材でできたそれは、友人がいつも右手首に巻きつけていたお気に入りのもののはずだった。

 

「これ、あみのシュシュ……うそ」

 

 女生徒の表情が、徐々に青く染まり始めた。

 ここにいてはいけない、危険だ、内なる自分が警鐘を鳴らし、震える足で元来た道へつま先を向ける。

 だが、カタカタと震える足で走り出そうとした瞬間、己の首にしろ何かが巻きついた。女性とは「ひっ」と声を漏らし、半ばパニックになりながらそれを引き剥がそうとした瞬間。

 

「キャァァァッーーー」

 

 女生徒があげたその悲鳴はくぐもったものへと変わり、やがて消えた。

 

 

「ーーーじゃからの? 仕方がないじゃろう。師匠が頑なに行かせてくれんのじゃから」

 

 島に唯一存在する、電話ボックスの中の古びた公衆電話を耳にかけながら、大荷物を背負った少女は困った顔で受話器の向こう側の人物に返答していた。

 見るからに飽き飽きしているとわかる表情の少女の耳に、今度は受話器から不満げな声が届いた。

 

『それで明日ちゃんが参加できないって言うのはひどいじゃない! 大丈夫よ、文句言う人たちは私がしばいとくから!』

「やめとくれ。むしろより居心地が悪ぅなるわ」

 

 本気で嫌がる表情になった少女が抗議するように返した。電話越しで分かるまいが、相手にじとっとした目を向けて睨みつけるほどだ。

 

「構いやせんよ。こっちの仕事もまだ片付かん。今年も慰労会は不参加ということでこの話は終わりじゃ」

『でもぉ〜。それじゃ明日ちゃんに慰労してあげられないし〜……可愛がれないし〜』

「それが目的、じゃと……⁉︎」

 

 知人が思った以上にしょうもない目的を持っていたことに、戦慄する少女。やたらとボディタッチが激しいとは思っていたが、まさかただ愛でるために近づいてきていたのかと愕然となる。

 

『そもそも師匠だからって女の子の行動を制限する権利なんてないわよ! アスちゃん、悪いことは言わないからあんな人とはもう縁切っちゃいなさいよ! 明日ちゃんはまだこれからがあるんだから、なんなら別の師匠を紹介するわよ!』

「……と、言われてもの。わし、弦も管も使えんし」

『……あー』

 

 少女が照れ臭そうに頭を掻いていると、相手は納得したように抜けた声をあげた。

 それで理解されるのは複雑な心境だ、と少女は自分自身に呆れたようにため息をついた。

 

「基本的に音痴じゃしの」

『……それって致命傷じゃない?』

「言わんでくれ」

 

 自分で言っておいてなんだが本当に面目無い。

 だがすぐに切り替えると、少女はフッと笑みを浮かべながら、腰に手を当てて胸を張った。

 

「ま、そんなわけじゃしの。太鼓を教える師匠がそもそもおらんのじゃ。何よりわしには、響鬼流の流れを組む歌舞鬼流が最もよく合っておる」

『もー頑固なんだかーーー』

 

 電話の向こうで呆れた声が聞こえたと思ったら、唐突にその声が途切れた。ツーツーという音がなり、それ行こうなんの返答もなくなってしまった。

 

「…ん? もしもし? おい、もしも……あ、切れとる」

 

 小銭が切れたとようやくわかった少女は「あちゃー」と額を手で押さえ、自分の財布を確認してみる。

 だが入っているのは数枚のお札とわずかな小銭だけで、通話を再開できるほどの金額は残っていなかった。

 

「土産を何にするか、聞きそびれたの。……まぁ、適当で良いか」

 

 お札を崩すのも面倒と、少女は受話器を戻して電話ボックスの中から出る。

 電話ボックスの隣に大荷物を下ろすと、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた中から工具箱と何かの道具を取り出した。

 

「さて、仕事をせねばの」

 

 少女はつぶやくと、取り出した道具ーーー角が折りたたまれた、金色の鬼の顔を模した装飾がほどこされた、音叉を取り出した。

 工具箱のロックを外し、蓋を開く。その中にびっしりと収められていた薄い円盤の中から一枚を取り出すと、手に持った音叉の角を伸ばして円盤に軽くぶつける。

 リーン、と心地よい音が響いたと思うと、音の振動が円盤に伝わっていく。振動が伝わった部分から、複雑な模様の入った円盤が鮮やかな茜色に染まっていった。

 すると次の瞬間、少女の手の中から円盤がひとりでに跳ね上がり、一瞬で展開する。小さな茜色の鷹のような姿になった円盤は、少女に目を向けながら甲高く鳴いて見せた。

 

「ほれ、ゆけ」

 

 少女が命じ、円盤の小さなタカーーーアカネタカは、ざわざわと不気味な声が響く森に向かって飛び立っていった。



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3.Enter do not risk

「…………ん?」

 

 一護はふと、クラスメイトたちがざわついていることに気がついた。

 

「おい、どうした?」

 

 手っ取り早く、近くにいたたつきに事情を尋ねると、珍しく彼女も表情を険しくした様子で振り返った。

 

「あ、ああ……うちのクラスの子が二人いなくなったらしくってさ。いま先生たちが必死に探してるんだって」

「マジかよ……この歳で迷子か? 仕方ねぇな」

「見つかるまでしばらく待機だってさ。小学生じゃねーんだから……」

「そうか……悪いな」

 

 軽く礼を言うと、一護はじっと資料館の裏の方向に目を向けた。

 やや古い建物の向こう側に広がっている森は、鬱蒼と生い茂っていてやや暗く見える。自ら行きたいとは全く思えなかったが、一護にはどうにもその生徒がそこにいるような気がしてならなかった。

 一護は眉をひそめると、不満げな表情を浮かべていたたつきの肩を軽く叩いて走り出した。

 

「たつき、悪いけど後頼む」

「えっ、あ! 待って、黒崎くん!」

 

 走り出した一護を、織姫が慌てて追いかける。

 

「先生! すんませんけど便所行って来るっス‼︎」

「あ? 黒崎お前らまで消えるつもりか! ……って、もう行っちまった」

 

 途中にいた担任教師の越智に報告するが早いか、一護と織姫はビュンと猛スピードで走り去ってしまう。止める間もなく、越智は二人を見送る他になかった。

 

「どんだけ腹いたいんだよあいつら……。って、おい、石田と茶渡までどこに行った?」

「あ、はい先生! 便所だそうです!」

「あいつらもか⁉︎」

 

 生徒の一人の報告に、越智はじっと一護たちが消えた方を見つめて佇む。どうにも、トイレがある方向とは違う方へ走っていったようにも思えたが、もう姿も見えないために確認するすべはなかった。

 

「ま、いいか」

(いいのか⁉︎)

 

 基本放任主義の彼女は細かいことには、あまり頓着しない教師であった。

 

 

 足元の悪い獣道を、一護と織姫、石田と茶渡が駆け抜けていく。だが一護は、後ろから追いついてきた石田に思いっきり渋い表情を向けていた。

 

「ったく、なんでてめーらまで来るんだよ!」

「君に言われたくはないね!」

「! いたぞ、こっちだ!」

 

 走りながら喧嘩するという器用な真似をしている二人をよそに、茶渡が進む先に何かを見つけた。

 再び前方を向いた一護たちは、木の陰に白く細い何かが転がっているのを発見する。よく近づいて見てみれば、それは真っ直ぐに投げ出された人間の、それも二人の少女の足であることがわかった。

 そばに駆け寄った一護たちは少女たちの格好から、自分たちと同じ空座町高校の制服であることを確認する。

 

「面倒かけやがって……ってなんだこりゃ⁉︎」

 

 クラスメイトのそばに駆け寄った一護は、彼女たちに絡まっている白い糸を目にして声をあげた。蜘蛛の糸のように粘着性を持つ糸が、奇妙な繭を作るように何重にも重なっていたのだ。

 石田は彼女たちの奇妙な状態に目を見張りながら、冷静に状況を分析しようと頭を回らせる。

 

「なんだってこんなところに……⁉︎」

「何だこれは……蜘蛛の糸か?」

 

 茶渡は少女たちの体についている糸を探り、手にくっつく粘着性を見てそう感想を漏らす。なぜそんなものがくっついているのかは全くわからなかったが、とにかくこのままではいけないと男子の手で少女たちにまとわりついた糸をどうにか外していった。

 

「チャド、井上。こいつら連れて先に戻ってくれ」

「う……うん」

「……わかった。無理はするな」

 

 一護に頼まれ、剛力を有する茶渡といざという時の回復能力を有する織姫が頷く。織姫としてはここに一護たちを置いていくのは気が引けたが、少女たちの容体も気になるために従う他になかった。

 少女たちを背負い、駆け足で元の道を抜けていく茶渡と織姫を見送ると、一護と石田は反対側へと目を向けた。

 さっきから、奇妙な気配が一護と石田の周囲に漂ってきている。薄暗い霧の中に紛れている、明らかに生物の放つものではない、背筋が凍るような嫌な気配が。

 とある理由で、そう言った負の気配には敏感になっている二人は、あたりを油断なく見渡しながら感覚を研ぎ澄ませる。いつ、何が起こっても対処できるように。

 

「黒崎……本体はどうする気だ?」

「大丈夫だ。……ちゃんとこいつがいる」

 

 そう言って、一護がリュックからズボッとコンを取り出すと、石田が「うおっ」と引きつった声を漏らした。

 

「なぜ、こんな、ところに」

「勝手に潜り込んでやがった」

「オイ‼︎ なんだその言い草は⁉︎ 俺様の力がどうせ必要だろうと思って来てやったってのによ‼︎」

 

 引っ張り出されたコンが、一護に対して抗議の声を上げる。

 一言言ってやりたいが、この状況ではこいつの言うことが正しい部分もある。一護は険しい表情で根を睨みつけながら、ギリギリと拳を握りしめた。

 

「ったく、今回限りはお咎め無しにしてやるよ。おら」

「げふっ⁉︎」

 

 容赦無くコンの腹を殴り、ぬいぐるみの中の小さな粒ーーーコンの魂である改造魂魄(モッド・ソウル)を吐き出させる。

 何かの液体がくっついているそれをばっちそうに拭うと、一護はそれを飲み込んだ。

 

「ーーー‼︎」

 

 その瞬間、一護の体から黒い着物をまとったもう一人の一護が現れ、枯葉の上に降り立った。身の丈ほどもある巨大な刀を背負った一護は、長く白い布に封じられたそれを抜き放って構える。

 そしてその隣で、石田も懐から取り出した白い器物を操り、青白く光る弓矢を顕現させた。

 彼らこそ、生の理から外れた霊の変異した存在・(ホロウ)から、生きた人間と善良な霊魂を守護する死神代行と滅却師(クインシー)。本来は、相容れない存在である。

 

「さっさと離れてろよ、コン」

「うっす! 任せたぜ!」

 

 一護に変わって一護の体に入ったコンが、砕けた敬礼を見せながらその場を離れる。これは、帰るべき一護の肉体を守るための処置だ。

 

「気をつけろ、黒崎……何か、得体の知れない気配を感じる」

「ああ…。さっきからイヤってほど伝わってくる」

 

 戦闘準備を整えた一護と石田が、ざわめく暗い森に視線を向ける。気配は、先ほどよりもより近くなっている、だがどこにいるのか皆目見当もつかない。

 緊張感が高まり、冷や汗が二人の頬を伝った、その時。

 

「何かご用ですか…………?」

 

 一護と石田の背後から、抑揚の乏しくか細い女の声が聞こえ、二人の動きがピタリと止まった。

 暗い霧の中に、髪の長い着物の女性がぽつんと一人で立ち尽くしていたのだ。

 

「うおわああああ⁉︎」

 

 なんの前触れもなく背後に立たれ、一護は大きな声を上げて、石田は表情を引きつらせながら飛び退いた。まさかこんなところで、ホラー映画のような展開が待っているとは思わなかった。

 至近距離で大声を上げられたにもかかわらず、突如現れた女性はただ無言で一護と石田の方を見つめて佇んでいる。妙に不気味だった。

 

「なっ、なんだあんた⁉︎ いつの間に背後にいた⁉︎」

 

 一護は自分の刀ーーー斬魄刀を構えて女性を問い詰めながら、そのよく見れば非常に整った顔立ちの女性の奇妙な格好を観察した。

 一見すれば霊に見えたが全く違う。人間に限らず生き物は、魂魄と肉体が因果の鎖によって繋がれていて、これが切れると死者になってしまう。因果の鎖が本人の未練の対象などに絡みつくと、地縛霊などになる。そして、縛られた魂魄は数ヶ月、数年の歳月を経ると胸に孔が開き始め、完全に穴が開くと他の魂魄を襲う〝(ホロウ)〟へと変貌するのだ。

 だが、この女性にはそれがない。鎖も見えず、孔もない。のだが。

 

「何かご用ですか…………?」

「なんだお前ら……虚じゃねぇのは確かみたいだが……」

 

 それを抜きにしても、この女性はあまりにも不気味すぎた。生者にしては気配が薄く、目もどこか虚だ。生きたまま霊になったような、そんな印象を抱かせる姿だった。

 

「何かご用ですか…………?」

「⁉︎」

 

 女性を凝視していた一護と石田の背後から、今度は男性の声がかけられる。女性と全く同じトーンで、同じように古びた着物をまとった、顔立ちの整った男性が虚な目で一護と石田を見つめながらたずねる。当然、鎖も孔も見えない。

 

「何かご用ですか…………?」「何かご用ですか…………?」

稚児(ややこ)にご用ですか…………?」「稚児ご用ですか…………?」

 

 男性と女性はなんども同じ言葉を繰り返しながら、徐々に一護と石田の方へと近づいてくる。カサカサと落ち葉を踏みながら、地面を滑るように私鉄かづいてくる姿はあまりにも不気味だった。

 

「……! こいつら……!」

 

 一護と石田は背中を合わせ、それぞれで奇妙な男女を相手取るように身構えた。正体もわからない上、対抗できるのかしていいのか判断もできない以上、まずすべきはそれ以上近づかないように敵意を見せることだけだった。

 だがその時、何かに気づいた石田がはっと顔を上げて背後の一護に向けて声を張り上げた。

 

「⁉︎ 離れろ黒崎‼︎」

「あ? …ってうおわあああ⁉︎」

 

 訝しげに振り向いた一護が、次の瞬間には情けない声を上げて石田とともに左右に飛び退いた。

 直後、二人が今まで立っていた場所に何か鋭く太いものが振り下ろされ、落ち葉や枯れ枝を巻き上げて深々と突き刺さったのだ。

 二人は大きく跳躍して距離を取り、武器を構えながら振り下ろされたものの正体を見定めようと視線を上げる。そして、大きく目を見開いて凍りついた。

 

「……なん、だ、あれは」

 

 目をみはる石田のメガネに映るのは、黒い艶を見せる長い脚。いくつかの節に分かれた長く鋭い脚が、何本もワシャワシャと蠢きながら一護と石田の間を移動する。8本のその足の上にあるのは、輝く六つの真っ赤な丸い目と風船のような大きな腹。黄色い虎のような模様があるその姿はまさに。

 

「蜘蛛⁉︎」

 

 虚ではないにせよ、同等の危険性を見せる怪物の登場に、石田と一護は驚愕の表情を浮かべる。

 長く太い足の上から一護たちを睥睨した巨大蜘蛛は、その口らしき牙の間から虎のような咆哮を響かせて再び動き出した。八本ある蜘蛛の足のうち数本を持ち上げ、二人を突き刺そうと振り下ろし始めたのだ。

 

「デカすぎだろうが‼︎ なんの映画だよこれ⁉︎」

 

 巨大蜘蛛の足をかわして再び跳躍した一護は、低級なパニック映画のような展開に思わず抗議じみた声をあげる。見れば先ほどの男女が巨大蜘蛛の真下にたち、虚ろな目で一護たちを見つめている。

 かと思えば突如その姿が歪み、みるみるうちに異形のものへと変わっていく。体は昆虫の光沢を帯びた皮膚に変わり、腕には巨大蜘蛛と同じ虎柄の繊毛が生える。綺麗だった顔はいびつに歪み、蜘蛛の特徴を持ったような顔面に変貌する。それだけで、あの男女が巨大蜘蛛と深く関わりのある存在であることは理解できた。

 

「オイ、あれ虚じゃねぇよな⁉︎」

「見ればわかるだろう⁉︎」

 

 つい喧嘩口調になってしまうのも無理はない。あまりにも急な展開に、脳の理解が追いついていないのだ。

 しかしそんな間にも、巨大蜘蛛は足を振り下ろし、恐ろしげな咆哮を浴びせかけてくる。それだけではなく、今度は異形へと化した男女まで一護たちに襲いかかってくるのだ。

 

「うお⁉︎」

 

 首をかすった異形の爪に戦慄しながら、一護は斬魄刀を用いて攻撃を躱し続ける。しかし蜘蛛の足も異形の腕も硬く、初見の敵を相手に一護も石田も苦戦を強いられていた。

 しかも、巨大蜘蛛や異形は口から糸を吐き、一護の動きを阻害しようとしてくる。相手の見た目がまんま蜘蛛であったためその攻撃を予想していた一護はなんとかそれを躱しつつ、決定打を与えられない状況に歯噛みしていた。

 

「くそっ!」

「ぎゃああああ‼︎」

 

 途中、不意に聞こえた聞き覚えのある声に、一護の表情が引きつった。

 見ると、先ほど巨大蜘蛛が排他らしき糸がそこかしこにくっついて、いびつな蜘蛛の巣のようになっている。その中に、隠れているように言っておいたコンがなぜか巻き込まれていた。

 

「一護ーーー‼︎ 助けてくれーーー‼︎」

「何してんだよオメーは‼︎」

 

 蜘蛛の糸にがんじがらめにされているコンに、一護は額に血管を浮き立たせながら怒鳴る。このクソピンチな状況で何を手間をかけてくれているのだろうか、こいつは。

 状況は不利であった。虚ではない未知の敵、死神を視認し追いついてくる能力の高さ、そして何より、木々が頭上にまで生い茂りうまく動くことのできないという有様。初めて訪れた島の森という環境が、全て一護たちの枷となっていた。

 決死の覚悟を決めねばならないと、一護が表情を険しくする、その時だった。

 

「…………やれやれ、仕方のない奴らじゃの」

 

 不意に、その声は聞こえた。

 まだ見ぬ異形に苦戦する一護と石田は、頭上から聞こえてきたその声に思わず視線を上げる。

 張り出した太い木の上に、一人の少女が腰かけていた。袖のない黒い胴着のような着物を纏い、白い袴をはいた小柄な少女が、肩に茜色の小さな鳥を乗せてこちらを見下ろしていたのだ。

 一護はその少女を目にし、大きく目を見開いた。

 

「お、お前」

 

 その顔は確かに、船で一度、港でもう一度出会った少女のものであった。

 突如介入した少女を前に、二体の異形はキチキチと牙を鳴らしながら両目を蠢かした。

 

「……鬼?」

「鬼? ……でも違う」

「ああそうじゃ。わしは鬼ではない……まだ(・・)の」

 

 目下の異形をものともしていない不敵な笑みを浮かべ、少女は目下の異形たちを見据えてみせた。

 

「どら、ちぃとばかしわしが相手になってやるかのぅ」



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4.spider and demon

「ほれ、かかってこんか虫ケラども。……それとも、勝手の違う相手は怖いか?」

 

 高く育った樹の上に立って獰猛な笑みを浮かべ、童子と姫を挑発する少女。

 童子と姫は少女を憎たらしげに睨めつけ、低いうなり声をあげて威嚇を始めた。

 

「鬼…やはり鬼」

「俺たちの敵。ややこのーーー敵!」

 

 姫と童子は苛立たしげに牙を鳴らし、不意に頭上の枝に向けて口から白い糸を吐き出した。一護たちのクラスメイトを縛っていた、あの糸だ。

 

「ーーーほっ!」

 

 少女は枝の上から軽々と跳躍してその糸を躱すと、空中で宙返りしながら着地する。地面にあった落ち葉や枯れ枝を踏み潰しながら、少女は背後で呆けている一護と石田にぎろりと眼を向けた。

 

「邪魔じゃ、下がっておれ。死神ではやつらは倒せんぞ」

「ーーー⁉︎ お前、なんで……」

「邪魔じゃと言っておる! それに、もう一匹を忘れるな!」

「うおっ⁉︎」

 

 少女が忠告すると同時に、先ほどまで倒れていた大蜘蛛が復活し、一護と石田に向けて鋭く尖った足を振り下ろした。一護と石田は慌ててその場から跳びのき、童子と姫を少女に任せるようにして場所を変えて走り出した。

 

「うおおおおおっ⁉︎」

 

 一護は大蜘蛛の足を斬魄刀で弾きながら受け止め、石田は弧雀から矢を放ちながら対抗する。普段も怪物と戦う二人だったが、未知の敵である上に何故か決定打を与えられないために徐々に押され始めていた。それでも相手は容赦がないため、二人は逃げるように後退する他になかった。

 大蜘蛛は標的を二人に定めたようで、地面に足を突き立てながら童子たちから離れていく。

 少女はそれを計画通りと言わんばかりに見やり、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「おおおお‼︎」

 

 少女らしからぬ野太い咆哮と共に、姫に向けて拳を振るう。姫は躱すが、少女の爪が頬をかすり4本の傷跡を刻む。自身に傷をつけられた姫は凄まじい殺気を込めて少女をにらみ、激昂したように咆哮を上げて童子と共に襲い掛かった。

 少女は鹿のように軽々と飛び跳ねて後退し、姫と同時の攻撃をやすやすと躱していく。時に姫たちの爪を手甲で弾き、相手のバランスを崩させてから顔面に向けて回し蹴りを食らわせると、童子と姫は顔面を凹ませながら大きく宙に吹き飛ばされた。

 小柄な少女が見た目に似合わぬ剛力で異形を相手取っている光景に、身動きの取れずにいるコンは眼を見開いて驚愕する。

 その途中、反撃を受けて後退した少女がコンの目の前まで跳躍してきた。

 

「おお……ベストアングーーールびゅっ⁉︎」

 

 拘束されて転がっているコンは、ちょうどいい位置に少女が立ったために見えた着物の下からの光景に鼻の穴を膨らませる。が、次の瞬間には容赦なく顔面を踏み潰されていた。

 だが、その動作が少女に致命的な隙を生んでしまった。少女の背後から、蜘蛛の片割れが口から粘着性の糸を吐き出してきたのだ。

 

「ぬぉっ⁉︎」

 

 死角からの攻撃に、少女は対応しきれず受けてしまう。蜘蛛の糸が少女の体に絡みつき、腕と体をひとまとめにして拘束してしまった。

 

「くっ……おのれ!」

 

 地面に倒れた少女はもがきながら糸を外そうとするも、見た目以上に頑丈な上に強力な粘着力でまとまっているようで、動けば動くほど体に食い込むようだった。

 冷や汗を流しながら糸を外そうともがく少女の元へ、一護たちを追うのをやめた大蜘蛛が戻ってきたらしく、地響きが伝わってきた。

 

「い、いかん!」

 

 もがけばもがくほど糸は体にこびりつき、絡まり、脱出がより困難になっていく。手も足も出ない厄介な獲物が転がっている様に、大蜘蛛も姫も同時もいやらしい笑みを浮かべたような気がしてくる。

 そしてついに、大蜘蛛の足が少女の顔のすぐ横に突き立てられ、異形たちが徐々に距離を詰め始めた。

 窮地に陥った少女の顔が、絶望に染まりかけた時。

 

「月牙……天衝‼︎」

光の雨(リヒト・レーゲン)‼︎」

 

 黒い巨大な斬撃が、大蜘蛛の横腹に突き刺さり、その衝撃で大蜘蛛の巨体を吹き飛ばした。

 思わず振り向いた童子と姫も、不意のうちに食らった無数の光の矢に貫かれ、大蜘蛛と同じく吹き飛ばされる。

 少女は大きく目を見開いて硬直するが、自身を拘束している糸が刃が入ったことで我に帰る。顔をあげれば、ゼェゼェとあり息をついている一護が斬魄刀で糸に傷をつけていた。

 

「うちのバカがすまん!」

 

 相当走り回ったのか、大きく肩をいからせて呼吸を荒くする一護は、片手を上げて少女に謝罪する。離れたところでは、弧雀を構えた石田が大蜘蛛を牽制しており、こちら側に来ないようにかばってくれているのが見えた。

 少女はニヤリと笑うと、親指を立てて見せた。

 

「礼を言う! フン!」

 

 切れ目が入った糸を力ずくで引きちぎり、少女は再び立ち上がる。

 そして、すぐさま起き上がるも警戒し、再び距離を詰めてくる姫を鋭く睨みつけ、両足を踏ん張って構える。

 姫が咆哮と共に駆け出した瞬間、少女は大きく息を吸い込んで溜め込み、姫に向けて一気に吐き出した。鮮やかな瑠璃のような、強烈な青い火炎と共に。

 

「……火を、吹いた……⁉︎」

 

 石田が呆然と呟く前で、少女の吐き出した火炎が姫を飲み込み、その体に食らいつく。真っ向からまともに食らった姫は避けることさえできず、炎の勢いに押されながら後退してもがき苦しむ。

 よろよろとふらつきながら体を焦がされた姫は、がっくりと膝をつくと次の瞬間塵芥となって弾けた。まるで初めから何もなかったかのように、ただの土くれへと変わり果ててしまったのだ。

 敵の一帯を倒し、ぎらりと目に獰猛な光を灯すと、少女は石田に足止めを食らっている大蜘蛛の元へと走り、腰に下げていた二本の棒を取り外して両手に構えた。

 

「やってくれたのう! 歯ァ食い縛りィ‼︎」

 

 大蜘蛛の背の上に向けて大きく跳躍し、赤い半透明な結晶を削って作られた、鬼の顔を飾った撥を振りかぶる。石田の弓に気を取られていた大蜘蛛は少女に接近を許し、背中にその一撃を受けた。

 ドンッ、と。まるで太鼓を叩いたかのような凄まじい音が響き渡り、大蜘蛛は大きく痙攣して動きを止めた。

 

「音撃打、火炎連打の型!」

 

 撥を大蜘蛛の背中に抉りこむように叩き込んだ小さくつぶやき、少女は再び二本の撥を振りかぶった。

 

「ゼェァァァアアアア‼︎」

 

 獣のような咆哮とともに、大蜘蛛に強烈な一撃が突き刺さる。動くこともできない大蜘蛛の背に立て続けに、雷のような轟音が大気に波を打つ。

 空中に波紋を生じさせるほどの衝撃が走り、浸透し、それを受け続けている大蜘蛛は痙攣しながら泡を吹く。しかし少女は情け容赦なく打撃を叩き込み続け、大蜘蛛を追い込んでいく。

 戦っているとは全く思えない怒涛の演奏が披露される。だが、ほとばしる汗、盛り上がる筋肉、激しく揺れる胸、その全てが命を燃やすように躍動し、熱気を辺りに拡散させていく。

 

「終いじゃあああああ‼︎」

 

 怒号とともに、とどめの一撃と言わんばかりに少女は撥を大きく振りかぶり、これまでよりも強い一撃を大蜘蛛に叩き込んだ。

 大蜘蛛は、落雷でも受けたかのように体を大きく痙攣させると、ピンと伸ばしていた足から力を抜いてがっくりとうなだれる。

 そして、少女が撥を肩にかけて飛び降りると同時に、大蜘蛛は無数の木の葉の切れ端となって四散するのだった。

 

「鬼……鬼……‼︎ 鬼嫌い‼︎」

 

 余波を逃れていた童子は木の上から少女を睨みつけていたが、再び手を出すことはなく子供のような捨て台詞を残すと、口から敗退とを使って目にも留まらぬ速さで逃げ去っていった。

 

「……チッ、逃げ足の速いやつよ」

 

 少女も無理に追うことはせず、舌打ちして視線を外した。両手の撥をくるくると弄ぶと腰のホルスターに戻し、気だるげに肩を回すのだった。

 そこでようやく、呆然と見つめてくる一護たちを思い出したのか、親しげな笑みを浮かべて近寄っていった。

 

「よう、若いの。また会ったの」

 

 気軽に声をかけてくる少女に、一護も石田もまともに返答することもできない。

 無理もない。自分たちよりも若い、いや幼い少女が見るからに恐ろしげな異形と戦い、あっという間に片割れを退治してしまったのだから。

 

「黒崎、知っているのか?」

「いや、二回顔を合わせただけだ」

「三度も会えば立派な知り合いじゃ。そう構えんでもよかろ」

 

 ヒソヒソと話していた二人に近づくと、先ほど異形を爆散させた撥で肩をトントンと叩いて見せた。

 

「おい若いの。さっさと仲間のところへ帰れ。暗ぉなると魔化魍も表に出てきおるぞ」

 

 警戒していた石田は、少女の見た目にそぐわぬ話し方に面食らい、訝しげな表情を浮かべた。

 

「若いのって……君は歳いくつなんだ?」

 

 実施に年齢を聞くつもりではなく、年上に対する態度に物申すつもりで言った石田だったが、その方を諦めた表情の一護が掴んで止めた。

 

「おい石田、やめとけ。こいつ俺たちより年上だぞ」

「は?」

「おいおい、わしじゃってこれでもれでぃじゃぞ? 気軽に歳を聞くな。17じゃ」

「言うのか⁉︎ って……え、年上?」

 

 やはり石田も見た目に騙されていたのか、一護と少女を何度も見比べる。

 背丈に関しては中学生、もしかすると小学生程度しかない。顔立ちも子供そのもので、手足も鍛えてはあるが細く少年に見えかねない。

 だが、道着を押し上げている胸の膨らみは確かに小・中学生ではありえない大きさだ。巨乳で有名な織姫にも匹敵するかもしれない。幼い少女の見た目に大人のような体つき、そしてやけに老獪な口調とあまりにもアンバランスだった。

 

「えっと……連れがなんかすんません」

「その……申し訳ない」

「まじとーんで謝るでないわ‼︎ 虚しくなるわ‼︎」

「いやだって、その見た目でいじる気にもなんねぇっていうか……マジですんません」

「やめい! 本気でしばかれたいのか⁉︎」

 

 見た目と年齢のギャップを知り、気圧された二人が恐々とした様子で頭をさげると、少女は機嫌悪く鼻息を荒くした。

 

「ここまで失礼な奴も珍しいのう。まぁ良いわ」

 

 少女は深いため息をつくと、呆れたように笑みを浮かべた。その時、不意に彼らの足元からくぐもった声が聞こえてきた。

 

「おーい! 俺の糸もちぎってくれよ……ぶがふっ⁉︎」

 

 先ほどから魔化魍の糸に体を拘束され、放置されているコンが抗議じみた声を上げた。

 だが、ザクザクと無言で近づいた少女に頭を踏みつけられ、グリグリとかかとで圧をかけられる羽目になった。先ほどのセクハラにまだ腹を立てていたらしい。

 

「んん? なんじゃ、どこかでけだものの鳴き声が聞こえた気がしたが気のせいじゃったかのう?」

 

 とぼけた顔で何度も足を振り下ろす少女の真下から「ぎぃやあああああ‼︎」と鶏を絞め殺したかのような悲鳴が聞こえる。まるで気づかないように振舞っている少女に、一護が若干ドン引きしながら一歩近づいた。

 

「あの……それ一応俺の体なんで、その辺で勘弁してやってくれないっすか……?」

「そういえばそうじゃったの。オルァッ‼︎」

「ゲフッ⁉︎」

 

 腹を蹴られたコンが自らの改造魂魄を吐瀉物と一緒に吐き出す。どさりと倒れふす自身の体を見て、このまま自分の体に戻ることが恐ろしく感じる一護であった。

 

「ひ、ひどい……さっきから全く容赦がない」

「ほとんど自業自得だろ。つーか俺の体で妙なことすんなっての」

 

 唾液まみれになった改造魂魄を汚なそうに回収する一護が、恨みを込めた目で魂魄を睨みつける。ぶっちゃけ今戻りたくないのだが、自分の体を放置したくないので悩ましいところであった。

 石田はそんな一護を放置し、真剣な表情で自分に背を向けている少女に向き直る。

 

「……改めて聞きたい。君……いや、あなたは一体何者なんだ? それと、さっき言った魔化魍……とは何だ?」

「…………」

 

 石田の方をちらりと見やった少女は、やや考え込んだかと思うと森の奥の方に視線を向けた。何かをじっと見つめたかと思うと、小さくため息をついて二人に向き直った。

 

「話はここを出てからじゃ。お主らを抱えてまた奴らとやりあうのは勘弁じゃからの」

 

 ジンジンと痛みが残る自身の体に戻り、ぬいぐるみにコンの改造魂魄を戻す一護と冷や汗を流す石田に忠告し、少女は先に歩き出した。まだ納得できていない様子の二人だったが、少女の言うことも一理あると考えたのかそれ以上の文句もなく後を追う。

 その途中、ふと一護が不審感をありありと顔に表した表情で尋ねた。

 

「なぁ……名前ぐらい聞いてからでもいいか? さっきから呼びづらくて仕方がねぇ」

「……そういえばまだ、名乗っておらなんだか? これは悪かった」

 

 うっかりしていた、とばかりに目を丸くした少女は、思わず足を止めて石田と一護の方に振り向き、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

 

「わしの名は安達明日歌(あすか)。さっき言った通りーーー鬼じゃ、見習いのな」




うちのヒロインは、生身でも怪人と戦えます。


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弐之章 今と昔と
1.his and their groove


「……一護のやつ、まだ戻ってこないんかねぇ」

 

 未だ待機を言い渡されている啓吾が、隣の水色にぼやくように呟いた。

 ちらりと視線を横に向けてみれば、行方知らずになっていた女子は茶渡と織姫に抱えられてすでに戻ってきていて、教師たちによって解放されているが、一護と石田の姿はまだ見えない。

 水色はそれに、ちらりと視線を背後の森に向けながら答えた。

 

「案外迷子になってるんじゃないの? 多分探しにいってたんだろうしさ」

「ミイラ取りがミイラ取りになってどうすんだよ……いて!」

 

 呆れた表情になっていた啓吾の頭がゴッと小突かれる。振り返ると、不機嫌そうな顔の一護が見下ろしてきていた。

 

「だ〜れがミイラ取りの迷子だコラ」

「んだよ! いつのまに戻ってきてたんだよ!」

「おう。今来た」

 

 なんともないように答えられ、啓吾と水色はやれやれといったように肩をすくめた。心配して損した、とでも言いたげだった。

 するとその後、キョロキョロと辺りを見渡していた織姫が、一護が戻ってきていることに気づいて駆け寄ってくるのが見えた。

 

「あっ! 黒崎くん!」

 

 不安げだった表情がパッと明るくなり、茶渡も気づいたのかのしのしと一護たちの方に近づいた。

 

「大丈夫だったの?」

「おう。…まぁ色々あったが、無事だぞ」

「なぁにが無事じゃ。わしがおらんかったらおぬしら、今頃どうなっておったかわからんぞ?」

 

 あっけらかんとした顔でそう答えた一護だったが、その直後に啓吾たちには聞き慣れぬ声が否定した。思わず辺りを見渡すが誰の姿も見えず、一護に真下を指さされてようやく啓吾たちを見上げている少女の姿に気づく。

 当の本人は不躾に見下ろされ、腕を組んだまま不機嫌そうに啓吾たちをにらみつけていた。

 

「……おい一護。どっから拾ってきたんだこの幼女」

「誰が幼女じゃ」

 

 至極真面目な顔で幼女・明日歌を指差した啓吾を、明日歌は鬱陶しそうに払いのける。そのひたいには血管が浮きだっていて相当不機嫌そうだった。

 

「全くどいつもこいつも……勝手に人を見た目で年下じゃと判断しおって。いい加減説明するのが面倒になってきたわい」

「……はい?」

 

 明日歌のつぶやきが聞こえたのか、啓吾が訝しげな顔で見下ろす。その肩を、一護が訳知り顔で軽く叩いた。

 

「おいお前ら、言っとくけどこいつ俺らの一個上らしいぞ」

「合法ロリ巨乳……だと……⁉︎」

「お姉さん、僕とお話しでもしませんか?」

「殺すぞ色ボケども」

 

 お姉さん好きと年上好きに迫られ、明日歌はドスの利いた声で拒絶した。凄まじい手のひらの返しっぷりに相当苛立ったらしい。

 すると、突如明日歌の体が浮き上がった。

 

「や〜ん可愛い〜!」

「ぬぐっ⁉︎」

 

 突然のことに声を上げる明日歌は、自分を抱き上げている女生徒ーーー織姫に抗議じみた視線を向けた。

 大人ぶった口調の小さな女の子という見た目が織姫の琴線に触れたらしく、織姫は明日歌がじたばたと暴れても離そうとしなかった。

 

「やめよ小娘。わしを子供扱いするな!」

「何年生〜? 地元の子かな〜」

「聞いておらんの……」

 

 明日歌の抗議も気づかず、犬か猫のように可愛がろうとする織姫。男子二人のような下心がない分やりづらいのか、明日歌はされるがままになっていた。

 

「あなた確か……だいぶ前から管理人の小屋を借りてる男の人のお連れさんよね? どうしたの?」

「なぁに、女子二人が眠りこけておるところを見つけてこやつらを案内しただけじゃ。深い理由はない」

「そうだったの、ご苦労様ね」

「ええい! お前にまで撫でられとうはないわ‼︎」

 

 子供扱いする蛇園を威嚇する明日歌だったが、残念ながら今もなお織姫に抱き上げられているために迫力は皆無であった。

 反対に越智は明日歌の前にしゃがみ、まっすぐに目を見つめて笑みを見せた。

 

「ありがとな。助かった」

「気にするな」

 

 明日歌は越智にひらひらと手を振って答えると、織姫の手を振り払って離れた。後ろで残念そうな声と雰囲気を感じ取ったが、面倒そうなので無視することにしたようだ。

 

「さて、わしの用はもうないの。暗うならんうちに人気のあるところへ戻るがええ」

「お、おい!」

「あんまり戯れられるのは嫌いでの。わし、ドロンします」

 

 そのまま去ろうとした明日歌を、一護が止めようとする。

 だが、そのすれ違いざまに明日歌は一護の耳元で小さく呟いた。

 

「……子の刻に、宿の外で待っておる」

「!」

 

 一護は表情を変え、歩き去っていく少女の背中を見送る。石田や茶渡は様子の変わった一護を訝しく見つめ、同じく背を向けてさっていく明日歌の背中を見送る他になかった。

 その側で、越智が迷惑をかけた蛇園や役所の観光課のものに頭を下げていた。

 

「すいませんね蛇園さん。うちの生徒が迷惑かけて」

「いいえ〜。お気になさらずに、ご無事で良かったですよ〜。……でもこうなっちゃうと、生徒さんを落ち着かせる時間も必要ですねぇ」

「そうですね……」

 

 越智は少しの間考え込んだかと思うと、他の教師も交えて何かの相談を始める。しばらくして結論が出たのか、待機している生徒たちに声をかけ始めた。

 

「よ〜しお前ら、予定変更して先に宿行くぞ。全員指示に従え〜」

 

 

「む、ようやっと来たか」

 

 リーリーと、美しい鈴虫の音色が聞こえる夜。空座第一高校一年の生徒が泊まる宿の外にて、草むらの中で寝転がっていた少女・明日歌が、声と足音を殺して近づいてきた少年たちにそう答えた。

 サクサクと草むらをかき分けて寄ってきた一護の前で、明日歌はいきなりネックスプリングで起き上がり、パンパンと腰についた葉っぱを払って向き直った。

 

「就寝時間を無視して抜け出してくるとは、おぬしら大した不良だのう」

「るっせぇな。お前が説明するって言ったから来たんだろうが」

 

 そうじゃった、と舌を出す明日歌に一護は渋い顔になる。

 ふと明日歌は視線を一護から外し、茶渡の陰に隠れるように立っている織姫に目を向けた。

 

「なんじゃ?おぬしも来たのか織姫とやら」

「う、うん……じゃなくて、はい」

「今更畏まらんでも良いわ」

 

 一護たちから実年齢について聞いたらしく、今更になって萎縮している姿は滑稽だった。カラカラと笑っていた明日歌は、ややあってから真面目な表情に変わる。ようやく一護たちをここへ呼んだ本題について話す気になったようだ。

 

「さて、何から話すかのう……と言っても、特に言うことはないんじゃが」

「いやいや! あるだろう!」

「面倒臭がって適当にやり過ごそうとしてんじゃねぇぞ‼︎ うわこいつら面倒クセェなって顔すんな‼︎」

 

 いやそうな顔になった明日歌に一護が突っ込む。さっきまでの真面目な顔はなんだったのだろうか、なんともやりづらい相手だった。

 その時、明日歌の背後の暗闇の中から別の足音が聞こえ、一護たちはさっと身構えた。昼間の異形のこともあり、戦闘体制に入ろうとしたところを明日歌が制した。

 

「!」

 

 一護たちに手を差し出して止める彼女に鋭い視線を向けるも、明日歌は闇を見据えたまま動かない。

 すると、暗闇の中から一人の男が現れた。ダメージジーンズに白いシャツ、その上にジャケットを羽織ったワイルドな印象の衣服に身を包んだ、背の高い中年の男性だった。全体的に細く見えるが、シャツの襟から覗く胸からかなり鍛えていることがわかる、どこか抜き身の刀を思わせる風貌だ。

 

「? あんたは……」

「おお、師匠! もう来ておったのか」

 

 不意に現れた男に、明日歌は親しげに話しかけるも、反対に男性は冷たい目で明日歌を見つめ、何も答えずにいた。

 

「姿が見えんかったからどうしたかと思ったが……やはりまた現れておったか?」

「西の海岸にバケガニがきていた。姫と童子も仕留めたがまだくるかもしれん」

「そちらもか……やはり頻度が上がっておるのう」

 

 会話というには淡白な内容で、逆に一護たちが訝しげな表情になる。師匠と言っていたが、ということはこの男も鬼とかいうものなのだろうか。だが師と弟子の会話にしては、どこか気温差を感じるのはなぜだろうか。

 

「おお、紹介が遅れたの。わしの師匠、カブキじゃ。師匠、話はしたじゃろう? こやつらが昼間の四人じゃ」

「……そうか」

 

 カブキという名の男が、波がかった髪の下から一護たちをじろりと見据える。その瞬間、ぞくりと一護たちの背中に寒気が走った。

 

「……‼︎」

 

 カブキは何もしていない、ただ一護たちに鋭い視線を向けただけだ。だというのに、一護たちはまるで首元に研ぎ澄まされたヤイバを突き付けられたかのような感覚を覚え、思わず身構えてしまった。

 しばらく凍りつく一護たちを見つめていたカブキだったが、やがて小さく嘆息するとくるりと一護たちに背を向けた。

 

「……ならばもう、関わるな。怪我じゃ済まんぞ」

 

 冷たく突き放すような口調でそう言い残し、カブキは明日歌を置いてその場を離れていく。あまりに不躾な態度に明日歌も思うところがあったのか、ムッとした様子で師を睨みつけた。

 

「おい師匠! いくら何でもそれはどうかと思うぞ! こりゃ、待たんか!」

 

 しかしカブキは振り返ることもなく、来た時と同じようによるの闇の中へと戻っていってしまう。後に残されたのは、カブキの冷たい視線から逃れて安堵する一護たちと、苛立ちを持て余す明日歌だった。

 

「……気難しい人のようだね」

「無愛想で悪いの。昔からああなんじゃ」

 

 申し訳なさそうに明日歌が頭を下げ、カブキが消えた方を困ったように見つめる。

 

「どういうわけか、師匠は他の鬼と一切関わろうともせん。その上、頑なに島から一歩たりとも出ようとせなんだから、わしが本土に赴いて他の鬼と連絡を取っておるのじゃ」

「……難儀なやつだな」

 

 明日歌は深いため息をつき、「まったくじゃ」とこぼす。この様子から行って、いつも師との会話はあんな感じなのだろう。胃が痛くなりそうなことだ。

 話しかけづらくなった空気の中、石田が意を決して聞きたかったことを尋ねてみた。

 

「一つ、聞いていいかな。……鬼って、なんなんだ?」

「……ふむ」

 

 石田の質問に意識を切り替えたのか、少し考えるように顎に手をやってから明日歌は四人に向き直った。

 一護たちも姿勢を正し、明日歌の説明を聞く体制に入った。

 

「一護。おぬしのような死神が、人から変じた魔物を倒す役割ならば、わしら鬼は自然から生じた魔物を狩る役目を担っておるのじゃ」

「さっきの、でかい蜘蛛とかか?」

「うむ。わしらは奴らを、魔化魍と呼んでおる。昼間の蜘蛛はその中でも、土蜘蛛と呼ばれておる類のものじゃな」

「魔化魍……」

 

 改めて一護はその名を口にし、そして目の前にした時の異様な存在感を思い出す。虚とは異なる存在ではあったが、どこか似通った部分があるようにも思えた、あの異形の姿を。

 

「おぬしらも何度か聞いたことはあるじゃろう? 河童とか鎌鼬とか。あれは、過去に市井のものが遭遇した魔化魍が伝わったものじゃ」

「まじかよ!」

「まじじゃ。で、この島はどういうわけかよそよりも魔化魍の出現頻度が大きくての。師匠が常駐して狩り続けておるのよ」

 

 素直に驚いている一護の様子が面白かったのか、若干口元に笑みを浮かべる明日歌だったが、最近の忙しさを思い出したのかすぐに渋い表情に戻った。

 その表情に一護も同情を覚え、険しい顔になる。いっとき、虚の出現が連発した時があったことを思い出し、こういう荒事の仕事はどこも忙しいのだなと改めて痛感する。

 

「魔化魍がどう言った条件で生まれ出ずるかは、まだ解明されておらんが……土くれに邪悪な魂が宿ることで形を得るとわしの師匠は言っておったかの。……おっと、話がずれたか」

 

 石田は一番そこを聞きたかった気もするが、明日歌に追求しても仕方がないと言った様子で引き下がった。代わりに、二番目に聞きたかったことを明日歌に問いかけた。

 

「……それで、鬼はどうやって魔化魍を倒しているんだ?」

「そうだ。……昼間やりあった時、なんかハナから攻撃が効いた感じがしなかったんだ。あれは、どういうことなんだ?」

「……一言で言うなら、波長が異なるゆえ、といったところか」

 

 若干間を開けると、明日歌は言葉を選びながらたどたどしく説明を試みる。首をかしげる一護たちに、どうにか伝わるように必死に頭を働かせていた。

 

「魔化魍と虚は、似ているようでかなり違う。霊圧の波長が違うのじゃ。例えて言うなら、らじおとてれびの違いといったところかの? 同じりもこんでは操作できんじゃろう?」

「……そんな説明でいいのか?」

「……わからなくはないが」

 

 わかりやすいように身近なものを例えにしてくれているようだが、若干伝わりづらい気もする。とはいえ、こんな説明をすること自体初めてであろう彼女にそういうのは酷であるため、誰もそのことを言及しなかった。

 

「わしら鬼は特殊な材質により作り出した、楽器を模した武器を用い、魔化魍に清めの音を叩き込んで浄化する。これにより、魔化魍の中の邪悪な霊圧が浄化され、元の土くれに戻せるんじゃ」

「つまり……死神の力では、魔化魍に決定打は与えられない、と?」

「そうじゃ。逆に言えば、鬼は虚を相手にすることはできん。専門外と言うこともあるがの。滅却師も同じじゃ」

 

 そこまで聞いて、一護も石田もようやく理解が追いついてきた。自身の戦った感想と合わせて、ようやく実感を得始めたのだ。

 

「……その力は、どうやって?」

「素質のある奴らなら修行すれば身につくが……まぁ、一朝一夕には無理じゃの。わしも何年も修行しておるが、まだ完全には音を引き出せてはおらん。おぬしらがここにおる時間を考えても、すぐに戦力にはならんぞ」

 

 暗に役立たずと言われているような気分になり、一護と石田は自身に言葉の矢が突き刺さるような感覚を覚えた。

 彼女なりの警告なのだろうが、もう少しオブラートに包んでくれてもいいのではないだろうか、と思わないでもなかった。

 

「他に、聞きたいことはあるか?」

「じゃ、じゃあ! 鬼っていつからいたのかな? 死神とおんなじくらい?」

「……いや、そこまで古いかはわからん。わしも、そこまで長くこの稼業をやっているわけではないでの」

 

 顎に手を当て、織姫若干的外れな質問に真面目に応えようとする明日歌。

 ダメージを負った一護と石田、そして茶渡も詳しく聞こうとずずっと明日歌との距離を詰めた。

 

「じゃが確か、鬼を陰ながらさぽーとする組織が生まれたのが、そうさな。今から約500年も前……戦国時代くらいの頃じゃのう」



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2.Past convention

 

 ある島に、その集落はあった。

 人口はわずか数十人、土地も岩肌ばかりで資源に乏しく農業もまともに行えない、多くの人間は住めないほど貧しいその島の集落。

 その住人たちは今、島の端の岩場に集まり深々と頭を下げていた。

 轟々と強い風が吹き抜ける海沿いに列をなし、四方を紙垂で囲った空間を取り囲んでいる。あるものは念仏を唱え、あるものはひたすらに誰かに謝罪し、あるものはおいおいと涙を流している。

 紙垂の中心にいるのは、純白の衣装に身を包んだ美しい少女。わずかながら用意された供物とともに、化粧を施されて空間の中心に正座していた。その姿はまさに、上位の存在に捧げられた貢物というべき姿だった。

 

「すまん……すまん、許してくれ……‼︎」

 

 紙垂の空間を取り囲む島の住人の一人が、必死に手を合わせながら白装束の娘に許しを請いている。ボロボロと涙を流し、自分よりもずっと若い娘が一言も喋らずにその時を待っている姿を嘆きながら、何もできない自分を呪っている。

 悲しげに目を伏せていた娘は、その声を聞こえないようにしていたのか全く反応を返さなかったが、不意にその瞳がはっと開かれた。目の前の海面にボコボコと泡が立ち、白く染まり始めたのだ。泡立つ海面はやがてゆっくりと盛り上がり、次の瞬間激しい水飛沫を上げて弾けた。

 その中から、それが現れた。

 巨大な、恐ろしい姿をした龍が。

 

「だ……誰か、助け、て……」

 

 無表情を貫いていた娘の表情が、その時初めて崩れた。目の前に現れた凶悪な異形の顔を前にして、顔を青くしてガタガタと震え始める。どんなに覚悟を決めようと、諦めようと、すぐ前に訪れた絶対の恐怖に、耐えきることはできなかった。

 怯えて震える娘の前で、龍はその巨大な顎門を大きく開き、刀剣のように鋭く尖った牙が並んだ口を見せつける。生暖かい空気が娘の頬を撫で、娘はとうとう限界を迎えた。

 

「きゃああああああああああ‼︎」

 

 娘の悲鳴が上がると同時に、集落の住人たちはバッと目を背けて硬くつぶった。しかし肉が裂け、骨が砕け、血飛沫が撒き散らされる音に耳をふさぐこともできず、ただその凄惨な現場に縫い付けられたようにとどまることしかできなかった。

 その様子を、一人の幼い少女が。生贄の娘が食いちぎられ、血肉が撒き散らされ、海面が真っ赤に染まる光景を、鞠をつくおかっぱ頭の可愛らしい少女がじっと見つめ、やがてその口元を醜く歪めた。

 

「…………クヒッ」

 

 それは、生き物の笑みには思えなかった。

 人間をも超える残虐性と、獣よりも凄まじい凶暴性を秘めた最悪の存在が見せる、底冷えする笑顔だった。

 

「もっと、もっと、……もっともっとヒトを、血肉をもっと……‼︎」

 

 可愛らしい顔を見にくく歪ませ、引きつったような耳障りな笑い声をこぼす少女。

 その顔は、誰かに似ているように見えた。

 

 

 ある夜の集落にて、住人たちが全員一軒の家に集まっていた。痩せこけたその顔は皆恐々としていて、集落に襲いかかる魔物に怯えていることがよくわかった。

 かつては平和だったこの島も、かの龍が棲みついてからは地獄よりも恐ろしい場所と化していた。逆らえば自分が、一体どんな恐ろしい目にあわされるか。そんな自分の妄想が、村人たちを恐怖で縛り付けていた。

 

「長! もう皆限界だ‼︎ 娘は食われる、食い物は手に入らん、逃げようとすれば皆殺される! このままじゃ俺たちは全滅じゃ‼︎」

「…………もはや、頼めるものは他におらんか」

 

 集落で最も大きな家で、囲炉裏を中心に座っていた老人20人の一人が摑みかかる。するとそれまでじっと黙っていた長が、険しい表情でそう呟いた。

 そのつぶやきに、家を囲っていた住人たちは皆一斉に驚きの表情を浮かべ、ざわざわとどよめき始めた。長のいう頼めるものに心当たりがありながら、長がそれを口にするとは思わなかったからだ。

 

「長⁉︎ まさか……」

「一つだけ、方法がある」

 

 長に掴みかかっていた男が、わなわなと手を震わせながら後ずさる。

 恐れを孕んだその目を見つめ返しながら、長は非難されることを覚悟の上で力強く決断を下した。

 

「ーーー鬼の力を借りることだ」

 

 

 

 

 

 

「なぜわしが鬼に頭を下げに行かねばならんのじゃ‼︎」

 

 集落のはずれにある、一軒のあばらやから少女の怒号が轟きわたった。その周囲に何人もの大人がひしめき合い、中にいる二人を心配そうに見つめていた。

 二人のうちの一人、集落の長がギシギシときしむ床にあぐらをかき、一人の少女に向かい合っている。対して相手であるおかっぱ頭の少女は、その可愛らしい顔を憎々しげに歪めて長を睨みつけていた。

 

「わかってくれんか、アスカ。村で動けるものは、もうお前ぐらいしかおらんのだ」

「わかっとらんのは長の方じゃ‼︎ わしはごめんじゃ、あんな奴に助けを乞うなぞ‼︎ そんな真似をするぐらいなら死んだ方がマシじゃ‼︎」

「アスカ……」

 

 集落の住人は、皆飢えて弱ったものばかりでろくに動けるものはいない。鬼を探すためのたびになど耐えられるはずもなく、比較的症状が軽いアスカに頼む他になかったのだ。

 そう言って、土下座でもしそうな勢いでアスカに懇願する長だが、少女アスカは意気地になって全く取り合おうとはしない。それどころか、長の顔も見たくないとばかりに背を向けてしまっていた。

 

「……わしはいやじゃ。鬼に頼るなぞ」

 

 あぐらをかいた膝に乗せた手が、ギリギリと締め付ける。

 その姿を見ながら、長は深々と頭を下げた。その行為に、あばら家を取り囲んでいた住人たちがはっと息を飲んだ。

 

「そこをどうにか頼む……わし一人だったならばよかろう。贄の身代わりになるならそれでも良い。だが村には……」

「…………」

 

 長は、アスカが己を見ていないとわかっていてなお頭を下げ続ける。

 一向に動こうとしない長と、その周りから感じるチクチクとした視線に、アスカは居心地悪そうに身じろぎする。やがて、アスカは長たちに背を向けたまま深くため息をつくと、非常に不満げな表情のまま振り返った。

 

「……長は卑怯じゃ」

 

 そんな非難がましい言葉をかけられても、長は決して頭を上げない。

 アスカはくしゃくしゃに顔を歪めると、ガシガシを頭をかいて長に向き直った。

 

「ええい、わかったわい! じゃがあの男にだけは頭を下げんぞ。わしが頼むのはあの男以外の鬼じゃ!」

「……仕方がなかろう。お前が行ってくれるのなら」

「……支度をする。出て行ってくれ」

 

 そこまで言われて、ようやく長は頭を上げて安堵の笑みを浮かべた。アスカは居心地悪そうにまた背を向け、物置に使っている筆の方へと向かった。

 長も腰を上げ、もう一度アスカに頭を下げてから住人たちの待つ出口を潜っていった。

 先を歩いていく長の後を、心配そうな顔の住人たちが付き随うと、アスカに聞こえないよう抑えた声で問いかけた。

 

「……長。あんなことを言って本当に大丈夫なんか?」

「そうじゃ。そう簡単にこんな辺境の島に助けが来てくれるとも思えんし……何より、鬼じゃぞ?」

 

 一人がこぼした声に、他のものも同意するように表情を険しくさせた。鬼という存在は当時、それほど忌避されるものであったのだ。

 

「わしは昔、この島におった鬼を見たことがあるが……あれはまるで化け物じゃ」

「おっかのうてたまらんぞ」

 

 皆、その鬼のことを思い出しているのか、口々に鬼に対する偏見じみた感想を漏らし、ますます不安を募らせていく。だが長はそれに答えず、ただただ真剣な表情で先を急ぐのだった。

 アスカだけに準備させるわけにはいかない。食べ物に賃金、そしてなにより島を出るための船も用意してやらねばならない。せめて、それぐらいはしてやらねばならなかった。

 

「それによりによって、明日歌に頼むなど……」

「ああ、酷な話じゃ」

「……わしらでは、何もできん。頼る他にないのだ」

 

 住人の不安を背負いながら、長は決意を変えることはなかった。

 

 

 広げた風呂敷包みに、乱暴に道具を乗せていくアスカ。その顔は険しいまま、長や他の者たちに対する不満が未だ色濃く残っていた。

 そんな時、アスカの住んでいたあばら家の戸がガタッと開き、一人の娘が顔をのぞかせた。

 

「本当に行くの、アスカ……」

 

 そう声をかけるのは、胡桃色の長い髪に花の形の髪留めをつけた妙齢の娘。親のいないアスカの面倒をよく見てくれていた、集落の娘の一人だ。

 不安げな表情でそうたずねる娘に、アスカはぶすっとした表情のまま無愛想に答える。

 

「……仕方がないじゃろう。わししかいけんのじゃから」

 

 どこか投げやりな言い方が、無理をしているように見えたのか娘はきっと表情をきつく歪めてアスカを睨む。

 

「だからって……! なんだったら、私が!」

「やめい。わしよりも体が弱いくせに何を言っておるか」

 

 アスカは深くため息をつき、顔を手で覆って天井を仰ぐ。

 何をしているのだ自分は。この恨みつらみは自分一人のものだというのに、その苛立ちを自分の恩人である娘にぶつけてしまうなど。

 何度も深呼吸をし、自分の心を落ち着けたアスカは肩をすくめ、娘を安心させるように穏やかな笑みを見せた。

 

「……案ずるな、わしは必ず戻る。それまで待っておれ……彩姫(あやめ)よ」

 

 そう言い残し、再び荷物をまとめる用意を始めたアスカに、彩姫と呼ばれた娘は何も返すことができなかった。

 

 

「ここが……本土か」

 

 小舟を降り、桟橋に登ったアスカが初めて口にした感想は、それだけだった。

 それも仕方がない。まず彼女の目に入ったのは、故郷の島とは比べようもないほどたくさんの人間があっちこっちに行き交う姿。めまぐるしく人が入れ替わり、見ているだけで目を回しそうな忙しなさだ。小柄な体に比較的大きな荷物を背負っているアスカを、時折邪魔そうに睨みながら様々な人が通り過ぎていく。臆しそうになりながら、まずは進もうと一歩を踏み出した。

 船着場を抜けて踏み入れれば、その喧騒がさらに激しくアスカの耳朶をなぶってくる。商売に勤しみ人を招く声、客と交渉する声、やれ負けろ負けられんと騒ぎ出す声、それらが一つに重なって騒音となり鼓膜を響かせ、人になれないアスカに過剰な負担を強いていた。

 

「行けども行けども……人、人、人。どうやって鬼なぞ探せば良いのじゃ?」

 

 人によったのか、うんざりした表情のアスカが近くの木の陰に背を預け、ぼやくように呟いた。背負っていた荷物をどっかりとそばに置き、ずるずるとへたりこむように腰掛ける。

 考えてみれば、鬼は魔化魍を相手にしていないときは普通の人と何ら変わらないのだ。島で何もせずにいるよりはまいかもしれないが、手がかりもなしに探すのは無謀というものであった。迂闊だった、とアスカは深く己を恥じるばかりであった。

 

「はぁ……どうしたもんかの」

 

 まだまだ来たばかりだというのに、疲れ切った表情でアスカは誰にともなく呟く。

 しばらくして、こんなところでくすぶっていても仕方がないと思い直し、立ち上がろうと荷物を探ったとき、近くにその感触がないことに気がついた。

 

「……ん?」

 

 思わず固まったアスカが、荷物を置いてあった場所を何度も探る。それを何度も繰り返しているうちに、ようやく脳が現実を認識して顔を真っ青にさせる。

 思わずその場に立ち上がったとき、視界の端に自分の荷物を背負ってかけていく知らない男の姿が目に入った。

 

「なっ⁉︎ 待たんか貴様ァ‼︎」

 

 アスカは怒りの形相で男を追い、建物の間の細い路地に飛び込んだ。

 だがその直後、建物の影に入っていた別の男の体にぶつかってしまった。

 

「ぬわっ⁉︎」

 

 アスカは自分の勢いを止められず、男の背中にぶつかって跳ね飛ばされてしまう。

 対して、後ろから急に衝撃を受けたゴロツキらしき強面で大柄な男は、背後で尻もちをついている少女にいらだたしげな目を向け、「ちっ」とこれ見よがしに舌打ちをする。

 尻の痛みに悶えていたアスカだったが、ゴロツキの向こう側に先ほど荷物を取った盗人の男がニヤニヤと卑屈な笑みを浮かべながら、アスカを見下ろしていることに気づいた。

 

「何でぃ、テメェは」

「其奴がわしの荷物を盗ったんじゃ‼︎」

 

 どすの利いた声で脅しつけてくる男に臆すことなく、すぐさま立ち上がったアスカがゴロツキの後ろに隠れている卑屈な盗人を指差して抗議する。

 だが、ゴロツキを隠れ蓑にしている盗人は、いやらしく表情を歪めてアスカを嘲笑った。

 

「ヒヒッ、これがお前のもんだって証拠はどこにあんだぁ⁉︎」

「なっ……ふざけるな! そんな話があるか⁉︎」

 

 悪びれる様子のない盗人に、アスカの頭に血がのぼる。

 しかしゴロツキの男がその間に入り、勇ましく吠えるアスカに下卑た笑みを浮かべて拳を鳴らした。

 

「下らねぇ言い訳しやがって……俺の舎弟に妙な因縁つけてんじゃねぇよ‼︎」

「うぐっ⁉︎」

 

 不意にアスカの腹部に衝撃が走り、息が詰まる。殴られたのだと理解するよりも前に、アスカは苦悶の表情を浮かべ、腹を抑えて後ずさる。乱れる意識の中、ようやくゴロツキと盗人が初めからグルだったことを理解していた。

 ゴロツキは荒く鼻で笑うと、盗人に顎で示してその場に背を向けた。

 アスカは痛む体に叱咤し、必死にゴロツキの着物にすがりついた。アスカの荷物の中には、自分の荷物だけではなく集落でかき集めてもらった鬼へのわずかな報酬が入っていたのだ。

 

「か、返せ……! それはわしの故郷のもんのための大事なもんなんじゃ! 返してくれ!」

「うるせぇ‼︎」

 

 再びゴロツキに殴られ、今度は意識が混濁する。家の壁に叩きつけられて息を詰まらせてズルズルと崩れ落ちる様を、男たちはゲラゲラと嗤い貶めていた。

 だが。

 

「おい」

「あ?」

 

 後ろからかけられた声に、盗人の男が卑屈な笑顔のまま振り返る。その瞬間、盗人の顔面に鋭いつま先が突き刺さった。

 

「ひぎゅっ⁉︎」

 

 盗人は短く悲鳴をあげ、白目をむいて昏倒する。その際、背負っていたアスカの荷物が風呂敷から溢れ、金属音を響かせた。

 

「なっ……何だテメェは⁉︎」

 

 音に気づいたゴロツキが、倒れている舎弟とそのすぐそばに立っている一人の男を前に驚きの声をあげた。

 派手な柄の着物の上に獣の毛皮を剥いで作られた上着をまとい、首から数珠のような首飾りを下げている、妙な雰囲気を放つ男だった。

 男は気絶している男を冷たく見下ろすと、次いで警戒しているゴロツキを鋭く睨みつける。

 

「ぐほっ⁉︎」

 

 盗人の男を足蹴にし、男は荷物から散らばったわずかな金子と、ゴロツキの向こうでうずくまっているアスカを見て口を開いた。

 

「寄ってたかってガキをいじめるなんざぁ、男の恥じゃねぇかい?」

「なんだってんだテメェは! 引っ込んでやがれ!」

 

 舎弟に手を出されたことよりも、明らかに自分の邪魔をしている男にゴロツキは激昂し、丸太のように太い腕を振り上げて男に襲い掛かった。蔑んだ目で見下されて頭に血が上っているのか、ただ力任せに拳を振り下ろす雑な襲撃だった。

 だが、それは男には届かなかった。

 

「‼︎」

 

 一瞬のうちに、ゴロツキの顔が右を向く。混濁する意識の中、ゴロツキが見たのは右足をゆっくりを下ろす男の姿で、自分が何をされたのかもわからないうちに地面へと倒れ伏した。

 アスカは、開いた口が塞がらなかった。いきなり現れたことも驚きだが、最も信じられないのはその鮮やかな手腕。

 たいていの大人が畏怖しそうな巨艦を前に一歩も引かず、冷静に相手との距離を見計らって放った回し蹴りにより、一瞬で相手の意識と戦意を刈り取ってしまった。しかもあれで加減をしていたのか、微塵も呼吸を乱してはいない。ただ者でないことは明らかだった。

 

「お、お主は……?」

 

 恐る恐る、アスカは名を尋ねる。

 なぜか、この男から目が離せない。整った顔立ちに、どこか浮世離れした雰囲気を放つこの男から視線を外せない。一体自分は、どうしてしまったと言うのだろうか。

 

「ーーー俺の名は、カブキ」

 

 男は不敵な笑みを浮かべ、そう名乗ってみせた。




わかりづらかった方がいらっしゃるようなのでこちらで解説いたします。

今回のお話は、前回明日歌が語り始めた大昔のお話です。区別をつけるため現代を明日歌、過去をアスカと表記しております。

そして過去編に入るときは〝鬼〟と表記しております。


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3.Where is the hand of solution?

「のう、カブキとやら。お主、なぜわしを助けてくれたんじゃ?」

 

 人通りの多い港町を、アスカとカブキが並んで歩く。例も受け取らずに去ろうとしたカブキに、アスカが半ば無理やりついて行ったのだ。

 

「理由がいるのかい?」

「少なくとも、信用はできる」

「カーッ! 最近の世の中は世知辛いねぇ! こんな子供まで疑ぐり深くなっちまうなんざ!」

「わしを子供扱いせんでくれぃ。こう見えても大人じゃ」

「へっ、そうかい。だが疑り深いのは確かだろ」

 

 カブキは小馬鹿にしたようにというか、どこか格好つけた物言いでアスカと話す。少し過ごしてわかったが、この男は大人に対してはずいぶん辛辣な態度をとるが、アスカのような子供には親身になってくれるようだった。

 

「なんてことはねぇさ。お前をあのまま見捨てて行くのは俺のプライドに関わる。そんだけさ」

「ぷらいど?」

「矜持ってことだ。要するに、俺の魂がそれをゆるさねぇってことだな」

 

 恥ずかしげもなくそう言ってのけるカブキに、アスカはあっけにとられたようになっていたが、やがてその顔に笑みを浮かべた。

 こんな男には、今まで会ったことがない。

 

「……本当にお人好しじゃの、おぬしは」

「なんとでもいいやがれ!」

「じゃが……助かった。ありがとう」

 

 改めて、アスカは恩人に深く頭をさげる。カブキはアスカの方を見ようともせず、ひらひらと手を振ってその感謝を適当に流す。謙虚と言うかなんというか、難儀な男に思えた。

 だがその時、歩いていたカブキが急にその場で立ち止まった。すぐ後ろを歩いていたアスカはぶつかりそうになり、カブキに抗議の目を向けようとするが、横から見えたカブキの表情に訝しげな表情になった。

 

「…………」

「? おい、どうし……」

 

 アスカが尋ねようとした時だった。

 ドンッ! と凄まじい音がして、アスカたちの後ろの建物の一つが吹き飛んだ。人が瓦礫とともに宙に巻きあげられ、悲鳴が辺りに響き渡る。

 はっと振り向いたアスカと目を細めるカブキの前で、吹き飛んだ建物から上がっている粉塵の中から、それは現れた。

 

「あ、あれは……‼︎」

 

 木片を踏み砕き、陽の下に姿を晒したのは、真っ赤な鎧武者。火炎のような意匠の甲冑を纏った巨漢がーーー火焔大将と呼ばれる魔化魍の一体が、いびつな形状の刀を振り回しながら我が物顔で人々の前に姿を現したのだ。

 予期せぬ怪物の登場に、その街にいた人々は一気に恐怖に顔を染め上げた。

 

「ま、ま、魔化魍……! 魔化魍だ‼︎」

「ヒィイイ‼︎」

 

 認識するが早いか、人々は我先にと魔化魍から逃げ出そうと走り出した。後ろから追ってこないか何度も振り返りながら、他の者を押し出したり転んだりしながら、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していく。醜い本性が現れ、誰もが畜生の如き醜態を晒し、そこは地獄のような有様と化していた。

 火焔大将はその様を眺めながら、わざと焦らすようにゆっくりと歩き出した。獲物をいたぶるように、一定の距離を保ちながら人々を追い立て始めた。

 アスカは戦慄の表情を浮かべ、人々を恐怖のどん底に叩き落としている魔物を凝視した。まさか魔化魍を倒すために鬼を探しに来たのに、先に魔化魍と遭遇する羽目になるとは。

 

「こんなところにまで……⁉︎」

「おい、ここから動くなよ」

「カブキ⁉︎」

 

 短くアスカに告げるが早いか、カブキは火焔大将に向かって走り出していく。無謀とも言える行動に、アスカが目を見開いて手を伸ばすが、引き止めることは叶わなかった。

 

「なんだって魔化魍がこんなところに出てきやがるんだよぉ⁉︎」

 

 逃げ惑う人々の中でそう情けない声を上げているのは、先ほどアスカを脅していたゴロツキの男だ。今はもう強面の顔を涙や鼻水でぐちゃぐちゃにし、みっともないことこの上ない醜態をさらしている。

 その声が聞こえたのか、火焔大将はぎょろりと兜の下の目をゴロツキたちの方へ蠢かした。

 

「ひっ、ひぃいいいいい‼︎」

「あ⁉︎ お、おい! てめぇ俺を置いて行くんじゃねぇよ‼︎」

 

 盗人の男が情けない悲鳴をあげたかと思うと、ゴロツキの男を置いて逃げ出していく。無駄に膨張した筋肉の塊であるゴロツキはすぐには動けず、盗人の男の背中を目で追うしかできない。

 そのすぐそばで、ガンっと硬い金属を突き立てる音が響き、ゴロツキの男は凍りついた。

 ぎこちなく振り向き、ゴロツキは眼の前で仁王立ちしている化け物の姿を目にした。身の丈はありそうな巨大な刀がゆっくりと振り上げられている光景に、ずるずると壁に背を預けてへたり込んだ。

 

「た、助け……ぎゃああああ‼︎」

 

 火焔大将の刀が振り下ろされ、ゴロツキが悲鳴をあげて目を瞑る。

 しかし、その刃は当たることはなかった。

 刀がゴロツキに当たる直前で、間に割り込んだカブキが刀に蹴りを叩き込んだからだ。軌道がずれ、火焔大将の刀はゴロツキの傍にめり込むだけで済んだ。

 

「あ、あ、あ、あ……」

「邪魔だ。どっかいってろ」

 

 短く悲鳴を漏らすしかないゴロツキに向けて、カブキは冷たく言い放つ。

 這う這うの体で逃げ出していくゴロツキをよそに、カブキは火焔大将と向かい合った。獲物を奪われたことに苛立っているのか、火焔大将の兜の下の目が憎々しげに歪められているのが目に入った。

 

「……まさか、こんなところで獲物にお目にかかるたぁ思わなかったぜ」

 

 そう言って、カブキは懐から何かを取り出した。金色に輝く、折りたたまれたそれを振って長く伸ばすと、それが音叉であることがわかった。

 鬼の顔を模したそれを握り、カブキは鬼の角に当たる金属部分を自分の靴に軽く当てる。

 キーン と甲高い音が響き渡り、音叉を中心に黒い波紋が広がっていく。カブキはそれを持ち上げ、自身の額にかざす。

 

「ーーー歌舞鬼」

 

 小さな声で、そう呟く。すると、カブキの周りに桜吹雪が吹き荒れ、カブキの体を包み込んでいった。

 

「……‼︎ あれは⁉︎」

 

 アスカが目を見開く先で、カブキは桜吹雪の白い光の中に完全に隠れてしまう。火焔大将も警戒しているのか、刀を構えて距離を取っている前で、桜吹雪の中で影が動いた。

 桜吹雪が舞い散り、再びカブキの姿を晒す。だが、その姿は先ほどまでとは明らかに違っていた。

 全身はしなやかながら隆々とした筋肉の鎧に守られ、その上に緑と赤に彩られた鎧が纏われている。両肩には鬼の顔を模した装甲が付き、全身が派手な色彩に彩られている。

 顔は右が緑、左が赤という非対称な貌に変わり、左右で長さの違う角が生える。

 その姿は、まさに鬼。

 

「まさか……カブキが、鬼⁉︎」

 

 カブキが変貌する様を目の当たりにしていたアスカが、呆然と呟く。アスカが憎み、そして求めていた存在が、目の前にいた。

 カブキは大きく腕を振り回し、まるで歌舞伎役者のような構えをとったかと思うと、異形の貌で火焔大将を睨みつける。そして腰に回し、供えてあった二本の棍棒、否、撥を手に取り、火焔大将に猛然と挑みかかった。

 

「おおおおお‼︎」

 

 雄叫びをあげ、歌舞鬼となった戦士が撥を火焔大将に叩きつける。火焔大将はそれを刀で受け止め、両者は互いに火花を散らせる。

 火焔大将が刀を振り回すも、歌舞鬼は二本の撥でそれを巧みに流し、火焔大将の鎧に連撃を加え続ける。負けじと火焔大将も歌舞鬼の猛攻をかわし、刀を振り回す。余波があたりのものを破壊し、街の一角は見るも無残なことになっていった。

 一進一退の攻防が繰り広げられ、民家や店先が巻き込まれて木片や陶器があちこちに散乱した。

 

「ウォオオオオオ‼︎」

「でりゃああああ‼︎」

 

 雄叫びをあげる両者。その均衡が、不意に崩れた。

 火焔大将の攻撃をかいくぐった歌舞鬼の撥が、火焔大将のまとう鎧の隙間にめり込んだのだ。一瞬の油断に受けた痛手に、火焔大将の動きが一瞬だけ止まった。

 

「喰らいやがれぇえええ‼︎」

 

 致命的な隙を見逃さず、カブキの渾身の一撃が火焔大将の顔面に直撃する。火焔大将の巨体はその衝撃で大きく吹き飛び、民家を巻き込みながら瓦礫の中に埋もれていく。

 直後、凄まじい轟音とともに火焔大将は爆炎に包まれ、瓦礫とともに跡形もなく吹き飛んだ。熱風が吹き荒れ、バラバラと瓦礫の破片が降り注ぐ中、撥を腰に戻した歌舞鬼が決めの構えを取っていた。

 アスカは思わず笑顔を浮かべ、拳を握って喜びをあらわにしそうになる。だが、不意に聞こえてきた声に冷や水を浴びせかけられた気分になった。

 

「鬼……」

「鬼だぜ……」

「なんだってこんなところに……」

 

 人々は皆蔑んだような声を漏らし、汚らわしいものを見るような目でカブキを睨んでいる。人の姿へと戻ったカブキはそれを鬱陶しそうに一瞥し、同じような目で睨み返した。

 

「……相変わらず、胸糞の悪い奴らだぜ。おかげでまた住むところがなくなっちまった」

 

 鼻息荒く街の者たちを一瞥し、カブキは苛立たしげに舌打ちする。そして、もう顔も見たくないと言わんばかりに、乱暴な足取りで街に背を向けて歩き始めていった。

 その後を、アスカは慌てて追いかけた。呆けている場合ではないと一瞬あってから我に返ったのだ。

 街をしばらく離れた、草地にまで移動してようやくアスカはカブキに追いついた。よほどあそこにいるのが嫌だったのか、前を歩くカブキは予想以上に速かったためだ。

 

「おっ……おい! ……おぬし、鬼、じゃったのか」

「おう。驚かせちまったみたいだな、悪い悪い」

 

 朗らかに笑うカブキからは、先ほどまでの凄まじい殺気は感じられない。まるで別人のようにも感じられ、それゆえにアスカはわからなくなっていた。

 カブキのおかげで、街の住人は救われた。大したけが人が出ることも、犠牲者が出ることもなかった。

 だが、それが彼のおかげだとは、誰も思ってはいなかった。化け物が化け物を倒した、ただそれだけのようにしか思っていないようにしか見えなかった。それでは、彼が何のために戦ったのか全くわからなかった。

 

「……何故、戦うのじゃ? おぬしに感謝しているものなど……一人も……」

「何言ってやがんだ」

 

 そんなアスカの疑問を、カブキは一蹴する。

 

「どんな奴でも助けんのが、俺たち鬼の使命だろ!」

 

 カブキがそう言った瞬間、アスカの胸にドクンと大きな衝撃が走った。

 衝動のままに地面に手をつき、深々と頭を下げる。目を見開くカブキに気づかないふりをして、アスカはひたいを地面にこすりつけた。

 

「恥を忍んでお頼み申す! どうか、どうかわしの故郷を救ってはくださらぬか⁉︎」

「お前、何を……」

「わしの島は、強力な魔化魍に襲われ、苦しめられておる! 毎月生贄を差し出さねば、村の仲間が惨たらしく殺される……頼れるのは、もう鬼しかおらぬのじゃ!」

 

 恥も全て捨てて、アスカはカブキに懇願し続ける。これで断られれば、もうアスカにあとはない。己の矜持などという不確かなもので自分を助けてくれた、慈悲深いこの人に断られでもすれば、心が折れてしまう気もしていた。

 そんな不安を感じ取ったのか、カブキはじっとアスカを見つめて言葉を返した。

 

「……その魔化魍、なんて呼ばれてる?」

「……オロチ、と」

「……!」

 

 アスカがその名を口にした瞬間、カブキの表情が変わった。あれだけ恐ろしい魔化魍に不敵な笑顔で立ち向かった男が、明らかに驚愕していた。

 眉間にしわを寄せ、カブキは考え込んでしまった。

 

「……そいつはちょいと厄介だな。少なくとも、俺が行っただけじゃどうにもならねぇ」

「なっ……!」

 

 信じられない気持ちで、アスカは声をあげた。先ほどの強さを誇る鬼でも、オロチには勝てないというのか。

 

「オロチってのは、ただの魔化魍じゃねぇ。そこらの魔化魍なら簡単に従えられる、魔化魍の王みたいなもんだ。そんな奴を敵に回しちまえば、半端な鬼じゃ相手にもならねぇ」

「そんな……!」

「まぁ、聞け」

 

 絶望の表情になるアスカに、カブキは肩を叩いて落ち着かせる。その顔には先ほどとは異なる、アスカを安心させようとするような笑みを浮かべていた。

 

「俺一人じゃ無理だが……他の鬼の力も借りりゃ、なんとかなるかもしれねぇ」

「他の、鬼じゃと」

 

 繰り返すように呟くアスカに、カブキは「ああ」としっかりと頷いた。

 

「鬼はどこにでもいる。普段は人には素性を隠し、俗世から関係を絶ってひっそりと暮らしている。そいつらを訪ねて味方につけりゃ、オロチにも対抗できるかもしれねぇ」

 

 カブキはそう言って、自信を見上げてくるアスカを見つめ返した。

 少女の目には何かを期待するような光が宿っている。だがそれを自分から言う勇気がないようで、きつく唇をかみしめてそこに立ち尽くしている。

 仕方なくカブキは、助け舟を出すことにした。

 

「ーーー付いてくるか?」

「……ああ。何処へでも行くぞ!」

 

 挑発するようなカブキのにやけ面に、アスカは不敵な笑みを浮かべて答えた。



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4.beyond the sea, beyond the mountain

 山道を歩きながら、先導するカブキについていくアスカ。周りを見渡してみればあたりは木々に囲まれていて、鬼どころか人の気配も感じられない。

 

「…………本当にこんなところにお主と同じ鬼がおるのか?」

 

 アスカは激しく不安になり、安易にこの男についてきたことを後悔し始めた。

 そんな質問に、カブキはアスカの方を見ないまま、ぶっきらぼうに答えた。

 

「人は鬼を嫌っているだろ?」

「……まぁ、そうじゃな」

「ま、そういうことだ」

「……わかりたくはないが、わかった」

 

 街で見た、カブキに対する人々の差別的な視線は覚えている。体を張って助けたというのに、返って来たのは礼ではなく侮蔑の言葉。しかも、真っ向から言うのではなく陰口のようであrながら聞こえるようにつぶやくと言う意地の悪さ。

 おそらくカブキが言いたいのは、鬼もまたそんな人間たちに関わり合いたくなくて、こんなところにひっそりと暮らしているのだ、と言うことだろう。

 アスカはカブキの後についていきながら、本当はこの男も自分に力を貸すことを疎ましく思っているのかもしれないと感じ始めていた。いつ、断られやしないか。そんなことばかり考えているうちに、二人は山の中腹に建てられた一軒の小屋にたどり着いた。

 

「……ここだ」

 

 扉の前に着くと、アスカはふと鉄の匂いを感じた。それと、激しく燃える焦げ臭い匂いが漂ってくる。耳をすませば、山道を登っていた時から聞こえていた金属音の出どころだということもわかった。その匂いと音には、覚えがあった。

 

「ここにいるのは、どんなやつなんじゃ?」

「引退した鬼だ。今は刀鍛冶をしていると聞く」

 

 刀鍛冶、と言う言葉に、思わずアスカの表情が険しくなる。嫌なことを思い出しかけたが、まさかと思って頭を振る。

 アスカの様子の変化に気づかず、カブキは戸を開けて中を覗き込んだ。

 

「おーい、邪魔するぜ。ヒビキ(・・・)

 

 だがカブキがその名を呼んだ時、アスカの予感は現実のものとなった。

 

「ーーー‼︎」

 

 息を飲むアスカの前で、金床の前に跪き、一心不乱に槌を振っていた男がその手を止めた。槌を傍に置き、めんどくさそうな表情で振り向くと、深いため息をついた。

 

「……カブキか。前にも言ったが、俺はもう……」

「ーーーなぜお前がここにいる……‼︎」

 

 ヒビキと呼ばれた男が答えるよりも前に、アスカの怒りを押し殺した声がさえぎった。

 カブキが驚いてみてみれば、憤怒の形相へと変貌したアスカが今にも殺しにかかりそうな怒気を放っている。手のひらに食い込む程爪を突き立て、かろうじてそれを抑え込もうとしているのが見えて、カブキはますます困惑した表情を見せた。

 

「答えろ、ヒビキ‼︎」

 

 ヒビキはじっとアスカを見つめ、何かを思案するように目を細める。

 やがて目をそらすと、興奮しているアスカではなく落ち着いているカブキの方を向いた。

 

「……アスカ、か。なんかようか?」

「おお、ちょうどいいな。この娘っ子の故郷が魔化魍に襲われてるらしくてよ、鬼の力を借りたいんだそうだ」

「やめよ!」

 

 早速とでも言うようにカブキが本題に入ろうとするが、アスカは怒り狂ったままそれを阻む。

 

「其奴なぞに……頼りとうない!」

 

 ヒビキをにらんだまま、アスカははっきりと拒絶する。

 ヒビキもそう言われることをわかっていたように何も言わず、深い深いため息をついた。熱を帯びたままの鉄を持ち直し、再び槌を振り下ろす作業を再開する。

 

「言っただろ、カブキ。俺はもう鬼の仕事辞めたんだから、他を当たれよ」

「当たり前じゃ。貴様に頼むなぞ死んでもごめんじゃ……」

 

 無理やりアスカとの会話をしないようにしているような響きに、アスカも憎悪を隠そうともせずに罵る。さすがに見過ごせなかったカブキが止めようとした時、アスカはキッとヒビキを睨みつけて叫んだ。

 

「兄者を見殺しにした貴様にはな‼︎」

 

 その言葉に、ヒビキの手が止まった。

 

「……アスカ? 兄者……って、なんのことだ?」

「……兄者は……こやつの弟子じゃった」

 

 アスカの放った衝撃の一言に、カブキは目を見開いてヒビキを凝視する。

 ヒビキは否定も肯定もせず、ただアスカの人を殺せそうな視線を背中で受け止める。それが頭皮に見えて、アスカの憎悪をさらに燃え上がらせた。

 

「こやつは兄者を救えなかった……いや! 救わなかった! そばにいたはずなのに! 救えたはずなのに‼︎」

 

 覚えている。駆けつけた時には、すでに冷たくなっていた兄の体を抱きしめた感覚を。

 降り注ぐ雨の中で、自分の心までもが冷たく凍っていくときの感覚を。

 怒りとともに、悲痛な表情を浮かべているアスカに背を向けていたヒビキは、やがて背を向けると立ち上がり、棚に置いてあった竹片の束を取り出し、カブキに差し出した。

 

「……力にはなれねぇが、他の鬼がいるところには心当たりがある。行ってみるといい」

「……ああ。わかった」

 

 カブキはそれを受けとり、自分の懐にしまう。

 ふと振り返ると、何も言わずに小屋の外へと出ていくアスカの背中が見え、カブキの表情も険しくなる。再び作業に戻るヒビキの背中を一瞥すると、カブキも出口へと向かった。

 

「……邪魔したな」

 

 鉄はもう、冷えきっていた。

 

 

 アスカとカブキは、ヒビキの住む山を降りてまた別の道を行く。二人の間にほとんど会話はなく、居心地の悪い沈黙が降りていた。

 

「……悪いな。そんな因縁があるなんざしらなかったんだ」

「良い。……言わなかったわしが悪いんじゃ」

 

 そんな感じで一言二言交わしてはまた沈黙してしまい、二人の足取りはさらに重くなるのだった。

 

「気を取り直していこうぜ。あいつのくれた情報もあるんだからな」

「……すまぬ」

 

 カブキが気分を切り替えさせようとするも、激昂したことをアスカが必要以上に気にしているのかそれ以上会話が続くこともなかった。

 しばらくして、二人は目的の場所へとたどり着いた。少しさびれた雰囲気のある、小さな寺院だ。

 

「よし、ここが、あいつが言っていた鬼がいるところだな」

「……寺?」

 

 二人は門をくぐり、ひっそりと立っているお堂に向かって近づいていく。きちんと掃除がされているのか、多少さびれていてもその荘厳さを失わずにいるお堂の扉を、カブキが先に叩いた。

 

「トウキとやら、いるか⁉︎」

 

 カブキが入り口の前からそう呼びかけると、ぬぅんと軒下を潜り、トウキと呼ばれた男が顔を出した。

 その瞬間、アスカは言葉を失ってトウキを凝視した。

 

(デカ⁉︎)

 

 アスカは目を見開いて硬直し、あんぐりと口を開いて呆然となる。

 現れた男は、身の丈六尺五寸(約197センチメートル)もの巨体を持つ僧侶。浅黒い肌を法衣で包んだ巨漢が、彫りの深い顔でアスカとカブキを睥睨し、厚い唇を開いた。

 

「お前がトウキか?」

「…………俺に、何の用だ」

「ひっそり過ごしてるところ悪いが、こいつからお前に頼みがある。聞いてやっちゃあくれねぇか?

「……奥へ来い。詳しい話を聞こう」

 

 未だに固まっているアスカを置いて、カブキとトウキはさっさとお堂の中へ入っていってしまう。少ししてようやく我に返ったアスカは、慌てて二人の後を追ってお堂の中へ入っていった。

 

 

「ーーーというわけだ。このガキは故郷を救うため、大嫌いな鬼にわざわざ頭を下げに来たわけだ」

 

 仏の像が見守る室内にて、トウキと向かい合ったカブキが隣に座ったアスカの事情を簡潔に説明する。

 トウキはただ黙って話を聞き、相槌を打つこともなくじっと佇んでいた。

 

「久しく鬼として戦っていないと聞くが、どうだ? もう一度人肌脱いでは見ないか?」

 

 カブキが誘うと、トウキはじっと黙ったままアスカを見つめる。無言の圧力を受けながら、アスカも負けじとトウキの視線を受け止め、強い眼差しで見つめ返す。

 

「……お前に、問いたい」

「何じゃ」

 

 やがて口を開いたトウキに、アスカは内心冷や汗を流しながら返す。

 やはり世間との関わりを絶って暮らしているくらいだ、断られるかもしれないと覚悟しながら、トウキの問いがなんなのかじっと待った。

 

「なぜ、嫌っているものに乞うほど必死になれる。お前にとってその者たちは、何だ?」

「…………そんなもの」

 

 なんだそんなことか、とアスカは肩から力を抜く。

 

「家族を守るのに、理由がいるのか」

「ム……」

 

 まごうことなき、アスカの本音であった。

 拾ってくれたことへの恩ではない、育ててくれたことへの礼ではない。ただそばにいてくれたこと、共にいてくれたことが、ただ嬉しくて仕方がないのだ。

 そんなアスカの答えを聞いたトウキはしばし黙り、やがてカブキに視線を戻した。

 

「…………しばし、そこで待っていろ」

 

 

「……本当に来てくれるのかの……しばらく一人にしてくれと言われたが」

「さてな。そればっかりは、あの男次第だ」

 

 トウキとの邂逅を終えたアスカとカブキは、お堂の外にいた。

 扉の隙間から覗き込んで見れば、仏像に向かって一心不乱に何か祈っている。もう何十分も石のように動かず、さすがにアスカとカブキも心配になり始めていた。

 やがて、目を開いたトウキが目を開き、立ち上がる姿を見て慌てて扉から離れる。

 トウキはお堂の扉を開くと、待っていた二人を見下ろして口を開いた。

 

「……仏の御言葉を聞いた。俺も行こう」

 

 トウキの言葉に、アスカはパァッと表情を明るくして詰め寄った。

 

「……! 本当かの⁉︎」

「嘘は言わん。相応の働きを見せよう」

「あ……ありがたい!」

 

 トウキが加わってくれたことに、アスカは地面にひたいを擦り付けるほど頭を下げることで感謝をあらわにする。

 涙を流しながら感謝し続けるアスカを見下ろしながら、トウキは初めてその顔に笑みを浮かべるのだった。

 

 

「……ここは」

 

 さっきまで喜びに満ちていたアスカの表情が、今や恐怖と緊張の混じった微妙な表情で固まっている。泳ぎに泳いだその目が、自分がこの場にいる違和感への恐怖を表していた。

 それもそのはず、今一行がいるのは過剰なほど広い一面上質な畳の一室。部屋の隅には豪奢な鎧兜や掛け軸、槍や刀が飾られ、明らかに上級の身分の者が住む場所という風格が漂っていた。

 

「なんだ? 見ての通り城だろ?」

「城は城でも、だ、大名の城ではないか……! 響鬼め、何を考えておるのじゃ! こんなところに鬼がいるわけが……」

 

 全く物怖じしている様子のないカブキやトウキに戦慄しながら、何か粗相でもしはしないかと恐々となるアスカ。貧乏な村の出身故、こういった高級な空間にいることは居心地が悪すぎるのだ。

 

「失礼します」

「わひゃいっ⁉︎」

 

 その時、内心狼狽しているアスカの背後に一人の女中が声をかけた。突然のことで驚いたアスカは可愛らしい悲鳴をあげ、ワタワタと慌てながら顔を赤くする。

 女中はさして気にする様子もなく、全員に平等に丁寧に頭を下げていた。

 

「もうじきに、城主が参られます。ご無礼のなきように」

 

 女中は短くそういい、再びぺこりと頭を下げてから退室していく。

 残されたアスカは、聞こえないように細心の注意を払ってからカブキたちの方に身を乗り出した。

 

「か、歌舞鬼よ? わ、わし、なんだかものすごく居心地が悪いんじゃが……ああいかん。お腹痛い」

「そうか? 気楽に待ってりゃいいんじゃねぇの?」

「む」

「それはおぬしらだけじゃ……‼︎」

 

 今だけはこいつらの顔の面の厚さが羨ましい、と身を震わせていると、部屋の奥、上座の方の戸がスッと開いた。

 開かれた襖から、一人の青年が顔を出した。甘い顔立ちに切れ長のまつげ、すっと高い鼻という、万人が美しいと評する顔立ちを備えた、美少年と言っても良い青年だった。

 アスカは慌てて姿勢を正し、現れた青年に無礼がないように気を配る。身に纏う豪奢な着物や雰囲気から一目でこの城で最も偉いものだと見抜き、ガタガタと震えながら首を垂れた。

 そんな彼女に、青年は朗らかで柔和な笑みを見せるのだった。

 

「よくぞいらしました。僕はイブキ。この城の主にして、鬼の一人です」

「…………は?」

 

 思わぬ返答に、アスカは礼儀も忘れて素で反応を返してしまった。

 

 

「なるほど……故郷を救うために遥々本土へ……」

 

 カブキから事情を聞いたイブキは、同情の混じった目でアスカを見つめる。細い手足や痩せた体を見て、暮らしの悲惨さを悟ったのだろう。

 うんと頷き、アスカを安心させるような笑みを浮かべた。

 

「大変だったね。女の子がそんなに苦労して」

「…………は?」

 

 慰めの言葉をかけるイブキに、今度はカブキが声をあげた。

 バッとアスカの方を振り向き、ジロジロとその体を隅から隅まで凝視する。少し顔を赤らめるアスカに向けて、カブキは信じられないといった様子で口を開いた。

 

「……女だったの?」

「気づいておらんかったんか貴様ぁ!」

 

 まさかの事実に、アスカの目に涙がにじむ。確かに体つきは貧相で背も低く、一見すれば男の子に見えても仕方がないとは思う。だが、こんなに長く一緒にいるのに微塵も気づかないというのはあんまりではないだろうか、とアスカは憤慨しながら涙に暮れていた。

 

「ええいそんなことはどうでもよい! どうかイブキ殿、わしの故郷を助けてはくださらぬか⁉︎」

 

 ブルブルと頭を振ったアスカはイブキに向き直り、無礼を承知でずいと詰め寄る。

 

「礼は……大したことはできん。じゃが、わしには主らに頼る他にない! どうか、どうかお頼みもう……」

「それ以上は必要ないよ」

 

 ひたいを床に擦り付ける勢いで平伏しそうになったアスカを、イブキは優しくなだめる。その目には、まるで仏のような慈悲深い色が見て取れた。

 

「ぼくら鬼の使命は、人を魔化魍から救うこと。その願いを無下にすることなど、ありえないよ」

「イブキ殿……‼︎」

 

 心の広いイブキの言葉に、アスカは今度は感涙の涙をにじませる。ぐしぐしと目をぬぐい、今度は感謝の気持ちを込めて平伏するのだった。

 

 

 だが、そこまで話が綺麗に終わるわけがなかった。

 

「いやぁ、本当にいいところに来てくれた。実際城主なんてのは暇なことも多くてね、息が詰まりそうだったんだ」

「……大人の汚さを見た気がする」

 

 あっはっはと気楽に笑うイブキに、アスカは心底疲れた表情で頭を抱える。

 豪華な着物から簡素な衣服に着替えたイブキは、先ほどとは全く異なる親しげな様子でアスカの肩を叩いた。どうにも城を抜け出す口実を運良く手にし、利用されただけのように身思えた。

 喜んで本当に良かったのかの、と自問しながら、アスカは不穏になった前途を憂うのだった。

 

「……それで、次はどこに行く」

 

 陰鬱な表情で俯くアスカをよそに、トウキがカブキに尋ねる。ヒビキの渡した竹簡を覗いていたカブキは、顔を上げて答えた。

 

「堺だ」




戦国時代のヒビキの見た目は一護を黒髪にしたバージョン、トウキは茶渡、イブキは石田になっております。


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5.Warroirs gather

 これまで訪れたどの街よりも活気にあふれた街、堺。

 酔いそうなほど行き交っている人々に圧倒されながら、アスカは後ろをついてくるカブキたちの方を振り向いた。

 

「それで。くだんの界の鬼は一体どこに……」

 

 アスカが尋ねようとした時、カブキたちの視線がある方向に集中しているのを目にした。気になったアスカは、自分も同じく視線を向け、そこに集まっている人の群れを注視した。

 人をかきわけ、囲んでいる己がなんなのか目にした時、全員の目が訝しげに細められた。

 

「……なんだ、あれは」

 

 人々が囲んでいるのは、両腕を後ろで縛られ、役人に両側から見張られている一人の男。派手な着物をまとった男は、憮然とした表情のままこしをおろしている。

 異様な光景に呆然となっていたアスカたち。そんな中、先に再起動を果たしたイブキが立てかけられていた看板の文字を読み上げた。

 

「え〜っとなになに……? この者は不肖にも異形の力を用いて盗みを行い、役人の顔に泥を塗った極悪人である。よってこの場で処罰を行うものなり……」 

 

 何やってんだあいつはーーーーーー⁉︎

 

 全員の心が一つになった。

 異形の力とは間違いない、鬼の力のことだ。だがまさか、それを盗みに利用して捕まるようなバカがいるとは夢にも思わなかった。

 

「鬼の力を……そんなことのために……」

「ム……」

 

 カブキとトウキが、捕まっている男に呆れた視線を向けながら呟く。初対面の同業者だが、今すぐに殴り飛ばしたい衝動を抑えるのが大変であった。

 

「…………おい、あれが本当にそうなのか?」

「み、認めたくはないけど……そうらしいね」

 

 イブキは必死にアスカから目を離し、だらだらと冷や汗を流した。このままだと、彼女の鬼への評価と信用がさらに地へと堕ちてしまう。他の人間に嫌われ疎まれるより、なぜかその想像は心にきた。

 

「……の、ようだな。さて、どう連れ出すか」

 

 呟いたカブキに、アスカは疑わしげな目を向けた。気持ちはわかるが、自分に向けるのはやめてほしいとカブキは切実に思っていた。

 

「盗みのために鬼の力を使うなぞ、信用できるのかの?」

「使える奴は使うべきだ」

「……まぁ、しのごの言ってられんけれども」

 

 戦力増強のためなら仕方がないと、アスカは色々言いたいのを我慢して自分を納得させる。

 カブキたちは一旦人混みから離れ、建物の影に入って輪を作り話し合う体制を作る。警備は厳重で、鬼といえど逃げ出すことは困難な状況に見える。

 

「まずは、あの包囲網をなんとかしないといけませんね」

「それで、どうやって奴らをーーー」

 

 何かいい案はないか、とカブキが尋ねた時。

 足元の小石を拾ったアスカが、辺りをキョロキョロと見渡し始めた。そして、近くの木の幹に縄で止められている牛や馬に目を向けた。

 アスカはポンポンと小石を手のひらの上で弄ぶと、両手で握って高く掲げる。そのまま片足をあげると、止められている馬の方に小石を全力で投擲して見せた。

 

「ーーーフッ‼︎」

 

 気合いとともに放たれた小石は馬の尻に命中し、ビシッと音が弾けた。

 

「ーーーー‼︎」

 

 自身の尻に襲い掛かった衝撃に、馬は混乱して甲高いいななきを響かせる。繋がれたまま前足を振り上げ、ガタガタと暴れ出し始めた。

 

「なんだ! 何事だ!」

「早く止めろ‼︎」

 

 役人たちが慌てながら、馬の所有者に暴れ始めた馬をなだめるように命じる。

 その瞬間、役人たちの注意が暴れ馬の方に集中した時、囚われていた鬼の男がギラリと目を輝かせ、動いた。

 と思った瞬間、男の手から縄がはらりと外れ、笑みを浮かべた男が一気に建物の屋根に向かって跳躍した。役人たちが気づくよりも早く、男は屋根を伝って恐るべき速さで逃げて行ってしまった。

 

「逃げたぞ!」

「追えぇぇぇ‼︎」

 

 逃げた男を追い、役人たちが慌ただしく駆けて行ってしまう。

 その様を、逃亡を手助けしたはずのアスカが呆然と見上げていた。

 

「……あれを抜けるとは、大した奴じゃ」

 

 感心したように呟いたアスカに、ぎょっとカブキたちの視線が集中する。表情は引きつり、信じられないものを見る目で少女を凝視していた。

 

「い、今の、アスカが?」

「手頃な石を投げただけじゃ。あとはあやつが自分でやった」

 

 なんということはない、とでもいうように苦笑するアスカに今度は鬼たちが戦慄する。あれは、常人では狙ってもうまくはできまい。思わぬ才能の片鱗を見せるアスカに、ゴクリと息を飲む男たちだった。

 

「しかし参ったの、せっかく出会った鬼が逃げてしもうたか……」

 

 そういうアスカだったが、今後の旅に大きな不安ができたことは否めなかった。

 カブキも同じ感想のようで、眉を寄せて唸りながら考え込む。大きな戦力を誘えなかったことが残念らしい。

 

「腕の立つやつだとは聞いてたはずなんだが……どうしたもんかねぇ」

「じゃ、じゃが、こうしている間にも皆が……‼︎」

 

 焦りを見せ始めるアスカに、トウキも同感だと言わんばかりに頷く。

 

「……少々心もとないが、確かにそうだ。急がねば村の者も危ないだろう」

「……恩にきる」

 

 内心を悟ってくれたトウキに感謝し、アスカは故郷の家族のことを思う。

 そんな気持ちを察してくれたのか、カブキがバシバシとアスカの肩をやや乱暴に叩いてきた。

 

「ま、気にすんな! こんだけ鬼がいりゃあ、一人くらい抜けたってなんとかなんだろ!」

「その通り。いくらでも力を貸しますから、大船に乗ったつもりでいてくださいよ」

「……かたじけない!」

 

 鬼戦士たちに慰められ、アスカは焦りを押し殺して笑顔を取り繕う。心配したままではしかたがない、今はこのものたちを信じ、家族の元へ行くことを考えねばならない。

 

「それで、アスカ? お前の故郷の島って一体どこなんだ?」

 

 カブキの問いに、アスカは振り返った。

 

 

「ーーー夜刀神島じゃ」

 

 

 

「ーーーこうして故郷のために島を飛び出し、少女の願いに心動かされた鬼たちが集い、オロチに挑むことになったそうな……」

 

 小さな子供に語り聞かせるように、穏やかに明日歌が締める。明日歌を囲うように一護たちが腰を下ろし、紙芝居でも聞かせているような状態になっていた。

 

「と、いうのがこの島に伝わっておる鬼の伝説じゃ」

「……そ、それでどうなったの⁉︎ アスカちゃんたちはどうなったの⁉︎」

 

 息を飲んで話を聞いていた織姫が、食い気味に明日歌に詰め寄った。話の途中ずっとハラハラしっぱなしで、相当感情移入していたらしい。

 

「さぁのう……わしが知っておるのは、このぐらいじゃ。続きは長い年月の果てに忘れられてしもうたようでの。記録も、ほとんどが風化して残っておらなんだ」

 

 距離の近い織姫を押しのけ、明日歌は若干気圧されながら答える。予想以上に食いつかれて少し鬱陶しく感じたようだ。

 

「じゃが、その時代から鬼を支える組織ーーー〝猛士〟が生まれたというのは聞いておるから……まぁ、なんとかなったんじゃろう」

「そっかぁ〜」

 

 織姫はのほほんとしているが、一護たちの感想は「適当すぎる…」というのが主だった。仮にも昔話を聞かせるなら、もう少し詳しくなってから教えてほしいものだ、そう表情が語っていた。

 

「じゃが、確かにこの島には巨大な龍が巣食って人を食っておったという言い伝えがある。あながち嘘ではないんじゃろう」

「……なるほど」

 

 石田は相槌を打ちながら、改めて聞かされた話を整理する。

 魔化魍と呼ばれた存在といい、それを退治する異形の戦士といい、確かに今日自分の目で見てきた光景だ。

 だが、自分もまた異形を相手にしてきた身、それを知らなかったというのはショックだった。

 

「……だけどまだ信じられない。あんな怪物のことも、それを退治する専門家のことも」

「ああ。思った以上に身近に関わってたみたいだしな」

「当たり前じゃ。おぬしらが人の目に見えぬ役割を担っておるのなら、わしらがやっておるのは人が見ようとしない役割じゃ」

 

 衝撃を受けている一護たちに、明日歌は少し呆れたような目を向けた。

「見える世界が全てではない。見えぬものも、見ようとしておらんものもあるのじゃ」

「…………」

「現に、わしや師匠の他にも鬼は全国におるからの」

 

 全知の存在になったわけではあるまい、と暗に言われているような気がして、一護たちの表情が歪む。

 明日歌はそんな一護たちを一瞥すると、軽く息を吐いて立ち上がり、パンパンと袴についた木の葉を払った。

 

「さて、これで質問たいむは終わりじゃ。さっさと帰って寝るがええ」

「! おい、呼んどいてなんだよ。本当に教えて終わりかよ」

 

 呼び出されたゆえに、何かさせられるのかと思っていた一護は抗議じみた声を上げる。

 だが明日歌は、それに鋭い視線と殺気をぶつけることによって強制的に黙らせた。昼間に感じたものとは比べ物にならない感覚に、一護は思わず明日歌から距離をとった。

 

「……勘違いをするな。わしがこの話をしたのは、おぬしらへの忠告のためじゃ。師匠も言うとったが、これ以上わしらに関わるな。怪我じゃ済まんぞ」

 

 それだけをいい、一護たちに反論する気がないのを見てとると、明日歌はフッと殺気を収めた。

 

「言いたいことはそれだけじゃ。ではの」

「! お、おい‼︎」

 

 それ以上の問答は不要と、明日歌は振り返ることなく夜の闇の中に消えていく。

 残された一護たちはその背中が見えなくなるまで呆然と見送る他になく、同時にやり切れなさを感じていた。

 

「……行ってしまったな」

「……今の殺気は、本物だったね。本気で僕らに邪魔されたくないみたいだ」

「……びっくりしたぁ」

 

 普段の生活ではそうそう出くわさないほど濃厚な殺気を浴びてそれだけで済んでいるのは、彼らの日常がそれなりに殺伐としているゆえか。だが確かに、

 しばらくしてから、深いため息をついた石田が一護の方を振り向いた。

 

「……で、どうする」

「……さぁな。どうすりゃいいのか、さっぱりわかんねぇ」

 

 一護は立ち上がり、少し屈伸をしてから答える。

 自分が虚と戦い始めた時は、どうにかする方法があったからどうにかなった。力を貸してくれたものがいたから戦えた。

 だが、今回は違う。自分の力はあの魔物には効かず、逃げる以外に方法はない。明日歌の言う通り、足手まといになるだけなのかもしれない。

 

「確かに、今回僕らにできることは何もないのかもしれない。学校のみんなが危険だからといって、対抗できないんじゃどうしようもない」

「それに、信じてもらえるわけないもんね」

「嵐が過ぎるのを待つ、か」

 

 何もできない無力感を感じながら、一護たちは明日歌の消えた闇の中を見つめる。あの小さな戦士は、今宵もまた魔物を探して闇の中を征くのだろうか。外界から切り離されたこの島の中で、一人で。

 

「……ん?」

 

 旅館に戻ろうと歩き出そうとした時、一護は何かを感じた気がした。自身の鼓膜に何かが響いたかのような、例えるなら蚊の羽音を聞いたようなか細い音が。

 それが、自身が何度も聞いてきたような音に似ていた気がし、ズボンに入れていたそれを取り出した。

 

「……気のせいか? 一瞬鳴った気がしたんだが……」

 

 取り出したそれーーー髑髏と×印が描かれた板を、一護は訝しげに見つめるのだった。




ニシキの見た目は啓吾です。


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参之章 歌い舞う鬼
1.Why here?


 まだ、島の住民もようやく起き始めるかといったぐらいの早朝。

 周囲を森に囲まれた古びた建物の奥から、ドォンドォンと大気を震わせる音が響き渡ってきた。

 吹き抜けになった、年季の入った瓦屋根の下に置かれた、大人の身の丈を優に超える巨大な太鼓の前に仁王立ちした少女が、露出の高い着物をまとって一心不乱に撥を鼓面に叩きつけていた。

 しなやかに鍛えられた筋肉が盛り上がり、噴き出す汗がキラキラと宙に舞い、大きく膨らんだ乳房が着物の中で弾み揺れる。されどその足は決して揺らぐことはなく、地面に深く突き刺さっているかのように力強く踏みしめて、猛烈な音撃を大気に響かせる。

 

「ハァァァァァ‼︎」

 

 雄叫びと共に繰り出される最後の一撃が、太鼓を突き破らんばかりの勢いで鼓の中心に叩き込まれビリビリと地面にまでも伝道する。

 撥を振り抜いたままの体制で固まっていた少女ーーー明日歌だったが、しばらくしてから撥をヒュンヒュンと回して腰のホルスターに戻し、ゆっくりと直立の体制に戻りつつ残心する。

 

「ーーー……フゥ」

 

 深く息をつくと、体にこもった熱が徐々に抜けていくのを感じながら今日の朝練の結果を脳内で反芻する。

 若干、軸が乱れた覚えがあった。体に巡る力はいつも以上にみなぎっていたが、逆にそれが空回らせていたように思える。修行が足りない証だ、と反省する。

 そんな彼女の後ろから、ザクザクと砂を踏みながら近づくものがいた。

 

「よく頑張るねぇ。ほれ、今日獲れた魚だよ」

「おお、嫗。いつもすまんのうぅ」

 

 歩きづらい山道を登って魚の入った箱を持って現れた老婆に、明日歌はパッと雰囲気を変えて笑顔を見せる。

 この老婆は、明日歌やカブキが鬼として戦っていることを知っている数少ない者で、こうしてよく差し入れを持って来てくれる気のいい人だった。

 脂の乗っている魚をわざわざ自ら持って来てくれる彼女に、明日歌も気を許していた。

 

「明日歌ちゃんのおかげで、最近は安心して眠れるよ。本当に感謝しても仕切れないねぇ」

「気にせんでくれ。それがわしの仕事じゃ」

 

 優しい笑みを浮かべて魚を渡してくれる老婆に、明日歌は気持ちが軽くなるのを感じる。あまり人には知られていないこの仕事だが、こうして感謝されるとやはりやっていて良かったと思う。

 すると、老婆はさっきとは打って変わって、明日歌を心配するような不安げな表情に変わった。

 

「昔はねぇ、こんなにあやかしが出てくることなんてなかったのにねぇ。明日歌ちゃんのお師匠さんがいた頃は、滅多に出てくることなんてなかったのにねぇ……」

「……そう、なのか」

 

 気にしたことはなかったが、魔化魍にも旬があるのだろうか。自分がいる時期に増えていると言うのなら、これまで以上に気をつける必要がありそうだ。などと考えていると、老婆がやって来た道の方から一人の若い娘が登って来た。

 

「あ、ここにいた! もうやめてよフラフラするのは……」

 

 現れたのは老婆の孫娘だと言う女性で、最近島の漁師と結婚したと聞く。さっき明日歌がもらった魚もその漁師がとって来たものなのだろう。

 

「何言ってんだい。明日歌ちゃんにお礼をしようと思ったのに……」

「おばあちゃんこそ何言ってんの。妖とか妖怪とか、そういうのは作り話でしょ」

 

 娘は老婆と異なり、明日歌が担っている仕事を知らない。それゆえ、老婆が度々明日歌のことを話しても妄想か作り話としか思っていないようだった。

 

「もう、おばあちゃんたら……明日歌ちゃんもごめんね? おばあちゃんの変な話につき合わせちゃって」

「いやいや」

 

 明日歌は若干引きつった笑みを浮かべ、娘の話に合わせる。娘はその反応に、やはり祖母が無理をさせているのだろうと勝手に感じたようで、何度も頭を下げながら祖母を促してその場を離れた。

 自然にちゃん付けして年下扱いしていることには、あえて触れなかった。

 

「……知らぬが仏、か」

 

 特に嘘をついたわけではないのだが、何も知らずに平和を謳歌しているものを見ると、どうにも複雑な気持ちになる。自分のように苦労している者を知らないというのは、腹立たしいが向こうからすれば幸せなことなのだろう。

 もし、自分や師匠が本当に鬼となって戦っていることを知ったなら、あの娘は一体どんな反応を返すのだろうか?

 そこまで考えて、「まぁ関係ないか」と独りごちて朝練の道具を片付け始めた。

 

(……じゃが確かに妙じゃ。ここ最近は確かに多すぎる)

 

 これまでは魔化魍が現れるにしても、月に数度だったりと多くはなかった。だが最近はほぼ毎日、それも日に何度も現れたりすることもあり、明らかに頻度が変わっているのは明らかだった。

 

(いつからじゃ……? わしが来た時はまだここまで酷くはなかった……)

 

 明日歌は振り向き、ざわざわと風が出て揺れ始めた森の方を見つめる。

 長く過ごしてきたこの島だが、自分の知らぬ場所で何かが起こり始めているのかもしれない。それも、自分一人の手ではどうにもならないほどの、大きな何かが。

 

「……あの人たちに伝えておいてよかったかの」

 

 そこまで考えて明日歌は複雑な顔になる。

 頼りにはなるのだが、苦手な人も混じっていることを憂いて。

 

 

「おう」

 

 山を降りた明日歌は、山道の入り口で待っていた青年に気づき、思わず顔をしかめた。

 片手を上げて声をかけてくる一護に対し、深いため息を吐いて返答とした。

 

「なんじゃおぬし。まだこの島におったのか」

「あいにく学校行事だからな。理由もなきゃ帰れねーよ」

「その学校行事をサボってきておるくせによう言うわ。あとで面倒なことになるぞ?」

「ほっとけ。教師の目をかいくぐってきたんだよ」

 

 ばつが悪そうな一護の言い訳に、明日歌はけたけたと笑った。

 だが、すぐに笑みを消して一護の目をじっと見つめる。昨晩のような殺気は感じなかったが、それでも有無を言わせない迫力をまとった力強い眼差しだ。

 

「それで、何をしにきた。昨日も言ったが、死神ではなんの役にも立たんぞ」

「……わかってる。けどな」

 

 しかし一護も一歩も引かず、憮然とした態度で明日歌を睨み返す。思わず明日歌の殺気が強くなるが、一護も同じだけの覇気を纏って真っ向から対立する。

 まるで木々が怯えるようにざわめきを起こし、やや強い風が辺りを吹き抜けていった。

 

「お前には借りがある。何もしねぇでのほほんとしてるなんて、俺にはできねぇよ」

「…………」

 

 一護はそう明日歌に返し、両者の間にしばらく沈黙が降りる。じっと互いに睨み合い、無言のままその場に居続ける。

 やがて、一護をにらみつけて居た明日歌はフッと微笑みをこぼし、殺気を霧散させた。

 

「なんじゃ。存外いい男ではないか。……まぁいい。好きにするがええ」

「けっ。お前に褒められても嬉しくないな」

 

 呆れたとばかりに肩をすくめる明日歌に皮肉を返すと、一護はプイとそっぽを向く。

 だがふと、気になったことを明日歌に尋ねた。

 

「で、お前は何やってんだ?」

「本土に応援を頼んでの。魔化魍の数が増えよったんで、人をよこしてもらって迎えに行くところじゃ。……最近は、どこも人手不足でのう」

 

 一護の質問に、聞きたくなかったとばかりに明日歌は顔をしかめて腕を組む。相当気に入らない内容らしい。

 

「仕事はきつい、保険もきかん、その上ある程度の資質もいるというもんで後継者がおらんでのう。わしもしばらく後輩を見たことがない。故に、挨拶はしっかりしておらんとのちに響くんじゃ」

「……世知辛いな、おい」

「世の中というんはの、大概が世知辛いもんじゃ」

 

 見た目は幼いくせに、明日歌は妙に達観した表情と声でそんなことを言う。すれた子供が大人ぶっているようにも見えたが、ちらりと見えた目が洒落にならないほど濁って居たので一護は何も言わなかった。

 どこの世界も、人に知られて居ない仕事というものは激務のようだ。

 

「…………はぁ」

 

 世の中の不条理さに、一護が思わずため息を零した、その時だった。

 

「あいっかわらず、マヌケ面晒してやがるな、一護!」

「!」

 

 聞き覚えのある声に、思わず一護は目を見開く。そして、はっと振り向いてさらに表情を変えた。

 一護に背後から声をかけた、黒ずくめの着物をまとい、腰から刀を提げた二つの人影。片や不機嫌そうに眉を寄せた小柄な少女、片やニヤリと不敵な笑みを浮かべた赤髪の男。

 

「ルキア、恋次⁉︎」

 

 一護と深く関わり、戦友とも言える関係となった二人の死神、朽木ルキアと阿散井恋次だった。



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2.death of contraindications

「お前ら……なんでこの島にいるんだよ」

 

 なんの前触れもなく現れた二人の死神に、半目になった一護が喧嘩腰で尋ねる。普段いる街を離れている今、本来そうそう会うはずもないのだがこうして遭遇していることに、内心呆れていた。

 

「そりゃこっちのセリフだぜ。なんだっててめーがここにきてやがるんだ」

 

 案の定、恋次の方も喧嘩腰で向かってきた。仲が悪いわけではないのだが、馬が合わないというか似た者同士だからか、しょっちゅうこうしてぶつかるのだった。

 

「空座町の仕事ほっぽり出して何やってんだよ!」

「質問に答えろよコラ……‼︎ だいたい俺は死神だ・い・こ・うだっての‼︎」

「やめぬか馬鹿者共」

 

 ガンガンと額をぶつけ合っていた二人だったが、横から落とされた拳骨に強制的に黙らされる。会うたびに喧嘩を始める二人を止める彼女の姿も、ある意味いつも通りであった。

 

「なんじゃ? 知り合いかの?」

 

 ただ一人、一護の交友関係を知らない明日歌が興味深そうに黒ずくめの二人組を見つめる。

 その言葉に、ルキアと恋次は目を見開いて明日歌を凝視した。本来死神は見えないはずだが、なんということも内容に会話に入られたことに驚いたのだ。

 

「! お前、見えているのか」

「おい一護。このガキはなんだ?」

「……どういう意味でガキといったかは知らんが、口の聞き方を気をつけろよ死神」

 

 初見からいきなりガキ呼ばわりされた明日歌が、半目で恋次を睨みつける。確かにルキアとかいう死神よりは小さいかもしれないが、こうもなんども子供に間違えられるとさすがにカチンとくるのだった。

 苛立って恋次をにらみつけている明日歌に代わって、一護が頭を掻きながら答える。

 

「いや、昨日聞いたばっかだけど、鬼だってよ」

「ーーー⁉︎」

 

 一護がそう言った瞬間、ルキアと恋次の表情が一瞬にして凍りつき、そのままザザザッと明日歌から距離をとった。

 まるで起爆寸前の時限爆弾を目にしたかのような反応に、一護も明日歌も目を丸くした。

 

「おい、どうしたんだよお前ら」

「……ま、マジか?」

「き、貴様……鬼なのか?」

 

 一護の質問には答えず、だらだらと脂汗を垂らした二人は明日歌を凝視したまま尋ねる。ひくひくと引きつった表情が、二人が相当に狼狽している何よりの証だった。

 すると明日歌は何を思いついたのか、ニヤリと意地の悪そうな笑みを浮かべ、早足で二人の方に近づいていった。

 

「ほう……ほれほれどうした、ガキを相手に何をそこまでおののいておるのだほれほれ」

「だああああ⁉︎ 馬鹿ふざけんじゃねぇっての‼︎」

「やめろ‼︎ やめ、すまん‼︎ すまんかった‼︎ だからそれ以上近づくな‼︎」

 

 いじめっ子のガキ大将が気弱な子供に嫌なものを近づけるが如く、明日歌はキラーンと目を光らせて逃げる二人を追いかける。必死の形相で逃げる二人の顔が心地よかったのか、追いつくか追いつくかの瀬戸際を攻めている姿は愉悦に満ちていた。

 置いていかれた一護は、その光景を呆れながら見つめていた。

 数分後、ようやく満足したのか、明日歌は死神たちから離れ、ニヤニヤとした顔で笑う。かなり満足しているようだ。

 ゼェゼェと息を荒くする恋次とルキアは、戦慄の表情で明日歌を凝視し、睨めつけた。

 

「……ったく、いい加減にしてくれよ」

「いやぁ、悪いのう。ガキ扱いされたもんじゃから、つい意趣返しをしてやりたくなったのじゃ。許せ」

 

 対して悪びれる様子もなく、カラカラと笑う明日歌に死神たちは嘆息する他にない。

 呆れた一護は半目のまま、話を進めようとジロリとルキアに目をやった。

 

「それで? なんだってこいつにそんなビビってんだ?」

 

 一護が尋ねると、ようやく落ち着いたルキアが居住まいを正して向きなおる。冷静さを取り繕っているようだがほぼ手遅れだな、と思ったが面倒臭くなりそうなので黙っていた。

 

「一護……悪いことは言わん。あまり其奴と関わるな」

「あ?」

「貴様は知らんだろうが、死神と鬼は相容れん。互いの存在そのものが、互いの毒になりかねんのだ」

「……どういうことだ」

 

 突如そんなことを言われて、一護は訝しげな表情でルキアを見つめ返した。ルキアは他人ごとのように構えている一護に呆れながら腕を組み、明日歌を睨んでから口を開く。

 

「言った通りだ。死神の持つ霊圧と鬼の持つ霊圧は決定的に相性が悪いようでな。近くにいるだけで、互いに影響を及ぼし会うらしい。……ゆえに、鬼と死神は互いに相互不干渉を貫くことを絶対の了承としているのだ」

 

 と、どこからか取り出したスケッチブックに死神と鬼の姿を描いて説明してくれる。だがその絵がどれもこれもうさぎばかりで、その上妙にファンシーなために全くと言っていいほど緊張感が伝わってこなかった。

 特に鬼の絵など、耳のない天然パーマのウサギに人参が生えているようにしか見えず、一護も明日歌も、そして恋次も言葉を失っていた。

 

「これは、古くから定まっている死神の決まりでな。運悪く接触してしまった死神と鬼は、遥か昔には処分されていたらしい」

「お前も気をつけろよ」

「お、おう」

 

 全く気をつける気分にはならなかったが、とりあえず彼らが鬼を恐れる理由はわかったために頷く。相性が悪く近づくだけでダメなら確かに納得だ。

 だが傍にいる明日歌は、心底いやそうな顔で死神たちを半目で睨みつけていた。

 

「……なんじゃい、人をバイキンみたいに言いおって」

 

 さもありなん。特に病気というわけでもないのに、体質の問題で距離を取られるなど気分がいいものではない。

 と、先ほど逃げ惑う死神たちを愉悦まじりに追いかけていたことも忘れて憤慨する明日歌だったが、ふとひとつだけ伝えておくことがあるのを思い出した。

 

「ちなみに、もうじきわしの知り合いの鬼が来るぞ?」

「まじか⁉︎」

「最近、魔化魍の数が増えての。応援を呼んだんじゃ、わしが」

「うおおおお……最悪なタイミングで来ちまったじゃねぇか‼︎」

 

 恋次は頭を抱え、この世の終わりとで言いたげにがっくりと膝をつく。一護はそれに呆れながら、じとっとした視線を恋次たちに向けた。肝心な話がまだ聞けていないのに何をしているのか。

 

「だいたい、なんでお前らもこの島に来てんだよ」

「あん? そりゃお前、虚の反応を感知したからに決まってんだろうが」

 

 何を言っているんだ、とでも言わんばかりの態度でそう言った恋次に、一護は呆けた様子で見つめた。

 

「……ここにか?」

「おう」

「……いつだ?」

「昨夜だ。知らんとは言わせんぞ」

 

 ルキアまでもがそういうため、一護はますます理解が追いつかなくなる。彼らの言っていることは本当なのだろうが、それを一護も承知のことだと思われていることに認識のズレを感じる。何より、一護にはその話が信じられなかった。

 

「だが、通常の虚とは異なった反応が見られてな。調査とともに、可能なら討伐も目的として我々が来たのだ。……鬼がいたことは、我等としても予想外だったが」

「……なんじゃ、すまんのう。できるだけ邪魔はせんようにするが期待はせんでくれよ」

「いや、こちらも邪魔はしたくない。これまで通り、不干渉で行くとしよう」

「あいわかった。よろしく頼む」

「……おい、ちょっと待てよ」

 

 若干機嫌が戻った明日歌がルキアと話しているのを遮り、一護は真剣な表情でルキアに詰め寄った。もし虚の反応が本当だったなら、一護にとっては放置できない状況だからだ。

 

「じゃあなんで俺の代行証は感知してねーんだよ」

「なに⁉︎」

「なんだと⁉︎」

 

 一護の言葉に、ルキアが過剰に反応した。

 一護の持つ代行証ーーー正式には死神代行戦闘許可証は文字通り死神代行に正式に渡される証であり、虚の出現を所有者に知らせる機能がある。

 だが、それがならなかったというのは明らかな問題であった。

 

「どういうことだ……? 最も近くにいた一護の方に反応がなかったというのか……?」

 

 反応の差が起きていることが信じられず、考え込むルキアは代行証を凝視する。不調ということもありえなくはないが、そんなヤワな代物であるとはどうにも思えない。

 すると一護が、「そういえば」と昨夜のことを思い出しながら顎に手を当てた。

 

「いや……一瞬だけ鳴ったような気がしたんだけどよ、すぐに消えちまったんだ」

「そういうことは先に言えよ!」

「貴様と言う奴は……‼︎」

「俺に文句言うんじゃねーよ‼︎ 言うならここにあるこいつだろ⁉︎」

 

 一方的に理不尽に叱られた一護は逆ギレし、代行証をバシバシと叩いて反論する。虚を放置することが危険なのはわかっているが、だからと言って自分が罵られるのは理不尽だった。

 一護の言うことももっともだと思ったのか、怒りを収めたルキアと恋次は難しい表情で考え込んだ。

 

「浮竹隊長の渡したものに文句をつけるつもりはないが……どう言うことだ」

 

 不穏な気配が漂い始めた三人に、明日歌はじっと眼差しを送る。

 

「どうやら、死神にも鬼にも予期せぬ事態が起きているようじゃのう」

 

 そして、不意に耳元を吹き抜けていく風に目を瞑り、髪を抑えながら天を仰ぐ。雲ひとつない青空、だが、どこかぬるりと肌にまとわりつくような感触を帯びた風に、明日歌の目は鋭い光を宿した。

 

「……いやな風じゃ」

 

 

 ざわざわと騒ぐ森の中。木々を拓いて作られた空間に、こじんまりとした社が建てられていた。

 砂利と石畳で固められた足場の上に塗装の剥げた木製の建物があり、ぐるりと四方を囲うように塀が設けられている。寂れた雰囲気を持ちながら、そこには訪れる者に威圧感を与える厳かな空気が漂っていた。

 

「は〜い! お次はこの島で唯一の神社をお参りしますよ〜。付いてきてくださいね〜」

 

 再び空座高校の生徒たちを導く役目を負った蛇園が、旗を片手に間延びした声を上げる。生徒たちの何人かは興味なさげな態度を隠さず、渋々といった感じで指示を聞いている。

 正直いって本当に大したことのない規模の神社で、一見するだけであまり見所がないことがわかったのだ。そんな場所の見学など、や類が起こるはずもない。

 

「……なんてあの人はああもハイテンションなんだろうな」

 

 クラスメイトとガイドの温度差を、たつきが呆れたように眺める。初日からのテンションが持続しているのはある意味すごいとは思うが、時間が経つたびにそのテンションの差があらわになっているようだ。

 一方で、たつきのそばにいる織姫は一人森の方を向き、この場にいないクラスメイトのことを思い浮かべる。

 

「……黒崎くん」

 

 織姫は胸の前で片手を握りながら、小さな声で強く想っている青年の名を呼んだ。

 わかっている。昨日の警告などで彼が身を引くわけがないことなど。

 いつだってまっすぐで、困っている誰かがいたらその身をとして戦おうとする優しい心の持ち主が、たった一人で戦っている彼女を放って置くはずがないのだ。そんな彼に惹かれた自分は、そう確信できた。

 

「ん? 織姫、一護のやつどこ行ったんだ?」

「え? あっ、え、えっとね! またなんか、お腹痛くなっちゃったって!」

「はぁ? まじか、あいついい加減もっとうまい言い訳考えろよな」

 

 半目でこの場にいない一護に呆れるたつきから、織姫はバツが悪そうな顔で目をそらした。いい加減代わりにごまかす言葉に無理が出てきた。

 内心でダラダラと冷や汗を流す織姫だったが、ふとさっきからたつきが何も言わないことに気づき、訝しげな表情で振り向いた。

 織姫から視線を外したたつきは、さっきまで織姫が一護を思って見つめていた森の方を凝視していた。

 

「……なぁ、織姫。これ、私の勘違いかもしれないんだけどさ」

「たつきちゃん……?」

 

 微動だにせずに森を見つめていたたつきが、不意に織姫に声をかける。不穏な空気を感じ取った織姫は、先ほどとは違うじっとりとした汗をかきながら応えた。

 森を見つめていたたつきは、睨みつけるように目を細めて口を開く。

 

「この島さ、なんか……嫌な感じしない?」

 

 その言葉に、織姫はハッと目を見開いた。

 たつきは、織姫たちのように特殊な人間ではない。だが、かつて織姫が遭遇した一件から、鋭い霊的な感覚を発揮することがあった。まさか、その感覚が今働いているのだろうか。

 

「何がどう嫌ってかはわかんないけどさ……こう、ここにいるだけで寒気がするっていうか」

 

 漠然とだが、やはり何かを感じ取っているらしい。不安の正体がわからず、ブルリと肩を震わせる親友を前に織姫はギュッと唇を噛む。

 同じ感覚を覚えている織姫には、親友の気持ちがよくわかった。しかし、詳しく話すことができない彼女には、ただそばにいることしかできない。せめて同じ気持ちを共有しようと、たつきの手に自らの手を伸ばす、が。

 

「も〜、ダメですよぅ。そんな辛気臭い顔しちゃぁ〜」

 

 不意に至近距離から聞こえてきた声に、二人してビクーン!とその場で跳ねた。

 いつのまにか近くに寄ってきていた蛇園が、ニコニコとどこか虚ろな笑顔で織姫とたつきを見つめていたのだ。

 

「うっわ⁉︎ うっわ‼︎ びっくりした‼︎」

「い、今ちょっと心臓口から出そうだった‼︎」

 

 二人はザザザッと勢いよく蛇園から距離を取り、ばくばくと跳ねる鼓動を抑えようと胸に手を当てた。

 蛇園は大して悪びれる様子もなく、いつも通りの薄ら寒い笑みを浮かべたまま頭をかく。妙にあざとくみえ、たつきのこめかみに血管が浮き立っていた。

 

「ごめんなさ〜い、暗い気持ちを発散させたかったんですよぉ。せっかくの旅行なんですからもっと明る〜くいきましょうよぉ」

 

 織姫とたつきから返事はない。それも気にしていないのか、蛇園は相変わらずニコニコと微笑んだまま手を振り、二人から離れていった。

 

「……では、またあとで」

 

 蛇園が離れていって、ようやくたつきは大きなため息とともに肩を落とした。あの女性には妙な雰囲気を感じて、妙なことを言えなかったのだ。蛇に睨まれたカエル、といった心境に近いかもしれない。

 

「あのテンションにはついていけんわ」

 

 そう呟き、苦笑を浮かべるたつき。

 だが、その表情がすぐに真剣なものに変わった。

 傍にいた織姫はカタカタと細かく身を震わせ、その表情は恐怖の混じったものに変わっていたからだ。突然のことに、たつきは慌てて織姫の肩を掴んでいた。

 

「……⁉︎ ちょっと、どうしたの、織姫」」

 

 たつきに支えられながら、織姫は青い顔になって自らを抱きしめる。

 何があったかなど、自分でもわからなかった。ただ、形容しがたい感覚が自らに駆け抜け、その冷たさに凍りついたかのような気分に陥ったのだ。

 しばらく動けなかった織姫は、やっとの事で口を動かし、今まさに感じたものに身を震わせた。

 

「今のは、何……?」

 

 圧倒的な捕食者が自分たち(獲物)を見透かすような、冷たい視線を。



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3.past of Asuka

 陽も陰り始めた頃、岩肌が目立つ海岸に何隻かのボートが到着した。

 船から降りたものたちは、大荷物を抱えながら波打ち際を越えて島に降り立つ。

 

「明日歌〜! ひさしぶり〜‼︎」

 

 その中の一人、キャップをかぶった中学生くらいの少女が明日歌の元へと駆け寄り、がっしりと抱きついた。抱きつかれた明日歌は複雑な表情になりながら、少女の抱擁を受け入れていた。というか、諦めているようだった。

 

「元気だった? 仕事以外で連絡くれないから心配だったんだよ〜!」

「やめい、わしわしせんでくれい。年下にそういうことをされるのが一番くるんじゃ」

 

 実家にいる犬への扱いのようにワシワシと頭を撫でられ、さすがに明日歌も抗議の声をあげた。

 二人並ぶとどう見ても少女の方が年上に見えるが、何度もいうようだが明日歌は17歳である。年下の子供どころか人間扱いさえされていないようで、明日歌は非常に虚しくなった。

 

「アキラよ、まさかおぬしが来るとは思わなんだわ。修行の方はどうじゃ?」

「当然、良好だよ! 先輩として恥ずかしいところは見せられないからね」

 

 胸を張る少女・あきらだが、残念ながら明日歌ほどの揺れはなかった。逆に腕を組む明日歌の胸元が激しく自己主張している姿を見て、ヨヨヨと涙を流す羽目になる。身長は勝っているのに、女としては完全に負けていた。

 

「久しぶりだね、明日歌ちゃん。元気そうでよかった」

「久しぶり! ちょっと背が伸びた?」

「イブキ、トドロキ。関東支部からよう来てくれた。助かるぞ」

 

 涙に暮れているアキラをよそに、到着した他の鬼たちが明日歌に挨拶をしにくる。アスカは笑顔を浮かべ、手を差し出す男たちと固く握手を交わしていった。

 そんな光景を、一護は少し離れたところから眺めていた。服の上からでもわかる鍛えた体を持つ男たちと対等に話している明日歌の姿に、不思議な感覚を覚えていた。

 

「……普通の人間と変わんねぇもんだな、鬼ってのは」

 

 昨日見た、明日歌の戦う姿。明日歌から聞いた、差別と偏見に満ちていた時代を生きていた戦士たち。

 他がその実態は、普通の人間と大して変わらずに見えた。異形の力を持つとは思えない、人と関わりを取っていた存在とは思えなかった。

 

「……で、この子は誰?」

 

 ふと、明日歌と話していた男の一人でトドロキと呼ばれていた男が、一護の方を向いて尋ねた。

 彼の向いた方を振り向いた明日歌が、忘れていたとばかりに「あ」と声を漏らした。

 

「地元の子かな? でも見たことない……っていうか、なんか嫌な気配を感じるんだけど」

「おお、言っておかねばの」

 

 ぽりぽりと頭をかいた明日歌が、若干言葉を選びながらどう言おうかと考える。しかし結局、余計なことを言うことはやめたようだった。

 

「死神代行の黒崎一護じゃ」

 

 その瞬間、ざざざざっと凄まじい勢いで鬼たちが退行し、一護から距離をとった。

 

「ちょっ……待って待って! とりあえずあんまこっちこないで‼︎」

「ごめん! 気味が悪くないのはわかってるんだけど、もう少し距離を開けてくれると助かるかな⁉︎」

「その反応はもうええわい‼︎」

「……こっちでもこんな感じかよ」

 

 今朝のルキア達がこんな感じだったなと思いながら、両者が出会ったらとんでも無いことになりそうだと唇を締めてにやけ顔を隠す。

 すると笑いを噛みしめていることに気づいたのか、あきらが明日歌を抱き寄せて一護から必死に距離をとった。

 

「明日歌ダメだよ‼︎ その男から離れて‼︎ 穢される‼︎」

「人を雑菌扱いすんじゃねーよ‼︎」

 

 まるで変質者に対する保護者のように、明日歌を抱き寄せて睨みつけるあきらに、さすがの一護もキレる。死神と鬼の掟は聞いたばかりだが、さすがにここまであからさまな反応をされるのは我慢ならなかった。だからと言って明日歌のようにからかうつもりなどないが。

 

「な、なんだってこんな島にまで死神が……?」

「あくまで代行らしいぞ? それに、こやつの本業は学生じゃ。社会科見学だのなんだので、この島に来ておるらしい」

「くっ……そう言うことなら、納得するしかないけど……!」

 

 出て行け、と強く言うことができず、あきらは臍を噛む。そして代わりに、半目で見つめてくる一護をキッと睨み返し、ビシッと人差し指を突き出した。

 

「いいこと? あんまり私の明日歌に近づくんじゃないよ!」

「へいへい……」

「おい、いつからわしはぬしのものになった」

 

 今もなお腕の中でもがいている明日歌は抗議の声をあげると、手を解いてあきらの元から離れ、一護をかばうように前に立った。

 

「あまり邪険にせんでやってくれ。こやつはいい男じゃ、わしのことも気遣ってくれるしの」

「……そう」

 

 後輩がいうなら、とあきらは渋々矛を収め(まだ一護を睨んでいたが)、唇を尖らせながらトドロキたちのいる方へと戻っていった。

 明日歌は一護の方に振り向くと、申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「悪いが一護、しばし席を外してくれんか? やはりこやつらには慣れぬようじゃ」

「ああ。悪い、邪魔したな」

 

 一護は素直に従い、明日歌たちに背を向けてその場を離れる。もともと無理に鬼たちを見に来たのだ、これ以上居座って迷惑をかけるわけにはいかない。

 岩場を歩いていく一護の背を見送り、明日歌はフゥとため息をついた。

 

「やれやれ」

「……ねぇ、明日歌」

「ん、なんじゃ?」

 

 そんな彼女の背中に、船の近くに戻っていたあきらがまた声をかける。今度は明日歌を甘やかす猫なで声ではなく、どこか不安げな雰囲気を帯びたか細い声だった。少しの間、口元に出かかった言葉をためらうようなそぶりを見せてから、まっすぐに明日歌を見つめて尋ねた。

 

「本土に、戻ってくる気はない?」

「ないぞ」

「……即答かぁ」

 

 予想よりも早く答えた明日歌に、あきらは半ばわかっていたように苦笑を浮かべた。何度も繰り返し、同じ答えを受け取った質問なのだろう、あまり残念そうには思えなかった。

 

「でもね、明日歌にとって、この島は狭すぎると思うんだ。明日歌には十分実力があると思うし、もっといろんな場所でいろんな経験を積むことだって……」

「……すまんがの、やはりわしは師匠についていきたい。師匠の元で学びたい」

 

 ぽりぽりと頭をかき、明日歌はあきらに詫びる。岩場に立つ二人の間にはわずかながらも距離があり、それは明日歌があきらの申し出を決して受けることがないという暗示にも思えた。

 

「わしに戦い方を教えてくれたのは師匠じゃ。じゃからもう、わしが学びたい相手は師匠だけとしか思えんのじゃよ」

 

 誇らしげに微笑み、明日歌はあきらに胸を張る。その笑顔は本当に眩しくて、彼女の見た目と相応な無邪気なものに見えた。

 後輩の意志が決して変わらないことを察したあきらは苦笑し、呆れたように肩をすくめた。

 

「あーもう……頑固なんだからさ」

「惚れた弱みという奴じゃ。許せ」

「わかったわかった。もう言わないよ」

 

 パタパタと手を振り、やってられないとばかりに首を振る。

 あきらは自分も似たようなものかと思い直し、イブキたちが荷物を降ろす作業を手伝う。氏の元で長く学びたいと思うのは誰しも思うことだ、自分が変えられない思いを他のものに変えさせるのはまず無理だろう。

 まぁ、またこの島に来た時に同じことを尋ねるかもしれないが。

 くすっと笑った明日歌は、あきらたちに背を向けて森の方に歩き始めた。

 

「ではわしは、しばし見回りをしてくる」

「大丈夫なの?」

「案ずるな、少し見てくるだけじゃ。……最近、森が妙にざわつくのでの」

 

 顔を上げて訪ねたあきらに答えてから、明日歌は一瞬だけ鋭い視線を森に向けた。相変わらず森は妙な生暖かい風が吹き、明日歌の髪を揺らしている。最近になって感じ始めるようになった嫌な気配に警戒心を強めながら、あきらたちの見送りを背に受けて歩き出す。

 

 

「待たせたの」

 

 森に入る前に、場を離れてもらった一護の元へ立ち寄る。しばらく放置されていた一護は暇そうにしていたが、明日歌が声をかけるとじとっとした半目で彼女を見つめた。

 思わず訝しげな表情を浮かべる明日歌に、一護は口を開いた。

 

「……なんでそこまで、あの師匠に肩入れすんだ」

「む。なんじゃ、聞いておったのか」

 

 先ほどのあきらとのやりとりを聞かれたのだ、とわかった明日歌は若干頬を染めながら視線をそらす。

 聞き様によってはカブキへの告白を他人に聞かれたようで、気恥ずかしくもなりながら気丈に振る舞う。勝手に会話を聞いていたことを咎めようかと思ったが、あまりまともに一護の視線と向き合えないためそれも断念した。

 

「……わしはの、師匠に拾われたんじゃ」

 

 しばらくしてから、明日歌は虚空を見上げながらポツリとつぶやいた。

 驚きの表情を浮かべる一護に、苦笑を交えながら詳しく語り始めた。

 

「何があったかは知らん。じゃがわしは、気づいたらこの島に流れ着いておった。記憶も、身寄りも、なーんも残っておらなんだ」

 

 何も言わずに耳を傾ける一護をありがたく思いながら、明日歌は語る。下手に同情されても、親の顔もまともに覚えていない自分にとっては、捨てられた悲しみや憎しみなど無いに等しいため困るだけだ。

 だがそれでも、一人きりだったならば今の自分はいなかっただろうと、苦笑まじりに語った。

 

「師匠はそんなわしを救い、ここまで育ててくれた。空っぽじゃったわしに世界を教えてくれた……感謝してもしきれん」

 

 何もなかった己に多くのものをくれた師を、明日歌は誇りに思う。憧憬や尊敬を超えて、恋慕に似た感情を抱くまでに。

 

「じゃからわしは、師匠のために鬼になると決めた。師匠の代わりに戦うと決めた。……じゃから、これでいいんじゃ」

 

 そう言って、ニカッと笑う明日歌に一護は何も言えない。あまりにも純粋な想いに、言葉にできる感想を持ち合わせていなかったのだ。

 やがて一護は、誇らしげに笑う明日歌に呆れたような笑みを向けた。

 

「……お前も物好きだけど、師匠も大概な気がするな」

「確かにの! 師匠もよくわしを放り出さんかったもんじゃ!」

 

 かっかっか!と老獪に笑う明日歌。一途に一人の師を追いかける女に、身よりも何も無い子供を拾って育て上げた男、確かにどちらも物好きで似た者同士だ。

 ケラケラと笑っていた明日歌は、ふとあること思い出して宙に視線を彷徨わせた。

 

「……そういえば、なぜわしをそばに置いてくれたのか一度だけ聞いたかの」

 

 腕を組み、明日歌はその時のことを必死に思い出そうとする。

 

「なんだって?」

「いや……いつじゃったか、師匠がしこたま飲んで酔っ払った時に聞いたことじゃったが……」

 

 ウンウンと唸り、頭をひねり、明日歌はようやくその時のことを思い出す。

 いつも森の小屋にこもり、魔化魍退治にばかり明け暮れながら明日歌を鍛えていた頃。珍しく溜まったストレスを発散させようとしたのか、酒瓶を大量に開けて飲んだことがあったのだ。

 酔いのためか、全く自分のことを語らないカブキが口を軽くし、アスカの質問に少しだけ答えてくれたのだった。

 

「なんでも、昔わしとそっくりな奴とであったらしくての。ーーー其奴のことがチラつくのじゃと」

 

 実に不思議そうな表情で、当時のことを思い出した明日歌は答えるのだった。

 

 

 ごうごうと風が吹き、海は荒れ狂う。

 何物をも飲み込もうとしているかのような波のうねりの中を、一艘の小舟が突き進んでいく。備わっているのは櫂だけで、転覆することを巧みに避けて荒波の中を迷うことなく進んでいく。

 だが、その上に乗っているものたちにとって、船の上は地獄だった。

 

「お、おおお……こ、この揺れはさすがに……‼︎」

 

 口を手で押さえたカブキが、真っ青になりながら小舟の端にしがみつく。歴戦の猛者が船の揺れに圧倒されていると言うのは、なかなか滑稽な姿であった。

 

「大丈夫かえ⁉︎ もうじきわしの島じゃ、しばし耐えよ‼︎」

 

 櫂を操るアスカに全く動じた様子はなく、風と波の音に負けじと大きく声を張り上げる。

 その勇ましい様子に、同じく真っ青になっていたイブキが信じられないものを見る目でアスカを凝視する。まるで化け物を見るような目だ。

 

「うっぷ……君、よくこんな荒れた海を一人で越えられたね……⁉︎」

「海の女じゃからの。なんじゃ、ぬしら鬼のくせに酔いにはめっぽう弱いの。意外じゃったわ」

「酒に酔うのと船酔いは違うだろっ……」

「これほどの揺れは……予想外……うぶっ⁉︎」

 

 話しているうちにまた吐き気を催してきたのか、カブキとともに口元を抑えるイブキ。その隣には一見平気そうな顔をしているトウキがいるが、さっきから目を閉じたまま一向に動こうとしない。明らかに我慢していた。

 思わぬところで、人と変わらぬ親しみを感じて苦笑するアスカだったが、ふとその表情が曇る。荒れ狂う海と、雲が立ち込める空を眺め、違和感に目を細めた。

 

「じゃが、確かにこの揺れはいつもより……⁉︎」

 

 声に出して思案した時、波の動きが異様な動きを見せ始めた。慌てて櫂を操り、転覆しないように抑え込んでいると、小舟の前方で海面が盛り上がっていくのを目にした。

 

「な、なんじゃ⁉︎」

 

 アスカは驚愕に目を見開き、櫂を波に取られないように必死に抑え込む。ギシギシと小舟が嫌な音を立てて揺れる前で、海面を突き上げて急上昇し、それは激しい水しぶきを伴って姿を現した。

 獅子のごとくたなびく鬣、鹿のように伸びた角、鰐のように伸びた顔と並んだ鋭い牙、蟒蛇(うわばみ)のように長く伸びた身体。あらゆる獣の最も強い部分をかき集めて混ぜ合わせたかのような、見るだけでも恐ろしい怪物。

 それこそが、アスカの故郷の島を恐怖のどん底に陥れた存在にして、最強の魔化魍。

 

 オロチだった。



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4.Helper calling on

「あれは……オロチ⁉︎」

 

 海面から顔を出した凶悪な龍を前にして、一瞬でアスカの顔が恐怖で凍りつく。

 彼女の目の前で友が、血の繋がらぬ父母が、姉妹が、仲間が無残にも食い殺されてきたのだ。意を決し島を飛び出した時も、その時の恐怖は微塵も消えたことはなかった。

 

「なぜじゃ……⁉︎ なぜ奴がこんなところにおるのじゃ⁉︎ ……!」

 

 顔を真っ青に染めながら、アスカはハッとなる。いつもよりうねりの強い海、立ちはだかるように現れたオロチ、そこから浮き上がった可能性に、思わずオロチの凶悪な形相を凝視していた。

 

「まさかこの波は……あやつが起こしたものじゃったのか⁉︎」

 

 アスカの考えがまるであたりだと言わんばかりに、オロチは咆哮とともに尾をしならせ海をかき混ぜる。途端に強烈な波が引き起こされ、アスカたちの乗る小舟を転覆させんばかりにうねりまくる。

 先ほどよりも格段にひどくなった乗り心地に、カブキたちは怒りで表情を歪めた。

 

「野郎……是が非でも俺たちを島に近づけさせないつもりのようだぜ」

「小癪な……!」

「言ってる場合じゃないよ‼︎」

 

 言いながら、鬼たちは必死に小舟にしがみつく。まだ島までは遠く、足をつけられる場所はこの小舟の上しかない。全員が全員この荒海の中を泳げるわけではなく、このまま放り出されれば一瞬でオロチの餌食となることは明らかだった。

 しかしだからと言って、オロチが待ってくれるはずがない。獲物をいたぶるように距離を詰めたオロチが、巨大な顎門を開いてカブキたちに襲いかかってきたからだ。

 

「行くぞ‼︎ しっかり掴まれ‼︎」

 

 止むを得ず、鬼たちは不安定な足場において臨戦態勢に入る。音叉を、鬼の顔のついた笛を取り出し、一斉に鳴らしてそれぞれの額にかざす。

 その直後、鋭く尖ったオロチの牙が小舟に食らいつき、一瞬で噛み砕き海の藻屑へと変えてしまった。衝撃で大波が起こり、アスカは真っ二つになった小舟の後ろ側ごと吹き飛ばされてしまった。

 

「うおわああ⁉︎」

 

 意識を失わずに済んだのは、小舟の残骸から離れまいと必死に歯を食いしばってしがみついていたからだった。だがもはや、気絶していた方が幸運だったかもしれないとさえ思えるほど、悲惨な状況になってしまっていた。

 海水でずぶ濡れになりながら、アスカは辺りを見渡す。

 いない、みんな、誰一人。

 オロチの一撃により粉砕された船の残骸が浮かんでいるだけで、鬼たちの姿はどこにも見当たらない。影も形も、肉片すらも見つけることはできなかった。

 

「そんなっ……!」

 

 苦労してようやく見つけ出し、協力を約束してくれた鬼たちが。島を救う最後の希望が、こんなにもあっさりと沈められてしまった、そんな絶望がアスカを縛り付け、船にしがみつく力を奪い去っていく。

 船の上でへたり込むアスカを、オロチの双眸がギロリと睨む。だが。

 

「ムオオオオオオオオ‼︎」

 

 突如頭上から聞こえた咆哮とともに、オロチの顔ががくんと真下に落とされた。

 はっと目を見開いて凝視すると、白い吹雪を吹き散らした筋骨隆々の白い異形が巨大な棍棒を振り下ろし、オロチの脳天に叩きつけている。黒い防具に、熊に似た金色の装飾のついた兜を備えた鬼・凍鬼が、身の丈にも達しる巨大な撥を小枝のように振り回し、しがみついたオロチの背中で怪力を発揮していた。

 

「ギャオオオオオオオオ‼︎」

 

 オロチは凄まじい咆哮をあげ、背中にくっついている鬱陶しい存在を振り落とそうと大きく身をよじり、暴れ回る。凍鬼も負けじとたてがみをつかむ力を強め、力の限り棍棒で滅多打ちにする行為を続けた。

 なおも暴れるオロチの顔面に、ビシビシと火花が散って何かが突き刺さる。ギロリとオロチが睨む先にいたのは、壊された小舟の先端部分に乗って何かを構えている、風を纏った青い三本角の鬼・威吹鬼だ。

 管と柄が合わさった、銃に似た武器を構えた威吹鬼は引き金を引き、オロチの目を狙って銃口から火花を散らせる。硬いオロチの鱗に銃弾が防がれるが、鬱陶しさからかオロチは嫌がってアスカの方から徐々に距離をとっていく。

 いらだたしげな唸り声を漏らすオロチの頭上を、一瞬影が覆った。かと思えば、オロチの頭に生えた角の一本がいきなり切り飛ばされ、陽光を反射しながら海に落とされた。

 巨大な黒い烏、黒鉄の体を持つ烏ーーー鬼の使う式神の一つ、ケシズミカラスの上に乗った歌舞鬼が、桜吹雪とともに音叉の角を伸ばして生み出した刀を振りかざして接近したのだ。初めて明確な傷を残した歌舞鬼とケシズミカラスは再び高く飛翔し、もう一度刃を突き立てようと急降下を開始する。凍鬼と威吹鬼もそれぞれの武器を構え、自身の腰に巻いた円盤型の道具を外して構えた。

 だが、自身の体に傷をつけられたオロチが黙っているはずもなかった。まとわりつく凍鬼も、鬱陶しい威吹鬼も、邪魔臭い歌舞鬼もすべて睥睨し、巨体をうねらせながら大きく口を開いた。

 

「ギャオオオオオオオオ‼︎」

 

 強烈な咆哮とともに、オロチの口から巨大な火焔がいくつも発射される。荒波さえも一瞬で蒸発させる熱量を持った火焔が襲いかかり、上空を舞っていた歌舞鬼とケシズミカラスを盛大に吹き飛ばした。

 

「うおおおお⁉︎」

 

 歌舞鬼とケシズミカラスは衝撃で均衡を失い、フラフラと海面に向かって墜落していく。

 さらに火焔は無数に放たれ、遠距離から攻撃していた威吹鬼も、力ずくで振り落とされた凍鬼をも飲み込んでしまった。火炎に包まれた鬼たちは盛大に水しぶきを上げて海水の中に突っ込み、オロチの起こす荒波の中に沈んでいく。

 先ほどまで優勢に見えていた鬼たちが再び視界から消え、アスカの表情がまた青く染まっていった。

 

「そんな……鬼が三人も揃っておるのにダメなのか……⁉︎」

 

 また一人にされたアスカに、オロチが今度こそ狙いを定める。巨大な顎門を開き、小さな体を噛み砕き飲み込もうと涎を垂らす。

 アスカは腰を抜かしながらも、決して悲鳴はあげまいと唇をきつく食いしばり、目を瞑る。無様な姿は絶対に晒してなるものかと、襲いかかるであろう痛みを覚悟して体を固くした。

 

「うおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 しかし、聞こえてきた男の咆哮にはっと目を見開く。ケシズミカラスの背に乗った歌舞鬼が刃を振るい、オロチに向かって再び滑空していったのだ。怒りのままに暴れるオロチが火焔を吐くも、ケシズミカラスは紙一重でそれをかわし、一気にオロチの目先へ肉薄する。

 火焔の猛攻を躱した歌舞伎はケシズミカラスの背から飛び降り、刀を大きく振りかぶる。そして、目前にまで迫ったオロチに向けて刃を投擲した。

 

「ギャアアアアアアア‼︎」

 

 放たれた刃は避けることも許さず真っ直ぐにオロチに向かい、血走っていた片目に深々と突き刺さった。絶叫を上げるオロチは激痛に暴れまわり、激しく波を起こしながら海の中に潜っていった。

 足場を失った歌舞鬼と力尽きたケシズミカラスがざぶんと海に沈んでいく中、苦痛の咆哮を上げるオロチはアスカたちの前からあっさりと姿を消したのだった。

 

 

「カブキ、イブキ、トウキ! 大事ないか⁉︎ 返事をせよ‼︎」

 

 船の残骸を巧みに操り、若干穏やかになった海の上でアスカが大きく声を張り上げた。

 もうオロチが顔を出す様子はない。だが、先ほどの戦闘は鬼たちにかなりの負傷を強いているはずだった。あのまま海に放置していては命に関わるはずだ。

 焦りながら、アスカはじっと海面を凝視して鬼たちを探し続ける。波の動きからして、アスカの進む方に流されていることは間違いないが、力尽きて沈んでいないか不安で仕方がなかった。

 

「どこに……⁉︎」

「ーーーぶはっ‼︎」

 

 そんな中、視界の中で水しぶきが上がり、カブキが顔を出した。続いてイブキやトウキも顔を出し、むせ返りながら浮力を保っている。

 

「! こっちじゃ! 待っておれ!」

 

 思わず目頭を熱くしながら、アスカは船の残骸で三人を迎えに行く。三人乗っても沈まないか不安だったが、まだ余裕はあったらしい。

 残骸にしがみつく男たちは、一斉に安堵の声を上げて息をついた。

 

「た、助かったよ……」

「ム……」

「オロチは……?」

「傷は負わせたが、あの程度ではオロチを倒すことは無理だろう。……まだ、戦力が足りない」

 

 顔をしかめ、悔しげに答えるカブキに、アスカは唇を噛み締める。

 この男たちは強い。これまで見てきた男たちよりも確実に。

 だが、そんな彼らが力を合わせても勝てないと言うのなら、一体どうすればいいと言うのか。一体どうすれば家族を救うことができると言うのか。先の見えぬ闇に少女の心は闇に覆われ、強大な敵に屈しそうになっていく。

 

「……一体、どうすれば……!」

 

 身を切るような悲痛な声を上げ、アスカはガッと拳を打ち付ける。

 そんな時だった。

 

「ーーーよう。手ェ貸してやろうか⁉︎」

 

 不意に聞こえた声に、アスカの思考が一瞬だけ停止した。

 

「何⁉︎ ぬおお⁉︎」

 

 つい体勢を崩し、海の中に頭から落ちそうになるのをカブキたちに救われる。ようやく落ち着き、体勢を立て直したアスカは、はるか上空から舞い降りてくる一つの影に言葉を失った。

 陰った陽光を背に受け、ゆっくりと降りてくる影。神と木で作られた巨大な凧にしがみついた一人の男が、アスカたちに不敵な笑みを見せていた。

 

「とうっ!」

 

 男は凧から飛び降り、空中で宙返りをしながら落下する。そのまま空中で構えを取ると、アスカたちのしがみつく残骸の上に見事に着地して見せた。

 そのせいで残骸が思い切り揺さぶられ、カブキたちの表情が険しいものになったが、男は全く気にせずにすました顔をしていた。妙に格好つけた登場に目を見開いて硬直していたアスカだったが、しばらくしてようやく我に返った。

 

「お、おぬしは……?」

「ふっ。俺の名はキラメキ。……お前さんがアスカだな、話は聞いてるぜ。俺も付き合ってやるよ」

 

 希望通りの反応を返されたためか、機嫌よく名乗りをあげる。

 初めて聞くアスカは首をかしげたが、カブキたちは目を見開いてキラメキと名乗った男を凝視した。

 

「キラメキ……那古野(なごや)の鬼か!」

「なんと!」

 

 アスカは改めて目を見開き、キラメキの前で居住まいを正す。いきなりのことで驚いたが、まさか鬼だったとは。

 しかし、なぜあったこともない鬼がアスカの名を知り、事情にも通じているのか。理由がわからず、アスカは眉を寄せる他になかった。

 

「だが、なぜこんなところに……」

「なぁに、ちょいと人に頼まれてなぁ」

 

 意味深な笑みを浮かべるキラメキに、アスカは訝しげに眉を寄せるのだった。

 

 

「ーーーお前は、手を貸すつもりはないのか?」

 

 ある村に建っている小さな家の前で、ヒビキが一人の男を訪ねていた。男は振り返ることもなく、一心不乱に鍬を持って畑を耕し続けている。それはまるで、ヒビキの誘いから必死に耳をふさぐための方便のようにも見えた。

 

「ハバタキよ」

 

 ヒビキに名を呼ばれた男は鍬を振り下ろし、土に突き刺してからようやく動きを止める。しかしやはり響の方を見ることはなく、バツが悪そうな表情で肉刺のついた手を見下ろしていた。

 

「……俺は」

 

 ハバタキは視線を上げ、自分の家とその中にいる家族の方を見つめる。ヒビキもそれを見つめ、それでも一歩も動こうとはしなかった。

 

「俺にはもう、守るものがある……」

 

 鍬を担ぎ、逃げるようにハバタキはヒビキから離れていく。しかしその表情は苦しげで、内なる痛みに必死に耐えているかのようにも見えた。

 ヒビキの語った少女の苦しみから目をそらすことに、そして家族を免罪符にしている自分を嫌悪し、ハバタキは自分を責めているようにさえ見えた。

 

「女房に、結婚するときもう鬼の力は使わないって約束したんだ。……この手はもう武器を握る手じゃなくて、鍬を握る手なんだ」

 

 その答えに、ヒビキは黙って去ろうとする。ハバタキも察しているのか、背中を向けたまま家に戻ろうとする。

 

「……悪いが……俺は」

「何言ってるんだい」

 

 不意に聞こえてきた声に、ヒビキとハバタキの足が止まる。情けない顔をしていたハバタキが顔を上げると、自分の家の中から一人の女性が顔を出した。

 

「みどり……」

「迷ってるってことは、あの子のために何かしてやりたいってことだろう? それにね、気づいてないわけないだろう?」

 

 呆れた顔で見つめてくる自分の妻に、ハバタキは困惑の表情を浮かべて後ずさる。緑と呼ばれた女性はずんずんと力強く地面を踏みしめ、ハバタキの元へと近寄っていった。

 

「あんたが私に内緒で、こっそり体を鍛えてることぐらいお見通しさ」

 

 フッと微笑んだみどりはそう言って、ハバタキの手についた肉刺に愛おしげに触れる。手のひらについたものは、鍬を持ってついたもの。だがハバタキの持つ肉刺は、本来つかないはずの指にまでついている。

 

「行っておいでよ。帰ってくるの、待ってるからさ」

「みどりぃ……」

 

 優しく笑みを見せながら、夫の背中を押すみどりにハバタキはみっともなく泣き顔を晒し、大きく手を広げて妻を抱きしめる。みどりもそれを受け止め、しょうがない人だと言わんばかりに頭を撫でていた。

 そんな夫婦から、ヒビキは呆れた顔で視線を外すのだった。

 

 

 アスカは目を見開き、キラメキに詰め寄っていた。キラメキの語った経緯の中にあった名が、到底聞き逃せないものだったからだ。

 

「響鬼が……⁉︎」

「喜べよ、お嬢ちゃん。お前さんの頼みを受けて、動き出そうとしている奴らがいるんだからな」

 

 驚愕に目を見開くアスカの前で、キラメキはニヤリと不敵な笑みを浮かべて見せた。

 今まさに、何かが変わろうとしている、何かが起ころうとしている。そんな期待を帯びた目でキラメキを見つめる少女は、湧き出る高揚感を抑えられずにいるのを感じていた。

 

「これまで全く前例のねぇ、七人の鬼が集結する時だ」



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5.Seven war Demon

 曇り空が広がる、ある島の中の集落。土地は痩せ、寂れたその集落に、一組の集団が足を踏み入れていた。

 

「……まさか、ここまで酷いとは……!」

 

 バラバラになった小舟の残骸を使ってなんとか荒波を越えて泳ぎ続け、アスカはカブキたちとともに久方ぶりに故郷の島にたどり着いた。

 見た所、集落に変わりはないように見える。だが人々は以前よりも明らかにやせ細り、衰弱していることが目に見えてわかった。大した期間ではなかったはずだが、それでも仲間がここまで苦しむまで時間がかかってしまったことに、アスカは己の不甲斐なさに歯をくいしばる他になかった。

 

「長! 無事か!」

 

 だが、己を責めている場合ではないと、アスカは駆け足で集落の間を抜け、長のいる建物へと駆け込んだ。

 集落の中で最も大きい家屋。その中で、以前よりもはるかに痩せ細った長がアスカを待っていた。

 

「アスカ……戻ったか」

「遅うなってすまん。沖で魔化魍に襲われておったんじゃ」

 

 長の前に膝をつき、アスカは深々と頭を下げる。長の顔に一瞬だけ悲痛の歪みが生じるが、すぐに消される。いらぬ動揺を生まないためであろう。

 

「よく無事で戻った……肝が冷えたぞ」

「……すまぬ」

 

 遅れたことを詫び、アスカはまた深く頭を下げる。長はその肩を叩き、何よりも無事に帰ってきた娘の努力をねぎらった。その気遣いに、アスカは目頭が熱くなるのを止められなかった。

 すると、外で待っていたカブキが簾を上げて入室し、アスカはハッと我に帰った。

 

「おお、紹介せねばの。ここにおるのが、駆けつけてくれたカブキ殿じゃ」

「……!」

 

 長は今度こそ目を見開いて表情を変え、アスカの隣に腰を下ろしたカブキを凝視した。次にアスカの方を向き、信じられないといった様子で少女の顔を凝視した。見た目は年端もいかない子供だというのに、立派に役目を成し遂げたのだから、当然であった。

 

「まさか、本当に鬼を見つけて連れてくるとは……」

「ああ。安心せよ、これでもう安心じゃ‼︎」

 

 心の底から満足げに笑うアスカをよそに、長はカブキの前まで歩み出て膝をつき、深々と頭を下げた。

 

「……遠いところを、わざわざ申し訳ない」

「なぁに、俺達ゃ鬼の役目を果たすだけだぜ」

 

 互いに挨拶を交わす長とカブキを見やりながら、アスカはそっと席を外した。そして、長の家の前で待っている他の鬼たちを囲んでいる集落の住人たちの前に進み出て、きっと強い眼差しで睥睨して見せた。

 

「ぬしら! この者らはわしらを救ってくれる大事な方らじゃ‼︎ 無礼な真似は許さんぞ‼︎」

 

 どすの利いた声で、恐れを孕んだ目で鬼たちを観察している住人たちを一喝する。ただそこにいるだけで怖がり、蔑むような目線を送っている礼儀知らずにビシッと叱りつける様は、そこらの大人よりも立派に見えた。

 だが、住人たちの態度はさして変わらなかった。アスカの叱責に首をすくめながらも、やはり恐怖感をぬぐいきれずに他の者たちとヒソヒソと囁きあっている。中には、あからさまに侮蔑の表情を向けるものもいて、もろに聞こえるささやき声で罵っている者さえいた。

 

「……よくいうぜ。あいつが一番鬼のこと嫌ってるくせによ」

「しっ。聞こえるぞ」

 

 不意に聞こえた、アスカに対する言葉にキッと鋭い視線が向けられる。声を漏らした男はバツが悪そうに視線を逸らし、その場を離れようとしたがアスカは決して見逃さなかった。

 

「黙れ‼︎ 無礼は許さんと言ったはずじゃ‼︎ だいたい何じゃ貴様らは! こうしてわざわざ来てくれた恩人に向かって……」

 

 ずんずんと男の方へ歩み寄り、説教を始めるアスカ。男は居心地悪そうにしながら、冷や汗を流して縮こまっていた。周りのものもバツが悪そうに目をそらし、そのうち見ているこっちが辛くなるほど情けない顔をするようになっていった。

 そんな、肝っ玉の大きい少女の姿を見ながら、鬼たちは苦笑を浮かべていた。

 

「……あいつは、きっといい女になるな」

「ええ、そうですね」

 

 故郷のため、己の気持ちを押し殺してたった一人で旅に出た少女。魔化魍に襲われても、人間に襲われても、それでも諦めることなく歩き続け、役目を果たそうとした彼女の背中は、誰よりも大きく見えた。

 その時だった、住人たちを叱りつけているアスカの元に、新たな声が届いたのは。

 

「……すまない、その話、俺も加えてもらえないだろうか」

「これからは……ん? な、なんじゃ?」

 

 振り向いた先には、見覚えのない二人の男が佇んでいた。

 

「俺はハバタキ。古き友の誘いを受け、この島に助っ人として来させてもらった。……俺にも、戦わせてほしい」

 

 真剣な表情で、片方の男がアスカを見つめる。他のものよりもどこか角の取れた雰囲気を持っているように見えるが、ただ者ではない雰囲気を放っていることはわかった。

 

「……その、古き友とは、もしや……?」

「ああ。ヒビキのことだ」

 

 その名を聞き、アスカの表情に歪みが生じる。キラメキのことと同じで、自分は行かずに他の鬼を活かせていることに、アスカは理由がわからずに苛立ちを感じてしまった。

 こんなことで自分の許しを得たいと思っているわけでもあるまい、と考え込んでいると、アスカの内心に気づいたのかハバタキは悲痛な表情を浮かべていた。

 

「君があいつに、嫌な感情を持っているのはわかっている。その紹介できた俺に、正直力なんて借りたくないかもしれない。でも俺は、困っている誰かのためにもう一度戦うと誓ってきたんだ。……俺に、その約束を果たさせてくれ」

「……ハバタキ殿」

 

 ハバタキの目に、嘘偽りはないとアスカは直感した。そして同時に、アスカが拒否感を抱くことを承知で、ヒビキの誘いを受けたというこの男に、アスカは苛立ちをぶつけてしまったことを深く恥じた。

 思わずグッと息を飲み、涙をこぼしそうになるアスカだったが、その手が不意に何者かにがっしりと掴まれた。ぎょっとして振り向くと、もう一人の男がアスカの手を握りしめていた。

 

「君がアスカちゃんっすね⁉︎」

「お、おう⁉︎ お、おぬしは……?」

「俺はトドロキ! 話はみんな煌鬼さんから聞いてたっす!」

 

 人のいい笑顔を浮かべたトドロキがキラメキの方へ視線を向ける。

 アスカは唖然とした様子で、得意げな顔をしているキラメキを凝視した。

 

「いつの間に……」

「頼れるものには、話を通しておくもんだからな」

 

 手際の良さにアスカは感心する。戦うだけではない、他の鬼にも助力を超える繋がりを持っていることに驚きながら、それができるキラメキの手腕を褒めたたえたくなった。

 

「な、な、泣けるっす!」

「うお⁉︎」

 

 感心していたアスカが、突如聞こえてきた泣き声に現実に引き戻される。見れば、涙を滂沱として流す等々力がアスカを凝視している。若干血走っていて恐ろしい形相になっていたため、アスカはそっと距離を取ろうとしたが、逆に距離を詰められたため叶わなかった。

 

「故郷のみんなのために、憎い気持ちを押し殺して頭を下げる‼︎ なんて健気な子なんですか⁉︎ わかりました、任せてください! 俺も一緒に戦います‼︎」

「……そ、そうか」

 

 ブンブンと手を振られ、トドロキの熱いまなざしに頬を引きつらせる。鬼は皆癖の強い奴ばかりかとわかってはいたが、この男は別の方面で個性の強い奴だと戸惑っていた。

 

「やってやる……やってやりますよ俺は! 絶対に俺が、この島のみんなを守ってみせる‼︎ 斬鬼さーん! 見ててくださぁぁぁい‼︎」

 

 気迫の強さと言うか、暑苦しさにポカンとする他にない。突如海に向かって吠えるトドロキの先に、親指を立てる一本角の鬼の幻影が見えた気がしたが、気のせいだと思いたかった。

 

「……ま、まぁ、やる気があるならありがたいがの」

「俺も話は聞かせてもらったで」

 

 後ずさるアスカの背後に、ぽすんと何かが当たる。目を見開いて振り返れば、見覚えのある派手な衣装を身にまとった一人の男が立っていた。

 

「! おぬしは……」

「俺はニシキ。堺の鬼や」

「……あの、泥棒をやっておった?」

「そ! そんで嬢ちゃんに救われて、恩を返しにやってきたってわけよ」

 

 ニヤリと不敵な笑みを浮かべる男・ニシキは、確かに堺で姿を見た、役人に捕らえられていた盗人に間違いなかった。ニシキの言う音というのは、アスカがあの場で起こした騒ぎのことだろう。些細なことのつもりだったが、気づいていたことは大きな驚きだった。

 

「じゃ、じゃが……それでも信じられん。あんなことのために……こんな」

「これでも鬼の端くれや。人のために戦うゆうんなら、なんぼでも体はったるわ。……それにの」

 

 困惑するアスカの頭に手を乗せ、ニシキは満面の笑みを浮かべて見せた。

 

「女の涙には弱いんやで」

 

 その言葉に、つい返事に詰まってしまう。女扱いされることなど慣れていないし、そんな綺麗事のために命をかけてくれるなど考えられなかった。

 振り向けば、島に集ってくれた鬼たちが皆、ニシキと同じような笑みを浮かべてアスカを見下ろしている。

 アスカの苦悩を、願いを知っている男たちが。その願いを足蹴にすることなく、これまでついてきてくれた男たちが、慈愛の笑みを浮かべて少女を見守ってくれていた。

 

「おぬしら……」

 

 優しさに、胸が熱くなる。言葉が出ない、言わなければいけない大切なことがあるのに、体が言うことを聞いてくれない。心が勝手に震えて言うことを聞いてくれない。

 そんなアスカに、ニシキが頭を撫でて助け舟を出してくれた。

 

「今まで、よう頑張ったの」

「……! すまぬ……すまぬ‼︎ この恩は、この恩は必ず返す‼︎ ありがとう……!」

 

 報酬など、たいしたものは用意できない。だが、この鬼たちはただアスカが助けを求めたからという、それだけの理由で戦ってくれるという。

 その心の広さに、慈悲深さに、アスカは溢れ出る涙を止めることができない。ぽろぽろと涙をこぼし、何度も頭を下げることぐらいしかできずにいた。

 だが、そのように感情を正の方面に表しているのは、アスカだけ。鬼たちとアスカを遠くから見つめていた集落の住人の目には、前よりもはるかに大きな畏怖と嫌悪の色がありありと現れていた。

 集落の住人との間には、大きな温度差が現れていた。

 

 

「ここはわしの家じゃ。狭いが、好きなようにくつろいでおってくれ」

 

 七人の鬼たちを、アスカは意気揚々と自分の家に案内する。

 久しぶりに戻ってきたが、相変わらず小汚いのに埃などは積もっていない。おそらく、彩姫あたりが掃除してくれていたのだろう。あとで礼を言っておかねばなるまい。

 

「……一人なのか?」

「ああ。……わしは、拾われた子じゃからの」

 

 なんとなしに行ったアスカの一言に、全員の表情が意外なことを聞いたものに変わった。

 そういえば言っていなかったと苦笑し、アスカは照れ臭そうな笑みを浮かべた。

 

「乳飲み子の頃に、ここへ流れ着いたらしくての。昔のことはよう覚えとらん。じゃが皆、わしのことを可愛がってくれたんじゃ。何もかも助けられてばっかりじゃ」

 

 恥ずかしそうにしながら、その表情はどこか誇らしげで。鬼たちは言葉を失いながら、そんな血の繋がりがないにも関わらず命がけで旅立った少女に尊敬の眼差しを送る。

 アスカはますます照れ臭そうに笑い、視線を合わせまいと背中を向けた。

 だが、不意にその表情は曇り、下げられた手に力がこもった。

 

「……皆、わしの家族がすまんかった」

 

 気落ちした声で告げられた言葉に、カブキたちは他の住人たちの視線を思い出す。あの視線は、これまでの旅でも度々向けられて来たもので、アスカはそれを見るたびに苦しそうな表情を浮かべていたものだった。

 

「せっかく来てくれた恩人に対して、あのような態度をとるなど……わしは、家族として恥ずかしくて仕方がない。……本当に、すまん」

「謝るな」

 

 唇を噛み、拳を握り締めるアスカにトウキが言い放つ。はっと振り返るアスカの目尻に涙が滲んでいるのを見ながら、穏やかな表情を浮かべた僧はアスカを見つめたまま説き伏せる。

 

「正しく生きていても、傷つけられたり、踏みにじられたりする。だが、俺たちの人生は俺たちのものなのだ。もし今辛いと思うなら、これからは辛くならないようにすればよい……生きていれば、何度も転んでそのたびに傷を作り、あざを作ったりすることだろう。……だがそんな時」

 

 じっと見つめてくるアスカに、トウキは己がたどり着いた答えを告げた。

 

「心だけは強く鍛えておかねば、自分に負けてしまうだろう」

 

 心に、その言葉が響いた。

 わずかながらも、救われた心地になったアスカは、今度こそ安堵の表情をカブキたちに見せ、肩の荷が下りたような笑みをみせた。

 

「わしは、長とこれからのことを話合うてくる。わしの家でゆっくりくつろいでいてくれ」

 

 カブキたちにそう言い残したアスカは、そのまま軽い足取りで簾を開けて飛び出していく。年相応にはしゃいでいるようなその姿に、カブキたちは安堵のためか破顔していった。

 

「……ほんと、いい女になるよ、あいつは」

「……ああ」

 

 いつも重圧を背負い、張り詰めたような表情を浮かべていた少女が、ようやく心から安堵の笑顔を浮かべている。

 せめてあの笑顔が曇らないように自分たちは死力を尽くそうと、鬼たちは決意を新たにするのだった。

 

 

 もう一度長に会おうと、集落の中をかけていくアスカ。その途中、心配そうに眉を寄せた彩姫がアスカを呼び止めた。

 

「アスカ……」

 

 送り出してくれた時よりもはるかに痩せて見える姉貴分の姿に表情を歪めながら、アスカはすがりつくように向き直った。

 

「彩姫! 聞いてくれ、あやつらは……」

「わかってる」

 

 アスカの言葉を遮り、彩姫は何度も頷く。見送ってくれた時と同じく、慈愛の笑みを浮かべてアスカを見つめていた。

 

「…あなたが信じた連中だもの。わたしも、信じたいよ」

「……! ありがとう……!」

 

 細くなってしまった彩姫の体を抱きしめてから、アスカは再び走り出した。背中を見送ってくれる姉貴分の視線を受けながら、温かい気持ちで長の家を目指した。

 

 ーーーなぁ、アスカ。

    お前は鬼を怖がっているけどな、そりゃお門違いってやつだ。

 

 走り続けるアスカふと、兄が生前に言い残した言葉のことを思い出していた。

 あの一件から鬼を嫌い、憎み、思い出すことを拒絶していた兄の言葉が、今になってアスカの脳裏に蘇ってきていた。

 

 ーーーあの人はな、本当にすごい人なんだ。

    苦しむ人を救いたいって、ただそれだけの願いのために苦しい修行を諦めずに続けて、鬼になったんだ。

    俺はな、そんなあの人の力になりたいんだよ。

 

(兄者……おぬしのいうとおりじゃった)

 

 誇らしげに語る兄の笑顔が蘇る中、アスカは当時の自分を憐れみたい気分だった。兄が危険な目に遭っているのではないかと、鬼が兄をどこか遠くへ連れて行ってしまうのではないかと、そんなことばかりを考えて怯えてばかりいた自分に、教えてあげたい気分に陥っていた。

 

(兄者を見殺しにしたヒビキはまだ許せん。じゃが……わしに力を貸してくれる奴がこんなにもおった。兄者のいうとおり、鬼は本当にすごい奴らじゃ!)

 

 にやける口元を抑えることもできず、アスカはただ走り続ける他にない。



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6.a word of senior

 その夜、アスカの家からは賑やかな笑い声が響いていた。蝋燭が一本だけ照らしている一室に七人の男たちと一人の少女が輪を作り、中心の囲炉裏に置かれた鍋の中の料理をつついていた。

 

「ふいぃ〜、よう食ったわ! アスカちゃんは料理が上手いのう!」

「一人暮らしが長いからの。これぐらいできねば生きてはいけん」

「立派なもんやなぁ……いろんな意味で」

「おい」

 

 ニシキの褒め言葉に自慢げに胸を張り、アスカは笑みを浮かべる。胸の立派な膨らみに目を奪われながらニシキが褒めると、その視線に気づいたトウキとカブキがニシキの頭を叩いた。その姿にキラメキがゲラゲラと笑い転げ、ハバタキがそれを諌めながら自身も笑いをこらえ、イブキとトドロキも人目を憚らずに笑い声をあげていた。

 

「それにしても、よかったの? オロチのせいでご飯もろくに食べられないだろうに、こんなに豪勢にしちゃって……」

「島の恩人なんじゃ。これぐらいはさせてくれ」

 

 アスカはそう言って、ニシキのお椀に鍋の中身を注ぐ。ニシキはその甲斐甲斐しい姿に、目尻に涙をためはじめた。かなりわざとらしかったが。

 

「お前は……! 本当にいい子なんやからもう〜絶対幸せにするでほんまに!」

「ああ、それはいらん」

「アレェェェ⁉︎」

 

 ざっくりと求婚を否定され、ニシキが本気で衝撃を受けた顔になる。その様があまりにおかしく、カブキたちも、寡黙なトウキまでもがゲラゲラと笑い出してしまった。

 ニシキは「笑うなや!」と手近にいたイブキの首に手を回し、キラメキが場を盛り上げようと小噺まで始め、夕餉の時間があっという間に騒がしくなる。カブキやトドロキも便乗し、比較的静かなトウキとハバタキも盛大に笑い声をあげていた。

 兄が死んでから会話も無くなっていた我が家に光が差したようで、アスカは心が温かくなるのを感じながらニシキとイブキをなだめる。今まで感じたことのない暖かさに、アスカの空虚だった心が満たされていくのを感じる。

 救い手を探し連れてくるという重圧からようやく解放されたアスカも、久しぶりに心の底から笑うのだった。

 

 

 宴のような晩餐も終わり、アスカの家には静寂が訪れていた。

 狭い部屋に雑魚寝している鬼たちは、時折窮屈そうな寝言をこぼしながら深い眠りについている。誰のものかは知らないが、凄まじいいびきも響いてきていた。

 そんな中、アスカはギンギンと目を開いたまま天井を見上げていた。決していびきのせいではなく、自身の内で燃える感情を持て余して眠れずにいた。

 

「どうした、アスカ」

 

 そんなアスカに、隣で寝転んでいたカブキが小声で訪ねてきた。アスカは顔を向けて、暗闇で表情の見えないカブキの横顔を見つめた。

 

「……眠れないのか?」

「……うむ。高揚してしもうての」

 

 カブキから視線を逸らし、アスカは答える。

 思い出すのは、オロチが来る前の平和だった集落の姿。痩せた地でみんなが助け合い、生まれた故郷を大切にしながら生きていた、全てが眩しく輝いていたあの時のことを。

 

「皆、オロチが来てから変わってしもうた。生き残るために必死になって、心が狭うなって……優しかったみんなは、もうどこにもおらんなってしもうた」

 

 アスカの声がしぼみ、落ち込むように小さくなっていく。

 みんな、変わってしまった。少しでも他より余裕があれば羨み、妬み、醜い感情をあらわにする。そんな風に変わっていく様を、アスカは何年にもわたって見せつけられてきたのだ。

 だがそれは一瞬のことで、すぐにまたアスカは明るい顔で天井を見つめ、手を伸ばした。その先にある見えない星が手に届きそうで、興奮が湧き上がって眠気を吹き飛ばしていく。こんな気持ちは、初めてのことだった。

 

「じゃが、もうそれも終わりじゃ……! 魔化魍さえいなくなれば、またみんなでやり直せる。昔の皆に戻れる! ……それが、楽しみでしようがないんじゃ」

 

 取り戻せる、あの日々を。それが、楽しみで仕方がなかった。

 かつての家族の姿を思い浮かべるだけで、興奮を止められなくなるのを感じていた。

 

「……ぬしらの、おかげじゃ」

 

 恥ずかしがることもなく、アスカはそう言い切る。カブキの表情は見えなかったが、そのままごろりと背を向けてしまった。照れているのだろうと、アスカはクスッと笑みをこぼした。

 だがふと、その表情が寂しげなものに変わる。

 

「……皆、オロチを倒したらどうするんじゃ?」

「……俺は、また旅に出るさ。魔化魍は、どこにでもいるからな」

「せやなぁ、俺もまたいつも通り……ってのは冗談で、またどっかで人助けでもするわ」

 

 アスカの問いに、背を向けたままのカブキだけではなく眠りこけていたはずのニシキも答えた。やはり寝づらかったらしい、嬉々として答えてくれた。

 

「私も、暇ができればまた鬼の仕事をしますかね。城主の役目です」

「俺もっす!」

 

 イブキとトドロキも、アスカの質問に律儀に答えてくれる。やはり皆寝苦しかったのだなと、アスカは狭い家で寝かせてしまったことを心苦しく思った。

 

「全ては御仏の命じるまま……これからもそれは変わらん」

「……俺は、家族の元に帰る。でも……また鬼の仕事もするかもな」

「皆、だいたい同じ感じかね」

「……そうか」

 

 トウキやハバタキ、キラメキもそう答え、アスカは寂しさを感じて背を向けた。無理を言ってきてもらったのに、いざいなくなると思うとどうにも心にざわめきが生まれる。

 

「……お前は、って、聞くまでもないか」

「う、うむ」

 

 戸惑いながら、アスカは頷く。

 故郷のこの島が好きで、家族のことが大切で、救いを求めて意を決して旅に出たのだ。ここにいる以外の選択肢など考えられるはずもない。

 だが、アスカの心には迷いが生じていた。

 

「じゃが正直、何をしたらいいのか全くわからん。皆の役に立てるように色々やったが、どうにもうまくいかんことばっかりじゃった。……本当にみんなのためになるんか、疑問ばっかりじゃった」

 

 粗末な掛け布団の下から、自身の手を出して暗闇の中で見つめる。同い年の女子供にも劣る、細い手だ。こんなもので一体、今まで何をしてきて、これから何をすると言うのだろうか。

 

「……わしは、弱いからの」

「鍛え足りなきゃ、鍛えるだけだ」

 

 自嘲するように呟くアスカを、カブキが叱った。

 振り向けば、やはりカブキは背を向けたままで顔を見せてくれない。それはまるで、自分で答えを探せとでも言っているようだった。

 

「そうそう。大したことじゃないことからコツコツ始めるのが大事なことなんだよな」

「落ち込むやつはさ、成長するんだよ」

 

 同じ経験でもあるのか、暗闇の中からキラメキやトドロキが教えてくれる。気づけば他の鬼からも視線を感じ、アスカは心が温かくなるのを感じた。

 みんな、こんな不甲斐ない己を慰めてくれる、応援してくれる。それがなんとも言えず、胸が熱くなるのを感じていた。

 コロリと寝返りを打ち、アスカはカブキの背中と向き合う。おびただしい傷が刻まれているであろう大きな背中を見つめていると、アスカは呼吸と鼓動が早くなるのを感じた。理由もわからず困惑していると、喉の奥から思わぬ言葉が漏れ出そうになるのを感じ、余計に戸惑う羽目になった。

 

「……のう、カブキよ。もしよかったらじゃが、この一件が終わったら……わしを」

 

 慌てて自分の口を閉じ、カブキの背中から視線を外す。これ以上見つめていたらどんどんおかしくなって、変なことを口走ってしまいそうで怖くなり、アスカは無理やり自分を抑え込む他になかった。

 

「……いや、なんでもない」

 

 カブキは何も言わなかったが、ややあってからおもむろに起き上がった。アスカは慌てて寝返りを打ち、熱くなった自分の頬を見られないようにする。暗闇で赤い顔も何も見えないだろうが、なぜかカブキには見られなくて隠してしまった。

 

「……ど、どこへ行くんじゃ?」

「ちと、小便へな」

 

 そう言って戸を開けて出ていくカブキの足音が離れていくのを聞きながら、アスカは深いため息をつく。

 未だばくばくと早鐘のように打つ胸を押さえながら、アスカは暴れだしそうな衝動に困惑、身を縮める他になかった。

 

(……わしも、変わったもんじゃの)

 

 以前は鬼など、名前を聞いただけで嫌悪感を抱いていたというのに。二度と関わるものかと決めていたというのに。

「一緒に行きたい」と願うなど、考えられなかったはずなのに。

 他の皆も聞こえていただろうがそれ以上問いただすことはなく、再びアスカの家には静寂が訪れることとなった。

 

 

「……おい、見たか。あいつらの戦っている様」

 

 暗闇の中で、男たちの声がかすかに響く。鬼たちが集うアスカの家を囲うように集まった村人たちが、ヒソヒソと囁きあっているのだ。

 灯りはなく、アスカの家の中は全く見えない。だが出入りは常に確認し、鬼たちは怪しげな行為をしていないかどうかを目を皿にして監視していた。

 

「おお、沖でやりおっておったあの時じゃろう? おっそろしいもんじゃったわ。どっちが化け物かわかったものではない」

「正直ありがたいとは思うが……本当に信用してええもんかのう」

 

 恐れを孕んだ目で、男たちはアスカの家を見つめる。

 鬼たちは確かに、魔化魍を退治してくれるだろう。だが退治したその後、あの化け物たちは一体どうするつもりなのか。それがわからず、住人たちの間には疑心暗鬼が広がっていた。

 

「……長のいう通りにしたが、本当にオロチに逆らってよかったんかのう」

「もし呪いなんてあったら、わしらは一体どうなるんじゃ」

 

 オロチは恐ろしい。それをよくわかっているゆえに、本当に退治できるのかと疑ってしまう。むしろ、より恐ろしい結末が待っているのではないかという恐怖まで勝手に抱く始末。

 アスカの願う人と鬼の和解は、未だはるか遠い位置にあった。

 

「……よく一緒に居られるぜ」

「ああ。俺たちがあの中に入ったらと思うとゾッとするな」

「もしかしたら、どっか通じるものがあるのかもしれねぇな。なんせあいつ……」

 

 化け物と一緒にいる少女の神経を疑い、根も葉もない噂にまで発展する会話。

 それは、唐突に途切れることとなった。

 

「た、大変だーーー‼︎」

 

 集落の方にいた仲間の一人が、息を切らせながら男たちの元に戻ってきた。

 男たちはきっと目を鋭くし、へたり込んだ男を激しく叱責する。

 

「大声を出すな……! 鬼どもに気取られたらどうする⁉︎」

「そ、それどころじゃねぇ‼︎」

 

 駆け込んできた男はその叱責を払いのけ、そのまま必死の形相で見てきたものをありのままに伝えた。

 最悪の情報を。

 

「た、田吾作が……! 田吾作が殺されてる……!」

 

 男がそう言った瞬間、住人たちの間に衝撃が走った。

 死んだ、集落仲間が、この島で。

 告げられた言葉の内容を理解するのに時間がかかり、反応が起こるまでにかなりの差が生じていた。

 

「た、田吾作が……⁉︎ な、なんということじゃ‼︎」

 

 一人がざわめき出し、動揺が他のものにも広がっていく。恐怖や不安、怒りが伝染し、ざわめきが重なって耳障りな騒音になり始めた。

 

「本当かよ……⁉︎」

「ああ……首をばっさりだ! 人間の真似じゃねぇ!」

「一体誰が……?」

 

 魔化魍に怯え、それでも手を取り合ってきた仲間が何者かに殺されたという事実に、疑心暗鬼に陥った住人たちは互いを疑うように視線を巡らせる。身内を殺され、次は自分ではないかと焦る気持ちが、彼らからまともな思考能力を奪いっていった。

 

「……あいつらじゃねぇのか?」

 

 そんな中、不意に聞こえた言葉に男たちの視線が集まった。

 声を発した男は鬼たちのいる家を凝視し、憎悪のためか歯を食いしばってギリギリと鳴らしている。考えを察した他の男が、その男の肩を掴んで諌めた。

 

「おい、何を言い出すんだ」

「そうとしか思えねぇだろ! あいつらが来て、オロチを追い払ったと思えば仲間が殺されてる! 偶然なわけがねぇ!」

「じゃ、じゃが何のために……⁉︎」

「理由なんかあるわけねぇ‼︎ 所詮あいつらは、魔化魍と同じだ‼︎」

 

 根拠も何もない、言いがかりのような発言。

 だが疑心暗鬼に陥った男たちは、その考えがまるで正しい答えにしか思えなくなっていく。生じてしまった負の感情に押し出され、冷静な思考ができなくなっていたからだ。

 

「やっぱり鬼なんかを信じたのが間違いだったんだ‼︎ あいつらはやっぱり……化け物だ‼︎」

 

 その言葉は、村人たちに衝撃を走らせ、同時に。

 鬼と人の間に取り返しのつかない溝を刻む、最悪の事態を呼ぶこととなったのだった。



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7.start moving person

「……ん? なんやこの匂い」

 

 ニシキの呟きに気づけたのは、完全に偶然だった。ようやく胸の高鳴りも落ち着き、うつらうつらとまどろみ始めた時に、焦げ臭い匂いが鼻についてきたのだ。

 囲炉裏の火は消した、灯りの火も消した、なのにこんな匂いがするというのはどういうことなのか。周りを見れば、うっすらと周りに黄色い光が見え、鬼たちの顔が見えるようになっている。

 その理由を察した瞬間、アスカの表情が一瞬で青く染まった。

 

「……まさか!」

 

 ガバッと布団をはねのけ、アスカは戦慄の表情を浮かべる。完全に目が覚め、次いであらゆる感覚が鮮明になっていく。

 匂いや灯りだけではない、パチパチと家の外で弾ける音が鳴り、熱気がアスカたちを取り囲んでいる。

 燃えている、とアスカはようやく完全に理解した。

 

「皆、起きよ‼︎ 火事じゃ‼︎」

「あ? 何言って……ってなんじゃこりゃぁあああ⁉︎」

 

 のんきに眠りこけていたキラメキが、周囲の状況の変化に悲鳴じみた声をあげた。すでに他の鬼たちは目を覚まし、脱出しようとしているが、すだれがかかっていたはずの入り口にはいたか何かが貼られ、向こう側から何かで押さえつけられているのか動かすことができなかった。

 閉じ込められたのだとわかった瞬間、アスカは呆然と言葉を失った。誰が、とか何故、などと考える余裕もなく、このような暴挙に出たことに愕然とする他になかった。

 固まっているアスカを気付けるように、トウキが険しい形相で怒鳴り声をあげた。

 

「ぶち破るぞ‼︎」

「……あ、ああ、構わん‼︎」

 

 アスカはその叱責にハッとなり、困惑しながらも許す。すぐにアスカはトドロキに抱え上げられ、煙を吸わないように顔を覆われる。

 

「おおおおおおお‼︎」

 

 両腕を交差して前に構えたトウキが、雄叫びと共に壁に向かって突進する。元から壁の薄いあばら家だったことが幸いし、さしたる抵抗もなくトウキは大穴を開けて外に脱出することができた。他の鬼たちもそのあとに続き、轟々と火を上げる家屋の中から次々に飛び出していく。

 最後にニシキが飛び出した瞬間、アスカの家はガラガラと屋根から崩れ落ち、完全に潰れてしまった。穴や罅から吹いた風で乾ききっていたためか、アスカの家はあっという間に燃焼し、真っ黒に染まっていってしまう。

 我が家が消える様を呆然と眺めていたアスカだったが、首を振って我に返り、家の前にへたり込んでいる鬼たちの方を振り返った。

 

「皆、無事か⁉︎」

「お、おお!」

「なんとかな……!」

「カブキ!」

「ここにいる……」

 

 全員の無事を確認し、アスカはほっと安堵の息をつく。火事ぐらいで鬼がどうにかなるなど、長く旅をしてきたアスカは微塵も思わなかったが、それでも万一のことを思うと肝が冷えた。

 すると、へたり込むアスカの背後に、無数の気配を感じて振り向く。暗闇の中、燃え続ける家からの灯りで照らし出される人影に、アスカの目は人を殺せるほどに鋭くなっていった。

 

「貴様ら、なんの真似じゃ‼︎ わしがいうたことをもう忘れたんか⁉︎」

 

 アスカと鬼たちを取り囲む、集落の人間たちにアスカは怒鳴りつける。何度も言った、何度もわかってもらおうとした、なのに、この仕打ちはあまりにも許せるものではなかった。

 だが、それでも住人たちの眼差しは変わることはなかった。

 

「黙れ! もうわしらは……そいつらの言うことなんざ信じられん‼︎」

「お前たちのような人殺しは、さっさと出て行け‼︎」

 

 皆一斉に罵倒するばかりで、興奮のせいか口も回らず、何を言っているのさえ聞き取ることもできない。だが、人殺しという単語だけははっきりと聞き取れた。

 

「なんの話だ⁉︎」

「しらばっくれるな化け物ども! 田吾作が殺されてたのは、お前たちの仕業じゃろうが!」

 

 暴挙に出た住人たちをにらみつけていたカブキたちだったが、その言葉に反論が止まる。いつも受けていた蔑みの言葉ではない、はっきりとした憎しみの言葉に理解が追いつかなかった。

 

「なんだと……⁉︎」

「何を根拠にそんなことを‼︎」

「これが動かぬ証拠じゃ‼︎」

 

 住人の一人が、鬼たちに向けて金属製の何かを投げつけた。

 飛んできたそれを受け止めたニシキがそれーーー自分が盗人として使っていた刃物の一つを見て目を見開く。

 

「これは……確かに俺の。でも、なんでや⁉︎」

 

 困惑するニシキをよそに、住人たちの罵詈雑言が悪化していく。激しい憎悪が場に満ち、住人たちの姿が熱気のせいか悪鬼のように歪んで見えていた。

 

「ま、待てお前たち! こやつらはそんな連中ではない! 冷静に……‼︎」

 

 アスカは必死に住人たちを抑えようと声を上げる。このままではまずい、取り返しのつかないことになる前に怒りを沈めねばと前に出る。

 だが、突如どこからか飛んできた小石がアスカの額に当たり、アスカの声は途中で遮られてしまった。

 

「うるせぇ! そもそも孤児のお前に頼った俺たちが間違ってたんだ‼︎」

「どこのガキともしれねぇガキを! 長が気まぐれで拾ったからって仲間面しやがって‼︎」

「こんなことになったのも全部お前のせいだ疫病神が‼︎」

「……何を、言っておる?」

 

 生暖かい液体が流れ出る自身の額に手を当て、膝をついて呆然となるアスカに、住人たちは次々に蔑み罵る。鬼に対してぶつけられていた憎悪が、そのままアスカにまで向けられているように見えて、アスカは何も考えることができなくなっていた。

 

「何を、……言って」

 

 これは一体、誰だ。こんなにも醜く誰かを非難する者たちは、一体なんなのだ。

 どうして自分が、こんなことを言われなければならない。自分はただ、仲間を、家族を救おうと必死だっただけなのに。

 少女の純粋な想いは、偏見と差別、そして憎悪の心に簡単に踏みにじられていた。

 アスカの心は、徐々に徐々に黒く、塗りつぶされていった。

 

「おう……ちょい待てや」

 

 それは、鬼たちもまた同じだった。

 蔑まれるのはいい、慣れたことだからだ。憎まれるのもいい、救えなかったこともあるからだ。

 だが、大切なものを守るために奔走し、苦心した少女を。鬼を偏見で見ることなく人と同じように接し、誰よりも勇敢で心優しい清らかな少女も扱き下ろし、あまつさえ見殺しに素養とした畜生にも劣る連中を、許す気にはとてもなれなかった。

 

「ここまで言われて……黙ってられるほど懐深くないんやコラァ‼︎」

「仏の顔も三度まで……もはや止まる理由はない‼︎」

「気に入らん……全くもって気にいらんぞ‼︎」

 

 憤怒の形相へと変わったニシキ、トウキ、ハバタキが音叉を取り出し、打ち鳴らして自身の額にかざしていく。錦のような光に、吹雪に、羽毛に包まれた男たちの姿がたちまち鬼に変わり、獣じみた唸り声をあげて旋風を振り払った。

 ギロリと集落の住人たちを睨み、一歩ずつ踏み出していくトウキたち。先ほどとは打って変わって、恐怖に怯えて後ずさる男たちに迫っていく鬼たちの前に、残る三人の鬼が立ちはだかった。

 

「待てお前ら! アスカちゃんの気持ちを無下にするつもりか!」

「ちょっ、ダメっすよ皆さん! 人を守るのが鬼の役目っすよ⁉︎」

「冷静になってください!」

 

 なんとかなだめようとするキラメキ、トドロキ、イブキだが、怒りに満ちたトウキたちに止まる様子はない。それどころかますます怒気を強め、トドロキたちをも睨みつけていた。

 

「そのアスカの願いを無下にしたのはこいつらだ‼︎ もはや、俺たちがこいつらを守る理由などない‼︎」

「どけぇ‼︎」

 

 力尽くで押し通るつもりか、それぞれで得物を取り出していく。鈍い光を放つ鬼の武器に、集落の人々は恐怖の表情を強め、悲鳴をあげて一斉に距離を取っていった。

 

「ちょっ……ああもう!」

 

 説得が無駄だと指したトドロキたちは、自分たちも鬼に変ずる楽器を取り出して鳴らし、額に翳していく。雷電を、風を、旋風を纏い鬼に変じ、人々に自ら仇なそうとしているトウキたちに躍りかかっていった。

 

「み、皆! やめてくれ! もう……もう……‼︎」

 

 家族と思っていたものたちからの心ない言葉に硬直していたアスカはようやく我に返り、ぶつかり合っている鬼たちに悲痛な叫び声をあげる。

 なぜこんなことに、誰がこんなことを。混乱したままの頭ではどんなに考えてもわからず、ただ必死に呼びかけることしかできない。しかし頭に血が上った鬼たちには届かず、少女の声が虚しく響き渡る。

 

「……諦めろ、アスカ」

 

 目に涙を浮かせるアスカを、傍らに立っていたカブキが止める。虚ろな目で見上げるアスカに哀れみを覚えながら、カブキもまた不快な表情を隠しきれていなかった。

 

「さすがに……我慢の限界だ」

 

 カブキの言葉に、アスカはがくりと膝をつき、鬼たちが互いに争っている光景を呆然と見つめた。

 あんなにも頼もしかった鬼たちが、今は怒りに支配されて力の限りに暴れている。片方はそれを止めようとしているが、力加減ができないのか一方的にやられるばかりで、周りに被害が及んでいる。

 そこにいたのは確かに、〝鬼〟という名の化け物だった。

 アスカは今、初めて知り、そして絶望した。

 ただ一人の鬼に恨みのある自分と異なり、偏見と差別でしか見られない人々と鬼の、超えられない深い溝に。何をしようとも変えられない、人の醜い本質に。

 

「……やめて、くれ……」

 

 凍鬼がその剛力で威吹鬼を持ち上げ、地面に叩きつけている。西鬼が両足で轟鬼を捕らえ、虎のように前足で地面をかけながら引き摺り回す。羽撃鬼が腕に生えた翼を広げ、煌鬼を捕らえて空中まで宙吊りにしている。

 島を救ってくれると、助けてくれると言ってくれたものたちが、互いに無意味な争いを続けている。同じ飯を分け合ったものたちが、今は憎悪に満ちた殺し合いを繰り広げている。

 その光景はあまりにも、惨すぎる。

 

「やめてくれ……!」

 

 なぜこんなことになった。何が悪かった。

 この島に呼んだことが悪かったのか、鬼に頼ったことが悪かったのか。

 では、そうしたのは誰だーーーそれは、一人しかいないではないか。

 

「やめてくれぇぇぇぇぇぇぇ‼︎」

 

 滝のように滂沱の涙を流し、アスカは悲鳴のような慟哭をあげる。こんな戦いを見せられることが苦しくて、人と鬼がわかりあえないことをまざまざと教えられたことが悲しくて。

 その原因を作った自分が、許せなくて。

 だがそんな叫びは、一つの嘶きとともに止まった。

 

「……なんだ? どうしたお前ら?」

 

 鬼たちが争い合う真っ只中に、馬に乗った一人の男が乱入し、暢気な声で声をかけた。

 そのあまりにも場違いな声に、殺気立っていた鬼たちは冷や水を浴びせかけられたかのように沈静化し、呆然と乱入した男ーーーヒビキを凝視するばかりであった。

 

「ひ、ヒビキ⁉︎」

 

 困惑の声を上げるアスカを、そして涙でぐちゃぐちゃになったその顔を一瞥し、ヒビキは鬼たちに向き直った。

 鬼たちも、一度は島に来ることを拒否した男がここにいる理由がわからず、困惑の表情を浮かべて響きを凝視していた。

 

「なぜここに……⁉︎」

「何って…………散歩?」

「ふざけているのか⁉︎」

 

 真面目な顔でそんなことをのたまうヒビキに威吹鬼の叱責が飛ぶ。他のものも毒気を抜かれたように脱力し、もう争うそぶりは見せなかった。

 そこへ、鬼の戦いが静まったことを察した集落のものたちが集まって来る。怒りを収めている鬼たちと、新たに現れた見慣れない男の姿を目にした一人が、侮蔑の表情を浮かべてヒビキを睨みつけた。

 

「なんじゃ、また鬼か⁉︎ もうお前らに頼るつもりなんかないんじゃ‼︎ とっとと島から出ていーーー」

「うるせぇよ」

 

 その声が、不意に途切れる。

 馬上のヒビキが視線を巡らせ、罵っていた男を見下ろしただけだ。だがその目は蛇蝎を見るがごとき冷え切った目で、その気になれば殺すことも厭わないような殺気に満ちた目であった。

 

「ヒッ……ひぃいいい‼︎」

 

 男は情けなく悲鳴を漏らし、その場にへたり込む。股下を濡らすことがなかったのは、せめてもの幸いだったか。

 

「わけ分かんねぇこと喚いてねぇで黙れよ。ーーー人間が」

「ぁ……アゥ」

 

 はっきりとした蔑みの言葉に、男だけではなく他のものたちも言葉を失う。先ほど自分たちが向けていた眼差しをそっくりそのまま向けられたようなもので、底冷えするような感覚を味わっていた。

 

「しょうもねぇ真似してねーで、帰るなら帰れよ。……死にてーならな」

 

 ヒビキはそう言って、無言で佇んでいる鬼たちにも視線を向ける。今度は呆れた視線で、やれやれと肩まですくめていた。

 するとその内鬼たちは変化を解いていき、一人、また一人と踵を返してその場から立ち去り始めた。

 

「……どうやら俺たちは、招かれざる客だったようだな」

 

 トウキがそう言い、アスカに申し訳なさげな目を見せてからその場を後にする。ハバタキも頭を下げ、視線を合わせないようにしながら足早に歩き始めた。

 

「……アスカ、お前の気持ちはわかっている。だが、もう我々に用はないようだ」

 

 それに続くように、他の鬼たちもその場から次々に立ち去っていく。皆が皆、アスカに不憫な視線を送ってから背を向けていった。

 

「僕も、もう失礼するよ」

「……力になれなくて、ごめんね」

「俺はもう、えりゃあ(疲れた)。ごぶれいするね」

「ほなな、アスカちゃん」

「み、皆……」

 

 仲間になれたと思っていた、共になれたと思っていたものたちが離反していく姿を、アスカは呆然と見送る。勝手に手が伸びるも、その手は何もつかむことが叶わずに終わる。

 そしてヒビキもその場を後にし、残ったのはカブキだけとなってしまった。

 

「か、カブキ……」

 

 最後の頼みを託すように、アスカはその名を呼ぶ。

 だが彼は、少女と視線を合わせなかった。

 

「……邪魔したな」

 

 抑揚のない声で、カブキはそう言い残して去っていく。なんの未練もないように、静かに。

 虚しく手を伸ばしたアスカは、光を失った目でカブキの背中を見送る。最後の望みが絶たれ、希望を失った少女の姿は、誰の目にも憐れに見えた。

 しかしそう思うものはここにはおらず、皆汚らわしいものを見る目でアスカをにらみ、せいせいしたとばかりに帰っていく。

 

「……嘘じゃろ、みんな。わしは、皆のためを思って……旅をして、やっと……ようやっと……」

 

 もう、アスカには何もない。家も、家族も、仲間も、友も、希望も、何もかも。

 

「……アスカ……」

 

 唯一、彩姫だけがアスカを心配そうに見つめていたが、やがて見ていられないと異様に伏せられ、その場から足が離れていく。焼け残った残骸の前に立った一人残され、アスカは顔を伏せ、うずくまった。

 

「……うぁ、うあああああああああ‼︎」

 

 ヒビキに対する憎しみなど、もうとうに消え去っていた。憎むことすら考えられないほど、アスカには余裕が失われてしまっていた。

 己の無力感を、ただ憎むことしかできなかった。

 

 

「ふふ、ふふふふふ。これでもう……邪魔者はいなくなった」

 

 朝日が未だ登らない、最も暗いとされる夜明け前の闇の中。

 蠱惑的な笑みを浮かべた一人の少女が、たった一人で泣き崩れる様を見て朗らかに笑っていた。

 

「もうこの島の人間を助ける奴はいない。助けるものはいない。思った通り……ふふふふふ」

 

 少女の後ろで、巨大な何かが蠢いた。少女はそれの表面を愛おしげに撫で、くすくすと笑い声を響かせる。

 そこにいたのは、巨大な蛇ーーー否、オロチ。

 にくい鬼に右目を潰され、身体中に傷跡を刻まれた、怒りと憎悪に目を燃やす魔化魍の王。

 

「ああ。痛いね、憎いね、殺してやりたいね。でもダメ、今はまだその時じゃない」

 

 唸り声を漏らすオロチを撫で、少女は空を見上げる。

 今宵もまた、空は翳るであろう。本当に、良い天気が続くものだ。

 

「ようやく……この時が来た」

 

 少女はそう言ってさらに深く、耳まで裂けるような恐ろしい笑みを浮かべるのだった。



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肆之章 嗤う蛇
1.seal that uncoiled


 虫の鳴き声も静かになり始めた、校外学習旅行二日目の夕暮れ時。

 深い森の中、一日目にクラスメイトたちが迷い込んでいた辺りのさらに奥の森で、石田雨竜は険しい表情で膝をつき、枯葉に埋もれた土の上を撫でていた。

 

「……やはりそうだ。この辺りだけ霊圧が異様に濃い……」

 

 立ち上がり、傍にそびえ立つ巨大な樹木を見上げてひとりごちる。他の木々とは一線を画す、樹齢数百年を軽く超えているであろう大樹ーーー資料館で説明を受けたこの島の守り神・夜刀神大杉を見上げた彼は、辺りに漂う気配を探って眉間のシワを深くした。

 

「虚のようだけど、同時に魔化魍のような……いや、むしろどちらでもないような」

「どういうことだ?」

「一言では言いにくいけど……二つの存在が混ざったような、そんな歪な霊圧なんだよ」

 

 そばにいる織姫、茶渡に説明しながら、自分もまた確信を得ていないことを悔いる。

 だが、ここから感じる霊圧が異常であることは確かだった。

 霊が無念を残して虚へと変わるゆえに都会に多く現れる虚と、自然の土くれに力が混ざって生まれる魔化魍。その二つの存在が同時に混ざり合ったように感じられるというのは、普通に考えてもあり得ないことであった。

 その気配が最も強く現れているのが、この樹の周囲。大樹の下から滲み出るように流れている霊圧から、二つの魔物の気配は色濃く現れていた。

 

「……これは?」

 

 辺りを見渡していた茶渡が、大杉の根元に見えた何かに近づく。

 石田と織姫も近づいていくと、それは木でできた小さな家に似たものだとわかった。随分古いもののようで、経年劣化が現れてボロボロになっている。素人目でも見た所、少なくとも十年や二十年ではここまで朽ちるものには思えなかった。

 

「祠だね。……随分古い時代のもののようだけど」

「何か、関係あるのか?」

 

 祠の前に跪き、じっと険しい表情で見つめる石田は答えない。ただ険しい顔でそれを見つめるばかりだ。

 しかし答えがなくとも、それが不穏な気配を発する嫌なものであることは茶渡にも、離れた場所に立っている織姫にもわかった。

 

(……何? すごく嫌な感じなのに、どこかで感じたことがあるような……)

 

 寒気が走る腕を自ら抱きしめ、冷や汗を流す織姫。じっとりとした湿気とともに、肌を刺すような冷気を帯びたような嫌な風を感じ、わずかに震える肩を抑え込む。

 肌にまとわりつくようなその気配にデジャヴを感じながら、高くそびえ立つ巨大な杉を見上げた。夕空がほとんど見えないほど広く張り出した枝は、他の枝や葉とこすれ合ってザワザワと不気味にささやいていた。

 

「この感じは、あの時の……」

 

 氷の冷気のようなその感覚をどこで感じたか思い出した時だった。

 

「ここで何やっとるんだい?」

 

 不意に聞こえた声に、石田たちはビクッと肩を揺らして慌てて振り向いた。

 今度は別の意味で冷や汗を流す石田たちの前に現れたのは、白い饅頭を皿の上に乗せて持ってきた一人の老婆だった。

 学生服を身につけ、大杉の根元にたむろしているように見える石田たちを訝しげに睨んだ老婆は、3人の近くに寄りながらジロジロと不躾に観察し始めた。

 

「……お前さんたちは、こないだ島にきた学生さんかい?」

「え、ええ。そうですが…」

「この辺は、市の連中に立ち入り禁止と言われてる場所だよ。いたずらが目的ならとっとと帰りなさい」

 

 団体を離れて禁止区域に入っている点を不良とでも思ったのか、突き放すように警告して老婆は祠の前にしゃがみ込む。持ってきた饅頭を祠の前に供え、手を合わせて祈り出す老婆に、織姫が戸惑い気味に近づいた。

 

「ご、ごめんなさい。で、でも、どうしても気になっちゃって。この樹が……じゃなくて、この樹の下にある何かが」

「井上さん?」

「井上?」

 

 石田と茶渡も井上の発言の意味がわからず首をかしげる。霊圧はそこらじゅうから漂っていて、木の根元から伝わってきているものとまではまだ判明していなかったはずだからだ。

 織姫も、初対面の相手に何を言っているのかと後になって慌てた様子になっていたようだが、もう後の祭りであった。老婆の視線に耐えきれないように目をそらし、漫画のようにぐるぐると目を回しながら「はわわ」と声を漏らしていた。

 しかし老婆は真剣な表情で訪ねてくる織姫の目を見つめ返すと、じっと何かを考え込むように口を閉じる。するとやがて祠の前から立ち上がり、織姫たちを置いて元来た道を戻り始めるが、途中で首だけを振り向かせて三人を促した。

 

「…………ついておいで」

 

 それだけ言って歩き出した老婆を、織姫たちは息を飲みながら追い、歩き出した。

 

 

「……わしの孫はどうにも霊感じみた話は嫌いなたちでね。わしもこれは婆様から見せられてからは誰にも見せたことはない」

 

 織姫たちを自宅に案内した老婆はそう言い、引き出しの中から古びた箱を取り出す。厳重に封じられたそれを開き、中にあった巻物の紐を解き、机の上でコロコロと転がして広げていく。

 そこに描かれていた無数の絵に、石田の目が鋭くなった。

 

「……これは、鬼? それに魔化魍……⁉︎」

「そこまで知っておるなら話は早い。そうじゃ。これは遥か昔、この島に集った鬼の戦いを記したものじゃ」

 

 巻物に描かれた、大蜘蛛に大蟹といった人を襲う無数の異形たちの姿、逃げ惑う人々の恐怖に満ちた表情。そしてそれと相対している角の生えた武人の姿、それらがリアルなタッチで描かれ、当時の様子を鮮明に描き出していた。

 老婆の出す資料はそれ一本だけではなく、引き出しの中にまだいくつもしまわれていた。そのどれもが古びたボロボロのものだったが、かろうじて閲覧できる程度に形を保っていた。

 そして次に老婆が出した巻物には、蛇に似た巨大な化け物が白装束の娘を食らっている姿が描かれている。鰐のような口に噛み砕かれる娘の体から吹き出す血がリアルに描かれ、その凄惨さを鮮明に描き出していた。織姫はその惨さに息を飲み、口元を手で覆っていた。

 

「その昔、オロチと呼ばれる妖が島を荒らし回り、島の人々を苦しめておった。島の者はオロチに生贄を差し出すことで鎮め、どうにか生き延びておった。……じゃがあるとき、一人の娘が島を飛び出し、鬼に助力を請いに行った」

 

 老婆は巻物を開き、紙芝居のように巻物の場面を変えながら語る。石田たちも自然と正座し、老婆の語る言い伝えに耳をすませた。

 

「……娘の願いに心を打たれた鬼はそれを承知し、六人の仲間を連れて島へと至った。そして力を合わせ、怒り狂って暴れるオロチに戦いを挑んだのじゃ」

「……明日歌ちゃんから聞いた通りだ」

 

 込み上げてくる吐き気を抑え、織姫が呟く。老婆の語った言い伝えは、昨晩明日歌が語ってくれたものと全く同じであり、鬼だけではなく島の人にも今でも細々と伝わっているものなのだと理解する。

 

「……それで、そんな話をなぜ僕たちに?」

 

 石田がもっともな疑問を口にする。嫌な気配がするという曖昧な話を聞いただけで、なぜよく知りもしない織姫たちを自宅にまで招待し、孫にも見せたことのない言い伝えの資料を見せてくれたのか。

 老婆は織姫の方を向き、じっと鋭い視線を向けて尋ねた。

 

「お前さん、あの樹の下が気になると言っておったね?」

「え? は、はい」

 

 思わずピン、と背筋を伸ばして答える織姫に、老婆は深いため息をつく。織姫の持つ霊感を羨んでいるようにも見えて、織姫はますます困惑の表情を浮かべた。

 

「根元に、祠があったのに気づいたかい? ……あれはね、オロチが封じられた場所と言われているんだよ」

 

 石田は目を見開き、同時にようやく察する。

 織姫が言った、樹の下から感じた気になるもの、それはオロチの気配だったのだろう。

 なぜ虚の気配を感じたかはまだ不明だったが、あそこまで濃厚な霊圧を感じたのは封じたものが真下にあったからだとわかった。同時に、封じられてなお周囲にあそこまでの影響力を及ぼす魔物の力に、石田は戦慄を禁じ得なかった。

 

「七人の鬼が力を合わせても、オロチを倒しきることはできんかった。故に鬼たちは、オロチをこの島に封じ込めることにしたそうじゃ。……大きな犠牲を払っての」

 

 老婆はそう言い、巻物の最後の部分を見せる。しかしその部分は劣化のためかボロボロにちぎれており、詳しい様子は読み解くことができなかった。

 しかし、石田にはこれだけの情報で予想以上の情報が得られていた。

 

「……なるほど、立ち入り禁止になっているのはあの場所にオロチが封じられているから。祠はそれを祀るためのものだったのか……」

 

 気になっていた謎が次々に明かされていくことに、石田は若干の物足りなさを感じながら納得する。

 しかし、そうするとより大きな疑問が持ち上がった。

 

「……しかしなぜ、そんな島に僕らは招致されたんだ?」

 

 この校外学習旅行は、元々は島に呼ばれて企画されたものだったはずだ。しかし、観光地にするにはなかなか物騒な場所であることは確かで、そんな場所へ何も知らない学生を承知することはリスクが大きいような気がした。

 ただでさえ魔化魍がいるこの島に人を呼ぶなど、下手そすれば余計に人が寄り付かなくなるのではないだろうか。

 

「聞いた話だけどね、市長会議の時に観光客の招致を強く希望したものがいたみたいだよ」

 

 巻物を片付けながら、老婆は不機嫌そうに鼻で笑う。妖のことについて調べていたり、祠に供え物をしたりする様子から、魔化魍の脅威を知っているのだろう。

 それを知らず、封印の血を踏み荒すようなよそ者を入れることを、快く思っていなようだ。

 

「今の島民は、妖を信じているものは少なくなったからね。本人は欲か善意のつもりで提案したんだろう。まぁ、それを承認したものも大概だろうがね」

 

 そう言って、老婆は窓の外を見つめて嘆息する。つられて石田たちも、窓の外の青みがかった空を見つめて目を細めた。

 もうすぐ、日が沈む。

 悪意に満ちた妖が、動き出す時間が訪れる。

 

「外は、妖の時間だよ。……遅くならないうちに帰りな」

 

 雰囲気に押されて無言になる石田たちに、老婆はぶっきらぼうにそう告げたのだった。



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2.Monster pandemic

 

「おーい、一護ー。次俺らの風呂の時間だぜ」

 

 案内された宿の部屋にいる一護に向けて、啓吾が呼びかける。自前の寝巻とタオルを備えた彼に、一護はぎこちない笑みを浮かべて横目を向けた。

 

「お、おう。ちょっと待ってろよ」

「早くしろよー」

 

 若干違和感を感じさせる一護の変化に気づかず、敬語は先に水色を促して言ってしまう。

 その背中を見送った一護は、やがて深いため息をつくとどこへとものなく恨みがましい目線を向けた。

 

「……一護のやつ恨むぞ。姐さんもいねぇむさ苦しい男部屋に置いていきやがって」

 

 一護ーーーの体に入ったコンが、涙目で窓越しの夜空を見上げて呟いた。

 

 

「でぇあああああああああ‼︎」

 

 青い業火をまとった二本の撥・音撃棒が、強烈な打撃となって土蜘蛛の背に叩き込まれる。巨大な蜘蛛は泡を吹きながら悶絶し、ズズンとその巨体を傾けて地面に倒れ伏した。

 硬い甲殻を踏みつけた明日歌は鋭く蜘蛛を睨みつけ、凛と己が得物を振りかぶって炎を纏う。

 

「音撃打、業火演舞の型‼︎ おおおりゃあああああああ‼︎」

 

 少女とは思えない凄まじい雄叫びと共に、蜘蛛の背中に執拗に連撃を叩き込む。ビリビリと大気をも振動させ、地面を揺らす打撃は蜘蛛の背をえぐり、余波で蜘蛛の体を地面にめり込ませていく。逃れることも許さず放たれる連撃、最後に叩き込まれた強烈な一撃にやがて蜘蛛はピタリと抵抗をやめ、がくりと項垂れると共に爆音を放って塵と化した。

 

「……フー」

 

 明日歌は撥を振り下ろした体勢のまま残心し、キッと次の獲物を探して視線を走らせた。森の中にはまだまだ数多くの気配が蠢き、暗闇の中から爛々と目を輝かせて明日歌を観察している。隙を見せれば、確実に次の瞬間には肉片へと変わり果てることだろう。

 

「おおおりゃあああ‼︎」

「ハァッ‼︎」

 

 離れた場所では、ギター状の刃を振り回す一本角の白い鬼・轟鬼と管楽器型の銃を構える威吹鬼が土蜘蛛を相手に暴れまわっていて、すでにあたりには無数の木っ端が積み重なっている。

 夕方から始まったこの戦闘は数刻経っても収まる気配を見せず、むしろ時間と共に激化の一途をたどっていた。

 森の中のそう深い部分ではないはずなのに、何体もの土蜘蛛は我が物顔で闊歩し暴れまわっている。だというのに、昼間のような童子と姫は一体も確認できず、不可解な点ばかりが見つかっていく。

 魔化魍を育てる存在である童子と姫の姿が確認できないとなると、魔化魍の数も計り知ることができない。敵の戦力が把握できないという非常に厄介な状況に陥ることになっていた。

 明日歌は舌打ちし、撥を打ち鳴らして次の土蜘蛛の元へと走る。そんな状況でもやることは変わらない。土蜘蛛を人里に下ろさないためにも、ここで視認できる全てを駆逐することが先決である。

 

「月牙天衝ぉぉぉぉぉ‼︎」

 

 走り出した明日歌の前に黒い閃光が走り、一体の土蜘蛛が吹き飛ばされてくる。木々を粉々に粉砕しながら放たれた黒い斬撃が土蜘蛛の腹に食らいつき、衝撃によって吹き飛ばしてきたらしい。

 しかし、木々を粉砕するほどの威力の斬撃を受けながらも、土蜘蛛が負傷し弱った様子はない。ひっくり返って動くことができず、ジタバタともがき苦しんでいる程度だ。

 

「ぬぅおらぁぁぁぁぁぁ‼︎」

 

 明日歌はすかさず腹を見せる土蜘蛛の腹に飛び乗り、苛立ち混じりの八つ当たり気味に音撃棒を叩きつける。土蜘蛛はビクンと足を伸ばして悶絶し、さしたる抵抗もすることなく爆散し、土くれへと還ることとなった。

 また一体の魔化魍を倒した明日歌は、ジト目で黒い斬撃が飛んできた方へと視線を向ける。そこに息を荒げて立っている死神代行の姿を見つけ、深い深いため息をついて撥を肩に担いだ。

 

「おい一護。おぬし、本気でわしらと一緒におるつもりかえ?」

 

 じとっとした視線を向ける明日歌に、一護はぐっと言葉に詰まりながら睨み返す。反論がないのは、若干足手まといになっている自覚があるゆえだろう。それでもこの場から離れようとしないのは、くだらない男の意地のせいか。

 

「さすがにここまで長い時間抜け出すのはまずいのでなないか?」

「心配すんな。さっき代わりにコンを置いて来た」

「……とんだ不良高校生じゃの」

 

 ふん、と鼻息荒く答え手抜かりはないと答える一護に、明日歌も今度こそ呆れ返る。

 今度は少しばかり怒気を込め、真っ向から一護を睨みつけて険しい表情を向けた。

 

「言うたはずじゃぞ。死神では魔化魍を相手にはできんと。大人しゅう帰れ」

「嫌なこった。俺の仲間が、この島で虚の反応を感じたって言ってるんだ。そいつを退治するまでは俺も戻るわけにはいかねぇよ」

「頑固者が……」

 

 一向に引く様子のない一護に吐き捨てるように言い残し、明日歌は背を向けて離れた。振り向くことはなく、意地をはるようにずんずんと地面を踏みつけながら他の鬼たちの元へ向かっていく。

 

「ならもう知らん。もしぬしが危ない目にあっても、もうわしは助けんからの」

「ケッ。余計なお世話だ」

 

 負け惜しみのように背中越しに言う一護に呆れつつ、根性と忍耐はまぁ認めてもいいかと内心思う。

 そんな時明日歌は、森に吹いた風に乗って妙な雑音が耳に届いてきたのを感じた。

 

「……なんじゃ? このざわつきは」

 

 そう呟く明日歌の背後で、風もないと言うのに大きく森がざわめきを響かせた。

 明日歌はすぐさま撥を構え、不快な音を感じた方向に身構える。一護もその様子から表情を変え、残月を携えて近づいてくる気配を待ちかまえた。

 その直後、明日歌たち向かって無数の異形の群れが突進し、咆哮を伴いながら次々に襲いかかっていった。数は先ほどの比ではなく、酢を壊された黒蟻のごとき勢いで次々に現れていった。

 

「チィッ! 本当に今宵は……鬱陶しいほどに多いのう!」

 

 口汚く舌打ちしながら、明日歌は撥を構えて魔化魍たちを迎撃する。炎を纏わせた音撃棒の先端を襲いくる魔化魍たちの腹に叩き込み、片っ端から叩きのめしては土に還していく。一体一体は大したことのない雑魚ばかりのようだが、その数が脅威となって終わりが見えなかった。

 

「うおりゃあああああ‼︎」

 

 雄叫びと共に、轟鬼が音撃弦の刃で猫のような魔化魍を滅多斬りにする。短い悲鳴をあげた猫又と呼ばれるそれは地面に転がって悶え苦しみ、しばらくして事切れたように動きを止めてから土くれと還った。

 威吹鬼もまた管楽器・音撃管から銃弾を発射し、魔化魍に距離を詰めさせずに仕留めていく。至近距離に接近を許しても、近接格闘の腕もかなりのもののためにやすやすと蹴り飛ばして駆逐する。

 だがそんな獅子奮迅の働きを見せようとも、次から次へと湧き出る魔化魍に手が回らなくなり、次第に倒した数よりも現れる数の方が多くなっていく。三人の鬼はやがて、無数に増え続ける魔化魍たちに包囲され始めていった。

 

「ぜあああああ‼︎」

 

 河童と呼ばれる魔化魍を叩き潰した明日歌は、周囲を縦横無尽に飛び回って翻弄してくる猫又に苛立った視線を向け、盛大に舌打ちをこぼした。狩っても狩っても終わらない現状にストレスが溜まり、次第に冷静な判断力が失われ始めていく。

 それが良くない兆候だということを、自覚できずにいた。

 

「威吹鬼、轟鬼! ここは任せる!」

 

 挑発するように飛び回り、森の奥へと逃げていく猫又を追い、明日歌は一旦轟鬼たちに背を向けて走り出した。

 

「待たんかこのドラ猫どもがぁぁぁぁ‼︎」

「明日歌ちゃん! 一人じゃ危険だ‼︎」

 

 威吹鬼が止めようとするが、他の魔化魍が邪魔で止めることができず臍を噬む。何よりもこの無数の魔化魍を放置するわけには行かず、後で説教を加えることを確定しながら目の前の敵に集中する方針を保つのだった。

 そんな光景を、高く伸びた樹の上から見下ろす二つの黒い人影。

 魔化魍ではない、自分たちの狩るべき標的を探すルキアと恋次の姿がそこにあった。

 

「こいつが魔化魍ってやつか……‼︎ 何気に初めて見たぜ」

「言っておる場合か! 我々の任務を忘れるな!」

 

 高い場所から鬼たちの先頭を見下ろし、引きつった表情を浮かべる恋次にルキアの叱責が飛ぶ。

 鬼との接触を最低限にまで回避しながら、目的である虚を探す二人なのだが、はっきり言ってその姿は情けないと評するのがふさわしく思えた。苦手なものから逃れるために、それが届かない木の上に逃げているようにしか見えず、それがわかっているのか本人たちも微妙な顔をしていた。

 

「わーってるっての! ……だが本当に、この中に虚が混ざってると本当に思うか?」

「わからん。だが、一護の代行証が反応したのだ。可能性はあるはずだ」

 

 確証はないが、確信を持ってそう言うルキアは、そのまま真下にいるもう一人の死神に声をかけた。

 

「そう言うわけだ! お前は余計なことをするな!」

「おい一護! お前は今回手ェ出すなよ⁉︎ 絶対だかんな‼︎」

「最初に言っておく! 貴様では何もできんぞ! 役立たずは引っ込んでおれ‼︎」

「てめーら……」

 

 役には立たないとわかってはいるが、人が必死になって戦っている上から気の利かない言葉を浴びせる二人に、一護の苛立ちも募っていく。

 

「おめーらも何もできねーんじゃねーか‼︎ なんでおれだけ戦力外みたいな扱いなんだよ‼︎」

 

 ルキアと恋次は、さっと目をそらした。自分たちだけ高みの見物を決め込んでいる構図になっていることが、さすがに気まずかったらしい。

 それ以上反応を返さないルキアたちを憎らしげに睨みつけていた一護だったが、そんな彼の元に河童の攻撃を避けてきた威吹鬼が鋭い目を向けた。

 

「あ! そこの君! そんなところにいるぐらいなら早く逃げちゃって‼︎ 危ないから‼︎」

「え、ア、ハイ。……スンマセン」

 

 やはり明日歌と同じで、死神が見えているらしい。まっすぐに視線を向けてしかりつけられ、一護はビクッと肩を震わせながらどうにか答えた。

 威吹鬼は返事を聞くが早いか、すぐにまた魔化魍たちの群がっている方へ銃弾を撃ち放ち、痛みに苦しんでいる連中にフックを食らわしていく。轟鬼も猫又の腹にギターの先端を突き刺し、弦をかき鳴らして音撃を刻み込んで次々に敵を打ち倒していく。

 あれほど途切れることなく続いていた増援もいつのまにかやんでいて、少しずつ鬼たちが押し返し始めているこの状況。借りを返そうと奮い立っていた一護の出番は、どこにも存在してはいなかった。

 

 ーーーむ、無力……‼︎

 

 脳裏のどこかで、「じゃから言ったじゃろうが」と呆れ顔で睨んでくる明日歌の顔が見えた気がした一護だった。激しい屈辱にわずかに喀血しそうになる程だ。

 しかし、自分の攻撃が全く相手に通用していないことも真実。できることといえば敵を吹っ飛ばして隙を作ることくらいで、役に立てている部分はないに等しい。明日歌の言ったことを認めるのが癪で助力を買って出ていたが、改めて自分から相対してその事実が否応無く突きつけられていた。

 

「ちくしょう……これじゃほんとに足手まといじゃねーか。情けねぇ……」

 

 幾度ともなく経験した感覚の中でも、特に悔しい感情を覚えながらきつく拳を握りしめていた、その時だった。

 

 ーーーぁぁああぁああぁぁあああ‼︎

 

 ふと、鼓膜をビリビリと震わせる嫌な音が一護の耳に届いた。例えるなら、無数の人々の悲鳴を混ぜ合わせ、大音量で流したかのような不快な騒音。それが、森の奥の方から響き渡ってきたのを感じた。

 

「ッ⁉︎ なんだ?」 

 

 一護が振り向くと同時に、残った魔化魍を仕留めていた轟鬼たちも気づいて視線を音の方へと向ける。

 すると、音のした方角に奇妙な影が現れたのを目撃した。

 ゆらゆらと、長く太い無数の木の根のようなものが天に向かって伸び、その中心に血のように赤くギラつく光が灯ったのだ。その周囲では景色が陽炎のように揺らぎ、周囲に凄まじい熱を放っていることを知らしめていた。

 何かが、いる。他の魔化魍とは一線を画す何かが、あそこに鎮座している。

 

「なん、だ、あいつは……‼︎」

「あ……あれは、まさか⁉︎」

 

 困惑の声を上げる一護とは裏腹に、轟鬼と威吹鬼は戦慄した様子で影を凝視している。共学に満ちたその声は震えていて、現れたものが完全に予想外のものであることを表していた。

 

「おい、ありゃあ……!」

 

 木の上で戦況を伺っていたルキアと恋次も、現れたその異形を目の当たりにして言葉を失った。

 突如姿を現した、身の丈は数十メートルを超える巨大な影、天に向かって九本の太い根、いや尾を大きく伸ばし、血走った赤い目で辺りを睥睨するその影はーーー九本の尾を持つ巨大な化け狐は。

 

「おぎゃああああああああああああああああ‼︎」

 

 そんな、赤ん坊の悲鳴に似た咆哮を放った。



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3.Break the shell

 

「ふんっ‼︎」

 

 猫又の顔面に向けて、渾身のフルスイングをお見舞いする明日歌。凄まじい怪力により放たれた一撃で猫又の顔面は陥没し、くぐもった悲鳴をこぼしてひっくり返る。

 仰向けに倒れた猫又を踏みつけると、明日歌はその胸に向けて大きく振り上げた音撃棒を叩き込んだ。

 

「うおらあああああああ‼︎」

 

 ドオン! と地面に亀裂が入るほどの威力を伴った一撃により、猫又は大の字に両手足を伸ばして痙攣し、直後に土くれへと変化して爆散した。

 ようやく逃げ続けていた魔化魍を倒し、荒く息をつく明日歌。さすがの彼女も疲労が溜まっているのか、若干覚束ない足取りで立ち尽くし、大量に吹き出す汗を腕で拭う。

 

「くそ……なんなんじゃこの数の多さは……⁉︎」

 

 つい森深くまで魔化魍を追いかけてきてしまったが、向こうにはまだ数多くの敵が残っているはずだ。早くみんなの元に戻らねばならないが、最初から飛ばしすぎたせいかなかなか呼吸も動悸も落ち着かない。

 樹々の向こうからはまだ、轟鬼たちの音撃がかすかに聞こえてくる。随分遠くまで来てしまったようで、時折見える稲光と音がずれて聞こえて来ていた。

 

「……ここまでの規模で魔化魍が現れるなど、やはり普通ではないぞ」

 

 前例がないわけではない。本土では稀に、魔化魍が異常なほど大量発生する〝オロチ〟と呼ばれる現象が起こることがある。

 しかし、それはあくまで本土での話。面積も小さく人口も少ないこの島で、ここまで大量の魔化魍が現れるいわれはないはずだった。食らう獲物が行き渡らなくなるからだ。

 もしや、一護たち学生が大勢この島に来たことが関係しているのか。そんな考えが一瞬よぎったが、まさかと思って自ら否定する。

 

「こんな時に師匠はどこへ行ったんじゃ⁉︎ 島の一大事じゃというのに……‼︎」

 

 しばらく前から姿を全く見せない師のことを思いながら、思い切り顔をしかめて暗闇を睨む。

 もうだいぶ呼吸も落ち着いて来た。早く皆のところに戻らなければと歩き出した時だった。

 

「グルルルルルル……」

 

 不意に聞こえた、獣の唸り声に似た声。暗闇の中から聞こえて来たそれに、明日歌は表情を変えて身構える。

 

「⁉︎ なんじゃ……⁉︎」

 

 その気配は突如現れた。何かが近づくそぶりなど微塵も感じなかったというのに、いつのまにかすぐ近くにまで接近し、周囲からこちらを伺う視線を向けて来ている。感知に長けているわけではないが、己に向けられた敵意といったものには敏感なことを自負していた明日歌にとって、それは屈辱的な気分に陥らされた。

 音撃棒を前方に突きつけ、油断なく気配を探って辺りに視線を這わせる。気配はあちこちから漂って来ている。複数なのか単体なのか、濃い気配に邪魔をされて察知することができなかった。

 そしてやがて、明日歌を暗闇の中から観察し続けていた存在は、明日歌の前に姿を表した。

 

「おぎゃああああああああああああ‼︎」

 

 樹々の枝を押しのけ、白い巨体が起き上がった。バキバキとへし折られ散らばる木の枝を撒き散らし、真っ白な毛皮に包まれたその獣が赤ん坊のような咆哮を発し、大気をビリビリと震わせる。

 大木のように太い足が地面を踏みつけて揺らし、真っ赤な血に染まった両の目がギョロギョロと辺りを見渡す。ナイフをそのまま生やしたような爪を立て、同じく小刀を並べたような鋭い牙の間からダラダラと涎を垂らし、目前にいる小さな少女を睥睨する。

 首の周りには標縄に似た突起を生やし、勾玉のような玉を吊っている。時折脈動するように点滅し、人魂に似た怪しい光を暗闇に浮かび上がらせていた。

 その臀部から生えているのは、蛇のようにのたうち回り、うねうねと蠢く九本の尾だった。

 

「まさかこやつは……九尾か⁉︎ 中国に棲む魔化魍のはず……まさか、海を超えてきたというのか⁉︎」

 

 日本に発生例など聞いたことのない大物魔化魍の登場に、明日歌の表情がこわばる。明日歌が単体で挑むには実力も装備も足りず、そもそも普通の鬼ですら単身では戦うことすら無謀と言われるほど凶悪な相手だ。

 九尾はニヤリと笑うように口の端を歪め、巨大な片足を明日歌の頭上へと振り上げていく。

 

「むおっ⁉︎」

 

 我に返った明日歌は、間一髪その場から飛び退いた。直後に振り下ろされた前足が地面を陥没させる光景に、ヒクッと頬を引きつらせて慌てて距離をとった。

 ゴロゴロと地面を自ら転がり、瓦礫が飛び散る中から脱出する。途中で右足を突き出してつっかえにして無理矢理停止し、すぐさま九尾に向かって音撃棒を携えて突進した。

 

「せいっ‼︎」

 

 威嚇の芳香を放つ九尾の攻撃をくぐり抜けて真下に潜り込むと、相手の肘の関節に向けて音撃棒を振るう。

 キュウビギツネは巨体に似合わぬ敏捷さで明日歌の打撃をかわし、逆に間合いに入り込んできた獲物を踏みつぶそうと何度も前足を叩きつける。明日歌もまたそれを紙一重でかわし、時に音撃棒で弾いていなしながら反撃の一矢を狙った。

 しかし、なかなか決定打を与えられない。次第に明日歌の息が上がり始め、必死に九尾の猛攻をかわして距離をとった。執拗に追いかけてくる九尾に、明日歌は険しい表情で唸った。

 

「ヌゥ……やはり手強いのぉ」

 

 やはり、一人ではこの大物は倒せない。救援を待つか、しばらく逃げ回るか、とにかくまともに相手をしない選択肢を取る他にないようだった。

 だが、九尾も簡単にはそれを許してくれない。明日歌が背を向けることを許さず、地面を踏みつけた衝撃波で明日歌を足止めし、同時に強烈な追撃を与え始めた。

 

「ぐあっ⁉︎ うぐっ‼︎ あぐっ⁉︎」

 

 吹き飛ばされて明日歌は何度も地面を跳ね、土まみれになりながら転がっていく。

 九尾はそんな様をニヤニヤと笑うような顔で見下ろし、ゆっくりと距離を詰めていく。それはまるで、明日歌をわざと嬲り殺しにするかのような嗜虐的な態度で、九尾の持つ残忍な性質を顕著に表していた。

 

「ぬあああああ‼︎ なめるな畜生めが‼︎」

 

 そんな目に怒りを覚えた明日歌は雄叫びと共に立ち上がり、音撃棒を手に雄々しく構える。九尾が完全に舐めきった様子で近づいてくる前で、全身の気を音撃棒の先端に集中させていく。

 すると、音撃棒の先端からボッ‼︎と青い火炎が吹き出し、松明のように煌々とあたりを照らし出した。

 

「食らうがええ‼︎ せいやあああああああ‼︎」

 

 明日歌は燃え盛る音撃棒を振りかぶり、九尾の顔面に向けて振り下ろす。その瞬間、音撃棒の先端の炎が弾け、火矢のように高速で九尾の元に飛んで行く。放たれた炎は油断していたキュウビギツネの顔面で爆ぜ、強力な熱と光で白い毛皮を焼いていく。

 途端に九尾は怒りの咆哮を放ち、めちゃくちゃに尻尾を振り回して暴れ始めた。先ほどのように弄ぶのではない、本気で明日歌を潰すために暴れ狂っていた。

 

「うわあああ⁉︎」

 

 明日歌は間一髪直撃を免れるも、余波でまた空高く吹き飛ばされてしまった。木々の枝に引っかかって勢いを削がれ、大した落下の衝撃を受けることはなかったが、すでに明日歌は疲労困憊の体を晒していた。

 

「はぁ……はぁ…………うっ」

 

 息も絶え絶えに、未だ暴れ狂っている九尾の尾を力なく見上げた。

 

「……ぬかったわ」

 

 どうにか残った力を振り絞り、九尾の視界から逃れられる場所に移動する。

 先ほど出した炎が残った力をほとんど消費させてしまったようで、もはや動くことすらまともにできなくなっていた。

 

「うぬ……思ったより、きついのう……これは、後で師匠に怒られてしまうの」

 

 ズルズルと負傷した足を引きずり、大樹の陰に身をひそめる。このまま身を隠し、態勢を立て直さなければあの化け物には勝てないだろう。どうにか気配を殺し、怒るあの怪物をやり過ごさなければ。

 幸いこの場所にいることには気づいていないようで、九尾は先ほどから唸り声をあげながらあちこちを鼻と耳で探っている。風の向きや地形が幸いし、明日歌が身をひそめるのに役立っているようだ。

 

「ハァッ……ハァッ……ぐっ、ぬぅう……‼︎」

 

 全身の激痛に歯を食いしばり、声が出ないように必死に耐え続ける明日歌。プライドを捨て、このまま乗り切ろうとしていたその時だった。

 

「いやぁぁぁぁ‼︎ た、助けて‼︎ 誰か助けて‼︎」

 

 不意に聞こえた悲鳴に、キュウビギツネがバッと顔を向けた。

 明日歌もまたはっと表情を変え、この森に紛れ込んだ悲鳴の主を目で追いかけた。

 樹々の拓けた空間に、一人の女性がへたり込んでいる。恐怖に引きつったその顔は、一護たちを案内していた蛇園とかいうガイドの女性だった。

 

「あやつは確か……! 何故こんな……いや、そんな場合ではない‼︎」

 

 私服らしい格好から見るに、プライベートの時間に森に入って迷い込んでしまったのだろう。島の住民であろうに無謀な真似をしている蛇園に怒りを覚えながら、明日歌は痛む体に叱咤して走り出した。

 蛇園の悲鳴に気づいた九尾が、標的を見つけ得たとばかりに高々と咆哮を上げて襲いかかっていく。明日歌は疾風のごとき速さで駆け抜け、今まさに蛇園に食らいつこうとしている九尾の横顔に突進していった。

 

「離れろおおおお‼︎ でやあああああああ‼︎」

 

 残った全力を込め、九尾の横っ面を殴りつける。完全に予想外であったためか、大きく顎門を開いていた九尾の顔面はその一撃により歪み、巨体がゆっくりと傾いでいった。

 ズズンと倒れた九尾をよそに、明日歌はへたり込んでいる蛇園の手を掴んで引っ張り上げ、無理やり立ち上がらせる。

 

「こっちじゃ! 早う!」

 

 明日歌は涙でぐちゃぐちゃになっている蛇園の手を引き、森の中に逃げ込む。今度こそ忿怒に染まった咆哮を放つ九尾に見つからないように、連れ込んだ蛇園をせり出した木の根の間の陰に押し込んだ。

 

「ここに隠れておれ‼︎」

「ヒィッ⁉︎ う、うん⁉︎」

 

 混乱していても、怒鳴りつけているのが一度顔を見た明日歌だと気づいたのか、蛇園はこくこくと泣きじゃくりながら頷き、声を抑える。

 

「いいか、良いと言うまでここから絶対に動くな‼︎ 動いたらわしが直々に殺してやるからな‼︎」

 

 なんども蛇園に忠告してから、明日歌は再び九尾の前に立ちはだかる。

 これで、逃げるという手段は失われた。民間人の女を連れて逃げ回ることも、彼女をどこかに隠したまま救援を求めるという手段も使えない。今の明日歌に、そこまでの余裕も時間もなかった。

 後に残っている手段は、もう一つだけだった。

 

「わしに使えるか……いや、使ってみせる!」

 

 懐に手を入れ、音叉を手にする明日歌。師から渡され、未だ使うことを禁じられている道具だ。

 未熟ゆえに反動や失敗があることを見越して使用を封じられていたが、今のこの状況を打開できるのは、これを使う以外になかった。

 

「師匠……すまん! 勝手に使わせてもらうぞ‼︎」

 

 遠慮のない人間の少女の犯行を恐れてか、警戒して距離をとっている九尾の前で、明日歌は音叉の角を伸ばして指で弾いた。

 リーン、と清らかな音が響き、明日歌はそれをゆっくりと自身のひたいの前にかざし始めた。音叉の音は波紋を生じ、明日歌の周りの空気を揺らめかせる。

 不意に、明日歌のひたいに鬼の顔が浮かび、ついで明日歌の全身を青い炎が包み込んだ。ゴウゴウパチパチと火花を散らし、小さな少女が炎に飲み込まれる。

 異様な光景の中、青い炎の中で明日歌の姿が徐々に変わっていくのが見えた。細い腕と足は強靭な太く長い四肢に、ふくよかだった胸は固く分厚い胸板に、顔は面影も見えないほど厚く炎に包まれ、ひたいからは二本の角が生えて見えた。。

 

「ぁぁぁぁあああああーーーハァァァァァッ‼︎」

 

 雄叫びと共に、明日歌は腕を横に払って炎を散らせた。

 露わになったのは、鍛え上げられた白い筋肉の鎧に包まれた、青い角を持つ異形の戦士だった。のっぺりとした顔に、荊のような複雑な突起が生えそれが顔のように見えた。

 明日歌のたゆまぬ努力が、ついに形となったのだ。

 

「できた……ついにできた……! フッ‼︎」

 

 変貌した己の体を興奮気味に見つめた明日歌は、腰に手を回して音撃棒を構える。

 威嚇の方向をあげる九尾に、明日歌は挑発するように勇ましい構えをとった。

 

「そら……どうした化け物。ビビっておらんと、かかってこんか‼︎」

 

 その挑発の言葉がきっかけか、ひときわ大きな咆哮を放った九尾は走り出し、明日歌を噛みちぎろうと大きく顎門を開いて襲いかかる。

 

「ぬうらああああああ‼︎」

 

 だが、鬼の力を得た明日歌にとって、ただぶつかってくるだけの九尾は相手にならなかった。

 凄まじい雄叫びと共に振るわれた音撃棒が、向かってきた九尾の鼻先にめり込み、ぐちゃぐちゃに叩き潰してしまったのだ。

 

「でやあああああ‼︎」

 

 衝撃で空中で静止した九尾に向けて、明日歌が容赦無く追撃を加える。顎下に向けて音撃棒を振り上げると、九尾の巨体を跳ね上げさせる。鼻と顎を潰された九尾はズシンと仰向けに倒れ、無防備に腹を晒して動きを止めた。

 明日歌は跳躍し、九尾の腹の上に飛び乗ると、腰の前に装着された丸い円盤状の道具を真下に押し付ける。すると円盤は回転しながら巨大化し、三巴模様の浮かぶ半透明な太鼓の鼓面へと変貌した。

 

「音撃打、火炎連打の型‼︎」

 

 凛、と音撃棒を打ち鳴らし、明日歌は鼓面に向けて渾身の打撃を連打する。強烈な打撃が衝撃波を放ち、音となって大気を揺らしまくる。

 地面をも揺らす振動が九尾の体に伝導し、化け狐はビクンビクンと体を痙攣させて身悶える。

 

「まだまだぁぁぁ‼︎」

 

 しかし明日歌は容赦なく九尾を攻め続け、清めの音を叩き込み続ける。汗が滲もうと、足がすべろうと、今ここでたそすべく九尾の腹部に全力を注ぎ続けた。

 

「ちぇすとぉおおおお‼︎」

 

 最後の一撃を、両手で同時に叩き込む。

 途端に九尾はより大きく体を震わせ、ピンと手足を伸ばして完全に動きを止めた。かと思えば腹部が異様に膨らみ始め、やがてドォンと凄まじい轟音を放って粉微塵に千切れ飛んだ。

 

「……ハッ、ハァッ……やった、か」

 

 ハラハラと木の葉が舞い散る中に着地し、明日歌は呆然と立ち尽くす。もはや動く気力は起きそうにない、全力を振り絞って戦い抜いたため、立つことすら億劫なくらいだ。

 しかし明日歌は今にも折れそうな膝を懸命に支え、ふらつく体のまま歩き始めた。まだ終わりではない、身を隠させたあの女を送り届けなければ。

 

「……よし、魔化魍は倒した、安心せよ。ここはわしに任せて、おぬしは早く街にもど……」

 

 蛇園が隠れているはずの木の影を覗き込む明日歌だったが、その言葉は途中で途切れた。

 身を潜め、震えているはずの彼女の姿がどこにもなかったからだ。

 

「…ん? どこへ行ったんじゃ?」

 

 姿の見えなくなった女性を探し、明日歌はキョロキョロと辺りを見渡す。戦闘の音が恐ろしくて、より深いところに逃げてしまったのだろうか。だとしたらさっさと探してやらねばならないなと、疲労困憊の明日歌はふらふらのまま考えた。

 

「お〜い、もうええぞ! 魔化魍は斃した! 案内してやるから今のうちに逃げーーー」

 

 呼びかけ、さっさと戻りたいと嘆く明日歌。

 もう今日は帰りたい。いつのまにか他の場所からの戦闘音も止まっていて、向こうも決着がついたのだと察する。ならば今日の仕事は完了したのだ、さっさと帰って飯を食って眠りたい。

 だが、そんなことを考えていた明日歌のうなじに、奇妙な熱が走った。

 

「ーーーえ?」

 

 呆けた声をあげて、熱を感じたうなじを触る明日歌。何かたちの悪い虫にでも噛まれたかと思ったが、鬼の体に普通の虫が刺したぐらいでどうにかなるはずもない。

 と、次の瞬間。

 

「ぐぅっ⁉︎」

 

 凄まじい熱が全身を襲い、それは痛みとなって明日歌の中で暴れ狂い始めた。

 まるでドロドロに溶けた鉄が胸の中に流し込まれたかのような感覚が、明日歌の中で急速に膨れ上がっていった。

 

「ぅ、あ、あああああ……⁉︎ なん、じゃ、これはぁぁああ⁉︎」

 

 熱い、熱い熱い熱い。

 何かが己の中で暴れまわっている、中で己の体を食い散らかしている。肉が溶け、骨が燃え、内臓が焼けるような激痛が明日歌の中で膨張し、明日歌を際限なく苦しめていく。逃げ場のない炎が胸の中で荒れ狂い、明日歌は胸をかきむしるようにして悶え苦しむが、何をしてもそれを抑え込むことができなかった。

 

「う、うぁあ……うああああああああああああ‼︎」

 

 その熱が、己の中から暴発するのを感じ。

 明日歌の意識は、真っ白に染め上げられていった。




海を超えてきたというのか!?

もののけ姫見て取り入れたセリフです。乙事主様……。


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4.inner darkness and abominable blood

 その〝声〟は突如森に響き渡った。

 樹々がより大きく風に揺られ、不気味なざわめきをかき鳴らす中、生物とは思えない異形の咆哮が森の中に反響していった。

 

 ーーーオオオオオオオオオオオ‼︎

 

 大量に湧いていた魔化魍の最後の一体を討ち倒した威吹鬼と轟鬼が、その咆哮を耳にしてハッと振り返った。

 ほとんど逃げ回り、荒い呼吸で肩を揺らしていた一護も、木の上で様子を伺っていたルキアと恋次も、突然聞こえてきた声に表情を変えて辺りを見渡した。

 

「なんだ、この声は……⁉︎」

 

 険しい表情で声を漏らす一護の脇で、威吹鬼が戦慄した様子で音撃管を持つ手を震わせている姿が見えた。

 

「この咆哮は聞き覚えがある……! 伝説の魔化魍、牛鬼だ……!」

「牛鬼……まさか⁉︎」

 

 初めて聞く鬼の名に一護が尋ねると、威吹鬼は音撃管を再び構えて辺りを警戒しながら口を開いた。轟鬼も再び殺気を身に纏って音撃弦を構え、大きな刃を月光に煌めかせながら構えていた。

 その尋常ではない緊迫した雰囲気に一護もまた息を飲み、意味がなくとも斬魄刀を携えて構えをとった。

 

「なんなんだ、その牛鬼ってのは⁉︎」

「牛の角に怪力を持つ、特殊な魔化魍だよ。以前鬼が遭遇して、殺されたこともあるって言う凶悪なやつさ」

「俺の師匠も現役時代に遭遇して、死にかけたって言ってやつだ……!」

 

 鬼の先達が話す牛鬼の危険性に緊張感が高まる中、一護たちの元に向かって近づいて来る足音と息遣いが聞こえてきた。

 

「黒崎くん‼︎」

 

 緊迫した様子の織姫が、石田や茶渡とともに息を切らせて走り寄って来る。自分とは別行動をしていた織姫たちがこの場所へ来たことに、一護は驚愕に目を見張った。

 

「井上⁉︎ お前らも……なんでこっちに来ちまうんだよ⁉︎」

 

 てっきり空座高校の面々の方に集い、自衛を固めているものと思っていた一護は咎めるような口調で言う。魔化魍は鬼にしか倒せないと言う話を聞いてなおここに来てしまっていることに呆れるも、己のことは完全に棚に上げていた。

 さすがにその言葉には、石田も黙ってはいなかった。

 

「それはこっちのセリフじゃないかな? 役立たずのくせになんで混ざっているんだ」

「おまっ……目の前でそれを言うか」

 

 グッと図星を指されたことに唸る一護だが、だからと言って引こうとはしない。先ほどルキア達にも散々言われたこともあり、若干意固地になっているようだった。

 

「……で、お前らは今まで何やってたんだよ」

「君とは違って、僕らはちゃんと過去の記録を探ってきていたんだよ。要するに頭を使っていたのさ」

「おい、人のこと脳筋の馬鹿扱いしてねぇか?」

 

 微妙に上から目線でものを言う石田に、さすがに一護も怒りを押し殺した形相で詰め寄った。

 だが、そのまま口喧嘩に発展するよりも前に、頭上から襲いかかってきた拳骨が一護と石田をを強制的に黙らせた。

 

「たわけ! そんなことをやっている場合ではなかろう!」

「おいてめーら、今回はどうやらマジで危なさそうだぜ」

 

 木の上から意を決して降りてきたルキアが、そのついでに一護たちを諌めて叱りつける。同じく降りてきたレンジも、険しい表情で駆け寄ってくる織姫たちに注意を促す。

 今この時も、森の奥から聞こえてくる咆哮は徐々に大きくなってくる。確実に距離を詰めてきている、ぎゅうきなる魔化魍の存在感が強くなっていき、一護たちの緊張感も高まっていった。

 だが、ガサガサと草をかき分けてきたのは、一護たちが予想もしないものだった。

 

「キャアア‼︎ いやぁぁぁぁ‼︎」

 

 耳障りなほどの悲鳴を漏らし、みっともなく泣きじゃくりながら這い出てたのは、一護たちを迎えた島の案内人である蛇園だったのだ。

 

「! なんで、あいつが……?」

 

 思わぬ人物の登場に眉を寄せる一護の前に蛇園はよろよろとたどり着き、すがりつくように一護の顔を見上げた。顔から出る液体が全て流れ出していて酷い有様だったが、当の本人にはそんなものを気にしている暇はなかった。

 

「た……助けて! 化け物が……化け物がこっちに‼︎」

 

 蛇園がそう叫んだ直後、彼女の現れた方の樹々が轟音とともに吹き飛ばされた。凄まじい衝撃が樹々の向こう側から生じ、太い幹を粉々にして撒き散らしたのだ。

 何事か、と表情を変えて振り返った一護たちの前に、それは姿を現した。

 血のように赤く、歪に膨張した筋肉によって守られた体に、前方に向かって伸びる湾曲した巨大な角。分厚い毛皮に覆われた上半身に、首回りには枷のように巻き付いた輪と肩を覆う鋼鉄の外殻、鎖があり、月光に照らされて不気味な輝きを放っていた。

 鬼に似た顔は醜く歪んでおり、忿怒と憎悪に満ちた恐ろしげな眼光を放っていた。

 

「ヴォオオオオオオオオ‼︎」

 

 倒れた木々を踏み潰し、傍若無人な様を見せつけながら、牛鬼は猛牛のような咆哮をあげる。身の丈を軽くふた周りは超えた異形の咆哮による威圧は、歴戦の戦士たる一護たちを戦慄させるには十分だった。

 鬼たちもまた同じで、圧倒的に危険な存在感を放つ牛鬼を前にして明らかに浮き足立っているように見えた。

 

「あいつが……‼︎」

「伝説の魔化魍……牛鬼‼︎」

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 鬼達の呟きを自ら肯定するように、牛鬼が大地を踏みつけながら咆哮を放つ。強靭な足に踏み潰された地面には大きく亀裂が入り、ズシンと腹の底まで振動が響き渡った。

 すでに闘争心を全開にしている伝説の異形を前にしながら、威吹鬼たちは得物を構えたまま敵を見据えた。

 

「まさか、こんな島に本当に牛鬼が現れるなんて……‼︎」

「言ってる場合じゃないっすよ! こうなったら、俺たちでどうにかしなきゃっす! どりゃああああああ‼︎」

「おおおおおおおおおお‼︎」

 

 考えることも無駄であると、轟鬼が雄叫びと共に牛鬼に向かい、威吹鬼も吠えながらそれに続く。

 威吹鬼がまず牛鬼の体に銃弾を撃ち込み、突進した轟鬼が振り回す音撃弦の刃が牛鬼の皮膚に食らいつく。どちらも敵の防御の薄い部分を狙った正確な一撃で、なぜか動きを止めていた牛鬼は真っ向からそれを受け止めた。

 しかしそれらは牛鬼の皮膚を破るには及ばず、銃弾も斬撃も弾かれてしまった。鎧ではなく皮膚を狙ったはずなのに、まるで鋼に弾かれたかのように全く歯が立たなかった。

 

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

「ごはっ‼︎」

 

 攻撃を受けた牛鬼が、怒りの咆哮を放って轟鬼を押し返し、弾き飛ばす。そのまま組みつくと、凄まじい脚力を持って轟鬼に突進し、大木の幹に背中から叩きつけた。叩きつけられた大木は半ばからへし折られ、バサバサと他の木をもなぎ倒しながら粉砕されていき、轟鬼を下敷きにする。

 

「ぐおわあ‼︎」

 

 大樹の残骸に潰された轟鬼を足蹴にしている牛鬼の皮膚に、甲高い音とともに火花が生じる。怒りに目を光らせて振り向くと、牛鬼は銃を変えていた威吹鬼の方に向けて巨大な角を向け、再び強烈な突進を繰り出した。

 威吹鬼はとっさにその場で転がり、かろうじて突進を躱す。

 しかし激突し損ねた牛鬼は地面に向けて右足を振り下ろし、大地を一撃で叩き割った。一護たちのいる場所まで含んだ、半径十数メートルに渡って岩盤を叩き割っられ、不意を打たれた威吹鬼の体が宙に浮く。空中で身動きを制限された威吹鬼に向かって牛鬼は再び突進を繰り出し、彼を角の一撃で吹き飛ばした。

 圧倒的な力で鬼たちを蹂躙する牛鬼を前に、一護はギリギリと歯を食い縛る。暴風のごとき勢いで暴れまわる牛鬼を睨みつけ、一護は意を決して飛び出していった。

 

「クソッ‼︎」

「待て‼︎ 行くな黒崎‼︎」

 

 石田が呼び止めるが、もう一護は傍観者でなどいられない。誰の敵であろうが、戦ってはならないと聞かされていようが、誰かが今死にかけているというのに掟だなんだと尻込みするつもりはなかった。

 

「うおおおおおおおお‼︎」

 

 威吹鬼たちに追撃を加えようとする牛鬼の背中に向けて、渾身の月牙天衝を放つ。牛鬼は気配に気づいてわずかに振り返ったが、避けることは叶わずに霊圧の斬撃の直撃を受けた。

 しかしそれも牛鬼をわずかに後退りさせるだけにとどまり、やはり傷一つつけることも叶わなかった。

 一護は牛鬼からなるべく距離を取りながら、牛鬼の注意が己に向いていることに内心安堵する。倒せなくてもいい、今はできるだけ傷ついた鬼の元から引き離すことができれば。

 そんな一護の誘いに乗った牛鬼が、今度は一護を踏み潰そうと角を前に構えて突進の体制に立った。

 

「咆えろ! 『蛇尾丸(ざびまる)』‼︎」

 

 だが、牛鬼の横腹に別の衝撃が走り、牛鬼はぐらりと一瞬だけバランスを崩した。鋼鉄の連接刃が蛇のようにしなり、牛鬼の無防備な側面に食らいついたのだ。

 

「舞え、『袖白雪(そでのしらゆき)』」

 

 注意が削がれた牛鬼の体を、今度は凄まじい冷気が覆い包んで行く。異変に気付いた牛鬼が身じろぎする間に、レイキはその巨体を完全に多い尽くし、瞬く間に氷の彫像へと変えてしまった。

 一護は目を見開き、牛鬼に手を出した背後の死神たちを見つめた。

 

「お前ら……」

「流石にあれは放置するわけにもいかん。とにかく奴の動きを止めるぞ!」

 

 ルキアが一護の隣に立ってそう告げると同時に、バキン‼︎と氷を破って牛鬼が再び動き出した。

 身体中にこびりつく氷の塊を鬱陶しそうに振り払った牛鬼は、それをなしたルキアを本能で察して怒りの咆哮を放った。

 

「倒せなくてもなぁ、足止めぐらいは余裕なんだよォ‼︎」

 

 突進の体制に入る牛鬼に向けて恋次が再び蛇尾丸を振るい、一護が斬撃を放った。風を切り、唸りをあげる蛇尾丸の刃と斬撃が数回牛鬼の体に食らいつき、巨体を右へ左へと揺さぶる。傷こそつかなかったものの、衝撃で均衡を崩した牛鬼は頭から倒れこみ、その強烈な突進の犠牲になるものはいなかった。

 頭をブルブルと振りながら牛鬼が立ち上がろうとした時、蛇尾丸をも超える衝撃が牛鬼の顔面に襲い掛かった。

 

「オオオオオオオオオオオ‼︎ 巨人の一撃(エル・ディレクト)ォォォォォ‼︎」

 

 獣のような芳香を放つ茶渡が黒く硬質化・巨大化した右腕を振るう。巨人の右腕(ブラソ・デレチャ・デ・ヒガンテ)と呼ばれる剛拳が霊子を放ち、猛烈な勢いで牛鬼の顔面にモロに決まる。

 さすがの牛鬼もこれには耐えきれず、わずかに空中に浮きながら吹き飛ばされた。

 そのまま背後の大樹の幹に背中からぶつかり、うめき声を漏らす牛鬼。そこへ負傷していた轟鬼が戻り、奮闘する一護たちを見て奮い立った。

 

「クッソォ……負けてらんないじゃんかよおらあああああ‼︎」

 

 怒号じみた咆哮を上げ、轟鬼が怯んでいる牛鬼の胸に音撃弦を振るう。身構えていない状態に、急所に入ったのか今度は刃が通り、傷口から勢いよく黒い体液が噴き出した。

 すかさず威吹鬼が発砲し、同時に石田が矢を放って牛鬼の傷口付近に食いつかせる。鬼石と呼ばれる特殊な弾丸と霊子の矢が体内に埋め込まれ、牛鬼は苦悶の咆哮を上げて体をのけぞらせた。

 

「ヴォオオオオオオオオオ‼︎」

 

 牛鬼は狂ったように暴れまわり、強靭な腕をめちゃくちゃに振り回す。しかしその動きにすでに当初の激しさは失われ、弱り始めていることがわかった。

 

「っしゃああああ‼︎ 音撃斬、雷電激震‼︎」

「音撃射・疾風一閃‼︎」

 

 徐々に動きが鈍くなっていく牛鬼に向かって轟鬼が音撃弦を突き立て、威吹鬼が音撃管を構える。それぞれベルトに備わった弦と円盤を取り外し、獲物に装着して清めの音を刻む準備を終える。そして牛鬼にとどめを刺すために、思い切りその音をかき鳴らした。

 

「ヴォアッ⁉︎ ヴォオオオオオオオオ⁉︎」

 

 自身の体に走った不快感に、牛鬼は大きく体を震わせて抵抗した。轟鬼のギターの音が、威吹鬼のラッパの音が体内で暴れまわり、食い散らかすような嫌悪感を沸き立たせた。

 

「ヴォオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 すると牛鬼は突如目をぎらりと光らせ、咆哮とともに全身から強烈な圧を放った。音撃弦を突き立てていた轟鬼は至近距離でそれを受け、大きく宙に吹き飛ばされた。威吹鬼もその圧をまともに受け、清めの音を中断してその場にとどまるために踏ん張る他になかった。

 

「どわあああっ⁉︎」

「うあっ⁉︎」

 

 石田や茶渡、ルキアと恋次、織姫と一護もその余波を受け、暴風のような衝撃波に吹き飛ばされないようにするだけで手一杯になる。

 牛鬼は邪魔者を全て薙ぎ払うと、先ほどよりも興奮したようにあたりを踏み荒らし始めた。突き刺さっていた刃も轟鬼とともにずるりと抜け、どろっとした体液が牛鬼の腹から垂れだした。

 やがてその目は、衝撃に押し倒され地に伏せる織姫の方へと向けられた。

 憤怒に燃える牛鬼が、他よりも弱く脆い存在に一歩近づこうとした時だった。

 

「うおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 斬魄刀を振りかぶり、一護が再び牛鬼に肉薄する。仲間に決して手を出させまいと奮闘する死神が、せめて距離を取らせようと超至近距離で刀身に霊圧を集めていく。

 

「月牙ーーー天衝‼︎」

 

 疲弊した体で放った渾身の斬撃が、ゼロ距離で牛鬼の胸に食らいつく。ただ吹き飛ばすだけに止まっていた死神の斬撃はーーー牛鬼の胸に、決して浅くない傷を刻み込んだ。

 

「ーーー⁉︎」

 

 誰もが目を見開き、信じられないとばかりにその光景を凝視する。

 ありえないはずだった。たとえどんなに弱っていようとも、死神は魔化魍を倒すも傷つけることもできない。しかし現に、一護の斬魄刀は牛鬼の体を切り裂き、血を流させている。あらゆる法則で決まっている現象が、今覆されていた。

 

「……まさか、死神の刃が」

「ーーーハァッ……ハァッ……‼︎」

 

 荒い息をつき、たたらを踏んで後ずさる牛鬼の前で、一護は目を見開いていた。

 刃が通ったことへの驚愕ではない。

 魔化魍に触れた瞬間に流れ込んだ、強烈な異物感にだ。

 

「なん、だ、この、記憶はっ……⁉︎ ぐっ……⁉︎」

 

 刃が牛鬼の肉を裂いた瞬間、一護の頭に断片的な光景が流れ込んでいた。映像とも言えないほど不明瞭で歪な情報だったが、一護の脳裏にははっきりとした記憶として侵入していた。

 

 ……一人の女が、赤子を抱いて走っていた。みすぼらしい格好の若い女性に抱かれる〝誰か〟が、必死な表情の女性の顔を見上げていた。

 やがてその女性は崖の手前で立ち止まり、背後から追ってきていた男たちに向き直った。追ってきていた男たちは皆、敵意に満ちた形相で女性と抱かれる〝誰か〟をにらみ、口汚く罵っていた。

 背後に広がる断崖絶壁と荒ぶる海を見下ろした女性は、腕の中の〝誰か〟を強く抱きしめた。そして、意を決して崖の上から飛び降りたのだ。

 

 次に見えた光景では女性が砂浜で倒れ、〝誰か〟が必死に呼び続けていた。

 弱々しく顔を上げた女性は、か細い手を伸ばして〝誰か〟の髪を撫で、やがてその目から光を失っていく。瞳の中に、角の生えた〝誰か〟の顔を写し、ゆっくりと力を失っていった。

 

 その顔は、誰かに似ていた気がした。

 

「なんだ……⁉︎ どういうことだ……⁉︎」

「一護⁉︎ 一体何がどうしたのだ⁉︎」

 

 一護は自身に起きた記憶の弊害に困惑し、震える手で自分の手を見下ろす。それは牛鬼も同じようで、敵が目の前にいるにも関わらずに呆然と立ち尽くし、震えながら声を漏らしていた。

 それを見守るルキアたちは、一人奇行を続けているようにしか見えない一護を凝視する他にない。

 

「ヴォオオオオオ……あああああ……‼︎」

 

 その声に、織姫はわずかな違和感を覚えた。聞こえてきた声に、牛鬼のものではない聞き覚えのある声を聞いた気がしたのだ。

 織姫はぐっと唇を引き結び、数時間前にあった老婆の話を思い出した。

 

 ーーー妖の元へ行くというんなら、これだけでも覚えて行きなさい。

 

 織姫たちに島の伝承を教えてくれた老婆は、退室しようとした織姫にあるおまじないを教えてくれたのだ。両手の指で作った狐の顔、それをさらに複雑に組み合わせ、指の付け根にできた小窓を除くというものだ。

 魔化魍のいるところへ向かう織姫を案じ、老婆はそれだけを最後に伝えてくれた。

 

 ーーー狐の窓というての、人に化けた狐を見破るためにあるもんなんじゃ。

    ……きっと、役に立つ。

 

 老婆の説明を思い出し、織姫は牛鬼がなんなのかを見破ってみようと狐の窓を作る。狐に使う呪いが効くのか疑問だったが、織姫は全く気にせずにそれを試した。

 そして、使ったことを激しく後悔した。

 

「……嘘」

 

 狐の窓をの添いて絶句する織姫に、石田たちの視線が集まる。織姫は目を見開いたまま、頭を抱えて悶え苦しんでいる牛鬼を凝視し、呟いた。

 

「…………明日歌、ちゃん?」

 

 その言葉は、その場にいた全員を黙らせるには十分すぎた。誰もが言葉を失い、次いで呻き声を漏らす牛鬼を凝視して後ずさるほどに。

 目前に立っていた一護も目の前の牛鬼の正体に、そして流れ込んできた〝誰か〟に気づき、愕然としたまま刃を下ろした。嘘だと何度も思い込もうとしても、聞こえてくる咆哮に混じる人間の声がそれが真実であるとはっきりと表し、否定を許さなかった。

 

「ああ……あああああ……‼︎」

「なんということだ……⁉︎」

 

 いつのまにか、牛鬼からは完全にさっきまでの凶暴性が失われている。自身を突き動かしていたものを完全に奪われたように落ち着きなく、怯えたように頭を抱えて悶えていた。

 その姿はもはや魔物ではなく、姿を魔物に変えられた哀れな少女ーーー明日歌が怯える姿にしか見えなかった。

 

「ヴォオオオオ……ヴォオオオオオオオオ‼︎」

 

 突如、混乱が限界に達した牛鬼は狂ったように頭を振り回し、辺り構わず粉砕しながら一護たちから離れ始めた。よろよろとおぼつかない足取りで後ずさると、発破をかけられたようにその場から逃走を始めた。

 

「明日歌ァァァァ‼︎」

 

 我に帰った皆が止めようとするもすでに遅く、一護の声だけが森の中に虚しく響き渡った。



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5.In at least your hands

 暗い森の中で、オレンジ色の光が灯る。

 織姫の持つ盾舜六花という能力により発現した楕円形の光の縦の中で、轟鬼と威吹鬼の受けた傷跡がみるみるうちに回復、いや傷を受ける前に戻っていく。

 顔だけを人間の姿に戻した二人の鬼は、その光景を不思議そうに見下ろしていた。

 

「すごい能力だね、彼女」

「……ああ」

 

 織姫の持つ能力の異常性に気づいたイブキが、傍に立っている一護に呟く。

 しかし一護の表情は固く、険しいままだった。

 

「……悪いね、お嬢ちゃん」

 

 傷跡すらいっさい残さず、治療してもらったトドロキが織姫に頭を下げる。織姫は笑って返すが、その顔は一護と同じく憂いに満ちていた。

 

「明日歌ちゃん……どうして……」

 

 沈黙の中、織姫が悲痛な表情でそうこぼす。先ほど自分が見たものが未だに信じられず、しかしそれが真実であることに愕然となり、言葉が出なかった。

 全員が押し黙る中、歯を食いしばった一護が近くの木を殴りつけた。

 

「くそ……何がどうなってんだ‼︎」

「……彼女は、一体いつから魔化魍だったんだ? この島で……ずっと鬼と暮らしていたんだろう?」

「わからない……けど」

 

 石田の問いに、イブキは困った顔で首を振る。

 無理もない。知り合いだと言っても、何もかもを知っているわけではないのだから。彼女がいつどこから来て、何があったかなど、彼女本人も口にしなかったことなど知る由もなかった。

 けれど、確信していることが一つだけあった。

 

「さっきの牛鬼は、間違いなく明日歌ちゃんだった。……俺たちの、敵なんだ」

 

 イブキは表情を完全に消した顔で、そうはっきりと口にした。

 

「なに、言ってんだよ」

 

 一護はその言葉に振り向き、呆然とした表情でイブキを見下ろす。その視線にわずかな殺気が混じっていることに、イブキは気づいていた。

 

「あの子の異常な膂力も、そうなら説明がつく。……なぜ音撃を魔化魍が使えたのかまではわからないけど」

「だから、何言ってんだよ!」

 

 我慢の限界に達した一護がイブキの首回りの鎧を掴み、凄まじい怪力で持ち上げる。周りの面々が止めようと掴みかかるが、一護は止まらなかった。いや、止まれなかった。

 

「てめーら……てめーら仲間じゃねぇのかよ⁉︎」

「だとしても、今の彼女は人を襲う魔化魍なんだ‼︎ 放置すれば、どんなことが起きるかーーー」

「ふざけんじゃねぇ‼︎」

 

 声を荒げた一護が、イブキを押して大樹の幹に押し付ける。逃げ場をなくし、まっすぐに睨みながら、一護は憤怒の形相でイブキに詰め寄る。

 

「なんで……なんで訳も分かんねぇのに、そんな簡単に決められるんだよ⁉︎ あんだけ鬼を誇りに思っていたあいつを、簡単に切り捨てられるんだよ⁉︎」

「関係のないあんたが……知った口聞いてんじゃない‼︎」

「そんなことどうだっていいだろうが‼︎」

 

 沈痛な表情でそう返すイブキを、一護は知ったことじゃないと激昂して返す。

 もううんざりだった。役に立たないからと、互いの存在が毒だからと追いやられるのが。戦い続けるものが傷ついて、自分だけが歯を食いしばって見守るばかりなことが。

 そして何より、誰よりも人の為に尽力し、心を砕いていた明日が手のひらを返すように敵と呼ばれるのを聞くのは。

 

「なんで仲間を、最後まで信じてやれねぇんだよ⁉︎」

 

 

「……は、はぁっ……うぐっ……」

 

 森の深い奥に、明日歌はいた。

 岩場と樹々の間を川が流れ、冷え切った空気が明日歌の肌を突き刺し凍えさせる。震える体を守る衣服は鬼になった代償に今は失われており、陶磁器のように白い肌を晒して明日歌はうめき声をあげていた。

 ザァァァッと流れて行く川の水に、鮮紅色が混じる。明日歌の肌に刻まれた深い裂傷から流れ落ちた血が、川の水を汚していた。

 

「……なんじゃ、今のは……わしは一体、どうなったんじゃ……?」

 

 明日歌は自身の身に起きた現象に戸惑い、ブルブルと震える腕で自らの体を抱きしめる。恐怖が少女の心と体を縛り、歩き出す勇気を奪い去って行く。一糸纏わぬ姿となっているのに、感じるのは羞恥などではなく凍りつかんばかりの寒さだけだった。

 幻覚だったと思いたい。なのに、全身に感じる倦怠感も、刻まれた傷跡から感じる痛みも、全てが本物で疑いようがない。己はあの時、本当に魔化魍になっていたのだと。

 

「…………ぐぅっ⁉︎」

 

 明日歌の頭に痛みが走る。記憶の扉を無理やりこじ開けるような激痛に頭を抱え、明日歌は小さくなってうずくまる。バシャバシャと足元の水をかき分けて冷感を得、別の感覚で紛らわせようとしても全く意味をなさない。

 

「うううう……‼︎ あああああああああ……‼︎」

 

 否定しても拒絶しても、明日歌の脳裏には先ほど自分が見た光景が否応無く蘇っていく。

 膨らみ、変化していく己の肉体。湧き上がる破壊と殺人衝動、そして人間への激しい憎悪。それを止めようと必死に抗う己自身が、徐々に弱まり消え去りそうになっていく冷たい感覚。

 それを真っ向から受けた鬼たちの敵意と一護の放った刃の感触。その姿が、明日歌を狩るべきものとして認識した彼らの姿が、かつて魔化魍と戦っていた己の姿と重なり、激しい後悔が押し寄せた。

 

「嘘じゃ……嘘じゃ嘘じゃ嘘じゃ‼︎」

 

 ザブザブと水面をかき、湧き上がった感覚を必死に否定する。

 己は敵ではない、魔化魍ではない、化け物ではない。しかしそう否定すればするほど、魔物へと変わり果てた己の姿がフラッシュバックし、少女の心をガリガリと責め詰っていく。

 あれが化け物でないと言うのなら、なんだと言うのか。守るべき人に憎悪を向け、共に戦うべき鬼に刃を向け、命を踏みにじる感覚に酔いしれていた、まぎれもない魔物と化していたと言うのに。

 まだ自分が、人間だとでも言えるのか。

 

「違う‼︎ 違う……違う、違う違う違う‼︎」

 

 劇場のままに、明日歌は水面を叩き水飛沫を巻き上げる。

 水面に映る姿は、変わらぬ己の顔のままのはずなのに。激しく波打つ水鏡はまっすぐには己を映してくれず、ゆらゆらとゆがんだ姿を見せ続ける。

 

「違う……わしは、わしは魔化魍などでは……わしはーーー」

 

 鬼を目指すカブキの弟子で、島に長く暮らし人々とたまに交流し、己を鍛え続けて時に魔化魍と戦い、それ以前は。

 

「ーーーわしは……一体、なんじゃ……?」

 

 記憶など、なかった。

 己がどこからきたのかなど、どこの誰の子供なのかも、一体なんなのかも何一つ知らなかった。

 一護と激突した瞬間見えた光景は、一体なんだったというのか。憎悪に満ちた形相の人間たちに追われ、己を抱いて逃げていた女性は一体誰だったのか。

 流れ着いた島にて師匠と初めて会った時、師匠の目に映った己のひたいに角が生えていたのは、なぜか。

 あれは、本物の鬼ではなかったか。

 

「…………ああ、なんじゃ。何も違わなかったではないか」

 

 明日歌は仰向けで岸に寝転がり、月明かりの照らす夜天を見上げて力を抜いた。理解してしまった瞬間、己の中に渦巻いていたあらゆる感情が静止し、急速に冷え切っていくのを感じた。

 

「なんということはない……わしはずっと、化け物じゃったのか」

 

 口にしてしまえば、何もかもがどうでもよくなるような気がした。衝撃的な事実を突きつけられているというのに、全く心が動いた様子がない。いや、もはやそんな感情すら麻痺しているような気さえしてしまった。

 

「滑稽じゃのう……自分自身も、そんなことに気づかんかったなぞ……は、あははは……」

 

 乾いた笑みが勝手に溢れる、全身から力が抜けていく。自分という存在が心底矮小なものに思え、心の中に生まれた闇の中にどっぷりと沈んでいくように思えた。

 人間のために人間の敵を狩ってきたはずなのに、実は同胞を手にかけ、憎き人間に知らず手を貸していただけ。人間の敵が自分を人間と思い込み、同じ存在を殺し続けていたという、矛盾に満ちた真相。長年努力を続け、研鑽を積み続けてきたのは、一体なんのためだったというのか。

 自分の立っている場所はもうすでに崩れ去り、あとはサラサラと痕跡が消え去っていくような、そんな儚い心地に陥っていた。

 

「ーーーここにいたか」

 

 その声が聞こえてきたのは、不意のことだった。

 聞きなれ、そして今は一番聞きたくなかった声に少しだけ体を起こし、焦点の合わなくなり始めた目を億劫そうに向ける。

 川を挟んだ向こう側の岸に、その男は立っていた。派手な鎧を身にまとい、左右で長さも色も異なる角の生えた異形の戦士。明日歌が長く追い続けていた鬼の一人・歌舞鬼。

 久しく見ていなかった鬼の姿へと変わった彼の手には、音叉の角を伸ばして刃を成した刀と歪な形状の刀が握られていた。

 

「……し、しょう」

 

 明日歌の表情が、悲痛に歪められる。表情を一つも変えず己を見つめてくる師の前に裸体を晒しながら、それでも動く気になれない。体を隠す気も起きないのは、果たして全ての気力が失われてしまったゆえか。

 

「なぜ……ここにおる……」

 

 尋ねる明日歌だが、なんとなくその理由は察していた。それでも尋ねてしまったのは、答えを師自身の口から直接聞きたかったからだろうか。

 泥のように濁った瞳に見つめられながら、静寂の中佇む鬼は小さく、淡々と答えた。

 

「……お前を、殺しにきた」

「ーーーそうか」

 

 予想通りの答えを告げた歌舞鬼に、明日歌はなぜか安堵の笑みを浮かべて目を細めた。

 師は、ずっとそばにいた。稽古の時も、食事の時も、眠る時も、話す時も、喧嘩をした時も、どんな時も己のそばにーーー化け物である自分のそばに。ようやく気付いた、それがなぜなのか。

 その理由は、考えるまでもなかった。

 

「なら、はようそうしてくれ。……わしは、痛いのは嫌じゃし、苦しいのはもっと嫌いじゃ。……じゃがの」

 

 川の水に半身を浸し、裸体を晒しながら、明日歌は穏やかな表情で師に身を委ねる。岸に生えた樹から張り出した太い根に背中を預け、四肢を投げ出して師を見つめる。

 身を守るものは何もない。鬼の鎧も、抵抗する気力も逃げる気力も何もない。歌舞鬼が持つ刀で胸を貫かれれば、さしたる抵抗もなく己は一瞬で絶命するだろう。

 これまで己が倒してきた、魔化魍(同胞)と同じように。

 

「バケモノのまま死ぬのは、もっとごめんなんじゃ」

 

 歌舞鬼はザブザブと川に足を踏み入れ、明日歌の目の前にまで近づいていく。ギラリと刀が月の光を反射し、青白く鋭い輝きを放つ。こんな状況でも明日歌は、その輝きを美しいと思っていた。

 何よりも、最後に己に刃を立てる鬼が師であることに、明日歌はなぜか喜びを感じていた。

 

「できるなら、おぬしの手で死にたい。……良いかの?」

「……ああ、承知した」

 

 歌舞鬼は小さく頷き、刃を水平に構える。刃に月光だけでなく、川の輝きも加わってより美しく光る。

 その刃がゆっくりと、歌舞鬼の頭上に掲げられていく様を見上げながら、明日歌は儚げな笑みを浮かべ呟いた。

 

「…………のう、師匠。わしは、こんなにも望まれて……おらなんだか? 生まれてきては……ダメじゃったのか? ……間違って、おったのか……?」

「…………」

 

 アスカは、悔しくて悲しくてたまらなかった。

 死ぬことがではない。己の積み重ねてきた全てが否定され、なんの意味も持てずに朽ちていくことが。己の存在そのものを己で否定してしまい、他人にその終幕を任せる他になくなってしまったことがだ。

 師に、不甲斐ない弟子の始末をつけさせてしまうことが、どうしようもないほど情けなかった。

 

「……わしがやってきたことは、何の意味があったんじゃろうな。……わしは、何が正しかったんじゃろうなあ……」

「……さあな」

 

 労いも、同情の言葉も何もなく、歌舞鬼はそう短く答える。相変わらず感情を微塵も感じさせない平坦な声のまま、〝敵〟を見下ろしているだけだった。

 

「…………だがせめて俺の手で、けじめをつけよう」

 

 その言葉に、明日歌は安堵の笑みを浮かべる。

 死にたくないと思わないわけではない、悔いがないわけがない。まだ友に何も言い遺していない、仲間に別れを告げていない、最後に島の者に会えていないーーー巻き込んでしまった一護に、詫びを言えていない。

 だがそれ以上に、己に引導を渡すのが他の誰かではないことが、何よりも嬉しく思えた。それを引き受けてくれた師の無愛想な優しさに、何よりも救われる気がした。

 

 ーーーあなたの手で殺されるなら、それでもいい。

 

 師の刃が、今度こそ己の息の根をとめることを覚悟しながら。ようやく、この苦しみから解放されることを喜びながら、明日歌は二度と開かないであろう己の目を閉じた。

 最後に師の姿を、目に焼き付けてから。



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伍之章 夢の続き
1.entrusted thought


 

 静かに波がさざめく、真昼の岸辺。

 フジツボが群生し、小さなカニや小魚が迷い込む浅い水辺に、アスカはいた。

 少女にはもはや、立ち上がる気力さえ残ってはいなかった。衣服が濡れるのもかまわず、海水の中に阪神を浸してぼんやりと空を眺め、ただ呼吸を繰り返すだけになっていた。

 最後の希望が島を離れ、仲間と持っていたものたちに裏切られ、アスカの心は傷だらけになっていた。人と鬼の間に刻まれた溝は、もはや修復不可能なほど深く、歩み寄ろうとした少女の努力はすべて水の泡と消えてしまった。

 だが、そんなことすでにわかりきっていたのかもしれない。

 

「……まぁ、もうどうでもいいがの」

 

 深いため息をつき、アスカは背もたれにしていた岩場から起き上がり、膝を立てる。

 島を出よう、そして、もう帰ってこられないほど遠くへ行こう。居場所はもうどこにも無くなってしまった、自分でみんな壊してしまった。

 ならせめて、みんなの顔を見ずに済むように、あの目をまた見ずに済むように何処かへ消えてしまおう。

 そう考えて、アスカは海岸沿いに歩き出した。

 だがその時、視界の端に何かが入った。

 

「……‼︎」

 

〝それ〟の姿を目にし、アスカは慌てて岩場の影に身を潜める。

 わずかな衣擦れの音に〝それ〟は振り向いたが、息を殺して身を隠していたアスカには気づかなかったようで、そのまま歩き始めた。

 曇り空の陰った光に照らし出されたのは、炎のような赤い甲冑。火焔をもした大きな体の、魔物がいた。

 鎧武者の魔化魍、火焔大将が。

 

「あやつは……カブキが倒したはず? じゃが、なぜこんなところに?」

 

 初めて出会った時、アスカはかの魔化魍がカブキに倒される光景を実際に目にした。なのに、かの魔化魍はまるで何事もなかったかのようにこの場に存在し、獲物でも探すかのように徘徊している。

 

(おかしい……何かがおかしい!)

 

 同じ姿の魔化魍くらいいるはずだ。あの時倒された魔化魍とここにいる魔化魍が同じ個体だという確信などない。

 だが、ここに巣食っている魔化魍はオロチである。魔化魍の王が、他の魔化魍を寄せ付けたりするのだろうか。

 それに、火焔大将は本土で初めて見たのだ。今まで見たことがない魔化魍を、本土で見た後に故郷で見るなどあり得るのだろうか。

 そこまで考えて、アスカの脳裏には嫌な想像が生まれてしまった。

 

「……まさか」

 

 まさか、と思い青ざめるアスカ。そんな彼女の頭上を、突如暗い影が覆った。

 ハッと振り向き、息を飲むアスカの目の前に現れたのは、鬼戦士たちと去ってしまったはずのカブキだった。

 戻ってきてくれたのか、と思うよりも強く、アスカには例えようもないほどの恐怖感が襲いかかっていた。

 

「おぬし、なのか……? おぬしが、わしの仲間を殺したのか……?」

 

 火焔大将を倒したのは、カブキ。だが火焔大将が本当に息絶えたかは、爆発に飲まれたために目にしてはいなかった。瓦礫とともに、跡形もなく消えていたのだ。

 怯えた目で見上げてくるアスカに、歌舞伎はいつもの朗らかな笑みも決して、冷酷な目で見下ろしてくる。

 

「……あんな目に遭って、まだ仲間って呼ぶんだな。本当にお人好しだわ、お前」

「嘘、じゃろ……‼︎」

 

 その言葉だけで、アスカにとっては肯定と同じだった。

 ぶるぶると震える体で、アスカはカブキを見つめる。

 

「こいつは俺の忠実な部下として与えられたものでな。ああやって人助け(・・・)して、恩を着せた相手をうまく誘導するのが、俺の役目だったんだよ」

 

 カブキ自身が発した言葉も、アスカには未だ信じられなかった。

 この男とともになら、なんとかなると思っていた。大した礼もできないのに、ちっぽけな自分を助けてくれると言ってくれた。

 この命の軽い世界で生きる希望に、目標にもなってくれる人だと思っていた。

 なのにそれは、すべてまやかしであった。

 人々を守るために火焔大将を相手に戦っていたことも、アスカを助けてくれると言ったことも。

 アスカの、希望になっていたことも。

 

「カブキ……おぬし、全て嘘じゃったのか……? どんなやつだろうと助けると言ったのは……助けてくれると言ったのは……」

「……嘘じゃねぇさ」

 

 いつのまにか、カブキに付き従うように姿を現した火焔大将とともに、カブキは冷ややかな笑みを浮かべる。

 その目の冷たさに、アスカの目尻から涙がこぼれた。

 

「ガキ一人に全て押し付けて、失敗したら簡単に手のひらを返すような連中は、全員一人残らず同じところへ送ってやるよ」

 

 吐き出された言葉に、今度こそ絶望する。

 こんなになってまでも、自分は集落の仲間のことを案じてしまっていたらしい。もう既にボロボロのはずの心がさらに悲鳴をあげ、全身から力が抜け出していく。

 心の中の火が、しぼんでいくのを感じた。

 

「なぜじゃ……なぜじゃカブキ⁉︎ 人を守るのが、鬼の使命と言うとったではないか‼︎」

「ーーーもう人間に、守る価値なんざねぇんだよ‼︎」

 

 絞り出すようなアスカの慟哭に、カブキは激昂するように叫びをあげる。

 その声に混じっているのは、怒りと憎しみ、そしてーーー悲しみと後悔。

 人のために戦い続けてきた男もまた、疲れ果てていた。

 

「俺がどれだけ命がけで戦おうと、身を尽くそうと、人間は感謝どころか人としても見ねぇ‼︎ 魔化魍と同じ化け物の仲間としてしか俺を見ねェ‼︎ ……もう、うんざりなんだよ」

「……信じておったのに……‼︎」

 

 ガラガラと、足元が崩れていくかのような。傷ついた心をかろうじて支えていたものが壊れていくかのような喪失感に襲われ、涙を流すアスカの目から光が失われていく。

 もはや、そこから逃げようなどという気力も起きなかった。

 がくりとうなだれたアスカに、カブキは憂いを帯びた眼差しを送る。

 

「……やっと邪魔な奴が片付いたな」

 

 そんな時だった、その少女が現れたのは。

 おかっぱ髪に、鞠をついた七五三のような格好をした幼い少女が、その見た目に似合わない低い声でつぶやき、カブキとアスカを見つめていた。

 その少女が、火焔大将の方に目配せをする。すると火焔大将がアスカの元へ動き、カブキを押しのけるようにして少女の体を拾い上げた。

 思わぬ行動に、カブキは目を見開いた。

 

「連れてこいーーー今日の贄だ」

「なんだと……?」

 

 カブキは少女を睨み、ついでアスカを脇に抱える火焔大将を睨む。

 自身に忠実なこの魔化魍は、オロチの元から与えられたもの。同じ立ち位置にある子の少女にも従うのは道理だが、カブキには見逃せないことだった。

 

「話が違う。こいつだけは生かしておくようにという約束だったはずだろうが」

「そんなことは知らん。贄は一匹でも多い方が良い、それだけのこと」

 

 特に理由があったわけではない。だが約束を破られるというのは、あまり気分のいいことではなかった。

 しかし少女は取り合わず、火焔大将に命じてアスカをどこかへと運んでいった。

 

「逆らうな……お前はもう、同類なのだからな」

 

 それは言外に、カブキを嘲笑しているかのような言葉だった。

 人の身を捨てたお前に、人を救う資格などありはしない、守る資格などありはしない、殺す人間を選ぶ資格などはありはしない。そういっているかのようだった。

 カブキは肩を落とし、運ばれていくアスカを見送る。その目に宿っているのは、憐れみと、少しの後悔であった。

 

「悪いな、アスカ。恨んでくれても、構わねぇよ」

 

 その声が届いているかはわからない。

 力なくうなだれ、小脇に抱えられたままのアスカは抵抗も何もなく、ただ揺さぶられながら運ばれていくのみ。

 

(……ああ。これは報いか)

 

 兄を失い、その責任をあの男に求め続け、身の程もわきまえずに憎み続けたことへの。

 繋がりを失うことを恐れるあまり、なんの関わりもないものたちを巻き込み、その上根拠も何もない疑いをかけて傷つけたことへの、自分への罰。

 もしそうなら、それは許されるはずもない罪深いものだ。許されてはならない、醜いものだ。

 だがそれでも、助けなど、来るはずがないと知っていても。

 アスカの脳裏には、憎いあの男の顔が浮かんでいた。

 

 

 島の外れ、切り立った崖の先にヒビキはいた。

 さわさわと海風に揺れる草地の奥に建てられた石の墓を前に、ヒビキは長い間跪いていた。

 しばらくそこで目を伏せていた彼は、ようやく立ち上がる。もともとここにきた用事はこれ一つのためだった。あの妹にこれ以上嫌われる必要もあるまいと、その場を後にしようとした時だった。

 

「……ヒビキさん」

 

 不意に聞こえてきた声に、ヒビキは動きを止める。

 振り返り、そこにいた一人の娘の姿にヒビキは目を細めた。

 

「お前は確か……彩姫」

「……あなたに、渡しておかなければならないものがあるの」

 

 ヒビキは跪いたまま、見つめてくる彩姫を見つめ返していた。

 

 

「……これは」

「あの人の遺品の中に、これが残っていたの」

 

 ヒビキを自宅へと誘った彩姫は、戸棚の奥にしまっていたボロ布の塊を引き出し、ヒビキに差し出した。ヒビキはそれを受け取り、布の端を丁寧に開いていく。

 そして、その中から露わになったのは、一振りの刃だった。

 

「あなたに渡して欲しいって、この手紙に」

「……あいつが打った、刀か」

 

 歪な形をした、刀というよりは牙のような形状の刃を掲げ、ヒビキは呟く。刃の先端には穴が空き、持ち手もまっすぐには程遠い。お世辞にもうまいとは言えない出来ではあったが、ヒビキにはそれが好ましく思えた。

 

「あいっ変わらず、ヘッタクソだなぁ……だが、まっすぐないい刀だ」

 

 思えば、あの弟子の仕事はいつも上手いとは言えないものだった。いつも失敗ばかりで、心配ばかりかけていた。

 だが、この刀には確かにあの男の魂が宿っている。ヒビキを思い、一心不乱に叩き上げた想いがこもっている。間違いなく、あの男の最高の刀だった。

 

「あの人は最後までそう……! 自分よりも誰かのことばかり気にして……いつもそれで損をして……本当に、兄妹揃ってお人好しで……!」

「…………」

 

 感極まって涙を流す彩姫を前に、ヒビキはただ黙って刀を見下ろす。

 蘇ってくるのは、自分の後を追っていたある男の顔と、自分を憎んでいる少女の顔。血の繋がりはなかった、しかしどうしようもないほどに似ていた二人の顔が、何度も脳裏を横切っていった。

 

「ヒビキさん……どうか、どうかあの人も連れて行ってあげてください……!」

 

 答えは何も帰っては来なかったが、彩姫はその場で膝を揃え、深々とヒビキに頭をさげる。恥も何も考えず、ただこの願いだけは伝えねばならないと懇願する。

 ヒビキはただ、そんな彩姫をじっと見下ろし、口を閉ざして佇んでいた。

 

「あの人はずっと……ずっとあなたを追いかけていたんです……その最期に、きっと、悔いなどなかったはずなんです……‼︎」

 

 彩姫は必死に、兄貴分が抱いていた想いを師に伝える。

 亡き弟子の刀を持つヒビキの手に、力がこもっていった。

 

「……無茶言いやがって、あの馬鹿弟子……」

 

 だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

 心の中で、くすぶっていた炎が再び燃え上がるのを感じた気がした。

 

「……ああ、わかったぜ。猛士」

 

 そうつぶやいてあげたヒビキの目には、強い光が蘇っていた。



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2.these who did not give up and abandoning person who

 島の砂浜の近くにポッカリと開いた、深い洞窟。

 ジメジメとした湿気が生ぬるい風となり、アスカの頬をなで付ける。来ていた服を脱がされ、簡素な白い衣装に着替えさせられたアスカは、ピクリとも動くことなく洞窟の地面に倒れ伏していた。

 光を失った虚ろな目は、天井から滴った水たまりの波紋をぼんやりと見つめたまま動かず、か細い呼吸音だけが彼女が生きていることを表していた。

 ふと、洞窟の中に足音が響いた。

 徐々に近づいてきたそれはアスカのすぐ近くで止まり、影がアスカに覆いかぶさった。

 

「……カブキ……?」

 

 自らの腕を縛り付けている縄が解かれていく感触に、アスカは戸惑うように声をあげた。

 

「静かにしてろ。逃がしてやる」

 

 ぐったりとしたままのアスカの腕を引き、立ち上がろうとするカブキ。

 だがアスカは、そこから一歩も動こうとはしなかった。

 

「……もう、ええんじゃ。放っておいてくれ」

 

 掠れた声で救助を拒むアスカに、歌舞伎は眉間にしわを寄せて顔を覗き込んだ。

 

「わしが死ねば、もうしばらくは集落の連中は生贄を出さずに済むじゃろ……望まれんわしなら、誰も悲しまんからのぅ……」

 

 アスカの目は、もう死人とほぼ変わらないほど虚ろだ。

 だがその心は、集落の者たちにたいして異常なほどの執着がこびりついている。何もかもを失って流れ着いた少女は、再び失うことへの恐怖心に縛られ、動く気力を失ってしまっていた。

 生きることを、完全に諦めてしまっていた。

 

「なんでだ……? お前も聞いたはずだ。俺たちだけじゃない、お前にも向けられた奴らの蔑みの声が……」

「……それでもここは、あやつらはわしをここまで育ててくれた家族じゃ。捨てられんよ」

 

 アスカの顔に、笑みが浮かべられる。何もかもを失いながら、自分に価値を求めようと取り繕った、悲しい顔だった。

 

「これがわしの、最後の恩返しなんじゃ……邪魔せんでくれ」

「……馬鹿なガキだよ。行くぞ」

 

 カブキはそんなアスカを一瞬だけ悲しげな目で見つめると、有無を言わさずその体を抱え上げる。

 アスカも抵抗することなく、カブキに抱えられながら洞窟の中から連れ出されていく。もう、自ら動く気にもなれずにいた。

 あまりにも軽い体を米俵のように担いで歩くカブキだったが、洞窟の入り口にたどり着いた時その足が止まる。

 

「どこへ行く……カブキ」

 

 聞こえてきた声に、カブキの表情が憎々しげに歪む。

 岩場の上で、鞠をつく幼い少女。その可愛らしい顔立ちに浮かぶのは、邪悪な感情を全て詰め込んだかのような醜悪な笑みだ。

 傍に立っている火焔大将までもが、嘲笑するようにたちを肩に当てているように見えた。

 

「贖罪のつもりか。何をしようと、裏切ったお前の罪は消えんぞ」

 

 カブキは少女を睨みつけ、しかし争うようなそぶりは見せずに立ち尽くしていた。

 アスカはその間も動かない。ぐったりと抱えられたまま、事態が動くに身を任せているようだった。

 

「その子供を返せ。今すぐに」

 

 ざわざわと騒ぐ葉擦れの中、カブキと少女が睨み合う。数刻ののちようやくか武器がとった行動は、今までずっと傍に抱えていたアスカをその場にそっとおろし、岩の上に腰掛けさせることだった。

 割れ物を扱うように優しく降ろされたアスカは、虚ろな目を細めてカブキをじっと見上げ、ふっと微笑みを浮かべた。先ほどとは異なる、安心仕切ったような笑みだった。

 

「……カブキ」

「……悪いな、アスカ。見つかる前なら逃がしてやれるんだが、そうもいかなくなっちまった」

「それでよい……ぬしはもう、何も気にせんでええ」

 

 アスカにとっては、カブキも集落のものと同じ守りたいものとなっていた。この場で彼が裏切り、アスカを逃がすことがあれば集落の者が殺されるだけはない、カブキも命を狙われてしまうだろう。

 騙されていたとしても、嘘だったとしても、どうしてもアスカにはそれは許容できなかった。長く旅をして知ったこの男の本当の優しさは、偽れるものだとは思えなかった。

 だから、彼を守れるなら、それでいい。

 この命を散らしても、構わない。

 そう思って、アスカは目を閉じる。カブキはそんなアスカを悲痛げな目で見下ろし、唇を噛みながら立ち尽くす。

 その時だった。草木をかき分け、勢いよくその場に降り立った一つの影があったのは。

 

「…………なん、だ。これは」

 

 呆然とした様子で、立ち尽くすカブキと座り込むアスカ、そしてこの場に不釣り合いな格好の少女と魔化魍の姿を目の当たりにする男、ヒビキ。

 混乱しながらも、目の前の光景を瞬時に理解し、鋭い眼差しをカブキに送った。

 

「……お前だったのか、裏切ったのは」

「ヒビキ……」

 

 あまりの理解の早さに驚くも、気づかない方がおかしいかとカブキは我ながら呆れる。

 虚ろな表情で座り込むアスカと、魔化魍が何もせずこの場にいる時点で、察することができない奴は余程の馬鹿か、味方を盲信する甘いやつぐらいなものだ。

 

「あいにく、俺はもともとそこまで聖人君子じゃ無くってなぁ……人間のことなんざ、もうなんとも思えねぇんだよ」

 

 ヒビキの眼光を感じながら、カブキはだるそうに天を仰ぐ。同業者にバレることはできるだけ避けたかったのだが、それももう仕方のないことだ。

 もう、自分は人間ではないのだから。

 

「お前はそうは思わないのか? どんなに戦って、身を粉にして人に尽くしても、帰ってくるのは侮蔑と差別の視線ばかり。誰一人として本気で感謝するやつなんていやしない」

 

 ヒビキは何も答えず、闇に落ちた鬼をじっと見据える。迸る殺気が、昏く燃える瞳が、カブキの言葉が本気であることを示している。

 しばらくにらみ合っていた時、不意にヒビキが口を開いた。

 

「…………アスカ」

 

 呼ばれた自分の名にアスカはわずかに肩を揺らし、虚ろな目を向ける。気だるげな緩慢とした動きに、ヒビキはまっすぐなっ視線を向けて語りかける。

 

「お前の兄貴は、最後にわずかだが息があった」

「…………‼︎」

 

 アスカは目を見開き、ハッとヒビキを凝視する。

 事故にあった兄はほぼ即死で、アスカが言葉を交わすまでは間に合わなかったはずだ。だが、アスカが到着する寸前まで生きていたというのか。その時間、やはりヒビキは何もしなかったのか。

 だが、その疑いは一瞬で晴れた。

 

「あいつは俺に、アスカ……お前のことを頼むと言った」

 

 兄の遺言を聞き、アスカの涙腺が決壊する。

 自らの命が尽きようとしている刹那の間、兄は自らが生きながらえることよりも、妹を残すことを悔いたのだ。

 その数秒を、妹を師に託すことに使ったのだ。

 

「お前が道を間違わないように、迷わないように見守ってやってくれと言った。……その遺言に従って、俺はアカネタカを使ってお前のことを見張っていた」

 

 ヒビキの言葉にアスカは驚き、そして理解する。

 鬼たちが仲違いし、争いに発展しそうになった時、なぜあんなにも都合よくヒビキが現れたのか。そして、なぜカブキとともに訪れた時、驚いた様子がなかったのか。

 知っていたのだ。アスカがどこで何をしているのか、何に悩んでいたのか。

 知っていて、アスカが助けを求める時に備えていたのだ。

 

「お前が望むなら、俺はお前が望むことを手伝ってやる。……お前は、俺に何を望む?」

 

 弟子との約束を守るため、その妹の罵りにも耐え続け、待ち続けていたのだ。

 アスカが、自らの口で助けを求めることを。

 じっと自分を見つめてくるヒビキに、アスカは目を臥せて肩を震わせる。歯を食いしばり、何だを零し続けるアスカは、やがてぐしゃぐしゃになった顔を上げ、ヒビキを凝視した。

 

「頼む……戦ってくれーーー響鬼」

 

 願いを、自分で口にする。

 誰かのためじゃない、自分の願いを。

 

「カブキを……止めてくれ」

 

 少女の願いは、どこまでも自分の身をないがしろにしたものだった。

 自分の命を惜しむものではない、一度は憧れた者に手を汚させまいと祈る、あまりにも歪で愚かな慈悲の心。

 だからこそヒビキは、それに答えた。

 

「…………ああ。わかった」

 

 ズン、と殺気を迸らせるヒビキに、カブキもまた同じく殺気を漲らせる。

 袂を分かった二人の鬼を見てニヤリと笑う少女が、カブキに視線を送った。

 

「やれ、歌舞鬼。その鬼を殺して、そのガキも連れてこい」

 

 音もなく闇の中に消えていく少女に背を向け、カブキは懐から音叉を取り出し、足袋に当てて鳴らす。

 

「……歌舞鬼」

 

 額にかざした途端に緑の炎に包まれ、鬼へと変貌していくカブキ。

 ヒビキもまた音叉を取り出すと、弟子が遺した歪な刀を抜いて、その刀身に音叉の角を当てる。甲高い音が響き渡り、ヒビキはそれを額に当てる。すると、音の波にさらされた額に鬼の顔が浮かび上がった。

 

「響鬼」

 

 小さく呟くと、ヒビキの体が紫色の炎に包まれていく。衣服が燃え、炎が肉体を包み込み、その中で人の貌が大きく変貌していく。

 

「オオオオオオオーーーハァッ‼︎」

 

 雄叫びと共に炎が振り払われ、鬼へと変じたヒビキーーー響鬼の姿が露わとなる。

 独特の光沢を放つ紫色が鍛え上げられた鋼の肉体を彩り、筋肉の脈動を伝える。両腕の先は人の血潮を表すような見事な紅で、鋭く尖った爪を備える。

 胸には金属の輪がたすき掛けのように巻きつき、銀の輝きを敵に見せつける。

 のっぺりとした顔に生えた二本の角が圧倒的な存在感を放ち、浮きだった赤い装飾が憤怒の形相を表す。

 これが、幾千もの戦いを乗り越えてきた鬼。

 アスカの兄が憧れた、戦士。

 

「おおおおおおおお‼︎」

「ハァァァァァァァ‼︎」

 

 怒号のような芳香を放ち、互いに向かって疾走する歌舞鬼と響鬼。それぞれの武器である紅と翠の音撃棒を振りかざし、相手の全てを叩き潰す勢いで躍り掛かる。

 ガギン、と鈍い音が響き、鬼の顔を飾った撥が激突する。間合いの短い双方の武器は直接殴りつけるのとほぼ同じ威力を発揮し、響鬼と歌舞鬼は互いに弾かれる。

 二人の鬼が得物をぶつけ合うたびに衝撃と火花が資産し、風となってアスカや木々の枝を揺らす。

 音撃棒をかち合わせたまま、響鬼と歌舞鬼は海岸に向かって駆け抜けてゆく。得物の間に、そして両者の視線の間に火花が散り、振り払うと同時に距離をとった。

 

「おおおお‼︎」

 

 ヒビキが音撃棒を振り下ろし、渾身の一撃を見舞おうとした時、右腕に縄が巻きつく。振り払おうとするも、歌舞鬼はまるで生き物のように縄を操り、響鬼を空中へと放り上げてしまう。

 すぐさま立ち上がり、反撃を加えようとする響鬼だったが、今度はどこからか取り出された傘によっていなされ、隣をすり抜けてしまう。体勢を崩した響鬼の懐に向けて歌舞鬼が音叉を抜くと、角が伸びて一振りの刃となり、響鬼の脇腹に食らいついた。

 血を流す響鬼は転がって離れると、猛の刀を抜いて向き直り、再び躍りかかっていく。

 しかし、歌舞伎の持つ鬼縄術、鬼傘術、鬼刀術に翻弄され、徐々に追い詰められていく。一撃の技に特化した響鬼と、小手先で翻弄して仕留める歌舞鬼では相性が悪く、反撃の糸口を見出せずにいた。

 

「ぐううっ⁉︎」

 

 数回の激突の後、肩を斬り裂かれて響鬼はその場に膝をつく。

 決して浅くはない傷が刻まれ、鮮血が吹き上げるも、響鬼は歌舞鬼から目をそらすことはない。だが受けた負傷は響鬼から体力を奪い、戦いの最中の集中力を奪い去っていく。

 歌舞鬼は鋭い光を放つ刀を構え、傘を担ぎながら響鬼を見下ろし、切っ先を突きつける。

 もはや戦況は決しかけている。道は違えど、誤れど同じ鬼の間柄。せめて一撃で仕留めてやろうと響鬼の防御を見定める。

 この一撃で、歌舞鬼はついに本当に人の身も心も捨て、真に魔化魍の仲間入りを果たすのだ。長く望んでいたことでありながら、心にしこりを残した気がする歌舞鬼は内心で頭を振り、響鬼に視線を戻す。

 

「さらばだ、響鬼…………これでしまいだ‼︎」

 

 膝をつく響鬼に向けて、渾身の一撃を見舞おうと刃を振り下ろす歌舞鬼。そのきらめきは、迷うことなく響鬼の首に吸い込まれるように空を切り裂いていく。

 だが、その時だった。

 

「歌舞鬼ぃぃぃ‼︎」

「っ!」

 

 響鬼たちを追い、駆けつけたアスカの声が歌舞鬼の鼓膜を震わせる。

 その声が響き渡った瞬間、仮面の下の歌舞伎の目が大きく見開かれ、振り下ろされる刃が鈍る。必殺の一撃に、致命的なまでの迷いがはっきりと現れた。

 響鬼は、それを見逃さなかった。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 凄まじい雄叫びと共に、響鬼は歌舞鬼に向かって全力で突進する。ハッと我に帰る歌舞鬼よりも早く、盾となる傘を叩き折り、胸の中心に向けて抉りこむように音撃棒を叩き込む。心臓までを押しつぶす勢いで放たれた衝撃に、歌舞鬼の手から刀が離れた。

 

「ーーー音撃打・火炎連打の型‼︎」

 

 動きを止めた歌舞鬼に、響鬼の怒涛の連撃が襲いかかる。

 魔化魍を打つ清めの音ではない、敵を倒すための明確な闘気を込めた打撃が無数に叩き込まれる。襲いかかるいくつもの衝撃に歌舞鬼の体がグラグラと揺さぶられ、意識が削り取られて行く。

 打撃により鎧は凹み、熱により焼けただれ、歌舞鬼の体からみるみるうちに力が抜け出て行った。

 

「はあああああああああああああ‼︎」

 

 最後に打ち込まれた強烈な一撃により、歌舞鬼の体が大きく仰け反る。がっくりと肩を落とした歌舞鬼の姿が揺らぎ、本来の姿へと戻って行く。

 脱力した彼がゆっくりと地面に向かって傾いでいく刹那に見えた、カブキの表情は。

 

 ーーーどこか迷いの晴れたような穏やかなものだった。



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3.Not forsake!

 響鬼は一人、刀と撥を構えたままその場に佇む。

 目前に倒れ伏している男を見下ろし、言いようのない無力感に声もなく立ち尽くしていた。

 

「……カブキ」

 

 そのそばに寄ったアスカも、カブキに苦しげな表情を向けたまま言葉を失う。

 カブキの言葉は、響鬼だけに向けたものではない。全ての人間に向けて放たれた言葉であった。

 人間を救うために異形の力を手に入れ、守るために振るったのに、理解の足らなさから受け入れられない理不尽への怒り、悲しみ、絶望。それらが彼らの戦いの最中から、ひしひしと伝わってきた。

 響鬼はただじっと、彼を見下ろす。

 これは自分だ。大義を見失い、道を踏み外した自分だ、と。

 決してこの姿を忘れてはならないと、目に焼き付けようとしていた時だった。

 

「……役立たずが」

 

 不意に聞こえてきた言葉に、響鬼はアスカを背にかばいながら振り向き、構える。

 いつのまにか、響鬼とアスカを囲むように集まっていた魔化魍の集団に、アスカは言葉を失った。例の少女だけではない、オロチに仕えていた童子と姫、それにカブキとともにいた火焔大将までもが立ち並び、いやらしい笑みを浮かべていたのだ。

 

「相打つどころか一匹も仕留められんとはな……所詮雑魚は雑魚か」

 

 心底落胆した様子でそう呟く少女に、アスカは頭に血がのぼるのを感じた。

 こいつらにとって、カブキは仲間どころか都合のいい道具でしかなかったのだろう。響鬼をうまく排除できればよし、使い物にならなくなれば、オロチの餌にでもするつもりだったのだろう。

 男の怒りを、嘆きを、踏みにじるしかできない醜悪な存在に、アスカは無力ながらも怒りの炎を燃やした。

 アスカの睨みも気にせず、少女は気だるげに鞠を傍らに捨て、踏み潰した。

 

「もうよいわ……我が自ら喰うてくれる」

 

 ニヤリと耳まで裂けるような獰猛な笑みを浮かべた少女の姿が、一瞬で変わっていく。

 小柄な体はみるみる大きくなり、西洋の鎧のような鋼が覆っていく。頭から生えた長い白髪と、死神のような黒い外套がはためき、骸骨のような顔の眼窩に灯った赤い眼が光る。

 巨大な槍と盾を備えたその正体は、二口女とも称される魔化魍の一体、ヒトツミ。

 

「ーーー我の胃袋の中で、仲良く溶け合うがいいわ」

 

 そういうと同時に、ヒトツミから放たれる凄まじい圧に、響鬼とアスカはビリビリと大気が震えるのを感じる。島の外から渡ってきた強大な魔化魍を目の前にし、本能が最大級に警鐘を鳴らしていた。

 黒子のような忍のような、黒ずくめの格好をした魔化魍の手下達が徐々に距離を詰めてくる中、響鬼が再び猛の刀を構えた時だった。

 

「どおりゃあああああああああ‼︎」

「⁉︎」

 

 突如聞こえてきた野太い怒号と共に、集まっていた手下達の一部が一斉に吹き飛ばされた。

 かと思えばまた別の場所で爆裂が生じ、魔化魍達が悲鳴を上げて吹き飛ばされる。何が起こっているのか、砂埃が立ち上がって確認することができず、魔化魍達はやられるがままとなっていた。

 いきなりのことで、魔化魍どころか響鬼達まで呆然となり、言葉を失っていた。

 

「ぬぐおおおお⁉︎」

 

 爆発の余波を受け、砂を被ったヒトツミが忌々しげな声を上げる。姫や童子、火焔大将らはすぐさまその場から距離を取る。

 響鬼達からも離れているところを見るに、この状況は相当予想外であることのようだ。

 そこへ届いたのは、思いもよらない声だった。

 

「響鬼ぃ! 大丈夫かぁ⁉︎」

 

 たんっ、と身軽にその場に現れたのは、爆ぜ玉を両手に持つ浪速の男。泥棒稼業で鍛えた足で跳ね回る、軽薄ながらも一本の芯を持った鬼の一人だった。

 

「……に、ニシキか⁉︎」

 

 あまりの驚愕に、アスカは思わず上ずった声を上げる。

 その衝撃はヒトツミも同じようで、初めて狼狽した様子でニシキの方を凝視していた。

 

「なぜ奴が……⁉︎」

「ーーー⁉︎」

 

 硬直するヒトツミのそばを、何者かに蹴り飛ばされた手下が突き抜けてゆく。

 砂浜に墜落した手下たちを一瞥すると、ヒトツミは手下が飛ばされてきた方向を睨みつけ、そこにいた着物の青年に怒気を強めた。

 

「イブキ⁉︎」

 

 驚くアスカだが、現れたのはそれだけではない。

 背の高い僧侶が、農夫の格好をした丈夫が、派手な格好をした二枚目が、次々に魔化魍たちを飛び越えてアスカの元へ馳せ参じてきたのだ。別れ際の感情など、みじんも感じさせない穏やかな表情で。

 

「……ぬしら、なぜ……?」

「あのあと色々考えてな、最後まで付き合おうと思ったんや。今度こそごっつ暴れたるでぇ‼︎」

「そ、そういう意味ではない‼︎」

 

 もう、見放されてしまったと思った。救う価値などないと見限られて、もう二度と手を差し伸べてはくれないのだと思っていた。

 なのに、彼らは再びここへ集まってきてくれた。

 

「主ら……なぜ、また人間を助けてくれるというんじゃ」

 

 それが、自分自身が目にしても未だに信じられない。

 困惑したままのアスカに、イブキが苦笑しながら歩み寄った。

 

「頼まれてしまったからね、か弱い老人と美女に、それと他のみんなに。土下座までされてはね」

「……長が、彩姫が……?」

 

 集落の者たちとは違い、鬼に対して悪い感情は抱いていなかった二人だ。まさかあの二人が、集落の者たちを説得してくれたのだろうか。

 だとしても、よくそれに応じてくれたものだ。厚意を裏切り、踏みにじったというのに。

 しかしハバタキは、気まずそうに頭を書きながらそれに首を振った。

 

「……ここで逃げたら、寝覚めが悪いからよ」

「全ては、御仏の心に従うまで」

「ま、やってやろうじゃん?」

「盛大な祭りだ、面白ェじゃねぇか!」

「トウキ……ハバタキ……キラメキ……」

 

 もはや、それ以上の言葉も出せない。己の中の何かが決壊してしまいそうで、アスカは震える唇を閉じきるしかできないでいた。

 そのすぐ近くに、凄まじい落雷が轟いた。

 

「どぉりゃあああああ‼︎」

 

 アスカが振り向けば、案の定鬼の中でも最も熱い男が弦楽器を振り回して暴れまわっている姿が目に入る。最後まで渋っていた彼が来ないはずなど、なかったのだ。

 

「色々悩んだっすけど……やっぱ、見捨てらんねぇっす‼︎ 俺も一緒に戦うっす‼︎」

「トドロキ……!」

 

 息を切らせて駆け寄ってくるトドロキを前にして、ジワリとアスカの目がにじむ。まっすぐな思いをぶつけてきてくれる彼の言葉に、不覚にも涙腺が限界を迎えそうになっていた。

 

「こうなったらとことん付き合うぜ、嬢ちゃん‼︎」

「もう一度、力を振るおう‼︎ 何処かの誰かのためではない、君のために‼︎」

 

 頼もしい、仲間の言葉。

 彼らだけが、アスカを対等に見てくれていた。

 

「みんな……」

 

 誇らしげな表情で、鬼達はアスカを見つめてくる。

 荒波を越え、たった一人大切なものを守るために尽力したか弱き少女。否定されようと、見捨てられようと、決して自らが投げ出すことはしなかった、高潔な魂の持ち主である彼女を、彼らは誇りに思っていた。

 アスカの頬を、熱い何かが伝っていく。胸が熱く燃え滾る。

 何もかも無くして、捨てられたと思っていたアスカは気づく。まだ、残っているものはあったのだと。

 自分はもう、一人ではないのだと。

 

「ーーーああ、皆、頼む‼︎」

 

 七人の構える音叉の音が、響き渡る。心を洗い流す、清純なる音色が島に響き渡り、大気を震わせる。

 勇ましく立ち並ぶ男たちにまとわれる風が、雷が、羽毛が、衣が、吹雪が、金色が彼らを屈強な戦士の姿へと変えていく。

 

「おっしゃぁぁぁぁぁぁ‼︎」

 

 それを払いのけ、変貌した我が身を魔化魍に晒す鬼戦士たち。艶やかに輝く、隆々とした筋肉の鎧、雄々しくのびた角、それらを携え、鬼たちは少女を守るように頼もしく立ちはだかる。

 七人の戦鬼が、今再びこの地に揃ったのだ。

 面白くないのは、せっかく邪魔者を排除したヒトツミたち魔化魍。その目が、轟々と憎悪の炎で燃えていた。

 

「鬼どもが‼︎ また性懲りも無く邪魔をしおって……‼︎」

「我らは鬼。魔化魍を討つ存在‼︎」

「相手が誰であろうと、ここからは一歩たりとも引かねぇぜ‼︎」

 

 無数の敵を前にしながら、鬼たちは一歩たりとも引かない。

 その後は、圧倒的であった。

 

「ふっ!」

「どりゃああああ‼︎」

 

 威吹鬼は音撃管の引き金を引き、群がってくる魔化魍たちを片っ端から撃ち抜いていく。間合いに入ってきたものには強烈な蹴りを加え、砂浜まで蹴り飛ばす。

 轟鬼は果敢に魔化魍に躍りかかり、音撃弦を剣のように振り回して次々になぎ倒していく。激しい火花をちらせながら魔化魍たちは吹き飛ばされ、断末魔の悲鳴とともに次々に海に叩き落とされていく。

 

「せいやぁ‼︎」

「ぬぅあああ‼︎」

 

 西鬼は手甲から生やした爪を振るい、虎のように野性味溢れる戦い方で翻弄する。魔化魍の首を両足で挟むと、両手のみで全力疾走して引き摺り回し、木の幹に叩きつけるという芸当をお見舞いしていた。

 凍鬼はその凄まじい膂力で魔化魍の頭部を掴み、振り回して同士討ちをさせるという荒技を見せる。ただ殴りつけるだけで、ほとんどの魔化魍は一撃で戦闘不能にされ、木端と化していた。

 

「ハァッ‼︎」

「ぜぁぁ‼︎」

 

 羽撃鬼は腕から生えた翼で空を舞い、空中から魔化魍たちに膝蹴りを食らわせる。音撃吹道(フルート)を槍のように古い、頭上という死角からの正確な一撃で仕留めていく。

 煌鬼は自ら水中へと挑み、おびき出されてきた魔化魍たちを迎え撃った。両肩に装着されていた音撃震張(シンバル)を魚の鰭のように操り、水中で加速しながら鮫のように鋭く魔化魍たちを切りつけていく。

 歴戦の鬼たちを前に、魔化魍たちは全くと言っていいほど相手にならない。姫も童子も、火焔大将までもが次々に討ち取られ、みるみるうちに数を減らしていった。

 響鬼は、一人ヒトツミと相対していた。猛の刀を振るい、猛然とヒトツミに挑んでいく。

 しかしヒトツミは手強く、間合いの違いから響鬼の方が追い込まれてしまっていた。長く分厚いヒトツミの槍の勢いは凄まじく、硬い盾は容易に突破できない強度を誇っている。武器の違いだけではなく、膂力の差もあらわとなりつつあった。

 

「往ね‼︎ 鬼が‼︎」

「くっ……‼︎」

 

 ヒトツミの一撃が、ついに響鬼の手から猛の刀を弾き飛ばす。激しい火花を散らし、くるくると宙を舞った刀は響鬼の元から遠く離れ、海の中へと沈んでいった。

 獲物を失った響鬼に、ヒトツミはニヤリと笑みを深める。

 だが、次の瞬間その笑みが凍りついた。

 

「音撃射・疾風一閃!」

 

 羽撃鬼の奏でる音撃吹道・烈風が、美しい旋律を叩きつけたのだ。背後から放たれた音の奔流がヒトツミをその場に縛り付け、力を奪っていく。

 魔化魍にとって毒とも言える清めの音を直接喰らい、ヒトツミは忌々しげに歯を食いしばりながらじりじりと離れようとする。

 その横腹に、音撃弦・烈雷が突き刺さり、トドロキの腰の帯から外された尾錠が取り付けられた。

 

「音撃斬・雷電激震! うおりゃああああ‼︎」

 

 烈雷を突き刺したまま、轟鬼が弦をかき鳴らす。雷鳴のような轟音が大気を震わせ、ヒトツミの体にまで振動を伝える。

 ヒトツミは不快気に目を光らせ、多少手こずりながら烈雷を無理やり引き抜き、轟鬼ごと放り出すと森の中に逃げ込んで行く。

 しかしその目の前に、巨大な三つ巴模様が浮き上がった。

 

「音撃殴・一撃怒涛! おおおおおおおおお‼︎」

 

 巨大な棍棒、音撃坊・烈凍を振りかざした凍鬼が鼓面に向かって叩きつける。大気に刻まれた波紋がヒトツミをも包み、音の牢獄の中に閉じ込め、清めの音を刻み込む。

 わずかに苦悶の声を漏らしたヒトツミは大きく槍を振るって清めの音を振り払い、凍鬼から距離をとる。

 だがその先には、両肩の音撃震張・烈盤を構えた煌鬼がいた。

 

「音撃拍・軽佻訃爆! ッハァ‼︎」

 

 円盤が叩き合わされ、凄まじい金属音が襲いかかる。大気に響き渡る音撃が刃のように刻み込まれ、ヒトツミはさすがに苦し気に呻き声をもらす。

 

「音撃響・偉羅射威! イラッシャイ! イラッシャイ! イラッシャイ!」

 

 そこへすかさず、音撃三角・烈節を組み立てた西鬼が、音叉を叩きつけて音をかき鳴らす。腹の底まで届く甲高い音が檻のようにヒトツミを囲い込むと、ヒトツミは目に見えて苦し気に暴れ始めた。

 

「音撃奏・旋風一閃! フッ‼︎」

 

 さらに、音撃吹道・烈空を吹き鳴らし、美しい音色が弓矢のように突き刺さる。体の奥にまで届く精巧な音により、ヒトツミもたまらず武器を取り落として悶え始めた。

 

「お……おの、れぇええ……‼︎」

 

 連続で、六人の鬼に音撃を喰らい続けるヒトツミ。そもそもそこまでの連撃を受けてまだ耐えているヒトツミの方が異常なのだが、その頑強さを抜きにしても鬼たちの猛攻は凄まじかった。

 清めの音を真っ向から喰らい、弱り始めた胴体に響鬼が肉薄する。腰の尾錠から取り外した円盤をヒトツミの腹部に押し付けることにより、巨大な鼓面を作り出した。

 

「音撃打・爆裂強打の型!」

 

 そして放たれる、とどめの一撃。

 己の、アスカの、そしてすべての者たちの想いを乗せた、渾身の音撃がヒトツミの腹に叩き込まれ、待機だけでなく地面までグラグラと揺れる。

 隙間なく繰り出される怒涛の連撃によって、ヒトツミは逃げることもできずに振動に体内を食い散らかされていく。

 

「おおおおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 最後に放たれた一撃により、ヒトツミの体が宙に吹き飛ぶ。倒れることはなかったが、よろよろと限界を迎えた魔化魍は憎悪のこもった目で響鬼を、鬼たちを睨みつけ、口から体液をこぼして後ずさった。

 

「鬼どもが……‼︎」

 

 腹を抑える手に、巨大な三つ巴模様が浮かび上がる。空気が揺らぐほどの熱を放ち、回転を始めるそれがヒトツミを熱の中に閉じ込め、その身を焼き始めていた。

 

「これで終わりと思うな‼︎ 貴様らの絶望は……今始まったばかりなのだ‼︎ ぅううおおおおおおおおおお‼︎」

 

 獣のような咆哮を放ち、ゆっくりと仰向けに倒れていくヒトツミ。

 その体が地面に着いた瞬間、その巨体は爆炎に包まれ、文字通り木っ端微塵に弾け飛んだ。

 轟音と閃光があたりに走り、ヒトツミを跡形もなく焼き尽くしていく炎の前で鬼たちが構えを取る。島の陸地に上がっていた魔化魍は、すべて撮り逃しなく仕留め終わった。残っているのは。

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 その時、すぐ近くの海面が盛り上がり、激しい水飛沫とともに巨大な蛇が姿を現した。島に着いた時に煮え湯を飲まされた、片目を失ったオロチだ。

 

「あれは……ついにきたか!」

「へっ! 親玉が出やがったな!」

 

 ついに現れた、島を恐怖に陥れた根元にして、魔化魍たちの王の登場に鬼たちは闘気を漲らせる。あれを仕留めればこの島は、アスカは救われるのだ。この戦いを、終わらせることができるのだ。

 

「だったらこいつらの出番だ‼︎」

 

 鬼たちが、腰に下げられた円盤をオロチに向かって投げる。

 弧を描いて中を飛ぶ円盤は細かく展開し、それぞれが獣の形を取り始めると同時に、見る見るうちに巨大化し始めた。

 

「ウォン‼︎ ウォン‼︎」

「グゥオオオオ‼︎」

「ピィイイイ‼︎」

 

 大理石のような豪腕を持つ白練大猿(シロネリオオザル)が、溶岩のようなたくましい四肢を持つ岩紅獅子(イワベニシシ)が、夕焼けのような美しい茜鷹(アカネタカ)が、オロチに負けない巨大さを持って躍りかかった。

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 シロネリオオザルの剛拳を食らい、岩紅獅子に切りつけられ、茜鷹に食いつかれる。

 同程度の巨体を誇る三体の登場に、オロチは怒り狂いながら迎え撃つ。巨体でのしかかり、口から火焔を吐きながら三方からの攻撃に反撃を与え始めた。

 オロチの注意は三体の鋼の獣に向いている。獣たちの援護の間に、鬼たちは再度各々の武器を構えた。

 

「皆、行くぞ‼︎」

「オオ‼︎」

 

 勇ましく吠える響きに、答える六人の鬼たち。

 その背後に控えるアスカに見守られながら、鬼たちはオロチの元へと突進を始めた。

 

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 雄々しい咆哮が、波のようにオロチの元へ向かっていく。

 

 

 この時より、オロチと鬼の歴史の裏舞台に刻まれる戦いが、火蓋を切った。



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4.the way that he noticed mistakes

 語られぬ歴史に刻まれた、オロチと七人の戦鬼による戦い。

 それを見ていたのは、島の住民だけではなかった。

 

「……アスカ」

 

 傷を受けた体を引きずり、様々な音の響き渡る戦場が見える場所まで出てきたカブキ。

 もう残った魔化魍はオロチだけで、鬼たちはその巨体に苦戦しながらも懸命に音撃を駆使している。その勢いに、オロチも迂闊には手を出せずにいるようだった。

 離れた場所の岩陰には、アスカの姿がある。オロチの姿に怯えながら、鬼たちの勝利を信じて目の輝きを死なせずにいる。

 その姿に、カブキは例えようもない無力感に苛まれていた。

 

「……俺は、これから一体何をすればいいのだ」

 

 人間を憎み、しかしアスカへの情を捨てきれず敗北した。そんな中途半端な己が、あの場面へ介入することなど許されるはずもない。今のカブキに、できる音など何も残されてはいなかった。

 

「アスカ……俺は」

 

 魔化魍に堕ち、朽ちることのない不死の肉体を提げたカブキは、己の行く末に答えを見いだせないまま。

 時は、500年の時を経る。

 

 

「…………え?」

 

 アスカは、いつまでたっても訪れない痛みに困惑の声を上げる。

 魔に堕ちた己を討とうと刃を突き付ける師に、全て身を預けて意識を手放そうとしていたはずなのに、そんな気配が全くない。

 確かに刃は貫いている。だがその切っ先が突き立てられているのは自分の体ではなく、顔のすぐ横の幹。

 そこでのたうち回っている、小さな一匹のおぞましい模様の蛇だった。

 

「……え?」

「この時を……ずっと待っていた」

 

 明日歌ではなく、明日歌の首元で悶える蛇に突き刺しながら、歌舞鬼が感情を押さえ込んだ低い声で呟く。

 困惑する明日歌の前で歌舞鬼は突き立てた刀の峰に爪を当て、リィンと甲高い音を生じさせた。

 

「フン!」

「ギィィィィ‼︎」

 

 突き立てられた刃から直接清めの音を食らった蛇は断末魔の叫びをあげ、わずかな抵抗ののちに木の葉と化して爆ぜ散った。

 何が起こっているのか、明日歌には微塵も理解できない。わかるのはただ一つ、師の向けている敵意は、自分に対してのものではないということだけだった。

 

「もう、500年ぶりといったところか……」

 

 歌舞鬼の零した言葉で我に返った明日歌は、その背後に立っている鈍色の死神の姿に気がついた。

 西洋の甲冑に巨大な槍と盾を構えた、死神のような格好をした巨体。血のような真っ赤な瞳が、心を鷲掴みにするような恐怖を感じさせる、最悪の魔化魍。

 それに背を向けたまま、歌舞鬼は刀を勢いよく抜いた。

 

「ようやく、捕らえたぞ……ヒトツミ‼︎」

 

 吠えるが早いか、猛然と歌舞鬼はヒトツミに斬りかかる。憤怒、憎悪、渇望、様々な感情が入り混じった修羅の咆哮が響き渡り、炎となって溢れ出し陽炎を生み出す。

 ヒトツミもそれに負けぬ怒りの感情を発露し、やりを振りかざして歌舞鬼に襲いかかった。

 

「歌舞鬼ぃぃぃぃぃぃぃぃ‼︎」

「オオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 ガギン、と両者の刃が鈍く重い音を響かせる。激しい水飛沫を巻き上げ、一時的に川の流れをせき止めるほどの衝撃が走り、木々や明日歌の髪をなぶる。

 激突は一度では終わらず、互いに凄まじい殺気を全身に迸らせた歌舞鬼とヒトツミの斬撃がぶつかり合い、あたりに傷跡を刻みつけていく。たった数秒の間に、森の奥地は爆心地のような悲惨な有様へと化して行った。

 

「ぐっ……‼︎ この死に損ないが‼︎」

 

 ヒトツミが激昂し、大槍を振り回す。歌舞鬼はそれを傘でいなし、水飛沫を巻き上げながら刀で切りつける。ヒトツミは槍と盾を豪快に操ってそれを防ぎ、膂力で劣る歌舞鬼の防御を抜こうと攻め続けた。

 荒々しい剣戟に、明日歌は困惑しながら身を縮め、頭を抱えることしかできない。

 歌舞鬼は背後で身を守る明日歌をかばうようにその場から動かず、襲いかかる怒涛の猛攻を防ぎ続け、留まり続けた。そしてそれが、歌舞鬼の致命的な隙となった。

 

「があああああああ‼︎」

「ごふっ……‼︎」

 

 怒号と共に突き出されたヒトツミの槍の穂先が、歌舞鬼の腹に深々と突き刺さり、たやすく貫通する。鋼の肉体を貫いた穂先は明日歌の目前にまで届きそうなほどにめり込み、次いでそこからおびただしい量の血が吹き出した。

 噴水のごとく吹き出す流血が明日歌の顔を汚し、真っ赤に汚れる明日歌は大きく目を見開いて言葉を失った。

 

「ひッ……ヒィッ……!」

 

 カタカタと震える明日歌は、己の目前に迫る切っ先など見えてはいなかった。

 自分をかばった師匠が容易く刃を受け、がくりと膝をつく姿に怯えていた。

 

「し、ししょっ……なん、なんでっ……⁉︎」

 

 明らかに致死量と思しき流血に、青ざめる明日歌。

 その声が聞こえたのか、それとも意地か。槍を抑えて悶絶していた歌舞鬼はキッとヒトツミを睨み返し、抜けかけていた力を再収束させて思い切り突き出した。

 

「くっ……! おおおおお‼︎」

「ぐおおおおおおおおお‼︎」

 

 歌舞鬼の突き出した刀はヒトツミの鎧を貫き、深々と根元まで突き刺さった。しかし狙いがずれたのか、刃はヒトツミの胸の中心からかなり横にずれた場所に刺さり、ヒトツミは歌舞鬼を槍で突き飛ばすようにして離脱した。

 衝撃で歌舞鬼の腹からも槍の穂先が抜け、さらに多くの血が流れ出す。歌舞鬼は刀を手放し、ふらふらと力なくよろめくと顔からざぶんと川に倒れこんだ。

 

「……ーーー」

「…………し、しょう?」

 

 か細い声が、明日歌の口から溢れる。

 焦点の合わない目が見つめる先にあるのは、水の中に沈んでピクリとも動かない師の姿。鬼の肉体はすでに消え、傷口からどくどくと赤い血が流れ出し、川の流れの中に混じっていく。

 カタカタと震えるばかりであったアスカは、その光景にようやく我に返った。

 

「お前……お前が……‼︎」

 

 最初に戻ってきた感情は、師を傷つけた者への怒りであった。ギリッと歯を食いしばり、カブキをかばうように前に立つと、射殺すような目で鈍色の死神を睨みつけた。カブキに渡された布しか纏えず、みすぼらしい格好だったが、その殺気は確かなものであった。

 当のヒトツミは、陽炎のように女の顔を顔面に浮かばせ、倒れ伏したカブキに憎々しげな表情を向けている。

 

「クソが……‼︎ 肝心なところで、同類の分際で……‼︎」

 

 カブキが貫いた傷口を手で押さえ、ヒトツミは後退りながら距離を取る。明日歌の目に確かな恐怖を感じているように、怯えた様子でアスカを睨み返し、体液を撒き散らしながら森の闇の中に消えていく。

 死神は最後にカブキを見下ろしてから、吐き捨てるように残した。

 

「大人しくしていれば、苦しまずに逝けたというのに……ぐおおおおおおお‼︎」

 

 その直後、明日歌の視界から死神の姿が消える。まるで煙か何かのように木々の間をすり抜け、木の葉のこすれる音も立てずに闇の中へと薄れていってしまった。

 しばらくその残像を目で追っていた明日歌だったが、気配が消えると同時に背後で倒れ伏すカブキのもとにすがりついた。

 

「師匠‼︎」

 

 沈んだ体を岸辺まで引っ張り上げ、ひっくり返すと顔を覗き込む。わずかな呼吸と心音を確認できたが、どちらも死を目前にしているように弱々しく、明日歌は例えようのない不安に襲われた。

 虚ろな目で視線を宙に彷徨わせているカブキと無理やり視線を合わせ、明日歌は困惑したまま呼びかける。

 

「なぜ……なぜじゃ‼︎ なぜわしなんぞを庇った⁉︎」

 

 返事は、すぐには帰ってこなかった。

 しばらく焦点の合わない目で明日歌の姿を探すようにしながら、細めた目で鋭く明日歌を見つめた。

 

「……理由が、いるのか……?」

「わしは……わしは魔化魍じゃったんじゃぞ⁉︎ 人を食う……師匠の敵じゃったんじゃぞ⁉︎」

 

 なぜ、そんな相手を助けたのか。何故殺さなかったのか。この人になら殺されてもいいと、そう思ってさえいたのに。

 だがカブキは、そんな明日歌の泣き言に苦笑を返した。

 

「……知って、いた」

「……え?」

 

 思いもよらない言葉に、明日歌は目を見開く。

 

「……初めて、出会った時に、人ならざるものの……俺と同じ、霊圧を感じた。だから最初は、殺そうと思っていた。……だが、できなかった」

 

 衝撃の告白に、明日歌は理解が追いつかない。

 カブキと同じ、人ならざるもの。知っていて殺せなかった。

 何を言っているのか、わかってはいても理解したくない。するわけにはいかなかった。

 

「……ずっと、後悔していた。あの日、お前を裏切ったことを……」

 

 次第に、カブキの目はここではないどこかを見るようになっていた。

 明日歌ではない、明日歌を通した誰かを見ているようで、明日歌は困惑の表情のまま見つめることしかできなかった。

 

「師匠……? 何を……言っておるのじゃ?」

「なんのために生まれて、なんのために戦って、なんのために生きて……迷って迷い続けて、俺は道を見失った。……いつのまにか、俺の中身は、空っぽになっていた」

 

 虚空を見つめたまま、カブキは明日歌の方を見る。その表情が、どこか優しいものになる。

 

「だが、お前に出会ってから、何かが変わった」

 

 明日歌の血に汚れた頬を手で拭い、目尻から流れている雫を指でとる。情けない顔を晒している弟子に仕方がなさそうな苦笑を見せ、カブキはか細い呼吸のまま言葉を紡いだ。

 

「お前といた時間が、お前が俺のそばにいた時だけ……俺は確かに、満たされていた。お前とともにいた時だけ、俺は……人に戻れた」

 

 頬に触れる手から、次第に力が抜けていく。顔色も青白く染まっていき、みるみる血の気が失われていった。

 

「お前といられて…………楽しかったんだ」

「や、やめろ……‼︎ やめてくれ……‼︎」

 

 それ以上聞きたくなくて、明日歌はカブキの胸に顔を押し付けるようにして耳を塞ごうとする。

 自分を救ってくれた人に、導いてくれた人に、ここまで育ててくれた人に、そんな言葉を言って欲しくなかった。その先を、想像したくはなかった。

 

「おぬしがいなければ……わしは、わしは……‼︎ もう、何を目的に生きれば良いのか……‼︎」

 

 この手が離れてしまえば、もう自分は立ち上がれない気がしていた。今まで目の前を走っていた大きな背中が失われることなど、想像したくもなかった。

 だがカブキは、それをゆっくりと首を振って否定した。

 

「生きていくということは、失くすことばかりではない……お前はもう、自分で手に入れているはずだ」

 

 カブキの目から、徐々に光が失われていく。血の気を喪った顔が乾き、枯れ木のようにしなびていく。不死の力を失った体から、潤いがみるみる奪われていった。

 しかしその表情は、これ以上ないほどに安らかなものであった。

 

「出会った頃からずっと、お前は俺の……自慢の弟子だった」

 

 耳を塞ごうともがく明日歌。その耳に、カブキの言葉はしっかりと届く。

 弟子に贈る最期の願いを、笑みとともに。

 

「……持っていけ。最期の、餞別だ」

 

 カブキの手が懐に入り、何かを取り出す。白い布に包まれた、抜き身の短い刀を手にしたカブキは、それを明日歌の胸に押し付ける。

 反射的に明日歌が受け取ると、安堵したようにカブキの腕から力が抜けていった。

 

「ずっと渡せる時を待っていた……それは、お前の刀だ。……生きろ、明日歌」

 

 カブキの手が、明日歌の胸元から離れて水の中に落ちる。全ての力が抜け落ちた体の重量が一気にのしかかり、明日歌はハッと息を飲んだ。

 呆然と見つめる明日歌の目の前で、カブキの体は白く染まりボロボロと崩れていく。燃え尽きた灰のように、朽ちた枯れ木のように風化し、塵となって吹き飛ばされていってしまう。明日歌はそれを、ただ目で追うことしかできなかった。

 

「師匠……? おい、師匠……」

 

 自分の手の中から重さが薄れていき、ボロボロとこぼれていく師の姿に言葉が出てこない。

 あっという間に完全に跡形も無くなってしまった自分の掌の上を見下ろし、明日歌の表情が次第に苦しげに歪み始めていった。

 

「……ふ、ざ、けるな‼︎ 何が生きろじゃ、何が楽しかったじゃ‼︎ 今までそんなそぶり見せたこともなかったくせに、わしの気持ちにも全く気づいておらんかったくせに‼︎ 勝手すぎるぞ馬鹿師匠‼︎」

 

 言葉が、罵倒が勝手に溢れ出す。

 口数少ない男だったがために、素直な気持ちなど聞いたこともなかった。真正面から聞けなくとも、いずれ知ることができればいいなと思っていた。

 なのにいきなり最期を迎え、勝手に気持ちを伝えて自分だけ先に逝ってしまうなど、身勝手にもほどがある。

 

「そんな……そんなこと、今更言われても……‼︎ わしは……わしはぁ‼︎」

 

 ボロボロと、滝のように涙が溢れて止められない。

 何もない手のひらを穴があくほど見つめ、皮を破るほどに拳を握り締める。悔しいのか、悲しいのか、苦しいのかもわからない。心がぐちゃぐちゃで、まともな思考もできはしなかった。

 

「師匠……‼︎」

 

 亡骸も何もなく、消えてしまった師に向けてのその声は、もう届くことはなかった。

 明日歌の手に、微かな重さだけを遺して。



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5.voice of darkness

 ざわりと、闇の中で何かが蠢くのを感じた。

 最初にそれを感じ取ったのは、一護と鬼の一触即発の空気を見守っていた石田だった。

 

「……なんだ、この気配は」

 

 無数の鋭い刃に射抜かれているような、あるいは無数の獲物を狙うケダモノの視線に晒されているような、そんな居心地の悪い気配がそこら中に蔓延していた。

 石田に続いてトドロキも気づいたのか、音撃弦を構えてあたりに視線を巡らせ始めた。

 

「誰かいるみたいっすね。それもそこら中に」

「……またさっきのやつらの仲間か」

 

 不安げな表情になる織姫を守るように茶渡が立ち、光とともに巨人の腕を備え直す。

 濃くなっていく視線と気配に、次第に全員が気づいて各々の武器を構えていく。示し合わせたわけでもないのに円陣を組み、死神も鬼も、異能者も混ざった奇妙な陣形が出来上がった。

 

「なんだこの気配は……! 虚か魔化魍かもわからんぞ!」

「気ィ抜くな! どっから来るか分かんねぇぞ‼︎」

 

 並び立ち、斬魄刀を闇の中に向けるルキアと恋次だったが、流れ落ちる冷や汗は止められない。対抗できる存在はこの場に二人しかおらず、索敵を巡らせることしかできないことが気がかりだった。

 刹那、動いた何かに気づくことができたのは織姫だけだった。

 

「黒崎くん‼︎ 後ろ‼︎」

「うおっ⁉︎」

 

 一護の方へ勢いよく振り向いた織姫が、血相を変えた表情で彼の元へ駆け出し、その胸を押すように飛びかかった。

 織姫の勢いに押された一護が後ろによろめき、たたらを踏みながら大きく仰け反る。

 だが一護は驚愕すると同時に、織姫を抱きかかえながら斬月を目前に持ち上げた。途端に斬月の刃に火花が散り、固く重い何かがぶつかってきたことを理解した。

 

「一護!」

「ぐっ……くそっ‼︎」

 

 体勢を立て直した一護はすぐさま織姫を自分の背後に隠し、ぶつかってきた何かが跳んで行った方へ斬月の切っ先を向ける。しかしガサガサと襲撃者は草木の中へと潜り込み、姿を消してしまった。

 襲撃者が再び闇の中に消え、警戒を強める一護たち。そんな中、場に合わない間延びした声が届いた。

 

「あれあれ〜? 今のも避けちゃうんですね〜?」

 

 聞き覚えのある女の声に、一護や石田は目を見開いて振り返った。

 薄暗い木陰の中、牛鬼にへし折られた大樹の幹の上に一人の女性が腰かけていた。月明かりに照らされ、レディススーツを身にまとってニコニコと過剰な笑みを浮かべているのは、一護たちをこの島で案内した女性。

 この場にいるはずのない、蛇園という名の島の女だった。

 

「あ、あんたは確か……観光課の!」

「……なんでアンタが……」

 

 予想もしない人物がニコニコ笑いながらこの場にいるという意味不明な事態に、一護も石田も訝しげな表情を隠せない。

 対して蛇園は、頬に手を当てながら困ったように眉尻を下げ、ため息をついていた。

 

「いや〜、おっしいですね〜。もう少しで、全部の罪をあの子に被ってもらって、邪魔者も片付いたんですけどね〜」

「……何言ってんだ、あんた」

「い〜いところでうまくいかなくってぇ、なかなか思い通りにいかないものですよねぇ〜」

 

 話が通じない。もとより一護たちと話すつもりがないのか、蛇園は愚痴をこぼすように喋り続けている。酒の席で不満を口にしているようでありながら、自分のことしか話さないOLのようであった。

 閉じられた薄目も一護たちを見ておらず、一瞥してきても路傍の石を見ているようにしか見えない。彼我の間で、何かがずれているようにしか思えない状況が続いていた。

 

「すっごく時間かかったんですよ〜? 遠くからたくさんの人を呼んだり、バレないように人間()を集めて同胞を集めたり……」

 

 何か気になることを言っているが、情報が少なすぎて一護たちには何を言っているのか理解ができない。

 しかし時間がたてばたつほど、一護たちは言い表せない違和感に背筋を冷やされ、緊張と怖気が募っていくのを感じた。目の前にいる女性の正体が見えなくなっていき、不穏な気配がより濃くなっていくようであった。

 

「そのために……大好きな鬼の血も我慢してたっていうのに〜、いつまで邪魔するんですかぁ〜」

 

 そう呟いた蛇園は、急に顔を伏せた。

 黒よりも濃い森の闇の中からあらゆる音が消え失せた、その直後。

 

「あいも変わらず、忌々しい存在だ」

 

 先ほどとは打って変わった様子の蛇園から、凄まじい重圧が発せられた。

 鋭く開かれた両目は蛇のように陰湿で気味が悪く、眼光は人を石に変えそうな怪しさを孕んだものに変わる。頬に添えられていた手が爪を立てて自らの肌に傷をつけていき、笑みの消え失せた口元が唇を舐めた。

 まるで別人と入れ替わったかのような蛇園の変化に、一護たちは表情を強張らせた。

 

「黒崎! 気をつけろ! この人は何かおかしい‼︎」

「わかってる……!」

 

 全方位から視線を蛇園の方に集め、各々の武器を構える。人間に刃を向けることへの躊躇いよりも、未知の脅威に対する警戒心の方が優っていた。

 織姫は一護たちに守られながら、先ほど明日歌の姿を見通したときに使った呪いを試そうとした。先ほどの指の組み合わせを思い出し、蛇園が指の枠の中に入るように目前に構えた。

 しかしその直後、その行為を後悔することになった。

 

「ーーー‼︎」

「! 織姫、どうした⁉︎ 何があった⁉︎」

 

 ソレ(・・)を見た瞬間、織姫は言葉を失って後ずさった。視線は蛇園の元に固定され、引きつった声が喉奥から漏れ出してしまう。

 異変に気付いた一護が視線を向けるも、織姫は口元を手で覆って肩を小刻みに震わせるばかりで声も上げられずにいるようだった。

 

「……この、人」

 

 ようやく聞こえた織姫の声は、震えていた。

 初めて虚に遭遇した時も、二度目に遭遇して能力に覚醒した時もさしたる緊張を見せなかった彼女が、蛇園を見通した瞬間から尋常ではないほどに狼狽していた。何か、見てはいけない何かを見てしまったかのように。

 蛇園は織姫の戸惑いを面白がるように、先ほどとは異なるいやらしい笑みを見せた。嗜虐心に満ちた、歯をむき出しにして歪めたその口で、蛇園は織姫を嗤っていた。

 

「クククク……狐の小窓で我の正体を見たか。余計な恐怖を魂魄に刻まずに済んだものを」

 

 肩を揺らした蛇園は、幹の上から降りて地面に立つ。その動作そのものまでもが蛇のように気味の悪さを感じさせ、一挙一動に警戒せざるを得なくなる。

 織姫の反応を見るまでもなく、言動の意味を理解するまでもなく、一護たちは蛇園を敵として見ていた。

 

「だがもう待つ必要はない……さほど数が集まらなかったのは残念だが、ようやく集まった馳走だ。たっぷりと堪能させてもらおうではないか」

 

 そう呟いた蛇園の姿が、陽炎のように歪んでいく。

 背丈は大きく、肩は広がって四肢は太くなり、男性よりも大きくたくましいものに。白髪が長く伸び、悪鬼のように醜く歪んだ顔からは鋭い牙が伸びる。南蛮の鎧の上に死神のような外套が重なり、積み重なった重量が地面に深い足跡を刻み込む。

 その姿は、過去に魔化魍たちを従えて暴れまわったことで知られ、現代においても鬼たちの間に恐れ伝えられているものであった。

 

「こ……こいつは……‼︎」

「ヒトツミ、だと……⁉︎」

 

 イブキとトドロキに動揺が走り、笛と弦を鳴らして再び鬼の鎧を纏う。一護たちも現れた魔化魍について知らないが、感じられる圧倒的な存在感が生半可な相手ではないことを悟っていた。

 倒すべき、敵対すべき、排除すべき敵であると即座に判断し、戦闘態勢に入った。

 その時だった。

 

 ーーーホローーーーーウ‼︎

    ホローーーーーウ‼︎

 

「⁉︎」

 

 一護の腰から下げられていた髑髏の紋章が、突如として鳴り始めたのだ。

 同時に、目の前の魔化魍から発せられる霊圧も尋常ではない圧力を有し始めていた。

 

「代行証が……‼︎」

「まさか……⁉︎」

 

 一護の持つ代行証から響く警報音に、目を見開くルキアと恋次。

 彼らの前で、ヒトツミの姿が歪んでいく。ボロボロと南蛮鎧が朽ちて崩れていき、シルエットもそれに応じて歪んでいく。

 鎧の殻を剥がし、以前よりもひと回りは大きくなった肉体は華奢ながら鋼のような硬さを感じさせるものに。女性的な膨らみを蛇の皮ような着物で隠し、その上に鱗でできた鎧を纏う、爬虫類独特の冷たさを感じさせる容貌。

 顔立ちは前に長く伸び、その上を白い骨のような仮面が覆い、隙間から縦に裂けた瞳孔が鈍色の光を放つ。

 はだけて露わになっている胸元には、ぽっかりと空いた穴が向こう側まで届き、虚ろな隙間を開けていた。

 

「否……我はもはやヒトツミに在らず、幾百年の怨念を糧に歪み出でた新しき魔化魍」

 

 かつてヒトツミと呼ばれていた異形は、臀部から伸びた太くたくましい尾を地面に叩きつけ、ズシンと凄まじい音を響かせる。

 無数の蛇が絡みついてできたかのような意匠の鎌槍(ハルバード)と盾を携え、ニヤリといやらしい笑みを浮かべた。

 

「忌々しき人間どもよ、改めて礼を言おう。貴様らの罪深き所業により、我はさらなる力を得て蘇った。贄ごとき貴様らが我が怨念の糧となったこと、褒めて遣わそう」

 

 異形の言葉に、ルキア達はようやく察する。

 目の前の存在は魔化魍であり、虚であり、どちらでもあってどちらでもない。

 魔化魍として生まれ出でた存在が己が怨念によって変質し、虚の性質をも手に入れた歪な存在であるということに。

 

「そういうことだったのかよ……‼︎」

「代行証が鳴らなかったのは、奴の本質を測りかねていたからか‼︎」

 

 虚であって虚でないもの。歪みに歪んだ存在は、代行証の判断を曖昧にさせてしまっていたのだ。

 

「ォォォオオオオアアアアアアアア‼︎」

 

 夜の闇の中に、異形の咆哮が響き渡る。悲鳴のような怒号のような、あらゆる生命を恐怖させる魔の者の声が、一護たちの魂魄にまで振動を伝えてくる。

 表情をこわばらせる死神と鬼を前にして、歪な異形は眼光を強めた。

 

「我が名は(ミズチ)ーーー畏れよ、崇めよ、矮小なる人間ども。今宵より……我ら魔化魍の時代が再び始まるのだ」



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陸之章 泣いた若鬼
1.Wake you up


 予想外の登場とともに変貌した魔化魍、蛟の姿は一護たちに大きな動揺をもたらした。

 本来、自然に悪意などが混ざって生まれるとされる魔化魍が、人間の死後の魂がなんらかの要因で堕ちて生まれるはずの虚になるなど、長い歴史の中でも確認されたことがない。

 しかし確かに目の前に姿を現していることが、鬼たちの間に混乱の波紋を生じさせていた。

 

「馬鹿な……虚と魔化魍が一体化するなんてありえない!」

「ありえないも何も、今目の前で起こっちゃってるでしょうが‼︎」

 

 後ずさる威吹鬼を正気に返すように轟鬼が音撃弦を構える。どんなに敵の姿が変わろうと、鬼の敵であることは間違いないのだ。

 鬼である自分たちが、ここで退くわけにはいかなかった。

 

「奴が何者だろうと、魔化魍に違いはないでしょ‼︎」

 

 音撃弦を振りかざし、蛟に向かって猛然と駆け出す轟鬼。威吹鬼も迷いながら、強敵に向かう轟鬼のフォローをしようと音撃管を構え、弾丸を撃ち出した。

 飛来する鬼石の弾丸を盾で防ぐ蛟が、向かってくる轟鬼に鎌槍を振り下ろした。

 轟鬼の操る巨大な刃が風を斬り、頭上から食らいついてくる鎌の刃を受け止める。激しい火花とともにかち合う刃は、蛟の鎌の方が競り勝って轟鬼を弾き飛ばした。

 

「うおっ⁉︎」

 

 予想以上の膂力によって弾かれ、バランスを崩した轟鬼はたたらを踏んで後ずさる。無防備になった轟鬼に追撃を加えようと鎌槍が振り回されるが、接近した威吹鬼が回し蹴りを繰り出して意識をそらす。

 蛟は盾で威吹鬼の蹴撃を防ぎ、押し返して体勢を崩すと鎌槍で轟鬼ともども斬り裂いた。

 

「ごわっ‼︎」

「ぐはっ⁉︎」

 

 とっさに武器で防ぐ二人だったが、鎌槍は二人の鬼の体重も物ともせずに吹き飛ばし、威吹鬼と轟鬼は木々の幹を粉砕しながら地面に倒れこんだ。

 かろうじて音撃武器は手放さずに済んだものの、肉体に受けたダメージからなかなか立ち上がれなくなる。

 加えて、牛鬼の猛攻によって傷ついた体は織姫によって癒されてはいるが、心労までは回復してはいない。ただでさえ明日歌の裏切りによって心が揺らいでいる状況で、全力を発揮することができずにいた。

 しかし、何も手が出せないわけではなかった。

 

「音撃射! 疾風一閃‼︎」

 

 ベルトの円盤を音撃管の先端に装着した威吹鬼が、蛟に向かって甲高く雄々しい音撃を放つ。

 肉体に弾丸として埋め込んだ鬼石に振動を伝え、内側から清めの音を叩き込む技が炸裂し、凄まじい音波が襲いかかる。

 だが、蛟は自らの体内で振動する異物に不快そうにするだけで、大した反応を見せない。それどころか大きく胸を膨らませ、威吹鬼に向かって巨大な顎門を開いた。

 

「オオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 突如として放たれる、大地が振動するほどの凄まじい咆哮が威吹鬼たちを吹き飛ばす。音撃を物ともせずに繰り出された爆音は、太く根を張っていた木々をも吹き飛ばし、森の中に大きな空間を広げる程の威力であった。

 織姫は茶渡の大きな体に守られながら、吹き飛ばされて重傷を負う二人を凝視して言葉を失った。一護と石田、ルキアとレンジも吹き飛ばされないように他の木々にしがみつくのが精一杯で、援護に回るほどの余裕はなかった。

 

「イブキさん! トドロキさん!」

「これは……! 牛鬼よりも強力……‼︎」

 

 戦慄する死神たちをよそに、余波を受けて弱った木々がメキメキと音を立てて倒れていく。

 たった数秒の間に、あたりは爆撃でも受けたかのような壊滅状態に陥り、悲鳴のようなきしめきがあらゆる場所から聞こえてきていた。二人の鬼はその中でがれきにまみれ、ピクリとも動けずに倒れ伏していた。

 その中心をまるで王のように我が物顔で歩く蛟の顔に浮かんでいるのは、これ以上ないほどの優越感であった。

 

「やはり半端者では手足の役にも立たんかったな。せっかくの我が力も無駄にしおって……鬼を一匹も仕留められんとは」

「⁉︎」

 

 気に入らなさそうに呟いた蛟に、一護が目を見開く。

 蛟の言葉から察するに、半端者が牛鬼のことを言っているのなら、あれを差し向けたのはこの蛟ということになる。ということは、その正体であった明日歌に手を加えたのはこの魔化魍であるということではないのか。

 

「どういうことだ! まさか……明日歌はお前が⁉︎」

 

 表情を変えた一護が蛟を睨みつければ、魔化魍は心底愉しそうな笑みを浮かべて一護を見下ろした。

 

「あれは好都合だった。もともと我が同胞の血が混ざった半端者だったようでなぁ……少し我が血を混ぜてやったのよ」

 

 そう口にした蛟の肩の上に、一匹の毒々しい色をした小さな蛇が現れた。尻尾の先が肩にくっついているところを見るに、おそらく蛟の分裂体のようなものなのだろう。

 この蛇を操った蛟が自らの魔化魍の血を明日歌に混ぜ、無理やり与えた力で彼女の理性を奪い牛鬼に変えたのだろう。彼女は体に染み込んだ血に枷を外され、破壊と殺人衝動を抑えられなくなり、鬼の力を暴走させられたのだ。

 全ては、同士討ちを狙った蛟の策略だった。

 

「あのまま邪魔な貴様らをまとめて始末してくれれば都合が良かったものを……なんの役にも立たぬ塵であったがな」

 

 吐き捨て、つまらなそうに明日歌をなじる蛟の言葉に、一護の血が沸騰する。

 短い間ながらも背中を合わせて戦った仲間を、その思いを踏みにじり利用した魔の者に怒りの炎が湧き上がっていた。

 

「てめぇえええええ‼︎」

 

 激情に突き動かされるまま、一護は蛟に向かって疾走する。踏みしめた足場が大きく陥没し、爆風があたりに吹き荒れるほどの勢いで突撃し、黒く輝く斬月を振りかざす。

 策も何もない無謀な特攻に石田とルキアが目を剥いた。

 

「黒崎やめろ! 迂闊に動くな!」

「一護!」

 

 仲間の制止も聞かず、斬月の刃が蛟の鎌槍に叩きつけられる。火花を散らせ、巨大な斬魄刀を受けながらも蛟は一歩たりとも後退せず、鬱陶しいハエを払うように押し返される。

 一護は自分で跳躍して距離を取りつつも、見下した顔に一太刀でも叩きつけようと何度も刃を振りかざす。

 

「テメェだけは……テメェだけは許さねぇ‼︎」

 

 鍔迫り合いになり数センチ手前まで顔を近づけて睨む一護に、蛟が向けるのは冷たい目。遥か下位に存在する者の戯言を蔑むような見下した目で一護を一瞥し、斬魄刀を弾き返す。

 刃の軌跡が浮かぶたびに激しく火花が散り、暗闇の中をまぶしく照らし出す。甲高い金属音がいびつな音を反響させ、生じた風があたりの草木を揺らして吹き飛ばす。

 

「おおおおおおおお‼︎」

「死神ごときが、我に向かって頭が高いわ‼︎」

 

 何度押し返されようとも諦めない一護に、蛟はついに怒りの咆哮を放った。

 強烈な黒い霊圧、上位の虚が放つ技のような閃光をまとった鎌槍が振り抜かれ、一護はとっさに斬月を盾にする。しかし津波のように凄まじい霊圧の勢いに押され、一護は防御の甲斐もなく軽々と薙ぎ倒され、木々を粉砕しながら吹き飛ばされていった。

 

「ぐおわっ⁉︎」

 

 転がっていく一護に、蛟は追撃を加えようと再び霊圧を鎌槍に込めていく。

 赤黒い閃光が再び放たれ、呻く一護に食らいつこうとした瞬間、一護の倒れる地面に一陣の銀の閃光が走った。

 

「吠えろ! 蛇尾丸‼︎」

 

 蛇の尾のようにしなる連接刃が一護を地面ごと吹き飛ばし、蛟の攻撃から救い出した。

 宙に巻き上げられた一護の真下を閃光が通り抜け、不発に終わる。しかし直後に閃光が弾け、凄まじい爆風があたりに四散してあらゆるものを吹き飛ばしていった。余波だけで致命傷となりうる、凄まじい威力だ。

 

「小癪な……ぬ!」

 

 苛立ちからかもう一撃加えようとする蛟だったが、いつのまにか自分の足が凍りついて足止めされていることに気づく。続いて幾本もの光の矢が飛来し、盾で防いで不快そうに顔を歪める。

 袖白雪の切っ先を地面に突き立てたルキアが、起き上がった一護に鋭い目を向けた。

 

「落ち着け、一護! 奴は虚の性質を得ているとはいえ、魔化魍でもある! 死神の攻撃もまともに効かん‼︎」

「……クソ‼︎ じゃあどうすりゃいいんだよ⁉︎」

 

 一度やられて頭から血が降りたのか、一護は無謀な特攻を試みる前に斬月を構え直した。

 しかし蛟は、手段を考える暇も与えなかった。身をひそめる一護たちを狙って、蛟は赤黒い閃光を放って木々もろとも攻撃を始めた。嘲笑のような咆哮とともに、鎌槍を振り回して眼に映る全てを破壊し始めた。

 そんな光景を、戦闘能力の劣る織姫は呆然と離れた場所から見ていることしかできずにいた。

 

「黒崎くん……!」

 

 波長の違う虚と魔化魍は、それぞれ死神と鬼にしか倒せない。そんな法則があるゆえに、混ざり合った性質を持つ個体が現れただけで誰も手をつけられなくなっている。

 これが悪夢なら、早く覚めて欲しかった。

 手も足も出せずに這いつくばっている鬼や死神たちを心底愉快そうに見下ろし、蛟は高々と哄笑をあげた。

 

「今宵は宴……我らに仇なす忌々しき鬼どもを全て血祭りに上げ、人間どもを支配する時代が再び始まるのだ‼︎ ハハハハハハハハ‼︎」

 

 焦土と化している森の中で、ただ一人暴虐の限りを尽くす魔化魍の異形が嗤う。

 誰も止められない、止まらない。打つ手がなく、なすすべなく膝をつくしかない。

 そんな状況の中でも、諦めきれないのが彼だった。

 

「ふざけんじゃねぇ……!」

 

 散々吹き飛ばされ、叩きつけられ、傷ついた一護が斬月を突き立てて立ちふさがる。

 

「そんな下らねぇことのために……あいつに仲間を傷つけさせたのか‼︎」

 

 ズルズルと足を引きずり、滴り落ちる血に見て見ぬ振りをしながら、邪悪な意思に立ち向かう。

 

「あいつを泣かせたのか‼︎」

 

 脳裏に蘇る、少女の顔。

 戦い、守ることを誇りに思っていた彼女の心を、この魔物は踏みにじったのだ。

 

「あいつは、鬼として戦うことを夢見て努力してきたのに……その全部が無駄だったなら……あいつは、なんのために傷ついたんだよ⁉︎」

「使えぬ道具がどこで朽ち果てようと、我の知ったことではないわ」

 

 蛟の操る鎌槍の先端に、より大きな霊圧が収束していく。一振りで地形を変えるほどの威力を持っていた一撃が、さらに強力になって一護に迫ろうとしていた。

 しかし、一護は退かない、引けない。

 奴の顔に一発叩き込むまで、下がるつもりはなかった。

 

「貴様もさっさとひれ伏すがいい‼︎」

 

 蛟が鎌槍を振るい、刃の軌跡が斬撃を飛ばした。

 周囲の木々を破壊しながら轟音とともに迫り来る斬撃を、一護は斬魄刀で真正面から受け止めた。

 

「がっ……あああああああ‼︎」

 

 凄まじい圧により押しつぶされそうになり、ガリガリと地面を抉りながら押し返されていく一護。凄まじい重力に両腕が悲鳴をあげ、ガクガクと手の中で刃が揺れる。

 気を抜けば一瞬で弾き飛ばされそうになる中、全身全霊をかけて斬月を手放すまいと耐え続ける。

 気づけば斬撃の勢いが、徐々に止まり始めていた。

 

「⁉︎ き、貴様……!」

「がああああああああああ‼︎」

 

 驚愕に目を見開く蛟をよそに、一護は咆哮とともに斬月を振り抜く。強烈な霊圧の斬撃はその一振りであっさりと霧散し、余波によりあたりの木々が大きく揺さぶられた。

 ざわざわと木の葉が擦れ合う合奏の中、斬月の刀身に霊圧が収束していく。

 先ほどまでとは異なる、赤い炎が混じった霊圧が刃に積み重なっていた。

 

「おおおおお‼︎ 月牙、天衝ォォォ‼︎」

 

 一護が斬月を振り抜いた瞬間、これまでとは比べ物にならないほどの圧が刀身から放たれる。

 かつて虚の力が暴走し、我を失った時に放ったものに近いほどの凄まじい斬撃が放たれ、暴風が仲間たちの方にまで吹き荒れた。

 蛟が鎌槍と盾を重ねて防ぐも、想定を超える威力に徐々に体勢が崩されていく。

 

「グォオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 苦悶の咆哮を漏らした蛟は、わずかな抵抗ののちに足が浮かび、そのまま遥か後方に向けて吹き飛ばされた。

 木々を背中で粉砕し、人型のトンネルを掘るようにして遠く吹き飛ばされていく。その胸には決して浅くはない裂傷が刻み込まれ、どす黒い血飛沫があたりを汚していった。

 煙を漂わせ、荒れ果てた森の中の空間。それは周囲に被害をもたらしながら、蛟に手傷を負わすことができた証。

 しかしそれを手放しで喜べるものは、この場にはいなかった。

 

「ハァッ……ハァッ……‼︎」

 

 荒く息をつく一護。

 それを石田と威吹鬼は、信じられないものを見る目で凝視していた。

 

「……黒崎、お前……!」

「……効いた? 死神の、攻撃が……?」

 

 石田は、虚の仮面をまとっていないにも関わらず発揮された攻撃に。威吹鬼は、死神の攻撃が魔化魍の亜種に効いたことへの驚きで。常識を破壊するような現実に、理解が追いついていなかった。

 いち早く我に返ったのは、織姫と彼女を守る茶渡であった。

 

「一度退くぞ! 奴がまた戻ってくる!」

 

 茶渡の言葉にハッとなり、踵を返す石田たち。

 だがその瞬間、蛟の消えた方向から強烈な熱と光が襲いかかってきた。蛟が口から放った青緑の業火が、蛇のようにのたくりながら噴き出してきたのだ。

 炎の蛇は巨大な顎門を開いたまま地面に食らいつき、直後に凄まじい爆発となって一護たちをまとめて薙ぎ払った。

 

「おわああああああ⁉︎」

 

 爆発の衝撃と熱波に押され、空高く吹き飛ばされる一護ガチを撒き散らしながら落下する。

 小さな川のど真ん中に墜落した彼は、水飛沫を撒き散らしながらもがき、激痛に呻き声を漏らす。もはや疲労と負傷は限界に近い、意識まで持っていかれそうになり、うずくまったまま動くことができなかった。

 そんな時だった。水音を響かせながら、小さな影が姿を現したのは。

 

「……! 明日歌……!」

 

 足音に気づいた一護が目を見開いて凝視する。

 姿を消していた少女は、どこからか拾ったボロ布をまとって立ち尽くしていた。覇気も何もない、人形のように。

 

「……なんじゃ、ぬしか。まぁ良いわ……」

 

 声にもかつての強さはない。空洞のように虚ろな目で一護を見下ろし、乾いた笑みをこぼしていた。

 少女の変貌に呆然とするいちごだったが、背後に凄まじい殺気を感じてすぐさま飛び退く。先ほどまで一護がいた場所に轟音と水飛沫を従えて降り立った異形を睨み、一護は歯を食いしばった。

 どうやら、先の攻防から狩るべき最初の獲物に選ばれてしまったらしい。

 明らかに危険な魔化魍を前にしながら、明日歌は微塵も表情を変えず、手に持った音叉を見下ろしていた。

 

「……使え、というのか。戦えと、そういうのか……師匠よ」

 

 わずかに重さを感じる、師が使っていた音叉を持ち出した明日歌は目を細めて苦笑する。

 死体の残らなかった後には、これと刀だけが残っていた。まるで、明日歌に託すかのように。

 

「本当に、ひどい人じゃ……これだけ、ボロボロになっておる小娘に……慰めの言葉も、何もないのに」

 

 口数の少ない師の姿が、今になって蘇ってくる。大事なことは最後まで伝えず、言うだけ言って勝手に逝ってしまった。

 そんな、勝手な人だった。

 

「逃げろ明日歌‼︎ お前まで殺されるぞ‼︎」

 

 すでに満身創痍の一護が、斬月を立てて立ち上がろうとしながら叫ぶ。

 明日歌の姿を目に入れた蛟が、嗜虐的な笑みを浮かべながら口を開いた。同族の血が流れていようと関係ない、役立たずの半端者を排除するつもりのようだ。

 しかし死を目前にしても、明日歌は一歩も動こうとはしなかった。

 

「ああ、わかっておるよ」

 

 歌舞鬼の音叉の角を伸ばし、刀の刀身に当てて鳴らす。リーンと気持ちのいい音が響き渡り、空気が波紋によって揺らめき始めた。

 

「これは……わしが選んだ道じゃ」

 

 音叉を額にかざす明日歌の前で、蛟の口の中に業火が漏れ始める。鬼にもなっていない明日歌が消し炭になる未来が見え、一護は声を張り上げる。だが、轟々と燃えたぎる音にかき消され、自身も動くことができずに臍を噛む他にない。

 

「逃げたりなぞ、するものか……!」

 

 死んでいた明日歌の目に涙が滲み、光が灯る。

 怒り、悲しみ、様々な感情が混ざった複雑な炎が目の奥に燃え上がり、少女の額に鬼の顔が浮かび上がる。

 しかし少女の体を炎が包むよりも早く、蛟の吐き出した業火が蛇となって少女の体を飲み込んでしまった。

 

「明日歌ァァァァァ‼︎」

 

 一護の悲鳴と爆音が混ざる。

 魔化魍も哄笑が響き渡る中、少女を飲み込んだ蛇がのたくり回り、荒れ狂う。

 だがその様子が、徐々におかしくなっていった。獲物を飲み込んだ蛇が、まるで毒にでも侵されたかのように苦しげにのたうち回り、苦悶の咆哮のような音を出し始めたのだ。

 哄笑をやめ、訝しげに目を細める蛟。

 その目の前で、蛇がピタリと暴れるのをやめると同時に。

 蛇を飲み込むように、紫の炎が噴き上がった。



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2.Soul’s burning time

 森の中心部からだいぶん離れた崖の方に、どさどさと転がり出る黒い人影があった。

 

「あ、危なかったぜ」

 

 蛟の猛攻から逃れた恋次が、未だに咆哮の聞こえる森の方を見やって冷や汗をかく。

 死神の攻撃も鬼の攻撃も全て無効化し、異様なほどの破壊をもたらす未知の異形を前にして逃げ切れたことは僥倖だったかもしれない。

 

「すまねぇ、一護……もう少しだけ耐えてくれ。こりゃあ、俺たちだけじゃ荷が重い事態になっちまった」

「すぐに本部に通達せねば……!」

 

 荒い呼吸をなだめていたルキアが、そう言って立ち上がろうとした時。

 

「! これは……!」

 

 顔を上げた二人の頭上に、次々に光の帯が展開されていくのが見えた。滅多なことでは使用されない、結界によって対象を永久に封印するための鬼道だ。

 幾人もの死神たちが鬼道を完成させるために列をなしているさまを呆然と凝視していると、二人の前にある死神が降り立った。

 

「兄様……‼︎」

「……黒崎一護は、あの中か」

 

 長い黒髪に中性的な顔立ちを持つ男性、ルキアの義兄である六番隊隊長朽木白哉が静かに二人を見下ろし、そして森の奥を見つめていた。

 恋次とルキアはすぐさま跪き、次々に集まっていく有力な死神たちの方に目を向けた。黒い死覇装と隊首羽織をまとった姿がいくつも見えることから、事態の重さを実感する。

 

「霊圧を感じてまさかとは思いましたが、隊長たちがほぼ全員この島に来るとは……‼︎」

「ことはもはや、鬼にのみ扱える事態ではない。見よ」

 

 視線を頭上にあげる白哉につられ、恋次とルキアが顔を上げると、目の前に広がっていた光景に言葉を失った。

 おびただしい数の巨大な異形が、島の上空を旋回しながら群れをなしていたからだ。魔化魍も虚も、両方が一緒くたになって飛び回っている光景ははっきり言って気が狂いそうな光景だった。

 

「うわっ……なんじゃありゃ⁉︎」

「件の異形に呼び寄せられたか、よそから魔の者たちが集まってきているぞ」

「あんなに大量の魔化魍が、この島に……⁉︎」

 

 戦慄する二人に、白哉は淡々と答える。

 とはいえ、彼の内心もこの異様な事態に危機を覚えていることは間違いない。その視線が油断なく頭上の異形たちに向けられているのだから。

 

「虚と魔化魍の融合……これまで確認されたことは一度もない未知の脅威。捨て置くわけにも行かぬが、死神にも鬼にも対抗手段は存在しない」

「俺たちじゃ、奴を止められないってことですか⁉︎」

「まぁ、無理だネ」

 

 残してきた一護たちのことを思う恋次に、黒い面妖な化粧と派手なファッションの死神、十二番隊隊長及び技術開発局局長を兼任する涅マユリが告げる。

 すでに解析できうる限りの行為は終わらせたのだろう、面倒臭そうに蛟の霊圧を感じられる場所を眺めていた。

 

「あれはもう虚でも魔化魍でもない、全く別の歪な存在だヨ。下手に手を出せば何が起こるかもわかったものじゃない。面倒なことにならないうちにこの島に閉じ込めておいた方が賢明だネ」

「なっ……ちょ、涅隊長⁉︎」

 

 この状況でそういうことを言うということは、島にいる人間や一護たちも見捨てて永久に封印するという手段を取るつもりかもしれない。まさかとは思いながら恋次とルキアは大いに焦った。

 しかしこの男、やるときはやる。場合によっては隊士も見殺しにする、モラルもへったくれもないマッドサイエンティストなのだから。

 

「もちろん、そんな乱暴な手段は最後の最後だよ。今準備しているのはやばい時の保険さ」

「しかし放置するわけにもいかないだろう……! あんな怪物を放置しておけば、どんな弊害が起きるものか……」

 

 八番隊隊長京楽春水、十三番隊隊長浮竹十四郎が焦る二人を諌めるが、どちらもその顔はいつもの朗らかさとは無縁の真剣なもの。それだけで、事態の深刻さが重くのしかかっていた。

 だがそんな中、携帯型の観測機を使っていたマユリが眉をひそめた。

 

「なんだネ? この妙な反応は……」

 

 研究者としての興味か、それとも隊長としての危険の察知か、マユリの表情にわずかな変化があった。

 それも、蛟のいる場所とはわずかにずれた方向に向けて。

 

 

 炎が燃える。大気が揺らめく。

 未熟な青に烈火の赤が混じり、夜闇に近い鮮やかな紫に変わっていく。

 魔化魍の炎を我が物として飲み込み糧としたまま、明日歌を包み込んだ焔が轟々と唸りながら猛り続ける。その奥に見える少女のシルエットが、徐々に変わり始めていた。

 高校と燃える炎に嘲笑じみた目を向けていた蛟の目が、次第に不可思議なものを見るものに変わり始めた。

 鬼か、人か、魔化魍か、はっきりとした線引きができないほど、少女の体には不純物が混ざってしまった。ゆえに半端者と称したのだが、ただの不純物とは異なる霊圧が感じられるようになっていた。

 これはなんだ、何が起こっている。

 理解ができない事態が、起ころうとしていた。

 

「……なんだ、貴様は」

 

 声が、漏れる。

 先ほどまでとは明らかに異なる、格下の相手を侮っていた捕食者の声が、恐れを孕んだものへ変わっていた。

 

「なんなのだ貴様は‼︎」

 

 蛟が紫の炎の中の少女を睨みつけ、唾を吐き散らすほどに激昂する。

 少女はそんな恐ろしげな視線をものともしていないように佇み、静かな眼差しを蛟に向けていた。

 

「……わしが何か、もうそんなものわしにもわからんよ」

 

 内なる心の炎が猛り、体をつき動かそうとする。抑えきれない衝動が紫の炎に変わり、肉体をも変質させていくのを感じる。

 かつて初めて鬼に変化した時とは明らかに異なる変化を、魂が感じ取っていた。

 

「混ざりに混じったこのわしが、言えることは一つじゃ」

 

 その脳裏に、かつて師に言われた言葉が蘇った。

 

 ―――己の内なる炎を探せ。

    猛る魂の焔に信念の薪を焚べ、力に変えよ。

    その果てに、鬼の根底はある。

 

「……わしは、ぬしを殺すただそれだけの存在じゃ」

 

 そう言い放つと同時に、体を包む炎の勢いがみるみるうちに強くなっていく。全てを燃やし尽くすように、跡形もなくなってしまいそうに。

 鬼の力、魔化魍の力、そしてそれとは異なる新たな力が明日歌の中で混ざり合い、別の存在へと昇華されていく。

 

「―――あああああああああああああ‼︎」

 

 明日歌の叫びが、咆哮が、大気をも揺らがせる。

 力が突き動かす衝動のまま、明日歌は右腕を大きく古い、炎を振り払う。

 紫の火の粉があたりに散らばり、業火が波のように広がって蛟に食らいついた。他の一切に引火することともなく、ただ風となって周囲を揺さぶるだけに留まる。

 

「……そら、いい加減終わりにしようかの‼︎」

 

 露わになった明日歌の姿は、異常であった。

 肘から先は真紅に、二の腕は紫に変貌した腕は鬼のもの。固い筋肉の鎧に鋭い爪を備えたそれは、戦う異形のもの。

 しかし胴体に変わったところは見当たらず、鍛えられた少女の肉体のみがあるだけ。不釣り合いなほどに育った乳房が覗く黒い着物の上に、鋼鉄の鋲と輪のような装飾が巻き付き銀の光沢を見せる。

 下半身は濃い紫の袴で覆われ、裾からも異形の脚先が覗く。

 顔には真紅の装飾が施され、額からは立派な二本の角が伸びる。髪は真っ白に染まり、瞳も深い紫色に輝いていた。

 明らかに異常。鬼であり鬼でないものに、明日歌は変貌していた。

 

「明日歌……お前……」

 

 少女が姿を変えたことで、一護は言葉を失う。

 そこへ、気配を察した石田たちが駆けつける。特に威吹鬼と轟鬼が明日歌の姿を目にすると、信じられないとばかりに周囲に試算している紫色の火の粉を凝視した。

 

「紫の、炎……⁉︎」

「まさか! 紫の……響鬼の炎は、先代の流派が途絶えてから何百年間誰も発現させられてないんだぞ‼︎」

 

 戦慄の表情を浮かべて声を漏らす二人だが、目の前で起きている自体は確かなものである。

 魔化魍の血を継ぐ少女、その少女が途絶えた流派の鬼の炎を纏い、鬼とは異なる姿に変化した。これは、他でもない真実である。

 

「それになんだ、あの姿は⁉︎」

 

 はためく袴、身を包む黒い着物、左手に持った歪な形状の刀。

 その姿は、自分たちとは相容れない存在の持つ特徴に酷似していた。

 

「まるで―――死神じゃないか」

 

 威吹鬼たちの視線を受けながら、明日歌は歩き出した。刀を腰の帯に刺し、手を背に回して音撃棒を取り外す。

 異様なほどの殺気をまとい、少女は蛟に向かってゆっくりと歩き始めた。

 

「死に損ないの半端者が、貴様ごときが我の邪魔立てをしようというのか」

 

 圧倒的な力と存在感を見せつけた蛟が、それでもなお向かってこようとするものがいることに苛立ちの混じった形相になる。死神の男だけではない、同胞の血が混ざった少女まで自分に逆らおうというのだから。

 

「師弟で無様に散るがいいわ‼︎」

 

 火炎を使うまでもない、不純物ごとき虫けらのように叩き潰してくれようと、蛟は巨大な鎌槍を振り回して明日歌に襲いかかる。

 明日歌は微塵も表情を変えず、迫り来る鎌槍の刃を前に音撃棒・烈火を構える。撥の先に紫の炎が燃え盛り、強烈な熱が周囲の大気まで揺らめかせ始めた。

 

「ぬぅあああ‼︎」

 

 雄叫びと共に、明日歌が烈火を鎌槍に叩きつけた。爆炎をまとった一撃が刃とまともに激突し、激しい衝撃とか縁があたりに撒き散らされ、地響きのように地面が震える。

 一瞬拮抗した両者の初手であったが、次第に片方が押され始めた。

 

「―――ォ、オオオオオ……‼︎」

 

 ぐらりと蛟の体が後方に押され、踏みしめた足が引きずられていく。

 衝撃と熱を抑え込もうとした蛟だったが、やがて限界に達したように弾き飛ばされ、木々を粉砕しながら後方に吹き飛ばされていった。

 明日歌の一撃により、蛟の鎌槍の刃は粉々に粉砕されバラバラとあたりに飛び散る。紫の炎に照らされながら、砕けて落ちた刃は粒子ほどの小ささにまで崩れていった。

 

「カァッ‼︎」

 

 ならば焼き尽くすまでと、蛟は起き上がると同時に明日歌に向かって火炎の砲弾を吐き出した。大気をも焼く巨大な火球がまっすぐに明日歌に食らいつこうと襲いかかる、だが。

 

「ハァッ‼︎」

 

 気合の咆哮とともに振り抜かれた烈火によって、火球は引き裂かれるようにして霧散した。火の粉だけが虚しく四散し、明日歌自身にはやけどひとつ負わせることもできない。

 

「カァッ! カァッ! カァッ‼︎」

 

 蛟はやけになったように火球を連射し、近づいてくる明日歌を狙い続ける。

 しかし明日歌は火球ごときでは臆さず、向かってくる火炎の砲弾を烈火で叩き斬りながら歩を進める。技術も何もない、力技での無理やりの行進であった。

 

「……さ、さらに馬鹿力に磨きがかかってやがる」

 

 先ほど苦戦し、追い詰められていた一護たちが、その敵を圧倒している明日歌に戦慄の表情を浮かべる。

 追い詰められていると実感した蛟は屈辱から歯を食いしばり、全身の鱗の間からヘドロのような黒い粘液を排出し始めた。

 ぼたぼたと地面に落ちていく粘液は独りでに動き出し、十数にも分裂すると人型の形をとり、みるみるうちに足軽のような姿に変わっていた。蛟の力で生み出された、傀儡兵だ。

 

「行けぇ、雑兵ども‼︎」

 

 蛟に生み出された傀儡兵は、それぞれ備えた刀や槍を構え、明日歌に向かって駆け出していった。並みの魔化魍と同等以上の力を持つ雑兵が、十数体もまとめて向かっていく。

 しかし明日歌は、余計に怒りを燃やしたように目を鋭くし、烈火を構えて傀儡兵を迎え撃った。

 

「一つ!」

 

 烈火の先端を傀儡兵の腹部に叩きつけ、紫の炎を爆発させる。炎に焼かれた傀儡兵は動きを止め、真っ黒に染まっていく。

 

「二つ!」

 

 続いた傀儡兵の顔面に烈火を叩きつけ、邪魔だと言わんばかりに真横に弾き飛ばす。

 

「三つ! 四つ!」

 

 右の傀儡兵の脳天に叩き込み、左の傀儡兵の心臓を狙って先端をめり込ませる。

 淡々と一体ずつ、急所を容赦無く狙って仕留めていく明日歌の目には、冷たい炎が宿っていた。目前の敵を全て殺す、それだけを考えているかのように、全ての攻撃に過剰なまでの殺気が宿っていた。

 

「まとめて、()ねぃ‼︎」

 

 ゴウ、と爆炎をまとった明日歌の音撃棒が振り向かれ、火炎が残りの傀儡兵に襲いかかり包み込んでいく。

 紫の炎に飲み込まれた傀儡兵たちは真っ黒に焼かれて動きを止め、やがて木っ端となって砕け散っていった。死神の力が混ざった影響か、それとも明日歌の怒りと憎悪がそうさせるのか、並みの魔化魍よりも強いはずの敵が相手になっていなかった。

 

「おのれ半端者が……‼︎ 我をなめるなァ‼︎」

 

 憎悪の形相に変わった蛟が、新たに生み出した鎌槍とともに明日歌に襲いかかる。

 明日歌は受け止めようとするが、今度の刃は前よりも硬くなっているのかより重く明日歌の腕にのしかかってくる。

 

「ぐぬ……!」

 

 刃の重さに加え、蛟の重量も重なった明日歌の真下の地面が大きく陥没する。そのまま押しつぶすつもりか、蛟がさらに力を加えていく。

 しかしその真横から、赤が混じった斬撃が襲い掛かった。

 

「月牙……天衝ォォォォォ‼︎」

 

 猛然と斬月を振るう一護。その額に火炎とともに一本の角を生やしながら、そして血のような真紅の炎を纏いながら、変質した月牙天衝を蛟に向かって放つ。

 真下に向けて全重量をかけていた蛟はそれに反応しきれず、無防備な真横に喰らいつかれて吹き飛ばされる。深い裂傷が刻まれ、おびただしい量のどす黒い体液が噴出し、蛟の顔が苦悶と忿怒に歪んだ。

 どしん、と巨体が地面に転がり、解放された明日歌が烈火をしまい、刀を抜く。

 

「おのれ……おのれおのれおのれぇぇぇぇぇ‼︎」

 

 怒りを怒号に変えて荒れる蛟の前に、一護と明日歌が並び立つ。

 一護は一瞬だけ明日歌の方を見て、明日歌は一瞥もくれずに刀を構え、刀身に霊圧の炎を収束し始めた。

 示し合わせたわけではない。しかし蛟を倒すという意思が二人の動きを合わせ、鏡合わせのように刀を構えさせた。

 

「あああああああああああああああああ‼︎」

「おおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 猛烈な咆哮が二人の口から放たれ、蛟に向けて斬月と歪な刀が振るわれる。赤と紫の炎の斬撃が並んで飛翔し、途中で混ざり合うとより大きな斬撃に変わって蛟に襲いかかる。

 蛟に食らいついた斬撃は直後、大きく膨れ上がったかと思うと、凄まじい爆発となってあらゆるものを吹き飛ばし、灰燼に還していった。



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3.It mixes force

「……畜生どもが」

 

 ガラガラと崩れる岩場、へし折れる木々、捲き上る砂塵。

 激闘の跡が生々しい暗闇の中で、ギラリと真っ赤な血のような色が煌めく。

 

「この程度で我を討てると思うてか……舐められたものだな。貴様らがいかに戦おうと、我を止められるはずがなかろうが」

 

 女の体に痛々しい傷跡を刻み、しかし以前よりも強い憎悪の炎を目に宿した蛟がうなるような声を漏らす。

 全身に刻まれた裂傷や火傷はみるみるうちに修復され、砕けた鎧も端から再構築されて行く。異常な再生能力を見せ付けながら、蛟は己の体に傷をつけた矮小な存在に憎々しげに睨みつける。

 その原動力は矜持か、自尊心か。

 

「くっ……まだ動けるのかよ」

「退け、一護よ」

 

 全力を叩き込んだのに動いている敵に、一護が悔しげに顔を歪めるが、その肩を押しのけて明日歌が前に出た。

 その目は蛟に固定されたまま、蛟と同等かそれ以上の憤怒に燃えていた。

 

「あれはわしの獲物じゃ」

「⁉︎ おい、待てよ!」

 

 蛟を見据えたまま向かっていこうとする明日歌の肩を掴み、一護は表情を険しくする。

 異常な力の上昇を見せた彼女ではあるが、蛟はそれ以上の力を隠している。あれほどの猛攻を受けても再生している点からも、その考えは間違ってはいないだろう。

 

「一人であいつに勝てるわけねぇだろ! 俺も手を……」

「いらぬ……人間の力は借りぬ」

 

 はっきりとした拒絶の言葉に、一護は息を飲んだ。

 振り返りもしない明日歌の声には、あらゆるものに冷めたような乾いた響きがあった。

 無理もない。事実魔化魍の姿で味方を傷つけたとはいえそれは蛟の策略、冤罪で敵と判断されたのだから。人間に愛想をつかしてもおかしくはないだろう。

 

「あれはわしが……化け物は化け物の手で始末をつけるのが道理じゃ」

「……一人で死ぬつもりか」

 

 だが、一護にはそうとは思えなかった。

 全てに絶望したのなら、この場に来る必要はない。

 今の彼女は、その身一つで何もかもを抱え込み、片付けようとしているようにしか見えなかった。

 

「……なら、どうすればいい。わしにはもう、奴を仕留めることしか剣を振るう理由など」

「そんなことのために剣を振るなんざ、バカのやることだろ」

「……何じゃと?」

 

 眉間にしわを寄せた明日歌が振り向く。覚悟を貶され、さすがにわずかながら怒りが蘇ったのだろう。

 

「戦って死ぬことだけが、お前の望みかよ⁉︎ そんなことのために、お前はここに戻ってきたのか⁉︎」

 

 二人向かい合い、睨み合う。

 一護も明日歌も、互いに怒りを抱いていた。一護は自らの命を顧みずに戦おうとしていることに、明日歌は自分一人で片をつけるところを邪魔されたことに。

 

「違うだろ……お前は、戦うことを誇りに思ってたじゃねぇか! 俺たちを助けてくれたじゃねぇか‼︎」

 

 最初に出会った時、明日歌の目は熱く燃えていた。鬼として戦うことに、人を守る行いに誇りを持っていた。

 今の彼女にはそれがない。一人で敵に向かい、全てに終止符を打って姿を消そうとしているようにしか見えなかった。

 

「思い出せよ……あの時のお前は、そんな顔じゃなかっただろうが‼︎」

 

 ズシンと蛟が一護たちの前に降り立つ。過剰な再生のせいか異様に歪んだ肩を怒らせ、鎌槍を振りかざす。

 明日歌の返事も聞かないまま、一護はその隣に並び立つ。自らに生えた異形の角の存在にも気づかず、ただ共に戦った仲間を一人にしないために、隣に立つ。

 

「俺はお前を死なせねぇ……だから、お前は俺を死なせるな」

「……勝手にせよ」

 

 一護をじっと見つめ、吐き捨てるようにして視線をそらす。

 気持ちに変わりはない、手に備えた剣は師の仇に振り降ろすだけ、もうほかに理由などありはしない。

 いずれ己の変化に気がつき、その原因である自分を責めるだろう。そんな諦めの気持ちを抱いたまま、明日歌は仇敵に視線を戻した。

 

「さぁ、一護や……死地に赴く準備は良いか?」

「……上等だ」

 

 互いの霊圧が混じり合った異形になりつつある二人が、鏡合わせのように刀を構える。

 背丈も性別も、その姿に違いはあれど、よく似た背中に見えた。

 

「最後まで付き合うぜ」

「ふん」

 

 二人の闘気が膨れ上がる。

 臨戦態勢に入った二人を前にした蛟はより憎悪を燃やし、歪に曲がった顎門を開いて咆哮を放った。

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 地響きを響かせながら走り出す蛟。邪魔な木々や岩を破壊しながら向かってくるその姿は、先ほどよりもひと回りは巨大化し歪んでいる。本来交わらない二つが交わった影響か、徐々にその存在そのものが異物となりつつあるようだった。

 一護は蛟を見据えながら、斬月の切先を前方に向けて右腕に左手を添える。

 

「卍、解‼︎」

 

 一護の霊圧が上昇し、黒い炎となって体を包み込む。

 夜よりもなお濃い黒に深紅が混じり、一護の纏う死覇装の形状が変わっていく。一護の細身の体に合うようにスリムに、コートのように裾がたなびく形状に変化する。内側は鮮血のように鮮やかな赤に変わり、擦り切れたような端が風にたなびく。

 斬月も以前のものよりもはるかに細く、死覇装のような漆黒に染まる。柄頭からジャラリと垂れ下がる鎖が、生者の肉体と魂をつなぐ鎖を思わせる。

 これが、一護の卍解。斬魄刀を持つものが最後に到達する極地、刻まれたその名は。

 

「―――天鎖斬月」

 

 斬魄刀の真の能力を解放した一護。だが、その姿はいつもと異なっていた。

 額に生えた角が先ほどよりも大きくなり、顔の半分に鬼に似た装飾が張り付いている。卍解したことにより、鬼の霊圧の侵蝕が早まったのだろう、外見にそれが強く現れていた。

 

「……すぐに、終わらせる」

 

 一護の変化に見て見ぬ振りをしながら、明日歌は刀を一振りする。

 目前にまで迫っていた蛟が、怒りの咆哮とともに巨大化した鎌槍を振り上げた。

 一護と明日歌はそれぞれで分かれて鎌槍を躱し、左右から本体に向かって炎を纏った刃を振るう。

 

「ぉおらあああああああ‼︎」

 

 鎌槍を持つ腕に刃を通し、深い傷を刻む。同時に吹き出した炎が傷口を焼き、炭化させて再生能力を奪い取る。

 じゅうじゅうと焦げ臭い匂いが鼻につき、蛟は苦悶の表情とともに荒れくるいながら鎌槍を振り回す。

 一撃でも喰らえば致命傷となる鎌槍を一護はその敏捷性によって、明日歌は尋常ではない膂力によって弾き、躱す。そして互いに蛟の攻撃を誘い、できた隙に炎の刃を刻み込む。

 みるみるうちに蛟の体には傷が増え、徐々に勢いが削がれ始めていった。

 

「くそがぁぁぁ‼︎」

 

 鬱陶しくも確かに削られていく力に、蛟は憎悪と憤怒の咆哮を放つ。

 しかし突如その目に鋭い光の矢が突き刺さり、一護と明日歌は目を見開いた。

 

光の風(リヒト・ヴィント)

 

 一護と明日歌が注意を引いている間に頭上をとった石田が、蛟の片目を貫いたのだ。

 片方の視界を奪われた蛟は苦悶の咆哮とともにやを掴み、引き抜こうとしながら悶え苦しむ。傷は大したことはないが、異物によって感覚の一つを奪われる不快感が蛟を苛んでいた。

 敵を近づけまいと鎌槍を振り回す蛟であったが、敵の位置も把握していない力任せの攻撃は空を切るばかり。邪魔な木々や岩をはかしして弾き飛ばすも、それも一護たちとは全く関係のないところへ飛んで行く始末だった。

 

魔人の一撃(ラ・ムエルテ)‼︎」

 

 目前に迫った鎌槍を異形のものとかした腕で弾き、茶渡が懐に入った。

 習得したもう一つの異形の拳の一撃が蛟の腹に入り、巨体が一瞬宙に浮いて後方に吹き飛ばされる。衝撃を逃すこともできず、蛟の内臓に決して少なくない損傷が刻み込まれた。

 

「オオオオアアアアア‼︎」

 

 苦し紛れに、蛟は全てを焼き尽くさんとばかりに火炎を吐き散らす。

 高温の火炎が周囲の草木に燃え移り、一護たちを焼き尽くそうと蛇のようにのたくりながら迫った。

 

「―――三天結盾(さんてんけっしゅん)! 私は、拒絶する‼︎」

 

 一護と蛟の間に織姫が立ちはだかり、三角形状のオレンジ色の結界を生み出す。拒絶する力によって発動した防御の力により、前方から迫り来る凄まじい勢いの炎が押しとどめられる。

 しかし蛟は辺り構わず炎を撒き散らし、前方を相手を問わずに火炎が燃え広がっていく。

 味方の全てを守るやり方を、織姫はまだ知らなかった。

 

「うっ…………え?」

 

 苦悶の表情とともに炎を防いでいた織姫の目が、不意に見開かれる。

 荒れ狂っていた炎が、唐突に自ら方向を変えてそれていったのだ。まるで意思を持って離れようとしているかのように、集まっていく。

 その中心には、音叉を額にかざした明日歌の姿があった。

 蛟の炎をその身に集め、纏うようにその場に立ち尽くしている。その小さな体が見えなくなるほどの高熱の中にいながら、音叉の音を響かせて立ち続けていた。

 

「ふんっ!」

 

 不意に、明日歌が身にまとっていた紅蓮の炎を振り払う。鬼になった時と全く同じやり方で炎を払いのけた彼女の姿は、またも変わっていた。

 鮮やかだった紫色は、炎と同じ紅色に染まり独特の光沢を放つ。同時に、その身から空気が揺らぐほどの高温を放っていた。

 

「明日歌ちゃん……!」

 

 織姫が驚きと喜びの混じった表情で見つめるのを、明日歌はフンとそっぽを向いて返す。

 助けたつもりではない、とでも言いたげだったが、それでも守られたことに織姫は心が軽くなるのを感じていた。

 

「ぎぃぃおおおおあああああああああ‼︎」

 

 自分の攻撃が尽く無効化され、挙げ句の果ての半端者に吸収され、怒り狂った蛟が今度は突進を開始する。

 力任せに叩き潰す、しかし侮れない捨て身の猛攻を前に、一護と明日歌は並び立つと刃を構えた。

 

「行け、黒崎! 安達さん!」

「黒崎くん!」

「明日歌!」

 

 声援を受け、一護と明日歌の刃に炎がまとわれる。生命の力を炎に変えて、大気をも揺らめかせる炎の刃が長く分厚く伸びていく。

 異質な、そして以前よりも威力の増した必殺の斬撃が、勇ましい声とともについに放たれる。

 

「月牙―――天衝ォォォォォ‼︎」

「我流音撃打―――烈火剣‼︎」

 

 業火の刃が空を裂き、突き出された鎌槍と盾を一撃で粉砕して蛟の胸に食らいつく。衝撃により蛟の巨体が吹き飛ばされ、木々を粉砕しながら押し返されていく。

 その間も炎の刃は蛟の胸に深くめり込んで行き、そしてついには轟音とともに両断する。

 じゅうじゅうと傷口が焼かれ、煙が立ち上ったかと思うとやがて炎が噴き出し始めた。体がみるみるうちに炭化して行き、ボロボロと端から崩れていく。負傷が再生能力を追い抜き始めていた。

 

「こ、これで終わると思うなぁ……貴様らは、選択を誤ったのだ」

 

 炎をかきいだくように傷口を押さえながら、口元を歪めた蛟が憎悪と憤怒に満ちた目を向ける。

 織姫が怯えたように後ずさり、一護たちは油断なく蛟を睨みつける。炎が徐々に身体中に広がっていくが、人間への憎悪から立ち続けている蛟はまだ倒れる様子はない。凄まじい執念であった。

 

「我を倒したところで、この世から魔化魍が絶えるわけではない……我という将を失った奴らは、より大きな災いを呼ぶだろう……‼︎」

 

 蛟は嗤う。魔化魍の支配を受け入れた、戦いのない世はもう来ないのだと。

 人間は、鬼は今後も果てのない戦いに身を置く他にないのだと。次を担う鬼が減りつつある、魔化魍の脅威を忘れた今の人間たちに、滅びの未来は避けられないのだと。

 負け惜しみには思えない。蛟から見た人間の未来を、はっきりと告げていた。

 

「未来永劫呪われるがいい、人間どもがぁぁぁぁぁぁ……‼︎」

 

 ぐらりと、咆哮を上げた蛟の体が傾いで行く。

 炎に包まれた巨体が草木の影の中に消え、やがて凄まじい爆炎となって、夜の闇の中に消えていったのだった。



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4.cunning Naru god

 燃え盛っていた爆炎がようやく晴れた時、そこには何もいなかった。

 あたりには焦げ跡が残っているだけで、あれほどの巨体がいた痕跡は何も残ってはいなかった。本来魔化魍を倒すと残る木の葉も何も、倒した証となるようなものは見受けられなかった。

 持てる全力を以って、最凶の魔化魍を討ち取ろうと必殺の一撃を放った。しかし決まったように見えたが、言い表せない嫌な感覚が残ったままなことが気にかかっていた。

 

「た、倒した、のか?」

「……いや、幾分か手応えが薄かった。おそらくまだ落ち延びておろうが……それも時間の問題じゃろうて」

 

 刀をヒュンと振り、帯に刺して納刀する明日歌が忌々しげに呟く。敵を、師の敵を倒しきれなかったことがよほど悔しかったのだろう、蛟がいた場所をじっと睨みつけている。

 一護もまた痛々しい戦闘の後を見やると、とりあえずは決着がついたことを察してため息をつく。

 

「く、黒崎くん……!」

 

 そんな中、一護の傷を治療しようと近づいてきていた織姫が、何やら戦慄の表情を浮かべて一護を見つめていた。見れば石田と茶渡も目を見開き、一護を凝視しているのに気づく。

 

「お、おい黒崎!」

「一護、お前……どうした」

 

 まるで仲間がゾンビに変わってしまっていることに驚愕しているような様子だ。

 そんな視線を向けられる覚えがない一護は、訝しげに思いながら咎めるような視線を向ける。

 

「あ? 何言ってんだお前ら」

「い、いや……あ、頭」

「あ? 頭って……」

 

 言われて、確かに違和感を感じる自分の頭を触ってみる。しばらくペタペタと触っていると、そこでようやくひたいに生えている立派な二本の角の存在に気がついた。

 しばらく真顔でペタペタと触り、ついにはがっしりと掴んでみて、それがただくっついているのではなく骨のあたりから生えている事実に気がついた。

 

「うおおおお⁉︎ なんだこりゃあああ⁉︎」

「……おお、死神どもが恐れた通りのことになりおったか」

 

 慌てふためく一護、大して明日歌は案の定とでも言いたげに冷めた目を向けていた。

 今更驚くこともない、この現象は散々ルキア達が警告していた事態であり、同時に明日歌の体にも現れている事態なのだから。

 

「わしらには今、互いの霊圧が混ざり始めておる。……奴と同じように、違う存在へと歪み始めておるのじゃろう」

「……そういうことかよ」

 

 虚の特徴である胸の穴を有した魔化魍、蛟のことを思い出し、ようやく一護は落ち着き始めた。

 思ったよりも騒がないことに、明日歌は若干戸惑ったような目を向けて首を傾げた。

 

「なんじゃ、怖くはないのか? 本当に化け物になれば、これまでのようにはいかんぞ? 仲間の元へは帰れまい……」

「…………」

 

 明日歌なりの心配に、一護は自身の手を見つめて眉間にしわを寄せる。

 

(……俺は、そのうち化け物になるのか)

 

 不安がないわけではない。漠然とした暗雲が目の前に漂っているのを感じたまま、一護は自問する。

 ルキア達の話が思い出される。味方の存在を歪める霊圧の持ち主を、彼らはどう処分するだろうか。

 仲間同士で刃を向け合った事態を覚えている。次に自分は、その状況に耐えられるのだろうか。

 答えが出ずに立ち尽くしていた時だった。

 

「!」

 

 地面が揺れる。地震かと思ったが、それに加えて凄まじくおぞましい気配が感じ取れる。

 蛟以上に、危険と感じ取れる気配があたりを支配し始めていた。

 

「なんだ⁉︎」

「! 見よ、あれじゃ」

 

 明日歌の指差す先に、巨大な影が見える。

 地面が盛り上がったかと思えば、積み重なっていた土がボロボロと崩れ落ち、その正体が露わとなっていく。

 鰐のような長い口と牙、蛇のように長い胴、鹿のように伸びた角、鷹のように鋭い眼、獅子のような鬣を持ったその姿は、伝説に聞くオロチと呼ばれる龍に似ている。

 恐ろしい容貌のその影からは、先ほども感じた霊圧が感じられた。

 

「うおっ⁉︎ なんだあれ⁉︎」

「動き出しよったの。あやつが他の魔化魍どもに命令しよったのやもしれん」

「……やっぱりまだ倒せてなかったのか」

 

 あれはおそらく蛟の、瀕死の魔化魍の最後の悪あがきなのだろう。自分を追い込んだ鬼や魔化魍を排除するために、何かの枷を外した姿なのだろうと、明日歌には感じ取れた。

 

「一護、やはりぬしはもう退け。……あとはわしがやる」

「お、おい!」

 

 前に出ようとする明日歌の肩を、一護が止める。

 明日歌は少し困ったようにため息をつき、一護にくたびれたような微笑みを見せた。

 

「今ならまだ間に合うやもしれん。鬼の霊圧を体外へ逃がすことができれば、ぬしの霊圧も元に戻ろうて。……ではの」

「ま、待て!」

「案ずるな。もう刺し違えようなどとは思うておらん」

 

 一度大暴れしたせいか、先ほどまでのような自棄になったような気分はなくなっていた。

 今あるのは、共に戦ってくれた一護をただ案ずるだけの素直な気持ちだけ。本来何の関係もなかった彼を巻き込んでしまったことに対する、罪悪感と感謝だけだった。

 

「じゃが……あれはわしの手でケリをつけたいのは確かじゃ。手出しは……」

 

 巨大な蛇竜と化した蛟の方を、もう一度振り向いた明日歌の口が止まる。

 ゴタゴタで気がつかなかったが、明日歌たちの頭上には数え切れない数の魔化魍たちが群れをなし、島を取り囲むように旋回しているのが見えた。エイに似た一旦木綿、トビウオに似たウブメ、姿は見えないが、海の方にもおそらく多数の魔化魍たちが集まっているらしきざわめきが聞こえてくる。

 今まで見たこともない、ありえない現象であった。

 

「! 魔化魍が……⁉︎」

 

 飛び回っている魔化魍、その真下にいるオロチが動き始めた。

 群れをなし、固まっている魔化魍の集団に向けて口を開いたかと思うと、その中に強烈な吸引によって取り入れ、そのまま噛み砕いてしまったのである。

 断末魔が響き渡り、おびただしい体液が雨のように撒き散らされる。足や腕の先が食べ残しのようにこぼれ落ち、ぼたぼたと真下の森の中に紛れていった。

 

「と、共食いか⁉︎」

 

 突然の事態に石田が驚き、織姫や茶渡、威吹鬼や轟鬼も言葉を失う。

 他の魔化魍たちも己が身の危険を察知したのか逃げ惑い始め、耳障りな鳴き声とともにその場を離れ始める。

 しかしオロチは先ほどのぶんだけでは満足しなかったのか、次々に他の魔化魍に襲いかかっては飲み込み、咀嚼しながら体液をすすり始めた。王どころか、暴君にも等しい所業に誰もが口元を手で覆う。

 すると次第に、オロチの体に変化が生じ始めた。

 飲み込んだ魔化魍の体液が染み込むように体表に色が浮き始め、メキメキと骨と肉が肥大化し始める。形相もより凶悪なものになり始め、オロチとはまた別の存在に歪み始めている。

 

「ギャオオオオオオオオオ‼︎」

 

 突然の咆哮、その直後、また地面が揺れ始める。

 今度は島の至る場所から揺れが生じ、何箇所からも地面が盛り上がり始める。その下から現れたのは、オロチと全く同じ見た目の蛇竜の姿。

 合計で八匹の蛇竜が島の下から姿を現し、首をもたげながらそれぞれで咆哮を上げ始めた。

 異様な光景に明日歌は硬直していた。

 

「……なんじゃ、あれは」

「黒崎、安達さん……君らに言い損ねていたことがあった」

 

 石田が語るのは、島の歴史に詳しかった老婆の話。

 彼女の語る伝説には続きが、いや、始まりがあった。

 

「この島には、はるか昔から謂れがあった……神代の時代から人の贄を喰らい、その恐ろしさから信仰の対象にもなっていたと謂われる存在」

 

 魔化魍に支配されるよりも前に、この島はかの邪神に支配されていた。

 日本の神話にも登場し、古今東西語り継がれる伝説のあらゆる怪物の原点にもなった恐ろしき存在。

 

「八つの首を持つ、死を司るとされた伝説の魔化魍の〝神〟……この島の、夜刀神島の由来にもなったという」

 

 八頭神(やとがみ)から夜刀神(やとがみ)へ。

 人から人へ伝わる中でその意味を変えていったげに恐ろしき神の棲まう場所。

 それが、この島の正体であった。

 

「あれが奴の……オロチの本来の姿、ヤマタノオロチ」

 

 それが今、蘇ろうとしていた。

 

「ギャオオオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」

 

 王を超える神が、全ての生き物に恐怖を与える凄まじい咆哮を放つ。

 過去の鬼たちが敵対したオロチは、結局のところ力のごく一部でしかなかったのだ。邪神の頭の一部をようやく封じられただけで、鬼たちは勝つことはできなかったのだ。

 そしてその様子を見ていたのは、一護たちだけではなかった。

 

「まさか、あんなのがこの島に眠っていたとはねぇ……」

 

 オロチがゆっくりと鎌首をもたげている光景を目にしたマユリが、凶悪な笑みを浮かべながらそう呟く。

 危険性よりも異常性よりも、科学者としての興味の方が明らかに膨れ上がっていた。

 

「興味深いネ。こんな辺境の地にあれほどの逸材が眠っているとは……面倒だったが収穫はあった」

 

 長命な死神であってもお目にかかることはまずない〝神〟と呼ばれる存在。

 それに注目している彼の周囲では、他の死神たちが斬魄刀を振り回して悪戦苦闘していた。

 

「さっきから鬱陶しいんだよ‼︎」

 

 若干キレ気味の剣八がボロボロの斬魄刀を振りかざし、襲いかかる魔化魍を斬り捨てる。

 相手が死神であろうと人間だろうとお構いなく、魔化魍たちは何かに急かされるように襲いかかっていた。ヤマタノオロチの圧倒的な威圧により、戦うことを強要されているかのようだ。

 

「チッ……切っても切ってもしつこく向かって来やがる。面倒クセェ」

「だからさっきから言ってるだろうに。死神の霊圧では魔化魍に対抗することは不可能だと」

 

 力任せに魔化魍を迎撃し、自ら向かう剣八の方を見て呆れたように呟くまゆりだが、その手は近づいてきた雑魚の魔化魍を斬る。しかしやはり死神には魔化魍を倒すことはできず、せいぜい衝撃により弾き飛ばして距離を取らせることしかできずにいた。

 倒すべき鬼が、この場には数人しか存在していない。所詮は人間から消化した存在である鬼に、この異常事態に対処する力はなかった。

 

「おやぁ?」

 

 そんな中、マユリはある妙な霊圧を感じ取る。

 混ざってはいけない二つの霊圧が混ざった存在の姿を目にし、別の興味をそそられていた。

 

「あっちはあっちで興味深いことになってるようだネ」

 

 死神に似た姿をした明日歌と、鬼に似た姿をしている一護。

 恐れていた状況に陥っている二人を目にした白哉が、わずかに目を見開いた。

 

「! あれは、黒崎一護か」

「一護のやつ、あそこまで侵食が進んじまってたのかよ……!」

 

 イッタンモメンの対処に追われていた恋次が悔しげに歯を食いしばり、苛立ちをぶつけるように魔化魍に斬撃を放つ。吹き飛ばされるイッタンモメンだが、すぐさまピンピンした様子でまた向かってくるため、恋次の苛立ちは募るばかりだ。

 ルキアも魔化魍を氷漬けにして足止めしながら、好転の様子が見えない状況に歯噛みする他になかった。

 

「何か……何か手はないのか⁉︎」

 

 それに応えられる人物は、今この場にはいなかった。

 たった一人を除いて。

 

「……まんまと餌にされるところじゃったようじゃの、ぬしらは」

 

 二つ身から蛟へ、オロチからヤマタノオロチへと姿を変えた仇敵を見上げた明日歌は、眉間にしわを寄せて唸る。

 そのつぶやきに、石田がハッと気づかされた。

 

「そうか、あの時蛇園ーーー蛟が言っていたのは、そういうことか」

 

 蛟が装っていた蛇園という女性。彼女が言っていた言葉が今になってやっと理解できた。

 全ての存在は存在するために贄を求める。人であろうと、死神であろうと、鬼であろうと、虚であろうと、魔化魍であろうと、生きるために、強くなるためには贄が必要となる。

 そして魔化魍は、仇敵である鬼の血肉を好んでいる様子であった。

 

「おそらく……この島に修学旅行先として招いたのは彼女だ。人間のふりをして観光課に潜り込み、島おこしと称して人々を呼び込むつもりだったんだ。そしてあわよくば魔化魍による被害を利用して、鬼をも誘い出すつもりで」

「……なるほどのう、ようやっと繋がりおったわ。奴がぬしらをこの島へ呼んだのは、十分な贄を求めておったからか……舐められたものよな」

 

 ただ自分たちは、食われるためだけに集められたのだ。そのためだけに、運命を歪められたのだ。そのような認識まで起こり、明日歌の胸に怒りの炎が灯った。

 しかし邪神の思惑通りにはいかなかった。一護たちの抵抗が、知らぬうちに邪神の思惑を破ったのだ。

 

「だが、それらを邪魔されてもう後先考える必要がなくなったんだろう……同胞を贄にして、自分の本来の姿であるヤマタノオロチを蘇らせるまでに」

 

 長い間眠っていた邪神は飢えている。

 同胞を食らってでも、全てを破壊してでも、何もかもを喰らい尽くすつもりなのだろう。

 

「……おい、あれを前にしても手を出すななんていうのか?」

「さすがのわしも、あれを見ては泣き言を言いたくもなるのう……じゃが、ぬしは」

 

 一人ではまず無理だ。たとえ鬼を全て集めたとしても、あれほどの敵を止められるとは思えない。

 一護をこれ以上巻き込むことをよく思わない明日歌だったが、一護はそれを押しのけて隣に立った。

 

「俺はただ、仲間が守れればそれでいい。俺はまだ、俺だ……空座第一高校、黒崎一護だ」

「……そうか」

 

 先ほど尋ねた時とは違うと、明日歌は感じた。

 たとえ己が怪物になり始めていても、守りたいものは変わらない。己の全てを懸けてでも、大切なものを守り抜くという気概に満ちた、そんな声であった。

 

「ここには俺の大切なやつがいる。戦っている仲間がいる……だったら俺は、もう後へは引けねぇ」

「…………そうか」

 

 それだけは曲がらない、変わらないと信じているようだ。

 その姿に、明日歌はかつて師に言われた言葉が蘇ってくるのを感じた。

 

 ーーー自分を信じること。

    それが自分が自分らしくあるための第一歩なんじゃないのか。

 

 一護は、それができていた。

 対して自分はどうだと、明日歌は己を恥じる。

 敵の策略に乗せられて味方を傷つけ、情けない姿を晒してばかりであった。感情を持て余し、一護に八つ当たり気味にぶつけていたではないか。

 何をやっているのだ、自分は。

 

「なんじゃ、そうすればよかったんか……こんなになるまで気づかんで、傑作じゃのう」

 

 自分が鬼なのか、魔化魍なのか、そんなものはもうどうでもいい。

 自分は自分だと、これが自分なのだとはっきりと言える、それが強さなのだと、明日歌はようやく気付いた。

 

「なら、もう止めはせん。好きなだけ大暴れするがええわ」

 

 年下に教えられた恥ずかしさを誤魔化すように、明日歌は一護に顔を見せないようにしながら並び立ち、再び刀を抜く。一護も、フッと笑いながら斬月を構えた。

 もはや迷いはない、己を今に刻むために、力の限り戦い抜くだけだ。

 

「……ありがたく使わせてもらうぞ。ご先祖様よ」

 

 師に託された刀を、右手に持つ。

 柄頭を左手の甲に乗せ、答申を天を衝くように向けて構えると、明日歌は静かに心を落ち着けて語りかける。

 力が混ざった今、使い方はもう全てわかる。

 それを今、全て引き出す。

 

「ーーー冥火に慟哭せよ、装甲声刃(アームドセイバー)



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漆之章 響く鬼
1.the sword of Takeshi


 歌舞鬼が遺した、最初の響鬼が使っていた剣を、紅蓮の炎が包み込む。

 陽炎がゆらめき、その形を歪めていく。火花を散らして炎が晴れた時、明日歌の手にあったのはより奇妙な形の刀だった。

 分厚い刀身は軸側が赤く、鞘の部分には機械的な円筒状の装飾が横向きに備わっており、前にはもう一つの刃が生えている。もはや刀と呼べるかどうかもわからない刃からは、漏れ出すように火花がまとわりついていた。

 黒と真紅に彩られた武骨な剣、これが明日歌の剣の真の姿。

 無名の刀匠が打った、渾身の一刀の姿であった。

 

「ギィアアアアアアアアア‼︎」

 

 異様な霊圧を感知したか、ヤマタノオロチの咀嚼から逃れた魔化魍が明日歌の元に向かって急降下してくる。

 どうせ食われるならば、誰か一人くらいは道連れにしてやる、そんな鬼気迫った様子で目前にまで迫るウブメだったが。

 ギン!と鋭く甲高い金属音が鳴り響くと同時に、その動きがぴたりと静止する。

 頭蓋と鼻先にピシッと筋が入ったかと思うと、巨体が真っ二つに分かれて一気に炎に包まれる。断末魔の悲鳴さえ残さないままに、ウブメは跡形もなく焼き尽くされた。

 明日歌は装甲声刃を振り払うと、刀身に左手を添えながら刃を天に向け、鐔が口元に来るように身構える。

 すると、鐔の前に備わっていた小さな刃がゆっくりと動き、柄を握る右手を覆うように装着される。鐔の前が蓋のように開き、拡声器のような内部が露わになる。

 明日歌は装甲声刃を構えたまま目を閉じ、スゥッと大きく息を吸い込むと、カッと目を見開いて声帯を震わせた。

 

「―――ああああああああああああああああああ‼︎」

 

 拡声器に叩き込まれる、鬼の少女の咆哮。

 声は津波のように大きな衝撃をうみ、木々の枝をざわめかせるほどの振動を走らせる。

 それは人間の、死神の、鬼の、魔化魍の、島中に存在する全ての生物の生み出す音と混ざり合い、共鳴する。

 

「こ、これは……⁉︎」

 

 魔化魍の対処に追われている死神たちも、島から響き渡る少女の咆哮に戸惑いの色を見せる。一瞬動きを止めた魔化魍であったが、それが自身に直接害を及ぼすものではないと悟ったのかすぐにまた動き出し始めた。

 それに苛立ったように舌打ちしたのは、片っ端から魔化魍を叩き切っていた剣八であった。

 

「しゃらくせぇんだよ‼︎」

 

 半ば八つ当たりのように繰り出される強烈な斬撃。

 衝撃は与えても魔化魍の皮膚を切り裂くことはできなかったはずのそれが、ウブメの腹に喰らい付いた瞬間だった。

 

「ギャアアアアア‼︎」

 

 まるでその身がバターでできていたかのように、大した抵抗もなく刃が通ってしまう。

 真っ二つにされたウブメはしばらく悶えながら絶叫していたが、やがて大きく身を震わせると木の葉となって四散してしまった。

 その現象に呆然としていたのは、他の誰でもない剣八であった。

 

「……あ? んだぁ、こりゃ……」

「あれー? 斬れちゃったー」

 

 何度刃を振り下ろしても平気な顔で向かってきていた魔化魍が、先ほどと同じようにはなった斬撃でいとも簡単に倒すことができた。

 思わぬ事態に、他の死神たちも理解が追いついていないようだった。

 

「なっ……どういうこった⁉︎」

「死神の力は、奴らには効かぬはず……⁉︎」

「なるほどネェ……面白い特性だ」

 

 言葉を失う恋次とルキアであったが、何やら笑みを浮かべながらその光景を、そしてアスカの方を観察していたマユリの呟きに振り向いた。

 彼の目は炎を纏う明日歌の剣、装甲声刃の方に固定されていた。

 それに気づいたルキアたちも、困惑したまま疑問をぶつける。

 

「涅隊長⁉︎ どういうことですか⁉︎」

「明日歌のあの刀……あれではまるで、斬魄刀のようではないですか⁉︎」

「死神の性質が混じった鬼……ならばそれが所持する刀に現れてもなんらおかしいことはないヨ」

 

 本来斬魄刀は死神になった時に貸与され、のちに正式に渡されるもの。明日歌の剣の由来がどうであれ、ただの刀が斬魄刀に変化することなどあり得るはずがない。

 しかし、この状況がもともと想定外のものなのだ。これまで確認できていなかった現象が起きても、おかしくはなかった。

 

「あれは斬魄刀に限りなく近いもの……そしてその能力は」

 

 語るマユリの背後に、イッタンモメンが甲高い咆哮とともに飛来する。

 急速接近する巨大なエイに一瞥をくれることなく、マユリは斬魄刀を抜いて一閃する。先ほどの剣八の例と変わらず、様々な毒を使う彼の刀に犯され、イッタンモメンは悲鳴をあげて爆発四散した。

 

「……自分の周囲の霊圧を共鳴させる同調(チューニング)、それがあの斬魄刀もどきの能力だヨ」

 

 波長の違いにより、対抗策を持つことができなかった死神と魔化魍。

 明日歌の刀は、その霊圧の波長を調節して同じ土俵に立たせる(・・・・・・・・・)ことのできる能力を有していたのだ。

 しかし剣八は半分以上聞いておらず、心底めんどくさそうに首を鳴らしながらため息をつく。仲の悪いこの二人、剣八にはマユリの言っていることのほとんどが理解できない。

 

「うだうだ言ってねぇで要点を言えよ……要するに」

 

 トントンと刀の峰を肩に当てていた剣八が気だるそうに溢す。

 その姿が一瞬で消えたかと思うと、雷撃を思わせる凄まじい霊圧とともに魔化魍の群れに襲いかかり、数十体をまとめて叩き斬って爆散させてみせた。

 

「好きなだけこいつらをぶった斬れるってこったろうがよぉ‼︎ ゲハハハハハァ‼︎」

「いっけー! 剣ちゃんいっけー!」

 

 肩にしがみついたやちるが場に似合わないはしゃぎっぷりを披露し、小さな声援を受けた剣八が暴れまわり始めた。

 もはや、彼を止めるものはいない。同じ土俵に引きずり出された敵を、一匹残さず駆逐するまで彼は止まりはしないだろう。

 

「そうか……ならば散れ、『千本桜』」

 

 その様子を見ていた白哉は静かに斬魄刀の刀身を真下に向け、その真の能力を発揮する。

 美しい刀身は一瞬で無数の桜の花びらに似た刃に変化し、剣八に追われた魔化魍たちに食らいつくとその体を粉微塵に切り刻んでいく。上位に位置する斬魄刀の攻撃を受け、魔化魍たちは抵抗むなしく木っ端へと帰していった。

 

「この機を逃すほど愚かではない! 卍解『黒縄天譴明王』‼︎」

 

 狛村が発動した卍解により、その背後に巨大な鎧武者が出現する。主人の意志に従って動く巨大な戦士は圧倒的な質量を持つ刀を振り回し、他よりも巨大な魔化魍に果敢に斬りかかった。

 他の死神たちも各々の斬魄刀の力を解放し、攻撃が有効となった魔化魍に挑んでいく。もはや、霊圧が与える影響などは考えない。世界の秩序を守るため、知らぬうちに異例の存在と戦う一護と明日歌の援護に回り始めていた。

 その光景に、総隊長山本元柳斎重國はいつもは細めている目を開いて睨みつける。

 

「死神と鬼の共闘、これが最初の前例ということか。よかろう……まとめて相手をしてくれる」

 

 本来、この戦いに死神が関わることはなかったであろう。

 しかし、幾百年のうちにその存在は歪み始め、今のような事態を引き起こした。

 ならば、死神もそれに応じて対処を変える必要はあろう。傍観するだけではない、世の秩序を守るため、この件をふるう必要が。

 

「万象一切、灰燼と為せ―――『流刃若火』」

 

 杖に変わっていた斬魄刀が本来の力を目覚めさせ、紅蓮の炎を纏う。炎系の最強格に位置する斬魄刀が唸りを上げ、襲いかかる魔化魍たちをまとめて飲み込むと、木の葉に戻る暇も与えずに灰燼に変えていく。

 専念もの間、彼を超えるものはいないと豪語するほどの、まさに最強の力であった。

 

「山爺本気だねぇ……こりゃ、僕らもやる気出そうかねぇ」

「ああ、そうだな」

 

 その弟子である京楽と浮竹も、他の死神たちに倣って斬魄刀を解放する。

 いい加減、守るだけの戦いには飽き始めていたのだ。

 

「花風紊れて花神啼き、天風紊れて天魔嗤う『花天狂骨』」

「波悉く我が盾となれ、雷悉く我が刃となれ『双魚理』」

 

 片や二本の青龍刀のような、片や二本の逆十手のような、形は違えどよく似た姿の斬魄刀を携え、二人は他の死神たちが刃を振るう中へ乱入する。隊長格が続々と参戦し、魔化魍たちの勢いが一気に削がれ始めていた。

 

「こっちの片付けは任せろよ、一護! 卍解、『狒狒王蛇尾丸』‼︎」

 

 狒狒の毛皮と骨を身に纏い、巨大な蛇の骨格のような姿に変わった斬魄刀を携えた恋次が、この場にいないともに叫ぶ。

 今必要なのは、助けに行くことではない。奴らが存分に戦える場をあつらえてやることだ。

 

「狒骨大砲‼︎」

 

 制限を外された死神が操る、獅子の鬣を生やした蛇の顎門から放たれた赤い霊圧の咆哮が、群がっていた大量の魔化魍をまとめて飲み込んでいった。

 

 

 耳障りなまでの咆哮を放ち、暴れまわるヤマタノオロチ。

 その上空を、巨大化したアカネタカに乗った明日歌が飛行し、もう一度紅蓮の炎を身に纏っていた。

 

「響鬼、紅!」

 

 真紅の姿に変わり、音撃棒を両手に構える明日歌。鬼の顔を備えた音撃棒の先端に炎が集い、周囲の大気をも揺らめかせるほどの熱を放ち始めた。

 

「音撃打・灼熱真紅の型‼︎」

 

 空中を飛行しながら、明日歌はヤマタノオロチの体表に音撃棒を叩きつける。通常時よりも威力の倍加した一撃は硬い体表を灼き、じゅうと煙を立たせながらその身を崩れさせる。

 しかしあまりの巨大さゆえにあまり効いている様子はなく、ヤマタノオロチは苛立たしげ鎌首をもたげると、喉奥に灼熱の火炎を溜め込み始めた。

 

「ムオオオオオ‼︎」

 

 その頭上から、雄叫びをあげた茶渡が硬化した腕を叩きつけ、強制的に口を閉じさせる。行き場を失った炎がヤマタノオロチの口の中で爆発し、体内にダメージを与える。意識が混濁したらしい首の一本に、石田の放つ弓が幾本も突き刺さった。虚の力も混ざっているために、確かな有効打になり始めていた。

 しかし、苦しんでいるのは一本の首だけで、他の首がそれを補うように伸びて襲いかかっていた。首のいくつかが噴いた火炎に煽られ、バランスを崩したアカネタカについに巨大な火球が炸裂した。

 

「アカネタカ!」

 

 制御を失って墜落するアカネタカから飛び降り、明日歌はヤマタノオロチの体表にしがみつく。そして体表を足場に抱え上がっていき、頭部にまでたどり着くと再び至近距離から炎の音撃を叩き込んでいく。

 同じく、上空から急降下した一護が斬月を振りかざし、落下速度を利用しながら明日歌と同じ頭上に刃を突き立てる。

 

「ギャアアアアア‼︎」

 

 猛毒にも等しい音撃と、そこに突き立てられた死神の刃にヤマタノオロチは悲鳴をあげ、もがき苦しみ始める。毒を食らったのが一箇所だけとはいえ、天敵からの攻撃であることに違いはなく、すべての首が悶え苦しみ始めていた。

 

「うおおおおおおおおおおおおお‼︎」

「らぁああああああああああああ‼︎」

 

 すべての首を相手にする必要はない、指先に刺さった猛毒が全身に回るまで、叩き込み続ければいいのだ。

 

「音撃打、爆裂強打の型‼︎」

「月牙、天衝‼︎」

 

 奇しくも二人が同時にはなった音撃と斬撃が混ざり合い、轟音を奏でる斬撃へと変わってヤマタノオロチの眉間に炸裂する。

 一撃を放った一護と明日歌は、弾き返されるように空中に投げ出されながら、敵を油断なく見据えた。

 硬い表皮が裂け、肉が焼かれる臭いと煙があたりに撒き散らされる。爆心地のようにえぐられたヤマタノオロチのの頭部が、ボロリと焼けた炭のように崩れる。そして、すべての首が動きを止め、ゆらりとその影が揺らめいた。

 効いている、いける。そう二人が思った瞬間だった。

 

「ギィアアアアアアアアアアアアアアアア‼︎」

 

 悲鳴のような咆哮をあげたヤマタノオロチが、その喉奥からこれまで以上に凄まじい火炎を放った。

 

「!」

 

 一護はともかく、空中で移動することができない明日歌はその炎をまともに受けてしまい、灼熱に飲み込まれてしまう。

 

「ぐぁあ‼︎」

「ぬぁっ⁉︎」

 

 一護は吹き飛ばされる明日歌を受け止めながら、自身も炎の勢いに飲み込まれ、弾き飛ばされてしまう。防御の手段を持たない二人は灼熱の炎に焼かれ、かつてない負傷を負ったまま空中に放り出された。

 死神たちの戦闘の真下を突き抜けると、二人の体は冷たい海面へと突っ込んでいった。

 激しい水飛沫の柱が立ち、轟音が響き渡る。崖のキワに慌てて飛び出した織姫が、悲鳴のような声を漏らした。

 

「黒崎くん! 明日歌ちゃん!」

 

 もはや織姫の回復も届かない、光を飲み込む漆黒の水の闇の中へと、死神と鬼は沈んでいくのだった。



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2.circle of life

 ごぼりごぼりと、邪神の一撃を受けた二人が水の中へと沈んでいく。

 肌が大きく灼け爛れ、わずかに炭化するまでに至った二人は意識を取り戻すことも叶わず、闇の中へと引きずり込まれていく。

 しかしその時、なぜか明日歌の脳裏には、かつて師に言われた言葉が蘇っていた。

 

 ーーーのう、師匠。

 

 今よりも幼い、と言っても少しだけ背の低い明日歌が、音撃武器の整備を行なっているカブキをじっと見つめる。今よりも大きく見えるその背中を見つめ、明日歌は問いかけた。

 

 ーーー何故師匠は、鬼になろうと思ったのかの?

 

    言ってはあれじゃが、きついじゃろ?

 カブキの修行は、明日歌の幼さなど顧みないほど厳しいものだった。しかしそれは他人にただ課すだけのものではなく、自らにも課すことでより強さを求めるものであった。

 カブキは明日歌の方を見ず、音撃棒を磨きながら口を開いた。

 

 ーーー俺は、いろんなものを失くした。

    家族も、友も、故郷も、大事なものは全て。

    だが心だけは、折られるわけにはいかなかった。

    ……完全に敗北するなど、認めたくはなかったからな。

 

 今思えば、それは自らが人でも鬼でもなくなったことも言っていたのであろう。

 人に絶望し、それでも見捨てきれず、どっちつかずのまがい物になった自分を最後まで支えていたのが、己の中で抱えている信念だったのだ。

 だからだろう。その言葉には、確かな重みがあった。

 当時には今ひとつ分からなかったその重さが、今なら痛いほどに伝わってきた。

 

 ーーー心だけは強く鍛えておかねぇと、自分に負けちまうだろう。

 ーーーじゃが……わしはそう上手くできるとは。

 ーーー自分のやりたいこと、できることをやればいい。

    少しずつな。

 

 うまく音撃を扱えなかった当時の明日歌に、カブキは珍しく、笑みを見せた。

 ただ安心させるだけではない。明日歌の中に眠る力を信じて自らが安心しているような、そんな優しい笑みであった。

 

 ーーーそれが強さになるんだ。

 

 

「…………!」

 

 ゴボッ!と気泡を吐きながら明日歌の意識が覚醒する。

 ざぶんっ、と勢いよく一護と明日歌は水中から飛び出し、隣に並び立って空中に降り立つ。

 歩法まで習得し始めていることに、他の死神たちは目を見開いた。

 だが、明日歌はもはやそんなことにまで気を配ってはいなかった。再び装甲声刃を腰元から抜くと、片手を刃の峰に添えるように、鐔を口の前に重なるように構える。

 目を閉じると、内なる力をより引き出そうと集中を深める。そして。

 

「響鬼、装甲」

 

 そのつぶやきがこぼれた、瞬間だった。

 明日歌の体が、再び紅蓮の炎に包まれる。紅に変化した時よりも凄まじい炎により、衣装が変化していく。その炎は一護にまで燃え移り、彼の体にまで変化を及ぼしていく。

 と同時に、島から飛来した無数のディスクアニマル達が、自身を欠片に変えて一護と明日歌の全身に張り付いていく。腕に、肩に、腿に、脛に、胸に宿り、真紅の光沢を放つ鎧に変化する。

 明日歌の額から生える角が噴き出した炎とともに四本に増え、鬼の顔に「甲」の字の装飾が施される。

 一護の死覇装は元の形を取り戻し、袴の端には紅蓮の炎の模様があしらわれる。逆に明日歌の黒い着物は真っ白に染まり、広い袖を持つ巫女の衣装を思わせるものに変化した。

 

装甲(アームド)響鬼」

 

 熱が、大気を陽炎のように揺らめかせる。

 チラチラと舞い上がる火花を花びらのように纏い、再誕した一護と明日歌は装甲声刃を構える。

 その様は、まるで死神の卍解を思わせるもの。死神の死覇装と斬魄刀、鬼の四肢と角。相反する二つを兼ね備えた、異形の戦巫女。

 その姿は、まさに鬼神であった。

 

「ギャアアアアアアアアアア‼︎」

 

 明らかに、先ほどよりも力を増し始めている二人の存在を前に、ヤマタノオロチは焦ったように咆哮を放ち、火炎を吐いて襲いかかる。

 しかし先ほど二人を苦しめた業火は、明日歌の振るった刃により容易く両断された。

 

「……紛い物、半端者、好きに呼ぶがいいわ。ぬしになんと呼ばれようと、わしの意志は……わしの魂は、誰にも否定させん」

 

 一度は道を見失い、迷い続け、辿り着いた先に見つけたこの場所。

 もう、逃げるつもりはない。

 己の魂を肯定し続け、戦い続けることを選んだ。

 

俺たち(わしら)の魂は、否定させねぇ(させん)‼︎」

 

 紅蓮の炎をまとい、二人の鬼神が突撃する。大気をも灼く炎のヤイバを携え、ヤマタノオロチに向けて躍り掛かった。

 巨大な邪神は耳障りな咆哮を放ち、思い巨体を引きずって大きく首を伸ばし、その口から火炎を吐き散らす。魔化魍たちがぼたぼたと余波を食らって墜落し、燃え尽きていくのにもかまわず、邪悪な蛇竜は大きく顎門を開く。

 

「そら、起きろ!」

 

 八つの首からの猛攻を躱しながら装甲声刃を構えた明日歌が、鐔の拡声器越しに鋭く呼びかける。

 する突如、ヤマタノオロチの真横にあった小山が震えだし、その中から巨大な影が飛び出した。

 

「ウォン! ウォン!」

 

 それは、かつての鬼たちが使役していた巨大な白い大猿。役目を終え、いつか必要とされる時まで眠りについていたシロネリオオザルは、明日歌の呼びかけに反応し目を覚ました。

 そしてそれは、かつて封じたオロチへの闘志を、忘れてはいなかった。

 

「ウォン!」

「ギィアアアアアアア‼︎」

 

 大猿の拳がヤマタノオロチの顔面を殴りつけ、首を地面に叩きつける。数百年生きた大猿の霊魂が封じ込められたその力は、現代においても健在であった。

 しかし、かつてのオロチとは力の桁が違った。以前よりも頑丈になったオロチはすぐに巻き返し、シロネリオオザルを逆に絞め殺そうと太く長い首を巻きつかせていく。力を増した蛇竜に押し返され、シロネリオオザルは窮地に追い込まれ始める。

 

「おおおおおらあああああああ‼︎」

 

 全身に炎を纏った明日歌が、シロネリオオザルに巻きついている首に拳を叩き込む。鱗をやすやすと貫く威力により、太い首が半分ほど抉られ、そして焼かれた。

 激痛からかヤマタノオロチの力が抜け、戒めから解かれたシロネリオオザルが反撃とばかりに再び殴打を再開する。弱ったところへの追撃に、ヤマタノオロチはたまらずねじ伏せられた。

 

「ギィアアアアアアアアアア‼︎」

 

 耳障りな咆哮をくぐり抜け、火炎を躱し、一護がヤマタノオロチの至近距離に接近し、その刃を突き立てると火炎とともに斬り裂いていく。傷口を灼きながら、巨大な首を開くように刃を通していくと、炭化した肉が血のように噴き出された。

 明日歌のふるった刃が太い首を両断し、巨大な顔が地面へと落下して木の葉に変わる。断面が焼かれ、徐々に体に向かって炭化が進んでいき、ボロボロと崩れていく。そこへシロネリオオザルの拳が突き刺さり、巨体は徐々に削られてボロボロになっていった。

 どんなに力を得ようと、奪って我が物にしようと、今の二人には届かない。

 死神と虚、鬼と魔化魍、狩る者と狩られる者。

 その絶対的な関係は、存在が歪もうと、混ざり合おうと揺らぐことはなかった。

 

「月牙ーーー天衝‼︎」

「音撃斬・鬼神覚声‼︎」

 

 二人並び立ち、放たれた赤黒い爆炎の斬撃がヤマタノオロチの胴体に喰らい付き、大きな裂傷を刻み込む。ぶすぶすと煙が立ち上り、炭化した傷口が崩れ落ちて地に還っていく。いくつもの刀傷と火傷を負い、ヤマタノオロチのすべての首から力が抜け始めていた。

 しかし致命傷にも等しい傷を受けながら、ヤマタノオロチは未だに健在であった。仮にも神と呼ばれるまでの力を持つ存在。異常なほどの不死性が、邪神を生きながらえさせていた。

 

「でやあ‼︎」

 

 苦悶の咆哮を放つヤマタノオロチの背面に向けて、明日歌は腰のバックルを取り外すと思い切り投擲する。

 円盤はヤマタノオロチの背中に張り付くと、回転しながら巨大化していく。まるで、巨大な邪神の背を土台にした鼓面のように。

 

「一護、使え!」

「おう!」

 

 明日歌が一護に、一組の音撃棒を手渡す。緑色の結晶を削り出して作られたそれは、彼女の師が使っていたものだ。

 自身も赤い音撃棒・烈火を携えると、二人で鼓面を囲うようにヤマタノオロチの背中に降り立った。

 炎を纏う音撃鼓・火炎鼓を前に、二人の鬼神が音撃棒を構える。

 今宵、魂を鎮める、演奏が始まる。

 

 ーーー‼︎

 

 大気が爆ぜるような、凄まじい轟音が響き渡る。特殊なリズムと音を刻み、音撃がヤマタノオロチに襲い掛かった。

 邪悪な魂を清め、世界に還す聖なる音が奏でられる。

 

「ギャアアアアアア‼︎」

 

 逃れるすべなどありはしない。天敵による、自身にとっての毒とも言える音が、大気だけではなく全身を伝って響き渡ってくるのだ。

 その音に、新たに重なる音があった。

 雷のように大気を切り裂く、言による清めの音がヤマタノオロチに突き刺さり、浸透していく。轟鬼が一護と明日歌に合わせ、列雷による音の斬撃を突き立てているのだ。

 そこへ、風のように大気を震わせ、ラッパの音が重なる。ヤマタノオロチの体内に鬼意志を打ち込んだ威吹鬼による音の銃撃が、邪神の体内で暴れまわる。

 突如出来上がった、鬼と死神による音撃のセッション。三つの音が響きあい、強大な音撃となってヤマタノオロチに炸裂する。バラバラのままでは成立しない、同じ意志が合わさったことにより完成した三重奏が巨大な蛇竜に襲いかかっていた。

 

「……これは」

 

 その光景を、呆然と見つめていた織姫が気づく。石田も茶渡も、そしてこの場に集った死神たちも、ハッとした様子で辺りを見渡していた。三つだけではない、様々な音が音撃に重なっていた。

 風が、波が、草木が、そして自分たちの鼓動が、音撃に重なっていた。生きとしいけるすべてのものたちが奏でる音が、清めの音となって無意識の内に一護たちに力を貸していた。

 

「ウォン! ウォン!」

 

 突如、音撃を見守っていたシロネリオオザルが鳴き始め、かと思うと自ら円盤へと戻る。そしてその場で回転し始めたかと思うと、自らの体から音を響かせ始めた。

 それは、かつての鬼たちが奏でた音撃。オロチを封じた際、その音を後世の者たちに託すために封じ込めた、七人の戦鬼による合奏の記録だった。

 火炎連打、疾風一閃、雷電激震、一撃怒涛、軽佻訃爆、偉羅射威、旋風一閃。

 戦国時代の鬼たちが力を合わせた証が、蘇っていた。

 ふと、明日歌の耳にもう一つの音が届く。それは、もう聞くことはないと思っていた人の奏でる音。自分を置いて逝ってしまった人が奏でていた、音撃。

 

 ーーー師匠……‼︎

 

 一護と自分の間に割り込むようにして、もう一人の鬼が奏でていた。左右非対称の、派手な格好をした鬼が。

 夢か幻に違いない。だが明日歌には、かの男が今もこの場にいるようにしか思えなかった。

 目に、熱い何かがにじむ。それを知らないふりをし、明日歌は雄叫びとともに奏で続ける。今の自分の姿を見てもらうために、安心してもらうために。

 鍛えた心、鍛えた技、鍛えた体。全てを一つにし、魂で響かせる。

 それが、彼女が学んだ音撃。

 ヤマタノオロチは今、世界の全てを敵に回していた。命ある全てをないがしろにしようとしていた邪神は、その報いを一身に受け続けていた。

 

「ハァァァァーーーハァッ‼︎」

 

 最後の一撃が、ヤマタノオロチの背中に叩き込まれた。

 渾身の一撃が振動として全身に伝わり、ヤマタノオロチの体にヒビが入っていく。バキバキと石化するように色を失い、固く強靭な体がボロボロと崩れ去っていく。

 それが全身にまで到達した瞬間、ヤマタノオロチであったものは自重によりその形を崩れさせ、土塊と化して世界に還っていった。先ほどまで狂ったように暴れまわっていたなどとは思えないほど、あっさりと、静かに。

 崩れ落ちていくヤマタノオロチの背中から、鬼神はゆっくりと降り立つ。

 圧倒的な熱量を放っていたその姿からボロボロと鎧が崩れ落ち、元のディスクアニマルへと戻っていく。

 一護の額から生えていた角もボロボロと崩れ、鬼の名残が消えていく。異常なほどの霊圧も鳴りを潜め、ただの死神代行へと戻っていた。

 二人は徐々に明るさを取り戻していく空と海を眺め、眩しさに目を細めながら穏やかな表情を浮かべる。

 戦いの後は、痛々しく残っている。しかし命を食らっていた邪悪な存在は跡形もなく消え去り、穏やかな風とさざ波の音が聞こえてくるだけである。

 

 世界の命運を賭けた戦いは、今この時をもって、終結したのだ。




擬・斬魄刀:装甲声刃(アームドセイバー)

「音」を操る斬魄刀に似て非なる剣。空気の振動を操るため発火させてそれを操ることも可能。
真骨頂は周囲の霊圧の波長を共鳴させることにより、同調(チューニング)を行う、あるいは逆に波長を乱すこと。


天鎖斬月・鬼神装(きしんのまとい)

鬼・明日歌の霊圧が混ざったことにより生じた、天鎖斬月の派生形態。
普段の死神の力が増大するだけではなく、鬼の音撃の力も使用できるようになった。いわゆる劇場版限定モード。


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3.That‘s your Hibiki

「……こんな簡素なもので済まんの。じゃがまぁ、ないよりはマシじゃろう?」

 

 並みのさざめきが聞こえる島の外れ、岬に立てた岩を前にして、明日歌がつぶやいた。摘み取ってきた花を供えると、墓石がわりのその岩に手を合わせる。

 その下に眠っているものはいない。命を燃やし尽くして灰となり、風となって天へと昇っていってしまった。

 

「……師匠、見ておったか? 聴いてくれたか? うまく届いておればええんじゃが」

 

 己の全てを込めた音を彼は聞いてくれただろうか。よくやったと褒めてくれるだろうか、それともまだまだ未熟だと叱られるだろうか。

 答えは返ってこない。だが今の明日歌にとっての全力だった。どんな反応が返ってこようと、自分は胸を張って受け止めるだろう。

 

「これがわしの得たものじゃ……これが、わしの響きじゃ」

 

 どこか誇らしげに、しかしやはり寂しげに微笑みを浮かべた明日歌がもう一度深く祈りを捧げ、手を合わせる。

 しばらくそうしたのちに、明日歌はようやく後ろに振り向き、そこにいた青年たちに向き直る。

 

「……ぬしらには、ほんに世話になったの」

「大したことじゃない。僕らは僕らのために戦っただけだ」

「ム」

「力になれたかどうか……わからないよ」

 

 戦いを共にした者たちはそういい、明日歌の心を案じる。

 散々情けない態度を見せたことを思い出した明日歌ははわずかに頬を染め、苦笑しながら肩をすくめる。今思えば、年下の者たちに何を当たり散らしていたのか、恥ずかしい。

 

「一護や、ぬしは体に不調はないか?」

「ああ。特に変わったところはねぇ。……あのまま戻らねぇもんだと思ってたけどな」

「鬼の霊圧がうまく定着しなかったんじゃろう。何よりじゃ」

 

 一護の中から、鬼の霊圧は全て消え去っていた。一度はその姿までもが大きく変貌するほど混ざり込んでいた力であったが、全て音撃として邪神に叩き込んだためかそれらは全て失われ、後遺症もないようであった。

 だが、明日歌は違った。

 

「……お前は、これからどうする気だ?」

 

 ルキアが、やはり若干の距離を保ちながら明日歌に尋ねる。一護の例もあり、やはり鬼が近くにいるのはいい影響を与えないことが実証されたためか、以前よりも慎重な気がする。

 

「わしはもう、普通の鬼ではなくなってしもうたからのう……これまで通りとはいかんじゃろう」

 

 鬼であり鬼でなし、死神であり死神でなし。

 その存在そのものが与える影響は、いったいどれほどのものだろうか。尸魂界(ソウルソサエティ)も猛士も彼女を放っては置かないはずだ。無論頼れる戦力というよりも、敵味方を滅ぼしかねない危険な存在として。

 最悪の場合、危険因子として幽閉されるか処分されるか、どちらかはわからない。

 明るい未来は、遠く暗い。

 

「じゃが、まぁ……とりあえずは、生きてみようかの」

 

 しかしそれでも、明日歌の表情に悲壮感はない。

 以前よりも強い眼差しで、同時にどこか落ち着きを感じさせる瞳を備えている。

 何も迷わずに突き進んでいたかつてとは異なり、どっしりと地面を踏みしめ、進むべき道をまっすぐにも通すような、そんな雰囲気だった。

 

「散々悩んで血反吐を吐いて、無様を晒したがの。やっぱりわしには戦うことしかできんのじゃな。どこまでうまく世を渡れるかは知らんが……できうる限り、もがいてみようと思う」

 

 もう一度、師の存在を示す墓石に視線を戻す。

 黒い感情に支配され人間を捨てながらも、彼は人間を見限ることはできず、命と引き換えに明日歌を守った。

 そして永劫の不死の呪いから解放され、ようやく安らぎを得た。

 

「師匠は世界に絶望し、憎んだ。じゃがやはり、まだまだ捨てるには惜しかったんじゃろうなぁ。……わしも捨てる前に、拾ってみようかの」

「……強いな、お前は」

 

 一護はただ、その姿を眩しく感じた。

 果たして自分は、彼女のように強くあれるだろうか。偉そうな説教をたれたのも、弱々しく折れそうになっている明日歌の姿を見たくなかったからだ。

 しかし彼女は、自らの意思で立ち上がった。体に絡まったしがらみを引きちぎり、自らが望む道へ再び歩き始めたのだ。

 にっこりと笑う明日歌に、一護もふっと不敵な笑みを浮かべた。

 

「……おい、黒崎。今何時だ?」

「え?」

 

 そんな時だった。石田が血相を変えて一護の方に振り向いたのは。

 ハッとなった一護は右腕を見ようとし、死神歌しているために腕時計など持っていないことを思い出す。ついで海の彼方に視線を向ければ、すでに相当高く日が昇っている。

 戦闘に次ぐ戦闘で忘れていたが、一護たちはこの島に学校行事として赴いたのだ。

 船が出る時間は、決まっている。

 

「……あああヤベェ‼︎ 早く戻らねェと出発しちまうじゃねぇか‼︎」

 

 コン、もとい自分の体がほったらかしになっていることを思い出し、顔を真っ青にさせた一護が悲鳴じみた声をあげて走り出す。

 

「急げみんなぁぁ‼︎」

「君が無駄に感慨に浸っているからだろう⁉︎」

「急いで! 置いていかれちゃうよ!」

「いいから走れ!」

「おい、転んでも知らんぞ」

「全く手間のかかるやつらだぜ」

 

 冷や汗を流した織姫たちも慌てて走り出し、全速力で旅館に向かった。死神たちの呆れた視線を受けながら、脱兎のごとき速さで坂道を駆け下りていく。

 火事場の馬鹿力とでも言うものか、異常なほどの速度で森を駆け抜けていく彼らだが、果たしてそれなりに険しいこの道を抜けて間に合うだろうか。

 穏やかな空気を全て吹き飛ばして行ってしまった青年たちの背中を見送りながら、明日歌は優しい微笑みをこぼした。

 

「全く……最初から最後まで、やかましい連中じゃのう」

 

 苦笑する明日歌の視界から、一護たちの背中はかすみ、消えていく。

 もう、会うことはないのかもしれない。

 様々な偶然と奇跡があってかなったこの邂逅は、彼女に決して小さくはない変化をもたらした。

 

「ーーー達者でな、我が戦友よ」

 

 

 人々を乗せて、フェリーは進む。

 相変わらず、一護たち生徒以外に利用客は少ない。かすかな観光客が、細々と利用を続けているだけだ。

 旅館にこっそり滑り込み、出発に間に合った一同。一護はロビーにいた自分の体(コン)の背中に飛び蹴りを食らわせて改造魂魄(モッドソウル)を吐き出させると、すぐさま肉体に入り込んで何食わぬ顔で集団に紛れ込んだのだった。。

 元の体に戻った一護は目を細めながら、フェリーの最後部にて夜刀島を見納めようと視線を止める。他のクラスメイトはあまり興味を抱かなかったためか、すでに船内で各々の時間を過ごしていた。

 

「……なぁ、石田」

 

 島の影が徐々に遠く離れていく様を眺めながら、頬杖をついた一護は隣で壁にもたれかかっていた石田に尋ねた。

 

「この島、どうなるんだろうな」

「さぁね。少なくとも、以前よりも廃れるのは間違いないね。今回の旅行も魔化魍の罠だったわけだし、島おこし計画なんて端から存在しなかったんだ」

 

 数ある高校の中でたった一箇所、一護たちの高校が選ばれたのは全くの偶然で、少しのボタンのかけ違いでこの邂逅は叶わなかっただろう。

 そう思うと、たった数日のこの滞在が非常に惜しく感じられる自分がいることに気がついた。

 

「島から人がいなくなれば魔化魍も現れないだろうし、鬼が駐在する必要もないだろう」

「……そうやって、忘れられていくんだろうな」

 

 鬼がいたことも、魔化魍がいたことも、その二つの存在による戦いがあったことも。悲劇を伝えるものもいなくなり、ひっそりと歴史の流れの中に埋もれていくのだろう。

 一人の少女の身に起こった悲しみも、少女を守るために戦い続けた一人の男の生き様も。

 

「……だが僕らは、彼らのことを忘れない」

 

 そう呟いた石田の言葉に一護は目を見開き、ついでにっと笑みを浮かべる。

 その通りだ。きっと自分は生きている限り、彼らのことを忘れまい。

 共に戦った、記憶を。

 

「……ああ。そうだな」

 

 ならばせめて、この景色を目に焼き付けておこう、そう思っていた一護だったが。

 

「……ん? なんか忘れてる気が……あ」

 

 ふと、何かが気になった一護が首を傾げ、そしてようやく思い出した。

 あいつのこと、忘れてた。

 

 

 一護たちの去った旅館のロビー、その一角。

 ポツンと転がっている丸薬のような塊が、コロリと悲しげに転がった。

 

(……お〜い、一護ぉ、姐さぁん。誰かぁ……)

 

 長い間身代わりになって大人しくしていたと思えば、突然蹴り飛ばされて吹き飛ばされて。最後には動けもしないのに放置。

 なんという、ひどい扱いだろうか。

 

(誰か俺のこと思い出してぇぇぇぇ‼︎)

 

 忘れられた悲しい男の声なき声は、響くことはなかった。

 

 

 夜刀神島。

 昔、この島には人々が畏れ敬う邪悪な竜神が眠っていた。そして、残ったその配下と戦う異形の戦士がいるという言い伝えがあった。

 しかし住人が島を離れ、骨を地に埋めていくとその歴史を知る者は徐々に減っていき、やがて誰も知るものはいなくなった。

 いつしか名前すらも人々の記憶の中から消えていき、この島は真に無名の島へと変わり果てた。

 唯一覚えているのは、島の岬にひっそりと残っている、飾り気のない墓石だけである。




次回、最終回。


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最終章 新しき時代
∞.Raise up your flag


EDには『六兆年と一夜物語/和楽器バンド』を聴きながらでもお楽しみください。


 

「……行ってしもうたな」

 

 小舟を漕ぎ、遠く離れていく男と少女の背中を見送る住人たちの中から、そんな声が漏れた。

 屈強な男たちに囲まれ、心から楽しそうに笑っている少女の横顔が、どんどん見えなくなっていってしまう。

 男たちの生き方に影響されたのか、それともずっと前からその生き方を望んでいたのか、一度決めた彼女の行動は早かった。燃え尽きた家の中から使えそうなものをかき集め、ヒビキに土下座してまで同行を願い出たのだ。

 誰も止めようとはしなかった、というよりもできなかった。

 本人は仕方がなかったことだとは言っていたが、理不尽な罵倒を浴びせかけたことや、生贄にされかけたことに見て見ぬ振りをしようとした罪悪感から、彼女の行動に口を挟む気にはなれなかった。

 散々傷つけたものたちに何の悪感情も抱いていない彼女の姿そのものに、己の小ささを自覚させられた気分になっていた。

 

「これが一番ええのかもしれん。アスカは……こんな島で一生を終えるような定めではなかったのかもなぁ」

「じゃが、あやつらだけで本当にやっていけるんかのぅ」

 

 はしゃぎすぎたのか、小舟をグラグラと揺らしている様子が見えて、不安な気持ちが起きないわけではない。

 それにたった数人、アスカを入れてもたった八人である。全国に蔓延っているという魔化魍を相手にするには、心もとない人数ではないだろうか。

 そんな時だった。長が口を開いたのは。

 

「……組織を、作ろう」

 

 振り向き見つめてくる住人たちの視線を受けながら、確固たる意志を込めた目で長はアスカの背中を見つめる。

 最初に出会った時、彼女は母親の亡骸に抱かれ、弱々しい声で泣きじゃくっていた。

 どこからきたのかも、何があったのかもわからない。小さな島で養う余裕のあるものはおらず途方に暮れていた時、彼が一人、名乗り出たのだ。

 

 ーーー頼む、長よ。

    こいつの命、俺に預けさせてくれ。

 

「彼ら鬼が人に理解されずとも、彼らが戦えるように手助けできる……そのための組織を我らで作ろう」

 

 それが、自分たちにできる罪滅ぼし。

 何も知らず、いや、知ろうとせずに見下し、戦う意思を無下にした愚か者たちにできる、最低限の恩返しだ。

 

「名は、もう決めてある。……奇しくも彼らのような、戦士にふさわしい名を持ったある男にあやかった名を」

 

 きっとこの名が、それを助けてくれる。

 島を愛し、人を愛し、小さな命を立派に育て抜いた彼の名が、自分たちを助けてくれる。

 

 

「その組織の名はーーー猛士(たけし)

 

 

 

 深い深い、森の奥。

 無数の鳥居が並ぶ通路の先に建てられた立派な造りの和風の建物の中で、いくつもの声が響く。

 ここは鬼の総本山。全国の鬼を統括する組織の中心、その施設。

 その奥の奥に、明日歌はいた。

 綺麗な畳が敷き詰められた屋敷のその再奥に、綺麗な着物と髪飾りで着飾った明日歌が正座し、深く頭を垂れる。清掃で身を包んだ彼女は、周囲から向けられる様々な視線の中で、じっと沈黙していた。

 その視線は、好意的なものはほとんどなかった。鬼でありながら死神の力を有し、その上魔化魍の血まで混ざっているなどという特異な存在。そして、裏切り者であった歌舞鬼の弟子。

 なんの条件もなしに受け入れるなど、到底無理な話であった。

 だが、明日歌は引かない。

 

「安達明日歌。2代目響鬼、襲名いたしまする」

 

 ゆっくりと上げられるその眼差し。

 その目には、一度は理不尽な悪意にかき消されながらも、再度蘇った熱い炎が燃え盛っていた。

 この先も、彼女は自身の血に苦しめられることだろう。味方のいない世界で、孤独に戦い続けることになるだろう。

 しかし彼女は、その生き方を改めるつもりはない。

 守りたい大切なものが、この美しくも残酷な世界にはあるのだから。

 

 たった一人、鬼神の力を得た少女の戦いは、ここから始まる。

 

〈 完 〉




BLEACH×仮面ライダー響鬼、無事完結いたしました。
過去編と現代編を同時に書くという無茶な試みに最後までお付き合いくださり、誠にありがとうございます。
当作品もまた、劇場版仮面ライダーの内容をモチーフに書いたものであるため、どうしても使う内容は過去を扱うものになってしまいました。かといって本来の主人公の一護を出さなければ意味がないので、よくある大昔にいたそっくりさんといった体で出させていただきました。
私個人の感想といたしましては、この劇場版響鬼は「差別」が大きく取り上げられていると思いました。自分と違うものを色眼鏡で見て、徒党を組んで排除しようとする人間の悪いところが強く出ている、現実でも何か感じさせられるものであったと。
明日歌はこの後も、理不尽な悪意にさらされながらも戦い続けることになります。
その理由は、「正義」のためなどという安いものではありません。「自分が自分らしくあるため」という当たり前の理由のためです。

しかし本作品、思った以上に難航しました。
BLEACHを読み足りなかったせいか(ほぼ原因は私の文才のなさのせいでしょうが)予想以上に反響が弱く、読者の皆さんもあまり楽しめていなかったように思えます。
ですがこの先も続けていく以上は、これを反省としてこの身に刻み、より良い作品をかけるように努力したいと思います。

最後になりましたがこれまで読んでくださった皆々様、そして毎回感想をくださった桂ヒナギク様、応援ありがとうございました。


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