血界戦線 −THE LAST HOPE− (春風駘蕩)
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Ⅰ ウィザード・リターン・トゥ・ザ・デンジャラス・シティ
0.動き出す黄金


 流星が、踊っている。

 何を馬鹿なと言われるかもしれないが、少なくとも霧の街の夜天に見えたその光は、長く尾を引き軌跡を描く流れ星に見えた。

 普通と違うとわかったのは、その流星が縦横無尽に動き回っていたこと。そして、遥か高い空ではなくビルの隙間を縫うように、街の至近距離を抜けていっていたことだ。

 常に光が溢れ、眠る時がないこの街の空で、赤い流星は確かに踊っていた。

 

「うおおおっ‼︎」

「何だありゃあ⁉︎」

 

 それを見上げ、多種多様な外見の人々が慄きの声を上げる。

 肌や髪、瞳の色どころではない。獣に似ていたり昆虫じみていたり、挙げ句の果てには人の原型さえ止めていないような外見の人々が、我が物顔で街中にあふれている。

 異なる世界より訪れ、定住し始めた彼らでさえも、その光景に目を奪われていた。

 

《エクスプロージョン・ナウ》

《ディフェンド・プリーズ》

 

 多くの人々に目撃されながら、同時に流星のそばを、金色の影が並行して飛行する。

 流星と同じように空中を駆ける金の影とぶつかり合いながら、激しい火花を散らせて流星は天を舞い続ける。ぶつかると同時に甲高い金属音や鈍い轟音が鳴り響き、真下にいた町の住人たちは何事かと目を見開き、天を舞う眩しい二つの光に目を覆う。

 

「ふんっ!」

「はぁああ!」

 

 幾度かの激突ののち、あるひときわ高いビルの上にその二つの影は降り立った。流星と金の影が降り立った瞬間、殻が剥がれるようにして両者がまとっていた炎と光が崩れて行った。

 

「……無駄なことを」

 

 片方は、金のスーツの上に黒いマントと腰布を巻き、腰に手のひらの衣装が施されたベルトを巻いた大柄な男。宝石の原石のようなレンズに金の装飾が付いた仮面をつけ、とんがり帽子を被ったその姿は、まさに魔導師(ソーサラー)と呼ぶに相応しい容貌だ。

 もう片方は、黒いスーツの上に同じ色のコートを重ねた幼い少女。額には赤く丸い宝石に銀の装飾が施されたサークレットが巻かれ、左右の髪をハーフアップにまとめている。幼くもどこか妖艶な雰囲気を放つ彼女には、魔女という印象が強く抱けた。

 

「下らないこの世界は終わりを迎え―――私の世界が始まる」

 

 魔女を見据え、ソーサラーは嘲笑うように語った。

 街の明かりに照らされたその黄金の輝きは神々しくもあり、同時に邪悪な輝きも混じって見えた。

 

「お前はその目撃者となるのだ―――指輪の魔法使いよ」

「…………」

 

 魔女からの返事がないことにもソーサラーはさして気にした様子はなく、仮面の下でフッと鼻で笑う。

 仮面に隠されてなお感じられる嘲笑にも、魔女は一切の反応を返さない。ただただ、冷たく見下し返すように見据えるだけだった。

 

「その余裕がいつまで保つか……その顔が絶望に染まる瞬間を楽しみにしていよう」

《テレポート・ナウ》

 

 ソーサラーが右手にはめられた指輪をベルトの前にかざすと、発せられた声とともにソーサラーの背後に真っ黒な渦が出現する。険しい顔で睨む魔女を置いて、ソーサラーは自らその渦に呑まれ、渦とともに姿を消した。

 渦が消えると、先ほどまで場を支配していた殺気や緊迫感が消え失せ、街の喧騒が戻ってくる。今まで凄まじい戦闘が起こっていたとは思えない賑やかさだ。

 事件や災害さえお祭り扱いするこの街にとって、この程度のことは日常茶飯事なのだ。

 

「……ふぃ〜」

 

 何も言わずにソーサラーを見送った魔女は纏っていた炎を振り払うと、髪を揺らして肩から力を抜いていく。

 エンジンが切れたように、魔女からは先ほどまで迸っていた闘気が霧散し、表情も眠たげなものに変わってしまっていた。

 

「……面倒なことになりんした。ま、あとは彼の様らに任しんしょう」

 

 あふぅ、と存外可愛らしいあくびをこぼし、魔女は夜でも眩しい街の方を見下ろす。

 この騒がしさは変わっていないと思えば、よくよく見ればあちこちの崩壊の跡が残っている。そのせいか、以前とは若干風景や住人のメンツが変わっているように見える。向こうからの住人も増えたのではないだろうか。

 

「久々に帰ってきてみれば、刻々と世がお変わりしゃんす。ほんに飽きぬ街でありんすなぁ」

 

 煌々と光を纏うビル街を見下ろし、道行く人々を見つめる魔女はやがて、蠱惑的で妖しげな笑みを浮かべた。

 

 

 ―――街の名は、ヘルサレムズ・ロット、元紐育(ニューヨーク)

    一晩で崩落・再構築され、異次元の租界となったこの都市は今、異界(ビヨンド)を含む境界点。

    地球上で最も剣呑な危険地帯となった。

    霧烟る街に轟く奇怪生物・神秘現象・魔道科学・超常謀略。

    街行く人々も異形が混じり、塵芥の面影は指先ほどしか残らない。

    一歩間違えば人界は浸蝕、不可逆の混沌に呑まれるのだ。

 

    世界の均衡を守る為、暗躍する秘密組織ライブラ。

    この物語は、その構成員達の戦いと日常の記録である。

 

    そして、両手に希望の輝きを携え、絶望を希望に変える魔女の一幕である。



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1.魔女の帰還

 ―――ハロー、ミシェーラ!

    兄ちゃんは今日も一応無事です。

    こないだバイトの途中でいきなり拉致られたかと思えば、細菌兵器ばらまこうとしていたテロ組織とどんぱちやらかすことになったときは流石に死ぬかと思いました。

    でもこのあいだの邪神召喚未遂事件よりはマシだったので、とりあえず怪我もなく元気にやってます。病院で二十針縫うことにはなりましたが、比較的平和です。

    ただし、こんなことを手紙に書くと百パー心配されるので、この手紙は出さないことにします。

    え? じゃあなんのために書いてるんだって?

    決まってるだろう? 遺書の代わりだよ。

 

 

「ああああああああああああああああああああああああああああ‼︎」

 

 路地裏を全力疾走しながら、糸目に天然パーマの少年レオナルド・ウォッチは、絶叫を上げていた。

 背後から迫る者達から必死に逃れようと両腕と両足をこれでもかと振り回し、ただ前へ行こうと力の限り走り続ける。

 全ては、背後から戦車のような勢いで迫ってくる強面の巨漢達から一刻も早く逃れるためだ。

 

 ―――いきなりでごめん、ミシェーラ。

    一応無事だとは言ったけどそれはあくまで現在であって。

    今、兄ちゃん大ピンチです。

 

「待てやこのクソガキャァァァァ‼︎」

「財布と臓器置いてけやァァ‼︎」

「いやにきまってんだろぉがぁぁぁぁ⁉︎」

 

 目の前を通り過ぎただけでカツアゲのターゲット認定、あまりにも理不尽に聞こえるが、あくまでこの程度は日常茶飯事。

〝お前の物は俺の物、俺の物は俺の物、他人の物も俺の物〟を座右の銘としているチンピラはそこらに大勢いるし、夏場の蚊感覚で大量虐殺を行う奴だっている。

 

「やってられっかくそったれぇぇぇ‼︎」

 

 少し気を抜くだけですぐに地獄を見る羽目になる。死にたくなければ死ぬほど臆病になれ、もしくはそんなもんだと諦めろ。

 この街に住む連中は皆、来た当日にそれを理解する。……命があればだが。

 

「止まれってんだよクソチビ人間(ヒューマー)がぁ‼︎」

「あああああああああああ‼︎」

 

 さて、このレオナルドという少年。実はちょっと秘密がある。

 それは凄まじい動体視力だったり、高位の幻術を見破って見せたり、他者の視界をシャッフルして見せたりとある分野でチートな能力を発揮するのだが、彼には独自のポリシーがあるために使おうとはしないのだ。

 そのため、自分の武器を使わないという縛りを行なっていた彼は気づかなかった。

 路地の終わりを歩いている、人影があったことに。

 

「⁉︎ ヤベェちょっとどいてェェェェェェェ‼︎」

 

 レオが叫ぶも、気づくのが遅かったのかその距離はもう目前にまでなっている。なんとか避けようと健闘するも、勢いづいた体は思うようには止まってくれなかった。

 心の中で必死に謝りながら、レオが目の前の人影に激突しそうになった瞬間。

 レオの体が、ふわっと浮いた。

 

 ―――⁉︎

 

 突然のことに、レオは走る体勢のまま固まり、ぐるりと一回転する視界に呆然となる。ふと、視界の端に入った人影から白い手が伸びているのを見て、ああ投げられたんだなということだけをうっすら理解していた。

 

「ごへぁっ‼︎」

 

 放り出されたレオは受け身もまともに取れず、潰れたカエルのような声をあげて頭から地面に突っ込んだ。相手になんの反応もされず、ヒュルリと冷たい風が吹いたことが、なんとなく悲しかった。

 だがそうこうしているうちに、レオを追っていたチンピラたちがドカドカと路地から顔を出してくる。その途中、レオを投げ飛ばした人物に気付きぎょろりと濁った目を向けた。

 

「おお⁉︎ なんじゃおのれは⁉︎」

「邪魔するんかおお⁉︎」

 

 いつの間にかターゲットが変わっていた。口汚く罵り、偶然にもレオナルドの前に立ちはだかるようになっている人物―――背丈やシルエットからして少女を見下ろし、ゴキゴキと拳を鳴らすチンピラ。

 

「……それは、わっちのことでありんすかぇ?」

 

 対して少女は、微塵も臆した様子を見せずにフードの下から瞳をのぞかせた。

 

「年端もいかぬおのこを追い回し、……醜いのう」

 

 チンピラたちに真っ向から喧嘩を売り、少女が自分からフードを外して、ようやくその容貌が明らかとなった。

 晒されたのは、絹糸と見紛うばかりの光沢のある白い髪。セミロングのその髪がさらりと風になびき、陽光に照らされてキラキラとした輝きを放つ。もみあげの部分だけを異様に長く伸ばした特徴的な髪型が、波打つように揺れ動いた。

 

「吐き気がするのぉ、ぬしらが吐く息だけでわっちの肺が穢されしゃんす。この落とし前どうつけてくれるつもりでありんすか?」

 

 そんな毒を吐くのは、サクランボのように艶やかな唇。一緒に備わっているのはつるんとした卵形の顔、真珠のように綺麗な肌、眠たげに細められた目を縁取る髪と同じく純白のまつげ。

 そして、全てを見透かすように透き通った、白い瞳だった。

 その瞳が、不躾に見下ろしてくるチンピラ達を鋭く見据え、一瞬だけその表情が怒りの形相に変わった。

 

「去ね、チンピラが」

 

 そこからのことは、レオはあまり覚えていない。というか、まともに認識すらできていなかった。

 

「ぎゃびっ⁉︎」

「ぐげぁがっ‼︎」

 

 どごんどごーんと、象か恐竜のごとき巨体のチンピラたちが紙くずのようにポンポンと宙に飛び、重機並みの重さで地面に深々と突き刺さり、丸太どころか鉄筋のような腕がポキポキとへし折られていく。悲鳴と破壊音、ついでに肉が裂けて骨が砕けて血が噴出する音が辺りに響き、数秒で地獄のような有様になっていく。

 

「……⁉︎」

「ふぃ〜」

 

 この街にきて随分経つが、ここまでの光景は経験がない。しかも、それを遣ってのけているのがおそらくは自分よりも小さな女の子であるというものだ。間違いなく、誰もが正気を疑う。

 積み上げたチンピラの山の上で、少女はパンパンと手のひらの埃を払い、手の甲で頬を伝う汗を拭う。その際、両手の中指にはめられた大きな指輪がキラリと輝いた。

 

「ど、どうも。ありがとうございました」

「あい。おさらばえ」

 

 ぺこりと頭を下げて去っていく少女の背中を、レオは呆然としながら見送る。

 その時、彼は不躾にも〝見〟てしまった。

 

「…すげ」

 

 レオナルドの持つ能力、それは『神々の義眼』と呼ばれる物。

 その力は凄まじく、神速の生物すら視認できる動体視力を有し、因果律をも捻じ曲げた隠蔽まで見抜き、他者の視覚を共有し、高性能センサーすら無効化する脅威の存在すら視認し、その真名をも読み取る。つまりは、〝見る〟行為であればなんでも可能としてしまうのだ。

 それゆえに、レオナルドの眼にははっきりと見えていた。

 去っていく少女に取り憑くようにして、彼女の内に宿っている巨大な(ドラゴン)の姿が。

 

Alohomora

 

 ヘルサレムズ・ロットの均衡を守る秘密組織『ライブラ』。

 とある目的と縁があったレオナルドは、紆余曲折がありながらそこに所属することとなった。

 この日も仕事のため、秘密のルートを通って定時通りに向かう。

 

「おはようございま―……おぉ⁉」

 

 いつもよりやや興奮気味に、そしてちょっと上機嫌に「出勤」したレオナルドの目に飛び込んできたのは、ガックリとソファでうなだれている銀髪ガングロの男。

 名をザップ・レンフロ。

 一応、認めたくはないが先輩にあたるこの男が、こういう状態にあることは多々あったが、いきなりだと流石にびっくりさせられた。

 

「……何してんすか、あんた」

「……話しかけるんじゃねぇ。俺は今、重大な問題に直面してんだ。あっち行ってろ」

 

 机に両肘をつき、口元で指を組み合わせるなんか見たことのあるポーズを横目に、レオナルドは事情を知っているであろう一人の美丈夫に話しかけた。

 

「なんすか? なんでこの人こんなビビってるんすか?」

「……ああ、ある人がこっちに戻ってくるという連絡を受けてな。ザップにとっては、天敵のような存在でね」

「今更っスけどあの人敵多すぎません?」

「普通の相手ならほっとくんだが……俺たちとしても無視できない相手だからな」

 

 常に冷静であり、ライブラの頭脳とも言えるスティーブン・A・スターフェイズも、その表情に引きつりを見せている。

 一方で奥のデスクにいる赤髪の大男、ライブラのリーダーであるクラウス・V・ラインヘルツは上機嫌でパソコンをいじっている。また何かイベントでも企画しているのだろうか。

 

『―――けてニュースをお伝えいたします。先週月曜より、ヘルサレムズ・ロットを訪問しているエメラルド國マヤ大王が、各国首脳との衛星会談に出席されました。これにより、ヘルサレムズ・ロットを起点とした大規模な変動に対する対抗策を講じていくこととなり、各国はさらなる警戒態勢を強いられることとなり―――』

 

 対照的な二人の態度に不穏なものを覚えながら、ラジオから聞こえてくる小難しい政治の話を聞き流しつつ、レオナルドはさっき見たものを一応報告しておこうと考えた。

 

「あ、そういえばさっきすごいもの見ました」

「ん?」

「来る……あいつが来る……あのババアが来る……終わりだ……もうおしまいだ……逃げよう……早く逃げなきゃ……」

 

 見えるのが自分一人であるために、当初はザップなどにばかにされたものだが、不可視の異形を発見したこともあるためにバカにはできない。

 小さな声でブツブツとつぶやいているザップを放置しながら、レオナルドは口を開いた。

 

「ドラゴンみたいなオーラを纏った女の子がいたんすけど、ああいうのもいるんスね」

 

 

 その瞬間、ライブラの空気が凍りついた。

 

 

 ガタッと笑みを浮かべながら立ち上がったクラウスを除き、ザップとスティーブンは見たこともないくらいに目を見開いて硬直していた。

 まるで、決して逃げられぬ死よりも恐ろしい絶望か何かに直面したかのように。

 

「うおおおおおおおおお‼」

「ザップさぁぁぁぁん⁉」

 

 そのうち何をトチ狂ったのか、ザップが奇声をあげながらガラス窓を突き破り、ビルの外へと飛び出した。

 数十階分はある、ライブラのビルの最上階からだ。

 

「ちょっ……何やってんすかあの人ぉぉぉ‼ ここビルの屋上で……ってあんたも⁉」

 

 ザップの奇行に驚愕するレオナルドだが、振り返った先で見たガタガタと震えているスティーブンにも絶句する。今日一日で二人の珍しい表情が見られたが、全く得した気にならなかった。

 

「へ、へぇ~…ど、ドラゴンか、珍しいな。と、ところでその女性、変わった指輪を付けていなかったかい……?」

「あー、付けてましたね。でっかい宝石が付いたきれーなやつでした」

「そ、そっか……そうですか」

 

 ぼたぼたと脂汗を流すスティーブンは、何度か深呼吸を繰り返しながら己を落ち着かせ、困惑したまま立ち尽くしているレオナルドに向き直った。

 

「そ、その人はな、癖が強いというか濃いというか……とにかくちょっと普通とは違う人で……その、付き合い方は気を付けないというか……震えるなこの足ぃぃぃ‼」

「見たことねーぐらい怯えてんだけど⁉」

 

 いうことを聞かない自分の足を殴りつけ、必死に平静を取り戻そうとするスティーブン。

 なんかもう、恐ろしいことが起こることが目に見えていて、レオナルドは今後が不安で不安で仕方がなかった。

 

「レオナルド……‼ 最初に言っておく、あの人には絶対に粗相のないようにな‼ もし機嫌を損ねるようなことがあれば、俺は容赦なくお前を生贄にして逃げるからな‼」

「なにが来るの⁉ いったいここに何が来るの⁉」

 

 がっしりとレオナルドの両肩を掴み、目を合わせて矯正する上司にはもはや恐怖しか感じられなかった。

 と、その時だった。

 

 ―――ぎゃあああああ……

 

 聞き覚えのある断末魔が、ライブラの真下から聞こえた気がした。

 悲痛ささえ感じられるその悲鳴を耳にしたその衝撃は、彼の性格と所業をよく知るレオナルドもスティーブンも、互いに凝視しあったままその場で硬直するほどであった。

 

「あれ、ザップさんですよね⁉ あの声絶対ザップさんですよね⁉ 怖ぇよなにが起こんだよここで‼」

 

 その時、ガタンと鈍い音がして建物がわずかに振動する。ライブラの本拠地に至るためのエレベーターに何者かが乗り込み、上がってきているのだ。

 その通り道を知っているのはライブラのメンバーのみ、上がってくるのは味方のはずだが、その場にいる誰もが敵の襲撃を待ち受けているかのように沈黙していた。

 

「……!」

 

 誰かがつばを飲み込む音が聞こえた直後、レオナルド達がいる階にエレベーターが到着する。扉が開き、コツコツと廊下から靴音が聞こえ、緊張感が高まっていく。

 そしてついに、訪問者がその姿をあらわにした。



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2.異形來て

「――ん? どうかしたんですか?」

 

 果たして姿を現したのは、半透明な肌をもつ、細身の半魚人のような容貌の男だった。

 最も新たらしライブラの仲間に加わった、ザップの弟弟子にあたる斗流血法の使い手、ツェッド・オブライエンである。

 

「なんだお前か…! びっくりさせるんじゃないよまったく」

「⁇」

「あー、大丈夫っスよツェッドさん。思ってたのと違う人が出てきてからぶってるだけなんで」

 

 緊張していたところに、全く予想外の人物が現れたことで安堵したのか、あからさまに喜ぶ様を見せるスティーブン。

 ツェッドはひたすらに戸惑いの表情を見せ、レオナルドがそれを宥める。本来こういう役目は彼の役目ではないのだが、今日に限って全員のテンションがおかしくなっていた。

 

「誰と間違えたんですか? 僕はまだここに来るまで兄弟子以外、誰にも会っていませんけど…」

「いや、いい。気にするな。とりあえず『まだ』ってことはわかったから」

「はぁ…」

 

 はーっと盛大なため息をつくスティーブンに、ツェッドはやはり気になるのか首を傾げる。

 ひとしきり落ち着いた様子のスティーブンが、仕事に戻ろうかとその場を離れようとしたとき、ツェッドが不意に手を挙げて彼を呼び止めた。

 

「ああそうだ。それとは別にちょっと相談したいことがありまして…」

「ん? 何だ?」

「…非常に言いづらいことなんですが」

 

 人間とは骨格から異なる顔を、なんとも言えない複雑そうな表情に歪め、ツェッドは珍しく口ごもる。

 礼儀作法のしっかりした、割とはっきりものを言うタイプの彼が、こんな反応をするのは珍しい。何事かと視線を向けたスティーブンや、パソコンをじる手を止めたクラウスの視線を浴びながら、ライブラの新人は重そうに口を開いた。

 

「…幼い少女に…本当に幼い女の子に殺意全開で追い回される兄弟子を見かけたんですが……仮にいつものトラブルだったとして、僕はあれをどう受け止めれば良いんでしょうか」

 

 その瞬間、またしてもライブラの空気が凍りつく。

 スティーブンは何か名状し難い、正気を失わせる邪神か怪物の類を目の当たりにしたかのように愕然とした表情で、大きく口を開けて固まる。

 上司の異常な反応にビクッと体を震わせたツェッドの前で、スティーブンはがくりと膝をついて項垂れた。

 

「神は死んだ…! 先にあっちが標的にされただけだった…‼︎」

「⁉︎ ⁉︎」

「マジでここに誰が来るんですか⁉︎ 恐ェよ‼︎ 今すぐ逃げてぇよ‼︎」

 

 歴戦の戦士であり、頼れる冷静沈着な参謀が見せる、この世の終わりに遭遇したかのような姿に、ツェッドとレオナルドは凄まじい恐怖に襲われる。一体この街に、と言うかライブラに何が近づきつつあると言うのだろうか。

 騒然となるオフィスの中で、唯一喜ばしそうに眼鏡を光らせたクラウスが、わなわなと震えるレオナルドの肩をポンと叩いた。

 

「何もそう怯えることはない。彼女はれっきとした淑女だ。何もそんな怪物を相手にするように構える必要はないよ」

「いや、隣で胃を抑えてる人がいて全然信用できないんスけど」

 

 安心させようとしているクラウスには悪いが、すぐそばで顔を真っ青にさせている上司がいるため、彼の評価を素直に受け止めることができない。

 どれだけ悪辣な敵であろうと、紳士的な態度を崩すことがないクラウスの評価は、悲しいことに今のこの状況において、一切の説得力を持ち合わせていなかった。

 

「……よし、俺も覚悟を決めた。こっちから出迎えよう。ザップに関しては……必要な犠牲だと割り切ろう」

「どんだけおっそろしい人…⁉︎」

 

 胃の痛みを無理やり抑え込み、ヒクヒクと頬を痙攣させたままスティーブンが立ち上がる。顔は真っ青なまま、今にも精神的な負荷でぶっ倒れそうな状態である。

 このまま迎えにいって、ストレスで吐血でもするんじゃないかと不安になるレオナルドだったが、覚悟を決めた様子のスティーブンに物申すことはできなかった。

 

「さて、じゃあ早速探しに行―――」

『緊急連絡、緊急連絡!』

 

 そしてスティーブンが、外に向けての一歩を踏み出しかけたその時だった。

 微妙に気の抜けるサイレン音がライブラ中に鳴り響き、続いてスピーカーから音声が流れる。同時に天井に備えられたテレビに、荒い画素数の映像が薄し出された。

 

『4番街にて人型怪異が出現。機動隊の攻撃を跳ね除け、民間人にも多大な被害が発生している模様。至急、現場へ向かわれたし』

 

 映し出された、大きく揺れる映像の中では、人に近いシルエットの何かに向けて警察部隊が立て続けに発砲し、会えなく吹っ飛ばされ、あるいは叩き潰されていく光景が映っている。

 まるでB級映画かカートゥーンのような様だが、聞こえてくる声やこの街がそう言う街であるという事実から、まごうことなき現実であると言うことがわかった。

 

「―――こうかと思ったが先にこっちを片付けねばな!」

「急ごう。すでに多数の犠牲者が出ているはずだ」

 

 先ほどとは打って変わって、満面の笑みを浮かべたスティーブンがジャケットを羽織りながら歩き出すと、それにクラウスも続いて飛び出していく。

 一歩遅れる形で、二人の跡を追いかけ始めたレオナルドとツェッドは、なんとなく気まずげに顔を見合わせあった。

 

「………ああいうの、問題の先送りって言いますよね」

「そうですね…まぁ、黙っておきましょう」

 

 ほったらかしにするのもどうなのか、と言う疑問がふと浮かんだが、あえて二人は問うようなことはせず、事件が起きている4番街に急ぐのだった。

 

Aguamenti

 

 ヘルサレムズ・ロット4番街。そこはすでに、地獄と呼んでいい惨状を晒していた。

 いくつもの破裂音と轟音が鳴り響き、もくもくと土煙が立ち込める。その中で、巨大な瓦礫や人の体の一部が、小石のように放り上げられるのが見えた。

 

「うおおおお⁉︎」

「ダメだ全く歯が立たねぇ!」

 

 ドパパパパン、と銃器が無数に火を噴き、弾丸を標的に打ち込んでいく警察の部隊。

 しかし、その奮闘が実を結ぶことは叶わず、重厚なロボットスーツを纏った彼らは、瞬く間に次々に投げ飛ばされ、生身の体ごとバラバラにされていく。

 それは魔術や兵器が使われたわけでもない、彼が相対していた怪物の、ただの力任せな暴力の嵐によるものだった。

 

「出遅れたか!」

「派手にやってますね…!」

 

 悲鳴と金属音、そして肉が引きちぎられるいやな音がこだまする中に、クラシックカーに乗ったクラウス達が到着し、目の前の惨状に目を見張る。

 すると、タイミングを見計らったように立ち込めていた土煙が晴れていき、警察が相手取っていた怪物の姿を陽の元に晒し出した。

 

「グオオオオオオオ‼︎」

 

 ガシャガシャと積み重なる機動隊の骸を踏み潰し、それは雄々しく咆哮を上げながら前に踏み出してくる。

 金属的な輝きを放つ皮膚に、隆々と盛り上がった全身の筋肉。天に捻れながら伸びる二本の角に、その手に握られた戦斧。その姿はまさに、伝説上に登場するかの怪物と瓜二つの容貌をしていた。

 

「ミノタウロス…?」

「ブオオオオオ‼︎」

 

 呆然と呟くレオナルドの前で、ミノタウロスは手近にあった瓦礫を片手で掴み、軽々と頭上に持ち上げ、勢いをつけて投げ飛ばしてくる。

 一瞬呆けてしまったレオナルドは、慌てて横に飛び退いたツェッドの機転で窮地を脱し、顔を真っ青に染めながら、同じく突然の攻撃を躱したスティーブンに目を向けた。

 

「あ、あれも血界の眷属(ブラッドブリード)なんスか……⁉︎」

「の、一種だ。彼の方が抑えているからここ(ヘルサレムズロット)には現れないはずなんだがな…!」

 

 パラパラと降り注いでくる砂塵を払い、冷や汗を流したスティーブンが忌々しそうに呟く。組織の頭脳たる彼が見せる、やや引きつった表情は、敵がいかに厄介な存在であるかを如実に表している。

 その間も、怪物は暴れることをやめない。狙っていた獲物がピンピンしていることが気に入らないのか、再び手近な瓦礫を持ち上げ、レオナルド達に向けて思いっきりぶん投げてくる。

 

 ブレングリード流血闘術117式

絶対不破血十字盾(クロイツシルトウンツェアブレヒリヒ)

 

 隕石のような勢いで迫る、あたりを暗くするほどに巨大な瓦礫。

 回避など無意味な規模のそれだったが、それはレオナルド達の目前に出現した、赤黒い光沢を放つ十字架の盾に防がれる。

 バゴン、と轟音と共に砕けた瓦礫が落ちてくるのを避けつつ、十字架の盾をどろりと液体に―――自身の血液に戻したクラウスが、雄々しく前に歩き出した。

 

「何にせよ、このままでは被害が拡大する。我々も出るぞ」

「ああ」

「はい」

 

 そう告げて、クラウスの後にスティーブン、ツェッドが続く。するとそれぞれの手元と足元に、血の三叉槍と氷の地面が生み出されていく。

 それこそ、彼らがこの異形の街(ヘルサレムズ・ロット)において戦い抜くための矛にして盾。人界を守るために編み出された、対異形用の戦闘技術―――。

 

「ブオオオオオオ‼︎」

「斗流血法、シナトベ」

「エスメラルダ式血凍道」

「ブレングリード流血闘術、推して参―――」

 

 各々の流派を名乗り、クラウス達は向かってくるミノタウロスに向けて、地を媒介に生み出した武器を構える。

 凄まじい形相と、雷鳴のような咆哮を上げて、斧を振りかぶったミノタウロスとクラウス達が激しく激突する。まさにその瞬間だった。

 

 斗流血法カグツチ 刃身の拾弐 双炎焔丸

「うおおおおおおおおおおおお‼︎」

 

 ものすごい裂帛の気合、というよりも叫び声悲鳴を伴い、必死の形相のザップが真横の瓦礫を飛び越えて乱入してくる。

 あまりにも唐突な事態に、クラウス達はおろかミノタウロスまで呆然と目を見開き、大刀二本を振り回して、進向方向上の瓦礫を切り刻みながら割り込んでくる褐色の男を凝視してしまう。

 

「ザ…ザップ‼︎」

「どけどけどけどけそこどいてくれぇぇぇぇぇ‼︎」

「何をやってんだあいつはぁぁぁ⁉︎」

 

 鼻水まで垂らし、あっき羅刹に追い回されているかのような声をあげるザップは、邪魔なミノタウロスの斧に一閃を食らわせ、たたらを踏んで後ずさらせる。

 クラウス達も思わず後退し、どこぞへと無様な格好で走り去っていく部下に、戸惑いと呆れの視線を向けた。

 

「一体今までどこに…?」

「…⁉︎ 待てよ…あいつがここにいるってことはまさか…!」

 

 兄弟子の見せる、人目もはばからぬ奇行に、唖然となるツェッドが呟く。

 スティーブンはその瞬間ハッと目を見開き、顔中からブワッと大量の脂汗を噴き出させる。

 だが、気づいた時にはもう、遅かった。

 

 

「―――みーつけた♡」

 

 

 凛と鈴を鳴らすような、そして同時に嗜虐心に満ちた艶っぽいハスキーボイスが、あたりに異様なほどに強く響く。

 スティーブンの表情が、全ての感情が凍りついたかのような無に変貌した時、彼らの周囲に突如、無数の火の粉が舞い散り始めた。

 

 ソーマ流血晶魔導第二章一節

灼熱の鋭槍(エストアンヌ・アスタム)

 

 そして発生する、壮絶なまでの爆発。

 限定された空間にナパームでもぶち込まれたのかと勘違いするほどの強烈な、あたりが一瞬光に飲まれるほどの閃光と爆音が轟く。

 それはクラウス達に咄嗟に防御体勢をとらせ、ミノタウロスもろともザップを吹っ飛ばす。

 

「やれやれ…邪魔じゃ、ザコが」

 

 黒煙をあげて墜落していく一人と一体を見やり、炎が消えた中心にひとつの影が降り立った。

 ふわりとなびく膝裏まで届く長い白髪に、未成熟な肢体を覆うシックな色合いのドレス。細い枝のような足が地面に立つと、こつん、と可愛らしい靴音が鳴る。

 ゆるやかにカーブする前髪から覗くのは、切れ長ながら大きく丸い、幼さが目立つ瞳を持った、人形のような整った顔立ち。

 そういう、どこからどう見ても可憐な少女が、戦場の真っ只中に現れていた。

 

「………⁉︎」

「―――なんじゃ、せっかく帰ってきたというのにずいぶん静かでありんすなぁ?」

 

 この場には全く似合わない容貌の少女の登場に、レオナルドとツェッドはただ困惑の、スティーブンは恐怖の、クラウスは喜色の表情を浮かべ出す。

 腰に手を当てて、辺りを可笑し気に見渡していた少女は、やがてその悪戯っぽい視線を、背後で戦慄するスティーブンに向けた。

 

「調子でも悪いのでありんすか? スティーブ」

 

 それは、外見からはあまりに似つかわしくない、蠱惑的な笑みだった。

 見た目は幼く可憐な少女、しかしその目の奥に覗いて見えるのは、色気をふりまく熟した女のような気配で、まるで姿を偽っているかのように見える。

 アンバランスすぎる雰囲気を前に、レオナルドは困惑の視線を向けるばかりだった。

 

「……⁉︎ な、何が起き…⁉︎」

「お…お久しゅうございます、エヴァンジェリン・ソーマ・ソレイユ女史……お、お元気そうで何よりで」

「皮肉かえ? まぁ、積もる話は後じゃ」

 

 ガクガクブルブルと、またも生まれたての子鹿のように全身を震わせるスティーブンに、少女―――エヴァンジェリンはくつくつと肩を揺らして笑う。

 すると突如、彼女のもとに大きな瓦礫が砲弾のように飛来し、押しつぶそうと迫る。が次の瞬間、振り向きざまに放たれた少女の蹴りによって、木っ端微塵に砕かれた。

 

「指輪の…魔法使い…! ブオオオオオオオ‼︎」

「ふん、なかなかしぶといのぉ」

 

 エヴァンジェリンは面倒臭そうに、瓦礫を投げ飛ばしてきたミノタウロスを睨みつけ、ため息をつく。

 そしてちらりと視線を脇に寄せ、そろそろと瓦礫を隠れ蓑に離れようとしている浅黒い肌の男を見やった。

 

「さぁ、あのアホを締める前にもうひと暴れしんすか」

「ちっくしょう! どさくさで誤魔化したかったのに!」

「逃がすわけありんせんわ、阿呆」

 

 呆れた笑みを見せ、フッと鼻を鳴らしたエヴァンジェリンは、コキコキと指を組んだ腕を伸ばし、ミノタウロスの方へ向かっていく。

 臆する素ぶりなど微塵もない、あまりにも堂々とした態度に、彼女の登場の凄まじさから呆然となったままだったツェッドが、ハッと我に返った。

 

「なっ…⁉︎ ちょっと、危ないですよ‼︎ すぐに離れて……」

「どいてろ、魚類」

 

 ずんずんと突き進む少女を止めようと、慌てて駆け寄ろうとするツェッドに、観念した様子で肩を落としたザップが前に出て制する。

 ギョッと目を見張る弟弟子をよそに、ザップは真っ直ぐに怪物の目の前に向かっていく小さな背中を見送り、ブルリと肩を抱きながら全身を震わせた。

 

「むしろ、俺達の方が邪魔だ」

「何を……⁉︎」

 

 根拠の見当たらない断言を残すザップに、信じられない様子で口を半開きにするツェッド。

 少女と兄弟子、双方に何と言うべきか迷うように交互に視線を向けた彼は、少女が見せた動きに意識を持っていかれた。

 

〈ドライバーオン・プリーズ〉

 

 エヴァンジェリンが取り出したのは、掌の形の意匠が施された一つの指輪。

 それを自身の腰前に差し出した直後、光とともにベルトが巻きつく。

 少女はベルトの感触を確かめるように触れると、左右にせり出したつまみを上下に動かし、不思議な光を迸らせた。

 

シャバドゥビタッチヘンシーン シャバドゥビタッチヘンシーン

「……唸れ吠えよ久遠に猛れ、紅蓮の業火。この身に宿すは泰然不動の意志の熱」

 

 赤、青、緑、黄に変色するベルトを見せつけ、エヴァンジェリンはまた新たな指輪を左手の中指にはめる。

 炎のような赤色の、美しい宝石。それに備わった部品をずらし、顔を思わせる形に変えると少女は見せつけるように左手を掲げる。

 

「―――変身」

フレイム・プリーズ ヒーヒーヒーヒーヒー

 

 少女の左手の宝石が、輝くベルトの中心に触れた瞬間、変化が始まる。

 奇妙な歌が始まると同時に、少女の左側に炎で描かれた魔法陣が出現し、エヴァンジェリンの体を包み込んでいく。

 魔法陣に触れた箇所から、徐々に炎が形となり、ある一着の衣装を生み出していく。ドレスからコートへ、日常を彩る格好から、戦場を彩る格好へ、少女を変貌させていく。

 

「さぁ……しょーたいむでありんす」

 

 黒いコートをはためかせ、赤い宝石のサークレットを輝かせ、小さな魔女は怪物にも蠱惑的に笑ってみせた。



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3.指輪の魔法使い

「しっ!」

 

 エヴァンジェリンの華奢な足から放たれた蹴りが、見た目には似合わぬ鋭さと重さで、少女よりはるかに巨大なミノタウロスの横腹に炸裂する。

 猛牛の異形は咄嗟に腕を盾にしたが、それでも止められぬほどに少女の一撃は強く、巨体が軽々と吹き飛ばされる。

 

「がぁああ!」

「鈍いわ、牛もどきめが」

 

 蹴りの勢いのまま、その場でくるりとターンしたエヴァンジェリンがため息交じりに吐き捨てる。

 カツン、と警戒に靴を鳴らし、コートの裾を靡かせた小さな魔女は、心底面倒くさそうに半目を向け、肩を竦めてみせる。

 

「せっかく愛しの彼の方がわっちの帰りを待ってくれていたというのに、空気の読めぬ無粋な輩めが……この罪、そうそう償えるとは思うでないわ」

 

 しかしすぐに、小さな魔女の目からは強烈な殺気が迸り始める。

 刃の様に突き刺さる気迫に、ミノタウロスはびくりと全身を震わせると、胸中に沸いたその感覚を振り払うように首を横に振り、再び猛然と突撃を行った。

 

「指輪の……魔法使いぃ‼︎」

「せぇああああ‼︎」

 

 戦斧を手に、真正面から襲い掛かる猛牛に、エヴァンジェリンの片足がまた唸りを上げる。

 高々と跳躍した小さな魔女は、まるで踊るように宙を走り、戦斧を振り上げたミノタウロスの側頭部に爪先を叩き込む。凄まじい衝撃がミノタウロスの頭部に走り、片方の角が勢い良く圧し折られてしまった。

 

「うっわ、強ぉ…!」

「よく見ておけよ、陰毛に魚類……あのババアはライブラ(うち)で、最強と言っても過言じゃねぇバケモンだ」

 

 その様子を伺う、瓦礫に身を潜めたままのレオナルドとザップ。

 組織内部でも実力者に相違ないはずの彼がこぼす台詞に、レオナルドは勿論ツェッドも戦慄の視線を向ける。

 少女を恐れる彼に呆れていたことも忘れ、戦いの様をただ凝視する他になかった。

 

「そら、どうした? この程度で息が切れんしたか?」

「ちっ…いけ!」

 

 ずしん、と倒れ込むミノタウロスに、エヴァンジェリンが冷笑と共に挑発の言葉を吐く。

 片角を折られたミノタウロスはそれを憎々しげに睨みつけ、やがて懐から小石のようなものを取り出し、辺りにばらまいていく。

 

「ォオオォォオ…‼」

 

 宝石のような何かが埋め込まれたそれらは、地面につくと同時にもこもこと形を変え、あっという間に人の形に変わっていく。

 岩に見える皮膚に、小鬼のような二本角、そして不気味な呻き声をあげるそれらはどこからともなく槍を取り出し、一斉に小さな魔女に向かって殺到していった。

 

「雑魚がわらわらと…面倒臭いでありんすな」

〈ルパッチマジックタッチゴー! ルパッチマジックタッチゴー!〉

 

 エヴァンジェリンは、迫り来る異形の兵(グール)達を鬱陶しそうに見やると、腰のベルトのつまみをいじり、先ほどとは異なる音を響かせる。

 軽快な歌と光が辺りに散る中、エヴァンジェリンは右の中指に指輪を通し、ベルトの中心にかざす。

 

〈コネクト・プリーズ!〉

 

 突如、彼女の真横に赤い陣が展開され、小さな魔女はその中に手を突っ込む。

 その手が抜かれた時には、エヴァンジェリンの手には一振りの剣が握られ、鈍い銀色の光を放ってグール達に突き付けられていた。

 それに構わず、数体のグールが手にした槍を振り下ろそうとした時。

 

 ギィン!

 

 と閃光が走り、鋭く甲高い音が鳴り響いたかと思うと、群がっていたグール達の身体に線が走る。

 一瞬の間の後、異形の身体は線を境にずれ、ぼとぼとと肉塊となって崩れ落ちていった。あとに残ったのは、剣を振り抜いた体勢で停止する小さな魔女の姿だけである。

 

「ゴキブリのように湧きおって、鬱陶しいわ」

〈バインド・プリーズ!〉

 

 残った異形の兵達が、それでも真正面から突っ込もうとしたその時、エヴァンジェリンはまた新たな指輪をはめ、ベルトの前にかざす。

 すると今度は、地中から幾本もの鎖が表れ、グールたちの身体に巻き付いてひとまとめにしていく。動きを止めた彼らを前に、エヴァンジェリンはまた別の指輪を用意してベルトにかざす。

 

〈ビッグ・プリーズ!〉

「ほれ、お仕置きじゃ」

 

 真正面に現れた大きな陣に、エヴァンジェリンが無造作に手を突っ込む。すると陣を抜けた彼女の手が巨大化し、まとめられていたグールたちを吹っ飛ばしてしまう。

 たった一人で、小さな魔女は異形達を一方的に蹂躙してしまっている。その光景に、レオナルドは瞠目しっぱなしだった。

 

「ちょっ…ちょっとザップさん、今回ほぼ出る幕なさそうなんすけど大丈夫なんスか?」

「言うんじゃねぇクソ陰毛頭…! あれに突っ込んだら死ぬだろ普通に‼︎」

 

 果たしてこの場に来た意味があるのだろうか、とレオナルドは驚くほどに役に立っていない自分や同僚の今の姿を嘆く。

 だがふと、彼の表情が変わる。一瞬、単独で暴れ回る小さな魔女から目を離した彼の視界に、奇妙な何かが映ったからだ。

 

「何だ……あの光は」

 

 彼の目に映ったもの。それは、瓦礫の間で蹲る一人の女性。

 瓦礫が散乱し、骸がいくつも転がる地獄の中、逃げる事もせず俯いたまま動かない彼女の姿に、そして彼女から溢れて見えるオーラに、レオナルドは目を奪われていた。

 

〈シャバドゥビタッチ・ヘンシーン! シャバドゥビタッチ・ヘンシーン!〉

 

 困惑の視線を向ける彼に構うことなく、エヴァンジェリンはまたベルトのつまみを動かし、鮮やかな光を迸らせる。

 今度は左手にはめた指輪を換え、青い輝きを備えてベルトにかざす。同時に、桜色の唇から歌うような祝詞を唱え、コートをたなびかせた。

 

「溢れ流れ果てなく揺蕩い、水面に映るは真の心。この身に宿すは千変万化の命の飛沫」

〈ウォーター・プリーズ! スイースイースイスイー!〉

 

 青い陣が頭上に出現し、覆いかぶさるようにエヴァンジェリンの方へと下がってくる。それを通り抜け、彼女の姿はまた少し変わっていく。

 サークレットの宝石は菱形に、コートの宝石も青色に変わり、水のような澄んだ輝きを放つ。

 

「ぶおおおお‼」

 

 ミノタウロスは戦斧を手に突進し、刃を振りかざすも、エヴァンジェリンは流れるように緩やかにそれを躱し、代わりに巨体に組み付き腕を絡めとる。

 ゴキッ、と異形の肩が鈍い音を鳴らし、苦悶の声を上げて戦斧を取り落とす。振り払うミノタウロスだが、その時には既に小さな魔女は別の指輪を備えていた。

 

「吹けよ揺らせよ永遠に荒ぶれ、烈風が払うは迷いの霧。この身に宿すは古今東西止まぬ追い風」

〈ハリケーン・プリーズ! フーフーフーフーフーフー!〉

 

 風が吹き、エヴァンジェリンの小さな体を浮かばせる。そして、足元に現れた陣が体を通り抜け、サークレットとコートの宝石を緑の三角の形に変える。

 鮮やかな緑に彩られた風に乗り、エヴァンジェリンは軽やかに宙を舞い、手にした剣でミノタウロスを斬りつける。その素早い動きに、異形は翻弄されるばかりだ。

 

「響き震えて無窮に積もり、砂塵が創るは守護の砦。この身に宿すは確乎不動の万物の素」

〈ランド・プリーズ! ドッドッドドドドン! ドッドッドドン!〉

 

 天を舞うエヴァンジェリンの背後に黄色い陣が出現し、それを通り抜けてまた宝石の形と色が変わる。

 四角い黄色の宝石を携えた小さな魔女は、遥か頭上から勢いよく落下し、ミノタウロスを思い切り踏みつけ、地面の中にめり込ませる。

 

「何と言う強さ…‼︎ あれだけの属性を一度に…それも一人で」

 

 一切危なげなく、一方的な猛攻を見せるその姿に、ツェッドは開いた口が塞がらないと言った様子を見せていた。

 単純な戦闘能力だけならば、彼の師に迫る強さを有しているのは間違いない。だが、使用されている技術の高さを見れば、師を越えているのではないかと思わざるを得ないのである。

 

「―――現代に失われた力……世において度々〝奇跡〟と称される()()()神秘」

 

 ビキビキッ…と氷の盾を出現させ、飛んでくる瓦礫の破片を防ぎながら、スティーブンが誰にともなく呟く。

 突然の声に振り向いたツェッドは、スティーブンの遠い目に思わず冷や汗を流す。奇跡など、人によれば戯言と切り捨てられそうな単語だが、そう思わせない圧が今の彼からは感じられていたのだ。

 

「己の内に宿した魔物の力を引き出し、一切の物理法則を無視した現象を無尽蔵に引き起こす。その威力は魔術の比ではなく、唯一人間の手によって世界に干渉し得る術……」

 

 再び、ツェッドは小さな魔女に視線を戻す。

 それは、もはや戦いなどではない。瓦礫の中を飛び回り、コートとスカートを翻し、笑顔を浮かべて剣を振り回すその姿は、異様という外にない。

 

「彼女こそ、我がライブラが誇る最優最良の魔法使い(ウィザード)だ」

 

 圧倒的な力をもって行われる遊戯の様に、その場にいた誰もがごくりと生唾を呑み込んでいた。

 そんな視線の最中に佇み、エヴァンジェリンはまた新たな指輪を指にはめ、ベルトにかざして笑みを浮かべた。

 

「ふぃなーれじゃ」

〈チョーイイネ! キック・ストライク サイコー!〉

 

 声が鳴り響くとともに、彼女の足元に大きな赤い炎の陣が出現する。

 轟々と燃え盛るそのうえでコートを翻し、エヴァンジェリンは体勢を低く落とし、右足を前に出して構えをとる。

 そして次の瞬間、彼女は新体操のように側転と跳躍を行い、空中に飛び出した。

 

 ソーマ流血晶魔導第1章第13節

 

 ボゥッ!と凄まじい業火を右脚に集め、華麗に宙を舞う小さな魔女。

 煌々と輝く赤を携えた彼女は、連撃による疲労と苦痛で後退る事しかできないミノタウロスに肉薄し、勢い良く右脚を突き出す。そして。

 

 紅き一条(ヴェラルブラン)

 

 ズンッ!と辺りに衝撃波を撒き散らしながら、小さな魔女の蹴撃がミノタウロスの胸の中心に炸裂する。

 業火で皮膚が焼かれ、重さで胸が陥没し、異形の肉体に無数の罅が入る。と思った次の瞬間、異形の身体から爆炎が噴き出し、木っ端微塵に弾け飛ぶ。

 最期にはヴォオオオ!という断末魔が、虚しく辺りに響き渡っていた。

 

「…んっとによぉ、あの化け物具合はいつ見ても恐ろしいわ」

 

 ぱらぱらと飛び散る異形の破片を仰ぎ、ザップが頬を引きつらせて呟く。

 異形が立っていた場所には、エヴァンジェリンただ一人が残り、足元に刻まれた焦げ跡が、彼女が放った一撃の凄まじさを物語っている。

 異臭と熱が立ち込める中、小さな魔女は気だるげな表情で佇んでいた。

 

「火・水・風・土の四大元素を使い分ける上に、()()()()()()()()()()()()使()()()とか悪夢以外の何物でもねぇよ」

「……彼女は、本当に人間ですか」

「さぁな…正直、俺にもわかんねぇよ」

 

 ツェッドが恐る恐る兄弟子に問いかけるが、ザップはそれに鬱陶しそうに返し、振り向くこともしない。

 敵ではなくとも、彼女が持つ力の凄まじさに戦慄を禁じえず、視線や意識を逸らす事ができなかったからだ。

 

「ふぃ~…さて、ようやく終わりかの」

 

 やがて、エヴァンジェリンの顔から殺気が薄れ、冷たい眼差しがレオナルド達、ライブラの面々に向けられる。

 エヴァンジェリンは彼らの顔を順々に眺め、自分が探していた一人を見つけ出すと、口元に笑みを浮かべて歩き出そうとした、その時だった。

 

「ソレイユ女史!」

「ん?」

 

 不意にスティーブンが上げた声に、エヴァンジェリンは胡乱気な、同時にいいところを邪魔されたような険しい視線を向ける。

 だが、冷静な参謀が浮かべている焦燥の顔に、彼女も顔色を変えて走り出す。

 スティーブンの傍に駆け寄ったエヴァンジェリンは、彼が抱える一人の女性に―――その手に刻まれた、紫色のひび割れを目にし、舌打ちをこぼした。

 

「こ、これは…」

「身体が……ヒビ割れて…⁉︎」

 

 同じく駆け寄ったレオナルドとツェッドも、女性に起きている異変に目を見開く。

 何かの病か、それとも特殊な外傷か。常識的にあり得ない現象も、この街では普通にありふれたものとなり得るため、彼らの間に緊張が走る。

 その中で、スティーブンがあるものを見つけ、エヴァンジェリンの前に差し出してみせた。

 

「ソレイユ女史……おそらくこれかと」

「いかんの……さっきのファントムにやられたか。相当大切なものだったようだの」

 

 スティーブンの掌の上にあったのは、砕けたチェーン付きのロケット。

 その中に納められた写真は、戦闘に巻き込まれたためか破れ、悲惨な状態に陥っている。それを目にした途端、女性に刻まれた罅が一層広がり、ビキリといやな音が響いた。

 

「なんすかこれ…どうなってんスか」

 

 常人から見ても異様の一言に尽きる光景に、レオナルドはさらに青い顔で立ち尽くす。

 彼の〝目〟には、罅の奥にある何かがはっきりと見えていた。

 まるで女性自身を卵の殻とし、それを無理矢理こじ開けて外に飛び出そうとしているような、そんな得体のしれない何かの姿が。

 

(何かがいる……この人の中で、何かが蠢いてる…⁉)

「どきなんし、小僧」

 

 ぞわっ、と罅の奥にある何かの気配に、背筋を震わせ棒立ちになるレオナルド。

 しかし、硬直する彼を横にのけ、気だるげに首を鳴らすエヴァンジェリンが割って入る。彼女は女性の手を取り、震える彼女の目を覗き込んだ。

 

「いや……いや…! 怖いよ……‼︎」

「任せなんし……わっちがぬしの、最後の希望でありんす」

 

 そう、優しい声で語りかけた小さな魔女は、女性の片手の中指に一つの指輪をはめる。

 美しい、橙色に輝くそれを備えさせ、エヴァンジェリンは自分のベルトにかざさせる。その瞬間、女性とエヴァンジェリンの間に大きな陣が出現した。

 

〈エンゲージ・プリーズ!〉

「ほっ…!」

 

 すると次の瞬間、エヴァンジェリンは軽い掛け声とともに跳び上がり、陣の中に飛び込んでしまう。

 一瞬で姿を消した彼女に、レオナルドはツェッドと共に目を剥き、オロオロと辺りを見渡して狼狽をあらわにした。

 

「な、何が…⁉︎」

 

 慌ててクラウスやザップ達の方を見やるも、皆真剣な表情で女性を見下ろすだけで、驚愕している様子はない。

 何が何やら、と呆気にとられるレオナルドの〝目〟に、その光景が映り込んだ。

 

 

 

 そこは、何処とも知れない遊園地の中だった。

 楽し気な子供達の声や、大人達が談笑する声が響く、淡い色彩の光景である。

 一見しただけで、現実とは異なるとわかる奇妙な景色の中、エヴァンジェリンは一人佇む。

 

「……ここが、あの子の心の中。あんだーわーるどかえ…」

 

 唯一鮮やかな色彩を有した彼女は、明るく優しいその風景を見渡し、どこか羨ましそうな眼差しを向けていた。

 だが、その景色の中に突如、巨大な紫色の亀裂が走る。

 バキバキと軋みを上げてこじ開けられたその奥から現れたのは、巨大な黄金の龍の頭だった。

 

「ギィイイイイ‼︎」

「むっ…!」

 

 龍は甲高い咆哮を上げ、目下に佇むエヴァンジェリンの姿を捉えると、辺りに罅を広げながらその姿をあらわにしていく。

 その姿は、只の龍ではない。本来尾がある部分にも、銀色の龍の顔がある異様な姿―――ウロボロスと呼ばれる異形が、小さな魔女に襲い掛かろうとしていた。

 

「出番じゃドラゴン! わっちに力を貸しなんし‼︎」

〈ドラゴライズ・プリーズ!〉

 

 エヴァンジェリンは双頭の龍を見据え、好戦的な笑みを浮かべると、また新たな指輪を指にはめ、ベルトの前にかざす。

 途端に出現する、ひときわ巨大な陣。その奥からは、宝石の目と銀色の体躯を持った、巨大な(ドラゴン)が顔を出し、凄まじい雄叫びを上げて天に飛び立った。

 

「ギャオオオオオオオ‼︎」

「むっ! あやつめ……勝手なことを! はぁっ!」

 

 現れて早々、双頭の龍を敵と見定めた竜は、力強く翼を羽ばたかせ、二つの首のうち一方に食らいつきにかかる。

 エヴァンジェリンは飛び出していった竜に舌打ちをこぼすと、肩を竦めてから自身も宙に跳び上がる。そして、ガチガチと牙を鳴らす竜の背に飛び乗り、首根っこをがしりと掴んで引き寄せた。

 

「相変わらずのじゃじゃ馬ぶりじゃ…! 少しは言うことを聞きなんし‼︎」

 

 引っ張られることを嫌がって、竜は唸り声をあげて無茶苦茶に辺りを飛び回る。

 竜が暴れるたびに、身体が周囲の空間に激突し、ひび割れが一層ひどくなっていく。それに眉をひそめたエヴァンジェリンは、無理矢理竜の鼻先を双頭の龍に向けさせ、互いの戦意を向き合わせた。

 

「どぉりゃああ‼」

 

 相当の龍の片方の顔に竜が食らいつき、もう一方の顔にエヴァンジェリンが剣を振りかざす。

 ガキンッ、と甲高い音が響き渡り、小さな魔女が振るう刃が竜の片目を潰し、同時に竜が喉笛を引き千切ってみせる。相当の龍は両方揃って悲鳴を上げ、ズシンとその巨体を空間に激突させた。

 

「あまり無茶はできんな……いま一度、ふぃなーれじゃ」

〈キャモナスラッシュ・シェイクハンズ! スラッシュ・ストライク!〉

 

 エヴァンジェリンは小さくぼやき、剣に備わった手の形のギミックを操作する。そして出来上がる金属の掌に、握手をする用に指輪を重ねさせる。

 その瞬間、エヴァンジェリンの剣に業火が纏われ、凄まじい熱と光を放ち始めた。

 

「はぁあああああ‼」

 

 翼を羽ばたかせ、天を舞う巨大な竜の背に乗り、エヴァンジェリンは炎の剣を振りかぶる。

 咆哮を上げる竜の向かう先で、憎々しげな目を向ける双頭の龍。その鼻先に、エヴァンジェリンの振るう刃が鋭く食らいつく、そして。

 

 ソーマ流血晶魔導第1章第39節

 紅き剣閃(フィニス・グラディオルブラン)

 

 ギャリンッ!と。無数の金属同士が擦れ合うような不快な音が木霊し、花火のように大量の火花が飛び散る。

 鼻先に刃を突き立てられた竜は、見る見るうちに顔から胴体までを真っ二つに斬り裂かれていく。肉を焼かれ、引き裂かれ、見るも無残な姿に替えられ、異形の龍はその命を絶たれていく。

 そして最期は、残るもう一方の顔までもを両断され、次の瞬間強烈な閃光を放って爆発四散してしまうのだった。

 

「ギャオオオオオ‼」

 

 消え去った敵を見届けた竜が、勝利を歓喜するような咆哮を高々と上げる。

 ビリビリと震える大気に、やや顔をしかめたエヴァンジェリンは、剣を陣の中にしまい込み、ようやくホッと息をついた。

 

「…今度こそ、ふぃ〜」



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4.永遠の時を歩む者(ザ・イモータル)

 再び現れた陣を通り、魔女は現実世界へと帰還する。

 靴音を鳴らし、悠然と歩み出るその姿はまるで貴族のようで、真正面から見てしまったレオナルドは、思わず息を呑んでいた。

 

(あれが……スティーブンさんの言ってた例の相手…?)

 

 無言のまま、レオナルド達の方へ近づいてくるエヴァンジェリン。誰もが声をだすことを憚られ、しんと重い沈黙が降りる。

 伏せられていた視線が上げられた直後、彼女の両目がギラッ!と光ったように見えた。

 

「クラウス~~~~♡♡♡」

「ごぶへぁぁっ⁉︎」

 

 気付いた時には、小さな魔女は電光石火の勢いで地を蹴り、途中でザップを無慈悲に蹴り飛ばし跳び上がっていた。

 くるんっ、と空中で華麗な前転を見せたかと思うと、エヴァンジェリンは構えていたクラウスの腕の中にすぽっと収まる。わずか2秒の出来事であった。

 

「お久しぶりです、エヴァンジェリン殿。お変わりないようで安心しました」

「んもぅ、わっちのことはエヴァと呼んでくりゃれと以前から言っておるじゃろう? 相変わらずかたいのぅ……まぁそのストイックな部分がよいのでありんすが」

 

 頬をバラ色に染め、潤んだ瞳で見上げる小さな魔女を前に、クラウスはいつも通りの紳士的な対応を行う。

 エヴァンジェリンはそれに不服そうに唇を尖らせるも、それはそれとして自身を包む逞しい腕の感触を心ゆくまで堪能し、彼の硬い岩のような胸板を愛おしそうに撫でていた。

 

「そして相変わらず逞しゅうてよい体をしておるのぅ……ぐへへへへへ」

「お褒めに預かり光栄です」

 

 にちゃあ…と淑女が絶対にしてはいけないような下卑た笑みまで浮かべ、挙句の果てに涎まで垂らしているが、クラウスがそれに引いた様子はない。

 周りが唖然とした様子で凝視してくる中、全く気にした様子もなく、瓦礫の中に頭から突っ込んでいるザップに目をやった。

 

「ところで、なぜザップはあのような有様に?」

「ああ…あやつめ、まぁ〜た性懲りも無く女と揉め事を起こしおって……しかもわっちの知り合いじゃ。今度という今度はギリギリ死ねる地獄に叩き込んでくれようと思っての」

「……できれば、寛大な処分を」

「ぬし様がいうなら仕方がないのう♡」

 

 ペッ、と本気で唾を吐き捨てるような形相で青年を睨みつけていたエヴァンジェリンだったが、クラウスの鶴の一声でころっと態度を変える。

 そんな様を、レオやツェッドは言葉も出ないくらいに凝視する。今日が始まってからずっと、自分達が置き去りにされているような気分である。

 

「……なんスかあの危ない幼女は」

「エヴァンジェリン・(ソーマ)・ソレイユ……我らがライブラの最年長のメンバーだ」

「へー最年長……」

 

 イチャつく、と言うか一方的にしな垂れかかる魔女に呆れた視線を向けるスティーブンの説明に、レオナルドは半ば放心したままため息をこぼす。

 そして数秒時間を要してから、ツェッドと一緒にバッと上司に振り向く。さらっととんでもなく聞き捨てならない一言を聞いた気がしたからだ。

 

「最年長⁉︎」

 

 バッ、バッ!と何度も何度も、レオナルドとツェッドはエヴァンジェリンとレオナルドを交互に見る。

 そして最後に、クラウスとスティーブンの乗る車を運転してきた老執事・ギルベルトの方を長いこと凝視し、ぱくぱくと口を開閉しながら再度スティーブンの方に振り向いた。

 

「…………⁉︎」

「無論、ギルベルトさんを含めてだ」

「……ぐ、具体的なお歳は」

「聞く気になれなかった……質問しようとした瞬間、消し炭にされかけたからな」

 

 ぶるっ、と肩を震わせ、血の気の引いた顔で虚空を見やるスティーブン。

 冷静沈着・敏腕な彼がこうなる程の何が起こったのか、何をされたのか非常に気になるが、聞いた瞬間後悔しそうだと少年と半魚人の本能が半鐘を鳴らしていた。

 

「……ん? なんじゃ、ぬしは?」

 

 そんな中、思う存分クラウスに甘え満足したのか、訝しげな表情でエヴァンジェリンが横目を向けてくる。

 名残惜しそうにクラウスの腕の中から降りた彼女は、やや険しい表情を見せたままレオナルド達の方へと歩み寄り、無遠慮に彼らの顔を覗き込んだ。

 

「以前話した、新たな仲間ですよ。レオナルド・ウォッチとツェッド・オブライエンです」

「おぉ、そういえば聞いたのぅ! …にしては小僧、ぬしは随分と貧相な体をしていんすな。ついていけているのかぇ?」

「オ、オッス! お世話になってます!」

 

 スティーブンの説明に、思い出したとばかりに手を鳴らしたエヴァンジェリンは、すぐにまたじろじろと、訝しむような目をレオナルドに向ける。

 まるで、マフィアのボスに面接を受けるような凄まじい威圧感を真正面から受け止めさせられ、レオナルドとツェッドは思わずピンと背筋を張る。

 しばらくの間、じっと無言で彼らを見つめていた小さな魔女は、やがてため息とともに視線を逸らした。

 

「まぁよい。ライブラに危害を及ぼさんなら口は出さん……歓迎しよう、小僧共」

 

 圧が消えたことで、レオナルドもツェッドもついホッと安堵の息が漏れてしまう。スティーブンも同じく胸を撫で下ろし、乾いた笑みをこぼす。

 それに気づかずか、それとも知らない振りをしてか、エヴァンジェリンはきょろきょろと辺りを見渡し、誰かを探す様子を見せた。

 

「チェインやK・Kは? 久々に皆で集まって女子トークでもしたいと思いんしたのに」

「別件で出向いているので留守ですね」

「むぅ…なら仕方がありんせん」

 

 後ろから話しかけたクラウスの返答に、エヴァンジェリンは肩を竦めながら目を伏せる。

 見た目は幼いというのに、見せる仕草の一つ一つが妖艶な熟女のような印象を見る者に与え、激しすぎるギャップに戸惑いばかりが生まれる。

 物憂げな表情で腰に手を当てる小さな魔女を見やりながら、ザップがボソッと口を滑らせた。

 

「……女子って歳じゃねーだろ」

「なんぞ言いんしたかザップ…?」

「ぎゃあああああああ‼︎」

 

 瓦礫の中に突っ込んだままだったザップの頭が、次の瞬間少女の細腕で掴まれ、万力のような力で締め上げられる。その速さたるや、そして移動の静かさたるや、気を抜いていたとはいえレオナルドが気付かなかったほど。

 異常すぎる身体能力に戦慄する少年をよそに、エヴァンジェリンはギロリとザップを睨みつけ、引きずり倒して彼の目線を自分の背丈に無理矢理合わせていた。

 

「そもそもぬし、わっちの顔を見るなり叫び出すとは何事じゃ。うら若き乙女の心を傷付ける輩は万死に値しんすえ?」

「るせぇ‼︎ てめぇをみるとなんか反応するようになっちまってんだよちくしょうが!」

 

 メキメキミシミシと、そのうち割れてザクロみたいになるのではないかというくらいの強さになっていく、小さな魔女のアイアンクロ―。

 反論すればするほど、威力を増していくその技に絶叫が迸り、周りから怯えた視線が集まる。

 

「…ハァ、仕方がないのぉ」

 

 大きなため息をこぼしたエヴァンジェリンは、面倒くさそうにザップをポイッと放り捨て、クラウスの方へ戻る。

 また瓦礫の中に突き刺さる青年を睨みながら、小さな魔女は気だるげな調子で告げた。

 

「仕事も終わった。戻り次第今一度、そのスカスカの脳に躾を叩き込んでくれる」

 

Partis Temporus

 

「……俺ってあの人になんかやっちゃってましたかね」

 

 騒動のあった場所から大きく離れた公道を、クラシックカーとスクーター、そしてスケートボードが一列になって走る。

 座席の後ろに無理矢理腰掛ける男に若干の邪魔くささを感じながら、レオナルドがぼそりと呟くと、後ろにいた青年は訝し気に眉間にしわを寄せた。

 

「あ? いきなり何いってやがんだてめーは」

「いやだって、めっちゃ壁感じる物言いでよろしくとか言われちゃってんスよ。嫌われることやっちゃったのかな、って」

「バーカ。ありゃいつものことだ。ババアは初対面のやつにはいつもああだ。……俺が最初に会ったときもそうだったんだからな」

 

 いつかの記憶、自分で口にした昔の事を思い出しているのか、遠い目になったザップがそう返し、レオナルドはふぅんと声を漏らす。

 イマイチ、あの小さな魔女の人物像を掴みきれずにいる後輩のために、ザップは珍しく、本当に稀なことに意欲的に親切心から教授してやることにした。

 

「ババアにとっちゃ、この世の存在は二つに分類される。一つは身内、二つ目は敵とそれ以外だ」

「なんスかそのカテゴライズ………極端すぎるでしょ」

「知るかよ。俺が最初に会ったときだってそんな感じだったんだからよぉ」

 

 思わず顔をしかめ、冷や汗を垂らすレオナルドにザップが不本意と言った様子で返す。

 運転中故に振り向くことはできないが、おそらくひどく渋い表情を浮かべているのだろう。トラブルメイカーな彼が、彼女を言相手に何も事を起こさなかったはずがない、とレオナルドは妙な確信をしていた。

 

「唯一、旦那だけだ。あのババアを御し切れるのは……下手したら仲間だろうと平気でぶっ殺しかねねぇから今度なんかあったら助けてくださいレオナルド・ウォッチ様」

「あんたあの人に昔何やっちゃったの⁉︎ いやですよ俺まで敵認定されるの‼」

 

 先ほどまでの厚顔不遜な態度はどこへやら、小柄な少年の肩にしがみつきガチトーンの声で懇願するザップに戦慄するレオナルド。何が起こるか分からずとも、この男に巻き込まれて死ぬのだけはごめんだった。

 そんな二人を、スケートボードを操るツェッドは何とも言えない表情で見つめ、レオナルドと同じく冷や汗を垂らすのだった。

 

 そしてそんな彼らの様子を、エヴァンジェリンはクラシックカーの後部座席に座り、興味深そうに眺めていた。

 ギャーギャーわーわーと、縋りつかれて怒鳴る少年と是が非でも離すかと絡む青年、そしてそれを諫めようとする半魚人という、おかしな風景が出来上がっているのを。

 

「…まさか、あのロクデナシに友ができるとは」

「本人はきっと、否定するでしょうね」

「眼に浮かぶようでありんす」

 

 スティーブンの苦笑交じりの一言に、エヴァンジェリンも鼻を鳴らし、小さく頷く。

 後方の少年達から目を逸らし、座席に座り直した小さな魔女は、頬杖をつきながら窓の外の街並みを―――かつてとはがらりと変わってしまった景色を眺め、目を細める。

 闊歩する人間以外の種族、それを当たり前と認識している人々。それに伴い変化する人の悪意と狂気の形。

 全てが可笑しく、そして可笑しくなくなってしまった世界。

 

「たった2年…されど2年。変わったように見えて、その実はあらゆるものが見えるようになってきただけ……こちらを覗いていた者が姿を見せただけのこととは、おかしな話でありんすな」

 

〝誰かが深淵を覗こうとする時、深遠もまたその者を覗いている。〟

 そんなことを云っていたのは誰であったか。

 深淵の奥に潜んでいた者が、あるとき不意に焦れたようにその姿を現し、瞬く間に世界に向かって広がっていこうとした。今の状況は、そういうことなのだ。

 

「しかし人は、見えるものをこそ信ずるもの。見えぬ存ぜぬものを前にした時―――人の世は、あまりに脆い」

 

 そう呟くエヴァンジェリンに、クラウスもスティーブンも振り向かず口も開かないまま、心の中で肯定を返していた。



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Ⅱ 魔女と魔獣のファンタジア
1.若造達の不安


「―――やっぱり何度見てもおっかねぇな」

 

 半壊した街並みを見て、ダニエル・ロウ警部補が思わずと言った風に呟く。

 立ち昇る黒煙、巨大な瓦礫の山、積み重なる屍の山。その被害の大きさに……ではない。

 

 そんな惨状を生み出した、この街(ヘルサレムズ・ロット)においても破格というべき破壊の化身。

 それをほぼ単独で撃破してみせた、一人の魔法使いに対してだ。

 

「この街で使われる魔術とは格が違う……並みの連中では太刀打ちすらできない本物の中の本物。敵じゃないことを喜びゃいいのか怯えりゃいいのか…」

「だが本人曰く、これでも本来の全力じゃないっていうんだから、笑えないんだがね」

 

 やれやれといった感じで肩を竦める警部補に、スティーブンも釣られるように苦笑を返す。

 今日の被害は、これでもまだ大人しい方だ。彼女が本気になれば、今回の2倍から3倍の大惨事になっていてもおかしくはないのだと、スティーブンはキリキリと痛む意を押さえて頬を引きつらせるばかりである。

 

 暫く乾いた笑みをこぼしていた二人だったが、やがてスッと真顔に戻ると、惨状を前に重苦しい口調で口を開いた。

 

「……本当に大丈夫なのか? あのガ…婆さん、高位の眷属も滅殺できるんだろ」

「敵に回る可能性はないのか、ということか?」

 

 警部補の問いに、スティーブンはしばらくの間険しい顔で考え込む。即答できないあたり、彼もその可能性を何度も思い浮かべた事を示している。

 日頃から、彼女の影を感じただけで足の震えが止まらなくなる彼は、今はただ真剣に、かの魔女が上司と組織に対する害になり得るか否かを思案し……やがて首を横に振った。

 

「…正直、断言はできない。クラウスがうまく舵を取れればいいが、そういう考えとは相入れない人物なのが彼だ。今のところは問題ないが、彼がもし〝失敗〟すればもはや誰にも彼女を止められなくなる」

「とんでもねぇ爆弾背負いこんだもんだな」

 

 警部補ががくりと両肩を落とし、心底気が重そうな様子でため息をつく。

 男達はしばらく何も言葉を交わさないまま、瓦礫の撤去や負傷者の搬送が行われる様子を眺める。

 血生臭さと焦げ臭さ、この街では随分と嗅ぎ慣れてしまったそれらの臭いに、自ら加えた煙草の臭いを加えて、煙に変えて吐き散らす。

 ジジ…と赤く光る先端を見下ろしていた警部補が、ふと思い出したように口を開いた。

 

「…あんなバケモノが所属してるなんざ、どういう経緯があるんだ? あの婆さん……よく聞くアレに関わってたんだろ」

「らしいな…アレは当事者ではない俺達では想像もつかない悲惨な事件だ、地獄だった事は間違いない」

 

 男達の脳裏に浮かぶのは、最早今では昔話程度で知られる情報であった。

 長い歴史の中で幾度となく発生し、後の世に至るまでに何度も脚色を加えられ、時に物語のスパイスとして、時に教訓として引っ張り出される程度のもの。

 しかしそれは間違いなく、かの魔女にとっての事実であり、経験の一部なのだ。

 

「クラウスが御しきれているのは、あの性分のおかげだ。裏表がないからこそ…あの人もあれだけ自分の身を預けられる」

 

 フーッと強く細長く煙草の煙を吐き捨て、スティーブンが天を仰ぐ。

 警部補の脳裏に浮かぶのは、巨漢に年齢不相応な、だらけ切った顔で甘える幼女の姿。最初に見た時はあまりに醜悪すぎて、手錠を出すべきか本気で迷うくらいの姿であった。

 だが今となっては、それに態々口を挟む気にはなれなくなっていた。

 

「あの馬鹿正直さは彼にとっての弱点だが…こう言う時は非常に救われる」

「お前じゃまず無理だったわけか」

「ああ…最初に出会ったのがあいつじゃなきゃ、きっと世界は今頃消し飛んでるよ」

 

 本気でそう思っている様子で、スティーブンが壁に背を預けて黙り込む。語るのも、思い出すのにも疲れたと言った様子である。

 警部補はそんな彼に鋭い横目を向け、しばらく虚空を見上げていたが、その内プッと煙草を吐き捨て、靴底で踏み潰して火を消す。そして振り向きもせず、歩き出した。

 

「まぁ、そっちで拾った女だ。せいぜい最後まで面倒見るこったな。こっちは別件で大忙しなもんで」

「VIPの事か……悪いね、こんな忙しい時に」

「今更だっての大馬鹿野郎……じゃあな」

 

 ひらひらと手を振って去っていく、一応の協力者にスティーブンも手を振り返し、彼の姿が見えなくなってから大きな大きなため息をつく。

 周りに人の姿がなくなってから、ライブラの番頭は顔を上げ、困ったように笑って、語り掛けた。

 

「……さっきの話は、どうかあの人には聞かれないようにしてくれないか?」

 

 懇願するような響きを持った、頭上に向けられた言葉。

 聞き届けたそれは、「フンッ…」と鼻を鳴らすと、折れ曲がった街灯の上から跳び、最初からいなかったかのように、音もなく姿を消した。

 

Quietus

 

 ヘルサレムズ・ロットは、大きな光と闇の落差がある街だ。

 異界の技術で大きく発展し、環境の変化によってこれまで不可能であったことが可能になったりしたことで、豊かになった面もある。しかし反対に、人知を超えた悪意と異端によってかつてない規模と質の犯罪が横行し、治安が悪化した面もある。

 皮肉なことに、発展の裏側には同じような腐敗が進んでいるのである。

 

 そこもかつては、ニューヨークにおいて重要な役目を担う施設であった。

 人の目に触れぬ、ジメジメとした湿っぽさと光の射さない暗闇の中にありながら、人々の生活を支える街の一部として、長く活用された場所であった。

 

 だが、超常の力によって面影がないほどに再構築されてしまった今、そこはもう誰も必要としない場所に成った。

 誰にも知られないまま、本来の役目を全うすることもできず、野ネズミやゴキブリが巣食うただの空間になり果てていた。

 

 今、その場所を根城にしているのは、人でも異界の住人でもない、しかし比較にならないほどの危険性と凶悪さを兼ね備えた、とある怪物たちであった。

 

「…魔女が戻ったようだな」

 

 ゴキゴキと指を鳴らしていた、赤い衣服と鷹のように鋭い目が特徴的な男が、身体の端から火の粉を散らせながら呟く。

 それに振り向き、人懐っこそうな顔にハットを被った青年が、首を傾げながら嬉しそうに反応する。愛らしい顔だが、同時に不気味さを感じさせる笑みだ。

 

「本当なの? だったら今こそ、あの邪魔な連中ごと消しとばしちゃえばいいんじゃないの?」

「いやぁ…ただ消すだけじゃつまらねぇ。連中には最高最悪の苦しみを与えてから殺すのが、一番気分がいいだろ」

 

 にやり、と赤い格好の男が、耳まで裂けて見えそうな笑みを浮かべて告げる。目の奥にはちりちりと、本当に炎が渦巻いていて、彼の胸中の激情をこれでもかと表す。

 青年はそんな彼を見やり、ため息とともに肩を竦めた。

 

「野蛮だねぇ……別に僕はどうだっていいけどね。好きなことさせてもらえるんならさ…フフフフッ」

 

 肩を揺らして嗤う青年に、男はハッと鼻を鳴らす。

 すると彼らの話題につられたように、闇の中から幾つもの影が滲み出て、多種多様な形に変わっていく。

 赤い単眼を持つ蜥蜴のような者、白い猫のような者、茶色いヒトデのような姿をした者、悪魔の石像に似た姿の者―――物語に登場する伝説上の生物に酷似した姿を持つそれらが、男と青年の話題に強く食い付き始めた。

 

「だが油断は禁物だ……あの嫗の力は脅威そのもの」

「内に宿す魔竜の力は史上稀に見る強さ…」

「迂闊に手を出せば食われるのはこちらの方……万全を喫さねば」

「然らば如何にする…あれに人の心はない。人に使える手段は悉く役に立たぬ」

 

 ざわざわと、異形達は口々に勝手に語りだし、互いに視線を交わし合う合う。

 ここに集まっているのは、皆ただ一人の人間に憎悪を燃やす者同士である。同志をやられ、計画を幾度となく阻まれ、募りに募った怒りと憎しみを持て余す復讐者達である。

 

 そんな彼らの怒りの姿を見やりながら、新たに加わった一人の少女が腕を組みながら尋ねた。

 何故か、蛇の鳴き声が聞こえそうな印象のある少女だ。

 

「あの大男は? 魔女さんのお気に入りなんでしょ?」

「ああ、そういやぁそんなのがいたっけな」

 

 忘れていた、というように男が反応し、顔を上げる。

 だが彼が立ち上がろうとするよりも前に、異形の一体が前に出て、どこか必死さを感じさせる態度で首を横に振る。

 ぶるぶると震える方は、怯えていることがまるわかりであった。

 

「それは愚策……あれの力も尋常ならざるもの。まさしく鬼ぞ」

「チッ…! だったら俺達ゃなにすりゃいいんだよ!」

 

 せっかく苛立ちを解消できると思ったのに端からその策を否定され、男は声を荒げながら地面をダンッと踏みしめる。その際、彼の足からもぶわっと火の粉が舞い上がり、辺りを少しの間明るく照らし出す。

 

 男の苛立ちが伝播したのか、異形達の間にも逸る声が聞こえだしたその時。

 

 

「―――何もせずともよい」

 

 

 そんな、地の底から響き渡るような、しかし同時に天から降り注ぐような、不思議な響きを持った声が、彼らの巣食う空間に響き渡る。

 

 それが聞こえた途端、男や異形たちはハッと表情を変え、自身らの背後に振り向く。

 空間の奥の奥、開けたその場所には半透明の幕に覆われた祭壇があり、何者かが体を起こしている姿が目に映る。ただの人のような、それ以外のような、曖昧なシルエットがそこにあった。

 

「おお…ワイズマン」

「ワイズマン…目覚められたか」

 

 幕越しでもわかる、強い力を放つ眼差しを受け、異形達は一斉に跪き始める。

 今眠りから覚めたような体勢で、それもはっきりと姿も見えないのに、誰もこの者には敵わないという謎の安心感をもたらす。

 無数の畏怖と恐怖の視線を浴びながら、その者は幕越しに穏やかに語り掛けた。

 

「―――魔女には使い道がある……そのための策も用意してある。汝らが待つべきは刻のみ…然るべき時が来れば、心してかかるがよい」

 

 その者の言葉を深く受け入れ、あるいは以前よりも強くやる気を漲らせ、異形達が平伏す。

 常人では気を失うどころか、正気を失くした挙句に死に至りそうな異様な雰囲気の中、その者は祭壇に横たわったまま虚空を見上げ、呟いた。

 

「―――全ては、賢者の石を完成させるために…」



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2.しばしの寛ぎ

 深く芳醇な香りを漂わせ、老執事の淹れたコーヒーがカップに注がれる。

 洒落たデザインのカップを持ち、その香りを堪能した魔女は、コクリ、コクリと喉を鳴らして中身を喉に流し込む。

 丁度いい温かさが体を満たしてしばらくして、エヴァンジェリンはほっと息をついた。

 

「…相変わらず美味でありんすな、さすがじゃ」

「勿体無いお言葉です」

 

 満足げに笑うエヴァンジェリンに、ギルベルトが誇らしげに首を垂れる。

 クラウスに仕える執事として妥協できない仕事に満足を貰えたことが、心底嬉しいのだろう、包帯に巻かれた顔が、少し綻んでいた。

 

 笑みを浮かべ、寛ぐエヴァンジェリンに、向かいの椅子に腰かけた眼帯の女性―――K.Kが笑いかけた。

 

「本当に久しぶりねぇ、話せなくて寂しかったのよ?」

「わっちもじゃ。もうぬしの子もずいぶん大きくなったじゃろう…また聞かせてくれ」

「3日ぐらいかかるけどいい?」

「構わん」

 

 にやり、と自慢げなK.Kに、エヴァンジェリンは望むところだとばかりに返す。ライブラでも数少ない女性同士の会話に、期待を寄せる。

 

 クラウスは久しぶりの仲間同士での会話で、気分が弾んでいることに嬉しそうに口角を上げる。

 彼自身も、長く顔を合わせられなかった古い友人がともにあることがありがたいようで、盤遊戯の時以上の上機嫌さを見せていた。

 

「今回はかなり長い旅でしたな」

「厄介な輩と出くわしんしてな、手間取った。面倒ったらありんせんわ」

「エヴァ姐さんが手こずるなんて強敵ねぇ」

「なに、たんに多少数が多かったくらいのことでありんす」

 

 疲労を示すように、わざとらしく自分の肩を握り拳で叩くエヴァンジェリン。幼い少女が見せる、疲れ切った老婆のような仕草に、クラウスやK.Kはおかしさを覚え、肩を揺らしてみせる。

 またカップに口をつけ、コーヒーを喉に流し込んでから、魔女はまたクラウス達を見やった。

 

「休みも兼ねて、しばらくはこっちで過ごすことになる……世話をかけるの」

「お気になさらず。ソレイユ女史が共にいてくれるというだけで、ずいぶんと安心感があります」

「また嬉しいことを言いおって…♡」

 

 向けられるクラウスの高い評価に、エヴァンジェリンはうっとりと蕩けた顔を見せる。

 にやにやと若干危ない視線を向け、クラウスからの言葉を堪能していたエヴァンジェリンは、しばらくすると彼から視線を外し、新たに組織に加わった二人に目を向けた。

 

「しかしなんじゃのぅ……少し見ぬ間にずいぶん知らぬ顔ぶれが増えた。それも多種多様に…」

 

 見た目は然して目立つもののない平凡な、しかし数奇な運命に魅入られた少年レオナルド。そして見るからに苦労を重ねてきたであろう、異形の姿を持つ若者ツェッド。

 自分がライブラを離れている間に加わった二人を、じっくりと見つめていたエヴァンジェリンは、やがて自嘲するように鼻を鳴らしてみせた。

 

「…いや、ぬしらからすればわっちの方が見知らぬ顔でありんすか」

 

 くすくすと可愛らしい声を上げる小さな魔女。

 それに対してレオナルドとツェッドは、自身の中で渦巻く激しい葛藤と必死に戦っていた。

 

(ツッコんじゃダメだ…ツッコんじゃダメだ…!)

(だけど言いたい…! 声を大にして口にしたい…!)

 

 思いきり口を噤み、留めている台詞が盛大に飛び出すのを堪える若者達。

 クラウスもK.Kもそれを目にしながら、驚きもせず、全く気にしていない様子を見せている。むしろまたか、と呆れた視線を向けている。

 

 エヴァンジェリンは必死に黙っている二人を訝しみ、胡乱気な目を向けて首を傾げた。

 

「なんじゃ…遠慮せず聞きたいことがあるなら聞きなんし」

「色々言いたいのはこっちだクソババア‼︎」

 

 咎めるような問いを投げかけるエヴァンジェリンの下で、ザップの怒りがついに爆発する。

 床に両手両膝をつき、自らを椅子にし小さな魔女に腰かけられた彼は、かれこれ数十分も続けられているこの状況に大いに不満を喚き散らす。流石にこの姿は、きっと彼でなくとも抗議の声を上げたであろう。

 

 ザップ以外の誰もが、その姿を当然のものと思っているような、そんな雰囲気があった。

 

「いい加減にしろよババア‼︎ いつまでてめぇ俺を椅子扱いして優雅にティータイム決めてやがんだゴルァ‼︎」

「うるさいガキじゃのぉ、ぬしの仕置が中途半端じゃったからこうして躾けていんす。黙って受けなんし」

「ふざけんじゃねぇぞ! いつまでも俺がやられっぱなしだと思うなよ泣かすぞクソチビロリババア‼︎ あっ、やめろ、俺の背中でトランポリンするな!」

「はぁ、仕方がないのぅ…」

 

 ぼんっ、ぼんっとザップの背中の上で跳ね、苦しむ人間の屑をさらに攻める遊びに耽っていた魔女が、しばらくして不満げに止まる。

 つまらなそうに唇を尖らせたエヴァンジェリンは、どこから取り出したのか鋭利な剣に手を添え、にちゃりと不気味な笑みを浮かべてザップを見下ろした。

 

「これが嫌なら、代わりにぬしの逸物を八つに割いて○○○を××して□□□□してやってもよいが?」

「椅子の高さはこれぐらいでよろしいでしょうか⁉︎」

 

 恐ろしい言葉を、蠱惑的な笑みと共に告げる魔女に、ザップは即座に屈して椅子の役目に戻る。

 ぶわっ、ととんでもない量で噴き出す汗が、ぼたぼたと垂れて彼の下に小さな水溜まりを作るほどに、彼は恐怖していた。やると言ったら本当にやる、そういう殺気がこの小さな魔女からは迸っていた。

 

「まぁまぁ……ソレイユ女史、続けたいお気持ちは察しますがその辺で、本題に入りましょう」

 

 話題が大きく外れている事態を気にしてか、クラウスがやんわりエヴァンジェリンを宥めようとする。

 ザップの身の安全を案じていないことが、彼にとってのザップに対する扱いを表している。

 

 が、そんなクラウスの制止に対して、エヴァンジェリンはスッと笑みを消し、先ほどとは打って変わって、恐ろしいほどに冷たい声での反応を返した。

 

「…なんでありんすか、本題とは」

「無論、あなたが帰還した真の理由についてです」

 

 かたり、とエヴァンジェリンの手がカップをソーサーに戻し、背筋を伸ばす。

 その動作だけで、何故か異様な威圧感が魔女から放たれ、レオナルドの背筋に寒気を走らせる。

 ツェッドやK.K、そしてザップも同じだったようで、僅かに体を引きつつ、ギッと強張った表情でエヴァンジェリンを凝視している。

 唯一動かなかったクラウスが、いくつかの書類を取り出しながら口を開く。

 

「すでにこちらでも、先日の夜に行われた戦闘についての情報は届いています……黄金の鎧を纏った謎の人物が現れたと」

「…耳が早いの」

「聞けば、その翌日からヘルサレムズ・ロット各地にて、ファントムの目撃情報が……そしてそれを狩る者の姿が目撃されていると」

 

 クラウスの報告、というよりも事実確認に、エヴァンジェリンは冷めた表情のまま腕を組み、佇む。

 その無言を肯定と受け取り、クラウスは黙り込んだ彼女に自分の考察と意見を語った。

 

「察するに、その黄金の鎧の持ち主というのが、あなたが急遽帰国された理由でしょう。対ファントム戦においては不敗のあなたが、他の獲物を放置して向かうほどには…」

「……」

「早速ですが、その件について詳しい話を伺わせていただきたい。ファントムを一体でも放置すればどうなるか、我々も重々承知して―――」

 

 熱く、仲間を独りだけで行かせまいという姿勢を見せるクラウス。

 自身の正義、義務感、そして古い友人を案じる想いをあらわにし、説こうとする彼に対し、小さな魔女は振り向くことなく、答えた。

 

「いらぬ、手出しは無用じゃ」

 

 吐き捨てるような声で、そうはっきりと示された返答。

 あまりにも冷たい拒絶の言葉に、クラウスやK.Kはギョッと目を見開きながら息を呑み、慌ててエヴァンジェリンの方に詰め寄る。

 

「エヴァ姐さん⁉︎」

「…! ソレイユ女史!」

「わっちがそんな軟弱なことを考えてここに戻って来たと思うたか? ぬしらの力は必要ない、分を弁えなんし」

「そんなことを言ってる場合では…!」

 

 仲間とは、そして先ほどまで思いきりクラウスに甘えていたとは思えないほどのエヴァンジェリンの豹変に、レオナルドやツェッドは目を疑う。

 ライブラ最高齢にして最強の魔法使いという触れ込みだが、実力者達を前にしてここまではっきりものを言えるとは思っておらず、彼らに交互に視線を向けて戸惑ってしまう。

 

「ソレイユ女史、貴殿が他者に頼ることを疎んでいることはよく知っております。しかしことは世界の存亡にも関わる重大な事柄……貴殿一人では」

「くどいぞ、クラウス」

 

 諦めず、協力に拘るクラウスに向けて、エヴァンジェリンが苛立った様子で短く告げる。

 次の瞬間向けられたのは、まるで蛙に向けられる蛇の目のような、容赦のない殺意と威圧に満ちた眼差しだった。

 

 

「黙りなんし」

 

 

 ぞわっ!と。

 はじめと比べ物にならない、それこそかのファントムに向けられていたものよりも強力で濃密な殺気が迸る。

 クラウスを除く全員(椅子にされたザップも除く)が思わず距離をとる程の覇気を浴びせられ、それ以降微塵も動く事ができなくなった。

 

 ―――こういう寒気は久々だ。

    ザップさんの師匠がこんな感じだった。

 

 ゴクリ、と今日何度目か分からない寒気を覚え、レオナルドはごくりと息を呑む。

 幾度ともなく命の危機を迎え、それなりに胆力をつけたと思っていたが、やはりまだ素人の範疇だったと自覚する。こうも一瞬で体の自由を奪われると、さすがに自信もなくなってくる。

 それに一人耐えるクラウスの異様さも、ある意味再確認できたが。

 

「あれらは全てわっちの獲物……余所者に割って入られるのは我慢ならん。そもそもぬしら、他に優先することがありんしょう」

「…お言葉ですがソレイユ女史!」

 

 一向に助力を認めようとしないエヴァンジェリンと、引き下がらないクラウス。

 張り詰めていた空気が、徐々に剣呑としたものになり始め、どうしたらいいのかとレオナルドが慌て始めた、その時だった。

 

「あ…じゃあよ」

 

 ずっと椅子のままになっていたザップが、二人の口論に待ったをかけるように片手を挙げて声を挟んだ。

 胡乱気な表情で振り向き、魔女が立ち上がった隙にザップも椅子を止め、伸びをしながら魔女に向き直る。そして、すぐ傍で固まっていたレオナルドに指を差してみせた。

 

「代わりにこのレオナルドを連れて行くのはどうよ」

「は?」

「え」

 

 思いもよらない提案に、エヴァンジェリンは訝し気に、レオナルドは間の抜けた声を漏らす。

 全員の気分がある程度まで静かになり、自身へ注目が集まったタイミングを見計らい、ザップはレオナルドを前に押し出し、通信販売かなにかのように大仰な身振り手振りで語り始めた。

 

「これここにおりますレオナルド・ウォッチという若者、世にも珍しい〝神々の義眼〟を持つ激レアな男である事はご存知のはず」

「むぅ…?」

「何言ってんスか、あんた」

「こいつを連れてきゃぁ、人間に化けてるファントムどもを一気に見つけられるんじゃねぇの? …って話でさぁ」

「あんたマジで何言ってくれちゃってんスかあんたァ⁉︎」

 

 ザップの考えを測りかね、険しい顔で考え込むエヴァンジェリンを横目に、レオナルドは思い切りザップに掴みかかり抗議する。

 単独での行動を望み、断れば一瞬腰を抜かしかける程の殺気を放つ様な人の元に、何ゆえ自分のような特殊な眼があるだけで戦闘能力皆無な人間を放り出そうとするのか。

 生贄、という単語が頭に過り、この時ばかりはレオナルドは時折助けてくれる先輩に、本気で殺したいくらいの怒りを抱いた。

 

「ザップ……それは本気で言っているのか?」

 

 当然、そんな提案をクラウスが普通に受け入れられるはずもない。

 だが意外なことに、提案に対し考え込んでいたエヴァンジェリンは然して拒絶する様子もなく、やがて諦めたように頷きを返した。

 

「…なら、まぁいいじゃろう。ついて来るなら好きにしなんし」

「ソレイユ女史…⁉︎」

「顔合わせのついでじゃ…心配ならほれ、もう一人にもついてこさせればよい。そのくらいならわっちは構わん」

 

 エヴァンジェリンはそう言って、口を挟むタイミングを逃して黙っていたツェッドに目を向ける。

 

 レオナルドとツェッド、比較的新しくライブラに参入し、そして今回が魔女との初対面である彼らの動向を許した。その理由を考察したクラウスは、しばらく小さな魔女を見つめ、やがて大きく肩を落とした。

 

「…変わりませんな、貴女は」

 

 困った様子で苦笑をこぼすクラウスに、エヴァンジェリンも自嘲気味に笑う。

 どういうやり取りか、と首を傾げるレオナルドとツェッドの間を抜け、エヴァンジェリンは颯爽と歩き出す。

 出口の前に至った時点で小さな魔女は振り向き、固まったままの二人に急かす視線をくれた。

 

「というわけで、早速出るでありんすえ。若造共」

 

 180度異なる、小さな魔女からの誘いの声に、レオナルドとツェッドは戸惑いつつも頷かざるを得ない。

 そうして二人は魔女を先頭に、街へと繰り出す事となったのだった。

 

 魔女が同意したその真意を知らぬまま。



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3.狂人と魔物

「まったく…わっちがお守りとはのぉ」

 

 子供達のはしゃぐ声や、大人達の会話が聞こえてくる、とある公園の一角。

 一台のピンクのカラーリングのキッチンカーが停められた、その近くのテーブルに着いたエヴァンジェリンが、気だるげに呟く。見た目は少女なのに、やはり恐ろしく違和感を抱く姿である。

 近くで無邪気に遊ぶ、本物の幼い子供達がいるために、その差異はより強く感じられた。

 

「あの小僧め、わっちをまるで小娘のように扱いおって…童の言葉とはいえ、傷つくのじゃぞ…あむ」

 

 頬杖をつきながら、不機嫌そうな半目となった彼女の手が、テーブルの上の皿に伸びる。そこに詰まれたドーナツを一つ頬張り、少しだけ表情がほころぶ。甘味のおかげで、苛立ちが少し紛れたらしい。

 同じ席に着いたレオナルドとツェッドは、かなり緊張した面持ちでその様子を眺めていた。

 

 そこへある一人―――明らかに男性とわかる顔立ちの、ピンクのエプロンを身につけた金髪の人物が、にこやかに笑いながら近づいてきた。

 

「エヴァちゃんたら、も〜本当に久しぶりよねぇ〜? 今度はいったいどこ行ってたの〜?」

「決まった目的地はありんせん。探し物の情報があれば、北へ南へ東へ西へ……じゃが流石に疲れんした」

「そうなの〜」

 

 もぐもぐと、幸福そうにドーナツを頬張るエヴァンジェリンと顔見知りらしいその人物―――移動ドーナツ屋の店主は、皿の中身が一つ二つとなくなっていくと、不意に目を輝かせる。

 キッチンカーの中から出てきた彼の手にあったのは、不思議な色合いの生地と、謎のトッピングが施された新たなドーナツの山だった。

 

「あ、じゃあ疲労回復にきく新メニューがあるんだけど〜、試してみて……」

「ぷれーんしゅがーで頼む」

「あ〜んもう、いけずぅ〜」

 

 にべもなく、試食を断られた店主がよよよ、とその場に崩れ落ちる。

 エヴァンジェリンは最後の一つを平らげると、地面にのの字を書いて落ち込んでいる店主に呆れた目を向ける。

 そしていつの間にか別のテーブルの上に置かれた、店主の新作ドーナツを見やると、小さくため息をついてみせた。

 

「なら、この小僧共に食わしてやってくりゃれ。わっちのおごりでありんす」

「えっ」

「ヤダほんと〜? じゃあこれボク達にあげちゃう〜!」

 

 一瞬で復活した店主がシャキッ!と立ち上がり、レオナルドとツェッドの前に件のドーナツの山を置く。

 二人が反応を返すのを待つことなく、店主はルンルンと跳ねるような足取りでキッチンカーに戻り、エヴァンジェリンの注文の品の調理を始めた。

 

 レオナルドとツェッドは店主の存在の濃さに圧倒されたまま、ぎこちなくエヴァンジェリンに頭を下げて感謝を伝える。

 

「…あー、えっと。…あざっす」

「ありがとう…ございます」

「ぬしらも災難じゃったな、こんな婆の相手をさせられて」

「あ、いえ…そんな事は」

 

 本気でそう思っているのか疑問だが、魔女からかけられた気遣う言葉に、少年と半魚人はどうしたものかと曖昧に返すほかにない。

 思い出される昨日の大暴れや、ザップどころかスティーブンにも、そしてクラウスに対しても容赦のない態度。迂闊に返事をしてもいいのかという不安が、彼らから冷静さを削ぎ落としてしまっていた。

 

「さて…連中はああ言っておったが、奴らがこっちから探しに出て見つかった試しがないからのぉ。無駄足になることも覚悟しておけ」

「は、はぁ…そっスか」

 

 しかし、実際に相対し言葉を交わしてみると、しっかりとした礼儀や態度を心掛けていれば、真面に反応を返してくれることがわかった。

 ザップのような、人間関係において非常に欠陥が目立つ男に対してのみ、あのような辛辣な態度をとっているのではないか、とそう思えるようになっていた。

 

 まじまじと魔女を見つめ、彼女の心の為人を知ろうと努めるレオナルド。

 そんな彼らに、コーヒーに口をつけていたエヴァンジェリンが不意に口を開いた。

 

「なんじゃぬし、聞きたいことがあるようなツラをしていんすな」

「…えっ、あ、いや、えっと」

 

 何か琴線に触れてしまったか、と内心冷や汗を流し焦るレオナルド。

 決してザップの二の舞になってたまるか、こんな無駄に気を遣う人のところにやりやがってあの野郎、などと考えながら、どうにか返答を考える。

 そしてふと、抱いたままほったらかしになっていた、ある疑問について思い出した。

 

「…こないだのアレは、何してたんスか?」

 

 レオナルドの問いに、ツェッドの触覚もぴくりと反応する。

 レオナルドが考えているであろう、昨日の戦闘。その際目にしたあの光景について、ツェッドも機会を得たならば尋ねておきたいと思っていたのだ。

 

「アレとは?」

「なんかこう、女の人に指輪をはめていきなり光ったと思ったら、なんか魔法陣みたいなのに飛び込んで…そしたらなんか、身体のひび割れが治って……」

「ああ、アレか」

 

 少し面倒臭そうに眉間にしわをよせたエヴァンジェリンが、レオナルド達を見やって少し考えこむ。

 コーヒーを一口、二口啜り、しばらく時間を置いてから、ソーサーにカップを戻し、大したことはない風に語り始める。

 

「あの娘御が絶望する前に、身体の中のふぁんとむを駆逐しただけじゃ」

「ファントム…?」

「……世界には、〝此方側〟にも〝向う側〟にも、〝げーと〟と呼ばれる種類の人間がおる」

 

 ツェッドが首を傾げると、エヴァンジェリンは椅子の上で寛ぐ体勢に入り、詳しい解説を始める。

 細くしなやかな、枝のような幼い少女の足を組み、気だるげに頬杖をついて見つめる小さな魔女。しかしどこか色気を感じさせるその風貌に、レオナルドとツェッドは思わず居住いを正していた。

 

「其奴らはちと特殊な魔力を有していてな。本人の魔力ともう一つ、体内に宿る魔物が生み出す魔力、二種類を備えていんす。基本的には無害でありんすが……厄介な性質がある」

 

 スッ、とエヴァンジェリンの手が伸び、レオナルド達の方に置かれたドーナツを一つ、手に取る。

 水色の生地に、カラフルなトッピングが施されたそれを、エヴァンジェリンがぱかっと上下に開く。中には生クリームとカスタード、二種類の中身が詰められており、コントラストを生み出している。

 

 何となく、それで例え話をするつもりなのだろう、とレオナルド達は黙って話の続きを待った。

 

「尋常ではない精神的な苦痛、気概の喪失……俗にいう絶望により、魔物の魔力が暴走を始めることじゃ」

「暴走…?」

「暴走した魔力は宿主の肉体を破壊し、現実世界へと姿を現わす。宿主はその瞬間消滅し、化け物が成り代わるのでありんす」

 

 エヴァンジェリンが、開いたドーナツを再び閉じる。

 すると、中にあったクリームが突如溢れ出し、ドーナツ全体を呑み込んで真っ白に染め上げていく。

 

 魔法かなにかを使ったのだろうか、奇妙な現象に絶句する二人の前で、エヴァンジェリンはクリームそのものになってしまったドーナツを皿に戻した。

 あくまで、シュガープレーン以外は口にしないつもりらしい。

 

「それがふぁんとむ……わっちが追っておる敵じゃ」

 

 ギシッ、と椅子に座り直し、エヴァンジェリンは沈黙する新人二人に目を向ける。

 

 ぐっ、と息を呑み、レオナルドとツェッドは険しい表情になる。

 色々と『見え』たレオナルドだけではなく、身体がひび割れる異様な光景を目にしたツェッドも、あの現象が進んだ先にある結末がいかに悲惨なものかを理解し、冷や汗を流した。

 

「それを防ぐ唯一の方法が、げーとの精神世界(あんだーわーるど)へ侵入し、魔物を直接仕留めることじゃ」

「……あの、魔法陣の中に入っていった」

「そう…魔物が暴れ、げーとのあんだーわーるどを完全に破壊する前に討ち取ることで、ふぁんとむが生まれるのを未然に防ぐわけじゃ。こればかりは、クラウス達にも真似はできん。わっちにしかできん芸当でありんす」

 

 小さな魔女はまた一口コーヒーを口に含み、乾いた喉を潤してから続きを口にする。

 不意に、魔女は自分の胸に触れ、薄い膨らみを撫でるような仕草を見せる。じきに雛が生まれる卵を慈しむような動きで、にやりと蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。

 

「ちなみにの、わっちの中にも一匹ふぁんとむが飼われていんす」

「えっ」

「心配せずともよい。わっちが絶望せん限り表に出ることはないからの」

 

 ギョッと思わず後ずさる二人ににやにやと笑みを見せ、エヴァンジェリンが肩を揺らす。本人が即座に否定するが、昨日の怪人の凶悪性を思い浮かべた二人は早々気を許せない。

 新人達の反応を面白がり、くすくすと声を上げる小さな魔女だが、突如その表情が曇る。

 

「……わっちが絶望すれば、話は別じゃがな」

 

 いつ訪れるかもわからない、最悪の時を覚悟しているような、真剣な面持ちと声音で、エヴァンジェリンが呟く。

 またしてもザザッと後退る二人に、エヴァンジェリンはけらけらと愉し気に笑い始めた。

 

「冗談じゃ。そうそう簡単に堕とされはせん……何があってもな」

「……」

 

 本気か冗談か全くわからない魔女の雰囲気の変化に、レオナルドとツェッドはもう言葉も出ない。時々出る殺気に近い迫力で、先ほどから心臓がうるさく騒いで仕方がない。

 

 何とも言えない苦い表情で睨んでくる新人たちの視線に知らぬ顔をしながら、エヴァンジェリンはコーヒーを啜る。

 その際、ちらりと彼女の視線が、新人達に向けられ、もの言いたげに細められた。

 

「…そういえば、ぬしも何か抱えているようでありんすな。…そこの半魚は見た通りのようじゃが」

 

 ピクリ、と反応を返すツェッド。

 常識から覆されたヘルサレムズ・ロットに住む彼だが、見た目で苦労した経験も多々ある。兄弟子に散々貶されて、今更傷付く事こそないが、それでも自他問わず差別をうければ多少気分も悪くはなる。

 しかし魔女の視線が向いているのは、ツェッドの隣の少年―――今は薄目に隠されている彼の両目に向けられた。

 

「〝神々の義眼〟……彼奴も酷なことをしおる」

「…! この目について、何か知ってるんですか?」

「まぁ…人より長く生きていんすからな」

 

 驚愕のあまり、大きく見開かれるレオナルドの瞼。その奥から露わになる、神秘的な幾何学模様の光が、小さな魔女を射抜く。

 

 彼がこの危険過ぎる街にいる理由、その全てがこの目に込められている。

 かつて彼と彼の妹の前に現われた神性存在―――リガ=エル=メヌヒュトという名の、異界の上位存在お抱えの眼科技師。

 それの出現により、義眼を移植されたレオナルド、反対に妹のミシェーラは視力を奪われた。

 

 彼女の目を取り戻すために、彼はこの街に来た。

 故に、義眼やそれに関する情報があれば、どんなものでも把握しておきたかったのだ。

 

「他の保有者に逢ったことも何度かある……喜ぶ者、嘆く者、各々によって違いんした」

「…この眼を、元に戻せた人とかは」

「知らん。神性存在との契約を一方的に破棄して無事で済んだ者は、わっちの知る限り存在しんせん」

 

 やや突き放すように告げるエヴァンジェリンに、レオナルドは半ば予想していたのか、あまり落胆する様子は見せず引き下がる。

 

 何度か、その目について語った相手には似たようなことを言われたのだ。神性存在との契約を一方的に破棄し、なおかつ無事で済むような前例など、今世において0であると。

 もしや、という気持ちで尋ねてはみたが、思った通りそう簡単にはうまくいかないと、淡い願望のつもりだった。

 

「…ライブラに来たのは、その眼のせいか」

「……はい」

 

 しかし、やはり進展がない事は気にしているのか、沈痛な表情で俯くレオナルドに、隣のツェッドが案じるような目を向ける。

 はっきりと否定したエヴァンジェリンもいたたまれなくなったのか、険しい表情でレオナルドを見やり、大きなため息をついていた。

 

「誰の目を犠牲にしたかは聞きんせん、そういう抱え込んだものは飽きるほどに見てきんしたからな……修羅の道でありんすえ」

「…それでも俺は…可能性があるなら、諦めたくないです」

 

 再び顔を上げ、エヴァンジェリンを見つめるレオナルド。その目を見た小さな魔女は、義眼の奥から伝わってくる本気の覚悟に思わず息を呑む。

 いかなる険しい道であろうとも、そこに道があるのなら決して引き下がらない、そんな亀のような不退転の覚悟を感じるその眼差しに、エヴァンジェリンはやがて呆れたように鼻を鳴らした。

 

「なら、好きにしなんし」

 

 お前の覚悟はわかった、と興味を失くしたように目を逸らす。

 しかし、しばらくしてエヴァンジェリンはまた、疑うような視線をレオナルドに向け、口を開いた。

 

「じゃが…本当にぬし、ふぁんとむの本性を見破れるのか?」

「あ、はい。多分…エヴァンジェリンさんの中にいるドラゴンも結構はっきり見えてますし」

「ふん…それだけで役に立つかどうか。言うておくがな、奴らは基本、人の皮を被って世界に身を潜めていんす。わっちの中のどらごんと同じと思わんことじゃ」

 

 今でもくっきりと、蠢く竜の姿を視認できているレオナルドが、何故いまさらそんなことを聞くのか、と不思議そうに魔女を見つめ返す。

 エヴァンジェリンはカップに入っていたコーヒーを飲み干すと、不意ににやりと意味深な笑みを浮かべて親指を立て、自分の遥か後方を指してみせた。

 

「例えばじゃ……向こうからわっちを狙っておる連中は、人か否かわかるか?」

「「え?」」

 

 突然の問いに、レオナルドとツェッドは間抜けな声を上げて眉間にしわをよせる。

 そして、彼女が示している方向に目をやり、そこに勢揃いしている者達の姿を目にし、同時に「えっ」と声を漏らす。

 

 ズシン、ズシンとアスファルトを踏み鳴らし、巨大な砲門を向けてくる、鋼鉄の兵器の存在に。

 そしてその真下で銃を構える、無数の凶悪な人相の男達に。



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4.壊れた価値観

 バルゼルエヴォスディアⅦ・デストロイアカスタム改

砲撃開始(フォイア)

 

 地鳴りのような轟音を上げ、キャタピラが回る。その上に備えられた土管のような巨大さの砲門が動き、小さな魔女に照準を絞る。

 そして次の瞬間、辺りが真っ白に染まる程の閃光が迸り、隕石と見間違わんばかりの砲弾が撃ち放たれた。

 

 ドッ!と音を置き去りにする勢いで迫る、鋼鉄の塊。

 しかし魔女は表情一つ変えないまま、素早く右手の中指にはめた指輪を、出現させたベルトの中心にかざした。

 

〈デェフェンド・プリーズ〉

 

 途端に、石積みの地面がモコッと盛り上がり、魔女と隣に座る青年達、そして移動販売の店主を守る盾となる。

 が、直撃した砲弾の威力は凄まじく、壁は一瞬で破壊され、衝撃によりエヴァンジェリンは軽々と吹っ飛ばされてしまう。無論、レオナルドとツェッド、店主もまとめて一緒にだ。

 

「ぎゃああああ⁉︎」

「ちっ…派手にやりおって」

「いや〜ん! あたしのお店〜!」

 

 空中を瓦礫と一緒に舞う四人。その横をボコボコにされたキッチンカーが通り過ぎ、彼らから少し離れた場所に落下し、ボンッと爆発四散する。

 

 背中から倒れ込み、見るも無残な姿に変わったキッチンカーを前に泣き叫ぶ店主。同じくレオナルドは地面に落下し転がっていき、受け身を取ったツェッドがそれを押しとどめる。

 そのすぐ横に華麗に着地したエヴァンジェリンは、響き渡る悲鳴に顔をしかめ、砲弾が飛んできた方を見やってチッと舌打ちした。

 

「見つけたぞぉ……クソチビババア!」

 

 キュラキュラキュラ…とキャタピラの音が鳴り響き、同時に無数の足音が近づいてくる。

 その最前面にいた一人の男、マシンガンやバズーカ、さらには無数の手榴弾などで武装した強面の男が、頭上に向けて一発の弾丸を撃ち、腹の底から怒号を轟かせていた。

 

 彼に同意するように、ぞろぞろと同じく武装した男達が近づいてくる。

 人類(ヒューマー)から異界人まで、多種多様な見た目の男達が全く同じ憎悪の炎を目に宿し、魔女ただ一人に狙いを定めていた。

 

「俺達が被った被害総額14億4000万! てめぇの命で払いやがれやぁ‼︎」

「ぶっ放せぇぇぇ‼︎」

 

 激昂のまま、男達は獣気を構え、一切の躊躇いなく引き金を引く。近くに一般人がいようがお構いなしに、もてる怒りの全てを叩き込もうとするかのごとく、銃弾の嵐を浴びせかける。

 

 エヴァンジェリンは咄嗟に、転がっていたテーブルを蹴り上げ、即席の盾として銃弾を防ぐ。

 危うく蜂の巣になりかけたレオナルドだったが、間一髪ツェッドが襟首を掴んで引き寄せ、燃えるキッチンカーの影に匿ってくれたことで事なきを得た。が、すぐ目の前を銃弾が飛んでいく様は、恐怖の光景以外の何でもなかった。

 

「ぎゃああああ‼︎」

「あ…あれは…⁉︎」

「思ったより簡単に釣れんしたな……はした金でいちいち目くじらを立ておって。まぁ、この程度のエサで釣れるようでは、狙いの獲物まではそう辿りつけんか」

 

 ヤクザだろうがマフィアだろうが、歴戦の度胸の持ち主でも流石に怯むほどの殺気をぶつけてくる男達に、エヴァンジェリンは心底鬱陶しそうに目を細め、ため息をつく。

 

 不意にドゴン!とすぐ近くで爆発が起き、起こった爆風でエヴァンジェリンの長い髪が嬲られ吹き荒らされる。

 レオナルドの小柄な体も危うく吹き飛ばされかけ、ツェッドも至近距離から襲い掛かる轟音に耳をふさいで苦悶をあらわにしていた。

 

「ぎゃあああああ‼︎」

「騒ぐな騒ぐな。ここでは少々狭い、離れんと………すでに色々手遅れだが」

「死ねぇええ! クソガキぃ!」

「ぶっ殺せぇぇ!」

 

 悲鳴をあげる少年に横目を向け、やれやれと肩を竦めるエヴァンジェリン。

 全くと言っていいほど相手にされていないとも知らず、男達はひたすらに魔女の首を取ろうと銃弾を放ちまくる。

 

 その時、不意に彼らの周囲を大きな影が覆い始めた。

 何事か、と銃を撃つ手を止めて顔を上げた彼らは―――大量の瓦礫を山にして担ぐ、憤怒に震える店主の鬼の行を目の当たりにした。

 

「……え」

「あたしのお店に…」

 

 ギラン!と店主の目が輝き、ぐああっと掲げられた大量の瓦礫の山が動く。

 見上げる程の質量が向かってくるその光景に、男達は一時、自分の怒りも忘れて呆然となってしまった。

 

「なんて事してくれるのよぉ〜‼︎」

 強制退店の一撃

 

 滝のように涙を流した店主が、自分の城であり足であり夢であるキッチンカーを破壊された悲しみと怒りを込め、瓦礫の山を叩き落とす。

 目を見開いたまま、あっという間に瓦礫の津波の中に飲み込まれていく彼らに、レオナルドとツェッドは言葉にしがたい驚愕で固まり、店主と瓦礫の山を交互に見やって絶句する。

 

 フー、フー、と荒い猛牛のような息をつく店主に、エヴァンジェリンが少し申し訳なさそうに眉尻を下げた。

 

「すまんの店主。弁償云々は後回しにさせてくりゃれ」

「もう! さっさと片付けてちゃんと戻って来てよね!」

 

 あまり本気で謝って見えないエヴァンジェリンの態度に、しかし店主はさして気にした様子も見せず、ぷりぷりと声を荒げて魔女を睨む。

 

 エヴァンジェリンは軽く頭を下げると、盾にしていたテーブルから離れて歩き出す。

 右手に新たな指輪をはめながら魔女は、表情を引き攣らせ固まったままの青年達に横目をくれ、口を開いた。

 

「行くでありんすえ、小僧共」

〈コネクト・プリーズ!〉

「おわっ!」

「ちょ…ちょっと⁉ 置いていかないでください!」

 

 光があふれ、魔女の目の前に赤い陣が出現し、中から一台の銀色のバイクが飛び出す。

 ひとりでに走り出すそのバイクのハンドルを握り、飛び乗るエヴァンジェリン。襟首を掴まれたレオナルドは荷台部分に無理矢理乗せられ、あっという間に加速し速度に振り回される。

 その後を慌ててボードに乗ったツェッドが追いかけ、三人は高速でその場からの離脱を開始した。

 

「あ…あの人大丈夫なんスか⁉︎」

「…普通の人じゃないのはわかりましたけど」

「まぁ、あの程度のマフィア相手に遅れは取りんせん。それよりさっさと移動しんす」

 

 爆音を上げ、道路を疾走する銀色のバイクとボードに乗った半魚人。

 ヘッドライト部分に備わった深紅の宝石を輝かせ、エヴァンジェリンは途中に置かれた障害物の数々を華麗に躱す。

 

 彼らが通り過ぎた後で、突如轟音が鳴り響く。

 レオナルドが振り向けば、先ほど砲弾をぶち込んできた巨大な戦車が砲門を向け、カッと光を放つところであった。

 

「追ってきましたよ!」

「慌てるな」

 

 半ば悲鳴に近い声を上げるレオナルドに、エヴァンジェリンは冷静に返す。

 魔女はぐりんと勢いよくハンドルを回し、車体を回転させる。少年の「おわぁああ」という声を無視しながら180度方向を変え、戦車に向く。

 

 すると何時の間に呼び出したのか、魔女の手にはいつぞやに見た銀色の剣が握られていた。

 それは魔女の手でグリップが曲げられ、刃が折り畳まれると一丁の銃へと変わり、銃口に赤い光が灯りだす。

 

 ソーマ流血晶魔導第2章16節

研がれた紅牙(デンス・アキュータス・ルブラム)

 

 ドドドドドッ!と、銃口から連続で銃弾が放たれ、歪な軌跡を描きながら戦車と戦車が放った砲弾に向かっていく。

 一発の銃弾は砲弾の頂点に、他の数発は戦車の砲門やキャタピラに次々に炸裂し、中で連鎖的な爆発を起こす。そして戦車の中にまでその爆発は及び、鋼鉄に覆われた怪物は途端に大爆発し、破片を辺りに撒き散らした。

 

「うわあぁああぁ⁉」

「……!」

 

 ばらばらと飛んでくる金属片や、人の慣れの果てらしき部品の数々。

 それらが降り注いでくる光景に恐怖の声を上げるレオナルドと、ドン引きした様子でエヴァンジェリンを凝視するツェッド。

 エヴァンジェリンは全く気にした様子も見せず、反転させていた車体をもとの方向に戻し、フンと詰まらなそうに鼻を鳴らした。

 

「ふむん…得物はいいものを使っていんすな。まぁ、魔法使いを相手にするには役不足でありんすが」

「何ですかあれ…⁉︎ 何ですかあいつら⁉︎ あなたは何をやったんですか⁉︎」

「言ったでありんしょう……釣りでありんす」

 

 魔女の身体にしがみつき、黒煙を上げる背後の惨状を凝視するレオナルドの叫ぶような勢いの問いに、エヴァンジェリンは面倒くさそうに答える。

 

「狙いの獲物に関連のありそうな輩に、片っ端から適当にちょっかいをかけてみたはいいものの……思った以上に雑魚ばかりが釣れんしたな。つまらぬ」

「アレが雑魚⁉ アレが雑魚っすか⁉」

「狙いの獲物に関わるもの以外は全部雑魚でありんす」

 

 魔女はくるくるとまわして弄んでいた銃を魔法陣の中に直し、バイクの運転に戻りながら、やれやれと落胆した様子でため息をつく。

 はぁ、と物憂げな声が響くと、燃え盛っていた戦車がさらに大きな爆発を起こす。積み込んでいた爆薬に引火でもしたのだろうか、それによって生じた衝撃周囲のガラス割れ、さらなる被害が広がっていく光景に、ツェッドは開いた口が塞がらなかった。

 

「くっ…! 周りへの被害というものは度外視なんですか⁉︎」

「知ったことではありんせん」

 

 冷たく、全く興味の無さそうな態度でそう告げるエヴァンジェリンに、ツェッドは嘘だろこの人とでも言いたげに絶句する。

 

 そんな彼の脳裏に、人間的に全く尊敬できない兄弟子の顔が浮かぶ。各方面、あらゆる人間から多大な怨み・怒りを買い、以前には女性関係のトラブルで一国の軍隊のような規模で攻め込まれたこともある屑中の屑だ。

 この状況を釣りと称する姿を見てしまった以上、この小さな魔女の思考の危険さはそれを上回っている気さえしていた。

 

「うちの兄弟子と思考回路がほぼ変わらない気がしますが⁉︎」

「あれと一緒にしないでくりゃれ。ああも女にだらしなく、恨みしか買わぬろくでなしではありんせん」

 

 ―――絶対ウソだ‼

 

 本気で悪気のない態度を見せる魔女に、レオナルドとツェッドの脳内のツッコミが奇跡的に重なる。

 こうも街中に甚大な被害をもたらしながら、罪悪感の欠片も抱いていないこの姿。清々しいにもほどがあり過ぎた。

 

 ふと、運転に集中していたエヴァンジェリンが、っぴくりと背後に反応を示した。

 

「? なんじゃ?」

 

 妙な気配、というか音を感じ取った魔女は、胡乱気な表情で振り向き、黒煙の向こう側で動いた何かの影に注目する。

 

 もくもくと立ち上る黒煙の中から突き出してきたのは、また別の砲身だった。それも、先ほどの戦車のものより数倍は大きい、化け物のような大きさのもの。

 そしてきこえてきたのは、今度はキャタピラの音ではない。ズシン、ズシンとアスファルトの地面を踏み鳴らし、炎上する戦車を踏み越えて、それは姿を現す。

 

 カブトムシのようなシルエットの、四足歩行の足を持った、怪獣と見間違わんばかりの巨体を誇る化け物兵器だった。

 

 ディアボロッセ社製多脚重戦車〝タラント・ヴォイパー〟36F式

進撃開始

 

 化け物兵器は巨体に似合わぬ俊敏さで動き出し、レオナルド達を追いかけ始める。ドスドスドスドス!と一歩一歩が数十メートルにもなる歩幅で、あっという間にバイクとスケボーの速さに追いついてくる。

 その間も砲台は動き、何時如何なる時も木端微塵にできるよう、魔女とその連れ達に照準が合わせられていた。

 

「ぎゃあああ砲身がこっちにぃぃぃ!」

「……うるさい小僧め。ほれ、死にたくなければぬしも何かやってみなんし」

 

 じろり、とさっきから喧しく騒ぐばかりの少年に、いい加減鬱陶しくなってきたエヴァンジェリンから鋭い視線が向けられる。

 厳しい言葉を向けられたレオナルドは、ついちらりとツェッドの方を向き、彼も今や逃げる事しかできずにいることに気付き、がしがしと頭を掻きむしって悩む。

 

「…! ああもう!」

 

 意を決し、レオナルドは両目を全開にして振り向く。

 そしてその目に秘された真価、自分以外の全ての視界を支配し制御下における義眼の能力を、最大出力で開放した。

 

 視野混交

 

 途端に、化け物兵器の動きがぎこちなくなり、挙句大きくバランスを崩したかと思うと、勢い良く地面に倒れ込んでしまった。

 兵器内部に搭乗していた操縦者の視界、あるいは近くにいた別の者の目、人以外の生物の視界、あらゆる存在の視界をシャッフルし、操縦者を混乱させてみせたのだ。

 

 ズズン…と轟く地響き。

 その結果出来上がった、非力な少年がやってのけた見事な撃退劇に、エヴァンジェリンも思わずひゅぅと口笛を吹き、感嘆をあらわにした。

 

「やればできるではありんせんか」

「嬉しくないんスよ!」

 

 そんなレオナルドの悲鳴を残し、魔女たちは颯爽と惨状を後にする。

 しかししばらくすると、動きを止めていた兵器が再び起動し、ズシンと怒りに満ちた一歩を、踏み出し始めた。

 

 

 

「あーあー……何だあれ、えらいことになってんな」

 

 ある高層ビルの屋上に腰かけた、ファーのついたジャケットを身に纏った少女が、視界の端に上がった黒煙に目を細める。

 ぶりゅぶりゅと持っていたホットドッグに大量のマヨネーズをぶっかけ、ほとんど真っ白になったそれにさも美味そうにかぶりつき、ゴクンと呑み込んでから深いため息をつく。

 

「ったく…相っ変わらずなんだよなぁ、あのババアは。周りの事なんざな~んも考えちゃいねぇ」

 

 聞こえてくるのは破壊音だけではない、数多の人々の悲鳴も聞こえてくる。

 そこかしこから聞こえてくる甲高い声だが、きっと彼女は全く気にしていないのだろうと、その少女は困った様子でがしがしと頭を掻く。

 

「しょうがねぇ、助けてやっか」

 

 そう呟き、少女は腰を上げる。

 そして何のためらいもなく、ビルの屋上から高々と跳躍し、飛び降りてみせる。

 

 その直後、甲高い鳥の鳴き声と共に、金色の影が天空に舞い上がった。



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5.魔女と魔獣(Witch&Beast)

 ドゴン、ズズン!と。

 街中で立て続けに起こる爆発で、多くのビルが振動でビリビリと震え、ガラスが粉々に砕け散っていく。

 中にはドミノ倒しのように崩壊する建物もあり、無数の瓦礫が街を歩いていた人々の頭上に降り注いでいく。

 

 ずしん、と目前に落下した壁の一部を乗り越え、バイクのエンジンを噴かせながら、エヴァンジェリンは鬱陶しそうに鼻を鳴らした。

 

「ふむん……これは流石に困りんした」

 

 呟く彼女、そしてレオナルドとツェッドの背後で、怪物兵器から放たれた砲弾が炸裂し、大爆発が起こる。

 後ろから幾つものアスファルトの破片が飛んできて、ハンドルを左右に傾けて躱し続ける。そんな攻防がかれこれ数十分は続いていて、魔女は徐々に辟易とした様子を見せ始めていた。

 

「ここまでしつこいとは……無駄な殺生は疲れるゆえ避けたいのじゃがな」

「言ってる場合じゃねえええええ‼」

 

 操縦したまま、やれやれと肩を竦めるエヴァンジェリンに、彼女にしがみつくほかにないレオナルドが叫ぶ。

 耳にキーンと突き刺さるような悲鳴に、エヴァンジェリンは心底鬱陶しそうに顔をしかめさせる。そして、背後に見える鋼鉄の怪物と、その足元を走る装甲車やバイクを睨み、嘆息する。

 

「仕方がありんせん……河岸を変えんす」

 

 ぐいんっ、とハンドルを傾け、アクセルを全開にするエヴァンジェリン。

 急な方向転換にレオナルドがまた叫び、ツェッドが慌てて後を追う。その後ろを襲撃者達も食らいつき、途中の車や歩行者を犠牲にしながら迫り来る。

 

 獣の唸り声のようなエンジン音を響かせ、バイクを駆るエヴァンジェリンが向かったのは、都市部から離れた港。

 コンテナがいくつも並ぶその間の通路を抜け、波止場に到着した時点で、魔女は車体を回し強制的にブレーキをかけた。

 

「ちょ…ここ、行き止まりですよ⁉ どうするんですか⁉」

「人はいませんが……ここでは我々の方が不利に」

 

 今日も今日とて霧の空が見える、穏やかな波が押し寄せてくる周囲を見渡し、レオナルドとツェッドが慌てた声を上げる。

 巻き込む人間がいない事は確かに賢明な選択かもしれないが、退路を断たれたこの状況は不安しかもたらさない。向こうが広範囲を破壊する凶悪な兵器を持っている場合は猶更だ。

 

 しかしエヴァンジェリンは、そんな彼らの叫びにも耳を貸さず、平然とした顔でバイクから降りた。

 

「ぎゃはははは! バァ〜カ! 自分から行き止まりに来やがって!」

「往生せぇや〜‼︎」

 

 ズシンズシン、ばりばりブォォンとけたたましい音と共に、追いついてきた襲撃者達が、それぞれで所持する武器の銃口を向けてくる。

 ツェッドが舌打ち交じりにレオナルドを庇い、血法を用いて三叉の槍を生み出し構える。その横でも、エヴァンジェリンは気だるげな表情のまま、じっと男達を睨み見据えるのみだ。

 それを恐怖で固まっているものと思ってか、嗜虐心で溢れた下卑た顔つきになった男達が、引き金に指をかけていく、その直前。

 

「はーやれやれ……やっとこさ追いついたぜ」

 

 そんな、魔女とそっくりなくらいに気だるげで面倒臭そうな声が、頭上から男達に降りかかった。

 

 声に気付いた何人かが、訝しげな表情で顔を上げ、声の主を探し始める。

 だがその時には既に、コンテナを運ぶクレーンの上に立っていた何者かが勢いよく飛び出し、鋼鉄の怪物に向かって思い切り片足を振り上げているところだった。

 

 我流・獅子王砌牙

 

 ごぐわしゃ、と。

 鋼の装甲が飴細工かなにかのように変形し、ボディが原型を留めないほどに歪む。

 衝撃で足の関節からボルトが弾け飛び、パーツが片っ端からバラバラに分解されていく。その真下にいた何人かの男達が、「ぎゅべっ」「がびゅ」と破片の下敷きとなって潰されていった。

 

「…⁉」

「おいおい…オレ様を抜きにして好き勝手暴れすぎだぜ、エヴァ」

 

 何が起こったのか、と呆然とその光景を凝視していたレオナルドとツェッド。

 そんな二人のすぐ近くで、グルルル…と唸り声とともに近付いてくる何者かの姿があった。

 

 振り向き、身構えた二人の視界に入ったのは、猫―――いや、獅子の耳と尾。

 襟元にファーがついたジャケットを羽織り、鬣のような髪を海風にたなびかせる、長身でグラマラスな身体つきをした、ワイルドな印象を抱かせる美女。

 鋭い八重歯がきらりと輝く、獰猛な笑みを湛えたその美女に、エヴァンジェリンがじろりと呆れたような視線を送っていた。

 

「ここに誘導しておいてなんじゃが、オーフェン、ぬし…ようここに辿り着いたの」

「そりゃあこんだけ派手にやってんならな…! 独り占めはゆるさねぇぜ!」

「そうか」

 

 うずうずと、待ち遠しそうに唸る美女―――オーフェンと呼ばれた彼女に、エヴァンジェリンは深いため息と共に目を逸らす。

 ふんふん、と顔にかかる荒い鼻息に、本気で鬱陶しそうに手で払いつつ、餌を前にマテを強要される犬のような表情をしているオーフェンを、じろりと睨みつける。

 

「それよりぬし、頼んでおいた仕事は終わったのかえ? サボりなら容赦せんぞ」

「うるせぇな…ちゃんとやってるっての、お前は俺様の母ちゃんか何かかっつの」

「そういう態度が信用ないのでありんす」

 

 途端に不機嫌になり、同時に居心地悪そうに目を逸らすオーフェン。

 エヴァンジェリンはその態度に、ある程度の彼女の仕事の成果を予想し、はぁ、と重いため息をつく。

 

 落胆を感じるその声に、カチンと額に青筋を立てたオーフェンが振り向き、凄まじい勢いでまくしたて始めた。

 

「大体よぉ、こんなくそデカい街のどこに潜んでるかもわかんねぇ金ピカ魔法使いを見つけろなんて、一朝一夕でできるわけねぇだろうがムチャブリババア‼」

「それをやれと言っていんす。文句を垂れるな小娘が」

「はい出ましたー! そうやって年上ですオーラ出す会話ー! 年下のムキムキマッチョ紳士に恋焦がれるババアがナマ言ってんじゃねーぞコラァ‼」

「ぶち殺すぞ餓鬼が」

 

 ビキッ、と今度はエヴァンジェリンのこめかみに血管が浮かび、凄まじい殺気が周囲に迸る。

 思わずズザザッと後退るツェッドとは真逆に、真正面から殺気を受けても、オーフェンがたじろぐ様子はない。むしろ意気揚々と、視線だけで十分に人を殺せそうなエヴァンジェリンを睨み返していた。

 

 味方であるはずなのに、巻き添えで心不全を起こさせられかけたレオナルドは、ツェッドの背後から恐る恐る新たな美女を観察する。

 そして、彼女の中に見えた一体の影に、ごくりと大きく唾を呑み込んだ。

 

 ―――この人も、エヴァンジェリンさんと同じ…!

 

 義眼で覗いた景色の中に見えたのは、巨大な獅子。

 無論ただの獅子ではなく、両肩や胸、尾に別の種類の獣の顔を宿す、合成獣(キマイラ)の姿をした怪異だ。

 その気配は、エヴァンジェリンの中から感じる竜の気配とほぼ同等の圧を放ち、気を抜けば食い殺されそうな恐れをもたらしている。

 

「あ……あなた一体…誰ですか。何事も無かったかのように会話を始めてますけど…」

「あ? お前こそ誰だよ」

 

 意を決してツェッドが話しかけてみれば、胡乱気な顔でオーフェンが顔を覗き込んでくる。

 急に顔を寄せられ、圧で思わず後ずさるツェッドに合わせてレオナルドも圧倒され、二人して冷や汗をかいて顔を引き攣らせた。

 

「ほーほー……見た感じなんかしらの魔術で作られた人造生物って感じか? 面倒くさそうなもん背負ってそうな見た目してんなぁ」

「ぼ…僕は」

「あーあー、みなまで言うな。なんか悪いなぁ、ウチのババアが変なことに巻き込んじまったみたいで。代わりに頭下げっから許してちょうだいよ」

 

 無遠慮な、そして話を聞かない態度が目立つオーフェンに、レオナルド達はひたすら圧倒される。ツェッドに対する偏見こそないようだが、それでもデリカシーというものが非常に欠けている、何とも言えない残念な美女だ。

 ヘラヘラと笑みを浮かべる彼女に、魔女はちっと舌打ちをこぼし、肩を竦める。

 

「此奴に関しては気にせんことでありんす、小僧共。此奴はあれじゃ……あー、わっちの使い魔のような何かでありんす」

「ああ⁉︎ 誰が使い魔だ⁉︎」

「ぬしじゃ」

「ふざっけんなっつの! オレはお前の……ビ、ビ…あれだ、何とかパートタイマーだろうが!」

「……ビジネスパートナーとでも言いたいんでありんすか?」

「そうそうそれそれ!」

 

 心底呆れた様子で横目を向けるエヴァンジェリンに、馬鹿にされている事にも気づかないオーフェンが上機嫌に頷く。

 ぽかん、と呆けたまま立ち尽くすレオナルドやツェッドの前で、オーフェンは改めて向き直ると、ポーズをとって自分に親指を指す。

 

「オレ様を知らねぇってんならよく覚えておけ……オレ様は」

 

 格好をつけて名乗ろうとしたその時、ドズンッ!と凄まじい轟音が響き、鋼鉄の怪物の残骸が倒れ込む。

 その間からわらわらと、巣を潰された子蜘蛛の大群のように、生き延びた襲撃者達が怒りをあらわに這い出してきた。

 

「てっ……てめェふざけやがってえええ‼」

「よくも俺の兄弟を…!」

「ちっ…のんびりやってる暇はなさそうだな」

「仕方がない……さっさと片付けて場所を変えんしょう」

 

 血だらけになり、片腕片足をバキバキに圧し折られながら、潰された味方や仲間をやられた憎しみに燃える男達。

 エヴァンジェリンもオーフェンも、それに鬱陶しそうに顔をしかめ、鋭い目で睨みつける。

 

 二人は示し合わせる事もなく、黙って隣り合うように並び、懐から取り出した指輪を一つ指にはめる。そして同時に、腰の前にかざし一本のベルトを呼び出した。

 

〈ドライバー・オン!〉

「変身」

「変〜身!」

 

 片方は掌の意匠、もう片方は扉のような意匠のベルト。

 エヴァンジェリンが赤い宝石のついた指輪をはめる横で、オーフェンは頭上に掲げた手を回し、ベルトの左側にはめ込み、鍵を挿すように捻る。

 途端にオーフェンのベルトの扉が両側に開き、黄金の獅子の顔が露わとなった。

 

〈フレイム・プリーズ! ヒー・ヒー・ヒーヒーヒー!〉

〈セット・オープン! L・I・O・N! LION!〉

 

 炎を放つ赤い魔法陣がエヴァンジェリンの左側に、金色の光を放つ魔法陣がオーフェンの前方に出現し、それぞれ二人の肉体を通過する。

 

 そして現れる宝石の魔法使いと、もう一人の獣の魔法使い。

 左肩に獅子の貌を、軍服に似た黒い衣装を纏い、鬣を思わせる豊かな金髪が揺れる。額には獅子の顔を模ったフェイスガードが装着され、同じく金色に光り輝く。

 緑に変色した両目を爛々と輝かせ、オーフェンは集まってくる襲撃者達を見据え、獰猛な笑みを浮かべた。

 

「古の魔法使いビーストことオーフェン、いざ、いただきます…!」

 

 ズシンッ…!とオーフェンが片足を踏み鳴らすと、途端にアスファルトに巨大な蜘蛛の巣状の亀裂が走る。

 ビリビリと走る衝撃に、殺意満々で向かってきていた襲撃者達は思わず圧倒され、顔から血の気を引かせて後退る。重火器の引き金に指がかかっているのに、凍ってしまったかのように動く事ができなくなる。

 そんな彼らに向けて、オーフェンはガルルル…と唸り声をあげ、一人一人を睥睨し、べろりと唇を舐めた。

 

「さぁ…食事の時間(ランチタイム)だ!」

 

 ギラリと一際鋭く強く目を輝かせ、オーフェンが俊敏な動きで空中に跳び上がり、その下でエヴァンジェリンが剣を片手に颯爽と駆け出す。

 気圧され、行動が遅れた襲撃者達に対し、二人の魔法使いたちが無慈悲に凶刃を食らいつかせに向かう。

 

 そんな光景を、レオナルドとツェッドはただ、呆然と見ている事しかできなかった。

 

 

 

 

 ―――そのあとはもう、地獄だった。

 

    ライブラ最古参の魔法使いと、その使い魔だかビジネスパートナーだとかいう色々デカい美女。

    ほぼ同程度の凶悪なオーラを放つ魔獣をその身に宿す魔女達は、次々に自身らが持つ魔法を放ち、敵を一人残らず蹂躙していく。

 

    火や水や風や土の魔法を連発し、鋼鉄の兵器の数々を片っ端からぶっ潰し、剣や銃で叩きのめしていく宝石の魔女。

    肩にタカやらイルカやらカメレオンやらバッファローやらの顔を生やし、その都度能力を変えて男達を吹っ飛ばす魔獣の女。

    その威力の凄まじさは、ツェッドさんが巻き添えを防ぐために、防御に徹することしかできなくなるくらいだった。

 

    明らかに向こうの方が悪人のはずなのに、どう見ても正義の味方とは思えない暴れっぷりで破壊の限りを尽くし、吹っ飛ばし蹴散らしていく。

    終始笑顔のまま暴れ狂う、しかし可憐な美貌を持つ魔女達を前に。

 

    彼らは皆、途中から完全に泣きが入っていた。

 

 気づけば、港に置かれたコンテナはほとんど全滅していた。

 大の字になった人の跡が残った金属の側面や、まんま顔の形に歪んだ跡。あるいは夥しい量の血の跡が残った壁や地面に、転がっている人体の破片。

 

 あちこちでもくもくと立ち昇る黒煙や火の手が、そこで起きた惨劇の凄まじさをこれでもかと物語っている。

 数少ない生き残り、千切れかけた片腕を抑えた男が、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を辺りに向け、呆然と呟く。

 

「……ウソだろ」

「否―――真でありんす」

 

 全てが夢であってほしいと願うような、現実から目を逸らしたがっているような声音をこぼす彼の目の前に、ガチャンとエヴァンジェリンが銃を突き付ける。

 散々暴れ、狂った後だというのに、魔女やその連れに疲労した様子もなければ、さらにはさして汚れた様子もない。全くと言っていいほど、襲撃者達との戦闘を、歯牙にもかけていなかったことがわかった。わかってしまった。

 

「ぬるいのぅ…この程度でわっちの首を取るつもりでありんしたか」

「ぁ……あ…」

「まぁ、ぬしらの見通しの甘さを恨むことでありんすえ……おとなしゅう、指を咥えて見ておれば、こうならずに済んだのにの」

 

 心底呆れた様子で呟き、額に銃口を当ててくいっと顔を上げさせる。

 冷たく、無機質な目で見下ろしてくる魔女をしばらく凝視していた男は、やがてフッと自嘲気味に鼻を鳴らし、吐き捨てるように告げた。

 

「化け物が……」

「知っていんす」

 

 直後、ドパンッ!と破裂音が鳴り響き、頭蓋を貫かれた男の骸が、力なく倒れ込む。

 

 そのすぐ横で、ばりばりと何かを咀嚼する音が響く。

 そこには転がる襲撃者達の骸の山に腰かけ、彼らの身体から滲み出る、光の靄のような何かを食い散らかしているオーフェンの姿がある。

 骸から溢れたそれがすべて消えると、オーフェンは満足げに腹を撫で、パンッと両掌を打ち鳴らした。

 

「あ~……ごっつぁん!」

 

 オーフェンは上機嫌に唇を舐め、骸の山の上でどっかりと胡坐をかく。死者に対してあまりな姿だが、周囲の惨状もあり、誰であっても口を挟めない雰囲気がある。

 レオナルドとツェッドも、その惨状を前に表情筋を引き攣らせ、物陰から顔を覗かせたまま動けなくなっていた。

 

「…あの…! あの人ホントに……ライブラの人間なんスよね…⁉」

「その……筈……だけど……‼」

 

 白煙を立ち昇らせる銃を下ろし、エヴァンジェリンはフゥとため息をこぼす。

 そして、コンテナの影からわなわなと震えて凝視してくるレオナルドとツェッドに、にやりと蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。

 

「―――よかったのぅ、ぬしらもまとめて踏み潰されんで」

 

Confundus Charm

 

「……やはり、あの程度の輩では足止めにもならんか」

 

 黒煙の立ち昇る、原型をほとんど留めていない港を見下ろし、それは―――黄金の魔法使いは呟いた。

 視線の先にいる、無数の骸や残骸を適当に運び、気だるげに後片付けに向かう小さな魔女。隠しきれない殺意と憎悪を内に宿す彼女を見つめ、黄金の魔法使いは仮面の奥に隠された目をさも愉しげに細め、笑った。

 

「まぁいい……戦力に関しては大体把握した。あとはもう―――儀式を始めるだけだ」

〈テレポート・ナウ〉

 

 意味深な呟きのみを残し、黄金の魔法使いの腰のベルトが光を放つ。

 途端にその姿は光に隠され、まるで最初から誰もいなかったかのような静寂が訪れる。

 それに気づく者は、誰一人として存在しなかった。



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6.一波乱終えて

 カラン、とグラスの中に残った氷が音を立てる。

 ジャズソングが流れるバー、異形の姿をしたマスターがカクテルを作る、いつもの愚痴り場にて。

 

 カウンター席に腰かけ、疲れ切った表情になったレオナルドとツェッドが、ぐったりと突っ伏した。

 

「……死ぬかと思いました」

「師匠との修行の日々を思い出しましたよ…!」

「悪かったっつってんじゃねぇか……ああでも言わなきゃ、旦那もババアも両方納得しなかったんだっての」

 

 引き攣った顔で呟いた二人に、グラスをぐびりと呷ったザップがうんざりした顔で告げる。

 

 やれやれと肩を竦め、目を逸らした彼に、レオナルドがカウンターに突っ伏したまま恨みがましげな目を向ける。

 この疲れの主な原因は、勝手な台詞を吐いたこの男なのだ。せめて問い質さなくては気が済まないというもの、恨みも引きはしまい。

 

「あの人、マジであんな感じなんですか…⁉ ムチャクチャ恨み買いまくってんじゃないスか」

「あなた以上……いや、騒ぎを利用してもっと多くの獲物を釣り上げようとしている分、さらにタチが悪いかもしれませんね」

「なんだかんだで、長く表にも裏にも関わってきた人だかんなぁ…」

 

 主に女性や金銭関連で騒動を引き起こす、先輩であり兄弟子である男を見つめ、レオナルドとツェッドは同時にため息をつく。

 

 性根が曲がり切っている事で有名なザップと言えど、心底しんどそうに項垂れる二人を見て居心地が悪くなったのか、未だに目を逸らしたままである。

 その姿は、適当に時間を過ごし、二人の不満が自然消滅するのを待っているようにも見えていた。

 

「組織に…いや、旦那に仇為す存在、敵になり得る存在全てを、あのババアは敵とみなす。そのためになら、テメーがどれだけ悪意の標的となろうが、構わねぇんだ。……旦那はそんな風には求めちゃいねぇけどな」

「でしょうね」

「そうじゃなきゃ、僕達を一緒に行かせるわけありませんもんね」

 

 ザップが語ると、二人とも当たり前だと言わんばかりに頷く。

 敵であろうと礼儀を失わない、あまりに正直すぎる組織の長クラウス。そんな彼が、仲間が悪意に晒されていると知って黙っているだろうか。

 答えは否である。

 

 ツェッドは自分のグラスに口をつけ、氷を揺らしながらまた小さく息をつく。

 今日一日で思い知らされた魔女の恐ろしさ、そして危険性を思い出し、眉間にしわが寄るのを堪えられなかった。

 

「……それにしたってあの人、血の気が多すぎませんか? 今日の姿を見るに、クラウスさんの敵だからって理由だけではないように思えますが…」

 

 弟弟子の呟きに、ザップは急に険しい表情になり、黙り込む。

 どことなく、嫌なものを思い出させられた、というような雰囲気が漂ってきて、ツェッドは思わず訝しげに兄弟子を見やる。

 レオナルドも、ザップが見せる妙に張り詰めた表情に首を傾げる。

 

 しばらくして、ザップの持つグラスがまたカランと音を立てた頃、重いため息とともに再び口が開かれた。

 

「…魔女狩り、って知ってるよな」

「!」

「ババアはな……ちょうどその時代を生きてたんだとよ」

 

 ギョッと、驚愕の顔で振り向く後輩達に、ザップは振り向かないまま続ける。

 

 語るにつれ、ザップの表情はどんどん険しく、虚空に向けた目つきは鋭くなっていく。話す内容がよほど気に入らないのか、苦手な女性の事にも関わらず、エヴァンジェリンに同情するような表情になっていた。

 

「今じゃ、無知な民衆や国が暴走して罪もない大勢の女が、拷問の挙句に殺されたって面が目立つが……ババアに関しちゃ、本物だからな。…何されたかなんて、わかったもんじゃねぇ」

 

 しん、と静かになったレオナルドとツェッド。

 思わぬ話で圧倒されたのだろう、とザップは鼻を鳴らし、頬杖をつくと苛立たし気に舌を打つ。

 彼の眉間に寄ったしわは、思い出すことも腹立たしいという感情がありありと表れていた。

 

「旦那と出会う前は、相当酷かったらしい。その頃のババアにとっちゃ……この世の中の人間は皆、テメーを排除しようとする敵以外いなかったからな」

 

Immobulus

 

 そこは、命の気配が消え失せた場所だった。

 枯れた大地、朽ちた草木、乾いた風、翳る空。生物の全てがそこで生きる事をあきらめ、逃げ去った後の場所である。

 

 そんな寂しい世界のど真ん中に、ボロボロになった家屋があった。屋根は抜け、壁には穴が開き、辛うじて形だけが保たれた小さな小屋。

 もはや崩壊する時を待つばかりのその小屋を、一人の大柄な男が尋ねていた。

 見上げる程の巨体に、キッチリとしたスーツ姿の彼は、一切躊躇う様子を見せず、開けっ放しとなった小屋の入り口を潜ろうとする。

 

「……それ以上近付くな」

 

 しかしその時、小屋の中から響いた冷たい声に、男の―――まだ少し若い顔のクラウスが足を止める。

 踏み出しかけた足を引っ込め、薄暗い小屋の奥を見やった彼は、眼鏡の奥の目をわずかに見開く。

 

 小屋の奥に腰を下ろし、潜んでいた一人の少女―――エヴァンジェリンは、見知らぬ訪問客であるクラウスを睨みつけ、眉間に深いしわを寄せる。

 常人ならば、腰を抜かすほどの殺気のこもった視線でクラウスを射抜き、苛立たし気に唸るような声を出す。

 

「せっかく一人になれる場所を見つけたというのに……何の用だ、小僧」

 

 ぎろり、とエヴァンジェリンの視線がさらに鋭くなる。

 クラウスに対してだけではない、この世の全てを憎み、恨み、壊したがっているような、凄まじい怒りの表情を称え、小さな魔女は吐き捨てる。

 クラウスはスッと背筋を正し、魔女を真っ直ぐ見つめたまま話しかける。

 

「失礼する、貴殿が〝指輪の魔法使い〟で間違いないだろうか?」

「だったら何だというのだ……用があるなら疾くと言え。そして疾くとここから去れ。人間の匂いがするというだけで、吐き気がして腹が立つ。死にたくないのなら…さっさといね」

「少し…話をしたくてここへ来ました。どうか、少しだけお時間を戴きたい」

 

 そう告げた直後、クラウスの顔の真横を途轍もない速度で何かが通り過ぎる。

 ゴウッ!と強烈な風切り音が響いたと思った瞬間、クラウスの背後で何かが破壊される音が響く。振り向くと、小屋の壁の一部に丸く穴が開いているのが見える。

 

 再び振り向き、エヴァンジェリンに視線を戻せば、魔女がクラウスに向けて手を突き出している姿がある。

 間違いなく彼女がクラウスに対し、害意を持って攻撃したことを示していた。

 

「聞こえなかったか? 失せろと言ったのだ」

 

 ビキビキ、とエヴァンジェリンのこめかみに太い血管が浮き出て、より一層濃密な殺気が迸る。普通なら、相手を失神させるほどの気迫である。

 

 クラウスは全身から拒絶する意思を醸し出す魔女を見つめ、何やらしばらくの間考え込む。

 小さく首を傾げ、虚空を見つめていた彼は、やがて何か納得した様子で頷き、無言のままその場に膝をき、腰を下ろした。いわゆる正座の体勢である。

 

「……なぜ正座をした? 今の状況がわかっていないのか? ふざけているのなら、ここで殺すぞ」

「失礼ながら、貴殿にその気はないと思われる。……先ほどのものは脅しではなく、威嚇でしょう?」

「……舐めているのか?」

 

 エヴァンジェリンはますます眉間にしわを寄せ、クラウスに苛立ちと呆れの混ざった視線を向ける。

 思い切り馬鹿にされている気分に陥り、ヒクヒクと頬を引き攣らせ、子供なら泣き叫ぶような殺気を放って、目の前の巨漢を睨み続ける。

 

 だが、やがてそれも面倒くさくなってくる。

 真正面から相対したクラウスの表情が、微塵も虚仮にしている様子が感じられなかったのだ。

 

「……もういい、岩に向かって話している気分だ」

 

 エヴァンジェリンは深いため息と共に、クラウスから目を逸らして肩を落とす。こうも動じない相手に威嚇を続けたところで、絶対に退きはしないと理解してしまった。

 何とも言えない、妙な相手に見つかってしまったと頭を抱え、エヴァンジェリンは頬杖を突き、クラウスを見つめ返した。

 

「何故ここに来た。私について知っているということは、私が何をしてきたか知っているのだろう、牙狩りよ」

「ええ……だからこそ、私はここに来ました」

 

 怖気付く様子もなく、しかと頷くクラウスの態度に、エヴァンジェリンはフンと鼻を鳴らす。

 

 齢数百の魔女、不老不死の化け物にして、魔女狩りの歴史を経て幾度も人間との衝突を繰り返してきた、科学文明の敵。

 俗世を嫌い、誰も来ないような僻地に引っ込んだ魔女の元にやってくる人間の目的など、総じて似たようなものだと早々に諦め、気だるげに舌を鳴らす。

 

「そして実際に貴殿に会い、語られるような方ではないと確信しました」

 

 だが、クラウスのその言葉に、エヴァンジェリンは訝しげに彼を凝視する。

 牙狩り、人界に害をなす怪物を討ち取る凄腕の狩猟者達。悠久の時を生き、人智を超えた能力を有した化け物を狩る力を研鑽させてきた者達。

 

 そんな集団の一人が、酷く甘ったれた事を抜かしたことに、エヴァンジェリンは酷く困惑させられてしまった。

 

「貴殿は優しい……私を殺そうとしていないように、誰も傷つけないために、ここに一人でいるように。自分以外の誰かのために、自分の心を抑え込もうとする慈悲深いお方だ」

 

 クラウスの評価に、エヴァンジェリンは気まずさを感じ、目を逸らす。

 言われたような慈悲を見せた覚えはない。死体を増やせば、それを自分で片付けねばならぬと面倒くささを抱いたから、威嚇に留めただけの事。

 そう言うつもりだったが、あまりにも真っ直ぐに真摯に見つめてくるため、言い返せなくなっていた。

 

「しかし私は……そんな貴殿の在り方を悲しく思う。たった一人で抱え込む在り方を、一人の人間として申し訳なく思う」

「……口では何とでも言える」

「そうですね…だからこそ、私はここへ来ました」

 

 唇を尖らせ、拗ねたように目を背けるエヴァンジェリンに、クラウスはスッと手を差し伸べてきた。

 何も仕込んでいる様子のない素手で、相変わらず真っ直ぐな眼差しをエヴァンジェリンを見つめてきている。

 

 屈託のなさすぎる、無垢なその視線に、目が合ってしまったエヴァンジェリンは、知らぬ間にキュッと息を呑んでいた。

 

「共に来ませんか。私は貴殿のことを何も知りませんが……おこがましくも、貴殿の心を救いたいと、そう思っています」

 

 強面で、いるだけですさまじい威圧感を放つクラウスを前に、エヴァンジェリンは大きく目を見開く。

 ドクン、ドクンと胸が熱く高鳴り、失いかけていた体の熱が戻って来るかのような感覚に襲われ、戸惑いと困惑に苛まれる。いつしか彼の眼差しから、目を逸らせなくなっていた。

 

「信用できないのは当たり前でしょう。ですが……私は貴殿に、人間を憎んだままでいて欲しくないのです」

 

 熱い視線を繰り続け、魔女に訴えかける大男。

 しばらくの間、エヴァンジェリンはクラウスと彼の手を何度も交互に見つめ、迷いを見せる。

 だが、しばらくしてから、おずおずと彼の手に自分の手を重ねる。

 

 彼の手のぬくもりに少し驚かされながら、エヴァンジェリンは心地よさそうに、クラウスの手を握り返していた。

 

 

 

 ―――と。

 ふと、脳裏に蘇ったかつての記憶に、エヴァンジェリンはふっと微笑みを浮かべる。

 馬鹿正直な、笑顔の恐い大柄な紳士。そんな彼が、自分の威嚇など微塵も気にすることなく、ずかずかと魔女の心に足を踏み入ってきた、忘れられない思い出。

 

 エヴァンジェリンはそれを思い出すたびに、胸にぽかぽかと温かい気持ちが溢れ、同時にキュッと締め付けられるようになっていた。

 

「……」

「何さっきからニヤニヤしてんだ?」

 

 ビルの上から虚空を見下ろし、口元を歪めるエヴァンジェリンにじとっとした目を向けてくるオーフェン。

 エヴァンジェリンはフッと笑みを消し、無表情になるとスッと彼女から目を逸らす。誤魔化しているつもりなのだろうが、オーフェンは見逃したつもりなどなく、ニヤニヤしながら魔女の顔を覗き込んだ。

 

「愛しのクラウスの旦那との馴れ初めでも思い出してたか? 恋するババアは見てて恥ずかしいねぇ」

「…何をふざけたことを」

「あーあー、いい、いい。皆まで言うな」

 

 意味深に、挑発するような声音で話しかける相棒から、鬱陶しそうに顔ごと目を逸らすエヴァンジェリン。

 オーフェンはしばらく、追及を嫌がっている様子の魔女を見つめていたが、やがてスッと真顔に戻り、呆れた様子で後頭部で腕を組み、ため息交じりに告げる。

 

「そんなに好きなら、さっさと番にでもなっちまえばいいのに。何を気にしてんだ? お前はよ」

「……小娘が」

 

 チッ、と舌打ちをこぼし、エヴァンジェリンは相棒を睨みつける。

 先ほどの暖かな微笑みなど、もうどこにも残ってはいない。感情の全てを抑え込み、冷徹な精神で覆った彼女は、夜風に髪を靡かせながら、じろりとオーフェンを睨みつける。

 

「わっちは悠久の時を歩む者……小僧に本気で焦がれるほど腑抜けてはおりんせん。茶化すのならもっと若い者にしなんし」

 

 冷え切った声でそう告げ、また目を逸らすエヴァンジェリン。

 オーフェンはまだ彼女に、面倒くさそうなものを見るような、気怠さを感じさせる眼差しを向け、彼女に聞こえないようにため息をつく。

 しっかりと聞こえていた魔女は、フンと鼻を鳴らすと、オーフェンに背を向けて歩き出した。

 

「先に寝る……ぬしもほどほどにしなんし」

 

 すたすたと、さっさとこの場を離れたいという心理がよくわかる速足で去っていく。階段を降りるのも面倒になったのか、魔女は屋上の端に移動し、バサッとコートを翻しながら空中に飛び出す。

 

 姿の見えなくなった相棒に、オーフェンはますます呆れた様子でため息をつき、肩を竦めながら首を横に振る。

 

「めんどくさいババアだな……先に逝かれるのがイヤだから、本気になれねぇって言えばいいのによ」

 

 そんな呟きは、夜の風に吹かれて霧散し、どこかへと消えてしまったのだった。



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Ⅲ 黄金暗躍譚
1.指輪職人


 そこは、どことも知れない、しかし確かに存在する空間。

 普通からは遥かにかけ離れた、人の姿をしていながら人外以上の力を持て余した者達が集う、特別で特別な特別の部屋。

 

 妖しく笑い続ける狂人にして〝王〟達が集う、秘密の場所だった。

 

「ああああああ…!」

 

 そこで一人、狂った叫び声をあげる男がいた。

 口以外の殆ど、顔の半分以上を覆う仮面を身につけた、肩にかかる程度に金髪を伸ばした、白衣を纏う長身の男。

 

 彼こそ稀代の変人。『千年生きてあらゆる魔道を練り上げた』とまで噂され、それ故に常に退屈し、片手間で世界を滅ぼせる児戯を繰り返す、正真正銘の狂人。

 13王の一人〝堕落王〟フェムト、その人である。

 

「ああああああああああ実にっ、実にっ……退屈だ‼︎」

「いつものことじゃないの〜」

「いつもこうだから困っているのさ! なぜっ…なぜこの世はこんなにも刺激が少ないっ⁉︎ 理不尽だ! 不幸だっ‼︎」

 

 悲痛な叫びをあげ、頭頂部がギリギリ地面につくかつかないかの凄まじいブリッジを行うフェムト。

 彼はいつも刺激に飢えている。なんでもできていつでもできてしまう神の御業を持つため、破壊や混乱を自ら引き起こすことで、ひと時その虚しさを忘れ去ろうとしているのである。

 

 そんな彼に飽きれた言葉をぶつけるのは、同じく仮面で顔の上半分を覆った一人の少女。

 彼女は同じく13王の一人〝偏執王〟アリギュラ。フェムトとほぼ同レベルの狂人にして、神の御業を持つ者である。

 

「新たに刺激を作ろうか⁉︎ いいや、きっとできるだろうがそれではあまりにつまらない! 結末がわかっているサプライズがどれだけ虚しいものか⁉︎ なぜ世界はこうなのかっ⁉︎」

 

 これまでもちょくちょく、朝ふと思いついたら、食事の用意をしながらそのついでに、退屈しのぎにと幾度も破壊と混乱を生み出し、ヘルサレムズ・ロットにもたらしてきたフェムト。

 しかし、何度も繰り返していればやはり飽きる。全く異なる手段を考案することなど容易いが、自分で行うという行為自体に空きが生じてしまっている。

 

 それがたまらなく、〝堕落王〟には受け入れがたいものであった。

 まぁ、しばらく騒いで落ち着いてくれば、いずれまた同じことを始めるのであろうが。

 

 ばたばたと地面を転げ回り、意味のありそうななさそうな奇妙な動きを披露し続けるフェムト。

 それをソファに寝転がり、詰まらなそうに眺めていたアリギュラが、そういえばと言った様子で不意に呟いた。

 

「そーいえばー、指輪の魔法使いが帰ってきてるみたいだねぇ」

「……ああ、我らが同類である彼女か」

「同類〜? ライブラなんかにいるのに〜?」

 

 唐突に、ピタリと悶え苦しむのをやめ、アリギュラの方に視線を移すフェムトの反応に、アリギュラは訝しげに首を傾げる。

 

 お前は一体何を言っているのだ?とでも言いたげな彼女の眼差しに、フェムトはむくりと起き上がると、にんまりと気味の悪い笑みを浮かべ、大仰な手振りで語り出した。

 

「彼女もまた狂人だよ。あそこにいるのは単なる気まぐれに過ぎないさ……彼女の中にあるのはいつだって、世界を壊す憎悪の炎さ。燃え広がる燃料がないだけのね」

「ふ〜ん」

「まぁもっとも……」

 

 ちらり、とフェムトはアリギュラから視線を外し、振り向く。

 その先にあるのは一面に広がる巨大な窓で、ヘルサレムズ・ロット全体を見渡せる広大さである。フェムトは窓に近づき、歪な異形の街を見下ろしくつくつと愉し気な声を漏らす。

 

「いずれ激しく燃え上がるだろうがね。何者の制止の声も届かなくなるほどに……数百年にわたって募り募った怒りの炎が、ボンッ!と爆発するのさ」

 

 街のどこに目をやったとしても、見つけられるであろう騒動の種。小さくても人が死に、大きければ世界を左右するような事件の種が、そこかしこに転がっている街に向けて、フェムトは待ち遠しそうに嗤う。

 

 彼は何よりも誰よりも、そうなる事を望んでいる。

 自分の退屈を吹き飛ばしてくれるような何かが起こってくれるのを、治部煮外の誰かが起こしてくれることを待っているのだ。

 そしてそれはそう遠くない未来なのだと、彼は確信していた。

 

「踊ってくれるといいがねぇ……とても楽しく」

 

 彼は、踊る。たった一人で踊り続ける。

 仮面で隠されてなおわかる、見た物の背筋を震わせる醜悪な笑みを顔に張り付け、大きく手を広げて回り続ける。

 

 きっと人は、彼が顔を隠していることを感謝するだろう。

 もしそれを見てしまったのなら、その者は―――間違いなく、心も体も魂もただでは済まないだろうから。

 

Alohomora

 

『■月■日より訪問しているエメラルド國マヤ大王が、先ほど交渉のために議会入りしました。周囲は厳戒態勢に入り、寄生虫一匹入ることのできない状況になっております―――』

 

 ラジオから流れるアナウンサーの声で、レオナルドははたと手を止める。

 作業室での雑用を頼まれ、ボルトやナットなどの詰まった箱を運んでいた彼は、聞こえてくるないように首を傾げた。

 

「マヤ大王……って、どっかで聞きましたね。なんかどっかの国の偉い人ってイメージしかないっスけど」

「バカだなぁ、もじゃ太くんは。そんなことも知らないのかい?」

 

 レオナルドの呟きに、同じく作業を手伝っていたザップが振り向き、馬鹿にした声と顔で語りかけてくる。にやぁと三日月のように唇を曲げ、わざとらしい鼻につく喋り方をしてくる。

 

 日本で有名なアニメのキャラクターを真似しながら、心底腹が立つ目で見つめてくる兄貴分に、レオナルドは然して気にした様子もなく振り向いた。

 

「なんか知ってんなら教えてよ、ザプえもん」

「とってもお金持ちで、酒も女もよりどりみどりな勝ち組ってことだよ」

「聞いた俺がバカでしたわ」

 

 ノリに付き合い、同じアニメの別のキャラクターに扮して反応を返すレオナルド。

 だが嘲笑ってきたわりには、全く真面目に答えるつもりがないザップに、レオナルドは呆れたため息をつく。

 

 下らない、気の抜けるやり取りを見せる二人の男達。

 それに、椅子に座って作業を行っていた一人の女性、ニーカ・コヴァレンコが呆れた視線を向けて口を開いた。

 

「…魔術装置の触媒、魔宝石の産出国として大きな発言力を持ってる国。他の国ではそうでもないけど、ヘルサレムズ・ロットにおいては多大な需要があるところよ」

「これとかな」

「あー、はいはい。言われなくてもわかってますよ姐さん」

 

 淡々とした説明と、作業室の奥から上がる男の声に、ザップは端をほじりながら面倒臭そうに返す。

 癪に障る反応に、ニーカの手に握られたスタンガンがバチバチと火花を散らす。最大電力で、容赦なくザップの意識を刈り取る気だ。

 さすがのザップも、失言だったとすぐさま顔を真っ青に染めている。

 

 苛立つメカニックの女性に冷や汗を流すレオナルドは、慌てて彼女の怒りを逸らそうと思考を巡らせる。そして、自分がこの場で最初に抱いた疑問をもう一度引っ張り出した。

 

「…ってか最近まで俺、その国のこと全然知りませんでしたわ」

「そりゃそうだよ。知名度が上がったのは、ここ数年でのことだし」

「え、なんでなんですか?」

 

 レオナルドの策は何とか成功し、やる気が削がれたニーカがポイッと凶器を手放す。

 だが、ほっと安堵したのもつかの間。ニーカから返ってきた答えにさらなる疑問を抱き、訝しげに首を傾げる。

 

 意外な事に、レオナルドの質問に答えたのは、荷物をゴトンと床にどけたザップだった。

 

「……ヘルサレムズ・ロットが出来たからだろ」

「そういうこった」

 

 ザップの呟きに、ニーカが無表情で頷き、奥にいたもじゃもじゃ頭の大男、ライブラにて武器調達人を務めるパトリック・スミスが肯定する。

 パトリックは奥でガチャガチャゴリゴリと音を立てながら、訝しげな視線を向けるレオナルド達に説明を続けた。

 

「魔術が表立って使われることがなかった〝大崩壊〟以前では存在しなかった、魔宝石という産出品を使った貿易……それによって、無名だった小さな国は一気に急成長を遂げたわけだ」

「…宝を持ち腐れさせてたわけですか」

「そういうこと」

 

 はー、と感心した声を上げるレオナルドに、パトリックがビシッと親指を立てて頷く。納得したようで、うんうんと何度も頷く少年に目をやると、優秀な整備士は自分の作業に戻る。

 

 そんなパトリックの元に、レオナルドは不思議そうに近づき彼の手元を覗き込む。

 先ほどからずっと、椅子に腰かけたまま全く動かず、手と口だけを動かし続ける様に、一体何をしているのかと疑問を抱いたのだ。

 

「……っていうかパトリックさん、さっきから何作ってんスか」

「これよ」

 

 気になったレオナルドが思わず尋ねると、パトリックはまた作業の手を止めて、片手で支えていたあるものを持ち上げ、少年に見えやすいようにする。

 

 キラキラと光を反射する、細かく削られた宝石。光沢のある銀色の金属で作られた、流麗な装飾の刻み込まれた台座と輪。

 パトリックの指につままれたそれは、レオナルドが最近出会った魔女が身につけていたものと、ほとんど同じ物に間違いなかった。

 

「あの指輪…あんたが作ってたんですか⁉︎」

「まぁな。まーでも、ぶっちゃけやってんのは加工だけで、あの婆さんにかかれば原石のままでもイケるけどな」

 

 驚愕で声を上げるレオナルドに、パトリックはやや不満げに返し、フンと鼻を鳴らす。そして、眉間にしわを寄せた顔のまま、作業を再開させていく。

 

 円形の台座に合うよう、少し粗の残る表面を削り落とす。時折光に翳して様子を見て、少しずつ削る箇所を変えていく。

 油の浸み込んだ武骨な手だが、宝石を整える手つきは繊細そのもので、いつの間にか手を止めたニーカが、その様をじっと見つめていた。

 

「罅割れとか歪みとか、そういうのでも多少なりとも効果の大きさに上下が出るらしくてな……婆さんがどっかから持ってくる魔法石を、こうして削って形を整えて、純度を高めてんのよ」

「へー……」

 

 魔女の使う道具が、如何にして形作られていくのかと興味を抱き、作業を凝視するレオナルド。

 だが彼の前で、パトリックはやや不満げに顔をしかめたままだ。

 

 ライブラで幾度も使用される重火器や、大規模な作戦の要となる道具の整備まで、最低限の護衛の道具から人界を保つのに必要不可欠な兵器まで幅広く扱う彼だ。

 自分が手掛ける物が、ただ形を整えるだけというのがあまり気に入らないらしい。

 

「なんか、パトリックさんがそういう加工やってんの見ると印象変わりますね」

「ぶっちゃけそういう方面のモノ仕上げる人間には見えんわな」

「似合わねぇってか、この野郎共」

 

 いつもの硝煙臭い作業を続ける姿に慣れたレオナルドとザップが、趣向の異なる代物を扱うパトリックの姿に思わず呟くと、整備士がぎろりと睨みつけてくる。

 パトリックは先程よりも強く鼻を鳴らすと、手を一切止めないままぼやき出した。

 

「俺だってどっちかって言えば、婆さんの使ってる武器の方弄りてぇよ。でも絶対触らせてくれねぇんだよなァ…」

「いいじゃない。…そういう作業も嫌いじゃないでしょ」

「まーそうだけどよ、ハマると結構面白ぇし…」

 

 不貞腐れた子供のような態度を見せるパトリックだが、加工の様を見つめてくるニーカにいわれると、満更でもなさそうに眉間のしわを一つ消す。

 いつも扱う得物と似た物の方が興味があるが、そう他にできる者のいない作業というのも、嫌いではないようだ。

 

 徐々に形が整い、輝きが増し始める宝石を見下ろしていたレオナルドは、パトリックの手元に残っているほかの宝石に気付き、また別の疑問を口にする。

 

「それもあの……エメラルド國?から買ってんスかね」

「さぁな。俺はちょっと暇だったからやってみて、婆さんに渡してみたら思いの外気に入られて、そんで返ってくる度にちょくちょく渡してるってだけの話だ」

「…え? 頼まれたからやってるんじゃないんですか?」

「婆さんはなー……うちの連中にも誰にも頼ろうとしねぇからなー。これも俺が好きで渡してるだけだしよ」

 

 肩を落としてそう語るパトリックに、レオナルドはますます困惑のため息をつく。

 

 ライブラ最高齢の魔女、数百年も前から生き続けている、類稀な生を送る多くを全く語らない謎の多い人。

 彼女の設けている他者との距離の広さ、周りに対して備えている棘の鋭さ、自分以外の全てを拒絶し続ける在り方に、生意気にも憐れみを抱いてしまっていた。

 

「……ほれ、できた」

 

 渋い表情で立ち尽くすレオナルドを放置し、パトリックが作業を終えて、完成した指輪を三人に見せる。

 

 オレンジ色の宝石が丸く削られ、台座の中に収められ、可愛らしい花の模様が浮かび上がる。

 エヴァンジェリンがどこからともなく取り出し、戦闘中に華麗に用いていたものと相違ない代物が、パトリックの手の中で輝いていた。

 

「花ァ?」

「何か思ってたより結構シャレたデザインっスね」

「…いや、勘違いすんなよ。魔法石を効率的に使えるように削ると、大抵こういう模様が現れるようになってるだけだ」

 

 なんとも言えない微妙な視線を向けてくるレオナルドとザップに、パトリックはすぐさま言い訳じみた反応を返す。

 しかし、大柄でもじゃもじゃなむさ苦しい男が作った物の割には、少女らしいファンシーな外観の装飾品であり、似合わないという感想がどうしても出てきてしまう。

 

 本人もわかっているようだが、作業工程を最初から最後まで見続けたレオナルド達は、どうしても笑いを止められなくなった。

 

「つーか、あんたがこんな小洒落た指輪をちっこい女に渡してる光景思い浮かべるだけで、結構笑えてくるんだけど」

「たしかに」

 

 さらには、それを齢十ほどの幼い外見の異性に渡すのだから、可笑しさはより一層強くなる。

 知らない者が見れば、怪しい男が幼子を物で釣ろうとしているような、とんでもなく危ない光景に見える事だろう。想像するだけで、レオナルドとザップは笑いが止まらなくなり、ゲラゲラと腹を抱えて肩を揺らしまくってしまう。

 

 そんな二人の背後に、ゆらりと人影が立つ。

 直後、恐ろしい輝きを放つ両目で二人を睨みつけた彼女、怒りをあらわにしたニーカが、バチバチと電力を最大にしたスタンガンを持って、二人に襲い掛かった。

 

「ちょっ、おまっ! アッ―――‼︎」

 

 そうして、ライブラの作業室から、男二人の汚い悲鳴が盛大に上がる羽目となったのだった。



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2.王の凱旋

 大きく天井が開かれた、円形の部屋。

 神に祈る為の聖堂のように見えるその場所に、無数の人影があった。

 

 円形に並べられた椅子に腰かける、ヘルサレムズ・ロットに住まう上流階級の異人達。そして彼らの同行を取材するためにやって来た記者達。

 彼らが見やる方にも、まるで彼らを遮る壁となるように、幾人もの屈強な黒服の男達が立ち並んでいた。

 

「マヤ大王の凱旋である、首を垂れよ」

 

 立ち並ぶ男達の一人、黒都銀に彩られた豪華な衣装に身を包んだ男が、尊大な態度と口調で告げる。

 即座に切者達がカメラやマイクを構え、室内に居合わせた者達全員が、一斉に一箇所に視線を集める。

 

 ざわざわと騒がしくなり出したその時。

 偉人と記者達が待ち構えるその部屋に、一人の青年が姿を現した。

 

 白と金に彩られた煌びやかな衣装を纏った、年若くも気品に溢れた雰囲気の青年だ。

 自身よりも遥かに大柄な異人達や記者達、自身を守護する黒服達に見られながらも一切臆することなく、平然と目の前に置かれた玉座に腰かけた。

 

「お初にお目にかかる。僕が今代のエメラルド國大王、マヤだ……此度は急な訪問を受け入れていただき、感謝する」

「もったいなきお言葉にございます」

 

 小さく、華奢な外見の青年に、顔中から蛸足を髭の様に生やした異人が応える。

 

 恐ろしい外見の、それも見た目以上に凄まじい力を持つ異人が、人間主の見た目をした青年に深々と首を垂れる。

 その光景に、カメラを構える記者達が微かにどよめきをこぼしていた。

 

「大王様のご配慮により、我らはこうしていつも首の皮が繋がっていることを安堵する日々にございます。願わくば、今後とも末長いお付き合いを望みたく……」

「よい、堅苦しい礼は不要だ。利益とは相手が居てこそ成り立つものだろう?」

「多大なお気遣い、感謝の使用もございません」

 

 丁寧に、謙虚に挨拶を口にする異形の男に、青年―――マヤは尊大な態度のまま手を振り、笑みを浮かべる。

 

 室内は、完全にマヤを頂点とした序列が出来上がっていた。

 本人が如何に堅苦しさを嫌がろうとも、迂闊な態度をとれば己の首が飛びかねないという強迫観念があり、それに全員が支配されている。

 青年はそれに気づきながら、やや呆れた様子で苦笑をこぼしてみせる。

 

「この歓迎に応えるために、僕の方でちょっとした催しを考えているんだ。よければ、多くの人に奮って参加してもらいたいと思っている……詳しい話はまた後日になるが、楽しみにしていてくれ」

「それはそれは……」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、目を細めるマヤに異形の男達はそれぞれで声を上げて笑う。傍目から見ればそれは余りに白々しく、空気が徐々に重く沈んでいく。

 

 のしかかる重圧に、記者達の何人かが気分を悪くしたように血の気を引かせ、頬をヒクヒクと痙攣させ始めた時。

 それまで黙っていた黒衣の男―――オーマが、咳払いとともに口を開いた。

 

「―――ではこれより、今年度の魔法石流通についての会議を始めさせていただく。異論はないな」

 

 オーマの偉ぶった声に、異人達は誰も異を唱えず、しかし表情の端に僅かに苛立った様子を見せ、小さく頷く。

 恐ろしく重い空気の中、異界と混じった街の中心にて、重大な会議が繰り広げられる事となった。

 

Partis Temporus

 

「…はぁ、つかれた」

 

 誰もいなくなった室内で、マヤは玉座の上で頬杖をつく。

 傍らに立ったオーマがそれを労わり、給仕に運ばせたグラスに入った飲み物を手渡す。

 

 マヤはグラスを傾け、中身を一気に飲み干すと、ふぅと大きなため息をつく。

 

「父上の訃報からまだ1年……この大役の重さにはやっぱり慣れないな」

「ご冗談を。実に堂に入ったお話ぶりでございましたぞ」

「そうかな? だとしたら嬉しいよ」

 

 恭しく首を垂れ、持ち上げる言葉を吐くオーマに、マヤはフッと安堵の笑みを浮かべる。

 多大なる信頼を置き、執着といってもいいほどに常に傍にいさせている男の言葉は、彼にとっては他の何よりも価値があった。

 

「……ねぇ、オーマ。本当にこれでいいんだよね」

 

 不意に、マヤは不安気な表情で俯き出す。不安はより一層強く大きく表れ、虚空を見つめる眼差しは細く鋭くなる。

 オーマは何も言わず、主君が何に対して怯えているのかを聞き出そうと、無言で彼のすぐ横に佇んでいた。

 

「本当にこれで…彼の方は救われるんだよね」

「……ええ、かの方の術に間違いはございません。大王陛下のお力添えにより、かの方の悲願はきっと叶えられましょう」

「そうか…うん、そうか!」

 

 オーマが宥め、気持ちを奮わせるような言葉を与えると、マヤは途端に破顔し、強張っていた表情を緩ませる。

 無理に大人ぶろうとしていた雰囲気が、ぱっと見た目よりもずっと子供らしい態度に変わる。

 

 やがてすぐに我に返り、ぐっと表情を引き締めて姿勢を正した。しかし玉座から垂れた足はパタパタと揺れ、嬉しさを全く隠しきれていない。

 

「楽しみだなぁ……これで、人類の夢が一つ叶うんだ。誰もが不可能だと諦めてきた夢が現実になる瞬間に、僕らは立ち会えるんだね」

「…ええ、その通りです」

「あの方が成功したら、次は僕にもやらせてもらえるかな? そうしたら……僕は」

 

 待ちきれない、と祭を翌日に控えた童のようなキラキラとした顔で、オーマの方に振り向くマヤ大王。

 そんな彼を、オーマは穏やかな笑みを浮かべながら肩を押し、玉座に戻らせる。臣下というよりも、執事のような甲斐甲斐しい態度である。

 

「陛下、はやるお気持ちはわかりますが、どうぞお気をつけて。まだ成功するかどうかもわからぬ大事、焦りは災いを呼び寄せますぞ」

「…っ。うん、そうだね。ごめん、少し頭を冷やすよ」

 

 マヤは事の重大さを思い出し、ばつが悪そうに目を逸らす。

 成功の是非も不明で、人に知られてはならない大きな計画だというのに、王である己がはしゃいでいては、全てが台なしになる可能性だってあるのだ。

 

 そう自身に言い聞かせながらも、マヤは逸り高鳴る自分の胸の鼓動を押さえる事ができずにいた。

 

「でもさ、オーマ。本当に楽しみだよね―――死んだ人が蘇るなんて」

 

 マヤの呟きに、オーマは黙ったまま深く頷く。好々爺の笑顔を称え、ワクワクと落ち着かない様子を見せる主の傍から離れない。

 

 しばらくしてマヤは立ち上がり、出入り口の扉に向かって歩き出す。

 いつまでも寛いでいる暇はない。王としての仕事、計画に関わる役割、若き体に課せられた多くの使命を果たすために、甘えるわけにはいかないのだ。

 

「実験の日が楽しみだ……時間なんてもっと早く流れればいいのに。まだるっこしいなぁ」

「ははは…陛下、それではまるで子供のようですぞ」

 

 軽い足取りで、次の仕事へと向かう若き王の背中を、オーマはじっと見送り続ける。

 その表情が次第に―――悍ましい蛇のような、鰐のような、獰猛で凶悪な怪物の表情に変わっていったことに、主は全く気付いていなかった。

 

「そう……何も知らぬ愚かなガキのよう」

 

 主には決して届く事のない、忠臣であるはずのオーマのその声には、悪意に満ちた嘲りがありありと表れていた。

 

Tarantallegra

 

 カツ、カツ、カツと。

 ランタンを手にしたオーマが、暗い地下の通路を歩く。

 

 下水の迷路を抜け、壁に開けられた穴を潜り、地上の誰も知らないような秘密の通路を、慣れた足取りでただ黙々と歩く。

 無言のまま、不気味な微笑を浮かべたまま、地獄にでも通じていそうな闇の世界へと向かっていく。

 

「……オーマでございます」

『―――入りなさい』

 

 やがてオーマは、さび付いた巨大な扉の前に辿り着く。

 気味の悪い悪魔や伝説の魔獣、怪物の像が刻まれたその扉が、中から声が返ってくると同時にゆっくりと開く。

 

 扉を潜ったオーマを迎えたのは、外とは打って変わって正常な空気が漂う、薄明るい空間であった。

 白い布で天井や岩壁が覆われ、空間を流れる風でゆらゆらと揺れるその最奥。祭壇の上で横たわるその者―――ワイズマンに向けて、オーマは跪き、深々と首を垂れた。

 

「お加減はいかがでしょうか……もう随分魔法石を生み出し、疲弊している様に見えますが」

『なに……大したことではない。この程度の疲れで根をあげていては、我が悲願、叶うはずもないでしょうに…』

「…左様でございますか」

 

 横になったまま動かないワイズマン、オーマにとっての真の主の身体を労わるが、ワイズマンは首を横に振り労いを拒否する。

 

 慇懃に言葉を交わし合う主と臣下。

 そこに、屯していた三つの人影が気だるげな様子で進み出て、待ちくたびれたような声を上げる。

 

「なぁ大臣様よぉ、俺達ゃいつんなったら暴れていいんだ? 待ちくたびれて仕方ねぇんだけどよ」

「この人、大王様が到着してからずっとこんな感じなんだよ? まるで子供だよね」

「本当に……みっともないったらありゃしないわ。飼い犬でももう少しまともな待てができるでしょうに…ほんと、小さい男」

「なんだとてめぇら…!」

 

 退屈が嫌で嫌で仕方がないという風にぼやく赤い服の男に、むらさきの衣服を纏う少女が呆れたように、帽子を被った青年が可笑しそうにこぼす。

 赤い男は苛立った様子で声を荒げ、周囲に深紅の炎を漏らす。危うく周囲に燃え広がりそうになるも、肝心の二人には全く届いていなかった。

 

 荒ぶる赤い男に、オーマが大きなため息とともに振り向き、じろりと損そこ呆れた視線を送る。

 

「フェニックス……君はもう少し我らが主人の気持ちを察することを覚えたまえ。かの日を待ち侘びているのは、他ならぬあの方なのだから…」

「へっ…言われた分は働くっての。そういうそっちはどうなんだよ、オーマ」

 

 小言や説教は聞き飽きた、と赤い男は聞く耳も持たず、鬱陶しそうに顔を歪めてオーマを睨みつける。

 

 手綱を操りそこなえば今ここで暴れかねない、人の姿を偽った火の異形の男。

 彼に向けて、オーマはにやりと不気味に大きく笑みを浮かべ、愉しげに肩を揺らしてみせる。

 

「準備はすでに万端に……あとは魔女を罠にかけるのみ」

 

 そう告げられた途端、三人の様子が一変する。

 鬱々と我慢を強いられ苛立っていた彼らが、目前に餌を垂らされた獣のように、ぶわっと殺気を大きく膨らませる。

 

「はっ…そうかそうか。もう出来てたのかよ」

「楽しみだねぇ…! これで心配事は全部まるっと解決しちゃうわけでしょ? 改めてすごいものを作ったよね…!」

 

 三人の胸中に燃えるのは、たった一人の女に対する憎悪の念。

 数百年に渡って同族を葬ってきた不倶戴天の敵であり、その強さ故にただの一度も傷をつける事が叶わなかった最凶最悪の存在。

 

 これまで何度も隙を伺い、その旅に悟られ迎え撃たれ、錨に苛まれるばかりであった怪物を討てる好機を得た。

 そんな吉報に、喜ばない者がいるはずがなかった。

 

「大したものではない……すでに存在する術の効果を倍加し、持続を永久化させただけのこと。そこから先はひたすら私の集中がものをいう領域だ」

 

 謙遜の言葉を吐くオーマだが、彼の表情にもかなりの歓喜が混じって見える。

 彼にとっても、魔女は取り払っておきたい目の上のたん瘤。それを自身の策で排除できるのであれば、こんなに喜ばしい事はないのだ。

 

『……期待していますよ、オーマ。我が悲願の実現、楽しみにしています』

「仰せのままに…」

 

 臣下の策を信じ、期待を寄せる主君にまた深々と首を垂れるオーマ。

 

 そんな彼に、三人の異形達からも祝福の笑い声がかけられ。

 さらに、彼らを取り囲む無数の怪物達からも、彼らを称える凄まじい雄叫びが上がる。

 

 あっという間に、そこは地獄のような悍ましい音に支配されていった。



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3.黄金の魔導師

「オラァ‼︎」

「ア……アニキィィィ‼」

 

 バケツでぶちまけたかのような量の血が、路地裏に飛び散る。

 直後にどどっ、と。岩のような皮膚を持つ大男が、まるで弾丸のような勢いで壁に倒れ込む。見上げる程の巨躯で倒れるものだから、辺りには地震と勘違いするほどの震動が響き渡る。

 

 白目を剥き、ぴくぴくと痙攣を繰り返す大男の腹を踏み、四肢の女―――オーフェンが胸ぐらを掴んで凄んだ。

 

「吐けコラァ! ぜってぇおめぇ何か知ってんだろ! 痛い目に遭う前に全部吐けコルァ‼︎」

「ひぃいい…!」

「もう十分痛い目に遭ってますぅぅ‼︎」

 

 瀕死になっている大男のすぐ横で、取り巻きの小柄な男達が涙ながらにオーフェンに悲鳴をあげる。

 自分の身包みを狙い、挑発的な言葉を吐きながら寄って来た者達の何とも情けない姿に、オーフェンはチッと舌打ちをこぼした。

 

「チッ…ハズレかよ。せっかく餌に食らいついたかと思ったら、ただのカツアゲ目的のチンピラとか、マジで萎えるぜクソッタレ…!」

 

 がしがしと頭を掻き、苛立ちをあらわにする野性的な美女。

 ふん、と鼻を鳴らし、虚空を見上げて何かを考えている様子の彼女を凝視したまま、破落戸の男達は兄貴分を担いでその場を離れようとする。

 

 が、美女から数歩離れかけたその瞬間、オーフェンの首がぐるりと回り、両目がギラリとあやしく光を放った。

 

「……まぁ、それはそれって事で、慰謝料でも貰っちゃおうかね?」

 

 尖った牙を剥き出しにした、凶悪な笑みを浮かべるオーフェンを前にして。

 破落戸達は、この世の終わりを見るような絶望の表情を浮かべた。

 

Serpensortia

 

『……つーわけで、バーさんの探し人に関わるようなそれっぽい情報は、何も出てこなかったわ』

 

 橙色に染まる空の下、高い高いビルの屋上。

 耳に翳した携帯電話から響く使い魔の声に、魔女はため息を返す。

 

 使いこなすのに非常に手間がかかった文明の利器。

 幾度もの試行錯誤の末、ようやく基本的な使い方を学んだはいいが、齎される情報があまりに乏しすぎる事に、エヴァンジェリンは落胆を禁じ得なかった。

 

「うむ、そうか…そっちは引き続き任せる。夜にまた連絡しなんし」

『うぇーい…』

 

 やる気が全く感じられない返事を最後に、ブツッと通話が切れる。

 最初に頼んだ時から、気怠さを隠そう通していなかった使い魔に、思わず肩を竦める。この調子では、捜索はいつまでかかるものか。

 

 エヴァンジェリンは携帯電話を太い頃にしまい込むと、自身の不満や苛立ちを誤魔化すように大きく深呼吸を繰り返す。

 胸中のもやもやが少し薄れると、魔女は未だ喧騒が止まない街並みを見下ろし、目を細めた。

 

「ふむ…やはり引っかからんか。あれだけの魔力、そうやすやすと隠せるとは思うていなかったのでありんすが……」

 

 目を凝らしてみれば、どこにでも見つかる事件、事件。

 ライブラが出張る必要が全くない、住民にとっても日常茶飯事の、しかしヘルサレムズ・ロットの外の世界に住む者ならば、十分に危険な事件が乱立する街。

 

 これから大事を起こす、と明言した個人を探すには、この街はあまりに騒がしすぎた。

 

「クラウスの奴めが、我慢しきれずに出てくる前に片付けるつもりでありんしたが……困ったものじゃのう」

 

 視界に映る喧嘩や強盗事件、怪し気な薬の売買に非合法の臓器の売買。

 気が滅入るほど数が多く、それでいてしょうもないと言えるほどに規模の小さな事件の数々。眺める事すら面倒臭くなってくる。

 

 ふと、それらとは異なったものが目に映る。

 若い男女、その間で手を繋ぎ、はしゃいだ様子を見せる幼い子供。暴力とは無縁そうな、ごく普通の親子の姿があった。

 

「…家族か、わっちには縁のないものでありんすな」

 

 そう珍しくもない様な光景が、何故だか眩しく見えた気がした。

 しかしだからといって、何らかの感情を声に表す事もなく、エヴァンジェリンはその母娘から目を逸らす。

 

 そしてふと、今頃ぶつぶつ文句を垂れながらも、役目を果たしているであろう使い魔の事を脳裏に浮かべる。

 

「あやつにも、偶には労ってやってもいいか。適当に食い物でも渡してやれば、あとは自分でかすたまいずなり何なりするじゃろう……何にするか」

 

 懐にしまった財布を探し、中身を確認しようとする魔女。

 手持ちで何を購入しようか、どこで何が安かったか、と脳内で電卓を起動させる、その直前。

 

 

『家族ごっこに耽るようになるとは……お前も随分生ぬるくなったな、小娘』

 

 

 不意に、自分の鼓膜に響いた忌々しい声に、エヴァンジェリンの動きが止まる。

 ピタリと手を止め、財布を懐にしまい直してから、エヴァンジェリンはじろりと鋭い目で、自分の背後にいつの間にかいたその存在を睨みつける。

 

 それは、銀色の竜だった。

 鋼鉄の胴と四肢を持ち、各所に金色の装飾と宝石を施したような、美しくも悍ましくも見える怪物―――魔女の中に棲む、力の源たる魔物だ。

 

「……ドラゴン」

『あれだけ怒り狂い、激情のままに暴れた魔女が、ただの人間の男に心を奪われ、腑抜けたものだ……今のお前ならば、容易く精神を食い尽くせそうだな』

「舐めるな、トカゲめが」

 

 景色の全てが闇に消えた漆黒の空間の中、竜は魔女の周囲をゆらゆらと揺蕩うように飛び、嘲りの言葉を吐く。

 人の姿をした怪物が、似合わぬ飯事に耽っている事が。叶いもしない恋慕を抱き、無様に惑っている事が、可笑しくて堪らないというように。

 

 エヴァンジェリンは虚仮にされている間も、ずっと凍り付いたような無表情で、竜を睨みつけたままだった。

 

「わっちは絶望などせぬ……現にぬしに証明してみせただろう。いかなる苦難があろうと、わっちが堕ちる事はありんせん」

『ククク……その余裕がどれだけ続くか見ものだな。所詮はただのガキ…いや、ただの老婆でしかないというのに』

 

 にたり、と竜の貌が嘲笑で醜く歪んだその瞬間。

 

 ザンッ!と魔女が振り抜いた剣が、漆黒の闇を切り裂き払う。

 いや、元からそんな空間などなかったかのように、パッと元のビルの頂上からの景色が取り戻される。

 

 風の音が響き、微かに眼下の人の声が届くその場所に一人佇む魔女。

 彼女の耳に、しつこく竜の声が木霊し続ける。

 

『精々藻搔く事だな……どれだけ年月を経ようと、お前の過ごした悪夢の記憶は消えてなくなったりはしないのだ―――』

 

 魔女の耳朶に刻みつけようとするかのように、竜の声は延々と響く。

 しばらくの間、エヴァンジェリンは虚空を睨みつけたまま口を閉ざしていたが、やがてスッと眼差しから圧を消して息を吐く。

 

「…トカゲめ」

 

 フンと鼻を鳴らしたかと思うと、手にした剣を陣の中にしまい込む。

 どれだけ拒絶しようと、自分が生きている限りずっと共に居なければならない相手からの揶揄いに、小さな魔女の顔が凶悪に歪む。

 

 むかむかと不快感で一杯になる気持ちを落ち着けようと、虚空に目をやって思考を止めていた時だった。

 

「―――!」

 

 ばっ、と唐突にエヴァンジェリンは、眼を見開き振り向く。

 表情を変えた彼女は、躊躇いなくビルの屋上から飛び降り、数百メートルマシタまで直立姿勢で自由落下する。

 

 風の魔法を使用し、弾丸のような勢いで宙を貫きながら、魔女はある一点を見据えたまま直進していく。

 やがて、魔女はヘルサレムズ・ロットの一角、人気が離れ寂れた裏町の中に降り立った。

 

「……しくじりんしたな、わっちとしたことが」

 

 そこにあった光景―――何人もの男女が倒れ伏し、血を吐いてピクリとも動かないでいる光景に、苦々しく顔を歪める。

 虚空を見つめたまま事切れた顔は、苦痛に歪んだまま。死ぬ前に相当痛めつけられてから、止めを刺されたのだろうと推測できた。

 

 ギリギリと歯を食いしばるエヴァンジェリンの視界にその時、ギラギラと目障りに輝く黄金が映る。

 

「―――ふん、ガキの姿をしていてもやはり老婆か。待ちくたびれたぞ」

「―――ようやくお出ましでありんすか……探したぞ、金ピカ」

 

 魔女の前に立つ、黄金の装いをした長身の男。

 未加工の宝石のような顔を、金色の装飾が顔のように覆う仮面。黒とのコントラストが目立つローブとマントに、尖り帽子を被ったその姿。

 

 まさしくエヴァンジェリンが追い、探し続けていた人物。

 そして、この惨状を作り出した張本人であることを、エヴァンジェリンは黄金の魔法使いが発する気配で察した。

 

「これは……わっちを誘き寄せる餌と考えてよいのか? もしくはわっちを苛立たせて、冷静さを奪う工夫か何かか? ゲートでもない人間をこうも斬り捨ておって……無駄な事をしたものでありんすな」

「答える義理はない……もっとも、お前が知ったところでなんの意味もないがな」

「ほざきなんし! 変身!」

〈フレイム・プリーズ!〉

 

 無駄な口論は不要と、エヴァンジェリンが指に嵌めた宝石をベルトに翳し、魔法使いの装いに身を包む。

 赤い宝石を煌めかせ、剣を手に黄金の魔法使いに躍りかかる。

 

〈コネクト・ナウ〉

 

 振るった刃は、黄金の魔法使いが出現させた陣の中から取り出した戦斧(ハルバード)によって防がれ、甲高い金属音と火花が辺りに飛び散る。

 ギリギリと得物をぶつけ合い、真正面から睨みつけながら、エヴァンジェリンは獰猛な獣の様に口元を歪めてみせる。

 

「色々と吐いてもらうでありんすえ……こっちは縄張りにずかずかと入り込まれて苛立っていんしてな、叩き潰さねば気が済まん‼︎」

〈バインド・プリーズ!〉

 

 新たに備えた指輪をベルトに翳すと、地面から無数の鎖が出現し、黄金の魔法使いに巻き付いていく。

 しかし、黄金の魔法使いが戦斧を振り回すと、鎖はたやすく両断され、ばらばらと破片となって撒き散らされてしまう。

 

 チッ、と忌々し気に舌打ちをこぼすウエヴァンジェリンに向けて、黄金の魔法使いがため息交じりに口を開く。

 

「縄張りか……お前には最も似つかわしくない言葉だな」

「あ?」

「不老不死の化け物の分際で、この世に住処があると本気で思っているのか?笑わせる」

 

 黄金の魔法使いが語り終えるよりも前に、エヴァンジェリンは剣を銃に変えて引き金を引く。

 放たれた弾丸を、黄金の魔法使いは自身のマントを翻して受け止め、金属音と共に弾く。ひしゃげた弾丸を踏み越えて、黄金の魔法使いは自らエヴァンジェリンに戦斧を振り下ろし、抑え込みにかかる。

 

「若僧を誑かし、味方のふりをして甘い蜜をすするのはそんなに愉しいか? 本性を隠し、何も知らぬ若僧共を手のひらで踊らせるのはそんなに楽しいか? ―――なんと愚かしい化け物か」

「ぬしに何を言われようと、わっちの居場所はわっちが決めんす。他人に何を言われようと知ったことか」

「いや…自分でもわかっているはずだ、自分がどれほど歪な存在かを」

 

 ガキン、と甲高い音を立てて戦斧を弾き、刃を首元めがけて振るうエヴァンジェリン。そして、それを受け止め弾く黄金の魔法使い。

 一進一退の攻防を繰り返し、火花が飛び散る中も、黄金の魔法使いは魔女の心を侵すように、悍ましさを滲ませた声で語りかけ続ける。

 

「いかなる責め苦を受けようと、いかに罵詈雑言を受けようと、ふてぶてしくこの世にしがみつく老害……それがお前だ。指輪の魔法使い」

「黙りなんし!」

 

 黄金の魔法使いの腹に蹴りを放ち、思い切り吹き飛ばす。強烈な一撃を受けた魔法使いは壁に叩きつけられ、亀裂を走らせて膝をつく。

 ガラガラと崩れ落ちてくる瓦礫に埋もれる様を見下ろし、エヴァンジェリンは鋭い目で彼を睨みつけ、剣を陣の中に仕舞い込む。

 

「害はぬしのほうでありんす……町に毒をばらまく病原菌めが。ぬしの言葉ごときでわっちの心が揺さぶれるとでも思うたか!」

 

 新たな指輪を指に嵌め、ベルトの左右のつまみを上下に動かす。

 軽快な歌を響かせるベルトの前に、烈火の蹴撃を放つ魔法が込められた指輪を翳し、腰布を翻す。

 

「仕置の時間じゃ……楽に潰してくれる」

〈チョーイイネ! キックストライク・サイコー!〉

「ハァアアア‼︎」

 

 轟々と燃え上がる炎を右足に纏わせ、腰を低く落とした魔女は、高々と跳躍し宙返りをする。

 より一層強く燃え上がる炎の右脚を前に突き出し、気合いの咆哮と共に接近していく。ミノタウロスを一撃で粉砕したその一撃が、黄金の魔法使いに迫る。

 

 魔女の神経を逆撫でし、苛立たせていた彼が、粉微塵に爆散するかに思われたその時だった。

 

〈ホライズン・ナウ〉

 

 突如、黄金の魔法使いの前に岩の壁が出現し、彼の姿を覆い隠す。

 驚愕に目を見開く魔女の前で、岩壁はぐにゃりと粘度のように蠢き、かと思えば棍棒のように勢いよく突き出してくる。

 

 思わぬ一撃を受け、魔女は弾き飛ばされ、地面に叩き落とされる羽目になった。

 

「ぬぁっ…⁉︎ 何じゃ⁉︎」

 

 衝撃で頭に昇っていた血が下がり、その所為か右足の炎もしゅっと消えてしまう。

 混乱する魔女の目の前で、瓦礫の中から立ち上がった黄金の魔法使いと、新たにその場に現れた白い人影が近づいていく。

 

「申し訳ない、手を煩わせるつもりはなかったのだが……」

「いいや…構わない。この子の力は十分に危険な域に達している」

 

 現れたのは、白いフードを被ったもう一人の魔法使いだった。

 金の装飾が施されたローブを纏い、指輪を体に幾つも備えたその姿。腰に巻いたベルトは、エヴァンジェリンや黄金の魔法使いがつけているものと、色以外全く同じ形状。

 

 そんな人物が、魔女が敵として追っている男と、どこか親しげな様子で話しているのだ。

 

「……何でありんすか、ぬしは」

 

 思わず、そんな問いがエヴァンジェリンの口から漏れだす。

 相手が二人に増えた程度、彼女にとっては大した問題ではない。二人纏めて相手どれる自信があったからだ。

 

 しかし、それが魔法使いならば話は別だ。

 変幻自在に現象を引き起こせる、常識を捻じ曲げる者がこの場に三人も集っている事。早々にありえない事態に、エヴァンジェリンの表情に少しずつ緊迫が現れ出す。

 

「どこの誰かは知らんが、今のわっちは機嫌が悪い……わっちが用があるのは其奴だけでありんす。邪魔をするというのならそれ相応の覚悟を決める事じゃ」

 

 内心の動揺を隠すため、尊大な口調で虚勢を張る魔女。向こうの糸が不明な以上、自分が優位であるという印象を与えておかなければ危険だと、そう考えていた。

 

 そんな彼女の前で突如、白い魔法使いはくつくつと、肩を揺らして嗤い声を響かせ始めた。

 

「何がおかしい…!」

「…やれやれ、困った子だ」

 

 警戒し、身構える魔女の前で、白い魔法使いはやれやれというように肩を竦めてみせる。

 聞き分けのない、扱いの難しい子供を相手にしているかのような、困ったような、呆れているような、敵意がまるで感じられない態度を見せていた。

 

「師の魔力の気配さえも忘れたのか……不老不死になど、やはりなるものではないな」

「……え?」

 

 白い魔法使いが口にしたその単語に、エヴァンジェリンの動きが凍り付いたように止まる。

 その直後、彼女の脳裏に一つの記憶が蘇り、魔女は大きく目を見開いて絶句する。

 

 ―――大丈夫だ、もうここに君を傷つける者はいない…!

    私は君の味方だ……君の力を恐れたりなどしない…!

 

    私も君と同じだ。

    他の人間にはない特別な力をもって生まれ、疎まれ恐れられてきた……君の同類だ。

 

 脳裏に蘇る、遥かかこの記憶。

 大勢の人間に恐れられ、疎まれ、追われ、心も体も傷だらけになっていた頃にかけられた優しい言葉。

 

 現代の魔女を作るに至った男の声と、目の前にいる白い魔法使いの声が、今この瞬間完全に一致した。

 

「師匠―――」

 

 魔女がたまらず、彼のもとに一歩、踏み出そうとした時。

 

 突然腹に重い一撃が加わり、魔女の意識は呆気なく闇に呑まれていった。



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4.大王の悲願

 鼻につく嫌な臭いが、急速な覚醒を促してくる。

 臓物を部屋いっぱいに詰め込み、腐らせたような最悪な臭いが、嗅覚をこれでもかと刺激してくる。

 

 微かに呻き声をこぼした魔女は、しばらくしてゆっくりと瞼を開く。

 

「…よもや、齢500にもなって初めて誘拐を経験するとはな。なんというろくでもない初体験でありんすか」

 

 目を覚まして最初に目に入ったのは、宙に浮く自身の足。左右を見れば、太い鎖に手首を繋がれ、天井から吊り下げられている。

 ぐいぐいと引っ張ってみるも、汚い鎖はぎしぎしと鳴るばかり。

 

 ぶらぶらと揺れる自身の身体を見下ろし、エヴァンジェリンは心底面倒臭そうにため息をこぼした。

 

「さて…どうしたものか」

「あのガキだ! 間違いねぇ! 俺の兄弟をぶっ殺しやがったクソババアだ!」

 

 一人、黄昏ていたエヴァンジェリンの耳に、喧しい何者かの声が響く。

 胡乱気に顔を上げ、声がした方を見やれば、蜥蜴に似た見た目をした緑の怪物が、凄まじい形相でこちらを睨みつける姿がある。

 

 いや、その一体だけではない。

 百目の巨人に動く石像、狼男に蜘蛛人間。

 そして不死鳥に蛇女に緑の悪魔と、ありとあらゆる外観を持った怪物達―――ファントムが無数に集まり、魔女に向けて罵倒をぶつけてきていた。

 

「殺せ! 八つ裂きにしろ!」

「ボロクソに凌辱してゴミクズみたいに捨てちまえ!」

「同胞の仇をとれェェ‼︎」

 

 宙にただ一人吊るされる魔女に向けて、凶悪な見た目をした怪物達が一斉に声を荒げ、睨みつける。

 同胞を狩り続けた唯一の天敵を前にして、怪物達は今こそ好機とばかりに牙を剥き出しにし、爪を見せつけ、魔女への殺意をあらわにする。

 

 四方八方から向けられる、常人であれば正気を失いかねない殺気を前に―――エヴァンジェリンは、心底詰まらなそうに欠伸をこぼした。

 

「どこかと思えば…雑魚どもの住処でありんすか。やれやれ、鼻が曲がりそうなほどに汚らしい、ぬしらにお似合いの家でありんすな」

 

 はぁ、とため息交じりに呟かれる、本心から何も思っていないような呟き。

 気の抜けたその声を聞いた怪物達は、ピキッという音と共に皆一斉に黙り込み、直後に怒涛の勢いで怒りを爆発させる。

 

「殺せぇぇぇ‼︎ ぶっ殺せぇぇぇ‼︎」

「絶対許さねぇ…泣いて叫ぶぐらいに後悔させてやれぇ‼︎」

「うるさいやつらめ…」

 

 わっ、とより大きくなる憎悪の叫びに、エヴァンジェリンは鬱陶しそうに顔をしかめる。耳を塞ぎたくとも、両腕が拘束された今の状態ではままならない。

 痒い背中を描く事すらできない状況に、エヴァンジェリンもいい加減どうにかしたい、と虚空を見つめて考える。

 

 そこへ、甲高い足音と共にやってくる足音が響き、怪物達の罵倒の声がピタリと止む。

 

「目が覚めた様だな、指輪の魔法使いよ」

 

 声が響き、怪物達がその者達のために左右に分かれ、道を作る。

 衝動のままに暴れ、破壊の限りを尽くす怪物達からは考えられない行動に、魔女の表情がわずかにだが驚きで固まる。

 

 そして、豪奢な装いを揺らし、彼女の元に歩み寄ってくる二人の男。

 一人は一度見た、黄金の魔法使い。もう一人は、フードで顔を隠した小柄な人物。魔女は二人を、ぎろりと鋭い目で睨みつけた。

 

「これはぬしらの仕業か……どういうつもりでありんすか」

「私も不服ではあったのだがね、君をこの場へ招待させてもらった。我々の計画には、必要不可欠なゲストだからね」

「ゲストか……」

 

 ライブラの理念に真っ向から反する、世界の均衡を崩すと堂々と宣言した黄金の魔法使い。

 それを追いこの街に戻り、得体の知れぬ野望を根本から崩してみせようと捜査を行っていたつもりであったが、どうやら見当が外れていたらしい。

 

「なるほど…わっちはまんまとおびき寄せられたというわけか」

「老いとは悲しいものだな……500年も裏の世界に潜み続けた魔女が、こうも容易く捕らえられるとは。幼子の見た目で、随分耄碌したものだ」

「ふん…好きに言えばいい。痛くも痒くも無いわ」

 

 気を失う前、見せつけられた衝撃の事実からは目を逸らし、エヴァンジェリンが鼻を鳴らし告げる。

 ベルトはある、しかし指輪は一つも手元にない。おそらくは気絶させられている間に全て没収されてしまったのだろう。

 

 抵抗手段が全て奪われてしまった、普通であれば絶望的な状況。

 しかしエヴァンジェリンは、無数の敵を前に微塵も怯む素振りを見せていなかった。

 

「忠告するぞ……今すぐわっちを離せ。死より恐ろしい目に遭いたくなければな」

 

 そう、冷たい声で告げれば。

 ズン、と凄まじい圧が怪物達と黄金の魔法使いに襲い掛かる。

 

 まるで殺気の滝に全身を打たれているような、地球の重力が十倍にまで跳ね上がったかのような感覚に陥らされ、全身から脂汗を噴き出させる。

 しかし、慄き、後退る無数の怪物達を他所に、黄金の魔法使いはまるで恐れる様子を見せていなかった。

 

「それは不可能だ。私にそのような選択肢はないし、君をここで解放する事もありえない」

「命が惜しくないようでありんすな…!」

「何故なら……君への拘束は私ではなく、彼の指示だからね」

 

 目を血走らせ、苛立ちを見せる魔女に向けてそう言うと、黄金の魔法使いはスッと横に下がる。

 代わりに前に出る、もう一人の何者か。彼がフードを外し、隠していた顔を晒すと、魔女ははっと目を見開き、言葉を失った。

 

「ぬしは…」

「はじめまして。ご存知とは思いますが、僕はマヤ。エメラルド國の王です」

 

 ぺこりと頭を下げる、若き王マヤ。

 このような怪物の巣窟にいるはずのない、明らかに住む世界が違うような人物が、周りを恐れる素振りも見せずに目の前に立っている。

 

 魔女は唖然としつつ、すぐに表情を改め、若き王を睨みつける。

 

「…外国の王が何の用でありんすか」

「手荒な真似をして申し訳ありません。ですがあなたは大の人間嫌い……交渉の場に立っていただくには、多少の無理が必要だったのです」

 

 天井から吊るされる魔女に、申し訳なさそうな目を向けるマヤだが、それを止めさせる事はない。

 他者への無茶な教養である事を承知で、そして幼い少女の見た目をした相手でも容赦をする気がない事が、エヴァンジェリンには深く理解できた。

 

「一国の王が、こんな化け物共の巣窟に平然とした顔で踏み入れてくるなど……エメラルド國は本当は、随分悪どい商売をしているようでありんすな」

「…僕の悲願のためには、欠かせないものです。それを誇りこそすれ、蔑まれる謂れはありません」

「口ではどうとでも言えんす……どんなにお綺麗な理想でもな」

 

 皮肉も悪態も全て受け止め、否定する事なく、若き王は悲痛に痛む胸を隠しながら魔女と相対する。

 己の行いを全て理解しながら、しかしそれでも諦めきれない理想を抱え、実現するために、魔女と正面から相対していた。

 

「僕の願いはたった一つ……指輪の魔法使い、エヴァンジェリン・ソーマ・ソレイユ。どうか僕達の悲願達成のため、そのお力をお貸し願えないでしょうか」

「断る」

 

 エヴァンジェリンはますます呆れ、マヤを見下ろし鼻を鳴らす。

 策に嵌められ、吊るし上げられ、忌み嫌う敵の前に晒される。矜持を深く傷つける無様を晒され、魔女の苛立ちは限界値にまで達していた。

 

 例え相手が一国の王であろうとも、エヴァンジェリンの荒れ狂う腹の虫が怒りを抑える気配は、一切存在しなかった。

 

「つまらぬな……なぜわっちが見知らぬ餓鬼のために力を使わねばならん。下らんわ」

 

 ペッ、と唾を吐き捨てるエヴァンジェリン。吐いた唾はマヤの足元に落ち、危うく彼の靴を汚しかける。

 カッ、と仮面の奥で目を吊り上げた黄金の魔法使いが前に出かけるが、マヤはそれを手で制し、引き下がらせる。

 

「そう言われることは承知の上です。それをふまえ、僕はあなたに命令します。僕達の計画に加わってもらいます」

「何をする? 拷問か? 洗脳か? 何をされようと、わっちの協力が遠ざかるだけだと知るがいい」

「そのようなことはいたしません…ただ、わかっていただけるまで説得するのみですよ」

 

 それはつまり、頷くまではずっとこのままという事か、とエヴァンジェリンは内心で吐き捨てる。

 

 自分と彼らの今の立場は、対等どころか、檻に繋いだ獣を躾けようとする様にしか思えず、若き王の浅慮さに呆れてものも言えなくなる。

 己の理想を押し付け、その為に他者を犠牲にしようとする暴君の有様に、エヴァンジェリンは初対面ながら酷い落胆を覚えていた。

 

「説得か……こんな形で誰が話を聞くと」

「―――私の話も聞いてもらえないのであれば、少々心が痛むのだがな」

 

 再度、拒絶の言葉を吐こうとしたその時。

 届けられた聞き覚えのある声に、エヴァンジェリンはびしりと凍りつく。

 

 目を見開き、唖然とした表情で凝視してくる魔女に、その場に現れたもう一人―――白い魔法使いが、咎めるような眼差しを送ってくる。

 

「では、よろしくお願いします…賢者様」

「ああ…きっといい返事をもたらそう」

 

 白い魔法使いと入れ替わるように、マヤは彼にぺこりと頭を下げると、どこかへと歩き去っていく。

 若き王が怪物達の巣窟から離れ、姿を消すや否や、場に立ち込める空気がズシリと重くなる。青年に気を遣い、押さえていた殺気を全員が解放させたのだ。

 

「……やはり、見間違いではなかったな、師匠」

 

 ピリピリと肌を刺すような圧の中に晒されながら、やはりエヴァンジェリンはそれを気にした様子を見せない。

 まるでそよ風でも受けているかのようだ。

 

 だが、エヴァンジェリンの表情はまた異なる理由で歪んでいる。

 500年もの時を在り続ける魔女。そんな彼女が師と呼んだ男が、現代に生きてここにいる事に、少なからず衝撃を受けているようだ。

 

「最後に会ったのは……490年前になるか。わっちの前から言葉もなく姿を消し、敵しか居らぬ人の世に放り出しおった薄情者が……今更何の用でありんすか」

 

 刺々しい目で、しかし冷や汗を垂らし、内心で大きな動揺を抱く魔女が問いかける。

 しかし、白い魔法使いはじっと黙ったまま、吊り下げられたまま凄まじい形相を見せる魔女を……弟子を見つめるだけであった。

 

「なぜ…なぜぬしが其奴と共に…⁉︎ いや、そんな事はどうでもいい…! ぬし…わっちと同じ不死の化け物でありんしたか。初めて知ったぞ」

「…全てを教える必要があるのか、我が弟子よ」

「……いや、ないな。少なくとも、弟子に何も言わずに姿を消すような男に聞きたい事は、あるとは思わん」

 

 はぁ、と大きくため息をこぼし、エヴァンジェリンは目を細める。

 一瞬湧き上がった激情が、見る見るうちに萎んでいく。師と呼んだ男に対して抱いた怒りと憎しみが、一瞬にして落胆に変わっていった。

 

「…わっちを弟子にしたのは、理由があっての事か」

「軽蔑したかね?」

「いや……納得した。どうせ、見返りを求めての行為だと……最初から期待はしていない」

 

 そう告げるエヴァンジェリンだが、その声には明らかに気落ちが現れている。

 全く気にしていないような口ぶりだが、一定以上の信頼を置いていた相手―――魔法という理外の力を教えてくれた男が、己と同じ化け物であった事に。

 

 そして、無条件に味方だと錯覚していた相手が、自分が敵として追っていた存在と行動を共にしている事に、裏切られた気持ちになっていた。

 

「所詮、人への信頼などこの程度のものか……下らんな」

 

 ぼそりと呟く魔女の前で、白い魔法使いは微塵も表情を変えない。

 悪びれることなく、いやそれ以上に何の感情も表す事なく、囚われた魔女をそうなって当然とでもいうように見上げるばかり。

 

 重い沈黙が降りたその時、それまで黙っていた黄金の魔法使いが咳ばらいをし、二人の注意を引いた。

 

「さぁ、無駄な会話はそこまでにしていただこう……さっさとこちらの用事をすませてしまいたいのでね」

「用事だと…?」

 

 勿体ぶった口調で語り出す黄金の魔法使いに、エヴァンジェリンは即座に気分を切り替え、胡乱気な眼で彼を睨みつける。

 黄金の魔法使いは大仰に手を大きく広げ、魔女の方にゆっくりと近づいていく。靴音を大きく響かせ、一歩ずつ進む様は、部隊役者でも気取っているように見えた。

 

「王は甘い……説得など、貴様に対しては全くの無意味な行為だ。こういう反抗的な輩は、こちらの都合のいいように動く駒にする方が、はるかに効率的に動かせるのだ」

「……道理だな、ならば如何にする気でありんすか?」

「それはこれから体験させよう……さぁ、魔女よ。私の忠実な人形となるがいい…!」

 

 詰まらなそうに吐き捨てるエヴァンジェリンに、黄金の魔法使いは仮面の奥で醜悪な笑みを浮かべ、手を伸ばす。

 身動きの取れない魔女の前頭葉に手を翳し、ボゥ…と灯した黄金の光を当てる。どす黒い、人の欲望を混ぜ込んだかのような不気味なその光を、ゆっくりと魔女の頭の中に入り込ませようとする―――だが。

 

 バチィッ!と凄まじい衝撃が発生し、黄金の魔法使いの手が勢い良く弾かれる。反動で、黄金の魔法使いは大きく後退らされてしまう。

 

「ぐ…⁉︎ 私の魔法を弾いただと⁉︎」

「自惚れるな小童が……ぬし程度の業でわっちに危害を加えられると思いんしたか。雑魚が粋がるな」

 

 煙を上げ、電流が走る腕を握りしめ、苦悶の声を上げる黄金の魔法使い。

 得意げな顔で挑み、呆気なく失敗し、激しく拒絶されタ級的に、魔女が心底呆れた様子で鼻を鳴らし、小馬鹿にした言葉を吐く。

 

 カッと頭に血を昇らせた黄金の魔法使いが、魔女に向けて片手を振り上げるが、それを白い魔法使いが手を掴んで止めに入る。

 

「そうか……やはり一筋縄ではいかないようだ。ならば、私が少し手を貸すとしようか」

 

 そう言って、白い魔法使いは体に備えた指輪のうち、黒い宝石が装飾されたものを取り出し、左手の中指に嵌める。

 エヴァンジェリンと同じようにベルトの左右のつまみを上下させ、その指輪を正面に翳してみせる。

 

「何度やっても無駄だと……」

【リメンバー・ナウ】

 

 白い魔法使いの左の掌に、黒い不気味な光が灯る。

 異様な気配を醸し出すその手に、気丈な態度を貫こうとしていたエヴァンジェリンは思わず言葉を失う。

 咄嗟胃に顔を左右に揺らし、逃れようとするも、白い魔法使いの手は容赦なく魔女の前頭葉に触れる。

 

 その、直後の事だった。魔女の頭の中に、凄まじい量の記憶が蘇ってきたのは。

 

 

 ―――いたぞ、魔女だ!

 ―――不老不死の化け物だ!

    殺せ、皆殺しにしろ!

 ―――一匹たりとも、悪魔の血を残すな!

 

 

「ガ…がァあァぁあアァあ⁉︎」

 

 怒涛の勢いで、激流のように流れ込んでくる。いや、厳重に封じた記憶の奥底から溢れ出してくる、思い出す事さえ忌まわしい記憶の数々。

 

 遠い過去の出来事のはずなのに、投げかけられた罵倒の言葉、身体を貫く刃の感触、身を焼く炎の熱、鼻を突きさす炭と血の臭いが。

 嘗て魔女を襲った、途方もない人間の悪意が、再び魔女を苛み始めていた。

 

「な…にを…したァ⁉︎」

「君が少し素直になるように、手を加えているだけさ……君の言う通り、君は他者の魔法への抵抗が大きすぎて、生半可な力ではどうにもできない」

 

 目を血走らせ、身をよじらせながらも、エヴァンジェリンは自分を苦しめる元凶である魔法使いを睨みつける。

 

 魔女の身体は、ついには何もされていないはずなのに、無数の蚯蚓腫れが浮き出て、全身に広がっていく。

 魔女の身体が、自らに刻まれた傷跡までもを思い出してしまっているかのように、魔女は見る見るうちに痛々しい、無残な姿に変わっていく。

 

「だがね、精神的に揺さぶれば、どんな魔法使いといえど抗うことはできなくなるんだよ……こんな風にね」

「ガァアアア‼︎」

 

 鎖を揺らし、血反吐を吐き、魔女は血涙を流して叫ぶ、吼える。

 

 幼い少女の姿をした魔女が悶え、鮮血を辺りに撒き散らす姿を晒す度に、周囲からは嘲りの喝采があがる。

 同胞を屠り続けた怨敵が、同志の手によって醜い姿に変えられていくこれほど爽快な光景はなく、怪物達は皆同様の笑みを浮かべて叫ぶ、吠える。

 

 ―――気持ちの悪い化け物め!

    人の皮を剥げ!

    正体を現せ!

 

「やめ…ろ! やめろ! これ以上こんなものを見せるな! わっちは…私は……!」

「暴れても無駄だ。それはただの幻術などではない……君が経験してきた記憶そのものだ。どれだけ年月を経ようと関係がない……逃れられない悪夢なんだからね」

「あああああああああああ‼」

 

 拒んでも拒んでも、次々に蘇る痛みと苦しみ。

 いっそ狂ってしまえば楽になれようものを、不死の身体は壊れるたびに再生を繰り返し、魔女に終わりを許さない。

 

 悲痛な叫びをあげ、血飛沫を上げる魔女に、白い魔法使いは白衣を赤く染め上げ、待ち遠しそうに呟いた。

 

「さぁ、堕ちてくるがいい―――我々と同じ場所へ」



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5.宣戦布告

「…ん?」

 

 ふと、視界の中の何かが変化した気がした。

 

 購入したてのハンバーガーを頬張ろうとしていたレオナルドは、不意の違和感に思わず手を止め辺りを見渡す。

 いつも通りの霧の街。天気でも変わったのだろうかと見渡すものの、そもそも空の向こうはずっと城に覆われていて、変化など昼と夜くらいしかわからない。

 

 しかし、確かに何かが変わっているという確信が、レオナルドの中にこびりついていた。

 

「レオくん、どうかしたの?」

「あ、いや…なんかフッと空気の色が変わった気がして」

 

 隣でハンバーガーを貪り食っていた、茸に似た体型の友人・ネジに軽く返答してから、レオナルドは険しい顔で首を傾げる。

 

 レオナルドは自分で言って、何だこの妄言はと表情を引きつらせる。

 空気の色って何だ。それは夕方にでもなれば変わったことに気付くだろうが、いきなりすぎて頭の正常さを疑う一言だ。

 しかし彼の友人は、言葉の歪さなど然して気にならなかったようだ。

 

「空気の色かぁ〜、いつもと一緒の真っ白な空に見えるけどね〜」

「いやいや、例えだって例え。なんかこう…虫の知らせ? 嫌な予感とかそんなんがしたんだよ」

「武術の達人みたいなこと言っちゃってるね〜」

 

 未だによくわからない感覚に、しどろもどろになりながら説明するレオナルドにネジはケラケラと笑う。

 そしてすぐに興味がなくなったのか、また鉱物のハンバーガーを貪る作業に戻ってしまう。放置されたレオナルドは、眉間にしわを寄せてどんよりとした霧の空を見やった。

 

「気のせい…? いや、マジでなんかぞわぞわずんだけどな」

 

 薄目を開けて青く輝く義眼でも何かが見えるわけではない。

 しかしそれでも、得体の知れない何かが動き始めているような気がして、レオナルドの食欲は一気に失せてしまった。

 

Immobulus

 

 レオナルドが感じた違和感は、ライブラの長の元にも訪れていた。

 

「……!」

 

 ビシッ、という嫌な音と共に、デスクに座っていたクラウスの全身が一瞬強張る。

 眼鏡の奥の目を見開いた彼は、しばらくの間黙り込み、自身が持つカップに注がれた紅茶の水面を凝視し続ける。

 

「…坊ちゃん、どうかなされましたか?」

「…いや、何か不吉な予感が…」

 

 異変を見せるクラウスに、ギルベルトがポットを片手に訝しむ眼差しを送り、何事かと尋ねる。

 曖昧に答え、なおも動かない主に困惑しっぱなしの老執事は、主の手にあるカップの一部に目立つ亀裂が入っている事に気付き、納得のため息をこぼす。

 

「ああ、カップが割れてしまったようですね。片付けます……お茶も淹れなおしましょうか?」

「ああ…いや、いまはいい」

「…? 左様でございますか……」

 

 このまま呑むのは気が引けるはずだ、と替えを用意しようとしたギルベルトであったが、クラウスは強張った表情のままそれを拒否する。

 彼には珍しい、困惑や焦燥が入り混じった様子に、ギルベルトはますますの困惑を見せる。

 

 一体何に対して、そんなに思いつめたような顔をしているのか、長い間柄である老執事が臆する事なく尋ねようとした時。

 

「旦那ぁ〜‼︎ 往生せぇや〜〜‼︎」

 

 突如、扉を蹴り開いて飛び込んできたザップが、下衆の顔をしながら血法の刀を振りかざし、クラウスに襲い掛かってくる。

 その後を追いかけてくるツェッドは、眼を見開き酷く焦った様子を見せている。

 

 あ、と振り向いたギルベルトが、ああ止められなかったのかとツェッドに同情の視線を送っていると、おもむろにクラウスが立ち上がり。

 

「ぐばぶべぽがばべぼぱ‼︎」

 

 どがごごがぼごばぎご、と空中にいるザップの全身に拳の連撃を叩き込む。

 岩のように鍛え上げられ、鋼さえ破れる程の膂力を誇るクラウスの技は容赦なくザップを打ちのめし、ボロ雑巾の様にしてからポスっと受け止める。

 

 ザップの襲撃はいつもの事、猫がじゃれてくるのを軽くあしらう程度のつもりで、軽く相手をして大人しくさせたクラウス。

 が、一部始終を見ていたK・Kが、クラウスの腕にかけられたザップを見つめて頬を引きつらせ始めた。

 

「ちょっとちょっと…どうしたのよクラウスっち。いつもよりドギツいのいったみたいだけど、なんかあったの?」

「何…?」

 

 K・Kの言っている意味が分からず、クラウスがキョトンとした顔で首を傾げる。

 何やら必死な顔で見つめられ、ザップを指差すため、どうしたのかと視線を下に向けるクラウス。

 

 そこで彼は、顔中ボコボコにされた状態で白目を剥いている、殆ど瀕死状態に陥ったザップの姿にようやく気付いた。

 

「む!しまった、すまないザップ! 私としたことが、加減を誤った‼︎」

「あーあー…これ完全にやっちゃってるわ」

「ギルベルト、ザップに治療を!」

「はい、すぐに」

 

 か細いうめき声をあげ、助けを求めるように手を伸ばすザップに、クラウスは慌ててギルベルトに助けを求める。

 

 主の異変に既に気付いていたギルベルトは、落ち着いてザップを受け取り治療を開始する。それを不安気に見守るクラウスの元に、K・Kが恐る恐るといった様子で近付き話しかける。

 

「……本当にどうしちゃったわけ? 気もそぞろになるような何かがあるんなら、相談くらいは乗るわよ?」

「すまない…何か今、虫の知らせのような何かを感じてね」

「あら、クラウスっちが言ったとは思えない言葉」

 

 集中を切らせて上の空になったり、部下を力加減を誤ってボコボコにしたり、ライブラのリーダー然としている彼には珍しい奇行。

 

 その理由が、何とも曖昧な予感からきているためだと知り、K・Kは驚きで目を見開く。

 キレた時は危険だが、それ以外の趣味に興じているときなどには至極冷静な彼が言うには似つかわしくない言葉だ。

 

「それが気になってるわけ?」

「ええ、何か、危険なことが起こる予感が―――」

 

 慎重派の彼が何に不安を抱いているのか。

 クラウスの懸念の正体を探ろうと、K・Kが興味津々に問い質そうとした瞬間の事だった。

 

「大事件だぞクラウス‼︎」

 

 どばーん!と勢いよく扉を開けて乱入してくる、トレンチコート姿の中年の男性。

 すると、ライブラの外で何か巨大な者が落下する音が響き、続いてボンッと何かが爆発する音が響き、さらに何かが壊れて崩れ落ちる音が響いてくる。

 

 立て続けに聞こえてくる崩壊の轟音の数々に、クラウスの表情はそのままに、K・Kは顔を掌で覆って天を仰いだ。

 

「……クラウス、あんたの杞憂の意味がわかった気がする」

「おお! K・Kもいたのか! できればみんないて欲しかったが、まぁそれは仕方がない!」

 

 やかましく吠える彼の名は、ブリッツ・T・エイブラムス。

 クラウスの師匠に当たる者であり、故に多くの吸血鬼に恨まれ命を狙われ、数々の呪いその身に受け―――全くの無傷で生きている、凄まじい豪運の男である。

 

 なお、彼の豪運で回避された呪いは継続するため、周りへの被害がとんでもない事になるという。閑話休題。

 

 故にライブラでは、エイブラムスの来訪は確実に何か大事が起こる、あるいは彼が引っ張り込んでくるのだという、かなり失礼な認識があった。

 

「何の用なのよぉ〜あんたが来ると絶対厄介事がおまけになってるじゃない〜」

「大事件だ! エヴァンジェリン婆さんが帰ってきていることは知っているな⁉︎」

「とっくの昔に」

「婆さんが追っているファントム! そいつがこの街に紛れ込んでいることもか⁉︎」

「知ってますぅ〜」

「そうか! だったらかなり話は早くなるな!」

 

 心底面倒臭そうに、しかし全く気付かれる事なく、怒涛の勢いでしゃべるエイブラムスの相手をするK・K。あまり近付くと何が起こるかわからないので、若干体を仰け反らせていた。

 

 エイブラムスもエイブラムスで、情報が速いライブラに感心し頷くばかりで、なかなか話が前に進まない。

 仕方なく、クラウスが椅子を立ってエイブラムスの方へと歩み寄る。

 

「…エイブラムス、本題をお聞かせ願えないだろうか」

「うむ、そうだな、そうだよな! 俺が掴んだのは、そのファントムの正体についてだ! 奴は―――」

 

 うっかりしていた、とばかりに手を叩き、また大きな声で喋りだす。

 彼が言う重要な情報を、K・Kとは真逆に真剣に聞き出そうとするクラウスに、エイブラムスが語ろうとすると。

 

 突如、室内の天井に備え付けられた小型のテレビの電源が勝手に点き、ノイズが走る。

 そして小さな画面に、見覚えのある豪奢な格好の少年―――来国中のエメラルド国の王、マヤが映し出された。

 

「⁉ ちょっと……この子って」

『御機嫌よう、ヘルサレムズ・ロットの住民達よ……我が名はマヤ、エメラルド國の大王である。くるしうない』

 

 突然始まった放送に、クラウスもK・Kもエイブラムスも、気絶していたザップも治療中だったギルベルトも反応し、鋭い目で画面を睨みつける。

 特にザップは、いきなり顔を見せて、彼からすると生意気で腹の立つ態度を見せる青年の顔に、嫌悪感たっぷりの表情を返していた。

 

「あんだァ……こりゃ」

『憩いの時を邪魔した事、深く謝罪する……これより我らが行う大事の為、諸君らへの警告のつもりで今一時の時間を頂いている』

 

 それが放送されていたのは、ライブラだけではなかった。

 街中の画面、家庭のテレビやパソコン、携帯電話にタブレットと、ありとあらゆる情報端末を乗っ取って放送されていた。

 

 映し出される異国の王の言葉に、街中の人間達が唖然とした顔を向ける。

 

『我らはこれより、大いなる奇跡の実現を目指し動く。未だ嘗て、誰も達し得なかった偉業……遥か過去より多くの知性ありし者が求め、打ち拉がれてきた奇跡を真にするのである』

 

 見れば、若き王の左右には白と金のローブを纏った、魔導士然とした格好をした何者かが控えている。

 フードを被った賢者に、尖り帽子を被った導師。大昔の物語にでも登場しそうな謎の人物が、唐突に画面の中で動き出す。

 

 やがて本人が移動したのか、マヤ大王の姿が横にずれ、賢者と同士が捕らえる一人の少女―――ぐったりと項垂れた、エヴァンジェリンの姿が露わとなった。

 

『此処に、我らが希望は降り立った。二つとして並ぶ者なき竜の巫女を招き、奇跡の御業を披露させる』

「エヴァンジェリン女史⁉︎」

「ババア⁉︎」

 

 思わぬ人物の登場に、ライブラ内が騒然となる。

 捕らえる事などそうそうできないはずの強者、ライブラ最強と謳われる魔女の思いもよらない姿に、誰もが絶句しその場に立ち尽くす。

 

 外套で寛いでいたレオナルドも、持っていたハンバーガーを落とした事にも気づかないほど、激しく動揺し言葉をなくす。

 路地裏で暴れていたオーフェンまでも、信じられないと言った様子で街中のテレビを凝視する。

 

『我らが望むのは、成功という結果ただ一つ。諸君らには何も求めない……強いて言うのならば、何もしないことを要求する』

「エヴァンジェリンさん…⁉︎」

『しかし、諸君らが我らの警告を蔑ろにし、邪魔をする姿勢を見せよう時は、我らは容赦なく慮外者達を排除する。これは覆されぬ決定である』

 

 どよどよと、何が起こっているのかまるでわからない様子で囁き合う人々の声が、一塊となって町を揺るがす。

 

 それを知ってか知らずか、画面の中のマヤ大王はにやりと不敵に笑みを浮かべ、胸を張って両手を左右に広げる。

 まるで自分が主役となった舞台に酔っているかのように、恍惚とした顔を晒してみせた。

 

『今この時より、ヘルサレムズ・ロットは我らが城となる。何人たりとも侵す事能わず、何人たりとも争う事叶わぬ……我らがそれを為す、その時まで』

 

 肯定も拒否も、何一つ受け入れる気のない演説。

 異国の王が現れたかと思いきや、見知らぬ少女を捕らえた姿を映し、「何もするな」と自分勝手に告げて勝手に終わった。

 

 突然始まった謎の放送に、街の住民達はほとんどの物が驚愕と戸惑いで固まり、動く事ができないでいた―――とある、特殊な数人を除いて。

 

「…ふざけやがって」

 

 唾でも吐き出しそうな形相で、体を起こしたザップがこぼす。

 顔はまだ絆創膏だらけだが、若き異国の王がお茶の間を占領し、何やら企んで注目を集めている姿に、強い苛立ちを抱く。

 

 いけ好かない餓鬼が何かをやらかそうとしている事が、酷く気に入らない様子だ。

 

「あいつら……ババアを使って何しやがる気だ。何のために、こんな…」

「まずい…まずいぞクラウス!」

「ええ……分かっています。彼らの目的は不明ですが、何にせよ一刻も早くエヴァンジェリン女史を救出しなけれ―――」

「いや! そっちじゃない!」

 

 仲間の窮地に、理由はそれぞれだが同様の怒りを抱き始めるライブラの戦士達。

 許しがなくとも、即座に救出と討伐に向かう気になっている彼らに、エイブラハムが酷く慌てた様子で待ったをかける。

 

 なぜ止めるのか、と鋭い目で睨みつけるザップ達に、エイブラムスが事情を説明しようとした時。

 

「あそこにいるのは―――‼︎」

『さぁ、始めようか―――全てをやり直す、創世の儀式を』

 

 不意に、画面の中にいた黄金の魔法使いが、一つの指輪を右手に嵌める。

 彼がそれを自身のベルトの中心にかざした瞬間、指輪とベルトが眩い光を放ち出し。

 

《クリエイト・ナウ》

 

 びくっ!と魔女が驚愕の表情で全身を震わせ。

 煌々と虹色に輝く―――世界の全てを書き換える力が、解き放たれた。



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6.贄の儀式

 その日、ヘルサレムズ・ロットを何十回目かの揺れが襲った。

 多少の事件事故、世界を滅ぼしうる終末の襲来など日常茶飯事の異変なのだが、住民達の背筋に走った寒気はかつてないほどに鋭く神経に突き刺さった。

 

 グラグラと揺れる地面には、赤い光の線が走り幾何学的な模様を描く。血のように紅く、不気味に輝くそれの上にいた人々は、どよめきと共に慌てて後退る。

 遥か高くから見下ろせる者、ビルの上階にいた者や、ヘルサレムズ・ロットに住まう最大の個人・ギガ・ギガフトマシフのような存在だけが、その光が描くものの正体に。

 

 ―――ヘルサレムズ・ロット全体を土台に描かれた、超巨大な魔法陣に。

 そして、その中心に起こる異変に気付いていた。

 

「何だ何だ…⁉︎ 一体何が起こってやがる⁉︎」

 

 所で遅めの夕飯を、買いだめしておいたカップ麺を啜っていたダニエル・ロウ警部補がブッと面を吐き出し目を剥く。

 大急ぎでカップ麺を抱えたまま走りだし、異変の正体を探ろうと窓から外へ身を乗り出し、辺りを見渡す。

 

 食事の憩いの時間を邪魔された苛立ちの所為か、ぎょろぎょろと鋭い目にある彼に、近くに居た若い景観が歯ッと声を上げる。

 

「警部! あ、あれ…!」

「…………ふざけてやがる」

 

 釣られて警部補が視線を向ければ、悪態をつきながら表情が強張っていく。

 

 街の中心地に聳え立つ、無数のビル。その頂点部分がぐにゃりと粘土のように歪み、意志を持っているかのように形を変えていく。

 それが見る見るうちに、鼻のような、城のような意匠へと変化していく様を目の当たりにして。

 

 警部補の口の端からこぼれていた面の切れ端が、ポロリと力なく零れ落ちた。

 

 

 

 バーン!と扉を押し開けて、ライブラ内へ飛び込んだレオナルド。

 大きく肩を上下させ、顔中汗まみれにした彼は、街で起こっている事態について把握するため、一目散にライブラに戻ってきたのだ。

 

 そんな彼を出迎えたのは、ライブラの構成員達がみな、必死の形相で駆け回っている光景だった。

 

「観測機回せ! ああ、レオ! ちょっとお前邪魔だから胠どいてろ!」

「いやそれよりお前、パパッとアレ覗いてくれ! 大至急だ!」

「ぼーっと突っ立ってんじゃねぇ! 急げ!」

「保管してある武器ありったけ持ってこい! パトリック! 整備は全部済んでんだろうな⁉︎」

「当たり前だ!」

「とっとと全部持ってけのろま!」

 

 唖然としたまま、声も出せないでいるレオナルドをそのままに、機材を持った男達がバタバタと忙しなく走り回る。

 その中にはパトリックとニーカの姿もあり、普段は使わないような大掛かりな武器まで引っ張り出してきている。普段なら大喜びで準備をしているのだろうが、今日に限っては酷く焦った顔をしている。

 

「悪夢でも見てんじゃないかしら、私達」

「ああ……まるで3年前の再現だ」

「ぐぬぁあああああ‼︎ 恐れていた事態が今! 現実になってしまった〜‼︎」

 

 世界の均衡を守る組織の構成員達。彼らが右往左往とし、阿鼻叫喚の表情を見せる様に、スティーブンとK・Kが小さく呟く。

 その後ろで頭を抱え、天を仰ぐエイブラハムが、事態の混沌振りをさらに加速させていた。

 

 ばたばたと煩い彼らを一瞬じろりと睨み、ザップがふんと鼻を鳴らし正面を向き直る。

 彼は自身の視線の先に映るモニターの画像、囚われた魔女が苦悶の表情を見せる姿に、知らぬうちに眉間にしわを寄せていた。

 

「こりゃ……ちっとばかしヤベェな。ババアがああも手も足も出せずにとっ捕まるとかまずありえねェ」

「……そうできる奴がいるって事よね」

「どういうバケモノだよ、クソが」

 

 チェインが珍しく、恐る恐るといった感じで尋ねれば、ザップは唾でも吐き捨てそうな勢いで毒づく。というか実際に床に唾を吐いた。

 彼のすぐ傍では、機材の持ち出しに力を貸していたツェッドも似たような表情になり、映像の中の魔女に心配そうな眼差しを送る。

 

 喧噪の中、重い空気が漂い始めると、ザップが画面から目を離さないまま、スティーブンに向けて話しかける。

 

「なぁ、番頭……ありゃあ、あのババアの力でああなってるってことでいいのか」

「そういう事になるな」

「マ、マジすか…⁉︎」

 

 頷くスティーブンに、近くに寄ったレオナルドがぎょっと呟く。

 花開いていくビル群の異変は、今も尚続いている。メキメキとコンクリートが柔らかそうに曲がり、もしや街中に広がるのではないかと思わされる。

 

 スティーブンの言う通り、かつてのニューヨークで起こり、つい最近にも引き起こされかけた〝大崩壊〟が、三度人界を襲っているようだった。

 

「ねぇ、あれがあのまま広がったらどうなると思う?」

「全く想像もつかないし……考えるだけで憂鬱だね」

「考えなさいよ、それがあんたの仕事でしょうが」

「無茶を言う…!」

 

 K・Kの苛立った様子の物言いに、スティーブンも険しい口調で返す。元々仲が悪い、というよりK・Kが一方的に嫌っている関係の二人だが、状況が状況故に冷静でいられないらしい。

 険悪になりつつある二人に横目をやったザップが、再び映像の中の魔女を見やり、舌打ちと共に吐き捨てる。

 

「何やってんだよ、あのババア…!」

 

 怒りと憎しみが籠もった声に、聞いてしまったレオナルドが思わずびくりと震える。チェインも似たような反応を示し、ザップから一歩後退る。

 

 ライブラ全体の空気が刺々しいものになりつつあるのを感じながら、レオナルドは戦々恐々となる。

 彼らの怒りが、果たして魔女を捕らえている者達に向けられているのかと、不安を抱き始めたからだ。

 

 ―――俺はこの時……少し、不安になっていた。

 

    仲間を仲間とも思っていない傲岸不遜さ。

    一般人を平気で巻き込みかねない荒々しい暴れ方。

    敵に対する容赦のなさ。

    そして何より……たった一人で、世界を滅ぼせそうな輩を潰してしまう力。

 

 力は刃物、そう誰かが言っていた。

 切れすぎる刃物は持ち主すら傷つけかねず、むろん周りの人間にも傷を負わせかねない。使う者が幼稚か凶悪な人間ならば猶更の事。

 

 そんな力を持つ彼女を、彼らがもし脅威と認識してしまったなら?

 人と繋がるには辛辣な言葉を吐き、力を振るう事に何の躊躇いもなく、巻き込まれた赤の他人を簡単に見捨てるような人物を。

 人界に害を及ぼしかねない怪物、血界の眷属(ブラッドブリード)とほぼ変わりがないような存在を、今が好機と排除する決断を下してしまったとしたら。

 

 ―――ここにいる人達が、あの人を見捨ててしまうのではないか。

    そう……思ってしまったのだ。

 

 ごくりと息を呑み、棒立ちのまま動く事ができないレオナルド。その視線が、やがてデスクに座るクラウスに向けられる。

 

 デスクで指を組んだまま、視線を下に落としているライブラの長。

 事態発生後、モニターをじっと凝視し続けていたと思えば、ゆっくりと虚空を見つめ黙り込んでしまった。

 手の陰に隠れ、彼の表情を誰も伺う事はできなかった。

 

「おい旦那……旦那?」

「え…? クラウスさ―――」

 

 一体何を黙っているのか、長としては約指示を下してほしいと、スティーブンを筆頭にライブラのメンバーがほとんど一斉に振り向く。

 

 そんな多くの視線の中で、黙り続け―――いや。

 自身の中に溢れ出した激情を、必死に抑え込んでいたクラウスの背から。

 

 ごぅっ!と紅く燃え滾る怒気が溢れ出した。

 

Aparecium

 

「……ぉ…あ…!」

 

 四肢を封じられ、宙に磔にされたエヴァンジェリンが、虚ろな目を伏せて呻き声を漏らす。

 顔からは血の気が引き、全身の肌を真っ白にさせてがくがくと痙攣する姿は、力の限り暴れ回った恐るべき魔女とは到底思えないほどに、弱々しく見えた。

 

「おお……これが、これが魔女殿の力…‼︎」

 

 そんな中、興奮した声を上げるのはマヤ一人。

 見る見るうちに街が変貌し、これから始まる儀式を祝うような石の花へと姿を変えた事が、目の当たりにしても信じられない様子だ。

 

 冷や汗を流しながら、しかし目を輝かせて、若く野望を秘めた王が、魔女と変わり果てたビルの内部を見渡す。

 

「何て巨大な装置……まるで城のようだ」

「これは賢者殿が数百年の時をかけて作り上げた術式……これまでも、そしてこれから先もずっと誰にも再現する事などできない最高傑作なのです」

 

 憮然と佇む賢者の隣で、オーマが自慢げに語る。

 まるで、長年の苦労の末に完成した芸術品を誇るような口ぶりと手振りで、宝石の原石のような仮面が怪しく輝く。

 

 誰一人として、苦悶の声を上げる魔女を案じる言葉を吐く者はいなかった。

 

「これで……これで父が還ってきてくださるのですね。死者を蘇らせるなんて、人類史上誰も……いや! 裏の世界の何者でさえも成し遂げた事のない偉業だ! それが叶う瞬間を……僕は見る事ができるんだ‼︎」

 

 震える体を抑え込もうとするように、拳をきつく握りしめるマヤ。浮かぶ笑みは引きつり、冷や汗は止まらず、しかし目を血走らせて出来上がった祭壇を凝視し続ける。

 幼い頃に死に別れ、再会を求め続けた存在が次期目の前に現れるのだと、一切の疑いを抱く事なく息を荒くするばかり。

 

「…動力源を確保するのに、こうも長年かかってしまいましたがね」

「ここまで巨大な装置なんだ。それも仕方のない事だろう……しかし、街の建物もかなり巻き込んでしまったね。住民達にはとても申し訳ない事をした」

「これより始まる大事の前には、些細な事です」

「…うん。あとでしっかり謝罪しよう。魔女殿にも……結局手荒な手段を取ってしまった。どう詫びればいいか…」

 

 途端に表情を変え、強い罪悪感から険しい顔で俯く若き王。

 何の関わりもない多くの住民達を巻き込む事態になった事に、そして魔女の了承を得ず無理矢理利用した事に、僅かにだが後悔を抱いているようだ。

 それを冷たい目で見やる二つの視線に気付く事なく、マヤは子供のようにはしゃいだ声を上げ続けた。

 

 そこでふと、マヤがようやくエヴァンジェリンに視線を向ける。

 それは苦しむ魔女を心配するものではなく、咎めるような、不満を示す棘のあるものであり、同時に軽蔑が混じった眼差しであった。

 

「……これだけの力を持っていながら、どうして僕を助けてくれなかったのか。古の魔女とは……意地悪なんだな」

「所詮、己の事しか考えられぬ下賤の輩……相手にするだけ無駄な事。こちらが頼んでいるのだから、最低限、話を聞くのが下々の者の役目というものです」

 

 冷たい目でエヴァンジェリンを睨み、オーマの一言にやがてうんと頷き、ふんと不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

 手前にできる最大限の礼儀を示したのに、話を聞く事もしなかった傲岸不遜な怪物。己の望みばかりを優先させる不適合者。

 オーマの評価を、確かにその通りだと認め、頼み事を聞いてくれなかった無礼者を鋭く目で射抜く。

 

 険悪な雰囲気が漂い始めたその時、白い賢者が咳払いと共に前に出て、マヤに声をかける。

 

「さて……そろそろ仕事に移らせていただきたいのだが、よろしいですかな」

「…ああ、始めてくれ」

 

 問われ、マヤはすぐに表情を引き締め、賢者に道を譲る。

 これから始まる大事の前に、中心人物である自身が感情的になって邪魔をするわけにはいかない、と居住いを正す。

 

 コツ、コツと靴音を鳴らし、ゆっくりと魔女の前に進み出る賢者に、マヤは恭しく首を垂れてみせる。

 

「どうか、ご武運を。御息女との再会、心より願っている」

「ありがたき幸せ……」

 

 同じく首を垂れ、賢者は心からの感謝を述べる。

 

 顔を上げ、背筋を伸ばした賢者は、仮面の奥で目を細め、魔女を―――いや、魔女の中でずっと眠っている自分の大切な者の顔を。

 嘗て失った、最愛の娘の顔を思い浮かべ、グッと強く唇を噛み締める。

 

 ―――おとうさん。

「長かった……これでようやく、私の元に帰ってくる」

 

 脳裏に浮かぶのは、娘が残した決して少なくない、しかし決して多くもない記憶の数々。

 

 いつも見せてくれた笑顔。悲しくて泣き喚く声。

 自分よりもずっと長く生きていて欲しかったのに、あまりにも短すぎる時間で儚くなってしまった宝物。積み重ねた時間も、想い出も、あまりにも少なすぎて、どうしようもないほどの後悔が湧いてくる。

 

「死別に泣き狂い、再会の手段を求めて彷徨い、何の成果も得られずただ老い続け……そしてようやく方法を見つけ出し、器を見出した。とてつもなく永く、苦しみに満ちた数百年であった」

 

 悲痛に掠れる、賢者の声。亡き娘に向けた父の慟哭が、祭壇に向けてこぼれでる。

 

 気づけばマヤは、目尻に涙を溜めてそれを眺めていた。自分と同じく大切な者をなくし、離別を認められずに、禁忌を犯し摂理を破る道を選んだ。

 ここに居るのは、同志。理不尽ばかりを強いる神から、最も大切な宝を取り戻そうとしている、人類の反逆者なのだ。

 

 マヤはそう、思っていた―――いや、そう思い込んでいた。

 

「だが、それももう終わる……この哀れなる子を器にする為に、また幾年もの時間を要し、ついに完成を果たした」

「……え?」

「私の宝さえ取り戻せるのなら、この世のどんなものも……この世の全ての命さえ犠牲にしても構わない。そう決めてついに、この時がやってきた!」

 

 不意に聞こえた言葉に、きょとんと呆けた声を漏らす赤き王。ともに摂理を越えようと身構えていた幼い共犯者。

 

 それを、賢者はまるで意に介する事なく。そして、王の隣に立つ黒い大臣は醜悪な笑みを浮かべて、さも愉しそうに祭壇の上の魔女を見る。

 賢者は二度とマヤに振り向く事なく、備えていた指輪の一つ―――紫の宝石に、月の意匠が施された物を取り外し、指に嵌める。

 

「さぁ、返してもらおうか―――私の娘を‼︎」

【エクリプス・ナウ】

 

 最後に天に―――何処かにいるであろう、憎くて憎くて仕方がない神を見据え、憤怒に満ちた咆哮を上げる白き賢者。

 同時に指輪を嵌めた手を高く振り上げ、ベルトの中心に叩きつけるように翳し、記された魔法を発動させる。

 

 

 そしてその瞬間―――全ての人間を恐怖のどん底に叩き落とす、比類なき絶望が、始まった。



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7.魔女を奪還せよ

「うがっ⁉︎」

「何だ……ごりゃああ⁉︎」

 

 まず始めに異変が始まったのは、ヘルサレムズ・ロットの住民の数人からだった。

 体に紫に輝く亀裂が入ったと思いきや、突如それが全身に広がり、僅かな悲鳴だけを残して粉々に砕け散ってしまったのだ。

 

 一人や二人ではない。街に張り巡らされた光の線、その上で照らされていた者達が、人間もい怪人もまとめて異変を生じさせ、砕けているのだ。

 

「ぎゃあああああああ⁉︎」「うげぁあぁ‼︎」「だっ…だすげ!」「いやだ、いやだいやだ!」「や、やめ…!」「ウソだ……ごんなのウソ!」

 

 バキ、バキン!と、卵の殻が割れるように呆気なく、人であったものがそこら中に散らばっていく。

 そうなっているのは街の住民達のごく一部で、大半は苦悶の声を漏らして蹲ったりしているものの、何とか形を保っている。

 

 しかし、砕ける人々は徐々に増えている。隣に立っている誰かが、突如ばらばらに下る光景を目にし、多くの人々が恐怖で顔を歪ませ、次いで自身もばらばらに砕け散る。

 

 そして、人々が砕けた跡からは、紫色の仄かな光が流れ出し……街の中心地が変異してできた祭壇の方へと漂って行った。

 

Renervate~

 

Finestra…Bombarda……Partis Temporus!

 

 眩い光を放ち、ぐらぐらと揺れる祭壇。

 魔女を中心に捕らえ、彼女の中にある何かを絞り出す巨大な魔法式の前で、白い賢者が奇妙な言葉を紡ぎ続ける。

 

 世界中のどの言語にも当て嵌まらない単語と発音。文法すら法則性がわからない、奇天烈としか言いようがない言語。

 人類の使用してきたものでは間違いなくないそれを唱え、賢者は只管、自身が発動する魔法に集中していた。

 

「魔力よ集え…! この場へ! 我が娘を蘇らせる糧となれ‼︎」

 

 賢者がそう叫ぶと、それに呼応するように、祭壇の光が心臓の鼓動のように波打ち、同時に魔女の声が大きくなる。

 

 魔女の顔からはすっかり血の気が抜け、がくがくと四肢が痙攣を起こす。虚ろな目はもう何も映しておらず、顔中から冷や汗を流し、項垂れたままになっていた。

 

「け…賢者殿⁉︎ こ…これは一体…⁉︎」

「……死者蘇生の法を発動するには、膨大な量の魔力が必要なのだ」

 

 そんな、悲痛な声で戸惑いの言葉をこぼしたのは、つい数秒前まで期待に満ちた表情で、賢者の起こした事態を見守っていたマヤ。

 しかし今の彼は、街の住民達とほぼ同じ状態―――身体に紫に光る亀裂を走らせ、苦痛に満ちた表情で地面に這いつくばらされていた。

 

 困惑の眼差しを向け、声を震わせる彼に、賢者がじろりと……見た事がないほどに冷徹な視線を向ける。

 

「この街は、その為に実に都合がよかった……多種多様な人種が集い、外界ではありえない事象を引き起こす環境が整っている! そして何より―――外界の神さえ干渉しうる場所!」

 

 稼働を続ける魔法式を仰ぎ、高揚した声を上げる賢者。

 

 彼の指に嵌る月食を模した指輪が、彼の感情を表しているように妖しく光り、生物のように鼓動する。

 仮面の裏側で狂喜に顔を歪めながら、賢者がばっと大きく手を広げ、吠える。

 

「摂理を破るのに、この街ほど相応しい場所はない‼︎」

 

 魔女を、魔女を取り巻く魔法式を凝視し、陶酔した様子で立ち尽くす賢者。

 彼のその姿を見ていた、黙って様子を伺っていたオーマが、這いつくばるマヤの顔の傍にしゃがみ込み、醜悪に歪んだ笑みを見せる。

 

 人の中に入っている筈なのに、彼も賢者と同じく全く影響を受けていない。

 その様を見てマヤは、彼も―――自分の忠臣も賢者の計画に、自分の思惑とは全く異なる事態であるこの状況を全て知っていた事を悟る。

 

「……王よ、あなたの助力も実に都合がよかった。過剰な程に潤った国が丸々一つ、資金も資材も提供してくれていたのだから」

「オーマ……賢者殿……!」

 

 愕然と、マヤは賢者とオーマが笑う姿を見ている事しかできない。叱責する事も、非道な裏切りに嘆き悲しむ事も、今の彼にはできない。

 

 自分が計画の忠臣であったつもりが、まんまと都合よく利用されていたという事実に。良かれと思って始めた行いが、大勢の人々を巻き込み苦しめ、挙句死に至らしめるものであったという事実に、脳の理解が追い付かない。

 いや、脳が全ての真実を受け入れる事を拒否していた。

 

「は、話が違うではないか…! 街の住民に求めるのは傍観だと……巻き込まないとおっしゃったはずだ!」

「…それで願いが叶うのなら、そもそも私の娘は命を絶たれたりなどしない」

 

 悲痛なマヤの叫びに、賢者は吐き捨てるように告げ、きつく拳を握りしめる。

 オーマのみがにやにやと不気味に嗤う中、祭壇の中心で沈黙する魔女を見やった賢者が、今度は虚空を見上げてため息をつく。

 

 まるでそこに、かつて失った大切な誰かが見えているかのように。

 

「何の代価もなく、忌まわしき神が定めた定めを歪める事などできはしない……神を否定するためには、神を殺せるだけの犠牲が必要になるのだ。その程度の覚悟が不要な程、この世界は甘く出来ていない!」

「僕はそのような手段は求めていない! 僕はただ…父上ともう一度……!」

「それが甘いのですよ、愚かな王よ……魔法はそんな、夢物語のように都合よくできていない」

 

 純粋な願いを口にし、縋るような目を向けるマヤに、賢者ははっきりと切り捨てる。甘い願望を嫌悪するように、冷たい現実で拒絶する。

 

 絶句していたマヤは、全身に走る苦痛に、身体のどこかで亀裂が広がる音に我に返り、再度賢者を睨みつける。

 立ち上がり、無理矢理にでも彼を止めたいが、最早体を動かす事すらままならない。

 

「む、無関係な者を巻き込む事に……躊躇いはないのですか⁉ 貴方は御自分がどんなに狂った事をしようとしているのか、理解されているのか⁉」

「狂っているとも……娘が理不尽に神に奪われた瞬間から、私はとっくに壊れているんだ」

 

 賢者の良心に訴えかけるが、それすらももう無意味。

 たった一人を蘇らせるために、数多の命を犠牲にしようと企む時点で、そんな平凡な思考を持ち合わせている筈もなく。

 

 驚愕と絶望で固まる若き王を背にし、賢者はもう視線を向ける事すらしなかった。

 

「…はっ、樣ぁないのぅ」

 

 そんな時、祭壇から心底呆れた、嘲笑うような声が響く。

 ぎろり、と賢者が仮面の奥から睨み、オーマがじろりと訝しむように、マヤがハッと目を見開いて、一斉に囚われの魔女に視線を送る。

 

 三つの視線を独占し、力を奪われ続けているエヴァンジェリンは弱々しい姿ながら、鋭い目で彼らを睨み口を開く。

 

「だから言ったでありんす。ぬしらに貸す力などないと……どうせこうなると、魔法に頼りたがる者に碌な者がいた試しはありんせん。ご覧の通り、自分勝手で独善的な馬鹿者に利用されおった」

 

 ぐっ、と事実を突き付けられたマヤが呻き、視線を地面に落とす。

 死者に会えると子供のようにはしゃぎ、大人の悪意に気付かなかった末がこの結末だと、若き―――いや幼き王は親に叱られている気分で言葉をなくす。

 

 返す言葉も出ないマヤに、エヴァンジェリンは落胆の目を向けていたが、やがてそれは自嘲の笑みに変わり始めた。

 

「……いや、それはわっちも同じ話か。よもや、こんなしょうもない男に誑かされようとは―――ぐっ…ぎっ!」

 

 はっ、と詰まらなそうに鼻を鳴らし、王や賢者から目を逸らそうとした時。

 

 勢い良く伸びた賢者の手が魔女の首を捕らえ、ぎりぎりと気道を締めあげる。

 目を見開き、自由の利かない両手足を揺らして悶え苦しむ小さな魔女を見下ろし、賢者が殺気を強める。

 仮面に隠されていてなお、殺意に満ちた憎悪の表情となっている事がわかった。

 

「黙れ……ただの容れ物の分際で。私の純粋な願いを、そんな風に踏みにじるんじゃない!」

 

 呼吸を阻害され、エヴァンジェリンはますます顔から血の気を引かせ、苦悶の声を漏らしながら賢者を睨みつける。

 

 不意に賢者はエヴァンジェリンの首から手を離し、苛立たしげに彼女の顔を振り払う。

 大きく咳き込み、肩を上下させながら、魔女は今一度賢者に鋭い目を向けて口を開いた。

 

「くっ……容れ物、と言ったな。狙いは肉体か、それともどらごんか」

「両方だ…! 数百年も生き続け、今や比類なき力を有す竜の魔力を奪い尽くし! 空になった器に私の娘の魂を宿させる……そうする事で、私の娘はここに蘇るのだ‼︎」

 

 狂った声で嗤い、賢者は今度は魔女の髪を掴み、項垂れていた顔を無理矢理引き上げる。

 頭皮を引っ張られる新たな痛みに悶え、眉間にしわを寄せる魔女の顔を覗き込み、賢者は仮面の奥で笑みを深めていく。

 

「そうだとも……君を拾ったのはこの為だ! だから誰からも愛されない、恐れられ続ける化け物のなり損ないに、価値を見出し、生きる意味を与えた! 従順に育てれば、私のために喜んで死んでくれると思ってね!」

 

 数百年にも渡る壮大な計画を、賢者はここぞとばかりに語る。

 もう隠す必要はない、隠しても意味はないと、かつて弟子として守り、導いていた女に向け、自身の内に秘めていた悪意をぶちまけていく。

 

 その姿は、人の形をしていながらまるで全く別のもののよう、異形を無理矢理人の形に詰め込んだ何かのようだった。

 

「君の前から去ったのは……君にとっての唯一の支えとなった私に依存してもらいたかったからさ。まぁ、君は私の思惑通りにはならず、妙な男にぞっこんになってしまったようだがね」

「くだ、らん、な……ぐぅっ‼︎」

 

 濁流のように叩きつけられる悪意を前にして、しかしエヴァンジェリンの心は薙いでいた。

 嘗て師と呼んでいた男に裏切られた、という事実に慣れたわけではない。

 

 自分の最期は、こんな男に利用されて終わるのかという諦めが、魔女から抵抗や奮起の意思を奪い取っていたのだ。

 

「ああ、まったく……味方ながら恐ろしい男ですな」

「もう何をしようとも無駄だよ……君はここで消える。大丈夫、君の存在すべては、私の娘のために有効活用するからね」

 

 オーマが呆れた目で見守る中、賢者は再び祭壇へ向かっていく。

 左手の薬指につけていた、月食を模した指輪を外し、不意にパチンと指を鳴らす。すると、魔女を捕らえる枷の一部が形を変え始める。

 

 捕らえていた魔女の左手、手首から先が晒され、賢者の前に運ばれていく。

 その間、何の動きも見せない魔女の左手を取り、賢者はゆっくりと月食の指輪を薬指に近づけていく。

 

 その様に、全身に紫のひび割れを広げさせながら、マヤが大きく目を見開き藻掻く。

 

「……クラウス」

 

 ぽつりと、自身の薬指に近づく指輪を見下ろすエヴァンジェリンの口から、掠れた声がこぼれる。

 

 幼い少女の姿をした魔女の指に嵌められていく、悍ましい光を放つ指輪。

 それはまるで、幼気な少女の純潔を散らし行われる儀式のようで、平然とそれを行おうとする賢者への嫌悪が凄まじい勢いで高まっていく。

 

「魔女殿、僕は…僕は……!」

「黙って見ていなさい……運よく生き延びていたならば、君の望む者も生き返らせてやろう」

「賢者殿…! やめろ…やめろぉおおおおおおお‼」

 

 それをただ、何も出来ずに見ている事しかできないマヤが、雄叫びのような悲鳴をあげた瞬間。

 

 

 ドンッ!と。

 魔法式が起こしたものではない大きな揺れが、娘の復活の儀式を行う賢者達の元に響いた。

 

 

「な、何だ! 何事だ⁉」

「この揺れ……下で何処かの法式が暴発でも起こしたか?」

 

 突然の事に、賢者とオーマは儀式を中断し、辺りを睨むように見渡す。

 重要な場面に水を差すような事態に、大きな苛立ちを募らせながら、賢者は魔女の元から離れて空間の端に向かう。

 

 オーマもそれに倣い、祭壇となったビル全体の監視をつかさどる箇所へ移動し、事態の把握を始める。

 そして、異変の正体に気付いた瞬間、オーマの表情が一変した。

 

「こ…こいつは、いやこいつらは⁉」

 

 監視映像に映る、信じがたい光景。

 ビルの真正面にある扉。巨大な硝子の扉を、賢者達が岩と鉄で封印を施した箇所が、粉々に破壊されていたのだ。

 

 濛々と立ち込める土煙、階下に集結していた多数の怪物達が、事態に右往左往する姿が映る中。

 

 

 彼らは、現れた。

 夥しいまでの血の臭いをぶらさげ、背筋も凍るような闘志を放ち、彼らが―――世界の均衡を守る牙狩り達が、悪の魔法使いの膝元へと攻め込んだのだ。

 

 

「……来たか、ライブラ」

 

 その姿を目の当たりにした瞬間、賢者は仮面の奥の顔を憎悪に歪め、小さく呟いたのだった。



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