ONCE AGAIN (晃甫)
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001 Welcome Back.
満開だった桜が、徐々にその花びらを散らし始める。流れる風はどこか暖かく、燻っていたこの気持ちすらも穏やかにしてくれそうな、そんな四月のある日のことだった。
今でもハッキリと、明確に思い出すことが出来る。
友人に勧められた携帯ゲームについ熱中してしまい、夜更かしをしてしまったあの日。
確かに、世界は終わったのだ――――。
1
少年、小室孝の朝は早い。
六時にセットされた目覚まし時計のアラームが鳴るよりも早く目を覚まし、手早く軽装に着替えて洗面台へ。最低限の身だしなみを整えると、予め前日のうちに用意しておいたバナナを二口で食べ終えてそのまま真っすぐに玄関へと向かう。
既に馴染んだ運動靴を履き玄関を出る。まだ完全には昇り切っていない太陽を眺めながらストレッチをしていると、向かいの玄関が開く音がした。
「やあ、おはよう小室君」
「おはようございます、希里さん」
現れたのはTシャツ姿の男性と、もう一人。
「おはよーお兄ちゃん!」
「おはようありすちゃん。朝から元気だね」
男性の後ろから可愛らしいトレーニングウェアを着て出てきた小さな女の子に挨拶を返して、その頭を優しく撫でる。
希里ありす。今月から小学校二年生になった、笑顔の愛らしい女の子だ。
孝がありすに初めて出会ったのは一年ほど前のこと。希里家がありすの小学校入学を期に学校の近い場所に家を建て、それが小室家の真向かいだったのだ。なんでも以前に住んでいたアパートは学区内ぎりぎりの立地で、通学に片道一時間かかってしまうとのこと。成程確かに小学校に入学したての女の子がランドセルを背負って歩くには些か酷な距離である。
そんな理由から出会った孝とありすであるが、どういうわけかこの小さな少女は最初から孝に懐いているようであった。そういった警戒心がまだ無いのかもしれないが、初対面でいきなり抱き着かれたのには流石に驚いた。如何に高校生といえど動揺する。
「勉強の方はどうだい、ありすちゃん」
「ちょっとつまんない。簡単すぎるんだもん」
脚の筋を伸ばしながらそんな会話をする。
今の会話からも分かるようにこの少女、かなり聡明である。なんでも昨年の引っ越しを打診したのもありす本人であるらしい。父親である誠三さんから聞いた情報なので信憑性に関しては間違いない。まったく大したものだと舌を巻かざるを得ない。自身が同じ小学二年生だったときはどうだったかと思い出しかけて、孝はそこで考えるのを止めた。泥塗れになって勉強そっちのけで遊んでいた記憶しか出てこなかったのだ。
「お兄ちゃんは? 勉強どう?」
「はは……、なんとか落第せずに済んでるよ」
「そっかー」
ありすの興味は高校の勉強にまで及んでいるのか、瞳を輝かせて尋ねてくる。
生憎孝の学力は平均を下回って赤点を掠めるレベルのため、彼女に何かを偉そうに教えてやることなど出来ない。現実とは時として残酷なものだ。
「よし、行くか」
「うん!」
ストレッチを終えた孝とありすが二人揃って走り出し、その後ろを誠三が付いてくる。日によってはありすはマウンテンバイクを持ち出してくることもあるが、今日は彼女もランニングだ。
半年程前から始まったこの三人でのランニングも、今となっては毎朝の欠かせない日課となっていた。基本的に雨の降る日以外はずっと続けられているこのランニングは、自宅を起点としてぐるりと町内を一周。おおよそ十キロの距離を一時間十五分ほどかけて走る。
そもそもの発端はありすが父のメタボ腹を懸念したこと、そして帰宅部故に体育以外に運動をしていなかった孝の運動不足を危ぶんだことだ。加えてありす自身の体力づくりという理由の元、このランニングが開始された次第である。
当初は息も絶え絶えといった様子の孝と誠三であったが、半年も走り続ければ身体もそれに順応する。今となっては息が切れることもなく、軽快な走りを見せるようになっていた。無駄な脂肪が落とされ、見た目は宛らアスリートである。
他愛もない会話をしながら約一時間のランニングを終えた孝とありすたちは、一旦それぞれの家に戻って汗を流す。濡れた髪の毛をバスタオルでごしごしと拭きながらリビングに来た孝が、テレビの左上に表示された時刻を確認する。七時二十分、問題なさそうだ。
「おはよう孝、トースト置いておくわよ」
「ありがとう母さん」
テーブルに置かれた二枚のトーストにバターを塗って、牛乳と一緒に流し込んでいく。
「そんなに慌てなくてもいいのに」
「性分なんだよ」
「せっかちな子ねえ」
「母さんの子だからね」
母親の言葉にそう軽く返して、孝は最後の一口を飲み込んだ。隣の椅子に置いてあった学生鞄を手に取り、キッチンに立つ母の後ろ姿を横目にリビングを出る。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
いつものようにそう声を掛けてから玄関を出ると、外には既に真っ赤なランドセルを背負ったありすが立っていた。
一度向井の家に視線を向ければ、扉の前で誠三と子犬(ジークというらしい)の姿が見えた。優し気な笑みを浮かべて手を振る誠三に目礼を返して、孝はありすの視線にまで腰を落とした。
「待たせちゃったかな」
「ううん! ありすも今出てきたところだから!」
「そっか。よし、行こうか」
孝の通う藤美学園とありすの通う新床第三小学校は同じ方向にあり、ありすの入学当初から二人で通学するのがお決まりの事となっていた。ありすの両親としてもまだ年端のいかない娘を一人で通わせるのは不安で、孝の存在は渡りに船だったに違いない。この床主市は首都近辺に比べれば治安は良い方だろうが、それでもいつ何が起こるのか分からないのが現代である。
高校生男子と小学生の女児が並んで登校している様は傍から見れば好奇の対象なのだが、近隣住民たちは今ではすっかり日常の光景として受け入れていたし、孝の友人たちからもロリコンのレッテルを貼られるだけで済んでいる。いや、孝からしてみれば甚大な被害を受けているのだろうが、ありすに対して邪な思いを抱いたことなど一度もないことだけはここで明言しておく。どちらかと言えば孝は巨乳のお姉さん系が好きだ。間違ってもロリコンではない。
「よう小室リコン、今日も精が出るねェ」
「よう森田、ぶっ殺される覚悟は出来てるんだろうな?」
後ろから自転車に乗って颯爽と現れた金髪刈上げの不良の言葉に、孝の蟀谷に青筋が浮かぶ。
なにがしか不名誉なあだ名が聞こえたような気がしたが、孝はそこには一切触れない、触れてはいけない。
突如として現れた不良少年だが、どうやらありすとも顔見知りらしい。
「あ、森田のおじちゃん! おはよう!」
「なんで小室はお兄ちゃんで俺はおじちゃんなんだよ……」
「顔だろ」
「ぶっ殺すぞ筋トレマニア」
「上等だその金髪毟り取ってやる」
いつもの日常。何気ない一コマ。後になって振り返れば確かに楽しいと思える、そんな有り触れた世界が、そこには確かに存在していた。
2
孝の通う藤美学園高等学校は、県内でも有数の進学校としてその名を知られている。毎年東京大学への進学者を複数人輩出していることからもそれは明らかで、加えて部活動にも積極的ときたものだから藤美学園の受験合格者倍率は県下有数の数字を誇る。
よくもまあ自分が受かったものだと、孝は二年へ進級した今となっても思う。合格だと親に知らせた際に失神しかける程だったのだから、絶対受かるなどと思っていなかったのだろう。教職者としてそれはどうなんだと思わなくもないが、実際孝の頭脳は勉強方面はさっぱりだ。
ではどうやって孝は藤美学園の筆記試験を突破したのか。
答えは簡単で、身近にいた優秀な家庭教師に勉強の面倒を見てもらったのだ。
「小室、アンタまた授業中寝てたでしょ」
「よく見てるなぁ、先生にはバレないようにしてたつもりだったけど」
休み時間になって孝の座る席にやってきたのは、桃色のツインテールが特徴的な少女だった。そしてこの少女こそが、孝の受験勉強をバックアップしていた家庭教師である。
高城沙耶。学年一の頭脳を持つ天才。孝とは幼稚園からの付き合いで、その縁もあってか何かと世話を焼いてくれる少女だ。
「そんなんじゃまたテストで赤点取るわよ」
「はは……。その時はまた勉強教えてくれよ、高城」
孝の言葉に、沙耶は大きな溜息を吐き出した。
そしてずいっと顔を寄せて。
「アンタねぇ、勉強がすべてとは言わないけど、無知は時として身を滅ぼすわよ?」
「ぜ、善処します……」
沙耶の言葉そのものよりも、彼女の顔が目の前にまで迫ってきたことに動揺を見せる孝。何やら自分のものではない良い匂いがするし、視線を僅かに下にずらせば高校生らしからぬバストが飛び込んでくるし、不意に鼻の奥がむずむずしてくるのがはっきりと分かった。
「お、なんだ孝。高城に勉強教えてもらうのか、だったら俺も教えてもらいたいな」
色々と限界が近かった孝に助け船を出したのは、これまた幼い頃からの付き合いがある親友だった。
「井豪、アンタは別に成績良いじゃない」
「そうだぜ永。俺より五十点も平均点が上じゃないか」
確かに沙耶には劣るものの、永も十分に成績優秀である。その上空手部のエース、おまけに顔も良いときたら、女子生徒からモテない理由など無かった。おのれ神様。天は二物を与えないのではなかったのか。歯噛みする孝を他所に、沙耶はつまらなそうに永の申し出を断る。
「地頭のイイ連中に教えたってやりがいがないのよ」
「高城にそう言ってもらえるのは嬉しいけど、俺も分からないところがあってさ」
「アンタなら参考書でも読んでればすぐに理解するわよ」
「おいおい、別に一緒に勉強するくらい……」
「おだまり小室。アタシはね、無意味なことに時間を浪費する趣味は無いのよ」
断るにしてももう少しオブラートに包むことは出来ないのかと孝は思案して、ああ高城はこういう性格だったなと思い直す。
「あー、悪い永。今回は諦めてくれ」
「そうだな。出直すよ」
沙耶の言い分に特段腹を立てることなく、永は自分の席へと戻っていく。出来た男である。これが森田なら間違いなく逆上していることだろう。
「…………」
「な、なんだよ」
じっと見つめられていたことに気が付いて、孝は気まずそうに眉を顰める。
「なんでもないわ」
一言だけそう告げて、沙耶も自身の席へと戻って次の授業の準備を始めた。
なんだったんだと疑問に思う孝だったが、程なくしてチャイムが鳴り、慌てて数学の教科書を引っ張り出すのだった。
3
「とまあ、そんな話を高城としてたんだよ」
昼休み。校舎の屋上で焼きそばパンを頬張りながら、孝は先程の休み時間のやり取りを友人たちに報告していた。
「あー、そりゃあれだな」
「そうだな、間違いねえ」
訝る孝を他所に、うんうんと頷く二人の男子生徒。一人は朝遭遇した金髪不良の森田。もう一人はこれまた髪の毛を赤く染めた不良、今村である。
孝は成績不良とはいえ、決して素行が悪いわけではない。そんな彼と森田たちは一見すると共通点など無さそうに見えるのだが。
「そりゃあれだ、高城は小室と二人っきりで過ごしたかったんだよ」
「間違いねえな。いいなあ小室、あのナイスバディと密室で二人っきりなんて」
「馬鹿言うな。僕と高城はそんなんじゃない。それに僕は年上好きだ」
何のことは無い。男の秘密を共有し合えば、その時から男たちは親友なのだ。
いつだったか今村が校内に持ち込んだエロ本を体育教官に没収された際、三人で結託して奪還に向かったときから、三人は戦友なのだ。奪い返したエロ本が熟女モノだったことでその後戦争が起こったが、戦友には違いないのである。
「高城なー、ツラとスタイルはいいんだが、如何せんあの高飛車な性格がなぁ」
コーヒー牛乳を飲みながら晴れ渡った空を見上げ、今村が呟く。
「やっぱ女は年上なんだよ、鞠川先生とかさ」
うんうんと頷く小室の傍らで、森田が吐き捨てるように反論した。
「分かってねえなぁ今村も小室も、年齢なんか関係ねえんだよ。守ってやりたくような愛らしさがあるかないかだ。その点で言えば最高なのはC組の遠藤だな。あの小柄な体格に無邪気な笑顔、あれだけで白飯三杯はいけるぜ」
「こいつ犯罪臭がするんだが」
「もうお前ありすちゃんに近づくなよ」
ゴミを見る目で森田を見る孝と今村。厳密に言えば二人もストライクゾーンはそれぞれ違うのだが、森田が特殊すぎるせいで結託することが多い。ロリコン死すべし、慈悲は無い。
「そういえばさ、最近面白いゲーム見つけたんだよ」
言いながら今村はポケットから携帯電話を取り出す。教師に見つかれば問答無用で没収案件なのだが、不良の彼にそんな事は関係なかった。
「バイオ・ブラザーズ無双っつうアクションゲーなんだけど、意外と作り込まれてて面白いのよこれが」
「うげっ、ゾンビモノかよ。俺そういうのダメなの知ってんだろ?」
楽しそうにゲームを始める今村と、携帯の画面を見てから嫌そうに離れる森田。孝はそういったスリルホラーの要素に忌避感は無いので、言われるがまま自分の携帯にもダウンロードをした。流石に授業中にプレイするわけにもいかないので、手をつけるのは家に帰ってからになるだろうが。
ゲームが特別好きなわけではない孝は、どうせすぐに飽きてアンインストールしてしまうんだろうなと顔には出さず思った。今村は今もこのゲームの面白ポイントを捲し立ててくるが、完全に右から左へ状態だ。
とりあえず適当に相槌を打って、孝はゲームをダウンロードした携帯電話をポケットに滑り込ませたのだった。
「…………何だこれ、めちゃくちゃ面白いじゃんか」
その日の夜。孝は携帯電話を両手で握りしめながら呟いた。画面ではエンディング後の映像が流れている。結論、ド嵌まりした。
携帯電話でのプレイなので、当然のことながら画質などはお察しだ。だがストーリーが深い、ただのホラゲーだと高を括っていた数時間前の自分を殴り倒してやりたいくらいである。
エンディング前の最終決戦でヒロインが息を引き取った時など、孝は時と場所も考えずに叫んでしまった程だ。当然階下からやってきた母に拳骨を落とされたが。
「っと、もう三時じゃないか。そろそろ寝ないと起きられないな」
脇に置かれた目覚まし時計はあと三時間もすればその役目を果たすべく騒音を撒き散らすだろう。ありすとのランニングを始めてから寝坊することは無くなったが、それでも身体が辛いときはある。
きっと起きるのが辛いだろうなと確信めいた予感を覚えつつ、孝は携帯電話を充電器に繋いで部屋の明かりを落とした。
4
当然、寝起きは辛いものとなった。
ありすには顔を合わせた途端に心配され、母からは夜更かしをし過ぎるなとありがたいお話を頂戴する羽目になった。しかし後悔はない、あのゲームはこれだけの犠牲を払うに値する神ゲーだった。
尚も重たい瞼を持ち上げ必死の抵抗を試みるも、孝は襲い掛かる睡魔にあっけなく敗北。一、二時限目を夢の中で過ごすこととなった。
更に三時限目終了後、ようやく意識が覚醒してきたのかのそのそと机から身体を持ち上げる孝に掛けられる声があった。
「涎垂れてるよ小室」
「っと、サンキュー平野」
孝の元までやってきたのは、ぽっちゃりとした体型の眼鏡をかけた少年だった。孝としては特に親しかった覚えはないが、いつの間にやら彼と話す機会が増え、今では互いの趣味の話までするほどになっている。
平野コータ。おそらくは学園屈指のミリタリーオタクである。何でもアメリカへ行った際に実銃の訓練までしたことがあるらしい。
「小室が夜更かしなんて珍しいね、あんなに朝早くに走ってるのに」
「昨日勧められたゲームが思いのほか面白くてつい、ね」
「ゲーム? 小室が? なんてやつ?」
問われて作品名を告げると、コータはポンと手を打った。
「ああ、あの続編が来週出るやつね」
なんということだ。これはまた来週も夜更かしコース決定じゃないか。孝は嬉しい悲鳴を殺し、両手で顔を押さえて天を仰いだ。
一応意識は覚醒したが、やはりまだ眠さは残っている。これは次の時間も睡眠授業に宛がう必要があるだろうか。そんな事をぼんやりと考えていると、コータが肩に手を置いて。
「だったらいっそ、さぼっちまおうぜ」
そう、いい笑顔で言ったのだった。
「まさか平野がサボリに誘うなんて思わなかったよ」
「いつもじゃないさ、今日くらいはね」
所変わって非常階段。その二階と三階を繋ぐ踊場に二人は立っていた。校舎の端に設置されているこの非常階段は年に一度の避難訓練の時にしか使用されず、あとはもっぱら不良たちの溜まり場となっていた。幸いにしてこの時間帯は上級生の不良たちの姿は見当たらず、孝とコータ二人だけである。
時間は既に四時限目も半ばに差し掛かる十一時五十分、運動部の連中なんかは空腹に耐えかねて早弁、購買部ダッシュの準備運動を始めている頃だろう。
「ねえ小室」
互いに視線は非常階段から見える学外の桜に向けたまま、コータがぽつりと呟いた。
藤美学園は丘の上に建造されており、正門から市街地へ降りるまでの坂道の脇を満開の桜が埋め尽くしているのだ。
「今、楽しい?」
「なんだよそれ、唐突だな」
ざっくりとしたその問いかけに孝は苦笑する。
「ま、楽しいんじゃないか。勉強は嫌いだけど周りの奴らは良い奴らばっかりだし、ここ最近は充実してるよ」
「……そっか」
孝の答えに何を思ったのだろうか。コータは正面を向いたまま、それ以降何も言わなかった。
そのまま十分程が経過しただろうか。
風が強くなったこともあり一旦校舎に入ろうとした時、孝は奇妙なモノを発見した。
「……なんだ、あれ」
鉄に何かがぶつかる鈍い衝突音。それが断続的に、一定のリズムで響き渡る。
その衝突音の出処は藤美学園の正門で、固く閉ざされたその門に一人の男がぶつかっている音のようだった。
「何をしてるんだ……? 不審者か……?」
「…………」
孝の思わず口に出た疑問に、コータは返さない。ただじっと、その不審者らしき男を凝視していた。
正門から孝とコータの居る非常階段はそれなりに距離がある。にも拘わらず音が聞こえてくるということは、当然非常階段よりも近い位置にある職員室にも聞こえているということだ。
孝がその音を聞いて数分後、職員室から教員が三名出てきた。その中の一人の体育教師が正門の外にいる男の胸倉を掴み、乱暴に手繰り寄せる。不審者に対する対応としてはどうかと思うが、体育教師の通称は「ゴリラ」である。その強面も相まって、そこらの男を震え上がらせることは造作もないだろう。
ゴリラが出てきたことによってこの騒動も終息する。
そう孝は思っていた。少なくとも、この時は。
それは唐突に、何の前触れもなく起こった。
不審者の男が、胸倉を掴んでいた体育教師の腕を喰い千切ったのだ。
「な……!」
その光景を目の当たりにして、孝は絶句する。それと同時に蟀谷のあたりに鋭い痛みが走る。
正門のあたりからは体育教師の名を呼ぶ他の教員たちの声が響く。腕から血を流す体育教師はそのまま仰向けに倒れ、やがて動かなくなってしまった。痛みはまだ治まらない、どころか、より鋭さを増していく。
地獄のような光景は、まだ終わらないようだった。
動かなくなってしまった男の心拍を確かめようとした女教師が、突然動き出した体育教師に首元をごっそり喰われた。動脈部分にまで及んでいたのか、噴水のように鮮血が飛び散る。
とうとう立っていられなくなった孝は、側頭部を押さえて踊場に片膝を着いた。コータは未だ、口を開こうとはしない。
正門から聞こえる悲鳴が、やけに遠くに感じた。
パニックになりそうなものだが、不思議とそんな感情の昂ぶりは感じない。頭の痛みはますます強くなる。眉間に皺を寄せて瞼を閉じる。孝の額には、うっすらと汗が滲んでいた。
痛い。いたい。イタイ。
その痛みが極限にまで達し、そこで孝の意識は落とされた。
5
靄が掛かっていたような意識が、急速に覚醒していく。
うっすらと瞼を持ち上げて見れば、目の前には先ほどの踊場の床があった。どうやら意識を失っていたのは数秒、あるいは数十秒のことらしい。正門では尚も惨劇が続いているようで、あと一時間もしないうちに校内がパニックに陥ることだろう。
孝はゆっくりと立ち上がり、目の前に立っていた少年の顔を見据える。
そんな視線を向けられたコータは、どこか懐かしさを滲ませる声音でこう言った。
「――――お帰り、小室」
この間久しぶりにアニメを見て再燃した結果。
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002 開幕を告げるベル
――――奴ら、と呼ばれる存在が居た。
常識ではまず考えられないが、死んだ人間が蘇ったかのように動き出すのである。どこのB級パニックホラーだと一笑に付すかもしれないが、純然たる事実としてそうなってしまっているのだから仕方がない。「ゾンビ」などと安易に呼称しないのは、ゲームと現実との区別を付けるための苦肉の策だった。
奴らに噛まれた人間は例外なく死に至る。例え傷が浅くとも、極端な話かすり傷程度であっても、死という結末は覆らない。噛まれたが最後、その数分後には死に至り、そしてしばらくして奴らと成る。
奴らを倒すには頭部を破壊するしかない。腕や脚を吹飛ばしても、頭部が胴体と繋がっている限り動き続ける。
それは奴らの運動命令が頭部から伝達されていることの証左であり、逆を言えば脳さえ破壊してしまえば奴らはただの屍へと還る。
人間には常時リミッターが掛けられていることは周知だが、奴らは死んでいるからなのかそのリミッターが存在しないようだ。信じられない程の握力を有し、一度掴まれてしまえば逃れるのは困難。幸いにしてその動きは緩慢のため、先手必勝で頭部を破壊することが至上命題と言えよう。
奴らの五感は、聴覚以外基本的に死んでいる。
故に音に対して過剰な反応を示すが、それを利用したトラップが有効だ。防犯ブザーなどが良い例で、音を発しながら投げてしまえばそれだけで奴らの大多数を引き付けることが出来る。
しかし時折、聴覚以外の五感が死んでいない個体が現れる。それは視覚であったり嗅覚であったりと様々だが、どの個体も通常の奴らより獰猛で、戦闘を避けることが何よりも優先される。初めてその個体に出会ったのは富士の麓だったか。視覚を持つその個体は、僕らを完全に捉え襲い掛かってきた。聴覚の他に視覚が合わさるだけでこんなにも追い詰められてしまうのかと、絶望にも似た感情を抱いたことが思い起こされる。その時はコータの遠距離ヘッドショットが炸裂し事なきを得たが、以後独自個体への警戒度を一層引き上げることとなった。
正門で学園最初の被害者が出た後。
――――永と麗の三人で教室を抜け出し、屋上へと避難した。
その途中で永が奴らと化した教師に噛まれ、その命を落とした。
――――沙耶の悲鳴を聞いて、職員室へと駆けた。
そこで後の行動を共にする仲間たちと出会い、学園からの脱出に乗り出した。
――――バスに乗り込んできた一行と麗が衝突し、別行動をすることとなった。
ガソリンスタンドで、生まれて初めて銃で人を撃った。
――――己の小ささを知り、それでも目の前の命を助けたいと思った。
こんな自分であっても守れる命があるのだと、そう思いたかったのかもしれない。結果として、一人と一匹の命を守ることが出来た。
――――大人と子供というくだらない線引きがあることを知った。
ある意味では奴らよりも思考の凝り固まった大人たちの方が恐ろしいと痛感した。集団心理になど全く興味が無かったが、少しだけ気になってあとで沙耶に聞いたのを覚えている。
奴らが突如として発生してから数週間。日本を含む各国の機能が、次第に停止していった。
その皮切りとなった
これまで人間生活の根幹を担ってきた電力がほぼ死んだのだ。当時の人間たちのパニックの大きさは押して図るべし。テレビやラジオ、携帯電話といった情報伝達媒体が機能しなくなったことにより、いよいよ以て国の中枢機関はその役目を放棄することとなった。
そんな中で生き残った大多数の人々は、最低限のコミュニティを形成し、安全と思える場所に立て籠ることを選んだ。
例えばそれは食品や寝具の揃うショッピングモール。
例えばそれは武器防具が保管された警察署。
例えばそれは絶対に見つかることの無い地下シェルター。
床主市で、あるいはその近隣都市で。様々なコミュニティに属する人たちを見てきた。以前からの知り合いばかりじゃない、たまたま逃げ込んだ先が同じ建造物だった人もいる。性別も年齢も考え方もバラバラで当たり前。しかしそんなコミュニティが、いつまでも安全であるはずがない。
他愛もない会話から小さな亀裂が生じ、やがて埋めようのない大きな歪みとなる。そしてそれは、最悪の結末となって襲い掛かるのだ。
人間とは、こんなにも醜く在れるものなのかと愕然とした。
「馬鹿ね、人間なんてそんなもんなのよ実際。性善説なんて真っ赤な嘘。蓋を開けてみればご覧の有様じゃない」
天才を自認する聡明な女性は、青年の言葉にやれやれと溜息を吐き出した。
「まあまあ、こういうところが小室らしいじゃないですか沙耶さん」
「あんまり甘やかすんじゃないわよデブチン。こんな腑抜けたリーダーは御免だわ」
何年も新調できていない眼鏡を持ち上げつつ、やや太り気味の青年が苦笑を漏らす。
「ふむ、では気分が滅入っているリーダー殿は今晩私の所で寝るといい。こういうのは人肌の温もりで癒してやるのがいいと聞いた」
「ちょっと待ちなさいよ今日はわたしの番でしょ!? 連続なんて認めないわよ!」
「何よそんなに宮本は盛ってるわけ? 中学生男子じゃあるまいし」
「孝とコータを行き来してるアナタに言われたくないわよ!!」
目の前で口論を始める仲間たちを見て、わずかに重たい感情が軽くなるのを感じる。
隣に座っていた少女の頭を優しく撫でて、小さく口角を持ち上げて見せた。
こんな世界で、自分に出来ることなんて限られている。
だからせめて自分の手の届く範囲に居る仲間たちは守ろうと決めた。
出来ることを出来るだけやろう、そう決めたのだ。
1
「……悪い冗談だな、全く」
それが意識を取り戻した孝の第一声であった。
全てが終わってしまった日、忘れようにも忘れられない終わりが始まった日に、どういうわけか戻ってきている。
何か悪いものを食べて幻覚を見ているわけではなさそうだが、如何せん頭がはっきりとしない。未来の自分が精神だけ過去に戻るなど果たして本当に有り得るのだろうか。
「小室」
思考に耽る孝に一言、声が掛かる。声の出処に孝が視線を向けると、そこにはやや幼さを残す懐かしい顔があった。
そして先ほど目の前の少年は「お帰り」と言った。ということは、つまり。
「お前もなのか……?」
「冷静だね、流石僕らのリーダーだ」
明言はせずとも、今の言葉が答えのようなものだった。
昨晩見た顔よりも幾分幼い顔をしたコータは、一度だけ正門に視線を向けた後校舎内へと歩き出す。
「付いてきて。まだ混乱してるだろうけど、始まってしまったからにはそんなに猶予が無い」
どうして、などと野暮なことを聞いたりはしなかった。この後に起こるであろう混乱のことを、はっきりと覚えていたからだ。
孝はコータに言われるがまま、後ろをぴったりと付いていく。向かっているのは、どうやら屋上のようだ。授業中ということもあって、廊下には二人以外の姿はない。よくよく耳を澄ませば教室の中から教師が話す声が聞こえてきた。
「コータ」
「懐かしいね。こっちじゃずっと平野って呼ばれてたから、なんだか新鮮な気持ちだ」
こんな事態だというのに、コータの声音は僅かに喜色を含んでいた。
過去の記憶が正しければ、あと数分で校内放送が流れるだろう。そうなればこの静かな空間は瞬く間に崩壊する。思い出すのも悍ましいが、それと同時に教室内にはまだ幼馴染が残っていることに思い当たる。
「そういえば麗は!」
「問題ないよ。みんな教室からはもう離れてる。この日が来たらそうしようって、事前に決めてたんだ」
大切な少女の事を思い出して声を上げる孝だったが、それにコータが即座に答えた。今の口ぶりからするにある程度前の段階からこの日のために準備を進めてきたようだが、一体いつからこの世界に戻ってきていたのだろうか。
歩きながらも疑問に思った孝は、前を歩くコータの背中に向かって問いかけた。
「僕は一年の春だよ。さっきの小室みたいに一度意識を失って、気が付いたら戻ってきてた」
「な、一年も前からかよ」
「もっと前に戻ってきてる人もいる。どうやらみんなが一斉に戻ってくるって訳じゃないらしい。似たようなタイミングで戻ってきた人たちもいるけど、小室みたいにギリギリのタイミングで戻ってきたりもしてるしね」
リノリウムの床を鳴らしながら、二人は屋上へ続く階段へと差し掛かる。
「ほんと言うとちょっと不安だったんだ。昨日まで全然戻ってくる気配が無かったし、このまま始まったらどうしようって」
でも、とコータは続ける。
「やっぱり小室は戻ってきた。知ってたけどさ、リーダーが僕らを置いていくはずないってね!」
階段を駆け上がり、施錠されていないドアを勢いよく開け放つ。
先んじて屋上に躍り出たコータに続いて、孝も小走りで屋上へと足を踏み入れる。
果たしてそこには、数多くの修羅場を共に潜り抜けてきた戦友たちの姿があった。
2
「さて、始めましょうか」
開口一番にそう端を発したのは沙耶だった。
奇妙な感覚の中再会を果たした孝たちは、屋上の一角に建てられた天文台へと移動していた。この天文台は屋上よりも更に高い位置にあるが、当然その入り口となる階段はテーブルとアクリル板で塞いでいる。十年ほど前までは確かに存在していた天文部が部室も兼ねて使用していたが、一度廃部となってからは物置小屋同然の扱いとなり、現在は使われずに放置されていたのがこの建物である。
にも拘わらず、部屋の内部は隅々まで清掃が行き届いていた。埃っぽさも全く感じない。地面にはどこから持ち込んだのか畳が敷かれ、ご丁寧にちゃぶ台とお茶請けまで置かれている。孝たちはそのちゃぶ台を囲うように腰を下ろし、湯飲み片手にお茶請けを頬張っていた。小屋の外は正に地獄絵図と化しているはずだが、室内にはそんな空気は皆無である。
「しかし間に合って良かったよ、孝」
堂に入った所作で湯飲みを傾けてた少女が、薄く微笑んだ。
「何だか幼く感じるな、冴子」
「昨日まで君が接していた私は二十二だったからな。五つも若返れば幼くも見えるさ」
毒島冴子。藤美学園の三年生にして全国有数の剣道の腕を持つ彼女は、終わってしまったあの世界でも前線で戦うアタッカーとしてその実力を遺憾なく発揮していた。彼女が動くたびに舞う濃紺の長髪は斯くも美しく、立ち振る舞いは正に大和撫子。
「ほんと、一時はどうなることかと思ったわよ」
「小室君、全然戻ってくる気配無かったものねぇ」
冴子の言葉に呼応するように、二人が口を開いた。
宮本麗。槍術部のエースにして、未来では冴子と並んで最前線で戦うメインアタッカー。孝の初恋の少女であり、それは今でも変わらない。
その隣で呑気にバナナをぱくついているのは鞠川静香。この藤美学園の保健医であり、幾度となく孝らの窮地を救ってくれたこのパーティの核とも言える女性だ。育ちすぎたその身体は、度々孝とコータを苦しめることとなった。
「はいはい、世間話は置いておいて。そろそろ本筋の話を始めるわよ」
和み切っていた空気が、沙耶の一言で瞬時に張り詰める。
外の世界がどうなっているのか、忘れたわけではないのだ。数分前に校舎中に放送された教師の叫び声が発端となって、学園内は未曽有のパニックに陥った。今のところ屋上にまで被害は広がっていないようだが、それも時間のだろう。安全を求めて人間が逃げる場所など限られている。立て籠もるか、外へ逃げるか。日本人という消極的な人種であれば、大抵の場合は前者を選ぶ。そうなった場合に学園内で隠れられそうな場所などそう多くない。普段は鍵がかかっていることなどお構いなしに、この天文台へも殺到するだろう。そうなる前に行動を始めなければならない。
「こむ……孝が戻ってきたから、もう一度認識を合わせておくわよ」
ピンと細い人差し指を立てて、沙耶はぐるりと集まった面々を見る。
「私たちはどういう理屈か未来の世界から戻ってきた。記憶だけがすっぽりと入れ替わったみたいにね。実際、こうして戻ってきてしまえば今の世界の以前の記憶は思い出せない」
言われて孝はハッとした。確かに孝の昨日の記憶はこちらの世界のものではなく、既に終わってしまった世界のものだった。廃墟となったビルの一角で、見張りを行っていたのを覚えている。
「この世界に戻ってくるタイミングは全員がバラバラ、でも未来の記憶は全員が似たような所まで持ち合わせてる。その詳細のすり合わせを本当は孝ともしたいところだけど……」
朧気ながらも記憶の綱を手繰っていく。
そうして思い出す、最後に孝が見たのは。
自分の胴体に大きな穴が開き、止めどなく血が流れ出す光景だった。
「……殺されたんだ、多分だけど」
「やっぱりね、なら奴らの情報についてはアタシたちと共有できているものとするわ」
宮本たちにはもう言ったけれど、と前置きをして。
「こっちの時間軸に一番はじめに飛ばされたのはアタシよ。そうね、確か五歳のときだったわ」
「五歳!? 十年以上前じゃないか!」
先に聞いたコータの一年前にも驚きを見せた孝である。沙耶の言葉に驚愕しない筈もなく、思わず口を突いて出ていた。
「確かに驚きはしたけど死ぬほどじゃなかったわ。まあ実際一度は死んだんだけど。あんな世界を経験してきたんだもの。それに好都合だとも思えた。もし本当にこの時間軸でも
「そりゃそうかもしれないけど、十年だぞ……」
孝は額に手を当て天井を見上げた。小学生からの再スタートなど、おそらく自分は耐えられない。
「時間なんて大した問題じゃないのよ。重要なのは本当に同じことが起こるのか、そう仮定した場合にどんな準備、対策を講じる必要があるのかってこと。そういう意味じゃ、鞠川先生が早めにこっちに来てくれたのは僥倖だったわ」
そう言って、沙耶は徐に床に敷かれた畳の一部分に手を掛ける。目を凝らして見てみれば、畳からは円形のリングが飛び出しており、沙耶はそれに指を引っ掛けると勢い良く上に引っ張り上げた。
沙耶が引き上げたリングと共に、正方形に切り取られていたらしい畳が引き剥がされる。その下から現れたのは、鍵のついた五十センチ大の収納部屋。これまたどこからか取り出した鍵を差し込んで扉を開ければ。
「……まじかよ」
そこから現れたのは、鈍い黒の輝きを放つ今となっては馴染み深いものとなってしまった武器。
「そ、それはベレッタ92! イタリアが造った最高傑作のひとつ! アメリカやフランスの軍隊でも使われてる9mm口径至高の一挺!!」
「コータが相変わらずで安心したよ……」
拳銃を前にしてテンションが上がっているコータと苦笑を浮かべる孝。そんな二人を横目に、沙耶は別の畳に移動し、同じように引っぺがして下から現れた扉を開ける。
「ほら、アンタはこれ使いなさい」
沙耶から何の気なしに放られたものを、孝は両手で受け取った。
「あー! シグザウエル230!! 日本の警察でも正式採用されてる優れモノ!!」
「さっきのベレッタもそのシグも、どっちも同じ弾丸を使用できるようにカスタムしてあるわ。量だけ揃えるならパパの力があれば出来るだろうけど、個別にカスタマイズを加えていくとなると素人じゃ無理」
「そこでリカの出番だったってわけねぇ」
沙耶の言葉を引き継いで、静香がニッコリと微笑んだ。
「リカ……って南さんのことか」
「ええ、アタシが鞠川先生もコッチに来たことを確信してから接触してあの人に取り次いでもらったのよ。半信半疑みたいだったけど、鞠川先生の説得もあってカスタムした武器を用意できた」
「カスタムって?」
「いくつかあるけど真っ先に挙げるならさっきも言った弾薬の共有ね。流石にショットガンとかライフルは無理だけど、ある程度のサイズまでなら同じ弾を使用できる。あとはそれぞれの身体的特徴に合わせてグリップとか銃身とかいじってあるけど、殆どはメゾネットに保管してあるからここには無いわ。それに、」
「ここで銃を使うのは得策じゃない」
言葉を引き継ぐように述べた孝に、沙耶は口角を持ち上げる。
「分かってるならいいわ、その銃もあくまで使うのは最後の手段。高校生がそんなものを持ってれば怪しまれるに決まってる。極力校内の備品を使いなさい。バットならそこに入ってるわ」
「準備がいいな、全く」
「当たり前じゃない。何年準備したと思ってんのよ」
戸棚の奥から取り出された金属バットに孝は苦笑を漏らす。いつのまにやら各人の手元には懐かしい武器が置かれており木刀に先端を壊したモップ、釘打ち機。最初の時と全く同じ顔ぶれである。
「それで、ここからが本題。立て籠もるか、脱出するか」
沙耶の問い掛けを受け、孝は顎に手を添えた。
「ここを単純に過去の時間軸だと断ずるのは危険だわ。もしかすると別の世界線の過去かもしれない。今のところはほぼ同じ出来事が起こっているけど、この先も同じである保証なんてない。事実アタシや麗がこっちに来たことで、以前とは違う流れになっている部分もある」
「具体的に、前と違う出来事ってなんだ」
「こうして訪れるかも分からなかった災害に備えていること、麗が井豪と付き合っていないこと、アンタが帰宅部のくせにそれなりに鍛えられていることかしら」
「は、え? そうなのか? 麗」
さらりと告げられた事実に孝は目を白黒させた。麗は無言で頷いたあと、ニコリと微笑む。
ということはつまり、麗も少なくとも数か月前にはこの時間軸にやってきていたということだ。
「わたしが戻ってきたのは少し前で、春休みの終わり頃だったわ。留年は免れなかったけど、それを切っ掛けにして永と付き合うことにはならなかったわね。孝がいるし」
「ま、そういうことよ。以前とは違う事が起こりうる世界な訳。安易に過去の出来事をなぞって踏襲するのは愚策だわ」
「……その上で、俺に決めろって言うんだな? 今日戻ってきたばかりの俺に」
その言葉には沙耶だけでなく、室内に居る面々の全員が当然だと告げた。
「アンタがアタシたちのリーダーなのよ孝。まさか、そんなことも忘れたわけじゃないでしょうね」
完璧な信頼を向けられてしまっては、言い逃れことなど出来る筈もない。それ以前に頼られることは男の本懐だ、胸の内からじわりと嬉しさがこみ上げる。
「脱出する。学園に残っていてもジリ貧だ、まずは武器の揃ったリカさんのメゾネットを目指す」
「了解よ、リーダー」
「ま、こうなるとは思ってたけどね」
「教員用の駐車場のすみっこにハンヴィーを着けてあるわぁ、上からはシートを被せて三重に鍵を付けてあるから盗まれてるってことは無いと思う」
鍵はここに、と静香が胸の間からキーを取り出す。思わず目を逸らす孝とコータ。高校生男子という生き物だからなのか、血の巡りがすこぶる良好なようだ。思わず下腹部に両手を宛がった。
「……そろそろここも危ないようだ」
股間と鼻を押さえる男二人に向かって、冴子が外へと意識を向けて告げた。先ほどまでは聞こえなかったガリガリろアクリル板をひっかく音と、鈍い衝突音が時折聞こえてくる。どうやら屋上にまで奴らの手が伸びてきたようだ。
談笑している時間はない。孝は即座に思考を切り替え、金属バットに手を伸ばした。
孝を先頭に両の隣に冴子と麗。その後ろには鞠川と沙耶が位置取り、最後尾にコータが構える。
「孝、」
「これより状況を開始する。目的は学園からの脱出、教員駐車場に保管されているハンヴィーを使用する。屋上から二階まで降りて渡り廊下を経由し東校舎へ、途中非常扉を閉めることを忘れるな」
これが今孝たちのいる天文台からハンヴィーまでの最短ルートである。
一気に一階まで下りてから外を経由して西校舎へ向かわないのは、そちらに職員室と放送室があるからだ。過去の記憶の通りなら職員室には大多数の生徒が殺到し通り道が塞がれてしまう可能性があり、放送室は既に奴らの手に落ちている。今となってはどこも大差ないかもしれないが、外へ出て収集のつかなくなった奴らの群れに四方を囲まれることを避けることも狙いの一つにあった。
「油断はするなよ、奴らの中に特異体が居ないとも限らない」
「了解」
ドアノブを回し、勢い良く外へと飛び出す。
やはりというべきか、外の世界は先ほどまでと一変してしまっていた。朝に舞っていた桜の花びらの代わりに各地から上がる仄暗い煙。あちこちで悲鳴と呻き声が飛び交い、この世の地獄を再現せんとしている。
校舎の中からは誰が押したのか非常ベルが鳴り響いている。
それはまるで、この世界での再スタートを示しているかのようで。
「行くぞ」
言葉少なに、孝は踏み出す。周囲のメンバーにとっては、それだけで十分だった。
五年。孝たちがあの世界で生き延びてきた年月である。全てが砂上の楼閣と化して消え去った世界で、五年もの間彼らは戦い続けてきたのだ。
覚悟など、とうに出来ていた。
もう一度、何があろうとも。
全てが終わってしまった世界で、生き残る――――。
一度目の世界での出来事については所々で書いていきます。
え、ありすちゃんがいない? 幼女は強いので大丈夫です()
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