守護輝士の休日 (永瀬皓哉)
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ボクが帰ってくるところ

 ミハル・ストークス。

 どうにも女々しい名だと憂いながらも、今では「アークス最大戦力」とまで称されたその少年は、その日だけは珍しく何をするでもなくマイルームでくつろいでいた。

 早急に済ませなければならないクライアントオーダーは全て終えてしまい、守護輝士の専属オペレーターであるシエラからも「普段から働きづめなんですから、こういう時こそ休んでください」と休養を言い渡されてしまった。

 しかし普段から主に現場での激務に次ぐ激務をこなすミハルにとって、休暇とは求めてやまないものであると同時に、いざ手に入れば持て余してしまうものでもあった。

 

「……どうしようかなぁ。ボク、アークスになってからこういうまともな休暇はほとんど経験がないし、こういうことならアフィンに休暇の過ごし方について聞いておくんだったなぁ」

 

 ミハルを「相棒」と呼んで親しく接してくれる友人・アフィンは、残念ながらここ数日の間に溜めに溜めていたクライアントオーダーを消化するためにあっちへこっちへと奔走しているのだという。

 それはアフィンに限ったことではない。自称・情報屋の姉妹であるパティエンティアの二人も、今日に限ってやたらと忙しいのだとか。

 後輩のイオはそうでもないようだが、つい数分前にショップエリアで声をかけたところ、すぐ直後に彼女の後輩に誘われてランチへとドナドナされてしまった。

 

「改めて考えてみると、ボクってもしかしてかなり無趣味なんじゃ……?」

 

 アークスとなってから今に至るまで、食事と入浴と睡眠を除けばほとんど仕事に注いでいたような気がしなくもない。むしろそれ以外の何をしたかを思い出せない。

 いや、かつて一度だけアフィンに連れられてカジノには行ったが、あいにくとミハルはああいったゲームに楽しさを見出せず、その日っきりまったくカジノには足を運んでいない。

 無論、クエストを終えてまたすぐにクエストというわけでもなく、友人たちとの談笑を楽しむことはあったが、それを趣味と言えるほどミハルはアグレッシブなコミュニケーションを取るタイプではなかった。

 

「どうしたものかな……」

 

 趣味探し、とはいってもおそらく今日を過ぎてしまえばまた明日からは激務へと身を投じることになるだろう。今回の休暇のためだけに、新しい趣味を見つけるというのも、あまり賢いとは思えない。

 ともなるといよいよ今日の予定がまっさらだと溜息を洩らしそうになると、不意にマイルームのインターホンに聞きなれた声が響いた。

 

『ミハル、いるかな。入ってもいい?』

「マトイ? いいよ、今開ける」

 

 腰かけていたベッドから立ち上がり、マイルーム端末から部屋のロックを解除すると、やはりそこにいたのはミハルの親しい友人、マトイだった。

 周囲からはしばしば「友人というよりも保護者と子供」とからかわれたりもするが、一時期に比べれば最近のマトイはだいぶ立派に独り立ちしており、共にクエストに向かえば彼女に助けられることも少なくない。

 そのせい、というわけでもないだろうが、かつては周囲の言う通りマトイのことを庇護対象として少しだけ過剰なほど大切にしていたが、立派に自立した最近では彼女のことを女性として意識することもあるほどだ。

 

「ごめんね。フィリアさんから今日はミハルが休みだって聞いて、つい押しかけちゃった。迷惑……だったりしないかな?」

「そんなことないよ。むしろ急にできた休みだから時間を持て余してたくらいなんだ。マトイが来てくれてボクも嬉しいよ」

 

 19歳にして145cmという残酷かつ悲劇的な身長のために、女性としてもさほど大きい方ではないマトイすらも見上げる姿勢になりつつも、中身はきちんと男の子。

 事実として暇を持て余していたとはいえ、連絡もなく急に訪れたマトイに対してまったく嫌な顔ひとつ見せず、むしろ心から彼女の来訪を歓迎するその姿勢は、誰が疑うこともない立派な紳士ぶりだった。

 とはいえ、そんなミハルを見てマトイが思ったことといえば「やっぱりミハルは優しいなぁ。かわいいし、女の子のわたしより立派な女の子だね」という、およそ本人に聞かれることを憚られる内容であった。

 

 というのも、彼女――もとい彼の背丈だけが、マトイにそう言わせる原因ではないのだ。

 基本的に感情的にはならない朗らかな表情によく似合うややタレ目気味の大きな瞳と、マトイが自分とお揃いだと喜んだ長い銀髪。

 加えて普段から着用しているコスチュームは、腰から足元まで隠すタイプのコート。言い換えてしまうなら、パッと見だけなら女性用のロングスカートにも見えるセンシアスコート。

 これらの要素に穏やかな性格まで加えてしまえば、初対面の者なら誰もが騙されるほどの美少女ぶりを発揮してしまう。

 

 しかし本人にそのつもりはまったくないどころか、むしろその手のことについては怒るよりも凹んでしまうことを、マトイは知っていた。

 故に、ミハルに対するそういった感想は、心中にだけ留めているのだった。

 

「ミハル、最近ずっと働きづめだったもんね。わたしも心配だったんだ。このまま倒れちゃうまで働き続けちゃうんじゃないかって」

「あはは……自分のことながら否定しづらいなぁ。そんなことないよ、って言いたいところだけど、実際もし依頼が重なっちゃったら、そうならないとも言い切れないからね」

「誰かのために一生懸命なのはいつものミハルだし、わたしもそんなミハルが大好きだけど……でもやっぱり心配だよ」

 

 ごめんね? と苦笑いを浮かべながら謝るミハルだが、マトイの予想もおそらくは正鵠を得ているだろう。

 ミハルは自分のできる範囲でだけ無茶をしている、と自称してはいるものの、その「自分のできる範囲」というものが、他のアークスには「あまりにも大きすぎる範囲」に見えるのだ。

 それはマトイにとっても同じこと。無茶はするけど無理はしない、というミハルのスタンスは知っていても、普通なら「無茶だし無理だし無謀」とさえとれる行動にも躊躇いのない彼を見ていると、本人よりも周囲がハラハラしてしまう。

 

「大丈夫だよ。マトイが待っていてくれるんだから」

「わたしが……?」

 

 いつもの優しい微笑みを浮かべたまま、ミハルはベッドに隣り合って腰かけるマトイの手を取った。

 

「キミがボクの帰りを待っていてくれるから、ボクはどんな無茶をしても必ず帰ってくることができる。ボクの帰りを笑顔で迎えてくれるキミがいるから、ボクはどんなに無茶をしてでも帰ってきたいと思える。キミがいるから、ボクは頑張れる」

 

 ほんのちょっと体温の高いミハルの手を握り返して、マトイも笑顔を返す。

 

「うん、その笑顔だ。ボクがどんなに無茶をしても見たいと思う、大好きなマトイの笑顔。これからもいっぱい心配させちゃうと思うけど、でも信じて。ボクはキミの笑顔を見るために、何がなんでも絶対に帰ってくる」

「言われなくても、信じてるよ。ミハルはいつだってわたしを大事にしてくれるから、わたしはミハルのことならどんなことだって信じられる。だって、ミハルはミハルだから。わたしの大好きな、ミハルだから」

 

 その後、ミハルとマトイは夕方まで同じベッドの上で談笑を続け、夕食をとろうと手を繋いだままマイルームを出たところを偶然アフィンとカトリに見つかり、盛大にからかわれたという。



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喧嘩するほど仲がいい

 ミハル・ストークスは悩んでいた。

 地球での一件がどうにか片付き、久方ぶりに訪れた休暇は、奇しくも――いや、おそらくシエラの差し金なのだろう。つまりは必然的に、同じく休暇をもらったマトイと過ごしていた。

 午前中はショッピング。昼食をフランカ'sカフェでとって、午後は映画を観て軽く街を歩いて、その日は別れる予定だった。だった、というのは、今その予定が過去のものになった、という意味だ。

 

 すべては映画を観終えた後、街を歩いていると、大きな公園でぎゃあぎゃあと大きな声をあげて怒っているエコーと、それを適当に流しつつも諫めようとするゼノを見つけてしまったことに起因する。

 人目につく場所でもあり、あの二人が喧嘩していること自体は決して珍しいことではないので、ミハルは特に声をかけることもなく「またやってる」くらいに思って通り過ぎようとした。

 おそらくマトイも、止めた方がいいかもしれない、とは思ったのだろうが、ミハルが止めようともせずスルーしようとしたので、おそらく止めなくても大丈夫なのだろうと、一緒に通り過ぎた。

 

 しかし、マトイはふと数刻前に見た映画のセリフのひとつを思い出してしまった。

 

『喧嘩するほど仲がいい』

 

 地球のことわざで、「本音を包み隠さず言い合える仲はすばらしい」という意味なのだが、地球で動き回ったミハルに対して、オラクル人であり地球では短期間しか活動していないマトイがそんなものを知っているはずもない。

 故に、これは仕方のないことだったのだろう。マトイが、その言葉の意味を素直に受け取り、「たくさん喧嘩したらもっと仲良くなれる」と勘違いしてしまうのは。

 そこからは怒涛の勢いでマトイからの罵詈雑言が浴びせられた。ただ、普段から悪口などまったく言わないマトイの語彙力では、せいぜい「人たらし!」「たまねぎ残す悪い子!」「えーっとえーっと、かわいい!」が限界であった。なお、最後の一言が一番ミハルにダメージを与えた。

 だが、お人よしで温厚で悪口を言わないのはマトイだけではない。ミハルもまた、マトイの可愛らしい悪口に対して、「がんばって悪口言おうとしてるけど全然言えてないマトイかわいい」くらいにしか思っていなかった。ただ「かわいい!」と言われたことはちょっとショックを受けた。

 

(うぅ……。ミハルの悪口なんて言いたくないよ……こんなこと言ってたらいくら優しいミハルだって怒るに決まってるよ……。やだぁ……ミハルに嫌われたくないよ……)

(どうしようなぁ。マトイのことだからたぶん自己嫌悪してそうだけど、正直ただ可愛いだけなんだよなぁ。何が可愛いってこんなのを悪口だと本気で思ってるところがまず可愛いんだよなぁ……)

 

 改めて、ミハル・ストークスは悩んでいた。

 この悪口専用語彙力死滅系守護輝士(ガーディアン)の可愛らしい悪口を聞き続けることはまったく吝かではない。しかし彼女の罪悪感を和らげつつ悪口を言えていない、ひいてはまったく喧嘩にならない点をどう指摘するか、これがわからない。

 うんうんとたっぷり五分ほど悩んだ末に、ミハルは思いついた。――否、考えることをやめた。自分の感情の赴くまま、言葉と行動で彼女に説得することにした。

 

「マトイ」

「ひゃっ! うぅ……な、なに、ミハル……?」

「マトイのことだから、たぶんボクと喧嘩したいんだろうけど、ごめんね。ボク、マトイのこと大好きだから喧嘩できないや」

「あ……うぅ……そっ、そんなのわたしのほうがごめんなさいだよ! ごめんねミハル! たとえ嘘でも、こんなひどいこと言っちゃダメだよね……! ごめんねっ……!」

 

 悪口を言いながらでも決して離さなかった右手を引き、そのまま左腕をミハルの背中に回す。ごめん、ごめんと謝り続けるマトイを、ミハルは苦笑いしながら抱き締め返した。

 もっと背が高ければ、マトイの泣き顔を隠してあげられたのかもしれないが、この150cmにさえ届かない身丈では、彼女の背に腕を回すことが精いっぱいだった。それを悔いながら、彼は「大丈夫だよ」とつぶやく。

 通行人の好奇の視線など、彼女の涙を止めるためならばどうということはない。というか、数名の通行人が屈んでいるマトイのスカートの中を覗くように視線を下げていることについては、彼女に気付かれないよう睨みつけて追い払った。

 

「大丈夫だよ。マトイは優しい子だってわかってるから、ただボクを傷付けるためだけにあんなことを言う子じゃないってわかってるから。だから、ね? こんなところで泣かないで。マトイの泣き顔なんて、ボク以外には見せてほしくないな」

「……っく。……うん。ごめんね、ミハル。あと、ありがとう。わたしの気持ち、ちゃんとわかってくれて」

「ふふっ、どういたしまして」

 

 マトイの笑顔を取り戻したところで、さすがにギャラリーが増えてきた。ささっと逃げ出してしまいたいが、マトイの表情にはまだ少しばかり翳りがあることを、ミハルは見逃さなかった。

 人一倍優しくて、人一倍誰かを傷付けることを嫌う彼女が、言葉で謝るだけで罪悪感を消せるわけがない。できるだけ笑顔で、相手に気取られないよう自分を責め続けるだろうということは、ミハルだけでなく彼女と付き合いの長い者なら誰でもわかることだろう。

 故に、ミハルは「仕方ないなぁ」と苦笑して、彼女の手をぐぃ、と引き、その頬に――。

 

「……えっ?」

「元気が出るおまじない、だよ?」

「……あ、あぅあぅ……うぅ、あり、がとう……っ」

 

 少し効きすぎた「おまじない」をなぞるように、マトイの白く細い指が彼女の頬を撫でる。

 

 マトイは知っているだろうか。その「おまじない」がマトイ専用のものだということを。

 マトイは知っているだろうか。自分の頬がその瞳のように真っ赤になっていることを。

 マトイは知っているだろうか。ミハルの鼓動も、自分と同じくらいに高鳴っていることを。

 

 マトイは知らない。

 

 ミハルの胸の奥の、恋心を。



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約束しよう

 その日、ミハルはマトイを連れて市街地を目的もなく歩いていた。守護輝士(ガーディアン)として、緊急の呼び出しがない限り、今日は二人揃って休みだ。おそらくは、シエラがそう調整したのだろう。

 ここのところ、ミハルは18連勤、マトイは15連勤で、誰の目から見ても二人の疲労は明らかであった。アフィンやイオから「あの二人をちゃんと休ませてくれ」という要望が入っていたことも合わさって、ようやく実現した休日だ。

 シエラから言い渡された休日は3日。初日の昨日は二人揃ってほとんど寝て過ごした。寝て、トイレにいって、寝て、食事をして、寝て、トイレにいって、寝て、風呂に入って、寝た。

 そしてようやく今朝、過眠でやや強張る全身を伸ばしながら、どちらからというわけでもなく会いに向かうと、その道中で鉢合わせし、せっかくだから出掛けようと言って今に至る。

 

「マトイは昨日何してたの? ボクはほとんど寝て一日が終わったよ」

「じゃあ同じだね。わたしも、昨日はほとんどそんな感じだったよ。むしろ起きてたのが3時間くらい」

「ボクなんて2時間だよ。ごはんもお昼しか食べなかったし。やっぱり18連勤とかするもんじゃないよね」

 

 とはいえ、どれだけ多忙だとしても、それは誰に強いられたわけでもなく自分が受けた仕事(クライアントオーダー)だ。むしろシエラに至っては何度も「ちゃんと休んでください」と注意されていたし、アフィンやイオからも心配されていた。

 もちろん、ミハルとマトイもせいぜい10連勤くらいで留めるつもりであった。それ以上は、自分たちのコンディションに影響が出ることがわかっていたからだ。が、よりにもよってその10日目に緊急の呼び出しを受けたせいで、マトイは5日、ミハルは8日間に亘って対応に追われたのである。

 シエラ曰く「途中で何度も休暇を挿むよう要請した」とのことだが、任務そのものが急を要するものであったことと、機密性・対応力の両方の面から守護輝士(ガーディアン)である二人以外に代替が利かないことから、カスラあたりがその要請を握りつぶしていたのだろう。

 

「さて、そろそろ歩き疲れたし、どこか喫茶店にでも入って腰を落ち着けようか」

「そうだね。わたしもちょっと疲れちゃった。甘いもの食べたいね」

 

 近くの喫茶店を軽く見繕って、雰囲気のよさそうなところを一件みつけると、お互い特にこだわりもなく「じゃあここにしようか」とその喫茶店へ向かった。

 入ってみると、客はそこまで多くなく、かといって閑散としておらず、店内に響く音楽も相俟って、落ち着きのある雰囲気が二人にとっては有り難かった。注文を済ませて談笑に耽っていると、ふとマトイが思いついたように問いかける。

 

「ミハル、今日がなんの日か覚えてる?」

「今日……? マトイと初めて会ったのは12年前の7/13だし、再会したのが3年前の2/20……マトイがアークスに入隊したのはその翌年の1/7だし……」

「すごい! わたしとの想い出、ちゃんと全部覚えててくれたんだ!」

「もちろん。もしマトイがまた記憶喪失になっても、ちゃんとボクが覚えてるからね」

「そんなに何度も記憶喪失になったりしないよ!?」

 

 頼んでいたココアとコーヒーが届き、お互いにひとまず一服すると、改めてミハルは「今日(7/7)」がなんの日だったのかを思い出そうとするが、どうにも思い当たる節がない。

 昨日(7/6)であれば、絶対令(アビス)によって全アークスから命を狙われたあの日だろうが、もしそれが正解だとすればマトイがこんなににこにこと微笑みながら問うような日ではないことは確かだ。

 となると、ルーサーの支配から脱却した翌日。つまり知り合いのアークス全員で打ち上げパーティーをした日がそうだった気がするが、打ち上げパーティーなど3年も引っ張って祝うネタではない。

 

「……ダメだ、わかんない」

「うーん……ミハルはわたしのことはたくさん知っててくれるのに、自分のことはあんまりわかってないなぁ」

「ボクのこと……? うーん……誕生日はもうちょっと先だし、アークスに入隊した日でもないしなぁ」

「正解は「ミハルが初めてわたしのマイルームに遊びに来た日」でしたー!」

 

 あー……という気の抜けた返事を返すミハル。しかしそういう返事になってしまうのも致し方ない。なぜなら彼がマトイのマイルームに初めて入ったのは3年前の今日。遊びにいったというより、前述の打ち上げパーティーでいつの間にかアルコールの類を飲まされてフラフラになっていたところを送り届けた、というのが正しい。

 しかも、その日を境にマトイは休日が重なる度にミハルを部屋に招いているので、この3年間――とはいっても、内2年はコールドスリープしていたわけだが、少なくとも両手両足では足りないくらいには、マトイのマイルームには赴いているし、マトイを自分のマイルームに招いてもいる。

 何度かお互いの部屋を出入りしているところをアフィンやパティエンティアの姉の方に見られては、気まずそうな表情であったり面白いものを見たという顔で走り去っていく彼らを必死で止めて事情を説明したりもしたが、少なくとも今のところお互いに清い関係を保っている。

 

「むしろマトイがよく覚えてたね。初めて行った日って、マトイ酔い潰れてたから忘れてると思ってたよ」

「ミハルがわたしのことを覚えててくれてるように、わたしだってミハルとの思い出を忘れたりしないよ。それに、あんなにフラフラだったのに不安じゃなかったのは、わたしを部屋に運んでくれたのがミハルだったからだよ」

「そうかな。アフィンとかゼノさんだったらどうしたの?」

「うーん……二人には悪いけど、びっくりして転んじゃってたと思う」

 

 ならボクでよかったのかな、胸をなでおろし、コーヒーを一口含む。

 もしも、とは言ったものの、あの時マトイを運ぶと言ったゼノを制止して、代わりに連れて行くと言ったのは他でもないミハル自身だ。それはマトイを他の男に触らせたくないという独占欲のようなもので、決して褒められるようなものではなかった。

 マトイの部屋を見ることができたのは、後から気付いた役得であった。少なくとも、彼女を連れて行くと言ったその時は、彼女の部屋のことまでは考えておらず、結果的に「立候補してよかった」と安堵することになった。

 とはいえ、その日からしばらくゼノからはからかわれたし、あの打ち上げに参加していた女性アークスの面々からはコソコソと噂された。その噂がマトイの耳に入らなかったことだけが幸いだったと言えよう。

 

「あの後、いろんな人から「ミハルとあの後なにがあったの?」って聞かれて大変だったよ」

 

 前言撤回。耳に入っていたようだ。

 

「なにが、って言われても、何もなかったんだけどね」

「…………」

「……えっ? ねぇミハル、こっち見てよ。えっ、別に何もなかったよね? ねぇってば!」

「……いや、その……うん……」

 

 気まずそうに視線を逸らす彼の頬が少し赤く染まっているのを見て、マトイは慌てて問い詰めるが、ミハルは何も言わない。

 実はあの日、マトイを部屋に運んだ後、部屋に戻ろうとした彼の手をマトイが離さず、しばらくベッドの横で彼女の寝顔を見ながら手の力が抜けるのを待っていると、思いっきり引き寄せられてベッドに連れ込まれるという事件があったりした。

 一時間ほどの葛藤と抵抗の末、なんとかベッドから抜け出してマトイのマイルームを後にしたが、その翌日にサラから「あなたからお姉ちゃんの匂いがする……」と言われて死ぬほど焦ったというオマケつきだ。

 ちなみにサラには事情を説明して口封じした上で、二時間に及ぶ説教をいただくことになったが、それでマトイの耳に入らないなら安い代償だとミハルは甘んじて受けいれたという。

 

「ミハル、わたし何したの!? お願いだから教えて!」

「いや……あれは事故だから。うん、気にしなくていいよ……。むしろボクがごめんって言うべきだと思うし……」

「何を!? 何に対して謝られてるかわからないよ! 教えてよミハル!」

「……怒らない?」

 

 怒らないから! と断言するマトイに折れ、渋々といった様子でその時の出来事を話すと、今度はミハルではなくマトイの方が耳まで真っ赤にして俯いてしまった。

 仕方ないといえば仕方ない。いくら酔っていて、なおかつ寝ぼけていたとはいえ、男性を部屋に引き留めてあまつさえベッドに引きずり込んだとなれば、女子としてあまりにも慎みがないと言わざるをえない。

 大丈夫だから、というミハルのフォローもまったく大丈夫ではなく、もはや声にならない悲鳴をあげながらテーブルに突っ伏してしまう。

 

「大丈夫だよ、あれは仕方ないことだったんだ! マトイが誰にでもああいうことする子じゃないってことはちゃんと知ってるし、たまたま意識が朧げで甘えたくなってただけなんだよね! お酒のせいだよ! マトイのせいじゃないから!」

「うぅ……! もうお嫁にいけない……!」

「大丈夫だってば! もしそうなったらボクが責任もってマトイをお嫁さんにもらうから!」

「本当に? ちゃんともらってくれる?」

 

 もちろんだよ、と言い切ったものの、ミハルはこの時、この会話はここだけのものだと思っていた。マトイが望むのならそうなりたいとは思っているが、それはもっと先の話で、今はただ彼女を安心させられればいい、そう考えていた。

 まさか、二人よりも先に、この喫茶店にパティエンティアの二人が入ってきていて、後から来たミハルとマトイの会話をずっと録音しながら様子を窺っていたなどとは露ほども知らずに。

 

「約束だよ、ミハル」

「うん、約束しよう、マトイ」

 

 こうして二人の知らぬ間に、恐ろしい勢いで外堀が埋まっていくのだった。



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