lollipop sweet heart (@ぷくぅ)
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1st episode

 少し湿り気を帯び始めた初夏の風が足元を通り抜ける。

 半袖にするにはまだ肌寒い五月の始め、世間はゴールデンウィークで賑わっている中、誰もいないカフェテリアで、一人の少女が穏やかな笑みを浮かべて座っていた。

 オープンテラスから狩野川(かのがわ)が望めるその喫茶店で、赤い髪を二つに結った少女は、しばらく前から二人の友人を待っている。沼津で集まる時は、この喫茶店で集合時間の少し前から待つことが定番になってしまった。

 

 集合時間までまだ少しある。少女はその笑みをたたえたまま、ちょうどあの日も二人を待ってたんだっけ、と頬杖をついて半年ほど前のことに思いを馳せていた。

 

 

―――――――――――――

 

 

「善子ちゃんはともかく、花丸ちゃんまでドタキャンだなんて……」

 

 すっかり寒くなってしまった日曜の沼津を、黒澤(くろさわ)ルビィは一人、途方に暮れたように歩いていた。乾いた木枯らしが過ぎ去っていく。

 

 朝の天気予報で一段と冷え込むと聞き、白いセーターの上にはベージュのダッフルコートを羽織った。首にはタータンチェックのマフラー。褐色のスカートの中は黒タイツ。やっぱりデニール値が高いと幾分か温かい。沼津へお出かけだったということもあり、頭のツーサイドアップは黒いリボンで結っていた。自分なりに少しはオシャレしてきたのだが、ふいになってしまって残念でならない。

 

 廃校は決まってしまったものの、ラブライブで優勝して浦の星女学院の名を後世に残すという新たな目標を掲げたAqours(アクア)。今日はそのグループメンバーの、同じ一年生である国木田(くにきだ)花丸(はなまる)津島(つしま)善子(よしこ)の三人で沼津へウィンドウショッピングに行く約束をしていたのだが……二人からはそれぞれ

「ルビィちゃんごめん! お寺の用事で今日は出られそうにない……」

大悪魔(サタン)からの命令が脳裏をよぎり、すんでのところで消滅を回避。故に沼津への転移は不可能……(ルビィ的翻訳:お母さんからの言いつけを忘れていて、怒られる前に思い出したから、今日は沼津へは行けません)」

との連絡が、つい先程入ったところだった。

 

「どうしよう……お買い物、してもいいんだけど、ルビィ一人で行っても悩むだけで何も買えなさそうだし……」

 

 自身のイメージカラーでもあるピンク色のカバーを付けたスマートフォンを見つめながら、何を探すというわけでもなくただ歩く。駅前を過ぎ、商店街に入るがそれも過ぎ、きっと家の中でてんやわんやしているであろう善子の家も通り過ぎ、次第に周りに映る景色から販売店は減っていた。

 

「あ、こんなとこまで来ちゃった。何か買うにしても、帰るにしても、駅の方まで戻らなきゃ」

 

 港の方まで歩いてきてしまってから、もう三十分も歩いていることに気がついた。この辺から内浦(うちうら)まで帰るには、少なくとも善子の家のあたりまでは戻らなければバスはない。ルビィは慌てて回れ右をする。

 

「って」

 

 直前までスマートフォンを覗いていたからか、はたまたよく周囲も確認せず方向転換をしたからか、すぐ後ろを歩いていた五人グループの学生の一人とぶつかってしまった。短髪、長髪、長身、小柄、それぞれ違った特徴を持つ五人ではあったが、全員がブレザーの制服を着崩しており、そしてこぞってガラの悪そうな学生だった。

 

「あ、ご、ごめんなさ」

「ってーな。ちゃんと周り見て歩けよガキ」

「あーあー、怒らせちゃった。お嬢ちゃん、謝っといたほうが良いよ~」

 

 ルビィが謝ろうとするも、間髪入れずに怒気(どき)を放つのはぶつかってしまった学生。それを残りの学生が面白おかしく(はや)し立てた。

 

「あの、その……ご、ごめ」

「ん~聞こえないなぁ~? もっとおっきな声ではっきり言わなきゃ」

 

 男たちはルビィをからかって面白がっているのか、もはや聞く耳を持たない、そんな素振りだ。ルビィは思う。花丸ちゃんと善子ちゃんにはドタキャンされて、三十分も無駄に歩いて、怖い男の人に絡まれて、あぁ、なんてついてない日なんだ、と。

 

「あれ、この子結構可愛くない? ちょっと子供っぽいけど俺的にはありかな」

「はは、お前ロリコンかよ!」

「あ、えっと、ぅ……」

 

 男子学生たちの勢いはとどまるところを知らない。どんどんヒートアップしていった。男性恐怖症のルビィにとって、見知らぬ男に――しかも五人も――囲まれるのは苦痛で仕方なかった。早く解放してくれ、涙を目にためながらじっとこらえているその時だった。一人の学生が、ルビィの顔を覗き込んでつぶやく。

 

「おい、この子、今流行りのスクールアイドルの子じゃね? 何つったっけ、あくあ?」

「えまじで?」

 

 幸か不幸か、Aqoursの名はこんなところにまで知れていたようで、この一言を皮切りに、男達は代わる代わるルビィの顔を覗き込む。ついにはスマートフォンでAqoursについて調べ始め、女子校出身だと知るやいなや、お祭りでもあったかのようにはしゃぎ始めた。

 

「こいつ女子校じゃん! 仲良くなって可愛い女の子紹介してもらおうぜ!」

「いいねいいね、どこ行く? とりあえずカラオケ?」

「い、いや……やめてください……離して…!」

 

 男たちは矢継ぎ早に誘いの言葉をかけ、嫌がるルビィを無理やり自分たちの輪の中心に入れようとする。ルビィは必死に抵抗するのだが、男達がそれを意に介す様子はない。いくら部活でトレーニングしているとは言え、ルビィは女の子なのだ。腕力で勝つのはやはり難しい。それでも、せめて口だけでもと拒絶の意思を見せていた。

 

「せっかく誘ってるのにノリ悪ーな。来いっつってんだよ」

「きゃっ!?」

 

 しかし、男達はそれを良しとは、当然思わない。苛つき始めたのかルビィの扱いも段々と粗暴(そぼう)になってきた。ルビィは、はじめにぶつかった男に手首をきつく握られ、ぐいと引き寄せられる。急に引っ張られたせいかバランスを崩し、ルビィの体は前のめりに。勢い良く引っ張りすぎたのか、それともルビィの動きが予想外だったのか、唯一支えていた男の手はルビィから離れてしまった。支えを失ったルビィは一瞬宙に浮き、たたらを踏んで転倒してしまう。が、硬い舗装の上に倒れ込むことはなかった。

 

「おい、こんな小さな子いじめて何が楽しいんだよ」

 

 通りかかった学生だろうか。ルビィを囲んでいた男達と制服を同じにして、長身で茶色い長髪の男が、ルビィの体を受け止めていた。

 

「ちっクソ佐蔵(さくら)かよ」

「あーなんかもうどうでもよくなってきた。帰るか」

 

 ルビィを囲んでいた男たちは、佐蔵(さくら)と呼ばれた青年を見るや、口々に不満を漏らし、と同時にルビィへの興味も失ったようで、一人、また一人とその場から立ち去っていった。

 

「おいチビ、なんでこんなとこ彷徨(うろつ)いてんだよ」

 

 ガラの悪い五人組が立ち去ったことを確認すると、佐蔵(さくら)はルビィを地面に立たせ、憐れむような目で見つめ、口を開く。

 

「あ、あ……」

 

 対するルビィは、恐ろしさのあまり何も言えないでいた。口からは言葉にならない音が漏れ出るばかり。青年は呆れた様子でこう続けた。

 

「あー、もういい。これに懲りたらこんなとこ来るんじゃねーぞ。わかったらさっさと帰れよ」

 

 青年は、そう言い終えるとルビィの肩を、ぽん、と一度叩き、あの五人組が向かったのと同じ方向へ歩いていった。

 

 怖かった。ルビィの頭の中はそれしかなかった。恐怖から解放された安心感からか、歩道の真ん中でしばらく座り込む。幸いにも、ルビィがへたり込んでいる間にこの道を通る人は誰もいなかった。

 

 どれくらい時間が経っただろうか――ルビィには永遠にも感じられていたが――、放心状態だった心に、ようやく周囲の様子を気にする余裕が生まれ始めた。慌てて立ち上がり、服についた砂や塵を払いながらあたりの様子を伺う。

 

 ルビィは、よかった、誰もいない……こんなとこ見られたら恥ずかしくって死んじゃうよ……とひとりごちた。口に出してしまう辺り、まだ本調子ではないようだ。もっとも、本調子でも口に出してしまいそうではあるが。

 

 ふと、足元に何か小さな本のようなものが落ちていることに気がつく。本は葉書(はがき)よりも少し小さく、ポイントカードよりは少し大きい。そしてグレーのブックカバーのようなものにくるまれていた。私、こんなの持ってたっけ、と、少しかがんで拾い上げ、くるりと回して表紙に目をやる。そこにはカウンターレリーフで、簡素な校章とともに狩野川(かのがわ)高等学校と刻まれていた。

 

 

 

 

「これ……どうしよう……」

 

 無事に家までたどり着いたルビィは、すぐさま自分の部屋まで戻った。顔色までは元に戻らなかったのか、帰ってそうそうに姉である黒澤(くろさわ)ダイヤから「何かあったの?」と聞かれたが、「なんにもないよ」と答えておいた。あまりに生返事だったのか、ダイヤからは不思議そうな目で見られたが、彼女もそれ以上は追求してこなかった。

 

 ベッドにうつ伏せになったルビィは、生徒手帳だった小さな本を手の中でくるくると弄ぶ。中身は一応、(当然?)確認した。

 

 手帳の持ち主は佐蔵晃太(さくらこうた)、高校三年生のようだ。生徒手帳らしく顔写真までしっかりついており、先程助けてくれた青年のものだと思われる。きっと何かの拍子に胸ポケットから落としてしまったんだろう。きっと私を受け止めてくれたときに違いない、とルビィは思う。

 

 

 もちろん、渡しに行くべき。ルビィもそれくらいの常識はわきまえているつもりだ。が、どうしても、あの恐ろしい体験を思い出してしまう。五人の男に囲まれる。無理やり連れて行かれそうになる。きつく握られた左手首が、まだ痺れているような気がした。

 

 調べてみた所、狩野川(かのがわ)高等学校はルビィが絡まれた場所からそう遠くない所にあるらしい。あそこから徒歩にして三分程度の場所に立地している。その割にあまり学生が周辺を歩いていなかったのは、学校の目の前にバス停があるということと、沼津駅が反対方向だったことが理由だろうか。

 

 あの辺りまで行くのはそこまで苦ではないのだが、ルビィが気にしているのは、その狩野川(かのがわ)高等学校が男子校だったということだ。ただでさえあのような怖い生徒がいる学校だと言うのに、生徒全員が男子。考えただけで体がこわばるのがわかる。

 

「でも、返さなきゃ。きっと困ってるだろうし」

 

 ぱたぱたと動かしていた足を止め、もう一度手帳を開く。年度の初めに撮ったであろう青年のバストアップの写真が視界に飛び込んできた。

 一重まぶたの鋭い目つき。長身であることが実物の威圧感を更に増長させていた。写真撮影のために気合を入れていたのか、髪は先程会ったときよりもきれいに染め上げていて、セットもどこかよそ行きの様相をしている。制服については、着崩してはいるものの、あの五人組よりはいくらか整えた様子だった。

 

佐蔵(さくら)晃太(こうた)さん」

 

 写真の横に、お世辞にも綺麗とは言い難い字で書かれた名前を指でなぞる。珍しい名字だった。

 

 高校三年生かぁ。先輩だったんだ。お姉ちゃんと同い年だ。なんてことを考えながら彼のことを思い出そうとした。

 

 と、ここでルビィは助けてくれた恩人なのに記憶が曖昧なことを思い出す。写真を見ても、多分、こんな感じの人だった、と思う……程度にしか覚えていなかった。あの時はパニックになってはいたが、まさかここまで覚えていないとは。そういえば、ろくにお礼も言っていないような気がする。いや、しっかり顔も覚えてないほどだ、言っているわけがない。

 

「ルビィ、起きてます? お夕飯の支度ができたみたいですわ。参りますわよ」

 

 まだ結論も出ないうちに夕飯の時間になってしまったようで、部屋の外からダイヤの呼び声が聞こえる。

 

「今行くよ、お姉ちゃん」

 

 ルビィは手帳をサイドテーブルの上に置き、部屋の外で待つダイヤの元へと向かうのであった。



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2nd episode

「きちゃった……」

 

 ルビィは狩野川(かのがわ)高等学校の近くまで来ていた。名前の通り、狩野川(かのがわ)に近いこの学校は、生徒数も学校の規模も浦の星女学院より断然大きい。駅から歩いていくのは少し遠く感じるが、学校の前にはバス停があるためか――浦女(うらじょ)のバス停は学校前ではなく学校の下、坂のふもとだからあれを登ることを考えると比べるまでもなく楽だ――、そういう面では人気が出ても不思議じゃない。ただ、そういう面倒事を嫌った生徒が集まるせいか、風紀はあまり良くないみたいだった。普通なら絶対近づかない、それどころか回り道してでも避けて通ろうとするような見た目の男子学生たちが、大声で談笑しながら下校していくのが目に映る。

 

 服装も昨日の五人組と左程変わらないような生徒が多く、シャツの裾をだらしなく出しており、第一ボタンはおろか第二ボタンまで開けている。それに合わせるようにネクタイを半端に締め、ズボンは下着が見えてしまうかと思うぐらい下げて履いている、いわゆる腰パンと言うやつだ。上着のブレザーは腰に巻いていたり肩だけ羽織っていたり、いろいろだが、しっかり袖を通してボタンを留めている生徒は一人もいない。ルビィには何故こんな格好しているのか不思議でならなかった。

 

 パラパラと下校していく生徒たちの中に昨日の五人組は見当たらなくて少し安堵する。浦女からここに来るまで少し時間がかかったから、その間に先に帰ったのだろうか。また会ったら今度こそ絶対連れていかれてしまうだろう。それとも、周囲にこれだけの目があれば大丈夫なのだろうか。

 

 そんなことを考えながら、学校前、と言いつつも学校から道路を挟んで向かいの歩道に立っている電柱の影からこっそり――少なくとも彼女はそのつもりのようだ――様子をうかがっていた。

 

 あの日の夜、私は夕食を終えて、部屋に戻ってからもう一度考えた。でも、答えは全然まとまってくれない。そうだ、花丸ちゃんと善子ちゃんに一回相談してみよう。それからでも遅くない。そう決心、いや決断を先延ばしにし、床に就いたのである。

 今朝、それとなく花丸に尋ねてみた。

 

 

―――――――――――――

 

 

「花丸ちゃん、もし、もしだよ? 知らない男の子の生徒手帳拾ったらどうする?」

 

 自分の席につき、分厚いハードカバーを読んでいた花丸だったが、ルビィの突然の問いかけに本を伏せ、少し逡巡してから答えた。

 

「うーん、とりあえず渡してあげようとは思うけど……どこの誰かもわからないんだったら警察に届けるかもしれないなぁ」

 

 警察、それも一つの方法だ。ルビィはやはり相談してよかったと思い始めた。が、花丸はそんなルビィを他所に話を続ける。

 

「でも、おらが警察に届けたとして、落とした学生さんが警察に行かない限り返ってくることはないだろうし、もしおらが生徒手帳を失くしちゃったとしたら、諦めちゃうかもしれない」

 

 確かにその通りだ。警察に届けても、持ち主のもとに自動的に戻ることはない。そしてルビィは佐蔵(さくら)の雰囲気から、なんとなく警察には行かないような気がしていた。もっとも、身元のわかるものが届いたら、少なくとも生徒手帳であれば学校に連絡があってもおかしくはないのだが、ルビィや花丸にはそこまでの考えはなかったようだ。

 

 となると、やはり自分で届けるしか無いのだろうか。

 

『うう、やっぱ怖い。誰かについてきてもらおうかな……でも、そうなるとどうして拾ったのか話さなくちゃだし、こんな話したら絶対やめておいた方がいいって言われそうだし……どうしたらいいんだろ……』

 

 ルビィは花丸の前でしばらく考え込んでいた。花丸はその様子に、あ、生徒手帳拾ったのルビィちゃんなんだ、と理解したが、詳しく話してくれないということはあまり詮索しない方が良いだろうと考え、ルビィが落ち着くまで待つことにした。と、そこに後方から善子が現れる。

 

「ルビィ、何湿気(しけ)た面してんのよ」

 

 後ろから勢い良くルビィに飛びついた善子は、そのまま肩と頭を抱え込み、ルビィをホールドする。もう慣れたもので、痛い、とか、苦しい、ということはなくなっていた。

 

「え、ごめん善子ちゃん。ルビィそんな変な顔してた?」

 

 頭をロックされているので、善子の方は向けないルビィだったが――なら一体善子ちゃんはどうやって湿気た面だって判断したんだろう――、とりあえず声だけで返答する。

 

「なんかこの世の終わりって顔。あ、もしかして昨日ドタキャンしたこと怒ってる?」

「そんなことで怒ったりしないよ」

「どうかしら」

 

 すこしおどけた様子の善子は、そう言うとルビィのホールドを解除し、今度は花丸の方へ駆け寄った。

 

「だからね、昨日ずら丸と相談して決めたのよ。ルビィ、今日は昨日のお詫びに、一緒に映画でも見に行かない?」

 

 善子はそう言って、花丸と顔を見合わせ優しげに微笑んだ。善子ちゃんはやっぱり善し子ちゃんだ。でもどうして映画なんだろうか。

 

「くっくっく……今日は毎週月曜の映画割引の日。加えて学生証提示なら更に十パーセントオフ! これを逃す手はないわ!」

 

 善子はいつの間に取り出したのか、自身の学生証を高らかに掲げ、したり顔でルビィに詰め寄る。

 

「リトルデーモン四号よ、どうだ、来る気はないか?」

 

 決まった、と口から漏れそうなドヤ顔を披露する善子。花丸はその様子を見て相変わらずにこにこと笑っていた。

 

「ずら丸も何か言いなさいよ! あんたもドタキャンしたんでしょ!」

「あはは、ルビィちゃん、昨日はごめんね。おらは善子ちゃんと違って忘れてたわけじゃないんだけど、じっちゃにどうしてもってお願いされちゃったから……だから今日埋め合わせできたら良いねって善子ちゃんと話してたんだ」

 

 私も遊ぶ約束を忘れてたわけじゃない! とまくし立てる善子を尻目に、花丸はそのにこにことした表情は崩さず、でも少しだけ申し訳なさそうにルビィに話す。二人共、そんなこと思ってくれてたんだ、とルビィは頬を緩ませた。

 

「うん! 誘ってくれてありがと! 学生証、持ってきてるかな……」

 

 と、ルビィは鞄の中を探し始めたが、すぐに手が止まった。

 

 そうか、学生証。

 

 生徒手帳も同じような役割を果たしてくれるに違いない。となると、佐蔵晃太(さくらこうた)さんも、例えば今日映画を見に行こうと思っても割引サービスは受けられない。割引サービスくらいなら問題はないかもしれないが、他にもいろいろなところで困ったことが起きてしまうかもしれない。人助けしたのに手帳をなくして困ったことが起きるなんて、そんな話があって良いのだろうか。

 

「……二人共、ごめん。今日はちょっと用事があるんだった……」

 

 そう思ったときには友人二人からの誘いを断っていた。花丸も善子も――特に善子は――すごく申し訳なさそうにしていたが、また別の機会に三人で遊びに行こうと約束をして、朝のホームルームの時間を迎えた。

 

 

―――――――――――――

 

 

「ホントに佐蔵さんに渡せるか心配になってきた」

 

 観客一人ひとりの表情をしっかり覚えられる程度には視力も記憶力も良いルビィだったが、今回は顔はうろ覚え、道路を挟んで向こう側だから見つけられたとしても渡す前に見失ってしまう可能性もあった。

 

「……いや、絶対に渡さなきゃ!」

 

 彼は命の恩人だ。と言うと少し大げさに聞こえるかもしれないが、実際にルビィの中ではそれと同等か、それ以上の恩義を感じていた。ここまで来たら当たって砕けろ、旅の恥はかき捨て、なるようになれ、だ。

 

 と、そこに見計らったかのようなタイミングで見覚えのある長身で細身の青年が校門から出てきた。ひときわ目立つその身長は二メートルくらいあるのだろうか。少なくとも、自動販売機くらいの高さなのは間違いない。身長もさることながら、頭髪が周囲の学生と違いおとなしめのダークブラウンで、服装もこれまた周囲の学生に比べまだきちんと着ていることも目立つ原因の一つだったのかもしれない。ともあれ、目的の人物は彼で間違いなさそうだ。心配が杞憂に終わって何より。

 

 学校前の横断歩道にかかっている信号が、うまい具合に青に変わる。彼がもし、昨日と同じ方向へ帰るというなら、学校を出てすぐ東へ向かうはずだ。見失う前に渡さなきゃと、ルビィは小走りで青年の元へと向かう。いつの間にか恐怖心は薄れていたが、それは彼女の意識の外だった。

 

「あ、あの!」

 

 道路の幅員はさほどなかったため、青年にはまだ学校の塀が続いているうちに追いつくことができた。ルビィは青年の背中に精一杯大きな声をかける。

 

「ん? あ、昨日の……」

 

 どうやら青年はルビィのことを覚えていたようだった。赤髪のツーサイドアップなんてそうそういないし、つい昨日のことだったからかもしれない。でも少し嬉しく感じるのは何故だろうか。

 

「き、昨日は、助けていただいて、ありがとうございました……」

 

 あまり男性と話す経験がないルビィは、緊張のあまりだんだんと尻すぼみになっていった。話し始めは勢いでどうにかなっていたのだが、いざ話すとなると何を喋って良いのかわからない。とりあえずはお礼を言って、目的である生徒手帳を返そう。

 

「あぁ、そんなこと。たまたま通りかかっただけだから。まあ、ラッキーだったな」

 

 青年はそこまで言って、はたと我に返る。

 

「……でもなんでここに? 俺がここの生徒だって知ってたのか?」

 

 言われてみればその通りだ。ルビィは拾った生徒手帳からある程度の情報を得ている。が、彼は何も知らない。これではまるでストーカーじゃないか。(いぶか)しむのも至極当然のことだ。ルビィは慌てて弁明する。

 

「あ、あの、それで、昨日、あそこにこれが落ちてて……困ってるんじゃないかって思って……」

 

 そしてルビィは、佐蔵の生徒手帳をカバンから取り出した。それを見ると青年は、一瞬目を見開き、胸ポケットをまさぐる。何も入っていないことを確認してから、落としてたんだ、とつぶやいた。

 

「んなもん捨てといてくれてよかったのに。まあわざわざ届けてくれたんだから受け取っとくけど……用事はそれだけか? だったらさっさと帰りな。この学校不良ばっかだから、昨日みたいなことになっても知らねーぞ」

 

 照れ隠しなのだろうか、少し顔を赤らめた青年は荒っぽくそれを受け取る。言葉は乱暴だが、ルビィのことを心配してくれているようだった。そんな様子を見て、この人はホントは不良とかじゃないのかな、だったら嬉しいな、ルビィはそんなことを思い始めた。自然と口から言葉が紡がれる。

 

「あ、あの……それでルビィお礼がしたくって……」

「はぁ?」

「で、でも……」

 

 んなもんいらねえよ。また絡まれる前に帰りな。と諭す青年に、ルビィは自分でも驚くほど食い下がっていた。

 

 ルビィと青年がやり取りをはじめて数分が経っていた。赤髪のツーサイドアップの少女と自販機くらいの背丈の青年が歩道の真ん中で話し込んでいたら嫌でも目につくだろう。周囲から、あの女の子誰、佐蔵に妹なんていたっけ、あいつまたやらかしたんか、などと声が上がるようになっていた。

 

「……おい、じゃあどっかでお茶でもおごれ。それで気が済むか?」

「は、はい!!」

 

 その状況を見かねた青年が折れる形で、突然思いついたルビィの目論見は成功することとなるのであった。



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3rd episode

 昨日の例の場所からそう遠くはない場所にその喫茶店はあった。今は冬季営業で開放していないようだが、駅周辺にしては珍しく、オープンテラスにもできるくらい広いデッキがあり、夏にここから見る狩野川の景色はきっと素晴らしいんだろう。よく来ているのだろうか、青年は何の気なしに店内に入っていき、いらっしゃいませと声をかけてくる店員にピースサインで客の人数を知らせ、そのまま空いている席へと腰掛けた。

 

 店内は至ってシンプルな作りだ。こだわりの調度品があったり、雰囲気のある照明があったり……なんてことは決して無く、木製の椅子とテーブルいくつかと四人がけ用のボックス席が二つ、一般的な橙赤色の照明は店内を適度な明るさに照らしていた。隅には申し訳程度に観葉植物――葉に切り込みの入ったいわゆる亜熱帯系の植物だ――が置いてある。人気店というわけではないのだろう。数席しか無い喫茶店だったが、その数席にもお客はほとんど座っていなかった。

 

「紅茶一杯で良いぞ。中学生のお小遣いじゃそれでもきついだろ」

「ちゅ、中学生じゃありません! ルビィ、高校一年生です!!」

「え、まじで?」

 

 なんて失礼な。とルビィは心底思ったが、よく考えてみると半年前は中学生だったわけなので、間違えられる可能性があってもおかしくないのかもしれない。とは言え、年相応に思われていない――どう考えても中学三年生だとは思ってくれていないだろう――ことに若干の憤りを感じ、鞄の中から今日使うかもしれなかった学生証を青年に向かって突き出した。

 

「証拠だってあります!」

 

 今から思えば後先考えない行動だったかもしれない。助けてもらったとは言え、一応は見ず知らずの人だ。そんな人に名前や学校名が書かれているものを見せるのはなんとも無防備というか、とにかく軽率だったんだろう。

 

「ほ、ホントだ……」

 

 黒澤……どっかで聞いたことあるような気がすっけど……とつぶやく青年も、あまり深くは考えていない様子だった。そして眼前に突き出された学生証を眺めた青年はこう続けた。

 

「つかお前、浦女の生徒だったのか」

 

「はい……」

 

 青年は浦の星女学院のことを知っているようだった。ここからだとだいぶ離れた、しかも男子なんて一人もいない田舎の女子校。なんで知ってるんだろう、同じ中学だった女の子の友達が通っていたりするんだろうか。ルビィはそんなことを考えながら沈痛な面持ちで答える。

 

「廃校になるんだろ?」

 

 その言葉を聞いたルビィは心を読まれたような感覚に陥り、どきりとする。

 

「え、どうしてそれを?」

「結構な噂になってるぞ」

 

 そうなんだ……新聞とかに取り上げられたりしてるわけじゃないけど、同じ年代の子たちにはやっぱり大きなニュースだったんだ、と思うとともに、どうしてもっと頑張れなかったんだろう、もっと結果を出せていれば、そう思わずにはいられなかった。

 そして青年はそんなルビィの気持ちも知らず言う。

 

「どこの高校と合併するか知らねーけど、いじめられねーように気をつけねーとな」

「いじめ!?」

 

 思ってもみなかった。浦女の生徒はみな穏やかな子ばかりで、そういうのとは無縁の学院生活だったが、統合ともなると――ましてや沼津みたいな都会の高校だ――そういうことも起きたりするのかもしれない。思わぬところから急に不安になる。

 

「真に受けてやんの」

 

 が、青年はいたずらっぽい笑みを浮かべながら冗談であることを明かした。

 

「ぅゅ……ひどいです……」

 

 今ので少し雰囲気が砕けたのか、多少順番は前後してしまったが、お互いに自己紹介をする。彼の名前は佐蔵晃太(さくらこうた)狩野川(かのがわ)高等学校の三年生。ルビィにとってはどちらも知っている情報だった。ルビィもそれに合わせて名前と学校名、学年を伝える。

 

「なんであんなとこに一人でいたんだよ。あの辺りなんて何にもねーじゃん」

 

 そして話は昨日のことになる。そう言う佐蔵も、もっと言えばあの五人組も、日曜のあんな時間帯に制服でいたことに、ルビィは疑問を感じたが、それは黙っていることにした。

 

「あの日、お友達と駅の近くでお買い物する約束してたんですけど、二人共都合が悪くなっちゃって。それでなんとなく歩いてたらあの辺りまで来ちゃってたんです」

「そりゃ災難だったな」

 

 まあ、駅からあの辺まで歩くなんてあんま考えたくねーけど、と佐蔵は付け加えた。

 

 と、ここで二杯の紅茶が届いた。いつの間に頼んでたんだろう。もしかして、入店した時に二本の指を突き出してたのはそういうことだったんだろうか。佐蔵は店員に、さんきゅ、と礼を言い、受け取った一つをルビィの方に差し出した。

 

「あ、あの、昨日は本当にありがとうございました。」

 

 一旦話が切れたところで、ルビィは改めて佐蔵に礼を言う。

 

「そう何度も礼言われても……まあ、怪我とかはなかったみたいだし、良かったっちゃ良かったけどさ」

「はい。おかげさまで無事に家まで帰れました」

「……こんなこと言われたこと無いからなんて返事したらいいかわかんねーや」

 

 調子狂うな、と言わんばかりの様子で、左手で頬を擦る。そんな佐蔵の様子を見て、ルビィは第一印象で怖い人だと勝手に思い込んでいたことを後悔した。ちっとも怖くないじゃないか、ちょっと乱暴な言葉づかいだけど、こんなにも優しい人じゃないか、と。ふと、自分が中学生だと思われたことに腹を立てていたことを思い出す。同じだ。私、同じことしてる……そう気づいたルビィはとてつもなく申し訳ない気持ちになるのだった。

 

 それからルビィ達はしばらく話し込んでいた。学校のこと、勉強のこと、二人の友達のこと、その二人は同じ部活に所属していること等々。どんな部活なのか、と尋ねられたが、歌ったり、踊ったり、となぜかはぐらかしてしまった。佐蔵は演劇かミュージカルかなにかと勘違いしたようで、お前が? と意外そうな顔をしていた。スクールアイドルをやっているなんて伝えたらもっと意外そうな顔をしたに違いない。

 

「佐蔵さんは何か部活やってるんですか?」

 

 こんどは逆にルビィが何か部活をやっているのかと尋ねる。すると、佐蔵はしばらく黙り込んでいたが、

 

「いや、なにもやってない」

 

 とぶっきらぼうに答えるだけだった。なんだか少し空気が重たくなったような気がする。もしかして、聞いちゃいけないことだったのかな、ルビィは直感的にそう思った。気まずくなったのか、佐蔵がちらりと左手にはめた時計に目をやり、少し驚いた様子でつぶやいた。

 

「うわ、もうこんな時間じゃねーか」

「あ! 終バス行っちゃってる……どうしよう……」

 

 腕時計をしていないルビィは店内の時計に目を移す。時刻は丁度終バスが沼津駅を出発した頃だ。よく見ると、外はもうすっかり暗くなってしまっていた。どうやら話に夢中になりすぎていたようだ。

 

 しかし困った。ここから内浦まで帰ろうと思うと、この時間帯だと車で四十分ほどかかる。歩いて帰るなんて到底無理な距離だ。財布には、ここのお代を支払うには十分な額が入っているが、タクシーを使うには明らかに不足している。最悪、タクシーで帰って、家についてから家族に払ってもらうしか無いが、そんなことをしたあかつきには、今後放課後の寄り道は禁止、なんてことになりかねない。

 

「はぁ……どうせタクシーで帰る金もねーんだろ? 乗せてってやるよ」

 

 途方に暮れるルビィを見て、佐蔵が一緒に帰ることを提案してくれた。願ったり叶ったりだ、が、どうやって帰るつもりなんだろうか。

 

「バイクだよ、バイク」

 

 ルビィは佐蔵の言っている意味が、正直あまりわかっていなかった。

 

 

 

 

 喫茶店の裏手に小さな駐輪場があり、そこに佐蔵の愛車である【ドラッグスター400 クラシック】が停まっていた。なるほど、ここの駐輪場を貸してもらっていて、それでお店の人とは顔見知りのようだ。

 

 バイクのことなど全く知らないルビィには、このドラッグスターも大きな自転車のように見えていた。かっこいいだろ、と佐蔵に問いかけられたが、そうですね、なんて適当な返事をしてしまったことを少し後悔する。

 

 ルビィは、後輪の上のシートにネットで固定してあったスペアのヘルメットをすっぽりと被せられ、後ろの座席――すごく小さいがそう呼んでいいのだろうか――に座らされている。ジャージは持ってるか? と聞かれたが、今日は生憎(あいにく)体育のない日だったため、持ち合わせてはいなかった。佐蔵は、仕方ない、と言った様子で鞄から自分のジャージを取り出してこれを履けとルビィに突き出す。突然のことに戸惑うルビィだったが、いいから履けと詰め寄られてしまい、おとなしく借りることにした。

 

「しっかり捕まれ、振り落とされるぞ。服の裾握ってるだけでも大丈夫だから」

 

 エンジンをかけ、ぶるんとひとふかし。佐蔵は状態が良好なことを確認すると、

ルビィに最終確認を行う。ルビィは言われた通りブレザーの裾を控えめに握った。

 

「んー……やばいと思ったら自分で体勢変えてくれよ。運転中は多分何言われても聞こえねーから」

 

 そう言って佐蔵がアクセルをふかした。程なくして、例の金切り声が上がったのは言うまでもないだろう。

 

 佐蔵が運転する【ドラッグスター400 クラシック】はYAMAHAから販売されていたアメリカンタイプの自動二輪だ。一般的な原動機付自転車に比べると確かに大きいが、かの有名なハーレーダビットソンなんかと比較すると、やはり流石に小さく感じる。いわゆる中型自動二輪に分類されるバイクだろう。中型の優位点でもあるシートの安定感や車体から見るパワーなんかは高く評価されているが、一方で、高速には向いていない、空冷エンジンだから熱い(暑い)なんて評価もあるようだ。

 

 しかし、後ろに乗せられているルビィはそれどころではない。何度か振り落とされそうになり、佐蔵の言葉を借りるとするなら「やばい」、そう感じたルビィは、赤信号で停車した隙に、いつの間にか強く握っていたブレザーの裾を離し、佐蔵の腰に手を回す形でしがみついた。佐蔵は驚いたのか、一瞬体をビクつかせたが、それ以上は特に何も反応することはなかった。

 

 そのまましばらく走った。佐蔵の体にしがみついているからか、それまでとは打って変わって体は安定し、周りの景色を見る余裕さえ生まれた。十一月の冷気が制服を突き抜けてその柔肌を刺激する。が、不思議と嫌な気持ちではなかった。それどころか、冷たい風を切って進んでいく爽快感に心地よささえ感じた。星明りが(さざなみ)に反射してキラキラと輝く光景は、部屋の窓から眺めるよりも綺麗かもしれない。自分の体が上気していることに気がつくのは時間の問題であった。

 

 やがて二人はトンネルを抜け、見知った場所に出る。佐蔵は一度バイクを止め、ルビィに家はどこなのかと尋ねた。ルビィは自分のスマートフォンで自宅の場所を教え、佐蔵はそれでなんとなく場所を理解したようで、再びバイクを走らせる。程なくしてルビィは自宅にたどり着くのであった。

 

「し、死ぬかと思いました……」

「叫びすぎだバカ。こんなもんで死ぬかよ」

 

 ヘルメットを返却したルビィは少し大げさに感想を述べ、佐蔵もまたそれに乗っかるように軽口で応じる。数時間前、学校の前でもじもじしていたのが嘘のようだった。

 

「あ、ありがとうございました……お陰で怒られずに済みそう」

「はは、終バスで帰るよりも早く着いたしな。そりゃ良かった」

 

 ルビィは深々と頭を下げて礼を言う。危うく寄り道禁止になりそうだったところを助けてもらったことはもちろんのこと、寒くて体は痛いし、髪の毛もぼさぼさ、でも貴重な体験をさせてもらえた事にも。佐蔵も生徒手帳を届けに行ったときよりも朗らかな笑みを浮かべながらそれに応じた。

 

「おいおい、ジャージも返してくれよ」

 

 いつまで経ってもルビィの腕の中にいる自分のジャージを指して佐蔵は言う。

 

「あ、洗って返しますから!!」

 

 そう言われたルビィは顔を真っ赤にして答えた。自分が履いたジャージをそのまま返すなんて、そんな恥ずかしいことはできなかった。

 

「ちょっと履いただけだろ? 別に気にしねーから返せって」

「ルビィが気にします!!」

 

 佐蔵は頭にクエスチョンマークを幾つか浮かべて、律儀なやつ、とつぶやき、眼前の大きなお屋敷に目を向けた。

 

「しかし、結構でかい家なんだな、お前んち」

「えっと、ルビィのお父さん、この辺の網元(あみもと)さんやってて」

「あみもと?」

 

 彼は網元という単語に聞き覚えがなかったらしく、オウム返しのように尋ねる。

 

「漁師さんのまとめ役?」

「なんで俺に聞くんだ」

「えへへ、ルビィもよくわかんなくって」

「なんだそれ」

 

 ルビィ自身も上手く説明できるほど理解はしていなかったようで、何故か疑問形になってしまう。そこで二人して少し笑いあった。

 

「ま、いいか。じゃ、帰るわ」

 

 一段落したところで、佐蔵が帰り支度を始める。ドラッグスターにまたがり、フルフェイスのヘルメットをかぶった。

 

「あ、送ってもらっちゃってすみませんでした。ルビィがバスの時間ちゃんと気づいてたら……」

「まあ俺も長く話しすぎたし、それは言いっこなしだろ」

 

 ルビィが再三にもなる謝礼と謝罪を述べると、佐蔵もまた自分に非があったとルビィのことをフォローした。

 

「……ありがとうございます。では、また」

「また…?」

 

 つい、いつもの癖が出てしまう。

 

「あ、その、すみません。ルビィ、さよならって言葉、あんまり好きじゃなくって。なんだかもう一生のお別れみたいな気がしちゃうんです。だから、お友達にもさよならじゃなくて、またねって言うようにしてて、その……」

 

 わたわたと弁解しているルビィの姿を見て、佐蔵は優しく微笑んだような――ヘルメットを被ってるから実際どうだったのかはわからないが――気がした。そしてヘルメットの下からくぐもった声でこう続ける。

 

「……いいんじゃねーの?」

「え…?」

「その、またねっての」

「えっと……」

「んじゃ、またな」

「あ、は、はい! また!」

 

 そう言って佐蔵は方向転換をして走り去っていった。その後ろ姿を見て、幾ばくかの高揚感を覚えたのは、はじめてバイクというものに乗り、美しい景色を見た、それだけが理由ではないような気がしていた。



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4th episode

「ずら丸」

「なんずら?」

 

 二人がルビィを映画に誘い、でも断られてしまったあの日から一週間が経っていた。

 

「臭うわ」

「えぇ!? おら、ちゃんとお風呂入ってるずら!」

 

 国木田(くにきだ)花丸(はなまる)津島(つしま)善子(よしこ)は教室の隅の方で密談を交わしていた。

 

「そうじゃないわよ!!」

「え、じゃ、じゃあ……善子ちゃんまさか……」

「私もちゃんと入ってる!! じゃなくって、ルビィよ」

「ルビィちゃんもちゃんと入ってると思うけど……」

 

 話が噛み合わないことに少し苛立っている善子が見つめる先には、もう一人の親友、黒澤(くろさわ)ルビィの姿がある。花丸も善子に合わせるようにルビィへと視線を移した。

 

「だからそうじゃないわよ……ルビィ、なんか最近様子がおかしいと思わない?」

「なるほど、そういうことずらか」

 

 あれから一週間、二人は親友の様子に違和感を覚えていた。

 

「なんか上の空のことが多いのよね。話しかけても気づかないこと増えた気がするし」

「それは確かにまるも同感ずら」

 

 ルビィは元々すこし抜けた性格ではあるものの、ここ最近の彼女の様子は明らかにおかしかった。いつも考え事をしているような様子で、何もないところで転びそうになったり、授業中指名されても何を聞かれたのかわかっていなかったり――もっとも、何を聞かれていたのかわかっていても答えられないことの方が多いのだが――、Aqoursの練習をしていても今までなら間違えなかったようなところを、例えば一番なのに二番の歌詞を歌ってしまったりと散々だ。

 

 これを見て、善子はずばり宣言する。

 

「これは……男よ!!」

「善子ちゃん、それだけはないずら」

 

 間髪入れずに花丸がそれを否定した。

 

「なんでよ!!」

「だって、ルビィちゃんだよ?」

「……たしかに」

 

 そう、ルビィは男性恐怖症なのだ。そう簡単に男性と仲良くなるとは到底思えない。花丸はそう考えたのだ。それには善子も同意した。

 

「でも、どうしちゃったんだろう……心配だな」

 

 とは言え、今もなお、自分の席から窓の外を見つめ黄昏(たそがれ)ている親友の姿を見て、普通ではないとは感じている花丸は心配そうな視線を送った。そんな花丸を見かねてか、善子がこう提案する。

 

「ずら丸、今日暇?」

「予定は何もないけど……もしかして善子ちゃん」

 

 なんとなく、そんな気はしていた。自分の中にも少なからずその選択肢はあったのだろう、実行に移すかどうかは別問題ではあるが。花丸は思わせぶりに尋ねてくる善子に、こちらも思わせぶりな返答で応じた。

 

「尾行するわよ!」

 

 善子はなんだかとても楽しそうだった。

 

 

 

 

 ホームルームの途中で、Aqoursの活動は三年生の都合で全体練習はお休みになり、各自自主練にするという旨の連絡が届いた。この時もまた、ルビィはHR中に着信音を鳴らしてしまい先生から注意を受けるのだが、それはこの際置いておこう。

 いつもなら自主練だろうと真っ先に屋上へ向かうルビィだったが、花丸と善子の二人に、今日は用事があるから先に帰るね、と告げると足早に下校してしまった。先週に引き続き、練習がない日は必ず用事が入ってしまっているのだ。花丸と善子は、ルビィに気づかれないようこっそりと後をつける。

 

 どうやら彼女は沼津方向へ向かうようで、善子は、しまった、なら練習に行くふりをするんじゃなかった、と少し後悔する。沼津方向に行くには当然バスに乗る必要があるのだが、そうもたくさんバスが出ているわけではない。ルビィに気づかれずにバスに乗ることなんてできるのだろうか。そんな不安を抱える二人だったが、どうやら考えすぎだったようだ。今のルビィにそんな余裕はなかったらしく、なんともあっさり同じバスに乗ることができてしまった。それも後ろの席に。

 

「流石に気づかれちゃうかと思ったけど……」

「この娘、ホントに大丈夫なの?」

 

 ルビィに気づかれてはいけないと小声で相談する二人だったが、それもいらぬ世話だったのかもしれない。ルビィには、一緒のバス停で降りても気づかれることはなかった。

 

 バスを降りてからは、ルビィと五メートル程度距離をとり、なるべく体を物陰に入れるようにしながら素早く後ろをついていく。尾行の基本だと善子が言うと、逆に目立ちすぎるから最近は小説でもこういう書き方はされなくなってきてると花丸が返し、少し気まずい空気になってしまった。

 

 駅を過ぎ、商店街を過ぎたあたりで、善子は自分の家の方に向かってるんじゃないかと少しヒヤヒヤしたが、それも通り過ぎたときホッと息をつく。横目で見ていた花丸に、自意識過剰だ、とたしなめられてしまったが、花丸もどこか安心した様子だったので食って掛かることはしないでおいた。

 と、そこで尾行対象が立ち止まる。善子と花丸も慌てて近くの物陰に身を潜めた。

 

「ルビィちゃん、何見てるのかな?」

 

 立ち止まったルビィもあまり物陰とは言い難い場所ではあるが、少し身を隠したような体勢で何かを眺めている。割りと近所に住んでいる善子にはその先に何があるのか心当たりがあった。

 

「あそこって、確か男子校よね…?」

 

 狩野川(かのがわ)高等学校。女子である善子は詳しいことこそ知らないが、あまりいい評判は聞いたことがなかった。むしろ良くない噂の方が多い。たしか、教師をしている母からも、あまり近づかれないようにって言われたことがある気がする。そんな所に、何か用事があるのだろうか。一抹の不安を覚えずにはいられなかった。

 

「ルビィ、もしかして誰かに脅迫されてたりするんじゃ……」

「えぇ!? そんな、ルビィちゃんが何か悪いことするなんて考えられないよ!」

 

 花丸の言う通り、確かにルビィは悪事をはたらくような娘ではない。まあ、善子は胸中で、ダイヤさんのアイス勝手に食べたりしてるじゃない、と思うのだったが、それは身内の話で、花丸が言っていることとは少しずれているような気もした。そんな問答をしていると、学校から終業のチャイムが鳴り、と同時に大勢の生徒が大群をなして校舎から一斉に出てきた。

 

「あ、不良っぽいやついっぱい出てきたわよ!!」

 

 一見して不良だ、とわかるような格好の生徒ばかり。するとそれに呼応するようにルビィの挙動も落ち着きなくなってきていた。

 

「ルビィちゃん、すごくキョロキョロしてるけど、誰か探してるのかな……」

 

 その様子はまるでリスかプレーリードッグのようで、不謹慎ながらも可愛いと思う花丸。しばらくして、様子が変化したことに善子が気づいた。

 

「あ、動き止まった」

「探してる人、見つけたのかな…?」

 

 ルビィは今までの落ち着きのなさは何処へやら、一転して全く動かなくなった。もしかしたら目だけは動いていたのかもしれないが。

 

「……動かないわね」

「……うん、動かないね」

 

 しばらく――と言っても一分にも満たないような気はするが――じっとしていたルビィだったが、探していた人とは違ったのか、それとも見失ってしまったのか、がっくりと肩を落とし、踵を返して来た道を戻ってくる。こちらに向かってきたことに二人は一瞬焦ったが、案の定、ルビィは二人に気づくことなく、目の前を通り過ぎていった。

 

「……なんかすごく落ち込んでない?」

「……うん、すごく落ち込んでるね」

 

 そんな顔を間近で見た二人は、揃って同じ感想を抱く。どうやらこれは脅迫されてたり、なんてことではなさそうだ。

 

「ずら丸、ルビィってば、もしかしてここ最近毎日ここ来てたのかしら」

「もしそうなら、最近放課後付き合ってくれなくなったのと合点がいくずら」

 

 そうして、二人は同じ答えにたどり着く。

 

「ずら丸」

「善子ちゃん」

「「ここは一つ、私/おら達が一肌脱いで…」」

 

 ほぼ全く同じことを口にしたことに少し驚きはしたが、それも一瞬で、途端に両者とも俗に言う『悪い顔』でお互いを称え合った。

 

「くっくっく……考えることは同じね。流石我がリトルデーモン」

「黄昏の理解者と言って欲しいずら」

「あそうと決まれば」

「あ決まれば?」

「明日めちゃくちゃ冷やかすわよ!!」

「わー! 待つずら!!」

 

 思いがけないおもちゃを手に入れてしまった二人は小走りで帰路へと着くのだった。

 

 

 

 

「ルビィちゃん、最近何かあった?」

「え、ええ!? と、特に無いけど……」

 

 翌朝、登校から授業が始まるまでの間に善子と花丸は、自分の席に座ってぼーっとしているルビィに声をかけた。どうやら放課後まで待ちきれなかったようだ。

 

「だったらどうしてボーっとしたままニヤついてたりするわけ?」

「うそ!? ルビィそんな顔してた?」

「うん」

 

 善子は、まあ嘘だけどね、と心の中で思う。慌てるルビィにすかさず花丸が追い打ちをかけた。

 

「沼津でずっと同じとこうろうろしてたし、何かあったんじゃないかって心配してたんだ」

「見てたの!?」

 

 椅子に座っていたルビィだったが、見られていたことの驚きと恥ずかしさで、思わず立ち上がってしまう。

 

「たまたまね」

「いつ!?」

「昨日ずら」

「花丸ちゃんも!?」

 

 ルビィは善子と花丸の顔を交互に見ながら、口をパクパクとさせている。小動物のようだったり、魚のようだったりと忙しい娘だ。

 

「そりゃそうでしょ。あんた最近付き合い悪いんだもの。ずら丸と沼津で遊んでたらたまたま見かけたのよ」

「え、えっと……その時ルビィ、何、してた…?」

 

 見られていたことがわかると、ルビィは急にもじもじしはじめて、バツが悪そうにそう聞いてきた。楽しくなってきてしまった花丸は、少し脚色を加え、仰々しく答える。

 

「落ち着き無くウロウロして、どこかをしばらく凝視した後、落ち込んだ様子でトボトボと去っていったずら」

「ぜ、全部見られてる……」

 

 ルビィ自身にも多少は可怪しい自覚はあったようで、終わった……とがっくりうなだれて、そっと自分の席へと着席した。そこで花丸は少し声色を変えて優しくルビィに語りかける。

 

「ルビィちゃん、正直に話して欲しいずら」

「え、えっと……その……ルビィ……」

「一体何があったのよ。悩みがあるなら相談しなさいよ」

 

 天使のような悪魔の微笑みをたたえる花丸に戸惑うルビィ。善子もそれに便乗し、悪魔のような天使の言葉を囁いた。ルビィには二人の善意が痛く、善子はその困り顔を見て喜び、花丸もまた、意地悪な自分たちを許して、と心にもない懺悔をするのだった。耐えきれなくなったルビィが、ついに口を割る。

 

「……しょ」

「しょ?」

「正直に話します……」

「うんうん」

 

 観念したルビィに、善子と花丸はずいと近寄って、一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてた。

 

「ルビィね、病気かもしれない」

「うんうん……うん?」

 

 その返答は全くの予想外だった。ルビィは、何か勘違いをしている。二人の予想が大当たりだったことはすぐにわかった。

 

「最近ね、ボーっとしちゃうことがすごく増えたんだ。それも決まって佐蔵さんのこと考えてるとき。またお話したいな、とか、バイク乗せて貰いたいな、とか。で、お願いに行こうと思って最近ずっと佐蔵さんの高校の前で待ってたりするんだけど、佐蔵さんの顔を見ると、胸がきゅーって痛くなって、動けなくなっちゃって……ルビィ、どうしちゃったのかな……」

「ず、ずらぁ…!」

「はぁ……」

 

 純粋無垢な少女の告白に、花丸はゆでダコのように赤くなってしまう。おらはなんて穢れた人間なんだろう、そう思わずにはいられなかった。善子も、その純粋さに自分の行いを恥ずかしく思いはしたが、それ以上に純粋すぎるルビィにため息をこぼす。

 

「え、え、善子ちゃんはなんでそんなため息なの? 花丸ちゃん顔赤いけどどうしたの?」

「そのサクラってのがどこのどいつなのかとか、バイクの話は一体どこから来たのかとか、色々突っ込みどころはあるけど、とりあえずルビィがここまでおバカな娘だとは思ってなかったわ……」

 

 少し顔を赤らめながらも、あたかも意に介さない様子で肩をすくめてみせた。

 

「ひ、ひどい!」

「ルビィちゃん、『待ってて愛のうた』の歌詞、覚えてる?」

 

 がーん、という効果音がぴったりなショックの受け方に、少し吹き出してしまいそうになった花丸だったが、ルビィに自分の気持ちをわかってもらおうと、自分たち、Aqoursの歌を引き合いに出して説明を始めた。

 

「え、お、覚えてるけど……」

「Cメロのとこ、歌えるかな」

「う、うん……~♪」

 

 教室内に生徒もいたため、小さな小さな声だったが、ラストのサビ前である七人の掛け合いの部分を、優しく美しい歌声で歌い上げる。

 

「そこ、どうして胸が痛いんだろ」

「胸が、痛い……」

 

 ルビィは自分の胸に両手を当てて目を閉じる。そしてこれまでのことを思い返していた。

 

 私は、どうして胸が痛いんだろう。色んなこと、もっと知りたい。そうだ、これはそんなラブソング。私達が、初めて歌った――

 

「じれったいわね。ルビィ、あんた、そいつのことが好きなのよ。考えるだけでボーっとして、会いたくて学校の前まで行っちゃうけど、勇気がなくて動けなくなっちゃうくらいにね!」

「ルビィが、佐蔵さんのこと、好き…?」

 

 待ちきれない、と言った様子で善子が口を挟んでくる。好き。男性に向けて初めて口にする言葉――お父さんには言ったことがあるかもしれないけれど――に、少し違和感を覚える。そしてその違和感はどんどんと大きくなっていき、やがて彼女の全身を支配した。

 

「善子ちゃんはせっかちだなぁ……こういうのは自分で気づくからロマンチックなのに。……おめでとう、ルビィちゃん。まるは応援してるよ」

 

 トドメの一撃だった。ルビィの頭の中であのときのことが走馬灯のように駆け巡る。助けてもらったこと。生徒手帳を拾って一晩どうするか考えたこと。渡しに行ったら想像と違って優しい人だったこと。バイクに乗せて家まで送ってくれたこと。

 

 あぁ、そうだ、あの時私は、佐蔵さんの腰に抱きついて――

 

「ピ……」

「あっ」

「ピギィィィィ……」

「わー! ほ、保健室ー!!」

 

 そこまで考えたところで、ルビィの頭はオーバーヒートしてしまったようだ。いつもの金切り声すら出なくなり、机に突っ伏してしまったルビィは、二人の友人の手で保健室へと運ばれるのであった。

 

 

 

 

「ルビィ、どうしたらいいの…?」

「さ、さあ。私にはわかんないから……ずら丸はどうなのよ」

「お、おら!? おらもちょっと……」

 

 ショートしてしまったルビィを連れて、保健室へ来た善子と花丸。ルビィは程なくして目覚めたが、『おせっかいごころ』が湧き上がった二人は、一時間目の授業をサボる形でルビィに付き添っていた。

 

「何もったいぶってんのよ」

「い、いや、おらの話じゃなくて、今はルビィちゃんの話だから……」

「た、たしかに……ずら丸と一緒のことしてうまくいくビジョンが浮かばない……」

 

 花丸と善子はルビィにはわからない話をしていた。何かな、二人だけの秘密なのかな。そう思うと少しもやもやする気がしたが、今はそれどころではなかった。

 

「とにかく! まずは会ってお話するところからずら」

 

 善子ちゃんの言葉を遮って、花丸ちゃんがルビィの両手を握る。きっと勇気づけてくれてるんだろう。

 

「で、できるかな……」

 

 今までできなかったことだ。ジャージを返しに行った時すんなりできたのは、やはり『ジャージを返す』という目的があったからだろう。あの時、もうちょっと話ができれば少しは違ったのかもしれないが、今となっては後の祭りだ。迷惑じゃないだろうか、とか、やはり考えてしまう。

 

「心配なら途中までついてってあげるわよ」

「善子ちゃん…!」

 

 花丸が握ったルビィの両手に、善子も手を重ねた。

 

「途中まで、だよ?」

 

 花丸も、もう一度ぎゅっと握り返す。なんていい友達を持ったんだろうか。自然と笑みが溢れる。

 

「花丸ちゃん…! ありがとう!! 二人とも大好き!!」

「……これをその彼にできたら良いんだろうけど、そううまくはいかないわよね」

 

 善子の言葉に、ルビィは自分の顔が再び赤くなるのを感じた。そんな自分の様子を見てくすくすと笑っている二人が、ちょっぴり恨めしくもあった。




2018.10.2
しゅーゐちさん(@syu_ichi1125)から頂いた挿絵を掲載いたします。
「最近ね、ボーっとしちゃうことがすごく増えたんだ。それも決まって佐蔵さんのこと考えてるとき。またお話したいな、とか、バイク乗せて貰いたいな、とか。で、お願いに行こうと思って最近ずっと佐蔵さんの高校の前で待ってたりするんだけど、佐蔵さんの顔を見ると、胸がきゅーって痛くなって、動けなくなっちゃって……ルビィ、どうしちゃったのかな……」

【挿絵表示】

しゅーゐちさんありがとうございました!!


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5th episode

「ここずら?」

「……うん」

 

 その日の放課後、私達一年生は練習をお休みした。適当な理由をつけると、もしお姉ちゃんにバレたとき大変なことになりそうだったから、三人それぞれ別の理由。私は体調不良。これは朝保健室に行ったから、何もおかしなところはないだろう。お姉ちゃんが帰ってくる前に家に帰る必要はあるけど。花丸ちゃんはお家の用事、もし沼津に来ていたことがわかっても、必要なものを買いに来たとでも説明すれば通ると思う。善子ちゃんは……「私、今日ちょっとお休みするわ」と詳しい理由を告げなかった。まあ、善子ちゃんはたまにそういうことあるし、それで許されるキャラなので、問題はないだろう。

 

「そのサクラってのはどんなやつなのよ」

「えっと、暗い茶髪で、背は自販機くらいあって……」

「でっか!」

 

 そして私たちは狩野川(かのがわ)高等学校のすぐ近くまで来ている。流石に校門の目の前で待ち構える度胸はなかったので、少し離れたところから様子をうかがっているのだが、どうやら今日は終わりが遅いようだった。

 

 佐蔵(さくら)さんの特徴について善子ちゃんに聞かれたが、説明できるほどよく知らないことに今気がつく。ただ、自動販売機くらい大きな背の人なんて、なかなかいるものではないので、今の説明ですぐに分かるだろう。

 

「あ、たくさん出てきた!」

 

 どうやら今日は終業のチャイムは鳴らないようだった。高校三年生だから、もしかしたらチャイムは関係ないのかもしれない。今の時期、自由登校の学校だってあってもおかしくはない。

 

「どいつ!? もう出てきた!?」

 

 花丸ちゃんが大勢出てきた学生たちを指差し、善子ちゃんがそれを見ようと物陰から顔を覗かせる。いっぱい出てきて、ちょっと分かりにくいけど……

 

「……あっ!」

「いたのね!! どの辺!?」

「よ、善子ちゃん、がっつきすぎずら……」

 

 いた。見間違えるわけがない。ひときわ目立つその長身に、しばらくの間見惚れていた。が、善子ちゃんが、「見つけたなら隠れてる場合じゃないわ、行くわよ!」と私の手を引いて校門の方へ駆け出す。信号は生憎(あいにく)赤に変わったばかりだった。

 

「あーもう、ついてない。見失っちゃったらどうすんのよ!」

「あ、あの、佐蔵さん、多分バイクの駐輪場に行くと思うから、今見失っちゃっても大丈夫だと思うよ…?」

「あ、そ、そう、なのね……」

 

 慌てる善子ちゃんを諭すように話す。納得してはくれたみたいだが、若干善子ちゃんの顔がひきつってるように見えたのは気のせいだろうか。

 

「最近この辺かわいい子がうろついてるって話だったけど、君たちかな?」

 

 ふと、後ろから声をかけられる。嫌な予感がする。ルビィは直感的にそう思った。反応したら、ダメな気がする。

 

「おいおい、三人共無視しちゃうわけ? つれねーなぁ」

 

 どうやら花丸も善子も同じことを思ったらしく――もしかしたら声をかけられたのが自分たちではないと思ったのかもしれないけど――、何も反応がなかったことに少し腹を立てた様子で、信号待ちしていた私達の前に姿を見せた。

 

「たしかに可愛いね」

 

 三人組だった。ルビィが最初に絡まれた五人組とは、おそらく違う集団。しかし、同じ狩野川高等学校の制服を着ているのは間違いなかった。

 

「私達、忙しいんで。他を当たってくれませんか?」

 

 凛とした声で、三人組とは目も合わせず、善子が応えた。仕方なく、と言った様子で、言葉も短く、そして早口だった。

 

「なになに、怒らせちゃった? ごめんって。じゃあその用事が終わってからでいいからさ、一緒に遊ばない?」

 

 学生たちは、いかにも軽そうな態度で、馴れ馴れしくルビィ達に絡んできた。花丸は慣れていないようで、ルビィも一回経験があるとはいえ、そんなのは何の足しにもならず、萎縮してしまうばかり。善子は多少耐性があるのか、ふん、と鼻でため息を吐いて強い口調で切り替えした。

 

「あのね、あんた達にかまってる暇なんてないの。わかったら向こう行ってちょうだい」

 

 それがいけなかった。

 

「んだよこの女」

「ちょっと可愛いからっていい気になってんじゃねーぞ」

「三三だし、拉致っちゃう?」

 

 三人組はひどく腹を立てた様子で、口ごたえをした善子の腕をひっつかんだ。

 

「ちょ、ちょっと! 離しなさいよ!!」

 

 強く言えば興ざめして諦めるだろう。そう思っていた善子は自身の目論見が外れて少し慌てた。

 

『ダメよ、ここで弱気になんてなったら、ホントに連れてかれちゃう…!』

 

 ふと善子が横を見ると、ルビィと花丸が肩を寄せ合って怯えているのが目に入る。

 

『これは、まずいわね……どうにか言いくるめて、追い払わないと…!』

 

 先程のルビィの話を思い出し、善子はとっさにデタラメを言い始めた。

 

「あ、あんたらなんかね! ルビィの彼氏にギタギタにされちゃえばいいのよ!」

 

 その場にいる全員があっけにとられた顔をする。その直後、一人は真っ赤に、一人はその真っ赤を見つめ、三人は顔を見合わせて、それでもやめなかった。

 

「そんなん拉致っちゃえば関係ないっしょ」

 

 男の一人が笑いながらそう言う。他の二人もそれに同調したようだった。

 ダ、ダメか……これはもう、青になった瞬間学校の方まで……でもそれだとルビィと花丸はどうなるの? 逃げ切れる?

 善子のカードはもう残り少ない。一人ならまだしも、友達の無事もかかっているのだ、慎重にならざるを得なかった。

 

「何やってんだお前ら」

 

 その時だった。三人組の肩に、優しく手が置かれる。男たちははっとして、ぎこちない様子で振り返った。

 

「さ、佐蔵先輩……」

「こいつら、俺のツレなんだけど、なんか用か?」

 

 善子はものすごいプレッシャーを感じていた。こんなのに凄まれたら、自分だって動けないかもしれない。その茶髪で長身の男を見上げ、冷や汗を流す。

 

「い、いや……なんか道に迷ってたっぽくて」

「信号待ちしてたのにか?」

「えっと、その……」

「さっさと行け」

「す、すんませんっした!」

 

 茶髪の男に凄まれた三人組は一目散に逃げていった。ん? 茶髪で長身…? 善子は思う。どこかで聞き覚えのある特徴だな、そういえば、サクラ先輩って……

 

「さ、佐蔵さん…!」

 

 目の前に立っていたのは、まさに三人が探していた佐蔵晃太その人だった。

 

「どっかで見たことある赤毛だと思ったら……おい黒澤、何しに来たんだよ。危ねーっつったろ」

「ご、ごめんなさい……」

 

 佐蔵はルビィの目の前に立ち、まるで父親が娘に説教をしているかのような口調で咎めた。その様子を見て善子は、へえ、見かけによらず結構良いやつそうじゃない、と思う。

 

「あ、あの、助けていただいてありがとうございました」

 

 先程まで肩を震わせていた花丸が、その長い髪を翻し、深々とお辞儀をする。

 

「い、いや、別にどうってこと……」

 

 佐蔵はやはりこういうことには慣れていない様子で、頭をかく。そして小声でルビィに、こいつらは? と尋ねた。

 

「私のお友達です。国木田花丸ちゃんと、津島善子ちゃん」

「あ、私、国木田花丸です」

「ども。助けてくれて、ありがとね。津島善子よ」

「よ、善子ちゃん、佐蔵さん三年生だよ…!」

「えぇ!? そ、そういうことは先に言いなさいよ! す、すみません。助けていただいてありがとうございました」

 

 仲の良さそうな姿を見て佐蔵は、この二人が黒澤の言っていた友達のことか、と理解する。しかし、何故このあたりにその三人が来ているのか、それが不思議で仕方がなかった。

 

「あんまりそういうの気にしねーから好きにしてくれ。で、お前らなんでこんな所に? 学校帰りに遊びに来たって言っても、この辺なんかなんもねーぞ」

 

 すると、ルビィの体がビクンとはねた。そして善子と花丸は一歩後ずさる。

 

「ル、ルビィ、私達そろそろ行くから」

「と、途中までって約束だったけど、最後まで一緒にいちゃったし、これ以上はお邪魔かなーなんて……」

 

 あれ、と思ってルビィが振り返ると、二人の親友はびっくりするぐらい目が泳いでいた。

 

「そ、そんなことないよ! 二人とも……」

「じゃ、頑張ってー!!」

「応援してるずらー!!」

 

 もう少しだけ一緒にいてよ、と口にしかけたが、二人はそれよりも早く退散してしまっていた。もしかしたらルビィの逃げ足よりも早かったかもしれない。

 

「な、なんだ、あいつら……」

 

 佐蔵もあっけに取られた様子だ。

 二人とも行っちゃったけど、ここまでついてきてくれたんだ。頑張らなきゃ、とルビィは気合を入れ直す。

 

「あ、あの……」

「なんだよ」

 

 走り去っていった善子と花丸の方を眺めていた佐蔵だったが、ルビィに問いかけられて真下にいる小さな赤毛に目を向ける。

 

「あの、バ、バイクに、乗せて下さい!!」

 

 緊張しきったルビィにはこれが精一杯だった。色々ごちゃごちゃと話すと、何も伝わらないような気がしたし、なにより支離滅裂になってしまいそうで怖かった。

 

「……はぁ?」

 

 しばらくの沈黙の後、佐蔵は怪訝そうな声を上げる。

 

「えっと、あの、その、だから……」

 

 結局何も伝わらなかった、と焦るルビィは、身振り手振りを加えながら必死に説明しようとするが、上手く言葉にできない。傍から見るとただわたわたしているだけにしか見えなかっただろう。そんな様子に、佐蔵は自身が思ったことをストレートに伝えてきた。

 

「お前、もしかしてそのためだけにここにきたの?」

「えっと、は、はい……多分……」

「……ばっかじゃねーの」

 

 少し照れくさそうに、でも満更でもない様子で強がりを言う佐蔵。

 

「ぅゅ……」

 

 しかし、ルビィは強がりだと受け止めることはできず、ばか、と言われ少し凹んでしまった。

 

「OKOK、そんな顔すんな。乗せてやるよ」

 

 落ち込むルビィの様子を見て少し悪い気がしたのか、佐蔵は慌ててフォローを入れる。実際の所、バイクで走ること自体が好きな彼にとって、乗せてほしい、と言われるのは幸甚(こうじん)の至りであった。アシとしてではなく、純粋に乗せて欲しいと言われたのはおそらくルビィが初めてだろう。

 

「ホントですか!?」

 

 それを聞いたルビィはぱあっと顔を輝かせた。佐蔵は眩しくて目がくらむような感覚に陥るが、気を持ち直してルビィに尋ねる。

 

「テンションの上下激しいなおい。で、どこ行きたいんだ?」

「そ、それは……」

「まじでただ乗せてほしいってだけで来たのか…?」

「はい……」

 

 佐蔵は、予想外の所で言いよどむルビィに僅かな猜疑心(さいぎしん)を感じたが、その表情から嘘はついてなさそうということは見て取れた。それに、せっかくバイクに乗せてほしいって言ってきたやつを無下に断るのもな、と考える。

 

「……変わったやつ。んじゃ乗れよ。適当に走るから」

「あ、ありがとうございます!!」

 

 満面の笑みで返礼するルビィ。その純真そうな笑顔に、やはり佐蔵は照れくささを感じる。男子校で三年近くも生活しているせいか、女子ってこんなだっけ、と思った。そして、そういえば、とあの日のことを思い出す。

 

「それから、怖かったのかもしんねーけど、あんま強くしがみつくなよ。あれ地味に痛ーんだぞ」

「す、すみません……」

 

 そう言われたルビィは、まるでネムノキのように小さくなってしてしまうのだった。

 



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6th episode

 二人は駐輪場へ向かい、バイクにまたがった。今日は、偶然にも体育があった日で、さらに偶然にもジャージを持って帰ってきていたので、佐蔵のものを借りることはなかった。

 

 バイクの後ろに乗るのはやはり気持ちよかった。先程も叱られてしまったので、今回はあまりしがみつくことがないよう、佐蔵の腰に軽く手を添えてバランスを取ってみようとする。が、なにしろ乗るのは二回目だ。なかなかうまくいくものではない。結局佐蔵の腰にしがみついてしまうことになり、怒られないかと少しビクビクしていたが、彼は何も言わずバイクを走らせていた。

 

 十五分程度走っただろうか。浜辺が見える海岸通りで佐蔵はバイクを止めた。ヘルメットを外したので、ここで何かするつもりなのだろう。ルビィも慌ててバイクから降りる。ふと、海岸線の景色が視界に飛び込んできた。

 

「綺麗……」

 

 見たことのないサンセットだった。視界いっぱいに広がる水平線には、多少の船はあるものの、それを遮るものは何もない。そこに優しい橙色の夕陽が静かに落ちていく。海は朱に、空は薄紫にかわり、所々に浮かぶ雲は眩く輝く夕陽に紅く照らされていた。こんな幻想的な風景は、内浦では見られないかもしれない。

 

「間に合ったな。この時間しか見れねーんだ、ここの景色。まだガキだった頃、親父と走り込みして、この夕焼けを見るのが日課だった」

 

 ルビィの邪魔にならないよう、少し後ろで腕組した佐蔵が懐かしむように言った。そして少し海の方に進み、擁壁(ようへき)の上に腰掛ける。

 

「走り込み?」

 

 ルビィも佐蔵に倣って擁壁の上へと腰を下ろした。走り込み、ルビィも夏休みに浜辺で走った記憶がある。佐蔵も部活の練習かなにかだろうか。

 

「……陸上やってたんだよ。昔の話だ」

 

 やや間があって、佐蔵が答える。どことなく辛そうな表情だったが、ルビィはどうしてか聞かずにはいられなかった。

 

「やめちゃったんですか…?」

「……俺の話はいい。それよりお前、アイドルやってるらしいじゃねーか」

 

 佐蔵は首を横に振って強引に話を切り上げる。代わりに話題はルビィのことに移っていった。

 

「ええ!? 知ってたんですか!?」

「網元ってやつを調べた時になんか一緒に引っかかった」

「は、恥ずかしいです……」

「結構有名らしいな」

 

 こういう所、佐蔵は結構真面目らしい。でも、網元を検索してAqoursが引っかかるなんて、ルビィ達の力は意外なところまで及んでいるのかもしれないと思い、嬉しく感じた。

 

「えへへ……頑張りましたから…!」

「……廃校、残念だったな」

 

 先日廃校の話をした時とは明らかに違った、すべてを知ってしまったようなトーンで佐蔵がつぶやく。Aqoursが廃校を救おうと頑張っていたことを、そして、叶わなかったことを。

 

「…………」

「ま、しょーがねーよ。切り替えてけ切り替えてけ」

 

 私が何も言えずに押し黙っていると、佐蔵さんは手を二、三回叩きながら元気づけてくれた。こんな風に励まされたことははじめてで、体育会系の男の人なんだなと改めて思う。

 少し気が楽になったのか、ルビィは思いの丈をつらつらと語り始めた。

 

「……ルビィ、μ'sの花陽ちゃんにすっごく憧れてて、千歌ちゃんに誘われてスクールアイドルができてすっごく嬉しかった」

「……黒澤?」

「でも、でも……学校は……救えなかった……」

「…………」

「もっとルビィ達に魅力があったら、前回の大会で結果が残せてたら、廃校は阻止できてたのかな……」

 

 波の音が二人の間を通り過ぎていった。佐蔵は思う。自分より二つも年下の女子がこんなでかい目標を掲げていた。それだけで十分立派だ。そんなルビィがとても輝いて見えた。

 

「そんなのわかんねーよ」

 

 少女の悲痛な叫びは、青年の心を揺り動かすには十分すぎた。

 

「佐蔵さん……」

「終わっちまったことをくよくよしてても何も始まんねーから。しっかり前向いて、頑張るしかねーんじゃねーの?」

 

 Aqoursの今後を知ってか知らずか、佐蔵の言葉はじんわりとルビィの胸に染み込んでいく。

 

「そう、ですよね」

 

 そうだ、くよくよなんてしてられない。ルビィたちは、新しい目標に向かって、走り出したばかりだった。

 佐蔵が、まあ、どの口が言ってんだって話だけどな、とぼそっとつぶやいたのだが、どうやらルビィの耳には届いていないようだった。

 

「ありがとうございます……なんだか元気が出てきました! ラブライブに向けて、頑張るビィ!!」

「ぷっ、何だよそれ」

「ル、ルビィの必殺技です!」

 

 吹き出す佐蔵にルビィは慌てて解説を加える。

 

「何だよ必殺技って。ゲームのキャラかよ」

「ア、アイドルには必殺技の一つや二つ、必要なんです!μ'sのにこちゃんだって――」

 

 佐蔵にはその解説もよくわからなかったようで、ますます笑っていた。

 

「アイドルってのも大変なんだな、ははは!」

 

 お世辞や謙遜を言うでもなく、飾らない佐蔵との会話は、ルビィにとってはAqoursのメンバーと話すときのように自然体で、それでいて、なんだか新鮮な気持ちだった。

 

 それからはお互い、何も言わず、ただただ落ちていく夕陽を眺めていた。ルビィは、少しずつ夜の帳が降りていく様を、二人でずっと眺めているのはなんだか特別な気がしていた。だって、花丸や善子、姉であるダイヤとだってしたことがない。もしかしたら、こうして夕陽が沈んでいくのを最後まで見届けること自体初めてなんじゃないだろうか。ちらりと隣に座っている佐蔵を見ると、本当にこの景色を見るのは久しぶりなんだろう、懐かしさと、少しの切なさを内包した悲しげとも取れる顔をしていた。ふと、投げ出された左手が目に映る。この左手に、私の右手を重ねたら、一体どうなってしまうんだろう。そんな事を考える自分がいた。ちょっと手を伸ばしてみようとするが、緊張のせいか思ったように動いてくれない。何もしていないのに、心臓がどくどくと早鐘を打った。善子ちゃんの言うとおりだ。私、佐蔵さんのこと――

 そんなことを考えてる内に、夕陽は沈みきってしまっていた。

 

「帰るか」

 

 すくっと立ち上がった佐蔵が、ルビィに手を差し伸べる。ルビィはその手を取って、立ち上がり、お礼を言う。夕陽が沈んでも、空と海と、そしてルビィの両頬はまだ少し朱に染まったままだった。

 

 

 

 

 お姉ちゃんが帰ってくる前に家に戻らないと大変なことになると伝えると、もっと早く言え、と怒られてしまったが、佐蔵は無事ルビィを家まで送り届けた。

 とても急いだようで――スピード違反だったのかもしれないけど――、ダイヤはまだ帰ってきていない。もしかしたら生徒会の仕事や、鞠莉と一緒に学校の事について何か作業をしているのかもしれない。

 ルビィを降ろした佐蔵は、今日はもうこのまま帰るようで、フルフェイスのヘルメットはかぶったまま、ルビィに貸したヘルメットを後ろの座席にくくりつけ、バイクにまたがる。……これで、いいのかな。せっかく花丸ちゃんと善子ちゃんにも協力してもらったのに、ホントにこれでいいのかな。そう思ったルビィは、ちっちゃなハートのちっちゃな勇気を振り絞った。

 

「さ、佐蔵さん」

「ん?」

「また、会いに行ってもいいですか?」

「…………」

 

 佐蔵は、バイクにまたがったまま黙ってしまった。ヘルメットはルビィの方を向いているので、聞こえはしているんだろう。私は、これで終わりになんてしたくない。もっと佐蔵さんとお話がしたい。佐蔵さんのことをもっとよく知りたい。と強く思った。そう思ったら、もう一度聞き返すなんて簡単なことだった。

 

「ダメ、ですか…?」

「……そんな顔されたら、ダメなんて言えねーだろーが」

 

 佐蔵はヘルメットを外し、首を振って髪を整えた後、バイクから降りてルビィの方へと歩み寄った。

 

「じゃ、じゃあ…!」

「いいぞ、いつでも言え」

 

 佐蔵は、少しわがままで、人懐っこい妹ができたような気分だった。ルビィには姉がいるそうだが――その姉も一緒にスクールアイドルをやってるらしい――、生粋の末っ子気質なのかもしれない。表情や仕草一つ一つに庇護欲(ひごよく)を掻き立てられていることに今気がついたみたいだった。

 

「やったぁ!」

「ただし、校門の前で待ってるのはなしだ」

 

 こいつはホントに子供のように無邪気だな、と佐蔵は思う。いや、まだ子供か。俺も含めて。そして同時に、ピュアなやつなんだなとも思った。しかし、今日みたいなことが起きてしまうのは佐蔵としても避けたいところだった。前回も今回も、助けてあげられたのは本当に偶然だ。何かあってからでは、ルビィにも、その家族にも申し訳が立たない。そう思った佐蔵は、自分の懐をまさぐりながらルビィに提案をする。

 

「え、じゃ、じゃあ……」

 

 急に不安そうな顔になる。表情がころころと変わるのは少し面白いし、可愛げがある。しかし、あまりいじめても可哀想だ、と佐蔵はまさぐっていた懐からスマートフォンを取り出し、ルビィの方に差し出した。

 

「連絡先、よこしな」

「え? え?」

 

 佐蔵の顔と、スマートフォンを行き来しているルビィを見て、ちょっと言葉が足らなかったか? と佐蔵は少し反省をし、付け足した。

 

「乗りたくなったら連絡よこせ。暇だったら迎えに行ってやるよ」

「あ、あ、あ、ありがとうございます!」

 

 ちょうど家の場所もわかったし、と言う佐蔵に、ルビィは地面に頭をぶつけるんじゃないかという勢いでお辞儀をする。それはお辞儀なのだろうか、なんだか少し違うような気もするが。

 

「お前そればっかだな、ま、いいけどさ」

 

 佐蔵は苦笑しながら、ルビィの連絡先を登録した。

 

「それから」

 

 苦笑はそのまま、だが少し含みのある言い方で佐蔵が話を続ける。

 

「は、はい。何でしょう?」

「佐蔵って呼ぶの、やめてくれ」

「え、っと、じゃあ……」

「晃太でいいよ」

 

 ルビィが呼び方に困っていると、佐蔵はすぐさま、下の名前で呼ぶようにと告げた。

 

「晃太、さん……」

 

 ルビィはおずおずとその名を口にする。そんな、呼んでいいのだろうか、下の名前で。顔が熱い。きっと真っ赤になっているだろう。これほど今が夜でよかったと思ったことはない。

 

「ああ、佐蔵って字さ、佐藤と似てるだろ? よく間違えられるからあんま好きじゃねーんだよな。それにサクラってなんか女っぽいし」

「ふふっ」

 

 理由を聞くとなんだか子供みたいで少し笑ってしまった。こういう可愛い――って言うと怒られちゃうんだろうけど――ところもあるんだなと思う。でも、その様子はやっぱりお気に召さなかったようで、その鋭い眼光で睨みつけられた。

 

「笑ったな?」

「あ、いえ! 笑ってないです!」

 

 ルビィはとっさに否定する。肯定は……どちらにせよできなかっただろうが、怒ってはいないようだった。少し上がった口角がそれを物語っている。

 

「じゃあ、ルビィのこともルビィって呼んでください!」

 

 代わりにルビィからも一つお願いを。私だけ下の名前で呼ぶなんて、ちょっと不公平だよね。なんて屁理屈を付けて、軽く、押し付けがましくないように、努めて平静を装ってお願いをしてみた。

 

「しゃーねーな。んじゃルビィ、またな」

「はい! また!」

 

 早速呼んでくれた嬉しさに頬が緩む。今日、勇気を出して一歩を踏み出せて本当に良かった。花丸と善子にも感謝しないと。と、心の底から思う。

 ヘルメットをかぶり直した晃太はバイクにまたがり、ルビィに向けて手を上げ、出発することを告げると、先程二人で走ってきた道を戻っていった。ルビィは、その赤いテールランプが見えなくなるまで、走り去る晃太を見つめ続けていた。



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7th episode

「えへへ……」

 

 ルビィはスマートフォンを眺めながら、自分の机で惚けていた。

 

「ねえ、善子ちゃん」

「皆まで言うな、ずら丸よ」

 

 目の前には、ナイスアシストを決めた二人の選手が立っている。

 

「迎えに行ってやるよ、かぁ…!」

 

 しかし、ルビィはそんなことお構いなしだ。心なしか、目の下にクマができているようにも見える。

 

「でも、やっぱりそうだよね」

「ま、レアなルビィが見れていいんじゃないの?」

 

 やれやれ、と言った様子で善子と花丸は顔を見合わせた。レア、というよりも、初めて見る顔かもしれない。

 

「あ、でも、連続でなんて迷惑だよね……」

 

 晃太と連絡先を交換したことのがよほど嬉しかったのか、ルビィは昨晩あまり眠れなかった。ベッドには入ったものの、晃太の連絡先を開き、画面が消灯状態になるまで眺めてはまた起動しを繰り返し、まるで禅問答のようだった。

 

「上手く行ったんだろうけど……こんなの他のAqoursメンバーに見せられないよ」

「鞠莉なんかに見せたら思いっきりからかわれそうよね」

 

 しかし、親友二人から見ても、今の彼女は明らかに異常だ。このままではメンバー中に知れ渡るのも時間の問題。いや、時間の問題にするほど時間がかからないかもしれない。

 

「ぅゅ……でも、どんなタイミングで連絡したら良いんだろ……困ったなぁ……」

 

 当の本人は全く自覚がないようで、どうやら今はどうやって次の約束を取り付けようか、というステージまでたどり着いたようだった。一晩経ってこれだ。落ち着くまでにはあと何日かかることやら。

 

「思いっきりからかってた善子ちゃんが言う?」

「なによ、ずら丸も一緒になってやってたじゃない」

 

 善子と花丸はと言うと、親友がこれほどまでに幸せそうにしている姿を見て、本当は素直に祝福してあげたいのだが、若干、後悔していなくもなかった。ちょっと、上手く行き過ぎたのかもしれない。

 

「それは……そうだけど……」

「いやまって、ずら丸もからかうくらいなんだから、Aqours全員からからかわれる可能性が…!」

 

 これは、まだまだ私達が力を貸してあげる必要がありそうだ。二人とも、全く同じことを考えていた。とりあえず今は、ルビィを落ち着けることが先決だ。いつもなら早く来てほしい放課後だったが、今日に限っては来るなと思うばかりだった。

 

 

 

 

 変なやつに懐かれてしまった。

 ウチの高校の奴らに絡まれていた小さな女の子。最初は――制服姿を見るまでは――小学生かと思っていたが、実は高校生だったのには驚いた。そしてなにより、あんな小さくておどおどしたやつがアイドルやってるなんて、何かの間違いじゃないかと思った。

 気になって幾つか動画を見てみたが、そこには俺の知ってる黒澤ルビィと同じ顔した別のやつがいた。本当に同一人物なんだろうか、とも思ったりしたが、きっと同一人物なんだろう。ギャップを感じずにはいられなかった。ステージの上ではスイッチが入るタイプなんだろうか。

 

 歌とか踊りとか、ましてやアイドルになんて全く興味のなかった俺だったが、ルビィが所属しているAqoursを見て、少し調べてみたりもした。どうやらこないだ言っていた『ラブライブ』とやらは甲子園のようなものらしい。地区大会があって、県大会があって、そして全国大会がある。先日行われた県大会をAqoursはみごと一位で通過し、全国大会に駒を進めたみたいだ。どうせコピーバンドみたいなものだろうと高をくくっていたのだが、そのパフォーマンスを目の当たりにした途端、急にウチの軽音楽部が安っぽい部活に思えてしまった。

 

 ルビィとは、あれから連絡をとりあうことが増えた。乗せて欲しくなったら連絡しろ、とは言ったが、そうでなくても連絡していいとは言ってないんだが――そうでなければ連絡するなとも言ってないが――、なんてことない連絡や近況がたまにメッセージアプリを通じて送られてくる。別に無視してもに良いはずなのだが、あのがっかりした表情を思い出すと、指が自然と動いてしまうのだった。

 

ぴろん

 

 デフォルトから変更していない味気ない着信音が通知する。どうせルビィだろう。

 

「なになに……今日は部活で苦手なステップが上手にできました、ふーん」

 

 ルビィから届くメッセージは概ね部活のことか、友達――国木田花丸と津島善子――のこと、あとお姉ちゃんのことも多い。当初言っていたバイクに乗せてくれと言うのは一度も来ていないが、どういうことなんだろうか。

 なんて返そう。あまりそっけない返事で悲しませるようなことをしたいとは思わない。

 

「かといって、苦手なステップって言われてもなぁ。俺見たことねーからなんとも言えねーし」

 

 よかったな、ラブライブ頑張れよ。ダメだ、これはこないだ送った。すごいじゃないか。うーん、すごいかどうかもわからないのに無責任すぎないか? 毎回こうだ。返事が思いつかなくて結局寝落ちしてしまう。

 

「今日ぐらいは今日の内に返事してやんねーとなぁ」

 

 ルビィは無邪気すぎてどうにも年相応に見えない。もし、俺に年の離れた妹がいたとしたらこんな感じなんだろうかと思う。ただ、もしそうだとしても毎回毎回次の日になるまで返事できないのは良くない。しばらく考えてから、とりあえず今回は、良かったな。次もうまくいくと良いな、と送っておくことにした。

 

ぴろん

 

 再び通知。ルビィからだった。今度は先程の返事として、ありがとうございます、と、晃太さんも頑張ってください。そして、あいつの『頑張るビィ』に似たポーズをした動物の画像が送られてくる。よくこんなの見つけてくるなと感心した。

 

「頑張れって、俺部活やってないんだけど」

 

 ルビィはきっと、部活のことに対して頑張れと言ってきているわけではないんだろう。部屋の隅に飾ってある盾やトロフィーが、恨めしそうにこちらを見ている気がした。

 

「無理だって、今更」

 

 何度も反芻(はんすう)した言葉を再びつぶやく。もう、いいんだ。それに俺にはバイクがあるじゃないか。そう思った途端、無性に走りたい衝動に駆られた。ルビィのせいだ。俺はルビィに、お前のせいで走りたくなったから走ってくる、とメッセージを残し、スマホをポケットへと滑り込ませる。きっと次開いたら謝罪のメッセージが何件か入っているんだろう。そしたら出先で撮った写真でも送ってやるか。そんなことを考えながら、俺はドラスタが置いてある車庫へと向かうのだった。

 

 

 

 

 あれからまたしばらく経った。日中、晃太から返信が返ってきたりすると嬉しさを隠しきれていないルビィであったが、一応メンバー間でも話題になることはなかった。どうやら善子と花丸はなんとかルビィの調教に成功したらしい。メンバーくらいならなんとかごまかせる程度にはなっているようだ。

 

「ルビィ、ちょっと宜しいですか?」

 

 ただ一人を除いて。

 

「ふぇ…? お姉ちゃん?」

 

 襖を隔てて楚々(そそ)とした声がルビィに呼びかける。

 

「お話したいことがあるので、入ってもいいですか?」

 

 なんだろう、珍しい。勉強机に向かっていたルビィはすぐさま襖を開ける。そこにはお茶とお菓子を乗せたお盆を持つ、部屋着姿の姉が怖いくらい優しい顔をして立っていた。

 し、しまった。ルビィは直感的に身構える。この表情はお説教をするとき――勝手にお姉ちゃんのプリンを食べてしまったときなんかがそうだ――にすごく似ている。しかし、よく見るとお盆にはダイヤの大好物である抹茶プリンと、ルビィの大好きな洋菓子屋さんのスイートポテトが。怒られるわけではない、のだろうか。

 開けてしまった手前、やっぱダメ、なんてことを言うわけにもいかず、そのままダイヤを招き入れた。

 

「……座らないのですか?」

 

 少し、様子を見がてら立ち尽くしていたルビィにダイヤが声をかける。いつもと調子が違うため、得も言われぬ気持ちが沸き立つが、ルビィは素直に従い部屋の中心に置いてあるちゃぶ台の前に着座した。

 

「あ、お茶とお菓子を持ってきましたの。ルビィの大好きなスイートポテトですわよ」

「あ、ありがとう……」

 

 召し上がれ、とダイヤはルビィにお茶とお菓子を差し出す。普段なら大喜びするところなのだが、今日のところはどうにも勘ぐってしまう。なにか、あるぞ、これは、と。

 

「あら、あまりお腹減っていませんでしたか? 最近勉強も頑張っているようでしたし、差し入れついでに少しお話しようかと思ったのですが……」

 

 少し残念そうに顔を伏せたダイヤを見つめ、お姉ちゃんはよく見てるな、とルビィは思う。実際の所、最近勉強机に向かう時間はとても増えた。ただそれは、実は晃太から返事が来るまで宿題をし、返事が来たらそれに返信し、また返事が返ってくるまで宿題の続きをするといったとても不純な理由、なのだが。

 

「そ、そうかな…?」

「私の所にあまり聞きに来なくなったので、はじめは遊んでいるのかと思いましたが、頑張っているようで何よりです」

 

 流石私の妹、とダイヤは嬉しそうに語る。晃太からの返事を待っているので、ダイヤの所に聞きにいくなんてできないし、そもそも机に向かっている動機が動機なだけに胸が痛んだ。

 

「練習でも調子良さそうですわね。今日のあのステップ、すごく上手くできていたと果南さんも褒めていました」

 

 これは素直に嬉しい。自分でも、晃太に報告してしまう程度には上手くできたという自負があっただけに余計だ。飲み込みの早い善子ですら苦戦していたステップだったことも、彼女より先に習得できたという自信につながっていた。

 

「衣装作りにもだいぶ貢献しているようですわね。曜さんも感謝していましたわ」

 

 そういえば放課後、全体練習がおやすみのときとか、ユニット練習のはずが千歌が梨子に捕まってしまって――言い方が悪い。悪いのは千歌ちゃんだ――、曜と二人になってしまったときとか、衣装作りを手伝っていた。曜のスピードには全然ついていけないけど、そんなふうに思ってくれていたのはすごく嬉しい。手伝って良かったと思う。

 

 思えば、ここ最近様々なことにおいてとても調子がいいことに気がついた。部活でのこともそうだが、勉強をしていても集中力が続いている気がする。もちろん晃太から返事が来た時はそちらに意識が向いてしまうのだが、またすぐ戻ってこれている。朝もダイヤに置いていかれることが減った。目覚ましよりも早く起きるようになって、アラームをかけるのをやめたのはつい先日からだ。

 

「私、正直驚いていますの。急にルビィが『()()』になってしまったような気がして」

 

 ダイヤは緑茶を一啜りして、言葉を切る。そしてルビィをまっすぐ見つめ、こう言った。

 

「なにか、きっかけでもありましたの?」

 

 ルビィは雷に打たれたかのような錯覚に陥った。ダイヤは藪から棒にこんなことを聞いてくるような人間ではない。果南や千歌のような鋭い嗅覚は持っていないし、鞠莉のようにカマをかけてくることもしない。が、逆に言うと、こう聞いてくるということは、自分の中に何か根拠がある、そういうことだった。

 

ぴろん

 

 ルビィが何も言えずにいると、幸か不幸か、ピンクのスマートフォンがメッセージの受信を知らせる。

 

「電話、鳴っていますわよ」

「う、うん……」

 

 ルビィはやおら立ち上がって勉強机の上に置いてあるスマートフォンを手に取る。晃太からだった。ちらりとダイヤの様子を伺ったら目があってしまい、少し気まずい。

 

「お返事、してあげて下さい」

「わ、わかった」

 

 ルビィはささっと晃太への返信を綴る。慌てたからか、晃太さんも頑張ってください、なんてよく意味の分からない事を返信してしまったが、頑張るビィのポーズでごまかしておくことにした。

 

「お返事、したよ」

 

 そういってルビィはちゃぶ台の上にスマートフォンを伏せて置く。もう音がならないようにサイレントモードにしておいた。ダイヤは一瞬スマートフォンに目をやったが、すぐに視線をルビィへと戻した。

 

「そう」

 

 沈黙。普段なら別に気にならないはずなのに、今日の沈黙はとても重たかった。ダイヤからは怒りとも取れるプレッシャーを感じる。おかしい、さっきまで、私は褒められていたはずなのに。何か間違ったことをしたのか、どこか可怪しいところがあるのか、重圧に耐えきれなかったルビィは、恐る恐るダイヤに尋ねた。

 

「変、かな……最近のルビィ……」

「あらルビィ。変、と言うのは少し字が間違っているのではなくて?」

「?」

 

 対するダイヤは、悪戯な笑みを浮かべて手に持っていたスプーンを置いた。ルビィはダイヤの言っている意味が理解できず、小首を傾げる。その様子に、ダイヤはますます意地悪そうな顔で続けた。

 

(なつあし)ではなく、(こころ)なのでは?」

 

 なつあしじゃなくて、こころ…? 字が間違って……

 

「おおおおおお姉ちゃん!?」

 

 気づいたときにはもう真っ赤になっていた。

 

「ふふふ、どうかしましたか?」

 

 珍しくダイヤが破顔する。その顔は、さっきまでの威圧的な雰囲気とは打って変わって和やかで優しげなものだった。

 

「い、いつから…!?」

 

 慌てふためくルビィを他所に、ダイヤは呆れと母性の混じったため息を吐き答えた。

 

「わかりますわよ、何年ルビィのお姉ちゃんやっていると思っているの?」

 

 あ、う……さすがはお姉ちゃんだ……やっぱり隠し事なんて、できないんだな。ルビィは改めてそう思う。

 

「ごめんなさいね、意地悪をしてしまって。ですが、お姉ちゃんにも相談できないことができてしまったことにちょっと寂しさを感じてしまって……」

 

 申し訳なさそうに言うダイヤだったが、その表情は全然申し訳なさそうではなかった。そして、しょんぼりしているルビィを見て、こう付け加える。

 

「私も、恋愛経験はありませんのでいいアドバイスができるかはわかりませんが、話くらいなら聞いてあげることはできますから」

「……へ?」

「思い煩ってる妹に救いの手を差し伸べるのは姉として当然のことですわ!」

 

 ダイヤの目は、エリーチカのことを話しているときより輝いていたかもしれなかった。



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8th episode

 十一月も終わりに差し掛かり、季節は冬本番。あまり雪がふらない程度には暖かな気候の静岡でも、流石に寒さが(こた)えるようになってきた。一番上の防寒着にはフードのついたアッシュブラウンのポンチョコートを選び、茶色のショートパンツとロングブーツの間にはわずかに太ももが見える隙間がある。いわゆる絶対領域というやつだ。トップスにはフレア調でベージュのものを合わせた。裾には赤い刺繍(ししゅう)が施されている。

 

 ちょっと地味すぎるかもしれないけど、派手すぎるほうが良くないというのはダイヤだ。先日はヘルメットを被った時に結った髪があたって痛かったから、今日は思い切って髪をおろした。世の中には『ギャップ萌え』という言葉があるらしく、コンタクトだった人のメガネ姿や、いつも髪を結ってる人のおろしてる姿なんかが好印象を与えることがあるらしい。ルビィもそれに倣ってみようと少しだけ期待していた。

 

「緊張してきちゃった……」

 

 ルビィは、手に持ったチケットをきゅっと握りしめる。熱海に新しくできたふれあい型の動物園の招待券。父親がもらってきたものだ。お姉ちゃんと行ってきなさい、と言ってくれたものだったが、ダイヤは、ここが正念場だから遊びに行くのはもう少し先にします、とウィンクしながらルビィに譲ってくれた。

 ルビィはすぐに晃太へ連絡した。お父さんが動物園の招待券をもらったんですけど、よかったら一緒に行きませんか? 嘘はついていない。そっちの友だちと行ってこいよ、と言われるんじゃないかと少し不安だったが、二つ返事で快諾してくれた。

 

「大丈夫、大丈夫だから……」

 

 それからというものルビィは家でも学校でも大騒ぎだった。すぐに美容室を予約して髪を整えてもらい、ダイヤとは当日着ていく洋服の相談をし、花丸と善子とは行った先で何をするのか、何時に出発して何時に家に帰ってこれるのかを休み時間中ずっと考えていた。

 

 バイクについても自分なりに調べてみた。どうやら二人乗りのことは『タンデム』と呼ぶらしい。格好にも向き不向きがあるみたいで、スカートはひっくり返って中が見えてしまうからやめた方が良いんだとか。それもあって、最初はミニスカートを考えていたが、急遽ショートパンツに変更した。思い出してみると、晃太に乗せてもらった時は必ず制服の下にジャージを履かされていたような気がする。あれは晃太なりの気遣いだったんだ、と思うと胸が暖かくなった。

 カーブでの体重移動も、自分でバランスを取ろうとするとすごく運転しにくいから、運転者の腰か服にしがみついて、バイクの動きに身を任せるのが一番なんだそうだ。後ろから運転者を抱え込む体勢のことを『カップルホールドオン』と呼ぶ。と書いてあったのを見た時はしばらくの間ベッドの上で悶てしまった。今思い出しただけでも顔が熱くなる。

 と、その時、目の前に見覚えのあるバイクが停車した。

 

「悪ぃ悪ぃ、ちょっと道混んでた、わ……」

 

 晃太だった。黒のレザージャケットに青いジーンズ。ジャケットからは灰色のフードが覗いている。なんだか歯切れが悪い。

 

「あ、全然大丈夫です」

 

 そう言ってルビィは晃太の元へ駆け寄った。

 

「髪……」

「えっ」

 

 晃太はルビィをじっと見つめてつぶやいた。

 

「今日は、おろしてるんだな」

「え、あ、は、はい! その、えっと……」

 

 突然髪型のことを聞かれ、ルビィはあたふたしてしまった。

 

「い、一瞬誰かと思ったわ! まあ縛ってるとヘルメットかぶりにくいし、どうせ今日もおろしてもらうか、下の方で結んでもらおうかと思ってからちょうどよかった」

 

 晃太はそう言って後ろの席にネット固定してあるヘルメットをルビィに差し出す。ルビィは、この間貸してもらったのと形が違う事に気づいた。この間のは自転車のヘルメットみたいな形だったのに対し、今晃太が手に持っているのは晃太と同じフルフェイスのヘルメットだ。

 

「それ、家に余ってるのがあったからお前にやるよ。半ヘルじゃ顔しんどいだろ」

 

 ルビィが受け取ったピンクのフルフェイスは表面の光沢が損なわれておらず、また、バイザーも経年劣化を感じさせない、まるで()()かのようだった。

 

「いいんですか!?」

「あまりもんでよければな」

「あ、ありがとうございます!!」

 

 ルビィは大事そうにそれを抱え、まるで我が子のように撫でる。晃太もその様子を見てなにやら満足げな様子だった。しかしそれも一瞬で、すぐに意地悪な表情に変わる。

 

「で? お前、まさかその格好で(いち)時間も後ろに乗ってるつもりじゃないだろうな?」

「え、え? そ、そのつもり、だったんですけど……」

 

 晃太は、はぁ、とわざとらしくため息を吐いて、サイドポーチから黒いジャケットとスカーフを取り出した。スカーフはどこにでもあるような至ってシンプルなもので、ジャケットはまさに晃太が今着ているような革製のものだ。

 

「これ着ろ」

「えっと、これは…?」

「ライダースジャケット。俺のだからだいぶぶかぶかだろうけど、その辺は我慢しろ」

 

 ルビィが抱えるヘルメットの上にジャケットを置く。それでもぽかんとしているルビィを見て呆れ顔で続けた。

 

「お前さぁ、これまで二回乗ってきて、寒かったとかなかったの?」

「え? あ、ちょっとは思いましたけど、そんなには……」

 

 まじかよ、と晃太がつぶやき頭をかく。そして半分諦めたような顔で説明をした。

 

「沼津からお前んちはそこまで距離があったわけじゃないからあんま感じなかったかもしれねーけど、熱海は結構あるぞ。その間ずっと風にさらされるわけだからな。上着の中にそれ着ればちったあ風しのげるだろ」

 

 自分なりに調べてきたのに、全然気が回らなかった。調べてきたんです! なんて言わなくてよかった……そう思ったルビィは、そんな恥ずかしさと、そして晃太の優しさに体が熱くなった。今ならこれ着なくても大丈夫なんじゃないかな、なんて思ったりもした。

 

 言われた通り、ルビィはポンチョの下にジャケットを着て、ヘルメットをかぶる。フルフェイスのヘルメットはちょっと視界が狭くて、でもレーサーになったような気分になって少し新鮮だ。後ろの座席に座り、しっかりと晃太の腰にしがみついた。一瞬、『カップルホールドオン』の言葉が頭をよぎって、また少し体温が上がった気がする。

 沼津から熱海までは意外と近くて、高速道路を使わなくても一時間ぐらいで着いてしまう。一時間、長いようで短い。普段走ったことのない道の景色は目新しくて見入ってしまった。待ち合わせ場所から東に向かい狩野川を渡る。函南(かんなみ)を過ぎた辺りからだんたんと山がちになっていった。熱海市に入った頃には完全に山道になっていて、くねくねとした坂道を晃太は器用に曲がって行く。ここを抜けたら、動物園はもうすぐそこだ。

 

 

 

 

「お前さ」

 

 動物園に到着して、ルビィ達は招待客専用の入口から園内に入場した。できたばかりということもあってかとても賑わっていて、小さな子供連れが多いように思う。

 晃太は、中にはいってしばらく歩いてから、ぼそっとつぶやくようにルビィに声をかけた。

 

「もしかして、バイクの乗り方調べてきた?」

 

 どきっとして、体が跳ねる。そんなルビィの様子を見て、晃太は何かを悟ったような顔でルビィの頭をくしゃくしゃと撫でた。

 

「わ、わ、わ…!」

「可愛いとこあるじゃねーか!」

 

 ルビィはしばらく撫で回されて乱れてしまった髪を手ぐしで()きながら、なんでわかったのか尋ねた。

 

「そりゃあな、すげー運転しやすかったし。お前、こないだまで自分でバランス取ろうとしてただろ」

 

 図星だ。

 

「後ろ専門のやつは運転手にまかせとけばいいんだよ。今日はよかったぞ」

 

 晃太は満足げに笑うと、一度ぐっと伸びをして一人奥へと進んでいった。ルビィはその表情に少し心ときめかせ、零れてしまいそうになった笑みを必死でこらえる。そして慌てて先に行ってしまった晃太を追いかけるのだった。

 園内は、思っていたほど広くはなく、ところかしこに背の低い柵で囲われたエリアが設けてあった。餌やり体験がメインの催しのようだ。

 

「あ! 晃太さん、あの建物うさぎさんがいるみたいです!」

 

 園内入り口で手にとったパンフレットを眺めながら丸いドーム状の建物を指差す。

 

「うさぎさんて……行きたいのか?」

「はい!」

 

 ルビィはウサギには少しだけ思い入れがあった。以前、動物園の手伝いで、ふれあい広場の担当になった時にお世話をしたことがある。

 

「うさぎさんって、とっても可愛くて、とっても暖かいんですよ。晃太さんも抱っこしてみたりしましょうよ!」

「えぇ……俺はいいよ」

「そんなこと言わずに! 行きましょう!」

「お、おいちょっと!」

 

 ルビィは億劫そうにする晃太の手を引っ張って室内へと入っていった。

 

「わぁ…!」

 

 ドームの中は意外と広かった。そこにはウサギだけではなくヒヨコやモルモットのふれあいコーナーも設けてあり、それぞれ触ることができるようになっていた。

 

「ひよこさんもモルモットさんも可愛い……」

「お前、こういうの好きそうだもんな」

「はい!」

 

 晃太は何となく、そう思う。それに対してルビィは屈託のない笑みで応じ、晃太の顔もほころんだ。

 

「うさぎさんのところ、行ってもいいですか…?」

「好きにしろよ」

 

 晃太は、ここまで手を引っ張ってでも連れてきた勢いはどうしたんだ、と口から漏れそうになったがそれをこらえた。そしてすぐに、ダメ、と言う選択肢が最初からなかったことに気がついた。やっぱりこいつはずるい。そんな顔されて断れるやつなんているんだろうか。いたとしたら相当神経の太いやつだろう。そんな事を考えながら、不安げな顔から一転、意気揚々とウサギの元へ向かうルビィの後ろをついていった。

 

「うさぎさん、可愛いなぁ」

 

 柵の中に入ったルビィは、興味津々といった様子で近づいてきた一匹の白ウサギをしゃがんで抱きかかえる。白ウサギは目を細め、ルビィの腕の中で気持ちよさそうにくつろいだ。

 

「お名前は何て言うの?」

 

 そう優しく語りかけた。返事が返ってくるわけないなんてことはルビィにもわかっているんだろうが、思わず口にしてしまったんだろう。そんなルビィを見て、晃太は穏やかな気持ちになる。

 

「晃太さんも抱っこしてみましょうよ!」

「いやだから……」

 

 まだ柵の外で突っ立っていた晃太にルビィが手招きした。

 

 俺はいいって言っただろ、と言いかけて、それをやめる。せっかくここまできたんだ、と思い直す。

 

「……どうやったらいいんだ?」

 

 その言葉にルビィは目を輝かせる。晃太はルビィのそばで膝立ちになり、教えを請うた。

 

「うさぎさんは、抱っこされるのが苦手な動物さんなので、優しく触ってあげてくださいね」

「へえ、そうなのか。ペットにしてるっていうのもよく見かけるし、もっと人懐っこい動物かと思ってた」

 

 ルビィは抱えていた白ウサギを一度地面におろし、優しいタッチで背中を撫でながら晃太に説明を始めた。

 

「えへへ……ルビィ、一回だけAqoursで動物園のお手伝いさせてもらったことがあるんです。その時に飼育員さんに教えてもらって」

「なるほどね。んで、抱っこするにはまずどうするんだ?」

 

 晃太は、アイドルと言っても、歌って踊るだけじゃないんだな、まるでプロのようだ、と感心する。こういった地道な活動の積み重ねの上に今のAqoursがあるんだろう。そう思うと、なんだか途端にルビィがすごいやつのように思えてきた。

 

「まず、晃太さんもうさぎさんの体を撫でてあげて下さい。耳から背中にかけて優しく撫でてあげるとうさぎさんもリラックスします」

「こうか…?」

「ふふ、晃太さんもっと落ち着いて。緊張してると、うさぎさんも警戒しちゃいますよ」

「わ、わかった……」

 

 晃太は一度深呼吸をして心を落ち着けた。そしてウサギの背後へ回り、言われたとおりに耳から背中にかけて、ゆっくりそうっと撫でる。そうして優しく撫でている内に心なしかウサギも目を細めてうっとりしてきたような気がした。気持ちよさそうにじっとその場に丸くなる。

 

「おお、なんかこいつリラックスしてるなって俺でもわかるぞ」

「いい感じですよ♪ じゃあ次はお腹に手を入れて持ち上げてみましょう」

「も、もう持ち上げるのか?」

 

 晃太は少し動揺したようだった。

 

「大丈夫ですよ。うさぎさん、もうすっかり晃太さんに慣れてますから。きっと他のお客さんにも触られたりして、人に慣れてるんだと思います」

「なら良いんだけど……」

 

 そう言って、撫でていた手を止め、お腹の辺りに恐る恐る手を入れる。

 

「そうですそうです。うさぎさん、体がやらかくてフニャってしてますけど、しっかり持ってあげて下さい。びっくりしないようゆっくりと持ち上げるのがポイントです」

 

 晃太は言われた通り、おっかなびっくりと言った感じでそーっと持ち上げる。

 

「お、おいルビィ! 次はどうしたらいい!?」

「片方の手を離してお尻を支えてあげて下さい。そしたらそのまま抱きかかえるように自分の方へ……」

「こうか!?」

 

 半分パニックになりながら、それでも晃太はがっしりとウサギを抱え込んでいた。少しぎこちないが、腕の中のウサギもまんざらではなさそうだ。

 

「上手です!」

「ほ……」

 

 ルビィのその言葉に、晃太はほっと一息つく。きっとそのせいで抑える力が緩んでしまったんだろう。ウサギはぴょんと晃太の腕から飛び出し、そのままウサギたちの輪の中に戻っていってしまった。

 

「あっ……」

「行っちまった……」

 

 その行く先を見て晃太は少し残念そう。そんな晃太を見て、ルビィはにっこりと笑ってみせた。

 

「でも、上手に抱っこできてましたよ!」

「そ、そうか…?」

「はい!」

 

 戸惑ったような声を上げる晃太だったが、その表情はどこか満足気にも見えた。



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9th episode

 それから二人はヒツジの餌やり体験やレッサーパンダのガイドショーなどを堪能した。アルパカのコーナーでは何やら真剣に観察していたルビィであったが、もこもこのアルパカを見ている内に晃太もその愛らしさに癒やされたような気がした。

 ひとしきり回り終え、昼食も食べ終わったのでそろそろ出ようか、そんな頃合いだった。二人組の大人が晃太とルビィに近づき、声をかける。

 

「すみません。今、動物園に来ている方に取材をしてるんですけど、少しお話いいですか?」

 

 どうやら新しい動物園の取材に来ていたレポーターのようだ。よく見ると、そのうちの一人はハンディカメラを手に周囲を撮影している。ハンディカメラなあたり、大きなテレビ局ではなさそうだが。

 

「え、ど、どうしよう……」

 

 困惑した様子で晃太を見上げるルビィ。

 

「別にいいんじゃねーの? 俺たち、一通り回ったから大抵のことは話せるだろうし、それにお前、Aqoursの宣伝するチャンスだぞ」

「た、確かに!」

 

 ルビィはぴょんと飛び跳ねて晃太に従った。本当に小動物みたいな動きをする。晃太は、兎なんかの小動物が好きなのは同族だからなのだろうか、と思った。

 

「ありがとうございます! では、この動物園でおすすめのデートスポットについて教えていただきたいのですが、カップルでご来園のあなた方は、どこが一番デートに最適だと思われますか?」

 

 なにやら雲行きが怪しい。

 

「カカカカカカカ…!」

 

 ふと隣を見ると、壊れたロボットのように同じ文字を繰り返す、顔を真っ赤にしたルビィがいた。こいつはもう使いもんにならねーな。と悟った晃太は、仕方なくレポーター達に弁解する。

 

「えっと、すみません。俺たちそういうんじゃなくて……」

 

 それを聞いたレポーターははっとした顔で謝罪をした。そしてそそくさと逃げるように去っていく。その迅速さに、晃太はあっけにとられ、しばらくの間立ち尽くしてしまった。

 

「…………」

「……なんでお前が落ち込んでんだよ」

 

 無表情になっているルビィに気づく。心なしか少し口をとがらせているように見えた。

 

「いえ、なんでもないです」

 

 ルビィはこちらには一切目を向けず、早口でそう答えた。ふてくされてるのがバレバレなんだが、感情がすぐ表に出るところがまた子供っぽくて少しおかしい。

 

「いや、俺も何かこうスッキリはしねーけどさ、間違っちゃいねーだろ」

「そうですね」

 

 ガキかよ、と少し面倒くささを感じる晃太だったが、ここでいじってもいいことはないだろうと、レポーターたちをフォローする――いや、元はといえばあいつらが悪いんだからこの言いようは間違ってたのかもしれない――が、それでもルビィの気は収まらないようで、少し不満げに、そしてどこか寂しそうにうつむいて答えた。

 はあ、と心の中でため息をつく。どうやらこのままでは帰れそうにない。晃太はルビィの頭をくしゃりと撫でると、行くぞ、と言って園の出口へと向かった。

 

 

 

 

「あの……ここは…?」

 

 動物園を後にし、バイクまでたどり着いても表情に変化のなかったルビィだったが、駅前の駐輪場にバイクを停め、連れ出されたところでその様子が困惑に変わる。

 

「あのまま帰るほど人でなしじゃねーよ」

 

 そう言って、晃太は併設してある自動販売機でタオルを購入した。

 ここは、熱海駅の南東にある『家康の湯』。天然温泉を使用した足湯で、徳川家康来熱(らいあつ)四百年記念事業の一環として作られた施設だ。すぐ真横でタオルを売っているせいか、気軽に立ち寄ることができ、連日多くの利用客で賑わっている。

 

「熱海と言ったらやっぱ温泉だろ!」

 

 それまでの空気を吹き飛ばすかのように屈託のない笑顔でルビィに語りかけた。それまで曇っていたルビィの顔に晴れ間がのぞいた。

 

「ありがとうございます!!」

 

 二人は温泉のすぐ側まで近寄る。昼時も終わり、休憩がてら立ち寄る人が多いのだろうか、足湯はそれなりに混雑していた。が、順番待ちをするほどではないようだ。

 

 晃太は靴と靴下を脱ぎ、ジーンズを膝までまくる。湯はふくらはぎの半分くらいまでのところまでしかこないため、そこまでまくれば衣服が濡れることはない。ルビィも、タイツやストッキングを履いていたならそうはいかなかっただろうが、幸いロングブーツにショートパンツだったため、問題なさそうだ。

 

 利用客が多いため、他の客が少しでも入れるようにと晃太はルビィに近寄る。ルビィはピクリとわなないたが、両手を太もものところで重ね合わせた。

 体を寄せた時に、ルビィの素足が晃太の視界に入った。その白さに、その細さに、目を奪われてしまう。

 

「あ、あの……晃太さん…?」

「え、あっいや、なんでもない」

 

 しばらくして、少し恥ずかしそうに上目遣いをするルビィが晃太に問いかけた。晃太は慌てて答える。しまった、見られてた、と思うとともに心臓がバクバクしていることに気がついた。そして再び――ちらりと、だが――ルビィの方に目をやる。

 ベンチのようになっている足湯の座席に、ルビィは浅く腰掛けていた。普通に座ると足が届かないのだろう。それでもまだ足が届いていないのか、それともわざとつけていないのか、湯の中で軽く足を揺らし、湯がチャプチャプと音を立てていた。改めて見ても綺麗な足をしている。寒さで白んでいるから余計そう見えるのか、その肌はまるで雪のようだ。膝小僧に少し赤みがさしているのはダンスの練習を一生懸命やっているからだろう。自分も陸上をやっていたせいか膝の皮は少し硬い。こんなにも細い足で、よくダンスなんてやっていられるな、と思う。動画を少し見たが、飛んだり跳ねたり走ったり、いつか折れてしまうんじゃないかと心配になる。

 見上げると、ルビィは穏やかな笑みをたたえ、自分の足元を見つめていた。揺らしてできた波を追いかけているのだろうか。その視線は前後左右を行ったり来たりしている。髪をおろしているためか、その表情はいつもより随分と大人びて見えた。またバレると気まずいな、と思いそこでルビィから視線を外し、賑わっている熱海の駅前に視線を移した。

 晃太は思う。和む、と。久しぶりに心穏やかな気持ちになれた気がする。ここ最近――期間にすると二年くらい――、こんなにも心が安らいだことはないんじゃないだろうか。目をつむって横になれば寝てしまうんじゃないか、そう思うくらいに心が弛緩してしまっているのがわかった。

 ずっとこのままでもいいかもなー、なんてありえない妄想をしている時、隣りにいたルビィが晃太の袖をちょんちょんと引っ張って言う。

 

「晃太さん、すみません……ちょっと熱くなってきちゃいました……」

「お、おうそうか。じゃあそろそろ行くか」

 

 よく見たら、ルビィの足は湯にあたっていた部分が真っ赤になっていた。他が白いだけによく目立つ。晃太は悪いことをしたな、と思った。自分が呆けていたせいだ。

 足についた水分をタオルでしっかり拭き取り席から離れる。さっきまで座っていた場所は、すぐに別の利用者で埋まってしまった。

 

「じゃあ帰るか。ポカポカして寝るんじゃねーぞ。落ちたら死ぬからな」

 

 そんな冗談に少し笑い合って、熱海を後にした。

 

 

 

 

 熱海から沼津までは順調に進んだ。道もさほど混んでいなく――昼は過ぎたが帰宅ラッシュにはまだ早い微妙な時間帯だったからかもしれない――、行きよりも早く沼津まで帰ってこられた。ルビィを家の前まで送り届け、別れの挨拶をする。

 

「結構楽しかったな」

「喜んで貰えたなら、ルビィとっても嬉しいです!」

 

 晃太のその一言に、ルビィは弾けるような笑顔で答える。

 

「まあ、な。行った甲斐はあったんじゃねーの?」

 

 純真な笑顔を当てられ少し恥ずかしくなった晃太は、あまのじゃくのような返しをしてしまい、ちょっと後悔する。どうしてこういう時に素直に誘ってくれてありがとうと言えないのだろうか。

 とはいえ、いつまでもこうして家の前で話しているわけにもいかない。

 

「じゃーな、そろそろ行くわ。またな」

「はい……また……」

 

 その言葉を聞いて、ルビィは少し、いやかなり名残惜しそうな目で晃太を見つめた。今朝プレゼントしたピンクのフルフェイスをぎゅっと抱きしめる。

 

「おいおい、そんな寂しそうな顔すんなって。なんのための『また』、なんだよ」

「!」

 

 晃太がルビィの頭をグシャグシャにした。そしてルビィは、はっと気づいたように目を見開いて笑顔で答えた。

 

「そうですね! また!」

「おう、どっか行きたくなったらいつでも連絡しろよ!」

 

 そうして、二人は笑顔で別れるのだった。

 

 帰り道、一人になった晃太は今日一日のことを思い出していた。ルビィのやつ、意外としっかりしてるんだな、というのが率直な感想だ。おどおどして何をやってもうまくいかないような印象を持っていたが、それは失礼だったな、と考えを改める。やっぱりあの兎とのふれあいは心に残る出来事だったようだ。しかし、あいつになにか教えられるとはな。はじめての体験だったこともあるが、てんやわんやして、それを優しくなだめられたことを思い出して少し悔しくなる。でも、結構教えるのうまかったし、案外向いてるのかもしれない。それにはまだ、少し自信が足りていないような気もするが。

 

 そういえば、今日は疲労感が少ない。これもやはり、ルビィが乗り方を調べてきたからだろう。思い出し笑いを噛み殺す。そういうとこ、真面目で可愛げがあるんだよな、と感心した。後ろに乗るのが好きだと言うのもうなずける。こういうやつなら、いくらでも乗っけてやるんだが……と心の中でため息を吐いた。

 

 そして、なんと言ってもレポーター達だ。あいつらは引っ掻き回すだけ引っ掻き回してさっさとどっか行きやがった。と思い返すただけでとふつふつと怒りがこみ上げてくる。そのせいで足湯に寄り道するはめになったじゃないか、と思ったが、ルビィの満足そうな顔を思い出し、まあそれはいいか、と思い直した。にしても、変なことを聞いてくるレポーターだった。自分とルビィがカップルに見えたんだろうか。いや、見えたから声をかけてきたんだろうけど、なんだか不思議な気持ちだ。別に付き合ってるわけじゃないし、そもそもルビィは――――

 

 そこで晃太の思考が止まる。

 

 俺にとって、ルビィって、なんなんだ…?

 

 知り合い、と言うのは少し他人行儀な気がする。友達、というのもなんだかしっくりこない。親友、これは少し違うな。恋人、では無いはずだ。というか、そもそもそんな風に思ったことはこれまで一度もない。会ったのだって数えるほどだし、たまに連絡は取り合っているが、それもそう毎日ってわけでもない。

 これまでの俺はきっとルビィのことを妹分のように思っていた気がする。が、それも違うんじゃないかと思い始めた。確かにルビィのことは可愛がっているが、慕ってくれることにその気持ちを抱いてるわけではない。そもそも、何故ルビィに付き合ってやっているんだろう。

 

 晃太は思い返せば思い返すほど、よくわからなくなるジレンマを抱えた。始まりはあの日、絡まれてるルビィを助けた日だ。でも、それは多分きっかけに過ぎないだろう。実際、当初はなんとも思ってなかった。次の日には忘れてたくらいだ。そんな時に生徒手帳を返しにルビィが学校までやってきた。終バスを逃して家まで送って……どうして終バス逃すまで喫茶店にいたんだろう それで何日かして、学校の近くでまた絡まれてて――しかしホントによく絡まれるやつだな――、また助けてやって、バイクに乗せてくれとせがまれて、夕陽を見に……

 

 晃太はなんだか恥ずかしくなってきていた。よくよく考えたら、あれはデートだったんじゃないだろうか。今日のだってそうだ。ルビィが招待券を持っていたのは本当だったが、何故ルビィは晃太にに声をかけたんだろうか。他にも誘う相手なんていっぱいいるじゃないか。姉や二人の親友、Aqoursの他のメンバーだっている。アシを持っているからだろうか。しかし晃太はそうとは思えなかった。バイクの乗り方だって調べてきたし、ヘルメットをプレゼントしたときも嬉しそうにしてた。それに、動物園でも足湯でも楽しそうに笑ってたじゃないか。別れ際にもあんなに嬉しそうに――

 

 そうだ、笑ってたんだ。

 

 晃太は気づく。何故、ルビィを足湯に連れて行ったんだろう。レポーター達とのやり取りの後、彼女は笑っていなかった。そのまま帰るなんてできなかったのはそれが理由だ。ルビィの笑っている顔が、見たかったから。そこでもう一度自分に問う。俺にとって、ルビィって――――

 

 晃太の時はそこで止まり、自宅に着くまでそれ以上何も考えられなかった。



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10th episode

 初デート――とルビィは言い張る――から二人の仲はぐっと近づいたようだった。これまで手探りだった晃太との距離感がなんとなくつかめたような気がして、ドラッグスターに乗せてほしいとお願いすることもすんなりできるようになった。また、晃太からも、ルビィに何気ない日常の(いち)ページを連絡することが多くなった。その度に、ルビィは心を躍らせるのだが、平静を装って返信をする。そんな日々が続いていた。

 

 そんなある日のこと。部活が終わり、着替えを済ませてさあ帰ろうと言った頃合いだ。なんだか校内が騒がしい。

 

「なんか、今日帰らずに残ってる生徒多いね」

「帰らずにって言うよりは、昇降口で何か待ってるみたいな雰囲気だけど……」

「どうしたんだろう、あ、おーい、むっちゃーん」

 

 不思議そうな顔で話していた二年生だったが、千歌が下駄箱付近で心配そうな顔をしているむつの姿を見つけて駆け寄った。

 

「あ、千歌! 練習は終わったの?」

「うん! これから帰るとこなんだけど……みんななんで残ってるの?」

 

 千歌が駆け寄ると、むつの顔がぱっと明るくなる。やはり千歌はムードメーカー的存在なのだろう。自己紹介の『太陽みたいに輝く笑顔』は伊達じゃない。

 

「それなんだけど……校門前に怖い男の人がいるって話でさ」

「え、それって不審者…?」

 

 こんな坂の上の学校までご苦労なことで……と千歌はどこか他人事だ。

 

「わかんない……でも、先に帰った子たちからは誰かを待ち伏せしてるみたいで、すっごい睨まれたって」

「睨まれた……怖いね……」

「でしょ? だから、もう少し待って、その人がいなくなってから帰ろうかって話をしてたんだ」

「そっか……怪我したら危ないし、その方が無難かもね。私達もそうする?」

 

 千歌がAqoursのメンバーに尋ねる。ルビィの脳裏に狩野川高等学校の生徒に絡まれた時のことがよぎった。あんな怖い思いをするくらいなら、少し帰りを遅くした方がマシだ。メンバーも半数は同意したようだ。

 

「ですが、いなくならなかったらどうするんです?」

 

 と言うのはダイヤ。

 

「そうね、理事長として見過ごすわけにはいかないわ」

「私ちょっと見てこようか? 今そいつがいなくなってるかどうか確認してないんでしょ?」

 

 鞠莉と果南もそれに同調した。三年生というのはこういうとき、やっぱり頼りになる。

 

「果南ちゃんが良いならいいけど……危なくないかな…?」

「だったら私も行くよ! 二対一なら向こうもそう簡単には手出しできないんじゃないかな?」

 

 心配そうに果南を見つめる千歌に、曜が申し出た。確かにこの二人なら、と千歌は思う。勝負して勝てるとは思わないが、逃げることくらいなら容易だろう。気をつけてね、と二人を見送る。

 程なくして、様子を見に行った果南と曜が帰ってきた。

 

「あ、どうだった?」

「まだいたねー」

「でもあれ、多分どっかの学生だよ。着てる服、制服っぽかったし」

 

 と話すのは曜だ。判断基準が制服、と言うのは実に曜らしい。

 

「私達も少し遠くから眺めただけだったから気のせいかもしれないけど、こっちをちらっと見てきたような気がしたんだよ。でも特に何をするってわけじゃなかったし、ホントに誰か待ってるだけかもね」

 

 案外普通に帰っても大丈夫かもよ? と果南はケラケラ笑いながらその場にいた生徒に向かって言った。安心させたいという気持ち半分、もう半分は、きっと彼女の勘なのだろう。そしてその勘は実際の所よく当たる。

 

「そうなんですの? でしたら恐るるに足りませんわね。私、注意してきますわ」

 

 それを聞いたダイヤは鼻息荒く校舎を出ていってしまった。生徒会長就任して以来の大事件――廃校の方がよっぽど大事件ではあるが――に、少し興奮してしまっているのかもしれない。生徒会長である自分がどうにかしなくては、と息巻いているようにも見えた。

 

「あ、ダイヤ! ……行っちゃった。大丈夫かな。背がでかくて威圧感はすごかったけど」

「にしてもおっきいバイクだったね。あんなのに乗って海岸走ったら気持ちいいんだろうなー」

 

 果南と曜がつぶやく。それを聞いたルビィは嫌な予感がした。背の高いバイク乗りの男子学生。睨まれたと錯覚するような鋭い目つき。思い当たる人が、一人、いる。ルビィは不安げな顔つきで花丸と善子を見る。二人共何かに気づいたような顔をしていた。そして確信する。校門の前にいるのは晃太に違いない。

 

「ル、ルビィも行ってきます!」

 

 言うが早いか、ルビィは校舎を飛び出していた。ダイヤはもう校門の前までたどり着いている。良くないことが起きそうな気しかしなかった。

 

「お姉ちゃ」

「貴方みたいな不良が、この学校に何の用ですか」

「随分なご挨拶だな。人待ってんだよ。悪いか」

 

 お、遅かった……ルビィが思った通り、校門前でバイクにもたれかかっていたのは晃太だった。ダイヤは腕組みをして、威圧的な晃太に負けずとも劣らない迫力で凄んでいる。一触即発の空気に足がすくんでしまう。

 

「あ、あの、お姉ちゃ」

「ようルビィ、遅かったな。近く通ったからさ、寄ってみた」

 

 晃太はダイヤの少し後方にルビィの姿を見つけて、ダイヤを無視するように大きく手を振った。それを見たダイヤは面食らったような顔でルビィの方に振り返る。

 

「ルビィ、あなたのお知り合いですの? 付き合いは選ぶべきですわよ」

 

 そ、そんな棘のある言い方しなくても……とルビィは思う。そんな言い方されたら誰だって腹を立てるだろう。それにダイヤは晃太のことに少しも気づいていない様子だった。少しは話をしてるはずなのだが。

 

「いちいち(かん)に障る女だな」

「そちらこそ、校門の前で待ち伏せしておいてどういうおつもりですか。ここは女子校なんですのよ。生徒たちが怖がっています」

「……そうか、そりゃ悪かったな」

「ええ、そうですとも。ご理解いただけたのならさっさとお帰りになられてはいかがですか?」

 

 ダイヤが威勢よく捲し立てるのを聞き、晃太は一瞬何か返そうと口を開いたが、そこから言葉は何も出ず、代わりに大きく息をついて視線をルビィに移した。

 

「ルビィ、わりーけど帰るわ」

 

 そう告げると、晃太はヘルメットを被ってバイクにまたがる。

 

「え、こ、晃太さん…!」

 

 慌てて駆け寄るルビィの呼びかけも虚しく、ドラッグスターは走り去ってしまう。後ろでダイヤが勝ち誇ったように、ふん、と鼻を鳴らしたのが聞こえた。そして、呆然とするルビィの背中に優しく声をかける。

 

「ルビィ、あんな格好をした輩に碌な人はいません。どういった経緯で知り合ったかは知りませんが、もう二度と……」

 

 熱くなるのが、自分でもわかった。頭に血がのぼると言うのはきっとこのことを言うんだと思う。例え敬愛する姉であろうと、今の言葉は許すことができなかった。碌な人はいない? 晃太さんのことを()()知らないのはお姉ちゃんの方じゃないか。こんなに怒ったのは産まれてはじめてかもしれない。遠くの方で冷静な自分がそう分析していたが、それで止まるほどルビィの怒りは小さいものではなかったらしい。

 ルビィは、ダイヤが言い終わるよりも前に、振り返ってダイヤを見据える。キッと睨みつけるその翠眸(すいぼう)を、ダイヤはいまだかつて見たことがなかった。

 

「お姉ちゃんの、ばか!!」

 

 そう言うやいなや、ルビィは校門をまたぎ走り出す。

 

「ちょ、ル、ルビィ!? 待ちなさい! 一体どういう……」

 

 何が起きたのかわからない、と言った様子のダイヤは、ルビィに向かって手を伸ばし二、三歩前に出たが、走り去っていく妹を呆然と眺め、立ちすくむことしかできなかった。

 

 

 

 

 ルビィは坂を駆け下りながら電話をかける。もちろん相手は晃太だ。

 

『晃太さん、すごく悲しい顔をしていた。お姉ちゃんのせいだ。謝らなきゃ』

 

 バイクを運転している最中なのは百も承知だったが、一縷(いちる)の望みを賭けて電話せずにはいられなかった。が、電話はつながらない。

 

「はあ……はあ……バス…!」

 

 坂の下にバイクが停まっていたりしていないものかと淡い期待を抱いてみたものの、当然そんなはずもなく、ルビィはいつも使うバス停までたどり着く。幸運なことに、沼津行きのバスはもうすぐ来るようだった。

 

 間もなく到着したバスに乗り、ルビィはすぐに晃太へメッセージを送る。どこにいますか、私は今沼津に向かっています。お会い出来ませんか。メッセージに気づいたら電話下さい。月並みだ。しばらく画面を眺めていたが、やはりと言うべきか、既読の通知は届かなかった。

 

 席に座り、バスの時刻表を確認する。沼津に着くのは四十五分後だった。晃太のあの様子からして、ルビィが沼津に着いたときにはもう家についているだろうか。帰宅して、すぐ連絡に気づいてくれればいいが、そうでなければ……あまり考えたくなかった。

 心配する以外にすることがなくなってしまったルビィは、つい五分前の出来事を思い返す。

 

『なんでお姉ちゃんはあんなこと。花丸ちゃんも善子ちゃんも気づいていたのに、どうしてわかってくれなかったんだろう』

 

 どうして……と逡巡していたが、やがてそれは違うということに気がつく。花丸と善子は一度会ったことがあるが、ダイヤは話を聞いただけ。それに、学校に不審者が来ていて、それを追い払おうという状況だ。そんなことを考えている余地はなかっただろう。となると、原因は誰にあるのか。そこまで考えたルビィの中でそれは明白だった。自分だ。何故あの場でダイヤを止めることができなかったんだろう、何故足がすくんでしまったんだろう。後悔してもしきれない。

 

 長い、四十五分だった。

 

 晃太から特に連絡のないまま、バスは沼津駅前へと到着する。ルビィは途方に暮れるのだが、このまま乗っていてもどうしようもないので、アテはないが降りるしか術はなかった。

 

 足は自然とあの喫茶店へ向かっていた。ルビィと晃太のつながりがある場所と言うと、学校と、あの浜辺と、そしてこの喫茶店。学校に戻る理由はない。こんな時に、あの想い出の浜辺に行くことはないだろう。となると消去法でここしかなかった。もっとも、そんなに冷静に分析したわけではないのだが。

 

 五分ほど歩いて店の裏手に到着する。秋の夕日はつるべ落としとはよく言ったもので、学校を出た時はまだかなり明るかったのだが、既に辺りは薄暗くなり始めていた。普段バイクを停めているであろう駐輪場に来たが、そこに晃太のバイクは見当たらなかった。

 

 本格的に行くアテがなくなってしまった。ここにもいないとなると晃太がいそうな場所の心当たりはもう自宅しかない。そしてルビィは――当然ながら――晃太の自宅の場所を知らない。晃太さんは私の家の場所知ってるのに私は知らないなんてずるい、と少し思ったが、今はそれどころではなかった。

 

 と、その時、スマートフォンが震えた。

 

「!」

 

 慌てて取り出し、画面を確認する。

 

「……お姉ちゃんか」

 

 メッセージの差出人はダイヤだった。内容は今どこにいるのかと尋ねる文章。晃太でなかったことに軽く息を吐き、喫茶店、とだけ返事をしてポケットにしまおうと画面を消灯状態にした。が、すぐにまた画面が点灯する。

 

「もうなんで……あっ!!」

 

 今度は着信の通知だ。表示は佐蔵晃太。びっくりして電話を危うく取り落としそうになったが、フリックで通話状態にして耳を当てる。

 

「ごめんなさい!」

 

 ルビィは謝罪の言葉とともに深々と頭を下げた。

 

「……いきなりでけー声出すなよ」

 

 すると電話の向こうからはけだるげな言葉が返ってくる。思っていたよりも大きな声だったらしい。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 今度は小声で返す。

 

「まあ良いけど……悪かったな、帰っちまって」

 

 晃太はバツの悪そうな声でルビィに謝罪をした。声の感じからして、どうやら怒ってはいないようだった。

 

「ううん、いいんです。それに、謝らなきゃいけないのはルビィの方」

「なんでお前が謝るんだ」

 

 ルビィが思ったことを告げると、晃太はそれを非難した。お前が謝る必要なんてない。お前は悪くない。そう言っているようだった。

 

「だって、お姉ちゃんが失礼なことを……晃太さん、全然悪い人なんかじゃないのに……」

「えぇ、あれお前の姉貴だったのかよ。……あー、確かに言われてみればそうかもしれん」

 

 晃太は苦笑する。どうやら晃太も彼女が黒澤ダイヤだということを認識していなかったらしい。

 

「お前ら姉妹、似てねーな」

「よ、よく言われます……」

 

 やっぱり晃太さんは意地悪だ。と思うルビィだったが、晃太の口調が思っていたよりも優しげで胸をなでおろした。

 

「まあ、喧嘩を買った俺も悪いんだよ。それよりお前、沼津の方来てるんだよな? そっちまで行くけど、どの辺にいる?」

 

 晃太は売り言葉に買い言葉だったと改めて自分を振り返った。そして罪滅ぼし、と言わんばかりに提案する。

 

「あの、いつもの喫茶店のところです」

「いつものって……お前一回しか行ったことねーじゃん」

「それは、そうですけど……」

 

 はは、と乾いた笑いが聞こえてきた。

 

「悪い悪い。すぐ行くから店ん中ででも待っててくれよ」

 

 十分ぐらいで着くから、と言い、晃太は電話を切った。

 

 よかった……そんなに怒ってなかった。ルビィは安堵の息を吐く。しかし、ここに来てくれるというのは思わぬ幸運だ。期待してなかったと言うと嘘になるけど。でも、ここまで追いかけて来てよかった。ルビィはそう思いながら、喫茶店から少し離れた川沿いのガードパイプにもたれかかる。

 十分。それだけしかいないのは店にも悪いような気がする。晃太には店内で待つようにと言われたが、それほど寒いわけでもないし、と思いルビィは外で待つことにした。怒ったり走ったりした体を醒ましたいという気持ちもあったかもしれない。狩野川の景色を見て少し落ち着こう、そんなふうに考えていた。冷たい秋風が少し上気した頬をなでた。

 

 そしてルビィは、晃太の言う通りにしなかったことを、心の底から後悔することになる。



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11th episode

「こいつ、最近佐蔵と一緒にいるガキじゃね?」

 

 ルビィがもたれかかっていた転落防止用のガードパイプは、当然川へ続く堤防に落ちないように設置してある。つまり道路と堤防の際にあるということだ。そしてこの喫茶店の目の前の道路は沼津駅へと続いている。

 

「あ、あ……」

 

 つまり、狩野川高等学校へと続いていると言っても過言ではなかった。

 

「佐蔵に気に入られてるからって調子こいてんじゃねーぞ」

 

 いつか見た、五人組だった。

 

「女とかカンケーねーから」

「痛い…! や、やめて下さい…!」

 

 やにわに髪の毛を引っ張られ、近くの擁壁まで連れて行かれる。流石に今回は、ダメかもしれない。そう、思うしかなかった。五人の学生は、いつぞやと変わらぬ姿でこちらを睨みつけている。今までと似てはいる状況だったが、相手は既にすごく怒っている。助け舟を出してくれる友人もいない。周りの人には気づかれないだろう。ああ、私はなんてバカなんだ。言われた通り喫茶店で待っていればよかった。

 

「お前、佐蔵のなんなの?」

「ぁ……ぅ……」

 

 一人がずい、とルビィに詰め寄る。恐怖のあまり言葉にならない。

 

「喋れねーのかよ!!」

「ぁっ!」

 

 胸ぐらを掴まれて、壁に打ち付けられる。鈍痛が背中を走った。ルビィはそのままコンクリートの地面に崩れ落ちる。

 

「あー、腹立つ。こういうはっきりしねー奴、一番むかつくんだよね」

「お、ヤッちゃう?」

「お前そればっかだな」

「俺パス。そんな趣味ねーよ」

 

 五人は思い思いの感想を述べ、下品な笑い声をあげている。ルビィは動くことができなかった。蛇に睨まれた蛙とはこのことを指すのだろう。恐ろしさのあまり、動くことも、助けを呼ぶことも、泣くことすらできなかった。

 

「ま、でも一発くらいはぶちかましてもバチあたんねーだろ」

 

 髪の毛を掴んできた男が、右足のつま先をトン、トン、と地面に当てる。眼光はルビィの顔面を捉えていた。

 

「ゃぁ……やめ……」

 

 わかってしまった。彼が何を考えているのか。この人は、私の顔を、蹴ろうとしているんだ。ルビィが呻きながら必死に頭を守ろうとする姿を見て、周囲の四人がニタニタとぼうぞくな笑みを浮かべていた。だれか、たすけて……だれか、こうたさん…!

 

「やめろ!!」

 

 そこに、息を切らして走ってくる、一人の青年の姿があった。

 

「あー?」

「佐蔵…!」

「ルビィを離せ!!」

 

 晃太さん…!

 ルビィの目に希望が宿る。来てくれた。三度に渡るルビィの危機に、彼は駆けつけてくれたのだ。まだ幾分か離れていた距離を、晃太は駆け足で詰める。それを見て、五人のうちの一人がルビィを指差して晃太に告げた。

 

「いいのかな? 愛しのルビィちゃんが傷物になっちゃっても」

 

 ルビィを指差し、晃太に静止するよう呼びかける。まるでアニメかゲームの小悪党のようだ。

 

「ふざけたこと言ってんじゃねえ!」

 

 一瞬足を止めた晃太であったが、意味のない煽りであると理解し、再び走り出す。

 

「もう俺限界。やっちまおうぜ」

「そうだな、その前にルビィちゃんにも一発入れてだな」

「ひっ…!」

「てめえら…!」

 

 晃太が全力で駆ける。すんでのところで晃太はルビィの元へたどり着くことができた。が、ルビィの顔面を捉えそうな蹴りを体で受け止めることしか叶わなかった。

 

「ぐぁ……」

 

 蹴りが腰付近に当たり、晃太はその場でうずくまってしまう。晃太の様子がどこか可怪しいのは五人組にも、ルビィにも一目瞭然だった。

 

「こいつ、もしかして腰痛持ち?」

「ぎっくり腰とか?」

「てめえら、ふざけん、うっ……」

 

 蹴られた腰の痛みで、晃太は立ち上がることすらできない。が、それでもルビィをかばおうと覆いかぶさるようにして害が及ばないよう賢明に守った。

 

「弱点みーっけ!」

 

 しめたとばかりに五人組は晃太を蹴り続ける。標的はもう、ルビィから晃太へと変わっていた。腰、脇腹、背中。頭を踏みつけるものもいた。

 

「やめて! 晃太さんに、これ以上乱暴しないで!!」

 

 ルビィの悲痛な叫びは虚しく響くだけだった。危害を加える手を止めるものは誰一人としていない。

 

「ははっ、だっせーな佐藤!」

「ぎゃはは! 佐蔵だろ!」

「ぐっ、がっ…!」

「どっちでもいいだろ!」

「やめて……お願い……」

 

 それどころか、五人はこの状況を楽しんでさえいるようだった。鈍く重い音が擁壁に反射して響く。

 

「そこまでです」

 

 精悍(せいかん)な声が静寂を切り裂いた。ルビィは、この声に聞き覚えがある。否、いつも、毎日聞いている声だった。

 

「お姉、ちゃん…!」

「善子さんは駅前の交番へ、花丸さんは警察へ電話して下さい」

 

 そこには見知った三人の姿があった。両脇にいた一人はその場から走り去り、もう一人は一歩下がってポケットから携帯電話を取り出す。

 

「女が何の用だよ。こっちは取り込み中なんだけど」

 

「そこにいる二人は私の妹とそのお知り合いです。今すぐ解放していただきたいのですが」

 

 黒澤ダイヤは、何事もなかったかのように冷静な様子で一歩、一歩とこちらに向かって歩いてくる。

 

「んだぁ? てめえもぼこされてえのか」

「……頭の悪そうな言葉遣いですこと」

 

 男子学生たちの低俗な言葉遣いに、心底呆れた様子でそれらの目の前に立った。

 

「ああ!?」

「いいでしょう、お相手して差し上げますわ」

 

 そういってダイヤは何か拳法のような構えを取る。

 

「私、少々武道の心得もありますのよ」

「五人相手にするつもり? ばかじゃねーの?」

 

 物々しい構えに一瞬怯んだような五人組だったが、五対一と気づくや否や再びヘラヘラとした笑いを携えてダイヤの方へと向き直った。

 

「そうですわね。きっと私一人では勝てないでしょう。ですが、警察が来るまでの時間稼ぎにはなるのではなくて?」

 

 構えはそのままにしてダイヤがしたり顔でそう語る。違和感に気づいているのは妹であるルビィだけだった。この中に、武道の心得がある者など()()()()()()。ダイヤが言っているのはハッタリだ。それらしい構えで、それらしいことを言うことで、相手を躊躇させようとしている。しかし、この状況では実に効果的だった。

 

「おい、そういえば一人駅の方走ってったぞ」

「電話してるやつもいたな」

「……ちっ」

 

 警察を呼びに行った善子や、電話をかけていた花丸の影響もあって、どうやら作戦は成功したようだった。男子学生たちは恨めしそうな目つきでその場を去っていく。それを見届けたダイヤは謎の拳法の構えを解き、額に滲んだ脂汗を拭った。晃太は安心したのか、ルビィに覆いかぶさるのはやめて、その真横でごろりと転がった。

 

「ルビィちゃん!!」

 

 花丸が横たわっているルビィに駆け寄る。

 

「怪我はない!?」

「う、うん……少し擦りむいちゃったみたいだけど……」

「ああ!! よかった!!」

 

 抱きつく彼女は目にいっぱい涙をためて親友の無事を喜んだ。きつく、きつく抱きしめられ、息が苦しくなる。そしてそれが、無事助かったんだ、という実感をわかせた。

 

「サクラさん、とおっしゃいましたか。愚妹(ぐまい)を助けていただいてありがとうございました。先程の非礼、詫びさせて下さい。貴方がルビィが話していた方だとは知らず……」

 

 一息ついたダイヤも三人のもとへやってくる。一度ルビィの方を向き、大きな怪我がなさそうなことを確認してから、恩人である晃太に話しかけた。

 

「ぅ……ぁ……」

 

 しかし、その言葉は晃太の耳には届いていないようだった。息は荒く、呻き声のようなものをあげながら、片手で腰を押さえる。眉間にしわを寄せ、歯を食いしばり、苦悶の表情を浮かべていた。

 

「サクラさん!?」

 

 どこか痛いのだろうか、いや、ルビィをかばってくれていたんだ。どこかは痛いに決まっている。でも、この痛がりようは、普通ではない。ただならぬ雰囲気を感じたダイヤは慌てて晃太に駆け寄る。その光景を見たルビィは、涙を流しながらダイヤに懇願した。

 

「晃太さん、ルビィをかばって五人からずっと蹴られてて……腰がすごく痛そうなの! お願い、救急車を呼んで…!」

 

 

 

 

「…………」

 

 ルビィは待合室のソファーに腰掛けていた。診療時刻を過ぎているため、院内はどこか薄暗いような気がする。周囲に通院患者は誰一人としていなかった。

 

 ダイヤが呼んだ救急車は五分ほどで到着した。救急の電話で腰を異常なまでに痛がっていると伝えてくれたからか、近くの形成外科に搬送されることになっていた。ルビィは救急車に同乗した。ダイヤが一度、一緒に帰ろう、と言ってきたが、ルビィはそれを断った。それよりも、花丸と善子を無事お家まで送り届けてあげてほしいとお願いすると、わかった、と言ってそれ以上は何も言わなかった。

 院内の時計に目をやる。午後七時。三人は無事家に着いただろうか。

 

 善子が呼びに行ったと思われる警察の人が病院に来た。事の顛末を話し、加害者が誰かわからない、被害者――晃太さんのことだ――が今話せない状態だと言うことがわかると、ルビィの話を手帳にまとめて帰っていった。今できることは、ないらしい。ルビィも被害者の一人として怪我の具合を聞かれたが、擦り傷程度だったのでほとんどない、と答えておいた。

 

 すると、背後にある自動扉が開き、慌てた様子で初老の男性が院内に入ってきた。そのまま小走りで受付まで向かう。

 

「失礼します。すみません、佐蔵晃太の父親ですが……」

 

 受付でそう告げた男性は、看護師から今は病室で安静にしていると教えられ、少し安心したように待合室へと歩いてくる。そして、先客を見つけて少し驚いているようだった。

 

「……あの、失礼ですが、貴女は?」

「……黒澤、ルビィです。この度は、息子さんにお怪我をさせてしまって、申し訳ありませんでした…!」

 

 受付で父親だと言っていたのを聞き逃さなかったルビィは、男性が話しかけてくると、立ち上がって謝辞を述べた。それを聞き、男性は再び目を丸くする。

 

「晃太は、喧嘩してここに運ばれたと聞きましたが…?」

 

 ルビィは何があったのか、洗いざらいすべてを父親に話した。

 

「そう、でしたか……」

「ルビィのせいなんです…! ルビィが、ルビィが……」

 

 もう三度目ともなると、自分のせいだという事実がまざまざと実感され、涙が止まらなかった。嗚咽で言葉が途切れ、何を言っているのか、何を言いたいのか、もう自分にもわからない。

 

「ルビィさん、自分を責めるのはよしてください。貴女は何も悪くない」

「でも、でも…!」

 

 父親は泣きじゃくるルビィに椅子へ座るよう促し、ルビィは目元を拭いそれに従う。そして父親も隣に腰掛けた。

 

「晃太が一度だけ、私の前で『ルビー』と言う言葉を口にしたことがありました。その時は、宝石か何かに興味を持ったのかと思いましたが、きっと貴女のことだったんですね」

 

 父親は一度言葉を切って、虚空を見つめながら思い出すように語る。

 

「最近の晃太は、見違えるように生き生きしていました。それこそ、陸上を頑張っていた中学時代を見ているようで、何か打ち込めるものができたんだなと内心嬉しかったんですが、貴女のおかげだったんでしょう。お礼を言わせて下さい。ありがとう。」

「そ、そんなこと……」

「自分の体を顧みず、守らなくては、そう思ったんでしょう。だからそんな無茶を」

 

 晃太とって、自分は守るべき存在だったんだろうか。そう考えるとなんだか嬉しいような恥ずかしいような、そしてそれをかき消すくらい申し訳ない気分になる。もし、もしそうなら、やっぱり自分のせいでこうなってしまったんだ。握った拳の爪先が手のひらに食い込む。

 

「ルビィさん、晃太は――」

「佐蔵晃太さん、目を覚まされましたよ」

 

 奥の部屋から看護師がこちらに顔を出し、二人に呼びかける。

 

「行きましょう」

 

 あまり大きいとは言い難いこの病院は、診察室の奥に簡易な病室が作られていて、二人は三台ある内の一番手前のベッドへと案内される。そこには晃太が薄目を開けて苦しそうに横たわっていた。

 

「晃太さん…! ごめんなさい! ルビィのせいでこんなことに!」

「ルビィ、無事か…? 怪我は…?」

「ルビィなんかより、晃太さんが!」

 

 私は晃太さんの姿を見るや、謝らなければという気持ちが抑えきれなくなり急いで駆け寄った。それでも晃太は、自分のことよりルビィのことを心配する。そんなところが実に彼らしかった。

 

「ねーみてーだな……良かった……」

「晃太さん!」

 

 ルビィの無事を確認すると、晃太はその少し後方に立つ父親に視線を向ける。

 

「親父」

「……ん?」

「悪ぃ、もう、ダメ、かも」

「……そうか」

 

 そういった晃太は父親をまっすぐ見つめ、ルビィがこれまでに見たことがないくらい悔しげな表情を見せる。対する父親は、気にするな、といった様子で、優しげな笑みを浮かべていた。

 

「もっと早くに……」

「いいんだ、今日は、もう休みなさい」

「すまねえ……」

 

 そういって晃太は一筋の涙を流し、再び気を失った。

 

 

 

 

「晃太さん、もうだめって、もう歩けないってことですか!?」

 

 晃太が意識を失ってしまったため、ルビィは病室を追い出された。もっとも、そうでなくてももう診療時間はとうにすぎている。院内にいさせていただいているだけでも十分だった。晃太の父親は、医師から少し容態について説明があるようで病室に残った。

 

 ルビィは、晃太が意識を失う間際につぶやいた「ダメかも」という言葉が気になり、説明を聞き終えた晃太の父親に詰め寄ってしまった。

 

「ル、ルビィさん、落ち着いて下さい」

「もう歩けないなんて、そんな、ルビィ、どうしたら…!」

 

 足の感覚が無いんだろうか。それとも先生からなにか言われたのだろうか。悪い方向へ悪い方向へと考えてしまう。ルビィは父親の服の裾をギュッと握り、懇願するように問う。

 

「……」

「うっ……うぅっ……」

 

 しばらく黙っていた父親だったが、一向に泣き止む気配のないルビィを見て観念したのだろうか、ゆっくりと口を開いた。

 

「少し、晃太の話をしましょうか」

 

 その口調は、どこか重たいものがあった。

 

「晃太が陸上をやっていたというのはご存知ですか?」

「はい……」

 

 まだしっかり泣き止んでいないルビィであったが、父親の話に耳を傾ける。

 

「晃太は、高校一年生の夏までは陸上部に所属していたんです」

 

 父親は病室から離れようと歩き始めた。そして先程まで座っていた受付のソファーに腰掛ける。ルビィもそれに倣った。

 

「やめた理由、聞きましたか?」

「……いいえ。部活の話になると、話すのが辛そうだったので……」

「そう、でしょうね……晃太には悪いが、お話しましょう」

 

 父親は、どこか遠くを見つめながら切なさに満ちた雰囲気で語り始めた。

 

「晃太は、怪我で陸上をやめたんです」

 

 怪我…?

 

両股関節唇損傷(りょうこかんせつしんそんしょう)という怪我で、簡単に言うと、ある動作をすると足の付け根に痛みを感じたりする怪我です。高校に入ってすぐぐらいから足の付け根の違和感には気づいていたみたいなんですが、気のせいだと思って黙っていたんでしょう。それに、その痛みをかばって走っていたこともあって腰椎も痛めていたみたいで、病院に行ったときには、もう陸上はやめた方が良いと言われるくらいひどくなっていました」

 

 ルビィは思い出す。

 

『それから、怖かったのかもしんねーけど、あんま強くしがみつくなよ。あれ地味に痛ーんだぞ』

 

 もしかして、あの時痛がってたのって……

 

「この怪我はですね、治療が難しいそうなんです。手術の成功率も高くない。様子を見ながら養生をする方法で治る方もいらっしゃるみたいですけど、晃太はそううまくはいかなかったようです」

「それで、陸上を……」

「ええ。そのことで喧嘩もしました。私は手術を勧めたんですが、晃太は受けたがらなかった。きっと手術が成功したとしても、元のようには走れない、それでは意味がない、と考えたんでしょうね。日常生活には支障が出ていなかったので余計でしょう」

 

 それに、失敗することを考えたら……と父親は小さくつぶやいた。

 以前晃太が言っていたことがルビィの頭をよぎる。風を切るのが好きだと。だからバイクに乗るのが好きだと。違うんだ。ホントは走るのが好きなんだ。

 あの日見た夕陽を思い出す。あのときの晃太は、どこか懐かしそうで、でも、悲しそうな目をしていた。きっと、また走りたいんだと思う。

 

「手術すれば、治るんですよね?」

「…………」

 

 目を覚ましたら、私も話してみよう。そんなことを思いながら尋ねる。私からも説得して、それで手術して治して、また陸上をすればいい。前みたいに走れなくても、いっぱい練習すればきっと昔みたいに走れるようになる。

 ルビィは、自分がAqoursに加入する際、花丸に背中を押してもらったことを思い出していた。ためらっているのは、怖いから。その恐怖を取り払ってあげたい。そう思ったのだ。しかし、父親はルビィの言葉を聞いて押し黙ってしまった。

 

え、だって、手術すれば、成功すれば治るんですよね…? 晃太さん、また陸上できるんですよね…?

 

 父親の口から出たのは、ルビィの期待を大きく裏切る。

 

「先程先生から、手術をしても、日常生活以上のことはできないかもしれないと」

 

 

 

 

 

――――――――――――――

 

 

 

 

気づいた時には、ルビィは家にいた。正直どうやって帰ったのか覚えていない。終バスはとっくに終わっていた。お金も持っていない。一体どうやって帰ったんだろうか。あの日の夜のことは、何も覚えてなかった。ただ一つ覚えていたのは、自分のせいで、晃太はもう二度と、陸上をすることができなくなってしまった、という事実だけだった。




 


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12th episode

 ルビィが晃太と連絡を取るのをやめてから一ヶ月が経った。連絡を取る資格なんて無い、そう思うルビィだったが、晃太もルビィの気持ちを察したのか、晃太から連絡をすることもなかった。

 ルビィはこれまでのことを忘れるように練習に打ち込んでいた。その成果はメキメキと現れていてメンバー全員が目をみはるほどだ。善子と花丸は、ルビィとこんなやり取りをしたことがある。

 

「ルビィちゃん、最近すごい上達したね」

「えへへ……そうかな?」

 

 とある練習の帰り。この日は決勝の曲の振り入れをした日だった。いつものように三人で歩いて帰る。

 

「もしかしたら一番上手になっちゃったんじゃないかな?」

「そんなことないよ!」

「善子ちゃんもそう思うよね?」

「……ま、そうね」

「ほら」

「ルビィなんて、まだまだだよ……」

 

 ルビィは慌てて否定したが、その上達ぶりは誰の目から見ても明らかだった。一番、というのはいささか大げさかもしれないが、果南を唸らせる程度にはその仕上がりは美しい。

 花丸は善子に同意を求める。善子もまた、それを肯定する。というよりも肯定するしかなかった。完全に置いていかれた、善子は心のうちでそう思っていた。が、それ以上に、ルビィが練習に打ち込んでいること以上に気になっていることが、善子には、いや、花丸にもあった。

 

「ルビィ、アンタ、最近どうしちゃったのよ」

「よ、善子ちゃん」

 

 もう我慢ならない。善子はそう言わんばかりにルビィに詰め寄る。花丸はそれを制す。二人共、予想はついていた。が、それぞれの優しさがそれを邪魔して、これまで何もしてあげられずにいた。善子は察しているのに何もしてあげられない歯がゆさに、花丸は時間が解決する他に考えが及ばない情けなさに。ルビィからはその慈愛に満ちた優しいほほ笑みは消え去ってしまっていた。

 

「え、別に、普通だよ」

 

 素知らぬ顔でそう答える。無感情な顔。最近良く見る表情だ、と二人は思った。

 

「普通ってアンタ、それのどこが――」

「普通なんだよ。これがルビィの普通。そうだよね、花丸ちゃん」

「え、っと……」

 

 ルビィは善子の言葉を遮って花丸に尋ねる。花丸は困惑した様子で言葉を濁した。

 二人はわかっていた。あのあとルビィと晃太の間になにかがあったに違いない、と。しかし、ルビィは頑なにそれを語ろうとしなかった。それどころか、晃太の話題になりそうになると、まるで自分に言い聞かせるようにそれを拒んだ。こっそりダイヤに尋ねてみたこともある。が、彼女も何も聞かされてないようで、ただただ悲しい顔をするだけだった。

 

 あれだけ協力してやったのに! という気持ちがないと言えば嘘になる。が、それ以上にルビィのことが心配だった。二人にも、姉であるダイヤにも、ということは誰にも何も言っていないのだろう。ルビィがこんな風になってしまうくらいの大事(おおごと)があったであろうというのに、どうして、私達はルビィの助けになれないのか、と。

 

 結局その日は、その後何もしゃべることなく別れた。

 

 そんな頃、一通の招待状がAqoursの元へ届く。北海道地区大会のゲストに呼ばれたのだ。北海道地区大会といえば、あの姉妹ユニット『Saint Snow(セイントスノウ)』が出場する。彼女たちは優勝候補と言われており、何よりあの東京スクールアイドルワールドでもぶつかっていて、何か因縁のようなものを感じずにはいられない。敵を知り己を知れば百戦(あや)うからず。彼女たちのパフォーマンスからなにか得られるものもあるだろう。それに、客観的にステージを見ることで自分たちの魅せ方についても勉強になるはず。そういう目的で、お呼ばれすることになったはずだった。

 

「それが、こんなことになるなんてね」

 

 善子が花丸に尋ねる。

 

「おらは、ルビィちゃんがしたいことのお手伝いをしたい。それだけずら」

 

 善子と花丸はSaint Snowのメンバーである理亞(りあ)の部屋いた。部屋にはこの二人。部屋の主は姉である聖良(せいら)の手伝いで席を外し、ルビィは入浴中だ。

 Saint Snowは理亞のミスが原因で北海道予選を敗退していた。自責の念に駆られふさぎ込んでいた理亞に対し、ルビィはもう一度ライブをしようと声をかけた。同じ妹として思うところがあったのだろう。自分はもうひとりでもやっていけるところを見せて姉を安心させてあげたい。そんな二人の気持ちが通じ合った結果、ルビィは理亞と聖良が住む実家に居候する形で北海道に残り、現在ライブの準備を進めている。善子と花丸はそれに付き添う形でルビィと理亞の助けになれればと、一緒に北海道に残ったのであった。

 

「……それは罪滅ぼしのつもり?」

「その言い方は、ちょっと傷つくけど……でも間違ってはいない」

 

 花丸はうつむいてそう答える。二人が残ったのもライブの手助けだけが理由ではなかった。

 

「ルビィって意外と頑固だから、何も言わないかもよ?」

「それでもいいんだ。こうすることで、ルビィちゃんの気が少しでも紛れるなら、そうしてあげたい」

「そ」

 

 善子は腕を頭の上に組んで壁にもたれかかった。眉を上げて、いかにも興味なさそうな軽口だが、それは優しさの裏返しだ。花丸にもそれはわかっている。

 二人はいつしか心に決めていた。できる限りルビィの助けになろう。それがどんなことであっても。一番力になりたい部分で無力な代わりに。と。

 

「それに……」

「……そうね。あの目は本気だった。理亞の力になりたい。ダイヤさんに安心してほしい。全部本気よ。欲張りさんよね」

「気づいてたんだ」

 

 当たり前よ! と言いかけて善子はそれをやめる。何が当たり前なものか。親友が一番苦しんでいる時に力になれていない自分に、そんなことを胸張って言う資格はない。

 

「忘れたいのかな……」

「なわけ無いでしょ。顔見りゃわかるわよ」

 

 そうだよね……と呟く花丸の声は主のいない小さな部屋に消えていった。善子は机の上に置かれた(うた)のカケラを拾い上げる。

 

「まだ全然じゃない。ほんとに間に合うのかしら」

「……でも、これ見て」

 

 その断片の一節を、花丸が指でなぞり、善子が読み上げる。

 

「失敗を成功に、未来を変えたい」

「何を選ぶのか、それは私達次第」

 

 続けて花丸が別の一節を読んだ。

 

「きっとうまくいくよ、理亞ちゃんのことも、ダイヤさんのことも、そして、佐蔵さんのことも」

 

 二人は、ルビィが自分の気持ちに早く気づいてくれることを、ただただ祈るばかりだった。

 

 

 

 

「いよいよ、明日だね」

「何? 緊張してるの?」

 

 函館の星空は、内浦とはまた違った美しさがあった。空気が冷たいからだろうか、なんとなく、星明りが鮮明に見える気がする。練習を終え、その満天の星空を眺めながらルビィと理亞は明日のライブについて思い馳せていた。

 

「そりゃあ、ちょっとは緊張するよ」

「まだまだね」

 

 ルビィは、理亞のその精神力に感心した。最終予選では、きっと気持ちが空回りしてしまっただけなんだろう。もし決勝まで勝ち上がってきてたら、と思うとゾッとする。勝てる自信は、あまりない。

 

「……理亞ちゃんは、どうしてそんなに強いの?」

「あんた、予選で失敗した私にそれ言うの?」

「あっ、そういう意味じゃなくて……」

 

 ジトッとした目で睨まれて、慌てて訂正する。

 

「ふん、ルビィ、あんたもうちょっと考えてから物喋りなさいよ。頭緩い子だって思われるわよ」

「ル、ルビィ頭緩くなんて無いもん!」

「ふふっ」

 

 そしてお互い笑いあった。この娘と友達になれて、本当に良かったと思う。ちょっと不器用だけど、心優しい。最初は怖い印象だったけど、とってもいい娘だ。そう思った時、ちくりと胸が痛くなった。

 

「ま、姉様のことを想ったら緊張なんて吹き飛んじゃうわよ」

「……そっか」

「それに、緊張なんてしてたら後悔、しそうだし」

「理亞ちゃん……」

 

 理亞が苦い顔をしている。つい先日のことを思い出しているんだろう。こういうとき、ルビィはなんて声をかけたらいいかわからなかった。いつもそうだ。自分は、ホントは冷たい人間なんだろうか、ふとそんなことを思う。理亞はそんな私を他所に話を続けた。

 

「さっきも言ったけど、私、最終予選で失敗したじゃない。あの時は、姉様とケンカしてたし、すごく後悔した。もう、あんな気持ち、絶対味わいたくない。できることは全部やったって胸を張って言えるくらいまでやるんだって。もし、それで失敗しても、後悔はしないんじゃないかって思う」

「すごいな。ルビィは、そういうの無理かもしれない」

「はぁ? 何言ってんの? 私がこう思うようになったのはあんたがお姉さんと――」

 

 そこまで言って理亞は、はっと何かに気づいたように星空を見上げた。

 

「理亞ちゃん?」

「あー、もう。あんたを見てたらね、私もちゃんと思ったことを言おう、やろうって、そう思ったのよ!」

 

 自覚ないのかしら、と頬を赤く染めた理亞がひとりごちた。ルビィは理亞がそう思ってくれていることを意外に思った。自分なんて、後悔だらけだ、と。

 

「だから明日は、ルビィも後悔のないように、全力でやりなさいよね」

 

 星空よりも満天の笑顔に心臓が脈打つのがわかる。後悔の、ないように。その言葉が、何も知らない無垢な理亞の言葉が、ルビィの胸に重くのしかかった。

 

 ずっと、避けて通ってきた。あの日以来、ルビィは努めて忘れようとした。でも、そうすればするほど、自分の思いは強くなっていって、胸が張り裂けそうになった。理亞が考えた歌詞に『恐れていたら何も始まらない。未来を作るのは自分』という詞があった。前後のつながりや曲の流れを考慮して添削を加えた結果、言葉としては全く形を変えてしまったが、ルビィはこれを聞いた時、正直ドキッとした。自分の心を見透かされているような気がした。そして、そんなことでどうするんだ、と怒られているような気がした。今もまだ、このもやもやは消えてくれない。そして、このまま何もしなければ、一生消えることはないんじゃないかと思う。

 

「……やっぱ外は寒いわね。ルビィ、風邪引いたらばかみたいだから戻りましょ」

 

 理亞が一度ぶるりと体を震わせ、背を向ける。

 

「理亞ちゃん、先戻ってて」

「え、まだ何かするの?」

 

 理亞は半身で振り返り、ルビィに尋ねた。そこに深い意味はないだろう。

 

「ちょっと、電話したいところがあって」

 

 ルビィは決意を固めたような顔つきでポケットに入れた携帯電話を握りしめる。

 

「……ふーん、終わったらすぐ戻ってくるのよ」

「うん」

 

 理亞が屋内に戻ったことを確認すると、ルビィはスマートフォンを操作した。この画面を見るのは、本当に一ヶ月ぶりだ。ためらいはなかった。三コールで出なかったら、切ろう。そう決心して通話開始のボタンをタップし、耳に当てる。

 一コール、ニコール、三コール、あぁダメだ、切れそうにない。じゃあ五コールで……と考えたりもしたが、無駄だとわかりきっていたので、ここまで来たら出てもらうか、留守電になるまで待つことにした。そして七コール目が終わるかどうか、と言う時、電話の持ち主が通話に応じる。

 

「……ルビィ?」

「あの……晃太さん、お久しぶりです。黒澤ルビィです」

 

 白い息とともに言葉を紡ぐ。思ったよりも普通に話せた。覚悟を決めたからなのかも知れない。晃太は突然の電話に困惑しているようだった。無理もない。一ヶ月も、それも急に連絡するのをやめたんだ。

 

「……久しぶりだな。元気でやってるか?」

「おかげさまで……」

 

 ただ、晃太さんは――とは聞けなかった。元気じゃないことは、よく知っている。

 

「で、今日はどうしたんだ? まさかこれからバイク乗っけてくれって?」

「違います」

「……だったらなんなんだよ」

 

 晃太は、ルビィが冗談にノッてくれなかったことに少し苛ついた様子で、電話の目的を尋ねた。

 

「今、北海道にいて、明日、ライブがあるんです」

「北海道でライブ、ねぇ」

「晃太さんに、見てほしくって」

 

 晃太はライブと聞いて怪訝そうな返事をする。それでもルビィは負けじと食い下がった。

 

「……俺に?」

「はい。ルビィ、一生懸命歌うから、見てほしい、です」

 

 後悔したくない。今のルビィの原動力はそれだけだ。

 

「……考えとく」

「ありがとうございます……」

 

 熱意は伝わっただろうか。晃太は少し考えたような間を置いてから答え、ルビィはそれにお礼を言う。

 

「…………用事はそれだけか?」

「あ、えっと……その……はい……」

 

 少しの間沈黙が続いたが、やがて晃太が話を切り上げる。ルビィは、できることならもっと話していたい、そう思ったが、用事はあるか、と聞かれれば、ない、と答えるしかなかった。

 

「ん。じゃあ切るぞ」

「はい。夜遅くにすみませんでした……」

 

 終話の音だけが耳に残る。ルビィはその音を聞きながら夜空を眺めた。おやすみの挨拶もないそっけない切り方だったが、晃太ならきっと見てくれる。燦爛(さんらん)と輝く星空が、そう語りかけてくれているような気がした。



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13th episode

「緊張してる?」

「ううん」

 

 函館の大きな交差点に私達二人は立っている。片方の通りは通行止めになっているけど、もう片方は車が行き交っていて、今もすぐ横を走り抜けていった。

 

「ルビィも、不思議と落ち着いてる。お姉ちゃんが近くにいるからかな」

「それももちろんあるけど、それだけじゃない」

 

 イベント開始の合図を待つ私達は、お互いの気持ちを確かめ合う。理亞ちゃんが、重ねた手をぎゅっと握り返してきた。

 

「貴女がいたから、ここまでこれた」

「理亞ちゃん……」

 

 私も、同じ気持ちだ。初めは理亞ちゃんの為に、と思っていたが、いつの間にか理亞ちゃんからも力を分けてもらって、今ここに立っている。

 

「届けよう。大切な人に」

 

 自然と声が合わさった。きっと、届く。そう信じて、私は持てる全ての力を出し切るんだ。後悔しないために。

 

 いかにもクリスマスソングらしいイントロが街に響き渡る。それがイベント開始の合図だ。街の明かりを受け、スパンコールの入った衣装がキラキラと光った。この曲は、ここが肝心だ。私と理亞ちゃんのデュエットから全員につなげる大事な前奏。大丈夫、振りは激しくないし、ハイトーンの練習も十分積んできた。私は、歌詞に合わせるかのようにまっすぐ前を見つめて自分のパートを歌い上げる。

 

 街路樹に取り付けたイルミネーションが、曲に合わせて次々と点灯していく。その度に、お客さんからは歓声があがった。でも、驚くのはまだ、これから! イルミネーションがすべて点灯した瞬間、大通りがカラフルな照明で色づく。石張りの道路は、一瞬にして大きなステージへと変貌を遂げた。曲のテンポが上がり、理亞ちゃん得意のラップで『隠された力』を覚醒させる。……いくよ!!

 

 聖良さん、お姉ちゃんと続いて、グループ別のパートへ。頑張る、負けない。私達の想いをストレートにぶつけているこの歌詞には自然と力がこもった。それはお姉ちゃんや聖良さん、他のAqoursメンバーも同じ気持ちだ。始めなきゃ、何も始まらない。当然だけどその一歩踏み出すのには勇気がいる。私は、その一歩をステップに変えて、強く踏み出した。力を溜めて一気にサビへと持っていく。理亞ちゃんが、任せて、というようにウィンクしてみせた。コールで更に勢いをつける。

 

 サビにもコールが取り入れてあることに気がついたお客さんが一緒になって腕を振り上げてくれる。これぞライブの醍醐味だ。この一体感はライブじゃないと出すことができない。逆に、お客さんの反応があってはじめて完成する。狙い通りだ。私にも、私達にも自分たちが目指すようなライブを作ることができた。感極まってしまい涙が出そうになったが、それを笑顔でかき消した。

 

 曲は終盤へと向かう。スローテンポに戻ったあと、隊列を組んで足を片方ずつ上げながらゆっくりと動く。目をつぶって、浮かんできたのはやはり晃太さんの顔だった。見てくれてるかな。きっと見てくれてるよね。照明が少しずつフェードアウトしていく。一度はきらびやかに輝いていたイルミネーションがすべて落ち、僅かな照明と街明かりだけが周囲を照らしている。それを合図に私達は中央に集まった。

 

 目覚めよう。私達の新しい世界へ。魔法の言葉を唱えながら私達は陣形を組み直した。曲の終了とともに、イルミネーションが再点灯する。今度は緑と黄色を基調としたクリスマスツリーをイメージした配色だ。私達Saint Aqours Snowはその一番上に掲げる大きな星になって、お客さんへ、函館の街へ、想いを届けたい人へ、精一杯輝きを贈り続けた。

 

 

 

 

「おかえりなさいませ、お嬢様」

 

 北海道でのライブは大成功だった。また、あの十一人でライブがしたい、そう思えるようなライブで、会場は大盛り上がり。ネットでの反響も凄まじかった。何より、私も理亞ちゃんも、お姉ちゃんたちにきちんと想いを伝えられた。……そして、ほんのちょっぴりAqoursの宣伝もできた。

 

「長旅でお疲れでしょう。ゆっくりご入浴なさって、今日はもうお休みになられると良いかと思います」

 

 ライブを終えた翌日。家についたのはもう夕方になっていた。最近は日が落ちるのも早く、六時を回った今では辺りはすっかり暗くなってしまっていた。お手伝いさんが私の荷物を受け取ってくれる。

 

「あ、それから」

「なに?」

 

 靴を脱ぎ、()がり(かまち)に踏み入ったところで、お手伝いさんが思い出したように話しかけた。

 

「最近毎日お嬢様はいるかと訪ねてくる者がいます。あまりよい雰囲気をした者ではなかったので、いない、とだけ答えておきましたが、近くの浜辺にバイクを停めてしばらく佇んでいるようです。どうか近づかないようお気をつけ下さい」

 

 えっ。

 私は立ち尽くした。

 

「今、なんて……?」

「ええ、危ない輩がうろついているようなのでお気をつけくださいと……」

「それってどんな人!?」

 

 体が密着してしまうくらいまで詰め寄って捲し立てる私の様子に、お手伝いさんは困惑しているようだった。

 

「ええと……茶髪の男性で、背は……そうですね、百八十センチくらいでしょうか。目つきの鋭い者でした。服装も乱れていてあまり良い印象は受けませんでしたが……あ、お嬢様!?」

 

 私は走り出していた。バイク乗りで私を訪ねてきたと言う時点でほぼわかりきっていたことではあったけど、間違いない。晃太さんだ。

 近くの浜辺というと、きっとお家の裏にある記念公園沿いに違いない。そう思った私は急いで家の裏へとまわり、公園の中を突っ切った。もしかしたら今日も来てて、まだ待ってるかもしれない。いや、そうに決まってる。私はそう、なにか確信めいたものを胸に秘め、ひたすらに走った。公園を抜ける。浜辺は目の前だ。

 

「ルビィ…?」

 

 肩で息する私を見て、短髪の男の人が言う。

 

「帰ってきてたのか」

 

 月明かりが、私達二人を照らしていた。雰囲気は変わってしまっていたけれど、間違いない、晃太さんだ。耳まで隠れる程長かった髪をバッサリと短くし、まるで陸上選手のようだった。もしかしたら、以前はこんな髪型をしていたのかも知れない。

 

「晃太さん……」

 

 私が呆然としていると、晃太さんはどこか清々しい笑顔を浮かべ、こっちへ来い、と手招きした。私はそれに従って、彼の隣に移動する。

 

「あ、あの――」

「ライブ、見たぜ」

 

 私の言葉を遮って、晃太さんが語りかける。

 

「お前の頑張り、伝わってきたよ」

「あ、ありがとうございます」

 

 お礼を言う私。ちらりと見えた晃太さんの表情は言葉とは裏腹にどこか硬かった。まるで、何かを決心したような、覚悟を決めたような、そんな表情。そして、大きく息を吸い込んで深呼吸を一つ。意を決したように口を開いた。

 

「俺、さ。怪我、治してくるわ」

「え?」

 

 その言葉に、思わず晃太さんの顔を見つめる。ぎこちない笑顔がこちらを覗き込んでいた。

 

「ライブ見て、負けてらんねーなって思った。逃げてたんだ、どうせ手術なんかしても、昔のようには走れねーって。でも、できないなんてやんなきゃわかんないよな」

「それ、Awaken the powerの……」

 

 そして晃太さんはサビの部分をスローテンポでハミングする。私はそれに合わせて歌詞を紡いだ。冬の浜辺に二人のセッションが木霊する。月と星しかいないステージで、私達二人はワンコーラスだけ歌い上げた。どこへ行こうか、どこへだって行ける。そんな気がしていた。

 

「ありがとな。お前に出会えてよかった」

「そんな……」

 

 輝く星空を見つめ、晃太さんが言った。それは私のセリフだ、と言いたかったが、どうにも言葉にできない。また、晃太さんに会えて、お話ができて、私はそれだけで満足だ。自分から連絡を断っておいてなんて身勝手なことだろうか。でも、幸せだった。私も晃太さんと同じように、頭上で煌めく星空に目を移す。

 

「お前に出会う前は、なんだかくすぶっててさ。そりゃいきなり怪我で陸上を取り上げられたんだから、グレるのもしょうがないだろって心の何処かで自分を肯定してきた。苦し紛れにバイクで走り回ったり、一匹狼気取って斜に構えたり、そんな二年間だった」

 

 晃太さんはぽつりぽつりと語り始めた。

 

「あの日、お前に出会ったのは運命だったんじゃないかって、そう思う。こんな事いう柄じゃないってのは自分でもよくわかってるけど、今は、そう、思うんだ」

 

 運命、その言葉に私はドキッとする。もしそうだったなら、私も嬉しい。いや、そうであってほしい。そう願わずにはいられなかった。

 

「お前に出会ってからさ、ずいぶん変わったと思うよ、俺。おかげで後輩から丸くなったなんて言われたこともあったけど、それよりも大事なものを見つけた気がする」

 

 気づくと、晃太さんは星空から私の方に視線を移していた。私もそれに合わせて晃太さんを見上げる。その真っ黒な瞳に吸い込まれそうだった。

 

「全部、お前が教えてくれたんだよ。ルビィの一生懸命頑張るひたむきさ。最初はがむしゃらになって走ってた昔の自分を見てるようだった。でも違った。俺は、志半ばで折れちまったけど、お前は強かった。廃校が決まっても、それでも、学校の名前を残そうって必死になって……」

 

 晃太さんは一度言葉を切り、そしてくしゃりと顔を歪めて言う。

 

「こんなチビに負けてらんねーなって思ったんだよ!」

「ち、ちび……」

「はは、冗談。……でも、負けてらんねーなって思ったのは嘘じゃない。現実から目を背けて逃げてるだけ、それではダメだってわからせてくれたのがお前なんだよ」

 

 声の調子はすぐに元通りになった。ぽんぽん、と二度ほど私の頭を軽く叩き、そして再び見つめ合う。

 

「そうやって、ルビィは俺のことを救ってくれた。俺も、ルビィの力になりたい。助けになりたい。迷惑かもしれない。押し付けがましいかもしれない。でもそう思ってここにいる」

 

 そこで晃太さんは一つ息を吐いた。その唇は心なしか震えているようにも見える。私の心臓も早鐘を打っていた。聞きたい、けど、聞きたくない。そんな葛藤をしている私に、晃太さんがはっきりとした口調で告げた。

 

「ルビィ、好きだ。俺と付き合ってほしい。もっと、お前のそばにいたい。ずっと、一緒にいたい」

 

 温かいものが頬を伝っていくのがわかった。晃太さんが慌てた様子でこっちを見てるのがわかる。痛かったらごめんなさい。でも、ずっとこうしていたい。私は晃太さんの胸に飛び込んでギュッと抱きしめた。そのがっしりした胸板はやっぱり男の人なんだなと思わせる。おかしいな、私、男性恐怖症だったはずなんだけど、と今更ながらにそんな事を考えた。

 

「な、何泣いてんだよ!?」

「だって……嬉しくって……ルビィも、ずっと前から好きだった。ルビィも大好きです!」

 

 彼の胸に顔を埋めながら、ずっと想っていたことを口にした。もう、伝えることはないと思っていた想い。(せき)を切ったように溢れ出した想いは、涙とともにこぼれ落ちる。はじめてバイクに乗せてもらったときから、ううん、ホントは助けてくれたときから好きになってたのかもしれない。私の想いを聞いた晃太さんが優しく頭をなでてくれている。生まれてはじめてこのまま時が止まればいいのに、と思った。

 

「……ありがとう」

 

 そう言うと、晃太さんは私の肩を掴んでその胸から引き剥がした。そして、まっすぐに私を見つめる。

 

「ルビィ、キス、していいか?」

「……はい」

 

 少し背伸びをした。それでも彼には届かず、彼も少しかがんでくれた。お互いの距離がだんだん近くなり、私はそっと目を閉じる。吐息がかかって少しくすぐったい。

 キスの味とはどんな味なのか、という質問を目にしたことがある。それはイチゴ味だったり、レモン味だったり、ミントの味だったり。味がしないなんて答えもあったりした。

 私の初めてのキスは少ししょっぱい涙の味がした。

 



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14th episode

 一月は往く、二月は逃げる、三月は去る、とはよく言ったものでこの二ヶ月間はあっという間に過ぎ去っていった。紅や白の梅の花がまだ少し青さを感じる甘い香りを漂わせ、寒かった冬に春の兆しを感じさせる。加えて今日はぽかぽか陽気。絶好の行楽日和だ。

 

「綺麗だったね」

「ああ、やっぱり季節物ってのは良いもんだな」

 

 今日は朝から出かけるぞ、と連絡を受けた私はお花見に連れて行ってもらった。今年は冬が寒かったからか、修善寺の梅林はまだ見頃が続いていた。私は勝手に、晃太さんはこういうの興味ないかな、って思っていたから場所のチョイスに少しびっくりしたけど、高台から見える満開の紅白梅と、その後ろにそびえ立つ雄大な富士山を見ていたらそんなことも忘れてしまった。

 

「そこまで寒くなくてよかったな。後ろ、大丈夫だったか?」

「うん! もうバッチリだから!」

 

 ライダースジャケットの襟をピッと整えて胸を張る。もうこの服もずいぶん着慣れたものだ。そりゃあたまにはふりふりのお洋服を着たくなるときもあるけど、それだけがオシャレじゃない。それに、晃太さんとお揃いっていうのがすごくドキドキする。一緒に買いに行ったこのジャケットとジーンズはとってもお気に入りだ。

 

「それにしてもあんまり混んでなくて良かったぁ。時間が早かったからかな?」

「ちゃんと座って飯食えたし、鮎の塩焼きもうまかったしな」

「お弁当より?」

「うそうそ、うまかったよ。ありがとな」

 

 晃太さんはよくこういうことを言う。だんだん慣れてきてしまった自分がなんだかちょっと悔しい。私達はお昼ご飯――早起きして頑張って作った――を食べるまで観梅(かんばい)を堪能して、今は私の家の裏、記念公園を通り抜けた先にある浜辺で穏やかな海を眺めている。山から海へ。贅沢なデートコースだ。けれど、今日はここでお別れ。お昼までしか遊べないから朝から出かけたらしかった。

 

「ルビィ、お前に言わないといけないことがある」

「なんですか?」

 

 少し、改まったような口調で晃太さんが言う。

 

「手術の日が決まった」

「ホント!? いつですか!?」

 

 その報告に、嬉しくってぴょん、と飛び跳ねてしまった。彼の手を取って、それがいつなのか尋ねる。

 

「今月」

 

 え、今月、ってもしかして……

 

「ああ、だから、応援には行けない」

「……そっか」

 

 少し、残念だ。今月の中頃にはラブライブ!の決勝がある。晃太さんの応援があれば百人力だと思ってたけど、どうやらそれは叶わないらしい。

 

「すまん」

「ううん、ちょっと寂しいけど、大丈夫! 頑張るビィするから!」

 

 でも、会場でじゃなくても絶対応援してくれる。そう思ったらなんだか力が湧いてくるような気がした。でも、晃太さんは、大丈夫だから、と伝えた私の顔をどこか悲しそうな表情で見つめている。クスリともしてくれないことにちょっと違和感を感じた。

 

「で、来週、九州に引っ越すことになってる」

「…え?」

 

 突然のことで頭が回らなかった。

 

「いつか言おう、そう思ってたんだけど、すまん」

「え、どういうことですか…?」

 

 引っ越す? 九州に? 離れ離れになっちゃって、もう会えないってこと? そんな悪いイメージだけがぐるぐると駆け巡った。

 

「俺の手術、成功率あんまり高くないんだ。だから、少しでもいい先生のとこで受けたくて。リハビリも含めて、結構かかりそうなんだ。早くて三ヶ月、かかると、それこそ一年、くらい」

「一年……」

「ああ」

「…………」

 

 ずっと会えないわけではない、ということがわかり、私は少しだけ安堵する。でも九州だと、北海道よりも遠い。一番大好きな人が、誰よりも遠いところに行っちゃう、そんな喪失感を抱えた。もちろん手術は受けてほしい。成功することも心から願ってる。そう思っているけれど、それでも、離れ離れになっちゃうなんて、寂しいよ……

 

「で、これをお前に預けたい」

 

 晃太さんがポケットから何かを取り出した。そして私に差し出す。

 

「これ、ドラスタちゃんの……」

 

 それは晃太の愛車である【ドラッグスター400 クラシック】のキーだった。何度目かのデートで買ったパールちゃんのキーホルダーが付いてるから間違いない。

 

「だからその間、こいつのこと、頼む」

 

 私は躊躇った。これを受け取ってしまったら、晃太さんは行ってしまうんだろう。いや、受け取らなくても行ってしまうのは間違いないんだけど、でも、これを受け取ってしまったら、何かが終わってしまうような気がして、視線の先にある鍵をじっと見つめていた。

 

「頼む」

 

 晃太さんが鍵を持つのと反対の手で、私の手を握る。顔を上げると、不器用な笑顔が私の瞳を見つめていた。ああそうだ、晃太さんもつらいに決まってる。だったら私も――

 

「……うん、分かった。ルビィに任せて!」

 

 私は決意を固め、鍵と一緒に晃太さんの手を握り返した。さっきまでの不自然な笑みは、目を細めた満足そうな微笑みに変わっていた。

 

「任せるビィ、ってか?」

「それはちょっとないかな」

「なんでだよ!」

 

 私達はそこで手を握りあったまま笑っていた。すごく、幸せな時間だ。ずっとこの幸せな時間が続けばいいのに。でも、それではいけない。私は、私達は、前に進むって決めたから。

 

「あはっ。でも、任せて。ちゃんとお世話するから。ずっと、待ってるから」

「海岸通りでか?」

 

 私の表情に、言葉に、少し恥ずかしくなったのか、晃太さんは私から視線を外し、照れくさそうに茶化した。確かにあの曲で、ずっと待ってる、って言ってるところがあるけど、でも、とっさにCYaRon!の曲が出てきてしまうところがすごく可愛い。そんなことを心の中で思いながら、私も海へと向き直った。晃太さんに体を預ける。

 

「晃太さん、すっかりファンになっちゃったよね」

「ルビィが歌ってる曲だけな」

「……そういうこと、サラッと言うの、ずるい」

「ルビィもいつもやってくるからその仕返しだ」

「もうっ!」

 

 意地悪を言うつもりが、逆に返されてしまった。顔が熱い。向き合ってなくてよかった。ギュッと手を握りあったまま――恥ずかしさで汗ばんでないかな…?――そんなじゃれ合いを続けた。さっきまでずっと遠くにいたあの綿あめのような雲が、少し形を変えて私達の正面まできている。しばらくして、晃太さんがポツリとつぶやいた。

 

「そろそろ行くか」

「うん」

 

 私達はそう言いつつも、少しの間名残惜しむように海を眺めていた。春とはいえど、まだ海風が冷たい。時折吹く強い風は、これから旅立とうとしている私達の背中を押してくれているように思った。よし、行こう。

 

 二人はほぼ同時に歩き出す。その足取りはとても緩やかではあるが決して重くなどない。この時間を噛みしめるように静かに、一歩ずつ進んで行った。ドラッグスターまでたどり着くと、晃太は、すぐそこだから、といい、バイクを押した。ルビィはその隣を寄り添うように歩く。浜辺からルビィの家まではとても近い。公園を横断してしまえばすぐだ。しかし、この二人にはそれは永遠に感じられただろう。かしこに咲く紅白の梅の花笠(はながさ)が二人の新しい門出を祝福しているようだった。やがて到着したルビィの家の前でバイクを停め、晃太が手を振る。

 

「んじゃ、またな!」

「うん! またね!」

 

 

 

 

 

 

 

―――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 あれから二ヶ月。私達Aqoursはラブライブ!優勝、晃太さんの手術は無事成功。いい事づくしだ。お互い結果が出た時は電話もした。会うことはできなくても、声は聞ける。それでもやっぱり少し寂しいけれど、ドラスタちゃんもいるから。

 ボディを拭いたり、お父さんにエンジンをかけてもらったり、きちんとドラスタちゃんのお手入れをしている。あの日、玄関の前に置いてあるドラスタちゃんを見た時、お母さんとお姉ちゃんは目が飛び出るくらいびっくりしてたけど、お父さんが車庫の一角を貸してくれて、そこで保管している。晃太さんからは乗ってもいいぞって言われてるけど、重くて持ち上がらないからそれは無理だと思う。それに、私の特等席は運転席じゃないから……なんて。ホントはちょっと動かしてあげた方が良いみたいだけど、いざとなったらお父さんにお願いしよう。それとも、免許、取りに行こうかな? あ、でも足が届かないからどの道無理かもしれない。

 

 最近の私は、晃太さんと初めて行った喫茶店でどうしてるかなって考えることが増えたみたい。絶対新曲のせいだよね。いや、曲が今の私の気持ちに引っ張られてるのかもしれない。ホントはこういう意味の曲ではないんだけど、ところどころ思い出してしまうような部分があってどうしても気持ちがこもってしまう。たまに電話はするけど、会ってた頃のことを思い出すと少し寂しい。とってももどかしい気持ちだけど、声が聞けるだけマシ、もう後数ヶ月の辛抱だ! と思って我慢しようと思う。それにもしかしたら明日にでもひょっこり……なんてこともあるかもしれないし。

 

「ルビィちゃんおまたせ」

 

 今日は久しぶりに三人でお買い物。花丸ちゃんは花柄のワンピースにカーディガンを羽織っていて、普段どおりの格好だ。一方善子ちゃんは紺のトップスに短いタイトスカートとロングブーツ。頭には白いベレー帽を被っている。少しおしゃれしてきたかな? 堕天使ヨハネはもうすっかり鳴りを潜めていた。私は白い七分袖のブラウスにピンクのロングスカート。上着、着てくればよかったかな?

 二人には――あとお姉ちゃんにも――進級する直前くらいにあれから何が起きたのかきちんと説明した。上手く隠せてたと思ってたんだけど全部お見通しだったみたいで、すっごくすっごく怒られた。お姉ちゃんはその後優しく私の頭をなでてくれて、花丸ちゃんと善子ちゃんは泣きながら私のことを抱きしめてくれて、私は自分の愚かさを痛感させられた。自分のことに手一杯で周りが見えなくなっちゃうのは直さなきゃな、と思う。そしたら、お姉ちゃんみたいな大人の女性になれるかな?

 でもそれももう一ヶ月以上も前の話で、二人とは久しぶりに遊ぶ気がする。最近、それぞれ忙しくって――特に善子ちゃんは色々頑張ってるみたいだし――なかなか一緒になにかする機会がなかったから、私は今日の日をとても楽しみにしていた。揃ったところで、私達は他愛もない会話をする。

 

「先月くらいから、私達と遊ぶ時、いっつも先にきてここで待ってるのね、ルビィ。どうして?」

「ふふ、秘密!」

「なによそれ! 教えなさいよ!」

「善子ちゃんが色々喋ってくれたら教えてあげるよー!」

「ぐ……そうやってからかって…! 今に見てなさい!!」

「善子ちゃん、過去の行いは未来の自分に降りかかってくるんだよ」

「ずら丸まで!」

「あはは! さ、二人共、行こ!」

 

 私はぬるくなってしまった紅茶を一気に飲み干した。そして、親友二人の手を引きながら駆け出す。二人はちょっとびっくりしたみたいだったけど、すぐに自分の足で駆け出した。一瞬だけ、後ろを振り返る。『cafe lollipop』、このお店にも感謝しなきゃ。そう心の中でつぶやき、棒付きキャンディの名を冠する喫茶店を後にするのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 佐蔵 晃太 様

 

 お元気ですか? ルビィは元気です。

 

 お手紙なんて年賀状くらいしか書いたこと無いから、なんて書けばいいか全然思いつきませんでした。

 

 ルビィは今、併合した沼津の高校に通ってます。晃太さんの高校ではないけど、結構近くて、たまにふらっと近くを通ってみたりもします。

 

 お家に帰る前に、あの浜辺で夕焼けを見に行くこともあります。また二人で見たいです。

 

 今はまだ、全然会えないくらい遠いところにいるけど、絶対会える。そう信じてるから、だから、全然寂しくなんて無いよ。いつか会えるその日を、心待ちにしています。

 

 黒澤ルビィ

 

 P.S. あの時助けてくれて、ドラスタちゃんに乗せてくれて、夕焼けを見せてくれて、そして、ルビィのこと好きになってくれて、どうもありがとう。



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Fin.

『ルビィちゃん、お誕生日おめでとう!!』

 

 ついさっきの出来事だったような気がする。後片付けを終え、来客を見送ったルビィは自室へ戻り、もらったプレゼントを机の上に広げていた。

 九月二十一日、今日はルビィの誕生日だ。Aqours(アクア)の仲間だった千歌(ちか)(よう)梨子(りこ)善子(よしこ)花丸(はなまる)はもちろん、東京からダイヤも駆けつけ、こられなかった果南(かなん)鞠莉(まり)からはプレゼントが、理亞(りあ)からはお祝いのメッセージが届き、黒澤の家で行われた誕生祭は大盛り上がりだった。

 

「楽しかったなぁ。みんなからいっぱいプレゼントもらっちゃった」

 

 机の上にはアクセサリーや洋服、本や筆記用具など、個性あふれるプレゼントたちが並んでいた。それぞれが考えて贈ってくれたプレゼントは、実にAqoursらしくて暖かな気持ちになる。

 

「すごく、楽しかった……」

 

 しかし、そんな言葉とは裏腹にルビィの顔は少し沈んでいた。一番祝ってほしい人からまだ何も連絡がきていない。

 晃太(こうた)と離ればなれになってから半年の月日が経つ。連絡こそ取ってはいるものの、その頻度は少しずつ落ち着いてきていた。それこそ、連絡先を交換した直後の頃のように。

 

「晃太さん……」

 

 机に飾っているバイクのキーを見つめ、きつく拳を握る。震える唇が愛しい人の名を紡いだ。

 

「寂し――」

 

 言いかけた言葉を慌てて飲み込む。今、なんて? 寂しいなんて、私だけじゃない。晃太さんだってそう思ってくれているに違いない、そう自分に言い聞かせ、部屋の窓からを惣闇色(つつやみいろ)の夜空を見上げた。

 

「夜空はなんでも知ってるの、か……」

 

 花丸ちゃんや善子ちゃんとなら涙も半分こできるのに、晃太さんとはとてもじゃないけどできないな。ルビィは南の空にひときわ輝く一等星(いっとうせい)を見つめながらひとりごちた。

 

 今の状態は良好とはいえないことに、ルビィ自身も気が付いていた。大好きなはずなのに、素直に思いを打ち明けることができない。

 本当は毎日でも電話したい。『おやすみ』の声が聞きたい。でも、電話をしたら、声を聞いたら、言ってしまいそうな気がする。電話じゃ足りないって、今すぐ会いに来てほしいって。コールボタンに指は届かなかった。

 

「会いたいよ……」

 

 ルビィの頬を一筋の涙が伝って机の上を濡らした。

 

ピンポーン

 

 その時、無機質なインターホンが鳴り響いた。来客だろうか、こんな時間に?

 

 「ルビィ? お届け物みたいです。きっとどなたかからのプレゼントですわ。受け取りに行きますわよ」

 

 隣の部屋から出てきたダイヤが、部屋の前でルビィに声をかけた。ダイヤの言う通りプレゼントなのだろうか。でも誰から? もしかして、いやでも、そんな期待と不安が入り乱れる中、ルビィは涙をぬぐい呼びかけに応じた。

 

 印鑑を用意し、ダイヤと一緒に玄関先まで向かう。戸を開けると、そこにはいかにも配達員らしい服装をし、つば付き帽子を深くかぶった背の高い男性が立っていた。小脇に抱えられる程度の大きさの段ボール箱を差し出し、サインを求める。

 

「ご住所、お名前の確認と、よろしければサインをお願いします」

 

 ここの住所で間違いない。どうやらルビィに宛てた荷物のようだ。

 

「あっ!」

「あら、佐蔵(さくら)さんからのお荷物ですのね」

 

 差出人には佐蔵晃太の文字。ルビィは、その見覚えのある無骨な文字を愛おしそうに指でなぞった。

 

「ルビィ、開けてみてはいかがですか?」

 

 ダイヤが優しく囁く。ルビィはダイヤと少し目配せをし、小さくうなずいて()がり(かまち)を跨ぐ。廊下まで戻ったルビィはゆっくりと包みを床に置き、その封を解いた。

 

「わぁ…!」

 

 中には色々入っていた。誕生日プレゼントなのだろう。まだ持っていなかったバイクグローブ、ネックウォーマー、会話用のインカム等、他にもツーリングに行く為に必要な装備がいくつか入っていた。バイク用品の中にピンク色のクマのぬいぐるみが混ざっているのは何とも微笑ましく、ルビィの頬も自然と緩んでいた。

 

「あれ…?」

 

 ふと、他のプレゼントで折れてしまわないように、クッション材で守られるようにして隅の方にしまってある封筒が目についた。

 

「お手紙ではなくて?」

 

 ダイヤの言葉に、ルビィは慌てて、でも丁寧に確認する。

 

 真っ白な封筒だった。宛名も差出人も書かれていない、正真正銘、純白の封筒。金色の、音符が刻印されているシールで封がしてある。破れないよう慎重にはがし、中に入っている便箋(びんせん)を取り出した。中身は二つ折りにした便箋が一枚。インクの跡があまりないことが裏から見てもわかり、たくさん書かれているわけではなさそうなことが予想できた。少し残念に思いながら便箋を開く。

 

「えっ」

 

 そこには四文字。ただいま、とだけ書かれていた。

 

「ただいま」

 

 いまだ玄関に立ち尽くしている配達員が聞きなれていた声を発した。便箋から目を離し、恐る恐る、それでも心からの期待を込めて、顔を上げる。

 帽子を脱ぎ、ルビィの翠眸(すいぼう)をまっすぐ見つめる青年は、まぎれもなく、ルビィが今一番会いたくて、愛しい人、佐蔵晃太その人だった。

 

「ルビィ、誕生日おめでとう」

「う、うん……」

「いままでごめんな」

「う、ん」

「もう、どこにも行ったりしねーから」

「うっ……」

 

 零れそうになる嗚咽(おえつ)を必死でこらえ、晃太の問いかけに大きく頷きながら声にならない返事をするルビィ。そんな様子を見たダイヤが、ルビィの手から晃太の手紙をそっと受け取り、優しく背中に手を添えた。

 

「う、うぅ……」

 

 それがきっかけになったのか、それとも自然と体が動いたのか、ルビィは晃太の胸に飛び込み、(せき)を切ったように大声で泣き出した。子供のように泣きじゃくる恋人の頭を、晃太はその大きな手で優しくなでる。

 

「うぅ、晃太さん、寂しかった。ずっと会いたいって思ってた」

「ごめん。俺も早く会いたかった」

「そんなの……ずるいよ……」

 

 ルビィはまだ潤んでいる瞳を晃太に向け、しばらく見つめ合ったあと、静かに閉じた。

 

「お、おいルビィ…!」

「あら、私はお邪魔でしたか?」

 

 そんな様子を後ろで見ていたダイヤが堪らず呆れたような声をあげた。

 

「あっ、お、お姉ちゃん……」

 

 はっとしたルビィは、ばつが悪そうにダイヤの方へと振り返る。一方晃太はやれやれといった様子だ。

 

「いや、知らんから。俺だってびっくりだよ」

「それはあなたがルビィを悲しませるようなことをするからでしょう?」

「ぐ……」

 

 軽くため息をついて、こちらもやれやれといった様子のダイヤ。しかしその口調はどこか柔和(にゅうわ)で優しげなものだった。

 

「まあいいですわ。ルビィにも喜んでもらえたみたいですし」

「ああ、助かった。ありがとな」

「え、え…?」

 

 目配せをしている二人を交互に見るルビィ。少しして、これはサプライズだったんだと気付くと、再び目を潤ませて晃太にぎゅと抱き着いた。

 

「……意地悪」

「あー……そう言われると、つらいな……」

「当然です。報いを受けなさい」

 

 手厳しいなぁとぼやく晃太。玄関先で三人は静かに笑いあった。

 

「待って。ってことはお姉ちゃんは晃太さんが沼津に戻ってくるってこと知ってたの?」

 

 何かに気が付いたようにぴたりと動きを止めたルビィが、(いぶか)しむような目でダイヤを見つめる。

 

「ま、まあ、そういうことになりますわね……」

「どうして教えてくれなかったの!?」

 

 ルビィが珍しく語気を強め、ダイヤに詰め寄らんばかりの勢いで問いかける。あまり見ないルビィの仕草に、ダイヤは少したじろぎつつ答えた。

 

「さ、佐蔵さんが黙っててくれと。自分が誕生日プレゼントになるっておっしゃられていたので仕方なく……」

「おいおい、俺一人に押し付ける気かよ。ねえさんだって乗り気だったじゃねーか」

「そう呼ぶのはやめてくださいと何度も…!」

「二人が仲良しさんになってる」

 

 ルビィが唇を尖らせて二人の口論に割り込む。恋人と姉が仲良くなって――あの出会い方だから余計だ――、嬉しい反面、少し妬いてしまう気持ちもあった。

 

「あ、あの、ルビィ? これはですね……」

「俺が頼んだんだよ。十月から、こっちの方の大学に入学することが決まったからさ、ルビィの誕生日に合わせて戻ってこようって。心配させて悪かったな」

 

 晃太が優しく、先ほどとは少し強めにルビィの頭をなでる。少し頬を赤らめたルビィが、惚けたような顔で晃太を見上げた。

 

「じゃ、じゃあ、これからは…!」

「ああ、この辺にアパート借りて一人暮らしする予定」

「やった!」

 

 ルビィは満面の笑みを浮かべ、諸手を挙げて喜ぶ。素直に感情をあらわにするルビィに、晃太とダイヤも微笑をたたえた。

 

「そのためにちょっとダイヤに協力してもらったってだけだ。連絡しなくて悪かった」

「ホントに、色々と相談受ける身にもなってください」

「相談?」

 

 どうやら晃太とダイヤは密かに連絡を取り合っていたらしく、少なからずルビィの話題についても上がっていたようだった。気になったルビィがダイヤに尋ねる。

 

「ええ、あまりルビィと連絡取り合うとボロが出そうになるんだけどどうしようと……」

「バカ、お前それは言わない約束だったろ!」

「ああ、そういえばそうでしたわね」

 

 晃太が慌てて遮ったが時すでに遅し。約束を反故(ほご)したダイヤはというと、表情こそ申し訳無さそうにしていたが、そのトーンは特に様子もなく、今度は晃太がため息をつく番だった。

 

「ふふ、二人が仲良しさんで、ルビィも嬉しい!」

 

 言い合う二人を見て、ルビィが笑顔で返した。今度はさっきとは打って変わって、晴れやかな表情で。

 

「さ、いつまでここにいるつもりですの?」

「あ、そうだよね……晃太さんもお家に帰らなきゃ……」

 

 もう十時を回った頃だろうか。ダイヤがこの場にとどまっていることを咎めた。確かに玄関先でいつまでも話し込んでいるわけにもいかない。ルビィは名残惜しそうに晃太から離れた。

 

「んじゃ、場所変えるか。行くぞルビィ」

「え…?」

 

 思いもよらない一言に、ルビィがきょとんとした声を上げる。

 

「鍵、取って来いよ」

「……うん!!」

 

 ぱっと顔を輝かせたルビィが、大急ぎで自分の部屋へと駆けていった。

 

「佐蔵さん、車庫のカギ、開けておきましたから」

「さすがはねえさん。サンキューな」

「もう、だから……」

 

 ダイヤは、はあ、と呆れ顔で続けた。

 

「まあ、あなたにそう呼ばれるのは、悪い気はしませんけどね」

 

 

 

 

 鍵を取り、ライダースに着替えて戻ってきたルビィと一緒に、晃太は黒澤家の車庫へと足を向けた。そこには、以前と変わらぬ、いや、以前よりも磨かれて美しい光沢を放つ愛車が停めてある。

 

「きちんと手入れしてくれてたんだな」

「もちろん!」

 

 傍らにいるルビィが少しはにかみながら返した。きっと一生懸命なルビィのことだ、毎日のように手入れをしてくれていたに違いない。わからないこともたくさんあっただろうが、調べながら手入れをしたんだろう。最高の状態の愛車を見た晃太は、何も言わずくしゃりとルビィの頭をなでた。

 

「ふふ、なあに? くすぐったいよ」

 

 気持ちよさそうに表情を崩したルビィを見て、少し照れくさい気分になった晃太はそのまま無言でバイクに跨った。

 

「あ、ま、待ってよ」

 

 ルビィも慌ててそれに続く。黒とピンクのフルフェイスが、半年ぶりに縦一列に並んだ。

 

 二人はそれからしばらく海岸沿いを走った。晃太にとっても、ルビィにとっても、半年ぶりのタンデムだ。最初は緊張していたのか、スピードも控えめだった晃太だが、すぐに勘を取り戻したようで、()()()()()()スピードになるのに時間はかからなかった。ルビィが腰に回した腕に少し力がこもる。問題ない。大丈夫そうだ。

 

 ルビィは、先程まで真っ暗だったように思えた星空も、急に明るくなったような気がしていた。大好きな人と、いままで精一杯手入れしてきたバイクと一緒に見てるからかな、と思う。水面に反射した月明かりが走りゆく二人の影を追っていった。

 

 途中コンビニに立ち寄り、温かいコーヒーとココアを買って一休(ひとやす)み。九月の(くれ)ではもう夜は冷える。また、かれこれ一時間ほど走っていたため、温かい飲み物は体に染み渡った。

 

「こんなとこまで来ちまってから言うのもなんだけど、お前門限良かったのか?」

「あー……今日ぐらいは許してくれないかなー、なんて……」

 

 ルビィがあはは、と苦笑いをする。晃太も肩をすくめた。

 

「ねえさんに助けてもらえばいいじゃねーか」

「あんまり頼りきりなのもなって思うの。それに、お姉ちゃん、わざわざルビィの誕生日のために帰ってきてくれたから、今はゆっくり休んでほしいし」

「姉貴思いだなぁ」

 

 コンビニの駐車場で他愛のない会話をする二人。久しぶりに、それも半年ぶりに会ったとは思えないような距離感に、ルビィはなんだか幸せな気持ちを抱いていた。遠く離れていても、心は繋がってたんだ、そんな気がしていた。

 

「そういえば」

「なんだ?」

 

 ちょうどココアを飲み終わったタイミングで、ルビィが晃太に尋ねる。

 

「お姉ちゃんのこと、時々『ねえさん』って呼んでるのはどうして?」

「えっ、それは、その……」

「お姉ちゃん、やめてって言ってたけどなんでなんだろう」

 

 予想していなかった質問に戸惑う晃太。それを他所にルビィは素朴な――彼女にとっては、だが――疑問をぶつけた。対する晃太は、なにやら居づらそうで、落ち着きのない挙動。ルビィは首を傾げている。

 

「さ、最初は冗談から始まったんだよ」

 

 頬をかきながら、観念したように晃太がつぶやく。

 

「ダイヤはお前の姉貴だろ?」

「うん」

「ってことは、俺の姉貴になったりしたりするのかなって……」

 

 そこまで言って晃太は、ルビィに顔が見えないよう、彼女とは反対の方へ向き、そう答えた。

 

「えっと、それって……」

 

 しばらくの間の後、『ピッ』と誰かが蒸発したような声が聞こえ、晃太も思わず顔をしかめた。だから言いたくなかったんだよ、と言わんばかりに。

 

「も、もう行くぞ! 飲み終わったんだろ! 捨ててきてやるからその間に準備しとけ!」

 

 恥ずかしさを隠すように語気を強めた晃太は、ルビィの手から空になったココアの缶を少し乱暴に奪い取ると、バイクを指差してからゴミ箱へと向かった。ルビィはその間ずっと惚けていて、再び晃太に怒られたのだが。

 

 そんな騒動もあったが、二人は黒澤のお屋敷の辺りまで無事戻ってきた。そして最後にあの場所へと立ち寄る。

 

「懐かしいね」

「まあ、全部半年前だしな」

「それもそっか」

 

 穏やかな風、真っ暗闇を照らす星と月、寄せては返す白波、お屋敷の裏手にある浜辺だ。あの時と同じように、肩を寄せ合って(たたず)んでいる。

 

 星を眺め、波の音に耳を傾け、そして二人は自然と見つめ合っていた。

 

 ルビィが目を瞑る。

 

 繋いだ手の力が少し強まった。

 

 晃太が軽く唇を重ね、刹那(せつな)で離れる。

 

 離れてしまった晃太の顔を見つめ、転瞬(てんしゅん)の間、悲しげな表情をするルビィ。繋いでいた手をそっと離した。代わりに晃太の首に回し、もう一度口づけを交わす。

 驚きと、少しの呆れを包容した表情の晃太が視界に入り我に返ったのか、ルビィは恥ずかしげにその真っ赤にした顔を伏せた。

 

「……お前、やっぱり見かけによらないよな」

「ご、ごめんなさい……」

 

 若干気まずそうな顔をしているルビィに晃太が投げかける。

 

「別に謝るようなことじゃねーよ。それにその……それだけ我慢させちまってたんだなって」

 

 晃太も晃太で負い目を感じているのか、ルビィの頭を優しくなでた。二人は再び寄り添い合って海を眺める。

 

「これからはいつでも連絡くれよ。学校でもどこでも迎えに行ってやるから」

「学校まで迎えに来てもらうのは、なんだかちょっと恥ずかしいね」

 

 少し照れくさそうに左手で頬を掻くルビィが、晃太の左腕に自分の右手を絡めた。

 

「いろんなとこ、いっぱい行こうな」

「うん。ルビィもいっぱいデートしたい!」

「デート、そう、だよな。なんか照れくさいな」

 

 行きたいところは山ほどある。沼津に新しくできた飲食店、去年行くことのできなかった秋の行事――紅葉なんか晃太さんはとっても喜ぶんじゃないかな――もたくさん。

 

「半年、経ったんだね……」

「すまん」

 

 ルビィがかぶりを振って遮る。穏やかな表情で続けた。

 

「ううん。今こうやって一緒にいられて、すごく幸せ」

「……俺も、だぞ」

「えへへ。一緒だね」

「ああ、これからもずっと一緒だ」

「嬉しい……」

 

 ルビィはうっとりした顔で晃太にもたれかかる。晃太はルビィの肩を抱き寄せて髪を指で(もてあそ)んだ。

 

「お前が嬉しいと、俺も嬉しいんだよな。不思議な気分だよ」

「ルビィもそうだよ。晃太さんが嬉しいとルビィも嬉しい」

「最高なカップルだな」

「うん!」

 

 二人はしばらくの間、お互い何も言わずにただ見つめ合っていた。風が止み、波の音もどこか控えめになったような気がする。

 晃太が腕時計に目を落とす。そして軽く頷いてルビィに向き直った。

 

「ルビィ、改めて誕生日おめでとう」

「ありがとう!」

 

 最高の誕生日は、最愛の人からのお祝いで締めくくられるのであった。




HBD Ruby Kurosawa.
With all my love.


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K・T

 雲一つない晴天。波の音だけが静かに流れている。私は家の裏の海岸で一人(たたず)んでいた。潮の香りが鼻腔(びこう)をくすぐる。不意に、大きな手で頭を撫でられた。彼だ。振り返ると、彼は優しく微笑みかけてくれた。私も笑みを返し、海へと視線を戻す。私達は二人寄り添い、水面に映る(さざなみ)をいつまでも眺めていた。

 

 

 

 

 ベッドの上に寝ころんだままの私は、枕元に置いてあるスマートフォンを手に取った。春分を感じさせる祝日の朝の六時。春眠(しゅんみん)(あかつき)を覚えずってよく聞くけど、今朝は違ったみたい。心地よい夢を見ているときに限って早く醒めてしまうのはどうしてなんだろう。

 

「あーあ、会いたいなぁ」

 

 夢で逢うだけでは物足りなくて、そんな言葉が口からこぼれる。けれど、そこからは先はやめておいた。だって、名前を呼んだら、もっと会いたくなっちゃうから。

 

「次はいつかなぁ」

 

 『お互い忙しくて最近会えていない』なんてことは決してない。むしろしょっちゅう会ってるといってもいいはずなのに、それでも夢に出てきてしまうくらい会いたいらしい。でもそれは仕方ないと思う。それくらい大好きなんだもん。

 半年ガマンした反動なのか、あれからの私は全くガマンできなくなっていた。いや、元からガマンはできない性格だったから――お姉ちゃんのプリン食べちゃったり――、きっとあの頃のほうがおかしかったんだろう。

 

 カレンダーアプリを開いて予定を確認すると、今週は私の練習と彼のアルバイトが交互にスケジューリングされていた。しばらくデートはお預けか……毎日でもいいのにな。そんなことを思いつつも、いつだったかに読んだ雑誌の記事が頭をよぎった。

 

 男の人は一人の時間も大切らしい。最初は半信半疑だったけど、記事を読み進めていくうちに、そうかも、と思うようになっていった。じっくりと心を落ち着かせられる場所を欲していて、詮索(せんさく)されるのを窮屈(きゅうくつ)に感じ、自分だけの隠れ家に(こも)りたがる。雑誌に書いてあることは全部思い当る節があった。それは人によって違いはあるらしいけど、たまに彼も一人で走りに行ったり、一人で喫茶店に行ったり、一人で海を眺めたりしている。写真が送られてきて、その度に私は、ずるい、と口をとがらせ、次の約束を取り付けるのだ。

 

「でも、会いたいなぁ」

 

 また振り出しに戻ってしまう。会いたいと思ったときにいつでも会えるような、そんな超能力みたいな力があったらいいのに、なんて考えたところで、虚しくなってゴロリと寝返りを打った。じわじわと迫ってくる睡魔に身を委ね、もう一眠りしてもいいと目をつむる。でも、いつもならすぐに(いざな)ってくる憎き睡魔は、今日はお休みらしい。学校や用事がない日こそ、気持ちよく二度寝をしたいのだけど、そううまくはいかないようだ。

 

「はぁ……」

 

 ため息が漏れる。できることなら、昼までうとうとしつつ半日潰せたらよかったのに。何も予定がない今日だからこそ、余計にそう思わずにはいられなかった。それに、あんな夢を見たあとじゃ、きっと何も手に付かないに違いない。

 

「どうしようかなぁ」

 

 再びスマートフォンを手に取り、何気なく画像フォルダを開いてみる。そこには思い出の写真がたくさん詰まっていた。花丸ちゃんの家で焼き芋を作ったときは重いサツマイモの入った箱を運んでくれた。千葉山(ちばさん)紅葉(こうよう)を見に行ったときはあまりに綺麗な景色に二人とも言葉を失ってしまった。伊豆高原(いずこうげん)にクリスマスイルミネーションを見に行ったときはちょっと高級な温泉宿に泊まったりもした。年が明けてすぐに行った淡島神社での初詣も随分昔のことのように思えてくる。他にも、喫茶店で撮った何気ない一枚とか、確かお互い送りあった晩ごはんの写真とか、見ているだけで自然と頬が緩むものばかりだ。

 

「……そうだっ」

 

 私は勢いよく布団をはねのけ、ベッドから飛び起きる。じっとしてられないのなら、思い切って外に出よう。一人で行ける範囲で思い出の場所を回ってみよう。そのほうがうじうじしてるより何倍もいい。何かいいことがあるかもしれない。犬も歩けばなんとやらだ。こうしちゃいられない。

 私はまだかすかに残っている眠気を吹き飛ばそうと洗面所へ急いだ。

 

 

 

 

 一人で出かけるにしては気合の入った装いで、私は沼津駅に降り立った。

 

 トップスは淡いピンクベージュのニットを選んだ。ゆったりとしたシルエットが特徴的なドルマンスリーブ、程よい抜け感を演出してくれるポートネック。うららかな春にマッチした一着でとても気に入っている。

 合わせるのはライトグレーのサーキュラースカート。フレアスカートよりたっぷりと布を使ったサーキュラースカートは、ウエスト部分はすっきりしていながら裾回りがゆったりとしている。上品さと可愛さを兼ね備えたアイテムで、久しぶりに履くスカートにふさわしいと思う。

 全体の淡い色合いを引き締めたくて黒の小物を考えていると、バイクに乗るときいつも履いているショートブーツが目に入る。今回は乗せてもらう予定はないけど、コーディネートとしても申し分ないだろう。

 

 時刻は八時三十分。お休みの日のこんな早い時間にここに来たことなんてあったかな。私は、まずは朝ごはんを求めて『cafe lollipop』を目指した。

 

 

 

 

 自慢じゃないけど、常連客といっても差し支えないほど私達はこの店に通っていた。とはいっても、朝の時間帯に利用したことはあまりない。モーニングセットについても、あることは知っていたけど注文をしたことはなかったから、ワクワクしながら入店した。

 

「いらっしゃいませ。本日のフレーバーティーはサクラ、カシス、ラムレーズンがございますが、いかがなさいますか」

 

 相変わらず空いている。隠れた名店ということに違いない。いつものテラス席に座り、ホールスタッフからメニューを預かった。モーニングセットはフレンチトースト、ホットサンド、パンケーキの三種類があるようだ。紅茶についても、いつも四種類程度ピックアップされているけど、今日のフレーバーティーはどれも春らしさがあるものだった。

 

「ホットサンドのセットにサクラの紅茶でお願いします」

 

 紅茶はサクラにするとして、食事は少し悩んだ末にホットサンドを選んだ。フレンチトーストもパンケーキも捨てがたかったけど、どちらもその気になればいつでも作れそうだと思ったからだ。その気になるにはまだ時間がかかりそうだけど。

 

「かしこまりました。お連れ様は後からお見えですか?」

「あ、今日は一人です」

「大変失礼しました。ただいまお作りいたしますので少々お待ちください」

 

 ホールスタッフは深々と頭を下げ、店内へと戻っていった。お連れ様、か。顔を覚えてもらっている常連特有の特別感と気恥ずかしさを覚えつつ、『今日は一人』という現実を突き付けられた気がした。

 いけないいけない。今日はそういう日じゃない。寂しさを吹き飛ばすように(かぶり)を振って、周囲を見渡す。この辺りでは本当にいろんなことがあった。今でも鮮明に思い出せる。

 

 初めてこの店に来たのは、彼に学生証を返しに行ったときだった。学校の前で周囲がざわつくまで動かなかったのは我ながら笑ってしまう。そのおかげでこの店を知ることができたんだから、結果オーライということにしておこう。

 あのときの彼は想像していたよりずっと気さくに話してくれたけど、今思えば、ずいぶん年下にみられていたみたいだし、小さい子をあやすような感覚で接していたに違いない。今だったら、どうだろう。まだ子供っぽくみられてるのかな。もしそうなら、ちょっぴり悔しい。

 次に来たのはそれから半年以上経ったあとだった。彼がケガをしてしまったのは私がおとなしくここで待っていなかったのが原因だ、と負い目を感じて、無意識のうちに避けてしまってたのかもしれない。それを乗り越えられたのはとても喜ばしいことだけど、あまり思い出したいものではなかった。

 彼が九州から帰ってくるまではよく待ち合わせに使っていた。花丸ちゃんも善子ちゃんも気に入ってくれて、三人で来たこともある。ばったり出会ったことこそなかったけど、話しぶりからすると個人的にも何度か来てるみたいだった。

 それからは毎週のようにお世話になっている。私の顔を覚えてもらったのもこの頃からだ。彼は以前から席に座るとアールグレイが届いていたけど、最近は私の分と合わせて注文を聞かれるようになった。季節のハーブティーも美味しいことをようやく認めてくれて、私の気分も上々だ。

 

 そんな昔話に想いを馳せていると、ホールスタッフがトレイを持って現れた。

 食事、ポットとカップ、それから砂時計を机に置く。きっかり三分の砂時計。この砂が落ち切ったときが飲み頃だ。私はさらさらと落ちる砂をじっと見つめる。この待ち時間も意外と好きだったりする。

 砂が落ち切ったところで紅茶をカップに注ぎ、早速一口いただいた。桜餅のような少し苦みのある独特な香りが漂っている。初めてサクラの紅茶を口にしたけど、いかにも春らしく、桜並木を想起させるような素晴らしい風味だった。

 食事はというと、真っ先に目を引いたのがサラダだ。ロールキャベツのような、生春巻きのような、見たことのないものが乗っていた。確かメニューにはキャベツロールサラダと書いてあった気がする。気になった私はサラダから手を付けることにした。口に入れた瞬間、甘酸っぱい風味が鼻を抜けていく。マリネのようなさっぱりとした爽やかな味わいだ。シャキシャキとした小気味良い歯ごたえは茹でたモヤシだろうか。清涼感のある手の込んだ一品だ。

 ホットサンドはどうだろう。レタス、チーズ、トマト、ベーコン。食パンの切り口から色とりどりの食材が顔を覗かせている。ここのホットサンドは具を挟んでから焼くタイプのようだ。口に運ぶとカリッと香ばしく、とろりととろけたチーズが、トマトやベーコンとうまく絡み合って一体感を出している。レタスのみずみずしさもいいアクセントだ。あまりの美味しさにすぐに食べきってしまった。

 デザートの小鉢は練乳のかかったイチゴ。練乳の甘さとイチゴの酸っぱさがお互いの良さを引き立てている。表面もつややかで新鮮なイチゴなんだろう。そもそもモーニングセットの果物にイチゴが出てくること自体珍しいように思う。こんな豪華なセットが五百円。どうしてこんなにも空いているのかますますわからなくなった。

 

 朝ごはんにしては少しボリューミーだったけど、ゆっくりと二杯目の紅茶を堪能して店を後にする。想像以上の満足感が得られた。今度は彼も連れて朝ごはんからお出かけするのもありかもしれないと思った。

 

 

 

 

 電車に揺られること二十分、私はおおよそ一年半ぶりに熱海駅へ到着した。目的はもちろん『家康の湯』だ。動物園へ行くにはタクシーを使う必要があるから今回は見送ることにした。またの機会に二人で来よう。

 足湯は相変わらず観光客で賑わっていたけど、並ぶほどではなさそうだった。今回はここに来ること前提だったので鞄に少し厚手のハンドタオルを忍ばせている。私は早速ブーツと靴下を脱ぎ、座席に浅く腰掛けて湯の中へと足を入れた。チャプンと水音が立ち、水面がキラキラと揺らめく。

 

 あのとき、と私は思い出す。

 

 あのとき私は、彼に「カップルではない」ときっぱりいわれてしまって、悲しいやら切ないやらで大変だった。そんな中連れてきてくれたのがここだ。他の人からしたらおかしなチョイスなのかもしれないけど、私の気分を晴らすのには絶好のスポットだったと思う。温泉が好きなんて話をした覚えはなかったけど、偶然か、それとも何かのタイミングで気づいてくれたのかな。

 

 隣の人が席を立った。勢いがついてしまったのかバシャッと音を立て、小さな波が起きる。スカートの裾を濡らしてしまわないよう、慌てて姿勢を整え、座り直した。

 

 あの日はショートパンツを履いていたから、足湯に入ったときは太ももから下がむき出しだった。彼は何を思ったのか、その足をじっくり見つめてきて、私はその視線に気づいていながらも、恥ずかしくてしばらく気づかないふりをしていた覚えがある。きっと珍獣を見つけたような好奇の目で見られていたんだと思うけど、やっぱり男の人ってそういうのが気になるのかな。耐えきれずに抗議の声を上げてしまったけど、その後もしばらく考え込んじゃって、結局湯疲れのような状態になっちゃったっけ。

 

 温泉といえば。私は伊豆にクリスマスイルミネーションを見に行ったときのことを思い出す。イルミネーションと温泉を両立したくて伊東(いとう)のほうまで足を伸ばしたあの旅行は、遠出した甲斐あってどちらも最高だった。旅館のお料理に舌鼓(したつづみ)を打ったり、一緒のお布団でくっついて寝たりとまさに至れり尽くせりで、これ以上ないクリスマスプレゼントだった。私からあげたものと比べてしまうと天と地ほどの差があるので、今年の彼の誕生日にその分上乗せして考えようなんて思っている。

 

 気づけばまた足が赤らんできていた。油断するとすぐこうだ。温泉好きがこの体質なのは残念でならない。普段なら、露天風呂へ行ったりぬるい湯を浴びたりと体の火照りを冷ます方法があるけど、それができない足湯とはどうやら相性が良くないらしい。ゆっくりお昼ごはんを食べて気持ちを落ち着けよう。

 

 

 

 

 足湯からあがった私は次の目的地である『Box cafe』へと向かった。このあたりにおしゃれなお店はないかと、電車の中で調べて目星をつけておいたのだ。口コミでは景色の良さや居心地の良さが取り上げられていた。のんびりと過ごすにはもってこいだろう。入店するとウェイトレスが席へと案内してくれた。窓際ではないけど、眺めのいい席だ。

 

「ご注文がお決まりの頃にお伺いします」

 

 そう言い残してウェイトレスは厨房へと戻っていった。

 一方、私はメニューとにらめっこすることになる。わかっていたけど、いざ直面すると大きな問題だ。このお店は少々値が張る。ルッコラのサラダ、七百円。サラダだけでお腹いっぱいにするのは難しい。ランチらしいメニューというと、季節のスープとベーグルが半分、それとブレンドコーヒーか紅茶がついたスープセットが千円。朝ごはんが多めだったとはいえ、これでは少し心もとない。それより上を見ると日替わりセットと日替わりプレートがある。こちらはグラタン・キッシュ・煮込みが日替わりで決まっていて、そこにサラダとスープ、セットにはコーヒーか紅茶が、プレートには半分のベーグルがついてくる。お値段は千五百円。財布の中身と相談が必要だ。よくよく周りを見てみると、客層もなんだか自分より年上ばかりに見えてくる。女子大生か、OLさんだろうか。私にはまだ早かったのかもしれない。

 恐縮してしまった私は千円のスープセットを注文した。

 

 料理が届くのを待っている間も、自分なんかが場違いなんじゃないかと考え込んでしまい、なんだか落ち着かなかった。評判の通り、お店の内装はおしゃれで、レトロな雑貨や雰囲気のある照明で飾られている。景色も窓際だったらもっとよく見えていたと思う。ただ、高校生が一人でくるようなお店かといわれると、どうなんだろう。あ、でも善子ちゃんなら似合ってるかもしれない。そう思った途端、自分の貧相な体が恨めしく思えてきてしまった。

 

 程なくして注文の品が揃った。季節のスープは春野菜のポタージュとのことで、少し赤みがかかったポタージュスープだった。人参でも入っているんだろうか。どろっとした食感で、クリーミーなテイストに仕上がっている。私は温かいスープを飲んで幾分か落ち着きを取り戻した。

 ほんのり温かいベーグルには定番のクリームチーズが挟んである。ポタージュの、とろみがありつつもあっさりとした味とよくあっていた。

 朝ごはんに紅茶を頂いたので、飲み物はコーヒーを選んだけど、これは正解だったようだ。ハンドドリップで淹れた深煎りのコーヒーは独特の苦味がありながらも、雑味が少なくコクがある。お店のこだわりを感じられる一杯だった。

 

 食べ終えたところでお会計を済ませて店を出る。不満なところは何一つなかった。雰囲気はいいし景色も素晴らしい。食事もコーヒーも申し分ない。でも、いい勉強になったという気持ちだ。余り背伸びしすぎるとまた彼にからかわれてしまう気がする。こういうお店はもう少し大人になってからだな。私はひっそりとそう決心した。

 

 

 

 

 雰囲気でお腹いっぱいになってしまった私は、熱海からその足で修善寺(しゅぜんじ)に寄り道した。去年二人で見た梅まつりがまだギリギリ開催期間中だったので、もう一度行ってみようと思ったのだ。電車とバスを乗り継ぐこと一時間ちょっと。最寄りのバス停である『もみじ林前』に到着した。

 

 去年は駐車場までバイクで行ったから気が付かなかったのか、バス停を降りた目の前に『十割そば』と書かれたのぼりが高々と掲げられていた。こんなロケーションで食べるお蕎麦(そば)はさぞ美味しいんだろうと思うけど、あいにく私のお腹にはお蕎麦が入る余裕は残っていない。残念に思いつつもお店の前を素通りし、梅林(ばいりん)遊歩道(ゆうほどう)の看板に従って歩みを進めた。

 

 遊歩道の道中もいい眺めだった。山の上を目指して歩いているので、だんだんと視界が開けていく。開放感が清々しい。目の前の景色も素晴らしいけど、足元に咲いている水仙もかわいらしくて好きだ。道の途中では地元の野菜を販売している露店もあった。私は、のどかな光景を楽しみつつ、日のあたる緩やかな坂道をゆっくりと登って行った。

 

 十分くらい歩いた頃に、目的の修善寺梅林に到着した。ここにも蕎麦ののぼりが出ている。どうやらこのあたりの名物らしい。

 

 広大な丘陵地に、若木から老木まで数多くの紅白黄梅が植えられている修善寺梅林は、去年来たときよりもずっと広く感じられた。残念ながら、三月上旬ではもう見ごろは過ぎてしまっているので花はほとんど残っていなかったけど、本来持つその迫力や美しさはしっかりと記憶に残っている。

 少し歩くと、アユの塩焼きを売っている屋台を見つけた。これくらいなら、と思い、購入して早速頂く。塩加減がちょうどよくてとてもおいしいけど、去年とは何かが違う気がした。

 またしばらく歩くと、去年私たちも写真を撮った『富士山ビュースポット』を見つけた。思ったより富士山が小さく写っていて、二人で首を傾げあったのを覚えている。

 

「すみません」

 

 通り過ぎようとしたとき、誰かに声をかけられて、私は振り返った。

 

「あの、写真お願いできませんか?」

 

 そこには一組の男女がいた。声をかけてきたのは男性のほうで、カメラを持って私の前に立っている。多分カップルだ。

 

「大丈夫ですよ」

 

 私は快くカメラを受け取った。

 

「はい、チーズ」

 

 富士山が中心に来るように、二人が並んで満面の笑みを浮かべた。準備ができたことを察して、私はシャッターを切る。きっと誰もがそうなるんだろう。私たちと全く同じ構図だった。

 

「ありがとうございました!」

 

 彼氏さんが駆け寄ってきてお礼をいう。私は、いえいえ、とそれとなく返事をしてカメラをお返しした。彼氏さんが写真を確認して、彼女さんに見せると、彼女さんもにっこりとほほ笑む。それを確認した私は、当たり障りのない挨拶をしてその場を離れた。

 

 二人の様子を見ていて、私たちもあんなことしたな、と懐かしさを感じていた。私たちは自撮りだったので、あーでもないこーでもないと言いながら何回も撮り直したけど、いい思い出だ。

 

 

 時計を見ると針は午後三時半をさしていた。うん、今日はもう帰ろう。今から帰ると、どうだろう、二時間くらいかかるかな。温泉街までは歩いて十五分くらいなので足を延ばしてもよかったけど、それはまた今度にしようと思う。お散歩して、景色を眺めて、お蕎麦を食べて、ゆっくり温泉に浸かって……最高のプランだ。日帰りでいいから二人で来たいな。

 

 

 

 

 最後は夢でも行った場所。家の裏の海岸だ。オレンジ色に灼けた砂浜と見渡す限りの水平線が出迎えてくれた。静かに打ちつける潮騒(しおさい)の残響が心地よい。ゆっくりと水平線に向かっていく夕日、それに(なら)うようにだんだんと朱に染まっていく雲と海。ここの景色のゴールデンタイムとでもいうんだろうか。やっぱり内浦の景色も美しい。

 今日一日、ずっと一人で出歩いて、残念ながらより一層彼に会いたくなってしまった。それでも家で一人思い悩んでいるよりずっとマシだっただろう。夕日が綺麗に見えるのは、きっとそのおかげだ。

 懐かしさと、嬉しさと、気恥ずかしさを抱えて、朱く染まりつつあるスカイラインを見つめる。ここは彼に思いを打ち明けた場所。誕生日に最後の時間を過ごした場所。そして、初めて口づけを交わした場所。少しだけ体温が上がるのを感じた。

 一人黄昏(たそが)れていると、唸るような低いエンジン音が近づいてきて、やがて止まった。あれ、この音って……

 

「晃太さん…?」

 

 まさかと思って振り返ると、そこには会いたくて仕方なかった()がいた。私は慌てて駆け寄る。

 

「こんなとこにいたのか」

 

 晃太さんも驚いたような素振りを見せた。どうやら偶然だったようだ。

 

「今日はアルバイトだったのに、どうしたんですか?」

「ああ、おばちゃんから甘いものもらってさ。お前と一緒に食おうかと思って」

 

 晃太さんはスーパーマーケットでレジ打ちのアルバイトしている。本当はコンビニとか手頃な場所でアルバイトをしたかったけど、知り合いに会うのを嫌ってスーパーにしたそうだ。スーパーに若い男の子がアルバイトに入るのは珍しいようで、パートのおばさま方から気に入られているらしかった。よく休憩中お菓子や旅行のお土産をもらったりしている。レジ打ちで募集してたのに品出しもやらされる、と愚痴をいうこともあるけど、なんだかんだ楽しそうに働いていた。

 

「でも、家に行ったらお前出かけてるっていわれたし、どうすっかなーって」

 

 アルバイトの日でも私のことを考えてくれていて嬉しくも照れくさい。ただ、一つの疑問が浮かんできた。今日は行き先について誰にも伝えていないはずだ。

 

「でも、どうしてここにいるって分かったんですか?」

「なんとなくだ、なんとなく」

 

 晃太さんは少しはにかんで答えた。なんとなくでここにきて、偶然出会う。そんな運命的な奇跡にうっとりしてしまう。そうして晃太さんは座席の下から小さな箱を取り出した。洋菓子屋さんでケーキを買ったときに包んでくれるような白くて小さな箱だ。

 

「せっかくだし、ここで食うか」

 

 晃太さんが封を開ける。パンケーキのような生地の洋菓子が二つ入っていた。どちらも二口あれば食べきれるくらいの大きさだ。ピンク色のクリームがサンドされている。

 

「苺のワッフルみたいなもんか?」

「おいしそう!」

「お前苺好きだよな。あ、でも一番は芋か」

 

 好物のスイートポテトについてからかってくる晃太さんに、私はむぅ、とほっぺたを膨らませて応戦した。晃太さんはその膨らんだほっぺたを片手で優しく押さえつけて破裂させる。どうやらこの勝負は私の負けのようだ。

 

「晃太さん晃太さん」

 

 ならばと私は口を開けて待ち構えた。第二ラウンド開始だ。

 

「はあ? や、やめろよ」

 

 晃太さんは拒絶の意を示すけど、私は構わず待ち続けた。しばらくの間、晃太さんは視線を私の顔とワッフルで行き来させていたけど、降参したのか、ため息を一つ()いてから私の口にワッフルを放り込んだ。

 

「んむっ」

 

 私の口にはやっぱり大きくて、ワッフルでギュウギュウ詰めになる。程よい甘さと酸っぱさが見事なハーモニーを奏でていた。生地も柔らかくふわふわで、ぱさぱさしてなくて食べやすい。ちょっとお高い洋菓子屋さんだろうか。喉を詰まらせないように気をつけながら、ゆっくりと咀嚼(そしゃく)して飲み込んだ。

 

「喉に詰まっちゃうよぉ」

「はは、(わり)(わり)ぃ」

 

 口では謝っている晃太さんだったけど、全然悪びれる様子はなかった。晃太さんのイタズラには困ったものだ。

 

「じゃあ晃太さんも、あーん」

 

 お返しに、と私は箱から残った一つを取り、晃太さんに差し出す。私がガンコなのはご存じなので、苦い顔をしつつも渋々口を開けてくれた。

 

「おいしい?」

「ん、まあまあだな」

 

 晃太さんは照れているのが隠し切れていない顔をしていた。私と違い、喉につっかえてしまいそうな素振りはなく、もぐもぐと答える。大きな口だなぁ、それとも私の口が小さいのかな、と考えていると、ふと、晃太さんの左の口角が薄ピンクに染まっているのに気付いた。

 

「晃太さん、口元にクリームついてますよ」

「え、どのへんだ?」

「ここです」

 

 私はとっさに指でクリームをぬぐいとる。やってしまってから、この指の処遇をどうするのか考えていなかったことに気付いた。鞄からハンカチを出すのも面倒だ。指についたクリームが恨めしそうにこっちを見ている。かわいそうに思った私はそのまま指を口へと運んだ。

 

「おいバカ」

 

 クリームは相変わらず甘く、ちょっぴり酸っぱい。なんだか不思議と笑みがこぼれてしまった。それを見た晃太さんが私のおでこをコツンと小突く。

 

「ふふふ、照れなくてもいいのに」

「照れてねーよ」

「ほっぺた、赤くなってますよ?」

 

 冬に比べると随分日が長くなり、晃太さんの頬に朱がさしているのがよくわかる。意外と照れ屋さんなのだ。

 

「このっ――」

 

 私は晃太さんの大きな手で髪の毛をクシャクシャにされた。晃太さんはきまりが悪くなると必ず私の髪の毛をクシャクシャにする。この髪型、意外とセットするの大変なのに、とも思うが、それでもなんだか温かい気持ちになる。

 そのとき、ワッフルの包装が、まるで春風に誘われたかのように海に向かって走り出した。浸かってしまったら大変だ。私達は慌てて小さな箱を追いかける。ころころと転がる箱は途中、砂浜にできたくぼみに引っ掛かり、私たちは無事箱に追いつくことができた。

 

「全く、ひやひやさせやがって」

 

 箱を拾い上げた晃太さんが口をとがらせる。私はその逆で嬉しかった。晃太さんが走っている姿を見ることができて。私は晃太さんの隣に寄り添い、軽くもたれかかった。

 

「どうした?」

「……ルビィね、夢を見たの。晃太さんとこうやって海を眺める夢」

「……そっか」

 

 それだけ言って晃太さんは今度は優しく頭を撫でてくれた。髪を()きほぐすようにゆっくりと。私は夢でも同じことをしてもらったことを思い出す。でも、夢よりもずっと優しくて、ずっと心地よかった。

 

「来週、どっか行こうか」

 

 しばらくしてから晃太さんが口を開いた。

 

「今週は俺達予定会わないけど、来週の予定くらい立ててもバチはあたんねーだろ?」

「ホント!?」

 

 私は嬉しくなってギュッと晃太さんに抱き着いた。それに応えるように晃太さんも私の肩を抱き寄せる。

 

「そしたら、今日行ったとこの話、聞いてくれる?」

「ん。どこ行ったんだ?」

「えへへ、今日はね――」

 

 笑って、泣いて、怒って、喜んで、悲しんで、悩んで、嘆いて。でも、幸せで。この幸せな時間は永遠に続くんだな、と、なんとなくそう思う。

 今朝、『会いたいと思ったときにいつでも会えるような、そんな超能力みたいな力があったらいいのに』と思ったけど、それは間違いだった。いつでも、どこにいても、お互いの心は繋がっているんだから。



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