船久保浩子はかく語りき (箱女)
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―――――

 

 

船久保浩子は退屈していた。

 

 

 インターハイの結果はもちろん悔しかった。だがそれ以上にあのヒリヒリした空気に惚れこんでいた。

 

 あの空気を味わってしまうと日常がなんだか物足りないと感じてしまう。持てる力を全て出すことを強要され、身を削るような思いをする経験などそうそう転がっているものではない。花も恥じらう高二の夏にそんな経験をしたものなど数少ないだろう。

 

 「なんやろなぁ……、こう、なんなんやろ……」

 

 今いる場所は地元の公園。インターハイが終了してからちょうど一週間、夏の盛りである。

 

 手元には自販機で買った缶の炭酸飲料がある。買ったばかりではあるが気温のせいもあり大量に汗をかいている。浩子の右手の温度を奪い続けているはずではあるのだが、本人はまるで気が付いていないというふうである。その様子では味覚など仕事をサボって旅行にでも行っているに違いない。ベンチに座って空を見上げている様は、控えめに見たって放心していると形容するのが正しいくらいだった。

 

 浩子が所属するのは麻雀部である。それもただの麻雀部ではなく、全国規模で名門と呼ばれる麻雀部に身を置いている。さらに言うならば浩子は二年生にしてその名門の団体戦におけるレギュラーでもある。平たく言ってしまえば、彼女は麻雀がめちゃくちゃ上手い。

 

 東京で行われたインターハイは団体部門と個人部門で分かれており、日程的には団体の次に個人というかたちで組まれていた。当然のことだが男子も女子もあるためそれぞれ交互に行われる。浩子は団体でこそ副将を任されていたが、個人戦では思うような結果を残せず府予選で敗退してしまったというのがこの夏の成績である。

 

 ではなぜ今こうして名門麻雀部に所属している浩子が練習もせずに公園で呆けていられるかといえば、監督が気を利かせて個人戦決勝のあとに休暇を入れてくれたからである。浩子は団体戦のみだったのでさして疲れているわけでもなかったが、好意はきちんと受け取っておく。今日は休暇の最終日。明日からは部長としての振る舞いが要求される。大阪の名門、千里山。冷静かつ頭の回転の速い浩子は、あまりそこに気負いを感じてはいなかった。それに三年生も引退こそしたものの、たまに遊びに来ると約束してくれた。

 

 この一週間で先輩とはきっちり遊んだ。もちろん一年生でレギュラー入りを果たした可愛い後輩もいた。ジョシコーセーってやつみたいにショッピングなり何なりを楽しんだ。いつもの制服ではなく私服でおでかけはもうなんか貴重だった。普段から男の格好ばかりしている先輩に対して磨けば光ると言ってはばからなかった浩子は大満足だった。

 

 そういったふつふつと湧く思いがあってなお、船久保浩子は退屈だ、とそう感じるのである。

 

 

 理論派で鳴らした浩子である。退屈の原因などすぐさま思い当たる。

 

 「うら若き乙女が朝から公園でぼけーっとして、そんで行きつく先が麻雀てどーなんやろ」

 

 そう苦笑して、いつの間にか飲み干していた空き缶をゴミ箱に投げる。からん、と小気味いい音を立てて入っていく。浩子にとっては珍しいことだった。

 

 

 

―――――

 

 

 船久保浩子はデータを重んじるプレイヤーだが、普通に打っても強い。そうでなければ千里山でレギュラーなどとても張れない。もちろん運は絡むが、そうそうそこらの人に凹まされることはない。

 

 ( もうちょっと、こう、ヒリつくような人おらんかな )

 

 雀荘に入って以降の浩子のプラス収支は続く。

 

 学生は夏休みだが世間は平日である。そうなれば雀荘にいるのはやはり学生が中心となってしまい、その辺の学生では浩子に太刀打ちなどできるわけもない。そんなこともあってか浩子は中年の客と卓を囲んでいた。平日の朝からいるだけあってそこらの学生よりかは腕が立つようだがそれでも彼女にはまだまだ届かない。数局打っていると一人が抜けてしまい、一欠けの卓となってしまった。浩子が思うさま暴れた卓に乗り込もうとする客はおらず、期せずして休憩時間となってしまった。

 

 雀荘の中は冷房が効いていて涼しい。それほど気温が高くないはずの朝でさえ先ほどいた公園ではかなり暑かったのだ。朝よりも太陽の位置が高くなった今、外に出ることを考えるだけでうんざりするくらいである。

 

 ちりん、とドアについた風鈴が鳴る。白髪に黒いワイシャツを着た男が入ってくる。どうしてか浩子は冷房の真下にいるときより寒気を感じた。

 

 男が卓につき第一声を放つ。

 

 「レートは?」

 

 「兄ちゃん、ここはノーレートや。レートありは別で探さなあかんで」

 

 同卓していた中年が声をかける。白髪の男はそれを聞いても意に介さず、まあいいや、と席に着く。

 

 「ところで兄ちゃん、腕に自信あるんか? このメガネの子インハイ出とるで?」

 

 中年が少し意地の悪い笑みを浮かべる。そのメガネの子にぼっこぼこにされている第一人者の言である。白髪の男は中年たちに目を向けず、胸ポケットから煙草を出し火をつける。煙草をしまい、カバンからどさり、と何かを放る。目は浩子を見据えている。

 

 

 「サシウマってことでどうだ?」

 

 

 目の前の状況が浩子には理解できない。あの男の手から卓上に放られたものはなんだろう。見たことはある。手にしたこともある。一万円札だ。ただしそれはきちんと指でめくって数えられる枚数で、である。そこにある一万円札はどうしたことだろう。ベルトをしている。おそらく百枚単位で。それが三つ四つとどさどさ放られるものだからよくわからない。

 

 じっとりとした汗が出る。脳内では危険を告げるアラームが大音量で鳴り響いている。尊敬する元部長にドッキリを仕掛け、企画立案が自分だとバレたときより音量が大きい。絶対に関わっちゃいけない、と理性も本能も絶叫している。ある意味で言えば勝負を避けるために彼女の口をついて出た言葉が今後の彼女の趨勢を決めたと言っていいのかもしれない。

 

 「そんなん釣り合うもん持ってませんよ」

 

 椅子の手すりを握りしめる手は震えている。

 

 「別に同等のモン張れ、なんて言っちゃいないさ。百円玉あるか? それでいいぜ」

 

 「いやいやいやいや!百円と数百万て明らかにオカシイですやん!」

 

 「いいのさ、多少理不尽なくらいでちょうどいい。それに何か賭かってねえとやる気でねえだろ?」

 

 このとき少しでも浩子が冷静だったなら。このときわずかでも考える時間が与えられていたら。しかし、そのもしもは可能性のままで消えていく。

 

 

 ( 上等や。こういうガチンコの経験も欲しい思っとったところや )

 

 

 もちろんのことデータは傾向やクセを割り出すのに極めて有効である。かと言って全てがデータ通りに運ぶわけではない。重要なのは集めたデータを基にしてどれだけ自分が対応できるかという点にある。それだけに初めて打つ相手というのは貴重な経験になる。データなしでの対応力を鍛えるにはもってこいの条件なのだ。さらにサシウマを挑んでくるあたり、少なくともそれなりの実力は備えていると浩子は踏んだ。

 

 千里山にはレギュラーに三年生が三人いた。どの先輩も強く、まだ浩子は誰にも届いていないだろうと自覚している。ただそれはいずれ超えなければならない壁であり、そのためには地力を鍛え上げる必要がある。サシウマ自体にはまさに驚愕していたが、麻雀として捉えた瞬間にギラつくあたり、船久保浩子もまた麻雀の熱にアテられた一人と言えるのだろう。

 

 もちろん勝ったところで全額かっぱぐつもりではなかったのだが。

 

 

 

―――――

 

 

 何一つ、できなかった。

 

 手も足も出なかった。出そうとする手が、足が、全て操られていると錯覚すらした。

 

 

 千里山のメンバーとも違う。姫松とも違う。全国には驚くべき選手が何人もいたがそれとも違う。切りたい牌が指に粘りつく。捨て牌が主張している。そいつを切っていいのか、と。その主張に従おうが抗おうが、魅入られたように和了り牌を出してしまう。加えて白髪の男は振り込まない。浩子だけに、というのではない。上家にも下家にも一度として彼が直撃されることはなかった。半荘一回ならばそういったこともあろうが、浩子はすでにサシウマで千円持っていかれている。白髪の男がなぜ札束を賭け続けるのかも理解に苦しむが、浩子の頭はそれどころではない。オカルトが関わったような通常ありえない自体に直面しているわけではない。普通に手は入るし、対面の男以外からは普通に和了れる。ツモ和了だってあった。そういった事象から導き出される結論は、単に技術で圧倒されているというものに落ち着いてしまう。

 

 卓越した技術は魔法に見えるというが、浩子もそれに近いものを感じていた。十一回戦目ぶんのサシウマを支払ったところで浩子は卓を離れることを決意する。

 

 「あらら、やめちゃうの?」

 

 「白旗ですー。そんかしオニイさんの麻雀ちょっと見させてもらいますわ」

 

 白髪の男はそうかい、とくつくつ笑いながら再び卓へと向かっていった。船久保浩子が情報収集モードに切り替わる。愛用の iPadをカバンから出し、牌譜を記録するためのアプリを起動する。できるだけ情報を集め、それを使いあの男の麻雀を丸裸にするつもりマンマンである。

 

 時間帯はすでに夕方と呼んでも差し支えないが、そこは真夏、外はまだまだ明るかった。

 

 ターゲットの手牌が見える位置に陣取り、対局が始まるのを待つ。からからとサイコロが回り、親が決まる。さあ見せろ、と浩子の腕に力が入った。

 

 

 後ろから見ると男の闘牌は控えめに言っても不思議なものだった。豪胆にして繊細。目を覆いたくなるような打牌をしたかと思えば、ぴたりと浮いた牌を止める。流局時に確認してみれば、浮いた牌はみごとに他家の当たり牌。当たり前のように全ての局で振り込まない。他家も雀荘に入り浸るだけあって下手というわけでもない。しかし、一人だけステージが違う。手牌山牌が透けて見えているようなフシがある。

 

 自動卓なのに?

 自動卓なのに。

 

 

 おそらく並の打ち手では相手にならないだろう打ち回しを見せる男に、浩子は一つの疑念を捨てきれないでいた。

 

 ( このニイさん手ぇ抜いてるなんてことないやろな…… )

 

 どうにも彼自身からやる気というか気慨のようなものが感じられない。手の動きそのものは淀みない。牌に長く触れている証である。ただそれとは別に、この男はギラつかない。たとえそれがどれだけくだらない勝負であれ、勝負である以上は多かれ少なかれ勝利への意欲のようなものが出るはずだと浩子は考えている。本やマンガで見るような勝負以外に目的がある場合は例外として。その淡々とした運びを見ているとどうも本気ではないように浩子には思えてしまう。

 

 とはいえ分析すると決めた以上、するべきことはする。だが目の前で行われた白髪の男の闘牌を譜におこしている段階で、浩子はうすうす感じ取っていた。おそらく分析したところで、この男の底は割れない。導き出せる結論が “相手の手牌・山牌が透けている可能性が高い” だけとかもはやギャグである。そんなことが実現してしまえば負けがあり得ない。さんざんオカルト染みた麻雀は見てきたが、今回のこれは別の領域だろう。

 

 あの小鍛治健夜でさえ、打ちこみゼロはありえなかったのだ。もちろん今日打った面子はプロと比べれば格段に落ちる。だからプロと打たせれば結果は変わってくる可能性は高い。しかし浩子は低い方の可能性を拭い去れない。

 

 プロ相手でも変わらないのではないか?

 

 本来なら偶然で片付けることもできたのだろう。だが説明不能の威圧感がそう考えることをやめさせる。さっきまでこの目に映っていた麻雀は必然だ、と頭の奥から声がする。

 

 頭の上からも声がした。

 

 「なあ、その板…… なんだ?」

 

 いつの間にか卓を立った白髪の男が興味深そうに浩子の手元を見ている。

 

 「あ、iPad ですけど……」

 

 「……アイパッド?」

 

 「もしかして知らないんですか?」

 

 不思議そうに高い技術で作られた板を眺めている。本当に知らないのだろう。だとすればどれだけ情報を遮断しているのだろうか。現代日本に生きていて iPad を知らない若者などいるのだろうか。少なくともその状況は浩子には想像できなかった。

 

 「で、これ何に使うんだ?」

 

 「いろいろと用途はありますけど、うちは相手の情報集めるのに使うてます」

 

 「ふーん……」

 

 「うちは最後の最後に勝負を分けるんは情報やと思てますんで」

 

 白髪の男の目が、ほんの一瞬だけ鋭くなった。

 

 「クク……、それじゃあその iPad とやらで俺の情報は掴んだ、ってか……」

 

 楽しそうに男が笑う。浩子は悪い冗談を言うな、と苦笑を浮かべる。不可解に過ぎるのだ。闘牌も発言も人格も何もかもが。どこの世界に自分を研究されて楽しそうな顔をする人間がいるのか。たしかに自尊心をくすぐられる人間はいるかもしれない。自分は研究されるに値するのだ、と。それとは別種なのだ。新しいおもちゃを与えられたこどもが楽しそうな顔をするのと同じ顔なのだ。少なくとも浩子の常識の中には研究されて喜ぶ人間はいない。

 

 「機械もずいぶんと発達したもんだ……。なあ、まさか牌譜だけってんじゃないんだろ?」

 

 「えっ」

 

 「……フー」

 

 明らかな落胆のため息だった。浩子からすればそれ以上の情報なんて見当がつかない。

 

 傾向。彼女が集める情報の中心はそこにある。常識外のオカルト麻雀であっても必ずそこには隙が生まれる。切羽詰まった状況になれば、必ず人間は自分の傾向が出る。そこを狙い打つための方策。異能を持たない浩子が異能を打ち倒すためにできること。事実、それで浩子は何人ものオカルトを食ってきた。それに対してこの男はため息をついたのだ。まるで無駄な徒労だと言わんばかりに。

 

 「……あのよ、麻雀てのは機械と打つわけじゃねえだろ」

 

 白髪の男が呆れたように言う。浩子の頭が動き出す。男の言葉の意味を探す。彼が言ったことはきわめて当たり前の事実だ。ゲームとかでない限り麻雀というのは人が揃ってはじめて成り立つ。ならば人と機械の違いはどこにあるのか。機械はシステムで動き、人間は生きた思考で動く。だから人と機械は違うなんていくらなんでも単純すぎるし、浩子もそれはとうの昔に辿りついている。別の解答があるはずなのだが、どうにもそれが見当たらない。

 

 

結局、その日はなにひとつ得られないまま家に帰った。

 

 

 

―――――

 

 

 翌朝、変わることなく太陽は絶好調である。夏休み期間における日差しはもはや殺人的であり、この中で活動できる人たちをわけもなく浩子は尊敬してしまう。病弱な先輩の言い種ではないけれど、そりゃ熱中症で病院に担ぎ込まれる人が増えるわけだ。だからといって帽子をかぶるわけでもないし、日傘なんてまず選択肢にない。女子高生はけっこう大変なのだ。

 

 そういった事情はあるにはあるが、浩子の顔が晴れないのには別の理由がある。昨日の一件が頭から離れない。あれからどうにか答えを出そうと夕飯を食べながら考え、入浴しながら考え、布団に入って考えた。一向に結論は出ない。

 

 

 すっきりしない頭で校門をくぐり、部室の扉を開ける。むわっとした外気とはまるで別の、さらりと冷えた空気が肌に触れる。一気に体が冷えてもいけないのでハンドタオルで汗を拭きとる。

 

 「おはようございますー」

 

 いくらもやもやしたものを抱えていようが、それは部活とは関係がない。ましてや浩子は今日から部長なのだ。名門の先頭に立つ者として、礼儀を欠くわけにはいかない。部室全体に通るようにきちんと声量を調節する。すでに中にいた部員たちが挨拶を返す。二年生たちはため口で。一年生たちは敬語で。体育会系のノリは好きではないが、ある程度のルールは必要かな、と考える。思えば先輩方にはわりと生意気めな口の利き方をしていたような。尊敬してないわけではなかったが。

 

 練習開始まであと十五分くらいあったため、浩子はその時間を部員とのコミュニケーションにあてることにした。

 

 今日は先輩方は来ない。これから受験生として忙しくなるし、疲労もたまっているだろう。それに代替わりを印象付けるためにも残りの夏休みの間は一、二年生のみで練習を行うことになっている。これは監督のはからいである。

 

 「さ、練習はじめよか」

 

 監督の一言で一斉に部員たちが卓へと散っていく。それぞれが自分の課題に向かって打ち始める。浩子も卓につき、いざ打とうとするそのときだった。

 

 「あー、浩子はちょっと待ってなー。お客さん来てるで」

 

 「……客ですか?」

 

 不審なことこの上ない。浩子は今でこそ千里山の部長だが、昨日までは団体レギュラーではあったがただの二年生である。そんな自分に客が来るのだろうか。というか先輩のときにそんなことがあっただろうか。よく考えたら客が来るべきなのは清水谷先輩や江口先輩じゃないのか。そんな思考が頭を巡る。

 

 とりあえず愛宕監督に言われるままに応接室へ一緒に向かう。廊下はすでに外の暑気にやられはじめており、あの冷えたイメージは影を潜めている。エアコンをつけて閉めきっていたときはさして気にとめなかった蝉の声がやたらと大きく聞こえる。校内で朝から活動する部は麻雀部のみで、運動部はグラウンドや体育館で汗を流している。したがって誰もいない校舎内を二人で歩くことになる。応接室へ向かう途中、ちらりと監督を見てみると少しだけ汗をかいていた。どうしてか、暑さから来る汗には見えなかった。

 

 

 



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 「ククク……、よう、また会ったな」

 

 来客用の豪奢な室内の黒革張りのイスに座した鋭い目に高い鼻。その頭を覆う白髪は忘れるはずもない。昨日会ったのだ。浩子の頭の中にしこりを発生させた原因。不可解そのもの。理解の埒外の男がそこにいた。

 

 「……昨日の、オニイさん」

 

 浩子の脳内はすさまじい混乱の様相を呈している。なぜこの男がここにいるのか。どうやって千里山をつきとめたのか。なにをするためにここへ来たのか。以上の事柄が頭をぐるぐる回っているため、先の言葉を出すのが精いっぱいであった。ひょっとして昨日のレートをもとに戻せなんて言われるんじゃないか、と浩子が震えはじめたころ、愛宕雅枝が尋ねる。

 

 「私は外しましょか?」

 

 「いやいや愛宕サン、あんたにもいてもらわないとね」

 

 浩子は内心ほっとする。こんな明らかにカタギではない雰囲気を発する男と二人きりで話をするなど心臓がいくつあっても足りそうにない。今はいてくれるだけで浩子にとっては役満級の大活躍なのだ。そんな女子高生の思いを知ってか知らずか、雅枝は核心にせまる。

 

 「それじゃあ要件はなんでしょ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「ああ、コイツを預かろうと思う」

 

 

 

 ぴしり、と浩子が固まる。今しがた耳から入った情報を拒否するように。ついで汗がどっと噴き出す。入ってしまった情報を体のなかから追い出そうとするように。雅枝の口の端はひくついている。何かを言うべきなのだが、何を言うべきなのかわからないといった風だ。顔は次第に青ざめていく。これから起きる出来事はどうあっても回避できないことがわかってしまったのだろうか。

 

 たっぷり十秒ほど間が空いて。

 

 「この子、まだ高校生やし、学業の方も……」

 

 「ずいぶんと的の外れたことを言うんだな、愛宕サン」

 

 やっと出た抗議の言葉はにべもなく返される。明らかに返答としては正しくないのだが、白髪の男があまりに当然のように言うものだから判断が鈍ってしまう。雅枝は額に手をあて、首を左右に振る。浩子はいまだ固まったままである。無理に動かせば、ばきばきと音さえしそうなくらいだ。

 

 「まあ、色々とうるさく言われそうだからよ、フォローはさせるさ」

 

 雅枝は有効だと思っていた手札を封殺された。雅枝の知る限りこの男は学業になど一切の関心を払わない。それがこともあろうにフォローなどという単語が飛びだすではないか。つまりこの男はこちらの事情など関係なく浩子を連れていくつもりなのだ。場所などとんと見当がつかないが。分の悪い相手だと知りつつも、この高校の監督として退けない雅枝はふたつめにして最後の手に出る。

 

 「……そうは言うても、学校の方が許可するかどうか」

 

 「クク……、大沼のジジイ、熊倉サン、小鍛治サン、どれがいい?」

 

 「何の話や」

 

 「ここの、校長か? に話をさせるやつさ」

 

 がくり、と雅枝の肩が落ちる。ここ日本は世界的に見て麻雀大国と呼べる国家である。世界大会などでも成績上位の常連であり、かつ研鑽を怠らない。その流れを汲んで、国内の大会も充実しているのは当然のことである。プロの数も相当のものとなり、トッププロとなるには熾烈な争いを勝ち抜く必要がある。そのような厳選されたトッププロは驚くような待遇で迎えられる。

 

 日本という国が麻雀に狂っているからこそ。

 

 先ほど男が挙げた三人はこの国の麻雀の歴史に名を残すことが決まっている人々である。そんな人間が一人の生徒に声をかけるというのは、学校として否やはないどころか大歓迎の出来事である。そして目の前にいるこの男は、その面々と個人的なつながりを持っている。雅枝はその事実を知っているがために諦めざるを得ない。

 

 浩子はまだ固まっていた。目の前の二人のやりとりは一応耳には入ってはいるものの、理解が追いつかない。なぜ誰でも知ってるようなトッププロの名前がひょいひょい出るのか。自分たちの監督である愛宕雅枝が、どうしてあまり言葉を交わさないうちにやり込められているのか。なぜそのゴールがよりにもよって自分なのか。

 

 黙りこむ雅枝を見て交渉は終わったと思ったのか、男は席を立つ。彼の表情に変化は見られない。それはとても当たり前のような表情で、道を歩いているのとなんら変わりはない。そうして男は、浩子に視線を向ける。

 

 「……選びな、俺についてくるか、ここに留まるか」

 

 何一つ説明はない。ついていくとどうなるのか、何を得るのか。質問しても何も答えてはくれないだろう。そうした雰囲気が男からは漂っている。失うものはおそらく、さっきの二人の話から推測するに学校生活。どう考えてもついていくなんて選択肢は地雷だ。

 

 「無理強いはしねえさ、別にどちらでも構わない……」

 

 選択権はこちらにある。説き伏せるのは不可能だが、選ばなければ問題はない。常識で考えれば学校に残るに決まっている。これから部員を率いていかねばならないし、先輩が果たせなかった全国優勝を達成しなければならない。いきなり部活から離れるだなんて非常識極まりないうえに無責任に過ぎる。そんなことは当然わかっている。

 

 でも。それでも。

 

 あの麻雀は熱くなった。はじめてオカルトと出会ったときのような理解不能さがそこにはあった。久しぶりに考えても考えても結論の出ない問題にぶち当たった。さすがにインハイと並べるわけにはいかないが、勝ちたいと強く思った。何も教えてくれてはいないが、間違いなくこれは麻雀に関しての話だ。自分が一皮むけなくてはいけない。そうでなければ荒川憩のいる三箇牧には勝てない。全国にも怪物がうようよいる。彼女たちに勝つには強くならなくてはならない。

だから、浩子は扉を開くことにした。

 

 「ら、来年のインハイに!出させてもらえますか!?」

 

 条件付きで。

 

 

 

 「ああ、別にいいぜ。何も年がら年中縛りつけるってわけじゃねえしな」

 

 「えっ」

 

 「二週間に一回くらいで足りるだろ、顔見せもよ」

 

 「「えっ」」

 

 素っ頓狂な声が同時に出た。茹だるような熱気を遮断した快適な室温の部屋のなか。外では暴力的にやかましい蝉の声が防音設備に殺されて心地よいBGMとなる部屋のなか。こうして浩子が白髪の男についていくことが決まった。決められた事項は少ない。

 

一つ、おおよそ二週間に一回程度は部に顔を出させる。

一つ、来年のインターハイには予選から出場させる。

一つ、学業に関してきちんと便宜をはかる。

 

 以上の三つである。

 

 

 

―――――

 

 

 雅枝は先ほどの決断をした浩子を安心させるように抱きしめ、この男自体に危険はない、と断言してくれた。少なくとも女の子が大人の男に対して持つような不安を抱く必要などないと言ってくれた。なんでもそれなりに古くからの知り合いらしく、ある程度は信を置ける人間ではあるらしい。その後の処理をすべて雅枝に任せ、男と浩子は学校を出る。校門を通るころにはすでに熱気が体を包み、じわりと汗が吹き出させる。少し目線を上げると男も暑いようだ。わずかではあるが汗が光っている。依然として何一つ説明はなく、今どこへ向かっているのかすらわからない。行き先を尋ねようとして、浩子はひとつ重要なことを聞くのを忘れていたことを思い出す。

 

 「あ、あの……、お名前は……?」

 

 「赤木……、赤木しげる……」

 

 陽の光を浴びてきらきらと光る白髪に黒のシャツとジーンズ。なぜか昼という時間帯が妙に似合わない男の名は普通のものだった。

 

 「あ、うちは船久保浩子言います。よろしくお願いしますー」

 

 やっとコミュニケーションの第一段階をクリアした浩子は自分の名を名乗る。応接室ではあまり口数は多くなかったが、昨日の雀荘を思い出す限り無口な人ではなさそうだ。さすがに長時間黙りこくるというのは辛い。来年のインハイが約束事項に入るくらいだ。年単位で過ごすことも当然視野に入れなければならない。適度に話ができるというのは数少ない安心できるポイントの一つになった。

 

 「……ひろ、でいいか」

 

 ぼそりと一言つぶやく。それは決して浩子に確認を取る発言ではなく、あくまで独り言。発言の矛先は赤木、納得するのも赤木で完結してしまっている。そもそも浩子には聞こえてすらいない。さっくりと浩子の呼称が決定した。

 

 

 「赤木さん、これからどこ行くんです?」

 

 八月の海日和を思わせる陽気のなかを歩きながら浩子が尋ねる。

 

 「……ああ、どこか店が開いてればいいんだけどな」

 

 妙なことを言う。さっきからファストフードの店や喫茶店などはいくつか目にしている。駅も近付いてきたのでファミレスなんかでも問題はないだろう。

 

 「いやいやさっきからいくつも通り過ぎてますやん」

 

 「……?」

 

 「別にマクドでもなんでもええやないですか」

 

 「……酒は?」

 

 「あんたが連れとるの女子高生ですよ。未成年ですー」

 

 そんなことには思い当たらなかったというように赤木がわずかに目を開く。女子高生を連れて酒を飲もうとするのもさることながら、まだ午前中である。うすうす感じ取ってはいたが、おそらくこの男は常識をどっかに落っことしてしまったのだろう、と浩子は結論付ける。

 

 

 結局ファミレスに入ることになった。喫煙席の奥まった場所に案内され、二人は向かい合って座るかたちになる。浩子はたばこの匂いが好きでも嫌いでもないため、とくに文句を言うこともなかった。赤木はアイスコーヒーを、浩子はドリンクバーを注文する。メニューには様々な料理が載っているが、朝食も食べたうえにお昼まではまだ時間がある。長居をするようなら、そのときは別で注文をすればよい。だから料理を頼むことはしなかった。コーヒーをすすり、さて、と赤木は話を始める。

 

 「細かい話はあとでするとして、だ。行き先が三つあるから選んでくれや」

 

 「はあ、三つですか」

 

 「……岩手、茨城、……九州だな」

 

 「一個だけやけに幅広ないですか?」

 

 それには赤木は答えない。まさか九州全部回るとか考えているのだろうか。答えないならこれ以上聞いても無駄だと浩子は判断し、候補地へと思考を向けることにした。おおよその見当はついている。さきほどの監督との会話を思い出してみれば、あっさり過ぎるほどに候補地の意味が浮かび上がってくる。おそらくそれぞれに先ほど名の挙がった人がいるのだろう。岩手には熊倉監督、茨城には小鍛治プロ、九州には大沼プロがいるはずだ。と、そこまで思考を進めたはいいがひとつ疑問が湧いてくる。いったい何をしに行くのだろう。この目の前にいる白髪の男が自分の麻雀を鍛えてくれるのではないのか。ただ連れて行ってくれるだけの存在なのだろうか。浩子の頭のなかをクエスチョンマークがぎゅんぎゅん飛び回る。浩子はすでにどこに行くかを考えていない。

 

 「おい、ひろ、そろそろ決めたか?」

 

 のんびりと煙草を喫み、アイスコーヒーを飲んでいた赤木が尋ねる。様子から見るに、別に回答を急ぐ必要はなさそうではあるが。浩子はというと、声をかけられてやっと我に返ったようである。

 

 「えと……、じゃあ、茨城でお願いします」

 

 「ふーん……」

 

 別に浩子には深い意図はない。どこに行ったところで大した知り合いがいるわけでもなし。まさになんとなくで選んだのだった。

 

 ぐりぐりと煙草を灰皿に押しつぶし、赤木が席を立つ。伝票をさっと手に取りレジへと向かう。まあ大人の人だし、こういうときは素直に甘えるのが正しい女子高生の姿だと浩子は考える。むしろ年上相手に自分の分は払う、なんて言ってる女子高生がいたらそれは滑稽というものだろう。赤木はポケットから一万円札を取り出し、伝票とともにレジに置いてさっさと店を出ようとした。浩子は驚愕している。口がなんだかダイヤのマークになっている。コーヒーとドリンクバーでは千円もいかないのにこの男は何をしているのか。店員も、ちょっとお客様ァ!? とびっくりしている。赤木は追いかけてきた店員に対し、ああそう、と答えお釣りを受け取る。この男は金銭感覚がぶっ壊れているんじゃないかと浩子は心配になった。そういえば初対面で数百万賭けてきたのだ。それも一方的に。まともな感覚を持っているわけがない。

 

 

―――――

 

 

 

 赤木についていくことを決めたものの、さすがに着替えもなく遠出するのは女子高生の沽券に関わる。家に帰り、旅行用の支度を整える。あとは家族に話をしなければならない。無断で男と二人旅とかいつの時代のドラマだ。さてどう切り出したものかと思案していると、すでに監督から連絡が入っていたらしい。麻雀のためだしね、と普通に送り出してくれた。だいたい二週間に一度くらいは帰ることだけはしっかり伝えておいた。ちなみにこの間、赤木は駅で待っている。そこまで大きくないかばん一つで行くつもりなのだろうか、と浩子はいらぬ心配をしていた。

 

 大阪から茨城へ向かうとなると、いったん新幹線で東京まで出る必要がある。新幹線に乗車するために駅へと向かい、赤木と合流し切符を購入する。窓口のサービスが行き届いているため、足止めを食うこともなかった。値段を先に言ってくれるのだから赤木が異様な金額を払おうとすることもない。この男は値段を確認するということを一切しないのだ。 iPadで東京についてからの路線図を調べる。調べてしまえばすぐに情報は手に入るため、けっこう手持無沙汰になる。実は茨城には新幹線の停車駅がない。新幹線が通っているのに停車しないとはどういうことだ、と浩子は心の中で悪態をつくがどうしようもない。

 

 「おい、ひろ。苦手な相手っているか?」

 

 隣の席からひらりと声が飛んでくる。浩子はびくっと反応する。なんですかその呼び方。実は二度目なのだが、そのときは思考が遥か彼方へ行っていたためノーカウントである。ちなみに普段は浩子と呼ばれるのが通例である。例外としてフナQと呼ぶ先輩が一人いるが。

 

 「あ、に、苦手な相手ですか……。そうですね、洋榎ちゃんなんかは苦手なタイプやと思います」

 

 「愛宕サンの娘か……。なんでだ?」

 

 「何をするかわからないとゆーか、データを取っても次のときは役に立たないとゆーか……」

 

 新幹線がゆっくりと動き始める。この時期に旅行に行こうとするのは時間のある年配の方か大学生くらいなので席は空いている。仮に混んでいたとしても指定席のうえにしゃべること自体はそこまで問題視されないが。

 

 「そこまでわかってんならもう十分じゃねえのかな……」

 

 赤木はそれがもう事実であるように言う。どうやら教えて鍛えるというような方策は採らないようだ。言われた浩子はぽかんとしてしまう。いったい何が十分なのだろうか。すでに自分はなにか決定的なヒントを掴んでいるのだろうか。

 

 窓の外の景色が加速していく。赤木はもうこの話題については話すことはなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 面倒な乗り継ぎを経て、茨城へと到着する。大阪に比べれば少しは北に位置しているため、ちょっとくらいは涼しかったりするのだろうかと期待するが現実は甘くない。駅の外にふらりと出て、赤木はきょろきょろと周りを見渡す。ほんのわずかな時間しかともに過ごしていないが、この赤木とかいう男は行動を読むだけ無駄だと浩子は悟っている。手慣れた動作でタバコに火をつけ、ひとつ煙を吐くと小声でつぶやく。

 

 「じゃあ、あっち行ってみるか……」

 

 よく考えてみれば学校を出てから、赤木がアポを取っている姿を浩子は確認していない。浩子が自宅で身支度を整えている間にチャンスはあったが、どうにもその姿がイメージできない。つまり抜き打ちで小鍛治プロのもとへと行こうとしているのではないかと浩子は推測する。仮にも相手はグランドマスターと呼ばれる凄腕である。そこにアポ無しの突撃を選択肢に入れられるこの男はいったい何なのか。あと許可は出るのか。浩子はこの男について考えるのをやめることを選択肢に入れようかと真剣に思い始めた。

 

 

 茨城に降り立っての浩子の感想は、すっきりしているなというものだった。大阪と比較して人の数は控えめであり、そのせいもあってか空気が違うように感じられる。失礼な話ながら浩子は自分の人生においてこんなに早く茨城に来ることになるとは考えていなかった。旅行に行くなら沖縄とか北海道とかあるいは海外とかもっとわかりやすいところに行きたいと考えるのは自然なことだろう。

 

 赤木は適当に繁華街のほうへ歩を進めていく。時刻はまだ夕方にさしかかったあたりである。小鍛治プロを探しに繁華街ということなら、おそらく雀荘が目的なのだろう。ただ、さっきから雀荘はいくつか通り過ぎている。人探しをするときはしらみ潰しに見ていくのがフツウちゃうんか、と浩子が脳内でツッコミを入れる。すると赤木の足がぴたりと止まった。

 

 雀荘ひばり。いかにも昔からあるといった風のくたびれた雀荘である。イメージからいくとこんなところにプロは来ないんじゃないかと言いたくなる店構えである。仮にいても男性プロだろう。ちなみに雑居ビルの二階にその雀荘はある。

 

 赤木はその店を二秒ほど見つめると、すぐに足を向けた。ついで浩子がそのあとをついていく。ドアを開けると風鈴がちりん、と鳴る。流行っているのだろうか。店内を見渡してみると、休憩スペースに目的の人物がいた。赤木がそちらへ数歩近付くと、びくりと一人の女性が反応する。さっとこちらを振り向くと、どちらかといえば普段から困り眉をしている眉をさらに困らせる。おでこがはっきり見えるように短めに前髪が切られたその顔は、日本女子史上最強プロ、小鍛治健夜のものだった。

 

 浩子はため息をつかざるを得ない。薄々わかってはいたものの、どうして小鍛治プロがいる場所を一発で引き当てられるのか。なにか見えてはいけないものでも見えているのだろうか。そういえば長野の魔物どもは特定の位置の牌が見えているという。それと似たようなものなのだろうか。よく考えたら近づいただけで反応した彼女も大概である。

 

 「あー、あはは、い、いらっしゃい?」

 

 小鍛治健夜は本来であれば、どのような状況でも動揺することはない。鋼の精神力、圧倒的な観察眼、卓越した技術でこの国のトップに当たり前のように座してきた。プロにおける国内戦無敗という結果はなにより精神力が支えている部分が大きい。勝ち続ける。これはそれこそ体験した人間にしかわからない苦痛があるのだという。

 

 その小鍛治健夜が、どう見てもテンパっている。今は麻雀を打っているわけではないので、和了直前の謂いではない。

 

 「えーと、な、何かあったのかな? しげるくん」

 

 かわいそうなくらい目が泳いでいる。

 

 「なーに、ちょっと面白くなりそうなの見つけてよ……」

 

 ちらりと目線で浩子を指す。あはは、とひくついた笑いで返す。気分は怪獣に囲まれた人間のそれである。健夜が先ほどとは違う反応を見せる。浩子の顔をしげしげと眺め、うんうんとうなずく。ついで何かを思い出したように。

 

 「あなた確か千里山の……」

 

 「あ、ハイ。二年の船久保浩子いいます」

 

 これで浩子はこの一日で、二人のとんでもないのに名前を覚えられたことになる。

 

 「面白そう、ってどっちにもってくつもりなのかな?」

 

 さっきまでの動揺とはうってかわって、健夜は純粋に疑問を口にする。どっち、という言葉から察するに赤木は複数の選択肢を持っているのだろう。

 

 「ああ、情報収集が得意なんだってよ」

 

 「……あ、そういうこと?」

 

 なにか得心がいったように言葉を返す。浩子は未だに答えが出せないのに、さっと思いつくあたりさすがプロということなのだろうか。だがなぜか彼女の表情は苦い笑いが浮かんでいる。

 

 「それ女子高生にやらせるかな……」

 

 「十三のころには似たようなことやってたさ」

 

 不穏な単語が飛び交う。会話だけだと本当に麻雀についての話をしているのかの確信が持てなくなってくる。やはりついてきたのは失敗だったのだろうか。覚悟を決めてついては来たものの、やはり不安は拭い去れない。さすがに小鍛治プロがいればそこまで悲惨なことにはならないだろう、と浩子は思ってはいるが。

 

 ククク、と笑う赤木とやはり少し苦い笑みを浮かべる健夜。それを不安げに見つめる浩子。外から見ると状況はどういうものかまったくわからない。

 

 「鍛えるプランは?」

 

 浩子が今朝から聞きたかった内容がついに問いとして発される。やはり小鍛治健夜といえどそこは気になるのだろう。なにせ相手があの男だ。目を輝かせて赤木を見る。当の赤木はというと、別になんら様子を変えない。

 

 「ねえな」

 

 「さっすがしげるくん!ちゃんと考えて……って、え?」

 

 「打ってりゃそのうち気がつくさ」

 

 浩子が、あるいは健夜が期待した答えが返ってくることはなかった。

 

 「さて小鍛治サン、せっかくの場所だ」

 

 そう言って赤木は雀卓のほうへと目を向ける。声色も態度もいつもと変わりない。浩子は会って二日目だが、赤木という人間の特殊性は理解しているつもりである。どの状況でもこの男に精神的変化は望めないだろうということを。きっと銃口を突き付けられたって喫いたければ平気でタバコをポケットから出そうとするだろう。目の前に数十億積まれたって眠ければ昼寝を優先するだろう。であれば世界を相手に対等どころか銀メダルさえ獲得してみせたプレイヤーを平然と同じ卓に誘うのも当然と言えるのだろうか。しかし小鍛治健夜を相手に卓へ着くよう促している姿は、どこか楽しそうな雰囲気を滲ませていた。

 

 「サシウマは?」

 

 健夜が返した瞬間、浩子は悟る。小鍛治健夜は赤木しげるがどういう人間かわかっているということを。それはつまり二人はおそらく対等に近いレベルで打ち合えるということであり、同等のサシウマを仕掛けるに値する相手だということを意味する。住む世界の違う人間が自分を取り巻いているのだと浩子はあらためて受け入れざるを得ない。浩子の周囲にいるのは部活で一生懸命インターハイで勝つことを目指す人々などではなく。負ければ少なくともなにかを、あるいは全てを否定されるような世界で生きている人々なのだ。浩子自身はそういう世界に住むことを決めたわけではないが。

 

 「あらら、手元に四百万くらいしかないな。じゃあ、それで」

 

 「えええ……? さ、さすがにヨンヒャクはお母さんに怒られちゃうよ……」

 

 「なら、宿でどうだ?」

 

 「えっ、宿も取らずにこっち来たの」

 

 そういえば、と浩子は頭を抱える。あまりにも多くのことが起きすぎてそんな当たり前のことに気が回らなかった。というか宿無しでこの男はどうするつもりだったのか。いや駅のそばならカプセルホテルなりマンガ喫茶なりしのぐ手段はいくらでもあるが。

 

 「別に公園でもなんでもいいじゃねえか。夏だしな」

 

 「……しげるくん、さすがに女子高生ひっぱってきて公園はありえないかなって」

 

 言われてみればといった表情で赤木は浩子の顔を見る。浩子が苦笑いを返す以外の対応を思いつかなかったのは仕方のないことだろう。

 

 「……あー、小鍛治サン。宿頼むわ」

 

 「ついにサシウマですらなくなったよね!?」

 

 古臭い雑居ビルの二階。エアコンの効きもそんなによくない夏の盛り。陽は傾き、夜が近づいて。蝉の声は遠く。人の域なんてとうに出てしまった二人の雀士の闘いが始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

 



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―――――

 

 

 「えええ!? 席順で二着とかそんなあ……」

 

 小鍛治健夜が残念そうに声を上げたとおり、赤木と健夜の点数は南四局を終えた時点で同点だった。東一局時に赤木は南家であり、健夜は西家だった。したがってルール上、起家に近いほうが順位は上となる。

 

 オーラスを迎えてトップの健夜のリードは5200しかなく、二位には赤木がつけていた。この時点でイヤな予感はビシバシ感じていたが、かといって南四局をやらないなんてわけにもいかない。同じ卓に入ってくれた中年たちはなかなかの腕で、対局をブチ壊すなんてことにはならなかったがそれでも赤木からすれば屁でもない。そんなことは健夜にもわかっていたため、何より自身が早く和了ることが正しいのだと理解していた。

 

 そういった勝利への希望が見えたところに赤木しげるはやってくる。

 

 たった六巡。親の切った牌に赤木がロンを宣言した。振り込んだ中年はやってられるか、といった表情を浮かべている。オーラスで親でもない赤木が和了をコールするということは、一位が確定する手ということ。たった5200の差しかないのに二位確定の和了なんぞしたら顰蹙ものだろう。それは40符3翻の順位まくり確定の和了だった。ただ、当の赤木は勝利を喜ぶでもなく、ふう、と大きく息を吐いただけだった。

 

 

そうして冒頭の小鍛治健夜の落胆に繋がる。

 

 浩子は目の前の出来事が信じられなかった。なにせ国内戦無敗の伝説級の女性プロが負けたのだ。半荘一回くらいなら紛れも出るだろう、と言う人がいるかもしれない。その紛れを起こさせなかった人間が小鍛治健夜で、それが数年単位で続いていたといえばその異常性は伝わるだろうか。涼しい顔してそんな人を上回った男がいると話したところで “冗談ならもっとマシなの持ってこい” と言われるに違いない。ただ、信じられなかろうがなんだろうがそれは事実であり、浩子は受け入れなければならなかった。

 

 「じゃあ小鍛治サン、宿よろしく」

 

 「ええ? いや負けたけどそれやっぱりサシウマだったの!?」

 

 対局中の集中力たるや恐怖すら感じるような二人だったが、終わってしまえばそうでもないらしい。浩子からすれば、赤木はいくらか常識の抜け落ちたお金に頓着しない青年である。健夜に関してはラジオ番組やインハイの解説のときのいじられ具合が素だと認識できた。そこだけ見れば普通のひとに変わりはない。ただし麻雀は鬼のように強いが。

 

 「ちょ、ちょっと待ってね。これから宿ってほぼ無理だから……」

 

 健夜がそう言ったときに浩子はちょっと不思議に思った。たしかに時間帯はもう夕方どころか陽はもう完全に落ちて、空には星が瞬いている。だからといってビジネスホテルだとかその辺が埋まりきってるなんてことは少ないだろうし、無理なんてことはないのでは? と。そんなことを浩子が思っているあいだに健夜はいそいそと携帯を取り出した。

 

 「あ、おかーさん? 今日ね、友達泊めてあげたいんだけど……、ううん、こーこちゃんじゃなくて……」

 

 

―――――

 

 

 

 目の前に広がるのは、なんとも家庭的な料理の数々。色合いは良く言えば日本的、失礼な言い方を許してもらえるならば地味なものであった。それでも料理から立ち上る湯気が食欲を刺激する。

 

 そう、浩子と赤木は小鍛治健夜の実家にいた。きょろきょろと見まわすと築年数は浅そうだ。ひょっとしたら親孝行として新しく買ってあげたのかもしれない。小鍛治健夜ともなればそれくらいはぽんと出せる額に違いはあるまい。浩子は視界にいる麻雀の鬼二人の金銭感覚が自分とはかけ離れていることをさきほど知った。いや片方はすでに知っていたため、もう一人の感覚が自分と違うと知ったというほうが正しいだろう。雀荘を出て健夜の車に乗せてもらい実家へと向かう最中の会話である。

 

 「いくらなんでもさ、ホテルのロイヤルスイートとか旅館のそういうのって電話してパッと取れるものじゃないからね?」

 

 「へえ、そりゃ知らなかったな……」

 

 ( いや普通の客室とかなら取れるやろ…… )

 

 金銭面の心配ゼロである。

 

 そんなこんなで健夜の実家へと招かれ、夕食をいただくことになった。浩子はガチガチに緊張しているが、赤木は平然とくつろいでいる。小鍛治家の方との会話を聞いていると、どうやら面識があるらしい。よくもまあこんな変人と楽しく会話できるものだと浩子は感心しきりである。

 

 

 夕食のあとにはお風呂もいただいてすっかり馴染んでしまった浩子は、今あの小鍛治健夜の部屋にいた。かなりこざっぱりとした部屋で過度な装飾などはなく、ベッドに本棚、座イスの前にはテーブルがある。部屋の隅にはテレビがあり、そこから少し離れたところにパソコン用の机がある。どうやらノートパソコンを使うらしい。テーブルの上には黒ぶちメガネとペン立てがあり、爪切りや耳かき、蛍光ペンなどが入っている。クローゼットは閉まっていて中を見ることはできないがさすがに衣類が入っているだろう。ベッドの頭のほうには多少ものを置けるスペースがあり、小さめの電灯や鏡、目覚まし時計が置いてある。

 

 ちなみに浩子の現在の服装は明るい水色の左胸にドナルド○ックのあしらわれたTシャツと黒いハーフパンツである。言わずもがな健夜の格好はみんな大好きジャージである。

 

 「あ、あの、あんまり見られると恥ずかしかったりするんだけど……」

 

 「すいません。小鍛治プロの部屋ってどんなんやろって気になってしまって」

 

 赤木は現在ご母堂と楽しく談笑中である。

 

 「そういえば小鍛治プロって赤木さんとどこでお知り合いになったんです? 赤木さんてプロちゃいますよね?」

 

 「知り合ったのはけっこう最近でね、三年とか四年前かなあ。あ、噂はプロになってからずーっと聞いてたんだよ」

 

 「噂ですか」

 

 「そう、曰く十三歳で麻雀を始めて以降、一度も二位以下をとったことがない怪物がいるって噂」

 

 茨城の夜は大阪に比べれば多少は過ごしやすく、虫の声がよく聞こえた。健夜は浩子に座布団を勧めつつ自分はテーブルに肘をつき、どうしてか少し苦笑していた。

 

 「オフシーズンだったかな、仲良しのプロの人とお酒飲みに行ってね、その後雀荘に行ったの」

 

 「はあ」

 

 「それでみんな酔ってたからわざわざバラけて卓についちゃって……、今考えたらすごい迷惑だよねこれ……」

 

 「お客さんはたまったもんじゃないでしょうね」

 

 「で、私がついたその卓にいたの」

 

 懐かしそうに少しうっとりしながら健夜は話を続ける。

 

 「いくら酔ってても私はプロだし、当然勝つつもりで打ったんだけど負けちゃって」

 

 浩子はあらためて驚愕する。酔っていたとはいえやはり勝ったのかと。さっき見た対局も万分の一もない紛れなどではなく実力だったのかと。

 

 「一気に酔いが覚めたよ。負けるなんてしばらくぶりだし新鮮だったから」

 

 さらっととんでもないことを口にしていることに気付きもせずに健夜は話を続ける。おそらくスランプに陥ったり伸び悩んだりしているプロに聞かせれば激怒間違いなしの発言だ。女性にとっての “食べても太らない” 発言と同レベルと捉えてもいいだろう。

 

 「だから次は本気で挑んだんだ。一緒に来てたプロの人にも同卓してもらって」

 

 「囲んだ、ってことですか?」

 

 「ううん、さすがにそんなことしないよ。全力で打ってもらったけど、それでも負けちゃってね」

 

 「…………」

 

 「それからかな、ふらっと街で出会ったり、インハイの会場で見かけたり」

 

 「ええ!? ちょぉ待ってください!あの人インハイ見に来てるんですか!?」

 

 「けっこう好きみたいだよ? 男子も女子も見てるし」

 

 「今イメージがガンガンぶち壊れていってますわ……」

 

 「そんなこんなで今だと色んな人脈があるんだって。トッププロにはけっこう知り合いがいるみたいなこと言ってたよ」

 

 浩子はなんとか頑張って飲み物片手に観客席で高校生の麻雀を眺める赤木を想像しようとしたが無理だった。致命的に明るい場所が似合わないのだ。ひょっとしたら赤木の周りだけ席が空いていたなんて事態が起きていたのかもしれない。

 

 

 「赤木さん!インハイ観戦しに行ってるってマジですか!?」

 

浩子が他人の家だというのも忘れて大声を上げて赤木のほうへと向かっていく。とくに詰問するという調子でもなく、純粋に驚きから確認しにいってると見て問題ないだろう。余談だが赤木の寝間着は和装である。

 

 「ああ、本当だぜ」

 

 「なんでインハイ見たあとで私を鍛えようとか考えたんです!?」

 

 浩子からすれば当然の疑問だろう。彼女は団体戦にしか出ておらず、ずば抜けた戦績をたたき出したわけでもない。悔しいがもっと注目すべき選手は他にたくさんいた。それこそ筆頭は宮永姉妹がいるし、浩子と同じ大阪であっても荒川憩がいる。鹿児島永水の神代に白糸台の大星、今回こそ出場していないものの長野には天江衣なんて存在もいる。他にも挙げれば枚挙に暇がない。

 

 「別にそういう目的で見に行ってるわけじゃねえしな……」

 

 「へ?」

 

 「インハイってのは死に物狂いで出ようとするし勝とうとするだろ?」

 

 「え、はあ、そりゃまあ」

 

 「ってことは、ある一つの牌を切るかどうかで結果が分かれる一打があるよな?」

 

 「ありますね」

 

 「そういう一打が見てえから行ってんだ。インハイはそいつが出やすいからな」

 

 二日連続二度目の肩すかし。つまりインターハイは完全に赤木の趣味として見にいっているのだ。その目的もなんというか、捉え方によってはあまりいい趣味とは言えないような。その辺りを差し置いて考えると、つまりまったく別の基準から浩子は選ばれたことになる。果たして喜んでいいのか悲しんでいいのかよく分からないが、とりあえずその事実は受け止めることにした。

 

 「ところでインハイ見てたんなら聞きたいんですけど、赤木さんから見て強い選手っていました?」

 

 「……長野個人代表の福路、臨海の辻垣内、大阪はずいぶん数がいたな、荒川に清水谷に江口、愛宕サンの上の娘もいるしな、あとは熊倉サンとこの連中もよく鍛えられてる、そういや奈良に小走なんてのもいたな」

 

 「み、宮永照とかは入らないんですか? 三年連続のチャンピオンですよ?」

 

 「今してるのは麻雀の話だろ?」

 

 「え?」

 

 「宮永だの神代だのと言いたいんだろうが、あの辺は麻雀を打ってるわけじゃねえからな」

 

 「麻雀を、打ってない? どういうことです?」

 

 「……そうだな、じゃあこいつは宿題にでもするか」

 

 三年連続でインターハイを団体でも個人でも制した宮永照を初めとして神代小蒔もそうだという。おそらくその流れでいくのなら大星淡も天江衣も同じく麻雀を打っていないということに違いない。赤木はこれをとんちでもなんでもなく純然たる事実なのだと言った。最後に小鍛治サンに聞くのは反則だと言い含めて赤木は客間の布団へと向かっていった。

 

 超高速で寝息を立て始める赤木を睨みつつ、船久保浩子は頭を働かせる。

 

 宿題。

 

 宿題ということはおそらくなにか目的があってそれを出しているはずだ。となればその目的の第一候補は浩子自身だろう。この宿題を達成することで赤木が見た自分の可能性を広げられる、そう浩子は考えた。聞くのは反則だろうが自分で調べたデータに頼るのなら問題はあるまいと iPadを取りだす。さきほど挙げられた赤木が考える強いメンバーと麻雀を打っていないとされるメンバーの情報を並べる。身長体重年齢出身地などどうでもいい情報にもいちおう目を通し、検討を始める。

 

 わかっていたことだが、どいつもこいつも強い。現時点での浩子では太刀打ちできないだろう。

 

 しかしどうにも引っ掛かる部分が多い。例えば先ほど小走やえの名が挙がったが、彼女は奈良の個人予選では一位通過しているものの、団体予選で阿知賀の松実玄に後塵を拝している。浩子は阿知賀の牌譜を詳細に研究したため彼女の能力がどれだけエグいか知っている。それでも松実玄の名前は出なかった。そもそも宮永照がそこから外れている時点で違和感自体は最高レベルに達していると言えるのだが。

 

 やはり “天照大神” になにか関わりがあるのだろうかと浩子は思考せずにはいられない。とすると宮永咲もこちら側に分類されると考えていいのだろうか。それらと対等にやり合っていた人たちは? などと多くの考えがぐるぐる回る。

 

 

 まず浩子が出した一つの結論は、魔物クラスの異能を持つプレイヤーは麻雀を打っていない、というものだった。これは赤木の言葉に推測を加えに加えて、データを見つつ出したものである。そして次が赤木の宿題の本意だろうと浩子ももちろんわかっていた。なぜ魔物は麻雀を打っていないと言えるのか。

 

 これに関する結論を浩子はやはり出せなかった。実際は期限など設けられていないため、明日だろうが明後日だろうが一か月後だろうがいつでもよかった。しかし浩子はすぐに結論を出したかった。初めてあの謎人間赤木が自分の麻雀強化にかかわる話をしてくれたのだ。それに浩子の麻雀の実力を向上させたいという思いも真剣なものだった。だからその日は悔しい思いをしつつ眠りについた。

 

 

―――――

 

 

 

 もう夏至など過ぎてから一月近く経とうというのに、まだまだ太陽は元気である。まかり間違って東向きの窓のカーテンを閉め忘れるなどという事故が起きればその光は眠り続けることを許可しない。そうでなくても蝉がやかましく騒ぎたてるため満足いくまで寝続けるのは難しい。齢を重ねれば蝉の声を風流と解することができると聞いたがその境地は遠いな、と浩子はため息をつく。

 

 ちなみに小鍛治家はかなり広く、浩子も赤木もそれぞれ一部屋借りることができた。借りたのは和室だった。客間だとか言っていたが、その真ん中に布団を敷いて寝るのは浩子としては寂しさすら感じるほどだった。思わぬところで自分の庶民感覚に気付かされてちょっとへこんだのは別の話である。

 

 

 洗面台で顔を洗い、人前に出られる程度に身だしなみを整えて食事スペースへと向かう。すでにそこでは赤木が朝食をとっていた。浩子の感想は “この人、朝似合わんなあ”。この一点だった。顔は洗ったものの完全には覚醒していない状態でふとふすまの方を見やると健夜が立っていた。目はうつろ。口は半開きの寝ぐせつき。女子力だとかそういった観点から見ても伝説のプロ雀士として見ても完全にアウトである。ご母堂の盛大なため息とともに少しだけ目に光が戻り、ついでばたばたと洗面所へ向かっていった。

 

 

 「そういえばしげるくん、なんでわざわざ茨城に?」

 

 食事を終え、冷たい麦茶をいただきながら三人でのんびりしている最中に健夜が尋ねた。実際のところは浩子が適当に選んだのだがそんなことは口が裂けても言えない。

 

 「小鍛治サンと打てばひろの成長に繋がるんじゃねえかと思ってよ」

 

 雀士全員の憧れたる小鍛治健夜と打たせてもらえるのは身に余る光栄と言ってもいいだろう。だが、彼女は手を抜かないのか抜けないのかテレビなどでアマチュアと打つとそれは常に惨たらしい結果を生んだ。ましてやテレビでもなんでもなく直に打つとなれば彼女の強さを身を以て体験することになるはずだ。ネットではトラウマ製造機と揶揄されるようなプレイヤーと打ちたいかと問われれば、浩子はすぐ素直にイエスと答えることはできなかった。

 

 「あ、そういうこと? ……でもそうするとやり方考えなきゃだよね」

 

 「てっ、手ぇ抜かれるんはイヤです!」

 

 潜在的なプライドがそうさせたのか、浩子は意識せずに声を上げていた。健夜は柔らかく微笑み、そういうことじゃないよ、と小さく前置きした。

 

 「浩子ちゃんに伝えるために全力で打つってこと。手を抜くなんて失礼なことしないよ」

 

 赤木はどこか満足そうに二人のやりとりを眺めている。結果として浩子は史上最強のプロに啖呵を切ったようなかたちになってしまった。これではもはや逃げ道など存在しない。だが、その最強のプロが自分になにかを伝えるために打ってくれるというのだ。ここで火が付かなければなんのために千里山を出てきたのかわからない。

 

 だから浩子は出来る限り丁寧にお願いします、と頭を下げた。

 

 

―――――

 

 

 

 卓の向こうについた小鍛治健夜を見て改めて浩子は思う。これは本物の怪物だ、と。船久保浩子は徹底的な理論派であり、実績から来るプレッシャーのようなものとは縁がなかった。少なくともこれまではそうだった。それは大阪強豪三校での練習試合で荒川憩と打ったときも彼女の圧力自体に負けるようなことはなかった。いくら全国個人二位に輝いたとはいえ、所詮は自分と同い年。別に年上がプレッシャーを放ってきたところで受け流せる自信もあった。

 

 しかし彼女が放つものはもはや高校生のそれとは次元を異にしており、健夜の周囲の空間が歪んで見えるかのような錯覚すら覚える。決して小鍛治健夜は浩子に対して敵意に類するものを向けているわけではない。ただいつものように対局に向かう心構えをしただけである。向かい合うだけで “ああ、こいつに勝つことは許されないんだ” とそう思わせるほどの圧倒的な存在感。浩子が以前見たテレビでどこかのプロが言っていた。宮永照と小鍛治健夜を比較するだけ無駄なのだ、と。いくら高校無敗という意味では同じであってもそういうことではないのだ、と。その意味をここへ来てようやく理解する。そもそも彼女は立っている場所が違うのだ。彼女からすればインターハイなど子供のお遊戯会に等しいのだろう。おそらく彼女自身が高校生だったころから。

 

 こんなのが君臨していたころの日本プロリーグは地獄であったに違いない。雀卓の向こうの小鍛治健夜とシーズンを通して顔を合わせるなど苦痛以外の何物でもなかっただろうから。ちなみに現在は一線からは退いており、名義上は地元のチームに所属している。基本はラジオのパーソナリティか麻雀番組のゲストとして活動しているだけだがその人気は未だ高く、腕も衰えていないだろうというのが一般の認識である。

 

 

 現在、場所は昨日の雀荘。太陽は変わらず絶好調で、たまに吹く風が道行く人々のせめてもの慰めになっている。卓には浩子と健夜、あとはお店から二人出してもらっている。彼らにはとくに何も注文をつけず、普通に勝利を目指して打ってもらうことにした。

 

 東一局。浩子の手牌は良くも悪くもない。とくにオカルト染みたなにかが起きている感覚もない。他家を見てみるが、別におかしい事態が発生している様子はない。ならば普通に打って点を稼がねばならない。点を取らねば勝てないのが麻雀である。

 

 

 ――― 十巡目。

 

 目を向けるのもはばかられるほどの圧力ではあるが、しっかりと見なければならない。小鍛治健夜に大きな動きは見られない。テンパイの気配のようなものも感じられない。浩子は張ってはいるものの待ちが薄いためリーチをかけるわけにはいかない。そのまま流局となり、結局テンパイしていたのは浩子だけだった。親が浩子へと移る。ひょっとして宮永照のように一局目は見にまわったのではないかと浩子は考える。だとしたら仕掛けてくるのは次の局からだろうか。健夜の雰囲気はまだ変化を見せない。あるいは隠しているのだろうか。

 

 

 

 

 船久保浩子の得意分野は情報の収集と分析、そこからの推測を含めた対策をはじき出すことである。つい先日まで行われていたインターハイでもその能力を圧倒的な精度で発揮してきた。その精度たるや監督やコーチを凌ぐことが間々あるほどであった。そこに妥協はなかったし、自信もあった。ただその自信はこの三日で粉砕されそうになっていた。二日前に対局した赤木しげる。そして今向かい合っている小鍛治健夜。分析を許さぬ無形と言ってもいいスタイル。目の前の相手の傾向が見えないということは浩子にとっては未経験のことであり、困惑を隠せないでいた。分析が不可能となれば頼れるのは自分がこれまで培ってきた麻雀の地力だけである。浩子の地力は高校生レベルで見れば相当のものではあったのだが、相手が悪かった。

 

 「それ、浩子ちゃんらしい捨て牌だね」

 

 そう言いながら健夜が手牌を倒す。

 

 気配は確かにあった。ただ、浩子にはあの怪物が何を待っているのかがわからなかった。その時点で浩子は三位に甘んじていた。手には和了ればトップを捲れる形が出来つつあった。攻めるべき手であった。一方で安牌もあった。だがそれを捨ててしまえば手が崩れる。すでに場は南三局。勝つために退かずに前に進んだ。そこを討ちとられた結果となってしまった。

 

 浩子は退くに退けないとき、しっかりと前に進むことができる。これは彼女のひとつの美点であり、健夜と赤木が後に言うには隙だった。合理的な思考ができるからこそ退くことに意味がないと断じてしまえば、どれだけ恐怖があっても自分の理に従える。だからさきほどの健夜の発言は褒め言葉であると同時にアドバイスでもあった。

 

 しかしそんなことに今の精神状態では気付ける訳もなく。その発言から完全に狙い打たれたのだと思っても仕方のないことである。この場において浩子が小鍛治健夜に対して抱いているものはもう畏敬の念ではなく怯えであった。

 

 

 一半荘を終えて、浩子はじっとりとイヤな汗をかいていた。未だに小鍛治健夜の姿が靄につつまれている。局の途中で分析することは諦めたものの、頭の中にしっかりとデータそのものは記憶していた。いちおう許可をとって卓上を録画してもいる。効きの悪いクーラーに少し苛立ちながら浩子はあくまで考える。小鍛治健夜の打ち筋を分析することそのものには意味はないのか。自分に伝えるために打ち方を変える、と言っていた。その打ち方とはまったく掴みどころのない雲のような打ち方。分析できない相手がいるということを伝えようとしているのだろうか。いやそれなら口で十分に伝わるはずだ。あの二人が麻雀を打つことで伝えようとしていることはおそらくそう単純なことではないだろう。少なくともあと一歩、恐らくは二歩以上踏み込んだなにかだ。

 

 答えの出ない問題を考え続けるのはひどく辛いものでもあったが、やはり浩子はさして嫌いではないようだった。

 

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 結局あれから七半荘を回し、当然のように全てのトップは小鍛治健夜だった。何をしてくるのか見当もつかず、振りまわされ続けた。あんな打ち回しがもし出来たのならどれだけ楽しいのだろうと夢想したくなるくらいに。

 

 「アカン。情報が全然入ってこんのはやっぱ辛いですわあ」

 

 休憩スペースの革張りのイスに座って足をぱたぱたとさせながら浩子は愚痴る。回数をこなしたおかげか初めのほうにかいていたイヤな汗はもう引いている。麻雀に対して真摯に取り組み、全力で分析をしているからか忘れられがちだが、船久保浩子だって女子高生である。そんな年頃の娘がかわいらしい仕草をすればそれはかわいいに決まっている。特殊な事情がないかぎりは。その仕草を見たのかどうかは定かではないが、赤木が満足そうにタバコをふかしている。

 

 「えっへん!どうかな? プロっぽかった?」

 

 小鍛治健夜が腰に手を当て胸を張りつつ、してやったりといった顔をしている。この発言を嫌味ったらしくなく言えるあたり純粋な人柄をしているのだろう。どうでもいいが七回通して一度もトップを譲らない情景を見てプロらしくないと言える人間がいるなら会ってみたい。

 

 「プロどころの話やないですよホンマ……、どないなってるんですか」

 

 「それより、何か思うところはあった?」

 

 「……相手が見えないってホンマに怖いです。前に赤木さんと打ったときと似た感じでしたわ」

 

 それを聞いた健夜はふむ、と頷いた。ちょっとの間だけ思考に沈んだ様子を見せて、なぜかその後飲み物を買ってきた。

 

 「及第点ってことでお姉さんのオゴリだよ!ふふっ」

 

 「合格点には届かない、って感じですか」

 

 「惜しいところまでは行ったんだけどね」

 

 その辺をオマケしてくれないあたり、どうやら小鍛治健夜もかなり真剣に浩子を鍛えるつもりらしい。生ける伝説のプロが大真面目に鍛えてくれるなど他の高校生が聞いたら血涙を流して羨ましがるかもしれない。

 

 そのあと浩子は色々と質問してみたが、別に点数がどうのこうのというわけではなかったらしい。まずはやり方を理解しなければならないのだ、と健夜はそう言った。はて何のやり方だろうかと浩子は頭を捻るが答えはでない。だが少なくともさっきの対局と関わりがある。これは様々な角度から検討せねばなるまいと人知れずに気合いを入れた。時刻は午後一時を回ったところで、あらためて意識してみると浩子はお腹が減っていることに気がついた。

 

 揃って出前で昼食をとることに決め、しばしの休息に入る。どうやら太陽は飽きもせず絶好調をキープしているようで、二階の窓から眺める通行人たちはいかにも辛そうだ。効きが良くないとはいえ、さすがにエアコンがあるのとないのとでは差がありすぎる。それこそエアコンがなければただ座っているだけで熱中症にかかることすらそう珍しくないのだから。

 

 先に健夜におごってもらった飲み物で喉を潤おしながら浩子はぼーっとしていた。外より涼しい室内でもやっぱり冷たい飲み物は汗をかくものだよな、と益のないことをつらつらと思う。神経が麻痺するかのような対局をさっさと研究したいという気持ちもあったが、どうせ昼食で中断されるだろうとの推測の上である。そういえば、と浩子は思いだす。三日前にヒリつくような人に会いたいと願ってみれば、今はこのような有様だ。ひょっとしたら気付いてないだけで自分も何らかのオカルト能力を持っているのではないか、と苦笑する。公式戦無敗のプロとそれを倒してしまう存在を呼ぶ異能? もう一度苦笑を重ねる。ただ赤木に着いていく以上、そういうレベルの方々とこれからも会う可能性は否定できないな、と浩子はそうも考えていた。

 

 小鍛治健夜が打っているということもあって途中から浩子の卓にはギャラリーがついていた。そうして一区切りついたと見るや一気に卓に来てくれと健夜に声がかかる。こと麻雀に関しては非の打ちどころのない彼女ではあったが、さすがに昼食前にまで打ちたくはないとやんわりと断っていた。試合展開こそ健夜が圧倒していたものの、浩子も打ち回しはさすがインハイ上位常連校のレギュラーと呼べるものであった。当の浩子は現在休憩スペースでぐでっとしている。となれば客たちは最後の一人に注目する。小鍛治健夜、船久保浩子ときて最後の一人が打てないこともあるまい、と赤木に誘いの声がかかる。赤木はちら、と休憩スペースに目をやり、昼食のあとでいいなら、と承諾した。

 

 

 昼のエネルギー補給を終え、赤木しげるが卓につく。対する三人はどうもこの店の常連客らしく、それなりには腕も立ちそうだった。

 

 「それじゃあ浩子ちゃんはしげるくんの手牌の見えないところね」

 

 「え、むしろ赤木さんの打ち筋見たほうがええんと違います?」

 

 「しげるくんのは真似しようとしないほうがいいよ。混乱しちゃうし」

 

 その発言そのものが浩子にとっては混乱の種である。打ち筋なんてものは基本的に牌効率を中心にある程度かたちは決まっており、せいぜい切り出しの早さや天秤の傾け方くらいでしか顕著な違いは出ない。確かにインターハイには悪待ちだとかよくわからない打牌をするプレイヤーもいたが、別に混乱するほどではなかった。それに初めて赤木と打ったときにもたしかに不思議な打ち回しだとは思ったものの混乱はしなかった。本当に混乱する打ち筋など存在するのかと首をかしげたものの、浩子はとりあえず赤木の対面の後ろに陣取った。常連客の後ろについて場の流れを見てみることにする。知らない中年の打ち筋を分析したところで得るものは少ないだろう。とはいえ見えるものを見ないというのも難しい話で、浩子は中年の手を見つつ場全体を見ることに決めた。

 

 

―――――

 

 

 

 赤木から先制のリーチが入る。赤木は起家であるため親からのリーチという格好だ。他家のそれまでの手作りも空しく、それは降りざるを得ない。降りないパターンも考えられるがそれは相当に手が仕上がっていてかつ相応に大きい場合である。リーチが入ったのは五巡目のことであり、その巡目で親リーと勝負できる手などそうそう入るものではない。大方の予想通り他家はさっさと手を崩して降りていく。浩子の目の前の中年も途中までは和了の目を捨てずに粘っていたが、ある巡目を境にぴたりと降りた。

 

 ( まあ、その辺が限界やろなー。うちは見切るんならもうちょい早く降りるけど )

 

 淡々と場が流れていく。赤木は一向に牌を倒さない。あれだけの人でもツモにはやはり逆らえないのか、と浩子は妙な感慨に耽る。ダブリーからの流局も間々あるくらいなのだから巡り合わせが悪いとしか言いようがない。結局、和了ることもなく海底がツモられ、安全牌が切られてゆく。

 

 「……悪いな。ノーテンだ」

 

 対面に座る白髪の男の発言に耳を疑う。ノーテンリーチはいわゆるチョンボで罰符を払わなければならない。罰符は満貫払いとなっており、親である赤木はもともとの点数の半分近くを吐きだすことになる。浩子はおそらく赤木が何かを仕掛けたのだと考える。自分はおろか小鍛治健夜を下した男がただのミスでチョンボなどするまい。つまり目的があってのノーテンリーチなのだろう。浩子はリーチの効用を考える。リーチとは周囲に自分の聴牌を知らせ、自分の手役に一翻加えるものだ。その効果は周囲に警戒させること。そうなれば他家の反応は降りるか差し込んで場を流す、あるいは勝負手ならまっすぐ進むかのどれかになる。論理的に考えるのなら “そうさせること” が目的と考えなければならない。親番と点棒を吐きだしてまでする価値のあることなのだろうか。浩子は思考を加速させる。

 

 ( まったく意味がわからん。どんな意味があるんやろ )

 

 分析に長けていると自負のある自分ですらわからないのだ。同卓している常連客たちには悪いが何がなんだかわからないだろう、と浩子は思う。あるいは赤木をただの初心者として捉えているかもしれない。浩子が考える先ほどのノーテンリーチの効果はといえば、まさにそれだけである。赤木に対する印象を意味不明にするか初心者と思わせるか。吐きだした点と天秤にかけると実に合理的でないように思われる。

 

 もし浩子が今の赤木の立場 ――東二局にして残り点数が12000―― だったなら即座に点数を取り返すことを考えるだろう。下手を打ってしまえば一撃で飛ばされるなんてことにもなりかねない。したがって浩子はこの局で赤木は攻めに出るだろうと考えていた。

 

 東二局。穏やかに進行していくなかで、当然のように目の前の中年の手は進む。ムダヅモも少なく、手なりできれいなタンピンへと育っていく。どうやら他家もだんだんと仕上がって来ているようだ。赤ドラを含んだタンピン手を中年が聴牌した。ただ捨て牌から見るに、気配を悟られてしまえばそうそう出和了りは期待できないだろう。浩子はダマで十分だと判断する。しかし浩子の予想に反して目の前の中年は牌を曲げた。ツモの予感でもあるのだろうかと浩子は訝しむ。中年の目線は赤木の手元から動かない。それを見て、この男は赤木からの直撃を狙っているのだと浩子はようやく理解する。なるほどさっきのノーテンリーチで赤木を初心者だと断じたのだろう。当の赤木はといえば、リーチなど意に介さず飄々と牌を切っていく。終わってみれば目の前の中年の一人聴牌で東二局は流れた。

 

 浩子の表情は冴えない。攻めに転じると考えた赤木がこの局もだんまりを決め込んだことで、なおさら狙いが掴めなくなったからだ。たしかにまだ少なくとも残り六局はあるが、のんびり構えている余裕はないはずだと浩子は考える。他家が和了する可能性だって十分にあるのだから。それともこの打ち方が授業の一環なのだろうか。傍目には意味不明にしか見えないこの打ち方こそが自分の新たな可能性なのだろうか、と必死で頭を働かせる。健夜はにこにこと楽しそうに卓上を眺めていた。

 

 赤木が動いたのは東三局以降のことだった。わざわざ平和形を崩して嵌張で狙い打ったり、聴牌するための強打を漏らすことなく討ちとった。再び赤木に親が回り、二本場になるころには赤木を除いて全員が弱気一辺倒の打牌となっていた。その弱気の打ち筋すら逆手にとって赤木はひたすら他家から出た牌で和了り続けた。五本場での和了りで浩子の目の前にいる中年が箱を割った。もはや蹂躙と言って差し支えなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 「赤木さん、さっきのやり過ぎと違います?」

 

 雀荘から出て少し歩いたところにある喫茶店。店内の雰囲気は落ち着いており、邪魔にならない程度の音量でクラシックがかかっている。健夜がたまに訪れるということで一行はこの店にやってきた。先ほどの派手な闘牌もあってか常連客たちに赤木が目をつけられてしまい、対局依頼から逃げるために来たという側面もある。テーブルには注文した品々が置かれている。浩子はカフェラテを飲みながらたしなめるように赤木を見ている。

 

 「ひろ、そうじゃねえだろ」

 

 赤木は取り合わない。あくまで目的は浩子だと言外に含んだ物言いである。たしかに、と浩子は思う。たしかに衝撃的な麻雀であったが常連客が牌を握れなくなったわけではない。むしろ目を輝かせて赤木と打ちたがっていた始末だ。だから心配するのは余計なお世話であって、そこは浩子の領分ではない。浩子が考えるべきは客たちが目を輝かせたあの対局についてである。しかし未だにあの対局の持つ意味がつかめない。お手上げ、といったふうに浩子はため息をつき、赤木に尋ねた。

 

 「もしかしてさっきみたいな麻雀やれ言うつもりですか?」

 

 「まずはやり方……、やれるかどうかはその後だ」

 

 健夜にも言われたことが赤木からも繰り返される。やり方を理解しなければどうやら二人が望む領域に行けないらしい。浩子が今はっきりと言えることは、健夜にせよ赤木にせよまったく形が見えなかったということだけである。結果としてそれのせいで浩子自身も常連客たちもいいように振りまわされた。以上のことを二人に向かって言うと赤木はくつくつと笑い、健夜はふわりと柔らかく微笑んだ。

 

 「わぁ、本当にあと一歩だね」

 

 「なあに、すぐさ。もともと筋はいいんだ」

 

 自分の理解していない部分で評価をされるとむず痒いと浩子は初めて体験として学んだ。

 

 いったい何まであと一歩なのかすらわからない状態でただただ前に進もうとするのは非常に疲れる。目の前の二人に聞いてしまえばラクなのだろうが、それをしないのは自力で進まなければいけないと感じているからだ。強くなるということはそういうことだと浩子は考えている。手助けを受けることはあっても、最後は自分で切り開かなければ意味がない。だからこそ浩子は妥協無く情報収集をしてこられたし、麻雀の地力も成長してきた。この姿勢に関してはは従姉の存在が大きいと言っていいだろう。

 

 「そういえば赤木さん、聞いておきたいことがあるんですけど」

 

 「ん?」

 

 浩子の問いかけに赤木が反応する。浩子が考えていた以上に赤木は気さくな人柄をしており、話しかければ普通に会話をすることは可能である。小鍛治家のご母堂と談笑できていたのも別段特異な出来事ではなかったのだ。健夜から聞いたところによると昔は非常に取っつきにくい性格をしていたらしい。もっとも健夜もその時期の赤木と面識をもっていなかったため、今この場にその時代を知るものがおらず、確認する術はないのだが。

 

 「茨城にはいつまでお邪魔する予定なんです?」

 

 「……さあな」

 

 ハア、とため息こそ出るがその返答は浩子にとっては織り込み済みだった。なにせアポを取らず宿を取らず茨城くんだりまで乗り込んできた男である。予定など決めているはずもなかろうと一人で納得する。現時点での可能性はこのまま茨城に残るか、あるいは茨城を出て別の地へと向かうかである。問題点としては、茨城に残る場合また小鍛治家にお世話になりそうだという点と、別の地に向かう場合どこに行くかを一切決めていないという点が挙げられる。仮に茨城を出るとなったら今度は宿をしっかり取ってからにしようと浩子は固く心に誓った。

 

 「あれ、二人ともまだどこか行く予定あるの?」

 

 健夜が疑問を口にする。彼女からすればいきなりの訪問ではあったものの、自分に会いに来たと考えるのは当然のことである。事実、赤木と浩子は小鍛治健夜を目的としてこの地にやってきた。だが二人の行動予定が茨城だけにとどまらないと誰が推測できるだろうか。だから赤木と浩子がこれからさらにどこかへ行くというのなら、それは気になる事柄なのだ。

 

 現時点で健夜はこの二人に強い興味を持っている。そもそもあの赤木が人を連れているのだ。健夜の知る限り、この男は人を連れることなど一切しないはずだ。その赤木に連れていく決断をさせた少女も気になる。彼女がどこまで育つのかもきわめて強い興味の対象である。もし健夜の考えるとおりの成長を見せるのならば、次のインターハイは非常に面白いものになるはずだ。のみならず、赤木しげるに師事したとなればプロチームが黙ってはいないだろうし、プロの選手たちからも注目の的となるだろう。近い将来を思い、小鍛治健夜は嬉しくなる。頼られれば全力で手伝おうとさえ考えていた。

 

 「次に行くなら岩手だな」

 

 「岩手、って熊倉さんのところ?」

 

 ( 決まってたんかい )

 

 「ああ」

 

 「ホントはプラン決まってないっていうの嘘じゃないの?」

 

 じとーっと健夜が赤木を見つめる。本音がどうであろうとどうせ本当のことは言わないのだろう、と浩子はそんな様子を横目に見る。おそらく実にならないであろうやり取りを聞きながら浩子は岩手へと思いを巡らせる。熊倉さんといえば今年のインターハイで宮守高校の監督を務めていたことが思い出される。ということは宮守高校に行くことになるのだろうか。詳しくは調べていないが、たしかあの高校の選手は全員三年生ではなかっただろうか。それどころか部員がレギュラーの五人こっきりだったはずだ。もし全員が引退して麻雀部がなくなっていた場合、宮守へと行く意味は薄くなるのではないだろうか。熊倉監督を侮辱するという意味ではなく。と浩子は頭を悩ませる。常識の埒外の存在である赤木が部活の引退ということを知っているかと聞かれれば、それは浩子にはわからない。本当に知らない可能性もある。これは一度確認してみるべきかと浩子が考え始めた瞬間、健夜の声がいやにすっと耳へ入った。

 

 「しげるくん、私もついてっていいかな?」

 

 元来、浩子はいわゆる頭の良い子であり、様々な場でブレインとして活躍してきた。その条件というのはあらゆる状況で冷静に思考を進めることのできる能力であり、その分野において浩子は図抜けて優秀だった。呆気にとられたり思考停止するなどこれまでほとんど経験がなかった。それがここ数日で思考停止を何度しただろう。予想外が起きすぎる。あの小鍛治健夜が同行したいと申し出るなど思ってもみなかった。浩子からすれば面通しさせてもらって打ってもらっただけで僥倖だったのだ。それがいったいどうしてこうなったのか。浩子の口は開きっぱなしだ。

 

 「小鍛治サン、仕事はいいのかよ?」

 

 「今は週に一回のラジオだけだし、そのときだけ東京に行けばいいかな」

 

 「ふーん。……好きにしな」

 

 空は高く、少し濃いめの水色で、ぽつんとちぎれ雲が浮かんでいる。未だ夏休み中の学生たちが楽しげに窓の外を通り過ぎていく。浩子の右手にはカフェラテの注がれたカップが握られている。とうに握っているという意識など遠くに吹き飛んで、右手を口元へもってくればまろやかな味わいが舌に広がるという、ある種の機械的な感覚が浩子を支配している。客の数もそこそこしかいないため、騒がしくもなくゆるやかに時間の過ぎていく場所で、伝説のプロが赤木と浩子に同行することが決まった。

 

 

 「そうすると岩手で泊まる場所探さないとだよね」

 

 「ええ、それ絶対ですわ。赤木さんには任せておけません」

 

 「クク、ずいぶん信用が無えな……」

 

 「女子高生連れて公園を選択肢に入れた人の言うことちゃいますよそれ」

 

 今から出発しても岩手に着くのは夜になってしまうため、今日は小鍛治家にもう一度お世話になることにして喫茶店で会議が始まる。会議に参加するのは健夜と浩子で、赤木はどこ吹く風とそっぽを向いてタバコをふかしている。女性陣はそれにとくに文句を言うでもなく話を進めていく。その傍らで、赤木が誰に聞かせるでもなくぼそりと呟いた。

 

 「……別に宿を取る必要はないと思うんだがな」

 

 どうやら浩子と健夜はウマが合うらしく、なかなかスムーズに議論が進んでいく。タイプが異なってもなぜか仲良くなるというのはよくある話で、もし二人の年齢がもっと近ければ親友と言ってもいい関係になっていたのかもしれない。あるいは今の年齢差があるからこそ仲良くやれているのかもしれないが、それは確かめようのないことだった。

 

 

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 南の空に雲が見える。風もそこそこあるようでなんだか気分が落ち着かない。これはひょっとするかもしれないな、なんて思いつつ折り畳み傘を鞄に放り込む。夏の終わりの天気など変わるときはさっと変わってしまうもので、とくに夕立には何度やられたか数えるのも億劫なぐらいだ。正直折り畳み傘では心もとない気がしないでもないのだが、今のところ南を除けば空は晴れ渡っている。だから長い傘を持っていくのはすこし気が引けてしまう。家を出る前に洗面所でさっと身だしなみを確認して玄関を出る。いってきますと親への挨拶も忘れない。

 

 住宅街を抜けて駅前のバス停まで行き、宮守高校行のバスを待つ。これまで二年以上使ってきたバス停だ。もちろんのこと時間のことを計算に入れて家を出たのだからそれほど待つ必要はない。三分ほど待ってバスに乗る。定期券を見せる。後ろのほうが空いてることを確認して後ろから二番目の席に座る。なぜかこの場所が臼沢塞はお気に入りだ。窓枠に肘をかけ、ゆっくりと動き始める風景を眺める。さんざん眺めてきた景色だ。塞が宮守高校に通っているあいだはとくに劇的な変化を見せなかった。だからこそ愛着が湧くのかもしれないし、あるいはすこし物寂しい感じを受けるのかもしれない。そんな塞の郷愁など露知らず、バスは次の停留所へと向かっていく。

 

 ぷしゅう、とバスの扉が開く。てこてこと小さな少女が乗ってくる。同じ宮守の制服を身に纏い、艶やかな黒髪をボブカットにした女の子だ。制服でない限りは高校生だなんて思ってもらえないだろうな、なんて少し意地悪なことを考えながら塞は少女に微笑みかける。塞の視線に気づいた少女は笑顔を返す。ぱたぱたと小走りに塞のもとへと寄ってくる。びっと手を上げ、透き通るような声で挨拶をする。

 

 「や、おはよ。塞。ご機嫌いかが?」

 

 「何それ。キャラでも変えたの? 胡桃にゃ合わないよ」

 

 「そ。じゃあやめる」

 

 少女、――鹿倉胡桃は塞の隣に座り胸元をあおいで涼しい空気を服の中に送り込む。塞も思ったことだが、岩手の地で夏の盛りを過ぎたとはいえまだまだ暑い。胡桃の行動をはしたないと咎めることもできないくらいだ。それに胡桃はどちらかと言えばたしなめる側の人間だ。その胡桃が我慢できずにやっているのだからそれはもうどうしようもないのだろう。塞も冷房の効いた車内だというのに団扇が何とはなしに手放せない。ときおりがたんと揺れながらバスは進んでいく。

 

 この夏、塞の所属する宮守女子高校はみごと県予選を勝ち抜きインターハイへと駒を進めた。去年のこの時期など部には三人しかメンバーがおらず、通常の四人麻雀が打てる環境ですらなかった。校内における評価は “仲良し三人組の居場所” 程度のものであり、とくにそれに異を唱えるつもりは彼女たちにはなかった。実際、三人で麻雀をしながら適当におしゃべりをするというのが基本的な活動内容だった。ある冬の日に一気に仲間が増えるまでは。ありふれた出来事だとは言えないが、ドラマのような出来事というのははばかられるような、そんな出来事。新しく学校にやって来た先生が部員を連れてきて、仲のいい部員がさらに一人誘い込んだ。宮守女子麻雀部の歴史を文字にすればこんなもので済んでしまう。

 

 高校前のバス停で塞と胡桃は下車し部室へと向かう。もう麻雀部として大会などに出る予定などはないのだが、後輩もいないため引退などといった考え方をする必要もない。集まりたくなったら連絡をとって集まればよい。それに現在三年生である塞たちに控えているのは大学受験であり、勉強の息抜きも大事だと塞は考える。たしかに勉強は大事だけれど、それのせいで体調を崩してもしょうがないだろう、と。

 

 部室の戸を開けるとそこにはすでに塞と胡桃以外の三人が揃っていた。一人はなぜか雀卓のうえに突っ伏し、一人はスケッチブックを大事そうに抱えている。最後の一人はどうしてか冬服を着てにこにこしている。なんともまとまりが無いように見えるが、これでも締めるべきところは締められるからなあ、と塞は苦笑する。

 

 「おはよー、ってなんだ、私たちが最後か」

 

 「あ、塞ー。重役出勤だねー?」

 

 「これでも集合時間の十五分は前なんだけどね」

 

 挨拶をしつつ、いつも通りの軽口の応酬を楽しみながら荷物を窓際の机へと置く。冬服の少女が立ちあがってこちらへと近づいてくる。あらためて見ると非常に背が高い。塞の頭のてっぺんが肩に届くかどうかというところだ。その身長に反して彼女の振る舞いは小動物を思わせる。一人ぼっちにしておいたらうさぎみたいに死んでしまうだろうと思わせる何かがある。ちらと隣に目を向けると高校三年生にしては非常に背の小さな胡桃がいる。塞は二人を並べるといつも人間の多様性というものに感心したくなる。

 

 「豊音はどれくらいに来たの?」

 

 「えへへ、一時間くらい前だよー」

 

 「わーお、そんなに近くないはずなのに」

 

 「だって皆で集まるのちょー楽しみだったから」

 

 長身の少女、――姉帯豊音ははち切れんばかりの笑顔を浮かべて愛おしそうに部室に集った面々に視線を投げる。豊音はこの高校に来るまでは特殊な環境で育ったため、同年代の友達というのがきわめて大切なのだという。それを知っているから塞を初めとする宮守女子麻雀部は豊音を甘やかしがちである。保護欲をかき立てられるのだから仕方あるまい、というのは過保護にする者たちの弁である。

 

 手早く荷物を置いた胡桃がささっと動き出す。塞の予想した通りに雀卓の方へと向かっていく。雀卓の近くには人形かと見間違えてしまいそうになるくらいに顔立ちの整った金髪の少女と緑色のラシャの上にだらりと倒れ掛かっている白い髪をした少女がいる。胡桃の動きはきびきびとしていて、これまた小動物を思い出させる。休憩時間の雑談のお題が “自分たちを動物に例えたらなんだろう” だったのは今年の春先だったか。胡桃にハムスターと言ったら詰め寄られたことを塞は思い出す。その胡桃が突っ伏している少女を正常に座らせてその少女の上に座っている。これを “充電” と胡桃は称しているが効果のほどは定かではない。

 

 胡桃に座られている少女の名は小瀬川白望。放っておけば本当に何もしないのではないか、と真剣に考えさせるこの少女は団体戦では先鋒を務める実力者だったりする。この暑い夏にどうして “充電” を受け入れるのか聞いてみれば彼女の行動原理のようなものがわかるだろう。白望は一言こう答えるはずだ。抵抗するのがダルい、と。そんなことを言いながらきちんと学校には来るし今日みたいな集合にも応じる。ましてや部活で全国大会まで出ているのだ。表面には出さないが仲間想いなのだろう。

 

 そんな二人の様子をスケッチしている金髪の少女。彼女は名をエイスリン・ウィッシュアートといい、この宮守女子にニュージーランドからの留学生としてやってきた。麻雀部の最後の一人としてやって来た彼女を連れてきたのがあの白望だというのだから驚きである。もともと麻雀が打てるというわけでもなかったが、持ち前の学習能力の高さを発揮し、あっという間に部での練習に参加できるまでに成長した。どころか全国で最高の和了率をたたき出すというにわかには信じがたい記録も作ってみせた。楽しそうにスケッチしているその姿からはまったく想像がつかないが。

 

 軽く打とうか、などとこれからの予定を話していると戸が静かに滑る。目をやるとそこには品の良いしわの刻まれた女性が立っている。それを見た部員たちがそれぞれに挨拶をする。後ろで髪を丸くまとめているこの女性こそ宮守女子麻雀部監督、熊倉トシその人である。こうして何でもない集まりにも来てくれるトシに塞は感謝している。豊音が来るのなら彼女が来るのもある意味当然と言えるのだが。思えば彼女からはなにかを受け取ってばかりであまり目に見えるかたちで返せてないなあ、と一抹の心苦しさを覚える。塞の感覚で言えばトシにおんぶにだっこでここまでやって来られたようなものなのだ。それでもインターハイに出場できたことは多少の恩返しにはなっているかな、とも思う。恩返しとして卒業式で泣かせる作戦を立てているのは秘密である。

 

 

 近況は普段からメールなどでお互い報告しあっているため、電話やメールでは不十分な雑談を始める。役割で言えば塞と胡桃はツッコミだ。エイスリンもまだ少しおぼつかない日本語でなかなか楽しくやれている。こんな時間がいつまでも続けばいい、と塞は思う。考えるにファウスト博士はきっと時間を止めるタイミングを間違えたのだ。手の届かないものじゃなくてもっと身近なものを望めばよかったのに。などと最近読んだ本について思いを馳せる。インターハイが終わってぽっかり空いた時間で読んだものだ。勉強しなきゃな、とも思うが切り替えのための準備期間も大事と言い訳をする。突然、電子音が響いた。

 

 自分の着メロとは似ても似つかないので塞は周りを見渡す。そもそも常時マナーモードなのだ。自分の携帯が鳴るわけがない。怪訝な顔で携帯を見つめているのはトシだった。視線はディスプレイに固定されている。よほど意外な人間からの電話なのだろうか。着信音は鳴り続けている。トシはふと我に返ったように手を動かし始め、ため息をつきながら電話に出る。

 

 「もしもし?」

 

 トシの珍しい様子に少女たちは全員注目する。ため息をつくシーンなど見たことがない。

 

 「なんだい珍しい。……ああ、そっちは元気なのかい?」

 

 「そう……。それで? うん、まあ構わな……、ん? ゲスト?」

 

 トシの電話がまだ終了しないうちになぜかまた戸が滑った。塞の目の先にはどこかで見たことがある気のする女性が二人と全く見たことのない男性が一人。トシの口があんぐりと開いている。宮守女子麻雀部は何がなんだかわからないといった風だ。対して戸に立つ三人は一人はニコニコしながら携帯電話を片手にし、一人は苦笑い、一人はそもそもこっちを見ていない。さてどう考えても塞には接点がなさそうだ。というかおそらく今の電話の主がそこに立っているあの人なのだろう。電話しながら入室とはいささか無礼な気もするが。それにしても、と塞は考える。あの前髪を短く切った女性はどこか、それもテレビか何かで見たことがあるような―――。

 

 「あああ!ひょ、ひょっとして小鍛治プロ!?」

 

 豊音が大声を上げる。部員全員がいったん豊音を見てから再び入口へと視線を戻す。少し間が空いてそれぞれに納得の声を上げる。テレビの向こうの人と直に会っても案外わからないというのはどうやら事実のようだ。さて当面の問題は、なぜその小鍛治健夜が人を引きつれてここにいるのかということであった。

 

 

―――――

 

 

 

 浩子は謝りたい気分でいっぱいだった。先方に事前に連絡を入れるべきだと主張したのだがサプライズにしようなどと押し切られ、電話をしながら殴りこむなどという暴挙をしてみればこの有様だ。一様に驚いている。たしかにサプライズは大成功だ。健夜はともかく赤木と浩子などという相手からすれば知らない人間が急にやってくればその反応も当然だろう。というかよく考えなくてもあの小鍛治健夜が突然来たって驚くに決まっている。だから浩子はひたすらに苦笑いをするしかなかった。無理やりこの乱入の利点を挙げるとするなら、小鍛治健夜に暴走する癖があったことを知れたことである。今後の教訓にしようと浩子は固く心に誓ったのだった。

 

 「よう、熊倉サン。しばらくぶりか?」

 

 「……驚いたね。お前がこんなところに来るだなんて」

 

 赤木はいつもの笑いを浮かべながらトシに話しかける。逆にトシは幽霊でも見るかのように赤木を見る。基本的にこの男は人を訪ねるということをしないのだろう。健夜のときもそうだったが、反応がどうも芳しくない。たしかに今一つ行動原理のつかめない男の訪問が喜ばしいかと聞かれれば、それは正直言って肯定できないなと浩子は思う。

 

 「それで、いったい何の用があって来たんだい?」

 

 「いやなに、こいつに麻雀を教えてやってもらおうかと思って」

 

 「……は?」

 

 やはり自分の耳が信じられないのだろう、トシは頓狂な声を上げる。

 

 「しげる、お前熱でもあるのかい?」

 

 「ククク、何もおかしなところはねえだろ」

 

 「お前が育成に関わるだなんて驚天動地だ。信じられやしないよ」

 

 健夜にしたものとほぼ同じ説明を済ませ、赤木はふらりと窓際へと向かう。浩子はトシに対して自己紹介をしていた。トシは当たり前のように浩子のことを知っており、浩子はなんだか照れくさい思いをした。健夜はというと宮守の麻雀部員に囲まれていた。白望を除いて。どうやら様々な質問攻めにあっているようだが、立場上答えられないこともけっこうあるらしい。眉を八の字にしてごめんねごめんねと謝る姿が目に入る。浩子とトシの会話が一段落ついたのを確認したのか健夜が浩子のもとへとやってくる。背中をぽん、とたたいて自己紹介を促す。

 

 「あ、大阪の千里山から来ました。船久保浩子ですー。よろしくお願いします」

 

 「千里山、って大阪の代表の!?」

 

 インターハイの団体戦において千里山と宮守女子は反対の山にいた。データ大好き浩子は別にして、宮守はせいぜい下準備程度にしか千里山を調べていない。それに事前の分析は基本的にトシが担当していた。そのせいもあってか彼女たちは浩子のことをあまり知らないようだった。

 

 

 それぞれ自己紹介を済ませ、あらためてぐるりと周囲を見回す。校舎はそれなりに年季の入った木造で、部室も例に漏れない。ただ、その材質のおかげかどこか暖かみが感じられるので浩子の好みに合っていた。雀卓はひとつ。元教室の中心に置かれている。机やら椅子やらは端に押しやられてはいるが、放っておかれているわけではないようで埃などは積もっていない。自分のいた千里山と比べるとだいぶ違うな、と感心する。今度は歩きまわりながらじろじろと細かいところまで見物し始めると、後ろから声がかかった。

 

 「ねえねえ、浩子は何しにこんな岩手くんだりまで来たの?」

 

 光の加減で赤みがかって見える黒髪をつむじの辺りでお団子にした少女が問いかける。その口調は浩子にしっかりと年上というものを意識させるものだった。

 

 「えーっと、あっちの二人に麻雀鍛えてもらうことになって……」

 

 「え!? 小鍛治プロに教えてもらってるの!?」

 

 「いやあ、どっちも教えてくれなくて……。打ってはくれるんですけど」

 

 塞もさすがに理解が追いつかないようで、よくわからないといった表情をしている。熊倉トシに師事してきた塞にとって、麻雀は上手い人から教わって強くなるものだという認識があり、それは全国的にも一般的なものであった。だから目の前のこの大阪から来たという眼鏡の少女が言っていることがひどく不可解に感じた。当の本人でも不可解に思っているのだからそれは仕方のないことだろう。

 

 「小鍛治プロはまあいいとして……、あの男の人って強いの?」

 

 「正直言って鬼やと思います。健夜さんに勝ちましたし」

 

 浩子は言った瞬間にしまった、と思った。今の発言は明らかに不要で、なにより信じてもらえない内容だからだ。人間は異常な環境にも驚くほど早く順応する。浩子は普段から周りにいる人間が赤木と健夜という状況に慣れてしまっていた。麻雀を打つ人間からすればこれほどおかしな環境もなかなかないだろう。日本中のプロをかき集めたって健夜ひとりと釣り合うかどうかさえわからない。それを言うに事欠いて健夜に勝ったなどと言ってしまえば、まともな反応が得られないことなど火を見るより明らかである。さっきの発言と同時に固まった空気を打ち破ってくれたのは浩子にとっては意外な人物だった。

 

 「そうさね、しげるは健夜と比べてちょいと上といったところか」

 

 トシの口から言葉が放たれた途端、本当ですか熊倉さん、と白望とエイスリンを除く三人がトシへと詰め寄る。白望はそもそも興味がないのだろうし、エイスリンは健夜のことを詳しくは知らないのだろう。どうやら白望に質問しているようだ。説明を受けて驚いている。トシは三人に囲まれて説明に窮している。麻雀の強さにおいて口で説明してわかる例など稀有なものだ。もし普通の麻雀から外れたオカルト能力を持っているのなら説明もしやすいのだろうが、残念ながら赤木はそういったものを持っていない。

 

 オカルト能力。先天的であれ後天的であれ、通常であれば運しか入りこめない領域に影響を及ぼすにわかには信じがたい例外的ななにか。それはほとんどの場合望んで手に入れられるようなものではなく、仮に望んで手に入れるにしてもおそろしく険しい道のりとなる。身も蓋もない言い方をすれば、なにかを捨てて初めて手に入れられる可能性が生まれる。そんな実体のないなにか。もちろんのこと、それはあれば勝負が決まってしまうような絶対的なものではなく、やり方次第で打ち破れはする。だがそれを実行できる人間はきわめて少ない。浩子のように徹底して情報を集め対策を練って対応するか、相手以上のオカルトで封殺するか、あるいは他のやり方か。

 

 例えば小鍛治健夜は未だにオカルト能力を持っているか否かが議論されている。健夜自身がそれに関わる発表をしていないからだ。あれだけ負けなかったのだからきっと持っているに違いない、という意見もあれば、それにしても彼女の牌譜に共通性が見出せない、と否定する意見も後を絶たない。どちらにせよ異常な成績をたたき出した事実は変わらないけれど。ただ、彼女を上回るために彼女がそういったなにかを持っているかどうかを確定させることは非常に有効だと考えられている。いかに例外的であれ、現代の麻雀においてオカルト能力はひとつの軸となっている。

 

 トシはどう説明したものかとひとしきり考えたあと、こう言った。

 

 「打ってみればいいんじゃないかい?」

 

 今トシと話しているのは臼沢塞、鹿倉胡桃、姉帯豊音の三人である。このなかで能力持ちがいるかと聞かれれば宮守女子麻雀部は揃って豊音の名前を挙げるだろう。熊倉トシが見出した逸材。特殊な環境に生まれ、特殊な環境が生んだ異能。六曜を従える存在。曰く長野の魔物たる天江衣を抑えるための最終兵器。正直なところを聞けば、宮守の全員が初対面で豊音を破ることなど不可能だと言うだろう。それがたとえ小鍛治健夜より上とされる相手だったとしても。周りを囲むのも自分たちであり、インハイ二回戦での清澄の宮永、永水の石戸のような不確定要素もない。ましてや彼自身がオカルト能力を持っていないのであれば、何もできずに終わるのが当然だと言ってもいい。そう評するのが許されるほどに、姉帯豊音は強い。

 

 トシは自分の教え子たちにそう伝えたあと、対戦相手となる赤木に声をかける。今後のために打ってやってくれないか、と。姉帯豊音はこれから麻雀と共に人生を歩んでいく。ついで可能性を持つのは小瀬川白望だとトシは踏んでいる。豊音に関しては彼女を取り巻く環境が特殊だったこともあり、トシが全面的に責任を持つ。白望がすぐにプロ入りするのか大学に進学するのかは分からない。先方から声がかかるタイミングなど知りようもない。ただ、この二人はその人生を歩むだけの才覚を持ち合わせているとトシは確信している。そんな子たちに早い段階で頂点を見せておくのも悪くないと考えていた。

 

 「……まあ、構わねえけどよ、ウチのひろも頼むぜ?」

 

 「わかってる、ちゃんと面倒見るよ。ったく、またウチが賑やかになるね」

 

 卓につくことを指示されたのは先ほどトシに詰め寄った三人だった。豊音が白望を椅子から引きはがし、トシのもとへと運んでいく。その動作は手慣れた様子であり、普段から行われているであろうことが伺える。高校三年生の女子と言えばもうほとんど肉体的には完成されているはずなのだが、それを楽々と運ぶ豊音に浩子は驚く。ちなみに白望は一般的な女子のなかではかなり大きい方に分類される。その白望はトシから赤木の手牌が見える位置へと移動するよう指示されている。少し不思議そうな顔をしていたがとくに反論があるわけでもないようで、ゆるゆるとした足取りで指定の位置へと向かっていく。その隣をエイスリンがついていく。そうしている間に場決めは終わっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 (まあ初めての対戦やから大丈夫やろ、なんて考えてたらキツいことになるやろな)

 

 そうでなくても厳しいか、と誰にも気づかれない程度の浅いため息を浩子はつく。赤木は趣味としてインターハイを観戦している。それに宮守女子はアンテナに引っかかったのか、強い選手を聞いたときに名前が挙がるくらいだ。仮に彼女たちが何らかのオカルト能力を持っていたとしても(浩子にしては珍しく、宮守はマークが浅く情報が不足していた)、おそらく赤木は既になんらかの見当はつけているだろう。健夜もそうだが、浩子にとっての雲上の人たちは洞察力に非常に長けている。事前の調査がなくてもその場で見れば十分といったレベルの洞察力。浩子の得意とする分野の延長線上にあるその力は、浩子自身いずれ手に入れなければならないと考えているものでもある。だからこの場は彼女にとっての鍛錬の場でもあった。全国レベルの未知をぶっつけで分析する練習のための場。浩子が位置取ったのは、折よく姉帯豊音の手牌が見えない位置であった。

 

 

 結果として宮守女子は赤木に勝つことはできなかった。信じられないといった表情を浮かべる少女たちがいる一方、慈しむような表情をする人たちもいた。

 

 姉帯豊音は困惑を隠せないでいた。初対面で真正面から潰される体験など初めてだからだ。インターハイの二回戦における大将戦で苦杯をなめたのは事実だが、あれは姫松の選手に正体を暴かれたことに起因する。この目の前の男にはなにも情報はないはずなのに、さながら鹿倉胡桃のようにリーチはかけなかったし、鳴ける牌さえ切ってくれなかった。それは豊音にとって五感のひとつを奪われるような感覚であった。あって当たり前、使えて当たり前のものが機能しない恐怖。これで彼は能力を持っていないというのだから、なおさら困惑は深まる。

 

 塞と胡桃はまさか、と苦笑を浮かべざるを得なかった。頬を冷や汗が伝う。豊音が負けることなど想定していなかったからだ。いや小鍛治健夜より上と聞いていたのだから想定していなかったというのは嘘になるが、それでも豊音が勝つと思っていた。だが結果は負けたどころの話ではなかった。誰も白髪の男から直撃を取れていない。塞も胡桃も高校生として見れば相当に熟達した腕を持っている。それに豊音を加えて手も足も出ないとは。自分たちが思っている以上に麻雀というのは奥が深いのだと二人は理解させられた。

 

 白望とエイスリンはしきりに頭を捻っている。白望は対局中に悩んだ末、悪手に見える手を打っても結果的に最善手になるといういささか反則染みた能力を持っている。一方でエイスリンは理想を現実に描くというこれまた信じられない能力を持っている。二人に共通するのは、基本的にその能力が及ぶのは自分の手に対してのみであり、前に進めるための部分が大きい。赤木の打ち筋はそのどちらにも属さないものだった。だが二人にはまだその意味がつかめない。意味が理解できない以上、それは不可解に映る。二人はその打ち筋について議論を試みるが、それは実を結びそうになかった。

 

 トシはそういった彼女たちの反応を見て、赤木と打たせてよかったと心底思っていた。これはひとつの壁を破るきっかけになるだろう。自身で技術や心構えなどは教え込んできたと自負してはいるが、このきっかけだけは自分には作れない。宮守女子の少女たちはトシと打って負けたとしても、なるほど、と受け入れてしまうだろうから。つまりトシは彼女たちから信頼を得過ぎたのだ。超えるべき壁になってあげられない歯がゆさもあったが、それよりは彼女たちのこれからの成長を考えて、トシは表情に出さないながらも楽しさを感じていた。

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 畳の上で iPadを眺め、うんうんと唸る眼鏡をかけた軽装の少女。すでに日は暮れ、縁側からは涼しい風が吹き込んでくる。岩手の夜は夏であれ冷える。残暑の季節にもなってしまえば、場合によっては長袖が欲しくなる日もあるくらいである。豊音が冬服を着ていた理由もこのあたりにあるのだろうか、と浩子は益もないことを考えてしまう。それもこれも健夜から取った牌譜の研究や赤木から出された宿題の答えが一向に出ないからである。答えの出ない問題というのは集中力を削り取ってしまう。イライラが募れば手に持っているものを放り投げてしまうかもしれない。そう思ってしまうほどに浩子は必死な目をしていた。

 

 「浩子ちゃーん、熊倉先生がそろそろご飯だってー」

 

 廊下に面した開いているふすまから豊音がぬうっと顔をのぞかせる。どう見ても顔の出てくる位置が高い。浩子はまだこの身長差に慣れていない。本来であればこんな感想は彼氏ができたときに使うべきなのだろうが、生憎と浩子は一人身である。それに豊音のサイズはもはやそれどころではないのだ。若干の気遅れをしつつ、浩子は立ち上がり豊音とともにトシのもとへと向かう。

 

 八畳の広さの部屋に長方形の脚の短い机が置かれ、それぞれ適当に座っている。テレビから最も離れた短い辺にはトシが座り、その左右の長い辺に健夜と豊音、健夜のとなりに赤木、豊音のとなりに浩子といった席順となっている。机のうえに並べられた料理の数々はトシが作ったものである。私も手伝ったんだよ、と豊音もはにかんでいる。となりに座ってみると思ったより顔が近い。脚が長いのか、と思い至って浩子は内心ほぞをかむ。体格やそれに類するものは言ってみれば天与の才に等しく、求めて得られるものではないという点ではオカルト能力と同じようなものである。浩子は努めて従妹の発育を考えないようにした。

 

 一行がどうして熊倉宅にいるのかといえば、お呼ばれされたからに他ならない。あの赤木・豊音・塞・胡桃の対局のあと、健夜と浩子、さらにはトシまで含めさんざん対戦を行った。その帰りにトシから夕飯くらい食べていきな、と誘われたのである。誘いを断る理由もないので一行は熊倉トシのお世話になることに決めた。結果的に一行は岩手に滞在する間、トシの世話になることになる。ちなみに豊音がいるのは下宿先がここだからである。

 

 「そういえば、浩子にこれからの話をしないといけないね」

 

 トシが食事をしながら口を開く。品を失わないのはどうしてだろうか。浩子は米を咀嚼している最中なので目で応じる。

 

 「とりあえず二学期の間は宮守に居てもらおうと思うんだけど」

 

 もぐもぐもぐもぐ。目を点にはしているものの顎は動きをやめない。口の中のものをごくりと飲み込み、ようやっと浩子は言葉を発した。

 

 「えっ、私、転校するんですか」

 

 「その辺の処理は私がやるけど大丈夫だよ、きちんと籍は千里山さ」

 

 はあ、と浩子は生返事を返す。浩子の知っている知識で近いイメージなのは留学だろうか。国内での留学など聞いたこともないが。豊音がとなりでにこにこと笑顔を浮かべている。休みが明けたらいっしょに登校だねー、だなんて言いたげだ。実際のところ浩子も学校に行くことはやぶさかではない。というか学校自体には通っておきたい。それはもちろん千里山であれば理想的ではあるが、今の事情を鑑みれば難しいだろう。それにしても、と浩子は思う。麻雀の練習はどうするのだろう、と。

 

 「基本は私と豊音で相手して……、しげる、お前は?」

 

 「熊倉さん!?私は!?」

 

 「……健夜までここに居座るつもりなのかい」

 

 「え、私も同行者のつもりだったんですけど……。ダメですか?」

 

 トシはやれやれとかぶりを振ってそれには応じない。こういう態度のときはだいたい許可が下りたのだと健夜は知っている。自然と笑みがこぼれる。

 

 「そうだな……、熊倉サン、あの白い髪のは今後どんな予定だ?」

 

 「シロかい?いずれプロになるよ。大学が先かはわからないけどね」

 

 「じゃあそいつに受験勉強とかいうのは必要か?」

 

 「いらないだろうね。大学リーグにしろプロリーグにしろあの子を放っておいてはくれないよ」

 

 「なら決まりだ。それに小鍛治サン入れて五人でやるといい」

 

 「しげるはどうするんだい?」

 

 「……観光でも行ってくるさ」

 

 たしかに浩子の目から見ても小瀬川白望は強かった。打ち筋はスタンダードなものだったのだが、時折立ち止まって悩むことがあった。実際に対局しているときには気付かなかったが、後ろについて見てみるとよくわかる。彼女が悩んだ末に出した結論は必ず正解となる。それは攻撃的な意味でも守備的な意味でも変わらない。機を見るに敏というものを突き詰めた感じだろうか。それは浩子がこれまで見てきたオカルトとは趣向を異にしており、対策というものを立てようがない種類のものだった。単純に地力に上乗せできるタイプのもの。まさか心理を掌握して悩ませないようにするなどといった芸当をやるわけにもいかない。白望自体の傾向を研究して対応するのが浩子にできる限界だった。そんな白望が練習に加わってくれるのであれば、これは手放しで喜べることである。

 

 「あれ、そういえば熊倉センセさっき言うてましたよね? “私と豊音で相手する” って」

 

 「言ったねえ」

 

 「豊音さんは受験とかしないんですか?」

 

 「そういえば私、村に帰らなきゃいけないのかなあ」

 

 思い出したように豊音がつぶやく。彼女の事情を浩子は知らない。

 

 「ああ豊音、せっかくだから言っておこうか」

 

 トシが彼女の言葉に返す。豊音は首をかしげている。トシの目は宮守の部員たちに投げかけられるとき、どこか優しげである。品のいい振る舞いと分け隔てのない思いやりからの行動は、彼女の周囲の人間から高い評価を得ている。しかし部員たちに向ける目と比べるとどこかが違う。今、トシは豊音にそのやさしい視線を向けている。

 

 「非公式ではあるんだけどね、豊音、プロから誘いが来てる」

 

 浩子はほう、と片眉を上げる。言わずもがなインターハイはそのときの高校生の、特定の分野における優秀な選手だけが出場を許される大会である。それはもちろん麻雀に限らずさまざまなスポーツにおいても同様であり、その競技のプロのスカウトが見に来るということでもある。そのなかでも特に優秀であったり、あるいは鍛えれば花開く可能性を感じる選手は、そこをきっかけにプロ入りを打診される。そこから先はスカウトを受けた選手によって反応が変わるが、重要なのは “声がかかること” である。それはその道で生きていけるだろうとの評価を得たということと同義だ。

 

 「えっ、でも私たち二回戦でやられちゃったし……」

 

 「スカウトの目も節穴じゃないんだ、見ればわかるんだよ。それよりどうする?」

 

 「いろいろ話を聞いてみないとわからないけど、前向きに考えてみます」

 

 知り合いがプロになる可能性を手に入れた瞬間はとてもあっさりしたものだった。浩子のイメージでは、プロになるというのは学校で名前を呼ばれるための場所まで用意して、いざ名前を呼ばれたら仲間や恩師と涙を流して喜ぶ、みたいな映像が見られるものだと思っていた。ちょうど浩子の頭にあったのは甲子園で活躍した選手である。でも現実はこんなもので (あるいはこの場が特殊なのだろうか) 、けっこう無感動なものなんだなあ、と独り言ちる。さて思い返してみれば、浩子の周囲はプロだらけになっていた。

 

 

―――――

 

 

 

 南の空を覆っていた雲はどうやら東へと流れたようで、空には星が輝いている。大阪と比べて岩手の空はきれいで、空にはこんなに星があったのかと思うくらいにたくさんの光がある。風は少し冷たいくらいで、湯上りの火照った肌を冷ますにはちょうどいい。庭に面した廊下のガラス戸を半分ほど開けて、浩子は畳の上にうつぶせで寝そべっている。首の下には高さを調節するために座布団を二枚敷き、両の手は iPadの操作に使われている。

 

 浩子が考えているのは赤木から出された宿題のこと。どうして魔物は麻雀を打っていると言えないのか。今日、姉帯豊音と対局してそのとっかかりをつかんだような気がしていた。だからそこから思考を進める。彼女もいわゆるオカルト持ちであり、その能力の全貌は今日一日だけでは解明しきることはできなかった。だが、他家のリーチ (今日の対局に限って言えば、浩子以外は全員知っていたため被害を受けたのは浩子だけである) に対して追っかければ、確実と言っていいほど先手を打った人から一発で和了る能力と、鳴いて単騎待ちにすれば高確率でツモる能力はハッキリと見て取れた。彼女の打ち方はそれらの能力を前提として形成されている。

 

 それは、浩子が初めてオカルト能力持ちとぶつかって思ったことにまで遡る。“これを麻雀と呼んでいいのか” 。そのころの純粋な腹立たしさは、麻雀とより深く関わっていくようになって薄れていき、そのうちそういったものが存在していてもおかしくないのだと思うようになった。否、思うことを余儀なくされた。環境がそうさせたのである。浩子は小さなころから麻雀と親しみ、またある時を境に急に達者になった身近な従姉もいたから同い年にそうそう負けるようなことはなかった。中学のころにも全国大会に出場している。ただ、どうにも上に上り詰めていくと、いるのである。程度に差こそあれ、常識から外れた位置にいる麻雀を打つものが。さんざ虐げられてきた浩子はそれらを打ち倒すために情報を集めるようになった。内心でそんなもの麻雀ではない、と思う気持ちも浩子の戦い方でオカルトを倒せるようになるころにはすっかりと消えていた。

 

 ならばもし、彼女たちの打ち方を規定するそのオカルト能力がなければどうなるのか。馴染んだフォームを崩した魔物は果たして麻雀を打てるのか。だが、その答えはすぐには出しようがない。なぜなら浩子はそんなもの持ち合わせていないし、封じる技術もない。ただそれは非常に面白い可能性を孕んだ考えである、と浩子は考えた。

 

 ( 魔物級は能力が強すぎるぶん、それに振り回されてるっちゅうことか……? )

 

 もしそうであるならば、たしかに麻雀を打っているというよりは打たされている、と言ったほうが適切だろう。ああ、と浩子は思い出す。あの大星淡も自身の能力を持て余しているフシがあったな、と。神代小蒔は居眠りさえしなければ脅威ではない。ならば天江衣も、そしてあの宮永照も、何らかの形で弊害が起きているはずだ。いや、宮永照は打点上昇のために手が重くなるという弱点がはっきりしているものの、それを誰も打ち破ることができなかったと言うべきか。

 

 そこまで考えて、浩子は思考をはたと止める。

 

 ( ってことは、うちがたどり着くべき場所っていうのは…… )

 

 浩子は赤木の出した宿題の意図をはっきりと汲み取った。本人から確認こそとっていないものの、間違いないと確信している。そうして赤木が指し示した場所は、今の浩子からは想像もつかない地点であった。自分が本当にそれを実行できるのか。あの人たちはそれを意図して実行しているのか。()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()など。

 

 つまり魔物の手足を縛ってこちら側の土俵に勝負を持ち込むのだ。そのために何が必要になるのかは正直言って浩子にはまだ見当がつかない。赤木と健夜の言葉がふと頭に浮かぶ。“まずはやり方から” 。となればあの二人との対局にそれを実現させる鍵が隠されているはずだ。あのつかみどころのない雲のような闘牌。あのような打ちまわしは浩子にはできない。だが仮にあの立場に立ったとして、その利点は何なのか。赤木と健夜の位置から見た対局者はどう映るのか。課題が突然に立ち上がる。靄に包まれていた視界が開け始める。しかし見えた景色は圧倒的に不親切で険しい道だった。

 

 

 浩子は今、赤木の前に座っている。豊音を当然のように下宿させているだけあって、トシの家もかなり広い。純和風の造りはその身に流れる日本人の血のせいか、とても落ち着くものである。木と紙で成り立つ家。その一室で浩子は赤木と対面している。

 

 「赤木さん、この間の宿題はわかりました。でもその先ってどないすればいいんですか」

 

 赤木はとくに答えを確認するでもなく、浩子の言葉をただ聞いていた。浩子がこの答えにきちんとたどり着くことをあらかじめ知っていたような、そんな様子だ。すこしだけ満足そうに右の口の端を上げると、こう切り出した。

 

 「じゃあ、ひろ、いいか?二つめだ。打牌って何だ?それを考えてみろ」

 

 打牌。それは麻雀における基本動作のひとつである。なにかを手に入れたらなにかを手放さなければならない。それがツモによるものであっても鳴きによるものであっても変わりはない。打牌とは何か、と問われればそれ以上の答えが浩子には浮かばない。もし仮に捨牌という言い方であるならば、それは相手の手を推測する手がかりとなるものである。しかし打牌とは牌を切る行為そのものを指す。その行為自体に意味があるのだろうか。赤木の宿題は相も変わらず浩子を悩ませた。

 

 

―――――

 

 

 

 すこし遠くに目をやれば山の緑が空の青に映えている。風はそよそよと心地よい。あと一週間は続く夏休みを岩手の学生も満喫しているようだ。浩子は現在、豊音とともに住宅街を抜け、トシの家から最寄りの駅まで来ている。目的は待ち合わせである。駅で待ち合わせというのは学生として正しい振る舞いではあるが、貴重な夏休みに呼び出してやることが麻雀なのだから色気もなにもあったものではない。

 

 豊音の服装はどうしてだろうと不思議に思うほど真っ黒で、だから浩子は駅に向かう道すがら聞いてみた。ちなみに浩子自身はどちらかといえばタイトめな服装を好む。こだわりの色などはとくに意識したことはない。

 

 「私、背がおっきいからあんまりサイズが合うのがないんだよー」

 

 今後一生ぶち当たることのないであろう悩みに、浩子は共感してあげることはできなかった。それは大変ですね、となんとも適当な返事を返すのが精一杯であった。そうこうしている間に待ち合わせ場所である駅に近づいてきた。予定の時間よりも少し早めに出てきたこともあって、まだ白望は着いていないようだ。豊音がじゃあちょっと待とうね、とやさしく声をかけてくる。大阪に比べれば過ごしやすい気温だったので、とくに浩子も苦に思うこともなかった。

 

 電車が右から来て停車し、左へと進んでいく。岩手のなかでも田舎に分類される宮守高校の近くは、駅があけっぴろげである。駅の入り口から反対側の景色が当たり前のように見ることができる。さきほど来た電車の姿がプラットフォームから完全になくなると、ひどくゆっくりと歩く白い髪の少女が目についた。豊音がそばにいると気づきにくいが、白望も女子としては背が高い。それに昨日は制服で気づかなかったがかなりスタイルがいい。千里山で対抗できるのは清水谷先輩だけやな、と浩子は冷静に分析した。すこし悲しくなった。

 

 白望は移動している最中にちらりとこちらを見やり、浩子と豊音の姿を確認した。しかし確認しただけでとくに歩く速さを変えたりはしなかった。同じ駅で降りた人全員に追い抜かれ、やっとこ白望が改札口から出てきた。おはよ、と簡潔に挨拶を口にする。浩子も丁寧に挨拶を返した。豊音はすごいよー、時間通りだよー、と白望をなで回している。抵抗もせずされるがままなので、浩子はそうされるのが好きなのだろうかとその情景を眺めていた。

 

 「……今日は、誰が来るの?」

 

 「来るのはシロだけだよー。みんなはお勉強もあるし」

 

 「えっ、小瀬川さんも勉強ありますよね?」

 

 「こう見えてもシロってすっごい頭良いんだよー。いっつも一番とかなんだー」

 

 「……要点だけ押さえればそこまで難しくない」

 

 てっきりその立場には臼澤さんや鹿倉さんが立っているものだと思い込んでいた浩子はこっそり驚いていた。人は見かけによらないというが、それには振る舞いまで含まれるんだな、と若干失礼なことを思っていた。

 

 「豊音、いっこ聞きたいんだけど」

 

 「なあに?」

 

 「昨日の男の人はいる?」

 

 「赤木さん?朝ふらっと出かけちゃったからわからないかな」

 

 「そう」

 

 「でもなんで……、って、あっあっ、シロ、そういうこと!?」

 

 「いや、まーじゃ」

 

 「だよねだよね!シロもお年頃だもんね!」

 

 「……ダル」

 

 

 熊倉宅で行われた女性だけの麻雀は、途中に休憩をはさみながら陽が傾くまで続いた。実力で遥かに上回る人々に囲まれた浩子の戦績はひどいものであった。小鍛治健夜、熊倉トシの両名は言うに及ばず、現役高校生ではあるもののプロ予備軍たる姉帯豊音、小瀬川白望の力も相当のものだった。麻雀は運に支配される競技であるがゆえに浩子の調子がいいときももちろんあったが、間の悪いことにその局には健夜がいたためことごとく二位が精一杯だった。それでも強者との対戦は学ぶことも多く、実りのあるものだったと言えるだろう。自分が非番のときにはどうにか豊音の能力を封じられないかと頭をひねってみたが、今日一日では成果は得られなかった。それどころか豊音にはまだ隠し玉があることが判明した。

 

 麻雀は深みに嵌まれば嵌まるほどに、頭を使うことを強要し、神経を削る。そのことからか、やたらと麻雀打ちには甘いものを好むものが多いという噂が立っている。実際のところは個人の嗜好によるため、ひとくくりに甘いものが好きだなどと言うことはできないが、現時点で浩子はなんだか糖分が欲しかった。時刻は三時を過ぎたところである。ガラッと玄関の戸が開く音がして、足音とともに現れたのは赤木だった。朝の出がけのときにはスカスカだったカバンがなにやら重みを増しているように見受けられる。赤木はそのカバンを部屋の隅に置き、対局が見える位置に座り込んだ。

 

 「しげるくん、次から入る?」

 

 「……気分じゃないんで」

 

 「そう」

 

 健夜との短いやり取りを聞いて、浩子は内心安堵する。場合によっては赤木・健夜・トシ・浩子なんて卓が立ちかねないのだ。勝利条件を飛ばないことにしたって難易度が高すぎるといってもいいくらいだろう。そんな恐ろしい考えを頭から追い出し、目の前の場へと意識を集中する。いくら赤木が入らないといったところで、現在の相手は健夜にトシに豊音である。これまで経験した中でも最高峰のレベルの卓だ。自分より格上しかいない。そうやって浩子が集中し始めたところで白望が赤木へと声をかける。

 

 「…………あの、質問があるんですけど……」

 

 赤木は無言で続きを促す。

 

 「昨日の一局目、打ち方に変な感じがして」

 

 赤木はその問いに対して一言だけ返した。

 

 「相手を知らなきゃ始まらねえだろ?」

 

 それで質問にはきちんと答えたと言わんばかりに、赤木の視線は雀卓の方へと注がれている。白望のこれまでの経験則からすると、相手を知ることと最善ではない打ちまわしをすることは結びつかない。彼女にとっては腑に落ちないまま赤木と離れることとなるが、それは後のプロ雀士・小瀬川白望を形成する大きな要因となる。インターハイの先鋒として戦い抜くことも一般からすれば手の届かないような領域ではあるが、そこよりも遥かにレベルの高い戦場があることをまだ小瀬川白望は知らなかったが、それはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 昨日の食卓より一人増えた夕飯は賑やかなものだった。白望は積極的に場を盛り上げるタイプではないが、人に構われる雰囲気のようなものを持っている。豊音の笑顔は昨日と比べて二割増しくらい輝いており、ことあるごとに白望に話しかけている。健夜も負けじとさまざまな話題を振っては笑ったり撃沈したりと百面相である。こういった騒がしい情景を浩子は懐かしいと感じていた。千里山の先輩が引退して、まだ二週間も経っていないというのに。どうやら自分の思っていた以上に先輩方は精神的な支柱になっていたようだ、と浩子は苦笑する。ひょっとしたら赤木についてこなければずっと気付かなかったのかもしれない。

 

 白望は今日泊まることになっており、豊音の部屋に三人分の布団が敷かれている。お誘いを受けた浩子はすこしだけ気後れもしたが、ガールズトークも面白そうなのでお言葉に甘えることにした。修学旅行というわけでもないのに (熊倉トシは学校の先生でもあるが) 、こそこそとする秘密の話はとても楽しいものだった。秘密の話は秘密であり、以下の会話はそこに分類されなかったものである。

 

 「そういえば小鍛治プロはどうして東京に行ったんだろうねー?」

 

 「ああ、ラジオの収録らしいですよ」

 

 「インハイレディオかぁ。あれ面白いよねー。シロは知ってる?」

 

 「……知らない」

 

 「じゃあ明日いっしょに聞こうねー」

 

 夜は更けていく。

 

 

 

 



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番外編・い

―――――

 

 

 

 午後八時。楽しげなジングルとともに雀牌をラシャの上に置く、とん、という音。

 

 「お待たせしましたどうもこんばんわ!ふくよかすこやかインハイレディオ!お相手はふくよかではない福与恒子と!」

 

 「すこやかでない小鍛治健夜でお送りいたします」

 

 「やあやあすこやん、元気だった?先週はお休みだったからねー。それにしてもインターハイ終わったばっかなのにこの番組続くんだね。タイトル大丈夫なの?」

 

 「話飛びすぎだよこーこちゃん……。あ、あと念のため言っておきますけど、ホントはわたし健康体ですからね?青汁とか送らなくていいですからね?」

 

 「ということは私もホントはふくよかってことに!」

 

 「それは家で自分で確認しようよ」

 

 

 「それよりさ、すこやん。これラジオなのに音楽とかいっさい流さないけどいいのかな?」

 

 「それは思うけど、流すタイミングがつかめないよね」

 

 「まあいっか!さてさてそれじゃあ早速だけど、インハイも終わったあとの一発目だし、すこやんから今大会の総評でももらおうか!解説席だと時間足りなかったしね」

 

 「ええと……、そうですね、各学年ともバラエティ豊かな顔ぶれだったと思います。昨年の大会から継続して出ている選手もいましたし、新しく出てきた選手もたくさんいました。ご覧になった方も楽しめたのではないかと思います」

 

 「ふむふむ、やっぱ三年生が強いとかそういうのはあるの?」

 

 「麻雀という競技の性質上、学年が上なら強いという考え方はしないほうがいいと思います。経験の差というのは多少はあります。ですがそれが関係してくるには年齢差がなさすぎますから。練習量の確保はたしかに大事ですが、ある一定のレベルまでいってしまえばそこから先は練習量だけでは詰められない領域ですし」

 

 「それは暗にすこやんが強いのはアラフォーだからじゃないって言いたかったり?」

 

 「アラサーだよ!?この番組のせいで風評被害すごいことになってるんだからね!?」

 

 「そういえば気になったんだけどさ、なんだっけ、 “牌に愛された子供たち” だっけ?ああいう子たちって何が違うの?」

 

 「……前から思ってたけどこーこちゃんって話題のスルーのしかたひどいよね。で、何が違うってどういうこと?質問の意図がちょっとぼんやりしてるんだけど」

 

 「いやその、牌に愛される、ってどうやれば愛されるのかなって」

 

 「割合で言えば環境とか生い立ちが特殊だったりする子が多いんだけど、本当になんでもない子がたまたまそうなることもあるから何とも言えないよ。そもそもその呼び方自体に私はちょっと違和感があるんだけどね」

 

 「なになにすこやん?愛されてるのは私だけ、とかそういうアレ?」

 

 「そうじゃなくて……。牌というよりは牌のそばにいるなにか、かな。さっきの呼称つけ始めたのはメディアの方々みたいだし」

 

 「ごめん、正直すこやんがどうしてそこをわざわざ言ったのかわかんないや」

 

 「あっ、そうだよね。別にここ熱くなるところじゃないよね……」

 

 「まったくもう、そんなんだから嫁のもらい手がまだ見つからないんだぞ!」

 

 「……こーこちゃん同い年じゃん」

 

 「…………」

 

 「…………」

 

 「この話題やめよっか」

 

 「……うん」

 

 「ところですこやん、今大会で目を引く選手とかいた?」

 

 「えっと、どこも同じレベルで注目してたよ」

 

 「そんな野依プロみたいなこと言わないでさー、大会前からの注目選手もたくさんいたじゃん?ほら、チャンピオン宮永照さんとかさ、学校でも大旋風を巻き起こした清澄とか阿知賀とか」

 

 「たしかに宮永さんみたいにきっちり勝ち切るのは立派だと思うけど、数字以上に接戦だったと思うよ?団体でも個人でもどこで誰が負けたっておかしくない試合ばっかりだったし。だからそういう意味でも誰かひとりに注目するのは難しかったかな」

 

 「えー?それだとなんか盛り上がりに欠けちゃうなあ。 “あの小鍛治健夜が注目の選手!” とかになったほうがドーンと来るじゃん?それで取材に行ったりさぁ」

 

 「そういうの迷惑になるからやめようよ……」

 

 「一応これラジオ番組だからさ、企画とかもやってみたいじゃん」

 

 「ええー、東京まで出てきてさらに移動するのー?」 

 

 「すこやんさぁ、麻雀できなかったらただの引きこもりだよね」

 

 「そっ、そういう言い方やめようよ!なんでイメージ落とそうとするの!」

 

 「あれ、ひょっとしてアンケート結果とか見てなかったりする?一番人気があるのってすこやんいじりなんだけど」

 

 「リスナーの皆さんまで敵なの!?」

 

 「だってこの番組って真面目に麻雀の解説よりは気取らない雑談みたいな空気が売りだしさ。そういう真剣な解説求める人は別の番組行くって。各局いろんな番組持ってるしね」

 

 「そんな番組なのにインターハイ担当しちゃってよかったの……?」

 

 「そこはほら、聴取率とか」

 

 「……生々しいね」

 

 「まあでも振ればすこやんがちゃんと解説してくれるし、評判も上々だったみたいだよ?」

 

 「これこーこちゃんが主導権握ってるのがいけない気がしてきた」

 

 「甘いぜすこやん。スーパーアナウンサーから主導権を取ろうなんて甘々だよ」

 

 「……えーと、それじゃ一旦CMでーす」

 

 

 

 

 




続くかもしれません


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―――――

 

 

 

 熊倉家に白望が泊まりにきて共に麻雀を打ってからの日々は、まさに特訓といって差支えのないようなものだった。ただひたすらに打ち続け、多くの局で苦杯を舐めた。それでも食らいつきつづけたのは、彼女たちと打っている間にちらちらと突破口のようなものが脳裏をかすめたような気がしたからだった。それはまだ言葉としても感覚としてもまったく体をなしていない、ただの予兆。何をどうすれば状況が変わるのかなど見当もつかないような小さな小さな可能性。それは勘違いでなにかの拍子に消えてしまえばいっそラクになれたのかもしれないが、そのちらちらと光る可能性は浩子の意識から消えることはなかった。

 

 百の対局をゆうに超えて、それでも可能性ははっきりとした姿を見せなかった。浩子にわかるようになったのは、豊音と白望のクセというにはあまりにも希薄な雰囲気のようなもの。健夜とトシの雰囲気は感じ取ることができなかったが、豊音と白望の二人ならばたとえそれが何巡目であっても聴牌の気配は手に取るようにわかるようになった。もちろんこれまでも河を見ながら聴牌が近い遠いの推測はしてきた。だがそれとは違う。何を見て判断しているのか、と聞かれてもそれは浩子には答えようのない事柄で、ただわかるのだ、としか言いようがない。それでもその成長は確かな利点となって浩子に返ってきた。豊音が先制リーチに対して仕掛けるときには同時に豊音も手が仕上がっていなければならず、聴牌が判断できるようになった浩子は豊音がいる場でもリーチをかけるタイミングを判断できるようになった。それについては健夜もトシも素直に驚いていた。白望も不思議そうな顔で浩子を見ていた。本人はそれだけでは納得のいかない様子だったが、これは後につながる大きな成長だと言えるものであった。

 

 そういった麻雀漬けの日々を過ごし、宮守女子へと通い始める日がやってきた。

 

 宮守女子高校への編入はひどくあっさりしたものだった。高校二年での転校生などまず見られないような珍しさのはずなのだが、どうしたことか二年二組の生徒たちはやたらと度量が広かった。浩子の性格は親しみやすいものではあるが、情報収集が趣味ということもあって嫌味ったらしさがないかと言われると疑問が残る。たしかに完璧な性格の人間などどこを探してもいるわけがないので、つまりその部分を含めて浩子は新たなクラスに受け入れられたのだった。あまり物怖じもせず、頭の回転が速いのも助けになったのだろう、日に日に浩子は友達を増やしていった。あれからもう一度だけ宮守の先輩と学校で集まって打つ機会もあり、学校ですれ違うたびにじゃれつくぐらいには仲を深めた。そうやって始業式から初めての金曜までを過ごし、金曜の放課後に新幹線へと飛び乗った。

 

 

―――――

 

 

 

 二週間ぶりの地元大阪は、まだまだ暑かった。コンビニで買ったペットボトルのお茶を片手に、目に見えてうきうきしながら浩子は千里山女子への通学路を歩く。本人からすれば久しぶりに帰るべきところへ帰るのだから気分が高揚するのも仕方がない。たった二週間見なかっただけで、これまで当たり前に見ていた景色が妙に親しいものに見えてくる。やはり自分は大阪の、それも千里山女子に含まれているのだと強く確信する。もちろん他にも好きな場所はある。たとえば愛宕家の姉妹といっしょにいる空間もそうだし、宮守も時間こそ短いがもうすでに大事だと思い始めている。そういうすべてのもののなかで、浩子はこの千里山女子を特別だ、とそう思う。

 

 浩子の傍らには現在だれもいない。やたらと目の鋭い白髪の男もいなければ、ついついからかいたくなるような困り眉の女性もいない。一人で歩いている。赤木とは昨日の夜にともに大阪入りした。当然だが浩子は自宅に帰って明日に備えるつもりだったが、赤木の予定は聞いていなかった。そこで確認してみると、どうやら行くアテがあるらしかったのでそのまま駅で別れた。金曜の夜の駅は普段より雑多な匂いがして、人の営みを感じさせた。翌日が土曜ということもあって、昨日は酒を飲む人が多かったのだろう。

 

 昔と比べてセミの数が減った、と最近よく聞くような気がするが浩子はとくにそうは思わない。現にそこらじゅうの木や電柱やマンションの壁だとかにひっついてそれぞれ元気いっぱいに鳴いている。人の記憶は信頼の置きにくいもので、セミはうるさいというイメージから過去の情報を上書きしている可能性だってけっこうある。要するに道を歩いていて、変わらず夏の象徴はやかましいのだ。二週間ぶりの感慨にふけろうにも合間合間に音を差し挟まれればうまくいくはずもない。そういえば大阪に比べれば岩手はセミの数が少ないような気がする。あちらは大阪と比べれば涼しいからかもしれない。そんなことを思っているうちに校門が見えてくる。浩子はふと立ち止まって校門から先の景色をじっと眺める。理由のわからない安心感に包まれていることに気付いた浩子は驚いた。ペットボトルの中身はたぷたぷと揺れていた。

 

 校門をくぐると見知った顔が部活動に勤しんでいる。校庭で走り回るクラスメイトに手を振る。クラスメイトは一拍置いて気付き、浩子の方へと駆け寄ってくる。

 

 「おおお、浩子やん!どしたん?ウチのことが忘れられんで帰ってきたん?」

 

 「ちゃうわ」

 

 「……もうちょっと乗ってくれてもええと思うんやけどなぁ」

 

 「あとで構ったるからちょっと待っとき」

 

 「にしても留学レベルで遠征やって?名門の部長さんは大変やんな」

 

 「まあ私自身ようわかってないところあるけどな」

 

 「そんなもんなん?」

 

 「それより部活ええん?部員の子、さっきから呼んでるで」

 

 「おっと!じゃあ浩子、頑張りや。来年のインハイ期待してるで!」

 

 浩子は校舎の中へと入っていく。

 

 

 いくら九月に入ったとはいえ、校舎の中はまだまだ暑気が残っていた。外が暑かったのだから当然の話だが、日差しがカットされているのだからもう少し涼しくてもよさそうなものだと浩子はうんざりした気持ちになる。だが天気を呪ったところで何一つ解決されないのはわかっているので、エアコンのある部室へと心持ち急ぐことにした。二学期が始まっているので校舎内で活動している部活もいくつかあるようだ。先ほどから吹奏楽部のチューニングが遠くのほうから聞こえてくる。もう少し待てばパート別の練習か楽曲を合わせる練習が始まるだろう。そこにも仲のいい友達がいるため顔を出そうかとも思ったが、浩子自身麻雀部に早く行きたかったため止すことにした。

 

 いざ部室の前までやってきて浩子はどうしようと考える。普通に入ってよいものか、それともなにか面白い入場でもするべきか。さいわい部室の前に来るまでに麻雀部員とは誰とも会わなかった。むしろ誰かと会っていれば話をしながらそのまま入室することができただろう。ううむ、とうなる。いっそのこと監督のところに顔を出して一緒に部室に入るべきだろうか、というかそれが筋ではないだろうか、と考えていると真後ろからタックルを食らった。

 

 「船久保先輩!お久しぶりです!お元気でしたか!?」

 

 「……今の泉のタックルで急激に元気じゃなくなったわ」

 

 「そんな!あたりどころ悪かったですか!?」

 

 大げさに反応こそしてはいるものの顔は満面の笑みである。もう何一つ悪いことなどしていないと言わんばかりの弾けるスマイルだ。一年生にして千里山女子のレギュラーをつかみ取ったこの少女は、勝負となれば真剣で高校一年生とは思えないほど責任感が強いが、普段は底抜けに明るく気を遣えるかわいらしい女の子だ。それは浩子も認めざるを得ない。まだ年相応に精神的に若い部分も持ち合わせているが、それは時間が解決することで彼女 ――二条泉を損なうようなものではない。

 

 「泉、私がおらん間に問題とか起きんかった?」

 

 「とくにはなかったと思いますよ。監督もいましたし」

 

 なるほど、と頷きはしたもののそれはそれでどこか腑に落ちない部長・船久保浩子であった。

 

 

 そうして泉とともに部室へと入り、事情の説明や再会のあいさつなどを交わしていると愛宕雅枝が入ってきた。一見して様子は普段通りだったが、浩子にはどこか疲労の色が見えたような気がした。チーム再編の時期ではあるし、そんなときに自分もいないのだ。もし本当に監督が疲れているのならその原因のひとつは自分だよな、と浩子はちょっぴり責任を感じた。そんな浩子の思いとは関係なく、雅枝の振る舞いはいつも通りのものであった。二週間ぶりに姿を見せた浩子に対してもなんら特別な対応をすることなく、練習は練習として普段と変わることなく進められた。

 

 

―――――

 

 

 

 違和感は、一局目ですぐにやってきた。()()()()()()。これまでも対戦相手が何かを仕掛けようとしているのは見抜いてきたし、調子がよければその方向性もつかむことができた。しかし今ははっきりと相手の捨牌からその道筋を説明できる。同卓しているのはまだレギュラーには届かないであろう実力ではあるが、三人ぶんの意図がすべて透けて見えるというのは明らかに異常な事態だった。これまで自分の相手をしてくれた人たちが異常だったのか、それとも自分自身になにか変化が起きたのか浩子にはわからない。原因もわからない。ただ一つ判明しているのは今のこの状況が夢でもなんでもない現実だということだけである。局後に確認してみると相手の意図は浩子に見えたとおりのものだった。

 

 異常事態は続く。対戦相手が変わっても見えることそのものに変化はない。意図が見える以上、そこを外せば浩子が振り込むことはありえなかったし、あるいは目論見を崩すことも手が揃えば簡単なことだった。いくらこれまで一緒に練習してきた仲間とはいえここまで考えが透けることなど経験がない。なにか特別なことをしたつもりもない。オカルト能力でも目覚めたかと考えるがそれはすぐさま否定する。赤木が、健夜がそうではない領域だと断言している。となれば自分に起きている事態は人間の範疇のことであって、自分の中のなにかが変わったのだと浩子は結論を出さざるを得ない。いきなりの変化に浩子は戸惑うが、一方で自分が求めたものの一片だとどこかで理解もしていた。

 

 すぐさま浩子は自分ができるようになったことに対するいくつかの仮説を立てる。それが発動する条件のようなものを仮定するのだ。鍵となるのは、岩手ではなくこの千里山女子でできるようになったこと。あるいは岩手に戻ったらできなくなっているかもしれないし、そうではないかもしれない。泉を相手にしてできるかもわからない。この千里山女子でできる限りのことをして、どの仮説を残すべきなのかを浩子は判断したかった。

 

 

 「船久保先輩、絶好調やないですか!」

 

 「んー、まあ今のところマイナスはないなぁ」

 

 休憩時間に泉が寄ってきて浩子に話しかける。浩子本人からすると絶好調というよりは、あるタイミングを境に自転車の乗り方を突然理解したような妙な感覚が強い。ただ自分の身に起こったことを泉に正直に話したところで何が変わるわけでもなく、それ以前に眉唾ものである。決して信じてもらえない、の謂いではない。先輩には未来予知をする人もいたくらいなのだ。対戦相手を捨牌含めよく見ていたら手牌や意図が透けるようになった、程度のことを受け入れるぐらいの度量は泉は持っているだろう。能力面の話ではなく、船久保浩子という選手が突然に開花したという事実が眉唾なのだ。浩子は自身を客観的に見て、インターハイレベルでは凡庸な選手であると自覚している。分析能力は並外れたものがあるが、それさえあれば麻雀は勝ち抜けられるというものでもない。そんな選手が手牌や意図を見透かすなどといった反則じみた力 (今のところ千里山の部員に対してのみではあるが) をたかが二週間の特訓で手にできるだろうか。多くの人は無理だと答えるだろうし、浩子自身がその多数派として無理だと言うだろう。だから浩子は実力的に部内でもっとも信頼できる泉にも話さないことにした。

 

 「それより泉は調子どうや?」

 

 「まあ調子がどうとか言うてられへん、って感じです」

 

 「はは、泉らしいわ」

 

 「言うて普段は今のところレギュラー私ひとりですからね」

 

 「堪忍な、泉。しばらく頼むわ」

 

 ぽんぽん、と泉の頭を軽くたたいて浩子は立ち上がる。

 

 「そのかわり、今日は思いっきり相手したるからな」

 

 浩子はこの時点で泉の手が透けるかどうかを判断材料のひとつにしようとしていた。実力があっても透けるのかそうでないのか。泉の実力は高校一年生ながらインターハイでも当たり前に通用するレベルである。相手としては申し分のないところだ。もし実力に関係なく透けるのであるのならば、赤木に、健夜に対抗できる可能性が生まれる。もちろん泉に通じてもその二人に通じない可能性はあるし、どちらかといえばそちらの可能性のほうが高いだろう。それでも試さないわけにはいかない。強くなるとはそういうことだ。

 

 

 果たしてその力は泉に通じるものであった。それどころかよりクリアに泉の思考が読めた気がした。手牌を切り出すタイミングでさえつかめそうな気がした。おそらく相手の実力に因らないところで自分の力は発揮されている、と浩子は実感をもって理解した。今のところ千里山女子の部員を相手にした場合、対戦した全員の手も意図も透けている。しかし部員全員がそれにあてはまるとも限らない。こういうときに例外の存在は極めて有力な手掛かりになる。そう考えた浩子は、できるだけ多くの部員と打てるように雅枝に取り計らってもらった。

 

 結果として部員に例外はいなかった。この空間でただ一人の例外は監督である愛宕雅枝だけだった。今の浩子にとって勝ち負けは問題ではなく、なぜ部員の手は透けて雅枝の手は透けないのか、これが問題だった。この問題を解決まで導けば、今のこの自分の事態に説明がつくと浩子は確信していた。だが答えを導くにはまだ確かめなければならないことがいくつかあって、それはこの千里山では確かめきれないことだった。余談ではあるが、この日浩子は雅枝以外には負けるどころか振り込むことさえなかった。二週間ぶりに帰ってきた新部長が並外れた戦績を残したことで、部員たちの浩子への信頼は跳ね上がった。

 

 

 部員全員と対局を済ませたところで、雅枝と話をするタイミングが訪れた。千里山ほどの名門ともなれば必然と入部してくる部員のレベルも高くなってくるため、監督やコーチが出張るまでもないシーンが多く見受けられる。基本的なものであれば先輩が後輩に指導をし、ある程度の発展的な内容でも二条泉をはじめとするレギュラークラスが対応できる。そういった部員同士のやりとりがさらに質を高める。雅枝は個人個人に合わせたアドバイスを中心とした指導をしている。かなりの数の部員をそうやって仕切れるあたり、雅枝の監督としての腕がわかるだろう。

 

 「なんや浩子、別人みたいなデキやんか」

 

 そう声をかけられ、浩子は一瞬のうちに監督には今の状態を話そうと決めた。解決を求めるのではなく、単に千里山女子の戦力として監督の耳に入れておくべきだと判断したからだ。

 

 「……実は今日、部員のみんなの手から意図から全部見えてるんです」

 

 二人の子持ちとは思えないほどに若さを保ったその顔にほんの短い間、険しい表情が浮かんだ。

 

 「ひょっとして何か仕込まれたんか?」

 

 「いえ、ずっと対局はしてもろてますけど、それだけです」

 

 雅枝の表情は今度は不思議そうなものに変わっている。雅枝からすれば赤木は浩子を連れていくと言っただけで場所の指定をしていない。つまり浩子がどんな環境にいるのか雅枝は知らないのだ。対局してもらう、という言葉から少なくとも赤木のほかにあと二人は人がいる環境にいることは容易に推測できるが、じゃあどこの誰だとなればとんと見当もつかない。

 

 「相手は誰や?」

 

 「ええと、健夜さんと宮守女子の豊音さんとシロさんです。あ、熊倉センセもやな」

 

 出てきた名前に声を洩らさなかっただけよく我慢したといっていいだろう。伝説級が二人も並んでいる。かたやプロ生活中無敗という人ならざる領域のど真ん中に住んでいる怪物。かたや日本の女子プロの歴史を語るのなら真っ先に名前の挙がる超人。それに浩子の出した宮守の二人も各校の監督やあるいはスカウトから注目を浴びていた存在だ。おそらくシロとは小瀬川白望のことだろう。雅枝自身、熊倉トシの作り上げたチームだということで注目していた。チームとしての完成度もさることながら、先に挙げた二人の存在感たるや雅枝をして山が反対でよかったと思わせるほどであった。あれでチームができてから一年も経っていないというのだから恐れ入る。勝負の綾もあって二回戦で姿を消したものの、だからこそその実力は計り知れないものがある。そんな相手と浩子は日々打っているという。しかし打つ相手が変わっただけで相手を見通す力がつくだろうか、と雅枝は疑問を捨てきれないでいた。

 

 「ところでおばちゃ、監督、疲れ溜まってません?」

 

 「なんや出しぬけに。いつも通りやろ」

 

 「いやなんかよく見てたらそんな感じしたんですけど」

 

 「“よく見てたら”?」

 

 「えっ、ええ、そうですけど……」

 

 「浩子、向こうで打ってる時に何に気ぃ使うとる?」

 

 「いきなりどうしたんです?」

 

 「ええから」

 

 「……よう見ることですかね。あの人たち相手やと些細な情報がすごい大きなるんで」

 

 聞いた瞬間に雅枝は赤木がどう鍛えるつもりなのかを理解した。それと同時に歯噛みもした。浩子の資質を理解していながら、自分には鍛え上げることができないというその事実が雅枝に重くのしかかる。たしかに()()はオカルト能力ではないし、ましてや魔物のように運の領域にはっきりと影響を及ぼすものではない。その意味で言えば浩子がいま持っている可能性はあくまで人間の領域のものである。だが、使いこなせる人間などそうはいない。赤木や健夜の手の内の一つなのだ。そもそもの原理は “よく見ること” に集約されているため、言葉にして伝えるのは極めて簡単な事柄ではある。だが、繰り返しになるが、使いこなせる人間はそうはいないのだ。

 

 「ちゅうことは浩子、私の手は透けてへんいうことやな?」

 

 「はぁ、監督ようわかりますね。全っ然読めませんでしたわ」

 

 浩子は感心したように雅枝を見ていた。たったあれだけの問答で自分にははっきりとは出せなかった答えを導いたのだ。やはりまだまだ実力者たちとの差は大きく開いているのだな、と表情には出すことなく思う。

 

 赤木と行動をともにしてからの日々は、濃密で実りの多いものであったが、それでもこの一日は浩子の成長にとってとりわけ重大な一日だった。自分の実力が明らかに向上 (あるいは変化というべきだろうか) していることを自覚できた。しかし現在の師二人が言うところによれば、浩子はまだスタート地点にすらたどり着いていない。その事実にめまいを覚えそうになるものの、成果が出ていることはまだ高校二年生である浩子の背中を押していた。

 

 

 久しぶりの千里山からの帰り道は、部員たちに囲まれてのものとなった。浩子はどうして自分の周りにこれだけの人がいるのかがわからない。そもそも自分自身そんなに人望があるタイプだとは思っていない。清水谷先輩や江口先輩とは器が違うのだ。それがやいのやいのと同級生に後輩に大人気なのだから何が何だかわからない。実際のところは本人が思っていた以上に慕われていて、久しぶりの再会に全員が我慢できなかっただけであるが、それは浩子の知るところではなかった。

 

 



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―――――

 

 

 

 新幹線は圧倒的な速度で景色を吹き飛ばし、進んでいく。それでも車内に伝わる振動はごく微細なものだ。それは新幹線自体のフォルムや線路との兼ね合いなどの細かい計算の上での結果なのだろうが、浩子はまったくの専門外であるため詳しいことはわからない。ネットで調べればそれなりに深くまでつっこんだ情報も出てくるのだろうが、別にそこまでの興味を持っているわけでもないので小さな窓から外を眺めることにする。ただ速度が速度のため、近いところのものは色としての認識しか持てないが。

 

 昨日は充実した一日だった。麻雀においてもそうだったが、なにより部員のみんなと再会できたことが嬉しかった。安心もしたし、さみしくもあった。他にもさまざまな感情が綯い交ぜになった気もするがそんなことはどうでもいい。状況によっては相反する感情が同時にせめぎ合うことなど当たり前のことで、大事なのはその中でどれを重要とするか、だと浩子は考えている。もちろん部活のことだけでなく家族と話ができたことも嬉しいことのひとつだった。女子高生にとっていきなり家族と離れて生活するのは、電話があるとはいえなかなかラクなことには分類されないだろう。

 

 現在は日曜日の午前十時あたり。大阪を発ってから一時間ほどだろうか。もうしばらくしたら東京で乗り換えて、今のホームである宮守へと帰ることになる。途中でちょっと休憩は挟むことになるだろうが、同じ椅子に座り通しはさすがにダルいなぁ、と自然に考えていた浩子は一拍おいてびくっと背筋を正した。ひょっとして口癖が感染したのだろうか。

 

 浩子は益体もないことを考えていることに気づき、思考を元へと戻す。テーマはここしばらく変わっていない。赤木と健夜の見せた雲のような闘牌の意味と、それに付随する “やり方” 。もうひとつは赤木の出した二つめの宿題である。打牌とは何を指すのか。どうも浩子にはこれら三つが繋がっているように感じられた。明確な根拠はない。ただなんとなくそうじゃないかと思うだけだ。性格的に論理からくる証明が欲しいところではあったが、自分がそう思ってしまうとあっては浩子にはそれ以上どうしようもない。すべての答えを出した後で繋がっているかどうかを判断するしかなさそうだ。

 

 赤木は浩子の隣で新聞を読んでいる。浩子にとって長らく生態の不明だったこの男は、退屈だと活字を読む習性があるようだ。基本的には人や風景を眺めて過ごしているのをトシの家で確認しているが、どうやら移動中だとその気勢が削がれるようだ。とくになんの感動もなくじっと静かに新聞に目を通している。

 

 「そういえば赤木さん、大阪にいる間なにしてたんです?」

 

 「……なに、知り合いのところに顔を出してたってぐらいさ」

 

 いまいちよくわからない赤木の交友関係に興味が湧かないでもなかったが、それ以上になぜかあまり関わらないほうがよさそうだと浩子は思った。風体だけで言えばチンピラのそれに類するものに違いはないし、そういう方面に関わりがあってもおかしくはなさそうだからだ。いまさら赤木がそんな連中相手にはしゃいでいるとも思わないが。

 

 「へー、あ、健夜さんから聞いたんですけどけっこうプロに知り合いいるってホンマですか」

 

 「……そんなに多くねえと思うんだけどな」

 

 「たとえば?」

 

 「小鍛治サンはまあいいとして、大沼のジジイと、三尋木、……野依もそうか、あとは藤田サンも知った顔だな」

 

 「見事にトッププロばっかりやないですか」

 

 タイトル戦の常連の名前がぽんぽんと出てくる。ある程度は想定していたものの、やはり言葉として出てくると素直には受け入れがたいような名前なのだ。いったいどんな縁で知り合ったのか。やはりこの男について考えるだけ無駄なのだろうか。ただ浩子は気づいていない。その関係性のなかに半ば取り込まれていることを。むしろ浩子が最も特殊な立ち位置にいることを。

 

 車内販売のオレンジジュースを飲みながら、赤木と会話をする前の思考にアタマを切り替える。打牌。つかめない闘牌。“やり方”。ふう、と目を伏せて物憂げにため息をつく様は妙に浩子の雰囲気に合っていた。衣装と場所を変えて品のいいコサージュでもあれば、絵になったかもしれない。見た目の様子と頭のなかで何を考えているかは必ずしも一致しないのだ。

 

 

 パステルカラーのグラデーションがすっかり濃くなった空を新幹線の窓から見上げる。そういえばここ二週間で雨を見ていないな、などと浩子は思う。先ほどから思考がまとまらないので、もう考えることを放棄して窓から見える景色に集中することにしたのだ。たとえば自分のような状況に陥ったら部のメンバーならばどういう反応を示すだろう、と空想する。なんだか手に取るようにそれぞれのリアクションが想像され、浩子はにやりと口角を上げる。ならばと今度は最近お世話になっている豊音と白望での空想に挑んでみる。この二人は千里山のメンバーには及ばないもののなんとなく想像できた。それに続いて手当たり次第に齢の近い人で試してみたが、どうしてか仲のいい従姉だけははっきりとしたイメージが浮かばなかった。いや正確にはイメージができないのではなく、さまざまな姿が浮かびすぎるのだ。定まらない。どんな姿もあり得るように思えた。不思議な人だ。だがそれでこそ、と思えるような存在が愛宕洋榎その人なのである。

 

 ふと監督に言われたことを思い出す。愛宕つながりで思い出したのは秘密だ。

 

 「そや、赤木さん。秋季大会出てもええですか?」

 

 「……秋季大会? ……聞いたことねえな」

 

 「新しいチームでの大会があるんですよ。都道府県レベルで終わりですけど」

 

 「いつやるんだ?」

 

 「十月の終わり言うてましたね。団体です」

 

 「ふーん。ちょうどいいかもしれねえな」

 

 「……何がです?」

 

 「こっちの話さ、気にしないでいい」

 

 そういう言い方をされれば気にもなろうというものなのだが、とりあえず千里山の新チームでの初めての大会に出られることが決まったので良しとすることにした。

 

 

 東京が近づいてきた。ここから乗り継いで岩手へと戻る。まとまりのない思考のなかで、浩子は楽しみだと感じていた。おそらく昨日千里山で起きた浩子の変化に関する推論が出来上がる。それは宮守にいる人たちと打つことでほぼ間違いなく確定する。今足りないのは事実による証拠である。それさえ決まってしまえば、もう浩子には次にするべきことが見えている。しかし見えてはいるものの努力でどうにかなるのだろうか、と不安に思っている部分でもあった。赤木はいつの間にか隣で寝息を立てていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「ねえシロ、浩子は最近どうなの?」

 

 「……ん?」

 

 「けっこうな頻度で打ってるんでしょ?」

 

 「ああ、そういうこと」

 

 駅近くのとあるファストフード店で、塞と白望はともに勉強に励んでいた。今は休憩時間である。なぜ全員そろっていないかと言えば、勉強にならないからだ。少なくとも塞はそう考えた。というか三人以上集まってしまえば遊ぶのを我慢できる自信がない。白望を呼んだ理由は質問したときに要点のみで簡潔に答えてくれるから。最低限の努力で誰にも文句を言わせない成果を出すことに精を出してきた彼女は要領がずば抜けて良い。じゃあいっそ自分もダルがってみようかとも考えてみたが、どう考えても白望のように過ごす自分が想像できなくて塞はあきらめて真面目に頑張ることに決めた経緯もあったりする。

 

 「……浩子は強くなってる、と思う」

 

 「ふむ?」

 

 「もう豊音の “先負” にも対応してる」

 

 「マジ!?」

 

 店内であることも忘れて塞は声を上げる。はっと気づいて口元を手で覆うが出した声は帰ってはこない。“先負” とは豊音の先制リーチに対する仕掛けであるが、ルールそのものを知ってしまえばリーチをかけなければよいという急場しのぎは誰でも気づく。だが彼女たちの言う対応とは、それと意味を異にする。なにせ豊音は六種もの能力を持っており、それを完全自在とはいかないまでも使いこなすことができる。つまりは出し入れの自由度が高く、“先負” のためだけにリーチをかけないようでは対応とは言えないからだ。

 

 どうして塞が、というか実際は宮守麻雀部の全員が浩子を気にかけているかというと、彼女たちには後輩がいなかったからである。はじめの三人で部を作り、豊音とエイスリンを加えて団体戦に参加できるようにはなったものの、部活としては形が整っていないと言われても仕方がないものだった。先輩も後輩もいなかったのだ。だから時期外れとはいえ、初めてできた麻雀部の後輩にはどうしたって関心が向く。年下の分際でスキあらば先輩である私たちをからかおうとするその根性はちょっと生意気だが、むしろそれもかわいい要素のひとつに捉えられた。

 

 もともと塞は世話焼きであり (これには小瀬川白望の存在が大いに影響している) 、言い方は悪いが後輩など格好の餌食なのだ。先輩風を吹かせて飲み物でもおごってみたいし、勉強面で頼ってもらうのもアリかもしれないなどと妄想は膨らむ。それにしても来るタイミングが悪いよなあ、とため息と同時に妄想を打ち切ると、白望がじっとこちらを見ていることに気が付いた。さっきから怖いんだけど、の一言で表情に出ていたことを塞は理解した。

 

 

―――――

 

 

 

 浩子と赤木が熊倉宅へと帰ると、豊音が居間で寝そべって鼻歌交じりに雑誌を読んでいた。長い黒髪はその体勢では邪魔になるのだろう、ヘアピンとシュシュでまとめられている。二人に気付いた豊音はさすがに失礼だと思ったのか、座りなおしておかえりなさい、とやわらかい笑顔を向けてきた。ただいま戻りました、と律儀に返事をして浩子は部屋へと荷物を置きに行く。ああ、と軽く返して赤木はそのまままっすぐ縁側へと向かっていった。タバコでも喫うのだろうか。

 

 着替えた浩子は豊音といっしょに雑誌を眺めていた。二人が読んでいるのはファッション雑誌であり、ページをめくってはこの服はどうだ、あの服はどうだと大騒ぎである。年頃の女子高生が騒がないわけがない。聞けば豊音の前にいたところは相当に田舎でこんな雑誌など入らないようなところだったらしい。いまひとつ浩子には想像できなかったが、目の前のこんなに楽しそうな笑顔を見せられたらそんなことはどうでもいいという気になっていた。と同時にふと思ったので尋ねてみた。

 

 「豊音さんモデルとかいけるんちゃいます?」

 

 「もっ、モデル!?いくらなんでも無理だよー」

 

 「いやいやすらっとしてて脚も長いし悪くないと思うんですけどね」

 

 「だ、だってああいうのってすっごい美人さんじゃないと」

 

 はあ、と浩子はため息をつく。この人の自己評価の低さはいったいどこから来るのだろうか。昔いた環境というのがそんなに影響しているのだろうか。少なくとも浩子の目から見れば自分にはないものをたくさん持っているように見受けられる。

 

 「あっ!ダメだよ!年上をからかっちゃいけないんだよ!」

 

 そんなつもりは毛頭ないのに至近距離でむくれている。なるほど塞さんや胡桃さんが小動物だと言っていた意味が身に染みる。千里山にはこういうタイプの部員がいなかったので新鮮だ。ちょっとだけいたずらっぽくウソじゃないですよー、と一言添えて、また雑誌の鑑賞に戻る。まだ九月だというのに後ろのほうのページには “この冬に来る!ニューコーディネイト!” なんて特集が組まれていた。浩子はあまりそういった事情には詳しくないが、あるいは雑誌としては遅いのかもしれない。

 

 

 二学期が始まって以降、麻雀の練習は夕食の片づけが終わってからということになっている。さすがに白望を毎日ひっぱり出すわけにもいかないので、彼女は週に一、二回程度の参加頻度となっている。そうなると浩子の相手が自然と健夜・トシ・豊音となる。強いのはもちろんのこと引き出しの数が半端ではないため、倦怠感のようなものはまず起きることはなかった。赤木は練習に参加することはなかったが、豊音や白望からされる質問にちょくちょく答えたり、あるいはいなしたりしているようだった。

 

 さてそうなると浩子は放課後がフリーになる。これまで放課後は麻雀部員として活動してきた経験しかないため、どうしたものかと考えた。とりあえずまっすぐに帰って勉強とかは癪だったのでクラスメイトの所属している部活に顔を出してみたり、クラスメイトといっしょに遊びながら帰ったりしてみた。やはり経験の浅いものは新鮮で、フツウの女子高生はこういうものなんだな、とすこし奇妙な感慨にふけったりするのだがそれはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 浩子が帰ってきた翌日の月曜は、雨だった。風もなくしとしとと降る雨はゆっくりとアスファルトの色を変えていく。さすがに実家から傘を持ってくるというわけにもいかなかったので、もともと熊倉宅にあったビニール傘を借りて学校へと向かう。今日は体育の授業はなかったはずだ。よく誤解されるのだが、浩子は別に運動が嫌いというわけではない。間違っても自分から得意などとは言わないが、スポーツは見るのもやるのもわりと好きだという。浩子の印象としては、岩手の子は大阪の子より運動ができるような気がする。勘違いかもしれない。

 

 今日は白望が麻雀を打ちに来てくれる日であり、おとといから浩子が心待ちにしていた日でもある。千里山女子で起きた変化に関する推論にある程度の確証が得られるからだ。その研究者気質のある性格からか、確たるものを手に入れるというのは浩子にとって非常に喜ばしいものであった。だから教室に入る瞬間にはすでに上機嫌モードが出来上がっていた。クラスメイトになにかいいことがあったのか、と聞かれて自分の推論に大きな材料が加わるのだと素直に答えたとき、そのクラスメイトが怪訝そうな顔をしたのは仕方のないことだろう。

 

 学校でこなすべきことをすべて終え、浩子は下駄箱に待機している。豊音と白望を待っているのだ。どうせならいっしょに帰ったほうが楽しいだろう。空を見上げると、コントラストの強弱こそあれまだ灰色には変わりなく、ひょっとしたら明日も雨は続くかもしれないと思わせる空模様だった。部活のない生徒たちが傘を広げて帰っていく。今日はバスが混むことだろう。不意に、ぽん、と肩をたたかれた。

 

 豊音か白望が来たのかと思い振り向いてみると人差し指が頬にささった。指の主は輝くさらさらの金髪を震わせて、笑いをこらえていた。

 

 「ヒロコ、ユダン!」

 

 「古典的な手でまぁよくも……」

 

 ひとしきり下駄箱で対決していると待ち人ふたりがやってきたので、みんなでバス停へと向かうことにした。

 

 

―――――

 

 

 

 結論から言えば、浩子は予想通りのデータを得ることができた。豊音と白望の手牌や意図は透けなかった。やはり聴牌の気配を察知することが限界であった。浩子はこう考えている。これが意味することは、自分がどれだけ目の前の相手を知ることができているかが鍵になっているということだ、と。宮守の先輩たちと仲良くなったのは事実だが、千里山のみんなと比べるとまだ時間も密度も及ばない。そういった点からすれば意図が読めないのは当然だろう。意図が読めないのなら、捨て牌から手牌を推測するにも確度が足りなくなる。つまり相手がどういう人間かを知ることによって、その精度が上がるのだ。これは牌譜を研究することによって得られる麻雀における傾向とは趣を異にする。傾向は傾向として役に立つものだが、どういう思考判断からその傾向に至るのかを知ることとは情報としての質が違うからだ。

 

 なるほど、と浩子は思う。大人たちはそれを知っているのだ。別に赤木や健夜たちが演じているとは思わない。ただ、彼らは麻雀の際に自身を律する術を持っているのだ。だから彼らからは何も感じ取れない。だからもし彼らを打ち倒そうとするならば、それを踏まえたうえでの思考の流れを読まなければならない。なにが “あと一歩” だ。とんでもなく大きな一歩をあの二人は要求している。浩子は麻雀という競技が姿を変えてしまったように感じた。

 

 しかし、浩子はそこで立ち止まるわけにはいかなかった。()()()()()。たとえばインターハイは全国の都道府県から選手が集まる。もちろん牌譜などを集めることは簡単だろう。だが、それら全ての選手がどのような人間かを事前に把握するのは不可能だ。だから現時点では浩子の気付きは無意味と言っていい。それを有用なものをするには、その場で相手を見極めるという技術を手に入れる必要がある。ここだ、と浩子は思う。“やり方” だ。これまでの二人の打ち筋、それも局の初めのあたりを思い出す。あれは()()()()のだ。浩子や中年がどう反応するかを見るためのいわば捨て石。考えてもみなかった。自分の判断において他家の人間としての傾向を半荘のうちに見抜き、それを利用するなど。宮永照がそれと同じようなことをやっているが、あれは能力だ。根本的な部分で違う。

 

 暗に赤木からやれと言われていることは、どう見ても荒唐無稽なものではあった。だが、魔物を倒すということを前提に置いて考えた場合、これほど理にかなったものはないのではないかと思われた。いかに人並み外れた能力を有していてもその土台は人間であり、性格は誰にだってある。その傾向を見抜いてうまく使えば、能力を封じることさえ可能かもしれない。強すぎる能力は所有者にそれを使うことを強いる。それを封じてしまえば純粋な麻雀での勝負になるのだ。もし浩子が短時間で相手を見抜く技術を手にしていれば、そうそう負けることはない。浩子は今、ようやく自分の持つ可能性に気付いた。

 

 

 

 いまだ降りやまない雨の景色をじいっと浩子は眺めていた。今日の練習はとうに終わってのんびりしているところである。正確にはどうすれば短い時間で相手を見抜けるのかをつらつらと考えていたところだ。そのための打ち筋とはいったいなんなのだろうか。無目的なものでは意味をなさない。やはりそこには意図があるはずだ。これまでの、いかにして和了るか、いかにして振り込まないかの打ち筋とは異なるもの。

 

 今日は冷える。入浴の時間が少しばかり長くなりそうだった。

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 「あの、小鍛治プロ、大阪の勢力図とかってどうなってるんですか?」

 

 「ええと、基本的には三強って考えていいと思うよ」

 

 「三強、ですか」

 

 「浩子ちゃんのいる千里山女子と姫松、それに三箇牧」

 

 健夜と塞がどうしてこんな会話をしているのかといえば、実際に目の前 (とはいってもスクリーン上でのことだが) で試合が行われるからである。本日秋季大会が行われるここ大阪は全国でも屈指の激戦区であり、その学校の多さからインターハイ予選ともなると北大阪と南大阪に分けなければならないほどである。その中でも大阪で麻雀がやりたければ健夜の口から出た三校でなければいけないと言われるほどの評価を受けているのが、いわゆる三強だ。名門の名は選手を呼び集め、さらにその壁を厚くする。構図ができあがっているのだ。

 

 「たしかにその三つはシードの位置にいますね」

 

 胡桃がトーナメント表をひっぱり出して指で示す。豊音とエイスリンが左右から挟むようにその表に顔を近づける。二人の頭のせいで表が見えなくなった胡桃からすぐにお叱りが飛んできそうだ。白望は胡桃を膝に乗せたままそうやって二人が寄ってきているので少し暑そうだ。とくに抵抗する様子は見られないが。

 

 あまりにも学校数が多いので、会場には対局場が八つとスクリーン会場がその倍の数ほど設置されている。それでも二日間に分けなければ消化しきれないといえば、多少はその数も想像しやすくなるだろうか。そのなかでもシード校の三校の人気は異常と言ってもいいくらいであり、立ち見が出ないほうが不自然といった有様である。現在、健夜率いる宮守女子ズがいるスクリーン会場は千里山女子が初戦を勝ち抜いてきたチームと戦う映像が二試合ほど後に流れる会場である。席は五つだけしか確保できなかった。一つだけ足りない席は胡桃が白望の上に座ることでカバーしているということだ。スクリーンでは初戦の先鋒たちが卓につき始めている。

 

 それにしても、と塞は思う。ほんの二月ほどの付き合いではあるものの、自分たちの後輩が別の学校の代表として出場するというのは妙な感覚だ。それも部長だなんて言われると、なんだか素直に飲み込めないような気さえする。いや浩子はもともと千里山女子の生徒なのだから本来おかしなところはないのだが。感覚としては妹の部活動を見に来たものに近いだろうか。

 

 来週には十一月に入ろうという時期だ。街路樹の葉はまだその葉の色こそ変えてはいないものの、ときおり吹く風はこれから一気に寒くなることを含んだ冷たさを持っている。薄手のコートや、そういった微妙な気温に対応できる衣類が重用される。会場内は人でごった返しているため逆に暑かったりもするのだが、そこまで気にする人は少ないようだ。大会に出場するか、あるいは応援のために駆け付けたのだろう学生たちの制服は軒並み冬服かカーディガンなどを上に羽織ったものとなっている。

 

 飲み物を買いに行きがてらそこらの制服の少女たちの話に聞き耳を立ててみると、やはり話題の中心は大阪三強についてのものが多かった。なかでもとりわけ目立ったのが三箇牧の名だった。三箇牧高校といえば、去年のインターハイで一年生にして宮永照に肉薄したあの荒川憩を擁する高校である。いくら他校の情報に疎い塞といえど知っている。当然のように今年の個人戦でも大暴れしていた。彼女がもし同級生たちを叩き上げているとしたら、最も恐ろしいのは三箇牧なのではないか、と噂されていた。もちろん千里山や姫松についての話も耳に入ってはきたが、塞の印象だと周囲は三箇牧優位だと思っているらしい。

 

 ( まあ、高校入ってすぐのインハイで大活躍した子と比べられちゃあねえ…… )

 

 塞たちの感覚で言えば宮永照と比べられるようなものだ。最上級生を抑えて二年生でレギュラーに抜擢されたと言えば、多くの場合で箔がつく。次の一年間を残しているのだから、さらに力を増してまた予選やあるいはインターハイに挑むことができる。だがその近所に、かつ同い年の宮永照がいたらどうか。冗談にならないのではないだろうか。実際に白糸台高校のある西東京地区ではそんな現象が起きていたのだろう。浩子はそういった視線とも戦わねばならないのだ。名門という肩書がそれに拍車をかけている。ちょっと同情かな、なんて塞は思う。

 

 自動販売機は極端だ。つめたい、の表示のものは夏でこそその温度差に気持ちよさを感じるものの、秋口に入ってしまえば持っているのが厄介になるほどだ。あったかい、の表示はまるで嘘に感じられるかのように熱いことが間々ある。素手で持っていたら火傷の心配をしたくなるくらいに。だから自動販売機でのおつかいを頼まれるのは塞はあまり好きではない。というか好きな人に出会ったこともない。席を立つとき、ついでに買ってきてあげる、と口走ったのが失敗だった。できるだけ指と缶との接触する面積を減らして持っていくことにした。似たような持ち方をした人がちらほらと見受けられる。あのたれ目でポニーテールの人なんかはちょっと大げさな気もするけれど。

 

 秋季大会にはプロの解説もつく。たしかパンフレットによれば今日の解説は戒能プロだったはずだ。塞は彼女の解説を聞いたことがないので楽しみだった。会場の人々のなかにもそれを目的としている人だっているだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 ぱらぱらと手元の資料をめくる。すでに昨日にホテルに着いた段階で下準備は済ませてあるが、それでも念入りに見落としがないかを確かめる。高校生は肉体的にも精神的にも技術的にも伸び盛りだ。だからこんな資料なんて役に立たないこともあるし、またそうであってほしい、と戒能良子はそう思う。この大阪地区でまず注目せざるを得ないのはやはり三強であり、データを見てもそれは仕方がないと思う。とびきり目を引くのは荒川憩と上重漫だ。前者はもはや言うに及ばず、宮永照と渡り合うことができるのだから高校生の中では最強クラスといって文句のある人間はいないだろう。後者が光るのは火力。調子の波こそあるものの、乗ってしまえば手のつけられないような和了りを連発している。もしこの選手が成長して安定した高火力を実現できるようになれば、第二の三尋木咏の誕生といったところか。

 

 無論だが、三強においては他の選手も粒ぞろいである。強豪校として普段から揉まれているのだから当然とも言えるが、それでも立派なものだ。ただ彼女たちの一学年上の世代があまりにも印象が強すぎたという感は否めない。江口セーラ、清水谷竜華、園城寺怜、愛宕洋榎、末原恭子。この辺りに学年下のレギュラーたちが印象度で勝てるかと問われれば、それは難しいと答えるしかないだろう。大阪における黄金世代と言ってもいいかもしれない。だからこそ良子は期待する。そういった環境から後の強者は生まれたりするものだ。

 

 良子は千里山女子の試合の解説をすることになっていた。姫松、三箇牧はまたそれぞれ別のプロがついて解説することになっている。なんとも豪華なことだ。たしかに全ての試合に解説がつかないのは不公平だと思わないでもないが、ローカル局とはいえテレビ放送もされるため仕方ないと受け入れていた。運も絡むがどのみち実力勝負の世界だ。自分の存在を誇示したければ結果で見せるしかない。新星はそうやって輝くべきだ。

 

 大会自体は午前九時から行われているが、良子たち解説の出番が回ってくるのはシード校が出始める二回戦からである。出場校数の関係から二試合ほど先に行われ、そのあとでやっと仕事が始まる。一試合に少なくとも二時間はかかる計算だから、つまるところ解説は午後から行われるということだ。しばらくは素直に観戦するか、と良子は息をついた。

 

 

―――――

 

 

 

 「ちょっと聞いてもらってもええ?」

 

 浩子はメンバーを集めてそう言った。レギュラーたちは団体戦における心構えやそういった部分についての話なのだろうと当たりをつけて聞く姿勢に入っている。あるいは初戦は大将である二条泉まで回すな、との厳しい注文がつくのかもしれない。だが、浩子の口から出た言葉はそのどちらでもなく、また誰一人として予想しないものだった。

 

 「私はこの大会でな、みんなに頼ろ思うとる。これはちょっと耳ざわりよすぎてちょっとズルいかなとも思うんやけどな」

 

 「どういうことです?」

 

 「もちろん監督にも許可もろとるんやけどな、うちは今回はあまり稼がん」

 

 レギュラーたちは浩子の意図しているところがわからない。言葉として理解はしていても素直に飲み込むわけにはいかない。明らかに場に沿っていないからだ。これから自分たちが出場するのは団体戦であり、十万点の持ち点を増やすことに終始するのだ。ましてや浩子は先鋒という位置に座しており、各校のエースクラスとぶつかる場所である。そこで稼いでこないことは後ろに控える面子の士気に関わる。

 

 「船久保先輩、さすがにみんなそこまで緊張してませんよ」

 

 「ちゃうで、泉。ボケやない。私はこの大会で試さなあかんことがあってな」

 

 「試さなあかんこと?」

 

 そもそも浩子は基本的に千里山にいないのだ。泉をはじめメンバーの誰も浩子がどういう練習をしているのかを知らない。たしかに最近は帰ってくるごとに力を増していると感じる。アドバイスの精度が半端ではないのだ。だからなんらかの特殊な練習をしているのだろうし、成果も出ているのだろう。しかしそれが具体的に何なのかわからないから泉は首をひねるしかない。浩子はそんな部員たちを見て、自分のくちびるの前に人差し指を立てていたずらっぽく、秘密や、と笑ってみせた。

 

 「うっわ、何それ浩子!?超似合ってへんけど!?」

 

 「 “秘密や” やって!うーわ、浩子可愛なったな!」

 

 「やかましいわ!」

 

 多少は面食らったものの、部長の浩子からそう頼まれたとあっては否やがあるわけもなく。それに千里山女子が船久保浩子と二条泉しかいないチームだと思われるのも癪だ。浩子が稼がないくらいで揺らぐような安いチームではないのだ。部内の試合で泉に敗れてインハイこそ逃したが、その実力は相当のものを持っている部員がごろごろいる。名門とは名ばかりではない。浩子もそこをわかっているからこそ、この話をする気になったのだ。

 

 

 

 浩子は第一回戦の様子を映した備え付けのテレビをじっと見つめていた。もともとデータを重視する選手ではあったが、こうまで集中して画面に食らいつく浩子の姿など部員の誰も見たことがない。それはまるでテレビに見えない手がついていて、その手が彼女の頭をつかんで固定しているかのようにさえ見えた。事実、浩子の耳にはあまり音が入ってこないようだった。呼びかけたところで気づきさえしない有様である。

 

 「監督、あれホンマ大丈夫なんですか」 

 

 「あー、まあ心配なのはわかるわ。でも浩子が必要や言うとるからな」

 

 雅枝は浩子がいずれたどり着くであろう地点をすでに知っている。そのうちあのじっと見つめる作業すら要らなくなるだろう。場合によっては今日そうなるかもしれない。それほどまでに浩子のいる環境は整っており、本人には素質があるのだ。そうでなければたったの二か月でここまでの変容は見せないだろう。驚くべきはそこまでの変容を見せながら、本質には何らの違いも見られないという点だろうか。

 

 たとえば実戦において、分析を活用するというのはそれほど簡単なことではない。常に実戦という場はリアルタイムで進行する。そのなかでデータを引き出し、状況に応じて当てはめて対応することがいかに難しいか。麻雀においては進行の妨げと見られるため、あまり長考は好ましいものとは捉えられていない。したがって自然と早いリズムのなかで状況判断を行い、適宜対応することになる。相手の手を推測し、傾向を考え、なおかつできれば自分が和了れるように最善手を打っていく。この思考を船久保浩子は実戦で当たり前のように実行する。あまり注目されることはなかったが、もともとの彼女の戦い方も異常と言って差支えのないものだった。

 

 浩子が変えようとしているのは情報ソースである。これまでは牌譜がその中心だった。映像ももちろん見てきたが、やはり見てきたのは河と手牌が中心だった。それを人に変えるのだ。浩子が見ようとしているのは人の思考の流れ、もう一歩踏み込んだ言い方をすれば本質。高校生でそれをつかんで闘牌に活かすことができる存在がいるとするならば、もはや船久保浩子を措いて他にはないだろう。

 

 

―――――

 

 

 

 ちょうど肘掛の先に映画館のように飲み物を置くスペースがあったので、これ幸いと塞はそこにさっき買ってきた缶ジュースを置く。すでにスクリーンでは第一回戦の先鋒戦が始まっている。こうやって四校が戦って一位だけが勝ち抜けなのだからなかなかにシビアな世界だ。この試合は解説が入っていないこともあってか、けっこう話をしながら見ている人が多い。みんなでわいわいしながら一つのスクリーンを見るというのはお祭りみたいでなんだか楽しい。

 

 「ねえねえ豊音、浩子はやっぱり強くなってるの?」

 

 「どんどん強くなってるよー。もう私もシロもそう簡単には勝たせてもらえないんだー」

 

 「うへぇ、そりゃ大変だ」

 

 「塞も今度いっしょに打ってみる?」

 

 「勉強の息抜きに遊びにいこうかなぁ……」

 

 スクリーンでは南家が西家に振り込んでいた。塞も話しながら見ていたが、あれならまあ仕方ない振り込みかなと思う。先鋒という位置を考慮するとちょっと不用心だったかもしれない。振り込んだ高校の応援の生徒だろうか、何やってんだよー、と声が上がる。応援は無責任でいいよね、なんて意地悪なことを思う。

 

 会場入り口で配られていたパンフレットには各校のオーダーも載っており、それによればどうやら浩子は先鋒で出るようだ。ふむ、さすがは私たちの後輩。エース級でやるに決まってるよね。注目選手の位置は見事にばらけていた。上重漫は中堅、荒川憩は大将の位置だ。もちろん大将には愛宕絹恵、二条泉と有力選手が配されているが、チームのエース同士の激突は見られないという事実に変わりはない。それについては塞も他の客と同様に残念だった。

 

 「ところで小鍛治プロ、赤木さんはどちらに?」

 

 「しげるくん?さあ?」

 

 「えっ」

 

 「団体行動とか苦手だからねえ。どこ行ったんだろ」

 

 赤木が団体行動を取らないのは周知の事実なのだが、ふだん接する機会のない塞には知りようがない。もし仮に赤木は団体行動を取るのか、と浩子に質問すれば真剣に体調を心配されるだろう。豊音ならば苦笑いを浮かべるだろう。白望なら黙って首を横に振るかもしれない。

 

 「女の子でもひっかけに行ったんですかね」

 

 「それはイマイチ想像できないかな」

 

 それは、というか赤木の場合は一般的な生活の多くが想像しにくい。ちょっとした買い物にコンビニに行く姿も女性とデートに行く姿も家に帰って鍵をかける姿だって想像しにくいものがある。その割には名勝の地でタバコをふかしている姿はやけにしっくりきたりする。それでもトシの家にお世話になっているときにはきちんと布団で寝ている姿が見られたりするので不思議なものだ、と健夜は思う。目の前に確実に存在しているのに、どこかこの世のものではないかのような気がすることがある。もちろんそれは間違いなく気のせいで、赤木しげるはきちんと存在している。

 

 「なかなかイケメンだと思いますけどねー。……小鍛治プロは狙ってたりしないんですか?」

 

 「……はぁ、大人をからかうのはあんまり感心しないよ?」

 

 

―――――

 

 

 

 場内放送が入る前の独特の通知音のあとに、第二回戦の先鋒戦を務める選手をコールする音声が入る。あと十分で試合が始まる。監督を含めたミーティングではとくに注文を付けられることもなく、ただ油断だけはしないようにと注意が一つあっただけだった。浩子は先鋒の位置にいるため早めに対局場へ行って心の準備でもするのが筋なのだが、なにやらがさごそと鞄をあさっている。そこから紙の束を取り出したかと思うと雅枝のもとへと持っていき、当たり前のことであるかのように言った。

 

 「いちおう牌譜は集めて分析しておきましたんで」

 

 それだけ残すと、やるべきことはやったという風にさっさとドアを開けて出て行ってしまった。控室に残された雅枝を含む千里山女子のメンバーはあっけに取られてしまっている。たしかにこれまで他校の牌譜の分析は浩子に一任してきたが、まさか留学紛いのことをしている現在においてまでやるとは誰も思っていなかったからだ。そんな時間があるのか、牌譜はどこから手に入れたのかなど疑問は尽きないが、その答えを知るのは浩子しかいない。相変わらず内容はよくまとまっており、手書きでの注意点など痒い所に手が届く仕様となっていた。

 

 

 しん、と血が冷える感覚がする。集中力が高まるときに起きる現象にはさまざまあるが、試合のとき限定のこの現象はなかなか悪くない。手や足の指先にまで神経がぐっと張り巡らされるかのようで気分がいい。自然と口角が上がる。歩く姿は百合の花、とはいかなくとも座ったときに牡丹のように決めたいとも思うが、今日はその日ではない。今日はあくまで試す日だ。知らない相手を知るための “打ち方”。そのための下準備はやりすぎてはいけない。あくまで実戦、その場で確かめるレベルでとどめなければならない。

 

 浩子は高揚している。はじめて iPadを買ったときのような気分だ。新しい道具を使えるという子供のようなワクワク感。このツールが自分を新しい領域に連れていってくれるような気がする。赤木や健夜の見ている景色の一端を自分も見ることができる。そう思うといてもたってもいられないような気持ちになったが、それが外面に出ると恥ずかしいのでそこはなんとかこらえた。

 

 対局場の扉が近づいてくる。両開きで重厚感のある劇場にあるような扉だ。手をあてて、ぐっと力を入れて押す。動き始めるまでに少し力が要るが、少しでも動いてしまえばあとはそれほど押さなくてもスムーズに開いていく。その先には雀卓が中心に置かれた簡素な部屋。そこにはすでに相手となる三人が席決めをするために立って待っていた。浩子は自分の立ち位置というものをしっかりと理解していた。千里山女子の先鋒という立場はどうしたって相手を警戒させてしまう。だから浩子は努めて自然に場を和ませるように室内へと入っていく。なぜなら自然体で全力でなければ本質など見えてこないだろうから。

 

 

 席決めの結果、浩子は西家から始まることになった。

 

 

 

 

 



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 ( ふむ? )

 

 戒能良子は液晶に映った選手たちを見ながらすこし考え込んでいた。隣ではアナウンサーが学校と選手の名前を読み上げている。その選手たちは山から手牌を取り終えちょうど理牌をしているところだ。正確には三人だけ理牌をしている。残る一人はまったく手を動かしていない。あまり高校生のレベルでは見ない芸当だ。順子にしろ刻子にしろきちっと並んでいたほうが見やすいことなど言うまでもない。そこにどのような意図があるのかはまだ良子にはわからないが、千里山の選手だから、ということでなく船久保浩子という名前を頭の中にメモする。

 

 テレビを意識したアナウンサーの簡単な内容の質問を丁寧に解説しながら良子は局の流れをじっと見守る。浩子について振られたときは濁すどころか、保留だ、と完全に言い切った。たしかに質問をしたくなるような打牌がときおり見られる。出来面子を崩してみたり、不要牌を取っておいてみたり、と言い方は悪いが遊んでいるかのような印象さえ受ける。だがそれにしては目の真剣さが釣り合っていない。他家の打牌に際して彼女の集中力はもっとも増すように見受けられる。威圧しようというのではない。ただじっと見つめている。さてどういうことかと浩子の捨牌へと視線を移す。捨牌だけを見ると聴牌気配の漂うものになっていた。だがそれもおかしな話だ。もともと出来ていた手をわざわざ崩してブラフを打つ必要がどこにあるのだろうか。仮にブラフに頼るシーンがあるとすれば、それはどうしようもない手をなんとかそう思わせないようにするといった場面くらいしかない。良子は浩子に対する警戒を高める。おそらく彼女はなにかを企んでいる、とそう推測した。

 

 露骨な聴牌気配を匂わせた浩子の捨牌もあってか、周囲の選手はなかなか前に出ることができずにオリ気味に手を進めていく。彼女たちからすれば先のインターハイで戦っていた選手が攻めてきているのだ。オリたくなる心情も理解できる。そのまま局は進行し、結局だれも和了ることもないまま東一局は流局となった。浩子の影響もあって聴牌にさえたどり着けなかったため、ノーテンという声とともにそれぞれ手を崩して自動卓の中へと押し込んでいく。彼女たちにとっての大きな問題は、船久保浩子までもが聴牌していないことだった。

 

 

 良子は表情には出ないように必死で頭を働かせる。なぜ彼女は東一局からブラフを打つ必要があったのか。正直に言ってしまえば、まともではない。もちろんそんなことは今の解説という立場からすれば口が裂けても言えないが。たしかに聴牌はしていなかったのだから手を開ける必要はない。それは当たり前のことだ。だが卓を同じくしている選手たちは彼女が張っていると思っていたはずだ。そういう意味では虚をついたと言えるが、いったいそれに何の意味があるのだろう。オカルト能力の関連だろうか、いや違う。良子は異能に関する感覚が鋭いが、その感覚に訴えてくるものはなかった。だからあの打ち筋は彼女が意図したものと断定できる。良子はこの時点でスイッチをひとつ切り替えた。

 

 

 

 ( フツウに押せばフツウに退く。ここまでは想定通りや )

 

 せり上がってくる山を視界の端に認めつつ、浩子は東一局で得た情報を高速で処理する。それは切り出しのタイミングからくる攻めっ気の強さや、浩子に対する警戒の仕方から判断できる用心の種類など多岐にわたる。理牌のクセは事前の映像や実際の切り出し位置からほぼ把握できている。したがって手牌はよほどの対策を講じない限りは最終的にはおよそ八割ほど透けることになる。あと浩子が突き止めなければならないのは判断基準と、その源泉たる思考の流れである。

 

 岩手の地で浩子が出した結論は、当たり前のものだった。人間は、普段と切羽詰まった状況では反応が異なる。どちらがより本質に近いかと問えば、それは切羽詰まった状況だと浩子は答える。だが、そこで立ち止まってしまっては赤木や健夜、それに岩手で出会った人たちに申し訳が立たない。だから浩子はもう一歩その考えを進めた。

 

 本質とはその人間の基盤であり、普段の反応もその基盤の上に成り立つものである。

 

 浩子自身、まだ人の本質をつかむ精度に自信が持てていないため、アプローチの数はなるべく増やしておきたい。それが普段の反応も見ることを思いつかせた。切羽詰まった状況に追い込むことも大事だが、そこでの反応と普段の反応との類似点を見出さねば実用的とは言えないだろう。自在に相手を追い込むことなど浩子にはまだ出来ないからだ。できれば早い段階で一度は追い込んだ状況を作っておきたいが、それは手が揃わなければ叶わない。だがそれ以外にも、もう一度流局まで持ち込んで手を開けさせたいという考えもあった。もし全員が手を開けてくれるなら三千点の点棒など安いものだ。情報はまだまだ足りていない。

 

 

 

 「あの、戒能プロ?」

 

 「はい、どうかしましたか?」

 

 「私には千里山の船久保選手がベタオリしているように見えるのですがどうなのでしょうか」

 

 「そうですね。正しい見方だと思いますよ」

 

 「でもそれをするには早すぎるような気が……」

 

 「非常にグッドな観点ですね。ですが申し訳ありません。私にもまだよくわからないんですよ」

 

 良子の目から見て、東二局の浩子の配牌は決して悪いものではなかった。素直に育てていれば和了る確率も高かったように思われる。だが画面の向こうの少女はそれを平気で投げ捨てている。ますます訳が分からない。見に徹するにしてもやり方がおかしいような気がする。せいぜい振り込まないようにオリていればいいだけの話だ。彼女のように極端に打つ必要などない。そもそも見に徹するなら東一局のはずだ。そこで彼女がやったのは奇妙なブラフであって見などではない。それともあれも見だとでも言うつもりなのだろうか。

 

 ベタオリを続ける浩子が振り込むはずもなく、浩子の対面がロンで和了った。3900のリードを奪われたが、浩子にとってそんなことはどうでもよかった。重要なのは対面が手牌を晒しているということである。それと捨牌を照らし合わせ、判断の基準を仮定する。同時に振り込んだ選手の捨牌も確認する。聴牌気配の察知ができていたのかどうか、できていたのならその牌がなぜ通りそうと感じたのか。あるいは大物手が仕上がっていたのかどうかを高速かつ丹念に考察する。もはや浩子は、ツイたツかないだけで麻雀をするつもりなどなかった。

 

 

 ( これは……、えー?マジですか……? )

 

 他家の和了宣言のあとの浩子の目線を追って、良子は確信に近い疑念を抱いた。おそらく次の局を見れば、それは疑う余地のない確信に変わるだろう。だがそれでもはいそうですか、と簡単に受け入れられるような事柄ではない。なにせ浩子がやろうとしているのは相手の情報を引き出すというレベルを超えてしまっている。思考判断ごと理解するなど前代未聞だ。プロでさえそんな芸当は聞いたこともない。そんなことを思いつくことも異常と言えるが、実行に移そうと考えるのもまともな神経とは言えそうにない。指導者がいるならぜひ話を聞いてみたいものだ、と良子は思った。いったい何を生み出すつもりなのか、と。

 

 その結論に至った途端に前二局の打ち回しが思い出される。すべて()()()だ。反応を見るためだけに無意味なブラフを打ち、どう動くかを確かめるためだけにそれなりの配牌を捨て去った。大した度胸だ、と良子は嘆息する。だがまだ体系としては未完成なのだろう。ちぐはぐな印象は拭えない。しかし対戦相手を含め、彼女の意図を完璧に理解している人間がどれだけいるだろうか。少なくともプロクラスの実力がなければ見抜くのは不可能だろう。そう考えた良子は船久保浩子の名誉を守ることにした。

 

 「素晴らしいですね、船久保選手。アンビリーバブルです」

 

 「戒能プロ?いま和了ったのは別の選手ですが……」

 

 「もちろん和了った彼女も見事でしたが、船久保選手はちょっと枠が違いますね」

 

 「どういうことでしょうか」

 

 「すみません。私には飛び立とうとするヒナの邪魔をする趣味はないので詳しくは説明しませんが、とんでもないことやってますよ、彼女」

 

 「とんでもないこと、ですか……」

 

 「イエス。これから洗練されてくればもっとワンダフルな選手になるでしょう」

 

 

―――――

 

 

 

 「さすが戒能プロだよー。ちゃんと浩子ちゃんのことわかってるっぽいよー」

 

 「豊音、どういうこと?」

 

 両手を胸の前で合わせて感激している豊音に胡桃が尋ねる。胡桃からすれば下校後の浩子の動向など知りたくても知ることができない。大学受験が控えているのだ。今日と明日は息抜きということで自分を納得させている。

 

 「あれはねー、相手が何を考えてるかを知るための打ち回しなんだよ」

 

 「は?」

 

 胡桃の口から素っ頓狂な声が出る。もともと豊音が説明の得意なタイプではないと知っているがそれにしてもよくわからない言い回しだ。まず相手の考えていることを知るということと打ち回しという単語は胡桃のなかではくっつかない。おそらく豊音特有の言葉選びだったのだろう。だから豊音にもう一度わかりやすい形で言い換えてもらうために視線で促す。

 

 豊音はにこにことしている。聞き返されていることに気が付いていないようだ。胡桃はため息をついて、今度は真後ろにいる白望に尋ねることにした。結局、胡桃が得られた回答は豊音とまったく同じものだった。麻雀は強くなると言語野に異常でもきたすのだろうか、と胡桃は頭を抱えた。

 

 

 「でもすごいですよね。たった二局見ただけで浩子のやってることがわかるなんて。戒能プロってどんな方なんですか?」

 

 「ごめんね、戒能さんのことはよく知らないんだ。彼女が頭角を現したのって私が一線退いてからのことだったから」

 

 なるほどそういえばそうか、と塞は納得する。ある意味で言えば戒能プロは幸せなのかもしれないし、あるいはその逆と言えるのかもしれない。小鍛治健夜が同じ戦場にいるということはそういうことだ。その壁の高さに絶望するか、自分を試すための試金石とするか。何にせよ目の前にいるこの女性はそういう位置に置かれている。余談だが健夜が目立っていないのは本人曰く変装しているからだそうだ。黒ぶちメガネをかけているだけなのだが。

 

 

 

 今の船久保浩子にとって親番であることなど興味の対象ですらない。支配しているのは飽くなき相手への探求心である。薄皮を一枚ずつ剥いでいくように次第に本質が見えてくる。ときおりノイズが入りこそするが、それはただ自身が至らないだけであって興味を失わせるような事柄ではない。もっと精確に、もっと速やかに。頭の中では打ち回しに関する反省がその場でされている。浩子の本日の目標は半荘一回で他家の本質に対する確信を持つことにある。自分で得た情報に全幅の信頼を置いてこそ価値が出るというものだからだ。

 

 

 すでに闘牌とは言えない浩子の実験は、当然のように最後まで続いた。

 

 

―――――

 

 

 

 蓋を開けてみれば、先鋒戦終了時での順位は三位だった。ツモ和了りによる支払いこそあったものの、浩子自身は振らず和了らずで通し、一位とそこまで差がつくことはなかった。過程がどうであれ、あの名門たる千里山を順位で上回った学校の二人は息巻いている。それはたしかに彼女たちを勢いづかせることになるだろうが、浩子はとくに気に留めることはなかった。千里山女子高校が牙を剥くのは、ここからである。

 

 控室に帰った浩子はその奥の方の長椅子の中央に腰を掛け、目を閉じていた。その思考の中心は先ほどの試合である。他人の目にどう映ったかはわからないが、浩子からするとそれは失敗と呼べるものだった。相手の本質に対して確信を持たなければならないのだが、一人もそれを得ることができなかったからだ。 “おおよそ” だとか “たぶん” などといった曖昧なものは最終的に頼れない。浩子が自身に対して課したハードルは高いようにも思われるが、本人にとっては最低限のものですらある。一度だけ深呼吸をして、先ほどの対局の牌譜を確認する。自分が採ることのできた打牌を振り返るためだ。

 

 「どうや、浩子。手ごたえはあったか?」

 

 「んー……。まだ練習が必要やと思いますわ」

 

 「モノには出来るんか?」

 

 「今日かどうかはわかりませんけど、少なくとも近いうちには」

 

 これまでデータを軸に戦ってきた浩子は、あまりぼかした言い方を好まない。あるいは麻雀において未知の要素の強いものが好きではないからデータに頼るようになったのかもしれないが、それはこの際どちらでもいいことだ。その浩子がはっきりと言い切ったということは、もうそれはほぼ事実に等しいといってもいい。真剣に牌譜を見つめる浩子をもう一度だけ見やり、雅枝は中堅と戦略を練るために離れていった。余談ではあるが、このあと千里山女子は十九万点で初戦を勝ち抜いた。

 

 

―――――

 

 

 

 晩秋の近づく時節柄、太陽は次第に沈むタイミングを早めており、ホールを一歩出てしまえば外の景色は夕焼け色に染まっている。吹く風は真昼のものとは明らかに性質を変えて、確実に体温を奪っていく。未だホールでは各校の対戦が行われている。初日は二回戦までのすべてを消化するため、かなりの強行軍となっている。場内と比べてホールの外の広場は驚くほど静かだ。せいぜいが落ち葉の吹かれる音といったところか。選手たちのいる会場は防音設備が行き届いていることもあり、どれだけの歓声が上がったところで外まで届いてくることはない。その静寂に満ちた空間に、戒能良子は立っていた。

 

 目の前のベンチでタバコをふかす男は、夕日がまぶしいのかそちらには背を向けていた。白髪がきらきらと陽を受けて暖かい色合いに変化している。顔は陰になっていてはっきりとはわからない。だが、あそこに座っている男は間違いなく赤木しげるだと良子は確信していた。

 

 「エクスキューズミー、一本いただけますか?」

 

 「……ふうん。プロってのは安月給なのか?」

 

 「……これでも賞とか獲ってるんですけどね」

 

 はあ、とため息をつく。なるほどこれは大物だ、と良子は内心舌を巻く。大概の人は戒能良子と接するとき、多かれ少なかれ動揺する。だが目の前の男にはそれが微塵も感じられない。それどころかどうでもいい人に対応しているかのような印象さえ受ける。

 

 「それで、何しに来たの?」

 

 「おや、男女の機微は苦手でしたか」

 

 「クク、飢えてるようには見えねえけどな」

 

 主導権を取れないものかと試してみるものの、これ以上はどうやら無意味のようだ。

 

 「……千里山の愛宕監督を訪ねましたら、あなたの名前が」

 

 「それで?」

 

 「船久保選手にあの戦法を仕込んだ方とぜひ話がしてみたいと思ったのですよ」

 

 赤木しげる。良子はまだプロになってからそれほど年月が経っているわけではないが、それでもこれまでにこの名前を何度聞かされてきたことか。小鍛治健夜を表舞台の生ける伝説とするのならこの男は裏の舞台の生ける伝説だ、と。それも麻雀を覚えたてで裏プロを負かしただの、たった二、三局で七万点もの差をひっくり返しただのと一笑に付したくなるような内容のものばかりだ。それを信じるかどうかは良子の勝手ではあるが、船久保浩子をあのように仕上げたとなっては話は別だった。

 

 ひとつ長い煙を吐いて、やっと赤木は良子の方へと視線を投げる。話をしたければするといい、と態度だけで示している。

 

 だが、言葉が出てこなかった。雰囲気に圧されているというわけでもない。聞いてみたい内容もホールを出るときには頭の中でまとめていたはずだ。それにもかかわらず、どうしてか音としてそれが発されることはなかった。

 

 朱色の無言の時間が流れる。それは実際には五分だったのかもしれないし、一時間は経っていたのかもしれない。妙に時間の感覚がいびつで良子には確信が持てなかった。気が付くと赤木の視線は良子から外され、先ほどのように夕日に背を向ける形となっていた。それでもまだ言葉は出なかった。

 

 「……そうだな、明日ここの仕事終わったら空いてるか?」

 

 沈黙を破ったのは赤木だった。

 

 「ふむ。ディナーのお誘いですか」

 

 「なんだ、本当に飢えてるのか?麻雀に誘ったつもりだったんだけどよ」

 

 くつくつと笑う赤木に対して、良子は顔をしかめていた。だが彼女のように人気も実力も兼ね備えているとなれば、こういうお誘いはけっこうあるので勘違いしても仕方のない部分ではあるだろう。それよりも良子からすれば願ってもない話だ。噂ではあの小鍛治健夜をさえ凌ぐと言われた裏の伝説が自分と麻雀をしようと言ってくれている。あちらの意図こそつかめないが、これに乗らない手はない。

 

 「では面子はこちらで揃えますよ」

 

 「ああ、じゃあそいつは任せた」

 

 「時間と……、そうですね、場所はどちらに?」

 

 「アンタの仕事が終わってからでいいさ。そこの角を曲がった雀荘にいるからよ」

 

 「オーケーです。それではまた明日に」

 

 

 良子が解説を務める千里山女子の試合はしばらく前に終わっている。シードだから今日は一試合しか組まれていないのだ。今やがらんとした解説室に良子は一人で座っていた。他の二回戦の試合を見ながら、明日誘えそうなプロをリストアップしていく。三箇牧や姫松の試合を解説しているプロを誘うことができれば理想的なのだが、あちらにも予定があるかもしれない。だから念のために候補を挙げておくことにしたのだ。ちなみに残念ながら場内では携帯の電波が遮断されているため、この場で連絡を取ることはできない。

 

 胸の内に渦巻くのは、興味と功名心。プロの間でまことしやかにささやかれ続けている伝説の正体と、それを破ることによる名誉を得たいという気持ちが良子の内側で暴れている。あくまで噂ではあるが、あの三尋木プロもあの男に完膚なきまでに打ち負かされたという。そこでもし自分があの男を上回れば、それは一つの証明になることは確実だ。たとえ半荘一回であっても、内容次第では打ち手の格というものが決まる。やはりプロの麻雀打ちとして勝負にギラつく姿がそこにはあった。

 

 

―――――

 

 

 

 帰りの電車で浩子の頭がぴこん、と跳ね上がる。それまではじっと紙の牌譜を見つめていたのだが、なにがあったのか目を見開いて今度は遠くを見ている。ついで隣に座っていた泉の背中をばしばしと叩き始めた。

 

 「ちょぉ!痛い!痛いですて!なんなんですか!?」

 

 「んー?いやなんでも」

 

 先のインターハイで先輩に邪悪とまで形容された笑顔を浮かべて浩子は答える。どう見ても何かあった顔やないですか、と抗議をしてくる泉は無視だ。秋季大会二日目は三回戦・準決勝・決勝の三試合が組まれている。トーナメント表を見る限り、浩子が点を稼がなかったからといって負けるような高校は決勝までぶつかることはない。浩子の予定では準決勝の場で、速度を含めてあの技術の雛型を完成させるつもりだ。理想で言えば東場で分析を終えておきたいところだが、今の感触からすると少なくとも南二局までは使うことになるだろう。この作業を赤木や健夜はだいたい東二局で終わらせるというのだから恐れ入る。

 

 どうして浩子が準決勝の場で雛型を作るつもりなのかといえば、決勝戦があるからである。大阪の頂点を決める戦いはこの秋季大会しかない。インハイ予選は南北に分かれるため、姫松がそこからは外れてしまう。だからこそこの三強が一堂に会する大会で負けるわけにはいかない。いくら千里山とはいえ、浩子を抜いた面子で勝ち切れるかと聞かれればそれは難しいと返ってくるだろう。逆に浩子がいるからといって勝てるような相手でもない。つまり決勝でチームとしての全力を出すために、浩子は完成を急ぐ必要があった。従妹の愛宕絹恵や現在の高二世代最強と目される荒川憩と当たれないのはいささか残念ではあるが、千里山女子が勝つために船久保浩子が手を抜くわけにはいかない。

 

 そういった浩子の思いは決して外に出ることはなく、部の仲間と車内の迷惑にならないように話に興じる。話題はやはり浩子のことが中心のようだ。普段は大阪にいないのだからそれも当然と言えるだろう。ときおり嘘や冗談を交えながら面白おかしく岩手での生活を話す姿は、年頃の女の子のものだった。

 

 

 晩秋の月は綺麗だ。大阪も都会とはいえ、寒くなれば空気も澄んでくる。部のみんなと別れてひとりで歩く帰り道の月はただぽっかりと浮かんでいるだけだった。浩子は手持ちのスマートフォンで明日の天気と気温を調べ、マフラーとか要るかな、などと思いを巡らせていた。

 

 

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 秋季大会二日目の天気予報は一日を通して曇りだった。空一面を薄い雲が覆っている。おそらく雨など降らないのだろうが、どこか折り畳み傘でも持っていきたくなるような気分にさせる天気だ。気温は昨日よりはっきりと低い。道行く人々の服装は一段と秋の終わりから冬の初めを意識したものとなっている。学校の制服はもう少し防寒性に気を使うべきではないか、と浩子はつらつらと思う。その首には水色のマフラーが巻かれており、いくら岩手に滞在しているからといって途端に寒さに慣れるわけではないようだ。

 

 会場の中は人でごった返していた。まだ出場校しか入場できないはずの時間なのだが、それでもかなりの数だ。見知った顔もいくらか見受けられる。浩子が会場内に入ると、一気に視線が浩子へと集まった。振らず和了らずで通した昨日の浩子の闘牌に対して戒能プロが褒めちぎったのだ、と試合が終わったあとにチームメイトに聞かされた。おそらく昨日の牌譜は研究されているだろうとは思ったが、浩子にしてみれば気にするような事柄ではない。浩子の真意に気付いたところで誰も打牌をやめることはできないのだから。

 

 

 千里山女子の試合前の控室はわりと騒がしい。伝統なのかそういった生徒が集まるのかは知らないが、雅枝は静かな控室の風景を見たことがない。さすがに規律がないとは言わないが、どちらかといえば自由な雰囲気の中で千里山は活動している。年齢に関係なく話ができる環境というのは、技術をやり取りする関係性の中では非常に重要なものとなる。だから親しみやすくするために騒がしくやっているのだろう、と雅枝は考えているが本当のところは誰も知らない。

 

 試合前だというのによくもまあぎゃあぎゃあと騒げるものだと雅枝は感心さえする。もちろんのこと緊張感というのは大事だが、それに呑まれてしまっては実力を発揮することは難しい。この辺りは大舞台の経験がモノをいう部分だったりするので、名門校の強みといってもいいだろう。一通り室内を見まわして雅枝はぱん、と手をたたく。部員たちの注意をこちらに引きつけ、ついでよく通る声で一言だけ室内に浸透させる。

 

 「ええか。とくに多くは注文せえへん。優勝や」

 

 ぴりっ、と少女たちの持つ空気がほんの短い間だけ変化する。勝つということはこの部において至上命題であり、なかば義務といっても差支えのないものである。常勝という看板は誇り高いものであると同時にきわめて重いものでもあり、それを背負うというのは生半可なことではない。気を引き締めた少女たちの様子を見て雅枝は満足し、ひとつだけ付け加えることにした。

 

 「そや、決勝は浩子もきちっと勝ちに行く言うてたからな。気合入れえよ?」

 

 その言葉の効果は見るまでもなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 今日は感覚が冴えている気がする、と浩子は感じていた。そんな経験などこれまでの競技人生で数えるほどしかない。対局場へと向かう足は自然と軽やかになる。

 

 ( ええなぁ、これ。昂るって言うんやったっけ )

 

 

 浩子はこの日、赤木と健夜の言う “一歩” を踏み出すことになる。

 

 

 

―――――

 

 

 

 スクリーン上で展開される浩子の打ち回しを白望はじっと静かに見つめる。浩子は自分の打ち方について、“相手の本質を暴く” とそう表現した。その言葉は、あの白髪の男に初めて質問したときの回答と被るものだった。その二人の言葉を踏まえた上でスクリーンを眺めるが、それでもやはり自力で彼女の打牌の意図するところをつかみ切るのは難しいようだ。それにしても早い、と白望は思う。すべてが通常のリズムで進行していくなかで、思考し、判断し、情報の取捨選択とその応用を顔色ひとつ変えずに行うなど自分にはとてもできそうにない。

 

 「……本気の浩子の相手をするのは、ダルい」

 

 ぼそっとつぶやく。白望と同じように浩子の思考を追ってみようとしたのだろう、塞と胡桃が同意の言葉を投げかけてくる。そちらのほうに視線を向けてみるとスクリーンを見ながらにこにこと笑顔を浮かべている健夜が目に入った。やはりこの人も規格外なのだろう。この会場にリアルタイムで解説できる人間がいるとすれば彼女以外にはいない。赤木はどこにいるかわからないから頭数には入れないことにする。

 

 

 ――― 南四局、三巡目。

 

 ( ()() )

 

 浩子の目の色が、変わった。

 

 同じ卓に座している三人の思考が、その捨牌から流れ込んでくる。彼女たちの一人ひとりがどの幅で手を広げて待っているのか、またそれを逆算して現在の手がどの程度のものなのかが急にはっきりと目に見えてくる。彼女たちの目線の動きが、指のわずかな迷いが、打牌の動きそのものが、すべて情報となって浩子に耳打ちをする。宮守では浩子が挑戦していることが知られてしまっているためになかなか豊音も白望も底を割らせてはくれないが、二週間に一度の千里山では思うさま経験させてもらっているこの感覚に間違いはない。

 

 なにより実戦で達成できたという事実が、浩子にとっては大きかった。ひとつの物事において、できる前とできた後の間には簡単には埋められない溝がある。たとえば子供のころの鉄棒や跳び箱などは、一度できてしまえば世界が変わったように動きが変わる。自分にはそれが可能だという認識が一気に恐怖を奪い去る。浩子もそれに近い状態になっていた。

 

 

 決勝では浩子が戦線に加わるということもあってか、三回戦における千里山女子の戦いぶりは圧巻と言えるものだった。浩子を除いた全員は当然のように各区間で一位を獲得し、大将戦では二条泉が他校をトバして準決勝へと勝ち上がった。一世代上の印象があまりにも強かったため弱体化の噂さえ流れていたが、その噂を吹き飛ばす程度には派手な勝ち上がり方をしてみせた。

 

 

―――――

 

 

 

 しん、と冷えた空気のなかを歩く。昼間に日差しがなかったのが大きな原因だろう、ここ数日で一番寒いような気さえする。これから麻雀を打とうというのに指先が冷えるのはあまり好ましいことではない。だから戒能良子は薄手のコートのポケットに手を突っ込んで歩く。今日行われた素晴らしい大会のことはいったん置いて、これからの時間は良子が自分自身のために集中しなければならない時間だ。場合によってはタイトル戦より重要となるかもしれない一戦が待っている。

 

 都合のいいことに面子はすぐに揃った。姫松と三箇牧の解説をそれぞれ務めたプロの予定がちょうどよく空いており、良子の頼みに乗ってくれたのだ。もし仮にそのプロたちに予定があったとしても、赤木しげるの名を出した時点で是が非でも着いてきていただろうが。赤木の指定した雀荘はホールの西口玄関から出て、ひとつめの角を曲がったところにある。とくに迷うこともなく指定された雀荘は見つかった。

 

 店内が見えるようになっているガラスの扉を押し、さっさと打つための手続きを済ませる。それなりに盛況ではあるようだが、いくつか卓は空いているようだ。すぐに打つには好条件である。目的の人物がどこにいるのかと見まわしてみると、赤木は休憩スペースでタバコをふかしていた。そのスペースには他にも人がいくらかいるのだが、なぜか赤木だけがくっきりと浮かび上がって他がかすんで見えるような気がした。

 

 「喫いすぎはあまり体に良くありませんよ」

 

 「なんだ、思ったより早いじゃねえか」

 

 休憩スペースにいた他の客が急に緊張し始める。目の前にいるのは戒能良子をはじめ、さっきまで高校生の秋季大会の解説をしていたプロなのだ。無理もないだろう。

 

 「……それにしても。船久保選手、彼女はどうやって鍛えたんです?」

 

 「俺は別に何もしちゃいねえさ。せいぜいが宿題出したってくらいだぜ?」

 

 良子は額に手をあてる。それだけであの技術が完成するわけがない。試しに彼女の牌譜を漁ってはみたが、昨日と今日やっていたような相手を探るような打ち筋はひとつも見つからなかった。少なくとも実戦で試すのはこの大会が初めてのはずだ。赤木の言う “宿題” さえやれば実行できるとでも言いたいのだろうか。冗談もほどほどにしてほしい、と良子は思う。

 

 「まあいいです。そこはポイントではありませんから。それより一局、お相手願います」

 

 「そう焦るなよ。サシウマはどうするんだ?」

 

 「サシウマ、ですか」

 

 「ん?」

 

 赤木が何を言っているのかわからない、という目でこちらを見ている。根本的に麻雀に対する見方が違うのだ、と良子はやっと理解した。裏の舞台とはそういう世界のことを指すのだ。直接なにかをやり取りするような麻雀はプロの世界には存在しない。良子たちがいる世界では勝利することで得られるのは栄誉と賞金であり、相手からなにかをもらうようなことなど少なくとも彼女には経験がない。一気に背筋が冷たくなったが、まずはこの男の要求を聞いてからでも遅くはないと良子は判断した。

 

 「そちらは何を?」

 

 「三尋木に連絡つくか?」

 

 「へ?」

 

 さすがにこれは良子も欠片たりとも予想していなかった。

 

 「み、三尋木って三尋木咏プロのことですか?」

 

 「ああ」

 

 「……えーと、噂ではあなたと三尋木プロはお知り合いだと聞いているのですが」

 

 「ああ、そうだな」

 

 「ご自分で連絡すればいいのでは?」

 

 「ん?ああ、俺は電話とか持ってねえからよ」

 

 良子はこのとき、赤木しげるには常識が通用しないことを痛いほどに理解した。この男が常に近くにいるという浩子に対して憐みの感情すら抱いた。浩子や健夜がわりと普通に接していることなど良子には知る由もない。

 

 「……まあ、三尋木プロの携帯なら知ってますからいいでしょう」

 

 「そうかい。じゃああんたはどうする?」

 

 「ふうむ、パッとは思いつきませんね。とりあえず保留ということにしておきましょう」

 

 それを聞いて、まあいいさ、と赤木がやっと立ち上がる。近くの灰皿でタバコの火をもみ消し、良子たちプロには目もくれずに空いている雀卓へと歩を進める。これから最強と目される人物とともに卓を囲むのだ。良子の気分はいやが上ににも高揚していた。

 

 席決めも滞りなく進み、半荘一回の取り決めがなされた。ルールは彼女たちが慣れ親しんでいるプロ基準のもの。プロ基準のものといっても特別なものは何もなく、一般的な雀荘で採用されているものである。

 

 対面に座った赤木を観察する。上位のプロから発せられる気迫のようなものは感じられない。なんというか、静謐さすら感じられるくらいだ。噂による前情報を抜きに考えるならば、強いとさえ思えない。たしかに集中力は高そうな気がするが、せいぜいそれくらいといったところだろう。何かをやりそうだという雰囲気さえない。

 

 それはちょうど理牌をしているときのことだった。ぴいん、と糸を張ったような音が聞こえた気がした。良子が驚いて顔を上げると、そこにはただ手牌をじっと見つめる赤木の姿があった。両隣のプロも同様に顔を上げていた。赤木の雰囲気が一変している。それどころか自分たちもその雰囲気に呑まれ、この卓が周囲から遮断されたようにすら感じる。威圧されているような感覚はない。しかし、そこには確かに息苦しさがあった。

 

 

―――――

 

 

 

 一般的な高校生はおよそ宿泊したことのないであろうハイ・クラスのホテルに塞をはじめとした宮守女子の面々が揃っていた。浩子の秋季大会を観戦することを決めたときに健夜がホテルを予約しておいてくれたのだ。はじめはその洗練された空気に居心地の悪ささえ感じていたが、二泊目の今日は馴染んでしまっていた。部屋は三人部屋を二つ取っており、その広さは別に一部屋で六人でも問題ないんじゃないか、と健夜を除く全員に思わせた。家具や調度品はこれまで見たこともないような高級な材質と意匠がこらされており、洗面台でさえ騒ぐ対象になるほどだった。

 

 明日は月曜日で本来なら学校の授業があるのだが、すでに十一月に差し掛かろうとしている今の時期は、受験生である三年生は半ば自由登校の許可をもらっているようなものであり、それに甘えて二泊三日の旅程を敢行したのである。同じ日程で過ごしている浩子は事前に連絡を入れているとしても間違いなく欠席だが。

 

 沈みすぎず、かといって反発もしすぎない、とても座り心地のいいベッドに腰を掛けて塞たちは話をしている。誰かが入浴している間は雑談に花を咲かせた。岩手では見たことのないバラエティ番組をBGMにして彼女たちは笑う。インターハイに出るような高校生は比較的特別視されがちだが、彼女たちは選手である前に高校生である。くだらないことで友達と笑いあっている姿がよく似合う。

 

 

 「ねえ、二人に聞きたいんだけどさ、浩子のアレとどう戦うの?」

 

 全員が入浴を済ませ、車座になって話をしている。あと一時間もすれば日付も変わるような時間帯だ。テレビは国際関連のニュースを流している。

 

 「えーと、私は使い分けでなんとかしてるよー」

 

 「……最近はたまにブラフを混ぜるようにしてる」

 

 塞はそれを聞いて驚いた。胡桃もエイスリンも二人の言葉の意味は理解しているだろう。豊音の能力は六種類あり、普段はせいぜい二つ使うのがいいところだ。それを全部使って “なんとか” とはなかなか想像しにくい。白望にしてもそうだ。彼女は独特のタイミングで自分の手牌について思考し、ときおり正着とはいい難い判断をすることがある。それが結果的には常に正しいものとなるのだから、まっすぐ進むだけで比類なき強さを見せることができた。その白望にブラフを使わせるなどというのも塞からすれば不可能に思えることだった。

 

 話としては聞いているし論理としてはわからなくもないが、改めて考えてみると途方もないことだ、と塞は思う。大雑把な解釈としては手牌や点棒状況、あるいは親かどうかなどその他もろもろの環境を整えてあげれば、浩子は分析を終えた人の打ち筋を完璧にトレースできるということだ。トレースそのものに意味があるとは思わないが、打ちづらいことこの上ない。仮に相手が浩子が分析することを事前に知っていたとしても、精神的な動揺は止められないのではないだろうか。それにどうせ浩子のことだ、事前に知られたとしても逆にそれを利用さえしてみせるだろう。今日の対局を見ればそう考えるのも不思議ではないはずだ。もはやあの子の敵は偶然や運の領域にしか存在しないのではないかとさえ思えた。

 

 おや、と塞は考え直す。運の領域に踏み込めないのなら完全ではない。

 

 「あの、健夜さん。浩子の打ち方ってさすがに偶然には対応できないですよね?」

 

 「うん、今はまだそうだね」

 

 「ちょーっと待ってください!今すっごく聞き捨てならない単語が!」

 

 「それよりも先に覚えないといけないこともあるしね」

 

 塞は頭を抱える。偶然や運の領域に踏み込めるということなのか。それはもはやオカルト能力の領分ではないのか。だがしかし浩子に異能は馴染まないとトシも断言している。だが健夜のトーンは “やろうと思えばやれるよ” くらいのものだった。この人は浩子をいったいどこへ連れていこうというのだろう。もしかしたら浩子はプロになって、“小鍛治健夜の後継者” なんて呼ばれるようになるのかもしれない。

 

 妄想と言ってもいいくらいの想像を塞は頭から追い払い、ベッドから立ち上がって大阪の街を見下ろせる窓へと歩み寄る。眼下にひろがる景色は、ネオンや照明がきらきらと輝いてすこし騒がしく感じられた。あの光のひとつひとつに人が息づいているのだと思うと不思議な感じすらしてくる。こうやって豪勢なホテルの上の階から街を見下ろすなんて今後しばらくは体験できないだろうから眺めてはみたが、塞にはどうやらそこまでお気に召さなかったようだ。それよりはみんなと話したりベッドで飛び跳ねて遊んでいるほうが肌に合っているようで、すぐに窓から離れていってしまった。

 

 

 ひとしきり浩子に関する話や雑談を楽しんで、彼女たちはそろそろ明日に備えて寝ることに決めた。明日はちょっとだけ大阪観光をしてから岩手に帰るのだ。きちんと休んでおかねば明日に影響が出てしまう。事前に決めておいた部屋割りに分かれてそれぞれベッドにつく。目を閉じた彼女たちが何を考えているのかはわからないが、その表情から心地よく休息を取るだろうことは簡単に見て取れた。

 

 

―――――

 

 

 

 浩子は深いため息をつく。たしかにこの二日間は気を張ってはいたが、まさかここまで疲労感に襲われるとは思っていなかった。入浴中に思い切り腕を伸ばしたりしてみたが、筋肉がほぐれていく感じがあれだけ明瞭に感じられたのもあまり記憶にない。それだけやれることをやったということなのだろうが、なんだかカッコつかないな、なんて思ってしまう。浩子のイメージのなかでの部長というのは、いつだって先頭に立っている柱のような存在である。それに近づくためには疲れてなんていられないと思うが、人前でないのなら別にいいのかな、とも思う。それ以前にインターハイは予選から連戦が続くのだから、この戦法で普段から戦えるようにしておく必要はあるが。

 

 気を抜いてしまえばまぶたが下りてきてしまいそうになるなかで、浩子は今日の試合を振りかえる。決勝ではまさにイメージ通りに試合を運ぶことができた。南二局以降は支配したと言ってもいいだろう。自分の予測したとおりに相手を討ち取ることは非常に気分がいい。推測が精確だったことの証明でもあるし、なにより成長を実感できるからだ。親番こそ二本場でツモられて流されてしまったが、きちんと区間一位を取ることもできた。もちろん改善点は局後に牌譜を見ればいくつも出てきたが、それでも満足のいく内容と言っていいだろう。

 

 いつもは二週間に一度しか帰ってこない部屋のベッドに寝転ぶ。電気をつけていない真っ暗な中で天井を見上げる。正直なところ、布団をかぶるために手を動かすのも枕を頭に持ってくるのも億劫なくらいだ。ひどくゆっくりと布団のなかに潜り込んで目を閉じる。よく眠れそうな疲れだな、などと思いながら、浩子は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 



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番外編・ろ

―――――

 

 

 

 『ふくよかすこやかインハイレディオ!』と二人の声のジングルが流される。

 

 

 「ほらほらCM明けだぞう!ラジオの音量上げろよお前ら!」

 

 「こーこちゃん!?インハイの解説のあとでも怒られたのに!」

 

 「ちっちっちっ、そんなこと気にしてたら局アナなんてやってられないぜ?」

 

 「なんで中途半端にキャラ変えてるの……」

 

 「さてさて、じゃあ次の話題にいこっか」

 

 「あ、触れることすらしないんだ」

 

 「実際さ、生で見てて思ったんだけど、今年の三年生って真面目に粒ぞろいじゃない?」

 

 「……んー、まぁいろんな選手がいたのは確かだね」

 

 「でさ、そのうちの何人かはプロに行くはずだと思うんだよね」

 

 「うん」

 

 「でねでね、気になるのがさ、今の高校三年生たちがプロ入りしてどれだけそっちで通用するのかなーって」

 

 「難しいんじゃないかな」

 

 「へ?」

 

 「だから、難しいんじゃないかなって」

 

 「え、だって高校無敗のチャンピオンとかいるんだよ?」

 

 「……あのね、こーこちゃん。あんまりプロを舐めちゃだめだよ」

 

 「あ、すごい。ラジオだから顔映らないけどすこやんがプロの顔してる」

 

 「たとえばね、プロとそうでない一般の人が対局したら勝率がどうなるかわかる?」

 

 「んー、詳しい数字はわからなけど、麻雀って運要素けっこうあるじゃん?だからプロが負けることだってあるでしょ」

 

 「そこから違うんだよ、こーこちゃん」

 

 「ええっ!?まさかプロ全員がすこやんじゃあるまいし!」

 

 「その言い方はどうかと思うけど、実力に開きがあればそうなるのは当然だよ」

 

 「それ本当に麻雀なの?」

 

 「お給料もらって仕事としてやるわけだから百戦して百勝するのがある意味で言えば当然な契約のわけだからね」

 

 「つまり高校生とプロにもそれだけ差があるってこと?」

 

 「少なくとも現時点でならトッププロには手も足も出ないと思うよ」

 

 「現時点で、ってことは?」

 

 「年が明けたら入団発表の時期でしょ?」

 

 「あー、それからチームで練習してパワーアップってことかぁ」

 

 「まあ、すぐにデビューじゃなくてじっくり鍛えるのもいいと思うんだけどね」

 

 「ふーん。……ん?ちょっと待って」

 

 「どうしたの?」

 

 「さっきは納得しちゃったけど、冷静に考えたらおかしいよね?」

 

 「ふつうの人はプロに勝てないってやつ?」

 

 「そうそう。だって山から牌ひいてくるんでしょ?運ゲーじゃん」

 

 「運以外の部分を技術で塗りつぶしちゃえば、ってことだよ」

 

 「なにかすごく間違ってる気がするけど、目の前にいるのすこやんなんだよなあ……」

 

 「さすがに天和連発とかされたら無理だけど、そうじゃなければね」

 

 「……麻雀っていったい何なの」

 

 「あ、勘違いしちゃダメだよ?プロの人ってもちろん運も強いんだよ」

 

 「へ?技術で負け無しで更に運まであるの?どんな怪物だ、ってそれがトッププロなのか」

 

 「運も技術もないと厳しいよね」

 

 「はー……、なんと言っていいのやら」

 

 「だから一年目から期待するのってけっこう酷なんだよ」

 

 「まあそれでもね、すこやんの予想を上回ってほしいとは思うけどね」

 

 「そういう意味でなら私も裏切ってもらいたいかな」

 

 「数々の男に裏切られ続けたすこやんが言うと重みが違うよね!」

 

 「えっ!?なんか私すごいダメな女みたいな扱いだけど!?」

 

 「違うの?」

 

 「推測でものを言うのやめようよ!これ公共の電波に乗ってるんだよ!?」

 

 「だーいじょうぶだって。みんな話半分で聞いてるよ」

 

 「半分でもダメだよ!まるっきりの嘘だよ!」

 

 「すこやん、わかった。わかったから涙目で棍棒を振りかぶるのはやめよう」

 

 「持ってないからね!?」

 

 「はい、じゃあオチもついたところでそろそろお別れの時間だね」

 

 「ついてないよ!?」

 

 「それではふくよかすこやかインハイレディオ!まった来週ー!」

 

 「ええー……?ま、また来週……」

 

 

 どこか楽しげなジングルが次第にフェードアウトしていき、牌の山を崩す音がする。次の番組は大御所の俳優が映画について語るものだと番組表には書いてあった。

 

 

 

 

 

 




インハイレディオ編おしまい。


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十一

―――――

 

 

 

 振動音と一世代前のロック・ミュージックが着信を知らせる。

 

 ( 寝ようと思った矢先に……。ま、明日休みだから別にいいんだけどねぃ )

 

 自己主張を続けるスマートフォンのもとへとスリッパで向かう。十月の終わりの夜なんてものは沖縄でもなければ冷える。この時期のフローリングの床を素足で歩きたがる二十代の女性はいないだろう。ひらりひらりと寝間着の袖や裾が揺れる。

 

 いざ電話を手に取ろうとしたその瞬間、ひどくイヤな感じが彼女の脳裏をかすめた。ディスプレイには “戒能良子” と名前が表示されている。彼女からの電話で悪い事態が発生するなど想像しにくいのだが、こういうときの三尋木咏の勘というものはどういうわけだかよく当たる。一番の問題は、最終的にこの電話からもたらされる事柄はどうあっても回避できないだろう、と勘がささやいていることだった。

 

 咏は画面を睨んで少しのあいだ考えていたが、結局は電話に出ることにした。画面をタッチしようとする指はその小さな体躯に比べて細長く、美しいものだった。“通話” の箇所に指が触れ、こちらとあちらが電波でつながる。携帯電話の仕組みなど知らないし知る気もないが、ほとんど魔法だよな、と咏は思う。線でつながっている固定電話でさえきっと自分には想像もつかないような技術が使われているのだろうし。そういった余計なことで気を紛らわせながら咏は電話に出た。

 

 

 「もしもし?」

 

 咏の表情が一拍置いて苦々しいものに変わっていく。決して人前では見られない表情だ。スリッパをぱたぱたと鳴らしながらベッドへと向かい、そのまま腰かける。

 

 「ふん、戒能ちゃんだと思ったらお前だとか心臓に悪すぎじゃね?わかんねーけど」

 

 「あー、そういうのはいいから要件をさっさと話しなよ」

 

 「……年末?ちっと待ってな」

 

 今後の予定が書きこまれた手帳を取りに、鞄の置いてあるリビングルームへと歩き始める。実際のところ、咏は年末年始には休みを入れていることを忘れてはいなかったが、それを素直に電話の相手に告げるかどうかというのは別問題だった。

 

 「そうさねぇ、具体的な日付の指定ってのは?」

 

 「……まぁいいだろ。で、目的は別にあんだろ?知らんけど」

 

 「あっそ。ま、私が勝てばどうでもいい話にゃ違いないねぃ」

 

 「ああ、首洗って待ってなよ、赤木。じゃーね」

 

 通話を終えてスマートフォンをベッドの上に放り投げる。耳を澄ませると、防音設備の行き届いたマンションの外から車の走行音が聞こえてくる。その低い唸りは、いつだってあなたの人生から離れないよ、と主張しているような気がした。

 

 

―――――

 

 

 

 月が替わって一気に色が変わったように感じられる空の下、浩子はクラスメイトとともに学校へ向かっていた。話題は今日の時間割についてだ。やれ日本史の授業は眠くなるだの古典が異国の言葉にしか思えないだの、日本全国の各世代で聞かれる言葉がここでも聞かれた。しかしそんな愚痴を続けてもしょうがないので、千里山の友達の授業中の失敗談などで笑いながら下駄箱のほうへと歩いていく。

 

 もう浩子が宮守女子に通い始めて二ヶ月が経った。フツウの女子高生とは価値を置いている場所が多少は違うとはいえ、もともとが親しみやすい性格のおかげかクラスの中心的存在として過ごすようになっている。文化祭のときの裏方としての働きぶりは隣の席の子をして “浩子は起業とかすればいいんじゃない?” と言わしめるようなものだった。クラスの利益を計算して高笑いしていた姿はクラスメイトたちの記憶に新しい。ほかにも数学の授業の後には浩子の机のまわりに生徒が殺到するなどというシーンも見受けられた。学校の授業に限らず、難しいなぞなぞ等の問題を解いたときなどには中指で眼鏡の位置を直すしぐさがパターンとして定着してしまっているそうだ。

 

 千里山から離れて変わったことの一つが、料理への意識である。実家にいたころは当然のように母親にお弁当を作ってもらっていたのだが、宮守ではそうはいかなかったのだ。トシは教師ということもあって朝はかなり早くに出ていってしまう。そうなると朝食は昨日の残り物が中心となるのだが、時にはお弁当にしにくいものだってある。その場合は自力で作るか学食で済ませるかのどちらかになるのだが、頻繁に学食を利用するわけにもいかない。浩子の手持ちにも限度というものがある。そこで豊音に目を向けてみると、彼女は鼻歌を歌いながらお弁当のおかずを作っていた。これは浩子にとって衝撃だった。たしかにインターハイ前の合宿を行う際に、体の強くない先輩のために栄養士の方に料理メニューの指示を仰いだことはある。だがどちらかといえば実戦経験は少ないほうに分類されるのは間違いない。それならば、と浩子は挑戦することに決めた。せっかくの麻雀漬けではない日々なのだ、大きなチャンスだ、と浩子は気合を入れた。余談ではあるが、その決意をした数日後に浩子は母へと感謝のメールを送ったという。

 

 

 その積み上げられた素敵な日常は、これから浩子にちょっとだけ辛い体験をさせることになる。

 

 

―――――

 

 

 

 「おい、ひろ、二学期が終わる前には出る準備整えときな」

 

 それはしばらく前に入浴を済ませて、豊音とテレビを観ていたときのことだった。赤木は居間の入り口を通りがかったように上半身だけをのぞかせており、言うだけ言ったかと思えばそのまま奥へと引っ込んでいってしまった。うすうすわかっていたこととはいえ、それはやはり浩子の心に暗い影を落とした。いっしょにテレビを観ていた豊音がぽかんとした顔で浩子を見ている。ついでじわりと目尻に涙が溜まっていく。

 

 「ひっ、浩子ちゃん、いなくなっちゃうの……?」

 

 「あはは……」

 

 はっきりとその通りだ、と言うのもためらわれる。目の前のダムが決壊してしまいそうだ。もともとこの宮守にやってきたのは麻雀のトレーニングのためであり、それを考えればいずれここから離れるであろうことは浩子にはわかっていた。ただあまりにも居心地が良すぎて、その事実に蓋をしてしまっていたのだ。浩子は麻雀のことを差し引いてもこの宮守が大好きだった。麻雀部の方々も、クラスメイトたちも、千里山とはまた違う暖かみがあった。それだけに離れなければならないのは胸が痛む。

 

 すこしさみしげな笑みを浮かべて、浩子は豊音に語り掛ける。

 

 「大丈夫ですよ、豊音さん。いつだって会えますよ」

 

 「でもでも、ここからいなくなっちゃうんでしょ……?」

 

 手で拭われることもなく、隠されることもなく、長い下睫毛を湿らせてぽろぽろと零れていく。

 

 「次に会うときはとびきり麻雀強くなっておきますから、ね?」

 

 「……ふふっ、私もうプロだよー?」

 

 「ま、師匠が師匠なんで」

 

 「それはちょっと笑えないかなー」

 

 

 

 とりあえず宮守麻雀部の先輩方に二学期いっぱいで岩手を離れることをメールしたあと、浩子は自室として借りている部屋の畳の上に寝転がっていた。クラスメイトには明日言えばいいだろう。まだ十一月に入ったばかりだし、即座にいなくなるわけでもないのだから遅すぎるということはない。しかし今度はどこに連れていかれるのだろうか。もう並大抵のことでは驚かないくらいにタフになったと浩子は自分で思う。だいいち最初の訪問が小鍛治健夜なのだ。麻雀打ちにとってそれ以上の衝撃などどれだけあるだろうか。

 

 先のことを考えたところでどうしようもないと気づいた浩子は自分の麻雀へと思いを馳せる。もはや習慣になったと言っていいだろう。打ちながら相手の思考の源泉をつかむ技術は速度に揺らぎこそあるものの、習得はできた。だがもちろん他にも課題はある。先日の秋季大会では当たることのなかったオカルト能力持ち、とりわけ魔物級の対策が確立できていないのだ。手段そのものはだいぶ前にたどり着いているのだが、実行するには経験がなければどうしようもないだろう。能力を使わせないように誘導する打ち回し、と浩子は口に出してみる。いまひとつ実感のこもらない言葉だった。

 

 たとえば力を持っている人間がそれを使いたくなくなるような状況はどのようなものか。端的に言ってしまえばそれを作り出すことが浩子のさしあたってのゴールだ。それについては浩子自身も理解はしている。しかし浩子にはそういった特殊なものはないから、ひたすら想像に頼ることになってしまう。あるいは知り合いの異能持ちに聞いてみようかとも思ったが、そんな状況に追い込まれた経験のあるものなどいないだろう、と考え直す。肉体的負担から能力の使用を控える先輩はいたが、これは例外だ。だから浩子は、自分が能力を持っていると仮定して想像を膨らませるという手段をとることにした。

 

 この作業は浩子が考えていたよりもはるかに消耗するものだった。オカルト能力を持ってしまえば、打ち方が根本的に変わるのだ。牌効率のような一般的に通じる論理がことごとく捻じ曲げられていく。特定の条件下で欲しい牌が引けるような能力ならば、それはその特定の条件下まで必死で持っていくに決まっている。こうやってオカルト持ちの闘牌を想像することは、これまでに浩子が培ってきた基本的な麻雀の考え方をいったん放棄することと同義である。それは小さなころから麻雀に親しんできたからこそ、余計に疲れる作業だった。

 

 

 苦しみながらも何人かの知っている能力持ちの麻雀をシミュレートして至った結論の一つは、予想していたとおりに単純なものだった。対抗策を握られていたら、そのオカルトは使いにくい。仮に一巡先の未来が見える能力を持っていたとして、未来を見た後に手を変えられたらどうしようもない。もちろんそれは能力の発動が見破られるという条件のもとでしか成り立たないものではあるが。ならば、と浩子は思考を進める。ならば対抗策を握られたときのその人間はどのような感情を持ちうるのか。怖れだ。少なくともそれに類するものが感情として起きるはずだ。それが相手を縛り付ける。それなら自分のするべきことは何か、と浩子は考える。()()()()()()()()()()()と恐怖を植え付けることが最善のように思われた。

 

 ( なんや思いっきり悪役みたいやんなぁ )

 

 寝転びながら苦笑する。たかだか十七年やらそこらを生きただけの女子高生が悪役とはいったいどんな世界だ、と。だが考えてみれば麻雀という競技に正義の味方がいるというのもなんだか変な話で、本当はそういう考え方自体がおかしいのかもしれない。それでもどちらかといえば悪役の方が自分に似合っているのではないかと考えてしまうあたり、浩子は案外素直な面を持っているのかもしれない。

 

 外では浩子の知らない虫が鳴いている。真似をするのも文字にするのも難しそうだ。できそうだからといって別に真似をしてみせるわけではないけれど。月は屋根の真上にあるようで、庇が地面に影を投げかけている。まるで月明かりのある世界とない世界のふたつに分けられてしまったかのような錯覚を覚える。浩子は自分がない側の世界に含まれていることについてはとくに文句を言う様子はないようだった。

 

 

―――――

 

 

 

 紅葉が始まると宮守の景色は一変する。この季節の葉の色を綺麗だと思うのは見られる期間が短いからだろうか。それとも色そのものに魅力を感じているからなのだろうか。高校へと向かうバスに揺られながら塞は思う。散り始めると厄介なことこの上ないのだが、今から考えても仕方がないから目に映る変化を楽しむことにする。やっと車内に暖房が入るようになったバスはときおり弾みながら進んでいく。

 

 三年生の教室は受験に向かってピリピリし始めている。部活をやっていた生徒の多くは夏休みに入ってからが受験勉強の本番で、帰宅部だった生徒も大抵はそれに合わせて勉強を本格化させる。もちろん意識の高い生徒はもっと早い段階からきっちりとした準備を始めているが。だから塞が教室に入ってもクラスメイトが全員揃っているような日はここ最近でめっきり少なくなった。塞もちょくちょく授業には出ないで図書室で自習するようになってきた。環境が変わっていくな、と塞はセンチメンタルになったりもする。

 

 ( 浩子もここから離れちゃうんだもんなぁ…… )

 

 図書室はひどく静かで、生徒たちもそれぞれ集中したいのか距離をとって座っている。ときおり休憩を挟んだのかため息をつく音が聞こえてくる。室内にいる人がみんな机に向かってノートや参考書を広げている景色は奇妙な感じを塞に与えた。一年前どころか半年前でさえこんなことをしている同級生は一人もいなかったのに。時間の流れは目には見えないが、しっかりと状況をどこかに押し進めていく。

 

 

 

 「だからさ、二学期が終わる直前辺りでお別れ会でもやろうと思うんだけど」

 

 「そだね。私もやりたいかな」

 

 半ば賛成してもらえることを確信していたのか、塞は小さく笑んで胡桃の隣の席に座る。宮守女子高校麻雀部は人数が五人しかいないこともあってか結びつきが非常に強かった。しかしそれでも進路はそれぞれ変わってくる。普通に考えるのなら卒業式のあとにでも集まればよさそうなものだが、実はそれだと流れてしまう可能性があった。姉帯豊音のプロ入りがそれにあたる。豊音がプロチームの練習に参加しなければならない場合、おそらくこちらでゆっくりとすることは難しい。だから失礼な言い方だとは思うが、浩子が宮守を離れることはいいきっかけになると塞は考えた。もちろん浩子と離れがたいからこそお別れ会をやるというのもある。一挙両得というのはこの場合使い方が違うのかな、と塞は思う。

 

 

 この塞の企画はきちんと実を結んで、全員が離れ離れになる前に揃って過ごす最後の時間を提供することになった。バカみたいに笑って騒ぐ姿は、微笑ましくてどこか痛ましいものだった。別に彼女たちの今生の別れというわけではないのだが、それでも本人たちにとってはひとつの世界の終わりのかたちだったのかもしれない。十二月に入ってから何度目かわからない少し水分を多めに含んだ雪が彼女たちの頬を赤くしていた。決して積もることのないであろう雪が降りやむ気配はなかったが、六人の少女の時間はきちんと過ぎ去って行った。浩子にとっても決して忘れられない一日になったのは事実だが、それはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 「で、今度はどこに行くんです?」

 

 コートを羽織った制服姿のまま浩子は赤木に尋ねる。

 

 「ん?横浜さ」

 

 おや、と浩子は片眉を上げる。たしか茨城から出るときの選択肢は岩手か九州だったはずだ。てっきりこれから九州に行くものだと思っていた。駅はこれから帰省あるいは旅行に行くだろう人々であふれかえっている。そのおかげか外と比べて暖かい。口元まで上げたマフラーの位置を下げ、コートのポケットから手を出す。

 

 「中華街かあ」

 

 健夜は幸せそうに表情をほころばせている。もう彼女が一緒にいるのが浩子にとっては当たり前なのでとくに大きなリアクションを取ることもない。それどころかどこかいいお店知ってるんですか、なんて聞いている有様である。日本全国を探しても小鍛治健夜を相手に緊張することなく話ができる高校生など浩子しかいないだろう。もともと緊張とはあまり縁のない性格だったが、赤木と出会って以降それに磨きがかかっているように見えるのは気のせいではない。

 

 新幹線の窓から見える空はまだまだ青い。なにせ浩子は終業式からまっすぐ駅に向かってきたのだ。このぶんだと日が沈む前に横浜に到着しそうだ。三人分の指定席の窓際でそんなことを思う。車内は人工的でやわらかい光で満たされており、そのなかで乗るや否や眠りにつく人や駅弁を開く人、読書を始める人など様々な人が見られる。浩子はとくにすることが思いつかなかったため、健夜と雑談をすることに決めた。

 

 

 「ところで健夜さん、なんで横浜に行くんか知ってます?」

 

 「まあだいたい予想はつくけど、断定はしないほうがいいかな」

 

 少し眉を困らせて言葉を濁す。浩子はこういう態度をとるときの健夜は本当に予想をしていて、その予想がほぼ当たっていることを知っている。だからおそらく中華料理を食べに行くだけ、というわけではないのだろう。

 

 秋季大会の前に浩子は第二の宿題である “打牌” について答え合わせをしていた。だが赤木の返答は、浩子の思っていたものと違っていた。いわく、“それじゃあ半分だ” 。浩子は相手の打牌の仕草が情報源になることがその解答だとてっきり思い込んでいた。もちろん赤木が半分だ、と言うだけあってそれは有用な情報源になった。それは直後の秋季大会でも使ったのだから実感としてよくわかっている。では残りの半分とはいったい何なのか。それがここしばらくの浩子の空いた時間に考えるテーマであった。

 

 手詰まり、というやつだろうか。赤木から出される宿題は常にそういった感じを浩子に与える。こういうときは灯台下暗し、といって答えは思っている以上に近くにあったりするものなのだが、じゃあ打牌の近くってどこだとなればそもそも近いも遠いもない気がする。いったん眼鏡を外して目の周りを軽く揉む。ここのところずっと頭を使いっぱなしだ。テスト勉強よりもずっと頭を使っているんじゃないのか、とひとつ息を吐く。新幹線は最高速を維持したまま進んでいく。

 

 

 新幹線の停まる新横浜は一般的な日本人が思う横浜のイメージとは遠い。そもそも横浜に新幹線が停まらないことを知らない人もいることだろう。あまり鉄道に詳しくない浩子もそのうちの一人であり、新横浜で下りて失礼なリアクションを取ってしまったことは避けがたいことだった。

 

 「おい、ひろ」

 

 普段はあまり自分から声をかけることのない赤木が珍しく話しかける。浩子はちょうどそのとき暖かいペットボトルのお茶を飲んでいたので、視線を投げて返事をする。

 

 「明日、なんとかあいつから一回和了ってみろ」

 

 「へ?」

 

 無論この横浜に来た目的が麻雀なのはわかっている。そして打って成長しなければならないのも自分だと浩子は理解している。そうして先の赤木の発言も含めて考えると、まさかと言いたくなるような結論が出ることに浩子は気づいた。横浜。なんとか一回和了る。健夜の困り眉。推測するには十分すぎる材料だ。虎穴に入らずんば虎子を得ずとも言うが、これは虎に食われてしまう可能性のほうが高いことに目をつぶった格言だ。おそらく自分は現役最強の虎と相対することになる、と浩子は悟った。

 

 

 翌日は日こそ出ているものの雲の多い、なんとも煮え切らない天気だった。みなとみらいにある喫茶店の窓から見える景色はなかなかだが、空模様がなんとも残念だ。赤木が待ち合わせ場所だと言って入ったこの喫茶店はそれなりに値段も張るようだ。コーヒー通の人ならば豆がどうだの焙煎がこうだのと話もできるのだろうが、生憎と浩子は詳しくない。というより普段からコーヒーを飲むわけでもないので味の差も正直わからないといったところだ。ただ、千里山の友達が言うほどブラックは飲めないとは思わない。

 

 扉が開いて、いらっしゃいませ、とよく通る店員の声が聞こえる。同時にからから、と音が聞こえた。木でできた軽い何かが立てる音だ。浩子は確信する。赤木がこの年の瀬に指定した相手は、まさかの日本代表プレイヤーだ。

 

 「よーっす、調子はどーだい、って……ん?おっほ!すこやんじゃんか!」

 

 綺麗な着物を揺らしながら、けらけらと楽しそうに笑う。

 

 「おや?そこのメガネの子は……、知ってるぜぃ?キミ、千里山の船久保ちゃんだろ」

 

 

 

 

 

 

 



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十二

―――――

 

 

 

 誰かが、三尋木咏は燃え盛る火炎の花だ、と評した。

 

 嫣然としたつかみどころのない笑みは見るものを否応なしに惹きつける。ひらひらと舞う彼女の袖や扇はまるで蝶のように見える。彼女が卓に着くと同時にそこは彼女だけのステージに変わる。誰も三尋木咏から目が離せなくなるのだ。腕を伸ばして山から牌を自摸る動作も、自分の手牌にわずかな間だけ目を配る仕草も、ぱん、と弾けるように扇を開くその様も、一挙手一投足に観客たちは魅入られる。その打ち筋は炎のように自由に揺らめき、不用意に近づいた者を焼き尽くす。誰も手を触れてはいけない、灼熱の美しい花。

 

 浩子も何度となく三尋木咏の闘牌をテレビで観てきたが、そのたびにただ感嘆の声を洩らすだけだった。他の選手が同じ打ち回しをしたところで何も思わないのだろうが、彼女が打つだけでそれは華麗なものへと姿を変える。そうやってテレビの前の観客さえも巻き込んで、三尋木咏は力を証明する。前シーズン、所属する横浜ロードスターズの優勝を決めたあの試合がいまだに語り草となっているのは故のないことではない。

 

 

 「こないだ戒能ちゃんがえっらいキミのこと褒めてたぜ?船久保ちゃん」

 

 「え、戒能プロがですか」

 

 「そーそー。どっかの大会の解説やったときに見かけて、いたく気に入ったんだってさ」

 

 個室を予約しているという雀荘へと向かう最中、咏は心から楽しそうに話しかける。浩子からすればプロに気に入ってもらえるというのは御の字なのだが、面識がないためどう答えていいのかわからない。ただ悪い気はしなかったので、それは嬉しい、と素直に返事をしておいた。

 

 「戒能ちゃんが気に入った打ち筋ってのもそうだけどさ、これどういう集まりなの?」

 

 「なあに、ちょっと預かってるってだけの話さ」

 

 「私は、ええと……。助手?」

 

 「なんだい赤木。お前ちょっと見ない間に冗談なんて言えるようになったの?」

 

 「そんなつもりはねえんだけどな……」

 

 「おいおいおいおい、お前そんなキャラじゃないだろ?いや知らんけど」

 

 「クク、まったくどいつもこいつもよ……」

 

 目を丸くして咏は健夜に視線を投げる。赤木と咏がどんな付き合いをしているのかなど浩子にはまったくわからないが、それでもこの反応は納得のようだ。視線を投げられた健夜は健夜で苦笑いを返すしかない。赤木が浩子を連れているのは事実の上に、自分もそれについてきているというのも否定しようのない事実である。健夜の表情を見た咏は目を伏せてため息をつく。

 

 「……さすがに女子高生の連れまわしはまずいんじゃね?」

 

 

 単純にこの二人に麻雀の手ほどきを受けているのだ、と浩子が説明すると、咏の表情がまたもや驚いたものへと変わる。それぞれの顔を順に見比べて、ううむ、と唸る。悩むのも仕方のないことだろう。赤木と健夜はまだしも、船久保浩子という少女はそのどちらとも接点がない。接点の意味を無意味なほどに広義にしてしまえば麻雀という括りがないわけではないが、いくらなんでもそれでは説明にならない。赤木について考えることこそが無意味だと咏が思い出すのはもう少しあとのことだった。

 

 咏が予約したという雀荘は、事前に知らなければそこに雀荘があることなど確実にわからないであろう高層ビルの中にあった。完全会員制だというこの店はすべてが個室となっており、内装にもこだわりが見てとれる。室内には本来ならば雀卓と似つかわしくないようなソファが置いてあったりして、たとえば偉い人が内密に話をするならこういうところなのかな、と浩子がそんな感想を抱くような空間だった。もちろん広さも十分に備えられている。咏が言うには、ここは欠けを埋めてくれる店員の質がいいらしい。

 

 室内には冷蔵庫どころかワインセラーまで設置されていた。もちろん浩子にはワインの知識などまったくないが、どこか高級そうな印象を受けた。おそらく自力でこんな場所に来ることはないだろうと考えた浩子は興味深そうに室内を見回す。年会費はどれくらいなのだろうか。

 

 「お、船久保ちゃん。気に入ってくれたかい?」

 

 口元を扇で隠してけらけらと笑う。自然な振る舞いであるにもかかわらず、それはとても洗練された仕草に見えて浩子は思わず、ほう、と見惚れる。こういう人はその気にならなくても男に不自由することなどないのだろうな、と若干失礼なことを思う。

 

 ぱちん、と音を立てて扇を閉じてソファへ身を投げる。まるで彼女のためにあつらえられたかのような高さの肘掛に肘を置き、手のひらの末端に顎を乗せる。口の端が徐々に吊り上げられていき、目には好奇心の炎が宿ったように見える。彼女の口が言葉を出すために形を変えていく。

 

 「さて、赤木。今日のサシウマはなんなのさ」

 

 「俺が勝ったらひろと打ってやってくれ」

 

 空いた手に持った扇で自分の額をぱしっと軽くたたく。

 

 「……ま、お前がギャグじゃねーってんならそれもいいさ」

 

 咏は赤木の目を見ると、頬杖を外して人指し指と中指をくっつけて伸ばし、手首を軽く振ると同時にウインクをしてみせた。赤木はまあいいさ、と何かを承服したようだった。浩子は久しぶりに自分の頭の上で自分に関わる話をされる体験をしていた。どうにもむずがゆく感じるのは変わらないようだ。

 

 

―――――

 

 

 

 店員を二人呼び、全力で打つように言付けてから席決めが始まった。麻雀を打つにあたって席次第で調子が変わるなどという人もいるようだが、そんなジンクスレベルでああだこうだと言う人間はこの空間には存在していなかった。その気になれば世界の麻雀の勢力図を塗り替えられる面々である。これまでに何度も何度も思ったことだが、自分を取り巻く状況は異常だ、と浩子はあらためて思う。とうとう現役日本最強の呼び声高い選手まで来てしまった。だがそれでも浩子のやることは変わらない。相手があの三尋木咏でもほぼ間違いなく赤木しげるは勝つだろう。となれば、次に浩子が彼女と相対するのは当然で、そこで浩子は赤木から出された課題を達成しなければならない。一度でいいから三尋木咏から和了らねばならない。そのためには情報が要る。彼女の思考の流れをつかみ取る必要がある。だから浩子は目の前で行われる対局を見逃すわけにはいかなかった。

 

 半荘一回をまるまる見ることに費やせるということで、浩子は咏の背後に回ることを選ばなかった。課題の達成も大事だが、実戦で分析能力を鍛え上げるという意味において、現役のそれもトッププロなどこれ以上の相手はいない。だから浩子はこの場をインハイの団体と考えて、二つの半荘のうちの前半一つをすべて使うと考え直すことにした。隣にはいつの間にか上品なサイズのクッキーを手にした健夜がにこにこしながら立っていた。

 

 

 場の空気が急速に引き絞られていくような感覚が浩子を襲う。暖房の利いた室内で卓についているのは、ライダースジャケットを脱いでシャツを肘までまくり上げた赤木、橙色と桃色の中間のような色合いの生地に上品な花がその袖口と裾に刺繍された着物姿の咏、あとは店から出してもらった打ち子が二人である。からからとサイコロが回って、崩される山の位置が決定される。

 

 浩子の情報収集の最序盤は、ただただつなげることのできそうな素材を集めることだけに費やされる。ほんの小さな違和感だとか、言いがかりに近いようなものでも頭に留めておく。牌を捨てるときのモーションすらも対象の手が開いたときには情報源となる。その捨牌が自摸切りだったか手出しだったかは当然として、その順序と最終形の関係性、果ては指の力の入り具合までもが観察されるべきものとして浩子は認識している。そう簡単にあの三尋木咏がそういった情報を漏らすはずはないと思ってはいたが、だからこそ浩子は見ることに力を注ごうと決断した。

 

 あくまでテレビで観た限りでの咏に対する浩子の印象は、超攻撃的、という言葉に集約される。とはいえ詳細に牌譜を研究したことがあるわけではない。千里山での部活も他校の分析でかなり忙しかったし、今ほどではないが自分自身のトレーニングもあって、プロの牌譜を研究するような時間がなかったのだ。

 

 

 ひどく静かに局は進んでいく。淀みはないが、その代わりに注目するべき山場もない。対面に座った赤木と咏はにらみ合うでもなく、自然と向かい合っている。打ち子の二人は暖房のせいではないだろう汗を額に光らせている。あたかもこの一局は自身の調子を確かめるためのものだと言わんばかりに、動きを見せることなく二人は手を進める。東一局は誰も聴牌を宣言することなく終局した。

 

 まだ得られた情報は何もない。浩子にとっての通例からしても東一局から得られる情報は決して多いものではない。事前にある程度の情報を手に入れているのならまだしも、今日の相手はそういう目で見るのは初めての相手だ。だから何も得られていないこと自体は本来ならば焦るような事柄ではないはずなのだが、どこかイヤな気配を浩子は感じていた。具体的に説明しろ、と言われれば困る程度の気配。だがどうしてか呼吸をきちんと意識しなければならないような、漠然とした不安感。浩子はデータを頼りにこそしてきたが、ときおり感じるこういった説明できない何かを軽視はしない。事実、そういった何かが自身を救ったことも少なくなかった。だからこそ余計にその気配が浩子のなかで存在感を増す。

 

 じわり、と汗がにじむ。室内の空調は暑くなりすぎないように調整されており、はしゃぎでもしない限りは汗をかくことはない。ならば原因は当然他にあって、それは目の前で展開されている麻雀に違いなかった。東二局はたったの四巡で咏が5200を自摸和了ってみせた。手牌を開いて卓の中央へと牌を流し込むその一瞬、咏は浩子にぱちん、と音の出そうなウインクを送ってみせる。それは人によっては一撃で恋に落ちかねないようなものだったが、浩子はそれの意味するところを理解したような気がした。キミにわかるようには打ってあげない、とそう言っているのだ。少なくとも浩子は四巡目での自摸和了りから分析できるような技術も経験もない。

 

 ( ……戒能プロから聞いたんやろな。会うたことないけど恨みますわ )

 

 内心で毒づいてはみるものの、そうしたところで状況は変わらない。ただ、咏の今のアクションは浩子にとっては大きな材料だった。分析をされると知って、見せつけるかのような早和了りと挑発。なにも打ち筋だけがアプローチなわけではない。その態度は後のどこかの場面で顔をのぞかせるはずだ。それが今日だとは限らないが。

 

 

 場の緊張が高まる。咏の和了りはひとつの号砲だ。死に物狂いで来なければ骨も残してやらないぞ、と半ば警告に近いスタートの合図だ。彼女の表情には先ほどまでに見られたかわいらしさなど微塵も見られない。テレビの向こうの、なにかを含んだ艶のある笑みに変わっている。

 

 親番が咏へと移る。統計など見るまでもない。この局は間違いなく大きなポイントになる。赤木が箱を割ることなど考えにくいが、打ち子たちはさすがにそうはいかないだろう。もし彼らのどちらかが焼かれてしまえば、そこで順位は決定する。赤木の二位ですら見える状況なのだ。浩子たち高校生のあいだで “怖い親番” といえばあの宮永照だが、彼女も三尋木咏の前では霞む。彼女には打点に縛りなどないのだから。

 

 転じて赤木がこの局でケアしなければならないのは、第一に打ち子たちを飛ばさせないこと。第二に咏をリズムに乗せないこと。これは連荘を止めることが望ましい。少なくとものびのびと打たせて自摸和了り、なんてことは避けなければいけない。もちろん咏は論理的な思考力も持ち合わせてはいるが、持ち味としてはやはりその嗅覚といってもいいくらいの感性を活かした打ち筋である。それは乗せてしまえば理不尽と表現するしかないほどの引きを見せる。オカルトなど遠くに置き去りにした、純粋な天運。

 

 三巡目に赤木が動きを見せる。上家から出た二索を鳴いて一索と三索を晒す。外から見れば手がかなり限定される鳴きだ。染め手やチャンタ手、あるいは役牌でも抱えていなければ和了に向かうのは難しいだろう。咏の笑みが深まる。待ちかねていたかのような表情だ。浩子からすると赤木の仕掛けなど関わりたくないレベルのものだが、咏の雰囲気からはどうもそういったものは読み取れない。少年マンガなどで見るような、“……お前、やるな” みたいな心の交流でもあるのだろうか。

 

 赤木の鳴きは不思議だ。例外は多々あれど、鳴きというものは本来であれば自分に利するような仕掛けである。手を晒す代わりに速度を得る。守備面との折り合いがうまくつけられなければ、振り込んでしまう場面も多くみられる。例外的なものの代表格といえば、自摸順をずらすことによる流れの操作だろうか。実際に浩子も鳴かれたことでそれまで調子のよかった自摸が途端に悪くなったりした経験もあるので、一概に否定はできない。それはそれとして、赤木の鳴きはまた別の効能を持っている。一鳴きで人を操るのだ。もちろんこれは怪しげな能力の類ではなく、きちんと論理に裏打ちされた技術のひとつである。浩子が身に付けた分析能力の延長線上にあるものであって、相手の本質を見抜いているからこそできる芸当なのだという。

 

 それに応じたのかどうなのか、咏の手が止まる。引いた牌を手牌の上に横に置いてじっと見つめている。浩子はインハイ後に赤木と初めて打ったときのことを思い出す。自分もああやって手を止めてじっくり考えたな、と。考えるまでもなく浩子と咏のあいだには厳然たる実力の差はあるが、それでも自分と似た状況にいる咏に浩子はちょっとだけ親近感を覚えた。

 

 浩子の経験則からすると、この赤木の鳴きに対してどう出るかがひとつの分かれ目だった。ここで赤木の思うとおりに動いてしまえば、あとは蝶が蜘蛛の巣にからめとられるがごとく身動きが取れなくなる。おそらく咏も同じ体験をしたことがあるのだろう。だからこそここで長考に入る。あるいはこうやって考え込むこと自体が罠なのかもしれないが、それは赤木以外にはわからないことだった。

 

 

 「……自摸のみ。500オール」

 

 安くなっちまったねぃ、と笑いながら咏が和了りを宣言する。おそらく発言通りに彼女の想定していた手からは遠く離れた最終形になってしまったのだろう。開けられた牌姿を見れば、途中から裏目裏目に手が進行していたことが見てとれる。それでも和了ってみせるあたりはさすがといったところか。しかしいくら安手で済んだとはいえ、今この場において重要なことは彼女の親番が続行されていることだ。たった一度手を曲げたくらいで勢いが死んでしまうほど三尋木咏は甘くない。

 

 一方で浩子はここぞ好機と言わんばかりに今の局を振り返る。直前の局を脳内で再生することなど朝飯前だ。捨牌と最終形から咏の手格好を導き、他家の捨牌とすり合わせ、持ちうる思考のパターンをいくつか列挙する。先ほどの挑発も考慮に入れて、できるだけ、だがやりすぎない程度に候補を絞っていく。

 

 

 東三局、一本場。咏の手は淀みなく動き、未だ主導権はここにあると主張するかのように自摸は手の中へと吸い込まれていく。誰が悪いというのではない。咏の手が滑らかに進み当たり前のように翻数が上がっていくのは、季節が来れば花が咲くように自然なことだった。このままではいけない、と打ち子が赤木から出た七萬を鳴く。浩子は打ち子の二人に感心する。要請を受けたとはいえ、相手は麻雀に携わる者なら誰でも知っている超一流のプロと、そのプロが払い得る限りの注意を払う男だ。打ち始めてそれほど経っているわけではないが、すでにそのつかみどころのなさに気づいていてもおかしくないだろう。そんな環境の中でいつも通りに打つというのはなかなか簡単なことではない。咏がその質を評価しているというのも頷ける。

 

 しかし、流れを変える目的もあった打ち子の鳴きは咏の手を遅らせることにさえつながらない。このまま咏が悠々と手を伸ばしていくかと思われた。現に彼女の手にはすでにドラを含んだ二三四の三色同順が出来上がっている。あとは雀頭を決めて黙聴で仕上げだ。咏は不要牌を決めて河へと放つ。河の底の澱が、ぶわりと広がったような気がした。

 

 「そいつは槓だな」

 

 赤木は三枚の七索を手から晒し、嶺上牌を引いて九索を捨てる。ついで槓ドラをめくる。新ドラの表示牌は西。あまり役に立ちそうには見えない。すでに河に北は二枚見えている。誰の目から見ても不可解な槓だった。門前手からの大明槓などほぼデメリットしかない悪手であり、実戦で見かけることなどまずない。だからこそその場にいる全員が察知する。あの男が何かを仕掛けたのだ、と。意図こそ見えないが、その異常に対して注意を払わないほうが麻雀打ちとして欠落していると言わんばかりに。

 

 咏は笑みを崩さない。たとえこの対局で誰が何を仕掛けてきてもその不敵な表情は崩れないのではないか、と思わせる。やはり知っているのだ。対局中に精神的動揺が顔に出ることが致命的な情報源になるということを。まさか赤木や健夜レベルの使い手がごろごろいるとも思えないが、表情から読み取るくらいのことは誰でもできる。仕掛けに対して反応を見せることなど相手につけ込むチャンスを教えてやることと同義であって、そこに気を配れないようでは到底トッププロという領域にはたどり着けないのだろう。

 

 それは三尋木咏と船久保浩子の対比というよりは、プロと高校生の違いをまざまざと見せつけられているような感覚だった。淀みなく手を伸ばしている最中に鳴きが入れば、多くの高校生は渋い表情をするだろう。もしその鳴きで明らかに流れが変化すれば、ほとんどの高校生は眉をひそめるだろう。もしその鳴きが自分を狙ったものだと察知すればすべての高校生の表情に変化が見られるだろう。だが彼女はその全てを踏まえて、なお表情を変えずに嫣然としている。浩子は嘆息せざるを得なかった。赤木が打ち子のひとりの安手に差し込んで親が流されても、その笑みは変わらなかった。

 

 

 ( ……あの二人とおんなじや。とっかかりから掴めん )

 

 南三局を終えて、浩子は何ひとつとしてはっきりした情報を掴んではいなかった。当然のように理牌は局ごとに散らされるため、咏の手が開けられない限りはどのようなものなのか正確なところは知ることができない。外から眺めていると実験的な打ち回しもできないため、必然的に得られる情報量も減ってしまうのだ。和了った局も極めてシンプルな手順であり、彼女の個性が発揮されているとは言えそうにないものだった。あの挑発的な視線以外にこれが三尋木咏だ、と言えるような要素は出てきていない。

 

 「ひろ、そろそろ準備しときな」

 

 これからオーラスに向かうにあたって赤木が声をかける。

 

 「おいおい待ちなよ。一応こっちがリードしてるんだぜぃ?」

 

 「クク……、なに、いらねえ心配さ。逃がしゃしねえよ」

 

 浩子はため息をつく。麻雀を打つのにとくに準備が必要ないこともそうだが、なにより赤木による勝利宣言ともとれる発言を素直に受け取った自分に気付いたからだ。たとえ今、咏と赤木の間に8000以上の差が開いているとしてもだ。ほとんど毒されているな、と思う。そういう期待を寄せられるということがどういうことなのか浩子にはいまひとつ想像が及ばない。だが単純に、それはしんどそうだな、とそう思った。

 

 

 

 

 

 



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十三

―――――

 

 

 

 窓から見える空は薄い雲に覆われており、もう太陽もその姿を見せていない。ビル風の音が外の気温の低さをさらに強調しているように感じられる。そのビル群のなかの一室で、プロ選手であるならばいくら積んででも見たがるだろう半荘は、ほとんど誰にも知られることなく決着した。

 

 

 「あーあー参った参った。なーんかおかしいとは思ってたんだけどねぃ」

 

 卓に着いたまま腕を組んで目を瞑って考え込む咏からこぼれる言葉を聞いても、浩子はさっきの局で何が起きたのか理解できなかった。ただ咏の調子は変わらず良い状態のままで、それは自摸が手に吸い込まれていく様からもはっきりしたことだった。オーラスにたどり着くまでに赤木も打ち子も奮戦し、絶対的な差が開くには至らなかった。しかしそれでもこの勢いは殺しきれないように見えた。少なくとも浩子にはそう見えたし、打ち子の二人もおそらくはそう思っていただろう。だがそれでも、最後に和了ったのは赤木だった。咏からの直取りで5200。直撃で捲るのに最低限の点数だった。

 

 ぶつぶつと呟く咏の言葉から推測すると、どうやら赤木はかなり早い段階から最後のために仕掛けを打っていたことがうかがえる。それは浩子にはまだ届かない領域での勝負だった。しかしそれが決定的であったことだけ伝わってくるというのは、置いてけぼりを食らったような気がしてあまり気分のいいものではなかった。

 

 うんうんと唸っていた咏は、今は赤木に詰め寄って打牌の意図を問いただしている。閉じられた扇が七筒を指している。あれがキーになった牌なのだろうか。浩子は高級そうなソファに腰を下ろしてぼんやりと赤木たちのほうを見やる。健夜も加わって今の半荘について話をしている。できることなら浩子も混ざって話を聞きたかったが、どうやら自分が飛び込んでいってもついていけるレベルの話ではないようだ、と判断して引き下がることにした。小さな身体をめいっぱいに使って感情を表現するその様は見方によっては子供っぽいのかもしれないが、目の前の一戦にそれだけ集中しているという点ではプロのあるべき姿として捉えるべきものなのだろう。

 

 現時点で浩子が掴んでいるものは情報と呼ぶにはあまりにも不確かなもので、事前の調査がない状態と比べても大差のないようなものだった。かなり強気だと思われることと、それに見合うだけの図抜けた引きの良さを持ち合わせていること。本質なんてものはまるで見えず、ただ咏の強さを間近で確認するだけになってしまっていた。それでも浩子は必死で頭を働かせていた。どんな打ち手であっても必ずどこかに穴はある。仮に見つけられなかったとしてもそれは自分の力量が足りないだけであって、相手の絶対性を認めるものではないと浩子は確信していた。赤木が目の前で勝ってみせたことでそれは証明されている。だから浩子は先の半荘で得られるものが少なかったとしても、諦めるつもりはなかった。

 

 

 いくらレベルが高いとはいえ、さすがに三尋木咏と二連続の半荘を打てるような精神力を打ち子たちが持っているはずもなく、休憩ということで室内はすこしゆるんだ空気になっていた。

 

 それぞれ思い思いに過ごしている様子は、まるでなにかのミュージック・ビデオのようで浩子はそこに自分も含まれていることにどこかこそばゆい思いをしていた。やはりテレビに出慣れている人というのは普段の仕草も絵になるのだろうか、と特に実にもならないことを考えながら、浩子は部屋の備え付けのアーモンドチョコをソファで口に放り込んでいる。窓際でタバコをふかしていた赤木が咏のもとへと歩いていく。声をかけられた咏はその話の内容を聞いて疑わしげな視線を赤木に向ける。何を話しているのかは聞かなくても大体のところはわかっている。おそらく次の半荘についての話だろう。たしかに以前と比べて浩子の実力は向上しているが、咏と真正面からぶつかって点棒を残すにはまだまだ足りない。

 

 「なあ三尋木、サシウマの話なんだけどよ」

 

 「あー、変えるってんだろ?ま、モノによるけどねぃ」

 

 「何言ってんだ。ひろと打ってもらうときの話だよ」

 

 「……わーお、それマジだったの?」

 

 「トビ無しと親の連荘無しで打ってやってくれ」

 

 「……それは別に構わねーけどさぁ」

 

 「なんだ?」

 

 「お前ホントに正気?いや聞いてもしょうがない気もすっけどさ」

 

 「クク、教え子のために場を整えてやるのがそんなにおかしいか……?」

 

 はぁ、とため息をついてそれ以上追及するのを咏は諦めた。彼女にとっての赤木像がどんなものなのかは正確にはわからないが、大筋ではこれまで会ってきた大人たちと同じなのだろう。ここまで一様に変わらない反応をさせる赤木はこれまでどんな振る舞いをしてきたのだろうか。それは浩子には知りようもないことだったが、正直ロクなもんじゃないだろうということだけは推測できた。

 

 

―――――

 

 

 

 浩子の上家には咏が座っている。あらためて見ると本当に小さい。麻雀に体格などまったく関係ないが、それでもこの体躯で日本のトップを走っていると考えると感心したくなるほどだ。肩まで届くウエーブのかかった茶髪が小さく揺れて、浩子の方に視線が向けられる。いいかい、と前置きをして咏が話し始める。

 

 「この半荘はトビは無し。それと親の連荘も無しだ。純粋に八局だけ回す」

 

 浩子にしてみれば否やがあるわけもない。三尋木咏を相手に確定で八局も打てるのは掲げている目標からすると非常に大きい。プロとの対局でさえかなりの確率で相手をトバす打ち手なのだ。自分がハコを割らない姿が浩子には想像できない。

 

 「それと船久保ちゃん、手なんて抜いてやるつもりはないからさ、泣くんじゃないぜ?」

 

 

 兎にも角にも浩子がまずやらなければならないのは情報収集だった。課題は “咏から和了ること” だから、運さえ良ければ普通に打っても可能かもしれない。だが、浩子は当然のようにそれをよしとしない。きちんと分析して相手の考えを呑み込んだうえで和了らねば意味がないと考えている。赤木も健夜もとくにそこに関する指定はしなかったが、その程度で自分の立ち位置を見失うほど浩子は自分に甘くはない。二週間に一度しか帰っていないが、名門である千里山女子の部長であるという矜持があった。

 

 秋季大会のときには他家の理牌を見ていたから自分の理牌ができなかったが、今はもうそれを同時に行うことができるようになっていた。この部分に関しては日々の鍛練というよりは慣れのほうが強い。小さな進歩ではあるが、確実に浩子は前進していた。咏は理牌をしっかりと散らすため、そこを見ること自体にはさして大きな意味はないが、気を抜かないという意味においてそれは欠かせないことだった。

 

 見る、と一言で表すことはできるが、その内実はそこまで単純ではない。視神経やそのとき働く脳の野であるとか重要なタンパク質などのことではなく、見るという行為の幅は想像以上に広い。浩子がやっているのは他家の表情の変化や挙動、あるいは思考時間などそれこそ日常生活では見ないような部分まで観察する行為である。これは第一に全員を同時に視野に収める必要が出てくる。誰かの捨牌に注目しすぎて、その捨牌に対する別の人の反応を見逃しては本末転倒だからだ。そうやって全体を見渡しつつ、細部にまで気を配る。もちろん同時進行でそれまでの局の打ち筋を随時引き出してくる必要もある。これを実行するだけで脳の疲労は尋常ではないものだが、とくに今回は情報がなかなか出てこないがゆえに精神的な疲労も重なっている。いくらインターハイを経験しているとはいえ、弱音のひとつも吐かずに闘い続ける浩子の精神力は称賛に値するべきものだった。

 

 

 東三局。トビこそないものの浩子の残り点棒はすでに半分近くになっていた。先ほどの局は赤木がいたからこそ成り立っていたようなもので、その()()()から解き放たれた咏を止められるものなどこの場には存在していなかった。外から見ているときにはあれだけ華麗だった闘牌は、卓を同じくすると獰猛そのものであった。それでも浩子は咏を分析するために打たなければならない。咏はというと決して無表情ではなかったが、その笑みの向こうに何があるかだけは悟らせてはくれなかった。どこかでそれを崩さなければいけないと理解していたから、じっと浩子は耐えていた。

 

 牌と牌がぶつかるかちゃかちゃという音と牌をラシャの上に置く音だけがする中で、三尋木咏の一方的なショーは続く。打ち子たちの技術も相当のもので、インカレなどに出場していてもおかしくないようなレベルなのだが、それでも彼女とのあいだにはどうしようもない壁が立ちはだかっていた。火炎の花の勢いは増していく。彼女が望めばその牌は彼女のもとへとやってくると聞かされても信じられるくらいに。東四局を終えて、浩子はやっと咏の打牌の淀みをひとつだけ見つけることができた。

 

 その淀みが単に咏が裏目を引いたというだけの話であれば、それはもう何の役にも立たない。だが仮に咏がなにかを嫌ってその形になったのだとすれば、付け入る隙になるかもしれない。浩子は何がなんでもその糸を手放すわけにはいかなかった。手放してしまえば、ぷつんとなにかが切れてしまう気がした。そうやって気合を入れる浩子を見て、咏は薄く微笑んだ。

 

 

 「……しげるくんさ、ほんとイイ性格してるよね」

 

 「クク、なんのことだか」

 

 「まあいいけど」

 

 互いに顔を見ることなく、視線は卓に向けながら二人は会話を交わす。

 

 

 四度和了った形を見せられてようやく掴んだ咏の思考の一端は、集中の高まった浩子でなければ気付かなかっただろう。それはほんの小さな違和感。本来なら何度も繰り返し映像を見てようやく気付くような些細な違和感。それでもその違和感は伸びやかに打つ咏の手筋からは際立って見えた。それがオカルトに絡んでいるかどうかこそわからないが、狙い目だ、と浩子は思った。もちろんまだ思考判断の源泉は掴めていないから分析自体をやめるわけにはいかないが、一矢報いるにはおそらくここしかない、と頭の奥から声がする。

 

 仕掛けを打つなら一度だ。無理に罠を張って悟られてしまえばもうチャンスはないだろう。咏はそこまで甘くはない。じっくり手を待たねばならない。南場をまるまる使えるのだから、あとは咏を刺す手を焦らずに作らねばならない。自分では気付いていなかったが、このとき浩子の目は異様な熱を帯びていた。

 

 待つ。待って、刺す。浩子の集中はいや増していく。

 

 

 浩子が咏から直撃を取るためには条件を二つクリアしなければならなかった。ひとつはひどく簡単だ。咏が翻数を伸ばして和了りに向かっていけばいい。もうひとつが問題だった。彼女が聴牌する前に罠を張り終えなければならないのだ。三尋木咏が現役日本最強とされるのは、その打点に似つかわしくない速度も大きな理由として挙げられる。もちろん彼女の強さはそう簡単に言い尽くせるようなものではないが、わかりやすい強さというのもたしかに持っていた。だが、打点と速度を両立させるのはそう簡単ではなく、とくに “最速” は咏であっても諦めなければならない場面があった。浩子にできることはその一点の隙を狙い撃つことだけだった。

 

 そして南三局十巡目、ついに浩子は二つの条件をクリアした。点棒は南一局を終えた時点ですでにゼロを下回っている。だがそんなことはトビ無しなのだから関係がない。浩子は課題達成のために突き進む。打点のための一巡、あるいは二巡で十分だった。浩子は罠を張り終えて、息を潜めてただ待つ。捨牌から咏の手の方向性は読めている。いずれ、それも遠くないうちに咏から八筒がこぼれる。それを討ち取って課題の達成とする。浩子はこの時点で九割がた勝ったと思っていた。点棒状況で言えばもちろんボロボロのうえに直撃で和了ってもそれは雀の涙ほどの点数だが、それでも日本最高峰の選手から和了るというのは未だ高校生の身である浩子にとっては大きな勝利と言えるものだった。

 

 

 「大したもんだぜ、船久保ちゃん」

 

 不意に咏が口を開く。まだ場は南三局のままだ。

 

 「よく気付いたね。それだけで花マルをあげたっていいくらいさ」

 

 浩子の目が見開かれる。咏の言葉はそれだけですべてを悟らせるに十分だった。一気に脱力感が襲い掛かる。体にかかる重力が五倍にも十倍にもなったように感じられる。そこには善意も悪意もない。ただ技術に開きがあったから、()()()()()()ことに気付かなかっただけの話だ。

 

 咏が自摸和了りを宣言して手を開ける。手には八筒が三枚使ってあった。理性は把握している。罠を張っていたのは上家に座っている咏だ、と。浩子がギリギリ掴めるであろう弱点のようなものをちらつかせて、それに食いつくように仕向けたのだ、と。その衝撃から声を洩らしそうになったが、浩子はそれを必死に噛み殺した。

 

 

―――――

 

 

 

 「ま、惜しむらくは経験が足りなかったってことかねぃ」

 

 局後に咏が立ち上がって浩子の肩を抱く。浩子は力なく笑い返す。結果も内容も圧倒的なものだった。ただの一局も咏は和了りを逃さなかった。八局すべてを和了り続けたのである。それも運任せの立ち回りではなく、十分に他家のケアをしながらのものだ。浩子に対して気付かれないように罠を張ったこともそうだが、彼女はこの半荘で一度もリーチをかけていない。自分の手を限定することを選ばなかった。それは相手次第で柔軟に対応するという意思表示であって、逆に言えばリーチをかけざるを得ない状況に追い込めなかったことの証左でもあった。

 

 咏の笑みは対局中の深みを持ったものではなく、普段のからっとしたものに変わっていた。

 

 「なあなあ船久保ちゃん、これはおねーさんからのアドバイスな」

 

 「……はい」

 

 「 “見てる” のは船久保ちゃんひとりじゃねーんだ、そこに気をつけるといいんじゃね?ま、わかんねーけど」

 

 「……ひょっとして私、わかりやすかったですか」

 

 「そりゃもう!東四が終わったときだっけ?妙にギラギラしててさ」

 

 「うーわ、カッコ悪すぎやろそれ……」

 

 「まーまー、気にしちゃダメさ。高校生レベルでそこまで気を配れる子なんてほとんどいるもんじゃないぜ?」

 

 「そんなもんですかね」

 

 「ところであの打ち方さ、どっちに習ったの?」

 

 「いえ、あの二人はほっとんど何も教えてくれないですよ」

 

 「へ?」

 

 「せいぜいたまーにヒントくれるくらいですわ」

 

 咏はそう聞いた途端に、ちょっと気になることができた、と浩子の肩をやさしく叩いてその場を離れていった。なにか今の会話におかしなところでもあっただろうか。浩子の頭を支配しているのはそのことよりも先ほどの咏のアドバイスだった。ちょっと考えればわかりそうなことだが、現実問題として今の今まで気が付かなかった。対戦相手に分析を得意とするものがいてもおかしくはない。せっかく相手の分析に成功して仕掛けを打っても看破されてしまうのでは締まらない。この対局は課題こそ達成できなかったものの、浩子が意識しなければならないものに気付くことができた非常に大きなものだった。

 

 “打牌” とはこれを指していたのだ、と浩子はついに理解した。あのとき赤木が半分だと言った理由はここにあったのだ。打牌という動作はこちらだけが見るものではなく、他家も当然のように見ている。そこを意識して利用してこそ意味がある。打牌とは幅だ。その見せ方によっては相手を油断させ、警戒させ、あるいは意識から外すことさえできるかもしれない。能面のように表情を変えずに何も悟らせないのも面白いかもしれないが、別にそれにこだわる必要もないだろう。

 

 じん、と鈍い痛みが脳を走る。さして強いものではなかったためとくに浩子は気に掛けることもしなかった。それよりは疲労感のほうが大きい。もしこの場が自分の部屋であったなら、何も考えることなくベッドに飛び込んでしまいたいくらいに消耗していた。トッププロのすごさが身に染みる。八局回しただけでこれほどの疲労感に襲われることなど経験がない。それと同時にその咏を上回ってみせた赤木の異様さも再確認させられることになった。すでに打ち子たちは退室していた。部屋を出る際に多少ふらついていたような気もするが、待機スペースに戻れないということもないだろう。時刻は十一時の半ばを過ぎていた。

 

 

―――――

 

 

 

 小さめなこたつの上でぐつぐつと音を立てる鍋を四人が囲む。どうせ鍋を食べれば暖かくなるのだから、と暖房は入れていない。浩子は鍋だのラーメンだの湯気の立つ食べ物を食べるときは眼鏡を外す。なんとか具の判断はできるからそこまで問題はない。見定めるために少々しかめっ面になってしまうがそれはご愛嬌。眼鏡というのは冬になると室内に入るだけで曇るから、対策のされた眼鏡に買い替えようかと何度も考えるのだが結局は考えるだけでいつも終わる。それに眼鏡が曇るというのはお決まりだが鉄板のネタで、それをみすみす手放すのも浩子にとっては考え物だった。視界が一気に白に染まるというのも案外面白い体験で、浩子はわりと好きだったりもする。

 

 「んでさ、赤木もすこやんもこの子どうするつもりなの?」

 

 「私は勝手についてってるだけだから、まずはしげるくん次第だよ」

 

 「……そうだな、大沼のジジイのとこでも行ってみようかと思ってる」

 

 浩子は大人三人の話を聞きながら、次は九州か、とうすぼんやり想像する。

 

 「もうジイさんには連絡とったの?」

 

 「いや、まだだな」

 

 「ならさ、提案があんだけど」

 

 「提案?」

 

 「このまま横浜に置いてくってのはどーよ?」

 

 はふはふと口の中のものを冷ましながら、事もなげに咏は言う。とくに誰の返答を待つわけでもなく、咏は続ける。

 

 「船久保ちゃん、今取り組んでる課題は?」

 

 「えっと、オカルト能力の分析とその対策ですね」

 

 「うんうん、だったらやっぱこっちにいたほうがいいねぃ」

 

 浩子は箸を動かし続けながらも咏の言っている意味がよくわからないため、不思議そうな顔をしている。今度は神奈川の高校で打ってもらうということだろうか。赤木と健夜は黙々と鍋をつついている。健夜の箸からずるりとマロニーが逃げていく。

 

 「ウチんとこにもオカルト持ちはいるし、ちょうどいいんじゃね?」

 

 そう言って咏はぱちりとウインクを決めてみせる。それがあまりにも決まっていることは別にして、浩子の頭が久しぶりに停止する。前にこんな状況に陥ったのはいつのことだったか。要は咏の言っていることは “プロチームである横浜ロードスターズに練習においで” ということなのだ。たしかに宮守で打った面子も水準としてはプロに等しい (一部は明らかに超えている) ものだったが、今回のこれはまた話が変わってくる。プロチームともなればその人数の多さとともに選手のバリエーションも多様となる。もしプロレベルのオカルトを封殺できるようになれば、もはや相手が超高校級でもない限り敵はいないと言ってもいいだろう。それにプロのオカルトを封じ切ることができなかったとしても、その経験は間違いなく浩子を成長させるだろう。

 

 口を開きっぱなしにして停止している浩子を横目に次第に話が詰まっていく。

 

 「咏ちゃん、学校のことも考えてあげないと」

 

 「んー、私の母校でいいっしょ。なんとか話通しておくよ」

 

 ようやく浩子は意識を取り戻す。取り皿の白菜はぬるくなってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

 



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十四

―――――

 

 

 

 からん、とグラスが鳴って。大きな氷と透明な琥珀色の液体が揺れる。グラスを持つ手は二本だけ。細い腕には軽く赤みがさしている。もしここがバーであるならば雰囲気もあろうものなのだが残念ながらここは咏のマンションの居間であって、咏と健夜のふたりはこたつの上に酒瓶を置いて楽しくやっている。こたつの脇にはこれから飲まれるのだろう瓶やら缶やらがビニール袋に入っている。くい、と熱い塊を喉の奥に押し込んで目を閉じる。液体自体は冷えているのに妙な感覚だ。ささいなことでも笑ってしまいそうなくらいに気分がいい。

 

 「すこやんさぁ、なーに目論んでんの?」

 

 とろんとした目つきで咏が尋ねる。着物の上に鮮やかな打掛を羽織ってこたつに入っている様は控えめに言ってもよく似合っている。

 

 「えー?なんにも目論んでなんてないよーだ。ふふ」

 

 こちらは薄いセーターにカーディガンを羽織っている。背中を丸めてこたつであたたまっている姿は幸せそうと形容する以外の言葉が見つからない。

 

 「嘘はよくないぜぃ?すこやんがついてくるだけとかありえねっての!」

 

 「……ま、浩子ちゃんが完成した姿を見たいっていうのはあるかなぁ」

 

 「あー、あの打ち方始めてまだ半年も経ってないんだっけ?」

 

 「それにさ、オカルト持ちの子をばったばったと倒していくの見てみたくない?」

 

 「そーいや高校麻雀はオカルトが主流だったっけか」

 

 「能力ありき、なんて麻雀もったいないってことに気付いてほしいよね」

 

 くい、とグラスを傾ける。気分の良さそうな息が漏れる。この部屋にいるのは二人だけ。話題の中心となっている浩子は別室で眠りについており、ときおりうめき声が聞こえてくる。それだけプロとの練習がハードということだろうか。ちなみに赤木は浩子がここに泊まることが決まったときに当たり前のように居座ろうとしたため咏に追い出されている。どこに寝床を確保したのかはわからないが、この部屋にはけっこうな頻度で顔を出している。

 

 「んー……、まあそうなったらインハイの解説がちっと大変になんじゃね?わかんねーけど」

 

 「大体の子が偏っちゃうからね。オカルトかロジックで」

 

 「イイトコ取りすりゃいいってのは賛成だけどさ、そう簡単じゃないぜ?」

 

 「だからさ、偏るなら極めるくらいの気概が欲しいよね。浩子ちゃんみたいに」

 

 「そういう面じゃ特殊だよねぃ、船久保ちゃん。なかなか真似できる姿勢じゃないや」

 

 目を細めてけらけらと笑う。裏表のないその表情から察するに、心の底からこの小さな酒宴を楽しんでいるのだろう。空いたグラスに命の水を注ぐ。

 

 「それで、咏ちゃんは何を企んでるの?」

 

 「企んでなんてねーっての。人聞き悪いなあ、すこやんってば」

 

 「うっそだあ!だったらロードスターズに浩子ちゃん呼んだりしないでしょー?」

 

 「ひひ、まあちっとでも恩を売れたらイイかな、とは思うけどねぃ」

 

 「ほらやっぱり」

 

 「プレイヤーとして来てくれたら一番だけどさ、そうでなくてもスカウトとかいいよねぃ」

 

 「ふふ、いっそのことフロントに入れてあげたら?」

 

 「……あれ、精力的に働く幹部の船久保ちゃんが見える」

 

 笑い声の絶えない冷える夜はまだまだ長い。風もない静かな夜で、数少ない外を歩く人たちはマフラーやコートに顔を埋めるように歩いている。空気はひどく澄んでいて、まるで透明というものが手に触れられるかのような錯覚さえ覚えてしまう。すべての家の門からは正月の飾りつけは取り払われ、学校も会社もあらゆる世界の仕組みがしっかりと動き出している。時間は感覚に違いこそあれ、全ての人の前を平等に過ぎ去っていく。

 

 

―――――

 

 

 

 練習時間が同じならば、より密度が高い方が良いに決まっている。内容が無いよりも一度により多くの経験を手にし、より持ち帰るものが多くできるのならそれに越したことはない。生物には必ず死が訪れる。中でも先進国の人間は生きる時間というものを意識する珍しい生物であるために、無駄な時間というものを忌避する傾向にある。だから一粒で二度おいしく、短い時間で高い効果を得て、余った時間をできるだけ有意義に過ごす。これが正しい生き方だと考えている人間は非常に多い。浩子はその辺りの是非についてはどうでもいいと考えている。ただ彼女の現時点での問題は、密度が高すぎるというのも考え物なのではないか、ということだった。

 

 テレビでとある競技が放送される場合、注目選手や抜きんでた選手というものが存在しているのがほとんどである。個人種目であるのならばそういうことを考える必要もないのだろうが、団体種目や多人数で争う種目となると素人は誰に、あるいは何に注目していいのかわからないことが非常に多い。それを解決するのがいわゆる “目立つ選手” なのである。ただ問題点として、その選手以外が軽視されがちになってしまうことは否めない。もちろんその目立つ選手の周囲を固めているのもプロなのであって、実力は素人どころか経験者と比較してなお圧倒的なものを持っている。今、浩子を囲んで練習しているのも正真正銘のプロであって、周りから隔絶した実力を持っているからこそ横浜ロードスターズというチームに所属しているのである。そんな彼女たちの打ち筋は時に論理的であり、時に独創的であり、まさに浩子の目から見れば宝の山だった。しかしプロの打ち筋や思考の源泉がそう簡単に見抜けるわけもなく、とんでもない情報の洪水が浩子を襲っているというのが現在の状態である。ここは三尋木咏が時には最下位になることもあるプロの世界なのだ。

 

 浩子が参加させてもらっているのは、ロードスターズの若手中心の勉強会である。団体レギュラーには一歩およばないものの、それでも最低一年はプロ集団の中で過ごしてきている。明らかに浩子は格下で (だからこそ可愛がってもらえたという面もある) 、だからこそ死にもの狂いで観察し、研究し、推論を立て、場合によってはその推論を粉々にした。咏の言っていたオカルト持ちの選手ももちろんいて、その能力の使()()()は高校では見られないものだった。能力のオンオフの切り替え程度なら高校にも数は少ないが存在した。しかし能力を使っている振りをするような大胆なブラフは見たことがなかった。これも赤木の示した相手を操る技術のひとつに分類されるのだろうかと考えさせられるような見事な扱い方だった。

 

 浩子もこれまで身に付けてきたことをすべて出し切るつもりで参加した。分析はもちろん、卓を囲む相手が自分を見ていることも意識して打ち回し、振る舞いに気を遣った。これまで十年以上関わってきたにもかかわらず、浩子は麻雀に対して新鮮な面白さを感じていた。踏み込めていなかった領域がそこにはまだたくさんあって、そこからさらに奥の領域があるであろうことは容易に推測された。なぜならそう簡単にプロには通用しなかったからだ。これまで熱をあげてきた麻雀の未知の部分を浩子が知りたいと思うのは当然のことで、以前より深く、鋭く浩子は麻雀にのめり込んでいくことになる。ときおり感じる鈍い頭痛もまるでそれを止める要素にはならなかった。

 

 一方でその勉強会に参加しているプロも驚いていた。彼女たちも学生のころがあり、当然のように麻雀と関わってきた身であるから千里山女子の名は知っていた。聞けば浩子はその千里山の部長だというし、なにより咏が引っ張ってきたのだからそれなりの実力は持っているのだろうと思われていた。だが所詮は高校生。萎縮してしまうのが関の山だろうというのが大方の予想だった。だが彼女たちはその見通しが甘かったことにすぐに気が付くことになる。浩子の席に着いた姿は気後れなど感じられない堂々としたもので、見た目とは違う刺すような鋭い視線が印象的だった。もちろんその半荘でプロである彼女たちが負けることはなかったが、その精神的なタフさに驚いたというのが実際のところである。それはすでに高校生の領域を飛び出していて、浩子がこれまでにいったい誰と打ってきたのかが話題になるほどのものだった。

 

 横浜ロードスターズの事務所はまだ新しいテナントビルの六階にある。さらに下二つの階と合計で三つのフロアを借りており、四階は壁を取り払って雀卓が置いてあるだけの練習用のフロアとなっている。五階はロッカールームと談話室、それに雀卓がいくつか置いてあるフロアだ。事務所が置かれるようなテナントビルに入るのは初めてだったが、それでも物怖じせずにずかずかと入っていった浩子はさすがと言うべきか。ちなみにビル内の自販機は外に比べてちょっと安くはなっているものの有料であるところを見ると、有名なチームでも経費削減は避けられない問題らしい。

 

 学校から帰って勉強会に向かう生活を二週間ほど続けたころ、ついにプロ相手にもピントが合い始めた。彼女たちの持つ選択肢はそれこそ多彩であったが、やはり状況やその日の調子などの条件さえ整えば絞ることは不可能ではなかった。半荘一回の間に見破れなかったことは課題がまだ残っていることを示してはいたが、自分の分析がプロにも通用することを確信できたことについて浩子は誇らしく思う。自分の自信のある武器はそこまで届き得るのだと証明された。あとは卓を囲む組み合わせとそのときのツモ次第では、あの秋季大会のように圧倒できる。思考の源泉をつかむとはそういうことだ。現にその辺りから浩子の平均順位がじわりと上がり始めていた。

 

 

 ( ……アカンわ、これめっちゃおもろいやん )

 

 

―――――

 

 

 

 マグカップから立ち上る湯気を何とはなしに見つめる。ぎい、とキャスターのついた椅子が軋んで音を立てる。机の上には全部員のデータが紙に印刷されたものが置いてある。雅枝は画面に表示されたものよりも手に取って見ることのできる紙の媒体が好きだった。古くさいと思われるかもしれないがそれはそれで構わない。雅枝はこうして三十分ほど千里山女子麻雀部の部内記録を眺めていた。単に部内の戦績だけですべてがわかるとは露とも思っていない。だがそれでもよほどの例外がない限りはおおよその見当はつくものだ。団体戦におけるレギュラーは固定するのも流動的にするのも一長一短であって、どちらにしろこの時期はその辺りの事情で頭を悩ませるのが通例である。それに春になれば新入生も入ってくるため、この冬の時期にある程度の練習試合をこなしておきたい、と雅枝は考えていた。

 

 今日は帰りが遅くなると娘たちには伝えてある。こう言うと本人たちは怒るかもしれないが、雅枝の心配はあの二人がきちんと食事を作れるかというところにあった。姉の方はこれから自分のもとを離れていくのだからそういった生活能力を養ってほしいという思いもあったりする。これから夕飯を作るときには手伝ってもらうことを提案してみようかと真剣に考え始めた。ちょうどそのとき、職員室の引き戸が開いた。

 

 雅枝はその音のする方を振り返る。本来こんな時間に学校を訪れる人はいない。どの部活の生徒たちも下校は済ませており、今残っているのは雅枝以外にはせいぜい守衛さんくらいのものだ。その守衛さんも職員室に来る用事などほとんどない。だからこの時間に誰かが訪ねてくることそのものが異常だった。場合によっては警察を呼ぶことになるのだろうか、と多少うんざりしながら職員室の入り口に目を向けた。

 

 そこに立っていたのは、見る者に鋭いという印象を与える男だった。少し古びた電灯の光を浴びて、男の白髪は鈍く光る。男は懐から何かを取り出そうとしている。片手に百円ライターを持っているところを見るとタバコでも取り出そうとしているのだろうか。雅枝から静止が入る。

 

 「赤木、校内は禁煙や」

 

 「なんだ、つれないな。最近はどこも肩身が狭くていけねえ」

 

 「どこもかしこもちゃうやろ。ここは高校や」

 

 「クク、悪いけどそういうのは疎くてよ」

 

 「で、わざわざ何しに来たんや」

 

 ため息とともにぶっきらぼうに言い放つ。雅枝の話し方はどこか普段とは違った響きを持っていた。目線を手元の資料に戻す。

 

 「ああ、ひろのことでよ」

 

 再び赤木に目を向ける。無言で続きを促す。

 

 「四月にはこっちに連れて帰ってこようと思ってる」

 

 「……もっとかかるもんやと思っとったけど」

 

 「クク、若いってのはいいよな」

 

 「なんや、当てつけか」

 

 とんでもない、と言わんばかりに赤木は首を振る。

 

 「余計なものがないからストレートなのさ」

 

 「まあ、混み入ったもんは大人が請け負ってやらんとな」

 

 そういって雅枝はコーヒーを口にする。手元の資料に向ける眼差しはどこか優しい。置かれたマグカップからはまだ湯気が立ち上っている。

 

 「ふーん。やっぱりオトナの言うことは違うね」

 

 「……なんでウチの旦那はこんなん拾ってきたんやろな」

 

 「さあ」

 

 手元の資料をファイルに入れ、そのまま鞄に押し込む。ふたたび椅子を軋ませて雅枝は立ち上がり、埃をたたいて払う。もはや習慣となったその行為は流れるように行われる。隙の無い歩き方で職員室から赤木を引き連れて出る。もう少し若い頃であったなら噂にでもなったのだろうか。結婚の時期は同い年に比べて早めだったからそれはないか、と思い直す。校門をくぐる前に雅枝は当たり前のように声をかける。

 

 「夕飯くらい食べてくんやろ?」

 

 「…………」

 

 「うちの子たちも旦那も喜ぶしな。たまには顔くらい出しや」

 

 「あらら、ずいぶん強引だ」

 

 

―――――

 

 

 

 夜遅くからちらつき始めた細かな雪はしんしんと降り続き、朝日が顔を覗かせるころには皮膚のようにうっすらと世界を覆っていた。浩子の一日はカーテンをちらりとめくって天気を確認することから始まる。晴れていると朝の光が隙間から差し込んできて、浩子はたまらず顔をしかめることになる。だが今日の大阪の街は違っていた。雲はそれほど厚くないように思えるのだが、そんなことより白い景色に目を奪われる。ベッドスタンドに置いてある眼鏡をかけて、今度はカーテンを開けて窓の外を見る。ため息をつくと同時に体が気温の低さを感知した。思わずもう一度布団のなかに潜り込む。時計は七時半を指している。もう起きなければ部の練習に遅刻してしまう。二週間に一度しか参加できない部長がそんなことではいけない、と気合を入れて立ち上がる。次にやることは洗顔だ。

 

 制服の上にダッフルコートを着込み、冷たい空気が入り込まないように厚めのマフラーを丁寧に巻く。コートのポケットにはそれぞれ一つずつ携帯カイロを入れてある。帰りの時のことを考えて鞄にもう二つ準備もしてある。それでも真冬の寒さは厳しいもので、吐く息は白い。それに下あごががくがくと震えてしゃべるのにも一苦労だ。耳と鼻の頭を赤く染めて浩子は歩く。風がないのが唯一の救いといったところだろうか。

 

 道端の雪はすでに数多くの人に踏みしめられてぐしゃぐしゃになっていた。一つの足跡もない雪の中を歩いてみたいというのが浩子のささやかな夢のひとつなのだが、今日もそれは叶いそうにない。音もなく降り続く白い欠片はどうすれば積もるのだろうかと疑いたくなるほど小さく、また手のひらに乗せてみるとすぐに溶けていく。少し滑りやすくなったアスファルトにうんざりしながら前に目をやると、同じように歩きづらそうにしている女生徒がちらほらと見受けられる。下駄箱にさしかかったあたりで同級生に会ったので、そのまま一緒に部室へ向かうことにした。

 

 学校の廊下はそれこそ別世界みたいに冷えている。太陽も見えないのだから色合いとしても陰鬱なものだ。運動部の友達に聞いたところによると、筋トレ以外のときは暖房器具などいっさい使わないのだという。それだけで尊敬してしまいそうだ。ちなみに麻雀部は冷暖房完備である。

 

 

 二週間に一度の参加頻度ではあるが浩子の目をもってすれば、部員たちの成長、あるいは変化を読み取ることは難しいことではない。男子三日会わざれば刮目して見よ、という言葉もあるが感触としてはそれに近いものがある。高校生の年代というのはきわめて繊細で不安定な時期であり、それだけに蛹が羽化するような急激な変化を見せることもある。強い選手、勝つ選手というのは必ずどこかで目覚ましい成長を遂げる。ここ千里山女子でもそれは毎年のように見受けられることだ。監督の指導の賜物か環境がそれを要求するのかあるいは別の要因があるのかは浩子の知るところではないが、それはもはやひとつの現実である。

 

 ふわりと暖かい空気が全身を包む。同時にかすかな甘い匂いが押し寄せ、それが浩子を安心させる。部室にアロマが焚かれるようになったのは十二月の初めくらいのことで、秋季大会の翌週から一年生たちが自発的に早く来るようになって少し経ってからのことだ、と副部長から聞いている。なんでも応援に甘んじるしかない一年生たちが、現状を打破するために少しでも練習をしようと誰からともなく言い出したのだという。それはきっと団体戦への憧れなのだろうと思う。浩子にも覚えがある。浩子は自分が一年の時に試合に出ていた先輩たちを憧憬の眼差しで見ていたことを思い出す。今の一年にも自分たちの姿がそう映っているのだろうかと考えると、少し照れくさくなった。

 

 

 千里山女子麻雀部の休日の練習は基本的に一日を通して行われる。したがって昼食休憩などが折を見て挟まれる。集中力の続かない状況で打ったところで何も得られるものはないことは自明の理である。昼食はさすがに雀卓を机にするわけにもいかないので、その時間はめいめい場所を探すのが通例となっている。浩子は冬でなければ中庭で食べるのも嫌いではなかったが、雪まで降っているとなっては選ぶわけにもいかない。他の部も似たような時間に昼食休憩に入るのだからそこに混ぜてもらうのもアリかな、と考えた浩子は階段を上がることにした。多くの部員たちが一緒にお昼を食べようと浩子を誘おうとしていたのだが、当の浩子は弁当片手に部室からさっさと出ていってしまっていた。妙なところで師匠の影響を受け始めているのかもしれない。

 

 休日の階段には誰もいない。なにか特別な静けさだと思いたくなるくらいに自分の足音が大きく聞こえる。上履きの靴底はゴム製だから音なんて立たないと浩子は思っていたが、想像していたよりも通る音がする。たん、たん、と小気味のいいリズムに違うリズムが混じる。おや、と不思議に思って手すりから頭を出して下を覗く。軽く息を切らせてこちらを見上げているのは二条泉の顔だった。

 

 千里山女子には一階を除いて各階にひとつずつちょっとお洒落な休憩スペースのような空間がある。ぶち抜きの二教室ぶんの廊下に面した壁をとっぱらって、そこに余裕を持たせて暖かい色合いのテーブルがいくつか置かれたものである。もちろん黒板も存在しないし、そのテーブルに合うように壁面も普通の教室とは違ったものを使っている。そこまで手のかからない観葉植物なども置いてあって雑談するときにはもってこいの空間となっている。これが平日であればかなりの競争率となるため浩子はあまりここには近寄らない。だが、今日は大丈夫ですよ、なんて言う泉のあとを着いていってみると空いているどころか浩子と泉の二人しかいないような状況だった。

 

 

 「ところで船久保先輩って今どんなとこで練習してるんです?」

 

 湯通ししたほうれん草を箸でつまみながら泉が尋ねる。サイズも中身もかわいらしいものだが、栄養素のことをきちんと考えてあるなかなか油断ならないお弁当だな、とは浩子の評である。

 

 「……んー、監督はなんか言うとった?」

 

 「知らんー、の一点張りですね。いや知らんことないやろとは思うんですけど」

 

 「これ言うてもええんかなぁ」

 

 「え!?なになに!?言うのもはばかられるトコで練習してはるんですか!?」

 

 「アホか、んなワケないやろ」

 

 ふう、とため息をついて続ける。

 

 「まあでもとんでもない人とは打ってるけどな」

 

 「へ?誰です?」

 

 「……小鍛治プロとか三尋木プロとか」

 

 「まったまたぁー!今時そんなん小学生でも信じませんて!」

 

 泉の屈託のない笑顔は心の底から浩子の言ったことを信じていないことを如実に伝える。強硬にこのことを主張しても面倒なことになるだろうと考えた浩子はどうやってこの場を切り抜けようかを考え始めた。それっぽい嘘がぱっと思いつけばそれでいいのだが、今の自分の状況と照らし合わせてどう答えれば差し障りがないのか見当がつかなかった。なんとも中途半端な苦笑いを浮かべて弁当をつつく。卵焼きがおいしい。泉が目をらんらんと輝かせてこちらを見ていた。梅の季節はまだかなあ、と浩子は現実逃避を始めた。

 

 

 

 

 

 

 



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十五

―――――

 

 

 

 背中を曲げてあごを乗せ、腕を伸ばしてこたつの上でみかんの皮をむく。今日は練習が休みということで、浩子は朝からとくに何をするでもなくぐうたらとしている。昨日の天気予報で聞いたところによると外はこの冬でも指折りの寒さらしく、その寒さのなかで出かけようとするほど浩子は活発ではない。今日はこたつから離れることなく本を読んだりテレビを観たり、あるいは iPadを使って調べ物でもしようかと考えている。オフシーズンということもあってか、家主である咏やともにお世話になっている健夜は浩子に輪をかけてぐうたらした生活を送っている。下手をすると朝は起きてこない。そのためここ最近は浩子が朝食を作るのが常となっている。思っていたより評判がよかったので宮守での経験に感謝しきりである。

 

 ぱらぱらと本のページをめくる。浩子が小説を読むようになったのは横浜に来てからのことだ。こっちのクラスメイトたちとも仲良くやっているが、宮守女子ほど時間が取れないのだ。基本的に放課後はロードスターズでの練習のためにすぐに帰ってしまうから、忙しい人なのだと思われている。高校麻雀の界隈における千里山女子の知名度は抜群で、そこで二年生レギュラーを張っていた浩子は麻雀部員からすれば騒ぎ立てるには十分なものを持っているのだ。そうやって騒がれたことも忙しい人と思わせる要因のひとつになっているのだろう。だから学校も麻雀の練習もない完全な休日は、ぽっかりと空いた時間になる。そこで試しに咏の持っている本を読ませてもらったところ、これが案外面白くて習慣化したのだという。

 

 浩子が好んで読むのは歴史小説や伝記ものである。偉人たちの遺した功績はそれだけを見るならば輝かしいものだ。だがそんな人たちにも当たり前の生活はあって、そこでは思ったより俗っぽい生活をしていたりする。あるいはどう見てもただの偏屈な人にしか見えなかったりする。浩子はそういうのを見るのが楽しいのだと言う。咏から借りた半纏を羽織ってこたつで読書に耽る様は英単語の暗記をしている受験生に見えなくもなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 いつか咏が若手の勉強会に参加したときに全体に向けて放った言葉がある。それは浩子自身に自覚のないまま、心の中に小さな種を残した。

 

 「いいかい?我が強いのは大事なことだ。そんでその我を通して勝てるんなら文句はない。だけど知ってんだろ?どっかでそいつを曲げなきゃいけない時が必ず来る。勝つ為にだ。大事なのは曲げるタイミングを間違えちゃいけねーってところだ。早すぎてもダメ、遅すぎてもダメ。どっちも負けに繋がるし、下手すりゃフォームが崩れる。ここを見極められるからこそアタシ達はプロなんだよ。我を通して散るって美学もわからなくはねーけど、そいつはアマチュアに譲ってやんな。プロとして求められてるもんくらいわかってんだろ?」

 

 この話を聞いたとき、正論だ、と浩子は思った。程度の差こそあれ、千里山女子高校麻雀部という場所においては浩子も似たような立場にある。部長うんぬんの話ではなく、団体戦レギュラーという選抜された選手という立場においてだ。浩子は麻雀における自分というものがまだわかっていなかったから勝つ為に自分を曲げるというあたりはぴんと来なかったが、最大の目的が勝利だというのは大いに頷くところだった。

 

 その日の練習は普段と比較して圧倒的にプロたちの熱が入っていた。本来であれば日によって気合の入れように差が出るのは好ましいものではないのだが、そこは三尋木咏の存在感や影響力が大きかったと捉えるべきなのだろう。ロードスターズの若手のプロたちにも馴染みはじめていた浩子だったが、その日だけはさんざんに裏をかかれた。試しに毎回来てはどうかと提案してみたが、たまにだから効果があるのさ、と軽くいなされてしまった。さて二週間に一度だけ練習に参加している自分は、千里山の部員たちから見ると同じような存在なのだろうかと考えてみるが結論は出ない。なんだか最近結論の出ないことをよく考えるようになったなあ、と思う。故郷を離れるということは、本人が思っている以上に精神的な変化をもたらしているのかもしれない。

 

 

 浩子は麻雀の勝負となると容赦をしない。もしそれが遊びなどであるならばいくらでも手を抜くし、場合によっては勝ちを譲ってあげることもある。だが勝負となるとそうはいかない。隙を見せればそこに噛みつく。弱点と見るやそこを徹底的に叩く。実際に前回のインターハイでは王者たる白糸台の副将に対してそれをやってみせた。それを卑怯だのせせこましいだのと言える人間はさぞ()()のだろうと浩子は思う。皮肉でもなんでもなく、相手の得意技を真正面から受けてさらにそれを叩き潰す真似などできないから。だからずっと情報という武器で戦ってきたし、最近はそれに磨きをかけている。そういうスタイルだからこそ浩子は容赦をしないし、またするわけにはいかない。そうして砥がれた牙は、ついに恐怖を与える段階までに鋭くなった。

 

 それは二月半ばのある晴れた日の夕方のことだった。その日の浩子はどこかぎらぎらしていて、なのに遠くへ行ってしまいそうな不思議な雰囲気を持っていた。とはいっても振舞いが普段と違うということもなく、近頃はほとんどチームメイトとしての扱いを受けるようになった浩子はいつも通りに練習に参加した。この勉強会で高校生に無様なところは見せられないということで、浩子はひとつの刺激になっていた。だから参加しているプロのうちで誰も気の抜けたプレイは見せなかったし、それは大いに彼女たち自身の鍛練にもなった。だがそれ以上にプロの全力を間近でいくつも見学し体験した船久保浩子は、それらを吸収し自らの糧としていった。

 

 思考の源泉、あるいは本質を見抜く作業において重要な役割を持つのが “幅” である。もともと浩子が行っているのは自分にはない思考の流れをトレースするというある種異常な行為であって、それは同時に他人の思考を認めるということでもある。自分とは違う考え方だから、という理由で否定してしまえばそれは根本的な部分で成り立たない。この手法は、こういう考え方もあるんだと受け入れることから始まる。それを実行するためにできるだけ多くの人と対局し、その幅を広げる必要があった。そしてこの勉強会という場は、多くの考え方を見るという点においてうってつけのものだった。打つたびに新たな発見があるこの環境に浩子は歓喜した。そしてその精神状況が彼女の成長をさらに加速させたのである。

 

 その日の練習は咏がいた日に比べるとゆるやかな空気のもとで行われていた。さすがに普段からあの生き死にを賭けたような気迫を込めるのは不可能だろう。それでも至って真面目な雰囲気の中で場は進行していった。三回戦目の浩子の相手にオカルト能力寄りの選手がいた。なかなか懐の深いプレイヤーで、そう簡単に自分の匂いをつかませない上手な打ち回しをする人だった。

 

 かちり、と何かが嵌まる音がした。

 

 プロの練習に参加するようになってしばらくは情報の洪水にやられていたが、ここ最近はそれなりに選び取ることができるようになっていた。しかし今、浩子に与えられていたのは解答だった。()()()()()()()()()()()()()()()()、という過程をすっ飛ばした解答だけがあった。主体性も何もあったものではない。これから打つのだから相手のことは当然のように考えた。だが浩子自身は何も問うてはいなかった。問いを発するより先に準備されている解答など気味悪くてしょうがない。しかしその中には、その選手のオカルトを封じるものも含まれていた。薄い吐き気を覚えながら、浩子はそれに手を伸ばすことにした。

 

 異能を持たない者が正確な意味でオカルト能力を潰すには、大雑把に分けて二つの方法がある。ひとつは相手にオカルト能力を完全に展開させ、その上で地力で和了りきるという手段。もうひとつは相手に能力を使わせる前に芽を摘んで封殺してしまうという手段である。もちろんそれは十分な分析の上に成り立つものであると同時に、その能力そのものとの相性もあるためどちらが有利だとは一概に言うことはできない。相手に恐怖を与えるという一点で見るのならば前者が有効なのには違いないが、相手を焦らせて正常な判断を奪うという見方ならば後者ほど効くやり方もない。したがってこれらは状況によって使い分けられるべきものなのである。浩子のような戦法の選手にとっては特に。

 

 

 やけに静かな気がした。いや違う。たしかに牌同士のぶつかる音は聞こえてくる。卓が動いている音もする。自分だけ空気圧の変えられた透明な膜に包まれているかのように音が遠いのだ。知覚に異常はない、と浩子は確信している。受容の仕方が変わったのだ、と理性ではない部分が主張する。のぼせた時のように頭が熱いのに思考は極端に冷静で、ひとつの脳の中でまったく別のいくつかの作業を並列して行っている感覚がある。それらは事前に取り決めでもしていたかのように決して混ざることはなく光のようにまっすぐ進んでいく。心臓が脈を打つ。血液が体の隅々まで行きわたる。すこし色のうすいほっそりとした腕が伸びていく。これでいい、と大きな安心感が体を支配する。

 

 それはどちらかといえば夢の中の出来事だと言われたほうが浩子にとっては納得できるくらいに現実感のない闘牌だった。たしかに動いているのは自分の腕であったし、動かしているのは自分の意思だった。わずかなノイズもない澄み切った思考のなか、浩子は数ある選択肢から的確に恐怖を植え付ける打牌を選び取る。一打に力はなくとも積もり積もって重なって、決定的な場面で足を止めさせる打牌を。あたかもその決定的な場面が来ることがわかっているかのようにぶれることなく彼女は手を進める。浩子と卓を囲んでいるうちの誰一人としてその意図に気付かない。なぜなら浩子がそうなるように誘導したから。

 

 対面に座った彼女は苦い表情を隠しきれていなかった。表面上はいつも通りの整った顔立ちに違いないが、浩子の目を通せばその違いは浮き彫りとなる。状況は南一局十一巡目。点棒はほとんどイーブンで誰が抜け出すかわからない。誰もが和了りを欲しがる状況で、浩子はただじっと観察していた。すでに分析は終えている。浩子は彼女が動き出すのを待っているのだ。彼女は半荘の初めのあたりで自分のオカルト能力を使おうとしていたが、浩子を含む他家に対応されて地力での勝負を余儀なくされた。そこでも何が悪いのか思うようには打たせてもらえず、彼女の精神はじりじりと追い込まれていった。追い込まれれば追い込まれるほど人間の行動は単純化されていくことを浩子は知っている。もちろん分析は済んでいるので彼女がその際にどのような行動を取るのかは把握している。本人にとって軸であり続けた能力に頼るしかないのだ。それを狙い撃たないなど考えられないことだった。

 

 彼女から出た牌で浩子は和了る。それはたった3900の取り立てて騒ぐような和了りではなかったが、浩子と彼女には大きな意味を持つものだった。間違いなく彼女はこの半荘の間に復活することはないだろう。対局前に見えていたビジョンに現実がやっと追いついた。少なくともこの半荘の間、浩子は完成していた。卓を力づくで支配するのではなく、全ての対応や反応を読み切ったうえで意のままに操った。その姿は、ある条件を満たす人が見たならばとある人物と重なって見えてもおかしくないものだった。

 

 

―――――

 

 

 

 すっかり陽も落ちて空気の冷たさがコートの上からでもしっかりと感じられる中を脇目もふらずに浩子は走っていた。待ち合わせの時間に間に合わないかもしれないからちょっと急ごう、という走り方ではない。全力でなにかを振り切ろうとするものだ。右手で鞄を胸の前に抱きかかえ、左手を思い切り振っている。呼吸はときおり咳が混じって苦しそうだ。目にはうっすらと涙が溜まっている。道行く人々があまりの必死さに振り返る。しかし誰かが後を追っているというわけでもないようだ。

 

 咏の住んでいるマンションにたどり着いてエレベーターのボタンを押す。酸素が足りていないせいか、脳が締め付けられるように軋む。息は切れ切れで額には汗がにじんでいる。エレベーターが下りてくるまで壁に手をついて呼吸を整える。指先は外気に晒されて冷たいはずなのにどうしてか冷たいのか温かいのか判断がつかない。練習場で浩子を支配していたリアルな夢のようなあの感覚はとうに消え去っているのに、どこか体の隅に潜んでいそうで怖かった。

 

 叩くように七階のボタンを押して壁にもたれかかる。その衝撃で一筋の汗が首を伝っていく。頬は上気して赤く染まっているが、今の浩子の表情と合っているとは言えそうにない。ドアが自動で閉まって独立した空間が生まれる。浩子自身にもなぜかわからないが、そこで安堵のため息がこぼれた。途中で止まることなくぐんぐんと上っていくエレベーターの中で、浩子は自分の身体というものを意識した。そこには確かに重みがあって、やっと感じられた筋肉的な疲労にも今は感謝したかった。

 

 

 やっとの思いで三尋木家の扉を開けると、お手洗いから出たばかりの健夜がそこにいた。普段と様子の違う浩子を二秒ほど見つめ、ふわりと微笑んで一言だけ告げた。

 

 「そういうものだよ」

 

 

―――――

 

 

 

 新年度から千里山に戻ることを報告すると、ロードスターズの面々は大げさと言ってもいいくらいに残念そうにしていた。どう見てもお世話になったのは浩子の方で、さんざん打ってもらっただけでなくわからないことがあれば質問にも答えてくれたし、素直に浩子の成長を喜んでくれもした。人や環境に恵まれすぎて浩子は空恐ろしくなる。これはインターハイで成長の証をきちっと見せなければならないな、と苦笑する。麻雀においては引きなど特に強いと感じたことはないが、人生においては案外引きが強いのかもしれない。

 

 駅にはチームを代表して咏が見送りに来てくれた。いつものようにからからと履物の音を立てて歩く姿は周囲の人の耳目を集めた。それでも何が影響したのか彼女に声をかける者はなく、きちんと改札の向こうに行く前に話をすることができた。

 

 「船久保ちゃん船久保ちゃん」

 

 「どうしました?」

 

 ちょいちょいと手で招かれたので顔を近づけると、咏はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

 

 「ウチのチームの席はいつでも空けとくからさ、考えてくれると嬉しいねぃ」

 

 「へ?」

 

 「……んー。口説くのってどうやりゃいいんだか。わっかんねー」

 

 がしがしと乱暴に頭を掻いて咏は口を尖らせる。浩子は勧誘に関するプロの協定など知らないから、果たしてこれが問題ないのかもわからない。

 

 「ま、とりあえずインハイ頑張んな。おねーさんが応援してっかんね」

 

 「やれるだけやってみよ思います。ホンマお世話になりました」

 

 

 時期としては春休みであるため、新幹線もそれなりに混んでいた。さすがに夏休みや冬休みほど帰省する人が多いわけでもないが、それでも新たな生活を始める人や小旅行に出かける人はいる。浩子の目的地である大阪はそういう人たちからある程度の人気を得ているということなのだろう。浩子もさすがに新横浜から大阪まで立ちんぼはイヤだったから、事前に三人分の予約席を取っておいてある。赤木と健夜が大阪に来る必要があるかどうか疑問があったので本人たちに確認したところ、どうやら行く意思があるようだった。いったい向こうで何をするつもりなのだろうか。

 

 次々と客が乗り込んでくるのを横目に見ながら、片肘をついて久しぶりにぼんやりと思考を巡らせる。宮守の先輩たちのこと、ロードスターズのプロの方々のこと、千里山女子のこと。ああ、これからは自分の部屋でずっと寝るんだな、なんて考えているときにはたと思考が止まった。早くも寝息を立てている赤木と大阪観光ガイドを熱心に読んでいる健夜。はたしてこの二人は大阪でどこに宿泊するつもりなのか。これまではホストがいた。岩手では熊倉トシ、神奈川では三尋木咏。ならば大阪ではどうするつもりなのだろうか。よもや我が家に転がり込むつもりではなかろうか。日本国民なら誰でも知っている小鍛治健夜と見知らぬ男をいきなり連れてきたとなれば家族は失神コース間違いなしだ。これはよろしくないと考えた浩子は眠り込んでいる赤木を放っておいて健夜に聞いてみることにした。

 

 「あの、健夜さん。大阪に知り合いとかいらっしゃるんですか?」

 

 「え、いきなりどうしたの?」

 

 「いや、どっか泊まるアテあるんやろかって思たんで」

 

 みるみる健夜の顔から血の気が引いていく。どうやら浩子の推測は当たっていたらしい。穏やかな呼吸をしている赤木の肩ををつかんで揺さぶる。

 

 「ん……?着いたのか?」

 

 あの短時間で本格的な眠りについていたのかと浩子は呆れるが、健夜はそういうわけにはいかないようだ。特徴である困り眉を久しぶりにさらに困らせている。仮にも日本女子麻雀プロの記録をいくつも塗り替えてきた怪物が何たる理由で焦っているのかと浩子はため息もつきたくなる。大阪に滞在するだけというならホテルでも提案するのだが、おそらくそれくらいは本人も思いついてはいるだろうからまずは見守ることにした。

 

 「……しげるくん。私は大阪でどこに泊まればいいんだろう」

 

 寝起きということもあってか、珍しく赤木が不思議そうな顔をしている。まさか赤木が答えに窮する場面をこの目で見られるとは思っていなかった浩子もびっくりである。普段ならスマホを出して撮影でもしていたのだろうが、それもできなかったことからどれだけ動揺しているのか推測できるだろう。

 

 がくりと席が揺れて、新幹線が動き始めたことを知らせる。なんだか落ち着かない様子の健夜をよそに、しばしのあいだ思考に耽っていた赤木はため息をひとつついて誰に聞かせるでもなくつぶやいた。

 

 「……怒られちまうかもしれねえな」

 

 

 窓の外にはまだ横浜の街並みが見える。どうやら今年の春は暖かいようで少し前に桜は散ってしまったが、芽吹いたばかりの緑と柔らかな日差しはしっかりと季節を感じさせるものだった。大阪もさして気候は変わらないだろう。浩子は二週間に一度のものではない、しっかりとした帰郷に胸を弾ませていた。

 

 

 

 

 

 

 

 




来週はお休みです。
また来年に。


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十六

―――――

 

 

 

 「皆さんの入部を、私たちはホンマに歓迎します」

 

 新入生が立ち並ぶなか、ひとりひとりの顔を見ながら浩子はそう切り出した。その場にいる全員の視線が注がれている。中学生大会で鳴らした選手もいれば、これから麻雀を始める人もいるという。その新部員たちはおそらくもう知っているだろうが、あらためて部長である浩子の口から説明しておかねばならないことがある。

 

 千里山女子の麻雀部はわざわざ誰かに聞くまでもなく名門だ。部員数も並ではない。そのため、練習効率を考えて部員は実力順に組み分けされる。千里山は徹底した実力主義だ。力があれば一年生でも団体戦のメンバーに入れるし、一方で上から六番目の実力では三年生でもメンバーから落ちる。当たり前と言えば当たり前だが、実際に目の当たりにするとそれはシビアなものだ。それが浸透しているからこそ彼女たちは麻雀に関しては手を抜かないし、またそれを失礼だと考えている。それでも雰囲気がギスギスしないのはお互いに環境を理解しているからなのだろう。

 

 それでも気後れすることなく頑張ってほしいという旨を最後に告げると、後のことを副部長たちに任せて浩子はパソコンの置いてある資料室へと引っ込んでいった。インターハイの予選まであと二ヶ月、本選まで三か月と少しと実はそこまで時間的余裕はない。浩子はチームのためにめぼしい高校のデータを集めようとしていた。本来なら牌譜集めやその研究はレギュラー外の部員の仕事なのだが、こと千里山においては情報収集能力も研究能力においても浩子がずば抜けているために彼女が担当している。もちろん本人がその作業をやりたがっているというのもあるが。

 

 浩子自身、不思議な視線を受けていることはわかっていた。なにせ新体制になって以降、浩子は一度も卓を囲んでいない。とりわけ浩子が行っているのは先の情報収集と新しく入った部員の調査である。卓を覗いてはどの程度打てるのかを見て回り、あるいは異能を抱えているのかどうかを判断しようとしているのだ。もちろんそんなことは自分で打ってしまえば判断は一番早いのだが、三十人に届こうかという人数を捌くとなるとそうも言ってられなくなる。部長である自分の打ち筋が気になるという心情は浩子も理解している。かわいい後輩のために目の前で打つこともやぶさかではない。だが、相手の本質を見抜くという技術を手にしてしまった浩子の打ち方は、まず間違いなく参考にならない。いきなり他家の手牌が透けて見えているかのような闘牌を見せられても疑問しか湧いてこないだろう。いずれ見せることにはなるのだろうが、それはもう少しこの部の雰囲気に慣れてからでも遅くはないと浩子は考えていた。

 

 

 結果として浩子が打ったのは、新入生が来てから一週間後のことだった。いかにこれまで厳しい環境のなかで鍛練を積んできたとはいえ、きちんと練習をしなければいずれ技術は錆びついてしまう。だから浩子としては何の気なしに卓について打とうとしたのだが、サイを振る段にはすでに人垣ができていた。部長というのはそんなに注目を集めるものだったか、と浩子は考えを改める。実際は泉や副部長やその他の部員が一年生に吹き込みまくったことに起因しているのだがそれについては知りようがない。そのとき浩子は資料室にいるのだから止めようがないのだ。間近で見られるのはあまり経験がないな、などとぼんやり考えていると、監督から群がる部員たちにひとつ注意が入った。

 

 「最初っから浩子の後ろに回るんはやめとき。半荘終わったらビデオで撮ったん見てええから」

 

 ずいぶんと不思議な物の言い方だった。おそらくほとんどの一年生がそう思うんだろうなと考えて、なんだか懐かしくなり浩子はくすくすと笑う。口元に手をやって楽しそうに笑う理由が周囲の人間にはいまひとつ理解できない。まさか八か月ほど前に本人が似たようなことを言われたなどと推測できるものなどいないだろう。

 

 

 「ところで監督、ずーっと気になってたんですけど」

 

 「何や」

 

 人だかりのできている浩子の卓から少し離れたところに、この部の監督である愛宕雅枝と二年生にしてエースとなりうる素質を持った二条泉が立っていた。

 

 「船久保先輩、どうなってるんです?あの勝率と振り込みの無さは異常やと思うんですけど」

 

 「泉、クセって意識したことあるか」

 

 「そりゃバレたら嫌ですし」

 

 「浩子はその本人よりクセが見えとるんやと」

 

 「は?」

 

 ふいと窓のほうを向いて雅枝は目を細める。青空には小さなちぎれ雲がいくつか浮かんでいる。鳥の影がすっと横切っていく。泉は監督に対してあるまじき返答をしてしまったため、取り繕おうとしてあたふたと手を動かして話を続ける。

 

 「いや、その、クセ言うても全然そんなん無い先輩もいますよね?」

 

 「浩子の目にはそうは映っとらんらしいで」

 

 にやり、と少し意地の悪そうな笑みを浮かべて雅枝は続ける。

 

 「それにそうでもないとあの戦績は説明つかんやろ」

 

 

―――――

 

 

 

 ひどく疲れた顔をして、深いため息とともに廊下を歩く一人の少女の姿があった。春の陽気に満ちた外の景色とはまるで似つかわしくない様子である。日の光は廊下の窓に縁どられて影を落とし、ちょうど歩いている浩子の膝の辺りに境界線ができている。浩子がついさっき出てきたのは応接室で、そこでインタビューを受けていたのだ。これは半ば名門の部長の義務といっても差支えないもので、全国大会常連の高校ともなればどこも事情は同じだろう。明らかにこういうのは自分には向いていない、と浩子は思う。前年の部長であった清水谷竜華はまったく意に介することなく見事にこなしていたが、そもそも人種が違うのだ。あの包容力は高校生が持っていいものではない。そうやって頭の中でひたすら愚痴を吐きながら浩子は歩く。

 

 土曜日の午後は暖かく、廊下の窓から見えるグラウンドでは陸上部がそれぞれの種目の練習をしている。自分の身長以上の高さのバーを跳び越えるなどいったいどうやるのだろうなどと興味深そうにしげしげと眺める。物理的な原理は理解していても、実践するとなるとまた話は別である。浩子だけ練習から外れてインタビューを受けていたため、今こうやって廊下を歩いているのも浩子ひとりである。いつもとは種類の違う疲れを感じていたから少し休憩することに決めて、例の談話スペースに向かうことにした。

 

 学校用のものと違って背もたれがすこし後ろに傾いている椅子はなかなか快適なものである。これにクッションでもついていれば完璧なのに、と思うがそれは言っても仕方のないことだ。腰を下ろしてスマートフォンを取り出す。部活中は音も振動もしないように設定してあるので、取り出してみると連絡が入っていることがあったりする。メールボックスを開いてみると、メールマガジンといくつかのメールが入っていた。どれも先輩からのものだ。大学生だのプロだのというのはそんなに時間に余裕ができるのだろうかと少しうらやましくなる。今日は土曜だから時間があってもそこまでおかしくはないのだが、名門女子麻雀部にはそんなことは関係ない。軽めの文章に部活が終わったらまたメールします、と添えて送り返し、浩子は部室に帰ることにした。ちなみに浩子の言う “先輩” には千里山はもちろん宮守も含まれている。

 

 

 「先輩、インタビューどないでした?」

 

 練習が終わって荷物をまとめていると、泉が声をかけてきた。空はこれから夜に向かっていくような紫色をしている。冬に比べて一気に日が伸びたことを実感する。

 

 「どないも何もフツーやろ。今年の目標と、あとは注目してる学校とかやったし」

 

 「んー、目標は全国制覇やからええとして、ガッコはなんて答えたんです?」

 

 「答えてないな。どこも強豪なんで気ぃ抜けませんー、て」

 

 「めっちゃオトナな回答やないですか」

 

 「こういうんは無難でええの」

 

 「でもでも、ホンマは警戒してるトコとかあるんですよね?」

 

 浩子は視線を宙にさまよわせ、あごに手を当てて短いあいだ考え込んで答えた。

 

 「……龍門渕、やな」

 

 

―――――

 

 

 

 天江衣の孤独と退屈が壊されたのは、一年前の六月の半ばのことだった。

 

 

 しとしととやわらかい雨が降り続く梅雨にあって、その日は珍しい快晴だった。前日までの天からの恵みを存分に受け取った木々の葉はつやつやと輝いて、合間に見える花の色を際立たせている。日差しもあって気温は高く、全国高校生麻雀大会長野県予選に出場する選手はそのほとんどが夏服での参加となっていた。

 

 しかし会場の外の清々しい景色とは裏腹に、会場内には陰鬱といってもいい空気が流れていた。小声でささやかれるのは、龍門渕高校の絶対的な強さについてである。近年の長野県における麻雀の強豪といえば風越女子というのが暗黙の了解であった。去年までの六年連続での優勝というのは並みの実績ではなく、それに対抗する高校も現れなかったためその記録がどこまで伸びるかと期待されていた。そんなときに登場したのが龍門渕高校である。当時の龍門渕の選手たちはまったくの無名だった。そしてその年の長野を制したのはその無名の一年生たちだった。強豪たる風越にあって唯一対抗できたのは先鋒を務めるエースただひとりだけで、他は言い訳の利かないほどの敗北を喫した。

 

 その年のインターハイで龍門渕、それもとりわけ天江衣の名は一気に広まった。各県の代表校が集まるその場において、衣は三校を同時にトバすという離れ業をやってのけた。外見こそ小学生と見紛う程度の身長と、腰まで届く透き通った金髪に高く聳える赤いリボンという可憐なものであったが、その戦いぶりは鬼神と称されても違和感のないものだった。そのインターハイで、衣は団体戦での最優秀選手に選ばれた。

 

 衣の異常性はその能力に由来する。すべての局というわけにはいかないが少なくとも半分以上の局で、衣は相手の手を支配する。一向聴で他家の手を止めてしまうのだ。麻雀は競技の性質上、和了らなければ勝つことはできない。つまりこの時点で天江衣は自分以外の勝利をほとんど否定していることになる。これについて衣自身は何らの影響も受けない。さらにもう一つの能力によって衣には海底の牌が何なのかが判る。それには理由も根拠もなく、ただ事実としてのみ判るのだという。つまるところ、それに合わせて手を作れば和了れてしまうのだ。相手を和了らせないように縛り、自分は判りきっている牌へと向かって打っていく。加えて一向聴での縛りが発動しないときでも相手の打点の高さが読めるという異能も持っている。負ける道理がなかった。

 

 だから今回の大会も龍門渕が圧倒するのだろうと思われていた。

 

 それを打ち破ったのは、奇しくも昨年の龍門渕と同じく無名の高校だった。それもあの宮永照が存在しているにもかかわらず、高校最強の呼び声さえあった天江衣を破ってのものだったがゆえにその衝撃の大きさは計り知れないものがあった。だが会場全体が龍門渕の敗北にどよめくなかで、衣はひとり歓喜した。そのとき心の奥に小さくくすぶっていたなにかが取り払われた気がした。海の底に光が差した。勝ちに飽いだ魔物が初めて麻雀を楽しいと感じた。そこに初めて負けたくないという感情が生まれた。

 

 

 「なあ、とーか。衣は、来年あの場所で打ちたい」

 

 自分たちが出場するつもりだったインターハイの観戦からの帰り、まるで音を立てない快適なリムジンの中で、衣が呟くように言う。とーか、と呼ばれた少女は小さく微笑み、隣に座る衣に肩を寄せて言う。

 

 「あら、気にしなくても私たちが連れていって差し上げますわ」

 

 「違うぞ、衣は、衣はみんなで勝ちたいのだ」

 

 体の向きを変えこちらを見上げてくる衣に、透華は母のようなやさしい眼差しを向けて、ついで可愛らしくウインクを決めてみせる。

 

 「ならば!帰ったら特訓ですわね!」

 

 言うや否や同じリムジンに乗っている他のメンバーに何やら相談に行っている様子を見つつ、透華は本当に人の心を読み取るのが上手だと衣は思う。衣にはそれがまるで魔法のように見える。現に衣は早く練習がしたかった。執事の静止を振り切って移動中の車の中で動こうとしてずっこけている透華はとてもコミカルに見えるが、そんなもので人の器は測れない。

 

 

 その絶大といってなお余りある能力を持っているために、衣の打ち方は稚拙なものだった。相手は基本的には張ることはなく、張ったにしても高い打点だとわかっていればその手は絞れてくる。よって衣が大きな手に振り込むことはなく、それ以外は放っておいても勝ててしまうのだから彼女が麻雀という競技に対して研鑽を積むことはなかった。しかしあの敗北を経て、衣は勝つ為に何が有効かを考えて打つようになる。これまでそのような打ち方をしたことはなかったから、もちろん失敗だらけのスタートであった。きちんと打つことに関しては周囲と比べて経験不足は否めない。それでもひとりの魔物が殻を破ろうとしていること自体が重要だった。

 

 麻雀を打つことに目的を見出せたことも大きな変化のひとつだった。自身に土をつけた選手でさえも苦戦するインターハイを観て、全国にはまだまだ素晴らしい打ち手がいることを知った。チームメイトとまた東京の地に行くことも大きなモチベーションのひとつだったが、それ以上にあの舞台で人並み外れた選手と打ってみたい、勝ちたい、と衣は強く願った。

 

 

―――――

 

 

 

 「えっ、長野やったら清澄が怖いんとちゃいます?」

 

 泉は不思議そうに声を上げる。

 

 「まあそこも怖いけどな、龍門渕は全員三年生やから」

 

 「はあ、そうなんですか」

 

 浩子の発言が何を意図してのものなのかがわからず、泉は生返事を返す。浩子は帰る支度を整えて泉のほうへ向きなおり、軽くデコピンを食らわせて歩き出す。

 

 「江口先輩が言うててなぁ。三年生ってなんや不思議なパワー出んねんでー、て」

 

 額に右手をやりながら泉は聞く姿勢をやめない。

 

 「そんなん非科学的やから認めたくないけどな、実力以上のもんが出るって」

 

 「それやったら船久保先輩も出るんちゃいます?」

 

 「いらんいらん。実力通りで十分や」

 

 もう一度、今度はさっきより少し力を込めてデコピンをする。何するんですか、と後ろから文句を言ってくる泉を置いて廊下を歩く。窓の外はだんだんと夜が押し寄せてきている。それほど重くない鞄を肩から提げて下駄箱へと向かう。どうやら別の部の生徒たちも下校する時間のようだ。いくつかのグループが端っこで固まって話をしている。校門の先には路上の電灯が点き始めていた。

 

 

―――――

 

 

 

 ふいと左を向いて空を見上げる。ここしばらくは天気がいい。一昨日に薄曇りだったくらいで、あとはずっと青空が見えている。かつかつと黒板にチョークを走らせる音が聞こえてくる。浩子の席は窓際の後ろから二番目で、そんな席に座ってしまうと外の景色をどうしても見てしまう。考え事があって、さらにそこまで面白い授業でないのならばなおさらだ。授業をしている日本史の先生はいきなり指したりしないからそこだけは評価できる。それに中間テストも終わったばかりだから今の時期は詰めた授業をやったりしない。

 

 頬杖をついて、空いた手でオレンジの蛍光ペンをくるりと回す。視線は窓の向こうの住宅街の方をこそ向いてはいるものの、特に何かを見ているというわけではなさそうだ。頭を支配しているのは、じきに始まるインターハイ予選。気にかからないわけがない。先輩が達成することができなかった全国制覇を自分が成し遂げる最後のチャンス。万に一つも予選で躓くわけにはいかない。授業中に頭を悩ませたところで何が変わるというわけでもないのだが、それでも考えずにはいられない。

 

 つい昨日、団体戦のメンバーが発表された。浩子は最後にきちんと勝利を決定づける役割を任された。プレッシャーやそういったものは浩子にはあまり関係がないが、今年はおそらくどの学校も大将に力を入れてくると推測される。なぜなら天江衣も、荒川憩も、どちらも大将の位置に座るだろうから。どれだけ先鋒から副将までで稼いでも大将だけで逆転する可能性を否定しきれない二人なのだ。その二人を食い止めるとすれば、千里山の選手では船久保浩子を措いて他にない。大将という役目を雅枝から言い渡されたとき、大変そうですね、なんて軽口を叩いたがその本心は高揚していた。強くなるために、全国にいる怪物どもに勝つ為にこそ千里山をしばらく離れたのだ。浩子が対戦を楽しみにするのも当然と言える。やはり麻雀の熱にアテられているのだ。

 

 そうやって麻雀のこと、主に対策などを考えていると授業の終了を知らせるチャイムが鳴った。なかなか有意義な時間だったな、と浩子は満足そうにうなずく。一拍置いてノートを開いてさえいないことを思い出し、あとでクラスメイトにパックのりんごジュースをごちそうすることになったのは別のお話。

 

 

 プロとの対局のときに入り込んだ、あの透き通った世界から浩子はしばらく遠ざかっていた。音がなにかに吸収されるかのようにくぐもって小さくなり、思考だけが自分の意図を超えて加速する世界。そこにいる間は気分の良さも悪さも何も感じなかったのに、いざ出てきてみると脳を直接ゆさぶられたかのようなひどく重たい気持ち悪さが襲い掛かってくる、なんとも説明しにくい感覚。できることなら二度と関わりたくない現象だったが、冷静に記憶をたどってみればあれが生涯で最高の力を発揮したと言えるのは疑いようのない事実だった。だがあの世界への入り方などまったくわからない。悔しいやらほっとしたやらどちらともつかない気分のまま、浩子は帰り道を行く。たまたま視線の先に石ころがあったから蹴ってみたが何が変わるというわけでもなかった。

 

 調子は平常通りかな、と浩子は自分に評価を下す。図抜けた引きの波が来ているわけでもなく、かといって救いようもない自摸の悪さというわけでもない。それよりはるかに重要な分析能力は、しっかりと実戦で使えるほどに叩き上げてある。目の配り方も他家から見た自身の振る舞いにも十分に気を回せている。これでいい、と浩子は思う。変に調子が良かったりすれば、場合によっては自分のスタイルが崩れてしまう可能性があった。たとえどんな状況においても、浩子はまず “見る” ことから始めないといけないと考えている。そこには一片の驕りも見られなかった。

 

 

 夏が、近づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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十七

―――――

 

 

 

 「船久保ちゃんと直接打つんは中学のとき以来やんなぁ」

 

 インターハイ予選会場の廊下。自販機が二つ並んで置いてあり、左側の筐体に硬貨を入れようとしたそのときに右から声が飛んできた。硬貨はそのまま押し込まれ、ついで商品の下のボタンが光る。浩子は振り向くことなく正面を見つめている。押されることを望むかのようにちかちかと明滅するボタンは健気にアピールを続ける。

 

 「そやな、もう三年も前や」

 

 妙に聞き取りやすいその声に浩子は返事をする。ふわっとした雰囲気のなかにどこか脳髄を甘く痺れさせるような響きを持った声だ。浩子たちの世代、現在の高校三年生は好むと好まざるとにかかわらず、その声の持ち主を中心とした世代と呼ばれるだろう。異能において図抜けた存在である神代小蒔でも天江衣でもなく、荒川憩の世代だと。

 

 「私な、ずーっとずーっと船久保ちゃんと打ちたかったんよ」

 

 示し合わせたかのように廊下に人影は見当たらない。ホールは円に近い形で作られているため、廊下はゆるやかなカーブを描いて途切れているように見える。その円に等間隔に設置されたスクリーンのある観客席や出場校のための控室、あるいは対局室には空調が完備されているが二人のいる廊下はその限りではない。季節が連れてくる空気中の水分はべたべたと肌に張り付き、ひどく不快な感じを与える。

 

 「うちとしては願い下げやな。他を当たるとええ」

 

 時刻は十一時をすこし過ぎたところ。早ければ一回戦が終わっている頃だ。ただ千里山も三箇牧もシード校かつ浩子と憩は大将なのだから出番はまだまだ先のことである。だが結局どこが勝ち上がってきたところでこのシード校ふたつを止めることはできるわけもなく、明日見られるであろうこの二人の激突は避けられないものに違いなかった。憩はくすくすと笑いながら口を開く。

 

 「そう嫌わんとってよー。楽しみにしてるのはホンマやからね」

 

 それじゃ、と浩子の対応を意に介するでもなく憩は身を翻して歩き始める。同時に浩子はスポーツドリンクのボタンを押す。一拍置いて缶が押し出され、がらんと音を立てて取り出し口に落ちてくる。プルタブを開けて缶を傾ける。よく冷えた液体が喉を通って体内に滑っていくのがわかる。ふと憩のいた方へ視線を向けると、その背中はすでに小さなものになっていた。

 

 

 千里山の控室は相も変わらず賑やかだった。備え付けのテレビで他校の観戦をしながら時に分析を、時には打牌の正当性などを議論している。高校麻雀における団体戦は、先鋒から大将までの五人ずつの選手で各校に与えられた十万点の点数をやりとりするものである。したがって点棒状況や局の進み具合だけでなくその選手のポジションにおいてさえ打牌の正当性は変化するため、観客たちが思っている以上に高度な思考を試合は要求する。たとえば二位までが次の試合に進めるという場において、次戦に残したくない学校があった場合は一位を走るチームが他校に差し込むことも大いにあり得ることなのだ。だからこそそこに議論が成立する。自分たちに有利な状況を作らないということは、どれだけ強いチームであってもただの驕りである。

 

 浩子はただじっと画面を見つめていた。手牌、表情、捨牌とときおり卓上の全体を映している。画面の向こうの選手たちは懸命に手を作り、どうにかして勝とうと思考している。負けてしまえば三年生はそこで夏が終わってしまうのだからそれも無理からぬことだろう。別の見方をすれば自分たちはほとんど彼女たちの天敵なのか、と浩子は思う。負けるというのはたしかに心地よいものではない。それは三年生に限ったことではなく、下級生たちも変わらない。ただ辛さのポイントが違うだけだ。もっとチームに貢献できたのではないか、自分が先輩の夏を終わらせたのではないかと自責する。そういうすべてを呑み込んでレギュラーを張る覚悟はあるかと下級生に問うても意味はない。それらは常に後悔というかたちでのみ現れるからだ。もうすこし突き詰めるなら勝ってもさほど変わらないと浩子は考える。結局は他のチームを押しのけた上でインターハイに出場するのだから。

 

 意識を画面の方に戻す。あらためて浩子は宮守や横浜で過ごしてきたことの意味を噛みしめる。わずかな間しか映らない表情から、ありありと彼女たちの現在の精神状態と次に取るであろう行動が読み取れる。もちろんある程度打ち筋を見たうえでのことである。いかに彼女たちがこれまで真剣に麻雀に取り組んできたにしても、さすがにプロとは並べるわけにはいかない。いつか咏が言ったように、自分が他人からどう見えるかというのを気にして打てる高校生などいないのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 監督という立場は因果なものだ。雅枝はその立場になってそれなりに経験を積んでいるが、未だに唐突に胃痛に襲われることがある。もちろん勝利に向かって突き進もうとする部員たちのことは信頼している。だがその信頼は彼女たちの普段からの努力に対するものであり、勝利に対しては信じるしかないというのが実際のところである。負けるにしてもいっそ自分が出ていた方が気が楽なのではないかと思ってしまう。そのほうが思い切り悔しがることができるからだ。気を抜いたつもりはなくても、いつの間にかぴたりと傍に寄り添っているその子供染みた考えにうんざりとする。だからこそせめて表面上は毅然とした振る舞いを見せ、部員たちがいつも通りの実力を発揮できるようにしなければ、と雅枝は考えている。

 

 客観的に戦力分析をしてみても、千里山は強い。去年のチームと比べても遜色ないのではないかと思わせる。前回のインターハイであの白糸台の部長に一矢報いた泉は理想的な成長を遂げたと言えるし、彼女に刺激を受けた二年生を含むメンバーたちはどこの強豪校に放り込んでもレギュラーを獲れると断言できるくらいに強くなった。そして何より浩子がいる。雅枝の見たところ、すでに浩子は高校レベルでは怪物の域にいる。ふつうに打てばその筋は見破られ、オカルトを使えばその場で解析され潰される。加えてもともと持っていた精神力のおかげでぶれることがない。実行していることだけを見れば魔物と呼ばれる異能持ちと同程度と言っても過言ではない。それを表情さえ変えずに気取られることなく行うというのだから恐れ入る。その実力はすでに不世出の絶対的エースと呼んで差支えないものとなっていた。

 

 浩子が大阪へ帰ると同時になぜか愛宕家に住み着いた健夜が言うにはまだその技術は発展途上らしいが、だからといって浩子の分析を防ぐ手段があるわけでもない。本来ならば高校生というのはまだまだ自分の打ち方と向かい合う時期であって、他人からの視線に気を配れるほどの余裕はないのだから。対抗するには分析程度ではどうにもならない引きの良さを持った選手か、あるいは解析されても問題ないレベルの異能を持った選手を連れてこなければならないだろう。若手とはいえプロとやり合える浩子を相手にそれができる高校生がいるかはわからないが。

 

 

 千里山の初陣は華々しいものだった。副将にさえ回すことなくトバして勝ち上がってみせた。秋季大会のときも遺憾なくその強さを発揮していたが、この北大阪予選にあってさらに一回り力強くなっていた。当然のことだが他校も練習を積んで成長している。ただそれ以上に差を開いてみせただけのことだ。警戒され研究されるのが当たり前の彼女たちは、それらをねじ伏せるだけのものを常に要求される。その結果だと言ってしまえばそれだけの話である。

 

 卓を同じくした選手たちも、はじめは千里山を乗り越えて全国へと駒を進めることを信じて戦っていた。だが局を重ねるごとにだんだんと身に染みてわかってくるのだ。地力が違うことが。多少のラッキーでは覆せないほどの差がそこにはあって、その事実はごっそりと戦意を奪う。シードというのはそういうものだ。いつだって強者はその反対の立場にいるものからすれば眩しく見える。それはショーウィンドウを隔てたトランペットと少年の関係に似ていた。彼女たちの今年の夏は終わる。しかしそのことに注目する人は誰もなく、視線はただ勝者へと向けられるのだ。

 

 そういったいくつもの思いを踏みしめて先に進むことを “業” だと言う人もいるかもしれない。しかしそれは誰にも判断の下せないことに違いなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 準決勝になってやっと来た出番にも浩子は動じることなくあっさりと勝利を決めてきた。それは観客やあるいは他校の出場選手から見れば、ただ上手に相手の待ちを読んで躱し、振り込むことなくきれいに勝ったように映っただろう。表面上の結果としてはそこまで差はないが、本質はまるで別物だった。浩子は他家の手を限定させたのだ。理牌から相手の手を読み取り、表情や手の動きや思考時間から思考の源泉を見抜く浩子にはそれができる。それは前の局からの流れを踏まえて、自分の打牌の持つ相手への印象も考慮されて行われる。どの牌を打てば相手がどのように動くかがわかるのだから、もはや浩子にとってはそこまで難しいことではない。見えているどころか自分が作らせた手に浩子が振り込むことはなく、実に自然なかたちで逃げ切った。浩子が卓を支配していたことに誰も気が付かないほどに鮮やかな手並みだった。

 

 対局室は反則を防ぐために廊下の扉からまたまっすぐな短い廊下を抜けた先にある。ここで電波などでの外部通信手段を完全に無効化するためだ。その対局室から出ようとして扉を開けたとき、奇妙な高揚感が浩子を包んだ。短い廊下を歩き始めたとき、浩子はその高揚感の理由に思い当った。赤木や健夜の見ていた景色を自分も見ることができたということにはしゃいでいるのだ。確かに実行できる相手やその精度には差があるが、それは間違いなくあの二人の領域だった。もうひとつ扉をくぐって外周の廊下へ出ると熱と湿気が一気に押し寄せてくる。しかし浩子はとくに気にする様子もなく控室へと歩いていく。足取りはいつもと変わりないように見えた。

 

 ともすれば浮かれそうになる気持ちを落ち着けて、先ほどの対局を浩子は振り返る。これはもうクセのようなもので、直前の半荘くらいならば配牌に捨牌に最終形、それに浩子自身の頭にあった選択肢すら完璧に再生できる。浩子のスタイルは他の選手に比べて自分以外に基準を置くものだ。だからこそ浩子自身は打牌や思考のミスは許されない。たったひとつの打牌の違いが大きな差を生む可能性のあるプレイスタイルにおいて、他に存在し得た可能性について考えることは非常に重要である。生来の研究者気質がこれほど助けになっていることもないだろう。この作業は何よりも繊細で、そして孤独なものだった。

 

 

 しばしの休憩を挟んだあとにもっとも盛り上がる決勝が行われるそのタイミングで席を立つ姿がひとつあった。額を強調するように前髪が短く切られたセミロングの黒髪がさらりと揺れる。もう一度だけスクリーンを見て、満足そうに頷いて歩き始めた。彼女の目に何が映ったのかは彼女にしかわからない。

 

 

―――――

 

 

 

 「ごめんな浩子ー。あんまり離せんかったわ」

 

 「リードしてくれてるだけで十分やって。あとは任しとき」

 

 申し訳なさそうに帰ってきた副将に声をかける。団体予選決勝は大方の予想通りに千里山と三箇牧の叩き合いになっていた。副将戦が終わった時点でその点差はおよそ一万。どちらが明確に優勢とは言えないが、点差だけで見れば天秤は千里山に傾いているように思われる。残すは大将戦だけだ。その二半荘で今年の北大阪の代表が決まる。

 

 観客たちは三箇牧有利と見る向きが多かった。いかに千里山がアドバンテージを持っているとはいえ、三箇牧には荒川憩がいる。この大阪で彼女の麻雀の実力を知らないものなど誰一人としておらず、二半荘もあれば一万程度の差などひっくり返すことは容易いと考えている者が多数を占めていた。加えて船久保浩子というプレイヤーがどういう選手なのかがはっきりしていないことも影響していた。この府予選で浩子は準決勝で一度卓に着いただけで、きれいに勝ってはみせたものの見る者たちを唸らせるような()()()()()()()()は見せていない。たしかに浩子は名門千里山において二年生から団体メンバーに入るほどのエリートではあるが、際立った印象を残すような打ち手ではなかった。あの荒川憩とその未知数の選手を比べてどちらが勝つか、と問われれば荒川憩に票が集まるのは自然なことと言えるだろう。

 

 

 控室を出て、わざとのんびり歩いて対局室へ向かう。昂る神経を鎮めるためだ。入れ込み過ぎてはいけない。集中力を上げ過ぎてもいけない。浩子のやり方はあらゆるものに気を配らなければならないのだから、なにか一つに集中を注ぎ込むのは避けるべきことだった。緊張やそれによる動揺はない。この一戦は浩子どころかメンバー、控えの部員たち、監督やあるいはこれまでお世話になってきたすべての人たちにとって大事な試合であることは理解している。それでも浩子が緊張しないのは、経験に裏打ちされた自信があるからだった。

 

 第一対局室へと続く廊下への扉が近づく。ひどくゆっくりと歩いてきたからおそらく浩子が最後に入ることになるのだろう。映画館のものによく似た観音開きの扉を押して開ける。空気圧の違いがあるからか、見えないなにかが一斉に吹き寄せる。短い廊下の向こうに対局室につながる扉が見える。短い廊下の明かりは抑え目になっている。それは浩子にボクシングの登場シーンを思わせた。リングサイドへと続くあの普段は見ることのない通路もこんな感じなのだろうか、と浩子は思う。類似点も多いがそれと同じくらいに相違点もある二つの競技に思いを馳せながら浩子は歩を進める。これまでとくに興味もなかったが一度くらいボクシングを観てもいいかな、と考えたのはまた別のお話。

 

 扉の向こうには予想通り三人が待っていた。悲壮感に満ちた表情をした二人と、いつものように楽しそうな笑みを浮かべた一人。大阪で麻雀を始めて、荒川憩とは別の高校に進学した時点でこうなることは決まっていたような気がする。卓の上に裏にして置かれた四つの牌に手を伸ばす。指一本で器用にひっくり返すと、“北” の一文字があった。

 

 

 憩は、船久保浩子という選手に最大限の警戒をしていた。それは決してここ最近の話ではなく、中学生の頃からの話である。データをかき集めて戦う選手など、憩は浩子を除いては見たことも聞いたこともなかった。本人が憶えているかどうかは知らないが、憩が同い年で苦戦したのは浩子ただひとりだった。牌譜を信じられないほど細かに研究して打ち方を分析した上で臨んでくる彼女は厄介以外の何物でもなかった。高校に入って一年の時には表に出てこなかったものの、二年生になって千里山のレギュラーを勝ち取りインターハイで活躍する姿を見て憩は確信を強めた。自分にとっての最大の壁となり得る存在である、と。三年生が引退した後の秋季大会では憩と浩子は直接ぶつかることはなかった。だから彼女の戦いぶりをじっと画面で見つめ、さらに直に対局した部員にその感想を尋ねた。

 

 「んー、なんやろ。途中から急につかみどころが消えたような感じやったよ」

 

 聞いた瞬間に憩は理解した。あの分析の精度が跳ね上がったのだ。そのタネはお得意の牌譜からの分析かもしれないし、あるいは別のものなのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいことだった。船久保浩子の分析は成長している。それが何より重要なことだった。秋季大会で千里山戦の解説を務めていた戒能プロの発言も気にかかる。憩に出せた結論は、彼女は信じられないレベルの分析を行えるということだけだった。次に彼女とぶつかるとき、自分もその牙にかかることは明白だった。だから憩は、浩子を騙す打ち方を身に付けることを選んだ。彼女の頼れる大きな武器である分析を打ち砕いておく必要があると考えたからだ。そして北大阪府予選決勝の大将戦というこの大舞台で、荒川憩はその真価を発揮するつもりでいた。

 

 

 背筋のぴっと伸びた、きれいな姿勢だった。憩の目から見た浩子は気負いも何もない自然体で、ともすればこれが決勝だということも忘れてしまいそうになるほどに落ち着き払っていた。不思議な目をしていた。どこを見るというわけでもない。手牌でもなく河でもなく、どこか遠くを見ているような目だった。なぜか生物を相手にしているように思えず、憩は背中に冷たいものが通るのを感じた。

 

 立ち上がりは静かなものにならざるを得なかった。トップを争う千里山と三箇牧の二校に対し、残りの二校はほぼ絶望的な点差をつけられていた。それは役満を和了ったところで追いつけないような、呆れてしまうくらいの差だった。三強に数えられる二校の大将がそんな大きな和了りを許してくれるとも考えにくく、もう彼女たちにはほとんど戦意が残っていなかった。つまるところ、余程のことがなければ浩子か憩が動かない限り卓に波が立つことはない。互いに何を警戒しているのか、鳴くこともなく粛々と自摸を続ける。それはたしかに様子見の局だった。たとえそれの持つ意味が異なっていたとしても。

 

 対局室には牌と牌がぶつかる音、牌をラシャの上に置く音、自動卓の立てる音、衣擦れの音、それとほとんど意識のうちには入ってこない断続的な空調の音だけが響いている。いかに日常が音に満ち溢れているかが身に染みる。静謐は時に重さを伴う。その重さを負担と感じるか、心地よいと感じるかは知るところではない。

 

 憩は今大会のすべての試合を浩子に見られていると仮定し、全対局で打ち方を変えた。もともとあったフォームではない打ち方は、普通であればその身に馴染まずにただ違和感を残していくだけのものである。しかし稀代の才覚を持ち合わせていた憩は、それを高い水準でこなしてみせた。尋常でないことだった。今現在のすべての高校生を集めてもそれができるのは荒川憩ただひとりだろう。腰を据えた重い一撃を叩きこむ麻雀、鳴いて速度を上げて相手を切り刻んでいく麻雀、相手の狙いを読んでその余剰牌を討ち取る麻雀、さらにそれぞれに役のこだわりなどを加味したこともあって憩の麻雀は考えられないほどの広がりを見せた。

 

 一つめの半荘は荒川憩の独壇場と言って差支えない内容だった。東一局こそ誰も聴牌を取らずに流局となったが、それ以後はほとんど憩が一人で和了り続けた。例外は浩子が明らかな聴牌気配を匂わせて憩を降ろした局と、憩にツキがなかったのか聴牌を取れずに流れた二局である。この半荘で三箇牧は千里山の持っていたリードをひっくり返し、逆に一万の差をつけてみせた。ちらと浩子の方へと目を向ける。彼女は無機質なまでになお平然としていた。対局が始まる前に感じた悪寒はまだ止まなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 後半戦に向けて少しのあいだ挟まれる休憩時間はそれぞれ使い道が異なる。多くの選手は対局室を出て一息ついたり、あるいは控室まで戻る。浩子はというと、手持ち無沙汰だった。別に喉が渇いているわけでもなければアドバイスが欲しいという状況でもない。頭を休める時間がもらえるのはまあ嬉しいが、二半荘を連続で打てないほどバテてもいない。ある程度は次の半荘のために思考をまとめる必要はあるにせよ、それもほとんど対局中に構築済みだった。軽く腕や腰を伸ばしたあと、お手洗いでも行っておくか、と浩子は歩き出す。今ごろ観客席は三箇牧の優勝を確信しているのだろうが、それも浩子にとってはどうでもいいことだった。

 

 用を済ませてさて対局室に戻ろうかとも思ったが、冷房のせいか少し体が冷えていた浩子は廊下の長椅子に腰かけた。廊下は廊下であまり過ごしやすいとは言えそうになかったが、それでもこの後また少しだけ寒い対局室に行かなければならないと考えるとちょっとだけでも体を温めておきたかった。

 

 

―――――

 

 

 

 憩が違和感を覚えたのは後半戦が始まって早い段階でのことだった。麻雀という競技はそのルール上、手牌から何かを捨てる。その捨て方の巧拙が麻雀そのものの巧拙だと言う人もいるほどに重要なアクションである。だからすべての麻雀打ちは打牌の前にかなりの量のシミュレーションを自摸の前から行い、それに応じて捨てる牌を決める。本来であるならば、打牌の前に悩むまではいかなくともいくつかの選択肢が目の前に存在しているのが麻雀打ちとしての正しいあり方だった。しかしこの後半戦において、憩は自分に与えられた選択肢が減っていることに気が付いた。そしてその選択肢の減らされ方に違和感を覚えた。

 

 それは、暗い帰り道の曲がり角に姿の見えないなにか気味の悪いものがいるような、そんな感覚だった。道筋の選択肢のひとつには間違いないのに、どうしてかその道を選びたくないと思わせるようなひどくいやな感覚。危険だということがはっきりとわかっているわけではない。ただの思い過ごしということも十分にあり得る。それでもその選択肢の向こうに怖ろしい何かが潜んでいそうで、憩はその道を選ぶことができなかった。

 

 

 荒川憩の敗因は、()()()浩子を相手にしてしまったことだったと言える。

 

 もしあの八月に浩子が赤木についていかないという選択をしていたら、まず間違いなく結果は逆のものだっただろう。牌譜を研究し打ち筋の傾向だけを探す浩子であれば、打ち方を自由に変える憩には手も足も出なかったはずだ。だが現実には浩子は赤木についていった。そして人の本質を暴くという常識外の技術を手に入れた。

 

 憩の推測したとおり、浩子は憩の出ている試合をきちんと見ていた。そして明らかに打ち筋が変化していることに気付いたが、注目したのは打ち筋そのものではなかった。まず考えたのは、なぜ “荒川憩があれだけわかりやすく打ち筋を変えようと考えたのか” である。一戦目も二戦目もあからさまに違っていた。もちろん手順そのものは洗練された高水準のものだったが、それは後で考えるべきことだった。憩が試合を重ねるごとに浩子は推論を深め、ほとんど解答を絞ったところでの決勝戦だったのだ。そして前半戦でそれは確信へと変わった。荒川憩は恐怖に近いレベルで自分を警戒しているのだ、と。思考の源泉がわかった以上、それをどう扱えば自分の思い通りに動かせるかというのは、もう浩子にとってはさしたる問題でもなかった。

 

 もし憩が浩子に勝つ為の条件を挙げるとするならば、それは初戦で当たることだった。ぶつかるタイミングが後になればなるほど、浩子は画面から情報を読み取りその分析をより精確にしていく。無論それはシードに置かれるほどの実力校同士であるから願ったところで叶う話ではなかったのだが。

 

 

 浩子は最後の局もきちんと和了りきり、最終的に千里山女子は三箇牧に二万点近くの差をつけて優勝を飾った。ちらと目を向けると、憩がうなだれたような姿勢から弾けるように体を起こして口を開いた。

 

 「ぷっはー!参ったわぁ。船久保ちゃん何なんそれ?」

 

 「……んー。企業秘密やな」

 

 席を立ち、互いに手を握りながらくすくすと笑いあう。

 

 一拍置いて控室から信じられないといった悲鳴が、もう一拍置いてスクリーンのある観客席から歓声が上がる。場内は防音設備が行き届いているため、それらの歓声が対局室の二人に届くことはなかったが、それでもなにか大きなものに包まれているような感覚がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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十八

―――――

 

 

 

 じりりりりり。じりりりりり。

 

 急き立てるように鳴る音のほうへと手を伸ばす。手はひらひらと宙を泳いで目的物をつかみ、頂点にあるボタンを押してやっと落ち着く。静かになった目覚まし時計に目をやれば、針は八時を指している。この時間に目覚ましを設定したのは自身だが、まどろみの心地よさに後ろ髪をひかれて戒能良子はため息をつく。カーテンの向こうの六月の空はしばらく続いたねずみ色で、今日も雲が晴れることはなさそうだ。ベッドから降りてテレビを点ける。この時間になるとニュースではなくて情報番組が中心となっている。良子は食パンをトースターに放り込んで、新聞を取りに玄関まで向かう。

 

 朝食後のコーヒーをすすりながらのんびりと新聞を読む。一面を飾るような記事には目を通してはみるものの、表面上のことくらいしか理解が追い付かない。社会人になってしばらく経つとはいえ、年齢で言えば大学生と同じなのだ。大学へと進学した高校の友人たちはなかなか楽しくやっているらしい。本音を言えばそれはもちろんうらやましくはあるが、今さら言ってもしょうがないとわかっているから良子はひとつ鼻を鳴らしてそれで済ませる。社会人はこうやって自分との折り合いのつけ方を学習するのだ。

 

 昨日の麻雀リーグの結果が載っているページを開く。新聞に載っているのはトップリーグの結果だけで、良子の興味もそこがいちばん強いからちょうどいい。それに他に気になるようなチームがあればネットで調べればいいのだから世の中便利になったものだ、と良子は思う。コーヒーの苦みが沁みていく。

 

 ふと、ある記事が目に入った。全国高校生麻雀大会予選開幕、との文字が踊っている。いささか漢字が並びすぎじゃないかと思わないでもないが、もうずっと小さいころから親しんできたものでもあるので気分の高揚は否めない。記事によれば各地で予選が始まっているらしく、早い所ではすでに代表校が決まっているとのことだった。何の気なしにすでに出場の決まった高校に目を走らせる。良子自身が高校生だったときと出場校がどのように変わっているのか気になったのである。ああそういえばこんな高校あったな、なんて目で追っているとひとつの高校名が気にかかった。

 

 ( おや、これは彼女もエントリーと見てよさそうですね )

 

 少し気をよくして洗い物へと立ち上がる。トーストのなくなった皿とマグカップだけの簡素なものだ。今日は平日だがとくに試合が入っているというわけでもなく、ぽっかりと空いた休みとなっていた。あまり外に出たくなるような空模様でもなかったため、牌譜の研究や録画していたドラマでも観ながら過ごそうと良子は決めた。

 

 

―――――

 

 

 

 室内に一定のリズムでキーボードを叩く音が響く。合間にマウスを持ち上げて位置取りを修正しつつ、高速で画面をスクロールさせる。わがままを言えば牌譜だけでなく実際に打っている映像も見ておきたいのだが、地方予選レベルならまだしもそれより規模の小さな試合となるとそもそも映像として記録されていない場合も間々あるため、そういう場合は牌譜を集めることに浩子は決めている。どうして思考の源泉を見抜く技術を手に入れた浩子が牌譜を集めるのかと問われれば、オカルト能力がどのようなものかを突き止める場合、量がものを言う場合が多いからである。本質の分析とその人が持つ異能の分析はもちろん似通う部分が多いが、決定的に違う部分もあると浩子は考えている。だからわざわざそこを分けて研究することに決めたのだ。

 

 傍らにはペットボトルのお茶が置かれている。三分の一ほど濁りのある液体が減っている。以前はパソコンを使って情報収集を始めると他のことに一切の注意を向けなくなる悪癖があって、それは自身の身体が発する空腹や渇きの信号を完全に無視してしまうほどの集中力だった。今は目こそ画面から離れないが他のことにも気を配れる余裕が出てきている。脳のメモリが増えて、それだけより多くのことに気を回せるようになったというのが近い表現だろうか。

 

 雅枝と二年生の一人に手伝ってもらいながら、浩子は週を追うごとに次々と決まっていく各都道府県の代表校のデータをまとめていく。地方予選だと少なくとも決勝は映像が残っているうえに、ルールとして牌譜が公開されている。もちろん浩子の仕事はそれ以上の深いデータの収集ではあるが、最低限の資料が公開されるというのは非常にありがたい話である。特に未知のプレイヤーがいるとなればその価値は跳ね上がる。昨年の阿知賀や清澄のようなダークホースがほいほい出てきてもらっても困るが、麻雀という競技において準備をし過ぎて困るということはない。だから浩子はメンバーに伝えるためにも丹念に研究を重ねていった。

 

 

 帰りのホームルームが終わって掃除の時間が始まる。各クラスに割り当てられた場所へその週の担当の生徒たちが向かっていく。浩子は教室の担当となっている。千里山女子の掃除は、ほうきとちりとりで済ませる簡素なもので小学校のように机を運んだり雑巾をかけたりしない。正直なところ、高校生にもなると昼休みに外に出て遊ぶようなことがほとんどなくなるため校内はあまり汚れない。だからというのも妙な話だが、そこまで細かくやらなくてもとくに困らないというのが現状である。その例に漏れず浩子も気もそぞろにほうきを動かしていた。

 

 浩子の頭にあったのは、あの透き通った世界のことだった。どうすれば()()を自在に操れるようになるのか、あるいは状態を変えることなく近い水準で打てるようになるのかをここしばらくずっと考えている。たしかに先の府予選では荒川憩に勝てた。彼女の実力がずば抜けているのも疑いようのない事実だ。だがそれは浩子がさらにもう一歩踏み込むのを止める理由にはならない。一年にしていきなり全国制覇を成し遂げた宮永照が存在したように、レギュラーにかすりもしなかった位置から一気にエースに上り詰めた園城寺怜が存在したように、どんな選手が出てくるかなど誰にもわかりはしない。全国大会というのは、そういう場所である。

 

 いろいろとあの日の条件を頭の中で並べ立てる。生活態度に関してはとくに他の日との違いはなかったように思われる。ただ妙に集中しやすかったような記憶だけがある。条件を考えてもあまり効果がありそうにないな、と考えた浩子はあの時の状態を思い出してみることにした。

 

 余計な情報が入ってこない、という言葉で表現すると多くのものがこぼれ落ちていく不思議な感覚だった。浩子は自身であまり余計なことを考えるタイプだとは思っていないし、実際にその的を絞った思考の流れはあまりほかに見られるレベルではない。ただあの世界に入り込んだあとで振り返ってみると、意識していないだけで脳は様々な情報を処理しているということに気付かされた。目は卓上の河や相手の手元、あるいは表情や目線の動きだけを追っているつもりでも、実は相手の奥にある壁や扉や卓のラシャに至るまで本当に目に映るすべての情報を処理している。もちろんそれは視覚情報に限らず、音も匂いも着ている服が肌に触れている感覚までも、あらゆる情報が脳に流れ込んできている。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「浩子ー、どんだけソコきれいにすんのー?」

 

 声をかけられてはっと我に帰る。ぜんまい仕掛けの人形よろしく同じところだけ掃き続けていたのがバレてしまったようだ。照れ笑いでごまかしつつ、今度は足を動かしつつ机の間を縫うように掃いていく。

 

 掃除を終えて部室へと向かう間にも浩子の頭は働き続ける。今のところ有力な仮説は、集中力が限界まで高まったとするものである。自分の頭が恣意的に麻雀とかかわりのある部分だけにその意識を割くことであの状態になったとするならば、音が遠くに聞こえたことも腕が自分のものに感じられなかったことにもある程度の説明がつく。それでもほとんど未来を読み取っていたかのようなあの感触には何の説明もつけることはできないが。そういえば、と浩子は思い出す。あの日、咏の家に帰った直後に健夜が言っていた言葉はいったい何を意味するものだったのだろうか。あるいは何に対してのものだったのだろうか。

 

 

―――――

 

 

 

 八月の二週目から開催される麻雀のインターハイへ向けたおよそ二ヶ月の準備期間は、それぞれ高校によって合宿をしたり遠征をしたりと様々である。とはいえインターハイに出場する者同士での練習は禁止されているため、多くの場合は独自に合宿というのが実際のところだ。千里山女子麻雀部は学校が夏休みに入った翌日から合宿に向かうのが通例である。人数規模で言えば百人に迫ろうかというその合宿はあまり人数の多くない学校の修学旅行にも見えるほどだ。移動のための専用バスを三台も有しており、それもまたらしさに拍車をかける。

 

 走るバスの中は賑やかで、そこだけを切り取って見ればこれから合宿に行くようには見えない。お菓子を片手に話に興じたり、トランプやウノや果ては携帯ゲーム機まで持ち出している部員もいる。しかし雅枝はとくに怒ることもなく、寄ってきた部員と話をしている。スパルタも方針としてはひとつの選択肢だと思うが雅枝はそれを選ばない。締めるべき時に締められればそれでいいと考えているし、監督としてそういうチームを作り上げたという自負もある。試合や練習のときに情けないプレイをすればもちろん怒りもするが、そうでなければ基本は自由にやらせている。技術的な指導は当然するが、自分で考える力がなければどのみち上のレベルでは戦えないのだから。

 

 三泊四日の日程で行われる合宿は団体戦のメンバーを中心としてスケジュールが組まれている。メンバー以外のすべての部員を使ってローテーションを回し、あらゆる点棒状況を想定してひたすら打ち続ける。リードしている場面と遅れをとっている場面で打ち回しには違いが出なければならず、またそれを意識して行えなければ実力とは言えないとの考えのもとでのトレーニングである。控えのメンバーでさえ他県のインハイ出場校とそう実力に差のない千里山女子でのこの練習は想像以上に過酷である。いかに普段が和んだ雰囲気であろうとその本質は全国屈指の強豪である。勝利を求め、また求められることが常となっている彼女たちはひとたびスイッチが入れば年齢にそぐわない表情を見せる。そういった環境の善し悪しなど誰にもわからない。だが彼女たちは自ら選んでこの千里山に身を置いている。だから誰一人として弱音を吐く者などいなかった。

 

 

 ぱたぱたと廊下用のスリッパを鳴らして廊下を歩く。この合宿専用の施設に来るのももう三度目で、今年で来るのも最後かと思うと多少は感傷のようなものも湧いてくる。浩子は心持ちゆっくり歩いてロビーを目指していた。湯上りにそのまま部屋へと戻ってもよかったのだが、ひとりで考える時間を取りたかったというのがその理由である。とくに何か考えたいテーマがあるというわけではない。なんとなく気分的にそんな時間が欲しいという浩子の小さなわがままだ。決められている消灯時間までにはまだすこし間があるし、なにより良い精神状態をキープするのは重要だと浩子は自分を納得させた。

 

 瓶の牛乳を片手に革張りの椅子へと座る。制服と違って浴衣は空気の流れが肌に触れる。なかなか味わうことのできない貴重な感触を楽しむ。なるほどたしかに浴衣ならばエアコンなどなくても夏の夜は十分に過ごせるな、と浩子は思う。むしろエアコンを点けたら体を冷やしてしまいそうだ。まだまだ和服での正しい動き方など知らないが、それでも快適かもしれない。浩子はそのうち普段着として浴衣も選択肢に入れることを検討することにした。

 

 しばらくとりとめのない思考の海に潜っていると、廊下の奥の方にちらりと人影が見えた。まだシルエットしか見えてはいないが、浩子はすでに見当をつけていた。こういうタイミングでやってくるのは一人しか思いつかない。

 

 「あれ、船久保先輩こんなところでなにしてるんです?」

 

 「ん、ぼけっとしとっただけや。泉は?」

 

 「えっと、こういう広いとこ来るとなんか落ち着かなくて」

 

 あはは、と笑いながら泉は浩子の隣に腰を下ろす。

 

 「そういえばアレですね、ホンマに龍門渕きましたね、長野」

 

 「あー、なんか前そんなこと話した気ぃするわ」

 

 泉の表情はわくわくしたものになっている。この純粋さには頭が下がる。自分が引退したあともきっとチームを引っ張っていってくれるだろう、と浩子はなぜか安心した。

 

 「でも実際、あそこむっちゃ強いですよね」

 

 「……団体として見るなら決勝までは間違いない、ってレベルやな」

 

 「先鋒の井上さんか副将の龍門渕さんがエースでもおかしないですよね」

 

 「別に国広も沢村も弱いわけやないしな」

 

 「……天江さんの一向聴地獄ってどないなってるんですかね?」

 

 「あれはまあ、なんとかなるやろ、うん」

 

 「へ?」

 

 「一向聴地獄はひとつの結果やろうし」

 

 「えっ、ちょっ、え?どういうことですか?」

 

 予想外の返答だったのだろう。泉は目をぱちくりさせながら浩子に尋ねる。浩子はその質問に答えることにやぶさかではなかったが、あることを思いついて教えてあげないことに決めた。部内でも邪悪と評判の笑顔を浮かべて浩子は言う。

 

 「宿題や」

 

 口元に手をやり、くつくつと笑いながらもう片方の手で泉の頭を軽く叩いて浩子は立ち上がる。ヒントをくださいとすがる泉をなだめて廊下を行く。もし考えてわかるようであればそれは彼女にとって大きな成長につながるし、わからなくても問題はない。実際に天江衣とぶつかるのは浩子なのだから。赤木が自身に宿題を出したときもこんな気分だったのだろうか、と考えると自然と口角が上がった。

 

 

 浩子は自分の泊まる五人部屋に戻って窓から空を見上げる。すこし前に梅雨が明けたおかげか、雲一つない夜空が広がっていた。顔を出して見回してみると右上のほうに月が煌々と照っていた。合宿所は自然に囲まれた場所にあるため、月の下の景色はただただ黒いうねりが続いているだけのように見えた。

 

 

―――――

 

 

 

 灼けるような日差しが分け隔てなく降り注ぐ夏にあって、東京都心は人にとっては非常に難しい環境と言えるだろう。アスファルトやコンクリート、それに新たな建材に包まれた街は熱を逃がさず、また太平洋側の気候の特徴として夏は非常に湿度が高い。熱帯化が進んでいるとさえ言われる世界でも指折りの先進の街で、麻雀のインターハイは開催される。

 

 集うのはそれぞれの地方予選を優勝することで選抜された屈指の実力校。日本の、それも高校生だけの大会と侮るなかれ、その人口は一万や二万では利かないほどのものとなっている。その人気も絶大なものであり、会場で観戦しようとするのならば開場前に並んでおかないと立ち見必至となっている。また各プロチームや大学のスカウトが目を光らせており、様々な意味で注目を集める大会と言っていいだろう。

 

 

 インターハイの開会を翌日に控えた夜、浩子はひとり東京の街を歩いていた。電灯と二十四時間営業の店の明かりに満たされた夜は、人間という存在を強く主張する。その風景は、浩子に昼夜逆転の生活とはどのようなものかとの疑問を抱かせる。さすがに想像だけでは自分で満足のいくような回答が得られなかったのか、ひとつ息を吐いて浩子は歩く。とくに大層な目的があるというわけではない。ちょっとコンビニに寄って飲み物を買おうと思っているだけだ。宿泊しているホテルに売っていればよかったのだが、飲みたいものがちょうど売っていなかったのだから仕方がない。

 

 自動ドアが横へ滑ると同時に入店音が鳴る。ちらと右へ視線を向けると奥に飲み物が置いてある棚が見える。その手前には雑誌コーナーで立ち読みをしている客がいた。その客の後ろを抜けて棚の前へ行き、目当ての飲み物を探し始める。地元の馴染みのコンビニであればすぐに見つかるのだが、初めて入る店だとなかなか見つからないものである。なぜか目当てのものが下の方にあって発見するのにすこしだけ時間がかかったが、欲しいものが見つかったのでレジへと持っていくことにした。

 

 代金を支払って再び自動ドアを潜り抜ける。少し効き過ぎるぐらいに効いたエアコンのせいで外の気温が上がったかのように感じられる。湿り気を含んだ空気がぴたりと浩子の身体のかたちのとおりに張り付く。さてホテルに戻ろうかと視線をもと来た道へと戻すと、ここしばらくの間は見かけることすらなかった麻雀の鬼がタバコを喫んでいた。ゆらゆらと無目的に空へとのぼっていく煙は夜の街には浮いて映る。まるで幽霊みたいだ、と軽くため息をつく。

 

 「……赤木さん、こんなとこで何してるんですか」

 

 「よう、ひろじゃねえか」

 

 「東京って外でタバコはあかんのとちゃいます?」

 

 「さあな、あまり興味がなくてよ」

 

 言ったところでどうにもならないことはわかっていたため、浩子もそれ以上は何も言わない。

 

 「…………」

 

 「赤木さーん、こういうときはエールのひとつでも送るもんですよー」

 

 「……こういうのはガラじゃねえんだけどな」

 

 ( おお、言ってみるもんやなぁ )

 

 「いいか、ひろ。船久保浩子として生き、船久保浩子として死ぬんだ」

 

 いつもこうだ。日常会話ならば当たり前にこなせるのに、誰かに向けた言葉にした途端、赤木のそれは難解なものへと変わる。これまで出されたふたつの宿題が浩子にとってのその証拠だ。ただそのふたつの事例を考えると、結局は浩子自身が答えを見つけられるものなのだろう。用事は済んだと思ったのか、赤木は夜の街へと消えていく。浩子は、その背中をただじっと見つめることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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十九

―――――

 

 

 

 晴天。いつかを思い出すような、じりじりと肌を刺す日差し。景観のためか環境問題を意識してのものか、きれいに立ち並んだ木々の葉が光を浴びてきらきら光る。突き抜けるように高く濃い青空は圧力を持っているかのようにさえ感じられる。道を行く人たちはほとんどがハンカチやハンドタオルを片手に歩き、その汗をぬぐっている。常に車の音が聞こえていてお世辞にも空気が綺麗とは言えないが、それはまあ大阪と比べても大差はないか、と浩子は苦笑する。今日はインターハイ女子団体決勝。天気はふさわしいものと言っていいだろう。麻雀は室内競技に違いないが、雨が降っているより晴れているほうが気分がいいというものだ。

 

 この人工物で作られた街のどこで生きているのか、ホテルの部屋の外から蝉の合唱が聞こえてくる。あるいは外壁にくっついてこれ見よがしに鳴いているのかもしれない。一年前もこうして鳴いていた。別に感慨に耽るつもりもないが、なぜか思い出とくっついてしまっているのだから仕方がない。決勝戦が始まるのは午後からだ。ミーティングは昨日の段階で済ませてあるから別に早起きなどする必要もないのだが、目が覚めてしまった。自身で思っている以上に興奮しているのかもしれない。

 

 まだ寝ている泉をはじめとしたメンバーを起こさないように身だしなみを整えて部屋を出る。浩子はもともと一人で行動することに抵抗をあまり感じることがなかったが、ここ一年でよりそれに磨きがかかっていた。それを良い影響とするかどうかは判断の難しいところである。

 

 この千里山女子に入学してからホテルには何度も宿泊しているが、どうにもこの雰囲気は落ち着かない。たしかに細かなところまで気配りが行き届いていて快適ではあるし、そこらじゅう清潔感でぴかぴかしている。だが浩子はその前面に押し出されたおもてなし感にどうにも気後れしてしまう。ひとつため息をついてエレベーターへと歩を進める。このホテルの朝食はいわゆるビュッフェ形式で、なんと朝の六時から利用が可能なのだという。とはいえいくら早くに目が覚めたといっても午前中は余裕がある上での話であって、さすがに浩子もそんな時間に起きたりはしない。

 

 数える気にもならないほどの種類の料理から、浩子は栄養素のバランスを考えながらすいすいと選んでいく。宮守でのお弁当作りの経験はたしかに息づいていた。バランスのいい食事というのは本当に作るのが大変なのだ。もちろん味の好みも十分に考慮に入れた朝食を盆に乗せて、紺色のクロスのテーブルへと向かう。周囲にも他の宿泊客が散見されるが、まだ本格的に混む時間帯ではないようだ。

 

 食事を終えて、りんごジュースの入ったグラスを傾ける。果物のジュースはどちらかといえば飲みやすいようにある程度は調整されているもののほうが浩子の好みには合っている。もともと果物そのものが好きなので小さな差ではあるが。ジュースが喉を通って一息つくと、いつの間にか隣に雅枝が座っていた。そこまで食事に集中していたつもりもないのだが気付かなかったのは事実だ。心臓に悪い、と浩子は心の中で文句を言う。

 

 「なんや浩子、ずいぶん早いんやな」

 

 「まあ早寝早起きは健康のヒケツ言いますからね」

 

 「他はまだ寝とるんか」

 

 「さすがにぼちぼち起きてくるんちゃいます?」

 

 「ま、決勝は昼からやしええけどな。そんで浩子、どうや?」

 

 「何がです?」

 

 「調子はどないや」

 

 「いつもどおりやと思いますよ」

 

 毒にも薬にもならないやりとりをして、二人はにやりと口の端を上げる。浩子の “いつもどおり” は意味が違う。この夏の予選から浩子は収支トップ以外を知らない。あの荒川憩をさえ抑えてみせた分析は、この全国大会においても恐るべき精度を誇った。解説のプロでさえ感心するほどの技術を持つ彼女の “いつもどおり” とは勝利以外の意味を持たないのだ。

 

 

―――――

 

 

 

 階段を、上がる。

 

 その舞台に立つことを許される高校生はきわめて少ない。麻雀部に入って活動する高校生のすべての目標がそこにある。決勝戦のためだけに開放されるステージは、静かで、眩しい。映像で見ることは許されても、実際にその空気を味わうことは決勝戦に駒を進めた者以外には許されない。浩子は手すりを使いながら想像以上に角度のきつい階段を上がっていく。午後一時三十分から始まったインターハイ女子団体決勝は終盤に差し掛かり、今はもう西の空が赤く燃えている。

 

 

 決勝進出を決めた夜は電話やメールが止まなかった。浩子の一日に受け取ったメール数の最高記録を遥かに上回る量だった。千里山や宮守の先輩はおろか各学校のクラスメイトたち、さらにはロードスターズのお世話になった方々からも応援のメールが来ていた。全てに返事を返すのは大変だったが、それだけ多くの人とのつながりを持っていることを実感もした。白望から来た “がんば” の三文字だけのメールを見た時はさすがに笑ってしまったが、それはまた別のお話。

 

 

―――――

 

 

 

 「インターハイ女子団体決勝副将戦までを闘って、なんとトップから四位までの点差が一万点!大将戦はどうなることが予想されますか、戒能プロ?」

 

 「本当にどこが勝つのか予想がつきませんね。大将戦に出るプレイヤーも素晴らしいですし」

 

 「現在トップの臨海女子が郝慧宇選手、二位の龍門渕高校が天江衣選手、三位の千里山女子高校からは船久保浩子選手、そして姫松高校からは愛宕絹恵選手となっています」

 

 「各選手ともに個人戦への出場も決まっていますからレベルの高い試合になるのは間違いないと思います」

 

 「大将戦の見どころはどんなところになりそうですか」

 

 「中心となるのはやはり天江選手でしょうか。彼女の力に三校の選手がどう対応するかがまずは大きなポイントになるのではないかと」

 

 

 観客席は異様な静まりを見せていた。誰が音頭を取ったわけでもないのに、示し合わせたかのように誰一人として口を開かない。まるでこれから行われるのは神聖な儀式のひとつであるかのように、ただじっとスクリーンを見つめている。宮永照という時代そのものが去った高校麻雀界は小粒になるものと思われていたが、それは間違いだった。新たな世代は確実に芽吹き、そしてその勢いは去年のことなど忘れさせるほどに力強いものとなっていた。阿知賀女子が、清澄が、そしてあの白糸台が決勝の舞台にいないことに誰一人として疑問を抱かなくなるほどに。

 

 スクリーンに最後の一人が映る。栗色の髪は肩に届くあたりで外にはねている。楕円のレンズをした眼鏡の少女が舞台に上がる。彼女たちの声は観客には届かず、またその逆も同様である。彼女たちが何を話しているのかはわからないが、おそらく挨拶を交換しているのだろう。卓の上に四枚だけ裏返しで置かれた牌に少女たちの手が伸びる。彼女たちの選んだ牌がどの方角を示していてももう後には戻れない。今日この日これから行われるたった二回の半荘で、この年度におけるインターハイ本選からそれぞれの地方予選を含めたすべての高校のなかで最も強い高校が、決まる。

 

 

―――――

 

 

 

 ずいぶんと天井が高いな、と浩子はぼんやり思う。見上げたところで距離感がつかめないほどの天井などこれまで見た記憶がない。直視するのがためらわれるほどの光量を持ったライトが高いところから、少し抑えたものが卓の高さにいくつか設置されており、卓上とそこに座る選手たちの顔をくまなく照らす構造となっている。顔ぶれは壮観だ。それぞれ一人ずつ特集が組めるほどの面子である。西家に座る浩子の下家には従妹である愛宕絹恵、上家には世界ランカーでもある郝慧宇、そして対面には天江衣。

 

 順にそれぞれの顔を見ていく。三人とも十分に気合が入っていそうな顔つきをしている。とてもいい状態だ、と浩子はひとりほくそ笑む。全力を賭して勝負に挑んでもらわなければ研究者としての浩子の本分が発揮しにくくなってしまう。無論のこと勝利が大前提での話ではあるが。

 

 

 ( さぁて、まずはそのチカラが万能やないって教えておかんとな )

 

 他家の理牌を当たり前のようにチェックしながら浩子はこの半荘におけるプランを組み立てる。郝は世界ランカーだけあって、準決勝までの映像からは理牌のクセを見抜くことはできなかったがとくに大きな問題というわけでもない。理牌以外にも手牌を推測する情報などいくらでも転がっているのだ。ただ彼女より先に叩いておくべきは天江衣であると浩子は見定めていた。

 

 浩子の手は三向聴の可もなく不可もない配牌だった。ドラはないがひとつだけある急所が埋まれば早めに和了ることも考慮に入れられそうな手だ。少なくとも無理をするような手には見えない。しかし浩子の頭の中ではまったく別の組み立てが行われていた。

 

 本来であれば東一局は天江衣が和了るものだと観客の多くが考えていたし、また衣本人もそのつもりでいた。今大会の東一局に限って言えば衣の和了率は100%であり、またそれは他家に一向聴地獄の絶対性を叩き込むための戦略的な意味合いも持っていた。気の早い月はすでに空に昇っており、その意味でも衣が十全に能力を発動する条件は揃っていた。いや、たしかに衣の異能は発動していた。それは会場内にいるすべての異能持ちがしっかりと感じ取っていた。だが今の卓には、ひとつの異分子が紛れ込んでいた。

 

 東一局、十二巡目。リーチの発声とともに浩子は捨牌を横に曲げ、千点棒を場へと出す。

 

 それはあり得ないし、あってはならないことだった。なにより衣にとっては。能力発動時の卓というのはまさに衣の支配下にあって、その呪縛を逃れるには相応の異能を以て対抗するか、あるいは最後の一巡や二巡でなんとか聴牌に漕ぎつけるのが異能を持たないものに許された道筋であった。もちろんのこと浩子は異能など有しておらず、また特別なことをしたつもりもない。ただ自身の論理に従って打ち回し、その結果として聴牌まで持っていっただけの話だ。

 

 「……ん、おお、ええこともあるもんやな。リーヅモ一発や」

 

 あってはならないはずのリーチは驚くほどすんなりと実を結んだ。これまでは局の序盤どころか東場をほとんど見に費やしてきた浩子がいきなり攻めに出たのには理由があった。天江衣をひとりオカルトのステージに置いておくのは非常に厄介であると考えていたからだ。彼女の本質は決して一向聴地獄などではなく、それどころか浩子では手がつけられなくなるほどの異能を秘めている可能性があったからだ。だから先に叩き込む必要があった。()()()()()()()()()()()()と。

 

 手を晒しながら浩子は思考を進める。今のリーチと和了で第一段階、次いで二の矢、できることなら三の矢まで打ち込んでおきたい。そのためには浩子一人では手が足りない。ちらりと他家の表情を窺う。何が起きたのか理解できず焦りの見られるもの、ただ呆然としているもの、そして浩子の和了りのかたちと捨牌を見比べて疑問を抱いたもの。浩子はそれを見て次の局の動きを決めた。一人で手が足りないのなら二人にすればよい。肝要なのは魔物の心をへし折ること。次局の親はトップを走る臨海女子の郝慧宇だ。彼女の実力であればさきほどの浩子の和了りから何かを読み取っていることも十分に考えられる。アシストをするには理想的とも言えるが、連荘されて点差を広げられることを考慮に入れると好ましいとは言えない。なにより彼女が座っているのは浩子の上家であって、鳴かせるには重なっている牌をピンポイントでぶつけなければならない。その難易度も天秤にかけて、浩子は下家に座る絹恵をアシストすることに決めた。

 

 東二局における浩子の動きは一般的な観客から見ても、よほどの打ち手から見ても目を覆いたくなるようなものだった。なにせ自分の手を作ることを初めから放棄し、まったく意味のわからない牌を捨て続けていたのだから。それも下家に鳴かれることにまったく頓着もせずにである。たしかに捨牌だけを見ればなにか意図があるだろうことは推測されるが、観客たちには浩子の手がなまじはっきりと見えてしまっているから余計に意味がわからないものとなっていた。浩子の打牌を理解するには、まず第一に天江衣の能力をかなり正確に捉える必要があった。そのうえで “船久保浩子の打牌に影響を受けて変わっていく愛宕絹恵の手” に気を配らなければならなかった。そういった意味で理解しているのは、この会場には数えるほどしかいなかった。

 

 

 そのうちの一人が解説を務める戒能良子だった。

 

 「戒能プロ? 船久保選手が手を一向に進めていないように見えますが……」

 

 「そうですね。そのまま見た通りで間違いないでしょう」

 

 「さきほどはリーチからの見事な一発ツモで和了ってみせましたがここへ来て緊張でしょうか」

 

 「いえ、彼女たちのレベルや経験値からすればそれはまさにノーウェイ、ってやつです」

 

 「ではあのプレイングには意図がある、ということですか?」

 

 「……東一局も含めてすべてを解説するには時間がなさすぎますが、ね」

 

 「そういえばたしかに綺麗な牌姿の和了というわけではありませんでしたね」

 

 「あの局もおそらく彼女なりのなにかがあったはずです」

 

 「あの、戒能プロ、せめてさわりだけでもお願いできないでしょうか」

 

 「 “天江選手の山の支配” という言葉を頭に置いて細かに牌譜を研究してください、としか」

 

 実際、衣の能力に対する浩子と良子の見解は一致していた。衣の能力は他家の手を一向聴のまま押しとどめるものではなく、正確には()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()であると考えた。それは浩子が地方予選の決勝で荒川憩に対して見せた選択肢を減らす技術とは根本的に異なっている。手なりで打っていけば一向聴で止まるような手に誘導していくところにその本質がある。その支配から逃れるためには衣が敷いたレールから外れなければならない。無論ただレールから外れればいいというものではない。戒能良子が言い淀んだ船久保浩子の異常性はここに集約される。

 

 船久保浩子は他家の手牌読みににおいてずば抜けたものを持っている。それは理牌のクセを見抜くことに始まり、打牌に際してのすべての反応に対する観察眼、加えてもともと持っていたきわめて精度の高い論理的思考からほとんどの場合において他家の手を丸裸にする。技術である以上それは天江衣の支配が影響する卓においても何ら変わりなく発揮される。そこで浩子は他家の手がどのかたちの一向聴で止まるのかを推測し、その山の中身を読もうとしたのだ。麻雀の牌は各種四つずつしかないため、他家の手と山が読めれば自分の引くであろう牌をある程度推測することが可能となる。つまるところ浩子は対局を行いながら推測を重ねた上でのカウンティングを実行し、そして和了ってみせたのである。

 

 東一局の芸当を表情ひとつ変えずにやってみせた浩子に、絹恵に鳴かせることで彼女をレールから外すことなどできないわけがなかった。衣の表情が曇る。衣の性格も分析をしていた浩子は、自分の能力を否定させないために衣が東二局も能力を発揮してくるだろうことを予想していた。そして衣の異能はひとつではない。他人の聴牌を高さも含めて察することのできる能力もそのひとつである。そしてその異能は今の衣にとっては枷でしかなかった。自身以外が聴牌することがあってはならない場において、他家が聴牌したことがわかってしまうのだから。

 

 衣の、自身の能力に対する絶対の自信を損なわせるという目論見は、ほとんど浩子の思い描いたとおりに達成された。これで衣が一向聴地獄を発動する回数は劇的に減るだろうし、仮に発動してそれが見事に決まったところで、衣は偶然かもしれないという自身への不信感を拭い去れないだろう。むしろこの卓に揃った三人が異能を持っていないことが余計にダメージを深くしたとも言える結果だった。もうひとつわがままを言えば絹恵が郝から和了ってくれればトップとの差が少し縮まるのだが、郝の技術を考慮すればそれは難しいだろう。

 

 あまり気の入っているとは言えない衣の打牌に絹恵がロンを宣言する。同時に衣の身体がびくりと跳ねる。おずおずと点棒を差し出すその仕草は、明らかに怯えを伴ったものだった。それを見た浩子は衣に対する警戒を一段階ゆるめる。酷な言い方ではあるが、異能を失くした魔物など残った二人に比べれば怖れるに値しない。ここから先の麻雀で警戒すべきはU-15のアジア大会で銀メダルに輝いた郝慧宇、大阪三強の姫松ではじめて麻雀部に入部し、その秋にはレギュラーを勝ち取ってみせた愛宕絹恵の両名である。純粋な麻雀の才能や天与の引きのよさで言えば浩子より明らかに格上の相手。彼女たちを抑え込むために、浩子は一度潜ることに決めた。

 

 東三局から南二局までの浩子の闘牌は、またもやほとんどの観客からすれば意味のわからないものだった。もっとも思考の源泉を分析するという彼女の意図を知ったところで理解が及ぶかはわからないが。

 

 

 打ち手のレベルが高くなればなるほど、その打牌には様々な意図が絡みつく。その局をきちんと戦うことは当然として、次局、次々局あるいは半荘そのものに対する明確なイメージを持っているのもザラだ。もちろんそのプランがよどみなく進行するのがその選手にとっては理想的ではある。しかしインターハイの決勝ともなればそううまくいかないことは織り込み済みで、そこからの修正能力の高さこそが強者を強者たらしめる要素なのだ。浩子が彼女たちに決定打を叩き込むには、それらすべてを読み切って潰す必要があった。

 

 それは横浜で若手プロを相手に練習していたときよりも神経を使う作業だった。両選手が卓越した打ち手であることも間違いないが、なによりそれは浩子の取得できる情報量が増したことに起因していた。より深い意図が、より多くの可能性が見えるようになった浩子はその情報量に押しつぶされかかっていた。できることなら背もたれに寄りかかり、大きく息をつきたいくらいに。ただ、スクリーンに映る浩子はいつもの表情を崩すことなく淡々と打っていた。

 

 

―――――

 

 

 

 「お、ちゃんとおねーさんのアドバイスを覚えてるみたいじゃないか」

 

 ぱちん、と勢いよく扇を開いて落ち着いた色合いの着物を着た小柄な女性が嬉しそうに呟く。

 

 「浩子ちゃん生真面目だもんね」

 

 変装になっていない黒ぶちメガネをかけた困り眉の女性がそれに合わせる。

 

 「ところですこやん、次の半荘どう見る?」

 

 「そう聞くってことはたぶん同じ意見ってことだよね」

 

 「あー、やっぱ? イヤな予感する?」

 

 「うーん、こういう場で覚醒する子ってけっこういたりするし」

 

 

―――――

 

 

 

 前半戦を終えてトップから臨海女子、千里山女子、姫松、そして龍門渕。龍門渕を除いた三校の点差は八千点以内に収まっており、どこが優勝するのか誰にも予想のつかない状況となっていた。

 

 休憩時間を過ごすためにそれぞれが対局室を出ていく。ひどくゆっくりと力なく歩く小さな少女の姿から、なぜか観客たちは目を離すことができなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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二十

―――――

 

 

 

 ( ……衣は、どうすればよいのだ? )

 

 白を基調としたホールの、決勝でしか使われない特別な対局室へとつながる廊下に、小さな影がぽつりと頼りなげに立っていた。はっとするような金色の髪と、その上に戴く真っ赤なリボンが周囲の白から際立って映える。ただ普段の少女とまるで違うのは、その身からいっさいの覇気が感じられないことだった。視線の先には床がある。じっと見つめたところで返答はなさそうだ。

 

 負けの経験がないわけではない。実際に去年のインターハイは出場すら叶わなかった。その夏に奈良の高校と練習試合を行った際にも衣は異能を抑え込まれた。それらは悔しさとともに新たな世界が開けた感覚を衣に与えた。自身の及ばぬ異能があることが単純に嬉しかったのだ。その能力ゆえにひとりぼっちだった過去を持つ衣にしかその心情はわからない。だがその喜びは同じ領域に住まう仲間を見つけたものに違いはなかった。決して敗れたことに対しての感情ではなかった。

 

 それは、歪なアイデンティティの崩壊だった。持たざる者には決して踏み込むことのできない、選ばれた者だけが立つことを許された聖域を踏み荒らされることに等しかった。普段から衣がそういった選民意識を持っているというわけではないが、()()()()()()()者たちは根本的な部分で他者とは違ってしまっていることを意識させられる。他人にはないものが自分にはある。それが当人たちにとっては当たり前なのだから。

 

 ( こんなとき、とーかならどうする……? 純は、一は、智紀は……? )

 

 必死で頭を働かせる。あと一歩で自分たちが全国で最高のチームなのだと証明できるのだ。ここで負けたところで自分を責めるような仲間ではないことは百も承知の上だが、それでも自分と友達になってくれた彼女たちに報いたい。そんな気持ちがあったから、衣はなんとしてでも自分の力で勝ってみんなのもとへと帰りたかった。だが、まだ光明は見えない。

 

 衣はあえてひとりにしていてくれるチームメイトに感謝さえしていた。

 

 

―――――

 

 

 

 できるだけ表情を見られないような場所のベンチに座り込む。肺から空気を出し切り、そうしてから大きく息を吸う。まだ半荘しか打っていないのに脳が軋む。郝慧宇と愛宕絹恵を相手にしたことももちろんそうだが、天江衣のオカルトを封じるための脳の酷使は想像以上に浩子自身にダメージを残していた。正直なところ理論としては対戦前から確立していたものの、ぶっつけ本番でやらざるを得なかったため負担がどれくらいのものかなど確かめることができなかったのだ。実力者がずらりと並んだなかで分析対象がそのすべてというのは、まさに骨の折れる仕事だった。

 

 ( でもまあ、分析そのものは及第点やろ。掴めはしたしな )

 

 壁は厚い。相手を意のままに操る闘牌は浩子の持てる技術のうちで最高のもののひとつではあるが、自身を上回る地力をもつ相手を複数同時に操るほどのものはない。もしそれが可能にしても、よほど配牌と自摸に恵まれなければならないだろう。これまでは操る対象が一人か、あるいは複数でも地力が浩子と同等くらいの相手が限界だった。唯一の例外は、あの横浜でのプロとの練習中に入り込んだ世界でのことだ。性格上そんな不確定なものに頼るわけにはいかない浩子は、目を閉じて気合を入れる。

 

 ( ……やり方は、あるはずや )

 

 立ち上がってひざ丈のスカートをはたいてホコリを払う。直に休憩時間も終わる。鈍い頭痛は止まないが、それとこれとは関係がない。口元をきゅっと引き締めて、浩子は歩き出した。

 

 

―――――

 

 

 

 「(フー) ――……」

 

 郝が七巡目にして和了を宣言する。高い水準で実力が拮抗している相手がいるからこそ、インターハイ女子団体決勝後半戦は速度に重点を置いた叩き合いにならざるを得なかった。後半戦開始時の点差は臨海女子、千里山女子、姫松の三校が八千点以内、龍門渕とトップの臨海女子の差はおよそ三万点である。どの立場の選手から見ても重い一撃が欲しいところだが、それを許してくれるような卓ではない。そしてこの状況は浩子にとっては決して良いとは言えないパターンだった。

 

 浩子がこの一年で磨き上げてきたスタイルは、簡単に言えば他家の本質を見抜き、その傾向を先読みして狙い撃つというものだ。しかしこの高速の場においてそれを実行するのは至難であった。加えて郝も絹恵もとくに速度に自信を持つプレイスタイルではない。早めようと思って早めているだけで、それはただ彼女たちの地力の高さを証明するものでしかない。もし速度に自信を持つスタイルであるのならばそこに照準を合わせて潰すこともできるが、そうではないのだから始末に負えない。今、浩子は格上の存在と地力で戦わなければならない状況に陥っていた。

 

 浩子に地力がないわけではない。むしろ全国においても上位にあるとみて問題ないだろう。その経験の凄まじさは他に類を見ない。だがそれでも届かない領域はたしかにあるのだ。むしろその差を埋めるために浩子が赤木しげるについていくことを決断するほどに。今の浩子にできることは手牌読みから他家の和了を邪魔することと、ひたすら我慢することだけだった。もちろん隙が見えれば逆に和了ってみせることも頭に置いてはいたものの、そうそうそんなラッキーが起きることはない。

 

 ( ……魔物なんかよりよっぽど化け物やな。さーて、どうにか一度和了らんとなぁ )

 

 

―――――

 

 

 

 「臨海女子と姫松の叩き合いになってきましたね!戒能プロ!」

 

 「どちらも素晴らしいですね、互いのスピードに遅れをとっていません」

 

 「一方で千里山女子と龍門渕がおとなしくなってしまいましたが?」

 

 「これは郝選手と愛宕選手を褒めるべきでしょう」

 

 「と言いますと?」

 

 「彼女たちの望みに牌が応えている、とでも言えばいいのでしょうか。状況にマッチした素晴らしい引きを見せています」

 

 「にわかには信じがたいことですが……」

 

 「あるんですよ、そういうことって」

 

 「ということはこれから始まる南場もそのような流れなのでしょうか」

 

 「おそらく大筋ではそうな…………」

 

 

 

 

 「あっ」

 

 

 

 

 会場内のスピーカーに、お茶の間のテレビにひどく不釣り合いな音声が混じった。これまで解説を務める試合では淀みなくわかりやすい説明をしてきた戒能良子のものとは思えない、妙に濁った声だった。それはどこか山深くを歩いていて、あらゆるものから忘れ去られた御神体を不意に見つけてしまった感覚に似ていた。忘れ去られておくべきだったものを見てしまった感覚に似ていた。

 

 

 良子の音声が入る直前に反応する二つの影があった。

 

 「お、こりゃあ……。船久保ちゃんにとっちゃ前向きに捉えるべきかねぃ」

 

 「状況は変わるけど……。うーん、どうなんだろ」

 

 

―――――

 

 

 

 「……たしか、このような場合にはこのように言うのが正しいのだったな」

 

 小さな口から鈴を鳴らしたような声音が響く。もちろん容姿に変わりなどない。だがそれでも、あらゆる微細な変化を見逃さない浩子の目にははっきりと違いが見てとれる。いや浩子でなくとも十分に察することができるだろう。先ほどまで彼女を支配していた怯えが消えている。論理的思考のずっと奥にある本能が警鐘を鳴らしている。()()()()()()()()()()、と。

 

 「 “そろそろ混ぜろよ” 」

 

 まだ自動卓から山さえ出てきていない。三人の視線を受けて、衣は不敵に笑う。

 

 「まずは非礼を詫びよう。そして全霊を尽くすということを思い出させてくれたことに礼を」

 

 空気の音が妙に強く意識される。普段なら気にならない細かいすべてがその存在を主張する。

 

 「返礼というのも烏滸がましいのだろうが、聞かせてやろう。昏鐘鳴の音を」

 

 同時に牌の山が卓にせり上がってくる。まるで誂えられたかのようなタイミングに満足そうに頷き、衣は山へと手を伸ばす。その緩慢とも言えるゆっくりとした手の動きに、同じ卓についている三人だけでなくスクリーンの向こうの観客も見入っていた。動く肩に合わせて梳き心地のよさそうな長い髪が揺れる。全員が空気の変化を察知した瞬間だった。

 

 

 浩子は必死に自分を抑えつける。ここで動揺してしまうことは敗北に直結するからだ。いつものように他家の理牌を視界に収めつつ、自身の理牌はきちんと散らす。配牌そのものに違和感はないように思えるが、あの目覚めた魔物が何も仕掛けてこないとは到底思えなかった。しかし局が始まってさえいないため判断の下しようがない。とりあえず浩子は衣が一向聴地獄を仕掛けていると仮定して手を進めることにした。もし精神的に立ち直っただけだとすれば、脅威ではあるが対応できない異能ではない。浩子が危惧したのは、そうではない場合だった。

 

 何が原因で衣が復活を果たしたのか浩子にはまったくわからなかったが、それ自体には異議など唱えるつもりはなかった。今それを追及することに意味などないし、なにより人の心なんてそんなものだというのが浩子の考えだ。それよりは勝利のために頭を働かせることが状況に即していると言えるだろう。南一局の序盤は先ほどまでとはうってかわって静かに進行していく。浩子は次々と自摸を吸収していく衣の手から不吉なものを感じていた。

 

 「リーチだ」

 

 南一局九巡目、親でもある衣が動く。最も怖れていた事態が起きてしまったのかもしれない、と浩子は諦観にも似た気持ちを抱きかける。

 

 ( いや、まだ早い。仮にうちの推測が当たっとるにしても()()()()()()() )

 

 天江衣の異能は三つだ。一つは相手の聴牌を察する能力、一つは他家の手を一向聴地獄に叩き込む山を作り上げる能力、そして海底の牌を見抜く能力である。これら三つの異能を浩子は二つに分けることができると考えた。正確には後ろ二つの根源は同じであると考えた。オカルトについて思考を進めると、しばしば “支配” という言葉にぶつかる。これは普通では影響どころか関わることすらできない領域に手を加えることと同義の言葉だ。それを持たない者からすれば麻雀という競技を根幹からぶち壊しかねないような概念だ。ただその “支配” を軸に置いて考えると、海底の牌がわかる能力に別の解釈があるのではないかと浩子には思えるようになった。

 

 一向聴地獄に誘導するような山を作ることができるなら、海底の一牌くらい選べるのでは、と。

 

 似た例として清澄の宮永咲は王牌を支配し、嶺上牌を察知していたという。つまり支配することと特定の牌を知ることには何らかの関連性があり、いまだ天江衣が自身でその能力の意味に気付かずに無意識的にその能力を振るっているのだとしたら。もし山全体に及ぶ支配と海底に任意の牌を置く能力が同一であり、なおかつその能力が成長してしまったとしたら。浩子の想定する最悪は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だった。

 

 もし本当にそれが最終形でそこにたどり着いてしまえば、天和でも何でもやりたい放題になってしまう。しかし今は衣がリーチをかけている以上、そこまではまだ行っていない。あるいは制約のようなものがあるのかもしれないし、本当はそこまで異次元の能力ではないのかもしれない。しかしこの状況で楽観できるほど浩子は図太くできてはいない。もし天江衣が一発で自摸和了りするようであれば、その萌芽は出ていると考えるべきだろう。

 

 場違いなほどに小さな手が山へと伸びる。人差し指と中指で引くべき牌を手前にずらし、親指の腹で下から支える。腕を引くと同時に手首を内側へと曲げ、その目で自摸牌を確認する。そのまま牌を表に返して卓上へと置き、衣は手牌を晒した。

 

 「リーチ一発ツモ、平和ドラ1に……、裏がひとつ。跳満だな」

 

 先ほどまであれだけ早かった郝と絹恵が動かなかったことも鑑みて、浩子は衣の能力がどのようなかたちであれ発動したと断定した。現段階では可能性がいくつかあって絞り切れず、早めに解析を終えたいところではあったが、またそれとは別に浩子は違和感を覚えていた。

 

 

 

 衣の打ち回しは巧いとは言えないものだった。浩子の目から見れば理牌で手がかなり透けるし、牌効率もきちんとしているとは言いがたい。それでもぐいぐいと牌が手に吸い込まれていく。ただただ愚直に和了りへと向かおうとする姿はこれまでのイメージとはかけ離れていた。

 

 南一局三本場。二年前のインターハイにおいて、その高火力で三校を同時にトバしたあの天江衣が堅実な和了で連荘を続け、次に和了れば臨海女子とトップが入れ替わるところまで来ていた。一方で後半戦開始直後から何もさせてもらえていない浩子は最下位へとその順位を落としていた。さっきまで気にも留めていなかった卓上を照らすライトが、熱を持って肌を焼いているような気さえしてくる。浩子は、思考を続けていた。

 

 ( これで天江が手を晒したのは三回。データは十分、あとは詰めろ、や )

 

 三度も和了った形を見せられて違和感の正体に気付かないほど浩子はぬるいトレーニングを積んではいない。衣の打牌に迷いが見られないことも、牌効率が考慮されていないことも、もっと伸ばせそうな手を伸ばすこともなく和了ったことも、すべてはひとつに還元された。ここから浩子がするべきことは対策を講じることだ。他家の実力もオカルトも何ひとつ余さず呑み込んで、そのうえで勝ちをもぎ取ることだ。浩子の頭は次第に回転数を上げていく。

 

 条件は先ほどまでより緩くなったと浩子は考えていた。衣が和了っているあいだにもさまざまな打ち方を試し、今この卓が置かれている状況の把握に努めた。収穫は大きい。間違いなく衣は山に影響を与えていて、それは浩子たちには一向聴地獄を、衣本人にはまた別の効果をもたらしているだろうことが読み取れた。郝と絹恵の足を止めることができなかった浩子には、一向聴地獄は幸運とさえ呼べるだろう。それをすり抜けられるのは浩子以外にはいないのだから。

 

 自身の連荘を含めれば残り何局になるかはわからないが、浩子はそのすべてで前半戦に実行したあのやり方を採ることを決めた。脳を太い綱が締め付けるような痛みがあるが、それ程度で諦めがつくほど団体戦優勝というものは軽いものではない。もう勝ちは半分以上見えている。

 

 

―――――

 

 

 

 「……ちょっと驚いちゃったなあ」

 

 「ん? なにが?」

 

 「ほらさっき天江さんが復活した時点でさ、てっきり浩子ちゃんが感覚遮断するかと思ってて」

 

 「うっそ!? すこやんのアレできんの!?」

 

 「まだ自在じゃないみたいだけどね」

 

 「まーったく末恐ろしい子だねぃ」

 

 「でも今の戦い方で体力的に大丈夫かな、もう表情に気を回せてないみたいだし」

 

 「極限状態ってやつかねぃ。つかなんで感覚遮断しねーんだろーね。わっかんねー」

 

 「……どっかの誰かが何か言ったのかもね」

 

 

―――――

 

 

 

 小さなミスひとつ許されない細い細い道を浩子はひとり歩く。丹念に郝と絹恵の流れ着く一向聴のかたちを推測し、自身が引くであろう牌を順序を問わずに読む。配牌時にはすでに最終形が見えているであろう衣の手格好を想定し、それを自分が鳴くことや他家に鳴かせることで崩しにかかる。なにか読み違えれば浩子の手は完成することはなく、また山全体に支配を及ぼしている衣の手は一度崩したところで簡単に再生さえしてみせる。浩子は歯を食いしばって頭の軋みを抑え込み、孤独な戦いを続ける。

 

 呼吸を強く意識し、卓全体へと目を配る。指先に痺れているような感覚があるが、そんなことはどうでもよかった。浩子は基本を意識する。見ることがすべての基本だ。じわりと汗が滲む。場は進行していく。もう今がどの局なのかすらわからないような状況のなかで、浩子の当たり牌が河に捨てられた。点数が十分に足りている和了だったため、当たり前の論理にしたがって浩子はロンを宣言した。

 

 

 北大阪地区代表、千里山女子高等学校の優勝が決まった瞬間だった。

 

 

 

 割れんばかりの歓声が観客席を満たす。隣にいる人に話しかけようにも、それすら難しいような状況だ。立ち上がっている人も座っている人もみな一様に興奮している。それほどまでにたった今目の前で起きた逆転劇は凄まじいものだった。戒能良子の解説のおかげでスクリーンの向こうの彼女たちが何をしているのか理解できた観客たちは惜しみない称賛を選手たちに贈る。一度は最下位に落ち込みさえした千里山が、本当の意味で身を削るように龍門渕に対して仕掛けていく様を彼らはじっと見守った。麻雀を打つことで肩で息をするほどまでに追いつめられることはイメージさえ届かない範囲の出来事ではあったが、その痛ましいまでに必死な姿は現実としてそこにあった。

 

 陽はもう完全に沈み切って、夜空は一等星と月だけの舞台になっていた。風のない静かな夜だ。ホールの中の熱など誰も想像できないくらいに。夜の下で誰かが涙を流す。理由など誰にもわからない。悔しいからかもしれないし、あるいはその反対なのかもしれない。まったく別の理由かもしれない。確かなのはその事実だけだった。

 

 

 ありがとうございました、と他家が頭を下げるのを見て浩子は慌ててそれに倣う。今の局がオーラスかどうかにさえ気を回す余裕がなかったのだ。かろうじて点差だけは意識に残していたため、おそらく逆転したのだろうがなんだか実感が湧かない。それよりは襲い掛かる疲労感のほうが現実感をもって迫ってくる。浩子は背もたれに思い切り寄りかかって、息を深く吸ってゆっくりと吐く。今すぐ立ち上がるのは遠慮したい気分だ。どうせチームメイトが迎えに来てくれるだろう、とあまり褒められない計算高さを発揮して浩子は動かないことに決めた。

 

 隣に誰かが立ったような気配がしたので顔を向けると、天江衣がそこには立っていた。

 

 「……聞かせてほしい、千里山の大将。どうして、どうやって衣の支配から逃れたのだ?」

 

 「ん、ああ、簡単なことや。うちは天江さんのこと研究しとったから」

 

 「そ、それだけ?」

 

 「それだけ、言うてもそれしかできひんからな」

 

 「本当にそれが衣のような打ち手に通用すると信じていたのか?」

 

 「ま、他に選択肢がないっちゅーんもあるけど、それでもそう思てはいたなぁ」

 

 「……その理由は?」

 

 「最後に勝負を分けるんは情報や、と思っとるからや」

 

 そう言うと浩子は深く笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 



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―――――

 

 

 

 船久保浩子は自分についてよく知っている。

 

 それは平均的日本人が自分自身について知っているよりは詳しいという程度で、それ自体は別に大騒ぎするようなことではない。もちろん隠された才能がまだ眠っている可能性はあるだろうし、浩子自身が考えたこともないような観点があるのかもしれない。仮にそういったものがあったとしても今の彼女には関係のない話で、語られるべき事柄ではない。

 

 浩子は自分をあまり冒険するようなタイプではないと考えている。参謀的な立場に馴染んできたため、むしろ冒険しようとする人を止める側の人間だろう、と。だからこそ浩子は不思議に思う。どうしてあのとき自分は赤木についていくことを選んだのか。結果としては成功と言えるが、それは今だから言えることだ。もし自分以外の部員がそんな誘いを受けていたら全力で止めに入るだろう。そう考えると千里山の部員たちは待つことにおいて相当タフだったと言えるし、浩子はある意味混乱していたと言えるだろう。変な笑いがこぼれる。

 

 

 打ち水をしたそばからすぐに乾いていくアスファルトの様子を窓枠に腰かけて部屋から眺める。細かなことは忘れたが、たしか打ち水というのは暑気を遠ざけるのにかなり効果があるとテレビでやっていたような記憶がある。どうしてこの茹だるような暑い夏の、それも真昼に浩子がエアコンも点けずに窓を開けているのかといえば、掃除のあとの換気中だからだ。たっぷり三十分くらいは窓を全開にしておこうと考えている。ときおり吹く風が汗ばんだ体に心地よい。キャミソールにホットパンツという油断しまくりな格好で、浩子は落下防止用の柵の上に頬杖をつく。

 

 ちりーん、と風鈴が鳴る。思えばあの非現実的な生活の始まりは、この音から始まったのではなかっただろうか。人に話したところで誰も信じてくれないような、そんな一年の始まりは。

 

 もうじきあのインターハイから二年が経つ。浩子は現在大学二年生で、高校生のころよりぐんと長い夏休みを享受している。通っている大学が京都にあるので今は近くにアパートを借りて一人暮らしだ。アパートの近くの麻雀教室でアルバイトもしている。初めのころは生活を送るのが大変だったが、慣れてしまえば案外ラクなものだなというのが浩子の感想である。

 

 

 女子団体で優勝して、個人戦は棄権をした。表彰式のあとに病院へと直行して、もらった診断は “極度の疲労状態” というものだった。大将戦の直後に倒れなかったのが不思議なくらいだったという。それを医者から聞いて浩子はさもありなんと納得した。あれだけの面子だ。出来すぎなくらいに歯車がかみ合って、それでやっと浩子の土俵に誘い込めるくらいの強い選手が相手だった。正直なところ、勝利したと言えるのは天江衣に対してだけで郝にも絹恵にも勝ったとは言えないと浩子は考えていた。これは彼女たちを貶めることに繋がる可能性もあるため、決して口に出さないが。

 

 大会終了後も大変だった。インターハイは麻雀だけに集中していればよかったから、大会終了後のほうが総合的な疲労ではむしろ上回っていたかもしれない。インタビューは山ほど受けたし、一か月くらいはプロやら大学やらのお誘いが途絶えることはなかった。自分の知らないところで高速回転していく環境のなかで、浩子はひとつだけ決心した。プロの道に進まないことだ。周囲からは疑問の声が上がったが、本人にとっては当然のことだった。

 

 どこで嗅ぎつけたのかはわからないが、それを知った健夜と咏とのあいだにひと悶着あったのだが、今となってはそれはそれでひとつの思い出となっている。もちろん申し訳ないと思う気持ちもあるのだが、それ以上に自分がプロというのはなにか違う、と浩子は感じていた。よく物語で見るような、目的を達成して心にぽっかりと穴が空いたとか、そういったことが起きたわけでもない。今でも時間さえあれば試合中継を見たり牌譜を漁ったりするくらいには麻雀に傾注している。それならどうして、と言われると浩子は困ったように笑うしかなくなってしまう。言葉にするとその隙間から大事なものがさらさらと零れていってしまいそうな気がするからだ。

 

 

 換気を十分に済ませ、窓を閉めてエアコンを点ける。今の服装を考えるとそこまで温度を下げる必要もなさそうだ。新聞のテレビ欄を眺めて面白そうな番組がやっていないか調べる。平日の日中にそんなものが放映しているわけもなく、浩子はため息をついてノートパソコンの電源を入れる。ネット上に転がる麻雀に限らない様々な情報に目を通し、気になったものは調べる。それだけでも時間というものは案外潰せるものだ。しかし時計に目をやると陽が沈むにはまだまだ時間がありそうだった。今日は夕方に出かける予定がある。

 

 高校生のときにできたつながりはまだ途切れていないし、おそらくずっと続くのだろうと浩子は考えている。千里山女子麻雀部をはじめ、宮守女子の友達やプロの方々、いろいろとあって龍門渕とも仲良くなった。高校生のころと違って直接会う機会は多いわけではないが、SNSで近況などは話したりしている。実に個性豊かな面子が揃っていて、眺めているだけでも十分に楽しめる。

 

 初めからわかっていたことだが、彼女たちの進路はやはり麻雀に関連したものがその多数を占めていた。プロ然り、大学の推薦然り。逆に普通に入試を受けた浩子のほうが珍しいくらいだった。もちろん人口比率としては麻雀に関わっていない人のほうが遥かに多いのだから、世間的に普通なのは浩子の方である。ちなみに大学の入学式で荒川憩にばったりと出くわしていたりするのだが、それはまた別のお話。

 

 会う機会が減ったとはいえ関西圏に住んでいる友人も多く、大学生やプロ雀士というのは一般的な時間の枠組みから外れた存在である。だからその気になれば集まるのはそれほど難しいことではなく、少なくとも二ヶ月に一度くらいは何かしらの集まりがある。麻雀関連の友人たちが集まって打つとなるとそれこそインターハイ出場メンバーが揃うため、洒落になっていないような卓が立ち上がることが間々ある。浩子たちの集まりに興味があると言ってついてきたサークルの友達の顔が青ざめたことを思い出して、くつくつと笑う。

 

 

 シャワーで汗を流して髪を乾かす。部屋にいてもあまりやることがないため、早めに部屋を出ようと浩子は決めた。待ち合わせ場所の駅ビルならばいくらでも時間は潰せるだろう。今日は夕食をごちそうになる予定なので、さして荷物を持っていく必要も感じない。手早く着替えを済ませて身だしなみを整える。白い下地に細い縦線の入った袖の短いブラウスと七分丈のパンツを合わせる。財布や携帯電話、タブレットなどをトートバッグに入れて準備は完了だ。少しだけヒールのついたサンダルを履いて浩子はアパートを出る。

 

 冬ならば影の伸びているような時間だが、浩子の頭の真上の空はまだ青い。さすがに空の端っこの色は暖色になり始めているが、あらためて考えると夏は陽が長いんだな、と妙な感慨が湧いてくる。どこか遠くのほうから真昼のものとは違ったセミの鳴き声が聞こえる。それに耳を傾けながら普段と変わらない速度で最寄りの駅へと向かう。

 

 “めずらしい人を捕まえたから明日ごはん食べに行こう” と健夜からメールが来たのは昨日のことで、具体的な名前は誰一人として書かれていなかった。めずらしい人と言われてもぴんと来ない。それ以前に捕まえるという表記は正しいのだろうか。というかなぜ京都にいるのだろう。仕事でも入ったのだろうか。電車に揺られながら、そんなことをつらつらと思う。ひとりだけその表現にぴったりくるような人が思い浮かんだが、それこそまずあり得ないということでその考えを頭の隅に押しやる。電車は進む。目的の駅まであと五分といったところだ。

 

 

―――――

 

 

 

 電車を降りて、浩子はまず待ち合わせ場所を覗きに行った。時間まではまだ一時間以上もあるのだが、たとえば豊音やエイスリンが来るとしたらそんな時間に来かねない。遅刻しないことは大事だと思うが、そこまでいくと美徳と言っていいか悩ましいところである。トートバッグをかけた側へ顔を向けてみると、なんだか見たことがあるような人影がそこにあった。

 

 白い髪。黒いシャツ。立ち上るタバコの煙。浩子の位置から見えるのは背中ではあるが、確信に近いものがあった。どこにいても不思議ではないのに、どこにいても異物感の拭い去れない男。

 

 なるほど、と浩子は納得する。この男が相手ならば健夜からのあのメールも頷ける。先ほど考えていた、もっとも可能性の低い人物だ。浩子は迷いなくそちらへと足を向けた。

 

 

 「どーも。赤木さん」

 

 「よう、ひろじゃねえか」

 

 待ち合わせ場所である駅ビルは時節柄と時間帯が重なってかなり混みあっているはずなのだが、浩子と赤木のそばを通り抜ける人は誰もいなかった。見えない繭があるかのように人々は二人を避けて歩いていく。繭の中は声の通りも良いようだ。

 

 「後ろから声かけたんですからちょっとくらい驚いてくれてもええんちゃいます?」

 

 呆れたように浩子が言う。

 

 「悪いな。そういうのには疎くてよ」

 

 二年ぶりだというのに、なぜかそういった感慨は湧かなかった。岩手や神奈川にお邪魔していたときの、学校から帰ってきて交わす会話のようにひどく当たり前のもののように感じられた。

 

 「まあ正直、驚くとはこれっぽっちも思ってなかったですけど」

 

 「クク、なんだよ。冷たいじゃねえか」

 

 からかうように笑う。

 

 「…………」

 

 「…………」

 

 いつの間にか並んで同じ方向を見ていた二人は黙り込む。自然な沈黙だった。一方は煙を吐き、一方はスマートフォンをいじっているが、そこに不調和なものは感じられない。緩やかに時間が過ぎていく。互いが互いに注意をいっさい払わない。やはり師弟というのはどこかしら似てくるものなのだろうか。

 

 

 

 「ああ、そや。赤木さんに会うて、そんでついてって改めて思たんですけど」

 

 ふと思い出したように顔を上げて浩子が口を開く。

 

 「麻雀て、おもろいもんですね」

 

 

 船久保浩子は、かく語りき。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




最後までお付き合いいただき本当にありがとうございました。
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それでは機会があれば、また。


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