赤線街路外伝〜昭和16年の初雪〜 (Airman 1975418)
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プロローグ 昭和16年1月3日
友人に勧められたところ何故かハマってしまい、原作ではあまり明かされなかった主人公の両親と家族について私と友人の妄想を元に書いてみました。設定や文体が誤りがあるかもしれませんが見て頂けると幸いです。
「.....もういい。勝手にやってろ、クソ親父」
父親への失望を隠す事なく息子はそう言い切った。
当然だ。私の――私達親子が目指していた"家族"という希望を忘却しろと突然、一方的に言い放たれたのだ。
恐らく息子の内心は父親である私への苛立ちと怒り、なにより疑問で占められているだろう。
私があの子の立場であったら表現に違いはあれど同じことを思った筈だ。
そして私も行き場の無い喪失感に捕らわれたままである。
今も迷っている――真実を告げるべきか否か。
不器用な私はただ忘れろとしか言うことしかできなかった。
いくらでも欺むくことはできた。“事故に遭って亡くなった、遺体は残らなかった”とでも言えばいい。
恐らく絶望するだろう。希望の成就が消えたことに変わりはないのだから。
しかし真実に直面するよりはいいのかもしれない。
知ったらあの子はやり切れない思いを抱えたまま生きて行かなくてはならない。
だが私はそうは言えなかった。
例え親としての想いから成る嘘だとしても彼女を――あの子の母親が死んだとは。
部屋に居座ることに息苦しさを感じ、重い腰を持ち上げて住居と併設した工場から出ていく。
あの戦争に敗北してから13年。空襲で潰れたこの場所を一から立て直した。
だが誇る事はできない。後悔だけが内心を蝕む。
私達は大きすぎる犠牲の上に細い骨の透けて見える薄っぺらい片足で立っているのだ。
家から歩いて15分もかからない所に河原がある。
草が生い茂り障害物の無いこの場所は終戦直後、戦災孤児の拠点であった。
それもあってか今でもあまり人は寄り付かない。どこにでもある日常の風景の一つだ。
だが私達家族にとっては思い入れのある場所である。
緩い下りの上に腰を下ろす。
先日の雨で微妙に濡れた草々が何かを訴えかけているように見えた。
ふと空を見上げる。
今日からは晴れ間が続くと言うが晴天が顔を見せるには場違いな雲が空を覆う。
視界に広がる曇天が過去の記憶を流水に紛れさせ脳裏に落とす。
そういえば...彼女と初めて会ったのもこんな日だった
雪の降る日々が本格的に訪れてから数週間目。
今日も低い空は寒風をまき散らす。
新たな年が訪れて早や3日目。
通常ならば里帰りするか居残り勤務にいそしむ頃。
そんな日に私、如月義之は一人空を見ていた。
雲に覆われてはいれど既に雪が降る気配はなく、粉雪の一片も見られない。
おかしなことに、このような"晴天"にこそ勤務割当が恋しく思える。
だが遺憾なことに当直の宮城警護は雪の降り終わりとなった昨日までであった。
どのような状況であっても誠心誠意尽くす事は当然ではあるが、あれ程の寒波が丁度次の日には消えるとは、何とも言い難い感情を生み出す。
「如月、そろそろだ」
背後に設けられた喫煙室から声がかかる。
振り返ると視界に入るのは帯青茶褐色の制服を着た陸軍将校。
「準備はできたか?」
「はい、中隊長殿」
佐藤秀明大尉――私が所属する隊の中隊長だ。
隊の父親とも言うべき存在であり、今この時私がここにいる原因を作った人でもある。
「意外だな」
お座敷へと繋がる廊下を進む中、先導する大尉が振り返らずにそう呟いた。
「何がでしょうか?」
「緊張の色が見えない。最初に今回の事を伝えた時は普段無表情なお前の顔に歪みが見えた」
「...歪みですか」
緊張というよりは驚きの感情が占めていたと思ったが彼の目にはそう映ったらしい。
"自分は緊張すると顔が歪むのか"と無駄な考えが脳裏をよぎるが、角を曲がり目的の座敷の襖が目に入るとその取るに足らない雑念は消え去り、幾分の緊張を感じる。
だが不思議なことに未だ私は驚きの感情を持ち続けている。
近衛連隊に入隊した時や教導学校への入校が決まった時に感じたそれとも異なる驚きである。
襖の目の前へと二人並んで立つ。
屋根に残った積り雪が落ちる音がふと耳に入った。
"行くぞ"という大尉の目配せが自分を捉える。
私は彼に目線だけを移し、頷くことなく肯定を示す。
「佐藤です。失礼します」
声を掛けたことで目の前の襖が開かれた。
部屋に溜まった温かさが肌を刺激する中視界に入ったのは、旅館で見かけるような高級机や掛け軸。
自分のような人間には珍しい、否、合わない部屋だ。
ふと視線を左下に移すと正座をしながらお辞儀をする若い女性と会釈をする妙齢の女性が見える。
「お初にお目に掛かります」
深々と頭を垂れる女性の顔はここからでは伺い知れない。
分かるのは挨拶の声のみ。
「お忙しい中お時間を設けて頂きありがとうございます」
垂れた頭が段々と上がっていく。
高貴を感じさせる程ではないが単純にその仕草に美しさを感じた。
「真田董子と申します。本日はよろしくお願いします」
遂にその顔を垣間見ることとなった。
大和撫子を思わせる可愛らしい、だが安心感をもたらすような気品をも感じさせるどこか儚げな作り笑顔。
一気に緊張感が増したのかつい凝視してしまう。
どことなく恐怖をも感じさせる驚きが彼女の目に映り、失態を感じる。
このような不愛想な大男に深く見つめられてはこうなるのも当然だろう。
どうしたんだ...一目惚れでもしたか?
目の前の女子を凝視し続け進まない部下に佐藤が目線を送る。
無様な態度に自己嫌悪しながら息を小さく吸い込み、声を発する。
「大日本帝国陸軍伍長、如月義之です。よろしくお願いします」
彼女がそうしたように深々と頭を下げる。
示された礼儀に返すというよりは自身の醜態をうやむやにしたいとうのが正直なところである。
二人の目線が再び交差する。
昭和16年1月3日、全てはここから始まった。
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第一話
雪の積もった小道をゆっくりと進んで行く。
まばらに吹く寒風に身震いすることはあれど、外套を着込む程ではないのは確かなようだ。
共に進み行く彼女を横目で見る。
「......」
そっと俯くように進むその顔を伺うことはできない。
“雪景色に浸るのもまた一興”と諭され座敷から雪化粧を纏った庭園へと場所を移すも、未だ私達の空間に流れるのは沈黙に限られる。
何らかの発起をしなければと考えながらも、只々薄く積もった雪道に足跡を残すことしかできない。
一歩一歩を踏みしめながら私はふと今日に至った経緯を思い返した。
「縁談...ですか」
本年度最後の月を迎えて数日。
課業が終了し軍曹に報告する中、中隊長室からお呼びがかかり入室すると唐突に縁談の話を受けた。
仮にも部隊長室という勤務部屋でこのような個人的事情について話をするのも如何なものかと思うが、その内容を聞いた瞬間そのような考えは頭の片隅へと追いやられた。
「そうだ」
訓練日程の書類をかたしながら大尉は話を続ける。
「言うまでもないが...ここ数年以内に我が国は米国と戦争になるだろう。南寧の時と同じように我ら近衛も国に籠ることはなくなる。上の連中は更なる名誉を欲しがっている。最前線へと派遣される可能性もなきにあらずだ」
列強各国に降りかかった世界恐慌は、深い爪痕を残すと共に新たな世界秩序を形成するに至った。植民地主義の流れに乗りたい大日本帝国は大陸進出を目指し、内戦の続く中国への介入を行った。対立していた国民党・共産党は内紛を停止し、抗日戦争へと至る中、日露戦争以降実戦経験のなかった我々近衛部隊にも出動命令が下された。
「米国に対する総力戦だ...我が国もただじゃすまない。まあ、ようするにだ――
彼の目が私を捉える。
――早い内に家庭を築いておけ...ということだ」
その瞳にはどこか親心のような温かさが感じられる。
亡くなった父の知り合いでもあった大尉は以降何かと目を掛けて下さった。
上官として尊敬するだけに限らず個人としても感謝に絶えないが、まさか自身の身の上についてここまで手を下さるとはそうそう思えないだろう。
「功六級金鵄勲章を授与された近衛の若手下士官...女子に苦労することなど無いだろうに。浮いた話を一つも聞かん。お前は兵隊の中でも特に堅いがまさか子を残す意志が無いとは言うまい」
「そのような訳ではありませんが...」
「ならば受けておけ。承諾して損はない」
決して興味が無い訳ではない。
だが家庭を持つという事に対して実感がないのも事実である。
いずれ嫁を娶り子を成すだろうという想像がつかないのだ。
第一、女性というものが分からない。
幼き頃に母が亡くなり、軍に入るまでは実家の自動車工場が私の世界であった。女子と遊んだ記憶も曖昧だ。
女に対する欲求や興味も他の思春期の男子に比べれば大人しい方ではあっただろう。春絵を見るだけでも満足であるというのが率直な感想である。
「それにな」
執務椅子から立ち上がり窓から外を見ながらこちらに背を向ける。
「その相手...ああ、今回の縁談は私の家内の実家繋がりなんだがなぁ、その子は本来その家の奥方の姉の子供らしく、12で両親を事故で失って以来養子縁組をしたらしいんだが...」
言葉につもる大尉。窓に反射する顔に陰りが見えた。
「どうやらその家であまりいい扱いを受けていないらしくてな、噂を聞いた家内がどうにかならないかと相談してきたんだ」
人の性質は多種多様である。親類に対してもそのような態度で接する人間はそうそう珍しいということではないだろう。
事実、それまで父を見下してきた親戚が、父が亡くなった直後に、近衛である私の身分を欲して養子にしようといやらしさで一杯の笑顔を向けながら菓子折りを持ってくるような事もあり、どこか既視感が拭えない。
成る程、その彼女を娶る事で助けてやって欲しいということか。
知人の子に出征前に家庭を持ってくれないかという大尉の親心と大尉の奥方の同情心が合致した訳だ。
「無論、それを理由に結婚してくれという訳ではない。ただ先程言ったようにこのご時世だ。これも何かの縁だと思って受けてみないか?」
ふと身に染みる寒風が現実へと思考を引き戻す。
厚い召し物に身を包めているとは言え、やはり身体の震えを感じざる得ない。
隣に佇む彼女をそっと視界に入れる。外套だけを纏った自分よりも暖かそうな外観だが、その小さな唇を微かに震わせているように見えた。
「真田さん」
顔を向け彼女の名前を呼ぶ。
「はい」
多少の驚きを感じさせながらもこちらに頭を向け答えてくれた。
「少し寒さが戻りつつあるようです。座敷の方へと戻りましょうか?」
「...そうですね、如月様がそう仰るのであれば」
庭園に入って初の会話が部屋に戻ろうというのはなんだがおかしなものである。
何の進展も発展性も伴わない内容ではあるが、彼女に話しかけた、返答を受けたという事実にどことなく安堵を覚える。なんとも気の小さい男よ。
自身の性格を自虐しながらここまでに至った足跡に重ねるよう一歩を踏み出す。
これを機に会話を継続しようと話の糸口を模索するが、結局は沈黙が私達の間から消える事はなかった。
通り廊下の端から履物を脱いで上がる。
草履を揃えて立ち上がる彼女が隣に来ることで体躯の差を感じる。
しかし、日本男児としては珍しい程の高身長である自分と比較してみると女性としては意外と身長が高い方ではないかと推測する。
横目で見つつそのような事を考えながら廊下を進む。床板の軋む音を全く感じさせない木板で成る廊下は、この沈黙を後押しするかのように思えてくる。
しかし、目的の場所へと近付くと共にその静寂は晴れてゆく。
「正直言うと私どもも大変で大変で。我が子の面倒だけでなくて更にもう一人目を掛けなければいけませんでしたから」
座敷内から聞こえる女性――彼女の伯母と大尉の会話が耳に入る。
取りとめ良くしようと直に批判するような文言は聞こえないが、その根底には面倒者を追い出したいという正直な意思がいや応にも感ぜられ、次第に直接的な罵倒をも混じるようになった。
そしてこの会話は彼女の耳にも入っている筈だ。
ふと隣を見るとそこにいた筈の女性の姿は自身の後方で足を止めていた。
俯き気味の姿勢は更に深みを増し、儚さを感じさせる両目が何も見たくはないと言わんばかりにその美しく長い髪先に隠れる。
俯いた身を震わせながら耳を塞ぐ代わりに両手を握り耐える彼女。
そこにあるのは言葉には言い難い恐怖感と嫌悪感。
平静を保とうと身体の震えを止めようとするその必死な姿は今日という小さな時間で、それまで私が見てきた彼女の像を崩壊させた。
鈍感と称される私でも理解できた...彼女が家でどのように暮らしているのか。
人を養育するには金も人手も心も必要である。姉の子とはいえ自身の直系では無い子供を育てるのには多大な苦労が生じる筈だ。厄介者扱いしてしまうのも仕方のないことかもしれない。
そう思っていた自身の考えは目の前の彼女の引き留める様な姿に打ち消された。
無論その内心を完全に伺い知ることなどできない。だが切迫した状況に身を置かれているという想定はつく。
私は戸惑いの渦に飲み込まれた。
彼女と結婚をするかもしれないという意識は正直なところ想起することは無かった。まだ会って一日も経っていないのだ。それに若い女性に如何にして接すればよいのかという考えだけが大半を占めていた。
だが彼女はそれまでの物静かな感性を嘘と言わんばかりに...焦りを見せている。
結婚とは総て互いの恋愛で成り立つものとは考えない。
互いに妥協をしながらも親愛を深めていくものでもあると捉えている。
だが今のこの状況はどうだ...
仮に私が婚姻を認めたらそれは私から彼女に対する同情であり、彼女から私に対する無作為の"抽出"である。
そのような土台の上で結婚という――夫婦という未来を受け入れて良いのか。
「――――――――-」
酒が入ってでもいるのか彼女を蔑む言葉が次々と吐露される。相対する大尉の静けさが困惑を示しているようだ。
行き場の無い怒りと虚しさだけが脳裏を駆け巡る。
悪感情漂う戦場にいるかの如き錯覚を微かに感じながら私は音を立てぬよう近付いていく。
"今一度庭園へと行きましょう"そうとでも言って彼女をここから遠ざけようとした。これ以上あの虫唾の走るような声を聴きたくないし...彼女もそれを望んでいないだろう。
決心をし、声を掛けようとしたその時、傍に来た自分に気付いたのか隠れていた視線が私の視線と繋がった。
そこには謂れようのない不安を浮かべながらもこちらを見つめる彼女がいた。何かに縋り付きたいとも言わんばかりの想いを醸し出しながらも必死に平静を装うとするその姿にどこか凛とした美しさを感じたる。
その姿を目に入れた瞬間、突然に私の心が炎を灯すように揺れ動いた。
そして気付いた時にはその小さい手を遠慮なく握り戸惑う彼女を半ば無理に座敷へと引っ張っていた。
これはただの同情だ――情けは人の為ならず。
自身の冷静な部分がそのようにして頭を冷やそうとする。だが今の自分は自分にも止められない。
同情で結構。これからどうなるかなんてのは知らん。今がどのような状況であるかも知らん。未来がどうなるかなんて知ったこと。
震える女性をただ見ているだけなんてこと――私には看過できない。
今にも泣きそうな女一人守れなくて何が軍人か!
荒々しく襖を開けた先には驚いた顔の"伯母様"と大尉がこちらを見て目を点にしていた。彼のこのような表情を見るのは初めてかもしれない。
いや、そんな事はどうでもいい。ただ声に出そうとするといざ緊張して身体が硬直する。
それを打ち消す様に繋いだ右手に力を入れてがむしゃらに叫んだ
「自分は...彼女と―――
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