アンガレス戦記 (兎烏)
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宮廷魔術師エルマ

 あぜ道を馬車が進む。

 足場の悪い、ろくに手入れされていない田舎道を馬車が進む度に時に小石が、時に雑草がその車輪を襲い、ガタンガタンと馬車を揺らす。

 そんな馬車の車内では、出稼ぎ帰りと思われる若い男達や、都会からの帰路と思われる女達の姿が溢れており、彼らは各々が談笑し、色恋話に花を咲かせながら、馬車の旅を楽しんでいる様であった。

 そんな中、彼らとは随分と印象を異とする少女の姿がある。

 この蒸し暑い最中、黒のロングコートを身に着けて、そうして田舎娘などには決して手が出せないであろうルビーで装飾されたブレスレッドをそのほっそりとした右手首に輝かせている。

 まるで、少年を思わせるように肩元で切りそろえられた黄金の髪、そして、娼婦がするような派手な化粧のなされていないものの均整の取れた相貌。

 どこか貴族を思わせる少女は、この馬車の中で異質であった。

 彼女は、馬車の中の他の者とは随分とその顔色も異なっている。

 他の者が浮かれる中、彼女だけは、決して心地よいとは言えない馬車の旅に、不機嫌そうに表情をしかめながら車窓から外の景色を覗き込んでいたのだ。

―こんな田舎村で仕事とはね―

 少女の瞳に飛び込んでくる風景は、数日前までの帝都周辺のものとはまるで異なっており、帝都の香りが残る彼女には余りにも似つかわしく無かった。

 故の少女の嘆息交じりの感想。

 車窓の外に広がるのは高原の緑と、茶の山々、そうして、そんな山々の間に点在する人の営みを感じさせる薄黄色の家屋達であった。ありていに言えばそこには牧歌的な田園風景が広がっていたのである。

 少女にとって、それは幼少期に見知った風景と酷似しており、同時に長年縁の無いそんな場所でもあった。

 帝都と比べれば田舎などには何も無いという事を少女は知っていた。

 人々は皆、暖かく、勇敢であり公明正大である...というのは、帝都で激務に奔走する騎士達が田舎に抱く幻想であり、田舎に住む人々はそんな彼らの抱く幻想とは真逆の性質を備えている事も少女は良く知っていた。

 これから、少女は、良く見知った田舎というモノに向かい長期滞在する事になる。

 それを思えば、決して美しいとは言えない田園風景をこれ以上眺めているつもりは少女に無かった。嫌でもこれから、緑の海や居並ぶ山々、そして醜悪な人間たちと少女は付き合わなければならない。

 となれば、貴重な馬車の移動時間を風景鑑賞に浸る必要は少女には無かった。

 故に少女は最後に、遠方の景色を苦々しくみやり、そうして直に瞼を閉じ眠りについたのだった。

 

 

 アンガレスと呼ばれる帝国がある。

 既に建国600年を誇る古い帝国だ。故にこの国が刻んできた戦いと繁栄の歴史は他国を遥かに凌駕する。

 ここ、クレセア大陸には規模を問わなければ数十の国家群が存在するが、そのいずれもの国がアンガレス帝国の従属国家、若しくは同盟国家である。

 アンガレス帝国の覇権は北を除く大陸の隅々、果てには大陸周辺のこれまた北方を除く三海に及び、そうして否応なしに大陸の動向を決定した。

 そんなアンガレス帝国であったが、しかし、覇権国家であるが故の宿命故に帝国はただただ繁栄と安全を享受する事は出来なかった。

 覇権国家とは、いわば属領や属国に対しての安全保障を課せられる。

 現在、国家間の大規模な戦争がなりを潜めた代わりに大国アンガレスが対処すべきは魔物問題であった。生態系の多くを明かされず、主にクレセア大陸の北部に住み着いた魔物達は時に徒党を組み、時に単独で人里や中規模の街、時には小規模な王国の首都さえも襲い多くの被害を人類へともたらした。

 多くを謎に包まれた魔物。

 定義づけさえ碌にされていない魔物達であったが、彼らに共通するのは人類にとっては脅威であったという点だ。

 なにせ個体差はあっても、魔物達は人間より遥かに屈強な肉体を有し、そして時に魔術を使うものさえ存在する。そんな魔物達とアンガレス帝国は属領を守りながら、100年に近い戦いを繰り返している。

 そんな100年の時を経て、しかし戦況は人類には好転している。

 数年前に起こった7度目の北伐。

 数万を超える人類と、これまた万を超える魔物との大規模な戦役は人類側の大勝利に終わり、クレセア大陸のその更に北へと魔物は放逐されたのだ。

 そして、かつて魔物が征服したクレセア大陸北部への開発が今、始まった。

 今、帝都アンガレスから北へと続く街道には多くの冒険者達の姿があった。

 

 

「私はエルマ・エルンスト。帝都より派遣された宮廷魔術師です」

 村長宅に突然現れた、肩書、容姿ともにあまりに田舎村に似つかわしく無い少女。村長はやや困惑した様子で自らを宮廷魔術師と名乗る少女エルマを見やっていた。

 確かに帝都へと今回の件について依頼を出したのは他ならぬ村長であったし、村長や村の重役たちは確かに今回の騒動に関して一刻も早い解決を望んでいたのは事実である。

 しかし、宮廷魔術師の村への介入という予想外の事態は村長の思惑を遥かに超えていた。

 ここはラドの村。

 アンガレス帝国と西の大国たるフォロボスの国境線近くに存在する小さな山村である。

 周囲を険しい山々に囲まれた山村であり、そこには大した特産品など存在せず、ただただあるのは民と僅かな農作物である。大昔は、アンガレス、フォロボス間の中継地としてラドの村を訪れる者の数も多かったが、海運の発達に伴い、二国間の主な交通の手段が海路となったために現在ではわざわざ立ち寄る者も居なくなったそんな田舎村である。

 ラド村は一応はアンガレス帝国領に組み込まれているものの、所詮は辺境の辺境である。

 そんな村に宮廷魔術師である。

「はぁ、宮廷魔術師の方...ですかぁ」

 言いながら、村長はエルマを見やる。

 村長が勧めたにも関わらず、エルマは客人用の椅子に腰かけることなくピシッと背を伸ばしながら、村長を見下ろす様にして直立していた。

 村長自身、帝都に訪れたのは数度で、彼にとっては宮廷魔術師との直接の接触は無い。故に村長は宮廷魔術師の一般的な知識を僅かに有しているにしか過ぎなかった。

 アンガレス皇帝のお膝元である帝都アンガレスにおいて宮廷に従事する魔術師達。

 強力な術を扱い、平時は術の研究に戦時は魔術部隊として皇帝軍に従事する...村長が持っていたのはその程度の知識である。

 確かに村長の見立てではエルマは宮廷魔術師に相違なかった。彼女が到着後に、卓上へと提出した皇帝直属の花押付きの書状は勿論だが、エルマのその特殊な格好がなによりも彼女が宮廷魔術師たる事を証明していた。

 黒のロングコートに、ルビーが装飾された高価そうな腕輪。黒のロングコートは基本的には魔術師以外が着用する事を認められておらず、また、なによりセルマが身に着けたルビーの装飾がされた黄金の腕輪は、はぐれ魔術師や地方の魔術師がおいそれと手にする事が出来ない貴重品である事は、宝石などに詳しくない村長にも容易に理解できた。

 また、エルマには若いながらも一種の気品が漂っており、宮廷魔術師といえばなるほどと納得してしまう。

 そんな正真正銘の宮廷魔術師を前にして村長は苦笑交じりに顔を引きつらせた。

 何せ、宮廷魔術師を今回の事件に巻きこんだ際の事の顛末までを村長は考慮してなかったのだ。

「ええっと、エルマ様ですか。では...村の者に案内させますので...今回の事件についてはまた明日にでも」

「いいえ、手短に。皇帝陛下は、早期の事件の解決を望んでおられます」

 焦る村長とは対照的にエルマはその仮面のような表情を崩すことなく、直立不動でそう言った。

 そんなエルマを前に村長は俯き、その眉間のたて皺を更に濃くしながら、その重い口を開き始める。

「実は西の山間に魔物を手引きする怪しげな男がありましてね...」

 そうして村長はしぶしぶとだが語り始めたのだった。

 

 

 このラドの村の更に西に行くこと半日、ムロン村なる小さな山間の村が存在する。

 ラドの村より更に山間に存在するムロン村は勿論だが、人口も少なく村の生活はラドの村との貿易で成り立っている様なものであった。

 遡る事、三ヵ月。

 そんな小さな山間の村に一人の男が現れたという。

 巨木の様に巨大な体躯の男だったという。その男は、真っ黒なマントに身に纏い、全身を分厚いプレートアーマーで包み、これまた、巨大な鋼鉄の剣をひっさげて突然、ムロン村に現れたのである。

 ムロン村の誰もが男の異様な姿に違和感を抱いたが、最初の一月は穏やかだった。

 男は不気味であったものの別に何するでもなく村の離れにある小さな廃屋を借りて日がな一日を暮らしている様だった。時に夜な夜な、姿を消す事があったが村の人々は特に実害の無い男にそれ程の注意を払わなかったのだ。

 しかし、不気味な男が住み着いて二月たった頃からムロンの村で異変が起き始めた。

 謎の失踪事件。

 夜な夜な村の人間が村を抜け出しては山奥へと向かっていく...そんな事件がムロン村で勃発したのである。

 そして、ある日、ムロン村の子供達が、興味本位で山奥へと足を踏み入れる事があった。

 探検のつもりで、山奥の洞窟へと進んだ少年達。それは年頃の少年にとっては未知への探求を満たすための日課であった。何時もと変わらぬ探検、そんな何時もの日常気分の冒険の末、少年達が洞窟の奥で発見したのが...大剣かなにかで切り裂かれ、抉られ、体に大きな傷を作った失踪者達の姿であったのだ。

 しかもそれらの死体は、奇怪な事に、全身の血液を失い、ミイラの様に干からびていたのである。少年達はそんな異様な死体を前に脱兎の如く洞窟から逃げ帰り、大人達に報告、そして、怪奇事件はムロン村ひいては近隣のラド村まですぐさま知れ渡ったのである。

 勿論、事件の犯人はその住み着いた男以外にありえない。それはムロン村全員の総意であり、そして遂にムロン村の総力を上げて、男の家へと捜索を始めたのである。

 それが一月前の事である。

 

 

 淡々と話しながら村長は顔色を真っ青にしていた。

 対してエルマはやはり顔色一つ変える事は無く静かにそのアクアマリンの瞳を村長に向けながら、脳裏で事件に関する情報を整理していた。して、ただの退屈な田舎での滞在はまるでその色を変えていく...そんな風な思いをエルマは村長の言葉から感じ取っていた。

「それでその後はどうなったのでしょうか? 」

 顔色一つ変える事の無いエルマであったが彼女の口調はやや早く、僅かな熱がこもっていた。

 エルマは今回の事件の背後に外道魔術師の姿を垣間見ていたからだ。

 外道魔術師。国が定めた禁忌を破り、魔術を私的に研究する者達の総称である。

 彼らの多くは基本的には、所謂、都落ちした魔術師の成れの果てであり、多くは地方における小遣い稼ぎ程度で術を行使する者ばかりであるが、中には大物もいる。

 そんな大物の外道魔術師が関わった事件を解決したとなれば、新人の宮廷魔術師たるエルマの功績に箔がつくのは勿論である。現状、何が何でも功績を欲していたエルマにはこれは喉から手が出る程の案件へと変わりつつあったのだ。

 そんなエルマの心理をどの程度村長が察していたか、恐らく、この純朴な村長はエルマの心理を殆ど察していなかったろう。

 彼は青ざめた表情でエルマを見やりながら再び口を開く。

「えぇ、その後ですね。丁度、これは10日ほど前の事です。定期的に我が村とムロン村を行き来する行商人がおりましてな」

 一度、そこで区切って村長は咳払いする。

「その行商人がムロンの村に出向いたのですが、村には人っ子一人おらず、不思議に思った彼は周囲を散策したのです。でもやっぱり人の息遣い少しも感じられず、そして...えぇ、近くの森の中で彼は村の子供を発見したんです。もっとも子供はそれからダンマリですが」

 エルマは村長の言葉に相槌を打ちながら、村長の言葉を咀嚼し、そうして返答する。

「なるほど、分かりました。つまりは無人になったムロン村。そんなムロン村に住み着いた男の正体を確かめ、必要に応じては...」

 エルマは最後まで言わずに村長を見やる。

 村長は無言であったが、彼のその無言は何よりも雄弁に答えを物語っているた。

 エルマは、村長に視線をやりながら再び口を開く。

「分かりました。それでは、早速、私の方で捜索の方を開始させて頂きます」

 そう言うとエルマは村長に軽く会釈する。

 そして、彼女は所謂貴族風の嗜みとでもいうかのように、軽やかにロングコートの裾を持ち上げて一礼する。

 エルマはこういった気取った挨拶を嫌う。が、しかし彼女が宮廷魔術師であり、必然的に貴族階級を与えられている以上は貴族然として振舞う必要があったのだ。

 少なくとも生真面目なエルマは仮に彼女が如何に貴族を嫌おうとも望まれればその通りに振舞うしかなかったのだ。

 そんなエルマを見やり村長は立ち上がる。

「ありがたい...しかし、今日は既に日も暮れようとしています。どうでしょうか、明日より日を改めて...」

 村長の言葉はか細く、そして弱弱しかった。そして、何処か井戸の底の如き仄暗さを孕んでいた。

 しかし、そんな村長の言葉を聞き、エルマはチラリと窓の外へと視線をやる。

 エルマの瞳には、夕日を背景にして、燃える様に真赤に染まった山際がありありと映っていた。

 既に、空は朱色に染まり、あとしばしすれば、この村落には闇の静寂が訪れるであろう。となれば、街灯一つ存在しないこんな村落や、足場も定かでは無い山岳部を捜索する事など無謀に等しいであろうことはエルマにも容易に伺えた。

 小さくため息をつくエルマ。

 「えぇ...そうですね。それでは、お手数ですが村の宿場をご紹介頂けますか? 」

 エルマの声には小さな落胆の色が混ざっていた

 しかし、村長はそんなエルマとは対照的である。

 先ほどまで曇っていた村長の表情が明るさを取り戻したかと思えば、彼の口から嬉々とした声が上がる。

「ええ、ええ、勿論ですとも。ささっ、こちらです」

 立ち上がる村長。そんな村長を前にして、エルマは大した感慨を抱く事無くただただ、その脳裏で宮廷魔術師としての栄達を夢想していた。

 そうしてエルマは村長に連れられるようにして、村長宅を後にしたのであった。

 こうして、エルマのラドの村での一日が始まった。




とりあえずあまり肩に力入れずにオリジナルファンタジーものを書いてみます。
良ければご一読下さいませ。


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宮廷魔術師エルマ その2

 翌朝、日の出と共にエルマはラド村の詮索を開始した。

 東の山際から姿を現した朝日が薄っすらと山陰のラド村を照らし出す中、黒で彩られたエルマは宿場を後にして一人、あぜ道を進んでいく。

 朝のラド村は静かであった。

 帝都に存在する華やかな貴族街や、やや治安の悪いものの人の熱で溢れた繁華街、そういったものとはラド村は無縁である。

 一見すればそれは山村の素朴さとも見て取れるかもしれないが、むしろ、山村を良く知るエルマには、この村は静かに息を殺し、通りを行くエルマをジッと監視している、そんな不気味な印象を感じずにはいられなかった。

 エルマが歩を進めれば彼女の足元からジャリジャリと音が上がる。

 多少の手入れが成され道としての体裁が整えられているとは言え、エルマにとっては、村路は獣道と大差がない。歩くたびに嫌気のするような音をあげる悪路である。

 しかし、それでも尚、エルマは力強くあぜ道を歩いていく。

 彼女には事件解決という今後の彼女の成功のための手段があり、更にその先には彼女の人生の目的が横たわっていたからだ。

 となれば、ラド村の田舎特有のいやらしさにエルマが屈する事は無い。

 エルマの一歩、一歩はいわば彼女にとっての栄達のための布石であるのだから。

 歩を進めるエルマの周囲の景色は相も変わらず、遥か遠方の山々と、北から南へと緩やかな傾斜を作った丘陵地帯に広がる緑の田畑で埋め尽くされていた。

 エルマは昨晩、村長より預かった地図を確認し、そうして自分の進む方向が正しいか確認しながら、悪路を進んでいく。

 エルマにとっては周知の事実であったが、村というものは無駄にだだっぴらいものであり、分かり易いランドマークは存在しない。となれば、詳細に地図を確認しながら大よその勘で進むしかなかったのだ。

 村を一望できる高さにある宿場を後にして、段々畑の中にポツリポツリと点在する木造の家屋を通り過ぎ、そうして、村の中心を北東から南西へと横切る小川を超えた所で、エルマはとうとう、生き残りの少年が預けられているという家へと到着した。

 日の出と共に宿場街を後にしたエルマであったが、彼女が少年宅に到着したころには、村の住人達の姿もポツリポツリと姿を現していた。

 そうして、彼らは一様にエルマに奇異の視線を投げかかている。

 よそ者であると同時に、漆黒の法衣に身を纏ったエルマの姿は彼らにとっては奇異な存在であると同時に魔物の様に映っていたのだろう。

―こんなの慣れっこよ―

 彼らの視線を一身に浴びながら、エルマは内心でそう呟くと、少年宅の前まで進む。そうして、顔色一つ変えることなく、家の戸口をノックする。

 トントン

 とやや古ぼけた木造の戸口をエルマがノックするとすぐさま、戸口が開かれ、そうして、小柄な少年が顔を出した。

 少年の瞳がエルマをギョロリと捉える。

 生気のない瞳であった。まるで、この世の全てに絶望したかの様なそんな瞳であると、エルマは眼の前の少年の姿に威圧されながら感じていた。

 一瞬だが固唾を飲み、それからエルマは少年をジッと見据えて口を開く。

「貴方がムロン村の? 」

 エルマの問いにしかし、少年は無言で頷くのみであった。

「あぁ、おなたが事件解決のために来た...」

 して、無言の少年とはまた別の、野太い男の声が家屋の奥から響く。

 そうして声の主はややあってから、のそりのそりと立ち上がり、戸口へと近づくいてくる。

 戸口まで至った彼はやや乱暴に、少年を押しのけると、少年に変わってエルマの前に立つ。そうしてまるで値踏みする様にエルマをじろじろと見やりながら言葉を続ける。

「その恰好は宮廷魔術師の方でしょうか? 」

 そう言った男は、こんな田舎には珍しく、上質な絹の刺繍が成された布の服で身を固め、その肩元には厚手の皮のフードを羽織っていた。

 みやれば、田舎ながらのお洒落というやつか、恰幅の良い彼はその腕に銀の腕輪を身に着け、長い長髪を結っている。

―行商人の様ね―

 エルマは、男の仕草や身に纏った恰好から、男をそう察した。

「えぇ、私が今回の事件について帝都から派遣された宮廷魔術師のエルマ・エルンストです。お見知りおきを」

 エルマは一礼する。

 そんなエルマの所作を見て、途端、商人の表情が先ほどまでの何処かよそよそしいものから、如何にも取り繕った様な人の好いものへと変貌する。

 彼の訝し気な表情はなりを潜め、代わりに外行きな笑みを浮かべた彼はエルマを見やり、口を開く。

「なるほど、まさか宮廷魔術師の方がこんな田舎村にいらっしゃるとは...ささ、立ち話も難です。どうぞ、狭い家ですが」

 そう言って商人は手招きしてエルマを一室へと招かんとするが、エルマは軽く頭を振って拒絶の意を示すと、その薄桜色の唇を小さく開く。

「いいえ、お構いなく。私は事件の一刻も早い収束を望んでいます。故にお話しのみ伺わせて貰えれば十分ですので」

 単刀直入にエルマはそう言った。

 そんなエルマの姿はまるで商人に興味は無い、自分に関わるなというかの如くであり、実力者として自負のある商人の自尊心を少しばかり傷つけた。

 しかし、商人はそんな自らの心の機微を悟られまいと相も変わらず作った様な笑みを浮かべながら、なるほどとエルマに返答する。

「なるほど、仕事熱心な方だ、えぇではどうぞ何なりとお尋ねください」

 そう言って商人は、傍らに置いた少年を下がらせようと、少年の肩をひっぱりながら後ろへと押しこくる。少年は無言であった。まるで虚空を見る様にエルマをジッと見続けている。

 エルマは行商人には目もくれずに少年をジッと見やる。

「その少年に用があるの。よろしいかしら」

 乱暴に少年を扱う商人にエルマは所謂、農民の姿を見出していた。

 故にエルマの口から出たのは、エルマ自身が驚くかのような怒気のこもった声。

「しかし、こいつは口が聞けませんよ」

 そんなエルマの態度はしかし、行商人の男にとっては心地の良いものであったらしい。

 宮廷魔術師を名乗る小娘が、自らの行動でその感情を揺さぶる様を男は内心で喜んでいたのだった。

 見れば、男の豊かな口元は歪み、悪意に染まった笑みを形作っていた。

「別に構わないわ」

 エルマはそこで初めて行商人を見た。

 彼女は、まるで汚物を見るかの様に行商人へと軽蔑に満ちた視線を投げかけると、次いで、少年へと視線を移す。

 ジッと、少年の瞳を見やりながらエルマは少年に尋ねる。

「ねぇ、君。もしよかったら貴方の村に私を連れて行ってくれないかしら? 」

 エルマのアクアマリンの瞳が少年をジッとのぞき込むと、少年はその瞳を泳がせながらも、微かに首を縦に振った。

 ピシャン

 途端、何かの音がなったかと思うと、頷いた少年の頬がジワリと赤く染まる。そうして、顔色一つ変えない少年の瞳から一筋の雫がこぼれ床を濡らす。

「テメエが勝手に決めるな!」

 行商人は己が力を、エルマへと誇示するかの様に口調を荒げる。

 それは、少年への懲罰という形を借りたエルマへの宣戦布告でもあった。

 高々と振り上げられた行商人の掌、そう彼は、少年を平手打ちしたのだった。

 そうして、彼は怒声を上げ、少年を睨んだかと思えば、今度はその表情を一変。満面の笑みを浮かべながらエルマへと視線を変えた。勿論、悪意のこもった笑みである。

 そうして今度はへつらいながら彼は言う。

「ちょっと待ってくださいよ。宮廷魔術師様。こんな奴が案内の役に立つとでも思ってるんですかい? 正直、役に立ちませんよ、喋れもしないんですぜ」

 勿論、エルマ自身、自分の無作法はわきまえている。しかしならばこそ、行商人が腹を立てて、そしてその怒りをぶつけるべきはエルマであり少年では無いのだ。

「貴方は黙っていて下さるかしら」

 結果、エルマの怒りは行動として現れる。

 エルマは行商人を一瞥することなく、ジッと少年を見やりながら、彼の言葉を否定した。

 が、そんなエルマの行動は益々、火に油を注ぐばかりである。

 彼は自らを侮蔑した小生意気な子娘を許す事など出来なかったのだ。

 彼は穏やかに振舞いながらも、その言葉の端々にエルマへの挑発を含めながら口を開いていく。

「困りますねぇ。そのガキの所有権は俺にあるんですから、許可を取るなら俺に取って貰いたいんですがね」

 行商人の言葉に、エルマがピクリと反応したかと思うと、彼女はそこでやっと行商人へと視線を戻した。

 そんなエルマの瞳は彼女特有のディープブルーの色を反映して何処か冷たい印象を醸し出していた。

「そう...でもこの子は貴方がムロン村から拾ってきた少年と伺っているのですけれど? 貴方に親権があるとは思えませんけどね」

 エルマの口調もまた冷え切っていた。そして、エルマの声には明らかな男への敵意が溢れているのは誰の目にも明らかだった。

「親権ですか? 冗談言わんでください。...ソレは俺の奴隷ですよ。口は聞けねえが、家事くらいは出来ますからね。となれば、勝手に連れていくなんて、そうは問屋が卸しませんぜ」

 行商人の口調もまた、訛り混じりの何処か下卑たものへと変容していた。

 エルマにとっては商人は醜悪であったが、商人にとってはエルマは鼻持ちならない貴族に他ならなかったのだ。

 しばし無言で見つめ合うエルマと行商人。

 先に動いたのはエルマだった。

 エルマはそんな彼を前にして、静かに...しかし明らかな侮蔑と嫌悪の色にその端正な相貌を染めながら、自らの懐へと手を伸ばす。

 何という事は無いエルマの行動。

 しかし、行商人は、そんなエルマの何気ない仕草に、びくりと身を震わせる。

 彼は今までの余裕気な表情を真っ青に変容させて、そうして、唖然としながらエルマを見やる。

 そう、エルマは宮廷魔術師とは言え、魔術師である。

 基本的には爵位も与えられた宮廷魔術師は、理性と理論で縛られた公的な存在でおり、無法を働く事は無い。行商人はエルマのその立ち振る舞いなどから更に強くそう確信していた。

 そのため男は、未熟ながらも大人の様に振舞う小娘が自らの多少の無礼には眼をつぶるであろうと高を括っていたのである。

 だが、魔術なる奇妙な現象を使役する魔術師に対する潜在的な恐怖を男が抱いていたのは事実であった。

 そんな彼の深層心理がエルマの何気ない行動に恐怖心を抱かせたのである。

 故にエルマにとっては些細な行動は、魔術師特有の魔術の詠唱の一環と男の目には映ったのだ。

 男はスッと顔面を覆う様にと両手を前に出す。それは恐怖にたいする反射的な行動であり男にとっては意識してやった事では無かった。

 が、最も、男のそんな思いは杞憂に終わる。

 懐に手を伸ばしたエルマは、胸元に収めてあった小さな麻袋を取り出して、そうして男の目の前に差し出すのみであったからだ。

 身構えていた男であったが、しかし、眼の前に差し出された麻袋を前に、一瞬呆け、その後直ちに現実へと引き戻される。

 ジャラジャラと麻袋を振るエルマ。

 その中身が何であるかは行商人たる男には容易に理解できたからだ。

 そんな男を見やりながらエルマは口角を小さく釣り上げながらどこか意地悪な笑みを受かべる。

「ええ、勿論、タダでお願いしようなんて考えていないわ」

 青ざめた男の表情には血の気が戻り、そして今度は対照的に真赤になったかと思うと、男はエルマの手からやや乱暴に麻袋を受け取る。

 そうして、一枚...二枚とその袋の中に収められた銀貨を数え終えると今度は、男はまじまじとエルマを見やり素っ頓狂な声を上げる。

「銀貨8枚...」

 行商人が感じたのは恐怖でも怒りでも無く、驚愕という感情であった。

 銀貨8枚。贅沢しなければ、山村でならば1年は遊んで暮らせる金額である。

 たかが口もきけない子供に釣り合う値段では無かった。

「このガキにこんな金額を...」

 男は相も変わらず裏返った声でエルマにそう言うと、エルマが答えるよりも早く、さりげなく麻袋をスッと自らの懐にしまい込む。

「別に構わないわ。それじゃあ、その子を貸してもらうわよ」

 エルマは内心で、男の意地汚さを嘲笑いながら、眉一つ動かさずに相も変わらぬ軽蔑の眼差しを男へと送っていた。

 エルマにとって、男の姿はまるで彼女が嫌う卑しい地方領主そのものであった。

 強きに媚び、弱気を虐げる。横柄で臆病で、そして厚顔無恥なそんな人種だ。

 行商人が奴隷を使役するのはアンガレス帝国の奴隷法を鑑みれば当然であった。エルマ自身、自分の行動が利己的な過去の復讐心から生じたものであることも重々承知している。

 だが、それでも彼女には行商人の卑劣さに絶えることが出来ず、結果エルマは、子供じみた意趣返しで応じたのである。

 解決方法として、商人にとっての力の物差しである金銭に頼ったという事に、エルマはやや不満があった事は否めないが。

「それでは失礼するわ...さぁ行きましょう」

 そう言うとエルマは少年へと手を差し伸べる。

 ここで初めて、エルマは年頃の少女がする様な幼さの残る笑顔を浮かべた。

 少年は相も変わらずに、表情一つ変えずにそんなエルマを見やりながら、一度だけ頷くと、力強くエルマの手をギュッと握り、彼女と共にそそくさと行商人宅を後にした。

 

 

 口の聞けない少年とエルマが、ラド村の西手を出て、そうして山中へと進んだのは丁度、昼過ぎであった。

 黒のロングコートで全身を覆ったエルマであったが、高原特有の冷気と、彼女の先を進み誘導する少年が日陰の多い道をあえて選び、進んだお陰で、自然と蒸し暑さは感じなかった。

 しかし、その反面で肉体強化に関しては、最低限の訓練のみしか受けていないエルマにとって、慣れない山道は予想以上の疲労を彼女に強いた。

 ゴツゴツとした岩だらけの足場は勿論だが、時に足場とも呼べぬ足場をエルマは進まねばならず、時に大股で、また時は両手で周囲の岩場を支えながらゆっくりとゆっくりと彼女は登山道を進んだのであった。

 そうして、結局、エルマ達が山中を抜けた頃には日は西の空へと沈み、そうして、高原には冷風が吹きつけている。

 いわば夕暮れ時が迫っていた。

 そうして、エルマは、朱色に染まりつつある空を見上げながら、小さくため息をついた。 

―ふぅ、年を取ったって事かしら...いいえ、最近あんまり体を動かしてなかったからよね―

 エルマにとってはあまり年齢の事は意識したくない案件の一つであった。

 エルマの身長は平均的なアンガレスの成人女性と殆ど変わらないものの些か自らのルックスに不満があった。

 未だにその花の頃の少女の様に幼い相貌、そして更に彼女を悩ませているのが彼女の体つきである。

 エルマの体つきに関して言うならば、まるで思春期前の少女の様に凹凸があまり目立たたない。してそのエルマはと言えば、今年で御年22歳となる。

 もう少しむねとおしりがあればなとエルマは昔から思い、来年こそは来年こそはと待ち望んだが、ついぞ彼女の願いはかなう事は無くこんな年齢になってしまったのだ。

 そんな彼女にとって、女としての実りよりも、体の衰えが先に現れるなどは許せなかったのだ。

 故に、エルマは自分の考えた想像を打ち消す様に強く頭を振る。

 そんなエルマを不思議そうに見やりながら首を傾ける少年。

 少年の視線に気づき、ハッとするエルマ。

 やや頬を赤らめながら彼女は、照れくさそうに口を開いて少年に尋ねる。

「それで、貴方の村に突然現れた男は...」

 しかし、そこでエルマは言葉をひっこめた。

 そうして、エルマはおもむろに少年の手をグイと引くと、自らの懐へと引き寄せ、そうして、そのままクルリと、右側へと向きを変える。

 少年は突然、自らの手を引いたエルマに少しばかり戸惑いながらも、並々ならぬナニカが起きていると理解して...そうして、半ば恐怖しながらもギュッとエルマに抱き着いた。

 向きを変えたエルマ。

 そんなエルマの視線の先にはごつごつとした岩々と高原特有の天高く枝を伸ばした広葉樹林が点々としていた。

 見通しは決して悪くは無く、よく目を凝らせば木々の間には異様な影が見て取れる。

「ねぇ、君...すこし下がっていてくれる? 」

 そんな異様な影を一瞥し、今度は抱き着く少年へと視線をやるエルマ。

 そうして、エルマは少年の頭をポンと優しく撫でると微笑を浮かべながら、一歩前方へと足を踏み出す。

 少年は、そんなエルマをしばしの間、上目遣いにみやり、そうして、エルマの視線の先に眼を這わせる。

 少年は状況が未だに飲み込めなかったが、しかしコクリと頷くと、エルマの指示に従い、彼女の後方へと小走り気味に駆けていった。

 走り去る少年の姿を確認した所でエルマはゆっくりと口を開く。

「魔物? それとも例の魔術師かしら? 前者なら直に消し炭にするけれど後者なら話くらいは聞くわよ」

 エルマは大胆にそう言いながら、ジッと彼女の遥か20M(メイル)程先の木々の木々の間のその異様な影に尋ねる。

 それは二つの人型の影であった。

 しかし、西日に照らされたそれらの影は、輪郭がぼやけ見様によっては、獣人の様にも見えたし、そして人の様にも見えた。

 最も、エルマにはそれらの影がなんなのか薄っすらとだが予想は出来ていた。

―魔物よね。イドナが異常だもの―

 そして、エルマの予想は的中する。

 のそりのそりと影達は徐々に徐々にと歩を進めエルマに近づく。

 17M...15Mと彼らが寄らば、その輪郭は完全にはっきりとした。

 エルマの前にあったの獣人の姿だった。

 雑な言い方をすればそれは、筋肉質な小型な人間と言えただろう。

 より適切に言うならば、半人半獣の魔物と言えたかもしれない。

 まるで、イヌ科の動物の様に、鋭い犬歯を光らせながら、その血眼になった瞳を見開き歩を進めるその魔物は、名をゴブリンと言った。

 エルマはジッと彼らを見やりながら、ゆっくりと心を落ち着ける。

―ゴブリン...うん。訓練で十中では苦も無く倒してきた相手よ―

 更に一歩とゴブリン達が歩を進めれば、彼らの姿はより鮮明となった。

 その体躯に比して、異常なまでに発達した上腕と下腿の筋群。

 それら発達した筋肉は彼らゴブリンの緑色の皮膚を盛り上がらせ、更にゴブリンたちを歪に飾っている。

 見れば、彼らはその発達した両腕で大ぶりな木の棍棒を握りしめなが、ジッとエルマを睨みつけていた。

 対して、エルマもまたゴブリンへとジッと視線を落としながら、脳裏では彼女は術の構成を開始していた。

 エルマはイメージする。燃え上がるような赤き炎を。

 イメージと同時に、エルマの全身を燃えるような炎の生気(イドナ)が駆け巡り、そうして、彼女の右腕に嵌めた赤のブレスレッドへと収束していく。

 はた目からでも分かる程に熱気を持ったブレスレッド。エルマの生気(イドナ)は今まさにブレスレッドに一同に集められ、ブレスレッドを殊更赤く染めるのである。

 これで、魔術の構築の第一段階は完了した。

 そんな魔術の下地を整えたエルマに対して、更に歩を進めるゴブリン達。彼らが更に一歩、前進し、遂にエルマと彼らの距離が10M程度となった所で、彼らの獣臭がツンとエルマの鼻をついた。既にゴブリンの姿はありありとエルマは捉えていた。

―丁度いい距離ね! ―

 途端、エルマの青の瞳が輝いたかと思えば、彼女は赤色に光る腕輪を身に着けた右腕を前方へと突き出し、その人差し指を持ってして、ゴブリンを指し示す。

 真紅に光るルビーの腕輪。そこには膨大な炎の生気(イドナ)が集められている。

 後はエルマは術のイメージを固め、その集まった生気(イドナ)に指向性を与え解放するだけだった。

 エルマは想像する。

 全てを貫く、鋭い炎の矢。大気中の風の正気(イドナ)を吸いながらますます燃え盛るそんな炎の矢を想像する。

 想像は終わった。後はエルマはそのイメージを現実化するだけだった。

「炎の矢よ、貫け」

 叫ぶエルマの声は岩間に反響して一面に鳴り響く。と同時にそんなエルマの叫びに答えたかの様に彼女の脳裏のイメージは現実へと昇華する。

 ぽっと彼女の赤の腕輪が眩い赤に光ったかと思えば、次いで、エルマの人差し指、その指先が真っ赤に燃える。

 それからは、一瞬の出来事である。

 何かがエルマの指先で光ったかと思えば、エルマの指先からは真赤な火矢が放たれ、ゴブリンへと襲来する。ゴブリンはただじっと立ち尽くすばかりで、炎の矢は大気を巻き込み、うなりを上げ、ますます燃え盛りながら、ゴブリンの喉元を鋭利に抉る。

 と同時に、ゴブリンを激しい炎が包んだ。

 炎に包まれたゴブリンは身動きさえ出来なかった。

 彼が知覚するよりも尚速く燃え盛る炎はゴブリンの全身を包み込む。

 そうして、ゴブリンの緑の皮膚をただれさせ、皮膚の下、盛り上がった赤い筋肉や、彼の臓器が瞬く間に炭化させてしまった。

 結果、何が起こったかを認識する暇も無いうちに一匹目のゴブリンは焼殺され、絶命したのである。

 生き残ったゴブリンが異常に気づいたのは、ボトリと真っ黒な屍が地へと倒れ込み、そうして、彼の鼻腔を焦げ臭い匂いが掠めたその後であった。

 エルマが施行したこの技こそが魔術である。

 アンガレス帝国が長年をかけて系統立て進化させた技でもある。

 魔術とは、人の体の中に眠る生気(イドナ)にイメージを与え現実化させる事で世のありとあらゆる事象に干渉し不可能を可能にする奇跡の技と言えるだろう。

 事実、華奢な、一見すればただの少女に過ぎないエルマ・エルンストは魔術を施行する事で遥かに力で彼女を勝るゴブリンをいともたやすく絶命させてみせたのであった。

 最もゴブリンにとってはそれは余りにも理不尽な現実とも言えた。

 生き残ったゴブリンは、仲間がやられた...そんな異常事態を前に、一瞬、呆然とし、次いで恐怖に全身をこわばらせる。

 しかし、生者の生への執着とでも言おうか、ゴブリンは恐怖しながらも、理不尽な現実を前に、その手に持った棍棒を両手で構えながらグッとエルマ目掛けて前方へと突き出して、次なる攻撃に備えんと身構える。

 それはゴブリンにとっては必死の抵抗であったが、しかしエルマには些事に過ぎず、彼女は魔物に慈悲など与えるつもりは毛頭なかった。

 再び、彼女は炎の矢をイメージしながら、その指先をゴブリンへと向ける。

「炎の矢よ、貫けっ」

 そして、エルマは無慈悲な宣告と共に再び魔術を使役する。

 再び、現実化する炎の矢。

 ゴブリンはそんな異常事態を目の前にして、咄嗟にその身を屈めてエルマの魔術を避けんとする。

 が、既にエルマの指先から放たれた炎の矢を彼が避ける事は能わず、彼は炎の矢に体を串刺しにされると、全身を真赤に燃やし尽くされ、そうしてすぐさま焼死体と化し、絶命するのであった。

 あっという間の戦いの幕切れであった。

 確かにゴブリンという個体は魔物の中では比較的弱い個体である。

 しかし、武器一つ持たない少女が軽々と倒す事など決して叶わぬ魔物であるのもまた、事実であった。

 が、宮廷魔術師たるエルマは僅かにその頬に滴る数滴の汗を代償に、難なくゴブリンを退治してみせたのである。

 そんなエルマは汗を左手で拭いながら、クルリと後方へと眼をやり遥か後方で立ちすくむ少年へと微笑をやる。

「さぁ、行きましょう。これからが本番だものね」

 そう言って少年へと眼をやるエルマ。

 呆然とする少年。

 彼は眼を点にしながらエルマを見やっていた。

 彼自身、ゴブリンの姿は知っていたし大の大人が数人がかりで、命がけでゴブリンを退治する光景は一度、目撃したことがあった。

 にも関わらず、華奢で戦いには無縁だと思われたエルマはほんの一瞬でゴブリンを全滅させたのだ。

 少年は、エルマを、呆然と見やった後にハッと我に変える。

―もしかしたら、お姉ちゃんならあの化け物を倒せるかもしれない―

 今まで絶望に取りつかれていた少年の瞳がぱぁっと輝いたかと思うと、彼は、二度三度と頷く。

 少年はエルマに駆け寄り、そうしてエルマの手を引くと、早足気味に駆けていくのであった。

 走る事数分。

 少年とエルマは遂にムロン村へと至る最後の難所である、巨大なつり橋まで至ったのである。

「えっ...これを渡るの? 」

 少年に連れられたエルマであったが、彼女の声は震えていた。

 そう、彼女の目の前には、切り立った崖と対岸の崖を繋ぐようにして架けられた巨大なつり橋の姿があったのだ。

 明らかに旧式のものと思われる古い木製の桟橋である。

 魔物を難なく蹴散らしたエルマであったが、しかし、彼女はそんな断崖絶壁に立てかけられた桟橋を渡る事に寧ろ戦闘以上の恐怖を感じていた。

 結局、エルマは逡巡の後、ギュッと少年の手を握り、恐る恐るながらも桟橋を渡り終えたのであった。

 そうして、悪戦苦闘の末、ムロンの村へとエルマが至った頃には夕日は西の山際に沈み、静かな夜がムロン村に訪れていた。




 人間の体には炎、水、風、土、人の五種類の生気(イドナ)が存在していると言われます。このイドナに指向性を与え、現象として現実化させたものを術と定義します。
 術の使用は広義にわたり、故にこの世界では術を使用できる魔術師は貴重な存在であると同時に畏怖の対象でもあります。

●ファイアーアロー 
 炎のイドナを練りこんだ魔術。高度な精神集中と、炎のイドナの絶妙な調整が必要である。エルマの得意とする術の一つでもある。


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宮廷魔術師エルマ その3

 闇が完全に支配した夜のムロンの村を、エルマは得意の魔術で生み出した小さな光を頼りに進んでいく。

 エルマの指先でこうこうと赤く燃える炎は松明に灯した程度の微かな光を発するのみである。

 正直、心もとない感は否めない。

 微かな光のもと、エルマが精々目視できたのは、彼女の四方に広がる麦畑と、彼女の足元に生い茂る雑草、そして彼女と手を繋ぎながら歩く少年の姿程度であったからだ。

 だが少年は違った。

 心許ないというエルマの想いをヨソに少年は力強くエルマの手を引くと、エルマを連れて街中を案内していく。

 村長宅や少年の家、その他エルマが目をつけていた村の端々までを少年は迷いなく進んでいった。

 少年の足取りは軽やかだった。

 エルマが足元の雑草に足を取られようとする中、少年はひょいひょいとそれらをやり過ごしエルマが転ばぬ様にギュッとその手を支えながらエルマをエスコートした。 

 ここはムロン村。少年にとっては良く慣れ親しんだ故郷であり村の内部の隅々に至るまでを少年はよく熟知していたのだ。

 少年に連れられてエルマは、村長宅、村の住民宅、村人の憩いの場などなどを歩き回りグルリと村を一周し散策を終える。

 そうして再び村の入り口に戻ったエルマと少年であったが、村には人はおろか、動物の息遣い一つさえ感じられなかったのである。

 村の入り口で立ち止まり、エルマはジッと暗闇の中たたずむ村の家々を見やる。

 家々はジッと静まりかえりながら、高原の風に吹かれてはミシミシと音を上げるのみであった。

 闇夜の中、生命の息吹をまるで感じさせぬ無人の村。

 流石のエルマもそんな不気味な村を前に固唾を飲み、そうしてやもすれば突貫が過ぎた今回の探索を後悔していた。

―これ以上の探索は危険...かもしれないわね―

 エルマは内心で呟く。

 虫の声一つしない、ムロン村。

 恐らく、原因は村に住み着いたという噂の男にある。男の正体は判然としないが、恐らくは外道魔術師の類であろうとの予想がエルマにはあった。

 して、仮に男が外道魔術師の類ならば、魔術合戦で後れを取るつもりはエルマには無かったし、また唯の人間相手ならば、尚更の事である。

 が、しかしそれでも何とも言えぬ不気味さをエルマはこの村、ひいてはまだ見ぬ男に感じていたのは確かだ。ムロン村には言外の恐怖が渦巻いていたのである。故にエルマは今後の進退を考えていた。

 つまりは噂の男の邸宅へ強行してでも押し入るか...それとも何処か身近な所で夜を過ごし翌朝、男のもとへと踏み込むかという事だ。

 しばし、考えこむエルマであったが、そんなエルマの手をギュッと温かい少年の手が力強く握りしめる。

 少年へと視線をやるエルマ。

 言葉を一切、喋らぬ少年。

 松明に照らしだされた少年の表情はラドの村のいた時分よりも随分と柔らかかった。

 確かに、村にいた時よりも幾分かは少年はエルマに心を開いている様にエルマには感じられたし、少年の自らを力強く握るその掌こそが何よりもの自らへの信頼の証であるとエルマは信じていた。

 しかし、それでも少年の、漆黒の瞳の奥には絶望の色が色濃く残っている。

 一体、彼がこの村で何を見たのか。何を経験したのか。

 こんな年端も行かない少年をここまで、変えてしまったのはなんなのか。

 エルマは少年を見やりながらジッと考え、その原因であろう噂の男や行商人に義憤を募らせていた。

 エルマ自身、あくまで独善で少年を救ったに過ぎない。いや救ったという言葉さえはばかられるだろう。

 行商人が気に入らない。ムロン村の探索を熟知した人間が欲しい。

 そんな利己的な理由でエルマは、一時的に少年を行商人から引き離したに過ぎない。そのためエルマが噂の男や行商人を憎むのは筋違いである事はエルマ自身も重々承知していた。

 が、少年の姿を前にすると嫌でもエルマにはた怒りとも悲しみとも言えぬ複雑な感情が彼女の記憶と共に沸々と沸いてくるのであった。

 エルマは少年との短い旅の中で、彼に一種のシンパシーとも母性ともいえる複雑な感情を抱きつつあった。

 絶望に染まった少年はまるで過去のエルマを映し出す鏡であったからだ。

 誰一人として、過去のエルマには手を差し伸べる者はいなかった。

 少年を救った所で、エルマの現在も未来も変わる事は無い。

 また、エルマにとっての最大の目的は、事件の解決ひいては、彼女の栄達である事は変わらない。

 が、しかし、ガラス細工の様に脆いエルマの心は少年のその漆黒の瞳を前に揺らいでいたのだった。

 

 一人、少年を見やりながら感慨にふけるエルマ。そんな彼女の手が再びグイと引かれる。

 手を引いたのは紛れも無い少年。

 温もりを宿した少年の小さな手がエルマをグイと引っ張ったのだ。

 手を引きながら少年は、エルマへと向けていた視線を町はずれの小さな家屋へと変える。

 ハッとしながらも、エルマは、少年に倣い、小さな小屋へと夜目を利かせる。

 居住街の一角から隔離される様に、村の郊外に...つまりは小さな林に囲まれて木造の小さな小屋があった。

 小屋の輪郭はぼやけており判然としないものの、そこが噂の男の所在地であろう事はエルマには容易に想像できた。

「あれが...噂の男の家なのね」

 エルマが呟くと少年はコクリと一度頷き、一歩前へと踏み出した。

 エルマはそこでもう一度気を引き締めんと、ギュッと力強く少年の手を握りなおした。

 そう、先ずは目先の任務である。少年に関しては後で考えれば良いのだ。

 自らをそう納得させると、エルマはもう一度ジッと彼女の視界の奥にある小さな小屋を見やりそうして内心でつぶやく。

―鬼が出るか蛇が出るか―

 いずれにせよ、エルマの心は既に決まっていた。

 少年と共に歩を進めていくエルマ。

 虎穴に入らずんば虎子を得ず。

 そんな言葉の通り、あの小屋の中にはエルマにとって未来を決めかねない重要な何かが眠っていると、エルマの魔術師としての直感が彼女自身に語り掛けている。

 となれば、エルマには危険を顧みず進むより他、道はなかったのだ。

 

 古びた木造の扉は劣化が激しく、エルマが引き戸を引くと、木の扉はギシギシと軋みながら、重々しい音を上げて、その重たく閉ざした口を開いたのであった。

 扉を開くと同時に、エルマは身構える。

 右腕を前方へと突き出しながら、彼女の炎のイドナをルビーの腕輪に収束し、いつでも術を放てる体勢を整える。

 ゴブリンを倒した時と同様に、エルマの右腕に嵌った腕輪が赤く輝く。

 そうして、輝く腕輪に照らし出されていく小さな室内。

 古い木造建築の屋内。

 そんな小さな屋内の隅で、壁に背を預けるようにしてもたれかかる男の姿がエルマの目に飛び込んでくる。

 漆黒の外套に身を包んだ中肉中背の男。そして、黒の外套の下、彼が身に着けたプレートアーマーがエルマの腕元で輝くルビーの光を受けてぎらぎらと薄銀色に反射する。

 エルマは男をじっと観察する。

 男は中肉中背で、極端に筋肉質であったり逆に貧相だったりという印象はしたエルマは彼の姿からは受けなかった。

 長く伸びた白髪を婦女子の如く髪の後ろで結いまとめる男。

 帝都の若い女性たちの間では髪の毛を後ろの所で、まるで馬のしっぽの様に髪を結うのが流行っている。

 丁度そんな風にして男は髪をまとめていたが、男が流行に乗っかって髪型を整えているわけでは無い事はその男の厳めしい相貌が物語っている。

 男の顔は醜男では無くどちらかと言えば整っている方である。勿論、美少年という分けでは無い。どちらかと言えば、男性的な精悍な力強さを与える顔つきである。

 そんな男は目つきを鋭くしながらエルマを見上げる。

「何の用だ? 」

 芯に響くかの様な力強い声であった。

 彼は身じろぎするわけでもなく、どうという事も無いといった様にエルマを見上げそう言った。

 対する、エルマは、身構えながら男に返答する。

「宮廷魔術師エルマ・エルンスト、動かない方が身のためよ。この村での事件の犯人様を逮捕しにきたのだけれど」

 エルマの声は震えていた。エルマの目の前で佇む男は形容するならば静かな獣という言葉が適しているだろう。

 そんな獣の様な男にエルマは威圧されていたのである。そして、威圧されると同時に、エルマは男から動物の持つ一種の純粋さを感じ取っていた。

 エルマは自らに渦巻くそんな感情を必死に抑えながら、男へと何時でも術を放てるようにと体勢を維持する。

 そんなエルマをじっと見つめる男。そんな彼の表情はエルマの言葉を受け何処か物悲しそうに歪んでいた。

「村の事件...そうか。すまない」

 彼はそう言うと小さく頭を下げた。それは果たして誰への謝罪であったのかエルマには察する術は無かった。が、一つ確かな事はエルマが男から直感的に感じとったのは彼の全身から漂う悲哀の感情であった。

―なんなの、この男...―

エルマはじっと男を見やりながら内心で呟く。

 男は壁に背を預け、静かに佇み、その眉間に深い縦皺を作り、その赤い瞳を深い悲しみの色に染めている。

 その瞳は少年と同じ絶望を知った者の眼であり、エルマが良く見知ったものであった。

 故にエルマは、そんな男の態度を前にますます、戸惑わざるを得なかった。

 男の言葉が演技だとはエルマには思えない。男は混じりけの無い悲しみにその身を僅かに震わせながら、苦悶に満ちた声を絞り出している。

 勿論、エルマの幼少期を思えば人間などが信頼できない生き物で、容易に人を裏切り支配したがる連中である事はエルマ自身が良く知っていた。

 しかし、人間をまずは負の側面から観察するエルマには珍しい事であったが、彼女は目の前の男からは人間特有の醜悪さを感じれなかったのである。

「...貴方の名は? 」

 故に、困惑したエルマの口をついたのは彼女にとっては意外な言葉であった。

 本来ならば、村の現状や彼が行ったであろう行為についてエルマは尋ねんと思っていた。

 男の名前などはエルマには本来ならばどうでもよい事些事である。エルマが求めたのは事件の真相と解決、そしてその先に待つ彼女の成功であったのだから。

 勿論、エルマはそのルビーの腕輪にイドナ集め、何時でも術を放てるようにと脳裏の中では魔術のイメージを固め続けている。

 しかし、目の前の澄んだ瞳の男を殺す覚悟で魔術を放つ自信がエルマには無かった。

 宮廷魔術師が仮に外道魔術師と対峙した際には、外道魔術師の存在を如何に処するかは全て、宮廷魔術師に一任されると帝国法にはある。

 また、エルマ自身が邪悪たる外道魔術師に対する感情は魔物に抱くそれと大差が無いのもまた事実である、

 が、こと目の前の男に対して、エルマは微塵の邪悪さをも感じ取れずにいたのだ。そんな直感から生じたエルマの迷いは汗となり、つつぅとエルマの頬を伝い、木床へと滴る。

 そんなエルマをジッと見つめ続ける男。男は再びそっと口を開く。

「グス...いいや、ガーランドだ」

 男は一旦言いよどみ、そして名を告げた。

 名前を告げるガーランドであったが、彼は小さくピクリと動くと身を前方に屈める。

 立ち上がろうとしたのであろう。

 しかし、エルマはそんなガーランドの動きを見逃さない。

「待ちなさい! そのまま座っていて。さもないと魔術を撃つわ」

 エルマはそう言うと、その指先でガーランドへと狙いを澄ましながら、何時でも炎の矢を放たんと身構える。

―撃ちたくない―

 しかし、エルマの心は術の行使を拒絶していた。 

 仮に目の前の男が外道魔術師であろうとなかろうと、エルマは術を放ち男を殺すことを躊躇っていたのだ。

 顔をしかめるエルマ。

 そんなエルマであったが、グイと彼女がコートの裾が引かれる。

 エルマは一瞬だけ後方へと視線をやる。

 そこには少年の姿があった。

 少年もまたジッとエルマを見上がながら、困惑した様な表情を浮かべながら首を振るのである。

 まるで、ガーランドを攻撃するなと訴える様に何度も何度も首を振る少年。

 そんな少年を見て、ガーランドが再び口を開く。そうして、ガーランドは苦渋に満ちた声を絞り出す。

「ベイス、すまん。俺の不手際で辛い思いをさせた」

 ベイス、それはどうやら少年の名であったようだ。

 ガーランドとベイス、二人の関係はエルマには伺え知れない。しかし、ムロン村の最後の生き残りであるベイス少年はガーランドという男に対して悪い印象を抱いていない様であるのは確かだった。

 ベイスの瞳の絶望はガーランドの前に完全になりを潜めていたからだ。

 故に、エルマは小さく深呼吸をする。

 そうして、気を落ち着かせると再びガーランドへと視線を戻し、尋ねる。

「ガーランド...お話を聞かせて貰うわよ。貴方やベイス君、そしてこの村に何があったのかをね」 

 エルマは相も変わらず、その指先をガーランドへと向けたままであったが、しかし、その口調はやや穏やかであった。

 ガーランドはエルマの言葉に頷くと、ポツリポツリとまるで彼の罪を告白するかの様に重々しく口を開くのであった。

 




エルマとガーランドの出会いです。



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宮廷魔術師エルマ その4

 ガーランドには二つの目的があった。

 一つは、かつて、闇の中で育ち、絶望と憎しのみを糧に生きてきたガーランドを日の当たる世界へと連れだし、人を教え、世界を教え、剣を教えた師に再び謁見し師が残した答えを確かめる事。

 もう一つは、ガーランドの憎むべき敵を殺害する事。

 そんな目的を胸に秘めながらガーランドはクレセア大陸を東へ西へ南へと奔走した。

 時に村々を襲う魔物を退治し、時に魔物の住処へと財宝を求める冒険者の護衛として、様々な方法で路銀を稼ぎながらガーランドは着実にクレセア大陸を渡り歩いたのである。

 そして、ガーランドがクレセア大陸西部に位置するフォロボス王国の港町で、彼の師と思われる人物の噂を商人から聞きつけたのが丁度今から4月ほど前の事であった。

 商人曰く。フォロボス王国とアンガレス帝国の国境付近の小さな山村に特殊な剣技を使う風変わりな男が現れたとの事であった。

 ガーランドは特殊な剣技という言葉から直感的に師の姿を想起し、そうして、商人に噂の風変わりな男について尋ねる。

 そうして商人は幾ばくかの情報をガーランドにせびり、ガーランドが気前よく金銭を払えば、商人は羽の様に軽いその口を開き、風変わりな男について大いに語らうのであった。

 商人が言うには、噂の風変わりな男はムロン村という小さな山村に住み着いたらしい。

 そうして、彼は村の者達に様々な知識を与えて、近隣に救った魔物を倒し、そうして、それまでは独力では生きていく事が出来なかった小さな山村に平和をもたらしたとの事であった。

 その男は師匠に間違いない...商人の話から直感的にそう感じたガーランドは早々にフォロボス王国を後にすると噂のムロン村へと向ったのであった。

 そうして、ガーランドがムロン村に到着したのが丁度今から3月程前の事であった。

 ムロン村に到着するや否やガーランドはすぐさま噂の風変わりな男についての調査を開始した。

 が、しかし、村人が言うには、どうやらガーランドの師と思われる風変わりな男がムロン村に滞在したのは1年以上も前の事であったらしく、結果、ガーランドの行動は徒労に終わったのである。

 しかし、村人達は訪れたガーランドを歓迎しその労を労った。

 ムロン村の農民にとっては噂の男の存在は大きく、その弟子たるガーランドにさえ彼らは敬愛の念を抱いたのである。

 それまでは村の付近に住み着いた魔物に関しては村の若い衆が自警団を組んで対処した。

 しかし、彼らは碌な訓練も受けておらず常にムロン村は多大な犠牲と引き換えに魔物をしりのぞかせていたのである。

 が、しかし噂の男が現れてからはムロン村の事情は大きく変わる。

 男は村人達に農業を教え、数字を教え、そして魔物と戦うための術も教えてみせた。

 そうしてムロン村は直に独力で村の経済を回し、魔物を倒す事を可能としたのである。

 全てはガーランドの師のおかげである。

 故に村人たちは旅人、しかも彼らの恩人の弟子にあたると思われるガーランドを快く歓迎し、そしてかつて彼らの恩人が使った村の離れの小さな部屋をガーランドに与えたのである。

 ガーランドは直ぐに村を離れるつもりであった。

 しかし、質素で純朴なムロン村の住民達の好意は周囲からは堅物で知られるガーランドの心さえも動かしたのであった。

 結果、ガーランドはかつて、彼の師が身を置いたという小屋に住み込み、そうして村の人々と共に生活を始めたのだった。

 ガーランドはとかく不器用であった。

 ガーランドは力仕事や魔物退治こそ得意であったもののいわゆる一般生活をつつがなく送るという事に関しては慣れていなかったのだ。

 結局、ガーランドの村での主要な役目は魔物退治が主だったものとなる。

 最も、村人としてはガーランドの魔物退治は願ったり叶ったりであったので、如何に村人達が戦いの術を身に着けたといっても彼らではゴブリン程度の討伐が精々であり、強力な魔物の討伐は否応なしにガーランドの様な海千山千の冒険者の力添えが必要であったのだ。

 ガーランドは強かった。

 彼はゴブリンの親玉に当たるガンプや、アンガレスの魔術師でさえも討伐するのが困難とされるオークさえも討伐して見せたのだった。

 そうしてガーランドがムロン村に至って3月が経つ頃には、ムロン村周辺の大方の魔物は討伐されるに至ったのだった。

 気づけばガーランドは小さなムロン村の家族となっていた。

 

 

 未だに、ガーランドは身じろぎ一つする事なく、座したままゆっくりとこれまでの経緯を語っていた。

 ガーランドの声は良く響き、エルマはそんなガーランドの言葉をひとつひとつをゆっくりと咀嚼しながら彼女がこれまで得てきた情報と整合させていたのである。

 まだ、ガーランドが語ったのは事の起こりにしか過ぎない。

 が、この時点で既にエルマがラドの村で村長より聞き及んでいた話とガーランドから直接聞いた話とでは随分と食い違っていた。

 何処かで噂が間違って伝わったか、それとも意図的に誰かが噂を歪曲させて伝えたのか。

 最も、それはガーランドという男が真実を話していると仮定した場合だが。

「冒険者...ガーランド、貴方は魔術師では無いの? 」

 エルマは冷静に言葉を選び言った。

 確かにガーランドの姿は魔術師とするならば、違和感があったのだ。

 それはガーランドの装飾品である。そう、エルマが一見したところ、ガーランドは所謂イドナの触媒となりうる装飾品を身に着けていなかったからだ。

 魔術の行使の際には、特定のイドナを集積させる必要があり、そのために必要となるのが所謂、魔術の装飾具である。

 エルマを例にして取れば、彼女が右腕に巻いたルビーの腕輪や、黒のロングコートに隠れて見えないものの、エルマが肌着の上に身に着けた麻のシャツに装飾された黄土作りの刺繍がそれに当たる。

 装飾具が無ければ、如何に魔術師がその身に強力なイドナを宿していようと見事なイドナの制御が出来ていようと、強力な魔術を扱う事は出来ない。

 装飾具無しでは魔術師が行使できる精々の魔法は松明程度の灯りを起こすなどといった戦いには殆ど役に立たない初歩的な魔術程度である。

「あぁ、俺は魔術師ではない」

 エルマの質問に対してのガーランドの返答はやはり手短だが核心を抑えていた。

 エルマを見つめるガーランドの瞳は水面の様に澄んでいる。それがエルマにとっては雄弁に真実を物語っていた。

 となれば、エルマにとっての次なる疑問が生じる。

「じゃあ...この村の人間が失踪し、ミイラ化したというのはどう説明するのかしら? そんな事、魔術無しでは不可能よ」

 では、ガーランドが魔術師で無いとするならばこのムロン村で起きた事件の真犯人は誰か?

 エルマには犯人の見当がつかなかったのだ。

 ガーランドはそんなエルマの言葉を聞きながら、ベイス少年へと視線をやるとその瞳に深海の如き悲哀を込める。

 そこに映るのは彼の苦渋と微かな怒りの念である、とエルマには直感的に感じ取っていた。

 そうして、ガーランドはベイス少年にやった瞳を今度はエルマに戻す。

「あれは、魔族の仕業だ。私の敵だ」

 ガーランドは短くそう言ったのである。

 

 

 ガーランドが村に至りて3月近くが経った。

 寡黙なガーランドであったが、こと魔物退治となると村の大人達の先頭に立ち魔物の群れに切り込んでいく。

 そんなガーランドの姿は村の皆々の注目の的となった。

 そうして気づけば、ガーランドは村の英雄として扱われるようになっていた。

 特に村のわんぱくな少年達からの評判は別格で、彼らはこぞってガーランドの家を訪れてはガーランドの話に聞き入ったのである。

 もともと人付き合いが得意では無いガーランドは無口であり、一見、子供受けは悪いと思われた。

 が、しかし、子供たちはガーランドのそんな静謐さの中に彼特有の優しさを敏感に見出したのであろう。誰もがガーランドに心を開いていたのだった。

 ガーランドも慣れない子供との触れ合いの中、たどたどしいながらも彼流に子供と戯れ、そうして彼は子供達に多くを語ったのである。

 そんな平和なガーランド村で事件が起こったのは、悪戯好きのベイス少年が村の奥地の洞窟に冒険に出てしまったという些細な出来事に端を発する。

 ある朝、村奥の山脈に一人で冒険に出たベイス少年が夜になってもなかなか帰宅せず、気がかりに思った彼の両親は探索をガーランドに依頼した。

 既にムロン村周辺の魔物はガーランド率いる村の自警団により一通りが退治されていたものの、それでも山の奥地となれば魔物が潜んでいる可能性は否定できない。

 危険を感じたガーランドは一も二も無く依頼を受理すると山奥へと進んでいったのである。

 そうして、結果、ガーランドは山奥の洞窟でうつぶせに倒れているベイス少年を早々に見つけ出したのであった。

 ベイス少年の傍らには、黄と緑色の模様のある茸があった。見やれば、その表面にはベイス少年の歯形がくっきりと残っており、傘の部分が半分ほど食いちぎられている。

 その茸が何であるかガーランドには直ぐに察する事が出来た。

 高山地帯に生息する茸で黄と緑の斑点のあるものといえばガーランドにはやはり、気奪茸が真っ先に頭に浮かぶ。

 ガーランドにとっては師のとの良い思い出のひとつであるが、彼は師と共に何度も気奪茸の採取や調理を手伝った。

 気奪茸は、いわゆる珍味の一種として帝都ではしられている

 しかし、加工せず生で気奪茸を食べた場合は表面の胞子の毒性の影響で気を奪われる事がしばしばあり、気奪茸の名称で呼ばれる。

 熱して炙る事でその表面についた毒性を洗い流し安全に食べる事が出来るのだが、ベイス少年は生で食べてしまった事が原因で気を失ってしまったであろう事が伺われる。

 最も、気奪茸は毒性は弱く、命に関わる様な事は無い。

 あえての重篤な副作用を挙げるならば、声帯の筋肉に特異的に作用して、食したものの発声を数週間ほど奪う程度といったものが挙げられる位だ。

 ガーランドがベイス少年に駆け寄れば、少年は寝息をたてながら夢の世界の中を揺蕩っているかの様であった。

―それにしてもあの不気味な茸をよく食べたものだ―

 眠りにつく少年を見やりながらガーランドは微笑した。

 結局ベイス少年が目を覚ましたのはその日の夜の事であり、少年が目を覚ますや否やガーランドはムロンの村へと急行したのであった。

 

 ムロンの村は深夜という事もあり静寂に包まれていた。

 所謂、夜の常闇というのは田舎村には常であった。

 しかし、その日のムロン村はガーランドには異常と言わざるを得なかった。

 理由は分からないが人の息遣い一つさえガーランドには感じられなかったからだ。

 ベイス少年を彼の家へと連れ戻すガーランド。

 ベイス少年は玄関の戸口を開くと重々しい足取りでおっかなびっくりとした様子で屋内へと足を進める。

 薄っすらと灯りに照らされた屋内には彼の両親の姿があった。

 座椅子に腰かけて、家の中にある小さな暖炉を囲むようにして座る両親。

 が、異変が直に起きた。

 少年が更に一歩と両親へと歩を進めた瞬間に、二人は突然立ち上がるとグルンとベイス少年へと向きを変える。

 その姿にベイス少年は、顔を真っ青にしながら、枯れた声を必死に絞り出し叫ばんとする。勿論、気奪茸の影響でベイス少年の喉元からはうめき声さえ上がらなかったが。

 ベイス少年の目の前に佇む、かつて彼の両親であったもの。

 農民たちが日常的に着る麻の服に身を包んだ二人。遠目に見れば体格や背格好に異常は無く、言い方は悪いが、何の変哲もない農民に彼らは見えただろう。

 そう、ベイス少年にとっては厳しい父と優しい母だ。

 が、しかし、近場で暖炉に灯った炎に照らし出された二人の姿は鮮明であり、それは異常と言わざるを得ない。

 ベイス少年の両親の顔色は本来の白から、まるで死人の様な土気色へと変色していた。

 そうして、顔面の皮膚は所々がただれて、皮下の筋肉や血管が不気味に抉られた、皮膚のもと、褐色の顔を覗かせていた。

 二人の窪んだ眼窩には眼球は存在すぜそこにはただ闇があるのみである。

 そんな、かつてベイス少年の両親であったモノは一様にその口元から「あー」などとまるで呆けた様な言葉を上がながらベイス少年へと迫ってくる。

 口元の歯肉は壊死している様で、二人が声を上げるたびにボロボロと白い歯が地面へ音をたてながら崩れていく。

 そんな変わり果てた両親を前にして、ベイス少年はまるで生気が抜けてしまったかの様にガクリと弱弱しくその場に腰を付いてしまった。

 心を完全に挫かれたベイス少年を前にガーランドの動きは迅速だった。

 ガーランドはベイス少年力強く引っ張り上げると彼を抱えて、少年宅を早々に後にする。

 少年宅から駆け出るガーランド。

 と同時に、そぞろ村の家々の戸口が開いたかと思えば、ベイス少年の両親と同様にミイラ化した村人達が一様に現れたのだった。

 彼らを見やりながら、その正体がなんであるかをガーランドは直ぐに理解できた。

 沸々とガーランドの胸中を焦がす怨嗟の炎。

 ガーランドはそんな怒りの感情を必死に抑えながら、ベイス少年を抱えて街はずれの小さな森まで至る。

 そうして、少年を森の茂み隠して、明朝ムロンの村へと再び戻るようにと指示し、一人村へと駆けて行った。

 

 

 そこまで話してガーランドはピタリと口を止める。

 その後、ガーランドが村へ戻り取った行動を予想すれば、ガーランドがベイス少年を気遣った故の事であろうことがエルマには一目瞭然であった。

 故にエルマもあえてぼやかす様に言葉を選びながら、ガーランドへと尋ねる。

「なるほど。何となく状況は分ったわ。それで...貴方の言う魔族とは? 」

 エルマの関心はガーランドの放った魔族という単語にあった。

 アンガレス大陸では魔物の定義づけは曖昧であり、魔族という希少種に関しては満足に分類分けさえされていない。

 魔族の定義についてあえて言及するならば、魔族とは人間と同程度の知能を持ち、なんらかの形でコミュニケーションを人と取ることが出来る種、とアンガレス帝国は定義している。

 そんな魔族に共通しているのは人間が使うのとはまた別の魔術を使い、そうして並みの騎士や魔術師が束になっても叶わない強力な個体であるという点であった。

 事実、例えば3年前に行われたアンガレス帝国による北伐の際には帝国の歩兵大隊はたった一体の魔族の前に数週間に及ぶ足止めを受けた事さえあった。

 結局自体が好転したのは第七騎士団と呼ばれる超常的な戦士達よって魔族が討伐されたからであった。

 ジッとガーランドを見やるエルマ。

 そんなエルマの視線を受け、ややあってからガーランドは口を開く。

「ノスフェラト」

 ボソリと呟くガーランド。

 そんなガーランドの声は重々しく、まるで彼の過去の苦渋が滲みでているかの様であった。

 対してエルマはノスフェトラという単語に眉をひそめながら小さく俯いたのであった。

―ノスフェラト...こんな田舎町で思わぬ収穫ね―

 エルマは脳裏で、自らの実力とムロンの村に厄災をもたらしたであろう魔族とを天秤にかけていたのだ。

 魔族討伐、しかもノスフェラトの討伐ともなればエルマには十分な功績である。

 ただしその反面でリスクは大きい。

 ノスフェラトの名をエルマは魔術学徒の頃に教本で学んでいた。

 教本の知識によれば、ノスフェラトとは魔族の中の一種族であり、姿かたちは人と大きく変わらないとされる。

 故に人間との区別が難しく、人間と思われていた領主が実はノスフェラトであったなどという事件さえも起きた程である。

 またノスフェラトの中にも人間の貴族と同様に爵位が存在する様で、より高位になればなるほど個として強力となるとされている。

 仮に高位のノスフェラトが相手だとすれば、エルマが単独で敵対するのは困難である。

 というよりもそもそも、高位のノスフェラトと単独で渡り合える人間など限られている。

 それこそ単独で高位のノスフェラトを打ち破る事が出来るのは、噂の第七騎士団などの規格外の人間位であろう。

 しばし、俯くエルマ。

 そうしてエルマは彼女なりの結論を導き出すや、再びおもてを上げてガーランドを力強く見やる。

「ガーランド、貴方に聞きたいの」

 単独では事件解決は難しい事をエルマは重々承知していた。

 ムロンの村を襲ったのは異常といって差支えの無い怪奇現象である。となれば背後で糸をひくノスフェラトはただものでは無い事が伺われる。

 そして、ガーランドとノスフェラトとの間に因縁がある事はガーランドの口調から明らかである。

 となれば、エルマには協力者が必要だった。そして、エルマの目のおあつらえ向きの戦士の姿がある。

「ガーランド、貴方、今までノスフェラトと戦った事はあるの? 」

 エルマが尋ねるや、ガーランドはコクリと小さく頷く。

 そうして顔をあげたガーランド。

 自然とガーランドとエルマの視線が交差する。

 ガーランドの深紅の瞳は燃える様に輝いており、力強くそこには彼の強靭な意思がありありと浮かんでいるかの様であった。

 エルマはそんなガーランドの姿に大いなる期待を抱いていた。

「だったらノスフェラト討伐に協力しなさい」

「協力?」

 エルマの言葉にガーランドは眼を丸くする。

「そうよ。私は宮廷魔術師として功績を上げたい。そして、ノスフェラトは貴方にとっては敵。だったら理外は一致するわ」

 エルマはそう言うと、口元を小さく緩めて微笑した。

 対して、ガーランドは顔をしかめる。

「相手はノスフェラトだぞ。宮廷魔術師なら知っているだろうが、容易に討伐できる相手では無い」

「そうね。でも、貴方はそんな破格の化け物と一人で戦おうとしているわけでしょう」

 エルマの声音は何処か挑発的で、彼女の言葉を受けてガーランドは目を細める。

 ジッとエルマを観察する様に見やるガーランド。

 そうしてガーランドは熟考するかの様に顎もとに手を当てると。僅かに顔を傾けながら、口を開く。

「そういう、お前はノスフェラトをどの程度知っている? 人が手に負える化け物じゃない」

 しかし、エルマは微笑を浮かべたまま、ふるふると頭を振り、ガーランドの言葉を否定する。

「あら? 貴方だって人間でしょう? その貴方が戦えて宮廷魔術師の私が戦えないなんて、そんな道理は無いと思うけれど」 

 エルマの言葉は真理であったが、ガーランドは、ますます顔をしかめる。

 最もエルマは、そんなガーランドなどお構いなしで一人、話を進める。

「正直、魔族に遅れを取るつもりは無いわ。帝都の魔術開発は日進月歩なんだから」

 クスリと微笑むエルマ。

 勿論、エルマは魔族相手の戦いの経験は無かった。が、それでも尚、相手がノスフェラトの中で爵位の最底辺にある騎士クラスである場合ならば、うまく戦えば、勝機は十分にあるとの自信がエルマにはあった。

 また、よしんばノスフェラトの討伐が無理な様ならば、調査報告だけでも新人宮廷魔術師たるエルマの手柄としてはおつりがくるほどである。

 故のエルマの提案である。

 が、対してガーランドは黙しながらジッとエルマを見続けていた。

 そうして、ボソリ口を開く。

「何故、わざわざ火中の栗を拾うとする? 君にはわざわざ魔族と戦う理由は無いだろう。宮廷魔術師なら生活には苦労するまい」

 何気ないガーランドの言葉にしかし、エルマは表情を曇らせる。

「生きているだけではね、人間では無いのよ」

 エルマは先ほどまで浮かべていた微笑を止めるとその口元を開き、ぼそりと低い声で言った。

 そんなエルマの姿をジッとガーランドは凝視した。

 エルマの表情は真剣である。

 エルマのアクアマリンの瞳は、エルマが右腕に嵌めたルビーのブレスレットよりも更にこうこうと輝き、エルマの強い意思を反映しているかの様にガーランドには映った。

 それは覚悟ある者、いや過去に囚われた人間の眼である。

 エルマ自身、今、自らがどんな顔をしているのか、ガーランドの顔を見やれば嫌でも分かってしまう。

 しかし、エルマの姿にガーランドは一種の信頼感を見出したのかガーランドはふぅとため息をつくとその厳めしい表情をほころばせる。

「分かった。共同戦線としよう」

 ガーランドの言葉に頷くエルマ。

 エルマは頷くと、ガーランドへと伸ばしていたその右腕をそっと下ろす。

 と同時に赤く輝いていたルビーは発赤を止める。

 再び訪れる闇の世界。

 しかし、そんな闇の世界の中、小さな小屋にはエルマ、ガーランド、ベイス三人の確かな息遣いがあった。

「されノスフェラトについてだが、その前に食事にでするか。ベイス、エルマ、お前たちは夕食はまだと見える。良ければどうだ?」

「そうね...頂こうかしら」

 ガーランドの言葉に頷くエルマとベイス。

 すると、ガーランドはゆっくりと立ち上がるや、古ぼけたタンスの中から火打石を取り出して部屋の隅に設置された暖炉へと火を灯していく。

 そこでエルマは完全に警戒を解くやベイス少年の手を引きながら屋内の中心にあるテーブルへと腰かける。

―少し不用心かしら―

 エルマは、暖炉に灯った炎に照らされるガーランドをみやり内心で思う。

 そう思いながらもエルマは、自分の選択を肯定していた。

 ガーランドの佇まいはただの荒くれ者の冒険者とは一線を画していた。

 途中でガーランドはベイス少年を思い、彼がせん滅したと思われる村人の成れの果てであるアンデットとの戦いに関しては口を紡いだのだろうが、そんなガーランドの何気ない気遣いからも、エルマにはガーランドの素朴な優しさが伺われた。

 またアンデットとガーランドの戦いから鑑みるに村民の数ほどのアンデットをただの一人でガーランドはせん滅したであろうというわけで、それは並みの冒険者で出来る事では無い。

 エルマはガーランドの事情に大きく日見込むつもりは無かったが、それでも尚、少なくとも実力面でガーランドが只者では無い事は容易にエルマには推測された。

 故にエルマはガーランドを信頼する事に躊躇いが無いと言えば嘘になるが、それでも信頼するのに足る人物であると判断していた。

 エルマはジッとガーランドが料理を用意する様を静かに観察し続ける。

 気づけば、緊張感が抜けたのかエルマは軽い空腹感を感じていた。



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宮廷魔術師エルマ その5

 眠りについたベイス少年に麻の毛布を羽織ると、エルマはその寝顔を確認する。

 暖炉にくべられた薪は煌々と燃え、寝息を立てながら静かに眠るベイス少年の穏やかな顔を鮮明に映し出していた。

 そんなベイス少年の顔を見やりながらエルマは内心でホッと安堵した。 

―こんな顔も出来るのよね―

 人間はいとも容易に壊れてしまうものである。如何に屈強な人間も、高潔な人間も、小さな事がキッカケで人間の心はガラス細工の様に崩れてしまう事をエルマは良く知っていたのだ。村を壊滅させられ、半ば奴隷として扱われたベイス少年。

 しかし、ベイス少年の心はまだ壊れていない。

 エルマはそう感じながら、ベイス少年の額にその白磁の指を置くとゆっくりと這わせるようにして少年の前髪をかき分け、優しく撫ぜた。

 微笑するエルマ。

 そんなエルマを右隣で見やりながら、ガーランドは空の食器類を卓の端に寄せると卓上に十分なスペースを作る。

 そうして、ガーランドはポツリと口を開く。

「ベイスの事は世話になったな」

 ガーランドはそう言いながら、ベイス少年をみやり、その後、エルマへと視線を投げかける。

 エルマを捉えたガーランドの赤い瞳は力強い意思の光を孕み、暖炉の中揺蕩う炎を浴びて薄っすらと光りを発する。

 エルマがベイスを撫でる手を止めてガーランドへと視線をやれば、彼女の視界には力強く佇むガーランドの姿があった。

「別に大したことはしてないわ。ただ村の行商人が気に入らなかっただけだもの」

 手短にエルマは答える。

 エルマの言葉は確かに事実であった。彼女がベイス少年を商人から借り出した一番の理由は行商人が気に入らないという何とも幼稚じみたエルマの反抗心から生じたものであったのだから。

 エルマは続ける。

「それより、あの子はこれからどうするの? 」

 エルマが察するところでは、ムロン村の住人は全てがアンデット化もしくはアンデットにすらなれずに消滅し、アンデットとなった者達はガーランドによりせん滅されたはずである。

 となれば、ベイス少年は天涯孤独の身となる。

 まだ年端も行かぬ少年が一人で生きていける程、世界は優しくない。

 それはガーランドも良く理解してるのだろう。ガーランドの双眸はベイス少年に注がれている。

 その瞳はまるで深海の海の様に深い情の感情が宿っている。少なくともエルマはそう感じていた。

 多くを語らぬガーランド。

 しかし彼は、

「アクアヴァレイに知人がいる」

 と手短に、しかし熱のこもった声でエルマから視線を反らすとそう言った。

―不器用な男...―

 エルマはそんなガーランドを見やりながら静かな表情を取り繕いながらも、内心で微笑した。

 今、エルマとガーランドを繋ぐのはベイス少年であり、ガーランドの言葉の中にエルマは彼なりのいたわりを感じたのだった。

 エルマはガーランドを見やる。

 始めて会うその男はエルマにとっては、特異的であり分類分けが難しかった。

 粗野なイメージはある。しかし、村人の様な卑屈な感じはしなかった。

 何処か貴族を思わせる高貴さがあったか、しかし、その割にはガーランドには華がなかった。

 ガーランドへと視線を送るエルマ。そんなエルマへとガーランドが向く。

「して、宮廷魔術師、問題はノスフェラトについてだが、お前はどの程度奴らの特性を知っている? 」

 ガーランドの秘色の眼がエルマへと向くと、やはり彼は無表情で言った。

 しかし、無表情であるがガーランドにはこうこうと燃えるかの様な、言外では言い表せぬ覚悟の様な感情が浮かんでいる、エルマはガーランドをみやりながら、そう感じていた。

 と同時に、エルマにとってはガーランドの言葉はエルマ自らにとっての試練でもあった。

 ガーランドの瞳は鋭く、それはエルマにとっては学生時代に教師が諮問という形で生徒に対して甲乙をつける際のそれと同じであった。

―ふーん、私を試そうってところかしら? 上等よ―

 エルマはふふんと鼻を鳴らすと模範生の如く声高に答える。

「知能の非常に高い魔族。そうね、人間をありとあらゆる面で超越しているわ」

 エルマはそうして、自らの人差し指をその淡桃色の唇にそっと沿わすと小さく立てる。

 魅力的に微笑えむ。

 微笑しながらエルマは脳裏で最善の答えを演算していた。

「過去の帝国の目撃例は41例。目撃例のうち、30例は前回の北伐において第七騎士団によるもので、その内の半数が魔術で滅されているわ。その他7例も宮廷魔術師に滅せられている」

 エルマはそうして、一例一例と具体例を挙げながらガーランドに解答を示していく。

 ガーランドは黙すのみであったが、しかし、エルマに反論する事は無かった。

「一応は解剖学的には人間と同じ構造をしているはずよ。ただし、例外は“魔術衣”」

 言いながら、エルマは内心で改めて自らが行おうとしているノスフェラト討伐が如何に大それた挑戦であるかを思い苦笑した。

 ―魔術衣―

 魔族のみが持つ特性であり、それこそが彼ら魔族を超越者たらしめていると言っても過言では無い。

 そして、その存在こそが非魔術師が魔族を討伐を困難にしている最大の理由である。

 魔族はほぼ反射的に自らを守る不可視の障壁を展開する事が可能である。

 障壁と称したがそれが何であるかは詳しくは分からず目下、宮廷魔術師達の間で、特にエルマが属する白色魔術師達は“魔術衣”について机上の空論を展開していた。

 最も、原理は説明できねども、現象は誰もが理解している。

 あえて言うならば、それは魔族が自らの体表のその周囲に張られた透明の膜と言えるだろう。

 最も膜と言えば軟弱なイメージを与えるが、実際はまるで異なる。

 “魔術衣”は凡そ、鋼鉄程度ならば容易に弾き飛ばすほどの強度を有しており、事実、それを物理的に打ち破るには圧倒的な剣撃を持ってして、若しくは無数の弓射を持ってして初めてなされると言われている。

 故にそんな“魔術衣”を有する魔族を滅する方法は凡そ三つに大別される。

 一つはそれこそ圧倒的な手数を持ってして攻める事。もう一つは、魔族が反応し自らの周囲に“魔術衣”を展開する前にその命を滅する事。

 最も、これらの方法で魔族を打ち破った例などは全体の中ではごく僅かであろう。

 それこそ、第七次北伐の際に鬼神とも称された第七騎士団の者のみが成し遂げた程度である。

 魔族を滅する最善の手は唯一つである。

 エルマはそこで唇の前に添えた人差し指をスッと左方に移動させる。

 途端、ポッとエルマの指先に魔術に光が灯った。

「“魔術衣”なら私の魔術が相殺するわ」

 “魔術衣”を打ち破る最善の技こそがこそが、アンガレス帝国を未だに大陸の覇者せしめる奇跡の法たる魔術である。

 ガーランドはエルマの指先で燃え盛る炎を見やりながら、眉をひそめつつも一度頷く。

 それはガーランドにとってのエルマに対する彼なりの信頼の証であった。少なくともエルマはそう捉えていた。

「次はこっちの番よ。貴方の実力はどの程度なのかしら? 」

 エルマは言いながらその炎灯る指先をガーランドへと向ける。

 今度は教官はエルマであった。

 そんなエルマに対してやはり、ガーランドは顔色一つ変えずに小さく口を開く。

「魔物ならばそれこそ、数えた事は無い。魔族に関してはノスフェラトを...騎士級を二体。男爵級を一体だ」

―冗談でしょ...―

 エルマは驚愕のあまり、その眼を大きく見開く。

 エルマにはガーランドの言葉が性質の悪い冗談にしか聞こえなかったからだ。

 ノスフェラトに関して男爵級以上を討伐したものは帝国では数える程度である。

 古くは70年前に現代魔術師の父とされるファロム、近年で言うならば、第七騎士団の面々がそれに該当する。

 して魔術以外で男爵級以上のノスフェラトを討伐した者など第七騎士団を除けば皆無である。

 流石のエルマもガーランドの言葉には苦笑するしかない。

 そうしてエルマはそれまでの微笑をやめるとキッとガーランを睨み据える。

「真面目に答えなさい、ガーランド」

 エルマの深い青の瞳には怒りの念が籠っていた。しかし、ガーランドはそんなエルマを一向に介する様子は無く、やはり黙りこくりながらじっとエルマを見つめるのであった。

 しばしの沈黙。

 して、エルマは、はぁと小さくため息をつく。

「どうやって倒したの? 」

 これ以上の沈黙は無駄であるとエルマは感じたのだった。

 そうして根負けしたエルマはため息交じりにそう言った。

 対して、ガーランドは僅かに首を左方へと向ける。

「あの剣で奴らを殺した」

 ガーランドの秘色の瞳の先には巨大な剣があった。

 部屋の隅、壁に立てかけらる様にして飾られた大剣。

 いや大剣という言葉はその鋼鉄の塊にはあまりにもチープな表現であったかもしれない。

 エルマの全身を優に超える程の巨大なソレは最早、剣という単語ではくくる事は出来ない。

 ただあるだけで、威圧感を放ち、空気を淀ませる巨大な鉄の無慈悲。一見すれば、人には扱う事など出来ないであろうあまりにも巨大な鋼鉄そのもの。

 エルマはジッとガーランドの言う所の剣を見やり、小さく息をのんだ。

「あれを振るえるなら、確かに魔族も打ち破れるかもしれないわね...でもそれじゃあ、まるで貴方が化け物よ」

 エルマは、苦笑しながら何という事も無く言った。

 がしかし、そこで始めて、ガーランドの表情が小さく動いたかと思えば、彼は微笑した。

 エルマはハッとした。ガーランドの微笑。

 口元を僅かに緩め、そうして笑ったガーランドのその表情には、複雑に絡み合った多くの感情が混ざり合っていたからだ。

 怒りも悲しも喜びも、諦念したかの様な絶望の色も、ありとあらゆるものが交じり合っているとエルマには感じずにはいられなかったのだ。

 呆然とするエルマへとガーランドは微笑しながら視線を送ると、彼にしては珍しく上機嫌に口を開く。

「宮廷魔術師、お前の言う通りだ。俺は奴らを殺す化け物だよ」

 ククと笑うガーランド。

 その姿は、一見すれば不気味であった。

 事実、エルマは背中に冷や汗を感じながらガーランドを見やっていた。

 が、しかし、エルマは不気味さ以上にガーランドの中になんともいえぬ寂寥感を見出していた。

―貴方も復讐者なの...―

 エルマは口まで出かかった言葉をなんとかやり過ごす。

 そうして、自らを奮い起こす様に、得意の微笑を浮かべる。

「だったら、頼りにさせて貰うわ。それと...」

 エルマはそう言うと、もう一度、人差し指唇の前にかざしてジッとガーランドを見やる。

「私はエルマよ。これからパートナーとして戦う以上は名前で呼んで貰うわ。貴方はガーランドで言いかしら? 」

 エルマの言葉を受けて、ガーランドは再びその表情を無の色に染める。そうして、今度はうって変わって重々しい口調でエルマに答える。

「ガーラで言い。共に戦った連中は俺をこう呼ぶ」

「分かったわ。それじゃあ、ガーラ。お話を先に進めましょう」

 して、エルマは小さく手を叩くと、自ら達の敵たるノスフェラトについていよいよ議論を開始した。

 

 

 ガーランドは語る。

 ムロン村の惨劇のその張本人こそノスフェラト、ヴァルノミス。

 ガーランドの知るノスフェラトの中でも特に高慢であり、そして執念深い男である。

 かなりの実力者でありながらも、しかし、己が敵と直接矛を交える事を良しとせず、謀略を持って敵を貶めるのを最善とする卑劣漢である。

 事実、ガーランドがムロン村でヴァルノミスと対峙した際には彼はアンデットと化した村人達をまずガーランドに襲わせ、そうして、アンデット達が敗れれば彼自らは早々に撤退したのであった。

 勿論、ヴァルノミスもノスフェラトの端くれであったし、アンデットと化した村人の数は、それこそアンデットにさえなれずに消滅した村人を除いてもそれこそ20は下らなかった。

 ンデットを滅し、そうしてノスフェラトさえも撃退させたガーランドであったが、勿論、その負傷には眼をつぶる事は出来ずに気づけば彼は村の中で意識を失ったのであった。

 そうして、ガーランドが目を覚ましたのは数日の後であった。

 その後、ガーランドは負傷に負けじと、ベイス少年を隠した森の後に戻ったがその時は既に時遅し。

 森の中にはベイス少年の姿は見当たらなかったのだ。

 本来ならばベイス少年の事は勿論だが、直ぐにヴァルノミスの追跡を開始したいガーランドであったが、彼が負った傷は思いのほか重く、小屋に一人身を置き回復に専念していた所、丁度エルマ達が現れたとの事であった。

 

 

 エルマはガーランドの話を聞きおよびジッとガーランドを見やる。

 よく見れば、彼の身を覆ったプレートアーマー。その左下腹部の部分はまるで熱で溶かされたようにひしゃげており、裂孔が空いていた。

 そうして、そんな裂孔の下から僅かに顔を覗かせるガーランドの、鍛え上げられた側腹部にはただれた様な熱傷の痕が見てとれた。

 最も、よくもそんな軽症ですんだものだとエルマはむしろ内心でガーランドの幸運に驚愕していた。

 大凡、プレートアーマーの傷跡を見やれば、その傷の原因は魔術による熱による影響と思われる。もしも直撃であればガーランドは消し炭になっていただろう事は魔術師のエルマには容易に伺い知れたからた。

「まったく、嘘みたいな話ね。でも、まぁ...貴方が一人生き残ったという事を考えれば、真実なんでしょうけどね」

 もう、エルマは何が何だか分からなくなりつつあったが、しかし、確かにガーランドは今ここに生きている。それこそがエルマにとっての答えであったのは確かである。

 エルマは続ける。

「それで、ヴァルノミスは今、何処に? 」 

 エルマが尋ねるとガーランドは視線を窓の外へと向ける。その視線の先の遥か先にはラドの村があった。

 ハッとするエルマ。

「もしかして、ラドの村に? 」

 ガーランドは驚愕するエルマへと視線を戻すと深々と頷く。

「そうだ、エルマ。奴は山麓の村にいる...はずだ」

「はず? どういうこと」

 歯切れ悪く言うガーランドにエルマは問い返す。

「逃げ際に奴が言ったのだ。ラドの村の連中と盟約を果たしたとな...恐らく、下の村に奴を手引きした者がいる」

「何故? だってラドの村は宮廷魔術師たる私に依頼を出したのよ...なぜ...」

 エルマは何度も何度も自らに問いかける。

 しかし、何故に対する答えは示されず堂々巡りが続くばかりであった。

 そんなエルマを見かねたのか、ガーランドが口を開く。

「もしやすれば、ヴァルノミスの口封じにエルマ、お前を雇ったのかもしれぬ。いずれにせよ、答えはラドの村にある」

 ガーランドの言う事は真理であった。

 エルマはなるほどと頷くと、情報を整理していく。

 そうして、二人は今後について夜が更けるまで語り合い、そうして一段落つけた所で休息を取る事とした。







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宮廷魔術師エルマ その6

 夜が明けてエルマはガーランドとの取り決め通りに早々にムロン村を後にした。

 エルマが任されたのは怪しげなラド村に引き返し、内部事情を調べる事。そして、ノスフェラト、ヴァルノミスの正体の居場所を掴む事であった。

 そうしてムロン村を後にしたエルマはラド村への唯一の出入口たる桟橋まで至るのであった。

 昨日、苦戦を強いられた桟橋を、この日もおっかなびっくりエルマは進んでいく。

 勿論、そんなエルマの傍らには、彼女のお供としてラド村に同行することとなったベイス少年の姿がある。

 この少年はエルマの手を引きながら、一歩一歩と確かな足遣いで、その不安定な足場を進んでいった。

 エルマは恐怖にひきつらせながらも、少年の手を力強く握るとつり橋をほうほうの体で進んでいく。

 ちらりと少年へと眼をやるエルマであったが、そんなエルマの視界には、はつらつとした表情を浮かべるベイス少年の姿がある。

 昨日までの絶望に彩られた少年は、勿論、完全に以前の少年らしさを取り戻したわけでは無かろうが、しかし人としての輝きを取り戻しつつあった。

 そんなベイス少年の姿を前にエルマは安堵の念を漏らすのであった。

―彼はまだ壊れていなかった―

 勿論ベイス少年が失ったものは決して眼を瞑れるようなものでは無い。

 彼はアンデットと化した両親に襲われ、そして、ベイス少年自身も理解しているであろうがその家族を、村民達を全て失った。

 だが、それでも少年は壊れていなかった。

 エルマは自らの手を力強く引きながらつり橋を渡っていく少年の、その芯となる部分に一種の尊敬さえも覚えながら恐々とした足取りで遂につり橋を渡り終えたのであった。

 つり橋を渡れば後はラドの村までは下りの山道が続くだけである。

 空を見上げるエルマ。

 まだ、日は東の山際からその頭を僅かに覗かせる程度であり、まだ早朝と呼ぶにふさわしい時間である。

 ふむと思い、エルマは天を仰いでいたその視線を眼下に広がる山道へと移す。

 なだらかな傾斜を作りながら、曲がりくねりそうしてラドの村へと至るあぜ道がそこには存在していた。

 あぜ道には、切りたった足場や、生い茂った雑草の群れ、そしてゴツゴツとした岩々が各所各所に点在している。

 エルマ自身、よく登ってこれてものだと感心してしまう程の難所だらけの山道である。と同時に、エルマは勿論、下山の危険性についても重々に承知していた。

 しばし、下山ルートを見やりながらエルマは一息つくと再び、少年の手を握り共に山道を慎重に下って行った。

 結果、数度エルマは尻もちをついたものの、思いのほか下山は順調であり、結果、昼の少し手前にはエルマ達はラドの村長宅へと到着したのであった。

 

 村長宅には、この日、村長含めて村の重鎮たる者達が一堂に集っていた。

 村長宅の広い居間、その中心にある円卓に腰かける一同。

 玄関口から一番近いところに客人たるエルマが腰かけ、エルマと向かい合うようにして村長が席に着いた。

 そうして、エルマと村長との間に続々と村人達が腰かけていき、合計10人を超える村人たちがエルマを囲い居並ぶ。

 座した彼らはそれから、今回の招集人であるエルマを一同にやる。

 そんな彼らの視線を受けながら、エルマは口を開き報告を始めるのであった。

「村長、言われたとおりにムロン村の調査を済ませてきました」

 エルマはそう言うと、少しもったいぶったような仕草で、エルマの隣で給仕の様にして立つベイス少年へと眼をやる。

 ベイス少年は、エルマの視線を受けて事前に言われていた通りに、よそよそしくも彼の足元に置いた大きな麻袋をゴソゴソとまさぐりながら、中におさめられていたモノを卓上へと広げる。

 卓上に広がる黒い布の塊。

 村人たちの視線がエルマを離れ、一同にその薄汚れた黒いズタ布へと向けられる。

 所々が破け、赤黒い斑点が飛散したソレはもはや外套の体をなしておらず、それが何であるか、村人たちは理解するのにしばしの時間が必要であった。

 が、そのズタ布から匂い立つ鉄の匂いが村人たちに生々しいまでの戦いの匂いを植え付けた。

 途端、村人たちは、その赤い斑点がまさしく人血であり、そのズタ布はかつて噂の外道魔術師と思われる男が身に着けていた外套であると気づく。

 そんな村人達をエルマは具に観察していた。

 エルマとガーランドは一計を案じたのである。

 エルマとガーランドが互いに争い合い、そしてエルマはガーランドを討伐したという体を繕う。

 そうして、エルマは何食わぬ顔でラド村へと戻り、ノスフェラト、ヴァルノミスの関係者を炙り出すというモノであった。

 エルマは迫真の演技を続ける。

「なかなか強力だったわ。でも、彼はただの人間でね。魔術で一撃だったわ。まぁ焼死体ならムロン村に放置してあるけれど見ない方がいいと思うから代わりに彼が羽織っていた外套を手土産に戻ってきたのだけど」

 エルマは言いながら挑発的な視線を村人達へとやる。

 瞬間、エルマの周囲に腰かけた村人達は、微笑を浮かべる少女にまるで魔を見たかの様に顔をこわばらせて、そうして小さく息を飲んでいた。

 そんな彼らの姿をジッと見定めるエルマ。

 エルマは自分の左に腰かけた者から順々に時計回りで彼らの顔色を逐一伺っていく。

 一人、また一人と観察していくエルマ。

 なるほど、確かに村人たちが感じているのは混じりけない恐怖であり、そしてそれが自らに向けられているであろうことをエルマは直感的に察した。

 三人目,四人目と村人へと視線を移し、そうして、丁度、5人目に眼を移したところでエルマはピタリと視線を止める。

 青ざめる村人達の中、ただ一人の例外をエルマは見つけたのだ。

 丁度、エルマと対面する様に腰かける村長は、他の村人とは一線を画していた。

 村長は、まるで血の気がひいた様に顔を青くして、その皺だらけの相貌に薄っすらと脂汗を滲ませていた。恐怖の表情という点ならば村長は他の村人と相違なかったが、しかし一点異なる点があった。

 それは村長の視線である。

 多かれ少なかれ、村人達はエルマに視線をやるか、おっかなびっくりといった感じで卓上に広げられたズタボロの外套へと視線を落としている。

 そんな中で、村長のみはその視線をエルマに、そして窓の外にと泳がせていた。

 エルマはそんな村長の姿を見逃さず、その冷静沈着な青い瞳を村長へと固定させる。

「でも彼は外道魔術師では無かったわ。となると村長、もしかすれば別の所に真の犯人がいる可能性も否めません」

 エルマはジッと言葉を慎重に言葉を続けていく。エルマはあくまでノスフェラトの事は知らぬ素振りで、怪しいと思われる村長から少しでも情報を聞き出す必要があったのだ。

 そんなエルマに村長は「はぁ」と小さく絞り出すようにして答えた。

 エルマは立ち上がるとグイと卓へと身を乗り出して口調を強める。

「もしやすれば、これは帝国にとって一大事となるかもしれません」

 エルマは自分でも演技派が過ぎるとは思いつつも村長へそう投げかけた。

 そうして、自らをもって白々しいと思いながらも小さく頭を振るエルマ。

「この村もムロン村の二の舞にならないとは限らないのですよ」

 エルマの瞳子の奥が怪しげに光る。その光は真っすぐに村長へと注がれる。

 村長はそんなエルマの視線に気づいたのか、はたまた、それ程の余裕は無かったか、いずれにせよ彼は顔をその頬を伝う脂汗をシワガレタ手で拭いながら、エルマに頷く。

 エルマもまた、頷く。

 エルマは自分でも別に特別商談に優れていると思った事は無いし、寧ろ、自らの不器用な性格から本業たる魔術師の領分を超えて他分野に精通しているなどとは、口が裂けても言えなかった。

 が、エルマにとっては村長は良いカモであった。

 エルマの瞳には狼狽する村長の姿が鮮明に映っている。

―直にぼろがでるわね―

 エルマは内心でそうつぶやくと更に村長をたたみ掛ける。

「村長、これは一大事であるとご理解できていますか? 」

 エルマは眼を細くしながらジッと村長を見やる。

 村長はここにきてやっと言葉らしい言葉でエルマに返答する。 

「もっ...もちろんですとも」

 最も、村長の返答はただの反射であった。そこには村長の意思はみてとれない。

 エルマの瞳に映る村長はいわば混乱状態にあった。

 あと一押しと思い、エルマは村長をまくしたてていく。

「では、これより村の男を7人程貸して頂けますか? まずはこの周辺を探りたいので」

 エルマは村長を見下ろし気味にそう言った。

 そんな鼻につく様な態度のエルマに、元来の村長であったら悪態の一つもついて応じたであろう。

 が、エルマの持つ宮廷魔術師としての肩書により、村長は、美醜は別としても村の小娘と幾分も姿の変わらぬ少女に帝国の姿そのものを重ねていた。

 故に村長は彼元来の保守性も相まって、ただただ萎縮するばかりであったのだ。

 故に口調は弱い。

「その、しかしラド村はただの田舎村です。大事件が起こるなどとは」

 村長の視線が揺れる。その様はまるで、自らとノスフェラトのヴァルノミスを天秤にかけているかの様にエルマには映った。

―醜悪ね―

 内心でエルマはごちった。

 とはいえ、エルマは表情を崩さない。

「より山村のムロン村で事件は起きたのですよ。何処に何があっても不思議じゃないです」

 エルマはあえて、手短に言うと更に続ける。

「このラド村もムロン村の二の舞になりかねませんよ」

 恫喝するエルマ。

 そうしてエルマがその視線を村長から周囲の村人一人、一人へと移していけば彼らは顔を引きつらせていく。

 そうして。

「村長、早く村を挙げて捜索すべきだ。今は宮廷魔術師様もいるんだぜ」

 と村人の内の誰かが言った。

 そんな男の言葉が啖呵となった。

 男の言葉が伝播したかの様に次々に村人が声高に叫んでいく。

 彼らは一様に、見ず知らずのエルマに賛同すると、普段ならば決して口にしないであろう言葉を持ってして村長を罵っていく。

 村長に対しての冒涜は、村長の実績に対する無能から始まり、彼の家族や先祖に対しての批判まで及んでいく。

 彼らはただただその場の勢いに乗じて、普段のうっぷん晴らしとばかりに村長を非難しているであろう事がエルマには一目瞭然であった。

 彼らは、エルマの憎む醜い田舎の人間達であった。

 最もエルマとしては、村人達を内心で憎々しく重いっていたのものの、現状はエルマにとって好ましい者へと推移していた。

 エルマの視線の先、彼女と対面する様にして腰かけた村長はわななきながら明らかに怒気にその顔を赤く染めている。

 激情というものは人を狂わせる事をエルマは良く知っていた。

 いよいよ村長がボロを出すぞと、エルマは一人黙りながら村長を見た。

 そして、エルマの予想は当たった。

 罵詈雑言が飛び交う中、村長は震えながら、その拳を固く握りしめ、そうして振り上げ...

 ガツン

 と卓上を力強く叩きつけた。

 途端、それまで熱にものを言わせて村長をなじり続けてきた村人達が閉口する。

 村長は目を大きく見開き一同を睨みやり、最後にエルマへと視線を戻すと取り繕ったかの様にへつらって笑った。

「分かりました。では捜索隊を用意しましょう。が、しかし村人たちは仕事等で多くが農地へと出払っております。ので、捜索隊の編成はしばしお待ち下さりませ」

「ええ、そうですね。では、その間は私の方で単独で調査させて頂きます」

 エルマは言いながら微笑する。そして、その視線を窓の外へと投げかける。

「まずは村の東側を捜索しようと思います」

 エルマの微笑を前に、村長は凍り付いた。

 エルマの視線の先は、先ほど村長がたどたどしく村の外へと視線をやっていた例の場所と合致していたからだ。

「あっ...村の東側には特に何もありませぬぞ」

 村長は相も変わらず取り繕った様にへつらっていたがその声は震えていた。

「えぇ、そうかもしれませんが。まぁ念のためにです」

 しかし、エルマは村長の動揺から彼女の目的たる噂のノスフェラトが近くにあろうことを確信していた。

「では...」

 村長が静かに声を震わせる。

 そうして、再び視線を泳がせながらエルマを見やる。

「では、村長たる私もご同行しましょう。して、探索の前に腹ごしらえと...いきましょうか」

 村長の一言にエルマはなるほどと思った。

 確かにエルマ自身、朝から歩きどおしで小腹が空いてきたのは事実であった。

 が、勿論エルマは、怪しげな村長が用意する食事に口を通すつもりなど無かった。

 そこでエルマは一度頷くと村長へと返答する。

「同行はありがたいですが、私はこの子を...」

 少年へと眼をやったエルマは体の良い言い訳を用意する。

「この子を行商人の方のもとへ連れて行かなければならないので、昼食は別にさせて頂きます」

 勿論、エルマは少年を行商人のもとへと連れていくつもりなど無かった。

 エルマは、このまま、少年をガーランドの元へと帰還させる腹でいた。

 ベイス少年はいい飛脚といっていいだろう。

 ベイス少年とエルマは視線を交わすと互いにニコリと微笑んだ。

 そうして、エルマは丁寧にベイス幼年の手を取ると、村長に一礼する。

 エルマは、最後に、昼過ぎには戻ると村長に告げると早々に村長宅を後にしたのだった。

 

 

 エルマはベイス少年をガーランドの元へと帰還させて、そうして、朝方に無人のムロン村から拝借した麦パンと簡単な果実を胃に収めて昼食とした。

 腹ごしらえを済ませたエルマは早々に村長宅へと赴くや、村の探索に乗り出す。

 そうして、村を東へ東へとエルマと村長は進んでいく。

 エルマはただジッと村長の振る舞いに眼を凝らしていく。

 エルマは彼女の隣を歩く、一見すれば気の弱い老人を監視せずにはいられない。

 直感的にエルマは男に嫌悪感を抱いていたのだ。

 それは、例えるなら泥の様なねっとりとした全身を這いまわるあの嫌な感覚に似ている...とエルマは感じたのだ。

 やはり、エルマの隣を進む男の顔には覇気が無く、まるで何かをしゅん巡するかの様にしながらその相貌をくしゃくしゃに歪めていた。

 その背後に何があるのか...エルマはそれを確かめねばならなかった。

 気づけば、エルマは村長を連れて村からやや離れた林道へと足を進めていた。

 林道と言ってもそれは、村のあぜ道の延長のようなものであり、村の中よりいくらか木々が増えた程度である。

 エルマが周囲をみやれば、丁度二人が通るあぜ道の両脇には雑多に大きく天高くその穂先を伸ばした木々の姿があった。

 周囲から秘匿されたそこは密談には最適な場所である。

―ここまで来ればいいかしら―

 そうして、エルマが端と足を止める。

 村長へと振り向くエルマ。

 村長の瞳は恐怖の色に染まっているかの様にエルマには伺えた。

 そんな村長をエルマは毛嫌いしつつも、己の本能を理性で抑えながらエルマは口を開く。

「ここまで来ればもう村人はいないわ。ムロン村の一件説明願えるかしら? 」

 それまでとは異なる口調で言いながら、エルマはスッと村長へとその右腕をつきだす。

 エルマの白くすんだ腕元に嵌り、きらりと光るルビーの腕輪。そして、エルマの指先に灯る鮮やかな炎を前に、村長は固唾を飲んだ。

「なっ...ムロン村の事と言われましても....」

 村長は明らかに動揺しながら一歩後ずさる。

 そんな村長へとエルマはますますその視線を強める。

「全部言わせるつもり? ノスフェラト、ヴァルノミス...ねぇ村長、魔族と人間の取引が違法なのは知っているでしょう」

 エルマは挑発的に言った。

 それは一見すれば少女が発した一言であったが、こと村長は心臓が掴まれたかの様に「ひっ」と叫ぶや一歩後退した。

 と、共にエルマは合点がいった。

―ムロン村を生贄にしたのね―

 内心でエルマは大いに目の前の村長を軽蔑したが、務めて表面上は冷静に振舞う。

「答えなさい、村長」

 更に刺すような視線を村長へと送るエルマ。

 村長は恐怖故か、とうとう、ガクリと膝をついてしまった。

 そうして。

「すみません」

 村長はその視線を地に落とし、小刻みに振戦する。

 そして言った...

「す...すみませぬ......ヴァルノミス様っ! 」

 ハッとしたエルマが振り返った時には既に全ては手遅れであった。

 振り返ったエルマのその視線の先、静かなる林道に男の姿があった。

 黒の紳士服で身を固め、黒のシルクハットをかぶった長身の男であった。

 見目はよく、病的な程に白い肌のその男は、綺麗に整った唇を開くと言った。

「永久<とこしえ>の眠りにつけ」

 にやりと男が微笑むと同時に微風がエルマへとたなびく。

 それは穏やかな微風であり、林道の立ち並ぶ木々の葉を僅かになでながらエルマへと吹き付ける。

―しまった、これは...―

 魔術である、とエルマが認識した時には既に時遅し。

 ぐらりとエルマの視界がぐらつく。

 必死に表をあげるエルマ。

 エルマの目の前で悠然と佇むヴァルノミスは口角を釣り上げて、足元覚束ないエルマを見下ろしながら愉悦げに笑っていた。

「村長、なかなかいい贄を用意したな。人間にしてはなかなかの素材だし、見目も良い」

 エルマのぐらつく視界の中で、ヴァルノミスなる美男子はべろりと舌なめずりした。

 端正なヴァルノミスの貌が醜悪に歪んでいく。

 が、しかし、エルマにはヴァルノミスの外見を評する程の余力は無かった。

 エルマは彼女を襲う睡魔の前についにガクリと膝をつき、そうして前のめりに倒れたのであった。

「村長よ、女は、魔術師だ。服を剥き、魔術装具を外し、裸にし、幽閉しておけ」

 エルマは服を脱がせるというその言葉に内心で恥辱を感じながらも、その耳元に僅かに響く男の声を前に遂に完全に意識を失ったのであった。



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宮廷魔術師エルマ その7

 エルマ・エルンストにとっての悪夢は常に幸福に満ちた情景と共に始まる。

 アンガレス歴592年のフォルン村。

 クレスト大陸南西部に位置するこの小さな村でこの年、一人の少女が命を授かった。

 温厚な季節に合わせて、ユーフォスの花がその薄ピンク色の花を満開にして咲き乱れ村中を彩る中、フォルン村の商家たるエルンスト家には初々しい産声が鳴り響いていた。

 親族たちに囲まれながら、エルマ・エルンストは木漏れ日の中、生を受けたのであった。

 エルマの父は、自らと同じアクアマリンの瞳の娘を誇らしく思い鼻を高くした。

 エルマの母は、その白磁の様に美しい肌に娘の将来が華やかであることを予感し胸を躍らせ。

 エルマの叔母は、村一番と呼ばれた美貌が姪に受け継がれるであろうことに浮かれ、足踏みし。

 そして、エルマの叔父は、この世に生まれ落ちた彼にとっての最初の姪をジッと見やりながら祝福の言葉を送ったのである。

 エルンスト家は商家としては規模は大きく無く裕福では無かったものの、没落貴族という事もあり、彼らは長女エルマの誕生を盛大に祝ったのである。

 それは、うららやかなる小春日であった。

 産まれて間もないエルマにとっては知る由も無いが、この年がエルンスト家にとって、いやエルマにとって、最も幸福であった年とも言えるかもしれない。

 

 エルマにとって、産まれてからの10年は順風満帆と言えただろう。

 少なくとも10歳の時分のエルマにはさしたる苦悩は無かった。

 いや、詳しく言うならばエルマやエルンスト家に対する悪意は存在したがエルマは鈍感であったし、悪意は顕在化はしていなかった。

 最もエルマの鈍感さは功を制したと言えるだろう。

 少なくとも、エルマにとっては村民は家族であり、近所に暮らす子供達は彼女にとっての友であったからだ。

 子供ながらの無邪気さと好奇心に溢れたエルマは年頃の少女にしてはややお転婆が過ぎたかもしれないが、それでも尚、エルマは自らの前に広がる未知に眼を輝かせながらまるで少年の様に行動した。

 村のすぐそばに広がる草原を村の少年達と駆けるエルマ。

 短く切りそろえられた金髪を肩元で揃えながら、少年達の先頭に立って緑の海を無邪気に駆けまわるエルマは、その容貌も相まって美少年のようにさえ見えただろう。

 いずれによせ、エルマはガキ大将の様な存在であった。

 そして、幼少期特有の子供にはつきものな、子供同士の喧嘩合戦にはこれまた、先陣を切ってガキ大将としていの一番に喧嘩に参加するのであった。

 エルマには真っ黒な愛犬がおり、名前をアンドリアといった。

 大抵、エルマは喧嘩になると愛犬と共に颯爽と現れては、敵対するガキ大将達を頭脳戦で翻弄しながら倒して回った。

 とりもなおさず活発であったエルマであったが、度を過ぎた活発さによって喧嘩傷は絶えず両親、特に母親は気苦労がつきなかった。

 母がエルマを叱り、父が困り果て、叔父が仲裁に入るのはエルンスト家の日常であった。

 そんなエルマにとっての質素で素朴ながらも幸福な団らんは、一見幸運と見えた、しかしその実、悪辣な運命のいたずらによって終わりを告げるのであった。

 

 クレスト大陸南西部は丁度、旧アンガレス王国の初代アンガレス王が生まれ落ちた地であり、帝国発祥の地でもあった。

 南大陸のルバール湾を望んだ平原に位置する様に旧都アンガレスがし、それはアンガレス歴400年に至るまでの間、長らく帝国の首都として機能していた。

 アンガレス歴592年においてはアンガレス帝国の政庁は大陸中央に位置するパルメニオスへと遷都されていたが、それでも尚、旧都アンガレスの重要性は少しもかげる事は無かった。

 アンガレスから、パルメニオスへの遷都の後、大陸の最南端に位置する旧都アンガレスは尚、文化、芸術の中心地であると同時に、魔術学校を備えた衛星都市としてアンガレスの南部を支えていたからである。

 そんな旧都アンガレスの影響は大陸南部の随所に及んでおり、それはフォルン村も例に漏れる事は無かった。

 フォルン村は山村と言っても、周囲を囲うのは比較的なだらかな山々であり、行きかう行商人の数も少なく無かった。

 エルマにとって魔術師としての未来を決したのは、行商のついでに立ち寄った商人のひょんな気まぐれからであった。

 丁度、エルマが例の如く悪友たちと彼女の愛犬アンドリアを従えて闊歩する中、エルマ一団は珍しい商人を発見した。

 商人はエルマ達にとっては何も珍しいものでは無かったが、男が露店に並べた品々はエルマや少年達にはあまり馴染みの無いものであった。

 輝く宝石を模した腕輪や、伐採されて後も未だに生命力あふれる新緑で作られた杖、日の下にあっても決して溶ける事の無い雪の結晶などなど、ありとあらゆるものがそこには揃っていたのだ。

 そう商人が扱っていたのは魔術装具であったのだ。

 ジッと商品を見やるエルマ達を前に、気の良い商人は、ではと、その内の一つと、大樹フゥーロンの葉を織り作り上げた草のペンダントをエルマに取らせてみる。

 エルマの指先が緑のペンダントに触れたかと思えば、途端にペンダントの緑が一際鮮やかに、輝いた。

 そう、エルマのイドナが草のペンダントに反応したのであった。

 商人はそんな光景を前に眼を丸くして、エルマを連れるや否やエルンスト宅へと駆けこんだのだった。

 魔術師はアンガレスの人口に比してその数が不足しているにも関わらず、帝国において基幹となる多くのシステムにおいて欠かせぬ存在であった。

 基本的には魔術師は劣勢遺伝の法則に従って誕生すると言わるが、稀にエルマの様な特殊なケースが存在する。

 商人にとってはそんなエルマが、彼の並べたどんな商品よりも魅力的に見えたのだったろう。

 商人はエルンスト家に駆け込むや否や、エルマの親族を説き伏せて、魔術師となる事を勧めるのであった。

 魔術師と言えば栄えある職業である。

 エルンスト家の様な旧式の価値観に重きを置く没落貴族にとっては、一族の中から魔術師の才ある者を一族から排出させたともあればそれは名誉以外のなにものでも無い。

 そんなわけで、商人に勧められるままにエルマは魔術師として、つまりは帝国のエリート街道を進む事となるのである。

 エルマ自身はこの時、魔術師になるという事がどんな厳しい道のりであるかは理解していなかった。

 ただ、エルマは、両親の喜ぶ姿や、何よりもエルマ自身が敬愛する叔父が歓喜するその様がたまらなく嬉しかったのだ。

 そうして、唯の小さな商家であったエルンスト家はそれから大きく変容する事となる。叔父一人を除いて。

 

 その夜は、旅立ちの前夜には相応しかった。

 夜空を天幕にして、無限と思われる星々が輝きながら、穏やかな光を山村へと注いでいた。

 商人が現れて後から、エルンスト家は慌ただしかった。

 魔術研究に対する奨学金を負担するという商人の言葉を聞きおよび、エルマの両親はまず、エルマの服を新調し、そしてわざわざ魔術師としての教材までも買い及んだのである。エルマの叔母はエルマに彼女流の貴族としての振る舞いを教えると躍起になっていたし、村の者達は村初めての魔術師誕生に表面上は喜び、そうして大仰にエルマを特別扱いした。

 正直、エルンスト家やフォルン村は浮かれていたのだった。

 そんな中で叔父だけがただ一人冷静だった。

 その日、フォルン村が眠りについている中、エルマと彼女の叔父たるシャーカイルは二人、村を抜けると近隣の丘陵地帯へと歩を進めていた。

 神秘的な夜を前にエルマは直ぐにたまらなくなった。

 村を出て最初こそ、叔父と談笑しながらゆっくりと街道を歩んでいたエルマであったが、直にはやる気持ちを抑えられなくなり中途まで進むや、街道を外れて草の海へと飛び込んでいく。

 青々とした草々がエルマの頬を優しく撫でては、爽やかな香りを醸し出す。

 気づけば、エルマは鼻歌を口ずさみながら、星と夜空を背景にして踊る様にして駆けていた。

「エルマ、危ないぞ」

 そんなエルマを見やりながら、ははと叔父は笑った。

 エルマもクルリと叔父を振り返っては、クスリと無邪気に笑う。

 二人はよく似ていた。

 相貌は兎も角、性格やその芯となる部分をエルマは叔父から多く受け継いでいたのだった。

 エルマにとっての人生の教師は叔父であったのだ。

 叔父であるシャーカイルは、エルマが困っていればエルマを助けてくれたし、泣いていれば慰めてくれた、頭が良い事を心から喜んでくれた、一緒に愛犬のアンドリアを会話がってくれた。

 シャーカイル叔父は、悪事を教えもするがエルマが成す邪悪にはものすごい剣幕で怒ってくれた。

 何もかもをエルマに教えてくれたのは叔父であったのだ。

 エルマはそんな叔父の人柄をなによりも愛していたし、そして、エルマは叔父の童顔な顔に浮かぶはにかんだ様な笑みがたまらなく好きだったのだ。

 そんな大好きな叔父の微笑む姿を見やりながらエルマは歌う。

「ふふん、叔父さん、明日は旅立ちだもん。思いっきり草の大地で踊りたいの」

 エルマは、お転婆であり、そしてやはりシャーカイルの血を分けた姪である。

 不敵にシャーカイルに言うと、また駆け出していく。

 やれやれとシャーカイルはエルマを見やりながら、しかし、柔らかな表情を浮かべるとエルマに負けじと駆けていく。

 二人は何時もこんな調子で、エルマの両親に黙っては夜のピクニックに出かけるのである。

 旧貴族の習わしという分けか、エルンスト家は長男を、兵士としての役職に就く事を義務としていた。

 エルマの父は次兄であり、長男たるシャーカイルは家の習わしで衛兵となった。

 衛兵にも勿論、休みの日は存在する。

 しかし、シャーカイルは決して一日として休暇を取る事無く、日々を衛兵としての職務に捧げていたのだった。 

 エルマは知っていた。

 何時もは不真面目な叔父が実は誰よりも真剣にフォルン村を愛し、そして全力で村を守っている事を。

 叔父はしばしば言う。

―力がある者は弱い者を助けてやらなきゃいけない。それが義務なんだ―

 と。

 そして、勿論だがエルマは叔父の言葉をしかりと受け止めて自らのモットーとした。

 走るエルマとシャーカイル。

 気づけば二人は小高い丘を駆けのぼり、その頂上まで至っていた。

 少しばかり、エルマと夜空の距離が縮まった。

 今のエルマにとってはその手を伸ばせば星さえもつかめる心持ちである。

 大きく手を伸ばしながら二度、三度と飛び跳ねるエルマ。

 勿論、星々は遥か彼方であり、エルマの右手は空を切るばかりであった。

 しかし、エルマにはそれで十分だった。既にエルマの手の中にはこぼれ落ちんばかりのの星々が溢れているのだから。

―魔術師となる―

 そんな希望の星がエルマには溢れている。

「うーんっ! 」

 大きく澄んだ空気を吸い込んで、エルマは大自然のベットに寝転んでは満点の星々を見上げる。

 そうして、凛然と声を夜空に響かせる。

「私ね...立派な魔術師になる」

 声高に叫ぶエルマ。それは、自分に言い聞かせた言葉でもあったが、彼女が敬愛する叔父に対するエルマのなりの最大のプレゼントでもあった。

 しこうしてエルマからの決意の言葉はシャーカイルの言葉を打った様であった。

「エルマ、お前ならきっと宮廷魔術師にだってなれるさ」

 涙交じりの声だった。

 声と共に、エルマの前に彼女が最も尊敬する優しい顔を現れる。

 シャーカイル叔父は寝転ぶエルマを涙交じりに覗き込んでいた。

 ポツリと涙がエルマの頬を濡らす。

 そうして、シャーカイルは声を震わせながらエルマに言う。

「エルマ...お前は誰よりも頑張れる子だ。絶対に誰にだって負けない。いや、負けちゃだめだぞ」

 シャーカイルの眼からは涙がとめどなく溢れていく。

 気づけば、エルマも泣いていた。

「うん...うん。私、負けた事なんてないもん......これからも負けないよ」

 そこから先は口にしてはいけない。

 エルマは分かっていた。

 必死に次の言葉を抑えんと、なんとか喉まで出かかった言葉を抑える。

 だが、無理だった。

「でも叔父さんと会いたいよ」

 エルマは星空よりも尚輝く叔父の相貌を見やりながら同じように涙を流していた。

 希望はある。魔術師としての星がエルマの興味と少女ながらの自尊心を満たしている。

 しかし、叔父が居ない日常はエルマにとっては闇夜と同じであったのだ。

 自らを導いてくれる叔父の存在がエルマにとっては太陽であったのだ。

 叔父が居ない毎日などエルマには信じられなかった。

 こうやって二人で夜空を拝める人がいない未来などエルマは想像したくなかった。

 エルマは叔父とは笑顔で別れたかったが、叔父シャーカイルの涙はエルマの心の堤防を決壊させ、涙を溢れさせエルマに本音を吐き出させていたのである。

「...エルマ。大丈夫だよ。何時だってエルマが良い子にしていれば、俺はエルマの心の中にいるから」

 シャーカイルはそう言うと、涙ながらに笑う。

 とくん...エルマの胸が激しく鼓動する。

 エルマはそんな叔父の笑みから眼を離せなかった。

 ジッと自らの叔父を、見つめるエルマ。

 恍惚と頬を染めながらエルマはそのアクアマリンの瞳を星々より尚、輝かせる。

 そして、それはシャーカイルも同じであった。

 彼もまた、エルマと同じアクアマリンの瞳をジッとエルマにやっていた。

「それにな、エルマ。叔父さんは何時だってお前の味方だ。エルマがエルマのままならな、いつだって助けに行ってやる」

 そんな叔父の言葉にエルマは頷くと、僅かに体を起こしながらその唇をそっと叔父の頬へと顔を近づける。

 そうして、弾力あるエルマの唇が静かにシャーカイルの頬へと触れる。

 シャーカイルは魅入られたかの様にエルマへと瞳をやりながら、気づけばその両手をエルマの華奢な肩元に回し、抱きかかえていた。

 シャーカイルは、ただただ優しく愛撫する様にしながらエルマのうなじをかき上げる。

 そんな時間がしばし続く。

 そうして、やっとエルマは長い接吻を済ませると、クスリと微笑んだ。

「好きな人とね、お別れの時はこうするの」

 シャーカイルは少しばかりバツが悪そうに顔をしかめた苦笑したが、直ぐにその表情は変わる。

「なーに、またすぐに会えるさ」

 叔父もまた微笑を浮かべていた。

 気づけば、エルマも叔父のシャーカイルも涙は枯れており、その心は晴れ渡っていた。

 そうして、それからは何時もの様に二人は最後の夜を過ごした。

 星を見て歌い、叔父が用意した葡萄酒と麦パンを食べながら踊り耽るのである。

 そうして疲れ果てたエルマに睡魔が訪れた所で二人は帰宅する事とした。

 星々に見守られながらゆっくりと草原を歩き、村へと帰っていくエルマとシャーカイル。

 この時、エルマは自分の行動の意味する所をしっかりと理解していなかったし、男女の営みなどに関しては全くの無知であった。

 が、しかし、エルマにとっては叔父の存在は彼女にとっての支柱であり、中心であったのだ。

 故に愛を持ってしてエルマは叔父に自らの全てを注ぎ込みたかったのだ。

 別れはエルマには辛かったが、それは永遠の別れでは無く、またエルマは自らが変容しなければ叔父は常に自分の中にあると信じる事で旅立ちの決意を固めたのである。

 そして、この夜がエルマにとっては叔父との最後の夜となる。

 




とりあえずエルマの過去前編です。
もっと感情描写を上手くなりたいものです。
叔父にはもっと分量をかけようかとも考えていたのですが、そうすると過去編だけで2万文字くらいになりそうだったのでは半分くらいまで減らしてしまいました。
尺足らずになっていなければよいのですが...


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宮廷魔術師エルマ その8

マフィストの街。

 フォルン村の南方に位置する巨大な商業都市として知られるこの街は、アンガレス南西部において旧都アンガレスに次ぐ人口を有した地方中枢都市のひとつである。

 商業都市として知られるマフィスト市は、港街としての機能も有しており、南のロンギウス海へと開ける巨大な湾口には日に数百を超える艦船が行き来し、大いに街に賑わいを与えていた。

 こういった大都市では魔術教育に対して市を上げて莫大な予算が投入される事が多い。

 マフィスト市も例に漏れる事は無く、魔術師教育のための所謂、魔術師育成施設が多数存在していた。

 そんな中で、エルマが商人の手引きで入塾したのがグラーケ氏の私塾であった。

 学長の名はフォルンスト・L・グラーケといった。

 今年で齢60を超えるこの初老の男性はかつては帝都お抱えの宮廷魔術師であり、国に多くの貢献をした事からマフィスト市では生きながらに偉人として扱われつつあった。

 市街地からやや離れた小さな丘陵地帯を領地として保有したグラーケは見晴らしの良い丘の上に30人程度が学ぶことが出来る小さな寄宿舎を作り、生徒を募っては共に学び、暮らしている。

 グラーケは高名であったがまた魔術の師としても優れており、彼のもとで学んだ学徒は多かれ少なかれ公的な魔術師として要職についたのである。

 そんなわけで、マフィストの貴族達は自らの子息の中で魔術の素養がある者をこぞってはこのグラーケの私塾へと入塾させたんとした。

 折しもエルマはそんな入塾争いが過熱したゲラーク私塾の門を叩く事となる。

 自然発生の魔術師たるエルマは入塾希望の貴族の御曹司達の中では異例の存在であり、その特質性故にゲラーク氏の眼に止まった。

 結果、エルマは半ば特例的にゲラーク私塾に入塾を認められたのである。

 そうして何はともあれエルマの修業は始まった。

 エルマと共に魔術の修行に明け暮れたのは30名。

 いずれもが10代前半の男女であり、エルマを除けば皆貴族の子息であった。

 貴族との触れ合いなどはエルマにとっては初めての事であり、故に、彼らの全てがエルマには新鮮であった。

 世に言う貴族像とは彼らの姿があまりにも離れていたという事もあるが、それ以上にエルマの眼を引いたのは彼らの自由奔放な姿だった。

 山村の子供達が無心で遊びまわる中、彼ら貴族は幼少期の頃から親の定めた魔術師としての道をひたむきに突き進み努力し、そして大いに遊び大いに学んでいた。

 彼らは芯の所で叔父の言う所の真の貴族であったのだ。

―負けられない―

 エルマの胸中には叔父の言葉が滲みだしていた。

 故にエルマは彼らと切磋琢磨しながら充実した日々を過ごすのであった。

 そうして、エルマの魔術師としての修業は1年...2年と過ぎていく。

 この間も叔父とエルマの間でのやり取りは手紙にて行われていた。

 エルマが報告して叔父が答える。

 大凡、そんな形で二人の手紙はやり取りされたが、叔父が必ずといっていいほどに手紙の締めの言葉に使った

―未来の宮廷魔術師エルマへ―

 という単語は何よりもエルマの励みになった。

 そうして、3年、4年と時が過ぎて遂に5年が経った頃にはエルマの修業は一段落つく。

 その頃にはエルマはグラーケ私塾、ひいてはマフィストの街で神童と言わしめるほどの優れた魔術師見習いとして育っていた。

 グラーケ私塾は15歳までに一通りの魔術の基礎となる学問や訓練を終了とする。

 そして15歳を過ぎた所で今度はより高等な魔術師学校でで3年間を過ごして、それから正式に帝国が定めた魔術師試験を受けてその成績に応じて、宮廷魔術師かそれとも地方魔術官となるかが決定される。

 専門職を一人養成するのには時間も費用も莫大となりがちである。

 それは専門職の代表たる魔術師は勿論の事で、一人の魔術師を育て上げるには計8年を必要とするわけである。 故にエルマはまだ魔術師教育としての期間を半ば終えた程度であったのだ。

 しかし、少なくともマフィストの街の同期達はエルマに滾るような対抗心を燃やしつつも、エルマこそが宮廷魔術師に相応しいと内心でエルマの実力を評価していた。

 それは、エルマの師たるグラーケも同様であった。

 彼はエルマの卒業に当たり、恒例の訓示に加えて、ラーケが宮廷魔術師時代の功績により皇帝陛下より下賜されたルビーが模された黄金の腕輪までをエルマに与えたのであった。

 順風満帆なエルマの魔術修業。

 しかし、エルマの幸福な日々はその15歳を最後にして終わりを告げる。

 高等教育を受けんとしていたエルマにとって悲劇はエルマのゲラーク私塾卒業の僅か後に遂に起きた。

 時にアンガレス歴607年。

 時期は収穫の時期に入っていた。

 残暑残る中、麦は一斉にその穂を輝かせながら田園を黄金色に染め上げている。

 折しもエルマにとって、高等教育を受ける間の休暇期間が生まれた。

 そんな休暇期間を通して、エルマは何よりも叔父との穏やかな幼少期の再現を望んだのである。

 エルマ自身、実はこの1年は勉学は順調であったが、しかし叔父の事では少し物足りなかった。

 というのも、この1年ほどで、エルマへの叔父からの便りの数は明らかに減っており、必ず文末に叔父が愛用した

―未来の宮廷魔術師エルマへ―

 という一文が抜けていることが多からだ。

―叔父さんにも春が来たのかしら? ―

 などとエルマは想像して、エルマは僅かな寂寥感と共に叔父への益々の幸福を微笑ましく思いもした。

 しかし、それでもエルマは叔父に昔みたいに優しく頭を撫でて貰いたかった。そして、もう一度あの輝かしい夜空を見上げたかったの。

 故にエルマは高等教育が始まるまでの僅かな休暇を彼女の生まれ故郷であるフォルン村で過ごす事と決めたのであった。

 村へと帰還したエルマ。

 エルマが5年ぶりにしたフォルンの村はエルマの幼少の頃とはまるでその姿を変えてしまっていた。

 フォルン村。

 そこは相も変わらず、山奥で閑散と佇んでいた。

 古い街路樹や木造りの家屋の顔ぶれはエルマの幼少の頃と少しも変わらない。

 が、しかし、エルマは違和感を感じずにはいられない。

―なんでか村がへんね―

 理論的な説明はエルマには不可能であった。

 ただただ漠然と、通り道を歩くエルマは何処か違和感ある村民達を見やりながら帰宅した。

 帰宅と同時にエルマが目にした両親や叔母の姿はまるで以前とは変わり果てていた。

 5年の内に多少の皺が触れた両親達であったが、それ程に外見には大きな違いは無い。

 しかし、彼らは昔愛用していた質素な麻の服を捨てて、今では都会の貴族が着るような上質なシルクを模した礼服に身を包んでいたのである。

 そして、彼らはエルマが帰宅した途端に歪に微笑むと。

「おおエルマ、良く帰ったね。疲れただろう」

 とただ一言そう言って、言葉とは裏腹にエルマを白のドレスに着替えさせるや否や村の名士たちの元へと赴いた。

 そうしてエルマの両親は、エルマを連れて各家々を回ってみせた。

 宮廷魔術師となるであろう娘について、彼らは声高に叫びながら、表面上は謙遜しつつも、内心で持たざる村人たちを侮蔑するかの様に振舞った。

 エルマは自らの両親や、下卑た様に笑いながらエルンスト家を持て成し村の有力者をジッと冷えた瞳で見つめ続けていたのだった。

 そう、フォルン村でのエルンスト家の立場はただの一、行商家からちょっとした名家へと変貌していた。

 村の者達は宮廷魔術師という餌に惹かれて、まるで野犬が残飯に群がる様にして近づいてきたのである。

 そして、エルマの両親は喜んで残飯として振舞って見せたのだ。

 誰が言いだしたかは分からなかったが、エルンスト家が各家を回る中で誰かが祝賀会を開こう、と言った。

 エルマは正直、体を休めたかったし、帰宅しても尚顔を合わせていなかった叔父のあの優しい相貌を何よりも切望していた。

 エルマは祝賀会を丁重に断るつもりでいたのだが、エルマの両親は申し訳なさそうにしながらも、しかし村長達の言葉に甘えるやエルマをヨソに話を進めていく。

 嬉々としながら瞳を輝かせるエルマの父と母。

 エルマには彼らがまるで、貴重な宝石を周囲の人々に見せびらかせる性質の悪い貴族の様に見えて仕方なかった。

 そうして祝賀会はその日の内に急遽開かれる事となった。

 勿論、祭りの席でも村人達のエルマや彼女の一族への対応は以前とはまるで別のものとなっていた。

 村のありとあらゆる者達がエルマや彼の親族のもとを訪れては、美辞麗句を並べ立てては大いにエルマを褒めたたるのであった。

 エルマの両親や叔母はと言えば、そんな彼らの一言一言に対して、まるで娘の功績を自らの功績の様に誇らしげに喜び、しかし形ばかりの謙遜で対応するのである。

 そんな村の姿がエルマにはあまりにも異質に映っていた。

―早く、叔父さんに会いたいわ―

 エルマは着なれないドレスと、慣れない村人達の対応に苦心しながら内心では叔父の事ばかりを思い、形ばかりの祝賀会を耐えきったのであった。

 特にエルマが対応に関して嫌悪感さえ覚えたのは村長の息子であった。

 エルマより3歳ほどの年上のその男をエルマは良く知っていた。

 口ばかり大きいが、しかし実は伴わず。

 夢は大きいが努力を成さずに、親の権力を当てにしてフォロン村で威張り散らしている様な男だった。

 それは18を超えた今でも変わっておらず、むしろますます増長していた。

 でっぷりとはった脂肪まみれの腹回りや、凹凸だらけのあばた面などなどは、まるで彼の醜い内面を映し出している様であった。

 眼を細めるエルマをヨソに、彼はエルマの育ちつつある蕾の様な胸の膨らみや、くびれのある腰元、こぶりな臀部などなどをねっとりと凝視しながら、エルマにあれやこれやと彼のここ数年のフォロン村での活躍をうそぶいてみせたのだった。

 相も変わらず、男の話は虚構まみれであったがそれでも男は、形ばかりの対応をするエルマに気を良くしてますます多くを語っていく。

 エルマには男の言葉の一つ一つが不愉快極まりなかったが、それ以上に男の口元から否応なしに漂う口臭がたまらなくエルマには不快であった。

 そうして男が一通り話す頃には祭りは閉幕ムードとなっていた。

 そんな雰囲気を察したのか男はエルマに別れを告げる。

 そして、別れ際に男はその毛むくじゃらの手をエルマの腰元に伸ばしたかと思うと、エルマのほっそりとした、しかし肉付きを豊かにしつつある桃尻を愛撫する様に撫でまわしたのであった。 

 突然の事に唖然としたエルマはしかし直にキッと男を睨み据える。

 が、少なくとも村長の息子にはエルマの威嚇などは襲るるに足らなかったのだろう。

 彼はははっと笑うと。

「なぁに、まだ心の準備があるだろう」

 と一言言い残して、その場を去っていったのだ。

 そうしてやっとの事でこの誰のためかも分からないパーティーが終わる。

 祝賀の席が終わるや、エルマは早々に祭りの場を後にした。

 エルマの足取り速く、エルマの内心は叔父の全てで満たされていた。

 遂にエルマははやる気持ちを抑えきれずに、自宅では無く叔父の駐在地である衛兵の詰め所へ直接出向いたのであった。

 が、叔父の姿は詰め所では見て取れない。

 して、おかしな事に壁に貼り付けてある衛兵の名簿には叔父の名前さえ無い。

 エルマは顔をしかめる。

 この時、エルマには嫌な予感がしてならなかった。

 よくよく考えれば、叔父が、エルマの帰宅をいの一番で迎えないというのはエルマにとってはおかしな話であった。

 早々に詰め所を後にしたエルマは、最早、身に着けているドレスなど気にせずに自宅へと駆けていく。

 家への近道を急行するエルマ。

 主要路から外れたあぜ道を走るたびに泥が跳ね、周囲に生い茂った雑草がエルマの露出した肌に小さな裂傷を刻んでいく。

 薄っすらと泥と血でエルマの肌や純白のドレスは汚れていくがそんな事など気にせずエルマは駆ける。

 して、直ちに家へとたどり着くエルマ。

 ドレスの裾を泥で汚し、どっと冷や汗で全身をしとどに濡らしたエルマは勢いよく戸を開けはなすと、既に帰宅して悠然と長椅子に腰かけた両親へと問い詰める。

「叔父さんは何処なのっ?」

 エルマの声には悲壮感が漂い、その声は屋内の大気を激しく振動させながら彼女の両親を激しく射る。

 途端、それまでは赤ら顔であったエルマの両親は血相を変えた様に顔を青ざめる。

 エルマのアクアマリンの瞳が両親を捉えた。

 その瞳は氷の様につめたく、見るモノをぞっとさせた。

 そんな威圧に耐えられず、エルマの母が口を開く。

「あの人は...」

 エルマが瞳を見開く。

「あの人は...死んだわ」

 途端、エルマの相貌から血の気が引いたかと思えば、エルマはガクリと膝をつく。

 涙は無かった、ただ、エルマはうめくようにして床に倒れ込むや、そのまま無情な真実を否定するかの様に眼を閉じたのであった。

 

 

―こんな事は貴方には話したくなかったの―

―エルマ、お前がショックを受けて休学なんて事になったら魔術師としてのお前の努力が全てが無駄になってしまう―

―だから、お前にはシャーカイル叔父さんの死はこの1年間伏せていたんだ―

 エルマは長椅子に力なく腰かけながら、両親の懺悔の言葉に耳を傾けていた。

 最も二人の言葉などはエルマにとってはうわの空であった。

 エルマは自らの世界が崩れていくのを感じながら、ただただジッと両親を見やっていた。

―叔父さんはね、エルマ貴方のために頑張り過ぎたのよ―

 それまで黙っていたエルマ叔母が言った。

 途端、エルマはそれまで耐えていた涙をもはや堪える事が出来なくなった。

 つつぅと一筋の雫が、エルマの眼尻から零れ落ちたかと思うとそれは滝となりとめどなくエルマの頬を濡らしていく。

 叔父の死の理由の原因は過労に端を欲する。

 魔術師養育のためには、訓練期間は勿論であるが、教育のために多額の金銭を必要とする。

 故に貴族でない一般市民が子息を魔術師として育て上げるのに、特に問題になってくるのが金銭問題である。

 魔術師を育て上げる教育費は、田舎の領地ならまるまる買い上げる事が出来る程の巨額に及び故にエルンスト家単体では支払いは困難であった。

 エルマの例を取るなら、エルマが私塾に通う事が出来たのは一重に行商人の助けがあったからだ。

 エルンスト家がエルマの生活費を支払い、行商人が授業料等の足りない金銭を補填するという形で何とか私塾でのエルマの必要経費は賄われたのである。

 勿論、行商人は善意のみでエルマを助けたわけでは無い。

 彼は魔術師との濃厚なツテを作るという将来を見据えて黄金の卵たりえるエルマに賭けたのである。

 商人による授業料はつつが無く支払われた。

 しかし、問題はエルンスト家の方にあった。

 エルンスト家はエルマのゲラーク私塾への入塾と共に否応なしに変貌するしかなかったのだ。

―貴方はいずれ貴族になるのだから...だったら私達も恥ずかしくない様に、それ相応に振舞わなければならないの―

 叔母が言った。

 余りにも白々しい様に、全ての原罪はエルマにあると言わんばかりであった。

 エルマの入塾を境に、エルンスト家はまるで貴族の様に振舞い始めたのである。

 服を新調し、贅沢な装飾品で家を飾り、そうしての覚えたての貴族風の作法で振舞ったのである。

 勿論、シャーカイルのみはそんな一族に対して冷ややかであり、彼のみは一衛兵としての職務に全うした。

 しかし、シャーカイルが如何に振舞おうとエルンスト家の金銭事情に与える影響はたかが知れていた。

 日に日に借金の額は募っていき、しかし、決して生活を変える事が出来なくなっていたエルンスト家は金貨数十枚、つまりは500万ガロンにも及ぶ借金をこさえる事となる。

 500万ガロンと言えば、その額は小さな領主程度でも返済に苦心する額であり、少なくともエルンスト家にとっては返済は不可能な額である。

 彼らにとってはエルマこそが頼みの綱であった。宮廷魔術師となれば金も名誉も思いのままであるからだ。

 しかし。

―エルマに頼るな。俺や皆が共に乗り切らずになんとする―

 シャーカイルは一同のそんな楽観視を前に、苦虫をかみつぶしたかのように貌を歪めると一言そう言った。

 シャーカイルはそれから激務に明け暮れた。もともと休み返上で村を守っていたシャーカイルであったがそれからは衛兵という枠に縛られずに行動する。

 かつては、村の見回りが中心であったシャーカイルは書類仕事から、村の雑事、ありとあらゆる激務をこなしていく。

 最もシャーカイルの努力を嘲笑するかの様に、エルンスト家の借金はかさみ続けていくのである。

 そして終ぞ、シャーカイルは衛兵の職を辞して一攫千金の冒険者を志し村を後にしたのだった。

―あの人は馬鹿だよ。貴族として生きられなかったんだ― 

 父はあからさまにその言葉に怒気を込め、叔父を軽蔑する様に瞳を歪めながら、いとも簡単に叔父を愚弄して見せた。

 エルマは父に怒りの感情さえ覚えなかった。

 エルマの胸中は、叔父の死という非現実により生じた悲しみに支配されつくしており、その他の感情を歓喜させる程のゆとりはエルマには無かったからだ。

 が、しかし父の何気ない一言はエルマにおける父を殺してしまったのは間違いない。

 もはや、エルマの父ヨーゼル・エルンストはエルマの中で父足りえなかった。

 叔父は死んだ。

 冒険者として旅立った叔父の死は彼がフォルン村を出立して10日の後にその遺体と共に村へと知らされる。

 叔父は旅立ちに際して、山道で足を滑らせて財宝を手にするのはおろか、魔物と戦う事さえなく死んでいったのであった。

 それはあまりにも早い死であった。

 エルマは家族達を見やる。

 彼らは眼尻を熱くさせながら、まるで繕うかの様にして叔父の死を嘆いていた。

 が、エルマには一目瞭然であった。

 彼らは叔父の死を一切も悲しんでいない。

 叔父の死さえも彼らは利用して、自らに酔っているのである。

―だから、エルマ...お前は叔父さんのためにも宮廷魔術師になるんだぞ―

―そうよエルマ。叔父さんもエルマが宮廷魔術師になるのをね、きっと願ってるわ― 

 両親も叔母も誰もがエルマに偽りの言葉をかける。

 が、偽善という言葉で塗り固めた彼らのエゴをエルマは見抜いていた。

「...叔父さんの...お墓はどこにあるの?」

 消え入るようなエルマの声であった。

 エルマは両親とは眼も合わせる事も無くそう呟くと一人立ち上がったのである。

 そんなエルマにこれまた消え入る様に両親が声をかける。

―街はずれの墓場に― 

―今日はもう遅いからまた明日に...―

 もはや両親たりえない者達の言葉はエルマには届かなかった。

 エルマは踵を返すや、よろよろとよろめきながらも家を後にして墓場へと向かっていて。

 夜の山村を進むエルマ。

 涙交じりのエルマの視界は闇夜と相まって薄っすらとぼやけていた。

 そして、5年前と比べて何一つとして変化することの無いはずの村路はエルマにとっては以前とはまるで異なるものへと変容していた。

 住民達の住屋を両脇に配し、村の真ん中に作られたよく手入れされたメインストーリトは村人たちの歩道として利用されておりそこには草一つ生えそろっていない。

 そんなよく手入れされた田舎道をエルマが一人、力無く墓場へと向かい進んでいく。

 歩きながらもエルマは村々から発する無数の悪意を全身に浴びていた。

―まったく金、金、金とあのエルンスト家にはたまったものではないわ―

―しかし、もの凄い借金ですな。ははっ、宮廷魔術師だ、貴族だといってもあれではな―

―あのエルマとかいうバカ女がいっそ大失敗すれば良いのに。そうすれば、あの無能なシャーカイルと一緒に一家共々、無茶苦茶になるのにね―

 エルマの耳を付くのは村人たちの声ならぬ声であった。

 村長宅を、酒場をと、歩くたびに声がエルマへと響くのである。

 エルマが周囲を見渡せば人の姿は無い。

 エルマ自身も理由は分からないが、しかしそれは聴覚を超えて、確かな感覚としてエルマの脳裏へと響いたのであった。

 そう、今のエルマは研ぎ澄まされていた。

 歩くたびに、ねっとりとした温風がエルマの肌に絡みつき、それと同時に人々の無数の悪意がエルマへと飛来するのである。

 エルマが居なくなって後より、いやエルマがいた時分よりフォルン村には確然たる人々の悪意は存在していたのだ。

―貴族様は、お嬢様のご教育に随分とお金をおかけになっている―

―なぁに、頭が足りんのだよ、あのお嬢様は―

―なにせ、自らの叔父に対してあのお嬢様はひとかたならぬ感情を抱いていた様だからな―

 踏み出すたびに、道の両脇で、僅かな灯りを灯した家屋から鋭い感情の矢が放たれてエルマを刺す。

 嘲笑うかの様にエルマに浴びせられる言葉は、無慈悲にエルマの心を抉っていく。

―まぁいいさ、気分よくさせておけばエルンスト様はこの村に利益をもたらしてくれる―

―それにしても、エルマのやつ、美人になったな―

―きっと都会でヤリまくってたんだろうよ―

―俺らみたいな農民相手にはおたかく止まっているんだろうだけど所詮、アイツは卑しく貴い貴族様だ―

 村民達からの嘲笑は気づけば虚実が入り混じっていた。

 一身にエルマは農民達の悪意を浴びながら、気づけば、小さな雑木林を抜けて墓地へと至る小道へと至っていた。そこには人の息遣いさえ感じられず、もはや、人の声がエルマを襲う事は無かった。

 そうして、小道を抜けるエルマ。

 目の前にある林をかき分けて一歩前へと進むと、ぱっとエルマの視界が開ける。

 草原の中でポツリと存在する墓地。

 闇夜の中、生物の匂いさえ感じらない墓地はすがすがしい程に静謐であった。

 その胸中をただただ悲哀の色に染めきっていたエルマはここで初めて、表をあげる。

 エルマの視界に映るのは墓標のみが横たわる何処か陰惨とした墓地である。

 が、注がれる月明りにより僅かに照らし出された墓地は何処か神秘的な匂いを醸し出している様にエルマには感じずにはいられなかった。

 気づけばエルマは早足気味に駆け出していた。

 エルマには、聞かずとも叔父の墓標が何処にあるかが一目瞭然であった。

 月明りはただただ、強烈に光をシャーカイルの墓標へと注ぎ込み、その墓標を真珠の如く光り輝かせていたからだ。

 エルマは駆け、そうして、叔父の墓標の前まで至ると墓標へとどっと前のめりに倒れ込みながら、冷たくなってしまった叔父を優しく抱きしめた。

「叔父さんっ...」

 エルマの声は涙で枯れていた。

 勿論だが墓標は何も語らない。

 ただ静かに悪意も善意も発する事無く静かに佇むのみであった。

 エルマは泣いた。

 泣き続けた。

 自らが家族を変えてしまった事を嘆き、そうして村人達の悪意にさえ気づかなかった自らの愚鈍を恥じたのである。

 亡き叔父の喪失感を涙という形で埋め合わせたかった。

「私はなんで、宮廷魔術師になろうなんて考えたのっ」 

 エルマはむせび泣きながら叔父に尋ねる。

 会いたい。

 もう一度、叔父と会って答えを聞きたい。頭を撫でて貰いたい。一緒に歌を口ずさみ、星空を見上げながら満点の星々の下で踊りあいたい。

 エルマの感情は涙と共にどっと溢れ出した。

 夜通し墓地にはエルマのむせび泣く声が響き続ける。

 ...そうして気づけば、夜は更け、空は桔梗色に染まりつつあった。

「キィー」

 と遠くで野鳥の声がした。

 世界は色を取り戻し、空や動物達は静かに朝の訪れを告げていた。

 エルマは立ち上がる。

 そうしてもう一度、叔父の墓標へと眼を移す。

 暗がりでしっかりと確認出来なかったが、叔父の墓標は碌な手入れなどされていなかった。

 まだ死してより1年足らずの叔父の墓標には所々に蜘蛛の巣が張り、墓標周囲には雑草が茂みつつあった。

 エルマにとっての英雄は村人は愚か、彼の親族にさえ見捨てられたのであった。

 エルマはドレスの裾をちぎるや、墓標を静かにふき、そうして周囲の雑草をむしっていく。

 エルマの胸中には叔父の死に対する深い悲しみと、村人や家族に対する軽蔑の念が刻み込まれていた。

「何時だってエルマが良い子にしていれば、俺はお前の心の中にいるから」

 そんな中で、エルマの心を支えるのは叔父の言葉であった。

 そして。

「未来の宮廷魔術師エルマへ」

 叔父の書き綴ったその言葉のみがエルマを支える唯一の原動力だった。

 気づけばエルマの白磁の様に美しかった指先は泥と土で茶に染まっており、エルマの純白のドレスは汗と土とに薄汚れていた。

 そうして、エルマは叔父の墓標の手入れを済ませると再びフォルン村へと視線をやる。

 叔父への手向けは唯一つ、宮廷魔術師となり偉大となる事である。

 それがエルマと叔父との約束であり、エルマが叔父と再会するための方法であったからだ。

 エルマは心の中に未だに姿を現さない叔父が、自らの更なる栄達や成功の末に再び胸中へと現れると自らへと言い聞かせたのだ。

 エルマ自身、それがエルマの儚い希望であろう事を重々承知していた。

 しかし、人の悪意に触れ、最愛の人の死を前にして絶望を知ったエルマはそんなか細い想いにすがるより他なかったのである。

 翌朝、エルマは自宅へと帰還するや否や、白のドレスを脱ぎ捨てて何時もの麻の服へと着替えた。

 エルマの母は、高い金をはたいて買った白のドレスがボロボロに汚れた様やエルマが体を汚していたのを前に、いかがわしいく思ったのだろうか、血相を変えた。

 彼女はヒステリックに叫びながらエルマに問い詰める。

 そんな母に対してエルマは理路整然と墓場へと行った事や、特に誰かに乱暴されたわけではない旨を説明した。

 エルマのその態度は他人行儀であり、仮に子を愛する親ならばそんな娘の態度に眉をひそめたであろう。

 しかし、エルマの母は寧ろ、エルマの凛然とした態度やエルマの貞操が無事であることに気を良くした様で、少しばかりエルマと口論すると直に引き下がった。

 この日、エルマは母との問答を済ませるとグルリと街を一周する。

 昨晩の様な人々の内なる声をエルマは聞き出すことは出来なかったが、しかし、顔を合わせる村民達のその瞳の奥でどんよりと何か薄暗いものが漂っているのをエルマは最早、見逃せなくなってしまっていた。

 それから、エルマは村の全てを知った。

 エルマが正式に宮廷魔術師となれば、フォロン村は帝国からの助成金給付の対象となる事。

 故に、エルンスト家の面々はその助成金を借金返済のための拠り所と考えている事。

 そして、おぞましい事だが、エルマの両親は、助成金を得るためにエルマと村長の息子が婚儀を結ばせる事を助成金獲得のための終着と考えた。

 公的な金銭を私のために使うというのはあまりにも下劣な行為であるが、それ以上にエルマには自らの女を奪うのにためらいが無い両親を心から憎んだ。

 また、村長は村長で仮にエルマが宮廷魔術師となればエルマは騎士としての爵位までをも皇帝から下賜されるわけで、村長としても自らが労せずに貴族の座へと転がり込むのは願ったり叶ったりであったのだ。

 村人達も村人達でこの村長とエルンスト家にへつらう事で利権にあやかる算段であった。

―これが人間なの―

 エルマはそんな彼らに人間の真理を見出した。

 山村に紛れて、文明を知らずにただただ日々を自らの打算のために生きる人間の醜い姿を前に、エルマは唯一人孤高であろうとした村の英雄を思う。

 エルマの中で輝き続ける叔父はいつも笑っていた。

 しかしだからこそ、エルマがこんな境地にあろうとも、きっと村の英雄たる自らの叔父はエルマが人を愛し、そして高貴さを失わず生きる事をエルマに説くであろうとエルマは叔父の姿から思った・

 なればこそ、エルマは欲望にまみれたフォロン村の連中を利してでも生きていかなければならない。

 この日、エルマはその計り知れない喪失感を前にその心の半分は壊れてしまった。

 が、それでも尚、エルマにはまだ叔父の姿を鮮明に覚えていたし、叔父との約束こそが彼女にとっての淡いながらも希望であったのだ。

 故にエルマの残り半分の心は叔父のためにまだ生きていた。

 立ち上がり帰宅するエルマ。

 その後、エルマは両親から正式に村長の息子との結婚を言い渡される。

 断る事は容易である。

 が、それではいけなかった。

 叔父の愛するエルマとは常に他人の期待に応える存在であったのだから。

 故にエルマは自らの価値を釣り上げて、その上で縁談を反故にする必要があった。

「私、宮廷魔術師になって更に高名になりたいの」

 エルマは両親という名の醜い村人達を内心で拒絶しながら、表面的には如何にも彼らが好みそうな出来の良い娘を演じてみせた。

 そうして、エルマは結果的に25歳までに大きな成果を挙げられなければ魔術師として研究のみの人生を諦め村長の息子と結婚し、半ば魔術師、半ば女としての人生を確約したのだ。

 25歳で快挙などというのは前代未聞であり、娘の事など何一つ知らないいエルマの親族たちはエルマの願いが叶わないであろう事を予想するや、首を縦に振ってエルマの心意気を大いに買ったのであった。

 エルマはこの日を境にフォルン村の叔父の墓標を訪ねる事はあっても家へと帰る事は無かった。

 幼少期の終わりは、幼少期の全ての愛おしい過去との離別という形でエルマに訪れたのだった。




結局エルマの回想が2万文字超えとなってしまいました。。


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宮廷魔術師エルマ その9

*性向シーンなどはありませんが、裸の描写はありますので苦手な方はご注意くださいませ。


 ラドの村。

 険しい山間の中、ポツリと存在したこの山村においては、夜とは闇に混じり僅かな虫の音が響き渡るだけの静寂の世界であった。

 人々は、闇の訪れと共に寝静まり、そうしてただただ眠りと共に日の出を待つのがこの山村の常である。

 が、しかし、この日のラド村は少しばかり事情を別とする。

 村の山頂に存在する小さな丘陵地帯がある。

 村長宅の裏手に存在するその場所は凡そ、村長の邸宅の一部であると同時に収穫祭などにおいて神事が執り行われる特別な場所であった。

 本来ならば立ち入り禁止となっているその場所には、この夜数十を超える松明の灯がこうこうと燃え盛り、周囲の闇を照らし出していた。

 闇夜の中で真昼の如く明るく照らし出されたその場所は何処か不気味であり、見るモノによっては違和感さえ感じたであろう。

 松明たちにより照らし出される青々とした草木は見事な鮮やかさを有しつつも何処かよそよそしく恐怖するかの様に木々を鳴らし、虫や獣は脅威を感じたのか既にその場所から姿を消し、そこには自然本来の静謐とした、しかし何処か暖かな感じがまるで見て取れなかったのである。

 そんな丘の上では合わせて10を超える村人達と礼服を身に着けた紳士風の青年、そして裸の少女の姿があった。

 少女はぐったりと眼を閉じて、そうして力なく拘束台に縛り付けられ、そのあられもない裸体を男達の前にさらけ出していた。

 拘束台は何とも趣味の悪い作りであった。

 十字架を模した様な巨大な磔台。

 処刑の際に主に使用されるそんな磔台に少女は乱暴に縛り付けられていたのだった。

 しかもただ縛り付けるならまだしも、どうやら彼女を縛り上げた男達は随分と悪辣であったらしい。

 男達は、わざわざ少女の両足を大きく開脚するや、それぞれの手足首を同じ位置で荒縄でしばりあげて、丁度V字型に少女を固定したのであった。

 故に少女の陰部は彼女を取り囲む男達の元へと晒され、彼らの視線を一同に集めていた。

 少女...といっても彼女は今年で22歳になる。

 しかしながら20を超えたにしてはその肢体の肉置き<ししおき>は豊かとは言いがたく、そこには少女特有の可憐さがあった。

 ほっそりと白磁の如き白雪色に彩られたその四肢はしなやかに伸び、女性特有の程よい筋肉が備わっていることが伺えた。

 胸元には僅かに膨らみつつある小さな隆起がある。柔らかな印象を残した少女のちぶさである。村娘などとはまるでその形を別とする少女のちぶさは、小ぶりであったが、売春婦などの其れとは違って初々しい何処か硬い印象を残していた。

 時に我慢ならなくなった男が、一度その柔らかな膨らみに指を這わせれば、小ぶりな乳房は瑞々しくプルンと震えてそうして情動的に揺れては元の形に戻るのであった。

 そんな小ぶりなちぶさの頂上では小ぶりな赤色の果実が実っていた。

 男を知らない無垢なる乳頭はほんのりとその色を薄ピンク色に染めながら僅かに震え、闇夜の中で男達の視線を釘づけにしていた。

 腰元の肉置き<ししおき>は鍛えた少女というに相応しく、その未熟な乳房と比べ幾分かは豊かであり、程よい筋肉と脂肪で彩られたその桃尻はやはり男達の獣欲を益々駆り立てる対象であったのだ。

 いずれにせよ、彼女、エルマ・エルンストは少女のような初々しさと美を備えていた。

 そんな男を知らぬ少女エルマは、誰にも見せた事の無いであろう彼女の女の部分をこれでもかという程に晒し続けているのである。

 薄っすらと生い茂った薄金色の茂みに隠される様にしてぷっくらと膨らんだエルマの女陰。

 その未熟ながらも美しい少女の陰部に男達は視線を遣りながら、固唾をのんでいた。

 男を知らないエルマにとっては、現状の自分が置かれた状況はたまったものでは無いだろう。

 見ず知らずの男達を前に恥部をさらけ出すなどというのは年頃の少女には耐えがたい恥辱以外の何物でもない。

 せめてものエルマの救いはこの異様な状況下で気を失っているという点につきるだろう。

 ノスフェラト、ヴァルノミスが使用した魔術の効力は随分と長い間持続しておりエルマは数刻程経っても尚、夢の世界を揺蕩っていた。

 空には暗雲が立ち込め、そうして、冷ややかな大気は震えるようにして村人たちの肌を射す。

 そんな中でただ一人、裸のエルマは時にその冷気に体をわなわんと震わせていた。

 そのたびに、エルマの乳房や臀部は情動的に揺れ動くのである。

 もはや、男達が我慢の限界であるのは誰の眼にも一目瞭然である。

 彼らは眼を滾らせながら、今や今やと村長の到着を待っていた。

 なにせ、この少女エルマを最初に汚しつくすのは村長と決まっていたからだ。

 男達は村長より急遽召集を受けて、ムロン村で違法な実験を秘密裏に指示していた宮廷魔術師、いや外道魔術師エルマ・エルンストを陵辱せしめんとこの場に集ったのである。

 今、男達の獣欲はムロン村の住民達の無念を晴らさんという大義名分のもとに正当化されていた。

 彼らは魔女を縛り上げる事にも、彼女を陵辱せしめんことにも、そしてその命を奪う事にも微塵も躊躇いは無い。

 正義という感情により彼らは突き動かされていたのだ。

 そんな中で、礼服の男ヴァルノミスはエルマや下劣な男達など歯牙にもかけずに、丘陵地帯から村を一望しながら、ジッと村長宅へと視線を落としていた。

―村長の奴め、遅いな―

 毒突きながらもヴァルノミスは、内心で人間という種の余りにも愚かで弱い性を嘲笑っていた。

 村長宅から男達へと視線を移すヴァルノミス。

 そこに映っていたのは魔物よりも尚醜い人の姿であった。

 一人の少女を贄にして、獣欲と支配欲とに駆られた人間達は正義という大義名分の下、己が獣欲を満たさんとしている。

―これだから人間はたまらない―

 そんな彼らを前にして、ヴァルノミスは嘲笑を浮かべるより外なった。

 獣の交配に理由などは無い。

 ただ己が衝動に従い、己が性を解き放っているのみだ。

 それは魔物も同様である。

 しかし、自らを高等生物と見なす人間は己が性欲を満たす事にさえも理由を見出さなければならないのである。

 そんな人間の取り繕った様な偽善とその奥に潜んでいる獣よりもおぞましい人ならではの醜さがヴァルノミスの愉悦を喚起していたのである。

 

 ヴァルノミス、自らを伯爵と名乗るこのノスフェラトの青年は偉大なる闇の王の直臣の一人であり、四魔天とも呼ばれる存在である。

 本来ならば北の果てにて居を構える彼はいわば、魔族の貴族というに相応しい。

 そんな彼が南へと足を運んだ理由は、一重に先の北伐に端を欲する。

 先の北伐では多くの魔物や魔族が第七騎士団を筆頭に人間側に征伐され、結果、魔族側は眼を瞑れないほどの大損害を被っていた。

 例に漏れず、ヴァルノミスは北伐にて彼の直臣を失ったばかりか、貴下の死霊軍団を壊滅一歩手前まで追い込まれる程の損害を受けていた。

 また、北伐の後も人間側は魔族の本拠たる北部へと散発的に冒険者達を送り出している。

 正規兵と比べれば冒険者達の脅威は魔族側にとって幾分もマシであったが、現状が続き人類側による新たなる北伐という事となれば魔族側もかなりの損害を覚悟しなければならない。

 ヴァルノミスが田舎村へと至ったのは、彼の配下たる魔物達を補充を人間に見出したが故であった。

 ヴァルノミスの赤い瞳は、ぼおぼとと燃え盛る松明の炎を浴びて薄っすらと怪しくどよめく。

 ヴァノミスの口元は妖艶ににやけており、その瞳には人間という種を見下すかの様な軽蔑の色さえ滲んでいた。

 ヴァルノミスと村長との間には取り決めがあった。

 丁度、1月ほど前、ヴァルノミスはアンガレス・フォロボス両国の境界に存在する小さな山間部を兵力補充のための拠点と定めた。

 ヴァルノミスの得意とする術は、主に幻惑術を始めとした精神魔術一般であったが、それと共にヴァルノミスは魔化術と呼ばれる魔術を開発していた。

 魔化術とは主に人を対象として、彼らを魔の眷属へと変貌せしめる魔術である。

 既にヴァルノミスは北伐の前後には術の理論を完成させていたが実践は終ぞムロン村の一件が初となる。

 して、彼の術の実験は大成功と相成る。

 彼は、ムロン村なる小さな村で魔化術の使用により、その村民の約半数をアンデット化する事に成功したのだった。

 勿論、邪魔が入り、アンデット達は全滅するに至ったが、しかし、ヴァルノミスにとっては、さほど大きな問題では無い。

 なにせ、まだラド村には200を超える村民がおり、ヴァルノミスにとっては、彼らを対象にしてアンデットの数を増やせばよいだけの話である。

 唯一、ヴァルノミスが気になったのは大剣を操る男の存在であったが、その男も今や、宮廷魔術師により討伐されている。

 後はヴァルノミスは舞台を整えて、フィナーレを飾るのみである。

 そう、魔化術により高位の魔族とアンデットを生み出す事である。

 魔化術により、高位の魔族を如何に手にするかという事であったが、既にヴァルノミスには予測はついていた。

 彼がムロン村にて住民達を対処に魔化術を使用した際には村民はまるで泥の様に溶け落ちるか、若しくはアンデット化するかのいずれかの命運を辿ったが、しかし、ヴァルノミスが望んだような高位の魔族が生み出される事は無かった。

 もともと研究肌であったヴァルノミスはその原因を人間が持つイドナの量の差にあると見た。

 まず、イドナの量が少ない人間はアンデットにさえなる事無く、ぐずぐずに崩れて消失する。

 そして、イドナの量が中等度の者はアンデットとなり、彼の私兵となる。

 では、イドナを大量に持つ人がどうなるか?

 ヴァルノミスは、そういった者達は高位の魔族となりうる可能性が高いと予測したのである。

 そして、その答えを証明するのがエルマであった。

 ヴァルノミスと村長との取り決めとして、ヴァルノミスが村人の安全を保証する代わりに村長は生きの良い魔術師を用意する事を約束した。勿論、ヴァルノミスは最初から約束など反故にする算段であった。

 しかし、気の弱い村長は、突如現れたノスフェラトの恐喝の前に碌な思考さえ出来なかった。

 なにせ、ヴァルノミスが、ムロン村の事を話題に出し、試しに村人の一人をアンデット化させれば、ラド村の村長は一も二も無くヴァルノミスの提案に賛同してしまったのである。

 そうして、村長はヴァルノミスの言うがままに地方官へと魔術師派遣を依頼する。

 村長としての思惑はどうやら、適当な魔術師の派遣程度を期待したのだったろうが、しかし村長の思惑に反してラド村へと送られたのは宮廷魔術師であった。

 村長はエルマを前にして青ざめた。

 なにせ宮廷魔術師である。

 万一、宮廷魔術師になにかがあれば、帝国は黙って見過ごす事は無く、草の根を分けてでもラド村へと事件の解明に乗り出してくるのは明白であったからだ。

 魔族と村長との間で何かしらの取引があったとなれば、村長の命はおろかその一族郎党にどの様な処分が下るかは予想だに出来ず、村長は恐怖した。

 最もそんな村長の想いなどはヴァルノミスの知るところでは無い。

 ヴァルノミスとしては、高位な魔術師は実験体としては願ったり叶ったりであったし、エルマはなによりも美しかった。

 薄っすらとした絹の如き薄金髪と紺碧色に輝くその瞳、そして白で彩られた柔らかな美しい相貌と肢体はまさしく魔貴族たるに相応しい容貌であったのだ。

 ヴァルノミスはその無垢なる少女をますます、自らの色へと染め上げて臣下へと墜とさんと、より一層、劣情を強めるのであった。

 ククと笑い続けながら、ヴァルノミスはエルマへと視線をやる。

 その美しき無垢たるエルマは、その全身を彼女とは対称的な醜なる男達に晒しつづけていた。

 男達はエルマの美しき四肢や膨らみかけた乳房へと今にもむしゃぶりつかんと、視線を這わせながら、そして特に念入りにエルマの恥部へと獣欲交じりの視線を注いでいた。

 このエルマという美と、素朴ながらも粗悪な村民達の醜が織りなすコントラストこそが、ヴァルノミスにとって最高の絵画であったのだ。

 最後の一手は、村長がこの場に至って終幕となる。

 醜悪の象徴たる村長やこの場に集った男達により、美の象徴たるエルマがその魂と肉体を汚されつくすときこそ、ヴァルノミスの芸術は完成へと至るのである。

 して芸術の完成の末に、絶望したエルマを魔族として昇華させる事こそがヴァルノミスにとっての終着であった。

 そろそろ、エルマは眼を覚ますであろう。

 うつらうつらと首を傾けながらも、先ほどよりエルマの瞬きする回数は増えている。

 目覚めた際のエルマを思い、ヴァルノミスはくぐもった様な笑いを漏らす。

 屈辱的な格好を前にして、この無垢なる美は如何にその相貌を歪めるであろうか。

 その表情を羞恥に染めるか、それともただただ憤怒の色に貌を歪めるか。

 泣き叫ぶか、それとも口汚く男達を罵るであろうか。

 して、その後、少女は醜い男達に汚されつくし、如何に絶望するか。

 絶望とはヴァルノミスにとっては筆舌に尽くせぬ珍味であった。

 魔族は大なり小なり人の精神に得も言われぬ快楽を見出す。

 して、ヴァルノミスが最も好んだのは悲哀などを始めとした負の感情なのである。

 特に美しき女が惨めに落ちていく様はヴァルノミスにとってはこの上無い愉悦であるのだ。

 恥辱。

 恐怖。

 絶望。

 堕落。

 そういった負の感情に絡めとられた少女が、絶望の末にヴァルノミスの眷属として魔貴族として生まれ変わるのだ。

 クククと呻く様に笑い声を上げるヴァルノミス。

 ヴァルノミスの端正な顔立ちは何処か不気味に魔の色に歪んでいた。

 この時、ヴァルノミスは勝者としての昂り故か、一人の男と一人の少年の存在を完全に見落としていた。

 一人は彼を一歩手前まで追い詰めた謎の冒険者ガーランド。

 一人はエルマと共に村へと入ったベイス少年。

 超越主たる奢りがヴァルノミスへと二人の存在を脳裏の彼方へと追いやり、そして彼から約束の時間をとうに過ぎても未だに現れぬ村長について深く考えるゆとりを奪っていたのだった。

 ヴァルノミスの関心は、これからエルマを襲う悲劇とその後、自らの直臣となる美しき宮廷魔術師の末路についてのみであったのだ。

 この時、丘陵地帯を裏手から駆け上がる静かな獣の姿にヴァルノミスは気づく事は無い。



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宮廷魔術師 エルマその10

 ベイス少年からの急報がムロン村に届いたのは夕刻間近の頃であった。

 傷を癒しながら時を待っていたガーランドの元へ現れたベイス少年は、血相を変えながらエルマが囚われた事をガーランドへと告げる。

 当初の予定はエルマがラド村で情報を集めて、2日置きにベイス少年を使いガーランドとエルマの互いが密に情報を交換、して十分な情報をあつめた所で一挙にヴァルノミスを奇襲するものであった。

 しかし、ガーランドの元へとベイス少年が現れたのは当初の予定よりもあまりにも早く、そしてベイス少年の口からは想定外の事実が語られた。

 が、しかし想定外の状況を前にして、ガーランドは思いの他冷静であり、その動きは素早かった。

 立てかけた剣を握りしめるや、ガーランドはベイス少年を抱えて直ちにラド村へと急行するの。

 人間とは思えぬ身のこなしでガーランドは、エルマが苦戦した桟橋や山道を駆けていくと直ちに村長宅へと至るのであった。

 ドンと戸を蹴り破るガーランド。

 と同時に、ヒッと声が上がる。

 その声の主は紛れも無い村長であった。

―なんと醜悪な男か―

 声の主を見やり、ガーランドは眉をひそめざながらそう感じざるを得なかった。

 目を細めるガーランド。

 開け放した玄関口の先には村長と思われる初老の男性の姿があった。

 皺だらけで干からびた貌をひきつらせながら震える男は下半身をはだけていた。

 そんな村長の姿は、ガーランドには見るに絶えないほどにおぞましかったのだ。

 呆気に取られて立ちすくむ村長、彼の手には女物と思われる麻の服や、年頃の女性が身にまとうふんわりとしたショーツが力強く握られていたのだ。

 して、黒いシルクのショーツには黄と白が混ざり合った様な液体がねっとりと付着し、腐乱臭を漂わせながらその黒の布地を不潔な色に汚していた。

「エルマは何処だ? 」

 そんな村長を見やりながらガーランドは軽蔑したように呟くと一歩、二歩と踏み出して村長へと歩を進めていく。

 そうして村長を目と鼻の先に捉えたガーランドは、その手に持った巨大な大剣をズイと手前に突き出して村長へと向ける。

 村長宅に設置された松明に照らされてガーランドの大剣が鋭く光りをあげるや、村長はおののき、そうしてガクリと尻餅をつく。

 ガーランドを見上げる村長の瞳は完全に恐怖の色に染まっており、彼はガクガクと震えながら意味の無い言葉をつぶやく。

「あっ...違うのです。私は別に何もやましいことは」

 村長からは完全に血の気が引き、まるで小動物の様に体をガクガクと震わせている。

 そんな村長を前にして、しかし、ガーランドは少しの罪悪感も感じる事はでき無かった。

 ガーランドはぎろりと村長を見下ろしながら、口調を強めて言う。

「ならばこう言おう。ヴァルノミスは何処にいる! 」

 言いながらガーランドは一歩前へ出る。

 ガーランドより迸る威圧感は大気を震わせながら一斉に村長へと襲い掛かる。

 まるで村長は蛇に睨まれた蛙。

 村長はパクパクと口を開閉しながら、そっと呟く。

「あっ...う、裏手の丘に...」

 そんな村長をガーランドは一瞥すると、その手に持った大剣をスッと鞘に納めて更に一歩村長へと歩を進める。

 そうして、ガーランドはスッとその手を村長へと伸ばす。

「ひっ! 」

 途端、村長から恐怖の声があがる。

 村長は、死でも覚悟したかの様に体を丸めながらギュッと瞼を閉じて身構える。

 しかし。

「これは貰っていくぞ」

 ガーランドの声がするばかりで、いつまでたっても村長が恐れた拳がガーランドを襲う事はなかった。

 村長は恐る恐るその瞼を開きながら、上目遣いにガーランドを見やる。

 ガーランドは苦虫を噛み潰したように顔をしかめながらも、その巨大な掌は村長が握りしめたエルマの黒のロングコートや麻のローブを村長の手からはく奪するのみにとどまった。

「エルマが持っていた腕輪は何処だ」

 してガーランドは村長からエルマの衣類を取り上げつつも、鋭い視線を持ってして村長へと尋ねた。

 しばし、唖然としたかの様に村長は大きく口を開き、そしてしかる後に答える。

「あ、あちらの衣装かけの中に」

 声を裏返しながら答える村長にガーランドは無言で頷くと、その手にエルマの衣服を手にして、一歩一歩と指定された机の場所へと進んでいく。

 扉を開くガーランド。

 村長の衣服などが並んだ衣装かけの中に、飾られる様にしてルビーの腕輪が横たわっている。

 ガーランドはガシリとエルマの所持品たるルビーの腕をその手に掴むと村長には一言も告げることなく、ベイス少年をつれて村長宅を後にした。

 

 村長宅を後にしたガーランドはベイス少年に短剣を渡し丘陵付近の茂みへと彼を隠すと、一人なだらかな丘陵を駆けていく。

 丘陵地帯を駆けるガーランドの姿は正しく、獣と呼ぶにふさわしかった。

 巨大な剣と、重厚な鎧を身にまとったガーランドは形容するならば漆黒の獣といえよう。

 獣はただただ静かに山頂を駆け登りながら、疾風怒涛の勢いで瞬く間に山頂へと進んでいく。

 丘陵地帯の裏手より山頂を目指すガーランド。

 山頂では幾多の松明が燃え上がり、近づくたびにガーランドの視界には否応なしにエルマと思われる裸で十字架に磔にされた少女と少女の周囲を囲む男達の姿が飛び込んでくる。

 少女を取り囲む男達の多くは薄汚い簡素な麻の服に身を包んでおり、村民である事が伺われた。

 が、しかし、そんな男達に混じり、一人異様な影があった。

 黒の礼服を身にまとい、シルクハットをかぶった紳士風の男。

 それが誰であるかはガーランドには一目瞭然出る。

 きっと双眸を細めるガーランド。

―ヴァルノミス!―

 内心で叫びながらガーランドは紳士風の男を見やる。

 そこにあったのはガーランドが追い求めた宿敵たる男の一人、ヴァルノミスの姿があった。 

 紳士風に着飾った魔貴族。

 しかし、その外見とは裏腹に残客非道であり、四魔天の中でも特に評判の悪い下劣なるその男はガーランドが最も軽蔑する類の人物である。

 事実、ヴァルノミスの現在の姿はガーランドがかつて見知った時と少しも変わらず、相も変わらず端正なその容貌に反して醜悪であった。

 ドクンとガーランドの心の臓が憎しみに打ち震え鼓動する。

 キッと眼を見開きながら、ガーランドはますます走るその足を進めると一挙に山頂へと至るのであった。

 ガーランドの眼のまえに映るヴァルノミス。

 ヴァルノミスはあろう事か、口元をゆがめては下卑た様な笑みを浮かべ、エルマに魅入っていた。

 つまりはヴァルノミスは隙だらけという事である。

 つまり、今は地上最強たる四魔天へと致命傷を与えうる絶好の好機である。

 ガーランドは勿論、そんなヴァルノミスの隙を逃す事は無い。

 ガーランドの大木の如き両足が力強く収縮する。

 鍛え上げられたガーランドの脚力は常人の比では無かった。

 収縮した筋肉が解き放たれると同時に、ヴァルノミスはまるで風の様にヴァルノミスへと駆け寄っていく。

 駆け寄りざまに、ガーランドの肩に押しのけられるようにして、エルマを囲んだ男達の数人が四方へと吹き飛ばされる。

 そうして、ガーランドは瞬く間にヴァルノミスをその剣撃の間合いに捉える。

 叫びを上げる村民達。

 そんな彼らの嗚咽まみれの悲鳴が上がるのが先か、それともヴァルノミスがその声の先へと振り向くのが先か。

 いずれにせよ全ては一呼吸の間に終わった。

「ヴァルノミスぅぅうううう」

 獣の咆哮と共に闇夜に白刃が煌く。

 白刃はガーランドが振り上げた大剣の軌道である。

 はたと気づいたヴァルノミスの反応は余りにも遅すぎた。

 既にヴァルノミスのその胸元にはガーランドの大剣が唸りを上げて迫りつつある。

 して、転瞬の後に、ガーランドが振り上げた巨大な鉄の塊はヴァルノミスの胸部へと深々と打ち込まれるのであった。

 途端、巨大な轟音が闇夜に鳴り響いたかと思えば、ヴァルノミスの体躯は大きく宙へと舞い勢いよく後方へと吹き飛ばされていく。

 ガーランドの両手には確かな手ごたえがあった。

 ヴァルノミスが異常に気付き、剣撃を放ったガーランドへと眼をやってからは一息の間にも満たない。

 この一瞬の間はヴァルノミスが魔術衣を発現するには微妙な時間であろう事をガーランドは理解している。

 確かな手ごたえを感じつつもガーランドは決して気を緩めることはせず、ヴァルノミスへと注意を払いつつ周囲を見やる。

 周囲にあるのは唖然とした様に口を半開きにする村民達であった。

 唖然とした村民立ちであったが、彼らはようやくこの異常な状況を理解したのか、途端に彼らの顔が真っ青にひきつる。

「ひっ...」

 誰かの口から声が漏れる。

 して。

「人殺しだぁあああ! 」

 誰かが叫んだかと思えば、恐怖は村民達へと伝播していく。

 男達は血相を変えながら右往左往しつつも一目散にガーランドに背を向けると勢いよく丘を駆け下りていく。

 そうしてしばしの後、丘陵の上に残ったのはガーランド、エルマ、そして遥か彼方に飛ばされた仰向けに倒れたヴァルノミスであった。

 ガーランドはヴァルノミスをもう一度一瞥すると、磔に処されその陰部を開け広げにさせられたエルマへと視線を戻し駆け寄っていく。

 あまりにも無様に全身を拘束されたエルマの姿にガーランドは一瞬顔を背けるも器用に荒縄を引き千切り、エルマの拘束を解いていく。

 ガーランドはエルマを磔台から解き放つと優しくエルマを抱きかかえて、そっと草の上に横にする。

 そうして、ガーランドはエルマの所持品たる黒のロングコートをエルマに羽織り、そしてエルマの手首にルビーの腕輪を嵌めた。

 ジッとエルマを見やるガーランド。

 エルマには外傷たる外傷は見当たらず、気を失っているものの寝息は穏やかであり命に別条はない様であった。

 ガーランドはエルマの安否を確認するやただちに踵を返す。

 そうして、ヴァルノミスが吹き飛ばされた先へと視線をやるが...

―何処だっ!―

 先ほどまでヴァルノミスが居た空間には草木が生い茂るばかりで人の姿は見当たらなかった。

 ガーランドには確かな手ごたえがあった。

 が、しかしそれと同時にヴァルノミスが吹き飛ばされる様はあまりにも大仰であったのも事実である。

 チッと吐き捨てる様にガーランドは小さく漏らすと、直感的に左方へと視線をやる。

 周囲で煌々と燃えるかがり火に照らされたそこにはヴァルノミスの姿があった。

 彼はまるで切り飛ばされたのが嘘であるかの様で、何処かおどけた様にその口元を緩めては、黒の礼服にこびりついた土や草を払い落としていく。

「またお前か黒騎士。大事な礼服に傷がついた」

 ヴァルノミス。

 黒の礼服はその胸元を大きく引き裂かれており、その裂かれた礼服の下からは薄っすらとヴァルノミスの青白い肌が露出していた。

 が、しかし、ヴァルノミスには傷らしい傷は見て取れない。

 そんなヴァルノミスは微笑と共にガーランドを見やる。

「黒騎士、アンデットを一人で破ったから面白い奴と思い、命だけは助けてやったが...」

 ヴァルノミスの赤い瞳が殺気立つ様にギラリと光る。

 ガーランドはそれがヴァルノミスの術の前動作と察知して、自らの大剣を前面で構えながら、素早く左方へと飛び退く。

「邪炎、燃え盛れ」

 ガーランドの判断は正しかった。

 ヴァルノミスの声と共に、一瞬前までガーランドがいた空間に突如、炎の柱が上がる。

 青白い炎を上げながらこうこうと燃え上がる炎の柱はそれまで松明に照らされていた薄暗かった丘陵地帯をまるで昼日中の様に明るく照らし出す。

「ほぉ、同じ手は二度は食わないか。それにしても、あの傷、致命傷かと思ったがな」

 今やガーランドもヴァルノミスも互いの姿をはっきりと捉えていた。

 して、ヴァルノミスはムロン村にて彼が放った炎の魔術が穿ったはずのガーランドの下腹部を見やり、首を傾げながら言った。

 ガーランドの下腹部。

 ガーランドが身に着けたプレートアーマーは、その左下腹部を覆う金属部分が熱により歪にひしゃげており大きな穴が穿たれている。

 そんなプレートアーマの下から顔を覗かせるガーランドの逞しい下腹部には熱傷の瘢痕さえ存在しない。

 常人ならば重症というに差し支えない重度の熱傷を受けたずのガーランドには今や少しの傷跡も見て取れないのである。

 ヴァルノミスはそんなガーランドを前に余裕あり気な微笑を浮かべながら愉快そうに続ける。

「くくく、まるで化け物だな、気に入ったぞ。人間の男は好まないが、貴様なら配下にしてやってもいい。どうだ、そこの女を犯せ。そうすればお前も魔化術で俺の眷属に加えてやる」

 ヴァルノミスはその赤い瞳を細める。

 邪悪であるが、何処か魅力的な視線がガーランドを捉える。

 ガーランドはそんなヴァルノミスの視線を受けて、吐き捨てる様に睨みつけると愉悦げに笑う。

「貴様の配下だと? 俺が、四魔天の中で卑怯者と揶揄される貴様の配下に? 冗談も休み休み言え」

 ガーランドの言葉にピタリとヴァルノミスの表情が凍り付く。 

 それまで取り繕っていた様に微笑を浮かべていたその口元は忌々しげにひきつり、その眼もとは大きく見開かれる。

 ヴァルノミスはその赤い瞳を怒りを孕んだ深い朱の色に染めあげながら言う。

「卑怯者だと...この俺が」

 わなわなと震えるヴァルノミスの声音にはそれまでの余裕は見て取れない。

 逆にガーランドは冷静なもので、ますますその口調を強める。

「村人を魔族化させ、少女一人を複数で嬲ろうとした貴様にはお似合いの言葉だと俺は思うがな」

 寡黙なガーランドにしては珍しかった、

 妙に饒舌にガーランドはヴァルノミスを挑発する。

 してガーランドの挑発は功を制した。

「ははっ、まぁいいさ。ならば死ぬがいい人間よ」

 ヴァルノミスは平静を装っているつもりであったが、刺すような殺気がヴァルノミスから迸っているのはガーランドには明らかである。

 冷静さを失えば如何に強力な魔族だろうと、隙が生じる。

 そしてその隙が致命傷となるのだ。

 ガーランドには獣の様な直観力がある。

 その直観力こそがガーランドの最大の武器であると言えるだろう。

 今やガーランドはヴァルノミスの殺気を手に取る様に感じられていた。

 してヴァルノミスが魔術を試行する際に放つ僅かな殺気を察知したガーランドは既に動き出していた。

 ヴァルノミスの最大の誤りは安易な挑発によって怒り狂い、そして最早その怒りをコントロール出来なかった点にある。

「深紅の風刃」

 ヴァルノミスが呟くよりも早く、ガーランドは左前方へと飛び退いていた。

 迸る殺気を具に悟ったガーランドには既にヴァルノミスが魔術を放つより早くヴァルノミスの殺気に反応して反射的に動いていたのだった。

 結果、ヴァルノミスがガーランドへと向けたその指先より放たれた音速の風の刃は一直線にガーランドへと迫ったが寸での所で空を切った。

 一瞬、ヴァルノミスに動揺が走り、ヴァルノミスはその相貌をこわばらせながら固唾を飲む。

 ガーランドは、凍り付いたヴァルノミスに視線を固定し、攻撃をやり過ごした後も、その足を止めることはない。

 ヴァルノミスへと疾駆するガーランド。

 結果、歩を進めるガーランドと立ちすくむヴァルノミスの距離は否応無しに縮まり、そうして気づけば二人の距離はガーランドの大剣二振り分の間合いまで詰っていた。

 ガーランドは大きく体を屈めながらヴァルノミスの懐へ飛び込まんと一歩前へと足を踏み出す。

 踏み出しながらガーランドはその手に持った巨大な剣を大きく振り上げて、袈裟切りの態勢を取った。

 ―あと一歩―

 ガーランドは内心で呟きながら、ヴァルノミスの胸元を睨みつける。

 更に一歩踏み込むガーランド。

 これにてガーランドは完全にヴァルノミスをその剣撃の間合いに捉えた。

 闇夜の中でキラリとガーランドの大剣が白銀色に輝き、そうして、大剣がヴァルノミスの肩元へと振り下ろされた。



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