君が可愛く見えるまで。 (4kibou)
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はじまりの朝。
空気を裂くようなカン高い音で、彼――
「…………眠い」
くあ、とあくびを一つ。大きく口を開けながら、涙の滲んだ瞳をごしごしと擦る。本来なら学生の身分である一夏は、この時間帯にはもう登校していなければならない。それなのにこうして余裕を持ちながらだらけていられるのは、絶賛春休みの最中であるからだ。部活動に入っている生徒なら練習があったかもしれないが、あいにく一夏は中学二年にして立派な帰宅部だった。なので、彼の春休みは実にゆったりとしたものになる。
「――――、」
波のように押し寄せてくる眠気と、起きようとする理性の狭間で揺さぶられながら、至福の微睡みタイムを満喫する。それが密かな一夏の毎日の楽しみだ。この「あともう少し……」という時間がなんともたまらない。出来ればずっと横になっていたくなるが、そうもいかないのが常。アルバイトは受験生になるから止めたとはいえ、彼には姉より一任された我が家の管理という大切な任務がある。掃除、洗濯、自炊、その他諸々。時間は有限。やることは沢山だ。
「…………起き、ないと、な」
独りごちて、のっそりと布団から這い出る。おかしいことに、今日は一段と体が重かった。まだ完全に目が覚めていないからか。そう考えた一夏は、一先ず顔を洗いに洗面所へ足を向けた。とりあえず、シャキッとすればなんとかなるだろう。覚束ない足取りで、ふらふらと廊下を歩く。頭が回り始めてくれば色々な異常にも気付くというもので、何やら変な頭痛がするし、胸のあたりに違和感を覚えた。
『……なんだ? なにか、おかしいぞ……』
ふらりと視界が傾く。
「やば――っ」
バランスを崩したと悟って、咄嗟に壁へもたれ掛かるように倒れ込んだ。どすんと、家全体に響くぐらいの大きな衝撃。受け身も何もあったものではない。じんじんとした鈍い痛みが、肩と腕に残る。起動途中の頭が、何事だと混乱する。異常だ。何をどうしてそうなっているのかは分からないが、これが不味い事態であると、織斑一夏はついに把握した。
「……どう、なって」
指先が震えている。足に力が入らない。それどころか、上手く体を動かすことすら難しかった。今年で中学三年目。十四年間生きてきて、こんな経験は初めてだ。まるで自分の体が慣れ親しんだ自分のものじゃないみたいで――
「あ……?」
ピンと、引っ掛かるものがあった。
「…………違う」
今まで感覚での異常にしか意識がいってなかったから、気にもとめなかった。本来なら真っ先に気付くべき異常。いつもとは異なっている部分。そっと、掬うように、長いソレを手で触れる。姉のものとほぼ同質の、腰あたりまで伸びた髪の毛。
「……違う……」
傷の一つも見えないほど綺麗で細い指。本気で殴れば折れてしまいそうなぐらい華奢な腕。肌はこまめに手入れされたかのような美しい白さ。そのどれもこれもが、織斑一夏のモノと一致しない。自分の目から見えているのに、だ。
「違う……!」
おまけに、胸。そう、胸だ。先ほどから覚えていた違和感。それにうっすらと感付きながらも、そんな筈がないだろうと。恐る恐る、視線を下へと持っていく。己の体の、前面に。
「――――っ!」
ダッと、一夏は勢いのまま立ち上がって廊下を駆け抜ける。走ることは最低限可能だった。ただ、体が言うことを聞かないのは引き続き。壁に当たり、床を転げ回り、至る所にぶつかりながら、それでも止まることなく駆け続ける。
「嘘だ……っ」
すでに息は上がっていた。長い髪の毛が邪魔くさく振り乱れ、かいた汗で肌にべっとりと張り付く。暴れるように走ったせいでどこもかしこも痛い。平時なら今すぐ止まって怪我の具合を確認している。けれどそうしないのは、単に今が平時で無いからだ。
「嘘だ……嘘だ……っ!」
走って、ぶつかって、転んで、勢いを殺さぬまま、跳ねるようにまた走り出す。時間にしておよそ一分にも満たない。たった一瞬の行動。寝室から廊下を通ったそこまでの道程が、今の一夏には遙か彼方ほど遠くにすら思えた。けれども所詮は家の中。歩いてもそこまで掛からない距離なのだから、視界に入るまでもあっという間。
「――――ッ」
掴んだ扉を強引に開いて、洗面所へと踏み入った。近年希に見る全力疾走。ぜいはあと荒れに荒れた息づかいと、大きく上下する肩からその本気度が分かるだろう。見れば膝小僧が笑っている。呼吸を整える暇も待たず、一夏はがばりと顔を上げて、血眼になりながら目当てのものを見つけ出した。洗面台に備え付けられた大きめの鏡。人の上半身ぐらいなら簡単に映せるであろうそれが映したのは。
「…………おい」
一人の少年にとって、とても残酷な現実で。
「なん、だよ。これ……」
どうしようもない事実で。
「なんで俺――女の子になってるんだ……!?」
悲痛な叫びが洗面所に木霊する。今頃になって、その声までもが若干高いことに気付いた。ワケが分からない。何もかもが昨日と違う。この家も、調度品も、着ている寝間着でさえ同じだというのに、己だけが全くの別人だ。脳が理解を拒む。そも、理解など欠片も出来なかった。それは、とある日の朝。静寂な時。空には絵の具をぶちまけたような灰色。ぽつぽつと、雨が降っている――
◇◆◇
なんの運命か、その日は彼にとってもそこそこの厄日だった。
「……雨」
窓から見える外の天気を確認して、ぽつりとこぼした。昨日の夜の予報では降水確率八十パーセント。どう考えても降るだろうな、という考えは嬉しくもないコトに見事的中していた。朝一番で若干嫌な気分になりながらも、切り替えるように伸びをする。
「ん……っ、いたた」
ごきっと、首から嫌な音。反射的に手をやって、顔を顰めながら擦る。どうにも寝違えてしまったようで、鈍痛のような重い感覚が残っていた。
「……なんか、悪いことしたっけ」
お天道様からの罰かと記憶を掘り返してみたが、思い当たるのは精々春休みの宿題に一切手を付けていないぐらいだ。それにしたってこの仕打ちはないだろう。幾らなんでも横暴だ、と本日は顔も見えない相手に向かって愚痴を言ってみる。気持ち、窓を叩く雨の勢いが強くなった気がした。
「……気のせい、だといいけど」
触らぬ神に祟りなし。これ以上考えるのは危険だと直感が告げている。ぶんぶんと首を振って、頭の中身を切り替えた。……もっとも、彼――
「転生なんて、まさか本気でするとは思わなかったし」
なんて言いながらさっさと普段着に着替えた蒼は、そのままリビングに向かおうとして。
「……ん?」
突然のチャイムに、足を止めた。
『誰だろう、こんな時間に。まだ朝の八時半だけど』
この家を訪れる人間は蒼の交友関係的にも酷く少ない。ましてや朝っぱらから押しかけてくるようなことなんて滅多に無いぐらいだ。当然と言えば当然の疑問を抱えながら、はいと返事をして玄関の扉を開けて――
『――――え?』
目の前の光景に、思わず頭がフリーズした。
「――――、」
無理もない。なにせ、そこには。
「…………蒼」
見た事もない美少女がびしょ濡れのまま、一人立ち尽くしていたのだから。
本作は拙作である一夏TSを大幅に改変したモノです。おそらく多分ほぼ別物。クオリティは察してください。
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見知らぬ知り合いの女の子。
どこがどう、と問われたら些か疑問を覚えるが、見た目に関してはおよそ普通。せいぜい身嗜みに気を遣っていないせいで損をしているぐらい。性格はゆるめ。怒鳴り散らすことはないが、かと言って怒らない訳でも無い。人並み、平凡、素朴、地味。特別な部分は証拠も何もない自身の経歴のみ。そんな上慧蒼にとって、目の前の美少女はとてつもなく眩しかった。
「――――、」
純粋に見とれる。雨も滴るいい女、という表現がここまでしっくりくる光景を、蒼は二度の人生を経て初めて目にした気がした。息を呑む。鼓動が早い。年相応の劣情を抱くよりも前に、ただその美しさに射貫かれる。――と、そこまで黙っていた少女がぼそっと口を開いた。
「…………蒼」
「え」
どうして、自分の名前を? そう問いかけるより先に向こうが動いた。がばりとそのまま掴み掛かってきて、ぎゅうっと両腕を握られる。更には強い力で引っ張られて、体勢を崩したところに顔が迫っていた。突然の行動。完全に意識がその場から旅立っていた蒼に反応することなど出来る筈もなく。
「ちょ、な、あの……?」
「蒼……! 俺、俺……!」
ぐっと、少し動けば触れそうなぐらい近くなる。目の前で見るとよく分かった。澄んだ瞳、綺麗な黒髪、きめ細やかな肌。そりゃあ目を奪われて当たり前だ、なんて一人で納得する。ともあれ、悠長に彼女を見ている訳にもいかない。日常生活に支障が出ないほどには女性が苦手である蒼にとって、今の状況は大変よろしくないのだ。正直言って頭の中は大混乱。どうしよう、というかどうなってるんだこれ、という疑問が回答もされずに尽きること無く沸いてくる。
「その、君は……?」
「俺は――ッ、俺、は……」
彼女は言いかけて口を噤み、きゅっと唇を噛みしめた。気のせいか、腕を掴む力がどんどん強くなっている。こんな朝からの来訪、雨の中傘もささずに来たのだろう。着ている衣服はずぶ濡れで、しかもよく見れば靴すら履いてない。ただ事では無い、というのは直感で察した。ならば、一先ず。
「……まあ、それは後でもいいのか。とりあえず、良ければ上がって――」
「…………か」
「……か?」
俯きながら、ともすれば雨音にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、少女が一言呟いた。少し考えて、辛うじて聞き取れた一音をそのまま繰り返す。
「……いちか」
「いちか、……いちかって。えっと?」
「だからッ」
ばっと、少女が勢いよく顔を上げる。頬に伝う雫は雨によるものか、それとも彼女の涙なのか。恐らく初対面である蒼にはそれすらさっぱりだ。どうやっても他人のことなど分からない。自分のことすら事細かに知り尽くしてもいないのに、自分以外なんて以ての外である。それでも、潤んだ瞳と震える声を聞けば、相手がどんな心持ちかなんて理解できてしまう。
「一夏、なんだよ……!」
「……いや、意味が」
「俺が……俺が、織斑一夏、なんだ……!」
「――それって」
一体全体、何が起きているのか。朝から既にキャパシティは限界に近かった。唐突すぎる展開についていけない。しかしながら現状、一つだけ言えることがあるとすれば。
「……とりあえず、上がってほしい。玄関で立ち話って言うのも、あれだろうし」
そんな彼の一言に、一夏を名乗った少女はぽかんと呆けた表情で答えた。
◇◆◇
「朝起きたら、その姿になってた……?」
「ああ。もう、何が何だか」
場所は移ってリビング。テーブルを挟んだソファーに腰掛けながら、本気で頭がどうにかなりそうだ、と彼女は手で額を押さえる。その動作はたしかに女子というには男らしく、口調もまた同様だった。本当に、己の記憶の織斑一夏と重ねても違和感が無い。一夜にして性別が変わる。にわかには信じがたいが、生き証人と思われる人物が目の前に居るのだ。ふむ、と珈琲を口に含みながら知恵を絞って、試しに。
「ちなみに、一応聞いておくけど」
「ああ、なんだ?」
「修学旅行で測った弾のアレのサイズっていくつだった?」
「なんで今そんな話……たしか十二センチと二・五ミリだろ」
女子なら先ず引くような質問に、恥ずかしげも無くしれっと答える。蒼は確信した。
『間違いない。彼女、本物の一夏だ』
大前提として、誰得であろう五反田弾の男性器のサイズを知っている人間など決して多くない。その中でも修学旅行と限定すれば、片手の指で足りるぐらいだ。まあそれ以前の問題として、誰かが一夏を名乗ってなにをやるにしても、わざわざ性別を変える理由が見当たらない。
「よし、なんとなく分かった。いや、殆ど分からないけど」
「蒼……」
「つまり、君が一夏って事なんだろう。……未だにちょっと信じられないけど、でも、そうなら仕方ない」
頷いて、蒼は一夏の方を向いた。
「……信じて、くれるのか?」
「ああ、もちろん」
「性別、変わってるんだぞ……?」
「…………そういう事も、世の中あるんじゃないか?」
自分のような存在が居るワケだし。
「あるはずないだろ!? 蒼は聞いたことあるのか、ニュースとかで、ヒトの性別が突然変わったって!」
「それは無いな。一度も」
きっぱりと、何でもないように蒼が答える。その言葉にがーっと食らいつくのが絶賛余裕を無くしている一夏だ。
「だよな!? そうだよな!? 俺だって聞いたこと無かったよ! それがなんの間違いでこうなるんだ! なあ、教えてくれよ、蒼!」
「それは俺だって知りたい……」
がくがくと肩を掴まれて揺さぶられながら、蒼はひとつ思い至って問い掛けた。
「そういえば、一夏」
「なんだよっ」
そう返してきた一夏の息は上がっている。彼――もとい彼女の肌を伝う雫は雨に涙に汗も加わり、既に密着した蒼の服までをも巻きこんでいた。今更ではあるけれど、玄関からリビングまで直行したため、一夏の状態は外に居た時とさほど変わらない。人生初になる同年代ぐらいの異性を家に引き込むという事態に焦っていたとはいえ、もう少し気を配れなかったものか。自身の失敗を貶しながら、気になっていた質問を投げかけた。
「どうして俺のところに来たんだ。自分で言うのもなんだけど、あまり力になれそうも無いぞ」
「蒼の家が一番近いだろ、そういうことだ」
「……随分と切羽詰まってたんだな」
大体、誰かを頼るというのなら適役はそれこそ彼の一番身近な存在だ。織斑千冬。有名なIS操縦者であって、目の前の友人の姉。普段は家を空けていて居ないらしいが、弟の危機とあらば飛んできそうなところがある。厳しくしても家族は家族、というものだろう。
「仕方ないだろ。焦ってたし、携帯なんて探してる余裕もなかったんだ」
「……気持ちはなんとなく分かるけど」
もしも自分が朝起きて女の体になっていたら。想像して、一夏には悪いけど体験は遠慮したいな、と切に思った。
「――っくしゅ。う、寒……」
「濡れたままだからだろう。……先にそっちの方をどうにかするべきだったな。ごめん、気が利かなくて」
「いや、別に、そんなこと」
「着替えとかは適当に用意するから、お風呂、使ってくれ。……心配しなくても覗きとかはしないから」
「心配も何もな……、ああ、今は女の子だったな、そういや、そうだった……」
がっくりと肩を落とす一夏を尻目に、蒼は一旦リビングを出た。一夏の着替えにジャージでも出しておくか、と階段に足をかけて、ついでのような感覚で玄関に続く廊下を眺める。当然のごとく床には水。ここだけでなく、先ほど座っていたソファーにまで繋がっているのは想像に難くない。
「……こっちも掃除しとかないと」
そう言って、彼は自室のある二階に続く階段を上り始めた。
五反田くんの五反田くん渾身の大活躍。
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少しの休息。
上慧家は住宅街の一角に建てられた、二階建ての一軒家である。敷地の大半を担う家屋に、申し訳程度の庭と車二台分の駐車場。中学生が一人暮らしするには少し大きめの、家族で過ごすことを前提に造られた大きさだ。もっともこの家の主は今や上慧蒼ただ一人。彼の両親は仕事の都合で長らく離れており、顔を合わせたのはもう随分前になるらしい。家に中学生が一人、というのは些か不用心ではあるが、そのあたりは近所の奥様方の協力もあってなんとかなっている、とは蒼の弁だ。条件だけなら一夏も同じようなものだが。
「風呂場は……たしか、ここだったっけ」
良くも悪くもそういう状況だからか、蒼の家は一夏を含めた友人達の間で気楽に集まれる場所、という感覚があった。無論一夏自身も、お邪魔したのは今日が初めてでもなければ少なくもない。大体の間取りはなんとなく覚えている。
『おお、当たりだ。……なら、さっそく』
開けたドアをぱたりと閉めて、一夏はぐいとシャツを捲った。平時とあまり変わらない友人の顔を見て少し落ち着いたが、そうなると濡れたままの服の気持ち悪さに意識がいく。放っておくと風邪も引いてしまいそうだし、風呂と着替えを提供してくれたのは素直に感謝しかない。
「ん……? なんか、うまく脱げない、な……」
こう、なんというか、何かが引っ掛かる。
「よっ……ふんっ……なん、でだ……っ」
もぞもぞと身じろぎしながら、服を強く引っ張ってみる。それでもなかなか上手くいかない。おかしい、いつもなら勢いでぱっと脱げるのだが。そんな疑問を浮かべながら死闘数分。やっとのことでシャツを脱いだ一夏は、ちょうど横にあった室内の鏡を見て――
「あ……」
一連の流れの理由を、あまりなく知り返してしまう。
『……そうだ。俺、今、女の子の体なんだった』
つい先ほども蒼の居る前であったことだ。完全に理解していて、これは夢じゃないと分かっていたとしても、だからと言って認識が綺麗に切り替わりはしない。昨日までの十四年間を男として生きている。それを何の前触れも予告もなくいきなり性別を変えられて、すぐ対応できるほど一夏の精神は強くなかった。
「……肌、白いな」
目に見えるところで相当だった。隠されていた部分は、新雪を思わせるほど白い。腰まで伸びた長い黒髪がそれによく映える。ぴたりと触れた肌が、すべすべとした手触りを返してくる。男の自分と比べれば枝のような腕。おまけに細いくびれと、二つの大きな胸の膨らみ。こんな姿が己のものだと認めたくもないのに、鏡に映っていては認める他ない。
「これが、俺、なんだよな……」
ごくっと唾を飲みこんで、恐る恐る鏡へ近付く。じっくり見た感想としては、なんとなく千冬姉に似ている。髪の質感なんてそっくりだ。でも気持ち、顔は柔らかい感じ。分からないけれど、たぶん、普通に可愛い……と思う。自分で自分の容姿を評価するというなんとも言えない行動に、一体何をやっているんだろうと苦笑する。俯くように一夏は視線を下げた。すると当然、視界にはそれが入る。
「――っ。……これ、どうにかならないのか……?」
頬に熱が集まるのを実感しながら、そっと目を逸らす。混乱する頭では邪魔程度にしか思わなかったが、これは凶器だ。圧倒的凶器だ。一夏とて性欲がないワケではない。たしかにそういう気持ちを抱いたこともある。そも、一夏であろうがなかろうが、性欲の盛んな男子中学生にとっては平等に凶器だ。
「……っ」
そっと、手を持ち上げる。悪いことはしていない筈なのに、どうしてか嫌な緊張感があった。そろりそろりと、一夏は掌を自分の胸に――
「一夏?」
扉越しに、蒼の声が聞こえた。
「――ッ!」
びくんと肩が大袈裟に跳ねる。不意を突かれた。慌てる。ばっとその手をなによりも早く元に戻す。なるべく平静を装って、一夏は声を返した。
「な、なんだ? 蒼」
「今、入っても大丈夫か?」
「え、えーと……ああ、その。一応、脱いでる途中なんだ」
「――そうか。なら、着替え、ここに置いておくから」
「お。おう。……サンキュー、助かった」
「ん。じゃあ、ゆっくりしていってくれ」
言い終わると、微かに聞こえる足音が遠ざかっていくのが分かった。いつも通りの平常心。どんな時でも普通の自分。どうして自分が真っ先にここへ来たのか。近いからというだけでなく、他の理由もあっただろう。それが一夏は、なんとなく分かったような気がした。
「……お風呂、入るかあ……」
きっと、落ち着かなければという考えの折、彼を想像したのだろう。
◇◆◇
どうにか体を意識しないように軽くシャワーを浴びて、用意してもらったジャージを着ながらリビングに戻ると、蒼は奥のキッチンに立っていた。
「あ、上がったのか。今から珈琲淹れるんだけど、一夏もどうだ?」
二杯目になるけど、と指をたてる。
「あー……いいのか? そこまで」
「そこまでも何もついでなんだ。気にされる方がむず痒くなる」
「……なら、もらうよ。本当サンキューな」
だからむず痒いって、なんて言いながら彼はインスタントの珈琲を手早く用意し始める。
「砂糖とミルクは?」
「飲みやすいぐらいで」
「了解」
てきぱきとした動きは、いつも作っている賜物か。上慧蒼が珈琲をかなりの頻度で飲むというのは、彼を知る人物の間で周知の事実だ。さすがは愛飲家、と感心しつつ一夏はソファーに座った。
「ところで、少しは落ち着いてきたか?」
「ああ、ちょっとは、まあ。……本当にちょっとだけ、な」
「なら良かった。ちょっとでも、マシになったのならそれで」
「そうか? ……そうだな。うん、そうだ」
言い聞かせるみたいに繰り返して、ひとつ頷く。ちょうど準備も終わったのか、蒼がマグカップを二つテーブルに置きながら対面に腰掛けた。淹れたてのそれはゆらゆらと湯気が立っている。一度冷えきった体には心地の良い暖かさ。手に取って運ぼうとすれば、あ、と蒼が声をあげた。
「しまった。こういう時は紅茶とかの方が良かったかな」
「……紅茶でも珈琲でも一緒じゃないか?」
「いや、前どこかで、紅茶にはリラックス効果があるとか読んだんだけど。どうだったかな。……まあ、うちに紅茶なんて置いてないんだけど」
「なら気にすることもないだろ……」
それもそうか、と呟いて蒼は珈琲に口をつける。相変わらずというか、なんというか。本当にいつも通りで今はとても安心する一因だ。やっぱり、ここを選んだのは間違いじゃない。ゆったりと体重をソファーに預けながら、ほんの少しだけ笑う。
「……一夏」
「ん? なんだよ」
ふと、持っていたマグカップを置いて蒼が口を開いた。よく見れば少し顔が赤い。
「それ、凄く心臓に悪いから勘弁してほしい」
「それって……どれだ?」
「だから、今みたいに、こっちを見ながら笑うの。……今の一夏、かなりの美少女なんだから」
「そう言っても……。というか、なんだ。反応に困るんだが……」
あ、でも、今の表情は珍しかったな、と友人の滅多に見ない光景に若干驚きながら、一夏は困ったように頬をかく。いくらなんでも笑ってしまう時は笑ってしまうだろうし、仕方がない。ましてや気楽に話せる友人の一人だ。これからも一緒に居る時間はあるだろうし、流石に難しいだろう。
「なら、どうにかしよう」
「どうにかって……どうやって?」
「それを今から考えるんだ。とりあえず一夏。なにか、こうなった心当たりとか、ないのか?」
「心当たり……って言われてもなあ」
一先ず記憶を掘り返してみたが、特に何も思い当たらない。今朝に突然、というのが一夏の認識だ。変わったことをした覚えも、悪いものを食べた記憶も、一切無いのである。
「なんでも良い。些細なことでも」
「…………いや、悪い。本当にない。昨日もいつも通りに過ごして、きちんと戸締まりもして寝たはずだ」
「……じゃあ、何が原因でそんなことに?」
「それが分からないから俺も混乱してたんだって……」
はあ、と大きくため息をつきながら、がしがしと乱暴に一夏が後頭部をかく。それを見た蒼は、いきなり目を見開いて。
「一夏、ストップ」
「え?」
ぐっと、吐息が重なるほどの至近距離まで近付いた。
「お、おい? 蒼? お前なにを……」
「いいから、動かないでくれ」
「いや待て、早まるな。頼むから、あの、その……あれだ。俺は男だぞ? うん、男だ。織斑一夏だ。だからほらちょっと少し考え直せ――!」
制止の声も聞かず、蒼は容赦なく一夏へ迫る。わたわたと必死に遮る手を掴んで止め、じっと何かを睨むように見ながら、ゆっくりと詰め寄る友人の姿は得体の知れない危機感を募らせる。
「蒼、お前、なんでこんなっ」
「――動くなって言っただろう」
一際低い声で囁かれて、一夏は思わず固まった。違う。いや、何が違うって、こんな蒼はなんか違う――! そんな思いは当の本人に届かず。彼はそっと一夏の首に触れて、小さく頷いた。
「やっぱり」
「――は、い? やっぱり、って……」
「うん、そうだ。ここ」
ぺりっと、蒼が首から何かを剥いだ。
「うさぎの絆創膏と、これは注射の跡っぽいな。……大体誰がやったのかは、見えてきたんじゃないか? 最初からなんとなく察してはいたけど」
「き、気付かなかった……シャワーまで浴びたのに」
「確定ではないけど、恐らく一夏をこうしたのは……」
と、まるでその先は言わせんとばかりに着信音が鳴り響く。蒼の携帯だ。ポケットから取り出して、液晶に映る文字を見た。――篠ノ之 束。
「これって……」
「大当たりじゃないか。ところで一夏」
「ん? まだなにかあるのか」
「電話、代わりに出てくれないか? 俺この人苦手なんだ」
「……お前の携帯にかけてきたんだから、そうもいかないだろ」
だよな、と肩を落として、彼は通話ボタンを押した。
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天災の語る事件内容。
『もしもし、ワタシ束さん。今、あなたの部屋を隠しカメラで覗いてるの』
「……不味い一夏、俺も被害者だった」
「ええ……?」
通話を繋げた途端にもたらされた思わぬ情報に、蒼はちらりと室内を見回しながら肩を落とす。一夏の事態をなんとなく把握した瞬間、まあ、恐らくなにかはやっていてもおかしくない、という直感が彼の中にはあった。図らずもそれは的中してしまったワケだが、個人的には一切嬉しくない。というより、本当にどこにあるんだろう、と蒼は首をかしげながら携帯に向かって。
「篠ノ之さん」
『
「……盗撮は犯罪ですよ」
『ぶーぶー。いけず。これもそれも全部蒼くんが私と顔を合わせてくれないのが悪いんだからね! あ、寝顔は可愛かったよ~、えへへ。こいつは束さん一生の宝物だぁ……』
「――――」
蒼の顔に僅かながら残っていた表情が死んだ。前述のとおり、彼は電話の相手――希代の天才もとい“天災”篠ノ之束を苦手としている。それは彼女の対人スキル的な問題とか、彼自身の女性に対する苦手意識だとか、そういうものを抜きにしても色々とあったりするせいなのだが、それはまた追々。とにもかくにも、蒼としては今すぐ通話を切りたい気持ちでいっぱいだったが、側で成り行きを見守っている一夏のためにもそうはいかなかった。衝動的なナニカをぐっと堪えて、ひとつ深呼吸。
「篠ノ之博士」
『あれぇ!? さっきより距離感が離れてない? ちょっと蒼くん~? お姉さんをからかっちゃダメなんだぞ~?』
「………………ええ。それで、一体どういうことか、説明してもらえませんか」
『つれないなぁ、数年ぶりの会話だっていうのに』
ぶつくさと電話越しに文句を垂れる束をよそに、蒼はほうと盛大なため息をついた。がっくりと肩がこれでもかと下がる。会話時間はおよそ一分にも満たない。まとめれば二言三言交わしたぐらいだ。だというのに、かつてない大きさの疲労感を、彼は現在進行形で覚えていた。そんな中、一夏はというと。
――すげえ、蒼がむくれてる。
なんて、結構どうでもいいところに着目していたりする。実際この男、転生してからこの方、怒ったことが両手の指で足りるほど、という周りから見れば超特異人物だった。それもその筈。元来人と接するのが苦手でマイペースのきらいがあった彼は、一度目の死を切っ掛けに半ば悟り気味の思考回路へワープ進化。真のさとり世代とは俺のことだ、と名乗り上げていいぐらいである。閑話休題。
『じゃあじゃあ、ひとつだけお願いがあるんだ。聞いて蒼くん』
「なんですか」
『“愛してるぜ、束”ってさっきいっくんにやったみたいな声で言って欲しいな~』
「すいません、ご要望にはお応えできません。では失礼します」
完全に事務的な対応だった。蒼は躊躇いなく通話終了のボタンを押すと、何事もなかったかのように一夏の方へ顔を向けて。
「無理だ一夏。俺にはちょっと荷が重い」
「……蒼でも怒るコトってあるんだな」
「当たり前だろう。俺のことをなんだと思ってるんだ」
そんな聖書に出てくるような聖人でもあるまいし、なんて言いながら蒼は握っていた携帯をテーブルの上に置いた。一対一での意思疎通は不可能である。主に“こちら”と“あちら”の感覚がズレすぎていて会話どころの問題ですらない。かといって、篠ノ之束との連絡をすっぱり絶つという選択肢も蒼の中にはなかった。皮肉なことに、彼女が仕組んだことは彼女以外の殆どが対応できないのである。故に天災、と呼ばれるのだが。
「スピーカーにする。一夏、その状態で悪いけど、ごめん。手伝ってくれ」
「え。でもお前、さっき思いっきり電話切って――」
「愛してます篠ノ之博士」
物凄い棒読みだった。しかし。
「うおっ!? 超早えな!」
「……なんで俺、この人に好かれてるんだろう……」
初めて会った時は存在すら無視されたのになあ、なんて呟きながら、ぱちりと再度通話ボタンを押した。
◇◆◇
束の言い分はこうだった。
『いやー束さんってばふとした思いつきで行動しちゃうところがあるからねそりゃあやっちゃうともそうともっていうことで先ず移動用のニンジン型ロケットでいっくんの家にひっそり降り立って束さん渾身のピッキング技術により潜入&お注射! その後タクシーで蒼くんの家まで来たあとに約五十カ所に隠しカメラを設置&寝顔鑑賞! そうして乗ってきたロケットでダイナミック帰宅ってことだよ! あ、あとでカメラ配置図はメールで飛ばすから気に入らなかったら処分してねー』
とまあ、なんとも反応に困る説明。一先ず蒼はほっと胸を撫で下ろし、一夏はさらに頭を抱えた。なにせ肝心の行動理由が思いつきである。どうしろというのか。どうにもならない。
「ちなみに、注射の中身は」
『見てのとおりだよ? いっくんが美少女になっちゃうお薬。もとい性転換剤。製法は秘密だよ、なんたって口にしたらいっくんがぶっ倒れるようなものも使ってるからね!』
「……篠ノ之さん。それ秘密にした意味が無いです」
一夏の顔からさっと血の気が引く。気持ち悪いなら吐いてきたらいい、と蒼がジェスチャーでトイレの方を指すと、しばらくしてぶんぶんと首を振った。どうやらまだ限界ではないらしい。隠されると気になるのが人の性と言うが、この時ばかりは蒼も一夏も知りたいとは一ミリも思わなかった。
「……あの、束さん」
『ん? なんだい、いっくん。女の子の姿、実に似合ってるね!』
「いえ、ありが……いやそもそもお礼言う場面じゃねえだろコレ……じゃなくて。はい、色々と言いたいことはありますけど、そこは置いておいて……」
ごくりと、唾を飲みこみながら。
「――これって、元に戻るんですか?」
それは、一夏にとって、もっとも重要な部分だった。一連の事態に陥って、一番聞きたかったこと。何がどうなっているかという現状把握より、ずっと気になっていたこと。女の子の姿になっただけならまだ良い。良くないが。それでも一応は、なんとか、頑張れば許容範囲内で収まるかもしれない。多分。――けれども、一生このままだったら?
「――――っ」
想像して、一夏はぞっとした。このまま、文字通り死ぬまで、女として生きていかなければならなくなったら。そんなの自分には到底耐えられそうにない。十四年間男として生きてきたのだ。今更性別が変わりましたこれからそれで過ごしましょう、なんておかしいにも程がある。どうか、それだけは、勘弁してくれと。祈るような気持ちで待つ一夏に、束はああと答えて。
『うん、戻るよ、ただし一年後』
「い、一年後……?」
『そう。一年経てば綺麗さっぱり男のいっくんに元通り。今はないアレも、今だけあるソレも、全部チェンジってことさ。……まあ、無事で居られたらだけど』
「…………嫌な予感がする」
ぽつりと蒼が呟いた。一夏としても同じ心境である。なんせ、向こうは篠ノ之束。女性専用パワードスーツ、インフィニット・ストラトスの制作者。希代の“天災”、世界を根底から変えた人間。ただ性別を変えるだけ。それで満足するような相手じゃないのは、二人とも分かりきっていた。
『そうだねぇ。簡単なところだとキス。もっといくのならゴム無しでのエッチ。自分の意思であろうと無かろうと、男の人とそれをやっちゃったら――』
「たら……?」
『――晴れていっくんは女の子として生きることになるよ』
天災は、いつもより静かに、くすくすと笑いながらそう告げた。
◇◆◇
これが、物語のはじまり。なんでもない春の一日、雨が降る朝に起こった、ありえないような事件の内容。
彼らの関係が決定的に変わる、およそ数ヶ月前の出来事である。
知人からリメイクは人気でないからゆっくりやれると聞いて軽く構えていたのですが、想像以上の方に読んでいただけているようで困惑しております。おかしい、更新速度を落とすつもりだったんですが(白目)
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彼のカラダ事情。
束から送られてきた隠しカメラのマップを見ながら、蒼は最後の一つと思われるものをカチリと取り外した。そのサイズは多機能付きとは思えないほど小さい。驚くことに、親指と人差し指で軽くつまめる程度。一体この中身はどうなっているのだろう、なんて考えながらカメラをゴミ袋へ放る。
「うん、これで全部みたいだ」
「やっとか……かれこれ三十分は経ってるな」
束さんもよくやる、と一夏は疲れを滲ませながら笑った。それに本当だよ、と返しながらゴミ袋の口をきゅっと縛り、一先ずは一旦放置。処分とかも向こうでしてくれないか、と一瞬考えたが、もう一度束と会話をするという必須条件に蒼は苦い顔をした。明日明後日ならともかく、今日は二度と御免だ。起きて間もないというのにベッドへ逆戻りしたい気分になる。
「付き合わせてごめん。でも助かった、一夏様々だ」
「いいって、俺も動きたい気分だったし。……本当、動いて気分誤魔化さないとやってられねえ……」
「……ご愁傷様」
束からもたらされた情報で、一夏が女のまま元に戻らないワケではないと判明したが、同時に戻らなくなる可能性もあり、さらに戻るにしても結局一年後ということだ。たかが一年、されど一年。何事もなく終わるつもりだった中学校生活最後の一年は、始まる以前にして波乱の事態を迎えたのである。そんな風に未来への不安に頭を抱える友人を見て、蒼はよしと勢いよく立ち上がった。
「一夏。朝ご飯、もう食べたのか?」
「……あ、そういえばまだだ。そもそも、そんな余裕起きた時は無かったし」
「なら俺が作るよ。カメラ外すの手伝ってくれたお礼だ。ちょっとそこで寛いでてくれ」
「おう。……なんか、悪いな」
恥ずかしそうに頬をかく一夏が一瞬別人のように思えて、蒼の肩がぴくりと跳ねた。自分の魅力を分かっていない人間とは、こうも視覚に暴力的なものか。まったくだから心臓に悪い……とため息をつきながら、キッチンに向かおうと踵を返して。
『――あれ?』
がくんと、足から力が抜けた。
『あ、まずい』
直感的に悟る。上慧 蒼はたしかに別世界からの転生者であるが、だからと言って特殊な能力もなければ特別な才能を有しているワケでもない。正真正銘ただの凡人。火に焼かれれば燃えるし、水に流されたら溺れるし、雷に打たれると感電する。ネット小説にありがちなチートなんて以ての外。そんな彼はむしろ逆に、転生前よりも肉体の性能が落ちていた。
『貧血で倒れるとか、何時ぶりだろう』
前世の彼はすこぶる健康体だった。不規則な生活、偏った食事、栄養ドリンクの過剰摂取。無理ができるのは若いうちだけ、と言うが、にしても無理をしすぎていた。そのくせ風邪はおろかインフルエンザにも罹らずぴんぴんとしていたのだから、人の体とは不思議である。ただ間違いなく断言できるのは、今の体でそれをやったら確実にぼろぼろになるということだ。
『ダメだ、もう、意識が――』
ふわっと奇妙な浮遊感。すっと何かが手元から離れていく感覚。前が見えない、力が入らない、自分が今どういう状況かも判断できない。まるで積み上げたジェンガを壊すように、蒼はあっけなくその場で崩れ落ちた。
◇◆◇
どすん、という重たい音がして、一夏はなんだろうと振り向いた。
「――――え?」
見ればそこに、先ほどまで話していた友人が倒れていた。つい五秒も前まで何事もないように立って歩いていたのに、だ。一瞬、目の前の光景を一夏は理解できなかった。あまりに唐突な出来事に、脳が許容するまで時間がかかる。
「な、あ、は……?」
カチカチと、どこからか時計の針が動く音。二人しかいないこの家は、必然的に二人の会話がなくなればとても静かだ。倒れたのなら痛いの一言でもあって良いようなものが、蒼はそれすら発さなかった。それがどういう意味かを、一夏はなんとなく理解しながら。
「……蒼?」
恐る恐る、名前を呼ぶ。
「おい、蒼。……寝てるのか? 風邪引くぞ? 蒼。……蒼、なあ、おいって」
返事はない。それどころか、指一本動かすこともない。――まるで死んでるみたいに。
「――ッ!」
最悪の想像がかき立てられて、一夏は反射的に駆け寄って彼を抱き起こした。
「蒼! おい、大丈夫か!? 返事してくれ、頼む、蒼!」
「…………、」
ぴくりと瞼が動いて、ゆっくりと目が開く。
「だ、大丈夫か? 蒼、怪我は? 気分は? どこか痛いところとか」
「…………君、誰だ」
ぼんやりとどこか虚空を見詰めるような眼差しを向けながら、蒼は呟いた。がつんと、ハンマーで側頭部を殴られたような衝撃。少しの希望が見えてきた一夏にとって、その一言はよく効いた。事態を共有していた現状唯一の理解者が、まさか一時間もしないうちに記憶喪失とは――!!
「お前、記憶が……っ!? 嘘だ、ちょっと待ってくれ、なあ、蒼。お前が俺のことを忘れたら今の俺は一体どうやって一年間過ごせば良いんだ!?」
「……ああ、いや、今の一夏は、その見た目だった」
今日初めて見たのだし、起き抜けにそういう反応をしてしまっても無理はない。蒼はしぱしぱと数度まばたきしてから、ふうと短く息を吐いた。それから一夏の顔を見て、軽く笑いながら。
「ごめん、朝ご飯はもう一時間待ってくれ。ちょっと今はまずい」
「蒼、えっと、大丈夫なのか?」
「そりゃあ、まあ。ただの軽い貧血だし」
「いやお前思いっきりぶっ倒れてたぞ!?」
どこが軽いんだどこが、と呆れながら一夏が言う。昔から人前で弱いところを見せようとしないからか、彼のこういう姿は珍しい。実際問題、蒼としては周りに迷惑をかけないようにと過ごしてきたのだが、まあ、別に隠していたことでもないし、と。とりあえず平気だからと一夏に笑いかけた。
「朝はちょっとダメなんだ。いつも三十分ぐらいゆっくりしてるんだけど、今日はそれを忘れてた。一応、こういうの初めてでもないし」
「……そんな話聞いたことないぞ」
「前、一年の頃、一回遅刻したことがあっただろう? あの時なんだけど、実は朝起きてご飯作ってたら、そのままキッチンで倒れてて」
小学校高学年ぐらいからマシになってきて油断していた、と言う彼の表情は素直に過去の失態を恥じているようだった。一夏と蒼の付き合いは意外と長い。それこそ最初はまだ幼い頃にまで遡る。だがしかし、きっとこいつの事なら大抵は把握していると思っていても、知らないことはあるのだ。
「……もういい、蒼は座ってろ。ご飯は俺が作る」
「いや、でも」
「問答無用。……ったく、そういう事情はもっと早く言ってくれ」
主に俺が男だった時とか、とこぼす一夏。
「ごめん、そんな状態なのに、本当迷惑かける」
「謝るならもう無理しないでくれ。……まあ、それはともかく、料理自体は嫌いじゃないからな。何もしないよりは、気持ち楽なんだ」
そう言いながら、一夏は爽やかな笑顔を浮かべた。無論、例に漏れず、破壊力は抜群だった。いかん、これは紛うこと無き美少女だ。女性耐性の少ない蒼にとっては真面目に心臓の危機である。
「……分かったから、そういうの、勘弁してくれ、本当に」
「?」
こてんと首をかしげる一夏。それを見ながらまあ、仕方ないか、なんて呟いて、蒼はなんとか自力で立ち上がる。足は意外としっかり床を踏みしめてくれた。この分だと、余程の無理をしない限り大丈夫そうだ。
「一応聞くけど、平気なんだな?」
「うん。もう倒れることはない、と思う」
「なら良し、だ。さ、ご飯だご飯」
「……ああ、冷蔵庫の中身、好きに使ってくれて良いから」
了解、と返して、一夏はキッチンへと向かった。
本当はもう少し先で一区切りなのですが、長くなりそうだったので泣く泣く次回に。
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遅めの朝ご飯。
ソファーにゆったりと体を預けながら、キッチンに立つ一夏を見た。朝食だからそこまで凝ったものは出さないだろうが、何を作るにしても材料は十分にある。昨日買い物しておいて良かった、と蒼はひっそり息を吐いた。やはりというかなんというか、自覚すると辛くなるのが人間というもので。先ほどまで屁でも無かった筈なのに、今はなるべく動きたくないと思うくらいの怠さに包まれていた。
「あっさりしたものの方が良いか? 軽めのやつとか」
「別に、なんでもいいよ。食欲はそのうち湧いてくるだろうから」
「……ちなみに、今は?」
「少し待って欲しい、かな」
ダメじゃないか、なんて呟いて、一夏はがくっと肩を落とす。自分の思っている以上にまずそうな友人の状態を見て、本気でこいつは今日まで隠して生きてきたのかと恐ろしくなる。とはいえ、不思議なことにいつも変な余裕を持っているのが彼という人物だ。数分も経てば案外、けろっとしているかもしれない。適当に考えて、ちらりと蒼の方を見やる。
「……顔色悪いぞ、本当に大丈夫なんだよな?」
「大丈夫、これくらいは平気だ。気にしないでくれ」
「…………、むう」
気にしないでくれと言われても、気になるものは気になる。それが友人の体調に関するものであれば尚更。無視して好き勝手できるほど一夏は冷たい性格をしていなかった。かと言って何時までも心配していては、肝心の料理の方もさっぱり進まない。まあ、座ってる分、倒れる心配が無いからマシだろう、と無理やり割り切って、一夏は袖をぐいと捲る。
「蒼、魚とか大丈夫だったよな?」
「あ、うん、もちろん。……そうだ、エプロンが要るなら、食器棚の脇にあるから」
「ん、サンキュー。まあ、そこまで汚さないとは思うけど」
言いながら一夏はぐるりと辺りを見回して、目についたエプロンの元へ近付く。この友人が意外と家事のできる少年だということは、クラスでもあまり知られていない。よく話す共通の友人である五反田弾や御手洗数馬あたり、あとは去年まで居た凰鈴音も含まれるかと言ったところ。が、一夏自身が家事もできる美少年だということは、クラスの垣根を越えて全校にまで届くほど有名だ。
「ちなみに、献立は……」
「魚と野菜とお吸い物、ってところだな。まあ、無難に」
「……そうか、それは、うん。なんとなく、一夏らしいな」
「なんとなく、ってなんだよ」
「さあ。なんとなく、じゃないか?」
だからそれがなんだよ、と一夏は呆れつつも笑う。精神状態はいまだ安定とは言い難いが、起きた当初と比べれば随分と復帰した。所々あやふやではあるが、事態のあらましも理解はできている。自分が今どういう状況なのかも、それなりに分かっているつもりだ。その上でいつも通りに振る舞っていられるのは、やはりこの“いつもと変わらない”友人によるものが大きい。
「――っと、あれ?」
「……一夏? どうか、したのか」
「いや……大したことじゃ、ないんだけ、ど」
おかしいな、と一夏が呟く。その一言にどうも変な感じがして、蒼はゆっくりとソファーから上半身を持ち上げた。少し遠く、キッチンに備え付けられたカウンターを挟んで向こう側に、一夏の背中が見える。と、なにやらもぞもぞと腕を動かしていることに蒼は気付いた。
「……なにしてるんだ?」
「紐が、うまく、結べない……っ。いつもならこのぐらいはっ……」
見ればするすると、滑るように一夏の手を紐がすり抜けている。そんな光景を見て、はて、と蒼は首をかしげた。一夏は別段、手先が不器用ではない。どちらかと言うと器用な方だと蒼は思っているし、事実蒼よりも器用ではあった。そんな彼が、エプロンの紐ごときに苦戦するだろうか。ちょっとだけ考えてみて、すぐにその理由が思い当たる。
「…………一夏」
「なん、だっ……蒼」
よいしょと蒼は立ち上がって、ゆっくりと一夏の方へ歩き出した。多少きつかろうがなんだろうが、彼にとって自分の体調は幾度か経験した繰り返しでしかない。慣れていないワケでもないのだから、大抵のこともやろうと思えばどうにかなる。けれど、一夏にとっての“体調”は、慣れるものでも、経験したものでもない。そっと背後に立って、蒼は一夏の手から紐を取った。
「うおっ。――って、ちょ、蒼!? お前なにしてんだ、いいからじっとしてろって――」
「いいから。じっとしてろはこっちの台詞だ。いつもならとか言って、また忘れてないか? 一夏、体が違うんだってこと」
「…………ああ」
そう言って、ほんの少しだけ俯く。
「指、前と比べて細いのが俺でも分かるんだ。感覚だって、かなりズレてると思う。細かい作業は駄目でもおかしくない」
「……かも、しれないな」
ぽつりとこぼすように、小さく一夏は答えた。その反応に、ふと、蒼はぴんと来て。
「……というか、朝からなんとなく気付いてはいたけど、あんまりその体上手く動かせないんじゃないか?」
「あー、それはだな…………」
痛いところを突かれた、と一夏が言い淀む。それにやっぱり、とため息をつきながら、蒼はしゅるしゅると紐を弄る。
「俺が作るよ。なんだか今の一夏じゃ心配だ。手でも切ったら大変じゃないか」
「いや待て、蒼の方が心配だろ。途中でぶっ倒れたらどうするんだ」
「もう倒れないって。大丈夫、十分気分は良くなってる。……うん、十分」
「その割には顔色がさっきより悪化してないか? 無理があるだろ。ここは俺に任せてくれ。包丁ぐらいなら問題なく扱える」
「その割にはこれを結ぶのにも手間取ってたようだけど」
きゅっ、と結んで、蒼はとんと背中を押した。一夏は若干よろけながらも体勢を建て直し、ぐるんと体を反転させる。細めた目でじっと見る蒼。きっと眉を寄せて強い視線を送る一夏。両者正面切っての睨み合い。永遠に続くかとも思われる沈黙。それに終止符を打ったのは――
「……分かった、こっちの負けだ。正直、今すぐ料理はちょっと厳しい。ただし、怪我とかしたらすぐ交代にしよう」
両手を上げて、蒼が降参のポーズを取る。対する一夏は。
「……そうだな、それでいこう。悪い、俺もちょっと熱くなった。こういう時だしな、十分注意してやるよ」
朝食の担当はここに決まった。一夏は今一度台所に向かって、蒼は座っていたソファーへと踵を返す。
ちなみに余談ではあるが、そのあと蒼が出る幕はなかった、ということだけは確かである。
◇◆◇
そんなこんなで彼らが無事食べ終える頃には、もう既に時刻は午前十時を回ろうとしていた。随分と遅い朝食になったものである。だが、時間が解決してくれたものも幾つかある。蒼の体調については言わずもがな、半時間もしたところで一気に血色が良くなり、ご飯も問題なく完食する程度には回復。一夏の精神状態にしても、ゆっくりとではあるが大分安定したものになってきていた。食後の会話。口火を切ったのは、一夏だった。
「とりあえず、これからどうするか、だよな……」
「ああ、そりゃあ、かなりの一大事なワケだし」
冷静に考えてみると凄まじいことこの上ない。これ、世界に公表したら大ニュースになるんじゃないか? と蒼は本気で思った。場合によっては男性IS操縦者の発見を超えるレベルで。
「一先ずは真っ先に連絡するべきじゃないか?」
「連絡って、誰に?」
「……君のお姉さんにだ。まさかとは思うけど」
「――――そうか、千冬姉! 流石だ蒼!」
いや本当にまさか、本気で忘れているとは思わないだろう。友人のこの先にそこはかとなく不安を覚えながら、蒼はポケットから携帯を取り出して。
「で、番号は覚えてるだろう?」
「……ええっと、いや、ちょっと待ってくれ。登録した時に、見たんだ。ここまで出てきてるんだが……」
「…………、」
前途多難だ。蒼はひっそりと、本日何度目かも分からないため息をついた。
女口調の一夏ちゃんが見たい方は私の拙作および他の方の一夏TS二次を読みましょう。
先に言っておきますと、今回はほとんど終盤まで一夏くんは一夏くんのままです。
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その人の名は織斑千冬。
「…………、」
ぱらぱらと傘をうつ雨の音を聞きながら、蒼は独り歩いていた。向かう先は自宅から少し離れたとある家。今朝の事件により、いまや無人の状態で放置された織斑家である。結局のところ、一夏の記憶を頼りに思い出すのは無理だということで、家に置きっ放しの携帯を取りに帰ろうという話になり。さて、ここで問題が一つ。
「仕方ない、傘が一本しかないんだし」
基本的に蒼の独り暮らしとなっている上慧家には、安物のビニール傘たったの一本しか置いていない。蒼自身傘にこだわりを持っているワケではないし、壊れても買い換えれば良いだろうという考えからスペアも無かった。傘は一つ、けれど人数は二人。どちらか一方が行くのは明白だった。厳正なるじゃんけんの結果、見事蒼はその役目を勝ち取ったのだが。
「……素直に一夏に任せればよかったかもしれない」
開始僅か数十秒で変な意地を張った自分を恨みたくなるぐらいには、彼も相当参っていた。朝から一連の事件、いつもと違った起き抜けの行動、おまけにこの雨とくれば、愚痴の一つも言いたくなる。
「でも、流石にあの一夏を今外に歩かせるのは……どうなんだろう」
鈍感だとか、唐変木だとか言われる一夏のことだ。案外、自分に対する“いつもとは違った”慣れない視線も気にしないだろうか。自分だったら恐らく、視線のあるなしに関わらず外出しなくなる。そう考えると、現状にしっかり馴染み始めている一夏はやはり凄まじい。
「……にしても、雨、止まないな」
透明なビニール傘ごしに空を見上げて、ぽつりと呟く。雨は苦手だ。どんよりとした曇りでさえ気分が下がるというのに、雨まで降り出したらもう最悪と言っていい。一年中晴れてればいい、とは流石に色々な理由で思わないが、それでも理性的な考えとは別にして、雨は降らないで欲しいというのが蒼の感情だ。必要なのは百も承知。雨が降らなければ困るのは当たり前。それでも飲み込めないモノが、彼にはあったというだけで。
「……っと、ここだ」
足を止めて、目の前にそびえ立つ家屋を見る。表札を見て間違いないことを確認。記憶とも相違ない、久しく訪れていなかった織斑宅である。しばらくぼんやりと眺めたあとに、少し悩んでドアノブに手をかけた。インターホンを押したとしても、人が居ないのだから意味が無い。がちゃりと回せば、扉はぎいと音を立てながら開く。
「……本当に忘れてる、鍵。いやまあ、仕方ないだろうけど――」
「なにが、仕方ないんだ?」
不意に、返ってくるはずの無い独り言が、会話となっていた。理由は単純。今まさに、誰も居ないと思われる織斑宅で声をかけられたからだ。声の発生源は恐らく正面。タイミングの悪いことに扉を開ききる途中で、視線はななめ下を向いている。姿の確認はできない。低めだが、多分女性。それに当てはまるこの家の関連人物は――ひとり、居た。まさかと思いながら、蒼は顔を上げる。そこに。
「……千冬さん」
「久しぶりだな、蒼」
彼らが今もっとも必要としている人物、織斑千冬は立っていた。
「さて、一先ずだ。言いたいことは色々あるが」
そうして、割と、本気な感じで。
「うちの愚弟はどこだ? 休みだからと帰ってみればこの有様だ。正直、灸の一つでも据えてやろうかと思うんだが」
「……それは」
正直に話すべきかどうか、蒼は迷う。そもそも迷う必要も無いのだが、彼とていきなりの邂逅に正直テンパっていた。誰もいないと思い込んで扉を開ければ推定世界最強クラスのIS操縦者。こんなの誰が予想できるか、と胸中で叫びつつ。
「あの、一つだけ、言っておきますけど」
「なんだ」
「……できれば、信じてください」
その言葉に首をかしげながら、千冬はこっちですと歩き出す蒼の後ろを追っていった。
◇◆◇
「……ただいま」
「お、帰ってきたか」
玄関を開けて一声かければ、すたすたと一夏がリビングから出てきた。
「洗い物はしておいたぞ。あと、軽く掃除も」
「なにしてるんだ……」
「いや、だって、蒼だけに取りに行かせたみたいで、なんか悪いだろ?」
だからサービスだサービス、と言って一夏は笑った。すっかりと調子を取り戻している様子にほっと息をつきながら、この分だともう安心だろうな、なんてこちらも少し笑い返す。流石は織斑一夏、とでも言うべきだろうか。蒼自身からすると、まさか一夏の復帰に自分が起因しているとは夢にも思っていなかった。
「なんだ、蒼。お前、彼女ができたのか」
「……いや、違いますよ。というか、なんでそんなニヤニヤしてるんですか」
「ほうほう。なるほど、昔から女子に弱かったお前が、なあ」
「……勘違い、勘違いですって。そもそも、実は……」
「え、その声って――」
少し遅れて、千冬が蒼の後ろから入ってきた。つい数分前までの真面目な雰囲気はどこへやら。まるでからかう相手を見つけたと言わんばかりの楽しげな表情で、彼女は蒼を背後から小突く。無論、盛大な誤解だ。なんせ相手は目の前の美少女、もとい。
「…………千冬、姉」
「ん? その呼び方は一夏から聞いたのか? という事は、そうか、あいつとも知り合いなのか」
「違います、千冬さん」
「なんだ、まったく。お前はさっきから違う違うと何が――」
「それ、一夏です」
ぴしりと、空気が固まる。
「――いや阿呆かお前は。大体一夏は男だろう」
当たり前の反応だった。
「まあ、そうなんです、けど」
「そうでしかないだろう。何がどうなればお前の脳内で女になるんだ」
何がどうなってかは知らないが、実際に女になっているのである。
「本当なんです、千冬さん」
「何が本当なんだ」
「本当にこれが一夏なんですよ」
「いやだからありえんだろう」
そりゃあ先ず、誰が信じるのかという話だ。世界的に見ても男が突然女になったという報告は耳にしない。ましてや自分の近辺でそんな摩訶不思議大事件が起こるなどと想定しないのが大半の人間だ。素直に受け入れた蒼の方がおかしいのである。
「まずいぞ、一夏。全然信じてもらえない」
「普通だ、俺だってこんなこと信じたくない」
「で、本当の一夏はどこに居る」
貴女の目の前に居ます、というストレートな答えが通じないのに、一体どうやって説明すれば良いのか。蒼はどうしようも無さに肩を落とした。駄目だ、千冬さんに信じてもらえるビジョンが見えない。この事態をどうにかするためにも、学生二人ではやれる事は酷く限られる。なんとしても、理解のある大人の味方は欲しかった。
「……千冬姉。本当に俺なんだ。信じてくれ」
「私から見て、君は間違いなく女性に見えるが」
「うんそうだよなそうでしかないよな……」
辛い、と一夏は内心で泣いた。気持ち視界が潤んでいるような気もするが、内心と言えば内心なのだ。こうなると蒼も一夏も諦めムード。誰か代わりに説明できるなら説明してくれと、そう切に思った瞬間。
『ふふ、君たちがちーちゃんを頼るであろう事は分かりきっていたさ』
奇妙な音を立てて、それは――その人は現れた。
『なんせいっくんがターゲットだ。少なからず関わる事は猿でも分かる。だから事前にいっくんの家と蒼くんの家に計二百五十個の立体ホログラム投影装置を密かに付けさせてもらった! ちーちゃんの出現と同時に私が起動させる手間があるけどね! あ、コレ記録だから話し掛けても無駄だよー』
「束……?」
よりにもよって一番現れたら駄目な人だった。というか、機械はカメラだけじゃなかったのか、と勝手に色々と置かれつつある我が家に危機感を覚えながら、蒼はなんとなく嫌な予感を覚えて。
『そうしてそうしてぇ! 彼らの言葉は事実現実絶対の真実。そこに居る美少女が今のいっくんなのさ』
「……蒼、これはどういうことだ」
「いや、俺にもちょっと」
見事、それが的中した。
『聞いて驚くが良いよちーちゃん! 君の弟を女にしたのはだれでもない。――この天才、篠ノ之束だあ!!』
「――――、」
「まずいぞ蒼」
「まずいな一夏」
千冬が無言で携帯を取り出したのを見て、二人は頷き合った。
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その体、一夜にして女。
「……大体事情は把握した。いや、把握したくも無かったがな」
耳元から携帯を離して、千冬がこめかみを抑えながら言った。玄関から移動した恒例の上慧家リビング。なぜか正座で座る蒼と一夏の前に立つ千冬。鬼神ここに現る、といった様子で束に電話をかけた彼女は、無駄に付き合いが長いために二人よりも現状をしっかりと理解してしまった。主に天災のせいで。嘘だ夢だ幻だ、なんて言えるのなら言いたいが、千冬としてはそうすることもできない。なにせ被害に遭ったのは唯一の家族である弟だ。目を逸らすという選択肢は端から消えている。
「とりあえずあの馬鹿は今度会った時に原形が無くなるまで殴るとして、だ」
冗談のつもりか本気の発言か、どちらでもおかしくないあたり、織斑千冬という人間の規格外っぷりがうかがえる。一夏は恐らく知らずとも、蒼は記憶で知っていた。目の前に居るこの人が、実際にISを生身でどうにか出来てしまうということを。
「一夏」
「お、おう」
「…………本当に、一夏なんだな」
「あ、ああ。その、信じられないだろうけど」
というか俺も信じたくない、と一夏はぼそりとこぼした。心は落ち着いていても気持ちが変化したワケではない。一刻も早く男に戻れるのなら戻りたいが、それに関しての答えはもう提示されている。それがこうして現在の精神安定に繋がっていると同時に、これから先の未来を確定させたことに、一夏は複雑な気分だ。
「――蒼」
「……はい」
「…………本当に上慧 蒼だな? お前までどうにかしていたら次は私がどうにかなるぞ」
「安心してください、正真正銘の俺です」
「なら良い」
ふう、と千冬が大きく息をついた。久々の休暇に心身を休めようと実家に帰れば、待ち受けていたのは最愛の家族の性別が変わるという悲劇。実に頭の痛くなるような事態に、休むどころか疲れが増す。ここに来て千冬は、本日の休みが完全に休みでは無くなったことを悟った。あれもこれも全部人騒がせな天災のせいだ。無事で居られると思うなよ、と千冬はより一層殺意を高めた。
「まあ、とにかく、だ。束は馬鹿で傍迷惑でそのくせ頭は良いという厄介極まりないヤツだが、そうそう嘘をつくような奴ではない。あいつが態々語ったのだから、本当なのだろうな。……っ、嘘の方がマシじゃないか」
軽く舌打ちをして、千冬は苦い顔をした。身体能力的な面から見て、織斑千冬は間違いなく篠ノ之束と肩を並べるどころか下手をすると超えるレベルの天才だ。その実力はISの公式戦で無敗記録を保持していた、ということからも凄まじく高いのが分かるだろう。だがまあ、当然と言えば当然のように、頭脳面では束の方に軍配が上がる。なにせ向こうは脳の構造からして違うのでは、と思わせるぐらいの化け物だ。ISを殆ど一人で作り上げた、という実績は普通に考えてもありえない。
――つまり、何が言いたいのかというと。織斑千冬は戦闘面でこそ完璧であるが、普通に考える事に関してはあまり桁外れてはいなかった。
「お前らはどこまで現状を理解している?」
「えっと、一年経たないと男に戻れないってこと、か?」
「大体は篠ノ之さんから聞かされたので、一通り」
「なら二人とも、分かってはいるのか」
ふむ、と顎に手をあてながら、千冬はさてどうするか、と考え込もうとして。
「――おい、一夏」
「ん? なんだ千冬姉」
「お前……、」
何か言おうとして、ため息と共に小さく首を振る。伊達に姉弟をやってきた訳ではない。一緒に過ごしてきた家族だからこそ、分かる事もあるのだ。千冬は一夏の些細な仕草から、いつもとの微妙な差異を見抜いていた。彼女はゆっくりと近付いて、座る一夏に視線を合わせるよう屈み込み。
「いいか、動くな」
「あ、ちょっ、ま、そこは――」
ツンと、ジャージ越しに二の腕のあたりを押した。
「いっ――て、ええぇぇぇぇ……!!」
「……一夏?」
「やはりな、馬鹿者」
呆れるように、千冬が吐き捨てる。ごろごろと、一夏は悶絶するかのように呻きながら転がる。理解できないのは蒼だ。見るからに触られただけの友人が、いきなり苦しみのたうち回るという光景。よもや千冬はなんたら神拳の伝承者かと思った直後。千冬は上まであげられた一夏のジャージのファスナーを掴み、それを一気に下までおろした。……ちなみにではあるが、一夏は雨に濡れてここまで来た訳で、起きたばかりに着ていた服はおろか下着も脱いでいる。正真正銘体の上にジャージの上下一枚ずつ。それが意味する事と言えば。
「うおおおおおおおお!?」
「――――、」
はらりと、生地の下から、たわわなものが二つ顔を覗かせる。
「たかが脱がされたぐらいで騒ぐな、たわけ」
「いや騒ぐだろ普通! なにするんだ千冬姉!!」
「それとそこの男子、鼻血が出てるぞ」
「え……。あ、本当だ」
「蒼!?」
正気かお前!? と一夏が吠える。あいにく、蒼は間違いなく正気であり正常だ。というのもこの男、前世今世含めて女性経験ゼロ、生きている年数=彼女いない歴という終身名誉童貞男子であった。元が男であろうが友人であろうが一夏であろうがなんだろうが、初めて直に目撃したおっぱいの破壊力は絶大である。思わず、彼の情熱の赤い薔薇が咲いてしまう程には。
「初心なやつだな。今ならガン見してもこいつのことだ。文句は言わんだろう」
「すいません、刺激が強くて。……あと、恥ずかしいですし」
「いや文句も言うし蒼だけじゃなくて俺も恥ずかしいからな!? むしろ脱がされた分俺の方が羞恥心やばいんだぞ!?」
最早一夏の顔は真っ赤である。が、しかし、千冬はそんなこと気にした様子も無く、すっと前の開いたジャージの端に手を伸ばす。
「それよりだ、馬鹿一夏。さっさと上着を全部脱げ」
「やっ、待て千冬姉! 流石にその発言は家族としても抵抗が――」
「脱げ」
「うわああああああああああ!!??」
ばさりと、一夏の上半身から服が剥ぎ取られる。露わになる白い肌、細いくびれ、鎖骨から胸、ヘソにかけての扇情的なライン。蒼はすっかり見とれて、今一度熱いモノが鼻孔に溜まるのを感じながら、ふと、その体に奇妙な色があることに気付いた。
「……痣?」
「ああ、しかも見た目からして新しい。大方、今朝に家でぶつけたんだろう。どうだ?」
「うっ……、ごもっともです」
当たりか、と千冬は眉間に皺を寄せる。
「なにやってるんだ。割と本気で体が動かせて無いじゃないか」
「……そうだよ。あんまり覚えてないけど、起きてこんなんだから混乱してて、多分、家中あちこちにぶつけたんだと思う。……我慢できるから隠してたワケで、別に無理はしてないぞ?」
「……これだから馬鹿者と言うんだ」
千冬はジャージをそこらに置きながら、蒼の方へと振り向く。
「すまんが湿布はあるか。馬鹿につける薬はないが、怪我にはつけておいて良いだろう」
「ありますよ、少し待っててください」
「ああ、それと、また出てるからな。色々耐えられんのなら見ない方がいい」
「…………部屋の外で待機してます」
そうか、と千冬はにやりと笑みを浮かべながら言った。
◇◆◇
リビングと廊下を遮る扉に背中を預けて座りながら、蒼は聞こえてくる声に耳を傾けていた。
「あっ、いて、いててててて! ちょっ、痛いって千冬姉!」
「我慢しろ、男だろう。……いや、今は女か」
「言い直すぐらいなら男でいてててて!! 痛い痛い!!」
「まったく。……それにしても、随分と華奢になったじゃないか」
――無だ、心を無にしろ、上慧 蒼。これはただの治療行為だ。変な事は考えるな。
「……俺だって好きでこんな姿になったんじゃないよ」
「分かっているさ、そのくらい。……ふむ、だが良い機会だ。これを切っ掛けに女のことを知ってみてはどうだ?」
「そんな簡単に割り切れねえよ……」
「まあ、どちらにせよ一年の辛抱だ。少しは遊んでみるのも一興とは思うがな」
無心、無心、無心――
「ああ、それと先ず真っ先にやる事として、下着は最低限必要だな」
「下着? なんの……いや、ちょっと待ってくれ。嫌な予感が」
「元は男のくせにこんな大層なものをぶらさげているからだろう」
「わぁぁあぁぁっ! ちょっ、やめっ、どこ触ってんだっ!?」
無だ、無だ――。蒼はひとり、千冬が入って良いと言うまで、廊下で心を落ち着かせ続けた。
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女の子の服装。
「え、あの、コレは」
「ご安心ください。お客様にとてもお似合いだと思いますよ」
「いやそういう問題じゃなくてですね! ちょっ、その、千冬姉ぇーっ!」
「店内だ静かにしろ一夏」
一夏女体化事件より数時間経ち、正午にもなろうかという頃。場所は上慧家より変わって、およそ彼らが暮らす地区より二駅ほど離れた巨大デパート。試着室に閉じこめられた友人の悲鳴とその姉による容赦のない一言に苦笑しながら、蒼はどうしてこうなったんだろうと疑問を浮かべていた。
「だから本当、流石にちょっとコレはきついですって!」
「そんなご謙遜なさらなくても、お客様はとっても可愛いですよ」
「あ、どうもありがとうござ……じゃない! 違う! あのですね!」
わーわーと喚く一夏の声は、流石に他の買い物客の迷惑にならないよう気持ち小さくされてはいたが、それでも必死さがこちらにまで伝わる。割と本気で嫌なんだろうな、と長年の友人関係による勘から思いながら、蒼はちらりと隣で腕を組む千冬へ目を向けた。
「千冬さん、止めないんですか」
「そうだな。そろそろ抵抗をやめさせるか」
「いやそうじゃなくて、店員さんの方です」
「なんだ、そっちは問題ないだろう」
あれで問題ないのか、と若干驚きながら視線を試着室へ戻す。側で色々な服を持ちながら丁寧な対応で勧める女性の店員と、中から精一杯の話術でどうにか断ろうとする一夏。一進一退の攻防というには店員側がかなり押してはいたが、それもその筈。なにせ、こういう場面で止める筈の切り札である千冬さんが全く助けていない。むしろ一夏より店員側を押している。それはもう露骨なくらい押している。これが姉弟の絆なんだろうな、なんて少しズレたことを考えながら、蒼はふと千冬に訊ねた。
「そういえば千冬さん」
「なんだ、蒼」
「正直、一夏の服とか下着とかの用意に、俺が着いてくる必要、ないと思いますけど」
どうして連れてきたんですか、と言外に問い詰める。蒼本人の意思としてはこの買い物に着いて行くこと自体考えてもいなかったのだが、お前も来いという千冬からの圧力及びストレートな一言に押されて半ば無理矢理連れて来られたワケだ。それだけならまだしも、あいにくここは主に女性用の衣類を取り扱っている売り場となる。
『……いや、別に、邪なことは考えていないけど。なんというか、周りの視線が辛い』
四方八方からちらちらと向けられる多種多様なそれに、僅か十分もせずに蒼は疲労感を覚えていた。男である彼の身の回りにインフィニット・ストラトス関係の事柄はそう多くないが、それでもこの世界は間違いなくインフィニット・ストラトスである。女尊男卑、という固定観念が渦巻く社会は、中学生の男子にも同じく厳しい。……ただ、たまに、どれもが責めるように鋭い視線を向ける中で、一人か二人ぐらいが背筋をぞっとさせるような熱い視線を送ってくることもあったが、そちらに関しては蒼も深く考えないようにした。ただ確かに言える事は、どの世界にも、年下に魅力を感じる人間は居るのである。
「なにを言っている、お前が居なければこの買い物自体成立せんだろう」
「……それって、どういう」
「さあな。私としては、今朝に女になったばかりの奴が、こうも冷静に居られるかと疑問を抱いたワケだが。さて、その秘密はなんだと思う?」
「それは純粋に、一夏自身の強さ、とかじゃないですかね」
「…………はあ。お前も負けず劣らずだな」
「?」
ため息をつきながら、千冬はやれやれと首を振る。蒼はその言い分が全く理解できなくて、どこかもやもやとした気分になりながら首をかしげた。短所だろうが長所だろうが、自分のことになるとからっきし。良いところも悪いところもあるくせに、そのどちらも上手く見られないのが蒼の欠点だ。落ち着いているのはマイペースによるもの。慌てないのは危機感が無いから。滅多に怒らないのは誰かに怒るほど人付き合いをするタイプではないため。
「精神安定剤だよ、一夏と私の」
「……えっと。それは、喜ぶことですか?」
「馬鹿者、怒れ。そうして偉ぶれ。……昔からお前は、側に居ると落ち着くんだ」
「え……」
初めて言われた、と蒼が目を見開く。
「一夏も同じ筈だ。人を落ち着かせるオーラ、とでも言うかな。それがあるような気がするよ、私は」
「…………ちょっと、信じられないですね」
自分がそういう人間というのはなんか違うな、なんて考えてしまう蒼だった。
◇◆◇
「………………っ」
織斑一夏は今、猛烈な羞恥心に襲われていた。冷静に考えても、昨日まで清く正しい男子中学生だった彼にとって、この体は正しく自身をも削る毒である。肉体はあますところ無く女性になってしまったが、心は十四年培ってきた日本男子としての魂。千冬という姉が居る分ある程度耐性はついていたが、それでも一夏とて男だ。鼻血を噴出した蒼ほどではなくも、己の体を見るのは色々ときつさがある。加えて、着るものも変えてくるとなれば、ダメージは二倍を超えて二乗。――借り物のジャージから変身した一夏は、まるで湯気が出そうなぐらい顔を真っ赤にしていた。
「ほう、なかなか似合っているじゃないか」
にやにやと笑いながら千冬が言う。なんとなく蒼は途中から気付いていたが、事態を呑み込んだ少し後あたりからこの人は楽しんでいる。もう間違いなく楽しんでいる。絶対に楽しんでいる。日頃の仕事による疲れとかストレスとかを弾けさせたように。完全なプライベートモードだ。公私によって千冬の態度がかなり変わるのは蒼も知っていたが、今だけは仕事モードでも良かった気がする、と彼は思った。
「か、勘弁してくれよ千冬姉……」
消え入りそうな声で一夏が言う。周りから見てどうであろうと、彼――もとい彼女にとっては羞恥プレイだ。幸いなのは、他の人の視線を蒼が居るおかげで彼が一身に受けてくれていたことか。蒼自身にとっては堪ったモノでは無かったが。
「どうだ蒼、うちの弟を見た感想は」
「やめろ、見るな蒼。そして何も言うな、頼む」
「いや、えっと……」
と言われても、目に入ってしまっていたのだから仕方がない。要するに止めるのが遅かった。蒼はぼんやりと、カーテンが開けられた試着室に立つ一夏を見る。髪型はまあ弄っていないのでそのまま後ろに流したロング。服装に関しても、一見そこまで奇抜なものではない。白のブラウスに暗色のハイウエストスカート、おまけにシンプルな黒のニーソックス。ここまでくればお馴染みなモノで、所謂それは一部の界隈の人間にこう呼ばれていた。
「…………、」
――“童貞を殺す服”、と。
「………………まずいな、普通にドキッとした」
「蒼ォ!」
本当にしっかりしてくれ! と一夏がまたもや叫ぶ。だが仕方ない。彼は前世今世含めて性行為の経験がない魂レベルの童貞。最早特攻ダメージが入ってしまうレベルで、その系統の衣服には弱かった。
「あ、でも、似合ってるのは本当だ。その、凄い可愛いぞ、一夏」
「ええい嬉しいかどうか微妙な褒め言葉を今日はたくさん貰うなあ!」
「良い彼氏さんですね、お客様」
「違いますよ!?」
いや、本当に、どうしてこうなった、と蒼は半笑いで考える。一年経ったら元に戻るとは言え、一年間体は女なのに男物を着ていては不都合がある、という話までは良かったと思うのだが。
「フォローしたのは上出来だが、簡単に一夏をやると思うなよ?」
「千冬さんも悪乗りしないでください……」
この人もしや、自分が羽目を外して巫山戯たいために俺を呼んだんじゃ。今更ながら、蒼はなんとなく連れて来られた真の目的を知ったような気がした。
格好いい千冬さんは有休消化中。
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一日目の終わり。
「疲れた……」
「……こういう時、なんて言ったら良いんだろうな。お疲れさま?」
「ああ、それだけでも十分嬉しいよ……心がこもってないけどな」
「そんなことはないって」
結構本気で心配してるんだ、と蒼が笑いながら言う。日も傾き始めた午後四時過ぎ。一通り買い物も終わり、千冬が手配したタクシーを待ちながら、二人は入り口近くのベンチに座り込んでいた。傍らにはいくつもの袋、中身は全て一夏が女になったからと購入したものだ。これでも千冬によれば必要最小限、というのだから恐ろしい。
「にしても、凄まじいな」
「服に下着にその他諸々。どうしてここまでする必要があるんだ。……今までのままじゃ駄目なのか」
「俺は別にそれでも良いと思うけど」
「だよな?」
でも、と蒼は一夏の方を向きながら。
「体が変わってるのは事実なんだから、用意するに越した事は無いと思う」
「……まあ、それは、そうなんだが」
万が一、ということもある。蒼とて転生者という点を除けば至って普通の人間だ。一夏の言うこともそれとなく理解できる。女になったからと言って、いきなり何もかもを変えるのは厳しい。というよりも、言ってしまえば変える必要などない。
「持ってるだけ持ってればいいんじゃないか? 千冬さんだって、明日からこれを着ろ、なんてこと言わないだろ?」
「はは、そうだと良いけどな。あんな千冬姉は久々に見た。……正直、凄いめんどくさい」
「じゃあ、訂正。きっと言わない、俺が保証する」
「……一応聞くけどなんでだ?」
らしくもなく自信満々の様子で断言した蒼に、一夏は不思議に思って問い掛ける。なんだかんだで、確実性の無いものについては濁す事の多い彼が言い切るのは珍しい。しかも妙に年相応の雰囲気がミスマッチだった。やっぱり、蒼はどこか純粋な中学生らしくない。そんな感想を抱く一夏に向かって、当の本人はええと、と前置きして。
「だって、何を着るのか、何をするのか、何を選ぶのかは一夏の自由だ。女になったからって、必ず変えなきゃいけないわけじゃない。まあ、変えないと駄目な部分もあると思うけど」
決まり事や基本的なことに関しては、当然ではあるが変わる部分が出てくる。イケメンである一夏が上着を脱ぐのと、美少女である一夏が上着を脱ぐのとでは全くもって違うのだ。自分は男ですと主張したところで今の一夏は女の子にしか見えないし、実際にそうなっているから言い訳も出来ない。最悪、ガードの緩いこの友人が無理矢理乱暴される可能性というのも、無いとは言い切れなかった。
「千冬さんが言ってくるのはそのあたりだと思う。別に、女の子として生きることは強制しないんじゃないかな」
「ならこれらの服は別に買わなくても良かっただろ……」
「それは――」
ふむ、と少し考えてから、蒼は未だ曇天の空を見上げた。自分の識っていた“織斑千冬”は、自分の知っている“千冬さん”はどんな人物か。自信は無いが、こういうのは何となくで構わない。こほん、と喉を鳴らして。
「――女であるということを拒否するのは勝手だが、事実ぐらいはしっかり受け入れろ。その上でお前は一年間。しっかりと考えて過ごせ」
「…………、」
「……とか、そういう意味じゃないか? 嫌だ違うって言うのは良いけど、自分が女だっていうことは自覚しろ、みたいな」
ぽかん、と一夏が呆けた表情でこちらを見る。それがなんとなく恥ずかしくて、蒼は人差し指で頬をかきながら続けた。
「だから、まあ。うん。大体、一夏は一夏のままで良いんだ。無理に曲げる事もない。何より、一年経てば戻るらしいし」
これが一番大きいよな、と蒼は言いながら再確認する。およそ最悪の状況の中で一筋の光明だ。もし三年四年やそれ以上、何時戻るのか分からないなんて状況だったら、きっと、もっと、今よりずっと酷かった。
「それに、男でも女でも、一夏は俺の友達だ。それだけは絶対変わらないと思うけど?」
「蒼…………」
きゅっと、一夏は服の袖口を掴む。
『…………なんでそういう事を、今言うんだ、お前は』
正直、かなり、ぐっときた。
「らしくないコト言いやがって、ホント」
「必死のフォローなんだよ」
「それになんだ、さっきの。千冬姉の真似か? 全然似てないぞ。主に武将的オーラが」
「……うるさいな、分かってるよ。というか武将的オーラってなんだ」
わいわいと、二人はしばらく千冬が来るまで、馬鹿なことを言い合いながら笑う。雨というのが惜しい。きっと晴れて、時刻通りの夕焼けならよく映えただろう。一組の男女がベンチで話すという光景が、例え他の人にどう見えたとしても。彼らにとっては、目の前の人物はかけがえのない友人でしかないのだ。
――もっとも、まだ、今は、という注釈がつくが。
◇◆◇
かちかちと、壁にかけた時計が針を進める音。そこそこ大きめのテレビから流れる、夜のバラエティ番組。ゆったりとソファーに沈みこむよう座り、片手に淹れたての珈琲を持ちながら、ぼうっと蒼は今日の出来事を思い返す。春休みだというのに、学校へ行くよりも随分と疲れた。もうクタクタだ。下手をするとこのまま眠ってしまえる。それぐらい、慣れない事態の連続。ずず、と珈琲を一啜りして。
「控えめに言っても厄日だよなあ」
なんてぼやいてるくせに、その顔はどこか嬉しそうに見える。出来れば二度と体験したくないことだらけだったが、それはそれとして、退屈はしなかった。なんと言うべきか、新鮮だという感情を久しく抱いていなかったのもあって、良いとは決して言えないが、悪いとも……。
「……いや、やっぱり悪いな。それを差し引いても最悪だ」
苦笑しながら、二口目の珈琲を口元に運ぶ。外は雨、家には女になった友人、知らない間に設置されていたカメラ、プライベートモードで巫山戯る友人の姉。よく体がここまで保ったな、と我ながら感心する。
「……そういや一度倒れてたな。あんまり、最近は落ち着いてたのに」
気をつけないと、としっかり心に留める。共働きで忙しい両親には、できるだけ心配をかけたくないのだ。大丈夫だとはいつも伝えているが、やはり一度倒れたのがバレてからは説得力が持てない。体調管理は重要だ。もう前の体と違って、無理はあまり出来ないのだから。
「っと、メール? こんな時間に一体……」
ヴヴッとテーブルに置いていた携帯が振動して、電子音を鳴らす。すっと手に取って確認してみれば、送ってきたのは一夏だった。
『明日の朝、大丈夫か?』
「…………、」
はて、何がどうしてそうなったのだろう。一夏と千冬とは数時間前にこの家の前で別れた。それ以降のことは蒼の知ることではない。甚だ疑問だが、とりあえず返信。
『別に構わないよ。……というか、なにかあったのか?』
「…………、」
一分、二分、三分。しんと、一夏からの反応が途切れる。まさかその通りだったかな、と勝手に想像しかけたところ、今一度携帯が鳴って。
『いや、特にはないけど、強いて言えば友人の体調を俺は今日初めて知ったからな。悪いけどお節介させてもらぞ』
「……別に、大丈夫なんだけどなあ。いや、だからお節介なのか」
くすりと笑う。それからぐいとカップの珈琲を飲み干して、ことりと携帯と共にテーブルの上へ置いた。珈琲に含まれるカフェインには眠気防止の作用がある。が、しかし効果が発揮されるのは飲んだ後、時間が経ってからだ。かくりと、頭が揺れる。正直な彼の体は“はやく眠らせろ”と訴えていた。
『疲れたし、仕方ない。うん、ちょっとだけなら、横になっても……』
本当に眠る時はベッドにいけば良いし、なんて、お約束な事を思いながら、蒼は静かに目を瞑った。
◇◆◇
故にこそ、彼は気付けなかった。とは言え、時間も時間。向こうだって、そのくらいは想定済みだったのが救いか。蒼が完全に寝てしまった後、携帯のディスプレイに映ったその文字は。
――着信:篠ノ之 箒
遅刻しました。
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過ぎる一日。
妙な肌寒さと違和感を覚えて、蒼はゆったりと目を覚ました。まだまだ寝たいと思う気持ちを我慢して、うっすらと瞼を持ち上げる。……室内はそれなりに明るい。それもその筈、陽が入りこむ窓がカーテンに閉ざされているとはいえ、つけっぱなしのテレビと暗めの電灯は十分に部屋を照らしてくれていた。ぐっと体を持ち上げて、がしがしと頭をかく。目の前の惨状を見れば、成る程、納得だ。
「ああ、結局、ソファーで寝たのか。……色々、体の節々が痛い」
試しに軽く動かしてみれば、ごきっと嫌な音が鳴る。無精せずにベッドへ行くんだった、なんて考えても後の祭り。せめて今日の夜はきちんと眠ろうと決意しながら、テーブルに置いていた携帯を手に取る。待機画面のデジタル時計は七時半過ぎを表していた。起きるにはちょうど良い時間だ。ごしごしと目を擦って、さて何からしようかと意気込んだ後。ふと、着信履歴があることに気付く。
「電話って……誰だ? 一夏か?」
彼の交友関係的に見ても、タイミング的に見ても、その可能性は高い。直前までメールをしていたのだから、流れとしても自然だろう。一体どんな用件なのか。見当をつけている途中で、そういえば今日の朝に来るとか言ってたっけ、と昨晩のやりとりを思い出す。ならばその時に聞けば良い。電話に出られなかったのは申し訳ないが、眠っていたのだから一夏もそこまで怒りはしない筈だ。そう考えながら、一応の確認と履歴画面を開いて。
「え……」
予想外の名前に、体が固まった。
「篠ノ之 箒って……あれ、いや、なんで……」
――ちなみにではあるが、蒼の携帯に登録されている連絡先はとても少ない。しかも家族と親戚関係、友人の一部といった殆どが身内。比率としては友人も含めて男の方が多い。同年代に限定すれば圧倒的だ。せいぜいが、今は中国の方に行ってしまった凰鈴音のものがあるぐらい。篠ノ之箒とは、その彼女よりも古い付き合いになる。まだ蒼が電話というものを持つ前に離れてしまったため、連絡を取ろうにも取れなかったのだが。
「登録は……されてる。しかもプロフィールびっしりの写真付き……って、これどう見ても盗撮じゃないか……」
この時点で蒼は確信した。間違いなく、また束さんの仕業だ。恐らくは昨日の隠しカメラと同時に、人の携帯へ妹の連絡先をご丁寧に電話番号・アドレス・生年月日・住所・顔写真ありで登録したのだろう。無駄に手が凝っているあたり本気度が垣間見える。こんなことをしているよりも、あの人は優先してやることがあるだろうに。
『でも確か今、箒ちゃんって要人保護プログラムかなにかであんまり自由に動けないんじゃ……』
ということは、かの天災が既に手を回していることになる。なにせその要人保護の対象に真っ先になりそうなくせに姿をくらまし、果ては世界中で指名手配されているような人物だ。篠ノ之束ならばそのぐらい可能だろう、というある種の信頼が蒼にはあった。まあ、代わりに信用は一切無いのだが。
「……どうなんだろう。かけ直すべきなのか」
むう、と携帯の画面を前に考え込む。普通なら一も二もなくかけ直すべきだと分かっているのだが、如何せん相手の状況が状況だ。こちらからの連絡は不味いという可能性もある。蒼は異性に対してそこそこ苦手意識を持っているが、それそれとして昔に交友があった彼女の近況は気になるものだ。どうしようか、どうすれば、どうするんだと、悩む事数分。じっと同じ体勢で固まる彼を動かしたのは、来客のチャイムだった。
『……一先ず、またあとで考えよう』
スッキリしないが、朝早くより態々来てくれた向こうを待たせる訳にもいかない。はーい、と大きめに返事を延ばしながら、蒼は玄関へと小走りで向かった。
◇◆◇
「どうだ、味は」
「……美味しい。正直、その腕が羨ましいレベルで」
「なら良い。あ、でも腕はあげないからな」
「何も直接欲しいってワケじゃないって……」
一夏の作った朝食を口に運びながら、改めて友人の家事スキルの高さを確認する。一人暮らし歴は蒼も大分、胸を張れるぐらいにはあるのだが、如何せん料理はそこまで上達していない。何度か作って慣れたものが、レシピを見ずに作れるぐらいだ。味に関しては普通に食べられるほど。一体何が足りないんだろう、と疑問に思いながら汁物を啜る。
「うちにあるものだから、食材は一緒な筈なのに。おかしい。なんかの補正でも入ってるんじゃないか?」
「なんの補正だよ」
「…………働かずして食べる補正、とか?」
「大分アレな補正だな……」
実際、そう思うぐらい一夏の朝食は美味しかった。まあ、働かずして、というのは無いにしても、他人に作って貰ったものはいつもより美味しく感じるのかもしれない。恐らくはそういう気持ちの類いの問題だ、多分。一人で勝手に納得しながら、ちらりと一夏の方へ視線を向けて。
「にしても、凄いな」
「ん? あー……もしかしなくても、気付いてたのか?」
「うん、まあ。玄関で見た時、一瞬別人かと思った」
「……そんなに変わってるのか」
「でも、よく見たら一夏だって分かったけど」
うっかり惚れそうだったぞ、なんて言ってみれば、一夏は複雑な表情をした。半分冗談でもあり、半分実は本当でもあったりする。なんせ蒼には昨日より当社比五割増しで、一夏がかなりの美少女に見えている。直ぐにピンと来たのが化粧だ。デパートでしっかりと化粧品売り場を回っていた事もあり、予想するのは容易かった。一夏の場合は元が良いからか、薄めのそれでも絶大な効力である。
「千冬姉に、きちんとした場所ではした方が良いって言われたんだ。これは見本ってことで。……なんか、女子って凄い大変なんだなって、朝だけで思った」
これからはもっと優しくしよう、と呟く一夏の表情は最早疲れ切っていた。本当に大変なんだな、という感想を抱きながら、しかしと蒼は同時に考える。今でも十分、女子に対しての気遣いと優しさは数多の乙女を恋に落とし、甘いルックスがトドメを刺す超絶イケメン中学生、それが織斑一夏だ。もっと優しくしたらそれこそ女子の歯止めが効かなくなるのでは。
「女になったからそこら辺は大丈夫なのか?」
「ん? 何のことだ?」
「いや、こっちの話」
「?」
こてんと、一夏が首をかしげる。
「そういえば、結局あの服は着なかったのか」
「当たり前だろ。買ってきた中で一番ダメージの低いものを選んだんだ」
現在の服装は、薄手のニットにジーンズ。無難と言えば無難。問題があるとすれば、少し、胸の主張が激しいことぐらい。それでも一夏にとっては、比較対象である“あの服”と比べて段違いにマシだ。
「大体あんな服、一体誰が着るって言うんだ」
「女の子は着れるんじゃないか?」
「俺は男だ。……元は。今はたしかに女の子だけどな」
はあ、と一夏は深くため息を吐いた。昨日蒼から言われた事は、前後の内容もあってよく覚えている。自分自身もどうにか受け入れて、その上で上手く折り合いをつけながら一年過ごしたいとは思うのだが、如何せんまだ拒否反応が先に来る。前途は多難だ。
「今日もこの後は有休取ってくれた千冬姉とお出かけだ。……色々と性別が変わったことで迷惑かけるところに、嬉しくもなくな」
「あー……うん、とりあえず、頑張れ。応援はする」
「ああ、サンキュー……。出来ることなら変わってほしいよ」
「……ごめん、流石にそれはちょっと、考える」
冗談だ、と一夏が笑う。蒼には何故か、目だけが一切笑っていないように見えた。
◇◆◇
――教えられた番号に電話をかける。彼女にとって、その行動は昨日の繰り返しでもあった。
「……」
一コール目。当然、出ない。
「…………」
ニコール目。まだ、出ない。
「…………、」
三コール目。それでも、出ない。
「……………………、」
――無駄か、と。諦めようとしたその瞬間。
『……もしもし?』
彼女の耳に、聞き慣れない男の声が聞こえてきた。
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夜のお電話、お相手は。
昨日の履歴と同じ時間に、コール音が鳴る。電話をとった蒼に答えたのは、綺麗な鈴を鳴らしたような、凜という声だった。思わず背筋が伸びてしまうような感じ。それもまた、少し懐かしい。
『姉さ――んんっ、すまない。篠ノ之束に、絶対この番号にかけるように、と言われて連絡したのだが、昨晩は繋がらなかったようで。……その、あなたは、一体?』
「…………、」
どこの誰が手を回したというのか。前言撤回。あの天災は手を回すどころか無駄に無駄を重ねた嬉しくもないサプライズを用意させてくれたらしい。こういう場合、彼女の気持ちが分かっているのなら一夏にすべきだろう、と蒼は思う。全くもって、複雑怪奇な計算式は解けるのに、こういった人の心情については一切分かっていないのか、それとも分かってやっているのか。後者の方があり得そうな性格なあたり、呆れるしかなかった。
「あの人からは何も聞いてない、ってことですか」
『ああ、恥ずかしながら。この番号とさっきの一文だけが書いてあるメモを貰っただけで』
「……じゃあ、先に謝っておきます。ご期待に添えず申し訳ありません」
『……それは』
ぺこりと、電話越しに頭を下げる。返ってきた相手の声は、若干震えているような気もした。けれども、蒼としてはそれ以外に言う事がない。なにせ自分と向こうの関係を思い出せば、役不足であるのは明らか。ああ、本当に、なぜ一夏ではなかったのか。だがしかし、この時の蒼はすっかりと失念していた。現状、織斑一夏は女である。そちらに電話をかけるのはもっと不味くなるのだ。主に、この電話の相手である“彼女”の精神的に。
「というわけで、久しぶり。それと期待外れでごめん。上慧 蒼だよ」
『カミエ・ソウ……上慧 蒼? 蒼って、いやまさか――』
「うん。小学生の頃、ちょっと付き合いがあった、あの上慧くんで合ってる」
『……ばかもの。ちょっとどころでは無いだろう、“蒼”』
そう言って、彼女――篠ノ之 箒は、先ほどと打って変わって明るい声を出した。これが箒の密かに思いを寄せる相手でもあれば、もっと喜んでいたのは想像に難くない。篠ノ之博士は妹をいじめる趣味でもあるのかと内心で愚痴を溢しながら、蒼は一先ず、懐かしの友人との会話に集中するのだった。
◇◆◇
『しかし、本当に久しぶりだ。最初、声が変わってて全く分からなかった』
「そりゃあ、もう中学三年だし。声変わりぐらいはする」
『そうか、そうだな。庭でふらついていた男子のものとは思えん』
「……あの件、忘れてなかったのか」
苦い顔で蒼が言う。あれはたしか一夏に誘われて、見学がてら篠ノ之神社へ足を運んだ日のことだ。その頃の彼は今よりずっと体が未熟で、家から神社までの距離を歩くだけで凄まじく疲れていた。おまけにあいにく、朝から若干悪かった体調が悪化。もう上下前後左右どこがどこだか分からなくなり、そのままゆっくり倒れ込もうとしたところを。
――だいじょうぶか? かみえ、だったな。一夏とよく話していたから覚えている。……おい、顔がまっさおだぞ。
なんて、まるで物語のお姫さまのように“蒼”が“箒”に抱えられたということがある。それだけでも彼にとっては結構なダメージだったのだが、おまけに姫抱きのまま多数の人が居る神社内の道場へ直行という仕打ち。箒自身はどうにかしようと動いていただけで悪意はなかったのだから余計に辛いもの。
「せめてあの時はおんぶの方が良かったと今でも思う」
『仕方ないだろう。蒼は軽かったし、なによりお前が私の腕におさまるよう倒れ込んできたのが悪い』
「それは違うって……」
たまたま偶然、傾いた場所に彼女の腕が伸ばされていただけで。
『あれが原因だったな、私とお前が話すようになったのは』
「そうだっけ。……ああ、そんな気も、するなあ」
『そうだ。まったく、その調子を周りに隠そうとするお前のフォローがどれ程大変だったかと』
「それは、はい。申し訳ありません」
『うむ、正直でよろしい』
身内や大人を除いた同年代で、一番最初に隠していた己の貧弱さを知ったのは間違いなく彼女だ。まだ色々と自分の体について分かっておらず、言うなれば感覚で調整中だった時期。月に何度かふらついたり倒れかけたりはあれども、完全に立って歩けないような重症は一度もなく、多少の無茶も普通に過ごすためにしていた頃である。男友達はすべからく全員、どれほど悪かろうとも騙せていたのが、彼女には直ぐバレていた。
『他の男子連中はどこを見ていると言いたくなるぐらい気付いてなかったな。一目見れば分かるだろうに』
「……そこが納得いかない。完璧に隠せてると思っていたのに」
『あれだけいつもと違った様子なら誰でも察する。現に女子の中の数人は気付いていた』
「……え、それ、初耳……」
――嘘だろう、ずっとバレていないと思い込んでいた。数年経って判明した衝撃の真実に、蒼はひたすら困惑するしかない。特にこれといって変わったことも無かったが、一応は人生二週目の彼である。流石に、純粋な小学生相手に見破られたりはしないだろうと高を括っていたのだ。信じられない、と胸中で呟く。
『といっても極少数で、それ以外は同じだ。……どうして皆分からないのかと、当時は疑問に思った』
「そ、そう、か……少し、ほっとした」
『――で、どうだ? 今の調子は』
気遣うような声音で、箒が訊いてくる。昔、それなりに話すようになってからは、週に数回は投げかけられた質問だ。
「全然平気。もう小学校時分とは違うんだ。流石に、体もちょっとは強くなってる」
『そうか、それは良いことを聞いた。なら、今は“あの時”の配役を変えても大丈夫だな?』
「…………ごめん、いくら箒ちゃんが軽いと想定しても自信が持てない」
『ふふ、まだまだではないか。ああ、心配しないでくれ。お前に持たれる希望も今のところ無いんだ』
知ってる、と蒼は笑いながら考えた。もし彼女が誰かにお姫様抱っこをされるとして、適役は既に決定済みだ。そこらの男でも、顔の整った誰かでも、ましてや自分など程遠い。そこはたったひとり、“彼”以外に居ないだろう。
「そういうそっちは、調子、どう?」
『……そうだな。正直、あまり先ほどまで良いとは言えなかったんだが――』
本当に彼に対しては珍しく、柔らかい口調で。
『お前とこうして話したら、少しは楽になったよ。ありがとう、蒼』
「……なら、良かった」
きっと、彼女の役に立てたのなら、少しだとしても十分だ。周りに国からの監視を付けられ、各地を転々とする生活を余儀なくされている。今の箒が想像を遙かに超える辛さであろうことは、ずっと前から知っていたりするのだ。この世界に生まれる、が頭に付いてしまうが。
◇◆◇
『それで、だ。蒼』
こほん、と箒が咳払いをする。
「ん?」
『その……あー、んんっ。いや、えっと……あの、だな』
「……箒ちゃん?」
妙に歯切れが悪い。言いたくないとか、そういう方向ではなく。どちらかと言うと、なにか躊躇しているような、そんな感じだ。蒼は首をかしげながら、じっと、彼女が言葉を確かにするのを待った。
『き、聞きたいことが、あるんだ』
「うん」
『…………い、一夏は、元気か?』
――なんだ、そのことか。と、蒼は思わず口元を綻ばせた。当然というか、仕方がないというか、例に漏れずというか。篠ノ之箒は織斑一夏に惚れていた。というよりこれは現在進行形で惚れている。まだ小学生当時だった時の想いを、今まで揺るがずに持っているということだ。純粋に凄いな、と蒼は感心しながら。
「うん、一夏なら、相変わらず――」
元気だよ、続けようとして。
「――ちょっとたんま」
『……蒼?』
彼女にとって先ず知られたらやばい事実を忘れていた。昨日、篠ノ之箒が淡い感情を抱く相手は――織斑一夏は、女になっている。誰でも無い、彼女自身の姉による手で。
『まずい。この事態が明るみに出れば血で血を洗う姉妹喧嘩待ったなしだ』
蒼は確信した。そうしてなんとなく、天災が自分と彼女を繋げた理由を察した。幸いなことに、一夏の女体化は一年間無事に過ごせば元に戻る。そこまでバレなければ問題なし。ミッションコンプリートだ。
「ごめん。一夏だけど、相変わらず元気だ。今日なんか、朝飯わざわざ作りに来てたぐらい」
『なっ! それはなんともうらやま――こほん。う、うむ。そうか、元気か、それなら良いんだ』
「うん、良いんだ。……女になったとか言えないし」
『む? 何か言ったか?』
「いやなんでも」
そうか? と箒が若干不思議そうに返してくる。
『あいつは、どうだ。やっぱり、昔とは変わってるのか?』
「……そうだな。結構、変わったかな」
『そ、そうなのか……ちなみに、どんな感じだ』
「もう別人って感じるぐらいだ」
『そんなにか……』
性別ごとだからなあ、と蒼は遠い目をしながら箒の質問に答える。
「でも、一夏は一夏で、基本は変わってないかな」
『――――、』
「誰かに優しく出来て、誰かのために怒れるような、一夏のままだよ」
『……それだけで十分だ。ふふ、あいつという奴は……』
そう言う箒の声は、一段と弾んでいた。
「…………でも今は女なんだよな」
『蒼? 声が小さくて聞き取れないぞ』
「ああ、ごめん。なんでもないから気にしないでほしい」
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開設、上慧相談室。
ちらり、と室内に備え付けられた時計を見れば、ちょうど針は頂点に重なっていた。もうこんな時間になるのかと驚いていれば、どうやら電話の向こうの相手も気付いたらしい。む、と小さい声を漏らして、彼女は短く息を吐いた。
『日をまたいでしまったな。……すまない、蒼。こんなに長く話すつもりはなかったんだ』
申し訳なさそうな声音、実際に見てはいないが、電話越しにそっと目を伏せる箒の姿は容易に想像できた。蒼からして、篠ノ之束と本当に姉妹なのかと思うほど、篠ノ之箒は真面目で真っ直ぐだ。きちんとした芯があって、滅多にブレない。下手な男子よりも格好良いという表現が似合う。もっとも、一夏の前ではただの恋する乙女なのだが。
「別に、謝らなくても。こっちも案外、話してて楽しかったんだ」
『案外とはなんだ、案外とは』
「思ってたよりずっと、箒ちゃんと話すのは楽しかったってことだろう」
『……そういう言葉はお前が好きになった女子にでも言え、まったく』
ぶつぶつと文句を言う箒のそれが、十中八九照れ隠しである事は知っていた。生き方が不器用というか、自分に素直になれないあたりは数少ない欠点かもしれない。変わらないなあ、なんて思いながら、蒼は彼女の言葉に苦笑する。自分のコトなのだからなんとなく分かる。きっと、そんな未来は無いだろうと思いながら。
「なら、箒ちゃんもそういう台詞、一夏に言ってみたら良いと思うんだけど」
『なっ、お前、くぅっ……。ひ、卑怯だぞ、その返しは』
「……ちょっとは勇気、出しても良いんじゃないか?」
『…………勇気、か』
――が、あまり焚きつけるのも墓穴を掘るだけだと、直後に彼は頭を抱えた。なにやってるんだ俺は。これじゃあ、自ら寿命を縮めているようなものじゃないか。一夏が女になったという事を知られてはいけないのだ。昔ながらの感覚で背中を押していては、むしろ束が背中を押される羽目になりかねない。主に断崖絶壁で。
(うん、自重だ、自重。束さんが怪我しようと俺には関係ないけれど、箒ちゃんが前科者になる未来は避けないと)
さりげなくあの天災が死ぬことは無いだろう、と確信している蒼だった。
『……やめておく。というよりも、駄目、だな。一夏と話すなら、もっと万全の状態で話したいんだ』
「……今の生活、やっぱり辛い?」
『そうだな。……自分の姉が憎らしくなるぐらいには、辛いな』
「…………、」
疲れたような箒の吐息が聞こえてくる。両親も基本的に居らず、春期休暇中で学校にも縛られていない、悠々自適な生活を送っている蒼にはきっと一ミリも分からない。ぼんやりと思い浮かべるだけでやっと。彼女の苦しみを理解できるのは、現状彼女だけなのだ。そんな当たり前のことが、どうしようもなく無力感を抱かせる。
「……箒ちゃん」
『うん? どうした、蒼』
「あんまり役に立てないけど、何かあったら言ってくれ。俺に出来ることなら、最大限努力する」
『うむ。……その言葉だけで嬉しいものだな。やはり友人は、良いものだ』
叶うことなら、男の頃の織斑一夏をニンジン型ロケットでもなんにでも良いから入れて、彼女の元まで飛ばしてやりたいが。当たり前なことに、蒼の力でそんな事は不可能だった。この世界へ転生する折に神様とやらもなにも見かけなかったが、もしそのような存在が居るのだとしたら、きっと碌でもないに違いない。
『なら、そうだな。こうしてたまに、電話に付き合ってくれればいい。それだけでも大分楽にはなると思うんだ』
「うん、分かった。それぐらいなら全然、平気だから」
『…………あと、少しだけ一夏の現状とか、教えてもらいたい』
ぼそりと、小さくそう呟く箒に。
「……良いけど、プライバシーの侵害にならない程度、だから」
『そ、そのぐらいは弁えているぞ! 姉さんとは違う!』
ごく自然に姉の犯行を暴いている天災の妹に、やっぱり姉妹なんだなあ、と再認識しながら、一言二言交わした後に蒼は箒との通話を切った。
「そういえば、鈴ちゃんもそうだけど、二人とも一夏や弾すら気付かない俺のやせ我慢がどうして分かるんだろう……。謎だ」
◇◆◇
「おはよう……」
「……どうしたんだ、一体」
翌日、またもや続くお節介にちょっとどうなのかと本気で思いながら、蒼はあまりにも酷い友人の顔にげっと目を丸くした。昨日とは打って変わってノーメイク。髪の毛も若干、ところどころではあるが跳ねている。おまけに、この世の地獄を垣間見たような闇色の瞳と弱々しい笑顔。いつも持ち合わせている爽やかの“さ”も無い様子で、一夏はするりと蒼の横を抜けて家に上がる。
「お邪魔します……」
「一夏?」
「……ああ、どうしたもこうしたもない」
そうしてがくんと、両手両膝をつきながら、果てしなく深い溜め息を漏らす。
「蒼、知ってるか。神様ってのは随分と嫌なやつらしい」
「そうなのか」
まあ、自分も昨夜に似たようなことを思ったワケだが、ここで口を挟んでも余計な真似にしかならない。一先ず開けた玄関のドアを閉めながら、廊下で打ちひしがれる一夏へと視線を向ける。余程絶望的なことでもあったのか、と考えながら言葉を待っていた蒼の耳に入ってきたのは。
「…………決まった」
「え?」
「決まったんだ」
「……えっと、なにが?」
すうっと、一夏は息を思いっきり吸い込んで。
「俺の制服が三年時から女子用になることが決まったんだよ!!」
「――――なんだ、そんなことか」
予想以上に小さなことで、蒼はついそんな反応をしてしまった。仕方がない。随分と顔色も悪くしてふらついているものだから、かなりの大事だと思ったのだ。それに納得いかないのが、被害を受ける運命が決まった一夏である。
「そんなことなワケあるか! 制服だぞ! 女子用だぞ! つまりはっきり言うとスカートだぞ! 学校で、大勢いるのに、スカート!」
「いや、うん。それの何が問題なんだ」
「問題しかない……なんだスカートって。いくらなんでも防御力低すぎだ……」
「防御力」
なるほど、と蒼は一夏の言いたいことを大体察した。本日の彼の服装は、昨日のニットを無地の白いTシャツに変えただけのようなもの。より女子っぽさが消されている。女子だとしても完全にラフ、といった格好だ。だがそうはいくかとばかりに、二つの膨らみは精一杯服の生地を張っていた。目に毒は変わらない、と蒼はそっと引き寄せられる視線を逸らしながら。
「あれ、めちゃくちゃスースーするんだ。違和感しかない。もうズボンを履いてるだけで安心感が凄いぐらいだ」
「……なら下に短パン履けば良いじゃないか。体操服の」
「――――、」
ぽかん、と一夏が口を開けたままこちらを見詰める。
「天才か蒼! いや天才だ! 束さん以上に!」
「あ、でも去年から校則で禁止になってたな。……いや、ごめん。謝る。だからそんな落ち込まないでくれ」
「もう駄目だ……なにもかも」
そこまでの事か? と冷静に内心で首をかしげながら、蒼はどうにもならないと早々に諦めた。決して一夏は悪くない。これも全部篠ノ之束が悪いのだ。己も自宅に不法侵入されたうえ、日常生活を盗撮盗聴されている被害者なのだが、直接的に甚大なダメージを負った一夏や間接的に甚大なダメージを受けるかもしれない箒のことを考えると、どうにもまだマシだと思えてくる。
「慣れるしかないだろうな、一応、女の子なんだし」
「ああ、千冬姉にもそう言われた。……慣れたところで俺、一年経ったら元通りだぞ? 男に戻ったらスカートなんて履かないじゃないか」
「まあ、これも良い経験だと思ってやるしかない」
「良い経験じゃねえよ……悪夢だ、悪夢」
「…………悪夢、かあ」
ふと、蒼は考える。今回の事件、篠ノ之束がやってくれた被害は大きい。実質的には織斑一夏ただ一人。間接的には姉である千冬と、最初から付き合ってしまった蒼、男だった彼に惚れていた幾多の女子と数え切れない。
……やっぱり、なんとかしないと。
箒のこともある。蒼はここに来て、しっかりと決意した。一夏を男に戻す。そうなると、これから忙しくなりそうだ、なんて直感的に察しながら。
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その純潔は命よりも大事だ。
「箒と話した?」
「うん」
ベーコンエッグの乗ったトーストを囓りながら、蒼は頷く。一夏は湯飲みを片手に持ったまま、少し驚いたように。
「箒って、あの箒か? 昔、道場で知り合った」
「それで合ってる。……ちなみに、からかう男子相手に一夏が大立ち回りした事件の重要人物でもあるな」
「ああ、あったなあそんなこと。よく覚えてるな」
「……そりゃあ、まあ」
言われて、彼は苦い顔で珈琲を啜った。当時はまだ小学生、無理なことも十分していた時期とはいえ、自分が同年代の男子と喧嘩をすればどうなるかぐらい、蒼はしっかりと理解していた。ひ弱な己では精々が小言を言う程度が限界。“男女”といじられる箒をどうにか出来ないものかと頭を捻っていたところに、後先考えず行動に移したのが一夏である。
「結局、全部一夏が解決したんだ。箒ちゃんの問題も、周りの人の意識も」
「そんな大したことしてないぞ。ただ、腹が立ったからそのまま動いただけで」
「……誰かのために本気で怒れるのは、きちんとした凄さだと思う」
「蒼?」
今でも少し悔いている。あの時、もっと上手くやれたんじゃないかと、そう考えてしまう時があるのだ。知識はあった。最強で、最高で、完璧な事前知識が、薄れつつあれど確かにあった。原作の出来事だと真っ先に気付いてもいた。けれど、結果は変わらず。何かが歪むことを畏れて、彼は大胆な行動を取れなかった。――それも結局、本人の意思の軽さだ。あまり箒と付き合いのなかったその頃の蒼は、からかわれる彼女を“可哀想”としか思っておらず。
「やっぱり、一夏は凄い」
「お、おい、なんで急にそんなこと。やめてくれよ」
「俺が女の子だったら、間違いなく惚れてる」
「……なんだそりゃ」
くすりと笑って、一夏はぐいと湯飲みを呷った。きっとこの美少年が女子から引っ張りだこなのは、見た目だけの問題ではない。その性格もあってのことだ。顔が整っていて、スタイルも良く、気遣いが出来て、家事も得意。改めて目の前の彼――彼女の規格外に呆れながら、ふと。
『……あれ。それが全部女の子に置き換わったら、凄くマズいのでは?』
主に、美少女的な意味で、先に述べた彼の良い部分を全部兼ね備えるのが、今現在自分の正面に座るこの人物だとしたら。顔は姉譲りの抜群な整い具合、スタイルの良し悪しは一目瞭然、気遣い、家事も変わりなし。おまけに元が男だから、相応の理解がある。
「一夏」
「ん?」
「君、真面目に襲われる心配をした方が良いかもしれない」
「え」
深刻な表情で蒼が一夏へ告げた。軽視など以ての外、これは忌々しき事態だ。一夏はさっと顔を青くして固まっている。口が回って人付き合いを円滑に進めるようなタイプであれば心配なかったのだが、一夏はどちらかというと行動で惚れさせてくるタイプ。本人には他意など一切無し。やりたいようにした結果が、自身の善性故に返ってくるとでも言うべきか。なにはともあれ、蒼は手に持ったカップをテーブルに置きながら。
「いっそのこと鞄に鉄板でも仕込もうか」
「いきなり物騒なこと言うんじゃねえよ……」
「それか護身用のスタンガンでも」
「……俺が言うのもなんだけど、大丈夫か蒼。今日、なんとなくおかしいぞ」
うん、おかしいな、と蒼は己の言動を振り返って自覚する。
「ごめん。なんか、色々とあったせいで俺も結構疲れてるみたいだ」
「だろうな。……にしても、箒かあ」
元気かな、なんて呟く一夏。本当に、女の子になってさえいなければ声を届かせてあげられたのに、と思いながら、蒼はトーストの最後の一切れを口に放り込んだ。
「元気はちょっと無かった。でも、箒ちゃんは箒ちゃんだった」
「変わらない、ってことか?」
「うん。一夏の声、聞きたがってたよ」
実際は恥ずかしさの方が勝って辞退しているのだが、これぐらいは友人としてのサービスだ。言うだけならタダ。加えて、ちょっと素直になれないだけで、本当は彼女も想い人と話したいのだ。さて、どんなものか。と、様子を伺う蒼に気付いた風もなく、困ったように眉を八の字にして、一夏は人差し指で頬をかく。
「俺も久々に箒と話してはみたいけど。今は無理だな、こんな声じゃ」
「……そうだな。会話以前の問題、だもんな」
こういう事になるだろう、と予想が付いておきながら今の会話を引き出した自分は、きっとかなり性格が悪い。一夏の横に居るからとか、容姿がそこまで良くないとか、そこら辺は補正程度の役割しかない。好意を向けられないのは、もっと根本的な部分から魅力が無いためだろう。まあ、向けられたら向けられたで、少々困るのだが。
「だから、気合い入れていこう。一夏」
「……お、おお、蒼がやる気だ」
「当然。一夏のためにも、千冬さんのためにも、箒ちゃんのためにも、その貞操は絶対に守り抜くぞ」
「お、おー……。なんか、気の抜ける誓いだな」
気合いを入れようと言ったのにすぐ抜けてどうする、と蒼はため息を吐いた。大方、一年の我慢で何事もなく戻れるという部分に目が行きすぎて、その条件を軽く見ているのだろう。人生いつ何があるか分からない。寝て起きたら女の子になっている可能性だって、このようにあるのだ。一年の間に、誤ってキスしてしまう可能性もゼロではない。
「しっかりしてくれ。一夏はこの先ユニコーンに乗れるぐらいじゃないといけないんだから」
「……どうしてそこでユニコーンなんだ?」
「あの神話生物、普段は気性が荒いのに、生粋の処女の前では大人しくなるらしい」
「へえ……」
知らなかった、と一夏は律儀に感心する。蒼は一段と、自分の肩にかかっている責任の重さを感じながら、かつてない不安を覚えた。
◇◆◇
大半の人間から見て、上慧蒼はどこにでもいるような気の弱い男だ。落ち着いていて物静か。我は強くなく、人の意見をよく聞いて、それなりに受け入れる。誰かの言うことに反対する方が珍しい。指示されたら余程理不尽でもない限り引き受ける。
「……違うんだよねえ」
特定の人間から見て、上慧蒼は少し変わった人物だ。いつも変わらず殆どマイペース。人の話を聞くのはそこそこ上手いが、正直言って会話は下手。なんとなく感性がズレているような気もすれば、至って普通の意見も言う。ただ、人並みの優しさはあるためか、嫌な人物ではない。あとは不思議と、一緒に居て自然と落ち着ける。
「それも違う。……うん、やっぱり、私だけだ」
“彼女”にとって、上慧蒼は特別だ。この世界で唯一、正真正銘たった一人しかいない存在が彼である。焦りを見せない落ち着きようも、ゆったりとした雰囲気も、周りに対する気配りも、全部がただ彼を構成する“外側”でしかない。
「……ふふ、どうだろう。あの時からもう随分経っちゃった。ねえ、蒼くん。今の君には、一体どんな風に世界が見えているのかな――」
なんせ、彼は知っているのだ。今を生きる誰も知らない……誰も経験したことがなかった、ソレを。
◇◆◇
かくして、各々の思惑は異なりつつも、時間は平等に進む。人類史上最高の天才は口の端を吊り上げながら笑い、現人類最強候補の女性はかすかに弟を心配して、女子になった男子は湧き上がるごった煮の感情に叫び、平凡な彼はただあるがままに構えた。時は来た。後戻りは既に出来ない。
季節は春、四月もまだ上旬。舞い散る桜が通学路を彩る中で、様々な問題と疑問を抱えたまま、織斑一夏の波乱に満ちた一学期が、今、盛大に幕を開ける――!
ちょっとずつ一夏ちゃんのギアをあげていきたい。
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春と友人と新学期。
靴を履いて、鞄を持って、よっと腰を持ち上げる。トントンとつま先を鳴らせば、慣れた感覚が返ってきた。気分は良い。体の調子もいつもよりか大分楽だ。なにより朝から雲ひとつ無いほどの快晴、太陽はその眩しい顔をぎらぎらと輝かせて、精一杯に光を注いでいた。蒼からして、本日の状況に悪い部分は欠片もなく。つい、普段は上手く動かせない表情筋を最大限に活用して、きらきらという効果音が出そうなぐらいの笑顔を向けながら、彼はとても楽しそうに言った。
「準備も出来たし。そろそろだ」
そんな“見た目はどうあれ今の私は光属性です”みたいな蒼とは反対に、どんよりとした気分で肩を落とす美少女。無論、呼ばれた名前通り、織斑一夏その人だ。
「さて、行こうか――。一夏ちゃん」
「お前絶対楽しんでるだろそうなんだろ!?」
「“蒼”だけど」
「“そう”じゃねえよ!」
じゃあなんなんだ、と真面目に聞いてくる彼に、一夏は瞬時に理解を求めるのを諦めた。今日は待ちに待った始業式及び入学式。彼女にとっては、出来ることなら休みたいと思うほど辛い初日である。
◇◆◇
「風が……空気が……素肌が……布が……」
ぶつぶつと何事かを呟く一夏を横目に、蒼は周りの景色を眺める。絵に描いたような桜の並木道、ちょうど見頃なのか、どれも綺麗な花を咲かせていた。流石にこのご時世、自然のみとはいかないが、人工物と合わさっても見劣りはしない。アスファルトの道を彩るように、ピンク色の花びらがそこらに落ちている。この時期だけ見ることができる、ちょっとだけ特別で、ほんの少し幻想的だ。
「良いな、桜。すぐに散るのが勿体ない」
「桜? ……ああ、ホントだ。凄い綺麗だな」
「……気付いてなかったのか」
「それどころじゃナイ」
半分片言で一夏が言う。重症だ。目を伏せながら蒼は息を吐いて、このガッチガチでそわそわしている友人をどうにかするのが先決かと切り替える。一夏の今の格好は春休み中に蒼の家で見せたどれとも違いながら、どの服装よりも女子力の高いものだ。それがフリルの付いたヒラヒラのワンピースだとか、リボンのあしらわれたキュートなスカートなどではなく、学校指定の制服というのが実にアレだが。そこら辺はまあ、仕方ない。なにせ未だ精神は美少女中学生一夏ちゃんではなく、イケメン男子中学生織斑一夏なのだ。
「もう駄目だ、歩くたびに変な感覚に襲われる。というか歩きづらいし不便だしスースーするし下手したらパンツ見えそうだしなんだこの欠陥兵装は」
「それでも一応、二年間で女子の下着が見えたのは数回しかないぞ?」
「いやそりゃ向こうは慣れてるんだし当たり前…………今なんて?」
なんか、友人の口からするりと、余りにも自然に流してはいけないような言葉が出たような気がする。問い掛けると、蒼は若干首をかしげながら。
「だから、下着が見えたのは数回しかないって」
「そこだそこ。軽く流すな。普通に一大事だろおい」
「……しょうがない、あれは不可抗力だった。偶然、階段を上ってる途中で」
「信じられねえ……いや、本気で、自分がそれを経験するかもしれないってコトが」
きゅっと、一夏がスカートを掴んでちょこちょこと歩く。必死だ、なんて思いながら、妙に姿からして似合っている事実に蒼は苦笑する。これでも数日前までは男だったというのだから分からない。口調も変えてしまえば最早別人だ。現状は男っぽい言葉遣いと、感覚に染み付いた身振り手振りだけが織斑一夏だったことを証明している。
「結局、髪も伸ばしたままだし」
「ああ、切ろうかと思ってたんだけど……」
「?」
ぐしぐしと肩にのっかった黒髪を乱雑にほぐしながら、一夏は妙にとがった視線を向ける。なんでこんな邪魔くさいものが、とでも言わんばかりだ。確かに、あの長さの髪の毛は手入れ諸々大変だろう。つくづく女子という生き物は凄まじい。
「千冬姉に、長い方が似合ってるし色々と都合が良い、とか言いくるめられて。しかも髪洗う時のコツとか教えて貰ったんだぞ? ……途端に申し訳なくなって、できなかった」
「人の良さが裏目に出てるな……」
「というより姉には逆らえん……」
かなりの実感がこもっていそうな一言である。思い返してみても、一夏が千冬をどうにか出来た試しは一度もない。お前まさか姉に勝てると思っているのか? という幻聴を耳にして、はい無理ですと心は秒速で折れていた。姉は強し。塩味が足りないという千冬のぼやきにも真摯に答えるのが訓練された弟だ。
「だからこのままだよ、結ぶのとかは“あり”らしいが」
「なるほど」
頷いて、蒼は一夏の方をちらりと見た。くるくると、人差し指に巻き付けるようにして毛先を弄んでいる。
「その行動が既に男らしくない、ってところには突っ込んだ方が良いのか?」
「……はっ」
ばっと手を離して、重いため息を吐く一夏だった。
◇◆◇
昇降口で一夏と別れて、上履きに履き替えながら、ゆっくりと階段に向かう。一夏らの通う中学での三年教室は三階、つまり屋上を除いた最上階にあたる。校舎の高さからして、校庭を見下ろすのに苦労しない程度には上だ。必然的に踏む階段の段数も多い。
『そう考えると、一年生はちょっと羨ましい……』
なにせ彼らが階段を使うのは移動教室の時だけ。各教室は全て一階に集結しているため、平等と言えば平等。そんな一年生だが、がたいはどうあれ心は小学校を卒業したばかりのひよっこだ。二・三年の上級生は高いところにクラスがあって良いなあと、そう思う者も多い。
『……やっと着いた。意外としんどいな』
ふう、と静かに息を吐きながら、蒼は一度体勢を整えるように腰を反らす。毎日の通学は基本徒歩にしている彼だが、自発的に運動をすることは殆ど無い。よって春休み中、学校の無かった日々で体力は衰えており、ひ弱、ひょろい、殴れば折れそうと散々な評価を貰ってきた身体はまさに評価通りのものとなっている。日常生活に問題は無いだろうが、少しばかり体育の授業が心配だ。いけるだろうか、なんて独り考え込んでいると、後ろから唐突に声をかけられた。
「お、上慧っちおはよー」
「あ、うん、おはよう」
女子だった。蒼は顔に出ないよう懸命な努力をしつつ、内心でしっかりと慌てる。根っこがコミュ障気味でもある彼にとって、付き合いの薄い異性との会話は割と天敵だ。
「なーにー? 新学期早々疲れてんのー? ちっと保健室行って来たら?」
「……いや、大丈夫。ちょっとゆっくりしてるだけ」
「そう? んー……ならいっか。でもあんま無理しないことね!」
じゃお先に、と手をあげて、彼女はたたっと廊下を軽快に走って行った。
『……俺より元気とは恐れ入った。いや、違うな、俺が貧弱なのか……』
憂鬱だ、蒼はかくりと肩を落としながら歩みを再開する。先ほど下駄箱で確認したクラス分けの貼り紙ではA組とのこと。一夏も同じだ。恐らくはそういう手回しがあったもの、と考えて良い。なにしろ異例中の異例だ。対応に当たった教師陣が頭を抱えたのは言うまでも無いだろう。
「……と、ここだ。うん、それじゃあ、失礼しま――」
――扉を開けるとそこには、天国と地獄が両立していた。
◇◆◇
がばっと、数十にも及ぶ視線が一気に体を貫く。蒼は足を踏み入れた一瞬で、その場に縫い止められたような感覚に襲われた。一体何事か。恐る恐る、首を回して確認する。
「…………上慧だ」
「上慧くんね」
「一夏さんとは一緒では無くて?」
「というかこいつさっき女連れてなかったか?」
「マジかよあの上慧が?」
言いたい放題、である。
「……えっと、これは?」
「蒼!」
そんな空気を壊すように、がたり、と椅子を盛大に転がして立ち上がる男が一人。赤い髪の毛にバンダナ、人並み以上に整った容姿と文句なしの体型。誰が言ったか「口を開かなければ織斑にも負けないイケメン」というのは伊達ではない。彼の名前は五反田 弾。一夏や蒼と共通の知人にして、よき友人である。
「まあ、言いたいことはあるだろうし、こっちもあるが、とりま同じクラスで良かったわ。これから一年また忙しいぞ」
「うん、よろしく、弾。……ところで、この妙な包囲網は……」
「織斑一夏と関係を持つための女子グループ結託の陣、略してオリジン。一夏と同じクラスになって浮かれた女子どもがやってんだよ。おかげで向こうは人生最高ビバ一夏、俺ら男共は甘酸っぱい青春の可能性を散らしてお通夜モードよ。あー馬鹿らし……」
ぼそり、と漏らした弾の一言に、特大の魚……もとい女子がお前ごと噛み千切らんとばかりに食らいつく。
「馬鹿らしいとはなんですか五反田くん! 私たちは必死なんです!」
「そうだそうだ! 意見は一夏くんの友人というその枠を譲ってから言って貰おうか!」
「鈴音もいなくなった今がチャンス。今年こそ告白してクリスマスを一緒に過ごすの!」
「野郎のくせに生意気ね! そのチ○コハサミでぶち切られたいワケ!?」
「ははは、ぞっとしねえ。というかなんだこの人気は。俺のイチモツの前に奴のイチモツを消し飛ばしてやりたいわ」
理不尽な罵倒に弾が青筋をたてながら言う。もっとも、彼が行動に移す前に、一夏のアレは綺麗さっぱりなくなっているのだが、それを知っているのはこの場で蒼だけだ。それだけに、彼の心臓は酷く嫌なリズムを奏でていた。
「……あ? どうした蒼。すっげー顔色悪いぞ」
「なんでもない」
「いやでもお前今にもぶっ倒れそうなぐらい――」
「なんでもない。本当になんでもないんだ。……なんでもないってことにしてくれ」
「お、おう……」
友人の珍しく狼狽えた風の様子に、弾は首をかしげながらもなし崩し的に黙る。
『冗談、だろう。このテンションがもうしばらくで急転直下するのか……?』
悪夢だ、といつぞや一夏が呟いた言葉を、蒼は内心で繰り返した。
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ドタバタしないで大騒ぎ。
「みなさん、おはようございます……」
HR前の予鈴と共にがらり、と教室の扉を開けて入ってきたのは、茶色いウェーブのかかった髪の毛を腰まで伸ばした女性教師だった。目元には深い隈、遠目で見ても若干、唇や肌も荒れているような気がしないでもない。蒼の記憶ではたしか、美術の担当をしていた人だ。去年一昨年と担任だった先生が余所へ行ってしまったため、新しい担任が彼女なのだろう。と、
「…………上慧クン」
「え、あ、はい」
首はそのまま、眼球だけをぎろんと回して、蒼の名前を呼んだ。戸惑いながらも答えた彼は、けれどもむっと胸中で首をかしげる。なんだろう、不思議とその瞳を見詰めていると、よく分からない不安を覚える。覗けば僅かに瞳孔が開いていた。
『いけない。というかマズい』
お疲れさまです、という言葉を蒼はなんとか飲み込んだ。往々にして、本気で疲れている人間にねぎらいの言葉をかけると、逆に怒らせる。どれほど“私疲れてます”オーラを出していようと、そっとしておいて欲しい時はそっとしておいて欲しい。体の弱さから今世で似たような経験をしていた蒼は、今ここに居るクラスの誰よりも正解に近い言動の出来る存在だった。
「先生は、色々と、アレなので。詳しい説明とかは、この後の彼女と二人で、行ってもらいたいのですけど……大丈夫ですか?」
「説明って――」
丸投げの予感。人生二回分に相当する直感、聞くまでもなく当たっている。それを受けて冗談ではない、というのが彼の本心だ。よもや自分がこのお祭り騒ぎに水をかけるなど、後が恐ろしい。主に女子陣営からの仕置きが。故に一も二もなく断りたいところだったのだが、なんとも悲しいことに、蒼には分かってしまう。なにより彼女の瞳が切実に訴えていた。
『これ以上負荷をかけられたら死にます』
連日の残業、関係各所との連絡、知らない番号からの悪戯電話じみた脅迫。ある一人の男子系女子生徒を迎えるにあたって、学校はパンク寸前だった。言うなれば、彼女もこの天災が起こした一連の事件による犠牲者である。暗く濁った死んだ目、ところどころ枝毛の見える髪、がさがさになってしまった肌。それらがまた、断り難い。
「…………えと」
「上慧クン……?」
「……なんだ? 蒼、なにか知ってんのか?」
「というか織斑くんがまだ来てないんだけど」
ざわざわ、とクラスに会話が戻る。新学期初日、担任の変更なんて彼らにとっては些細な問題でしかないのか、蒼がなにかやらかしただとか、織斑一夏が遅刻してるだとか、好き勝手に騒ぎながら。
「……上慧クン」
「…………いや、俺にはちょっと、荷が」
「――あの、いつまで待ってればいいんですかね、俺」
空気を読まない一声が、見事に教室へ響いた。今の今までうるさかった3年A組の教室は、まるで人が消えたかのような静寂に包まれる。衣擦れの音すら目立つぐらい。そんな状況で、誰もが自然と声のした方へ目を向ける。そうしてしまう程には綺麗で、聞き取りやすくて、爽やかな気持ち良さのある声だった。
「ということでお願いしますよ上慧クン! 内申評価存分にあげますから!」
「それは嬉しいですけど、ちょっと待ってもらえませんか」
「待てません。私も向こうもうちのクラスも。ということで、どうぞ、入って良いですよ」
「じゃあ、失礼します。……なんか新鮮だな」
ガッデム。神は罪なき凡人系転生者を見放した。聞く耳を持たないとはまさにこのコトか。蒼は自分の弱い主張ではどうにもならない強引性を知る。同時に、これから起こるであろう事態に天を仰いだ。基本的無神論者である彼が、崇め奉れば神様も味方してくれるのだろうか、なんて思うのも無理はない。
「おい、見ろよあれ」
「すげー綺麗だ……やべ、こっち見た」
「転校生? めっちゃ美少女じゃねーかおい」
「数多いるうちの学校のマドンナが霞んで見える……っ!」
先ず、野郎どもの普通の反応。
「おい山田。分かるか?」
「上から……83・56・84」
「いいなあ、うん。好みだ」
「やべー……あれはやべー」
次いで、馬鹿どもの変態な反応。
「わー、なにあれ、可愛い……」
「うっわ。男子共がまーた阿呆やってるよ」
「というか織斑くんは?」
「もしレース相手になったらちょっと厳しそうね……」
最後に、女子達の反応。
『……うん。なんでだろう、とても複雑な気持ちだ』
三者三様。それぞれがそれぞれの想いを抱く中、黒板の前に立った一人の女の子はチョークを手に取り、かつかつと迷いなくその名前を書いた。――“織斑一夏”、と。
「……というわけで、今日からこのクラスの一員になります。織斑一夏くん、改め織斑一夏ちゃんだそうです。質問とかは彼……じゃない彼女と、そこの上慧クンに聞いてください。私は……ちょっと……休ませてください……ね……」
「……あー、そういうことで。織斑です。えと、知ってる奴は驚くだろうけど、まあ、うん。なんか、女の子になった」
一夏が後頭部をかきながら、その衝撃的事実を述べる。反応は返ってこない。絶賛上慧蒼以外のクラスメートはもれなく全員固まっていた。当然である。なにしろ、あの“織斑一夏”が信じられないことに超絶“美少女”として目の前にいるのだ。脳が理解を拒否するのは誰もが通る道。
「一夏、最後、知ってなくても驚くから」
「おお、たしかに。というか蒼。顔色が悪くないか」
「全面的に一夏は悪くないんだけど一夏のせいって言うしかない」
「え?」
なんでだ、と一夏が首をかしげた瞬間。同じくして、固まっていた生徒達は一斉に意識を取り戻し、天をも貫かん勢いで。
「「「「はああああああああああああッッッッ!!!???」」」」
様々な感情を混ぜ合わせ、叫び声をあげた。
◇◆◇
「どういうことですか上慧くん!」
ばん、と蒼の机が力強く叩かれる。つい数分前まで“織斑一夏と関係を持つための女子グループ結託の陣”だったそれは、そのまま“上慧蒼を徹底的に問い詰めてこの頭がおかしくなるような事態の決着を図ろうの陣”へとシフトチェンジしていた。教室の窓際一番後ろ、という一部の人間にとって楽園みたいな蒼の席だが、現状においてはただ逃げ場をなくすだけの処刑台だ。
「とりあえず、その……落ち着いて欲しい。あと少し離れてくれたら嬉しいんだけど」
「上慧! ワケを話せ! それともこれはアレか!? 夢か幻か冗談か!?」
「正真正銘現実に、一夏が女の子になってる。それと少し近いと思うんだけど」
「上慧っち! ねえねえ朝あの子と歩いてたよね! その時から知ってたカンジ!?」
「うん、春休み中にああなったみたいで。というかもうあの肌が触れてるんだけど」
女性経験小、交際経験なし、告白した回数ゼロ、告白された回数ゼロ、彼女居ない歴は進行形で更新中。そんな蒼にとって、これほど辛いことはないだろう。なにせ周囲を壁のように女子が囲んで自らへ絶え間なく質問を投げかけてくるのだ。それが可愛いことであれば良かったが、残念なことにあまりにもあり得ない現実に直面し、興奮した女子による詰問というのが殆ど。ごりごりと精神が削れていく音を、蒼はたしかに聞いた気がした。
「上慧くん! まだ聞きたいことはあるよ! そもそもなんで――」
「上慧さん! ちょっとお伺いしますけど――」
「上慧っち! 一夏くんと話してた時の笑顔凄い可愛か――」
「上慧ェ! お前は私たちにとっての――」
もうなにがなんだか。女子、女子、女子、女子。まるで女子中学生のバーゲンセールかと言いたくなるぐらいの酷さ。駄目だ、無理だ、限界だ。そもそも蒼は一応の原因を知っているだけで、詳しいことなど束以外に分からない。ああもうこのままいっそ意識がとんで倒れないだろうか、なんて思い始めた時だ。
「蒼!」
「うわっ……と、弾?」
人だかりをかき分けて来たのはもう一人の友人だった。なにやら真剣な表情を携えた彼は、がっしと蒼の肩に手を置き。
「お前が女と登校してきたって聞いて軽く殺意を抱いてたんだがそういうことだったんだな! すまん! むしろよくやった、これで俺らにも青春が来るぜ!!」
「…………、」
うえーい、と叫ぶ声がする。女子の壁を越えた向こう側、安全な内地で男共が歓喜の声をあげていた。今夜は祝杯だ、なんて女子と真逆にテンションは鰻登り。蒼は静かに、ゆっくりと息を吐いて、ぽつり一言。
「……帰りたい」
切実な願いを、呟いた。
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空飛ぶ馬鹿、地を這う気分。
「……本当に、織斑くん?」
「あ、ああ。全然、見た目は違うけど」
「一夏くん……どうしてこんな……」
「えっと、一応、深い事情があってというか、俺が望んだワケではないというか」
「それは上慧さんから聞きました。……誠に信じられませんけど」
見慣れた光景も、中心になる人物が変われば新鮮に見えるらしい。やっとのことで壁による追い込みから解放された蒼は、教壇の方に群がる集団へ目を向けながら、そんなことを思う。大量の女子に囲まれる一夏というのは特に珍しくもないが、なにしろ美少女の姿をしているので違和感が凄まじい。彼は一息吐いて、ぎしっ、と椅子にもたれ掛かった。
「……大丈夫かー? “ソウ”なのに“爽”やかじゃねーぞ」
「字が違う……」
疲労困憊、といった様子の蒼に、一足早く平時の調子を取り戻した弾が声をかけた。織斑一夏が女の子になった=イケメンが一人いなくなったという事実にどんちゃん騒ぎの男子陣営。その中でも一番乗りに乗りそうなこの男が真っ先に落ち着く、というのは蒼としても驚きだった。うっすらと目を開けながら、側まで来て肩を叩いてきた友人を視界に入れる。
「なんだ、もう甘酸っぱい青春は終わったのか」
「ばっか。これからだこれから。まあ、俺のルックスなら楽勝なのは目に見えてるからな。余裕のない野郎共と違って現状把握ぐらいできんだよ」
「……君も大概素直じゃないなあ」
「うるせえ。俺よりチャイナ娘の方が素直じゃなかったろ」
ありゃあ中国四千年の歴史を背負った代物だな、と意地の悪い笑みを浮かべて弾が呟いた。ここに当の本人であるチャイナ娘――もとい凰鈴音が居れば、綺麗なストレートで殴り抜かれていただろう。引っ越してしまったことを幸運とは思わないだろうが、彼なりに寂しさを持っているという表現なのか。あまり触れるのもどうか、と思って蒼は形だけ笑ってみる。
「んで、どういうことだ。あいつがあんな美少女になるとか、俺は夢でも見てんのか?」
「夢だったら良かったんだけど」
「つか意外とおっぱいあるなあ。元男が持っていいもんじゃねえぞあれ」
「……弾、脊髄とは言わないけど、その股間に正直すぎる会話はおさえてくれ」
欲望に忠実なのが必ずしも悪ではないが、真剣な表情で言われると反応に困る。しかも向こうとしては本気も本気、滅多に見せない真面目な姿だ。だからこそ質が悪い。蒼は頭に手を置きながら、それでも一人で抱えるよりマシかと気を取り直して。
「……なあ、蒼。あいつが一夏なんだよな?」
「ああ、そう言ってる」
「だったら、あれ、揉んでもいいよな? 男だもんな? 何も問題ないよな!?」
「絵面が問題だし同意がなかったら確実にセクハラだろう……」
全然落ち着いていない馬鹿にくらっと意識が遠退きかけた。弾の言い分も理解できる。事実として、女になった一夏の胸はそこそこの大きさを有しているのだ。春休み中毎日と言っていいぐらいに朝飯を一緒にしていた蒼が、そのことに気付いていないワケがない。けれどもそれはそれ、これはこれ。今はそんな変態的ムーブをしている場合ではない。蒼はなんとか弾を軌道修正しようと目を向けたが、時既に遅し。
「一夏!」
「うおっ!? な、なんだ、弾。いきなり」
「後生だ! そのおっぱい揉ませてくれ!」
「……はあぁ!?」
飾らない言葉は素敵だ、という話はよく聞くが、蒼はこの時ほど言葉は飾るべきだと感じたことはなかった。物は言いようだとかそういうレベルではなく、根本的な表現からしてだ。ストレートに意味を伝える弾の言葉はロマンチックというよりも、単なる馬鹿の遠吠えでしかない。
「織斑くんちゃんそこ退いて!」
「え? え?」
「そいやぁッ!」
と、件の男子がふわっと宙を舞う。
「――うおーっ!? 空中百八十度回転方式ーーー!?」
がたたたたっ、と机を巻きこんで、なにやら変なことを叫びながら弾が転がる。一体何事か、と一夏の居る教壇の方へ顔を向けた蒼が見たのは、ゆらりと構える一人の女子。
「なんかよくわかんないけど女子の胸に触ろうとする変態は悪・即・斬で! たとえ相手が一夏くんであろうとも!」
「……弾。たしかあの人、うちの柔道部の主将だった人じゃ」
「よ、よく覚えてたな蒼……全国ベスト8の実力は伊達じゃねえってか……っ」
「……まあ、それはそれとして、自業自得だから反省で」
「なにー……ちくしょう、お前は俺の母親かっ」
失礼な、どう見ても男だろう。そう呟く彼の頬は、少しだけ膨れていた。
◇◆◇
「疲れた……」
「お疲れ、一夏」
「おー、お疲れさん」
一夏に対する女子一同の質問や嘆きの拘束は、HRの次である始業式後の休憩になっても収まらず、こうして下校の時間にようやく解放された。本日は年度初日ということもあって、授業は式典と係・委員会の決定のみ。午前中で終わりだったのは、色々な意味で幸運だ。一夏、蒼、弾の三人は誰もいなくなった教室で、各自の席へ腰掛けた。ちなみに窓際一番後ろが蒼、その前が一夏、隣が弾である。
「女子って凄いな……一体どれだけ喋るんだって言うぐらい口が尽きない……」
まるでマシンガンだ、と愚痴る一夏。彼の身近なところに女性がいないということでは決してないのだが、こうも怒濤の勢いで話し掛けられるのは無かったのだろう。男前で性格も良い織斑一夏であった場合、対面する女子側の緊張もあって押せ押せの人間は少なかった筈だ。
「うん、分かる。なんというか、頭の回転数からして違ってるような気がしてならない」
「俺もなんとなく理解できるわ。いやーうちの妹ってばなんであんなに強いのかねえ……」
現在、家庭内ヒエラルキーでは絶賛最下層を彷徨っている弾は、いくら力があろうとも上に行く事は無い。両親に勝てないのは言わずもがな、妹には口で負かされ、祖父に力で締め上げられる。肩身の狭い生活は辛いぜ、と泣きたくなる気持ちは一旦置いておき、彼はここに来て本題に取りかかった。
「……それじゃ、確認するけど。本当に一夏でいいんだな?」
「だからそうだって朝から言ってるだろ。なんなら証拠を見せても良いぞ」
「よしじゃあ証拠見せろ」
「ふっふっふ……控えい! この紋所が目に入らぬか!」
学生証だった。
「そんなん証拠でも何でもねーじゃねーか。しかも顔写真男だし」
「だよな……。悪い、弾。証拠とか俺、一切持ってない」
「そこはあれがあるだろう。弾の実測したモノのサイズ」
「おいやめろよあれを聞いた一部の女子から“クリスマスツリー”って呼ばれたコト俺いまだにトラウマなんだからな!?」
十二センチと二・五ミリ。それが彼の男としての魂である。しかしながら、トラウマにまでなっているとは想像していなかった。だとしたら、ちょっと申し訳ない事をしてしまった、なんて思いながら蒼は手刀を切ってごめんと謝る。過去のトラウマというものは非常に厄介だ。彼も似たようなものを持っているため、軽々しくは捉えられない。
「まあ、いいけどよ。どうせ一夏なんだから、こいつの長さを知ったところでなに? って感じだ」
「揉ませろとか言ってきたのはどこのどいつだよ」
「いや一夏? お前冷静に考えろよ? 目の前に格安のセール品で買えそうな夕張メロンがあったらお前迷わずカゴに入れるだろ?」
「俺の体が格安のセール品ってことになるぞおい」
一夏が冷めた目で弾をじろっと睨む。それも気にせず弾はというと、体が安いって響きがエロいよなと真剣な表情で考えていた。割とどうでも良い。
「だってお前土下座して頼んだら揉ませてくれそうじゃん」
「揉ませるワケないだろ!? 大体これ、飾りとかじゃ無いんだぞ!」
ぐわしっ、と一夏が自分の胸を掴んで吠える。蒼は鼻孔が熱くなる前にさっと目を逸らした。制服の上からでも見てとれる膨らみは、一言で表すなら最高としか言いようが無い。まあ、当然、純情少年には刺激が強すぎて駄目なのだが。
「感覚あるし、触られたら変な感じがするし、本当に勘弁して欲しい」
「……一夏」
「なんだよ、弾」
「お前それクッッッッッソエロいな!」
「はあ? なにが――――って、おわーっ!?」
勘弁して欲しいのはこちらもである、と蒼は鼻を押さえながら内心で呟いた。
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弾ける友情の香り。
一通り二人から説明を聞いた弾は、ふむと顎に手を当てながらきっぱりと。
「なるほど、分からん」
解答に迷いが無かった。これは酷い、と蒼は思わず頭を押さえる。顔は抜群、スタイルも文句なし、おまけにファッションセンスもそこそこ。一夏が居なければ女子一同から引っ張りだこ、居たとしても人気を二分しそうなスペックを持つ彼がモテない理由を、なんとなく察する一言だ。これには一夏も思わず苦笑い。というより顔が引き攣っている。それらの反応を弾は気付かないのか、気にしないのか、腕を組んでうんと唸った。
「朝起きて女になって、それが知り合いの姉による犯行でした、とか。まだお前が悪の組織に捕まって肉体改造手術を受けた、って話の方が信憑性があるぞ」
「なんで俺がそんな仮面のライダー的な性転換をしなきゃいけないんだよ」
「いやどんな理由であれ性転換することはないだろう……」
そもそも一般人を拉致して性転換させる悪の組織というのは、その目的以前に色々とヤバイ感じだった。まあ、というのはともかく、弾の言っていることはそこまで的外れでも無い。顔の知っている人物によって女の子にされました、なんて空想上の話にも程がある。だがそんな無理難題且つ奇想天外なコトをやってのけるのが世界のSHINONONOこと篠ノ之束だ。
「大体一夏、お前気付かなかったのかよ。注射されたんだろ?」
「気付かなかった。本気で。ぶすっとやられてたのに」
「鈍感過ぎじゃねえか? 人の好意的にも肉体的にも」
「そんなワケあるか。針で刺されたら普通に痛いぞ」
あーだこーだという二人の会話に耳を傾けながら、蒼はなんとなくその理由について考えてみる。まあ、あの人ならどうとでもすると思うが。答えが出るまでもなく答えが出てしまった。突き詰めると篠ノ之束に出来ないことはまともに考えても出来ないことで、彼女に出来ることは人類が努力して出来ることでもある。何でもできる希代の天才、細胞レベルでオーバースペックと豪語するのは真実でしかない。
「で、それ、戻らねえのかよ」
「いや、一応戻るには戻るんだが……」
ちらり、と一夏が蒼の顔を覗き込むように視線を向ける。性別が変わろうと、考えていることが比較的顔に出やすいのが彼だ。その行動に込められた意味を、蒼は瞬時に理解した。登校する前に軽く話し合った結果、性別が元に戻るかもしれない、という情報は基本的に隠す方針になっている。理由としては幾つかあるが、なんにせよ、今朝の男共によるお祭り騒ぎを思い返せば自然と理解できるだろう。
「一年間無事で過ごせば元に戻る、って話だ」
「ちょっ、蒼!?」
「良いんだ。弾なら何も心配いらない」
「……? なんかよく分かんねえけど、それなら安心じゃねえか」
頭にクエスチョンマークを浮かべながら、一体何が問題なんだ? と聞いてくる弾。たしかにそれだけなら何も問題なかったが、そうはいかないのが束クオリティ。人に迷惑をかける悪戯事に関しては随一だ。
「無事で過ごせば、って言っただろう?」
「ん? 無事、だろ? なにか変な条件でもあんのか?」
「ある。一夏自身の意思に関係なく、キスとかエッチしたら女で固定されるらしい」
「ほーん……なんだか面倒なことになってんなあ」
ぎっと弾が椅子の背もたれに体重を預け、どこか上の方を見上げながら呟く。本人の問題で無いのだから当たり前だが、全くもって他人事ですという反応。しかしながらそれでも、理解してもらえただけ良しである。蒼と一夏がお互いを見合わせながら苦笑していると、不意に弾がぽつりと漏らす。
「……待てよ。てことは今の一夏にキスすれば永遠のチャンスが平等に到来する……?」
盲点だった、と言わんばかりの表情。そして。
「なあ、一夏」
「弾。待て、なんだ今の不穏な一言。今の流れだと嫌な予感しかしないぞ」
「率直に言う。――――その唇、俺に寄越せ」
無駄に格好良い重低音なのが余計に本気度を増している。
「誰がやるか! 男とキスなんて死んでもごめんだ!」
「良いだろうが別に! 減るもんじゃねえし!」
「減るわ! 俺の正気度とか純潔が減るわ! 大体男に戻れなくなるだろうが!」
「うるせえ! 良いからさっさと俺にキスされろ! 例え中身がお前だろうと美少女とのキスが体験できて尚且つ今後の未来も明るいとくれば一石二鳥どころの話じゃねえ!」
うがーっ! と各々の言い分を並べ立てながら取っ組み合う双方。性転換の影響もあり、純粋な力比べでは一夏の分が悪い。旗色は弾の優勢。じりじりと迫り来る赤髪の友人に、一夏は負けじと必死で押し返す。
「こ、の……っ、いい加減に、しろ!」
「あ」
ごうっ、と一夏が右足を振り上げる。そのつま先が描く軌道を見た瞬間に、蒼はこれから起こる悲劇を理解した。霊長目ヒト科ヒト属のオスである彼には、想像したくもないことの一つ。一般的な上履きの先端を覆う赤色のそれが、今、五反田弾の股間に向けて綺麗な弧を描き――
「あ゛ッ」
「……あ」
「…………うん。あれは、痛いな……」
メリークリスマス、という声がどこからか聞こえてくる。シャンシャンという鈴の音の空耳は、不埒な真似をしようとした男の不幸を笑っているような気がしてならない。時間にしておよそ十五分。弾は床の上を芋虫のように這いずりながら、苦悶の声をあげ続けた。
◇◆◇
「この世の地獄を垣間見たぜ……」
「正直やりすぎた。マジですまん」
がたがたと小刻みに震えながら、弾はそっと椅子に座る。男なら誰しもその痛みに同情してしまう。転生経験のある蒼も、性転換経験をしている一夏もそれは同じだ。あの勢いで折れていなかったのが不幸中の幸いか。なにはともあれ、五反田弾の五反田弾は絶賛デリケートな時期に突入していた。
「でも、お前にだって原因はあるんだぞ。そこは自業自得だ」
「そうだな……ちょっと、ふざけすぎたか。よし、そんなら真面目にやろうぜ」
「……弾が真面目といって上手くいく想像が出来ないよ、俺は」
「はいそこそこー、ブルーボーイ。静かにしなさい」
変なあだ名を付けないでもらいたい。むっと膨れる蒼を余所に、弾は今一度腕を組んで真剣な様子だ。
「まあ、さっきまでの話で大分理解できた。ようはコイツの処女を一年間守り通せば良いんだろ?」
「言い方はあれだけど、それで大体合ってる。ついでにキスも奪われないように」
「そりゃあ大変だ。なにせ一夏ちゃんは可愛いからなあ」
「……意外だ、弾が協力的なんて」
当然、と彼は鼻を鳴らしながら胸を張った。そうして一秒も経たないうちにそれを崩し、がしがしと後頭部をかきながら。
「一夏。俺もな、友人としてお前がそれだと困るんだよ、正直」
少しだけ困ったように眉尻を下げながら、弾が誤魔化すように笑う。彼はたしかに自分の欲望に忠実なところがあるくせ、本質的にはヘタレという残念美男子だが、根っこの部分にある人の良さは相当だ。なんだかんだで周りの人間から嫌われないのは、きっとそういう“愛すべき馬鹿”といった雰囲気を持っているからだろう。
「ま、本当のコトを言うと、だ。彼女作って青春したいのも山々だが、お前らとこうして馬鹿やるのも悪くはねえからな。腐れ縁みたいなもんだけど、俺にとったら大切な縁なのに変わりないしな」
「弾…………」
「それにほら、なんだ。お前が男じゃねえとやっぱ調子狂うんだわ。さっさと戻っちまえよ」
「……ばーか。戻れたら戻ってるよ、ったく……」
恥ずかしそうに言う弾の言葉は変わらず真っ直ぐで、一夏はつい泣きそうになった。普段はいつも巫山戯ているからだろう。そのギャップが元々良い見映えとも相まって、この時こそは一夏に勝るとも劣らないと錯覚するぐらい。――が、この男、内心では全く違うことを考えていた。
『これが蘭に知られたら間違いなく俺がとばっちりを受ける』
なによりも先ず自己保身。自分第一。妹の制裁はマジで洒落にならないという評価を下している弾にとって、かの五反田蘭が想いを寄せる相手が女になっていたという事態はかなり不味い。
「そうと決まればなにがなんでもやるぞ。我ら貞操隊ボーイズ、ここに始動だ!」
「貞操帯の“帯”と“隊”をかけてるつもりか……?」
「ネーミングセンスが酷すぎるだろう……」
割と冗談になってないあたり、なんというか恐ろしかった。
「ところで、一夏。一つ聞きたいんだが」
「ん、なんだよ」
「お前さ、今女の子になってるワケだけど」
「ああ。……それが?」
「やっぱり自家発電とか直接指でやって――」
「「アウトだ馬鹿」」
……ともあれ、一応、頼りになるかはさておいて、秘密を共有する仲間が増えたのだった。
どうでも良い情報ですが、このオリ主くん諸事情で割とM寄りだったり。
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晴れのち心は雲り気味。
包茎の四ツ浪!
……以上だ!
風になびく黒髪、ふわりと揺れるスカート、それらに伴って漂う甘い香り。
「……見られてるな」
「気にしたら負けだ。俺も気にしない」
弾を仲間に引き込んだ入学式の翌日、とある男子が女の子の状態での登校二日目。制服を着た学生たちで埋め尽くされる朝の通学路は、とある女子の存在にざわめいていた。制服を程よく崩して着こなし、背筋をピンと伸ばして歩く絶世の美少女。その顔も、スタイルも、身嗜みも文句なしの一級品だ。身のこなしは少し及第点に及ばないぐらいか。彼女の名前は織斑一夏。知る人ぞ知るイケメン男子中学生――だった者である。
「可愛い……」
「綺麗……」
「美しい……」
「天使かよ……」
ぼそぼそと、左右に割れた生徒らの呟きが耳に入る。女である一夏を目にした途端に、彼ら彼女らはずばっと人の波を割った。まさにモーセの海割りもかくや、といった勢いであったことを蒼はここに記録する。とはいえ、左右には常に人、人、人の連続。途切れる様子は未だない。おまけにこの注目度、並大抵のそれではなかった。
「気にしたら負け。気にしたら負け……!」
「無理はしないでくれよ。多分これ、何かアクションを起こしたら失敗だ」
「そんなの分かってるよ……はあ。憂鬱だ」
僅かに肩を落としながら、一夏はひとつ息を吐いた。昨日の時点では特に何とも無かったが、この様子だと登校してからも苦労しそうだ。“新学期早々3年A組に現れた謎の美少女! その正体は元男の織斑先輩!? ”という紙面が学校新聞に載らないことを祈る。大事と言えば大事なのだが、あまりそう大々的に取り扱われるのはよろしくない。特に性別固定化云々の話が漏れた場合、最悪ふざけていた弾のように無理矢理キスやそういうコトを迫ってくる輩がいないとも限らなかった。
「とにかく、余計なことはしないように立ち回らないと」
「あんまり気張らなくても。普通にしていれば良いんじゃないか?」
「ボロがでるのが怖い」
「気負いすぎると逆効果だ。もう少し、肩の力を抜いてくれ」
そう言う彼だが、台詞の割に動きは若干硬い。多くの人間から関心を向けられることに慣れていないどころか、むしろ人と接すること自体あまり得意としていない蒼にとって、この状況は非常に辛かった。先ほどから一夏を向いたものに交じって、ちらちらと送られてくる視線が痛い。およそ九割が刺々しいもの、という事実が特に。
「何を言うか。お前だって緊張してるくせに」
「緊張というより、なんというか、……なんだろうな」
「なんだよ、それ」
「なんだっけ、これ」
知らねえよ、と一夏は首をかしげる蒼を横目で見ながらため息をついた。頼りになる時はとことん頼れるのだが、平時はやっぱり少し変というか、ズレているというか、天然ボケというか。そんな風に呆れる一夏に、ふと、正面から声がかかった。
「――やあ、おはようございます。良い朝ですね、センパイ」
「え? あ、うん、おはよう。たしかに良い朝、だけど……」
“……誰だったっけ。見覚えはあるんだが”と、一夏は目の前に突如現れた美男子を見ながら考える。サラサラとした金髪、女子にモテそうな甘いルックス、透き通るような声、爽やかな笑顔は標準装備。蒼や弾と同じ制服だが、袖口に一本入ったラインの色からして二年生、つまり年下にあたる。そこまでいって、やっと彼は答えに辿り着いた。
「……あー、サッカー部の
「知っててくれたんですね、嬉しいです。でも、すいません。俺はセンパイの名前をご存じなくて……もしよろしければ、教えていただけませんか?」
「……え、えっと……」
ちら、と一夏が斜め後ろに自然と下がって待機していた蒼を見る。これは正直に話すべきなのか否か、ということだろう。まあ、歩いていて突然こんな対応をされたら、誰だって他の誰かに訊きたくもなる。蒼はふんふむと顎に手を当てて、これが一体なんなのかを直ぐさまに理解した。周りにバレないように、口パクで一言。
『一夏。君、その子にナンパされてる』
「……? ……。…………、……えっ!?」
「? センパイ?」
綺麗な段階形式の驚きだった、思わず拍手を送りたくなるようなほどの。それにしても行動力が凄まじい、と蒼は堂々と立つ男子生徒を見る。サッカー部二年現主将四ツ浪
「あ、いや、えーっと……あ、そうだ。よく先輩って分かったな」
「タイの色で分かりますよ。センパイに似合う綺麗な水色ですね」
「そ、そっか……よく見てるんだな……」
「ええ、気分を害してしまったらすいません。……あまりに、センパイが綺麗だったものですから」
くしゃりと、四ツ浪紅樹は恥じらうように笑う。
『なんだコレ』
一夏は内心で頭を抱えた。ワケが分からない。いや、なんとなく理由とか意味としては分かるのだが、男に口説かれるというこの状況が全くもって分からない。ダレトクだダレトク、責任者出て来いと叫びたい気持ちである。生粋の女子なら今の一言二言で“きゅん”とくるのかもしれないが、あいにく一夏の体は女、頭脳は男だ。その名もTS少女一夏。週刊誌では連載出来そうに無い。
「は、はは……そ、それで、なんだったっけ」
「センパイの名前、です。差し支えなければ、教えて欲しいんです」
「なら、あれだ。他の人に聞いてみたら……」
「――センパイの口から直接じゃ、駄目ですか?」
何故だろう、一夏はとてつもなく名前を教えるのが億劫になった。その一言により別の意味でクラッとして、目が半分死にかける。おかしい、俺はついこの前まで男だったのに。嘆く一夏の言い分はしかし、女になってしまった事実の前にあっけなく潰れてしまう。昨日一昨日去年一昨年、はては生まれた時に男であろうとも、今現在進行形で女なのであれば、その人物は間違いなく絶対に女なのだ。現実は非情である。
「無理だ、蒼。助けてくれ」
「と言われても。俺はこういう経験、ないんだけど」
「ソウ……? ああ、たしか、上慧センパイ」
「……あれ。いや、まさか、覚えられてるとは」
殆ど関わり合いないのに、と蒼は驚きながら言う。
「色々と有名ですよ、上慧センパイ含めた織斑一派。……まあ、その中でも、あんまり注目はされてないと思いますけど」
「…………注目?」
「うん。まあ、そうだろうね」
さらりと吐いてきた様子見の嫌味を無視して、蒼は極力微笑みながら答えた。実際、真っ当に有名な一夏に付随するものとして、弾や数馬、蒼もそこそこに他校へ名が知れている。主にイケメンとその取り巻きだとか、トラブルメーカーの四人衆だとか、決して良い意味とは言えないが。一年前まではそこに鈴も加えて、割と問題児的な武闘派集団だった。
「にしても、上慧センパイの知り合いですか。 ご一緒に登校を?」
「一応は、そうだけど」
「へえ。……なんだ、じゃあ、問題ないっすね」
「……蒼?」
一夏がなにかを感じ取ったのか、不思議そうな表情で彼を見る。煽っているワケでも、馬鹿にしているワケでもない。恐らく四ツ浪という人間は器こそ小さめであれ、そのような真似をする男ではない。あるのは無駄に塗り固められて肥大化したプライド。根拠はともかく、絶対な自信を持って、己が上慧蒼よりも上だと確信している。
「――センパイ」
「ひあっ!?」
一夏の手がそっと取られる。思いのほか自然で、尚且つ優しい手付きだったからか、変な声が漏れた。くそう、と彼は胸中でぎりぎりと歯を噛む。が、失態を恥じるよりも早く、件の男子が言葉をかけてくる。
「俺ならあの人よりきっと、センパイと一緒に居て楽しませることができますよ」
「いや、待て四ツ浪。ちょっとあれだ、うん。待とう」
「顔は可愛くてその口調も素敵です。ね、センパイ。上慧センパイとじゃなく、俺と歩きませんか?」
「は、はい? その、お前はなにを……」
そして、金髪イケメン美男子である彼は。
「それに、あの人とセンパイじゃ釣り合いませんよ。正直、魅力ないでしょう?」
「――――」
相手をしている人物が織斑一夏だとも知らずに、特大の地雷を踏み抜いた。
「……てめえ、今なんて言った?」
「だから、釣り合わないですって。センパイと上慧センパイじゃ、差がありすぎて」
「差? 差だと? 本気で言ってんのか?」
「……一夏?」
今度は蒼が訊ねる側だった。ゆらり、と一夏が肩を揺らして姿勢を整える。そうしてクルリとUターン、後ろで成り行きを見守っていた友人の腕をがしっと掴み。
「行くぞ、蒼」
「え、ちょっと」
「良いから。ほら、早くしないと遅刻するだろ」
「でも話が……って聞いてくれよ」
ずるずると引きずられていく蒼と、何やら不機嫌なオーラをまき散らす一夏。四ツ浪を含めた生徒一同は、その二人の姿を呆然と立ったまま眺めていた。
◇◆◇
――ああ、どうにも、苛々する。
「ちょっと、一夏。どうしたんだいきなり」
「いきなりもなにも、あの野郎があんなコト言うからだ」
校門を過ぎても一夏の怒りは収まらないどころか、益々潜めていた苛烈さを露わにしていった。彼女の腸は煮えくりかえるどころか、今やぐつぐつと煮えたぎって沸騰寸前。
「蒼に魅力が無いだの、差があって釣り合わないだの、好き勝手言いやがって……っ」
「それは事実だと思うけど」
なにせ今の一夏は目に入れても痛くないレベルで可愛い。友人同士で問題なかった同性の頃はともかく、異性となるとどうしても他人の目はそういう風に捉えてしまう。平々凡々な見た目の蒼と、完璧と言えるまで整った一夏では雲泥の差だ。
「事実なワケあるか! 大体、あいつがお前のなにを知ってる!」
「殆ど知らないんじゃないか?」
「ああ、知らないだろうな! お前が教科書忘れた弾に貸してやったり、女子がプリントの束を運んでたら代わったり、放課後の掃除当番サボらずやってたりすること!」
「よく覚えてるな。いや、実を言うと、どれも気まぐれなんだけど」
それなのに、と一夏は続ける。
「本気で何様だ、あいつ……完全に頭にきた。ここまでムカついたのは久しぶりだ」
「……というか、どうして一夏がそこまで怒るんだ?」
「友達を悪く言われて腹の立たない奴がいるか!」
がーっと蒼に向かって吠える。
「…………そう、か」
彼はぱちくりと目をしばたたいて、少し恥ずかしげに頬をかきながら呟いた。
モブキャラくんのヒミツ
・十秒で考えられた名前。
・五秒で考えられた設定。
・なんとなく金髪イケメンはサッカー部だろという偏見。
・今後一切メインに取り扱われることナシ。
・女尊男卑の社会でこれはショウジキナイワーだった。
・実は主張の強いタイプなので一夏よりオリ主くんの方が相性が良い。
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余韻に予感。
「ははは! そりゃあ厄介なことに巻き込まれたな」
「まったくだ」
うんうんと一夏が頷きながら答える。一時限目が始まるまでの十分休憩、今朝あった出来事を弾に告げると、彼は盛大に笑い声をあげた。蒼にとってはそこまででもなく、一夏にとっては血管がはち切れるかというぐらい頭に来た一件なのだが、弾にとっては自らに関与しない話題だ。ひーひーと言いながら、面白えと腹を押さえている。
「俺がその場に居たら大爆笑してるわ。いやー運が良かったな蒼!」
「それぐらいの方が俺も気楽で良かったかもしれない」
「良くねえよ。馬鹿にされてんだぞ」
むっと膨れる一夏の怒りは、未だ冷めやらぬ様子だ。むしろ思い出しただけで駄目だったのか、歯噛みしながら何やら怖い顔をしている。この普段は温厚な友人がこうまで怒るのは珍しい。かの男子生徒は滅多なことが無い限り、二度と一夏とまともに話せないだろうな、と考えながら蒼はポンと彼女の頭に手を置いた。
「……なんの真似だ? 蒼」
「落ち着いてくれ、一夏。もういいだろう?」
「なにがいいんだ? あれだけ言われて、悔しくないのかよ。それともお前ドMか?」
「ドMではないかな」
苦笑しながら否定して、蒼は感情を爆発させている目の前の人物と向き合う。上慧蒼は他とは少し違った境遇を持っているとは言え、基本は平凡で無個性的な一般人である。聖人君子でない彼は、普通に怒り、普通に悲しみ、そして普通に笑う。転生という摩訶不思議体験によってそのハードルは若干上がっているが、きっと親しい誰かが死ねば涙を流すだろうし、嬉しいことがあれば微笑みもする。そうして彼は、ここに至って怒っていないのだ。蒼にとって、今朝のコトはそこまで引っ張るものでもないのである。
「ああいうのは、あんまり気にしちゃいけないと思う。精々が言ってくるぐらいなんだから、まだ可愛いものだろうし」
「でもお前、あんな大勢の前でわざわざ――」
「いや、まあ、それが狙いだったんだろうし、そこは仕方ない。……とりあえず、俺は一夏にそこまで怒ってもらえただけで、スッキリした。ありがとう」
「――――、」
罵倒された本人に笑いながらそう言われては、さすがの一夏も黙るしかない。受け止める、よりも受け入れる。真面目に捉えて悩みなどしないが、そういうものもあるか、と簡単に納得して抱える。蒼の慣れないことに対する対処法は、一種の逃げにも近い。本当に分かっているのかいないのか。一夏は諦めと同時にため息を吐いて、やっと震わせていた肩を落とした。
「蒼はズルいな……ああ、こういう時にもし鈴がいたら。二年の教室まで殴り込みに行ってただろうに」
「……えっと、どうだろう。さすがに鈴ちゃんもそこまでしないと思うけど」
「する。絶対する、あいつは。お前に対してめちゃくちゃ甘いからな」
「おう。あのチャイナならやりかねんぞ。……どうしてその対応力を一夏に向けられなかったのか」
ぼそっと呟いた弾の一言は、幸か不幸か一夏の耳には届かなかった。それにしても、話に出てきた鈴――凰鈴音はそこまでのものだったか、と蒼は首をかしげる。たしかに箒の時の反省もあって、彼なりに出来る限りの努力をした結果、馬鹿を言い合ってふざけ合う程度には親密になれていたが、彼女が最大に好意を向けていたのはやっぱり一夏だ。己の方はというと、なんとなく、おまけ程度のことしかされてないような、気もするが。
『ちょっと、顔、酷いわよ。……いや造形の問題じゃなくて! か・お・い・ろ!』
『はあ!? 台所で倒れた!? アンタなにしてんのよ! ってか何で学校来てんのよ!』
『本当体力無いわねー……短距離一周で倒れ込むなんて。仕方ないから扇いであげるわよ、ほら、うちわ貸しなさい』
『そこの貧弱男子。うちで飯食っていきなさい。アンタが帰って作る手料理よりかは随分と栄養価高いと思うけど? ……お金? 安心なさい、つけといてあげるから』
『一夏に変な虫が付かないよう見張ってなさいよ。いつか私が帰ってくるまで。……それと、三食しっかり食べてよく寝て適度に運動すること。アンタ、油断するとそのままぽっくりいきそうで心配だから』
……まあ、言い方は実にあれだったが、こうして思い返してみると、彼女なりにこちらを気遣ってくれていたのかもしれない。そうなると弾の言う通り、何故一夏にそれが出来なかったのか、という話だが。鈴から一夏へのアプローチに関するサポートも抜かりなくしていた。これで揺らいでいないのだから、恋愛対象としての一夏は強敵なのだろうな、と何とはなしに考える。
――きっと、誰もがそう思うように。織斑一夏は男女問わずどんな人間であろうと今はまだ恋心を抱かないと。蒼もまた、根拠も無く確信していたのだった。
◇◆◇
「――第一印象から決めてました。俺と付き合ってください」
「数馬、数馬。それ一夏なんだぜ」
「ははは、いやそんな馬鹿な――嘘ォ!?」
「残念ながら本当だ」
馬鹿の集い、トラブルメーカー、災厄の元。彼らの中学でそれらが指し示す意味は、つまるところ一つのグループである。織斑一夏と愉快な仲間達。その最後の一人である御手洗数馬は、隣のクラスからわざわざやって来て先制攻撃気味な告白と共に、衝撃の事実をあっさりと受け入れた。理由は無論、彼のIQが平均と比べて著しく低かった、つまり弾と同レベルというところにある。
「こんな……美少女なのに……中身は一夏……」
「えっと、数馬はなんで、そんな……ムンクの叫びみたいな顔を?」
「神は二物を与えたが全部はくれなかった……オーマイ。それならいっそ蒼の方を女にしてくれれば良かったものを!」
「なんでだ」
蒼が複雑な表情を浮かべながら、片手で顔を押さえる。身近な人間である一夏が女になったことで図らずも何度かそういう想像をしたが、彼としてはどうしても今の一夏のようにある程度さえ割り切れる未来が見えなかった。流れるように生きて平和に暮らせればそれで良い蒼にとっては、歓迎したくない体験に違いない。
「お前気が利くし、男相手なのに尽くすような素振りが時々あるし、あとぶっちゃけ押すより押される方だろ? 蒼は絶対メス墜ちするタイプと見た」
「勝手に決めないでほしい。俺だって男なんだから」
「俺は嫌だなーこんな女子。ほら、隙あらば病弱アピールしそうで」
「だから弾も勝手に……っていうかなんだ病弱アピールって」
「本当、蒼が女になってたら俺も笑えたかな」
「一夏は色々と重いって……気持ちは分かるけど」
一人でもそこそこ厄介だが、揃うと最早手が付けられない。独特の空間を作り出すその要因の中に、蒼もしっかりと入っているのがなんとも。鈴が抜けてパワーダウンしているとは言え、学校一の問題児共は今日も元気に馬鹿だった。
「にしても勿体ないぐらい綺麗だな、一夏。これは今学期荒れるぜ」
「荒れるって、なにがだよ」
「決まってんだろ。さっきの俺みたいに事情を知らず玉砕しにくる野郎どもが続出するってことだ」
「はは、まさかそんな――」
ないない、なんて言ってからからと一夏は笑う。いくら絶世の美少女とはいえ、何度も述べるように中身は元男のイケメン中学生。織斑一夏が女になった姿、という話が広まってしまえば、そこまで多い人数は来ないだろうと。
この時はまだ誰も知らなかったし、思ってもいなかった。まさか、詳しく知らない新入生や、見た目に惑わされた二年生が、我先にと一夏に猛攻を仕掛けることを。それが毎日のように続くことになるなど、本心から一人として、考えてすらいなかったのである。
御手洗数馬くんは悩んだ結果ナチュラルテイストにしようと思い、結果没個性的キャラへと進化しました。
ロリコン熱血野郎なんていなかったんや……。
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好きだ好きだと言われても。
「一目見た時から心に決めてました! 僕と付き合ってください!」
「……えっと、その、な? 気持ちは嬉しいんだけど……」
一夏が困り果てた表情を浮かべながら、やんわりと手を差し出してきた男子を断る。鈍感且つ唐変木オブ唐変木な織斑一夏が、例え女の子になっているとは言え“そういう意味”を理解できているのには理由があるのだが、なんにせよ向こうにとっては真剣な場面。出来るだけ相手を傷付けないように、との配慮らしいが、それが逆に彼らの行動を後押ししているとは思うまい。
「おうおう。廊下でよくもまあ、あれだけ大声で。今月に入って何人目だ? 蒼」
「俺が見ただけで十五人は超えてる。……まだ五月の十二日、ゴールデンウィーク明けて一週間ほどだっていうのに」
「見ただけで、っつうことは、実際それ以上か? そりゃあ凄い」
まるで学校のマドンナじゃねえか、と弾はからからと笑う。なんだかんだでクラスの人達による助力もあり、無事に四月を過ごしきった一夏を待っていたのは、連休で色々とタガの外れた野郎共や、事情をよく知らずに機をうかがっていた生徒一同による告白ラッシュであった。最初は彼お得意の勘違いで知らず知らず心を折りにいっていたのだが、流石にこれ以上屍の山を築くのは不味いと悟った数馬の機転により、一夏は告白における真の意味を知る。
「てか、一夏がこうまで真摯にああいう解答してる姿が既にヤバいな。あいつに恋愛脳というものがあったのか」
「あるだろう。一夏だって人間なんだから」
「幾多の女子に一切靡かなかったあいつが、ねえ。……今のところ、男にも靡きそうにはねえがな」
「靡いたら靡いたで大問題じゃないか……」
いやあ愉快痛快気分爽快、とフラれて肩を落としながら帰っていく男子を見ながら、モテないイケメン中学生は盛大に笑う。五反田弾はゲスだった。というよりは、男女関係に関わる事象において性格が酷くなる、とでも言うべきか。簡潔に言い表せば嫉妬。例え友人であろうがなんだろうが、恋人を作るのであれば彼は容赦なく牙を剥く。牙と言うほど大したものでもない、とは彼の妹――五反田蘭の言だ。現役乙女、未だ想い人に起きた悲劇は知らず。
「いいぜ。どんどんやれ。調子に乗って告白するような野郎どもの死に様はメシウマだからな! あーっはっはっは!」
「弾、きみ、そういうところが女子に好かれない原因なんじゃ? 普段は顔も性格も良いっていうのに」
「どうとでも言え。お前に顔性格云々言われたところで嬉しくもねえ。どうせなら一夏みたいに女に……いや、心まで女性化して出直してこい」
「……今度蘭ちゃんに弾がいじめてきたってメールしておくから、それで」
「いやあ上慧クン冗談だよHAHAHA! 悲しい事件だったなあ大勢の前でフラれるなんてなあいやあ俺ホントは応援してたんだよあいつのコト名前知らねーけど!」
「決定で」
「やめろォ!」
必死の形相で弾が叫ぶ。妹に弱いのは相変わらずだ。恐らくその力関係は、ISが男女のパワーバランスを崩していなくとも今と同じだっただろう。五反田弾、生まれてこの方十数年、一度も彼女相手に勝利を掴み取ったことはない。最早負けるという行為が潜在意識にすり込まれているのでは、と思うほどである。
「冗談だ。大体、俺が蘭ちゃんと連絡をとったら、弾の苦労が台無しになる」
「ああ、マジで。勘弁してほしいよ。一夏はどうしただの、蒼は元気かだの。うるせえよ女子校行ってんだから気にすんなとか言ったら殴られるしよ。もう限界だぜ、あいつ留めるの」
「あと一年は頼んだから」
「――なあ、蒼。俺が死んだら、お前は泣いてくれるか……?」
なにかを悟ったような顔で、弾が微笑みながら訊いてくる。蒼はこくりと頷いた。直後、弾が泣き崩れる。うあーッ! と雄叫びながら涙を流す彼の頭をよしよしと撫でていると、ちょうど一夏が教室へ戻ってくるところだった。
「ただいま……って、なにやってんだお前ら」
「ああ、弾がちょっと、情緒不安定で」
「蒼おおおおッ! お前が女ならこれはご褒美になってあああはあああん!」
「……でも、俺は女にならなかった。ならなかったんだよ、弾」
だから――この話はここでお終いなんだ、と妙に優しげな口調で語りかける蒼。見るからに茶番である。一体どうしてこうなっているのかは知らないが、告白の対処で疲れている時に見るような光景でないのは確かだ。一夏は深々とため息を吐いて、自分の席にどっかりと腰を下ろした。
「まあ、弾はともかく、お疲れさま」
「ああ、疲れた。……いや本当に、どうしてこうなる……」
「よっと、はいはい、お疲れ一夏。今ので何人目だ?」
「もう三十を超えてからは数えてない……」
ぐったりとした様子で一夏がぼそりと漏らす。予想よりも随分と多い数字に、ほう、と弾は腕を組みながら目を丸くした。この一か月で誰よりも近くに居たであろう蒼ですら十五しか見ていない、と言うものだからそこまでと高を括っていたが、なるほど。これはたしかに本気で狙われてるワケだ、とここに至ってようやく事の重大性を理解する。
「しかも、蒼と一緒に居た時に、比較対象で貶した奴が数人。一人じゃなくて、数人だぞ」
「……ああ、何回かあれ以降も、あったっけ」
「あったっけじゃねえ。あったんだよ。何度そいつらの顔面を殴ってやろうかと……!」
「やめとけ一夏。蒼を庇って停学とか、むしろこいつが責任感じるぞ」
意外なところで、弾は鋭い。つい先ほどまで馬鹿をやっていたくせに、この切り替えの早さは見習うべきか。蒼の方をじっと見詰める瞳は薄く細められていて、いつもとは違った迫力を見せている。実際、彼の言う通りだ。むしろそのような事態になってからでは遅い。蒼は密かに本気で、一夏から一旦距離をとるべきか悩んでいたりする。
「もうしんどい。こんな生活、いつまで続ければ良いんだ……」
「……ま、気持ちはお察しするよ。俺も最近のお前見てるとからかえないって思うわ」
「…………、」
珍しく、弾が暗い表情でそんなことを言う。一夏だけではない。ここに居ない数馬でさえ、変な輩にマークされてクラスの行き来すら面倒だと呟いていた。負担はおおよそ平等にかかっている。弾も、一夏も、数馬も、苦労していないワケがなかった。ならば自分は、と蒼は考える。
『……俺は、なにが出来てるんだろう』
ただ一夏の近くに居るだけ。きっと彼にもやれる事が、やった事がある筈なのに、明確な形で浮かばない。ふわふわとしたナニカだけが漂って、掴み損ねて元通り。
「…………俺、男だったのに」
今、己の取るべき行動は。
◇◆◇
「いただきます」
「……いただきます」
合掌して一言済ませれば、一夏が用意した食事に手を付ける。最初は毎日連続でどうかと思ったが、一週間もするとその効果を実感する羽目になった。自分で作る手間が省けて、尚且つ栄養バランスもある程度考えられている、とくれば頼らない手はない。なにより朝の体調が少しずつ改善されているのもあって、しばらくは様子見だ。一夏自身が辛いようであったり、もしくは問題なく蒼が動けるようになればやめるつもりである。故に、そろそろ切り上げ時か、なんて考えもしているのだが。
「……うん? どうしたんだ?」
「……あ、いや……その」
ふと見れば、対面の友人は箸と茶碗を持ったまま固まっていた。これでも幼い頃からの付き合いがある蒼にとって、一夏の変化は分かりやすい。言い淀んだ彼女は、少しの間わたわたと何やら言おうとして、
「ああ、やっぱり、駄目だ」
「……一夏?」
かちゃり、と食器をテーブルに置く。一口も付けられていない出されたままの状態だ。お茶も減った様子はない。なんとなく、蒼は悪い予感を覚える。
「……なあ、蒼」
そうして一夏は、僅かに俯きながら。
「――俺が男だった意味って、あったのかな」
震える声で、そう告げたのだった。
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彼女が彼であった意味。
「なんていうか、さ。……ふと、思って」
「ふと、って……」
「俺、この前まで男ってだけで、中身は何も変わってないんだ」
ぼうっと、一夏が虚空を見詰めながら語る。その表情はお世辞にも明るいとは言えない。春休みの一件から既に一月の時間が経っていた。体は女のものに少しずつ慣れてきているとは言え、心は全く別問題。一夏としては、どうしても考えてしまう。自分が男だった時と、女である現状の差を。
「女になって、学校に行くようになって。先ず、男子達が急に騒いだり、嬉しがったりしてたことが最初かな」
「……ああ。あの時は、たしかに凄かったけど」
思い出しても酷いものだ。なにせ絶望で項垂れる女子の怨嗟の声をかき消す勢いで、最高学年の選りすぐった馬鹿共は喜んでいた。それはもう喜んでいた。警報発令で早く帰るように言われた時よりも喜んでいた。そのぐらい、織斑一夏性転換事件は前代未聞の大事だったのである。
「その時はまだ何でもなかったんだ。またアホみたいなことしてる、ぐらいしか思ってなかったんだけど」
「……うん」
「少し経って、よく男子から声かけられるようになって、後からそれが告白だって気付いた。……男子からの、告白だ」
それは恐らく、必然とも言える流れだった。何度も言うように、一夏の女の子としての容姿は現時点で殆ど完成されている。中学生特有の可愛さと、綺麗な女性としての部分が見事に両立できている奇跡的な外見。当然、そこらの男からすれば目を奪われるほどの美しさ。男から迫られる、という状況は蒼もなんとなく予想はしていた。が、しかしながら重要視はしていなかったところに、この事態を招いた原因がある。
「一回だけかと思ったら、次の日も別の奴がきた。その次の日も。次も、次も、次もだ。毎日毎日男から、一人だけじゃなく何人も」
「……そうだね、知ってる」
「一目惚れです、第一印象から決めてました、初めて見た時から綺麗だと思いました、廊下で見かけた時から気になってました、なんて言ってきて。ああ、結局こいつらは、前の俺のことを知らないのか、切り離してるのか、って思って」
「それは……あの人達が見てるのは、女の子としての織斑一夏だろうから」
そうだと俺も思うよ、なんて一夏が複雑そうな笑みを浮かべる。ずきりと、蒼は心臓に杭が刺さったような痛みに、一瞬だけ顔を顰めそうになった。ぐっと拳を握り込んで、なんとか堪える。地肌を抉った爪の跡が熱い。もっとも、生命機関としての臓器が痛んでいるワケでは当然なく、きっと訴えているのは、心の方だった。
「前まではこんなことなかった。男の時の俺は、普通に毎日を過ごしてたんだから。……女になってからなんだよな、こういうの。好きだ何だ付き合ってくれ、って一日に何度も」
「……それは」
「それってさ……なんだか、男の俺を否定されてるみたいじゃないか」
「――――、」
言葉が、出なかった。
「そしたらさ、考えちまうだろ。今まで俺が生きてきた十四年間は……男として生きていた時間は、何だったんだって。俺がやってきたことって、全部、無意味だったのかなって」
「そんなこと――」
「ないって、言えるか? だとしたらその根拠はなんだ?」
「…………一夏」
決して、声を荒げているワケではない。棘のある言い方、というものでもない。けれどもそれらは、正真正銘、織斑一夏が発した心からの叫びだった。蒼はここに来て、自分の思慮のなさを思い知る。単純に考えれば分かった筈だ。思春期真っ盛りの中学生、己のような異物はともかく、今のような事態に陥ったら何かしら悩むことぐらい当たり前。
『……弾のことも悪く言えないな。馬鹿だ阿呆だって、それはお前じゃないか』
どれだけ変えようと、根っこの部分は前世からひっさげてきたそのまま。人付き合いを苦手としてきた一人の男が死んだことで、ようやくマシになっているのが今の上慧蒼である。その名残は消し去れない。悪い部分は良い部分以上に無くすことが難しい。残って、溜まって、知らないうちに顔を出す。
「なあ、蒼。教えてくれよ。俺が男だった意味ってなんだ。男として生きてきた意味って、なんだったんだ」
「……大丈夫だ、一夏。意味なら絶対ある。暗い方向に考えないでくれ。弾も数馬も俺も、みんな一夏に男に戻って欲しいって思ってる。だから――」
「蒼。いいんだ、そんなコト」
「――――っ」
失敗した、と彼は一夏の顔を見て瞬時に悟る。彼女は違うんだよ、と言うように寂しそうな顔で、ふるふると首を振っていた。言葉選びの下手さ。そして咄嗟の出来事に対する判断力の無さ。なにもかもが、蒼には足りない。物語の主人公のように、上手く気を利かせた言葉を紡いで安心させることなど出来やしない。
「もう何年の付き合いだと思ってるんだ。……ずっと、あの時から、気を遣わせてることぐらい、分かってる。それでお前の思うところを曲げて隠されるのは、辛いな」
「……いや、俺は、そんなの……」
「――俺は、お前の考えが聞きたい。わがままだけど、お前の思った答えを知りたい。だから聞かせてくれ、蒼。……俺が男だった意味って、なんなんだろうな」
気遣いができて、いつも落ち着いていて、滅多に怒らないような人間像。それも結局は違っている。彼が飾らずに生きた結果が、運良く飾られているように見えてしまっただけ。何か心に響くようなことを言って励ますことなど、蒼には出来ない。出来る訳がない。きっと体を使うこと以外ならそれなりにやれる筈だと思っていても、現実はこの通り上手くいかない。最早、どう足掻こうにも、無駄になる。
「……一夏が、男だった意味」
「ああ。……蒼は、どう思う」
だから彼は――なんとかしようとするのを、諦めた。
◇◆◇
「……さあ、どうなんだろう」
すっと、全身が冷える。余計に入っていた力が抜けていく。話すのは得意でない。けれど、自分の想いを伝える手段は会話が一番だ。ゆっくりと、自分のペースで。何かを悩む必要はない。ただ正直に、考えることをまとめて、きちんとした言葉にしていく。
「うん。きっと、一夏が男だった意味なんて、ないのかもしれないな」
「――そっか、やっぱり、そうなるよな」
「……だって、一夏に分からないんだから、俺にも分からないだろう。そんなことは」
吐き捨てるように彼は言う。今までよく聞いていた、平常時の感情が見えない平坦な声音。ぶっきらぼうとはまた違う、淡々とした言い方。思って口にする、という人間的な動作を酷く簡素に仕上げたようなもの。要らない部分が削り落とされている、とでも言うべき、彼独自の妙な雰囲気。生きているのにどこか、生きていないモノのような。一夏は蒼のこういった話し方を、あまり好んではいなかった。今の今までは。
「偶然男だったのかもしれないし、なるべくして男になっていたのかもしれないし、こうなるために男だった、って可能性もあるし」
「そりゃあ、想像したくないな……。本当に、なんなんだよ、それは」
「だから、意味なんてないんじゃないか。……いや、最初から、なかったんだろうね」
言い切ると、一夏が頬を吊り上げたまま、深く俯いた。織斑一夏が男として生まれて、生きてきた意味。きちんとした理由さえあったのなら、肯定して欲しかったであろう一つのこと。それを容赦なく切って捨てながら、蒼はぴくりとも表情を動かさない。
「……ああ、くそ。思ったよりキツいな、これ。なんだよ、俺、生きてる意味すらねえんじゃねえか」
「そんなのもっと分からないだろ。俺だって、今、ここで自分が生きている意味が分からない」
「蒼にも分かんないんなら、俺も分からないだろうな。……はは、今までの人生何だったんだよ、って話だ」
「でも」
ぽつりと、蒼が呟く。
「生きてきた意味は分からなくても、生きてきたことは無意味じゃない」
「…………え?」
一瞬、一夏には、蒼が何を言ったのか分からなかった。
「例えば箒ちゃんや鈴ちゃんは、一夏に救ってもらってる。千冬さんだって家族がいるってことに支えられたハズだろうし。俺も君と一緒に居て、助けてもらったことは数え切れないほどある」
「――――、」
ふわりと、蒼は頬を緩めた。仮面のように変わらなかったそれが、身内の間によく見せる柔らかな笑顔になる。
「そのどれも、無意味とは言えない。言っていい訳がない。だからその事実も、ずっと変わりないんじゃないかな」
「事実、って……」
「――織斑一夏っていう男の子が、誰かのために体を張って、何かをしたっていうコト。それは絶対に、女になった今でも、変わらない事実として残ってる」
たしかな行方の分からない箒の恋心も、海を越えて遠く離れた鈴の好意も、一夏がやってきた事に対しての結果だ。
「だから俺は一夏が過ごしてきた十四年間が無意味なんて思わないし、そんな風に誰にも言わせない。だってそれが無かったら、俺も弾も数馬も……箒ちゃんや鈴ちゃんだって、こうして関わることもなかったんだから」
「あ……」
小さく、彼女は声を漏らした。
「…………って、あれ。もしかして、泣いてないか?」
「い、いやっ、ちょ、ちょっと待っ……ああくそ! 違う! これは……っ!」
ええい! と一夏はぐいっと蒼の体を引っ張って。
「――なんだよ、ちくしょう……俺は、悲しくて泣いてるんじゃ、なくて」
「……そのぐらい、分かってるって」
言いながら蒼はゆっくりと、俯く一夏の頭を優しく撫でた。
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約束と静かな間。
「……悪い。その……情けないところ、見せた」
すん、と一夏が鼻を鳴らして、目を逸らしながら言ってくる。いくら子供の時からの付き合いとは言え、中学三年生にもなって声をあげての大泣きだ。しかも友人の胸を思いっきり借りてしまった。羞恥心に耐えきれなくて、かあっと頬が赤くなる。対する蒼は気にした素振りもなく、いつも通りに微笑んでいた。
「全然、情けなくなんかない。泣くっていうのは大事なことだろう」
「……お前は本当に、そうやって言うのは上手いよな」
「それほどでもない。大体、会話は苦手なんだ、俺」
よく言うよ、なんて一夏は口の端を吊り上げながら、肩の力を抜いて息をつく。思いっきり吐き出したからか、答えに近いモノを見つけたからか、心は随分とスッキリしていた。空を覆っていた分厚い雲が晴れたような、なんとも開放感のある清々しさ。暗く濁っていた世界が色付いて見える。それほどまでに、一夏は目の前の彼が発した言葉に救われた。
「あーあ。……結局、また蒼に助けられたのか、俺は」
「助けたなんて大袈裟だ。言い包められた、の方にしておいてくれ」
「会話は苦手じゃなかったのかよ」
「…………むう。世の中なんとも世知辛い……」
真面目な顔で変なことを呟く蒼に、思わず先ほどまでの姿も忘れてため息が出た。人の心を突き動かすようなことを言った後でこの調子だ。やっぱりこの男、なんとなく考え方がズレている。
「――ああ、にしても、しまったな」
「ん? しまったって、何がだ?」
「いや、学校、もう遅刻は確定だろうから」
「なっ……」
がばっ、と一夏が体を反転させて室内の掛け時計を見る。現在の時刻は朝の九時十五分。HRが八時半からであり、原則それまでに登校と言われている予鈴はその五分前に鳴る。彼らの居る上慧邸から学校までは歩いて十五分、走ってその半分ぐらい。時間は進みこそすれど、巻き戻すことは不可能だ。登校した頃には一時間目が既に始まっている。言い訳のしようもないほど、完全に遅刻だった。
「……本当だ。しかもHR終わってる……」
「うん。走っても自転車漕いでも間に合わないな、これ」
そう言いながらも彼は余裕の表情である。柔らかく笑って、何事もふわりと受け止めるような姿勢。一夏がそれに疑問を覚え始めるのと同時に、蒼はさらりと。
「よし。サボろうか、学校」
「……良いのかよ優等生。皆勤飛ぶぞ?」
「成績云々より大事なものだってある。一夏、正直今日、学校行きたくないだろう?」
「…………まあ、それは、そうだけど」
でも少しは楽になってるんだぞ? と付け加えておく。一夏にとって一日の休み程度痛くもないが、蒼はこう見えて毎度毎度の定期試験で学年一位を独占していたりする。彼自身としては元々あった知識を掘り起こしているようなものなので、ズルをしていると感じる部分もあってとあまり言いたがらないのだが、皮肉なことにその事実はなんとも有名だ。割と態度が良いところもあって、蒼は一応本当に優等生として見られていたりはするのだが、連んでいる人物が人物なだけに評価は問答無用の問題児扱い。本人が一番気にしていないあたり、なんというか、実に彼らしい。
「なら決まりだ、俺から学校に連絡しておくよ。きっと今の状況なら、一日休むぐらいどうってことない」
「先生、まだ目の隈がとれてないもんな……」
「そう。だから、一夏にちょっと、って言えば簡単にいく」
「この不良生徒め」
「残念、君もその仲間だ」
そりゃそうだ、なんて一夏が声をあげて笑う。数十分も泣いていたとは到底思えない雰囲気。要らない世話だったかな、と思いつつも、蒼はきっと間違っていなかったと信じることにした。泣いているよりかは、笑っていた方が良いに決まっている。なにより、友人のあれほど思い詰めた悲痛な顔を、もう二度と見たくはない。
「……なあ、一夏」
「なんだよ、蒼」
「小指、出してくれ」
「? ……こう、か?」
すっと、他の四つは軽く折り曲げて、小指だけ立てながら一夏が問う。それにこくりと頷いて、蒼は己の小指をするりと引っかけた。
「なんだよ。くすぐったいな、どうしたんだ」
「約束だ」
「……約束?」
うん、と返して、そっと彼は目を閉じる。
「一夏が男に戻るまで、俺は女の子としての君を好きにならない。友人として出来る限り側に居て支える、って約束」
「蒼……」
「――それでまた男に戻った時。あの頃は大変だった、なんて振り返って、二人で盛大に笑い飛ばしてやるんだ」
「……ああ、だな。きっと、こんな事があったって、いつか絶対笑ってやる」
ぎゅっと、強く小指が結ばれる。運命の赤い糸なんて無いだろうが、そんなものよりも強い繋がりがたしかにあった。ずっと、大人になる未来まで続いていくであろうもの。当たり前ながら、彼らにはそれが形として見えない。色も匂いも手触りも、あるのかどうかも確かめられない。
故にこそ、気付くワケがなかった。
――その繋がりが、どんなもので、どのように変化していくのか、なんて。
気付けるワケも、なかったのだ。
◇◆◇
平日の昼間からテレビを眺める、という行為は学生にとって背徳感溢れるものである。それがずる休みだったりした場合は尚更だ。外は春先らしく、暑くもなく、かといって寒いとも言えない絶妙な空気を漂わせている。少し開けた窓から入る風が涼しい。ふと壁に掛けられた時計を見れば、時刻は既に十二時を回ろうとしていた。早いな、なんて蒼はゆったりとソファーでくつろぎながら思う。
「今頃弾と数馬、どうしてるだろうな」
「さあ。案外、平和にやってるかもしれない」
「かもな」
隣に座った一夏が、リラックスした様子で呟いた。男同士二人、という本来の絵面は彼女によって男女一組へと変わっている。本来、蒼は同年代の女子と一緒に居ると、かえって安心できないケースが多いのだが、相手が一夏であれば何も問題は無い。力を抜いた状態でほうと息を吐きながら、そこにある心地よさに浸る。
「蒼」
「ん?」
「体の調子は、平気か?」
「……もうこっちの心配をする余裕が出来たのか」
「ああ。意外と、立ち直れるもんだな」
「そうか、それならちょっと、安心した。……俺も平気だよ」
「それなら、良いんだ。……本当に、それなら」
ふわりと、風に髪をとられる。若干伸びてきた前髪が、さらりと流れるように舞う。久しぶりに静かな時間。休日でさえなんとなく落ち着かなかった一ヶ月間は、思い返しても相当に大変だった。当事者である一夏なら尚更だ。あと十一か月、ずっとこんな日が続けば良いとも思うが、生憎とそうは上手くいかない。一夏の問題が解決したからと言って、告白ラッシュが収まったワケではない。何か対策をたてないとな、と蒼がぼんやり考えていれば、ふと一夏が訊いてくる。
「ああ、蒼。もうひとつ確認なんだが」
「今度はなんだ?」
「今日も親御さんは、帰ってこないのか?」
「先週から二人とも出張に行ってる。……当分は顔も見れないよ」
「じゃあ、さ。折角だし、泊まっても良いよな?」
「それは別に構わな――」
“うん? 今、泊まるって言わなかったか?”気付いた時には既に遅い。ぱっと一夏はソファーから跳ね起きて、いつの間にか廊下に繋がるドアノブに手をかけていた。
「よし、ちゃんと聞いたからな。お泊まり権いただきだ」
「……まあ、特に問題も無いから良いけど。明日からは普通に登校するんだろう?」
「そこは準備も抜かりなく、だ。今から家に帰って着替えと鞄の中身取っ替えてくる。ちょっと待っててくれ」
言うが早いか、一夏は声をかける暇も無く家を飛び出して行った。残された蒼はリビングで一人、テレビから流れる音声と、時折入りこむ風。
「……なんだろうな。上手く、やれてるんだろうか、俺は」
一夏を支えると宣言した以上、ちょっとは気になってしまう蒼だった。
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恋心なんてなくてもいいから。
浴室でシャワーを頭から浴びながら、一夏は目を閉じて考える。上慧蒼という少年は、初対面では少し不気味で、何を考えているのか分からない相手だった。彼の性格からしても、積極的に話すことはない。ただ一人で、黙々と、漢字の多い本をいつも読んでいる。今にして思えばなんという子供か。みんなが外で走り回って遊んでいる中で、蒼はずっと難しい本を読み漁っていたワケだ。常人離れした成績の良さも頷ける。……もっとも、本当は別の理由なのだが、それを一夏が知るはずもない。
「…………、」
いつだったか、よく話すようになったのは小学校低学年の時。偶然掃除の当番で一緒になり、それ以来今のような関係にまでなっている。昔の時点では想像もしていなかった。まさか、こんなにも自分と噛み合いそうにない相手と、遠慮無く本音をぶつけられるぐらい親密になるとは。なにより一夏が蒼と接するようになって驚いたことが、彼を知れば知るほどに良い部分が見つかるところだった。
「話してみないと分からない、っていう良い例だよな、あいつは」
見たとおりで判断していては、何一つとして分からないのだ。根暗で、無口で、無表情で、感情が薄く、個性が無くて、主張が弱く、覇気もない。おまけに容姿もそこまで人目を引くようなものではない。第一印象としては最低レベルのものを並べ立てている。けれども、それを踏み切ってしまえば、がらりと変わるのだ。
「箒や鈴だってよく気にかけてたし、女子に好かれない、ってことはなさそうなんだけどな……」
如何せん、本人があまり異性との会話を好まないため、必然的に浮いた話も出て来なくなる。一時期は“上慧蒼ホモ疑惑”まで出てくるほどだったが、それも随分前のこと。今ではさっぱり聞かなくなったあたり、なにかしら理由はあるのだろうが、一夏はそのことを詳しく知らない。割とこの体が女になった後の反応を見る限り、そういった欲望はしっかり有るようだが。
「……女、ね」
うっすらと目を開けて、水を滴らせる己の体を眺める。入浴、着替え、一か月かけてやっと、自分の体を見て恥ずかしがることはなくなった。十分慣れてきた、とも捉えられるだろう。学年問わず、学校中の男子が好意を向けてくる身体。男の時とは違った、蒼曰く、女の子として完成されている姿。細い手足、長い髪の毛、大きな胸。いずれも、一夏にとっては嬉しくないものばかりだ。
「こうしてなんとかなってる、ってのが凄いな。……蒼がもし同じ経験してたら、俺は支えてやれたかな」
もしもの話ほど無駄なものはない。が、思うのは自由だ。なんだかんだ言って、諦める時はすっぱりと割り切る彼である。悩みも怒りも苦しみも、抱え込んで飲み込んで、結局は折り合いをつけて生きていく。一夏の想像では、仕方ないなあという風に笑う蒼の姿が見えた。自分はそこまで上手くない。日々の悩みも苦しみも、折り合いをつけることでさえ、なかなか出来なかった。それは、もしかすると、今も。
「……でも、そこはもう、心配要らないか」
笑って、右手の小指を見詰める。一夏は確信していた。学校中の男子生徒、その全てがもれなくこの身体に好意を向けるような異常事態になろうとも、蒼だけは一人の友人として――織斑一夏として見ている。同時にそれが、以前まで男だったという証明にもなる。最早なにも悩むことはない。なにも怖がることはない。味方に付いたのは正真正銘、頼れる世界最高の友人だ。
「……って、完璧に立ち直るのはちょっと早いか」
不意に顔を出した落ち着かない感情を、苦笑いで誤魔化す。何が不満なのか、どうにも残っているものがある。一夏としては嫌な気分だ。頼れるとは言え、あまりもたれ掛ってばかりでは、きっといつか倒れるのは向こうだ。
『そんな事態にならないよう、頑張らなきゃな』
きゅっと蛇口を閉めて、浴室から出る。一夏はタオルを手に取り、慣れたような手付きで自分の体を拭き始めた。
◇◆◇
「おーい、蒼。風呂上がったぞー」
がちゃりとリビングのドアを開けて、声をかける。が、肝心の蒼の姿がどこにもない。
「あれ? ……蒼? どこ行ったー?」
廊下の方に体を戻して呼んでみるも、薄い明かりのみがついた通路に響くだけ。なにかしらリアクションが返ってくることはない。
「出かけたのか? それなら一言ぐらいあっても……」
なんて思いながらも、見つからないのなら仕方ない。ゆっくり待っていようか、と一夏が気を取り直してソファーへ向かうと。
「――って、おい、ここで寝てんのかよ……」
ずるり、と思わず一夏はずっこけそうになる。見当たらなかったのも無理はない。蒼は扉に向かって背面を向けたソファーの上に、手足を放って横たわっていた。平時より気の抜けた表情で、すうすうと静かな寝息をたてている。日頃の雰囲気が大人っぽいからか、一夏にはどことなく新鮮な光景だ。
「……こうして見ると、こいつも俺らと同じ中学生だよな」
ちょっと頭が良くて、ちょっと動くのが苦手で、ちょっと落ち着いた普通の男子。そんな台詞はいつか聞いたことがある。たしか一夏の記憶が正しければ、鈴がよく言っていた。蒼がなんだどうだと話になる度に、「あいつは特別じゃない」と吐き捨てるように。その言葉に込められた意味が、なんとなく理解できる。
「……おーい、蒼。起きろ、風呂上がったぞ」
「……すう」
「む。……意外と手強いな」
彼ならば直ぐに起きそうなものだが、どうやら眠りはかなり深い様子。表に出していないだけで、疲れでも溜まっていたのだろうか。そう思いつつも、ここで寝かせるのは不味いと一夏は心を鬼にする。
「蒼。ほら、起きろって。せめて布団の上で寝てくれ」
「…………すう」
「蒼、蒼。朝だぞー……いやがっつり夜中の十一時だけども」
ゆさゆさと体を揺らしてみたが、全くもって目覚める気配もない。どうしようか、なんて一夏が髪の毛をすっと梳かした時だ。ぴっと、一粒の雫が跳ねて、彼の頬へと真っ直ぐ。
「…………」
ぴちゃり、と。
「――っ」
「うおっ!?」
がばり、と蒼がいきなり体を起こす。彼はそのまま呆然と目の前を見詰めた後、そっと自分の頬へ手を持っていき。
「…………水滴?」
「あ……散ってたか。ちゃんと乾かしたつもりだったんだが。悪いな」
「……一夏。お風呂、上がったのか」
「ん? ああ。ていうか、それでさっきから起こそうとしてたのに、蒼が今の今まで起きないもんだから」
一夏の言葉に、彼は一瞬瞠目して小さく「そうだったのか」と呟いた。あれほどまでぐっすり寝ていたのだから、反応としては当然。むしろ起きたばかりでこうまではっきり意識が持てるのか、と一夏は疑問を覚える。雫が当たったにしても、残っていたほんの少しだ。なんでもない事のようだが、どうしても気になる。
「なら俺も入ってくるよ。喉が渇いたのなら冷蔵庫にあるもの、飲んで良いから」
「おう、サンキュー。…………なあ、蒼。ちょっと聞きたいんだが」
「ん? なに?」
立ち上がって扉まで歩いていた蒼が、くるりと振り返る。
「さっき、首かしげてたけど……そもそも俺の水滴、なんだと思ったんだ?」
「……ああ、そんなこと」
大したことじゃないよ、と前置きして彼は笑う。それから、困ったように眉を八の字にして。
「冷たかったから、雨だと思ったんだ」
そんな、どこか引っ掛かるようなことを言って、蒼はゆっくりと部屋を出た。
◇◆◇
「……なあ、蒼。……起きてるか?」
「……もう寝ないと明日に響くぞ、一夏」
「……あの、さ。……俺、本当に、男に戻れるのかな」
「…………、」
「……悪い。なんか、やっぱり不安でな。夜になると、そういう気分になるだろ?」
「……戻れるよ、絶対」
「……絶対、か」
「うん、絶対だ。……絶対、俺が元に戻す」
「…………ありがとうな、蒼」
「いいよ、別に。……別に良いから、安心して寝てくれ」
「……ああ、そうだな。おやすみ、蒼」
「おやすみ。……いい夢が見られると良いな、一夏」
◇◆◇
朝の通学路は、今まで以上に一段と賑やかだった。昨日は休みで顔が見られなかったからか、この数だと下手をすれば一夏を狙う男子一同はこぞって集結している。四方八方から視線の雨。まるで体に穴が空きそうだ、などと考えながら、蒼は隣に並んで歩く彼女を見る。
「……そんなに気にしなくても平気だ、もう」
「それなら良いんだ。……流石に昨日の今日でこの数はどうか、と思っただけで」
「それは同感だな。前までなら、絶対頭抱えてた数だ」
僅かに口の端を吊り上げて、一夏はなんでもないように言う。その態度に驚いたのが蒼だ。ついこの前まで辟易といった表情を浮かべていた筈なのに、今はまさに余裕綽々といった感じ。良い変化ではあるのだろうが、そこまで変わった理由が彼にはさっぱり。
「だから、対策をたててきた」
「……対策?」
「――織斑先輩!」
「ん、来たか。……見ててくれ、蒼」
そこまで難しいことじゃなかったんだ、と微笑みを携えて一夏は名前を呼んだ男子の元へ向かう。
「その、す、好きです! 僕と、結婚を前提にお付き合いしていただけませんか!」
「……け、結婚を前提に?」
「はい! 先輩となら、きっと楽しい家庭を築けると思ってます!」
「そう、か。そうなのか……はは」
いきなりどでかいのが来たなあ、と一夏は苦笑する。……だが、相手としては申し分ない。
「だから、是非、お願いします! 僕と……」
「――ごめん」
「っ……理由を、訊いても良いですか?」
そうして彼女は、周りで見ている人間にもしっかりと聞こえるように、いつもより少し声を張り上げて。
「だって俺、男は恋愛対象じゃないんだ」
満面の笑みで、そう告げた。
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変わる相手、変わるカラダ。
「――待っていたよ、一夏ちゃん♪」
「……え?」
その女子生徒は、ふらり、と曲がり角から唐突に現れた。次の授業が移動教室であるために廊下を歩いていた蒼と一夏は、行く手を阻まれて当然立ち止まる。織斑一夏爆弾発言より一週間。男達の夢と希望はまるで泡沫のように儚く消え、彼女をターゲットに据えた告白ラッシュはそのまま沈静する……かのように思えた。が、そうは問屋が卸さない。男は恋愛対象でない、という言葉を聞いて祝福の宴と勝利の舞を踊り出した次なる刺客は、想い人が女になり恋を諦めていた乙女及び一部の特異性癖。
「ね、今日の昼休み一緒にお話でもしない? わたし美味しい紅茶も持ってきたんだ~……モチロン、二人っきりで……ね?」
「え、ええっと……」
つまるところ、「女になろうが一夏くんが好きです!」という純情な乙女と、「悪いけどわたしそういうタイプ大好物なのよね」という変態共が以前の男子同様に一夏へ猛アタックを仕掛けるようになっていた。
「どうしたの? なにか問題がある?」
「い、いや……問題はないんだけどさ……」
「それじゃあ、良いってコトかな? 場所は校庭端の体育倉庫で……」
「ごめん。ちょっとそれは問題しかない」
えぇ~なんで~、と頬を膨らませる女子を前に、一夏は隠さずため息を吐く。一度この系統の誘いを受けた彼女が辿った末路は、人気のない場所で急に押し倒されるという事態だった。しかも男ならまだ分かるが、相手は正真正銘の女の子。女尊男卑の社会とはいえ、まさかそんな事をしてくるなどとは夢にも思わないだろう。結果としてはなんとか振り切って逃げおおせたが、それ以来一夏としては女子の“お誘い”に酷く警戒心を抱くようになったのは言うまでも無い。
「前にそれで痛い目見てるんだ。同じとは限らないけど、出来れば人目のある場所で……」
「……ちっ、余計な真似を」
「ん?」
「なんでもないなんでもな~い♪ んーそっかー断られちゃったかー」
今日は諦めるとしましょうかー……なんて呟きながら、彼女はふわりとスカートを翻して歩き始める。男子と違って良かったのは、女子陣は分が悪いと直ぐに退いてくれるところだ。全員が全員そうではないが、あまりがっつくというコトをしないでくれるのはありがたい。こちらにも幾分か余裕が持てるというもの。対応も楽と言えば楽だ。
「……あ! そだそだ、忘れてた」
「まだなにかあるのか……?」
「や、一夏ちゃんじゃなくて、蒼さんの方ね!」
「……俺?」
「そうそうー」
蒼だけに、という自分の言葉にからからと笑う。
「――なんなら君でも良いんだよ? ワタシ、両方イケるクチだから……」
ぺろりと舌を出して、ニタリと笑みを浮かべる。追記。一夏を狙うのは上記二つの人種に加えてもう一つあった。
「……木山さん、去年鈴ちゃんに投げ飛ばされたの、忘れてないか?」
「あったねえそんな事……全く、あのちっぱいはなんにも分かってない」
「……もしかして蒼、知り合い?」
「美術部の木山さん。俺が二年の時、モデルを頼んできて脱がそうとしてきた人。……絵は物凄い上手、なんだけど」
無駄にボタンを外す動作が洗練されていて、驚いた記憶がある。その後に近くを通った鈴により事なきを得たが、蒼としても少し苦手意識を持っている人だ。ちなみに言動からも察せるとおり、彼女は生粋のバイセクシャル。そのような人達もまた、織斑一夏をひっそりと狙っていた。
◇◆◇
かくして波乱の日々は一向に収まらないが、時間は無慈悲にも淡々と進む。一夏が女になってからおよそ二か月。苦しくも周りの人々に支えられながら、なんとか生きてきた彼女の体は、知らぬ間に次の段階へと足を踏み入れていた。きっと誰もが予想して、けれどもなんとなくそれを言い出せなかった。否、言えるワケがなかったのだ。一夏のためを思ってのこと、そこに悪意など一切無い。それでも現実は変わらず。まるで運命が扉を叩くように。ついにその日は、やって来た――
◇◆◇
『悪い、今日はいけない。先に学校へ行っててくれ』
「…………珍しい」
朝、携帯の着信音で目を覚ました蒼がメールを確認すると、一夏からそのような文面が届いていた。ぽつりとこぼした蒼の言葉は、思い込みでも何でもない。毎日朝食を作りに来てもう二か月だが、その間に一夏はたったの一度も忘れることはおろか、寝坊すらしなかった。決まった時間に来て、慣れたように台所に立ち、ご飯を食べて登校する。半分日課と化していたことがなくなると、少し調子が狂う。
『一夏のことだ。外せない用事でもあるんだろう。なら、仕方がない』
連絡があったということは、それほど危ない事態でもないということでもある。ならば要らぬ心配をするよりは、しっかりと学校で待つのが正解だと蒼は判断した。時刻は午前六時前、家を出るまでおよそ二時間ほどの猶予がある。起床後の一時間の休憩を考えればちょうど良い頃合いだ。未だ調子のあがらない体を引きずりながら、彼は久しぶりに朝の台所へと向かった。
『……この家、やっぱり一人だと広いよな』
なんとなく、そんなことを思いながら。
◇◆◇
「おはようみんな……」
そう言って一夏が教室の扉を開けたのは、HR前の予鈴が鳴る五分前のことだった。蒼が予想していた時間よりも大分遅い登校である。メールの届いた時間からして早起きだったにしては、随分とぎりぎりのところ。気になって彼女の方を見ると、遠くからでもその惨状が分かった。ぼさぼさの髪の毛、見るからに辛そうな表情、ふらふらとした足取り。端的に言って、かける言葉を失うぐらいには酷い。
「蒼、弾、おはよう……」
「お、おう……えと、お前、大丈夫か?」
「なにが……?」
「……何がじゃない。どうしたんだ一夏、そんなにげっそりして」
訊けば、一夏は深いため息と共に鞄を置き、どすんと椅子に腰を下ろした。そのままほけーっと上を向いて数秒。ぼそりと、聞こえるか聞こえないかほどの声量で、何事かを言う。
「…………た」
「……なんだって?」
「た? 田沼意次ならテスト範囲外だぞ」
「弾、それは明らかに違うと思う」
狙ってか本気か分からない友人のボケを処理しながら、まるで魂が抜けたかのように体をぐてっとさせている一夏へ視線を送った。こんな姿は今まで見たことがない。よもやさぞかしマズいことでもあったのかと考え込む蒼に、少しすれば力尽きそうな一夏からヒントが追加される。
「…………きた」
「きた? きたって……」
「ああ。北の国からは名作だよな」
「弾。悪いけどちょっと黙っててくれ」
真剣な表情で腕を組み、うんうんと頷く友人は恐らく本物だ。本物の馬鹿だ。このままだといつ脱線するかも分からないと踏んだ蒼は、心苦しいが一先ず弾に静かでいてもらうよう言い付ける。見慣れない状況、恐らくはふざけている場合では無い。この二か月と少しの経験で培った直感を駆使しながら、蒼は一夏の言葉に一層耳を傾けて。
「――生理が、きた……」
「……生理、って。え、いやそれって――」
「だから! 女の子の日が! きたんだよ! ちくしょう!」
がしっと一夏に肩を掴まれて揺さぶられる。こういう場合、なんと返したら良いのだろう。女性を相手に男からそういった話をするのは非常識だ、ということぐらいは理解しているが、向こうから振られた場合の対処法は流石に知らなかった。そも、そんな事態に陥ると誰も想定できない。まあ、相手としては一応女であり、男でもあるのだが。
「ああもうどうすれば良いんだ……こんなの完全に女の子じゃないか……」
「……一夏」
「蒼、俺やっぱり辛いよ。……自分がどんどん女の子になっていって、最終的に戻らなくなるんじゃ無いかって考えただけで、ぞっとしない」
最初からのものであれば、まだマシではあったのだろう。途中から起きたこと、という言い換えれば“女になっていく”事実が一夏としては苦しくて堪らない。篠ノ之束の説明が本当であれば戻れないこともない筈だが、むしろ相手が相手だからこそ最後の最後まで安心はできなかった。――が、そんな彼らの心境はいざ知らず。教室のクラスメートは、最早この異常事態を盛大に楽しんでいた。
「一夏くんおめでた!? きゃーっ! お赤飯炊かなきゃ!」
「うちそれやられてめっちゃ恥ずかしかった記憶あるわー……母さんてば本当にもう」
「お父さんに知られるのなんかアレだよねえ……」
「めでたいことなんだから祝ったら良いっしょ。あ、あたしそれなら鯛飯がいいなー!」
なんとも反応に困るコメント群だった。
「え? 織斑子供産めんの? マジ?」
「やべーな。こいつは荒れるぜ」
「でも女同士だと無理だからやっぱここは俺ら男が」
「世の中にはIPS細胞というものがですね」
一方野郎どもはいつも通り阿呆丸出しの阿呆鳥。ぴーちくぱーちくと意味も無い会話を繰り広げている。
「なあ、弾。君はまだ落ち着いて」
「あん? うちに来れば赤飯はじいちゃんが炊いてくれるぞ。いやー蘭の時も色々と俺が被害を受けて大変でなあ……」
「…………なるほど、そっち側なのか」
肩を落として、蒼は項垂れる一夏の機嫌を取りに向かった。
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女は辛いよ。
「……一夏」
「蒼……」
一先ず声をかけたは良いものの、さて、どうするべきかと蒼は考える。女子を相手にするのなら何となく正解も見えてきそうなものだが、目の前の人物である織斑一夏の性別関連は非常に複雑だ。女子同様の接し方で良い筈がないし、かと言って男子同様もなにも野郎どもには生理が無い。そもそも、女性に深く結びつく事柄に関してはてんで使い物にならない彼である。ここに来て上慧蒼は、大きな壁にぶち当たっていた。
「――と、やっぱり後だ。もうホームルームが始まる」
「え? あ、ああ……」
運が良いのか悪いのか。ちょうどそんなことを言った直後に、予鈴が鳴り始める。がやがやと騒がしかった教室も、鐘の音が終わりに近付くにつれて会話の数が減っていく。蒼は自分の席に腰を下ろして、折角の時間を無駄にしないように頭を回した。現在進行形で一夏の経験している苦労や辛さなどは、男である己に分かるハズもない。生理についての知識も、中学一年の時に習った覚えはあるが、その後はさっぱり。特に復習といったこともしておらず、覚えていることは殆ど無いと言っても良い。
『……どうにかしないと、ってことは分かってるのに。何も出来ないなんて』
結局のところ、突き詰めれば友人でさえ他人でしか無いように、彼女の負担を肩代わりすることも、同じ経験をして理解することも不可能だ。なんとも歯痒い。彼はぎゅっと拳を握り締めながら、いつも通りに始まった朝のHRを静かに眺めていた。
◇◆◇
「ということで力が借りたい。弾、なにか案はないか?」
「うん。そうか。それで、どうして俺なんだ?」
一時限目前の休み時間。一夏がトイレで席を外したタイミングの良さもあって、蒼は隣の友人へと助けを求めた。が、向こうはそこまで乗り気ではないようだ。他にもいっぱい居るだろ? と弾は教室中を見回す。
「俺の交友関係の狭さは君なら知ってるだろう」
「そんで、俺と」
「あとは弾、蘭ちゃんが居るから色々と知ってそうじゃないか」
「ああ? お前……お前なあ!」
がたり、と弾が勢いよく立ち上がる。
「なにも分かってない。蒼、お前はなにも分かっちゃいねえよ」
「うん。なにも分からないから君に訊いてるんだ」
「違え。いいか蒼、あの傍若無人な妹サマに生理事情の話を振ってみろ。――血の雨が降るぜ、俺の」
「実体験なのか」
「おうとも」
深く弾は頷いた。赤みがかった髪の毛がばさっと揺れる。割と女子、というか五反田蘭限定で地雷を踏み抜くことは、男である一夏に勝るとも劣らないと定評のある彼のこと。整った容姿をそれ以外でぶち壊している友人になんとも言えない感情を抱きながら、蒼は一体何をしたんだとジト目を向ける。
「おい、なんだその目は」
「で、原因はなんなのかと思って」
「んなもんあれだ。あいつが辛そうにしてたから重い日なのか? って訊いたんだけどよ」
「うん」
「無言で殴られた後にチョークスリーパーで落とされた」
「本気で怒らせてるじゃないか……」
いやあ三途の川で手を振るご先祖様が見えたね、と渇いた笑みを浮かべる弾。その瞳がどこか遠い場所を見詰めている事実に蒼は震えた。兄妹とはいえ、まさか本気で意識を刈られるとは思ってもいなかったのだろう。余談だが、以降五反田弾の生存能力は格段にアップした。主に家庭内で。
「つうワケだ。妹が居ようが関係ねえ。俺は大してアテになんねえよ」
「そんなこと言わないでくれ。というか逃げないでくれ」
「そもそも励ますだけならお前が適当なコト言っとけよ。効果は覿面だろうぜ」
「あの一夏に適当なコトが言えると思うか?」
蒼がぴっと指さした方には、いつの間にやら教室に戻っていた一夏が居た。どんよりと重苦しい雰囲気を漂わせ、まるで幽鬼のように闊歩する姿は、とてもではないが見られたものではない。
「無理だなありゃあ。重症超えて致命傷だ」
「だろう。それでどうすれば良いと思う? 弾」
「だから俺に訊くな。そもそも考えるのはお前の役目だろうが学年一位」
「それとこれとは話が別だ。第一、考える方向性が違う」
試験はとにかく記憶さえしていればなんとかなる、というのが蒼の認識だった。新たに覚えるのではなく、一度は覚えていたことを引き出すだけの彼にとって、定期考査の点数が高いのはむしろ当たり前のようなもの。威張ることでも何でもなく、このぐらいは出来て当然と言ったところだ。故に頭が良いと思われがちな蒼だが、実際は人並み程度にしか考える力はない。
「正直今の一夏は見ていられない。……それは弾だって同じじゃないか?」
「……まあ、そりゃあそうだが。でも、打つ手が無いんじゃ仕方ないぜ。俺たちは結局男だ。大変だと思うことぐらいは出来るが、代わってやることさえ叶わないんじゃな」
「……打つ手が無い、か……」
最早ここまでか。そう思った時だった。
「うぃーす。久しぶりに御手洗さんが来てやったぞ馬鹿共ー……って、なにしてんの一夏」
「あ、数馬……おはようだな……」
「おう。挨拶は良いんだけどな? いやお前すっげーヤバイオーラ纏ってるけど?」
「…………実は、今日、生理が来て」
生理、と繰り返すように数馬が呟く。そしてうむと顎に手を当てながら、なにか思い返すように斜め上を向いて。
「キツいのか?」
「一応、初めてだし、割と……」
「なんだっけな。たしか最初のうちは安定しないらしいから、すぐに終わることもあるとか。慣れてくると大体一週間かちょっと少ないぐらいの間になるみたいだけど。……ん? もしかしてその前か? 一夏お前経血出てる?」
「……えっと。数馬は、なんでそんなに詳しいんだ……?」
ふっ、と彼は格好付けて笑う。
「決まってるだろ。俺の中一の保健体育の成績を知らないのか?」
「知らねえけど……」
「蒼と並んで同率トップだ。最高得点九十八点を叩き出してる」
「嘘だろお前……他科目では赤点ギリギリなのに……」
それは言わない約束だ、と数馬が切実な表情で訴えてくる。が、一夏にとっては意外なほどに頼もしい友人に驚きを隠せない。成績が振るわないのはてっきり地頭がないからだと思っていたが、案外そうでも無いのだろうか。いつもは馬鹿騒ぎする友人の一人が、今だけは輝いて見えた。
「おいおい蒼。なんか数馬が賢いムーヴしてるぞ」
「良いことじゃないか。正直助かった。……俺じゃあどうにもならないし」
「くそ……なんか裏切られた気分だ。あの日二人で抜けるAVについて語り合ったお前はどこへ行った……ッ!」
「思うんだけど、割と知らないところで酷い話してるな、君ら……」
なお、彼の持っている“そういう類いのモノ”が、一つ残らず妹の手によって叩き割られているのは言うまでも無い。レーティングはしっかりと守る。弾が中学生になって理解した、当たり前のことだった。
◇◆◇
「創立記念日暇だなあ……最近一夏さんも蒼さんも来ないし。お兄はなんか隠してるっぽいし」
「……もしかして二人になにかあった? だとすると十中八九蒼さんな気がするけど……大丈夫かなあ、倒れたりしてないと良いけど」
「あの人本当貧弱だし……そのくせ無理はするし……なーんか放っとけないんだよね……。一番は一夏さんだけど」
「――って、おじいちゃん? どうしたの?」
「なに? お店の手伝い? えー……いやでも今日はちょっと……」
「えっ? お小遣い出してくれるの? ホント!? ならやろっかなー」
「……にしても、何を隠してんだろ。あの馬鹿兄は」
「ま、そんな大したことでもないか。さっ、お手伝いだお手伝いっ」
もう少し行きたかったのですが、文字数が膨れあがるために断念。
三千文字近辺が一番ですとも……。
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彼が知ったこと、彼だけが知ったこと。
時代の流れに取り残されたのか、それとも必死で抗っているのか。一夏たちの通う中学校は、昨今の中では珍しく、昼休みのみだが屋上が限定的に解放されている。そこで昼食をとる、といった事は流石に出来ないが、端の方に設置されたベンチから休むには最適だった。尤も、わざわざ使用が許可されているにも拘わらず、昼休憩に過ごす場所としてはあまり人気が無い。というのも、屋上という位置の関係上天候に左右されやすく、雨の日は言わずもがな、晴れの日でも時折鳥の糞が落ちてきたり、また突風に煽られたりすることもあってか、いつしかごく一部の人間しか使わなくなっていった。
「…………はあ」
「…………、」
蒼と一夏はそのベンチに並んで座りながら、ぼんやりと空を見上げる。雲一つ無いほどに綺麗な青空。幸運にも、今日は風の強さがそこまででもない。ふわりと頬を撫でるように吹き抜ける空気を感じながらも、彼らの心には周りの環境を十分に楽しむ余裕など無かった。本日何度目か分からないため息を吐きだして、一夏は首ごと真上を向いたまま、ぽつりと溢すように。
「……空はこんなにも晴れてるのに、俺の心はいつになったら晴れるんだろう……」
「……一年後には晴れてる。必ず」
「それすらちょっと怪しいけどな。……今は戻るって信じるしかない、か」
だろうね、と蒼が呟く。何はともあれ、なってしまっているモノはどうしようもない。男だった時の事を幾ら思い返そうが個人の勝手だが、それで現状をどうにか出来るほど甘くないことは一夏も承知していた。友人の支えで以前よりかは強く精神を保てている。きっとこの前までの己なら学校を休むような事態であるが、なんとか問題なく授業を受けることが出来ていた。……途中、何度か、保健室のお世話になったが。
「でも、顔色はかなり良くなってきてる。朝とは大違いだ」
「少しは慣れた。ほんの少しは、だけど。……こんなもん、初めてこの体になった時と比べれば、まだ優しいよ」
「説得力が凄いな……」
「伊達に女を経験してない、なんて言いたくも無いんだがなあ……」
束さんのこんちくしょう、と愚痴る一夏の様子は、確かに告白騒動の時と比べて実害が大きい筈だというのに、それよりも落ち着いている。あの時より数週間、未だ本調子で無いとはいえ、織斑一夏は着実に本来の元気を取り戻しつつあった。それだけでも喜ばしいことであるが、何より悪い方向へ考えなくなったことが大きい。彼にとってはそれだけ、明確に宣言してくれた味方が支えになっていた。
「なんにせよ、これも蒼がいなきゃ潰れてた。サンキューな」
「……今回に関しては本当に何もしてないだろう、俺は。礼を言う相手を間違えてないか?」
「こうして側に居てくれるだけで違うもんだよ。ずっと、気分が楽だ」
「……あまり納得いかない……」
難しい顔をして、彼は拗ねたように言う。その姿があまりにも年相応で、普段の態度とは差が激しいものだから、一夏はつい驚くと同時に噴き出してしまう。感情表現が分かり難いのでは無い。基本無愛想であるために誤解されがちだが、蒼は単に顔に出易い時と出難い時がはっきりしているのだ。今回はその後者であったというだけ。本当は人並みに笑うし、人並みに落ち込む。
「……なんだ、人の顔見て笑う余裕もあるんじゃないか。心配して損した」
「悪い悪い、怒らないでくれ。何度見ても珍しいって思うんだよ、お前のそれは」
「…………むう」
先ほどよりも眉間に皺を寄せて、蒼はそっぽを向きながらむくれた。その行動にまたもや笑ってしまうのが一夏だ。ここまであからさまだと、むしろ狙ってやってるんじゃないかとも思えてくる。なんとも言い難い感情を抱える蒼としては、少し面白くない。こちらは割と本気で怒っているというのに。――が、それをあっさりと飲み下すのもまた、彼らしいところか。
「……まあ、良いか。一夏がそんなに笑えたのなら、十分だよ」
「ホント、ごめんって。悪かった。いやあ……うん、マジでな」
「……謝るのなら謝るでもうちょっと真剣にやってくれ」
右手で頭を押さえながら呟く蒼の姿に、一夏も流石にこれ以上はと思ったのか、ぺこりと一度頭を下げる。ならばそれで、二人の問題は終わり。蒼は仕方がないと言う風に苦笑して、一夏は頬を人差し指でかきながら微笑んだ。どこまでを踏み込んで良い領域か、なんて考えてすらいない。きっとこの相手なら、どこまで行こうが最後には受け止めるのだと理解している。男の時に培った友情は健在どころか、先の一件でより強固になっている。それがなんとなく、一夏には嬉しかった。
「にしても、女子って凄いんだな。毎回こんな日を送ってるなんて、想像もしなかった」
「……まあ、それに関しては俺たち、どこまでいっても男なんだから。結局は考えられる筈もないんだろう」
「俺はここに来て女になったけどな」
「なるほど。……それで、その気分は?」
「最悪最低最凶だな、おみくじもびっくりのツキの無さだ」
やれやれと首を振る一夏の態度に、蒼はほっと一息ついて笑う。
「……どうしたんだ? 随分といつもの君らしい」
「もう二か月近いんだ。混乱してるばかりじゃない。ただいま……っていうのは何か違うな。我、此処ニ帰還ス、とかか?」
「どっちも意味が同じじゃないか」
「だな。まあどうであれ、蒼が早々に対処してくれたおかげだ」
“そう”だけに、と一夏は内心で呟いてうむと頷く。対する彼はそれをジトッとした目で見詰めながら、平常運転の平坦な声で。
「……またしょうもないコト考えてる」
「む……おかしい。なぜ俺の心が読まれているんだ。なにかのトリックか」
「女になっても顔に出るのは変わらないんだな、相変わらず」
「おう。意外と嬉しい報告だ。変わらないってのは良いことだな」
そんなやり取りの末、二人は顔を見合わせて噴き出した。全てが同じとはいかない。織斑一夏の性別は変わってしまっている上に、まだ完璧に立ち直ってはいないのだ。所々噛み合わなくて不格好な部分もある。けれども、些細な違いなど今更だった。男だった時のように馬鹿を言い合い、笑って、それを楽しいと思う。何気ない会話の一つ一つに意味はなくとも、そうして話すことに意味がある。それらがとても、心に沁みる。
「本当、経験しないと分からないもんだな。鈴や箒が凄く見える」
「……そうだね。経験できないから、俺には分からないけど」
「しない方が良いぞ、絶対。……蒼にはそういうの、なんか無いのか? 自分だけがしてそうな体験とか」
「自分だけがしてそうな体験……」
思い返して、蒼はああ、と。
「一つだけ、ある。……うん。たしかに、しない方が良い、特別な体験なんて」
「なんだ、あるのか」
「まあ、一夏ほど大したことでもないんだけど。……でも、本当にそうだ。あんな思いをするのは、自分だけでいい」
「…………蒼?」
ふと何かが引っ掛かって、一夏は彼の顔を見た。半分ほど閉じられた瞼、僅かに俯いていることも相俟って、光がないようにさえ見える。ぼんやりと己の手を見詰めながら、蒼は独り言ちるように溢す。
「自分だけって……それほどの経験、したのか?」
「……多分。よくある事、じゃないと思う。俺も実際には聞いたことさえ無かった。創作の話みたいなものだし」
「創作の話、って……それこそ今の俺みたいなことじゃ」
「違うよ。きっと、違う。……上手く言えないけど、これは違うんだ。いや、俺だけしか経験してない、っていうのは同じかな」
下手をすれば言い切れてしまう。上慧蒼だけが知っている、今を生きる誰もが知っておきながら、誰一人として経験した事のないもの。世界中を探しても一人しかいないのだと、どこか頭の隅では理解していた。
「けど、それで良い。俺だけしか知らないってことは、あんな辛さを誰も抱えていないってことだろう? なら、良い。……知る必要なんてないんだ、あんなもの」
「……じゃあ、さ」
一夏は恐る恐る、口を開く。
「蒼は、その辛さを……どう、したんだ? 抱えてたものを、どう片付けたんだ?」
「どうしたも何も、そのまま。辛くて、苦しくて、でもどうしようもないから、仕方がない、って受け止めた。“それ”が“そう”であるものなら、変えようがないから」
そう言って、彼は笑った。いつも通り、口の端をあげて、ちょっと恥ずかしがるように。今、自分の述べたことがどれほど凄いことなのかも自覚しないで、当たり前のように言い切った。一夏としては信じられない。自分が足を止めて頭を抱えていた問題を、あろうことか眼前の少年は、まるで我が儘を言う子供に折れるみたいにあっさりと、飲み下していたなんて――
「…………なあ、蒼」
「ん? なんだ、一夏」
「お前のその、経験ってさ、一体、どんな……」
「――よう。会話中邪魔するぞ」
一夏の言葉を遮るように、ばんと屋上の扉が開けられる。見れば赤髪の友人が、ぎいっと半開きのそれに手をかけて立っていた。
「いや、全然邪魔じゃない。どうしたんだ、弾?」
「保険の教師に聞いてきた。生理は食いもんでも若干辛さが変わるんだとよ。詳しいことは後から調べるが……」
にっとはにかんで、弾が親指を立てる。
「ここは俺も役に立たないとな。折角の情報だ。お前ら放課後メシ食いに来い。今日はおごりだ」
「おお、珍しく太っ腹じゃないか。……何の気まぐれで?」
「ばーか、お前も数馬も手助けしてんのに、俺だけ何もしねえのはやってられんだろ。少しは気にしてんだ、察しろ」
ハンッと鼻を鳴らして、彼は吐き捨てるように言った。何ともまあ、素直じゃない友人である。けれども悪い奴ではない。蒼は笑って、一夏の方に振り返った。
「ってことらしいけど、それで良いか?」
「……ああ、そうだな。久々に、五反田食堂に厄介になろうか」
「おう。任せとけ。腕によりをかけて作るぜ、じいちゃんが」
数馬はB組だから誘わなくてもいいしな! という明らかに負担を減らす魂胆が透けて見える一言を続ける弾。つられてはにかむ一夏と、苦笑いを浮かべる蒼。約一名を例外として、この時の彼らはすっかりと忘れていた。
――何故、五反田食堂が久々だったのか。
――何故、今までその場所を避けていたのか。
――何故、五反田弾は一月以上も一夏や蒼と遊ばなかったのか。
それらの解を、綺麗さっぱり、忘れていたのである。
次回、一人の恋する乙女に悲劇が起きる――!(もう起きてる)
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犠牲者と被害者。
「いらっしゃいま……あーっ! 蒼さん!」
「――――、」
「――――、」
「……どうしたんだ? 二人とも固まって」
こてんと首を傾げて、一夏が訊いてくる。蒼は既に後悔していた。幾ら何時もはない騒動だったとはいえ、まさかこんなにも大事なことを忘れるとは夢にも思わないだろう。被害を最小限に抑えようと行っていた努力はここに至って水の泡と化す。それが分からない二人ではない。ゆっくりと目を合わせて、彼らは蘭に背中を向けながら肩を組んだ。
「しまった。蘭ちゃんのことをすっかり忘れてた」
「安心しろ。俺もだ、蒼。見事な墓穴を掘っちまった」
「堂々と言う事じゃないな……というか、君自身が一番被害を受けるだろうに」
「赤信号、みんなで渡れば死ぬだけだ」
結局この先生きのこれないじゃないか、と蒼は肩を落とした。弾は最早覚悟が完了しているのか、妙に晴れ晴れとした顔をしている。妹に隠し事をする必要が無くなる、というのはたしかに楽だろうが、代償として色々と受けそうなのはどうなのか。友人の末路に若干不安になりながらも、彼だって無視できるコトではない。なにせ一応は関係者、しかもがっつりと関わってしまっている、事態を説明可能な主要人物の一人だ。
「諦めるのは早いだろう、弾。まだ勝機はある」
「なに……? それは本当か? 俺は助かるのか?」
「ああ、助かる。助けてみせるよ。俺だって弾の死ぬ姿は見たくない」
「蒼……! アイムインフィニットフレンド……ッ!」
「……そこはマイと後ろにフォーエバーだ。なんだ私は無限の友達って」
弾の出鱈目な英語に軽くツッコミを入れながら、蒼は落ち着いて考える。一夏の容姿が性転換によって劇的に変化していることもあり、初見では先ず彼女のことを織斑一夏とは気付かない。何か引っ掛かるようなことがあろうとも、結びつくまではいかないハズだ。蘭自身の勘で疑われたとしても、目に見える形で女になった一夏という証拠がない現状では確かめようも無かった。詰まるところ、余計なコトをしなければこの場はやり過ごせる。
「うん、いける。大丈夫だ、弾。ここはなんとかなる」
「マジかよ! 流石だぜマイムインフィニットフレンドフォーエバー蒼!」
「もう意味が分からない。割と本気で中学一年から英語を習い直してくれ」
「で? 肝心の作戦はなんなんだ参謀殿?」
自身が無事に生存できる可能性が見えてきたお陰か、弾はいつも通りのノリの良さでニヤけながら聞いてくる。馬鹿で阿呆で基本的には頼りないが、いざという時はやってみせる、実に憎めない友人だ。蒼は素直に弾がとばっちりを喰らうことを、まあ、小指の先ほどではあったが、真剣に案じていた。問題を起こしたのは世界を唸らせる天才篠ノ之束で、被害を被ったのは一夏であるというのに、弾が割を食うのは少々可哀想である。
「簡単だ。今ここに居る時だけ、一夏には悪いけどただの女の子になってもらう」
「待て、口調の問題はどうする。俺ー俺ーって、一向に女っぽくなりもしねえけど」
「オレっ娘っていうコトでどうにか乗り切ろう。一夏の負担を可能なかぎり減らしつつやり切るにはそれしかない」
「なるほど。完璧な作戦だ。マイフォーエバー蒼」
「フレンドを無くすんじゃない」
なにはともあれ、道は開けた。以降は気を緩めないようにしっかりと心に刻みながら、蒼はゆるりとした動作で弾と組んでいた肩を離す。次いで一つ、深呼吸。――友人の約二か月にも及ぶ折角の努力、無駄にするワケにはいかない。して良いワケがない。彼がどれほど辛い毎日を送ってきたのかは想像も出来ないが、彼なりに頑張っていたのは確かなのだ。
「心配要らないよ、弾。君のことは、俺が――」
「蒼……お前――っ」
そうして、二人の友情メーターが最高値を振り切ろうとした直後。
「――え?」
ぱりん、と。
「……なんの音だ? 弾」
「皿だ。皿の割れる音だ。しかもごく自然落下に近い、俺がつるっと滑らせた時と同じ」
「お皿? お客さんも俺たち以外居ないのに、どうして今そんなものが割れて――」
……はて、たしか、蒼の記憶違いで無ければ。五反田蘭は出会った時に、何やら白くて丸い板のようなものを持っていたような、持っていなかったら良かったような。思い当たったのなら、見ないことにはいかなかった。途轍もなく嫌な予感が駆け抜ける。ばっと殆ど同時に、弾と蒼は彼女の居た方へと振り向いた。
「まさか、本当に……一夏、さん……?」
「えっと……うん。本当に、俺なんだ」
「終わった」
「神は死んだ」
誰も予期しなかった超速理解。まさかの展開に、男二人の心は折れた。こうして事態は、当初の想定通り、最悪の開幕を迎える――。
◇◆◇
「……お兄」
びくん、と弾の肩が跳ねる。蒼はもう何も言えなかった。一夏は少し困ったような表情で、俯く蘭に視線を向けている。
「集合」
「蘭、待て、早まるな。……話せば分かる」
「――集合」
「はいっ」
弾は犬のように駆けていった。彼程度の器では、昭和の実盛とまで書かれた犬養毅のように振る舞うことなど出来る筈もない。蘭は近寄ってきた弾の胸ぐらをひゅおっと掴んで引き寄せる。早業だ。一秒もあればお前は肉の塊にできる、と言外に告げているようだった。弾の顔から血の気が引く。
「どういうこと?」
「い、いや、その、これはだな……」
「これは、なに? 知ってたよね? お兄、一夏さんと学校一緒だもんね? ……説明、してもらえる?」
「ヒィッ!」
――鬼神だ、ここに鬼神がおられる。にっこりと笑う蘭の表情は可愛いものだが、別の意味で心臓を締め付けられる思いだった。どばっと全身から汗が噴き出る。未だ春先、気候は過ごしやすい温度と湿度を保っているが、そんなことは関係なく震えが止まらない。弾は目の前に立つ己の妹こそが、自分の“死”なのだと確信する。
「ち、違うんだ、蘭。俺は……お前を、傷付けたくなくて、それで……っ」
「理由はいらない。お兄のお節介が空回りするのなんて今更。……さっさと事情説明をしろ、って私は言ってるんだよ」
「せせせ説明だな! うん! よし分かった! ――助けてくれ蒼!」
「あっ、待て弾なにを言って――」
ぎろり、と鋭い眼光が蒼を貫く。
「蒼さん」
「……なんでしょう」
「集合」
「うん。ちょっと待って欲しい。蘭ちゃん、話をしよう。あれは今から二か月ほど前の」
「集合」
「はい」
蒼は猫のように駆けていった。彼程度の精神では、蘭の威圧に耐えながら状況説明など出来る筈も無かったのである。恋する乙女は強かだ。中には腕っ節の方もそれなりな純情乙女も居るのだが、蘭がその枠内に入っていないことだけが彼らにとっての幸せだった。一夏は頭上に疑問符を浮かべながら三人の様子を窺っている。
「どういうことですか?」
「その、なんて言ったら良いんだろう。ちょっと話せば長くなる、というか、俺としては君に話したくない、というか」
「構いません。洗いざらい吐いてもらいます。……そこの女の子が一夏さんだって事は、どうせ確定なんでしょう?」
顔を上げた蘭は、少し辛そうな表情をしていた。誤魔化すことは出来ない。下手なことで隠されるのを、彼女は望んでいない。ただ答えだけが欲しいのだ。それがどれほど残酷なモノであろうとも、絶望的な真実であろうとも。蒼は一つ息を吐き出して、ゆっくりと告げる。
「……そうだよ。そこに居るのが一夏で、間違いない」
「やっぱり、ですか。……おかしいと思ったんです。話し方とか、歩き方とか、ちょっとしたクセとか、まんま一夏さんですよ。……試しに話題を振ってみたら、私と一夏さんしか知らないようなコト、平気で答えますし」
「蘭ちゃん……」
ぎゅっ、と蘭が拳を握り締めた。……ああ、本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。蒼も弾も、きっと彼女のこんな姿を見たくなくて、ずっと隠そうとしていたというのに。現実は無情にも、一人の恋する乙女に悲しい事実を押し付ける。
「蒼さん」
「……ごめん。さっきまでのことは謝る。だから、なんでも言って欲しい。俺が知ってること、全部話すから」
「じゃあ、その全部、聞かせてください。でないと…………でないと、納得、できません……っ」
「……うん。分かった。だから、落ち着いて聞いてくれ。最初に言っておくと、一夏だって好きであんな姿になったんじゃないんだ」
その一言を皮切りに、蒼は彼女へ全てを伝えた。春休みの終わりから今日まで、織斑一夏の身に起こった全てを。
容量の関係で持ち越すヤーツ第二弾。
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黄昏の空の下で。
「……そう、ですか。大体、分かりました」
話を聞き終えた蘭はぽつりと呟いて、深く俯きながら答えた。見れば小さく肩が震えている。
『……辛いんだろうな、きっと。凄く』
蒼には彼女の気持ちが分からない。生まれてこの方、一目惚れすらした事がない自分では、理解することなど出来もしない。けれどもそれが決して楽なものではなく、苦しいであろうことは分かっていた。苦しさなら彼にも分かる。辛いことなら十分に知っている。同じ経験は無くとも、なんとなくで人は理解できる生物だ。
「……その人、一夏さんを女にした……誰でしたっけ……」
「篠ノ之博士」
「ああ、IS関連の教材でよく聞く名前の……もうこの際どうでも良いです。その人、今どこに居ますか?」
「……蘭ちゃん」
だから、その先の彼女が言いたいことも分かってしまって、思わず蒼は眉尻を下げた。本人が近くに居たのなら連れ出して引っ張り出し、簀巻きにしてコンクリートに浸けた状態で「この人が主犯です」と関係者全員の前に突き出したいが、あいにくとそれすら出来ないのが余計に憎たらしい。
「……世界中から指名手配されてるのに、数年間捕まりもしない人なんだ。どこに居るのかも、いつここに戻ってくるのかも不明で」
「なんですか、それ。ふざけてるんですか」
「うん、ふざけてる。……あの人からしたら遊び半分みたいな気持ちで、こういう事をするだろうから」
「……なん、なんですか、本当に、そのっ、ド畜生はーーーーッ!!」
うがーっ! と蘭が吠える。突然の咆哮に、近くから見守っているだけだった一夏はびくりと肩を跳ねさせた。ガツンとテーブルに叩きつけられる拳。上がる弾の悲鳴。恋する乙女からして当然と言えば当然の反応。常日頃から綺麗な色合いの髪が、今は怒りで深紅に染まっているようにさえ思える。
「ワケが分かりません! どうして一夏さんを! この時期の! このタイミングで! わざわざ家に忍び込んでまで女の子にするんですか! 馬鹿なんですか!? お兄の方がまだ考える頭がありますよ!?」
ごもっともだった。
「落ち着こう、蘭ちゃん。馬鹿と天才は紙一重って言うだろう?」
「なら俺もちょっと見方を変えれば天才なのでは……?」
「君は終身名誉お馬鹿さんだから安心してくれ、弾」
「解せん」
がっくりと膝をつく友人は恐らく放っておけば元に戻る筈だ。彼は強い。生来のものか、妹に鍛えられたからか、復帰力という意味では五反田弾は他の追随を許さない。馬鹿特有の単細胞とも捉えられるのはご愛嬌。この年にして兄妹と仲良くやれているのは、彼が兄としてしっかりしている証拠だろう。
「それに蒼さんもストーカーまがいの被害受けてるのになんでそんなに澄ましてるんですか! 警察に届けとか出しましょうよ! 粘着質な女子は怖いんですよ!?」
「いや、場所はきちんと教えてもらったんだ。大体あの人、女子って言うような歳でもないから……」
「立派な大人のくせに中学生のプライベートを覗く変態ってことですか! ええそれなら仕方ないですね! 一夏さんが女の子にされるワケですよ! 蒼さんも盗撮盗聴されながら生活するもんですよ! 仕方ないですね本当! ってなるかーーーーーっ!!!!」
本日二度目のテーブルが上げる悲鳴。弾が上げる悲鳴。連動しているのだろうか。
「すぐに探し出しましょう今すぐに見つけましょう! それでお願いですからこの溢れんばかりの怒りと憎しみと愛しさと切なさを叩き込ませてください!」
「やめよう蘭ちゃん。あまりにも無謀だ。返り討ちに遭ってちゃ意味が無い」
「ああもうだったら何すれば良いんですか! どうすれば良いんですか! 私のこの気持ちはどう片付けたら良いんですか!?」
がばりと蘭は蒼に飛び付いた。一瞬のことでよろけて倒れそうになったが、男の意地でなんとか持ち堪える。うん、今なら案外、箒ちゃんも抱っこ出来るかも知れない。そんなことを考えてしまうのは、随分と合わなくなって久しい彼女が、目の前の少女と同じ気持ちを抱いているからか。ぎゅっと、蒼の両腕を掴む手に力が入る。
「こんなの絶対認めません……! 私だって、生半可な気持ちでやってきたワケじゃないんです! 本当に、本気で……っ!」
「蘭ちゃんが頑張ってるのは俺も知ってる。だから、ちょっと落ち着いてくれ。まだ一夏が女の子のまま生きていく、って決まったんじゃない」
「…………え?」
ぽかん、と蘭が呆けた顔で蒼を見る。彼は真剣な表情で、最後に伝えるべきことを告げた。
「一年間だけ、条件はあるけど、無事に過ごせば元に戻るって話なんだ」
「……本当、ですか? 嘘じゃ無いんですか?」
「分からない。けど、わざわざそんな嘘をつく必要もないと思う」
「………………っ」
ばっと、勢いよく一夏の方へ振り向く。ある程度は耳に入っていたのだろう。次は大して驚くことも無く、彼女は困ったように笑いながら首に手をあてていた。
「そういうことなんだ。確証はない。けど、男に戻るにはそれしかない。だから、とりあえずやっていこう、って感じで」
「――っ、一夏さん!」
「うおっ、と。……蘭?」
ぐっと蘭が一夏の両手を握る。以前、彼女が偶々手を繋いだ時とは全然違うものだ。大きくて少しゴツゴツとしていた如何にも男らしいそれは、細くてしなやかな女性のものへと変化してしまっている。その事実に落ち込みそうになりながらも、蘭はしっかりと顔を上げて言った。
「私、応援してます! 一夏さんが元に戻ること、応援してますから!」
「――――、」
「だから困ったことがあったら何でも言ってください。私で良ければ力になります! だから何が何でも、絶対、男に戻りましょうね!」
そんな一人の少女に対して、一夏は。
「ああ、うん。……本当に、ありがとうな、蘭」
きっと、男ならば文句がないほどに映えていただろう。それはもう柔らかい口調で、にっこりと彼女は微笑んだ。だがしかし、どうあがいても今は女の子。曇り一つ無い表情は、どこまでも綺麗で、どこまでも可愛かった。
◇◆◇
「ど、どきっとしたぁ……。うん、女の一夏さんも意外と……」
「おい蘭?」
「な、なんでもなーいなんでもなーい! ささ! 皆さんこちらへどーぞー!」
「……変なやつだな」
……それこそ、思わず約一名を百合の花園へ導きかけてしまうぐらいに。
◇◆◇
時刻は六時過ぎ。既に日は傾いて沈み始め、辺りは夕日の赤色に染まっている。遠くでカラスが鳴いていた。不思議とこの時間帯に限っては、不吉の象徴とも呼ばれるかの鳥が鳴いても恐ろしいどころか、むしろどことなく安らぎを感じる。昼と夜の合間。終わりでもなく、始まりでも無く、唯々その中間。どこか機嫌の良さそうな一夏を、蒼は半歩ほど後ろに下がって歩きながら眺める。
「いやあ、厳さんのご飯美味かったな。それになんだか気持ち楽になった気がする」
「……それは良かった。ところで、一夏」
「ん? なんだ蒼? 疲れたのか?」
たしかに五反田食堂の大将であり、弾の祖父でもある五反田厳の振る舞う料理は絶品だった。加えて、事情を理解した蘭と真面目になった弾の協力によって作られた、一夏の体調を考えた特別メニューである。これで気分が上がらなければ、それはそれで重症なのだが、にしても……。
「いや、なんというか。……ここ数ヶ月で、一夏のそんな様子は久しぶりな気がして」
「――そうか? 俺、そんなに分かりやすいか?」
「うん。今までよりずっと嬉しそうだ」
「そ、そっか……参ったな」
恥ずかしがるように、一夏が頬をかく。その仕草すらいつもとは違って、隠しきれないものが滲み出ていた。
「……蘭が、さ。応援する、って言ってくれただろ?」
「ああ、たしかに言ってた」
「それが、さ……なんつーか、すげー嬉しかったんだ」
満面の笑みで、彼女は続ける。
「蒼の言葉が嬉しくなかった、って事じゃないぞ? お前の言葉には支えられてるんだ。でも、蘭の言葉はなんつうのかな……こう、物凄い心に響く、というか。本気で男に戻って欲しいんだって理解できて…………何度も言うけど、すげえ嬉しかった」
「――そうか。うん。なら、もう十分だ」
十分、理解は出来た。蒼は微笑みながら一夏の隣をするりと抜ける。ずっと会わせたら駄目だとばかり考えていた。両者にとって不幸なことにしかならないと、勝手に決めつけていた。でも違った。不幸なことにはなっていたが、全てがそうではなかった。今回はそれが偶然、良い方向に傾いただけかもしれない。けれども、起きたことは結果が全て。――五反田蘭は、誰にも出来なかった一夏の“心の底からの”笑顔を引き出した。
「十分って、なにがだよ?」
「君のことが、だ。俺が心配することもないぐらい元気になってる、ってこと」
「……たしかに、気分は最高かもな」
つまるところ、彼女が抱く本気の想いは、しっかりと想い人に届いていたのである。
「なあ、蒼」
「なんだ、一夏」
「夕焼けって、こんなに綺麗だったんだな」
「……うん。ずっと昔から、綺麗だったよ」
「そうか、そうか。――すっかり、忘れてたな」
かあ、とカラスが鳴いた。一夏はそれを気にも留めない。ただ、眼前の光景を見詰めている。注意を向けたのは彼の方。真っ赤に塗られた遠くの空、羽ばたいていく一羽の黒い影を見ながら、彼は――
原作主人公が苦悩を抱えてるのにオリ主が苦悩を抱えないのは不公平ではという個人的な感想を、プロット段階でやっちゃってる今作。
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晴れのち曇り、時々大雨。
織斑一夏が女の子になって二か月が過ぎた。最初のうちは騒がしかったクラスメイトも今や彼女の存在に慣れきってしまい、昨年とは違うことを当たり前のように受け入れ始める。一時期は本人の心に多大な負荷をかけていた告白ラッシュも、ある程度の数を捌いてしまえばどうということはない。男子はともかく、女子もその勢いを無くし、段々と数は減っていった。一夏としても蘭の言葉が余程効いたのか、男の時同様の爽やかな笑顔を見せるまでに回復している。
『……まあ、一番初めの時からしたら、この期間でよく立ち直れた方だろうな』
人気の無い廊下を歩きながら、蒼はこれまでのことに対して胸中でそんな感想を抱く。時刻は午前七時過ぎ。まだ生徒の殆どが登校していない、寂寥感漂う校舎。彼がそんな時間にこの場所へ来ているのには、無論理由があった。そも、理由がなければこうして何時もより睡眠時間を一時間削り、一夏へ先に行くというメールを送り、わざわざ始まる一時間以上も前の学校に来たりはしない。
「……進路なんて、本当はどうでも良いんだろうけど」
中学三年生、時期的に並の少年少女が頭を悩ませる問題も、蒼にとってはさほど大きなものでも無い。呼び出された理由としては少々納得いかなかったが、自分の立場を省みれば理解はできた。とてつもないズルをしているとはいえ、これまで学年成績トップを独走している蒼は、学校からするとより良い進学先に行ってもらいたいのだろう。
『あんまり頭の良いところ、っていうのもどうなんだろう。……箔はつくだろうけど、勉強が出来るってだけじゃどうにもならないの、分かってるし』
誰かと競い合い、高め合うのは良いことだと思うが、彼本来の性格からして争い事は等しく苦手だ。ただゆっくりと、急がず焦らず、けれども遅れないような日々を過ごせれば十分。結局のところ、欲しいものは努力の成果でも、胸を張れるような経歴でも、ましてや他人からの評価でも無い。
「……うん。やっぱり、今が一番だ」
何かに笑って、時には馬鹿もやって、それで一緒に怒られて。友人達との学校生活は蒼にとっても退屈を感じさせないほどに楽しいものだ。口下手で人付き合いを苦手とするために、大勢とはしゃぐなんて真似は“今回”も出来ていないが、前よりかずっとマシだ。誰か一人でも心を許せる人間が居るのなら、それで。……居るの、ならば。
『……自分で地雷を踏むのは、一体どうしてなんだろうな』
一つ大きなため息をついて、蒼は肩を落とした。この世界の本来の流れ、限られた人物の詳細、向こう側で生きていた時の経験。転生で得たものはどれも大きいが、決して良い事だけでは無い。中には目を覆いたくなるほど酷いモノまで持って来てしまっている。捨てられなかったのではない。意図的に取りこぼさなかったワケでもない。ただ、純粋に、爪痕のようなそれが心に残っている。
「…………やめよう。悪いことばっかり考えても仕方ない。今日はあれだ、そう、結構良い天気だし――」
言って窓から空を覗けば、今にも泣き出しそうな曇り空。この様子だと昼には本格的に降り始めそうだった。悪い事が続くのは偶然か、はたまた見えない何かによる悪戯か。どちらにせよ碌なものではない。
「……ああ、そう言えば、もう梅雨の時期じゃないか」
憂鬱だ。そう呟く彼の顔は、気持ちいつもより沈んで見えた。六月某日。梅雨前線がそろそろ顔を出し始める時期。彼にとっては、一年の中でもっとも嫌な一月である。
◇◆◇
事前の予想通り、学校が終わる頃には外は土砂降りの雨だった。しかも、そこそこ前から激しさを維持したまま。グラウンドには既に大きな水溜まりが一つ二つ出来ている。野球部とサッカー部はさぞ頭を抱える問題だろう。ともあれ、部活動に所属していない蒼には関係のないこと。彼にとって気がかりなのは、顔を顰めざるを得ないこの天候だ。
「…………、」
昇降口から空を見上げる。あたり一面、セメントを塗ったような分厚い雨雲。動いているのかどうか、それすら些細な問題。光の差す隙間すらないようで、世界に天上が出来たような錯覚に陥る。きっとそれは、簡単に突き抜けてしまえるものだろうに。
「……参ったな、本当に」
「何が参ったんだ?」
ふと、呟いた独り言に反応する声があった。透き通るように綺麗な声、けれども口調は男らしく。この中学でその条件を満たし、自分と関わり合いのある人物など一人しか居ない。声の主はトンと革靴の踵を鳴らして、躊躇いなく隣に並んだ。
「一夏」
「どうしたんだ、蒼。今日はやけに元気が……って、まあ、いつも通りではあるのか?」
「それだといつも俺が元気ないみたいじゃないか」
「違う違う。お前、毎年この時期は駄目だもんな」
くすり、と笑いながら一夏が言う。
「駄目ってワケじゃない。ただ、ちょっとアレなだけで」
「駄目って事だろ? なんだっけ、雨が嫌いなんだったか?」
「……嫌いじゃない。苦手なんだ」
そっぽを向きながら答える蒼に、一夏は殆ど同じ意味だろうと突っ込む。が、その一言は流石に無視できない。違うとはっきり前置きした上で、彼は少し怒ったように言った。
「雨だって悪くない。静かな部屋で聞く雨音は雰囲気に浸れて良いものだし。そもそも人が生きる上で必要なんだから、否定するワケでもないんだ。……ただ、俺個人が苦手なだけで」
「いや、だから、それが嫌いってコトとどう違うんだよ」
「違うだろう。嫌いじゃ無いけど、苦手。なんとなく分からないか?」
「さっぱり分からん」
すっぱりと一夏は言い切る。蒼はこの特異な経験をしている友人から、理解を得る事を諦めた。……尤も、本心で言ってしまえば、最初から理解してもらうつもりなど毛頭なかったのだが。
「で、話は戻るけど、何が参ったって? この雨か?」
「いや、傘を忘れて」
「なにやってんだよ……」
天気予報ぐらい確認しておけよ、という一夏の言葉をしっかりと受け止めながら、今一度外の様子を窺う。ざあざあと音を立てて降りしきる雨。この中を雨具なしで駆け抜けるのは無謀の極みだ。その上、学校から家までは幾ら自身のトップスピードで走ろうとも数分はかかる。制服がびしょ濡れになるのは目に見えていた。大人しく雨が少しでも弱くなるのを待っていよう、と持ち前のマイペースを発揮したのは言うまでも無いだろう。
「仕方ないな。……ま、これも色々と世話になってるお礼だ」
「?」
こてん、と首を傾げる蒼を余所に、一夏は持っていた傘をばさりと広げた。
「どうせ途中まで同じ道なんだ。入っていけよ。……それとも俺と相合い傘は嫌か?」
「……後者はともかく、それならまあ、うん。お願いしたい」
本音を言えば少しどころじゃ無いほどには複雑だが、背に腹は代えられない。すっとその手から傘を取って、蒼は一夏と共にゆっくりと豪雨の下へ踏み出した。
◇◆◇
「……狭いな」
「うん、狭い」
「この傘よく考えたら一人用だしな。……っておい、肩濡れてるぞ蒼」
「君の方こそスカートの端が濡れてる。もうちょっと中に入ったら良い」
やいのやいのと言いながら、二人並んで一つの傘を分け合って歩いていく。男女がしているとは思えないほどロマンチックの欠片も無い会話だが、あいにくと本当なら男二人のむさ苦しい画だ。が、周りはそんな事実など知った事では無い。関係のない人間から見れば、微笑ましいカップルのように見えなくも無いことを、彼らは一切気付いていない。
「そういや、今朝はなんだったんだ? 珍しく早かったけど」
「進路相談だよ。君なら良いところいけるよね、っていう」
「ああ、そうか、もうそんな時期だよなあ……。蒼、第一志望は?」
「決めてない。正直、ある程度きちんとしてるならどこでも」
「……なるほど。呼び出された意味がよおく理解できた」
学年一位がそれじゃあな、と一夏が苦笑する。
「そういう一夏はどこなんだ?」
「そりゃあ勿論あれだ、藍越学園だろ。自宅から近い、学力は真ん中、しかも毎年学園祭が開かれる。三拍子揃った最高の学び舎だ」
「……君も大概人の事言えないな」
「いいや、違うぞ。俺はちゃんと進学後も視野に入れて決めたんだ。地域密着型で卒業後は学園法人の関連企業に就職が決まってるも同然。おまけに学費が超安い」
主に最後の部分を強調するあたり、並べ立てた理由の中で最も一夏の心をうった条件がそれなのだろう。中学生にしてはしっかりし過ぎなぐらいだ。それこそ五反田弾に爪の垢を煎じて飲ませたくなるレベルで。
「でも、藍越学園か。……ちょっと、考えものかな」
「ええ? なんでだよ。超絶優良高校だぞ?」
「それは良いんだけど、やっぱり良くないというか」
「……? どういうことだ?」
こっちの話、と蒼は笑って誤魔化した。大事なのは条件でなく、その名前、及び試験会場。昨年のカンニング問題の対策なんかで会場が多目的ホールにでもなろうものなら、大体予想できてしまう。現状はその通りになる、とも言えないが。
「にしても雨、止まないな」
「止まないだろ。これだけ強かったら」
「そっか。それはちょっと――」
ざあっ、と水飛沫の跳ねる音。ふかされるエンジン音。昼間から薄暗いあたりを照らすライト。それなりの速度で、一台の車が彼らの隣を走っていく。
「――――、」
ぴたりと、蒼の足が止まる。
「っと。おい、なんだよ。突然どうしたんだ?」
「……いや、ごめん。なんでもない」
しかしながら、固まったのは一瞬。彼は直ぐさま気を取り直して、ゆっくりと歩を進める。ぱしゃりと波紋を広げる歩道の水溜まり。ぱらぱらと弱まる様子もなく傘を叩いている雨。――ああ、その、どれもこれもが、懐かしい。
「少しだけ、昔の事を思い出したんだ」
それは遠い世界の話。ずっとずっと遠くの、実際には彼だけが知っている、違う世界の話。それが誰かに“明かされる”のは、一体何時の事になるのやら――。
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きっと空が晴れなくても。
「うわあ……靴下がびしょ濡れだ。夕方には弱まるって言ってたのに」
「ならちょうど良いじゃないか。大人しくなるまでゆっくりしていってくれ」
「ん、そうさせてもらう。しかし、服は無事だが足元がこれじゃあな……」
ぐっと靴下を脱いで、一夏が廊下に立つ。最近は毎日のように通っている上慧邸。位置の関係上、学校からの単純な距離ではほんの少し、一夏の自宅よりも近い。蒼は後ろ手に扉を閉める直前、隙間から今一度空模様を覗いてみた。一向に晴れる気配の無い曇天。気のせいか激しさを増す雨脚。なんとなく気分の問題もあって、一夏を自宅に招いたのは正解だったかと考える。
「この分じゃ少しの距離でも大変そうだ。……これ、本当に弱くなるのか?」
「天気予報じゃそうらしい。ほどほどに期待しておこうぜ」
「ほどほど、か」
「おう」
短く答えて、軽く足を拭いた一夏がすたすたとリビングへ向かっていく。勝手知ったる様子なのは、これまでの経緯からして当然のこと。なにせ蒼と彼の家族を除けば、一番この家を活用している。一年前では考えられなかった。まさか、この我が家にこうまで自然体の女の子が居るなんて。種明かしをすれば、なんてことはない“男”なのだが。
「でも、あれだな、俺も雨はちょっと嫌かもしれない。なんつうか、じめっとした感じがするし、微妙に濡れてる髪の毛とか気持ち悪い」
「風呂場でシャワーだけでも浴びてきたらいい。少しはマシになるよ」
「良いのか?」
「良いよ。そのぐらい」
じゃあ遠慮無く、と返して一夏は浴室へ繋がる扉を開けた。それを視界の端におさめながら、蒼も濡れた靴下を脱いで家に上がる。が、一夏と違って男子中学生の基本的な制服である蒼の被害は、たったのそれだけではない。足の甲にあたるひんやりとした感覚、黒で若干分かり難いが、学生ズボンの先もしっかりと雨に濡らされていた。ひとつ息を吐いて、ぐいと裾を捲る。
「あ。着替え、用意しておこうか?」
「いいよ、別に。どうせ後で家まで帰るんだし。洗濯物が増えるだけだろ?」
「……それもそうか」
だとするとシャワーを浴びる理由もそこまで無いような気がしたが、それは本人の気持ち次第か、と蒼は一人で納得する。それからぱたりと扉が閉められて、しばらくすると雨の音に交じって微かな水音が聞こえてきた。両親はいない。彼と彼女、一つ屋根の下で二人っきり。そんな事は既に飽きるほど経験している。最早気にするようなものでもない。蒼は学ランのボタンを外しながら、ゆっくりとリビングへ向かった。
「ただいま……って、誰もいないけど」
がちゃりと開けた中の様子は、いつも通りに朝から変わりない。いや、一つだけ“いつも”とは違っていた。朝早くに家を出た為に、カーテンが閉められたままだ。お陰で室内は午後四時半という時間の割に薄暗い。感覚と経験を頼りに壁へ腕を這わせて、ぱちりと明かりをつける。カーテンを開けるという選択肢もあったが、それよりかはこちらの方が早く、なにより蒼自身進んで雨を見たくはなかった。部屋の中を少し歩いて、テーブルに放られたリモコンを手に取り、テレビに電源を入れる。鞄はそっと床に。最後にぼすんと、彼は体をソファーへ沈みこませた。
『……やっぱり、少し疲れる。雨なんて、昔はどうってこと無かったのに』
詰まるところ、この体だってそうだ。今よりも前の方が良かったというのは、弱くなって初めて気付いたことである。病弱だと学校を簡単に休めて羨ましい、と思っていた過去の己を殴ってやりたい。
『大きな病気にかかってないコトだけは不幸中の幸いだろうな。そこまで不自由ない生活は出来てるし』
叶うなら、これ以上体調が悪化しないよう祈る。たしかに眠ることは嫌いでは無いが、寝たきりの生活は御免だ。最近は昔に比べてフラついたり、倒れそうになる回数も格段に減った。このまま何事も無くなっていけば良いのだが、現実が果たしてそこまで甘いものか。そんな風に考えていたところへ、ふと離れた場所より声がかかる。
「蒼ー! 悪い! タオルが無いみたいだ!」
「あれ、用意してなかったっけ。……うん、分かった。今持っていく」
「おう、サンキュー!」
扉越しだからだろう、一夏は声を張っていた。自分と相手しか居ないここでは十分過ぎる声量。蒼はよっと腰を上げて、リビングから出る。
「えっと……タオル、タオル」
階段を登って二階へ。箪笥は殆どがそちらの方だ。ふと耳を澄ませば、内側からの水音は止んでいる。とすると、既に彼女は浴び終わって待っているということだろう。あまり時間をかけては風邪を引いてしまうかもしれない。タタッと歩く速度をあげて、探し物のある部屋へ。
「……済んでる、ってことはバスタオルの方か。よし」
ぱっと手に取って折り返す。部屋を出て廊下を渡り、階段を下りていく。正直なところ、彼としては気持ちが焦っていた部分があった。おまけにこの雨だ。少々、不安定になっていたという可能性も否めない。――故に。
「待たせてごめん。一夏、タオル持ってきたけど――」
「あ」
蒼は思いっきり、その扉を開けた。
「――――、」
先ず目に入ってきたのは、綺麗な白い肌。明かりはついていないのに、まるで光っていると錯覚してしまいそうになる。次いでそれによく映える黒髪。腰を越えるまでに伸ばされたものが、女性的な美しさを持つ体のラインを際立たせる。……そう、体のラインを。くっきりと見える鎖骨、十分な膨らみがある胸、きゅっとくびれた腰、そこから下に目をやろうとして。
「おい蒼! 鼻血鼻血!」
「ゑ?」
ぽたり、と自分の腕に赤い液体が落ちる。なんだか、前にもこういうことがあったような気もするが、それはさておき現状だ。
「えっと、うん。これはあの、所謂手違いで。とにかく、その、なんて言うんだろう……ああ、言葉が上手く出て来ない」
「落ち着けよ……ったく。らしくねえぞ」
言いながら、一夏がタオルを引ったくって体を覆う。
「……ごめん。ちょっと混乱した」
「だろうな。それと鼻血」
「うん、それは分かってる」
ぎゅっと鼻をつまんで、一先ずこれ以上流れないようにする。……びっくりした。一体何を考えていたんだ、己は。一夏は女の子になっているのだから、風呂場に突撃すればどんな光景が待っているかなんて分かるだろうに。内心で自戒しながら、蒼はとりあえず一歩下がった。
「あとで詰め物しとけよ。ティッシュかなんかでも良いから」
「ああ。そうする。……タオルには付いてないか?」
「その可能性があるから取ったんだ。無事だよ。ありがとうな、蒼」
「そっか、それは良かった」
「……鼻血出しながら言っても格好つかないぞー」
それもそうである。
◇◆◇
「……なんだろう。対応からして間違ってないんだけど、圧倒的な慣れと意識の差を感じる……」
◇◆◇
「世話になった。明日はいつも通りだろ?」
「何も聞いてないし、そうだと思う」
「ん。なら朝飯作りに来るよ。……じゃあ、また明日な」
「うん。また明日」
手を振って一夏を見送る。日も落ち始めた午後七時半。あれだけ降っていた雨はいつの間にか小降りに変わり、現在では空こそ晴れないものの、傘をささずとも歩けるぐらいにはなっていた。
「……やっぱり、雨は苦手だ」
ほんの少し楽になった心を自覚して、呆れるように呟く。きっと生きているうちは足を引っ張ってくる。完全に忘れるとしたら、それこそ次に死ぬ時だ。
「嫌だな、死ぬのは」
それはきっと誰しもが思うこと。死ぬのは怖い。怖いのは嫌だから、死ぬことだって嫌なことだ。当たり前の帰結。ただ、彼にとっては少しだけ重みが違っているだけで。
「……でも、まあ。それも仕方がないか」
だって俺は生きているんだし。死ぬのは当然。なら、それ以上は必要ない。
「明日は、晴れると良いな」
そう言って微かに笑いながら、彼は家の中へと入って行った。
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今日は天災的な朝でした。
ちなみにこのイベント、割とどこに入れるか悩んだ末に一番短めの六月に割り当てられました。
それから少し経って、未だ梅雨前線が猛威を振るう六月中旬。外からの雨音が響く静かな朝。枕元の時計は八時半を示している。平日なら考えるまでも無く絶望的な時間帯。けれども本日は土曜日、部活動に所属する学生や社会人はいざ知らず、蒼にとっては立派な休日だ。ごろんと寝返りをうちながら、うっすらと浮上した意識で今日のことを考える。平日の雨は嫌でも外に出なければいけないので苦手だが、休日なら話は別だ。学校がない。詰まるところそれは、外に出る用事がないということでもある。雨自体はそこまで嫌いでも無い彼は、久しぶりにゆっくり本でも読もうかと計画をたてて。
「…………すう」
ぐっと瞼を持ち上げて見た視線の先が、ありえない状況を捉える。眠気で朦朧としていた意識が途端に覚醒した。それでも取り乱さなかったのは、彼が持つ生来の冷静さからか、天気の所為で気分が良くなかったからか。どちらにせよ、ある程度落ち着いて状況把握が出来るだけで十分。頭を回す。ゆっくりと、色んな意味で高鳴りそうになる心臓を抑えつける。きっとそれは、この特異な状況だけが起こしたものではないと知りながら。
「…………、」
蒼は先ず、自分の体を見た。なんてことはない、いつも着ている寝間着のまま。……ただ、なぜか胸元のボタンが二つほど取れている。昨日までは確かにあった筈のそれが、無理矢理千切ったような糸を残して、どこかへ消えている。間違いなく目の前の人物が犯人だ。証拠はまだ一つもないが、蒼は確信していた。
「むにゃ……うぅん……」
次いで相手の体を見る。ベッドの上に広がる鮮やかな色艶の髪の毛、対照的に顔には酷く深い隈、横になるという体勢から両腕に押しつぶされて大きさを主張する胸。……でかい。この前見た性転換をしている友人のものよりも格段に。またその時のような醜態を晒す前に、すっと視線を外す。例え訳の分からない変な服を着ていようとも、健全な青少年にとっては目に毒である。
「蒼くん……えへへ……好き、だよぉ……」
「――っ」
どくん、と心臓が跳ねる。顔が熱い。ぎゅっと、左手が僅かに締め付けられる感触。見れば彼女はその右手で、彼の手を大事そうに握っていた。一体どんな夢を見ているのだろう。頭に付けた用途不明なウサミミをぴこぴこと揺らしながら、ほんのりと微笑む。
「……ホルマリン漬けにして、保存しちゃいたいぐらい……」
「――――、」
別の意味でどくんと心臓が跳ねた。寝言でまで価値観の違いを見せつけてくるあたり、流石としか言い様が無い。血色の良すぎた顔色は既に少し青くなっている。目の前に居る彼女の性格からして、保存するとしても完全に“生きたまま”だ。たしかに死ぬのは嫌だが、かと言ってそんな末路を辿るぐらいなら死んだ方がマシとも思える。
「えへ、えへへ……大好きぃ……愛してるよぉ、蒼くん……」
「…………、」
ふう、と彼は張っていた気を緩めるように息を吐いた。なにはともあれ、触らぬ神に祟りなし。幾ら強制的に周りを巻き込む傍迷惑な存在とはいえ、寝ているうちは何も怖くない。蒼は被っていた布団を少しだけ上げ、出来る限り物音を立てないよう気を付けながら、そっとこの場から抜け出そうとして――
「…………待っ、て」
きゅっと、先ほどよりも強く手が握られる。
「私を……置いていかないで……一人に、しないで……」
「……」
なにか、聞いてはいけないものを聞いてしまった気分だ。複雑な心境というのは、こういうものを言うのだろう。見方を変えるしかない。今までの視点からでは、どうにもこの人が発した言葉とは受け取れなかった。蒼は応えるように、彼女の手を握り返す。と。
「どきっとしたかな?」
「え」
「ふっふっふー! 束さんだいしょーり! いっくんなんか目じゃないレベルで好感度爆上げだぜい! ぶいぶい!」
「……いつから起きてたんですか、束さん」
ぴょーんとベッドの上で飛び跳ねる人間大のうさぎ。もとい“天災”篠ノ之束はくるんとスカートを翻し、腰に手を当てながらちっちっちっと指を振った。
「愚問だね蒼くん。天才は常に思考という鎖に縛られたままなんだよ。疲れを取るための睡眠なんてもうしばらくとってないなあ」
「最初から起きてた、ってことですか」
「ざっつらい! 理解が早くて助かるね! ちなみに私も君のことを“理解している”から、これから何を言うか当ててあげよう。――束、俺の女になれ」
「すいません。そろそろ一夏が来るのでお引き取りいただいて宜しいですか」
「あっるえー!? なんでなんでー!」
フラグは完璧だったのにー、と頬を膨らませて呟く束。蒼としては本気で頭が痛い。昨日は特に変わった事も無く、いつも通りに過ごして眠った筈だ。それが何の間違いで、絶賛指名手配中の人物と朝チュンみたいな事態にならないといけないのか。字面に起こすと余計にワケが分からない。
「あ、そっか。蒼くん照れ屋だもんね。いっくんの裸見て鼻血出しちゃうぐらいだし」
「……待ってください。それどこで知ったんですか?」
「なら仕方ないなー。お姉さんから告白してあげるよ、全くぅ、男の子のくせに意気地がないんだからあ……」
「遠慮します。というか会話をしてください」
「会話! カイワレ! 煮干し大根! 関係性を述べよ!」
「あの、帰ってもらえません?」
割と切実な願いだった。
「しょうがないなあ蒼くんは。そこまで言うなら私もさっさと用事を終わらせたくなるじゃないか」
「……用事?」
「モチのロンだよ。大体、それが無ければ君に会いに来るなんてしないさ。見るだけで事足りるんだから。……でもやっぱり実物も捨てがたい! 好き!」
「俺はちょっと束さんのこと苦手です」
はっきりと言う蒼だが、肝心の束は気にした様子も無い。何をやっても暖簾に腕押し。恐らくは織斑千冬を除いて、彼女に口出しできる人物など居なかった。それでも完全に制御できるといかないのも、天災が天災たる所以だろう。己を最高の存在だと確信しているからこそ、意見や考えを曲げる事は殆ど無い。
「ま、それは置いといて。そうだね、いっくんに会っても面倒なことになるだけだ。手短に済まそう」
すらり、と束がどこからか注射器を取り出す。
「……あの、束さん。それは……?」
「なーに、ちょっとしたオクスリだよ。それより良いのかい? 君、起きた時から私の事を名前で呼んでるけど」
「そんなことは今どうでも良くて。……まさか、一夏にやったものと同じ……?」
「ぶっぶー、残念。不正解。……とりあえず蒼くん、大人しくしよっか」
――反応する暇も無い。気付いた時には既に押し倒されていた。見るからに細腕のどこにそんな力があるのか。幾ら蒼が力を入れて立ち上がろうと藻掻いても、ほんの少しすら動かせる気がしない。織斑千冬と比べれば劣るとはいえ、彼女も正真正銘細胞レベルでオーバースペックの化け物だ。只の人である蒼に抵抗できるハズもない。
「安心していい。痛いけど、“あの時”に比べれば蚊に刺されるようなものだから」
「なに、を……っ!」
ぶすり、と針を腕に刺される。チクリとした痛み。けれど、たしかにそこまでのものではない。ふと見れば、束はまるで人が変わったかのような無表情で、注射器の中身が減っていく様子を眺めている。それがなんとなく、蒼にとっては恐ろしかった。
「……うん、終わりだ。もういいよ」
すっと針を抜いて、ぺたりとウサギの絆創膏を貼りながら言う。
「なん、なんですか、今の液体」
「だからオクスリだってば。蒼くんが近い将来発症してた病気の」
「…………え?」
「放っておけば最悪死んじゃいそうだったしね。親が居ない君だと、気付いても病院までは行かないだろうし」
やれやれ、と肩を竦めて首を振る彼女を、蒼は呆然と見詰める。最近のことを思い出しても、体の調子が悪かった記憶は無い。至っていつも通り、少し辛い日なんかはあれど、決して酷くはならなかった。束の言う通り、元から体が弱い自分では、少し悪化したところで大して気にもしなかっただろう。
「昔、約束したからね」
「……約束」
「忘れたかい? まあ、蒼くんが覚えて無くても私が覚えてればいっか」
なんて言い切ったところで、来客を告げるチャイムが鳴った。ぱっと時計を確認する。時間からして一夏で間違いない。
「おっともうタイムアップだ。それじゃあ束さんはドロンします! ばいばーい!」
「あ、ちょっと、待っ――」
「それと隠しカメラなら鏡の上だよ! 取るも残すもお好きにどうぞー!」
最後の最後に重大な台詞を吐きながら、束は窓から身を乗り出した。蒼は急いで駆け寄り、ぐるりと外を見渡す。影も形も残っていない。まるで最初から居なかったように、篠ノ之束は忽然と消えた。
◇◆◇
きっとそれが、自分にとって最大の過ちだった。
『――ああ、ああ。なんで、どうして』
今でも尚悔やんでいる。今でも尚引きずっている。
『ごめん。だって、知らなかった。君がそんなコトになってるなんて、想像もしてなかったんだよ』
その過去を、その経歴を、その記憶を。
『ごめん、ごめん。本当に、ごめん』
ぎゅっと抱きしめる。小さな存在。触れれば壊れてしまうような脆いモノ。
『――
だから優しく、彼女は抱きしめた。
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夏の始まり一つの終わり。
「ふー、あちい」
隣の一夏がぱたぱたと手で扇ぎながら呟く。季節は移って七月、ジメジメとした空気は既に跡形も無く消え、天気はすっかり晴れ模様。加えて、ここ数日は猛暑が続いている。まさに初夏、これからどんどんと上がっていく気温は、油断すると命すら危ない。熱中症対策は万全に、人より体が弱い蒼にとってはちょっとばかり気を遣う時期。けれども、先までの梅雨と比べれば雨天が少ない分、気持ちは楽な方だ。自教室がある三階までの長い階段を上りながら、蒼はぐいと汗を拭った。
「本当にそうだ。さっきから汗が止まらない」
「真夏じゃないのに真夏日って感じだな。あー……泳ぎてえ」
「泳げないだろ、今の一夏」
「? いや、流石に泳げるぞ? そこまで運動神経は変わってないし」
技術的な意味で言ったのではないのだが、どうやら一夏は額面通りに受け取ったらしい。蒼とてこの数ヶ月を一夏と共にしている。何なら一番長く側に居たのが蒼である。そんな彼が今更一夏の身体能力について把握していないことは無いのだが、とは言え直接分かっていると自分から述べた記憶も無い。違う違う、と首を振って一夏の体を指差した。
「水着が駄目じゃ無いか。現に水泳の授業も休んでたし」
「いや、あれは色々と問題が起こるからであって……着替えはちょっと一人にしてもらえば良いけど、流石に授業を一人で受けるのはアレだろ?」
「複雑、というか。男だった、っていう前例がある分取り扱いが難しいのかな」
「だろうな。……はあ、お陰様で一度も水に浸からないまま終わりを迎えちまったよ」
がっくりと肩を落として一夏が言う。思い返してみれば、プールサイドで頬杖をつきながらぼうっとどこかを眺めていた一夏は実に退屈そうだった。それもその筈。彼女だって一年前までは、変わらず皆とはしゃいでいた男子中学生である。出来る事なら暑い日に思いっきり、水の張ったプールへ飛びこみたかっただろう。それを叶わぬ夢と化してしまったのは、以前に蒼の自宅まで来て変な薬を打っていった“天災”なのだが。
「というか、一夏。みんなの前で女物の水着、着れるのか?」
「…………うん。素直に諦めよう。いやあ、にしても暑いなあ!」
なるほど、そっちの方は辛いのか。と蒼は一人で納得する。毎日下着は着けてきているだろうからもしかすると、とも思ったが、どうやら駄目だったらしい。見えない部分は自分だけの問題で済むが、見えるとなると感覚的に違うということか。なんとなく分からないでも無いが、蒼にとっては深く考える理由も無いので一先ず置いておく。
「……ま、実際は少し抵抗があるだけで、水着自体は着れない事もないんだけどな。大勢に見られる、ってのはちょっと」
「じゃあ市民プールも無理か。水浴びだけなら簡易プール膨らませてうちでやるっていう手もあるけど」
「お、それ良いな。蒼になら見られてもダメージが最小限で済む。……鼻血出すなよ?」
「蒸し返さないでくれ。割と引きずってるんだから」
悪い悪い、と言いながらも一夏は堪えきれないように笑う。裸を見られても動じないのはその後の付き合い的にも助かったところだが、よもやそれで弄ってくるとなれば蒼としては面白くない。まるで童貞を弄る悪女だ。中身は男だが。友人が変な方向に目覚めないことを祈りつつ、蒼は階段を上りきる。
「あ、織斑ちゃんに上慧くん、おはよー」
「ああ、うん。おはよう」
「おはよう。……って、みんな集まって何してるんだ?」
「中間考査の結果。上位五十人が張り出されてるから見てるんだー。上慧くんやっぱり凄いんだねえ」
同じクラスとして鼻が高いよ、と微笑む女子生徒。ちらり、と人集りが出来ている方へ視線を向けた。彼女の言った通り、そこには“三年生中間考査総合点数記録順位表”と書かれた大きな用紙が貼ってある。無駄に名前が長い。そこは三年生中間考査順位表だけで良かったのでは、と首を傾げる蒼だったが、集まっている生徒はそんな些細なことを気にした様子も無い。
「堂々とあるな、一位上慧蒼。五教科の合計が四百九十八……って殆ど満点じゃねーか。お前どういう勉強したらそうなるんだよ?」
「どう、って言っても。俺にとっては復習してるみたいなものだから……」
「……うん。頭のいい奴は言うことが分からん。束さん然りお前然りだ」
「いや、あの人とは一緒にしないで欲しい」
眉をしかめてずぱっと言い放った蒼に、一夏はそう言えばと以前より気になっていたことを思い出した。上慧蒼という男は基本的に誰に対しても物腰柔らかだ。後輩でも十分に気を遣う、同級生も勿論、年上なら尚更。そんな彼が、ここまであからさまに冷たい態度を取るのは珍しい。今のところ一夏の知る限りでは篠ノ之束たった一人である。冗談や巫山戯たものではなく、本気で目の前の少年が拒否感を示している相手。
「蒼って、束さんにだけやけに冷たいよな。何かあったのか?」
「あった。……というか、ここだけの話、殺されかけた」
「…………は?」
何を言っているんだこのブルーボーイは、と思わず突っ込んでしまうところだった。蒼の表情は真剣だ。信じられないが、言葉をそのままの意味で受け取ると、この男は幼馴染みの姉に殺されかけたことになる。普通に考えればあり得ないものだが、相手があの“篠ノ之束”だとすると――。
「……マジか?」
「マジだ。君らに誘われて道場に行ってた時があっただろう?」
「あ、ああ。あった。覚えてるぞ」
「たしか、箒ちゃんが引っ越す一年ぐらい前に、庭で意識を落とされたんだ。それで気付いたら変な機械に座らされてて、あともう少しで脳みそを焼き切られてたとか」
考えただけでゾッとしないな、と蒼は呟く。一夏としては訳が分からない。篠ノ之束が常識を遙かに超えた頭脳の持ち主で、言動がぶっ飛んでいる超絶変人だとは知っていたが、まさか自分の友人を殺そうとしていたとは思わないだろう。
「いやいやいや。待てよ蒼。俺の記憶違いじゃ無かったら、お前束さんに好かれてたよな?」
「うん。嬉しくもなく」
「だったらどうしてそうなった? 普通、好きな相手を殺そうとはしないだろ?」
「だから嫌いだったんだろう、俺のコト」
彼はなんでもないように言って、ゆっくりとその場から歩き出す。皮肉にもトップを取った本人だというのに、肝心のテスト結果はそこまで心惹かれるものでは無かったらしい。
「嫌いって……ああ、最初の頃はお前と束さん、目も合わせなかったっけ」
「そういうことだよ。嫌いで邪魔だったから、俺を殺そうとした」
「……なら、なんで今は好かれてるんだ? 文字通り殺したいほど嫌いだったのに」
くるりと蒼が振り向いた。少し後から付いてきていた一夏は、正面から向き合うように立ち止まる。風が吹く。夏の日射しに熱せられた、まるで涼しくない風。ゆらりと頬に垂れていた髪がさらわれる。
「――さあ、知らないけど、殺す直前に気が変わったんじゃ無いか? 例えば、変なものを見たりして」
「……変なもの、って?」
「それを俺が知ってると思う? もう昔のことなんだし、どうでも良いよ。それより今日は終業式なんだから、もっと明るくやろう」
蒼は笑って、三年A組というプレートが飾られている扉を開けた。
◇◆◇
「やっほー! 久しぶりだねーねーねー!」
「…………、」
「あれ? 無反応? ムハンマド? おーい、おうい。もすもすモスクワ聞こえますかー?」
「……どうして、ここに」
「そんなの決まってるよね! 私は篠ノ之束、私が私である限り、あなたの側に私は居ます!」
「……それで、用件はなんですか」
「連れないなあ、久しぶりだって言うのに。そう言うところが蒼くんと気が合った点なのかな?」
「……無いのなら帰ってください」
「あるよあるよう、ありありだよう。――ね、
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ゆるりとした帰り道。
「えー、明日から夏休みですけど、皆さんはまだ中学生という自覚を持って、えーきちんとした生活態度の上で――」
「先生、話長ーい」
「分かってますって先生! 俺ら優等生ですから!」
「……はあ。とりあえずそういうコトで、事故や怪我には気を付けてくださいね。これで終わります」
学級委員の男子が号令をかける。クラス全員がどこか落ち着かない様子で、がたがたと椅子を鳴らした。何せ勉強漬けで苦しかったテスト期間も当に終わり、目の前には待ちに待った長期休暇だ。意識しなくても気分が弾むというもの。蒼や一夏だって例外ではない。学校が休みという事は、その分彼らの心労が減るという事でもある。体の方はともかく心はそう簡単に草臥れない自信がある蒼だが、純粋に労力が減るのは大歓迎だった。
「気を付け、礼」
「「「ありがとうございましたーっ!」」」
「はい。お疲れさまです。二学期も皆さんの元気な顔を見せてくださいね」
にこりと微笑んで、担任の女性教師が教室の扉をくぐる。若干の疲れは残っているようだが、その顔も以前と比べれば凄まじく健康的だ。教師陣営の頭を悩ませていた性転換問題も一先ずは落ち着いたようで、篠ノ之束を切っ掛けとして起きた騒動は鎮静化の一途を辿っている。最近は告白してくる人間もめっきり減った。それでも無くならないあたり、彼女が相当魅力的に見えるのか。一人の友人としては、外見よりも中身を見てほしいという意見だが、それはそれでまた問題が起きそうなので微妙なところ。
「ひゃっはー! 休みだ休みだ! 夏休みだー!」
「今年こそ彼女作るぞ! 夏祭り一緒に回るぞ!」
「ねえねえ、どこか行く予定とかある? うち家族で山梨の実家に行くらしいんだけど」
「私んとこは旅行でハワイだって~。遠いよね、海の向こうって」
「えっ嘘マジ? 良いなあ私も海外行きたいなあ……」
がやがやと騒がしい教室は、最早一種の名物だ。毎度毎度のことでもう慣れてしまった蒼は、手早く鞄に教材を詰めてゆったりと椅子に腰掛ける。忙しなく話すほどでは無いが、彼としても長期休暇は嬉しいものに変わりない。自然と頬が緩んでいた。それを見て、くすりと前の席に腰掛ける一夏が笑う。
「……一夏」
「なんだよ、蒼」
「君のそれは……ああ、いや、もういい……」
「仕方ないだろ。何度も言ってるけど」
理由はあれど、人の顔を見て笑うのはどうなのか。むすっとする蒼だが、それすらも一夏にとっては珍しい友人の人間的な顔だ。平時が落ち着いているからこそ、彼のこういった年相応の表情が映えるということを、無論蒼自身は気付いていない。
「なんだなんだ二人とも。イチャついてんのか?」
「「いや違うだろ、どう見ても」」
「おう……見事なハモり具合だな。マジで仲良すぎ……疎外感覚えちまうぜ」
弾が若干引きながら言う。妹に秘密がばれてしまった彼も、結果としては前よりも心に余裕を持った生活を送っている。何だかんだで色々とありながらも、ここ最近は大抵のことが上手くいっていた。
「疎外感も何もないだろう。別に関係が変わった訳じゃないんだから」
「そうだぞ。弾も数馬も俺の大事な友達だ」
「……ったく。そういうこと言うなよ。しんみりしちまうだろーが。明日から夏休みなんだしもっとテンション上げていこうぜ。ほらほら」
とは言うものの、蒼も一夏もあまりはしゃぐような性格では無い。顔を見合わせて苦笑する二人。弾はそれを見ながら一つ息を吐いて、やれやれと大袈裟に首を振る。
「やっぱりお前ら仲良いよな、というか、仲良くなったよな」
「そうか? ……どう思う? 一夏」
「そんなに変わってないと思うけどなあ」
「……気付いてないのが当の本人達だけかよ」
なんだかなあ、と呟きながら弾が席を離れる。関係はどうであれ、この数ヶ月を共に乗り切ってきた彼らだ。少しばかりはその友情も、以前より強くなっていてもおかしくない。劇的な変化があったからこそ、緩やかな変化には気付き難いのが人である。多少変わった事情を持っていようと、どちらもただの人であった。
◇◆◇
「学校の中も暑かったけど、外はもっと暑いな
「……うん。帰ったら水飲まないと」
「スポーツドリンクの方が良くないか? それか塩飴でも」
「ああ、いいな、塩飴。今度買おう」
「冷蔵庫の中身、結構減ってただろ? 買い出し行くからその時だな」
何気ない会話を繰り広げながら、肌を刺すような日差しの下を歩いて行く。雲一つない快晴は見ていて気持ち良いが、少し時期が早いような気がしないでもない。まだ七月中旬。夏と言えば夏だが、最近の流れだとこういうものだろうか。気にして考えても仕方ない。流れる汗が若干鬱陶しいが、それも夏らしいとしてしまえばそれまでだ。いつも通り、平常心。蒼はふうと息を吐いて、ゆっくりと歩を進めていく。
「……おーい。大丈夫かー? 生きてるかー蒼」
「生きてるよ、見れば分かるだろう……。ちょっとは鍛えないと駄目かな」
「鍛える途中で倒れたら元も子もないけどな」
「……ない、って言い切れない自分が恥ずかしい」
肩を落としながら蒼が言う。今更ではあるが、本当にこの体ではちょっとしたことが不便だ。尤も彼の性格では無理が利く体であった馬合、限界ギリギリまで酷使する可能性もあった。それが防げているだけ良いと見るべきかどうか。蒼自身としては無論、都合が悪いと捉えているのだが。
「はい、タオル。汗凄いぞ。これで拭いとけ。それとも拭いてやろうか?」
「いや、良いよ。自分で拭く。ありがとう」
「ほい。……辛かったら言えよ? そこら辺の日陰で休むし」
「大丈夫、大丈夫。……このくらいなら全然」
果たしてそれはやせ我慢なのか、彼の経験に則ったものなのか。どちらにせよ、本気で危なそうなら殴ってでも休ませようと思いながら、一夏は歩幅を合わせて隣を歩く。なんと言おうと蒼が倒れるまで無理をするような奴ということは、この数ヶ月で十分に思い知った。気にしないなんて選択肢は一夏の頭から綺麗さっぱりと消えている。そんな彼女の心配を知ってか知らずか、彼はばんやりと前を見ながら。
「そう言えば一夏、夏休みは予定とかあるのか?」
「いや、特には無いな。毎日お前の家に行って飯でも作るよ」
「それは助かるけど。本当に良いのか?」
「良いって。何回も言ってるけど、お前には世話になったんだから」
「…………、」
自覚が無いのに褒められるのはどうにもこう、上手く言えないもどかしさがある。むしろお世話になっているのは自分の方で、一夏には大したことを出来ていないというのが蒼の評価だ。ほんの少し程度は力になれているとしても、そこまで貢献できているとは思えない。
「蒼、蒼」
「なんだ、一夏」
「目の前一メートルに電柱」
「――っと」
じとっ、とした視線を一夏が送ってくる。蒼は出来る限り笑顔を装いながら、いつもより気持ち無理矢理テンションをあげて。
「いや、気付いてたんだ。気付いてたんだけど、ほら。うん」
「そこにベンチが見えるだろ?」
「…………分かったよ、休む。無理はしない」
「良い子だ」
にやにやと笑いながら、一夏が頭を撫でてくる。完全にからかわれていた。彼女も漏れなく、夏休みを前にして気分が上がっている一人。少しばかり友人を弄るぐらいには、もう心の陰りは無くなっていた。
「どうせならここで水分補給もしていこう。近くに自販機もあるし」
「……なんかごめん、本当に。気ばっかり遣わせて」
「気にしてないから気にすんなよ。俺も嫌々やってるんじゃないんだし」
笑いながらそう言ってくる一夏に、勿体ない友人だと心底実感する蒼だった。
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不穏を呼ぶ再会。
それは蝉の声も段々と大きさを増してきた、夏のある日のこと。室内に漂うむわっとした熱気と、聞き慣れた呼び鈴のカン高い音を耳にして、蒼はぱちりと目を覚ました。いつもの習慣で、ごろりと寝返りをうちながら枕元の時計を確認する。まだ午前七時過ぎ。とは言え、朝早くからの来客は上慧邸にとって珍しいものでもない。数ヶ月前に特異な事態を経験した友人が毎日のように朝ご飯を作りに来ているからだ。夏休みになってもそれは変わらず。なのだが。
「……今日は、ちょっと早いな」
何かあったのだろうか、なんてぼんやりと目覚めたばかりの頭で考えながら、蒼はベッドから起き上がって部屋を出た。彼の自室は二階の最奥だ。そこそこ長めの廊下を渡り、螺旋状の階段を降りて、およそ十五歩ほど進んだところが玄関となっている。一人暮らしで広々と空間を使えるのは良い事だが、広すぎるのもまたどうか。来客への対応だけで無駄に歩く距離が長い。一軒家に文句は無いが、こういう時だけはアパート暮らしの方が楽かもしれないと思わざるを得なかった。はい、と返事をしながらドアを開ける。
『…………って、あれ?』
そこに立っていたのは、彼の予想通り女の子であった。けれども、脳裏に浮かべていたかの人物ではない。元男であった友人とは違う、正真正銘の女の子。
『一夏じゃ、ない?』
織斑一夏の髪色は、どちらかと言うと青に寄った黒だ。暗い場所では殆ど分からないが、太陽の下ではしっかりと認識できる。伸ばしきった髪の長さも相当なもので、先日の段階では膝裏に届くかといった様子だった。対して目の前の彼女は、これまた向こうとは違った方向で鮮やかな色艶を出している黒髪。長さも腰のあたりまでは余裕である。長いつばの麦わら帽子を深めに被っているため顔は見えないが、スタイルは素人目にも人並み以上だった。服装はこの時期によく似合うノースリーブの白いワンピース。
『ということは本物の女の子。しかも多分同じ歳ぐらい。……うん?』
状況を整理していくうちに、これがとんでもない事態だと蒼は察する。対人能力が高くない彼の交友関係は非常に狭く、また異性に対する僅かな苦手意識から女性の相手はさらに少ない。仲が良いと胸を張って言えるような関係は未だ片手で事足りるほどだ。おまけにその相手の大半が離れた場所に行ってしまっている。詰まるところ、こうして彼の自宅を訪れるような関係性を持った女子は、身体ごと変わってしまった現女の子である織斑一夏を除いていないということ。
「……えっと、貴女は?」
黙っていても埒があかない。とりあえず蒼は、声をかけて訊ねた。見知らぬ女の子かと思えば友人だったという前例もある。何事も疑ってかかるより前に、先ず事情を聞くところからだ。問い掛けると少女の肩がぴくりと跳ねる。怖がらせてしまったのだろうか。にしてはどうも、こう、佇まいが落ち着いているというか、雰囲気がどことなく凜としているというか。なんて思っていたその時。
「――っ!」
「えっ」
がばり、と少女が抱きしめるように腕を回しながら飛び付いてきた。蒼には意味が分からない。なるがままに背中から後ろへ倒れる。既の所で受け身まがいのようなものが取れていたことが幸いか。なので痛みは最小限。ぱさり、と少女の被っていた麦わら帽子が廊下に転がる。蒼はほんの一瞬顔を顰めた後に、自分へと覆い被さっている相手を見た。
「……意外と変わっていないのだな、お前は」
「変わって……?」
「ああ、そうか。私は今、コレだったな。少し待ってくれ」
「う、うん」
その前に何故このような体勢になっているのかを聞きたかったが、場の流れは完璧に彼方へ渡っている。ここは大人しくしているのが吉か、と判断して適度に肩の力を抜いた。抵抗しようにもどうやら向こうに悪意は無いようなので、乱暴に引き剥がすのは気が引ける。仕方なくぼうっと見ていると、少女はごそごそとポケットへ手を入れ、一つの白いリボンを取り出した。それから手慣れた動作で髪を束ね、きゅっと一房に結わえる。
「……よし。これでどうだろうか。一応、昔のままだとは思うのだが」
「昔の、まま……」
「ああ。……分からないか?」
女の子、綺麗な黒、一つに束ねた髪型。
「あ――箒、ちゃん?」
「っ! そうだ、私だ! 良かった、思い出されなかったらどうしようかと」
「……しょっちゅう電話してるのに思い出さないワケないよ」
「先ほどまで気付いてなかったではないか。ああ、本当に、良かった……」
ほっと安心したように息をつきながら、箒がにこりと微笑む。実に小学校の途中から数年ぶりの再会だ。久しく見なかった数少ない異性の友人に、蒼も自然と笑い返す。
「ところで、なんでこういう状態に?」
「うむ。ちょっと勢い余ってしまってな」
「……なるほど」
やはり鍛えようか、と真剣に悩み始める蒼だった。
◇◆◇
「篠ノ之さんが協力してくれた……?」
「ああ、姉さんがな。お前の自宅の住所を教えてきてな、交通手段も既に用意していたんだ。随分と派手に立ち回って監視の人を上手く引き付けていたよ」
「それでその間に逃げてきた、ってこと?」
「うむ。……私としても、そこまで悪い申し出とは思わなかったからな」
台所でコップに麦茶を注ぎながら、蒼は箒の話に耳を傾ける。毎度と言って良いほど客人に振る舞う熱い珈琲も夏の間は少しお休み。アイスコーヒーも作れないでは無いが、やはり彼女が相手だとお茶が一番だ。現代を生きる大和撫子、とでも言うべきか。剣道の強さからしてサムライガールでも良いかもしれない。
「それ、大丈夫なのかな。お付きの人とかに、迷惑じゃ」
「無論、大迷惑だろうな。国が指示して保護する要人が勝手にこうして逃げ出している。今頃血眼になって私と姉さんを探しているハズだ」
「……色々と駄目じゃ無いか」
「分かっているよ。だが、迷惑ぐらい被っていれば良いんだ、ああいうのは」
コップを二つテーブルに置きながら、蒼は彼女の対面に腰掛ける。ぎゅっと拳を握りながら呟かれた一言は、どうにも堪えきれない感情を吐きだしたかのようだった。らしくない、と思ってしまったのは随分と会っていなかった所為か。それとも、そこまでに箒を追い詰めるほどこの数年間は厳しいものだったのか。
「なんだかんだと難しい話を聞かされた。全部は分からずとも、それなりに理解はしている。どこまでいっても私は篠ノ之束の妹だ。本人が捕まらない今、その立場が危険である事は承知している」
「そうだね。……悪い人に攫われる可能性も」
「なくは無いだろうな。……だがな、蒼。保護だなんだと言っても、結局は私たちから少しでも姉さんの動向を調べようとしているに過ぎないんだ。なにが要人か。人質か何かの間違いでは無いのか」
「……箒ちゃん、もしかしなくても結構、鬱憤溜まってる?」
ぐいっと彼女は麦茶を呷って、どんと鳴らしながらコップをテーブルに置く。
「溜まらないはずがなかろう! ええい! なにが“
「箒ちゃん、一旦落ち着こう。凄い物騒だ」
「知っているか蒼。三寸斬り込めば人は死ぬのだ。脆いものだろう?」
「君、そんなバイオレンスな性格してなかったじゃないか……。というか、命が脆いものって事ぐらいは俺も知ってる」
そうか、と呟いて箒は口元に手を当てながらこほんと喉を鳴らして。
「まあ、冗談はともかく。目的の姉さんが目の前に居るというのに放っては置かないだろう。こちらも半日保つかどうかだが、それまでは私も好きにやるつもりだ」
「……そうだね。たまには羽目を外すのも良いかもしれない、学生だし」
「ああ、夏休みのちょっとしたお出かけだ。距離はちょっとしてはいないがな」
言って、ふっと口の端を吊り上げながら箒が笑う。蒼はそれに苦笑で返しながら麦茶を一口啜り、そうだと思い出したように話し掛けた。
「箒ちゃん、もう何年も一夏に会ってないだろう?」
「ぶふっ」
噴いた。あの大和撫子がお茶を噴き出した。珍しい。蒼はなんとなくほっこりとした気持ちになりながら、そっとティッシュの箱を滑らせる。
「すまない。いや、うむ、先の質問はたしかにそうだが、そ、それがどうした?」
「先ずちょっと残念なお知らせで、一夏は今千冬さんと旅行に出かけてるんだ。……箒ちゃんの事だし、まだ一夏の家には行ってないんじゃない?」
「ああ、行っていない、が……そうか。旅行か。なら……うん、仕方が、ないかあ……」
はあ、とあからさまに肩を落とす箒。純情乙女ここにありだ。彼女の姿を見ていると胸が痛むが、背に腹はかえられない。蒼の言ったことは勿論丸っきり嘘である。織斑一夏は今日も元気で自宅に居るだろう。――女の子の姿で。故にこそ本物の一夏と会わせるわけにはいかなかった。だからこそ、せめてものお詫びに。
「代わりに、とはいかないけど、小学校の卒業アルバムでも覗いてみる? 箒ちゃんの知らない一夏とか、結構載ってるんだよ」
「ほ、ほう。そうか、アルバムか。……ん、んんっ。お、お前が良いというのなら、そうだな。うん。ちょっと、見せてもらおうかっ」
「……そわそわしてるの、隠せてないよ」
「う、うるさい馬鹿者っ。また抱き上げるぞ」
それは勘弁して欲しい、と困ったように笑いながら、蒼はアルバムを見るために箒を自室へ案内した。
◇◆◇
かくして、世界の“天災”篠ノ之束が気に掛けているであろう二人が仲睦まじく小学校の卒業アルバムを捲り始めたのと同時刻。抜けた空白の一席。そこに座る人物。三人目の関係者は一歩、また一歩と、上慧邸へ足を運んでいた。
次回、笑顔を保つためにオリ主くんの奮闘劇が幕を開ける――!
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ヒトナツの出会い。
「えっと、これが多分修学旅行の時だったかな」
「六年生ということか」
「うん。そうなる」
「……随分と男前になっていないかこいつは」
ほんのりと頬を赤く染めながら、箒が小さな声で言う。離れていても恋心は消えるどころか強さを増していたのか。彼女は初めからこの様子でアルバムに夢中だ。咄嗟の思い付きで決行した作戦は、今のところ実に上手くいっている。これ程までに好いている想い人が女になっているという事実など、知らない方が良い。今だけでも隠し通せば、一年後には全て元通り。きっと二人はどこかで再会して、昔のようにまた仲良くやっていけるだろう。……サムライガールの物騒さについては、まあ、一夏ならなんとかなると信じて。
「むっ……なあ、蒼。一つ訊きたいのだが」
「良いけど、なにを?」
「この一夏にくっついている髪の毛を二つに結んだ女子は……」
「ああ、鈴ちゃん」
ぴくり、と箒の肩が跳ねる。蒼は瞬間的に確信した。この話題、踏み間違えれば特大の地雷になると。なにせ箒の転校と入れ替わるようにしてやって来たのが凰鈴音、通称鈴である。一夏と仲良くなった境遇もほんの少しだが似通っていた。こちらもこちらで鈴を弄る男子複数人を相手に大立ち回り。正義感溢れるのは良いところだと素直に思うが、少しは平和な解決法を見付ける努力もして欲しい。尤も、全てが過ぎた事。彼がどう思おうと過去は変えられないのである。よって、この現実も変わらない。
「その、一夏風に言うなら……セカンド幼馴染み、みたいな」
「セカンド幼馴染み……」
ぴくぴくっ、と箒の肩がまたもや跳ねる。なんだか衝撃を与えると爆発する火薬庫の前に立っている気分だ。流石にあの“天災”と一括りにされるのは彼女自身も嫌であろうが、箒も箒で女子の中では人並み外れた身体能力の良さがある。怒った時にどうなるかは言うまでも無い。蒼はなるべく平常心で居ようと心を落ち着かせながら、最大限に頭を回して言葉を取捨選択していく。
「途中から転校してきて、まあ、なんだかんだあって俺や一夏と仲良くなって」
「なんだかんだあって…………」
「今は海外に引っ越しちゃって居ないんだけど、結構、俺も助けてもらったりしたんだ、よ……?」
「………………、」
ついに箒が黙った。彼女はじっと、睨みつけるように一夏と鈴が映る写真を見ている。想い人と仲の良い女子、というだけでも彼女としては複雑だろうに、恐らくは同じ相手に惚れていることすら見抜いている反応。女の勘は鋭い。蒼から見ればただ仲睦まじい二人の写真でも、箒が見れば絶賛片思い中の男子と思い切って撮ったツーショットだ。間違いなくこの女は織斑一夏に惚れていると、恋する乙女の本能が囁いている。
「蒼、この女の子をリンと呼んでいたな」
「……うん。凰鈴音だから、鈴ちゃん、だけど」
「率直に聞くが、まさか一夏のことを好きだったり、しないだろうな?」
「…………いや、どう、かな。俺、そういうの鈍いから……」
無論、完全にほの字である。そも経緯からして一夏に惚れない方が珍しいというもの。紛う事無きライバルであるのだが、どちらも数少ない大切な友人関係である蒼としては、仲良くしてもらいたい。同じ男に惚れた者同士、気が合うと――
『蒼が弱いのは鍛錬が足りていないからではないか? ……よし、特別に私が相手するとしよう。先ずは一本取るところからだな!』
『アンタはもっと食べなさい。それからしっかり寝る。運動はそれこそ体育の授業真面目に受けてる堅物なんだし大丈夫よ。余裕が出来たらランニングでもすれば良いんだし』
――割と自分への対応からして違っていた。やっぱり無理かもしれない、と思いながらも一応のフォローは入れておく。
「でも、鈴ちゃんも良い人なんだ。性格もさっぱりしてるし、箒ちゃんとも仲良くなれると……」
「それは直に会わないと分からないな。……ふむ、凰鈴音か。覚えておこう」
「箒ちゃん、目が怖いんだけど……」
原作通りになると二人はIS学園で出会うのだが、果たしてどうなるのか。それなりに平穏であることを望みつつ、蒼は次のページを捲ろうとして。
「む、誰か来たようだな」
「ああ、そうみたいだ。……ごめん、ちょっと出てくる」
「構わない。……そうだ、もし、私の追っ手だったら適当に言い包めてほしい」
「……出来るだけ頑張ってみるよ」
交渉術どころか普通の会話でさえ緊張してしまうような蒼にとっては無茶としか言い様が無いが、久方ぶりに会った友人の頼みだ。口八丁手八丁になった気分で追い返そう、と僅かに覚悟を決めながら再び玄関までの道程を行く。本日二度目。彼はなにか大事なことを忘れているような気がしたが、とりあえず思い出すのは後回しにしてドアノブへ手を掛けた。どちらにせよ、扉を開けた直後にその答えが待っていたのだが。
◇◆◇
「よっ」
軽く手を上げて、黒髪の美少女――織斑一夏がにこりと微笑む。蒼は彼女の姿を見て一瞬固まってしまった。それは向けられた笑顔が綺麗だったからとか、目の前の美少女が元男だとは信じられなくてだとか、そう言う理由では無く。
「……一夏?」
「おう、そうだけど。どうした? 寝惚けてんのか?」
「いや、目は覚めてる、頭も冴えてる。けど……」
「けど?」
一夏がこてんと首を傾げながら繰り返す。蒼は己の阿呆さ加減に天を仰いだ。箒への対応に必死ですっかりと忘れてしまっていたが、この友人は毎日上慧邸の朝食を作りに足を運んでいるのだ。今更なんでやどうしてなどと言うワケもない。言えるハズもない。何が上手くいっていたのか、途轍もない穴が空いている駄作戦である。
「いいか、一夏。今から言うように動いて欲しい」
「は? なんだ急に、どうしたんだ」
「回れ右して十歩進む。そのあと右に曲がってちょっと歩けばいいだけだから」
「俺の家に着くだろ。……おい、何があったんだ蒼」
腰に手を当てて若干むくれる一夏を前に、蒼は長年の付き合いから理由を言うまでテコでも動かないと察した。彼女は譲れない部分で酷く頑固だ。考えが強い、とも言える。だからこそ、曲がったことをする男子相手に人数差を無視して喧嘩を吹っ掛けたりもした。一つ息を吐いて、蒼はひっそりと一夏の耳に口元を寄せて。
「……箒ちゃんが来てるんだ」
「箒? って、あの箒か!?」
「ちょっ、声が大き――」
「む、なんだ、追っ手では無いのか」
ぶわっ、と蒼の背筋に大量の汗が噴き出た。声のした方を振り向けば、そこにはたしかに篠ノ之箒が立っている。何故なのか。どうしてそこに居るのか。アルバムはどうしたのか。聞きたいことは山ほど思い浮かんだが、全部ひっくるめて一先ず置いておく。なによりも不味い。これは非常に不味い。本能が激しく警鐘を鳴らす。なんとしても、今のこの二人を会わせてはならなかった。最早遅い、既にどちらもが相手をしっかりと認識してしまっている。
「あ、本当に――」
「ごめん箒ちゃんちょっと待っててくれ!」
「む?」
ばたん、と蒼は一夏と共に外へ出てドアを閉める。
「なんだよ、らしくもなく大声なんか出して」
「大声も出す。今回ばかりは前みたいな失敗は許されない」
「失敗?」
五反田蘭の時とは何もかもが違う。彼女にとっては衝撃的な事実でこそあれ、知る前は人並みの余裕が心に存在していた。だからこそしっかりと受け止めて、一夏を励ますという行為にまで繋げたのだ。箒の場合、そうはいかない。なにせ今の彼女には余裕が無い。度重なる転校と人付き合いで心が疲弊しきっている。電話で愚痴を聞いていた蒼が、その話を知らないハズもない。これ以上、箒の精神に負担を掛ければどうなるか。少なくとも良い方向には転ばないだろう。
「一夏、頼みがある」
「……お前がそこまで真剣な顔して言うって事は、相当なんだろうな」
「ああ。下手すると人命にも関わるかもしれない」
「そこまでなのか……」
恐ろしいな、と一夏が呟く。本当に恐ろしい。事情を知った箒の精神状態が悪化することも、もしくは激昂して自ら姉を屠りに行くようなことも、どちらも望むべき未来では無かった。天災絶対殺すマシーンと化した友人の姿など目にしたくはないのだ。
「聞いてくれるか?」
「ああ、良いぞ。俺に出来ることならなんでも言ってくれ」
「うん、しっかり聞いた。男に二言は無いな?」
「勿論。で、俺はどうすればいい?」
言質は取った。以前までなら考え物の苦肉の策であったが、現状の一夏ならばきっと大丈夫だと信じておく。蒼は少しだけ考え込んで、思い付きのそれを口にした。
「
「ん?」
「今日一日、君は
「…………はあ!?」
空は青く、気温は暑く。遠くに立ちのぼる入道雲に、町中でもどこからか聞こえてくる蝉の声。彼女の大きく、比べればちっぽけな叫びは、夏の景色に呑まれるようにして消えていった。
アナグラムを咄嗟に作る系オリ主くん。
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彼女の名前は一斑夏織というらしい。
「ごめん。箒ちゃん、ちょっと事情を説明してて」
「いや、別に良いのだが……外に出る必要はあったのか?」
「…………なんとなく、勢いで」
「ふむ。そうか」
改めて家の中へ入りながら、蒼が箒と言葉を交わす。感覚系剣術少女と侮ることなかれ。馬鹿筆頭である五反田弾などに比べれば、彼女の頭は人並み以上にきれると見ていい。油断も余裕も慢心もする気は無いが、気を抜いた一瞬で化けの皮をばっさりと切られる可能性は否めなかった。今回ばかりはタイミングの悪さを恨む。今日一日、たった一日乗り切れば余計な被害を出さずに済むというのに、何故こうも神様は優しくないのか。
「それで、蒼。お前の後ろに居るのは……」
「うん。紹介するよ、友達の一斑さん。ちょっと変わった子だけど、良い子だから」
「――、」
ごくり、と一夏は生唾を飲み込む。久しぶりに会った幼馴染みは身体こそ成長していても、懐かしさを感じるぐらい昔と変わらない。まるで生身の刃のように鋭く凜とした雰囲気、さらりと流れる一纏めの黒髪、少し目を細めれば睨まれていると勘違いしそうになるつり目。離れていても一目で分かった。彼女こそが篠ノ之箒だ。きっとそれを声に出せたなら、相手は内心で飛び上がるほど喜んだであろう。だが現実は残酷にも、彼らの再会を素直に祝福してはいない。
「――えっと、蒼……くんの友達、の、いち……一斑、夏織です……わよ?」
「……なるほど、たしかに変わった御仁なのだな」
「…………、」
蒼がなんとも言えない表情で頭を抱えた。一夏が彼に言われたことは全部で三つある。一つは出来る限り嘘をつかないこと。一つは話す前に言葉を自分の中で確認すること。そして最後の一つが“女の子らしい話し方をする”こと。彼女が語尾に変なものを付け足したのは、その三番目が原因だ。というのも、一夏にとっては数ヶ月間ずっと女として暮らしてきたとはいえ、女と偽って過ごしてきたワケではない。
『あああ駄目だ違うこうじゃねえ! っていうか女の子らしい喋り方ってなんだ!? ですわーですわーなのですわーとかか!? 今日はお紅茶が美味しいですわよ~とかか!? 違うか!』
よってこの通り大混乱である。先に予防線を張っていて良かったと、蒼はひっそり胸を撫で下ろした。咄嗟のことで上手くいく筈がないと踏んではいたが、まさか初球から思いっきり大暴投をするとは。先行きが途轍もなく不安だが、始めてしまったからには終わるまでが作戦だ。そっと一夏の耳元まで口を寄せて、ぼそりと呟く。
「普通でいい。無理に女の子っぽくすると却って怪しまれる」
「と言っても、その、具体的には……?」
「……一人称は俺じゃなく私。“ですわよ”まではいらないけど言葉の終わりは丸く柔らかく。“ね”とか“よ”とか」
「サンキュー蒼、恩に着るぜ、よ?」
「君のお里は一体どこなんだ……」
もうこの時点でバレる気しかしない蒼であったが、諦めたらそこで試合終了だと有名な漫画の登場人物も言っている。友人のアドリブ力に一縷の望みをかけ、今一度箒の方へと向き直った。
「ごめん、緊張してるみたいで。今のは無しで」
「そ、そうか、緊張していたのか……」
「あ、あはは……えっと、改めて、お、私は一斑夏織、です。蒼、くんとは友達同士で……その……と、とにかく仲が良いってこと、だね!」
「……うん、そうだね」
蒼はすっと目を逸らしながら肯定した。箒の様子を見るのが怖い。最早隠す気があるのかというほど酷い一夏の台詞に、どうか騙されてくれないかと神に祈る。
「うむ、一斑だな。私は篠ノ之箒という。そこの蒼とは……なんだろうな。幼馴染み、というか、まあそういうことだ。よろしく頼む」
「よ、よろしく、箒……さん?」
「――――、」
神は居た。ここに降臨した。握手する二人を余所に、蒼は静かに天を仰ぐ。ネバーギブアップ。諦めなければいつかは報われる。そんな日常の当たり前を、かつてないほど強く実感した蒼なのであった。
◇◆◇
「ところで箒ちゃん、なんで部屋から出てここに?」
「いや、もしも私を探している連中なら二階の窓から逃げようかと。まあ杞憂だったのだが」
「……なるほど、俺のことは信用してなかったのか」
「信用しているからこそだ。時間は稼いでくれるとな」
言いながらリビングに入った彼らは、各々が一人ずつソファーに座る。出入り口の扉を背面に向けたところへ箒、その真向かいに一夏……もとい一斑夏織。挟まれるように彼女たちの横側へ蒼という構図だ。本来ならば箒の対面は蒼の方が良いのだが、流れで座ってしまった場所を態々変えることはできない。そもそんな事をすれば、折角第一関門を乗り切ったというのに怪しまれるというもの。額に浮かぶ冷や汗をバレないように拭いながら、蒼は状況を注意深く観察し続けていた。そんな折、ふと、一夏が箒に訊ねる。
「あの、箒、さんって、その……追われてる、んですの?」
「一斑さん口調」
「ですかっ!?」
「……ああ、ちょっと、家出のようなものをしてな。絶賛こいつに匿ってもらっている」
話す前に自分の中で言葉を確認する、とは決して嘘を吐く時だけでなく、通常に喋る場合も含めて言ったのだが、一夏はそれを分かっていないのか忘れているのか。彼女の性格上あまり嘘や誤魔化すことが得意ではないと知ってはいるが、ここまでだと呪われているのか疑うレベルである。頼むからぼろは出さないでくれよ、と一夏へアイコンタクト。こくりと彼女は頷いて、きゅっと僅かに拳を握り締めた。
「……あ、そう言えば朝ご飯がまだだった」
「む、そう言えばそうだ。思い出したら急に空腹感が……」
「あ、お、私、作ろうか?」
「……いや、いいよ。俺が作る。一斑さんはそこでじっとしててくれ」
「…………はい」
珍しく妙に細められた目で睨まれて、一夏はしゅんと縮こまりながら浮かせていた腰を落とす。余計な動きは厳禁。特に料理なんて毎日することだ、蒼の知らないところで一夏独特の仕草が出てもおかしくなかった。箒と二人で場を持たせるという不安もあったが、今の必死に取り繕っている様子だと直ぐにはバレない筈だ。奇跡と偶然が合わさったのか、それとも箒が想像以上に鈍感だったのか。考えながら、蒼がゆっくりと台所へ足を運ぶ途中。
「っ」
ふらっ、と。
『――あ、ぶない。危ない。……そう言えばまだ休んでない。いや、仕方がないんだけど』
キッチンに備え付けられたカウンターに手を掛けて体を支える。当然と言えば当然で、蒼は朝に箒が来てから対応に付きっきりで今に至るのだ。普段なら一夏の来訪と共に起きて、休憩がてら食事も済ませるのだが、本日はそれより早い起床に加えて慣れない気遣いの連続。彼の体は一時的に限界近くなっていたが、当の本人が気付いたところで休むはずもない。この状況でなんとか出来るのは己のみ。根性を振り絞ればまだいける。深く息を吸って体勢を立て直そうとする彼だが、彼女はそれを目敏く見ていた。
「ったく、あのお馬鹿は……」
「一斑?」
「あ、ん。……よし。ごめんね、箒さん。ちょっとあの人しばいてくるよ」
「……し、しばく?」
首を傾げる箒をそのままに、一夏は立ち上がって蒼の元へと歩いていく。
「蒼くん」
「……なんだい一斑さん。俺はじっとしててくれって」
「じっとしてるのはそっちの方。無理してんのに気付かないとでも思ってんのかこの馬鹿たれ」
「いたっ」
ばちん、と一夏からでこぴんを貰って額を抑える蒼。何をするんだ、と無言で訴えていれば彼女はぐいと腕を捲る。それからの行動は早かった。一夏はぱっと蒼の体を引っ張ってもう一度不安定な体勢にした後、膝裏と背中に手を当てながら勢いのままに持ち上げる。どこからどう見ても、所謂お姫さま抱っこである。
「ちょっ、なっ、なにを――」
「はいはい、言う事聞かないからこうなるんだよ。ちゃんと大人しくしてようね」
「……無駄に誤魔化せてるのはどうしてなんだ」
「俺だってやる時はやる。箒さんこの馬鹿お願いね」
「あ、ああ」
どさりとソファーに座らされながら、蒼は恥ずかしさを誤魔化すようにそっぽを向く。対する一夏は気にした様子もなく台所へ足を運び、いつものように朝食の準備を始めた。納得がいかない。こんなのは横暴である。一男の子として凄まじく複雑な感情を抱えながらも、ここまで来れば蒼は座って待つしかない。
「……蒼」
「なに、箒ちゃん」
「お前が私を持ち上げられるようになるのは、もう少しかかりそうだな」
「……うん。みたいだ」
はあ、と息を吐いて肩を落とす彼を、箒は若干微笑みながら見詰めていた。
感想欄で一夏の演技が全く信用されてないのは何故なのか。
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これが幼馴染みとのお話らしい。
「……美味しい。これを一斑が作ったのか?」
「まあ、うん、一応、これでも料理は得意な方だしな」
「……口調」
「だしねっ!」
危なっかしいどころの話じゃないな、と蒼はご飯を口に含みながら肩を落とす。調理中は二人で適当な会話をしながら乗り切ったが、以降も同じ手が使えるかというと難しい。なにせ話題が殆ど消えた。元より電話で時折近況報告をし合っていた蒼と箒では、会って話す事はそこまで多くないのだ。彼女に通用するであろう小細工も限られる。ここからは本当に、一夏の演技力と奇跡に頼るしかない。
「私と同じ歳でここまで……もう少し料理の腕を磨くべきだろうか」
「あはは……お、私はあれ、えっと、こうやってしょっちゅう料理するから慣れてるだけだし」
「うん。一斑さんがちょっとアレなだけだから、気にしなくて良いと思う」
「そうか? だがしかし、う~む……」
箒がもぐもぐと魚の切り身を咀嚼しながら考え込む。蒼の識っているところでは、彼女は別段料理が苦手というワケではなかった筈だ。たまに失敗こそすれど、それこそ味や見た目は一夏が率直に褒めるぐらいのもの。本人の家事力が同年代の人並み外れている、というのが恋する乙女達にとって一番の難題か。
「……にしても蒼くんは私のことをちょっとアレって思ってたんですかそうなんですか」
「俺だって一人暮らしで家事してるのにそれを易々と越えてるからだろう」
「それは知らない、あとベッドの下右側奥の箱も知らない」
「……箱?」
こてんと箒が首を傾げながら繰り返す。一夏は何食わぬ顔でぱくぱくとほうれん草のおひたしを口に運んでいた。一方蒼は、完全に箸の動きが停止。ぎぎぎ、と油のきれた機械のように首を回して、衝撃的な情報をもたらしてくれた元凶を視界に収めながら。
「もしかしなくても見たな、君……」
「いやー知らない知らない。まさか誰かさんが金髪巨乳好きだなんて知らない」
「……? 一体何の話だ?」
「……ごめん。こっちの話、箒ちゃんは分からなくて当然だよ」
そうなのか、と呟いて食事に戻る箒。それを見ながら蒼はほっと一息ついて、ちらりと一夏の方を睨む。衝撃的な情報を口走ってくれた彼女は、「当方一切関係ございません」とでも言いたげに次は味噌汁へ口をつけている。一夏だけならまだセーフ。見た目はどうであれ、精神は男だ。問題は箒に知られた場合になる。先ず間違いなく良い方向には傾かない。
「……そんなに分かりやすかったか?」
「おう。弾や数馬を見習え。あいつら隠した上でカモフラージュしてるからな」
「それはそれで必死すぎるんじゃないかな……」
「必死だからな。仕方ない。あいつら馬鹿だけど頭は回るから」
その頭をなぜ勉強の方に使えないのか、と思わざるを得ない蒼だったが、勉強の方に使ったのが数馬の保健体育だ。間違いなく根本から人を変える勢いでなければ駄目だろうな、と内心で呆れてみる。彼女でも出来れば変わるだろうかとも考えたが、むしろ彼女に夢中になって余計勉強が疎かになる未来しか見えない。結論、馬鹿に勉強は無理だった。
「ごちそうさま。ちょっとお手洗い行ってくる」
「お粗末様」
「……一斑さん、しっかり、頼んだ」
「はいはい。分かってますって」
ひらひらと手を振って一夏は蒼を見送る。こちらもこちらで重要案件だが、優先すべきは向こうだと判断した。何より手間も時間もかからない。流石の一夏も短時間でバレるような失態は犯さないだろう。部屋を出た蒼は階段を駆け上がり、一直線に自室へ。
「…………、」
そうして件の篠ノ之箒は、朝食を摂る一斑夏織をじっと、彼女の一挙手一投足を観察するように見詰めていた――
◇◆◇
「一斑」
蒼が立ち去って数分後。箒は湯飲みのお茶をずずっと啜り、厳かに口を開いた。既に食事は終わっている。どうやって己の正体をバラさずに場を繋げようか、と思案していた一夏にとっては僥倖かと思われたが、それも先の一言で粉々に砕け散った。久しぶりに会った幼馴染みが、何やら彼女自身の祖父と同じような雰囲気を纏っている。つうっ、と背筋に嫌な汗。よもや既にバレている、なんてことは、
「お前は……蒼のことが好きなのか?」
「……………………え?」
半ば予想していたものと違いすぎて、一夏は直ぐに答えを返せなかった。が、バレていないのならそれ以上はない。焦っていた心を必死に落ち着かせ、思考回路を正常に回すためにさっと冷やしていく。何かを言う前に一度確認。テンポよりも確実性だ。蒼のフォローもあって、一夏の失態はある程度“緊張しているちょっと変わった子”という認識でなんとかなる。ならばその利点を十分に生かして、この時を乗り切るのが彼女の仕事だった。
「蒼のことが好きか、と聞いている」
「それは、えっと、うん。好き、だけど……?」
勿論、一人の友人として。
「そうか、やはり好きなのか。あいつのことが」
無論、一人の異性として。
「……しかし、なぜあいつなんだ? 他にも外見や性格の良い人は沢山居るだろう、よりにもよって、何故蒼を?」
「何故、って……考えた事も、無かったけど」
「なんとなくで好きになったということか?」
「いや、それは違う、と思う。……うーん、好きになった理由、かあ……」
俯いて小さな波を立てるお茶を見ながら、一夏は考える。今でこそ家を気軽に行き来するぐらい仲の良い二人だが、どうしてそこまで仲良くなったのかと聞かれれば、たしかにその辺を意識した事はあまり無かった。だからと言っていつの間にか自然に、というのは何か違う気がするのだ。ゆっくりと、過去の記憶を探っていく。昔から近隣に住んではいたが、生まれた頃から仲が良いというワケではなかった。むしろ関わり合いは他に比べて薄い方で、本格的に一緒に行動を始めたのは小学生の時から。その時に思った事は、なんだったのか。
「……接してみたら、意外と良い人だったから……とか?」
「あいつより性格が良い、尚且つ顔も整っている人間はそこらに居るだろう」
「……そ、そんなことはない、と思うけどなー?」
「それにあいつは基本的に誰に対しても優しいだろう。腰が低い、とも感じてしまうがな」
ふっと箒がつまらないように笑う。一夏はそれに苦笑しながら、たしかに言えていることなので声高に反論は出来ない。普段の言動や雰囲気で近寄りがたいものはあれど、蒼自身は人を避けているワケではないのだ。頼まれた事も余程で無ければ断らず、暇があればちょっとしたお手伝いもしている。最近は自分と行動するために拒否する事も多いとか何とか。と、一夏は思い出して地味に申し訳ない気持ちになりつつも。
「あー……、それが良いところ何じゃないか、な? 蒼くんの」
「つまり、同じぐらい優しければ誰でも良いと」
「そ、そういうことじゃないっ、んだけど……」
「違うのか。優しい人が好きなのだろう? 一斑は。……なら、蒼に拘る理由は何だ? 軽い気持ちでいるのなら、他にした方が良いぞ。もっと魅力的な相手が見つかる筈だ」
他にしろ、とはどういう意味なのだろう。一夏は笑顔のまま固まった表情の下で思う。自分にとって上慧蒼というのはかけがえのない友人の一人だ。きっとその代わりなんて誰一人として居ない。上慧蒼という相手は上慧蒼でなければ務まらない。箒の話は真剣に聞いてもよく分からなかった。まるで話が噛み合っていないみたいで、どことなく不気味な会話になっている。――けれど、それでも一つ分かる事があるとすれば。
「あのさ、箒、さん。その、なんていうか、魅力とか、外見とか言ってるけど」
「ああ。それが、どうかしたのか?」
「要は、
「まあ、
ずずっとお茶を啜りながら箒が答える。一夏はぎゅっと拳を握って。
「だから、魅力だとか外見とか関係なくて、お、私はっ、蒼と……あいつと一緒に居て、いいなって思ったから、あいつを選んだんだ、と思う」
「――――、」
ぱちり、と箒が目を見開いて一夏を見る。対する彼女はというと。
『……あ、やばい。今のかなり素が出てなかったか? うわあ、やっちまった。おいおいめっちゃ見てる箒めっちゃこっち見てるよおい! どうするどうするフォローだフォロー! えっと、“ごめんなさい私実はちょっと荒っぽくて~”……いや苦しいな! どうだ! やっぱ苦しいか! ちくしょう!』
最早後の祭り。出した言葉は戻せない。しかもはっきりと言い切ってしまったために、撤回なぞ以ての外。一夏は混乱する頭をなんとか回転させて、最低限納得のできる言い訳だけでもしておかねばと立ち上がった。
「い、いやその今のはなんというかえっとちょっとあのあれですよあれあのその……」
「……もういい」
「へ?」
「もういいと言ったのだ。……すまない、一斑。意地の悪い質問をしてしまったな」
そう言って箒は申し訳なさそうに、けれども少し優しい表情で微笑んだ。女子らしい可愛い笑み、とでも表するべきか。そんなものを見てしまえば、必死にあれこれ考えていた一夏の気も抜けるというもの。がたん、と椅子に崩れ落ちるように座り直す。
「なんだったん、ですか今の質問は……」
「少々試したくてな。うむ、一斑のような女子ならば、心配はなさそうだ」
「はあ……そう、ですか」
「本当にすまない。……そうだな、一緒に居てどう思うか、か」
ふふ、と彼女は恥ずかしそうに頬を染めて。
「私も同じ意見だ。一斑を見ていると特に、もう一人の幼馴染みを思い出してな」
「も、もう一人の幼馴染み?」
「ああ。男なのだがな、どことなく一斑はそいつに似ているんだ。蒼が心を許しているのも頷けるよ」
「……そ、そっかー! へ、へえ、変な偶然もあるもんだ、ねっ!?」
「本当にな」
呟く彼女は目の前の人物こそが、その男なのだと知らない。知る由もない。一夏は背筋に大量の冷や汗を流しながら、蒼が帰ってくるまで必死に誤魔化しつつ過ごした。
ちなみに転生前のオリ主くんは「ISで一番好きなヒロインは?」と聞かれた場合、秒で「セシリア」と答えるぐらい生粋のオルコッ党員という出すかも分からない設定があったり。
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幼馴染みは帰るらしい。
「お待たせ、というか遅くなった」
「いや、構わない。色々と有意義な話も出来たからな」
くるりと振り向きながら、箒が言う。少々自分の部屋を片付けるのに手間取ってしまったが、彼女の態度を見るになんとかバレてはいないらしい。一対一の会話でよくボロを出さなかったものだ。感心の意味も込めて、蒼はふと一夏の方を見る。
「一斑さんは……」
「……っ、……! ……!!」
必死で何かを訴える彼女の表情は凄まじかった。一体この短時間で何があったというのか。仕方なく蒼は肩を落として、こっちに来いと手振りでジェスチャー。一夏はまるで首振り人形のようにぶんぶんと頷いて、飛び付くように駆けてくる。よく見れば若干涙目だった。青ざめていないだけ最悪の状況では無いのだろうが、どことなく不安なのに変わりは無い。ひしっ、と腕にしがみついてきた一夏を鬱陶しげに見ながら、蒼はゆっくりと箒に向き直った。
「ごめん、ちょっと一斑さん借りる」
「ああ、存分に借りていけ」
「……ところで箒ちゃん、なにかしたのか?」
「いやなにも?」
ニヤニヤと微笑む箒の姿は実に怪しかったが、問い詰めるのは後回しにする。優先すべきは奇行を繰り返すこの友人だ。一言断りながら蒼は素早く扉を開け直して、一夏と共に廊下へ出た。
「……どうしたんだ一夏、なにがあった。あと暑いから離れてくれ」
「もう駄目だ蒼……俺にはもう限界だ……」
「いや、どうせバレてはいないんだろう? なら良いじゃ無いか。それと暑いから離れてくれ」
「上手く誤魔化すとか得意じゃないんだよこっちは! 無理だ! あと一言二言三言も喋れば絶対箒に気付かれる!」
「ならその調子で四言五言と増やしていこう。ぶっちゃけ暑いから離れてくれ」
「そういう問題じゃねえよっ!?」
小さくうがーっと吠えて頭を抱える一夏は、たかが数分と言えどかなりの精神力を削ったらしい。現に二人っきりの状態でバレる事無く乗り切ったという証拠が、彼の努力をはっきりと証明している。この調子だと今日一日は厳しいかな、なんて蒼は思いつつも、せめてもう少しは頑張って貰いたいところだ。一日とは言わず、あと半日、もしくは箒の迎え――と言うよりも追っ手が来るまで隠し通せば彼らの勝利だった。
「何回か俺って言いそうになるし、言葉遣いはめちゃくちゃだし、箒の言ってる事は意味分かんないし……」
「意味が分からない、って?」
「だから分からないんだって。例えるならもうなんかスイーツだスイーツ」
「スイーツ……ああ、なるほど」
つまり、一夏の言いたいところはこうだ。久しぶりに会った幼馴染みの脳内がスイーツで甘ったるかった。ワケは分からないが、意味はなんとなく理解できる。蒼にとっては尚更。結論から言ってしまうと、トラブルメーカー織斑一夏はまた一つ面倒事を持ち込んだ、ということ。あやふやで確実性の無い情報と、彼自身の経験及び憶測で、蒼は箒が盛大な勘違いをしているのだと気付いた。
「俺と君を好き合っている男女とでも思っているんじゃ無いか?」
「いやそんなまさか。ははは、こやつめ。ははは」
「試しに考えてみてくれ。年頃の男女が家に二人で自然と居る状況は?」
「あー……その、異性の友達、とか……?」
斜め上の何もない空間を見上げながら一夏が答えた。考えるまでも無く苦しい回答だ。それもその筈、彼女とて思春期を迎えた元男子中学生、そのぐらいは分かっている。分かっているのだが、それを認めてしまうのは何となく不味い気がした。主に精神面への負担的な意味で。
「確実にそういう関係、少なくとも好意はあると見られても仕様が無い」
「……お、お前はまさか、そういう目で……」
「見てないし見るわけないだろう馬鹿か君は。数ヶ月前に約束もしたっていうのに」
呆れるように蒼が呟く。彼にとっての“織斑一夏”は、昔同様“織斑一夏”のままである。そこに変な感情など混ざってはいない。正真正銘の友人だ。変えるつもりも無ければ、きっと変わる可能性すら無いのだろう。少なくとも今は、本気でそう思っていた。
「とにかくあとちょっと付き合ってくれ。大丈夫だよ、ここまでやれたんだから何とかなる」
「……だな。もうちょっと、頑張ってみるか」
「うん、その調子だ」
優しく笑って、蒼は再びリビングのドアを開けた。
◇◆◇
「――世話になったな、蒼。一斑」
時刻は正午を回った頃。家の前に大層立派な車が停まったかと思えば、どうにもそれが箒の迎えであったらしい。流石にここまで来て逃げ回るのは諦めていたのか、それとも気が変わったのか、彼女は仕方がないという感じですんなりと帰宅を受け入れた。蒼にとっては少しばかり意外だ。てっきり最後まで抵抗するとばかり考えていたが。
「良いのか? 箒ちゃん」
「良いよ、もう。私はたっぷり楽しめた。……一夏に会えなかったのは悔しいが」
「あはは……」
いや本当に、まさか当の本人が目の前で美少女となり笑っているなどとは、誰一人として想像もつかないだろう。別段、箒が特別鈍いわけでも考えが浅いわけでもない。言うなれば、全ての元凶である彼女の姉が悪いのだ。傍迷惑が服を着て歩いているような被害量、問答無用とでも言うような暴力性、正しく天災というのは篠ノ之束を表すに相応しい二文字だった。
「あの、な――じゃなくて、ねえ、箒さん」
「……ん? どうした、一斑」
「お、私は、あまりその一夏って人のこと知らないけど、……知らないけど、でも」
知る知らないどころか、何度も言うが本人である。
「多分、その人がもしここに居たら、“じゃあな箒”……って、こんな風に笑うんじゃないかな、って」
「――――、」
瞬間、箒はたしかに見た。体格も、声も、性別も、全くもって違う一人の女子と。不思議な事に記憶の幼馴染みの笑顔が、ばっちりと重なる。言葉が出なかった。どこか似ていると思っていたが、よもやここまで来ると生き別れの双子かと疑うほど。ただの慰めならば、苦笑しながらすとんと受け止めていただろう。心は一切動かず、何も感じず、適当なコトを言って場を濁し、それで済んでいた筈だ。――ああ、なのに、どうして。関係のない少女の笑顔が、こんなにも心に響くのだろうか。
「……ふ、ふは、はは、あははははっ」
「え、ちょ、箒、サン……?」
「なんだそれは、一斑は本当によく知らないのか? そっくりそのまま一夏だった、女になったアイツと言われても納得できるぐらいだ」
「……ソ、ソウナンデスカーグウゼンデスネー」
本当の本当に女になった織斑一夏であったりするのだが。
「ああ――本当に、なんてことをしてくれるんだ一斑は」
「え、っと……なんかやばいことしちゃったのか、な?」
「うむ、してくれたとも。余計一夏に会いたくなったではないか」
やれやれと言うように箒は息を吐いて、きゅっと一夏を抱きしめた。優しく、そこに在るものを感じ取るための抱擁。突然の行動に一夏は固まる。何せ中身は紛う事無き生粋の男子中学生。今は女の子、今は女の子、と念仏のように内心で唱えてどうにか平静を保とうと試みる。
「――ありがとう、夏織」
「…………どう、いたまして?」
「どういたしまして、だろうそこは。本当に変わった奴だな」
ぱっと箒が離れながら言う。彼女は心なしか最初よりも楽しげな笑みを浮かべている。散々アレだけの演技をしておきながら、最後にはこれだ。対応力をもっと全体的に使って欲しかった気持ちはあるが、終わりよければ全て良し。なんとも上手い主人公である。
「では、もう行くよ。またいつか、二人とも」
「うん。また、箒ちゃん」
「ま、また、ねー……」
◇◆◇
「――っ、ああああ疲れたあぁ……」
「……お疲れさま。それと、今日は無理言ってごめん」
「別にお前からの頼みは良いけどさあ……流石にこんなのはもうこりごりだ」
心底嫌だという表情を浮かべながら、テーブルに肘をつく一夏。蒼は台所でコップを二つ用意して、それぞれに麦茶を注いでいく。
「でも、なんとかなって良かった。一時はどうなるかと」
「本当だよ。天運がやっと味方してくれた感じだ」
「俺もそう思う。……箒ちゃんにとって、一夏が数年ぶりだった、ていうのも大きいかな」
恐らくは、一年前の“彼”を知っている鈴では誤魔化しきれなかった。根本の部分は殆ど変わっていないとは言え、箒が一夏と一緒に過ごしていたのは小学校時代の数年間だ。あの時から全てがそのまま、とはどんな人間であろうとも無理な話。成長につれて変化していくのは、必ずしも体格だけではない。
「一夏の中学あたりでついたクセとか、ちょっとした動きとか。そこら辺は合致しなかっただろうから、彼女からして君は“織斑一夏に似ている女の子”として認識されたワケだ。よく一夏を見ていた蘭ちゃんとも、それが違う点だろうね」
「なるほどな……離れてた時間で救われる、っていうのはちょっと、なんだかなあ」
複雑な気分だ、と一夏が呟く。蒼は麦茶の入ったコップを彼女の前に置きながら、自分のものであるもう一方をずずっと啜った。
「だから、男に戻ったらきちんと会いに行こうな。モチロン一夏だけで」
「ええ……蒼も一緒じゃないのかよ」
「君だけの方が喜ばれるよ、絶対。俺が保証する」
「どこから沸いてくるんだその自信は……」
彼女は怪訝な目を蒼に向けながら、倣うようにコップへ口を付ける。これは、彼らの夏休みに起きた些細な出来事。奇しくも友人として過ごす最後の夏休みに起きた、悲劇のプロローグ。真相が明かされる日は、一年も待たずに訪れる。
「というかもう最後は自分からバラしにいってないか」
「いや、あれはそのっ、私なりの気遣いで……!」
「口調」
「……はうっ!」
それまでは、まあ、当分平和だと思われた。
匿名希望Rさん「一人で先に行かせないわよ……?」
匿名希望Hさん「ぬぐぐ……っ!」
ということで嫌な事はみんなで分け合いましょうねというアレ(酷い)
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この夏が遠い夢になることを願う。
篠ノ之箒逃走事件から数週間経った、夏真っ盛りの八月半ば。空は綺麗な青、浮島のように佇む白い雲、遠方の景色を歪ませるほどの熱気、五月蠅いぐらいに響き渡る蝉の声。日常の何もかもが暑さを伴う今日この頃、蒼と一夏はそうめんを啜りながらぼうっとテレビを眺める。画面には今年大ブレイク中と噂の人気芸人が、並々に張られた熱湯風呂へ飛び込まんとしていた。ここでも“アツさ”を感じるとはなんとも、これが昨今よく耳にしなくなった地球温暖化というヤツか。心底どうでも良さそうなことを考えながら、蒼はぬるくなった麦茶を飲み干す。
「……暑いな」
「暑い。……というかなんでクーラー付けないんだ?」
「節電。寝る時はふんだんに付けてるから、せめて起きてる時はと」
「それでぶっ倒れたら本末転倒……つかうちわだけじゃこの夏は乗り切れないって」
一夏がシャツの胸元をぐいっと広げながら、ぱたぱたと片手に持った団扇で風を送り込む。全くもって目に毒な光景だった。蒼はすっと目を逸らしながら、無心で残りのそうめんを只管啜る。啜る。まだまだ啜る。目の前の人物がその行動をやめるまで啜る。麺が無くなった。仕方なく彼は目を伏せて、そうめんの束に箸を突き刺しながら口を開く。
「一夏、はしたないぞ」
「別に良いだろ……千冬姉みたいに硬いコト言うなって。いや千冬姉も家ではだらしないけどさ」
「それ、千冬さんに聞かれたら大目玉じゃないか? 否定できない事実、っていうのが特に」
「ほう。そういうお前らは毎日きちんとしている、と?」
「そうそうこういう風に千冬姉がキレたらこわ――」
リビングから見える庭の方を指差しながら笑っていた一夏が固まる。内と外を遮るガラスの引き戸は、風を取り入れるために開けられていた。どちらからも向こう側の様子は丸分かり。そこそこ広くも、なにか複数人のスポーツが出来るほど大きくはない庭先に、黒い髪の毛を長く伸ばしたつり目の女性が立っている。蒼はご馳走様と手を合わせて、ゆっくりと腰を上げた。
「お久しぶりです千冬さん。一夏に何か用でも?」
「蒼、お前ちょっとこっちに来い」
「すいませんこれから洗い物を――」
「来いと言っている」
「はい」
威圧感なんて可愛らしいものでは無かった。あれは覇気だ。王者の覇気だ。しかも恐らく百獣の王者。食うか食われるかではない。間違いなく絶対的捕食者である。震える体を必死に抑えながら、千冬の元へと歩みを進める蒼。一夏の脳内には不思議とショロム・セクンダ作曲の「ドナドナ」が流れていた。さながら、自ら食われると察しながら虎へ近付く仔牛である。
「土産だ、受け取れ」
「へ? あ、これはどうも……」
が、意外な事に予想通りとはいかず。そう言って千冬が差し出したのは、まん丸に太った西瓜だった。この時期では大して珍しいものでもないが、一人暮らし故にあまり買おうとも思わなかった夏の風物詩。素直に嬉しい。蒼はまじまじと手元の西瓜を見詰め、改めて千冬の方を向く。彼女は笑っていた。それはまるで聖母のような、全てを優しく受け止める笑み。思わず惚れそうになる。無論、能ある鷹は爪を隠していたワケで。ばちんと正面からでこぴんを受けて、一瞬彼の視界には星が回った。
「いたっ」
「これで勘弁してやる。あまり私の悪評を広めるような真似はするなよ?」
「……しませんよ、そんなしょうもないこと」
「だろうな。お前はそういうヤツだよ。……ついでに一夏、お前も来い」
「ん、なんだよ千冬姉」
そんな事前の光景もあり、一夏は完全に油断していた。彼女は爽やかな笑顔で団扇片手に真っ直ぐ歩いてくる。手招きする千冬も微笑みを浮かべ、先の異様な迫力など欠片もない。ともなれば、誰であろうと警戒を解く。蒼だって警戒を解く。……それが甘い罠だとも知らずに。
「――ふっ!」
見事な手刀。綺麗に脳天へ突き刺さっている。ビューティフォー。
「いっ!? てぇえぇぇええぇぇ……な、なにすんだ千冬姉ぇ……」
「お前は身内だ。容赦はせん。人の隠している部分を堂々と言いおって」
「俺、こういう時ちょっと一夏が羨ましく思う」
「代わるか? 代われるよな? この痛み思い知れよ蒼? 俺の脳細胞が今一体幾つ死んだと思う?」
涙目で頭を押さえながら訴える一夏は、しかしどこか嬉しそうである。蒼は両親の都合で、長らく家族と一緒の時間を過ごしていない。例え転生という経験をしていようとも、人並みに寂しさは感じるのだ。記憶や心の在処はどうであれ、血の繋がった親子であることに変わりはない。ほんの少しだけしんみりとした気分になりながら、蒼は千冬から預かった西瓜を冷蔵庫まで運ぶのだった。
◇◆◇
「そう言えば、今日は夏祭りらしいな。お前らは行かないのか?」
ふと、注文を承って蒼が出したアイスコーヒーを口にしながら、千冬は思い出したように呟いた。毎年近くの篠ノ之神社で行われるお盆祭り。小さい頃は二人もよく足を運んだものだが、箒が転校してからはめっきりその回数を減らし、今となっては目に見る事すら少ない。祭り自体も蒼はあまり好んで参加するタイプでは無く、一夏も一夏でそこまで拘る性格をしていない。結果として、彼らの心は一つの答えに集約する。
「いや、受験生だろ、俺ら。夏祭りなんて行く暇ないぞ千冬姉」
「花火ならここからも見えますよ、千冬さん。少し風情は欠けますけど、でも十分綺麗です」
「……いや、遊び心がないというよりは、面白くないやつらだなお前らは」
頭を抱えながら、やれやれと千冬は首を振る。
「そも受験生。ここでのんびりだらけている場合か馬鹿者」
「ごもっとも、だけど俺は一応志望先にA判定を貰ってるから」
「藍越なら俺もA判定だったけど」
「むしろお前がA取れなかったら絶望するわフツーに考えて」
普段の態度で忘れがちになるが、こうもふわりとした雰囲気とは言え蒼は学年で一番の成績の持ち主だ。その彼が手こずるような内容であれば、一夏にとっては正しく難問中の難問だろう。なんてことは無い。精々が高校の途中までしか記憶の無い彼からしてみれば、専門分野に片足突っ込んだような問題だけで直ぐにボロが出る。
「勉学に余裕があるのなら遊んでこい。息抜きも努力のうちだぞ」
「今が息抜きだよなー……。蒼と居ると落ち着く」
「むしろ祭りに行った方が息が抜けませんよ、千冬さん」
「…………まっっっったくもってつまらんなお前らは」
人を測る尺度は面白さだけではない、というのを蒼も一夏も理解しているため、千冬の言葉をなんでもないかのようにスルー。見方によっては自堕落な生活とも言えるが、彼らにとってはいつも通りの休日である。ご飯を食べて、適当な話をして、時には騒ぎ、時にはぼうっとして、一日の終わりに眠って次を迎える。
「でも、夏らしいこと、っていうのを一切してないのは勿体ないかな。前に言ってたみたいに、ここで簡易プールでも膨らまそうか?」
「あー、良いな、それ。蒼の庭って昼過ぎは日陰になるし。暑いのも凌げそうだ」
「ちゃんと水着は着けてくれよ。上半身裸とかやばいぞ。主に俺が」
「鼻血出すんだな知ってる。このむっつりスケベめ」
強ち間違いとも言い切れないのが蒼にとって辛かった。殆どの事態に落ち着いて対処できる思考回路の彼だが、残念なことに“そういうもの”への悟りは開けていなかった。かと言って弾や数馬のようにオープンにするのもどうかと思うので、結局は基本的に隠しつつも我慢できなければ出る感じなのだが。
「……ふむ。面白そうだな」
「千冬さん?」
「千冬姉?」
ぐいっと飲みかけのコーヒーを一気に呷って、千冬が勢いよく立ち上がる。
「私も久しぶりの休暇で暇を持て余すところだった。やるぞ」
「……ええっと、今から、ですか」
「無論。ああ、心配するな。一夏の水着は既に見繕っている」
「……やべえ、俺もなんか陰鬱とした気分になって来たぞ」
がくりと一夏が肩を落とす。夏祭りなのに自宅でプール。そんな一風変わった状況を作りつつある上慧家は、今日も変わらずいつも通り。きっと、多分、平和である。
「ちなみにビキニだ。良かったな一夏」
「良くねえぞ千冬姉!?」
「……ああ。大きいもんな、君」
「どこ見て言った? それどこ見て言った蒼? おい、目を逸らすな」
胸以外にないだろう、と蒼は窓の外を眺めながら内心で吐き捨てた。
夏祭りに行くかどうかというアレは時期的な問題で全部吹き飛ばされたとかはしらぬい。一夏ちゃんの好感度に落ち度しか無かったとかぬいぬい。
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いつも通りが一番の。
「うおー……小っさいな……」
「まあ、子供用だし。中学生が泳げるぐらい大きいものなんて豪邸にしかないよ」
「これだとアレだな。足湯っつーか……水浴び?」
「一応暑さは随分マシになるだろう。ほら、十分冷たい」
ぽちゃんと水の入ったビニールプールに手を付けて、にへらと蒼が笑う。夏の猛暑で力が抜けている影響か。表情の安売りはやっぱり駄目だなー、と思いつつも一夏はつい苦笑で返してしまう。雨が嫌いという男は、だが水自体が嫌いというワケではない。降り注ぐものが駄目かと思えば、雪もあられも全然平気だ。ただ、雨だけは苦手だといつも言っている。本人によれば感じ方の問題、とも言うが、一夏としてはやっぱりよく分からない部分でもあった。
「……水嫌いでもなけりゃ、悪天候を嫌ってるワケでもない。お前の雨嫌いって、一体どうなってるんだ」
「だから雨は嫌いじゃなくて苦手なんだ。水は苦手でも嫌いでもない。そもそも別だろう、どちらも」
「同じみたいなもんだろ。なんだ、雨に嫌な思い出でもあるのか?」
「……別に、言うほどのコトじゃないけど、色々あるんだよ。俺にも」
蒼はぴっぴっと手に付いた水滴を払いながら言う。色々、で片付けるには少々複雑な事情が絡んでいたりもするのだが、全部引っ括めて色々だ。態々一から何まで説明するのも面倒である。そも、荒唐無稽な己の過去を語ったところで一銭にもならない。無駄な労力を使うだけ、暑いこの時期だからこそ、体力管理はしっかりと。ぱんぱんと両手を叩きながら、彼は誤魔化すように笑顔を作った。
「それはどうでも良いとして、折角用意したんだから少しは使わないと」
「……ま、良いけど。にしても蒼、お前本当に白いな」
「一夏には負ける。流石に、女の子の肌の白さに勝ってたらアレだけど」
そう呟く彼の格好はシンプルな黒のサーフパンツに、上は白を基調とした所々ラインの入っているフード付きのジャージだ。しかも似合わないことに前は全開である。少しもありそうにはない腹筋と胸元が、ちらりと隙間から顔を覗かせていた。ただし代わりとでも言うべきか、鎖骨は凄まじい。どことなく色っぽく見えるような、見えないような。そんな感じだった。
「けど、こういう時はなんて言えば良いんだろう。……君も水着似合ってるよ、とか?」
「分かってて言ってるだろ、蒼」
「いや全然。まったく、これっぽっちも君の羞恥心は悟っていないから」
「ぐっ……このぉ……」
ぷるぷると震えて、かあっと顔を真っ赤に染めながら、一夏が握った拳を胸元まで持ち上げる。彼女が着ているのは勿論“彼女”なので、女性用の水着だ。付け加えると織斑千冬ベストセレクション。適当に選んだ一着とも言う。単純に黒か白だろうと何となく考えていた蒼の予想を裏切って、一夏が身に着けたのは水彩画風の明るい色が幾つか使われた、花柄のビキニだった。おまけに膝下まで伸びきった髪の毛は今だけ、肩から出して流すようにサイドで括られている。普通に似合っているのはそのスタイルの良さ故か、はたまた美少女は何を着ても映えるのか。
「いや、でもそれならまだ平気だ。スリングショットなんて来たらこれを血の池にする自信がある」
「そんなの持って来られたら俺は千冬姉のセンスと正気を本気で疑う」
「どうしたガキども。中学生らしくはしゃげ遊べ」
「……だからあれは立派にマトモなんだぜ、多分な」
室内からヤジを飛ばす千冬をひっそり指差しながら、一夏が深くため息をつく。準備と言って一度帰宅した彼女が持ってきたものは、何も水着だけではない。五〇〇ミリリットルのビール瓶を片手に喇叭飲みしながら、空いたもう片方の手でつまみのさきいかを弄っている。どこからどう見ても酔っ払いだ。というよりおっさんに近い。こんな姿をお姉様と呼び慕う熱烈なファンの人に見られでもしたら、あのクールで格好良い織斑千冬が、と失神するだろう。
「昼間からお酒ですか、千冬さん」
「良いだろう。私だって酒ぐらい飲むぞ。機械でもあるまいしな」
「それは分かってますけど……一夏、大丈夫なのかあれ」
「駄目だったら俺が連れて帰るよ、もう……」
肩を落とす一夏は、身内の行動に呆れる家族そのものだった。なんだかんだと言って、やはり彼女らの仲は途轍もなく良い。姉弟なのだからある程度は当然でもあるが、二人っきりの家族という点が大きく関わっているのだろうか。蒼はぼんやりと考えてみたが、答えを出したところで大して意味も無いと途中で察し、ぶんぶんと首を振って思考を止める。
「ええいつまらん、本当につまらんぞお前ら。青春はどこへ行った」
「なあ蒼。俺の姉があんなにだらしないわけがない……ことも無かったな。うん、なんでもない」
「千冬さんだって羽目を外したい時はあるんじゃないか? 偶には」
「ほうら騒げ。蒼もだ。なんならそいつの胸を揉んでもいいぞ。特別に許す」
「…………、」
俺が許さないからなー、と一夏より無言の視線が向けられる。先ず触る気も無かった蒼はこくりと頷いて苦笑した。性欲が綺麗さっぱり無いワケではないが、血眼にしてがっつくほど有り余っているということでもない。元より、恋人も結婚も異性との目合いも、自分とは関係ないものとして考えている彼のこと。人並みに欲情したり一目惚れする事態があろうとも、感情はそこで終わり。……だが、それはそれとして、今世を謳歌するかはまた別だ。
「……ったく、千冬姉も余計なコト言わな――ぶふっ!」
ばしゃり、と一夏の顔面に大量の水が浴びせられた。犯人は目の前。ジャージを羽織った非力な男子である。
「蒼、お前いきなり何すんだ……」
「千冬さんは騒ぐ事をご所望だそうだし、騒ごうかなって」
「……ほう。不意打ちとは良い度胸だなおい!」
一夏はざばっと両手で掬った水を、素早く的確に蒼の顔へとぶつける。なんという業前。実に見事な一連の動作。最早完成されているとすら錯覚する勢いだ。感心する彼の顔を水の塊がぶち叩いた。容赦はない。
「ぷっ、ぺっぺっ……やったな、この」
「なんだなんだ、やるか蒼」
「…………、」
「…………、」
双方、無言で睨み合いながらビニールプールの中に立って構える。二人の目は真剣だった。下手するとつい先月になる箒を相手に誤魔化していた時より真剣だ。空気が張り詰める。間違いなく、規模はちっぽけでしょうもないものだが、これは――戦闘だ。
「――そらっ、くらえこの野郎!」
「わぷっ、ちょ、いきなりは卑怯、だろっ」
「おわっ、とと。どの口が言ってんだよ、ほれっ」
「良いぞ良いぞ、やれやれ。好きなだけ遊び尽くせ。若いうちの特権だ」
呵々と笑う千冬の声を聞きながら、彼らは実に楽しそうに水を飛ばし合う。結局この日、簡易プールが片付けられたのはその数時間後。たっぷりと、それこそ思い返せば首を傾げるほど、蒼と一夏は久しぶりに体を動かした。
◇◆◇
「なんか、子供の時に戻ったみたいだったな。あー、なんであんな馬鹿らしいことしてたんだろ、俺ら」
「さあ。でも、こういう日も悪くはないって思わないか?」
「……だな。それは同感だ」
軽く拭いた体で廊下を歩きながら、先ほどまでのことを振り返る一夏。蒼は彼女に追従しながら、自然な様子で言葉を返していく。片方が着替えるためと、体を本格的に拭く用のバスタオルを取りに洗面所へ向かう途中だ。両者とも格好は水着のまま。濡れていないのは唯一、水かけ合戦が始まって直ぐに脱ぎ捨てられた蒼のジャージぐらいなもの。夏の夕暮れ。暑さは変わらずだが、今の彼らでは身体の方に変化が来ている。
「うっ……ちょっと肌寒い……」
「冷えてきたんだろう。はいこれ」
両腕を組んで擦り始めた一夏に、蒼は羽織っていたジャージを被せる。何気なくフードを展開したのは気遣いかただの偶然か。彼女はひょこんと折角のフードを脱いで顔を出し、蒼の方を向いてニカッと笑う。
「おう、サンキュ。……って、次はお前が寒そうだな」
「このぐらいじゃ別に、なんとも」
「なんだそれ。……ふ、ならほれ、このまま抱きついてやろうか?」
「……やめてくれよ? その姿は色々とやばいぞ?」
「冗談だよ冗談。そんな気持ち悪い真似しねえよ」
言いながら一夏がスタスタと歩いて行く。しっかりと蒼の上着を握り締めているあたり、寒いのは本心からだったらしい。彼は何も言わずに息だけついて、ゆったりと後を追う。静まり返る廊下には、どこか遠くから聞こえてくる夏祭りの微かな賑わいが聞こえた。が、小さい上にほんの一瞬。まるで関係ないぞと言わんばかりに、ふわりと空気に消えていった。
波乱の一学期のあとは、季節も気持ちも変わっていく二学期です。
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変わる二学期。
未だ暑さが残る九月初旬。長かった夏休みも終わり、学生達にとってはいつも通りの平日が返ってくる。日々勉学、部活動に励む生徒達にとっては気持ちを切り替える節目となる二学期初日は、少し慌ただしくも明るい雰囲気に満ちていた。変わるのは人だけではない。季節も同様、緑に色付いていた葉はほんのりと赤や黄に染まりだし、僅かに秋の訪れを感じさせる。蒼はゆっくりと通学路を歩きながら、周りの景色を流すように見ていた。
「つい一週間前までうだるような暑さだったのに、変わるのは早いな」
「まあ、まだ十分気温は高いし。季節の変わり目なんだ、カラダには気を付けろよ」
「大丈夫。一応、ちゃんと自覚はしてるんだ」
「……余計質が悪いな、無理するところも含めて」
やれやれと大袈裟にリアクションを取りながら、一夏が呆れるように笑う。他人から見てどう映るかは別として、蒼自身はしっかりと身体の限界を把握していた。まだいけるのか、それともこれ以上は駄目なのか。その程度は己の感覚で分かるということだ。本当に危ない場合は、ぞくりと背中に悪寒が走る。気持ち悪いぐらい冷たいそれが、決まって体を壊す直前の合図にもなっていた。あの感覚はどうも、慣れない。
「それより、一夏は夏休みの宿題、終わらせたのか?」
「当たり前だろ。追い込んで一気に終わらせた。余った時間で受験勉強もした。合格への布石はバッチリすぎるぞ」
「……凄いな。俺、受験勉強なんて考えもしてなかった」
「……必要ねえもんな、お前。あー羨ましい」
片方に持っていた鞄ごと両手を頭の後ろに組んで、一夏はぼうっと空を見上げながら呟く。澄み渡る青、散らばる雲は白く、少なくとも今日一日は雨が降る心配は無さそうだ。降るときは降るが、何も梅雨時ほどではない。そんな最近の天候も、蒼の気を安らげる一つの理由だった。彼は靴の踵を小気味良く鳴らしながら、急がず焦らずまったりと歩を進める。一夏はその斜め後ろを付くように歩きながら、ふっと短く息を漏らす。
「……あーあ。終わってみればあっという間だったな、夏休み」
「うん。でも、それだけ退屈しない時間だったんだろう」
「おう、言えてる。退屈とはまた違った暇っつうのかな。ああ言うのは俺、嫌いじゃない」
「ゆとりみたいなもの、なんだろうね。俺も割と好きな方だ」
ふわりと笑って蒼が言う。やはり安売りでは面白くない。が、どんなものにしろ笑顔は笑顔だ。ゆるい雰囲気は落ち着くだけでなく、頼りがいも存分にあった。久しぶりの登校、様々な事態が起きた一学期の影響で、知らず知らずのうちに緊張していた一夏の心がほぐれる。これから数ヶ月、不安も心配事も言い切れないほどあるが、きっと目の前の友人さえ居れば大丈夫だと。
「…………あ」
「なんだ? どうした蒼」
「しまった。読書感想文、すっかり書くの忘れてた」
「おいおい優等生……」
大丈夫だと、信じたい一夏なのであった。
◇◆◇
秋と言えば色々あるが、中でも有名な一つがスポーツの秋だ。休み明け一番初めに生徒達を迎える行事は毎年恒例、クラスで別れて団対抗の体育祭である。身体能力の高い運動部員にとっては外せないイベントだとしても、一部の文化系やそも運動が苦手な人達からすれば、あまり気分の上がらない行事だ。蒼もどちらかと言えば後者の方に属する。人に自慢できるほど得意では無いが、欠点として挙げるほど苦手でもない、というぐらいには動ける蒼だが、何しろ絶望的なほど体力が無い。参加種目にきっちり百メートル走を入れてきたのは、英断だと言えるだろう。
「女子の集団種目にも男子の集団種目にも参加できない俺って……」
「その分他の競技に出るんだから、結局殆ど変わらないじゃないか」
「いいや、こういうのは気分の問題だ。ホント、不便な体にしてくれたよ。束さん」
がらがらとグラウンドでラインカーを引きずりながら、隣で同じように歩く一夏の言葉に耳を傾ける。夏休み中に団の主要メンバーが集まって大体のことを決めるというのもあり、始業式から体育祭までの期間は割と短い。全体練習と各個人の競技に別れての練習を繰り返し、本番三日前に流しで通すというのが通常の日程だ。雨天などに見舞われなければ、体育祭当日は本当に直ぐそこ。なので、あらかたの準備はこの一日で終わらせてしまう。
「あと一年……とは言わないか。ざっと計算して半年と少しだ。この調子なら元に戻れるよ」
「だと良いけどなあ。走るのも何するのも邪魔で困る」
ジャージ越しにも分かる大きな膨らみを見詰めながら、一夏はうぅと呪うように低い声を出す。蒼は本能と意識を極限まで殺し、冷めた表情で一夏の方を見た。母性の象徴とでも言うべきそれは、日本人女子中学生の平均をたしかに超えている。箒には流石に一歩譲るが、校内だと一二を争うレベルとの噂も立つほど。
「もしかして大きくなった、とか? ……いや、無いか。ごめん。変なコト言っ――」
「なってる。前より確実に、な」
「……そう、だったのか。いや、気付かなかった」
「気付かれてる方が問題だ。つか、俺だってまさかと思ったよ」
あーイヤだイヤだこれが成長期か、とつまらなそうに吐き捨てる一夏。嫌悪感を示すだけで悩みや苦しみを抱えないあたり、随分と余裕が生まれているのは事実だ。非力な蒼ですら支えなければ、と思ってしまうほど酷い精神状態だったあの頃の面影はなくなっている。正直な部分、一夏だけで何とか出来るのであれば、蒼の出る幕はこれっぽっちもない。それを言葉にせずとも理解している彼は、どうなるにしろ結局は行動を共にするのだし、気にする必要も無いかと割り切って。
「で、次はどこになる? 先生から渡された紙、一夏が持ってるハズだけど」
「ん、そうだったそうだった。次は……あっち、コーナーの部分だな」
「それじゃ、さっさと終わらせよう。競技で貢献できない分、こっちで頑張らないと」
「律儀だなあ。いや、蒼が競技で使い物にならないのは本当だけど」
そこまで言わなくても良いだろう、と蒼は若干むくれながら、一夏と共にラインカーを持って移動する。彼にとって体育祭はどちらかと言うと苦手な部類に含まれる行事だが、だからと言って手を抜くのもどうかというもので。何よりも、一生懸命成功させようとしている周りの足を引っ張るようなことはしたくなかった。ぼうっと少し前で黒髪を揺らす一夏を見ながら、不意にある少女の言葉を思い出す。
『体育祭楽しめないのは勿体ないわねー……。ま、こんな弱っちいアンタじゃ仕方ないでしょうけど。せめて文化祭ぐらいは本気出して熱中してみれば? 案外、楽しいかもしれないわよ?』
自分自身、何か一つの事を必死になってやり遂げる、というのが似合わないのは百も承知だ。それでもほんのちょっぴり、周囲との温度差を感じると悲しくなる。だからそれも仕方がないと飲み込んで、誰にも知られず悟られず、自分に出来ることだけをやって過ごしてきた。
「……偶には、楽しんでも良い、ってことかな」
「ん? 何か言ったかー、蒼?」
「……いや、何も。ちょっと、先のことについて考えてたんだ。おかしいな、まだ体育祭は始まっても無いのに」
「おう、そうだぞ。今は目の前のことに集中、集中だ」
優勝目指して頑張ろうぜ、と一夏が振り向きながら言ってくる。後のことはその時になってからだ。とりあえずは中学校生活最後の体育祭。今年も頑張って百メートル全速力で走りきろう、と蒼は硬く決意した。
「ちなみにお前、さらっと借り物競走にも入れられてるから頑張れよ」
「初耳なんだけど。一体誰が入れたんだ」
「弾」
「……恥かかない程度には頑張るよ」
それはそれとして、五反田弾には説教するべきか否かは真面目に考えものだが。
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開催宣言は既に終っている。
――地を蹴る。呼吸は正しく、視線は前に。只管に足と腕を振り回して、気持ちよく風を切る。見える背中は二人だけ。追い付けるかは少々難しかったが、彼としては最後まで必死で走りきれば十分だった。残り二十メートルを過ぎる。息が荒い。心臓が苦しい。貧弱な己の体では、恐らくこれが限界。残り滓程度の体力を振り絞って、ゴールテープまで一気に駆け抜ける。
『続いて紅組三年生、上慧くん三着でゴールです! なんか盛大にぶっ転んでますけど大丈夫でしょうかー!?』
「へーき、へーき、ぜんぜん、へっちゃら……」
「うへー。上慧っちマジ
「情けないけど、体力が、無いだけで……」
限界ギリギリの全力疾走を披露し、見事三位に輝いた蒼は大の字に寝転がりながら肩で息をする。声を掛けて近寄ってきた女子は、“3”という数字の書かれた旗を持っていた。帰宅部にしてこれは上出来だ。彼はにへらとらしくもない笑顔を浮かべ、よっと最後のひと踏ん張りで立ち上がる。
「でも、一応、少しは点数取れたかな。ごめん、着順に並ぶんだろう?」
「――――、」
「……あの、えっと。
「え、あ、うんうん。そゆことだけど。……いやー上慧っちのあんなだらしない表情初めてみたわーちょっとやばいわー」
あーやばやば、と呟きながら彼女はぱしっと蒼の腕を掴み、トラック内側の完走した生徒が並ぶ場所へ連れて行く。見ればちょうど残りの二人もゴールしたところのようで、膝に手をついて喘ぐ姿が視界に入る。本気で走ったのならば辛さは同じ。かく言う蒼も乱れた呼吸はまだ収まらない。心臓がばくばくと激しいリズムを刻む。倒れていたのもあって、これでは誰が最下位なのか分からなかった。蒼は苦笑して、手を引かれたままの状態で真ん中に立ち、
「……ところで、もう離しても良いと思うんだけど」
「や、あたしが離したらなんか上慧っち倒れそうで」
「倒れない、倒れない。ほら、この通り全然大丈夫」
ひらひらと顔の横で手を振り、蒼は彼女に柔らかい笑みを向ける。勿論、本当は今すぐにでも倒れたい。というかここで倒れたい。倒れる。一瞬視界が回りかけた。根性で耐えて平衡感覚をしっかりと保ち、空いた片方の手で見えないように拳を握り締める。最早彼は大勢の人前で心配させるようなことをしたくない、という意地だけで立っていた。腐っても男の子。それぐらいの我慢強さは標準装備というもの。
「すんませーん。あたしちょっとこの人送っていきますねー」
「え」
「バレバレすぎ汗ヤバすぎ演技下手すぎ。応援は良いからテント入って休んでなよ」
「……そんなに露骨なのか……」
蒼自身としてはかなり上手く誤魔化したつもりだったのだが、どうやら他人からすると下手な芝居らしい。まさか一目で見破られるとは予想外である。驚きつつも思い返せば、なるほど箒や鈴にも一切効かなかった。残念なことに、役者としての才能は無いようだ。深く息を吐いて件の彼女に連れられながら、蒼はなんとなく空を見上げる。天気は快晴、雲一つ無い青、響くのは声援とスタートの合図であるピストルの音。九月中旬の週末日曜日、いよいよ始まった体育祭当日。
「一種目でこれって、先が思いやられるな」
「それはこっちのセリフっしょ。あ、織斑っちこの男預かってー」
「え? あ、うん。なんかよく分からないけど、とにかく分かった」
「送迎完了。んじゃあたし係の仕事まだあるからー」
「……ありがとう。助かったよ、有守木さん」
適当に投げ渡されて一夏に支えられつつ、蒼は小さく手を挙げて感謝の言葉をかけておく。彼女はこちらも見ずに二、三度手を振って歩いていった。その後ろ姿を見送って、彼は一夏から離れるように勢いを付けて体勢を立て直す。
「――と、あれ?」
「うおっと危ない。……フラつき注意な。こっちで俺と休むぞ馬鹿野郎」
「……願っても無いけど、格好付かないのはどうにかならないか」
「ならないならない。百メートル本気で走ったぐらいじゃ駄目だろ」
何はともあれ、二学期を代表する盛大な行事だ。今日も一日元気に過ごそう、という目標は競技開始僅か十数分で達成出来なくなりそうだが、せめて余すこと無く力は使っていきたい。全身全霊をかける。やるからには蒼としても、優勝するぐらいの気持ちでいた。
◇◆◇
「ま、初っ端からこの調子じゃアレだけどな」
「出る競技が少ないから、これで良いんだよ」
「お前がぶっ倒れるような真似が駄目ってことだ。ったく、分からず屋め」
「分かってる。分かってる」
あぐらを組んだ一夏の足を枕に、ぱたぱたとうちわで扇がれながら、蒼は遠目にグラウンドの様子を眺める。種目は変わってリム転がし。よく見れば他のチームが悪戦苦闘している中、五反田弾が華麗なリム捌きを披露していた。カーブ、ジグザグ、折り返し、何が来てもお手の物。観客席からは拍手と称賛の声。変なところで人は才能を発揮するんだな、と蒼は友人の活躍に微笑みながら思う。
『紅組ダントツ! いやこれは五反田くんがダントツです! 凄い! まさにリム転がし界の神童! コンビニでエロ本を手に取っていた男とは思えません!』
「おい待て何故それを知ってやがる!? どこ情報だ! どこ情報なんだそれは!」
実況席に座る女子からの精神攻撃に動揺するも、彼の手には一切震えが伝わっていない。まさにプロの妙技。そのまま他を突き放しての一着ゴールに、紅組テント内から歓声が沸き上がった。当の本人も調子に乗ったのか、転がし終わったリムを棒でくるりと回しながら、格好付けてはにかむ。普段なら一蹴されるものだが、今日は年に一度の祭り。クラスメイトは心を広くしてそれを受け入れた。
「流石だぜ五反田ァ!」
「いいぞいいぞー赤髪イケメン!」
「カッコイイよー!」
「あんなに格好いい男に彼女が居ないワケねえよなあ!?」
ふっと笑って、弾はすうっと息を吸い込み。
「――居ねえよバァァアカ! 彼女募集中でぇす! 誰か立候補お願いしまぁぁあす!」
『……えー、五反田くん。競技に関係ないことはあんまりしないようにー。あとさっきから妹ちゃんらしき人に睨まれてますよー』
「……蘭ちゃん、来てたのか」
「おう、最初からな。ほら、あそこ」
一夏が指差した方を見れば、たしかに赤髪の女の子がじいっと弾へ視線を送っている。しかもこれまた鋭い。近くに行って確認するまでもなく、五反田蘭なのは明白だった。放送を聞いた弾もばっと振り向いて直ぐさま発見し、無言でサムズアップ。気のせいで無ければ冷や汗が滝のように流れている風に見えるが、きっと事実なのでそっと見ないことにする。身内がああも馬鹿をやっていれば、まあ、諫めたくなる気持ちも分からなくは無い。
「……というかこの体勢、もうそろそろやめないか?」
「却下だ。顔色がまだ悪い」
「……勘弁してくれ。本当に、ちょっと恥ずかしいんだ」
「恥ずかしがることなんて無いだろ? 俺はただ介抱してるだけで」
にいっと笑いながら一夏が言う。その仕方が問題なんだ、という言葉を蒼は飲み込んで、代わりにため息をひとつ。去年にも似たような状況を経験している。相手は一夏でなく鈴だったが、彼女はもう一段階上げてなんと膝枕という凶器を使ってきた。あれを一夏に出来たのなら関係も進展したハズだというのに、話を振ってみれば顔を赤くして恥ずかしがるのだからまた分からない。なぜ蒼には良くて一夏には駄目なのか。女心は複雑だ。
「それともあれか? 蒼のお母さんがこっち見てるから恥ずかしいのか?」
「……は? ちょっ、う、嘘だろう……?」
「いやー俺もさっき気付いた。マジで。ほら、手ぇ振ってきたぞ」
「その前になんで母さんがここに居るんだ朝は居なかったのにっ」
がばりと飛び起きて、周囲を見渡す。――居た。蒼と一夏の待機する紅組テントから見て右斜め前、若干茶色の混じった長い黒髪を揺らしながら、手を振っている女性が一人。間違いなく彼の母親だった。
「蒼のお母さん美人だよなー。千冬姉とは違った方向で」
「……母さん、ああ見えて人を弄るのが好きなんだ。絶対、からかわれ、るぅ……」
「っと。早速リターンかよ。この体勢はまだ続きそうだな?」
「やめてくれ……ああ、母さんがニヤついてるよ……」
急に起き上がったせいか、立ちくらみに似た症状でばたりと一夏の方へ倒れる蒼。割と悪戯好きな母親の一面を思い出しながら、彼は静かに天を仰いだ。体育祭はまだ、始まったばかりである。
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誤解しているようですが、借り物は“あなた”です。
「久しぶりね、蒼」
「……ああ、うん。久しぶり」
テントの外から声をかけてきた母親に若干苦い顔をしながら、蒼は立ち上がってゆっくりと歩み寄る。一夏の足枕は予想外なことに長く続いたが、流石に数十分も休めば百メートル走程度の疲れは無くなっていた。持久力は皆無だが、休憩さえ挟めるならそこそこ動けはする。勿論、体育祭の出場種目はその辺りをきっちり念頭に置いて選択済み。次にあたる借り物競走は考えていなかったが、この調子ならばなんとかなりそうだ。少なくとも、彼の目の前に立つ母親を心配させることはない。
「あんたなりに頑張ってるみたいじゃない。走って盛大に寝転ぶなんて」
「まあ、中学だと最後だし。みんなもやる気なんだから、俺も頑張るよ」
「うん。上出来、上出来。流石は私の息子!」
「わっ、ちょっと、やめ……」
彼女はがしっと蒼の頭を鷲掴みにして、身体ごと揺らすように撫でる。しかもなかなか力が強い。加えて乱暴だ。抵抗しようにも、昔から腕力では敵わない相手だと知っている蒼は、諦めてされるがまま。数秒続いたそれが収まれば、顔を上げたところでにっと朗らかに微笑まれる。母は強しという言葉の意味を、なんとなく理解した。
「で、九ヶ月ぶりになるお母さんとの対面はどう? やっぱり寂しかった?」
「そりゃあ殆ど一人で家に居たわけだし、寂しいのは当然だけど」
「そっかー寂しかったかー会えて嬉しいかーお母さんのこと大好きかーこのこのー」
「そこまでは言ってない……」
ぎゅうっと思いっきり抱きつかれて掠れた声を出しながら、蒼はふと周りを見る。大半の生徒はグラウンドの競技に夢中だったが、こちらに気付いている人もちらほら。先ほどまで近くに居た一夏は仕方がないとして、グラウンドから帰ってきた弾や、隣のテントで佇む数馬が気付いているのはどうしてか。見なくていい、という意味を込めたアイコンタクトを三者全員に送ったが、揃ってにやりと笑い返される。
「というか、仕事はどうしたんだ、母さん。忙しいんじゃ無かったっけ」
「ちょっと一段落したから帰ってきたの。お父さんはまだ無理だったけど」
「そっちが普通なんじゃ……というか、母さんもそこまでして来る必要なかったのに」
「嫌よ。折角の貴重な時間なんだから、日頃見れない我が子の活躍をしっかり見ないと」
そう言って笑う母を前に、蒼は気持ちを切り替えざるを得なかった。元々無理はしない範囲で頑張るつもりだったが、こうなるとそれ以上に気合いを入れなければならない。倒れる限界ギリギリまでなら、己の我慢だけでも何とかなる。家族に良いところを見せたいと思うのは、彼とて例外ではなかった。
「活躍、出来たら良いけど。格好悪い姿見せる方がありそうだな」
「そんなの気にしない。贔屓目に見れば蒼も十分格好良いわよ」
「身内贔屓が過ぎるって、それは……」
「そう? 少なくとも、みんながみんな、ってコトは無いと思うけどな~?」
ちらり、と蒼の母親がテント内で座り込む一夏へ視線を向ける。事前に予期していた話とはいえ、実際の場面になると何とも面倒だった。ニヤニヤとした顔の彼女は間違いなく一夏のことを誤解している。蒼は大きくため息をつきながら、先ずどこから説明すれば良いのかと頭を回そうとして。
「初めまして、蒼の母です。うちの息子がお世話になってるみたいで」
「あ、いえいえ。前から蒼には良くして貰っていますから……」
「あら、そうなの? へえ~? ふう~ん? 良くしてるんだって~?」
「……違うって。母さん、誤解だ。その人は――」
彼が弁明しようとしたその瞬間、一夏の脳内に電流が走る。鈍感や唐変木とよく言われていた彼女だが、恋愛事情さえ絡まなければ気遣い上手のイケメン男子だ。ここは少しでも蒼の負担を減らすために、自分も動いた方が良いと即座に判断。夏休み前半に起きた箒の件もあり、一夏は他人に正体を無闇に明かすのは得策ではない、と思い込んでいた。故にこそ、しょうがなかったと言えばそこまで。何とか変えられたかと言えば、もしかしたら変えられたかもしれない。ただ無情にも、転生すら経験した男は、当たり前のように時間遡行すらできないワケで。
「そう言えば自己紹介してなかったわね。私、上慧 青羽って言うの。あなたは?」
「はい、蒼さんの友達の、一斑夏織って言います」
「――――、」
蒼はこの時ほど、時間を操作する能力もしくは記憶を操作する能力が欲しいと、本気で思ったことはなかった。
「へえ、夏織ちゃん。素敵な名前ね」
「あ、あはは……どうも」
「ちょっと待った。ストップ。母さん、いや、違うんだ」
「なーにが違うのよそんな必死になっちゃって~」
言いながら、がしっと一夏に背を向けて引き寄せられる。友人の恐らく善意しか無いであろう手助けは、しかし状況を悪化させるものだ。言うなれば、味方だと思っていた人物に後ろから刺されるのと同義。加えて一度経験したからか、自発的な行動だからか、咄嗟の演技にしてはボロが少ない。詰まるところ、このままでは非常に不味かった。
「恥ずかしがらなくて良いわよ。夏織ちゃん、十分良い子じゃない」
「だから違うんだ。母さん、そもそも彼女は――」
「はいはい、言い訳は後ね。本当、あんたも隅に置けないんだから。こんな可愛い子とどうやって仲良くなったのよ?」
蒼は思わず頭を抱える。一夏の性格上、自分から女性を演じることは無いと高を括っていた。よもや最悪のタイミングでその予想を外されるとは、誰も想像できない。一斑夏織というのは女性名としても違和感のない出来だ。彼女自身の正体を知らなければ、簡単には結び付かないだろう。現に一夏が三文芝居だったにも拘わらず、箒を何とか騙し通せている。
「……話を聞いてくれ、母さん。そもそも彼女はそういうのじゃなくて」
「本当に? さっきの光景、お母さんしっかり見ちゃったけどなー」
「違う、違うから。ああもう、言うけど、彼女はちょっと特殊な事情があって」
「あ、なるほど。それでお近付きになったってこと? やるじゃない」
「だから違う。違います。違うんです、母さん。彼女の正体は――」
『はーい、次の借り物競走に出る生徒は集まってくださーい』
テントの近くをメガホン片手に、招集係の女子が声をかけていく。運が無いどころの話ではない。今おみくじを引けたのなら間違いなく大凶だ。迷わず枝に括り付ける。蒼はがしがしと髪の毛を掻き毟って、がっくりと肩を落とす。
「蒼、次、出番じゃないか、な?」
「……ああ、そうだな。――母さん。とにかく、違うから」
「はいはーい。分かってる分かってる。頑張ってきなさい」
彼は確信した。あれは、絶対に、分かっていない。
◇◆◇
『どうしてこうなるんだ……』
憂鬱な気分になりながら、ゆっくりと蒼はスタートラインに立つ。本来なら簡単な事情説明だけをして、現状のみを受け止めて貰えれば良かったことだ。篠ノ之箒のように誤魔化す必要は無い。そも、誤魔化したところで何の意味も無い。
『一夏がトラブルを持ち込むのは前からだけど、今回ばかりは勘弁して欲しいな。あのままじゃ母さん、一生誤解したまま仕事に戻る』
それだけは何とか阻止したい。今は母親一人なのでどうとでもなりそうなものだが、父親にまで知られたとなれば誤解を解くのが面倒になる。というのも、かなりの天然且つ人の話を鵜呑みにしやすいのが蒼の父であって。
『まずい、地獄だ。我が家に勘違いが溢れる。一夏が彼女なんて冗談じゃない。それだけは俺も君も駄目だろうに……どうしてあんなことを』
余裕が持てたからこそ起きた悲劇、とも言える。だからと言って余裕のないままで居れば良かったのか、と言えばそんなワケがない。なんともやりきれない気持ちだ。スタート係の合図を聞いて構えながら、蒼はすっと目を閉じる。
『とにかく、今は競技に集中。誤解を解くのはそのあと。大丈夫、まだ時間は沢山あるんだ』
「ようい……」
パァン、とピストルが高らかに破裂音を鳴らす。同時に地面を蹴り抜いて、一気に五枚の札が置かれる先まで駆けていく。今回は運が良かった。スタート時点では他四人を抜いてトップ。あとは借り物次第だが、さて、運命の女神は彼に微笑むのか、それとも――。
「っと、内容は……“長いもの”……?」
あまりにも抽象的だった。長いものと言っても種類は多種多様で、どれほどで長いと感じるかも人それぞれ。どうにも、簡単に見えて難しい。
『長いもの、長いもの……』
脳内で繰り返しながら、辺りを見渡す。テントの足はたしかに長い。が、アレを持っていくほどの筋力は無いし、何より常識的に考えて駄目だ。焦りで視野が狭まっている。後続の生徒も追い付いて、我先にと観客席や中央のマイクへ走って呼び掛けを行う。長いもの、長いもの。ふと、自分を応援する声が聞こえて、紅組テントに目を向けた。
「頑張れー、蒼ー」
「――――」
ただひとつ。迷いは、無かった。
「って、上慧がなんかこっちに走って来てるぞ」
「あたしらのとこに目当てのもんがあんじゃね?」
「水筒とか鉢巻きか? とりあえず思いつくもんは用意しとけよお前ら」
「タオルとかありそうっすね。知らないッすけど」
無論、目当てのものはそこにある。形振り構わず、その人物だけを視界に入れて。
「――え?」
ぱしっと、手を握る。
「付き合ってもらうよ、一夏」
「は? ちょっ――ぬわあああ!?」
次いで、蒼は勢いで一夏を抱きかかえる。背中と膝裏に手を当てて、ぐっと落ちないように両腕へ精一杯の力を込めた。直後、テント内から歓声が沸き起こる。
「――うおおおおおお! マジか! マジかよ上慧!」
「はははは! お前すげえ! 男だろ男!」
「どっちもだ馬鹿野郎ー! 公衆のメンゼンでこんなことできるとか男だぜ上慧ぇ!」
「おいっ。蒼! 下ろせ! 下ろせって!」
が、当の本人はそれすらもスルー。
「舌噛むから、静かにしててくれ」
「やっ、俺自分で走れええぇぇぇぇええぇえッ!?」
ばっとグラウンドのトラック内に戻って、一夏を抱きかかえたまま走り抜ける。今、彼の目に見えているのはゴールだけ。異常な集中力は現実逃避の意味もあった。尤も、そのせいでややこしくなるなど彼は気付かないまま。
『――ゴォォォォル!! 紅組上慧くんぶっちぎりの独走状態で一位ッ! 女子を抱えたまま見事走りきりました! お題は“長いもの”で、髪の毛の長さで判断したらしいですが……判定はOK! 凄いっ! 凄まじいっ! 男見せてます三年生!』
「……よっし、一位……っ」
「……よ、喜んでる場合か、この馬鹿――っ!」
抱かれた状態で顔を真っ赤にしながら、織斑一夏は大きく叫んだ。
大胆な行動は男子の特権。
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君のハートにストレート。
「本当にごめん」
「…………、」
がばりと地面に膝をつけながら、蒼はこれでもかというほど綺麗な土下座を披露した。その行為に僅かながらテント内がざわつく。彼が頭を下げている相手は、つい先ほどの借り物競走で公開羞恥プレイとでも言えるような経験をした織斑一夏だ。彼女はむすっと無愛想な表情のまま腕を組み、蒼の前で堂々と仁王立ちをしている。学年クラス問わず多くの生徒が見守る中、ひそひそと話し始める人も出るというもので。
「おい、見ろよあれ。こんなところで」
「ああ。誠意という誠意しか込められてない完璧な土下座だ。まさか、こんなところでお目にかかれるとはな」
「つーかあいつ腕が痙攣してんだけど。気のせいか顔も真っ青なんだけど」
「百メートル走でバテバテだったんだぞ。そりゃ、あれだけ体に負担かかるコトしちゃあなあ……」
どちらかと言えば“見守る”というより“見て愉しむ”、と言った方が良さそうな周りの反応も、当事者の二人にとってはただの雑音に過ぎない。必死に体勢をキープしながら、蒼は数分前の直感的な行動を悔やむ。彼が元より持っていた集中力と、今回初出場となる競技中で生まれた焦りが、あの奇行を取らせたのだろう。おまけに割と無茶なことをした為か、体の節々がずきずきと痛みを訴えていた。
「……はあ、もう良いよ。怒ってもしょうがないし」
「いや、本当に申し訳無かった。……まさか自分でもあんなことが出来るなんて」
「それはこっちのセリフだ。こんな人前で抱きかかえられるとか、下手したら一生モンのトラウマだぞ」
「うん、次からは気を付ける。というかもうしない」
付け加えると出来そうにもない。小刻みに震える両腕を見ながら、蒼はほうと息を吐いた。抱えるだけでも怪しかったものを、そのままゴールテープまで全力疾走だ。無茶をして何もない、という上手い話があるはずもなく。多くて一時間、少なく見積もっても二十分は細かい作業が難しい。今日が体育祭で無ければ死活問題だった、なんて考えながらゆっくりと拳を握り締める。
「そっちも重症だな……俺が抱えて走った方が良かったんじゃ無いか?」
「なら一つ聞くけど、君は腕の中で借りてきた猫みたいに大人しくなる俺を見たいと思うのか?」
「暴れなくて持ち運びやすそうだな、それ」
「…………まあ、一夏にならされても文句は言えない」
俯いて力を抜く蒼に、一夏は冗談だと一言呟いて肩を叩く。結構洒落にならないレベルで恥ずかしかったのは事実だが、それを何時までも引っ張るというのも男らしくない。いや今は女だけれど、と内心でツッコミを入れながら、彼女はぐいと伸びをする。
「よし、それじゃ、やっとまともな俺の番だ」
「次は……そうか、障害物競走」
「おう。精々誰かさんに負けないように、帰宅部の実力を見せてやるよ」
にっと笑って、一夏は集合をかけられているスタート地点に向かう。この時の彼女はまだ知らなかった。いや、彼女だけではない。一夏を見送る蒼も、適当な応援とヤジを飛ばしていた弾も、クラスメイトと楽しげに話していた数馬も。皆が皆、この後に起きる悲劇を――喜劇を、知らなかったのである。
◇◆◇
障害物競走はその内容により、好き嫌いがはっきりと別れるものだ。純粋な走力も肝心だがそれだけではない、という点で運動神経の悪い者にとってはまだマシな種目。ただ走って抜けた方が楽だろう、なんて思えるのなら当たり前のように短距離走へ出る。そのためか、意外にも女子の出場が多いこの種目。圧倒的な数的優位を確保した生徒用のテント内部では、野郎どもが静かに心を燃やしていた。
『さあスタートです! 始まりました障害物競走! その名の通り、待ち受ける障害をいかに早く突破できるかを競うのがこの種目! 先頭第一組目、先ずは設置された網の下を潜ってもらいます!』
「おい青組あいつら近いとこで見れるぞズルくねえか?」
「偵察班誰か頼む。でも不審な動きしたら女子にバレるしなあ」
「あんたら何話してんの……」
「バレるまでもなく気付かれてるんッすよねえ……」
体育祭というものは当然の如く、基本はかなり動く行事だ。係にしろ競技にしろ、日射しの元で走り回る以上は制服のままで参加する人間など殆ど居ない。男も女も関係なく、体操服の上下を着て祭りに挑む。……まあ、つまり、どういうことかと言うと。
「あ、やべ。今一瞬胸潰れてんの見えた」
「マジか! お前視力すげーな幾つだよ!」
「両目Aだって。いやあ今だけは母ちゃん父ちゃんに感謝だわ」
「……え、マジで何やってのあいつら……」
「キモいっすよねえ……馬鹿なんで仕方ないッすけど」
女子から批難の視線を浴びながらも、穏やかな盛り上がりを見せる男子陣営は揺るがない。彼らは揃ってテントの全面に陣取りながら、競技中の女子生徒を時に大胆に、時に流し目に、時にちらりと見る。どこからどう見ても変態の所業だった。
「全く、馬鹿が多くて困るよな、蒼」
「弾……」
「体育祭の競技中だぜ? しっかり応援しねえとか頭沸いてんのか?」
「そう言いながら瞬きをしないのは何故なんだ?」
蒼の言葉を受けた弾は、ふっと得意げに笑う。それでも瞬きはしない。視線は真っ直ぐと必死で網の下を抜けようと頑張っている女子へ向いていた。蒼はじとっと半目で睨みながら、何となく分かっていた事実を認める。彼――五反田弾もまた、一人の馬鹿だっだのだ。
「みんな頑張れ、男子のことは無視してて良いから」
「おう! 蒼の言う通りだぞー! 全員頑張れー!」
「こういう時、同じ団に上慧先輩が居てくれて良かったって思うッすよね」
「いやーどうだろ……上慧くんも意外とアレだから……」
自分に関して何やら認めたくない言葉が聞こえたが、一先ず蒼は応援の方へ専心することにした。真剣に見入っている男子の殆どが使い物にならないのだから致し方なし。ノリだけ乗って声を飛ばしている弾ですらまだやっている方だ。そこまでして何が彼らをかき立てているのか。
『さあ全員網を抜けました! 続いて跳び箱! こちらは軽く飛んで貰いましょう! 数も一つだけと優しい采配!』
「真ん前来た! よし! 頑張れぇぇええ!」
「いけー! 飛べー!」
「良いぞー良いぞー紅組ぃ!」
変わり身の早さが凄まじかった。呆気に取られた蒼は一つ息を吐いて、ゆったりと構ながら目前を駆ける女子を見た瞬間。
「……ごめん弾、ちょっとティッシュ貸してくれ」
「は? なんでいきなり――ってお前鼻血出てんじゃねーか何やってんだ!?」
「いや、他意は無かったんだけど、あそこまで揺れるとかちょっと」
想像していなかった、というか。
「上慧が鼻血噴いたぞおおおお!」
「んだよやっぱりてめえも同じ穴の狢じゃねーか!」
「……ね?」
「あー、そうッすねー……」
というのも、彼は彼らしく、実に単純明快なことに、突然の刺激を弱っていたところに喰らわされたワケで。盛り上がる男子、ドン引く女子、変わらぬ様子の観客席。男子中学生の性欲は、時に雰囲気すら作り上げるものである。
◇◆◇
ところ変わって競技者側。そんなことなどいざ知らず、スタートラインに立った一夏はというと。
『……やっぱなー。なんつうか、女子の中に立つのはこう、上手く言えないやるせなさがあるんだよなあ……』
胸の内でそう思いながらも、彼女はゆっくりと声に合わせて構える。一夏は数ヶ月前まで正真正銘の男子だった。今は慣れてきているが、当初は混乱の連続で精神すら参ってしまいそうになるほど。絶望的な状況を救ってくれたのは、側に居て支えてくれた親友だ。性別が変わっても同じように接してくれている蒼には感謝しかない。それはそれとして、先の行動に怒るかどうかはまた別なのだが。
『来年は高校か。よし、無事合格したら何が何でもあいつに同じ事をしてやろう。この恥ずかしさ、晴らすは一年後と知れよ……!』
ひっそりと心に決めながら意識を集中させる。どうせ志望校は同じく藍越学園。蒼の方も渋々とは言え、それ以外に目指すところも無かったので結局はという感じだ。
「位置について、よーい……」
何はともあれ、友人が目に見えて一生懸命やっているというのに、己がそこそこの結果で終わらせるのは面白くない。幸いにも性転換を経たこの体は、平均的な女子の身体能力を超える性能を有している。男だった名残か、はたまた元々の才能というやつか。何にせよ、女子のグループ内で男子が公的に走る、というのは間違いなくアドバンテージだ。
『それだけに集団種目不参加が納得いかねえけどな! ちくしょう! いやこの体で組体操とか出来ないのは分かってるけど!』
奇しくも、スタートは彼女が内心で叫び声をあげたのと同時。有り余る力を最大限に解き放って、織斑一夏は地を駆ける。
『さて次の組、これもなかなか良い出だしです! っとお!? 三年織斑……ええと、さん! ガンガン進んでいきます! 速い! 序盤からトップギアです!』
「……あ~、そっか。放送で、呼ばれるん、だったな。そりゃあ、隠せないわ」
ぼそりと溢しながら、強引に網を抜ける。今ので蒼の母親には気付かれただろうか。見える範囲で姿を探してみれば、こてんと首をかしげる女性を視界に捉えた。
『まあ、蒼もどうせバラすつもりだったらしいし、俺が謝って正体明かしたら良いか』
軽く考えながら、正面に置かれたロイター板を蹴って跳び箱を越える。
「――揺れがすっげえ! おいあれホントに元男か!?」
「一夏マジやべーよ! いいぞー頑張れー!」
「おい上慧が鼻に詰めたティッシュぶち飛ばしたぞ!」
「落ち着け蒼! 鼻血の噴射だ! 傷は浅い! 死ぬな!」
――何やってんだあいつら、と冷えきった思考回路で処理しながら、彼女は速度を落とさぬまま駆け抜けていく。ハードル、平均台、一輪車も難なくクリア。
『さあ最後です! 絶妙な高さで釣られたパンの袋をぉ……これまた華麗にかぶりつきました! そしてゴール! 突き放して一位! 紅組三年生織斑さん! お姫様抱っこの意地を見せたあああ!』
「……それは言わないで欲しいなあ」
肩の力を抜き、息を整えるため膝に手をついて一言。にしても、応援席で鼻血を流している友人は大丈夫かどうか、ちょっとだけ気になる一夏なのであった。
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終わりの余韻。
「はあ、そんな不思議なこともあるのねえ……」
もぐもぐとコンビニ弁当の漬け物を囓りながら、上慧 青羽はじっと一夏を見る。校舎に設置された時計の針は頂点を少し過ぎた辺り。午前の部と午後の部に分かれて行う体育祭の、唯一とも言える昼休憩だ。いつも通り、というには若干人口の多い屋上で、風に吹かれながら昼食の時間。放送で呼ばれた折の疑問を解消して、彼女は気にした様子も無く箸を進める。
「……驚かないのか、母さん」
「ん? そりゃあ驚くでしょ。男の子が女の子になったんだから」
「にしてはその……なんというか、落ち着いてないか?」
「そうでもないわよ。うん。これがあの一夏くんとは思えない」
目には自身があるのか、彼女はふんふんと頷きながら一通り眺めて、ぐいとペットボトルのお茶を口に含んだ。大胆というか、小さいことは気にしないというか、大雑把というか、がさつというか。まあ、容姿の割にそこまで“女性”らしくないのが蒼の母親である。代わりに父親の方は大人しめな性格で滅多に怒らない。中身を間違えたんじゃ無いか、と思ったことは生まれてこの方数度に及ぶ。蒼は自然と受け入れている母に感心しながら、ぱくりと卵焼きを口に運んだ。久々の自作。我ながら上出来だ、と心中で自画自賛。
「弁当、言えば俺が作ったのに」
「良いよ。年に一回、しかも最後だ。少しぐらいは特別感が出るだろう?」
「それもそうだな。噂では、一夏を抱き上げたらしいじゃないか」
「え――」
どこか聞き慣れた声が聞こえて、ばっと振り返る。ラフな格好、とまではいかずともプライベートだと分かる服装。蒼にとっては制服やスーツを着ているイメージがどうしても強いせいか、その人の姿を見た時に一瞬誰だか分からなかった。綺麗に靡く黒髪と、狼を思わせるような鋭い瞳でようやくピンと当て嵌まる。情けない事に、一秒も時間を要した。
「千冬姉!?」
「ああ。……どうした? 姉が学校の行事に参加するのがそんなにおかしいか?」
「い、いや、おかしくはない、けど」
「千冬さん、来てたんですか」
「ついさっき着いたところだ。ちょうど昼から時間を空けれたのでな」
ふっと笑いながら、彼女は一夏の隣に腰を下ろす。今の一夏も大概なものだが、千冬も千冬で相当であることを蒼は知っている。愛らしく可愛いとは例え天地を逆さにしようとも言えないが、綺麗で美しいという言葉がこれほど似合う女性はなかなか居ない。しかも一度仕事モードに入れば格好良いが加わる。多くの女性から人気を集めるのも当然だ。
「千冬ちゃん久しぶり。一夏くんがこんなことになって大変ね」
「いえ、むしろ息子さんに助けてもらっているばかりで」
「とのことだけど、実際どうなのよ蒼」
「俺はあんまり何もしてないよ」
唐揚げをつまみながら蒼が答える。一夏が隣で何か言いたげに見ていたが、どちらも変なところで頑固な人間だ。どうせ言ってもまともに聞きやしない、とため息をついて肩を落とし、彼女も自分の弁当に口を付ける。
「あ、蒼。その唐揚げひとつくれ」
「いきなりか……別に構わないけど」
「サンキュー。お礼に鮭の切り身だ。塩がきいてて旨いぞ?」
「ん、ありがとう。にしても、よくこれが二つも入ったな」
「余り物を詰め込んでたらつい、な」
はにかむ一夏に彼は苦笑で返し、早速貰った鮭にすっと箸を入れて一口味わう。評価は期待通り。たしかに美味しい。中学生の自家製弁当にしては十二分だ。案外良い交換だったかも知れない、と思いながらほうと息を吐く。ふと、気になって一夏を見れば、うんうんと何やら頷きながら咀嚼していた。どうやらあちらも気に入っていただけたらしい。
「青春ねえ。一夏くん、このままうちの子貰ってくれないかしら」
「一年間だけのものですから、難しいでしょう」
「そっかあ。なんていうか、孫の顔が見れるか心配なのよねえ、あの子」
「……大丈夫だと思いますよ、彼なら」
◇◆◇
がらがらと、グラウンド整備用のトンボをかけながら歩き回る。どんなものにも終わりは来る。笑い、泣き、はしゃぎ、最高潮の盛り上がりを見せた体育祭もこれにて閉会。午後の部も前半同様士気の高さを維持したまま、あっという間に過ぎていった。殆どが午前の部で出場を終えていた蒼たちにとっては応援がメインとなっていたが、それでも退屈はしない程度に良い時間だった。中学生活最後としては申し分ない。しかも、おまけに――
「優勝、できてよかったな」
「うん、そうだね。結構な僅差だからか、みんな飛び跳ねてたけど」
「そりゃあ跳ねもするだろ。あんな接戦を勝てたんだから」
準備時と同じく隣に並ぶ一夏の言葉で、そう言われるとそうだ、と納得しながら空を見上げる。雲まで染める茜色、既に太陽は西の彼方に落ち始めていた。この場に漂う余韻もあって、普段よりも寂寥感のある光景。蒼はぼうっと夕陽を遠くに捉えながら、ゆったりとした歩調で動く。
「……終わったな、体育祭」
「うん、終わった。最後の体育祭だ」
「ココでは、な。どうせ高校でも変わらずあるよ」
「かもしれないね。普通の体育祭が」
「は?」
ぽかんとして首を傾げる一夏に何でもないと誤魔化して、意識は再び地平線の彼方へ。何を思うでもなく、何を考えるのでもなく。ただひっそりと、場の雰囲気に呑まれたまま、それを何となく感じ取る。今日一日、自分が少しでも頑張ってきた事に、こうして意味が付いてきて。その事実が何となく嬉しく感じられて、どこかクセになりそうだ。ぎゅっとトンボを握り締める。土を踏みしめて前へ進む。達成感は抜群だった。
「やっぱり良いな、こういうの」
「だな。騒ぎ倒して後片付け、っていうのも乙なもんだ」
「……一夏は時々、俺でもびっくりするぐらい年季の入った考え方をするよな」
「俺でもって何だよ。ったく……フツーだフツー。大体、それを言うなら蒼だって周りと考え方がズレてるだろ」
もっと言えば捉え方さえズレている時もあるが、仕方がないので特に反論もしない。昔のことも入れると、今回で“体育祭”と銘打たれたものは八回目。中学だけに絞っても六回目にあたる。今更感慨も何もないと勝手に決め付けていた蒼だが、回数だけでどうにかなってしまうものではなかったらしい。
「次は文化祭になるのか」
「おう。今年の出し物とか考えなきゃいけないな。去年は何したっけ」
「お化け屋敷だろう? ほら、弾が女子にビンタ喰らってぶつくさ言ってた」
「ああ、思い出した。綺麗な手形だったな、あれ」
不憫なエピソードではあるが、その時の彼も隙あらばラッキースケベを狙っていたので、どうとも言えなかった。間違って胸でも触っていれば、きっと紅葉のお手々だけでは済まなかっただろう。流石の五反田弾も女子からのグーパンチは避けたいハズだ。
「今回はちょっと、俺も積極的にやろうか」
「お、乗り気だな。何するつもりだおい」
「積極的に裏方に徹する、ってことで」
「それは積極的と言えるのか……?」
ともあれ、話題には上がったが、まだ一月以上も先の問題だ。今はそこまで考えるものでもない。
「おーい、上慧! 織斑! 集合写真撮るぞ!」
「おう、分かった! ……さ、行くぞ蒼」
「……一生残る写真が女の時の自分って、大丈夫か?」
「そのぐらいで悩むのはもうやめたって。ずっと前にな」
「……そっか」
本当に、たくましい友人だと蒼は表情を綻ばせた。秋を代表する一大行事は無事、ここに幕を下ろす。長く短い一日の思い出。きっとそれは、以前のものに負けないぐらい強烈に、記憶へ刻み込まれていた。
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実は年下という事実が判明した。
ふと気が付けば、肌寒さを感じるようになった。九月の終わり、段々と野山にも赤黄が増えてきた秋の初め。夏用の半袖だった制服は殆どが長袖に、中には上着を着込んでいる生徒もいる。上慧蒼はその一人だ。寒すぎず、かといって暑いとも言えないこの時期故か、らしくもなく前ボタンを留めずに開けたままのスタイル。けれども滲み出る大人しい雰囲気は損なわれていないあたり、実にぶれないというかなんというか。
「制服ぐらいちゃんと着ろよ、優等生」
学ランだぞ、と一夏は指摘する。ブレザーならともかく、彼らの中学はシンプルな黒の布地に金のボタンをあしらった学生服だ。見方によっては素行不良な生徒とも思われかねない。染髪、ピアス穴の有無、言動等からして可能性は高くないが、それでも第一印象は悪くなるだろう。
「こっちの方が楽なんだ。流石に式典や集会の時はボタンをするよ」
「普段からしろ、普段から。……これが学年一位なんだから先生も呆れるってもんだろ」
「本当はそんな器でもないんだけどね。似合ってなくても仕方ない」
「……いや、似合ってるか否かで言えば、似合ってんだけどなあ……」
ガリ勉と表すほどでは無いが、当たり前のように勉強が出来るという感じ。淡々と覚えて、さらっと結果を残すタイプか。同じクラスで共通の友人である五反田弾と比べれば分かりやすい。五割は見た目判断。赤髪バンダナと黒髪地味系のイメージでは後者が圧倒的だった。
「俺は引き出しが多いだけだから、知らないことに関してはめっぽう駄目だ。そういう問題なんか見ると、ちょっとだけ混乱する」
「普通、授業で習うことの大半は知らないコトじゃないか?」
「俺は普通じゃないと言って、君は信じるのか?」
「……下手するとお医者様を紹介するかもしれない」
だろう? と蒼が妙にすっきりした表情で笑う。どこか少し変わっているとはいえ、異常というわけでもない。良くも悪くも普通の範疇に収まるぐらいだ。一夏にとっては“普通”の域を超えた“天災”を幼い頃に見たのもあり、結果的に蒼のことはそこまで変だとは思わなかった。
「知ってる、覚えてる。見た事がある、聞いた事がある。そういうものを思い出すのは得意……というより、慣れてるのかな」
「あー……なんか、頭の使い方が上手いって感じか?」
「違うよ、頭の使い方は下手だ。だから、勉強に関しては何でも最初に自分の記憶を頼りにして、知らない問題が出てきたら焦る」
「……割とそれは誰でも言えることじゃないか?」
テスト中であろうが宿題の途中であろうが、習っていない問題が急に出てきたら誰だって頭を抱える。なにせ、問題文の意味が分かっても解き方を知らない。理数系ならば特に顕著だ。公式や手順を一切記憶しないままに解けるのはそれこそ一部の天才に限られる。数が多くなれば暗算よりも電卓を打った方が早い。蒼も一夏も程度はその辺り。
「ん、なら良いんだ。俺は普通で、変わりないってことになる」
「自分だけが特別なんだーとか、そういうのは無いのか」
「無いよ。大体、特別な何かがあったところで、どんな得があるって言うんだ」
「そりゃあ……無難なところで言えば、優越感とかじゃないか?」
「……そんなもの持てるワケないだろう」
ぼそりと呟いて、彼はポケットに手を突っ込みながら歩く。驚いた一夏はぱちくりと目を瞬かせたが、それも一瞬。にっと笑って彼に駆け寄り、肘でとんと体を小突いた。
「だな。そういうガラじゃねえよな、蒼は」
「ああ。君が近くに居る時点で優越感とか持てる筈がない」
「なんだそれ、変なコト言うなよ。……あ、でも変ではあるな、うん」
「……一応聞いておくけど、どの辺りが?」
一夏の方を見て、蒼が問い掛ける。変だとドストレートに言われて気にしない人間は、本当に変な奴か神経の図太い者だけだ。あいにく蒼はどちらにも所属していない、と思いたい。正面切って「お前は変だ」と言われれば気になるし、むしろ気になりすぎて夜も眠れない……ということもないが。とにかく、内容によっては行動を改める必要もあるかと考え込んでいた蒼の目前で、一夏はぴっと彼の手――ポケットに入れられたその部分を指差した。
「それそれ。時々すげえ似合わないことするよな、お前。学ラン前開けしかり、ポケットに手を突っ込むのしかり。らしくないどころかわざとかって」
「……ああ、いや、まあ、どうなんだろう。これはちょっとしたクセというか」
「クセ?」
「……まあ、色々あるんだよ。結構どうでも良い感じのことが」
呆れるように息を吐きながら、蒼は首の裏に手を当てた。人当たりは最悪、授業態度も意欲的とは言えず、性格は暗め、声は小さい、動きは鈍い、おまけに常時前傾姿勢。思い返してもロクな生徒では無い。あの時に比べれば随分とマシになっただろう。未だ鮮明に思い出せる過去を偲びながら、蒼は徐に財布を取り出して廊下の隅に設置された自動販売機の前に立った。
「適当に、これで良いかな」
「指に迷いがない。意思は固いか」
「何言ってるんだいきなり……はい、一夏」
ひょいっと今さっき購入した飲み物を投げ渡す。
「っと、これは?」
「いちごオレ。意外と美味しいんだ」
「それは見たら分かる。なんで俺に渡したのかってことだ」
「? いや、誕生日だろう。一夏。今日」
九月二七日、となんでもないことのように蒼が言った。まるで昼からは気温が高くなるみたいだ、なんて世間話でもしているのかと錯覚する勢いで。予想外の言葉にぽかんと口を開けて呆然とする一夏を前に、彼は「あれ、違ったっけ」と顎に手を持っていきうんうんと唸る。当然、合ってはいた。問題は、本人が全くもってその話題を出されると想定していなかったことで。
「あんまり高いものだと気にするだろう、君。これぐらいがちょうど良いかと思って」
「お、おう。それはそうだけど……」
「……まさか、自分の誕生日を忘れてたってことは」
「流石に覚えてた、が、まさかこんな唐突にプレゼントを渡されるなんてなあ……」
「サプライズだよ。ハッピーバースデイ一夏」
「……はいはい、ありがとな」
わざとらしい英語の発音は受験生として如何ほどかと一瞬考えた一夏だが、気にするのも野暮かとストローをさして咥える。男同士の誕生日はこの程度で十分だ。たしかに、高いものや変に意識したものを渡されたら反応に困っていた。その点こちらは気に掛ける必要も無い。なにせ総額百二十円。中学生の懐事情にも優しい友情の値段だ。
「にしても、百二十円の友情ってどうなんだろうな。高いのか安いのか」
「そんなこと言うと一般的な夫婦の愛情は大体三十五万円ぐらいになるけど」
「……それもそうか。まあ、想いはお金で測るもんじゃないってことだな」
「だろうね。目にも見えないんだ」
しかしながら価格百二十円。内容量は正直少ない。ぺこっと潰して、一夏は飲み終えたそれをゴミ箱へ放る。左手は添えるだけ。ぱっとバスケットボールのシュートを打つかのように飛びながら、目標めがけて綺麗な放物線を描き。
「あ」
縁に当たって、見事撃沈。
「……格好つけるから」
「はっはっは。いやあ、いけると思ったんだけどなあ」
笑いながら一夏は転がる空の紙パックを拾って、今度はすとんとそのまま入れる。
「よし。んじゃ教室戻ろうぜ。もうそろそろ授業が始まる」
「言っても、すぐそこだろう」
「まあな。……っと、蒼の誕生日は十一月だったよな?」
「うん。一応」
確認の後にくるりと体ごと反転させて、二人はじっと向き合った。長い髪の毛が尾のように揺れる。なんとなく、その光景をぼうっと眺める。
「その時はまた俺が何か奢るよ」
「……ほどほどに期待しておく」
一言返して、彼らはそのまま教室へと向かって歩いていった。
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迫り来る二度目の祭り。
「はーい、というわけで今日は文化祭実行委員をクラスから二人選出したいと思いまーす……」
ぱんぱんと手を叩いて、教壇に立った女性教師が生徒に呼び掛ける。室内によく響き渡る綺麗な声。普段ならしんと静まりかえる筈の彼らは、しかし今回に限ってがやがやと余計に騒ぎ立てた。無理もない。中学校生活最後の文化祭に込める気持ちは、先の体育祭に負けず劣らずだ。当然、そのワードを聞いただけでもテンションは鰻登り。
「文化祭だってよ、何する?」
「やっぱ演劇かな」
「いいねー」
「いやいや喫茶店的なのやろうよ」
「いいねいいねー」
「……まあ、話は聞かないわよね。うん。先生知ってます」
がっくしと盛大に肩を落としながら、女性教師は黒板に手をついた。どことなく不憫である。そんな様子を蒼は半笑いで眺めながら見守るしかない。元気があるのは間違いなく良い事ではあるのだが、あり過ぎるのも問題か。かと言っていつも煩いクラスメイトが静かだと何か物足りなく感じるあたり、彼自身も相当毒されているだろう。受験生と言えどまだまだ遊び盛り。大半がはしゃいで騒いで楽しむ事に関して全力だ。
「実行委員だってよ。お前らどうする?」
「そういう弾はどうなんだよ」
「はっはっは。こやつめ。俺パス。正直だりい」
「相変わらず素直だな君は……」
うへーと嫌な顔で不参加表明をする友人の言葉は、決して少数派の意見では無い。文化祭は楽しみであろうとも、それまでの雑用やら何やらで駆り出される実行委員に進んでなろうという変わり者は少なかった。一クラス二人、という制限が設けられているのもそのため。自然と有志の人間が集まるよりも大人数の編成になる。人手不足は起こらず、学校行事も上手く回り、生徒の自主性も確保出来るという名目。故に、大部分の運営を生徒に任せるという何とも大胆な方針が決定されていたりするのだが。
「一夏はどうすんだよ。お前ボランティアとか似合うぞ」
「あー……どうするかな。誰もやらないんだったらやっても良いけど」
「蒼は? ……って、聞くまでもねえか。お前こういう行事ごとはそこまで――」
「いや、やるけど。実行委員」
ぴたり、と弾の動きが止まる。一夏も驚きを隠せない様子で目を見開いた。喧噪がおさまらない教室の中で、彼ら三人の集まる一角だけが奇妙な静寂に包まれる。はてと、蒼は小首をかしげながら、自分は何かおかしなことを言ったかと思い返してみたがさっぱり。唖然とする理由が分からない。しばらくしてはっと意識を取り戻した弾は、がしっと蒼の両肩を思いっきり掴んだ。
「どうした蒼! なんか悪いもんでも食ったか! いつものゆるふわ努力だけしますスタイルはどこに行った!」
「君は俺のことをなんだと思ってるんだ」
「うちのマスコットキャラクター」
「割と本気で正気を疑うな、それは……」
冗談はともかく、弾の言いたいことは「いきなりどうして気が変わったんだ?」というところだろう。流石に心底から蒼のことをマスコットキャラクターとは思っていないと信じたい。
「でも、意外だな。蒼が精力的に動くなんて」
「……まあ、普段ならやらないだろうね。こんなこと」
一夏の言葉に隠さず答える。彼自身、己が主となって何かを行うのはあまり好んでいない。さりげなく力を貸せる程度がちょうど良いと考えているが、貸せる力も無い場合が大体なので、結局は何もしない何もできないというケースもあった。その時はその時で自分は必要なくて関係もなかったのだと割り切れるが、大々的に参加したとあれば逃げも隠れもできない。
「去年、鈴ちゃんに文化祭ぐらい自分で何かやって楽しんだらどうか、みたいなこと言われて」
「あのチャイナ娘の入れ知恵か。おのれエターナル・ホライズン。日本に帰ってきたら“久しぶりでアルな”って開口一番に言ってやろう」
「弾。君……死ぬのか?」
「鈴の地雷二つも踏み抜くとかやるな。俺だったら全力で土下座するぞ」
なお、この場に件の少女が居れば、間違いなく一人の男を血祭りにあげていたであろう事実を、彼らは一年後に知ることになる。
◇◆◇
自教室の半分ほどしかない狭い部屋。第二生徒会室、と呼ばれるそこは主に係・委員会の集会や、各行事での実行委員が活動する場所として使われている。文化祭とて例外では無い。ロの字に組まれた長机にそれぞれ選出された二名の生徒が腰掛けて、何気ない談笑を繰り広げている。蒼はゆったりと椅子にもたれ掛かりながら、隣に座る彼女の方を向いて問い掛けた。
「良かったのか? こっちに出ると、クラスの出し物に参加出来なくなるけど」
「別に良いだろ。大して重要な役割も回ってこないだろうしな」
そう言って、笑いながら答えるのは一夏だ。蒼が密かに立候補したあと、続くようにじゃあ俺もと声をあげてすんなり決定。他の生徒たちはまだ先の話し合いに夢中で半ば強引な進行だったのは否めない。なにはともあれ、無事決まって教師の精神は安定、クラスのノリと雰囲気もまあいつも通り、割を食って嫌な思いをする人が出なかったのは喜ばしいことだろう。
「――はいはい。話はそこまでにして、そろそろ始めていいかしら」
と、前述の雰囲気を切り裂いて、扉を開けながら入ってきたのは一人の女子生徒だ。長い髪の毛、きちんと着込まれた制服、腕には「生徒会執行部」の文字が書かれた腕章。あと数ヶ月で交代となる現三年生の生徒会会長である。真面目だのなんだのと弄られる蒼だが、ばっちり着崩している自分と比べれば向こうの方がよっぽど真面目で優等生らしい。室内に足を踏み入れた生徒会長はぐるりと一通り全員の顔を確認して、ぎろっと一人の男を睨むように再度視界へ入れた。
「…………上慧」
「あ、うん。なに?」
「……なんであんたがここに居るのよ」
「えっと……立候補したから……?」
「…………、」
静かに、窓も開いていないのに、轟と。どこからか風が巻き起こったような錯覚。キレているかキレていないかで言えば、間違いなくキレている。怒っているか怒っていないかで選べば、それはもう怒っている。彼女はなんとも言えない表情のまま蒼を見据えて、ぐっと眉間に皺を寄せた。
「……知り合いだったのか、会長と」
「言ってなかったっけ。従姉妹なんだ」
「知らなかった。……ていうか、その割に敵意丸出しだけど……」
「仕方ない。俺、色々と彼女の地雷を踏んじゃうみたいだから」
一番はきっと成績の問題である。常に一位を蒼が独走する後ろで、ぎりぎり手が届くか届かないかまで迫っているのが彼女だった。平均点差は僅か四点。態度良し、成績良し、部活動も弓道で全国出場を果たすぐらい、そのうえ容姿もなかなかのもの。まさに理想的な生徒会長だ。
「あと、副会長の誘い断ったのもあるかな」
「……いやそれはなんで断ったんだよ」
「だって絶対俺だと力不足だろう? なら少しでも動ける人を据えた方が良い」
「なるほど、一理ある……のか……?」
とまあ、実際はかなり蒼が自ら踏み抜きに行っていたりするのだが、当の本人は気付くどころか地雷原でタップダンスを踊る勢いだ。怒り心頭の最中に隣の友人――外見上は女子と話すという行動に、ぶちりと生徒会長の何かが決定的に切れる音を周囲の生徒は聞いたが、そこは流石に全校数百人のまとめ役。深呼吸を一つ、気を取り直して部屋の奥へ進む。
「ええと、それでは改めまして。これから文化祭実行委員会、第一回目の集会を始めます。司会進行は一先ず、委員長が決まるまでは私がしますので、みなさんよろしくお願いします」
仰々しく語って、生徒会長が一礼した。果たして、彼が選んだ行動は、一体どういう結末を迎えるのか――。
名前が出ていないあたり、今後の扱いがお察しな生徒会長(ガチ)
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それは秋の日のこと。
「それでは初めに、文化祭実行委員の委員長と副委員長を選びたいと思います。誰か、自主的にやりたいという人は?」
生徒会長がよく通る声で室内の生徒に呼び掛ける。現状はただ単に、各クラスから寄せ集めた人員に過ぎない文化祭実行委員。それをまとめ上げて、より良い文化祭にしようと率先して動いていくのが委員長の基本的な役割だ。当然であるが、少なからずリーダーシップを求められ、尚且つ適当な様では許されない。大袈裟に言ってしまえば、成功するか否かの是非が直接肩に掛かってくる。
「……いませんか? 誰か」
「……おい、お前やれよ」
「やだよ。責任やばそうだし」
「私もあの……えっと、ほら。勉強とかあるし」
「そうそう。暇じゃ無い、っていうか……」
案の定、手は挙がらない。なんだかんだと理由を並び立てているが、彼らの気持ちはおおよそ等しく「面倒だから誰かお願い」である。半分以上、下手すれば七から八割が自分の意思とは関係無しに選ばれた者だった。やる気が全くないというワケでは無いが、積極性に溢れることもない。会長はさらりとその長い黒髪を撫でながら、心底頭が痛いというようにこめかみを抑えて。
「……あー、ごめんなさい。ちょっと私からひとつ、あなたたちに言いたい事が――」
「なら俺がやるよ、実行委員長」
さらりと、まるで大きな荷物を運んでいる女子を見て、微笑みながら「持とうか?」と問い掛けるような自然さで放たれた一言。声の主を見るまでもなく悟りながら、向こうの“性格”を考えるとあまりにも信じられなくて、生徒会長はばっとそちらへ振り向いた。顔の隣辺りまで手を挙げながら、上慧蒼はにっこりと――穏やかな表情で睨んできた彼女を見返す。
「……今の発言、どういう意味かしら」
「だから、俺がやろうかって」
「ふーん……あんたが」
「うん」
竜虎相まみえる、と言うよりも、傍から見れば蛇に睨まれた蛙だった。敵意も悪意も一切なしの蒼に対して、生徒会長は人を殺せそうなほど鋭い視線を只管に向けている。受け止める方も受け止める方で、何ら気にした様子も無く頷いているのだから尚のこと。イメージとしては危機察知能力の低い蛙が真後ろで大口を開かれながら、元気にげこげこと鳴いている。尤も彼自身は、その蛇が脅してくるだけで食べないことを知っているのだ。
「……ま、良いんじゃない? それならそれで。変なことにはならないでしょう」
「……意外とあっさり認めてくれるのか」
「この様子じゃ待っていても仕方ないわよ。とにかく決定にするけど、異論は?」
僅かにざわついていた教室が、しんと静まり返る。生徒会長は彼に向けていたものから一段階強さを落として、ずらっと並んだ生徒を見回した。特に不満そうな様子は見受けられない。ならばあとは、この男がどう引っ張っていけるか。蒼が一つのグループの先頭に立って舵を取ること自体稀、もとい今回が初めてとなる。不安要素は無くも無かったが、どうせ何とかするだろうと生徒会長はすっぱり決め付けておいた。
「じゃあ、実行委員長は上慧蒼で決まり。あと司会進行よろしく」
言うだけ言って、すたすたと彼女は出入り口の扉まで歩いていく。蒼は最後まで居るものかと勝手に思い込んでいたが、よくよく考えれば向こうの立場は生徒会長であって文化祭実行委員とは本来何の関係もない。わざわざこうして出向き、ほんの少しだけ力を貸したのは生徒会執行部としての役目故か只の気まぐれか。恐らく前者だと直感しながら、彼は気になったことを去っていく背中に聞く。
「生徒会長、副委員長はどうするんだ?」
「あんたで勝手に決めるか立候補でも待つか。好きにすれば良いわ」
「そっか、ありがとう」
「……礼を言われるようなことをした覚えはないのだけれど?」
最後に一言そう呟いて、彼女は後ろ手にがらりと扉を閉めた。
◇◆◇
「……ふう、疲れた」
「お疲れさまだな」
時刻は午後六時過ぎ、若干薄暗くなり始めた第二生徒会室で、ねぎらいの言葉をかける一夏を横に、蒼はぐったりと椅子に体を預ける。あの後、副委員長は二年生の男子が名乗り出たことで無事承認。それから一通り開催日までの流れを確認して、話し合いの後に解散となった。第一回目の集会結果は委員長及び副委員長の決定、その他は進捗ナシということになる。まあ、最初はこんなものだろう、と落ち着いて捉えながら。
「しかし、蒼は会長と仲良かったんだな。あんなに熱く見詰め合って」
「それ、本気で言ってるのか?」
「冗談だ、冗談。いやまさか、校内トップワンツーが従姉妹とは」
これも血筋っていうヤツか、と一夏が呟く。そう思ってしまうのも仕方ないが、現実は向こうが並外れていただけ。ズルをして安定した高得点を叩き出している蒼と、一から学んでそれに追随するほどの結果を出している彼女では比べものにもならない。高校、大学と進んでいけば自然と成績も落ち着いてくる。その頃にはきっと天地の差が開いているだろうな、と思いながら蒼はぼうっと天井を見上げた。
「……というか、本当に思いきったな。まさか委員長とは」
「我ながら似合わないことしてる自覚はある。人の前に立つ事自体、好きじゃ無いのにね」
「俺も驚いた。でもまあ、会長の言った通り、変なことにはならないだろうな」
「……だと良いんだけど。何分、こういうことの経験が無いから」
人生二度目にして初挑戦。無論、人よりも不安は大きい。生まれ変わって十四年だと認識してはいるが、記憶は前世を含めた約三十年分にもなる。知らないコトに拒否反応を示すほどでは無いが、多少の緊張はあって当たり前だ。
「一先ず、請け負ったからには成功させたいかな、文化祭」
「いつになくやる気……なのは勿論か。ま、俺も協力するよ、委員長」
「やめてくれ、くすぐったい。……っていうのも、慣れないと駄目か」
「そうだぞ。これから随分頼りにされるだろうからな」
からからと笑いながら、彼女は鞄を担いで腰に手を当てる。帰ろうぜ、という意思表示だろう。日が大きく傾いた時間帯、本来なら既に家で寛いでいるぐらいだ。蒼だって何時までもこの部屋に籠もっているつもりはない。どうせ嫌でもこれから数週間、平日は毎日お世話になる。事前に用意されていた文化祭関連の資料を鞄に詰め込んで、手に提げながら立ち上がった。
「そういや、同じ学校ってことは会長もこの近くだよな。近所なのか?」
「ううん、向こうは二駅離れた隣町から来てる。大体、近くだったら昔から君とも顔を合わせている筈だろう?」
「……それもそうだな。近くても小学校までロクに顔を合わせなかった奴が目の前に居るけど」
「良いじゃないかそのぐらい。こうして仲良くなれたんだから」
「結果オーライって感じか? 悪くはねえけど」
第二生徒会室から出て、がちりと扉に鍵をかける。あとは昇降口近くの事務室に返せば終わりだ。落とさないようにしっかりと握って、二人は誰もいない廊下を一階に向かって進む。外からは部活動に励む生徒のかけ声。活発で明るい印象を持たせるあちらとは対照的に、校舎内に響くのは寂しげな靴音だけだ。ふと、蒼は思い出して、なんとなく話を切り出した。
「一夏」
「おう」
「あと、半年だ」
「……ああ、そうだな」
何のことを言っているか、一夏は瞬時に理解する。
「やっと半年だ。随分長いな、一年って」
「本当にね。最悪の事態が起こっていないだけ、マシだろうけど」
「だな。これなら無事男に戻れそうだ。あーくそ、早く三月にならねえかな」
「気が早いって、全く……でも、心配は要らないか」
苦笑して、蒼は前を向きながら思う。半年というのは何も織斑一夏が女の子として生きる時間だけではない。その頃になれば、進学先も真の意味で決定している筈だ。一夏が元に戻れた場合、己という存在が関われるのは恐らくそこまで。きっと彼の側に居る友人という誰でもなれる役目は、ゆるやかに終わろうとしていた。
天災「いや逃がすわけないよ?」
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もう限界、いやあと少し。
会議は踊る、されど会議は進まず。実際踊るワケではないが、進まないのは確かだった。文化祭実行委員が活動を始めてはや一週間。本日の集会も進捗無しの状態で解散となりながら、蒼は重い息を吐く。
「委員長お疲れー」
「ああ、うん。お疲れさま」
「おつでした委員長。また明日っす」
「また明日。気を付けて」
部屋から去っていく生徒に挨拶を返しながら、ふと山積みになりつつある作業を思う。一体どこから手を付けて良いものか。慣れたことではないものを、初めから完璧にこなせないのは百も承知。知っていながら引き受けたのは蒼自身だ。どうにかできる筈、ではなく、どうにかしなければいけない。肩に掛かる重圧と迫り来る期限に挟まれている。全くもって楽なものじゃない、と蒼は椅子をぎしりと鳴らした。
「じゃ、俺も帰ります。委員長」
「ん、お疲れさま、副委員長」
「わざとらしいッすね、その言い方。……先輩が少しビシッと言ったら、この状況もちょっとはマシになると思いますよ」
「そうかな」
後輩の真剣な一言に、苦笑いで答える。副委員長に立候補した彼はおおよそ実行委員の中でも真面目な部類で、細かい手助けは非常に助かっている。決して意欲的と胸を張って宣言するぐらいの心持ちではないが、なってしまった以上は手を抜かずにやるという感じ。蒼としては何となく、分からなくも無い。
「文化祭は楽しみでもこういうのはあまり、ってことじゃないすかね。俺も同じようなもんなんで、何とも言え無いっすけど」
「そこをどうにか出来たら変わる?」
「いや、分かんないすよ。それに、決めるのは委員長の仕事でしょうし」
「……まあ、そうなんだけど」
予想以上に、文化祭実行委員長という看板は大きい。クラス単位で二人ずつというのは意外にも馬鹿にならない数だ。小さな部活動一つは優に超えている。蒼にまとめ役としての経験があれば綺麗に動かせたかもしれないが、あいにくいつもまとめられる側だった。からりと戸を閉めて離れていく足音を聞きながら、彼は今一度溜め息を吐く。お世辞にも順調とは言えない事態。
「なんていうか、あれだな。話し合いは弾んでるのに、何故か結論だけが出ないみたいな。途中でどこかに消えてるよな」
「最後に落ち着く形が無いんだ。だから、あやふやでぼんやりとしたまま、一旦置かれてそのままにされる」
「あー……なんか分かるような、分かんねえような。でも多分その通りだ」
「結局君もあやふやで片付けてるじゃないか……」
蒼の隣で組んだ両手を後頭部に回しながら、一夏はぼうっと部屋の中央に取り付けられた明かりを見詰めて言った。隅の方にかけられたカレンダーが捲られて十月に切り替わり、朝も冬の到来を若干感じさせる冷気を帯びつつある。このような時に限って、時間の流れは早い。皮肉にも、二人にとって嬉しいことですらあるのが、何とも言えない事実であった。
「嫌な予感がするよなあ。なんつうか、大やけどしそうだ」
「やけどならまだ良いかもしれない。火事すら起きなかったら笑えないだろう?」
「そりゃあ本気で笑えねえ。最後の文化祭が文字通り黒歴史とか嫌だぞ」
「俺だって嫌だよそんなの。だから、頑張らなきゃいけない」
すうと息を吸って、小さく拳を握る。ノリと雰囲気と場の空気、それだけで全部が上手く回るのなら苦労しない。そも、現在進行形で苦労していた。夏から秋にかけて気温の変化もある。体調も気を付けなければ、壊してからでは遅い。なによりこの時期に寝込むなど以ての外。己から手を挙げておいて、従姉妹で会長の彼女に笑われるというものだ。
「とりあえず、俺たちも今日は帰ろう。ずっと居ても良い事ないし」
「そうだな。しっかし、やっぱこの時間まで居残ると腹減るなあ」
「コンビニでも寄って帰ろうか?」
「ははは、登下校の寄り道は原則禁止だ。この不良生徒め」
何気ない会話をしながら、そっと彼は鞄の中に紙束を詰め込んだ。面倒な書類整理は誰も好き好んで手を付けない。だが、家でも出来るという点を見れば簡単に済ませられるものでもあった。少なくとも、会議を必死で回すよりかは自分に似合った仕事だろう。少しぐらいなら問題ない。そう思って彼は、この日の第二生徒会室を後にした。
◇◆◇
「はあ、そんなことになってんのか実行委員」
「おう。蒼が毎日頭抱えてるもんだから、何とかしたいんだけど」
「うーん……あいつなら大丈夫なんじゃねえか? 案外強いしよ」
翌日、珍しく一人で登校すると蒼からの連絡を受けた一夏は、彼が来るより先に教室にて弾と話し合っていた。内容はもちろん文化祭実行委員会。彼女も出来る限りの手助けを行い、せめて滞らないようにしようと奮闘しているのだが、結果は話の通り。絶望的なまでに士気が低いわけでは無いのだが、成功を収めるには少し足りない。何かが欠けている、という印象を一夏は持っていた。
「大丈夫かねえ……」
「ああ。なにせ鈴に堂々と“胸の大きさは関係無いんじゃないか?”って言い放った男だからな。あの時の昇龍を俺は忘れないぜ」
「初耳だぞそれ。……あいつも洗礼を受けてたんだなあ」
「洗礼っつーか俺ら等しく自業自得だけどな」
話聞いてから昇龍余裕でした、と凰鈴音は語る。胸に関する話題が鈴にとって特大の地雷に直結すると分かっておきながら、それでも蒼が伝えたのは決して考え無しの行動ではない。織斑一夏に対する好意を抱く彼女に、一夏が胸の大きさで女性を好きかどうか判断するのかという不安を解消させてあげたかったという善意だ。無論、鈴自身から切り出してもいないのに口走った彼にも非はあるが。
「おはよう」
「あ、おはよー上慧っちー……って目ぇやばっ!? なにそれメイクでもしたの!?」
「いや、全然。ただの寝不足だと思う」
と、件の人物が挨拶と共に少しの騒ぎを起こして教室に入る。気になる内容を耳に入れた二人は、ばっと揃って机に向かい歩いてくる蒼を見た。
「……おいおいどうした。マジでアイシャドウ塗るのミスったか?」
「だから化粧じゃ無いって。というか、化粧出来るなら隠してる」
「蒼、お前その目……」
「うん。いや、本当に予想外だった。まさか一日でこんなになるなんて」
そう呟く彼の目元には、まるで何日も徹夜を続けていたかのような深い隈。普段が割と健康的な肌色をしているためか、余計に差異が目立つ。が、化粧かと疑われたのは当然と言えば当然で、蒼の態度は如何にも普通だった。平常通り薄く笑って、かつかつと小さく踵を鳴らしながら、本日もワイルドに学生服の前を開けている。外見のみの変化。到底寝不足とは思えない動き。本当に疲れているのかと、誰もが疑った直後。
「あっ」
「ん?」
「え?」
がつん、と。
「――――~~~っ」
「あ、あの蒼が……」
「足の小指を……ぶつけた……」
無言で頽れて鞄を床に放り、蒼は打った方の足をぎゅっと押さえる。声にならない苦悶の吐息を漏らす姿を見ながら、彼ら二人は確信した。間違いなく寝不足だ。しかも割と疲労感が抜けていない状態だろう。これには弾と一夏も外国様式の大袈裟なやれやれである。
「大丈夫か? 救急車呼ぶか?」
「どう考えても要らないだろう
「大丈夫か? AED使うか?」
「
最低限、突っ込む元気はあるようだ。
「で、なにがあった」
「いや、昨日、家で文化祭の書類整理してたら、つい……」
「次の日に響くんだからそこはキリの良いところでやめておけよ」
「うん。反省してる。今度からは気を付けないと」
ゆっくりと椅子に腰掛けながら、蒼は鞄から教科書を取り出して机に放り込む。幸いな事に今日の授業に体育は組み込まれていない。大方大丈夫だとは思うが、ここまでの様子だと一夏も少し心配になる。――まあ、そんな事があったからかどうかはともかく。その日の集会もまた、殆ど進まずに終わったのは言うまでも無い。
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知恵熱・高熱・友情の熱。
文化祭まで残り三週間を切った。実行委員の進行度とは裏腹に、蒼の焦りは加速度的に伸びていく。毎日会議が終わった後に学校で出来る簡単な作業、帰宅してからは持ち帰って処理できる書類等々の整理。出来る部分は率先して片付けているが、肝心要の大部分は全員が一丸となって取り組まなければ意味が無い。と言うよりも、一人の力ではどうにもならないのが現状だ。
「文化祭ねえ……あいつなら何となく、どうにかしてくれそうな気はするが」
廊下でぽつりと溢しながら、五反田弾は友人の話を思い出す。つい先日、酷い寝不足の状態で登校してきた件の人物は、その後も目元の隈が取れていない。恐らくは睡眠時間を最低限倒れない程度には削っている。だが、無理をしているのは明らかだった。日頃の動きを見ていれば察するというもの。時折授業中に船を漕いでいたり、体育のバレーボールの授業で顔面レシーブを行う始末だ。
『疲れてるんだろうに、一切顔に出さねえんだから俺も勘違いしそうだわ。ホント、ガワだけ見てりゃ至極真っ当に健康体なんだがなあ』
クラスメイトの女子による粋な計らいもあって、蒼の隈は巧妙に隠されている。元々前髪が長かったのもあって、すれ違うぐらいの登校中は勿論、学校に来てからは化粧効果で気付く人間は殆ど居ない。知っているのは三年生の中でもA組だけだろう。反応や動作が鈍くなっていたり、言葉がおかしかったり、ぼうっとしているワケではない。言ってしまえば彼の疲れによる失態は、元来持ち合わせていたマイペースで天然気質な部分がふと出て来たとも捉えられた。
『流石は成績優秀なだけあってか、先生達も特に気に掛けてねえし。考えてみるとマジであれだな。悪い部分がめちゃくちゃ重なってるぞ文化祭実行委員……!』
最高学年になってからも一位をキープ、おまけに新たなトラブルを抱えてきた織斑一夏のフォロー、更には彼自身大きな問題を起こしていない、とくれば教師陣の見る目も変わって当然だ。比較的柔らかい雰囲気と落ち着いた口調というのもある。服装はまあアレだが、髪の毛を弄っていないのは大きい。黒髪黒目の優等生。問題児的側面は一先ず置いておくとして、信頼するのはおかしくないかと弾は考えた。
『あいつも一夏と同じで変なトコが頑固なんだよな。絶対投げ出さないだろうし、下手すると全部一人で背負い込み――』
「ねえねえ聞いた? 上慧先輩、委員の活動終わってからも残って色々やってるみたいだよ」
「あー、委員長、たしかに真面目だもんねえ。そりゃあやるよねえ」
「あたしらも頑張らないと。もう文化祭まで時間ないし!」
「だね、そろそろどうにかしなきゃいけないんだろうけど」
ふと、すれ違った女生徒の会話が耳に入る。くるりと振り返ってタイの色を確認、己の目と記憶がおかしくなければ二年生。がんがんコミュニケーションを取るようなタイプではない蒼だ、一つ下の女子にまで情報が行き届いているということは、実行委員内の彼に対する認識としてほぼ間違いない。がしがしと後頭部をかきながら、むうと弾は唸った。
『他の奴らのやる気がないってわけじゃあねえのか。かと言ってまとめ役に対する不満もない。なら何が問題だ? 単純に上手くいってないだけか?』
実行委員会が始動してしばらく経つ。その間、どん詰まりとも言うべきレベルで滞っている理由が“上手くいっていないだけ”の筈がなかった。原因がどこかにきっとある。数秒に渡って頭を回した弾は、「あっ」という声と共にぴんと来て。
「……あー、そうか。もしかして、不満がなさ過ぎて回ってねえのか? ……いや、我ながら意味分からん推理だな。やめだやめ、こんなの似合わん」
ぶんぶんと首を振って、折角出した答えを記憶の彼方へ追いやる。が、強ち間違いとも言い切れないあたり、直感は優れている方か。文化祭実行委員として見れば、蒼はたしかに正しく努力していた。きっと誰も文句はないぐらいに、やれることからコツコツと消化している。が、大事なのは文化祭実行委員長として見た場合だ。
「あれだ。人に頼るっていう選択肢を用意出来ないのは、あいつの悪い癖だな」
一人で何でも出来ると思い込んではいなかった。上慧蒼はそこまで傲慢になれる性格をしていない。誰にも頼らない、等という薄っぺらいプライドも持ち合わせていないだろう。故にこそ、彼は追い詰められた時、人に頼らないのではなく、人に頼るということを前提条件として考えられない。今まで自分一人で抱え込んで片付けてきた経歴でもあるのか。だとしたらいつ頃の話か。そんな不思議なことをぼんやりと想像しながら、弾はがらりと教室の扉を開けて、チャイムと同時に足を踏み入れた。
◇◆◇
日時はその翌日になる。
「――倒れた、ってお前大丈夫か!?」
現在早朝、午前六時を過ぎたあたり。突然友人から掛かってきた電話は、その本人がトイレに行く途中で意識を失ったという驚きの情報から始まった。無論、一夏としては落ち着いていられない。髪を梳かしながら、肩と耳の間に携帯を挟んで問い返す。
『うん、一応平気だ。どうも、疲れから熱が出てたみたいで』
「そうか、ちなみに何度だった?」
『今朝の時点で38.6℃』
「……お前今日絶対学校来るなよ」
微熱かと思えば、そこそこの高熱だ。真剣な声音でそう言うと、彼は一言「分かってる」とだけ返した。己の限界を見誤った、とはまた少し違う。恐らくは平常通りであった場合、蒼は疲れによる多少の
『一応、病院にも行かないといけないし、今日は休む。……そもそも、どう無理したって学校に行かせてもらえない』
「は? それどう言う――」
『蒼、なにやってるんだ。ベッドから抜け出して。全くもう、寝てなきゃ駄目じゃ無いか』
「…………ん?」
聞き慣れない男性の声が電話越しに聞こえる。はて、たしか彼は一人暮らしで、両親も長らく家を空けている筈なのだが。
『父さん……』
「父さん?」
『ほら、お粥もすぐ出来るから大人しくしてること。そんなに動いたら治るものも治らないよ?』
「……もしかして、蒼の、だよな。どう考えても」
ああ、と短く正解の返答。どうやらこの間の体育祭同様に、久方ぶりに親が帰ってきているらしい。しかも今度は父親の方だ。なんともタイミングの良いことか、一夏は神がかり的な友人の状況に苦笑する。
『というわけなんだ。意地でも外に出してくれそうにない。出るつもりもないけど、安静にしないと父さんが煩いから』
「むしろ存分に休んでくれ。でないと俺も取り押さえにお前の家まで行くぞ」
『……それは勘弁願いたいな。ああ、本当、なんでこんな時に限って。文化祭までもう時間が無くなり始めてるって言うのに』
「はあ……」
ここに来て自分の体調よりも実行委員としての仕事を気に掛けるあたり、何とも委員長としての意識はしっかりしているというか。一夏としては体の方を第一に考えて欲しかったというか。複雑な思いだが、彼らしいと言えばらしい。
「……なんとかするよ、今日一日ぐらい。だからさっさと元気になれ」
『――そっか、分かった。じゃあ、頼んだ。一夏』
「おう。任せとけ」
笑って答えれば、ぷつりと通話が切れる。追い詰められた時、上慧蒼は人に頼るという選択肢を自分から用意出来ない。すっぽりと抜け落ちるように、一人でなんとかしなくてはという思考に無意識下で囚われる。それを知ってか知らずか、自然と彼から引き出した彼女は――
「よし、今日も一日頑張るか」
異様に長い文化祭の理由は後々なんとなく皆さん察すると思います。
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リスタートは目の前に。
学校に着いた一夏が真っ先に向かったのは、第一生徒会室――文化祭実行委員が会議を行っている部屋とはまた別の、その名の通り生徒会執行部が活動の拠点にしている一室である。教室の方を確認しても見当たらず、しかし登下校の時間は間違いなく一夏より早い。がらりと扉を開けて中を見渡せば、目当ての人物はそこに居た。
「……織斑さん? なにかご用でも?」
「ああ。ちょっと、生徒会長に頼みがあって」
「頼み?」
怪訝な表情で、彼女は首を傾げる。今日ぐらいはなんとかする、とは言ったものの、まとめ役である委員長の欠席は一夏だけでどうにか出来るほど軽いものではない。そもただの役員である己が頑張って出来ることなど高が知れていた。停滞する会議を上手く進めるような手腕も、強引にやる気を誘って士気を高める方法も持ってはいないのだ。
「文化際実行委員、今日だけで良いから手伝って欲しいんだ」
「……それはどうして? 上慧のやつが放り投げでもしたの?」
「いや、むしろ逆って言うか……頑張りすぎてぶっ倒れたというか……」
「――そう。ああ、そういうこと」
ぎしりと椅子を鳴らして、生徒会長はふうと息を吐いた。恐らくはこの学校で一番、話し合い等でのまとめ方を熟知しているであろう人。経験の有無だけで言えば、蒼とは比べものにならない。一年間この中学の看板を背負ってきた実績は伊達ではなかった。
「いつかはやらかすと思ってたけど、案外早かったわね。体調は大丈夫かしら?」
「そこまでキツくはなさそうだったかな。まあ、電話だからよく分かってないけど」
「なら平気ね。どうせ明日にはけろっとしてるでしょう」
「…………会長、もしかして蒼のことそこまで嫌いじゃ無いのか?」
ぴくりと眉が動く。露骨な反応だった。「ん?」と一夏は首を傾げながら生徒会長を見詰める。容姿端麗、文武両道、才色兼備とはまさにこの事。割と何でもできる彼女にとって、従兄弟でありながら唯一自分の実力を上回っている彼がどう見えているかと言うのは簡単で。
「はあ!? 嫌いよ嫌い。あんな軟弱野郎。あいつが居なければ私が学年一位なのに」
「……そ、そっか。うん。なんか悪い事聞いたな。ごめん」
「本当に嫌いよ、あんなやつ。ひ弱だし、力は無いし、服装はだらしないし、髪の毛も伸ばしたままだし」
「お、おお」
「あと怒らないし、鈍いし、何考えてるか分からないし、生徒会の誘い蹴るし、そのくせ文実には参加してるし、私より頭良いし、……ちょっと格好良いし」
ぼそりと小さく、最後に付け加える。
「……生徒会長?」
「んんっ。――なんでもないわ織斑さん。忘れて。というか忘れなさい」
「あ、は、はい」
「……一先ず話は分かりました。あの馬鹿が体を壊したので手伝って欲しい、と」
こくりと一夏が頷く。先の愚痴は置いておくとして、当初に想定していたものよりかは遙かに好感触だ。初日の蒼に対する態度からもっと苦戦すると思っていたのだが、これならばいけるか。ごくりと生唾を飲み込みながら、顎に手を当てて考え込む生徒会長の返答を待つ。
「肝心の文実だけど、大体どこまで行ってるの?」
「それが、その……まだ、全然」
「…………あと三週間もないのはご存じで?」
「はい、知ってます……」
知ってはいるが、昨日も今日もどうにもならなかったのである。そも、順調に進んでいたのなら蒼が無理して倒れることはない。なんとかしようと張り切って無理をした結果だ。
「……了解、手伝えばいいのね?」
「手伝ってくれる、んだよな?」
「ええ。まあ、色々問題抱えてそうだし。……なんなら一つやってやるのもありね」
「? それってどういう……」
「なんでもないから気にしないで」
ひらひらと手を振って、彼女はにこりと笑った。どことなくそれが蒼のものと重なる。やっぱり似るものなのか、と口に出せば必ず地雷を踏み抜くと直感した一夏は、黙って立ち去る事にした。鈴と過ごした数年間で鍛え上げられた直感だ。尤も、機能する割合はおおよそ二割にもいかないが。
「あ、そうそう織斑さん」
「――っと、ん?」
「上慧は向こうから来るような男じゃないし、自分から行く勇気が無いならやめることをオススメするわ」
「……俺と蒼は別に変な関係じゃないぞ!?」
あら、と最後にとぼけたような顔をしたのを見届けながら、一夏は勢いよく後ろ手に扉を閉めた。
◇◆◇
一方その頃、熱を出して寝込んでいる蒼はというと。
「はい、あーん」
「ストップ。父さんストップ。なんだそれ」
「お粥、だけど?」
「違うよ。それ、その行動。良いからそれ、自分で食べられる」
「……久々の我が子とのスキンシップなのに」
反抗期かな、と肩を落とす父親からお椀とレンゲを受け取って、黙々と口に運ぶ。良いか悪いかで言えば、文句が出ないほど良いタイミングだった。廊下で気を失った蒼を発見し、彼の自室にあるベッドまで運んだその人は、なんと都合の良い事に本日特別休暇を貰ってきたらしい。
「もう大丈夫だから、父さん。あとは一人でなんとかなる」
「本当に? 蒼は小さい頃にも倒れて。その時はお父さんもう心配で心配で」
「……それは昔の話だろう。もうずっと強くなってる」
「今日だって倒れてたのに?」
うっ、と蒼が言葉に詰まった。直接的な原因としては生来の貧弱さなど関係無いのだが、やはり無理をして熱を出すということの根本的な原因がそれにあたる。言い訳は出来ない。倒れるほどの無茶をしてしまったのは自分だ。
「……ごめん。ありがとう、助かったよ父さん」
「うん。えらい、ちゃんとお礼が言えた」
「俺を幼稚園児かなにかと勘違いしてないか?」
「そんなことはない」
いやあ大きくなったねえ、と呟きながら頭を撫でてくる父親になんとも言えない不安を覚えつつ、蒼はもぐもぐとお粥を咀嚼して窓から空を見上げた。どうしても頭を過るのは実行委員のことだ。一夏にはああ行って引き受けてもらったものの、本当に大丈夫だろうか。よもや更に酷い状態にはならないと思うが、かと言って前に進むかというと正直望み薄。
「……さっきの電話。文化際の準備、上手くいってないのかい?」
「まあ、ちょっと。仕切り役が俺だから、本当はもっと頑張らないといけないんだ」
「そうなのか。うん」
頷いて、蒼の父親はにこりと笑顔を向けながら。
「――相談に乗ろっか。その話、父さんに聞かせてくれない?」
「……面白くないけど」
「良いから、ほら」
促されるがままに、彼は父親へ昨日までの流れを全て隠さず話した。文化祭実行委員の委員長になったこと、初日から一向に上手くいっていないこと、開催まで時間に余裕がないこと、そうして己の無理が祟って今のようになったこと。抱えたものを吐かせてすっきりさせる、ぐらいのものだろうか。なんて考えていた蒼にとって予想外。話を聞き終えた父親はゆっくりと閉じていた瞼を持ち上げて、真剣な顔のままに口を開き――
◇◆◇
洗面台の前に立って腰を曲げ、ばしゃばしゃと顔を洗う。ひんやりとした冷水が眠気覚ましにちょうど良い。置いていたタオルで水気を拭い、鏡の中の自分とご対面。
「……顔色は割かし良いな。隈も大分薄い」
一日しっかり休んだお陰か、体の調子はすこぶる良好だった。今朝の時点で熱はもう治まっている。外から鳥の鳴き声が聞こえてくる早朝、久々の軽い肉体にほんの僅かな感動を覚えながら、蒼は「よし」と独りごちる。
「迷惑かけた分、取り戻さないと」
たかが一日、されど一日。軽く捉えているようではいけない。今一度気を引き締めながら、蒼は瞼にかかるほど伸びた前髪を持ち上げる。目も充血はしていない。ここ数日の中では間違いなくトップクラスに健康的な状態だ。
「……あ、そうだ」
ふと思い出して、ごそごそとズボンのポケットを漁る。こつんと爪に固いものが当たる感触。これも忙しさを象徴するものだ。自宅での作業時のみ、前髪を留めるために使っていたヘアピン。
「……まあ、どうせ見えないだろうし」
集中、気持ちの切り替え、意味は色々あれど、言わば願掛けのようなもの。ついでに前髪をさっと整えて、目立つ位置は嫌なので横側――耳の上あたりでうまく留める。蒼自身としては付けている感覚さえあれば十分。ちょうど彼の長い準備が終わったところで、来客を告げるチャイムが鳴った。いつも通りにはいと返事をしながら、玄関まで向かい扉を開ける。
「よっ、元気になったかそ……う……?」
「? おはよう、一夏。もう元気だけど、どうかした?」
「……なんか、雰囲気が変わった?」
「そうか? まあ、それならそれで」
くすりと笑って、彼ははっきりと。
「今日から忙しくなる。絶対成功させるぞ、文化際」
自信に満ち溢れた様子で、明るく宣言した。
お前(文化際パート)長いんだよぉ!
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上慧蒼がお送りいたします。
「あっ、おはよー上慧っち! もう元気な……の……?」
「おはよう有守木さん。全然大丈夫だから気にしないでくれ」
「……ねーねー織斑っち。なんか上慧っち、変わった?」
「うん、変わった。気合い入れ直したんだと」
「へえー……十分今までも気合い入ってたと思うケド」
ひそひそと話す二人を横目に、蒼はぐるりと教室中を見回す。思えば新学年になってから波乱の連続で、こうしてゆっくりと周りの様子を窺うことも少なかった。一つの場所に固まってわいわいとお喋りに興じる女子、机に腰掛けながらがやがやと騒ぐ男集団、ひっそりと誰にも邪魔されず読書を続ける文化系もちらほら。同様に分類するとすれば、自分たちはまた別枠に入りそうだと苦笑する。
「うん、今日もあれ頼むよ。有守木さん」
「オッケー、任せときなって! ま、結構薄くなってるし、そのぐらいの隈を隠すだけならラクショーよ」
ふふんと胸を張って彼女は答える。連日の寝不足による酷い顔を誤魔化してくれた目の前の人物には頭が上がらない。教師や実行委員の生徒に要らない心配をかけないためのものだったのだが、倒れた今となっては役割も半分ほど。しかしながら病み上がりの現状、隈を残しておくのは得策では無かった。完全に回復した姿を見せなければ格好が付かない。
「――って、あれ? 上慧っちがアメピン付けてる」
「……お守り的なところなんだ。一応内緒で」
「なんでー? 可愛いよー上慧っち。凄く似合ってるよー」
「……からかわないでほしい」
にやにやと笑ってくる相手からそっと顔を逸らせば、まだ途中だからと強引に引き戻された。きちんとした理由を持ち出されては抵抗するのも憚られる。元を正せば蒼が是非ともと頼み込んだこと。仕方なく彼はそのまま、メイクが終わるまでじっと待ち続けた。
「よし完成。うーんばっちり。なんなら髪型もあたしがやろっか?」
「それは遠慮しておく。とにかくありがとう」
「良いって事よー。困った時はお互い様、ね!」
「……確かに、そうかもしれないな」
去り際に放たれた一言を、内心で噛みしめる。世の中、一人ではどうしようもない事が沢山ある。特に優れた技能を持っていない蒼なら尚更、その壁はしょっちゅう現れるものだ。そも、人間は基本的に集団の中で生きる種族だ。誰かの力を借りなくてはいけない時は、遅かれ早かれ必ず来る。そんな事、もう既に知っていた筈だというのに。
「おお、やっぱり目の隈が取れると余計に違って見えるな。……髪切った?」
「切ってないよ。ちょっと整えたんだ」
「なるほど。そう言われると、ああ、納得した。うん、似合ってるぞ」
「まあ、文化際が終わるまで、期間限定だけど」
スイッチのオンオフ、というやつか。前髪が視界を邪魔しない光景はすっきりして気持ち良いが、同時にどことなく落ち着かない。ピンを付けている感覚もあって、休むという意識からかけ離れた状態だ。平常時より気分もノリも当社比三割増しである。完璧に活動形態。蒼は口の端を吊り上げて、ぱちりとワイシャツの第一ボタンを外した。
「露出か変態」
「違うよ、堅苦しいじゃないか。かっちりとした格好は」
「実行委員長のくせに……」
「うん。実行委員長だ。だから存分にやっていく」
これはまあどちらかというと崩した服装が好みという蒼自身の趣味も入っているが、何はともあれ期間が差し迫った文化際。止まっていた流れは本日、遂に動き出した。
◇◆◇
『蒼がやってることって、委員長っていうより普通の委員に近いんじゃない? ……もっと言えば副委員長ぐらいかな』
『って、言うと……?』
『だって蒼は委員長さんなんだろう? その中で一番偉い人だ。なら、自分一人じゃ無くて、みんなを引っ張らなくちゃならない』
『……一応、会議とかでは率先して進行役やってたりするんだけど』
『それだけじゃ足りない。蒼は遠慮しすぎなんだ。もっと偉ぶって良いよ』
『偉ぶる、って言われても』
『難しいことじゃないさ。指示を飛ばして、意見を聞いて、最後に判断する。で、駄目だったら頭を下げて、良かったら笑顔でみんなに伝える。蒼はその文化祭実行委員を任されたワケなんだから』
『……そんな簡単に行くかな。大体、皆が付いてきてくれるかも――』
『ああ、そこは大丈夫。きっと蒼なら、なんだかんだで付いてきてくれるよ』
◇◆◇
「つまり、今までは俺が委員長として動けてなかったんだ」
「あー……そういう」
「うん。ずっとやれる事だけやってたけど、一番上の人間がそれじゃどうにもならないよな。考えれば分かることだった」
「……おいおい、お前本当に蒼か? 自分で一番上とか言うなんて」
授業が終わった直後、夕暮れもまだ先の廊下。放課後を告げる鐘の音を聞きながら、蒼と一夏は並んで第二生徒会室に向かっていた。足取りは普段よりも目に見えて速い。億劫とまではいかないが、少なからず憂鬱な気分で歩いていた部屋までの道も、今となっては何ともなくなっている。十月になってからここまで気分が良いのは初めてだった。自然と、蒼の頬は緩む。
「言うよ。この際だけは言わせてもらう。ナルシストで結構。そのぐらいの気持ちじゃないとやっていけない」
「らしくねえことを……と言いたいところだが、お前らしいのも分かるのがなあ」
「これでも緊張はしてるんだ。まあ、だからってやめる気は毛頭ないけど」
言い切って、蒼はゆっくりと歩みを止めた。目の前にはよくあるスライド式の扉、上には教室名の書かれたプレートが飾られている。確認するまでもなく、何度も通った目的の場所はここだ。そっと扉に手をかけて、ひとつだけ深呼吸。体の内側に意識を向けてみれば、僅かに心臓が強く叩かれていた。けれども、言い換えればそれだけ。平常心、平常心、と胸の内で繰り返し、彼本来の落ち着きを取り戻す。
「……よし」
一言呟いて、がらりと、蒼は勢いよく扉を開けた。気付いたのは奇しくもその直後のこと。生徒会執行部が使用している第一生徒会室とは違い、特定の期間しか使われないこの部屋は当たり前のように鍵が掛かっている。開けるには一階の事務室から鍵を借りなければいけない。蒼も一夏も漏れ無く自教室より直行だ。本来ならがたりと揺れて扉が開かない、というオチが付く筈だった蒼の行動は、不思議なことに開くという過程まで進んでいた。それがどういう事なのか。室内から投げかけられた多くの視線に、彼は察した。
「あ、委員長……」
「委員長だ」
「……えっと、これは?」
「あー、そうだったこっちもこうなってたな……」
いやあすっかり忘れてた、と背後で何事かを言う一夏。第二生徒会室には、蒼と一夏を除く実行委員全員が既に揃っていた。いつも真っ先に来ている者は勿論、普段なら五分や三十分待たないと顔を見せない人達ですら座っている始末。一体、自分が欠席した間に何が起きたのか。出鼻を挫かれて戸惑う蒼に、彼らはがたっと一斉に立ち上がって詰め寄った。
「委員長! やってやりましょう!」
「……えっと、何を?」
「文化祭です文化祭! あたしら実行委員ですから!」
「そうそう実行委員! 俺らがやんなきゃいけないって分かりましたから!」
「もう気ぃ抜けたこと言わねえ。過去最高、歴代最高クラスだ!」
「うん……?」
何やら途轍もなくやる気に満ち溢れているようだが、蒼にとっては原因がさっぱり。どう対処したものか混乱していると、一夏がぼそりと耳打ちしてきた。
「……昨日、俺だけじゃ無理だから生徒会長に協力を要請したんだけど」
「会長に……? よく受けてもらえ……っていうか、それでどうしてこうなるんだ?」
「いや、あの人散々煽りに煽ってさ。色々言われて火が付いたのか、共通の敵を見付けたからなのか、ちょっと予想以上に燃え上がって……」
「なにやってるんだ会長……」
たしかに幼い頃から素直では無かったが、そこまで嫌な性格もしていなかった筈だ。蒼に対するあたりが強いのは彼の対応的にもご愛敬。何だかんだと言いながらも、ああ見えて優しい部分がある。考え得る限りでは、どうやっても実像と結び付かない。……ことも無いのが、まあ、ちょっとアレだが。
「絶対あの会長をぎゃふんと言わせてやるわ……」
「うちの委員長が大したこともしてないとかあり得ねえ。少なくとも俺は委員長が頑張ってたことぐらい知ってる」
「鈍行列車より鈍いとか言葉選びがいちいち腹立つのよぉ」
「実行委員とは名ばかりのお話の場ですか
「いやまー実際そうだったし反論も出来なかったんだけどねー……そこがまた悔しい」
ああ、と蒼はなんとなく気付いた。例えるなら着火剤。文字通り彼女は自分を悪役に見立てて、盛大に火を付けてくれたのだろう。本当に素直ではないというか、不器用というか。父親から助言を貰わないにしろ、結局助けられていたということになる。全くもって適わない従姉妹だ。
「そうだね。俺も一日休んで色々考えてきた。皆で最高の文化祭、作ろうか」
「おー!」
「はいっ!」
「いえー!」
「そこはせめて合わせないッすか……」
副委員長の呆れた声が、わーわーという騒ぎにかき消される。文化祭実行委員。上慧蒼を筆頭とした今年度の集まりが、ようやくここに産声を上げた。全ては文化際をより良いものにするために。
「やってやるぞ文化祭ぃー!」
「目指せ満足度九割ぃー!」
「打倒生徒会長ぉー!」
あと、一欠片の不純な動機のために。
謎の会長推し出現に困惑した私です。
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ここから先が君のターン。
頭を回す。周りを見る。手を動かす。全部出来て始めて、自分の役目だ。息を吐く暇も無く動き続ける状況を、的確に判断して指示を飛ばす。下手すると熱でオーバーフローしかねないほど思考回路を加速させながらも、蒼は類い希な集中力でなんとか持ち堪えていた。冷えきった脳内とは裏腹に、第二生徒会室は先日までと比べものにならないほど騒がしい。会議の時間を最小限の報告と進行の確認にのみ割り振った結果、殆どが作業の方に回ったからである。
「委員長! ポスター各教室貼ってきました!」
「ありがとう。じゃあ次は看板の――」
「看板作成終わったぜ委員長! 次は何をすりゃあ良い?」
「早いな。うん。なら君ら合わせて飾り付けのお手伝いに行ってくれないか?」
「「はいっ」」
大体の前準備を担当しているためか、実行委員は意外と体力仕事が多い。運動部に所属している一・二年の男子は単純な戦力だ。副委員長の彼もそれを承知しているのか、動く方が性に合っていると教室を飛びだして奮闘中。結果、時折各員が指示や作業確認に足を運びはするものの、第二生徒会室に残っているのは蒼を基本とした事務処理チームになる。無論一夏もそのうち、というより副委員長に回る筈だった仕事を引き受けているので、実質彼女が蒼の片腕になっていた。
「織斑先輩プログラム確認お願いします!」
「よし分かった、そこ置いといてくれ」
「上慧委員長。クラスの出し物がバッティングしてるんですけど……」
「提出日の早い方から優先で、クラスの人らには急いで伝えて。どうしてもって言うならクラス同士の代表で話し合ってもらって」
「はい、分かりましたっ」
実行委員のトラブル対策書を何度か読んで、苦労しながら覚えた甲斐があった。すらすらと出てくる内容に我ながら驚きつつ、蒼も手元に残った仕事を消化する。他の生徒が自分たちのクラスごとの準備に取りかかる六限終了から最終下校時刻まで、同じく実行委員も動きっぱなしだ。躓いていた分だけ、休んでいる時間はない。
「一夏、有志の参加者集計終わったか?」
「今終わった! あとついでにプログラムだ、揃って見とけ」
「了解。ならもう一つ頼まれてくれ。文化祭当日の行動班を適当に組んでほしい」
「行動班? ……ああ、交代で見張りみたいなことするのか」
昨夜五分で仕上げた、要点を纏めただけの適当なプリントに目を通した一夏が呟く。開催までの準備をしてハイ終わり、とはいかない。そも開会宣言は生徒会長、閉会宣言は実行委員長がすることになっている。最後の最後まで気は抜けなかった。しかも今年は全プログラム終了後、サプライズで何かやろうという提案を取り入れた結果として、終わった後も気の抜けない状態。当初は正直ギリギリのスケジュールではあったが、意外な事になんとか最低限の余裕を持てるほど皆が精力的に働いてくれている。
「本番は午前午後に分けて簡単な見回りをしてもらう。インカムの使用許可も取った。学校の備品にあるからそれを一班にひとつずつ貸し出す」
「本格的だなあ。……って、おい待て蒼。俺とお前で一班固定ってどういうことだ」
「委員長権限だ。ほら、君と一緒が一番やりやすい」
「職権乱用じゃねえか! くそっ、なんつうことを」
ぎっと睨んでくる一夏の視線を華麗にスルーしつつ、有志の発表メンバーに目を通していく。大体はバンド、少ないところでダンス、中には書道パフォーマンスというのもあるが果たしてどうか。なんにせよ、時間的な問題もある。一通りは確認をしてみないと分からない。
「ああ、一応班ごとに固定の位置を担当してもらうけど、俺たちは順次人手が要る場所に対応する形で行くから」
「遊撃隊みたいなもんか、理解した」
「それなら良かった。……問題はこっちになるかな」
参加者一覧をまとめた紙を睨みつけながら考える。当日の体育館使用許可は取るまでも無く降りるだろうが、その前にリハーサルや予選のようなものも含めて、一度場所を長時間貸して貰う必要があった。加えて判断も実行委員で決めなければならない。
「委員長ー! 校内案内図完成しましたー!」
「そっか、助かった。それと続けてごめん、体育館貸し切りたいんだけど、都合のいい日時とか聞いてきてくれないかな」
「お安いご用です! すぐ聞いて戻ってきますねー!」
「本当にありが……ってもう居ない」
行動が早いのは素直に有り難いことだが、お礼を言われる前に居なくなられるのは何とも。まあ、状況が状況だけに落ち着いていられないのも事実。がしがしと頭をかきながら苦笑していると、隣に座る一夏からぴらりと一枚の紙を渡される。
「はい、班決め終わり。七班プラス俺らの計八班だけど良いか?」
「十分だと思う。昼過ぎは流石に落ち着くだろうし」
「あと残ってるのは……スローガンにパネルイラスト、有志ステージに最後のトリで行うことか……」
「大変だな。これから全部やっていくとなると」
ふう、と短く息を吐いて、蒼は眉間を揉みほぐす。学校では授業に実行委員、帰宅してからも無理しない程度に書類整理という日々が続いている。肩こりや目の疲れをこの年で実感するぐらいには、あっという間に疲労が蓄積していた。それでも一度は倒れた身、普段よりも限界がはっきりと見えているのが幸いだ。感覚で大丈夫だと自信を持てる間は心配要らない。
「聞いてきました委員長! 明後日なら二時間とれますって!」
「分かった、ありがとう、明後日か。……どうにかなるだろうか」
「俺が見に行こうか? 有志の発表。お前はここで指示飛ばしてた方が良いだろ」
「……君が請け負ってるものも同じぐらい重要なんだよ」
あーそうか、と彼女が参ったように頭を抱える。だが、悪い案ではない。多少の無茶は通してなんぼだ。元よりそのつもりというのもある、一夏なら不当な判断も下さないだろう信頼が蒼にはあった。人を動かすのは己の役目だ。自分でどうにかするのではなく、今居る人員でどうにかする事を考える。
「明後日は副委員長に戻って来てもらおう。大体のことは彼でも出来る筈だ。一夏は有志の視察を頼んだ。必要ならあと何人か用意するけど」
「おう。是非とも協力は欲しいな」
「なら適当に見繕っておこうか。あ、職員室に生徒貸し出し用のカメラがあるから、それで一応動画も撮っておいて」
「カメラな、オッケー」
文化祭当日まで残り二週間。実行委員は毎日忙しい時間を送りつつも、依然と比べれば進捗は良好なままを保っている。残った課題の多くも直に解決するだろう。これならば問題ない。完璧には程遠くとも、成功は目の前、手が届く位置にまで近付いていた。あとはそれを、どれだけ大きいものに出来るか。肝心要は――最後に実行委員が用意する、特別イベントである。
◇◆◇
「何かないか……」
場所は夜の上慧邸、蒼はうんうんとパソコンの前で唸りながら、画面に移るページを下にスクロールしていく。長丁場になると踏んだ為、ブルーライトカットの眼鏡を着用。普段は使っていないからか、その姿が些か似合わない。一夏や弾がこの場に居ればからかいもしただろうが、生憎両親も留守の正真正銘一人っきり。かちかちと、マウスを叩く音だけが室内に響く。
「ベタに実行委員でバンド……は時間的にも無理か。俺、楽器とか弾けないし」
元の世界で何かやっていれば変わっただろうが、そこは典型的な根暗人間。ゲームに読書、要らない知識は山ほどある。
「芝居、踊り……そもそも実行委員の皆で何かやること自体無理か。もっと他に……」
ふと、蒼の手がぴたりと止まる。
「――そうか、これだ。うん。これなら時間の問題は大丈夫。あとは学校に許可の申請と安全面の考慮……よし、いける」
彼らにとって最後の文化祭、その一番後ろを飾る演目。これしかない、と言うよりはこれぐらいしか思い付かないの方が正しいかもしれないが、何にせよ上等なモノだ。ぐっと拳を握って、蒼はにっと口の端を吊り上げた。
ついにオリ主くんのターン。なお結末まで含める模様。
ここまで来て残り三話とか本当にどうなってんだコレ……。
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彼が持っているモノ。
「大変です委員長!」
文化祭も間近に迫った平日の午後。いつも通りの書類整理に精を出していた蒼の下へ、一人の男子生徒が息を荒くしながら駆けつけた。見ればどことなく教室内がざわついている。この時期まで来れば準備も粗方終わり、残るは本番前の軽い確認と打ち合わせのみだ。本来なら緩くも真剣な雰囲気が感じられる時間の筈なのだが、一体なんだというのか。怪訝な表情で、蒼は訊ねる。
「どうしたんだ?」
「文化祭のスローガンが決まってません!」
「……は?」
ぺきん、と握っていたシャーペンの芯が折れた。彼はぽかんと口を開けて、呆然と室内の生徒群を見詰める。そも、目の前の人物が何を言ったのか理解できない。したくもない。案内図、有志のステージ、各教室の出し物をまとめたプログラムは既に配布済みだ。イメージイラストもその二日前に仕上がっている。――が、思い返せばたしかに、スローガンを入れた記憶がない。それもその筈、当時の彼らは苦肉の策であたかも正式ですよと言わんばかりに“っぽい”ことを書いて誤魔化した結果、終わらせた気分になっていた。
「一大事じゃないか。どうりで騒がしいと」
「どうします委員長!? ここまで来てスローガン無しとか生徒の熱があわわわ」
「落ち着け、大丈夫。当日発表のサプライズで開会式にねじ込めばなんとかなる。会長には後で俺から頼み込むよ」
「か、上慧委員長……っ!」
ジブン一生ついて行くッス! と言い出しそうなほど目を潤ませた男子生徒をスルーしながら、蒼は集まりの中心に向かって歩みを進める。と、試しに一声かければ綺麗にずばっと人並みが割れた。さながらモーセの海渡りである。若干複雑な気分だ。けれどもまあ、これはこれで、やりやすくもあるし、なんて軽く捉えてスタスタと足を運ぶ。
「スローガンだって?」
「はい、ごめんなさい。私がうっかり忘れて放置しちゃってて……」
「良いよ、気にしないでくれ。それを言えばみんな忘れてたんだし」
「委員長……っ本当、ごめんなさいっ!」
がばりと頭を下げたのは、ここ数日間ずっと籠もりっきりで事務処理を手伝っていた一人の女子生徒である。蒼は肩を優しく叩いて宥めつつ、ちらりと室内を見回して仕方ないかと息を吐いた。今となっては大半がすっきりしているが、ほんの一週間も前はどの机も紙の束でごちゃごちゃの酷い有様。辛うじて原形を保っているのが中央の会議机のみ、というもの。おまけに仕事量は圧倒的で修羅場に近い。正直、現在ゆっくり出来ているだけでも凄まじい奇跡だ。
「とにかく、大したミスじゃないからそう引き摺らない。簡単に決めようか。生徒から応募した分の集計は出してるんだろう?」
「ああ、出てるぞ。ネタ枠から厨二枠まで豊富なレパートリーを揃えてる」
「……一夏。君はさらっとトラブルの中心に居るな」
「俺をとてつもない問題児みたいに言うなよ……」
実際問題、なにか余計なものを抱えてくるのは大体彼女なので、強ち蒼の言い分も間違いでは無かった。ただ一夏としてはあまり面白くないワケで、否定だけはしておく。一夏が呼び、周りが煽り、蒼を含めた弾や数馬は一方的に振り回される。過去数年間続いた流れを易々と忘れる筈もない。
「で、どんな案があるんだ?」
「えっと……“最高の文化祭 ~エンディングまで、泣くんじゃない~”とか」
「却下。モロ過ぎて自殺行為だ」
「あと“繋ぐ文化祭 ~絆 ネクサス~”とか」
「絆までは良かったけどその後が隠せてない、却下で」
「“俺らの文化祭がこんなに盛り上がるわけがない ~俺文~”とか」
「ただのタイトルじゃないか。それも却下」
「じゃあ“人 ~よく見たら片方楽してる――」
「却下、却下、却下。ライトノベルの読み過ぎだ。まともな案は無いのか」
頭を手で押さえながら溜め息をつく。先ずもってして、ネタ枠から厨二枠というのは全部含めて殆どネタ枠だ。少なくとも無難な選択肢ではない。スローガンの募集を真面目に書く人間が少ないのは周知の事実だが、それでも幾つかはきちんとしたものがあるのだ。強烈なネタでインパクトを吹き飛ばされる可能性は少なくないが。
「まとも……“文化祭、それは君が見た光 ~僕たちの希望~”か」
「うん。CMでよく聞くフレーズだね、却下」
「“輝き満ちる神無月、人よ、今こそ歴史の鼓動を聴け”……なんかそれっぽいな」
「厨二にブレすぎてる、却下」
「“今年の文化祭はひと味違う! これぞ祭り、江戸の華”」
「意味不明な上に時代が違うから……」
もしかしなくてもこんなものしかないのか、と蒼が諦めかけた瞬間だった。
「“今日を最高の思い出に、みんなで笑おう文化祭”……ってのは?」
「ああ、ようやくまともなのが一つ目だ……」
「ってこれ会長のやつだ。あの人がこんな」
へえ、と一夏が驚いたように呟く。あの生徒会長が書いた内容、というだけで他の生徒も関心を持ったのか、室内が一気にざわめいた。マジかよ、意外、といった声が立て続けに聞こえてくる。蒼としては何ら不思議なことでも無いのだが、あまり接点の無かった彼らでは見え方も違うということか。彼は首を傾げながら、さっと一夏の持つ投票用紙を引ったくる。
「うん。良いんじゃないか? 本人に宣言してもらうんだし、これでも」
「……決まりか? スローガン」
「今のところは、だけど。あとは会長に話をつけて――」
「あら、私がどうかした?」
がらりと第二生徒会室の扉が開いて、堂々としたよく通る声が投げ掛けられる。直後に誰もが正体を悟った。委員一同はぎろんと目を輝かせながらぐるりと首を回し、入り口に立つその少女を激しく睨みつける。たった二人、一夏と蒼だけはゆっくりと自然な動作で振り向いた。そこには勿論、長い黒髪を靡かせて仁王立ちする学校のトップ。
「……会長、ここは第二生徒会室だよ」
「はっ、そんなの
「そうなのか。うん、なら、ちょうど良い」
「は……?」
一人でこくりと頷いて、蒼が扉の方へ足を向ける。――前に、一度皆の方を見て。
「ごめん、ちょっと会長とデートしてくる」
「なッ……」
「「「……ええぇえぇええぇぇッ!?」」」
盛大に勘違いさせる内容のセリフを吐いて、驚く彼女と共に廊下へ出て行った。
「……上慧先輩でもあんな冗談言うんすね」
「あれで結構言うぞ。ただ、物凄く分かり難いうえに、タイミング的に空気読めてない場合が殆どだけどな」
「あー……まさにその通りッすね」
一夏の説明を聞いて、冷静に状況を整理していた副委員長はがっくりと肩を落とした。この後の騒乱を鎮めた彼の活躍は、言うまでも無い。
◇◆◇
「……巫山戯たコト抜かして、どういうことかしら?」
「ごめん。悪気は無かったんだ。ちょっと話があって」
「あっそ、どうせそういうことだろうと思ったわよ。ええ、思ってましたとも」
不機嫌なオーラを隠そうともしない目の前の少女に苦笑しながら、蒼は首裏に手を当てた。どうにも己はまた知らぬうちに地雷を踏んでいたらしい。規則性でも分かれば気を付けるのだが、彼の観察眼では今のところ一切不明なままである。
「……怒ってる?」
「怒ってないわよっ」
「ほら、怒ってるじゃないか。……我慢はいけない、吐き出すモノは吐き出さないと」
「くっ……こ、のぉ……あんたって、ヤツはぁ……!」
――不味い、これは怒り心頭だ。新党生徒の会の長だ。つうっと蒼の頬を一筋の汗が伝う。生徒会長の顔は真っ赤だ。赤すぎてよもや茹で上がるのではと心配になるぐらいである。だが、もし口に出そうものなら間違いなく怒りゲージが振り切れるのは目に見えていた。蒼は用件だけ済まそうと思考を切り替えて、ふうと一つ息を吐く。
「それはともかく、ありがとう。今回は助かった」
「……はあ。別に。私、何にもしてないから」
「一夏から聞いたんだ。委員のみんなを焚きつけたって」
「あれは単純に進まない実行委員にイラついて言っただけよ」
ふん、と鼻を鳴らして実につまらなさそうに彼女は吐き捨てる。
「大体、勘違いしないでもらえるかしら。私は私の好きに動いたのであって、全く、一ミリも、これっぽっちでさえあんたに手は貸していないつもりだから」
「うん。でも、君の行動で俺が助けられたのは事実だろう? だから、ありがとう」
「……あんたのそういうところ、鳥肌が立つぐらい嫌いよ」
心底気色悪い、と言うような表情で生徒会長が距離をとる。従姉妹としてどうなのかと思わないでも無いが、近い部分ならではの対応と思えば悪くは無い。うっすらと微笑んで、蒼はがりがりと後頭部をかく。
「……ねえ」
「ん?」
「なんで、実行委員なんてやったのよ。私はてっきり、その……生徒会の誘いを蹴った時から、そういう役職に就くのが嫌いなのかと」
「ああ、それは合ってる。ちょっと嫌なのは否定しない。ただ今回は、気が向いたんだ」
「……ふぅん。気が向いた、ね」
じとっとした半目の視線、それだけでは無いだろうと言外に問い掛けていた。しかし、蒼にとっては本当に鈴からの助言で気が向いただけなのだから、他に言い様も無い。
「でも、大変だな、まとめ役って。正直、生まれてから最高に苦労した」
「当然。そもそも、あんたはどちらかと言うと“副”の方よ“副”の方。だから私がわざわざ、あんたのトコに出向いてまで、持ちかけたのに」
「いや、俺の力なんて君には必要ないだろう? 全部が全部勝ち目もないっていうのに」
「どの口がほざくか、学年一位」
それもズルなので、まあ、純粋な学力ではお察しか。
「――真面目な話、俺は結構どうしようもない人間なんだ。きっと会長の役には立てない。この先なら尚更、本当に……何も持ってないから」
「はあ? そんなこと」
「ああ、ごめん、変な話になった。俺のコトはどうでも良いんだ。本題を言うと、開会式の時にスローガンの発表をしてほしいってだけで。……後からメールで詳しい内容は送るよ。じゃあ、これで」
「あっ、ちょっ、待ちなさい上慧っ――」
――蒼! と大きく名前を呼ばれる。彼は振り返らない。声が聞こえていない筈は無かった。他者からの評価と自己評価は、必ずしも同じでは無い。自分ではよく出来ていると感じても、他の誰かから見れば全くもってなってないということもある。であれば、逆もまた然り。異物、別物、特殊な経歴。彼の心は複雑で、難しく、矛盾だらけの欠陥品。身体だって貧弱だ。
『……どうでも良い、どうでも。俺は今、生きてるんだから』
がたがたと窓が揺れる。隙間からびゅおう、と寒さを携えた風が吹き込んできた。蒼は目を細めて外を見る。各地では紅葉が見頃、場所によっては落ち葉さえ舞い始める十月の終わり。肌にはいやに、空気の冷たさが残っていた。
◇◆◇
そうして遂に、その日がやってくる。二度目の祭り、文化祭。その結末や如何に。
割とブレッブレなオリ主くん(なお親友に対する態度は鉄壁)
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開催宣言は二度目も既に終わっている。
本日は晴天なり――とまではいかずとも、悪い天気では無い。冬場目前を控えたこの季節特有の空気を肌で感じながら、蒼はほうと息を吐いて窓から校門付近を見下ろした。入り口と出口を兼ねるそこには、アーチ状の飾り付けに大きく文化祭と銘打たれている。安っぽいが、精々中学の行事などそういうものだ。むしろ躓きかけていた自分達の方がおかしい、と改めて己のリーダーシップの無さを自覚しつつ、腰に着けたインカムのボタンを押す。
「あー、聞こえる? こちら委員長。どうぞー」
『――A班聞こえます。どうぞ』
『B班同じくーどぞ』
『C班ばっちし。文明の利器ですなあ、どうぞう』
『D班、ちっちゃいけど聞こえまーす。……ってボリュームが最小だったわ』
一通り返事が来たのを確認して、隣の一夏へこくりと頷いた。彼女は蒼の言いたい事をたったのそれだけで理解したらしい。口に咥えていたお茶のペットボトルを離し、体勢を整えてひっそりと待機する。ともあれ、通信は良好。四班ともに連絡が無事とれるのなら、心配は要らないだろう。よし、と呟いて再びこちら側のマイクをオンにした。
「今朝集まった時も言ったように、各班は担当の範囲で適当にぶらついて居れば良い。何か揉め事とか起きそうなら仲裁に入って、何事も無いなら普通に楽しんでくれ。あと、人手が欲しいなら俺らを呼ぶこと。どうぞ」
『ここに来て委員長の手は煩わせません。どうぞ』
『了解でーす。ま、それなりに見ておきますどぞどぞ』
『オッケー。ようし、頑張るぞみんな! あ、どうぞーう』
『はいはーい。理解理解、うん、いけそうじゃん』
しかしながら、我が中学の文化祭は至って普通の文化祭で、「地域密着型様々なところと提携して色んな事します!」と言うようなものではない。土曜日に学校を開放して行われるこのイベントに参加するのは、休暇を取れた父兄あたりとOBOGぐらいだ。会場をざわめかせるような大事件など普通なら起きようも無いが、終わるまで安心は出来なかった。インカムのマイクを切ると同時に、蒼は襟元をぐいっと人差し指で引っ張る。
「という訳で、俺たちは校内をお散歩しながら緊急時に駆けつける係だ。まあ、殆ど仕事は無いと見て良い」
「油断してるとドデカいの喰らうぞ? 実行委員長。その腕章似合ってるぜ」
「……ちなみにこれ、今日一日は外したら駄目だからな」
「そりゃそうだろ。俺たちは実行委員なんだし」
からからと一夏が笑う。一応、名目上では本日に限り、文化祭実行委員は平の生徒より一つ上の役職として認識されていた。無論、役員全員にクラスごとの出し物とステージの予定は頭に入れて貰っている。校内図は覚えるまでも無い。外部から来た方への対処も仕事のうち。その辺りの準備は万端、対応も余程で無い限り文句は言われない筈だ。
「で、どうする蒼。どこに行く?」
「一先ず俺たちの教室に行こうか。何か、面白いことやってるみたいだし」
「……時間帯的にセーフなあれか?」
「ううん、多分アウトの方」
くすりと笑って蒼が答えた。うえー、と一夏が露骨に嫌な顔をする。それもまあ、仕方がないと言えば仕方のない事で。内容を知らされた蒼ですら、あの修羅場を経験しておきながら「自分は文化祭実行委員に立候補しておいて良かった」と心の底から思った程である。光景的には地獄か天国かの二つ。今の時間帯では恐らく前者。
「何を思ってあいつらはあんなコトをしたんだろうな……」
「多分、君から発想を得たのは確かだ」
「マジか……本当にロクでもねえなこの身体」
「違いない」
流石の彼もこれには同意だ。もし一夏が女の子にならなかった未来を考えると、現状よりずっと平穏なのだろう。もしくは別の世界線ならば、全てが緩く上手く綺麗に進んでいたかもしれない。けれども現実は目の前、たしかに生きている世界のみ。彼らは揃って三階まで長い階段を上り、がらりと自教室の扉を勢いよく開けた。
◇◆◇
「「「――お帰りなさいませご主人様ァ! お嬢様ァ!」」」
「……これは酷い」
「うわあ……」
本気でドン引く二人の目の前には、可愛らしい意匠を施されたメイド服の生徒が歓迎するように立ち並んでいる。三年A組の出し物は所謂一般的な「ご奉仕喫茶」というもので、各人が普段とは違う“そういった”格好で接客する内容だ。が、彼らは何を血迷ったのか、そのまま出せば良かった良策をたった一つの味付けで奇策へと変えてきた。それこそが視界一杯に映るメイド服を着た
「ご注文は何にいたしますうぅ?」
「コーヒーなんてオススメですよぉ?」
「こちらのお席までどぅーぞぅー」
「当店ではお触りは禁止となっておりまーす」
「いや誰が触るって言うんだ……」
思わず頭を抱える。悪夢だ。およそこの世のものとは信じられない悪夢が広がっていた。客足が全く無いのも頷ける。そも、文化系の男子は大抵が華奢なこともあり、それなりに見られるものとして仕上がっているが、問題は体育会系。本来ならば白くて綺麗な肌が覗く、構造上露わになった二の腕辺りから手首までの領域が、日焼けで黒くなった筋肉を輝かせていた。間違いなく男子特攻。一部の物好きは気に入るかもしれないが。
「お、なんだ蒼と一夏じゃねえか。見回りか?」
「弾、君は……」
「おう。どうだ? 俺様の完璧美少女ムーヴメントはッ」
くるりとその場で弾がスカートをつまみながら回る。赤髪バンダナメイド、という字面だけ見れば素敵な存在であろうとも、実際が男性であればこうまで酷くなるというのか。蒼はこの時、イケメンもモノによるなと始めて知った。どうせなら妹である五反田蘭の方を見てみたい。深い意味はなく、彼にとっての好奇心だけだが。
「はっきり言ってナシだ。一夏を見習ってほしい。ほら、骨格まで変えてきてる」
「好きで変えたんじゃねえよ、馬鹿蒼。まあ、それはともかく、俺ならお前らの百倍それを上手く着こなせる自信がある」
ふふんと一夏が胸を張って宣言した。当たり前だが今の彼女は正真正銘の女の子。阿呆な男子共がノリと勢いで変身したコレとは比べものにならないほど、綺麗なメイド姿を見せてくれるだろう。
「なら着て貰おうか実行委員殿。……ちょうど一着ずつ余ってたんでなあ!」
「はっ? いや、待て、一夏じゃ無く俺? それは本気で勘弁――」
「問答無用だ。一夏も女子に着替えさせて貰え」
「ささ、織斑ちゃんこっちへどうぞー」
「ええ……いや、まあ、あっちよりは忌避感無いけど……」
ずるずると弾に引き摺られていく蒼と、女子に手を取られて歩く一夏。詰まるところ、彼らのクラスが企画したのは性別逆転のご奉仕喫茶。一時間毎に男子がメイド服を、女子が執事服を着て接客する新鮮な内容である。勿論、どちらの時間帯が多く集客出来ているのかは明白だった。
◇◆◇
「さ、肝心のお披露目タイムね! 先ずは織斑ちゃんから!」
ばっ、と一夏を隠していた女子の壁が割れると同時に、向き合う形で同じように固まっていた男子陣営から「おお」と声が上がる。一言でいえば様になっていた。黒を基調とした燕尾服と、両手に嵌められた白い手袋。膝裏まで伸びる長い髪は、後ろで一房に括られてポニーテールとなっている。流石は元イケメン筆頭と言うべきか。
「はは……なんか、恥ずかしいな」
ぽりぽりと頬をかく一夏。困った表情もまた申し分ない。
「……いや、これは素直にすげえ」
「俺らでもあんなにバシッと決められないよな……」
「美少女は何着ても美少女だけど、一夏だから尚更なあ……」
「いいやお前ら、まだうちの秘蔵っ子を見せてねえだろ?」
その言葉に、こくりと男子一同が頷く。着替えたのは一夏だけではない。実行委員長である彼も無事、被害に遭っていた。男子共の群れがぞろぞろと移動する。囲うみたいに組んでいた陣形の前方がすっきりと捌けて、自然と中央の様子が見えるようになる。そこに立って居たのは――
「……蒼?」
「……見ないでくれ。こんな姿、正直、穴があったら入りたい」
かあっと頬を赤く染めながら、きゅっと蒼は腕ごと自身の身体を抱き締めた。ひらひらとフリルのついたカチューシャに元々つけていたヘアピン、女性用の胸を強調するかのようなデザインでミニスカートのメイド服。おかしなことに、男子がおおよそ似合わないであろう格好なのだが。
「いや、案外可愛いなお前。うん。似合ってるぞ」
「やめてくれよ……本当にもう、恥ずかしいんだ」
「あ、記念に一枚撮っておくか。ほれ、ここに備品のデジカメが」
「……後生だ、許してくれ」
とまあ、一夏は悪く無い反応。さて、クラスメートの方はというと。
「う、うちの看板娘よこれは! みんなのアイドル上慧蒼ちゃん!」
「似合ってる……! 上慧っちの女装凄い似合ってる……!」
「あ、駄目だ俺新しい扉開けそう」
「それ禁断の扉だから慎重に扱おうな……」
と、こちらも概ね高評価。蒼としては複雑な気分だが、絶望的に酷いものよりかはマシか、となんとか割り切って溜め息をひとつ。余談だが、ばっちり激写されたせいで卒業アルバムにすらこの格好が載ることを、蒼は現時点で知る由もなかった。
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炎の熱だけと思っていても。
時間は過ぎていく。特に、楽しい時間などはあっという間だ。午前中の一発目から心に深い傷を受けながらも、その後は何事も無く昼休憩へ。残り半分の折り返しで班を交代。ひとつ減らし三班と蒼たちという少ない人数で学校全体をカバーすることは、予想通り状況が落ち着いたのもありなんとかなっていた。午後からは有志のステージが始まる。彼らがそれぞれ壇上で生徒を盛り上げながら行うパフォーマンスは、さぞ多くの観客を魅了したことだろう。中学生と侮るなかれ。技術は拙くとも、熱意は本物だ。
「さて……」
かちり、とインカムのマイクをオンに切り替える。ちらりと壁にかけられた時計を見て、今の時刻を確認する。十六時四十五分、閉会式が十七時からなのを考えると、もうそろそろと言ったところだった。そこまで忙しくも無かったが、体感では平日の作業よりも早い。苦労して、努力して、頑張った結果が一瞬で過ぎていく。でもきっと、それは悲しむべきものではないと直感しながら。
「……こちら委員長。最終報告確認します。E班からお願い」
『はーい、こちらE班異常ナシ! どうぞー』
『F班、問題ありません。どうぞ』
『うす、G班大丈夫です。どうぞっす』
「うん、確認完了。全員お疲れさま。あとは閉会式だけど、時間になるまでは自由に行動してて構わないよ」
了解、と各々の返答を聞いてインカムの電源を切る。結局、大して目立ったトラブルもなく、校内のどこかで度肝を抜くような事件が起きたやら、手に負えないので助けて下さいという話は一切入ってこなかった。見張りの効果、と捉えるのは流石に苦しい。ほんの少しはあるかもしれないが、恐らくは最初から何事もなかったのだ。無駄に時間を取らせてしまい、若干申し訳無い気持ちになる。が、何にせよ、平穏無事に成功したのならそれで良し。ほっと一息つきながら、蒼は外していた制服のボタンを留めていく。
「お、流石にこればっかりはきちんとした格好か」
「ああ。全校生徒の前に立って閉会宣言だろう? 前開きのままじゃあね」
「そうか、ま、そっちの方がお前らしくて良いよ。優等生」
「からかわないでくれよ、全く……」
苦笑しながら、ぱちんと襟のホックを閉めて。
「よし。それじゃあ、行ってくる」
「おう、行ってこい」
にかっと笑って見送る友人に背を向けて、蒼は迷い無い足取りで歩いていく。最高潮を迎えた盛り上がりに終止符を打つのが彼の役目。この文化祭に深く携わった者として、一人の責任者として幕引きを行うのだ。――が、今年は少し違う。昨年までの流れでは、終了後に後片付けを行って解散の手筈となっていた。そこを教師陣に無理言って、後日に延ばして貰う事を何とか強引に押し通し、約一時間の猶予を貰っている。詰まるところ、簡単に言ってしまえば。
「文化祭はまだ終わってない、からな」
すっと耳元のヘアピンを撫でながら、蒼はにっと口の端を吊り上げた。
◇◆◇
『えー、では、実行委員長の上慧くん、お願いします』
「……まずい、ちょっと緊張するな」
独りごちて、舞台袖から壇上に出る。五分前より校内放送で体育館へ集まるよう、呼び掛けが行われていた。元々有志の演目が終了次第、流れるように閉会式に移行する予定。本校舎に残っていた生徒はごくごく少数、特別な事情がない限り、恐らくは一人残らずこの場に居るだろう。くるりと前を向いて、ゆっくりと顔を上げる。
「――――、」
しんと、喧噪の絶えた静かな空気。微かな衣擦れや咳払いでさえ目立つ。全校生徒が一つの場所に揃って立つ様子は、何度見ても圧巻だ。蒼自身、あまり経験のない光景というのもあるが、そこはそれ。直ぐに自分のやるべき事を思い出して、さっと一礼。
「……本日は皆さん、大変お疲れさまでした。以上をもちまして、文化祭の全日程を終了します」
マイク片手に言い切って、ちらりと窓から外の様子を確認する。うっすらと赤い光を灯したのが見えて、蒼は思わずにやりと笑った。この案を決行してくれた校長先生には感謝しか無い。昨今、安全面や環境面でかなり厳しい筈のところを、こうして形にしてくれたのだ。何事も話してみるものである。さて、お堅いのはここまで。彼はぎゅっとマイクを握り締めて、ばっと空いた方の手を大きく広げた。
「――と、なるところですが、今年は先生方の協力もあって、俺たち実行委員からサプライズ企画を行うことになりました」
例年とは違うことで、二・三年生は直ぐに気付いたようだ。ざわめきが一気に伝播する。今の今まで静けさを保っていた館内に、人の声が溢れる。だからと言って、蒼の声がかき消されることはない。機械によって増幅された彼の言葉は、隅々にまで届く。ステージにあたる証明で細かくは見えないが、驚く人、怪訝な表情をする人、周りの友人とひそひそ話し始める人。そしてタネを既に知っている、実行委員一同。それらの視線を一身に集めながら、蒼は言葉を続ける。
「本来ならこの後、片付けが入っていた時間を、先延ばしにしてもらうことで丸ごと貰いました。文化祭の最後、何か物足りなくないですか?」
「なにか……」
「物足りない……?」
仕上げとばかりに、彼はらしくもなく声のトーンを上げた。
「全員、グラウンドへ是非集合下さい。中央にキャンプファイヤー。流れる音楽にのってフォークダンス。勇気を出して好きな人を誘うのも、友達とわいわい踊るのも構いません。今年度文化祭のラスト。――これより、“後夜祭”を行います」
「…………お、」
うおおおおおっ!! と、会場に凄まじい歓声が響く。蒼はハウリングしないようにしっかりとマイクの電源を落とした。訊ねるまでも無く、おおむね高評価。サプライズは無事成功。古き良き行事のフィナーレは、ここに開始を宣言された。
◇◆◇
かりかりとシャーペンの走る音が室内に響く。ふと窓から外を覗けば、赤く燃え上がる火を囲んで、多くの生徒が思い思いの相手と楽しそうに手を繋いで踊っていた。校舎の中で唯一電灯が皎々と点いた第二生徒会室。殆どの生徒がグラウンドの様子に夢中で気付かないであろうそこに一人、上慧蒼は緩く笑いながら机に向かっている。彼が行っている作業はいつも通りの書類整理とはまた違う、文化祭実施記録と呼ばれる代々実行委員で書き継がれているものだ。片付けと並行してするとなると、考える余裕が少なく些か時間をとられる。今ここで書いておくのが一番だと思ったが故に、ひっそりと抜け出してここに帰って来たのだが。
「なにしてんだ実行委員長」
どうやら、彼女にはバレてしまったらしい。
「……一夏」
「ったく、こんな時まで仕事か? わざわざバレないように隠れてまで」
「隠れては無いよ。現に、君は俺を見付けただろう?」
「……はいはい、もう良い。とにかくこれは没収だ」
「あ」
ひょいと一夏がペンを奪う。なんという暴挙か。蒼は驚きつつも少し考えて、胸元のポケットからもう一本取り出してひらひらと見せつけた。そんなことをしても無駄だぞ、と言外に告げている。一夏は溜め息と共に肩を落として、蒼にペンを投げ返した。コントロールは抜群。上手いこと掴んで、彼はにっこり笑う。
「自分から割り食うようなことするなよ。俺まで複雑な気分だ」
「ごめん。でもまあ、そこは大目に見てほしい。……ああ、それとこれも外すかな」
言って、蒼はするりとヘアピンを引き抜いた。簡単に整えていた髪型をわざと崩して、手ぐしで乱暴にがしがしとかく。前髪は目元まで、雰囲気は暗め、マイペースの緩さが滲み出るような様相。いつも通りの、彼の姿。
「……おお、すげえ。なんか、蒼が久しぶりに帰って来た、って感じだ」
「何言ってるんだ。俺は元からずっと居るだろう」
「ものの例えだよ。そんなこと分かってるって。……うん、さっきまでのも悪くないけど、やっぱり蒼はこれでなくっちゃな」
「……よく分からないな、それは」
微笑む一夏の言うことがイマイチ理解出来なくて、つられるように苦笑する。ともあれ、このまま続けるのもあれだ。蒼は徐に椅子から立ち上がって、今一度窓の外を眺める。
「……この光景を、俺たちで作ったんだよな」
「おう。一か月近くもかけてな。この一日のためだけに頑張ってきたんだ」
「…………成功、だったよな」
「ああ、文句ない。少なくとも俺は」
「……そっか。ああ、そうか――」
――良かった、とつい溢れる。不安要素はごまんとあった。どこかで致命的な失敗をすれば、上手くいかない可能性も十分あり得た。それでも今日、この日を、こういう形で無事に成し遂げることが出来た。それだけ分かれば良い。心底、蒼はほうっと体の内に溜まった息を吐き出す。
「やっぱり、慣れない事はするもんじゃない。お陰様で体中ボロボロだ」
「一回倒れたしな。命削ってんじゃないかと本気で思ったぞ」
「似たようなことだったかもしれないな。……こんなのは二度とやらない」
「本当にな。普段我慢してる奴が追い詰められるとどうなるのか、って言うのがよぉく分かった」
今回の件に関しては、己の想定不足だった部分もある。蒼自身、一夏や生徒会長にはかなり迷惑をかけた。体調管理の大切さは身に沁みて理解している筈なのに、容易く限界を見極めた行動を取れるのは相当なものだ。彼の場合は、リミッターが緩いと言うのが合っているかもしれない。
「ところで、一夏は踊らないのか?」
「誰かさんを探してここまでやって来たのに踊るも何もあるか」
「そう言えばそうだったな。……うん、じゃあ、俺と踊るか?」
「……おいおい、こんなクソ狭い部屋の中でか?」
言いながらも、彼女の表情は冗談に乗る類いのそれだ。
「こういう場合、なんて言うんだったかな。……シャルウィーダンス、ミスターオリムラ?」
壊滅的に色々と駄目だった。勢いよく一夏が噴き出す。
「ぶふっ、なんだそれ。似合わねえ。あは、あはは」
「……うるさいな。そんなこと分かってる。ほら、やるぞ」
「うわっ……とと、マジでやるのか、本気でどうかしてるぞ」
「良いじゃ無いか、楽しめれば何でもありだ」
「……それもそうだな。うし」
手を取り合って周囲の机や椅子に注意しながらステップを踏む。前日の整理でスッキリしていた事だけが救いか。振り上げた手や足で物を倒す心配はない。尤も、そこまで派手な動きはしないのだが。
「ところで蒼、お前ダンスの経験は?」
「殆どない。小学校の林間学校以来じゃないか?」
「駄目じゃねえか!? いやどうりで足が当たるなーと!」
「そういう君はどうなんだ?」
「同じく。……人の事言えなかったわ」
とまあ、そんな二人だからか、当然上手くいく筈もなく。
「おわっ!」
「――っと、なにしてるんだ」
「い、いや、流石に初心者がこの状況はキツいだろ……」
バランスを崩した一夏を、蒼が腕に抱えて受け止める。彼はふざけ半分でジト目を向け、彼女が恥ずかしさを隠すように頬をかきながら笑う。体勢はさながら王子様とお姫様。外見も片方に目を瞑ればいけないコトも無い。しかし中身は男と男。反射的に閉じていた目をうっすらと開き、一夏は状況を確認しようとして。
「まったく、大丈夫か? 一夏」
「――――、」
心配するようにこちらを見詰める彼の表情が、間近にあった。彼女は思わずばっと、飛び退くように勢いよく離れる。
「わっ、とと。……一夏?」
「………あ、いや、えっと、だな」
こてん、と蒼が首を傾げる。なにやら一夏の様子がおかしい。視線は安定せずあちらこちらを向き、態度も落ち着かないように手で髪を梳いたり、スカートをきゅっと握り締めてみたりと忙しない。一体どうしたというのか。蒼には、彼女の急激な変化の理由が分からなかった。
「――わ、悪い! ちょっとトイレ行ってくるっ!」
「? あ、ああ。分かった」
そう言うと一夏はがらりと扉を開け、まるで逃げるよう一目散に部屋を出て行った。残されたのは蒼一人。友人の奇行にうん? と疑問を覚えながら、まあ、どうせすぐけろりとした様子で戻ってくるだろうと、彼は静かに最初の作業へ戻った。
◇◆◇
ばしゃりと、水で顔を洗う。冷たい。当たり前だ、もう段々と冬の気配が増している。十月下旬の水道は、意外にも寒さを持っている。――筈なのに。
「……ああ、くそ。なんだこれ」
織斑一夏の顔は、一向に冷めなかった。
「分かんねえ、分かんねえ。ちくしょう、この……ッ」
もう一度、叩きつけるように水を顔面に浴びせる。無論、効果はない。
「だあああっ。ああ、なんだ、なんなんだよ、なんで……なんで……ッ」
ぐっと、拳を握り締める。
「――なんで俺、こんなに落ち着かないんだ……!」
学校の洗面台。鏡に映った彼女の頬は、林檎のように赤く。さすればきっと、それが始まりだったのだろう。
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変わりゆくモノ。
文化祭から一週間が過ぎた。カーテンの隙間から差し込む朝日、布団越しでも分かる外気の寒さ、そうしてがんがんと鳴り響く目覚まし時計。今日も今日とて熱心に仕事をしてくれるそれに感謝しながら、かちりと頭頂部のボタンを押してアラームを止める。むくりと起き上がって、蒼は頭を乱雑にかきながら部屋を見渡した。薄明るい、陽が昇っているのだから当然のこと。くあ、と欠伸を一つしてベッドから降りる。
「……ご飯、の前に、休まないと……」
誰に言うでも無く独りごちて、覚束ない足取りのまま洗面所へ向かう。朝の体調は今でも変わらず悪い方だ。むしろこの頃は以前より幾らか酷い。原因はなんとなく、自分でも分かっていた。十一月という冬前の季節、流石に六月ほどでは無いが、負担がゼロとはいかない分同じようなもの。
「……要らないものばかり、持って来ちゃったからな」
割り切れていないのか、と聞かれたら彼は首を振るだろう。ずるずると未練がましく、終わった人生を引き摺っている訳では無い。一度死んで、また別の世界で生まれ変わった。紛れもない現実の出来事を蒼は受け入れている。故に、本来ならば過去に思うところなど無いのだ。でも、そうではない。前は前、今は今。別々に考えて生きて来られたのなら、きっとここまで苦労しなかった。答えは単純に、どちらも経験しているのが蒼本人だった、と言うに尽きる。
「――やめだ。朝から悪い事ばかり考えるのは気分が下がる」
ぶんぶんと頭を左右に揺らして、蒼はがちゃりと扉を開けた。寝起きでも住み慣れた家の間取りは把握している。目の前には飽きるほど見た洗面台、ついでに鏡の中の己とご対面。気分転換の意味も込めて、ばしゃりと勢いよく顔を洗う。眠気が支配する肉体に、冬場の冷水は特効薬だ。肌を刺すような冷たさに、靄のかかっていた思考回路が一気に励起する
「……よし、今日も頑張ろう」
顔を上げればしっかりといつもの蒼だった。ゆったり緩く、どこか落ち着かせる雰囲気と、滲み出る柔らかさを宿しながら、冷静な様相を呈している姿。辛い事も、苦しい事も、あり得ない事も、あり得てしまった事も、全部ひっくるめて一纏めにして。まあ、それならそれで仕方ないと、まるで折れるように受け入れる。例えそのやり方が、時折顔を出すような彼らしい“緩さ”で構築されていたとしても、蒼にとっては自然体で過ごせるだけ十二分。ともかく、今一番彼が気になるコトはと言えば。
「……一夏、どうしたんだろうか」
ちょうど一週間ほど前より、朝食を作りに来なくなった友人である。
◇◆◇
「――ああ? 一夏に避けられてる?」
「うん。俺の気のせいじゃなければ、なんだけど」
時間はその日の昼休み。教室内でつまらなさそうに紙パックの野菜ジュースを飲んでいた弾に、蒼は話題の提供も兼ねて昨今の悩みを相談することにした。一人で抱えてもロクなことにならない。賢者か愚者かで言えば、彼は間違いなく愚かであったが、決して学ばないワケではないのだ。誰かの力を借りる重要性は、先月の一件で理解している。
「はあ、お前が、ねえ。俺も四六時中一緒に居るんじゃねえから知らねえけど、そうなのか?」
「確信は出来てないけど。廊下であっても素通りされたり、肩を叩いたら驚かれて逃げられたり、俺たち以外他の皆が居なくなると直ぐどこかに移動したりとか」
「うおー……すっげえフルコンボを見たぞ俺は」
そりゃあ間違いなく避けられてるな、と弾が言い切った。聞いていた蒼の反応は、一言「やっぱりそうなのか」と返してふむと顎に手を当てるのみ。意外と堪える内容だと思うのだが、平常心を崩さないあたりは流石と言うべきか。弾は呆れとも感心とも取れる微妙な視線を投げ掛けて、ぎゅっとパックを潰して野菜ジュースを飲み干した。お財布に優しい九十円は地球にも優しいエコな製品である。
「たしかに、言われてみると最近のあいつは引っ掛かるものがあるな。休み時間は殆ど居なかったり、授業中の私語もめっきり減ったし、何より若干付き合いが悪くなった」
「そこら辺は受験シーズンだから仕方ない部分もないか?」
「やめろ。今の俺に“ジュケン”という言葉を使うな。死ぬ事になるぞ。俺が」
「相変わらず君のメンタルは豆腐だな……」
と言っている蒼自身もあまり強いとは思っていないが、最低状態からの復帰力はお互いに人並み外れている似たもの同士。方法が無理矢理なものか自然なものかというだけで、大して変わりはしない。ちなみに前者が蒼、後者が弾である。馬鹿は決してバッドステータスではないという証左だ。
「ま、それを加味してもおかしいな。今まであんなにべったりだったのに、ぱっといきなり離れていったワケだろ?」
「……言い方はアレだけど、強ち間違ってもないな。毎日朝飯とか作りに来て貰ってたけど、それも無くなったし」
「ビンゴだビンゴ。大当たりだよ。そんな人様の事情に踏み込んだ事をすっぱり断つってことは、言い訳のしようもねえ。……信じらんねえけど、本当にお前のことを避けてるみたいだ」
「ああ、お陰様で俺は気になって昨日も七時間しか眠れなかった」
「ぐっすりじゃねえか。お前実は全然堪えてないだろ?」
そんなことないよ、と言う蒼の顔は微笑んでいる。確信犯だ。弾は真面目に考えていたつい先ほどまでの自分を殴りたくなったが、この男の珍しいジョークだと思えばまあ、少しの時間をとって慣れない考察をした甲斐があった。ぱっぱっと小さく畳んだ紙パックを手の上で弄びながら、やれやれと一つ息を吐く。
「でも、気になるのは本当だ。一夏に限って、唐突に人を避けるなんてことは無い筈だし、俺がなにかしたのかなって」
「ホントだよ。お前何したんだ? あいつ拗ねたら面倒くさいんだぞ。ちっぱいツインテと同じで」
「……今の言葉を墓標に刻めば良いのか?」
「HAHAHA! なんとでも言え。今ここにあいつは居ねえ。海を越えてまで殺気を届けることも出来ねえ! 所詮凰鈴音も人間ということ! 恐れるに足りんわあ!」
「携帯で録音しておいた」
「ヤメロォ!」
迫真の叫び声だった。冗談だよ、と画面の点いていないスマートフォンをひらひらと見せて、再度ポケットに仕舞う。からかった回数が断トツのために、お仕置きを受けた回数も断トツ。五反田弾はそういう男だ。ふざけて口が滑る、真面目でも口が滑る、大事なことでも口が滑る。馬鹿だからしょうが無いと言えばそれまで。盛大に死亡フラグの量産工場と化して尚且つ生産効率の向上を掲げていそうな友人の未来に安らかなご冥福をお祈りしながら、蒼は気を取り直して口を開く。
「でも、俺自身何かやらかした覚えは無いんだ。それに一夏の態度が変わったのも文化祭が終わってから、唐突にだったし」
「そんなことはねえと思うんだけどなあ…………、あ」
「ん? どうしたんだ? なにか――」
急に声をあげて、弾が口を開けたままそっぽを見詰める。何だというのだろう。こちらから声をかけても一向に向き直る気配が無い。気になって、蒼も視線を辿って彼の見ている方を向いた。ちょうど教室の出入り口にあたる扉。――そこに。
「……あ」
「…………、」
織斑一夏が、僅かに目を見開きながら立って居た。
「一夏――」
「ッ! わ、悪い、ちょっと用事思い出したっ!」
「……ああ、うん……って早いな、もう居ない。……どう思う? 弾」
ほうほうなるほどそういう、と彼は頷いて。
「ま、一先ず俺からあいつにも聞いてみるよ。蒼の自覚云々は抜きにして、理由もなしにあんなあからさまな態度とる奴じゃないからな、一夏は」
「うん、頼んだ。俺が悪い事したんなら、謝らないといけないし」
困った表情で蒼が言う。弾としては、ここまで人の心配をするような人間が、他人を傷付ける言葉を吐くとは思えなかった。気に障る言葉はまた別としても、彼が取り返しの付かないことをしたというセンは恐らく無い。
『なんか、どうもおかしな感じがするなあ……』
がたりと手に持ったゴミを捨てるために立ち上がって、弾は一瞬だけ眉をしかめた。
大分時間をとったので、もうそろそろ重くいっても良い時期ですね(確信)
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すれ違う心が跳ねた。
――昔から、一人で居るのが好きだった。たった一人で、誰に気を遣うでも無く、自由に過ごすのが好きだった。周りなんて関係無い。世界は己の内だけで完結している。求めるモノがなければ、他者と接触する理由すら皆無。自然と、周りから人は居なくなった。冷たい人だと誰かに言われる。
――故に。
『……なんで、こんなに寒いんだろうなあ……』
まさかそんな人間が、独りになる事を嫌だと思う日が来るとは、想像もしていなかった。尤も、他人との関わりが大切だと気付いたのは死んだあと。そのくせ、経験が無いからロクに友人も作れない。そんな仲で数少ない
『えーっと……上慧、だったっけ?』
『……え、あ。俺のこと?』
『いやこの場におまえしかいねえじゃん……。俺、織斑一夏な。掃除がんばろうぜ』
『……ああ、そうだね。うん、がんばろうか』
『? なんでそんな笑ってんだ……? ヘンなやつ……』
きっと、紛れもない救いだったのだろう。
◇◆◇
正直なところ、蒼はかなり参っていた。
「元気出せよ、ほらオレンジジュース」
「ありがとう数馬……」
友人に一夏のことを相談してからしばらく経つ。文化祭から数えるともうそろそろ二週間というところ。ここまで来ると一過性の怒りや何かではない。弾の方はなかなか一夏の空いた時間を狙えず、躍起になって隙を窺っている最中だ。二人とも居ない休憩時の教室はどこか静かに感じられて、目の前の御手洗数馬が居なければ受験勉強も捗ったことだろう。蒼にとっては殆ど必要の無いもので、素直に嬉しいのだが。
「弾から全部聞いたぜ。一夏にフラれたんだって?」
「違うよ。避けられてるんだ。……って言うか下手したら嫌われてる」
「まあお前天然畜生なところあるし。無意識に人のこと煽るし。正直嫌われたところで自業自得としか」
「……そう、なのか。知らなかった。だとしたら最低じゃないか。どうしよう、土下座でも許して貰えないだろうし、数馬。俺はなんて謝罪すれば……」
「あああ悪かったすまんかった言い過ぎた! そんなことはないから! 落ち着け蒼。この程度の言葉で平常心を崩すようなお前じゃないだろ!?」
「よ、良かった。てっきり取り返しのつかないことやってるかと……」
珍しく動揺がほんの僅か顔に表れていた蒼に、これは深刻な問題だなと数馬は溜め息を吐いた。共通の知人である弾からの話ではそこまで堪えていないと聞いていたが、なんてことはない。親しい友人から距離を取られれば、誰だって心を乱されるのだ。蒼も例外に漏れず、時間の経過と共にいつも通りの冷静さを失ってしまうぐらいには思い詰めているということか。
「大体、嫌われてると決まったワケじゃないだろ? ほら、もしかしたら“やだ蒼クン格好良すぎない……? こんなんじゃあたし恥ずかしくて顔も合わせられないわ!”とかいう照れ隠しの可能性も」
「あの一夏が?」
「……ねーな。微塵もねーなそりゃあ。ま、そいつは置いといて、具体的にはどんな感じの態度なんだ?」
聞けば蒼は、うぅんと唸りながら顎に手を当てる。弾と一夏の接触が成功してない以上、彼との関係性も依然変わらぬまま。徹底的と言えるほどの彼女の行動を、蒼は眉尻を下げながら思い返した。
「先ず、家に来ない。電話に出ない。メールは一応、辛うじてって感じ」
「ふんふん」
「学校では見ての通りで露骨に居なくなる。休み時間は基本的にずっとこうだ。授業が終わっても一人でそそくさと帰ってる。話し掛ける暇も無い」
「ほうほう」
「あとキツいのが出会った直後に逃げられたり、スキンシップに過剰な反応されたり、プリント後ろに回す時とか意地でもこっちを見ようとしなかったり……」
「……もういい、やめろ。聞いてて俺も悲しくなるわ」
予想以上に酷い惨状に数馬が顔を覆った。何があったのかは知らないが、そこまでのものだと目の前の人物にやや同情してしまう。先ほど述べたような無自覚の悪意など、蒼が発揮したとして余程のものではない。精々が笑い話で済むレベルだ。人並み程度の気遣いと優しさを標準装備している彼が、誰かに嫌われるまでのコトをするのはごくごく稀。……一部の人間に対しては、まあ、言い訳の余地も無く凄まじい発言を繰り返していたりするのだが。
『……こりゃあ、友情の何たらがお前の肩にかかってるかもだぜ、弾』
数馬はぼんやりと窓の外を眺めながら、校内のどこかで奮闘しているであろう友人を思い浮かべる。理由を考えるのは勝手だが、真実は本人より聞くのが一番だ。若干元気を無くしている蒼のためにも、それが少しはマシな内容であることを願いつつ、彼は手を振って別れの言葉と共に教室を後にした。
◇◆◇
「ふう……」
ぱっぱっと手を洗って、短く息を吐きつつトイレから出る。一夏が校内で使用しているのは、諸々の緊急事態につき職員用トイレだ。流石に女子の姿で男子トイレに入るというワケにもいかず、かと言って女子トイレに入るのは精神的に辛かった。対策としては応急処置のようなものだが、正直なところ人の行き交いが少ないこともあり非常に助かっている。だからこそ、油断もして当然。
「――やっと隙を見せたな一夏ァ!」
「……は?」
声のした方は真横。振り向けば、何やら巨大な影がこちらに向かって勢いよく飛びかかってくる。炎のように赤く揺れる頭部、額に巻かれた布、更にはぶわりと着ている衣服を盛大にはためかせていた。もしや不審者か、と身構える一夏だが、よく見ればなんてことは無いただの馬鹿である。幽霊の正体見たり枯れ尾花。が、最初から気付いていたならまだしも、動き始めた頃には既にがっしりと羽交い締めにされていた。
「ふはは! ようやく確保したぜ此奴めぇ!」
「なっ、ちょっ、は、離せおい! 弾! 聞いてんのか!」
「離すワケねえだろバーカ。さあて、ちょいと任意同行をお願いしようか織斑クン?」
「く、クソ、これはどう見ても任意同行じゃなくて強制連行だろ――!?」
ヒトフタヨンゴ。織斑一夏はずるずると、必死の抵抗も虚しく弾が向かう方へ引き摺られていった。
◇◆◇
びゅおう、と一際強く風が吹き抜ける。見上げればいつもより近い空が拝めた。雲は所々にふわりと浮いて、我関せずといった模様。数歩進んだところで、背後の弾がばたりと扉を閉める。鍵までかける丁寧さに首を傾げながら、一夏は最も気になった点を彼に尋ねた。
「……屋上?」
「おう。ああ、安心しろ、蒼は居ねえよ」
「っ」
びくり、と名前に反応して一夏の肩が揺れる。分かりやすいことこの上ない。弾はにやりと笑いながら、どかりと柵に背中を預けて地べたに腰を下ろした。
「どうした? お前も座れよ。言っとくが、この距離なら鍵開けてる間に追いつけるぜ」
「……はいはい。座れば良いんだろ、座れば」
やれやれといったように目を伏せながら、彼女は静かに弾の隣で胡座をかく。見た目からは想像も出来ない男らしさ。弾は事情を知っているというのに、思わず「うへえ……」と微妙な気分に陥った。電車で見かけた物凄く清楚な雰囲気の女の子が、どぎつい方言で喋ったのを見てしまった時に勝るとも劣らない。だがまあ、彼女が織斑一夏であると認識出来るのはその辺りなので、別段悪いことでもないのだが。
「で、わざわざここまで連れて来た理由は?」
「とぼけんな、分かってんだろ。お前と蒼のことだ」
「……別に、弾には関係無いだろ」
「いいや、関係あるね。あいつ、俺に相談してきたんだ」
「相談?」
怪訝な表情で首を傾げながら、一夏が真横の弾に問い掛ける。彼はぼうっと、流れ行く雲か、はたまた広がる青空を見詰めていた。
「最近、お前に避けられてる気がするんだとよ。実際見てりゃ丸分かりだな。意図的としか思えないほど蒼と接触する機会を潰してやがる」
「……それは」
「ま、俺はお前らのコトなんかどうでも良いけどよ。隣の席の秀才くんが辛気臭い顔してちゃあ受験勉強に身が入らないってモンだろ」
「いやお前身が入るも何も元からやる気ないじゃねえか」
「ばっ、う、うるせえ! 細かい事は良いんだよ今は! ……それより、何があった。本気で蒼のやつ心配してたぞ」
「う…………、」
じろりと睨まれて、一夏はそっと視線を逸らした。あれだけあからさまな態度をしておいて、今更存じ上げておりませんという筈がない。そこは双方分かりきっている。誤魔化すという手段が取れるほど、目の前の友人は頭の回らない人間ではない。勉強に関してならまだしも、変なところでの鋭さは一級品。事前知識込みの蒼を除けば、鈴の恋心に感付いている人間の一人だ。尤も、あれはあれで分かりやすいのもある。
「やっぱりあれか? 蒼のことが嫌いになったとか」
「い、いや、それは違う! 全然、嫌いになんかなってない。ただ……」
「ただ……?」
「……ただ、えっと、その……」
どうも、一夏にしては歯切れが悪い。弾は眉間に皺を寄せながら、俯き気味で座る彼女を見た。長く伸ばされた黒髪が鬱陶しいほどに揺れている。が、最早慣れっこなのか、思考に集中しているからか、特に気にした様子は無い。数ヶ月を乗り切った織斑一夏は最早“女になってしまった男”ではなく、“女の体に慣れきった男”だ。その状況が心をどう傾かせるか。弾はよもや、きっと彼女の近くに居た誰もが考えてなどいなかった。
「――変、なんだ」
「……変?」
「ああ。あいつの……蒼の近くに居ると、変な感じになる」
「ああ? なんだ、そりゃあ」
予想外の台詞に、飲み込む事無く本音が漏れた。変、というのは理由として途轍もなく曖昧だ。それだけで納得しろ、と言われても無理である。
「一体どこがどう変になるんだ。お前の髪型でも変わるのか?」
「な訳ないだろ。そういう外見的な部分じゃ無くて、なんというか……落ち着かない、というか……」
「……はあ?」
「こう、心臓がすっげえ跳ねて、顔が滅茶苦茶熱くなってさ。まともに考えられなくなる、っつーか……頭が真っ白になるっつーか……」
そんな馬鹿な、と弾は脳内で呟く。一夏の言い分は随分と変わったものだ。それこそまるで、恋に落ちた女子のような思考回路だと――
『……あれ? えーと、うん? ちょっと待て。ちょっと待てよ』
弾は一瞬、なにか、恐ろしいことに気付いたような感じがした。
「だからこう、反射的に逃げ出しちまって。いや、俺も蒼には悪いと思ってるんだが、こんな状態でまともに会話できる気もしなくてな……」
「……なあ、一夏、お前、織斑一夏だよな? 男だよな?」
「は? 何言ってるんだいきなり。そうに決まってるだろ。体は女だけど」
体は、女。
「……は、はは。ははは……」
「? ど、どうした弾? 急に笑い出すなよ。不気味だぞ」
「ああ? これが笑わないでいられるか。おいおい、マジかよホント……」
彼は一つの結論に辿り着いた。当の本人すら自覚していない答えに、易々と、当たり前のように手をかけた。それもその筈、ここまでヒントを出されて気付かないのは、ヒロインの好意をスルーする鈍感系ラノベ主人公か、はたまた誰とも関わりを持たなかったぼっち系ラノベ主人公だけだろう。
『もしかしなくても、やべえんじゃねえかこれ。お前、どうするんだよ。蒼――』
この場に居ない友人に問う。ふと見れば空には鴉が一羽、まるで現状を嘲笑うようにカアと鳴きながら、どこまでも優雅に飛んでいた。
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何をすれば上手くいく。
昼休みももうすぐ終わるかという頃、五反田弾は重いため息と共に教室へ帰ってきた。蒼は読みさしの本に栞を挟んで、がっくりと肩を落とす友人に目を向ける。一夏を探してくると勢いよく飛びだして行った時とは大違い。あの気迫はどこへやら、すっかり意気消沈といった具合である。よもや今日も失敗か、と苦笑しながら彼は声をかけた。
「お疲れさま。駄目だったみたいだね」
「……いや、駄目じゃ無かった。話は出来たぞ」
「……それ、本当か?」
ああ、と短く弾が答える。乱暴に引いた椅子に、これまたどかりと粗雑に腰掛けて、彼はゆっくりと天井を見上げた。ぼうっと見詰める先にあるのは、節電で昼間は基本消されたままの電灯。綺麗な模様もなければ、面白い工夫もされていない。眺めていても楽しくないだろうに、と蒼が考えていれば、弾はにへらと奇妙な笑みを浮かべた。
「……弾? 大丈夫か? 話、出来たんだろう?」
「ああ、出来たよ。しっかりと出来た。事情も大体把握した」
「なら――」
「その上で、言わせて貰うが」
ぎろん、と両の瞳が動いてこちらを向く。よく見れば、弾の顔は若干の疲れを含んでいるように見えた。普通に考えれば、それは一夏を探していた為に体力を使ったから、と捉えられるだろう。だがしかし、どうも疲れ方としては違うようだ。恐らく純粋な体力の問題では無い。心労、というやつだろうか。直感しながらも、蒼は弾の言葉に黙ったまま耳を傾ける。
「今回の件、俺は一切協力しねえ」
「……それはまた、どうして」
「どうもこうもねえよ。単純に手に負えねえ」
呆れるように言って、ぐったりと弾は身体から力を抜いた。もたれ掛かった教室用の椅子がぎしりと音をたてる。蒼としては彼からの情報を期待していたのもあり、なんとなく複雑な気分だ。ともあれ、この友人が放り投げるようなモノにまで事態は発展しているのか、と。
「そこまで不味いのか?」
「ああ。途轍もなくマズい。そんでもってこれは俺がどうにかできるコトじゃない。つーかお前らの問題だ」
「俺たちの……問題?」
「そうだ。俺が首突っ込むには、どうにも話がデリケート過ぎる。……てか信じられねえ。まさかあの一夏が、とは」
世の中何があるか分かったもんじゃないな、と呟いて弾はこれで終わりとばかりに机の中へ手を入れた。次の授業に使う教科書でも適当に引っ張り出しておくのだろう。断片的な言葉ではよく分からなかったが、要するにこの事態に関しては友人の協力を仰げないということである。考えるまでも無く、かなりの痛手だ。そも、彼が投げ出したという案件を蒼一人で何とか出来るとは思えない。
「とにかくそういうこった。俺は手を引く。あとはお前らでなんとかしろ」
「……結局丸投げってことじゃないか」
「当たり前だろ。こんな状況をどうにかできるのは、お前ら自身しか居ねえっての」
「どうにも出来ないから困ってるんだって」
先ず初めに原因が分かっていない。本人に聞こうにも避けられて話もままならない。おまけに頼みの綱だった友人の助力も駄目ときた。まさに八方塞がり、手の打ちようがないワケでは無いが、無理を通さなければいけないものばかり。
「……強引にでも一夏から話を直接聞いた方が良いのか?」
「あー、それが良いかもな。成功率は保証しねえけど」
「うん。問題はそこだ。直ぐ逃げられてちゃどうしようもない」
「……そこだけでもねえんだよなあ、この場合」
一夏から全てを聞いた弾は知っている。故に、想像も簡単だ。今の一夏と蒼が対面で会ったとしても、上手くいく未来が見えない。彼女の精神的にも、彼の考え方的にも、例え話し合う場面まで進んだとして、すれ違って何も変わらぬまま終わる。
『……ま、当然だよな』
弾は一人、胸中で納得する。
『あの鈍感野郎が、まさかコイツに恋してる、なんて。誰も予想すらできねえよ』
なによりも残酷な真実を、己の内に秘めて。ずっと両者が気付かなければ、元通りとはいかずとも平和だろうと、そんな甘い考えを抱きながら――。
◇◆◇
「……あれ?」
本日の授業終了後、ひっそりと昇降口まで抜けてきた一夏は、自分の下駄箱を見て首を傾げた。
「待て、なんで……どういうことだ?」
――
「……隠された、とか?」
確率としては前者よりも高い。一夏に余程の恨みを持っている、いないに拘わらず、そういうつまらない事をする輩はどこにでも居るのだ。小学生時分は嫌悪感と向こう見ずな性格が合わさって幾度か大乱闘も繰り広げたが、流石に現状では色々と難しい。どうするか、先ずは靴を見付けるところから、とスイッチが入りそうになっていた一夏を止めたのは、聞き慣れた男の声だった。
「――探し物はこれかな」
「……っ!?」
ばっと、そちらを振り向く。堂々と前を開けた学ラン、間から覗く白いワイシャツ。首には寒さ対策かマフラーを巻き、片手に学生鞄、もう片方の手に一足の革靴を見せびらかすように胸の高さで掲げながら、上慧蒼はゆるりと笑みを溢した。
「ごめん。ちょっと拝借させて貰った。今返すよ」
「…………盗みは、犯罪だぞ」
「うん。分かってる」
一夏がどうにかやっと絞り出した一言を、彼は何でもないように答えた。最近は落ち込みつつあった蒼が普段通りのトーンで話すということは、事実気分が上がっているということでもあるのだが、関わりを絶っていた彼女が気付く筈もない。若干警戒したまま、蒼から革靴を受け取ろうと近付いたところで、不意にがしっと手首を握られる。
「なっ……お、おい、お前。どういう……っ」
「そんなに怖い顔しなくても良いじゃ無いか。全く……」
俺だって傷付くよ、と言いながらするりと手を外して。
「偶には一緒に帰ろう。少し、話したいこともあるし」
「…………、」
じいっと、黙ったまま何とも言えない表情を浮かべて、一夏はぱしりと革靴を奪い取り踵を返す。反応は曖昧。どころか、下手すると拒否とも取れる。が、蒼は次の瞬間、ちらりと彼女がこちらを確認したのを見逃さなかった。
「うん。それじゃあ、ご一緒させてもらうよ」
にこりと笑って、彼も同じように下駄箱から靴を取り出す。一夏とは真逆の方向を全力疾走で駆け抜けて、先回りしておいた甲斐があった。お陰で気分がほんの少し優れないのはご愛敬。乱れた息が収まっているだけマシだ。なにはともあれ、折角もぎ取ったチャンス。無駄にする気は毛頭ない。蒼はふうと一つ息を吐いて、一夏の隣へ並ぶようにスタスタと歩いて行った。
◇◆◇
「一夏」
「……、」
反応が無い。試しにもう一度呼ぶ。
「……一夏? 一夏ってば」
「……なんだよ」
今度は言葉が返ってきた。少しの進歩だ。だが同時に、大きな進歩でもある。蒼は笑顔を保ったまま、彼女に問い掛けた。
「なんで俺の事、避けようとするんだ?」
「…………、」
また逆戻り。どうやら道程は思った以上に長いらしい。
「……何か君を怒らせるようなことしたから、とか?」
「…………違う」
「じゃあ、俺に愛想が尽きた?」
「……違う」
ならば、一体何なのだろうか。蒼は考える。他人の心は複雑怪奇で一切不明だ。経験の浅い己なら尚更、まるで解の無い式を必死に解いているような感覚に陥る。分からないのは当たり前。むしろ分からないの
「俺と一緒に居るのに、嫌気がさした、とか」
「違う。……違うんだ、蒼」
ざりっと、俯きながら一夏が立ち止まった。
「俺は……俺は、その」
「……?」
「ただ……なんて、いうか。あの……なんだ」
言葉に詰まりながら、一夏はしきりに視線を泳がせていた。以前、学園祭の終わり際にもあった、如何にも落ち着かないという様子。気のせいか、蒼の確認出来るところでは耳が赤い。よもや熱でもあるのでは、と蒼は少々心配になってそっと額に手を当てる。
「――――!?」
「あ、熱はそんなに無いのか。ごめん。ちょっと赤かったから」
「な、なにをが、だっ!?」
「耳が、だけど。……そこまで動揺することかな」
「……っ」
ドン、と力強く押されて後方によろける。
「……すまん、やっぱ無理だ」
「え?」
「本当に悪いっ、許してくれ蒼ーーーっ!」
だっ、と一夏が凄まじいスピードで走り去る。真面目に全国を狙えるレベルの脚力だ。流石は織斑千冬の弟と言うべきか、基本スペックは相当高い。一年前は同年代の男子と比べても、頭一つズバ抜けて居た。無論、帰宅部という括りではあったが。とは言え、一夏も心はただの中学生。変に達観していたり、ズレた価値観を持つ事も無く。
『なんだこれなんだこれなんだこれ!? いや本当になんなんだよこれは!! ああもうマジで落ち着けよどうかしてるぞ俺ぇ!』
人並みに、ちょっとした混乱で逃走もしてしまうのだ。
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十一月二十一日。
「あ」
「……、」
それは数日経ったある日の事。休み時間に飲み物を買おうと教室から出た蒼と、
「あの、一夏――」
「……悪い」
一言、謝るように呟いて、するりと彼女は蒼の横を抜ける。感情を最大限まで削ぎ落としたような声音。何かを見たくないかのように伏せられた顔。そうして平時よりも若干速くなっている足並み。どれもこれもが、蒼にとって良い意味に取れるものでは無かった。
「……なんでこんなことになるんだろう」
真偽は別として、嫌っているかという質問に一夏は首を振っている。似た系統のものにも全て、明確な否定の意思を示してはいた。なればこそ、彼女には不可思議な態度をとり続ける意味があるはずなのだ。が、正直なところそれもどうか。たしかに質問にはきちんと答えていたが、終いにはまるで耐えられなくなったように逃げられている。引っ掛かる部分、なんてかわいい話ではない。
「……どうして黙ったままなんだ? なにか言ってくれれば、俺も動きようがあるって言うのに」
傷付けることを言ったのなら素直に謝ろう、接する対応が悪かったのなら改善もする、気に入らない部分があれば隠さずぶつけてくれれば良い。けれど、話し合う機会さえまともに与えられず、ただ淡々と避けられていてはどうしようもないのだ。せめて、納得のいく説明でもあれば変わっただろうが、それも無し。
「分からないよ、一夏。俺には君の考えている事が、さっぱり分からない」
苦虫を噛み潰したように顔をしかめて、蒼は静かに言葉を溢した。二度目の人生、ある程度の事は何でも出来る彼だが、対人経験については平等どころか人よりも拙い。十数年を丸っきり棒に振った代償がそこまで軽いわけもなく。こういう場合にどう行動するべきか、どのような判断をすれば良いのか、蒼にはさっぱり分からなかった。
「……友達と思ってたのは、俺だけなのか?」
自分で口に出しておきながら、衝撃を受ける。ずきりと心臓に杭が刺さったような感覚。異様な動悸がまるで痛みが如く主張して、ぐっと胸を押さえつけた。たったの一瞬、ほんの少しだけ過ってしまった想像だ。呼吸が乱れる。もしもそんなことがあれば、自分は――己は、どうやって立ち直れば良いのだろうと、頭がぐちゃぐちゃになりかけて。
「――落ち着け、落ち着け。……平常心だ」
既の所で、バラバラになる思考回路をかき集めた。らしくもない動揺は弱っている証拠だ。深呼吸を一つして、全身から余計な力を抜く。身体の方は無事でも、精神の方に影響が来ている。滅多に無いコトだった。けれども、そのぐらいならば問題ない。仕方がないと割り切って受け入れるのは彼の得意とするところだ。
「……うん。きっと、今は駄目でも、何時かはまた」
一緒に並んで、笑い合える日が来ると。根拠も無く信じて、微笑みながら蒼は窓から空を見上げた。
「……それでもって、晴れてたら一番なんだけど」
あいにく、目に映ったのは灰色の重く分厚いカーテン。見える範囲一面を覆う雨雲。本日の天気は曇り、ところにより雨だ。冬場の雨には良い思い出がない。蒼は嘆息しながら、ゆっくりと止めていた足を動かし始める。
「……ああ、何だったっけ。何か忘れてる気がするけど」
まあ、所詮は忘れるようなこと。割とどうでも良いかと切り捨てた。もしも微塵でも覚えていれば、少しは未来も変わったかもしれない。しかし現実は残酷で――だからこそ、“彼”にとっての悲劇は起こったのである。
◇◆◇
片手に鞄、首元にマフラー。学ランとワイシャツの間には学校指定のセーターを着込んで、上慧蒼は真冬の空気に入りつつある街中を歩く。もう既に十一月も半ば、風景は未だ秋の香りを残しているが、朝夕の気温だけは立派に一桁。この分ではしばらくしない内に、教室へストーブが置かれるだろう。蒼としてもいい加減制服のボタンを留めるべきか。窮屈で堅苦しいのは嫌いだが、流石に気温の変化に対抗してまで貫き通す気は無かった。
『……そうか。もう、こんな時期か』
ふと思い返して、感慨に耽る。一年は長いようであっという間だ。特に今年は波瀾万丈だったこともあり、息つく暇も無い数ヶ月であった。友人が女になったという大事件からも、もう随分な時間が経つ。生きているうちは何が起きてもおかしくない。明日の自分がどうなっているかなど、予測は立てられても確信はできない。分からない事を楽しむ。それも恐らくは、一つの人生の楽しみ方なのだろう。
「…………、」
ほう、と息を吐く。曇りの日というのは、いつもより街の喧騒も少なく聞こえる。晴れている時のような活気も、雨が降っている時のような雑音も無い。意識しだすと余計に感じてしまう。なんとも静かだ。まるで、街全体が元気を無くしてしまったみたいで、皮肉な事に現状の自分とうっすら重なった。
「……不器用なんだろうな、俺」
緩く、柔らかく、落ち着いて、冷静に。何度も言うように、蒼の割り切り方は途轍もなく緩い。簡単に受け止めて心に仕舞えるのに、僅かな弾みでまた顔を出す。その度に同じようなことをして、時間が経てば元に戻って、決着がつくまでループする。頻度はモノによって様々だ。一度で済むこともあれば、いつまでも引き摺ってしまうことも当然あった。
「…………」
交差点を前にして足を止める。信号は赤。行き交う車の姿は疎らで、平日の昼過ぎであれば当然だった。交通量がピークに達するのはおよそ一時間後だ。十七時以降は会社から解放された多くの労働者によって、この場も埋め尽くされる。文字通り一足先といった感じか。待っているのは向こう側も含め己一人しか居なかった。
「――っ」
と、不意に肌を何か小さいものが叩いた。触れてみると若干冷たい。指先に分かるほどの水分、どこから来たのかなんてのは明白で、よもや目をやるのも嫌になる。
「……雨、だ」
小降りから本降りへと、移行するまでに一分も掛からなかった。気付いた次の瞬間には立て続けに雫が落ちてくる。最悪だった。雨は苦手だ。こんなタイミングで降られるのは面白くない。何よりも、蒼は傘を持ってきていなかった。近くで雨宿りも考えたが、どうせもう少し待てば信号も切り替わる。濡れるのを承知で、彼はその場に居る事にした。
『……運がない。本当に、この頃は』
何となく思いながら、目に入った商業施設の電光掲示板をぼうっと見詰める。テレビでよく見る番組のコマーシャルが流れている下に、ひっそりと今日の日付と最高・最低気温が表示されていた。十一月二十一日、最高十六度、最低五度。何気ない情報を、彼はすんなりと頭に入れて。
「――あ」
びりっ、と。脳内に電流が走ったような衝撃。
『今日、俺の誕生日だ』
すっかりと忘れていたことを思い出す。本来ならば忘れられない自分が生まれた日。蒼にとっては忘れられる筈もない、印象的な日時。それを記憶から消してしまっていたのは、平静で居られなかった自分か、それとも。
「――――、」
曇りということで何かを悟った、冷静な自分か。
『痛い』
『苦しい』
『息が出来ない』
『熱い』
『寒い』
『動けない』
『赤い』
『黒い』
『あつい』
『つめたい』
『つめたい、つめたい』
『ああ、そうか』
『――ひとりって、
十一月二十一日。それは多くの人々にとって、なんでもない一年のうちの一日。休みでも平日でも構う事無く過ごす日。けれども、少なくともこの少年にとっては違う意味を持つのだ。それは奇しくも彼がこの世界に生まれた日であり――同時に、彼がこの世から去った日でもあった。
◇◆◇
時間をずらしての帰宅途中、傘をさした一夏が見たのは、交差点で立ち尽くす一人の少年だった。
「――っ」
ばっと物陰に隠れて傘を折りたたむ。判断は瞬時に且つ行動は迅速。上手い事に雨は屋根が遮ってくれていた。そっと、顔だけ出してもう一度よく見る。
「……間違いない、あれは蒼だ」
本人に自覚は無くとも、今一番意識している相手を見間違う筈も無い。そも、長年連れ添った友人である。雰囲気や体勢で判断がつくのだ。にしても。
「……なんであいつ、傘さしてないんだ?」
僅かに手を出して手のひらに雨粒を受ける。小雨というものでもない。そのままで居れば、一分もしないうちに全身がびしょ濡れになるぐらいには強い雨だ。どうにも変だ。様子がおかしい。正面から斜め上に顔を向けたまま、じっと動かないで居る。
「おいおい、風邪ひくぞ。ただでさえ体弱いってのに」
出来る事なら自分が駆け付けて叱りの文句でも言ってやりたいところだが、可能なら先ずこのように隠れはしない。どうしようもない己に呆れる。校内で会った時も急な出来事で頭がオーバーフローし、とりあえず先日の件を謝ろうとした結果、素っ気ない態度になってしまった。離れてから死ぬほど後悔していたのはお約束。言葉が出て来なくなる、という現象がこれほどまで厄介だとは想像もしなかった。
「マジでこれさえどうにかできりゃ、蒼とも普通に話せるってのに……誕生日も今日だろ、たしか。祝ってやれもしねえよ」
言いながら、一夏は蒼に視線を戻して、信じられない光景が目に入る。
「…………え?」
ふらりと、唐突に彼の体が不自然に揺らいだ。見方によっては、風に吹かれて飛んでいく布のようにも思えただろう。もしくは散って落ちた木の葉か。だが、敢えてイメージするなら土に立てた一本の棒。人の力を加えず傾いた後、重力に従い地面に叩きつけられるみたいに。
「――蒼ッ!!」
ばたんと、上慧蒼は人形染みた動きで倒れた。
「っ……なにが、どうなってんだよ、くそッ!」
傘も鞄も放り投げて、一夏はだっと真っ先に駆け寄って抱きかかえる。雨に濡れている所為か、それとも意識を失っていたからか、若しくはそのどちらもか。彼の体は気味が悪いほどに重かった。
「おいっ、蒼! しっかりしろ! 大丈夫か!?」
大声で呼び掛けるも、返事は無い。
「蒼! 頼む返事をしてくれ! 蒼! ああちくしょう、こういう時は……救急車か!? ええい、なんでもいい! とにかく、なんとかしないと――」
静かな街、不幸にも人影は見当たらなかった。右往左往する一夏の足元、蒼は死んだように眠っている。雨は当分、止みそうにない。
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とある少年の記憶。
――雨が降っている。容赦のない寒さを叩き出した十一月、空模様は絵の具をぶちまけたような鼠色に染まっていた。頬を撫でる空気にも雫が含まれているようで、いやな冷たさを感じる。■はマフラーに顔を埋めながら、ふと透明なビニール傘越しに空を見上げた。
『…………、』
どこまでも広がる分厚い雲の塊。叩きつけるような強い雨。悪天候は時間の感覚を麻痺させる。今が果たして朝なのか、昼なのか、それとも夕方なのか。代わり映えの無い天井の様子を、案外人は気に掛けているらしい。ちょうど交差点にさしかかった。ふと、目に映ったビルに設置されている電光掲示板を見る。朝特有の情報番組、左端には現在の時刻が表示されていた。午前九時四十五分。平日の出勤ラッシュをちょうど乗り越えた時間帯は、驚くほど人通りが少ない。
『……ああ、失敗した。徹夜で小説なんて読むんじゃ無かった』
ぼそりと呟いて、■は僅かに肩を落とす。昨日は好きな作者の新刊が出た、ということで寝るのも忘れて読書に没頭。結果として、床についたのは午前五時を回った頃だった。となれば、大半の人が察するように、彼は見事寝坊をやらかしたワケである。
『これで何度目だっけ。まあ、良いか。学校なんてどうとでもなるし』
無論、本人に反省の色は無い。そも■にとって遅刻はそこまで珍しいものでもない。下手をすると校内でも相当の常習犯である。やる気が無いのは当然のこと、改善する意思さえ無いのだから、二年経って教師もいい加減匙を投げるというもの。なによりこの男、学力だけで言えば真ん中より少し上程度をキープしている。態度の悪さは関係無い、と言外に主張していた。
『ていうか、この時期に雨ってどうなんだ。どうせなら雪でも降れば良いのに。交通機関ストップして正々堂々休めるし』
内心でとんでもない、されど学生としては抱かざるを得ない考えをしながら、■はぼうっと向かい側の信号を眺める。色は赤、渡ってはいけないことぐらい幼い子供でも分かる。手持ち無沙汰をどうにかする携帯電話は、あいにくの雨によって弄る気が起きない。わざわざ画面を濡らしてまでこの時間を潰すほど、彼は依存していなかった。よって、自然と降りしきる雨の音を聞きながら、信号が変わるのを待つ事になる。
『…………、』
自分勝手でマイペース、一人の時が一番充実した時間。彼の性格は他人と関わらないままに構築されている。故に、人付き合いは苦手どころか壊滅的。出来るのは必要最小限の事務的な応対のみ。尤も、余程でも無ければそれでどうにかなる。■の人当たりの悪さは事実、友好的という言葉を知らないも同然だ。度を過ぎていないのがせめてもの救いか。敵を無闇に増やす事はないが、味方も誰一人として増えはしない。
『…………ん?』
と、その時、彼の耳が異様な音を捉えた。
『車……だよな。うん。別に、なんでもない』
水飛沫をあげ、高速でタイヤを回転させながら、段々近くなるエンジン音。
『あれ、なんで俺、今引っ掛かったんだ?』
■は胸中で小首をかしげる。大して不思議な事も無い、何ら普通の出来事だ。一体自分は何を思ったのだろう。気になって、彼はやっと音の方に顔を向けた。
『――え?』
けれども、最早全てが遅く。
『あ、まずい、これ……』
明らかに制限速度を超えた猛スピード。巻き上がる飛沫は通りの少ない道路で際立っている。加えて進行方向もふらふらと右へ左へ行ったり来たり。まともな様子では無い。だからきっと、誰が悪いという話でも無かった。不幸にもその場に居合わせたのが、彼というだけ。
『死ぬ――』
朝っぱらから点けられたライトが体を照らす。逃げる暇もない。そも、逃げられるワケがない。途轍もない推進力を持った鉄の塊が、今、彼目掛けて迫り――。
◇◆◇
「…………、」
ゆっくりと、上慧蒼は瞼を持ち上げた。視界に映ったのは白い天井と、綺麗に光る蛍光灯。見ただけで清潔感を保たれていると分かる部屋。いつも見ている己の自室と比べれば、天と地の差だ。しかし、蒼はこの場所に見覚えが無い。寝起きの頭を必死で使い、静かに考えていく。先ず、一番肝心な問題。
「……ここ、は」
「――蒼?」
答えるように、横から声が聞こえた。しかも、おかしなことに己が耳にするのを待ち望んでいたような声。首を動かして、姿を確認する。
「……一夏」
「あ、ああ。俺だ。大丈夫か? 分かる……よな?」
「……うん。分かる。大丈夫だ」
「そ、そうか……良かった」
ほっと、一夏が安堵の息をついた。蒼としてはよく状況が読めない。何故自分は知らないところでベッドに寝ていて、何故近くに一夏が居るのか。限られた部分しか見えない今の体勢では、推測もまともに立てられない。ぐっと体に力を入れて、上半身を持ち上げようとし――
「ッ」
ずきん、と側頭部に痛みが走った。
「つ、う…………っ」
「お、おい。無理するなよ、蒼。お前、受け身も取れずにぶっ倒れたんだから」
「たお、れた……?」
こくりと一夏が頷く。
「雨の中、傘もささずに突っ立ってるかと思えば、急に糸が切れたみたいに倒れて。急いで救急車呼んで看て貰ったんだ」
「じゃあ、ここって……」
「病院だよ。意識を失ったんだとさ……幸い、怪我は頭を打って出来た傷ぐらいで、殆ど異常はないみたいだけど」
「……そう、だったのか」
信じられない、という表情で蒼が呟く。けれど、与えられた情報でパズルのピースが揃ったかのように当て嵌まるのも事実。直前の記憶はしっかりと残っている。たしかに自分は一人、勢いを増した雨にうたれながら交差点の前に立っていた。だが倒れたことまでは覚えていない。恐らくは不自然に途切れているソコの部分が原因。ならば、火を見るより明らかだった。
「ああ、いや、違う。そういうことなんだな。……ごめん、迷惑かけた」
「別にそのぐらい良いけどよ、その……大丈夫、なのか?」
「さっきも言っただろう、大丈夫だ。それより」
すっと、一夏の方を向いて。
「君の方こそ大丈夫なのか。俺にここまで付き添って」
「おう。今は俺の事よりお前の方が心配だからな」
「……ならどうして最近、ずっと避けてたんだ」
「だから、悪いって言ったろ。まあ、言い方はアレだったけど。俺もなんていうか……色々とあったんだ」
「……あれって、そういう意味だったのか」
てっきり別の意味で捉えていた蒼にとっては衝撃。思わず彼女をじっと見詰めてしまうぐらいには驚いた。が、向こうはそれが納得いかなかったようで。
「……やめろ、あんまりそう見るな。再発するから」
「え、なにが」
「こう、変なものが。主にお前を避けてた原因が」
「……そ、そうか、分かった」
理解はできなかったが、そんなことを言われては見続ける訳にもいかない。蒼は視線を天井の方に戻して、自然と入っていた肩の力を抜く。
「……さっき、蒼の親御さんが来てたんだ」
「父さんと母さんが?」
「ああ。それで、話を聞いた。……小さい頃はよく、雨の日に倒れることがあったらしいな」
「……うん。まあ、ね」
彼は特に否定もせず答えた。実際、生まれた頃は雨どころか水を見るだけで平静が崩れ、室内から外の様子を窺うだけで卒倒したりもした。思い返すと酷いものだ。大抵は時間が解決してくれたと思っていたが、ここに来てまた倒れるとは夢にも思わないだろう。
「お前は雨が苦手ってことは知ってる。何度も聞いたからな。でも、その理由ってやつを、よく考えれば一度も聞いてないんだ」
「それは……」
「……なあ、蒼。お前、何を隠してるんだ? 雨が苦手っていうのは分かる。でも、雨でぶっ倒れるなんて相当だろ」
「…………、」
言葉に詰まる。彼女の言う通り、普通の人は雨を見ただけで気を失うなんてことはない。何か思う事はあれど、それでも嫌悪感を覚えるぐらい。酷くても体調が悪くなるのが限度だ。倒れるというのは、かなりの重症だということ。
「……君には関係ないことだよ」
「ある。俺は蒼のっ……お前の、友達だ」
どうしてか、その言葉を発する瞬間に、胸が苦しかった。けれども今は置いておく。考えるのはあとだ。重要なのは目の前の友人であって、己のことではない。
「…………、」
「教えてくれ。何があったんだ」
黙ったままの蒼に問い掛ける。嫌だ苦手だと言うだけならば、そこまで大した問題でも無いとスルー出来た。だが、倒れるまでのことになると別だ。キッと、目を逸らす彼の顔を見詰める。
「……本当に、知りたいのか?」
「当然」
一も二もなく即答。気遣いでもなんでもない。単純な織斑一夏の持つ優しさで、答えを望んだ。抱え込むよりは吐き出した方が楽になると知っているからだ。しばらくして、蒼はぽつりと溢した。
「…………うん。一夏になら、良いかな」
「蒼?」
「どうせ、必死に隠すようなことでも無いし、つまらない話だから。それに、君なら安心して話せるってのもある」
「ってことは……」
ゆっくりと、蒼は頭を縦に振った。一夏は知らない。その、たった一秒にも満たない行動を取るだけに、どれほどの苦悩があったかを。どれほどの覚悟をしなければいけなかったかを。ただ聞き手側として有るのみとする一夏には、知る由もない。
「話すよ、全部。……俺のこと、俺が経験してきた、有り得ないことも」
「有り得ない、こと……?」
「うん。手始めに、そうだね。――君は、こことは違う、全く別の似て非なる世界があると言ったら、信じるか?」
そうして彼は、真剣な表情で、一つ目から予想の範囲外である話題を持ち出してきた。
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告白。
別の世界。別の場所。どれでも良いが、上慧蒼が生きていた世界は、そういった類いのものだ。ある程度の本筋は同じ。ただ、決定的な歴史や技術が圧倒的なまでの差を開けている。それもたった一人の
「生まれる前の記憶がある、のとはまた違うかな。記憶を持ったまま生まれてきた、ってのが正しいかもしれない」
「……どういう、ことだよ」
「つまり、俺は元々、そのまったく違う世界で生きていたんだ」
ぼうっと虚空を見詰めながら、蒼は落ち着いた声音で言う。彼がまだ、上慧蒼では無かった頃の記憶。時間が経ち、古い記憶がうすぼんやりと掠れても、未だ明瞭に残る長い長い思い出。きっと一生忘れる事は無いだろう。自分が初めて歩み、終わりを迎えた十七年間。一人の何でもない、己という少年の短い生涯は、されど蒼の仲では鮮烈な一生だ。
「異星だとか、近未来って訳じゃない。むしろこっちの方がところどころ近未来だ。俺の元居た世界にISなんて無かったし、当然、篠ノ之束っていう開発者も、織斑千冬っていう操縦者も居なかった。ああ、でも、ISはあったし、篠ノ之束も織斑千冬も有名と言えば有名だったんだけど」
「……ちょっと待ってくれ。ワケが分からん。無いのにあったって……どっちだ?」
「うん。俺も言っていて変だとは思った。けど実際そうなんだから仕方ない。分かりやすいところで言うと、シャーロック・ホームズは実際に居ない人物だろう?」
「いや、それは小説の登場人物だし……」
見事に答えが出ていた。蒼は苦笑しながら、それだよと続ける。
「君や千冬さん、箒ちゃんに鈴ちゃん。弾も数馬も、ある小説に出てくる架空のキャラクターだった。凄い話だろう? 俺からしてみれば、死んだ後に小説の世界に入り込むような体験だ。初めて一夏や千冬さんの顔を見た時は、素直に驚いたよ」
「……そんな、馬鹿な」
「本当にね。想像上の人物でしか無かった君たちが、目の前で動くんだ。しかも、意思を持った人として。……信じられるかい? 俺はちょっと、信じられなかった」
現実になろうと変わらず、織斑一夏は織斑一夏であり、周りは当たり前のようにそれを受け入れていた。なにせ、この世界にとって彼が存在するのは必然だ。中心点とも言える重要人物である。違和感もおかしさも何一つ無い。むしろ、それら全てを請け負ったのはこちらの方。運命に導かれる、奇跡に手をかける、定めに従う。どれもハズレ。ただ偶然、恐らくは小数点以下の確立で引っ掛かっただけの、ちっぽけであまりにも無駄な異物。それこそが、この世界における上慧蒼の存在価値だ。
「ISも君たちも空想のモノでしかなくて、女尊男卑の意識も強くなく、まあ、割と比べたら殆ど変わらない世界の日本。地方都市、って言うほど人は多くない街だったけど、俺はそこで、普通の学生として暮らしてた」
「……つまり、お前が生まれる前の話、か?」
「なんだ、意外と理解が早いな。それで合ってる。俺の、一度目の人生だよ」
「……全部分かってる訳じゃないさ。ただ、会話の流れでそうかと思っただけで」
だとしても、対応力の高さは見事。認知力は相応だが、姉譲りか直感は大したものである。おおよその人間が放り投げてもおかしくない事実の連続を、彼女は信じ切らないまでも受け止めていた。なにより相手が蒼であるということ、どこからどう見ても巫山戯ている様子がなかったこと。ダメ押しに、長年の付き合いから気付く事が出来た、彼がどこか懐かしむような目をしていたこと。一夏にとっては十分、否定を無くす材料だ。
「今でも覚えてる。今日と同じ日。十一月二十一日の、午前九時四十五分。土砂降りの雨と、少し早い本格的な寒さが来た日だったな」
言いながら、蒼は「ああ」と納得した。どうりで卒倒する筈だ。日付、天候、気温、状況、おまけに精神が少し弱っていた部分もある。あまりにも揃った条件が最悪過ぎた。時間は大幅にズレていたが、慰めにもならない有様。トドメを刺すように傘を忘れて全身を濡らすという、普段なら絶対にしない愚行。あの時の映像がフラッシュバックしたのは何ら変なことではない。
「俺は交差点で信号を待ってる途中、勢いよく突っ込んできた車に轢かれて死んだんだ」
「……死ん、だ」
「そう、間違いなく死んだ。あれで生きている、なんて思えないぐらいには確実に」
「……でも、それならお前、車は……その、怖くない、のか?」
詰まりながら一夏が訊いてくる。雨が苦手という理由は、これまでの説明で何となく理解できる。己が死んだ状況的な要素。連鎖的に思い出す可能性もあるそれを、好きになれという方が無茶な話だ。だが、直接的な原因である車両はどうなのか。彼女の抱いた純粋な疑問は、蒼にとって何でもないことで。
「そっちは平気なんだ。あいにく、車に撥ねられる衝撃は一瞬で、問題はその後だったから」
「その、あと……」
「うん。……ちょっとの間、意識が飛んでたんだと思う。気付いたら、ずぶ濡れで地面に横たわってた」
それは、彼に起きた最後において最大の不幸。車とぶつかった衝撃で即死
「痛い、というより熱かった。焼けるように熱くて、必死で瞼を持ち上げたら、片方の視界が真っ暗で、もう片方は不自然に赤いんだ」
「…………、」
「驚いて身動きを取ろうとしたんだけど、手が動かない、足も同じく、首も駄目。目だけは辛うじて言うことを聞いてくれて、よく見たら手足が曲がっちゃいけない方に向いてる。多分、内側もぐちゃぐちゃだったんだろうね。口の中は鉄の味が広がってて、息をするだけでもう気が狂いそうだった」
ただでさえ重い瞼で半分ほどの景色に、フィルターをかけたような濁った赤。力の入らない壊れた四肢。掠れた呼吸は時折どこかに溜まった血を吐き出して、ちょうど良い位置に水溜まりがあったのもあり、不気味な音を奏でる。まさに瀕死の状態。耐えきれずに防衛本能で意識を落とす事柄すら、彼ははっきりと覚醒したままに体験してしまった。
「呼吸をしないと苦しいから息を吸うだろう。でも、吸った直後に途轍もない激痛が走るんだ。だから直ぐに息を吐く。するとまだ苦しさが残ってて、だからもう一度息を吸っての繰り返し。どうやって普段空気を取り込んでたっけ、なんて混乱までして」
「蒼……」
「勿論、そんな状態だから声なんて出せない。車に乗ってた人の方も不味かったんだろうね。結局、誰も居ない道の真ん中で、ただ死ぬのを待つだけだった」
直前に、ふらふらと蛇行運転をしていたのもある。相手方もまともでは無かった。最悪彼と同じか、軽くは無い怪我はした筈だ。尤も、自分のことで精一杯だった蒼は知らない。知ることもできない。
「しばらくして、熱さが嘘のように消えて。おかしいなと思ったら、今度は凍えるほど寒くなるんだ。手足の先から、熱がどんどん逃げていくような。冬場の雨だから尚更寒く感じたのかな。震える力も無いのに、震えそうなほど冷たかった」
「……あ。それ、で……」
「まあ、理由だろうね。雨で濡れて冷える、って感覚がどうも。……その後はずっと寒くて寒くて。もう耐えきれないぐらいで。終いには息もまともに出来なくなった」
正直、脳みそが動いていた事実に今更ながら愕然とする。
「それでふと、音も光もぱっと消えて、体の感覚もなくなるんだ。綺麗に、もう何もないって感じで。最後に残った“何か”も、文字通り消えるんだ。……思い出してもゾッとするよ、あれは。喪失感、っていうのかな。まあ、それを感じることも無い状態なんだろうけど、とにかくそういう感じで」
「…………」
「死ぬまで忘れないだろうな、あの時の感覚。まあ、死んでも忘れなかったんだけど」
蒼は笑った。作り笑いか、自然な笑顔か。俯く一夏では見分けがつかない。ただ、声で笑っていることは分かった。心情は一切、理解出来なかったが。
「その後はなんでもない。気付いたら俺は赤ん坊で、母さんと父さんに囲まれてた。晴れて上慧蒼が生まれたってことだ。ちょうど死んだ日と同じ今日の、これまた全く同じ時間帯に。不思議だよね、繋がってる訳でも望んだことでもないのに」
何かの声を聞いた、超常の存在に出会った、高次元の生命体と話をした。そんな特殊な経験はしていない。死んで、生まれ変わって、そこが偶然彼が生前に読んでいた『インフィニット・ストラトス』という小説をそのまま形にしたような世界だった。
「以上が、俺の話だよ。君にしか
「…………嘘じゃ無い、んだよな」
「ああ。……でも、信じるかどうかは一夏の勝手だ。俺の妄言だって切り捨ててくれても良い。実際、本当だろうが思い込みだろうが、俺がおかしな人間だってことに変わりはないだろう?」
「それ、は……」
――そんなことはない! 蒼は正しい! 全然おかしくなんかない! かける言葉なら幾らでもあった。けれども、口には出せなかった。
「……いきなりここで答えを出せ、なんて言わないよ。ちょっとだけ、ゆっくり考えてみてくれ。俺も少し疲れたんだ。……君がどういう受け取り方をしようと、俺はそれに従うよ」
一方的に語った役目だ、と締めくくって蒼は瞼を閉じる。一夏はしばらくその場で黙ったまま居たが、彼の寝息が聞こえるのと同時にそっと席を立ち、病室を後にした。
◇◆◇
そんな折の、帰り道。
「やあ」
「……っ!?」
彼女はふらりと、一夏の目の前に現れた。
「……いきなり、ですね」
「久しぶりだね、いっくん。積もる話、というか私に言いたい事は一杯あるのは知ってるよ。でも、ちょっと今は優先事項があるのさ」
珍しく真剣な表情をして、眼前の女性――篠ノ之束は。
「事情は把握しているよ。蒼くんから全部聞いたようだね。……少し、そこの公園に寄ろうか。私としても、君と蒼くんの関係は割と重要なものでね」
いつもより静かに、声を落としたままそう告げたのだった。
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上慧蒼という存在。
一向に止まない雨と、晴れない空模様。それらを見上げながら、一夏はなんとなく彼の話を思い返した。曰く、似て非なる別世界。こことは違う歴史を辿った、もう一つの地球。遠い遠い目にも見えない世界で、蒼は一度死んだという。たしかに人生二度目と言われても信じられるぐらい頭の良い彼だが、まさか本当にそんな事態を経験しているとは思わない。少なくとも、当たり前のように受け入れられるものでは無かった。
「で、いっくん。いっくんは蒼くんの話を聞いて、どう思った?」
束が器用にブランコの上で傘をさしながら声をかける。彼女にしては似合わない、透明で如何にも安物といったビニール傘。服装がメルヘンチックなのもあって、余計に違和感を掻き立てていた。
「……正直、よく、分からないっていうか。あいつの言ってるコトの半分も理解できてない、というか……」
「ふむ。まあ、そんな感じになっちゃうのかな?」
「大体、違う世界とか、そこでは俺たちが小説の登場人物だとか、ワケが分かんないですよ。ISも何もない、ってのも」
「いや、そこは当然だよ。何せ現実に“私”という才能を持った人間が居ない。ならISはこの世に生まれないだろうさ。例え、なんの偶然か空想のモノとして完成していたとしてもね」
インフィニット・ストラトス。それが人類史に登場してから、はや数年が経つ。しかしながら今でも尚、ISのコアを開発出来るのは生みの親である篠ノ之束のみだ。そのブラックボックスは多くの謎に包まれたまま、されど解明のしようも無いままに使われている。コアの数は有限な以上、下手なことは出来ない。故にこそ世界各国は絶賛逃亡中となっている、一夏の目の前でブランコを揺らす人物を追い求めているのだが。
「尤も、それらは大した問題じゃない。私としては彼の記憶における、オマケ程度の付属品だ」
「オマケ、って……」
「パラレルワールドや酷く似通った環境じゃあない。彼が居た世界は根本から別の“異世界”なんだよいっくん。触れるどころか見る事も叶わない。ただそういうモノがあるって知れたのはちょっとした収穫だったかな。勿論、それでもオマケの域は出ないけど」
くすりと笑って、束はぱっとブランコから手を離し、ばしゃりと水飛沫を上げて着地する。彼女にとって蒼の世界云々など、重要なことではない。精々が昔に考えた時もあるか、といったもので、結局事実として明確な証拠が無いまま確認できただけ。蒼の心情を考えると決して無視出来ないのだが、興味の無いものは仕方ない。
「大事なのは、彼が一度死んでいるという部分だ」
「……というか、束さんが知ってるって事は、あいつ、俺にしか言ってないとかいうの、嘘だったか」
「いやいや、嘘なんて吐いてないよ彼は。正しく言ったのは君にだけだ」
「……じゃあ、どうして束さんがそれを」
当然の疑問。束は、ふっと口の端を僅かに吊り上げて、さも人間らしい表情で答えた。
「告白すると、私は彼を殺そうとしたことがある」
「それって……ああ、前に蒼が、言ってたな……」
「おや、聞いていたのかい。なら話が早い。当時の私はおかしな事に、途轍もなく彼を嫌悪していてね。君や箒ちゃんの側に居る蒼くんが目障りで仕方なかった」
特にこれといった理由はない。そも、篠ノ之束が人間を石礫のように思う事はあれど、嫌うのは稀だ。ただ居るだけで邪魔だった。視界に入るだけで妙に苛ついた。ようはらしくもない感情論。何かを感じ取っていたのか、通常なら有り得ないマイナス方面の認識。後になんとなく、それを悟った。
「本気と言えば本気、遊びと言えば遊びだったのかもね。その時から蒼くんが何かを知っている、ということに感付いていた私は、彼の記憶を全て覗いた後に殺そうと思った。どうせつまらないものだろうし、覚えているのが私ならむしろ良い方だろうってね」
「記憶、を……?」
「ああ。無論、
きっとその瞬間、彼は上慧蒼として彼女に認識された。
「死の瞬間、感覚、記憶。全部蒼くんは持ってきていた。それは生物として大きな欠陥を抱えるのと同じだ。なにせ本来は想像の範疇でおさまる終わりを明確に知ってしまっている。生きているのに、死ぬ事を覚えている」
“死”は絶対だ。生き物はひとつの例外も無く、死ぬ事によって終わりを迎える。抗う術も逃れる方法もない。蒼は世界でたった一人、死ぬという状態を記憶に持つ人間であり、“死”を本能的に理解せざるを得なかった生物だ。ともすれば、彼以上に“生きる”という感覚を持って過ごす存在など居ないかもしれないまでに。
「でも、それでもね、いっくん。彼は――蒼くんは、自分の意思でそのまま生きる事を選んだんだよ」
「…………、」
「死ぬことの辛さを知ってる。怖さを知ってる。いつか絶対来る事も分かってる。でも、彼は決して生きる事から目を背けなかった。産まれたのなら仕方ないと、呆れるほど簡単な理由で、死を乗り越えたんだ。あの子は」
――死ぬ事は怖い。とても怖い。生きるということは死ぬ事で、だから生きる事もほんのちょっとだけ怖い。明日死ぬかも知れない。明日を生きられても、明後日死ぬかも知れない。明後日を生きられても、一年後、数年後、ずっとずっと先か後か、恐らく己は同じ苦しみを味わって同じ感覚のもとに死ぬ。でも、それが生きるっていうものなんだから、立ち止まって悩んでいても意味が無い。せめて後悔だけはしないように、受け入れて、飲み込んで、いつも通りの態度で暮らす。それが蒼の割り切り方。明らかに常人離れした精神性。狂うような状況で、蒼は笑い、悲しみ、些細な事で悩む。それこそ、自分が世界にとっての異物だという根拠の無い自覚すら抱えたまま。
「そんなものを理解させられた。信じられるかい? 私ですら薄ら寒く感じたソレを実際に体験しておきながら、彼は生きていたんだ」
「……やっぱり、全部本当、ってことですか」
「嘘にここまで心揺れ動かされる束さんじゃないんだよ。尤も、真実にもそこまで揺れないけどねえ。……ただ彼には、小さくない衝撃を受けた。こんなにもちっぽけな器に、よもやそこまでのモノが背負えるのかとね。見ていて悲しくなったよ。ああ、そうとも。この天才ともあろう私が、なんでもないヒトに心を奪われた」
蒼が抱えるものは“死”の感覚だけではない。たった一人転生という体験をした孤独感。同時に上記の通り、己が本来居るはずの者ではないという異物感。周りの人間はともかく、世界から祝福などされてはいないのが常。苦しむ事は正常だと無意識のうちに認識し、一定以上に恵まれるのをどこか諦めている。それについては彼自身も、あまり気付いていないのだが。
「だから私は心に決めたんだ。蒼くんは必ず、やりきれない形で死なせはしないってね。無論、彼の自由意志が一番大事だから、無理矢理ってのは避けたい。私なら絶対不幸にはしないんだけど、まあ、過去の出来事もあって束さんに靡いてくれないのがちょっとショック」
「…………、」
「いっくんにはその点で頑張って貰いたかったんだけどね。彼の異性に対する僅かな苦手意識を取り除くのと、一緒に過ごすという状態に馴染んでもらうこと。まさか、君が彼にやられるなんて予想外だった。やっぱり蒼くんは不思議だ」
「……俺がやられた?」
一体何にだろう。首を傾げながらぼんやりと考える一夏に、天災はにやりと笑みを濃くして。
「いっくんはニブチンだねえ、自分の事も、相手の事も。だって君は蒼くんに惚れてるだろう? 恋愛感情を向ける相手として」
「…………え?」
その、彼女自身を悩ませていた原因を、容赦なく、的確に突き刺した。
面倒くさいオリ主ですねこれは……。
某Aさん「俺、実は転生者なんだッ(迫真)」
某Iさん「はいはい嘘乙嘘乙」
で終わる前作オリ主くんを見習って貰いたい(白目)
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封鎖された別れ道。
「俺が……蒼に……?」
「ああ」
何かおかしいところでも? と言いたげに束がこくりと頷く。無論、一夏としては何もかもがおかしい。
「いや……待って、下さい。そんなの……」
「ありえないことかな?」
「そ、そもそもっ……あ、あいつ、男、ですよ?」
「まあ、男の子だね」
確認するまでも無く、上慧蒼は男だ。女っぽい外見をしているワケでも、本当は女の子だという秘密もない。正真正銘、“織斑一夏”にとって同性の友人だ。異性に対するときめきは殆ど無かったが、かと言って同性に対するものがある筈もなく。何をもって一般的かとするに多少の議論の余地はあれ、世間的な男女の仲を念頭に置いたとすれば、一夏は至って普通の感性の持ち主だ。となれば、当然好きになる相手は異性でなければおかしいのだが。
「俺……同性愛者とかじゃありませんし、そもそもアイツのこと、そんな目で――」
「見ていないって、言い切れるのかな。加えてもう一つ。君は重要な見落としをしている」
「み、見落とし……?」
篠ノ之束の感覚と思考回路は文字通り人間離れしている。それらはきっと彼女自身にしか理解できない特殊なものだ。徒人には到底辿り着けない天災の考え方。理由は多くあれど、一言で表すのなら次元が違いすぎるため。同時に彼女からすれば、単純な計算式のようである凡人の考えなど手に取るように知れる。理解は出来ないものであっても、ある程度の予測と判断でどうにかなってしまう。一夏の気持ちなど、頭を悩ませるものでは無かった。
「今の君は女の子だ。体が余すところなく、完璧に女性化してしまっている。精神だけが織斑一夏というカタチを保っているんだよ。だから、何らおかしなことじゃあないさ。君は女の子として、蒼くんを素敵な人だと思ってしまったんだろう?」
「なっ――ち、違うっ! 違います! そんなの……そんなこと」
「否定する前に、いっくんの心に聞いてみたら分かるんじゃないかな? 胸の内は偽れないんだから」
「……そんなこと、ありえねえだろ」
苦い顔で呟きながら、一夏は胸を押さえつけた。僅かとは誤魔化せない、邪魔な脂肪の塊。既に受け入れた事である。現状、言い逃れも出来ないぐらい、一夏の体は女の子のモノだ。それでも、心だけは必ず変わりないと、一年前からそのまま織斑一夏であると。そう信じ切っていたから、己を見失わずに済んでいた。
「だって……だって、俺は……」
「素直になりなよ。間違いなく、いっくんは蒼くんに惚れている。私もまあ、
「嘘だ、そんなの……だって、俺は、あいつと……」
――俺は女の子としての君を好きにならない。友人として出来る限り側に居て支える、って約束。それでまた男に戻った時。あの頃は大変だった、なんて振り返って、二人で盛大に笑い飛ばしてやるんだ。
「あいつと……」
――戻れるよ、絶対。うん、絶対だ。……絶対、俺が元に戻す。
「……ずっと、変わらないままやってきたんだ……っ」
「なら、変わる時が来たんだよ。君の心がもう傾いてしまったのなら、後戻りは出来ない。逃げても待っても結果は同じだ」
「……嘘だ、こんなの。それに、俺は……俺はまだ」
「まだ好きになっていない、なんてつまらない答えでも言うのかい? それこそ、よく考えてみなよ」
否定したかった。これは違うと。こんなものは違うと、丸っきり否定してしまいたかった。一夏にとって蒼は他より少し付き合いの長い友人で、この数ヶ月を共に乗り切ってくれた戦友でもある。自分に向けられる好意で折れそうだった時期、緩くあれどたしかな意志が込められた彼の言葉に救われた。一人でも織斑一夏という“中身”を、外見のフィルターに誤魔化されず見ていてくれる事実が、彼女に今日まで歩く力を与えた。上慧蒼はかけがえのない友人だ。それ以上
「……ああ」
文化祭より始まった変な状態、慣れない感覚。
「くそ、ふざ、けんなよ。どうして……」
ずきりと胸が痛む。理性が受け入れるのを拒んでいた。皮肉な事に、彼女を救った彼の言葉は、ここに来て傷付けるものへと変化した。
「なんで俺、あいつの言葉でざわついてんだよ……っ」
約束とは呪いだ。ただ、二人を縛るその糸が、柔らかいものか、刺々しいものかというだけ。質が悪いのはこの糸というのが、必ずしも両方同じ性質とは限らない。片方にとって緩く結ばれた暖かな約束であろうとも、もう片方にとっては苦しく締め付けられた痛い呪いであったりする。なればこそ、間違いなく一夏にとってのソレは、紛う事無き“呪い”と言えるだろう。
「そこまで行けたのなら十分さ。もういっくんは後に引けない。ようやく君に本題を持ちかけられるね」
「……本題、って……」
「――君と蒼くんの、今後についてだ」
◇◆◇
「悪い事は言わない。いっくん、今からでも遅くないよ。蒼くんから離れることをオススメする」
はっきりと、束はそう言った。顔色も変えず、真剣な表情で、己の感情に困惑する一夏に向かって畳みかけるように。冗談の類いであれば、笑って流せただろうか。もしもの話ほど無駄なものは無い。
「……蒼から、離れる」
「うん。率直に言って、いっくんが恋心を抱くなんて私の予想外だった。可能性すら計算していなかったのさ。君なら大丈夫だと、そういう気持ちを抱く筈がないと、確信した上での設定だった。……けど、君は
「……っ」
否定の言葉が、喉から出ない。
「なら終わりだ。きっといっくんじゃあ蒼くんを理解できない。例え、有り得ないことに想いが通じ合っても、結局は彼の問題を解決してあげられない。……幸せになんて出来ないよ」
「…………、」
それは、全ての記憶を覗いた篠ノ之束だからこそ言える事。彼女は真実、上慧蒼のことも、■■■のことも余すところなく見てしまった。詰まるところ、殆どの彼が抱える問題を束は知っている。尤も、世界で随一の天才をもってして、確証が持てないぐらいに蒼の感覚と思考回路は別物だ。生きながら死ぬという体験が一人の少年に与えた衝撃は、どこまでいっても傍観者である束では完全に把握できない。
「私なら可能だ。絶対に蒼くんを不幸になんてさせない。間違った答えも出さない。彼にとっての正解を伝えてあげられる。……分かるかい? いっくん。友達とはまた別だ。彼の隣に立つということは、そういうことなんだよ」
「隣に、立つって……」
「説明なんて要らないだろう。ただ、ひとつ言えるのは。今の君には荷が重すぎるということかな。……だからいっくんには、大人しく彼への想いを捨てるか。もしくはここですっぱりと、彼との関係を絶ってほしい」
二つ、束は選ぶ道を提示した。けれども実際は一つだ。不器用な一夏では蒼のように綺麗に“割り切る”ことなど出来る筈もない。一番最初に告げられた、離れるという選択肢しか取れないことを理解している。
「蒼くんのカミングアウトも意外だったけど、タイミング的にはばっちりだったかな。彼にもどうするかを託されたんだろう? だったら、ちょうど良いね」
天災は笑った。一夏は何も答えられない。ただ、今はとにかく、パンクしそうな心と頭を静かに休ませて欲しかった。
前作←メンタルクソ雑魚ヘタレオリ主(尚トラウマ無しの綺麗な転生)
今作←メンタルハイパームテキオリ主(尚それでも耐えられない悩みとトラウマ持ち転生)
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レールの上からはみ出して。
「ごめんね、いっくん。でも、彼は私にとって大事なものなんだ。色々と、ね」
去っていく一夏の背中を見ながら独りごちる。上慧蒼という人間に対する情は勿論、一度死んだ生物としても極めて興味深い存在だ。己以外の手に渡るのは面白くない。そも、彼の意思を尊重しなければ
「……ああ、でも、束さんにも分からないことがあった」
全体像を掴めている彼女にとってはほんの一欠片、無くしたどうでも良いパズルのピース。当の本人である彼にとっては、今の自分の原点となる大事な歯車。
「でも、良いさ。君がそう思うのならそうするのが私のやる事だからね。その役目、私が引き受けてあげるよ」
天災は気付かない。それが致命的な問題であると、気付くはずも無い。なんてことはなかった。例え転生という異常事態を経験しようが、死んでいく感覚を思い出として引き摺ろうが、どこまでいっても蒼は生きている人間でしかない。壊れた部分も変わらない部分も、全部含めて本来の形として纏めあげる。そんな、下手すれば精神が腐り果ててしまいそうなことさえやってのける、少し変わった男だったのだ。
「安心してくれ。君に手が届かないモノなんて、この世界には無いんだから――」
言ってしまえば、過大評価。死んだという結果に着目し続けた結果、今を生きる蒼に意識が向かなかった失敗。束の対応は一番初めが正常であり、正答であった。路傍の石ころとしか見ていない態度。絶対的なまでに関わろうとしない。そうであれば、きっと蒼は少し楽に生きられただろう。
◇◆◇
――凍えそうなぐらいの寒さ。気が狂いそうになる程の喪失感。死んでいく中で抱けたモノは多くない。なにせ、ふと浮かび上がった側から消えていく。まるで泡がぱんと弾けるように、跡形も無く失われるのだ。何も思うな、何も考えるな、何も感じるな。囁きかける声は恐らく、冷静な自分だった。最早死ぬのだから、諦めろと。
『……冷たい。冷たいな。どうしてこんなに、冷たいんだっけ』
外は雨が降っている。身体が濡れていた。上からは大量の雫、下には水溜まりの絨毯。おまけに冬場、気温は決して高くない。でも、理由はそれだけではないと、どこかで気付いていた。
『熱。出来るなら、熱が欲しいな』
痛みから来る灼けるような熱さは既にない。恐らくはつい先ほど死んだのだろう。直にここも死んでいく。何かを思っていられる時間は、残された僅かな奇跡の量だ。長くは無い。
『でも、熱いのはいらない。ちょうど良い、ものが』
ふと、母親に頭を撫でられた記憶が蘇った。偶然か、それとも無意識のうちに過去から選び抜いていたのか。なんにせよ、答えはそれで見付かってしまう。
『……ああ、そっか』
全て、気付いてしまった。
『そういう、ことだったのか』
愚かなのは自分だった。一人が好きだと周りを顧みず、誰かとの関わりを最小限に抑え、常に孤独であろうとした己の馬鹿さ加減に呆れる。もっと早くに思い至っていれば、少しは変わりもしただろうか。否、そこまで簡単な問題でも無い。それこそ、
『どうりで一人が、いけないわけだ』
死の間際。冷たくなる己の体。その手を、弱くても握ってくれる誰かが居たのなら、きっと寒さも耐えられた。暖かな人肌の安心感が、一番に求めるものだと理解出来る。ならば人が誰かと過ごすのは、最後に残る
『馬鹿だな、俺。最後になって、誰かと居たいなんて。避けてたのは
他人との繋がり。一緒に過ごすという大切さ。ここに来て遅くも知ってしまう。人間は集団の中で生活するのだ。一人では何事も限界がある。死んでいく時の苦しみが大きいままになる。となれば、俺が二度目の人生で望んだものは単純で。
「いつか死ぬ時に、側で手を握ってくれる人が居たら良いな」
でも、それは高望みというやつだ。招かれざる存在である己に、誰かを幸せにする権利は無い。精々が友人として関われるかどうか。自分にとってはせめてもの我が儘だった。異物だろうがなんだろうが、誰かと仲良くする程度はさせて欲しい。願いは届いたようで、友人と胸を張って言える人が何人か出来た。だったらもう十分。これ以上を望むとすれば、今度こそ“世界”に怒られてしまいそうで。
「しょうがないけど、現状で満たされているから」
俺は、望んだものを諦めた。
◇◆◇
かちゃかちゃと、食器が小さな音をたてる。その日の夜、織斑家の食卓は珍しく二人分の料理が用意されていた。言うまでも無く、殆ど戻って来ない千冬の久方ぶりになる帰宅だ。一夏が帰った頃には既にプライベートモード全開であり、開口一番「メシを作れ」との命令。気晴らしついでにも良かった。体に染み付いた動きで難なく夕飯を拵えた彼女だったが、肝心の気分は一向に晴れない。食事の席は、不気味なほどに無言だった。
「おい、一夏」
「……なんだ、千冬姉」
「お前、今度は一体なにを抱え込んできた?」
「…………、」
見かねた千冬が問い掛ける。精神状態は誰よりも一夏自身が雄弁に語っていた。暗く沈んだ表情で居れば、誰しも何かあったのだと感付いて当然だ。姉弟でなくとも見破るのは容易い。
「……今日さ、蒼が倒れて」
「なに?」
「それ自体は、大したことじゃ無かったんだけど。なんて言うか……それが原因で、色々と知ったっていうか」
「……ほう」
缶ビールを傾けながら、千冬はすっと目を細める。
「……俺、今まであいつのこと何も分かってなかった。表面だけ捉えて、分かった気になってただけだった」
「…………、」
「笑っちゃうだろ? 友達なのに、幼馴染みなのに。ここ最近じゃ一番側に居たって言うのに……蒼のこと、全然知らなかった」
彼の秘密、悩み、苦しみ、記憶、思い。どれもこれも、一夏にとっては初めて耳にする内容で、まともに返す暇もなかった。尤もそれは仕方のないことで、蒼が誰かに話したのも初めてなのである。既知だったのは一方的に頭の中を覗いた束のみ。かの人物による衝撃が大きすぎて、一夏はそのことをすっかり忘れていた。
「まあ……あいつはあれで、よく分からんやつだからな」
「ああ、分からない。俺には蒼のことがさっぱり分からない。きっと理解出来ないって、束さんにも言われた」
「……束? あいつと会ったのか」
「うん。会ったよ。凄いな、束さん。全部……本当に全部、知ってた」
渇いた笑い声を溢しながら、一夏は続ける。
「俺は分からないのにな。本当おかしいよ、俺。蒼のことよく知りもしないで。でもあいつは俺のために色々と頑張ってくれて。友達だからってだけで」
「……ああ、そうだな」
「それなら俺も、友達って思うのが普通だろ? それ以外なんてないだろ……? なのに、さ。俺……俺、あいつのこと、違う目で見てたんだ」
「――――、」
異性として。恋愛対象として。好きになった相手として。女の子になった織斑一夏は、蒼のことを意識してしまった。
「ふざけんなって。めちゃくちゃ認めたくないのに。男に戻そうとしてくれてるあいつのためにも、認めたら駄目なのに。……束さんに突きつけられて、はっきり否定しきれなかった」
「…………まさかとは思うが、お前」
「ごめん、千冬姉。――俺、蒼に惚れたみたいなんだ」
「……どうして謝る」
「ごめん。……本当に、ごめん」
たかが一年、されど一年。沢山あった懸念事項のうちの一つ、一夏が女子として慣れきってしまうこと。若しくは心身共に女の子に変わってしまうこと。よもやまさか、と切って捨てていた可能性がいきなり現実になった。千冬と言えど、少なからず驚きもする。
「束さんは、あいつを理解出来ないんだから、大人しく離れろって。当たり前だ。理解なんて出来るワケないじゃないか。あいつ、俺の想像もつかないようなこと体験してるんだ。そんなの、どうやって理解しろって言うんだ」
「……あの馬鹿が。要らんお世話だと突っぱねてやれ」
「いや、でも、事実だろ? 俺はそんな――」
「お前もだ馬鹿者。大体、何を悩んでいるかと思えばそんなことか。下らん」
吐き捨てて、かつんと千冬は空になった缶ビールをテーブルに置く。
「く、下らないって……」
「ああ、実に下らん。分かっていないだ理解できないだのと、逆に聞くがそれのどこがおかしい」
「え……?」
鋭い瞳に睨まれるのと同時に訊かれて、一夏は思わず首を傾げた。千冬は本気でつまらないように二本目の缶を手に取って、ぷしゅりと開けながら言い放つ。
「他人のことなど分からん。もし完璧に理解出来るヤツが居るのなら、それは紛れもないそいつ自身だ。私とてお前の……弟の気持ちすら全部は把握できん。だからこそこうして言葉を交わして、相手を認知していく。理解なんぞ馬鹿馬鹿しい。お前と蒼は同じ人物か? 違うだろう。あいつはあいつ、お前はお前だ」
「それ、は……」
「そも、この世に幾つの人間が居ると思っている。自分とそりの合わないヤツも、逆に妙に気の合うヤツも探せば腐るほどいる。それら全員理解していくつもりか? お前は。どう考えても無理に決まっている。だから理解なぞしようとするな。ただ相手がそういう人間なのだと認めろ」
「……相手を、認める」
天災は彼の過去を
「認めて、接して、いつしか分かったとしても、理解はできんよ。人間とはそういうものだ。蒼が変な経験をしているというのなら尚更、あとはお前がどうしたいかだ。ここまで来たら聞いてやろうか。一夏、お前、あいつと離れたいか?」
「それは……嫌、だけど」
「ならばそれで良い。下らん馬鹿の戯れ言など聞き流しておけ。……分かったらさっさとその辛気くさい顔を明日にでもどうにかして来い。お前のことだ、一晩考えれば自分なりのものが見つかるだろう」
ぐいっとビールを呷って、千冬は何事もなかったように食事へ戻った。もやもやとしたナニカは残っている。綺麗さっぱりと解決した訳ではない。けれども先に比べれば、随分と心に余裕が出来ていた。何だかんだと言って、姉の言葉は力強い。敵わないのだ。姉弟とは数年先に産まれたというだけなのに、どうしても勝ち目が見えない。
「……ああ、それはそれとして」
「ん?」
「お前の惚れた腫れたについてはもう少し詳しく聞こうか」
にやりと、意地の悪い笑みを浮かべながら。
「……冗談、だろ……?」
「どうした、ほら。蒼に惚れたのだろう? 正真正銘妹にでもなるつもりか?」
「まだ落ち着いてないんだからそっとしておいてくれよ……」
尚、十月のとある事件から今日までの顛末を、一夏はきっちり説明することになったという。
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雨の後は必ず晴れるらしい。
『一応報告、あのあと戻って来た母さんと父さんに連れられて家に帰った。様子見も兼ねて一日は学校を休ませるつもりらしい。俺は大丈夫だって言ったんだけど』
「……よし」
蒼から送られてきていたメッセージに目を通して、携帯をポケットに仕舞う。分かったことも、分からないことも、何もかもが衝撃的だったその翌日。既に朝食を終えて玄関に立っていた一夏は、心を決めるようにひとつ呟いてぐっと拳を握った。長年一緒に過ごしてきた賜物か、姉弟特有の不思議な繋がり故か。千冬の言葉は見事的中して、彼女は自分なりの答えをしっかりと見付けていた。
「休み、ってことは十中八九家だよな。……なんか、久しぶりだ」
とんとんと通学用の革靴を履きながら、自然と頬が緩む。自らの変調の原因がどうしても掴めなく、仕方がないまま蒼をずっと避けていた。その間は徹底的な関わりの断ちようで、一夏が彼の家に足を踏み入れる機会はなく、加えて事情を説明しようにもマトモに話せない。どうしようもない状況だったが、悔しくも知ってしまった今は別だ。
「……軽いな、この程度。あいつが抱えるもんに比べたら、絶対」
依然、一夏の症状は治まっていない。己が相手を好いていると知ったところで、重さが変わる筈もない。上慧蒼という人間に心を乱されるのは同じ。緊急事態でその辺りをすっぱりと無視出来た昨日とは違う。きっと会えば顔が熱を持つ、少なからず冷静さを失う、上手く口が回らなくなる、言いたい事が本当に言えるのかも心配だ。それでも。
「……伝えなきゃ、な。そのためには、言葉にしないと」
最早、一夏は足を踏み出していた。ならば後は進むだけ。この際ブレーキは折っていても構わない。覚悟はできた、息を吸う。がちゃりと扉を開けて、家の外に出る。そうして家の敷地内から出た、ちょうど道路にさしかかった時。
「答えは決まったかな」
真横から、聞き覚えのある女性の声が届いた。
「……ええ、お陰様で決まりました」
「そうかい、それは良かった」
くすりと女性が笑う。なにせ、彼女が提示した選択肢の、例えどちらを選ぼうが結果は向こうに傾く。勝利が確約されている、どころではない。こちらに選ぶ権利を持ちかけてきた時点で勝っていた。本来なら聞くだけ無駄な時間。普通とは違う彼女が、最も嫌うものである。だというのにわざわざここまで足を運んだのは、せめてもの気遣いか、はたまた手を抜くなどしたくなかったからか。
「で、どっちにするんだい?」
「そりゃあ勿論、諦めますよ」
一夏は女性へ顔を向けることもなく、明後日の方向を見続けたまますんなりと答えた。上慧蒼への想いを捨てて諦めるか、関係を絶って距離を取るか。予測とは違って前者を選んだことに若干驚きながら、女性は適当な反応を返そうとして。
「俺があいつを好きじゃないままでいるのを、諦めます」
「――――、」
ぽかんと、口を開けて呆ける。
「貴女の用意した道には進めません。だってそれ、俺にとっちゃ間違った道ですから」
「……つまり君は、彼から離れる気は無いと?」
「はい」
はっきりと、一夏は答えた。彼女らしい、ともすれば
「正気かい? いっくん。後悔するよ」
「もう悔やんでます。俺があいつを好きになった時点で、相当」
「なら余計にやめなよ。言ったよ、君じゃあ彼を理解出来ない。幸せになんて――」
「束さん」
名前を呼んだ。彼女――篠ノ之束は、ぴたりと言葉を止める。
「たしかに理解はできないですよ。でも、それと幸せにできるかってのは、別じゃないですか」
「…………、」
「無理かどうかは、やってみないと分からないでしょう」
「……ふうん。いっくんは、そうするんだね」
天災は冷めた声で言った。一夏はそのまま振り向きもせず、当初の目的地に向かって歩み始める。一歩、また一歩と。――運命の始まりは、着々と迫っていた。
◇◆◇
「よっ。少し良いか?」
「……一夏」
上慧邸にとって久方ぶりとなる、朝早くからの来訪。鳴らされたチャイムに自然と反応して玄関まで赴けば、扉を開いた先に友人がいた。顔色は最近の中でも目に見えて良い。前日は蒼の精神状態もかなりぼろぼろだったので詳しく覚えていないが、少なくともここまで気持ちの良い表情はしていなかっただろう。てっきりやらかした、と感じていた彼としては予想外。多少戸惑いながら、いつもの流れでリビングまで案内する。
「いやでも、本当久々だ。ここいらはずっと家と学校の往復だったしなあ」
「君が避けてたんだろうに」
「ああ、悪い悪い。……それらも含めて、気持ちの整理はしてきたよ」
「……そっか」
ばたんと、後ろ手にリビングのドアを閉める。平日の朝、登校する一夏は勿論制服、対して休む事が決まっている蒼は普段着のままだ。どことなく何時もとは違う雰囲気。されど一夏の態度を含め、そこはかとなく懐かしいものだった。当たり前のように共に過ごし、笑い、ふざけ合っていた頃。思えばあの時は、考えられないぐらいに幸せだったのかもしれない。
「あれ、朝飯もう作られてる」
「母さんだよ。なんか、今回の件で大分心配かけちゃたみたいで。これからは無理矢理にでも家に居る、って父さん共々言い出して」
「そりゃまあ、あれだけのことがあったらな……」
「俺は平気だって何度も言ってるのに」
苦笑しながらも、蒼はどこか嬉しそうだった。一夏はじっとその表情を見詰める。昨夜にずっと考えているうちに行き当たった、とある一つの可能性。説明の為に自身の過去を曝け出して、捉え方を全て託した彼の真意。天災は間違えないと言っていた。ならば言葉の通り、彼女なら間違う事は無いだろう。一夏にはそれ程の自信がない。いつかどこかで間違ってしまうし、上手くいかない時もある。
「な、蒼」
「……なんだ、一夏」
「あれからお前のこと、沢山考えたんだ」
「…………、」
不意に、彼女は切り出した。軽い調子で、さも今日は良い天気だとでも言うみたいに、さらりとここに訪れた最大の理由を引っ張り出してくる。
「別の世界とか、死んだ記憶とか、生まれ変わったここが小説の世界とか、ワケ分かんなくなりそうでも、考え抜いたよ」
ふうと、一旦区切るように息を吐く。
「はっきり言って、俺には全く理解できん。お前の居た世界なんて見たことないし、死んだ事も記憶も持ってないし、そもそも俺にとっては紛れもないここが現実だ。小説の登場人物なんてもんじゃない」
「……うん、そうだね」
「正直直ぐにでも嘘って言って貰ったらそっちの方が受け入れられる。俺からするとお前の話は突拍子もなくて、目に見える証拠すらないんだ。信じろ、ってのはちょっと無理がある」
「……かもね。いや、そうなんだろうな。実際」
持ってきたものは多い。それこそ、要らないものの一つや二つは置いて来たかったぐらいだ。だが、そのどれもが頭の中にしつこく残り続けた記憶という形の無いもの。捨てようにも捨てられない。ただじっと、忘れないと直感的に察していても、忘れるのを待つしか無かった。
「こことは全く別の所で生きて、死んで、何の偶然かここに産まれた。って、言葉にするのは簡単だけどな。どれだけ現実離れしてるかなんて、言うまでもないだろ?」
「……ああ」
「本当、有り得ない話だな。普通なら笑えない冗談だ。ちっとも面白くねえよ」
「…………、」
でも、と彼女は蒼の方を振り向いて。
「……それが、
「――――」
にこりと、柔らかな笑みを浮かべた。
「そんな有り得ない体験をして、色々と抱え込んで、想像もできないほど苦しんできたんだろ、蒼は。それこそぶっ倒れるぐらいに」
「一、夏……」
「だったら俺は、お前を信じるよ。つうか、お前の過去なんてそんな気にしてないしな。変なコトだって、それ言っちまえば俺も“女になる”っていう信じられない体験してるワケだし」
純粋な感想としての、性転換事情を口に出す。皮肉った言い回しでは断じてない。よもや彼女は、女の子になったという事実を嫌悪してはいなかった。
「別の世界の記憶があろうが、死んで二度目の人生だろうが、お前は今ここに生きてる。息吸って、心臓動かして、なにか思って、なにかして、ちゃんと自分の意思でやってる。ならそれで良いよ。誰が認めなかろうが、俺が絶対認めてやる。お前がそういう人間で、そういうヤツなんだって」
「そう、か。君は――ああ、そんなこと、言うのか……」
「……おい、お前。まさか泣いてる、のか?」
言われてばっと顔を上げた蒼の頬には、雫の這った跡がある。いや、跡だけではない。続けざまにぽろぽろと、大粒の涙が瞳から伝っていく。驚きの光景に一夏は思わず固まった。なんてことはない。蒼がこうも見事に泣く様など、珍しいなんてレベルではない。
「仕方、ないだろ。止まらないんだ。もう、全然、我慢のしようがないんだ。だって、知らないよ、こんなの。知るわけ、ないだろっ」
「…………、」
「君に……誰かに、受け入れて貰えたのが、嬉しくて、本当に、もう」
「……はあ。この、泣き虫め」
無論、ふざけての台詞だった。
「うるさい、馬鹿だ、君は。本気で信じられない」
「はあ? なにがだよ」
「生まれ変わって誰かに泣かされるなんて、思わなかった。くそ、ああ、くそ、くそ。馬鹿だ馬鹿だ、大馬鹿だ」
「……馬鹿馬鹿言うな。馬鹿が移るぞ」
言いながら、一夏は泣きながら膝をつく蒼の頭を、荒っぽく抱きとめた。女性らしい行動というのも意識してやろうとすれば失敗しそうで、ならば自分らしくしようという妥協点だった。ぼんやりと天井の隅を眺めながら、ぽんぽんと背中を叩く。
「馬鹿じゃないのか、本当に。本当に、本当に」
「…………、」
「――ありがとう、一夏……っ」
「……どういたしまして」
どうでもよさげないつもの調子で彼女は答えた。蒼は嗚咽を漏らしながら、一夏の胸で涙を流し続ける。さて、であれば密着状態の相手のコトなど把握出来る筈も無く。煙さえ上がるかというぐらい真っ赤に染まった一夏の顔など、蒼は知る由もなかったのである。
◇◆◇
去っていく後ろ姿に手を振って、玄関先で立ち尽くす。
「ああ、しまったな」
今日は厄日だ。友人に泣かされた。なにより、途轍もなく重大なものに気付いてしまった。
「結局俺も、そう大して変わらなかったってことか」
ぽつりと蒼は呟く。人の心情に鈍い彼だが、己の気持ちに関しては人並みに理解していた。一人で居た名残か、なお薄れない内側の感覚。
「……本当にありがとう。それと、ごめん。一夏」
僅かな胸に残る高鳴りの正体を、蒼は知っていた。
「俺、君との約束、守れなかった」
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山あり谷あり。
朝のこの時期は最早、指先がかじかむ寒さだった。気温は既に真冬かというぐらい。色付いた木々の葉は一つ残らず地面に落ち、眺める風景に映るのはどこか寂しそうな枯れ木のみ。蒼はほうと白い息を吐きながら、ゆっくりと人通りの疎らな道を歩く。登校時間も少しずらせば不思議なもので、余裕はなくなるが落ち着きは出るのだ。元来、大勢の人間に囲まれるのをあまり得意としない彼では尚更、多少遅らせるのが最適解かと思ってしまうほど合っていた。
「にしても、こうやってお前と並んで学校行くのも数週間ぶりか」
「……うん。そうだね」
不意に、隣からかけられた声に落ち着いて、肯定の言葉を返す。聞き慣れた、しかし最近はずっとご無沙汰だったもの。ちらりと視線だけ動かして、つかつかと踵を鳴らしながら歩く姿を視界に収める。校内一と密かに噂される長い黒髪、諸事情を忘れさせるかのような抜群のスタイル、そして並以上に整った容姿。くしゃっとそれを朗らかに崩して、織斑一夏は笑顔を浮かべていた。
「本当、避けてて悪かったな。ちょっと、自分でもワケ分かんない事になっててさ」
「別に良いよ、もう。君が俺を嫌ってなかった、ってだけで十分だ」
「当たり前だろ、誰がお前を嫌うか。……ていうかむしろ真逆だしな」
「? なにか言った?」
「いや、なんでもないぞ。なんでも」
ははは、とあからさまに誤魔化すような笑い声をあげて、一夏がそっぽを向く。一体何なのか。どことなく気になった蒼だが、あまりしつこく訊ねるのもどうかというもの。まあ、関係がある問題ならいつかは知るのだろうし、無理矢理聞くことでもないかと静かに前へ向き直った。一夏としても絶対に口を割る気はないので、おおよそ考えられる中で最も正しい選択肢である。
「ところで、俺が言うのもなんだけど、朝飯とか大丈夫だったか?」
「問題ないよ。一応、今年の春までやって来てたんだから。それに、今日からは母さんが作ってくれる。もう一夏の手を煩わせることはない」
「そうか。なら良いんだ……けど、それはそれでなんとなくこう、寂しいものが」
「なにを言っているんだ君は……」
労力が減るのは純粋に喜ぶべきところなのだろうが、一夏としてはやはり複雑だ。朝食を作るという大義名分も無くなった今、わざわざ蒼の家に朝から行く理由は皆無。登下校は成り行きでどうとでもなるが、以前までのように同じテーブルを囲むことはないかと考えると気分も下がる。大して気にしていなかった些細な時間が、ここに来て彼女には貴重なモノにすら思えた。はっきり言って、かなりやられている。
「あー……うん。これはいかん。恋する乙女か己は」
実際、恋する乙女である。
「急に変なコト言わないでくれよ。どうしたんだ?」
「気にするな。色々とあるんだ、今の俺には。主に気持ち的に」
「? そうなのか」
「そうなんだ」
覚悟を決めていれば我慢するのも随分楽だ。現在進行形で蒼の近くに居る一夏だが、はっきりと不自然な態度はしていない。見るだけ、話すだけ、聞くだけなら負担も少なかった。なにがなんだかワケも分からず混乱していたあの時とは違う。正体さえ掴めてしまえば、それなりの制御は容易いのであって。
「あ、そうだ。一夏」
ぽんと、肩に手を置かれる。
「うへぁっ!?」
「…………うへぁ?」
……まあ、逆に言ってしまえば、想定外の接触となると一気に崩れるのだ。
「あ、いや、いい今の違うぞ!? ただ驚いただけだぞ!?」
「……そこまで驚く事か?」
「そ、それは、あれだ! ちょ、ちょっと考え事しててな!?」
「考え事」
ふむ、と蒼が頷く。
「なら仕方ない。俺もそんな時に話し掛けられたら驚く」
「だ、だよな。うんうん。俺もってことだ」
「そっか。ところで話は変わるけど――」
校門も僅か十メートル目前に迫ったタイミング。何気なく蒼は、肝心の話を切り出した。昨日よりずっと頭を悩ませていた問題。色々とあるのは決して一夏だけではない。彼もまた、元より抱えるものが軽くなった矢先に、一つ増やしてしまったのだった。
「もうそろそろ時期も時期だし、勉強に集中しないか?」
「……え?」
詰まるところ、あれこれと足掻いても上手くいかないのが人生であり、恋愛というものである。
◇◆◇
時は流れ、十二月の初旬。猛威を振るう外気はまだ低くなるかといった具合で、彼らの通う学校の教室にもストーブの火が灯り始めた。一クラスに一つ貸し出される暖房器具は凄まじい人気を誇る。登校時のホームルーム前、授業の間にある休み時間、昼食を終えたあとの昼休憩。必ず何人かは周囲に群がり、唯一と言っていいほどの温もりを享受していた。ちなみに設置場所は毎日ランダムで、本日は運良く窓側の後方だった。
「なんつーかさ」
ぽつりと、ストーブに手をかざしながら弾が呟く。彼の席は真逆にあたる廊下側最前列辺りからすると実に羨ましいもので、常に暖かさをその身に受けられる楽園であった。ドアや窓の隙間から吹き抜ける風に体を震わせる中、そんなものとは無縁のぬくもりライフを堪能する馬鹿。一部のクラスメイトからは明確な敵意の視線を向けられている。けれども当然、弾がそのような些末ごとに囚われる繊細な心は持っている訳も無い。
「お前とまた話すようになってから、蒼、よく笑うようになったよな」
「……ああ、かもな」
「前までも笑ってたんだけどよ、今はほら、気持ち良い笑顔っていうかさ」
「……ああ、かもな」
二度、同じ答えを繰り返すのは一夏だ。話の主題である蒼は、絶賛トイレに行っていて席を外している。そも本人が居れば弾がこのような内容を持ってくる訳が無い。ともあれ、休憩の暇つぶしにはなるかと思っていたのだが、相手の様子からするに恐らく単純な会話は繋がらない。ここは一肌脱いでやるか、と机に突っ伏して溜め息を吐く友人に顔を向けた。
「おいおい、今度はどうした」
「いや……別に……なんでもねえよ……はあ……」
「……どこからどう見てもなんかあったようにしか見えねえよ」
「さいですか……」
ここ最近の一夏は漏れなくこうだ。蒼が近くに居る時は至って普通どおりの様子だというのに、彼が居なくなった途端にぷつんと糸が切れる。二面性もかくやという変わりよう。ちょっと前から弾も気になっていたコトであり、ちょうど良いと言えばちょうど良かった。
「……なあ、弾」
「おう。なんだ一夏」
「……勉強ってさ、この世に必要かな……」
「はあ? 今更何を言ってやがる。やれやれ、そんなことも分かんねえのか」
カッ、と彼は妙に格好つけて笑う。
「――んなモン必要ねぇンだよォ! 勉強も受験も試験も授業も! ぜぇんぶこの世に必要ねぇ! むしろ考える脳みそすら要らねえ! ははは! なにが受験だクソ食らえ! つうか俺に“ジュケン”っていう言葉を使わせるんじゃねえッ!!」
「……すまん。
「謝んなよ俺も現実見据えて悲しくなっちゃうだろうがよ……」
五反田弾、十五歳。受験勉強に対する嫌悪感は、人一倍激しい。
「で、何をいきなりそんな血迷った考えを持った。俺でも勉強は必要だって分かる。特にエッチとかは知識が大事だって親戚のおっちゃんが言ってたからな」
「後半はともかく、ちょっと色々あるっつーか……蒼からのアレがアレというか……」
「……どれがどれだよ」
渾身の下ネタを軽く流された弾は若干むくれつつも、一夏の言葉に耳を傾ける。
「いや、そろそろそういうシーズンだろ? だから勉強に集中しないか、って言われて」
「ふうん。それのどこが悩みどころなんだ?」
「俺もさ、大抵の事は解決したから、元に戻るとばかり思ってたんだがな」
がくん、と大袈裟に肩を落として。
「前と比べて、あいつと過ごす時間が八割ほど減ったんだ……」
「八割は言い過ぎじゃねえか? お前ら校内ではしょっちゅう近くに居るだろ」
「そうでもねえよ。蒼がふらっと居なくなることもあるし、つうか最近はそういうの増えてる気がするし……」
再度、重いため息を吐く。一夏の体感はかなり盛られていたとしても、事実として蒼が一緒に居る時間を無くしているのは本当だ。勉強に専心すると言って遠回しに普段付き合いを控えたのも含め、全て彼の思惑である。が、つい先月まで距離を取られていると悩んでいた男がまさかそのような行動に出ているなど気付く筈もなく。
「なんか避けられてるみたいで、どうもすっきりしねえんだよ」
「気のせいだ気のせい。大体、お前と以前同様の距離に戻って元気になったヤツだぞ? 純粋に本腰入れただけだろ」
「……そう、だよな。それしかないよなあ……」
結論として、一夏からは何も言えない。
「しっかしまあ、あの一夏クンが見事にやられちゃって……」
「……うるせえ。仕方ないだろ、気持ちの問題なんだから」
「おうおうはっきり言いなすって――ん? あれ? お前自覚してたっけ?」
「ついこの前にしたよ。……させられたとも言うが」
「――――な、なん……だと……!?」
今世紀最大の衝撃でした、と後に弾は語った。
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決める覚悟。
冬の屋上は吹き荒ぶ風の寒さでとても居られたものではなかった。過ごしにくいことこの上ない。せめて柵が壁代わりになってくれたら良かったが、隙間があって背の低い彼らでは大自然の脅威を遮る事は叶わず。蒼はたった一人、寒空に冷やされた強風を身に浴びながら、ぼんやりと遠くの景色を見詰めていた。
「……うん。良い天気だ」
誰に言うでも無く独りごちる。青い空に白い雲、雨も雪も、ましてや霰や雹なんて降る気配も見せない天候。日が当たっている割にあがらない気温が如何にも冬といった感じで、蒼もつい先週から学ランの前を閉めていた。それなりにしっかりとした着方をしている彼は、以前と違いどこからどう見ても優等生だ。加えて成績も良いのだから、これまた似合っている。
「…………、」
三年生という立場。高校受験を間近に控えた、誰しも尻に火がつき始める十二月。しかして蒼の頭を悩ませるのは勉学の事ではなく、人並みの感情であった。そも、特に勉強をしなくても彼の成績なら合格は余裕も良いところ。これに関しては一度目でないのもあり、そこまで重大な問題ともならない。特別、特殊、他とは違う。捉え方は人それぞれ。ただ蒼は、それらを異物であるが故と見ただけ。
「……仕方ない。俺は結局、ここに要らない存在だから」
望まれるべくして生まれたワケではない。必要だからこそ
「俺が居なくても変わらない。なんて、前から分かっていたことだし」
世界が産んだひとつの無駄。生まれたコトが悪いとは言えないが、逆もまた然り。正真正銘のどうでもよい人間。初めから全て理解していた。背負うモノは全て背負いきって、手も足も使い溢さないように受け止めた。潰れるのは必至。けれども彼は、“死ぬのが嫌だから”生き続けた。例え世界から拒絶されようとも、誰からも必要とされなくても、何からも認められなくても。決して折れる事なく生きて、歩くことが出来ていた。それを。
『誰が認めなかろうが、俺が絶対認めてやる』
――それを、受け入れてくれた人が居た。
「……凄いな。想像以上に心が軽い。……そりゃあ、そうか。荷物が減ったんだもんな」
ふっと笑う。見える景色が実に綺麗だ。前よりずっと、色彩が輝いて目に映る。恐らくは感じ方が変わったのだろう。それ程に、彼女の言葉はどこまでも己の心に響いた。響いてしまった。現状抱いているような感情を芽生えさせるぐらいには。
「……捨てられるなら捨てたいけど、当分は無理かな。こんなもの、本当は持つのも駄目なのに」
随分と前のことに感じられるあの日、大事な大事な約束をした。女の子である織斑一夏を好きにならないと、友人として側に居るという誓い。守れると思っていた。守れない筈がないと思い込んでいた。結果としては現在、言い訳も出来ない有様。しっかりと一夏に異性としての感情を抱いてしまっている。色々な気持ちを抑えるのは得意だ。今までもそうやって生きることは沢山あった。だから、我慢すること自体は簡単。
「……でも、それじゃあいけない。下手な芝居は感付かれてるだろうし」
何も言わず、何も伝えず、分からないまま離れていく。それは蒼がつい先月に経験したばかりの辛い思い出だ。度合いは決して同じでは無いが、己と違ってきちんとした受験生である友人に余計なことで悩んで欲しくは無い。そうなると、伝えなければならなかった。
「それに、小細工するよりかはマシだ。はっきり言って、すっぱり切って。……それだけで、良いんだから」
思うところが無い訳ではない。惚れた人間から距離を取るのは、それ相応に悲しむべきものだ。蒼とて何も変わらない。負担はゼロとはいかないだろう。
「けどね、それで良いんだ。だって俺は、もう――」
すっきりと、晴れ晴れとした様子で蒼は笑顔を浮かべた。直後、まるで言葉を遮るように、強く風が吹く。最後の音は無慈悲にも空気に溶けていった。知っているのは発した本人のみ。気持ちの整理は既についている。満足して蒼は踵を返し、ゆっくりと屋上を後にした。
◇◆◇
一方その頃、教室では。
「…………、」
「おいおい数馬さん。一夏さんがご機嫌斜めですことよ」
「ですわね弾さん。きっと蒼の野郎がどこか行ったまま帰ってこないですからよ」
「……お前ら、勝手な解釈するなよ……」
あと喋り方がきもい、と一夏は男二人に冷たい視線を向けた。
「でも事実だろ事実。もう不機嫌オーラぷんぷんと漂わせちゃって」
「そうだぞ。彼氏が待ち合わせに遅れて苛々してる女子かなにか?」
「ぐっ……好き放題言いやがって……!」
まあ、実際のところ、機嫌が悪くなっているのは確かである。トントンと人差し指で机を叩きながら、もう片方の掌に顎を乗せてぶすっとむくれる表情は正しく前述の状態そのもの。無論一夏もしっかりとそれを自覚はしているのだが、何分本気で苛々もしてきているため余裕を持った対応は出来ない。
「しゃあないよなあ。一夏ちゃん蒼のこと好きだって自覚した途端過ごす時間減っちゃったもんな~。拍車をかけるように校内でも消えるように居なくなられるしな~」
「弾てめえ後で覚えてろよ」
「はあ? なにテメエら男同士でラブコメしてんの。あ、いや今は男と女か。なんだクソリア充かよ爆発しろ」
「数馬は大人しくクラスに帰れ」
イライラ、ムカムカ、モヤモヤ。十二月も半ばを過ぎれば冬休みが目の前に迫っている。学校がある平日は登下校及び休憩時間で話も出来るが、休みの日は自主的に行動しなければ顔も拝めない。が、それに関しても追い打ちをかけるかのように蒼の受験勉強云々が足を引っ張る。この時期の長期休暇ともなれば、本格的な勉強をしていくものだ。集中すると言った手前、息抜き程度はあれどよもや遊ぶことはないだろう。
「ちなみに今日は十八日。終業式までのカウントダウンはもう始まってんだよなあ」
「
「ああ、冬休みとか基本みんな勉強漬けだよな。弾はともかく、俺も落ちたくねえもん」
「あああちくしょうこういう時だけなんで蒼は真面目なんだよ……っ」
「元から真面目属性の良い子ちゃんだろ。ちょっとズレてるだけで。つか俺も落ちたくはねえよ」
なお、真相を言うと蒼はそこまで受験勉強に打ち込んではおらず、しているコトと言えば毎日問題集を数ページ解いていくのみというコツコツとした軽い積み重ねだけだった。尤もトラブルメーカー三人衆は誰一人としてその情報を知らない。
「くそ、このままじゃ捗るもんも捗らねえ。なんとかしねえと……」
「俺もだ一夏。元々捗らなかったもんが友人の複雑なアレで余計捗らねえ」
「お前は捗らせる気がないだろ……数馬はどうなんだ?」
「あ? 俺? 俺は弾と志望校一緒だぞ? 苦労すると思うか?」
「……なるほど」
凄まじく説得力のある内容だった。
「はぁ!? てめえだって同じ穴の狢だろうが! 一学期の数学ボロボロだったくせによ」
「英語六点とかいう数字叩き出したてめーと一緒にしてくれるなボケ」
「六点じゃねえ七点ですぅ~! ラッキーセブンの七点ですぅ~!」
「なにがラッキーセブンだ文章題のおまけ一点しかも理由が“英語を書いていたので”とかいうクソ甘採点だったろうが!」
「お前らレベルひっくいなあ……」
なにはともあれ、本日も三年A組は変わらず賑やかである。不穏な気配も妙な緊張感もない。明るい雰囲気にほだされて、自然と一夏も笑顔を浮かべる。その瞬間を、そっと教室に戻ってきた一人の男子生徒が見ているとも知らず。
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恋文は冬の空に消えて。
『ん?』
その日、朝の学校で事件は起きた。
『なんだろう、コレ……手紙?』
登校した蒼が下駄箱を開けてみれば、中には一枚の白い封筒。取り出してぺらりと裏返すと、可愛らしいシールで閉じられている。差出人は女子だろう。厚みは無い。精々が中に一枚紙が入っているかどうか。蒼はうん? と顎に手を当てながら、じっとその封筒を見詰める。
「蒼? どうしたんだ固まって……って、なんだそれ」
「いや、なんか入ってて。手紙……だと思うけど」
「手紙」
横から声をかけてきた一夏が繰り返すように呟く。十二月も後半に差し掛かった本日、学校はめでたく二学期の終業式を迎える予定だ。詰まるところ明日からは冬休み。約二週間の長期休暇が生徒全員に平等に与えられる。尤も使い方は人それぞれ、自分次第。一・二年生は肩の力を抜けるものだが、三年生の殆どにそのような余裕は無い。勉強尽くしの学力パラダイス。クリスマスにサンタさんがくれたのは一足早い赤本でした、なんて笑い話にもならないのだ。閑話休題。
「……な、なあ、まさかとは思うが」
「? どうしたんだ一夏。そんな震えて」
「そ、それってさ……ら、ラブレターとかじゃ、ないよ、な……?」
恐る恐る、といった様子で一夏が訊ねた。ふむ、と蒼はもう一度手元の封筒に目を向ける。汚れも無く綺麗な状態を保たれた白さ、柄のない無地により目立つ封代わりのシール、中身は開けてみないと分からないが、光にかざしてみればうっすらと文字が見えた。そうしてなにより、これが下駄箱に入っていたという事実。
「ああ、かもしれない」
「――ま、マジか」
「とは言っても、まだ何も分からないけど。取りあえずは中を見ないと」
「……い、意外と落ち着いてるな蒼。もしかしてこういう経験よくあるのか?」
「ううん、初めてだ。正直ちょっと困惑してる」
どこからどう見ても平常時の彼なのだが、一夏としては焦りに焦る。なにせ彼女にとって今の彼はばっちりと
「本当にラブレターだったらお前……どうする?」
「どうって、まあ、なるようになるんじゃない?」
「なッ、
「? なにかおかしいのか?」
そんなこんなで盛大に混乱する一夏とは裏腹に、蒼は大して変な態度も見せずに鞄へ封筒を仕舞った。いつも通りの落ち着いた様子。理由としてはあまり難しいものでもなく、彼は今更恋愛事情に踊らされる人間では無かったということ。ただ、ほんの少しだけ、思うところはあったのだが。
◇◆◇
「なにぃ!? 蒼がラブレターを貰っただぁ!?」
「いや、だからまだ分からないって」
「ええいならさっさと確認しろ! 内容次第によっちゃあ俺は修羅になるぜッ!」
ごごご、と弾の背中から殺意と怒気のオーラが放たれた。男というのは単純なもので、時に獣であり、時に狼であり、とくれば時に修羅ともなる。自分がモテないのに他のヤツがモテるのは何とも悔しい。恨めしい。妬ましい。可愛らしい女子ならともかく、むさ苦しい男の歪んだ感情は実に醜かった。残念イケメンの極致である。
「分かった、分かったから、落ち着いてくれ。今開ける」
「おう。早くしろ。命が惜しくなかったらな」
「……でも内容次第では爆発するんだろう?」
「ああ。無論だ。この世に無償の幸福が存在すると思うなよ」
割と共感出来る考えだった。たしかに幸せな思いがタダで味わえるワケがない。多少の苦しみはあってしかるべきもの。ならば、自分の人生も強ちおかしなものではないのだろう。苦しみが多いのはご愛敬。あいにくと、彼はそのことを重要視するどころか気に掛けてすらいなかった。
「…………、」
ぺりっとシールを剥がして封筒を開ける。予想通り、中には一枚だけ紙が入っていた。なんの変哲も無い長方形で、同じく無地。そっとつまんで上に引き、弾や一夏に見られないよう注意して確認する。
――“上慧センパイへ。今日、授業が終わったら校舎裏に来てください。待ってます。”
「……ど、どうだった? 蒼」
「なんか、あれだ。校舎裏に来てくれ、ってだけ」
「おいおいテメエそれはよぉ……」
ぐっ、と話を聞いた弾が蒼の胸ぐらを掴む。
「典型的な告白のシチュエーションじゃねえか、あぁん!? クソが! なんッでよりにもよってお前なんだよ! あれか? ゆるふわ草食系男子が人気だとでも言うのか? 俺だって野菜めっちゃ食ってるぞ馬鹿野郎ーーーー!!」
「草食系は多分そういう意味じゃ無いと思うけど」
「うあああ本当にラブレターだった……ッ」
「……一夏、君もか」
大体男の頃は引く手数多だったろうに、と蒼が冷めた目で言う。勿論彼女に関しては別で、そもそもの感情が違っている。手紙に拒絶反応を起こしているという点では全くもって弾と一緒だったが。
「……おい、なんだこの地獄絵図は」
「数馬」
「聞いてくれよ数馬ァ! 蒼がラブレターなんてもらいやがってよぉ!」
「――なにぃ!? おいお前ふざけんなよどういうことだ説明しろ!!」
助け船かと期待した友人が一瞬で敵に回った瞬間である。
◇◆◇
寒さに満ちた外気、人の声さえ遠くに聞こえる静けさ、佇む気配はたったひとつだけ。
「――あ」
ざりっと地面を踏みしめて、目の前に立つ。ぱっと向こうの表情が明るくなった。随分と前から待たせてしまっていたのか、うっすらと鼻の先が赤い。
「来て、くれたんですね。上慧センパイ」
「……来ない訳にはいかないから」
「いえ、その……迷惑でしたら別に、構わなかったですよ?」
きゅっとスカートの端を掴みながら、俯きがちに女子生徒が言う。後ろで一纏めに括った茶髪と、赤縁の眼鏡。蒼は彼女の顔に見覚えがあった。二ヶ月前の文化祭実行委員、記憶がたしかであれば事務処理全般を手伝ってくれていた二年生だ。
「……ごめん。言い方が悪かった。迷惑じゃ無い」
「そ、そうっ、ですか。……よ、よかった」
「…………、」
クセ、だろうか。頬をほんのりと赤く染めながら、彼女はくるくると耳の横に伸ばされた髪の毛を弄る。呼ばれたこと自体は、迷惑でもなければ面倒なものでもない。けれども恐らくの“理由”に関しては少々、難しい部分があった。
「……文化祭以来だね。あの時はありがとう」
「い、いえっ! そんな、お、お礼を言うのは私の方でっ。……最後の最後、センパイに、助けてもらいましたから……」
「……最後?」
「えと、あの、私が、スローガンのこと忘れちゃってて……」
ああ、と蒼は納得する。当日発表枠として会長に頼み込み、無理矢理ねじ込んだ文化祭のスローガン。なんとかなったものだからそこまで重く捉えていなかったが、失敗した本人は気にしていても当然だ。が、そもそも彼女一人の責任ではない。気に病む必要なんてないとこっそり彼も伝えていたのだが。
「……単純、ですかね」
「…………、」
「私、センパイに助けられたんです。あの時、みんな頑張って、もう少しで本番って時に、やっちゃって。どうしようって、混乱しかけたんですよ? ……それを、なんでもないように解決しちゃうんですから、上慧センパイは凄いですね」
「……委員長だったんだから、そのぐらいは当たり前だって」
「はい。分かってます。それにセンパイ、頑張ってましたもんね。ずっと同じ部屋で作業してたから、知ってます」
すっと、顔を上げる。真っ直ぐと射貫くような瞳。決して曲がらない意思の表れか。ぶつかった視線が想っていた以上の衝撃をもたらせた。
「――私、そんなセンパイのことが好きです。あれからずっと、好きなんです。……だから、もし良かったら、私と付き合ってください」
頭を下げて、女子生徒は飾らない気持ちを伝えた。冗談の類いでないことは見れば分かる。これを本気と受け取らないのは無理があった。なにより、失礼だ。
「……、」
蒼は目を閉じてふと考えた。きっと、目の前の相手は嫌いな人物ではない。真面目で、素直で、恐らくは相当な努力家。一月にも渡る実行委員を共に乗り切った仲間だった。大雑把に覚えているだけでもそのような感じ。悪い人間では無い。
「…………、」
己が抱える歪な
「ごめん」
結論を思い浮かべるまでも無く、断った。
「……ッ」
「君の好意は嬉しい。けど」
簡単な話。そう、結局己には、誰かを幸せにする権利などありはしなかったのだと。
◇◆◇
「断った……のか」
「うん。まあ、色々と考えた結果」
「そ、そか。で、色々ってなんだよ」
「色々は色々。……一番は、幸せにできないから」
「は? なんだそりゃ」
「俺にそんな贅沢はできないってことだよ」
「……よく分かんねえな」
「分からなくても良いよ」
「……本当に、贅沢すぎて、手を伸ばしちゃいけないものだから」
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きっと彼は踏み違えた。
煌びやかな電飾に、普段よりも何倍か多い人通り、加えて絶えない喧噪。町は夜にさしかかったとは思えない明るさだった。本日の日付は十二月二十四日。世間的にはクリスマス・イヴとして盛り上がっていようが、受験生には関係のない話だ。飲食店の窓ガラス越しに外の様子をぼうっと眺めながら、一夏はずずっとオレンジジュースをストローで啜る。子連れ、カップル、家族、友人同士、中には一人の姿もちらほらと。出歩く人の人数も種類も様々だ。それこそ余計なものまで想像してしまいそうになっていた。何気なく、溜め息を一つ漏らす。
「……なんというかさ」
「ん?」
対面に座る弾が、必死で頭を抱えつつも解いていた問題集から顔を上げて反応する。私服のせいもあって余計に
「俺、なんでわざわざクリスマスにお前と勉強してんだろうな」
「んなのアレだろ。うちの妹がお前に頭下げて頼み込んだからだろ。ちっ、余計な真似を」
「そこは素直に感謝しとけよ……」
「けっ」
嫌だね、とでも言うように顔をぷいっと逸らしたあと、弾はコップに入ったコーラを一気に飲み干して、かたんとテーブルに置いた。筆記用具を手放さなかっただけ、やる気はそこそこある。そも、妹が本気で心配して持ちかけたことだ。その時点で弾の中から手を抜いてやり過ごすという選択肢は消えている。
「悪かったな。俺なんかと過ごすことになっちまって」
「そこは別に問題ねえよ。……元々、家で千冬姉とケーキ食うぐらいだったろうからな」
「ふうん。それじゃ、冬休みに入ってから
「……ああ」
肩を落としながら呟く。会っていないどころか、見かけてすらいない。一夏の方から会いに行くのは気が引けて、ならば蒼の方からはというと言うまでも無くだ。家の距離は近いのに、存在だけがどこまでも遠い。手で触れられる範囲を越えて離れた感覚。考えすぎかそうでないのか、一夏には判断が出来なかった。
「……やっぱり、おかしいのかな」
「あ?」
「俺、今は女だけど、元は男だし。蒼もそっちで解釈してる。告白なんて以ての外だ。……あと数ヶ月経てば、元にも戻っちまう。のに、あいつのこと、アレだし」
一時的に“女”として居られるタイムリミットはあと少しだ。残された時間はそこまで多くない。
「まあ、ノーマルとは言い難いよな」
「……なあ、弾。お前さ、もし俺に惚れられてるって分かったらどうするよ?」
「ん? そりゃあ……真面目に答えんなら徹底的にスルーだろ。んでもってちょっと距離もとる。もし告白なんかされたら……あー、やんわり断るだろうな」
「だよなあ……」
もう一度、深い溜め息をひとつ。一夏は肘をついた手に顎を乗せながら、つまらなそうに外へ視線を戻した。
「……もしかして気付かれたのか?」
「それはねえだろ。あいつ、結構鈍いし」
「……それもそうか」
「だからと言っても、受け入れるかどうかは別だけどな」
「そこなんだよ問題は……」
無論、そこだけではないが、数ある中で大きなものであるのは確実。一夏の恋愛事情は途轍もなく複雑だ。すんなりといく事は先ず有り得ない。ましてや、相手は絶対友情宣言をしている蒼。どう考えても、一筋縄でいかないのは目に見えていた。
「……はあ。本当、面倒な体になっちまった。元から女だったら気も楽だったろうに」
「おいおい、ちょっと前まで拒否感示してたのはどこのどいつだよ」
「冗談だ、半分は」
「半分本気ってコトかよ……」
こりゃ相当だな、と弾が内心で溢した直後。
「あ」
「ん?」
「……いた」
「いた? いたって……なにが――」
問い掛けるのも待たずにがたりと一夏が立ち上がった。ばっと防寒具を纏めて抱えて、財布から千円札を一枚取り出しテーブルに叩きつける。
「ちょっ、おい! なにがどうした!」
「悪い弾! ちょっと抜ける!」
「はあ!? いきなりなんだ! 説明をしろ!」
「――蒼が居たんだ! スマン! また今度な!」
「なっ、馬鹿待てこの――」
だっと、店から勢いよく飛びだす一夏の背中へ向けて。
「割り勘だとしてもこれじゃあ足りねえぞーーー!!」
弾は切実な、苦しいお財布事情を嘆きつつ叫んだ。
◇◆◇
「蒼!」
ふと、名前を呼ばれてぴたりと足を止める。どこかで聞いたことのある声。それでいて脳に焼き付くような音。考えるまでもなく相手が分かってしまって、蒼は思わず息を吐いた。取り敢えずは、心を落ち着かせる。唐突な出会いなど予期していない。平常心を保ちながら、彼はゆっくりと声の方へ振り向いた。
「……一夏」
「おう。良かった、見間違いじゃなかった」
ほっと安心するように彼女は笑う。よもや、こんな時に会えるとは夢にも思っていなかった。気持ちとしてはそんな感じ。なにはともあれ面倒なものは置いておいて、顔が見られたコトを喜ぶべきだ。一夏はにっこりと自然な様子で笑みを深める。蒼も返すように、うっすらと微笑んだ。
「なにしてるんだ? こんなところで」
「買い物。母さんが夕食の準備で忙しいから、代わりに。そういう君は?」
「弾と勉強会だ。まあ、お前の姿見かけて切り上げたんだけどよ」
「……わざわざそんな事しなくてもよかったのに」
苦笑と共に蒼が言う。まだ数ヶ月先とはいえ、大事な時期なのには変わりない。勉強は真っ先に優先するべきものだろうが、ただ単純に今の一夏ではこちらの方が順位が高かっただけ。彼女の想いについて何も知らない蒼では、分かる筈もない。
「良いだろ。お前とは、冬休みに入ってから全然会ってなかったし。せめて連絡ぐらい寄越せよ」
「そうだね。まあ、たしかに、全然会ってなかった」
会う気が無かった、とも言うが。
「……ああ、でも、ちょうど良いのかな」
「? ちょうど良い、って……」
「いつかは言わなきゃ、って考えてたから。……ちょっと、話でもしないか?」
◇◆◇
「……それで話って、なんだ」
人気の無い公園。街中とは正反対に暗く、明かりはベンチの周辺を照らす電灯のみ。まるで切り離されたように、空間は打って変わって静寂が支配していた。地面を踏みしめる音だけが虚しく響く。蒼は買い物袋を手に提げたまま、ぼうっと空を見上げる。昼間から晴れてはいない。雲に覆われたそこに、星の明かりは一つもありはしない。
「うん。ちょっと、伝えなきゃいけないことがあって」
「伝えなきゃいけないこと?」
こくりと、蒼が頷く。今更迷ったり悩んだり、なんてのは無かった。彼の覚悟はとうの昔に決まっている。後はタイミングさえ合わせれば、言うことはない。だから、今日に会えたのは恐らく幸運だったのだろう。
「……これまで、沢山君と接してきた」
「……? そりゃあ、そうだな」
「特に、今年に入ってからは。もう色々あった。俺も、君も、一緒にいる時間は断トツだ」
「あ、ああ。それが、どうかしたのか?」
若干戸惑いつつも、一夏が訊く。
「だからもう、良いだろう?」
「――は?」
一瞬、本気で意味が分からなかった。
「もう、良いって……」
「言葉の通りだ。俺と君が一緒に居ることはない」
「……なに、言ってんだよ。お前、なんで、そんな……」
声を震わせて、なんとか言葉を紡ぐ。蒼は眉尻を下げて、困ったように笑っていた。
「ちょっとだけ、君を見てたんだ。学校の時、離れて、遠くから様子を窺ってた。……俺と居ない時でも君は、笑ってた。十分、笑えてたんだ。なら、もう俺はお役御免だ」
「……ま、待てよ。蒼、なに、考えて」
「終わったんだよ。俺が出しゃばる時間は、とっくに。終わってたんだ。……要らないんだよ、俺は」
「要らない、って……そんなことねえだろ? 馬鹿、言うな」
本人から言われようとも、答えは変わらず。織斑一夏にとって、上慧蒼は不必要だ。どこまでもいっても無駄な存在だ。そうなってしまった。ならば最早、隣に立つ資格はない。
「あと数ヶ月無事に過ごせば、一夏は男に戻る。晴れて問題は解決だ」
「それ、は…………」
「なら、俺は余計だよ。むしろ居ちゃ駄目なんだ。弾も数馬もいる。クラスの皆だって、もうとっくに君を織斑一夏だって理解してる。きっと無事に乗り切れる」
「な、なら! ……なら、良いだろ。お前も、お前も一緒に――」
「ううん。それは、できない」
はっきりと、蒼は答えた。突き放すように、決定的な溝を作るように、首を振って否定の意思を表す。
「俺は駄目だ。俺だけは駄目なんだ」
「……どうして」
「どうしてもこうしてもないよ。俺は
詰まるところ、己だけが“織斑一夏”を男として見られなくなっていた。
「ごめん一夏。――でもって、好きだ」
「…………え」
どくんと、心臓が跳ねる。
「友達としてじゃない。
「……うそ、だろ」
「嘘じゃ無いよ。本当に、恋してる。……馬鹿だよね。あんなこと言っておいて、結果がこれだ。俺も君に告白したあの人達と、なにも変わらなかった」
自嘲して、蒼はすっと目を伏せる。友人としては、最悪と言っても良い。己で信念を持って決めた役目すら果たせなかった。たった一年という間でさえ、全う出来なかった。
「蒼が、俺に……」
「うん。本当にごめん。本当に、本当に」
「……い、や、なんで、あやまるん、だよ。俺は、その」
「――いいよ、一夏。俺のことなんて、もう」
諦め。否、それは彼なりの割り切りだ。
「ただ、タイミングが悪かっただけなんだ」
だからこそ、彼は気付かない。己のものでしかないと決め付けているが故に、一夏が抱える問題を見落としていた。容赦なく自分の気持ちを叩き切る。その余波が、一夏にもしっかり及んでいるとは知らずに。
「……悪、かった?」
「ああ。ちょうど君が女の子で、俺が大分弱ってて、そんな時に救われたっていうだけ。一つでも違ったら、こうはなってないよ。本当に……最悪だった」
「あ…………」
痛みは同時に。しかして体は別に。精神を抉る言葉はどちらも違わない。
「こんなものは本来、あってはいけない。間違いでしか無い。密かに抱く事も許されない。そのぐらいは、分かってる」
「…………っ」
「だから俺は駄目なんだ。君と一緒には居られない。少なくとも、君が男に戻るまでは」
心が軋む。叫び声をあげる。限界は間際、堪えきれなくなるのは当然。決壊するのも時間の問題。衝撃は、決して優しくなど無い。
「……大丈夫だよ。男に戻ればきっと、こんな馬鹿な感情は捨てられる。無理矢理でも捨ててみせる。前みたいに男同士の感覚でやっていけるよう、俺も頑張るよ」
「――――ッ」
「そのためにも、君から離れさせてくれ。一夏も、惚れられてる男に側に居られるのは嫌だろう?」
ぶちんと、織斑一夏のナニカはその時、決定的に切れた。
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シアワセをあげよう。
「お前は……」
静かに、一夏は口を開く。蒼の言い分は漏れなく聞いた。彼の思考回路を理解できるかはともかく、どう思っているかは知れた。だが同時に、分かってしまったこともある。ここにきて一夏は答えに辿り着いた。この男は――上慧蒼というやつは、なにも変わらないのだと。
「お前はそれで、良いのか」
「そんなの、言うまでもないだろう。良いに決まってる」
「……ああ、そうかよ。お前がそう言うんなら、そうなんだろうよ」
ぐっと拳を握る。過去の経歴からして、変化を恐れている訳では無い。彼は変わったからこそ今のような人間になっていた。ならば変わらないというのは、最早変われないということ。上慧蒼の価値観は、とうのとっくに“完成”している。それこそ、死んだ後、この世に生まれた瞬間。
「……ふざ、けんな」
沸々と、堪えきれない怒りが湧く。結局は、なにを言ったとしても無意味。彼に言葉は届きこそすれど、影響にはなり得ない。凝り固まった考えを溶かすには至らない。いっそ死ぬまで蒼は思い続けるのだ。己が異物であり、要らない存在であり、望まれざる人間であり、幸福を掴めない人物であると。……そんなどうしようもない目の前の男に、腹が立つ。
「俺は、嫌だ」
「……一夏?」
距離にして二メートル、ぽつりと溢した声は最低限耳に入るぐらいの大きさを持ってくれていた。一夏には蒼の苦悩など分からない。世界の中で自分だけが別なのだと、違っていると認識する重さが分からない。当然だ。それは唯一彼にだけ許された行動であり、同時に彼のみが受ける苦痛となる。だとするなら、なんということだろうか。この男は生きている限り、一生救われないと、苦しみ続けていくのだと、一夏は遂にしたくもなかった事実を“理解”した。
「タイミングが悪かった?」
信じられなかった。
「あってはいけない?」
目の前で立ち、呼吸をしている今ですら。
「間違いでしか無い?」
蒼はずっと、心の何処かで訴える痛みを持ち続けている。
「抱く事も許されない?」
そうしてそれを、当たり前のコトとして受け入れている。
「挙げ句の果てに、馬鹿な感情だと……?」
笑えすらしなかった。彼は矛盾の塊だ。死にたくないから生きているのに、その本質はどこまでも死を望むものに近い。恐らくは死ぬ事を経験していなければ、迷い無く自らの命を絶っている。一切、一欠片として、元から成長も退化もしていない。自分本位で自己中心的。考え方が歪んだだけで、人間としての性分は独りで居た時と同じ。人を拒絶したくないから、誰かに優しくする。無理をさせたくないから、自分が無理をする。そこにあるのは完結した理由のみ。気遣いも優しさも、偽りのものでしかないと。
「勝手に、決め付けてんじゃねえ」
「……っ」
近寄って、胸ぐらを掴む。明確な言葉にしないだけで、蒼は自覚していた筈だ。いや、きっと自覚していたのだろう。己がどうしようもない人間であると、死ぬ以前から知っていた。彼の自己評価は何よりも一番下に位置づけられる。下がる事はあれど、上がる事は無い。それだけならまだマシだった。そこに上記の考えが加わることによって、酷い代物が出来上がる。本来持つ優しさも、気遣いも、純粋な感情ではないと否定して、救いようのない屑だと定義して、生きていく。
「たしかに、タイミングは悪かったんだろうよ。こんなものは駄目で、間違っていて、馬鹿な感情かもしれない」
「な、にを……言って」
「でも……でもなぁ!」
考えること、言いたいこと、思うこと。全部が全部混ざり合って、既に一夏の心ははち切れんばかりだった。頭に来ている。生きているうちは救われないと、知った上で割り切った彼の在り方に。自分諸共抱える感情を盛大に切り捨てた彼の言葉に。なにより。
「例え間違ってようがなんだろうが、一度本気で持ったんならそれは本物だろうが!!」
――なにより、今まで側に居たそいつに手を差し伸べてやれなかった自分自身に、腹が立つ。
「ふざけんな、ふざけんじゃねえ! 本気で相手のこと好きになっておきながら、どうして全力で否定しやがる!!」
「そんなの、決まって」
「決まってもなにもないだろうが!! 勝手に決め付けて勝手に諦めて、お前の中で全部終わらせるんじゃねえよ!!」
形振り構っていられない。否、構っている必要がなくなっていた。既に向こうの答えは聞き入れた。悩んでいたのが馬鹿みたいに、怒りと共に心が晴れ渡っていく。はっきりと言わなければ、彼には伝わらない。この馬鹿には、気持ちを叩き付けるぐらいでないと割に合わない。
「じゃあ、どうするって言うんだ。俺の本心を聞いて、君はどうする。何が言える。……最初から分かりきってる問題なんて、質問するまでもないだろう?」
「それがふざけんなって言ってんだ!! 自己完結してんじゃねえ!!
「……なら、君はどうなんだ」
「俺はお前のことなんか大好きに決まってんだろ馬鹿野郎!!」
がつんと、ハンマーで殴られたような衝撃。
「……いま、なんて?」
「好きだっつったんだ! お前のこと! 蒼のこと! 全部纏めてひっくるめて、お前と同じ
「…………いや、それ、だけは。きみに、いわれたくない、な……」
「ああ!?」
ぐっと服を掴んだ手に力を入れながら、一夏は肩で息をする。態とらしさなんてものはこれっぽっちも存在していない。あるのはただ精一杯、相手に何かを伝えようとする彼女の姿だ。お世辞や誤魔化しだとは言えなかった。ここまで来れば、蒼も察してしまう。嘘や建前など、一つもなくて。
「どうして、なんだ」
「……なにが、だよ」
「君は……男に戻りたいと、そう思っていたんじゃないのか」
ふと浮かんだ疑問を問い掛ける。一夏にとっては、大したものでもなかった。
「……最初は思ってたよ。でも、仕方ねえだろ。お前のこと、好きになったんだから」
「……なんだそれ。もう、ワケが分からない」
「難しいこと考えるからだ。俺はお前が好きで、お前は俺が好き。それで良いだろ」
頬をほんのりと赤く染めて、ふいっと顔を逸らしながら一夏が言う。一言で表せば全くもって単純明快だ。蒼と一夏は好き合っている。なにはともあれ、それだけは紛れもない事実で、逃れようも無い現実だった。
「……でも、それなら余計、駄目だよ」
「はあ? なにが駄目なんだ。まだなにかあんのか」
「だって俺じゃあ、君を幸せになんて出来ない。しちゃ、いけないんだ」
「…………お前な」
はあ、と大きく溜め息を吐く。深刻そうな表情で呟く蒼に、只々呆れる。一夏はずっと握り締めていた胸ぐらから手を離した。最後の最後まで面倒くさい男だった。きっとそんなヤツに惚れた自分も相当なのだろう。だが、イヤでは無い。むしろ、こういう部分があるからこそ、自分が居なければというもの。
「――――、」
「んっ!?」
彼女はがっと頭の後ろまで抱くように手を回して、無理矢理その唇を押し付けた。
「……っは、と。よし。これで、逃げられないな?」
「な……君……今、なにを……っ」
にやりと笑う。――嗚呼、顔が熱い。
「自分がなにしたか、分かって……いや、そもそもっ。……初めて、だったんだぞ」
「ならお互い様だ、俺も初めてだし。……これでもう、男には戻らない。戻れない」
正真正銘、踏み切った。後戻りの選択肢は彼方へと消え去った。織斑一夏は女として生きて、女として死ぬしか無い。男である自分とは永遠のお別れだ。それでも彼女は、何一つとして後悔をしていなかった。
「幸せにできないだって? 上等だ。だったら、俺がお前を幸せにしてやるよ」
ゆるりと微笑んで、一夏は告げる。
「俺の一生使って、お前にいっぱい良い思いさせて、最期まで側に居てやる。そんでもって、死ぬ時に俺は生きてて幸せだったって絶対言わせてやる」
それは、彼が“あの時”に求めていたもので。
「…………良い、のか。君は、本当に」
「ああ」
「……俺、面倒くさいぞ? きっと、迷惑もかけるし」
「知ってる」
「下手したら、束縛とかも、するかもしれないし。恋愛経験もないし。男らしいリードとか出来る気がしないし。なにより、辛い思いだって――」
「……ああもう、うるせえ」
すっぱりと、一言で不安すら切り裂いた。
「ごちゃごちゃ言うな。黙ってずっと、俺の隣に居ろ」
「――――っ」
崩れる。今まで成してきていた何かが、盛大に崩れ去る。ああ、けれども、それはきっと良い事だ。もう要らないモノ。跡形も無く壊された。誰に? 勿論、目の前の彼女に。
「…………うん」
鼻頭が赤いのは、寒さのせいか、他のことが原因か。気付けば周りには雪が降っていた。頷く蒼に、一夏が優しげな表情で返す。様々なものがあって、どれもこれもが大事な内容で。ただきっと、結果だけを言うならば。
――その日。彼らは、友人では無くなったのだ。
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おわりの夜。
しんしんと降り積もる雪。電灯が照らす近くより向こう、辺りは暗闇に覆われている。ほうと、吐いた息が白い。真冬の夜、寒さは日中の比ではなかった。コートにマフラー、防寒対策はばっちりだったが、それすらも貫いて冷気が身に沁みる。ぶるりと肩を震わせれば、左手を包む熱がぎゅっと力を増す。少々驚きながらも、どこかすっきりした様子で蒼は微笑んだ。
「……いま、何時ぐらいだっけ」
「ちょっと待て。えっと……うわ、もう十時過ぎてるぞ」
「そっか。……案外、長い事居るんだな」
「だな。……なんなら、明日の朝まで居るか?」
ふざけたように一夏が言う。流石に明日までは、と胸中で真っ先に否定した。もっとも、少し……ほんの少しだけではあるが、それも良いかと思ってしまう。外の空気は冷たくて冷える。その分、中身は燃え上がるほどの熱に浮かされていた。なんとも慣れないが、心地の良い暖かさ。
「……千冬さん、心配してるんじゃないか」
「かもな。お前だって、家の人が心配してるだろ」
「かもね。だから、きちんと帰るぞ?」
「……はいはい。ったく、さっきまで弱々しかったくせに」
ぼそりと呟かれた言葉に、そんなの当然だろうとジト目で主張する。本来なら此方の想いだけを伝えて離れようとしたところへ、思わぬ返答に驚愕的な情報の連続。キャパシティがオーバーしなかっただけ大分マシ。正直に言えば今でも尚信じられないが、現実は一夏と並んで公園のベンチに座り、手を握り合っている。夢幻の類いではないと、触れた感触が訴えていた。
「……一夏」
「なんだよ、蒼」
「ごめん」
「……良いよ、許す」
何が悪いのか、何を謝りたいのか。彼女は肝心の内容を聞かずに、笑って謝罪を受け入れた。既に分かっているからか、それとも中身などどうでも良いのか。どちらにせよ、真面目に振る舞ったこちらの損だ。呆れて肩を落とす蒼は、しかし口の端が自然とつり上がっていた。
「君も馬鹿だな。こんな貧乏くじを態々引くなんて」
「お前も本当変わんないよな。その自分下げる考え方」
「なんだ、まだ分かってなかったのか。俺は最低最悪なんだって」
「それじゃあそんなヤツを選んだ俺も最低最悪だな」
むっと、蒼が眉間に皺を寄せる。対照的に一夏はしてやったりと、意地の悪い表情を浮かべていた。相手の性分を分かっているが故の言葉。自分がどれだけ傷付こうが悪く言われようが大して
「……一夏は違うだろう。こんな余所者を救ってくれる時点で良い人なのは明らかだ」
「なーにが余所者だ。ここで生まれてここで育ったんだから、お前も立派なここの人間だろうが」
「そう思えたら、気が楽だったんだけどね」
「だろうな。お前がそこまで器用な人間じゃないってのは知ってる」
ついでに、どう足掻いても他人からの言葉では、彼の背負うモノを下ろしてはやれないことも。
「なあ。率直に聞くから、正直に答えて欲しいんだが」
「うん、なにを?」
「お前ってさ、自殺願望とか……ないよな?」
「……ないない。俺、死ぬのが怖いんだぞ? 自分から死のうなんて思えるワケないよ」
彼は苦笑しながら否定した。
「……なんつう皮肉だよ。というか、ぞっとしねえ」
「? 急に何言ってるんだ?」
「いいや。お前が死んでくれて助かったってことだ」
「……随分酷い事を言うんだな」
流石に怒るぞ、と低い声を出して、うっすらと目を細めた蒼が睨む。彼の中でも己の“死”は特別、壊れものどころではない扱われ方だ。数ある中で紛れもなくデリケートな部分。尤も、それですら“そこまででもない”と一時的に割り切れる蒼の精神は明らかにおかしいのだが。
「でも、蒼がここに生まれた切っ掛けなんだろ? なら、悪い事ばかりじゃない」
「……訂正。君は意外と最低だな。俺の事、知ってるくせに」
「だろ? だから俺ら二人はお似合いってことだ」
自分が恋をしたのは、どこにでも居る上慧蒼という男では無い。緩くて、マイペースで、年の割に落ち着いていて。けれども本当は面倒くさくて、重くて、有り得ない記憶を持っている、変わった男。過去の記憶も抱えるモノも無ければ、恐らくはこんな事態になっていない。ならば相手は目の前に居るたった一人。IFの世界の誰でもない。転生という異常を経て生まれた彼のみ。
「――良いんだ。お前が変わんなくたって」
「……一夏」
「自分は違う、この世界に要らない邪魔者、余所者。お前はずっと、そんな苦しみを抱えたまま生きていくんだろ?」
「…………そう、だね」
案の定、蒼は首を横に振らなかった。振ってはくれなかった。それも、分かっていたこと。
「だったら、俺が少しでもそれを軽くするよ。例えお前に届かなくたって……お前が俺らと同じなんだって、証明する」
「……まあ、同じ“人間”ではあるかな」
「話を逸らすな。話を。……もういいか。とにかく、そんな感じだよ」
きっと、前途は恐ろしく多難だ。この男に隣を歩かせるということは、並大抵の意識ではできない。問題は幾らでも向こうから転がってくるだろう。今はまだ、無理矢理細かくして小さな器に収まりきっている。だが十年後、二十年後、いつかはきっと溢れて、重さに耐えられなくなり、粉々に砕け散る。そんな様子を幻視した。
「覚悟しろよ? 俺を女にした責任、とってもらうからな」
「女にしたのは束さんだ」
「違う。それはカラダ。お前はココロ。おーけい?」
「……発音がなってないよ受験生」
次は彼女の番だった。女になってからの数ヶ月、十二分なぐらいに支えてもらった。返しきれないほどの借りを作った。今からは彼を支えていくようになる。一人で歩けないことはない。言わば蒼は自分の力でどうにかなる険しい道を歩いているだけ。ただそれがどうにも見ていられない光景だから、ちょっっとだけ手を伸ばすのだ。
「あ、そう言えばさ」
「なんだい、今度は」
「やっぱり、女として生きるからには口調とか変えた方が良いんだろうか。……
「……お嬢様にでもなるつもりかい? 君は」
「違うか。うーん……
「……凄まじい寒気がした。なんだろう。こう、関わっちゃいけない世界線に触れたというか……」
「いやお前何気なく酷いな」
一夏の感想はともかく、彼の感覚は気のせいである。
「無理に変えなくて良いと思う。一夏は一夏のままの方が良い。強いて言うなら、一人称を私にするだけでも」
「そうか、なるほど。……こほん、私を女にした責任、とってもらうからな?」
「……千冬さん?」
「……
いや千冬姉に女らしさが足りないという可能性も……? と考えた一夏だが、瞬時にして強烈な悪寒に襲われて思考を中止した。余計なことは考えない。姉は強くて美しく綺麗で女性的だ。もっと言えば全国の女性の憧れの的である。一部の層に“お姉様”と呼ばれて慕われている事実からは目を逸らす。
「それじゃあ、そろそろ帰ろうか」
「……だな。お互い、心配させてる人が居るだろうし」
「うん。俺、携帯置いて来たままだから。母さん、暴走してないと良いけど」
「千冬姉は……連絡寄越さないし、まあ、大丈夫かな……いやむしろ大丈夫か?」
酒を飲んで潰れていたりしたらあとが大変だ。外と内の切り替えがしっかりしているのは良い所だろうが、良すぎるのも考えものである。
「……あ」
「ん?」
ふと、手を離して立ち上がり、一夏がぐっと伸びをした時だ。蒼が何かを思いだしたように声をあげて、くるりと彼女の方を向いた。
「……これも、伝えておくかな。誰も知らない俺の、最後の秘密」
「知らない? ……って、束さんもか?」
「多分そう。長い間、もやがかかって思い出せなかったんだ。あの人が記憶を覗いたってだけなら、きっと知らないよ。今は、はっきり覚えてる。……多分、心が蓋をしてたんだろうね。それだけ、複雑なものだったから」
「……また面倒くさい案件かよ」
そこまでじゃない、と彼は目を伏せて。
「もう一つ
「もう一つ……って。ああ、前世、つうか、向こうの……?」
「うん。上慧蒼も正真正銘本名だけど、やっぱり、なんていうか……俺はきっと、コッチのほう」
「……そっか」
頷いて、耳を澄ます。受け入れるかどうかなど、考えるまでも無かった。
「――
「……上里、青。……良い名前だな」
「そうかい? 大分陳腐なもんだと思うけど」
「……そうでもねえよ」
なによりその響きは、彼に似合っている。
「青。青か……。そっちで呼んだ方が、良いのか?」
「別にどちらでも。ただ、そっちで呼ぶなら……その」
がしがしと、誤魔化すように後頭部をかきながら。
「……ふ、二人っきりの時だけに、してほしい」
「――――、」
言葉を失う。いや、失わなくてどうするというのか。なんなのだろうこの男は。反則だ、どこまでもズルい。眼前で立つのはしっかりとした中学生男子だ。身長もそこそこ、体付きは貧弱だが、男らしさは相応にある。だというのに、
「……可愛い」
「え?」
「あ、いや、悪い。素直な感想だ。気にしないでくれ」
「……とても気にするぞ……」
蒼とて僅かながら、男としてのプライドがあった。可愛いと言われるのは、少し、抵抗感がある、というか。
「ま、いいだろ。それよりほら、帰ろうぜ、
にっと笑って、一夏が言う。
「……うん。帰ろう」
二人は再び手を取り合って、暗くなった夜道を並んで歩く。雪は舞い続けている。この分では明日には積もっているだろう。ホワイトクリスマスだ。勿論、今はまだ路面がしっかりと見えている。聖夜を前日に控えた今日。彼らの足跡は見えずとも、しっかりと隣のまま、消えないぐらいに残っていた――。
申し訳程度のリメイク要素。
次回、最終話ッ!(迫真)
……諸々の理由は後に出す活動報告に書いときます。
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エピローグ。
空気を裂くようなカン高い音で、彼女――織斑一夏は目を覚ました。うっすらと瞼を持ち上げて、むくりと体を起こす。音の正体は直ぐ側だ。かちりと叩くように頭頂部のボタンを押して、今日も元気に役目を終えてくれた目覚まし時計を眺める。起こされたこちらの気持ちはなんのその。どこか誇らしげに、道具は時刻六時過ぎを示していた。
「…………眠い」
くあ、とあくびを一つ。大きく口を開けながら、涙の浮かんだ瞳をごしごしと擦る。学生の身分である一夏にとって、この時間帯はもう少し寝ていても構わないところだ。が、妙に健康的意識の高い彼女は早寝早起きの規則正しい生活と、栄養バランスのとれた食事を好む。実に年相応とは言い難い、少し変わった部分だった。
「――――、」
波のように押し寄せてくる眠気と、起きようとする理性の狭間で揺さぶられながら、至福の微睡みタイムを満喫する。男の時同様、密かな一夏の毎日の楽しみだ。この「あともう少し……」という時間がなんともたまらない。出来ればずっと横になっていたくなるが、そうもいかないのが常。三学期に入り、受験も目前に迫ってきた。自然と気も引き締まるというもの。部活や何やらは無いが、家事炊事は依然己に任された仕事。時間は有限、やることは沢山だ。
「…………起きないと、な」
独りごちて、のっそりと布団から這い出る。ふと、窓から覗いた空は綺麗な青色をしていた。良い天気だ。晴れ模様は元から好きな方であったが、とある原因により今はもうちょっと好きになっている。特に青空なんて格別で、思わず“彼”のことを連想した。
「……ま。本人の心が晴れてねえのが、本当にアレだけどな」
どちらかと言うと曇り。下手すれば雨、それも土砂降りだ。本人が雨を苦手としているのもあり、なんというか、今更だが抱えすぎというか。ほうと、呆れを含んだ溜め息を吐く。一夏はぐぐっと伸びをして、一先ず洗面所まで向かう事にした。
「…………、」
平日の朝。大抵の場合、織斑家は周りの流れに溶け込むぐらいの静けさに包まれている。姉である千冬は殆ど家を空けており、滅多に帰ってこない。珍しく帰って来たとしても、翌日にはすっかりと姿を消しているなんてざらだ。すたすたと、廊下を素足で歩く音だけが木霊する。寝室から目的地まで、そう距離はない。そもそもが家の中、焦って転んだりしなければ、一分もしないうちに視界へ捉えた。
「……っと」
扉を開けて、洗面所へと足を踏み入れる。直ぐ目に映ったのは、備え付けの上半身ほどなら丸々確認出来る大きめの鏡だ。起きたばかりの状態は我ながら酷いモノで、長く伸ばしすぎた髪の毛はあちらこちらに跳ね、表情も気のせいか不機嫌そうに見える。おまけに寝間着のTシャツだからかどことなくだらしない。きゅっと蛇口を捻って水を出し、ばしゃりと顔に叩き付けた。
「……ふう。あー、少しはマシか」
今一度じっと見詰めて、うんと頷く。最低限の身嗜みは整えておきたい。少なくとも、外に出て恥ずかしくない程度にはしっかりしていなければ。顔が済めば次は髪だ。慣れてきているとは言え、やはり長いそれの手入れは非常に面倒くさい。時折、男だった時の短髪が羨ましくなることもある。まあ、それでも切ろうとしないのは最近理由が出来たからで。
「……ったく、軽々しく似合ってるとか言うんじゃねえよ」
頬をうっすらと赤く染めて、微笑みながらぽつりと溢す。単純だが、致し方なし。こんなものは先に惚れた方の負けだ。となれば、時期的にも早かった一夏の方である。向こうは自分が彼女に与える影響力を知っているのか、知らないのか。恐らくは後者であるのを確信しつつ。
「……よし。今日も頑張るぞ、
とんと腰に拳を当てて、明るい調子で宣言する。十五歳、女になっておおよそ十ヶ月。一夏はすっかりと、体の性別に馴染んでいた。
◇◆◇
毎日の登下校は、特別な用事でも無い限り基本的に二人で歩く。家の前でぼんやりとしながら待っていると、ドアの開閉音と共に聞き慣れた声を耳が拾った。
「いってきます」
「いってらっしゃい、蒼。気を付けなさいよ」
「分かってる」
幾度も聞いた恒例のやり取り。昨年の冬に起こった事件以降、彼の両親は家に戻って一緒に暮らしている。元々、中学生が一人っきりという危ない状況に、倒れて病院に搬送された結果。昔からそこまで体の強くない人間だ。仕事に無理をきかせるぐらい心配になってもおかしくない。軽視しているのが本人だけなあたり、余計に。
「よっす、
「……おはよう、一夏。また待ってたのか」
「良いんだよ。待つのが楽しいんだから」
「まだ寒いし風邪を引くかもしれないだろう。あんまり無理しないでくれ」
それはこっちの台詞だ、とは敢えて言わなかった。無理をするのは彼の専売特許という風潮がある。むしろ現在進行形でも恐らく無理はしている。生きている限り、考えている限り、蒼はずっと無理を重ね続けている。不器用な男だった。だが、器用な人間でもある。この年まで普通どおりに過ごせているのが、なによりの証拠であった。
「そういえば、ISの適性検査、受けたんだっけ」
「おう。一応、女として生きていくからには、ってな」
「……純粋な好奇心で聞くけど、結果は?」
「Sだってよ。めちゃめちゃ凄いらしい」
それでも学園にはいかねえけどな、と一夏は続ける。彼女の進路は別として、蒼にとっては驚きだ。記憶がたしかであれば、元の“織斑一夏”の適正ランクは「B」である。「S」という数字はそれこそ作中でもトップクラスの人物か、専用機を獲得した後に「C」から大幅に向上した“篠ノ之箒”ぐらいである。尤も彼女の方は悪名高い天災が何かした可能性があるのだが。
「……千冬さん譲りの戦闘民族的血筋かなにかか?」
「誰が戦闘民族だ、誰が。……私はそんなもんいらねえよ。お前の側に居れれば、それで」
「……恥ずかしい台詞をさらっと言うな、君は」
かあっと蒼の顔に熱が集まる。意外な事に、彼女と付き合い始めてからよくある反応だ。相手として意識しているのだろうか。今のようにストレートな言葉は勿論、些細な仕草にさえ初心な部分を見せる。一夏にしてみれば、少々眼福。にひっと唇を曲げて、からかうように人差し指でツンツンと頬を付いた。
「私にベタ惚れだな、お前も。らしくもねえ顔しやがって」
「……そりゃあ、当然だ。少なくとも君が可愛く見えるまでには惚れてる」
「ん。私もお前が可愛く見えるまでには好きになってるよ」
「……むう。やっぱり複雑だ」
なんとも言えない表情で蒼が唸る。嫌ではなさそうなあたり、完璧に手遅れだろう。
「そのままずっと惚れててくれよ? もう二度と、馬鹿な真似はさせないからな」
「一夏の方こそ。俺のこと嫌いになったって、もう遅いぞ」
「ならねえよ。約束だ。今度はこっちからしてやる。一生お前のこと、好きでいてやるよ」
「……そうかい。なら、破られないよう祈っておく」
くしゃりと破顔して、彼は一夏の差し出した右手にそっと指を絡めた。道程は険しく、辿る先は遙か遠く。永遠など無いのだから、いつしか終わりも来る。残された時間など分からない。明日か、はたまた数十年後か。必ず、幸せが途絶える時が待っているのだ。故に、生きているこの瞬間はどこまでも尊いもので、一つしかない綺麗な光景だった。
――願わくば、どうか。何気ない事に心の底から微笑み、涙を流しながら泣き、優しさに包まれたような。そんな月並みの幸せが、二人の間に訪れますように。
◇◆◇
余談だが、その年の春。一人の少年が女性にしか起動できないというISを動かしたというが、それはまた別の話。
~END~
以下あとがき↓
くう疲これ完。ご愛読ありがとうございました。これにて本編終了でございます。とりあえず書きたいものは全部書けました。後半は完全にオリ主がヒロインしてましたけどね! ちゃうねんうちのヒロインは一夏ちゃんやねん……あれ?(錯乱)
ともあれ、最初からついてきていただいた方には感謝。後から追ってきてくださった方にも感謝。お陰様で無事終われました。あと毎日感想くれた方々、本当にありがとうございます。物凄い励みでした。……前作と比べて対応できない数じゃなかったのが一番嬉しかったです(小声)やっとまともな返信対応できたよ……(なお内容がまともとは言ってない)
今後とか没となるIS学園本編の話とかは昨日の割烹で書いた通りとなります。はい。しばらくちょっと歌姫様のために頑張ってきますね(F民初心者)そろそろゆっくりとお休みしたかったりもしますし。精神的負担はへーきへーきだったので気分は良い。
そんなこんなで二ヶ月ちょっと、お付き合いいただきありがとうございました。次回作もゆっくり練り上げて来ますので、また暇があれば読んでやってください。
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