THE DARKSIDE ERIO ~リリカルなのはVS夜都賀波岐・外伝~ (天狗道の射干)
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第一話 魔刃 エリオ・モンディアル

再度注意。当作はリリカルなのはとKKKのクロス作品の番外編。
以下の項目が合わないと思ったらプラウザバック推奨です。

○登場キャラの死亡率が高いので注意が必要です。作者は隙あらばキャロちゃん以外全滅させてやろうと思ってます。
○パワーバランス取れてない作品とのクロスなので、リリなの側は盛大に魔改造されている奴らがチラホラいます。STSフォワードメンバーは、皆苗字が違います。(エリオ君を除く)
○エリオ君が必死に頑張って、敵を皆殺しにしていく話です。他キャラは基本不遇となります。エリオ君の命の保証もありません。
〇作者がノリを重視しています。本編がグッドエンドだから、バッドエンドでも良いよねと思ってます。続きが書けなくなったら、その瞬間がエリオ君死亡エンドです。
〇ミッドチルダには天魔が出て来れない理由(本編読破推奨)があって、STS編スタートなのでミッドチルダが舞台です。詰まり、夜都賀波岐は暫く出て来ません。魔改造エリオ的に考えると、“リリカルなのはvsPARADISE LOST”かもしれません。
○独自解釈。捏造設定オンパレードです。


それでもよろしければ、どうぞ。


1.

 渺、と風が吹いた。冷たい夜風に身を震わせる。何処か不気味と感じたのは、果たしてこの場所に纏わりついた不吉の香りが故であろうか。

 日夜、悲鳴が聞こえる。人の悲鳴ではないとしても、それは精神を削るに十分な程。誰かが傷付いている。人ではない誰かが今も、確かに此処で傷付いていた。

 

「…………」

 

 それは若い彼をして、外道と分かる行為である。表沙汰となれば普通は唯では済まないと、罪深いと断じられるべき非合法な研究施設。

 それでも、この場所は国の認可を受けている。こうして定期巡回をしている彼が、時空管理局の制服を纏っている事こそ証左であろう。

 

 夢がない訳ではない。希望がない訳ではない。寧ろ若さに伴うだけの熱い想いがあって、だからこそ彼は此処に詰めている。

 国を守るのだと言う大義がある。世界を守るのだと言う意志がある。この研究が上手く進めば、彼の大災厄さえも打ち破れるのだと希望を抱いた。

 

 或いは、それも誤魔化しなのかも知れない。そうと気付き掛けていて、それでも己を騙し続ける。若い局員である彼は、そうでもしなければ耐えられなかった。

 それ程に、此処には悲鳴が木霊している。毎晩毎晩誰かが苦しむ声が響いていて、己の初心が揺らいでしまう。一体何の為にこの杖を握ったのか、時折分からなくなってしまうから。

 

 だから、この夜風に感じる気味の悪さも、そんな自責の念が生んだ物なのだろう。彼はそう結論付けて、己の襟をピシリと正した。

 

 

「あいっ変わらず、肩に力が入り過ぎじゃないの」

 

「班長」

 

 

 其処でふと、声を掛けられて青年は振り返る。同時に敬礼を示す彼に、中年の男は軽薄な笑みと共に軽い答礼を返した。

 無精髭とざんばら髪。皺だらけの制服には、尉官である事を表す階級章。直属の上司でもある中年の男は、配属されてまだ間もない若者の真っ直ぐさに苦笑を零す。そんな様で、此処でやっていけるのだろうかと。

 

 

「もう少し力抜いたら~? どうせ此処は左遷部署だしさ、肩肘張ってると大変よ?」

 

「はっ。ですが、自分は管理局員として、如何なる職務にも微力を尽くす所存であります。……例えそれが、必要悪とされる部署だとしても」

 

 

 そんな上官の気遣いに対し、硬い口調で言葉を返す。気を遣われていると理解出来ていない訳でもなく、唯そうしないと心が持たない。

 意図して作った鉄面皮。そうと一瞥しただけで分かる姿に、上官は更に苦笑の色を強くしながら問い掛ける。内心で思うのは、よくある事だと言う自嘲。

 

 

「ふ~ん。必要悪、ねぇ。君はこれが、必要だって言うのかい?」

 

「……諸手を上げて、賛同する事は出来ません。ですが、彼の怪物達は、非道を為さずに超えられるモノではない。そう愚行しております」

 

 

 本当に、これはよくある事なのだ。この場所で行われている非道。合法ではないそれを、法を守る筈の組織が意図して推し進める。

 本当に、これはよくある事なのだ。大義と言う名の免罪符を以って、行われている行為は外道。こんなものを守りたかった筈じゃないのに、守らないとならない現実が此処にある。

 

 

「ま、確かにねぇ。こういうのがまかり通るくらい、大天魔は強大だ」

 

 

 大天魔。穢土・夜都賀波岐。時空管理局が設立される以前から、そして以後も戦い続けている大災厄。

 世界崩壊級の遺失文明技術(ロストロギア)ですら、比較にもならない八柱の神々。唯一柱でもミッドチルダを軽々と滅ぼせる存在が、魔導師を怨敵と狙っている。管理局の敵として、確かな脅威が其処にある。

 

 ミッドチルダにある大結界がなければ、当の昔にこの地は滅んでいたであろう。御門一門と言う者達が居なければ、こうして長きに渡り抗する事など出来はしなかった。

 それでも、戦えている訳ではない。彼我の戦力差は圧倒的なればこそ、戦える筈がない。勝利は余りにも遠く、抗うだけで手一杯。宙間に本局を設立すると言う計画は凍結され、現在の管理局はクラナガンにある地上本部を本局としている。甲羅に籠った亀の如く、身を潜めなければ明日も知れない現状だ。

 

 だが、何時までもそうしている訳にはいかない。何時までもこの状況が続くなど、余りに甘い見通しだろう。

 

 故に海と言う部署がある。彼らは結界に守られていない外世界へと赴き、大天魔に遭遇する恐怖に晒されながらも、周辺世界の安定と打開策の模索に従事している。

 ならば残る空と陸の役割とは何か。海の彼らが戻るべき場所の維持は無論の事、だがそれだけではならない。そう思う彼らもまた、異なる形で打開の策を探していた。

 

 そんな此処も、その一つだ。管理局所属の非合法研究施設。彼の大天魔を打ち滅ぼす為、外道の果てに武具を鍛え上げようと言う場所。

 戦時の狂気が此処にある。非道が許されると言う免罪符が此処にある。だから技術者たちは酔うていて、しかし制服に身を包んだ空士の者らは酩酊する事が出来ていなかった。

 

 

「ミッドチルダを守る為、その免罪符があるからこそ、僕らは此処まで来てしまった。偶に思うよ、きっと地獄行きなんだろうなぁってさ」

 

「自分もお供致します。我らが外道に堕ちる事で、国が、星が、救えるのだとすれば、何を苦に思いましょうか」

 

 

 古代ベルカ由来のユニゾンデバイス。それを研究し、実験を行っているのがこの施設。管理局の闇の中でも、比較的浅いのがこの部署だ。

 人ではないから、必要だから、そうして納得出来てしまう。最悪存在を明かされたとしても、屋台骨が揺らぐ程ではない。人体実験よりも、受け入れやすい事だから。

 

 だからこうして、正規の局員たちが配属されている。彼らの意志を定めさせる為に、非道も止む無しと思わせる為に、そういう場所が此処である。

 

 

「いいや、逆だよ。僕らは苦に思っちゃいけないのさ。だって僕らより、あの子たちの方がずっとずっと苦しんでいる」

 

「ユニゾンデバイス、でしたか」

 

「最近、無間書庫で関連書が見付かっちゃったからさ。先月から量産体制に入り始めてる。……実験材料になる為に生まれて来るって、どんな気持ちなんだろうねぇ」

 

「…………」

 

 

 苦に思ってはならない。背負っていかねばならない。無駄にしてはならない。そういう意志を固める男たち。

 だがその意志ですら、そうなる様に誘導されたものでしかない。だが例えそうと分かったとして、他に何が選べるだろうか。

 

 それほどにミッドチルダの奥底は淀み濁り切っていて、しかし表層は美しい。彼らが守ろうとする日々は、それでも輝かしい光に満ちているから。

 

 

「国のため、民のため、世界のため。此処は必要だ。こういう事は必要だ。そうでないと、僕らは勝てない」

 

 

 愛する人が居る。愛しい日常がある。安らぎの中に、あるべき命の輝きを知っている。守り抜かねばならないと、そう理解する刹那があった。

 だから、そういう判断をしてしまう。美麗な刹那を知っているから、それが儚く砕ける程に脆い事を知っているから、こうした外道さえ許容してしまう。受け入れざるを得ないと、そう判断してしまえるのだ。

 

 

「けど、さ。やっぱり碌でもない事なんだよ。どうしようもない事で、正当化なんかしちゃいけない事さ」

 

 

 それでも、やはり碌でもない事なのだと知っている。彼らは皆、美しいと言う事を知っているのだ。

 故に守るのだと胸に大志を抱いて、その初心があるからこそ、己が悪性に嫌悪を抱ける。そうした善性の気質を、大切だと想える者達だから。

 

 

「だから、きっと僕らは何時か地獄に堕ちる。だからせめて、その対価に何かを遺したいと思う。その為にも、さ。無駄に気負い過ぎちゃいけないよ。僕らが潰れちゃ、それこそ無意味になってしまう。そうだろ、新人君?」

 

「はっ。ご指導のほど、感謝致します」

 

「そういう所が硬いって、言ってるんだけどねぇ」

 

 

 無駄にしない。無意味にしない。無価値にしない。それだけは胸に誓う。それだけしか、彼らには出来ない。

 耳にこびりつく様に、今も聞こえる悲鳴の幻聴。何度も何度も己の所業を後悔しながら、それでも胸に誓いながら生きていく。何時かその身が、重ねた罪に倒れる日まで。

 

 

「さて、何時までも駄弁っている訳にもいかない。交代時間だよ、新人君。酒を飲んで、女を抱いて、明日の気力にすると良い。……まだ当分、こういう仕事が続くからねぇ」

 

「……一体何時になれば、こんな事をしなくて良くなるのでしょうか」

 

「さぁ、何時だろう? でも、そんな何時かが来れば良いよねぇ」

 

 

 それでもやはり、弱音は零れる。一体何時まで、こうした日々が続くのだろうか。互いに答えなど出せはしない。

 今も研究は続いている。今も悲鳴は届いている。今も犠牲は積み重ねられていて、罪に潰れるその日まで、彼らはこれを続ける事しか出来ないから――――

 

 

「喜べ、今宵で終わりだ」

 

 

 

 

 

 夜の悪魔が訪れた。

 

 

 

 

 

「新人君! デバイス展開を――ガッ!?」

 

「班長!!」

 

 

 渺と泣く風の中、轟と言う音が響く。闇の帳が落ちる様に、夜から現れた赤毛の悪魔。その身が振るう歪んだ魔槍が、無精髭の男の腹に突き刺さる。

 スピーアアングリフ。上空からの突進と共に展開された殺傷設定の魔法は、人体で耐えられる様な物ではない。故にそのまま、彼の身体は上下に分かれた。

 

 血飛沫と共に、一つの命が此処に散華する。配属されたばかりの局員は咄嗟の状況に、犠牲者を呼ぶ事しか出来てはいない。そんな無様を、悪魔は無価値と嗤っている。彼らが無価値だからこそ、悪魔はこうして此処に居る。

 

 

「君達の重ねた罪業の結果は、此処に確かな形として現れた」

 

「あ、悪魔!? 黒と、赤の悪魔!! 魔刃、エリオ・モンディアルッ!?」

 

 

 赤い髪。目の下に濃く刻まれた隈。囚人を思わせる首輪。蠢く肉塊に覆われた、赤と黒の歪んだ魔槍。

 知っている。知っている。知っている。この眼前に降り立った少年の姿を、局員である彼は知っていた。

 

 嘗ては過去最大、管理局史上最強最悪とまで謳われた広域次元犯罪者。犯罪結社“無限蛇”の大幹部。

 しかし今は司法取引の下、最高評議会の直属と化した管理局員。本来ならば味方である筈の彼が、こうして今此処に居る。それは、ある一つの噂の証明。その噂を新人局員は確かに知っていた。

 

 魔刃エリオ・モンディアル。最高評議会が保有する最大戦力である彼は、身内に対する懲罰を担当する局員であると言う噂。

 嘗ての犯罪者時代から、実はそうであったのだと。最高評議会から見て価値がないと断定された者らを秘密裡に消し去る事こそが、魔刃の役割であるのだと。

 

 

「が――ッ!?」

 

 

 名を呼ぶ男の声に対し、少年が返したのは槍の切っ先。現状に混乱する事しか出来なかった局員の身体を、槍で貫き高く掲げる。詰まらぬ作業をするかの如く、エリオは小さく槍に命じた。

 

 

「ストラーダ」

 

〈Thunder Smasher〉

 

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」

 

 

 槍を通じて体内から、殺傷設定の雷撃にその身を焼かれる。肉の焦げる音と野太い悲鳴が周囲に木霊し、異臭がこの地を淀ませていく。

 痛みは一瞬、その命は終わりを迎える。反射も起きなくなる程念入りに焼いた後、まるでゴミを捨てるかの如く、エリオは遺体を投げ捨てた。

 

 そして、彼らをこう評する。無感動のまま、無感情のまま、何一つ取るに足りぬと見下し断じた。

 

 

「民のため、国のため、世界のため、重ねたその罪。その成果。此処に、こう断じてあげよう。――全て無価値だ」

 

 

 言われるがままに、そうとしか生きなかった者達。その命に価値はない。その犠牲に価値はない。その生涯に価値はない。そう判断されたから、処刑人である彼が此処に居る。

 この研究所に価値はない。この悲劇に価値はなかった。時間と資金を浪費するだけ、然したる成果は得られなかった。だから関係者を全て、処刑せよと命じられた。故にこうして、殺しに来たのだ。

 

 

〈さて、相棒。雇い主方のオーダーは皆殺しだったが、此処から焼いて終わらせるか?〉

 

 

 研究所を前に、少年の内より声が響く。嗤いを抑える素振りも見せない声の主は、エリオの身体に宿った悪魔。

 名をナハト=ベリアル。無価値と言う意味をその身に冠するその存在は、人の夢より生まれた悪逆の魔王である。

 

 その力は絶大。全能なる神を殺せる存在は、全能である神と寸分違わない。少なくとも、力と言う一点に関しては神と魔王は同等だ。

 悪魔は神を弑逆出来る。争いは対等の立場でしか成立せず、ならば逆説、争いが成立する関係とは同等量の力がある事を示しているのだから。

 

 

〈俺の腐炎なら、それで終わるぞ。周囲の目も潰した訳だし、逃れられる事もない〉

 

 

 神すら葬り去る炎。悪魔が齎す腐った炎を、防ぐ術など何処にもない。物質界に存在するありとあらゆる事象も、彼の炎を前にすれば全て無価値と成り果てる。

 あらゆる物質に対する反存在。全てを零に変える力に制限などはなく、その気になればその瞬間に此処は消え去る。誰一人として例外はなく、何一つとして例外はなく、全てが腐って燃え堕ちる。

 

 

「僕が命じられたのは、関係者全員の抹殺だ。……物を壊せとは、言われていない」

 

〈クハッ! お優しいことで。あの少女への点数稼ぎかい、エリオ?〉

 

「別に、そんな心算はないさ」

 

 

 それをエリオ・モンディアルは望んでいない。故に彼は抜き身の槍を肩に担ぐと、研究施設の出入口へと歩を進める。

 そんな彼の姿に内なる悪魔は嘲笑を浮かべる。全てを蔑み悦楽に耽る怪物は、少年が抱いている想いすらも嘲笑っているのだから。

 

 

「良いから黙ってろ、ナハト。君の冗談に付き合いたい気分じゃない」

 

〈はいはい、仰せのままにさ。マイマスター〉

 

 

 顰め面で語るエリオに対し、ナハトは込み上げる笑みを必死に堪えた。それでも耐えられないと腹を抱える様に、吹き出しながらに思ってもいない返事をする。

 そんなナハトの、あからさまに過ぎる少年を馬鹿にした態度。寄生虫の様な同居人に対し舌打ちを一つ返して、エリオは肩に担いだ槍を振り下ろした。

 

 斬と音を立てて、鋼鉄の扉に槍が喰い込む。むき出しとなった配線に、電撃変換された大量の魔力が流し込まれる。

 切り付けられた瞬間に発生していたアラートは数瞬とせずに音を止め、同時にこの施設にある半数以上の設備が僅か一手で崩壊した。

 

 通路の明かりは消えて、非常灯へと切り替わる。一部機能が生きているのは、彼がそうなる様に手を抜いたから。

 予め記憶していた見取り図に従い、意図して流された電撃は想定通りに破壊する。出入口だけを塞ぐ様に、唯の一手で逃げ場を奪った。

 

 ならば後は、逃げ場を失くした獲物達を一つ一つと潰していくだけ。半壊した扉を片手で吹き飛ばすと、エリオは己のデバイスに命じる。

 

 

「ストラーダ」

 

〈Blitz Action〉

 

 

 雷撃が迸り、少年の動きが加速する。弾と踏み込む震脚で鋼鉄の大地を凹ませながら、弾丸の如くエリオは前へと飛翔した。

 

 傍から見てそれは、余りに異常な光景だった。少年の動きは既にして、人の視力では追えない程に。大地を叩く音だけが、鋼鉄の鳥籠に響くのだ。

 そして誰もが彼を捉えられないのに反し、彼は誰もを見逃さない。異常事態に動き出そうとしていた白衣の者達が、次から次へとその首を刈り取られて行く。

 

 一人。二人。三人。四人。瞬く間に膨れ上がっていく犠牲者達は、しかし唯の一人として襲撃者の姿を見る事すら出来はしない。

 まるで紙屑を散らす様に、首なし死体が地面に転がる。そうして初めて、其処に居たと言う事が分かる。それが、それこそが、魔刃と言う名の悪魔であった。

 

 

「なんだ、これは?」

 

 

 誰かがそう呟いた。誰もがそう呟いた。余りにも現実から乖離した光景に、そう口にせざるを得なかった。

 しかしこれは現実だ。どれ程に荒唐無稽な光景であろうとも、彼らが一方的に奪われているのは確かな現実だったのだ。

 

 

「なんなんだ、これはぁぁぁぁッ!?」

 

 

 誰かがそう叫びを上げた。その直後に首が飛ぶ。誰かの命が散華した。そう理解する前に次の命が塵となる。

 秒に満たない僅かな時で、命が一つ二つと消えていく。それでも一つ殺すに、半秒だ。僅かとは言え止まる時間があるならば、積み重ねれば変化も起きる。

 

 

「あ、悪魔」

 

 

 だから、最後の一人はその目で見た。それだけ積み重ねても、その程度の物にしかなりはしなかった。

 目の前に現れた処刑人。迫る掌に反応出来ず、その頭部を五指に掴まれる。万力すら比較にならぬ握力は、痛みさえも感じさせない。

 

 潰れていく視界の中で、白衣の彼は静かに思った。目の前に居る赤き悪魔。悪名高き処刑人。ジェイル・スカリエッティが作り上げた最強の怪物。

 管理局の技術が最高峰がこれだと言うなら、己達が行っていた事は児戯にもならない事だったのだ。無情な現実を突き付けられたまま、彼の頭蓋は林檎の如くに磨り潰された。

 

 

「これで最後か」

 

 

 目に映る全てを殺し尽くして、血溜まりの中でエリオは呟く。全身を返り血で染め上げた彼の呟きは、まるでそうであって欲しいと願う様に。

 そんな言葉に返る二つの声。一つは機械であるが故に感情の機微に気付けず、もう一つは気付いているからこそ嗤いながら事実を突き付けていた。

 

 

〈No, My master. There is one life response within the range〉

 

〈だ、そうだぞ。討ち漏らしを出すとは、碌でもないなぁ。マイマスター?〉

 

 

 曰く、まだ一人生き残りが居る。受けた役目が殲滅任務であればこそ、殺戮はまだ終わらない。

 顔に付いた返り血を服の袖で拭いながら、エリオは忌々しいと舌打ちした。苛立ちを向けるのは、一体何に対してか。

 

 

「ちっ、言ってろ。……ストラーダ。サーチ結果を表示――」

 

〈いいや、どうやらその必要はなさそうだ。あちらさんから、出迎えをしてくれるらしい〉

 

 

 そうして僅か立ち止まり、最後の標的を探させる為の命を下す。そう動く直前で、変化は向こう側から訪れた。

 轟と炎が燃え上がる。紅蓮の色をした魔法の一撃を前にして、エリオは軽くその手を振るう。素手で炎弾を弾きながら、彼は鋭い視線を向けた。

 

 其処には、紅い女が居た。燃える様な紅い髪。淡く輝く紅い瞳。背には天使を思わせる二枚の翼が、炎によって生み出されている。

 その女が何か、問う必要などはないだろう。追い詰められた研究者は、自分の研究成果をぶつけて来た。詰まりこれは、融合機と同化した人造魔導師に他ならない。

 

 

〈ほぅ、面白いことをするな。中々に気に入ったよ。此処の主人とは、趣味が合いそうだ〉

 

「碌でなし決定だね、そいつは。それで、君はアレに何を見た?」

 

 

 見た目が変質している事から、適合率は90%オーバー。態々低い数値の物を作り上げる理由はなく、ならば理論上の最高値である98.9%と判断する。

 そんなユニゾンデバイスの為に作り上げられた人造魔導師。それと同じ物が凡そ三十。通路の奥から次々に姿を現す彼女らは、皆一様に同じデバイスと融合していた。

 

 炎の軍勢。それを前にしてナハトは嗤う。心底から愉しいと、これを作り上げた者とならば旨い酒が飲めるであろうと。

 遍く人々が思い描いた悪の象徴。ナハト=ベリアルがそう断ずるのだ。悪魔と趣味が合う者など、得てして碌な者ではない。エリオはうんざりした様に、それでも彼に嗤う理由を問うた。

 

 

〈さぁ、一体何だと思う? ヒントをやろう。あれらは全部同じ物だ。中身まで含めて全てが同一。血肉や型番が一緒と言うだけではないぞ、その魂まで同一だ〉

 

「……完全同一個体が、三十、か」

 

 

 既にして真実に辿り着いている悪魔は、煙に巻くような語りで嗤う。真面に答える気はないと、ならばエリオも其処まで深く構いはしない。

 断片だけでも、語るのならば十分だ。下手に多くを問い信じれば、その存在に頼ってしまえば、ここぞと言う場面で梯子を外す。そういう悪辣な存在こそが、ナハトであると知っている。

 

 

〈無視は酷いなぁ。悪魔は案外寂しがり屋なんだぞ?〉

 

 

 轟。再び燃え上がる炎の音。背の翼を爆発させながら、三十の内の半数にも及ぶ融合魔導師たちが襲い来る。

 

 十五の魔導師が剣を振る。紅蓮に燃え上がる炎の剣は、生半可な障壁ごとに人体すらも焼き尽くすであろう。

 残る十五の魔導師たちは、その手に握った炎剣を用いて魔法を放つ。広域殲滅型の魔法は、敵へと迫る味方すらも巻き込んで燃やし尽くさんと言うかの如く。

 

 

「知るか」

 

 

 言葉とは裏腹に、愉しそうに嗤い続けているナハト。そんな耳障りな音に顔を顰めて、エリオは炎の剣をストラーダで受ける。

 その瞳に僅かな色が混じるのは、目の前にある実験体に何か思う所があるからか。犠牲者達への哀悼を、この少年は捨てられない。それでも感情とは別に、その身体は勝手に動く。

 

 槍で剣を捌いて、雷光を纏った蹴撃を撃ち込む。それだけで骨を幾つも砕きながら、融合魔導師達の身体を迫る炎の津波へと叩き付けた。

 彼女達の身体を盾とするかのように、そうして広域魔法に隙間を無理矢理作り出す。そんな隙を縫う様に加速して、残る十五の一つを突き刺し殺した。

 

 それでも、敵もさるものだろう。幾つもの犠牲を生み出した成果は、それで終わる程に安くもない。突き刺した女は刺された瞬間、己の力を暴走させた。

 発生するのは大爆発。同胞の自爆を囮として、残る彼女達は一斉に距離を取る。三歩の距離を後退した女達の下へ、通路の奥から合流するのは増援部隊。全く同じ数の魔導師が、再びこの場に補充された。

 

 

〈中々良い動きだ。なぁ、エリオ。そろそろ腐炎(オレ)を使ったらどうだ? 流石のお前も、多少は手を焼くかも知れないぞ〉

 

「はっ、馬鹿を言うな」

 

 

 自爆の煙が晴れた後、佇む少年はしかし無傷。オーバーSを超える存在の自爆すら、彼に手傷を負わせるにも至らない。

 それでも怯む事はなく、魔法を放ち続ける人形たち。まるで津波に対して、水鉄砲で挑んでいる様な物。存在規模がそも違うのだ。

 

 敗北はあり得ない。精々が多少手を焼く程度、その手間を潰す為に手を貸そうかと嗤う悪魔。そんなナハトの発言を、鼻で嗤って一蹴する。

 どうせこの悪魔の事だ。その言に従えば、碌でもない結果となろう。それに、そうでなくとも――エリオ・モンディアルが本気になれば、こんな物など塵と同じだ。

 

 

「どうせ、無価値と断じられたゴミ共だ」

 

 

 故に殺そう。そう決めた。その直後に動き出した彼の早さに、人形たちは反応すらも出来はしなかった。

 雷光を纏って、その速度はそれだけの単純な物。過剰な魔力を術式に流す。砲撃として放てば星一つを容易に砕ける程の魔力量で、己の速力を圧倒的なまでに強化した。

 

 音の四百倍を超えると言う雷光速度。事実としてそれを上回りながら、彼はその速度域で己の五体を完全に制御してみせる。魔法によって周囲に与える被害を制御して、発生する衝撃波を駆け抜けながらに撒き散らす。

 彼が為した事を言葉に語れば、人形たちの真横を通り抜けただけである。唯それだけで、圧倒的な破壊となる。制御され収束した雷速の衝撃波は、バリアジャケットだけでは防げない。瞬く間さえも必要なく、彼女達は磨り潰された。

 

 

「何千何万集まろうと、僕の敵にも成りはしない」

 

 

 如何に人造魔導師とは言え、反応出来なければ人と何ら変わらない。初動で意識を外されて、雷速に対応出来る者などそうは居ない。

 故に結果も変わらない。哀れみと言う感情を、彼が押し殺した時点で決まっていた。今、この場所で、生きているのは唯の一人しか居ないのだ。

 

 磨り潰された血肉がまるで霧の如く、吹き込む風に赤い霧は掻き消されていく。赤い霧が晴れていく中、少年は詰まらそうに歩を進める。

 未だ奥から迫る気配は確かにあるが、最早足止めにも成りはしない。無人の荒野を進むが如く、エリオは死山血河を築きながらに進み続けた。

 

 ゆっくりと歩を進める。誰も居なくなるまで殺し続ける。恐怖を覚えて逃げ出す程の情操すらも、この人形たちにはありはしなかった。

 そんなものを助けようと思う程、少年は慈悲深くなどはない。その程度の意志もないなら、寧ろ此処で死んだ方が救いであろう。故に最早加減はない。

 

 飛んで火に居る虫の如く、次々と襲い来ては潰れていく人形たち。うんざりとした表情を隠さずに、進み続けたエリオは漸くに辿り着く。

 研究施設の最奥区画。扉の前に構える人形たちが、恐らく最後のそれであろう。これで終わりと意識を改めると、一息の間に踏み込みその槍を振るう。

 機先を制する一撃で、反応させることもなく、三つの首が地に転がる。そのまま槍を突き刺して、人形の身体ごとに押し込む様に、鋼鉄の扉を粉砕した。 

 

 

「ば、馬鹿な――ギャァッ!?」

 

 

 その前の光景が信じられないと、目を見開いて唖然としていた最後の一人。白衣の研究者が何かを語るより前に、その身に悪意が飛来する。

 首のない人形の死体を貫いている、悍ましい形をした魔槍。投げ放たれた槍の切っ先が男の腹を貫いて、部屋の壁へと縫い留めた。

 

 

「わ、私の、研究成果が、こんな、筈、では」

 

 

 口から、傷から、止めどなく血が流れる。それでも口にする言葉は、己の成果に対する物。そんな男の姿を、エリオは冷たく見下している。

 蒙昧に耽る様な残骸は、この程度の人形だけで魔刃に対抗できると本気で考えていたのだろうか。もしそうだと言うのなら、真実彼には何一つとして価値がない。

 

 血を吐きながら、譫言を続ける白衣の男。塵を見る様な瞳をしていたエリオは彼から視線を外すと、周囲へと目を向けた。

 最奥たるこの場所は、指令室と言う訳ではないらしい。簡易的なモニタは存在しているが、それだけだ。最低限の設備しかなく、機材の数も多くはない。ならば此処は、何の為の設備であるのか。

 

 

〈資料保管庫。いや、材料庫とでもいうべきか? 中々良い趣味をしてるじゃないか〉

 

 

 其処にあるのは、無数の残骸。切り裂かれ、分解され、液体の中に保管されている者だった物。

 仄暗い水の中に浮かび上がった脳漿脳髄。首から下には骨しかない残骸など、趣味の悪さに満ちている場所。

 

 そんな中で一つ、エリオはそれに意識を取られた。何故だか気になったのだ。だからそのモノの下へと、彼は足を運んで近付いた。

 

 

「ナハト。これは、さっきの?」

 

〈ほう。魂を見る目もないと言うのに、気付いたか。そうだよ、エリオ。お前が壊した人形たち。あれら全ての中身がこれだ〉

 

 

 逆さのビーカーの中に、浮かんでいるのは少女の頭部。掌より小さな彼女の首から下には、途中で断たれた背骨以外が存在しない。

 エリオは無言で視線を下ろす。ビーカーの下部にあしらわれたネームプレート。其処に刻まれたこの個体の名称は――烈火の剣精。

 

 残骸となった少女を一瞥して、そしてエリオは視線を移す。その先に居る研究者は譫言の様に、己の論の正しさを一人呟き続けていた。

 

 

「私、は、間違ってなど、いない。質と、数を、揃える、のだ。一つのユニゾンデバイスを、複数人で、同時に、利用する。画期的な、技術で、あろう」

 

 

 この研究所で行われていた実験の目的とは、希少な存在であるユニゾンデバイスの効率的な運用だ。

 古代ベルカの産物である為、現代の環境では量産が難しい。されど極めて高い効果を持つこのデバイス。それをより多くの者が使える様にする為には、どうすれば良いのかと言う研究。その解答が、即ちこれだ。

 

 

「体細胞、一つと、ユニゾンする。脳と、それを活かす、器官を、外部に。それ、以外の、部位を、ユニゾン、対象に、移植する」

 

 

 一つのユニゾンデバイスを、生きたままに解体する。生存に必要な器官のみを残して、他の部位をユニゾン対象者に移植する。

 号するなら、マルチユニゾン。複数同時の人機融合。たった一つのユニゾンデバイスを、数十数百と言う魔導師が共用する事を可能としたのだ。

 

 彼はこの研究成果を、正しく偉業だと認識している。管理局最高頭脳と謳われるジェイル・スカリエッティにも、この分野でならば勝ると確信していた。

 質に数が劣るとは思わない。ましてやこの技術は、数の質を上げる術だ。必ずや大天魔との闘いにおいて、役に立つであろう。そういう自負があったからこそ、この結果を受け入れる事が出来ていない。

 

 

「究極、的には、肉体の、細胞数と、同数の、同時、ユニゾンが、可能と、なる。防衛、戦の、人造、魔導師。その、全て、が、オーバー、S、を、大きく、超える、力を、有する、様になる、のに」

 

 

 仮に融合機の細胞数が、人体と同等とすれば三十七兆。それだけの数のユニゾンを、一つの融合機で行える様になる。

 実際に其処まではいかなくとも、それでも億は超えてくれる。そういう見通しが出来ていた。だからこそ、この研究が――自分が切り捨てられるなど思っていなかった。

 

 そんな風に呟く研究者の姿を、エリオは冷たい視線で見下す。ナハトは愚かと嗤っている。その理由、それは唯の一つである。

 

 

「質が数に劣ると言う道理はない」

 

〈趣味の玩具としては悪くないが、この程度の人形ではな。数も質もまるで足りんよ〉

 

 

 百の力を持つたった一人の個体に対し、一の力しか持たない個体を百揃えても等価にはならない。所詮一は一でしかなく、百を削る事など出来ないからだ。

 少なくとも、多少は削れる程度の質が必要だ。そしてそれだけでも足りない。削れる程度の質に、押し潰せる程の数。それらが揃って始めて、数が質を超えられる。

 

 百と言う質に対し、九十の力で漸く微かな勝機が見出せる程度と仮定しよう。其処まで来た時に生じる差が、武道の有段者と運動不足な一般人程度の差と定義しよう。

 如何に優れた人であっても、同じ人を相手にした時、同時に対処できるのは両手の数と同じと言う。ならば百を倒すのに、確実に必要となるのは九十の三倍数。二百七十と言う数なのだ。

 

 数で質を超える事は、決して不可能な事ではない。だが、極めて困難な事である。質が上がれば上がる程、難度もまた跳ね上がる。合算値で並ぼうと、質が違えば話にならない。この研究者は、其処を最初に履き違えたのだ。

 

 

〈少なくとも、数で悪魔(オレ)を落とそうと言うなら、我が妹くらいの質と数を揃えて来い〉

 

 

 魔刃を数で落とせる者など、同格たる魔群を置いて他に居まい。無限量と言う質量がなければ、数で高みには至れない。

 それが分からぬからこそ、この研究者は切り捨てられた。履き違えた研究では幾ら経とうと然したる役には立たぬから、もう要らないと判断された。

 

 例えとして出した存在に、エリオは彼女を思い浮かべる。彼と同じくスカリエッティに作られた、悪逆外道と言うべき悪魔。

 そんな事を思い出したからだろうか。噂をすれば影とは、良く言った物だ。癇に障る蟲の羽音が響いて、視界の隅を羽虫が一匹飛んでいた。

 

 小さな蠅が、機材に取り着く。スタンドアローン型である為に、壊れていなかった映像端末。其処に溶ける様に虫が入り込み、モニタに映像が映し出された。

 

 

「おぉ、おぉぉぉ」

 

 

 映し出された光景を見た瞬間、壊れた様に譫言を繰り返していた男が涙を流し始めた。そうして彼は何度も口にする。それは人の名前。

 青空の下、芝生の上。三人家族が映し出されている。小さな娘と、優しげな妻。そして残る最後の一人は、この場で磔にされている男と同じ顔だった。

 

 

「そうだ。そうだ。そうだ。私、私は、この景色を、守る為に」

 

 

 それが彼の理由。残して来た日々、其処に安らぎがあった。だからそれを失わない為に、己の出来る限りを求めて。

 ああ、そうだ。ならば死ねない。此処では終われない。まだ自分は何も為していないのだから。そんな思いが、彼に理性を戻し始める。切り捨てられた絶望に、抗う想いを与えていた。

 

 

「これは……」

 

〈ホームドラマかな? そういうのは、余り好きではないんだがね〉

 

 

 だがしかし、男は気付けない。其処にある異常さに、その異質さに、白衣の研究者は気付く事も叶わない。

 少年は気付き掛けている。だが、詳しい事は分からない。何かが可笑しいと、その程度にしかエリオには分からない。それでも一つだけ、確かに言える事がある。

 

 

〈けれどまぁ、監督はあの子だ。もう少し、期待してみようじゃないか〉

 

 

 あの塵屑にも劣る汚物が、裏で手を引いているのだ。絶対に碌な事にはならない。それだけは、間違いないことだった。

 

 

「――は?」

 

 

 その破局の訪れは、そんな間の抜けた言葉から始まった。余りにも唐突に、見ている第三者が困惑するタイミングで男は疑問を零した。

 

 

「違う。違う。違う。違う。違う!」

 

 

 映像の中の女が、夫の名を呼んだ。映像の中の娘が、父の名を呼んだ。映像の中の父が、その名を呼ばれて頷いた。唯それだけの、そんな記録。

 

 

「違う違う違う違う違う違う違う違う違う! 私の、名はァァァァァ!!」

 

 

 だが、違った。少なくとも、男にとっては違ったのだ。映像の中で妻は、違う名で男を呼んでいる。映像の中で娘は、違う名で男を呼んでいる。確かにそれは男の妻子であったのに、それでも呼ばれた名が違うのだ。

 

 

「私、の名、は…………私の、名は?」

 

 

 そうして、其処まで来て、漸く気付いた。その名は違う。違うと分かる。なのにどうして、己の本当の名前が分からないのか。

 壊れた人形の様に、硬直している白衣の男。確認する為に彼に近付いたエリオは、其処に一つの事実を見た。余りにも救いのない、そんな一つの真実を。

 

 

「プロジェクトF」

 

〈何だ。相棒(エリオ)の兄弟だったのか〉

 

 

 耳の裏に刻まれたバーコード。そして割り振られたナンバーは、彼がクローンである事を証明する物。

 詰まりはそういう事。彼は最初から作り物で、或いは他の研究者も似た様な物で、だからあっさりと処分しようと言う判断が下った訳だ。

 

 

「あ゛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」

 

 

 理解して、絶叫する。これまでの己が積み重ねた全て、その軸となる芯が全て虚構であったこと。上層部に切り捨てられて、全て無価値と示されたことに。

 発狂した様に泣きながら吠える男。唯の事実を示されたにしては余りにも、無残な姿と言えるかも知れない。だがそれは、負の激情が生み出した絶望と言う名の衝撃だけが理由ではなかった。

 

 静かに見下ろすエリオは知っている。管理局の暗部にて用いられるFの模造品には、安全装置が付けられていると言う事を。

 己が作り物であると言う真実を第三者から伝えられた時、精神が崩壊すると言う機能が作成時に与えられる。全ては、不要になった時に、即座に廃棄出来る様にと。

 

 だから彼は壊れていた。己の成果が全て否定され、己の理由も全て否定され、其処に自壊の衝撃を加えられ、多くの悲劇を作り上げた人形はこうして壊れ果てたのだ。

 

 

〈キャハ、キャハハ、アァァハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!〉

 

 

 声が聞こえる。声が響く。甲高く耳に障る声が、纏わり付く様に媚びた声音が、壊れた男の姿を見下し嗤っている。

 エリオと同じ作成者を親に持ち、ナハトの同類と言える彼女が嗤う。彼の悪魔をして汚物と、断言できる外道がその姿を僅かに見せた。

 

 先ほどまで、一家団欒の光景を映し出していたモニタが切り替わる。画面の向こうに映るのは、肌に密着した青いスーツの上から白いコートを羽織った女。

 

 

〈人形が人形作って遊んでたとかぁ、超受けるんですけどぉぉぉぉ! ほんっと、何これぇ、洒落が効き過ぎでしょぉ! しっかも結局なーんの役にも立たないしぃ、ほんっと使えないわねぇお人形さん。分かる? 分かる? 貴方の事よぉぉぉぉ?〉

 

 

 セミロングの茶髪を左右で纏め、冷たい瞳を眼鏡で隠す。それでも隠し切れない程に滲み出るのは、余りにも悪辣な趣向に酔うその嘲笑。

 開発コード・ダストエンジェル。個の質として最上級を求めたのが魔刃エリオ・モンディアルならば、それに比する彼女は群としての最上級に至った魔群クアットロ。

 

 圧倒的な力を有しながら、常に安全地帯に引き籠り続ける。それで居て、こうして機と見るや徹底的に他者を扱き下ろして愉悦に浸る。そういう力を持った小物が、このクアットロと言う女である。

 

 

〈頑張ったわねぇ。頑張ったのよねぇ。妻子のた・め・に。けぇぇどざんねぇぇんッ! 娘さんはぁ、別の男をパパって呼んでぇ、奥さんはぁ、別の男に腰振ってまぁす! これってNTR? う~ん、けどぉ、奥さん達にしてみればぁ、貴方って会った事すらない赤の他人だしぃ? 私の結論を言わせてもらうとぉ、色んな意味で無駄な努力お疲れ様でした~〉

 

 

 蠅の羽音と嗤い声。壊れた男の嘆き叫ぶ声。それが響く地獄の中で、エリオは一人顔を顰める。

 同胞の行いを愉しんでいるナハトとは真逆だ。彼はどうしても、こういう趣向が好きになれない。

 

 それでも、己が同じ穴の貉であるとは知っていた。だから少年が選ぶのは救済などではなく、速やかなる処刑に他ならない。

 

 

「自業自得だ。君が重ねて来た罪を思えば、そうとしか言えないだろうさ。……だから、さ。もう死んでおきなよ」

 

 

 僅か哀れみを覚えながらも、壊れた男に向かって手を伸ばす。縫い留めていた槍を抜き去ると、返す刀の如くに一閃した。

 所詮は科学者。唯のクローン。抵抗する余地はなく、己の死すら理解は出来なかったであろう。痛みを感じる事もないまま、作り物の生涯は無価値に終わった。

 

 

「それとだ、クアットロ。煩いから、そろそろ黙れ。余りに不快だと、君も諸共に焼くよ」

 

〈…………〉

 

 

 腹を抱えて嗤っていた女を睨み付ける。返事はなかったが、即座にモニタが消灯した事こそが返答と言えよう。

 あれは兎に角、自己保身に長けた外道だ。本気の殺意をぶつけられれば、余程の優位か理由が無ければ、尻尾を巻いて逃げ出してしまう。そういう程度の低い小物である。

 

 

 

 研究者達は全滅した。護衛の局員達も殲滅した。クアットロは逃げ去った。此処に在る命はたった一つだけ。何時もの如く地獄に一人、彼は変わらず此処に在る。

 息を吐く。赤い赤い臭いがこびり付いた空気は吐き気がする程、嗅ぎ慣れてしまった自分に苦笑する。そうして一歩、エリオは近付く。最後に己の役割を、果たして終わりとする為に。

 

 

「君も不運だったね。烈火の剣精」

 

 

 この世界は詰んでいる。世界は終わりに向かっている。あらゆる物質は魔力素によって成立していて、その魔力素の大本が今にも消えんとしていたのだ。

 大天魔達が魔導師を目の敵とするのは、魔導師達が魔力素を消費してしまうからに他ならない。そして管理局最高評議会は、それを確かに知っている。知っていて、それでも外道を成している。

 

 全ては未来が欲しいから。滅ぶ世界のその先を、果てを確かに求めているから。

 だから戦う力が要る。全てを凍らせて守ろうとする大天魔達を、打ち破る為の矛が必要だ。

 だから救う力が要る。間近に迫った終焉と言う無明の闇を切り裂いて、新たな世界を作り直す力が必要だ。

 

 その為にも、外道を良しとした。如何なる術を以ってしても、至らねばならないと判断した。そして、だからこそ――最も害悪となるのは、其処に至れない中途半端な研究成果。

 戦う矛としては不足が過ぎる。救う力として捉えるとしても、余りに方向性が違っている。それでも、多少は有益だ。複数人の同時ユニゾンと言う技術は相応の評価を下せる物であって、だからこそこんな物はあってはならない。

 

 故に、彼女は此処で終わらなくてはならない。烈火の剣精は今此処で、殺し尽くさねばならない標的だ。

 

 

「これも一つの縁だろうさ。何か言い残す事があるなら、聞いておくよ」

 

 

 結果は変わらない。必ず殺す。それでもそう問い掛けたのは、一体如何なる気紛れだったのか。

 シリンダーに手を当てて、念話のラインで彼我を繋ぐ。語られる言葉が例え如何なる恨み言であろうとも、覚えて行こうと心に決めた。

 

 そんなエリオの問い掛けに、返る言葉は想定外。予想を反する少女の声に、僅かエリオは固まる事になっていた。

 

 

〈なぁ、アンタ。寂しいのか?〉

 

 

 触れた心に伝わる声は、嘘偽りない想いである。恨むでもなく、憎むでもなく、彼女はそう問いを返した。

 

 

「……そう、だね。認めるよ。時折、少し寂しいと思う事はある」

 

 

 目で見てないのに、声しか聞こえていないだろうに、感情を見抜いているかの如き少女の言葉。

 念話で心を繋げたのだろうか。そんな何処か夢見がちな事を思い浮かべて、エリオは微笑む。少女の言葉を、彼は素直に受け止めていた。

 

 

「人は生まれを選べない。本当に、碌でもない所に生まれたからさ」

 

〈なら、あたしと一緒だな〉

 

「そうかな? そうかも、しれないね」

 

 

 最低の場所に生まれた。本当に最悪の泥に塗れて、必死に空を目指し続けた。それでも届かず、地に堕ちた。

 心は折れて、底の底の更なる底へ。それでも今は少しだけ、ほんの小さな救いがある。泥の底にも届く優しい光がある事を、今の彼は知っている。 

 

 

「けど、大丈夫。今の僕には、帰るべき場所がある。待ってくれている、人が居るから」

 

〈……そっか。いいなぁ、うらやましいなぁ〉

 

 

 だから、大丈夫と微笑んだ。気遣う様に寂しいのかと、問い掛けていた少女はそんな言葉に笑みを零す。

 羨ましい。素直に思う。だがそれ以上に、素晴らしいとも思うのだ。自分はそうは成れなかったから、貴方はずっと幸福で居られます様にと。

 

 

〈ちゃんと、大事にしないと駄目だぜ。その居場所〉

 

「ああ、勿論だよ」

 

 

 此処まで壊されて、それでも誰も恨んでいない。そんな少女の無垢な心に触れて、少年は優しい笑みを浮かべ答える。

 ありがとうと、素直に思えた。そんな優しい祈りに出会えたのが、もう少しだけ早ければ。そんな風に思いながら、終わらせる為に最後に問うた。

 

 

「最期に、君の名を聞かせてくれるかい?」

 

〈分かんないんだ。覚えてない〉

 

「そう。……なら、僕から贈らせて貰うね」

 

 

 問い掛けた言葉に返る返事は、分からないと言う言葉。それを耳にして、しかしエリオに淀みはない。

 予想はしていた。これ程に壊されているのだ。ならば己の名前など、全て消え去っているだろう。だから、言葉を交わしながらに考えていた。名前を一つ、彼女に贈ろう。

 

 

「アギト。君は烈火の剣精、アギトだ」

 

〈アギト。アギト。え、えへへ、ありがとう。すっげぇ、嬉しい〉

 

 

 浮かんだ残骸は何一つ変わらず、それでも繋がる心が確かに感情を伝えて来る。嬉しい、嬉しいと、そう歓喜するその感情。笑顔で弾む声を耳にし、同じく微笑み続ける少年は――

 

 

「じゃあ、さよならだ。アギト」

 

 

 ここに、別れの言葉を告げた。

 

 そうして、その手に力を込める。僅かな抵抗の直後に硝子が割れ、大量の培養液が流れ出した。

 濡れる身体を意識せず、そのまま手を前へと伸ばす。転がる頭を片手で掴んで、そのまま力を入れて握り潰した。

 

 

「次があるなら、もう少しマシな場所に生まれる事を祈っておくよ」

 

 

 血と脳漿に穢れた掌。だが今は、拭おうとも思えない。そうして役を果たしたエリオは、最後にその咒を紡ぎ始める。

 

 

「ディエスミエス・イェスケット・ボエネドエセフ・ドウヴェマー・エニテマウス」

 

 

 此処はもう要らない。この研究施設はもう必要ない。墓標にだって、相応しくはないだろう。

 下らない研究者の墓地としては過剰に過ぎ、優しい少女の墓標としては不足に過ぎる。だから全てを焼いてしまおう。

 

 

「アクセス――我がシン」

 

 

 繋がる場所の名は奈落。其処は狂気の天才が、作り上げた人工地獄。無数の英傑達の残骸を、物理的に繋ぎ合わせた肉塊の名。

 彼らは特殊な魔法で夢を見ている。嘆き、痛み、絶望に満ちた夢を見ている。そんな彼らが思い浮かべる地獄の底へ、エリオは己の意志で繋がるのだ。

 

 

「無頼のクウィンテセンス。肉を裂き骨を灼き、霊の一片までも腐り落として蹂躙せしめよ」

 

 

 無頼の罪。誰にも頼らぬと言う精神性。その悪性を以って地獄に繋がり、その底より夢を取り出す。

 過去の英雄が思い描いた悪夢。犠牲者達が夢見た悪魔。その力を此処に取り出し、確かな現象として発動した。

 

 

「汝ら、我が死を喰らえ――無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)

 

 

 それは、無価値な色をしていた。腐った炎が燃え上がる。暗く暗く暗く暗く、全てを暗く穢し貶める。

 変化は瞬きする程の間すらも必要とせずに、あらゆる物資に対する反存在である炎は、あらゆる全てを消滅させた。

 

 後には何も残らない。研究所も、死体の山も、何かが在った証すら――全てが無価値と成り果てた。

 

 

 

 

 

2.

 ジェイル・スカリエッティと言う名の研究者が居る。魔法の祖、現代ミッドチルダ科学の基礎を生み出した男アルハザード。彼の血を引く末裔を母体に、生まれながらに知能を強化されていたデザインチャイルド。

 開発コードは無限の欲望(アンリミテッドデザイア)。何もかもを希求して、何もかもを果たせる頭脳の怪物。斯く在れと望まれ生まれてきた彼の存在は、しかし何処か乾いていた。斯く在るように生き続け、だからこそ彼は満たされない。

 

 それも当然、全てを求めて、全てを果たせる才があった。本気を出さずとも何もかもを手に入れることが出来るのだから、必死になる必要などは何処にもない。

 この世の支配者が人間種であったのなら、彼は矮小な犯罪者にしか成れなかっただろう。何かを為そうと言う意義も見出せず、為る様にしかならぬのだと諦めて、意味のない遊戯に耽っていた筈だ。

 

 しかし幸か不幸か、この世界の支配者は人ではなかった。ジェイル・スカリエッティが全霊を以ってしても、追い縋ることすら出来ない神が居たのだ。

 それを知った時の感情を、言葉に表現することは不可能だろう。矮小に過ぎない自身の製作者たちが、無限の欲望に求めたもの。あの神を追い落とす事だと知って、ああ然りと歓喜を覚えた。

 

 己よりも矮小な老害の指示を受ける立場は気に入らないが、大目標として目指すべき到達地点は実に良い。神を殺せる者を生み出す。そう望まれたのならそれを作ろう。

 いいやそうではない。己が作りたいのだ、作らせてくれ。片手間に作った多くの作品が壊される中、狂気の笑みと共に彼の心はそれを望んだ。己の技術で、神を超えてみせるのだと。

 

 神を殺せる者を生み出す。その為に必要なのは何か。考えるまでもない。何もかもが足りていない。狂気に歪みながらも優れた知性は、即座にそう解答する。

 足りないならば揃えれば良い。何を揃えれば良いか分からないなら、分かる様になれば良い。その為に知識を集めた。その為ならば、何でもした。あらゆる外道を良しとして、至る事だけを求め続けた。

 

 神とは何か。其は流れ出すモノ。全次元世界と言う強大な身体に、単一個人の自我を持つモノ。世界のあらゆる事象は、全てが神の体内で起きている事でしかない。

 神を殺せるモノとは何か。それは世界全てを滅ぼせるモノ。全次元世界と対抗できる存在規模と、一惑星系程度ならば腕の一振りで消し飛ばせる力。最低限、その位はなければ話にならない。

 

 現代技術では不可能だ。ミッドチルダの科学力でも対抗出来ない。ならば過去にそれを求めよう。其処に神が居るだから、神が居た世界にならば可能性の階は確かにある。

 神座世界の知識を手に入れよう。御門と言う当時を生きた者も居たから、その知識を先ず求めた。だがしかし、それでは足りない。当然だ。それで足りると言うのなら、過去の者らが神殺しを果たしている。

 

 前提としてその知識を得て、実際に何処まで出来るか実験する。そうしてその先を夢想する。其処から先へと、積み重ねるのだ。

 彼は貪欲に、彼は執念を以って、只管にその境地を目指し続けた。元より遊び半分の片手間でさえ、一流域の研究者を追い抜ける様な才気の塊。そんな男が必死になったのだ。当然、その成果は過去の如何なるモノをも超える。

 

 そうした果てに彼は、遂に作り上げた。神の階へと、手を届かせるモノ達を。反天使と呼ばれる彼ら。古き世の模倣を以って作られた試作品たちの、真に恐るべきは単純な実力ではない。

 大罪。此処ではない何処かへと接続する技術。夢界。此処にはない場所を創造する技術。それ自体は模倣の組み合わせ。だとしても彼は神座と言う機構を一切関わらせずに、それでいて覇道の神を倒し得る存在を作り上げたのだ。それを異常と言わずに、何が異常と言えるのか。

 

 だが、発展には犠牲が付き物だ。余りにも現代技術を置き去りにした彼の研究。それが途上で踏み潰した犠牲の総数は、最早天文学的な数字であろう。

 そしてそれでもまだ足りない。彼の本命は模倣の組み合わせでしかない反天使ではなく、それらで技術を磨いた後に至る自分だけの最高傑作。なればこそ、彼はまだ犠牲を増やす。

 

 

――君の存在価値を教えてあげよう。

 

 

 そんな狂人の研究所。其処でエリオは生を受けた。スカリエッティが作り上げた研究材料用のクローン。その一つが、エリオであった。

 彼のオリジナルが選ばれた理由は単純。秘密裡に採取されていたクラナガンにある全市民の遺伝子データ。その中で最も適正があったのが、エリオ・モンディアルと言う乳児であったから――――だから、モンディアル一家は殺された。

 

 神とは魂によって織りなすモノ。魔力素とは、神の断片。故に魔法とは、魂が無ければ上手く使えない技術である。しかし、模造品にはその魂が存在しない。人に魂は作れない。

 ならばどうするか、簡単な話だ。足りないならば、別の場所から付け加えてやれば良い。作り物のエリオに中身を注ぐ為、本物のエリオを先ず殺そう。肉親の魂ならば定着率も高いだろうから、彼に両親を殺させよう。そうすれば、そうするだけで、質が上がる。

 

 そうして、エリオ・モンディアルは作られた。薬物によって強制的に成長させられ培養層から出た後、初めて彼が為した事が自分殺しと親殺し。

 善悪を知らず、そも自我もなく、彼は言われるがままに行った。泣き喚く赤子(オノレ)を縊り殺し、悍ましいと震えて縋る父母を斬り殺し、そうして彼は自己を得た。

 

 自己を得た瞬間に記憶が流れ込む。オリジナルとその父母の記憶が、幸福に満ちた日々の情景が、それを己で奪った事を理解して、エリオは恐怖と絶望の産声を上げたのだ。

 

 

――知りたがっていただろう? 見つけたがっていただろう?

 

 

 その事象は想定外。しかし理屈を付けられた。再現も出来るであろうと、故にスカリエッティにしては都合の良い想定外。

 予定していたよりも良品として作られたエリオを、唯の実験体として使い潰すのは惜しい。しかしまだ、執着する程の希少さでもない。ならばもう少し、その質を高めてみよう。

 

 そう考えたスカリエッティは、エリオに幾つか毒を吹き込む。嗤いながら言葉の毒を、吹き込んだ後に彼を戦場へと放り込んだ。

 奪ったならば、その価値を示さねばならない。失ったのなら、それ以上の結果がないといけない。そう囁いた彼を戦乱の地へ、極限の状況下で魂を磨き上げる事に期待した。

 

 そして狂人の期待通りに、エリオは確かに生き続けた。何もかもを壊したから、こんな自分が生きていてはいけない。それでも何もかもを奪ったから、何も残さず死んではいけない。だからエリオは生き続けた。

 自分が生きる意味を探した。生きていても良い理由を求めた。犠牲になった人達に、誇れる何かが欲しかった。衣食住すら持たされずに放り込まれた戦場で、文字通り身一つで生き続けた。泥に塗れて血肉を喰らって、それでも自死だけは選べない。

 

 そうして半年程、彼は管理外世界を一人生き続けた。多くを奪いながらに、己の意味を求め続けた。その姿に規定値を満たした。そう判断したスカリエッティは、彼の身体を回収した。

 回収したエリオの身体を、次なる実験に用いる。作り物であったとしても、魂の強度は間違いなく最上級。そう断じる事が出来る質を手にしていたからこそ、これより行う実験には相応しい。

 

 リンカーコア移植実験。数度の被験者から必要な情報は既に得ている。故にその時求めたのは、一体どれ程ならば安定して移植可能か。

 

 魔導核(リンカーコア)とは、魂の切れ端。肉体的部位でありながら、人の魂が宿る場所。そうであるが為に、その真価を発揮する為には強靭な魂が必要となる。

 非魔導師では、たった一つの移植にも耐えられない。一般的な術者でも、それはそう変わらない。一部エースストライカーでも、安定して機能するのは二つ三つが限界だ。

 

 だが、このエリオならばきっと耐えられる。このエリオでも駄目ならば、それは他の誰でも駄目だろう。

 そうなる様に成長させた個体だから、それでも壊れたら新しい物を作れば良いだけだから、最高傑作の試作品として彼が最も適切だったのだ。

 

 

――ほら、見てごらん。アレが君の価値だ。

 

 

 先ず最初に三つ増やした。想定通り、エリオは問題なく安定していた。故に次には十と増やしてみた。術後暫くは流れ込む記憶に戸惑っていたが、それでも一日で安定した。

 故に次からは少しずつ、数を増やしてみる事にした。求めたのは許容限界地点であるから、日を追うごとに移植の量を増やしていった。しかし破綻はあっさりと、結果は予測数値以下だった。

 

 総量が五十を超えた時点で、エリオの発言は支離滅裂とし始めた。自己を定義する事が困難になったのだろう。己が誰か分からずに、日に何度も何度も吐瀉と吐血を繰り返した。

 三桁に迫る辺りで、最早寝たきりの病人だ。一日の半分以上は意識を保てず、記憶と言う夢の中。植物人間の如く、反応すらも真面にない。そうなった時点で、スカリエッティは見切りを付けた。

 

 如何に優れた個体であれ、所詮は複製品。中身が薄く軽かったのだろう。まだ研磨が不足していて、この方式に耐えられる程ではなかった。

 だがしかし、どの道この方法ではこれが限界。如何に模造品であれ、相応の質は確かにあった。それでもこの様にしかならぬのだから、本命には決して使えない。

 

 そう見切りを付けた狂人は、ふと一つ思い付いた。もう少し研磨すれば、使える限界点が此処。だとするならば、物理的な許容限界点は何処だろうか。

 思い付いてしまったのだから、やってみないという選択肢などは何処にもない。それが無限の欲望なれば、その衝動に抗おうとも思わずに、彼はやってみる事にした。

 

 何百何千何万と、多くの人を切り開いた。命を奪って集めた魔導核。その総数は、二十七万四千八人。それを肉塊と化したエリオの身体に移植した。

 そうして物理的に崩壊を始めた肉塊を資料として保管して、其処で実験は一先ず終わりだ。エリオ・モンディアルと言う残骸は、そうして無価値に終わる筈だった。

 

 

――魔刃は神の卵を孵化させる為だけに存在している。

 

 

 エリオの実験が失敗に終わって、スカリエッティは発想の転換を求めた。そんな折り、実にタイミング良く一つの事件が巻き起こる。

 第九十七管理外世界、地球。其処で闇の書の残骸が引き起こした、桃源郷事変。人の意志を眠らせて、繋ぎ合わせて力とする。盧生と言う存在と、彼女が生み出した廃神たち。

 

 間違いなく神格級。数の極みと言う事象を目にして、この狂人が触発されない筈がない。彼はその技術を余す所なく解析すると、己で作り上げる事を選んだ。

 とは言え、流石の彼にも億単位の実験体は用意出来ない。ならばそれに並ぶ質を、数が減ろうと質が変わらないなら問題ない。そう判断して、ジェイル・スカリエッティは手を出した。

 

 それは管理局の英雄たち。大天魔との戦いの中、彼らの魔力に汚染されてしまった者ら。歪み者と称される、何かと引き換えに強大な力を振るえる魔導師たち。

 その中でも、果てに至ってしまった残骸。異能を振るう為に支払い続けて、その代価に自己さえ失ってしまった者。この地を守るために命を捧げて、死ねなくなってしまった者ら。

 

 スカリエッティは、先ず大型のプレス機を用意した。底がプールの如くになったその中に、彼は躊躇いもせずに古き英雄たちを纏めて入れた。

 そうして、無慈悲に動かす。潰されていく残骸を、別の機械で混ぜ合わせた。交じり合った血肉はそれでも生きていた。彼らは死ねないからこそ、そんな様になっても生きてしまった。

 

 死力を賭して戦ったのに、必死になって守ったのに、果てに得たのがそんな末路。当然の如く、肉塊は怨嗟と憤怒と憎悪を抱く。一つに繋がった彼らの夢が、救いなき奈落に変わる。

 そんな奈落にエリオを繋いだ。彼らと違い、如何なる状況でも生存出来る訳ではない。だから異なる方法で接続させたその結果、起きた事象に狂人は嗤う。肉塊でしかなかった彼が、再び意志を手にして立ち上がったのだ。

 

 

――罪悪の王は次代の神を育て、その糧になるべき存在。詰まりは踏み台だ。

 

 

 怨嗟と憎悪の世界に、魔王と言う名の廃神が生まれた。ベリアル。ベルゼバブ。アスタロス。ルシファー。英雄たちは絶望の中で、彼ら悪魔の王を夢に見た。

 大罪を宿した肉体は、夢の中から彼らを呼び起こす為の器と成れる。無価値な残骸でしかなかったエリオは、無価値を冠するベリアルの器となった。そうして彼は悪魔の傀儡として、この地に蘇ったのである。

 

 予想に反する結果に歓喜して、スカリエッティは彼らを解析・制御した。同じ手法をなぞる様に、魔群、魔鏡と作り上げた。

 しかし、結果はやはり予測以下。偶然の産物である無価値の刃、魔刃が最も強かった。他の二つでは何をしようと、エリオ・モンディアルに打ち勝てなかった。

 

 再現出来ない技術など、幸運の女神が与えた偶然と何が違う。そんな貰い物が己の成果であるのだと、どうして誇らしく語れよう。

 蘇ったエリオ・モンディアルは、故に最悪の欠陥品。だから彼への興味は薄れて、だがしかしその性能は絶大だ。だからジェイル・スカリエッティは、エリオに異なる役目を与えた。

 

 

――君が殺して来た命も、君が食らって来た魂も、君が作り上げ続けた悲劇も、全てがあの子の為にある。

 

 

 エリオの性質は知っていたから、沢山沢山殺させた。多くの人に恨まれる様に、そうすれば優しい彼は引き返せない。

 奪った命に意味を求めて、殺した命に価値を求めて、無価値である事が許せない。そうなるのだと予測出来たから、そうなる様に育て上げた。

 

 そして同時に教え込む。彼の生まれた価値は、次代の神を育てる為に在ったのだと。神の子に執着する様に、神の子だけを意識する様に、スカリエッティはエリオを歪めた。

 万が一にも、エリオに神殺しをされたくはなかったのだ。再現出来ない欠陥品で為せてしまう事ならば、所詮はその程度の事でしかない。自分の追い求めた事がその程度に堕ちるなど、スカリエッティには決して許せない事だから。

 

 そうとも、神殺し(ソレ)が出来てしまうからこそ、エリオ・モンディアルとは最低最悪の欠陥品であるのだ。

 

 

――良かったね、エリオ。君は新世界の礎になる。これ以上はない価値だとは思えないかね? 

 

 

 だから見せた。必ず神に成れる者の姿を。今在る世界を治める神にして、今も死に瀕している天魔・夜刀。その半身と言うべき少年の日常を、エリオに見せ付け続けた。

 だから強要した。画面の向こうに映る景色とは、真逆の日々を体験させた。羨みながらも憎む様に、それしか考えられなくなる様に、エリオ・モンディアルを泥の底へと突き落とした。

 

 彼が皆に囲まれていた日。エリオは誰もいない荒野で一人佇んでいた。

 彼が見ず知らずの誰かを助けた日。エリオは見ず知らずの誰かを殺した。

 彼が何の変哲もない一家を笑顔に変えた日。エリオは何の変哲もない一家の笑顔を奪い去った。

 彼が優しい両親から「誕生日おめでとう」と祝われた日。エリオは同じ実験体から「生まれて来なければ良かったのに」と呪われた。

 

 

――真実を知れば、皆が喝采を以って称えるであろう。君が死んでくれれば、それで世界は救われるのだからっ!!

 

 

 地獄の底で生まれた。頼れる人なんて居なかった。沢山沢山沢山奪って、それが悪いことなのだと知っていた。

 何時も死にたいと願っている。でも死ねないと思っていた。背負った全てを無価値に変えてしまう事を、優しさ故に選べなかった。

 

 笑顔で笑う少年の姿が、脳裏にこびり付いて離れない。対を為すと言う己と彼の間にある差が、どうしようもなく妬ましい。

 どうして自分がと言う思いと共に、笑う彼の姿に怒りを抱く。憎悪と共に思ったのは、何故こんなに弱いのか。そんな自他に向ける憤怒であった。

 

 

――これが、君が探し続けていた君の価値だ。

 

 

 誰にも頼れないから、誰にも頼らずに済むように、誰よりも強くなりたかった。そうなればきっと、こんなにも苦しい想いはしない筈なのだ。

 だから許せなかった。己の生きる意味と示された少年が、余りに未熟だったことが。柔肌を撫でただけで砕け散りそうな、それが己の価値だと言われた様に思えたから。

 

 けれど、そんな中途半端な在り方だったからだろう。決して負けない筈の性能があったのに、エリオ・モンディアルは敗北した。

 瞳の中に輝く星を宿した少年。トーマ・ナカジマと言う神の半身が見せたのは、特別な異能の覚醒などではなく。仲間との絆。そんなエリオでは決して手に入れられない物に、彼は敗れたのだ。

 

 

――これが、お前が馬鹿にした。僕らの(つよさ)だ!!

 

 

 大地の底へと墜ちる中、今も覚えているその姿。瞳に宿った色が確かな怒りなら、きっとエリオは奮起する事が出来ただろう。

 怒りを見せる彼へと更なる憤怒を抱いて、もっと奪ってやるのだと。だが其処で、トーマが見せた色は違った。彼の瞳は、確かな哀れみを抱いていたのだ。

 

 

――何となく、分かったよ。……お前はお前で、可哀想な奴だったんだな。エリオ。

 

 

 小さな声であったけど、改造された身体は捉える。宿敵は彼を憐れんでいた。其処に憎悪がなかった訳ではないけれど、それ以上に憐憫の情があった。蔑む様な色はなく、許す様な色が其処にはあった。

 

 エリオは焼いたのに――スカリエッティの命令であったとしても、確かに彼の故郷であったヴァイセンを焼いたのはエリオ・モンディアルだ。

 エリオは焼いたのに――行き場を失くしたトーマを養子として、引き取ったクイント・ナカジマ。彼女の形見を目の前で壊したのに、それでもトーマは許したのだ。

 

 可哀そうな奴だから仕方がないと、そう納得されてしまった。対となる存在から哀れみを向けられてしまう程、その身は零落れてしまっていた。

 そう理解した瞬間に、乾いた嗤いが零れた。神の子に憎悪を教え込み、彼の踏み台と成り果てる。そんな役割すら果たせない程に、無価値であったと自覚してしまった。

 

 

(ああ、何だ。これは本当に、無価値なゴミじゃないか)

 

 

 涙は流れない。唯降り頻る雨の中で、輝く光を地獄の底から見上げている。何時だって、何時だって、何時だって、見上げる事しか出来ない。

 結局、結論はそんなもの。神の敵にも成れないゴミが、其処に居たと言うだけの話。あの日にエリオが知った現実は、そんなどうしようもない物だった。

 

 

 

 それから後、彼は降り頻る雨の中を歩き続けた。無価値なゴミであったのだと、自覚した彼に何かを為そうと言う気力は残っていなかった。

 どうせ唯のゴミだから、野垂れ死のうと構いはしない。路上のゴミが一つと増えるだけなのだと、死んだ瞳でそう思う。或いは、そんなことすら思考出来てなかっただろうか。

 

 何故に歩いているのか、何処へ向かっているのか、何も考えずに浮浪する。そんな無価値な残骸は――その日、運命に出逢った。

 

 

――あの、風邪、引いちゃいますよ?

 

 

 何処かおっかなびっくりと、声を掛けて来た桃色の幼子。傍らに伴う白き竜が血に濡れた服を甘噛みして、エリオのことを呼び止める。

 心が折れて雨に濡れて、振り解く声に力はない。受け入れるなんて不可能で、それでも強く拒絶する程の意欲もない。そんなエリオはだからこそ、妙に意固地な少女に押された。

 

 

――放ってなんて、おけないです。……とても、寂しそうだから。

 

 

 優しい声だった。温かい掌だった。誰かを思いやる言葉を、掛けられたのは初めてだった。

 何時も優しい声を聴くのは、エリオじゃなかった。何時だって温かい掌に包まれるのは、エリオじゃなかった。

 

 無価値なゴミには不釣り合いな程に、初めて触れたその日溜まりは、とてもとても温かだった。

 

 

――はい。これで、私達は友達です。……よろしくね、エリオ君。

 

 

 だから拒絶なんて出来なくて、小さなその手を握り返した。互いに名を交わし合って、微笑む彼女に心を打たれた。

 心折れたあの日に確かに、エリオ・モンディアルは知ったのだ。絶対に守らなくてはならない、優しい日溜まりが在る事を。

 

 理由を見付けた。だから彼は選び取る。このままジェイル・スカリエッティに従っていてはいけないと。

 あの狂人は必ずや、多くの者を傷付ける。この優しい少女とて、巻き込まれてしまうであろう。予想するに容易い結果だ。

 

 故にエリオは身を売った。最高評議会を探し出し、その御前で頭を垂れた。あの狂人でもそう簡単には手を出せない、そんな後ろ盾を求めたのだ。

 そうして今、エリオは彼らの直轄要員と化している。議会の意志を代弁する処刑人として、嘗ての様な薄暗い仕事もしている。それでも、そんな今に、確かに想う事がある。

 

 

「エリオ君!」

 

 

 クラナガンにある一軒家。公式な立場を得てから、購入したセーフハウス。身を休める為だけのその場所から、聞こえる声に相好を崩す。

 主が居ない間に、掃除をしてくれたのだろう。三角巾を頭に巻いた少女は手を振りながら近付いて来て、その後を追う白き飛竜は咥えたバケツの重さによろめいている。

 

 そんな日常の光景。罪を積み重ねた自分とは、無縁だと思っていた光景。だと言うのにその日溜まりは、お構いなしに小さなその手を伸ばして来る。

 水仕事に汚れているが、それでもとても綺麗な小さな手。伸ばして来るその掌を見て一瞬、エリオは握り返す事を躊躇った。握り潰した少女の血が、こびり付いている様に思えたから。

 

 それでも、そんな事はお構いなしに、彼女は掴み取って来る。触れ合う僅かな温かさに、全く仕方がないなと苦笑した。

 

 

「お帰りなさい。エリオ君」

 

 

 微笑む少女の笑顔を前に、エリオは胸に誓う。何度も何度も触れ合う度に、その想いを新たにしている。

 この温かな日溜まりを、失ってはならない。この優しい少女は、幸福でなければいけない。きっとその為に、エリオ・モンディアルは生まれて来たのだ。

 

 世界は滅びを間近としている。世界を構築する神の命が、あと二年とは持たないのだ。だからこそ、もう間もなくこの世は滅び去る。

 そんな窮地を前にして、神を殺せる悪魔が此処に居る理由。それはきっと、失ってはいけない輝きを守る為に。彼女が生きて行ける明日を切り開く為、彼は居るのだ。

 

 

「ああ、ただいま。キャロ」

 

 

 ずっと探していた理由。守るべき宝石の輝きを知る彼は、きっと誰にも負けないだろう。愛しい小さなその掌を、握り返して悪魔は微笑んだ。

 

 

 

 

 

 全てを無価値に変えてしまう悪魔は、たった一つの大切な者の為、何もかもを無価値にしていく。多くを奪って、誰もを殺して、全てを台無しにして――これはそんな、無価値な悪魔の物語。

 

 

 

 

 




さよなら、アギト。この世界線は原作時空より殺意高いので、早期に助けが来ないとマモレナカッタされます。
ルーテシアとゼストは光の道を歩いていて出逢う切っ掛けがなく、エリオ君は暴走しなかったので罰則が無くて助けに来る理由がなかった。その結果、首から上だけ試験管でぷかぷかしてました。




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第二話 日溜り キャロ・グランガイツ

日常回。今回は誰も死なない。


1.

 幾度踏み躙られようと、大地に咲き誇る花はある。何度でも芽吹き、何度でも生い立ち、何度でも開花する。失われる物があろうとも、無価値になるのではないのだと。

 ミッドチルダと言う惑星も、幾度も踏み躙られて来た。強大な怪物たちの襲来に、大地は切り裂かれ、天空は震えた。幾つもの船が星海の藻屑に変わり、この町並みは一体何度崩壊した事か。

 

 それでも、この今日もクラナガンと言う町並みは此処にある。その景色は然したる変化を其処に見せずに、人々は刹那(イマ)を謳歌している。

 嘗てエリオはこの光景を、まるで油虫の様な生き汚さだと嗤った。醜悪な汚物を糧として、偽りの平穏を見せ続ける。そういう無価値な物であると、斜に構えて嗤っていた。

 

 今のエリオは、さてどうだろうか。目に映る美麗さを、素直に受け止められる程に悟っている訳ではない。けれど裏側が汚いからと、それで全てを否定する気にはもうなれない。汚い肥溜めを糧とする世界にも、綺麗な花は咲くのだと知ったから。

 何とも自分勝手な掌返しだ。其処にある現実は変わらないのに、己の周りに日溜りがある。それだけでこうも評価が甘くなるのだから、結局己の憎悪などはその程度の物だったのかもしれない。傍らにいる少女に気付かれぬ様に、彼は小さく自嘲した。

 

 

「う~ん。どっちにしようかなぁ?」

 

 

 桃色の髪をした少女が、生鮮品の棚を前にして小首を傾げる。クラナガンの住人御用達であるスーパーの店内で、思い悩むは今日の献立。

 小さな彼女の身体に比すれば、大きく見えてしまう黒い籠。相応の重さがあるそれも、エリオにしてみれば空気の如くだ。さり気なく入れやすい位置を維持しながら、エリオは笑みの種類を変える。

 

 

「ねぇ、エリオ君。エリオ君はお魚とお肉、どっちが好き?」

 

「キャロが作る物なら、どっちも好きだよ」

 

 

 二つのパックを両手にとって、並べて問い掛けるキャロ・グランガイツ。そんな少女の問い掛けに、エリオは微笑んだまま言葉を返す。

 正直に言って、彼は食事と言う行為に意義を見出してはいない。栄養の補給が出来るなら、それこそ栄養剤を点滴するだけでも満足する様な男である。

 

 事実、彼は何時も錠剤と水だけで生活していた。その方が効率的だと真顔で語る。

 そんなエリオを叱り飛ばして、それでも改善しない彼の為に、キャロが食事の用意をすることになったのは果たして何時からだったか。

 

 もう随分と手馴れてしまった。そんな少女は作り甲斐のない少年の言葉に、頬を膨らませて不満を零した。

 

 

「む~、そういうのが一番困るんだけど」

 

 

 調理をする人間にとって、一番困るのがフリーハンドを与えられることだ。何でも良いと言われたら、何を出そうか悩んでしまう。

 毎日毎日調理をしてると、発想が凝り固まってくる物だ。一体何を作ろうかと、中々思い浮かばなくなって来る。相手の気分にあった物を作れるだろうかと、そんな不安もあるにはあるのだ。

 

 そんな風に膨れ上がるキャロの姿に、場違いと分かっていても笑みが零れる。彼女が日々を過ごす姿を見ているだけで、優しい気持ちが湧いてくる。

 だから、それだけで胸が一杯になる。それだけでも、分不相応だと知っている。そんなエリオがこれ以上、希望を出す事など出来はしない。だから望みを口にするのは、彼ではなくて小さな竜だ。

 

 

「きゅくる~」

 

「ふふ。どうやら、フリードは肉の方が食べたいようだよ?」

 

 

 白き飛竜が一つ鳴く。言葉も伝わらない相手であるのに、そんなことはまるで意にも介さずエリオは読み解く。

 目は口程に物を言う。所作や動作だけで、相手の意図を読み解く事。それは戦においても重要な事であり、故にエリオ・モンディアルは慣れている。彼にとってすれば、フリードの意図はとても分かりやすい。

 

 

「え? そうなの、フリード」

 

「きゅくるー!」

 

 

 飼い主である彼女の方が戸惑う程。白竜に向かって問い掛けるキャロに、フリードは嬉しげな鳴き声で答えとした。

 

 

「エリオ君のご飯なのに、良いのかなぁ?」

 

「幸い、給金だけは良いからね。折角だし、キャロとフリードの分も買えば良い。君が手間じゃなければ、だけどさ」

 

「一人作るのも、二人作るのも、あんまり変わらないけど。……家で夜御飯、食べれるかなぁ? 残すとお母さんもるーちゃんも、すっごく怒るんだよね」

 

「きゅくるー!」

 

「キャロが食べれなかったら、その分までフリードが食べてくれるそうだ」

 

「えぇ、エリオ君、何で分かるの? と言うかフリード、食い意地張り過ぎだよ」

 

「きゅくるー」

 

 

 談笑を交わしながら、必要な物を買い揃える。会計を終えた後に袋の中へと、自然な動作で小分けしていく。

 全てを一人で持って歩けば、優しい少女は気にしてしまう。それを知っているからこそ、小さな袋に重くない物だけを入れておく。そうして意識させないまま、エリオは残り全てを手に持ち店を出た。

 

 

 

 道路側に陣取りながら、小さな少女に歩を合わせる。軽い物ばかりであるが、余りに度が過ぎれば気付かれる。そうであるが故、多少重く感じられる程度の荷物。

 キャロはよいしょよいしょと声掛けしながら、小さな足を細かく動かす。幾ら歩を合わせていようと、足の長さがそもそも違う。だからキャロは遅れない様にと、少し急いで歩くのだ。

 

 エリオとしてはもう少し歩を遅らせても良いのだが、それもやはりキャロが気にしてしまう。だから彼女が頑張れば、追い付ける程度の速度でゆるりと進む。

 そんな風に歩いていると、偶に思うことがある。歩幅の差を考えていると、どうしても気にしてしまうことがある。本当ならばきっと、自分と彼女の足の長さは、こんなにも違いはしなかったのだと。

 

 エリオ・モンディアルは、違法薬物である程度の成長をさせられている。生体ポットから取り出されたその瞬間から、既に肉体年齢的には六歳となっていた。

 あの日から、凡そ十年。生誕から、十年しか経っていない。それでも肉体年齢的には、十五・六と言ったところ。もしも当たり前の誕生をしていたならば、或いは彼女の方が年上だったかもしれないのだ。

 

 

〈もしもそうだったのならば、少しは釣り合いが取れたんじゃないのか。なんて、未練だなぁ、幼児性愛者(エリオ)

 

(黙ってろ、気狂い悪魔(ナハト)。君と話す気分じゃない)

 

〈はいはい、仰せのままにさ。俺の相棒(エリオ)

 

 

 ケラケラとせせら笑う声に、眉間の皺が深くなる。他者を蔑み愉悦に浸る寄生虫を黙らせて、エリオは一つ息を吐いた。

 そして、僅かに視線を向ける。数日前から感じる視線は、今も変わらず。敵意がないからこそ、その制服が見知った物であるからこそ、彼は敢えて見逃していた。

 

 さて、アレらは何を狙っているのか。自然と冷たくなる思考を、被りを振って振り払う。折角、彼女と居られる時間だ。そんなどうでもいいことで、無駄にしたくなどはない。

 そんな風に意識を切り替えるエリオの顔を、半歩後ろを歩くキャロはちらちらと覗き見る。彼の暗い思考に気付いた、と言う訳ではないだろう。そうした相手を案じる色はない。

 

 寧ろ己に不安を抱いているような、或いは戸惑っているかのような素振り。何か言いたい事があるのだと、エリオは察しながら踏み込まない。

 

 

「あ、それとね。エリオ君」

 

「何だい、キャロ?」

 

「え、えっと、此処で言うべき事じゃない、かもしれないんだけど」

 

「気にする必要はないさ。少なくとも、僕は気にしない」

 

 

 拙い語彙で、言葉を選びながらに口を開く。言い辛い事を口にする。誰の助けもなく、自分の意志で。

 そんな小さな積み重ねが、何かが出来たと言う結果が、自分に自信を持てない彼女にとってはとても大切なのだと知っている。だから共に寄り添いながら、エリオは続く言葉を唯待った。

 

 

「あのね、明日から、管理局に正式に、所属する事になったんだ」

 

「ああ、配属先が決まったんだ。おめでとう。それにしても、卒業から随分と時間が掛かったね」

 

「ありがとう。……それでね。配属先が、その、部隊寮がある場所で、明日から暫く、来れそうにないんだ」

 

 

 そんな彼女の言葉に僅か、進める足の動きが止まった。暫く逢えないと、唯それだけで震えて来る。本当に弱くなってしまったと、自嘲する余裕も直ぐには出ない。

 それでも、せめて弱さは表に出さない。不審に思われない程度の浅い呼吸で、エリオは調子を取り戻す。表層だけでも平然と、彼女を困らせてしまうのは決して本意ではないのだから。

 

 キャロ・グランガイツと言う少女は、竜世界アルザスの生き残りだ。闇の書を巡る事件において滅んだ彼の地、救援に赴いたゼスト・グランガイツが拾った唯一の生存者。

 彼女が管理局への所属を志す理由は、その過去に起因する。しかし、それに縛られていると言う訳ではない。この心優しい少女は其処に嘆きを抱いていても、恨みなんて抱いていない。

 

 唯、知りたいのだと思っている。其処に何があったかを。今も時折見る悪夢、その原因に向き合いたいのだと思っている。彼女には、彼女を愛してくれる人達が居たから。

 理不尽が世には在って、ならば守りたいとも思えている。彼女を育てた養父と多くの陸士たちが、少女にその背を見せたのだ。戦士の背を見て育った彼女は、同じようにと憧れている。

 

 だからこそ、キャロと言う少女は管理局を志望する。クラナガンに多くある訓練校の一つに所属していた。

 養父母の教えと召喚と言う希少な才能。恵まれていた彼女は血の繋がらない姉と共に訓練校を飛び級して、先月には卒業した。

 

 無論、主席と言う訳ではない。それでも年齢を考えれば、破格と言えるその評価。そんな優秀な少女はしかし、暫くの間所属が決定しなかった。

 裏でどのようなパワーゲームが行われたのか知らないが、少なくとも己と同じ場所には来ない。ならば何処に行くのだとしても、寿ぐべきだろうとエリオは思う。だからもう一度おめでとうと口にして、彼は自然な素振りで問い掛けた。

 

 

「配属部署の名前、聞いても平気かな?」

 

「え、っと、大丈夫、だと思う。エリオ君も、局員だし。……古代遺産管理部の、機動六課って言うんだけど、知ってる?」

 

「…………………ああ、良く知ってるよ」

 

 

 機動六課。それは管理局が誇る二大英雄の一人が設立し、もう一人が属する部隊。

 “万象流転の救い手”クロノ・ハラオウン提督が提唱し、カリム・グラシア枢機卿とレジアス・ゲイズ中将が後援している精鋭たち。

 保有魔力制限を、リミッターを付けると言う裏技をしてまで回避した。そうしてエースストライカーを一点へと集めた目的は、最高評議会の打倒にある。

 

 其処までは、最高評議会側であるエリオも知っている。当然彼の主らも知っていて、それでも見逃しているのは都合が良い為。

 戦意高揚の為のプロパガンダ。英雄を集めた場所と言う、次を磨き上げるには最も適した場所。正道を行く彼らの存在は、確かな輝きに満ちている。

 

 見逃す所か、裏で支援までしている程だ。それ程に、脳髄だけで生き延びている老害たちにとって、重要な集団であると言える。

 機動六課を含めた古代遺産管理部の、正式な立ち上げは明日以降。初期から所属する要員として、キャロは選ばれた。それ故の監視かと、エリオは一人納得した。

 

 

「その、ね。其処って、精鋭部隊、らしくて。正直、付いて行けるのかなぁって、ちょっと不安があって」

 

 

 言い辛いことが暫く一緒に入れない事なら、キャロが不安に思うはもう一つ。名の知れたエースが多く属する機動六課に、追い付いていけるであろうかと言うこと。

 

 二大英雄が一人。次元世界最高の魔導師。高町なのは一等空尉。

 歴代最高の犯罪検挙率を誇る、最も名の知れた異能者。アリサ・バニングス執務官。

 知名度と言う点ではその両者には譲るが、彼女らに比する実力を持つと言われる医務官。月村すずか陸曹。

 

 同じく二大英雄が一人であるクロノ・ハラオウンを部門長に、高町なのはに敗れるまでは管理世界最強の称号を保持していたゼスト・グランガイツを補佐と付ける。

 海。陸。空。あらゆる派閥から最高峰の人材を、集めきった古代遺産管理部。その実働部隊である五課までとは異なって、機動六課は正しく最精鋭とも呼べる場所なのだ。

 

 そんな精鋭の中でも、更に精鋭と言うべき部隊。其処に招聘されたと聞いて、誇りに思うよりも不安に思ってしまうのがキャロである。

 実力が不安だから、付いて行けるだなんて自信はない。父がナンバーツーだから、その関係で配属が決まったのではないか。そんな風にも思ってしまう。そうであるからこその、不安の発露。

 

 

「大丈夫だよ。キャロならきっと大丈夫」

 

 

 己が為すべきは何か。悩むまでもなく、答えを出す。口に語るべきなのは、何より大切な少女の不安を拭う音。

 振り返って立ち止まり、彼女の手を片手に取る。軽く手を開かせて、指でなぞるは掌の傷痕。小さな手には相応しくない、豆や刃傷に触れて語る。

 

 

「だって僕は知っている。キャロがとても頑張って来たこと。だからきっと、君なら大丈夫」

 

「エリオ君」

 

 

 その傷痕は、彼女が積み重ねて来た日々の証だ。目指すべき夢の為に、直向きに進み続けてきたその轍。

 養父に学び、養母に学び、そしてエリオにも学んだ。積み重ねて来たその証が、どうして輝かしい星に届かないのだと言えようか。

 

 確かに、養父がゼストだから、そういう事もあるだろう。或いは、()()()()()()()()()()と親しいから、そういう理由もあるだろう。

 だとしても、その日々は否定させない。ならばこそ、目に物を見せてやれば良い。無価値だなんて嗤わせない。嗤う奴が居るならば、エリオが全て灰にする。

 

 片膝を付いて、視線を合わせたままに語る。見詰める真摯な瞳を前に、キャロは僅か頬を染める。そんな少女に微笑んで、エリオは此処に一つを誓った。

 

 

「それでも不安なら、そうだね。約束する」

 

 

 本当は、自分なんて居ない方が良いと知っている。はにかむ少女を想うなら、一刻も早く離れるべきだと分かっている。

 エリオはどうしようもない罪人だ。殺して殺して殺し続けて、それしか出来ない無価値な悪魔だ。日溜りの傍なんて、分不相応に決まっている。

 

 けれどほんの少しの弱さが故、手放したくないと思ってしまう。触れているこの手が温かいから、抱き締めたままで居たいのだと。

 そんな弱さを正当化する理由もある。世界の寿命は後二年、もう長くは持たないから。この温かさを亡くさぬ為に、無価値なゴミにも価値がある。

 

 だから――――彼はこう語るのだ。

 

 

「もしもキャロに何かがあったら、何処に居たって駆け付けて、全部解決してみせる」

 

 

 真摯な瞳に射抜かれて、動揺していた桃色の少女。高鳴る鼓動を落ち着かせていた彼女は、語られた言葉を理解すると、耐えきれないと言わんばかりに吹き出した。

 

 

「くす。それじゃぁ、局員として失格だよ。エリオ君」

 

「どっちがだい?」

 

「両方とも。仕事があるのに駆け付けるエリオ君も、助けて貰わないといけない私も、それじゃぁ駄目駄目なんだって思う」

 

 

 笑う少女は鬱屈を吹き飛ばす。それでは駄目だろうと言う思いと、実力を保証してくれたと言う思い。二つの思いが其処にあるから、キャロの不安は消えていた。

 そんなキャロの顔を優しい瞳で見詰めながら、エリオは口に出した言葉を再度誓う。管理局員の職務に誇りを持とうとしているキャロには悪いが、エリオは誇りなんて欠片も持ってない。

 

 此処に居るのは、それが一番効率が良いから。目の前で笑う少女を守るため、此処が一番都合が良いから此処に居る。都合が悪くなるならば、こんな椅子など必要ない。

 己を縛る首輪に触れて、それでもエリオは揺らがない。そんな彼の目の前で、顔を上げた少女の心は真逆。何時も揺れてばかりいる。けれど芯は強いから、キャロはお道化る様に口にした。

 

 

「けど、そうだね。――もしもの時は、助けてね? エリオ君」

 

「ああ、勿論」

 

 

 冗談交じりのその言葉。確かに誓って、手を繋ぐ。彼女が遊びの積りであっても、彼にとっては絶対の約束。何があろうとも、決して破りはしないだろう。

 今度は歩を合わせるだけではなく、手を繋いだままに帰路を進む。暫く逢えないのだから、偶にはこういうのも良いだろうと。エリオの家までの距離は、然程近くはない。その筈なのに何故か、今日は何時もよりも短く感じてしまうのだった。

 

 

 

 

 

2.

 湾岸地区を埋め立てて、作り出された広大な基地施設。その中枢に位置する建物の中、数十人は余裕を持って入れるであろう大会議室。

 配備された長机には空席が多く、どころか僅か三名の人物しか其処には居ない。されどこの三名は、相応以上の立場を持つ者たち。本来ならば、揃う事など先ずはない面子である。

 

 上座から見て右手側、程近い席に腰を下ろしているのは金髪の女性。聖王教会式の法衣に身を包んだ、如何にも貴族然とした気品ある淑女。名をカリム・グラシア。

 その対面である左手側に、どっしりと構えているのは髭を生やした中年男性。不摂生さを表す様に膨らんだ腹に、しかし瞳は強い意志でぎらついている男。名をレジアス・ゲイズ。

 

 一時は次期教皇の最有力候補であった枢機卿。時空管理局三大部門が一つである陸の長。肩書だけでも重鎮である彼らを差し置いて、若い男が上座に一人掛けている。

 長い黒髪を後頭部にて一つに束ねて、黒い印字が刻まれた白地の和装に身を包む。その上から将官用のコートを羽織った二十代の青年。歴代でも最年少の提督にして名高い英雄。名をクロノ・ハラオウンと言った。

 

 

「さて、特に何の問題もなく、無事に設立式典を執り行えました。本日より、我々は正式に動き出します。その前に、幾つか話を進めておこうと存じます」

 

 

 此処に在る彼らは、同じ目的を掲げる共犯者。守る為にと言う免罪符で、悪逆の限りを尽くす最高評議会。彼らを討つと誓い合った者たちだ。

 そして、その先までも共に目指す。此処に居る三者はそう契約し、協力し合って実働要員たちを集めた。古代遺産管理部。一つの部門を手中に収めて、その設立式典がつい先程に終わったのだ。

 

 だからこそ、重鎮である彼らが此処に居る。式典を終えて祝杯を。そんな語り合いをしている、と言う訳ではない。それにしては、余りにも青年に向ける視線は冷たかった。

 それも当然、彼らには僅かな懸念がある。鋭い視線と不機嫌さを隠さぬレジアスも、穏やかな笑みで本音を隠しているカリムも、先の式典内容に不満を持っている。彼らが事前に聞いていた内容と、クロノが語った言葉に差異があったのだ。

 

 

「待て、ハラオウン。貴様、先ずは説明をしろ。古代遺産管理局、だと? こっちは何も聞いていないぞ」

 

 

 古代遺産管理局。上層部から与えられた部門名ではなく、局と言う名を僭称した。管理局の局長であるのだと、クロノは多くの報道陣を前に宣言したのだ。

 何故に自分達にも黙って、そんな騙りをしたのか。レジアス・ゲイズは問い掛ける。騙ったと言う事実よりも、そちらの方が頭に来ている。そうと言わんばかりに、男は気炎を上げた。

 

 そんな強面の男を前にして、クロノはしかし動じない。何処か惚ける様に笑みを浮かべて、嘘吐きな英雄は余裕と共に嘯くのだ。

 

 

「ええ、少し度肝を抜いてやろうと思いまして。中々のサプライズでしたでしょう?」

 

「くすっ、確かに。とても驚かされました」

 

 

 クロノの言に微笑むカリムは、口元に手を当てながらに思考する。果たして彼は、どうして事前に語らなかったのかと。

 

 

「目的は宣戦布告。ですが、それは主ではないのでしょう。機動六課を意識させたかった。逆の立場である彼らを、安全に運用する為に。……私達にも話を通さなかったのは、それも見せ札とするためですか?」

 

「まさかそのような、ほんの少しの外連味ですよ。理由は、まぁ色々と、察して頂ければ幸いです」

 

「ふんっ。腹黒共が、下らん事をしおって」

 

 

 くすくすと、にやりと、笑い合っている若い男女。その姿を前に、レジアスは怒りを抑える。

 溜飲が下がったと言う訳ではないが、率直に言って嫌気が差した。身内同士で腹の読み合いなど、武骨な彼には負担が大き過ぎるのだ。

 

 これだから、頭の回転が速い奴は好かない。胸中で共犯者たちに対する私的な評価を何段階も下げながら、これだけはとレジアスは念を押す様に問い掛けた。

 

 

「だがな、ハラオウン。貴様、此処までやって勝算はあるのか?」

 

 

 鋭い目付きと共にレジアスが告げるのは、クロノの発言が呼び込むであろう危険に対して。懸念が生じるのも当然な程、彼の発言は大胆不敵に過ぎる物。

 

 

「古代遺産管理局の局長。自称とは言え、最高評議会は無視出来ないでしょう。事実として、これまで管理局に局長と言う役職はありませんでしたからね」

 

「向こうからすれば、喧嘩を売られた様な物だ。局長が居ないからこそ、こちらが局長になる。そう言っている訳だからな」

 

 

 未だ最高評議会は強大だ。その権勢は政治中枢の奥深くにまで根付いており、真っ当な手段で覆すなどは不可能に近い程。

 幾度も彼らは語り合い、今は不可能だと言う結論を何度も出した。賛同者や協力者の数が足りない。質も足りない。それでは覆せる筈がない。仮に覆せたとして、その時に生じる混乱は一体どれ程にミッドチルダを傷付けるかも読めはしない。

 だからこそ、彼らが出した結論が古代遺産管理部と機動六課。英雄によるプロパガンダを望んだ最高評議会に乗る形で、私兵を集めて力を蓄えようとする選択。此処に居る三者は、それに合意した筈だった。だと言うのに、挑発と言う危険を犯す。其処に勝算はあるのかと、レジアスは問うている。

 

 

「ええ、覚悟の上です。最高評議会は強大だ。それこそ、彼らの企みに乗る限り、覆せないと感じる程には。……だからこそ、博打を打ち、毒を飲もうと言うのです」

 

 

 機動六課は囮だ。その本命は、華々しい彼女らの影で行われるであろう暗闘。だが同時に、彼女ら自身もまた本命として動かせる様に手を打っておく。

 その内の一手がこの挑発。宣戦布告を行う事で、彼らの意識を己の挙動に惹き付ける。同時にこれは、民意を味方に付ける為のパフォーマンスも兼ねている。

 

 協力者たちに伝えなかったのは、あくまでもクロノの独断であると認識させるため。腹芸が得意なカリムはともかく、レジアスは内心が表情に出やすい。なればこそ、聞いていないと言う事実を他者に伝える広告塔としては最適だ。

 これ一つでは然したる効果があるとは思えないが、そんな物でもやらないよりはマシ。現状は甚だ不利なのだ。兎に角出来る事は全て、やっておかなくては勝ち目がない。故にクロノは、博打を打ち、毒を飲むと語っている。

 

 毒と博打。その二つの言葉を聞いて、男女は僅かに目を細める。その言葉が何を差しているのか、彼らにはあっさりと理解が出来た。

 

 

「ジェイル・スカリエッティ、か。奴は有能だが、間違いなく危険だぞ。入れた懐から食い荒らされることも、十二分にあり得るだろう」

 

 

 レジアスが警告するのは、古代遺産管理局に所属を表明した一人の研究者。管理局技術部門の頂点に立つ男で、事実多くの貢献を果たしている人物だが、黒い噂が絶えない狂人。

 ジェイル・スカリエッティ。定期的に思考捜査を受ける事を条件に、加入を許された研究者。彼は間違いなく、宿主を殺し尽くす病毒だ。それも並ぶものがない程に、最悪級の猛毒だろう。

 

 内に含んだ分かりやすい地雷。その毒を警戒するのがレジアスならば、カリムが気にしてしまうのはもう一つ。クロノが取った、博打に等しいその人事。

 

 

「それだけではありませんよね。六課フォア―ド陣。彼らもまた、私から見ると博打が過ぎる様に感じます」

 

 

 六課の隊長陣は良い。高町なのはもアリサ・バニングスも、一線級の実力者。名実共にエースストライカーと呼ぶに相応しい人材だ。

 司令部周りも問題はない。頂点に立つクロノの経験不足を補う為に、副官として熟練の兵士であるゼストを配する。各種専門分野の実力者も揃えていて、凡その問題には対処できると確信している。

 

 問題点は、六課に配属される四人の新人たちだ。身内であると言う点以上に、彼らには警戒しなくてはならない要素が存在している。

 

 

「神の子。スカリエッティ曰く、次代の神と成れる者。トーマ・ナカジマ」

 

 

 世界とは、神の別の呼び名である。滅び行く今の神から、零れ落ちた大きな欠片。人として生まれ落ちた神の半身。

 クイント・ナカジマと言う女性に拾われて、ユーノ・スクライアに師事し、良き人として育った。性格・能力共に精鋭部隊に相応しい人材だ。

 

 しかし同時に、彼は神の半分なのだ。そうであるが為に、神と同等の存在に成り得る者。神が死ねば世界が滅ぶ。その問題を、神と成る事で解決出来るかも知れない者。

 そんな特別なのだ。誰も彼もがトーマと言う少年を意識している。情勢を深く知る者ならば、彼を見過ごす事などない。間違いなく、多くの動乱を呼び寄せる事になるだろう。

 

 

「ハラオウン局長の義理の妹にして、まだ目覚めていませんが、極めて特殊な歪み者であると推測される少女。ティアナ・L・ハラオウン」

 

 

 天魔襲来の折り、命を落とした歪み者であるティーダ・ランスター。友であった彼から直接に、クロノが後を託された彼の妹。

 だが当時のクロノは、歪みが極まってしまった為に御門一門の手で軟禁されていた。その後も暫く、管理局の監視下にあり自由がなかった。

 

 だからこそ、ティアナは後回しになっていた。そんな過去があったからこそ、彼女は酷く歪んでしまった。実兄の仇を討つのだと、己にはそれしかないからと。

 そんな彼女に、しかし才能はなかったのだ。だから自暴自棄になって、けれどトーマとの対立でそれも多少は改善された。()()()()()()()()()()()()()()()()が、六課への招聘を受諾した事がその証と言えるだろう。それでもやはり、戦力的にも精神的にも、不安定なのがティアナである。

 

 

「ゼスト・グランガイツ一等陸佐のご息女にして、それぞれが異なる召喚適正を持った姉妹。ルーテシア・グランガイツとキャロ・グランガイツ」

 

 

 そして残る二人の人物。ゼスト・グランガイツに育てられた幼い姉妹。母方の連れ子であるルーテシアは特に問題はない。この四人の中で、一番含む所のない人物だ。

 問題なのは、もう一人の方。アルザス壊滅事件の折りに、ゼストに拾われ育てられたルシエの巫女。キャロ・グランガイツが紡いでいる、交友関係こそが最大の問題点であった。

 

 

「裏切りと言う可能性は身内故、限りなく少ないと言えるでしょう。ですが身内なればこその問題点と、それ以外にも幾つかの考慮すべき点があります」

 

「ふん。トーマの奴は問題あるまい。あの馬鹿は馬鹿だが、それでもやるべき事を間違えることはせん。師事した男も優秀だからな、身内だからと甘える危険は少ないだろう」

 

「ええ、そうですね。己の力不足を晒すようではありますが、新人たちの中では一番トーマが安定しています。爆発力と言う一点においては、或いはエース陣も超えるでしょう」

 

「彼の場合は人格よりも、神に成れると言う点が問題なのですが――まぁ、それは一先ず置いておきましょう。私が一番警戒しているのは、キャロ・グランガイツです」

 

 

 この部隊には、身内が多い。例えばティアナはクロノの義妹であるし、グランガイツ姉妹は副指令の子だ。当然、ゼストと竹馬の友であるレジアスもまた繋がりが深い。

 同じく、ゼスト隊のメンバーであったクイント・ナカジマ。彼女もまた、レジアスと繋がりが深い。レジアスの娘であるオーリスが姉と慕っていた事もあって、その子であるトーマはレジアスにとっては孫の様なものだ。

 

 目に入れても痛くない程に可愛いと、そういう感情が確かにある。だからこそ、部下と置くには不向きである。指導者は時に、死んで来いと部下に命じる。多くを取る為に、だが身内相手ではその判断も鈍るだろう。

 無条件で身内を切り捨てられる者などそうは居ない。仮に居たとしても、そんな奴は唯の破綻者だ。称賛されるべき資質ではなく、英雄が進む王道には不要である。だがやはり、しないと出来ないは違うのだ。いざという場面で揺れてしまう編成は、兎角怖さを感じさせるものである。

 

 

「親友のお子さんですから、思う所がありますか?」

 

「公私混同などはせん。少なくとも、こうした場では、な。だがだからこそ言おう。あの子は物怖じこそすれど、性格面での問題は少ない。精々が、血を見るとトラウマで動けなくなると言う欠点がある点だが、それも運用次第では――」

 

「魔刃」

 

 

 カリムが発した言葉に、場が凍る。彼女が警戒していたのは、身内を犠牲に出来ないと言う事では決してない。キャロに注視するのは、その間近に管理局最強の悪魔が居るから。

 

 

「私は彼女が、魔刃と親しくしている。その一点で、危険だと断じています」

 

「それは、預言者の著書(プロフェーティン・シュリフテン)が原因ですか?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。……ですが、単純な話。アレを恐れずには居られません」

 

 

 政治中枢に食い込む程の権勢が最高評議会の盾ならば、魔刃と言う悪魔は彼らの矛だ。クロノたちが転覆を狙う以上、何時かは戦わなくてはいけない存在。

 

 

「高町一等空尉も、盾の守護獣も、そしてハラオウン提督も、アレとやり合うには分が悪い。三年前のあの日、トーマ・ナカジマが勝利出来たのは、完全な幸運の産物です」

 

 

 だがしかし、真っ向からでは誰も勝てない。管理局の特記戦力のほぼ全てを揃えた古代遺産管理局であっても、彼一人に壊滅させられる可能性は低くない。

 呪われし腐炎は防げない。誰もが一撃で殺され得る。嘗てトーマとティアナと月村すずかが、死闘の果てに一度破った。それとて、多くの幸運に助けられた偶然でしかなかったのだ。

 

 

「彼が最高評議会直属であり、我々が最高評議会に敵対する以上、何れ激突は避けられません。その時に果たして、以前の様な偶然が起きてくれるのか。彼女が裏切る可能性はないのか。正直に言えば、出資者として信頼はおけないと考えます」

 

 

 嘗ては勝てた。だが次に勝てる保証は全くない。そんな怪物との戦いは先ず避けられず、その時になって役に立つのかと言う不安。

 或いはそれ以前に、魔刃を優先して裏切るのではないか。身辺調査に赴いた局員たちの報告を聞いて、カリムが考えたのがそれだった。それ程にエリオとキャロの距離は、とても近い物だったのだ。

 

 

「だからこそ、ですよ」

 

 

 だがクロノは、それに真逆の答えを返す。カリムと同じ報告を監視要員から聞きながら、クロノはだからこそ使えるのだと結論付けていた。

 

 

「毒を飲むと言ったでしょう? だからこそ、キャロ・グランガイツをそのまま入隊させました。最も、相応の能力を持っていなければ論外でしたがね」

 

 

 その望むところは明白だ。腹芸を得意とする者ならば特に、あっさりと分かる事だろう。だからこそ、クロノは預言者の著書に書かれていないかを確認したのだ。

 あらゆる情報に接続し、超高度な未来予測を算出する預言者の著書(プロフェーテン・シュリフテン)と言う希少技能(レアスキル)。行動に移らなければ、其処に記された内容はほぼ確実に発生する。

 

 もしも、魔刃エリオ・モンディアルがミッドチルダに多大な被害を齎すならば、クロノが意図する理由の達成は限りなく不可能に近い難事であっただろう。

 

 

「魔刃が彼女に向ける好意は、嘘には見えませんでした。こちらに気付いていて、敢えて見せていると言う可能性も零ではありませんが、彼の性能と性格を思えば態々演じる理由もないかと」

 

 

 だが、明確な保証を此処に受けた。エリオ・モンディアルがミッドチルダに害を為す可能性は皆無に等しい。少なくとも、彼が直接的にこの地を追い込むことはない。

 その理由も、察する事は出来ている。彼自身、その好意を隠そうともしていないのだ。だとするならば、彼は己達の同志だ。愛する人が居る日溜りを、守りたいと言う志。それを同じくしている筈だ。

 

 ならば――

 

 

「エリオ・モンディアルが、キャロ・グランガイツに懸想している。それは一目瞭然で、ならば可能性としては十分にある。上手く彼女を利用出来れば、魔刃をこちら側に入れる事も不可能ではないでしょう」

 

 

 管理局最強最悪の怪物を、完全な味方にすることも不可能ではない。だからこそ、交友関係に不安が残るキャロを、内に取り込むと言う博打を打つのだ。

 

 

「成程、確かに。恐ろしいからと遠ざけるより、有効な手筋ですね。最高評議会の最大戦力である以上、彼が抜ければ向こうの戦力も大きく崩れる訳ですし。中々に絶妙な一手と言えるでしょう。懸念事項は、最高評議会側が気付いていない筈がない点でしょうか?」

 

「余裕か慢心か、或いは異なる理由があるのか。とは言え僕らの立場が弱いのは事実ですから、覆せるまでは存分に甘えさせて貰いましょう」

 

 

 手筋としては有効で、失敗してもリスクはない。疑念があるとすれば、最高評議会の反応だろうか。クロノたちが調べて分かる様な事を、彼らが知らない筈もない。

 エリオ・モンディアルにとってのアキレス健がキャロ・グランガイツである。そうと知っていて、この人事を通したのが僅かに不安だ。最高評議会の立場であれば、人事権への介入とて簡単であろうに。

 

 その胸中を探る為にも、宣戦布告の様な揺さぶりを行った。自分達が彼らにとっても重要な要素であると、知っているからこそ行える太々しい策謀だ。

 

 

「…………腹黒どもめ。お前らと会話していると、茶が不味くて仕方ない」

 

 

 英雄クロノ・ハラオウン。彼は空間操作と言う異能を保持していて、それが管理局高官たちの最後の命綱となっている。

 余りに強大な敵を前にして、クロノならば確実に逃げる事が出来る。だからこそ、クロノを旗頭にする限り、ある程度までの無茶が出来る。

 

 そんな無茶を前提に、何処まで利権を剥ぎ取れるかと笑い合う腹黒二人。彼らの腹芸に付いていけない愚直な男は、心の底からの言葉を漏らして茶を啜るのだった。

 

 

「あら、娘さんやお孫さんと会話をしている方が楽ですか?」

 

「いや、オーリスの奴は最近お前らに変な影響を受けていてな。寧ろトーマの馬鹿さ加減に、頭を悩ませつつも妙に癒されると言うか――って、何を言わせるか!?」

 

「……一人で言ったんじゃないですか。っと、孫馬鹿なお爺さんの事は置いておいて」

 

「誰が爺か!? まだわしは若いぞ!!」

 

 

 カリムがレジアスを茶化し、空気を切り替える。政治と言う点でなら、クロノよりも上手な彼女だ。此処までの流れは殆ど、計算付くなのだろう。呆れと感心を抱きながら、クロノは咳払いと共に今後の予定を口にした。

 

 

「一先ずは様子見です。古代遺産管理局として活動を行いながら、状況が動くのを待ちましょう。六課の影で、彼らも動いてくれています」

 

 

 古代遺産が関わる可能性がある事件に介入を続けながら、局員たちに訓練を重ねさせながら、事態が大きく日を待つ事にする。

 その日はきっと、そう遠くない内に来る。これだけ派手にやったのだ。何らかの形で解答が来るだろう。その時までに出来る事など、その時に動ける様に準備を積み重ねる事だけだ。

 

 必要なものは多くある。力も、名も、今は未だ何もかもが足りていない。それでも、何もしない訳にはいかない。その理由が、確かにあるのだ。

 

 

「世界を凍らせる訳にはいきませんが、最高評議会の好き勝手にもさせられない」

 

 

 天魔・夜都賀波岐。彼らの目指すは神の復活。眷属である彼らの頂点、天魔・夜刀が蘇れば世界の全てが凍り付く。

 永遠結晶は奪われた。残るは二つ。最高評議会が隠し持つ“罪姫・正義の柱”と、古代遺産管理局に属する“神の半分”トーマ・ナカジマ。この二つが奪われれば、彼らの望みは果たされてしまう。世界は無限に凍って行く。

 

 管理局最高評議会。彼らの目指すは神の創造。自分達にとって都合の良い神を作り出そうとしていると、その情報は彼らを裏切った白衣の狂人より得ている。

 守る為とは言え、非道を良しとしてきた彼らだ。そんな者らが生み出そうとしている新世界など、きっと碌な物じゃない。少なくとも、その真意を暴くまでは、支持出来る筈がなかった。

 

 古代遺産管理局機動六課。彼らの目指すは神無き世界。とは言え、それは未だ遠い。余りにも遠いその先は、一寸先すら定かではないと言うのが現状だ。

 世界とは神の別名で、この世にある全ての事象は神の細胞片である。全ての人は神によって生み出され、支えられているのが現状。神が滅べば、人類もまた滅び去る。この公式を変える為に、しかし時間が足りていない。

 

 

「今を生きる人の意志を束ね合わせて、古き世の彼らに突き付ける答えを探す。その為にも、我々は負けられないのですから」

 

 

 だから今は、多くの道を求めている。そしてその道を決めるのは、きっと自分達ではいけない筈だ。クロノ・ハラオウンはそう思う。

 誰もが生きる世界の事なのだ。誰もが揃って決めねば嘘だ。指導者たちの独断で、処理して良いことじゃない。だからこそ、クロノ・ハラオウンは最高評議会を否定する。

 

 それが正義であろうとも、それこそ救いであろうとも、彼らは内で完結している。自分達にとって都合の良い様にと、我欲に満ちた正義である。

 管理局員とは何か。クロノはそれを、守る者だと結論付ける。剣なき人の剣となり、盾なき人の盾となる。それこそが己達であるのだと誇りに抱いているからこそ、貫くべき意志が其処にあったのだ。

 

 

 

 

 

3.

 雪がまだ解けずにいる山岳部。時速にして70kmを超える速度で駆け抜ける暴走列車(レールウェイズ)は、止まる素振りも見せはしない。

 このままでは、都市部にある終着駅に衝突するか、或いは途中で脱線するか。どちらにせよ、多大な被害を出すであろう。訪れる悲劇は、想像するに容易い物だ。

 

 走り続ける列車の上空へ近付いている高速ヘリ。その内側でキャロ・グランガイツは手を握る。手にした()()()デバイス、ケリュケイオンの柄を冷たい汗が流れていった。

 

 

「新デバイスに乗り換えた途端に出動とか、正直やめて欲しいのよね」

 

 

 橙色の長い髪を、サイドで二つに束ねた少女が語る。支給されたばかりのデバイスを弄びながらに、ティアナが愚痴るも当然の事。

 機動六課としての初任務。デビュー戦だと言うのに、デバイスを慣らす時間もないのだ。彼女でなくとも、何を考えているのかと言いたくなる所であろう。

 

 それでも、個々人の性質に合わせて作られた最新型だ。使い古したアンカーガンなどとは、比較にならない性能だろう。使い熟せたのならば、生存率は高くなる。

 そう無理矢理に納得して、それでも愚痴は零れてしまう。そんなティアナに視線を向けて、紫の髪をした少女は笑う。まるで悪戯子猫の様に、笑って彼女を挑発した。

 

 

「何、不安なの? ハラオウン指揮官。なら、私が代わってあげようか?」

 

「ふん。冗談。……なのはさんの様な例外じゃなければ、私の敵じゃないわよ」

 

 

 現場指揮に不安があるなら、代わりをしようかと提案する。こんな状況でも常と変わらず、ニヤニヤ笑って口にするのだから中々に良い性格をしていると言える。

 そんな少女――ルーテシア・グランガイツの発言は、決して善意だけのものではない。それでも悪意だけではないから、ティアナは鼻を鳴らして答えるだけで済ませるのだ。

 

 

「……なんで、僕だけ新デバイスなしなんだろう」

 

〈私だけでは不満ですか! トーマ!? マッハキャリバーが、なんぼのものですか!!〉

 

「いや、スティードには不満がないんだけど、なんか羨ましいって言うか……マッハキャリバーって何さ」

 

〈キチ外マイスターとシャリオ何某なる眼鏡が、トーマ用に作ろうとしていたガラクタです。私が居る以上鉄くずにしかならない他のデバイスなどは必要ないので、勿論作らせはしませんでしたが〉

 

「スティードォォォォッ!?」

 

 

 同じ六課の隊員が新たなデバイスを与えられている中、一人だけ何もなしで終わった茶髪の少年。彼が不満を口にすれば、己のデバイスから返って来るのは驚愕の事実。

 基本的には観測用で、戦闘機能などおまけ程度でしかないインテリジェントデバイス。そんなスティードのまさかの裏切りに、トーマ・ナカジマは思わず叫びを上げていた。

 

 とは言え、本気で苦く思っていると言う訳ではない。こうして平常通りに出来るのもまた、ある種余裕の表れだろう。

 計測不能な程に膨大な魔力と、母と師に学んだ格闘技。その二つが主な武器となるトーマにとって、複雑怪奇な機能を持ったデバイスなど必要ない。小細工なしの真っ向勝負で、十分彼は強いのだから。

 

 

(るーちゃんも、ティアナさんも、トーマさんも、皆何時も通り)

 

 

 浮ついてはいるが、それも適度な程度で済んでいる。共に初陣なのは同じなのに、過度に緊張しているのはキャロだけだ。

 彼女とて、自信がない訳ではない。竜召喚と言う希少な技術に、父譲りの槍術。エリオに教えて貰えた技術もあって、機動戦ではトーマをも凌ぐ。四人掛かりで戦えば、リミッター付きの高町なのはに土を付ける事も出来る程。

 

 実力はあるのだ。ないのは自信だけ。臆病な自分は何時だって、緊張と恐怖で震えてしまうから。

 

 

――大丈夫だよ。キャロならきっと大丈夫。

 

 

 そんな彼の言葉が、確かな心の支えとなる。微笑む顔と、不器用に触れ合う指先。其処に込められた優しさが、恐怖を拭う力となる。

 

 

(エリオ君。私、頑張ってみる)

 

 

 ぎゅっと握り締めた掌。その小さな身体は、もう震えない。大丈夫。誰より信じられる少年が、大丈夫だと言ってくれたから。

 彼が信じてくれた自分を信じる。自信がない少女でも、その程度なら出来るのだ。そう心を決めた少女の傍らで、小さき飛竜は満足そうに一つ鳴いた。

 

 

(うん。皆、大丈夫そうだね。これなら、安心して任せられるかな)

 

 

 初出動を前にして、各々に意志を定める部隊員たち。その姿を見詰めて、高町なのはは安堵の笑みを浮かべる。

 余りに不安が過ぎるなら、一言二言必要だった。それでも今の彼らなら、そのままでも無駄死にはしない。そうと確信出来たから、茶髪の女は傍らに立つ管制官を目で促す。

 

 

「それでは皆さん。現状の確認と行きましょう」

 

 

 部隊長の促しに、無言で頷いた女が口を開く。私言を止めて、一斉に顔を向ける新人たち。

 彼らの前で、量産型戦闘機人の一体であるウーノ・ディチャンノーヴェは空間投射型のモニタを展開した。

 

 

「内部からロストロギア“レリック”らしき高魔力反応が確認された山岳リニアレールの暴走。現在もリニアレールは時速70kmを超える速度で移動中」

 

 

 ウーノシリーズが19番目。そんな量産品である彼女が語るのは、これより行う任務の簡易的な説明と作戦内容。

 鈴の如き彼女の声と共に、モニタに映った地図に光が灯る。高速で移動する赤い光が示すのは、目標であるリニアレール内に存在しているレリック反応。

 

 

「それを確認した五課の通信途絶。以って本件が通常戦力では対処出来ないと判断され、私達機動六課へと出撃命令が下されました」

 

 

 同時に彼女が語るのは、不透明な敵戦力が存在すること。機動六課に及ばずとも、機動五課も十分な戦力を有していた部隊であった。

 精鋭中の精鋭には劣るが、並みの部隊より人材も武装も恵まれている。そんな部隊が敵戦力の詳細も掴めずに、通信途絶してしまったのだ。

 

 危険がある事は明白だ。或いは尋常ではない程の、敵戦力が其処に居る。新人たちの誰もが其処で、意識を改め直していた。

 

 

「六課に与えられた任務は二つ。レリックを安全に確保する事。そして、五課を壊滅させた謎の戦力への対処を行う事です」

 

 

 そんな彼らの表情を察して、と言う訳ではないだろう。ウーノは事務的な口調のまま、唯事実のみを淡々と伝えていく。

 主となる目的は二つある。レリックの確保。敵戦力の撃破。どちらかだけでは片手落ち、どちらも同時に果たさなくてはならないのだと。

 

 

「よって、本件ではそれぞれの任務ごとに分かれて、二つの部隊で動いて貰います」

 

「本来なら、スターズとバーニングで分かれるべきなんだろうけど」

 

 

 二部隊に分かれると、その説明に高町なのはが補足を加える。本来ならばと言う様に、機動六課は二つの部隊に分かれている。

 一つは高町なのはを分隊長に、トーマとティアナを配したスターズ分隊。一つはアリサ・バニングスを分隊長に、キャロとルーテシアを配するバーニング分隊。

 

 

「ここ数日、ミッドチルダを騒がせている麻薬の調査に出てるアリサ分隊長は、今回参加できないんだ」

 

 

 全力を投球すると言うのなら、そのメンバー構成で向かうべきだろう。だが、現状ではそれが出来ない。

 執務官でもある彼女は、単独で異なる事件に当たっている。或いは裏では繋がっているのやも知れないが、ともあれ此処に居ない事だけは確かな事実だ。

 

 

「よって戦力を均等にする為に、貴方達には四人一組で動いてもらいます」

 

 

 居ない戦力を当てには出来ない。管制官であるウーノと、ヘリを操縦しているヴァイスも戦力と言うには些か不足だ。

 故にこの場に居る五人で、対処を行う。その上で戦力の均等化を図るのならば、分け方はこれ以外にない。新人四人と、隊長一人。

 

 

「私が敵に対処している間に」

 

「皆さんがレリックを回収するという形になりますね」

 

『はいっ!』

 

 

 その判断に異論はない。管理局の二大英雄。次元世界最高の魔導師と謳われる高町なのはの実力は、それ程に高いのだ。

 入隊してから続く訓練の中で、新人たちは知っている。それはもう、嫌になる程に。散々に痛め付けられて来たのだから。

 

 

「それじゃ、先に行くね。ヴァイス君」

 

「うっす。なのはさん。健闘を祈ってます」

 

 

 現場での部隊指揮をティアナに、後方での指揮をウーノへと、全て任せて身軽になったなのははヘリのタラップに立つ。

 此処から飛んで、先ずは己が奇襲を仕掛ける。敵勢力への対処と囮を同時に行おうと判断した女は、外に首を出した瞬間にそれを見た。

 

 

「――っ!? 総員、防御――」

 

『イミテーション・スターライトブレイカー!!』

 

 

 咄嗟に支持を飛ばすがしかし、その瞬間には間に合わない。先に相手を捉えていたのは、こちらではなく敵手であった。奇襲を仕掛けられたのだ。

 大地より飛翔する強大な魔力砲。それは高町なのはの切り札、スターライトブレイカー。それを完全に模倣した機械仕掛けの砲撃であり、そうであるが故に量産すら出来てしまう物。

 

 数にして、十。一度に十と言う収束砲が、大地からヘリを射抜いたのだ。そして、大きな爆発が起こる。高速ヘリは爆散して、空に炎の花を咲かせた。

 

 

 

 

 

 敵の奇襲を防げずに、爆散したヘリは鉄の雨に変わって地に墜ちた。ならば其処に居た者らも、同じく地に墜ちる他にないのか。

 もしも彼らが唯人ならば、確かにそれしか道はない。されど彼らは単なる人には非ず、魔導師と言う超越者たち。その粋たる少年少女らが、この程度で死ぬ筈もない。

 

 

「竜魂召喚!」

 

 

 故に、白き翼が空に羽搏く。槍を杖の如くに握ったキャロの足元、輝く白き鱗を纏った巨大な飛竜が其処に居る。

 真なる姿を晒したフリードの背に、六課の新人たちは着地する。咄嗟の指示に反応して、怪我一つなく空を飛んだ。

 

 

「蒼穹を走る白き閃光! 我が翼となり天を駆けよ! 来よ、我が竜フリードリヒ!」

 

 

 羽搏く銀の翼に乗って、地上を走る暴走特急を目指すフォワードメンバー。彼らに残された者たちを案じる気などない。

 新人である自分たちでさえ、無傷でやり過ごせたのだ。ならば英雄である彼らの部隊長が、そんな終わりを迎える筈がないのである。

 

 

「プロテクション!」

 

 

 そんな信頼に答える様に、翡翠の光が空に輝く。宙に浮かんだ高町なのはと、その背後にはウーノとヴァイス。

 煙の向こうに見える彼らは、共に未だ無傷である。その程度の奇襲では崩せないのだと、そう言わんばかりの堂々たる姿。

 

 それに対し、敵手が返すは先と同じ砲撃だ。スターライトブレイカーの模造品。それが先と同数に、しかし先との違いがある。

 続く砲撃があったのだ。十と言う数に続いて、更に十と言う数が来る。その次にも十が来るなら、其処に際限などありはしない。

 

 

「っ、厄介だね。これ」

 

 

 絶え間なく降り注ぐ星光を防ぎながら、高町なのはは舌打ちをしたい気持ちに駆られた。

 向けられる砲門に切れ目はなく。チャージが必要な筈の殲滅砲が一切の隙もなく、放たれ続けている。

 

 

「十人一組で放たれる殲滅攻撃。……三列から放たれる連続射撃を、九十七管理外世界では三弾撃ちと呼ぶのでしたね」

 

「って、んな事はどうでもいいでしょうが、ウーノさんよ」

 

 

 光の向こうに見えた敵影。その総数は三十人。この砲撃を行う敵を知ってはいるが、これ程の数と相対するのは初めてだ。

 管理世界に名高い犯罪結社“無限蛇”。其処に属する幹部が一人、人形兵団。彼女らが用いる、プロトタイプスチールイーター。それこそがこの砲撃の正体だ。

 

 嘗て、人形兵団であった女が告げた。ルネッサ・マグナスと言う女が語ったのは、時間さえあれば人形兵団は量産可能だと言う事実。

 間違いなく、この三十と言う数の敵は、量産された人形兵団。五課を壊滅させたのは、無限蛇に他ならない。そして人形たちの目的すら、察するに容易い。

 

 人形たちの行動は単純だ。三列に分かれた彼女らが交互に攻撃を繰り返す事で、互いのチャージや冷却と言う隙を補い合っている。

 その膨大な量による飽和攻撃は、高町なのはをして身動きを取れなくさせる程。そしてそれこそが、彼女たちの目的。高町なのはを封殺する為に、この陣容は存在している。

 

 

「問題は俺らが足手纏いになってるって事だよ。……なのはさん。一応俺もウーノさんも防御魔法くらいは使えるっす。ある程度の高度に降りたら下して貰えれば」

 

「そう出来たら良いんだけどさ、そうもいかなそうなんだよね」

 

 

 そう。現状では突破は出来ない。例え一度に来る閃光が十であれ、それが絶えず続くならば対処は非常に難しい。

 何故なら今のなのはには、魔力リミッターがあるから。そして背後には、守る者らが居るから。制限と足手纏いが故に、この女は動けない。

 

 そして人形兵団たちは、足手纏いだけを狙っている。動けない女を完全に封殺する為に、的確に弱所だけを狙っていた。

 

 

「暫定人形兵団は、私達二人を狙っている模様です」

 

「うん。そうみたいだね。……二人の前から動けばあの子達は突破できるけど、二人ともアレに一瞬でも耐えられる?」

 

「……無理っす」

 

「不可能ですね。地形を書き換える様な砲撃が三十。エースストライカーでも対処できるのは一握りでしょう」

 

 

 一対一なら、確実に勝てる。三十対一でも、やりようは幾らでもある。だが三十対三となると、途端に打てる手筋が制限される。

 切り捨てる事が出来るのならば話は別だが、そんな外道はしたくない。となると、今の高町なのはに出来る事など極僅かしかないだろう。

 

 三十と言う兵団を引き付けて、トーマ達に後を任せる。自分はこの場で守勢になりながら、少しずつ敵手を削って行く。

 それが相手の目論見通りと分かって尚、乗るしかないのが現状だ。ならば高町なのはに出来るのは、信じる事だ。一刻も早くと望みながらに、それでも彼らを確かに信じる。

 

 

(御免ね。大変な役目を負わせて。けど――)

 

「――貴方達なら、きっと出来る! だから、今は目の前の敵を!」

 

 

 そうとも、トーマ・ナカジマは彼の弟子だ。死に掛けた己を救うため、リンカーコアを捧げたユーノ・スクライア。誰より強い心を持つと信じる、愛しい恋人の教え子だ。

 そんなトーマの相棒であるティアナ・L・ハラオウンには、この部隊に属する以前よりなのは自身が教えを授けた。器用貧乏だが優秀な頭脳を持つティアナなら、きっと選択を間違えない。

 キャロもルーテシアも、入隊後の訓練で確かに知った。優秀な魔導師であり、強い心を持った子でもあると。だから信じる事に否はない。己は彼らを信じた上で、この状況の打破に専念するのだ。

 

 

〈Master, Please call me〉

 

「うん! 行くよ、レイジングハートッ!!」

 

〈All right〉

 

 

 迫る砲火の構成を見抜いて、弱所を砲撃で撃ち抜き散らす。針の穴に遠くから、糸を投げて通す様な絶技。それを容易く成し遂げる。

 翠に輝く魔力の光は、嘗て撃墜された時に手にした物。ユーノから移植されたリンカーコアの輝きだから。その光の強さを示す為にも、なのはは強く杖を握った。

 

 

 

 

 

 空に足止めされたエースが意志を定める中、飛竜から飛び降りた少年少女は列車の中へと。

 槍の一撃で空けた大穴を通じて、八両目へと乗り込む。目標は一つ手前の重要貨物室。だがレリックがある以上、直接の乗り込みは危険が大きい。

 些細な衝撃でも、爆発するのがレリックだ。貨物室の装甲を抜く程の魔法を使えば、中身に伝わる衝撃だけでも爆発しかねない。故に手間であるのだとしても、一両前に降りねばならなかったのだ。

 

 

「突入っと! トーマが先頭! 次から、キャロ、るー、私って順番で行くわよ!!」

 

「分かったよ! ティア!」

 

「は、はい! 続きます!」

 

「了解! ガリューも呼んどくわ!」

 

 

 無人の客室に違和を感じながらも、ティアナは即座に指示を出す。的確な指揮の下で、目指すのは前方車両。

 敵の対処は高町なのはが行っているから、彼らの役割はレリックの回収だ。一刻も早く、その役を果たす為に駆け出して。

 

 

「ま、当然。妨害くらいは入るわよね」

 

 

 重要貨物室への入り口。車両間を繋ぐ扉の前に、一人の女が姿を現す。黒いバイザーで顔を隠し、右腕と一体化した凶悪な銃口を床に引き摺るその姿。

 遠目に見た外の人形たちと同じく、寸分違わぬ容貌をした量産品。新たなる人形兵団の登場に、ティアナは内心で舌打ちする。居ないと思っていた訳ではないが、居て欲しくなかったのは確かな事実だ。

 

 

「オォォォォォォォォッ!!」

 

 

 先頭を駆けていたトーマは、咄嗟の相対に驚きながらも拳を振るう。全力で無力化する。その意志が含まれた一撃ではあったが、同時に威力偵察としての意味も其処にある。

 これが本当に、以前救えなかった人形兵団と同じ物なら。この四人でも不利だ。そうと知るからこそ、その事実を確かめる為に、トーマは拳を持って問いとしたのだ。

 

 

「……お兄さんの手が、溶けた?」

 

「――っ! やっぱり、ルネッサさんと同じッ!?」

 

 

 問いへの解は、明確な形で示された。殴り付けた拳が異臭を上げて、どろりと溶け出したのだ。

 まるで強酸の中に手を入れたかの如く、焼け爛れたその拳。相対する人形の体液は、触れた物を穢し溶かす猛毒に満ちている。

 

 

「気を付けなさい! るー! キャロ! 人形兵団は、強酸の塊よ。触れれば溶ける体液と、無尽蔵の再生能力。SSSランクオーバーの保有魔力に、家の師匠のスターライトブレイカー級砲撃を撃って来る化け物だから!!」

 

「な、なによッ!? その反則!!」

 

 

 汗。唾。血液。あらゆる物が、魂を穢し貶め溶かす毒と化す。手にした銃口より、町の一区画を消し飛ばす砲撃を撃ち放つ。

 余りにも魔力量が多過ぎて、低ランクの砲撃では傷一つ付かない。質量兵器ならば傷付くが、その傷すらも秒と立たずに再生する。

 

 それが嘗て、トーマとティアナが相対した無限蛇の人形兵団。三年前の時点では一体しか居なかったが、時間が経った今では量産にも成功したのだろう。

 外部には、三十人と言う数が居たのだ。当然内部にある数も、一つ二つでは済まないだろう。それを証明するかの様に、一人、また一人と、人形の数が増えていく。

 

 

「デバイスも溶けるから、接近戦は僕だけでやる。皆はカバーをお願いッ!」

 

「わ、分かりました!」

 

 

 溶けた手の甲の血肉が膨れ上がり、傷付けられた身体が再生する。それはエクリプスウイルスと言う、トーマの身体に潜む病毒が故。

 脳か心臓を潰されない限り、トーマ・ナカジマは死亡しない。今の彼を殺し切る事は、非常に難しい。だからこそ、この状況で一人前衛を買って出る。

 

 師に憧れて、僕と言う一人称を使用する。そんな少年にとって、仲間が傷付く事は己が傷付くよりも辛いこと。それを防ぐ為になら、どんな困難だって成し遂げてみせるのだ。

 

 

「成程、星の瞳、ですか。言い得て妙ですね。この状況でも、諦めない。ルネッサ・マグナスにも、見る目はあったと言えますか。……まぁ、彼の対なのです。その程度は当然ですね」

 

「アンタ、誰よ」

 

 

 そう覚悟を決めた彼らの耳に、鈴の如き音が響く。その戦意を評する声の主へと、ティアナは反意を抱いて誰何した。

 そんな彼女の声に答える様に、マリアージュが道を開ける。まるで王を待つ民の如くかしずく彼女ら、そして後方へと飛び退いたトーマ達の前に姿を見せたのは、白を思わせる一人の少女。

 

 

「申し遅れました。私の名はイクスヴェリア。無限蛇より、傀儡師の号を受けた者です」

 

 

 甘い栗色をしたセミロング。暗い境遇故に荒んで濁った翠の瞳。蒼いドレスの上から、纏うは白銀に輝く胸当て。

 手にした杖を、指揮者棒の如くに振るう。その指揮に従って、人形たちが立ち上がる。同じ顔をした彼女らは、冥王に従う死人の群れ。

 

 

「そして彼女たちは、新たなる人形兵団。マリアージュ・グラトニー」

 

 

 古代ベルカに生まれ、ガレア王国を治めた古の王。生体ロストロギアとでも言うべき、古き時代の生物兵器。

 無限蛇に回収された後、魔群の器として改造を受けた。果てに得たのは嘗てを超える膨大な力と、嘗てをも超える最低な境遇。

 

 冥府の炎王と呼ばれた時代。それよりも救いがない状況があるなどとは、思ってもみなかった。そんな地獄の底に突き落とされた冥王は、自嘲と共に笑って告げた。

 

 

「短い間となりますが、以後お見知りおきを」

 

 

 無限の蛇に縛られた者。無限の欲望が犠牲者。死んだ魚の如くに病んだ瞳で、イクスヴェリアは優雅に一礼する。

 全てを諦めた少女の指揮の下、集う十の人形たち。此処に集った不死身の怪物こそが、後の英雄たちが倒すべき最初の敵だ。

 

 

 

 

 




イクスヴェリア単騎出陣。

本編ルートとの違いは、エリオ暴走がなかったので、エリオがイクスの保護者になるイベントがなかった。
同じくエリオ暴走がなかったので、クロすけがティアナを助けに来るイベントもなし。和解はまだ出来ていない。

変化はトーマ君が許しても良いかなと思ってしまっただけなのですが、その影響は思いの外に大きいのかもしれませんね。


次回更新は明日の24時を予定しております。


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第三話 傀儡 イクスヴェリア

ヒャッハー! 今回、愉しかった。そう言えば、誰が出るか分かると思います。

推奨BGM
1.トーマ・アヴェニールのテーマ(リリカルなのは)
2.其の名はべんぼう 地獄なり(相州戦神館學園)


1.

 移動する列車の内側と言う狭い空間で、向き合う管理局と無限蛇。総数にして十五人と言う数字は、実空間以上の閉塞感を抱かせる。

 立つか座るか前提となる空間では、動き回るに狭過ぎる。両陣営の指揮官は自然とそう判断し、相手も判断した事を理解する。ならば、それを前提に行動するのは当然だ。

 

 

「マリアージュ。横列展開」

 

「――ッ! トーマを先頭に、縦列にッ!」

 

「イミテーション・スターライトブレイカー。一斉射撃」

 

 

 動くに狭いのならば、動かぬままに戦えば良い。それは当然の理屈であろう。

 ましてや彼我の位置関係がはっきりと分かれているこの状況、味方を巻き込む可能性がないのだから躊躇う理由は一つもない。

 

 肩口まで機械と同化した異形の右腕を動かして、砲門を構えたマリアージュたち。彼女らに向けて、イクスは感情の籠らぬ声で命を下す。

 直後放たれるのは悪魔の弾丸。耳を劈く轟音と共に、飛来する魔力砲が周囲を満たす。全てを光で染め上げて、其処にある何もかもを破壊しようと牙を剥いた。

 

 対して、迎え撃つティアナたちも無策ではない。来ると分かっていたからこそ、トーマ・ナカジマの背に揃って隠れる。

 前を行く彼は、この光に対する手札を保持している。真っ向から打ち勝てるのは、この場に置いて彼一人。だがだからこそトーマの切り札は、星の輝きでも防げない。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプスッ!」

 

 

 右手に光を纏わせて、向かい来る極光を迎撃する。ディバイドゼロは分解の力。魔力を最小単位にまで区分けして、吸収すると言う能力だ。

 そしてこの世の物質は、全て魔力で出来ている。分子を織りなす原子の内の素粒子すらも、魔力素が作り上げた物質だ。そうであるが故に、魔力を分解すると言うディバイドゼロは、この世の物では防げない。

 

 車両を壊しながらに迫る極光を、光を纏った拳が切り裂く。開いた空間へと一歩を踏み込み、其処でトーマは僅かふらつき掛けた。

 それも当然、ディバイドゼロにはリスクがある。この力を使用した瞬間、トーマは認識能力を一時的に消失する。世界全てが、記号としか認識できなくなってしまう。

 

 

(やっぱり、これは、キツイな)

 

 

 転びかけて、戻る視界に頼って姿勢を如何にか維持する。唯の一度でこの状態。それでも、ほんの一瞬で済むだけまだマシだ。

 使用の度に、認識剥奪の時間は長くなる。使い続ければ、真面な視野を失うだろう。それで済めば良いが、最悪その場で暴走する。嘗て、トーマは己の暴走に巻き込む形で養母を亡くした。

 

 あの日よりは強くなっている。それでも、安定して使えるのは四度まで。それを過ぎれば、発動の度に暴走の危険度は上がって行く。何もかもを巻き込む形で、全てを台無しにしてしまいかねない。

 

 

(けど、今は使わないといけない時で、そう思った時は迷っちゃいけない。ですよね、先生)

 

 

 想いを確かに、更に一歩を其処で踏み込む。近付くトーマの姿に眉を顰めて、イクスヴェリアは杖を振るった。

 同時に動くマリアージュ。主君に近寄らせはしないのだと、そんな屍兵と接近戦を行うのは自殺行為だ。如何にトーマが不死身に近いとは言え、相手は彼以上に死に難い。

 

 そんな敵手を多数相手にすれば、墜ちるのは当然の事。たった一人では、十の不死者を倒せはしない。そう、たった一人だったのなら。

 

 

「行くよ! フリード!!」

 

「きゅくるー!」

 

 

 砲撃を切り裂いて接近するトーマの対処にマリアージュを使うと言う事は、それ以外への対処が疎かになった事も意味している。

 壊れた天井の隙間から飛び立つ白竜は、風を切り裂きながら飛翔する。幼き竜騎士が標的として狙うのは、裸となった不死者の王だ。

 

 

「マリアージュ。砲撃を」

 

 

 地を駆ける少年の相手は、屍兵が五人も居れば十分過ぎる。故に残る兵士を指揮して、頭上を飛び交う竜を撃たせる。

 飛び回る飛竜はそう簡単には当たらないが、牽制としては十二分。天を駆ける竜騎士の少女とて、何時までも逃げ回るなど出来はしない。

 

 一手では取れない。だが数手で詰むだろう。そう確信出来るだけの性能差が其処にあるから――

 

 

「吾は乞う、疾風の翼。若き騎士たちに、駆け抜ける力を」

 

 

 ルーテシアが此処に一手を打つ。剣十字が輝いて、二人の騎士の速力が上昇する。その力が、数手先の詰みを十数手先にまで引き延ばす。

 更にそれだけでも終わらせない。ルーテシアが得意とするのは、補助魔法と召喚魔法。彼女は既に呼び出している。それは彼女が最も信頼している、相棒と呼ぶべき召喚獣。

 

 

「ガリュー!」

 

 

 まるで忍びを思わせる、漆黒の召喚虫が疾駆する。座席の残骸が転がる吹き曝しとなった車両の上を、鋭角に跳び回りながらに敵を目指す。

 一人に対し五体を当てられているから、十数手で詰んでしまうのだ。ならばその内の一つか二つだけでも減らせれば、終わりの時を引き延ばせるのは自明の理。

 

 とは言え、ガリューの主となる攻撃手段は五体を用いた格闘術。触れれば溶ける体液を流す死人を相手に、相性は最悪の部類となろう。

 直接打撃系の攻撃は一切使用出来ない状況。故にガリューが為すのは前衛たちの直掩。腕から放つ衝撃波の煙に隠れて、環境迷彩を発動する。姿を消した甲虫は、影から敵の機先を制すに専念するのだ。

 

 

「……面倒な」

 

 

 ダメージを与える事は出来ずとも、攻撃動作に移った屍兵を揺らす事は出来る。銃口が揺らされれば標準はズレ、構えた拳は一手遅れる。

 誤差は数瞬に過ぎないが、トーマもキャロも確かにその瞬間を活かす。十数手先に見えていた詰みは、数十先まで遠のいていく。それは決定打には不足しているが、このままでは打開されてしまうのではないかと、死人の主に懸念を抱かせるには十分だった。

 

 

「予備兵力を動員。数で押し潰しなさい、マリアージュ・グラトニー」

 

 

 故にイクスヴェリアは判断する。万が一に備えていた予備兵力の動員を。彼女の強みは、無尽蔵の不死者を繰ること。

 傀儡師の強さとは、傀儡の質と数が支えている。エースストライカーですら手を焼く程の力を持った屍兵。それが無限を思わせる程に湧く光景は、正しく絶望的と言えたであろう。

 

 

(良し、出した!)

 

 

 されど、その程度ならば予測の内だ。既に外部には三十と言う数が居たのだ。ならば内側には十しかないのだと、どうして楽観出来ようか。

 如何なる脅威であるとしても、それを前提としておけば動きが止まると言う事はない。ましてや此処は、天蓋が砕けたとは言え、閉鎖空間でしかないのだから――無尽蔵に増える敵であっても、動員出来る総数は、決して無限には至らない。

 

 確実に押し潰す為に、王の後背にある扉から次々と顔を出す人形兵団。その光景を前にティアナは笑う。狭い場所に多量過ぎる戦力を投入するなど、下策も下策。ましてや、如何なる指揮官にも統率可能数と言う物がある。配下が真面な知性を持たぬなら、それこそ一度に制御できる数は決して多くない。

 

 

「ディバィィィィンバスタァァァァァァァァァァッ!」

 

 

 カートリッジを消費して、放つ全力全開砲撃。二つの廃薬莢が床を転がり、輝く光は冥府の炎王を射抜いていた。

 命中した理由は単純、数が増え過ぎたから。傀儡を動かすには、指示が要るのだ。そして数を動員するには、広い空間が必要となる。

 

 そのどちらもが、足りてなかった。狭い場所では回避する程の余裕もなく、無数の死人を操る以上は他の事象への反応もまた遅れてしまう。

 数を力に変えた少年少女達と、指揮官の浅慮が故に数を無駄にした冥府の王。余りにも明確なその差異は、心の差が故だ。手を取り合うか、従えるか、その差がきっとそこにある。

 

 

「やったか!」

 

「フラグ立てんじゃないのよ!」

 

 

 ルーテシアが茶化す様に、ティアナが罵倒を返しながら、二人ともに気付いている。空を舞うキャロも、大地を蹴るトーマも、そのどちらもが分かっている。

 マリアージュは消えていない。イクスヴェリアは倒れていない。この一撃は届いただろうが、それだけなのだと。襲い来る敵の群れこそが、首魁の健在を示していた。

 

 

「……なるほど、ね。アンタも、そいつらと同じ」

 

「はい。私の身体もマリアージュと同じく、魔群の毒に犯された不死身の屍です」

 

 

 Aランクの魔力砲撃。それを受けて、平然としているイクスヴェリア。内に宿った魔力差故に、非殺傷では火力が足りない。

 だがしかし、殺傷設定でも通じはしない。不死不滅のベルゼバブ。彼女たちは例え、頭がもげようが、心臓を抉り出そうが、決して止まる事はない。

 

 

「では、続けましょう。貴方達に勝ち目はない」

 

 

 不死身の怪物を殺す為には、六千度と言う炎が必要となる。魔法であっても、用意するのは簡単ではない熱量だ。

 だからこそ、この怪物を止める為に必要なのは、超高火力の非殺傷。膨大な魔力によって気絶させる以外に、対処の術は一つだけ。

 

 ディバイドゼロ。それならば殺せるだろう。だがそれでは、死なせるしか出来ない。それは管理局員が目指す幕として、相応しくはないと思うから。

 やはり選べるのは、たった一つの道しかない。数十手先の詰みが来る前に、全力の魔力砲撃で彼女の意識を奪い取る。それが出来なければ、敗北するしかないのである。

 

 

「マリアージュは殺せない。イクスヴェリアは終われない。ベルゼバブは滅ぼせない。結果は何も変わりません。何があろうとも、私達は無価値であると証明されてしまったから」

 

 

 だがやはり、それは極めて至難な事だ。狭い空間故に、手札に制限を受けているのは六課も同じく。

 究極召喚は使えない。下手な射撃は味方を巻き込む。それでも、この場から動けば不利になるのは六課の側だ。そうであるが故に、制限された手札で為すしかない。

 

 ルーテシアは強化を続け、ガリューへと指示を飛ばす。ティアナは打開策を考えながら、隙を突いて魔力砲を叩き込む。塵も積もれば、山になるのだと信じて。

 そんな中で二人、彼らは少し違っている。前衛と言う近さであったが為に、少年少女は目撃したのだ。終われないと語る少女の瞳に、映った一つの感情を。

 

 

「君は何故」

 

 

 その感情を目にして、トーマ・ナカジマは黙っていられる人種じゃない。幼い彼は幸福であったから、誰もが幸福であれば良いと願える子供だ。

 

 

「貴女は何で」

 

 

 その感情を目にして、キャロ・グランガイツは黙っていられる人種じゃない。幼い彼女は愛を受けて育ったから、誰かを愛そうと想える優しい子供だ。

 

 

『こんなことをしているの!?』

 

「……何故、そのような問いを?」

 

 

 彼我の関係など、見ず知らずの敵でしかない。突然にテロリズムを行って、多くの人を傷付けた相手である事に違いはない。

 だからこそ、問い掛ける事に意味はない。そんな彼女の冷たい視線に、しかし少年少女は怯まない。触れ合える程に近い距離で、だから見えた物もあったのだ。

 

 

「目を見れば分かるさ。悲しそうな目をしている。無価値だと言った時に、泣いてる様に見えたんだ!」

 

「貴女はきっと、悪い人じゃない。戦う中で、そう感じた。だから何でと、私は知りたいと思ったんです」

 

「…………」

 

 

 迎撃の手は止まらない。触れれば溶ける死人と殴り合いながら、天を揺るがす号砲を躱しながら、少年少女は言葉を紡ぐ。

 悲しい瞳が見えたのだ。唯、悪いだけの人ではないと思えたのだ。だから、理由を知りたい。理由を知って、拭えるならばその涙を拭いたい。この二人は、心の底からそう想う。

 

 

「きっと何かがある筈だ。何も価値がないなんて、こんな道しかないなんて。手遅れなんて、在る筈ないんだ! もしそうだとしても、僕は何度でも手を伸ばす!」

 

「教えてください、貴女の理由! どうしてこんなことをするのか! 無限蛇から抜け出せた人を知っているから、きっと貴女だって!」

 

「…………優しいですね。貴方たちは」

 

 

 顔を俯けて、イクスは小さく絞り出す。胸に沸く想いの強さに、そうする事しか出来なかった。そうでなければ、怒り狂ってしまいそうになったから。

 

 

「余りにも痛い程に、とてつもなく残酷な程に、その優しさが彼を壊した」

 

 

 いいや、それでも耐えられない。もう無理なのだ。彼は、彼女は、知らぬ顔で壊していく。その優しさで踏み躙る。そしてそれに気付かない。そういう人でしかないのだと。

 

 

「彼は希望でした。一度も逢った事はないけど、私にとっては希望だったんです。あんなにも暗い場所に居て、それでも星を目指していたあの人が」

 

 

 地獄があった。人が死んで、人が死んで、人が死んだ。そんな地獄が其処にあった。永遠に眠ろうと思ったのに、目が覚めたら其処に居た。

 地獄があった。人を殺して、人を殺して、人を殺した。そんな地獄が其処にあった。もう眠りたいと思うのに、悪魔に呪われた血がそれさえも許してくれない。

 

 イクスヴェリアは終われない。機能停止が訪れない。何の為に生きているのか。何の為に殺しているのか。何の為に終われないのか。

 其処に価値があったのならば、きっとそれはせめてもの救いとなる。星を目指し続ける悪魔の背があったから、何かあるのだと期待を抱いて見上げていた。

 

 

「だってそうでしょう。彼が何かを見付け出せれば、何かを掴めたなら、私だってそんな風に成れた筈。本当の意味で、手遅れなんかじゃないと、認める事が出来た筈なんです」

 

 

 エリオ・モンディアルは常に監視されている。イクスよりも最低な境遇に生まれた彼は、何時でも処理できる様に首輪を嵌められて生きていた。

 彼をより孤立させるため、誰かに依存させないため、その映像をスカリエッティは多くの者に見せつけた。同じ実験体を殺し尽くすその姿に、多くの同胞たちは恐怖を覚えていた。

 

 だけど、イクスは其処に希望を見た。余りにも深い奈落の底で、それでも足掻き続けた悪魔。その命が終わる時に、何か答えを出せたのならと。

 

 

「けれど、トーマ・ナカジマ。貴方の身勝手な優しさが、彼の希望を圧し折った。生きる価値がないのだと、貴方の優しさが示してしまった」

 

 

 可哀そうな奴だから、許してあげないといけないのだ。そんな上から目線の優しさが、彼を支えていた最低限の理由さえも圧し折った。

 神の子を孵卵させるため、神の子に憎まれなくてはいけない。そのために多くを焼いて奪って壊してきたのに、憎まれる事さえも果たせなかった。ならば其処に何がある。彼は何もないと諦めた。

 

 

「けれど、キャロ・グランガイツ。貴方の温い優しさが、彼の想いを染めてしまった。無価値なゴミは、誰かの為に生きなくては。それ以外に道がないのだと、貴女の存在が歪めてしまった」

 

 

 諦めた先で、出逢った少女。雨に濡れた子犬を拾う様な、そんな気軽な気持ちで差し出された日溜りが彼を歪めた。

 どんな地獄の中でも歩き続けた少年が、たった一人に縋る姿を見せる様になった。結局自分に価値はないから、誰かの為に生きなくては許されないのだと。ならば、誰かの為に生きられないイクスは、一体何をすれば良いと言うのだ。

 

 

「だから、これは唯の私情です。私が戦う理由は一つ、これ以外にありません」

 

 

 無限蛇のスポンサー。時空管理局最高評議会のオーダーは、機動六課に花を持たせること。適度な事件を起こして、彼らに解決させること。

 その為に動員されたイクスヴェリアは、しかしそれに従う気など更々ない。これが私情に過ぎないのだとしても、彼ら二人だけは認めることが出来ないのだ。

 

 

イクスヴェリア(ワタシ)は、お前達を許さない。彼を、私を、無価値に変えたお前達。お前達だけは、絶対に許さない!!」

 

 

 だって、イクスヴェリアはそう生きられない。今も魔群に命を握られ、死ぬことも、生きることも許されない。

 だから彼女は怒りと共に、杖を振るう。指揮に従い迫る不死身の兵士たち。その攻勢は、怒りと同じく烈火の如くに増していく。

 

 

「弾けなさいッ! 暴食の雨(グローインベル)ッッ!!」

 

「――っ!? ぐぅぅぅぅぅっ!!」

 

 

 己を囲んでいたマリアージュが、纏めて全て弾け飛ぶ。内側から血を沸騰させて、自爆させて降らせる血肉の雨。

 体液全てが猛毒であるのだから、その雨は雫一滴さえも人を溶かす強酸雨。如何にトーマであっても、これほど至近で食らえば唯では済まない。

 

 

「消し飛べッ! 偽神の牙(ゴグマゴグ)ッッ!!」

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 射手を担当していた死人たちが変容する。既に片腕が巨大な大砲と化していた異形が、更に異質な姿へと変化していく。

 増殖する金属はまるで血肉の如く、脈打ちながらに死人の身体を覆い尽くす。回りの死兵を取り込んで、膨れ上がった異形は全身全てが一つの砲門。砲撃以外の機能を失くして、だがだからこそ威力は桁違い。

 

 放たれる号砲は、直撃すれば大陸が一つは消し飛ぶ程に。掠めてすらいないと言うのに、余波だけで翼を折られたフリードは大地に向かって落ちていく。

 

 

「イクス、ちゃん」

 

「僕たちが、君を追い詰めたのか」

 

 

 墜ちる飛竜を如何にか操り、列車の中へと転がり込んだキャロ。全身を焼き尽くす痛みに耐えながら、痛み以上の動揺を見せるトーマ。

 傷付き倒れ、立ち上がろうとする。それでも、その嘆くような怒りの声が耳にこびり付く。彼女が誰の事を言っているのか、分からなくても無視することなど不可能だった。

 

 

「気にしちゃ駄目よ、キャロ。どうせあんなの、アイツの勝手な八つ当たりなんだから」

 

「トーマも、救おうだなんて馬鹿やるなら、無力化の後にしなさい。ガキの駄々に、付き合ってやる筋合いなんてないわ」

 

 

 そんな彼らに対し、残る二人はバッサリと結論付ける。所詮は唯の八つ当たり、子供の駄々に過ぎないのだと。そうとも、彼女たちは彼ら程に、誰も彼もに優しくなんてあれないから。

 

 

「八つ当たり? 子供の駄々と!?」

 

「だってそうでしょう。アンタが勝手に、何処かの誰かに理想を投影していただけじゃない」

 

「その誰かが自分の理想に反したから、そうさせた奴が許せない。それの何処が、八つ当たりじゃないって言えるのよ」

 

「――っ! マリアァァァァァァァァァァジュッッッ!!」

 

 

 その間隙を指摘する。勝手に期待して、勝手に落胆して、勝手に絶望した。その怒りをぶつけて来た。唯、それだけに過ぎないのだと。

 身内に対する優しさはあれ、誰もに優しくあれる訳じゃない。そんな彼女達の言葉に激昂して、イクスヴェリアはその雑音を消す為に、巨大な砲門を彼女らに向けた。

 

 一撃放てば、それで終わりだ。例えエクリプスで分解しようとも、その衝撃全ては消し切れない。余波だけでも、少女ら三人を終わらせるには十分なのだ。

 迫る確かな脅威。放たれれば最期と言う状況。吹き飛ばされて消し飛ぶか、列車から転がり落ちて死を迎えるか。だと言うのに、二人の少女の顔に暗い色は一切ない。

 

 そうとも、彼女らには既に見えていた。

 

 

「ムッツリしてるから、煽り耐性高いと思えば」

 

「寧ろ逆よね。耐性低いから、無言だったって事でしょ」

 

『だからこうして、致命的な隙を晒す!』

 

「ディバインバスター!!」

 

 

 魔力を集めていた大砲に、翡翠色の光が突き刺さる。彼我の魔力差は圧倒的な筈なのに、屍兵で出来た大砲が砕け散る。

 単純に、正確に、結合部のみを狙って砕いた。遥か高みから軽々と、それを成し遂げた女が居る。白き衣を纏った彼女こそ、次元世界で最高峰の魔導師だ。

 

 

「なッ!? 高町、なのはッ!?」

 

「これで終わりだよ。“傀儡師”イクスヴェリア」

 

 

 三十と言うマリアージュを、突破して来たと言うのか。信じられないと、表情を引き攣らせる傀儡師。だが、それこそが侮りだろう。

 例えリミッターと言う枷があろうと、昆虫程度の知能しか持たない死兵には負けない。指揮官がその場に居なければ、突破は時間の問題だった。

 

 そんな状況だと言うのに、予備兵力を動員してしまった。怒りの余り、数を増やし過ぎてしまった。妨害に向けた手が緩む程に、その指揮が揺らぐ程に、ならばこそ彼女はこうして現れた。全てティアナの読み通りに。

 

 そうとも敵はイクス一人であり、予備動員を出した時には既に指揮能力の底が見えた。何れなのはも合流するなら、時間を掛ければ必ず勝てる。

 適度に挑発してやれば、面白い様にこちらの戦力を増やしていく。それをすればする程に、なのはの足止めが甘くなるのだとも気付かずに。

 

 そして時間を稼ぐことすら、前衛をやれる人間が二人居れば十分目途が付いていた。

 だからこそティアナは、突破してレリックだけを回収すると言う選択ではなく、戦闘で打倒す事を目的としたのだ。

 

 

「君が、僕たちを憎み続けるのだとしても」

 

「トーマ、ナカジマッ!」

 

「私達は、分かり合いたいと思うから」

 

「キャロ、グランガイツッッ!!」

 

 

 そしてなのはだけじゃない。ティアナだけでもない。彼も、彼女も、立ち上がる。その想いは、まだ折れてなどいない。

 トーマは拳に光を纏わせて、キャロは槍の先端に魔力の刃を生み出して、前へと駆ける。全ては彼女の悲しみを、打ち払う為に。

 

 

「先ずは此処で、君を縛る呪詛をゼロにする!」

 

「その手を掴んで、日溜りの中へ! 貴女が言う、彼も一緒に! 明日を共に目指そうよ!!」

 

 

 ああ、きっと彼は届くだろう。ああ、きっと彼女は成し遂げるであろう。それは確かな救いとして、この身を日溜りへと引き上げる。

 彼もそうだったのだ。魔刃もトーマに圧し折られ、キャロの温もりに救われた。彼でも耐えられなかったのだから、劣るイクスが耐えられる筈がない。

 

 きっと、自分は救われる。この手で、この残酷な優しさで、救われてしまうのだ。

 

 

「違う。違う。違う。違う。違う! 私は、こんな救い(モノ)、求めてないッ!!」

 

 

 これは違う。これは嫌だ。伸びて来る指先が温かいと知っているから、掴みたいだなんて思えない。

 だが、ならばどうすれば良い。イクスヴェリアでは、もう打破出来ない。此処に強大なる英雄が、集ってしまったのだから。

 

 

「先ずはその頭を冷やそうか。そうして、次を考えよう。……大丈夫。見捨てることはしないから」

 

 

 イクスヴェリア自身は、マリアージュと同程度の性能しかない。三十体ものマリアージュを退けた高町なのはが居る限り、彼女の敗北は確定している。何を為そうが、何を望もうが、イクスは彼らに捕縛されてしまうであろう。

 

 そして、その先で、一体何時まで意固地で在れるか。冷たく嬲る様な責め苦であれば耐えられても、優しく包む様な日溜りには耐えられない。そんな自覚があって、だけどそれは嫌なのだ。

 

 

〈ならぁ、どうしようかぁ? め・い・お・う・様ぁ?〉

 

 

 嫌だ嫌だと拒絶する。其処に解を出せないならば、それこそ子供の駄々である。泣く子が親に引き摺られる様に、彼女も無理矢理救われる。

 イクスヴェリアがイクスヴェリアである限り、その結末は揺らがない。そうと彼女が想ってしまったからこそ、その悪魔は其処に付け込む。ネチャリと嗤って囁くのだ。

 

 

〈当初の目的、上からの指示だとぉ、このまま負けても良いのよぉ? けど、冥王様ってばぁ、それで納得できるのかしらぁ?〉

 

 

 女の声だ。蕩ける様な蜜を思わせる、甘える声音で囁く声だ。その声は、念話と言う訳ではない。遠くから、掛けている訳でもない。彼女は此処に、此の場に居る。

 

 

〈綺麗よねぇ。真っ白よねぇ。穢れない純白って、ほんっと気に入らない。冥王様も、昔はああだったのに。憎いと思う。羨ましいかしら。妬ましいかも〉

 

 

 彼女は血に宿る怪異である。肉の器を持たない悪魔は、人の身体に寄生する。イクスヴェリアと言う少女は、彼女が現界する為の器だ。

 支配権は彼女にある。主導権は彼女にある。だからこそ、本来ならばこの様な誘惑なんて不要である。だがそれでも、全く無意味と言う訳ではない。

 

 ダストエンジェルは、まだ完成していないのだ。故にその真なる力を振るわんと思うなら、器の積極的な協力が必要だ。

 無理矢理に出ても、出力は低下する。イクスの性格では、彼女を表に出そうとしない。だからこそ、これまでは不可能だった全力行使。だが今ならば、きっと出来ると思うから。

 

 

〈なら、壊そっか。いいわよぉ、貴女が望むなら、悪魔(ワタシ)が願いを叶えてあげる〉

 

 

 悪魔は優しく言葉を掛ける。望まぬ救いを前にして、抗う器を誘惑する。奈落の底へ、地獄の底へ、何もかもを堕としてやろうと。

 そんな彼女の誘惑に、最早少女は抗えない。抗おうとも思えない。所詮己も彼も無価値に過ぎないのだから、全て無価値になってしまえば良い。

 

 

目醒めて(オキテ)! クアットロ=ベルゼバブ!!」

 

 

 暴食の罪を発現する。誰より悍ましき下劣畜生を、自ら望んで此処に呼び込む。イクスの瞳が黒く染まって、瞳孔だけは血の様な赤に。

 背を突き破って、内側から溢れ出すのは鉄の翼。無数に多量に折り重なり、まるで鳥の翼の如く。だが不吉な黒さを纏った羽は、天使と呼ぶには悍まし過ぎた。

 

 

「っ、何が!?」

 

「リミッター解除要請ッ! 誰でも良いから、早く出てッッ!!」

 

 

 渦巻く魔力は最早暴力的な程に、神の半分を内包しているトーマですら流れる冷たい汗を隠せない程の何かが其処に現出する。

 このままでは確実に全滅する。強大な神と戦い続けたからこそ、その経験で悟った高町なのは。彼女は慌ててデバイス越しに解除申請を発するが、何故か何処にも繋がらない。

 

 何かが来る。何かが来る。何かが来てしまう。ティアナが、キャロが、ルーテシアが、その悍ましき気配に震えながらも身を備えて――

 

 

「うふふ、ふふふ、アァァァァァハハハハハハハハハハハハッッッ!!」

 

 

 甲高い嗤い声と共に、堕ちて来る気配が伴う圧が、誰もを大地に叩き伏せた。

 

 

 

 

 

2.

 死人たちが震えている。血が沸騰し、肉が溶け出し、醜く腐りながらに崩れ落ちる。そして生まれるのは、汚泥の如き黒き水。

 血が池となる。肉が河となる。黒く黒く黒く黒く、腐臭を漂わせる黒が地を染めていく。ぐつぐつと煮え立つ様に、黒から何かが這い出して来る。

 

 

――七つの封印。七つの目と七つの角を持つ子羊により開かん。そのとき七人の御使い来たりて、七つの笛が吹き鳴らされる。

 

 

 それは六足六節六羽を持つ眷属たち。海の砂よりも多く、天の星すらも暴食する物。飛び立つ黒は蝗の群れだ。そして其処に不浄を示す蠅が混じる。

 池から生まれて来るのは、羽を持つ虫だけではない。地を這い摺るもの。蟻が芋虫が百足が油虫が、種々様々な虫が湧き出し続けている。其処に限りなどありはしない。

 

 

――血雹と火炎に灼き尽くされ、煮え滾る海に苦よもぎ墜つるとき、昼は消え夜は死に、蝗と共に殺戮の天使が放たれる。

 

 

 何時しか、空は昏き帳の下に。空の果てまで包み込み、陽の光を一筋とて届かせぬ程に。覆う雲は全てが羽虫だ。

 星の空を全て覆い尽くして、しかし尚数は尽きない。無尽蔵に増え続ける悪なる獣は、しかしその見た目通りの存在と言う訳でもない。

 

 

――ああ、されど楽園は此処になく、栄光など祓されない。統ては主が望む結末を、得ること叶わなかった為だろう。

 

 

 これは呪いだ。これは悪意だ。誰かを嫌い、誰かを恨み、誰かを憎む。その悪性情報の集合体が、虫の形を成した物。

 そうであるが故に、触れればそれだけで人が死ぬ。あらゆる病を発症し、あらゆる呪いをその身に受け、誰も彼もが死ぬであろう。この数は、その終わりを夢想させる。

 

 

――故に我等は渇望する。今一度の聖戦を。昏き地の底、千年に渡り獄へと繋がれたこの屈辱、晴らし濯ぎ拭いたいが為だけに。

 

 

 我は渇望する。我らは渇望する。正しき評価を。今一度の聖戦を。我が主へと示してみせよう。

 いと高き御身よ。貴方は選ぶべきを間違えた。此処に居るこの我こそが、真実相応しい存在なのだ。それを此処に示すとしよう。

 

 

アクセス――招来せよ罪の使徒(Apostle of Sin)

 

 

 イクスヴェリアの器の中で、罪を介して彼女が浮かび上がる。大地に伏して動けぬ敵を、嘲り見下しながらに一瞥していく。

 

 

――目醒めよ。目醒めよ。目醒めて覆い、埋め尽くせ。満ちて喰らい、世を塗り潰せ。

 

 

 ルーテシア・グランガイツが崩れ落ちた。余りにも強大過ぎる怪物に見られて、彼女は意識を手放していた。

 

 

――我等この世のものに非ずなり、この世のものに非ざりければ、この世が我等のものであるも道理なり。

 

 

 ティアナ・L・ハラオウンは舌を噛む。倒れながらも、気絶して堪るかと。そんな抵抗は、しかし無意味だ。せせら笑う声と共に圧が増し、そのまま暗闇の中へと落とされた。

 

 

――汝は求め訴える。我は求め訴える。我は求め訴えよう。目醒め主の声を聞け、我らいざ征き征きて王冠の座へ駆け上がらん。

 

 

 キャロ・グランガイツは必死に見上げる。救いを拒絶して、悪魔を呼んだ。その選択に涙を浮かべたまま、しかし何も出来ずに、他の者らと同じく暗闇の底へと落ちていく。

 

 

――おお! グロオリア!! 堕ちろ堕ちろ堕ちろ堕ちろぉぉぉ! Fuck off foolish God!!

 

 

 笑う。嗤う。哂う。ケラケラと愉しそうに、ゲラゲラと下品に、這う虫の王が嗤っている。ベルゼバブがその無様を嗤っている。

 この怪物は、余りに外れ過ぎている。真なる姿を見せただけで、誰もが意識を保てない。それ程の質を伴った、無限量の怪異である。

 

 

「何だよ、これ。全部、蟲の群れだって言うのかッ!」

 

「……通信障害。この虫がやってるの。ティアは、キャロは、ルーテシアは――っ!?」

 

 

 膨大な数と質。それを前にして、立っていられたのは二人だけ。高町なのはと、トーマ・ナカジマ。それ以外の者は皆、一瞥だけで潰れていた。

 得体の知れない状況に、緊張したまま身構えるトーマ。対してなのはは、慣れが故に動きを止めない。倒れた少女らに駆け寄ると、その状態を確かめる。

 

 息はある。鼓動はある。命に別状はないのだと、安堵してから女も見上げる。イクスヴェリアの中に現れた、その悪魔を睨み付けた。

 

 

「あ~ら、この程度で駄目なのぉ? ちょっと圧を加えただけでこれとかぁ、魂弱くなぁい? 初陣だからぁ、仕方ないのかしらねぇ。その辺、どう思う?」

 

 

 その怪物は、甘える様な声音で囁く。まるで閨事の後を思わせる様な、何処か媚びた囀り。ねっとりと見詰める瞳には、侮蔑と軽蔑と嘲笑の色が隠し切れない程に浮かんでいる。

 

 

「……お前、何だ」

 

「誰だ、じゃないのねぇ。女の子にそんな態度じゃぁ、紳士としては不合格よん」

 

 

 間違いなく、これはイクスヴェリアではない。その身体を使っているだけの別物だ。誰であろうと、今の彼女を見ればそう結論付けるであろう。

 そうとも、彼女は悪魔である。誰でもない魔群。自我のないベルゼバブ。その性質を利用して、最初の器の自我を焼き付けた。彼女はそうして生まれて来た。

 

 

「改めまして、初めまして、なのはちゃんにトーマ君。私、血に宿る怪異。クアットロと申します」

 

 

 悪魔を乗っ取ったクアットロ。或いはクアットロを模している悪魔。どちらであっても変わりはしない。彼女はクアットロと言う名の悪魔である。

 血肉の器を無くして悪魔となったが為に、彼女は動く為に器を必要とした。イクスヴェリアとは、その一つ。彼女の身体に流れる毒こそが、魔群の器である証。

 

 

「本当は折角の挨拶だもの。色々用意しておこうと思ったんだけどぉ、ちょっと急な話だったからぁ。あんまりないのよねぇ、だ・か・ら」

 

 

 この女は強大だ。この悪魔は規格外の存在だ。真の力で現出してみせた今、その気になればこの場に居る誰もを一瞬で葬れる。

 だがこの女は悪辣だ。この悪魔は小心であり、臆病だ。だからこそ、クアットロ=ベルゼバブが真面に戦う事などない。此処に現れたと言う事は、もう既に勝利への算段が付いたと言う事なのだ。

 

 

「この程度の雑な物だけど、御受取下さいませってねぇぇぇぇぇッ!!」

 

「――っ! トーマ君はティアを!!」

 

「りょ、了解ッ!」

 

 

 何をなす気か、察してなのはは叫ぶ様な声で命じる。キャロとルーテシアを両手に抱いて、彼女は空へと舞い上がった。

 命じられたトーマは慌てながらも、ティアナの身体を抱き上げる。両手で彼女を抱き抱え、翼の道を展開する。魔力で作った道の上へ、後退して着地した。

 

 まるでそれを待っていたかの様に、前方車両の魔力が膨れ上がる。直後、発生するのは視界を埋め尽くす程の極光と轟音だった。

 

 

「レリックを、爆発させたのかッ!?」

 

「せいか~い! 因みにぃ、あの列車の中ぁ、一体どのくらい生き残りが居たか知ってるかしらぁ?」

 

 

 空に着地して、その音の発生源を見る。光に焼かれた視界が視力を取り戻した時、其処には列車の残骸だけしか残ってはいなかった。

 その被害に驚愕を漏らすトーマ。そんな彼の言葉を嗤って肯定しながら、クアットロは問い掛ける。生存者が一体どれ程に居たと思うかと。

 

 

「イクスちゃんってば、死体がないと何も出来ないのに。な~んでか、殺したがらないのよねぇ。けどざんねぇん、折角残っていた人達はぁ、震え怯え慄いたまま、み~んな無様に死にましたぁぁぁ!!」

 

「――ッ!? お前ぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

 

「あはははははッ! すっごいわねぇ、全く関係のない他人が百数十人死んだだけでぇ、何でそんなに怒れるのぉぉぉぉ」

 

 

 ケラケラゲタゲタ、愉しそうに嗤うクアットロ。怒りを示すトーマと違い、怒りながらも冷静に、なのははその隙を探し続けている。

 だが、しかし隙がない。遊びながらも、付け込む場所が何処にもない。通信妨害は今も続いていて、リミッターの解除すらも行えない。

 

 せめて足手纏いを減らそう。油断なく敵を睨みながら、山間にある平地に向かう。其処に居たヴァイスとウーノに、眠る少女達を託した。

 

 

「あ、ごめ~ん。前言撤回しとくわぁ。だって、実はぁ、あの列車には、トーマ君の知り合いが乗ってたのよねぇ」

 

 

 なのはがそう動いている間にも、下劣畜生の遊戯は続く。今思い出したと言わんばかりの表情で、告げる言葉は悪意の泥。

 最初から、彼の知り合いが乗っている事は知っていた。だからこそ、イクスにこの列車で事を起こせと命じていたのだ。そして故にこそ、何処に居たのかも知っている。

 

 無数の虫が飛来する。その足で持つのは、虫の全身より大きな物。首を食い千切られ、焼け爛れている男女の頭部。苦悶に満ちたその顔を、両手で受け止め彼に見せ付ける。

 

 

「僕お隣のパパさん。私お隣のママさん。痛い痛いわ。余りに余りに痛いからぁ、こ~んな姿になっちゃったぁぁぁ」

 

 

 パクパクと、虫を使って操る人形。両手の首を使って演じる悪趣味な人形劇を見せ付けて、笑顔で煽り言葉を突き付けた。

 

 

「ちゃ~んと、守らないとダメじゃない。ね、トーマ君」

 

「クアットロォォォォォッッ!!」

 

 

 怒りに満ちた叫びを上げる。それでも腕に抱いた重みが、彼に特攻する事すらも許さない。唯、怒りの声を上げる他に何も出来ない。

 その姿を嗤う。その無様を嗤う。両手で遊んでいた人の首を投げ捨てながら、クアットロは嗤っている。その嘲笑に、怒りを抱くのはトーマだけではない。

 

 

「ディバインバスター!!」

 

「無駄。無駄無駄無駄。イクスちゃん如きに苦戦してたアンタらがぁ、この私を傷付けられる訳ないじゃないッ!」

 

 

 少女らを預けて来たなのはは、杖を振るった翡翠の光を撃ち放つ。建物一つは軽々と消し去る破壊の力は、しかし魔群に傷の一つも付けることが出来ない。

 魔力制限がある以上、無限に魔力を生み出す異能も意味はない。この状況では、非殺傷では無理だ。即座に割り切り、次に放つは殺傷設定。続く光の一撃を、真っ向から受けながら、それでも魔群は嗤っている。如何にか付けた傷は、一秒も必要とせずに塞がっていた。

 

 

「ティアも頼みます! 僕はアイツを!」

 

「そんくれぇは任せとけ。お前は、あの外道を頼む!」

 

「はいッ!!」

 

 

 無駄と嗤う悪魔に対し、光の砲撃を当て続ける。まるで変化を見せない怪物を前に冷や汗を掻きながら、高町なのはは力を止めない。

 そんな砲火に隠れる様に、後退したトーマはティアナを預ける。そして意識を失ったティアナを受け取ったヴァイスから、激励を受けて強く頷いた。

 

 この僅かな時間でも理解出来ている。イクスヴェリアの内に居たこの悪魔は、決して許してはならない外道であるのだと。

 高町なのはが魔力制限を解除出来ない現状、最大火力はトーマとなる。ディバイドゼロを使う覚悟は決まらずとも、彼の全力攻撃ならば届く筈である。

 

 

「オォォォォォォォォッ!!」

 

 

 大地を蹴り上げ、翼の道を駆け上がり、握った拳を強く打ち出す。放つはゼロ距離からのディバインバスター。

 これ以上ないと言う魔力を込めて、確かな全力と共に放った拳。光の雨に打たれていたクアットロの顔に、それは寸分違わず撃ち込まれて――

 

 

「今、何かしたのかしらぁ?」

 

「――ッ!」

 

 

 己の全力ならば届く筈だと、そんな物は唯の思い込み。そうでなければ打つ手が完全に無くなってしまうから、そう思いたかっただけなのだ。

 結局、それだけのこと。魔力砲をゼロ距離で打ち込まれたクアットロはその笑みを揺るがさず、打ち込んだ筈のトーマの右手は肘まで余さず溶けていた。

 

 

「トーマ君ッ! 狙うべきなのは、クアットロじゃなくて――」

 

「はい、カットー。横から助言は禁止でーす」

 

 

 飛び掛かったトーマに僅か遅れて、なのはは指示を出そうとする。彼の全力が届かぬならば、此処で出来る対処は一つだけ。

 通信を妨害する虫をディバイドゼロで消せたのならば、制限を外した高町なのはが戦力として運用できる。それを見抜いているのはクアットロも同じく、だからこそ届かせる筈がない。

 

 無数の羽虫が津波となる。滝の如くに降り注ぐ黒き雨が、トーマの身体を飲み干し、二人の距離を物理的に遮った。そして、それだけでも終わらない。

 

 

「本物を見せてあげるわ。先ずは弾けなさい」

 

「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」

 

 

 トーマを包み込んだ黒き津波が、一斉に破裂して膨れ上がる。爆発と共に悪性情報が流れ込み、トーマの心を凌辱していく。

 痛い痛い痛い痛い。余りの痛みに悶絶して、付けられた傷も塞がらない。エクリプスが正常に機能しなくなる程に、魔群の毒は凶悪なのだ。

 

 

「暴食のクウィンテセンス。肉を食み骨を溶かし、霊の一片までも爛れ落として陵辱せしめよ」

 

 

 トーマであっても、耐えられない程の呪いの総量。今の制限されたなのはでは、確実に即死したまま戻って来れない呪怨である。

 そうであるが故に、彼へと助けの手を伸ばせない。尚も襲い来る羽虫の群れですら、全力砲火を当てても落とせない。故に当然、その咒言は止められない。

 

 

「死に濡れろ――――暴食の雨《グローインベル》!!」

 

 

 空の色が変わった。黒き羽虫に覆われていた空が、赤く赤く染まって行く。羽虫が過ぎ去った後、一面の景色は宛ら血の池地獄。

 そして、雨が降り注ぐ。糞尿を腐らせた様な異臭と共に、赤い赤い雨が降る。全てを腐らせ、全てを溶かす雨が降る。降り注ぐ場所は、此処だけでは済まない。

 

 

「クラナガン市民の皆様ー! 本日の天気は酸性雨! 家の中に居ても家屋ごと溶け出すのでぇ、みっともなく死んでしまいましょー!!」

 

 

 山岳地帯だけではない。東部も南部も西部も北部も、ミッドチルダの全土に腐った雨が降り注ぐ。人を腐らせ溶かす悪意が、何処までも何処にでも降り注ぐのだ。

 

 

「あはははは、ははははははははッッ!! 貴方達が頑張っちゃった所為よぉぉぉ!! 民間人が、どれだけ死んじゃうのかしらねぇぇぇ!! ほんっと、最っ高ッ! たーのしー!!」

 

 

 降り注ぐ雨は全てを溶かす。前線に居るなのはやトーマは無論の事、後方へと退いた筈のヴァイスやウーノたちもまた巻き込まれる。

 溶けていく。溶けていく。溶けていく。咄嗟に張ったシールドが溶けて、盾にした己の身体が溶け出して、耳を塞ぎたくなる様な絶叫が響いた。

 

 誰かが死ぬ。誰もが死ぬ。このままいけばどうしようもない程に、それが嫌でも分かってしまう。だからトーマは、気が遠くなるのに耐えて、赤い空を睨み付けた。

 あれがあるから誰かが死ぬ。あれがあるから誰もが死ぬ。あの空を消し去らねばならないと、歯を食い縛り腕を振るう。放つのは最大出力の、ディバイドゼロ・エクリプス。

 

 

「ディバイドゼロォォォォォォォッッッ!!」

 

 

 全てを分解する光。其が喰らうのは、天の気候であっても例外ではない。死力を賭した一撃は、確かに暴食の雨を打ち破る。

 だが、それすらも掌の上。この場で唯一、自分を傷付け得るその力。それを無駄に切らせる為に、そして無防備となる瞬間に、確実に詰ませる為に。

 

 既に砲門は捉えている。力を全て放った直後の、トーマに標準が合っている。だから当然の如く、クアットロはその一撃で終わらせた。

 

 

「はい頑張りましたー。けど残念でしたー。其処にゴグマゴグだ、そーい!」

 

「――っ! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!」

 

 

 壮麗たる山脈が、根こそぎ全て更地と変わる。余波だけでそれ程の被害を出した砲撃を、直接浴びた少年は襤褸雑巾の如くに落ちた。

 焼け焦げて、倒れた身体は空しく痙攣を繰り返すだけ。立ち上がる力は愚か、意識を保つ事すらやっとである。そんな少年を見下して、阻めなかった女を嗤って、クアットロは優雅に礼をしてみせた。

 

 

「これにて、フォワード全滅にございますぅ。……ってか、どうしようかしらねぇ。面白半分で出て来たけどぉ、まだこの子たちを潰す訳にはいかないんだしぃ。その辺、如何思いますぅ? 不屈のエース様ぁ」

 

「クアットロ! 貴女はッ!!」

 

 

 下劣に嗤う女を見上げて、怒りの籠った気炎を上げる。それでも、今の彼女に果たして何が出来るであろうか。

 魔力制限が解けない限り、クアットロを傷付ける事すら出来はしない。如何に彼女の歪みが強化と蘇生の力であっても、素の戦力値が大き過ぎるのだ。

 

 強化なしの砲撃では、虫の一匹も落とせない。今の限界まで引き上げた全力砲でも、クアットロは傷一つ付かなかった。総じて詰みだ。出来る事など何もない。

 だがしかし、クアットロと言う女は慎重だ。小心とすら言える程に、過剰な警戒を張り巡らせる。そういう性格であればこそ、必ず勝てるからと言って無策で動くことはない。

 

 

「そんな訳で、こ~んなのは、どうかしらぁ?」

 

 

 故に、確実な無力化を。その為にも悪辣な手腕が、狙うは高町なのはではない。

 虫が飛来する。雨に溶かされたシールドの穴を通じて、飛翔した羽虫が眠る少女らの口や鼻から体内へと。

 

 そして、彼女たちは起き上がる。血に宿る怪異に呪われ、即座に武具を構えて飛び立った。高町なのはの、命を狙って。

 

 

「いっけー! ティアちゃん一号! 続けー! るーちゃん二号!」

 

「ティア!? ルーテシア!?」

 

 

 クロスミラージュとアスクレピオス。二つのデバイスで魔法を行使し、傀儡と化した少女たちが襲い来る。

 反射で迎撃しそうになる己を抑えて、なのははその名を呼び掛ける。だがしかし、何度呼び掛けようとも反応はなかった。

 

 

「あはははは! 呼びかけてもムッダで~す! 魔群は血に宿る怪異。血を流す者なら全て、私は傀儡に変えられる」

 

 

 魔力弾を放ちながら、追い掛けて来る傀儡たち。安全地帯に置いたと認識していた仲間が落とされた事実に、なのはの思考は混乱する。

 だからこそ、だろう。考えれば直ぐに気付けた筈の当たり前に、その瞬間まで気付けなかった。ティアナとルーテシアが操られたのならば、残る者らはどうなったのかと言う事を。

 

 

「はい。注もーく」

 

 

 パンと両手を叩いて、起き上がる。其処に居たのは、虫に意識を奪われた男と女。彼らを見せ付けて、クアットロは歪に嗤う。

 一体何をする気なのか。まさか。脳裏に浮かんだ最悪の展開に、顔を青褪める高町なのは。彼女の目の前で起きた現実は、その想像と寸分違わない物だった。

 

 

「ちょっと自慢しちゃうわぁ。私ってばぁ、こーんなことも出来るのぉ。BANG!」

 

「――っ」

 

 

 膨れ上がった。血肉が沸騰した。内側から破裂した。起こった出来事など、ただそれだけのことだ。

 眼球が零れる。脳漿が吹き飛ぶ。骨と肉と血が解体されて、立ち上がった男女は絶命した。クアットロは嗤っている。

 

 

「さらば、ヴァイス君三号! ウーノ姉さま四号! 貴方達の無駄で無価値な殉職は、多分三秒くらいは覚えてます。1、2の、ぽかん。クアットロは、犠牲者のことを忘れてしまった!」

 

「貴女はぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

「あはははは! でも駄ぁ目。なーのはちゃん。貴女の遊び相手はぁ、私じゃないのよぉ」

 

 

 笑う。嗤う。哂う。ケラケラゲタゲタ、にやけた面で嗤っている。そんな魔群に怒りを向けても、その怒りすら届かない。

 傀儡と化したティアナとルーテシアが、その道を阻むのだ。思わず立ち止まるなのはの脳裏に、先の光景が浮かぶ。傀儡を自爆させることが出来る。その情報は最悪だった。

 

 

「リミッター解除したりぃ、やる気なさそうだったりしたらぁ、一号と二号もー、三号四号みたいになっちゃうから。ちゃ~んと、頑張らないとダメだゾ!」

 

 

 既に詰みだ。この二人は救えない。傀儡と化した人々を、救う手段をなのはは持たない。

 血を喰らい尽くす血染花。この状況を打破できる者など、本部に居る彼女くらいであろう。連絡が通じたのならば、その事実に忸怩たる想いが湧き上がる。

 

 

(どうすれば、どうすれば良いの!?)

 

 

 魔力ダメージで無力化する。駄目だ。無力化させた瞬間に、クアットロが爆弾に変えてしまう。ティアナもルーテシアも助からない。

 クアットロを狙い撃つ。駄目だ。限界まで高めても、リミッターがある以上はダメージを与えられない。それに今のクアットロの気分を害せば、必ず誰かを壊される。

 

 だから詰みだ。彼女が出て来る前に、制限を解除出来なかった。その時点で敗北は確定していたのだ。それでも、認める訳にはいかない。見捨てるなんて選べない。

 どんな時でも諦めず、前に進み続けるエース。だからこそ、不屈の二つ名を冠した女だ。此処まで詰んだ状況でも、何も諦めることはない。それを知っているのは、クアットロとて同様なのだ。だからこそ――

 

 

「Go-! 自爆特攻兵器五号!!」

 

「トーマ君までッ!?」

 

 

 この女は一切の油断もなく、己の傀儡を増やしていく。念入りに、確実に、高町なのはを追い詰めていく。

 石橋を叩いて渡ると言う言葉もあるが、クアットロの臆病さはそれでも表現出来はしない。この女は石橋を叩いて砕き、新たな橋を架け直さないと安心出来ない小心者だ。

 

 

「私ってばさー、念には念を入れるタイプなの。もし万が一億が一、って怖くない? ダイス振るのって、信用できないって言うかぁ。サイコロ自体に細工した方が、安全だと思う訳よ」

 

 

 だからこそ、倒れた者たちは既に全員が掌中にある。ゆっくりと立ち上がる桃色の少女が、虫に寄生された白竜が、高町なのはの姿を見ている。

 

 

「それと、喜びなさい。アンタたちは殺さない。けど、高町なのはは違う。あの女こそが最高傑作だなんて、ドクターの勘違いを正す為にも、あの女だけは必ず殺す」

 

 

 リミッターがある。部下を人質に取られた。それだけで、封殺されている高町なのは。彼女が父の最高傑作などと、クアットロは認めていない。

 ジェイル・スカリエッティは間違えているのだ。男女の魂を融合させる事で、陰陽太極を作り上げる。そんなことが出来る訳がないのだ。出来ていたのなら、こんな無様は晒していない筈だろう。

 

 己達を生み出した偉大な父も、時に間違えることはある。高町なのはの死体を晒して、それを彼に教えてあげよう。そうとも、それが孝行娘の役目であるとクアットロは信じている。

 

 

「序に、アンタたちは保険にしときましょう。私は私の傀儡がある限り、生き続ける事が出来る悪魔。だからこそ、アンタら全員、クアットロになりなさい」

 

 

 今のイクスヴェリアと同じく、彼ら全てを己の器と変えておく。自身に逆らえず、自身に抗えず、自身に都合が良い様に生きる器へと。

 そしてクアットロは嗤う。漸くに父の誤解を解けるのだと、己こそが最高傑作だと示せるのだと、彼女は満面の笑みと共に最後の命を下して――

 

 

「自爆特攻兵器六号。キャロちゃん、出――」

 

「その子に、手を出したな」

 

 

 故にこそ、彼の逆鱗に触れたのだ。

 

 

 

 

 

 そして、彼が姿を此処に現す。その瞬間に黒き炎が燃え上がり、天を覆い尽くす悪意の群れを一つ残らず消し去っていた。

 突然の変化にクアットロが混乱する中、当然エリオは止まらない。敵は己と同じく反天使。ならば何一つとしてさせる間もなく、殺し切るのが最上だ。

 

 

「無頼のクウィンテセンス。肉を裂き骨を灼き、霊の一片までも腐り落として蹂躙せしめよ」

 

「なッ!? エリ――」

 

 

 気付いて、反応して、だが遅い。既にその瞬間には背後を取られていて、振り返った直後には歪んだ槍が器に刺さっている。

 根元までも貫き通さんと言うかのように、深く、深く、深く。獲物を捕らえた悪魔の王は、魔群が逃げ出すよりも早くに力を示した。

 

 

「汝ら、我が死を喰らえ! 無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)!!」

 

 

 腐った炎が燃え上がる。悍ましい炎が焼き尽くす。クアットロ=ベルゼバブだけでは済まない。彼女の器となっていた、少女の身体もまた燃え堕ちる。

 

 

「嘘!? 嘘嘘嘘嘘嘘よぉぉぉぉ!?」

 

〈ああ〉

 

「不死身の魔群が!? 不滅の私が!? 燃える腐る消えるぅぅぅぅッ!?」

 

〈初めて、逢えた。本当は、もう少し早く、逢って話がしたかった〉

 

 

 慌てて器の少女を捨てて、如何にか逃れようと足掻くクアットロ。滅びの力を前にして、それは悪足掻きにしかならぬであろう。

 それでも、逃げ出そうとする。例え寿命を一分一秒伸ばす程度の成果であっても、手にしようと逃げていく。故に残されるのは、空っぽになった器の少女だけ。

 

 

「エリオ・モンディアル」

 

「…………」

 

 

 残された少女は、その最期の時に出逢う。触れ合う程に近いその距離で、黒き炎に燃やされながらに語る。

 

 

「私は貴方に、憧れていました。泥の中からでも、先に進み続ける貴方に。きっと貴方なら、罪人の価値を示せる筈だと」

 

「…………」

 

「でも、もう良いんです。悪夢は終わる。苦しいだけの命は終わる。その直前に、強い貴方が見れたから」

 

 

 焼かれながらも微笑んで、腐って消えていくイクス。最期の瞬間だけは安らかに、そうして眠る彼女の言葉に笑う。その最期に、届くだろうかと想いながら。

 

 

「……愚かな君に、教授してあげるよ。無価値なゴミでも、生きる意味はある。泥の中からでも、目指せる場所はある。罪人に価値はなくとも、為した行為の先に価値があるなら、きっとそれは無価値じゃないんだ」

 

 

 口にして、想う。どの口が言うのかと、内心で苦笑する。エリオ・モンディアルの心には、折れている部分もある。心の底から、この言葉を口にしている訳ではない。

 それでも、彼女はそれを望んでいる気がした。そして、そう在りたいと願う気持ちも確かにある。だからこそ、無価値の悪魔は己に誓う様に、確かに此処に語るのだ。

 

 

「僕たちは、本当は何処にだって行けるし、何にだって成れる筈なんだから」

 

 

 そうとも、優しい日溜まりに救われたから、守りたいと思った訳じゃない。この優しい少女を助けたいと、想ったから守ると自分で決めたのだ。

 

 

(私、勘違いしていたようです)

 

 

 言葉も話せない程に、本当に一瞬でゴミに変わっていく少女。それでも最期に、その言葉は届いていた。

 

 

(貴方は優しさで、弱くなった訳じゃなかった。それを選ぶしか、出来ない訳じゃなかった)

 

 

 だから、彼女は気付いた。本当に、己の怒りなど不当な物であったのだと。そうとも、怒る必要なんてなかったのだ。

 

 

(私の憧れは、自分の意志で、生きる意味を選んだんだって)

 

 

 だって彼は、今も憧れた強さを持ったまま、己で選んだ道を歩いていたのだから。

 そんな答えを見付け出し、安らかな笑みを浮かべたまま、イクスヴェリアと言う少女の命は此処に終わりを迎えた。

 

 

 

 

 

「……魔刃、エリオ・モンディアル」

 

「高町なのは。英雄殿か」

 

 

 無価値に変わった残骸を風に撒いて、振り返ったエリオに言葉を掛ける。

 何処か鋭く冷たい表情で、それでも浮かんだ色は敵意じゃない。不満はあるが、それを追求する資格はないから。

 

 

「ありがとう、と言っておく。正直、結末に納得はしてないけど」

 

「無用だよ。僕らは一応、同じ管理局員だ。戴く主に違いはあれど、望む結果はきっと一つだからね」

 

 

 有象無象の言葉に興味はないのだと、言わんばかりに切り捨てて歩く。進む先に横たわるのは、桃色の髪をした少女。

 気絶したままの彼女に触れて、その鼓動を確かめる。安堵と共に息を吐くと、優しくその髪を撫でながら、一つの懸念を言葉に出した。

 

 

「奴は焼いたが、あれで中々にしぶといからね。一応、血染花に見せておくと良い」

 

「うん。言われなくても」

 

 

 血染花を受け継いだ女、月村すずか。彼女ならば血の内に宿った魔群の毒を、排除する事も可能であろう。

 その行為がどんな結果を呼び込むことになるか、エリオは僅かに察しながらも語らずに、なのはは分からぬが故に受け入れた。

 

 そうして、為すべきことは全て終えた。故に此処に居る意味を失くしたエリオは、倒れる人々を残して立ち去って行く。その背中を。

 

 

「エリ、オ」

 

「トーマ・ナカジマ、か」

 

 

 誰よりも頑丈であるからこそ、誰よりも先に意識を取り戻した。そんな少年が、敵意に満ちた視線で射抜いていた。

 彼が目覚めたのは、あの瞬間。イクスヴェリアと言う少女が、エリオ・モンディアルに殺されるその瞬間のことだったのだ。

 

 

「どうして、殺した。お前なら、他に手段が――ッ!!」

 

「なかったさ。イクスヴェリアは、クアットロに汚染されていた。生かして捕えていたのなら、被害はきっと増えていた」

 

 

 だから、口にしてしまう。それでも、それは心の弱さだ。出来る力がなかった時点で、言う資格などありはしない。

 それが分かっているから、不平を語らなかった高町なのは。トーマは彼女と比しても幼いから、気に入らないと口にしている。

 

 そして、多分、それだけではない。己の力が届かなかったことよりも、エリオが殺したという事実が心を占めている。

 自分があの日、許してしまった悪魔の少年。もしもあの時、許さないという選択をしていたのならば――この少女は死ななかったのではないか、そんな風に思ってしまったのだ。

 

 

「エリオ・モンディアルッッッ!!」

 

「そう殺気立つなよ、弱虫トーマ」

 

「が――っ!?」

 

 

 だから、そんな弱さを叫んだトーマ。立ち上がることも出来ない彼に近づくと、エリオはその頭を踏み付けた。

 

 

「結局結論なんて、一つだろう? お前は弱いから、そうして這い蹲っている事しか出来ないんだ」

 

 

 足蹴にして、踏み躙る。あの日の憎しみはまだあって、どうでもいいと嗤うことはまだ出来なくて、だから見下しながらも吐き捨てる。

 これは敵ではない。この少年は己を否定した。そして己も、彼の対となる以外の道を選んだ。だからこの憎悪は必要ないと、それでも感情だけは抑え切れないから。

 

 

「精々頭を低くして、お零れに預かろうとするが良い。同じ組織の仲間なんだ、態度次第で恵んでやるさ」

 

 

 見下しながらに、嗤って告げる。軽く顎を蹴り上げて、転がる無様で溜飲を下げる。これを処分する訳には、まだいかない。彼らと敵対する気は、まだないのだ。

 だから、それで終わらせる。こちらに杖を向けようとしている高町なのはが、動き出す前に身を翻す。今度こそ、何を言われても止まらない。そう決めた彼の背に、掛かる言葉は何もなかった。

 

 

「くっ、そぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!」

 

 

 唯、残された少年の悔しそうな叫びが――彼の背中にも届く程、戦場痕を振るわせるのだった。

 

 

 

 

 




クアットロォォォォ! ざまぁぁぁぁッ!

汚物さん焼却シーンの推奨BGMは“若き槍騎士~Theme of Erio~”
三話目にして犠牲者四人と言うハイペースを維持しつつ、今回は此処まで。


次回更新は明日の24時を予定しております。


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第四話 白百合 リリィ・シュトロゼック

前話までに比べると、少し分量控えめ。(前話までが長過ぎた)

推奨BGM
1.Fallen Angel (Paradise Lost)
3.To The Rial (リリカルなのは)


1.

 

―――主に大いなる祈祷を捧ぐ(ヘメンエタイツ)

 

 

 第一管理世界ミッドチルダ。首都クラナガンの遥か上空、天空に座す高みより眼下を見下ろしながらに一人の少年が咒を紡ぐ。

 赤き髪に、蒼き瞳の少年。黒く染まった鎧の上から、身に纏う白き外衣を冷たい風に揺らせる。エリオ・モンディアルは、此処で奈落への門を開く。

 

 

「エルアティ・ティエイプ・アジア・ハイン・テウ・ミノセル・アカドン・ヴァイヴァー・エイエ・エクセ・エルアー・ハイヴァー・カヴァフォット」

 

 

 右手で何かを求めるかの如くに虚空を掴み、左手は己を保たんとするかの如く胸に当て、一つ一つと想いを込めて咒を織り成す。

 変化は明確だ。一見して分かる程に、その身に魔力が渦巻いている。言葉を一つと増やす度、内なる力が増していく。溢れる瘴気は既にして、文明の一つ二つは容易く消し去れる程に。

 

 

「アクセス――我がシン。アッシャー・イェツラー・ブリアー・アティルト―――開けジュデッカ」

 

 

 暗く、暗く、暗く。背から燃え上がるのは、暗く黒き堕天の翼。左の肩より伸びた穴だらけの片翼は、他者に不吉を与える悪魔の印。

 同じく左にある瞳が、黒く赤くに染まって行く。頬に走る赤き刻印。燃え立つ様な喜悦と共に、嘲りを込めた笑みを張り付ける。全てを無価値と変えてしまう、悪魔の力が彼を犯す。

 

 

汝は出て行け(ティエム・エレーヌ)――我は彼らを識りたい(ヴェネドゥアー・オタム)

 

 

 接続した門を通じて、己を奪い取ろうとしてくる悪魔(ナハト)。膨大な力を持つ彼に染められ掛けながら、エリオは歯を噛み締めて意識を保つ。

 このまま全てを焼いてしまおう。そう嗤うナハトの声を己の意志で抑え付け、その力を最大出力で此処に引き出す。制御を誤る訳にはいかない。制御をしくじる事などあり得ない。

 

 ここには、あの娘が過ごす日々があるから――

 

 

我は汝を召還す(ディエスミエス・イェスケット)――闇の焔王、(ボエネドエセフ・)悪辣の主よ(ドゥヴェマー・エニテマウス)

 

 

 掴まんとしていた右手の内に、黒く暗き炎が灯る。無価値な色をしたそれは、物質世界にあるあらゆるものでは防げず、あらゆるものを消し去る炎。

 震える腕に力を入れて、震える心を片手で抑えて、右手を天高くに掲げる。無価値の力は、まるで風を孕んだ炎の如く、揺らめきながらに膨れ上がる。

 

 

「無価値なるもの。無頼なるもの。邪悪なるもの。不正の器。敵意の天使。焔の王よ。出で参れ」

 

 

 掌の上で暴れ狂わんとする黒き炎。それを此処に、三つと分ける。己の意志で制御して、狙う的だけを確実に燃やし尽くす。

 赤き瞳孔が細かく動く。黒き眼球が追う先は、ミッドチルダ西部エルセア地方、南部アルトセイム地方、ミットチルダ東部森林地帯の各三ヶ所。

 

 其処には、悪逆の坩堝がある。最悪の蟲毒がある。狂人のアトリエが存在している。非合法な研究施設が其処にある。

 

 

「汝ら、我が死を喰らえ――無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)

 

 

 雲より高き空の果て、成層圏の向こうから、黒き炎が地に堕ちる。全てを燃やし腐らせ消し去らんと言う、悪魔の炎が彼の地を滅ぼす。

 まるで硫黄の雨に焼かれたソドムとゴモラの如く、涜神の地が消えていく。誰かの悲鳴が、秒とせずに消え去る。今も苦しんでいた誰かの命が、瞬きの内に腐って燃えた。

 

 後には何も残らない。全て無価値だ。無価値に変わった。

 

 

「…………」

 

 

 己で為すと決めた。だと言うのに、胸に去来するこの感覚は何だろう。悲しさにも似た空しさを、己の手で燃やしながらに感じている。

 

 自分勝手に感じていた同族意識。せめて生きたいと望む者だけは、可能な限り生かしたい。そんな風に決めていた想い。それら全ての甘さを、此処で無価値に堕とすと決めた。

 

 そう。エリオは決めたのだ。必要だから、全てを無価値に変える。時間がないから、哀悼などは示せない。犠牲者たちへの憐憫は、此処で全て捨てると決めた。

 

 だから、この空虚な想いなど、唯の錯覚でしかないのだろう。

 

 

「……外れ、か」

 

〈どうするかい、相棒?〉

 

「知れたこと。次に行くぞ、ナハト」

 

 

 何もかもが一瞬で燃えた。その結果に、エリオは嘆息と共に告げる。求めた結果には届かなかったが、だからと言って止めはしない。

 これはまだ一つ目だ。時間はまだ残っている。いいや、今この瞬間にしかないだろう。だからこそ、踏み出したからには止まらない。次の世界を目指すのだ。

 

 脳裏に浮かべるのは、管理局に関連する非合法実験施設の位置情報。最も近い場所を思い浮かべて、転移魔法を行使する。

 次元を渡り、次なる世界へ。本来ならば航行船を必要とする移動距離でも、エリオならば生身で跳べる。それ程までに、彼は人を外れる様に作られていた。

 

 故に、第一管理世界から第二管理世界へと。一つ一つ順繰りに世界を渡る。星の海でも生身で生存可能な魔人の身体が、疲弊する程に繰り返す。

 

 焼いた。焼いた。焼いた。焼いた。燃やした。燃やした。燃やした。燃やした。壊し穢し堕とし腐らせ――多くを奪いながらに繰り返す。何度でも何度でも何度でも、望んだ結果に至るまで。

 

 

 

 さて、エリオ・モンディアルは何故この様な真似をしているのか。その問いに対する解を齎す前に、語るべきことが僅かある。

 先の一件、エリオの手によるイクスヴェリア殺害。それは彼にとって不都合な――いや、より正確に言うならば、彼の主にとって不都合な事象だ。

 

 無限蛇とは、管理局暗部の名。口に出せない実験や、公に出来ない犯罪行為。マッチポンプで事件を起こして、都合良く解決させるための悪役を演じる部署。

 大衆を操作する為に生み出された部門であって、最高評議会側の戦力と呼べる物。そうであるが故に、議会直属であるエリオが、彼女らと対立することは都合が悪い。

 

 最も、クアットロは暴走していた。相手に花を持たせねばならぬ場面で、六課排除に動いて相手の戦力を減らしてしまった。無意味にクラナガンを巻き込み、一般市民に犠牲を出した。其処を考慮すれば、エリオの所業は不問となろう。彼は正当化される筈である。

 何せエリオは身内に対する処刑人。本来の役目を果たせぬ愚物を処理しただけだと、それで筋道が通る話。だがそれは理屈が通るだけでしかなく、行動に伴う感情までもを正当化出来ると言う訳ではない。

 

 替えの効き辛い戦力で議会に従順だから、エリオが厚遇されている理由などはそれだけだ。その来歴を思うなら、彼は今も無限蛇に属しているべき使い捨ての立場である。

 そんな曖昧な立場。そんな彼が、ただ己の行動を正当化して報告するだけでは、当然その評価は落ちるであろう。語らぬと言うのは論外だ。エリオの首には、黒き輪がある。監視装置と懲罰装置を兼ね備えた首輪がある限り、隠し通すなど不可能だ。

 

 このままでは不味い。少しずつ、己の立場が悪化する。手駒を壊されたスカリエッティが、どう動くかも読めてはいない。

 それだけ悪化すると、動く前から分かっていた。だが、あの場で手を出さないと言う選択肢はなかった。何の為に最高評議会に従っているのか。決まっている、あの娘の日常を守る為だから。

 

 ミッドチルダの守護者として、これ以上は望めない。エリオは最高評議会をそう評している。何を成してでも第一管理世界を守るのだと、そんな彼らこそが己の主として都合良かった。

 

 夢想家(クロノ)などは要らない。理想も理念も正当性もどうでも良い。此処にある彼女の今が、そして続く彼女の明日が、幸福ならばそれで良い。

 過去の英雄(ヤツカハギ)など知らない。凍った世界も、彼らの恨みも、勝手にやってろとも思わない。路傍の石にも劣る程、彼らの想いも、彼らの意味も、唯邪魔なだけなのだ。

 敗軍の将(リンドウ)の意地なんかに、付き合ってやる義理もない。そも、明日に続く為、今を犠牲にするなど論外だ。無限闘争などと言う下らぬ地獄に、あの娘の刹那を飲み込ませる訳にはいかない。

 

 だからこそ、最高評議会なのだ。最も効率良くミッドチルダだけを守護出来て、魔導師にとって都合が良い新世界を生み出そうとしている勢力。

 

 彼らは我欲に満ちている。それも良いだろう。彼女の幸福が続くなら、好きなだけ我欲を満たしてくれ。彼らは独善に満ちている。それも良いだろう。彼らの身勝手なる善は、魔導師にとっては都合が良いのだ。巻き込まれる唯人の事など、心の底からどうでも良い。

 

 エリオの目的にとって、最高評議会は都合が良い。だから彼らに従っているし、此処で彼らからの評価が落ちることは望ましくない。

 だが最早、その結果は避けられない。賽は振られてしまったから、彼女を見捨てると言う道はなかったから、ならばこの状況を逆に利用するのだ。

 

 詰まりはそう、此処で黒幕を作ってやれば良い。理屈は単純だ。魔群を倒した際に、奴の行動に違和を感じたとでも言い張れば良い。

 保身に長けたクアットロが、何の理由もなく独断で動くとは思えない。ならばあの女に指示を下した奴が居る。そいつを放置する訳にはいかなかった。そんな風に語ってやれば良い。

 

 真実が如何であるか、それは全く関係ない。適当な事実を捏造して、エリオにとっての最大の邪魔者である男に、全て擦り付けるのだ。

 ジェイル・スカリエッティと言う男が裏に居る。あの男の命にしか、クアットロは従わない。だからあの男が何を企んでいるのか、暴く必要があったのだと。

 

 そうとも、この今、あの男が一番邪魔だ。エリオ・モンディアルにとって、ジェイル・スカリエッティと言う男は放置しておけない。

 それはエリオにとって、製作者(チチ)であるから――と言う訳ではない。そんな事はどうでも良い。恨み辛みは確かにあるが、この今に重要な事ではない。

 

 唯、あの男は壊すのだ。(セカイ)を殺す。世界(カミ)を殺す。己の技術を以ってして。その執念がある限り、あの狂人は世界を地獄に変えてしまう。

 あの娘が巻き込まれる。ミッドチルダが壊される。それは駄目だ。それだけはいけない。だから早く何としてでも殺したいのに、己の立場と奴の立場が故にそれが出来ない。

 

 嘗て最高評議会は、スカリエッティを管理世界最高の頭脳と語った。管理局にとっての至宝であると、それがあの男の頭脳に与えられた評価である。

 エリオを作った。クアットロを作った。そして、高町なのはと言う女にも手を加えている。そんな奴の所業に対して、その評価は正当だ。神に抗える程に至った、その技術は確かな至宝であろう。

 

 だから、最高評議会は余程のことがない限り、ジェイル・スカリエッティを切り捨てない。だが、それでは困るから、その余程のことを見付け出す。

 疑念を感じたからと理屈を付けて、奴が関係している研究施設を探し出す。そしてその中から、確かな戦果を奪い取る。それが今の、エリオ・モンディアルの目的だ。

 

 

「身の芯から心の罪へ、奈落から王国へ、前存在物質の相転移確認。活動、形成、創造、流出――堕ちろ、堕ちろ、腐滅しろ」

 

 

 余り時間はない。上層部からの催促はまだないが、近い内に出頭しての弁明を強いられるであろう。その時までに、見付け出せなければ終わりだ。

 リスクは高い。黙っていれば不問となるのに、排除しようと動けば身の破滅は避けられない。それでも、これは好機でもある。リターンを得ようとするならば、今この瞬間をおいて他にない。

 

 ジェイル・スカリエッティは機動六課の内に居て、状況に対し即応する事が難しい。彼の秘書であったウーノ・ディチャンノーヴェは殺され、その行動力は更に低下している。

 クアットロの暴走。ウーノの殺害。エリオの反逆。その内全てが、予想の範疇であるのだとしても。其処まで読み解ける様な知の怪物なればこそ、此処まで整った舞台でもなければその足すらも掬えまい。

 

 この瞬間、まず間違いなくスカリエッティは対処限界にまで至っている。ならば此処で、奴の予想を何か一つでも上回れれば、あの男を排除することが叶うのだ。

 そしてこの世の何処かには、戦果は必ず存在している。あのジェイル・スカリエッティが、従順にしている筈がない。何処かで何かやらかしている筈だ。そういうある種の信頼があればこそ、後の問題は見付け出せるか否かだけ。

 

 だが、正攻法で探したとして、見付けられる訳がない。だからこそ、エリオはこうしている。関連施設の無差別爆撃と言う、普通ならば先ず考えることすらしない行動に出たのだ。

 

 

「ああ、やっと見付けた」

 

 

 都合二十三度目の力の行使で、エリオは漸くに望んだ反応をその目にする。降り注いだ黒き炎が防がれて、何処かへ流されていくと言う光景を。

 メギドの火を防げる者など、殆ど存在しない。受け流す様な形でさえ、対処できる者は数える程度だ。夜都賀波岐の両翼に死人と魔女。管理局の狂人か英雄か槍の担い手。ぱっと思い浮かぶのは、そんな程度の数である。

 

 両の指で数える程度。ジェイル・スカリエッティ自身が動けぬ以上、それを成したのはまず間違いなく第三の反天使。

 彼女が守りを固めている。それは即ち、何としてでも守りたい施設であると言うこと。其処には必ずや、スカリエッティにとって重要な札があるのだ。

 

 探し出した場所を見付けて、歓喜の笑みを浮かべながらに降下する。弾丸の如き速度で飛翔しながら、エリオは空へと飛び立つ幼子の姿を見た。

 

 

因子変更(エレメントリライト)―――モード“エノク”より、シェムハザ実行」

 

 

 金色の髪をした幼子。左右で色が違う瞳を持つ少女。十に満たない小さな子供が、白く輝く光の翼で駆け上がる。 

 その表情に余裕はない。その身体は疲弊している。如何に同格の反天使であれ、魔刃は最強の存在だ。その全力は防ぐ事など出来ず、受け流すだけでも精一杯。そしてその時点で、彼女は力の大半を消費してしまっている。

 

 

「幸いなれ、黙示の天使よ。その御名は、汝の下にて戯れる水の精をも震わさん」

 

 

 勝ち目はまずない。だとしても、少女は恐怖に揺らがない。それは勇気は愚か蛮勇ですらなく、恐怖を感じると言う自己がないだけ。

 まだ誰かを模した人格がない。似て非なる器であるから宿った魂と同じく、機械的な反応で定められた命令を実行する。冷静でしかいられない思考が、選択するのは悪魔に対する最適解。

 

 

「さればありとあらゆる災い、我に近付かざるべし。我何処に居れど――」

 

「――下策だね」

 

 

 だが、悪魔に対する最適解が、エリオに対する最適解と言う訳ではない。この戦いは、第二の天にて起きた悪魔と悪魔の戦いの焼き写しには成り得ない。

 何故ならば、この世界と彼の世界には明確な違いがある。魔法の有無。器の差異。その僅かな違いが決定的なまでの変化を引き起こす。既にしてエリオ・モンディアルは、魔鏡アストの眼前に辿り着いていた。

 

 

「ねぇ、アスト。この僕を前にして、音より早い程度の詠唱が、間に合うとでも思っていたのかい?」

 

 

 それも当然、エリオは二十万のリンカーコアを内包している。無数の魔法を同時に使える訳ではないが、使う魔法の出力を大幅に引き上げる事なら出来る。流石に二十万倍と言う程ではないが、それでも尋常な魔導師では届かない域にある。

 対して魔鏡アストの器は、特別な血筋のクローンとは言え生まれたばかりだ。英雄たちの下で学習を行った訳でもなければ、古き時代の器に大きく劣る者。既にしてその時点で、互いの差は比較にならない。ましてや、内に宿る悪魔の力も違うのだ。それでどうして、戦いと言う体を成せると言うのだろうか。

 

 

「――っ! 封印因子選択、モード“エノク”よりバラキエル――」

 

「だから、遅いと言っただろうがッッッ!!」

 

 

 大気で減衰された雷よりも、尚も早いエリオの一撃。間に合わないと判断して切り替えた詠唱ですら、彼の前では成立しない。

 

 如何に高速圧縮言語であろうと、如何に魔人の速さがあろうと、エリオ・モンディアルはその遥か上を容易く飛び越えて行く。

 何時しか手にしていた槍で、変異し掛けていた少女の腕を切り飛ばす。目にも止まらぬ連撃が続いて、アストの身体を達磨にしていた。

 

 気付いた時には、既に手足を無くしていた少女。彼女が痛みを叫ぶより前に、その視界を迫る掌が埋め尽くす。

 

 

「サンダーレイジ」

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 

 五指で頭を掴んで、直接頭部に雷を流す。電撃変換された魔法を体内に流されてしまえば、痛いなどと言う言葉では済まない。

 悲鳴を上げる。肉の焼け焦げた様な臭いが立ち上る。魔人の身体でなければ即死する様な力の蹂躙に、少女の悲鳴はやがて途切れた。

 

 

「…………ふん。こんなものか」

 

 

 ピクリと痙攣するしか出来ない。そんな息があるだけの達磨を、片手に吊るしたまま見下し思考する。さて、どうするべきかと。

 

 

〈俺の炎で、焼いてしまえば良いだろう。後顧の憂いは、断っておくべきだと思うよ〉

 

「君がそう言うということは、生かしておいた方が良いと言うことだね。……議員閣下への、献上品としておこうか」

 

〈クックック、酷いなぁ。相棒を信じてくれないとは、泣きたくなるではないか〉

 

「信じているとも、夜の悪魔(ナハト=ベリアル)。君は隙あらば必ず、僕を破滅させようとしてくる、とね」

 

 

 動かなくなったアストの身体を電撃変換したバインドで縛り、彼女の身体に治癒魔法を掛けて傷を塞ぐ。

 万が一にも逃げ出せない様に、小さな頭を掴んだ手は放さない。神経系に直接電気を流して無力化したまま、エリオは眼下にある施設を見下ろす。

 

 文化保護区にある、水晶鉱山を模した地下研究所。果たしてその奥には、一体何があるのだろうか。

 

 

「さぁ、奴の隠した物を暴きに行こう」

 

 

 瀕死の少女を引き摺ったまま、エリオは施設の中へと歩を進める。この怪物が動いた以上、運命の出会いですらも無価値と変わるのだ。

 

 

 

 

 

2.

 消毒液の臭いが染み付いた、と言うにはまだ新しい部屋の中。椅子に腰掛けた紫髪の女性は、二つの試験管を見比べている。

 一つは日が暮れるよりも前に、帰還した彼らから採血したもの。そしてもう一つがたった今、同じく彼らから採血したもの。

 

 処置が終わる前と後、比較して安堵する。己が受け継いだ力は確かに、其処に宿っていた毒性を枯らすことが出来ていたから。

 

 

「ん。これで良しっと。魔群の毒の完全排出、確認完了。傷も塞がっているみたいだし、もう大丈夫」

 

「ありがとう。すずかちゃん」

 

 

 良しと呟く友に向かって、高町なのはは感謝を告げる。その言葉に一つ頷き、すずかは机の上に試験管を保管する。回転椅子を回して向き合うと、友とその周囲の者らを軽く見た。

 ベッドの上に腰掛けて、俯いている少女が二人。彼女たちより体力があったから、既に医務室を出ている者が二人。完治の言葉を聞く為に、残って空元気を振り絞る友が一人。その姿は正しく、敗北者と呼ぶべきもの。

 

 そんな彼女たちの様子を探って、彼女たちから聞いた事実に目を伏して、すずかは敢えて話題を逸らして口を開く。

 

 

「けど、こんな形でエリキシルの正体が分かるとは、ね」

 

「アリサちゃんが追ってる麻薬の名前、だったよね。やっぱりクアットロの毒が、それだったの?」

 

「正確には、ちょっと違うみたいだけどね。反応は凄い近いんだ。……魔群の毒を混ぜた人の血を水代わりに、薬草とか育ててみれば分かるかも。と言うか、スカリエッティに聞くのが一番早いに決まってるんだけど」

 

 

 アリサ・バニングスがつい先程まで追い掛けていた麻薬事件。ミッドチルダを始めとする管理世界全体で蔓延っていた不死の妙薬は、その実魔群の毒を薄めた物であった。

 魔刃の手による魔群の討伐。それが確認された以上、もう追い掛ける意味はない。初出撃での大敗北。身内に犠牲者が出たこともあって、アリサは六課への合流が急がれていた。

 

 魔群を作り上げたのは、ジェイル・スカリエッティだ。彼がもしも以前に語っていたならば、アリサを別行動にさせることはなかった。

 そうすれば、もっと良い結果が。せめて犠牲者は出なかったのではないか。そう思ってしまうのは、ある種弱さの証だが、仕方がないことなのだろう。

 

 

「あの人、聞かれないこと言わないもんね。こっちとしても、色々やらかし過ぎてて、何から聞けば良いのか分からないし」

 

「これだから男は駄目なんだよ」

 

「にゃ、にゃはは」

 

 

 そんな弱さを振り払って、嘗ての様に笑ってみせる。男嫌いな友の言葉に、直した筈の口調で苦笑する。

 一見すれば談笑をしている様に見えて、よく観察すれば少し違う。けれど追い詰められた子どもの目に映るのは、其処にある現実だけだ。裏側にある想いなど、今の彼女では気付けない。

 

 

「分隊長は、どうして平然としてるの!」

 

「るーちゃん!」

 

 

 だから、反発する様に少女は叫んだ。初めてだったのだ。こんなにも身近な誰かを亡くすと言うことが。だから、ルーテシアは耐えられなかった。

 傍らに居るキャロが治めようとはするが、しかし彼女にも覇気はない。妹分は悲しんでいて、隊長は平然として見えた。それがより一層に、その怒りに油を注ぐ。

 

 

「いいよ、キャロ。ルーテシアも、抱えてないで言ってみて」

 

「だったら、言わせて貰うわ!」

 

 

 戦場に出たばかり、行き成りこんな苦境である。耐えられなくて当然で、自分は道を切り開いてはあげられなかった。

 ならば、せめてこれくらいは当然だ。そう思うなのはは、少女たちの下へと向かって視線の高さを合わせる。キャロを止めると、ルーテシアに言葉を促した。

 

 

「任務に失敗した。それは良いわ! 良くないけど、落ち込んでは居られないって、分かる! けど――」

 

 

 ファーストアラート。初任務は失敗した。回収目標であった古代遺産は爆発し、無限蛇の手に堕ちた列車は乗客諸共に消し飛んだ。

 何一つとしてなせず、余りに多くを取り零した。余り親しくはなかったが、身近な人が死んでしまった。そして己たちはこうして、無力な己に歯噛みしている。

 

 

「ヴァイスさんが死んだの! ウーノさんが死んじゃったの! 沢山の人が死んじゃったのに! なのにどうして、そんな平然としているの!?」

 

 

 そんなルーテシアの目から見て、なのはは嘆いていない様に感じてしまう。取り繕うのが上手いから、取り繕える程度であるのだと思えてしまう。

 まだ幼い少女はそれが、どうしても許せない。翻弄される状況に、吐き出さずにはいられなかった。そんな八つ当たりにも似た怒りを向けられて、なのはは何処か寂しげに笑いながら口にする。

 

 

「そう、だね。隊長が落ち込んでられないとか、考えないといけないこととか、色々理由はあるけどさ。……慣れちゃったのかも、しれないな」

 

「…………慣れ?」

 

 

 どうして平然としていられるのと言う問い掛けに、返せる言葉があるとするならそれだろう。余りに多くの別れがあったから、取り繕える程度には、慣れてしまったのだ。

 

 

「沢山の人が、目の前で死んで来た。他人も、仲間も、友達も、沢山死んじゃったの。だから、少し慣れちゃった。……本当はこんなのいけないって、分かってるんだけどね」

 

 

 高町なのはの人生は、多くの出会いと別れに満たされて来た。幼い日、魔法と出会ったあの日から、女となった少女は失い続けてばかりいる。

 願いが叶う石を奪い合う戦いで、テスタロッサの名を持つ者らは皆死んだ。闇を宿した書を巡る戦いの果てに、盾が一つ残って他には誰も残らなかった。

 

 正式に局員となってからも、失うばかりの人生である。こうなるならば、出逢わなければ良かったと。そう思ったことは一度や二度ではすまないだろう。

 

 

「辛いよ。きついよ。だけど、そう思えなくなってくることが、一番怖い。でも、それだけじゃいけない。其処で止まっていたら、もっと亡くす。そういう立場に、私は居るから」

 

 

 だが、だからと言って、諦めたら全てを失う。何もかもが凍ってしまう。その事実を知ってしまったから、立ち止まることなんて選べない。

 別れが辛いから、出逢うことを否定する。そんなことすら許されない。神々は余りに強大だから、一人じゃ立ち向かうことすら出来ない。何れ別れる命が全てを燃やして、漸くの拮抗が保たれている。

 

 だから強がりであっても、進み続けなくてはいけない。慣れてはいけないと分かっていて、それでも痛みに慣れてしまう自分が居る。世の中は、怖いものばっかりだ。

 

 

「分かんないわ。難しいこと言ってるって分かるけど、それでも分かりたくもない。私は、その気持ちを分かりたくなんてない!」

 

「うん。そうだね。難しいね。本当に。自分でも、良く分からないんだ」

 

 

 直向きな怒りはある種の強さだ。そんな理不尽には納得できないと、そう素直に言葉に出来るのは眩しいものだ。

 自分も嘗てはそうだった。今もそう在りたいと思っている。けれど立場を考えて、状況次第では飲み干してしまえる様になった。

 

 良くも悪くも、彼女は大人になりつつある。子どもで居られる時間は、酷く短いものだったのだ。

 

 

「だけど、それでも分かることはある。ねぇ、ルーテシア。貴女は、その想いを大事にしてね」

 

 

 だから苦笑と共にそう告げる。誰かの死を当たり前に嘆いて、当たり前の怒りを持てる。それはきっと大切なことなのだと。

 時が経てば、感情のままには在れなくなる。英雄と言う立場が、折れることを許さない。だからこそ、大切なものを、大切にして欲しいと思うのだ。

 

 

「どんなに失いたくないものでも、亡くなってしまうのがこの世界。何時だってこんな筈じゃなかったことばっかりで、慣れたくないと思っていてもそんな日々に慣れてしまう。だからこそ、何時か慣れてしまうとしても、慣れたくないと思って欲しい。きっとそれが何よりも、ヴァイス君やウーノさんへの手向けとなると思うから」

 

 

 どうかこの想いよ、伝わって欲しい。抒情的にでも良い、曖昧な形でも良い、唯忘れないで欲しいと切に願う。

 そんな言葉が届いたのだろうか。何処か気不味そうに少女は顔を背け、けれど直ぐに顔を上げると毅然とした目で語るのだ。

 

 

「分隊長に言われなくても、分かってるわ」

 

 

 睨み付ける様に語った後で、彼女はベッドサイドから飛び降りる。そうして、医務室の扉を目指した。

 何処に行く当てなどはない。それでも、立ち止まっていたくはなかった。だから、我武者羅にでも、前に走り出そうとしたのだ。

 

 

「にゃはは、ちょっと嫌われちゃったかな」

 

「るーちゃん。なのはさん。あの、私は」

 

「ん。大丈夫。だから、追って上げて。一緒に泣いてあげて。私は、ちょっとそういうの、出来なくなってきちゃったから」

 

 

 そんな姉の姿に何処か迷いながら、キャロはなのはの顔を見上げる。寂しげに笑う隊長は、優しくその背を押すのであった。

 だからこそ、想う。このままではいけないと。けれど何をすれば良いかは分からない。だからキャロは扉に向かって、ただその途中で振り返って告げる。どうか届きます様に、と。

 

 

「私、分かってる心算です。なのはさんは、優しい人だって、知ってますからッ!」

 

「……キャロ」

 

 

 不器用に己の想いだけを、語って背を向け走り出す。その小さな背中を茫然と、見えなくなるまで追ってしまった。

 

 

「空元気だって、気付かれてたんじゃないかな?」

 

「にゃはは。昔より、得意になった心算なんだけど。こういうの」

 

「あの子の観察力が高かったってだけだよ。他の子は気付けてなかったみたいだし」

 

 

 暫く硬直していた友の背中に、すずかが軽く言葉を掛ける。演技がバレていたのだろうと、そんな友の言葉になのはは笑った。

 子どもっぽい笑い方。それは彼女の素の表情だ。子どもみたいだから直そうと。それが隠し通せていないのは、隠せぬ程度には揺らいでいるから。

 

 

「目薬と化粧品、貸しておこうか? 結成されたばかりの部隊だけど、あの二人との付き合いは結構長かったでしょ」

 

「自分のがあるから、大丈夫。すずかちゃんこそ、ヴァイス君と一時期付き合ってたって聞いたけど」

 

「男慣れする為に、少し遊び相手になって貰ってただけだよ。仲の良い友人ではあったけど、結局そういう目では見れなかったもの。……それに、それこそ、化粧で隠すのには慣れてるからね」

 

 

 故人を偲ぶ。傍らに居る親友程には近くなかった。恋人を失うよりはマシだろう。それでも、痛いことには変わらない。親しい友ではあったから。

 ただ寂しいと、ただ悲しいと、そう思えるならば良かった。指揮官としての判断ミス。遺族への説明。隊葬の準備。そんな余計が混ざってしまう事が、ただ只管に空しく感じる。

 

 

「分隊長だから、弱い所は見せられない。けど弱い所を全く見せないのは、それもそれで不満に繋がる。人の上に立つって、本当に難しいね」

 

「胸くらい、貸そうか?」

 

「それも大丈夫。後でユーノ君に頼むから」

 

「……ほんっと、あの淫獣は。もげて死ねば良いのに」

 

 

 男嫌いで同性趣味、そんな風に変わってしまった友の言葉に苦笑する。乾いた笑みと同じ様に、心は何処か乾いていく。それでもまだ、不屈の想いは折れていない。

 

 

 

 

 

3.

 六課隊舎の裏手、壁に寄り掛かりながらに己の手を見下ろす。必死に伸ばしても、何も掴めなかった小さな手を見る。

 

 

「エリオ」

 

 

 口にしてしまうのは、宿敵の名。必ず戦い、殺し合う。作られた瞬間からそうなる様に、調整されていた反身なる器。

 

 エリオはトーマの故郷を滅ぼした。第三管理世界にイクリプスと言う病をばら撒いて、その景色を黒き炎で燃やし尽くした。

 エリオはトーマの救おうとした人を殺した。運命に嘲弄されたルネッサ・マグナス。後一歩で救えた女性を、ゴミの様に彼が壊した。

 エリオはトーマが手にしていた母の形見を焼いた。嘗ての戦いの中で、奪われたリボルバーナックル。それを彼は目の前で、踏み潰して燃やし尽くした。

 

 其処に怒りを覚えている。許せないと感じたのを忘れない。それでも、許さないといけないのかも知れない。あの一瞬に、そう思った。

 何か理由があったのだろう。その目をしっかりと見てしまった。その瞳に宿った色に、憐憫の情を抱けてしまった。だから、あの時、トーマは気付けば許せてしまった。

 

 

「僕が、許したから。許すべきじゃ、なかったのか」

 

 

 だが、あの時に許してしまったから、こんな犠牲が出たのではないか。許すべきではなく、その命を奪うまで戦うべきではなかったのだろうか。

 少なくとも、あの少女が死んでしまったのは、エリオが健在だったから。救いの手を伸ばす前に、苛まんとする手を切るべきだったのではないか。そんな風に、思ってしまう。

 

 

「でも、そうじゃなかったら、全滅してた。その位は、僕にも分かる」

 

 

 だが、同時に分かってもいるのだ。エリオ・モンディアルが居なければ、自分達は壊滅していた。もっと犠牲者は増えていた。

 彼に助けられたと分かる。自分の迷いなど、的外れであると分かっている。それでも拭い切れない想いが募るのは、きっと己の弱さが故に。

 

 

「弱い。今の僕は、アイツが言う様に、弱い」

 

 

 踏み躙られて叩き付けられた。弱虫トーマと言う呼び名。真実確かにそうだと思う。

 己がもっと強ければ、アイツと同じくらいに強ければ、それがどうしようもなく悔しいのだ。

 

 

「弱いから、あの子が死んだ。弱いから、ヴァイスさんとウーノさんを助けられなかった。全部全部、僕が弱いから――」

 

〈トーマ。……力が、欲しいですか?〉

 

「え?」

 

 

 己の弱さを悔しく思う。エリオの所為だと、言い出しそうな弱さが憎い。強くなりたいと、彼は心の底から思った。

 だから、条件は満たされた。首から掛かった小さなカメラ型のデバイス。スティードに秘められた一つの情報が、此処に開示される。

 

 それは彼が真に勝利を求めた時、彼を改革させる為にある情報。神の子が被った卵の殻を、剥ぎ取り壊し尽くす狂人の一手。

 

 

〈其処に行けば、貴方は力を手に入れる。其処には、貴方の為の剣がある〉

 

「……スティード?」

 

 

 展開されるのは、ある次元世界の地図マップ。第二十三管理世界ルヴェラ。その自然保護区が中にある一点。

 点滅する灯りが示す。其処には、トーマの為の剣がある。やがて神に至る彼の成長を、飛躍的に高める要素が其処にある。

 

 それを得れば、トーマは誰よりも強くなる。もちろん、エリオ・モンディアルよりも、だ。

 

 

〈それを得れば、貴方はもう誰にも負けない〉

 

「……けど、それは」

 

〈エリオ・モンディアルに勝利したくはありませんか?〉

 

「――っ!」

 

 

 きっとそれは間違いだ。何時か必ず後悔する。究極だとか至高だとか、そういう力を求めた先は得てして碌でもない物だ。

 そうだと分かっていても、その誘惑は拭い難い。許したとは言っても、執着はまだ確かにあった。勝ちたいのだと、己の心が叫んでいる。

 

 ああ、そうだ。それこそが最大の理由であろう。犠牲を嘆く。助けられなかったことを悔やむ。だがそれと同じかそれ以上に、トーマはエリオに勝ちたいのだ。

 そうと自覚すればこそ、スティードの言葉は抗い難い誘惑だ。其処に行けば、それだけで、エリオに勝てる。アイツを倒せる力が得られる。果てにはきっと、誰もを救える自分に成れる。

 

 

「……僕は」

 

 

 楽園を追われた人の様に。無垢なるモノを唆した蛇の如くに。失楽園を齎した人語を介する蛇とは、時にサタナエルと呼ばれた天使で在るとも言われる。

 そして時に、サタナエルはルシフェルとも。奈落の底に生まれた傲慢なるモノ。それを宿す狂人が打つ一手として、これ程に相応しい物はない。古き聖典をなぞった、そんな蛇の誘惑だ。

 

 最初の人(アダム)と同じ様に、少年の心は揺れている。この世界の神が最初の命であると定義すれば、その半分であるこの少年こそが一番最初の人間だ。

 正しく、神話のなぞりが生じている。ならばその結末は、語られる神話と同じく。蛇に唆された最初の人は、智慧の実を食べて楽園を追われる。用意された乙女と共に、奈落の底へと堕ちていく。

 

 

「なーにやってんのよ。アンタ」

 

「いたッ!?」

 

 

 それが狂人の描いた絵図面だとすれば、予想外は此処にも在る。才も資質もない小さき者が、それでも失楽園の日を崩すのだ。

 

 

「勝手にどっか行って、探したじゃないの」

 

「ティア? 探したって、何で?」

 

「はぁ、アンタ馬鹿? 負けて無様晒したばっかだってのに、忘れてんじゃないでしょうね」

 

 

 突然に頭を小突かれて、行き成りな罵倒を浴びる。けれど其処に嫌味や悪意などはなく、気安いからこその色がある。

 そんな彼女の探していたと言う台詞に疑問を浮かべて、次いで言われた無様と言う単語に手を握り締める。その悔しさは、今も色濃く残っている。

 

 

「っ、忘れてない。忘れられる、訳がない」

 

「なら良いわ。ほら、行くわよ」

 

「……行くって、何処へ?」

 

「はぁ、ほんっと頭の巡り悪いわね。ま、頭が良いトーマとか、正直想像できないって言うか気持ち悪いけど」

 

 

 言いたい放題口にして、ティアナはその身を翻す。視界を踊るツインテールを目で追って、その背中を迷いながらに見詰めている。

 少女は天才ではない。生まれついての特別だとか、英雄と呼ばれるに足る異能だとか、彼女の身には何もない。何時だって、空を見上げる様な存在だ。

 

 だからこそ、ティアナと言う少女は強い。折れて、挫けて、その度に立ち上がって来た。だから、その芯はトーマよりもずっと強い。

 

 

「今負けたなら、次は負けない様に努力する。一人で勝てないなら、皆で勝てる様になってみせる。その為にも、ダラダラしている時間はないの。訓練するから、一緒に来なさい」

 

「…………」

 

 

 足りない物が其処にある。だから負けたのだと認めよう。だから失ったのだと受け入れよう。だからせめて、次は同じ轍を踏まない。そう心に誓うのだ。

 辛いと思う。悲しく思う。何時だって全力で進んで来たけど、才能の差は残酷だから。それでも、今は進みたいと思えている。まだ折れてなんていない。だから、立ち上がって進むのだ。

 

 真っ直ぐに進む彼女の背中は、何だか尊い物に想えた。訓練校時代からのパートナー。そんな彼女が進み続ける背中を見てると、不思議と二つの想いが湧いてくる。

 一つは自慢の様な物。自分のパートナーはこんなにも、凄い人なんだぞと言う想い。そしてもう一つは、彼女がそんな人だから、置いて行かれたくはないと言う想い。

 

 既に、智慧の実を求める想いは消えている。蛇の誘惑など今は、必要ないと思えていた。

 

 

〈トーマ。貴方の為の剣が、白百合が貴方の事を――〉

 

「ねぇ、スティード。僕はさ、強くなりたい。もう負けないくらい。誰かを助けられる、強さが欲しい」

 

〈トーマ? ですから、望めば良い。誰もを倒せる剣が、マイスターが作った剣が、白百合の乙女が、貴方を待っている。それを手にすれば、トーマは誰でも倒せる力を得る〉

 

「要らないよ。そんなもの。……僕に必要なのは、アイツを倒す剣じゃない。守る為の強さだから」

 

 

 違うのだ。必ず勝つ力は必要ない。誰もを倒せる剣など要らない。欲しいのはこの拳で、何かを救って守れる強さ。

 恵んで貰った力じゃない。積み重ねた強さが欲しい。そうと望み求めるならば、この時を積み重ねて夢を目指そう。遠き遠きその果てに、誰もが幸せに生きれる場所を目指して行こう。

 

 

「ほら、何してんの。とっとと来なさいよ、相棒(トーマ)!」

 

「ああ、分かってるよ! 相棒(ティア)!!」

 

 

 少し先に進んで、其処で待っている少女。何時まで経っても追い掛けて来ない少年に、怒鳴る様な声音で叫ぶ。

 何時までも待たせるなと、ああそうだとも何時までもなんて待たせない。直ぐにその傍らで、共に前に向かうと決めたから――その瞳には、輝かしい星が宿っている。

 

 

「何時か後悔するとしても、僕はこの道(キズナ)を選ぶんだ」

 

 

 だから、白百合の乙女(リリィ・シュトロゼック)は必要ない。己の相棒(ティアナ)と共に、トーマは今を生きるのだ。

 

 

 

 

 

4.

 水晶鉱山の奥の奥。自然を切り出した洞窟が、鋼鉄の床へと変わって行く。無数の迎撃装置が機動するが、彼はその歩を止めもしない。

 止まらない。止まる訳がない。止めることなど不可能だ。達磨と化した少女を片手に引き摺りながら、昏き闇を宿した瞳で前を見る。エリオは全てを壊し尽くして、当然の如く其処に至った。

 

 それは地下研究所の最下層。十字の枷に掛けられた、半裸の少女。腰まで届く薄い金髪に、柔らかな身体を白い一枚の布だけで隠した少女。神の子の為に作られた、悪魔を貫く白き刃。

 

 

「……これが、スカリエッティが隠していたモノ」

 

〈唯の女と見るかい? 期待外れだと、嗤うかな?〉

 

「それをしたら、君が僕を嗤うだろ。見る目がないにも、程があると」

 

 

 何が可笑しいのか、何時も嗤ってばかりいる悪魔。内なる寄生虫に眉を顰めながらに答えると、エリオはその少女を観察する。

 外面だけでは分からぬ異常。その奥にある魂までも暴いてみせると。そうとも、あの狂人が魔鏡に守らせていたものなのだ。唯の少女である筈がない。

 

 そうして、深く深く見た先で結論付ける。己はこれを知っている。いいやより正確には、これの元となった物を知っている。

 あの日、狂人が盗み出すのを手引きした。当時の彼の駒では、一番強かったのがエリオだから。それでも、そんなエリオでも苦労があった。

 

 触れれば首を刎ねてしまう。愛し愛されることが出来ない。残骸の更に破片と化した状態でも、その圧を飛ばして来た聖遺物。

 砕けた欠片の一部でしかなかったのに、エリオにも断頭の瞬間を幻視させた。それ程の力を有していた、“罪姫・正義の柱”の破片。

 

 目の前に吊るされた少女の姿は、あの日保管庫から奪い取った時に見た残影。それととても良く似ていたのだ。

 

 

「黄昏の女神、か」

 

〈その残骸の、更なる欠片を使った模造品だがね。確かに、これは時代を変える分岐点に成り得るだろうさ〉

 

 

 これが黄昏の女神の再現だと言うならば、確かに世界を変え得る要素だ。永遠の刹那が半分であるトーマが得れば、きっと誰にも止められなくなる。

 少なくとも、エリオと同等程度には一足飛びで至るだろう。そう確信させる要素であって、如何にあの狂人とてこれを複数とは用立てられない。だからこそ、トーマが得るまでは、アストに守らせていたのだろう。

 

 

〈それで、どうする相棒。そろそろ、雇い主方の出頭命令も煩くなってきたが〉

 

「……時間切れ、か。これを回収して最後。さて、どうなるか?」

 

〈ああ、良いんじゃないか、それも。神の器を完成させる要素を隠していたとなれば、まあ奴への掣肘も下せるかもな〉

 

 

 だから回収しておこう。そう判断した瞬間に、悪魔の言葉が耳にこびり付く。ナハトが賛同していると言う事実が、エリオに思考の余地を生み出す。

 

 何せ、ナハトはエリオを愛している。悪魔の愛は、酷く歪んで腐臭がするものだ。愛するが故に痛めつけて嬲り尽くして、破滅させた後も捕えて永劫愛で続ける。そういう質の物である。

 故にその言葉を信じてはならない。悪魔は必ずや、破滅させる瞬間を待っている。だが疑うだけでもならない。時に真実を混ぜることで、悪魔は疑うだけの人間をも破滅させる。故にエリオは、此処で僅かに思考した。

 

 考えるのは、白百合を確保した後の情勢。これを手中に収めれば、最高評議会は果たして何に利用するかだ。

 

 

「成程、成程成程成程。――気に入らないな。その結末」

 

 

 まず間違いなく、リリィはトーマの元へ贈られる。神の子を完成させる要素であるから、神の子に委ねるのは当然だ。

 最高評議会は、聖王を作ろうとしている。完成に近付いた神の子を取り込ませることで、生み出した王に神の資質を与えようとしている。だからこそ、先ず前提として完成させようとするだろう。

 

 恐らく、エリオもその為に使われる。リリィの調整の為、スカリエッティも必要とされるかも知れない。

 そうなれば、奴の排除と言う大前提が果たせなくなる。そうでなくとも、トーマが己と同等以上になる。それだけでも、気に入らない展開だ。

 

 

〈ならば、どうするかい? エリオ〉

 

「決まっている。愚問だぞ、ナハト」

 

 

 ならば、何とすれば良いか。そんなものは、問うまでもないこと。邪魔なのだ。排除するのは当然だ。

 暗き力で槍を呼ぶ。奈落の血肉を纏った歪んだ魔槍が、エリオの右手に出現する。そうして、その槍を、エリオ・モンディアルは突き刺した。

 

 

――トーマ。

 

 

 少女は夢を見たまま、少年の名を呼ぶ。届いて欲しい。出逢ってみたい。そんな彼女の想いはしかし、全て無価値と消え失せる。

 深く深く柄まで通せと、槍がその血肉を引き裂く。根本までも食い込んで、その臓腑を抉り尽くして、そしてエリオはその手に黒き炎を灯した。

 

 

「眠り続ける眠り姫。君に終わりの時がやって来た。アイツより先に、僕に出逢ってしまった不幸を呪え」

 

 

 燃え上がる炎は、無価値な色をしている。腐って淀んだ憎悪の炎は、女神の欠片であっても防げはしない。担い手と出会っていない以上は、この結末はもう揺るがない。

 

 

「汝、我が死を喰らえ――無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)

 

 

 絶叫が上がることはない。悲鳴が木霊することすらない。眠り続ける少女は眠り続けたまま、灰すら残さず燃え腐る。

 その最期を、見届ける義理すらない。興味を失くした残骸に背を向け、エリオ・モンディアルは戦利品を片手に立ち去って行く。

 

 

「さようなら、黄昏の残骸。無価値に燃えて――腐って死ね」

 

 

 後には、何も残らない。本当に、何一つとして残りはしない。

 地下研究所は全てが黒き炎で満たされ、地上の水晶鉱山も飲み干しながらに腐滅したのであった。

 

 

 

 

 




【悲報】ヒロインキラー(物理)エリオ。遂に作中ヒロインを(物理的な意味で)三人攻略【三冠達成】


次回更新は明日の24時を予定しております。


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第五話 狂人 ジェイル・スカリエッティ

推奨BGM
1.Schutz Staffe(Dies irae)
2.The Blessing(PARADAISE LOST)
3.Dont be long(リリカルなのは)


1.

 ミッドチルダは北部山岳地帯の地下空洞内、業務用の搬入口を降り続けたその先に薄暗く輝くその地は存在している。

 遥か頭上に輝く聖王教会は、彼らの決意の証でもある。即ち、己達が王と掲げるのは彼女であると。聖王オリヴィエの狂信者たちが此処に居る。

 

 

〈なんと〉

 

〈おお、何と御労しい〉

 

〈聖王陛下。我らの陛下が〉

 

 

 ごぽりごぽりと沸き立つ泡。淡く怪しく輝く液体の中、浮かび上がるは三つの脳髄。既に肉体を失って久しい彼らこそ、管理局が最暗部にして最上部。

 時空管理局最高評議会。嘗ての近代ベルカが滅ぶ瞬間をその目にし、あの日に彼の王が奇跡を見た。そうであるが故に信仰を捧げ、ベルカの遺産を秘密裡に残し続けた彼ら。

 

 そんな彼らが嘆いている。その前には、エリオが差し出した献上品の姿。彼女こそは、聖王オリヴィエの遺伝子データより再現された、彼らが求める聖なる王だ。

 

 

(ちっ、ナハトめ。気付いていて、殺せと言ったな)

 

 

 平身低頭の体を崩さず、エリオは内心で罵倒する。四肢を切断され、魔鏡として貶められた聖なる王。

 たったそれだけのことで、これ程に大騒ぎしているのだ。もしも処理していたら、果たしてどうなっていたことか。

 

 

(だが、まぁ良い。結果としては、最良だった。ジェイル・スカリエッティのやらかしは、僕の想定以上だったのだから)

 

 

 全く本当にこの悪魔は碌でもない。そう再認識しながら、エリオは一先ず区切りを付ける。

 エリオが付けた傷は、あくまでも治療可能な範囲内。嘗ての聖王は両手が義手だったと言う事から、或いはなぞりとしても十二分。それ程に強い叱責は受けぬであろう。

 

 反して、彼らが憎むのは誰か。怒りを向けるのは誰か。それを思えば、この状況は悪くない。スカリエッティは期待以上に、盛大にやらかしてくれていた。

 

 

〈許すまじッ! ジェイル・スカリエッティ!!〉

 

〈よくも、よくもよくもよくも――ッ! 我らが王をッ! 我らが神をッ! 反天使などにぃぃぃッッッ!!〉

 

 

 その言葉を聞きながら、伏せた表情を歪に歪める。まるで亀裂が走った様に、ニィと嗤うその姿。正しくそれは悪魔の如く、この状況は彼の望んだ通り。

 

 

〈そんなに怒ることかね? 悪魔と言うのも、割とこれで良い物だが〉

 

(……例えるなら、深層の令嬢に素手で糞尿の詰まった溝の掃除を強要する様な物だよ。その御令嬢を神聖視している従者の立場にしてみれば、許し難い所業と語るのも当然だろうさ)

 

〈それは何か、俺らは汚物扱いなのか? 酷いじゃないか、御同輩(エリオ)

 

(抜かせ。気にも留めていないだろうに、腐った糞尿(ナハト=ベリアル)

 

 

 胸中で悪魔と嗤い合いながら、主の指示を此処に待つ。内心で如何に嘲笑おうとも、その内実は一片たりとも表に出さない。

 人の心を読む様な歪み者も此処には居るが、今は最高評議会の怒りの意志が場を満たしている。故に彼らの耳に、エリオとナハトの戯れ合いが届く訳もない。

 

 ましてや、最高評議会の目から見て、エリオ・モンディアルは忠臣だ。望む所が分かりやすく、何の為に従っているかも良く分かる。

 たった一人の少女を守り続ける為。其処に反しない限り、魔刃は決して己たちを裏切らない。最高評議会は、少年の献身を疑ってなどはいないのだ。

 

 

〈エリオ・モンディアル。我らが剣よ。其方に最高評議会として、命を下す〉

 

「はっ」

 

 

 怒りながらも黙っていた最高評議会の頂点、中央に座す議長の脳髄が判断を下す。それに対し、エリオは明朗な声で答える。

 其処に二心などはない。そうとも、事実としてその献身に裏などない。彼らがキャロ・グランガイツの日常を守る側である限り、エリオは忠実なる猟犬として此処に在る。

 

 

〈ジェイル・スカリエッティ。奴の頭脳は至宝である〉

 

 

 最高評議会は、己たちの猟犬へと語る。彼の狂人の頭脳は至宝だと。其処に異論を挟む気などは欠片もなく、それを否定する材料などは何処にもない。

 事実として、確かにスカリエッティは稀有な存在だ。彼に全権を与えて自由にさせておけば、それこそ神殺しだろうが、神座の創造だろうが、きっと果たしてくれるだろう。

 

 

〈なれど、ジェイル・スカリエッティ。奴の罪は許し難い〉

 

 

 最高評議会は、己たちの猟犬へと語る。如何にその身が至宝であれ、彼の罪は余りに重いと。誰もが尊ぶべき聖なる王を、使い捨ての反天使へと貶めたのだ。

 その罪を最高評議会は許さない。如何なる道理であれ、如何なる理由があれ、決して彼らは許容できない。大罪などと言う言葉では済まない、正しく神を畏れぬ暴挙。

 

 ならば、スカリエッティの存在もまた許容の外だ。あの男は、最高評議会をして生きてはならぬと判断された。必ずや殺し尽くさねばならぬ邪知暴虐であるのだと。

 

 

〈故に、次なるスカリエッティを製作する〉

 

〈故に、今居るスカリエッティはもう必要ない〉

 

 

 無限の欲望(アンリミテッド・デザイア)。その開発コードが示す様に、ジェイル・スカリエッティもまた作られた人間。そうなる様に設定されて、それ以上に至った者。

 ならば、今の奴を排除しても次がある。性能は多少落ちるだろうが、別にそれでも構わない。最高評議会の下には、魔刃と言う剣がある。故にこそ、あのスカリエッティはもう要らない。

 

 いいや、その存在は許せない。偉大な神に汚物をぶち撒けたあの男は、既にこの世に居てはいけない存在なのだから――最高評議会は、己たちの猟犬へとその指示を下した。

 

 

〈殺せ〉

 

〈惨たらしく殺せ。残忍に嬲り殺せ〉

 

〈殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せッ!〉

 

《あの狂人をッッッ! 確実に殺し尽くせぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!!》

 

 

 脳髄が殺意を叫ぶ。怨嗟の声と共に、奴を許すなと呪う。その声を待ち続けていた忠臣は、悪辣な笑みと共に顔を上げた。

 漸くだ。漸くに、あの男を殺しに行ける。誰かを殺す。何かを壊す。何時も嫌な想いをさせられた、そんな行為。何時通りもの行動に、初めて感じた暗い愉悦。

 

 そうとも、壊したかった。全身全霊を以ってして、あの狂人を殺したかった。素直に認めよう。あの邪悪は邪魔なのだ。

 そうと認識した瞬間に、ドクンと何かが鼓動を立てた。視界の内に入るのは、三つの脳髄に囲まれた中央。大地を貫く様に突き刺さった黄金の槍。

 

 だから、だろうか。その覇道に身を委ねる様に、思い付いた言葉を口にする。外連味掛かった諧謔と共に、エリオは立ち上がって告げた。

 

 

仰せのままに(ヤヴォール)我が主(マインヘル)

 

 

 さぁ、命は下された。父殺しを始めよう。焼け付く様な喜悦を浮かべて、エリオはその身を翻して先へと進む。

 三脳が期待をその背に受けて、彼らが憎悪をその刃に灯して、そして輝く黄金の瞳に見詰められながら――エリオ・モンディアルは決着を付けに行く。

 

 

 

 

 

2.

 今でも、時折思い出すことがある。何度振り返っても色褪せない、奇跡の様な出逢い(スクイ)があったその日のことを。

 

 

 

 全てを無くしたあの日。何も持っていなかったことに気付いたあの日。エリオは当てもなく歩いていた。

 今更、何処へ行けば良いのか分からない。けれど、立ち止まっては居られなかった。だから、エリオ・モンディアルは徘徊する。

 

 何のあてもなく、何の目的もなく、唯何かを求めて歩き続けた。

 

 強く在ろうと決めた筈だった。誰かに抱き締めて欲しくて、存在して(ココニイテ)も良いのだと認めて欲しくて、けれどそれが得られぬから。

 そんなモノを欲しいと思わない様に、誰よりも強い存在になりたいと思った。強く成れれば、そんなモノを必要としなくなる筈だった。

 

 だけど、まだ弱い。だけど、まだ弱い。だけど、この身は伽藍洞の空白だ。虚無しかない内側は、真実無価値でしかない。

 そんな少年の虚しい覚悟。無価値でしかない無頼の罪。それが強くなる。無価値な悪魔が真となる。そう至る、その直前に――

 

 

「あの、風邪、引いちゃいますよ?」

 

 

 空っぽだった少年は、あの日運命に出逢ったのだ。

 

 

「……誰だか知らないけど、放っておいてくれ」

 

 

 雨に濡れて歩く少年の前に、傘を差した少女が立っていた。桃色の子供は、その小さな手を差し伸べる。

 差し伸べられたその手を、無頼の器は握り返さない。握り返せる筈がない。だから雨に濡れて震えながら、それでも彼は拒絶した。

 

 そんな姿に何を感じていたのだろうか。少女は一歩前に出る。常にはない積極性で、内気な少女が一歩を前に踏み出していた。

 

 

(何でだろう)

 

 

 一歩踏み出し、雨に濡れるその手を取った。その温かい掌で、冷え切った少年の手に触れたのだ。

 白き竜を伴って、そんな少女はこの場で最も驚いている。何故に此処で踏み込んだのか、自分で自分が理解出来ない。

 

 唯、感じたのだ。このままではいたくないと。唯、思ったのだ。手を伸ばせば、何かが変わるのではないかと。

 だから、戸惑いながらに手で触れる。身体の芯まで凍えてしまったその手に両手で触れて、離さぬ様にと力を入れる。

 

 

「放ってなんて、おけないです。……とても、寂しそうだから」

 

 

 その感情。言葉にすれば、たったそれだけの事なのだろう。唯、どうしようもなく寂しそうに見えたから。

 だから心優しい少女は手を伸ばす。触れれば壊れてしまいそうな程に繊細な、その震える手を確かに優しく包んでいた。

 

 

「……放っておいてと言ったじゃないか」

 

「放っておけないって、言いました」

 

 

 握り締める小さな掌。産まれて初めて感じたその熱を、少年は振り払う事が出来ない。

 だって、暖かかったのだ。余りにその手は、優しかったのだ。だから拒絶の言葉は、所詮口だけの物だった。

 

 優しい温度を振り払う。奈落の底を一人歩く。そうした気概が、今の彼には欠片も残っていなかった。

 そんな弱さを隠せぬ少年では、腹を据えた少女に勝てない。だから彼はされるがままに、その手を引かれて行く。

 

 

「取り敢えず、私の家に行こう?」

 

 

 そんな彼に触れた瞬間、彼女は確かに気付いていた。黒き鎧の下、鮮血に塗れたその身体。気付いて、彼女は僅かに察する。

 傷の種類だとか、その由来だとか、そんな事は分からない。そうした専門知識を学んでなければ、この年頃の少女に分かる方が異常であろう。

 

 故に察したのは、きっと裏に何かがあるんだと言う程度の事。面倒事や厄介事を、この寂しそうな少年が抱えているのだろうと言うことだけだ。

 

 

「お父さんも、お母さんも、まだ帰ってないし……お風呂で温まって、雨が止むまでくらいは」

 

 

 そんな状況を朧げに推測しながら、しかしキャロは深くは触れない。それを望んでいないのだと、何となくは分かるから。

 それでも無視は出来ぬから、こうして確かに手を引いて行く。ほんの僅かな安寧を。今だけは安らいでいて良いのだと、傷だらけの心に触れていた。

 

 

「……不用心だね。名前も知らない男を連れ込むなんて、さ」

 

 

 口では皮肉を言いながら、嘲笑と共に嘆息しながら、しかしエリオは唯々諾々と従っていく。

 この手は振り解けない。振り解きたくない。この熱は拒絶出来ない。出来るだけの無頼(ツヨサ)がない。拒絶したくないと思ってしまった。

 

 だから、これがせめても出来る抵抗だ。もう皮肉を口にする事しか出来ない。浮かべた笑みは、そんな己に対する自嘲。

 皮肉気に自嘲を続けたまま、溜息交じりに語る言葉。そんなエリオの言葉を受けて、少女はその場に立ち止まる。そうして数瞬の後に、少女は向き合い言葉を語った。

 

 

「キャロです。キャロ・グランガイツ。この子はフリード」

 

「きゅくるー!」

 

「……何のつもりだい?」

 

 

 真っ直ぐ見詰めて、名を名乗る。そんなキャロと言う少女に、幼い子供は疑問を浮かべる。

 薬品で急激に成長こそさせられているが、実年齢はそう変わらない。そんなエリオは此処に来て、初めての経験ばかりしている。

 

 憎悪と怨嗟と呪詛と欲望。それしか与えられて来なかった少年に、竜の巫女は此処で確かな宝石を贈ったのだ。

 

 

「名前、教えて下さい。それで、知らない人じゃ、なくなる。友達になれば、良いんです」

 

 

 その宝石。名を愛情。共に幼く、異性への想いは其処にはない。それでも、友誼の情は確かにあった。

 友愛と言う感情。友人や兄弟に対する様な親しみの感情。そんな温かな想いが、その瞳に浮かんでいたのだ。

 

 知らない人が駄目ならば、此処で知人となれば良い。名前で呼んで、友達となってしまえば良いのだ。

 そんなキャロの言葉は子供の理屈。突こうと思えば突ける穴など無数にあって、それでももう皮肉も言えない。

 

 真っ直ぐだった。その瞳は何処までも真っ直ぐで、気付けば何時までも見たいと想う程に魅入っていた。

 温かかった。その小さな掌は何よりも温かくて、何時までも手放したくはない。そう思ってしまったなら、もう皮肉を言う事だって不可能だった。

 

 

「……エリオ、だ」

 

 

 だから、名乗る。小さな少女に手を引かれ、無頼の器はその温かさを受け入れる。

 名を名乗ったエリオに、キャロは柔らかい笑みを浮かべる。何処までも優しいその少女は、少年の凍った心を溶かしたのだ。

 

 

「はい。これで、私達は友達です。……よろしくね、エリオ君」

 

 

 これが、悪魔の王と竜の巫女の出逢い。地獄の底に落ちた果てでも、決して擦れない至高の宝石。

 何も持っていなかった少年は、この日確かな宝物を手に入れた。何をしても護り抜かねばならない。確かな輝きを手に入れたのだ。

 

 故にこそ、彼は変わる。故にこそ、悪魔は変わる。故にこそ、この物語に救いはない。

 何故ならば、悪魔はもう負けない。全てを台無しにしてしまうとしても、失えない宝物を手にしたから、エリオ・モンディアルはもう負けない。負けたくない。

 

 

(誰かに頼る必要なんてない。護り抜ける程に強くなろう。……漸く見付けた。これがきっと、僕が望んだ、僕の生きて良い価値だから)

 

 

 そうとも、あの日に決めたのだ。この優しさを守り抜く。それが己の生きる意味であるのだと。

 それしかないから、それをする訳ではない。守りたいと思えたから、己の意志で守ろうと心に誓ったのだ。

 

 

 

 その為にも終わらせねばならない過去がある。倒さねばならない敵が居る。何処に居るのか、探す必要なんてない。

 きっと奴も待っている。あの狂人には大望があり、だからそれを脅かす敵を許さない。きっと万全の備えと共に、エリオ・モンディアルを待ち受けている。

 

 勝てるだろうか。己の生みの親に。全てを手玉に取れるであろう狂人に。いいや、勝つのだ。その先にしか、求める光はないのだから――

 

 

 

 

 

3.

 誰もが祈る。誰もが願う。他の何にも及ばぬ必死さで、他の何もが届かぬ深度で、心の底から祈り願う。

 救ってくれ。救ってくれ。救ってくれ。神に捧げる祈りは真摯であれば、此処はカテドラルと呼ぶべきか。

 

 されど此の地に救いはない。どれ程深く祈っても、決して誰にも届かない。此処は背徳の地にして涜神の場。殉教者たちの死地である。

 

 悲鳴が渦巻く。悲嘆が溢れる。こんなにも真摯に祈っているのに、どうして救ってくれぬのだ。そんな想いは何れ、群れ成す悪意に変わって行く。

 許さない。認めない。我らは苦しみ死したのに、何故にお前達は幸福な生を謳歌している。向けられる憎悪は首謀者のみならず、あらゆる全てを憎み妬む。

 

 されどその感情に意味はない。あらゆる悪意を鼻で嗤って、生命を貶める男が其処に居る。

 人を加工し、神の御座を目指す求道者。そんな狂った男が居る限り、このアトリエに救いはない。

 

 悲鳴が渦巻く。悲嘆が溢れる。怒りが、憎悪が、あらゆる悪意が地を満たす。

 それが常態である異常。異常が正常と化す地こそ、ジェイル・スカリエッティの研究所。

 

 誰より真摯に、神を貶める為の場所。その悪徳に満ちた淀んだ風を、更なる悪意が引き裂いた。

 

 

「終わりが来たよ。ジェイル・スカリエッティ。僕がお前を、終わらせに来た」

 

 

 其は腐炎。其は腐った炎。全てを無価値に変える悪魔の王が、炎を纏った槍を振るう。

 此処は二十四番目の管理世界。此処に居ると踏んでいた。きっと居るだろうと思っていた。居ないのならば、燃やして次に行くだけのこと。

 

 そんな予想に反することはなく、しかして彼は其処に居た。研究施設の最下層、まるで闘技場を思わせる広い空間の中央に男が居る。

 紫の髪を整えもせずに伸ばして、鋭い瞳に喜悦を浮かべて、整った容姿を狂気に満ちた笑顔で歪めて、白衣を靡かせる男が其処で待ち受けていた。

 

 

「ふむ、成る程。予想していなかった訳ではないが、しかし意外ではある。……君の理由は、憎悪かな?」

 

 

 そんな言葉は唯の諧謔。既に理由を察していて、敢えて嗤って問い掛ける。さあお前は何と返すのだと。

 それは己の作品の完成度を確かめる技術者としてのそれであり、同時に子の成長を感じ取ろうとする父祖の顔。

 

 戦いの前口上。互いの距離を少しずつと縮めながら、エリオは嗤って男の諧謔に乗る。心底可笑しいと嘲笑しながら、己の感情を嘯いた。

 

 

「はっ、それこそ知らないよ。お前なんて、心の底からどうでも良い」

 

 

 虚飾に満ちた言葉を語る。全ての憎悪をどうでも良いと、語るだけの強さはまだこの胸にない。全てを切り捨てる程の、そんな悲しい強さはない。

 怒りを叫べば、それこそ理由は山程に。憎いと自分語りをすれば、海の水が干上がるだけの時が掛かると感じる程。余りにも多く、多くの因縁を重ねて来た。

 

 それでも、どうでも良いのだと騙る。言葉と同じく、己を騙る。今更に犠牲者たちの代弁など、無差別に焼いた彼が口に出来る筈もない。

 ならばせめて、どうでも良いと騙るのだ。この狂人が己の求道に比して、全てに価値がないと嗤った様に。愛する少女と比して、お前には価値がないのだと嗤ってやれ。

 

 

「僕の意志じゃない。老人方の決定さ。お前は確かに優秀だが、少々勝手が過ぎるんだそうだ」

 

 

 互いの距離はまだ遠い。油断が過ぎたクアットロとは違う。未熟が過ぎたアストとも違う。スカリエッティはあれ程に、容易くなどはないだろう。

 身に纏う圧だけでも、己以上であると感じている。万全の対策がされているだろうとも思えば、切り込む瞬間は重要だ。一歩で踏み込めるその位置まで、様子見を重ねながらに近付いていく。

 

 

「最高評議会は、次のスカリエッティの作成を決定した。お前は切り捨てられたんだよ。……まぁ、どうでも良い話だけどね」

 

 

 雷光が迸る。昏い炎が燃え上がる。全身に黄色に輝く雷を纏って、呪われた炎を槍に重ねる。それこそが、エリオ・モンディアルの戦装束。

 掌に黒いデバイスを展開して、両手を広げて迎え入れるかの如く。余裕に満ちたその姿こそが、本気の我が子に対するジェイル・スカリエッティの応えだ。

 

 

「だから、二度は言わない。どうでも良いお前は、塵の様に、何も為せずに、唯――無価値に死ね」

 

 

 罪悪の王は笑みを浮かべる。大切な者を手にしたから、彼はもう、それ以外には何も要らない。あの子が幸福に生きられる世界の為に、お前は邪魔なのだと。

 

 

「成程、それが理由か。嗚呼、素晴らしい。とても人間的で、素敵な想いじゃないか」

 

 

 狂気の天才は笑みを浮かべる。己の頸を狩りに来た。そんな我が子の言葉を前に、無限の欲望は笑みを深める。

 可笑しいからではない。見下している訳でもない。気は狂っているが、そんなのは元からだ。彼は心の底から、真実喜んでいる。

 

 これは何と人間的な感情か。唯の肉塊から生まれた残骸が、これ程の成長を見せてくれた。それをどうして、父が喜ばずに居られよう。

 だから悪魔の王を前にして、スカリエッティは笑っている。腹を抱えて、素晴らしいと喝采しながら、満面の笑みと共にその成長を受け入れる。

 

 

「だがね、エリオ。我が愛し子よ。お前の父が望むのは、お前が齎す破滅じゃない。子どもの恋愛遊びではね、私の道は譲らんともッ!」

 

 

 だが、だからと言って未だ死ねない。此処では死ねぬ。此処では終われぬ。我は未だ、神域へと辿り着いてはいないのだ。

 故に翼が噴き上がる。それは輝ける翼。纏う光は病的なまでに、黒を許さぬ白一色。此処に最後にして、最大の反天使が降臨する。

 

 其の咒を曙の明星。ルシファー。サタン。そう称される、あらゆる悪魔を統べる王。神の座を簒奪しようとした、非想の天が此処に訪れる。

 

 

『アクセス――我がシン』

 

 

 黒と白。向き合う色は真逆であって、されど本質的には同じ色。互いが操る力は即ち、悲鳴と怨嗟に塗れた罪の色。

 背徳の奈落。悪徳の玉座を前に競い合う。真に罪深きは果たしてどちらか。互いに退けぬ理由があるなら、此処に競い合ってみせるとしよう。

 

 既に此処は間合いの内、雷光速なら瞬きもせずに頸を取れるその領域。さあ、始まりに決着を。誰も知らない闇の底で、悪魔の宴を終わらせよう。

 

 

「行くぞッ! ジェイル・スカリエッティッッ!!」

 

「来たまえ、エリオ。君の慕情と私の欲望。どちらが勝るか、勝負と行こうかッ!」

 

 

 一気呵成に踏み込んで、速度は一瞬にして雷光速。詠唱させる暇など与えはしないのだと、槍を両手にエリオは駆ける。

 単純速度において、スカリエッティよりもエリオが上だ。如何に高速圧縮言語であれ、音の四百倍には劣る。故に当然、魔王の力が現れるより前に刃は届く――何一つとして、罠がないのであったのならば。

 

 当然、スカリエッティは備えている。故に必然の結果として、エリオの速度が低下した。踏み出したその直後には、高速移動魔法が解除されている。

 輝く鋼鉄の大地に刻まれた、その罠の名はAMF発生装置。最高出力で展開されているこの陣がある限り、あらゆる魔法は効果を失う。二十万と言うリンカーコアも、これでは宝の持ち腐れ。

 

 魔法を解除されて、それでも高速ではある機動。しかし、音を遥かに置き去りにした高速圧縮言語が紡ぐ咒の完成には間に合わない。

 ならば、何を為せば良い。決まっている。最高速度が届かないと言うのなら、最強火力で焼き滅ぼす。鋼鉄の大地を駆けながら、エリオは唯人では聞き取れない速度で言葉を口にした。

 

 

「我は汝を召喚す――闇の焔王、悪辣の主よ」

 

「されば我が前に闇よ在れ――ヘメンエタン・エル・アティ・ティエイプ・アジア・ヴァイ・バー・ハイ・ヴァー・カヴァフォット」

 

 

 選んだ咒は、奇しくも同じ。いいや、この狂人が敢えて合わせて来たのであろう。それが分かって、エリオはしかし動揺しない。

 予想外ではある。それでも、己に宿った悪魔を生み出したのはこの男。ならばどうして、予想の内に留まろうか。そう想定していればこそ、迷いなどは生じない。

 

 相手が同じ力を示すと言うのなら、全力を以ってそれを乗り越えてみせれば良いだけの話だ。

 

 

無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)

 

 

 殺意と喜悦。二種の感情と共にぶつかり合うのは、ソドムを焼いたメギドの炎。腐った炎がぶつかり合って、其処に両者は拮抗した。

 物質世界にある全てを滅ぼす負数の力。されど互いに物質世界には存在しない力であれば、どちらもが共に敵の炎を消し去れない。鉄で出来た刃の如く、鍔迫り合いが成立する。

 

 腐炎と腐炎がぶつかり合って、至近距離で見詰め合う。殺意と愉悦の二律背反。どちらもが比率が違えど、同じ想いを宿している。

 力比べと化した状況。天秤はゆっくりと、エリオの側へと傾いていく。それも当然、器が違う。ジェイル・スカリエッティと言う男は、あくまでも研究者でしかない。

 

 彼は何処まで行っても作る者。常識を覆し歴史を書き換えることを容易く行える様な智の怪物も、唯誰かを殺す為だけに特化して生まれ育った暴の化身には届かない。

 少なくとも、戦場と言う場はエリオの独壇場だ。鍔迫り合いから押し切られて、一歩一歩と後退する。力比べを続ける限り、狂人に勝ち目はない。智の怪物はそれを知っている。

 

 ならば当然、このまま終わる筈がない。鍔迫り合いと言う形で拮抗しているのならば、同出力では押し負けると言うのならば、元となる力を増してやれば良い。それが出来るのが、求道に狂ったこの男。

 

 

「我が娘への弔いだ。無限数と言うその膨大な数を、その身で確かに味わいたまえ」

 

 

 門が開く。奈落へ繋がる門が開く。呼び出される悪魔は、エリオが宿したベリアルではない。イクスヴェリアに与えた、ベルゼバブと言う力。

 腐炎の剣で切り合いながら、その背に開いた門より現れるのは悪なる眷属。海の砂よりも多く、天の星すらも暴食する群れが津波の如くに襲い来る。

 

 一種の悪魔では勝てぬから、二種の悪魔を同時召喚。戦闘者ではなく、研究者である強み。それは常に相手より、優れた状況を用意出来ると言う物だ。

 

 

「イザヘル・アヴォン・アヴォタヴ・エル・アドナイ・ヴェハタット・イモー・アルティマフ。アクセス――我がシン。来たれ偽りの神、這う虫の王」

 

「――っ!」

 

 

 呼び出した魔群に合わせ、腐炎が爆発するかの如くに力を増す。咄嗟にエリオも力を増やして、如何にか其処で拮抗させる。

 結果は相殺。過剰火力を使い果たせば、引き出した力は一時的に尽きる。腐炎が失われた直後、迫る悪性情報の津波がエリオの身体を飲み干した。

 

 悪意が迫る。悪意が犯す。あらゆる憎悪と怨嗟の声が、エリオの魂を穢していく。歯噛みして耐えながら、エリオは如何にか新たな力を引き出そうと――

 

 

「SAMECH VAU RESCH TAU――来たれ、ゴグマゴグ」

 

「っっっっっ!!」

 

 

 それさえも予想内。エリオが腐炎を呼び出す前に、集う蟲が光と変わる。大陸一つを消し去る砲火が、エリオ・モンディアルを打ち砕く為だけに振るわれる。

 そのままでは死に至る。そうであるからこそ、必死に力を行使する。全身から腐った炎を噴出して、偽神の牙を迎撃する。無理な力の行使に魂は傷付き、それでも破壊の全ては防げない。

 

 傷付き、血反吐を吐いて、意識が遠のきそうになる。それでも己に電撃魔法を流して、気付けしてでも前に行く。そうでなくては、届かないと知っているから。

 だけどそんな決死ですらも、ジェイル・スカリエッティの予想を超えはしない。知識の怪物にとってすれば、この戦場の全てがまだ想定内。この先もまた、掌の内にある。

 

 

「Slave Gabriel, cuius nomine tremunt nymphae subter undas Indentes. Non accedet ad me malum cuiuscemodin. quoniam angeli sancti custodiunt me ubicumeque sum」

 

 

 故に当然、次がある。呼び出される廃神(タタリ)の数は、たった二種などでは終わらない。ジェイル・スカリエッティは、奈落の言う名の夢界の主。盧生(ロセイ)と呼ぶべき存在であるのだから。

 砲撃は終わらない。偽神の牙には耐えるだろうと、ならばその次の詠唱は既に始まっていた。エリオが身を立て直すよりも早く、高速圧縮された言語で咒を紡ぐ。奈落の底から這い出すは、楽園を統治する大天使。邪悪を打ち滅ぼし、地の底へと貶める力。

 

 

「蒼き衣を纏う者よ、EHEIEH――来たれエデンの統治者」

 

 

 白き翼の輝きと共に、空から無数の隕石が飛来する。神の鉄槌さながらの流星雨は、数千条にも及ぶ数にて邪悪を討つ。

 調伏するべき邪悪のみを切り裂く聖なる力は、研究施設に傷一つ付けはしない。全てを擦り抜け、光すら置き去りにする速度でエリオを射抜いた。

 

 

「ぐ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 

 ガブリエルの光は悪を浄化する。悪性である以上、回避も防御も不可能。一度その身に浴びれば、全身の神経が引き千切られる。

 傷付きながらに、地に伏していくエリオ。その身は地獄に縫い留められた悪魔の如く、鋼鉄の床に蹲る。立ち上がることすら、今の彼には許されない。

 

 そうとも、神経系が切断されたのだ。両の手足が物理的に動いてくれない。立ち上がるなど、どう考えても不可能だ。

 だが、立ち上がらなければ次が来る。既に空には数千条の輝きが、天井を擦り抜けて堕ちて来る。続く次弾の全てを受ければ、その先は既に自明の理。

 

 ならばどうする。何とすれば良い。決まっている。全力を以って、この裁きの光を迎撃するより他にないのだ。

 

 

「ぐっ、オォォォォォォォォッッ! ナァァァァハトォォォォォォッッッ!!」

 

〈ヘメンエタン・エルアティ・ティエイプ・アジア・ハイン・テウ・ミノセル・アカドン・ヴァイヴァー・エイエ・エクセ・エルアー・ハイヴァー・カヴァフォット〉

 

「消し飛べぇぇぇぇぇぇッッ!!」

 

 

 腐った炎が燃え上がる。それはまるで、バオバブの大樹が如く。邪悪だけを討つ光を、何もかもを消し去る闇が吹き飛ばしていく。

 そしてそのまま、ジェイル・スカリエッティすらも滅ぼし尽くしてみせるのだと。黒き炎の津波が、地下深くにある研究施設を飲み干した。

 

 

「Assiah, Yetzirah, Briah, Atziluth――開けジュデッカ」

 

 

 大地を塗り潰さんと言う硫黄の豪雨。それを前に平然と、狂科学者は無価値の力で壁を生み出す。

 先と同じ道理が其処に、全てを押し流す津波は堤防に止められる。互いの力が消え去る時に、疲弊しているのは片方のみ。

 

 けれど、そんなことは分かり切っていたこと。この津波が真に狙っていたのは、研究施設と言う奴が生み出した決闘場の破壊である。

 成程確かに防がれた。だが防がれたのは彼を取り巻く一部であり、大地に刻まれていた魔力阻害装置は消し飛んだのだ。故に、エリオは魔法を取り戻す。

 

 

「スゥゥゥトォォラァァァァァダァァァァァァァァァァッッ!!」

 

〈Plasma Smasher〉

 

 

 発現した魔法は、攻撃の為の物ではない。最大級の魔王を前にして、攻撃魔法に一体如何なる意味があるのか。

 故に狙うは己の五体。全身に電撃変換された砲撃を絶えず流し、それを以って切断された神経系の代わりとするのだ。

 

 

「――っっっ! オォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 傷が癒す時間などはなかった。魔人の肉体が持つ再生能力と、優れた治癒魔法。その二つを以ってしても、ガブリエルに焼かれた傷は重い。

 だからこそ、電気信号を全て魔法で代用した。全身に走る痛みに耐えて、己の身体を自傷しながら、エリオ・モンディアルは光となって駆け抜ける。

 

 対するスカリエッティは笑みを崩さない。雷光速度で迫るエリオを前にして、魔法を使える様になったのはこの男も同じなのだ。

 デバイスが演算する。それは過去に解析した、預言者の著書の応用術式。超直近の未来を予知することによって、その速度差を塗り潰す。

 

 再び、腐炎の剣がぶつかり合う。しかし今度は、先と同じ結果にはならない。切り結ぶ両者の天秤は、真逆の側に傾いていく。

 神経系の代用と、加速の魔法。蓄積された疲労と言う消耗が、エリオの動きから鋭さを僅かに奪い去っていた。故にこそ、今度はスカリエッティが押している。

 

 そして、先と同じく次がある。腐炎(ベリアル)しか持たないエリオと違って、スカリエッティには全ての魔王が宿っているのだから。

 

 

「創造主の御名に於いて、いと小さき凝血から人間をば創りなし給わう」

 

 

 紡がれるのは、傲慢の大罪。開かれるのは、奈落の最下層への道。其処に封じられた、神に抗い成り替わろうとした天使の力。

 来る。過去最大にして最強の魔王が此処に、その力を解き放たんとする。この咒が完成したのならば最後、エリオ・モンディアルは沈むであろう。

 

 

「アルファ、オメガ、エロイ、エロエ、エロイム、ザバホット、エリオン、サディ……汝が御名によって、我は稲妻となり天から墜落するサタンを見る」

 

 

 ゆっくりとした詠唱は、高速圧縮言語を使わぬもの。止められると言うのなら、止めてみせろと言うその余裕。

 だが崩せない。拮抗する天秤は僅か、スカリエッティの側に傾き続けているのだ。崩せる理由が何もない。間に合う理屈が何処にもない。

 

 ジェイル・スカリエッティは確実に、エリオ・モンディアルを潰せる準備を整えていた。そうであるが故にこそ、此処に居る彼は最強の魔王である。

 最も強大なる悪魔を宿し、全ての悪魔の力を其処に加算している。夢界の主である彼は、そういう規格外の存在なのだ。故にこそ、エリオに勝機などはない。

 

 

「汝こそが我らに、そして汝の足下、ありとあらゆる敵を叩き潰す力を与え給えらんかし。いかなるものも、我を傷つけること能わず」

 

 

 勝機はない。敗北は無数にある。この咒が完成すれば負ける。このまま押し潰されても負ける。そんなこと、端から分かっていたことだろう。

 これは己の生みの親。あらゆる悪魔の生みの親。時空管理局において、最高の頭脳と称された者。元より彼に失敗作だと烙印を押された、エリオで勝てる者ではない。

 

 エリオには何もない。憎悪と絶望の中に産声を上げ、悪魔の呪いを与えられ、空っぽだったことに気付いた。だから勝てる筈がない。

 エリオには何もない。彼は唯の肉塊だ。二十七万四千八人と言う犠牲を喰らって生まれ育ち、そしてそれ以上に殺して来た。なのに彼は、結局無価値なゴミだった。だから勝てる筈がない。

 

 

――はい。これで、私達は友達です。……よろしくね、エリオ君。

 

 

 それでも、負ける訳にはいかない理由がある。この男を乗り越えなくてはいけない理由がある。だから、勝てる筈がなくても、負ける訳にはいかないのだ。

 

 

「Gloria Patris et Fillii et Spiritus Sanctuary. アクセス――我がシン」

 

 

 間に合え。間に合え。間に合え。間に合え。立ち上がれと己を奮起して、咒が紡がれる前に奴を殺し尽くすのだと。

 エリオの表情が歪む。どんなに強く想おうとも、冷たい現実は変わらない。彼は運命に愛された者ではないから、都合の良いことなんて起こり得ない。

 

 彼の身体が大地に沈んだ。鍔迫り合いに押し負けて、立っていることすら出来ない程に追い込まれて、それでも必死に歯を食い縛る。

 地に片膝を付きながら、両手で炎の剣を支える。そうでもしなくば、もう持たない程に。それでも必死に持たせてみせる。諦めるなんて、道はない。

 

 

「“Y”“H”“V”“H”――テトラグラマトン。“S”――ペンタグラマトン」

 

 

 スカリエッティの笑みが深まる。地に膝を付く彼を上から押し込みながら、掲げた手で新たな門を此処に開く。

 此処まで耐えたことは見事。だがしかし、見事で終わる程度の話だ。この狂った求道を止める為には、あらゆる全てが足りてなかった。

 

 最早、打開の術などない。打つべき隙など与えはしない。此処にこのまま、全てを清め浄化しよう。さあ、終わりの時がやって来た。

 

 

「永遠の王とは誰か。全能の神。神は栄光の王である。YHSVH。来たれ、曙の明星。ネツィヴ・メラァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 

 空から堕ちて来るのは至高の光。あらゆる邪悪の存在を許さぬ、病的なまでの神聖さ。

 悪である者は、如何なる者でも耐えられない。どれ程に膨大な力を持とうとも、遍く全てが消え去り終わる。

 

 光が包む。光に包まれる。悪魔を身に宿し、多くの命を奪った殺戮者。そんなエリオにとってこの極光は、正しく猛毒と言うべきものに他ならない。

 

 

「ククク、クハハ、ハァァァァッハッハッハッッッ!!」

 

 

 故にこれで終わりだ。此処から先など何もない。彼の身体は空っぽで、中には悪魔しか居なかった。光に焼かれる、無価値な器が彼だった。

 故にこれで終わりだ。此処で悪魔の話は終わる。彼には悪意しかなくて、彼は誰かを呪うことを選んだのだから、救済は彼から遠ざかる様に――――本当に?

 

 

――お帰りなさい。エリオ君。

 

 

 本当に、彼にはそれしかなかったのだろうか。エリオ・モンディアルは、呪うことしか知らなかったのだろうか。

 そうなる様に育てられた。そうなることしか知らなかった。遍く世界は彼を呪って、彼は怨嗟と憎悪と悲鳴と絶望の中で育って来た。

 

 それでも本当に、今も彼は空っぽなのだろうか。エリオ・モンディアルはこの今も、呪うことしか知らないのだろうか。

 きっと違う。泥の底から生まれて来て、奈落の底で星を見上げて、這い上がって来た悪魔の王。その身は漸くに、日が差し込む小さな場所を見付けたから。

 

 

「……まだ、だ」

 

 

 何故だか、涙が零れそうになった。何もかもが消え去りそうな光の中で、けれどそれだけは残っていたのだ。だから、彼は消えていない。

 全ての邪悪を塩に変える光の中で、その想いだけを胸に残る。如何に彼が悪魔であろうと、この想いだけは残っている。誰かを愛し慈しむ想いが、邪悪である筈がない。

 

 

「まだだッ!」

 

 

 たった一つの想いを胸に、己の意志で耐え続ける。どれ程に清められようとも、慕情(ソレ)だけは消えないから、それを核に自己を集める。

 悪辣なる罪に満ちた血肉が、光の中に消えていく。ならば今この場にて、それ以外を生み出せば良い。この世界の全ては意志と魔力で出来ていて、ならば不可能なんてない。

 

 幻視した。昔に奪った幸福を。年老いた両親と、小さな男の子の姿。高齢出産故に溺愛していた。そんな温かだった一つの家庭を。

 最初に奪った彼らの記憶が、今にしてまた蘇って来る。憎悪の汚泥が清められたからだろうか、向こう側で手を振る者らの顔には確かな笑顔があったのだ。

 

 幸せになると良い。そんな都合の良い幻聴が聞こえた気がする。その言葉には頷けないけれど、それでも此処に己の出生を肯定した。

 エリオ・モンディアルを肯定する。そうして初めて、彼だけの魂が此処に生まれ落ちる。原初の罪は拭われて、それを核として新たな自分に――

 

 

「まだ、僕は――ッ!!」

 

 

 物質形成。此処に五体を取り戻した。光に清められたこの身に大罪は戻らず、悪魔の力は遠く今は取り出せない。

 だから、雷をその身に纏う。使える物は、たった三人分のリンカーコア。それでも悪が宿らぬ力は、原罪浄化の光を切り裂いていた。

 

 

「オォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 赤き少年は、槍を手に進む。赤と黒の血肉が剥げた後、残る鋼鉄の色は蒼。空の様に蒼い光を纏った槍で、この一瞬に届かせようと。

 倒せ。倒せ。倒せ。倒せ。今此処に、この男を乗り越えろ。きっと今なら届くだろう。きっとこれなら予想を超える。奴を超えれば、必ず勝てる。

 

 所詮は研究者でしかないスカリエッティは、余裕を無くした瞬間に優位を失う。一度でも追い詰められれば、奴は逆転の手を持ってはいない。

 どちらかが無双する。そういう形にしかならぬのだ。だから、一度で良い。たった一度で良い。ただ一度でも、スカリエッティの智慧に勝てば良い。

 

 雄叫びと共に、槍を両手に、大地を前へと疾駆する。そんな血塗れの少年を前にして――しかし至高の頭脳は遠いのだ。

 

 

「成程成程、見事なものだ。その成長、感動したとも」

 

 

 必死に進むエリオを前に、スカリエッティは何処までも余裕の笑みを崩さない。そうとも、まだ崩すには至らない。

 エリオに与えた悪魔の力は、総量だけならば神の領域。流出域に届いている。だから、此処で形成出来るのも、想定内の事象でしかない。

 

 予定の通りだ。必死に迫る少年は、既にして半死人。悪魔の力は一時的に浄化され、なればこそ次はない。

 白く神々しい翼で羽搏いて、空へと舞うスカリエッティ。追い縋るエリオの速度は届かず、降り注ぐ血の雨がその身を阻む。

 

 

「では折角だ。君に問おう。エリオ・モンディアル」

 

 

 音速を超えた速度で空を舞うジェイル・スカリエッティ。その背を追い掛けて、曇天の下を駆け続けるエリオ・モンディアル。

 既にして、追い付ける様な速度差ではない。ましてや、降り注ぐのは暴食の雨。あらゆる全てを溶かし、魂の一片さえも凌辱する魔群の力。

 

 追い掛けるだけで消耗する。追い続けることしか出来ないのに疲弊する。酸で己の五体を焼かれて、それでもエリオは前へ進む。

 

 

「私を殺したとして、その果てに君は何とする」

 

 

 そんな彼に、スカリエッティは問い掛ける。余裕を崩さず、余裕を崩す必要すらもないから、白衣の狂人は高みから見下ろしながらに斯く語る。

 天上に座す神でも気取っているのだろうか。全知全能なる主であるとでも嘯いているのであろうか。彼は己の頭脳が読み解いた未来を、唯一無二なる真実かの如くに告げるのだ。

 

 

「非情な現実を伝えよう。どうしようもない現実を示してあげよう。此処に、君の絶望を用意した」

 

 

 雷光と共に追い掛ける少年の内に、未だ大罪は戻らない。浄化の光に焼かれたラインは、再び繋がるまでに時間が掛かる。

 それを待つ心算はない。待ったとして、状況が改善されるとは思えない。再び浄化の光に焼かれて、大地の底へと落とされるだけのこと。

 

 だから、この今に超えてみせる。奴が余裕を見せてる間に、その余裕を崩してみせる。そう胸に誓って必死に空を追い掛けるエリオに、彼の創造主は彼の絶望を告げるのだった。

 

 

「聖王は神には成れない。私は彼女を、そう作った」

 

 

 聖なる王は、聖なる神には決して成れない。聖王オリヴィエのクローンであるヴィヴィオは、次なる神となる資質を持たない。

 そう成る様に、彼は作り上げている。だから、この時点で二つの陣営が詰んでいる。最高評議会と御門一門。彼らが望む次代など、何をしようが成立しない。

 

 

「トーマ・ナカジマは神には至れない。他でもない、君が白百合を壊してしまった。彼は滅びの日を前に、間に合わない」

 

 

 トーマ・ナカジマは、神の領域には至れない。彼を留める卵の殻には、未だ亀裂すらも入ってない。孵卵器がその役を果たしていないのだ。

 そして、それを無理矢理に覚醒させる術も失われた。他でもない孵卵器の手で、殻を割る刃は砕かれた。後二年と言う僅かな時で、あの少年が完成する筈がない。両面鬼の企みは最早、実行不可能な事象と化した。

 

 

「おめでとう、エリオ。君のお陰で、もう間に合わない。新世界が生まれる前に、現世界は滅び去ろう。君が愛する少女の未来を、その手で閉ざしてしまったのだよッ!」

 

 

 世界に残る道は二つ。永遠の刹那が蘇り、全てが無限に凍る道。無限の欲望が望みを果たし、神殺しと同時に誰も彼もが死ぬる道。その二つしか残ってはいない。

 既に未来は閉ざされている。この先に在るのは、どちらに転んでも最悪しかないという結末。僅か二年後に滅びる現世界。次が生まれぬのだから、行き付く果ては奈落の底だ。

 

 天から裁きを降らせながら、嗤い語るスカリエッティ。お前の所為だと告げる言葉を、雨に焼かれて落下しながら、エリオは噛み締め咀嚼する。

 

 

「聖王は、神に成れない」

 

 

 最高評議会が望んだのは、真に正しき聖なる王の下、魔導師たちの楽園が永劫築かれていくという未来。その願いは王を、狂人に託した時点で壊されていた。

 御門顕明と名乗る敗北者が望んだのは、聖なる器と聖なる槍を合わせて修羅の王を呼び戻すこと。彼の黄金の復活は、智の怪物によって未然に防がれた。如何に転ぼうとも、最初から達成できない様に仕組まれていた。

 

 

「トーマは、神に至れない」

 

 

 両面宿儺が望んだのは、神の半分である少年に真実無二の自己を与えること。彼が彼だけの意志で神に至れれば、主柱と向き合うことが出来るから。

 されどそれももう成立しない。トーマ・ナカジマは完成しない。愛すべき少女も、憎むべき怨敵も、どちらもなしには至れない。至れるとしても、僅か二年の時では無理だ。

 

 故に世界は滅ぶ。狂った求道者と、その子である罪悪の王。この両者が壊し尽くしてしまったから、世界は滅ぶべくして滅ばんとしている。

 それは確かに絶望だろう。望み掴もうとしたからこそ、彼女の未来を無くしてしまった。そうと理解して、ならば黙って終わるのか。いいや、それこそ無責任と言う話であろう。

 

 

「ならば、話は簡単だ。ああ、そうだとも、それで良いッ!」

 

 

 血の雨に溶かされる中、裁きの炎が堕ちて来る。ベルゼバブの力に続くは、ウリエルの火。直撃すれば、今のエリオなど一瞬で灰となる力。

 必死に雷光を操って、その効果範囲から如何にか逃れる。生じる爆発で身を焼かれ、それだけで意識が飛びかけながら、それでもエリオは空を飛ぶ。

 

 心に道は決めている。終わるからと言って、諦める訳にはいかないのだ。ならば、選ぶべき道はたった一つだ。

 

 

「僕が、彼女の生きる世界に成るッッッ!!」

 

 

 この手が重ねた罪が、彼女の未来を閉ざした。ならばこの手が切り裂くことで、新たな世界を生み出そう。

 愛する一人の少女の為に、彼女が幸福に生きられる世界を。誰も其処に至れないと言うのなら、己が其処に至れば良い。

 

 天使の炎に耐えられず、悪魔の雨に焼かれている。そんなちっぽけな少年は、それでも本気でそう言った。

 

 

「く、くくく、くははははははは――ッ! 正気か、我が子よ! 君に成れると、想っているのかねッ!?」

 

「正気だろうがッ! 気狂いだろうがッ! 成れるか否かもッ! そんなことは関係ないッッ!!」

 

 

 空を舞いながら、様々な天使と悪魔を呼び出し使役する狂人。腹が捩れそうだと、涙を浮かべながらに彼は嗤う。

 荒れ狂う風。燃やし尽くす炎。純粋なる破壊の力。悪を裁く水の権能。血の雨は止まず、無数の縛鎖が襲い来て、腐った炎が全てを穢す。

 

 たった一撃でも、直撃すれば死に至る。そんな極限の中で、彼は生きる。

 これまでの経験が、戦闘者の極みとして作られた身体が、辛うじての生を掴み続ける。

 

 そうとも、死ねない。死ねない。まだ死ねない。それしか道がないのなら、那由他の果てでも手を伸ばす。

 

 

「それしか、道がないのならッ! あの子の世界を、僕が作るッッッ!!」

 

 

 果たして何度、地に堕ちただろうか。果たして何度、血反吐を吐いただろうか。気が遠くなる程長い気がするし、ほんの一瞬の出来事にも思えて来る。

 彼にあるのは意志だけだ。愛する少女の為に、世を切り裂くと言う意志だけだ。たったそれだけのちっぽけな想いを胸に、あらゆる廃神(カミ)を統べる魔王へ迫る。

 

 

「僕たちは、本当は何にも縛られちゃいないッ! 望めば、何にだって成れるし、何処にだって行ける筈だからッッ!!」

 

「ああ、良い啖呵だ。良い覚悟だ。良い成長だッ! 素晴らしいと褒め称えよう、愛し子よ。君を作って、本当に良かったッ!!」

 

 

 設定した性能を超えた駆動によって、唯のデバイスに戻っているストラーダは煙を吐いている。僅か触れれば壊れそうな程、既にその鋼鉄は限界だ。

 無数の傷を負い、それでも前に進み続けているエリオ・モンディアル。その身体は壊れ掛け、その心は摩耗し掛けている。僅か触れれば壊れそうな程、既にその身体は限界だ。

 

 それでも、彼は止まらない。たった三つのリンカーコアから、雷光の力を引き出して進み続ける。決して届かぬ断崖を前に、諦めると言う道を選ばない。

 ならばきっと、彼は止まらない。やがて腐炎を取り戻すだろう。悪魔の力を引き出して、二十万人分の魔力を引き出せる様になって、必ずやまた届かせて来るだろう。

 

 そうとも、エリオ・モンディアルは止まらない。その意志が放つ熱気を間近で浴びるスカリエッティこそが、誰よりもそう強く確信していた。

 

 

「だが、ああ残念だ。そうだとも、本当に本当に残念だ。君が此処に立つのは早かった。君はまだ、私の前に立つ前に満たすべき、最低限の条件すらも満たしてはいなかった」

 

 

 だが、ああだからこそだろう。この勝敗は揺るがない。スカリエッティが用意していた切り札を、彼はまだ乗り越えることが出来ない。

 視界に映るのは、彼の首に掛かった黒き輪。肉体の形成と共に、それも復元したのは首輪がまだ必要だから。それを必要としている時点で、彼は父を超えられないのだ。

 

 それを此処に、示すとしよう。己に迫るエリオの姿に笑みを深めて、スカリエッティは白衣の衣嚢より一つの小さな機械を取り出した。

 

 

「ジェイルゥゥゥゥッ! スカリエッティィィィィィッッ!!」

 

「君はまだ、当たり前の人間にすら成れてない。そんな様で神を目指すと騙るのは、余りにも傲慢と言う物だよ。エリオ・モンディアル」

 

 

 エリオ・モンディアルの首に掛かった輪は、監視装置であり粛清装置。であると同時に、彼にとっては命綱でもある。

 嘗てナハトが生まれた時、スカリエッティは彼を制御する為に首輪を作った。砕け散った魂を首輪で集めて、偽りの自我と言う封印を生み出す。そう言う形で、今のエリオは成立している。

 

 故にこそ、悪魔との繋がりが断たれた今、首輪を失えばエリオは己を保てず死ぬのだ。それが彼が、人以前の存在であるという理由。

 空の高みに立つジェイル・スカリエッティは、迫るエリオ・モンディアルを前にして、何ら躊躇することなく手にした首輪の起爆装置を発動させた。

 

 

「が――ッ!?」

 

 

 空に小さな花が咲き、少年の首輪が破裂する。全ては狂人の掌から外れることはなく、彼は大地の底へと堕ちていく。

 身体は地面へ、魂は奈落へ。深く深く堕ちていく。当たり前の人間にも成れてはいない少年は、唯の肉塊と言う名の在るべき姿へと。

 

 

「さようなら、我が愛し子よ。君の全ては、此処で終わりだ」

 

 

 最初から、こうなるだろうと読めていた。途中の予想外こそ嗤えたものの、結局全ては此処に帰結した。

 浄化の光で悪魔を剝ぎ取り、起爆装置を押せば終わる。そうスカリエッティは、未来すらも見通す明晰な頭脳で断じていたから――

 

 

「僕に従えッ! 僕を生かせッ! ナハトォォォォォォォォォォッッッ!!」

 

「な――ッ!?」

 

 

 それこそが予想外。彼の叡智を超える事象。壊れて奈落に堕ちた筈のエリオが、其処で再び空を目指した。

 背の黒い翼を爆発させて、空に座すスカリエッティへと迫るエリオ。科学者でしかないスカリエッティは、予想外の事象を前に即応出来ない。

 

 そうとも、彼は戦場に立つべき人種じゃない。戦士を相手に優位を保てたのは、全ての展開を予想していたから。予想を外れた時点で、彼は誰より弱い弱者に変わる。

 

 

「何がッ!? 何故だッ!? ――ッ!! そうかッ! 奈落に堕ちて、それでも自我を保っていたからッッ!!」

 

〈事此処に至っても、原因不明の論拠を求めるか。成程、知性の化け物。お前の本質はそんな物でしかないから、俺の相棒(エリオ)に負けるのだろうよ〉

 

 

 予測を外した事象を前に、対処よりも原因を求めてしまう。無限を望む欲望故に、そういう資質こそがジェイル・スカリエッティが持つ陥穽。

 そして僅かな時間で在ろうとも、スカリエッティの頭脳は答えを示す。エリオを背から抱き締める様に、浮かんだ黒き影こそが彼の疑問に対する答えであった。

 

 

〈夢界の主。気狂い仲間として、お前は嫌いじゃなかったが。この贄(エリオ)はお前にくれてはやれん。これは俺のだ〉

 

 

 自我を定着させるのが首輪の機構。それが壊れれば、エリオの自我は奈落の底へと。散り散りになって霧散していた筈である。

 だが、今の彼は嘗てと違う。奈落の底へ堕ちても、その自我は砕けなかった。彼は己だけの魂を得ていたから、溶け込まずに確かに在れた。

 

 それだけならば、戻って来るなど不可能だ。だから彼は、ナハトを味方に付けた。悪魔に首輪の代わりをさせて、己の肉体に魂を呼び戻させたのだ。

 そうとも、スカリエッティは夢界の主である。だが彼は夢の全てに憎まれている。対して、エリオ・モンディアルは悪魔に愛されている。奈落の中にも、彼の味方は確かに居たのだ。

 

 

「奈落に堕ちろッ! ジェイルッ! スカリエッティィィィィィィィィッッッ!!」

 

「――っ!?」

 

 

 死地に論拠を求めたから、予想外の出来事に止まったから、迫る蒼き槍の一撃を躱せない。空を目指す少年の一撃を、今の彼は防げなかった。

 過ぎ去る際に、槍が射抜く。無限の欲望のその身体を、巨大な鋼鉄が貫いている。そうして彼を置き去りにして、より高い場所から、振り返ったエリオはその手を掲げた。

 

 

主に大いなる祈祷を捧ぐ(ヘメンエタイツ)

 

 

 頭上に掲げる。光を掲げる者とは呼べず、彼は闇を掲げた者。右手の先に浮かぶのは、もう一つの太陽を思わせる黒き炎。

 見上げた狂人は静かに笑う。槍に貫かれた傷を抑えながらに、僅か思考するのは次なる一手。冷静になれば、打てる手はまだ存在している。

 

 今この場での逆転は不可能だ。それでも、予備の器がある。無価値の炎で焼かれる前に、自死して逃げれば次はある。

 

 

「ああ、だけど――そうだね。約束したから、此処は素直に死ぬとしよう」

 

 

 それでも、嘗て戯れに語った約束を思い出す。首輪を外せたのならば、子が父を超えた証を立てたのなら、素直に殺されてあげようと言う誓い。

 口約束にも等しいことだが、だからと言って破るのは論外だろう。此処で死ぬのは嫌だし、至れなかったことは悔しいし、求道を諦めたくはないけれど、守ってやらねばならぬだろう。

 

 それが、親を超えると言う証を見せた子供に対する真摯な対応。最初から最期まで、碌でもなかった父親に示せる唯一無二の親心と言う物だから。

 

 

「汝、我が死を喰らえ――無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)ッッ!!」

 

 

 堕ちて来る巨大な炎が、全てを焼き尽くしていく。大いなる神を弑逆せんとした狂った男を、悪魔の炎が消し去って逝く。

 その刹那、消え去る間際に見上げて嗤う。全てを腐らせる炎を浴びて、最早次などありはしない。そんな男が子を見上げて、確かに笑って言ったのだ。

 

 

――認めよう。我が子よ。君は私の失敗作で――――唯一無二の最高傑作だった。

 

 

 声は届かない。音すら無価値に変えられて、消え去る男の声は届かない。何もかもを消し去る炎は、何一つとして残しはしない。

 それでも、届く想いはあった。唇を読んだのか、心が届いたのか、問い求めることに意味はない。事実として、彼の言葉はその子に届いていたのだから。

 

 

「嬉しくも、なんともない評価だよ。……さようなら、最低最悪だった。お父さん」

 

 

 狂念さえも焼き堕とされて、後には何も残らない。男が生きた証でさえも、何一つとして遺りはしない。

 空しく吹き込む風と共に、彼が嘗ていた場所を僅か見下ろす。最低最悪の男であったが、それでも彼が己の父であったから――去来する感情は、唯それだけのことだろう。

 

 

〈さぁて、これからどうするね。愛しい愛しい俺のエリオ(マイマスター)

 

「ふん。知れたこと」

 

 

 哀悼は僅か、それ以上に想うことなど何もない。そして、此処で立ち止まっている様な時間もない。

 

 先は遠い。目指すと語った至高の天は、まだ形すらも掴めぬもの。この身は当たり前の人間にすら、成れてなどいないから。

 時間はない。全能なる神が死するまで後二年。そうでなくとも、ナハトの警戒も続けなくてはならない。彼がエリオを愛すればこそ、無条件な味方とはなり得ない。

 

 今回、彼の悪魔が手を貸したのは、望む結末ではなかったが故。愛するエリオに最低最悪の終焉を、そう望むからこそ悪魔の愛は腐臭がする。

 最悪の場面で、ナハトはエリオを裏切るだろう。そうと分かって、それでも生きる為に従えるしかない。そんな人間以前の彼には、二年と言う時間すらないかもしれないのだ。

 

 

「座を目指すぞ。ナハト。僕らで神座を、奪い取るッ!」

 

 

 それでも、目指すと決めた。あの子の生きる未来がないなら、己がそれに成ると決めたのだ。

 絶望に満ちた地獄の底で、汚泥を集めて生まれた人形。今は悪魔の傀儡に過ぎない彼は、それでも神に至ると決めた。

 

 目指すは神座。理を流れ出す場所。愛すべき輝きの為に、其処に至る。

 その為ならば、彼は何であろうと為すだろう。誰であろうと、倒すであろう。そうとも――エリオ・モンディアルに、敗北などはない。

 

 

 

 

 




エリオVSスカリエッティ、決着。あっさり目の決着だったけど、スカさんは性能的に無双出来ないと死ぬスペックだからこんな感じで。
子煩悩なお父さんは、子どもが自分を超えていくと宣言した成長を見て、嬉しくなって笑ったまま後を託して逝かれました。(スカさん視点での今話)


THE DARKSIDE ERIOは今回の様に、エリオ君が主要人物をバッタバッタと薙ぎ倒していく話です。
それぞれの抱えた因縁とか、各キャラの心情とか、全て知ったものかと蹂躙していく。そんなダークサイドな物語が、この番外編です。救いや因縁の清算が見たければ、本編に帰りましょう。


次回更新は未定。Diesアニメ二期が放送される前には書きたいと思ってる。




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第六話 悪戯子猫 ルーテシア・グランガイツ

副題
・グランガイツ姉妹の日常風景。
・スターズ分隊出撃。
・エリオ君は次の標的をロックオンしたようです。


1.

 槍の穂先が風を切る。隊舎訓練場の片隅で、桃色の少女は身の丈よりも大きな騎乗槍を振り回していた。

 

 

「1、2、3、4……」

 

 

 地に足を付いて、と言う訳ではない。それでは折角の竜召喚と言う希少技能が活かせない。

 腕だけの力で、槍を振っている訳でもない。少女の身体で腕力など、どれ程に鍛えようと高が知れている。

 

 

「8、9、10、11……」

 

 

 父の真似をして、それでは行き詰まりを感じていた。当然だろう。筋骨隆々とした大男の動きが、か弱い十の少女に行える筈がない。

 そんな時に彼から受けた助言を胸に、根本から見直した練習法。白き飛竜に跨って、空を飛翔し刺し貫いては大きく退くと言う動作の繰り返し。それは実戦を想定したものだった。

 

 

「17、18、19、20……」

 

 

 滴る汗を拭わずに、振るう槍撃は一意専心。攻撃のみに全霊を賭して、五体全てを用いる刺突。唯それだけに専念すれば、幼い少女の身であっても一線級の威力は出せる。

 回避や防御は考えない。どころか、キャロは間合いすらも計らない。当てる当てないすら考慮せず、唯全力で貫いてみせる。一念でそう穿つのが彼女の為すことならば、それを当ててみせるのが飛竜の役割。

 

 

「きゅくるー!」

 

 

 主の指示がなくとも、フリードは己の上で起こる重心移動から判断できる。知性に優れる竜種を使役する利点が其処だ。都度細かな指示がなくとも、僅かな所作で意思疎通が可能となるのだ。

 

 彼女たちは、人馬一体――或いは人竜一体とでも言うべきか。完全に合致した呼吸を持って、個々の実力以上を発揮できる。

 一人と一匹。揃って初めて出来る類の強さ。逆に言えば、分断されれば彼女たちは殆ど何も出来なくなる。連携前提の鍛錬には、そう言う脆さも確かにある。

 連携しても、届かないと言うこともあるだろう。潰しが効かないと言われてしまえば、何も言い返すことなど出来はしない。だがそれでも、それが動きを鈍化させる理由にはならない。

 

 信じているのだ。信じられていると知っている。キャロはフリードの判断を、フリードはキャロの全力を。それで届かないのなら、何をしようと自分達では無理だろうと。

 そう言う信頼があればこそ、この連携に脆さはない。互いに己の為すべきことに専念して、それ以外など考えない。だからこそキャロとフリードは、フォワード陣でも一・二を争う位置に居る。

 

 

「頑張るわねー。っと、ほら」

 

「25、26……あ、わわっ!?」

 

「きゅくるー」

 

 

 ふと掛かる声に動きを止めて、振り向いた瞬間に投げ付けられたのは白地のタオル。咄嗟に掴もうとして両手が塞がっていることに気付き、どうしようかとワタワタと。

 そんな主の様子に一つと鳴いて、フリードがその身を動かす。降下した飛竜の背は丁度放物線を描いていたタオルの先へ、顔面に向かって来たタオルにぶつかりキャロは小さな悲鳴を上げた。

 

 

「ひ、ひどいよ。フリード」

 

「きゅくるー」

 

「二人とも、何やってんのよ」

 

 

 先程までの人竜一体は何処に行ったのか、汗に濡れた顔を情けなく歪ませた少女の姿に、対する飛竜はどこ吹く風。そっぽを向いて口笛でも吹き出す様な態度にも見えて、キャロはポカポカとその背を叩いた。

 だが所詮は、十の齢の少女の手。片手で幾ら叩こうとも、鋼の如き飛竜の身体は傷付かない。主の不満など意にも返さずタオルを投げた少女の元へと向かうフリードの姿に、キャロはどうしてこんな風に育ったのだろうかと遠い目をした。

 

 

「それで、るーちゃん。どうしたの?」

 

「ん。取り敢えず、もう昼過ぎじゃない。そろそろ一旦止めとこうと思って。朝からずっとでしょ、服も汗で凄いことになってるじゃない」

 

「あっ! こ、これ、見えてないよね」

 

「残念ながら下まで透けて見えてるわよ。スターズが出払ってる日で良かったわね」

 

「うーっ!」

 

 

 気を取り直して、丸まったタオルを引き延ばしながらに問うキャロ。問われたルーテシアは半眼となって、その問題点を指摘する。

 自主訓練であるが故、身を包んでいたのはバリアジャケットではなく極一般的な運動着。当然多量に汗を掻けば、濡れるし透ける。そんな簡単なことに指摘されて初めて気付いたキャロは、恥ずかしそうに大きめのタオルでその身を隠した。

 

 そんな妹の姿に溜息を吐き、ルーテシアはベンチに座る。お前も座れと言わんばかりに隣の席を叩く彼女に促され、フリードから降りたキャロはタオルを頭から被ったままその隣に腰掛けた。

 

 

「んで、ずぶ濡れキャロ。シャワーと昼御飯、どっちを先にする?」

 

「え、っと。服はべたべたして気持ち悪いし、お腹も空いてるんだけど…………何か、立ち上がろうって気がしなくて」

 

「根詰め過ぎ。座った時に立ちたくなくなるくらいの疲れが出るって、どんだけよ。まぁ、急ぐ話でもないし、暫く駄弁ってから部屋に行きますか」

 

 

 言って持って来た鞄を開くルーテシア。彼女は右手で取り出した水筒をキャロに手渡すと、左手で取り出した魚肉ソーセージを包装紙ごとフリードの口へ投げ込む。

 桃色のコップに温めのお茶を注ぎ、一口してふうと息を吐く。そんなキャロの横でむしゃむしゃと口を動かしていたフリードは、器用に包装紙だけを吐き出していた。

 

 裏返したビニール袋を手に付けて、吐き出された包装紙を回収するルーテシア。そんな彼女を大きな翼でぺしぺしと叩いて、次を要求するフリード。ルーテシアは溜息混じりに、残り全部を纏めてその口に突っ込んだ。

 

 

「けど相変わらず、キャロはその訓練続けてんのね。実際、お兄さん相手に勝率五割以上だし、効果あるみたいだけどさ。……こないだ、父さん自棄酒してたわよ。父の教えより、恋人の言葉を優先するのはまだ早いんじゃないかーって」

 

「こ、恋人って、そ、そんなんじゃないよ!?」

 

 

 そんな日常風景をぼんやりと見詰めていたキャロは、会話のキャッチボールどころかデッドボールにしかならない発言に思わず吹き出す。

 汗とは違う液体で濡れる身体をタオルで吹きながら、先とは違う理由で顔を真っ赤にして抗弁する。だが端からキャッチボールをする気がないルーテシアは、悪戯な笑みを浮かべたままに抗弁を聞き流して告げるのだ。

 

 

「大の大人の癖に、まだ早いだろうって、母さんに泣きついてて、ぶっちゃけみっともなかったし。それに、ルーテシアはそんな奴居ないよなって、絡まれて大変だったんだからね」

 

「だから、エリオ君とは、そういうのじゃなくて!」

 

「おやおやー。私は名前までは明言してなかったんだけどー。キャロってばやっぱりアイツのこと、そういう風に捉えてたんだー。…………あのロリコン野郎」

 

「もう、るーちゃん! 話聞いてよー!!」

 

 

 ポカポカと背中を叩く小さな手。悪意も害意もないそれでは傷付けることはなく、当然笑い続ける自称姉を止めることにも至らない。

 悪戯な子猫を思わせる笑みを浮かべて、散々に弄り倒してくるルーテシア。その相手をするにも疲れたキャロはがっくりと、黙り込んでしまうのだった。

 

 反応が無ければ、からかうことも詰まらない。ここらで一度退いておこうと、其処でルーテシアは思考を切り替える。思うのは、今話題に出た少年のこと。

 

 

「あの噂、本当だったわね」

 

「るーちゃん」

 

「エリオの奴、最高評議会が抱え込んだ処刑人だった。……無限蛇から抜け出しても、やってることが同じだったら意味ないじゃない」

 

 

 キャロを介して数回ほど、ルーテシアも彼に会ったことがある。妹に付いた悪い虫ではないのかと、彼女が気にするのは当然のことだ。

 そんな彼女に対して、エリオは隠さずに己の素性を語っていた。ルーテシアだけではない、ゼストやメガーヌ。グランガイツ一家全員が、エリオの過去を全てではないが知っている。

 

 犯罪結社“無限蛇(アンリヒカイト・ヴィーパァ)”。其処に居たこと。其処から抜け出したこと。恩赦を受けて、今は管理局に属していること。

 少女に嘘を吐きたくはない。けれど教える訳にはいかないこともある。だから全てではないと明言して、それでも多くを伝えて来た。そんな態度が真摯であると感じたから、ゼストもメガーヌもルーテシアも、何処かで彼を認めていたのだ。

 

 だがそんなエリオが今に行っていることは、彼が過去に語っていたことと何ら変わりがないことだった。それを、先の一件後に行われたブリーフィングで知った。

 犠牲者への弔いが終わって、失敗に終わった任務への反省会が行われる中で告げられたのだ。あの一件を片付けたエリオ・モンディアルの所属と素性。そして、無限蛇の裏側までも。

 

 結局、所属の名前が変わっただけ。犯罪者と言う立場でなくなっていただけ。それ以外には何一つとして、変わっていなかったという事実。

 其処に面白くはないという感情を抱いてしまうのは、なまじほんの少しだけ認めていたからなのだろう。キャロに嘘を吐きたくはないと、その心は本当なのだと認めていたのだ。

 

 

「……本当に、意味ないのかな?」

 

 

 だから裏切られた様な気がして、意味がないじゃないと語るルーテシア。そんな少女の傍らで、キャロは自問する様に言葉を紡ぐ。

 何も変わっていなかったのだと、果たして本当にそうなのか。やっていたこととやっていることが変わらなくても、何一つとして意味がないことなのだったかと。

 

 

「私は、そう思いたくない。だって抜け出した意味がないなら、出逢って、過ごして、笑い合った日々も無価値になる。そんな風には、思いたくない」

 

 

 答えは出ない。所詮は他人だ。本人ではない以上、如何に想いを巡らせようと推測にしかなってはくれない。

 だから口にしたのは、自問への答えではない。そうあって欲しいという願い。そうはなって欲しくはないと言う祈り。自己の望みを、巫女は紡ぐ。

 

 

「あの日々にあった笑顔にはきっと、嘘も偽りも何にもなくて、なら無価値なんかじゃなかったんだって信じてる」

 

 

 そうとも、無価値じゃなかった。何もかもに価値がないと語る彼の言葉に反する様に、あの日々には価値があったのだと断言する。少なくとも、キャロ・グランガイツはそう信じたいから信じている。

 

 

「ん。……そうね。確かにアイツは、キャロにだけは嘘を吐かなかった。嘘偽りのない日々なら、きっと無価値なんかじゃない。それは私も納得出来る。ってか、そうじゃなきゃ、妹を任せられるかっての」

 

「だ、だから! エリオ君とは、本当にそういうのじゃなくて! それにいっつもお姉ちゃん振って、るーちゃんだって同じ年じゃない!」

 

「精神年齢が違うわ! 私の方が、何かこう、お姉ちゃんって感じだもん」

 

 

 キャロがそう信じるのならば、外野でしかないルーテシアが口を挟む筋合いなどないのだろう。それはそれとして、その関係を弄ることは止めないが。

 そう切り替えたルーテシアに対し、いい加減にしろと我慢の限界を迎えたキャロが吠える。小動物に噛み付かれた小動物は、無い胸を張りながらに言葉と言う牙で噛み付き返す。

 

 喧々囂々、喧しく姦しく騒ぎ立てる少女たち。そんな彼女らを後目に、フリードは後ろ足を器用に使って、無数の包装紙をビニール袋の中へと吐き出していた。

 

 

「取り敢えず、今は何も出来ない。あの日も、今も、まだ私たちは弱いから」

 

 

 姦しいやり取りを終わらせて、ルーテシアが紡いだのはそんな言葉。彼女はまだ最初の任務の光景を、胸に強く刻んでいる。

 忘れる訳がない。忘れられる訳がない。己達の弱さが導いたその結果を、犠牲になった人達が居るのだと、忘れて良い筈がない。だから――

 

 

「でも、何時までも弱いままでいる訳じゃない。きっと次には、今よりもっと強くなる。だよね、るーちゃん」

 

 

 強くなると誓うのだ。今度はしっかりと、守るべき人を守って、助けたい人を助けられる様に。

 

 

「とーぜん。今度はあのロリオ・モンデヤルが終わらせる前に、ちゃんと救い出せるようになるわよ!」

 

「その呼び名は酷過ぎるよ!? るーちゃん!!」

 

 

 強くなると心に決めて、それでも閉まらないのは少女の(サガ)か。悪戯子猫の言葉は意図したもので、窘める巫女の言葉は裏も表もありはしない。

 純朴なキャロがそう反応すると分かっていて、語ったルーテシアは小さく嗤う。またも突っ込みどころを晒してくれた妹を、盛大にからかってやるのだと。

 

 そんな彼女の企みは、乱入者の言葉と行動によって覆された。

 

 

「何だ、見所あること言うじゃないの。アンタ達」

 

「わっ!?」

 

「な、誰よ! アンタ!!」

 

 

 行き成り背中を叩かれて、驚きと共に跳ね上がる。吃驚したと息を吐くのがキャロならば、いきり立って誰何の言葉を口にするのがルーテシア。

 慌てて振り向いた少女らの視界に、金糸の髪が映り込む。少女らの小さな背を軽く張り飛ばした両手を腰に当て、自信ありげな笑みを浮かべている女性が其処に居た。

 

 六課隊長陣と同じ陸の制服ではなく、執務官用の黒地の制服を着た年若い女性。髪の色は黄金で、瞳の色は翡翠に近い。だというのに何故か、燃え盛る炎のイメージを二人は彼女に抱いていた。

 

 

「はい、紫色減点。自分の直属の上司くらい、会ったことなくても覚えときなさい。入隊資料には載ってたでしょ?」

 

 

 だが、その炎は何処か冷たい。そんな矛盾した硬質さで、女はルーテシアに評価を下す。事前資料を確認していないのは、大きな減点要素となると。

 

 

「え、あ! バニングス執務官ですか!?」

 

「桃色も減点。もっと早く、もっと自信を持って言える様になりなさい」

 

 

 だがやはり、冷たいだけの女性ではない。炎を思わせるからか、何処か温かくもある。少なくとも身内には、其処まで苛烈ではない。アリサ・バニングスとは、そういう女だ。

 

 

「先ずは自己紹介。アンタ達が属するバーニング分隊、分隊長のアリサ・バニングスよ」

 

 

 スターズ分隊が出動している中、バーニング分隊が非番待機していた理由。それはこの金糸の女性が、今日この時から合流すると決まっていたから。

 今後は分隊単位で動くことが多くなる。そうである以上、合流して直ぐに活動とはいかないだろう。それにルーテシアには、少々の問題があると友人(すずか)から聞いている。状況次第では抗命罪にも成り得ると、言われたからには人格を見ない訳にはいかない。

 

 そう判断して、だからこそこうして顔を見に来た。だが値踏みする様な視線は必要ない。言葉を聞いて、その目を一瞥すればそれで分かる。

 

 

「やる気あるみたいだし、見所もあるようだから、これからみっちり扱いてあげる。――と、その前にアンタ達も自己紹介しなさい。それが終わったら、昼食くらいは奢ってあげるわ」

 

 

 冷たくも何処か温かく、燃え上がる炎を思わせる笑みを浮かべて告げる。そんなアリサ・バニングスと言う女は既に、この二人を気に入り始めていたのである。

 

 

 

 

 

2.

 目標対象の回収に失敗し、人員二名を失うと言う結果を残したファーストアラートから三日。まだ傷が癒えていない今、彼らは二度目の出撃を迎えていた。

 薄暗い鋼鉄を靴で叩いて、少年少女は駆け抜ける。そんなスターズ分隊の二人が見せる表情は、焦りと必死さ、ある種の決意に満ちた物。それは先に盛大な敗北をしたからと、それだけが理由な訳ではない。

 

 

「何だよ、これ」

 

 

 薄暗い灯りが照らし出すのは、逆さになった大きな試験管と――中に浮かんだ歪な人影。

 手がない。足がない。目がない。歯がない。内臓が欠落している。そしてその代わりと言わんばかりに、違う物が付けられている。

 目がない男の眼窩には、鮮やかに輝く機械仕掛けの何かが嵌っている。腰から下がない少女の脊髄が接続されているのは、まるで虫を思わせる様な異形の形骸。此処で何が行われていたと言うのか、そんなものが余りに多く並んでいる。

 

 

「こんなことが、許されて良いのか――ッ!」

 

 

 今も眠り続ける被害者たちを見詰めて、大声を立てて逃げ惑う白衣の科学者たちを見詰めて、茶髪の少年は歯噛みし拳を握り締める。

 悔しかった。どうしようもなく、こんなことが現実の物とあることが悔しかった。歯が砕けそうになる程に、爪が掌に食い込む程に、それでも我慢がならないのだ。

 

 彼にとって、世界とは綺麗なものだった。だというのに、此処にあるのは一体なんだ。何故にこの様なことが起きるのかと、叫びながらに拳を振るう。

 そんなトーマの憤りに、答えを返すは背中を預ける橙色の髪を伸ばした少女。ティアナ・L・ハラオウンも彼と同じく、怒りを抱きながらも彼より冷静に言葉を返した。

 

 

「許されないわよ。だから、私たちが来てるの!」

 

 

 怒りを抱き、許せないと義憤を吠え、それでも彼らが振るうは非殺傷設定魔法。ミットチルダ式と近代ベルカ式が入り混じった砲撃魔法は、科学者たちを無力化していく。

 彼らは許されぬ悪を成した。とは言え、トーマもティアナも裁く立場にある人間ではない。故に捕縛を、裁きは法の下で、如何に憤りを抱こうとも、其処だけは決して外さない。

 

 怒りのままに、拳を振るいながら進み続けるトーマ。同じく怒りを抱いてはいるが、彼より冷静なティアナは使い終わったカートリッジを廃薬莢の如く捨て去りながらに思考を進める。

 トーマとティアナは陽動を担当する囮であって、本命の確保と必要な情報の取捨選択を行うのは分隊長であるなのはの役目だ。だからこそ考えなしに暴れながら、それ以外を思考する余地があったのだ。

 

 

「けど、無人世界とは言え、こんなにも堂々とした違法研究所があったなんてね」

 

 

 古代遺産管理局。そう自称するだけあって、六課が介入できるのは原則的に古代遺産が関わる事象。即ち、ロストロギアの使用が確認された時のみだ。

 この研究施設はその点で言えば、余りにも真っ黒と言える物。人体とロストロギアの融合を、実験体の身体など一切考慮せずに行っている。そんな違法研究所。

 

 それが余りにも堂々と、無人世界に建造されている。こうもあからさまに多くの遺失文明遺産を利用していると言うのに、この今に至るまで管理局が介入出来なかったこと。それが余りに異常なのだと、ティアナはそう思うのだ。

 

 

「キリークとゲルダは何をやっていたのか。……いえ、もしかして、此処に作ったのはそれが理由? 拘置所があるから、材料には事欠かない、とでもッ!?」

 

 

 第六無人世界。衛星軌道上には重犯罪者用の拘置所があり、職務外とは言え其処には管理局員も詰めている。だと言うのに、その局員たちは気付いてなかったのだと語る。

 こんなにも多くのロストロギアを惑星内に持ち込んだのなら、分からない筈がないというのにだ。事実として現場が気付けていないのだとしたら、内通者が居ると考えるのは当然の帰結。或いはそれこそ、裏で繋がっていると言われても不思議じゃない。

 

 無期懲役の重犯罪者を、丁度良い材料と使っている。居並ぶ実験体の姿を見て、そんな邪推をしてしまう。唯の憶測で済んで欲しいと思いながらも、否定出来る要素は何もなかった。

 

 

「そんなこと、認めて堪るか! 行くよ、ティアッ!」

 

「頭に血が上り過ぎよ、トーマ。分かってるわね、私たちの目的は」

 

「分かってるよ。自分たちの役割くらいはさッ!」

 

 

 前日に行われたブリーフィングにて、管理局の最暗部である無限蛇に関する情報は部隊全員で共有された。だからこそ、これもその一環なのではないかと思えてしまう。

 そんなこと、許されて良い筈がない。管理局員とは、誰かを守る者ではなかったのか。そう思うからこそトーマ・ナカジマは、ティアナの推測を耳にして、より憤りを強くする。

 

 頭に血が上って、行動速度が加速する。より多くの研究者を、より早く捕縛するため。より多くの実験体を、より早く救出するため。その焦りが行動を雑にする。

 要所要所で隙が多くなるトーマをフォローしながら、ティアナも怒り混じりに叫ぶ。彼らの役目はあくまでも陽動であり、深く入り込み過ぎても行けないのだと。

 

 本命である彼女からの連絡があるまで、最深部には向かえない。万が一にも目を惹き付けたまま、忍び込んでいる分隊長と合流する訳にはいかないのだ。

 

 

〈こちら、高町なのは。14:23――、対象の回収は、無事完了。私はこのまま、脱出します。二人は――〉

 

 

 だからこそ、だろう。深く入り込めずに忸怩としていた少年少女は、デバイス越しに流れて来た言葉に顔色を変える。

 目標達成完了と、ならば此処で惹き付けている理由はない。一人一人と研究員を追うではなく、全てをこの一手にて終わらせるのだ。

 

 

「はいっ。最重要目標が回収出来たなら、こちらも――トーマ!」

 

「大丈夫ッ! このまま一気にッ!!」

 

 

 立ち止まって二人、それぞれに異なる魔法を展開する。ティアナが発動するのはサーチ魔法。それに付加して、ある喫茶店の店主が考案した術式も同時に展開する。

 対して、拳を構えるトーマに誰かを巻き込むことへの怯えや戸惑いは一切ない。信じているのだ。己の相棒を、己が首に下げたデバイスを。だから此処で為すべきは、全力全開の一撃を撃ち込むこと。

 

 

「誰かを悲劇に落としたこんな場所。こびり付いた悲鳴が拭えないと言うのなら――まずはここで、全てを零にする!」

 

 

 拳を中心に展開される魔法陣。あらゆる物質を分解し、吸収するその光。以って狙うは、己が踏みしめる鋼鉄の大地。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプスッッッ!!」

 

 

 轟音と共に、違法研究所が崩れ落ちる。分子を構成する原子の下となる素粒子より小さな魔力素へと、輝きは全てを還元した。

 落ちていく。質量は零へと分解されて、大穴を落ちていく少年少女。その目が見るのは、ティアナが標的へと付けた魔力の目印。

 

 ティアナとスティードが行ったのは、射線を確保することだ。他者の位置を判別して、巻き込まれそうな者が居たなら別のルートを考案する。被害を一切出さぬ様にと、結果が此処にこうしてある。

 

 

「大技を前に、注目するのは分かるけど。隙だらけよ!」

 

 

 落ちていく少年少女の前で、唖然としている研究者たち。目の前で突如大破壊が起これば、対処に不慣れな研究職ではこうもなろう。

 自由落下しながらバインドで、彼らを縛り引き寄せる。二人掛かりの作業によって、研究所内に残っていた生命反応は直ぐにその場に集まった。

 

 

「14:28、違法研究者八名。救助対象二十名の回収完了。これより、私達も撤退します」

 

 

 地に空いた底へと落ちる前に、トーマが翼の道を展開する。その上に揃って着地して、後はこの道を進んで地上へと戻るだけ。

 そんな状況でトーマは、救助対象の姿を見て瞳を潤ませる。僅か二十名。救助可能なだけの生命反応があったのは、たったそれだけの数でしかなかったのだ。

 

 

「……ごめんね。僕らが、もっと早く来ていれば」

 

「的外れな謝罪は、程々にしときなさい。悪いのは間に合わなかった私達じゃなくて、こんなことを仕出かしたこいつ等なんだから」

 

 

 これだけの規模の実験施設。犠牲者の数は三桁を優に超えるであろう。救えた数より、救えなかった数の方が絶対的に多かった。

 そうと分かってしまうから、トーマは今にも泣き出しそうな程に。怒りを堪えるティアナは、捕えた研究者たちに銃口を向けながらに冷たく断じた。

 

 

「どうして、だ!? 私達の研究が成れば、世界は救われるというのに」

 

「必要な犠牲なのよ。より多くを救うために、非道を成してでも!!」

 

「……だから、アンタ達は、この光景を作ったのかよ」

 

 

 白衣の男は語る。白衣の女は語った。この光景は、必要な悪であったのだと。彼にも、彼女にも、守りたい何かがあったのだろう。

 ミッドチルダに生きる人間は、そういう気質を持っている。愛する為に戦うのだと。ああ、そんな理由があるのだとしても、それでもトーマは思うのだ。

 

 

「僕は、御免だ。誰かを守る為に、他の誰かを苦しめるなんて、そんなの絶対間違ってるッ!」

 

「…………」

 

 

 少年の言葉は、何処までも真っ直ぐな物だった。余りに綺麗なその瞳は、其処に映る己の醜悪さをより濃く映している様にも見えて、研究者たちは黙り込むことしか出来なかった。

 

 

「……私は、アンタ達の判断には何も言わないわ。けど、ね。手段くらいは選びなさいよ」

 

 

 少女の言葉は、少年に比すれば擦れた物だ。彼女は知っている。幸福の椅子は限られていて、世の中はこんなことじゃなかったことばっかりで、だがだからこそ手段を選ぶことの大切さを知っているのだ。

 

 

「何をしたくて、その道を選んだの? 守りたい者の為だと言って、守りたい者に背を背ける。そんな手段を繰り返して、それで掴めるものなんてありはしないわ。……どんな理由があったって、絶対に選んではいけない道がある。アンタ達が選んだ手段は、そんなやっちゃいけないことだったのよ」

 

「……私、たちは」

 

 

 己の所業を悔やむ様に、さめざめと涙を流す様に、彼らの本質は単純な悪人と言う訳ではないのだろう。それでも、今更のことでしかない。

 事実として、誰かが苦しんでいた。余りにも多くを、守護を免罪符として奪い去ったのだ。相応の報いがあるだろう。いいや、無ければならない筈だ。

 

 捕まり、処刑される。そう考えれば、或いは捕えずに殺す方が慈悲なのかも知れない。だが、そうだとしても、星を背負う二人はその道を選ばない。

 

 

「精々悔やんで、己をしっかり見詰めなさい。……次があるなら、もう二度と間違えない様にね」

 

 

 この後に死ぬとして、今生かすことは無意味か。余りに多くの罪を犯したからと言って、悔やみ恥じることは無価値か。捕えたら死ぬ者だからと言って、捕えずに終わらせることが慈悲なのか。

 違うと思う。トーマも、ティアナも、それは違うと思うのだ。結果として無意味になるからと言って、過程までも無価値となる。そんなことなどはないのだと、彼らはそう信じていたいのだろう。

 

 

 

 

 

 翠の輝きを纏って青空に浮び、崩れ落ちていく研究所を見下ろす白き衣の魔導師。高町なのははその腕に、最重要目標を優しく抱えて呟いた。

 

 

「零課が、ユーノ君たちが掴んだ情報通り、確かに在った。人体とロストロギアの融合。犯罪者を用いた実験施設。……この子も、そんな中の一人なのかな」

 

 

 六課の影に隠れて、管理局暗部に潜入している機動零課。そんな彼らから緊急性の高い事案だと、この施設の情報が持ち込まれたのは昨夜のこと。

 人とロストロギアを消費して、違法な研究を行う施設の情報。そしてその最奥に、集大成とでも言うべき融合体が居るのだと。そんな二つの情報を彼らは得て来た。

 

 それを知り、介入を決めたのはクロノ・ハラオウン。彼の指揮の下、ロストロギア回収を名目としてスターズ分隊が出撃した。今回の一件は、言葉にすればそれだけのこと。

 一つ懸念があるとすれば、この情報を持ち込んだユーノ・スクライアが訝しんでいたことだろう。二つの情報には何か、ズレの様な物を感じると。だが検証している時間的余裕はなく、故に翌日の朝には勧告からの襲撃と相成った訳である。

 

 何か裏があったのかも知れない。だが、現時点では問題は発生していない。それに、此処に抱いた小さな命を救うことが出来た。

 取り敢えずは、それで良しとするべきだろう。小さな幼子が持つ金糸の優しく片手で撫でながら、高町なのはは思考する。どうしてこんな幼子が、人体実験の被害を受けてしまうのだろうかと。

 

 

(武骨な機械の両腕。肌の色が違う両足。……四肢を切断した痕がある。こんな小さな子に、どうして。何で、こんな酷いことが出来るんだろう)

 

 

 肘から先、両腕は分かりやすく偽物だ。十にも満たない幼子の身体に不釣り合いな程に大きな義手は、ロストロギアとしての反応を検出できる規格外品。

 太ももの半ば辺りで、足を切り落とした傷痕も見える。プロジェクトFの応用技術で、培養した足を付け直したのだろう。その意図は分からずとも、想像することは幾らでも出来た。

 

 この金髪の少女は、四肢を切断されたのだろう。ロストロギアとの融合体を作り出す施設の最奥に居たことを思えば、両手両足の代わりに別の何かを取り付ける予定であったのだろう。

 両腕が作り変えられたのに対し、両足がごく平凡な物である理由。恐らくは複数のロストロギアを取り付けて、不具合でも起きたのかもしれない。そんな風に高町なのはは結論付けて、悲しい気持ちを堪える様に口を噤んだ。

 

 

「あ、うぅ」

 

「大丈夫。大丈夫だから、ね。もう怖いものは何もないから」

 

 

 冷たい風が吹いて、少女の瞳が開かれる。鮮やかな虹彩異色の瞳は、恐怖の色で震えていた。恐ろしい物を見たのだろう、それ程に少女は傷付いている。

 そう理解した高町なのはは、優しく言葉を掛けながら抱き締める。恐れる少女の心を癒す為に必要なのは、人の温もりだと思うから。嘗て母がしてくれた様に、優しく包んで背を撫でた。

 

 

「……ママ」

 

「うん。大丈夫。大丈夫だから。私は……お母さんは、此処に居るから」

 

 

 其処に、母の影を見たのか。少女は自然と、そう呟いていた。その呟きが耳に届いていたからこそ、なのはは誓う様に口にする。

 この子に母は居ないだろう。施設から奪取した情報の全てを洗った訳ではないが、子どもをこんな目に合わせる場所で、母親が生きているとは思えない。

 

 だから、この子がそう望むなら、己が母に成ろうと思った。無条件で慈しんでくれる人を求める幼子に、それだけが己に出来ることだと思ったのだ。

 

 

「だから、今は安心して眠りなさい」

 

 

 優しく包む言葉と温度に、瞳に浮かんだ色が薄くなる。包まれて感じる安堵の情に、疲れ切っていたのであろう少女は再び眠りに就いた。

 その金色の髪を優しく梳く。大丈夫、大丈夫、と何度も囁きながらに視線を上げる。こんなにも小さな少女が居た、今も崩れ続ける悪徳の地を。

 

 

「理由があるのかもしれない。だとしても、これはいけない。事情があるのかもしれない。だとしても、こんな形じゃ駄目なんだよ」

 

 

 鋭い視線で、睨むように。そうとも、こんな場所があってはいけない。こんなやり方では、絶対に良い筈がない。

 守るべき人を、守らなくてはいけない。進むべき明日を見据えて、古き世の彼らに示さなくてはならない。胸を張れるやり方でなくては、一体どうして前に進んで行けると言うのか。

 

 

「変えよう。必ず、皆で――こんなのがもう二度とはないように、確かに変えていかないと」

 

 

 だから、変えなくてはいけないのだ。こんな光景が当たり前にある醜悪さを、それを許容している今の管理局を、変えていかないといけないと女はそう思うのだ。

 

 

 

 

 

3.

 上空に佇み、虹の王が写し身を抱いた翡翠の輝き。それを暗く冷たい瞳で観測しながら、赤毛の少年は異形の槍を肩に担いで思考する。

 一晩で用意した雑な仕込みであったが、無事に如何にかなったらしい。そんな風にらしくもない安堵を抱いた彼の内側にて、悪魔は何時も通りにこの世全てを嗤っている。

 

 

〈実に甘い言葉だなぁ、狂愛者(ルナティック)。その醜悪さを前にして、それでもそんな言葉が出るのかとある種尊敬さえしてしまいそうだ。一体どれ程に汚物を見せれば、折れてくれるか試してみたくなる〉

 

 

 そう。これは仕込みだ。機動零課が掴んだ情報の半分は、エリオが作った架空の物だ。より正確に言うならば、この施設で()()()()()()()など居なかった。

 何れ処理するリストの一つ。其処に名を連ねていた人体実験場が、目的達成に都合が良かった。だからその施設内に侵入し、データと一部職員の記憶を改竄し、その情報を零課に流したのだ。

 

 エリオは群体。その魂は二十七万もあるのだから、その道のプロフェッショナルも一人や二人は存在している。とは言え、所詮は知識だけの物。上手く行くかどうか、僅かに不安ではあった。

 だが問題なく、その目的は達成できた。最高評議会より命じられた役目は、唯の一つ。機動六課に、魔鏡アストを回収させる。その条件は満たしたのだから、後はもうどうなろうと関係のない話。

 

 彼らは善人だ。そうであるからこそ今後裏が発覚しようと、一度身内とした者を切り捨てるなど不可能だ。故にこそ、杜撰な工作でも問題などはないのである。

 

 

〈さて、雇い主方の命令もこれで完了。どうでも良い施設(粗大ゴミ)を一つと引き換えに、聖王擬き(生ゴミ)六課(ゴミ箱)に放り込むことが出来た訳だが――これから、どうするかい?〉

 

「……これから、とは?」

 

〈そのままさ。まさか、最高評議会の能無し共に従い続ける気はないだろう? 脳味噌しかないのに頭脳が足りない、とは中々に皮肉な話だがね〉

 

 

 最高評議会を能無しと、ナハトが嗤う理由。エリオ自身もその理屈に気付いていればこそ、思わず共感してしまいそうになる。

 彼らは現実を見れていない。聖王が堕ちたなどと、認められない。いいや、彼らは信じていたいのだ。我らが聖王ならば、例え一度堕ちたとしても再び羽搏けるであろうと。

 

 だからこそ、魔鏡と化した彼女を六課に合流させろと命を下した。現代の英雄たちに守られて、その中で磨かれればきっとまた偉大な王となれるのだと。

 失笑物の妄想だ。全く現実と言う物が見えていない。この今に至って尚、真面な自我すら芽生えてない機械の幼子。聖餐杯にすら成れない出来損ないが、どうして神の座に至れると言うのであろうか。

 

 

「……議員方は、乙女の如くに夢見がちなだけだよ。きっと我らが王ならば、そう信じていたいのだろうさ」

 

〈盲信でしかないと思うんだがねぇ。スカリエッティの奴は成れない様に作ったと、あのゴミをそう断じたではないか〉

 

「奴の言を鵜呑みにするのも問題だよ、ナハト。……議員閣下のそれが、盲信だと言うのは否定しないけどね」

 

 

 とは言え、己の望みもまた同じだ。神の反対であることを果たせていない時点で、エリオ・モンディアルがその座を目指すというのも失笑物の話だろう。

 自覚はある。己はまだ、悪魔の傀儡でしかない。この身が聖王を嗤うなど、五十歩百歩な話である。そう考えれば、或いは至れるかもとエリオは思う。

 

 何故ならば、己は至るからだ。そう確信して、至る為に動くのだ。もしも同量以上の熱量を最高評議会と魔鏡が保持していれば、至れたとしても不思議ではない。

 それに、聖王が至れるならばそれに超したことはない。素直にそう思えばこそ、協力する気は確かにある。少なくとも障害にならない限りは、彼らを裏切る心算はまだないのだ。

 

 

〈ふむ。その言い方だと、まだ裏切らないのかい?〉

 

「彼らの望みが、僕にとって都合が良いのは事実だ。……仮に僕らが神座を奪って流れ出せたとしても、現状ではロクでもない地獄にしかならないだろう?」

 

〈成程、確かに。お前の執心する愛しい女が、救われるだけの地獄か。あの少女から何と言われるか想像すると、ああ、それだけでも流れ出してみたくなるなぁ〉

 

 

 エリオ・モンディアルの世界は狭い。自覚があるのだ。たった一つの日溜り以外、地獄しか知らなかったから。

 仮に今流れ出せたとして、果てに至る世界は想像するに容易い地獄だ。どんな形であれ、キャロ・グランガイツだけが幸福になり、彼女以外が破滅する世界しか浮かばない。

 

 そんな世界に取り残されて、誰より傷付くのはあの少女に他ならない。たった一人だけ常に幸福な世界など、自分以外は常に不幸な世界など、優しいあの子にとっては地獄と何も変わらない。

 だからこそ、異なる何かが必要だ。己の心を変える程の切っ掛けか、想いを変えずに願いの在り方を変える手段か、或いは他の候補者か。だからこそ、聖王の台頭は寧ろ望む所であった。

 

 

「僕は至るが、保険は要る。そうとも、僕の地獄が変わらないなら…………全ての敵を倒した、その後で――――」

 

 

 己の存在価値。エリオの全ては日溜りを守る為に、それ以外は無価値である。誰かを終わらせることしか出来ない悪魔。そんなゴミ、本当はあの子の傍には居ない方が良い。

 

 だから、もしも聖王が至れるならば、己は全ての敵を滅ぼした後に彼女に喰われよう。神の子でも良い。夜都賀波岐を倒し、波旬を倒し、果てには己を喰わせて至らせよう。

 エリオ・モンディアルが居て良い理由は彼女を守る為に、それが果たされるなら悪魔なんて消えた方が良い。きっと奪い続けてきた自分には、それが相応しい結末だと思うのだ。

 

 

〈まぁ、それはそれで良いとして、だ。ならばこれから、どう動く? 黙って利口な忠犬ごっこを続けるだけかい? ワンワンと鳴いて、主の気を惹く犬畜生〉

 

「黙れ、毛皮に付いた虱風情。僕が為すべきことは、既に決まっている。時間を無駄に使う気はないよ」

 

 

 其処に至る為にも先ずは、己が神格となる必要がある。果てに消滅を求めるならば尚のこと、誰より強くならねばならない。

 時間は足りない。残り二年とないのだ。真に目覚める為にも、足を止めている暇などない。為すべきはもう決めていて、ならばそれを為せば良い。

 

 

「必要なのは、流れ出すだけの出力。だが今流れ出しても地獄にしか成れないのなら、変わる必要がある。その為にも、僕らには知識が足りていない」

 

〈足りないならば、奪えば良いと? なら、スカリエッティの研究所跡でも探るかね〉

 

「それは手間だ。それに、だ。もっと単純に、もっと簡単に、解決出来る術がある」

 

 

 必要なのは知識である。渇望を変える方法はあるか。なければないで、より強くなるにはどうすれば良いのか。

 あの狂人が遺した資料を探るのも一つの手だが、それでは些か時間が掛かる。他に術がないなら話は別だが、他の手が選べるエリオにとって優先順位は低いのだ。

 

 そうとも、もっと効率的な手段がある。己の掌を見詰めて、エリオは確信と共に問い掛けた。

 

 

「なぁ、ナハト。僕らは――僕は何だ?」

 

〈お前が何か? 決まっている。俺の玩具だ。お気に入りの人形だよ〉

 

「……異論はあるが、認めてやる。エリオ・モンディアルは、死者の模倣品。二十七万の死者を集めて、数百人の歪み者を足し合わせて、出来た肉塊を悪魔が糸で操る人形。どんな言い方をしたとしても、死者の群体である事実は変わらない」

 

 

 エリオ・モンディアルとは何か。彼は人ではなく、死者の群体。死体を集めて作った肉塊を、悪魔が糸で操る人間未満。

 だがそうであるからこそ、彼は人では出来ないことが出来る。己の存在を確かと認めればこそ、其処には新たな力が宿る。

 

 

「だが、死者の群体とは何だ? 死者が行き着く先とは何だ? 奈落とは、一体何の呼び名だ? ――決まっている。死人が行き着く果てとは地獄だ。即ち、エリオ・モンディアルとは地獄の断片。死後の世界の呼び名が一つだ」

 

 

 エリオ・モンディアルとは一つの地獄だ。死者の群体である彼は、死んだ者が集う死後の世界。そうであるとも言い換えられる。

 悪魔が統べる奈落の化身。その断片に過ぎずとも、彼は確かに地獄である。そしてそんな彼は、既にしてその地獄を操る術を知っていた。

 

 

「そうとも、僕は奈落に繋がっている。僕の肉体は死人の群れで出来ている。僕と言う存在は、死人がなければ成立しない死者の国。故にこそ、僕は地獄そのものとも言えるんだ」

 

〈禅問答の様な、と言うには些か低俗な結論。精々、頓智か屁理屈の領域だろう。それで、それが何の意味を為すと言うんだ。地獄の権化〉

 

「……地獄に殺された存在は、果たしてどうなると思う? 答えは、こうだよ」

 

 

 見詰める掌に、小さな炎が僅か灯る。一瞬に過ぎないが、その髪は黄金に、その背からは炎の翼が羽搏いていた。

 それは二十七万の魂から、記憶や力を引き出す方法。その応用によって、エリオは己が繋がる己自身(ナラク)から死者の力を引き出したのだ。

 

 

〈ほう。そうか、そうかッ! 既に其処まで、深く繋がっていたか!〉

 

「僕が僕の身体を構成する二十七万の魔導核から、力や知識を引き出せることは知っていただろう。これはその延長、僕が繋がる奈落の中から、同じく引き出して見せただけだよ。――もっとも、まだ力と言う形で引き出せるのは、全面的な協力をしてくれる烈火の剣精だけに限られるけどね」

 

 

 とは言え、まだ反意を抱く死者を従える力はない。覇王としての資質も開花はしていないから、己が殺した者らを魅了することも不可能だ。

 現時点で出来るのは、記憶の引き出しと協力者から力を借り受けることのみ。奈落に落とされて、悪魔の責め苦を受けて尚も手を貸してくれる。そんな者は、あの小さくも優しかった少女だけだ。

 

 黄金の髪は赤毛に戻り、炎の翼はもう消えている。引き出せたとしても一瞬だけで、まだ戦場では何の役にも立たないだろう異能。それでも、これは知識を求める為には有用だった。

 

 

地獄(ボク)に殺された生き物は、奈落(ボク)に堕ちて取り込まれる。……腐炎で仕留めてしまうと、魂まで腐滅してしまうから、スカリエッティの奴は居ない。けど逆に言えば、殺し切る瞬間まで腐炎を使わなければ、僕は殺した相手を誰でも内に取り込める」

 

〈成程、詰まりお前は――必要な知識を得る為に、その持ち主を殺しに行こうと言う訳だ〉

 

「知識の抜き出しだけなら、抵抗している死者からでも無理矢理に奪い取れるからね。そして奪い取るのに、実に相応しい獲物も居る」

 

 

 狙う標的は既に決まっている。たった一人、此処で処分しても大勢に影響はなく、それで居て多くの知識を持っている人物。

 古き世を生きた敗残の将。彼の日に襲い来た終焉を撃退する為に、その力のほぼ全てを使い果たした死に損ない。悪魔に狙われれば最早、何一つとして抵抗など出来ない者。

 

 

「御門一門党首、御門顕明。いや、古き世を生きた敗残の将、久我竜胆鈴鹿。――――その首、その知識、僕が貰い受ける」

 

 

 地獄の悪魔は暗く嗤って、その冷たい瞳で獲物を思う。少女が幸福に生きられる世界を生み出す為に、己も含む全てを無価値に変えるのだ。

 

 

 

 

 




〇エリオ君のブラック勤務な実態。
・勤務初日 大切な少女が危機になっていたので、駆け付けて魔群を焼く。その後、日が暮れるまで無差別爆撃してアスト回収。深夜に最高評議会の前で弁解。
・連勤二日目 スカリエッティと死闘。帰還後、最高評議会から命を受け、暗躍開始。リストの中から適当な施設を探すと、内部に侵入し工作活動。
・連勤三日目 工作活動を終え、ヴィヴィオの手足をそれっぽく改造。施設を脱するとその足で古代遺産管理局に情報を流す。ここまで一切休みなし。
・連勤四日目 六課のヴィヴィオ回収を確認。次の標的として、竜胆さんに目を付ける。←今ココ。


これは だーくさいど ですね。




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第七話 古き者 久我竜胆鈴鹿

今回は遅くなりましたが、多分今後も遅くなります。
理由は何時もの通り、今回もプロットさんがお亡くなりになられたからです。

最初はVSスカさん、軽く当たって後は流れで、ってやろうと思ったんですよね。殺したけど、スペアボディでショタ化して復活って感じで。
けどその展開がぶっちゃけ面白くなかったので、ノリでガチバトルさせてみたらなんかスカさんが死んだ。

……正直、後半どうしようという状況。やはりエリオ死亡EDしかないのだろうか。


1.

 今はもう、遠い遥か過去の時代。神州・秀真の東には、まつろわぬ化外の国があった。

 東と西を分かつ断崖。淡海を超えて西にある神州。葦原中津国とも呼ばれる国は当時、存亡の危機に瀕していた。

 

 化外の王。八柱の大天魔に敗れ三百年。武家の大半は力を失って久しく、敗北の後に東から流れ込むこととなった陰気は人を化生へ変えた。

 歪み者。荒唐無稽な異能の力と、その力を振るう度に起こる返し風と言う反動によって人からかけ離れていく者達。余りに過ぎた力は、やがて彼らを自壊させる。

 

 既に情勢は最悪だった。三百年と言う長きに渡る汚染によって、自壊に至る者らは多く出た。このままでは、神州はその国体を保てない。

 如何にか国を維持するための鎖国政策も、西洋列強が開国を迫ったことで瓦解は目前。海の外から訪れる黒船に向き合うか、淡海を超えて再びの東征を行うか、或いは神州・秀真が滅びるか。道は既に、それしかなかった。

 

 湖に塩は不要。淡水の中で生きる魚が、海に混ざれば命はない。それが無理に混ざると言うなら、其処に争いが生じるのは最早必定。これは紛れもない生存競争だ。

 嘗て女は師にそう語り、師も含む何かを抱きながらに肯定した。今の時代の者らが生きる道は、過去を終わらせたその先にしかないのだと。第二次東征は其処に、彼女達は東を目指し天魔を討つと決意した。

 

 皇の下、一騎当千の益荒男たちが集う。都合七名、無道の太極に神楽を舞う。

 

 凶月刑士郎。凶月咲耶。神州にて最大の陰気を纏った歪み者の一族。呪われし彼ら兄妹は、一族の未来を求めて。

 壬生宗次郎。玖錠紫織。終ぞ己を揺るがすことのなかった求道者達。片や天下無双の剣を、片や己の可能性の拡大を、共に望んだのは己を磨くこと。

 摩多羅夜行。御門龍水。史上最高と言われた陰陽師と、その婚約者であった少女。全てを見下す男は己の踏み台を探して、幼い少女は敬愛する母と姉と男の為に。

 

 そして、久我竜胆鈴鹿。誰も彼もが己に酔うていた世界の中で唯一人、五徳からなる真面な感性と他者への愛を持っていた女。

 そうとも、秀真に生きた者らは人ではなかった。天を知らず地を知らず、他者の全ては己を彩る為にあるのだと真顔で語る小天狗。竜胆と言う女を除いて、誰もが変わらずそうだった。

 

 だからだろう。竜胆と言う女の主張は外れていた。常識とは大衆意識の平均値に付いた名称であれば、真実彼女は誰にも理解されない異常であった。

 だからだろう。東征に向かう御前試合と言う場にあって、我欲を剥き出しに殺し合う三者。彼らの姿を醜いのだと、もう止めろと叫びながらに彼女はその身を刃に晒した。

 

 もう止めろ、見るに堪えぬと。その身を投げ出し晒してみせて、女は一人争いを止める為に。言葉だけを武器に、誰かの翻意を唯求めた。

 もし其処に、彼女を救う男が居れば変わっていた。アンタに惚れたから付いていくと、そう語る益荒男が居れば残る者らも真実人に成れたであろう。

 だがこの世界のその時代、彼はその場に居なかった。まつろわぬ化外の国の意味。彼らの意志を知っていたからこそ、坂上覇吐と言う男は現れなかった。故に当然の如く、其処で全てが破局した。

 

 御前試合において、その身を晒した久我竜胆。彼女の身体は壬生宗次郎によって断ち切られ、そして死闘は再開される。

 そして先ず最初に、宗次郎が落ちた。斬ったのに死なないと言う異形。それに意識を奪われた一瞬を突かれ、刑士郎の手によって討たれたのだ。

 だが彼もそれだけでは終わらない。死の間際に全力で、彼の歪みに斬られた刑士郎は瀕死の重体。そんな隙を晒したならば、残る紫織に討たれたのも必然だろう。

 

 舞台に残った二人の女。傷付きながらも拳を握る紫織に対し、戦う力などろくにないのに何故か運良く生き延びていた御門龍水。

 此処まで運だけで残って、だがならばもう次などない。戦となれば百度行い百度勝つ。それ程の差があったのだ。故に敗北は必定、勝者はその時点で決まっていた。

 

 だからこそ、御門龍水の歪みが真価を発揮する。望んだ未来を近付ける。物理的に不可能なことでも、現実として成立させる。それこそが、御門龍水の持つ異能。

 死ぬことを彼女は望まなかったから、死の運命は龍水の身から遠ざかる。己よりも強者である紫織を前にして、運命を変える為に、紫織を倒せる第三者の介入を導いた。

 

 そして運良く、或いは運悪く、其処には神州で最大とされる歪み者が居た。実の兄の死を前に恐慌していた凶月咲耶は龍水の歪みに巻き込まれ、周囲に滅びの禍つを撒き散らす。

 誰も彼も死んでしまえと。それは滅侭滅相の理。生きたいと言う願いと死ねと言う望みがぶつかり合った時、本来ならば格の差によって優劣が定まる。だがこの天狗の法下において、その前提は崩れ去る。

 全能の神はこの世の全てを嫌っている。誰も彼も皆纏めて、全員滅べと願っている。そうである為に、生と死を望む願いがぶつかり合った時、滅びの願いが優先される。世界は最悪の方向に、舵を取り続けていくのだ。

 

 だからこそ、龍水の幸運は其処までだった。撒き散らされた禍つが運良く紫織を殺害するも、その返し風によって白き獣が暴走する。

 爾子と丁禮と呼ばれた式神は夜行の制御から離れて、狂いながらに龍水を貪り喰らった。彼女の死によって、夜行の身に更なる異常が発生した。

 

 摩多羅夜行とは、人間ではなかった。理想の男に出逢いたいのだと、龍水が望んだからこそ生まれた彼女の人形。望んだ未来に至るため、少女が作り上げた妄想の産物。

 そうであったからこそ、己を作り上げていた女の死が男を狂わせる。誰よりも強大な力を持っていた神の如き男は、その実何も持ってなかった。虚構は晴れて、後に残るは唯の汚物だ。

 

 白狼は止まらない。参列していた武家の者らが逃げ惑う中、御門龍明は深い嘆息と共に動き出す。何もかもを諦めた様な瞳で、それでも女は符を手に炎を灯した。

 地獄の業火を思わせる赤が世界を染めて、白き獣は大地に倒れる。天狗の法下に飲まれて、滅ぶ嘗ての同胞。その手に掛けた女は、或いはこの時点で既に未来が閉ざされたことを理解していたのだろう。

 

 そうして、災害が燃え尽きた後。生き延びた誰もに睨まれていた咲耶は、疲弊し切った身体を必死で動かし兄の死骸に縋り付く。

 既に女の中には、歪みと言う形で嘗ての残照が芽生えていた。男の死が引き金となり、女は過去に戻っていた。ヘルガ・エーレンブルグと、そう呼ばれていた頃に。

 

 だから分かる。己を捧げる方法が。だから為した。戸惑いも躊躇いもなく、己は彼の糧になる為に生きていたのだと。

 そうして、女は死んで男は目覚めた。刑士郎と言う男は愛する妹の命を喰らって、ヴィルヘルムと言う嘗ての形に戻ったのだ。

 

 そんな光景を、彼女は見た。胴より二つに断ち切られて、それでも死ねなかった竜胆はその始終を全て見ていた。

 彼女は涙と共に見詰めることしか行えず、誰もが彼もが狂いながら死んでいく。己の道に酔うて、踏み外す瞬間ですら素面に戻れず、醜く浅ましいままで死んでいく。

 

 集められた七人の益荒男。生き延びたのは、久我竜胆唯一人。それでも、東征は行われる。断ち切られた身体は心の臓を止めたままに繋がって、冷たく醜い死人となった彼女は動き続ける。

 東征の将、久我竜胆。彼女に続くは、力の多くを失くした者たち。御門龍明。摩多羅夜行。ヴィルヘルム・エーレンブルグ。名のある将は彼らだけしか残らず、兵の数はそれ以上に悲惨な形となった。

 

 死人の将に付き従うのは、己の道に相応しくない。中院冷泉と言う対抗馬も居た為に、多くの戦士が彼女の軍を選ばなかった。

 唯でさえ将が少ないと言うのに、足並みは二分され軍勢の数も揃わない。そんな形で東征を成し遂げることなど出来る筈もなく、結末は三百年前と全く同じ形となった。

 

 不和之関を越えられず、竜胆たちは全滅した。悪路と母禮の兄妹だけで、将は皆討ち取られ、兵は全て滅ぼされ、それでも死ねなかった竜胆は囚われの身となった。

 そして無間地獄に飲まれたまま、世界は破滅への一路を辿った。全てが終わる瞬間まで穢土の大地は残り続け、穴は遂に神の座へ。疲弊し切った夜刀は波旬に及ばず、多くの魂を抱えたまま世界の果てへと堕ちていく。――そして、この世界は生まれたのだ。

 

 

(懐かしい、夢を見た)

 

 

 女は一人目を開く。鋼鉄の壁に手を当てることで身を支えて、最早その冷たさすら感じない程に壊れた身体に力を入れる。

 何時死してもおかしくない、その程度の力すら残っていない。彼女は既に死んでいる女。そんな死体がそれでも動くのはきっと、懐かしい過去を夢に見たから。

 

 杖を付く老人の様によろけながら、歩く女の意識は既に断片的だ。ふとした瞬間今の如く、白昼夢を見ていることに気付いて起きる。そんなことをこの数年で、一体幾度繰り返したことだろうか。

 

 

(あの日、刀自殿は気付いていた。もう勝てないと。それでもあの方は、東征を続けることを選んだ)

 

 

 ミッドチルダはクラナガンにある非合法施設。ジェイル・スカリエッティが関わる多くは焼き尽くされたが、その全てが消え去った訳ではない。

 例えば最高評議会の座す施設。或いは彼らが重要と、破壊を許さなかった施設。そう言った物を、エリオは除外していた。手を出すとしてもそれらは最後に、そうであるが為に此処も確かに残っていた。

 

 地上より上は、ダミー企業を二・三通して管理局が所有している研究施設。対して地上より下にあるのは、淤能碁呂島と呼ばれた場所にあった五重の塔を模した物。

 神の怒りに触れたのではないかと、あの傲慢な老人たちも恐怖を抱いた愚行。神罰が訪れることを拒んで、安置する為に作られた。そんな施設の、最奥近くを女は一人歩いている。

 

 

(諦めていた。けれど進むことを止めなかった。那由他の果てにすら勝利がないと、分かって破滅へ進んだのだ)

 

 

 偽りの名を御門顕明。その真の名を、久我竜胆鈴鹿。彼女が此処に思うのは、きっと過去を垣間見たことだけが理由ではない。

 今此処に至って漸く、あの日の龍明が零した溜息。その理由を本当の意味で、理解し共感することが出来た。そう思ってしまうからだろう。

 

 

「あの日の貴女も、今の私と同じ気持ちだったのでしょうか」

 

 

 御門龍明とは、竜胆にとっては母と同じだ。父母を亡くして後、前当主の遺言に従い後見人となっていた親代わり。その正体は、竜胆が生きた時代よりも一つ前の世界にて、狩猟の魔王と呼ばれた女傑。

 彼女は主の遺命を果たす為、全てを賭けて抗い続けた傑物だった。汚物に塗れて、屈辱に歯を噛み、嫌悪に耐えて、未来を望んだ。そうして手繰り寄せた小さな可能性は、御前試合の舞台で全てが潰れた。

 

 あの日、全ての終わりが決まった日。母の如く思っていた人は、とても深い息を吐いた。様々な感情が籠っていると、理由を知らずともに分かる程深い深い嘆息だった。

 嘗ては揃えた武芸者が全滅したから、それを嘆いているのだと想った。血が繋がらないとは言え娘が死んだから、それを嘆いていたのだと想った。

 だが今は、それだけじゃなかったのだと分かる。他でもない、今の己が同じような境遇になっているから。

 

 

「道はない。もう道はない。いや、最初からなかったと。あの男に騙されていた時点で既に、我らの望みは果たせなくなっていた」

 

 

 竜胆が望んだのは、黄金の獣の復活。明日に世界を繋ぐ為、求めたのは黄金聖餐杯。その作成を行えるであろう天才は、しかし彼女らを裏切っていた。

 或いは、それも当然だろう。スカリエッティと言う遺伝子レベルで頭脳を強化された個体。彼を取り囲む不遇な環境を生み出したのは、彼女や最高評議会であったから。

 

 必要だったのだと、そんな言葉は免罪符にもなるまい。被害者にしてみれば、ふざけるなと言う話であろう。

 彼に計画の最重要部を託した時点で、こうなると判断しておかなかったのは己の手落ちだ。そう理解しても、零れる嘆息が止まらない。

 

 それでも、もし彼が生きていたなら。此処から更にもう一度、作らせるという選択肢もあったであろう。

 或いは最高評議会の様に、第二のスカリエッティを生み出すのだと。そう言う外法も、確かに選択肢としてはありである。

 

 だが竜胆は、その案を非現実的だと捉える。あの狂人はもう居ない。同じ製法で生み出したとしても、あれ程の域には至るまい。

 他に聖餐杯を生み出せる者はおらず、代わりの器と成れそうな者も見当たらない。修羅道復活と言う思い描いた彼女の策は、既に破綻し切っている。

 

 

「だが諦められない。ならば、異なる道を。探さねば、ならんだろうさ」

 

 

 第二案としてあったのは、陰陽太極を利用すること。太陽の巫女が系譜である彼女なら或いは、聖餐杯の器と成るにも十分だろうと。

 だがこれも今は不可能だ。現状の高町なのはは、完成度が低過ぎる。もう少し時間があれば、或いは切っ掛けさえあれば。そうは思うが、その僅かが足りない。

 

 ならば、第三案。今を生きる英雄達、彼らに未来の全てを託すこと。だがそれは、余りに博打が過ぎることだ。

 今の流れは早過ぎる。彼ら英雄達が育つ前に、狂人が逝ってしまった。六課の者らは未熟であって、成長の為に必要な敵すらいないのだ。

 

 

「罪姫・正義の柱。……今の彼らが、これを手に出来るかは賭けだ。先ず持てるか、それすら怪しい賭けなのだ。そして勝てたとしても、其処に先などはない」

 

 

 ジェイル・スカリエッティとその一派。彼らは程良い強者であった。大天魔には届かずとも、その足元にまでは至れていたであろう反天使。その存在が、英雄の成長を促すことに期待していた。

 だが、狂人は余りにも早くに倒された。彼が死したことで竜胆は聖餐杯を得る手段を失い、六課は己達を磨き上げるのに程良い敵を失った。今の彼らは想定よりも、一回りも二回りも成長出来てはいない。

 

 その代役として、竜胆も最高評議会もどちらも不足が過ぎる。魔刃ならば可能かも知れないが、彼の執着は既に神の子からは離れている。現状では、取るに足りないのが彼らである。

 だが、だからと言って最高評議会が今も縋る信仰に付き合う心算はない。確かに見た聖王は、唯の小娘だったのだ。あれが神に成れると、どうしてあそこまで盲信出来るのか。正直、疑問しか抱けない。

 

 彼女に全てを託すならばまだ、六課に賭けた方が良い。そう判断した為に、竜胆は彼らと縁を切ると決めた。最高評議会を裏切って、六課に付くと決めたのだ。

 

 

「……だとしても、零ではない。彼らは英雄としての、資質を持つ。可能性は決して、零ではないんだ」

 

 

 進みながらに前を見る。目の前にあるのは、黄昏の彫像。目的としているのは、その先に安置されている至宝が一つ。

 それを今彼らに託したとして、手に出来る程度の保証もない。仮に持てたとしても、訪れる結果は見えている。果てに待つのは無残な末路だ。

 

 トーマ・ナカジマがこれを持てば、彼は夜刀の記憶に飲まれるだろう。何らかの形で耐性を得ていれば、どこかで踏み止まって正気に戻れたかも知れない。だが記憶の流入すら起こっていない現状でこれを持てば、彼は確実に取り込まれる。

 他に持てる者が居るとするならば、神より力を奪って我が物とした盾の守護獣ザフィーラ。だが彼の器は、現状でも限界だ。これを受け入れられる様な余地など残ってはいないし、受け入れられたとしても大した強化にはならない。そうでなくとも、彼の残り時間は竜胆同様に極僅かだ。

 

 絶望的な状況だ。この現状、どうすれば打破出来るのか。次に打つ手が浮かばない。どれも失敗するとしか思えない。それでも、竜胆は選んだ。あの日の母が抱いた、その感情を理解したから。

 

 

「あの日の我らと同じく、今の英雄たちには欠落が多い。それでも、可能性は零ではない。ならば、賭けるしかあるまい」

 

 

 出来ないから、諦めるのかと。諦めたら、もう進まないのかと。自棄になって全てを投げ出すことを、許容できるかと己に問えば答えは否だ。

 例え可能性が絶無に近いとしても、進める道があるのならば前に進む。背負った荷の重みが投げ出すことを許さぬから、あの日東征を続けたのもきっと理由は同じであろう。

 

 

「悲嘆し蹲って死ぬよりも、前に進んで死ぬことを選ぶ。その方が、遥かに私らしい話じゃないか」

 

 

 立ち止まることが出来ないのなら、微小な可能性でも賭けねばならない。果てに待つのが無様な死であるとしても、せめて進み続けて前のめりに倒れよう。

 ある意味、自棄になったとも言えるだろう。立ち止まるのではなく、闇雲に足掻いている。潔さに欠けると嗤われれば、返せる言葉は何もない。それでも、前に進んで行こうと笑って決めた。

 

 そんな竜胆の最期の一手。それは今、彼女が目指す先にある至宝。罪姫(マルグリット)・正義の柱(・ボア・ジュスティス)を機動六課に、今を生きる彼らに託すと言うこと。

 それは明確な、最高評議会との決別となるだろう。それでも、彼らの先に未来はない。そう確信するが故に、竜胆はこれを託そうとしている。今の英雄達ならばきっと、そう期待しているのだ。

 

 ゆっくりと進む。黄昏の台座に身体を預け、這い摺る様に歩を進める。必ずや、彼らの下へと届けようと意志を固めて――――銀の刃が、暗闇の中で輝いた。

 

 

「いいや、お前は此処で終わりだ。――無価値に死ね、御門顕明」

 

 

 気付いていた訳ではない。偶然身体を動かして、故に即死は避けられた。それでも、女は無傷では居られない。

 

 赤い色が視界を染める。女の腕が断ち切られて、風に吹かれた紙屑の如くに空を舞う。崩れ落ちる女の視界に、浮かび上がるは罪の象徴。

 この世界の闇を作り出した元凶の一つ。そんな女は、この世界の闇の中で生まれ落ちた罪悪の王を前に、糸が切れた人形の様に大地に倒れ伏すのであった。

 

 

 

 

 

2.

 クラナガンの町中を、二人並んで共に歩く。指を絡めて寄り添う程には近くなく、されど前後に距離が出来る程には遠くない。

 腕を大きく振れば、互いに触れ合う程度の距離。肩を並べて、少女と共に町を行く。そんなトーマは、凛として進む少女の横顔を覗き見た。

 

 赤みがかった金髪は、オレンジと呼ぶに近い色。出逢った頃の様な息が詰まる真面目さは薄れても、その生真面目さが色濃く滲み出た瞳の強さは変わらない。

 相棒。同じ速度で進んで、同じ物を共に見て、同じ場所を目指して歩く人。ティアナ・L・ハラオウンと言う少女はトーマにとって、間違いなく特別な存在だった。

 

 そんな二人が休日に、私服で町中を歩いている。ふと振り返れば、こういう機会も珍しい。互いに身近な相手ではあっても、一緒に町に繰り出したのは二度三度。

 その全てが、トーマから切り出した物。内容も必要な物の買い出しだとか、魔導師ランク試験の相談だとか、勉強を教えて欲しいとか、そんな色気のない物ばかり。

 

 お互いに、相手を異性と見ていない。少年から見て少女は確かに美人であり、思春期の彼に刺激が強いところもある。少女から見て少年の容姿は整っていて、その瞳に魅せられたことも一度や二度では済まないだろう。

 それでも、互いを異性と見ていない。そうなるには、二人は余りに近過ぎた。男女の仲にはならないと、この関係を崩したくはないと、無意識にそう思う程に近い距離感。この今の関係が心地良いから、我と彼は相棒だから、それだけで良いのだと。

 

 少なくとも、トーマはそう思っている。だから私的な部分で共に、と言うのは実に珍しい。ましてや今回は、切り出したのがティアナである。

 彼女に誘われるなど、或いは出逢ってから初めてのことではなかろうか。付いて来いと無駄な漢気溢れる雑な誘いではあったが、それを断ると言う選択肢は無論ありはしなかった。

 

 そして、トーマの知人が多く居る町中を通って、二人は目的地へと辿り着く。クラナガンの西部にあるシアター劇場を前にして、何も聞いていなかったトーマは問い掛けた。

 

 

「付いて来いって言われたから、付いてきたけどさ。ティア。映画館で、見たい映画でもあった?」

 

「……特にないわ。ってか私、こういうの詳しくないし。逆に聞くけど、何か面白い物やってるかしら?」

 

「今上映中の映画だと、“劇場版オールナイト☆シュピ虫~24時間窮地に置かれて、何で覚醒しないんだ~”が一押し、かな」

 

「却下。適当なのに入るわよ」

 

 

 此処に来るまで、すれ違って来たトーマの知り合い。彼らが散々に囃し立て、揃って揶揄われた為だろう。

 何処か不機嫌そうに、それでも少し頬を染め、問い掛けるティアナ。そんな彼女の様子に気付かず、平常運転に切り替わったトーマは欲求のままに口にする。

 

 この映画、一度見てみたかったのだと。そんな彼の言葉に、一瞬養豚場の豚を見る様な目になったティアナ。呆れた様に溜息を吐くと、彼女はトーマの意見をバッサリと断ち切る。

 平常運転な馬鹿相手に、一体何を浮ついていたのか。頭を振って切り替えると、適当な映画の上映券を二枚買う。そうして数歩進むのだが、相方が付いて来ない為に其処で止まった。

 

 

「……何で来ないのよ」

 

「え、僕だけで、見て来ちゃダメ?」

 

「却下って言ったでしょうが、この馬鹿トーマ!」

 

「に、二時間映画で上映開始から119分57秒後にあるって噂のシュピ虫さんの覚醒シーンがぁぁぁぁぁ!!」

 

 

 怒り半分、もう半分は拗ねた様に。ティアナは無理矢理その手を掴んで、引き摺りながら映画館の中へと二人で入って行った。

 暗い室内は上映間近。残っている席に並んで座って、直ぐにブザーが鳴る。そうして暫く、肩を落としながら上映された映画を見詰めていたトーマは、その内容に目を丸くした。

 

 

(って、これ。恋愛映画じゃないか!? それも、すっごいコテコテな!!)

 

 

 荷馬車に揺られる子牛の如く、引き摺られていた時には気付けなかった。だがよく見ると、周囲は男女のカップルだらけ。映像は典型的な恋愛物で、先を予測するのも容易い内容。

 意気地のない男女が誤解とすれ違いを繰り返し、くっついたと思ったらまた勘違いで離れて行く。そんな繰り返しで、大きな山もなく深い谷もなく、実に下らないと断じる様なC級映画。

 

 年頃の男子らしく、トーマはドラマの類が苦手だ。派手なアクションやサスペンスがあるならまだしも、複数の男女の恋模様を描いただけの作品の何処に魅力があるのか分からない。

 ましてや、これは映像としての質が悪く、脚本も堅実過ぎて飽きて来る物。開始から十分もすれば飽きて来て、如何にか抜け出せないかと考えて、そうしてふと己の手が今も握られていることに気付く。

 

 柔らかく、温かい少女の掌。己の左手を掴んで離さない彼女の右手に、思わず意識してしまう。それは画面で囁かれている、愛の言葉が故にであろうか。

 何処か恥ずかしくなって、それでも己の意志ではどうにもならない。握っているのはティアナの方だ。彼女が離してくれない限り、トーマは席から動けない。だから彼は意を決して、彼女の顔を覗き見た。

 

 

(ティア?)

 

 

 小声で手を離して欲しいと、言おうとして口を閉ざす。言葉に出来なかった理由は一つ、傍らの少女が真剣な表情で映画に見入っていたからだ。

 そうとも、トーマにとっては下らぬC級作品だろうが、ティアナにとっては特別だった。稚拙な技術で撮影された典型的な恋愛物語でさえも、鮮烈となる程に少女は娯楽と言う物を知らない。

 

 あの日兄が死んでから、その願いを叶えるのだと追い掛け続けた。義理の母娘とならないかと語った人が死んだ日から、その願いしか残っていないのだと己を追い詰めた。

 幸福な椅子は限られている。世界はこんな筈じゃなかったことばっかりで、才能がない自分が欲しい物を得る為には死ぬ程努力を続けなくてはいけない。だから彼女は己を磨く努力に全てを賭けて、それ以外を知らなかった。

 

 擦れた想いは、隣り合う星を宿した少年の馬鹿さ加減に呆れて薄れた。未だ義兄と向き合う覚悟はないが、少しの余分を受け入れられる器は得ていた。

 そんな彼女にとって、これはとても鮮烈な体験だった。見る迄もなく下らないと、時間の無駄だと断じていた。幼い頃には興味があったが、その感情さえ塞いでしまって。だから今になって、どうしようもなく心が震えている。

 

 

「…………」

 

 

 涙さえ零しそうな程に、感情移入している少女。その想いに共感は出来ないが、それでも分かることがある。それは、この光景が美しいと言うこと。

 冷たい世に慣れてしまった少女が、偽りの優しさを見詰めている。真剣なその瞳が、どうして美しくないと言えようか。これが美麗な刹那と言うなら、己の手で崩したくなどはない。

 

 宝石を見詰める。前を向いても苦行にしかならない内容だからと自己弁護しながらに、トーマは美しいと思えたその一瞬を見詰め続ける。

 上映される映画に魅入っていた彼女は気付かず、そうして時間が過ぎ去って行く。時が止まれば良いのにと、僅か想いながらも共に過ごす。――映画は何時しか、終わっていた。

 

 

「……意外ね。結構、楽しめたわ」

 

「そっか、それは何より」

 

 

 幕が下りても、暫く動かなかったティアナ。彼女は鼻を啜る様な音を僅かに立ててから、強がる様に口を開く。

 そんなにも隠したいのだろうかと、素直じゃない少女を生暖かい瞳で見詰める。彼女に抱いていたイメージが、僅かな時間で大きく変わっていた。

 

 

「何よ、その目は」

 

「いいや、別に。素直じゃないな、って思っただけだよ」

 

「どういう意味よ、それ」

 

 

 半眼で睨む少女を見詰めて、女の子らしい一面もあるんだなと、本人が知れば激怒されそうなことを思い浮かべる。

 それでも顔には出さないトーマに対し、ティアナは深く息を吐き出す。そうして数秒程してから、少年の顔を見詰めて言葉を紡いだ。

 

 

「まぁ、良いわ。それじゃ、次に行くわよ」

 

「次って、何処へさ?」

 

「知らないわ。エスコートされてやるから、アンタが決めなさい」

 

「ちょっ!?」

 

 

 行き成りな命令に、思わず驚きを言葉と零す。そんな彼を睨み付ける様に見詰めてから、視線を逸らしたティアナは語る。

 

 

「……だって、しょうがないじゃない。こういうの、経験ないんだもの」

 

 

 町を遊び歩いた経験がなく、この映画館のことだって事前に調べねば分からなかった。そんなティアナには、この後何処に行けば良いのかが分からない。

 一応事前にある程度は調べてあったが、先の結果を思えば正直自信がない。何もかも自分が先導するのも気に入らない。ならば全部押し付けてしまえば良いのだと、彼女はそう開き直った。

 

 

「僕だって、女の子の喜びそうな場所、あんまり知らないんだけど。……まぁ、やってみるよ」

 

 

 開いた右手で頬を掻いて、トーマはティアナの言葉を了承する。余り自信がないのは己もそうだが、男女が共に自信がないなら男が手を引き先導すべきだ。

 男らしくあることに拘る。そんな彼の性格は、その身が内にある魂と師の教えに由来するもの。だがその双方とも、違うところも彼にある。既にその道は、外れていればこそ。

 

 嘗ての己(ツァラトゥストラ)とは異なって、少年(トーマ)は社交的な人物だ。物怖じしない性格で、自分の好意を隠しはしない。

 頼れる師(ユーノ)とは異なって、少年(トーマ)は自分の欲求に正直だ。色々悩んで考えて、最後に選ぶのは自分にとっての好きなこと。

 

 

「それで、来た場所がスイーツパーラーって、アンタ」

 

「ティアには多分、不評だって分かってたよ。……けど仕方ないじゃないか。ちょっと小腹が空いたし」

 

「結局それが目的か!」

 

 

 そんな訳でやって来たのは、シアター劇場から程近い場所にあるこじんまりとしたスイーツパーラー。

 

 自分が今、甘い物が食べたいから丁度良い。そう言わんばかりに瞳を輝かせ、席に着くや否や注文を頼み始める少年の姿に声を荒げる。

 巻き込まれる店員には悪いし、ティアナも甘い物はそれなりに好きだ。だがこうも目的が明け透けであると、文句の一つも口にしたくなってくるのだ。

 

 

「あ、美味しい」

 

「でしょ? 知る人ぞ知るってお店って奴。先生から、あそこの生菓子は使っている果物の質が良いって聞いた時から気になってはいたんだけど。男一人じゃ、ちょっと入り辛くてさ」

 

「良い様に使ってくれちゃって。……まぁ、お互い様だから、私も強くは言えないけど」

 

 

 だがそんな不機嫌も、運ばれて来た甘味を口にするまでの話。一口して広がる爽やかな甘みに、少女は表情を和らげる。

 お互い様と口にしたのは、映画館での一件が故にだ。自分の都合で相手を付き合わせたのだから、次は相手の都合に付き合うのは妥当と言える話であろう。

 

 口にする甘さは不快ではないから、何だかんだ言いながらも機嫌は良い。そんなティアナの瞳を見詰めて、トーマは感謝の言葉を口にした。

 

 

「ティア。今日はありがとう」

 

「何よ、突然」

 

「これでも、分かってる心算だよ。ティアが僕の為に、誘ってくれたってさ」

 

 

 訓練校でコンビを組んで、共に過ごした三年間。訓練場では何時も一緒に居たけれど、私的な場所で共に遊ぶ機会は殆どなかった。

 男女の性差と、互いに抱える事情。それが故に、彼らは仲が良くとも、プライベートには極力踏み込まなかった。それが今になってどうしてと、考えてみれば分かりやすいことである。

 

 

「嫌な物を、一杯見た。最初の出撃では守れなくて、次の出撃でも救えなかった。正直、気が滅入りそうだった。だからティアはさ、気分転換が必要だって、気付いてたんでしょ?」

 

 

 最初の出撃で、仲間が死んだ。二人も死んで、守れなかった。救おうと思った人も、燃やされて死んだ。

 だから強くなろうと誓って、けれどそれだけで悲しみの全てが消せる訳じゃない。確かな怒りは、今も胸に燻っている。

 

 続く出撃で、少なくはない人を助けられた。だがそれ以上に助けられなかった人が多くて、余りにも惨たらしい光景を目にした。

 失敗した人体実験。目にしただけで食欲がなくなるような、悍ましい文字が並んだ記録。そんなことが身近にあったのだと、知れば気分が滅入ってしまう。

 

 恩師の一人であるジェイル・スカリエッティが行方不明となったこともあり、トーマの心は自分でも気付かぬ程に疲れていた。

 意識してはいなかったが、任務や訓練にも精細さを欠き始めていたのだろう。それを指揮官である彼女は気付いていた。だからこうして、普段はしないことをしたのだ。

 

 共に遊んで、守るべき日々を確かに実感させようと。そんな善意に感謝を。語るトーマを暫く黙って見詰めた後、ティアナはニッコリと笑って言葉を返した。

 

 

「……バッカじゃないの。ってか馬鹿じゃないの?」

 

「すっごい笑顔で毒吐かれたッ!?」

 

 

 感謝を口にしたのに何で、と驚愕を言葉にするトーマ。そんな彼の姿に深い溜息を吐いた後、呆れる様な声音でティアナは本当の理由を口にする。

 

 

「アンタの為じゃないわよ。……私が、気分転換したかったの」

 

 

 トーマの予想は、半分当たりだ。間違っていたのは、彼女がトーマを気遣っていると言う点。そうではなくて、彼女自身も既に一杯一杯だったという事実。

 

 

「情けない話だけど、アンタが思ってる程に私、強い女じゃないのよ? 何時だって後悔ばっかりで、誰かに嫉妬してばっかり。結局自分本意で動く、そんな勝手な女なんだから。ちゃんと見抜かないと、悪い女に引っ掛かるわよ」

 

 

 右の瞳が僅かに疼く。息が詰まる様な現実の連続に、悲鳴を上げたくなっているのは共に同じく。ティアナの違いは少しだけ、彼女は彼より賢いから。

 何となく、何処かで何かが動いている気がする。魔群の暴走。魔刃の行動。狂人の失踪。それが何処かで繋がっていて、そしてより大きな流れを生むのではないかと。

 

 推測は愚か、妄想の域すら出ない思考。けれど近い内に何かが起こりそうだと、右の瞳が疼いている。

 だからその前に、ティアナは意識を切り替えたかった。その為に、彼女はトーマを利用したのだ。だから、感謝されることではない。

 

 

「そっか。良く分からないけど、分かった気がする」

 

「……それ、どっちよ」

 

「良く分からないのは、ティアの言うこと。分かった気がするのは、自分の気持ち、かな?」

 

 

 そう偽悪的に語るティアナの言葉に頷いて、トーマは真顔で返す。良く分からないけど分かったと、語るは相反している二つの言葉。

 ティアナの言っていることは、正直良く分からない。自分本位だから感謝されてはいけないと、そんな理由はない筈だ。その内情はどうあれ、現実にあるのは一つ。

 

 

「その理由がなんであれ、ティアのお陰でやる気が出た。守るべき者は確かに、この胸にあるんだって思い出せた。――だから、もう一度ありがとう」

 

 

 ティアナのお陰で、トーマの気分は上向いた。この日常の中で、綺麗な物を確かに見た。だからその意図が何処にあっても、トーマはもう一度感謝を口にするのである。

 

 

「ほんっと、馬鹿ね。馬鹿トーマ。……そんなアンタだからこそ、気分転換の相手に選んだんだけどね」

 

「……どういう意味?」

 

「教えてあげない」

 

 

 首を傾げる少年に、少女はクスクス笑う。食事を終えて立ち上がると、自然と相手に手を伸ばす。そうして、彼女は微笑みながらに言うのだ。

 

 

「それじゃ、そろそろ出るわよ。それと次の場所は、もう決めてるから」

 

 

 差し出された手を握り返して、二人は店を後にする。時間的にもこれが最後、向かう場所はミッドチルダの西部にあった。

 

 

「此処は――」

 

「ポートフォール・メモリアルガーデン。アンタも一度は、来たことがあるんじゃないかしら?」

 

「うん。此処には、義母さんのお墓があるから」

 

「そう。なら、後で行く?」

 

「……ううん、今は止めとく。周忌以外で墓参りをするのは、何か一つでも成長できた時だけって決めてるから」

 

「何よ、それ。休みの度に、弱音吐きに来てる私への当て付け?」

 

 

 エルセア地方。トーマにとっては、養父母と共に育った町。ティアナにとっては生まれ故郷で、実の兄が眠る墓がある町。

 管理局に所属し、寮暮らしとなってからは疎遠に成り掛けていた。そんな町中の墓所を二人、肩を並べて言葉を交わしながら進んで行く。

 

 

「ティアは、良く来てたの?」

 

「よくも何も、ほんと暇さえあったら来ていたわ。んで馬鹿みたいに泣いて、抱えたもん全部吐き出して、そしてまた歩き出す。その繰り返し。心が折れそうになった時、折れない為に何時も此処に来ていたの」

 

 

 今日と言う日は、不思議な一日だ。三年も共に居て、それでも知らなかったことが多くある。凄いと感じていた相棒の零した、そんな弱さもその一つ。

 見る目は変わった。今日一日で、随分と印象が変わっていた。だがそれが、悪いこととは思えない。知れて良かったと、トーマは素直にそう思う。

 

 

「何時も何時も弱音ばっかり聞かせてた。兄さんは優しい人だったから、きっと受け入れてくれていた。けど、毎回それじゃぁ死人だって気分も滅入るでしょ? だから偶にはスッキリした気分で、色々伝えたいなって思ったの。唯、それだけ」

 

 

 彼女のそれは、強さか弱さか。迷いながらもそれを隠して、真っ直ぐに進む眩しい強さに憧れる。触れれば壊れてしまいそうな、儚い心が垣間見える弱さを愛おしいと思う。

 彼の心に浮かんだ想いは、果たして何と表現すべき感情だろうか。見惚れる様に見詰める少年の視線に気付かず、気付いていたならきっと何かが変わっていた。その変化は、決して悪い物にはならなかった筈だ。

 

 けれど今は、互いの関係が変わるより前に、互いの足が止まる方が早い。目的としていた墓前を前に、ティアナは腰を下ろした。

 

 

「兄さん。今日は、私の相棒を紹介しに来たわ」

 

 

 途中で買った花束を、少し崩してから墓前に供える。そうしてその姿勢のまま、彼女は一つ一つと言葉を紡ぐ。大切と言えるようになった、想い出を振り返しながら。

 

 

「訓練校で会った時は、物凄く嫌いな奴だった。私の方がずっと頑張ってるのに、何でコイツには勝てないんだろうって。此処に来る度、何時も兄さんに泣きついてたよね」

 

 

 ティアナは才なき凡人だ。少なくとも、彼女は自身をそう捉える。一般平均と比すれば優れていようと、超一流の域には届かない。

 本物の天才を知っている。高町なのはやクロノ・ハラオウン。そして横に居るトーマ・ナカジマもまた、ティアナがどれ程に努力しようと追い付けない才を持つ。

 

 才能がないと知ってから、必死になって己を磨いた。それまで好きだった物を遠ざけて、あらゆる娯楽から目を背けて、常に自己を磨き続けた。

 予習復習は当たり前。身体が動かなくなるまで訓練して、動かなくなったら学力を鍛える。食事と睡眠と排泄と、それ以外の時間は常に自己鍛錬の為に。それでも、勝てない天才が居たのだ。

 

 理不尽だと思った。世界を呪った。自分は誰よりも努力しているのに、大した努力をしていない奴が才能だけで超えていく。そんな彼の姿を羨んで、そんな自分が醜くて、誰より一番嫌いだった。

 

 

「課外授業でペアになって、一緒に無限蛇の幹部と戦って、少しだけ許せる様になった。コイツの馬鹿さ加減に呆れて、自分がやりたいことも見えたから、張り合い続ける意味がないんだって気付いたの」

 

 

 関係が変わったのは、運命の分岐点となった彼の日。人形兵団と言う己の成れの果てを見て、それさえ救いたいと語る馬鹿を見て、何だか馬鹿らしくなったのだ。

 そして続く事態の変化で、天才ですら届かない怪物の存在をティアナは知った。魔刃と言う行き過ぎた怪物と、そんな相手に仲間と協力して勝てたという事実。それらが少年への敵意を塗り替えた。

 

 こんな大馬鹿野郎と、張り合うのは馬鹿らしい。自分に才能がなくても、仲間次第では役に立てる。一人で進むことが出来ない場所でも、二人以上なら至れるのだと其処で気付けた。

 

 

「それからずっと、言ってしまえば腐れ縁。私が知る中で一番強い同年代がコイツで、背を預けるのに十分以上だったから。流される様に相棒として、こうして今も一緒に居る」

 

 

 だから、ティアナはこの道を選んだ。彼を相棒としたのは消去法。他の生徒とは仲が悪く、そうでなくとも態々使えない奴と組む気はしない。

 身近な相手の中では一番才能が有って、共闘した経験もあった少年。力はあるが頭が弱いと、自分の役割も明確になる。どう考えても感情以外に、彼を選ばない理由はなかった。

 

 そうして、今後も組んで行こうと。どちらからともなく手を組んで、何時しか共に居ることが当たり前になった。そして三年、今も二人の関係は続いている。

 

 

「何となくだけど、感じていることがあるの。何かが変わってしまいそうな、嵐の前の静けさを感じている。激動がもう直ぐに、訪れるんじゃないかって」

 

 

 けれど、何れ変わるのだろう。それもそう遠くはない日に、疼く右目は既に見ている。だがその光景を、まだティアナは理解出来ていない。

 

 断片的に見えるのは、巨大な龍が全てを壊していく光景。真っ赤な色で身を染めて、涙を流しながら必死に叫ぶトーマの姿。

 何がどうして、そうなるのか。其処に至る過程に、一体何があったのか。己の異能すら、明確に理解していない。そんなティアナには、まだ何も分からない。

 

 

「その時が来ても、この関係は続くのか。それとも違う形に変わるのか。……今は分からないけど、一つだけ確かだって言えることがある。これだけは変わらないって、胸を張れる言葉がある」

 

 

 未来の断片を見る目を持っていても、今は何も分からない。そんなティアナにも、確かに分かることがある。

 立ち上がった少女は、己の吐露を黙って聞いていた少年を見詰める。強く強くその目を見詰めて、本心からの言葉を告げた。

 

 

「私――ティアナ・L・ハラオウンは、トーマ・ナカジマを信じている」

 

 

 晩春の風が吹く中、少女は語る。何があろうと変わらない事実。並び立つ相棒へと向ける信頼は、決して何があろうと変わらない。

 

 

「コイツより強い奴は居る。コイツより頭が良い奴は居る。ぶっちゃけコイツは馬鹿で阿呆で鈍感で、色々駄目な奴なんだけど――それでも、コイツ以上に背中を預けられる人は居ない。そう、私は信じているの」

 

 

 強く見詰める瞳と言葉に、想うは一体如何なる情か。羞恥か歓喜か自信の類か、様々な感情を込めた瞳で見詰め返して、トーマは首を縦に振る。

 頷く彼に、少女も頷き返す。言葉にせずとも、通じている。私的な面を見せて来なかった相手でも、ずっと共に居たのは確かだ。だからきっと誰よりも、互いが互いを信じられる。

 

 そうして、ティアナは再び墓前へと。立ち上がって誓う様に、此処に言葉を紡ぎ上げた。

 

 

「だからね、ティーダ兄さん。私、コイツと行くわ。何処までかは分からないけど、行ける所まで二人で進むの。どんな激動が待ち受けていたって、私達ならきっと乗り越えられるって信じてる」

 

 

 もう一度、強い風が吹く。髪を抑えた少女の前で、捧げた花弁が風に舞う。それがまるで、あの優しい兄の返事に想えた。

 だから瞳を一度閉じて、開いた後には迷いがない。傍らに立つ少年へと振り向いて、ティアナは右手を差し出し告げた。

 

 

「だから、トーマ。アンタは私を守りなさい。私がアンタを守ってあげるわ」

 

「ああ――、そうだね。ティア」

 

 

 守られているだけの、御姫様ではない。守っているだけの、騎士様などではない。二人の関係は、共に依って立つ相棒だ。

 守るから、守って欲しい。守られているから、その身を守ろう。手を繋いで、横に立つ。背を預けて、並び立つ。それこそが、二人に相応しい関係だから。

 

 

「僕を守って、僕が守るよ。二人で一緒に、何処までも行こう」

 

 

 少女の右手に手を合わせて、言葉と共に握り返す。互いに強く、もう離さぬというかの如く。

 これより激動が待つこの世界。二人揃って乗り越えてみせるのだと、彼らは此処に誓うのだった。

 

 

 

 

 

3.

 飛び散る血痕。失われた腕。初撃を躱せたのは、完全な偶然。二度目はない。迫る魔槍はもう眼前に、己の命を一瞬後にも奪うであろう。

 此処で死ぬ訳にはいかない。だがこの少年を前にして、勝利するなど不可能だ。例え万全であったとしても、秒と持てば良い程度。そもそも格が違っている。

 

 命の危険を前に、スローモーションとなる視界。圧倒的な速度で回る思考を以って、久我竜胆は打開の術を思考する。

 戦っては勝てぬが、諦める訳にもいかない。そして時間も余りない。ならば僅かな言葉だけで、この少年を止めねばならない。

 

 浮かんだ言葉は賭けだった。策とすらも言えない思考を纏める暇もなく、勝ち目が見えないままに女は言葉を紡いだ。

 

 

「それでは流れ出せんぞッ! エリオ・モンディアルッ!!」

 

「――――どういう意味だ?」

 

 

 刃が止まる。僅か動かせば眉間を貫くであろう距離で、エリオの動きが確かに止まった。

 此処で自分が狙われる理由は何かと、考えて咄嗟に口にした言葉。それに間違いはなかったらしいと、か細い糸を繋いだ竜胆は静かに息を吐く。

 

 そうして、思考を回す。まだ賭けは終わっていないと、彼が座を目指しているという仮定を前提に言葉を弄する。

 

 

「覇道とは、他者を狂奔させる才を言う。即ち、己が渇望で、皆を魅せると言うことだ」

 

 

 まだ此処で死ぬ訳にはいかない。此処まで必死に残って来たのだ。次代の階を見ずにして、どうして死を受け入れられようか。

 故にか細い糸を手繰って、彼が無視できない言葉を紡ぐ。座を狙うと言うのなら、必要な問答なのだと認識させる。そうして時間を稼いだ先に、助かる道を探し出すのだ。

 

 

「言葉を弄することもせず、他者を分かろうともせずに、其処に至るなど出来はしない」

 

 

 だからと言って、言葉の全てが出鱈目と言う訳ではない。それでは直ぐに気付かれるだろうから、言葉にしたのは真実だ。

 覇道の資質とは、理想を以って他者を狂奔させること。真実その資質が見えたのならば、それは次代の階と言えるだろう。故にこそ彼女は、本気でその言葉を口にした。

 

 

「理想を語って魅せろよ。命を奪うより前に、言葉で示せ。他者を翻意させる力を持たぬ者ではな、新世界の神にはなれんぞッ!」

 

「……良いだろう。別に、隠す様なことでもない。それに、お前を殺す程度は何時でも出来る」

 

 

 本気の想いは、確かに届く。それに頼れる他者がいないエリオにとって、思想を明かせる相手は貴重だ。

 キャロでは駄目だ。彼女には聞かせたくない。ナハトでは駄目だ。アレは信用してはいけない悪魔。故にこそ、この機会に己の意志を。示してみるには都合が良かった。

 

 魔槍を引いて肩に担ぎ、女が立ち上がるのを待つ。そうしながらに思考を纏めると、エリオは静かに口を開いた。

 

 

「僕の理想は、あるべき者はあるべき場所にだ。お前達の様に罪深い者達が苦しみながらにのたうち回り、彼女の様に優しい人が誰よりも幸福となれる。そんな世界を、僕は求める」

 

 

 キャロの幸福。それを異なる形で言葉とすれば、求める物は因果の応報。兎角この世は善行が報われ難く、悪逆が当たり前の様に横行している。

 目の前に立つ女もその一人。エリオが生まれたミッドチルダの闇を、生み出した元凶の一人。こんな輩がどうして裁かれないのかと、そんな想いは確かにある。

 

 だがやはり最も強く想うのは、悪への裁きではなく善への報い。キャロの様な優しい人は、報われるべきなのだということ。幸福の席が一定ならば、そういう者こそが其処に座るべきなのだ。

 

 

「……因果応報、か。だがお前は、それを如何に判別する。何を基準に、その差を生み出す」

 

「知れたこと。悪い奴が死ねば良い。救うに値しない者が零れていけば、後には綺麗な者だけが残る筈だろう?」

 

「その思考は危険だ。それでは、比較と排除の繰り返しとなる。果てにはお前が言う、綺麗な者さえ残らんぞ」

 

 

 その思想を、悪しとは言えない。他でもないこの地を作った竜胆が、この地から生まれた最大の被害者にして加害者にされた彼に言える筈がない。

 だから思想ではなく、手段を問う。一体どうやって、救うべき者を選別するのか。問い掛けられて、思案は一瞬。返って来たのは、悪が減れば綺麗になると言う言葉。

 

 単一の個が善悪を判断して、悪い方を殺す。その判断は危険である。主観が交わらぬ天秤などはなく、暴走の果てに全滅と言う可能性が容易く浮かんだ。

 

 

「……そうか。ならば、もう一つの要素を加えよう」

 

 

 故に否定する言葉を受けて、エリオは僅かに思案する。先より長く、それでも大したことはない時間で。纏まった思考は、彼の本質を表した物であろう。

 

 

「努力が報われる世界。前に進み続ける限り、誰もが救われる世界。そうすれば、誰もが成長を続ける。其処に幸福になるべき者を誰もが尊ぶという、そんな思想を混ぜることさえ出来れば――」

 

 

 言葉を聞いて、竜胆は夢想した。果てに至るであろう地を。誰もが前進と競争を重ねて、されど愛することの大切さを知っている世界。

 素直に想う。その願いは尊いと。遊びがないのが問題だろうが、それもきっと改善できる。真実それが形を成すのであれば、此処を死地と定めても良いのではないのかと。

 

 そうとも、己の第一案として上げていた修羅道の復活よりも良い結果となる。民の魂は鍛えられ、次代は何れ訪れる。競争の果てに人が望む物も、想像するに難くはない。

 本当に彼が至れるというのなら、その未来に否はない。寧ろ全霊を以って、彼の手助けをすべきではなかろうか。そう考え始めた竜胆の思惑はしかし――少年が優し過ぎた為に、あっさりと瓦解した。

 

 

「競争は止まらない。だがその中で、人々は進歩する。その果てに、何れ僕を殺せる者も現れる、か。……あぁ、これは最初の案より良いかも知れないね。これだけでも、来た価値はあった。感謝しておくよ、久我竜胆」

 

「待て、お前は――死ぬ気、なのか?」

 

「……言った筈だよ。僕の望みは、あるべき者はあるべき場所に、だと」

 

 

 誰かを傷付けることは悪いことだ。人を殺すことは悪いことだ。あらゆる悪行は、罰もなく許されてはならない。エリオ・モンディアルはそう想う。

 このミッドチルダの闇を作った最高評議会よりも、彼らに加担した竜胆よりも、彼は自分自身が許せない。こんなにも罪深い奴が、どの面を下げてと常にそう思っている。

 

 エリオ・モンディアルは、余りに内罰的なのだ。悪因悪果。それがないといけないと、そう思い込んでいる。彼は、己自身を愛せない。

 

 

「この世で一番要らない者。それは他でもない、エリオ・モンディアルと言う名の無価値なゴミだ。因果応報に従うならば、これ程に死んだ方が良い奴は他にいない」

 

「馬鹿者がッ!! お前は望んで、罪人となった訳ではあるまいにッ!!」

 

「罪は罪だ。理由など関係ない。僕が殺した、それが全てだ」

 

 

 エリオを生み出し、他者の殺害を命じたのはジェイル・スカリエッティだ。けれど命令されたまま、他者を殺したのはエリオである。

 管理局に不都合な者を処分しろと、命じたのは最高評議会である。それでも、己の意志で命令に従って、他者を殺したのはエリオである。

 

 悪いことだと知っていた。当たり前の倫理観があった。どうしようもない理由があった。それでも、エリオ・モンディアルは己の手で誰かの命を終わらせて来た。

 これまでも、そしてこれからも、彼は屍を生み出し続けるであろう。それが悪いとは知っている。己の手が血に塗れていると分かっている。それでも、今更には止まれない。

 

 

「触れ合う度に感じていた。愛しさが募る度に想っていた。僕は他でもない、彼女を穢すこの僕こそが。そうと分かって甘えている、この僕こそが。何より一番許せない」

 

 

 そんな男が、優しい少女と出会ってしまった。彼女のことを想う度に、離れなくてはいけないのだと感じていた。

 それでも、その一時が余りにも温か過ぎたから、エリオは理由を付けて幾度も逢った。触れる度に血濡れた指先が汚すと分かって、それでも拒絶が出来なかった。

 

 そうする度に、己への憎悪が増していく。何だこの汚物はと、怒りがとめどなく溢れて来る。だから彼は決めたのだ。彼女の傍に居て良い理由。それが解消された時、己はこの世から消え失せようと。

 

 

「どの道、新世界を開闢し、波旬を滅ぼしたのならば消え去る予定だった。神となればそれが多少長引くから、出来れば聖王辺りを据えたかったんだけどね。……他に成り手が居ない以上は、まぁ仕方がない話だろうさ。僕が世界となって流れ出そう。彼女の様な人が救われる世界を、優しい人以外が競争を続ける世界を、何時か僕を殺せる者が生まれる世界を、流れ出して生み出すとしよう」

 

 

 そうでなくては許せなかった。そうでなくては耐えられなかった。そんな無様を晒したままに、彼は此処まで来てしまった。

 そして既に彼の心は極まっている。己には価値がないと、愛しい少女は救われるべきだと、それだけで完結して凝り固まっている。

 

 

「……お前には無理だ」

 

「なに?」

 

「今の貴様では不可能だと言ったのだッ! エリオ・モンディアルッッ!!」

 

 

 だからこそ、彼は覇道の神には成れない。全てを台無しにして、破滅に向かっていくだけの悪魔でしかない。

 

 

「覇道の神にとって民とは、即ち自己の細胞だ! 故に己すらも愛せぬ男に、誰かを愛することなど出来ぬ! 自分を幸せにすることも出来ぬ男が何故に、世界を救えると嘯くかッッ!!」

 

「…………」

 

「この私が断じてやろうッ! 貴様は絶対に、神座には永劫至れんッッ!!」

 

 

 決別の言葉を此処に。久我竜胆はエリオ・モンディアルを掲げることなど出来ない。彼は決して、神には至れぬと断じたから。

 

 

「そうか。まぁ、別にどうでも良い」

 

 

 対して、エリオ・モンディアルは無表情で呟く。未来の形を明確にしただけで、十分な価値があった。だからもう、久我竜胆は必要ない。

 当初の予定通り、その命を終わらせよう。背を向け逃げ出す女に向かって、槍を構えて大地を蹴る。殺して喰らって知識を奪って、それで全ては終わるのだから。

 

 

「取り敢えず、死ね。お前の知識を喰らってから、その真贋を確かめることにしよう」

 

 

 迫る魔槍は、雷光の如く。和装の背に向かって、吸い込まれる様に進み――――その閃光を遮る様に、金属を打つ音が地下に響いた。

 

 

「其処までだ。悪魔の玩具」

 

「――っ!?」

 

 

 大砲の如き銃弾に打たれて、弾かれる様に後退する。危険を察した獣の如く、大きく跳び退いたエリオを前に堕ちて来る。

 周囲の魔力が集束して、其処に形を織り成す。男は野性味帯びた嘲笑を浮かべて、女は含む様に微笑を作って、其処に天魔・宿儺が現れた。

 

 

「其処の死に損ないに変わって、俺がテメェに評価を下してやる」

 

「んな訳で、さっさと逃げなさい。アンタが死ぬと、こっちも不味いの」

 

「……恩に着るぞ。天魔・宿儺」

 

 

 黄昏の台座に腰を下ろして、片足を胡坐の如くに。頬杖を付きながら、着崩した振袖から伸びる手で銃器を弄ぶ。

 そんな男の相が先のエリオの発言を吟味する中、残る女の相が竜胆を逃がす。咄嗟に追うかどうか悩むが、彼らが素直に追い掛けさせてくれるとも思えない。

 

 最悪は、背を撃たれること。夜都賀波岐の両翼は強大だ。向き合って切り結ばねば、そも話にならないだろう。

 

 

「因果応報。競争主義。言いたいことはまぁ分からなくもねぇけど、思想以前にお前自身が論外だ。零点だってくれてはやれねぇ。中途半端なんだよ、テメェはよ」

 

「自己犠牲を語るなら、一度の出逢いで満足しときなさい。それで我慢出来ないなら、いっそ開き直りなさいよって。そういう話」

 

「誰がどう言おうと知ったことじゃねぇ、俺は俺で幸せになるんだってよ。そう言い切ることも出来ねぇ癖に、自己犠牲に徹することも出来てねぇ。赤点以前って意味が理解出来るか、人間未満?」

 

 

 宿儺は語る。その思想への是非は一度棚上げして、思考だけで判断しても落第だと。天魔・宿儺と言う存在にとって、エリオ・モンディアルとは評価するにも値しない。

 

 自己嫌悪を貫くならば、最初の一度で満足して、もう二度と逢わなければ良かったのだ。そうすれば最後に死ぬのだとしても、キャロ・グランガイツは傷付かなかっただろう。

 己の幸福を追求するのならば、因果応報などを求めなければ良かったのだ。悪いことをしたけど、仕方がなかった。それ以外に術はないのだから、誰にも否定はさせないと。そう開き直ってしまえば良い。

 

 だが結局、エリオはそのどちらにも振り切れていない。傷付けることを恐れながら、幸せになることを拒んでいる。

 それが一番愛する人を傷付けることになると分かって、治そうともしていない糞野郎。結局自分しか見れていないから、彼は覇道に至れない。

 

 

「――ならば、何だと言う」

 

「はッ、決まってんだろ。人形野郎」

 

 

 そんな罵倒を耳にして、しかしエリオは揺るぎもしない。己の屑さを知っているから、今更指摘されたとしても変化はない。

 槍を構えて、敵意を示す。そんな姿も駄目だと、宿儺は内心で評価する。揺るがぬことは強さであるが、それは求道の性質だ。

 

 揺れ動くならば、変化の余地がある。変わらないと言うのは、他者を必要としないと言うこと。自分勝手に結論付けて、独り善がりだけで行動する。其処にどうして、次代の階などが見えると言うのか。

 

 

――アセトアミノフェンアルガトロバンアレビアチンエビリファイクラビットクラリシッドグルコバイ

 

「もう少し、育つのを待ってやっても良いかとも思ったが」

 

 

 本来求道から覇道に変わるには、相応の切っ掛けが必要だ。神と悪魔が同じ力を持っていようと結局、神と悪魔は対極に位置する別の存在であるのだから。

 或いは竜の巫女との出会い方が違っていれば、多少は期待できる程に揺れ動いたのかも知れない。だが今の彼は完結していて、そう簡単には揺るがない。その変化を待っていれば、それこそ取返しが付かなくなる。

 

 

――ザイロリックジェイゾロフトセフゾンテオドールテガフールテグレトール

 

「全くさ。何年も掛けて仕込んだって言うのに、たった三日でこんなに荒らしてくれちゃって」

 

 

 リリィとスカリエッティ。たった二人だが、この世界と言う盤面を動かす全てのプレイヤーから重要と判断されていた要素が消えた。数年以上の仕込みを、たった三日で壊された。

 ミッドチルダは大結界の影響で、宿儺以外は立ち入る事が出来ず、侵入可能な宿儺でもこの中で天眼は使えない。だからこそ早過ぎる展開に、介入の手が遅れてしまった結果がこれだ。

 

 

――デパスデパケントレドミンニューロタンノルバスクレンドルミンリピドールリウマトレックエリテマトーデス

 

「これ以上、盤面を荒らされたくねぇんだよ」

 

 

 そして今、竜胆を狙った様に。エリオ・モンディアルは更に盤面を掻き回していく事だろう。その先に何が起こると言うのか、どう転んだとしても碌な事にはならない筈だ。

 既に許容限界は超えている。カバーに入れる保証もない。そうであるが故に、この少年は何処までも邪魔者だ。これ以上荒らされる訳にはいかないから、天魔・宿儺は咒を唱える。

 

 

――ファルマナントヘパタイティスパルマナリーファイプロシスオートイミューンディズィーズ

 

「君の行動は私達にとって都合が悪いし、君自身も論外だからね。そろそろ消えて貰おうかって、そういう訳」

 

 

 広がる圧と、変わる色。空が黄色に染まっていき、幾何学模様が蠢き始める。その力、その性質。エリオは確かに知っていた。

 資料データから見て知っていた彼は、槍を構えて大地を駆ける。この異界が展開されれば最後、エリオ・モンディアルは敗北するから。

 

 何としてでも止めねばならない。雷光と共に駆け抜けた少年の切っ先は、しかし鬼の手で止められていた。

 

 

――アクワイアドインミューノーデフィエンスィーシンドローム

 

「――ッ! オォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 まだだ。まだ、時間はある。押し止められた槍に体重を乗せ、雷光と共に大地を大きく蹴り付ける。

 僅か驚いた表情で、天魔・宿儺の身体が押し切られる。激しい轟音と震動が地下施設を揺らし、黄昏の台座が無残に砕け散った。

 

 だがしかし、崩れ落ちる台座の向こうで悪鬼は健在。瓦礫の山に飲まれた鬼は、右手に大きな傷こそあるがそれだけの被害しかない。そんな宿儺は、ニヤリと嗤って死を告げた。

 

 

――太・極――

 

無間身洋(マリグナント・チューマー)受苦処地獄(・アポトーシス)!」

 

 

 染まった空が、此処にその力を示す。発動するのは、神秘の否定。あらゆる異能は此処に、全て効果を失い自壊する。

 訪れる結果は明らかだ。悪魔と言う超常の存在が居なければ生きていられない少年は、当然この領域で生存出来る筈がない。

 

 カランと高い音が響いて、異形の魔槍が大地に転がる。赤毛の少年は立っていることも出来ずに、大地に崩れて倒れ伏したのだった。

 

 

 

 

 




バカ兄「ティアナァァァァァッ! 横のそいつは何だァァァァァッ! おのれぇぇぇぇッ! 墓石から出れれば貴様なんぞォォォォォォッッ!!」


DARK SIDE ERIO はトーマ視点だとティアナルート。

ってかトーマ君がティアナルートに入る条件が、リリィと出会わずエルトリア編にも突入しないというモノなので、エリオ無双ルートでしかヒロインになれない。(本作はStS終了時期までに終わる予定)

その性質上、彼女を選ぶとラストがBADで確定すると言う負けヒロイン。これがゲームならきっと、FDでの救済アフターが望まれることでしょう。




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第八話 両面宿儺 遊佐司狼

月刊・だーくさいどえりお。

予告編と大分違くね、と思われるかも知れませんが、スカさん戦でプロットちゃんが死んでるので違ってもノーカンと言い張る勇気。


推奨BGM
1.祭祀一切夜叉羅刹食血肉者(神咒神威神楽)
2.Don t be long(リリカルなのは)


1.

 底の底の其処の底。遥か大地の奥底にある、神世連座の記録が残る地。その最奥に作られた、第五を模した像の前。

 君臨するは、嘗ての黄昏の守護者が一人。美麗な刹那よ永遠たれと、願った男のその裏面(サカシマ)。両面悪鬼と謳われる、穢土・夜都賀波岐が両翼の一。

 

 天魔・宿儺。乱れた華美な着物から、肌を露出させた鬼面の男。その背後には黄色く歪んだ宙が渦巻く。浮かぶ咒言は理解も出来ない、名状し難き幾何学模様。

 開かれた太極。其の咒は無間・身洋受苦処地獄。神の玩具と操られていた両面悪鬼が求めたこの世界。その根源はありとあらゆる神秘を許さず、人が人として生きることを望み続ける祈りである。

 

 

「ぁ――、――っ」

 

 

 故に彼は此処で倒れた。この世界に飲まれた瞬間、糸が切れた人形の如くに倒れ伏し、その手に握った異形の魔槍を取り零した。 

 立ってられない。身動き取れない。息を吸って吐く事も苦痛であって、瞬きすらも不可能だった。エリオ・モンディアルは此処に、無価値な姿を晒している。

 

 それも当然、此処に展開された太極(ホウソク)は異能の否定。あらゆる神秘を否定する理は、少年にとって正しく天敵だ。

 

 何故なら、エリオ・モンディアルはもう死んでいる。十年は前に行われた人体実験。その果てに彼は終わっていた。

 二十七万という膨大な魂を統率出来ず、自我を保つ事すら出来ていない。そんな彼が生きて来れたのは、ナハトと言う悪魔が居ればこそ。

 

 高次接続実験。降臨したナハト=ベリアルの手によって、エリオ・モンディアルは生かされている。彼は悪魔の玩具であったのだ。

 そしてナハトは神秘の権化だ。異常と異質を煮詰めた怪物。この法則による影響を受けてしまう存在で、未だ地獄を跳ね除ける程の力を持ってはいない。

 

 如何に悪魔の王であれ、完成してはいないのだ。失楽園の日を迎えた後なら兎も角として、この段階では両面悪鬼に届かない。

 故に自然の流れとして、ナハトは此処から追放された。奈落との接続は自壊させられ、ならば其処に至るは必定。エリオは物言わぬ肉塊と化して、大地に崩れ落ちたのだ。

 

 そう、本来ならば、そうなって然るべきである。

 

 

「っ――、あ――っ」

 

 

 それでも、だがしかし、彼は今も足掻いている。息をしようと、立ち上がろうと、戦ってみせようと、その瞳に宿る意志は燃え盛り続けている。

 ああ、けれど、唯それだけだ。今も少年は折れていないが、折れていないだけで立ち上がれない。動かぬ死体に変わりゆく己の身体を、如何にか活かそうとして失敗していた。

 

 やはり、それも当然。命が足りない。エリオが今も死んでいない理由は、その内に彼自身が取り込んだ輝きがあるからに過ぎない。

 オリジナルであるエリオ・モンディアル。そしてその両親。三人分と言えば聞こえが良いが、それらは所詮欠片に過ぎない。一つ二つ三つと、その程度では一人分の生命力にもならぬのだ。

 

 体内にある無数のリンカーコア。それを体内に移植された少年は、細胞単位で別人の魂を有している。それら全てを統合して、漸くエリオと言う生命体は成立していた。

 今の彼は、その一つ一つの魂が暴走を続けている状態にある。その内僅か三つが辛うじて彼の自我を成立させているが、それで出来ることなどこの程度。結局彼は立ち上がることも出来ずに、無価値な塵へと変わるであろう。

 

 

「……ま、こんなもんか」

 

 

 異界の主は高みから、見下す様な言葉で断じる。呼吸さえもままならず、動かぬ死体に変わっていく罪悪の王。彼を見下し、そして裁定を下している。

 所詮これは悪魔の玩具。元から生きてもいない残骸。何一つとして期待出来ずに、何もかもを台無しにしてしまう存在。エリオ・モンディアルと言う存在は、そんな無価値で無意味な塵屑だ。

 

 

「お前には、端から期待なんざしていねぇ。だからまぁ、あれだ」

 

 

 悪魔の価値は既にない。神の子を成長させる宿敵として、そう在るべきと言う形はとうの昔に破綻した。今更に、軌道修正などは不可能だろう。

 悪魔の世界に価値はない。彼の内は自己否定と自己蔑視で満ちていて、どんな世界を流れ出そうと必ず破綻する。そも最初から最期を望むと言う時点で、宿儺は決して認めない。

 悪魔の力は最早害悪でしかない。一切の利を生み出さず、無数の害を齎す者。真に必要な者達を傷付けて、果てには殺してしまう害虫。神の視点で見て下した評価は、直接目にして尚も揺るぐことがなかったのだ。

 

 故に最早こんなモノ、此処にあるべきではないのだと。其処に自己嫌悪にも似た情がないと言えば、それは嘘になるであろう。

 お前には、さっさと消えて欲しいのだと。語る言葉に偽りなどは存在せずとも、認めない理由の多くは似ていて異なるからだと自覚している。

 

 それでも、結論は変わらない。口にすべき言葉はたった一つ。故に宿儺は彼の口癖を模倣して、嗤いながらに言葉と発した。

 

 

「――此処で、無価値に死んどけ。悪魔の玩具(エリオ・モンディアル)

 

 

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。身体が冷たくなって死んでいく。呼吸が出来なくなって死んでいく。五感も消え去り死んでいく。

 唯の肉塊に、感じられる物などない。全てが遠ざかる様な感覚の中で、エリオは奈落に堕ちて行く。無価値な残骸へと、その身は確かに変わっていく。

 

 このまま死んでいくのだろう。もうこの結末は避けられない。如何なる理屈があれば、この状況で生きて居られる?

 何もない。何もない。何もない。所詮は無価値に過ぎない生命であったから、何も為せずに消えていくのだろう。そんな風に、彼が僅かに想った時――声が聞こえた。

 

 

――エリオ君。

 

 

 此処には居ない彼女の声。己の名を呼ぶ少女の声。初めて手にした宝石の、その呼び声を聞いた気がした。

 そうと認識した瞬間。エリオは霞む視界に意地で抗う。噛み砕かん程に歯を食い縛り、遠のく意識を必死に保つ。

 

 死ねない。死ねない。まだ死ねない。そう抗う理由があった。

 死ねない。死ねない。まだ死ねない。無価値だからと、それで終われぬ想いがあった。

 

 自分には価値がない。この身は決して許されてはならない。そう想うのは変わらずとも、そんな理屈に巻き込んではいけない人が居る。

 彼女には未来が必要だ。笑って過ごせる温かな場所が必要だ。他の誰もが成せぬと言うなら、この身一つで成してみせる。その時までは、止まれない。

 

 

「…………ま」

 

 

 あの時と同じく、彼女の声が力となる。その優しい想い出が、心の中に火を灯す。燃え上がった業火は此処に、身体を動かす熱を生む。

 何時だってそうだ。その想いに救われて来た。あの出逢いがあればこそ、エリオ・モンディアルは立ち上がれる。彼女が生きる未来の為に、だから彼は此処に居る。

 

 死の運命を覆せ。断崖の果てを飛翔しろ。翼を失い底へ向かって墜ちるとしても、立ち止まって良い理由はない。

 消え行く己へ、胸中で必死に言葉を紡ぐ。出来るだろうと言い聞かせる。己が大切ではないからこそ、恐怖は足を止める理由にならない。

 

 僅かな欠片が三つだけでは、真面な行動などは出来ない。けれどたった三つであっても、動かせる場所はあるだろう。

 歯を噛み締めて、顎を開く。その程度は出来た。ならば其処を足掛かりに、一つ一つと増やしていく。無数の魂の欠片達を、此処で己に隷属させる。

 

 出来るか、ではない。やらなければならないのだ。唯それだけの意地を武器に、エリオは口を開いて言葉を紡ぐ。

 掠れた音は微かであったが、それでも確かに音を発した。赤子の如く、言葉にならない程に稚拙な発音。それでも、想いは確かに音となった。

 

 

「……だ……」

 

 

 ならば、此処から先へ行く。音が紡げたと言う事は、顎と舌を動かせたと言う事だ。動く筋が何か一つでもあるのだから、それを起点に次へと繋げてみせるまで。

 口を大きく開けて喘ぐ様に、無理矢理に吸い込んだ呼気で肺を動かす。強く強く弾ける程に、激しい動作で脈動させる。その振動が他の臓器へと、胸の鼓動が高鳴り始めた。

 

 肉体の変化と同じく、その魂も変化していく。従う欠片を増やし続けて、動かせる部位を増やす。ほんの僅かに、数えることが出来る程度だが、それでも欠片へ言葉を投げる。

 我に従え。我を生かせ。お前達はその為に、我が器に存在している。そうとも、我には命が必要なのだ。彼女の未来を見届ける日が来るまで、立ち止まることなど許されてはいないのだから。

 

 

「だァァァァァッッ!!」

 

 

 故に、出来ない筈がない。出来ないで、終わって良い道理がない。何としてでも為すのだと、彼は睨み付ける様に前を見る。

 立ち上がる為、指先に力を入れる。上手く力が入らずに、爪がそのまま剥がれて落ちた。それでも力は緩めずに、彼は前だけ見詰めている。

 

 前に進もう。前に進もう。前に進もう。あの娘が幸福で居られる場所を守る為、消え去りそうになる己の命を、意地で此処に繋ぎ止める。

 崩れていく自己を形作る無数の欠片を支配して、彼らにエリオ・モンディアルを構築させる。出来ないなんて、理屈は最早存在しない。

 

 死ぬるが道理。死なぬが異常。そんな理屈などは知った事ではない。関係ないのだ、この燃え上がる想いには。

 故に唯、死なぬと想う。その想いだけを頼りに、命を繋ぐ。自壊し続ける己を意志で抑え付け、エリオは己の死すらも超克した。

 

 

「……ま、その感情だけは認めてやるよ」

 

 

 死を必定とする世界の中、生きてはいられない筈の少年が立ち上がる。唯一人への想いを胸に。それを否定する事など、きっと誰にも出来はしない。

 それは天魔・宿儺も認めよう。少年の内には何一つとしてない訳ではなく、その全てが無価値と言う訳ではなく――――だがしかし、それは既知である(既に知っている)

 

 

「けどな、デジャヴるんだよ。……俺はそれを知っている。お前が立つと知っていた。その上で、お前を無価値と決め付けた。他でもない、この俺がそう決めたんだ」

 

 

 爪の剥がれた指先で、掴み取った暗き魔槍。力を失くしたストラーダに体重を預ける様に、両手に握って立ち上がったエリオ。

 震える足は生まれたての小鹿が如く、或いは年老いた人の如く、己の重心を支える事すら出来ていない。そんな少年へと向ける悪鬼の表情は、今も何一つとして変わらない。

 

 この悪魔には価値がない。その決定は揺るがない。たった一つの想いに身を捧げると、それは確かに美点である。けれどそんな美点一つで、覆せる程に少年の汚点は少なくないのだ。

 

 

「もう一度だけ言ってやる。そろそろ死んどけ、悪魔の玩具」

 

 

 故に、加減などはない。躊躇いなどがある筈ない。両面悪鬼はその手に握った、黒く輝く大筒に火を灯す。火縄の銃とは思えぬ程の、激しい音が轟き響いた。

 鬼の火縄は、戦艦の主砲にも勝る物。その銃弾はたった一発で、大山を崩してしまう異端の力。異能が無ければ防げずに、だがこの世界で異能は使えない。故にこそ必殺と、そう語るのも生温いその力。

 

 相手には一切の反則を許さず、しかし己はあらゆる反則を一方的に行使する。それこそが、天魔・宿儺の無間・身洋受苦処地獄。

 あらゆる異能が自壊する世界において、山をも崩す力に耐える術などない。故に必然、結果は余りに明白だ。この一撃に、エリオ・モンディアルは対処出来ない。

 

 立ち上がることすらやっとの少年は、その身を大砲に撃ち抜かれる。まるで風に吹かれた塵屑の如く、二転三転しながら無様に吹き飛んでいく。

 そうして、激突。地下室の強固な作りをした壁を突き抜けて、崩れる残骸の中に倒れる。確実に致命と思える程の血で大地を染めて、それでも少年はその原型を保っていた。

 

 

「……へぇ」

 

 

 其処で初めて、宿儺は笑みの質を変える。確実に殺し尽くすと言う意志を以って放った弾丸は、しかし致命傷で止まっていたのだ。

 彼の読み通りでならば、即死している筈だった。けれど現実は棺桶に半身が入った程度、エリオ・モンディアルは呼吸を続けている。その理由は唯一つ、彼は躱そうと動いていたのだ。

 

 そう望んだから、そう成ると。それ程に、この地獄(ゲンジツ)は優しくない。だからこそ、エリオは躱せず、大きな被害をその身に受けた。

 それでも躱そうと思ったことは無意味じゃない。必死に自身を構築する魂に指示を送って、無理矢理にでも後ろに跳んだ。その行為は確かに、僅かであっても被害の軽減に繋がっていた。

 

 

「僕は、ま、だ」

 

 

 滂沱の如く、止まらぬ流血。幾つの骨が折れて、幾つの臓器が潰れたか。常人ならば命はないだろうと、そう断言出来る程の重症。

 それでも、魔人の身体だ。常人よりは、強く出来ている。例えその特性が自壊しようと、唯の人に戻されようと、まだ死なない道はある。

 

 

「死ね、ない。死んで、堪る、か……」

 

 

 この鬼に勝てば良い。この地獄を超えれば良い。異能が戻ればまだ生きていられる。常人ならば瀕死となる重傷でさえ、エリオにとってはその程度のこと。

 ならば、今に為すべきは即死だけを避けること。どれ程に傷付こうとも、この両面悪鬼を倒すこと。血反吐と共に叫び立ち上がる少年は、勝利を求める意志を瞳に宿していた。

 

 

「死ねない。死ねない。死ねない、ねぇ」

 

 

 槍を杖の様に突き、震える足で立ち上がる。身体を動かす度に吐血して、今にも死にそうな程に青褪めて、それでも瞳だけは爛々と。

 強く睨み付ける少年の姿を見詰めて、天魔・宿儺は素直に受け入れる。この一撃で殺し切れると断じていたからこそ、己の見立てが誤っていたと嗤って認めた。

 

 

「いいさ。認めてやるよ。俺が見誤っていた。なら、そうだな。もう一度、テメェにチャンスを与えてやる」

 

 

 何か一つの要素がズレれば、全体としてもズレが出るもの。ほんの僅かな見立て違いに過ぎないが、其処には何かがあるのかもしれない。

 故にもう一度、この少年を計るとしよう。頭ごなしに無価値と断じるのではなく、面と向かって相対した状況から底を暴いて、その本質を採点する。

 

 そうとも、天魔・宿儺は見定める者。この時代において、自滅因子としての彼が選んだのは、次なる世界に至る為に必要な者を見付けること。

 想定外が起きたのならば、その都度何度でも計り直そう。那由他であろうと繰り返す。見付けるまでは諦めない。それが、彼の裏面(ダチ)としての義務である。

 

 

「神座問答ってよ。ま、軽い禅問答みてぇなもんだ。俺が納得する様な答えを出せりゃ、お前のことも認めてやるさ」

 

 

 故に嗤う悪鬼は見定める。千鳥の歩く様に、赤い体液を流しながら、向かって来るエリオを見詰めて計る。彼が次に相応しいか否か。

 だが、忘れるな。天魔・宿儺の遊びは苛烈だ。彼の秤は唯でさえ、常人には余りに重く厳しいもの。ましてや、エリオは既に落第している。故にもう一度があったとしても、求められるハードルは更にと跳ね上がってしまうのだ。

 

 

「最も――先ず、コイツから生き残れたらの話だがなぁッ!!」

 

 

 両面悪鬼の背中から、二本の腕が出現する。男の筋肉質な腕と、女の柔らかな腕。合わせて四腕の指先には、馬上筒の引き金が既に握られている。

 一撃で死ぬ筈だったが、一撃では死ななかった。ならば次は、即死する威力を四倍で。絶対に助からないと言う状況を生み出してみるとしよう。鬼は嗤って、その指先を強く引く。

 

 轟音が連続して、山さえ砕く砲火が景色を変える。真面に歩くことすら出来ない少年では、何の異能も使えない少年では、躱すことも耐えることも不可能な状況。

 さあどうなると嗤う宿儺の眼前で、エリオ・モンディアルは歯を食い縛る。動かぬ足を無理矢理動かし、彼は僅かに跳躍する。躱すことも耐えることも不可能ならば、答えは決まっている。

 

 今の自分では躱せない。ならば辛うじて、躱せる程に強くなれば良い。今の自分では防げない。ならば辛うじて、防げる程に強くなれば良い。

 出来ないなんて、答えはない。エリオは未だ、己の肉体すら十全に使えていない。その状態で四度は死ぬと言うのだから、その身が十全に近付けば死の回数は減らせるのだ。

 

 

「お、ォォォォォォッッ!!」

 

 

 雄叫びを上げて、動いたエリオの身体が襤褸屑の様に吹き飛び崩れ落ちる。開いた傷から臓器が零れて、千切れた肉片が飛び散り残った。

 されど、少年は未だ死んでいない。辛うじて。本当に辛うじてという領域で、墓穴に指一本を残している。死んでいないだけと言う有様で、ああそれでも確かに死んではいなかったのだ。

 

 

「ま、だ、だぁぁぁぁぁぁッ!」

 

 

 どころか、彼は立とうとしていた。千切れて零れ落ちた腸を必死に傷口から中にしまって、それで立てるのだと己に言い聞かせる様に咆哮する。

 そんな姿に、天魔・宿儺は思う。余りに無様な形だが、それでもこの少年には何かがあると。その望みを果たせる様な、何かが本当にあるのかも知れないと。

 

 けれど、それを信じられない理由もまた、確かに其処には存在していた。

 

 

「……言っただろうが、テメェは死んだ方が良い。俺も、黒甲冑も、あの死に損ないの女も――――そして、夜刀(アイツ)もそう感じている」

 

 

 天眼によって少年の底を暴きながら、口にするのはある種の慈悲だ。この少年の進む果てにあるモノなど、碌でもない幕引き以外にない。

 こうして見詰めて、宿儺は断じる。その視点を介して、“彼”も確かにそう想っている。至れるかも知れないからこそ、エリオ・モンディアルは不幸であるのだ。

 

 辛い道のりが待っている。過酷に過ぎる先しかない。そしてその道を乗り越えた先にあるのが身の破滅では、余りに誰もが救われない。

 

 

「テメェは余りに、自己への嫌悪が過ぎている。それじゃぁ何も生み出せねぇんだよ。無価値の悪魔(エリオ・モンディアル)

 

 

 少年は犠牲者だ。誰が何と言おうと、その一点は変わらない。未来を求める人々の手によって、貶められた被害者なのだ。それに何も思わないと言う程、彼らは冷徹と言う訳ではない。

 けれど彼は加害者となった。命じられるがままに奪うだけではなく、自らの意志で奪う様に変わってしまった。そんなエリオ・モンディアルを誰よりも許せないのは、他でもない彼自身。

 

 その人生に哀れみを。可哀想だと、思わないこともない。そう成ってしまったのは、ある意味仕方がないことである。

 その在り方に憤りを。超越者の傀儡と言うその立場に、過去の己を重ねてしまうのは無理もないこと。視ているだけで、苛立ってくる無様である。

 

 それでも、覇道の神を目指すのならば話は別だ。そんな諸々の感情など全て関係なしに、その世界の流出は許せない。

 致命的な欠陥が、彼の宙には存在している。余りに過ぎた自己嫌悪を、誰もが己に抱く世界。それは自己愛に満ちた世とは真逆であって、しかし同じ結果に至る法となる。

 

 そんな世界には結局のところ、真実の愛など存在しない。果ては自己嫌悪が極まって、誰も彼もが自死する悍ましき地獄と成ろう。

 

 

「流れ出せば、波旬とは真逆で同種の破滅が待ってる。……だけどな、今のテメェはそれ以前」

 

 

 四つの火縄を投げ捨てて、天魔・宿儺は拳を握る。詰まらぬ鉛の玉よりも、想いを示すならば拳の方が都合が良い。

 ゆっくりと近付く少年の間合いへと、立ち入って拳を振るう。付き出された右手はエリオの顔を打ち抜いて、大地に向かって叩き伏せた。

 

 

「その中途半端で、他人を舐めたふざけた態度! それを続ける限り、流れ出すなんざ出来る訳ねぇだろうがよォォォォッッ!!」

 

 

 至れば必ず、碌でもない世界に至る。だがそれ以前に、そんな状態で至れる筈がない。いいや、至れるのだとしても、この己が至らせない。

 やはり結論は変わらない。神の瞳で直視して、その内面を底まで暴いて、出した答えは変わらないのだ。エリオ・モンディアルは、此処で死んだ方が良い。

 

 異論があるなら、言って見せろ。見下す鬼を見上げて、少年は咳き込む。絶え間なく流れる命の色は、既にして死んでいなくてはおかしい程に。

 

 

「だ、けど――」

 

 

 ならば何故、彼はまだ死んでいないのか。それは彼本人にも分からないこと。

 

 エリオ・モンディアルの肉体は、科学的にも強化されたモノである。その機械的な部位が、身洋受苦処地獄が齎す自壊から逃れる一助となっているのか。

 此処は黄金の領地と化したミッドチルダの大地である。如何に宿儺であっても、天魔であれば劣化する。或いはその強制力の低減が、完全な自壊を不可能としているのか。

 

 可能性は数多にあるが、事実として此処にあるのは唯一つ。エリオ・モンディアルはまだ生きていて、また立ち上がろうとしていること。

 そして生きていられる理由は不明であっても、立ち上がる理由ならば明確だ。何もない彼が持つたった一つが、生きている限り、彼の身体を突き動かす。

 

 

「あの子の、未来が、欲しいんだ」

 

 

 立ち上がった少年は、望んだ場所を目指して歩き出す。欲しいモノが、其処にあるから。

 

 

「あの子は、幸福で、あるべきなんだ」

 

 

 拳を握る。一歩を踏み込む。死に瀕した身体であっても、その為ならば戦える。其処に至るまでは決して、エリオ・モンディアルは止まらない。されど――

 

 

「誰も、それを、作れないと言うなら――――僕がッッ!!」

 

「だから、それが舐めてるって言ってんだァァァァァッ!!」

 

 

 瀕死の彼が繰り出した拳は、容易く防がれ返される。揺らいだその身に突き刺さるのは、怒りの籠った否定の拳。

 僅か残った内臓が、音を立てて押し潰される。無数の骨が圧し折れて、また崩れ落ちる。そんなエリオを引き摺り起こして、罵倒と共に蹴り飛ばす。

 

 

「自分以外は至れねぇだぁ? 人間未満のクソガキが、この俺を安く見てんじゃねぇッ!」

 

 

 砲撃よりも重い一撃。それが示すのは、エリオの思い上がりに対する怒りである。

 己以外は至れないのだと、彼は誰も彼もを下に見ている。そんな思考もまた、宿儺が嫌う要素であった。

 

 

「可能性を、見付けてみせるさ。至れる奴を、育ててみせる。例え那由他の果てにも無くとも、永劫だって続けてやる。何かが少し足りない程度で、この俺が諦めると思ってんのかふざけんな!!」

 

 

 誰も彼も舐めるなと。この身は神の裏面だ。永遠に刹那を守ろうとして、今も馬鹿を続けている男の反対なのだ。

 そんな悪鬼がどうして、何か一つ欠けたからと諦めるのか。分が悪くなったとそれだけで、投げ出すとでも思っているのか。

 

 何をしてでも、至ってみせる。その覚悟は、決して安いものではない。真実、彼は何を為そうとも、必ず至ると決めていたのだ。

 

 

「テメェは他人を舐めている! 自分に出来ないことは人にも出来ないと、下らねぇガキの万能感! 結局、テメェの世界は狭いんだよッ! 何か反論出来ることがあるなら、言ってみせろやクソガキがァァァァァッッ!!」

 

 

 そんな宿儺の覚悟を、この少年は安い形で否定した。口にした言葉は重くとも、その言葉を導き出した脳は軽い。それが何より腹立たしい。

 この少年は実年齢の通り、余りに幼く、世を知らない。人生経験が足りぬのだ。そんな小さなガキが身勝手な万能感に酔って、口にした思い上がりがそれなのだと宿儺は詰る。

 

 そうとも、誰も至れないのならと。自己を嫌悪している少年が、他者を自己以下だと認識している。それこそが他でもない、エリオ・モンディアルの陥穽だ。

 

 

「断言してやる、エリオ・モンディアル。その祈り(そいつ)はテメェの思い上がりだ」

 

 

 確かに、戦闘力と言う点で、エリオ・モンディアルは他者より上だ。彼を超える存在など、そう多くはいないだろう。

 事実として、エリオ・モンディアルは多くの人間よりも強い。そして彼の思考はやはり、弱肉強食に依ったモノ。だからこそ、神になってはいけないのだ。

 

 自分を無価値だと。ならば自分以下の者らは全てが、無価値以下の負数となる。愛を注ぐ特別以外はそうなる世界など、一体誰が望んで求めて喜ぶものか。

 

 

「それしかねぇなら、もう死んどけ。その方が、誰にとっても都合が良い」

 

 

 故にこそ、エリオ・モンディアルは死んだ方が良いのである。再度そう結論付けて、宿儺は拳を振り下ろす。ぐちゃりと、嫌な音が響いた。

 

 

 

 

 

2.

 過去を振り返る。在りし日々を想う。彼の道は、奈落の底から始まった。凄惨な光景こそが、エリオ・モンディアルの原風景。

 物心付いたのは、父母を殺したその瞬間。己を喰らったその一瞬。彼は絶望の慟哭と言う形で産声を上げて、多くの命を奪って来た。

 

 プロジェクトF。記憶を複製したクローン。書き写された虚構の情報が、己の所業を分からせる。オリジナルが学んでいた善悪観が、自己嫌悪の土壌を育んだ。

 奪ったのだから、確かな価値を。誰かに示せる、確かな何かを。望んで求めて祈り続けて、けれど何も得られなかった。全ては無為と示されて、彼は奈落の底へと堕ちた。

 

 其処で出逢った、優しい光。それにどれ程癒されようと、出された結果は変わらない。今も彼は心の何処かで、ずっとそれを引き摺っている。

 無意味で居たくはなかったけれど、無価値以外には成れなかった。望めば何処にでも行けると強がって、果てに辿り着いたのはこんな場所。

 

 死に瀕した身体で、真面に動くことも出来ぬ無様で、唯一他者に秀でると確信出来た力も無くした。

 そうして、流れ着いた場所。此処は積み重ねた全てが自壊してしまった、身洋受苦処(ゲンジツ)と言う名の地獄であった。

 

 

(強いな、アイツは)

 

 

 血に霞む視界に映る怪物。天魔・宿儺と言う存在は、間違いなくこの世界の頂点が一つ。エリオが知る限りにおいて、最強の一つと断言出来る存在だ。

 ありとあらゆる神秘を許さず、だが己だけは神威を躊躇いなく振るう。そんな反則を前にして、確かに感じる敗北感。自分よりも強いのだと、それを確かに理解する。

 

 そんな怪物が、見付け出してみせると言った。自分よりも強い怪物が、見付け出してみせると言ったのだ。それが意味する事とは何か。それは実に単純な話。

 エリオより優れているのだから、彼より良い結果を生み出せる。エリオ・モンディアルが何もしなくても、世界は勝手に救われる。キャロ・グランガイツは、幸福になれるのだと。

 

 

(僕は、不要か。僕こそが、結局、無価値か)

 

 

 ならばその道を阻む悪魔の存在に意味はない。より良い結果を生み出す存在が居るのなら、諦め身を退く事こそ正当解。彼女を真に想うのならば、今直ぐにでも死ぬべきだ。

 それしかないなら死んでおけと、そう語る意味を漸くに理解する。それが一番良いのだと、言われた理由を理解する。例え大切な宝石を見付けても、エリオ自身は無価値であった。

 

 

(無価値な僕が、居なくても、彼女が幸せに、笑えるのなら――)

 

 

 だから死のう。だから終わろう。もう既に身体は死に瀕していて、この場で意識を失えば、それだけで己はもう終われる。

 何時かの日には、きっと彼女も救われる。己より強い偽神が残るなら、きっと彼女は助かるだろう。だから、無駄な努力はもう止めよう。無意味な命をもう終わろう。

 

 エリオ・モンディアルは、そう決めて――

 

 

(……ああ、そうか。彼女は、笑えるのか。僕なんかが、居なくても)

 

 

 彼はそれに気付いてしまった。

 

 

「クク、クハハ――」

 

 

 自嘲が零れた。まるでダムが決壊する様に、耐えられない程の笑みが溢れる。笑うだけで悶絶する程、激痛の中でも止まらない。

 たった今、思ったこと。紛れもないその事実を前に、エリオ・モンディアルは不快を抱いた。耐えられない程に苦しいのだと、そう思った自分が滑稽過ぎる。

 

 これは愛だと想っていた。これこそが愛だと想っていた。ああ、けれど、愛情とはこんなにも薄汚くて見苦しい物であったのだろうか。

 いいや、そんな筈がない。ならばきっと、違ったのだろう。これは真実他者への愛などではなくて、彼女の傍が居心地が良いからと言う自己への愛情だったのだ。

 

 

「アハハ、ハハハ、アハハハハハハ――ッッ!!」

 

 

 血反吐を吐きながらに嗤う。耐え切れないと、血に染まった涙を流す。そんな彼が気付いた事実は、自分である必要なんてなかったと言うだけのこと。

 彼女を守る者が、自分である必要はなかった。彼女が笑い掛ける相手が、自分である必要はなかった。彼女に寄り添う相手が、自分であって良い理由なんてなかった。

 

 唯それだけで、壊れてしまいそうになる。それ程の弱さが彼にはあって、それに気付いた瞬間に、彼は不快を抱いたのだ。

 真実彼女を想うのならば、身を退けば良いと言うのに。エリオはそれが出来ないと想ってしまった。許せないと、そう抱いた自分が許せない。それでも彼は、本当の願いに気付いてしまった。

 

 

「気でも触れたか、クソガキが」

 

「いや、大したことじゃない。ただ、そうだね。君の言葉を認めただけだよ。……僕はもう、ずっと昔に死んでおくべきだった。こんな汚物、あるべきじゃなかったんだ」

 

 

 爆発する様に、その魂が強く輝く。自壊の世界においても、僅か一片ならば奇跡を行使出来る程。全身の痛みに耐えながら、歪んだ悪魔は立ち上がる。

 本当の願いに気付いたから、もう己を誤魔化すのは御仕舞いだ。そうと決めた瞬間に、その魂には軸が生まれた。それを起点に、体内にある犠牲者達を従わせて、淀んだ魔力を迸らせる。

 

 血肉を癒す程の、奇跡は起こせない。それはこの無間地獄に囚われる限り、どれ程に成長しようと不可能に等しいことであろう。

 故に求めたのは、失われた体内機能の代替だ。溢れんばかりの暗い魔力は、引き千切られた神経や喪失した臓器の代わりに、エリオ・モンディアルと言う存在を此処に活かす。

 

 

「キャロが助かると分かったのに、胸には不快感しかないんだ。僕が守りたいんだと、この無価値な塵が思い上がっていたんだよ。それに気付いて、なら嗤うしかないだろう。お前も嗤えよ、天魔・宿儺」

 

「……センスが悪い。んなもんじゃ、嗤えねぇよ。そもそも、テメェはまだ履き違えて――」

 

「まぁ、所詮はどうでも良い、無価値なことさ。……重要なのは、僕が気付いた一つの真実。余りに下らない、畜生にも劣る我欲に満ちた醜悪さ。それが下した結論だ」

 

 

 無数の色が混ざって、濁った黒い魔力。何の奇跡も起こせない力を纏いながら、自嘲するエリオ。それでも揺るがぬその瞳は、譲れぬ一つを此処に示す。

 そうとも、彼は愛しい人に幸福な一生を過ごして欲しいと祈っていたのではなかった。愛しい人を己の手で守りたいのだと、そう願い続けていた。結局、無価値な自分に相応しい、薄汚い我欲であったのだ。

 

 だからこそ、不快に感じた。他の誰かで十分なのだと、その事実に憤った。僕の価値(ヤクメ)を奪うなと、そう己の心が叫んでいた。

 それを少年は、無様と嗤い蔑み憎む。それでも、彼はそうとしか生きられない。そんな無価値な悪魔の姿に、見下ろす瞳は憐憫の色。宿儺は忌々しいと舌打ちしながら、その少年を哀れと想う。

 

 

(ちっ、馬鹿野郎が……)

 

 

 口にしても届かない。指摘してやる程の義理もない。ああそれでも、その姿に哀れみ程度は抱いてしまう。

 少年は余りに無知だった。彼の想いは確かに愛とは言えないだろう。そう呼ぶには利己的で、そう語るには醜悪で、そう誇るには歪んでいる。

 

 それでも、それは愛ではなかったが、恋と呼べる感情ではあったのだ。自己愛ではなく恋慕の情で、卑下するべき物では決してないと。

 恋しているから、愛されたい。それはある種平凡で、誰もが共感出来る類の感情だろう。だが自己嫌悪に浸る少年は、それに決して気付けない。気付こうともしないのだ。

 

 醜悪な欲求に過ぎないと、幼い自身の初恋を詰る。そんな無知な子どもを憐れまず、一体何を想えと言うのか。

 

 

「僕は、僕以外が、彼女を救う景色を許容できない。そうさ。邪魔なんだよ、お前達」

 

 

 苦虫を噛み潰した様に、見下ろす宿儺の前に立つ。迸る漆黒の魔力は身体から離れた瞬間に霧散するが、それでもその役は果たしている。

 エリオ・モンディアルはまだ戦える。己を醜悪だと認めた少年は、此処で我欲を通すと決めた。何より無価値と捉える欲望を、彼は捨て去ることが出来なかった。

 

 故に、これより求めるのは一つ。己の我欲がままに、愛しい少女の世界を作る。他でもないエリオ・モンディアルこそが、望んで未来を切り開くのだ。

 その為にも、彼らは邪魔だ。自分以外に世界を救えてしまう者など不要だ。愛しい少女を救える者は、自分一人居れば良い。醜悪な言葉と共に、エリオは声を荒げて叫びを上げた。

 

 

「お前も、御門も、未来を願う奴らは皆、邪魔だッ! あの娘の未来に、僕が生み出す救済以外、必要ないッッッ!!」

 

 

 全てを無価値に変えてやろう。大地を蹴って進むエリオの姿に、天魔・宿儺は舌打ちをして構えを取る。

 

 まるで夜風を思わせる、怖気を催す異常な動き。鎌首を上げた蛇の如く、下から襲い来る魔槍の一撃を円の動作で流して躱す。

 舞う蝶を彷彿とさせる優美な動きで、一切無駄ない反撃を。振り下ろされる拳に打たれて、地面に叩き付けられる。それでも其処で立ち止まらずに、片手を軸に前へと跳んだ。

 

 

「はっ、テメェ一人で世界を救う? 俺らが全員、邪魔だから蹴散らす? 悪魔の玩具が吠えるじゃねぇの」

 

 

 烈火の如きエリオの攻勢に、合わす宿儺は流水の如く。捉えどころのない柔の極みが、鋭く重い破壊の嵐を制し続ける。

 それも当然、エリオ・モンディアルは漸くに同じ土俵に立てただけ。無間地獄は今も健在。性能面を比べるだけでも、宿儺は遥か上を行く。

 

 剛と柔。違いはあれど、その技巧はほぼ同等。二十七万人分と言う膨大に過ぎる経験値は、天賦の才を持つ少年を天魔の領域へと届かせている。

 ならば何が足りないか。一つに肉体の性能だ。宿儺の身体能力は鬼のそれ。人では足元にも及ばない程に、余りにも桁違いとしか言えない性能値。

 対してエリオは、瀕死の重傷。今も自壊の法に縛られて、肉体の強化さえも行えない。これではそもそも話にならない。戦いとなる以前の話としか言えぬであろう。

 

 

「テメェじゃ無理だ。新たな世界は作れねぇし、そもそも俺に勝てる訳がねぇッ!」

 

 

 そして、それだけでもない。技巧の質は同等域であれ、その反応に差が生じている。それはエリオが群体故に、避けられない欠点だった。

 彼は無数の魂の欠片を集めて、一人分の肉体を漸くに動かしている。自分の身体を動かす為に、己を構成する他者の魂を支配して、その都度指示を出す必要が生じているのだ。

 

 格下を相手にするのならば兎も角、対等か或いは格上か、この鬼を相手取るのにその一瞬のラグは命取りだ。余りにも明白な隙となって、少年の足を引いている。

 故に、エリオ・モンディアルでは勝てはしない。幾度斬り込もうとも、どれ程苛烈に責め立てようとも、その全てを封殺される。先と全く同じ様に、何度も何度も地を舐めた。

 

 

「俺に勝てるのは、人間だけだ。俺に勝って良いのは、人間だけしかいねぇのよ!」

 

「ぐ――っ!?」

 

 

 流されて、躱されて、打倒される。血を吐いて、地を舐めて、無様に転がり崩れ落ちる。

 けれど、その度に立ち上がる。何度でも、立ち上がる。それしか知らぬと言うかの如く、愚直なまでに前へ行く。

 

 そうするしかないのだ。どれ程に追い詰められようと、前に進むしかないのだ。望んだ未来は、その先にしかないと知っている。

 気付いてしまったのだ。どれ程に悍ましいと卑下しようと、己には許容できないと気付いてしまった。望んだ未来を、自分の手で掴みたいのだ。

 

 だから――

 

 

「まだだッ!」

 

 

 何度だって、そう口にする。何度だって、立ち上がる。歪んでしまった執念で、心に決めた想いを通す。

 最期に破滅が待っていようと、その瞬間までは真っ直ぐ進む。血反吐と共に雄叫びを上げて、エリオは一歩を踏み込んだ。

 

 

「お呼びじゃねぇのさ、人間未満ッ!」

 

 

 だが、やはり届かない。勝ち目なんてない。勝てる理屈なんてない。人でない限りは倒せない鬼を前にして、無価値でしかない悪魔が勝る要因などは何もない。

 

 

「……それが、どうした。僕はもう、決めたんだ。だから――ッ!」

 

 

 だからどうした。今勝てないなら、勝てる様になれば良い。必死に食い下がって、勝てる自分に成れば良いのだ。

 この世界に、悪魔は居ない。奈落との繋がりは断たれている。既に産みの親である狂人も、もう世界のどこにもいない。されど、エリオ・モンディアルは生きている。

 

 そうとも、彼はもう自由である。エリオ・モンディアルは、誰にも縛られてなどいないのだから――

 

 

「足りないならば、手に入れる。人間でしか勝てないって言うのなら、今此処で、その人間にだって成ってやるッ!」

 

「はっ、大きく出たなァッ! その言葉の重さが分かってんのか、クソガキがァァァァァッッ!!」

 

 

 望めば、何にだって成れる筈だ。強がる様に、縋る様に、その言葉を口にする。成ってみせると、己の弱さを欺き、強く強く信じて進む。

 対する言葉は、抑え切れない激情が籠ったもの。誰よりもそう成ることに憧れて来た男だからこそ、安易に口にされる言葉を許せないのだ。

 

 

「そうさ。真面目に生きたかった。唯の人間で十分だった。神様気取りの演出家共も、神様に縋るしか能がねぇ連中も、どいつもこいつも気に入らなかったッ!」

 

 

 人でなしが、人に成る。それは簡単なことではない。何にだって成れるのだとしても、何かに成るのはとても難しいことなのだ。

 結局、遊佐司狼は成れないまま、この最果てにまで来てしまった。水銀の演者で、夜刀の癌細胞で、観測者の傀儡。どれもこれも気に入らないのに、自分はアイツの友人なだけで十分なのに、それ以外には成れなかった。

 

 

「だからこそ、焦がれちまうんだよ。狂おしい程に求めちまう。この今になっても――――俺もそう成りたいってよッ!!」

 

 

 目の前に居る少年は、或いは過去の自分であろうか。同じく傀儡として生まれ育って、求められた役割から抜け出そうと足掻いている。

 そんな彼が、迷う姿に腹が立つ。中途半端を続ける姿に、頭を怒りが満たしていく。まるで自分の黒歴史を見せられているかの様で、兎に角コイツは気に入らないのだ。

 

 だから、振るう拳にも熱が籠る。叩き付ける一撃が血肉を押し潰して、少年を地面に縫い留める。覚悟もなく口にするなと、怒声と共にその身体を殴り続けた。

 

 

「分かるか。人間未満。分かるよなァ、俺もお前も、同じ様なモンなんだからよォォォォッッ!!」

 

「勝手に、同じにするなッ!!」

 

 

 何度も倒され、何度も膝を折りながら、それでもその度に立ち上がる。諦めないと言う意志だけで、喰らい付く少年はただ吠えた。

 一緒にするなと、己は過去のお前ではないのだと。そうとも、軽い気持ちで強い言葉を口にしたのではない。必ず成すと心に誓って、覚悟を伴う言葉であるのだ。

 

 故に――

 

 

「僕は、お前達の様に、負けはしないッ! この僕が、あの娘の未来を、作り上げるッ! だから――ッ!!」

 

 

 今、この瞬間に変わってみせよう。突き進み続けた少年は、地獄の底で奇跡を起こした。

 

 

「僕に従う、お前達ッ! その全てを、僕に寄越せ――ッ!!」

 

 

 黒き魔力の輝きが、より一層に強くなる。だが、それも一瞬。急激に光量は落ちていき、エリオの表情が苦痛に歪む。

 一体何をしているのか。天眼を用いて確かに見抜く。エリオの内包していた膨大な量の魂が、加速度的に減少していた。

 

 

「統率――いや、テメェッ!? 喰い殺してやがんのかッ!!」

 

 

 魂の量が減ってはいても、全体としての質は下がってなどいない。その事実を前にして、宿儺は即座に解へと至る。

 エリオ・モンディアルは、支配下に置いた魂の欠片を、本当の意味で己に取り込んでいる。二十七万のリンカーコアを、己の魂で染め上げようとしていたのだ。

 

 

「一つの肉体に、一つの魂。それが、人間って、奴だろう」

 

 

 人に成ってみせると決めた。その為にも、人ではない要素を潰していく。人間は群体ではなく個体だから、此処で先ず唯一無二の自分と成る。

 強い意志で制御してはいても、結局は他人であった欠片達。それを自身の魂の色で染め上げて、内に取り込み同化する。彼と我が一つになって、真なる我へと至らんとする。

 

 出来ない筈はない。そうとも、出来ないなんて理屈は要らない。自由となった少年は、何処へだって行けるし、何にだって成れるのだから。

 

 

「二十七万も魂があるから、僕は僕に成れてなかった。だから、今此処で――」

 

 

 無数の色が混ざり合って、溝の様な汚い黒さを見せていたその魔力光。其処から色が、一つ一つと抜けていく。

 その魂が純化される。それを確かと示すのは、黄色く輝くその光。エリオ・モンディアルが本来持っていた筈の、彼自身を表す魂の色(マリョクコウ)

 

 だが、直ぐに変われる訳ではない。何の反動もない訳でもない。内に取り込むリンカーコアとは、彼の所為で命を落とした犠牲者達の断片なのだ。

 取り込む度に、その記憶が流れ込む。自分と相手が境がない程、明白な過去を追体験する。老若男女問わない犠牲者達が、全て自分だった様に思えてくる。果たして我は誰であったのか、一つを取り込む度に己の自我が染まっていった。

 

 

(ああ、不快だ。気持ちが悪い。他人の魂が、流れ込んでくる。僕が僕でなくなっていく。それでも――)

 

 

 嘗てエリオは、これが理由となって壊れた。あの頃にあった自我では、無数に流れ込む他者の想いに耐えられなかった。

 けれど、今は違う。あの日と同じ結果では、決して終わらないと胸に誓った。例え無価値な怪物でも、成し遂げたいことがあったから。

 

 少しずつ、一つ一つ、咀嚼する様に変わっていく。その輝きの変化を前に、天魔・宿儺は動かない。今ならば、殺せるだろうに。それでも、彼はその行動を選ばない。

 いいや、動かないのではなくて、動けなかったのだろう。何故なのかと問えば、きっとそれは見たかったから。過去の己と同一視していた少年の、その果てを見届けたかった。

 

 

「――僕は、たった一人の自分に成るッ!」

 

 

 そうして、エリオ・モンディアルは二十七万と言う魂を取り込み、たった一人の自分となった。

 それだけの質を有した強大なる魂へと。自己の肉体を自分だけの魂で、支えられる様になったのだ。

 

 最早その身は、悪魔の傀儡とは言えないだろう。彼は既に、確かな一つの生命(イノチ)であった。

 

 

「……形だけ真似て、それで人間だって、名乗る気かよ」

 

「ああ、そうだよ。君に何と言われようと、今の僕は“人間”だ」

 

「…………」

 

 

 少年の変化を前にして、口にした軽口には常の鋭さなどは欠片もない。

 他の誰が見ても、ああそうかで流せる変化。だが天魔・宿儺にだけは、それだけで終わらせることは出来ない変化。

 

 人に成りたいと願い続けた鬼にとって、今も目の前で立っているエリオの姿は猛毒だ。

 己の過去の焼き写しに見えていた少年が、遂に全ての存在から解き放たれた瞬間。それに衝撃を受けない理由が、一体何処にあると言う。

 

 

「続けるぞ、天魔・宿儺ッ! 今度は、同じと想うなァッ!!」

 

「ち――っ!!」

 

 

 エリオが一歩を踏み込み飛び出す。その身体が纏っていた黄色の輝きは、しかし既に欠片もない。

 彼は全ての魔力を掻き消して、揺るがぬ意志で痛みに耐えて、無理矢理に動かした脚力だけで跳び出した。

 

 

「オォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 何故にそうしたのかと言えば、特に理由があった訳ではない。ましてや、天魔・宿儺の弱点を知っていた訳でもない。

 ただ、人に成ると語ったのだ。人に成ったと、語ったのだ。だから最初の一撃だけは、本当に唯の人間として。この鬼に示したかった。

 

 そんなエリオの動きは遅い。それも当然、どれ程に誤魔化そうとも彼は既に死に体だ。

 立って歩くのですら、如何なる奇跡の産物かと言う程のその有様。それで魔力の補助もなく駆け出して、早く動ける筈がない。

 

 

「――――ッ!!」

 

 

 だが、だからこそ、と言うべきであろうか。その著しく落ちた速度差に、天魔・宿儺の動きが淀む。

 余りにも想定外だったのは、鬼の方がより遅かったという事実。彼の地獄が、彼の身体を縛っていた。

 

 

(認めてんのか、この世界(オレ)が――!?)

 

 

 あり得ないと思考して、あってはならないと感じていて、それでも現実に起きている事象は変わらない。

 人間と認めた相手と相対した時、その相手に合わせて己を劣化させる。その渇望が故にある陥穽が、此処で牙を剥いていた。

 

 何故と、どうしてと、困惑する思考が纏まらない。そんな隙は一瞬に過ぎずとも、それで十分致命傷。迫るストラーダの刃が、宿儺の身体を貫いていた。

 

 

(ああ、そうか。こんなにも頭に来てんのに、コイツを認めちまったのは、俺の出来なかったことをやりやがったからか……)

 

 

 人と化した身体から、急激に血が抜けていく。そうして物理的に冷静となって、漸くに纏まる思考で考え至る。

 どんなに頭で否定しようと、己の心は偽れない。それが渇望と言うもので、宿儺の願いは怒りと憧憬から生じた物だ。

 

 身勝手な神など許さない。真面目に生きている人間は素晴らしい。己も彼らの様に、真面目に生きてみたいのだと。

 憤怒と憧憬。その内の二つを、エリオは自然と満たしていた。どれ程に否定しようとも、過去の自分によく似た彼の変化に、宿儺は羨ましいと想ってしまったのだ。

 

 

「……はっ、マジで嗤えて来る。玉付いてんのかよって、無様にも程があんだろが」

 

 

 羨ましいから、同じ様になりたいと、それこそが彼の持つ弱点。そう想ってしまっていたことに、怒り故に気付けなかった。それこそが、この戦いの結果を決めた。

 身を貫いた異形の魔槍は、この異界故に特殊な力を持ちはしない。それでも、唯の鋼鉄であっても、人一人を殺すには十分過ぎる。最早、天魔・宿儺の終わりは決まった。

 

 それが余りに無様な形で、自嘲が止まらない程に情けないのは、或いは長く生き続けて来たが故の自滅衝動か何かであろうか。

 如何に理由を付けたとしても、己の無様は変わらない。そうと理解した遊佐司狼は、苦笑しながら確かに認める。己に刃を突き刺した、少年の目を見て言葉を語った。

 

 

「いいぜ、認めてやるよ。お前は確かに、“人間”だ」

 

 

 そうと認めた瞬間に、自壊の法が強くなる。より強く縛られて、重くなる自身の身体に苦笑を零す。

 認めなければ、相打ち程度は狙えただろうか。いいや逆転だって出来た筈。一瞬そう想ってしまうが、その思考を直ぐに掻き消す。だってそれは、余りに格好悪いから。

 

 重みを増して、崩れていく己の身体。滅び行く自己を確かに認めて、遊佐司狼は前を見る。エリオ・モンディアルの瞳を至近で見詰めて、彼は己の拳を握った。

 

 

「だが、まだ足りねぇよッ! テメェは確かに人間だが、死にたがりを認めてやる程、俺も安くはねぇんだよッ!!」

 

「――――ッ!!」

 

 

 疲弊し切ったその顔に、握った拳を叩き込む。ニィと悪童の如くに嗤う両面が、最期に打ち込んだのは自身の勝利を求める為の布石が一つ――――ではない。

 

 

――人生は短い。エンディングが来る前に、選択肢の総当たりをやらせてくれ。この一本道、絶対どこかに別ルートがあるはずだ。オレはそれを探したい。結果がたとえ、バッドエンド一直線でも――

 

 

 攻撃を受けたと認識した直後、痛みと共に視界が変わる。瞳に映るのは、見たこともない学校の屋上。

 誰だか分からない男と二人、全力で殴り合っている。その余りに現実味溢れた感覚に、慣れたエリオは直ぐに答えを導き出す。

 

 誰かの視線を借りて、その誰かの過去を追体験している。何の意図があるのかは知らないが、これはあの鬼が見せている景色であるのだと。

 

 

――だいたいなんで俺様が、他人の顔色窺わなきゃなんねえんだよ。オレの人生はオレのもんだ――

 

 

 景色が変わる。記憶が切り替わる。幾つもの想い出と言葉が、頭の中に刻み込まれる。

 相手を染め上げてしまう程、強い強い過去の残照。神に踊らされるままに生きた傀儡が、それでも幸福だったと思える日々の情景。

 

 大切な刹那。何よりも至高と想えた記憶。それを気に入らない子どもに見せる、その理由は唯一つ。

 

 

――最後に勝ちを狙って何が悪い――

 

 

 遊佐司狼は、もう持たない。例え此処で逆転しようと、遠からず彼は消え去り滅びるだろう。それでは、その望みは果たせない。

 故に、後を託すことにしたのだ。とても気に入らない相手で、認めてなんてやれない少年。それでも、己に勝ったのだ。ならば、彼を変えてしまえば良い。

 

 信念や価値観を、言葉だけで塗り替えられるとは思えない。だから、為したのは記憶の伝承。失敗した己の過去を、全て少年に刻み付ける。

 記憶の津波に如何にか耐えて、ふらつく足で立つエリオ。彼の意識が戻る瞬間を待っていた遊佐司狼は、その瞬間に命を保つ力さえ失って、消え去りながらに嗤って告げた。

 

 

「その刹那(キオク)、忘れることは許さねぇッ! テメェの自虐は、唯の逃避だッ! 死に逃げんじゃねェッ! 真面目に生きろよッ! エリオ・モンディアァァァァルッッ!!」

 

 

 そうすれば、己の敗北も認めてやる。そう嗤いながら滅び去って行く鬼の姿を、エリオは纏まらぬ思考のままに黙って見送る。

 頭の中がぐちゃぐちゃする。身体の中身も、既にミートペースト。気が抜ければ立っていることも出来なくなって、エリオは大地に崩れ落ちた。

 

 

 

 

 

 そうして、暫く。大の字に倒れたまま、エリオは空を見上げ続ける。宿儺の号砲によって崩れた天蓋は、その隙間から暗い夜空を覗かせていた。

 

 

〈おや? 何やらあった様だが、随分と死にそうじゃないか。相棒(エリオ)

 

「……ナハト、か」

 

 

 地獄が消えて、奈落との繋がりが戻って来る。肉体は魔人の力を取り戻し、磨り潰された臓器がゆっくりと復元する。

 そんな中、ぼんやりと空を見上げる。崩れ落ちた地下から見上げた空は何時もの如く、だが遠い其処に感じる想いは何時もと少しだけ違う。

 

 

〈……何か変わったか?〉

 

「さてね。知らないよ」

 

 

 悪魔は常の如くに支配しようとして、しかし上手く行かない事実に疑念を抱く。そうして、何が起きたのかと、エリオに問い掛けた。

 そんなナハトの言葉を軽く流して、エリオはぼんやりと思考する。信念も価値観も変わっていないが、それでも鬼の記憶は心に届いていたから――

 

 

「……君に言われなくても、忘れはしないさ」

 

 

 既に消え去った鬼に向かって、エリオは呟く様な言葉を返したのだった。

 

 

 

 

 




宿儺さんボッシュート。本編であんだけやりたい放題やったんだから、Ifくらいは自重しろよな。
と言う訳で、Ifルートでは遊佐司狼が天魔勢で最速脱落キャラとなりました。


因みに、今話の影響を最も強く受けて、エリオ君被害者の会に入会することになった人々は――

〇宿敵取られた結果、出番的な意味で死んでるユーノ君。
〇よりにもよって獣殿の領地であるミッドチルダで、両翼の片方と言う夜刀に近い所為で代替もほぼ不可能な生贄を殺されてしまった常世先輩。

――直接死んだ司狼じゃなくて、この二人だと思われる。




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第九話 裏勾陳 百鬼空亡

月刊・だーくさいどえりお七月号。


1.

 ズン――と、何か重い物が倒れる様に、鈍く大きく大地が揺れた。

 

 

「…………」

 

 

 ふと、意識が戻る。そして思う。自分は何時の間に、眠っていたのであろうかと。天蓋に開いた亀裂より覗く中天は、確かに時の流れを示していた。

 大の字となったまま、空を見上げて倒れている。大地の底で傷付いた少年の、身体は真面に動かない。それも当然、致命傷に等しい傷を抱えていて、生きているだけでもおかしい状態なのだから。

 

 それでも、魔人の身体は死を遠ざける。身の内に満ちた大量の魔力が、再び戻った悪魔との繋がりが、エリオ・モンディアルに死を許さない。

 

 ジュクジュクと血潮は煮え滾る様に、赤い泡を発して塞がっていく。盛り上がり増殖する肉塊は、己の一部だと知ってはいても醜い物。

 これで人だと、我ながら良く言えたものだとは思う。それでも、己は人であるのだろう。(スクナ)も最期に、そう認めたのだ。ならば人だと、己が信じなければいけないのだろう。

 

 エリオ・モンディアルは異形を晒して、それでも己をそう定める。そうして、空を見上げ続けた。意識を失う前と同じく、飽きる素振りすらも見せずに。

 事実、飽きが来るとは思えなかった。特に理由もないのだけれど、今はもう少し見上げていたい。目指した空の果ての高さに、本当の意味で気付けそうな気がしたから――

 

 

「どうでも良いけどさ。そろそろ立ったら? 時間がないわよ」

 

「――ッ!?」

 

 

 聞こえた女の声を前に、あらゆる感慨は吹き飛び消える。既に死に体、未だ治らぬ身体を意地一つで起き上がらせて、エリオは即座に構えを取る。

 油断は出来ない。躊躇は要らない。この声の主は確かに敵だ。その事実だけを知っていればそれで良い。敵は殺す。唯それだけで十分なのだと、魔槍を構えた少年。そんな彼へと、女は両手を上げて応えとした。

 

 

「はいはい、降参。ってか、私に戦う力なんて残ってないわよ。殆ど持ってたアイツを殺したのは、他でもないアンタじゃないの」

 

「両面宿儺の、女面。一体、何を企んでいる」

 

「本城恵梨依よ。こっちが本名なんだから、アイツの記憶と一緒に覚えときなさい」

 

「…………」

 

 

 一体何を企んでいると、冷たい瞳で睨む少年。死に体ながらも意地の一つで、歯向かう姿に女は微笑む。

 長く連れ添った男を奪った敵と、エリオを見る瞳にはしかし負の感情が存在しない。無抵抗を身体で示しながら、見詰める色は諦観と慈愛と期待とが複雑に入り混じった物。

 

 瓦礫と化した黄昏の神座に腰掛けたまま、本城恵梨依はゆっくりと崩れ落ちていく。

 己の対が消えた以上、彼女もまた此処には在れない。共に同じく地獄の底へと、死を迎えながらに語るは敗者の義務でもあった。

 

 

「んで、何を企んでるかって? 何も企んでなんかないっつーの。寧ろ、その逆。……仮でも何でも、司狼(アイツ)を倒した子なんだから、知らないまんま終わっちゃうのは流石にないなって思っただけ」

 

「…………何を言っている」

 

 

 ズン――と、何か重い物が倒れる様に、鈍く大きく大地が揺れる。荒れ狂う大地の力は、まるで神の裁きを思わせる程に。強大な何かが、その中天にて解き放たれようとしている。

 

 

「私らさ、これで色々準備してたのよ。殆ど抱え墜ちしちゃった訳だけど。まぁ、中にはこんな風に、私達が消えても遺ってしまう厄介な奴もいてさ」

 

 

 その轟音と異様な気配に、エリオ・モンディアルも漸くに気付く。一体どうして、今になるまで気付けなかったと言うのか。そう感じる程に異様な圧力。

 敵意を見せない恵梨依よりも、その存在の方が遥かに危険である。思考も直感も同じくそう答えを出して、故にエリオは空を見上げる。崩れ落ちたその隙間から、彼は確かにそれを見た。

 

 

――オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ

 

 

 鳴り響く地の震えは、世界が発する悲鳴である。ゆっくりと罅割れていく天蓋は、宛ら女陰の如く卑猥に濡れて、天より見下す龍の瞳。

 発する圧も生じる腐臭も、余りに酷く濃厚だ。唯人であれば瞳に映した瞬間にも、その強大な魔力に押し潰されて死を迎えるのではないか。そう感じてしまう程、其れは強大に過ぎたのだ。

 

 

「こっちとしても、処理してから消えてあげるべきなんだろうけど……それも、もう出来そうにないのよね。そんな訳で、後はアンタ達に任せるわ」

 

 

 其れは人の悪夢より生まれた。其れは人の悪意に依って歪んだ。堕ちて貶められた彼の幻想は、地球と言う名の星の化身。

 百鬼夜行の背を追うモノ。昏く黒く淀んだ太陽。凶兆を意味する名を持つ悪夢は、人の願いを叶える古き結晶に依って形を成したモノ。

 

 術者は居ない。彼の日に残った夢は、もう当の昔に終わっている。その身を縛る神も消える。悪魔の王に討ち取られ、その身は奈落へ堕ちたから。

 故に最早、此処に目覚めんとする堕龍を止められるモノなど居ない。両面の掌より解き放たれた百鬼空亡と言う名の怪物は、このミッドチルダの大地を破壊の意志で染め上げるのだ。

 

 

「頑張んなさい、子ども達。アンタ達の次なる相手は、星の化身。空を亡ぼす大災厄。天中殺・凶将百鬼陣」

 

 

 愛する男と同じ場所へと、堕ちていく女は今も微笑みながらに告げる。ああ、そうだとも。新しい世の子どもに、己達は負けたのだ。ならば恨み言など不要である。

 倒された先人に許されることなど、たった一つだけ。頑張れと無責任に応援しながら、精々やり残した仕事を押し付けてしまうこと。少なくとも、本城恵梨依はそう想うから。

 

 

「大切な者を失わない為にも、確かな今を、その手と足でしっかり進んで行きなさい」

 

 

 精々無責任に応援しながら、その果てまでも面白可笑しく見届けてやろう。そう微笑んだまま、女は地獄に飲まれて消え去った。

 

 

 

 

 

 残されたのは、奈落の悪魔と死に掛けた少年。そして中天に座す、神格域の百鬼空亡。

 相性と言う点では悪くはない。アレに腐炎は防げない。唯最悪なのは、この今と言う状況だけ。

 

 

〈さて、どうするエリオ?〉

 

「愚問だ。ナハト」

 

 

 呼吸が痛い。身体が重い。口の中が血の味で満ちている。腹の中にあるべき臓物が、一体幾つ足りていない。

 天魔・宿儺との死闘で負った傷も癒えぬ内から、同格の敵と戦わなくてはならない。それは確かに、苦行で苦難で危機であろう。

 

 だとしても、此処で戦わないと言う選択肢などあり得ない。このミッドチルダと言う世界の危機を、エリオ・モンディアルは見過ごせない。

 既に心は定まっている。為すべきことは分かっている。故にどれ程傷付こうとも、エリオは此処に立ち上がる。あの娘の明日を守りたいから、百鬼空亡(ヤツ)は己の敵なのだ。

 

 

「あの娘が生きる世界を傷付けるなら、それは全て僕の敵だ」

 

〈今にも死にそうな姿で、よく吠える。魔力こそあるが、他は全て皆無だろうに〉

 

「関係ない。戦えるなら、戦って、勝つだけだ」

 

 

 一歩進んで、ふらつく足に力を込める。壁に手を付きたくなる弱さを抑えて、二本の足で確かに進む。

 臓器は幾つも無くしている。骨は幾つも折れている。血は余りにも足りていない。それでも、魔力と悪魔の呪詛がある。ならば、他に何が要る。

 

 何も要らない。これだけあれば戦える。これだけあれば敵を倒せる。故に、さあ出陣の時は今なのだ。

 

 

「行くぞ、ナハト」

 

〈敵を殺しに、かい?〉

 

「果てに何が起ころうと、僕の敵を無価値(ゴミ)へと変える為にだッ!」

 

 

 見上げた空を染め上げる程に、巨大な怪物に向かって闘志を燃やす。自我があるのかさえも知らないが、此処に現れたことを後悔するのは奴と成る。いいや、奴とするのだ。

 己と敵対した不幸に嘆く余地すら与えず、敵対する全てを無価値なゴミへと変える。何もかもを巻き込んで、全てを台無しにしてしまう悪魔の王。彼は此処に、次なる標的を見定めていた。

 

 

 

 

 

2.

 彼女がそれに気付いたのは、隊舎寮にて一日を終えんとしていた時の出来事だった。

 猛特訓の疲れから、横になって直ぐ霞み始めたその意識。その安寧を貫く様な、激しい警告音が鳴り響く。

 

 慌てて、飛び起きたのは年若い少女。長く伸ばした橙色の髪を束ねる暇もなく、衣服を変えるとデバイスを手にする。

 緊急招集の文字を見て、思考に浮かんだのは疑問。答えを問う為に司令部に連絡を入れるか迷って、それより前に部屋の扉から飛び出した。

 

 何か急を要する事件が起きているのだとすれば、ロングアーチの者らも今は手一杯となっている筈だ。下手に問い掛ければ、その分だけ邪魔となってしまう。

 先ずは何をするべきか。状況確認も重要だが、一先ずそれは部隊長に任せてしまえば良い。一般隊員である己が為すべき事とは、一刻も早く仲間達と合流する事だ。

 

 ティアナ・L・ハラオウンはそう胸中で判断し、隊舎寮内を駆け抜ける。走りながらにデバイスで、数度に渡ってコールするのは己の相方。

 相棒である彼の少年は、やるべき時にはやる男だが、抜けてる時にはとことんまで抜けている。もしかしたら、万が一にと、どうやら懸念が当たったらしい。

 

 幾度コールしても返って来ない反応に、ティアナは苛立ちながら舌打ちする。そうして寮内の階段を、上に向かって駆け上がった。

 前線メンバーの男女比率が関係して、この寮だけは男女で同じ建物を使っている。流石に階は違っているが、此処に彼女の相棒もまた暮らしていた。

 

 故に慣れた足取りでその部屋を目指して、ノックもせずに扉を開ける。ベッドの上で熟睡している少年の姿に、ティアナは怒りを隠さず叫んだ。

 

 

「さっさと起きろ! 馬鹿トーマッ!」

 

「あべしッ!?」

 

 

 叫ぶと同時に足を振り抜く。しなやかな足より放たれる一撃は、ベッドの上で眠りこけていた少年の身体を蹴り飛ばしていた。

 無防備だった腹に深く抉り込まれて、二転三転しながらベッドの下へと落ちる。これまでの人生の中でも最悪な目覚ましによって文字通り叩き起こされたトーマは、苦悶の呻きを上げながらに床から立ち上がって口を開いた。

 

 

「な、ティ、ティア!? 何でッ!? って、緊急召集ッ!?」

 

「起きたわねッ! さっさと行くわよッ!」

 

 

 目覚めて分かる無数の情報。何故此処にティアナが居るのかと言う疑問から、けたたましく鳴り響いている警告音についてまで。

 一体何がどうなっているのかと、混乱するトーマに思考の余地は許されない。さっさと行くぞとティアナが口にした様に、彼らに時間はないのである。

 

 

「ちょ、待って、今着替えるからッ!」

 

「私が見てるのに、躊躇いなく脱ぐなッ! そのまま行くわよッ! どうせバリアジャケット展開するなら、何着てても同じなんだからッ!!」

 

「わ、ちょ、引っ張らないでよッ!?」

 

 

 急ぎの状況と理解するや否や、躊躇いもせずに寝間着を脱ぎ出すトーマ。鍛え抜かれた身体を惜しげもなく晒す少年を、直視せずにティアナは叩く。

 頬を僅か朱に染めながら、異性の前で脱ぐなと叱る。そうして動きが止まったトーマの、腕を引いて先へと進む。どうせデバイスを展開するなら、下に何を着ていようが変わらないのだと。

 

 腕を引かれる少年は、諦めた様に一つ嘆息すると、言われるままにスティードへと指示を出す。機動六課の戦闘服に身を包んで、前を行く少女に並ぶ。

 そうして二人、手を繋いだままに駆け抜ける。三段抜かしに階段を飛び降りて、余った勢いを抑えず着地。隊舎寮の入り口から、共に外へと跳び出した。

 

 

「遅いわよ。アンタ達!」

 

「す、すみません!」

 

「……申し訳ございません。バニングス隊長」

 

 

 機械式の扉を出ると、其処には既に仲間達は揃っている。スターズ分隊とバーニング分隊。六課フォワードメンバーは、誰一人として欠落がない。

 元より彼女らは、緊急時の即応に重点を置いている。いざと言う時に動ける一騎当千の英雄を。そうしたコンセプトもあればこそ、夜間の緊急出動もまた担った役目の一つであった。

 

 故に如何なる状況であれ、緊急ならば即座に動くは職務の内。それが出来ていない二人の姿に、金髪の女傑は腑抜けているぞと叱責する。

 素直に謝るトーマに対し、ティアナが何処か面白くなさそうな顔をしてしまうのは仕方がないことでもあろう。事実、彼女が叱責されているのは少年の巻き添えでしかない。

 

 後で何か詫びでもしないと、とトーマは思考しながら部隊長へと問い掛ける。口に出すべき言葉は一つ、一体何があったのか。

 

 

「一体、何があったんですか?」

 

「ロングアーチが、観測したんだ。ミッドチルダはクラナガンの上空に、突如大きな魔力を内包した存在が出現したことを。……そしてそれが、百鬼空亡と呼ばれる怪物であることも分かったんだ」

 

「ナキリ――」

 

「――クウボウ?」

 

 

 スターズの分隊長、高町なのはは端的に告げる。緊急時に備えて、二十四時間体制で動いている古代遺産管理局の司令部。その観測装置が見付け出したのは、堕ちて腐った古き龍神。

 過去に相見えた者らも居る為に、隊長陣はその脅威を確かに知っている。故にと焦りを僅かに見せる彼女らに対し、首を傾げるのは新人四人。名前だけ聞いて分かる程、闇の残夢は知れ渡っている事件ではなかったから。

 

 

「詳しい話は、途中でするね。今は先ず――」

 

「前線に行くわ。……あの堕龍は、女を襲い喰らうの。民間人であろうがなかろうが関係なく。それを防ぐのは、戦士として立つ者の役目よッ!」

 

『はいッ!!』

 

 

 とは言え、こうして立ち話を続けている余裕はない。一刻も早く向かわなければと、猛る二人のエースの命に答礼する。

 そうして空に浮かび上がった高町なのはを筆頭に、六課メンバーは戦場へと向かう。足と成る航空機を使えないのは、先の犠牲が尾を引いているとも言えるであろう。

 

 これ以上の被害を出さない為に、立ち向かうのは一線を超えた者達だけ。飛翔するなのはに続いて、爆風を背に進むアリサと空の道を駆けるトーマ。残る三人は巨大化したフリードの背に、先導する者らを追い掛けた。

 

 

――六算祓エヤ、滅・滅・滅・滅。亡・亡・亡。

 

 

 数分も飛べば、それだけで異常が分かった。何か強大な物が全身に圧し掛かって来る様な威圧感。呼吸さえも苦しくなる感覚と共に、視界にそれは映り込む。

 余りにも大きい。空を穿たんとする程に高い地上本部の全貌が、その怪物が持つ片方の瞳と同程度にしか見えていない。遠近感のズレを考慮に入れたとしても、空を埋め尽くす腐った龍は巨大に過ぎた。

 

 アレが百鬼空亡と、誰かが胸中でそう呟く。無数の妖魔を溢れ出させながら、何もかもを踏み潰している堕ちた龍。今は未だ気付かれていない程に距離があると言うのに、鼻が曲がる程に強い腐臭が立ち込めていた。

 

 

「もう七年は前になるのかな。闇の書を巡る事件の最後、雪が降る季節にあの怪物は現れたんだ」

 

「当時の術者は、闇の書の管制人格。その残骸が暴走した結果、第九十七管理外世界の住人全てを取り込んで、無意識の海から異形の廃神(タタリ)を呼び出したのよ」

 

 

 大地を揺らす様に、空を揺らしている巨大な龍。近付けば近付く程に飛翔の難度は上昇し、白き飛竜の翼は勢いを無くしていく。

 そんな中でも揺るがずに、前に進み続ける二人の女性。片やその目で確かに見て、片や後に伝聞と言う形で、彼女達は確かに百鬼空亡を知っている。

 

 単純な性能のみで論ずるならば、最強の大天魔にも匹敵する強大さ。街の一つは軽々と滅ぼすであろう無数の妖魔が、逃げ惑うしかない百鬼夜行の主。その真なる恐ろしさとは、単純暴力などではない。

 

 

「ミッドチルダ上空に座す、あの龍神もその一つ。星の化身である彼の龍は、そうであるからこそ殺してはならない。それは星の終焉を意味している」

 

「分かりやすく言えば、アイツを殺せば第九十七管理外世界が崩壊するのよ。地球と言う星は生きる力を失って、生き物が生存出来る環境ではなくなってしまうわ」

 

『――っ!?』

 

 

 何より恐ろしいのは、倒してはいけないと言うことだ。現在の管理局が全軍を以って挑めば打倒は出来るだろうが、その瞬間に惑星が一つ滅亡する。

 二人の部隊長にとっては故郷であって、四人にとっては見知らぬ地。それでもそんな事など関係なく、星の滅亡など断じて防がなければならないこと。

 

 彼らは各々の倫理や善性、正義感などでそう断じる。倒してはいけない。其処に異論などはなく、ならばどうすれば良いのかと。

 

 

「そんな怪物、どうすれば」

 

「先ずは専守防衛よ。ハラオウン司令やグランガイツ副指令の指示の下、民間人の避難が完了するまでアレの目をこちらに釘付けさせる」

 

「その後は、ロングアーチの解析待ち。あの時は術者と言う弱所があった。だから今回だって、それに変わる何かがきっとある筈なんだ」

 

「要は状況に対する打開策が見えるまで、死ぬ気で耐えろって言う訳よ。覚悟は良いわね。アンタ達」

 

『はいッ!!』

 

 

 戸惑う言葉に返る答えは、今は術がないと言う物。無策で彼の怪物へと挑むのは、亡ぼさずに打倒す策を見付け出す時間を稼ぐ為に。

 動いているのは、機動六課だけではない。官民善悪何一つとして問わず襲い来る空亡の手から、無辜の民を救い出す為。クロノを初めとした者らも行動していた。

 

 時間さえ稼げば、如何にかなると言う程に簡単な話ではないのだろう。それでも、そう信じるしかない。だから彼女達は、一瞬でも長い時を稼ぐ為に向かうのだ。

 

 

「ティア、大丈夫?」

 

「私は、まだ平気よ」

 

 

 もうじき、百鬼空亡に気付かれるであろう領域に至る。近付けば近付く程に増す圧力に、青褪めていく表情を隠せぬ相棒に問い掛ける。

 そんなトーマの案じる言葉に、歯を食い縛って応えるティアナ。やる気は確かに満ちている様ではあるが、しかし彼女には実力が足りていなかった。

 

 

(今のティアでも、ここらへんが限界、か。……けど、もっと危ないのは)

 

 

 僅か冷や汗を掻いている程度のトーマと、この場に居るだけでも限界なティアナ。そんな二人のやり取りを見詰めて、高町なのはは思う。

 まだ自覚していないとは言え、一応は歪み者であるティアナ。彼女は魂の格と言う点に限って見れば、この場で上から四番目に位置している。そんな少女でもこの有様と言うのなら、もっと悲惨な者らも当然此処には居る。

 

 

「ルー。キャロ。……まだ意識は持つでしょうね」

 

「……あ、当たり、前、よ」

 

「…………は、い」

 

 

 なのはと一瞬視線を合わせて、アリサは二人に問い掛ける。一応言葉は返って来たが、息も絶え絶えと言うその状態。

 死線をもう一つか二つ超えた後なら兎も角、今の二人はこれが限界。技量や戦術で補うだけの努力を積み重ねてはいても、質が致命的なまでに足りていない。

 

 

(ちっ、格の差があり過ぎて、魂が圧し潰され掛けてる)

 

(キャロとルーテシアは、この調子じゃこれ以上の接近は無理そうだね。一応は歪み者のティアでも、近付けても戦闘は厳しいかも)

 

 

 塵も積もれば山と成ると、そんな理屈は行き過ぎた個には通じない。余りにも格差があり過ぎる時、塵は山と成る前に圧し潰される。

 百鬼空亡とは紛れもなく、行き過ぎた個に属する存在。魔導師でもない一般人では、目視しただけでも死に瀕する程の力を持った怪異である。

 

 六課の新人達には資質があるが、それでも彼らは未完の大器。一般局員より遥かに強い精鋭とは言え、まだ開花してはいないのだ。

 これが大結界で弱体化した中堅以下の大天魔であれば、前線で支援を行えるだけの質があっただろう。だがこの未熟さで挑むには、百鬼空亡と言う怪物は例外に過ぎた。

 

 ミッドチルダ大結界の影響を一切受けず、有する魂の格だけでも下位の大天魔となら同格以上。星の一つを、容易く亡ぼす神格域の超越存在。

 そんな怪物を前にして、如何に大器であれど未完では届かない。経験と言う中身が注がれていない空の器など、吹けば飛ぶ様な重さしか持ち得ないのだ。

 

 

(戦力に数えられんのは、私達とトーマだけってこと? はっ、ハードじゃないの。けど――)

 

(うん。何時も通りだ)

 

 

 即座に動ける人員の中では、間違いなくトップクラスが此処に揃っている。それでも、真面な戦力と成るのはその内の三人だけ。

 他に戦える者らも居なくはないが、民間人の救助と拠点の防衛とやるべき事は多くあり、直ぐにはこの場に来られない。少なくとも数分の時間は、彼女ら三人だけで持たせないとならないのだ。

 

 それをハードと、愚痴りながらも共に笑う。こんな窮地も、しかし初めてと言う訳ではない。故に不安など、友と笑って吹き飛ばす。

 幼い頃から何時だって、彼女達は必死だった。楽な戦いなど、唯の一度もなかったから――――ああそうだとも、此度の窮地も、何時もの事でしかないのである。

 

 

「そろそろ部隊を分けるわ。先ずは私と高町部隊長、それにナカジマ二等陸士の三人で切り込む」

 

「残るメンバーはティアをリーダーに、三人で援護を――」

 

 

 逆境への慣れがあった。窮地であれど、余裕があった。

 故に、だろう。他の四人が気付けぬ其れを、彼女達は同時に察して動いていた。

 

 

――汝ら、我が死を喰らえ

 

『――ッ!?』

 

 

 誰かが来る。百鬼空亡と比しても遜色ない程に、膨大な魔力を有した存在が悪意と共に近付いている。

 腐って歪んだ殺意を燃やして、黒き炎が迸る。大地から天へと向かって、其処に座す怪異を消し去る為に、悪魔の王が迫り来た。

 

 

極大火砲・(デア・フライシュッツェ)狩猟の魔王(・ザミエル)ッッ!!」

 

「ディバインバスタァァァァァッッ!!」

 

 

 迷う暇などはない。一瞬でも戸惑えば、その腐った炎は龍へと届く。そうと理解するより前に、二人の女は反射で動いた。

 無限に広がる爆心地と、翡翠に輝く魔法の光。迎撃する二種の力を嘲笑うかの様に、黒き炎は一方的に染め上げる。喰らい貪り埋め尽くす悪魔の力は、対を為す性質でも有さぬ限りは止められない。

 

 

「トーマ君ッ!!」

 

「――っ! ディバイドゼロ・エクリプスッッ!!」

 

 

 砲撃を撃つとほぼ同時、結果を見ずに叫んだなのは。その言葉に僅か遅れて、事態を認識したトーマは己の毒を炎へ向けて撃ち放つ。

 瞬間、視界が僅かに明滅する。世界を滅ぼす力を発した代償に、正常な認識能力を一時失う。情報が映像へと戻る直前、トーマの耳に届いたのは誰かの悲鳴であった。

 

 

「――――――ッッッ!?」

 

 

 声にならない叫びを上げていたのは、空を統べていた巨大な龍神。腐敗に苦しむ彼の廃神(タタリ)は、腐毒や消滅に対する耐性を有している訳ではない。

 故にそれは当然の結末。その身に届いた腐った炎は、瞬く間に龍の体躯を染め上げる。ディバイドゼロが届くまでの僅かな時で、九つの首が内の二つが消え去っていた。

 

 激痛の余り泣き叫ぶ様に、暴れ狂いながら空を引き裂き大地を揺らす巨大な龍神。その身が巻き起こす地震に巻き込まれて、空から落ちていくトーマ達。

 無数の建造物が砕けて倒れる破滅の光景を前にして、しかし安堵を感じてしまうのは無理もないことであろう。後一瞬でも遅れていたのならば、先の一撃で百鬼空亡は終わっていた。そうと理解すればこそ、心底からに肝が冷える。

 

 本当に後一瞬、後一秒でも反応が遅かったなら終わっていたのだ。百鬼空亡は燃え続ける腐炎の奇襲に耐えることが出来ず、地球人類全てを巻き込んで諸共に腐滅していたであろう。

 如何にか守れた。沢山の人を助けられた。そう安堵した直後に感じるのは、燃え滾る程に明確な怒り。理屈を知らぬとは言え一つの星を終わらせ掛けた、そんな宿敵に対して感じる膨大なまでのその敵意。

 

 空より落ちた少年の目には、たった一人しか映っていない。揺れる大地をゆっくりと、まるで這うような速度で迫る悪魔の王。

 嘗て一度許してしまい、しかし許すべきではなかったのではとこの今に感じている。そんな宿敵をその目で睨んで、トーマは彼の名を呼んだ。

 

 

「エリオッ!!」

 

「……邪魔を、するな。トーマ・ナカジマ」

 

 

 炎の如くに赤き髪を靡かせて、乾いた血で衣服を染め上げ、異形の槍を手に迫る。彼こそ罪悪の王、エリオ・モンディアル。

 余りに多くの人々を地獄の底へと突き落とし、今正に一つの世界を終わらせようとした存在。己が欲望の為に、何もかもを台無しにしてしまう怪物。

 

 その目を見て、その圧を感じて、トーマは理解する。強くなっている。この少年は先にあった時よりも、明らかに強く成長していた。

 実力の差を感じる。相対しているだけで、足が竦んでしまいそうになる程。それでも燃え上がる怒りの情を支えにして、トーマはエリオへ向かって叫んだ。

 

 

「分かってんのかよッ! エリオッ!! 空亡を倒せば、地球が滅ぶ! 沢山、沢山の人が死ぬんだ!!」

 

 

 拳を握って、言葉にすることで自覚する。これが戦うに足る理由。決して此処から退けない理由。

 誰かが生きる世界を守る為に、トーマ・ナカジマはその手を振るう。積み重ねた力は何時だって、何かを守る為にある。

 

 

「……そうか、知らなかったよ」

 

「なら――」

 

「だけど、それがどうかしたのかい?」

 

「なっ!?」

 

 

 されど、相対する彼に星の理屈は届かない。天上の光さえ届かぬ暗闇より這い上がって来た悪魔が尊ぶのは、たった一つの日溜りだから。

 誰かが生きる世界など、彼にとっては他人事。エリオ・モンディアルが戦う理由は何時だって、己が大切だと感じた者の為だけに。それ以外など、路傍の石にすら劣る。

 

 

「僕が守るのは、ミッドチルダだ。地球じゃない。見たこともない管理外世界など、どうなろうとどうでも良い話だろう?」

 

「……お前、本気で、本気でそう言ってんのかッ!?」

 

「ああ、そうだとも。お前こそ何を言っている。ミッドチルダを守る事こそ、時空管理局に属する者の役目だろうに。何故、僕の邪魔をする」

 

 

 故にこそ、彼らの道は相容れない。時に交差したとしても、それは真っ向から対する形で。正面衝突にしか成り得ない。

 譲れぬ理由を互いに掲げて、刃と共にぶつけ合う。結局どれ程に否定しようと、彼らはやはり対なのだ。共に奪い合う定めを背負った、相克する器なのである。

 

 

「お前も見ただろう。僕なら殺せる。僕なら滅ぼせる。如何に強く巨大であろうと、空亡(アレ)は腐炎を防げない。ならば、僕にとっては唯の獲物だ」

 

 

 どれ程に弁を尽くしたとしても、彼らは理解し合えない。あの日に為した選択が、既に結果を定めてしまった。そうと理解していればこそ、この問答に意味はない。

 この今も痛みに暴れ狂い、空を大地を打ち砕いている堕ちた龍神。其れを刈り取りこの地を守る事だけを思うなら、意味のない対話を続けるよりも暴力を以って答えとすべきだ。

 

 それでも決裂すると分かって、言葉を口にするのは彼女が其処に居るから。視界に映る少年に語っているのではなくて、その片隅で動揺している少女に対して祈っている。

 

 

「救ってやるよ。第九十七管理外世界を滅ぼして、第一管理世界を守ってみせる。この僕が」

 

 

 この世界は守ってみせる。他の何を犠牲にしようとも、確実にこの己が救ってみせる。だからどうか、邪魔をしないで。

 歪んだ魔槍をその手に握って、中身の欠けた血肉に力を入れて足で地を打つ。今にも切り掛からんと言う気迫で圧して、槍の穂先に炎を灯した。

 

 

「だから見ていろ。指を咥えて、何も為せずに、僕が行く道を塞ぐな」

 

 

 黒き炎が迸る。終焉の拳や自壊の宙、腐毒の血肉や世界の毒と言った例外事項でもなければ、決して防げぬ悪魔の炎が龍へと迫る。

 あらゆる全てを焼き尽くさんと。生きとし生ける者を殺し尽くさんと。空を焼きながら、疾走する黒き炎の渦。其の力を前にして、トーマは拳を振り抜いた。

 

 

「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるなッッ!!」

 

 

 ディバイドゼロ・エクリプス。たった四度しか使えぬ切り札の、二度目を此処で早々切る。いいや四度しか使えぬと言う限界すらも、この今だけは無視して進む。

 この場において、エリオの腐炎を防げるのはこれしか存在しないのだ。メギドの炎を止められなければ、余りに多くの人が死ぬのだ。ならばどれ程に苦しくとも、弱音なんて口に出来ない。

 

 

「ミッドチルダを守ることが役割と、その為に多くの人を殺し尽くす選択なんて、それが管理局員の為すべき事だなんて、僕は絶対に認めないッッ!!」

 

「君に認められる、必要性は感じない。……退けとは言った。それでも邪魔をするのなら、もうそろそろ死んでおけ」

 

 

 ミッドチルダを襲う危機は消え去るのだとしても、その為に地球で生きる人々を犠牲にするなんて間違いだ。それこそが管理局員の役目なのだと、そんな言葉は認めない。

 そう叫ぶトーマの言葉に、エリオは嘲笑う様に言葉を返す。元より万言を尽くそうとも、理解し合えぬ反身同士。認めないと吠えるのならば、死骸へ変えてしまえばそれで済む。

 

 黒き炎を翼の如く、その背より迸らせて。握った拳に輝きを、世界を滅ぼす力を其処に留めて。共に一歩を踏み込んで、此処に覇を競わんとするその瞬間――日溜りの少女が、必死の思いで言葉を紡いだ。

 

 

「エリオ君!」

 

「――っ」

 

 

 その少女の言葉は何が在ろうとも、決して無視する事など出来ない。故に一瞬、エリオは動きを止めてしまう。

 それでも、実力の差があるからだろう。踏み込んで殴り掛かって来たトーマの拳を、槍の背で受け流して被害を逸らす。その勢いのままにトーマを転ばせて、距離を取りながらキャロへと向き合った。

 

 

「止めて下さい! そんな風に、諦めてちゃ駄目です!」

 

「…………」

 

 

 キャロ・グランガイツは知っている。その過去の全てを知らなくとも、エリオ・モンディアルと言う少年と触れ合いながらに生きて来たのだ。

 だからこそ、本当はとても優しいのだと知っている。誰かを犠牲にする事など好ましくはないのだと、ならば彼がその選択を選ぶのはそれしかないと諦めてるから。

 

 この町を守りたいと言う想いは一緒なのだと、ならば此処で口にすべきはたった一つ。諦める必要はないのだと、きっと何か道はあるのだと訴えかけることである。

 

 

「きっとある筈です。何か、都合の良い解答が! 何もかもを解決出来る方法が! エリオ君も協力してくれれば、誰かを犠牲にしなくてもこの世界は守れるんだって――ッ!」

 

「その為に、今の危険を置いておくのかい? ……それは論外だよ。キャロ」

 

 

 口から出た言葉は、語り聞かせる様に穏やかで、何処までも冷たい意志と覚悟を孕んだ物。

 

 

「要は比較の問題だ。見たこともない世界と、今を生きるこの世界。どちらが大切かと言う話。もしかしたら如何にかなると、そんな可能性に賭けるだけの価値があるのかと言う話。担保として乗せるモノが、重いのだと言っている」

 

 

 少女の生きる世界と、それとは異なる一つの世界。比較すればどちらが大事か、問うまでもなく分かること。大前提として一つ、ミッドチルダの壊滅などは許せない。

 そして同時に、エリオ・モンディアルは他人を信用など出来ない。自分にも出来ないことがどうして、己よりも弱い誰かに出来るのだと。そう蔑む慢心が、心の何処かに確かにある。

 

 諦めていると言われれば、認めざるを得ないだろう。どちらも救う方法など浮かばずに、だからより大切な物を選ぼうと言う話。

 今も見付からない解決の糸口を探して、無駄に時間を掛けてより多くの物を取り零す。そんな結果に成るとしか思えないから、一刻も早く危険を排除しようとしている。エリオ・モンディアルが望むのは、唯それだけのことでしかない。

 

 

「……ああ、そうだね。僕の今の心情を伝えるなら、こう言った方が早いだろう」

 

 

 だが同時に、それだけでは済まないと感じている。此処で己を貫くならば、必ずキャロは立ち塞がる。その姿を見た瞬間、エリオはとうに分かっていた。

 だから邪魔をしてくれるなと、彼は祈っていたのである。それでも現実に容赦なんて存在しなくて、世界は何時だって一方的に押し付けて来る。どれ程真摯に願っても、祈りなんて届かない。

 

 此処に在る選択肢は二つ。一つは前言を撤回して、彼女に手を貸すと言う愚かな行為。その日溜まりを失いたくはないのだと、弱さと甘えに満ちた選択。そんな道、今更エリオに選べはしない。

 故に残る選択肢はたった一つ。邪魔をする少女の心を圧し折って、百鬼空亡と言う怪物を滅ぼして、地球と言う世界を根絶やしする。恋した少女に嫌悪と恐怖の情を抱かれる形で決別を、此処に安らぎの日溜りを捨て去らねばならない。

 

 中途半端は止めろと、そう言われた直後にこれかと。因果が過ぎて嗤えて来る程、余りに見っとも無い胸中。

 それでも何時かは、この関係を終わらせる心算だった。無様に野垂れ死んでも清々したと、思われる程に嫌われる心算だった。

 

 だから、そんな何時かが今日この時となっただけ。故にエリオ・モンディアルは自嘲しながら、決定的な亀裂を生み出すであろう言葉を口にした。

 

 

「とっとと滅べよ、地球人類。お前ら邪魔だぞ、良いからさっさと死んでくれ」

 

「――っ!?」

 

「死なぬと言うなら、僕が殺す。消えぬと言うなら、僕が滅ぼす。……一つの星が滅びた所で今更だ。ああそうか、とも思わない。どうでも良いんだ、消えてなくなれ。出来れば、さっさと自決してくれた方が有難い位だよ」

 

 

 悪意を込めて嘲笑する。魔力を発して威圧する。恐ろしいと彼女が震えて、この道を阻むことが出来なくなる様に。

 この男はどうしようもないのだと、そう思わせる為の悪意は同時に本心でもある。故に何を言って良いのか言葉に詰まるキャロの代わりに、反応したのは立ち上がった少年だった。

 

 

「キャロ。もうコイツとは、話しても無駄だッ!」

 

「トーマ、さん」

 

 

 怒りを瞳に宿して、後悔を心の中で燃やして、宿敵を憎む様に睨み付ける。

 そうして口に出した言葉は、もしかしたら在り得るかもと思ってしまった可能性。

 

 

「可哀想だって、少し思った。仕方がないんだって、少し思えた。だから、きっと、お前とも何時か分かり合えるんだって――」

 

「ああ、そうかい。どうでも良い。哀れむ自分に酔うのなら、一人で勝手にやってくれ」

 

「そうだ。僕が間違っていた! お前とは、分かり合えない! 分かり合っては、いけなかったんだッ!!」

 

 

 そんなもしもに期待したから、余りに多くの犠牲が生まれた。そしてこれからも、許してしまった宿敵は更に更にと罪を重ねていくだろう。

 重なる悪行は、トーマにとっても決して無縁の事ではない。断じて許さぬのだと心を揺るがせなかったのならば、起きなかった出来事だと思うから――――その償いを為す為にも、もう二度とこの悪魔を受け入れる訳にはいかないのだ。

 

 

「今、ハッキリと分かった。お前が生きている限り、多くの人が傷付き苦しむッ! お前の様な奴は、生きていちゃいけなかったッッッ!!」

 

「……そんなの、僕が一番自覚してるよ」

 

 

 存在を否定する言葉。其れを受けて平然と、いいや当然とすら思ってしまう。他の誰でもない、エリオ・モンディアル自身がそう確かに自覚している。

 それでも、零れる自嘲は小さな音だ。相対する者らの耳には届かず消えて、表情にも表れない。そんな弱さは必要ないから、この今に張り付けるのは冷徹な悪意の嘲笑だけだ。

 

 

「で? だからどうした塵芥。そろそろ選べよ。どう死にたいのか、その無様な末路をさッ!」

 

「っ!! エェェェリオォォォォォォォォォッッッ!!」

 

 

 悪魔の笑みを前にして、激発する様に飛び出した神の子。黒き炎と世界の毒が、共に相食みぶつかり合う。

 拮抗は一瞬、当然の如く圧し勝つのは罪悪の王。ぶつけた拳を上から押し潰すかの如く一方的に、追い遣られたトーマは蹈鞴を踏んで後退した。

 

 燻る炎をちらつかせながら、その目で空の龍を追う。今にも殺すぞと嗤うエリオに、させるものかとトーマは再び飛び出す。

 そんな二人の対立と、共に舞い散る滅びの力。巻き込まれればエースであっても、唯では済まぬその状況。それを前にして、二人のエースは僅かに迷う。

 

 

(どうする。どうすれば良いの!?)

 

(ちっ、トーマだけじゃ、エリオの相手は無理。だけど、私かなのはだけで、空亡の相手も無理)

 

 

 エリオ・モンディアルの動きはその傷故に酷く鈍いが、発する魔力は以前よりも強大だ。トーマ・ナカジマだけでは、数分と持たずに突破されよう。

 其れを防ぐ為には、最低でも高町なのはかアリサ・バニングスが援護に回らねばならない。だがそうして動くと、今もミッドチルダを壊し続けている空亡が抑えられない。あれを抑えるにはせめて、エース級が二人は必要だ。

 

 腐炎を防げぬとは言え、空亡の強大さに疑う余地はない。事実あれを相手に出来るのは、エースかそれに準ずる実力者のみである。しかし条件を満たせる者はこの場に、僅か三人しかいないのだ。

 あと数分、時間を稼げば増援が来る。だがその数分が余りに遠い。エリオに戦力を割けば空亡がこの地を壊し、空亡に戦力を割けばエリオが地球を滅ぼしてしまう。正に八方塞がりと言う状況だった。

 

 

「なのはさん! バニングス隊長!」

 

 

 そんな劣悪な状況に、気付いていたのは二人だけではない。新人の中でも聡明な、ティアナも確かに気付いていた。

 

 

「エリオ・モンディアルは、私達フォワード陣で受け持ちます」

 

「……やれるの?」

 

「やらなくちゃ、どうしようもありません!!」

 

 

 故に彼女は提言する。己達だけで、エリオ・モンディアルを抑えてみせると。その言葉を訝しんで問い質すアリサに、為さねば成らぬと腹を括る。

 事実、そうするより他にない。ティアナもキャロもルーテシアも、百鬼空亡を相手にすれば唯の足手纏いで終わるだろう。だがエリオが相手なら、トーマの援護位は可能である。

 

 彼我の実力差、と言う訳ではない。覇を外へと撒き散らす空亡と違って、エリオの力はまだ内側に向いている。そして既に瀕死であるから、彼の動きは酷く鈍い。

 ならば弱き者でも戦力と成れる。それでも、窮地であることは変わらぬだろう。だが数分程度ならば稼いでみせると、そうせねば成らぬのだと、ティアナ・L・ハラオウンは叫ぶのだ。

 

 

「なら、任せたよ! ティア!」

 

「啖呵を切ってみせたんだから、しっかり役を果たしなさいッ!」

 

「はいッ!」

 

 

 やってみせねばならぬ状況で、やってみせると彼女は言った。ならばそれを今は信じて、女達はその場を託す。

 そうして空へと飛翔すると、二人はその場を高速で離れて行く。共にデバイスをその手に構えて、為すのは己の最善だ。

 

 

「ディバインバスタァァァァァッ!!」

 

「タイラントフレアァァァァァッ!!」

 

 

 非殺傷で魔法を放つ。その目的は傷付けることではなく、痛みに苦しむ怪物にその存在を気付かせること。

 

 

「女? 女だ!」

 

「乳をくれ、尻をくれ!」

 

「その旨そげな髪をくれろ!!」

 

 

 激痛に苦しむ中でも、求める贄を見紛うことはない。腐炎によって常より苦痛が増しているからこそ、より必死になって女を求める。

 その血肉を貪り喰らえば、腐り落ちていくこの病毒も祓える筈だ。痛い痛い助けてくれと、腐った手を伸ばしながらに追い続ける。その行動は、正しく女達の想定通り。

 

 腐炎を迎撃出来ない以上、直ぐには届かぬ程に距離を取るしか対策はない。故にこそ女を狙うと言う性質を利用して、百鬼空亡を移動させる。

 それが現状で、二人に出来る最善の行動。余りに巨大な龍を移動させるのは骨が折れるが、その程度やってのけねばならぬであろう。己の部下で教え子が、やってみせると言ったのだから。

 

 

「さ、行くわよ! アンタ達!!」

 

 

 そうして上空を高速で移動していく彼女らを見届ける暇もなく、即座にティアナは言葉を掛ける。

 空亡相手の時間稼ぎはこれである程度安定するだろうが、その分エリオの相手が不足するのだ。直ぐにティアナ達が動かねば、トーマの敗北に終わるであろう。

 

 

「……あ、私、は」

 

 

 故にさっさと行くぞと、前に出るティアナの言葉に戸惑う。キャロの足は震えていて、一歩が踏み出せそうになかった。

 

 それも無理はないことだろう。これまでエリオは、彼女の前で悪辣な姿を見せることはなかった。その瞳には何時だって、慈愛を含んだ暖かさがあったのだ。

 なのに今の彼の目には、隠さない程の悪意と殺意が満ちている。先に語った言葉は震える程に、悪感情に満ちていた。確かに本気が伝わる程に、エリオは地球に居る人類を邪魔だと認識している。

 

 悪意が自分に向いていないのだとしても、信じられないと言う想いが強く湧いてくる。あんなにも優しい人がどうしてと、だから戸惑い迷ってしまう。そんな少女の背を押すのは、何時だって彼女の双子の姉だった。

 

 

「やるわよ、キャロ!」

 

「……るーちゃん」

 

「あの馬鹿に、これ以上罪を重ねさせる訳にもいかないでしょッ!!」

 

「――っ!」

 

 

 少女の姉は怒っている。妹の言葉に悪意を返して、罪を重ねようと言うエリオの選択に。悪を為せば嘆き悲しむ人が居ると知りながら、立ち止まらない男の身勝手さに。

 だから、止めるのだと断言する。これ以上罪悪を重ねられない様に、倒して捕えて説得するのだ。そう息巻くルーテシアの言葉に、キャロは瞳の曇りを払う。頷く少女は、確かに此処で決意を抱いた。

 

 止めよう。何としてでも。その強い瞳に微笑んで、ルーテシアは敵を見る。内心で遅いと愚痴りながらも、ティアナも笑ってデバイスを構えた。

 

 

「……たった四人で止められると、僕も舐められたものだね」

 

「アンタこそ、私達を舐めるなッ! あの時よりも、私達だって先に進んでるのよッッ!!」

 

 

 拳を振るうトーマをあしらいながら、エリオは舐めてくれると舌打ちする。そんな彼へと銃口を向けながら、ティアナは強がりながら言葉を紡ぐ。

 あの日と口にしたのは、嘗てこの罪悪の王を打倒したその時のこと。トーマとティアナとすずかの三人で、嘗ての彼には勝てたのだ。だから、あの日よりも強くなった自分達なら、きっとまた勝てるのだと。

 

 

「だから、また勝たせて貰うわ!!」

 

「成程、僕に勝つ、か……嗤わせる」

 

 

 ああ、そうだとも。嘗て、あの日に全ては決したのだ。敗北の屈辱と共に、無価値であることを知った。そんなエリオは、あの日の彼とは既に違う。

 以前は勝てたのだからと、強がる少女はそれを知らない。そして既に限界を迎えつつあるからこそ、日溜りを捨て去ると決めたからこそ、今のエリオには余裕も遊びもありはしない。

 

 故に、それは当然の結果であった。

 

 

「その慢心。その対価。此処で支払え」

 

 

 黒き翼が爆発する。穴だらけの片翼と、足元に走る黄色い雷光。静止状態から一瞬で最高速へ、加速したエリオ・モンディアルに追い付く術は一つもない。

 それまで見せ続けていた鈍い動きは全てがブラフだ。瀕死の今に全力を出せる回数は限られているから、それを確実に活かす為。己の速力を誤認させる為に、敢えて力を封じていたのだ。

 

 故に示された全力は、雷よりも尚速い。一瞬の内に閃光となったエリオの姿を、誰もが此処に見失う。

 白百合との契約はなく、トーマは神の力を振るえない。キャロやルーテシアの召喚獣は、そもそも雷速に反応すら出来ない。

 

 故に、気付いた時にはもう遅い。魔槍は誰もを置き去りにして、その標的を貫いていた。

 

 

「先ずは、お前だ」

 

「か――はッ!?」

 

「ティアッ!?」

 

 

 橙色の髪に、赤き血潮が纏わり付く。その腸を抉り込む様に、巨大な槍を突き刺し掲げる。其処で漸く反応出来たトーマは、少女の名を叫びながらに疾駆した。

 既に常人ならば確実に致命と成る傷。歪み者であっても目覚めていない以上、即座に治療せねば死に至る状況。そんな程度で終わらせる心算がある筈もなく、助けようとするトーマの接近を待って、エリオは歪んだ笑みを浮かべて一つの魔法を展開する。

 

 

「……トーマ。君は、何時だって遅いんだ」

 

「止めろ! 止めろォォォォォォッッ!!」

 

「――弾けろ。その中身、此処に晒せ!」

 

 

 無価値に死ぬより残虐に。彼女の心を圧し折る為に。求めたのは、人の死に方ではない方法。貫いた槍を介して魔法を展開し、内側から爆散させる。

 殺傷設定の小さな爆発が無数に生じて、その中身を内側から壊して晒す。僅か遅かったトーマの頬を、飛び散った腸が纏わり付いて赤く朱く染め上げた。

 

 ばらけた血肉に、転がったその首。中途半端に原型を留めていて、だからこそ悲惨な姿を晒す血肉の海。膝を折った少年の前で、相棒であった少女はもう居ない。

 

 

「ティアァァァァァァァァァァッ!!」

 

「クククッ、クハハッ、ハァァァハハハハハハァァァァァッ!!」

 

 

 トーマは跪いて、必死に散らばった残骸を拾い集める。宿敵が其処に居ると言うのに、戦いはまだ終わっていないと言うのに。

 少女の名を叫びながらに掻き集めるのは、そうすれば如何にか成ると現実逃避しているからか。その姿を余りに無様と、見下しながらにエリオ・モンディアルは嘲笑う。

 

 そして必死に首と散らばった臓物を抱えるトーマの顎を蹴り飛ばし、ティアナだった残骸を踏み躙りながら、エリオは蔑む瞳で周囲を見回す。

 誰もが想像していなかった光景に、何も出来ずに震えていた。戦う覚悟は確かにあったが、仲間の死と言う状況に対する覚悟はなかった。だから凍り付いて止まっていて、そんな彼女らへとエリオは告げた。

 

 

「……さぁ、次は誰が無価値(ゴミ)に変わる?」

 

 

 次は誰が死にたいかと、悪意を以って嗤い掛ける。これで折れてくれないのならば、次はトーマかルーテシアか。嗤えるオブジェが増えるだけ。

 見下す悪魔の瞳を前に、誰もがこの現実を受け入れることすら出来ていない。少女達は混乱と恐怖に震えて動けず、涙と共に立ち上がった少年はまた残骸を集め始めているだけ。

 

 

 

 ティアナの死と共に、六課フォワード陣は余りに容易く崩壊した。罪悪の王、エリオ・モンディアルはもう止まらない。

 

 

 

 

 




Ifルートはトーマ視点だとティアナルート。
……自分のルートで、惨殺される系ヒロイン。ある意味新しい。




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第十話 愛の王冠 ティアナ・L・ハラオウン

月刊・だーくさいどえりお八月号先行版。
八月一日は忙しいので、これが八月分となります。

推奨BGM
1.ザフィーラのテーマ(リリカルなのはA's-GOD-)
2.Disce libens(Dies irae)
3.Gregorio(Dies irae)


1.

 何度蹴り飛ばされようと、立ち上がる茶髪の少年。その都度挑んで来るかと思えば、為すのは踏み躙られた残骸を集めることだけ。

 数度も繰り返せば理解もする。トーマ・ナカジマはもう折れていて、己の前に立ちはだかることはないのだろうと。ならば此処に、留まる理由は何もない。

 

 もう邪魔すら出来ないと言うのなら、止めを刺すのも手間である。既に己は瀕死の様で、無駄な消費は少なく済むに越したことはない。

 恐怖に震える瞳で見詰める少女達を一瞥して、残骸に縋り付いている折れた宿敵を見下して、エリオ・モンディアルは先に進む。その進む背に、呼び止める声は一つもなかった。

 

 義憤の怒りも、哀切の嘆きも、何一つとして届きはしない。それを侮蔑と諦観と、ほんの僅かな寂寥を抱いて――エリオ・モンディアルは歩を進めた。

 

 

「ディエスミエス・イェスケット・ボエネドエセフ・ドウヴェマー・エニテマウス」

 

 

 見上げた空を飛び交う、高町なのはとアリサ・バニングス。エース二人の選択は策とも言えぬ単純な物だが、今のエリオにとっては苛立つ程に有効だ。

 高速で距離を取る。それだけで十分。一歩を進むのも辛いのが、今のエリオの現状なのだ。遠距離からし掛けようにも、射程距離まで近付くことすら困難となっている。

 

 

「アクセス――我がシン」

 

 

 それでも、現状はエリオに利していた。百鬼空亡は巨大である。如何に高速で移動させようと、如何にエリオが鈍足であろうと、距離を取り続けることなど出来はしない。

 だからこそフォワード陣は足止めをし掛けて、そんな彼らが秒殺された時点で結果は決まっていた。ふらつく足で揺れる地面に立ちながら、霞む視界で空を見上げる。其処には二色の輝きと、鈍色をした巨大な龍。

 

 

「無頼のクウィンテセンス。肉を裂き骨を灼き、霊の一片までも腐り落として蹂躙せしめよ」

 

「――っ!? なのはっ!!」

 

「分かってる! だけど――っ!!」

 

 

 射程に捉えた。二人の女が危機に気付くが、彼女らには何も出来はしない。星の光も想いの炎も、全てを滅ぼす力を前には無意味である。迎撃などは不可能だ。

 狂気に壊れた龍神は、己に迫る危機すら自覚出来ない。既に一度その身に受けたことなど忘却の彼方で、一心不乱に女達を追っている。それ程痛みに狂っているから、百鬼空亡は悪魔の王から逃れられない。

 

 この今に出来ることなど、必死になって距離を取ること。百鬼空亡を少しでも、移動させて悪魔の手から遠ざけること。それしか出来ぬし、それをした所でもう然程の意味はない。

 瞬きの後に訪れるであろう終局が、深呼吸一つ程度の時間は伸びるであろうか。新人達が敗れ、エリオが自由となった時点でもう閉幕は見えた。最早、その程度の時間稼ぎしか出来ないのだ。

 

 故に此れで終わりだ。地球人類は此処に滅びて、今宵の戦もこれで終わり。暫し身を休めたら、新世界開闢を目指してまた進もう。エリオ・モンディアルは、勝利を確信しながら右手を掲げた。

 

 

『やらせない――ッ!!』

 

 

 それを通す訳にはいかない。それだけは、決してさせる訳にはいかない。翡翠と紅蓮の輝きはその意志を強く、空亡に背を向け飛翔する。

 我が身を盾としてでもと、そんな自己犠牲を心に決めた訳ではない。それでも他に筋道がないから、咄嗟に其処に賭けていた。この黒き悪魔の炎を迎撃する。無効化は出来ずとも、リミッターを解除し死力を尽くせば、逸らす程度は出来るのではないかと期待して――――だが、しかし。

 

 

「唵呼嚧呼嚧戰馱利摩橙祇娑婆訶」

 

 

 腐った無数の手が伸びて、彼女達の行く手を妨害する。何もかもを理解出来ていない堕龍は唯、痛みから逃れたい一心で贄を求める。

 故にこれも必然と言う事象。迫る悪魔から龍の総身を守ろうとしている、そんな女達すら襲ってしまった。その果てに何が起きるのか、百鬼空亡は知る由もないだろう。

 

 

「な――!? アンタ!!」

 

「どうして、こんなことをしてたら貴方自身が危ないのにッ!?」

 

 

 龍の身体から伸びる手は、触れれば唯では済まない程に凶悪だ。掠っただけでも十分に、今の女達にとっては致命傷と呼べる域に至る。

 此処でこの腕に捕まれば、無意味な凌辱の果てに死を迎えよう。そんな結末は許容出来ず、ならば躱す他に道はない。それが地球と言う惑星に死を齎すのだとしても。

 

 

「汝ら、我が死を喰らえ――」

 

 

 悪魔は嗤う。何も見えぬ分からぬと狂った龍を、その身体を迂回しながら如何にか止めようと無駄に足掻く女達の姿を。全て無価値だ。此処で全てが無価値に変わるのだ。

 

 

無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)

 

 

 掌に生じた小さな炎。昏く黒く無価値な色は、あらゆる全てを消し去る消滅の力。防げぬ限り、訪れるのは死と破滅。悪魔の力を、此処に解き放つ。

 燃え上がった小さな火種は大気を腐らせ飲み干しながら、巨大な業火に変わって空を焼く。百鬼空亡はこれで終わる。溢れる炎の津波が、空の全てを包み込んだ。

 

 

 

 そして一つの星が終わる。一瞬後にその結末が待つ刹那――――

 

 

「な――っ!?」

 

 

 黒き炎が動きを止めた。限りなく停止に近い程に時間を引き延ばされて、百鬼空亡の巨体にまるで届かない。

 一体何がと、問う言葉に意味はない。この現象は既に知っている。ならば口に語るべき疑問は、一体何の為にと。エリオ・モンディアルは虚空を見上げ、その騎士の名を叫んだ。

 

 

「お前も僕の邪魔をするのかッ!? 盾の守護獣ッッッ!!」

 

 

 少年と龍神の間合いの内に、立ちはだかるのは守護の獣。その髪は血の様に赤く、その四肢は錆びた様に黒く、背には断頭台の翼を負って空に立つ。

 

 

「当然だろう。主の故郷だ。彼女が眠る安寧の地を、貴様などに奪わせはせんぞ」

 

 

 エリオ・モンディアルを睨み付け、蒼き獣は高く語る。奪わせなどはしないのだと。もう奪わせはしないのだと。

 如何に全てを滅ぼす力であっても、届かなければ意味がない。故に決して届かせはしない。盾の守護獣ザフィーラは、世界を凍らせ星を守る。主が生きて死んだ地を、今となっても守っている。

 

 

「だが――ッ!!」

 

 

 ああ、だがしかし、舐めるなよ盾の守護獣。此処に在るは罪悪の王。神にも等しい力を持った怪物だ。

 そんな彼を前にして、他者を守れる者など此処には居ない。如何に停滞の力場を操る獣であっても、今のエリオにとっては役者不足。

 

 お前が止めると言うのなら、その上から力尽くで叩き潰す。守りの盾ごとを焼き尽くして、全て無価値にすれば良い。それだけの力が、彼にはあるから。

 

 

「時を停滞させる程度でぇぇぇぇッ! 僕の全力を防げると思うなぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 

 もう一度、今度は槍に炎を纏わせる。先より巨大な力を込めて、槍投げの要領で投げ放つ。

 時を停滞させて届かせないと言うのなら、その力場ごとに全てを燃やし尽くせば良い。これはそんな単純解。

 

 龍へと迫るストラーダは最早、凍らせ止めることすら出来はしない。ザフィーラの展開した力を切り裂きながら、炎を纏ったストラーダは空を突き進む。

 全てを腐滅させる力は止められず、百鬼空亡は今度こそ確実に滅び去るだろう。そうして、地球と言う星と其処に生きる人々は終わるのだ。そうと分かってしまったからこそ――

 

 

「ぐ――っ!? オォォォォォォォォォォォォォッッッ!!」

 

 

 彼は、己の身すらも盾とした。停滞させた時の中を、加速しながら突き進む。そうして槍の前に立ち、己の身体を壁としたのだ。

 ザフィーラの停滞は、覇道ではなく求道の性質を持つ力。故に己の身体こそが、一番停滞させやすい物。この守護獣はその総身こそが、何より誇るべき盾なのだ。

 

 その身を挺して、堕龍の代わりに槍を受ける。全身を焼き尽くさんと黒い炎が燃え上がるが、それさえ極限まで停滞させる。

 我が身がある限り、この背の先には通さない。両手で魔槍の柄を掴んだまま、強く強く睨み付ける。無言の内に語る瞳には、確かな覚悟が込められていた。

 

 

「――っ!? 君は、端から死ぬ気だったかッッ!!」

 

 

 その目を見て、確かに悟る。如何に停滞の速度とは言え、その力場さえ焼き尽くす全力の投擲に易々とは追い付けない。

 だからこそ、だろう。ザフィーラはエリオが全力を出す素振りを見せた瞬間から、その射線に先回りしていた。一切の躊躇いもなく駆け出したのは、端から生きて帰る心算がなかったからだ。

 

 親しい仲間の惨殺を見て、怯え震える子らとは覚悟が違う。誰も彼もを助けようと、足掻いている女達とは目的が違う。

 動きに迷いがなかった。死ぬと分かって、跳び出していたから間に合ったのだ。そうともこの男は最初から死ぬ気だったのだと、漸くにエリオ・モンディアルは理解した。

 

 

「…………愚問だな」

 

 

 エリオの言葉に愚問に返す。愚かと蔑むのは敵ではなく、己自身。答えなんて問うまでもなく分かっていた筈なのに、それでもこの瞬間まで迷ってしまったその事実。

 愚かにも、彼は天秤に掛けていたのだ。盾の守護獣ザフィーラに、残された時間は短い。元より彼は闇の書を焼き尽くされた時、共に死んでいた。その死と言う事象を停滞させて、終わりを引き延ばしていただけだったから。

 

 

「主の仇と、主の故郷。比較出来る物ではないが、そのどちらかしか選べぬならば、果たしてどちらを選ぶべきか。俺は既に知っている」

 

 

 本当は知っていた。最初から、何を守るべきか気付いていた。なのに迷ってしまったのだ。全力で戦えば消滅すると。

 百鬼空亡やエリオ・モンディアルと五分の力を発揮すれば、確実に残る魔力を使い果たす。死ぬのだろうと、分かっていた。

 

 だから迷った。六課敷地の片隅で、空を見上げながらも動けなかった。此処で己が飛び出して、戦ってしまえば主の恨みを晴らせない。

 そう戸惑ってしまったから、彼は行動が此処まで遅れてしまった。誰かの命が落ちるまで、守護の盾は動けなかった。誰かの命が消えたから、彼は意識を切り替えたのだ。もう、奪わせない為に。

 

 

「知っていながら、動けなかった我が身の未熟。其れに気付いたと言うのなら、座して在る事など許されない」

 

 

 そうとも、新人達の一人が消えて、悪魔は更に星を滅ぼさんとしている。そんな光景を前にして、二度も三度も間違えるなど出来るものか。

 まして彼の龍は、愚かな身内が遺してしまった災厄だ。リインフォースと呼ばれた女の、尻拭いをするのは同じ主に仕えた騎士の義務でもあろう。

 

 故に、盾の守護獣は此処に居る。停滞させて尚、黒き炎で腐り続けるその身体。それでも決意と覚悟で身を奮わせて、悪魔の王へと告げるのだ。

 

 

「盾を侮るなよ、エリオ・モンディアルッ! 俺が此処に居る限り、お前はもう誰も奪えんッッ!!」

 

 

 これ以上は奪わせない。これ以上は滅ぼさせない。如何なる道理も理屈も知らぬ。唯させる訳にはいかぬのだと、腐滅していく獣は叫ぶ。

 ミッドチルダを壊し続ける堕龍を背に、悪魔の王と向き合う盾の守護獣。吠える獣を前にして、エリオに退く理由はない。邪魔をするなら、他の者らと同じく排除するだけだ。

 

 

「ならッ! 君から消えろッッ!!」

 

 

 黒き炎を爆発させて、魔槍を己の意志で動かす。獣に刺さった槍は停滞の内側から、迫る黒き炎は停滞の外側から、力尽くで喰らい付くさんと燃え滾る。

 苦悶の表情を浮かべるザフィーラ。単純な力押しで負けている。魂の格で劣っている。狂気の天才を乗り越え、両面宿儺を打ち破った悪魔の王。その力は余りに強大で、天魔を含めようと確実に止められる者など最強の怪物だけだろう。

 

 それでも、全力で停滞させる。体の外で燃え上がる炎と、主の下へと戻らんとしている魔槍。その二つを此処に押し留めて、エリオ・モンディアルの行動を縛るのだ。

 しかしザフィーラでは如何に命を賭けようと、数分程度食い下がるのがやっとであろう。例えエリオが死に瀕していても、その結果は変わらない。それを確かと示す様に、彼の異能は黒炎を前に飲まれ続けて――――

 

 

「忘れているぞ、エリオ・モンディアル。お前の敵は――俺だけではないッッ!!」

 

「何? ――っ!?」

 

 

 されど、彼の敵は盾だけではない。悪魔は誰もに恨まれるから、彼は世界の全てを敵にした。

 龍を相手取りながらも片手間に、放たれ迫る翡翠と紅蓮の魔力光。その二種の輝きに隠れる形で、この瞬間に現れたのは極限の氷結界。

 

 

「クロルフル……我、誓約を持って命ずるものなり。レイデン・イリカル・クロルフル」

 

 

 轟と吹き付ける冷気と共に、世界が凍り付いていく。クラナガン全土を包み込む氷獄は、永劫解けない凍結魔法。

 眼前に迫るエターナルコフィンを前に舌打ちして、エリオは腐炎をその身に纏う。永劫解けぬ氷塊も、全てを滅ぼす力を前にすれば消え去るのみだ。

 

 それでも、守勢に回れば攻勢が途切れる。僅かに勢いが弱った腐炎であれば、ザフィーラは確かに抑え込む。

 そうして生まれた一瞬で、女二人は百鬼空亡を動かし遠くへ。無数の刃を振り撒きながら、残る男二人は少年の前に立ち塞がった。

 

 

「クロノ・ハラオウンッ!!」

 

義妹(ティアナ)が随分と世話になったみたいだな。……正直、今にも八つ裂きにしてやりたい気分だ。エリオ・モンディアル」

 

 

 その瞳に怒りを灯して、羽織った将校用のコートを冷たい風に靡かせる。万象流転の救い手と、呼ばれる英雄の一人が此処に。

 管理局の制服姿をした彼の横に、肩を並べる傷だらけの獣。クロノとザフィーラは視線を軽く合わせ、念話を交わした後に敵を見る。

 

 罪悪の王、エリオ・モンディアル。二人掛かりでも止められるか分からぬ悪魔の王は――しかし今、彼らが戦うべき敵ではない。

 

 

「だが、それをするのは、僕らの役目じゃない。僕にも、ザフィーラにも、為すべき役が別にある」

 

 

 クロノが此処に居ると言うことは、既に筋道が立ったと言うこと。要救助者の避難は全て終わっていて、ロングアーチの解析結果もまた出ている。

 その結果を元に、クロノが最も信頼する友が既に答えを出した。何を為せば良いのかと、此処に必要な打開策。その最も重要な役割が、クロノの異能に委ねられた。

 

 百鬼空亡を無力化することが出来るのは、クロノ・ハラオウンの万象掌握のみである。ユーノ・スクライアはそう結論付けて、故に彼は悪魔の王とは戦えない。

 どれ程に苛立とうと、どれ程に怒りを抱こうと、此処でエリオに挑めはしない。ならばこそ、エリオ・モンディアルを止めるのは彼ではない。この怒りを晴らすのはクロノではなく、同じ怒りを抱いているであろう彼の少年。

 

 

「任せたぞ、弟分。僕の分まで、コイツを精々ぶっ飛ばせッ!」

 

「エェェェェリオォォォォォォォォォォォォッッッ!!」

 

 

 迫る光はディバイドゼロ。全てを分断して取り込む力。如何に悪魔の王であれ、真面に受ければ唯では済まない。

 それでも容易く躱しながら、エリオは迎撃の姿勢を取る。次から次へと出て来る敵に、苛立ちながらも何処かで想う。結果は決して変わりはしないと。

 

 

「今更、君かッ!? トーマ・ナカジマッッ!!」

 

 

 先には完全に心が折れていたと言うのに、立ち上がって憎悪と共に飛び掛かるトーマ・ナカジマ。その唐突な登場には驚かされたが、それでも所詮は今更の話。

 あっさりと打ち破られて、身内を奪われ心が折れた。そんな輩が奮起し憎悪と共に飛び掛かって来たとして、一体どうして悪魔の王を止められる。いいや、決して不可能だ。トーマ・ナカジマでは、エリオ・モンディアルに届かない。

 

 それを確かと示す様に、殴り掛かって来た()()の少年を逆に殴り飛ばす。例え槍が手元になくとも、拳一つの力量だけでもエリオの方が上。

 だから当然、トーマが勝てる理由はない。飛び掛かって殴り飛ばされ、大地を転がるその五体。泥塗れになりながら立ち上がる少年の突撃は、猪突猛進にすらも劣るであろう。

 

 何故か片目を無くした少年は残る瞳を怒りと憎悪の色で染め、宿敵の名を叫びながらにまた迫る。そんな姿に下らぬ真似をと嘲笑して、エリオは槍を構えて迎え撃つ。当たり前の様に潰せると言う彼の思考は、道理であったが慢心でもあったのだ。

 

 

「だが君程度が一人立ち上がった所で、この僕を止められるとでも――――ッ!?」

 

 

 余りに容易いと嗤いながら、トーマを再び大地に叩き付けた。その直後、エリオに向かって迫る魔力光。

 それを目にするより前に、悪寒を感じてエリオは退く。後方へと数歩跳躍した彼は、己の直感が間違っていなかったと確信する。

 

 眼前を過ぎ去っていったのは、ディバイドゼロと呼ばれる光。トーマ・ナカジマではない誰かが、世界の毒を使っている。

 たった一人の神の子にしか使えない滅びの力を、同じく振える第三者。橙色の長い髪を靡かせる少女を前に、エリオは驚愕を隠せなかった。

 

 

「……差し詰め、ディバイドゼロ・シュートバレットってとこかしらね」

 

 

 その声を知っている。つい先程に、息の音を止めた筈の女。その姿を知っている。ほんの数分程前に、バラバラに引き裂いて散らした女。

 まるで死んだと言う事実が、全てなかったことになったかのように。それでも半透明に揺らめきながら、崩れて消えて行く少女は嘗ての彼女とは既に違うモノなのだろう。

 

 少女は魔力の残滓となって消え、後方へと跳躍しながら退いたトーマの傍にまた現れる。今度は確固たる形を以って、寄り添いながら立つ女。その瞳の強さは、生前とまるで違いがない程強い物。

 

 

「ティアナ、ハラオウンだとォッッ!?」

 

 

 あり得ないと、動揺する。だが事実として其れは在る。確かに殺した筈の女が、何故か無傷の五体満足で敵の背中に寄り添い立つ。

 ばら撒かれて死んだ筈だと。蘇生させる術などなかった筈だと。ならば一体何が起きていると言うのか、まるで理解が追い付かない。

 

 そんな悪魔を嗤う様に、或いは己を哂う様に、何処かで白き蛇が頬を歪めた。

 

 

 

 

 

2.

 少年は想う。自分は飢え乾く程に願うと言う感情を、本当の意味で理解など出来てはいなかった。渇望と言う言葉が指し示す真実を、軽んじていたとも言ってしまえる。

 何故なら、彼は満たされていた。優しい刹那が其処にはあった。彩る世界に嘆きはあっても、それ以上の幸福が常にある。だからこれ以上を本気で求めることなど出来やしなくて、それで十分だと思っていた。

 

 

「ティア」

 

 

 残骸を拾い集めながら、この今に想うは異なる情。血に塗れた掌に、残ったそれを抱き締め願う。失いたくはない。無くしたくはない。何処にも行って欲しくない。

 何時かは別れが来るのだろうと、生きている者は須らく死ぬのだろうと、ああけれどこんなのは違う。余りにもあっさりと奪われて、余りにも惨い結末だった。こんな形で、過ぎ去る日々など認めはしない。

 

 なのに、現実は無情にも過ぎていく。トーマが拾い集めた残骸から、中身さえも奪おうとしている。その理由などは分からずとも、魂までも奪われていると言う事実は確かに認識出来ていた。

 此処は地獄だ。ミッドチルダは獣の領地だ。其処で死した命は黄金の城へと繋がれ、何れ蘇る彼の戦奴となるだろう。ティアナを殺したのは無価値の悪魔だ。彼の身体は一つの地獄で、奪ったモノを無情に取り込み肥大化する。

 

 その一瞬の均衡は、何れ決着がつく綱引きの様な物。少女の魂は必ずや、どちらかの地獄に飲み込まれる。答えが如何に出ようとも、救いなどは一つもない。

 何処に行くのか分からなくとも、何が引き寄せているのかは分からなくても、もう二度と逢えなくなると言う事だけは分かった。それだけが分かってしまったから、彼は切に切にと祈りを深める。

 

 

「嫌だ」

 

 

 そんな結末など望まない。この離別が永劫の物になるなどと、許容できる訳がない。大切だった。必要だった。失ってから気付けたのは、もう既に愛しいと想えていたこと。

 取り戻したい。取り返したい。巻き戻したい。永劫悲劇に届かぬ様に、失われた幸福だけを繰り返したい。そう強く強く願っても、起きた結果はもう変わらない。既に時間は残っておらず、掴んだ残骸はその中身さえも消えていく。

 

 

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 

 

 だから願った。強く強く強く願った。失った者は返って来ないと誰かが言っていたような気もするが、それすらどうでも良いと思える程に強く願った。

 取り戻したい。取り戻せるモノに価値はない。それでも取り返したい。ゴミを集めて、大切な者をゴミに変える心算なのかと。ああ、そんな理屈は何も知らない。卵の殻は、まだ罅割れ一つ起きていない。

 

 唯、在ったのだ。愛しい日々が、優しい時間が、確かに其処にはあったのだ。鈍感な自分は彼女を直ぐに怒らせて、そんな彼女は苛立ちながらもこの手を確かに引いてくれる。そんな時間が、とてもとても大切だった。

 だから失って初めて、取り戻したいと切に願った。無くすことでその大切さを、本当の意味で漸く気付けた。もう遅いのだとしても、そんな理屈も道理も何も要らない。叶わないと言う事実が不変の理だと言うならば、世界さえも変えてしまおう。

 

 

「どうか、この刹那に願う」

 

 

 それは真実、渇望と呼ぶに足る深度。これまで積み重ねた生涯の中で何よりも、強く重く深く唯それだけを願っている。時よ戻れと。愛しい君が居た日々に。

 

 

「時よ還れ。君には誰よりも、美しくあって欲しいから――」

 

 

 本来ならば辿り着いていたであろう絆の覇道とは異なる形に、何もかもが歪んでいく。致命的な齟齬が更に一つと、物語を悪化させる。

 そうして生まれたその渇望は、永劫の蛇に似て非なる回帰の理。愛する人との一瞬の為に、永劫同じことを繰り返そうと言う願い。互いの願いが持つ近さが故に、白き蛇は面を上げる。

 

 如何なる偶然か、対を為す黄金の目覚めと共に彼もまた目覚めていた。何れ消え去る身であろうとも、この今確かに其処に居た。故にトーマは内に眠る神の魂とではなく、その奥底に残る残滓と繋がったのだ。

 

 

――では、今宵の恐怖劇(グランギニョル)を始めよう。

 

 

 まだ遠い。けれど近付いた。卵の殻に遮られ、言葉はまるで電波の悪いブラウン管。時折混じる砂嵐の向こう側、顔の見えない誰かが嗤う。

 飽いている。諦めている。ああ煩わしいと嘆く蛇は、己が子ではなく己自身へと近付いている少年へと言葉を掛ける。それこそが、永劫を思わせる悪夢の始まりであった。

 

 

 

 

 

 

 

「一体何時まで、ボケっとしてる気よ!? トーマ!!」

 

「……え?」

 

 

 余りにも唐突に、聞こえて来たのは失われた筈の彼女の声。触れれば届く程に間近な距離で、ティアナ・L・ハラオウンは何時もの姿を見せている。

 そうと認識した瞬間に、思わず涙が零れ落ちた。男は泣くべきではないと知っているが、それでも嬉しくて嬉しくて嬉しくて――故に最初の一度は何も為せずに破綻した。

 

 

「アイツを止めないと、第九十七管理外世界が――ッ!?」

 

「案ずるな。そうなる前に、先ずはお前だ」

 

 

 危急の事態に頬を硬直させるティアナの目の前には、赤き血に濡れた無価値の悪魔。その先に起きる光景(カコ)が、何より鮮烈に染み付いていた。

 何が何だか分からないが、目の前には無くしてしまった彼女が居て、その命を奪う悪魔の槍が迫っている。このまま座して待てば、また同じ結果になると分かった。

 

 だから動けと。だから届けと。必死になって手を伸ばす。必死になって足を動かす。今度こそ今度こそ今度こそ――

 

 

「――弾けろ。その中身、此処に晒せ」

 

「や、止めろォォォォォォォォォォッッ!?」

 

 

 けれどやはり間に合わない。呆けていた時間は致命的。時の流れは無慈悲であって、歓喜に耽っていた分だけの対価を奪う。

 再び目の前で、少女の命が失われた。人にはあるまじき形で迎えた異常な死。肉片となってばら撒かれた少女の首が、先の焼き直しの様に腕の中へと転がり込む。

 

 

「何だ? 唐突に馬鹿面を晒してボケているかと思えば、突然叫び出す。まさか僕を止められると思っていたと、その無様で言うんじゃぁないだろうね?」

 

 

 膝が折れた。立っていることすら出来なくなって、力が抜ける様に大地に屈する。掌に残った少女の首は、凄惨な表情で凍っている。

 また守れなかった。また奪われてしまった。また失ってしまった。失意に耽る少年の耳に、悪魔の嘲りが流れ込む。余りに無様と、嗤いながらに憐れんでいた。

 

 

「結局、君には何も為せやしない。全て奪われ、無価値なゴミになるだけだ」

 

「ああああああああああああああああああああああああああ――っ!!」

 

「……君は弱いね。トーマ・ナカジマ」

 

 

 耐えられなかった。一度でさえこんなにも苦しかったのに、二度目なんて耐えられなかった。唐突に起きた二度目の喪失を前に叫ぶ少年は、この時に壊れてしまっていたのかも知れない。

 そう想える程に、常軌を逸したその狂態。見下す悪魔の王ですら、可哀想だと心の片隅に浮かべてしまう。嘗て運命の日に神の子が悪魔の王を憐れんだ様に、今この時は悪魔の王が神の子を憐れんでいた。

 

 

 

 壊れていく。狂っていく。破綻していく。だがしかし、たった一度では終わらない。二度の繰り返しなどでは決して済まない。

 何故なら彼は願ったからだ。永劫に繰り返したいのだと。愛しい日々を永遠にと。けれど少年の力は未だ足りぬから、失う結果は変わらない。

 

 故に彼は繰り返すのだ。失い続ける一瞬を。愛しい人が壊されるその瞬間を、永劫無限に繰り返し続けるしかないのである。

 

 

「ティア」

 

 

 三度目もまた、同じ様な結果に終わった。今度は歓喜ではなく嘆きが故に硬直して、気付いた時にはまた奪われた。

 それを十度も繰り返せば、理屈は分からずとも理解が出来た。だから守ろうと手を伸ばす速度は増して、だがしかし届かない。

 

 百度も繰り返せば自覚しよう。トーマ・ナカジマには、決定的に力が足りていない。エリオ・モンディアルは、彼より遥か遠くに進んでいる。

 必死に食い下がって、狂気を身に宿しても、出来るのは先延ばしが精々だった。一手先が数手先まで伸びてくれるが、必ず彼女は殺される。その結果だけが変えられない。

 

 

「ティア」

 

 

 さて、果たして幾度失っただろうか。気が遠くなる程に、時間なんてもう分からぬ程に、トーマはその瞬間だけを繰り返し続けた。

 

 蛇に繋がったからと言って、世界全てを起点に戻す程の出力などは得られない。中途半端な永劫回帰は、渇望の僅かな差異もあって歪んでしまった。

 故に結果として得たのは、取り戻したい少女の死の直前に戻ると言うだけの能力。守りたいと切に願う愛しい人が、死に続ける姿を永劫回帰しながら見続けるだけの無限ループ。

 

 千度繰り返そうと救えない。万度繰り返そうと救えない。億なら、兆なら、京なら――――否、それ全て無価値なり。例え那由他の果てまで繰り返そうとも、求める結果にだけは至れない。それが水銀の法則だ。

 

 

「ティアァァァァァァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 

 何時しか、感情は摩耗した。精神は疲弊し切って、けれど魂は磨かれていた。失う度に強くなる、二つの情があったから。

 

 一つは、愛しいと言う想い。失って初めて自覚したその感情は、喪失を繰り返す度に色濃く形を変えていく。

 一つは、憎らしいと言う想い。奪っていく悪魔が憎い。嗤っている悪魔が憎い。憐れんでいる悪魔がどうしようもない程に、唯只管に憎かった。

 

 練り込まれていく感情は、永劫の中で少年の輝きを変質させる。悍ましく歪み砕け腐敗しながら、その魂を磨き上げていく。故に――悪夢の役割はこれで終わりだ。

 

 

――さて、トーマ・ナカジマ。君が今見た光景は、唯一時の悪夢に過ぎない。瞼を開けば消え去る可能性の一つだが、このままでは必ず到達する結末でもある。

 

 

 気付けばトーマは其処に居た。日が沈んでしまった黄昏の浜辺。夜の暗闇は海から光を奪い去り、全てが漆黒に歪んでいる。

 其処に罰当たりな娘は居ない。其処には悪夢に心を砕かれて砂浜に膝を付く少年と、彼を見下すノイズ混じりの影法師が居るだけだ。

 

 暗闇の中で、顔の見えない影は語る。先に見たのはあくまでも、影法師が見せた現実ではない悪夢に過ぎない。目を開けば、変わらぬ現実は其処にあるのだと。

 気付けばその両手には赤い血がべっとりと、集めた肉片が散らばっている。現実の時は少女が失われた一瞬から、ほんの僅かも動いてなどはいなかった。ならば全てが夢幻なのかと問えば、返す答えは否と言う形にしか成り得ない。

 

 

――手にした肉片。それは最早揺るがぬ閉幕だ。失われたから願えた以上、失われなければ願えない。矛盾を孕んだ形であるが、それこそ確かな一つの真実。例え時計の針を戻そうとも、君はもう取り戻せない。既に結果は決まってしまったのだから。

 

 

 結果はもう決まっている。見えた悪夢こそが、このまま進めば至る結末。水銀の残滓と共鳴し、その法を得たとしても全ては徒労に終わってしまう。

 トーマ・ナカジマでは守れない。トーマ・ナカジマでは救えない。トーマ・ナカジマでは奪われる。何度も何度も何度も、その目の前で殺され続ける。それは最早、変わることのない結末だった。

 

 

「なら、どうすれば良い」

 

 

 零れる様に流れ出た言葉は、果たして弱音であったのか。字面だけを見れば縋る言葉な様で、だがその実内に抱いた熱量が其れとは異なる。

 

 

「僕はどうすれば、ティアを取り戻せる」

 

 

 答えを寄越せと。知っているなら語ってみせろと。憎悪の瞳で影絵を睨みながら、地獄の底から響く様な声で詰問する。

 そんな鬼気迫った相を前にして、しかし影法師は変わらない。その表情が見えたのならば、確実に嗤っていたであろう。そうと分かる声音で、蛇は見下す様に告げるのだ。

 

 

――知れたこと。失うと言う結果が変えられないならば、その果てを夢想すれば良い。壊れても尚、残る者をと。断崖の果てを飛翔せよ。我が友と似て非なる結果を得る術を、君は唯求め望めばそれで良い。

 

「壊れても、尚残る者」

 

――然り。

 

「手段は、どうすれば、それが出来る」

 

――愚問だな。君は既に知っている筈だ。

 

 

 微弱であるとは言え、蛇の残滓と少年は既に繋がっている。だからこそ、その術をもうトーマは既に知っていた。

 聖遺物。永劫破壊。限定的な形であれ、魂を取り込み形成すると言うその方法。だがしかし、足りていない。肝心要と言うべき要素が、致命的なまでに不足している。

 

 

――手段はある。必要な物も、その多くが此処に揃っている。だがしかし、嗚呼嘆かわしい話だ。あと僅か、足りぬ物がある。それが何か、問うまでもないであろう。

 

 

 足りていない。あと少しが足りていない。第一の前提条件として、此処に聖遺物などは存在しない。白百合の乙女は無価値に焼かれて、世界の毒は制御出来ない。

 このまま無理に彼女を奪い取ろうとすれば、少女の魂は砕けるだろう。分解されて尚己を保てる程に、ティアナと言う少女は強くない。唯己の意志のみで、自己を形成出来る程の格がないのだ。

 

 それを如何にか補おうと足掻いても、やはり力が足りていない。ティアナだけではない。トーマ・ナカジマと言う少年にも、その力が足りていない。

 格が足りない。力が足りない。根本的に魂の位階と言う物が、必要な域に達してないのだ。故にこのままでは、断崖の果てへと飛翔するなど夢また夢。痴愚の夢想にも劣る戯言だ。

 

 されど、蛇は知っている。されど、トーマは気付いていた。その不足した要素を埋める、手段が此処にはあるのだと。

 

 

――さあ、道は二つあるぞ。トーマ・ナカジマ。

 

 

 永劫の蛇は語る。その腕を大仰に動かし演じる。指し示したのは、暗闇に沈んだ黄昏の浜辺に寄り添う箱庭。

 トーマと言う少年が内面世界に築いてきた、彼の見て来た美麗な世界。夜の帳が落ちた世界の中でも、不夜城の如く輝く町並み。

 

 幻影のミットチルダ。心の中のクラナガン。それはクイント・ナカジマと言う女に手を引かれて、共に過ごした今のトーマを形作る過去の情景。

 

 

――手にした肉片を現実と認め、愛しいと想えた少女を諦めるのか。

 

 

 それがあるから、彼は人間に成れた。強大な力を持ちながらも人形の様だった過去から、当たり前の人間へと変わる為に必要だった物。

 されどそれがあるから、彼は人間に成ってしまった。嘗ては終焉と向き合いながらも平然としていられたと言うのに、人に成ったから弱くなってしまった。

 

 そうとも、足りぬのだ。ティアナ・L・ハラオウンと言う少女を取り戻す為に、トーマ・ナカジマと言う存在が邪魔をしていた。それさえなければ、もう十分な程に全てがあった。

 

 

――邪魔な卵の殻(トーマ・ナカジマ)と言う存在を消し去って、唯愛だけを祈り求め手にするのか。

 

 

 この幻影のミッドチルダを破壊し尽くし、トーマ・ナカジマと言う人間を消し去る。そうすれば、卵の殻は砕けて中身と合一出来る。

 永劫の蛇が持つ力を手にして、その膨大な知識を手にして、愛しい少女を取り戻せる。そうでもしなければ、彼女は修羅か奈落か何れかの地獄に堕ちる。

 

 

――選ぶが良い。我が子の断片にして、或いは至れたかも知れぬ者よ。君が望むならば、私の智慧を授けよう。君が望まぬならば、用済みの役者は消えるとしよう。道は二つだ。他にはないぞ?

 

 

 さあ、選べと蛇は語る。掌にある残骸と、遠くに輝く町を交互に指差し、さあ選んでみせろと彼は嗤う。

 震える拳に、震える身体。膝に力は入らぬまま、立つ事すら出来ずに震えている。それでも、時間は余りなかった。選ばないと言う、道はもうなかったのだ。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプス」

 

 

 恐怖はある。躊躇はあった。けれど、他に手段はなかった。だってこの町を失っても、痛いのは自分一人で済むことだから。

 本物は今も変わらず在って、此処が無くなっても変わらず在ってくれる。だけどティアナは違うのだ。彼女を此処で手放せば、その魂は地獄に堕ちてしまう。選択肢なんて、何処にもなかった。

 

 だから、彼は愛しい少女を選んだ。その手に破滅の光を灯して、要らぬと決めた方へと振るう。より重要だと、定めた物だけ抱き締める。

 血塗れの残骸を両手に抱えて、そんな少年の前で輝いていた町並みが消滅した。心の中に積み重ねていた箱庭は、その瞬間に唯のガラクタとなってしまった。

 

 全てを分解する力で、己の心を分解した。全てを崩して魔力化し、己の内に取り込んでいく。吸収するから総体は変わらず、けれど分解した物はもう戻らない。其処にあった物と、今ある物。それは決して、同じ物ではなかったのだ。

 

 

「ああああああああああああああああああああああ――――ッ」

 

 

 自分で選んで、それでも嘆きは止まらなかった。涙が枯れ果ててしまう程に、赤く染まって頬を伝う。自傷の痛みと共に、全ての記憶が記録に変わる。

 其処にあった想い出から、感情だけが抜け落ちていく。あんなにも大切だった筈なのに、今では路傍の石と同一にしか見えなくなった。重ねた全てが、陳腐に変わってしまっていた。

 

 義母を忘れた。そして記録として覚え直した。彼女と過ごした日々の中、教わった全てが文字の羅列に変わってしまう。

 義父を忘れた。そして記録として覚え直した。彼に手を引かれて学んだ多くの事が、気付けば意味ない文字の羅列に変わっていた。

 師匠を忘れた。そして記録として覚え直した。その大きな背中を目指していたと言う事実は覚え直したが、何故に目指そうと思ったのかはもう二度と共感すら出来ない。

 

 

――だがしかし、まだ足りない。ああ、そうだとも。まだ残っているぞ。君はまだ、大切だったと認識している。君はまだ、失ったことを嘆いている。その意識すら、余分の一つに他ならないのだと知るが良い。

 

 

 砕けて消えた幻影のクラナガン。その跡地を指差して、演じる様に蛇は語る。大切だったと嘆ける程度では、まだ足りてはいないのだと。

 そうとも、本当に終わってしまうとはそういう事ではない。少しずつ薄れていく自己に恐怖するのではなく、壊れ切った自己を自覚することさえ出来なくなること。それこそが、狂気の真に他ならない。

 

 真実全てが無価値になる程、それ以外などどうでも良いと思える程に、壊れなければ意味がない。其処まで狂わなければ、この選択には価値がない。既に一歩は踏み出したのだ。故に最早止まれない。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプス」

 

 

 もう一度、その残骸を分解して吸収した。記録と化した過去の記憶を、更に無価値へ貶める。そうして、トーマ・ナカジマを否定する。

 涙が止まらない。血の涙が止まらない。その理由さえも分からなくなっていく。反する様に、真実狂気と呼べる程、強く成っていく一念。愛とは須らく狂気の類であれば、狂わぬ情など愛ではない。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプス」

 

 

 此処に残るは唯の狂人。己の全てと引き換えに、たった一人を望んでしまった。果てに残ったのは、磨き抜かれた憎悪と愛情。

 迸る神威の中で、少年の自我は純化されていく。それしかないと言う形へと、己に閉じて完結する。彼の世界には最早、たった二人しか存在しない。

 

 一人は愛しい少女。何を引き換えにしてでも、取り戻したいと願って今も抱き締めている肉の断片。

 一人は奪った少年。何を引き換えにしてでも、殺してやりたいと願う程。もう奪われて堪るかと、淀み歪んだ怒りを燃やす。

 

 それ以外には、もう何もない。全てを忘れた訳ではなくて、全てを路傍の石へと変えてしまった。だからそれしか残っていない。

 そんな少年の姿に、明確な形を成した蛇は嗤う。愛する女と、宿敵と呼ぶべき者。それしかなかったのは蛇も同じく、故に下地はもう十分。メルクリウスは諦めた様に嗤ったまま、その言葉を告げたのだった。

 

 

――喜んで学べ(Disce libens)

 

 

 同時に流れ込んでくる記録。無数の知識は、永劫回帰の世界で組み立てられた無謬の叡智。此処にトーマ・ナカジマだった少年は、自己の全てと引き換えに蛇の知恵を手に入れた。

 

 

 

 

 

3.

 そして彼は戻って来る。黄昏の浜辺は既に砕けて、開いた瞼の下に映るは瓦礫の町。千切れて散った残骸は変わらず、今も愛おしいと思える者。

 悪夢に囚われていた時間は僅か一瞬。立ち去って行く宿敵に、怒りを向けるのは今じゃない。開いた指先から滴り落ちるこの血の熱を、失う訳にはいかないから。

 

 

――何を為すべきか、分かっているかね?

 

 

 分かっている。今に為すべきは、敵を討つことではない。愛しい者を取り戻すこと。その方法は既に、蒼く輝く双蛇の瞳に映っている。

 記憶と引き換えに、魂の格は十分満ちた。後はそれを出力する為の媒介を、彼女を使って作るとしよう。ティアナ・L・ハラオウンと言う存在を、聖遺物として作り直す。其れは決して、不可能なことなどではない。

 

 

――然り。聖遺物に必要なのは、歴史の古さや神聖さなどではない。膨大な人の想念を注がれ、意志と力を得た物を言う。

 

 

 蒼い瞳が周囲を見回す。嘗ては見えなかった。今は見えている。此処は地獄だ。ミッドチルダ(ココ)は修羅道だ。必要な生贄(ザイリョウ)はすぐ其処に、溢れ返る程存在している。

 今の獣は不完全。ならば世界の毒でいかようにも、その魂は奪い取れる。人の想念を集めることと、人の魂を集めることに然したる差はない。想いの純度と言う点においては、寧ろ後者の方が秀でているとさえ言えよう。

 

 問題点は素材の質だが、それも解決策は一つある。この残骸が想念を受け止める程の器ではないと言うならば、此処に我が血肉を繋ぎとすればそれで済む。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 

 絶叫を上げながら、彼女を抱き締める腕とは違う手を動かす。何一つ躊躇うことなく、指先を己の眼窩に突き刺しその眼球を引き抜いた。

 狂気としか語りようがないその姿に、傍に居た少女らは顔色を悪化させて口元を抑える。そんな仲間達が怯え震える姿ですら、今ではどうでも良いと感じている。

 

 

――然り。君は私が生み出し、女神に捧げた至高の聖遺物に連なる器だ。その血肉を繋ぎするなら、如何なる塵も芥も、須らくが研磨すべき原石へと変わるであろう。其処に我が友に喰われた英霊の意志を混ぜ合わせれば、素材としての質は十二分。

 

 

 嘗て友だった少女らの震えも、己に喰われながらに雑音を流し続けている蛇も、最早意識を向ける対象ですらない。路傍の石にすら劣る。どうでも良い無価値な塵屑。

 雑音を聞き流し、路傍の石を意識から弾いて、無価値に変わった先人達の魂を薪と喰らい続ける。そうして必要な物を揃えたトーマは、それら全てを混ぜ合わせて作り上げた。

 

 

――祝福しよう。此処に新たな聖遺物が生まれた。

 

 

 望んだのは、愛しい少女。失って初めて、既に愛していたのだと気付けた人。彼女と過ごす日々を永遠に、取り戻すことだけを願った。

 けれど、失われた者は帰って来ない。取り戻そうと足掻いても、届かないのだと分からされた。だから、望んだのはその後だ。死後も常に傍らで、共に日々を過ごして欲しい。願った祈りは、そんな形に変わった。

 

 されど、それだけではまた奪われる。唯蘇らせただけでは足りないから、もう二度と奪われない様に。愛しい人よ、どうか永遠と変わって欲しい。定命の君に願う、俺が高みへと導くから。

 

 

――この時代に唯一の、真なる永劫破壊(エイヴィヒカイト)は此処に目覚めた。少女と神の血肉で編まれた王冠に、名を付けるならばそれ即ち――

 

形成(イェツラー)――比翼の乙女(ディアデム・ギューフ)

 

 

 完成と共に形成する。愛の王冠は此処に、失われた少女を形作る。目を開いた彼女が安定するのを見届けた後、トーマ・アヴェニールは宿敵を求めて大地を蹴った。

 

 

 

 

 

「エェェェェリィィィィオォォォォォォォォッッ!!」

 

「――ッ! トーマァァァァァッッ!!」

 

 

 手にした武器は二丁拳銃。黒と赤の二色で染まったその銃身は、色違いのクロスミラージュ。求めた少女と、同じ武器を同じ構えで此処に振るう。

 ダガーモードで展開された武装の手数で、エリオの身体を後退させる。悪魔を追い立てるその身の動きには、過去の彼の名残など何一つとして残っていない。

 

 母から継いだシューティングアーツも、師に教わった不破御神の技も、全てはナカジマの名を名乗ることが許されていた時分の物。

 その家名を捨てた今、トーマは嘗ての彼に戻った。自我が芽生える前の人形。無価値に焼かれて消えるヴァイセンの町並みを、見詰めていた頃のアヴェニール。

 

 大切だった物を捨て去った。だが、だからこそだろう。戦闘技術は劣化しようとも、その戦闘性能は比較出来ぬ程に上昇している。

 永劫回帰の知恵を得て、無数の魔法を展開する。憎悪と共に襲い来る疾風怒濤の連撃は、世界全てを滅ぼす力を無差別にばら撒く危険さは、今のエリオにとっても脅威と呼べる程。

 

 

「舐めるなッッ!!」

 

 

 それでも、エリオにも意地と言う物がある。獣性を剥き出しにして迫るトーマの刃を躱し、すれ違い様に蹴撃を放つ。腐った炎を纏わせて。

 これならば死ねるだろうと、そんな必殺の一撃。だがそれを、トーマの腹から生えた女の腕が受け止める。世界の毒を発動して、その手は腐炎を消し去った。

 

 だがしかし、それで衝撃の全てを防げる訳でもない。炎と毒が対消滅を起こすなら、残るは魔人の剛脚と少女の細腕。どちらが押し通すのかは、誰に問うまでもなく分かること。

 その予想に寸分違うことはなく、受け止めた腕を圧し折りそれでも蹴撃は止まらない。トーマの身体を大きく蹴り飛ばして後方へと、しかし舌打ちをしたのはエリオだ。即死を狙った結果がこれでは、余りに割が合わぬと言う物。

 

 

「エリオォ、エェリオォォ、エェェェリィィィィオォォォォォォォォッ!!」

 

「……ったく、少しは落ち着きなさいよ。馬鹿トーマ。頭に血が上ってるだけじゃ、出来ることも出来なくなるわよ」

 

 

 敵は先までの彼ではない。肉体の疲弊があるとは言え、一手で殺し切れぬ域。この首に、或いは届くやも知れぬ距離。故にエリオは、静かに敵を観察する。

 まるで獣だ。その動きだけではない。その精神性までも、隻眼の少年は恩讐に満ちた獣と化している。空洞の眼孔からは、今も止まらぬ血涙を。そんな獣を手繰るのは、重ねられた少女の手。

 

 

「アンタは私が勝たせてあげるわ。だから、少しは冷静になりなさいッ!」

 

「ティア。……ああ、うん。君が一緒なら、我慢する。俺達で、アイツに勝とう! エリオの野郎をぶっ殺すんだッッ!!」

 

「……全然冷静じゃないでしょ、それ」

 

 

 半透明の亡霊が、獣を辛うじて人の形に繋ぎ止めている。その少女を維持しているのは少年で、ならば彼らは比翼連理だ。

 どちらか片方が欠けてしまえば、どちらも共に壊れて終わる。そんな脆く儚く曖昧で、それでも悪魔に届くと言う。此処にあるその道理、一体如何なる絡繰りが故であると言うのか。

 

 

「……お前達は、一体何をしでかした」

 

「信じられない、って顔してるわね。ま、無理ないわ。私も、この大馬鹿が、こんな馬鹿なことをやらかすだなんて思ってもみなかった訳だし」

 

 

 失った男は、こんな男であっただろうか。失われた女は、こんな女であっただろうか。その差異こそが、絡繰りの裏にある真実。

 他者に興味を抱けぬ彼が、それでも問いを投げてしまう。それ程に、今の彼らは酷くおかしい。歪んでいると、一目で感じる共依存。

 

 変わってしまった彼らに対する疑問の言葉。返る答えは飄々と、失われる以前には無かった強かさを伴って、ティアナは寄り添い語るのだ。

 

 

「けどま、なっちゃったもんはしょうがないじゃない。一応、殺された借りもある訳だしさ」

 

 

 殺されるのは想定外で、けれど予想して然るべきだったこと。慢心が故の失敗と、そう言われたならば否定の言葉は返せない。

 そのことに対する恨みの情は、想いの他に小さく薄い。実感が湧かないのか、それ以上に感じる想いがあるからか、それとも既に別のモノに変わってしまっているからか。

 

 此処に居る自分は本当に、ティアナ・L・ハラオウンなのだろうか。トーマ・アヴェニールが作り上げた、別の生き物ではないのだろうか。

 そんな疑問は無数に浮かんでくるが、それは彼女が戸惑う理由にはならない。今はそんなことすら疑問に思えなくなった少年が、捧げた物の重みが分かってしまっているから。

 

 大切な物があったのだ。彼がそれを、どれ程に大切だと思っていたかを知っていた。そしてその全てを、失っても惜しくはない。それ程に、彼女は既に想われていた。

 

 

「だから行くわよ、馬鹿トーマ。……馬鹿なアンタは馬鹿過ぎて心底不安になるくらいに馬鹿だから、――私がずっと、傍に居てあげるわ」

 

 

 憎からず想っていた相手に、強く求められて嫌な気持ちなどはない。余りに馬鹿な少年の行動に、歓喜を抱く己に呆れながらも淡く微笑む。

 こんなにも愚かな彼だから、何もかもを捧げてしまった。そんな馬鹿な男を、放ってなどはおけないのだ。例え己の存在すら不安定であろうとも、共に居続けるだけは出来るであろうから。

 

 ならば我は彼と在ろう。全てを捧げた大馬鹿者と、誰かも分からぬ不安定で未熟な女。どちらも共に歪であれば、比翼としては相応しい。その程度は、許されると思うのだ。

 

 

「……良いだろう。理解したよ」

 

「何を、分かった心算になってるのよ?」

 

 

 獣の如き眼光で、今にも飛び掛からんとしている隻眼の少年。その背に寄り添いながら、敵を睨み付けている半透明の少女。

 彼らを観測し終えたエリオは、その手に炎を灯しながらに結論付ける。理解したと、語る言葉に挑発する。そんな小細工を鼻で嗤って、彼は雷光と共に疾駆した。

 

 

「その蘇生も、その強化も、理解出来ないと言うことを理解したんだ。そして、その上で断言してやろう」

 

 

 雷光と共に疾走して、懐に入ると同時に拳をかち上げる。腐滅の炎を纏った拳だ。毒で防ぐか、咄嗟に躱すか、選択肢は二つに一つ。以って相手の行動を制限する。

 トーマが選んだのは防御。迫る腐炎を確実に防ぐ為にと、腕を交差させて毒を纏う。その行動を予測していたエリオは、間合いの内で強く踏み込み守りの上から敵を叩いた。

 

 身体が宙に浮く程に、防御しても尚通し切る一撃。それは敵手の隙を強引に作り上げ、其処に続く追撃を叩き込む。

 浮いた上体に撃ち込まれたのは、雷光を纏った回し蹴り。吹き飛ばされるトーマの姿を見上げたまま、エリオは周囲全てを巻き込む様に広域殲滅魔法を放った。

 

 

「ぐ――っ!? エェェェェリオォォォォォォォォッ!!」

 

「は――っ!! 勝つのは僕だッ! 弱虫トーマがッ!! お前じゃ僕には勝てないよッッッ!!」 

 

 

 吹き荒れる雷光が、宙に浮かんだ少年の身体を打ちのめし、少女の幻影を消し飛ばす。纏めて潰すと、それがエリオの下した解答。

 

 死んだ筈の女が蘇った。だからどうした。敵は急激に強くなった。それに何の意味がある。所詮は唯、それだけのことだろう。

 蘇ったと言うならば、また殺してやれば良い。強くなると言うのなら、より強い力で叩き潰してやれば良い。己が勝つと断じて進み、必ず勝ってみせるだけ。其処に理屈も道理も一切不要。

 

 どちらか片方へと仕掛けて、もう片方が反応する前に纏めて薙ぎ払う。例え二人同時に相手をしようとも、己が勝ると確信している。

 それが出来るだけの性能差はまだある筈で、仮にないのだとしてもそれが出来る様に成れば良いだけ。ならば話は実に簡単なことなのだ。

 

 隻眼の少年が抱いた想いの強さより、己が抱いた想いの方が強いと断じて見せる。そんなエリオは、故に一つを見誤った。それは個の強さではなく、共に在るが故のもの。

 

 

「はん。何言ってるのよッ!」

 

「ち――っ!?」

 

 

 纏めて消し飛ばした筈の少女が、エリオの背後に現れ魔弾を放つ。咄嗟に反応して魔力弾を切り払うが、それは眼前の敵への隙と変わる。

 トーマの振るう刃を躱し切れず、頬を浅く切り裂かれた。その事実に腹を煮え滾らせながら、舌打ちと共にエリオは退く。追撃を受け流しながら、彼は距離を取って睨み付けた。

 

 そんなエリオの前で、ティアナは再び自己の器を形成する。今の彼女にとって、その身体は仮初の物。例え破壊の限りを尽くそうとも、本体たる聖遺物が無事なら幾らでも修復可能なのである。

 愛の王冠は、トーマ・アヴェニールの体内に。完全同化を果たしている。故に彼が死なない限り、ティアナ・L・ハラオウンは壊せない。その写し身を幾度砕こうと、数が減ることさえも在り得ぬのだ。

 

 

「さっき、アンタ言ったわよね。要は比較の問題だって。そうよ。要は比較の問題なのよ」

 

 

 どういう訳か、トーマ・アヴェニールは強くなった。何故だか分からないが、今のティアナ・L・ハラオウンはそのトーマと全く同等の能力を共有している。

 彼に勝つだけでは足りない。彼女に勝つだけでも足りない。両者を共に相手にして、上回らなければ勝利はない。そんな事実を前にして、エリオは素直に面倒だと感じていた。

 

 それでも勝つのは己と信じる。己の方が強い想いを抱いているのだと。そんなエリオの前にして、ティアナが語るはその大前提の否定である。エリオ・モンディアルの抱く想いは、強くも重くもないのだと。

 

 

「人は何時だって、何かと何かを比較している。私達はちっぽけだから、何かと比べないと大事だって口にすることすら出来ない」

 

 

 人間は比較する生き物だ。二つの要素を左右に並べて、どちらか良いかを選び続ける。何かと比べなくては、その大切さを証明出来ない。

 全てを等価に愛すると言うことは、何も愛さないのと同じこと。何もかもをゴミと語る嘲笑と、全能の愛に大差はない。少なくとも人と言う生き物にとっては、他とは違う特別性こそが価値なのだ。

 

 そうとも、要は比較の問題だ。AとBのどちらが大事か。比べる対象の重さによって、選んだ物の重さも変わる。

 拾い集めたゴミを良品と交換することと、大切な宝物を他の物を交換すること。その二つのどちらが痛みを伴う選択か、問うまでもなく分かることであろう。

 

 

「トーマ・ナカジマにとって、大切な物は沢山あった。愛しい世界の全部を、この馬鹿は心の底から愛していたの。……その癖、その全てと引き換えにして、こんな馬鹿な女を選んだ。凄い大切だった筈なのに、自分の命より重要な筈なのに、私の方が欲しいと叫んだ。そんなコイツは馬鹿過ぎて、目が離せない大馬鹿者なの」

 

 

 トーマ・アヴェニールは支払った。彼が捧げ失った物は、とても重く貴重な物。其処に感じる痛みはどれ程か。そこまでしても望んだと言うその感情は、決して軽いとは言えない物だ。

 

 

「対して、アンタは何? エリオ・モンディアル。何もかもが無価値と嗤って、ならアンタの選択には価値がない。比べてみる物がゴミしかないなら、それを愛だと一体どうして証明出来るのッ!?」

 

 

 エリオ・モンディアルは何も捧げてはいない。彼には捧げる物が何一つとしてなかったから、比べる物が何一つとしてなかったから、ならばどうしてその選択が重いと言えるのか。

 

 

「アンタの世界は狭くて軽い。たった一つでも大切な物が出来れば、それしか見えなくなる程薄っぺらい。だって、そうよね。他に比べる物がないんだから、何でもかんでも簡単に捨てられる。身を切る痛みもない献身に、何の価値もありはしないッ! アンタの選んだ道こそが、世界で最も無価値な物よッ!!」

 

 

 重い物と、より重い物。見比べて、トーマは選んだ。だから、その想いはとても重い。

 重い物と、軽い物。見比べて、エリオは選んだ。だから、その想いは軽い。決して、重くなんてならない。

 

 それがティアナの下した結論。エリオ・モンディアルはたった一つしか持ってないから、己達が負ける筈がないのである。

 

 

「そんなアンタが、私と私の相棒(トーマ)に勝てる訳ないじゃないッッ!!」

 

 

 己は負けない。そう信じる意志が三つ。己達は必ず勝る。そう信じる意志が三つ。ならば意志の力は同等と、語ることはもう出来ない。結論はとても単純な数の暴力だ。

 二対一。些細な実力差などならば、埋めてしまえるその道理。それでも埋め切れない差があれば、二倍の想いで超越する。そう信じて進む比翼の翼は、とても強く輝く物。

 

 

「Deum colit qui novit. Aurea mediocritas.」

 

 

 隻眼の少年は、手にした叡智より力を引き出す。平行宇宙全ての天体の配列操作はまだ出来ずとも、単一宇宙内の位置制御程度ならば既に可能だ。

 故に成立するのはグランドクロス。潮汐力を変化させ時に地球の潮をかき乱すように、生じるエネルギーは単一惑星程度ならば容易く沸騰させてしまえるもの。

 

 当然そんなものをこの場で放てば、何もかもを巻き添えにしてしまうであろう。星を守ると言う意志があるならば、決して使えぬ筈の業。それを容易く使うのは、彼が既に壊れているから。

 

 

「ディバイドゼロ・エクリプス」

 

 

 既に守りたかった物さえ分からぬ程に比翼が壊れて全てを巻き込むと言うならば、彼の代わりに守り通して見せるのは彼女の役割なのだろう。捧げられた物の重さを真に知るから、ティアナがその欠落を補完する。

 余波の全てを喰らい書き換え、生じたエネルギーを一点へと。惑星一つを蒸発させる威力を弾丸へと込めて、対する敵にのみ向ける。守りたかった彼の想いを受け継いで、撃ち放つのは比翼連理の連携技。唯一人で、受けきれる様な物ではない。

 

 エリオは咄嗟に腐炎を纏い、受ける被害を軽減する。それでもその護りさえ貫いて来る破壊の力に、歯噛みし身体に力を入れて唯耐えた。

 軽減しても尚、被害を避けられない程の一撃。それに意地で耐え切って、狙う首は唯の一つ。二対一では僅かに圧されているが、一対一なら自分の方がまだ遥かに強い。ならば、為すべきことは一つだけ。

 

 不死身の少女を殺しても無駄だ。彼と全く同じ力を有する彼女は、腐炎すらも世界の毒で無効化しよう。ならば狙うは、術者である少年一択。

 彼我の実力は二人掛かりで相手の側へと僅か天秤が傾く程度。故に受ける被害を考えず、特攻すればその首にまで辿り着ける。死ぬ気で進んで、当然の如く踏破すれば良いだけなのだ。

 

 故に足で強く地を踏み込んで、駆け出そうとしたエリオ。その身が雷光と化すその一瞬に、しかし異なる何かが少年の踏み込みを止めていた。

 

 

「――っ! 誰だッッッ!?」

 

 

 誰かが視ている。誰かが邪魔をしてくる。黄金に輝く二つの瞳が、少年の身体を縛り付け、その踏み込みを妨害した。

 一瞬であれ、その停滞は命取り。己達は干渉されてはいない為、視線に気付かぬ少年少女は躊躇なく攻勢へと。迫る二つの弾丸を、切り払ってエリオは舌打ちする。

 

 

――確かに、手段を選ばねば卿が勝ろう。だが、それでは卿の世界は安くて軽いと言われるままだ。それではいかんよ。故に、だ。私の圧にも耐えてみせろ。

 

 

 何処からともなく、声が聞こえた。見下ろす様な高みから、全てを愛する慈愛と共に。全てを等価に見詰める獣が、その幕引きを許容しない。

 瀕死の身体に、獣の威圧。槍は盾に奪われたまま、無手で挑むは己が壊し歪めた宿敵。未だ愛を知らぬ子どもが前に進む為には、それくらいで丁度良いのだと。

 

 見下ろす覇者はそう微笑む。隻眼の少年が内にある消え掛けの蛇と語らいながら、黄金の獣は期待している。

 

 

――卿の世界は、未だ軽くて安い物である。それは卿が愛を知らぬが故に。卿の世界には、愛が足りぬよ。

 

――然り。人は人と触れ合い成長する生き物なれば、他を廃絶する者など時の止まった幼子と何ら変わらない。正気にて愛は成らず、小さき子の世界に狂う程の情などない。

 

 

 目覚めんとしている黄金の獣。少年が純化されていく過程で、その繋がり故に覚醒した蛇の残滓。古き時代の彼らは、好き勝手な言葉を交わす。

 黄金は少年に期待している。彼が真実の愛を手にすれば、新世界として流れ出せるであろうと。水銀は少年に失望している。悪魔は狂える程の物を得られず、全てを台無しにするだけなのだと。

 

 

――しかし、少々疑問ですな。何故貴方が、彼を選んだのか。

 

――疑問かね。成程確かに、今の彼は不足している。愛が足りぬと、そう言われれば否定は出来まい。

 

――貴方は変わると?

 

――卿は変われぬと?

 

――然り、故に我が身を彼に与えた。マルグリットの戻らぬ世界に、残る未練などは一つだけですので。

 

――然り、故に私は待っている。あの幼子が抱いた恋慕の情が、何れ愛へと変わるだろうと。失望させてはくれぬだろうと、私はそう期待しているのだ。

 

 

 白百合の腐滅によって、黄昏の女神と相見える可能性は完全に消え去った。故に水銀の蛇には最早何かを為そうと言う意志がなく、破滅の引き金を引いた悪魔を評価することもまた在り得ない。

 奈落の底で足掻きながら、進み続ける悪魔の王。その背を見続けて期待を抱いた黄金の獣は、理由もなく前言を翻す様な者ではない。エリオ・モンディアルがその道の途上で折れぬ限り、彼は期待し続けるであろう。

 

 故に、彼らの意見は一致しない。平行線を辿ったまま、ならばぶつかり合うのが最早避けられぬ結末だ。

 

 

――ならば、此処に在るのは我らが後継。

 

――ならば、これは差し詰め。私と卿の代理戦争と言った所かな。

 

――然り。ですが我が後継はまだ未熟。多少の手出しは許されよ。

 

――許す。存分に振るえよ、カール。寧ろ、その程度はして貰わねば足りぬ位だ。

 

 

 黄金は覚醒まで僅か遠く、水銀は消滅まで後一歩。故に彼らが直接戦うことなど出来ず、ならば求めるのは代理の戦争。

 己の後継同士を競わせて、どちらが勝るか愉しむのもまた一興。少なくともこの世界に最早一片の価値も抱けぬ蛇にとっては、果てがどうなろうと構いはしない。此処で友と競い合うことだけが、彼らに介入して歪めた理由であった。

 

 

――ならばその様に。我らの代理戦争を始めましょう。

 

――さあ、英雄(エインフェリア)達よ! 今宵は怒りの日が前日譚。存分に踊り歌い舞うが良いッ!!

 

――フフフ。

 

――クハハ。

 

――フハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッ!!

 

 

 遥か高みで笑い合う。蘇る黄金と消えゆく水銀。その語らいに苛立ちを。どうしようもない程に、エリオ・モンディアルは怒りを抱いた。

 

 

「どいつも、こいつも、邪魔ばかりしやがってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッッ!!」

 

 

 守らないといけないのに。守りたいと思うから、欲しかった物に背を向けたと言うのに、誰も彼もが道を阻む。

 機動六課のエースが二人に、盾の守護獣と管理局の英雄。黄金の獣と水銀の蛇に、己の宿敵と殺した女。一歩進んだと思う度、邪魔をされ続ければ堪忍袋の緒も切れる。

 

 いい加減に鬱陶しいと、全て壊し尽くしてやると。怒りと共に威圧を振り切り、迫る対の一撃を拳で受ける。ほぼ零距離で向き合って、彼らは共に罵り合った。

 

 

「お前だけは、必ず殺すッ! エリオ・モンディアァァァァァルッッッッッ!!」

 

「お前が死ねよなァァァッ! 塵芥ァァァァァァァァァァァァァッッッッッ!!」

 

 

 悪魔の進む道は、常に険しい。それは誰もが、彼の齎す結果を望んでなどいないから。

 世界の全てが、彼にとっては敵なのだと。所詮それは何時ものこと。故にエリオ・モンディアルは、何時だって全てを台無しにして前へと進む。

 

 

 

 

 





超展開の果てに爆誕! 発狂トーマ君!

このトーマ君はティアナとエリオの事しか認識出来ず、この二人としか会話が成り立たないくらいに壊れているぞ!(エリオとは会話出来ないのではなく、会話する気がない)

因みに記憶を捧げて人形に戻った後、中身に水銀の叡智を注がれた結果発狂シュライバー並みに話が通じなくなったトーマ君。ティアナが通訳することで漸く、日常生活を送れるレベルの要介護者です。

けどそれと引き換えに、エリオ君の宿敵をやれる領域までパワーアップしました。新世界流出は色んな意味で絶望的ですけどね!!




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第十一話 盾の守護獣 ザフィーラ

[壁]_・)チラッ
[壁]_・)つ「月刊(ですらなくなった)だーくさいどえりお」
[壁]ニゲロー 「月刊(ですらなくなった)だーくさいどえりお」


〇推奨BGM
2.BRIGHT STREAM(リリカルなのは)
3.Snow Rain(リリカルなのは)


1.

 堕龍とエース達が向き合う天空と、悪魔と神の子が争う大地。戦場はその二ヶ所だけではなく、血が散華せずとも熾烈な争いは其処にもあった。

 機動六課隊舎に近く、司令部は管制塔の中に怒声が満ちる。エース部隊である機動六課の副司令であり、この場の臨時司令官でもある男。ゼスト・グランガイツには他者を気遣う様な余裕もなく、厳しい口調で声を張り上げていた。

 

 

「住民の避難状況はどうなった!? 避難所各地の防衛状況と、治療の必要性は確認済みか!?」

 

「は、はい! 避難は市民全体の89%まで完了、残りは現在確認中です! 各地の防衛につきましては、アコース査察官、ヌエラ准尉相当官、グランガイツ陸尉が其々担当箇所へ移動済みとの報告あり! 各避難施設に収容された市民達の治療につきましては――」

 

「報告が遅い! 内容をもっと詰めて、最低限だけを簡潔に言え!!」

 

 

 内容が長く、報告に上げるのも遅い。二重の意味で怒鳴り付けられたアルト・クラエッタは、震える声で承諾を返して各地からの報告内容を取り纏める。

 涙を浮かべる若い通信士の姿に内心で悪く思いながらも、詫びている様な時間はない。民間人の避難さえも完了し切っていない現状、誰も彼もに余裕がないのだ。

 

 

(緊急時の対応力が低い。大天魔襲来には予兆があるが故の欠点が露呈したな。本当の意味での緊急事態に対し、仕組みが伴っていないのか)

 

 

 通常の広域犯罪者程度ならば、各部隊だけで対処が出来る。大天魔襲来の際には、月の軌道によって時期が読める為に準備が出来る。

 そうであるが故にこそ、こうした予兆もなく出現する大天魔級の怪物に対しては脆さが露呈する。これは後々どうにかせねばならない事であろうと、ゼストは思考の片隅に置いておく。

 

 今は仕組みの改善に、意識を向ける時ではない。それ以上にやるべきことは多くあって、成さねばならないことも多くある。

 百鬼空亡は、闇の書の残滓から生まれた古代遺産の産物である。そんな名目で其々に動いていた陸士部隊から指揮権を預かり、あらゆる全てを一手に請け負う立場となった今のロングアーチ。彼らに為すべきことは、それこそ山の様に溜まっている。

 

 

「解析班! 奴の解析はまだ終わらんかっ!?」

 

「も、もう直ぐ……終わりました! ……え、そんな」

 

 

 その内の一つにして、最も重要なことが百鬼空亡の解析である。彼の怪物を止めることが出来るのは、管理局の暗部を除けば精鋭たる六課のエース陣だけなのだから。

 故に急かす様に言葉を投げたゼストに対し、前任者が急に姿を消した為技術部の指揮を任されることになったシャリオは慌てて答えながらに解析を終えた。そして、彼女は絶句する。優秀な頭脳を持つシャリオだからこそ、直ぐに気付けてしまったのだ。

 

 

「動きを止めるな! さっさとモニタに映せ!!」

 

「は、はい! 七番モニタに表示します!」

 

 

 困惑し動揺し動きを止める。そんなシャリオは怒声を耳にすることで正気に戻って、操作していた端末画面の内容を正面モニタの一つに表示した。

 図面で表示される巨体と、一言二言だけが記された大まかな解説。不足した分を口頭で説明し続けるシャリオの姿に、その場の誰もが理解を深めていくと同時に表情を険しくしていった。

 

 

「あの巨体の奥深くに、ロストロギア反応。それが、元凶か。……封印魔法で対処は!?」

 

「出来ません! あの龍の魔力密度が高過ぎて、高町一等空尉の歪みを利用しても突破不可能なんですっ!!」

 

 

 今の百鬼空亡は、ロストロギアであるジュエルシードの力によって顕現している。人の夢であった龍神は、人の願いを叶える輝石によって形を成しているのである。

 故にその輝石を封印することが出来れば、百鬼空亡は瓦解するであろう。そう、それは出来れば――の話だ。届かない。通じない。意味がない。それは余りにも、百鬼空亡が強大であるから。

 

 魔力とは神の残滓だ。魂が持つ力である。故に魔力と魔力は干渉し合って、より強い方が押し通される。封印魔法が持つ魔力程度では、神の域にある堕龍の身体を貫ける筈がないのだ。

 

 

「並大抵の魔力では、龍の鱗さえ貫けない。それ以上の魔力を用いることが出来たとしても、それ程の力を込めた封印魔法は――」

 

「百鬼空亡を滅ぼすに足る。核となるロストロギアを停止させる前に、魔力で成立した堕龍の身体を消し去ってしまい、結果として第九十七管理外世界が滅びる、か」

 

 

 そして仮に貫けたとしても、それ程の規模の魔力をぶつければ空亡の身体が持たない。魔力で出来た怪物は、ロストロギアが封じられるより前に魔力の衝突で砕け散るであろう。地球と言う名の星と共に。

 

 

「……手詰まり、か」

 

 

 真っ当な方法で、彼の怪物を滅ぼさずに倒すなどは不可能だ。消滅させずに鎮めることをせねばならず、その為に何が為せると言うのであろうか。

 人身御供を為そうにも、捧げる為の術を知らない。ミッドチルダの魔法は科学であって、妄想が形を成したオカルトとは別物なのだ。故に、今は打てる術がない。最善の道など浮かばない。……それでも、あの怪物を亡ぼすだけなら簡単だった。

 

 

(次善は選べる。撤退するだけで良い。市民の身を守るだけで良い。それだけで後は奴が、エリオ・モンディアルがどうとでもしてくれるだろう。……地球と言う星を、滅ぼすと言う形で)

 

 

 あの悪魔を自由にすれば良い。それだけで、ミッドチルダは救われるであろう。それだけで、地球は滅び去るであろう。

 数度しか顔を合わせたことはないが、それでもゼストは確かに知っている。あの自分の感情さえも理解出来ていなかった幼い少年が、己の娘に向けていた感情と想いの強さを。

 

 だからこそ、彼の自由にさせれば全てが解決するであろう。より多くの犠牲者と、より多くの被害を周囲にばら撒いて。

 ならばこそ、己達が為すべきなのはその被害と犠牲を最小限に減らすことではないのだろうか。あの子どもと、手を結ぶのも一つの選択ではないのだろうか。ゼストは一人、思い悩む。悩む理由は、たった一つだ。

 

 

(だが、それで良いのか? それしかないのか? 己の心すら理解出来ていない、あんな馬鹿な子どもに全て押し付けるのが、俺やレジアスが描いた管理局(ユメ)の形か!?)

 

 

 理想があった。目指す形が確かにあった。其処に至ろうと願うのならば、此処で逃げるのは間違いではないのか。その妥協は過ちではないのか。

 だが、それは己の拘りに過ぎないとも分かっている。民の為を想うのならば、より被害の少ない選択肢を選ぶべきであろう。それが正しいのだと分かっていて、だから迷ってしまうのだ。

 

 せめて何か、他に道があったのならば。思い悩む時間が延びる程に失う者が増えていくと知りながら、それでも祈る様に思考を回す。そんなゼストの耳に、彼の声は其処で届いた。

 

 

「……いいえ、まだ打てる手はあります」

 

 

 司令部の扉が開いて、盾を担いだ若い男が一人入って来る。その人物をその場の誰もが知っていたが、内の多くが場違いさに驚愕している。

 金髪にスーツ姿の青年。愛する人を救う為にリンカーコアを捧げた結果、戦う力を失くした人物。食堂の主である彼は、多くの人々にとっての日常の象徴で、だからこそ余りに不釣り合い。

 

 

「スクライア。戻って来たか!」

 

「ええ、潜入任務を切り上げて。こんな状況では大した役にも立てないでしょうが、三人寄れば文殊の知恵と。これでも頭を動かすことだけは得意なんです」

 

 

 ユーノ・スクライア。魔力を失くしたこの今も、六課の影で動いていた青年。彼には戦場に立てるだけの力はない。戦場を変える程の力はない。

 彼の龍神を目視すれば、それだけで倒れるであろう脆弱さ。そんな己の弱さを情けないと、思う心は確かにある。それでも今は、悔やんでいる時ではない。故に己の戦場は此処だと、ユーノは鋭く画面を見詰める。

 

 表示された解析結果を幾度も確認して、己の思考との差異を埋めていく。堕龍の出現を知った瞬間から思い付いていた策が使えるだろうかと。そして予想に反することなく、これなら行けると彼は得心して視線をゼストへと向けた。

 

 

「それでスクライア、お前にはどんな策がある?」

 

「……正直言って、リスクはあります。誰もが助かると、そんな最善はもう選べません。けれど地球が滅びる代わりにミッドチルダだけが助かると、そんな次善以上の結果を目指すことは可能です」

 

 

 ゼストの問い掛けに、韜晦する様に答えたのは彼自身その策を口に出したくはなかったからだろうか。犠牲を零にする方法なんて、今となっては全てが遅い。

 それでも、これが一番犠牲が少なく済む。エリオ・モンディアルに任せて逃げるよりも多くの命を、救えるのだろうと確信している。だから、それでも悩んでしまうのは己の弱さだと分かっている。

 

 

(他に手はあるのかも知れない。もっと良い選択があるのかも知れない。此処は退いて、地球の人々だけでも逃がすのが正当なんじゃないのか。そんな葛藤だって存在している。だけど、思い悩む時間がない)

 

 

 星が亡んだからと言って、直ぐに全ての人が死滅する訳ではないだろう。だがその推察とて、確たる証拠はない。

 夢と言う形で繋がっているままだとすれば、空亡の死が集合無意識を通じる形で、地球に生きる全ての生物の死滅に繋がってしまうのかもしれない。最悪を想定すれば、地球出身者全てに影響が出るかもしれないのだ。

 

 かもしれない。かもしれない。全ては想像の域を出ず、だがだからこそ妄想に過ぎないと切り捨てられない。

 今も空に座す怪異は、妄想の産物に過ぎない筈なのに、確かな血肉を以って其処に君臨しているのだから。何が起きても、不思議じゃないのだ。

 

 

(お前に無理をさせる。そんな僕を、お前は恨んでくれないんだろうな。その位、友達だから知ってるさ)

 

 

 だけど、それでも――こうして口に出したのは、そんな弱さだけじゃないから。きっと彼の友人ならば、全てを承知の上で任せろと言ってくれる。

 信じているのではない。唯そうだと、知っている。己がこれから無茶をさせる、あの男はそういう類の英雄だ。その身を案じて語らぬ方が、侮辱になると分かっていた。

 

 

「クロノ司令官に繋いで下さい。アイツがこの作戦の要で――――龍を鎮める為の生贄です」

 

 

 万象流転の救い手クロノ・ハラオウン。この現状を打破できるのは、機動六課の中でも彼だけだ。

 太極は目覚めず、紅蓮は至らず、盾は腐り掛け、神の子は壊れて、悪魔が迫っている。この状況で、龍を鎮めるのに必要なのが男の犠牲だ。

 

 そう語るユーノの言葉に、司令部は静寂に包まれた。驚愕と緊張を孕んだ冷たい静けさの中で皆が固まる中、ゼストだけは静かに思考する。

 ユーノ・スクライアとは、洒落や冗談でこんなことを語る青年ではない。そして誰かを犠牲にする策を、平然と語れる様な男でもない。そうと知るからこそ彼は、僅かな逡巡の後に命じた。

 

 

「回線を、ハラオウン提督に繋げ」

 

「よ、よろしいのですか?」

 

「二度は言わせるな! スクライアは信じるに足る。それだけ分かっていれば十分だろう!」

 

 

 不安げに見上げる通信士を、苛烈な言葉で促し動かす。そうとも、それだけ分かっていれば十分なのだ。

 自分達には対処の術がない。対して、策があると語る者が居る。その男が信じるに足る人物ならば、其処に疑念を挟む意味はないのである。

 

 そうして、念話のラインが其処に繋がる。強制転移の歪みを以って避難民の救助を行っていた、クロノ・ハラオウンのデバイスへと。

 モニタの向こうに映し出された彼に向かって、ユーノは己の策を明かした。それは余りに荒唐無稽で、余りにも突拍子もない発想で、けれど――たった一人の多大な消耗と引き換えに、誰もを救えたかも知れなかった可能性。この今を、最小の犠牲で切り抜ける方法だった。

 

 

〈ああ、分かったよ――後は任せておけ〉

 

 

 だから、クロノは受け入れる。ユーノが知っていた様に、この青年はこういう男だ。己が犠牲となることで己以外が救えるならば、ああそうだとも否はない。そしてその上で、彼はこうも語るのだ。

 

 

〈それとだ、ユーノ。余り僕を舐めてくれるな〉

 

 

 舐めるなと、侮るなと、笑って告げるその言葉。ユーノの策を聞いて、その余りの無謀さと負担の多さを知って、それでもそう語れるのかと司令部の者らはその目を剥く。

 

 

〈その程度で、この僕が潰れると思うか?〉

 

「……ああ、そうだね。だから、僕はお前に任せるんだ」

 

 

 最悪、この戦いの途中で彼は死ぬ。そうでなくとも、この戦いの直後には壊れるだろう可能性が非常に高い。それ程に、この作戦のリスクは大きい。

 優れた頭脳を持つ者らは、皆が直ぐにそれに気付いた。どれ程にシミュレートしても、その結論は覆せないと断じている。それは当然ユーノ自身も例外ではなく、けれど彼は分かっている。

 

 己の友であるクロノ・ハラオウンと言う男なら、何と答えるだろうかと。そしてきっと彼ならば、成し遂げてくれるであろうと。

 

 

「お前なら、背負いきって見せるんだろう?」

 

〈ふっ、当然だ〉

 

 

 だから、冗談めかして語ったのは本気の言葉。当たり前の様に返って来た答えは、自信と確信に満ちた物。

 ああ、そうだとも、彼は此処では終わらない。我は此処では終われない。故に彼はやり遂げる。それは最早、決まり切った未来である。

 

 なれば悪魔の恐怖劇は、これにて一端閉幕。これより先は、英雄の物語。――六課が主役の解決劇だ。

 

 

 

 

 

2.

 そして、彼らは此処に立つ。痛みに傷付き、病に苦しむ腐った龍。それを見上げる黒き青年を筆頭に、機動六課が誇る現代の英雄達は此処に集う。

 

 

「一先ず悪魔はトーマ達に任せておくとして、先ずは為すべきことの共有だ」

 

 

 咒の刻まれた和装の上に、羽織った将官用の冬物コート。黒塗りの外套を風に靡かせながら、瓦礫の上に立つクロノ・ハラオウンは言葉を紡ぐ。

 己が最も信頼する友人より、託された策。もしも後僅かでも何かが違っていたのなら、全てを救えるかもしれなかったその作戦。この場に集った同胞達へと、その全容を語り聞かせる。

 

 誰に憚る必要もない。何を隠す必要もない。狂った龍は人の言語を理解せず、迫る悪魔は壊れてしまった神の子が押し留めてくれるであろう。故に何も隠すことなく、彼は無差別念話で皆に向かって語るのだ。

 

 

「空を亡ぼすモノ。アレはジュエルシードによって、現実化した地球と言う星の化身だ。そうであるからこそ、第九十七管理外世界に強く影響を及ぼし合う」

 

 

 先ず大前提となる理解。闇の残夢に関わった者らは当然既知で、そうでない者達でも既に伝えられている最も重要な事実。

 今も天に座し、暴れ続ける百鬼空亡。本来は黄龍と言う名の大地の化身であり、星と生命を同じくする存在。それを滅ぼすと言う事は、地球の滅亡を意味すると言うことを。

 

 今も身を浄める為に、女と言う贄を求める堕ちた龍。彼の龍神の攻撃は執拗で、執着心を感じさせる程の物。

 そんな神に執拗な程に狙われて、その全てを迎撃し続けている高町なのは。白い鎧を纏った栗毛の女は、翡翠の光と共に飛翔しながら無言で頷いた。

 

 

「空亡を殺せば、星が死ぬ。ならば逆説、星が死ねば空亡もまた死ぬ。そして更に逆説、星が治れば空亡も治る。ユーノの奴が組み立てた策の、根幹となる理屈は其処だ」

 

 

 同じく腐った腕に狙われながら、紅蓮の炎と無数の火器で迎撃を続ける金髪の女。彼女は逃げ惑う無数の妖魔達で屍の山を築き上げ、瞬きの直後にその焼き尽くしている。

 夢から零れた魔性とは言え、現実に血肉を持つ存在。その残骸が発する肉が焦げる異臭を前に、顔色一つ歪めていない。そんなアリサ・バニングスは、しかし異なる理由で眉を顰めて舌打ちする。クロノの言葉は、どうにも前置きが長いのだ。

 

 そんな彼女に睨まれて、クロノは肩を竦めて返事とする。今の立場が立場故に、迂遠に語る癖が付いてしまったのだろうかと。何となく思考の片隅に浮かべたまま、彼は本題と言うべき説明を口にした。

 

 

「今の地球は、天魔・母禮の無間焦熱によって死の星と化した。だから堕ちた龍神と言う形を成しているのだとすれば、星を元に戻せばアレは本来の形に戻る。其処まで行かずとも、その存在の本質はぶれる。相互に干渉し合っているのなら、必ず隙は其処に生まれるんだ。……だから、高町」

 

「そっか、その隙に私が、封印魔法を全力で使えば良いんだ。……黄龍に戻るとしても、堕龍が崩れるだけだとしても、揺らいでいる瞬間なら必ず通せる。ジュエルシードさえ封じてしまえば、夢見る夢は唯の夢へと還るんだから」

 

 

 空亡の死が地球に影響を及ぼすならば、地球の繁栄は空亡に影響を与えるのだ。それが繋がっていると言う事。干渉すると言う事は、干渉されると言う事でもある。

 故にユーノ・スクライアは導き出した。堕ちた龍神は、焼かれた地球の象徴だ。ならば地球が正常な形と成ったのなら、堕ちた龍神と言う存在は揺らぐ。地球は改善されたのだから、その化身が堕ちたままである筈がないと言う理屈によって。

 

 少なくとも人の持つイメージが、彼の龍神の中核となっているジュエルシードに影響を与えるであろう。アレは人間の願いを叶える石であるからこそ、夢を現実へと持ち込むことが出来ているのだから。

 ジュエルシードが地球に生きる人の意識に影響を受け、百鬼空亡と言う悪夢を内から作り変える。黄龍へと戻れる程に浄化されるかは不明であるが、それでも変革の瞬間は致命的な隙となろう。その時ならば、封印魔法も通るのだ。

 

 

「で、そもそも、どうやって地球を戻すって言うの! ちまちま木を植えてった所で、唯の徒労よ! 時間が掛かり過ぎるし、そもそも土壌が死んでいる。海水も殆ど蒸発してる状態でしょう!」

 

「ああ、だからこそ――僕の万象掌握だ」

 

 

 爆風によって移動しながら、龍の腕を燃やし続けるアリサは苛立ち混じりに問い掛ける。結局一番重要な所が、迂遠な解説になっていると。

 地球を元に戻せば、百鬼空亡を封印出来ると理解した。それなら次に必要なのは、如何にすれば星を改善出来るのかと言う事。さっさと語れと促すアリサに、クロノは笑みを浮かべて言葉にする。

 

 これこそ、この作戦の根幹部分。クロノが要になると言う理由。そして彼を生贄にすると、それが意味するその内容。

 それは余りにも常識外れで、だがしかし考えれば理屈に適うと分かる物。突拍子もないその発想は同時に、発案者である青年らしいと言える代物だった。

 

 万象掌握の使用。対象を強制転移させると言う異能の利用。それによって地球を再生しようと言う、その理は即ち――

 

 

「地球にある土を、地球にある水を、地球にある風を、地球にある――あらゆる全てを入れ替える。……要は臓器移植と同じさ。周辺世界から少しずつ生きた部位を切り取って、切り貼りして繋げ合わせる。果てに、惑星一つを再生させる!」

 

 

 死んだ地球の一部を切り取り、生きた世界の一部を切り取り、その二つを入れ替える。一つの世界から全て切り取れば、それは星を入れ替えただけで終わるだろう。だから複数の世界から、少しずつ切り貼りするのだ。

 地球と呼ばれる星の本質を変えずして、死んだ部分だけを生きた物へと入れ替える。星の移植と言うべき作業は、多大な数を重ねて意味を成す。一度に移動させる質量だけでも、人一人を動かす様な物とは比ではない消費が伴うだろう。

 

 故にザフィーラは問い掛ける。蠢く魔槍に胴を貫かれ、燃え上がる炎に腐り続けながら、己を停滞させ続ける盾の守護獣は問い掛けるのだ。それを成せば、お前は死ぬぞと。

 

 

「分かっているのか、ハラオウン。其れ程に大量な力を、幾度も発動するそのリスクが」

 

「分かっているさ、ザフィーラ。それでも僕なら成せる。……アイツが信じるこの僕なら、余裕で出来て当然だ」

 

 

 いいや、死ねもしないだろう。既にクロノの等級は陰の拾。人の道を外れに外れたその器は、歪みの全力行使に耐えられない。

 そんな言葉に、彼は笑う。如何に今の彼でも、大陸規模の質量を入れ替えるには全力を出さねばならない。その上その全力行使も、一度だけでは全く足りない。

 

 だと言うのに、嘘吐きな英雄は笑顔を浮かべる。怯懦も震えも英雄と言う名の仮面に隠して、素知らぬ顔で笑い飛ばしてみせるのだ。

 

 

「寧ろ、お前の方が問題だぞ。盾の守護獣」

 

 

 其れは理屈になっていなくても、必ず成してみせると言う意志。英雄が持つ矜持であって、クロノは決して此処では死なぬと決めている。

 だからこそ、此処で危地にあるのは彼だ。悪魔の槍ストラーダに貫かれ、その腐った炎を浴びた蒼き獣。ザフィーラが生き延びる可能性は、最早皆無に等しい状況だった。

 

 

「これから僕は、歪みの行使に全力を尽くす。回避も防御も、何も出来ない状態となる」

 

 

 今直ぐ治療に動けば、もしかしたら何か道はあるかもしれない。それでも、そんな余裕はない。だからクロノは残酷な事実を語る。

 己は動けなくなると、その間に空亡に狙われれば終わると。故に彼を守る為に誰かが必要で、今も市民を守る為に多くの戦力を割いていて、だからこれ以上は無理なのだ。

 

 

「必ず、百鬼空亡は暴れ狂う。何しろ僕らがこれからやろうとしていることは、例えるなら麻酔なしでの外科手術だ。高町も止め役から外せない以上、バニングスとお前だけで空亡を抑えて貰わねばならない。……その傷を塞ぐような、対処を行う余裕はない」

 

 

 百鬼空亡を止めるのに必要なのは、最低でも六課に属する英雄級の実力者が二人。高町なのはには封印に専念して貰いたい以上、後はもう消去法でしかない。

 アリサ一人では止められないのだから、ザフィーラは外せない。例えこの後に消滅してしまうのだとしても、此処から抜けて貰う訳にはいかない。詰まりクロノは、暗にこう語っているのだ。

 

 百鬼空亡と言う名の災厄を封じる為、此処でそのまま死んでくれと。

 

 

「死にたくないなら、下がってなさい! 私一人でも、やってみせるわ!」

 

「……いや、構わん。此処で退いても、俺はもう長くは持たん」

 

 

 一人で止められないと、舐められた物だと奮起する。それが事実だとしても、素直に認めたくはない。そんな感情で甘さを隠して、アリサはそう口にする。

 前線で戦い傷付きながらも語る彼女へ、ザフィーラはその首をゆっくりと左右へ振ると足を踏み出す。暴れ狂う龍へと向かって、今も逃げ回る事で龍神を抑えている高町なのはと入れ替わる為に。

 

 そうとも、元より命は捨てている。この戦場に出て来た時点で、生き延びると言う道はないのだ。

 

 

「残った魔力が尽きるまで、以って一晩と言った所か。消費を抑えようとすれば、腐炎の進行は止められない。……そうとも、この身はもう詰んでいる」

 

 

 今も燻り浸食を続ける腐った炎。何れ停滞し続けることが出来なくなって、この火は盾の全身を無価値に変えてしまうだろう。

 元より彼の身体に残った魔力は少なくて、停滞の鎧を展開し続けていれば一夜と持たず尽きてしまう。停滞の鎧を消した瞬間に腐炎の浸食を遅らせることも出来なくなるのだから、既に彼は詰んでいるのだ。

 

 

「ならば同胞の尻拭いをして、消え去るのも一つの道だ。情けなくも腹立たしいが、仕方がないことでもあるのだろうさ」

 

「……ザフィーラさん」

 

「そう。なら、もう何も言わないわ」

 

 

 見上げる龍は、狂った同胞が生み出してしまった悪夢である。あの雪が降る夜に消えて行った闇の書が、残してしまった骸である。

 決着はまだついていなかった。ならば、それを付けていくのは獣の役目だ。故に終わりの形としては十分過ぎて、仕方がないと納得出来てしまったのだ。

 

 そんな盾と入れ替わりながら、背中を見詰めるなのはは呟く。爆風と共に移動したアリサは、その傍らに立って見詰めることなく、肩だけを並べて口を噤む。クロノは言葉を翻すこともなく、空を支配する龍を睨んで声を上げた。

 

 

「もう話は十分だろう。さぁ行くぞ、お前達。――作戦開始だ!」

 

 

 最早、語るべき事はない。時間も余裕もないのだから、これより作戦を始めよう。その宣言と共に、クロノは己の異能を行使した。

 

 

「万象っ! 掌握っっ!!」

 

「■■■■■■■■■■■■■■――――ッッッ!?」

 

 

 その瞬間に響いたのは、空を大地を震わせる程の大絶叫。何を言っているのか分からずとも、何を言いたいのかは伝わる音。

 痛みだ。苦痛だ。激痛だ。生きたままに腸を引き摺り出されて、鉈で切り落とされて鏝で焼かれる。そんな痛みに彼の龍はもがき苦しむ。

 

 贄と成る女を追う余裕などは既になく、どころか周囲を見る余裕もなく、痛みに震える末期の病人が身体を捩る様にその全身で苦痛を示す。

 麻酔もない外科手術など、耐えられる様な痛みじゃない。ましてや言葉が通じない相手に無理矢理と成れば、それは一体どれ程の恐怖と驚愕と痛みを伴う物となるか。

 

 

「オン・コロコロ・センダリマトウギソワカ!」

 

 

 余りに巨大な龍が身を捩る。九つの首が大地に落ちて、悶えながらに暴れ回る。薬師如来の名を呼んで、常の苛む病など比較にならぬ痛みに吠える。

 そんな首の一つで、生じる被害は天変地異だ。頭部が大地を転がる度に、無数の建築物が瓦礫に変わる。手足をジタバタとさせる様に、上下左右に蠢くだけで都市が廃墟に変わっていく。

 

 たった一つでもそれだ。そんな龍の首は九。生じる咆哮が齎す大震災も相まって、クラナガンの景色は正に地獄絵図。この世の終わりを思わせる、世界が其処には存在していた。

 

 

「六算祓エヤ、滅・滅・滅・滅、亡・亡・亡ォォォ!!」

 

 

 童女の声で、翁の言葉で、苦しみを叫ぶ百鬼空亡。助けて欲しいと荒れ狂う龍の首とは違い、動きを止めていたのは人の相。

 呪符に塗れた包帯の奥から、黄金に染まった単眼で唯一点を睨み付ける。その人型は気付いていた。何故にこんなにも、己が苦痛を感じているのか。

 

 その視線の先には、今も力を発し続けている男。黒き和装の提督こそが、この苦痛を齎している元凶だ。そうと理解した瞬間、百鬼空亡は怒りを抱いた。

 止めろ。止めろ。止めろ。止めろ、と。今も己を苦しめ続けている男に向かって、腐った無数の手を伸ばす。救われたいと縋るのではなく、明確な敵意と殺意を持った攻撃。それは紛れもなく神の怒りと言う、神罰にも等しい威を伴って――

 

 

「はっ、生きたまま腸を引き摺り出された程度で、暴れてんじゃないのよデカブツがッッ!!」

 

 

 神罰がクロノに届くよりも前に、紅蓮の炎が腐った手を焼き尽くす。不快で表情を歪めた女傑が、空亡の前に立ち塞がる。

 そんなアリサの姿に、しかし空亡は見向きもしない。今の百鬼空亡に、そんな余裕は一切ないのだ。己を苛む病より、己を焼いた炎より、今も切り取り続ける万象掌握が最も痛い。

 

 だから、お前は邪魔だと人型の瞳が睨み付ける。龍の身体は暴れ狂って、それでも狙いはクロノのまま。アリサの真横を、空亡の首は擦り抜けていく。

 その光景に、今の状況に、耐え難い程の不快を感じる。余りにも見苦しくて腹立たしくて、怒りに歪めたその表情で、吐き捨てる様にアリサはその言葉を叫んでいた。

 

 

「痛い痛いと嘆くばかりで、鬱陶しいことこの上ない! 泣くのが好きなら、誰にも迷惑が掛からない場所で泣いてろっ! この軟弱者がぁぁぁっっっ!!」

 

 

 この場に現れてからずっと、百鬼空亡はそれしか口にしていない。病が辛いから助けてくれと、切り開かれるのが痛いから助けてくれと、泣いて叫んで暴れている。

 その姿は普通、悲痛と哀れみを誘う物ではあるのだろう。だが、この苛烈な女にとってはそうじゃない。唯々只管に見苦しく、鬱陶しいだけの泣き言だ。泣いて喚いて、それで周囲を傷付けている害悪だ。

 

 戦士には誇りが必要だ。戦場で泣き喚くコレは、決して戦う者ではない。神だから人と同じ括りでは語れないのだと、そんな理屈は言い訳にも成りはしない。神であるからこそ、相応の格と言う物が必要だろう。

 アリサ・バニングスと言う女は、この怪物を認めない。これは戦士ではなく、これは神ではなく、唯の傍迷惑な軟弱者だ。己の痛みに耐えられず、泣き喚いているだけなのだ。だからさっさと失せろと、一切の躊躇いもなく魔弾を放った。

 

 

「彼、我を罵り、彼、我を打ちたり。彼、我を打ち負かし、彼、我を奪えり!」

 

 

 形成されたドーラ砲。其処から放たれた魔王の炎にその身を焼かれて、龍の首が大地の上を吹き飛ばされていく。

 肥大化し続ける爆心地は複数の首を巻き込んで、クラナガンの町並みを業火に包んだ。燃える炎の上で苦痛に跳ねる空亡は、怒りのままに恨みを叫ぶ。

 

 

「斯くの如く、心執する人々に、恨みは遂に熄むことなし!!」

 

 

 お前達の所為だと。地球に生きる人間の所為なのだと。己がこうなってしまったのは、人が星を苛んだ結果であるのだと。

 天魔・母禮が地球を焼いた。その結果として、輝く龍は腐って堕ちた。人が終わった星を夢に見て、百鬼空亡と言う形に歪めてしまった。

 

 だがもしも焦熱地獄がなかったとしても、黄龍は輝く存在のままでは在れなかったであろう。人は余りに、星を傷付け過ぎたから。

 森を切り裂いて、山を平らげて、海を干上がらせ、大地を鉄で覆い尽くした。そうした穢れが輝く龍を、腐った怪物に変えてしまう。人が彼を、百鬼空亡へと変えるのだ。

 

 そんな加害者の一人である者が、百鬼空亡を否定するのか。この痛みに耐えろと、お前はそう語るのか。余りの怒りと憎悪を抱えて、百鬼空亡はそう吠えた。

 

 

「お前の穢れは、人の所為か。……ああ、確かに貴様は人の夢の結晶。斯く在れと歪められただけの存在で、その成立には一片の罪業とてないのだろうさ」

 

 

 言葉が伝わっている訳ではないのだろう。それでも何となく、何を言いたいのかは伝わって来る。

 だから鼻を鳴らして、泣き言など聞かぬと切り捨てるアリサ。彼女と違ってザフィーラは、その言こそ理があるのだろうと認めていた。

 

 だが、認めてはいるだけだ。受け入れた訳ではない。何故ならば――

 

 

「だがな。一つ言わせて貰うぞ、百鬼空亡。貴様と言う存在は見苦しい」

 

 

 泣いて喚いて救ってくれと、その姿は見苦しいから。どれ程に哀れを誘う物でも、優しい人なら手を差し伸べたくなる物でも、ザフィーラはそれを良しとしない。

 それはアリサが苛烈さ故に、戦場に理想を抱くが故に認めないのとは違う。彼は彼自身が抱く矜持が故に、この龍と己との間に共感を抱くが故に、決して良しとは言わぬのだ。 

 

 盾の獣は拳を握る。背負った断頭台で羽搏いて、暴れ狂う龍の元へと。その人型の顔へと向かって、握った拳を振り抜き叫んだ。

 

 

「貴様は、守護者であったのだろう! 例え歪められたとしても、元は人々を守る者であったのだろう! ならば、如何なる理由が在ろうとも――――守護の獣がッ! 守るべき者らを傷付けているんじゃぁないッッ!!」

 

 

 そうとも、痛みに嘆くのは良い。苦しみに耐えられず、助けを求めるのは良い。だが、守るべき人々を傷付けて、恨み言を叫ぶなど守護者としては論外だ。

 黄龍とは、守護者であったのだろう。帝都の守護神として、人を守り続けていたのであろう。ならばそう在り続けるのは、御身が背負った責務である。例え守り続けた者に裏切られたのだとしても、それでも守り続けるのが守護者の矜持だ。

 

 盾の守護獣はそう叫ぶ。守るべき主を失って、腐った炎に己の臓腑を焼き尽くされて、それでも盾の守護獣は叫ぶ。お前が守るべき者は、まだ其処にあるのだと。

 腐った堕龍は目を見開く。守っていた人々に裏切られて、押し付けられた病によって臓腑が腐って、果てに助けて欲しいと泣き喚いていた龍は動きを止めた。これは己と同じ物だと、龍は獣の瞳に見たのだ。

 

 

「……動きが、止まった?」

 

 

 距離を取って魔力を高めていたなのはは、この状況に驚愕する。一瞬前まであれ程に暴れ狂っていた龍が、獣の言葉で一切の動きを止めたのだ。

 そして、無数の首が大地にしがみ付く。歯を剥き出して、地面に噛み付く。それはまるで人間が痛みに耐える為、歯を噛み締めて掌を握り締めるかの様にも見えた。

 

 

「最初から、そうしろって言うのよ」

 

 

 ああ、そうかと。彼の龍は戦士ではなかったが、守護者ではあったのだろう。守護者で在り続けたかったのだろう。その程度の矜持は、確かに其処にあったのだ。

 

 それを認めたアリサは、形成していた武器を消す。最早刃は必要ないと、己の役目は終わっているのだと理解した。

 そして口にしたのは、そんな悪態。出来るのならば最初から、さっさとやれば良いのだ。そう語る彼女はやはり、この場で誰より苛烈であった。

 

 

「精要あるものを精要ありと知り、精要なきものを仮と見る人。正真なる思いに辿り進み、遂に真実に達るべし」

 

「ああ、そうか。お前にも、守護者の矜持は確かにあったか。……ならばそうとも、どれ程変わり果てようと、俺もお前も守護の獣であるべきなのだ」

 

 

 空亡は病を消したかった。黄金の龍に戻りたかった。それは何故か、守りたかったからである。己は守護者で居たかったのだ。

 だから、守るべき人々を傷付けるのは本末転倒。元に戻る為とは言え、それは選ぶべき道じゃない。己と同じ守護の獣の言葉を前に、そんな当たり前の事を思い出していた。

 

 そして、腐った龍は思う。他の誰が言おうと此処まで響きはしなかったであろうと。同じく腐り続ける痛みを抱えて、今にも死を迎えようとしている守護の獣の言葉だからこそ響いたのだと。

 そして、腐った龍はこうも思う。好き勝手に言われて、腹立たしいし悔しいのだと。己にも守護者としての矜持はあって、人々を守りたいと願った気持ちはこの獣にだって負けはしないと示してやりたい。彼はそう思ったのだ。

 

 

「我らは此処、死の領域に在り。道を異にする人々は、この理を知らず。この理を知る人々にこそ、斯くて諍いは止まん」

 

「ああ、そうだ。そうだとも。我らは亡びる。闇の書の闇は何も残さず、此処で全て消え失せる。それで良いし、そうあるべきだ。我らは守護の獣として、共に消え去るを良しとしよう」

 

 

 例えそれはこの今に、僅か一時で消え去ってしまう様な儚い物でも。病の痛みに何れは忘れて、摩耗してしまう想いであっても。その輝かしい光は決して変わらない。

 どれ程に貶められて、どれ程に歪められて、助かる道など残っておらず滅び去るのが宿命なのだとしても――その最期の時まで守護者でありたい。そう願うことが出来たのならば、我らは守護の獣であるのだ。

 

 だからこうして、二匹の守護獣は終わりを待つ。耐え難い痛みに耐えて、臓腑が腐り落ちる苦痛に耐えて、彼らは終幕の時を待ち続ける。最早、決着は付いていた。

 

 

「昼にして夜。冬にして夏。戦争にして平和。飽食にして飢餓」

 

 

 そして、万物は流転する。死んだ命は生きた世界へ、生きた命は死んだ世界へ。互いに溶け合い、共に新たな生を待つ。

 秋に枯れた草花が、冬の雪の中で眠り続けて、春の訪れと共にまた芽吹いて、夏の日差しの中で育つ様に。星はまた産まれ直す。

 

 

「火は土の死により、風は火の死により、水は風の死により、土は水の死による」

 

 

 けれどまだだ。まだ世界は死に掛けたままであり、産み直しには命が足りない。異なる場所から少しずつ、集め続ける必要がある。

 命を一つ集める度に、クロノは一つ血を吐いた。己の肉が蠢いて、機械を取り込み歪んで行く。肉体が人間の物ではなくなっていく実感の中で、彼は力を使い続ける。

 

 

「万物のロゴスは火であり、アルケーは水であれば、そに違いなどはなく四大に生じた物は四大に返る」

 

 

 意識が飛ぶが、舌を噛んで痛みで戻す。思わず力が入り過ぎて噛み切ってしまった肉片を、血反吐と共に吐き出して咒を紡ぐ。

 口内に出来た傷も、一秒後には塞がっている。だがそれは元通りに成ることを意味してはおらず、壊れる度に彼の身体は異形のそれに変わっている。

 

 けれど、まだだ。少しずつ星は息吹を取り戻していて、産まれ直しはもう直ぐだ。だからまだ、クロノは耐えて力を使う。

 成し遂げるのだと信じられている。やってみせると、心に決めた。だから彼は決して止まらず、当たり前の様に成し遂げてみせるのだ。

 

 

「此処に――万物は流転する(ΤΑ ΠΑΝΤΑ ΡΕΙ)!!」

 

「見えた、今こそ――ッ! レイジングハート!」

 

 

 地球と言う星の大地に、小さな芽が開いていた。地球と言う星の海に、小さな魚が泳いでいた。地球と言う星の大気に、生の鼓動が響いていた。

 そして、百鬼空亡は崩れていく。ジュエルシードと言う核では夢と現実の齟齬を結び合わせることが出来なくなり、百鬼空亡の身体が透き通って崩壊し始める。

 

 この瞬間こそを待っていた。高町なのはは全身から膨大な魔力を放って、始まりの魔法を此処に唱える。翡翠の光が撃ち抜くのは、その災厄の根源だ。

 

 

「リリカルマジカル! ジュエルシード、シリアル5。封印!」

 

「sealing」

 

 

 巨大な龍が、光と消える。その災厄はこうして、守護者の矜持と共に夢へと溶けた。空に残るのは唯、蒼く小さき石が一つ。

 高町なのはは何を言うでもなく、レイジングハートの中へとその宝石を収納する。ロストロギアが封印されたと言う事実を、電子音だけが静かに告げた。

 

 

「receipt number V」

 

「……漸く、終わったね」

 

 

 何故だか無性に、愛しい彼に逢いたくなった。白き衣の女は静かに、獣が居た筈の場所を見詰め続ける。

 

 

 

 解決劇はこれにて、終わり。舞台の後に残るのは何時だって、寂しさを伴う別れであった。

 

 

 

 

 

3.

 壊れ果てたクラナガンの町並みで、男は消滅の時を待つ。断頭台の刃は消えて、彼本来の姿へと。ザフィーラは静かに、空を見上げて溜息を吐いた。

 

 

「……これで、本当に終わり、か」

 

 

 後悔はない。悔いなどないと、そう語れれば良かった。けれど、そんな筈はない。これで終わりで、どうして納得出来ようか。

 けれど、他に道などなかった。守護者の矜持が、異なる道など許さなかった。結局、盾の守護獣はどうしようもない獣であった。彼は何処まで行っても守護者のままで、復讐者には成り切れなかったと言う訳だ。

 

 

「申し訳ございません、主はやて」

 

 

 曇り空を見上げたまま、零れ落ちたのは謝罪の言葉。失われてしまった彼女の為に、己は何が出来たであろうと。

 ああ、きっと何も出来ていない。それがどうしようもない程に情けなくて、主が愛した景色を留める事も出来なったのが情けなくて、唯只管に情けなかった。

 

 だから、彼は空を見上げる。瞳から零れ落ちそうになる物を流してしまうのは、流石に情けないにも程があったから。だから彼は、空を見上げ続けている。

 

 

「貴女の仇も討てずに終わる愚かな盾を、どうか許さず――」

 

 

 詫びる言葉を口にしていたその途中、ふと言葉が止まる。見上げた瞳に冷たい欠片が、儚く柔らかな物が触れて溶けた。

 その白い欠片は、季節外れにも程がある物。あの日、闇の残滓を見送る様に、振り続けていた白い雪。あらゆる罪を覆い隠してくれるような、白くて深くて優しい雪。

 

 何故だろうか、幻覚が見えている。そうとも、これは幻覚でなくてはならない。主を守れず、仇も討てず、無価値に消える男が見て良いものじゃない。

 そうと分かっているのに、消えてくれないのは小さな少女の微笑みだ。もう景色すら映らなくなった瞳に何時までも焼き付いていたのは、車椅子に座った少女の優しい笑顔。

 

 それで良いのだと、彼女はずっと微笑んでいた。これではいけないのだと、己はずっと叫んでいた。

 けれど言葉はもう語れず、けれど互いに語らう事などもう在り得ない。だから今は帰るとしよう。己が愛した、彼女の下へ。

 

 

「嗚呼、そうですね。今、御身の下へ」

 

 

 カランと、歪な槍が地面に落ちる。腐った炎が、男を包んだ。

 そうして盾の守護獣ザフィーラは、無価値なゴミに変わって消えた。

 

 

 

 後には何も、残らない。夢見る夢と共に、闇の残滓はこうして全てが消え去ったのだった。

 

 

 

 

 

 和装の男は、大地に膝を付く。込み上がる吐き気に口元を抑えて、嗚咽と共にどす黒い臓器を口から吐いた。

 異変はそれだけでは済まない。腐臭の生じる臓器を吐き出し、蠢く身体は最適化されていく。歪みを使うだけの肉塊に、彼の身体は変じていく。

 

 

「ぐっ、げ――っ」

 

 

 手足は要らない。動く必要などはないから。頭脳は要らない。思考する必要などはないから。心は要らない。クロノ・ハラオウンなど居なくとも、歪みの行使は出来るから。

 ぐじゅりぐじゅりと蠢く身体は、己の意志に反応することすらなくなっていく。生存に必要なくなった臓器を排泄しながら、彼は人としての終わりに向かい続けていて――――だから、彼女は問い掛けた。

 

 

「介錯は、必要?」

 

 

 人として終わる前に、葬送の火は必要か。問い掛ける苛烈な女傑の言葉に、男は意識を取り戻す。

 そうして腹に開いた穴から排泄された臓器を無理矢理体内へと押し込むと、歯を食い縛って意志を返した。

 

 

「……不要、だ」

 

 

 まだ終わらない。まだ終われない。生きるに足る理由があって、死ねない理由があって、だから此処では終わらない。

 電気変換した魔力を使って、己の半身を構築する戦闘機人の部位に命じる。肉塊へと変じる身体を鋼鉄の腕で叩いて潰し、無理矢理に人型を保ちながら彼は立つ。

 

 見下ろす女に嘘を吐く。己自身に嘘を吐く。もう限界など超えているけど、まだ大丈夫だと信じられている。だから、笑顔を張り付け強がって見せるのだ。

 

 

「僕は、まだ、終わらないさ。お前の炎は、必要ない」

 

「……そう」

 

 

 嘘を見抜いて、しかしアリサは何も言わなかった。男が矜持に賭けて、耐えてみせると嘯いているのだ。ならば信じてやるのが、良い女の証であろう。

 立ち上がって、歩き出す。クロノの背中を追うことなく、彼を手助けしようともせず、黙ったままに見届ける。その行き着く先に救いがなくとも、せめて納得出来れば良いと祈りを抱いて。

 

 

「これから暫く、僕は、御門の跡地に籠る。暴走する歪みも、あそこなら少しは、マシになる筈だ。……後は、任せた」

 

「ええ、任されたわ。アンタの仇敵が出て来たら叩き起こしてやるから、それまで暫く寝てなさい」

 

 

 こうして、クロノ・ハラオウンは表舞台から姿を消した。それでも、彼はまだ終わらぬのだろう。耐えてみせると、友に語ってみせたのだから。

 故にアリサ・バニングスはそう返すのだ。今を生き延びても、そう長くは持たない戦友へ。お前の死地が来たのなら、その時には呼んでやる。だからそれまでは寝ていろ、と。

 

 

 

 

 

 

 そして、一つの戦場の終わりは、もう一つの戦場の終幕も意味していた。

 

 

「……空亡が、消えた?」

 

 

 空を覆っていた巨体が消えた。その事実を前に、エリオは茫然と一人呟く。己が動かねばどうしようもないと、そう考えていた神格の怪物が突然消えたのだ。虚を突かれるのも当然で、信じ難いと瞠目するのは必然だった。

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ、エリオ、エリオォォォォッッ!!」

 

「ち――っ! いい加減に、鬱陶しいんだよ君はっっ!!」

 

 

 狂気と執念に満ちた隻眼で、傷だらけの少年が飛び掛かって来る。それを真っ向から迎撃して、圧倒して吹き飛ばす。

 それは先から何度も起きた攻防で、常に優位に居たのはエリオだ。如何にトーマが強化されたとは言え、如何にエリオが疲弊していたとは言え、彼我の実力差は明白だった。

 

 水銀の知識もそれを覆すには至らず、黄金の束縛もそれを覆す程には至らず――されどその差を僅かな物へ、埋めるには十分だった。

 傷だらけのトーマを圧倒し続けたエリオは、しかし止めを刺すには至れなかった。こうして今の今まで足止めされて、戦闘は終わってしまったのだ。

 

 

「んで、もう戦う理由は無くなったみたいだけど、まだやる?」

 

「…………」

 

 

 血塗れのトーマに寄り添う少女が、銃口を向けながら問い掛けて来る。魂だけの身体と成った為に損傷はなく、だが疲弊の色は隠せていない。そんなティアナが、さてどうすると問い掛けていた。

 

 

〈さて、どうするね。相棒? 果たすべき目的は先を越され、今となって出来ることなど唯の八つ当たりに過ぎないが?〉

 

「…………」

 

〈いいぞ、殺すか? 惚れた女に嫌われた苛立ちを、こいつらを使って発散するかい? いいねぇ、それは実にみっともなくて格好悪くて悪魔(オレ)の好みだ〉

 

「……黙れ。ナハト」

 

 

 これ以上続けても、最早何の意味もない。唯の八つ当たりにしかならないぞと、悪魔が内側でせせら笑う。

 こういう時ばかり元気になる寄生虫の言葉に苛立ちながら、しかし何も言い返せない。彼の語る言葉は何処までも、真実でしかないからだ。

 

 これ以上戦う意味などない。此処で彼らを蹴散らしたとて、その後にするべき事など何もないのだ。だから唯の八つ当たりにしかならなくて、それをするのはどうしようもなく情けなかった。

 

 

「まだだ! まだ終わらせない! 逃げるなエリオォォォ! お前は、お前だけはァァァァァッッ!!」

 

「……アンタも黙ってなさい。馬鹿トーマ」

 

「だ、だけど! だけどっ! ティアッッ!! アイツはエリオで、エリオはティアを! だから逃す訳には、いかなくて!!」

 

「情けない目でこっち見んな。ってか、このまま続けば負けるのは私達の方だっつーの!」

 

 

 宿敵である少年は、憎悪と憤怒を抑え切れてはいないのだろう。最愛の少女が止めなければ、今にも飛び掛かって来そうな殺意に満ちている。

 その片割れである少女は、完全に気を抜いてしまっている。戦いはもう終わったと、今更エリオは襲って来ないと。それは事実だからこそ、腹立たしいと感じる態度。

 

 倒したい。潰したい。殺したい。もう二度と邪魔が出来ぬ様にと、だがそれは所詮自分の感情でしかない。大嫌いな自分の、身勝手でしかないのだ。

 彼女を守ると、そんな大義名分はもう存在しない。守る為に殺すのだと、そんな理由ではもう偽れない。己が守らないといけないのだと、そんなのは思い込みでしかなかった。

 

 

「…………」

 

「ひぅ。――っ」

 

 

 目が合った。愛しい少女は、その瞬間に息を飲んだ。その目は恐怖に染まっていて、その声は拒絶に満ちていて、その身体は震え続けていて――

 

 

(ああ、そうか。そうだね、これが僕の選んだ行為の結果か)

 

 

 それが、エリオ・モンディアルが選んだ結果。彼が望んで為したことに対する、罰でも褒賞でもない、唯の結果だ。

 

 

(ごめんね、キャロ。そう詫びることすら、もう僕には許されないことなんだろう)

 

 

 視線を外して、安堵の息から耳を逸らす。もう戻らないその関係に、覚悟はしていた心算なのに、何故だか泣きたくなってしまった。

 そんな弱さに、苦笑する。まだ弱いのだと、嘆息する。もっと強く成らねばと、この敗北を胸に刻む。そうとも、これは久しい敗北だった。

 

 

「認めてやるさ。機動六課。……今回は僕の敗北だ」

 

 

 愛する人に嫌われる。その覚悟をしてでも、守ろうと思った。結果として嫌われて、守る事すら出来なかった。それを敗北と言わずに何と言う。

 エリオが居なければ、もっと良い結果に終わっていたのは確実だ。トーマは壊れず、ティアナは肉体を失わず、ザフィーラは死なずに終わった筈だ。唯邪魔する形になったこの状況を、敗北と呼ばずに何と呼べば良いのだろうか。

 

 

「敗北、だと?」

 

 

 獣を葬った魔槍を呼び戻し、敗北を認めて立ち去って行くエリオ・モンディアル。

 彼の言葉に対し、トーマ・アヴェニールは激昂する。今の彼は近視眼的にしか物事を見れない程に狂っていたから、その言葉を受け入れることが出来なかったのだ。

 

 

「これが、勝利、だと!?」

 

 

 今のトーマに、認識出来る存在は二人だけ。その内一人であるティアナが唯一無二の味方なら、もう一人であるエリオは世界で唯一人しか居ない大敵だ。

 故にエリオにとっての敵は己しか居らず、エリオの敗北は即ち己の勝利である。狂って壊れたトーマ・アヴェニールにとってはそれが世界の真実で、だからこそ彼は許せない。

 

 

「ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!!」

 

 

 愛する人が肉体を失ったのに、それの何が勝利だと言うのか。己は敵に勝てなかったのに、一体それの何が勝利だと言うのか。

 武器を手に取り、立ち去る背中を追い掛ける。そんなトーマの身体を背後からティアナが羽交い絞めにして、それでもトーマは怒りの声を上げ続けた。

 

 

「逃げるなっ! 戻って、俺と戦えぇぇぇぇっ! エェェェェリオォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 比翼連理は全て対等。今のトーマとティアナの力は同一で、だからこそその束縛を振り解けない。それは即ち、対等で無ければ振り解けていたと言う事。

 この今、この一瞬。トーマはエリオの事しか見えてはいなかった。己にとっての最愛すらも視えなく成る程、憎悪に満ちた声で叫ぶ。届かぬ手を伸ばして、悪意の言葉を叫び続けた。

 

 それでも、エリオ・モンディアルは止まらない。愛する人でも止められないのに、既に切り捨てた宿敵の言葉程度で立ち止まる筈がない。

 エリオはそのまま、何処かへと消え去った。そんな彼の背が消えるまで怒りを叫び続けたトーマは、悔しさと共に大地を叩く。彼も結局、届かなかった。

 

 

 

 大地の戦場も、此処に幕を閉じる。勝利者など居ない、敗者だけの戦場はそうして終わりを迎えたのだった。

 

 

 

 

 





 両面宿儺の女面、本城恵梨依は先に語った。「アイツを倒した子なんだから、知らないまんま終わっちゃうのは流石にないな」と。

 もしも彼女が声を掛けなければ、宿儺との戦いで疲弊し切っていたエリオは目を覚まさず、この戦いに参加することもなかっただろう。
 そしてエリオが居なければ、トーマは壊れず、ティアナは死なず、ザフィーラは消えなかっただろう。もしかしたらクロノも、市民救助が効率的に進んで、今より被害が少なく済んでいたのかも知れない。
 少なくともエリオ・モンディアルが、キャロに拒絶されることだけは起きなかった筈である。

 ならばさて、本城恵梨依は何を望んで、誰の為に語ったのであろうか…………




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第十二話 慈愛の華 月村すずか

【悲報】生きてた
【悲報】死んでた

ベェェェェェェェェェェェェェェェェェェイッッ!!


1.

 あの日、あの時、あの瞬間に、少女は初めて理解したのだろう。飛び散る鮮血。失われる温もりに、漸くそれを知ったのだ。

 

 其れは痛み。胸が張り裂けそうな程に、心が切り刻まれるかの様に、無数の感情が嵐と成って駆け抜ける。其れが齎したのは、痛みであった。

 共に過ごした友らに起きた惨劇に、大切な誰かが失われると言う悲劇を前に、少女は漸くに理解した。痛みと呼ぶしかない激情を、その時まで理解する事すら出来ていなかったと言う事を。

 

 そうとも、分かっていた気になっていた。己の身に起きた過去。今も見続けている赤い夢。そうした悲劇を乗り越えて、ゆっくりとした速さでも、確かに進めていたのだと。

 しかし違ったのだ。それらは既に過ぎ去った時に過ぎなくて、誰かに聞いた悲劇であって、記憶の断片にしか過ぎなくて――あの瞬間に見せ付けられた惨劇とは、何もかもが違っていたのだ。

 

 

(……エリオ君)

 

 

 エリオ・モンディアルと言う少年は、少女にとっては優しく儚い人だった。共に過ごした日常で、彼を確かに知っていると。そう思い込んでいた。

 エリオ・モンディアルと言う少年は、誰かにとっては悍ましい悪魔であった。息をするより容易く命を奪って、それを無価値と蔑み踏み躙る。そうすることを当然と、必要ならば容易く出来る。そういう面を持っていた。

 

 一面だけが全てじゃないと、分かっていた心算だった。そんな顔があるのだとしても、全て受け止められると思っていた。けれど実際にはそんなこと、出来る筈がなかったのだ。

 そうとも、あの日、あの時、あの瞬間までは、少女はまるで理解してはいなかった。不器用に微笑みながら、儚い物を壊さない様にと触れてくる。あの優しい少年が背負っていた、業の昏さと罪の深さを。

 

 

(……エリオ君)

 

 

 友が死んで、友が狂って、友が変わった。そんな惨劇の中で己は唯、怯えて震える事しか出来てはいなかった。その業と罪に飲まれていた。

 唯々理解が追い付かなくて、けれどそれではいけないと追い詰められる様に追い掛けた。何も心が定まらぬまま逃げる様に駆け出して、その先で追い付いてしまった。

 

 何がしたかったのだろうか。その程度、考えて動いておくべきだった。そうすれば、何かが変わっていたのかも知れないから。

 何が出来たのであろうか。その程度は、答えを出しておくべきだったのだ。そうすれば、何かが変わっていたのかも知れなかったのだから。

 

 けれど何も定まらぬままに追い付いて、彼と目を合わせてしまった。その瞬間に喉は悲鳴を上げて、身体は震えて膝を屈した。

 抱いた恐怖を乗り越える程の覚悟が其処にはなかったから、何も出来ずに震える事しか叶わなかった。そんな愚かな行動が、彼を更に追い詰めた。

 

 今もこの目に焼き付いている。昏い業と深い罪。それを抱える彼の姿に恐怖を覚えて、そんな少女の姿に泣きそうになったその瞳を。

 ああ、そうだ。恐ろしいだけが彼ではないと知っていたのに、一面だけしか見れなくなった。優しい面しか見ていなかった少女はその時、恐ろしい面しか見れていなかった。

 

 その目を見て、そう理解した。本当に、何も分かってはいなかったのだと。けれど震えるだけしか出来なくて、彼はもう去ってしまった。あの一瞬は、もう戻らない。

 

 

「後悔、しているんだね」

 

 

 仄かに甘い匂いが香る病室の中、女が優しく声を掛ける。白衣の女性の言葉に対し、キャロには肯定しか返せない。

 後悔している。ああ、そうだとも後悔している。あの時に何が出来たのか、何をしたかったのか。定まらぬのなら、動くべきではなかったと。

 

 そうとも、この胸に走る痛みの内には無数の悔いが蠢いている。不思議と安らげる香りの中でも、この痛みは薄れない。

 それ程に大切だったと、そう胸を張る事が出来たのならば良かったのだ。けれどそんな強がり程度も言えなくて、少女は今も震えている。

 

 抱き締めた白き翼の竜が、顔を見上げて小さく鳴いた。何かを伝えようと翼で腕を叩いているが、そんな必死ささえも今のキャロには伝わらない。

 優しく見下ろす紫髪の女医。無意識に起こすあらゆる所作が、異性を誘う淫靡な華にも見紛う色気を纏う。そんな美女が浮かべている表情にすら、今のキャロは気付けない。

 

 何処か胡乱な瞳で思い浮かべる。此処に抱えたのは後悔だ。もっと何かが出来た筈だと、もっと何かをするべきだったと、或いは何もするべきじゃなかったと。

 それだけで胸が一杯で、口から発する言葉は支離滅裂と筋道すらも立っていない。それでも嫌な顔一つせず、美女は相槌を共に声を聞く。それは美女が己の行為に、矜持を持つが故なのか。

 

 

「それとも、怒っているのかな?」

 

 

 少女の漏らした言葉から、思案を重ねて問い掛ける。その姿は正しく魔性。夜の一族と言う血に生まれて、血染の花を取り込み目覚めた美貌は美し過ぎる。

 甘い匂いも伴って、まるで桃源の夢を見ているかのよう。本人にその気がなくとも、彼女は容易く人を狂わせてしまうのだろう。そんな妖艶さを、女は逆に利用する。

 

 そうした趣味がない同性さえも腑抜けとしてしまえる程、魅力的な光と音と香りと熱。人の五感に訴えかける言葉使いと仕草を以って、向き合う者の心をゆっくりと解き解す。

 だから、であろうか。少年を拒絶してしまってから一夜が明けて、丸一晩眠れなかったこの少女。寝不足のキャロは彼女のカウンセリングを受けながら、気付けば何もかもを吐露していたのだ。

 

 

「後悔しているとすれば、一体何に対してだろう? 止められなかったこと? 抱き締められなかったこと? それとも、出逢わなければ良かったこと?」

 

 

 問われて思う。一体何に、己は後悔しているか。彼を止められなかったこと。泣いている様に見えたのに、抱き締めて上げられなかったこと。その二つは、きっとそう。

 キャロはそれを後悔していて、だから最後の一つには首を振る。起きた悲劇を嘆いていても、出逢わなければ良かったとは思わない。出逢えなければ、得られなかった日々があるから。

 

 

「怒っているとするならば、それは一体何に対してだろうね。壊した彼に? 止められなかった自分に? それとも、最悪と言える運命に対してかな?」

 

 

 問われて思う。一体何に、己は怒りを抱いているか。壊した彼。それを止められなかった自分。そうなってしまったこの運命。ああ、そうだろう。その全てに腹が立つ。

 キャロは全てに対して怒っていて、だからこれで終わるだなんて納得出来ない。したくない。結論はきっと其処にあるのだろうと、美女は幼子を言葉で導く。淡く淫靡な微笑を浮かべて。

 

 

「答えはどうあれ、貴女は強く執着しているんだよ。だから、ずっとずっとその事を、今も考え続けているんだね」

 

 

 窓から差し込む日差しの中で、カウンセリングは続いていく。女は少女が抱く想いの輪郭を少しずつ掴んで、それを一つの方向へと。

 少女自身が自覚出来ていない感情を、魔性の美女は導いていく。それが必要だと思うから、寝不足な彼女の頭を撫でて、暴れる白き飛竜を落ち着かせ、彼女は微笑み語るのだ。

 

 

「まだ大切だって、きっとそれはその証拠。キャロちゃんにとってその日々は、きっと何に変える事も出来ない宝石だったと言えるんだよ」

 

 

 微睡む瞳で見上げた少女に、美女は優しく微笑み聞かせる。貴女は今も少年を、彼と過ごした日々を大切だと思っているのだと。

 それはきっと事実であろう。誰にだって否定できない程に明白で、だからこそキャロの心にすんなりと入り込んだ。彼女の心に、明確な形を与えていた。

 

 ああ、そうだとも、大切だ。そうでなければどうして、あの時拒絶してしまったことを今も後悔しているのか。

 ああ、そうだとも、大切だ。そうでなければどうして、容易く人を壊してしまう彼の所業に、それを止められない自分に、こうも怒りを抱くのか。

 

 

「なら話は簡単。次に機会があったのなら、それを伝えてあげれば良い」

 

 

 微笑む女性は容易く語るが、そんな簡単に行くだろうかと疑問を思う。もう遅いのではないかと、そんな風に思ってしまう。

 だって、自分は拒絶してしまった。恐怖から受け止めることが出来ずに、震えていることしか出来なかった。次があったとしても、動ける保証なんてない。

 

 悩みは尽きない。己の抱いた想いに気付いたからこそ、少女の抱いた悩み事は膨れ上がる。戸惑うキャロにくすりと笑って、美女は優しく抱き締めた。

 

 

「大丈夫。遅くはないわ。寝て起きてからでも、きっとね。先ずはその時の為に、ちゃんと休んで元気になっておきましょう」

 

 

 思い詰めた状態では、良い案なんて浮かばない。先ずは身を休めねば、いざという時に動けない。美女の語りはつくづく尤も、道理に適ったことである。

 だからキャロは頷いた。何故か己の衣服に噛み付き続けるフリードを抱えて、少女は女の言葉を受け入れる。答えが出せたお陰であろうか、何時しかとても眠たくなっていた。

 

 

「ふふっ、眠そうだね。無理もない、のかな。……奥のベッドなら空いてるから、良ければ使っていく?」

 

「……お言葉に、甘え――」

 

 

 言葉は、最後まで続かなかった。ゆっくりと意識は暗転して、少女は眠りの中へと落ちる。抗おうとは、思えなかった。

 そんな少女を支える女の身体。頬に当たった双丘から、強く感じる甘い匂い。それに違和を感じながらも、キャロとフリードは意識を失った。

 

 すうすうと寝息を立て始めた少女と飛竜を腕に抱えて、紫髪の美女は笑う。眠る子らをベッドに横たえ、白い薄手の布団を掛けて、桃色の髪を撫でながら深い笑みを浮かべていた。

 

 

「ふふっ、良く効いてる。ちゃんと眠るんだよ、キャロちゃん。――――大丈夫。起きたらきっと、貴女の全てが、変わっているわ」

 

 

 それは己の血を嫌って、人を狂わせる魔性を可能な限り抑え続けていた女の笑みとはまるで質が違っている。

 最早、真逆だ。誰よりも己を認める自愛の笑みで、己の魔性に狂う人を蔑む嗜虐の色で、その色香を解き放つ。

 

 そんな女の姿はまるで――――雨に濡れた紫陽花の、葉の裏側を連想させるかの如く。何処か淫靡で、醜悪だった。

 

 

 

 

 

2.

 中天に浮かぶ陽光が差し込む室内に、響き渡るは金属音と咀嚼音。作法の一つも成っていない食事の音が目立つ程には、異なる音が存在しない。

 ストローに息を吹き込んで、グラスの中で泡と変える。時に意味もないそんな行為に対面に座す少女は眉を顰めるが、ルーテシアに言わせれば不作法なのはお互い様だ。文句を言いたそうにする前に、真横の要介助者を如何にかするべき話であろう。

 

 

「はい。出来たよ」

 

 

 そんな事を考えていると何時の間にか結構な時間が経っていたのか、追加で注文していた品物を持って食堂の主がやってくる。

 

 金髪の若い男性は微笑みを絶やさず、片手で器用に料理を並べていく。その量は四人掛けのテーブル席が埋まる程で、見ているだけでも食欲が失せていく。

 ボリュームの少ないサンドイッチを頼んでおいて良かったと内心で己の判断を称賛しながら、ルーテシアは軽い謝意が籠ったお辞儀で礼を示す事にした。

 

 

「ありがとうございます」

 

「…………」

 

 

 同じくお辞儀をしてから、ルーテシアと違って感謝の言葉を返すのは半透明な姿となったティアナ・L・ハラオウン。足は付いているが、気配すらも薄いその姿はまるで亡霊の様でもある。

 対して茶髪の少年は、礼は愚か反応すらも示さない。無視している、と見えなくもないが実態は違う。ティアナから説明を受けて、実際に試してみて、嫌と言う程に彼らは理解してしまった。

 

 表情に苦みを滲ませるユーノの姿も、向き合って座っているルーテシアの不作法も、湯気を立てて並ぶ料理の山も、路傍に転がる小さな石も、今の彼には全てが同じ物にしか見えない。それを正しく、認識する事が出来ないのだ。

 白い包帯に覆われた顔に、残った唯一つの瞳。白き双蛇が浮かぶ左の瞳に映るのは、今ではたった二人だけ。それ以外に色はなく、全ては唯の背景画。聞こえて来る音すらも、雑踏が奏でる遠い雑音でしかない。

 

 そんな己に、違和感すらも覚えられない。それがおかしいと思うことすら出来はしない。一体どんな気持ちなのだろうかと、考えても答えは出ないのだろう。共感などは出来ぬから、人はそれを狂人と呼ぶのだ。

 

 

「ほら、トーマ。新しい料理来たわよ」

 

「ん? あ、ありがとう。ティア」

 

「礼を言うなら、ユーノさんに言いなさいよ」

 

「ゆうのさん? 何それ? ティアは偶に、変なこと言うよね」

 

 

 擦り抜けてしまいそうな程に儚い手で、ティアナが料理の盛られた皿を取る。そうして声を掛けながら、意識を向けさせる事で彼は漸くに認識する。

 愛しい少女に変じた右目が映した世界には、まだ色が僅かに残っている。ティアナが食べ物だと告げたのなら、トーマはそれを食事であると解釈出来た。

 

 それでも、人名や固有名詞はやはり理解していない。作った人の名前は勿論、目の前にある食べ物の呼び名すらも分かっていない。ティアナが食べろと言ったから、彼は食べている。唯それだけでしかない。

 少し寂しそうに立ち去るユーノに、ティアナは頭を下げてからトーマの世話を焼く。ボロボロと零す彼の口元を布で拭って、仕方がないと優しく微笑みながらに甲斐甲斐しく。そんな変わった友らを見詰めたまま、ルーテシアは思う。

 

 変わってしまった。僅か一晩で、変わってしまったのは彼らだけじゃない。己の周りや、最愛の妹の心すら、あの夜は大きく塗り替え過ぎ去った。

 友の死を間近で見た。友の変貌を間近で見た。妹が恋い慕っていた気に食わない少年が、それでも妹の味方であってくれると信じた彼が、何もかもを壊し尽くした。

 

 

(エリオ・モンディアル)

 

 

 罪悪の王が為した所業に、思う所は当然ある。今も心に燻る熱は、怒りや憎悪と呼ぶのが相応しい感情だろう。

 よくもあの子を裏切った。よくもあの子を傷付けた。よくもよくもよくもよくも、アレは最早己にとって許すまじ大敵だ。

 

 思い浮かべるだけで頭が怒りの色に染まる程、恨み辛みは際限なく溢れ出してくる。

 思い浮かべる度に身体が震える。その惨劇に、恐怖や怯えを感じぬ程にルーテシアは外れていない。

 

 けれどその二色だけにはならない。怒りでも、恐怖でもない。他にも渦巻く色があるのは、何より大切なあの娘の想いがまだあるから。

 

 

(キャロは、まだアンタのことを)

 

 

 同じ時を過ごした姉妹である。態々口に出して語らずとも、抱えている悩みの類を察する事なら当然出来る。その程度の絆はきっとあると信じている。

 だからこそ、ルーテシアは気付いていた。己の妹が何に後悔し、どんな想いを抱えているのか。そうと気付いていたからこそ、心を満たす色は単純な物になってくれない。

 

 あの子を泣かせたなと怒りを叫んで、殴り飛ばして解決出来たらそれで良かった。けれど今もキャロが胸に想いを抱えるなら、自分が前に出るのは筋違いな話になるのだろう。そんな風にも思うのだ。

 

 

(でも、やっぱり許せない。キャロを泣かせたことも、トーマを壊したことも、ティアナを死なせたことも、決して許して良い訳がない)

 

 

 だが、人は感情で動いてしまう生き物だ。理屈で無粋と分かっていても、この苛立ちや怒りと言った感情は抑えられる物ではない。

 余りにも、エリオ・モンディアルはやり過ぎた。奪われたのだ。親しい者らが。傷付けられたのだ。大切な人々が。それをどうして、許すことが出来ようか。

 

 

(それにアンタが居なければ、あの人達だって、きっと生きてた筈なのよ)

 

 

 そう思ってしまうのを、弱さと責められる者など居ない。そしてそう思ってしまった事は、きっと一面では真実だろう。

 多くの者を亡くした。多くのモノが奪われた。許さぬ認めぬと否定して、拳を振るうは道理であろう。そうなると分かっていて、彼は奪った筈だろう。

 

 そんなことばかり考えてしまう。大切な妹も悩み苦しんでいると言うのに、それが分かっていて顧みる余裕がない程にルーテシア・グランガイツも悩んでいる。

 己はあの少年を許せない。今も誰かを苦しめ傷付ける罪悪の王に、妹を任せるなんて出来ない。けれどキャロにまだ想いがあると言うなら、それを阻むのは正しいのか。そうも悩んでしまうのだ。

 

 懊悩に答えは出ない。単純に出してはいけないことだ。無駄な行為であるのだとしても、無価値で非効率な事だとしても、きっと悩み続けた日々には意味がある。

 簡単に出せてしまえる答えは軽い。其処に籠った想いがどうあれ、悩む必要がないと言う事はそういうこと。比較した何かを、心の何処かで軽んじている。軽く思えぬからこそ、少女は迷いの中に居た。

 

 

「ところで、キャロは何処行ったのよ?」

 

「あの子なら、カウンセリングを受けに医務室へ行ってるけど。それがどうかしたの?」

 

「別に、何時もセットなのに珍しいと思っただけよ」

 

 

 そんな苛立ちを発散するかの様に、ぶくぶくとグラスの中身を泡立て続けるルーテシア。彼女の行為が八つ当たりに過ぎないと察せる程度には賢しく、だが不快には思ってしまう程度には狭量なティアナは問う。

 何時も一緒に居る姉妹は何処へ行ったのかと、そんな問い掛けに少女は直ぐに答えを返した。己以上に悩んでいた妹に、カウンセリングを進めたのはルーテシアなりの思い遣り。今の自分には余裕がないと自覚していればこそ、彼女は素直に大人を頼る事にしたのだ。

 

 故にこの場に、キャロ・グランガイツの姿はない。彼女だけでなく、フリードや古代遺産管理局の局員達の姿もなかった。

 閑古鳥が鳴く食堂内に、ルーテシア達を除けば居るのは食堂の主とその一家だけ。厨房で作業しているユーノ・スクライアと、彼を手伝う高町なのは。そして二人に付いて回る、見覚えがない小さな少女。

 

 それだけしか居ない理由を、彼女達は既に知っている。この基地に所属する全ての者らに、その連絡は行き届いていた。

 

 

「それにしても、このタイミングでね。隊員全員の一斉健康診断だとかで、すずかさんも忙しいんじゃなかったかしら」

 

「百鬼空亡の影響が残ってないかの確認の為に、って奴でしょ。そっちはあくまで確認と予防がメインだから、目に見えて体調が悪い人は優先してくれるって話よ」

 

 

 クラナガンを襲った堕龍の存在。神格域の怪物との戦闘で起きた悪影響を確認する為、と言う名目で今朝方に健康診断の布告があったのだ。

 一部の者らを除いて、全隊員に行われる一斉検査。今回は簡単な採血検査で済ませるから、本日中に一度は医務室に寄る様にと。誰もがその言に違和を感じない。

 

 例外とされているのは、トーマとなのはにアリサの三人。最前線で激闘を繰り広げた彼らには、しっかりとした検査がしたいと。だが今は機材が足りない為、後日に回すとされている。

 ユーノとヴィヴィオはなのはと日程を同じくすると、そしてティアナはトーマと離れられない。この場で本日中に検査を受ける予定なのは、少し感情を整理してからにしたいと考えているルーテシアだけだ。

 

 だが故に、と言うべきだろう。五人以外の全員を一日で診ると言うのだから、採血検査だけでも仕事の量は余りに膨大だ。

 昨夜は避難民の対処に当たっていたのであろうに、その直後に検診と言う大仕事。それをしながら妹のカウンセリングもして貰っているのだから、ルーテシアは頭が下がる思いであった。

 

 

「ありがたい話よ。正直、自分の事だけでも一杯一杯だったもの」

 

「……まぁ、そうよね。色々、ほんっと色々とあったわね」

 

 

 足を向けては寝れないなと言いながら、僅かな弱音を零すルーテシア。そんな彼女に、ティアナは素直に共感する。

 本当に色々なことが起きた。僅か一晩での出来事と思えぬ程に、全てが変わってしまっている。部屋の明かりに手をかざして、透き通った色に想う。今も帰って来ていない、まだ兄とも呼べていない人を想った。

 

 

「ティア。さっきから、何で独り言を言ってるの?」

 

「……一人じゃないわよ。馬鹿トーマ」

 

「一人じゃない? 変なティアだね。何もないのにさ」

 

 

 その傷口は、今も塞がることはない。血を流し続けていて、何時かは膿んで腐るのだろう。そう成る姿が、余りに明確に見えている。

 仕方がない。そう言いたくはないが、そう言うしかない状況。何度説明したとして、トーマは理解を示してくれない。理解出来たとしても、秒で忘れてしまうから。

 

 

「ま、いっか。ティアが変なのは何時もの事だし。あれ、何時もって何だっけ? ……ま、いっか」

 

「言いたいことは色々あるけど、まぁ追々ね。取り敢えず今は、生きている事に感謝だけしておくわ」

 

「今のティアナが言うと何か妙にシュールに聞えるけど、其処だけは異論ないわよ。ほんとにね」

 

 

 傷付いた心を癒す術はなく、彼らは緩やかに腐っていく。それでも今は、それで良いと結論付けた。

 この今に、偽りであれ平穏は続いているから。何かを変えようと、何時かは思う。けどそれは今じゃない。今は少し、疲れてしまった。

 

 もう一度駆け出す為に、少し休もう。何時か腐り果てるとしても、それは今直ぐにと言う訳じゃない。だから一度休んで、また走り出すとしよう。

 機動六課の幼い者達は、そうして安寧の中に居る。それが虚構と分かっていても、今はこの中に居る。何時かまた立ち上がる為、今は己に向き合っていた。

 

 

 

 

 

3.

 女は一人歩いている。進み続ける事に躊躇いはあるか、そう問われれば返す答えは決まっている。進み続ける事に否はない。不器用だから、疲れ果てたとしても、前に行くしか知らないのだ。

 執務官の証が刻まれた制服は、彼女の覚悟の表れだ。そうとも、この先に迷いなどはない。戸惑いなどは一つもない。恐れている筈がない。どんな事実が待っていたとしても、必ず向き合い踏破する。

 

 時刻は日没。此処まで時間が掛かってしまったのは、気付くのに遅れてしまったから。裏を取る為、無事を確かめる為、時間が掛かってしまったから。

 戸惑いが故ではない。恐れが故ではない。これから為す行いに、怯えている訳ではないのだ。そう己に言い聞かせる様に、弱さを一つ一つと燃やして進む。故に、彼女は揺るがない。

 

 炎の様に苛烈で、だが氷の様に冷たい瞳。こんな想いを常に抱いていたから、彼女は鉄面皮であったのだろうか。

 他愛もない事を考えながら、下らない事だと切って捨て、アリサ・バニングスは手を伸ばす。ノックもせずに、その扉を開いた。

 

 

「あれ? どうかしたの、アリサちゃん。そんなに怖い顔をして」

 

「ちょっとね。聞きたいことがあったのよ」

 

 

 扉の先は、白い無菌室の様な医務室。椅子に腰掛け、採った血液を見比べながら、作業をしていた白衣の女は振り返って目を丸くした。

 一体どうして、彼女が此処に来たのだろうか。不思議そうな表情は演技に見えない程に自然で、だから心が僅かに揺れる。気のせいではなかったのかと、そんな甘い弱さを思う。

 

 それを燃やして、強い瞳で睨み付ける。目の前の女の全てを暴こうと、そんな意志を感じたすずかは手にした採血管を机に置いて向き直った。

 

 

「私に? 変なアリサちゃん。一体何を聞きたいのかな?」

 

 

 そして、何時もの様に微笑む。妖艶な笑みと共に、甘い香りがふわりと舞う。香水だろうか、何もかもを酔わせるその芳香。一瞬意識が途切れそうになるこの感覚を、アリサは何処かで知っている。

 異なる事を考えてしまうのは、己の弱さが故にであろう。そう胸中で断じて、匂いを思考から切り離す。そして赤く燃える瞳で美しい女を睨んで、アリサ・バニングスは問い掛けた。

 

 

「先ず最初に、昨夜は何処に居たのかしら?」

 

「昨夜って、あの襲撃の時のこと? 怪我した人も少なくなかったからね、後方で治療に専念してたよ」

 

 

 百鬼空亡が襲って来た時、月村すずかは戦場に居なかった。それが先ず一つ目の違和感。だから、アリサは彼女に疑念を抱いた。

 故に何処に居たのかと、問うた言葉に返って来たのはそんな物。前線に出ないのは彼女らしくはないが、戦闘より治療を優先するのは彼女らしいか。結果は灰色。答えはまだ出せていない。

 

 

「まさか、アリサちゃん。戦士は戦場に出ないと駄目だーって、怒りに来たとかじゃないよね。医療の現場が戦場じゃない、とか言ったら幾らアリサちゃんでも怒るよ」

 

「……そうね。確かにそうよ。敵を切り捨てる戦場も、誰かを救う戦場も、其処に貴賤なんてない」

 

 

 語る言葉は何処までも、月村すずからしいもの。なのにどうして、こんなにも空々しいと感じるのか。冷たい瞳で、彼女は睨む。

 どうして疑うのかと困惑して、仕方がないなと苦笑して、向き合っている紫髪の美女。彼女の言葉にこんなにも、違和を感じるのは何故なのか。

 

 

「次の質問よ。何で急に、全隊員の一斉検診なんて始めたのかしら?」

 

「それこそ、皆に伝えたでしょ? 昨夜の事件が理由だよ。百鬼空亡なんて怪物が出て来た訳だし、何が起きてても不思議じゃなかったもの」

 

「そうね。けどなら何で、私やなのは、それにトーマ達が後回しなのかしら? 一番前で戦っていた、私達こそ調べるべきじゃないの?」

 

「アリサちゃん達は強いからだよ。あの堕神の影響は、より弱い人程強く受けてただろうからね。危なそうだったのは、キャロちゃんとルーちゃんくらいかな? 二人とも先に診ようかって言ったんだけど、ルーちゃんには振られちゃった。私よりも先に妹をって、その優しい姉妹愛に涙が出そうだったよ」

 

 

 嗚呼、そうか。アリサ・バニングスは理解する。何となく、空々しいと感じていた理由が分かった。

 その女は隠さない。疑われていると分かっていて、それを如何にか説得しようと。それは演技でしかない。

 

 だって、彼女は嗤っていた。その口元が緩やかな孤を描いていて、それは微笑と語れぬ程には、無数の悪意に満ちていた。

 

 

「……そのキャロは、一体何処に居るのかしら?」

 

「あれ? アリサちゃん。まだ逢ってないんだ? ちゃんと帰る様に言ったんだけどなぁ。何処かで道草でもしてるのかもね」

 

「…………」

 

 

 嘘だ。最後の言葉に確信を得る。先までの発言は演技であっても、嘘ではないから灰色だった。

 だが、この発言だけは間違いなく虚言である。今も見付からないキャロ・グランガイツの行方を、白衣の女は知っている。

 

 故に中途半端な灰色は、一瞬で日の光も届かぬ漆黒へと。どす黒い悪意が其処に、確かにあった。

 

 

「話はそれだけ? なら、休ませてくれるかな。朝から沢山の人を診て、ちょっと疲れてるんだ」

 

「……これが最後よ。答えなさい」

 

 

 確信を得たアリサは意識を切り替えながら、最後とばかりに問い掛ける。それは問いと言う形を成してはいるが、真実知りたい訳ではない。

 既に分かっている。それは一面にしか過ぎない情報だが、それだけで十分だと。故にそれは誰何でなくて、故にそれは宣戦布告の一言だった。

 

 

「アンタ、誰よ?」

 

「――さぁ、私は誰でしょう?」

 

 

 宣戦布告に返るは悪意。最初から隠す気などなく、唯遊んでいただけの化け物は、その真意を此処に示した。

 

 

「質問に質問で返すなッッ!!」

 

「アハ、アハハ、アハハハハハハッ! 本当に気になるのよ、貴女が当てられるかどうか! 選んでみなさい、選択肢を与えてあげるわ!」

 

 

 爆発する様に、火球が飛ぶ。親友と同じ姿をした敵の存在に、彼女は一切手を緩ませない。友がどうなったのか、不安はあるが今はそれより成すべきことがある。

 一体何時から、入れ替わっていたのか分からない。それでも敵は機動六課の中枢に、既に入り込んでいたのだ。早急に排除しなければ、何があるかも分からない。故に、惑っている暇などないのだ。

 

 

「問いは100択。さあいくわよ。私は悪魔(デヴィル)。私は天使(エンジェル)。私はバアル。私はゼブル。私はハデス。私はメフィスト。ハールート。マールート。ミキストリ。ルビカンテ。アエーシャマ。反キリスト。偽キリスト。メシア。バルザイ。バルザック。オートス。オルクス。アマイモン。ベルフェゴールという名もあったしダイロクテンとも云われていた。他にもまだまだ、腐るほど。ストリガ。バロール。ロキ。スルト。ガルム。カルマ。ヴェルニアス。ハスター。ツァトゥグァ。クァチル・ウタウス。ハプン。アラディ。ヴィイ。クルセド。サビナ。サルカニ。ダボグ。セト。アポピス。オシリス。セベク。ソカリス。ティアマト。バズズ。モト。アーリマン。シヴァ。ブリトラ。カリテイモ。イングマ。エルゲ。カルン。クルス。マール。ヘロス。ギルティネ。ククト。マッハ。モリガン。インジッヒ。エキドナ。エリニュス。リラ。バビロン。ディス。ディーテ。チリアット。スカルミリオーネ。バルバリシア。リビコッコ。マラコーダ。ビレト。ムルムル。モラクス。マルバス。パイモン。バエル。ハゲンティ。ゼーレ。セパル。ハルパス。ブエル。シャクス。ザレオス。バルバドス。オズ。オリアス。グラキヤ・ラボラス。カスピエル。アガレス。アビゴル。アロケン。イペス。アンドラス。アンラ・マンユ。そして月村すずかにクアットロとベルゼバブ。さあ、私達はいったい誰でしょう?」

 

 

 飛来する無数の火球を、迎撃するのは無数の悪意だ。虚空に門が開いて、無数の蟲が飛翔する。形を成した悪性情報が、燃え盛る炎を迎撃する。

 唯それだけで、その正体は既に割れた。この力を使う者を、アリサは確かに知っている。既に死んだと思っていたが、生きていた。唯それだけの話だろうと、怒りと共にその名を呼んだ。

 

 

「アンタみたいな屑の小物が、私の友達を勝手に名乗んなッッ! クアットロ=ベルゼバブッッ!!」

 

「そう! そう! そう! そう! 貴女は私をそう呼ぶのね! 私にそう在って欲しいんだね! ならそう在ってあげるわぁ、アァァリィサちゃぁぁぁんっっ!!」

 

 

 這う蟲の王。反天使が一つ。魔群クアットロ=ベルゼバブ。それこそが、月村すずかの顔で身内の振りをしていた敵。

 友と同じ音で語る。その一言一句の全てが、アリサの神経を逆撫でする物。その声と顔で喋るなと、業火は勢いを増していく。

 

 

「違うわ。私はそう在って欲しい訳じゃない。百通りだなんて大層な名前、アンタには相応しくなんてないってだけの話よ! アンタは私の友達の顔と名前を勝手に騙った、唯の屑で十分だ!!」

 

「アハハハハッ! ひっどいわねぇ、きっついのねぇ。けど誤解してるよ、アリサちゃぁん」

 

 

 発動する魔法に非殺傷は設定せず、リミッターも昨夜からずっと解除したまま。間違いなくこれは、アリサ・バニングスの全力である。

 疾風怒濤さえも霞む業火の津波を前にして、クアットロは悪意の笑みを崩さない。何処からともなく湧き出し続ける無数の蟲が、炎の津波を軽々防いだ。

 

 

「勝手に名乗っている、と言うのは間違いだ。だって、私は月村すずかだ。月村すずかとは私だ。他にその名を名乗れる者など居ないのだから、ならば私がすずかでしょう!?」

 

「――っ! 一体、どういう意味だッッ!!」

 

 

 嗤う。嗤う。嗤う。嗤う。蟲は悪意を以って嗤い続けて、アリサは思わず反応を見せてしまう。

 戦場で友の無事を案じてしまう。そんな自分を無様と罵りながら、それでもその弱さだけは燃やし尽くせない。そんなアリサを嗤って見下し、クアットロは泥の様な悪意を投げた。

 

 

「あら、聞いちゃうの? それ聞いちゃう? 答えるとでも、思ってたりする? バッカみたい。痴愚じゃないの。戦場でペラペラ敵に手の内語るなんて、一体どんな無能の愚図よ。そんな相手の愚鈍さに期待しちゃうだなんてぇ、アリサちゃんってば馬・鹿・な・子」

 

「ちっ! 一々言う事がウザったいのよ、アンタはッッ!!」

 

 

 すずかの顔と声と仕草で煽るクアットロに、元々気が長い性質ではないアリサは業火を更にと燃やす。

 医務室の壁が溶け出す程の高熱の中、平然としている魔群は後方へと大きく飛び退く。その背には蠢く黒き鋼の翼が、堕天の使いは羽搏いた。

 

 何時しか右手は巨大な銃口に変わっていて、下卑た笑みと共に魔群は破壊の牙を放つ。それはアリサの展開した炎を易々と貫いて、彼女を大地に叩き堕とした。

 

 

(だが、正論だ。ザミエルなら、此処でそんな風に言うんでしょうよ)

 

 

 落下した女はそれで、立ち止まる程に弱くはない。悪性情報と言う呪詛に侵されながら、受け身を取って即座に立ち上がる。

 焼かれた衣服を破り捨て、赤いバリアジャケットを展開する。注ぎ込まれた熱病と言う毒素は体内を渦巻いているが、その程度で膝は付かない。歯を噛み締めて、空を見上げた。

 

 

(なら考えろ、アリサ・バニングス。知り得た知識と、視界に映る景色を当て嵌め、その真実を掴み取れ――)

 

「――その位出来ずして、紅蓮の後継が名乗れるものかッッ!!」

 

 

 燃え盛る隊舎の中で、叫ぶ女を見下ろし見下す。そんな魔群の悪意を前にして、全て暴いてみせるとアリサは大地を蹴った。

 足の裏で炎の魔法を爆発させる。幼い頃から使い慣れた高速の移動法。炎の剣をその手に掴んで、敵を切り裂かんと振り下ろす。

 

 

「バーニングスラッシュッッ!!」

 

「枯れ堕ちろ――凶殺血染花!」

 

 

 迫る炎の剣を掴んで、魔群はその火を吸い取り枯らす。それは紛れもなく、月村すずかが受け継いだ筈の異能。

 顔と声を模倣していただけではなかったのかと、心が僅かに動揺する。それでも直ぐに意識を切り替え、新たな炎をその手に燃やした。

 

 

(これは、すずかの。なら本当に、コイツはすずか本人だと。いいや、今重要なのはそうじゃない!)

 

「バーニングッ! パンチッッ!!」

 

 

 剣の間合いから、片手を掴まれ零距離に。ならば拳の間合いだと、もう片方の手に炎を纏わせ殴り掛かる。

 だが、やはり凶殺の呪詛を纏った拳に吸われて消え去る。あらゆる全てを簒奪する力を前にして、この程度では全てが足りない。

 

 それでも、やはりおかしい。アリサとすずかの実力は伯仲していた。アリサの方が少し勝っていた程度であった。

 故にすずかの力を奪ったにしては、相手の出力が大き過ぎる。思考を進める為の牽制に過ぎなくとも、全く通らないのはおかしいのだ。

 

 

「考え事、してる暇あるぅ? そ~んな隙だらけだとぉ、食べちゃうぞ!」

 

「んなっ!? ――っっっ!!」

 

 

 右の手首と、左の拳。両の腕を掴まれた状態で、受けたのは予想外の一撃。その瑞々しい唇が吸い付く様に、アリサの唇と重なっていた。

 柔らかな感触が齎す混乱から戻る前に、感じたのは鋭い痛み。噛み付かれたと、そう理解した瞬間にアリサは己の魔力を爆発させた。

 

 全身に痛みを感じながら、唇から流れ落ちる血を指で拭き取る。そんなアリサをクスクス嗤って見下しながら、魔群は口内で奪い取った血を混ぜる。

 月村すずかと言う器の舌を噛み切って、奪った血と混ぜ合わせながらに口から吹き出す。込められた魔力は女を殺し尽くすには十分な程、その悪意は雨と成って降り注いだ。

 

 

「死に濡れろ――暴食の雨(グローインベル)!」

 

「がっっっ! くぅぅぅぅぅぅぅぅっ!!」

 

 

 降り注ぐ酸の雨はバリアジャケットすらも貫いて、女の肌を溶かしていく。皮膚の下に肉が見える程に、周囲を異臭が満たしていく。

 だから、アリサは己を焼いた。全身に炎を纏って、頭から被った酸を蒸発させる。出来るか否かではない。やらなければ死ぬ、それだけだ。

 

 

(血の雨。血の怪異。血によって歪んだ、不死身の軍勢。……ああ、そう。そういうこと)

 

 

 溶かされる痛みに耐えて、身を焼く炎に耐えて、敵を見上げ続けるアリサは漸くに理解する。

 魔群の真実。その力と彼女の本質。そして、月村すずかと言う友達の身に何が起きたのかと言う事実を。

 

 

(魔群は血に宿る。その血を飲んだ者は、奴に乗っ取られて奴と成る。結局、それが真実)

 

 

 そうとも、知っていた筈だった。ベルゼバブと言う被害者達を、イクスヴェリアと言う仮の器を、グラトニーと言う薬物と、スカリエッティが残した資料の一部を。

 答えに至るピースはあった。ならば必要なのは切っ掛けだけで、この血の雨は連想させるに十二分。そうと想定してしまえば、もうそれ以外に答えはない。アリサはその残酷な真実に辿り着いていた。

 

 クアットロに明確な実体はない。彼女の本体は夢界にあり、彼女の残骸が残した血を媒介に現世で活動する器を作り出せる。

 エリキシルの被害者達はそんなクアットロの器であって、彼らは己の体内に流れる血に操られていた。ならばそう。そんな彼らを救う為、吸血と言う治療を行っていた月村すずか。彼女程に魔群の毒を浴びた者は、他には誰も居ないのだ。

 

 

(月村すずかはもう居ない。この世の何処にも、死後の世界にすら残っていない。……何で、こんな屑に負けてんのよ。馬鹿すずか)

 

 

 詰まりは吸い過ぎた。他の被害者達と同じく、体内に取り込んだ血に操られてしまっている。いいや、彼女の言が真実ならば完全に飲み込まれている。

 取り込まれ、飲み干され、溶かされた後なのだ。既に月村すずかは死んでいて、彼女の死体を魔群が操っている。そう仮定するのが、一番真実に近い形であろうか。

 

 

「力を振るうと言うのは愉しいわねぇ。新しい力を得た時は特に、そうは思わないかしら? アリサちゃん」

 

「そうは思わないわよ。私は」

 

 

 アリサが辿り着いたその解答は限りなく真実に近く、だが僅かにズレていた。それは魔群と言う存在が、消滅を逃れていたのだろうと言うその過程。

 いいや違うのだ。クアットロは既に死んでいた。彼女に腐炎から逃れる術はなく、イクスヴェリアを捨てても尚足りていない。ゆっくりと腐り堕ちて、クアットロは既に滅びている。

 

 ならば、彼女は誰だ。アリサ・バニングスは勘違いしている。乗っ取られたのではない。作り変えられたのだ。だからこそ、この女ではまだ届かない。

 傷付いても立ち上がり、痛みの中でも先に進み、炎の剣と共に空を駆ける金髪の女。彼女の燃え盛る剣はしかし、嘲笑を浮かべた女に届いてはくれないのだ。

 

 

「返して貰うわ。クアットロ。その身体は、私の友達だ」

 

「無理よ。貴女じゃ不可能。届きはしないわ、アリサちゃん」

 

 

 その推測は限りなく真実に近い。確かにクアットロは滅びる直前に、仕込んでいた毒によって月村すずかを手中に収めた。だがしかし、其処で乗っ取れば諸共に消えるだけだった。

 故に彼女は策を弄する。月村すずかを作り変える事にした。彼女の記憶を書き換えて、彼女の思考を塗り替えて、彼女の趣味を染め上げて、そうして第二のクアットロとして歪めたのだ。

 

 そしてその後、前のクアットロが完全に消滅するのを見届けてから、新たにクアットロ=ベルゼバブと言う悪魔を作り上げた。

 父が己を生み出した方法は覚えていたから、同じ事を繰り返せば良い。育成に割く時間はないからプロジェクトFの記憶複写を利用して、もう一人の自分を生み出し殺してこう成った。

 

 故に彼女は、月村すずかではない。だが、クアットロ=ベルゼバブでもないのだ。そうとも、彼女が先に語った様に、魔群は誰でもないのである。

 そして、アリサの誤算はそれだけではない。彼女が届かない理由はそんな小さな事だけではない。時間を与え過ぎたが故に、単純に出力が違っていた。

 

 

「だってもう、格が違うもの」

 

「――っ!? ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっっっ!!」

 

 

 全力で炎の剣を振るう。そんなアリサを片腕で、鼻歌混じりに迎撃する。巨大な砲門と化した右手から放たれた光が、剣を貫き女の身体を射抜いていた。

 拮抗には程遠い。抵抗すら出来やしない。それ程の差が、此処にはあった。火力だけなら六課でも最上級のアリサの力が、まるで相手になっていない。

 

 

「不思議? 不思議? ねぇ分かんない? どうしてこんなに私が強いのか、分かんなくて怖いでしょ? 教えてあげようかぁ? 土下座して足でも舐めたら、考えてあげないこともないわよぉ」

 

「んな、こと。問うまでも、ないわよ」

 

 

 無数の蟲がドームの様に、周囲を覆い尽くしていく。余計な邪魔を入れさせない為、故にこの今に救援なんて望めない。

 傷付いて、落とされて、熱病は今も身体を燻る。それでも膝を折る事なく、アリサは前に進む。不器用だから、進み続ける事しか出来ない。そんな彼女でも、魔群の絡繰りには気付いていた。

 

 

「すずかを吸収して、中に居たカズィクル・ベイから全てを強奪した。それでも、其処までには至らない。なら理由は、其処にある。――隊員全員の一斉健康診断。それが、アンタの強さの絡繰りだ!」

 

「ええ、それも一つよ。それだけじゃないけど、正解ってことにしてあげる。そんな訳で正解者には、ゴグマゴグをプレゼントぉぉぉ!!」

 

 

 偽神の牙に吹き飛ばされて、血に塗れながらも立ち上がる。骨が折れたか、内臓が潰れたか、止めどなく零れる血を吐き出しながらに思考を続ける。

 この女の強さ。この魔群が此処まで強く成った理由。それの一つは紛れもなく、今日に行われた一斉検診。採血の際に、己の血を混ぜたのだろう。そうして、この基地の全てを取り込んだのだ。

 

 

(今のコイツは、機動六課の隊員と、避難した人々全員を己の夢界に取り込んでいる。それだけじゃなくて恐らくは、次元世界中に血をばら撒いている。だからこその神格域。流出の位階にまで、この女は確実に至っている!)

 

 

 時間経過で増え続け、その力を増していく暴食の悪魔。魔群に一体どれ程の時間を与えてしまったのか、考えたくもない程に悪手を打ち続けてしまった。

 間違いなく今の魔群は、求道神の域に居る。最強の大天魔や両面悪鬼には届かずとも、それ以外の天魔ならば全て倒せる。それ程の怪物に成り果てていた。

 

 そして僅かな身内を残して、古代遺産管理局はもう全滅している。検診に呼ばれなかった五人だけが、恐らく生き残っている者達だろう。

 逆境にも限度があろう。どうしようもないにも程がある。味方はほぼ全滅で、救援は皆無。敵は己よりも圧倒的に強いのに、己は既に疲労困憊。絶望的過ぎて、笑えて来る様な状況だ。

 

 

「それでぇ、分かったからと言ってぇ、何が出来るのかしらねぇ?」

 

「決まってるわ。形成(イェツラー)――極大火砲(デア・フライシュッツェ)狩猟の魔王(・ザミエル)!!」

 

 

 だけど、諦めない。そして、前に突き進む。それだけがアリサ・バニングスに出来るたった一つの事だから、彼女は力を振り絞って形成する。

 その砲門を向ける先には、友達の顔をした魔群と言う求道神――ではない。その恐るべき魔王の魔弾が狙いを付けた標的は、己達を取り囲む魔群のドームの向こう側。

 

 

「ちょっ!? 正気なの!? アリサちゃん!?」

 

「お前が、その呼び名で呼ぶな!!」

 

 

 アリサの意図を読み取って、魔群はあり得ないと余裕を崩す。女の正気を疑う程に、それは信じられない解答だった。

 

 

「敵に捕えられ、人々に仇なす怪異の糧と成って生き続ける。そんな生き恥を晒す位なら、死を選ぶ。それが戦士だと、私はそう信じている。だから――ッッ!」

 

 

 己よりも強い魔群は倒せない。真っ向から撃っても届かない。ならば、その魔群を強くしている源を立つ。

 全てを殺し尽くす爆心地が飛び去る先は、罠に掛かって夢界の一部と化した同胞達が眠る六課の隊舎。この女は己の手で、仲間を殺し尽くそうとしているのだ。

 

 

「さらば、我が炎にて滅び去るが良いッ! 想い同じくする同胞よ!!」

 

「――ッ!? 恋人よ、枯れ落ちろ! 死骸を晒せ!!」

 

 

 在り得ないと言う驚愕で、対応は一手遅れた。それでも、それだけはさせる訳にはいかない。此処で彼ら局員達に、死なれて困るのはクアットロである。

 歪み者の力は大きい。ゼスト・グランガイツを始めとする、多くを手中に収めたのだ。彼らを処理されてしまえば、力の一割程度は削られる。己よりも強大な者がまだ他に居る状況で、弱体化すると言う危険は侵せない。

 

 僅か出足が遅れたクアットロは、故に全力で砲撃の相殺に動く。蟲のドームを盾にして少しでも着弾を遅らせ、駆け付けて薔薇の力で吸い尽くす。一手遅れても、そんな対処が行えるだけの差があった。

 

 

「あっぶな。まさかノータイムで味方殺しに走るとか、マジ信じられ――」

 

「隙だらけだァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 

 だが、その程度の差でしかない。一手遅れて対処が出来ても、その直後に生まれる隙は潰せない。故に、アリサの一撃に反応出来ない。

 この瞬間こそ、唯一にして最大の好機。唯この今に全力を、出せる全てをぶつけてみせる。己の限界すら乗り越える意志で、アリサは大きく吠えた。

 

 

――やれ、小娘。これが私に出来る、最期の助力だ。

 

 

 声が聞こえた訳ではない。聞こえる道理などはない。アリサと彼女の相性は悪く、極みに至ったとしても分かり合える筈がない。

 それでも、何となく感じていた。これが最期と消え行く女が、それでも笑っていた気がした。あの外道に一矢を報いよと、唯の妄想に過ぎないとしても言われた気がしたのだ。

 

 だから、今ならば出来る筈だ。限界を超えたその先で、神々ですらも焼き尽くす紅蓮の炎を。

 

 

焦熱世界(Muspellzheimr)激痛の剣(Lævateinn)ッッ!!」

 

「嘘、嘘、嘘!? 来るなぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 一つの世界を開ける程に、まだ女は届いていない。それでも世界を滅ぼす力は、その断片を此処に示した。

 振るわれたのは炎の剣。剣の形へ圧縮された、焦熱世界の超火力。太陽すらも燃やし尽くす程の炎は確かに、友の全てを光に変えた。

 

 燃え上がる炎は花弁の様に、儚く散って消えて行く。後には骸さえも残らず、去った友へと涙を零す。この程度の弱さはきっと、許してくれると思うから。

 

 

「終わった。……さよなら、すずか。私の、友達」

 

 

 がくりと膝から力が抜けて、アリサの身体が大地に倒れる。燃え盛る炎に包まれながら、女はその手に掛けた友を想う。

 他に手段は無かったと、そんなのは言い訳にしかならないだろう。他に手段を探すべきだったと、終わった今だからそう思う。けれど幾ら探そうとも、きっと見つからなかった筈だ。

 

 もし都合の良い救いがあったのなら、月村すずかがこう成っていた筈がなかった。魔群の毒を浴びた者への治療法が他にないから、すずかは魔群に成ってしまったのだ。

 だから、これは正しいこと。友の死体をこれ以上利用させない為に、きっと必要だったこと。そうは思えど、涙が止めどなく溢れてくる。今更に嘆いているのは、全てが終わってしまったから。

 

 情けない弱さだ。見るに堪えない惰弱さだ。悲劇に酔っているのだろうと、罵倒されれば言い返せない。自分で為した行いに、後悔なんて許されない。

 けれどこの今だけは、もう少しだけ泣いていたい。この涙が齎す痛みの重さが、大切だった証だと思うから。こんな弱さに、今は浸っていたいと思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれ程にそうしていたか。涙を振り払って、空を見上げる。アリサ・バニングスに弱さは似合わない。だから、これで嘆くのはお終いだ。

 涙を誰にも見せない様に、一人で流して立ち上がる。己の心に整理を付けて、強がりながらに進んで行く。そんな女は、何時もの様な瞳の強さを取り戻して――

 

 

「えぇ、そうね。さようなら、アリサちゃん」

 

「――ッ!?」

 

 

 殺した筈の、友達の声を耳にした。

 

 

(青、空……?)

 

「In principio creavit Deus caelum et terram」

 

 

 あの子が絶対にしなかった、男に甘えるような素振りで声は語る。口に紡ぐは彼女が取り込んだ一つの願い。

 貴方の太陽に成りたいと、そう願った天使も既に喰われている。故にこそ頭上に広がった光景は、何処までも澄んだ蒼穹だ。

 

 

「Briah――Date et dabitur vobis」

 

「がッ!? あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!?」

 

 

 アリサの身体が、降り注ぐ光に焼かれる。全てを浄化する輝きを前にして、魔力を使い果たした今の彼女は抵抗すらも出来ずに沈む。

 大地に膝を屈して、痛みから逃れる為に蹲る。そんな無様を晒すアリサの下へと、舞い降りたのは月村すずかの顔を奪い取った誰か。天使の羽を背に纏い、淫靡な笑みで女は告げた。

 

 

「これってさぁ、私も痛いから嫌いなのよねぇ。自傷の趣味は、正直理解できないわ」

 

「く、ぁ……」

 

「けど残念だったね、アリサちゃん。貴女が戦ってたのは唯の影。死ぬかもしれない戦いなんて、私がする訳ないでしょう?」

 

 

 感じる圧は、先よりも遥かに上の物。そうとも、大天魔をも超えたというのはこういう事だ。己の影一つだけでも、世界を滅ぼせる存在へと至ると言う事。

 これまで、アリサが戦っていたのは魔群の影に過ぎなかった。弱体化した分身。それを相手に善戦していただけなのだと、気付いてしまえば実に単純な真実だ。

 

 

「そう。影。唯の影に負ける程、唯の影に勝てない程、今の私達には差が出来ている。悲しいねぇ、可哀想ねぇ、滑稽だねぇぇぇ、アァァリィサちゃぁぁぁん!」

 

「ぉ、ま、え――っ」

 

「うふふ。ゾクゾクする。良いわ、本当に良いわ。今も諦めていないその目も、痛みを我慢しようとしている苦悶の表情も、全てがそそる。月村すずかに成った影響かしらねぇ、貴女のこと、ドクターの次くらいには愛しているのよ」

 

 

 蹲る女の背を踏んで、その傷口を爪先で抉り痛みを与える。叫ぶものかと苦悶に耐えるその表情に、魔群は情欲を感じて頬を上気させた。

 そうとも、今のクアットロは執着している。こうして危険を晒してまで、アリサ・バニングスと言う人物と遊んだのはその感情が故にであろう。

 

 世界で一番愛しているのは父である。だが世界で二番目に、愛しいと想うのはこの鋼鉄の処女と成っていたのだ。

 

 

「その目を情欲に染め上げて、私だけを求める雌犬にしてしまう。そんな調教、想像するだけでイッちゃいそう。だけど今日は、ここらでお開きとしましょうか」

 

 

 嬲り、甚振り、痛め付ける。傷付けながらに夢想するのは、快楽を覚えさせて盛る犬へと変えた姿だ。

 それはとても魅力的なのだと、だから今直ぐにでもそうしてあげたい。だけどそう出来ない理由もあった。

 

 

「私は強く成った。ヴィルヘルムを喰らい、ヘルガを溶かし、クラウディアを取り込んで――今の私に勝てそうなのは、両翼とエリオ君くらいなもんでしょうねぇ」

 

 

 それは己よりも強い者がまだ居るから。神の領域に至ったからこそ理解出来る。今の魔群に勝てるのは、夜都賀波岐の両翼と最強の悪魔だけであると。

 天魔・宿儺は既に倒れたが、まだ二人も残っている。真面にやり合っても勝機はあるだろうが、死ぬかもしれない戦いなんて真っ平御免だ。故にこそ、策を弄する必要性がまだ残っている。

 

 

「まだ怖いのよ。まだ足りないの。私は臆病な三下で、負けるかもしれない戦いはしない主義なの。だから準備が整うまで、明けない夜はお預けよ。素敵な舞台を整えて、しっかり膜を破ってあげるから。待っててね、アリサちゃん」

 

 

 この女は三下だ。その性根は小物である。其処に間違いなどはなく、だが今の魔群は紛れもなく神格域の力を手にしている。歴代の覇道神すらも、やり方次第では倒せる域に達しているのだ。

 そんな女が策を弄して、果てには碌でもない結末しか待ってはいない事だろう。嗤いながら魔群は消えて行く。後に残されたのは、全ての力を出し切って、それでも友の死骸を愚弄する怪物を打倒せなかった敗北者のみ。

 

 

「っ、ぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」

 

 

 怒りを叫ぶ。憎悪を吠えた。それしか出来ぬ我が身に心の炎を強く燃やして、骨が砕ける程に歯噛みした。

 血が滲む程に拳を握り締め、八つ当たりをするかの様に大地を叩く。空を見上げた瞳に血涙を滲ませて、アリサ・バニングスは心に決めた。

 

 魔群(アレ)は必ず、己が葬る。そうしなければならない敵なのだと、彼女は己自身に誓う。果たせないと言う理屈は知らない。果たさなければ、ならないのだ。

 

 

 

 

 

 そして、そんな女の悲痛な誓いを何処か遠くで感じながら、去り行く魔群は笑みを深める。

 

 

「かつて何処かで、そしてこれほど幸福だったことがあるだろうか」

 

 

 嗚呼、本当に素晴らしい。これ程に幸福だった日々が、果たして他にあったであろうか。

 何処か朧げに残っている、帰るべき白き家。それはきっとクアットロにとっての幸福であって、すずかにとってのそれではない。だからこの今こそが、魔群にとって最高の幸せに他ならない。

 

 

「あなたは素晴らしい。掛け値なしに素晴らしい。しかしそれは誰も知らず、また誰も気付かない」

 

 

 優しく撫でる。その下腹部には、新たな命の熱がある。それはクアットロがずっと望み続けた、愛する人を生み出そうと言う行為。

 月村すずかは僅かに嫌悪しているが、やはり幸福感の方が大きいのだろう。至高の頭脳が血族の肉体を持って生まれると、その結果への興味もあった。

 

 

「幼い私はまだあなたを知らなかった。いったい私は誰なのだろう。いったいどうして、私はあなたの許に来たのだろう」

 

 

 子宮を腹の上から撫でて、空を見上げてふと思う。少しお腹が空いたなと、だから彼女は此処に決めた。

 

 

「もし私が騎士にあるまじき者ならば、このまま死んでしまいたい。何よりも幸福なこの瞬間――私は死しても 決して忘れはしないだろうから」

 

 

 これより身を隠して暗躍を始める。その前に少しだけ、ほんの少しの摘まみ喰いをしていこう。大丈夫、きっとバレはしないから。

 

 

「ゆえに恋人よ、枯れ落ちろ。死骸を晒せ」

 

 

 クスリと妖艶に嗤って、そして惨劇の夜は幕を開ける。堕龍が過ぎ去ったクラナガンの空に浮かんだのは、血が滴る様な紅い月。

 

 

創造(Briah)――死森の(Der Rosenkavalier)薔薇騎士( Schwarzwald)

 

 

 そして、多くの命が枯れ堕ちた。誰も彼もが吸血鬼の腹に飲まれて、彼女は歓喜の情に酔う。抑えようとは思うけど、どうしようもなく耐えられない。それ程に、人の命は美味だった。

 

 

「嗚呼、美味しい。これが命を食べると言う感覚。思わず、夢中になってしまいそう」

 

 

 妄想する。想像する。有象無象でこれ程に美味ならば、愛しい女を喰らった時にはどれ程の快楽を得られるだろうかと。

 そうしてふと思い出す。そう言えば、久方振りの食事であると。暴食の罪を抱いた程に、彼女は飢え続けていたのだから――ほんの僅かで、満足できる筈がなかった。

 

 これ以上、仕込みを壊さぬ為にミッドチルダから転移する。食欲に満たされた自我の中に残った理性で、選べたのはその程度。故に、惨劇の夜は幕を開く。

 

 

「私は今、生きている。故に、故にだ! 我が舌で、我が掌で、踊り狂って悶えて死ね! 遍く全ての演者らよ!!」

 

 

 狂った様に嗤い続けて、暴食を続ける真なる魔群。彼の怪物が理性を取り戻すまでに、二十の世界が無人と変わるのだった。

 

 

 

 

 

 

 




すずかちゃんベース+クアットロ=すずかットロ。
クアットロベース+すずかちゃん=クずか様

Ifルートに登場したクずか様の実力は、屑兄さん以上で宿儺以下。
中堅陣でも穢土で戦って負ける可能性があるくらいには強いです。

人格は所詮、神の力とすずかちゃんの美貌を持ったシュピーネさんですが。



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第十三話 白き飛竜 フリードリヒ

〇副題
・あの日の喧嘩、その続き。
・ごった煮上乗せクずか様。
・エリオ君。次の標的を決めるの巻。


1.

 惨劇の後には、唯々静けさだけが満ちている。それもその筈、自ら音を立てる者など、もう殆ど残っていないから。

 誰もが奈落に飲み込まれ、覚めない眠りに堕ちた基地。そんな中を女は一人、音を立てて進んでいる。その瞳は、揺らがない。

 

 管理局の制服は、焼け焦げ破り捨てた後。バリアジャケットを維持する余裕もなく、身に纏うのは途中で手にした上着が一つ。

 露わになった半裸の身から、流れる血潮は止めどなく。それでも揺らがぬその歩みは、淫靡さよりも凄惨さよりも、力強さの方が際立っていた。

 

 どれ程に疲弊しようとも、定めた己を揺らがせない。痛々しいと感じる程に、強さしかない女の在り方。迷わぬ瞳で目指すのは、討つべき仲間が居る場所だ。

 其処へと向かう。何の為かと、語る必要などあるまい。奈落に囚われた彼らが生きている限り、あの悍ましき怪物は強度を増し続けてしまう。大切だった友達は、その死を凌辱され続けてしまうであろう。

 

 故に、為すべきは一つ。奪うと決めたからにはせめて、最期は己の手で直接に。そんな覚悟を決めた女の道に、一つの影が立ち塞がった。

 

 

「アリサちゃん。何をする気?」

 

「なのは」

 

 

 互いに名を呼ぶ。何時か過ぎ去った彼の日の様に。もう子どもでは居られないけど、まだ大人にも成り切れない。

 狭間で揺蕩う二人の女は、どちらも既に満身創痍。なのはもアリサも、残った魔力は後僅か。血に塗れて疲弊した姿を晒す友の姿に、語らぬ内から理解する。互いに何が起きたのか。

 

 

「その傷。アンタもアイツに会ったのね」

 

「……うん。会ったよ。すずかちゃんを、奪ったアイツに」

 

 

 魔群の最も恐るべき性質は、際限なく増え続ける無限量。無数の己を複数ヶ所に、同時に出現させる事など訳もない。

 己を細分した欠片一つで、アリサを圧倒した怪物だ。同じ規模の欠片と遭遇したのであろう高町なのはの、敗北もまた当然だった。

 

 白きバリアジャケットを血に染めた、栗毛の女は暗い顔で歯噛みしている。杖に縋らねば立っている事も出来ぬ程、疲弊して尚感じるのは痛みよりも悔しさだろうか。

 それでも、高町なのはは此処に居る。クアットロ=ベルゼバブと言う怪物の為した事を知るからこそ此処に居て、アリサ・バニングスと言う女の前に立ち塞がるのだ。

 

 

「なら、態々説明するまでもないでしょう。――私は、殺すわ。その為に、進んでいる」

 

 

 座った眼で、女は告げる。仲間を思わぬ冷酷さが故でなく、同胞達を思いやるからこそ彼女はこの道を選択した。

 彼ら、彼女らは、平穏を願った者らだ。明日を信じて、己の意志で戦場へと出た者だ。そんな者らにとって現状は、余りに惨い仕打ちと言えよう。

 

 守りたかったモノを、守りたかった世界を、穢し貶める怪物の糧と利用されている。その身と力を苗床にされ、守るべき明日を打ち壊す為の薪として使い潰される。

 そんな事、誰も望んでいない筈だ。悔しいだろうに、苦しいだろうに、意識があれば己を殺せと叫ぶであろうに。アリサがその立場にあれば、同じくそう思うであろう。だから、己の手で幕を引くのだ。

 

 

「……皆、居るんだよ」

 

「分かっているわ」

 

 

 なのに、何で邪魔をする。凍った心と冷たい瞳で睨む女に、対する女は身を退かない。道を阻む様に立ち塞がって、愚かな言葉を囀り続ける。

 其処に居るのだと。仲間達が居るのだと。殺してはならない人達なのだと。そんな事は分かっていて、それでも進む女の前に立ち塞がるのだ。

 

 

「ゼストさんも、メガーヌさんも、シャッハさんも、ヴェロッサくんにシャーリーだって――」

 

「分かっているわ。欲深い奴だったもの。隙を晒せば、そうなるだろうって。そうなっているんだろうって、分かってた」

 

 

 被害を受けた者を数えるよりも、被害を免れた者を数えた方が遥かに早い。今の機動六課隊舎で、動ける者は僅か七人。

 それ以外の隊員は、皆クアットロに食い尽くされた。今も悪夢に囚われながら、奴の苗床として生かされている。余りに悲劇だ、この状況は。

 

 

「分かってないよ! アリサちゃん!!」

 

「諄い! 分かっているって、言ってるでしょ!! 分かっていて、私はこの手に掛けると言った!!」

 

 

 殺したくはない。奪いたくはない。親しき者を手に掛けると言う行為に、迷いを覚えぬ程に彼女は非情な訳ではない。

 けれど、そうする他にないのだ。仲間の意志を守る為には、仲間の想いを守る為には、そしてあの魔群を討ち滅ぼす為には。

 

 

「皆が囚われたままだと、あの女は滅ぼせない。先ず地力に差があり過ぎるし、仮に勝てたとしても囚われた誰かが次のクアットロに成り果てる! 保険を潰さない限り、端からアイツは倒せない!」

 

 

 仲間達が生きている限り、魔群は強化され続ける。既に人の手には負えない域に、到達している怪物は更に更に強くなるのだ。

 その上、最悪なことに今の彼らは魔群の器と成り得る。イクスヴェリアがそうであったように、月村すずかがそうなってしまったように、次は彼らがクアットロに成ってしまう。

 

 今しかないのだ。今殺すしかないのだ。アレが慢心し浸り切っている状況でしか、仲間達を殺してやる事は出来ないのだから。

 

 

「だから、この私が殺し尽くす! このアリサ・バニングスが、仲間達を燃やし尽くす! このまま、あの外道に、皆の力を、すずかの死体を、使い潰されて納得できるかッ!!」

 

 

 せめて、最愛の炎で送ろう。悍ましき蟲の苗床として絞り殺される前に、美しき業火の中で燃やし尽くそう。それこそが、アリサ・バニングスの想いであった。

 

 

「違う。間違っているよ。そのやり方! 皆を殺さないといけないなんて、助けることを諦めるなんて、そんなの絶対間違っている!!」

 

 

 けれど、それは間違っている。高町なのははそう語る。それだけはいけないのだと、彼女は必死に言葉を紡ぐ。

 どんな理由があろうとも、仲間を仲間が手に掛けて良い筈がない。それが良い事の筈はない。もっと他に、何か術が在る筈だと。

 

 

「なら、他にどんな道がある!」

 

 

 そんな物はない。御都合主義など何処にもない。だから悲劇的なのだと、アリサ・バニングスは知っている。高町なのはも、確かに知ってる筈なのだ。他に術など、ない事を。

 

 

「間違いなんて、知っている! 正しくないと、分かっている! それでも、魔群に治療法はない!! それは、エリキシルの患者を救えなかった今までが証明している!!」

 

 

 魔群の血より生まれた麻薬。接種した者を不死身の怪物に変えてしまうエリキシルを、管理局は治療する事が出来なかった。

 超高熱で焼いてやるしか、終わらせる術は存在しない。唯一人患者達を救えた月村すずかも、患者を助け過ぎた結果がアレだ。

 

 囚われた人々は最早、死んでいるのと同様なのだ。救う術など何処にもなくて、生きているだけで状況を悪化させてしまう物。

 本人達がその状況を知れば、己の意志で死を選ぶであろう。信じる者らは皆高潔であったから、骸を穢されようとしているこの今を、許す事が出来ないのだ。

 

 

「だったら、殺してやるしかないでしょう! 救えないなら、その矜持すらも穢され貶められるより前に、終わらせるしか道はない!!」

 

 

 紅蓮の炎が燃え上がる。足元の通路が解け始める程に、燃え上がる業火を纏って吠える。其処を退けと、確かな友に怒りを向ける。

 互いの疲弊は同等だが、この今戦えば勝敗なんて明らかだ。残った僅かな魔力で防護服を展開し続けているなのはより、残った魔力の全てを仲間殺しの為に温存したアリサの方が強い。

 

 裸体を晒す羞恥の情も、痛み続ける全身も、誇りを穢されようとしている彼らを思えば遥かに軽い。何としてでも、己が終わらせてやらねばならないのだ。

 気炎を上げるアリサを前に、なのはは静かに俯いた。痛い程に分かるのは、友の強い強い覚悟の情。もう二度と振り返らないと不退転の覚悟で以って、彼女は自ら道を踏み外そうとしている。

 

 此処で阻み続ければ、亀裂は決定的な崩壊を生むだろう。こんなにも友達と向き合うのが辛いと感じるのは、嘗て起きた闇の書を巡る一件以来だ。

 けれど、高町なのはは引き下がらない。彼の日を思い出したからこそ、想いは確かに強く成る。顔を上げた女の瞳は、冷たき炎の女傑に勝るとも劣らぬ程に強かった。

 

 

「けど、そんなのは諦めだ!! それは、アンナちゃん達が選んだ道と同じだよ!!」

 

「――っ!!」

 

 

 思い出したのは、彼の空に輝く星を目指すと決めた日。正しいのはきっと彼らで、間違っているのは自分達だと分かっている。それでも、目指すと決めた時の事。

 非合理なのは分かっている。理屈で考えれば、愚かしいにも程があるのだとは知っている。けれど正しい道の果てでは、笑い合う事すらも出来ぬのだ。だから、高町なのはは否定した。

 

 穢土・夜都賀波岐。古き英雄達が選んだ救済は、世界を凍らせてしまうこと。無間地獄の中に留めて、滅びる世界をせめて明日へ残すこと。

 それを否定したのは、その過程で失われる命が大切だから。守りたいと思ったのは、皆と過ごす何時もの日常。どうすれば良いのか分からないけど、それは嫌だと否定した。

 

 だからこそ、高町なのはは退けぬのだ。アリサ・バニングスの行いは正しいけれど、それは嫌だと感じるのだ。

 囚われた仲間達すら救えず殺す事を選んで、それでどうして世界を救える。滅び行く世界を明日に繋げる為の、道を見付け出せると誇れるのか。

 

 

「全てを救えはしないから、せめて何かを守ろうと。最初から切り捨てるべき者を定めて、その為に動いたあの人達を否定した。それが、私達の始まりでしょう!?」

 

 

 此処で彼らに手を下すのは、彼の日の自分達の否定に繋がる。大切な友達が自死する道こそ正しいと、認める様な物なのだ。

 だからこそ、そんな道は選べない。決して選んではいけない。既に道は決めた後、選択肢など遥か彼方に過ぎ去っている。今の自分達は唯、愚かであろうと進み続ける事しか出来ない。それ以外など、しちゃいけない。

 

 

「だったら、それは駄目だよ! それだけは、駄目なんだよ! アリサちゃん!!」

 

 

 必死に止める女の言葉は、確かにアリサに届いていた。歯噛みし俯き拳を握る。それでも、彼女の足は止まっていた。

 そうとも、その言葉で気付いてしまった。思い出してしまったのは、彼の日の向こう見ずな自分の姿。現実なんて知らないままで、けれど変えてみせると嘯いていた頃の自分。

 

 彼の日の姿を、若気の至りと言えはしまい。彼の日の自分が今の己を見れば、きっと奮起させる為の罵倒を口にした事だろう。だからこそ、アリサは気付いてしまった。我と彼の間の差異に。

 

 

「――っ」

 

 

 何もかもを救えはしなくても、何もかもを救おうと心に決めた。皆で過ごした日々がとてもとても大切で、だから守りたいと思って夢を見た。

 そうすれば、失ってしまう事はないから。覚悟を決めた友達を此処に留める為には、それ以上の答えが必要だった。願ったのは、世界の全てだなんて見えない物なんかじゃない。願ったのは、其処に在った幸福だった。

 

 彼の日の少女は、今も同じ夢を見ている。まだ叶うと、まだ叶えられると。そうとも、高町なのはは諦めてはいないのだ。月村すずかを、救う事すら。

 二人の違いは其処に在る。気性や気質の違いではなく、それ以上の隔たりを生んでいるのは其処なのだ。なのはは救えると夢を見ていて、アリサはもう無理だと割り切っていた。

 

 

「……それはもう、現実逃避よ」

 

 

 噛み締めた唇から、一筋の血が滴り落ちる。泣きたいけれど、もう泣けない。それは無様に過ぎるから。焼き尽くすべきだと言う判断を、彼女は心に決めたのだ。

 だってもう救えない。飲み込まれて溶かされて、完全に混ざってしまっている。どうすれば救えるのかと、答えがあるなら教えて欲しい。いいや、もう救えはしないのだ。其処に期待してしまうのは、唯の逃避と知っている。

 

 

理想(ユメ)に甘えるな! 幻想(ユメ)に縋るな! 一体何時まで、子どもで居る気だ! 高町なのは!!」

 

 

 叶わぬ今に、終わってしまった夢を見る。それは唯の現実逃避。もう二度とは戻らない。四人で一緒に過ごした日々。

 失ってしまうのだ。変わってしまうのだ。それは時が過ぎると言うこと。だからこそ神は何よりも恐れていて、どうか変わらないでと祈ったのだろう。

 

 けれど変わってしまうのだ。時は今も絶え間なく、明日に向かって流れている。彼の日の少女達は大人となって、此処に道を違えてしまった。

 少女だった女達は、きっと何処かで間違えた。一体何処で、道を違えてしまったのだろう。唯一つ分かるのは皆が救われる大団円など、この先には決して存在しないこと。

 

 

「割り切りなさい! 出来ない事は出来ないと! 認めなさいよ! 私達の友達は、もう死んだの! だったら、これ以上穢される前に止めてやるしかないじゃない!!」

 

「割り切れないよ! 出来なくてもやるって決めた! 認めたくないんだ! 私達の友達は、まだ生きている! だったら、皆が幸福に終われる大団円を求めて何が悪いの!!」

 

 

 現実に擦れてしまったのか。夢に浸ってしまっているのか。現実を見過ぎてしまった女と、現実を見れていない女は相容れない。

 正しい事でも、最善ではなく次善を選ぶ。その行為は、諦めと何が違うのか。正しくなくても、貫くと決めた。そんな言葉は、子どもの駄々と一体何が違うのか。

 

 睨み合って、言葉を交わす。何度想いを紡ごうとも、きっと相手には届かない。何故だか、そんな確信があった。

 そうしたくはない。選べるならば、選ぼうとする筈がない。けれど他に道はないから、互いに武器を手で握る。敵意を込めて、己を阻む“敵”を見た。

 

 

「退きなさい。これが最後の警告よ」

 

「退かないよ。私は何度でも、同じ言葉を繰り返す」

 

 

 顔を上げる。前を向く。歩を進める。殺意を今も消し去れぬのは、一番の親友が壊されたから。ずっと一緒に居た友達の末路が、脳裏にこびり付いて離れない。

 視線を動かさず、睨み付ける。進む歩の前に立ち続けるのは、彼の日の夢を捨てられないから。皆で一緒に、また遊ぼうと約束した。子どもの夢を、今も見ている。

 

 突き進んで、何を為すのか。阻む為に、何処までするのか。共に答えが出せないまま、抑えられない衝動だけが膨らんでいく。

 其れは何処か彼の日の様に。バス停の前で怒りと憤りをぶつけ合った、幼く稚拙な喧嘩を思い出させる物。思い出せてしまうから、僅かな差異が何処までも寂しく悲しく空しいのだ。

 

 悪戯な笑みを浮かべていた、赤毛の友達はもう居ない。何処か控えめに微笑んでいた、紫髪の友達はもう居ない。

 残った二人の友達は、握った刃を互いへ向ける。余りにも悲しくて、どうしようもなくやるせなくて、それでももうそんな道しか選べなくて――

 

 

 

 ぶつかり合う、その直前。止まれない女達の争いを治めたのは、翡翠の瞳を持つ青年だった。

 

 

「二人とも、その辺にしておきなよ。ヴィヴィオが怖がってる」

 

「ユーノ君」

 

 

 ユーノ・スクライアは、何時もの様に微笑み語る。その背に隠れて震える小さな少女を引き合いに出して、此処は一先ず抑えろと。

 彼の言葉を前に止まったのは、二人にとっても彼の存在は大きな物であったから。片や愛し合う恋人で、片や恋焦がれた果てに失恋した相手。どちらにとっても、無視出来る様な相手じゃない。

 

 

「疲れているから、悪い事ばかり考えてしまうんだ。今は少し、休んだ方が良い」

 

「……そんな暇は、ないわ」

 

 

 優しく語られる言葉に、俯いてアリサは首を振る。今休めば縋ってしまいそうで、今休めば同じ夢を抱いてしまいそうで、そんな弱さが嫌だった。

 だから、アリサは空を見上げて息を吐く。壊れ掛けた隊舎の天井は亀裂混じりで、その先までも見通せた。だと言うのに、空は何処までも暗い曇天模様。まるで己の心を、此処に映しているかのよう。

 

 

「アリサちゃん」

 

「……なのは。其処まで言うんだったら、方法はアンタ達で見付けなさい。それまで私は、此処の連中には手を出さないって、約束する」

 

 

 冷静になって、自分の無様を自覚して、これ以上の上塗りは出来ないと嘆息する。そうしてアリサは、なのはに言った。

 自分はもう手を出さないと、それが今の彼女に選べる妥協点。これ以上はもう無理だ。もう夢は見れないのだと、穢された友の姿に思ってしまった。

 

 

「アリサは、どうするんだい?」

 

「私は、アイツを追う。……すずかの遺体だけでも、取り返してあげないと駄目でしょう?」

 

 

 ユーノの問い掛けに、寂し気に微笑む。勝てないのだとしても、倒せたとして無駄になるのだとしても、今のアリサはそうとしか生きれない。

 次の器に逃げられるだけ。クアットロは滅ぼせない。それが分かって、けれど月村すずかだけは止めたいのだ。もうこれ以上、友の死骸を穢されたくはないのだから。

 

 アリサ・バニングスは、もう夢を見ない。夢追い人らに背を向けて、燻り続ける炎と進む。唯一人だけで歩む彼女は、この時確かに決別した。

 

 

 

 

 

 残されたのは、三人だけ。夢を追い続けると決めた女と、もう二人。彼女に庇われ、難を逃れただけの者達。

 扉の向こうで眠る人々を背負って移動させながら、語らう言葉は何もない。何も言えない時間を過ごして、気付けば作業は終わっていた。

 

 基地司令を初めとした、古代遺産管理局の精鋭達。寮や備品庫から集めた布団の上で眠り続ける彼らは今も、悍ましい悪夢に囚われている。奈落の底に今も居る。

 その顔を見詰めて、なのはは思う。思ってしまうのは、これで良かったのだろうかと言う疑問。苦しみ続ける彼らの姿に、この判断は間違っていたのではないのかと。

 

 こうして、彼らを一ヶ所に集めたのもそれが理由。いざとなったら、纏めて消し飛ばせる様に。そんな思考を浮かべてしまう今の自分が、彼女に何か語れる筋合いでもあったのだろうか。

 何十人どころか何百人もが、横たわっている中央ホール。僅か数人で行う深夜の重労働に、疲れた彼らは腰を下ろす。背中合わせに座った男女の下へとてとてと、小さな少女が駆け寄った。

 

 もう眠い時間だろうに、必死に頑張って起きている。虹彩異色を眠たげに閉ざし掛けた少女は、それでも二人の役に立とうと頑張っている。

 布団や人は運べなくても、枕ならば両手に抱えて運べるだろう。他にやる事がなくなっても、疲れた二人の為に水を運ぶくらいは出来る。だから、ヴィヴィオは頑張ってと小さなタオルを二人に渡した。

 

 受け取って、揃って微笑む。背中合わせから、互いに少しだけ相手側へと、重たい身体を動かす。そして一緒に少し休もうと、ヴィヴィオをその間に座らせた。

 

 

「バラバラに、なっちゃったね」

 

「そうだね。随分と、寂しくなった」

 

 

 呟いた言葉は、思ったよりも反響した。静かで暗いその場所で、他に音がないからだろうか。ユーノの返事に、なのはは頷く。本当に、随分と寂しくなってしまった。

 

 

「なのはママ。ないてるの? ぎゅってすれば、げんきになる?」

 

「……ううん、大丈夫。ありがとうね、ヴィヴィオ」

 

 

 不安そうに見上げた瞳が、案じる様に問い掛けて来る。作り物の冷たい腕で掴んでくる、小さな子どもの姿に少し困った様に苦笑する。

 ああ、何と答えた物だろう。少し悩んで、返したのは大丈夫だと言う感謝。小さな身体を優しく抱き留めて、もう少しだけ彼へ向かって身体を傾けた。

 

 腕に感じる小さな熱と、肩に感じる優しい熱。二つの温度に力を貰って、高町なのはは目を開く。その意志は、既に未来へ向かっている。

 

 

「これから、どう動こうか?」

 

「……取り敢えず、僕はスカリエッティの研究施設を探ってみる心算だ。魔群を生み出したのがアイツなら、対抗策も何かあるかもしれないからね」

 

 

 なのはの言葉に、ユーノは考えていた事を明かした。クロノの指示で、隊長陣は皆知っている。反天使と呼ばれる者らが、如何にして生まれたのかを。

 狂気の天才、ジェイル・スカリエッティが作り上げた。ならば生みの親である彼の研究施設にならば、何か対策があるかも知れない。反逆に対するセーフティの様な物でも、見付かれば御の字と言う所。

 

 そう語る青年は、それが徒労に成る未来を知らない。ジェイル・スカリエッティの息が掛かった施設は全て、魔刃の炎で破壊されている。何一つとして残っていないと言う事実を、彼らはまだ知らなかったのだ。

 

 

「なら、そっちは任せるね。私は、レジアスさんに話を通して、如何にか六課を維持出来ないか動いてみるよ」

 

 

 対してなのはは、ユーノとは真逆の道を選ぶ。彼が打開策を見付けようと動くのならば、自分は帰るべき場所を守ろうと考えたのだ。

 此処は管理局内でも、信用できる者らを集めた部署。最高幹部である評議会に抗う為に、必要となる拠点と立場。寄って立つ物さえ失えば、後はもうジリ貧だ。

 

 だから守ると語るなのはに、ユーノは僅かに眉を顰める。彼が懸念するのは、この部隊を残す為に必要となる労力。それを満たす為の、人員がまるで足りていない事である。

 

 

「この状態を維持するのは、難しいと思うよ。……総勢九百人以上が、今じゃ五人しか残っていないんだ」

 

「けど、機動六課は必要だよ。この場所すらもなくなってしまったら、最高評議会の暴走を止める術がなくなる。皆が帰って来る場所も、無くなっちゃうから」

 

 

 本来千人と言う人数で、動かしていた古代遺産管理局。その勢力も、今では僅か五人だけ。たった一晩で、此処まで削られてしまっている。

 高町なのは。ユーノ・スクライア。トーマ・アヴェニール。ティアナ・L・ハラオウン。ルーテシア・グランガイツ。この今に、意識を保っているのは彼らだけ。

 

 内のユーノが裏で動くと決めた以上、表に残るのは小隊一つと同人数。これで全てをこれまで通りに回せと言うのは、どうあっても無理な話だ。

 それでも、六課を残す必要がある。規模を縮小してでも、如何に維持しなくてはならない。レジアスから人手を借りるのは前提だが、それだけでも足りないだろう。

 

 少なくとも、これまで以上に働き続ける必要が出て来る。今までの仕事をしながら、今まではして来なかった事にまで。其処までしても、回るかどうか怪しい所だ。

 最低限を動かすだけでも、恐らくは限界寸前となるだろう。まず間違いなく、これから暫く自由な時間などはない。身を休める時間すらも、真面に残りはしないに決まっている。

 

 そうとも、此処に感じる二つの熱。彼らと過ごせる時間も、これから先には暫くない。高町なのはの語る選択は、離れ離れになると言う事を意味していた。

 

 

「ねぇ、ヴィヴィオ」

 

「なのはママ?」

 

 

 向き合って、問い掛ける。見上げる少女に語る言葉を考えた時、過ぎ去ったのは嘗ての記憶。彼の日の母の言葉であった。

 父が怪我をして、母はお店を一人で回さなくてはいけなくなって、自分は一人取り残された。そんな過去を、此処に思い出して歯噛みする。

 

 これを言わなくてはいけないのか。そうしなくてはならないのか。他に道はないのだろうか。

 そんな物、在りはしないと知っている。駄々を捏ねるだけでは、駄目だと言う事は分かっていた。

 

 

「…………あのね。ママは暫く、忙しくなりそうなんだ。ヴィヴィオとも、余り会えなくなると思う。だから――」

 

 

 それは、重い言葉だ。誰かにとっては取るに足りない事であっても、高町なのはにとってはとても重い言葉なのである。

 彼の日に友が居なければ、トラウマになっていたであろうその言葉。けれど今は言わなくてはならないから、彼女は唾を飲んでから言葉を紡ぐ。

 

 

「良い子にしてて、待っててくれる?」

 

 

 言葉の意味を理解して、寂しそうな表情を作る少女。泣き出しそうなその姿を、困った様に笑って見詰める。

 けれど、ヴィヴィオにも事の重大さは理解出来ていたのだろう。少し俯いた少女はしかし、確かに頷き返したのだ。

 

 

「……うん。まってる」

 

「うん。約束。ちゃんと迎えに行くから、良い子にしててね」

 

 

 頑張って、良い子で居よう。そう決めた少女の姿に、ありがとうと言葉を返す。そうして、優しい手付きで頭を撫でた。

 嬉しそうに抱き着く子どもに、今だけは良いだろうと抱き締め返す。大丈夫。きっと約束は守るから。そう誓う女も、彼女らを優しく見詰める男も、まだ気付かない。

 

 

 

 知らぬとは言え、反天使である少女を一人で残すと言う意味を。誰も彼もが最善を掴み取ろうとして、何もかもが最悪に向かっている現状を。

 世界は何時だって、こんな筈じゃなかった事ばっかりだ。その言葉は、何より真実を指している。そうとも、物事は都合良く回らずに、都合悪く歪んで行くのだ。

 

 何処かで蟲が嗤っている。愚かだ。愚かだ。愚かに過ぎると。悍ましい蟲の掌で、彼らは気付かず踊っていた。

 

 

 

 

 

2.

 甘い匂いがする。甘い甘い匂いがする。ゆらりと霞む蜃気楼の中、浮かんで消える虚ろな幻影。

 彼らは思う。何故と。我らはこの感覚を既に失っている筈だと言うのに、久しく感じる匂いと光はリアルであった。

 

 音を立てて、気泡が泡立つ。音を立てて、誰かが崩れる。音を立てて、甘美な香りの中へと全ての色が沈んでいく。

 そんな中で、疑問に思う。今も意識を維持しているのは、彼らは五感を捨てたから。故に掛かりが少し浅くて、矮小な抵抗を続ける事が出来るのだろう。

 

 美女は妖艶に微笑む。厭らしさや猥褻さを際立たせる下品さは、その美貌が故に退廃的な美に染まる。舌で唇を潤して、女は甘い言葉を紡いだ。

 

 

「貴方は素晴らしい。掛け値なしに素晴らしい」

 

 

 音にしたのは甘い猛毒。愛しい男に閨で甘える様な声音で、囁き掛けるは自尊心を擽る言葉。そこに一滴の香を混ぜ込み、彼らの思考を蕩かせる。

 聖王教会総本山の地下深く、底の底の最底辺で蠢いていた老害達。五感を捨てて、身体を捨てて、脳味噌だけになったのに、我欲と妄執だけは捨てられなかった者らを此処に躍らせる。

 

 自尊心を擽る言葉と、音に宿ったその香りは凶悪だ。湧き立てられる感情は、恋慕の情に何処か似ていた。

 恋した女に囁かれる言葉に、彼らはその思考を鈍らせている。女の言葉は全て正しいと、女の言葉に逆らってはならないと、そんな風に思えてならない。

 

 

「身体を捨てても、世界を守り導くために。一体誰が、そんな決断を出来ますか? そうですとも、己の意志で導く事を選んだ貴方達は、誰より素晴らしい者なのですよ」

 

《……嗚呼、そうだ。我らは素晴らしい。我らの抱いた願いこそが、尊く輝く至高の渇望》

 

「なのに、どうしてでしょう? 貴方達の素晴らしさに気付かない所か、その偉業を知りながらも正当に評価しない者が居る。貴方達を、侮り見縊る子どもが居るの」

 

《我らを、見縊る……?》

 

《許されない。それは許されない事だろう》

 

「えぇ、許されてはならない事。ですから、罰を与えましょう。愚かな子ども、エリオ・モンディアルと言う少年に」

 

 

 管理局最高評議会。後の世を守り導くため、肉体を捨てた嘗ての英雄。醜悪に歪んだ指導者達は、女の言葉に酔わされる。

 恋する女によって紡がれる賛辞の言葉は、あらゆる美酒をも超える至高の味と言えるだろう。意識の一部を改竄されている彼らに今、真面な判断などできる筈がない。

 

 そうなるのが当然で、だがしかし彼女は些か性急過ぎた。今の女が手にした力は、所詮は残骸に過ぎぬ物。

 本家本元たる物は愚か、彼女の叔父が拾い上げたデッドコピーにも劣っている。ならばこそ、脳髄達は其処に違和を抱けたのだ。

 

 

《エリオ……モンディアル……? 何故、その名が出る?》

 

《あれは我らに忠実な、我らの誇るべき至高の剣。遂に天魔の両翼をも、打ち破ってみせた至宝であろう》

 

 

 引っ繰り返した大きな試験管の中に浮かんだ剥き出しの脳髄が語る疑問の言葉に、妖艶な美女は小さく舌打ちする。

 

 能力が不完全なだけが理由か。まだ女の身体に香が馴染み切っていない事や、脳髄には嗅覚なんてない事も理由であろうか。

 或いは全て、とは言え其処を突き詰めて思考する事に意味はない。掛かりが浅くて相手が疑問を抱くと言うなら、更に毒を増やせば良いのだ。

 

 

「……いいえ、アレは至宝などではない。貴方達を見縊り侮り侮蔑している。今も音沙汰がないのは、その証拠ではないかしら?」

 

《確かに、やもしれぬ。御門顕明に対する襲撃も、我らの想定外ではあった》

 

《そうだ。何故、奴は釈明に来ない。どうしてだ。どうして、奴は此の場にやって来ないのだ》

 

 

 香を意識し声に力を込めながら、魔群は言葉を紡ぎ上げる。彼女が口に出して語るのは、最高評議会が抱えていたであろう鬱憤を増大させる為の物。

 御門顕明に対する襲撃は、どう考えてもエリオ・モンディアルの独断だ。直後に起きた空亡の襲来故に印象自体は薄くなっても、彼らは不満を抱いていたのであろう。

 

 クアットロの語る毒に、三つの内の二つが踊る。彼らは既に酩酊していて、己に閉じるのも間もなくの事。そう確信し笑みを深める女の高揚に、しかし残る一つが無粋な水を差す。

 

 

《待て、お前達。確かに不審な点もあるが、奴は明確な結果を出している。査問もせずに罰すると言うのは、余りに不義理が過ぎるであろう》

 

「ちっ、塵屑が。良いからさっさと、諸共に破滅しろって言うのよ。糞ったれ」

 

 

 三つの脳髄がリーダー格。恐らくは肉体を持っていた頃も、トップに居たであろう者。残骸となっても、その差は残る物なのだろう。

 こんな強さなど今更に見せられても、唯々不快になるだけだ。そんな風に顔を顰めたクアットロの毒吐きは、彼女が思う以上に大きな音に成っていた。

 

 

《……ん? 今、何か雑音がしたような》

 

《ああ、しかし、この甘い匂いは何なのだろうか。我らには既に、嗅覚など残っていない筈なのに――》

 

「気のせいですわ。全て、気のせい。――だから、己に閉じて、甘い夢に浸りなさい」

 

 

 失敗したなと反省しながら、クアットロは更に力を強くする。思わず毒吐いてしまった今、思考を鈍らせ誘導するのも無理があろう。

 元より、高望みが過ぎたのだと切り替える。出来れば自我を保ったまま無様に狂い死ぬ姿が見たかったのだが、其処は素直に諦める。

 

 頭の中で計画を書き直しながら、女は彼らを壊すと決めた。壊れてしまえ。壊れてしまえ。壊れてしまえ、と。想いを込めて、言葉を紡いだ。

 

 

「確かに、エリオ・モンディアルは結果を出した。罰するのが惜しい程、彼は優秀かもしれません」

 

 

 未だ馴染まぬ力を最大に、女の体から溢れる香りは桃色の煙と変わって地下施設を満たしていく。

 吸えば恋をし魅了される。そんな程度では済まさない。再現するのは、嘗て叔父が作った阿片屈。立ち入った人間全てを、壊してしまう桃源郷だ。

 

 

「ですが、だから許すと。それで良いのですか? 余りに自由を許し過ぎれば、何れは反旗を翻す。此処は一つ、主として相応しい態度と言う物を、狗に見せねばならぬでしょう」

 

《然り! 然り! 然り! 然り!》

 

《そうだ。我らには義務がある! 自由を気取る狗風情に、相応しい態度を見せねばならぬ!!》

 

「ええ、ええ、そうですとも。己の立場と言う物を、再確認させてあげましょう! それが魔刃を管理する、偉大な方々の為すべき事ですわ!」

 

 

 強くなった香の力に、溺れていた二つは早くも壊れた。最早真面な思考回路など残っておらず、口にするのも唯単純な鸚鵡返しだけである。

 彼らはもう、己に閉じている。最早彼女の言葉に従うだけの、意志すら残らぬ傀儡と化した。そして残る一つ。本命と見ていた脳髄も、強い香には抗えない。

 

 

《……ああ、そうだな。そうだとも、その通りだ。我々が管理してやればこそ、あの男は世界を守る一助となれる。その事実を忘れたと言うならば、再び教育してやらねばなるまいて》

 

 

 彼女の言葉は全て正しい。彼女の行動は全て正しい。彼女がそう語るのだから、己はそう動けば良いのである。思考は鈍化し酩酊し、考えられるのはもうそれだけ。

 其処に違和感を覚える。何かがおかしいとは思う。だが思えるだけだ。最後の脳髄も影響下へと囚われて、言われるがままにそれを為す。言われた事を自分で導いた解なのだと、思い込んで動くであろう。

 

 管理局最高評議会はたった今、魔群の手中に堕ちたのだ。()()()()()を纏う美女に、心の底から溺れてしまった訳である。

 

 

《だが、しかしどうする。クアットロ。お前も言う様に、アレは強いぞ。首輪もない今、正攻法では罰の一つを下す事も難しかろう》

 

「そうですわね。……でしたら、こんなのはどうでしょう?」

 

 

 自我すら残っていない二つと、違って真面な言葉を紡げる一つ。酩酊しながら問い掛ける脳髄達の指導者に、クアットロは含み嗤う。

 そして指を一つ弾いて、門を開いて向こう側へと道を繋げる。繋げた先から溢れ出す蟲の群れが連れているのは、眠る幼い少女であった。

 

 

「キャロ・グランガイツ。あのエリオ・モンディアルが、唯一人執着している少女ですわ」

 

 

 地面に転がされた少女の身体は、しかし全くの無傷であった。衣服にすらも汚れはなく、そもそもクアットロには彼女を傷付ける心算がない。

 何故ならば、恨まれたくないからだ。あの少年は今の自分ですらも殺せてしまう。そんな怪物の逆鱗に、態々手を出すなど愚行の極み。絶対の勝算が無い限り、やりたくなどない事だ。

 

 だが、コレが傷付いた姿を見せ付けたいと言う欲はある。嬲られ壊され見るも無残な死骸と化した彼女を見付けたエリオの慟哭は、一体どれ程甘美な物かと夢想もする。

 しかし危険だ。自分が行うのは問題だ。だから、彼らに代わって貰えば良い。少女を攫った咎も、少女を傷付けた罪も、全て最高評議会に押し付けてしまえば良いのである。

 

 

「コレを使って、あの子に分からせてあげるのですよ。自分達に逆らえば、どうなるのかをね」

 

 

 六課を襲って早期に退いた、魔群の六課襲撃を知る者は多くない。真実を知る生存者達も、己の弱みであるそれを必死で隠すだろう。

 そして最高評議会は傀儡と化した今、エリオ・モンディアルがクアットロの関与に気付くなどは不可能だ。彼が得られる情報網では、何をどうしようと女の下には届かない。

 

 念には念を入れて、細工を幾つかしておこう。時間を掛けて準備を整え、メッセンジャーも用意しよう。その為にも、老害達にはしっかりと踊って貰わねばならないだろう。

 

 

《おぉ、それは良い。素晴らしい。見事な策だ》

 

《やはり、美しい肉体には、素晴らしい頭脳が宿るのだな。その見目と言い、見事な知略と言い、お前は我らの傍仕えとおくに相応しい》

 

「…………だぁれが、アンタ達みたいな腐れ脳味噌の世話なんざするか。さっさと死ね、塵屑共」

 

 

 脳髄の語る妄言に毒を吐く。今度は反応がなかった事に、苛立った表情を愉悦に変える。彼らは無事、見事に壊れてくれていた。

 嘗ての英雄。偉大な指導者達の成れの果てへと、哀れむ情は欠片もない。いい気味だとすら思うのは、クアットロもまた彼らの事を恨んでいたから。

 

 

「それだけが、私が貴方達に許すこと。飼ってる狗に喉笛を噛み千切られて死ぬ事こそ、ドクターを切り捨てた罪に対する贖罪なのよ」

 

 

 身勝手な思考で、女の父を不要と断じた。信仰対象を穢された程度の事で怒り狂って、あろうことか最高頭脳を切り捨てたのだ。

 その愚かさ。その罪深さ。全ては万死に値する。そんな脳髄共なのだ。エリオ・モンディアルの敵意を煽って、彼の手で殺され尽くす事こそ相応しい幕であろう。

 

 最高評議会はこれで、エリオ・モンディアルに殺される。そのエリオ・モンディアルにした所で、この領域に来ればアレに飲まれる。

 脳髄達の中央に、今も突き立つ黄金の槍。領域の境界寸前に居るクアットロでも、感じる程の圧を鼓動させている。黄金の意志が其処に居る。

 

 評議会の脳髄達を滅ぼさんと、深く踏み込めば黄金の領域に囚われる。死人の城で覇軍の王と戦う羽目になれば、如何にエリオであっても無事ではすむまい。

 勝てたとしても手傷を負い、膨大な時間を浪費する筈だ。そして如何にか抜け出した先で、彼は愛する少女の無残な骸を見るのだ。その慟哭こそが、クアットロが下す彼への裁き。親殺しへの報いである。

 

 

「やっと、此処まで来た。私は、こんなにも強く成った。そして、今以上にも強くなれる」

 

 

 壊れた二つの脳髄は、もう彼女の言葉を疑問に思いもしないだろう。残った一つの脳髄は、疑問に思えはしても其処で止まる。

 故に今、彼女の策謀を阻む者は何一つとして存在しない。そう確信したクアットロは、()()()()()()()へ更に深く腰掛けながらに想いを吐露する。

 

 そんな些細な重心移動に、椅子は耐えられずに吐血した。ぐちゃりと何かが潰れた音がして、クアットロの目線は一つ下へと下がった。

 

 

「ありがとう、氷村叔父さん。墓から貰い受けた物、実に便利で役立ちました。傾城反魂香。貴方を恨む復讐者。全てが私の糧に変わった」

 

 

 常ならば勝手に膝を折るなと苛立ったのであろうが、今の女は機嫌が良い。潰れた残骸の手足を踏み砕く程度で許して、妖艶な笑みを形作る。

 此処まで来るのに、役だったモノらに感謝を。地球に残っていた氷村遊の研究資料や、今も足蹴にしている無限蛇の元・盟主。これらは実に、彼女の良き糧と成っていたのだ。

 

 

「やっぱり、持つべき物は役立つ家族ってもんよねぇ。無様に燃えて死んだカスの癖に、姪に色々残しておいてくれるだなんて、ほんっと都合の良い人よねぇ。そう思わなぁい、盟主様ぁ?」

 

 

 大部分は焼けてしまったが、僅かに残っていた氷村遊の研究成果。其処から実験を繰り返して、傾城反魂香のデットコピーを作り上げた。

 足りない部分は幾つもあったが、其処は奈落の夢を利用した。その結果、五感を持たない者にも作用すると言う本家本元に等しい性質となったのは一体如何なる偶然か。

 

 

「ああ、もう喋れないんだっけ? ま、そうよね。貴方を生かしていた力。丸々全部、私が食べちゃったんだもん。ごめんね。けどお腹が空いちゃったから、どうしようもなかったんだよ」

 

 

 隙だらけであった盟主の背を刺し、変質を始めていた彼女の力を奪い取った。その身に宿っていた闇の力を、全て喰らって取り込んだ。

 今の月村すずかの体内には、薔薇と太陽と魔群の他に、魅了の香と原初の闇が渦巻いている。クアットロと言う名の怪物は、今も肥大化を続けていた。

 

 

「可哀想な盟主様。可哀想な悲劇のヒロイン。可哀想な生き物に、もう用なんて何もないから。可哀想な生き物は、此処で全て枯れ堕ちましょう」

 

 

 そんな怪物は優しく囀る。ふと思い付いたその発想に、何て己は慈悲深いのだろうかと自画自賛する。

 もう見ているだけでも哀れになる程無様であるから、このままここで殺してあげよう。ニィと嗤った血染めの華は、足蹴にしていた女の頭蓋を掴んだ。

 

 

「恋人よ、枯れ堕ちろ。死骸を晒せ」

 

 

 そして、その夜を放つ。簒奪する力を以って、女の全てを奪い去る。無限蛇の盟主と呼ばれた復讐者は、こうしてその命を終えたのだった。

 

 

「あぁ、美味しい。やっぱり、力持つ魂を捕食するのは最高ね。暴飲暴食も悪くはないけど、偶には質に拘らないと飽きちゃうわ」

 

 

 命を吸い尽くされて、灰すら残さず消えた残骸。汚れた衣服を軽く叩いて清めながら、立ち上がった美女はうっとりとした表情でそう呟く。

 とても美味であった。命を貪り喰らうこの快楽は、他の何とも代え難い程の愉悦であろう。暴食の罪を宿した彼女が溺れてしまうのも、無理はない程の歓喜であった。

 

 

「けど、盟主様でこれなら――――アリサちゃん達を食べた時には、どれだけ幸せを感じる事が出来るんだろう」

 

 

 恍惚とした笑みで後味に浸る女はふと、そんな事を思い付く。唯強いだけで人の魂が美味と成るなら、其処に愛情と言うスパイスが加われば一体どれ程の美食となるのか。

 魂の強度を、素材が持つ元の味だと仮定しよう。ならば愛情とは、料理人が手掛ける調理と同じであろう。愛の量が調理の質を上げるとすれば、とても大事なあの友達はきっと何より美味しい筈だ。

 

 ()()()()()は笑みを浮かべる。想像するだけで股座を濡らせてしまう程に、その瞬間に期待している。心の底から感じるのは、最早たった一つの願望だけだ。

 

 

「うふふ。気になるなぁ。気になるなぁ。早く貴女を食べたいなぁ」

 

 

 早く、貴女を食べてしまいたい。己を染める魔群によって醜悪な形に咲いた華は、情欲と食欲に濁った瞳に友の影を浮かべていた。

 

 

 

 

 

3.

 勝利者達に背を向けて、敗北者は一人立ち去る。行く当てなんて、何処にもなかった。けれどその場に残る事は、許されていないと知っていた。

 怯え続ける少女の瞳をこの目で見た。焦がれていた彼女の恐怖に、それを齎した自分と言う存在がどうしようもなく許せない。だから、せめて直ぐにでも立ち去ろうと思ったのだ。

 

 疲れ果てた足を必死で動かす。霞む意識を如何にか持たせる。血が出る程に歯噛みして、そんな弱さは誰にも見せない。

 心を隠して敗北を認めて、立ち去る彼は振り返らない。背後で憎悪を叫ぶ声に、結局己達は対なんだろうと実感する。彼も自分もどちらも所詮、無様な敗北者でしかない。

 

 当てもなく歩く身体は、そう遠くない内に限界を迎えた。いいや、既に限界なんて超えていたのだ。彼らの前で強がるだけでも、エリオにとっては精一杯の行為であった。

 だから霞む視界と意識で、当てもなくミッドチルダを彷徨った。当てもない筈なのに、進む足は一方向に迷いなく。辿り着いた其処は安全だと、無意識の中で知っていた。だから少年は糸が切れた様に、其処に倒れて眠りに落ちた。

 

 それが、三日前の話。三晩に渡って眠り続けた少年は、ゆっくりとその目を開く。身体に溜まった疲弊と傷は、起きたら全てが消えていた。

 

 

「此処は…………嗚呼、そうか」

 

 

 目覚めたエリオは、自分が今居る場所を確認する。記憶にも残っていない道筋を歩いて、辿り着いた此処は何処なのか。エリオはとても良く、この場所の事を知っていた。

 机に置かれた陶器の花瓶。それは彩りに掛ける部屋を見兼ねたキャロが、持ち込んだ物の一つ。隅にある小さなバスケット。毛布を入れたその籠は、よく入り浸るフリードが昼寝をする場所として用意した物。此処は、彼女と過ごしたセーフハウスの一つであった。

 

 

「僕は無意識に、此の場所を求めていたのか。……我ながら、実に女々しい話だ」

 

 

 もう戻らない。机の花瓶にある花が、枯れてしまっている様に。籠の中にある毛布が、虫食いとなってしまっている様に。失った物は戻らない。

 嫌われてしまった。憎まれてしまった。怖がらせてしまった。どれ程に後悔しようとも、その結果は変わらない。だと言うのに在りし日に安らぎを求めて、安心していたと言うのだから女々しい話だ。

 

 エリオが浮かべたのは、己へ向ける自嘲の嗤い。全くどうしてこんなにも、この男はどうしようもない奴なのか。こんな様だから、負けるべくして負けたのだろう。

 

 

〈やぁ、起きたか。気分はどうだい、我が半身〉

 

「ナハトか。……最悪だよ。これ以上、ないくらいには」

 

 

 少年の覚醒に反応し、内なる悪魔が言葉を掛ける。揶揄い交じりの提案は、何時もと同じ破滅に誘う魔性の声だ。

 

 

〈そうか、そうか。だがしかし、敗北を選んだのはお前だぞ? それで気分を害すと言うなら、あの場で勝利者共を殺し尽くしてしまえば良かっただろうに〉

 

「それは唯の逃避だろう。僕は最低の罪人だろうけど、恥知らずにまで成った心算はないんだ」

 

〈先ずは見事と称えよう、とでも? それこそ逃避ではないかな? 自分が弱く醜いと認めるよりも、相手が強く美しいと思った方が相対的に気持ちが楽だ。そういうものだろ、人間(オマエ)達は〉

 

「さてね。常識なんて知らないから、人の定義なんて言われた所で知らないよ。取るに足りない。どうでも良い」

 

 

 ナハトの提案通りに動けば、果てには必ず破滅しよう。エリオはそれを分かっていて、ナハトはエリオが分かっている事を分かっていて語り掛けている。

 当然、そんな会話は破綻している。真面に取り合う価値もないのだと、鼻で嗤って受け流すべき物である。故にエリオが言葉にするのは、これから果たすべき想いと誓いだ。

 

 

「必要なのは、進歩すること。神の座を奪い取る為に、前進すること。進み続ける、歩を止める理由はない」

 

〈進む理由に、望まれていないのだと知っても?〉

 

「……それでも、だ。何時か拒絶されると知って、僕はこの道を選択した。ならば今更、止まって良い筈ないだろう」

 

 

 もう進もう。十分に休んだから、先へ進もう。前を見て、歩き出すのだ。今更に、進む事を止めて良い理由なんてない。

 それはもう、始まりの理由なんて関係ないのだ。彼女が嘆き恨み恐怖しようと、先に進む事を止められないのだ。否、止められたとしても、もう止まる心算なんてない。

 

 

〈では、我武者羅にでも動くと? そいつは随分と、頭が足りない愚かな答えだ。猪突だけで辿り着けると言うのなら、神の座とは随分浅い所にあるんだろうなぁ〉

 

「いいや、一先ずは思考を纏める。反省は必要だ。後悔は必要だ。敗北した後も同じことを繰り返すと言うのなら、確かにお前の言う通り。頭の軽い愚か者だよ。ナハト=ベリアル」

 

 

 だが再び歩き出す前に、必要な事が一つある。それは先に敗れた理由を、改めて理解する事だ。何故と思った疑問をそのまま放置していれば、また同じミスを繰り返すだけなのだから。

 進む為に、必要なのだ。もう一度なんて起こさぬ為に、もう二度とは負けない為に、あの日にあった全てを思い浮かべる。エリオにとっては苦痛であったが、それでも必要な事だったのだ。

 

 

「僕は何故、奴らに負けた?」

 

〈宿儺にやられた傷があった。トーマ・ナカジマの自壊は予想外だった。キャロ・グランガイツの存在に、余りに執着し過ぎてしまった。纏めるなら、この三つかな?〉

 

「……いいや、違うな。それは違うぞ、ナハト。そんな些細な不利なんて、敗北理由になる筈ない」

 

〈ほぅ、その心は?〉

 

「単純な話だ。それだけなら、僕が勝つ。それだけだったら、僕はきっと勝てていた。彼我の実力差は、確かに大きくあったのだから」

 

 

 敗北の理由としてナハトが纏めた要素を、エリオは僅か思考してから否定する。宿儺との戦闘も、トーマの暴走も、キャロへの執着も、大きな要因ではあるが直接の敗因ではない。

 それらの要素があったから、エリオは足止めされたであろう。だがしかし、足止めされずに意図を貫き通せたと仮定しても、エリオの敗北は変わらない。彼の想定を上回る結果を、既に出されてしまったから。

 

 

「それでも、僕は敗北した。その理由はきっと、僕が履き違えていたからなんだ」

 

 

 履き違えていた。言葉にすれば、しっくりくる。何より明確な敗北理由は、エリオの認識にこそあったのだと。彼はそう断じている。

 

 

「なぁ、ナハト。あの場で僕が勝つには、どうするべきだったと思う? どうすれば、僕は勝てていた?」

 

〈迂遠な物言いだな、エリオ。諧謔を好むのは良い傾向だが、余りに過ぎると相手をするのも面倒臭いぞ〉

 

「お前が言うな。迂遠の極みと言うべき口調で語る、無価値な寄生虫の分際で」

 

 

 韜晦するナハトの言葉に、エリオは舌打ち混じりに答えを明かす。エリオが勝利する為の条件は、実はとても簡単な事だったのだ。

 

 

「話を戻すぞ。……僕が勝つ為の方法。僕が認める勝利を得る為の方法。それは他でもない、奴ら機動六課と手を組み協力する事だった」

 

 

 機動六課を、敵にしなければ良かった。結果論だが、彼らだけでも百鬼空亡は止められたのだ。ならば其処にエリオが手を貸せば、より良い結末を迎える事が出来ただろう。

 

 

「奴らは確かに、不可能と思えた偉業を成し遂げた。地球と言う惑星を滅ぼさずに、百鬼空亡を打倒した。ならば其処に僕が手を貸していれば、僕は憎まれる事もなくキャロを確実に守れただろう」

 

 

 誰にとっても、より良い結末。其処に至れなかった、理由は何か。知らなかったと、見抜けなかったと、詰まりはそういう類の物だ。

 観察眼が足りてなかった。見ようとする意識がなかった。己に劣る他者など須らくが取るに足りない物であり、思考に浮かべる余地すらない。そんな風に、思い上がっていたのである。

 

 自己嫌悪しながら、他人は自分以下の存在だと見下している。矛盾したその価値観こそが、エリオ・モンディアルの中にあった物。履き違えていたのだと、この今に彼が認めた欠陥だ。

 

 

「そうしなかったのは、僕が奴らを正当に評価していなかったからに違いない。履き違えていたんだよ。僕に出来ない事が、他の誰にも出来る筈がないとね」

 

〈だが、それは予想も出来ない事だろう。確かな事実としてお前に勝てる者など、あの場には一人も居なかった。そのお前に出来ない事が、お前以下の者らに出来る筈がないと考えるのは、寧ろ当然と言うべきではないかね〉

 

「其処が思考停止なんだよ、ナハト。確かに奴らは、個としては僕より遥かに下だ。群れても僕には、単純な力では届かないだろう。……けど、僕に出来ない事が出来た。現実に起きた以上は認める他になく、ならば何かが僕より秀でていたんだよ」

 

 

 それを先ずは認めよう。己より力が弱い者らでも、決して無価値ではないのだと。それを認める所から、覇道と言う物は始まっていくのだから。

 そうとも、あの敗北に彼は学んだのだ。己が敗れた理由を。己が向かうべき道を。己が為すべき行為を。それは覇道に至る為、兆しと成り得る物だった。

 

 

「それはきっと、絆と呼ばれる物。僕らが一度、弱さに過ぎぬと否定した物。……けれど、一人で出来ない事でも出来る。其処は認めないといけない。認めなかったことこそが、僕が敗れた原因だ」

 

 

 他者との絆。他人を信じて頼り、他人を信じて用いると言う行為。己に閉じた求道ではなく、外を求めた覇道の祈り。

 己にはそれが足りてないから、他者を見抜けず正しい道を選べなかった。それこそが先に敗れた原因で、エリオが乗り越えねばならない物だ。

 

 

〈ならば今更、それを手に入れようとでも?〉

 

「まさか。それこそ本当に今更だ。手を取り合うなんて、出来やしないよ」

 

 

 足りないのならば、手に入れる。だがしかし、機動六課の者らと同じ物など得られない。得ようと思う事すら、きっと彼には許されない。

 だから、手にするならば異なる形だ。数を束ねると言う本質は変えずに、他を内に取り込むと言う結果も変えずに、手段だけを変えるのだ。

 

 

「そうさ。手を取り合って、仲良しこよしなんて今更無理だ。だから、力尽くで従わせる。己の意志で飲み干し率いる」

 

 

 支配する。他人を虐げ、縛り、従える。それこそが、エリオ・モンディアルが目指す形。目指す神座に至る為、手に入れなくてはならない物。

 

 

「軍勢だ。軍勢が良い。僕を先頭に、世界を切り拓く覇王の行進。至る形は、そうしよう。掲げる願いは、其処に見付け出すとしよう」

 

 

 暴虐を以って、他者を統べる。従え縛り虐げた者らを狂奔させて、共に全てを獲りに行こう。

 愛する少女との出会いに等しい変化が起きねば、決して至る事がなかった思想。しかしこの敗北と言う結果が、エリオの内にその想いを芽吹かせていた。

 

 

力への意志(ヴィレ・ツァ・マハト)。其れこそが、僕らが目指す至高の道。彼女の世界となる為に、僕は僕の意志で神座を目指す」

 

 

 強くなりたい。誰もを引き連れ、誰よりも強く。もう二度と、泣かなくて良い様に。誰よりも、強く成りたいのだと強く願う。

 従う者らには、確かな報いを与えよう。己が愛する少女と、己に着いて来た者達。彼らが幸福になれる様な、世界を生み出す事を誓おう。

 

 抱いた願いは、渇望と言うにはまだ小さい。発する気配は、覇王の威風と呼ぶにはまだ幼い。それでも、其処に至る萌芽である。

 この世界で唯一人、世界を統べる力を手にする資格を持つ者。エリオ・モンディアルはこの日初めて、己のあるべき道への一歩を踏み出したのだった。

 

 

 

 そんな時、であった。突然セーフハウスの扉が開いて、白い影が中へと飛び込んで来た。

 

 

「フリード!?」

 

 

 入り込んで来たのは、見知った姿。翼を持つ飛竜は自由に飛んでいるのではなくて、斜めに傾き落ちている。

 羽がおかしな方向に歪んでいた。足が両方折れていた。尻尾が途中で欠損していた。その全身は赤に染まって、今にも命が尽きてしまいそうな有様だった。

 

 

「何故、君が――まさか、あの子に何か!?」

 

「きゅくるー」

 

 

 悲しそうに、一つ鳴く。縋る様に、服に噛み付く。その歯が一つも残っていない事に気付いて、エリオは表情を硬くした。

 フリードの身体に触れる。化膿しかけた傷口は、唯の治療魔法では治せないだろう。その小さな身体から感じる生命力は、とても儚く消え掛けている。

 

 如何にか出来ないかと、思うのはこの小さな竜も優しい時間の一部であったからだろう。誰かを助ける為に、そんな技術を磨いて来なかった自分に苛立ちすらも感じていた。

 そうこうしている内に気付く。フリードの首に掛けられている、見覚えのないデバイスに。警戒しながらエリオがそれに触れた瞬間、デバイスは光を放ちその光景を映し出した。

 

 

《来たれ、魔刃。我らが至高なる、神殺しの刃よ》

 

《お前が愛する娘は、既に我らが掌中にある。もしも、この命に反するならば――分かっていような?》

 

「――っ!!」

 

 

 輝きが映し出したのは、脳髄達の声と囚われた少女の姿。意識のないキャロは十字架に掛けられて、その地獄に囚われていたのである。

 そうと知った瞬間に、爆発するような感情の奔流が生まれる。フリードの姿に彼女の境遇を想像して、エリオは気が狂いそうな程に憤怒した。

 

 怒りを抑え付けたばかりに、感情の死んだ能面の様な表情。今は暴れ出す訳にはいかないと、もう飛ぶことも出来ない竜を両手に抱える。

 そして、彼を何時もの定位置へと。虫食いになってしまったけれど己の臭いが染み付いた籠の中で、フリードは安心する様にその身を小さく丸めた。

 

 

「フリード。君は此処で、休んでいてくれ。後は、僕がどうにかする」

 

「きゅくるー」

 

 

 小さくなった飛竜の頭を、武骨な掌で優しく撫でる。まるで小動物の様に、大きな掌に鼻を擦り付けた後、飛竜は目を閉じ眠りに落ちた。

 そして、その目は二度と開かない。その心臓は鼓動を止めた。フリードと言う名の小さな飛竜は、こうしてその短い命を終えたのだった。

 

 

「……行くぞ、ナハト」

 

〈良いのかい? 確実に罠だろうよ〉

 

「それがどうした? 食い破れば問題ない」

 

 

 フリードの亡骸を背に、エリオ・モンディアルは歩き出す。死すべき定めにある者らを全て殺し尽くして、愛しい少女を救う為に。

 罠だろうと、関係ない。この飛竜は、最期にエリオを信じたのだ。あの触れ合いは、きっとそうだったのだと信じたい。だから、エリオは成し遂げると誓うのだ。

 

 

〈ふむ。確かに、今のお前ならば簡単だろうさ。だが……〉

 

 

 怒りに燃えるエリオの姿に、嗤うナハトは水を差す。何時だって、彼の役割は一つだけ。目を逸らしたい物こそ、直視させてやるのである。

 

 

〈あの娘は、確かにお前を拒絶したぞ? あの娘は、恐らくお前を憎んでいるぞ? あの娘は、お前なんかに救われる事を、望んでいないかもしれないぞ?〉

 

 

 ピタリと、足が止まった。それも当然だろうと、ナハトは思う。心の中に巣食う悪魔であるからこそ、彼の迷いなんて全て分かっている。

 怖いのだろう。恐ろしいのだろう。だって、彼は痛がっていた。好きな人に嫌われると、そんな現状に恐れている。自業自得だとしても、彼はそれが痛かったのだ。

 

 それでも、立ち止まったのは数秒だけ。再び彼は歩き出す。確かな理由が、彼の中にはあったから。

 

 

「だとしても、僕は行く。行かなくては、いけないんだ」

 

〈それは? 一体どうして?〉

 

「小さな友達に、託された。けど、それ以上に。守りたいと、今も僕は思うから――」

 

 

 口にするのは、そんな理由。だが歩き出すには、十分過ぎる理由である。助けに行くのに、これ以上なんて何も要らない。

 

 

「憎まれるのは辛い。嫌われるのは痛い。確かに認めるよ。口では平気と言ってたけどさ。あの瞬間は、想っていたよりずっともっと、辛く苦しい物だった」

 

 

 恐怖はある。今も痛いと感じている。何時かそうなると覚悟して、けれど痛みは想像以上の物だった。だから、今も拒絶を恐れている。

 

 

「だけど、それで揺らぐ決意じゃない。そんなもので、変わる想いじゃないんだ。そんな程度で終わる物なら、端から僕は選んでいない」

 

 

 それでも、前に進む。それでも、助けに行くのだ。だって、今も好きだから。例え少女に嫌われていても、少年は少女の事が好きなのだから。

 

 

「守りたい。抱き締めたい。見苦しいと分かっていても、その想いが変えられない。幸せに、成って欲しいんだ。そんなあの子が、其処に居る。僕の所為で、地獄に居る。なら――行かない理由は、何もない。僕は行くよ。キャロを助けに、僕は行く」

 

 

 少年は刃を手に握る。内なる悪魔に答えを返して、ならばもう迷わない。次に立ち止まるのは、少女を救った後なのだ。

 魔槍ストラーダを手に、黒き鎧と白きコートを身に纏い、赤毛の悪魔は出陣する。罪悪の王エリオ・モンディアルは此処に、次なる獲物を定めていた。

 

 

「もう一度だけ言う。行くぞ、ナハト!」

 

〈全く、草津の湯でも、とはよく言った物だ。希望もない夢想主義(ロマンティスト)。お前の想いは、腐臭がしている類だぞ〉

 

「だとしても、関係ない! 何としてでも、キャロは必ず救い出す! 邪魔する奴は、全て燃やし尽くして討ち滅ぼす!! 最高評議会――お前達は皆殺しだァッ!!」

 

 

 激発し、疾走する赤き悪魔。彼が向かうは一路、最高評議会が隠れ潜む場所。信頼の証にと教えられた、聖王教会総本山にある地下空間だ。

 罠と分かって、誘われていると理解して、それでも喰い破ると決めた。彼が辿り着くのは、空亡が消えてから三日後の夜。四度目の朝日が昇る頃には、遍く全てに決着が付いている事であろう。

 

 最後に勝つのは、一体誰か。憤怒する罪悪の王か、肥大化する魔性の薔薇か、敗亡の淵にある英雄達か――――或いは、全く別の者らであるか。

 今はまだ、誰も知らない。ミッドチルダを覗き込めない夜都賀波岐も、彼らの主柱である全知全能なる神も。果てに至る結末は、誰にも見通せない程混迷していた。

 

 

 

 

 





 守りべき人々の為に矛盾しながら努力して、キャロの言葉に気付かされたのが本編ルートの覇道エリオ。
 対してIfルートではキャロとの距離感が近過ぎた為、変わる為には異なる何かが必要となりました。

 つまり恵梨衣が最後に空亡の事を教えたのは、エリオ君の覚醒を促す為。
 もしも彼女が教えなければ、エリオ君は空亡戦に気付かず寝て過ごし、敗北を経験しない為に覇道の兆しにすらも至れないまま、キャロ誘拐イベントを迎えていたことでしょう。




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第十四話 人間 ユーノ・スクライア

Ifルートなら、ユーノ君虐めがないと思ったか? 馬鹿め!(意訳:今話ではユーノ君が酷い目に合います)


1.

 時は僅かに遡る。これは機動六課が魔群の手に堕ちてから、エリオ・モンディアルが目覚めるまでの間に起きた出来事。

 

 

 夜の帳が暁に染まり、日が昇ってはまた落ちる。空に浮かんだ二度目の夕焼けが、大地に大小三つの影を映す。彼らは其処に佇んでいた。

 

 幼い頃に比べれば、長く伸びた金糸の髪。緑の紐で結んだ御櫛の一房が、冷たい風に流れて揺れる。その身が震えてしまうのは、寒さだけが理由じゃない。

 緑のスーツを着込んだ青年は、身の丈に合わない巨大な盾を背負ったまま前を見る。翡翠の瞳が見詰める先には、暗く深く、何処までも続く虚ろな穴が一つだけ。それ以外には、何も無かった。

 

 

(此処も、駄目か……)

 

 

 弱音を胸中で噛み砕き、嘆息が漏れる前に飲み干す。己一人ではないから、立っていられる理由は意地だけだ。幼い子どもに、無様な姿は見せられないと。

 けれどこうも徒労が続けば、心が折れてしまいそうになる。手を伸ばしても何も掴めないと言うのなら、手を伸ばす事を止めたくなるのは当然だ。ましてや男と違って、彼女に耐えられる道理はなかった。

 

 

「どうして、何もないのよ」

 

 

 佇むユーノの傍らで、小さな影が崩れ落ちた。紫色の髪を長く伸ばした幼い少女は、耐え兼ねた様に弱音を吐露する。事実、ルーテシアは既に限界だった。

 

 機動六課が堕ちてから、解決策を探す為に行動を始めたユーノ・スクライア。彼に同行する事を選んだ少女が過ごした二日の時間は、全く何の成果もあげてはいない。

 彼の狂人が残したであろう何かを探して、無数の次元世界を駆け回る。航行船に身を委ねて、巡った世界は既に三十を超えている。だと言うのに、唯の一つも得られなかった。

 

 向かう先には何時も、奈落の如き大穴が。何度世界を巡っても、其処は腐炎に焼かれた後。眠る時間すらも削っているのに、辿り着いた先は何もかもが滅びた場所だけだったのだ。

 

 

「何でよ! 此処ならあるかもって! 此処になかったら、どうすれば良いのよ!?」

 

 

 機動六課は未だ健在だと示す為、クラナガンで活動を続けているスターズ分隊。高町なのはとティアナ・L・ハラオウンとトーマ・アヴェニール。彼らと道を違えた理由は、助けたい人達が居たからだ。

 ルーテシアは先に起きた魔群の襲撃で、何もかもを失った。僅か一夜にして、彼女の日常は壊れてしまった。何もかもを奪われたのだ。今のルーテシア・グランガイツは、泣き出したいのを我慢している一人ぼっちの迷子であった。

 

 

「お父さんも、お母さんも、目が覚めないの」

 

 

 ゼスト・グランガイツと、メガーヌ・グランガイツ。厳しくも優しい両親は、魔群の毒牙に掛かって倒れた。

 今も悪夢に囚われ続けた彼らをこのままにしていては、何時かクアットロに食い殺されて終わってしまう。利用されて絞り尽くされ、果てには何も残らぬのだ。

 

 

「キャロもフリードも、何処かに連れて行かれちゃったの」

 

 

 キャロ・グランガイツとフリード。少し目を離した内に大切な妹と小さな家族は、何処かに連れ攫われてしまっていた。

 何処に行ったか分からない。何をされているのかも分からない。焦燥だけが強く成る。どうか無事で居てくれと、今にも泣き出したくなってくる。

 

 失った事を受け入れられず、取り戻したいと願っている。いいや、まだ失った訳ではないのだと己に言い聞かせ続けている。

 だから進むべき道筋を、探す為にユーノの道に同行したいと願った。取り戻す為にどう動けば良いのかが、分からないから探しに来たのだ。

 

 

「なのに、どうして…………私は何も見付けられないの?」

 

 

 だと言うのに、進む先には見付からない。何処に行っても、何も見えない。全ての可能性は既に、悪魔のその手で断たれている。

 そんな事実を前に崩れ落ちた少女の姿に、黒き甲虫は無言で寄り添う。言葉を語れぬ我が身を無念と思いながら、ガリューは唯少女の傍らに立ち続けて居た。

 

 

「ルーテシア」

 

「…………」

 

 

 何も語れぬ甲虫に代わり、口を開いたのは青年だ。膝を抱える少女に向けて、ユーノは静かに言葉を紡ぐ。

 

 

「次の場所に行こう。もう少し遠い場所へと、向かってみよう」

 

「…………そこには、あるの?」

 

「分からない。けど、止まれない。なら、前に行くしかない。いいや、前に進みたいんだよ。僕はさ」

 

 

 縋る様に見上げる少女に、断言出来る保証などは何もない。管理世界内の研究施設のほぼ全てが全滅だったのだ。それより遠く、管理外世界を探したとて可能性があるとは言えない。いいや、寧ろ低いとすら言えるだろう。

 ジェイル・スカリエッティは管理局に属する人間で、ならば当然彼のホームグラウンドもまた管理世界の内側となる。幾つか外に作った物があるかも知れないと仮定しても、管理世界の物と比べて規模も質も低い物だと断言出来る。

 

 そもそも、此処から先は手探りだ。情報すらも欠片もない状態から、あるかないかすら分からぬ物を探しに行かねばならないのだ。

 見付けられる筈がない。仮に見付かったとしても、壊されていない保証もない。万が一億が一に残っていたとして、其処に必要な情報があるかどうかも不明瞭。

 

 冷静に考えて、愚かな行動だ。理屈で考えれば、合理的とは口が裂けても言えないだろう。そんな絵に描いた餅を探す様な事を続けるよりも、新たな治療法を探した方が余程可能性が高い話だ。

 ユーノ・スクライアの中で、彼の冷静な部分はそう判断を下している。諦め癖の付いた青年は、もう見限る時だと気付いている。けれど、諦められない。止まれないと何かが、心の奥で燃えていた。

 

 

「だから、僕は次の世界に行く。少し危険は増すけれど、一つ一つと探していく心算だよ」

 

 

 此処で諦めたからと言って、次善の策が何処にある。この先が何も掴めない愚行なのだとして、けれど他に選べる道も彼にはないのだ。

 選べる道は、袋小路に繋がっている。かと言って他に、選べる選択肢などはない。立ち止まる事にも進み続ける事にも大差はなくて、ならば進むべきだと心の芯が叫んでいる。そうして来たのだろうと、幼い頃の残滓が其処で叫んでいた。

 

 そんな風に今更、腹を括ったのは女達の対立を間近に見たからか。彼の日を思い出させるやり取りに、少し愚かな自分に戻ってしまったのであろう。ユーノはそんな風に思いながら、ルーテシアに問い掛けた。

 

 

「ルーテシア。君はどうする?」

 

「……私も、行く」

 

 

 青年の問い掛けに、零れかけた涙を拭って答えを決める。前を向いた少女の視線に、黒き甲虫は無言で頷きを返していた。

 さぁ、行こう。そう語る様な片割れに、ルーテシアは力を貰う。立ち止まるのか、進み続けるのか。諦められないなら、選ぶ道など決まっている。

 

 

「だって、無駄だって言われても、諦められない。止まれないのよ、だったら――進むしかないんでしょ!? ユーノさん!!」

 

「そうだね。じゃ、行こうか」

 

 

 立ち上がった少女の言葉に、ユーノは一つ頷き道を定める。目指すは管理世界の外。其処にはきっと答えに至る何かがあると希望を信じて、共に並んで進んで行く。

 本当に希望があるのか、分からない。誰もが笑い合える結末が待つのかなんて、彼らは分からない。全知全能ではないのだ。何もかもが未知ばかり。けれどだからこそ、道は其処にあるのだろう。

 

 

「管理世界じゃ駄目だったけど、きっと管理外世界なら――僕たちはまだ、全てを知ってる訳じゃないんだから」

 

 

 何もかもを知っていたなら、きっと膝を屈していた。何処にもないと分かっていたなら、先になんて進めなかった。まだ知らぬ事が多く在るから、きっとその中にあるのだと信じられる。

 果てに待つのが残酷な結末だとしても、その瞬間までは諦めずに進み続ける。後悔なんて、全て後ですれば良いのだ。悔やむのは世界が終わってからで、何かが残っている限りは抗い続けて前へ行く。

 

 ユーノの言葉に頷いて、ルーテシアはアスクレピオスに力を通す。次元航行船との移動は転移魔法で、ユーノにそれが出来ない以上は幼い少女の役目であった。

 転移魔法の陣を展開し、惑星の軌道上で待機している航行船へと戻ろうとするユーノ達。彼らは無知で、だからこそ未来を信じられている。だがだからこそ、彼らは気付いていなかった。

 

 無知と言うのは、決して素晴らしい事ではない。未知と言うのは、希望だけに満ちている訳ではない。其処には必ずや、知らぬと言う絶望もまた存在している。

 一歩町に踏み出して、途端に道を誤った自動車に轢き殺されてしまう。そんな突発的な事故と言う物も、知らぬ道の先にはあるのだ。保証がないとはそういう事で、賽を振るとはそう言う事。

 

 言葉にしてしまえばそれは、とても単純な一言だろう。彼らは無知で、彼らは愚かで、そして何より彼らは不運であった。唯只管に、運が悪かっただけなのだ。

 

 

――けれど、貴方達は私達よりも多くの事を知っているでしょう?

 

『――っ!?』

 

 

 此処は管理世界。管理局の影響下にあるとは言え、ミッドチルダの外である。結界には、守られていない地なのだ。

 ならば考慮すべきであった。いいや、確かに考慮していた。だがしかし、先ず在り得ないと考えていた。一体どれ程、低い可能性であったのか。

 

 狙われる理由が浮かばない。探されている理由など知らない。ならば偶発的な遭遇以上の可能性など考えられず、故に極小に過ぎない未来の一つ。

 無限に広がり続ける宇宙が、管理世界の数だけ在る。其処で運悪く偶然出会ってしまう確率など、天文学的な数字である。だから在り得ぬと、否定していた未来が確かに此処に在ったのだ。

 

 

――Ah! Ich habe deinen Mund geküßt, Jochanaan.(愛しい人よ。私はあなたに口づけをしました) Ah! Ich habe ihn geküßt deinen Mund,(そう、口づけをしたのです)

 

 

 女の声が響いている。空から落ちて来る様な――いいや否、空が堕ちて来る様な錯覚。嫌という程に成れてしまった筈の圧力を、感じられないのは青年の身体から重要器官が抜かれたからか。

 魔導核がない以上、彼は魔力を感じ取れない。例え神域に至る存在を前にしたとしても、欠落があるとしか認識出来ない程に大差がある。その事実に気付けてしまったのは、積み重ねた過去の経験が故にと言うしかない。

 

 

「まさか、こんなところで遭遇する事になるなんて」

 

 

 紡いだ言葉は、乾いていた。口の中には飲み干す唾も残っていなくて、唯々冷静な部分が警鐘を鳴らし続ける。もうどうしようもないのだと、ユーノは確かに理解していた。

 

 

――es war ein bitterer Geschmack auf deinen Lippen.(とても苦い味がするものなのですね) Hat es nach Blut geschmeckt?(これは血の味?) Nein!(いいえ、) Doch es schmeckte vielleicht nach Liebe.(もしかしたら恋の味ではないかしら)

 

「あ、ぅ、ぁ…………」

 

 

 膨らみ続ける圧力は、最早暴力的である。唯大き過ぎると言うだけの魔力に圧し潰されて、ルーテシアは呼吸さえも儘ならない。

 展開しようとしていた術式は霧散し、彼女は息も絶え絶えに膝を折る。崩れ落ちたその身体を圧し潰してしまわんと、威圧は強く強く成る。

 

 圧の持ち主に、まだ敵意や殺意はない。唯其処に居るだけで、常人が死に至ると言う怪物。其れが大天魔であれば、歪み者ですらない魔導師が立っていられる道理もないのだ。

 

 

――Ah! Jochanaan, Jochanaan,(ああ、ヨカナーン。ヨカナーン。) du warst schön.(あなたばかりが美しい)

 

 

 圧し潰され掛けたルーテシアと、知覚出来ない何かに片膝を付かされているユーノ。彼らを守る様に、その前に立つガリューとて立場はそう変わらない。

 身体は重く鈍く、一瞬でも気を抜けば大地に叩き伏せられるであろう圧力を感じている。それでもガリューが立っているのは、内包する魔力の量と守ると言う意志の強さが彼を立ち上がらせるから。

 

 どんなに恐ろしいと感じていても、少女を守り抜くのがガリューが己に課した役割。ならばこそ、この今に結実しようとしている絶望の前に立ち塞がるのだ。

 

 

――太・極――

 

「随神相・神威神咒――――無間・等活地獄(Pallida Mors)

 

 

 そして、世界は変わった。結界とは違う。まるで異なる法則が流出した世界へと、何もかもを塗り替える。

 鬼女の顔を張り付けた、巨大な蜘蛛が其処に居る。花魁衣装に身を包んだ、動く死人が其処に居る。天魔・紅葉が、其処に居た。

 

 死者の顔を持つ女は、静かに濁った瞳で見下ろす。見詰められただけで、三秒は心臓が止まっていた。そう自覚して、冷や汗は止めどなく流れ続ける。

 震える唯人達の姿に、紅葉は静かに息を吐く。其れは安堵の吐息である。漸く見付けられたのだと。そうとも、これは偶発的な遭遇には非ず。彼女は彼を探していた。

 

 

「あの子の為に。私の為に。私達の愛の為に――――知る必要がある。知らなくてはならない。ミッドチルダで、一体何があったのか」

 

 

 朗々と、内心を吐露するのは必要な事。そうでもしなければ、己の為すべき事を思い出せない。それ程に、この大天魔は壊れ掛けている。

 一歩動けば自壊を始めてしまう程、天魔・紅葉は限界が近い。既に罅割れ崩れ始めている指先を動かして、地獄の支配者は抱いた死者の群れを呼び起こす。

 

 壊れ掛けて尚、動かなければならない理由があった。故に紅葉は天魔・夜刀(コノセカイ)と同調して、慣れぬ神眼を以って探していたのだ。

 己よりも多くを知る者を。覗き込めないミッドチルダで、何が起きたかを知る者を。安全地帯であった揺り籠から、彼らが飛び出して来るのを待ち続けていた。

 

 全ては唯、知る為に。何故、天魔・宿儺が倒れたのか。ミッドチルダで一体何が起きているのか。どうすれば、あの子の願いを叶えられるのか。

 知らねばならない。その為にも、知っている者を探していた。彼らの記憶を探り覗いて、進むべき道を定義し直さねばならない。愛しい娘の抱える苦悩を晴らし、彼女を幸福へと導く為に――女は彼らを壊しに来たのだ。

 

 

「ごめんなさいね、貴方達。恨みも怒りも余りないけど、きっと貴方達は壊れてしまう。私は彼の願いに共感する事が出来なくて、彼は私から余りに遠い場所に居るから――そうでもしないと、私は貴方達を覗けない」

 

 

 女は余りに、天魔・夜刀から遠過ぎる。両翼の様に一瞥だけで、相手の過去までも全て見通せる訳ではない。世界を高みから観測する事にすら、多大な疲労を感じる程だ。

 まして今の紅葉は、動くだけで死に掛ける程に弱っている。そんな有様で無理に相手の中身を覗こうなどとすれば、そうされた者らは魂を無茶苦茶に引き裂かれて壊れるだろう。

 

 だとしても、大天魔は揺るがない。彼女にとって重要なのは、愛しい子ども達に報いる事。それ以外など比較出来ぬ程に小さき些事で、ならば全て飲み干してしまえるだけの事。

 捕え、取り込み、そして知るのだ。策謀を紡ぐ為に、先ずは現状の全てを把握する。今の紅葉には複雑な思考が出来ぬが問題ない。()()()()()()()()()()()()()()()。何を為せば良いのか定める為に、情報を集めるのが紅葉の役割だった。

 

 

「――っ!」

 

 

 塗り潰された法の中、ゆっくりと動き始めた死者の群れ。地の底から蘇る死人達を前にして、動けた影は合わせて二つ。

 その内の一つであるガリューが前に跳び出せたのは、何ら不思議な事ではない。探るべき魂を壊してしまわぬ程度に紅葉は加減していたから、残る二人よりも強靭だった黒き甲虫が行動出来たのは当然だ。

 

 紅葉が目を見開いたのは、もう一人が動いた為。溢れ出した死者の群れに立ち向かうガリューに主を託されて、撤退を始めたユーノ・スクライアこそが異常であった。

 

 

「……そう。動けるのね。少し驚いたわ。貴方、何処か外れている。これは、一体どういう事かしら。分からない。何か、昔見た事があるような。いいえ、それともなかったかしら。ああ、今はもう、それすらも分からない」

 

 

 魔力とは、魂が持つ力。天魔に対する抵抗力とも言える物であり、それを一切持たぬユーノはとても脆弱だ。大天魔を前にすれば、ルーテシアよりも遥かに儚く弱い者。

 有する魔力を衣服で例えたのだとするならば、下着同様の姿でしかない少女よりも更に薄着だ。極寒の吹雪の中に、一糸纏わぬまま投げ出された様なものである。寒さに負けて凍死を迎えるのが相応しい筈だろう。

 

 だと言うのに、動けている。何処かで視た様なと微睡む紅葉よりも、何も知らないユーノ自身の方が理解していない。一体何が起きているのか、彼にも分かっていないのだ。

 

 

(分からない。どうして僕が動けているのか? 分からない。リンカーコアを失い、抵抗力を喪失したこの身がどうして即死を免れたのか?)

 

 

 託された少女を胸に抱いて、後方へと走り出した青年。迷う彼の思考は過去の高速思考とは比較に成らぬ程、遅く鈍く上手く回らない低劣な物。

 疑問は幾つも浮かんでくる。分割した思考の一部で答えに至ろうとする事すらも、今の彼には出来ない事。当然起きた異常に対する答えなんて、今のユーノに出せはしない。

 

 

(相手の渇望が攻勢の物ではないから? 魔力を感知出来ない分だけ、神格の圧に鈍くなっている? なのはとの繋がりが僕を活かした? それとも――アイツが言う様に、僕は外れているのか?)

 

 

 可能性は幾つも浮かび上がって来る。種々に乱れる思考は、結論へと至れはしまい。確証なんて何処にもなくて、実証できる時間もない。

 ならば、今は思考を切り捨てる。起きた事象の解明など、生き残った後ですれば良いのだ。故に今為すべきなのは、先ずは此処から逃げ延びる事なのである。

 

 

(いいや、全てどうでも良い。理由は要らない。動けると言う事実があるなら、やるべき事は決まっている! 今は唯、この子を守って撤退する! 生きて帰るべき場所に戻るんだ!!)

 

 

 少女を抱き締め駆け出した青年は、背負う複合兵装をその手に取る。狂気の天才が生み出したこれは、しかし未だ完成してない試作品。そして今後も、完成しない未完の物だ。

 青年の体内にはリンカーコアが存在しない。通常の魔法は一切使えず、今のナンバーズにも術式を保存する機能はない。故に彼が使えるのは、十二種類のインフューレントスキルのみである。それも極めて限られた回数だけ、これでは勝ちの目などは一切ない。

 

 

「ナンバーズ、モード・ウェンディ! エリアルレイブ!」

 

 

 内臓された魔力機関の性能から見て、使えるISの回数は十回程度。その内一つを早速切って、彼は巨大な盾へと飛び乗る。

 走るよりも遥かに速い勢いで、遠退いていくその姿。逃げ去る獲物を黙って見送る程、天魔・紅葉には甘さも余裕も残ってなかった。

 

 

「逃がすとでも、思っているのかしら?」

 

 

 湯が煮え沸き立つ様に、黒き影に覆われた大地が湧き上がる。其処に目を覚ましたのは、飲まれた死者の中でも特に秀でた者らの一つ。

 桃色にも近い鮮やかな赤毛を持つ女騎士。彼女の胸元にも届かぬ背丈をした鉄槌を持つ騎士。緑の衣に身を包んだ金糸の女性。死人の顔と瞳をした傀儡達が、地獄の底から蘇る。

 

 

守護騎士(ヴォルケンリッター)!? 紅葉に飲み込まれていたのか!!)

 

 

 母禮に葬られた彼女らがどうしてと、疑問を挟む余地はない。一刻でも早く遠くへ、この領域から脱出しなくてはならないからだ。

 故に一瞥した後は見向きもせず、ユーノは空を飛翔する。遠のくその背にさせるものかと、呼び出された彼女らも動き出す。それは正しく、最悪と言うべき状況だった。

 

 

「クラールヴィント。旅の鏡」

 

「――っっ! こんのぉっ!」

 

 

 目の前に開いた扉から、伸びて来る手を慌てて躱す。今のシャマルは、紅葉の力によって時間停止の鎧を纏っている。如何なる術を以ってしても、傷付けるなど叶わない。

 そんな腕に掴まれて、振り払える道理はない。時間が止まった死人の腕から、逃れる事など不可能だろう。無暗に近付く事すら、今の彼にとっては脅威である。

 

 近付く事すら叶わず、障害を取り除くなど以ての外。故に当然己の進行方向を咄嗟に歪めねば対処は出来ず、そうなれば当然速度は落ちる。弱き人の劣化した動きなど、彼女達にとっては的でしかない。

 

 

「翔けよ、隼。シュツルムファルケン」

 

「モード・トーレ! ライドインパルス!!」

 

 

 そんな事、ユーノにだって分かっている。故に落下しながら第二の手札を切った瞬間、一秒前まで居た場所を隼の翼が翔け抜けて行く。

 ほんの僅か、瞬きにも等しい時間で結果は変わっていただろう。射抜かれた己の姿を幻視して、ユーノは小さく肝を冷やす。そんな余裕は、彼にはないのだと言うのに。

 

 

「グラーフアイゼン」

 

「――っ! ナンバーズ! モード・ノーヴェ!」

 

 

 もう、其処に居た。高速で移動を始めた直後、進む先には鉄槌を振り上げている赤毛の少女の姿があったのだ。

 思考するより先に反射で、男の身体は動き出す。此処で切るのは第三の札。残る数を計算する余裕もない程、追い詰められながらに拳を振るう。

 

 

「テートリヒ・シュラーク」

 

「ガンナックル! シュート!!」

 

 

 振り下ろされる鉄槌に、ぶつかるのは拳から放たれた魔力弾。競い合った結果は極めて明白で、鉄槌には届かず傷の一つも残せない。

 それでも、無駄ではない。僅かな変化ならばある。傷痕一つ残せずとも、その動きを牽制するには十分。瞬きにも満たない隙を生み出せた。

 

 ならば、疾走する黒き甲虫が間に合う時間は稼げる。ユーノはたった一人ではないのだから、一瞬だけでも耐えれば良いのだ。

 鉄槌を振り下ろしたヴィータの身体に、ガリューが鋭い蹴撃を加える。ボールの如くに跳ぶ少女の身体はしかし全く無傷であり、蹴り飛ばしたガリューの脚は折れていた。

 

 

「…………」

 

 

 無言のまま、折れた足を大地に突き刺す。激痛が走っているだろうに、何ら気にした素振りを見せないガリュー。

 再び立ち塞がる彼に向かって、傷一つない守護騎士達が襲い掛かる。迫る脅威を捌き続ける召喚虫の身体の傷は、一秒単位で増えていた。

 

 そしてそれすらも、天魔の予想を超えはしない。彼女が統べる死者の群れとは、守護騎士だけではないのだから。

 

 

「……囲まれた、か」

 

 

 ほんの数秒、逃げる動きを妨害された。唯それだけで、囲まれる程の物量差。数十などではない。数百でも足りてない。千や万すら軽く上回る総数は、数える事すら叶わぬ無限の群れだ。

 内のたった一人であっても、ユーノを遥かに超える力を持つのだろう。死者の全てが纏う時を止める主柱の加護は、ガリューであっても貫けない。情勢は最早詰んでいるのだと、見下ろす瞳は告げていた。

 

 

「この物量こそ、天魔・紅葉の持つ最大の強み。分かっていた心算だけど、洒落にならないよ。全くさぁっ!」

 

 

 毒吐きながらも逃げ続ける。近付く事すら出来ない死人の群れから逃げ回り、逃げ場は少し少しと狭まり道は塞がっていく。

 狐狩りの要領だ。先ずは最初に巣穴を潰して、逃げ場を無くした獲物を数を以って追い回す。何時かはきっと潰れるだろうと、座して動かず待っている。

 

 疲弊していくユーノ。息は段々と上がっていき、切れる札の数は確実に減っている。何も出来なくなる未来は、然程遠くはないだろう。

 壊されていくガリュー。足は折れ、腕は切り落とされ、それでも甲虫は抗い続ける。己の臓器すらも武器として、撃ち出しながらに戦い続けた。

 

 

「スティンガーブレイド・ファランクスシフト」

 

 

 襲い来るのは、守護騎士だけではない。天魔・紅葉の遁甲に囚われている死者は、彼女達だけでは断じてないのだ。

 六課の司令にして、彼の親友でもある青年。あの黒き将校に良く似た男が、指を鳴らして展開する。青く輝く剣の雨が、ユーノ達へと降り注ぐ。

 

 

「モード・セッテ! スローターアームズ!! モード・チンク! ランブルデトネイター!!」

 

 

 落ちて来る雨を前にして、ユーノは即座にナンバーズを起動する。スローターアームズを射出して、ぶつかる直前で爆発させた。

 吹き上がる噴煙の、目論見は姿を隠す事。止められなかった剣が己を貫く前に、大地の中へと沈み込む。無機物へと潜行し、隠れ潜みながら逃れようと言うのである。

 

 

(モード・セイン。ディープダイバー。このまま、行けるところまで)

 

 

 だが、その思惑は甘いとしか言えないだろう。咄嗟の判断としては及第点だが、大天魔と言う規格外を相手にするには不足に過ぎた。

 

 

「プレシア」

 

 

 天魔は古き女の名を呼ぶ。嘗ては友と呼んだ紫紺の魔女が、天魔の傍らにて力を放った。

 

 

「サンダーレイジO.D.J!!」

 

「ぐっ、がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!?」

 

 

 放たれたのは、広域殲滅魔法。標的が何処かに隠れたというのなら、隠れた場所ごと全てを消し飛ばすと言う短絡解。だが対処の術などない対応。

 吹き荒ぶ土砂と共に、ユーノの身体が吹き飛ばされる。非殺傷とは思えぬ程の破壊によって、打ち上げられた青年は吐血する。それでも抱き締めた少女だけは守ったまま、転がる様に大地に落ちた。

 

 崩れ落ちて動けぬユーノに、迫る死者の群れは止まらない。彼らを守る様に駆け付けたガリューの身体も、もう長くは持たないと確信出来る程に惨めな物。

 剣の雨が降り注ぐ。ガリューの身体は、針鼠の様な形となった。鉄槌が振り下ろされる。ガリューの頭部が半分潰れた。烈火の剣が振り抜かれる。ガリューの身体が、二つに分かれた。

 

 

「あ、あぁ……、ガリュー」

 

 

 苦痛と圧迫感の中で、ルーテシアは確かに見た。己を守り続けた忠臣が、残骸となっていく光景を。

 何も残らず、何も遺せず、血溜まりの中に崩れ落ちる。黒き二足歩行の甲虫は、こうして地獄の底へと沈んでいった。

 

 

(私は、何時まで……、何も、しない、なんて……)

 

 

 ガリューの死を目にして憤る。極限を超えた怒りを抱く。許せないと感じたのは、余りに無様な己の姿。

 一体何をやっている。あんなにも必死になって、彼が戦ったのは己達を生かす為であろうに。なのにどうして、己は今も震えているのか。

 

 極限を超えた激情は、少女の魂を輝かせる。溢れ出す心こそが、人が超越に至る為に必要な物。この今確かに、ルーテシア・グランガイツは一歩先へと踏み出していた。

 

 

「究極召喚! 白天王ぉぉぉぉぉぉぉぉっっっ!!」

 

 

 呼吸も出来なかった領域で、声を張り上げ叫びと変える。血を吐くような痛みと共に、ルーテシアが成し遂げたのは究極召喚。

 召喚術師の到達点たる魔法。元より習得していた物ではあるが、とても難度が高い物。天魔の圧に晒されながら、使える様な物ではなかった。そんな理屈を踏破して、此処で使える様に成ったのだ。

 

 空に浮かんだ光陣より、降り立ったのは白き王。涙と共に叫ぶルーテシアの声に応えて、虫の王者は雄叫びを上げる。

 少女の敵を討つ為に、過去最大級の力を発する召喚獣。振り落とされるその鉤爪は、天魔の随神相へと迫って――――――傷一つ付けられず、握り潰されていた。

 

 

「白天、王……」

 

 

 もしも此処が、ミッドチルダであったなら。もしもメガーヌの歪みの補助があり、敵が悪路であったのならば、今の白天王ならば勝利していた事だろう。

 けれど今は、そのどれもが満たされていない。それでは如何に究極の召喚術であっても、大天魔の足元にも届かない。神域とは余りにも遠く、深い隔たりがある場所なのだ。

 

 故に、この結末も当然。紅葉の神相たる鬼女の顔をした蜘蛛が、その巨大な腕で握り潰す。唯それだけで白天王は、羽虫の如くに潰された。

 全力を出し切ったルーテシアは、涙と共に崩れ落ちる。限界を超えた代償に、少女はそうして意識を失った。死人の群れは、もう誰にも止められない。

 

 

(分かっていた。逃げられない。分かっていたんだ。僕達じゃ、足元にも届かないって)

 

 

 地獄の中で、唯一人。孤立無援となった青年は、口の端から赤い血を流しながらも立ち上がる。

 ほんの僅かな意識の空白。それが生み出した犠牲を思えば、何も出来ないからと言って、倒れたままでは居られなかった。

 

 

「分かっていたから、何だって言うんだっ! それで、諦められるものかぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 男には、意地があるのだ。腕に抱いた少女だけでも逃がさねば、この想いは貫けない。だから、ユーノは雄叫びを上げた。

 

 

「打ち抜け! モード・ディエチ! イノーメスカノン!!」

 

 

 これが、恐らくは最後。盾に内蔵された炉心に残る、全てのエネルギーを砲門へと集束させる。

 集う光は、質量だけなら星の極光にも迫る程。その力に全てを賭けて、此処に破壊の光を撃ち放った。 

 

 

「……無駄よ。貴方では、この理を傷付ける事すら叶わない」

 

 

 だが、やはり届かない。炉心を暴走させ、砲門が融解しかける出力。それでさえも、時の鎧を貫くには僅かに威力が不足していた。

 ましてや、紅葉は無数の死者に守られている。その死者の一つ一つですら、紅葉と同強度の防御力を持つのだ。たった一つも貫けない極光では、紅葉に届く筈がなかった。

 

 

(そんな事は、端から分かってる。僕の狙いは、最初から――生きて帰る事だけだ!)

 

 

 それでも、炉心が燃え尽きるまで撃ち続ける。その目的は、相手の視覚を塞ぐ事と放つ砲撃の反動で移動する事。

 ルーテシアを抱えたまま、後方へと跳び上がる。本来ならば無反動となる砲の機能を一つ封じて、その火力を出力代わりに飛翔する。

 

 本来の目的ではない使い方。その分だけ身体に負担が掛かってしまうが、その分だけ相手の度肝も抜ける筈。僅かにでも隙が出来れば、逃げ道の一つは作れる筈だ。

 これは一つの賭けである。これが最後の術である。だから全てを此処に賭け、打ち勝つ為に力を費やす。そんな青年の行動は、だがしかし――やはり想定内の事でしかなかった。

 

 

「だから、無駄なのよ。私を傷付ける事も、私から逃れる事も、貴方では決して叶わない。だって、それも――彼の想定通りなのだから」

 

 

 最初から最後まで、全て掌の上である。紅葉は彼の言う通りの順番で、死者を操り動かしていただけの事。

 確かに性能差は大きい。唯の人間と大天魔、比較になる筈がない。だがそれでも、逃げる事すら許されないのは一人の男の手腕であろう。

 

 紅葉は朦朧とした思考の中で、素直に恐ろしいと感じている。味方で良かったと、安堵すらしている。

 あの悪辣なる彼が等活地獄の中に紛れ潜んでいる限り、天魔・紅葉に敗北などはない。それは既に、確定した未来であった。

 

 

(きっと、全てが徒労に終わる。多分、この行動には意味がない。可能性なんて欠片もなくて、無駄な足掻きに過ぎないんだろう)

 

 

 痛い程の風を全身に浴びながら、ユーノ・スクライアは思う。全力を使い果たして尚、逃げ惑う事すら真面に出来ない男は思う。

 何となく、予感はあったのだ。これは外れ掛けているが故の物なのか、判断に困るが確かに言える。確信があった。これは無駄な足掻きでしかないのだと。

 

 

(ならば適度な所で見切りを付けて、次善の策を選ぶべきだ。どうしようもないなら、挑まない方が良い。分かっている。それが正しいんだって、どうしようもなく分かってる)

 

 

 青年を追い立てる様に、無数の魔力砲が襲い来る。直射砲での移動に、細かな操作などは挟めない。当然の如く、その全てに被弾した。

 破壊の力を全身に浴びながら、それでも少女だけは守り切る。抱き締めたまま歯噛みして、空を翔け続けるユーノ。彼が沈黙するより前に、手にした武器が限界を迎えていた。

 

 エネルギーが底を尽き、動かなくなった盾。思う所はあるけれど、執着している余裕はない。だから友の形見とすらも言えるそれを、ユーノは手放しその場で捨てた。

 

 

(だけど、分かっているから、それだけで収まらない何かがこの胸にある。止まりたくはないと、この胸の奥で何かが叫び続けているんだ)

 

 

 大きな爆発。敵の前へと捨てられたナンバーズが、跡形もなく消し飛んだ。その風圧を背に受けて、ユーノは落ちながらも前へと進む。

 抱き締めた少女は手放さず、二つの脚で必死に進む。進み抜けた先に、助かる道など残っていない。仮に奇跡が起こってこの地獄を抜け出せたとして、ユーノでは転移魔法も使えないのだから。

 

 

「何かを為せるのかも知れない。何も為せないのかも知れない。けれど、これだけは確実に言えるんだ」

 

 

 先ず、この地獄からは抜け出せない。仮に抜け出せたとしても、転移魔法は使えない。もしも那由他の果てに都合良くルーテシアが目覚めたとして、次元航行船に逃げ込めても助かった訳ではないのだ。

 必ずや、天魔・紅葉は追って来る。ユーノ達を捕えるまで、彼女は何処までも追って来る。安全地帯はミッドチルダ以外の他には存在しなくて、其処まで辿り着くのに一体どれ程の奇跡が必要と成って来るのか。

 

 在り得ない。起こり得ない。どれ程に足掻いても、もう結果は決まっている。全てが無駄だ。ユーノ・スクライアは必ずや、敗北の果てに崩れ落ちる事だろう。それが分かって、それでも男は進んでいる。

 

 

「歩みを止めた瞬間に、僕らは何も為せなくなる。ならさ、無様であっても、無意味であっても、進む事を続けよう。終わろうとも、結果が出るまでは前に行こう。結果が出た後でも、無駄な足掻きを続けたい」

 

 

 何の力も持たない常人の進む歩より、魔導師達の方が遥かに速い。ならば当然追い付かれて、捕まるのは道理であった。

 背より伸ばされる無数の手。己の身へと突き立てんとされている無数の刃。払い退けられぬ手に掴まれて、全身に刃を振り下ろされる。

 

 血飛沫が舞った。それでも少女を抱いたまま、ユーノは足掻き続ける。叫ぶ様に口にしたのは、きっと彼に残った一つの意地だ。

 

 

「きっとそれが――――この“こんな筈じゃなかった事ばっかりな世界”で、真面目に生きて行くって事だと思うから!」

 

 

 だから、止まらない。だから、止まれない。だから、止まりたくはない。血を吐いて、広がる傷口から臓腑を取り零して、それでも彼は前に行く。

 止まってなるか。止まれるものか。止まりたくはないのだ。無様であっても、無意味であっても、無価値であっても、最期の瞬間までは足掻き続けるのだと心が叫んでいたのだから――

 

 その最後。立ち塞がったのは、同じく燃える意志を宿した“人間”だった。

 

 

「雷光一閃っ!」

 

「君、は……。そうか、そう、だね。プレシアが、居るなら、君も――」

 

 

 最初から、其処に逃げると読まれていた。だから最初から、其処に伏せていた一人の少女。

 金に輝く長い髪。黒き衣装に身を包んだ肌は死人のそれだが、瞳だけは生きる意志に輝いている。彼女の瞳は彼の日から、きっと何一つとして変わっていない。

 

 

「プラズマザンバァァァァァッ! ブレイカァァァァァァァァァァッッ!!」

 

 

 フェイト・テスタロッサの一撃が、ユーノ・スクライアへと振り下ろされる。

 咄嗟に彼が出来たのは、巻き込まれぬ様に抱いた少女を投げ飛ばす事だけだった。

 

 雷光の刃が一閃する。迸る閃光は死者に纏わり付かれた男の身体を焼き尽くし――――そうして彼の未来は閉ざされた。

 

 

 

 

 

2.

 黒焦げた焼死体を思わせる姿を晒す青年の下へと、ゆっくりと歩み寄る天魔・紅葉。

 急ぐ感情は確かにあるが、駆け寄れば崩れ去るであろう程に今の己は衰えていると言う自覚もあった。

 

 故にゆっくりと近付いて、砕けぬ様に膝を屈める。積み木を崩さぬ様な慎重さで、倒れた男に触れる。

 微かに感じる呼吸と鼓動に胸を撫で下ろし、そんな己の甘さに自嘲する。笑みと共に、ピシリと頬に亀裂が走った。

 

 

「……見させて貰うわね。その記憶」

 

 

 崩れた顔を片手で触れて修復しながら、もう一つの腕を男に伸ばす。優しく髪を撫でる様に、触れたその手で内に蔵する魂の奥へと。

 意志を其処に流し込み、霊的な部分を強制的にこじ開ける。他の天魔達ならばもっと上手くやれるのだろうが、彼女ではこれが限界だった。

 

 

「が、アァァァァァァァァァァァァァッッッ!?」

 

「……本当にごめんなさい。もう少し、優しく覗ければ良かったのだけど」

 

 

 死骸と見紛う男から、断末魔の如き悲鳴が上がる。中に中にと強引に入り込む意志は、切り拓いた傷口に強引に手を押し込む様な行為よりも悍ましい。

 麻酔もなしに身体を切り裂き、汚泥に汚れた素手を洗わないまま突き立てて、臓腑を見比べながら出し入れする。そんな蛮行ですら、この痛みには劣るだろう。

 

 魂に直接、強引な干渉を行われているのだ。魂をミキサーに掛けられて、ズタボロに引き裂かれていると言うのが近いだろうか。

 鏝で臓腑を焼かれる痛みすら、比較にならぬと断言出来る痛みである。例え受ける者が誰であろうとも、絶叫は止められない筈だ。

 

 

「成程、そう言う事。魔刃と魔群。碌でもないのが、動いているのね。……遊佐君は、彼に遅れを取ったのかしら? 確かにとても強そうだけど、あの子らしくもない。それ程に、彼も壊れていたのかしらね」

 

「アァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッッッ!?」

 

「……大丈夫よ。安心しなさい。もう直ぐ終わるわ。もう終わる。貴方と言う存在は、此処で終わるの」

 

 

 男の悲鳴を背景に、天魔の凶行は止まらない。優しい慈母の笑みを浮かべたまま、語る言葉も行う行為も須らくが悪辣だ。

 女は理解している。彼女は自覚している。己の行いの下劣さと、語る言葉の外道さを――分かっていて、為すのである。それが彼女の、母の抱いた愛なれば。

 

 この青年を使い潰してでも、我が子に幸福を与えよう。故に約束する。決して無駄にはしないのだと。

 

 

「貴方は此処で壊れてしまうけど、貴方の犠牲を無駄にはしない。それだけは、必ず約束して――――っ!?」

 

 

 ふと、弾かれた様に言葉が途切れる。熱い物に触れてしまった時の様に、天魔・紅葉は思わずその手を引いていた。

 崩れ落ちる青年の身体。頭上を見上げた紅葉の姿。死んだ瞳が見詰める先には、黄金の輝きが集っている。其処には、一人の死に損ないが立っていた。

 

 

「聖槍十三騎士団黒円卓に連なる者ども! 第十一、バビロン! そして、第■、■■■■■■■■に申し渡す! その存在は世界に容認されていない!」

 

 

 弓に矢を携えて、女はこの世の物とは異なる言葉で紡ぐ。既に死に掛けの全身を、腐り崩しながらに力を振るう。

 狙うは天魔・紅葉。そして、彼女の遁甲の中に潜むもう一人。彼女達の魔の手から、救わなけれなならない者が居るのだ。最後に残った希望の残滓を、明日に繋げていく為に。

 

 

「受けよこの一矢、天魔覆滅!!」

 

 

 破壊の意志を放つと同時に、腕が一本砕けて散った。そうして放たれた破壊の力が天魔を倒し得るかと問えば、答えは否と言うより他にないだろう。

 黄金の槍は今も変わらず、ミッドチルダの中にある。これは嘗ての邪聖が用いた、偽りの聖槍と似て非なる物。内に真を蔵さぬ力では、神域の怪物には届くまい。

 

 それでも、今はそれで十分だ。彼女の目的は此処で彼らを討つ事ではなく、倒れた次代の可能性を救い出す事なのだから。

 

 

「……顕、明、さ、ん」

 

「喋るな、スクライア! 私も、貴様も、もう持たん! 壊れる前に、地脈を利用して飛ぶぞっ!!」

 

 

 激痛で意識を取り戻していた青年の言葉に、焦りながら言葉を返す。それだけで崩れ落ちて行く己の身体に、御門顕明は舌打ちしたい気分であった。

 それでも、そんな無駄をしている時間はない。恐らく己は持って数分、足を止めれば其処で終わる。それ程に消耗したというのに、此処で何も掴めず崩れてしまうなど冗談ではないのだ。

 

 天魔・宿儺によって救われ、エリオ・モンディアルへの対抗馬として残る六課に賭けるしかなかった女が御門顕明だ。

 神の子の自壊に六課の壊滅と凶報は続いていて、此処で解脱に至れる者までも失ってしまえばもうどうしようもないのである。

 

 だから、彼らがミッドチルダを出たと知って血の気が失せた。必死になって探し回って、命と引き換えにしてでも救わんとしているのは未来の為に。

 瀕死のユーノを強引に肩に担ぎ上げ、空いた腕を倒れたルーテシアへと伸ばす。彼らを纏めて救い上げると、己が崩れ落ちてしまう前に地脈を跳んだ。

 

 

――おや、気付かれていましたか。しかし中々に痛い物ですね。天魔覆滅と言う物も。

 

「…………」

 

 

 御門の秘術。遡れば第四天に端を発するその力は、今も遁甲に潜む男が嘗て同じく用いていた物。特定の場所に限られるが、望めば瞬時に世界の裏まで跳べる術。

 星の裏側まで逃げた彼らは、其処で転移魔法を使う心算なのだろう。そうして次元航行船へと逃げ込んで、ミッドチルダに向かう心算だろう。

 

 痛い痛いと嘯く男には、手に取る様に分かっていた。彼らの目論みも、今居るであろう場所も、どうすれば彼らを追えるかも。その上で、彼には一つだけ理解出来ない疑問があった。

 

 

――ですが、リザ。何故、彼らを逃がしたのです? 今の一撃も、所詮は上っ面だけを整えた張り子の虎の様な物。残骸に過ぎない私と違い、貴方なら毛ほどの痛痒すらも感じてはいなかったでしょうに。

 

 

 中身のない天魔覆滅など、大天魔を葬る力足り得ない。瀕死の女が決死で放った一撃などで、足を止める程に天魔・紅葉は弱くはないのだ。

 遁甲に潜まねば、消えてしまう儚い男とは違う。元から持っていた読心能力も、借り受けていた肉体も、今では何一つとして使えぬ残骸とは違うのだ。

 

 ならば何故、と男は問い掛ける。もしもリザ・ブレンナーに問題があるのなら、それは決して無視出来ない。

 リザに寄生しなければ生にしがみ付く事すら出来ない今の彼が描いた策略は、根幹から崩れ落ちてしまうから。

 

 

「……あの子が、見えたの」

 

 

 ぽつりと、言葉を返した女は男の姿を見ていない。唯問われたから鸚鵡返しに反応しているだけの状態。それ程に彼女が動揺していたのは、あの青年を覗いた時に受けた拒絶が故である。

 

 

「これは、私のだって。ヨハンが、怒っていたのよ」

 

 

 彼と彼女は繋がっている。二人で一つの陰陽太極。それは未だ完成に至らずとも、互いに影響を与え合っている。

 だから彼の危機に、彼女は気付いた。だから魂と言う繋がりを介して、怒りの情をぶつけたのだ。何の質量も伴わない唯の感情だが、女にとってはそれで十分だった。

 

 

――成程、それはそれは。貴方にとって、テレジアとイザーク同様に愛しい血筋だ。その子の怒りを受けたのなら、止むを得ぬ結果なのかもしれませんね。

 

 

 怒りの日。嘗て彼女はヨハンを選んだ。イザークを捨てて、テレジアを裏切り、ヨハンと彼の血を引く綾瀬香純を守ろうと動いていた。

 その時の判断を、今では酷く後悔している。子どもに優劣を付けて、見捨てた事を嘆いている。だから今度こそは、捨てた子らを愛するのだと決意した。

 

 けれどその決意は、ヨハンを捨てると言う事を意味しない。其処で順序を付けたのなら、きっと女はまた後悔する。もう二度と子を捨てぬ為に、今の彼女にとってヨハンとイザークは同列なのだ。

 だからこそ、テレジアの為に動いた今でも、ヨハンの血筋の拒絶に揺らいでしまう。他の大天魔ならば取るに足りない刺激であっても、天魔・紅葉にとっては消滅に繋がりかねない程の衝撃だった訳である。

 

 

――まぁ、別に良いでしょう。必要な情報は既に得ました。追撃を掛ける様な時間的余裕もない事ですし、彼らは見逃してあげましょう。……或いはその方が、私達にとっては都合が良いかもしれません。

 

「……少し、安心している? そう。安心しているのね、私は」

 

 

 納得して、男は静かに思考を回す。彼らの生存が己の企みに与える影響を想定して、或いは利と成り得ると判断した。

 その言葉に、紅葉は胸を撫で下ろす。知らないからこそ、傷付けられた。だが知ってしまえば、もうあの青年を害せる気がしなかった。

 

 天魔・常世にとっての、天魔・夜刀と同じく。ヨハンの子にとって、あの青年は欠かせない者。常世の前で、夜刀を害せないのと同様だ。

 娘にとっての最愛を、その眼前で奪って良い筈がない。傷付けた事への怒りに、きっと己は耐えられない。母としての感情が故に、それが紅葉の限界だった。

 

 

「けれど、私には見えないわ。何も分からない。あの子の事すら、気付けなかった。そんな私に見えない何かが、貴方には見えているのでしょう?」

 

――さぁ、どうでしょうか? 私の目は、余り良くない物でして。あの日からずっと、たった一つしか映してくれない。

 

 

 知らなかったとは言え、傷付けた事を後悔している。瀕死の身体で思考の余裕がなかったとは言え、愛娘の存在に気付けなかった事を嘆いている。

 漸くに高町なのはがそうなのだと理解した最も弱い大天魔は、内なる彼へと問い掛ける。今の己よりも遥かに弱く儚い者だが、きっと誰よりも多くの事が見えているであろう共犯者に。

 

 対して男は、曖昧に微笑み答えを濁す。口にしたのは嘘偽りの言葉でなく、真実彼の心に在る物。失ってしまったあの日から、男の瞳にはたった一つしか映らない。彼の心の中は何時だって、彼女への愛で満ちている。

 

 

――テレジア。嗚呼、テレジア。私は貴女を愛している。

 

 

 言葉を紡ぐ。言葉に紡ぐ。それだけで溢れ出す程に、膨れ上がる想いに笑みを深める。こんなにも、愛せていると言う事実に涙すら零れそうになる。

 だから、彼は動き出したのだ。両翼の一つを失って、絶望的になった神の復活。どうすれば良いのかと愛する娘が嘆いていたから、無様に死んでは居られなかった。

 

 許せるものか。許せるものか。許せるものか。娘が助けてと、涙と共に求めたのだ。動けぬからと死んでいるからと、唯それだけで愛する娘を救えぬ己など許せるものか。たった一つの愛故に、彼は生に縋り付く。生きねばならぬと、己にそう定めたのである。

 

 

――私はもう二度と、私の愛を失わない! 嗚呼、そうだ! もうこれ以上、失っては堪るものか!!

 

 

 一度目は、黄金に膝を屈した日に。二度目は、怒りの日を止められなかった時に。三度目は、三眼の邪神が目覚めた日に。四度目は、淡海を超えられてしまった時に。

 彼は失った。彼は四度も守れなかった。愛しい子ども達を裏切った。愛しい子ども達が無残に死んだ。彼は弱かった。愛しい者らを守れない程に弱かった。だから、もう二度とは許さない。

 

 そうとも、許すものか。許せるものか。許してはなるものか。これ以上、己の弱さで失う事を。愛する者を守れないなど、彼には我慢ならないのだ。

 

 

――何としてでも! 何を為してでも! 私は、私の愛を貫き通す! 失ってしまった、あの子達の分までも――っ! 私の娘(テレジア)は、私が救うっっっ!!

 

 

 男は既に壊れている。精神の均衡だけではない。淡海で邪神の触覚に敗れたその日に魂までも粉々に砕かれて、最早自我の存在すら怪しい残骸と化していた。

 だが、娘が求めたのだ。助けてと、彼女が言ったのだ。ならばどうして、死んでいられる。己の不甲斐なさへの怒りと、彼女への膨大な愛。それが執着となって、彼をこの地に呼び戻した。

 

 男は既に壊れている。死んでいたのだ。動ける道理などない程に。残滓と言うのも憚れる程、磨り潰された残骸でしかなかった。

 けれど執念で立ち上がり、こうしてへばり付いている。等活地獄に飲まれた死体の一つに、乗り移る事で蠢いている。愛に狂った残骸は、壊れて尚も動くのだ。

 

 

――その為にも、為さねばならない事は多くある。少なくとも、トバルカインやマレウス達は邪魔です。彼らを処理する為、貴女にもしっかりと働いて貰いますよ。リザ。

 

 

 激情と言う波は、一瞬で引いて凪と成る。重度の躁鬱患者の様に、男の自我は安定しない。その執念だけが動かしているから、安定すればその場で滅ぶ。

 読心もなく、聖餐杯もなく、寄生せねば生きられない上に自我も安定していない。そんな男は、リザ・ブレンナーを必要としている。そしてそんな男を、リザ・ブレンナーも必要としていた。

 

 

「……えぇ、そうね。私達の娘の為に、共に地獄に堕ちましょう。ヴァレリア」

 

 

 偽りの光。邪なる聖者。鍍金でしかなかった男にとって、仲間も次代も何もかもがどうでも良い。唯、愛しい娘が幸福であればそれで良いのだ。

 テレジアを救う。その為に、恐らく夜都賀波岐は邪魔となる。ならば全て滅ぼそう。テレジアを幸福にする。その為に、恐らく次代は犠牲になる。ならば、テレジアの為に滅ぼそう。

 

 愛に狂った男は嗤っている。血涙を流しながら、笑い続けている。そんな男は名を――――ヴァレリア・トリファと言った。

 

 

 

 

 




CV:成田剣さん(なのは側)が不甲斐ないので、CV:成田剣さん(Dies側)がアップを始めました。


実は本編ルートでも復活の可能性があった猊下。
詳細な条件としては、紅葉が生存している状態で夜刀様復活が困難と成る事。

常世先輩が追い詰められると残骸に泣き付くので、その結果「パパ頑張るぞー」とやる気になって復活します。




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第十五話 星を追う人 高町なのは

推奨BGM
2.To The Real(リリカルなのは)
3.修羅残影・黄金至高天(神咒神威神楽)


1.

 偶発的に生まれた死地より命辛々、戻った男の意識は其処で途切れた。既に彼は限界だったという事だろう。

 崩れ掛けた女に抱えられ、陸の指導者の意志の下、医療室へと運び込まれる。だがしかし、治療は遅々として進まない。外傷以上に、傷付いていたのは(ナカミ)であった。

 

 有史以来、人の魂を観測し干渉出来る技術に辿り着いた人間は唯の一人。己の求道に狂った天才以外に誰もおらず、他の者らでは傷の形を知る事さえも出来なかった。

 

 触れる事は愚か、視る事も叶わない傷。それをどうして、人の手で塞げるというのだろうか。いいや不可能だ。如何なる名医の腕を持とうと、何処を治せば良いのか分からないなら手の打ちようなど一つもない。

 

 焼かれた身体の傷を癒して、彼らに出来る事はそれで終わった。御門顕明より魂が傷付いているという状況を伝えられても、触れる事さえ出来ない彼らは其処で諦めるしかなかったのだ。

 

 

「ユーノ君」

 

 

 女がその報を聞いたのは、男が運び込まれてから暫くのこと。繋がりから感じていた悪寒に急かされて、戻って来れたのは青年の治療が終わった後。

 外傷はない。点滴を打たれた青年は、それさえなければまるで眠っているかのよう。ゆっくりと規則的に動いている鼓動と呼吸は、彼の生を確かに実感させている。

 

 だが、高町なのはには見えてしまう。他の誰にも見えないその(ナカミ)の破損が、目に焼き付いて離れない。

 余りに惨い。思わず目を逸らしたくなる程に、引き裂かれている中身。まるで果実をミキサーに掛けて混ぜた様に、固体が液状化してしまった様に、元の形が見えて来ない。

 

 此処に戻る一瞬まで、彼は意識を保っていたと聞いている。だが本当にそうなのかと、疑問を抱かずにはいられない程の惨状。

 命よりも重要な魂がこの様では、意識を保てる筈がない。もう目覚める保証はない。いいや、ずっと眠ったままとなるのだろう。彼女はそう感じていた。

 

 

「……嫌だ」

 

 

 肉体面では問題なくとも、中身がこれでは生きていられる筈がない。植物状態と同様だ。このまま時が過ぎ去れば、元に戻らず崩れ続けていくのだろう。

 その事実を、高町なのはは認められない。受け入れられない。許せる訳がない。どうして己の最愛が、目覚めぬままに朽ちて行く事などを許容出来ようか。

 

 辛うじて今のユーノが生きているのは、高町なのはが居るからだろう。再演開幕。その願いは望んだ結末以外を認めないと言う物。繰り返す力が魂の繋がりを辿って、彼の形を留めていた。

 だがそれも、長くは続かないのだろう。繋がる力は未だ弱い。壊れた魂を治す事など出来る筈もなく、ならば必然この現状は改善しない。結末は一つ、彼はゆっくりと衰弱して命を落としてしまうであろう。

 

 

「嫌だ」

 

 

 時期に夜も明ける。もう直ぐ日の光が上るのだろう。地上本部の塔内にある最先端の医務室は、明るく染まり始めている。

 それでも眼前に浮かんでいるのは暗雲だ。晴れた空の色とは違って、進む未来はまだ暗い。夜明けが訪れる事などなく、帳は落ちたままとなろう。そのまま何時までも、こうして彼は眠り続けて終わるのだ。

 

 

「嫌だ」

 

 

 認めない。認めない。認めない。そんな結末は認めない。

 逝かせない。逝かせない。逝かせない。貴方だけは何処にだって逝かせない。

 

 

「嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ」

 

 

 女の想い(アイ)は呪詛の如く、深く深く深く深く。

 黒く染まる魔力は繋がりを辿って、その魂に纏わり付いて沈めていく。

 

 真っ暗な部屋の中で、その想いだけが圧倒的な質量を持って肥大化していく。

 

 差し込む光に染まるガラス張りの廊下で椅子に腰掛け、どうすれば良いのか思考を回す。

 無数のマルチタスクが不可能と言う結論を出す中、たった一つの思考回路が可能性を提示した。

 

 

「嗚呼、そうか」

 

 

 それは一つ、彼女の辿り着いた一つの可能性。

 余りにも簡単で、どうして思い付かなかったのかという発想。

 

 今の彼を生かしているのが彼女の力なら――

 その力の純度が低いが故に、彼を完治させられぬと言うならば――

 

 

「強く願えば良い。もっと、もっと強く。彼の無事を願えば良いんだ」

 

 

 それはそんな単純な答え。取り戻す為に、より深く願うと言う結論。不足した部位を補って、何度だって彼をこの腕の中へと呼び戻す。

 そうとも、元に戻せば良いのだ。魂を液状化するまで砕かれてしまったというのなら、それも含めて回帰させてしまえば良い。

 

 出来る筈だ。不可能な事ではない。今だって出来ているのだから、その強度を上げるだけで至れるだろう。

 

 

「お願い。ユーノ君」

 

 

 其処に至った女は迷わずに、手にした答えを形にする為に祈りの深度を引き上げる。

 彼女の周囲が、魔力の波動で歪む程に祈る。必ず取り返してみせる。僅か浮かんだ死人の女に怒りを燃やして、高町なのはは想いを強く強くした。

 

 再演開幕。その本質は、訪れる結末を認めないと言う願い。故にその渇望はこの現状と噛み合って、その祈りは深くなる。

 こんな終わりなんて認めない。こんな結末なんて許せない。私と彼の物語がこんな幕引きを迎えるなど、嗚呼どうして認められるか。

 

 だから願う。だから祈る。やり直すのだ。再演するのだ。

 望むべき未来に至るまで、何度でも何度でも何度でも――――

 

 

「戻って来て」

 

 

 女の愛は最早呪いだ。彼女自身では抑えられない程に、肥大化して男の全てを狂わせる。

 その願いの末路は最悪だろう。この祈りは全てを終わらせてしまうのだろう。けれどそれすら分からぬ女は、強く強く祈り続ける。

 

 なのはの祈りが形を成そうとする。ユーノの全てが終わろうとする。その直前――――近付く男の放った罵声が、訪れる結末を変えていた。

 

 

「馬鹿者がっっっ!! 貴様っ、今何をしようとしているっっ!!」

 

「――っ!?」

 

 

 腹の奥から吐き出した様な大音量に、なのはの集中は其処で途切れる。思わずと見上げた先には、眉を吊り上げた赤ら顔。

 のしのしとビール腹を揺らしながら、走り寄って来るのはこの地上の指導者。レジアス・ゲイズと言う名の中年男性であった。

 

「何を、って……私は、唯、彼を助けようと」

 

「その異能を使ってか!? ふざけるなよ、高町なのは! お前は一体、何を聞いていた!? この小僧が、何故に目を覚まさぬと思っている!!」

 

 

 レジアス・ゲイズは語る。彼は知っているのだ。御門顕明と言う女に聞いたから、医務官達の努力を知るから、ユーノ・スクライアが倒れた理由を知っている。

 今も目覚めぬ理由は一つ。その魂が余りにも傷付いてしまっているから。だからこそ、彼は高町なのはの行為に怒りを抱いた。一体お前は、何を聞いていたのかと。

 

 

「御門顕明が言っていたであろう。この小僧の魂は今、酷く傷付き疲弊していると! 医務官達が言っていたであろう! 目に見えぬその中身に触れられぬが故に、治療の術などないのだと! その言葉の全て、貴様は聞き流していたとでも言うのかっっ!!」

 

「けど、だから……管理局の医療じゃ治せないから、私の力で――」

 

「その力に耐えるだけの器が、今の小僧にないと言うのだ! どうしてそれに気付かないっっ!!」

 

「――っ」

 

 

 人にとって、他者の魔力は毒なのだ。万物が魔力素で構成されたこの世において、人間の身体も例外などではない。人は己の魂で、形成された肉体を動かしている。

 其処に他者の魂に影響された魔力が混じれば、形成された肉体と言う事象が歪む。歪んだ肉体を制御できる程の力をその持ち主が持っていれば話は変わるが、そうでなければ歪んだ肉体は戻せない。

 

 他者の意志に染まった膨大な魔力を浴びると、人の身体は容易く壊れてしまうのだ。それは比較的強い魂を持つ者らでも変わらず、故に歪み者と言う存在が生まれてしまう。

 そして今のユーノ・スクライアには、歪む肉体を制する力がない。自己を維持する為に必要な魂が、砕かれてしまっているのだ。それでどうして、無事でいられる理屈があるか。

 

 なのはの行為を放っておけば、先ず間違いなくユーノ・スクライアは壊れていた。与えられる回帰の魔力に耐えられず、その肉体は死と新生を繰り返し続けた事であろう。……そんな事実、()()()()()()()()()()()

 

 

「……その顔、気付いておったか。気付いて、それなのか」

 

「だって、私にはこれしかないから。彼が居ないと、嫌だから。……もうどうすれば良いのか。祈る以外に、分からないから」

 

 

 知っていて、気付いていて、それでもそれすら踏破しようと。挑もうとした理由は他に解決の道筋が何一つとして見付からないから。

 俯いた顔で呟くなのはの姿に、レジアスは小さく失望する。そんな自分に気付いて、男は馬鹿らしいと嘆息した。一体何を、期待していたというのだろうか。

 

 

「愚か者め。貴様は実に、愚かな娘だ」

 

 

 女も間違っているとは気付いていた。分かっていて、そうするしかないと追い込まれた。だから動こうとしたけれど、やはり間違っていると知っていた。

 だから震えるその肩は、とても小さく感じる物。いいや、事実小さいのだろう。英雄と呼ばれようが、天才と持て囃されようが、まだ成人もしていない娘であるのだ。それに気付いて、レジアス・ゲイズは呆れ返った。

 

 

(馬鹿らしい。これでは唯の、娘でないか。……嗚呼、本当に馬鹿らしい。齢を思えば唯の娘で、当然であろう筈だと言うのに)

 

 

 馬鹿らしいと、否定するのは己自身。何時しか己も彼女らに、期待を掛け過ぎていたらしい。二十も生きていない小娘に、一体どれ程の重みを乗せようとしていたか。

 嘆息する。深く深く息を吐く。今のこれは英雄ではなく、悲嘆に浸る小娘だ。ならば一人の大人として、為すべき事は何なのか。隣の椅子に腰を落として、男は一つ鼻を鳴らした。

 

 

「ふん。全く、他に出来る事など何もないと。成人もしとらん小娘が、随分と悟った様な事を言う」

 

 

 俯く娘に、出来る事。一人の大人として、するべき事。それはきっと、道を示すと言う事だ。

 

 

「貴様の力は飾りか何かか? 他者より秀でたその魔力で、守れる者など多く在ろうよ。小僧が眠り続ける間に、この地を守り続ける事。それは貴様以外にも出来る事かもしれないが、貴様が最も上手くやれる事であろう」

 

 

 何も出来ないと、高町なのはは口にした。ならば出来る事を挙げていこう。その一つは間違いなく、彼女が最も上手く出来るであろう事。

 ミッドの守護者を自認する身としては悔しいが、レジアスよりも高町なのはの方が遥かに強い。彼女が空を翔け回れば、それだけで救われる人の数は増えるだろう。帰って来るべき場所を、守る事は出来るのだ。

 

 

「貴様の瞳は硝子か何かか? 他者の魂を見ると言うその瞳。知れば誰もが羨むだろう技能があれば、小僧の状態など一目で分かろう。傷の具合が分かるなら、後は治し方を学べば良い。それは貴様以外の者でも目指せる道なのだろうが、貴様が最も早く進める道であろう」

 

 

 ジェイル・スカリエッティと言う異才が命を落とした今、ユーノ・スクライアを救える可能性が最も高いのは高町なのはに他ならない。

 彼女は魂の状態を、その目で見る事が出来るのだ。傷口の場所さえ分からぬ医務官達より、彼女の方が恵まれている。医療の知識を学び、魂を見ると言う技能を磨けば、或いは正攻法で男を救えるかも知れぬのだ。

 

 

「ほれ、見た事か。少し考えただけでもこんなにも、貴様に出来る事は多くある。だと言うのに、一体何を嘆くのだ」

 

 

 一つは戦士として、帰る場所を守る為に戦う道。一つは術士として、救う方法を探す為に戦う道。数は二つに過ぎないが、細分すれば更に多くなるのだろう。

 そうとも、こんなにもまだ可能性は存在している。選ぶべき道はあるのだから、諦めるのはまだ早い。壊れてしまう賭けに出るのは、余りにも早過ぎる事なのだ。

 

 

「人の可能性は無限だと、安く語る言葉がある。真実選べる道など、それ程多い訳ではない。だがな。多くはないが、少なくもないのだ。なのにどうして、涙を流すだけで居られるか」

 

「…………」

 

 

 語る言葉は、届いたろうか。込めた思いは、伝わったのだろうか。俯いた女は無言のまま、男は手応え一つ感じていない。

 それでもきっと届いただろう。それでもきっと伝わったのだろう。そう信じながら窓から空を見上げたレジアスは、僅かな沈黙の後に己の胸中を一つ吐露した。

 

 

「……儂はな、小娘。貴様の様な“特別な人間”と言う奴が酷く嫌いだった。いいや、今も嫌っているよ。お前らの様な天才共は、どいつもこいつも気に入らん」

 

 

 レジアス・ゲイズは持たざる者だ。歪みや希少技能所か、リンカーコアすら持ってはいない。生まれた時から今の今まで、唯の人間として生きて来た。

 だからこそ、個人の情として彼は天才達を嫌っている。憎んでいるという程ではないが、好きにはなれないと思っている。これを弱さや醜さだと言われたならば、否定などは出来ないだろう。

 

 

「天才と言う輩は、凡人が必死に積み上げた物を一足飛びに飛んで行く。その才能が貴重だからと、何をしても心を入れ替えたのだと主張するだけで許される。どうして、それを好きになれようか。…………ふん。嗤えよ。唯の醜い嫉妬だ。下らん八つ当たりに過ぎんのだ。それに儂は、戦場で漸く気が付いた」

 

 

 そうとも、レジアス自身分かっている。これが唯の嫉妬であると、ミッドの守護者であろうとするなら余計な情であるのだと。

 事実、天才と言う人種が居なければ世界はとうに終わっていた。其処に感謝を抱けぬ程、彼は愚かではない。だが其処に他意を挟んでしまう程度には、彼は凡庸だったのだろう。

 

 結局の所、俗物でしかなかったのだ。清濁併せ吞む事が出来るのだとしても、やはり濁より清を好む。そんな何処にでも居そうな男が己の思い込みに気付いたのは、きっとあの日の戦場で。神を始めて、その目で確かに見た時だ。

 

 

「神を前にしてみれば、儂らの差などどれ程か。団栗の背比べにも満たない、等しく全て塵であろうよ。才能の有無など、その程度の物でしかないのだと。思わず笑ってしまったとも」

 

 

 初めて大天魔をその目に見た時、レジアス・ゲイズは恐怖した。唯只管に混乱して、腰を抜かして座り込んでいるだけだった。誰よりも厚く守られていたのに、彼は何も出来なかった。

 だが彼の周りに居る者は、迷わず剣を手に取った。彼の信じた親友は、揺るがず前へと駆けていた。神を前にすれば彼我に差などはないというのに、彼らは断じて前へ行く。確かな差異が、其処にはあった。

 

 

「だが事実として、儂と命を賭けたアヤツらは何かが違った。神を前にすれば同じであろうに、だが何かが確かに違っていた。ならば何が違うのか。……決まっていよう。想いの違いだ」

 

 

 レジアスは大天魔に挑める人々が信じられなかった。あれを前に退かないなんて、在り得ないと感じていた。恐怖を感じていないのかと、問うた友より返って来たのは否定の言葉。

 誰もが恐怖を感じていた。神から見れば五十歩百歩でしかない程に差があると言うならば逆説、誰が見ても神に感じる強大さは違わない物なのだろう。レジアスが見ている光景と、ゼスト達が見ていた光景に差などない。

 

 それでも、戦わねばならない。だから戦うのだ。そう語る友の姿に、レジアスは漸くに理解したのだ。彼我の違いは才能などではなくて、きっと想いの差なのである。

 

 

「心の中に抱えた物。背に背負って胸に誓って、覚悟と共に歩く者。そうした意志の尊さこそが、才能などより遥かに重要となる要素。獣では持てない、人が人である輝きであると儂は思う」

 

 

 故にレジアスは知っている。不可能と思える断絶を、絶望的な隔たりを、埋める何かが其処にはあると。挑み続ける意志こそが、人の輝きであるのだと。

 

 

「その上で問おう。今も眠る小僧には、貴様程の才はない。それは確かだ。こやつは弱い。今にも死に掛けている様な、酷く脆い男であろうよ。……だがな、確かな意志を持たぬと思うか? その輝きを、持たぬと言えるか?」

 

 

 今も眠るユーノ・スクライア。彼もまた、そうした輝きを持つ者だ。そう確信して問い掛けるレジアスの言葉に、なのはは漸く頷いた。

 確かにそうだと、彼女も思う。時に奇跡さえも起こせる意志を、きっと持っている筈だと。だから高町なのははあの日、その輝きに憧れたのだ。

 

 追い掛けたいと思った星は、きっとそうした人の輝き。空を飛べば飛ぶ程離れていくのは、唯人のゆっくりとした歩みであった。

 

 

「ならば、信じてやれ。あの小僧は、お前の様な天才ではない。だが、小娘一人泣かせる様な馬鹿でもない。それを信じてやっても良い筈だろう」

 

 

 高町なのはと、ユーノ・スクライアは今も繋がり合っている。移植したリンカーコアを介して、彼らの魂は繋がっている。

 ならばなのはの魂が知る形が繋がりを介して流れ込み、ユーノ・スクライアの魂が少しずつ自然回復していく。そんな奇跡とて、在り得ない可能性ではない。

 

 ましてやユーノは、此処に来るまでは意識を保っていたのだ。ならばどうして、もう目覚めぬと決め付けられるか。

 それを信じて、待つのも偶には良いだろう。選ばないという選択も、きっと許されている筈だから。信じて待つ事、それも一つの戦いだから。

 

 

「どうすれば良いか分からぬならば、涙を拭って待てば良い。信じて祈って待てば良いのだ。待っても良い、待つ事と諦める事は似て違う。貴様たち天才共は些か以上に生き急ぎ過ぎて、足元と言う物が見れとらんのだ」

 

 

 信じて待つ。それはきっと、誰もがしている事なのだろう。それを祈るだけで何もしていないなどと、侮蔑する気は欠片もない。寧ろレジアスは、そういう生き方に敬意を抱いている。

 

 ミッドチルダには戦えない者達も多いから。彼らが背にする人々は、戦う力を持たないから。けれどそんな彼らは、我らを信じて待っている。戦場から帰って来るのを、唯待っている。

 それがどれ程に強い心を必要とする事なのか、レジアス・ゲイズは知っている。戦場に出る事は出来ても、戦えない彼は知っている。何も出来ずに待つ事はとても辛い。それでも帰って来た者らに待つ辛さを感じさせず、笑顔で迎えるミッドの人々。それをどうして、弱いなどと口に出来るのか。

 

 

「絶望を前に足を踏み出す。その為に必要なのは、一筋の希望なんかじゃない。進まねばならないと言う、たった一つの意志なのだ。故に戦う人間は、確かに素晴らしい物だろう。進み続ける者達は、皆優れているのだろうよ」

 

 

 前に進む事は素晴らしい。駆け抜ける事は難しい。駆け続ける事なんて、誰にも出来る事ではない。それが優れている事を、レジアス・ゲイズは知っている。けれど、こうも思うのだ。

 

 

「だがな、それだけが全てじゃない。戦場だけが、戦の場と言う訳ではないのだ。信じて待つのは、辛いだろう。ならば信じて待つ事も、時には大切なのだろう。惚れた女が信じずして、一体誰が男を信じてやれるというのだ」

 

 

 走り抜けるより、ゆっくり歩く方が大切な時もある。時には足を止めて振り返り、一歩戻ってみるのも必要だろうと。レジアス・ゲイズは知っている。それもまた、尊い事に違いないのだと。

 

 飛ぶ鳥の速さに、人の歩みは追い付けない。ゆっくりと地を歩く速度では、空の星には追い付けないと思えてしまう時もある。だがそれでも、きっと歩くべきなのだ。

 空を飛んでしまったのなら、星の高さに気付けない。小さな歩みの尊さに、全く以って届かない。人は本来飛べないものだ。ならば飛び出すべきではなくて、歩いて進むべきなのだろう。

 

 人は凄いと、信じるならば――

 

 

「ならば、信じてやれよ。男の矜持に水を差すな。人の意志を舐めるなよ。唯人の可能性など無限と比すれば遥かに劣るが――奇跡の一つ二つは起こせるのだ」

 

 

 人間は凄い。人の意志は凄いのだ。時にそれは、絶望すらも覆す程の奇跡を起こす。ならばそうとも、それを持つ青年がこのまま終わるだなんて在り得ない。

 そう信じて、待てば良い。今は唯、待てば良いのだ。異能に頼った救済などは、人の意志を愚弄する行為と同じである。そう信じるレジアス・ゲイズは、男臭い笑みを浮かべて、最後に一つこう言った。

 

 

「儂はそれを、確かにこの眼で何度も見て来た。そうとも、まだ成人もしとらん小娘に教えてやろう。儂は貴様の、倍以上の時を生きておるのだぞ。当然見て来た奇跡の数も、倍などではまるで足らんわ!」

 

 

 戦場から無事帰る事すら、極小の可能性の先にある奇跡の一つ。人事尽くしても尚足りない、苦境を彼らは乗り越え続けて来た。

 其処にはきっと、傍から見れば奇跡としか思えぬ光景が幾つもあった筈である。事実としてレジアスは、人の意志が為してみせたそれを多く見て来たのだ。

 

 多くの者が必死に生きて、此処まで繋いだ蜘蛛の糸。触れれば千切れてしまいそうな儚いそれは、しかし今も繋がり続けている。

 ならばきっと、彼は立ち上がってみせるのだろう。今までレジアスが見て来た者らはそうだったから、同じ輝きを持つ彼もまた立ち上がれると信じている。

 

 

「ユーノ君」

 

 

 ぽつりと、握った拳を水滴が濡らした。女は顔を上げないまま、それでも何度も頷いた。ああ、そうだとも信じよう。信じたいのだ。信じさせて欲しいのだと。

 涙ながらに何度も頷く女の姿に、レジアスはもう大丈夫だと理解した。そうして中年男は太った腹を揺らしながら、ゆっくりと立ち上がって歩き去る。彼にはまだ、やるべき事があったから。

 

 

「ユーノ君」

 

 

 一人残された女は、涙を拭いながらに思う。彼女はレジアスの語った言葉の全てに、共感を抱いた訳ではない。それでも語る言葉の一つ二つには、確かに納得する物もあったのだ。

 人は凄い。人間は凄い。意志が齎す輝きこそが、人の持つ可能性。そんな風に成りたいと願いを抱いたなのはであるから、それを持つと確信出来るユーノであるから、それだけは心の底から信じられた。

 

 きっと己が祈りを以って歪めてしまうよりかは遥かに、信じて待つ方が良い結果となるだろう。今はまだ待てると、そう思うのは或いは在り得た未来よりも切羽詰まってはいなかったからか。

 

 

「今は、そうだね。まだ、待つよ。まだ、私は待てるから」

 

 

 歪んだ視界に映るのは、安らかに眠る彼の姿。その首から掛かった銀色の輝きは、彼女が贈った彗星を模した銀細工。

 旅人の星は、まだ落ちていない。彼はまだ、助かるかもしれない。もう目覚めぬと諦めるには、何もかもが早過ぎるのだ。

 

 だから、今は待とう。もう暫くは、こうして待とう。特別な力で救おうとする行いはきっと、人であると言う事を否定する事。今はまだ、人で居たいと思うから。

 

 

「帰って来て、私の傍へ。私はまだ、唯の人間として、貴方と一緒に生きていたいよ」

 

 

 高町なのはは待ち続ける。愛しい人が、目覚める時を。彼女は異能者ではなく唯の人として、当たり前に祈りを捧げた。

 

 

 

 

 

2.

 紅葉との遭遇戦から一夜が明けた。中央塔の裏手の壁に、凭れ掛かった女は静かに空を見上げて手を伸ばす。

 伸ばしたその手は溶け込む様に、木々の隙間から差し込む日差しの中に消えて行く。あとどれ程か、残る時間で静かに思う。己は役目を果たせただろうか。

 

 

「全ては伝えた」

 

 

 知り得る全ては伝え終えた。共に戻ったユーノ・スクライアを管理局の者らに預け、残る者らに己の知る全てを語り伝えたのだ。

 高町なのはは追い込まれていて余裕がなく、余り多くの人に聞いて欲しい事でもなかった。だから彼女の轍を語って聞かせた相手は即ち、機動六課の新人達。

 

 トーマ・アヴェニール。ティアナ・L・ハラオウン。ルーテシア・グランガイツ。彼女ら三人に加えて、地上本部の指導者であるレジアス・ゲイズ。

 他にも伝えるべき相手は多く居たのだが、やはり時間が間に合わない。後はこの事実を聞いた彼ら四人が、顕明の望みを果たしてくれると信じる事。最早それしか、今の彼女には許されない。

 

 

「未来へと、種子は残った。私の全ては、無駄じゃなかった。…………そう、信じたいが、ああ、どうだろう。信じさせては、くれるだろうか」

 

 

 だと言うのに、どうしてだろうか。不安が残る。後悔ばかりだ。あの時ああしていれば良かったと、その時そうしていれば良かったと、今になって悔やんでばかりいる。

 信じたいのだ。信じさせて欲しい。ああ、だが何を信じれば良いと言うのだろう。可能性は零に等しい。未来に続く筈の道は断たれてしまった。心の何処かで、今の彼女はそう思っている。そう思えてしまう様な、目を覆わんばかりの惨状だけが此処にはあった。

 

 

「トーマ・ナカジマは、壊れてしまった。あれでは、覇道の器足り得ない」

 

 

 最も大きな可能性。古き神の半身であり、新たな世を生み出せる資格を生まれながらに有していた筈の少年は壊された。

 得るべき乙女に出逢えずに、悪魔に愛しい人を奪われて、狂気に壊れた今の彼では流れ出せない。次代の神と成る資格など、残っていよう筈がない。

 

 

「高町なのはは、まだ人の枠に留まっている。あの青年は失えないが、少し助けるのが早過ぎたか…………否、無粋だな。そも、こう考えてしまう事が良くない。酷く汚れてしまった気分だ」

 

 

 行き過ぎてしまったのがトーマなら、高町なのははその逆だ。陰陽太極と言う新たな可能性の一つであった女はしかし、まだ人の枠に留まっている。

 傷が少なかったのか。失わねば至れないのか。助力をするのは早計だったかと言う思考が脳裏に過ぎって、御門顕明は苦笑する。ああ、随分と変わってしまった。そう自虐しながら、やはり彼女は信じられない。

 

 

「エリオ・モンディアルは、もう止まらないのだろう。あれは全てを飲み干しながら、しかし己を許せぬが故に至れない。果てに待つのは、救いのない結末か」

 

 

 エリオ・モンディアルは健在だ。天魔・宿儺を下して、あの少年は更に飛躍する事だろう。この場の誰であったとしても、彼に勝てるとは思えない。

 勝てないならば、至る末路は敗北だ。仮に万が一勝てたとしても、その後が続かない。座を得る資格を持つ者が、此処にはもう唯の一人も居ないのだから。

 

 最高評議会は既に陥落した。魔群は今も蠢動している。聖餐杯は完成しない。この時点で、顕明が数千年以上に渡って積み上げ続けた意図は崩れた。

 黄金は蘇らんとしているが、彼が現世で動く為の器が何処にもない。今の彼が力を振るえるのは、精々結界のあるミッドチルダの中だけだろう。穢土遠征など夢また夢だ。

 

 世界の滅亡は近付いている。新世界を流れ出せない以上、果てに至る結果はあらゆる命の消滅だけだ。最早多くの命が散華する結末は、避けられない程明確だ。

 或いは蘇らんとしている黄金が、今も女の命を繋いでいる覇軍の主が、この結界を維持し続ける事は可能かもしれない。だがそんな最善でさえ、残るのはこの星だけだろう。

 

 いいや、それすら残らぬ筈だ。今も槍を介して繋がる女は分かる。御門顕明には分かってしまう。黄金の獣が今、誰に興味を抱いているかを。

 関わる者らの多くを破滅させてきた悪魔。彼の少年に黄金は関心を持っていて、今直ぐにでも見えたいと願っている。彼らの相対が、語らいだけで終わる筈もない。世界滅亡を前にして、そのどちらかは必ず脱落しよう。

 

 黄金の獣が勝てば良い。そうすれば最悪、この星だけは残るだろう。だがもしも、エリオ・モンディアルが勝ってしまえば――――最後の最後の箱舟さえも、あの少年は壊してしまう。悪魔は真実、世界全てを終わらせるのだ。

 

 

「ああ、本当に…………私は一体、何の為にこれまで残って来たのだろうな」

 

 

 日差しの中に伸ばした手は、気付けば砕けて消えていた。肘から先を無くした腕を、包んでいた狩衣が力なく垂れ下がる。

 無くした腕は、結局何も掴めなかった。この数千年は無意味であった。耐え難きに耐え、忍び難きを忍び、果てに訪れた結末がこれなのだろうか。

 

 ならば一体何の為に、己は生きて残ったのだろう。今の御門顕明に、確かな答えは出せそうもなかった。

 

 

「酷く、疲れた。だから、きっと悪い事ばかり考えてしまうのだろう。もう、出来る事はないのだ。ならば今は、明日を信じて眠るとしよう」

 

 

 途中で砕けた両の脚を伸ばして、ゆっくり地面に横たわる。顔を汚した土の匂いも、今となっては感じない。

 ゆっくりと瞼を下ろしながら、御門顕明は静かに思う。考えれば考える程に悪い事しか浮かばぬから、もう終わってしまうとしようと。

 

 最後に祈った言葉はきっと、何時だって彼女が願い求めて来た祈り。ずっとずっと、この世界が始まる前から抱え続けてきた願い。

 

 

「どうか、目の覚めたその時には――曙光の輝きが、目を焼いてくれる事を祈って」

 

 

 夜明はまだ訪れないのだろうか。私は唯、曙光の光を見たいのに。どうしてこんなにも、夜明けは遠くにあるのだろうか。

 何時だって、何時だって、何時だって、見上げた未来は暗かった。長い冬の終わりは何時だ。春の目覚めを感じさせる、曙が昇るのは何時なのだろうか。

 

 目を閉じて、開いた後には見たい物だ。そう唇の端を僅かに歪めて、御門顕明はその長い生涯に幕を――――下ろす事を、その少女が阻んでいた。

 

 

「勝手に眠ってんじゃないのよ、御門顕明!」

 

 

 叩かれる様に触れられて、強引に起こされる。手弱女の腕が齎す衝撃に、耐える程の力すらも顕明の肉体には残っていなかった。

 寝ている女を起こそうと、手で触れた部分から崩れ出す。溝や肥溜めを腐らせた様な悪臭を放ちながら、顕明の身体が胴から真っ二つに分かれていた。

 

 その光景に、意図せず女を傷付けた少女は顔を青くする。立ち上る異様な臭いと女の醜い姿を前に、歯を食い縛って吐き気を堪える。

 上半身しか残っていない、余りにも軽い女の身体。生理的な嫌悪を感じさせる彼女を掴んで離さぬ紫色の少女は、泣き晴らした瞳で彼女を見詰めて言った。

 

 

「アンタには、まだやって欲しい事がある! アンタにしか、出来ない事があるの!!」

 

「……酷い言い草だ。もうとうに終わっていた残骸に、今更一体何をさせようというのだ。ルーテシア・グランガイツ」

 

 

 少女の声に、閉じていた瞳を開いて顕明は問い掛ける。砕けた身体が小さくなった事さえも、今の彼女にとっては取るに足りない事。

 元より真面に動かなかった。それが無くなったとして今更に、何を思えと言うのであろうか。そんな風に冷めた言葉で語る女の問いに、ルーテシアは目を逸らさずに想いを示した。

 

 

「考えた。一杯、考えたのよ。今の私に、出来る事」

 

 

 ユーノと共に救出されて、顕明から全てを聞いた。その後で、ルーテシアは考えた。今の己にある物を。今の己に出来る事を。

 

 

「ガリューは居ない。白天王ももう居ない。私は今も、歪みに目覚めてすらいない」

 

 

 戦う事は、無理だろう。あれ程至近で天魔と見えたというのに、少女は今も歪みに目覚めてすらいない。

 召喚虫も強力な物は全滅した。まだ数体は残っているが、切り札さえも通じない相手に一体何が為せるというのか。事実として、今のルーテシアは無力である。

 

 

「キャロやフリードを、助けるなんて私に出来ない。天魔を倒そうだなんて、私に出来る筈がない。新世界を拓こうだなんて、考える事すら出来やしない」

 

 

 魔群には勝てない。大天魔には勝てない。新世界の流出なんて、出来る筈がない。今のルーテシア・グランガイツは、年相応の少女に過ぎない。

 攫われた妹を救い出す事は出来ないだろう。囚われた両親を解き放つ事だって無理だろう。そんな彼女はならば、何も出来ないと言うのだろうか。だとしても、彼女はそれを受け入れるのか。

 

 

「だから、考えた。一杯、一杯、考えたのよ。今の私に出来る事。今の私がするべき事。アンタの話を全部聞いて、その上で――私は、私がするべき事を見付けたの!」

 

 

 答えは否。出来ないからと、諦めるなんて選べない。祈って待ち続ける様な強さはなくて、だからと言って泣いて蹲って居たくもない。

 だから、出来る事を探した。そして彼女は、出来る事を見付け出した。それはきっと、ルーテシアだから出来る事。この今に、ルーテシアにしか出来ぬ事。だがしかし、彼女一人では出来ぬのだ。

 

 

「だけど、私一人じゃ出来ない。だから、アンタの協力が居るの!」

 

 

 御門顕明から聞いた、エリオ・モンディアルが行っていた事。彼の行動と周囲の情勢を考慮すれば、恐らく現状は最悪だろう。

 ルーテシアにしか出来ない事は確かにあるが、それを行う舞台に立つ事が彼女一人では出来ぬのだ。故に彼女は、死に行く女に助力を求める。今も“槍”に繋がる彼女になら、出来る事は確かにあるのだ。

 

 

「死ぬ前に、力を貸して! 折角此処まで残ったんでしょう! だったらせめて! 私の願いを叶えてから、満足して逝きなさいよ!!」

 

「……随分と、言ってくれるな。お前に全てを賭けろと、そう語るのか。ルーテシア」

 

 

 御門顕明の本来の身体は、この世の法則の外にある物だ。天狗道と言う世界で産まれた彼女の血肉は、この世界の民から見れば悍ましい形であろう。

 見ているだけで怖気がする女から目を逸らさず、近付くだけで吐き気がする悪臭を撒く身体に触れて離さない。それだけでも、この少女の覚悟は見事な物だと言える。

 

 その点では、御門顕明も認めている。だがしかし、それだけだ。少女自身が口にしていた通り、今のルーテシアには力がない。

 神の一瞥だけで死に至るであろう少女に、一体何が出来ると言うのか。呆れた様に、諦めた様に、それでも何処か縋る様に、顕明は掠れる声で問い掛けた。

 

 

「何の力もない。何の加護もない。何も持たない唯の人間と変わらぬ貴様に、一体何が出来ると言う?」

 

「私に出来る事。私にしか、出来ない事。それは――伝える事。言葉に紡いで音にする事。それしかないって、なら其処に賭けるのよ」

 

 

 返す答えを、ルーテシアは迷わない。己の弱さはもう知った。先の邂逅で、出来ぬ事を為そうとすれば失うのだと知ったのだ。

 だから、するべき事は唯の一つ。何の力もない彼女でも、出来るほんの小さな事。伝えた言葉が届いた相手を、確かに変えてくれると信じて全てを賭ける事。

 

 

「私はアイツに、こう伝えるの。■■■■■■■■■■■■って」

 

「……な、に?」

 

 

 少女の言葉に、顕明の思考は停止した。一体彼女は何を口にしたと言うのか。信じられない言葉に目を丸くする女に向かって、ルーテシアは更に想いを強く言葉にした。

 

 

「だから、伝えるのよ! ■■■■■■■、■■■■■■■■■■■■■■■って!!」

 

 

 それは、何も複雑な事ではなかった。いいや寧ろ、余りに単純な事だと言えるだろう。だがしかし、無意味かと言えば言葉を出せなくなってしまう。

 本来ならば、意味などあるまい。だがこの情勢で、この少女が語るのならば或いは。もしもそれが届いたのだとすればそれは――――間違いなく、世界を救う一手であった。

 

 

「それは、しかし、いや、だが――――そう、なのか。そんな、単純な事で」

 

「分からないわ。どうなるかなんて。アンタ程には頭が良くないから、私に未来は見通せない」

 

 

 多くを失い、多くを奪われた。そんな少女は残った全てを、託した賭けをしようとしている。その勝敗など、彼女には分からない。分が良いのか、悪いのかすらも判断できない。

 

 

「だけどね、思うの。アイツの事情を知って、あの子の心を知って――ならきっと、伝えられるのは私だけなんだろうってさ」

 

 

 それでも、もう迷わないと少女は決めた。失った者らの為にも、無駄にはしないと心に決めた。だから進もうとするルーテシアの姿に、困惑していた顕明は一瞬飲まれた。その輝きに、魅せられたのだ。

 

 

「だから、言葉にするの。音に出して、声に出して、いい加減にしなさいって。私が言わなきゃ、きっと誰も言えないでしょう。ならその為に、命を賭けるくらい良いじゃない。それがあの子の未来に繋がるんだって、私はそう感じたんだもん」

 

「……そう、か。ああ、そうか。漸く、見えた。これが、私が生きて残った理由か」

 

 

 あの日と同じく、何時だって彼女を魅せて来たのは人間だった。特別な才能なんてない。異常な力なんてない。唯何処にでも居る、どうしようもない程に無力な人間達。

 何時だって、そんな彼らが迷いの霧を払ってくれる。誰よりも無力な筈なのに、きっと誰よりも確かな結果を魅せるのだろう。そんな風に、信じられる人間が此処にも居たのだ。

 

 

「良いだろう。ルーテシア・グランガイツ。その賭けに乗ってやる。お前に私の、残る全てを託すとしよう!」

 

 

 最早腕も足もなく、這って進む事すら出来ない残骸一つ。役に立つと言うのなら、最後の最後まで使い倒されてやるとしよう。

 少女の稚拙な賭け事は、全てを賭すに十分過ぎる物でもあった。これが己の生きた理由と、死に行く女は笑いながらに定めていた。

 

 

「それこそが未来に続く、希望の光であると私は信じた! 信じたいのではない。信じさせて欲しいのでもない。私は唯、そう信じた!!」

 

「芝居がかった言い草ね。もっと普通に言えないの? 御門顕明」

 

「悪いが、素直になるには長く生き過ぎたのだ。……それと、竜胆だ」

 

「?」

 

「久我竜胆鈴鹿。これが私の本当の名だ。これからは、そう呼べ」

 

「ふーん。良く分からないけど、そうするわ。顕明って名前より、ずっと綺麗な気がするし」

 

 

 動けぬ死骸を背に負って、少女はゆっくり歩き出す。走り出す事は出来ない。駆ければその振動だけで、背中の女が崩れてしまう。

 だから急ぐ心を落ち着かせ、一歩ずつ地を踏みしめて歩き出す。理想を語れば事態が悪化する前に辿り着く事だが、恐らく間に合わないと言う確信があった。

 

 一人で駆けても、何処に居るかも分からぬのだ。だから彼の訪れるであろう場所を目指して、其処で起こるであろう二つの神威の衝突に足を踏み込もう。

 黄金の領域へ、踏み込む為の竜胆だ。其処に入り込んだら最後、ルーテシアは確実に死ぬだろう。神格域の衝突を間近にして、生きていられるだけの力が少女にはない。

 

 だから、これは死地への一歩だ。無力な女と死に損ないは、其処で必ず終わるのだ。その代わり、確かな結果を残して逝こう。

 

 

「では、行くか。急がねば、持たないからな」

 

「ええ、そうね。ここで時間切れなんて、そんな終わりは最悪だもん」

 

 

 もしも此処で目を閉ざし、震えて過ごせば生きていられるのかもしれない。いいや、確実に見過ごされて残れるだろう。世界が破滅する日まで、ルーテシアは生きていられる。

 だが代わりに、世界の未来は閉ざされる。多くの命が失われる。そして何より、それでは最愛の妹が幸せになれないのだ。ならばどうして、己だけが長く生きられる未来など求めるものか。

 

 これは少女の戦いだ。己の意志で未来を変える。無力な少女の戦いなのだ。命を賭して掴む未来は、きっと曙の光に満ちた物だと信じられる。

 

 

「行くわよ、竜胆。無力なガキと死に損ないが、世界を変えてやろうじゃない!」

 

 

 こうしてルーテシア・グランガイツと久我竜胆鈴鹿は、己にとって最期の戦場へと向かって行った。

 

 

 

 

 

3.

 最後の戦場に向かうのは、か弱き少女だけではない。いいや、誰にとってしてもこの日の戦場は最期のそれだ。

 何故ならば、今日こそが世界最後の日。現行世界が終わる日だからだ。そうとも、今日、この日に今の世界は終わりを迎える。

 

 最後の一日。誰よりも先んじて動き出したのは、やはりこの少年以外に居ないと言えよう。誰よりも速く駆け抜けていくのは彼の気質で性分だ。

 いいや、彼が今日この日に動いたから世界が終わってしまうのか。どちらが因で果であるか、求める事に意味などあるまい。明らかなのは唯の一つ、悪魔とは――――世界(カミ)を殺す者である。

 

 赤毛の少年が朝日の中を駆け抜ける。主都クラナガンの片隅に作った飛竜の墓を残した隠れ家から、愛しい人を捕えた敵が潜む北部自治領は山中へと。

 三日と言う時を眠り続けた彼の身体に、疲弊の色など残っていない。魔人の肉体を以ってすれば、音速などは軽々超える。彼我の距離など、在ってない様な物。

 

 踏み込んで、駆け出して、駆け抜ける。辿り着くまでに必要な時間など、瞬き数度で十二分。黒き影は殺意を纏って、聖王教会総本山の門前にまで到達していた。

 其処で止まる訳がない。何かを気遣う心算もない。強烈な魔力の接近に門を守護していたベルカの騎士達が反応するが、動きが遥かに遅過ぎる。魔刃を止めようには役者に不足が過ぎたのだ。

 

 興味もない。どうでも良い。良いからさっさと其処を通せ。膨大な魔力が意志を伴えば、それは最早暴力だ。呼吸も出来ない圧力の中、彼らは物理的に潰される。

 膝を折る騎士達の只中を、少年は足を止めずに通り過ぎる。一挙手一投足が伴う空気の震動だけで、門は砕かれ山肌は露出し教会の壁は崩れていく。多大な被害を齎しながら、彼はやはり気にも留めない。

 

 余裕がないのだ。好んだ小さな友を殺され、愛しい人を奪われた。端的に言って今の彼は、これまでない程に怒っている。切れているのだ。制御が効かない。立ち止まる筈がないのである。

 

 

「何事ですか!?」

 

 

 故に彼らは、唯々不幸だったと言えるのだろう。清貧であり、敬虔であり、日々精進を胸に努めていた真摯なる者達。他より優れていたからこそ、軽い圧には耐えられてしまった者らが居た。

 

 駆け付けたのは、聖王教会に置ける有力者の中では最も人品優れていると称えられている女性。そんな彼女を取り巻く騎士らは教会内でもトップのエリート。天魔の襲来でも生き延びた、一騎当千の兵達だ。

 

 義理の弟や、彼女の親友は此処には居ない。両者揃って、魔群に捕らえられている。だがそれでも突然起きた異常事態に、しかし彼女にはどうにか出来ると言う自信があった。

 侍らす者らは、並の魔導師ではないのだ。超一流と呼ぶに相応しい彼らならば、どんな相手と向かい合ったとしても僅かな時間稼ぎは出来る筈。そう彼女は、愚かにも考えていたのである。

 

 確かに、彼らは強い。オーバーSの魔導師の中でも、上から数えた方が早い程。歪みも持つ為、機動六課と比しても見劣りを感じさせない程だろう。だがしかしだからこそ、彼らは余りに不運であった。

 やって来たのは、無価値の悪魔。彼と比すれば騎士達など、取るに足りない存在だ。その存在はエリオにとって、()()()()()()()()()()程度。そして今の彼には、どうしようもなく余裕がない。そう。加減をする余裕など、今の彼にはなかったのだ。

 

 

「この身に涙などなく、この魂に愛などない。彼我の溝は絶望なれば、絶死をもって告げるまで――」

 

来たれ獣、(SAMECH・VAU・)我が爪牙よ(RESCH・TAU)

 

 

 エリオが明確な殺意を向けたその瞬間、誰も彼もが弾けて飛んだ。内なる悪魔が嗤う中、惨劇が周囲を血と臓物の色へと塗り替える。

 ゴルゴダの磔刑。殺意を以って睨んだだけで、彼の敵は死に絶える。殺さず退かすのは少々手間が掛かる事だが、殺して良いなら秒で済む。その程度の実力を持ってしまっていたからこそ、彼らは一人残らず殺された。

 

 側近たちは一瞥で皆死んだ。肉片一つ残らぬ程に砕かれて、風に舞って消えて行く。咄嗟に庇われ唯一人残った女も、既に虫の息だった。

 何が起きたかと駆け付けて、何が起きたかも分からぬ内に全身腐り初めている。立っている事すら最早出来ずに、崩れ落ちた彼女は濁った瞳で悪魔を見た。

 

 

「エリオ……モンディアル……」

 

「良いから死ね。さっさと死ね。そこから消えて道を開けろ。お前なんてどうでも良い」

 

 

 地面に落ちた腐乱臭のする残骸が、最期に見たのは靴の裏。ぐちゃりと嫌な音を立て、綺麗な金糸の髪が血と泥の色に染まっていった。

 踏み潰した脳漿がこびり付いた靴を拭う事すらせず、悪魔は変わらぬ速度で進んで行く。血と泥と臓物に染まった足跡を残しながら、彼は聖王教会を地下へ地下へと壊しながらに進んで行った。

 

 

〈はは、はははっ! もっと、もっとだ! さぁ、もっと殺そう! もっと壊そう! いっそこのまま、この地を全て焼いてしまうのも良いんじゃないか!?〉

 

「ふざけるな、ナハト。そのやり方では、キャロを巻き込む。急ぎながらも丁寧にだ。万に一つも、あの子に傷なんて付けちゃいけない」

 

〈そうは言うがなァ、エリオ。その割にはお前、随分と沢山殺している。奪う必要のない命も、多くあった筈だろうになァ〉

 

 

 既に殺意は抑えている。ゴルゴダの磔刑は使っていない。だから彼に危険がないかと問うたのならば、返る答えは否であろう。

 それなりの広さがあるとは言え、建物の中を超高速で移動しているのだ。移動が伴う衝撃波は、それだけで人死にが出る程に凶悪だった。

 

 偶然運悪く擦れ違ってしまった人々が、吹き飛ばされて破裂する。唯人の肉体ではその衝撃に耐えられず、中身を周囲にばら撒くのだ。

 進めば進む程に、積み重なる屍。砕けば砕く程に魂を取り込んで、肥大化するエリオの中にある奈落。悪魔は哄笑を堪えられず、愉しげに語り続けている。

 

 

〈それだけ殺したんだから、せめて歓喜くらいは抱いてやれよ。折角の虐殺なのに、カタルシスにも酔えないだなんて勿体無い。ナンセンスだよ、俺のエリオ〉

 

「……邪魔にならないなら、極論どうでも良い。死にたくなければ、さっさと消えれば良い。有象無象共が死んでいくのは、奴らの動きが遅いからだろう」

 

〈足を緩めない今のお前に、反応出来る奴なんて先ず居ないんだがなァ〉

 

「なら僕に待てと? ふざけるなよ。そんな余裕なんてない。進む道に転がる小石は、踏んで潰して進んで行く。僕の邪魔になる場所に居るなら、轍になって死ねば良いんだ」

 

 

 真摯な騎士も、敬虔な信者も、悪徳な貴族も、最高評議会の手駒達も、皆例外なく潰される。生死を分ける理由なんて唯の一つ、エリオの通り道に居たか否かと言うだけ。

 その行いに、思う所がないと言えば嘘になる。先に見せられた英雄達の戦いの様に、最善はもっと他にあるのかもしれない。だが駄目だ。今は駄目だ。そんな最善なんて、探している余裕がない。

 

 小さな友(フリード)が殺されたのだ。愛しい人(キャロ)が攫われたのだ。好んだ者らを傷付けられた怒りもあれば、僅かな遅れが彼女に何を齎すのかと言う恐怖もある。

 だから急がねばならない。だから他に意識を向ける余裕なんてない。山を崩して進めば崩落に巻き込んでしまうかもしれなくて、しかし急がねばならないが故に出来る妥協がこれなのだ。

 

 既にある道を、一刻も早く駆け抜ける。一分一秒とて無駄にはしたくないのだと、少年は悪魔の嗤いに顔を顰めながらも変わらぬ速度で進み続けている。

 壊しても問題なさそうな物は壊しながら、殺しても殺さなくても良い者を踏み潰しながら、怒りに染まった思考で怨敵となった飼い主達の下を目指していた。

 

 最早、聖王教会が立ち直る事など出来ぬであろう。それ程の傷を刻み付け、多くの想いを踏み躙り、そうしてエリオは辿り着く。其処には確かに、彼女が居た。

 

 

「キャロ!」

 

 

 日の光の届かない、薄暗い室内。突き立てられた巨大な十字架に、裸に剥かれて吊るされている愛しい人の名を叫ぶ。

 少女に意識はないが、呼吸はあった。強化された聴覚で確認し安堵したエリオは、傷だらけの姿にそれ以上の憤怒を抱いた。

 

 命に関わる傷はない。後遺症が残りそうな物もない。尊厳を穢されたと思われる様子もない。だがだからと言って、許せる筈もないだろう。

 肥大化するエリオ・モンディアルの敵意と殺意。物理的な圧を伴っていないのは、此処に救うべき人が居るから。そんな少年の意志に応えるかの様に、淡く三つの培養層が輝いた。

 

 

〈よくぞ、来た。魔刃エリオ・モンディアル〉

 

「管理局・最高評議会っ!!」

 

 

 青く輝く液体に満たされた、逆さに立つ試験管。浮かんだ脳髄から感じる意志は、間違いなく嘗てエリオを支配していた者らの物。

 管理局・最高評議会。キャロを連れ去り、フリードを殺した存在。彼らをそう認識するエリオにとって、正しく不倶戴天の仇。生きている事すら許せぬ程に、彼の殺意は高まっている。

 

 今直ぐにでも殺したい。けれど僅かに迷ってしまうのは、懸念があるから。彼らはエリオを知っている。ならば何か対策が、あって然るべきなのだ。

 己一人ならば、罠ごと踏み抜いてやると踏破しただろう。だが其処に少女の身命が関わるとすれば、考えなしで居られる筈もない。故に怒りを僅か堪えて、槍を構えて周囲を探った。

 

 

〈これより、お前に罰を下そう。我らは正しい。お前は罰されるべきなのだ。そうとも、そう言われたのだ。ならばそうに違いない〉

 

〈そうとも、我らは正しい。正しいから正しい。故に我らに抗うお前は間違っている。間違いは、正さねばならぬのだろう。そうとも、それだけが真実なのだ。何故ならば、我らは素晴らしいと言われたのだから〉

 

 

 三つの試験管が立つ広間の丁度中央辺りに、突き刺さって聳え立つ黄金色をした聖なる槍。妙だと感じるのは其処から放たれている威圧感程度の物で、他には全く何もない。

 違和感を覚える。何かが変だと感じている。それは支離滅裂とした発言をしている彼らについてか、それとも他の異なる何かか。胎動を続けている槍が齎す波動を前に、どうにも思考は纏まらなかった。

 

 

〈…………最早、我らは止まれぬ。ならば、そうとも、こうなる運命だったのだろう〉

 

 

 嘆く様に、諦めた様に、中央の試験管が何かを呟く。それさえも、今の彼にとってはどうでも良い事。

 底知れないのは脅威であるが、何時までもこうしてはいられない。何よりも優先すべきは、今も吊るされている少女を救う事なのだから。

 

 

「お前達が何を考えていようが、裏に何が潜んでいようが――――此処で、全て終わりだ!!」

 

 

 覚悟を決めて、前に踏み込む。一手で彼女の下へと辿り着く為、その右手を大きく伸ばして――――届く直前、世界が文字通り色を変えていた。

 

 

「な、に――?」

 

〈ほう。これはこれは〉

 

 

 その輝きは、黄金だった。黄金とは、完全性の証明なのだ。ならばそうとも、その人物は黄金と称する他にない者だろう。

 目を焼く程に輝かしい、天地全てが光に満ちた玉座の間。其処の中央、座して見ている男が居る。頬杖を付いて気怠けに、だが何処か愉しげに。微笑みながら、輝く瞳で見詰めていた。

 

 

〈喜べ、エリオ。最高評議会などと言う小物風情とは違う、とんでもないのが出て来たぞ〉

 

「……黄金の獣。ラインハルト・ハイドリヒ」

 

 

 ナハトは愉しげな嗤いを零し、エリオは僅かに息を呑む。黄金の名は知っていた。既に敗れて、残滓に過ぎぬと聞いていた。先に声を聞いた時には、取るに足りぬと心の中で見下していた。

 何だそれは、笑いも出ない冗談か。悪魔は背筋を過ぎる寒気を感じながら、嘗て抱いた己の思考や聞いた語りを酷評する。これで死に掛け、これで残滓に過ぎぬのだと。一体誰が、今の黄金を見て思うのだろうか。

 

 確かな事実として、黄金の獣は死に掛けだ。蘇ろうとしている今でも、まだ力の全てを取り戻してはいない。槍から外への干渉では、本来の力の数百分の一にも満たない力しか発揮出来ぬであろう。

 だがそれは、槍の外側。現実世界においての話だ。この内側においては違う。此処でなら、黄金の獣は全盛期に等しい力を発揮出来る。今の彼は嘗ての怒りの日において、()()()()()()()()()()()の力を有している。

 

 そうとも、以上だ。二柱の神が覇権を競い合った時でさえ、彼は全力ではなかった。宿主を殺す自滅因子と言う性質上、彼が全力を出せるのは宿主を相手にした時のみ。その全力の一端を、今の黄金はこの中でのみ引き出せるのだ。

 

 

「卿を見ていた。卿を見て来た」

 

 

 何時しか此処には、三つの脳も囚われた少女も居はしない。悪魔を宿した少年と、悪魔と呼ばれた男が二人。それ以外には誰も居ない。

 槍を掴んで睨み付ける少年を、慈愛を宿した瞳で見詰めて獣は微笑む。視線を向けられただけで重圧は酷く重くなり、エリオは僅か蹈鞴を踏んだ。

 

 

「その進んだ道程。抱えた懊悩。手にした救いに至るまで、私は全て余さず見ていた」

 

 

 それでも、僅かだ。一歩に満たぬ半歩程度で留まって、逆に一歩を進んで見せる。唯一つ、この先に大切な人が居るからと言うだけの理由で。

 これは男の矜持だ。これは子どもの意地なのだ。そんな少年の反応に、ラインハルトは目を細める。愉しげに嬉しげに、笑みを深めて両手を叩いた。

 

 

「先ずは、喝采を贈ろう。素晴らしい。見事であった。卿が踊る活劇に、私は魅せられたのだ。不満は僅かとは言えあるが、素直に心は躍ったとも。嗚呼、実に心地良い時間であった」

 

 

 今の黄金は、この少年を気に入っている。現行世界の誰よりも、彼好みの資質を有しているとさえ言えるだろう。だからこそ、彼には一つの不満があった。

 

 

「つまり概ね有意義な時間であった訳だが、しかし予想を超えるものではなかった。また見たいという既知ではあるが、何かが確かに欠けている。至高の未知と評するには、余りにそれが足りていない」

 

 

 故にこの今、此処へ招いたのだ。何故ならば、今でなければ歌劇が終わってしまうから。それが魔群の策謀に乗る形になったとしても、彼にとっては関係ない。

 より重要なのは、この少年を更に自分好みへ染める事。彼が描くであろう物語を、喝采と共に盛り上げたいのだ。共に歌劇を歌い踊ろう。男はそう微笑みながらに願っている。

 

 さぁ、何が足りないか。此処に指摘するとしよう。それさえ手にしたならばきっと、彼は素晴らしい演者となれる。この黄金を、引き継げるとも信じている。故に――

 

 

「卿には――愛が足りぬよ」

 

 

 それを教授してやろう。黄金の獣は慈愛の瞳で見詰めたまま、獰猛な笑みを浮かべて語った。

 

 

 

 

 




〇エリオ君のブラック勤務な実態。
・勤務初日 大切な少女が危機になっていたので、駆け付けて魔群を焼く。その後、日が暮れるまで無差別爆撃してアスト回収。深夜に最高評議会の前で弁解。
・連勤二日目 スカリエッティと死闘。帰還後、最高評議会から命を受け、暗躍開始。リストの中から適当な施設を探すと、内部に侵入し工作活動。
・連勤三日目 工作活動を終え、ヴィヴィオの手足をそれっぽく改造。施設を脱するとその足で古代遺産管理局に情報を流す。ここまで一切休みなし。
・連勤四日目 六課のヴィヴィオ回収を確認。次の標的として、竜胆さんに目を付けて襲撃するも、宿儺のインターセプト。激闘の果てに宿儺を撃破。
・連勤五日目 宿儺戦後、気絶していた所を無理矢理起こされる。そのまま空亡戦へ。妨害してきた六課を迎撃したらトーマ暴走からキャロに拒絶されるルート突入。もう無理ぽ、家に帰って寝る。
・六~八日目 エリオ君お休み中。ユーノ君はいつもの。
・九日目 どうやら世界最期の一日が始まる模様。トップバッターは神格係数90状態の獣殿(軍勢なし)。


……あれ、展開早くね? 執筆時間はともかく、作中時間はおかしい気がする。




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第十六話 紅蓮の後継 アリサ・バニングス

推奨BGM
1.修羅残影・黄金至高天(神咒神威神楽)
2.其の名べんぼう 地獄なり(相州戦神館學園 万仙陣)
3.Einherjar Rubedo(Dies irae)


1.

 黄金に輝く玉座の間。照り付ける眩しい光の中で、しかし光に見劣りしない程に輝く超越者が存在している。

 獅子の鬣が如き長い髪に、白き軍服の上から黒衣を纏う。慈愛を秘めた目で見下す黄金は、何より激しく輝いていた。

 

 その身は正しく神威であろう。並ぶ事など出来ぬと語るかの如く、目を焼く程に華々しい光である。

 そんな極光を前にして、彼はもう退かない。肌を焼く程の威圧から身を守るかの様に、黒き炎の翼を纏って身構えた。

 

 からからと乾く喉に、僅かな唾を飲み干し前を見る。怯懦は要らない。恐怖は不要だ。どれ程に敵が大きくとも退けぬ理由が確かにあるのだろうと、己自身に言い聞かせる。

 

 

「一体、何の心算だ。ラインハルト・ハイドリヒ」

 

 

 赤毛の少年は黄金の王を睨みつける。隠せぬ程の焦燥を抱いて、鋭い瞳で問い質す。愛が足らぬと嗤うこの上位者は、一体何故に己の道を阻むのかと。

 エリオの言葉が鋭くなっているのは、内に秘めた恐れ慄きの裏返しとでも言うべき物か。幾ら己に言い聞かせたとしても、恐怖の全ては拭い去れない。どれ程に不要と否定しようと、感情は揺れ動いてしまっている。

 

 

「言ったであろう。卿には愛が足りぬと」

 

 

 其れを未熟と詰る事なく、愛でる様な笑みを作る。少年の心の底など全て見通しているかの様に。いいや事実、黄金の瞳は全てを知っているのだろう。

 慈愛を浮かべた男が告げる言葉は簡潔だった。何を求めているかは既に、彼は言葉に語っていたのだ。ならばこれ以上に万言を尽くしても、然したる意味などありはしまいと。

 

 見下ろす獣の輝く瞳。向けられる度に感じる威圧は、まるで巨大な星の重力だ。思わず膝を付いてしまいそうな状況で、それでもエリオは鼻で嗤った。

 強がる様に、揺らがぬと示す様に、黄金の獣へ言葉を返す。お前に学ぶ事などないと、吐き捨てる様に口にしたのは否定の言葉だ。彼は愛を知っている。

 

 

「愛だと、馬鹿らしい。そんなモノ――僕はとうに知っている」

 

 

 愛。その感情は知っている。その想いを、既に持っていると思っていた。愛しいあの娘に向ける想いが、愛でなくて何だと言うのか。

 しかしそれは、結局の所違っていたのだ。先の一戦で気付かされた。無私には成れぬと、欲してしまう。潔癖な少年はこの感情を、愛情だなんて認められない。

 

 少年は潔癖症なのだ。理想に夢を抱いていると言っても良い。愛や希望と言う感情に焦がれるからこそ、それは須らく素晴らしい物でなくてはならない。

 そうとも、利己を主体としていた己の想いが愛であるのだと、誰より彼自身が認められない。故にエリオ・モンディアルの中に愛はない。胸の内から、生まれる情は愛じゃない。それは他でもない、エリオ自身が認めている。

 

 ならば知らぬと、いいや否。己が愛と誤認していた物は欲だった。だがだからと言って、それ以外の全てが嘘偽りだと感じている訳じゃない。

 

 

「これが愛だと感じていたけど、本当は唯の利己主義だった。……だけどきっと、僕が抱いた物は愛じゃなくても、僕が貰った物は愛だったんだ」

 

 

 差し出した手を取って、優しく笑ってくれた竜の巫女。触れ合う掌に頭を擦り付け、嬉しそうにしていた銀の飛竜。

 一つは己が壊してしまい、一つはもう動かなくなってしまった。けれど、今に無くとも過去に在った事実だけは変わらない。

 

 手を繋いだのだ。その腕に抱き締められたのだ。共に笑って過ごした時間で、貰った想いはもう返せぬ程。きっとそれは、愛と呼ぶべき物なのだろう。

 故に下らないと一笑に伏す。既に十分過ぎる程、己は愛を貰っていたのだ。己自身は生み出せずとも、受け止めた物が山程ある。足りぬと今更言われた所で、的外れだと返す以外に言葉がなかった。

 

 

「然り。確かに彼らが卿へと抱いた想いは、愛と呼ぶべきモノであろう。可愛らしい稚児の如きそれではあるが、否定など誰にも出来ぬしさせはしない」

 

 

 彼らから伝えられた熱量を、誰にも否定などさせない。己は愛せていなくとも、己は愛されていたのだ。少年は確信と共に、そう語る。

 槍を強く握り締めた少年の言葉から感じる熱量に、ラインハルトは更に笑みを深めて返した。彼もまた、否定などはしない。稚拙であっても、其れは確かに愛なのだから。

 

 

「ならば僕は十分だ。其処にあると、知る事が出来た。ならばそれで十二分。もう二度と、永劫得られぬ物だとしても、僕はこれで満足している。それ以上なんて必要ない」

 

「……だがしかし、それでは足りぬと言っている。卿には、愛が足りていない」

 

 

 エリオの言葉に頷いて、されど獣は否と返す。確かに彼は愛を知ってはいる。だがしかし、その総量が足りぬのだ。

 たった一人にだけ向けられる珠玉の想い。それも確かに至高の愛が一つであろう。黄金の獣は、それを認めている。何せ嘗ての彼を打ち破った想いこそ、一人の女を愛した男の情であったのだから。

 

 もしもエリオ・モンディアルが、真実その境地に達していたのならば彼は動きはしなかった。慈愛の瞳で見守るだけで、介入しようとは思わなかった筈であろう。

 だが事実として、今にこうして立ち塞がっている理由は一つ。少年の抱いたそれはまだ幼い恋慕の兆しに過ぎず、内から溢れる愛にはまるで届かぬからだ。そうとも、彼には愛が足りぬのだ。

 

 

「私はな、素直に惜しいと感じている。その器。内包した魂はどれ程か。卿の資質。正しく覇者と呼べる程。故にこその欠落を、私は見過ごしてはおけぬのだよ」

 

 

 汚泥の底で作られた、見知らぬ誰かの複製品。父母と己のオリジナルを殺害させられ、多くの悲劇を作り上げる事を強要された。

 果てに一人の人間として生まれ直した彼は今でも、内に奈落と言う地獄を抱えている。其処に潜むのは悪魔だけではなく、彼が奪い殺し従えて来た二十万を超える犠牲者達。

 

 少年を恨み、妬み、呪う死人の怨念達。それすらも今のエリオは、己の意志で制している。死人と言う名の民を力と意志で従えるその姿は、正しく覇者のそれであろう。

 誰に教わるでもなく、自然とそれを成している。故に資質の面において、少年こそが当世当代至大至高の器であろう。だがしかし、彼の支配には愛がないのだ。彼を愛する者は居たけれど、彼は結局誰も愛せていないから。

 

 たった一人の少女に向ける情すらも、まだ愛の萌芽でしかない。ならば当然、それ以外に向ける情など比較にすらもなりはしまい。

 或いはあり得た世界線と異なって、今の彼にとって犠牲者達など塵芥にしかなっていない。彼の民は奴隷ですらなく、彼にとって彼の国とは塵屑の集まりでしかない。

 

 民も国も持たぬ王など、如何に才気に溢れていようが王ではない。覇者となる以前の話、先ず前提として持つべきモノが不足している。故に、彼は覇王足り得ない。

 

 

「数と質が揃っている。後は愛を満たせれば、卿は正しく覇王と成れる」

 

 

 逆説、それだけ満たせば覇王と成れる。今この瞬間にでも、彼が民を愛する事が出来たのなら、並ぶ者なき王と成ろう。

 未だ求道でしかない器。覇道の兆しは芽生えていて、真実彼は世界を救えるかも知れない存在となるのだろう。黄金の獣は確信している。

 

 だがしかし、それを待つだけの余裕がこの世界には存在しない。心が未熟な彼は、力だけは既に神域に至っている。彼が動けばそれだけで、否応なしに世界全てが巻き込まれて変わるであろう。

 未熟な萌芽が花開くまでの時間がないのだ。此処で黄金が阻まなければ、少年は真実世界を滅ぼす悪魔と成って終わってしまう。それを彼は、惜しいと思った。だからこそ、この領域へと招聘したのだ。

 

 

「取るに足りぬ芥と語るな。無価値と蔑む事なく、全霊で向き合い愛してみせろ。己自身を愛する様に、愛する者を抱くが良い」

 

 

 彼は愛を知るべきだ。己の内から溢れ出る、想いの強さを知るべきだ。そうでなければ世界(カミ)を殺す悪魔にしか成れぬままで終わってしまう。

 だから愛を知るべきなのだ。そして得た愛を以って、全てを抱いて魅せれば良い。神と神を殺せる者に差などないのだから、愛を得た彼は必ずや新世界を開闢させてみせるだろう。

 

 誰も教えられぬというなら、この黄金が教授しよう。誰にも止められぬというのなら、この黄金が止めてみせよう。何故ならば――――黄金の獣は、あらゆる全てを愛しているから。

 

 

「そうとも、先ずは己を愛すのだ。許されぬと己を蔑むのはもう止めよ。己自身すら愛せぬ者に、一体どうして誰かを愛せてやれると言えるのだ」

 

 

 彼は愛を知るべきだ。罪深いと己の身を嘆きながら憎み続けるのではなく、もう許してやるべきなのだ。己を愛せぬ人間に、誰かを愛する事など出来やしない。

 必要なのは自己愛だ。重ねた悪事や積み上げた屍を指差されたとして、だからどうしたと笑って返せる様な図太さを得るべきだ。そうすれば、彼は必ずや新世界を開闢させてみせるだろう。

 

 そうでなければ、世界が死ぬ。これまでの全てが無価値となって、一つ余さず燃え去り消える。そんな幕引き、余りに無情と言う物だろう。黄金は決して、そんな終わりを望まない。何故ならば、彼はあらゆる全てを愛しているから。

 

 

「認めるが良い。許してやると良い。愛を以って、万象全てを抱き締めるのだ。そうすれば――――それだけで、卿は覇者と成れるであろう」

 

 

 黄金の君は、慈愛の笑みで言葉を告げる。エリオは覇道神に成れるのだと、教える為に此処に居る。……だがそんな事、彼の都合でしかない。

 

 

「……だから、どうした? 僕は今、忙しい」

 

 

 大切な人が居た。誰よりも、特別と言うべき人が居た。返せぬ程の愛をくれた、小さな一人の少女が居た。

 彼女は今、囚われている。悪辣なる者らの手に落ちて、虜囚の身に甘んじている。この今ですら、苦しみ嘆いているかも知れぬのだ。

 

 キャロ・グランガイツを取り戻さんと、エリオ・モンディアルは挑んでいた。その手はほんの間近まで、指先が触れる程にまで近付いていた。

 だと言うのに、横からこうして阻まれる。それだけでも腹立たしいというのに、挙句己を捕らえた黄金は愛が足りぬと訳の分からぬ事をほざくのだ。これでどうして、少年が冷静で居られるものか。

 

 

「覇王? 知った事か、どうでも良い。自己愛? 下らないな、笑い話にもなりはしない。そんなモノに、かかずらっている時間が惜しい」

 

 

 既にエリオは怒っている。目の前に居るのが取るに足らない阿呆なら、万度は殺している程に怒り狂い憎悪している。

 辛うじて踏み止まっているのは、眼前に立つ黄金の強大さが故。覇道の神と戦うリスクと少女の安全を秤に掛けて、如何にか耐えているだけだった。

 

 そんな我慢も、最早限界に近い。己の最愛を想えばこそ、恐怖などでは止まり続ける訳もない。

 そしてそんな状況で、彼に言葉が届く筈もない。ならばこの決裂は、至極当然の帰結であったと言えるのだろう。

 

 

「だから、とっとと僕を解放しろ。さもなくば――」

 

「さもなくば?」

 

「僕を捕えたこの槍ごと、纏めて無価値に貶めるぞ。過去の残骸」

 

 

 これ以上、下らない戯言に付き合わせる心算ならば敵と認める。敵対者なら、断じて一人も残しはしない。

 全て無価値に染め上げよう。悪魔の炎を以ってして、この黄金を焼き尽そう。出来る出来ないは関係ない。断じて、為すのだ。暗い瞳で語るエリオに、ラインハルトは笑みを深めた。

 

 

「フッ、フフフッ! フハハッ! ハハハハハハハハハハハハァァァァァァァッ!!」

 

「…………」

 

「今の卿が、私を殺すと? それが出来ると、卿はそう言うのか?」

 

「無論。お前が邪魔を続けるならば是非もない。とっとと滅びろ、壊れた黄金」

 

 

 深めた笑みから、呵々大笑。笑い転げねば我慢が出来ぬと、満面の笑みで問い掛ける黄金の獣。

 ラインハルトを前にして、エリオは高まる威圧を跳ね除けながら睨み付ける。少女の身を懸念し焦燥し恐怖している。それでも、やるべき事は変わらない。

 

 如何に強大とは言え、所詮は過去の残照だ。そんな獣に一騎打ちで敗れるならば、己はその程度でしかなかったという事。

 そんな訳がない。そんな筈がない。その程度で止まれる理由なんて一つもなくて、その程度で許されて良い理由もない。ならばこの戦場に、己の敗北などはない。

 

 そう自身に語り掛けながら、魔槍を構えるエリオの姿。如何なる実力差も、覆してみせると吠える雄々しい少年。悪魔の姿を愛でる様に、楽しげな表情で獣は語った。

 

 

「良い。その啖呵、実に心地良い。故にだ、少年――向かって来るが良い。私が卿に、愛を手解きしてやろう」

 

 

 最早爪も牙もない、嘗ての獣。されど再誕に近付くその身は、確かに強大なる覇道を宿す。今の彼は紛れもなく、全盛期の黄金だ。

 そして此処は槍の内側。故に此処には、嘗ての残照が色濃く残っている。なればこそ、この場所でならば失われた総軍すらも牙を剥く。

 

 両手を広げて迎え入れる様に、獣は椅子から立ち上がる。そんな獣の背後に浮かぶは、嘗て彼に従った戦奴達。その残照が集っていく。

 座に焼き付いた影と同じく、槍に焼き付いた獣の軍勢。聖槍十三騎士団黒円卓。その座に集い、獣に従った十一の影が此処に姿を晒していた。

 

 赤い騎士が居る。白い騎士が居る。黒い騎士が居る。鍍金の神父が、腐った死体が、太陽の巫女が、沼地の魔女が、白貌の吸血鬼が――獣の配下の全てが此処に居る。

 

 

「……言っただろう。教えて貰うまでもなく、僕はもう知っている」

 

 

 修羅残影。されどそれは残滓であっても、この場所でならば本物以上だ。嘗て座を競い合った頃よりも、修羅道至高天は尚強い。

 最盛期というべき力を発する黄金の獣を前にして、エリオは震え戦きながらも心を抑える。戦うぞ。勝ち抜くぞ。唯一人の少女を救う為に。

 

 助け出したからと言って、許されるだなんて思っていない。今も彼の心には、恐怖と拒絶に満ちたキャロの表情が焼き付いている。

 だからきっと助け出しても、近寄らないでと拒絶されるだけだろう。それを思えば心は重く痛むけど、だからと言って救わないなんて道はない。

 

 だって、もう貰っている。報酬は先払いで済んでいる。抱き締められた愛と言う名の熱情を、もう返せない程に受け止めていた。

 だから、これ以上なんて求めない。だから、果てに何も残らなくても構わない。過ぎ去った輝かしい日々に報いる為に、エリオは大地を駆けるのだ。

 

 

「僕の全ては、あの子の為にだ。だから、さっさと消えろッ! 黄金の獣ッッッ!!」

 

 

 握った魔槍と、内に宿した無価値の悪魔。無理矢理に従えている二十万の魂達。そしてたった一人を想う欲しか持たない小さな少年。

 握った聖槍と、反天使すらも超える輝き。敬愛し妄信し全てを捧げる軍勢の数は、影とは言えど数百万。その全てを平等に愛する黄金の獣。

 

 互いに向き合い、敵手に武器を叩き込む。激突は一瞬、一合とて持たずに片方だけが圧し負ける。それも当然、量も質も劣っているのだ。

 僅かな立ち合いで、既に傷が付けられ流血している。勝ちの目なんて浮かばない。それ程に両者は隔絶していて、だがそんな事は敗北理由に成りはしない。必ず勝つのだと心に定め、エリオは腐炎を纏った魔槍を振るい続けた。

 

 

 

 黄金継承戦。嘗ての獣は己の全てを受け継ぐに足る器を磨き上げる為、罪悪の王は愛しい少女の下へと駆け付ける為だけに――――余りに激しい戦の幕は、こうして開いたのであった。

 

 

 

 

 

2.

 一体誰が、この日全てが終わると気付いていたか。誰にも予測すら出来ていなかった筈だろう。この空を染め上げる異常を見聞きする迄は。

 誰かが言った。あれは何だ、と。誰もが指差し示した先に、広がり続ける巨大な暗雲。零したインクが白地のクロスを染め上げる様に、青い空を黒い雲が埋めていく。

 

 いいや、それは雲じゃない。大気中の水分だけでは、その異音と異臭は説明出来ない。この黒いモノは生きているのだ。

 其れは六節六羽を持つ眷属。其れは人の悪意より生まれ落ち、人の死肉に集るモノ。腐った汚物を煮込んだ様な臭気を纏って、現れたのは羽虫であった。

 

 蠢く節足を持つモノは、無尽蔵に増え続ける。海の砂よりも多く、天の星よりも多く、数え切れない程の量は即ち無限だ。

 増えて、増えて、増え続けて空を埋め尽くす。溢れ出した途方もない黒は、大地に生きる全てを喰らい付くさんと牙を剥く。

 

 質は問わない。何でも良い。大型の魔法生物から掌サイズの小動物まで、逃げ惑う命の全てに虫は喰らい付く。生きている事さえどうでも良いのだ。

 動物だけでなく、樹木や土や岩石と言った自然物。建物や防衛兵器と言った人工物さえ、区別なしに喰らい尽くす。ミッドで暮らす人間達も、其処には当然含まれていた。

 

 量は多ければ、多い程に良い。人々を守る為に武器を手に取り挑む魔導師も、逃げ惑う能力すら持たない病人老人幼子達も、一切の区別なく喰らっていく。

 故に起きる現象とは惨劇だ。夜が明け直ぐに増え始めた虫により、ミッドチルダ全土は未曽有の被害を受けている。これが世界の終わりだと、誰もが喰われながらに理解し始めていたのであった。

 

 

「うふふ。より取り見取り。さぁ、もっと喰らいなさい。餌が尽きれば、互いに貪り合って無くなるまで――――旧い世界を、惨劇で満たしてあげましょう」

 

 

 クラナガンの空の上、災禍の中心は其処で嗤う。夜の闇を思わせる黒薔薇のドレスを身に纏った美しい女が、妖艶な笑みを浮かべて其処に居る。

 醜悪な虫の群れを寝椅子代わりに、凄惨な光景を見下ろしながら淫靡に嗤う。容姿ばかりは妖艶美麗な物であろうが、中身は蔓延る蟲と然して変わりもしない。

 

 

「素敵な悲鳴。素敵な表情。断末魔の絶望は、とても甘美で美味しいわ。…………嗚呼、けど足りない。そう、まだ足りないの。どうして、こんなにもお腹が空いているのかしら?」

 

 

 足りない。足りない。足りていない。はだけた胸元から腕を差し込み、膨らみ始めた胎を怪しい手付きで撫で回しながら熱い吐息を小さく漏らす。私は今、飢えているのだと。

 ああ、欲しい。もっと欲しい。食べても食べても満ちる事がない程、心の隙間は酷く大きい。何かが足りない。何もが足りない。だから生きとし生けるお前達。どうかお願い、私の飢えを満たして下さい。

 

 もう彼女には分からない。何を望んでいたのだろうか。何を求めていたのであろうか。私は一体誰だったのか。クアットロ=ベルゼバブなのか、それとも月村すずかであるのか。

 何も分からぬこの今に、出せる答えは一つだけ。我は飢えているのだ。満たされたいと願っている。ならばそうとも、全てを喰らってしまえば良い。そうすればきっと、この胸の穴は塞がってくれると思うから。

 

 

「だから一杯食べましょう。だから一杯食べましょう。豚を食べよう。牛を食べよう。鳥を食べよう。魚を食べよう。人を食べよう。悪魔を食べよう。神様だって喰らってやろう。……その為にこそ、今日この今が。最早私を止められる者など、此処には誰一人として居はしない!」

 

 

 怪物には自覚があった。核と成った女には、才と言う物が欠けているのだと。クアットロも月村すずかも、どちらも器としては低劣なのだ。

 四番目の戦闘機人は、実の父から失敗作だと烙印を押されたモノ。夜に連なる末の娘は、長い年月を無為に過ごした。吸血鬼と言う強大な魂を宿しながら、真面に役立てる事が出来なかった女である。

 

 どちらも共に、優秀とは言えないだろう。唯人よりも優れていようが、神域に至らんとするには不足が過ぎる。戦士としては及第点と言う代物二つで、流れ出そうと言うのが間違いだ。

 だがしかし、女が求めた境地は其処だ。誰にも傷付けられる事はなく、誰もを恐れる必要もなく、ならば誰よりも強く大きくなるしか道はないだろう。質の低さを補う為にも、兎に角量が必要なのだ。

 

 そうともこの怪物は、世界全てを喰らい尽くす心算である。そしてこの今この場所で、それを止められる者など居ない。そう断言出来るだけの力を、既に魔群は有していた。

 

 

「エリオ君は無事捕まった。天魔・大獄は動かない。他の者らじゃ天魔であっても、此処では私を止められない。安全な内に他の全てを食らい尽くせば――――これって私の大勝利?」

 

 

 既に魔群の力は、夜都賀波岐を正面から喰い荒せる程に高まっている。彼らの本拠である穢土に乗り込んで、悪路や母禮と五分以上に渡り合う事も可能だろう。

 無論、負ける可能性がある以上、まだ乗り込もうと言う心算はない。確実に勝てる様になるまで積み上げようとするのは、クアットロであった頃の名残とも言えた。

 

 故に彼女は待ったのだ。エリオが動き出す時を、そして黄金と対峙する時を――今の己を殺せる者らを喰い合わせ、果てに生き延びた方を取り込む為に。

 己は唯、彼らが弱わるのを待てば良い。正確を期す為に、己を肥え太らせながら。そうともミッドチルダと言う揺り籠の中身を飲み干して、咀嚼しながら待てば良い。故にこそ今、魔群は動き出したのだ。

 

 

「あらあらまあまあどうしましょ。一体誰から食べようかしら。不撓不屈に万象掌握。神の卵とその連れ合いに、他にも色々ありそうだよね。皆とっても魅力的、だから迷ってしまいそう」

 

「だったら、私が相手よ!!」

 

「あら――?」

 

 

 女の声が届くと共に、紅蓮の炎が飛来する。魔群に向かった炎はしかし、その身に届く事がない。

 揺らめく闇に炎は飲まれて、そして跳ね返される。戻って来た弾丸を前に使い手は、同じ炎をぶつけて相殺した。

 

 

「ち――っ」

 

「あら、あら、あらら、あららららーーーー? アーリサちゃーんではなーいでーすかー」

 

 

 座して見下ろす魔群の正面に、立ち塞がるのは金糸の女。赤いバリアジャケットを纏った彼女の名は、アリサ・バニングス。

 先の敗北から、彼女はたった一人で追い続けていた。故にこうして魔群が大々的に動き出せば、当然彼女も姿を現し阻むのだ。

 

 

「なーにー? そんなに私と逢いたかったのー?」

 

「……そうね。逢いたかったわ。本当に、気が狂いそうなくらいに逢いたかったわよ!」

 

 

 魔群が起こした惨禍。苦しむ人々の姿を横目に、アリサは苦い顔をする。歯噛みし想うは己の弱さ。

 追い掛け続けていたのに、こうして後手に回っていたのは追い付く事が出来なかったからに他ならない。

 

 

「あははー。愛されてるなー、私って。なら一発ヤっとく? 入れる方と入れられる方ならどちらがお好き? 抱き締めて泥々にぃ、溶かすのも溶かされるのも素敵よねぇん」

 

「入れられんのも、溶かされんのもどっちも御免よ! アンタに抱かれてやる程に、身持ちの安い女じゃない!」

 

 

 今も虫は増え続けている。今も被害は増え続けている。管理局も対応に動いているが、余りに広がり続ける被害に対処し切れていない。

 住民の避難と保護だけでも、手に余る程の事態である。元凶に辿り着けたのは、敵を討つ事だけを意識し続けていたアリサのみ。増援なんて期待出来ぬし、余裕なんて端からなかった。

 

 

「だから、アンタが焼かれて終わりなさい!」

 

「うーん。それもありかな? 愛に焼かれて終わるのも、素敵な末路の一つだよね。……けどさ、ぶっちゃけ出来るの? アリサちゃん」

 

 

 その掌に炎を灯して、弾丸として討ち放つアリサ。対して魔群は、寝椅子に背を預けたまま動かない。彼女には、動く必要すらもない。

 魔弾の射手は、夜の闇を越えられない。盟主が宿していた原初の闇を食らった時点で、魔群は無敵に等しい護りを得た。世界の内側に留まっている力では、彼女の纏う闇を貫けはしないのだ。

 

 

「無様に負けてボロ泣きしたのは知ってるよ? ついこの間の事だよね。あれから何か、秘策の一つも見付かったのかなぁ。正直、あんまし変わった様には見えないんだけど」

 

 

 無駄と分かっていないのか、無数の炎を撃ち出し続けるアリサを嗤う。お前は何か変わったのかと、先の一戦を揶揄して魔群は見下している。

 実力を磨いたのか、それとも秘策を持って来たのか。そうでなければ、そも競う必要すらもない。アリサは魔群に何も出来ず、無様な姿を晒したのだから。

 

 とは言え、何か変わったかと思えば、何が変わったのかも分からない。それも当然、あの敗北から三日しか経っていないのだ。真面な方法で、今の魔群に迫る程の実力などは得られない。

 

 

「あ、そっか! きっと私が強く成り過ぎちゃった所為だよね! あれから盟主様をモグモグしてぇ、他にも良さそうな子は全部摘まみ食いしてぇ、色々手を尽くしてみたのよねぇ」

 

 

 対して魔群は、先の夜より更に力を増している。彼女の成長方法は、真っ当な努力や進歩とはまるで異なる外法であるのだ。

 強い者を食べる。弱い者を食べる。既に居る者らを探して捕食し、必要ならば新たに作り上げたモノを食べる。唯喰らい取り込むだけ。故に三日と言う僅かな時間で、この怪物は何処までも成長してしまう。

 

 

「お陰で、この間よりも私は強く成っちゃった。だからごめんねぇ、アリサちゃんがどんなに努力してももう良く分かんないんだぁ。私から見たらぁ、今のアリサちゃんも前のアリサちゃんも、どっちも等しく塵だもん!」

 

 

 元より、アリサと魔群の実力差は天と地だ。桁違いと言う言葉さえ、不足が過ぎる次元違い。アリサの力を二桁少々の数字で表せば、魔群は十桁や二十桁でも足りぬ程だろう。

 真面にやって、勝てる筈がない。何か手札や伏せ札があれば覆せるかと言えば、それ程微小な差異でもない。断絶だ。どうしようもない断絶だけが、両者の間に広がっている。今の魔群にしてみれば、アリサなど生まれたばかりの赤子に等しい力しか持たないのである。

 

 赤ん坊が指を掴んで来て、圧し折られるかもと恐怖を抱く者など居やしない。駄々を捏ねられても精々鬱陶しいと感じる程度でしかないのだから、脅威など感じる筈もない。

 

 

「……そうね。多少は変わった自覚もあるけど、アンタの変化と比べたら微々たる物よ。勝利の可能性も零ではないけど、はっきり言って極小でしょうね」

 

 

 それを、先ずは認めよう。周囲を蔓延る蟲に炎を浴びせて道を切り開きながら、アリサ・バニングスは己の圧倒的な不利を確かに認める。

 この短期間で、実力は出来るだけ磨いた。リミッターは外しているし、覚悟は既に決まっている。それでも勝負にすらならない差があると、それが確かな現実だ。

 

 

「ならならならならどうしてかしらぁ? なーにを期待してるのかにゃー?」

 

「進歩と、勝利を」

 

「はいー?」

 

「勝てるから戦うんじゃない。戦わないといけないから挑む。そして、勝たなくてはならないから、勝つのよ」

 

 

 だからアリサは、先ずそれを受け入れる。泣いても喚いても変わらぬ違いを前にして、ならば怯える事など時間の無駄に他ならない。

 戦わねばならぬ理由があるから、こうして炎の弾丸を撃ち続ける。無駄だと分かっていても、手にした燃え盛る剣を振るい続けて前に行くのだ。

 

 

「そう在れると信じて、前に行く。私さ、不器用なのよ。……それしか出来ないから、それを為す。唯それだけの事でしかない!」

 

 

 無策特攻。アリサの行為を説明すれば、漢字四字で済む事だ。彼女なりの勝機は確かに一つだけ存在しているが、この断絶を覆す程の物ではない。

 ならば諦めるのか、いいや否。諦められない。この魔群は、己で倒さねばならない。今は亡き、友の為にも。ならば――勝てないだなんて、道理は要らない。

 

 戦えば良い。負けるのだとしても、勝利を信じて挑めば良い。結局これは、唯の精神論である。

 

 

「うーん。結局唯の根性論かー。ま、確かにそういうのが怖い所でもあるんだけどさー。なので取り敢えず、詰めていきましょうか」

 

 

 嘗てのクアットロならそれを、馬鹿にし嘲笑ったのだろう。そんな事は不可能だと、しかし今の彼女は僅かに違う。

 小心にも思える程の臆病さと愚劣なまでの貪欲さが四番目の名残なら、他者の可能性を認める精神性と必要な時には賭けに出れる豪胆さは誰が物か。

 

 得体が知れない、一端退こう。その小心を否定する。奴には勝ち目がない、諸共に喰らい尽くそう。その慢心を否定する。

 

 勝ち目がなくとも、ああいう覚悟を決めた輩は時に不条理を引き起こす。魂が力を持つこの世界においては、それは大前提となる要素の一つ。油断して良い筈がない。

 きっと彼女は何かを起こす。だから得体が知れないからと、逃げるのはしかし論外だ。今こそ賭け時、此処は危険を許容してでも勝負に出る時だ。故にこそ、レートを更に引き上げよう。賭けをするなら、勝った時には総取りと成らねば割に合わない。

 

 

「起きなさい。アストちゃん」

 

 

 はだけた素肌を晒しながら、両手を広げて配下に命じる。瞬間、クラナガンの中央にある六課隊舎から光が上がった。

 大地から飛び立つ様に、何もかもを滅ぼす光が天を焼く。轟音と共に火の手を上げて、機動六課の隊舎が崩れ落ちる。多くの命が、この瞬間に散華した。

 

 

「新たに廃神を作って取り込んだ。その中には、あのゴミが宿していた反天使(ルシファー)も居る。魔鏡への命令権も、まぁ複製は簡単よねぇ」

 

 

 聖王の内に存在していた魔鏡と言う精神は、今もまだ残っているのだ。故にスカリエッティが仕込んでいた、いざという時の為の罠の一つが此処で活きる。

 彼が宿していた廃神と同じ物を作り上げ、魔群はそれを取り込んだのだ。そうして己を彼と誤認させ、言葉一つで魔鏡を操り暴走させた。故にこそ、新たな惨劇は此処に始まる。

 

 人形の様な目をして、破壊をばら撒く輝く幼子。高町ヴィヴィオと呼ばれた少女が、抱える首の名はアイナ・トライトン。

 己を護り慈しんでいた寮母を真っ先にその手に掛けた幼子は、涙を流しながらに暴れ出す。何故己が悲しんでいるのかすら、人形には分からなかった。

 

 

「……あれ? おっかしぃなぁ。なーんか変だなぁ。何だっけぇ。なーんか違和感。アリサちゃーん、何だか分かるー?」

 

「疾――っ!」

 

「おわっと、ひっどーい。質問にも答えてくれなければ、基地の壊滅にも反応しないだなんてー。アリサちゃんってば、きっちくー」

 

 

 分からないのは、人形だけでなく魔群も同じく。この女は既にして、限界を迎え破裂しそうになっている。余りにも、彼女は食べ過ぎたのだ。

 それに気付く事すらなく、変調を起こしている黒夜のドレス。彼女に向かって炎の剣を振り下ろすアリサには、一切の迷いも戸惑いも存在していない。後方など、彼女は見向きもしていない。

 

 端から余裕なんてないのだ。一念だけを鬼神にも通じさせると信じて、戦い続けるだけが精々。弾丸を放ちながら近付いて、斬って捨てる以外は全て不要と決めている。

 故に背後で災禍が悪化しようとも、アリサが足踏みする事はない。後方なんて、理想を信じた仲間達に託せば良い。現実しか見れていない癖に無謀を試みる愚か者は、唯前だけを見るしか出来ないのだから。

 

 

「しっかし詰まんないなー。もっとちゃんと反応して欲しいなー。と言う訳でー、も一つ倍率ドンといきましょか!」

 

 

 黒雲の向こうは何時しか、一面の夜空に変わっていた。朝焼けの時間を行き成り深夜へと、息をするより容易く塗り替える。それが今の魔群と言う名の怪物だ。

 そして夜とは、彼女そのものですらある。故に惑星一つが宵闇に飲まれた今、彼女は何処にも居ないし何処にも居る。接近して剣を振り抜いたアリサの攻撃など、届く筈がないのであった。

 

 夜の移動。何時の間にか、僅か離れた場所から変わらず見下す女の姿。アリサの振り抜いた刃は、魔群の掛けていた寝椅子だけを焼いていた。

 そして同時に、夜が動いた事で世界が崩れる。黄金の槍で安定化していたミッドチルダに亀裂が走る程、世界全土に衝撃が響く。巻き込まれたアリサは、血反吐を吐きながら落下した。

 

 

「さーて、今私は何をしたでしょーか?」

 

 

 己が移動しただけで、大地や空が消滅する。何もない空間を生み出した怪物は、ニヤニヤと嗤いながらに問い掛ける。彼女はたった今、碌でもない事を起こしていた。

 

 

「……興味もないわ。私の今の目的は――アンタの断末魔を聞く事だけよ!」

 

 

 立ち上がった女は、口元を拭って一つ断じる。魔群が何をしようとも、今更興味などはない。

 アリサ・バニングスが求める物は唯の一つ。友の遺体を嘲弄し続ける怪物を、殺し勝利を得る事だけ。

 

 故に、彼女は変わらず剣を執る。届かぬと知っても、通じぬと分かっても、愚直に踏み込み前へと跳ぶのだ。

 

 

「うーん。この修羅っぷり。黄金さんに回収されてどうぞ。……そーんなアリサちゃんの代わりに説明しますと、ちょっと結界壊してみましたー」

 

 

 表裏一体の影を以って、近付くアリサを転がし続ける。届かぬ無様を嗤う魔群は、己の為した所業を語った。

 それはこれまでに、管理局が積み上げて来た全ての否定。彼ら彼女らが必死になって守り続けた揺り籠を、魔群は此処に壊していた。

 

 理由は一つ、此処に大天魔が来ても己は死なない。危険は僅かに上がるが、それは今更。ならば勝利を得た時に、纏めて喰い尽くせる方が良い。そうとも、賭けのレートを上げたのだ。

 

 

「そーんな訳でぇ、さぁ来るぞぉ、そら来るぞ。私の御飯に一杯追加。貴方の苦悶を一杯追加。さぁさぁさぁさぁおいでませ! 穢土・夜都賀波岐が大天魔!!」

 

 

 ミッドチルダ大結界が消える。天魔・覆滅の力が失われる。黄金の領域の一部を強引に消滅させると言う手法によって、力技で魔群は穴を開けた。

 それは現行世界が揺らぐ程の衝撃で、故に彼らも感知する。己達ですら命の危険を感じる程の力が動いて、敵地の護りを破壊したと言う事実は彼らに伝わった。

 

 ならば当然、彼は動く。誰よりも誰かが傷付く事を恐れて、誰よりも我が危険を担うと決めた彼。両翼の一つが欠けた事情も分からぬ現状で、この男が動かぬ筈がない。

 そうとも、彼は知らぬのだ。そうとも、彼らはまだ知らない。天魔・宿儺が倒れた理由も、天魔・紅葉の裏切りも、聖餐杯の暗躍も――知らぬが故に、知る為に彼は此処に来た。

 

 

――一、二、三、四、五、六、七、八、九、十。

 

 

 天から堕ちてくる声と共に、膨大な魔力が溢れ出す。

 余りにも巨大過ぎる力の津波が、ミッドチルダと言う惑星全域を包み込もうと流れ込む。

 

 

――布留部、由良由良止、布留部。

 

 

 魔群の夜と拮抗し、黄金の領域を汚染しながら、流れ込んで来たのは悍ましく歪んだ瘴気。

 万象全てを腐らせる、腐敗の呪歌が紡がれる。唐突な偽神の襲来に、多くの民が悲鳴を上げた。

 

 

――血の道と血の道と其の血の道返し畏み給おう。

 

 

 彼女の醜悪さは其処だろう。夜は星の全てを包んでいて、虫は増え続けていた。故に魔群は、この星の全てを知っていた。

 何処に穴を開ければ、最悪の地獄が顕現するか。逃げ惑う人々が避難している場の直上に、必ず巻き込む形で夜を移動させたのだ。

 

 

――禍災に悩むこの病毒を、この加持にて今吹き払う呪いの神風。

 

 

 死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。若い男が腐って死ぬ。老いた女が腐って死ぬ。小さき赤子が、腐って死んだ。

 我だけが穢れるからと、祈った男にとっても地獄であろう。例え敵地の民であっても、彼は嘆いてしまうから――それでも神は止まらない。あらゆる物事には、優先順位と言う物がある。

 

 

――橘の、小戸の禊を始めにて、今も清むる吾が身なりけり。

 

 

 恐ろしい。分からないとは、恐ろしいのだ。先ず以って倒しようがない筈の両翼が、この地で既に討たれている。

 ならば何が起こるか、何であろうと起こり得るのだ。そう捉える天魔・悪路は、既に命を捨てている。死兵と成っても望むのは、未知なる恐怖に最愛の人が巻き込まれない事のみだ。

 

 

――千早振る神の御末の吾なれば、祈りしことの叶わぬは無し。

 

 

 故に、今の彼は全力だ。微かに残る主神の意志へと、届かぬと分かって想いを捧げた。どうか己を、保とうと思ってくれるなと。

 この先、世界の果てまで生きる時間は要らない。例えこの戦場が終わると同時に息絶えたとしても構わないから、両翼を倒せる程の何かを討てる力が欲しい。

 

 本来ならば、届かない筈の声。しかし偉大な父たる彼が、愛する宝石の真なる願いを拾わぬ筈もない。同じ願いを抱けばこそ、天魔・夜刀はその矜持を受け入れた。故に――

 

 

――太・極――

 

随神相(ブリアー)――神咒神威(ここだくのわざわいめして)・無間叫喚(はやさすらいたまえちくらのおきくら)ッッ!!」

 

 

 今の天魔・悪路は、過去最大の力を有する。勝利しようと敗北しようと、この戦いが終われば必ず死ぬ。その対価に、彼は敵地の奥深くでも全力以上を発揮できる様に成って見せたのだ。

 最早、己が生み出した嘆きや悲劇も振り返らない。両翼にすら比する程に膨れ上がった力を以って、知らぬ事を知り、遍く脅威を振り払う。穢れ腐り堕ちるのは、己一人で良いのだから。

 

 

 

 

 

3.

 空を蟲が埋め尽くし、大地は腐り堕ちていく。誰も彼もが悲鳴を上げるこの星は、滅びに向かって一直線に転げ落ちる。

 世界は三つで均衡している。北部に顕現した黄金の領域と、中央に現れた腐敗の地獄。残る多くを埋めるのは、魔群の蟲と夜である。

 

 均衡を維持する二つと競い合うのは後だ。彼らが拮抗している間に、今は多くを喰らい尽くそう。嗤う魔群はそう決めて、星の空を移動しながら天地の全てを削り取る。

 

 

「あははははははははっ! すっごい大惨事! もうこれどうしましょー! みーんな死んじゃうんじゃないのー?」

 

極大火砲・狩猟の魔王(デア・フライシュッツェ・ザミエル)

 

 

 移動しながら、支配域を増やしながら、喰らい続けて肥大化を続ける魔群。夜を舞い踊る黒いドレスを追い掛けて、アリサは魔砲を形成する。

 必中の魔弾は放たれて、しかし夜を超えられない。何処までも広がり続ける爆心地などでは、単一世界全てと等しいその質量を覆すには何もかもが足りないのだ。

 

 そんな事、端からアリサは知っている。遊ばれていると、分かって彼女は進むしか出来ない。今更に、戻る場所など何処にもなかった。

 

 

「あらん? まだ私に構ってて良いのー? 後方とか気になんないのー?」

 

「言ったでしょ。アンタの断末魔以外に、興味はないと!!」

 

 

 雨の如く振り続ける炎の中で、魔群は平然と嗤っている。当たる事など先ずないし、仮に当たったとしても傷の一つも付けられない。

 端から戦いになっていない状況で、魔群はその掌に瘴気を宿した。軽く小石を投げる様な仕草で、放たれたのは光速越えの剛速球だ。躱す所か反応すらも出来ぬまま、アリサは射貫かれ大地に堕ちる。

 

 即死を免れた理由の一つは、受けた業の性質だろう。運気を簒奪する瘴気は、直接的な威力を持っていない。あくまでも、他者を不幸にするだけだ。

 落下した先に、尖った岩がある。咄嗟に魔法を使おうとするが、何故か運悪くデバイスが誤作動を起こしてしまう。そして尖った岩が刺さった場所も最悪だった。

 

 

「――――っ」

 

 

 眼球に深く、刺さる岩が脳に届く前に腕で圧し折る。死ぬ訳にはいかない。だから死なないと、そんな根性論で無理を押し通す。

 右目が潰れて、流れる血は絶え間なく。激痛に頭が痛むが、立ち止まっている時間はない。だから立ち上がったアリサは、運悪く己の血で足を滑らせた。

 

 転がる身体が落ちる先は、当然先に圧し折った岩の近く。咄嗟に庇った腕は、当たり所が悪くて圧し折れた。痛みに歯を食い縛って耐えるアリサに、魔群は腹を抱えて嗤う。

 無様だ。無様だ。無様に過ぎる。ゲラゲラ下品に見下す女に、矍鑠たる怒りを抱いて立ち上がる。己に巣食う不運の瘴気を炎を燃やして焼きながら、アリサは隻眼で敵を睨み付けてまた跳び出した。

 

 

「返して貰うわ! お前の身体(ソレ)は私の友達だ!」

 

「ひっどーい。身体があれば、中身は要らないのね。およよよよー」

 

 

 残る右手に剣を持ち、残る左目で敵を見る。動く度に痛む身体を意地で動かし、アリサは剣を振り続ける。

 成長はしている。進化と言うしかない速度で、アリサは急激に強く成っている。唯想いの力一つで、覚醒し続けているとも言えた。

 

 しかし、届かない。余りにも、彼我の断絶は遠過ぎる。アリサ・バニングスは遊ばれていた。魔群がその気になれば一瞬で、殺されるだけの力しか持てはしなかった。

 それでも、前に進み続ける。心は一つ、友の死骸をこれ以上穢させない為に。其処にあった想いは紛れもなく、愛の一種であったのだろう。だからこそ、()()()()()()()()()()のだ。

 

 

「でも、相変わらずだね。本当に、そんな所も大好きだったよ。アリサちゃん」

 

「……す、すずか」

 

 

 気付けば、言葉が漏れていた。口にした名は、偶然だった。けれど認めてしまったならば、もうそれ以外に見えはしない。

 寂しげに微笑むその姿は、過去の少女に酷似している。己の素性を明かせず隠していた頃の、月村すずかと重なっていた。だから、アリサに僅かな迷いが生まれた。

 

 何か勘違いしていたのではないか。揺らいだ女に生じた致命の隙に、貫く追撃などはない。微笑む女は、紛れもなくアリサの知る友達だった。

 

 

「……もう、分かんないんだ。訳が、分かんない。私が誰で、何だったのか」

 

 

 クアットロ=ベルゼバブは、己の記憶を月村すずかに焼き付けた。彼女の行動指針と言うべき物と、趣味趣向を刻み込んで滅びたのだ。

 そうとも、魔群は既に滅んでいる。腐炎に耐える事など出来ずに、ならばこの女は一体誰か。決まっている。月村すずか以外の誰でもなかった。

 

 

「唯々、どうしようもない衝動だけが私を動かす。刻み込まれた暴食の(シン)が、私を壊してしまった。けどね、それでも私は私なんだよ、アリサちゃん」

 

 

 クアットロの記憶を持ち、クアットロと同じ趣味を持ち、クアットロと同じ物を好んでいる。それでも彼女は、月村すずかだ。

 歪んで腐って穢れ堕ちても、彼女は変わらぬ吸血姫。己が誰かも分からぬ程に様々な物を喰らい尽くして、取り込んだ果てがコレである。

 

 先ず大前提として、量を集めれば質に勝ると言うのは間違いだ。量を正しく活かせる質が無ければ、集めた数は無駄となろう。

 月村すずかと言う魂に、それだけの質はない。戦士と言うには十分でも、流出域に至る程ではない。彼女は己の許容以上に、肥え太り過ぎた。

 

 だからこうして揺らいでいる。クアットロが愛した者に嫌悪しか感じないのに、孕む事を選んでいた。そんな彼女は、端から自壊していたのだ。

 

 

「貴女が好きよ。大好きだよ。幸せになってくれれば良いと、心の底から想っている。でもそれ以上に、貴女を不幸にしたくもあるの。虫の卵で膜を破って、浅ましい犬の様に尻を振る淫靡で無様な姿が見たいわ」

 

 

 情欲が籠った瞳で、アリサを見詰めてすずかは語る。熱の籠った吐息で男を誘う様に、貴女が欲しいと淫靡な華は語っている。

 この執着は、月村すずかだけの物。壊れた今のすずかであっても、それは確かと分かっている。故に彼女は、アリサ・バニングスを殺さない。壊したいけど、殺したくはないのである。

 

 

(……お互い、間違っていたわね。なのは)

 

 

 アリサの考えていた勝機とは、肥大化した魔群の自壊だ。喰らい過ぎたこの怪物は、限界を超えて破裂するのだと見越していた。

 それはきっと、正しくて間違っていた。もう既に破裂している。もう既に自壊している。それでも執着で動けるだけの、質を彼女は有している。

 

 

「欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。貴女が欲しい。……この執着は、すずか(ワタシ)の物だ! クアットロの物じゃない! 他の誰の物でもない! 歪んで腐って異臭を放って、それでも大好きなんだよ。私はさァ!!」

 

(あの子は死んでいなかった。その点で、私は間違い。けど、あの子はもう救えない。その点は、アンタの間違いよ)

 

 

 誰でもない魔群じゃない。魔群の所為で腐って歪んだ月村すずか。それこそが、この怪物の名前である。アリサが討つべき、敵の名なのだ。

 空に浮かんだ赤い月。それを背に艶美に嗤う夜の王。裸体よりも煽情的にドレスを乱して、誘う女は力を放つ。遊び続けていた怪物が、此処で初めて攻勢へと移るのだ。

 

 

「だから、貴女も一緒に堕ちましょう! 汚物を孕んだ(すずか)と同じく、望まぬ快楽の果てに――――ぐちゃぐちゃに壊し尽くしてあげるからさぁぁぁぁっ!!」

 

(今の魔群(コレ)は、月村すずかと言う名の化け物だった! あんな形に成った友達を、救える手段なんてないでしょう!!)

 

 

 空を踊るすずかの姿に、身構えたアリサが直後に見たのは女の靴だ。一瞬で移動したすずかの蹴りが、アリサの頭部を穿っていた。

 彼我の出力差を思えば、頭部が破裂していてもおかしくはない。それだけの威力をその身に受けて、形を保っていたのは魔群が手抜きをしていたからだ。

 

 虐めたい。甚振りたい。苦しめたい。だが、殺してはならない。アリサへの執着だけを糧に生きる今のすずかにとって、それは自殺と同義である。故にこそ、決して殺してはならないのだ。

 

 

(認めなさい。アリサ・バニングス。アレは、月村すずかだ。歪められた形であっても、アレは私の友達だ)

 

 

 命だけは保証される。ならば、生き残る事は考えなくて良い。相手が勝手に身を案じてくれると言うなら、己は唯只管に攻勢の隙を探せば良い。

 蹴り飛ばされ、殴り飛ばされ、遊ばれながらにアリサは思う。歯を食い縛って痛みに耐える事しか出来ない女は、残る隻眼で勝機を探る。揺らぐ心を、言葉にせずに叱責しながら探し続けた。

 

 

(受け入れなさい。アリサ・バニングス。救う道なんてない。なら、殺す以外に道はない。終わらせてあげましょう。せめて、最愛の炎を以って――あの子が、すずかですらなくなる前に)

 

 

 すずかの動きに追随出来ない。筋力速力耐久力と、何から何まで桁が違う。小手先の技と経験だけで、覆せる様な物ではない。

 夜の簒奪にも逆らえない。今も奪い続ける赤い月に削られて、唯でさえ悲惨なまでの断絶が更に広がり続けている。微かな希望すらも、欠片も見えてくれはしない。

 

 考えれば、泣き言ばかり浮かんでくる。思考を回せば、浮かぶのは後悔と恨み言ばかり。余りにも女々しくて、見っとも無い弱さ。それが表に出る前に、口で噛み締め飲み干した。

 

 

「泣くのも、喚くのも、心の中だけで十二分。悲劇のヒロインを気取りたい訳じゃない。私は、戦士で居たいと誓ったから」

 

 

 そうとも、泣いて変わるのか。喚いて変わるのか。いいや何も変わらない。寧ろ悪化するだけだ。ならば、己の心の中だけで握り潰して燃やし尽くす。

 悲劇のヒロインに成りたい訳じゃない。泣くのは嫌いだ。戦士で居たいと思うのだ。だから泣き言は薪に変え、燃やして動く力に変える。今動かねば、ならないのだ。

 

 もしも己が負けたらどうなる? もしも己が死んだらどうなる? 最後に残った執着すら失えば、この友達は真実終わってしまうのだ。

 これまで以上に最悪な、どうしようもない怪物へと成り果てる。本当の意味で、誰でもない魔群に成ってしまう。それを嫌だと言うのなら、最愛の炎を贈ってあげよう。

 

 だって、アリサだって、月村すずかが好きなのだから――――

 

 

「現実は甘くない。助けたいだなんて、そんな理想は叶わない。それでも――せめて僅かな救いを。貴女は此処で、私が終わらせる!」

 

 

 痛みに耐えて、動かしたのは残る片腕。それは確かに、すずかの蹴りを受け止めていた。圧倒的な性能を、小手先の技で止めたのだ。

 白狼に比すれば、まだ遅い。その分膂力は比較にならぬが、己が死ぬ程の出力にはなり得ない。ならば、後は力を上手く逃がせれば止められる。

 

 漸く掴んだ。この距離ならば、表裏一体の影は意味をなさない。夜の帳が、彼女を護る事はない。そう確信するアリサは、折れた腕に力を籠める。

 あくまでも、骨が折れただけ。ならば筋肉を動かせば、腕を振るう程度は出来よう。右の腕で女の脚を握ったまま、左の腕に宿した炎の剣を全身を使って振り抜いた。

 

 だが――――小手先の技を持っているのは、アリサ一人だけじゃなかった。

 

 

「そうだよ、現実は甘くない。理想に夢など見れやしない!」

 

「――っぅ!?」

 

 

 アリサの握った左の脚が、急激に膨らみ破裂した。溢れて飛び散る血潮は強酸の毒。全身に被ったアリサの皮膚は、焼け爛れて腐り堕ちる。

 余りの痛みに生まれた隙に、炎の剣は躱される。距離を取ったすずかの脚は、瞬きの後には二本に戻っていた。その再生力は、神格保有者すらも寄せ付けない程なのだ。

 

 

「なのに貴女は、今も夢を見ようとしている。未来に希望を抱いている。だから、その想いを一つずつ踏み潰して砕いてあげるわァ!」

 

 

 悪意に歪んだ笑みを張り付け、月村すずかは力を使う。選んだ物は簒奪で、奪う相手はアリサじゃない。今も繋がる別の場所から、すずかは奪い取ったのだ。

 

 

「増えて飲み干せ、増殖庭園!」

 

 

 言葉と共に、始まったのは緑の芽吹き。神格域の膨大な力に後押しされて、木々の群れが瞬く間に膨れ上がる。

 何もかもを飲み干す歪みを、アリサは確かに知っている。これが誰から奪われたのか、彼女は即座に気付いていた。

 

 

(メガーヌさんの、歪み!? まさか――)

 

「そのまさか。たった今、死んだわよ。私が食べたからっ!」

 

 

 命を根こそぎ奪い尽くして、同時に異能も吸収する。月村すずかが行ったのは、たったそれだけの事である。

 そしてその事実が示す事とは即ち、元の所有者の死滅に他ならない。奈落の悪夢に囚われていた一人の女は、この瞬間に死亡したのだ。

 

 代わりに広がり続ける巨大な森は、すずかの姿を覆い隠す。隻眼のアリサは敵となった友を見失い、故に追撃への対処は不可能だった。

 

 

「貫け、一意専心・乾坤一擲!」

 

「――っ!!」

 

 

 木々の隙間から、漆黒の杭が飛翔する。咄嗟にアリサは炎で迎撃しようとするが、歪みを纏った血杭は決して止まらない。

 乾坤一擲。あらゆる全てを貫く異能。今のすずかの出力で放てば、太極すらも容易く射貫く。故に当然、止まらぬ杭はアリサの身体を貫いた。

 

 

「アハハハハハッ! まぁた死んじゃったわぁ! お腹で溶けて、ゼストさんも私の糧に成った!」

 

 

 ゴミを捨てる様に気安く人を殺し続けて、奪った異能で女の身体を弄ぶ。悪意に溢れる笑みを前に、アリサはそれでも前に行く。

 深々と両足に突き刺さった杭が痛むが、それは止まる理由にはならぬのだ。だから前に、せめて前に、倒れる事を拒む女に魔群は更なる力を示す。

 

 

「跪け! 引斥転遷!」

 

「ぐ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 シャッハ・ヌエラが今死んだ。そうして奪われた歪みは拡大解釈されて、高密度の重力場を生み出す形に作り変えられる。

 意地だけで、引力に耐えられる筈もない。己の重みに耐えられなくなった女は、大地にひれ伏し詫びる様に頭を垂らしていた。

 

 

「隙だらけだよ、アリサちゃん! 口では何だかんだ言ってて、やーぱり不安だったんでしょぉ? だーから、虫けらが死んだ程度で心が揺らいで膝を折る! その無様さは、貴女の弱さの証明よ!!」

 

 

 まるで土下座をした様な、無様な女の頭をヒールで踏み付ける。嬲る様にすずかが足を動かす度、踏み躙られたアリサの口へと土や砂が入っていく。余りに無様で、屈辱だった。

 

 

(……そう、ね。私は弱い。実力だけじゃなくて、心もきっと弱いまま)

 

 

 痛みに蹲りながら、アリサは心の中で思う。強く成れたのかと問えば、きっと己は弱いまま。強い振りをするのが、上手くなっただけなのだと。

 

 

(だけど、だから強くなろうと決めたの。泣き言なんて、口にはしない。したくない!)

 

 

 何時だって、弱音を内に抱えている。本当は、己の行為に迷っている。都合の良い夢を、見たいとだって思っている。

 けれど、求めたのは勝利だ。勝利とは、高みで輝くものなれば――勝利者とは、高みで輝ける者でなくてはならない。相応しい輝きが無ければ、勝利の栄光などそも得られない。

 

 

「殺されたわね。弱いから――それで、それがどうした? 何度も言わせるんじゃない! 今の私は、アンタの断末魔を聞くためだけに此処に居る!!」

 

 

 だから、何処までも強がろう。例え直ぐに見抜かれる程に薄く軽い仮面であっても、被り続けて何度でも立ち上がろう。何時か張り付いた仮面が、本当の顔に変わる日まで。

 だから、何度でも立ち上がるのだ。生きている限り、諦めないで前に行く。この友達を止めるのは、己の役目であるべきだろう。だから何度だって、アリサ・バニングスは覚醒するのだ。

 

 

「彼ほど真実に誓いを守った者はなく、彼ほど誠実に契約を守った者もなく、彼ほど純粋に人を愛した者はいない」

 

 

 踏み躙られた女が紡ぐ。語る想いは、受け継いできた想いの炎。彼にこそ愛されたいのだと、祈り願った女の感情。

 好きな男に好きだと語る勇気もなくて、忠義と隠して仕えていた。そんな不器用な女の想いを、彼女は確かに受け取り継いで此処に居る。

 

 

「だが彼ほど総ての誓いと総ての契約総ての愛を裏切った者もまたいない。汝ら、それが理解できるか」

 

 

 踏み躙っていた女が笑みの種類を変える。其処に焦りの情はない。何度限界を超えようとも、己の方が強いと言う自負がある。

 慢心ではない。絶対の自信だ。超えられる筈がない。超えられる道理はない。そしてそれでも超えられたと言うのなら、それはきっと一つの救いだ。

 

 

「我を焦がすこの炎が、総ての穢れと総ての不浄を祓い清める。祓いを及ぼし穢れを流し熔かし解放して尊きものへ。至高の黄金として輝かせよう」

 

 

 燃え上がる炎が、倒れた女の身体から迸る。黄金の炎は彼の覇王が近くに在る為か、激しく燃え上がり遂には魔群すらも圧倒する。

 踏み続ける事が出来なくなった月村すずかは、炎の余波に圧し流される。それでも余裕を持って優雅に、舞う蝶を思わせる所作で彼女は後退した。

 

 

「すでに神々の黄昏は始まったゆえに、我はこの荘厳なるヴァルハラを燃やし尽くす者となる」

 

 

 黒夜のドレスは無傷のまま、優雅な笑みを浮かべて待っている。愛する女の魅せる輝きを、誰より近くで尊ぶ為に。

 破れた管理局の制服に身を包んだ傷だらけの女は、歯を食い縛って立ち上がる。今にも遠退く意識を保って、愛する女に己の全てを魅せる為。

 

 

創造(ブリアー)――焦熱世界・(ムスペルヘイム・)激痛の剣(レーヴァテイン)!!」

 

「Initium sapientiae cognitio sui ipsius. Nihil difficile amanti」

 

 

 炎の世界が全てを包み込んだ瞬間、合わせる様にすずかが時を操作する。流れる悠久の夜は、神々ですら自壊する程に長き時。

 加速する時間の中で、砲身は錆び付き崩れていく。世界一つを滅ぼす炎が、数億年の時間経過に耐えられない。故に、この結末は当然だ。

 

 幾ら限界を超えても、まだ魔群の方が遥かに上だ。出力で負けている以上、アリサ・バニングスは敗北する。それが道理であると言うのなら――これは如何なる不条理か。

 

 

「――っ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!! ま、だだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

 

 

 広がる世界同士のぶつかり合いで、圧し負けると言うのなら一点にまで絞れば良い。面で勝てないのだとしても、点で勝れば勝利であろう。

 焦熱世界を一点へと、炎の剣へと集束させる。世界一つを滅ぼす力で、流れる時を切り裂き進む。足にも腕にも力が上手く入らぬが、だからと言って止まれないのだ。

 

 

(追い付けない? 関係ない。追い付くのだ。そうしなければ、止まれない!)

 

 

 悠久の時を切り裂いて、それでも彼我の距離は無限に等しい。余りに遠く届かぬ断絶は、二人の女の実力差。

 何度成長しようとも、何度覚醒しようとも、届かぬ距離が其処にある。至れぬ差が確かにある。だとしても、止まれないなら、進むしかないだろう。

 

 

(届かない? だからどうした! そんな事は分かっていて、それでも戦う事を私は選んだ!)

 

 

 現実なんて分かっている。理想は所詮夢幻なのだと、痛い程に分かってしまった。それでも、夢見る事を止められない。

 勝てる筈がない。本当に? 負ける他にない。本当に? ああ、そうなのかもしれない。だとしても、生きている限りは進むのだ。

 

 

「だから、私は――未来を信じて、この荘厳なる世界を焼き尽くす!!」

 

 

 それは如何なる奇跡か。全身を使って振り上げた炎の剣は、気付けば敵を間合いに捉えていた。

 いいや、それは単なる必然だ。生きている限りは進み続ける女の意志が、殺せぬ敵手に届く事は当前の事なのだ。

 

 

「大・焼・炙ぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 そして、炎は振り抜かれた。この一撃に全てを賭けて、故に今だけは防がれるなんて末路はない。躱されるなんて無様もない。

 夜の護りは軽々抜いた。迫る蟲など放っておく。歪みの護りや瘴気の吸血が邪魔をするが、それで止まる筈もない。ならば、断ち切る他に結果はない。

 

 余裕の笑みが消える。真剣な表情をした月村すずかが、迎撃に動かねばならない程。並大抵の物では止められないと、確信した彼女は敵対者に倣う。

 敵が紅蓮の炎を束ねたならば、己は天上の光を束ねよう。天使の光を刃の形に収めて振るう。ザミエルの炎とメタトロンの炎がぶつかり合って、切り結ぶ女達は何処か楽しそうに――

 

 

「――残念。貴女は届かない」

 

 

 けれど此処までだ。いいや、最初から決まっていた。月村すずかは楽しそうに、しかし寂しそうに言葉を紡ぐ。

 理由は一つ。アリサ・バニングスは端から諦めていたのだ。友達を救うと言う理想を夢に見て、しかし叶わぬと諦めていた。

 

 故に、彼女は既に嵌っていた。

 

 

――築基・煉精化気・煉気化神・煉神還虚・還虚合道――

 

「何故なら、貴女は夢を見ているから。現実は甘くないと認めた上で、甘い夢を見てしまったから――」

 

 

 都合の良い希望は叶わない。現実はそれ程に甘くない。それでも月村すずかを救うと言う理想を、アリサは捨て切る事が出来なかった。

 だから、彼女は墜落する。だから、彼女は現実にぶつかるだろう。理想を追い続ける事など出来やしないと、嘗ての友らを切り捨てたのは他でもないアリサ自身だったのだから。

 

 

――以って性命双修、能わざる者墜ちるべし、落魂の陣――

 

「――宇宙の果てから墜落して、夢ごと潰れてしまいなさい! 急段顕象――雲笈七籤・墜落の逆さ磔!!」

 

 

 世界に穴が開いて、二人の女が落下を始める。何処までも何処までも続く落魂陣の深さは、即ち抱いた希望の大きさだ。

 せめて心だけでも救ってあげたいと、抱いた夢は余りに大きい。余りに強過ぎる月村すずかと言う怪物に勝とうと言う試みは、無謀な祈りに他ならないのだ。

 

 

「な、にが……っ」

 

「もう、御仕舞い。これで終わりなんだよ、アリサちゃん」

 

「まだ、私は――っっっ」

 

「落ち続ける。貴女は落ち続ける。一度墜落したのなら、もう二度とは抜け出せないわ。……だからもう、貴女は負けたの。アリサちゃん」

 

 

 告げられる勝利宣言に、何をと心を震わせる。諦めるものか。諦めない限り、何か希望は在る筈だ。そう信じて、隻眼で睨み付ける。

 手にした剣はまだ残っている。落ち続ける条件は相手も同じく、ならば届く筈なのだ。そう信じて、そう動いて――アリサは、そんな都合の良い展開(ユメ)を期待した。

 

 

「がっっっ!?」

 

 

 故に落ちる。墜落の果てに激突する。受ける衝撃は、隕石の衝突にも等しい物理的な物。骨が折れて血反吐を吐いて、声を漏らした女は直後に再び落下を始めた。

 

 

「ぎっっっ!?」

 

 

 認めない限り、落下は続く。諦めない限り、落下は続く。希望を抱き続ける限り、落下する事は避けられない。それでも止まれないのなら、永劫激突し続けるだけなのだ。

 

 

「がふっ、げふっ…………」

 

 

 幾度落ちたのか。幾度激突したのか。アリサ・バニングスは抜け出せない。月村すずかとの力の差と言う現実は明確であり、彼女に挑む事は絶望的だ。

 都合の良い奇跡が起こらぬ限り、勝ち目などありはしない。そう考えてしまう相手であるから、挑み続ける限り勝ち目はなかった。墜落と激突は、最後まで終わらなかった。

 

 

「私は勝った。私が勝った。これで私は赤騎士を取り込み、更なる高みへ到達する!」

 

 

 故に墜落の終わりとは、アリサが動けなくなった時。全身の骨が圧し折れて、息も真面に出来なくなった時。物理的に、戦う事すら出来なくなった瞬間だ。

 

 

「……何で、アンタ、泣いて、るのよ」

 

 

 勝利を誇るすずかの顔を、掠れた瞳で見上げて呟く。何故だろう。遠のく意識に残るのは、涙に暮れる友達だった。

 

 

「泣いている? 泣いて、何が――そんなの、決まってる。これは歓喜の涙でしょうが! そうよね、泣くよね! だってやっと、貴女を手に入れたんだもん!!」

 

 

 言われて、気付く。頬に触れて、濡れていた事を理解した。だとしても、ああだから何だと言うのか。結果は最早変わらない。

 アリサ・バニングスは敗北した。月村すずかは勝利した。そしてこれから、魔群は更に肥大化する。誰よりも大きく、誰よりも強く、そうして女は壊れていくのだ。

 

 

「それじゃぁ、敗北者への罰ゲーム! 凌辱タイムの開幕でーす!」

 

 

 皮膚は焼け爛れ、四肢は砕けて、死に瀕したアリサ。今の彼女に情欲を抱ける者など、極少数しか居ないであろう。そう断じる事が出来る程、惨めで無残な姿をしている。

 そんな女に、相対する夜の女王は極少数に含まれる人種であった。瞳は今も泣いているのに、笑みは歪み頬は上気している。これより訪れるであろう情交に期待して、女は既に発情していた。

 

 そして、彼女の下に現れるのは醜悪な物。男性器を模した卑猥な物から、拷問器具にしか見えない物。それら全てが、生きて蠢いている蟲だった。

 何の為にと、問うまでもあるまい。淫靡に舌舐めずりをする女の目的など、考えるまでもなく明白だろう。そして、その欲望を阻止する者など、もう誰一人として居はしない。故に――――

 

 

「女として産まれて来た事、後悔するぐらい気持ち良くしてあげるから――――素敵に壊れて下さいね」

 

 

 蟲の群れに集られて、暗闇の中へと引き摺り込まれる。傷だらけのアリサ・バニングスは、そうして地獄を味わうのであった。

 

 

 

 

 





【悲報?】クずか様。実は中身、すずかちゃんだった模様。【朗報?】
 一度クアットロに汚染されて暴食して肥大化した後、自己を保てず崩壊。その後、すずかちゃんの残骸ベースに精神を再構成したのが、現在のクずか様だったりします。


【自爆特攻】オーバースペック屑兄さん【被害拡大】
 自滅覚悟で夜刀様パワーを過剰供給されてる屑兄さん。要はKKK本編での中院冷泉と一緒。
 自己保存に向けられていた分も含めて、限界超えまで自己強化に回した結果自壊し続けている形。原作時点での両翼級(神格係数50)にまで強化されているが、代わりに勝敗はどうあれ戦闘終了後の消滅が確定している。
 文字通りの消滅であり、魂すらも消え去る。輪廻は不可能となるし、夜刀様復活の生贄にもなれなくなる。本編ルートでもなかった、屑兄さんガンギマリモード。


因みにアリサちゃんはこれから発禁展開だけど、R18でもR18Gでもないのでカットです。




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第十七話 英雄 クロノ・ハラオウン

大変長らくお待たせしました。月刊所か隔月ですらなくなった、THE DARKSIDE ERIO 更新です。
中々モチベーションが上がらず筆が進まない日々が続いていましたが、どうにかこうにか最低限の形にはなりました。……スパロボ最新作面白かったです。



1.

 其処は地獄だ。苦悶の声が響いていたのは秒にも満たない数瞬で、今では生きている者など一人も居ない。

 全てが腐った。人も、物も、ありとあらゆるものが腐った。故に最早何もない。広がる視界はまるで荒野だ。遮蔽物など、何一つとして見当たらない。

 

 其処は地獄だ。近付く度に肌は溶けだし、肺には腐臭ばかりが満ちていく。進む足が踏み締めた大地は、人の自重すらも支えられずに沈み込む。

 まるで底無しの沼である。何処までも落ちていく腐った地面は、既にその役割を果たせていない。腐って溶けて崩れた建造物は、そうして土の中へと飲まれていくのだ。

 

 蟲の群れが太陽さえも覆い隠した天蓋の下を、何もかもを腐らせる風が満たしている。空を覆い蠢く生きた雲が腐って落ちる様は、或いは驟雨を思わせる。

 尽きず絶えず溢れ続ける蟲の雫は、触れた者を濡らすのではなく溶かしてしまう。あらゆる意味で、此処は地獄だ。五感に訴えかける全ての要素が、人に忌避の情を抱かせる。

 

 だが、地獄を進む彼にとって、そんな事はどうでも良かった。いいや、これが地獄だと言う事すら、今の彼には理解出来ていなかった。

 肌を溶かし骨まで届く激痛も、鼻孔を通り肺すら腐らせる悪臭も、目を覆いたくなる程の惨劇すらも少年は理解していない。出来る筈がないのだ、そんな機能は残っていない。

 

 少年は走る。地獄の中を直走る。愛に捧げた隻眼で、睨み付ける先には大天魔。巨大な敵手を前にして、感じ入る情などは何も無い。

 義憤はない。哀悼もない。腐って死んだ路傍の石も、今も腐敗をばら撒く悪鬼も、彼にとっては等価である。どちらも共に、等しく無価値な存在だ。

 

 だから、少年には理由がなかった。トーマ・アヴェニールにとって、この地獄は何でもない日常だった。動く理由なんて、彼にはなかった。けれど――

 

 

「天魔・悪路ォォォォォォォォォォッッ!!」

 

 

 傍らを走る、愛する少女が叫んでいる。実の兄を奪った怨敵を前にして、ティアナ・L・ハラオウンはその激情を抑えられはしなかった。

 彼女が怒りを叫んでいる。彼女が嘆きに涙している。何も分からないトーマにとって、たった二つだけ残った判断基準の一つ。そんな彼女が、敵討ちを望んだのだ。

 

 ならば、トーマ・アヴェニールにとってはそれで十分。何も分からないまま、誰だか分からぬ何かを此処に排斥しよう。

 心に決めて、走って近付く。距離が短くなる程に腐敗速度は勢いを増していくが、それ以上の速さで自己を再生させながら前に行く。

 

 

「…………」

 

 

 少女の怒りに呼応する様に、腐った死相は面を上げる。ゆっくりと向けられる視線に見詰められた瞬間、腐敗は更にと速度を増した。

 唯人ならば、視界に入っただけで死に至る。否、英雄と称される者らであっても秒と持たずに腐って消えよう。それ程の圧を、今の大天魔は有していた。

 

 

「ようやく、この時が――」

 

 

 だが、トーマ・アヴェニールは止まらない。ティアナ・L・ハラオウンも止まらない。彼らは膨れ上がる腐毒の風すら突き抜けて、大地を駆けて天魔に向かう。

 実力の差、と言う訳ではない。単純にこれは相性の結果だ。トーマと言う少年は神の半分であり、夜都賀波岐の大天魔とは神の一部に他ならない。故にこそ、桁が違う程度の実力差ならば引っ繰り返る。

 

 悪路の力は、夜刀の加護を受けて膨れ上がった物である。そうであるからこそ、主柱たる夜刀とその性質を受け継ぐトーマに対しては満足に通らない。

 対してトーマが持つ力は、天魔が纏う時の鎧を素通りするのだ。そして、ディバイドゼロに至っては論外。世界の毒とは簒奪の力。太極内で発動されるだけで、存在そのものを削り取られていく。人の相や神の相への直撃などを受ければ、その結果は明白だ。

 

 神の半分であるトーマ・アヴェニールは、元より夜都賀波岐の支配権を端から持っている。主に捧げろと命じられれば、大天魔達は逆らえない。

 簒奪の力とは所有権の主張でもあり、故に彼らは抗う事すら出来ないのだ。その光を浴びた瞬間、無条件に魂全てを奪われる。一つ余さず奪われると言う結末は、死と一体何が違うのか。

 

 

「兄さんの、ランスターの弾丸を、届かせる時が――っ!」

 

 

 そんな性質は、トーマにのみ限った話ではない。彼の比翼と化した少女も、全く同じ性質を有している。

 だから、勝てる。今ならば、勝てるのだ。敵を視界に捉えたティアナは、両手に武器を構えて放つ。兄の仇を、重ねた全てで討つ為に。

 

 

「クロスファイア・シュートッ!!」

 

 

 クロスミラージュの銃口を横へ流して、放つはコンマ以下の連続発砲。瞬きの間に数十と言う光を雨を作り上げ、其処に幾つか毒を混ぜる。

 隠された毒の名はディバイドゼロ・エクリプス。直撃すれば両翼だろうと、天魔である限りは消滅必死な光の魔弾。其処へ更にと、幻影魔法を織り交ぜる。

 

 数千と言う幻影の中に、実体を持つ魔弾は数十。内の数発だけが、触れれば終わる死の猛毒。それら全てが、違いが分からぬ様に偽装されている。

 太極(カラダ)が削られていると言う被害を与えながらも、どれが元凶かも掴ませぬ程に精巧な幻影。虚実入り乱れる攻勢は、間違いなく少女にとっての極みであった。

 

 

「…………所詮は、唯の小細工だ」

 

 

 降り注ぐ雨を光の雨を前に、天魔・悪路は泰然自若。侮っている訳ではない。舐めている訳ではない。唯、これでは届かないのだと知っている。

 ゆっくりと、死人は剣を振り上げた。巨大な随神相は姿を見せない。巨体は的になるだけだからと、人の相は先の折れた剣を両手に握って前に跳ぶ。

 

 光の虚実を見抜く為、天の眼と同調する。死人の瞳を誤魔化せようが、主柱の眼は欺けない。幻想を見抜いて、悪路は最小限の動きを示した。

 必要なのは、己を滅ぼし得る毒素だけを見抜く事。後は知らぬと、その全てを身体で受けた。数百は擦り抜けて、数十は着弾して、数撃だけを確実に切り払う。

 

 時の鎧は機能しない。擦り抜けて来る魔力の弾丸は、確かに彼を傷付けた。世界の毒は太極に亀裂が刻み込み、しかし致命傷だけは凌がれた。

 

 

「この屑でしかない、腐り果てた我が身にも、矜持と言う物は存在する。これでは、通せない」

 

 

 腐毒の風を纏った剣が、その風圧で光を払う。直接触れない形で迎撃した悪路に対し、向き合うティアナは一人じゃない。

 故にこそ次弾は既に、いいや初撃が二度あるのだ。先の光景を繰り返すかの様に、今度はトーマが二丁拳銃を構えて撃ち放つ。

 

 

「シルバーハンマーッ!!」

 

 

 全く同じ動作で放った弾丸は、全く同数の破壊となる。内に秘めた毒は少量。それら全てを、幻影の罠が覆い隠して襲い掛かる。

 ティアナがディバイドゼロを使えた様に、トーマもフェイクシルエットを使用できる。彼らは繋がる比翼であれば、あらゆる性能が同値であるのだ。

 

 数百の光を前に、悪路が示す対処も全く同じく。天眼で見極め、真に危険な物だけを切り払う。その代償に、鎧を擦り抜ける魔弾の被害を受けていく。

 胴が揺らいだ。身体が宙に浮かんだ。ほんの僅かに浮き上がって、天魔・悪路は着地する。痛みに眉を潜ませながら、大地を足で踏み締め元居た場所へと。同じ様に立ってみせる。しかし、増える傷痕は隠せない。

 

 

「このまま行くわよ! トーマ!」

 

「ああっ! 分かった!!」

 

 

 初撃を受けて怯んだ隙に、一気呵成に攻め立てる。実戦はターン制ではないのだ。相手に手番を与えぬ事こそ、勝利に至る最適解。

 弾ける様に跳び出す二人は、左右に分かれて銃を構える。徹底したクロスレンジ。刃の届く間合いの外から、飽和攻撃によって圧し潰そうと決めたのだ。

 

 

「シューティングシルエット!」

 

「Sic itur ad astra. Dura lex sed lex」

 

「Spem metus sequitur. Disce libens」

 

「ディバイドゼロ・エクリプス――っ!!」

 

 

 幻影を纏った射撃の雨。超重力による銀河の衝突。世界を飲み干す、巨大なブラックホールの創造。それら全てが、囮であると同時に本命。

 神域に至った魔弾の雨を防ぎ、体内で起きた銀河の衝突や暗黒天体の威力すらも耐え抜く。そんな悪路すら掠れば死する世界の毒も、本命ではあるが囮でもあった。

 

 決して受ける訳にはいかない数発を警戒し、それ以外の全てを防げない。惑星上だから加減があると、そんな理屈もありはしない。

 此処はミッドチルダである以前に、既に悪路の体内なのだ。その中でどれ程の被害を出そうとも、悪路が死ぬまでは外側に影響しない。だからと彼らに加減はなく、直接悪路の太極(カラダ)に撃ち込む連撃は全力だ。

 

 個として単一宇宙規模を持つ。星々を内包した人型とは言え、身体の中で銀河系の衝突やら惑星破壊やらをやられては堪った物ではない。

 明確に、悪路の身体は崩れ始めている。彼らの魔法には時の鎧が機能せず、水銀の法は鎧を真っ向から貫く威力を持っている。消滅は最早、時間の問題とすら見えた。

 

 

「勝てる! これなら――っ!」

 

 

 圧している。圧倒している。彼の大天魔を相手にだ。これまでは敗れ続けた巨大な敵に通じる程、彼と彼女の力は高まった。

 確信がある。これなら行けると。如何に偽りの神々であれ、積み上げた傷はもう直ぐ致命傷に届く程。何もさせずに、圧殺出来る。

 

 銃口を向けて、魔法陣を発動しながら想いを叫ぶ。漸くに届いた、万感の想いを叫んで届かせる。

 

 

「私は、私達は、勝つんだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 ディバイドゼロ・スターライトブレイカー。ばら撒き続けた魔力を此処に、破滅の光と混ぜ合わせる。

 余りの魔力に震える腕を、意地で支えて引き金を引き絞る。反動で吹き飛びながら放たれた砲撃は、悪路を飲み干す様に膨れ上がって――

 

 

「…………言った、だろう。矜持が、あると」

 

 

 届く前に、悪路は跳んだ。そして、駆ける。誰よりも早く、誰も反応出来ない程の速度で、ティアナの眼前に迫っていた。

 

 

「な――っ!?」

 

 

 反応が間に合わない。認識が追い付かない。雷だとか光だとか比較にならない程、その速力は異質であった。まるでフィルムがコマ落ちしたかの様に、移動の軌跡すら見えやしない。

 そうとも、神格とはこういうものだ。今の悪路の全力は、神格係数にして五十を超える。身体能力にのみ限れば、両翼すらも大きく超えよう。圧倒的な相性差など容易く覆す、出力の差が其処にある。

 

 

「僕は――」

 

 

 これまで彼が真面に動かず守勢に徹していた理由は、対処し切れないからでも見に徹していたからだけでもない。

 全力で動けば、自壊するから。彼の天魔・大獄と同様だ。過剰な出力に耐えられない身体は、瞬きだけでも崩れてしまう。

 

 現に今、ほんの一瞬全力で移動しただけで悪路は既に死に掛けている。死を以って死を遠ざけると言う手段もない以上、既に消滅は確定している。 

 それを恐れる弱さはない。端から覚悟し此処に来た。だからこそ、振るうべき力は振るうべき時に。僅かな慢心が生む一瞬の好機を、悪路は耐えて待ち忍んでいたのだ。

 

 

「舐めるなと言ったんだっ!!」

 

 

 故に、その一撃は躱せない。躱せる余地など与えない。振り下ろした先の折れた大剣は、少女の身体を袈裟に断ち切る。

 二つに分かれたティアナの身体は、腐毒を受けて腐って潰える。何も形を残さずに、唯悪臭だけを其処に残して、ティアナ・L・ハラオウンは死亡した。

 

 

「ティアァァァァァッッ!!」

 

 

 その死を前に、少年は叫ぶ。何も分からず聞こえない彼だが、彼女の事だけは分かるのだ。だから、トーマはまた求めた。

 故に復元する。外部に出ている彼女はしかし、実体ではないのだ。トーマ・アヴェニールが居る限り、ティアナは何度でも蘇る。

 

 同格の存在を、無限に蘇生させる力。神格域に届いた本人の出力も相まって、厄介と言う言葉ですら足りない程の力であろう。

 事実、彼には可能性があった。トーマ・アヴェニールならば、今の天魔・悪路にも勝利し得る道があった。そう、あった。過去形だ。

 

 

「片や、怒りに、目を曇らせ!」

 

 

 ティアナ・L・ハラオウンが冷静であったのならば、守勢に回った悪路の姿に懸念の一つ二つは抱けただろう。

 家族の仇と、それを討てると言う好機。それで彼女は、我を見失っていたのだ。冷静でいた様で、そうではなかった。

 

 故に致命的な隙を晒して、反応すらも出来ない内に切り捨てられた。そしてそんな彼女の油断が、この敗因を決定付ける。

 

 

「片や、奴と同じく、僕を見てすらいない!」

 

 

 認識すらさせない速度で迫る悪路に対し、トーマは防御も回避も選んでいない。避けられないのではない。避けようとすらも考えられていないのだ。

 トーマは何も見ていない。中身のない人形だ。そんな彼に人間の振りが出来たのは、ティアナと言う半身が居たから。それを一時的にでも失えば、正答なんて出せなくなる。

 

 駆け付けて、剣を振り上げ、振り下ろそうとする。この動作をゆっくりと眼前で行っても、トーマ・アヴェニールは反応すらもしないのだろう。

 どんな戦況であれ、彼はティアナを求めてしまう。恋人を助けるよりも前に先ず自分の身を守らねばならない状況で、彼は必ず選択を間違えるから負けるのだ。

 

 

「分からぬ見えぬ聞こえぬ知らぬと! そんな輩に敗れるなんて、一度だけで十分だっ!!」

 

「が――ぁぁぁっっ!?」

 

 

 振り下ろされた大剣は、トーマの身体も両断する。剣が纏った腐敗の颶風は、触れた全てを腐らせようと溢れ出す。

 僅か二度。トーマとティアナが無数に重ねた優勢を、たった二回剣を振るっただけで覆す。これぞ、神と言うべき存在だ。

 

 

「僕は屑だ。全身腐っているんだよ。……だけど、そんな僕にも、譲れない物はある」

 

 

 腐敗の風に、身体が腐る。トーマとティアナの強度は同等。ならば彼女が即死した様に、トーマも秒と持たずに終わるだろう。

 

 己の死に直面して、トーマ・アヴェニールは思う。嫌だと。それは嫌だ。こんな結末なんて嫌なのだ。何故なら、彼女が死んでしまう。

 それが嫌だと言うのなら、覆してみせれば良い。己はそれを知っている。そうする術を知っている。出来る出来ないなんて、問い掛ける意味はなかった。

 

 

「Et arma et verba vulnerant Et arma――!!」

 

 

 血を吐きながら咒を紡ぐ。望むのは、喪う前へと戻る事。奪われ終わるが定めと言うなら、永劫その結末まで至らなければそれで良い。

 繰り返せ。繰り返せ。繰り返せ。繰り返せ。流れ出すには足りぬと言うなら、他の要素で埋め合わせる。愛しい彼女の為だけに、永劫終わらぬ回帰の日々を――――

 

 

「それは通さない。それは許さない。お前達には、負けられない」

 

 

 其処に至る事を、悪路王が許さない。出来る出来ないは、彼にとっても関係ない。出来ると断じて、させぬと決めた。

 半身を失くした少年の、頭を掴んで地に叩き付ける。咒を紡げぬ様に腐った泥を食ませたまま、自身の力を過去最大級に発動する。

 

 眷属と主柱の関係や、能力の相性など論じる必要もない程に――圧倒的な出力を以って、塵一つ残さず消滅させるのだ。

 

 

「創造――許許太久禍穢速佐須良比給千座置座ッッ!!」

 

 

 爆風と共に、津波の様に腐敗が溢れる。この一瞬に示された神威は、座を握った神々ですら防ぎ切れはしないと断じる事が出来る程。

 無論、死に瀕していた少年に防げる道理などはない。溢れ出した毒の津波が消えた後には、唯一柱の姿だけ。他には何も、残ってなどいなかった。

 

 

 

 

 

2.

 時は僅か遡る。その時、彼女は迷いを胸に抱いていた。選べなかったのだ。天秤に乗った二つの要素は、どちらも大切な者だから。

 

 

 

 空を蟲が埋め尽くし、大地を腐毒が飲み干していく。誰も彼もが死に絶えて、悲鳴すらも響かぬ地獄の只中。

 動ける者はもう居ない。初めは避難の為にと戦っていた局員達も、既に多くが倒れている。そんな彼らが必死に動いて、それでも成果は極僅か。

 

 肺が腐る悪臭を吸い込み、集る蟲を払いながら、女は一人濁った空の下で町を見下ろす。彼女が守り続ける法の塔が、民にとっては最後の砦。

 この地で眠る愛しい人と、塔の上部に残った一部の指揮官。そして局員達が命を掛けて此処まで逃がした人々だけが、このクラナガンに残った命だ。

 

 余りに少ない。半刻にも満たない時間で、総人口の九割以上を失った。この地獄の中で戦える者も殆ど居らず、打開の術などありはしない。

 仮に此の窮地を乗り越えられたとして、それが一体何になろう。失われた者が多過ぎて、もう復興などは不可能だった。この世界(ミッドチルダ)は、終わるのだ。

 

 

「世界が、終わる」

 

 

 誰に言われるでもなく、誰もがそう理解していた。それはきっと彼女も同じく、だから壊れ果てた世界を一人見詰めている。

 其処に在ったのだ。そんな想いを抱きながら、思うはこれから為すべき事。彼女の迷いは、もう全てが無駄だから――と言う理由に起因した物ではない。

 

 事実として、もう全ては無駄と成ろう。管理局は完全に崩壊している。逃げ延びたとして、何も為せない程に人も力も不足している。

 新世界は望めない。資格を持つ一人は壊れて、もう一人は何を想うのかも分からない。そして残る最後の一人である女は、至れていないし至る事を恐れていた。

 

 だから無駄になるのだと、そんな事は分かっている。その上で、それがどうしたと開き直る。元より、不可能だとは知っていた。

 それでも、夢を見たのだ。ならば果てが無残な末路に成ろうとも、追い掛け続ける事を止めたくない。故に諦観などは欠片もなかった。

 

 ならば何を迷うのか。決まっている。誰を助けに行くべきか、女は其処で迷っていた。

 

 

「ヴィヴィオ」

 

 

 地獄の中で、泣いている娘がいる。血の繋がりなどない少女であるが、実の子と想う程に愛している。

 そんな幼い少女が、悪魔の姦計に嵌り暴れている。この地獄を作り上げた元凶共に比すれば遥かに小さな力で、周囲に被害を与えていた。

 

 高町ヴィヴィオ。彼女は放置しても、大勢に影響を及ぼす事はないだろう。この地獄の中で、抗えるだけの力を有してはいないから。

 放っておけば、勝手に堕ちて死ぬ筈だ。その結果はほぼ確定で、望まぬと言うのならば何か手を打たねばならない。地獄が少女を飲み干す前に、迎えに行かねばならぬのだ。

 

 

「トーマ。ティアナ」

 

 

 地獄の中で、戦っている少年少女が居る。悪路王の襲来を認識した瞬間に飛び出した彼らは、今となっても愛しい教え子達である。

 彼は強い。彼女は強い。だがしかし、敵は更に強いのだ。彼我の実力差は、相性差だけでは埋められない。盲目な彼と激情に身を任せた彼女では、それにすらも気付けぬだろう。

 

 故に誰かが手を貸さなければ、順当に彼らは此処で終わる。それが分かった。それが分かって、女は迷ってしまうのだ。

 

 

「私は…………」

 

 

 遮二無二何も考えず、娘を助けに向かいたい。けれどそれをすれば教え子達が助からないと分かって、足が竦んでしまっている。

 大切な一人を守る為、他の大切な人達を犠牲にする。そうした後の世界で自分は、果たして良しと笑えるか。全力を尽くしたなどと、胸を張れるのであろうか。

 

 教え子達を助ける為に、あの戦場に飛び込みたい。今は戦力として劣っていようと、彼女ならば生き残れる。生き延びたのならば、神域へと踏み出せよう。

 だがそれを選べば、女は二つを失う事になる。一つは愛しい娘であり、残る一つは人間としての己自身。生き延びてしまえば、彼女は必ず神域にへと至ってしまう。

 

 

「どうすれば、良いんだろう」

 

 

 人の尊さを知ったばかりだ。人の凄さを、確かに知ったばかりなのだ。だから今はまだ、人間として歩いていたい。そんな欲が、確かにあった。

 怖いのだ。彼とは違う生き物になる事が。神様になんて成りたくないと、高町なのはは思ってしまう。そしてそんな弱さが、どうしようもなく恥ずかしかった。

 

 だから目を背けたいと願って、娘の危機を理由にしてしまいそうで、そんな弱さが今更に腹立たしくも恥ずかしい。

 けれど己の弱さを克服する為にと、そんな理由で娘を迎えに行かないと言う選択肢も論外だ。愛する子より自己の都合を優先して、それで何故に母を名乗る事が出来ようか。

 

 選べない。切り捨てられない。迷い続ける程に余裕がなくなる事が分かって、それでもこの地を飛び出す事が出来ていない。

 追い詰められた者達が倒れる直前に、我慢が出来なくなって介入する。結果として、片方を助けられずに失うのだ。それが迷いの果てに待つ、分かり切った末路であると言うのなら――

 

 

「決まっている。さっさと迎えに行ってやれ」

 

 

 誰かが、その背を押してやれば良い。救うべき者らが二つの場所に居るのなら、もう一人がその片方を背負えば良いのだ。

 迷い続けたなのはに対し、言葉を掛けたのは黒髪の青年。常とは異なる白く簡素な和装を纏った彼は、既に終わりを待つだけだった男であった。

 

 

「クロノ君!?」

 

「ティアナ達は、僕が如何にかする。だから高町、お前は娘を迎えに行くべきだ」

 

 

 曇天の下、濁った空を歩いて近付く。クロノの纏う和装がまるで、死に装束の様に見えたのは気のせいか。

 いいや、気のせいなどではないのだろう。彼の言葉に従えば、クロノ・ハラオウンは帰って来れない。その結末は明白だった。

 

 

「けど、クロノ君は……」

 

「言葉を濁す必要はない。足手纏いになる気はないが、力不足と自覚はあるさ」

 

 

 なのはの懸念に、クロノが気付いていない筈もない。救うべき教え子達の戦場は、既に神々の力を以ってしても死闘と呼ぶべき域にある。

 英雄と称される両者ともに、踏み込むには力が足りない。高町なのはならば数度の死からの蘇生で追い付こうが、クロノに至ってはそれさえない。

 

 極まった歪みによる死なぬ身体。それを以ってしても、十数秒と持たないだろう。戦いと言う、形にすらならないのだ。

 そんな事、クロノ・ハラオウンは分かっている。役割を逆にした方が道があると分かって、それでも譲れない理由があった。

 

 

「分かっているさ。悔しいけどな。そんな事は分かっているんだ。けど、それでも、譲れない理由がある」

 

「……死ぬ気、なの?」

 

 

 思わず、口を吐いた言葉。漏れ出した音に、クロノは応えを返さない。唯、曖昧に笑ってみせるだけ。

 また一人、親しい人が居なくなる。そんな未来が確かに見えて、なのははどうしようもなく悲しくなった。

 

 それでも、クロノの意志は変わらない。彼は苦笑しながら、確かにこう語るのだ。

 

 

「なぁ、高町。世界は、もう終わる。これから先で、僕らが出来る事なんてありはしない」

 

 

 唐突に、告げられた言葉は真実だ。既に彼ら二人は、世界の中心から外れている。

 長き時を与えられて、しかし間に合わなかったのだ。そんな彼らが今更に、追い付ける道理はない。

 

 世界は加速する。滅びに向かって、この今も進み続けている。追い付けない彼らが今更に、どうこうしようだなんて口に出す事すら出来やしない事だろう。

 

 

「未来はこない。けど、今はまだある。朝日を見る事は出来ないのだとしても、夜明けまで続く今日を生きる自由はある。今はまだ終わっていないんだ。なら最期くらいは、好きな様に生きて逝きたい。そうは、思わないか?」

 

「……クロノ君」

 

 

 男は死ぬ気だ。彼は元より、もう持たない。だから最期に、望んだ想いを果たして終わろうとしている。

 男は死ぬ気だ。未来はもう訪れない。だから明日の為にと言う名目なんて捨て去って、今を生きたい様に生きて死のうと言うのだ。

 

 正義の為に。未来の為に。力なき民草の為に。そんな理由でこれまでは、ずっとずっと縛られて来た。

 指揮官としての立場があって、責任者としての義務があって、感情よりも合理性を尊ばねばならない時もあった。

 

 そうして、取り零して来た人が居る。ならば未来がないこの今、その最期くらいは我儘に生きても良いだろう。

 

 

「だから、さ。僕から、あの子を助ける権利を奪うなよ」

 

 

 勝算などはない。生還の目途なんてない。助けられる保証など、何一つとしてありはしない。けれど、助けたいから救うのだ。

 この役割は、もう他の誰にも譲りはしない。ずっとずっと向き合ってはやれなかったのだから、この最期は彼女の為に使うのだ。

 

 

「駄目な兄貴だ。抱き締めてやる事すら出来なかった男だ。だから最期くらい、兄の役目をさせてくれ」

 

 

 兄とは、弟妹を守る者。クロノはそれこそ義務だと思う。クロノはそれこそが、最後に残った権利であると思っている。

 だから、彼が向かう戦場はこの地獄の中心だ。夜都賀波岐でも最上位にまで至った仇敵から、妹達を救う事こそ兄の役割。

 

 

「そして、母親は子どもを守ってやるものだ。なら、お前の戦場は其処じゃない」

 

 

 明日はもうない。未来はもう来ないのだ。ならばクロノが戦士ではなく、兄としての道を選んだ様に。高町なのはも戦士ではなく、母としての道を選べば良い。

 最期に、納得して逝く為に。決して、後悔を遺して去らぬ為に。世界を救う英雄なんかではなくて、家族を救う人間として生きて逝こう。クロノはそう語るのだ。

 

 

「……分かった。そっちは、お願い」

 

 

 クロノの覚悟は変わらない。何度説得しようとも、唯の徒労に終わると分かった。それに彼の選択は、なのはが望んでいた形でもあった。

 だから、如何にか返せた言葉はそれだけ。“ごめんなさい”も“ありがとう”も、返して良い言葉じゃない。だから、顔を俯けお願いした。

 

 

「ああ、任せろ」

 

 

 そんな女の言葉に力強く返して、クロノ・ハラオウンは背を向ける。彼の見詰める先には、地獄の中心があるのだろう。

 そんな男の返しに頷いて、高町なのはは顔を上げる。背中合わせに見詰める彼女の、視線の先は小さな娘が一人取り残されている。

 

 さぁ、行こう。これが今生の別れになるから、葬送の言葉を届けよう。さようならと、けどその一言は余りに悲しかったから――

 

 

「また……。また、逢おうね!」

 

 

 もう逢えないと分かっていたけど、高町なのははそう告げた。幼い時分を思い返してまた今度、叶う筈のない約束を。

 その答えは聞かない。悲しくなるからその前に、高町なのはは空に飛び出す。翡翠の光を纏って去る女が遺した言葉に、クロノは小さく笑みを零した。

 

 

「…………ああ、またな」

 

 

 もう逢えないと分かっている。明日は来ないし、彼は此処で終わるのだろう。だから、約束をしても叶いはしない。

 それでも、何となく口にする。そうなれば良いなと期待しながら、もう二度と来ない明日を夢見て、クロノ・ハラオウンは死地を見た。

 

 

「さぁ、最期の舞台を始めよう。万象・掌握――――っ!!」

 

 

 中央へと意識を向けただけで、その五体は既に腐り始めている。けれど紡いだ咒は確かな力を纏って、此処に祈りを届かせたのだった。

 

 

 

 

 

3.

 本来、万象・掌握は格上には通じない。転移させられるのは、使用者より弱い者か使用者の意志に同意した者だけだ。

 地獄の底で起きていた神々の戦場で、クロノに支配出来るものなどない。彼が転移させられる者など、極めて少なかったのだ。

 

 天魔・悪路は不可能だ。彼は圧倒的な格上であるから、万象掌握なんて通用しない。仮に転移させられたとして、今の悪路ならば一歩で星々を跳躍出来る。距離を支配しても届きはしない。

 トーマ・アヴェニールも不可能だ。彼も今のクロノでは比較にならない程に、圧倒的な格上であるから万象掌握は通らない。そしてクロノの言葉を認識出来ないから、同意を得る事すらも出来やしない。

 ティアナ・L・ハラオウンには意味がない。彼女はトーマが居る限りは不死身であって、トーマが望めば彼の傍に現れる。本体と言うべき彼を飛ばせぬ以上、彼女だけでは力を無為に消費する結果となるのだ。

 

 だから、クロノは待った。トーマ・アヴェニールが追い詰められて、クロノの支配下に入る程に消耗する時を。

 その死の直前、弱り切った彼を掌握する。それだけでもクロノの限界を超えてはいるが、歯を噛み締めて意地で為す。

 

 結果は此処に、この光景が示している。異形に成り掛けた男の前に、一人の少年が落ちて来る。トーマ・アヴェニールが、此処に来た。

 

 

形成(イェツラー)ァァァァァ――比翼の乙女(ディアデム・ギューフ)ッッッ!!」

 

 

 周囲を確認するより前に、己の傷を治すよりも早く、トーマは求める少女を呼ぶ。彼の思考は、それだけしか思えない。

 故に周囲を確認するのは、蘇ったティアナの役目だ。魂を形成されて舞い戻った彼女は、見知った姿に慌てて起き上がろうとする。

 

 

「此処、は? ……クロノ、義兄さん!?」

 

「こうして、話をするのは――――いや、顔を見るのも久し振り、か」

 

 

 そんなティアナを手で制して、クロノは一人背を向ける。積もる話も謝罪の言葉も山程あるが、時間だけが余りになかった。

 本当は此処より別の世界へ、飛ばせるなら飛ばしたかった。しかし今のクロノでは、ほんの僅かな距離を稼ぐだけが限界だったのだ。

 

 だから、これより告げるは別れの言葉。兄として妹に、一つの言葉を残して去り行く。

 

 

「後は任せろ。逃げる時間くらいは稼いでみせるさ」

 

 

 唯、それだけ。それだけを口にして、去って行く男の背中。それはどうしようもなく、彼の日の景色と似ていたから。

 

 

「――っ! 義兄さんは、どうして!?」

 

 

 まだ克服出来てはいなかったトラウマを抉られて、ティアナは思わず叫んでしまう。どうして何でと、何時だって彼女は問いたかったのだ。

 

 

「何時も何時も、私の事を置いて行くのよ!!」

 

 

 状況は良く分からない。彼が何をしようとしているのか、まるで分かってなどいない。けれど一つ、確かに分かる事が一つ。

 このまま行かせれば、クロノ・ハラオウンは戻って来ない。彼の日の様にティアナを一人残したまま、もう迎えには来ないのだ。

 

 そうとも、彼の日からずっと待っていた。リンディ・ハラオウンは家族になろうと言ってくれたから、迎えに来てくれる日をずっとずっと待っていた。

 けれど今に至るまで、クロノは一度も来てはくれなかった。漸くこうして顔を合わせて、それが最後と受け入れられる筈がない。ずっとずっと、待ち続けていたのだから。

 

 

「……ごめんな、ティアナ」

 

「謝って欲しい訳じゃない! そんなの、欲しくはなかった! ずっとずっと、欲しかったのは一つだけだったのにっっ!!」

 

 

 欲しかったのは、たった一つ。あの日差し伸べられた手を、掴んだ時に感じた温もり。とても温かかったから、ずっと温かいのだと思った。

 掴み返した掌はなくなって、だからずっと欲しかった。あの温かさがまた欲しかった。抱き締めて欲しいのだと、ティアナは愛を欲していたのだ。

 

 

「本当に、ごめんな。気付くのが、少し遅過ぎた。だから、ごめんな」

 

 

 そんな事、もっと早くに気付くべきだった。なのにこうして、今に至るまで先延ばしにしてしまった。それはきっと、男の罪であるのだろう。

 けれど今更に、出来る事などありはしない。泣き崩れた妹に背を向けて、進む道は変わらない。もう余りにも遅いのだ。クロノはどうあれ、此処で終わる。

 

 

「トーマ・ナカジマ」

 

 

 家族として、その心を慰めてやる事は出来ない。これからずっと、一緒になんて居られない。だから、それが出来る少年へと言葉を掛ける。

 此処で終わる事しか出来ない。命を守ってやる事しか出来ない。そんな不甲斐ない兄の代わりに、どうかと祈り言葉を紡ぐ。頭を下げて、彼に頼んだ。

 

 

「僕に言う資格はないかもしれないが――――ティアナを頼む」

 

 

 半身を断ち切られたと言うのに、既に再生が始まっている少年。その不死性に僅か瞠目しながら、これなら大丈夫だと安堵もする。

 不甲斐ない兄が一緒に居るより、彼の方がずっと良い結果を残せるだろう。世界が終わる最後の時まで、きっとティアナを守ってくれる筈なのだ。

 

 だから、素直に祝福できる。安堵したまま、死地へと行ける。そう微笑んで、身を翻した青年。そんなクロノの背を見詰めたまま、トーマは一人立ち上がる。

 

 

「分からない。分からない。分からない。分からない」

 

 

 彼には分からない。男の言葉が分からない。まるで別の宇宙に迷い込んでしまった様に、それが言葉とすらも認識出来ない。

 頭の中がごちゃごちゃしている。トーマは二人以外の全てを捨てたから、答えなんて分かる筈もないのに――――何故だろう。この感情が、何だか分かった。

 

 

「だけどっっ!!」

 

「が――っ!?」

 

 

 それは、怒り。許せないと言う矍鑠の意志を以って、握り締めた拳を振るう。汚染された身体を真面に動かせないクロノは、思いっ切りに殴り飛ばされていた。

 

 

「腹が立つ。一体何に? アンタにだ! 許せないんだ。一体何が? アンタがだ! 頭が燃えてしまいそうなくらいに憎くて憎くてイライラするのに、どうしてこんなに涙が止まらない!? 訳が分からないんだよ! だから死ぬなよ、糞兄貴っっっ!!」

 

 

 頬を殴られ、地面に倒れたクロノは見上げる。瞳に映ったのは、泣きながら怒っているトーマの姿。彼は確かに、クロノを見ていた。

 何も見えなくなった筈なのに、何も分からなくなった筈なのに、何も認識出来なくなった筈なのに、トーマはクロノの事を確かに認識していたのだ。

 

 

「……ああ、そうか。そういうことか」

 

 

 殴られた頬を抑えながら、よろよろと立ち上がるクロノ。彼には分かった。少年の内に起きた変化の理由が。

 

 彼は空っぽだ。愛する人を救う為、その全てを捧げた人形。器の中身は何も残っていないから、誰の事も認識出来ずに居たのである。

 けれど、彼は空の器である。もしも何らかの方法で、その中身を満たせたならば――器は空ではなくなるだろう。この変化は、詰まりそういう事なのだ。

 

 

(これは、無駄死になんかじゃない。そうさ。明日は来ないと、まだ決まった訳じゃなかった)

 

 

 失ったものは取り戻せない。捧げたものは返らない。一度喪失したものは、もう二度とは得られない。

 それでも、それは何も手に入らないと言う事を意味はしない。また零から、積み重ねる事ならば出来るのだ。

 

 空の器に、響いていたのはティアナの感情。怒り。嘆き。そして愛。その全てが、トーマの中で反響していた。

 それらの感情が、彼自身をまた育んだ。だからこうして、トーマの視野は一つ広がる。今のトーマは、クロノに怒り、クロノに嘆き、クロノを確かに想えているのだ。

 

 

(ならば信じよう。未来の為にも、此処で逝こう。この身が、小さな爪痕くらいは残してくれるんだって)

 

 

 希望はあった。神へと至れる彼が、また誰かを想えたならば――それこそきっと、新世界の萌芽となる。

 だから、その為にも死のう。彼の傷となり、その痛みから生まれ落ちる事が出来る様に。男の終わりは、きっとその為にあったのだ。

 

 

「悪いな、トーマ。僕は行く」

 

「お前っっ! どうしてっっ!?」

 

「ティアナ。……幸せにおなり」

 

「義兄さんっっ! 待ってよっっ!!」

 

 

 怒りと共に、嘆きと共に、確かな愛で手を伸ばす。そんな二人の弟妹の、手が届く前に転移する。

 如何に神域にあろうとも、クロノ・ハラオウンは掴めない。故に伸ばした二人の手は、何も掴めず虚空を切った。

 

 

 

 

 

 そして、叫喚地獄の中を行く。腐臭の中で思うのは、これまで過ごした日々の事。二十五年。思えば長く過ごしたものだと。

 

 想いを決めたのは、3つの頃。泣き崩れる母と共に、参列した葬儀の中で。怒りと共に暴いた棺に、中身なんて何もなかった。

 これが戦い続けた末路だと、どうしようもなく納得出来なかったのだ。父の生き様に焦がれていたから、己が変えると奮起した。

 

 現実を知ったのは、11歳の頃。海の英雄グラハムの使い魔であったリーゼ姉妹に師事を受け、士官学校を首席で卒業し戦場に出た。

 恐怖はあったが、自信もあった。母リンディと恋人エイミィの支援もあって、どうにかなると思っていた。けれど、どうにもなりはしなかった。

 

 多くの人と出逢い、大切な人達を失ったのは14の頃。友を奪われ、母を奪われ、恋人を奪われた。全ては唯一柱、父を殺した死人の手によって行われた惨劇。

 今も恨み、今も憎み、怒り続けている仇敵。届かせようとした憎悪の刃は、きっと届きはしないのだろう。近付くだけで腐る今、勝機はないとは分かっていた。

 

 だから、恨みを晴らす為ではなくて――守る為、新たな世の為に此処で死ぬのだ。そう決めたクロノは、気付けば笑みを浮かべていた。

 

 

「律儀、だな。待っていて、くれたのか?」

 

「勘違いだ。僕は屑だ。自壊する我が身が惜しくて、動けなかっただけに過ぎない」

 

「……なら、そういう事に、して、おこう」

 

 

 眼前には、溢れんばかりの腐臭を漂わせている男。目視し、近付き、それだけでクロノは既に死に掛けている。

 急速に腐り始めた身体は零れ落ち、すぐさま再生を始めている。己の魂を蝕む歪みが、如何にか生かそうと蠢いているのだ。

 

 だがそれは、元の形を維持しようと言う物ではない。秒と言う単位で変貌を遂げていく肉体に、クロノは舌も満足に回せなかった。

 

 

「……これは忠告だ。クロノ・ハラオウン」

 

 

 唐突に現れて、何もしない内に壊れていく青年。死に装束を纏った彼の異様を前に、悪路は迷いも疑問も抱かない。

 彼の役目は、命を賭けた諜報活動。強行偵察と言うべきものだ。だからこそ、この地で起きた全ての対話を一つ残さず聞いていた。

 

 だから分かる。彼の抱いた希望を。そして、分かってしまうのだ。最期に見たその夢が、偽りでしかないことを。

 

 

「断言しよう。君が抱いた未来は、夢物語にしか成り得ない。既に破綻しているんだ。あの人形は、新世界には成り得ない」

 

 

 新世界は生まれない。この世界に未来はない。天眼でこの地の全てを見詰めて、悪路が出した結論がそれだ。

 だが、この世界の維持も出来ない。両翼の一つと断頭台が失われた今、天魔・夜刀は蘇れない。世界はこのまま滅ぶのだ。

 

 

「人形が人間に成る事はあるだろう。空っぽの心に、確かな自我が芽生える事もあるだろう。けれどそれには時間が掛かる。忘れたか? 世界は今日終わるんだ」

 

 

 もしも、もう少し時間があれば、或いは至れたのかもしれない。けれどもう時間はないのだ。故に彼の描いた理想は、唯の空想に堕ちている。

 天魔・悪路がそれを告げたのは、慈悲の心算であったのだろうか。妹を守ろうとする姿に、感じ入る物があったのか。何であれ、彼が語ったのは唯の事実だ。

 

 

「知って、いるさ」

 

 

 そんな事、クロノは既に知っている。どう考えても時間が足りないと、そんな事は分かっていたのだ。

 

 

「それでも、僕は、信じると、決めた。世界が、終わる前に、間に合うと、信じてみせると、決めたんだ」

 

 

 それでも、信じると決めた。此処に居て、呼吸をするだけで壊れていく。そんな男は、それでも確かに信じていた。

 可能性を見たのだ。階を理解したのだ。未来を諦めていた彼が、また信じるに足る理由。それが一つ、確かにあった。

 

 

「何故だ。何故、君は……」

 

「何故? 分から、ないのか、天魔・悪路?」

 

 

 壊れる男は最期に笑う。戦いは愚か、蹂躙にすらならない戦力差。近付いただけで終わると言う状況で、それでもクロノは笑って言った。

 

 

「アイツは、ティアナが選んだ男だぞ? 大事な妹が共に生きると決めた男だ! なら、兄貴の僕が信じてやらんでどうするよっ!!」

 

 

 其処に、合理性なんてない。其処に、それ以上の理屈なんて要らない。唯、大切な妹が愛した男だから、信じるのだとそれだけだ。

 

 

「至れるさ。ティアナと、ティアナが選んだ男だ。なら、絶対に、至れるのさ」

 

 

 そうして、クロノ・ハラオウンは地に落ちる。転移してから出来た事は、言葉を少し紡ぐだけ。攻撃すら行えないまま、彼は人間として終わっていた。

 

 

「…………合理性は、欠片もないな」

 

 

 膨れ上がった肉塊が、腐りながら弾けている。何処か葡萄を思わせる形状が、ほんの数秒前まで人間であった彼の現状。

 動く事も、話す事も、思考する事も出来なくなった残骸。彼であった物が何を為せたかと言えば、それはたった一つの小さく儚い偉業である。

 

 

「だが、共感はできる。そうだね。君の言う通りだ」

 

 

 目の前に現れて、直ぐに壊れてしまった男。彼の想いに、櫻井戒は共感した。この凍り付いた感情を、確かに揺り動かしていたのだ。

 彼らはきっと、本質的には似た者同士であったのだろう。もしも互いの立場の違いや積み重ねた憎悪の情が無ければ、友に成れていたであろう程に近しくあった。

 

 

「僕が刹那を信じたのは、あの子が彼を愛したから…………ならば君の抱いた希望を、僕は決して笑えない。そうだ。兄貴(ボクら)だけは信じるべきだ」

 

 

 そうとも、これは偉業だ。排他廃絶を掲げていた大天魔の中でも、最も大きな憎悪を抱いていた男を翻意させたのだ。

 滅びるべきだと、滅ぼすべきだと。未来はないから、せめて死こそが救いであると。そんな想いが、共感によって書き換わる。

 

 だからこそ、奴奈比売の呪いによって変貌する結末は気に入らない。このまま死ねず苦しみ続ける末路など、この男には相応しくはない。いいや、その末路を悪路が気に入らないのだ。

 

 

「去らばだ。クロノ・ハラオウン。君は此処で、人間として終わるが良い」

 

 

 故に、人として死ぬが良い。悪路はその神威を以って、彼の魂に巣食う歪みのみを断ち切り腐らせた。

 後に残るは、人の残骸。それも瞬きの間に、腐って溶ける。風に吹かれて、クロノ・ハラオウンはその命を終えたのだった。

 

 

「さようなら。そして――」

 

『あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!』

 

 

 この一瞬を妨げようと、近付いていた者らが叫ぶ。失われたと言う事実を前に、涙と怒りを叫んでいる。

 その死を阻む為に追い掛けて、結局追い付けなかった二人。トーマとティアナの姿を、悪路は冷たい瞳で見詰めた。

 

 

「君ではない」

 

「天魔・悪路ぉぉぉぉぉっ!!」

 

 

 そして、一蹴。近付くティアナを腕の一振りで吹き飛ばし、試すべき標的へと悪路は手を伸ばす。

 

 

「ティアァァァァァァァァァァッッ!!」

 

「そう、君だ」

 

「が――ぁっ!?」

 

 

 傷付いた少女の姿に叫ぶ少年を、その腕で掴み取る。膨大な量の腐毒を流し込みながら、悶え苦しむ彼を地面に叩き付けた。

 そして、見下ろしながら悪路は語る。己の翻意。その変換。一体何を望み、何に期待しているのかを。彼は此処に告げるのだ。

 

 

「知るべきは知った。後は安らかなる最期の為にと、そう考えていたのだけれど――――どうせ終わると言うのなら、彼の言葉を信じてみるのも悪くはない」

 

 

 最初の目的は、天魔・宿儺の死の真相を知る事。それ自体は此処に来て、天眼を使えば容易く分かった。

 次の目的と掲げていたのは、最早救えぬ人々を介錯する事。新世界は訪れず、旧世界は滅ぶのだから、巻き添えとなる前に死んだ方が幸福だ。

 

 そう思っていたのだが、或いはと期待した。共感を抱けた男が信じていたのだから、乗せられてみるのも悪くはないと。故に、悪路王は剣を執る。

 

 

「古き世で、僕らが座した黒円卓。其処には、錬金術の思想が関わっていた。黄金錬成。知っているかい? 至高の黄金は、腐敗の中から生まれるそうだ」

 

 

 考えてみれば、この構図もまるで狙ったかの様だ。黄金とは真逆の物質である水銀。其処に至ってしまった少年を、黄金へ至らせる。

 その為に、必要な人材。それはこの悪路王を置いて他にはいない。何故なら黄金とは、腐敗の中から生まれるが故に。腐毒の王こそ、寿ぐ者に相応しい。

 

 

水銀の叡智(イラナイモノ)を削ぎ落し、その魂を純化させよう。生物としての誕生を、殺し続ける事で促進させよう。果てに至れると信じ、先ずは試してみるとしよう」

 

 

 振り上げた剣を、振り下ろして切り捨てる。激痛に叫ぶ少年は、しかし自らの力で再生する。治るまで待ってから、再び悪路は剣を振り下ろす。

 何度も、何度も、何度も、何度も。死んで蘇る度に何かが欠落していくなら、そして何かを手に入れるなら、きっと何時かは届くであろうと繰り返す。

 

 限りはある。時間制限はもう間もなく。悪路自身の崩壊も、そう遠い先の話じゃない。トーマの心も、折れてしまうのかもしれない。

 だが、終わるまで結果は分からない。ならば試し続けよう。民を死なせ続けるよりも、遥かに有意義であると信じる事が出来たから。

 

 

「加減はしない。死に続けろ。果てに流れ出すなら、それで良い。……至れぬならば、塵すら残さず消え失せろ」

 

 

 大いなる業を此処に再現しよう。腐敗による黒化。復元再生による白化。ならば赤化は、一体如何なる形で起きるだろうか。

 分からない。だが、信じよう。信頼を裏切られようと、どうせ全て破滅するだけなのだ。だから彼が至れると、信じながら殺し続ける。

 

 この世界が終わるまで、その殺戮は止まらない。悪路は振り上げた刃を、振り下ろし続けるのであった。

 

 

 

 

 




Q1.何で皆、直ぐに死んでしまうん?
A1.調整役の宿儺さんが事故ったから。

Q2.何で宿儺さん、死んでしまったん?
A2.エリオ君がRTA始めたから。

Q3.何でエリオ君、自重しないの?
A3.ホモじゃないから。


詰まりIfルートを総括すると――エリオ君がホモじゃないから、世界が滅びるんだよ!!




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第十八話 魔鏡 ヴィヴィオ=アスタロス

お待たせいたしました。大分難産でしたが、漸く形になったので投稿です。

推奨BGM
1.Fallen Angel (Paradise Lost)
2.Vive hodie (Dies irae)
2.の途中から Innocent Starter_N&Fコンビネーション (魔法少女リリカルなのは)


1.

 空を包んだ蟲の群れ。中天に座す朱い月さえ覆い隠す物量は、星の内側へと人々を隔離し逃がさない。

 分厚い雲を貫き空を舞うことは極めて困難で、魔群を貫き通せたとしてもその先には簒奪の月。空へ飛べても疲弊した様では、奪われ堕ちるが必定だ。

 

 襲い来る脅威は、蟲や月だけではない。雲に遮られた内界に、満ちているのは呪いの神風。

 絶えず吹き付けてくる呪風は、触れれば腐る呪詛の塊。常人であれば一歩進む事も出来ぬ程、この地は死に満ちている。

 

 そんな冒された星の空を、一人の女は進んでいた。白い衣に翠の輝きを纏って、高町なのはは前に行く。

 向かうは一路、救うべき少女が居る場所へ。友が背負ってくれたから、その心意気に応える為にも、一人で戻る事はない。

 

 覚悟を定めて空を行く。そんな女にとっても現状は、容易いとは断じて言えない。唯移動しているだけですら、困難な道程に違いないのだ。

 

 

(チリチリとした痛み。まるで火傷をした肌で、何かに触れてしまった様な。微弱だけれど、確かな痛み。これは、肌が腐っている?)

 

 

 感じる痛みは、身体の一部が腐敗し始めているから。周囲に展開した防護魔法を貫いて、悪路の呪風はなのはに影響を与えている。

 簒奪の月に奪われて、魔法の力が弱っているのか。距離を離している状況ですら影響する程に、悪路の力が高まっているのか。理由はどうあれ、結果は一つだ。

 

 エースオブエース。ミッドチルダに残った最高位の異能者。陰陽太極である女ですら、長くは生きていられない地獄。それが今のミッドチルダなのである。

 

 

(この距離でも影響を受けるなら、あの子も余り長くは持たない。急がないと、ヴィヴィオを絶対、助けないとっ!)

 

 

 ミッドチルダを地獄に変えた元凶達。自滅を続ける神域の怪物達と比すれば、利用されているだけの少女は大きく見劣りするだろう。

 その身が如何なる生まれ方をしているのか、高町なのはは何も知らない。それでも少女は娘であるのだ。ならばその子の危機にあってどうして、焦らない理由があるか。

 

 

(なのに、身体が重い。こんなにも、重いと感じたのは何時以来? 或いは、初めてかもしれない程。どうしてこんなにも、身体が重いの?)

 

 

 防護魔法を貫かれ、変色していく己の肌に歯噛みする。後どれ程に時間はあるのか、焦れば焦る程に己の飛翔速度が気に掛かる。

 もっと早く飛べた筈であろうに。そんな風に思ってしまうのは、それ程に焦燥が大きいからか。余りに遅いと、舌打ちさえしたくなる。

 

 それでも歯噛みして、只管に空を飛ぶのはそれしか出来ないから。内心の罵倒を口に出したとしても、加速出来る訳ではないのだ。

 だから間に合うと信じて。だから間に合ってと祈って。高町なのはは空を飛ぶ。分厚い雲の直下を飛んで、たった一人の少女の下へと。

 

 

「見付けた! ヴィヴィオッ!!」

 

 

 そして、高町なのはは辿り着く。其処は機動六課の隊舎が嘗て在った地。少女の手により、多くが奪われてしまった場所。

 崩れて腐って溶け出している瓦礫の山。暗い空の下に浮かんでいるのは、拘束具にも似た白いドレスを着る少女。なのはが求めた、救うべき者。

 

 

「あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああっっ!?」

 

 

 少女の瞳に、正気の色は欠片もない。白く輝く翼を背負ったヴィヴィオは、腐る身体の痛みに意味をなさない悲鳴を叫んで、狂った様に暴れている。

 翼を振るう度に光が天と大地を薙ぎ払い、呪風を跳ね除け蟲を吹き散らす。けれどそれだけ、巻き込まれるのは人であった者らだけ、この地獄を生み出した怪物達に届く筈もない。

 

 既に死んだ者だけを、吹き飛ばしている理性のない天使。光の宿らぬ瞳で少女が暴れる理由は、その上位者が命じたから。

 ならば何故、ベルゼバブは少女を暴走させたのか。端的に言えば唯の囮だ。派手に暴れる少女が目晦ましになれば良いのだと、そんな悪意が透けて見える。

 

 

(クアットロ。貴女は、何処まで……)

 

 

 悪しき女の思惑を理解して、胸を過ぎるのは確かな怒り。友への仕打ちと、娘へのこの仕打ち。許せる筈などありはしない。

 憎悪にも似たその情が、しかし胸を焦がしていたのは数瞬だけ。今為すべきは、此処に居ない者への執心などではなかったから。

 

 助けよう。救い出そう。魔群が少女を重要視していないのならば、きっとこの手は届く筈だと。だからその手を伸ばすのだ。

 

 

「もう帰ろう! ヴィヴィオ――――ッ!!」

 

 

 空で暴れる天使に向けて、飛んで近付き右手を伸ばす。翡翠の光を纏った女は、柔らかな笑みを意図して作って。

 怯える少女を抱き締めよう。ほっと一息、安堵を一つ。もう大丈夫だと伝えたいから、安らぎの中へと包み込もう。

 

 微笑みながら近付くなのはは、唯々少女だけの事を想っていて――――だから心は届くのだと、世界はそれ程に甘くはなかった。

 

 

「あああぁぁぁぁっ! 来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

「く――っ、か、は」

 

 

 その手が触れると言う直前に、白き翼が羽搏き阻む。輝く羽が生み出す風は、破壊の衝撃となって女の護りを砕いていた。

 翡翠の障壁は容易く砕かれ、高町なのはは大きく背後に吹き飛ばされる。直接的な被害も軽くはなかったが、それより大きな害は障壁を砕かれてしまったこと。

 

 浅くはない傷を負った女は其処で、腐毒に満ちた大気を直接吸い込んでしまったのだ。一瞬で肺が腐り堕ち、異臭混じりの血反吐が絶え間なく口から溢れる。

 このままでは死に至ると、半ば無意識の内に発動するのは不撓不屈。腐り堕ちた肺を再構成した後に、再び護りを張り固める。溜まった血を吐き捨てて、なのはは小さく呟いた。

 

 

「……拒絶、されたの?」

 

 

 傷付けられて腐って治した。その過程で受けた痛みは、悲鳴を上げたい程の激痛だろう。だがそんな身体の痛みより、心の痛みの方が強い。

 助けようと近付いて、来るなと拒まれ跳ね除けられた。抱いていた親愛は、一方的な物であったのだろうかと。弱さを思わずにはいられない。

 

 けれど、それは誤解なのだと直ぐに分かった。右と左で色の異なるヴィヴィオの瞳は、何の光も宿しては居なかったから。

 

 

「痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛い痛い痛いの! もう来ないでよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」

 

(……違う。あの子にはまだ、何も見えていない。目と耳を封じられた状態で、与えられる痛みに震えているだけなんだ)

 

 

 痛い痛いと何もない場所で暴れ続けている少女。己の身体の痛みより、己の心の痛みより、その哀れな姿が何より痛い。

 だから想いを強くする。けれど身体は重くなる。だから助けないとと心を燃やす。なのに輝きは弱く儚くなっている。高町なのはは、その事実にまだ気付けない。

 

 痛みに慣れた肉体は、その感覚を鈍化させる。燃え上がり続ける心の強さは、己に対する盲目さにも繋がり得る。だから女は不調に気付かず、変わらぬ意志で前に進んだ。

 

 

「大丈夫。助けるよ。私が必ず、守るから! だから――少しだけ、我慢して!」

 

〈Restrict Lock〉

 

 

 虚空より現れた翡翠の光が、輪となり少女の四肢を捕える。分からぬ見えぬと暴れ狂うのならば、先ずは動けぬ様にすれば良い。

 

 叶うのならば、傷付けたくなどないのだと。どうしてこんなにも悲しい姿を晒す少女を、これ以上傷付けられると言うのだろうか。

 そんな想いはしかし甘さだ。全てを背負う強さがなければ、優しさなんて許されない。それが戦場における理で、今の高町なのはにはそんな強さは残ってなかった。

 

 

「これで、――っ!? ヴィヴィオ!!」

 

「あああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」

 

 

 翡翠の輪が少女を捕えられたのは、秒にも満たないほんの一瞬。翼の一振りで容易く砕かれ、溶ける様に儚く消えた。

 

 

(嘘!? こんなにあっさり、バインドが!?)

 

 

 そんな一瞬に、女は驚愕している事しか出来ていない。常ならば動けていたであろうに、反応速度が劣化している。

 茫然と動きを止めたなのはの姿を、ヴィヴィオの瞳はやはり映さない。今も痛みを与える何かを遠ざけようと、少女は力を振るうだけ。

 

 

「消えろ! 消えろ! 全部、消えろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」

 

 

 羽搏きと共に落ちて来る光弾は、秒ともせぬ内に数え切れない程に膨れ上がる。無数の雨に打ち貫かれて、なのはは再び大地へと。

 墜ちる直前、何とか止まって浮き上がる。貫かれた雫に打たれたその肉は、異音と共に腐っていく。それでも、それでもと女は再び空を見上げた。

 

 

「っ……、くっ……、けど、それなら! 少しだけ、無茶をする! それが出来る、力はある!!」

 

 

 録画を逆再生するかの様に、煙を上げて塞がっていく傷痕。まだ動けると、想いを胸になのはは空へと飛び上がる。

 握った杖に力を込める。近付くだけでは足りなくて、拘束だけでも不足している。ならばどれ程に嫌だと思えど、傷付ける以外に道などない。

 

 

「ヴィヴィオ! もう少しだけ、痛くするよ! けど絶対! 絶対に助けるから!!」

 

 

 飛翔する女は無数の光を弾丸に変え、降り注ぎ続ける光にぶつける。二つの光は相殺し、開いた隙間を飛翔し少女の下へと。

 杖に灯した光はディバインバスター。傷付けてでも気付かせる。迎えに来たのだ、帰ろうと。伝える為に、暴れるヴィヴィオを傷付けよう。

 

 覚悟を決めて飛んだ女は、しかし僅かに遅かったのだろう。もしももう少しだけ早く、それならば間に合っていたかもしれなかった。

 

 

「あぁぁぁぁぁぁっ!? 幸いなれ、癒しの天使(Slave Raphael)!!」

 

「こんな、風、なんて――っ!?」

 

 

 世界は何処までも残酷だから、仮定の話に意味などない。此処に残る結果は一つ、高町なのはは間に合わなかった。

 それは彼女の甘さが故にか。それとも力の不足が故にか。いいや根本的にはそうではない。焦がれたが故に、女は地へと墜ちるのだろう。

 

 吹き付ける風に抗おうと、魔力を集束し始めた高町なのは。彼女は此処に来て漸く、その事実に気付けたのだった。

 

 

「え? な、んで……?」

 

 

 魔力が集まらない。どころか、出力が落ちていく。それは余りに異常な程に、急激に劣化し衰えていく。

 リンカーコアを移植してから、確かに出力上限は下がっていた。だとしても、こんなにも下がるなんて事はなかった。

 

 初めての経験に動揺し、失われていく魔力に硬直する。何時しか障壁は揺らいでいて、飛翔の速度は亀の歩みに比する程。

 

 

その御霊は山より立ち昇る微風にして(spiritus est aura montibus orta)、黄金色の衣は輝ける太陽の如し( vestis aurata sicut solis lumina)

 

「出力が、下がる? 魔力が、霧散する? 一体、何が、どうして、何で!?」

 

 

 纏う魔力が消えて行く。魔法が真面に発動しない。それは嘗て体験した、身洋受苦処とは似て非なる喪失感。

 何故だか分かる。一時ではないのだと。何故だか分かった。これからきっと、永遠に失ってしまうのだと。娘を助ける、力を母は失くすのだ。

 

 

「黄衣を纏いし者よ、YOD HE VAU HE――来たれエデンの守護天使」

 

「必要なのは、今なのに! どうして、魔力が高まらないの!? 魔法の術式が、どうして今に崩れるの!?」

 

 

 こんな風になるなんて、想像した事すらもなかった。本当に必要な時なのに、どうしてこの今に失われてしまうのか。

 どれ程に悲痛を叫んでも、その想いは届かない。吹き付ける風は強く重く、飛翔さえも出来なくなった高町なのはを吹き飛ばした。

 

 

「アクセス、マスター。モード“パラダイスロスト”より、ラファエル実行――」

 

「――っ!? きゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 

 周囲一帯を空間ごと削り取る幸いなる風。飛ぶ事も身を守る事も出来ない女が、それに巻き込まれて助かるなんて道理もない。

 娘を救おうとした母親は、何も出来ずに大地の底へ。直撃で即死出来なかったのは、果たして幸か不幸のどちらかか。墜落した女は血反吐を吐いて、腐毒の中に崩れて倒れた。

 

 

 

 

 

2.

 秒と持たずに腐り堕ちる、身体を動かし空を見上げる。赤く染まった瞳の一つは、既に機能を無くしていた。

 血反吐を吐いて、残る瞳で白を見詰める。今も悲しく哀れみを誘うその姿。涙を拭って上げたいのに、この手は動いてくれもしない。

 

 

「痛、い……」

 

 

 このまま腐って死ぬのであろうか。それとも薔薇に吸われて死ぬのか。或いは蟲に喰われて消えるか、天使の光に磨り潰されるのか。

 最後の一つは嫌だなと、回る思考は諦めだろうか。もう立ち上がる機能さえ残っていない身体には、当然傷を治す様な力も残ってなど居ない。

 

 

「傷が、塞がら、ない。それに、何も、見えない。あんなにも、見えていた、筈なのに」

 

 

 魂を見る瞳。この状況下でも、ヴィヴィオの位置が確かに分かったその力。それさえも、今のなのはには残っていない。

 光さえも映さない右目と、光しか映していない左の目。映らぬ景色に違和を感じて、けれどそれが当たり前なのだと思考する。

 

 普通の人間は、人の魂なんて見えはしない。眼球とは、光を映すだけの物。そう思考した直後、高町なのははふと気付いた。

 まるでパズルのピースが嵌って、絵の全貌に気付けた様に。己の不調の原因が、一体何処にあったのか。それを女は、此処で漸くに気付けたのだ。

 

 

「……ああ、そうか。そういう事、だったんだね」

 

 

 これは憧れだ。これは憧憬だ。当たり前に焦がれてしまった。それが全ての理由である。

 きっかけは何時か。陸の守護者が人を信じろと語った時か。それとも愛しい人に焦がれた時からだったのか。

 

 高町なのはは、焦がれていたのだ。儚く消える輝きが、灯す至高と言うべき美麗さに。

 

 

「私は、人に焦がれていた。空を飛んでいては、辿り着けない輝きに」

 

 

 まるでそれは、空に輝く星の様に。綺麗だったから、飛べばきっと追い付けるのだと信じて走った。

 けれど何時しか気付いていた。飛べば飛ぶ程に、空の星からは離れていくと。そうとも届く筈などなかったのだ。

 

 焦がれていたのは、当たり前な人の輝き。何処にでも居る人間が、必死で生きるからこそ得られる強さであったと言うのだから。

 

 

「だから、無意識の内に、空を飛ぶ事を、恐れていた。こうなることを、願ってしまった」

 

 

 気付いた時から、恐れていたのだ。人から外れてしまう事を。星から遠ざかってしまうと言う事を。

 無意識の内に拒絶して、停滞していたその進歩。気付いてしまえば、進む足は更に鈍化し動かなくなっていく。

 

 その憧れと恐怖こそ、こうしてなのはが倒れた理由。歪みに返しの風がある様に、身の丈を過ぎた力には代償があったのだ。

 

 

「私の望んだ奇跡の対価は、私自身の魂の欠片。これまでは、削られていく以上に、増えていたから、踏み倒せていた」

 

 

 魂を薪に変えると言う事は、大本である魂を削っていくと言う事だ。その果てに魂が尽きたのなら、力なんて出せる訳がない。

 詰まりは燃料不足である。進歩を拒んだ時から薪が増える事はなくなって、それでも湯水のように使い続けていたから底を尽いてしまった訳だ。

 

 

「でも、これ以上増える事が怖くなって、私は止まってしまったの。なら、何時かは、魂も、底を尽く。こんなの、当然、だよね」

 

 

 唯人に対する憧憬。神域へと至った後ならば、女に無限の進歩と進化と言う力を与えたであろうその矛盾。

 されど神域へと至る前に気付いてしまえば、その矛盾は女にとっての猛毒と変わってしまうのだ。陰陽太極は今此処に、成立せずに崩れて壊れた。

 

 

「魔法は、魂がなければ真面に扱う事も難しい。私の有する魂は、もう魔法の維持が難しい程に悲鳴を上げている」

 

 

 遠のく意識の中で思う。あれ程に執着した力の喪失に、思っていた程には心が動かないのは魂そのものが削れているからか。

 神への道は閉ざされた。魔法の力は無くしてしまう。最後に残った愛する男との繋がりですら、次第と感じ取れなくなっていく。

 

 

(辛いな。痛いな。苦しいし寂しいし恐ろしい。もう君が、一緒に居ると感じる事すら出来なくなっていく)

 

 

 それを寂しいと、そして悲しくて苦しくて恐ろしいのだと感じている。離れ離れとなっていく、二人に命の保証はない。

 このまま腐って死ぬのだろうか。あのまま目を覚まさぬのだろうか。何も為せずに道も半ばで、無残に消え去るだけだと言うのか。

 

 それを恐ろしいと、感じない訳がなかった。涙が溢れて流れる程に、苦しく悲しく寂しい事だ。ああ、そうなのだけど――

 

 

「……でも、これが当たり前なんだ」

 

 

 これは、当たり前の事でしかない。高町なのはが憧れた、何一つとして特別ではない凡庸な人間などそんな者である。

 明日の保証なんてない。今この瞬間にも、命が終わってしまうかもしれない。奇跡の様な事なんて何一つとして出来なくて、愛しい誰かを近くに感じとれもしない。そんな者こそ、人間なのだ。

 

 

(嫌だよ。私は特別で居たかった。誰より凄い私になって、私にしか出来ない事をって)

 

 

 溢れる涙と共に思う。幼い日の高町なのはは、特別な者に成りたかったのだと。自分だけにしか出来ない事を、どうしようもない程に求めていた。

 その感情は今もまだ、失われた訳ではない。それ以上に焦がれているけど、己の特別さに対する執心も確かにあって。だけどもう、納得するしか道はない。

 

 

「でも、それが普通なんだよ。人として生きるって言うのは、何も特別な事じゃないんだ」

 

 

 誰しもが特別に成りたくて、けれど誰しもが凡庸にしか生きられない。何処にでもある路傍の石は、歯車の様に日々を過ごしていくだけだ。

 それに焦がれた特別だった女は此処に、その特別性を喪失する。何処にでも居る何処かの誰かとなって、このまま腐って死んでいくだけ。それが当たり前の人間だ。

 

 

「特別じゃない人達は、ずっとずっと戦って来た。知っているよ、沢山の人達がそういう風に生きてきたって」

 

 

 だからきっと、それは嘆くべき事じゃない。悲しくても寂しくても辛くても、涙を流す様な事ではない筈なのだ。

 

 

「画面の端で見切れて消える端役達。道ですれ違うだけの脇役達。何処にでも居て、きっと誰でも代わりになれちゃう。そんな普通が、当たり前」

 

 

 そうとも焦がれ続けて来たのは、そんな普通な人間がそれでもと意地を貫く強さ。何もないのに歯を食い縛り、足掻いて生きるその在り方。

 

 

「私はそれに憧れた。地に埋もれた星ではなくて、空に輝く星でもなくて、路傍に転がる唯の石。それでも其処には、確かな輝きだってあったから」

 

 

 それを知っている。確かにそれを知っている。恵まれた才能を失って、様々なものを失って、それでもと叫び続けた愛しい男を知っている。

 

 

「特別な才能なんてなくて、自分にしか出来ない事なんてなくて、吹けば飛ぶ様な矮小な存在で、……でも、神様の玩具なんかじゃない。それが、何処にでも居る、人と言うモノ」

 

 

 ならばどうして、己はこうして倒れているのか。憧れた彼ならば今この時でさえ、立ち上がってみせたのではなかろうか。

 握る杖に力を入れようと足掻く。感覚さえなくなった左手では、掴めているかも定かではない。それでも、強く握ろうと足掻いた。

 

 

「私はきっと、そういう者に変わっていく。そうなりたいと、心の何処かで願っていたから」

 

 

 それこそ始めの第一歩。何度倒れても起き上がる事こそ、不屈と言うべきその輝き。女が幼い時分から、確かに胸に宿した想い。

 そうとも、挫折を続けて来た。心折れて諦めたのは、たった一度や二度ではない。けれどその度に立ち上がり、必死になって乗り越えたのだ。

 

 魔法を失ったとしても、不屈の想いは消え去らない。ならば燃え上がる想いを薪として、もう一度だけ限界を超えてしまえば良い。

 

 

「もう、魔法は二度と使えない。立って歩く事すら、出来なくなるかも。それだけ無茶を、重ねて来たから」

 

 

 だけどそんな事、出来る訳がない。物理的に血肉が足りていない。奇跡を起こす為に必要な、魂だって不足している。

 これで現状を覆すなど、不可能な望みである。起き上がろうと足掻く女は、起き上がれずに何度も倒れて、その身は腐って崩れていく。

 

 

「でも、そうなる前に、やらなくちゃいけない事がある。だからもう少し、もう少しだけ、時間をください」

 

 

 祈る様に、手を伸ばす。何としても立ち上がろうと、何度も何度も地に倒れる。それでも、瞳の光は消えない。

 最期の瞬間まで、足掻き続けるのだろう。意味がないとしても、繰り返し続けるのだ。それこそが、彼女の焦がれた生き方だから。

 

 

〈I have a method. Please give me more power〉

 

「レイジング、ハート」

 

 

 故にそうとも、彼女がその姿に応えない訳がない。そのデバイスは、始まりの日からずっと寄り添い続けて来たのである。

 だからこそ知っている。己が主の想いの強さを。諦めないと言う心の強さを。その最期の戦いに、どうして全てを懸けない理由があるか。 

 

 方法があると語る。レイジングハートは既に罅割れている。不撓不屈が使えぬ以上、このデバイスも壊れてしまえば取り戻せない。

 けれどそうとも、赤い宝石は語るのだ。助ける為の手段はあると、ならばそれを信じぬ理由などはない。果てが終わりなのだとしても、高町なのはは確かに信じた。

 

 

〈I believe master. Trust me, my master〉

 

「うん。大丈夫。信じて、いるよ」

 

 

 更なる力を。魂までも振り絞れ。語るレイジングハートから、響くは異常な程に大きな機械音。発する熱は、機体が長くは持たない程に。

 現代に作られたロストロギア。使用者の魔力を糧に、願いを叶えるその力。それはジュエルシードに似た、もう一つの願望機。それが限界すら超えて、最大駆動で動いている。

 

 ほんの少しの魔力すら、決して無駄にはしないと決める。高町なのはがこの今に絞り出せる全ての力で、彼女の願いを叶えてみせるのだと。

 

 

「最後に、もう一度、高町なのはは、空を飛ぼう」

 

 

 罅割れが大きくなっていく。熱で回路が焼き切れて、それでもレイジングハートは強く輝く。

 そんな想いに応える様に、高町なのはも強く強く祈り願う。もう一度だけ、空を飛ぶのだと。

 

 これが最後。これで終わってしまって良い。だから、もう一度だけ。そう願う想いに応えるかの様に、翡翠の光が微かに生まれた。

 繋がる想いを、もう一度だけ感じている。優しい願いは、彼の意志。その祈りをレイジングハートは聞き届け、此処に確かな形を成す。

 

 

「置き去りにして来た想いがあるから、もう一度だけ空を飛ぼう」

 

 

 肉体の形成。淡い輝きが失われた五体を復元し、立ち上がった女は再び空を見上げる。

 変わらず空で暴れる白き少女を、救い出す為に。許されたのは、後一手。これを過ぎれば、次などない。

 

 

「だから、これで終わり。行こう、レイジングハート。もう少しだけだから、最後まで私に付き合って!」

 

〈All right, my master〉

 

 

 立ち上がって、空に向かって杖を構える。もう一度だけ奇跡の力を。求めたのは、これ以上はない全力全開。至大至高の一撃だ。

 

 

「必ず、助ける! ヴィヴィオォォォォォォォッ!!」

 

〈stand by ready〉

 

「全力! 全開――――っ!」

 

 

 展開された四つの端末。ブラスタービットを使って集めるのは、このクラナガン全土に満ちている巨大な魔力。

 即ち、天魔・悪路の太極。そして、薔薇の夜と無限に等しい蟲の力。それら全てを一点に、限界を超えて集束させる。

 

 

「い、ぎぃ……。あ、く――」

 

 

 集めた力は、既に人の身には過ぎた物。なのはの身体は痛みを訴え、リンカーコアには砕けんばかりの痛みが走る。

 単一宇宙すらも滅ぼせる程に高まった。余りに巨大に過ぎる力。その余波だけで、なのはもレイジングハートも壊れていく。

 

 

〈We can still take actions... you and I〉

 

「そう、だね。レイジングハート。まだ、行ける!」

 

 

 それでも、二人は知っている。死病に侵されながらも尚、神の力を振るって魅せた金糸の少女が居た事を。

 あの日のフェイト・テスタロッサは出来たのだ。ならばどうして、今の高町なのはに出来ない理由があるか。

 

 過ごした時間の長さは関係ない。場の条件なんてどうでも良い。重要なのは、想いの強さ。

 あの日に母を想った少女に、母となって今の自分が娘を想う情。それは決して、負けていないと信じている。だから――

 

 

「スターライトォォォッ! ブレイカァァァァァァァァァァッ!!」

 

〈Here we go!〉

 

 

 天を貫く星の光は、今までで間違いなく最高の物。腐毒の風を打ち払い、蟲の雲を消し飛ばし、中天の朱月すらも撃ち貫く。

 溢れ出す力は狙いなど定めずとも、空にある全てを飲み干し尽くした。当然の如く、白き堕天使もその中に。少女を縛っていた黒き怨念は、星の光で消し飛んだのだ。

 

 非殺傷の一撃で、魔群の呪縛は消え去った。後には白き少女が一人、ゆっくりと落ちて来る。高町ヴィヴィオは、解放された。

 それを微笑みながらに見詰めるなのはは、ピシリと何かが砕ける音を聞く。考えるまでもなく、何が砕けたのかは分かっていた。

 

 

「……これで、本当に、最後」

 

 

 墜ちて来た少女を抱き留めて、しかしなのはは何も感じ取れない。如何なる力も、小さな体からは感じられなかったのだ。

 それはヴィヴィオが、力を喪失したと言う訳ではない。高町なのはが、感じ取れなくなっただけ。移植されたリンカーコアが、この今に砕けてしまったから。

 

 鈍った五感と、完全に喪失した魔力。それでも微笑む女の耳に、別れの言葉が告げられる。砕けてしまったのは、リンカーコアだけではなかった。

 

 

〈Good bye, my master. Thank you for the wonderful time〉

 

「うん、私も。これまで、ありがとう。さようなら、レイジングハート」

 

 

 赤い宝石が、音を立てて砕け散る。バリアジャケットも解除され、後には制服姿の女が一人。娘を抱き締め、荒野の中に佇んでいる。

 青く晴れた空が持つのも、後僅かな時間であろう。蟲の雲はまた増えだして、赤い月が地平線からまた昇り出す。腐毒の風も、近付いていた。

 

 魔力を失ってしまった以上、そのどれかに触れれば命が終わる。危険の全てが去った訳ではないのだと、分かってなのははそれでも微笑んでいた。

 

 

 

 

 

3.

 それから過ぎた時間は、数分にも満たない程度。気付けば空は雲に覆われ、再び閉ざされてしまっていた。

 再び満ち始めた腐毒の風が、身体を僅かに腐らせていく。このまま死んでしまうのだろうかと、それでも信じて待ち続けよう。

 

 微笑みながら、抱いた娘の髪を梳く。少女が目を覚ましたのは、そんな時であったのだ。

 

 

「……なのは、ママ?」

 

「漸く気付いた? 迎えに来たよ」

 

 

 微睡む瞳で、少女は母を見上げる。微笑む姿に安堵して、気付いたのはその直後。

 僅かに腐り始めたその姿に、ヴィヴィオは瞠目し手を弾く。己を抱いていた母を遠ざけて、気付けば大声で叫んでいた。

 

 

「――っ! どうして、何でこんな所に来たんですか!? 私は貴女になんて、迎えに来ないで欲しかった!!」

 

 

 高町ヴィヴィオは、全てを思い出している。魔鏡アストとして生まれ落ち、ジェイル・スカリエッティの為だけに生きた記憶。

 彼の死後に記憶を改竄され、最高評議会の手で機動六課の下へと送り込まれた。その目的は唯単純に、彼ら彼女ら英雄達を利用する為。

 

 庇護対象となる様に刷り込みを。抱いた情は全てが偽物。そうと知るからこそアストは、彼女には来て欲しくなかったのだ。

 

 

「どうして? もう魔群の呪縛は、解けてるよね」

 

「……だから、何だと言うのですか!」

 

 

 なのに高町なのはは此処に居る。こんなにも傷付いて尚、ヴィヴィオの身を案じている。それがどうしようもなく、アストの心を乱してしまう。

 偽物の心。偽物の身体。何もかもが作り物。だと言うのに、何故にこんなにも胸がざわついてしまうのか。その苦しそうな姿にどうして、涙が浮かんでしまうのか。

 

 分からないから拒絶する。分かりたくはないから遠ざける。分かってしまえば苦しいから、気付かない振りをしたまま叫んだ。

 

 

「私は唯の偽物です! 肉体は聖王オリヴィエのクローンで、中身も嘗て何処かに居た誰かの模造品! 高町ヴィヴィオなんて、最初から何処にも居なかった!」

 

「違うよ。そんなの、違う」

 

「違いません! 私は魔鏡。私はアスト。唯誰かを映し出すだけの鏡。悲しいのも痛いのも辛いのも、全部偽物の作り物。本当は最初から、生まれるべきじゃなかったもの!」

 

「違うよ。生まれ方は違っても、今のヴィヴィオは、そうやって泣いてるヴィヴィオは、偽者でも作り物でもない」

 

 

 なのに高町なのはは変わらない。微笑みを浮かべたまま、ヴィヴィオを抱き締めようと近付いて来る。その腕が温かいと知っているから、アストの心は乱れてしまう。

 涙が止まらない。泣いているのだと自覚している。それでも何かを誤魔化す様に、泣いていないと強がり叫ぶ。もうそれしか出来ないから、アストはそれを続けるのだ。

 

 

「泣いて、いる? 何を言っているのですか。涙など流れる筈がありません。私が泣くなど、ありえない!」

 

「ううん。泣いているの。例え涙が流れていなかったとしても、想いを繋げる力がなくても、身近な人の事なら少しは分かるよ。分かっているって、信じてる」

 

 

 なのに高町なのはには通じない。そんな強がりの誤魔化しなんて、届かず直ぐに暴かれる。分かっていると言いながら、微笑みながら近付いて来るのだ。

 訳が分からない。意味が分からない。分かりたくはないと、心が必死に叫んでいる。だから今直ぐにも逃げ出したくて、しかし逃げ出せない理由があった。

 

 

「甘えんぼですぐ泣くのも、転んでも一人じゃ起きられないのも、ピーマン嫌いなのも、私が淋しいときに、いいこ、ってしてくれるのも、こうして今も私の事を守ってくれているのも――全部が全部、私の大事なヴィヴィオの一部」

 

 

 語るなのはも気付いている。既に腐毒は満ちているから、周囲は地獄と化している。魔力を失った高町なのはでは、この地獄で生きてはいられない。

 そんな女が今も微笑んでいられるのは、ヴィヴィオが彼女を守っているから。己と女の周囲に障壁を張り重ねて、毒が決して届かぬ様にと堪えている。

 

 だからこそ、彼女は此処から逃げ出せない。訳の分からない怖さから逃げ出せない事よりも、女を失う方が怖かった。それこそが少女の答えであったのだ。

 

 

「貴女は私の知らない誰かなのかもしれない。それでも、私の知っているヴィヴィオでもあるの。私の大事な、娘なんだよ」

 

 

 近付いて、優しく頬に触れる。微笑む女が語るのは、繋いだ絆に偽りなんてないと言う事。如何なる理由が其処にあっても、結果はたった一つだけ。

 母は偽物の娘を愛している。本当の娘を想うのと同じ様に。そして偽りの娘も、形だけの母を同じ様に愛している。だからこそ、こんなにも泣きたくなっているのだ。

 

 

「だから、本当の気持ち、ママに教えて」

 

「…………だから、それが何だと言うのですか!」

 

 

 どんなに理由を重ねても、変わらず愛していると語る母。その姿に追い詰められた娘は、駄々を捏ねる様に叫び出す。

 

 

「ざわざわする! 落ち着かなくて、居心地が悪いのに暖かい! そんな不思議な空間が、一体何だと言うのですか!?」

 

 

 受け入れたくはなかった。認めたくはなかったのだ。素直になんて、なれやしない。

 だって手にしてしまえば、失う事に耐えられない。大切だからこそ、失くしたくはないと願ってしまう。

 

 

「だって、世界はもう終わる。明日なんて、何処にもない!」

 

 

 なのに世界は終わるのだ。この世界に明日はない。誰も彼もに、未来を変える力がないのだ。

 夜都賀波岐は今を残せず、黄金の獣は明日を作れず、悪魔は何にも成れずに終わるだろう。それが分かってしまうから。

 

 

「だって、未来なんてもうないの! ならどうして、本当の気持ちなんて、そんな悲しい事が口に出来るの!?」

 

 

 どうして明日に終わると知って、温かな絆を求められるか。失う事が前提の幸福なんて、唯々寂しいだけではないか。

 本当の気持ちなんて、悲しい事は言わせないで欲しい。最初から手に入らないのだと、諦めさせて欲しいのだ。それがアストの願いであって、それがヴィヴィオの想いであった。

 

 

「そうだね。もう終わってしまうのに、これから始めようとするのは辛いよね」

 

「……当然です。分かっているのなら、もう私に関わらないで!」

 

 

 それを受けて、高町なのはも確かに認める。失うだけの幸福なんて、手に入れても苦しいだけだろう。

 だから関わらないでと叫ぶ少女の、心も分からない訳じゃない。けれどそれでも、諦めないのが高町なのはだ。

 

 

「でも、さ。もしかしたら、明日もあるかもしれないよ?」

 

「は――? 何を言っているのですか!? 気でも触れたと言うのか!!」

 

 

 明日を信じる。軽い言葉で語る女に、在り得ないと少女は激昂する。だって、信じられる筈がない。

 この今に満ちた光景は、何もかもが終わりに向かっていると感じられてしまうから。明日なんて、何処にもないのだ。

 

 

「空を見なさい! 陸を見なさい! 海を見なさい! 世界が終わるこの景色! 一体何処に、未来に続く希望があると言う!!」

 

「……それは、確かにその通り。でも、ね」

 

 

 蟲に覆われた空。腐毒が満ちた大気。海は既に干上がっていて、ミッドチルダと言う惑星は最早人が生きていられる環境ではない。

 そして地獄と化しているのは、この星だけではない。世界の開闢すらも引き起こせる程に、高まった力と力がぶつかり合いを起こしているのだ。無事な場所など、世界の何処にも在りはしない。

 

 最悪なのは世界の開闢を成せる程の力の持ち主は複数居ても、その誰もが新世界の流出と維持を行えないと言う事。

 現行世界は唯々壊れていくより他になく、明日に続く希望なんて何処にもない。それが分かってしまうから、アストは泣いていると言うのに。

 

 

「終わった先に、続く未来がないなんて、終わってみないと分からないよね?」

 

 

 高町なのはは、笑って言うのだ。こんなにも明白な事実を見ながら、それでも終わってみないと分からないと。

 奇跡が起こるかもしれない。希望が生まれるかもしれない。それは極小の可能性に過ぎずとも、起こらず終わらない限りは否定できない可能性。

 

 

「壊れてみないと、分からない事も時にはあるの。明日がどうなるかなんて、今日を生きる誰にも分からない」

 

 

 在り得ないと言う事は在り得ない。悪魔の証明と同じだ。どれ程に明白な事象であれ、結果が確定するまでは可能性が存在している。

 だから、終わってみないと分からない。だから、壊れてみないと分からない。分からないから、信じられる。信じる余地があるのなら、なのははそれを信じたいのだ。

 

 

「なら未来は輝かしいと、世界が終わるまで信じたい。今日と同じ明日があると無邪気に信じて、また明日ねと語らいたい。そうして日々を過ごす事こそ、真面目に生きると言う事だから」

 

 

 きっとそれが、真面目に生きると言う事だろう。高町なのはは答えを出した。これこそ己の生きる道なのだと。

 愚かで馬鹿馬鹿しい言葉。実に下らない発言と、アストは嗤って振り払えない。何故だか母の語る言葉が、少女の心を揺らしていた。

 

 

「……壊れてみないと、分からない。それは嘗て旧き世で、私ではない(アスト)の想いを歪めた馬鹿げた言葉」

 

「そうして変わった誰かも貴女の一部なら、その人も私の大事な娘。全て抱き締めて、共に生きるよ」

 

 

 何となく、想い出す。或いは在り得たであろう過去。今の自分とは違う自分の、生き方を変えさせた誰かの言葉。

 安定を好んでいた。強固なのが良いと思っていた。積み上げた数多を崩すのが怖くて、それでも壊してみようと想った誰か。

 

 その記憶が今も息衝いていたからだろうか。もしも踏み出せたのならば彼女と同じく、何かを得られるのだろうかと期待した。

 

 

「……真面目に生きる唯の人。それは嘗て旧き世で、私ではない私が焦がれた男の生き方」

 

「にゃ!? そういう恋愛とかはまだ、ヴィヴィオには早いんじゃないかな!?」

 

 

 流れる様に思い出す。安定を好んだ少女が、それでも愛してしまった男との記憶。

 何の力もなくて、たった一人の女の子すらも守れなくて、けれど誰よりも必死に生きていたであろう人。

 

 同じ様に生きられたのならと、焦がれる様に想ってしまう。そんな少女の表情に、慌て始める過保護な母。その言葉に、くすりと笑みが浮かんでいた。

 

 

「……馬鹿です。貴女は、本当に」

 

 

 嗚呼、何と愚かなのだろう。理由もなく理屈もなく、信じたいから信じるのだと突き進んでいく高町なのは。

 合理的とはかけ離れていて、愚かと言うより他にない。そんな母の姿に微笑む、己もとても愚かである。ヴィヴィオは柔らかく自嘲して、己の想いに向き合った。

 

 

「でも、私も、愚かなのかもしれません。この胸のざわめきを、悪くないと感じているから」

 

 

 だから、大地を蹴って母に近付く。一度は拒絶した彼女の胸に、飛び込み両手で抱き着いた。

 冷たい鋼鉄の義手が、少しだけ無粋だと感じている。けれど触れ合う頬で熱を感じられたから、ヴィヴィオは確かに微笑んだ。

 

 

「明日はあると。未来はあると。この幸福が続くのだと。……私は心から、信じたい」

 

「うん。信じよう。ずっと、一緒に居よう」

 

「……信じても、報われないかもしれなくても?」

 

「だとしても、信じた事に、後悔なんてしないから」

 

 

 抱き着いて来たヴィヴィオの身体を、なのはは優しく抱き返す。本音を明かしてくれた少女に、返せる確証などはない。

 だから信じようと語り続ける。例え今日で終わるとしても、明日が来ると信じよう。そうして生きれば、後悔なんて在る筈ないから。

 

 

「納得は、できたかな?」

 

「全く、出来ません。けど、だからって暴れても、何も変わらない。私が止まらないと、馬鹿なママは死んじゃうじゃないですか。……それは、嫌です」

 

「にゃはは、そうだね。そうしてくれると、嬉しいかな。私ももう、疲れちゃったから」

 

 

 なのはの言葉に、納得出来た訳ではない。説得された訳ではないのだ。唯、このまま暴れてもなのはが危ないだけだと分かったから止めるのだ。

 そう語るヴィヴィオの言葉に、高町なのはは擽ったそうな笑みを浮かべる。微笑む母の身体に刻まれた無数の傷を見て、ヴィヴィオは何処か後ろめたそうに呟いた。

 

 

「……こんなに傷付いて。本当、ママは最悪です。ママは馬鹿です」

 

「でも、必要だったよ。それに、後悔なんて、していない。こうして今、貴女を抱き締められるもの」

 

「……本当に、馬鹿です。最悪です。こんな馬鹿なママを受け容れられるのは、同じくらい馬鹿な私しかいないんですからね」

 

「そう、かな? ユーノ君とかも、受け入れてくれると思うよ?」

 

「なら、私とパパだけです。他の人に試してみたって無駄ですよ。その人が可哀想ですから、絶対にしないでください」

 

 

 口調や態度が大人びているのは、第三天に連なる誰かの記憶を継いだからであろう。だがしかし、その本質は背伸びしただけの子どもであるのだ。

 大人びた言葉を語りながらも、独占欲にも似た感情を覗かせながら甘える少女。そんなヴィヴィオに仕方がないなと、微笑むなのはは優しく髪を梳くのであった。

 

 

 

 

 

 母娘は二人、共に同じ時間を過ごしていく。瓦礫に腰を下ろして座り込むなのはの膝に、小さなヴィヴィオを乗せて。

 そうして空を揃って見上げて、何とはなしに高町なのはは呟いた。目の前に映る光景は、悪化の一途を辿っていたから。

 

 

「これから先、どうなるのかな?」

 

「知りません。壊れてみないと分からないって言ったのは、ママじゃないですか」

 

「にゃはは。……もしかして、結構怒ってる?」

 

「それこそ知りません。でも、許して欲しかったら、もっと優しく抱き締めてください」

 

 

 終わってみないと分からないと言っておいて、今更に問いを投げかけるのか。半眼で見上げるヴィヴィオに、なのはは小さく苦笑する。

 仕方が無いと不機嫌になった少女を背中から強く抱き締めると、唯それだけでヴィヴィオは機嫌を直した。実に分かりやすい娘だと、口にはせずに頭を撫でた。

 

 

「まあ、これで許します。渋々ですので、勘違いはされないように。……それで、世界の行く末、でしたね」

 

「うん。もう私には、見えてないから」

 

「……本当に、馬鹿です。最悪です。最低です。でも、仕方がありません。ママはそんな人ですから、私がしっかり支えませんと」

 

 

 嬉しさを隠そうとしながらも、隠し切れずに声を弾ませている。そんなヴィヴィオは咳払いを一つした後、魂を見れなくなったなのはの代わりに“未来”を視た。

 

 

「流転の担い手は倒れました。紅蓮の炎は堕ちました。神の子は今も生きていますが、もう長くは持たないでしょう」

 

 

 もう間もなく、起こるであろう直近の未来。一秒後の予知ならば、索敵と然程結果は変わらない物になるだろう。

 確定事項として、ヴィヴィオは情勢を語っていく。誰が死に、誰が倒れ、誰が追い詰められているのかを。無感動の声で伝えた。

 

 

あの悪魔(エリオ)の波動は感じません。別の次元に囚われたのか、それとも既に滅ぼされたのか。お世辞にも、良いとは言えない状況ですね」

 

「そっか」

 

 

 親友の敗北。戦友の死。教え子達の窮地。それらを知ったのが常の高町なのはであれば、彼女は今にも飛び出していたであろう。

 己の母はそういう類の女である。だからこそ英雄と呼ばれるのだと知っているから、ヴィヴィオは懸念を込めて問い掛けた。

 

 

「どうされますか? 何処かにこれから、介入でも?」

 

「そうしたいって言ったら?」

 

「全力で反対します。四肢を圧し折ってでも行かせません」

 

「……なら、此処に居よっか」

 

 

 そんな少女の懸念に反して、なのはが出した結論は静観だった。どんな手を使ってでも行かせまいと考えていた少女は、肩透かしにあったように唖然とする。

 事実、魔法の力が残っていたなら高町なのはは向かっただろう。だがしかし、今の彼女は唯人だ。何処にでも居る路傍の石に、出来る事などたった一つしかないのだろう。

 

 

「終わるまで、見ていよう? 二人で一緒に」

 

「……仕方がありません。最期まで、付き合ってあげます。だから、もっと強く」

 

「はいはい、大丈夫。ママはヴィヴィオと一緒に居るからね」

 

 

 それは、信じて待つと言う事。戦う力のない人が、無事を祈って明日を待つ。その行為は、弱さではないのだと漸くに分かった。

 焦る感情は今もあり、飛び出したい激情は確かにあって、それでも待つのは痛苦である。それを見せずに微笑み待つのは、即ち一種の強さであると。

 

 

「世界は終わるかもしれない。でも、終わらないかもしれない」

 

 

 星に憧れて、追い掛けた少女は女になった。空を飛ぶ女はしかし、唯の人間に憧れた。

 そうした果てに、人に成った。あらゆる特別を失って、この手に残っているのは大切な家族だけ。

 

 そんな何処にでも居る女であるから、何処にでも居る凡庸な人と同じく待とう。明日が来ると、信じて待つのだ。

 

 

「なら、信じて待とう。夜が明ければ朝日が昇ると、無邪気に信じて夜明けを待とう」

 

 

 信じれば救われるのだと、無邪気に思える素直さなんて残っていない。信じても、上手く行かない事ばかりなのだと知っている。

 世界はこんな筈じゃなかった事ばっかりで、喪われるべきじゃない人達ばかりが戻って来ない。だから信じる事は無駄なのだと、それが真理なのかもしれない。

 

 けれど何も出来ずに終わると言うなら、信じないより信じていたい。どうせ終わると言うのなら、本気で信じ続けたままに終わりたいのだ。

 

 

「明日を目指して、今を過ごそう。きっと明日は、今日より光輝に満ちている」

 

 

 だから女となった嘗ての少女は、此処に幼い夢を捨て去る。そうして一人の母として娘と共に、皆の帰りを待つのであった。

 

 

 

 

 





本編ルートのヴィヴィオは自我崩壊を経由しているので、アストの残滓が殆ど残っておらず年相応の女の子となっています。

IFルートのヴィヴィオは自我崩壊していないので、どちらかと言うとアスト寄り。理屈臭い甘えん坊です。

将来的に二代目紅蓮の女傑に成る本編ルートのヴィヴィオと異なって、IFルートのヴィヴィオは成長してもずっとクールキャラの振りをした甘えん坊のままとなるでしょう。


暫く離れている内にアンケート機能とか出来ていたので、少し試してみます。結果次第では今後の展開が少し変わるかもしれません。


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第十九話 黄金の獣 ラインハルト・ハイドリヒ

実は前話が難産だった影響で、十八話より前に完成していた十九話です。

やりたかった事は大体やったので、次の更新は遅れる予定。
これから先がどうなるかは、前話から載せてるアンケートの結果次第です。


推奨BGM
1.Ω Ewigkeit (Dies irae)
2.Endless Chain (リリカルなのは)
3.Opera (Phero☆Men)
4.The Blessing (PARADISE LOST)


1.

 血に塗れていく両腕で、手にした魔槍を振り回す。目にも止まらない速さでぶつかり合う二つの刃は、幾度となく甲高い音を響かせる。

 動作に大きく遅れた音が鳴り響く伽藍の内にて、傷付いているのは常に一人。黄金に輝く玉座の主が有する五体は、今も尚その完全さを揺るがせない。

 

 組み合う度に圧し負けて、圧し負ける度に立ち上がる。立ち上がる度に打ち倒されて、それでも少年は前に行く。意地を通すと言う意志で、幾度も魔槍を振い続ける。

 その槍が纏った炎は、あらゆる全ての反存在。触れれば対消滅を引き起こす腐炎を前に、黄金が切り結べている理由は明白。その聖槍に纏わせた、黒き死への渇望こそが腐炎を終わらせてしまうのだ。

 

 終焉を前にして、先に進めるモノなどない。例えそれはこの世に存在しない火でも、例外にはなり得ない。何故ならば、腐炎はこの今この瞬間、此処に存在しているのだから。

 その本質がどうであれ、其処に在るのならば終わらせる。これこそが幕引きの鉄拳。黄金の獣が槍に纏わせている必滅の力。その一撃、掠りでもすればエリオは其処で終わるだろう。

 

 そんな必滅の力と、切り結べている理由は腐炎の力だ。少年が全身に纏っている炎が、終焉の力と対消滅を起こして消えて行く。故にその身に届く時には、幕引きの力など残っていない。

 即死だけは防ぎ切る。だが防げているのはそれだけだ。腐炎と終焉は対消滅を起こしており、ならば後に残るは技量の差と武器の差だけ。その両面で劣っているから、どちらが不利かは明白だった。

 

 黄金の獣は、余裕の笑みを浮かべている。必死さなどは欠片も見えない表情に、エリオは舌打ちしたくなる。実際にしないのは、その一瞬すら致命となってしまうから。

 遊ばれているのだろう。獣の余裕に感じる苛立ちさえも、この現状では無駄な物。質も数も劣っているなら、意志で勝る他に道はない。それでも足りぬと言うのなら、足らせてしまえばそれで良い。

 

 

(学べ、奴の動きを。目に焼き付けろ。一体何が違うのか)

 

 

 意地で喰らい付きながら、己の技量を磨いていく。既に限界と感じていた能力さえも、枷が外れた様に磨かれていく。一分一秒毎に、エリオ・モンディアルは成長していた。

 何せ相対する獣は、教材としては一級品だ。同じ武器を使う覇軍の将。己と同じく、内包した魂の技量を纏め束ねて手にした者。端的に言えば、上位互換にして理想像。故にエリオにとっては今この時こそ、学びの時であったのだ。

 

 目標は目の前にある。理想は眼前に、明確な形を成している。打ち合う度に、死線を超える度に、急成長を遂げていく。

 ならばこの結果も、或いは当然と言えたのだろう。刃が閃き、鮮血が空に舞う。そうして男は、微かに笑みの質を変えていた。

 

 

「ほう。私を傷付けるか」

 

 

 脳天を狙った槍は、獣の僅かな所作で空を切る。だがしかし、獣の頬には刃の痕が。掠めた傷は多少であるが、確かな流血を起こしている。

 荒い息を如何にか沈めて、更にと魔槍を振るう少年。彼を見詰めたまま後ろに数歩下がる黄金は、聖槍を握る手とは逆の腕を使って血を拭った。

 

 

「ならば、次だ」

 

 

 右の拳に付いた血の痕を、僅か舐めて笑みを深める。質はここまで近付いた。今の少年ならば、数手先には己の命を狙えるまでに至れよう。故に次の段階だ。

 

 

「第十――SS装甲師団(フランツベルク)

 

 

 獣は深い笑みを浮かべたまま、大きく大地を蹴って後退する。直後彼が居た場所へと、降り注ぐのは嵐の如き無数の砲弾。

 魔槍を手に追い掛けていたエリオは、その雨を前に足を止める。見た目こそ単なる質量兵器にしか見えない物だが、数と質は比較にさえならない程の物。

 

 秒とせぬ内に六十を超えたパンツァーファウスト。巻き起こる爆撃の雨を、エリオは炎で振り払う。降り注ぐ前に消滅させて、しかしその隙は無くせはしない。

 

 

「第二十四――SS武装山岳師団(カルストイェーガー)

 

 

 城の床から、無数の髑髏が湧き出し足に組み付く。突然の状況にエリオが反応するより前に、組み付いた骸の兵は破裂した。

 肌を焼かれる激痛に、思わず呻きそうになる。それでも、声を出している暇はない。降り注ぐ質量兵器の雨は、今も止んではいないのだから。

 

 上下から引き起こされる破壊の力に、エリオは振り回されている。炎を纏って身を守るのが限界で、追撃なんて出来る筈もなかった。……それは詰まり、黄金の獣に次なる手を許してしまうと言う事でもあった。

 

 

「第三十六――SS擲弾兵師団(ディルレワンガー)

 

 

 天空から降り注ぐ雨と、大地から湧き出し続ける光。二つの破壊に耐える少年の視界の先で、城の壁や床や天井から万を超える髑髏が零れ落ちて整列する。

 覇軍の主が、槍を振るうと共に宣言する。突撃せよと、唯それだけの命で十分。歪な銃剣へと形を変えた髑髏の軍は、弾丸の如くに飛翔し敵へと突撃した。

 

 上下から襲い続ける破壊の嵐に、横方向の一手が加わる。万を超えて尚も尽きぬ剣の雨は、エリオが纏った黒き炎を僅かに僅かに削っていく。

 腐炎は物質と触れ合う時、対消滅を起こしてしまう。軽い破壊ですら相殺できてしまうのだから、数で圧殺してしまえば良いのだ。どちらも無限に出し続ける事が出来ない以上、どちらが先に尽きるかなどは明白だった。

 

 

「――主に大いなる祈祷を捧ぐ(ヘメンエタイツ)

 

 

 ラインハルト・ハイドリヒは優秀な戦士だ。だがそれ以上に、彼は軍を統べる将なのだ。他者を使役する事こそ、彼の本領と言えるであろう。

 戦士として迫ろうとも、将としては未だ届かない。同じ土俵で戦えば、勝ち目などは一切ない。故にエリオは腐炎を納めて、己の内へと繋がる咒を紡ぐ。

 

 

「エルアティ・ティエイプ・アジア・ハイン・テウ・ミノセル・アカドン」

 

 

 破壊を防いでいた腐炎を消した事で、迫る刃はもう防げない。降り注ぐ雨が顔を焼き、湧き上がる光が四肢を吹き飛ばし、飛翔する刃が胴に深く突き刺さる。

 それでも紡ぐ咒は止めない。魔人の身体は、この程度では死なぬと知っている。異音を立てて復元していく肉体強度を頼りとして、エリオは只管に力を増幅させ続けた。

 

 

「ヴァイヴァー・エイエ・エクセ・エルアー・ハイヴァー・カヴァフォット」

 

 

 全身に髑髏の剣を突き立てられて、ふらつく足でしかし強く踏み締める。破裂しながら湧き出し続け、己の五体を上り続ける死人などには頓着しない。

 望むは一つ。全力行使。数を超える質を以って、黄金の総軍を塗り潰す事。この今に出せる全力を以って迫る軍勢だけではなく、この城全てを消し飛ばしてしまわんと。

 

 

「開け――ジュデッカァァァァァァァァァァァァァッ!!」

 

 

 守りを捨てた全力攻勢。開いた門より湧き出す黒き炎の量は、既に先の比ではない。黄金の軍勢だけでなく、城の床や壁や天井をも燃やし腐らせ消し飛ばす。

 黄金の城が崩れ始めた。星空の中に浮かび上がった骨の城が半壊して、無数の死人が無価値に堕ちる。星海の光が差し込んで来た玉座の間で、腐炎は今も止まらない。

 

 死人の兵を焼き尽くし、黄金の城を腐らせ続け、それでも止まらず王へと迫る。己の世界を文字通り侵略してくる炎を前に、獣は笑って右手を握り締める。黒き光が、拳に宿った。

 

 

「幕引きの鉄拳。砕け散るがいい――人世界(Miðgarðr)終焉変生(Völsunga Saga)

 

 

 槍を持つ腕とは逆の手を、腰を落として重く打ち出す。幕引きの鉄拳が迫る腐炎とぶつかり合ったその瞬間、掻き消えたのは荒れ狂う業火だけだった。

 敵がより強く力を行使したのならば、自身もより強く力を行使すれば良い。そうと言わんばかりに、黒騎士と同じ動作で、黒騎士と同じ鉄拳を。放つ黄金の獣には、疲弊の色など一切ない。微かな歓喜があるだけだ。

 

 

「成程、この程度は超えてみせるか。いや、そうでなくては物足りん。私の天は、ここに在らねばならぬのだから」

 

 

 荒い息をしながら、構え直すエリオは舌打ちする。己の全力と敵手の余裕は等価であるのだと、この今此処に示されていた。

 このまま続けば分が悪い。それが分かってしかし、これ以外に有効な手などない。そんな愚直な少年とは異なって、対する獣はまだ多くの手札を有している。

 

 彼我の差は明白だ。全力を出されれば、比較にさえもならないのだろう。そして微笑みを絶やさぬ獣は、その全力をこれより振るう。

 彼は戦士ではなく、軍を統べる将であるが故――その全力とは振るい続けた漆黒と同じく、獣が愛する爪牙である。

 

 

「では、次だ。私が愛する我が双牙。その残照を此処に示そう。……簡単には潰れてくれるなよ」

 

「――っ!」

 

 

 やらせるものかと。咄嗟に駆け出したエリオが辿り着くより前に、ラインハルトの軍より影が現れ出でる。

 先ずは三つ。浮かび上がった幻影は、人の形を成して願いを騙る。黒き影は黄金と重なり、此処にその渇望を創造した。

 

 

「闇の不死鳥。枯れ落ちろ恋人――死森の薔薇騎士(Der Rosenkavalier Schwarzwald)

 

 

 星の浮かんだ空が、赤い月の浮かんだ黒へと塗り替わる。赤き空の輝きに、エリオは己の力が簒奪されているのだと自覚した。

 敵の弱体化と己の強化。同時に為すのが明けない夜。白貌の影を纏った獣は、迫るエリオを超える速度で踏み込み槍を振ってみせた。

 

 拮抗は一瞬。辛うじて喰らい付けていた筈の少年は、大きく跳ね上がった獣の膂力に圧し飛ばされる。崩された隙へと延びるのは、第二の爪牙が渇望だ。

 

 

「水底の魔性。波立て遊べよ――拷問城の食人影(Csejte Ungarn Nachtzehrer)

 

 

 黄金の獣に、魔女の影が重なり嗤う。体勢の崩れたエリオに向かって、無数に伸びるは数え切れない影の腕。

 エリオは如何にか、魔力の噴射で距離を取る。しかし何処へ逃げようとも、影は何処までも何処までも追い掛け続ける。それこそ魔女の願いが故に。

 

 斬り込む所か、逃げ回る事しか出来ていない。そしてその逃走すらも、薔薇の夜に吸われて速度が落ちていく。何時かは影に追い付かれよう。

 ならば何処かで、再び攻勢に回る他にない。如何にか間合いを詰めようと焦るエリオは、故に見落とした。獣が招いた爪牙の影は、更にもう一人居たのだと。

 

 

「人柱の死人。呪いの神風――許許太久禍穢速佐須良比給千座置座」

 

 

 重なる影は、腐敗の死人。その瞬間、獣の身体が瘴気を放つ。腐敗毒へと変性したその肉体が、近付く全てを腐らせ始めたのだ。

 近付こうと足掻いていた少年は、その呪風に巻き込まれる。全身腐って爛れていく。そうなれば当然、歩行すらも難しくなり――ならば必然、影に彼は捕まった。

 

 

「こ、のぉっ!?」

 

 

 行かないで。何処にも行かないで。そう縋る魔女の手が、足元から全身へと伸びていく。海の中で窒息させてしまおうと。溺れてしまえと語り掛ける。

 枯れ堕ちろ。死骸を晒してしまえば良い。そう嗤う白貌の牙が、囚われた総身から力を奪い取っていく。影を振り払うのが苦しい程に、何もかもが簒奪される。

 全て腐れ。塵となれ。そう嘆く死人の呪詛が、囚われたエリオの身体を腐らせ続ける。悪魔の全てを無価値に変えてしまおうと、浸食する腐敗に骨まで露わとなっていく。

 

 

「ぐ、くぅぅぅぅぅっっ! ナハトォォォォォッッ!!」

 

〈やれやれ、俺の力に頼り切りなのは問題だと思うのだがね〉

 

 

 このままでは何も出来ずに死ぬ。そうと理解すればこそ、このままで居られよう筈もない。己の内に巣食う悪魔を、エリオは大きな声で呼ぶ。

 囚われて、吸われ続けるこの現状。己からだけでは、門を開くのが間に合わない。だから手を貸せと叫ぶ少年に、悪魔は鼻で嗤いながらも力を貸した。

 

 罪の門が開き、腐炎が黒く燃え上がる。影の手を炎で焼き尽くしたエリオは、両手を付いて地に着地する。そんな彼に向かって、再び影が津波となって襲い掛かった。

 まだ窮地を脱した訳ではない。腐った足は白い骨さえ剥き出しで、吸われた力は戻って来ない。このまま影に飲まれれば、今度は脱出できないだろう。故に今のエリオには、息する余裕すらもない。

 

 

〈まぁ、他に術もない以上は、仕方もない。恵まれなくて哀れだなぁ、相棒(エリオ)

 

「黙れ――っ、ナハト! ストラーダ、お前もさっさと治せ!!」

 

〈Physical Heal〉

 

 

 内で毒吐く悪魔に対し吐き捨てて、機械の魔槍に叫んで命じる。まるで録画記録を逆再生するかの様に、エリオの傷口は塞がっていった。

 魔人の肉体が持つ再生速度に、肉体再生の魔法。二つ合わせた治癒で如何にか、治した足で大地を蹴る。移動の直後、先の一瞬まで居た場所を黒き影が飲み干していた。

 

 寄せては返す海の如く、今も荒れ狂う魔女の呪詛。空を覆い続けているのは、赤く染まった吸血鬼の呪詛。天と海の狭間を犯すは、全てを腐らせる死人の呪詛。

 彼らの影を従わせる黄金は、その海と空と風の先に。手にした槍の魔法では、この断絶は超えられない。可能性があるとするなら、選べる道はたった一つしかなかったのだ。

 

 

「元より、他に術はない。攻め入るぞ! 死ぬ気で手伝え、ナハト!!」

 

〈はいはい、俺のエリオ(マイマスター)

 

 

 臆して逃げれば、死に至る。ならば再びの全力を。死地へと自ら斬り込んで、敵将の首を落とす以外に道はない。

 罪を介して悪魔と強く、より強く繋がり門を開く。全身に黒炎を纏ったエリオの瞳は、眼球が黒く、虹彩と瞳孔は赤く赤く染まっていた。

 

 炎の翼が燃え上がる。穴だらけの黒翼で、黄金に向かって羽搏く。遍く呪詛も願いも焼き尽くす黒き弾丸となって、エリオ・モンディアルは飛翔した。

 

 

「窮地にあって尚、私の打倒を求めるか。その意気は良し」

 

 

 黒き炎の一辺倒で、夜を燃やし影を焼き毒の風を腐らせる。攻防一体の突撃は、確かに脅威と言える物であろう。

 獣の目から見ても見事と語れる程に、悪魔の力は完成している。触れる全てを燃やし腐らせながら高速で迫る存在に、対処の術を持つ者など多くはない。

 

 

「だが、私は卿を敵として認めている。故に、この様な手も選ぼう」

 

 

 しかしその一部の例外こそが、この黄金の獣である。彼が従える死者達は、一人一人が悪魔と比しても見劣りせぬ程の者達なのだ。

 如何なる状況にも対応できる汎用性こそ、無数の英雄英傑を束ねる利点。万能性とすら評する事が出来る程、無数の手札を獣は持つ。

 

 中には当然、搦め手と言うべき手札もある。そしてそれを選ばぬ理由も今はない。これが最期なのだから、導くべき後進に、あらゆる全てを見せるのだ。

 

 

「贖罪の雷光。戦場の輝き――雷速剣舞(Donner Totentanz)戦姫変生(Walküre)

 

 

 雷光の影が重なる。獣の身体が光を纏って、光速で彼は移動した。他でもない、後方へと向かって。

 追い掛ける悪魔よりも素早い速度で、距離を取ろうと言うのだ。言い換えるならば、逃げとも取れる行動だ。

 

 覇軍の王が選ぶべき戦術とは程遠い物だが、後退を選べぬ将など愚物の極み。時には逃げを打つ事も、一つの勇気と言えるだろう。

 それを教える為に、敢えてこの対応を選んだのか。理由はどうあれ、効果は覿面。如何に強大な矛と盾を持とうとも、近付けなければ意味がない。

 

 

「逃げ場なき焔の世界。この荘厳なる者を燃やし尽くす――焦熱世界(Muspellzheimr)激痛の剣(Lævateinn)

 

 

 同時に重なるは、紅蓮の騎士が残した影。光を纏って半壊した城を飛び出した獣を中心に、紅蓮の炎が広がり始めた。

 世界全てを焼き付くさんとする炎と、エリオが纏った腐炎が激突する。圧倒するのは黒き炎であったが、それでも紅蓮は腐炎を確かに削っていく。

 

 炎の噴射速度が落ちる。端から雷光速には追い付けなかったというのに、更にと削られてしまえば辿り着ける道理がない。

 星海に飛び出した獣を追い掛けるエリオはまるで追い付けず、徒に力を消費し続けてしまう。このまま続けば、魔力切れが見えていた。

 

 

「く、そ……」

 

〈これは困った。俺の速度じゃ追い付けん。さて、どうする?〉

 

「決まっている。守りは捨てるぞ! ストラーダ!!」

 

〈Blitz Action〉

 

 

 面と向かっていると言うのに、距離は只管に離されていく。後ろも見ない後退で、信じ難い程の速度を出している黄金。

 追い掛けるエリオは追い付く為に、守りを捨てる事を決めた。そして全身に纏う腐炎を消し去り、雷光の魔力を身体に纏う。

 

 腐炎を展開したままでは、己の魔法も焼き尽くしてしまう。だからと守りを捨てて矛となり、雷光を纏って突撃する他に術はない。

 眼前の光景は、先とまるで変わらぬ物。夜も影も風も雷も炎も、全てが同時に渦巻き吹き荒れている。何一つとして消えてはいない領域に、槍に灯した微かな黒炎だけで挑むのは自殺行為と言えるだろう。

 

 それでも為してみせねば、どの道敗北以外に道はない。ならば為してみせるのだと、覚悟を胸に成し遂げる。

 僅かでも足を止めれば、刹那でも逡巡すれば、爪牙の願いに飲まれて倒れる。そんな窮地を前に怯えも見せはしない。

 

 痛みに耐えて、限界を超えて、成長を続ける。夜に吸われて、影に飲まれて、風に吹き飛ばされ、雷に打たれ、炎に焼かれながらも進む。

 一つの魔法で届かぬならば、千でも万でも同じ加速を重ね続ける。重なり合った創造の層に刃を突き立て道を開いて、果てにエリオは獣を間合いに捉えてみせた。

 

 

「見事。故に、少し速度を上げるとしよう」

 

 

 槍を振えば、届く距離へと。黄金が生み出した異界の中で、真実光と同じ速度であった彼にエリオは魔法で追い付いてみせたのだ。

 見事と語る他にない。獣は確かに褒め称える。だがしかし、彼は余裕を崩しはしない。何故ならば、ラインハルトには更なる上がある。

 

 

「貪りし凶獣。皆、滅びるがいい――死世界(Niflheimr )凶獣変生(Fenriswolf)

 

 

 エリオが振った魔槍は空を切る。白狼の影を重ねた獣は、既に光よりも速いのだ。例え光速で追おうとも、無限加速には届かない。

 詰めた筈の距離が遠く遠く開いていく。全てを壊す力があっても、当たらなければ意味がない。悪魔の強さはこの状況では、正しく無価値であったのだ。

 

 

(くそ、遠い……奴の速さが、余りに遠いっ!)

 

 

 夜に吸われて、炎に焼かれて、風に腐らされて、それでも追い掛ける。影を切り裂き、雷を燃やして、黄金の獣を追い続ける。しかし決して追い付けない。

 どれ程に加速しようとも、白狼は更に上を行く。無限に加速され続ける速さに追い縋れる何かを、エリオ・モンディアルは有していない。だから追い付ける筈がなかった。

 

 

(当たれば、当てられれば、……当てる事さえ、今の僕には出来ないのか!?)

 

 

 この戦場で、成長を続けたエリオは既にラインハルトに迫っていた。彼が立ち止まっていたのなら、或いは首を獲れるであろう程には至っていた。

 質は既に程近い。だが量が隔絶している。質が同等であるならば、圧倒的な数を覆せはしない。もしも爪牙の影が少しでも欠落していれば、或いは勝機もあったであろう。

 

 

「隙だらけだぞ、エリオ・モンディアル。……放て(フォイア)!」

 

 

 宙を飛翔する黄金の獣は、距離を取り続けているだけではない。左手に握った槍で命じるのは、己を追い掛ける少年への砲撃命令。

 王の言葉に従って、砕けた王城が動き出す。輝かしい黄金の城は、巨大な骸骨へと姿を変えた。開いた口に灯るのは、星をも滅ぼす破壊光。

 

 疲弊し切って、それでも意地で追い掛け続ける。そんなエリオが躱せる筈もなく、黄金の輝きは少年の身体を飲み干していた。

 

 

「ぐ、あ、おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」

 

 

 黄金の破壊光。その直撃を受け、エリオは苦悶の叫びを上げる。全身が蒸発してしまいそうな衝撃に、少年の身体が痙攣する。

 毛細血管が破裂し、目からは血の涙が流れ出す。そんな少年を襲う痛みは、破壊の光だけではない。今もまだ、爪牙達の創造は機能しているが故。

 

 吸われ、腐らされて、燃やされる。光に飲まれて壊されながら、苦しみ続けるエリオ・モンディアル。それでも歯噛みし少年は、己にとってのたった一つを振い続けた。

 

 

〈開け――ジュデッカ〉

 

無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)!!」

 

 

 馬鹿の一つ覚えと嗤われようとも、これ以外に術がない。激痛の中で門を開いたエリオは、再び全力を以って腐った炎を召喚する。

 燃え広がる黒き炎は天の星々さえも喰らい尽くして、黒円卓の願いすらも踏み躙って、だがしかし――その右腕だけは超えられない。

 

 

人世界(Miðgarðr)・終焉変生( Völsunga Saga)

 

 

 修羅道の世界を滅ぼし掛けた腐炎は、黒き鋼鉄の一撃で消し飛ばされる。相反する表情を浮かべたまま、力を使った両者は自然落下に身を任せる。

 ラインハルトを受け止める様に、再び城へと変形した死人の群れ。玉座の間へと優雅に着地した獣を前に、四肢の三つを使って着地したエリオは荒い息を整えた。

 

 

「く、は、はぁ…………」

 

「ふむ。これも耐えるか」

 

 

 左の瞳から血涙を流し続ける少年は、痺れる身体を癒して立ち上がる。再び槍を構えたエリオの姿に、ラインハルトは僅か目を閉ざす。

 彼我の実力は比肩すれど、物量に差があり過ぎる。そんな状況でも諦めずに立ち上がり続ける少年に、獣が抱いた感情は――納得が混じった落胆だった。

 

 

「だが、足りない。やはり、この程度では足りん。分かるか? エリオ・モンディアル。私は今、飽いている」

 

 

 黄金の獣は飽いている。ラインハルト・ハイドリヒは落胆している。それは相対する少年が、想像の範囲を超えぬから。

 彼ならば、この程度は出来るだろう。そんな納得があった。彼ならば、もっと出来た筈だろう。そんな期待があったのだ。故に今、獣は飽いて飢えている。

 

 

「落胆が大きい。失望が深い。万感の情を以って、嘆息してしまいそうな程に。或いは、卿への期待が重過ぎたのか」

 

 

 認めよう。エリオ・モンディアルは最善を尽くしている。認めよう。ラインハルト・ハイドリヒが抱いた期待は大き過ぎたのであろう。

 これ以上はなかった。これ以上は出来なかった筈だ。これが怒りの日の頃の獣であったならば、拍手喝采して称えた程の健闘ではある。だがしかし、それでも今は足りぬのだ。

 

 

「だが仕方あるまい。期待せずには居られなかった。それ程に、私や卿らが重ねた刻は、深く重く輝かしい物であったのだから」

 

 

 彼の日、怒りの日、獣は美しい者を見た。これにならば負けても良いと、納得できる者らを前に打ち破られた。

 そしてこの地は、あの日の続きだ。彼らの子らだ。ならばその終焉たるこの日の勝者は、あの日の輝きを凌駕する者でなければならない。

 

 

「幾千と、幾万と、気が遠くなる程に見届けた。卿らの生きた証を。その輝きが、今も目に浮かぶように。色褪せる事などさせはせん。全て、この網膜に焼き付いている」

 

 

 この地に来て、獣は美しい者らを見続けた。天魔と言う人の身では届かぬ災厄に抗い、戦い続けて来た者達を見た。世界の終わりを前にして、それでも絶えない光を見た。

 ならばその最期、集大成と言うべき光がこの程度の筈はない。想像の範疇を出ない領域で留まっていては、余りに報われないであろう。だから黄金の獣は、足りぬと飢えを叫ぶのだ。

 

 

「それ程に、重ねた刻がある。共に過ごした日々が在る。その果てこそが今なのだ。ならばと期待してしまうのは、仕方のない事だろう?」

 

「知るか! お前の理由など、僕が知ったことかぁっ!!」

 

 

 語る獣を前に叫ぶ。雄叫びを以って彼の論理を拒絶して、エリオは駆け出し魔槍を振るった。

 甲高い音が響く。腐炎と終焉。二つの黒は相殺して、刃と刃で打ち合い続ける。それは最初の焼き直し。

 

 

「僕は唯、僕自身の為だけに! そうとも、愛だの何だの! そんなものはどうでも良い!!」

 

「この一瞬、一秒毎に成長していく。嘗ての私ならば、今の卿でも十分だと感じただろう。だがしかし、私は既に知っている。その既知感は枯渇している」

 

 

 だが既に純度が違っている。実力はもう拮抗していればこそ、傷付いていくのは既に片方だけではない。

 刃を振るう度に、エリオが、ラインハルトが、その身に切り傷を付けていく。血を流し、傷を増やして、握った刃を振い続けた。

 

 

「あの子を、僕が救うんだ! それだけが僕の望みで、僕の願いで、薄汚れた悪魔の全てだ!」

 

「飽いているのだ。飢えているのだよ。重ねた時が美麗であればある程に、期待は重く深くなる。卿ならば今以上にと、そう私は期待してしまう。だからこそ、この程度では足りぬのだ」

 

 

 ぶつけ合うのは、矛だけでなく互いの論理。己の欲求だけを押し付け合うその様は、対話と言うにはズレ過ぎている。

 それでも、これは覇道の本質ではあるのだろう。より強き意志だけが、より弱き意志を蹂躙して塗り潰す。それこそ覇道の神性だ。

 

 根本的に、覇道神は分かり合えぬ物なのだ。彼我の内に共感などは生まれ出でず、在るのは唯々対する他者の排斥だけ。

 

 

「私に生を実感させろ。私に未知を与えてみせろ。この窮地を前に、己の愛を見付け出し、見事この身を退けて魅せよ!」

 

「他には何も要らない! 愛情なんてもう要らない! そんな手にも入らぬ物を、どうして求めなければならぬと言う!!」

 

 

 それでもきっと、我をぶつけ合えば何かが変わりはするのだろう。愛する事を学べと語る黄金に、悪魔は知らぬ存ぜぬとだけ返し続ける。

 だってそれは、もう絶対に取り戻せない物だから。だって愛してくれた少女ですら、最後には悪魔を拒絶した。もう十分だと強がっていても、心の底では寒いし辛いし苦しいのだ。

 

 事実を叫ぶ少年は、何処か泣いている様にも見えたから――――獣も其処に、嘆きを晒してしまうのだろう。

 

 

「求めねばならぬよ。……そうでなくては、余りに無情が過ぎると言うのだ」

 

 

 物量差と相性差。その二点さえ除けば、己に届く程に成長した少年。全力を出す事を望んでいただけならば、もう相応しいと言えたであろう敵。

 それでも歓喜に酔えぬ程に飢えているのは、求めているのがそれではないから。全霊の境地ではない。其処から続く明日こそが、今は欲しいと感じている。

 

 それ程に、長き時を見続けて来た。それ程に、この世界の民を愛している。もう報われても良い筈なのだと、だからこうして彼は聖なる槍を振るうのだ。

 

 

「さぁ、乗り越えて魅せろ! Gladsheimr——Longinus Dreizehn Orden!!」

 

「く、オォォォォォォォォッ!!」

 

 

 接近戦で比肩しようが、異能が混じれば格差は広がる。数と言う断絶は未だ塞げず、黄金の総軍を前にすればエリオは一方的に追い立てられる。

 全軍突撃。雄叫びと共に迫る爪牙たちに圧し潰されて、圧し流されていくエリオ。少年も必死だ。此処で距離を取られれば、もう次などはないと感じていたから。

 

 

「ナァァハトォォォォォォォォォォッッ!!」

 

無価値の炎(メギド・オブ・ベリアル)!!〉

 

 

 迫る黄金の総軍を前にして、吹き飛ばされながらも門を開く。溢れ出した黒炎が総軍を喰らい散らして、その腐炎すらも一筋の光が貫いていた。

 

 

聖約・運命の神槍(Longinuslanze Testament)

 

 

 総軍の突撃に僅か遅れて、放たれていたのは必中・必殺・絶対先制の概念を宿した聖槍の投擲。総軍とぶつかり合って削られた腐炎では、その一撃は防げなかった。

 故に当然、エリオの身体を貫き通す。防げないし躱せない。即死の一撃を胴に受けたエリオは崩れ落ち、血反吐を吐いて大地に倒れた。赤い赤い血が、黄金の城を染めていく。

 

 

「が、は……」

 

 

 崩れ落ちた少年が、防げたのは即死だけ。終焉だけは腐炎で焼いて、しかしそれ以上は動けない。呼吸も真面に出来ない少年は、起き上がる事も出来ずに居る。

 そんな彼を落胆の瞳で見詰めたまま、ラインハルトは己の掌中に槍を呼び戻す。聖なる槍を左手に握って、外套を靡かせながらゆっくりと倒れた少年へと歩み出す。

 

 

「数が質を凌駕すると言う道理はない。だが質が等価である以上、たった一つで打ち勝つ事など出来はしない」

 

 

 カツカツと床を軍靴で鳴らしながら、近付く黄金は静かに語る。音にして告げるのは、少年に向けた最後の期待だ。

 

 

「今の卿では私に届かぬ。卿と悪魔だけでは、例え影であろうと我が双牙らは滅ぼせない。……ならば何を為すべきか、卿は既に知っていよう?」

 

 

 行動で示すだけでは、彼は至ってはくれなかった。ならば明確な言葉にする事で、或いは受け入れてくれるのではなかろうかと。

 望んでいるのは、彼が己と同じ道を行く事。だが同じ道を進みながらも、しかし違う果てに至る事。愛を以って、覇道を成す。それこそを彼に願っている。

 

 

「卿の内には命がある。卿の内には魂がある。無数に蠢き輝く彼らは、即ち一つの軍勢(レギオン)だ。その全てを束ねて挑めば、或いは為せる事も在るだろう」

 

 

 資質はある。資格はある。既に総軍は有している。唯々悲しい事に、彼の中には愛がないだけ。

 認めれば良い。受け入れれば良い。抱き締めてやれば良い。それだけで覇王となれるから、この光景が余りに惜しい。

 

 

「愛してやれよ、彼らの事を。抱き締めてやるがいい、彼らの事を。(アイ)してしまえばいいのだ、卿だけを崇め信じる様に。妄者の軍を以ってして、我が総軍と競い合え」

 

 

 抑え切れない程の情を以って、誰かを愛してあげれば良い。果てにその総軍は少年の為の力となり、共に覇道を目指せるだろう。

 だからこそ、何度でも語る。だからこそ、何度でも告げる。倒れ伏したエリオに向けて、その傍らで立ち止まった獣はこう語るのだ。

 

 

「何度でも言おう。卿には、愛が足りんよ」

 

 

 倒れ伏したエリオは、その言葉を前に何も返せない。即死を防ぐ為に自傷して、その傷口はまだ塞がってもいないのだ。

 蹲る事すら出来ずに居る。心臓付近に、腐った穴が開いた少年。意識すらも朦朧としている彼に、嗤い声を掛けて来たのは内なる悪魔。

 

 

〈だ、そうだが。さて、エリオ。どうするね?〉

 

 

 彼は嗤う。ナハトは嗤う。全てを愛せと語るラインハルトの言葉に対し、もう一つの悪魔が騙るは全てを愛せと言う言葉であった。

 

 

〈お前の中にある命は全て、お前と一つになった。だが奴が言う様に、俺が喰った命は俺と言う奈落の中に今も在る。従わせれば、確かな力となるのだろうさ〉

 

 

 ラインハルトが語った様に、ナハトの中には今も軍勢が存在している。エリオとナハトに殺された、全ての命が奈落に在る。

 彼らを従えれば確かに、数だけは黄金にも比肩しよう。既に質が比肩しているなら、数も届けば即ち互角。勝利の道筋も生まれるだろうと悪魔は騙る。

 

 

〈勝てるかもしれないぞ? 質は既に競い合える程に至っている。後は単純な、数と相性の問題だ。それを埋める札を、俺達は既に持っている〉

 

 

 だから、悪魔は騙るのだ。愛してやろう。抱き締めてやろうと。誰も愛せない無価値の悪魔が、愛した振りをしようと嗤っている。

 そうとも、メフィストフェレスが愛を語るなら、ベリアルは愛を騙るのだ。虚飾に塗れた無価値な言葉で、愛と言う想いを愚弄する。

 

 

〈抱き締めてやろう。愛してやろう。愚かだなぁと嘲弄しながら、奴らの骸を二人で共に躍らせよう。きっとそれは愉しいぞ〉

 

 

 きっと誰も愛せない。そんなエリオにとっては、ベリアルの言葉こそが相応しいのだろう。騙して躍らせ利用すれば良い。

 今更何を迷うと言うのか。人間に成る為に、沢山の犠牲者達を喰らった。あの時と同じく、また全てを使い潰せば良いだけなのだから。

 

 

「……いや、それは出来ない。だって僕は愛せない」

 

 

 なのに、どうしてだろう。エリオ・モンディアルは頷けない。散々に重ねて来た罪が、また一つ増えるだけだと言うのに彼は愛を騙れない。

 きっとそれは、其処に幻想を抱いているから。こんな様になっても尚、彼は光に焦がれていたから。抱き締めると言う尊さに、泥を塗りたくはなかったのだ。

 

 

「あの子だって、愛せてなかった。そんな僕がどうして、有象無象を抱いてやれる? 報いてなんて、やれはしない」

 

 

 奪うのは良い。もう散々に続けて来た。殺すのも良い。だってもう今更だから。だけど輝かしい物を穢すのは、どうしてだろうかしたくない。

 騙したくはない。弄びたくはない。愛しているだなんて、口が裂けても語れはしない。だってエリオ・モンディアルは、キャロ・グランガイツを愛せなかった。

 

 

「愛せないから、愛されて良い筈もない。主にも従にも、絆のない軍勢など無価値だよ。有象無象を束ねた所で、至高の黄金に届く筈もない」

 

〈だが、それではあの小娘が死ぬぞ? お前はこの黄金を倒せずに、キャロ・グランガイツも此処で死ぬんだ〉

 

「いいや、死なせない。死なせるものか」

 

 

 胸に空いた穴が塞がる。魔人の肉体が復元する。蹲って立ち上がる。少年の瞳は強く強く輝いている。

 諦めない。諦めはしない。数が伴わなければ、決して勝てないのだとしても。諦めるなんて道はなかった。

 

 

「弱者を束ねても至れないなら、僕一人でより強くなれば良い。そうとも、誰にも頼らない。誰も頼れないんだ。誰かを頼って良い理由がない」

 

 

 無価値の悪魔は地獄の中で、陽光の温かさを知ってしまった。失われた今となっても、その輝きに焦がれている。

 もう手に入らないそれが、どうしようもなく欲しいと感じる。だから穢す事は出来なくて、だけどもう求める事も出来やしない。

 

 十分だと嘯いて、満たされていると欺いて、それでも光を求めている。此処に居たのは、そんな子供だったのだろう。

 

 

「なら、僕は僕として僕のままで、あの子を救い上げてみせるっ!!」

 

 

 立ち上がると共に、魔槍を全力で振り上げる。渾身の一撃は聖なる槍に受け止められて、そのまま膂力で圧し潰される。

 再び倒れ伏す直前、大地を蹴ってエリオは跳んだ。背後に大きく後退した彼は、血反吐を拭って槍を構える。何度だろうと、立ち上がると決めていた。……果てにはもう、何も得られないのだとしても。

 

 

「……哀れだな。卿も、その軍勢も。愛する事が出来ぬ程、卿にとっては背負うに重い荷であったか」

 

 

 愛して欲しい事にすら、気付けず進み続ける子供。或いは気付いているけれど、許されないと断じてしまった罪深き者。

 その姿は、唯々哀れだ。奪い続けてしまった過程が、一人で背負うには重過ぎたのだ。なのに誰も頼れないから、エリオ・モンディアルに救いはない。

 

 

「或いは誰かが、卿の傍に居続けていたのなら――――いや、仮定の話をしても虚しいだけか」

 

 

 真実、彼が破軍の王となる為には、彼を愛する誰かが必要だったのだ。その行いを拒絶せず、許し続ける人が必要だった。

 或いは在り得た可能性において、その背を支えたのは三人の少女達。内の二人を己の手に掛けた以上、罪悪の王はもう止まれない。

 

 愛を語れる程に、彼は自分を許せなかった。愛を騙れる程に、彼は非情にはなれなかった。どっちつかずの末路が此処に、終わりは想定以下だった。

 

 

「では、もう終わらよう。手向けだ。我が全霊を以って、卿の全てを破壊(アイスルト)しよう」

 

 

 ラインハルトが纏う神威を強くする。激しい威圧は物理的な威力すらも伴って、エリオの身体を大きく吹き飛ばす。

 そして、黄金の獣は槍を浮かべる。轟風を吹き起こす神威に外套は激しく揺れ動き、黄金の長髪は鬣の如く逆立った。

 

 

――怒りの日(Dies irae)終末の時(dies illa)天地万物は灰燼と化し(solvet saeclum in favilla)ダビデとシビラの予言のごとくに砕け散る(Teste David cum Sybilla)――

 

 

 城が鳴動する。宙が鳴動する。修羅の世界が歓喜の叫びを上げるかの如く。囚われた死人達が断末魔の声を上げるかの如く。何もかもが激しく揺れた。一つの世界が、此処に流れ出す。

 

 

――たとえどれほどの戦慄が待ち受けようとも(Quantus tremor est futurus)審判者が来たり(Quando judex est venturus,)厳しく糾され、一つ余さず燃え去り消える(Cuncta stricte discussurus)――

 

 

 これは流出。これこそが流出。夜都賀波岐の偽神など既に比ではない。世界を滅ぼし生み出す力が、紛れもなく此処に在る。

 溢れ出す黄金の光。美しき獣の背後には、嘗て彼に仕えた臣下達の影。在りし日。怒りの日を思わせる笑みを浮かべて、其処に獣の爪牙が集う。

 

 

――我が総軍に響き渡れ、(Tuba, mirum spargens sonum)妙なる調べ、開戦の号砲よ( Per sepulcra regionum)皆すべからく、玉座の下に集うべし(Coget omnes ante thronum)――

 

 

 偽槍の死人。鍍金の神父。白貌の吸血鬼。紅蓮の剣士。雷光の戦乙女。太陽の巫女。鋼鉄の英雄。地星の魔女。狩猟の魔王。辺獄の蜘蛛。嘆きの大淫婦。狂乱の白狼。

 聖槍十三騎士団・黒円卓。其処に集った騎士達が、誰も欠かさず此処に居る。彼らの全盛期を遥かに超える、神としての力を有して。そしてそれを束ねる黄金の獣は、集った誰より強く輝き笑っている。

 

 

――彼の日、涙と罪の裁きを(Lacrimosa dies illa,)卿ら、灰より蘇らん(Qua resurget ex favilla)――

 

 

 解放された力はその圧だけで、常人は愚か超人さえも死に至らしめたであろう。今のエリオでさえも、息苦しさに圧し潰されてしまいそうな程だ。

 それ程の輝き。それ程の力の波動。圧倒的な力を前に、目を開いている事さえ難しい。吹き付ける風に逆らって、前に進むなど論外だ。出来る筈がなく、ならば獣の破壊は止められない。

 

 

――されば天主よ、その時彼らを許したまえ(Judicandus homo reus Huic ergo parce, Deus)――

 

 

 神格係数にして九十。歴代の座を支配した神々ですら、此処に至るのは極僅か。究極と語る以外に形容のしようがない力が、眼前で渦巻いている。

 放たれれば終わる。だと言うのに、放たれる前に止める事すら出来そうにない。ならば至る結果は明白だ。決着は既に見えている。なのに――――エリオは一歩を進んでみせた。

 

 嵐を思わせる神威の中を、這って進む様な速度で前に踏み出す。一歩一歩確実に、追い掛けようと歩いていく。

 本当は駆け抜けたいけれど、それが出来ないからせめて。前に行くのだと覚悟を決めて、進む彼の前で咒は紡がれた。

 

 

――慈悲深き者よ(Pie Jesu Domine,)今永遠の死を与える(dona eis requiem)エィメン(Amen)――

 

 

 数歩の距離が、遠く険しい。最早力が放たれる前に、辿り着くなど不可能だ。既にエリオは、己の死を垣間見ている。

 僅かに過ぎった景色。優しい少女と、小さな白竜。共に過ごした光景は、唯の走馬灯だったのか。小さく微笑んだ少年は、強く踏み込み前へと跳んだ。

 

 

流出(Atziluth)――」

 

 

 届かない。届かない。届く訳がない。吹き付ける極光と轟風の中、エリオは己の死を予感する。

 嘆くような微笑を浮かべた黄金は、再び手にした槍を構える。そして投擲する様に、大きく左手を振り被り――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エリオ・モンディアァァァァァァァァァァルッッ!!」

 

 

 其処で玉座に響いたのは、余りにも場違いな少女の叫びであった。

 

 

 

 

 

2.

 小さな手の甲を彩る紫紺の宝玉が、輝き魔法の力を示す。伸ばした先に刃が生まれて、十字の枷を切り裂いた。

 崩れ落ちた小さな身体を、少女は両手で抱き締める。触れ合う肌から感じる鼓動に安堵して、ルーテシアは憤慨した。

 

 うら若い乙女の肌を晒しものにするとは、元凶と言うべき老人たちは一体何を考えていたのか。

 眠りながらも魘されていて、誰かの名前を呟く少女。そんな彼女を放っておいて、その誰かは一体何をしているのか。

 

 安堵し、怒って、苦笑する。無事で居てくれて良かったと、己が此処に来て良かったと、嗚呼きっとそう言う事なのだろう。

 此処に彼が居ない事。眠る妹が今も涙の痕を残して、少年の名を縋る様に呟く事。それらが意味する事とは即ち、きっとそう言う事なのだ。

 

 ルーテシア・グランガイツがこれから為すのは、きっととても大切な事。未来を想えば怖いけど、きっと必要な事なのだ。

 

 

〈我らは正しい。故に罰されるべきなのだ。そうとも、そうに違いない〉

 

〈我らは正しい。正しいから正しい。それだけが真実なのだ。何故なら、我らは素晴らしい〉

 

 

 聞こえて来る音に顔を上げる。液体の中に浮かんだ脳髄達は、外部からの侵入者であるルーテシア達にも気付いていない。

 唯々無意味な音を繰り返す、壊れたラジオの様な物。それが二つと、既に沈黙してしまっているのが一つ。最高評議会の成れの果て。

 

 

「彼らは永く、本当に永く生き過ぎた。もっと早くに、終わっておけば良かったのだ」

 

 

 嘆く様に、悔やむ様に、詫びる様に、語る竜胆の言葉。それを聞きながらもルーテシアが、何かを語る事はない。彼女に言える事などない。

 唯、忘れないでいるだけだ。そういう人が居たのだと。そういう事があったのだと。そして胸に一つと誓う。恐ろしくとも、大切な事だけは間違えない。

 

 

「必要だから残したと、果ての末路がこの光景だ。悔やむのは彼ら自身の咎で、詫びるのは私の責であろう。……少なくとも、お前が嘆く事ではない」

 

「分かってるわよ、そんなこと」

 

 

 きっと何か、したかった事があるのだろう。此処まで残り続けた事には、確かな想いがあった筈なのだ。だから其処に、哀愁を感じずにはいられない。

 彼らはきっと、大切な事を間違えたのだ。間違えたまま長く生きてしまって、果てにこんな末路に至った。それはどうしようもなく、悲しくて怖い事だと想う。

 

 死ぬよりも、恐ろしい事。それは後悔したまま、生き続けてしまう事。その後悔を拭えずに、そのまま終わってしまう事。

 こうして最期に、何も為せなくなってしまった彼らの様に。唯生きるだけでは駄目なのだ。そんな終わりを、ルーテシアは望んでいない。

 

 

「私は永くは生きない。此処で終わるって、もう決めたもの」

 

 

 ルーテシア・グランガイツは此処で終わる。今日この日、この場所で短い生に幕を下ろす。その為に、彼女はこうして此処に来た。

 クラナガンの街に蔓延る蟲の群れが溢れ出す前に跳び出して、腐毒の王が現れる前に辿り着いた。そんな奇跡を、無駄にしない為に此処で死ぬ。

 

 死ぬのが怖くないと、そんな筈はない。だが死ぬよりも、恐ろしい事がある。その末路を見た事で、微かに揺れていた心は確かに定まった。

 さぁ行こう。望んだ明日を掴む為、命を賭けて成し遂げよう。愛しい家族の髪を撫で、覚悟を決めた一人の少女。ルーテシアの横顔を、生首と化した女は見詰めている。

 

 

「……もう少し、此処に居ても良いのだぞ」

 

 

 これは本当に、唯の奇跡なのだろうかと。女の中には疑問があった。呼吸すらも出来ない程に、ミッドチルダの大気には毒が満ちていたのだ。

 逸早く飛び出したからと言って、偶然その影響を受ける前に此処まで来れたと? 一体何の冗談だ。それならば何者かの干渉があったのだと、言われた方が得心出来る。

 

 そうとも、きっと干渉されていたのだ。竜胆が槍との繋がりを介して、状況の推移を覗き見ていたのと同じく。獣は聖なる槍を介して、彼女達を招いていたのだ。

 少女の決意すらも、神の掌で踊らされていただけだとすれば。果たしてこのまま進んで良いのか、久我竜胆は迷ってしまった。そうとも迷ってしまう程には、この少女に情を抱いていた。

 

 

「まだ時間はある。お前にとっての最愛に、何かを遺すも良いだろう。世界の為に命を賭けるのだ。その対価としては、寧ろ安い程だろう」

 

 

 それでいて、逃げて良いとは口に出来ない。例え神の掌中だとしても、これ以外に道などなかった。だから口に出来た言葉など、傷を舐める様な物。

 下らぬ偽善だ。詰まらぬ感傷だ。少女を想うのならば最初から後押しするべきではなかったし、世界だけを想うのならば何も言わずに先を促すべきだったのだ。

 

 なのにこうして、言葉を口にしてしまう。発した音を思い遣りとは、断じて語れはしないだろう。慰めたいのは、結局の所誰なのか。

 

 

「……いいわ。だって、泣いちゃいそうだもん。だからこのまま、私は此処でさよならを言うの」

 

 

 決意に水を差す言葉。中途半端な優しさに、ルーテシアは首を振る。眠ったままのキャロを起こさないのは、きっと泣いてしまうから。

 微かに滲んだ瞳で見詰める。僅かに濁った鼻声で、変わらぬ想いを此処に語る。そうしようとするのは、そうしなければならないから。後悔だけはしたくなかった。

 

 

「私は死ぬわ。だって、アイツ馬鹿なんだもん。このまま放っておいたのなら、何もかもを巻き込んで全部台無しにしちゃうじゃない」

 

 

 本当は此処から、今直ぐにでも逃げ出したい。抱えた生首を投げ捨てて、眠った少女を抱き抱え、跳び出せたのならばどれ程に良かったか。

 きっとそうしていれば、これから先も生きていける。世界が終わってしまうその時まで、優しい時間を過ごしていける。だけどそれでは、ルーテシアは後悔する。

 

 

「私は死ぬわ。だって、私はお姉ちゃんなんだもん。この子の事は、私が一番近くで見て来た。私が一番、分かっているのよ」

 

 

 死を前にして、眼前にと近付いていて、だから恐怖はとても強くなっている。けれどそんな恐ろしさより、後悔するのは嫌だった。

 だから前に進むのだ。断崖の先へと飛び降りて、地面に落ちて潰れて弾ける。そんな道を選ぶ理由は、今もキャロがエリオの事を想っているから。

 

 

「だから分かるわ。まだこの子、あの馬鹿の事が好きなのよ。拒絶した事を悔やんで涙を流す程、アイツの事が好きなのよ」

 

 

 眠る少女の髪を優しく撫でる。知っているのだ。分かっていた。恐怖に思わず拒絶してしまった事を、キャロが悔やんでいると言う事なんて。

 恐れて震えて手放して、それでもやはり大切だった。後悔の涙で頬を濡らしている妹は、此処で逃げたら笑えない。この先一生、幸せにはなれないだろう。

 

 そんな風に想えてしまう。本当は直ぐに切り替えて、新しい想いを見付けられるのかもしれない。けれどルーテシアには、そんな風に想えてしまったのだ。

 

 

「だから放っておけないじゃない。あの馬鹿は勘違いしたまま突き進んで、引き返そうともしないんだもん。なら、私が分からせるしかないでしょう」

 

 

 桃色の髪を撫でながら、少女が愛する少年を想う。たった一度拒絶されただけで、もう愛されないと勘違いしているであろう少年を。

 今までが身の丈に余る程に満ちていたから、これ以上なんて望めない。そう強がる罪人に、分からせてやらねばならない。それが出来るのは、ルーテシアだけなのだ。

 

 

「キャロの想いを、このまま終わらせたくはない。これは私の唯のエゴ。エリオの馬鹿を、このまま進めさせたくない。これも私の唯のエゴ。私はね、私が望んだ未来が欲しいの」

 

 

 誰かの為と、言い訳染みた語りは要らない。これら全ては唯只管に、ルーテシア自身の願いだ。妹が愛する人と笑い合っている。そんな未来が欲しいだけ。

 己の終わりに、眠る少女が嘆いてしまうとしても。嘆きながら過ごし続ける優しく短い時間より、悲しみを乗り越えた果てに何処までも続く明日が欲しかった。

 

 

「だからキャロの為だけじゃない。だからエリオの為な筈がない。私は私の為に命を使う。だからこの先に恐怖はあっても、後悔なんてありはしないわ」

 

 

 口にした言葉に、揺れていた心は再び定まる。決意はもう変わらないのだと、言える強さは少女にない。だからまた揺らぐより前に、歩き出してしまいたい。

 語る少女の言葉に目を閉じ、そして開いた竜胆は小さく詫びた。彼女の想いを、哀れむ事こそ無粋であると。二人は唯の協力者。必要なのは、成すべき事を成す事なのだと。

 

 

「そう、か。無粋だったな。許せ、ルーテシア」

 

「いいわ、許す。だってアンタなりに、気遣ってくれたんでしょ。竜胆」

 

 

 強がる少女の言葉に、これではどちらが大人だと苦笑する。そうして意識を切り替えた竜胆は、地下の中央に座す祭壇を見詰めて言った。

 

 

「今から開く。槍を通じて、道を維持出来るのは一瞬だけだ」

 

 

 聖王教会の地下深く、祭壇に聳え立つのは黄金の聖槍。常人では見ただけで、心を砕かれ死に至るであろう至高の聖遺物。

 極力見ない様にしていたルーテシアも、先からずっと巨大な圧力を感じていた。離れた今も息苦しいと感じる程で、だがこの内側は外側の比ではない。

 

 刻一刻と増し続ける槍の威圧は、即ち内界における戦場の質が肥大化していると言う証左である。内に一歩でも踏み込めば、竜胆もルーテシアも秒と持たない筈であろう。

 だが、この内側に行かねばならない。そしてその場所で、彼に言わねばならない。その為に、ルーテシアと久我竜胆は此処に来たのだ。果てに命が終わるとしても、彼女達は前に行く。

 

 

「言いたい事は、今の内に纏めておけ。その一瞬に流れ込む圧力だけで、我らは共に潰されよう。私が持つのは数秒で、私が消えれば次はお前だ」

 

「……大丈夫。言うべき事は、もう決まってる」

 

 

 槍と繋がるが故に内界の出来事を知れる竜胆は、聖なる槍の力を借りる事が出来る。耐性があるのだ。だから多少は、時間を作り出せるだろう。

 だが今の彼女が残る全生命を燃やし尽くしても、生み出せるのは精々が数秒から十数秒と言う程度。それを超えれば、ルーテシアは消滅してしまう。

 

 そして今の竜胆に、門を開く事は出来ても閉ざす様な力は残っていない。ならば当然、その手にあるのは片道切符だ。行ったら二度と、帰って来れない。

 

 

「それじゃあ、キャロ。お姉ちゃん、行って来るね」

 

 

 それでも、ルーテシアはもう迷わない。キャロを巻き込まない様にと離れさせ、ゆっくりと床に少女を寝かせる。

 桃色の髪をもう一度撫でると、笑みを浮かべて立ち上がる。そうしてゆっくりと、黄金の槍に向かって歩を進めた。

 

 

「聖槍十三騎士団黒円卓! 首領ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ=メフィストフェレス!」

 

 

 進むルーテシアに抱き抱えられたまま、久我竜胆は咒を紡ぐ。神咒神威へ、捧げる神楽を此処に演じる。

 既に手足はないけれど、これより魅せるは神楽舞。嘆く修羅の天へと捧げる、少女と女の最期の献身。即ち人身御供である。

 

 

「御身に連なる者として、私は此処に希う! 登城と謁見を! 我らの声に、耳を傾けて欲しい! まだ貴方が、我らを見放していないのならば――!!」

 

 

 黄金の槍が強く輝く。目を焼く程の極光が彼女達を包み込み、そうしてルーテシアと竜胆は登城した。

 景色が変わる。広がる光景は、全てが髑髏で出来ている。踏み締めた床が蠢いた瞬間、感じたのは言い知れぬ寒気。

 

 

「開いた! 行け――ルーテシア!!」

 

 

 だが、そんな恐怖に震えている時間はない。もう己を捨てて先に行けと、語る竜胆に頷きルーテシアは走り出す。

 手放された女の頭は、そのまま床へと落ちていく。取り込もうと手を伸ばす死者達が触れるより前に、竜胆は硝子の様に砕けていった。

 

 

「魅せろよ新鋭。世界を変えられるのは、主役だけではないのだと」

 

 

 遠ざかる背中に祝福を。守護の術を最期に掛けて、女の生涯はそれでお仕舞い。髑髏の手に掴まれて、人形の様に砕け散る。

 城が取り込めない程に、女はもう終わっていた。だから何処にも何も遺せず、けれど最期に笑顔を浮かべて、久我竜胆はその永き生を終えたのだった。

 

 

「――――っ」

 

 

 吹き付ける神威は、宛ら荒れ狂う嵐の如く。吹き付ける威圧の中では、加護を受けていると言うのに、声を出す事すらも難しい。

 そんな少女は、それでも前を見た。玉座を前に、立ち会う二人。一人ぼっちの少年と、影の軍勢を統べる巨大な黄金の姿が其処に在る。

 

 獣を見た瞬間、意識が一瞬飛んでいた。このまま消え去ってしまうのではないかと、だからルーテシアはもう見ない。

 此処に来たのは、獣と戦う為ではない。一人ぼっちの少年に、言葉を伝える為に来たのだ。だからルーテシアは、呼吸さえも苦しい中で叫びを上げる。

 

 

「エリオ・モンディアァァァァァァァァァァルッッ!!」

 

 

 身を裂く様な、叫びの代価は自己の崩壊。二人の視線が向けられて、襲い来る圧は恐ろしい程に膨れ上がる。

 恐怖の悲鳴を上げる事すら出来ないまま、潰されそうになる少女。それでもルーテシアは、もう一度大きく息を吸う。

 

 肺が痛い。喉が痛い。身体が重い。余りに苦しくて苦しくて、引き毟りたくなる程に。それでも少女は、また叫ぶのだ。伝えるべきを、告げる為。

 

 

「アンタは、幸せになりなさい――っ!!」

 

 

 其処までして、口にしたのはそんな事。今にも溢れ出そうとしている黄金の総軍を前にして、少年は驚愕に目を丸くする。

 在り得ない。在り得て良い筈がない。口にした言葉の内容も受け容れられる物でなければ、それを言う為だけに命を賭けると言うその意志がまるで理解出来ない。

 

 そんな困惑を隠せないエリオの表情に、ルーテシアは矢張りと笑う。この勘違いした少年は、やっぱり気付けていなかったのかと。

 

 

「アンタが笑っていないと、あの子はもう笑えないのよ――っ!!」

 

 

 だから、と更に続ける。何故に幸せにならねばならないのか。何故に命を賭けたのか。それを音に変えて、彼へと届ける。

 どうか伝わって欲しい。此処までして、分からないだなんて許さない。理解しなければならないのだ。お前はまだ、愛されているのだと。

 

 

「だから、アンタが――っ! あの子の為にも、先ずはアンタが――! 自分を幸せにしなさいよ――――っっ!!」

 

「――っ」

 

 

 きっと伝わったのだろう。泣きそうな顔で、動きを止めたエリオの姿。それを最期に目にした事で、ルーテシアは安堵する。

 既に加護は消えている。竜胆の遺した時間は過ぎた。だからルーテシアは勝利を誇る様な笑みを浮かべて、光の中へと溶けて消えた。

 

 後には何も残らない。幼い少女は悪魔に許しの言葉を告げて、その命を終えたのだった。

 

 

 

 

 

3.

 もしも今が戦場で無ければ、少女が命を懸けていなければ、これ程の説得力はなかっただろう。

 幸せになれと言ったのが、もしもルーテシアで無かったのなら。エリオは鼻で笑い飛ばせていた筈だ。

 

 

「なん、で……」

 

 

 けれど、出来ない。命を賭けたその言葉、笑い飛ばせる筈がない。黄金の総軍を前にして、彼は茫然自失してしまう。

 意味が分からない。訳が分からない。唯々衝撃だけが胸の中で渦巻いている。何故にルーテシアは、こんな悪魔の為に命を捨てたのか。

 

 

「……美しい。命を懸けた想いと言うのは、何時だって胸を打つ程に美しい」

 

 

 今にも飛び出しそうな総軍を抑えて、ルーテシアの献身を称えるラインハルト。その慈愛に満ちた言葉ですら、今は鬱陶しいと感じている。

 美しいと、あれをそう評するのかと。そんな言葉で語れる様な、単純な物ではなかった筈だ。そうでなければ、エリオがこんなにも心を乱されている筈がない。

 

 

〈他人の為に、自己を犠牲とする。醜く薄汚く無駄な行為だ。そうは思わんか、相棒(エリオ)?〉

 

 

 心の中に巣食うナハトは、吐き気を堪える様な声音で侮蔑する。その憎悪に満ちた言葉に、今はしかし頷けない。

 醜い筈がない。薄汚い筈がない。あの少女が与えた衝撃を、そんな言葉にしたくない。けれどならば、一体何と語れば良いのか。

 

 

「分からない。何で、君は……どうして、僕は……」

 

 

 分からない。分からない。分からない。答えなんて出せる筈がない。時に言葉は陳腐となる。何と言おうと足りぬのだから。

 それ程に、エリオ・モンディアルが受けた衝撃は大きい。泣きたくなってしまう程、目を逸らしたくなる程に、最期の言葉は痛かった。

 

 

「僕が笑っていないと、キャロが笑えない? どうして、そんな事、在る筈が、ないのに……」

 

 

 まだ愛されているのだと。また抱き締められて良いのだと。それを望んで良いのだと、ルーテシアは命を懸けて教えてくれた。

 そんな事、在る筈がない。在って良い筈がない。けれどそう否定する事すらも、今のエリオには出来ない。否定してしまえば、全てが無為へと変わるから。

 

 

「否定できない。したくない。ああ、何で、君はこんなにも重い物を残してくれた。もう、背負いたくなんてないのに……」

 

 

 たった一人の日溜りが、共に過ごした身近な家族。ルーテシア程に、キャロを知る者は居ないだろう。だからこそ、説得力が違っている。

 もう否定できない以上、その言葉を受け容れる他にない。エリオは今も、愛されている。そしてこのまま進んでしまえば、それさえ無くしてしまうのだと。

 

 

「なのに、笑って欲しいんだ。なのに、幸せになって欲しいんだ。なのに、あの子を一番知る人が、僕に言う。幸せになんて、なって良い筈がないのに。なのに、ならないと、キャロがもう笑えないと彼女が言うんだ」

 

 

 地獄の中で産まれた。憎悪を浴びて生きて来た。悪意ばかりを与えて来た。そんな罪悪の王が進む未来に幸福なんて、最も不釣り合いな言葉だろう。

 許されて良い筈がない。救われて良い道理がない。だからせめて、あの少女の幸福だけを願った。だがエリオが笑えなければ、キャロも笑えないのだと言う。

 

 愛されてはいけない者を、少女は愛してしまったから。ならば彼女が全てを失ったまま笑えなくなるのは、当然の報いだと言うべきなのか。

 いいや、そんな事は認められない。エリオにとって、それだけは譲れない事。だからキャロだけは幸せにしたくて、だけどその為には己も救われなくてはならないのだと。

 

 在り得ない。在り得ない。在り得て良い筈がない。けれど、それしか道がないと言うのなら――――

 

 

「僕は、幸福になって良いのか……」

 

 

 幸せになっても良いのだろうか。何処か茫然としたまま、エリオは涙を流す様に呟いた。

 救われて良い筈がない。呪われて然るべき怪物。そんな悪魔が、それでも幸せになって良いのだろうかと。

 

 

〈さぁ、知らんよ。だがお前も知らんと切り捨てたなら、あの娘の死は無価値だな〉

 

 

 不機嫌そうにナハトは返す。少女の献身にエリオが絆されている現状は、彼にとっては最も気に入らない展開だ。

 これでエリオがルーテシアの死を無価値と切り捨てれば少しは胸もすくのだろうが、長い付き合いからそうはならないと分かっても居た。

 

 故に不貞腐れる様に、内なる悪魔はどうでも良いと切り捨てる。何をしようと今の彼では変えられない。少女が残した状況で、悪魔は名前の通りに無力であった。

 

 

「僕は、救われても良いのか……」

 

 

 悪魔は答えを出してはくれない。この問い掛けに対する答えは、己で出さねばならない事。

 それでもやはり、許されて良いのかと言う疑問はある。救われて良い筈がないのだと、今もエリオは想っている。

 

 

「さて、それを決めるのは卿の役目だ。だが――可憐な少女(フロイライン)の献身に応えられぬ様では、男が廃るぞ。これ以上、私を失望させてくれるな」

 

 

 けれどそれは、ルーテシアの最期を無駄にする行為。彼女の献身を、台無しにしてしまう事なのだ。

 だからこの今、罪人である事を理由にしてはならない。幸せになれと許されてしまったのだ。これ以上、鬱屈としては居られない。

 

 理屈じゃない。建前じゃない。唯、何をしたいのか。唯、どうなりたいのか。口に出来る言葉はそれだけで、だから吐露した想いはそれだった。

 

 

「……僕は、幸せになりたい」

 

 

 認めてしまえば、明白だった。ずっとエリオは、地獄の底で天国の光に焦がれていた。幸せになりたいと、だから日溜りに惹かれたのだ。

 愛してなんか居なかった。けれど恋して求めていた。傍に居たいと願っていた。本当は唯ずっと、一緒に居たいだけだった。それを此処に、エリオは認めた。

 

 

「痛いんだ。辛いんだ。苦しいんだ。だけど、あの子の為だと想えば我慢が出来た。だけど、この先に進んでも、あの子は笑ってくれはしない。もう、あの子は僕を愛してくれない。それは辛く苦しく痛いんだ」

 

 

 認められなかったのは、きっと怖かったからなのだろう。ずっとずっと、引け目に思っていたのである。

 救われて良い筈がない。許されて良い筈がない。それだけ酷い事をした。それだけ悪い事をした。仕方がなかったと、言い訳さえも出来ない程に。

 

 

「……ああ、そうだ。僕は愛されていたかった。抱き締められていたかった。幸せに、なりたかったんだ」

 

 

 それでも愛されていたかった。それでも抱き締めて欲しかった。気付いてしまえば、もう隠してなんて居られない。

 愛が欲しい。愛が欲しい。愛して欲しい。それが許されないのだとしても、それが浅ましい事だと分かっていても、救われたいと願ってしまう。

 

 

「でも、怖いんだ。でも、許せないんだ。此処に来るまで、沢山酷い事をした。此処から進む為に、また沢山の酷い事をする。そんな僕が、幸せになって良い筈がない。……だけど、それでも僕は、救われたい」

 

 

 どうして奪った。どうして殺した。どうして誰かを傷付けて、お前は笑おうと願うのか。責め立てる死者の声は、唯の幻聴なのか違うのか。

 エリオ・モンディアルは、幸福には値しない男だ。罪悪の王は、決して救われてはならない人種である。それは一番、エリオ自身が分かっていて――――それでも救われたいのだと、彼は気付いてしまったのだ。

 

 

「だから――」

 

 

 もう目は逸らせない。どちらを向いても、誰かを裏切る。殺して来た人々か、命と引き換えに伝えてくれた少女と恋い慕うその妹か。

 どちらかを裏切ってしまうと言うのなら、己の意志で定めよう。本当は何が欲しいのか、認めた上で求めよう。それでもそんな自分が、許せないと言うのなら――

 

 

「僕は、僕を許せる僕になろう。許して良いと、想える事を成し遂げよう。成すべき事を終えた先、其処をこれから目指してみよう」

 

 

 許せる様に、変わっていこう。幸福の中で笑う自分を、許せるだけの何かを成し遂げよう。そうする事でしか、報いる事など出来ぬから。

 エリオ・モンディアルはそう決める。他の誰でもない。他の何でもない。自分の意志で幸福を目指して、歩き出そうと決めたのだ。

 

 

「世界を救おう。夜都賀波岐(センジンタチ)を終わらせよう。神座の奥に遺された、大欲界を打ち滅ぼそう。あらゆる脅威を退けて、その果てに漸く――――僕は僕を許せる様に成れると想うから」

 

 

 世界を救うだけでは足りない。穢土の大天魔達を超えるだけでは足りない。彼の世界を滅ぼした大欲界を打ち破って、漸く少しは許せるだろうか。

 道は険しく、苦しく、どれ程に掛かるか分からない。けれどそれくらいしなければ、エリオは自身を許せない。それだけすれば、少しは許せると想えたから。

 

 少年は己を許す為、世界を救う旅に出る。果てに幸福を求めると言う事は、少しだけ己を愛せたと言う事だから。立ち上がって構えたエリオの姿に、ラインハルトも笑うのだ。

 

 

「先ずはお前だ。黄金の獣。お前を超えて、僕は此処から始まろう。僕自身が、幸福に過ごせる明日を目指して」

 

「……そうだ。それで良い。先ずは己を愛する事。愛するとは、望むこと。それでこそ、卿は覇者と成れるのだから」

 

 

 漸くか。随分待ったと。だが待つだけの価値ならあった。微笑む黄金の獣は控えさせていた配下らに、今がその時だと指示を出す。

 素晴らしき少女の最期と少年の決意に、万感の喝采を。胸中で送りながらも手は抜かない。これより彼が進むのは、何より辛く苦しく険しい道となろうから。己の全力くらい、超えて貰わねば困るのだ。

 

 

「さぁ、開幕の花と告げよう! 流出(Atziluth)――混沌より溢れよ怒りの日(Du-sollst Dies irae)!!」

 

 

 黄金の指揮の下、十三の爪牙と億を超える死人の軍勢が突撃する。全ての異能を統率し、最前線に立って進むラインハルト。

 迫る修羅の王を前にして、エリオも大地を蹴って駆け出す。進むは前へ。逃げる事などもうしない。この覇王は今此処で、乗り越えてみせると決めたのだ。

 

 

(認めよう。僕じゃ勝てない。僕だけじゃ勝てない)

 

 

 それでも、想い一つじゃ勝てない。不器用ながらも己を愛そうとし始めたからと言って、その断崖は超えられる様な物じゃない。

 質は等価であろうが、量は今も違うのだ。だから、エリオは勝てない。エリオとナハトだけでは勝てない。それを先ずは認めよう。その上で、諦めないと言うのなら。

 

 

(だから、力を貸せ。お前達の躯を身勝手な都合で弄ぶ僕に、どうかお願いだから力を貸してくれ)

 

 

 ナハトの奈落の中へと言葉を投げる。己が奪い取って来た無数の命に語り掛ける。どうか力を貸して欲しいと。

 

 喰らい尽くす事などしない。欺く事など出来やしない。これから先、己を許せる様に成ろうと決めたのだ。

 だから出来るのは正攻法。力を貸してと頭を下げて、その変心を求めるだけ。何時か何かを返すから、手伝って欲しいと願うのだ。

 

 

(怨みは背負う。痛みは抱える。だけど裁きは受け付けない! そんな僕で良いのなら、どうか力を貸してくれ!!)

 

 

 ざわりと、奈落が揺れた。其処に堕ちた多くの魂は、今更何をと語るだろう。多くの者らは、殺しておいて良くもと罵るだろう。

 それでも、それが全てじゃない。優しく良いよと、伝えてくれる小さな剣精の様に。彼がそれを望む事を、ずっと待っていた者らも居たから。

 

 

「僕が、僕らが幸せになれる未来の為に――――お前達が必要だ!!」

 

〈……ったく、おっせぇんだよ。暇が過ぎて、永眠しちまう所だったわ〉

 

 

 そうとも、彼らは待っていた。あの日、少年に敗れた時からずっと決めていたのだ。

 己達に勝った少年が自覚した上で、自分達を求めるならば手を貸そうと。未来を託すと決めていた。

 

 

〈けどま、及第点って所かしらね。良いわ。私達はアンタに賭けてあげる〉

 

 

 これまでは駄目だった。例え己達を打倒した者であろうと、未来に繋がらないのならば認める訳にはいかない。

 だが、今は違う。この今に、エリオ・モンディアルは前を見た。己の幸福を求めた事で、彼は真実覇道に至る資質を得たから。

 

 

《使い熟して魅せろ――期待の新鋭(ルーキー)!!》

 

「ああ、言われなくても! 使い熟して魅せるさ!!」

 

 

 両面悪鬼は此処に笑う。さあ、共に行くのだと。黄金の総軍に立ち向かう少年が、手に入れたのは自壊の宇宙。

 魔槍を持たぬ掌を、空に掲げて力を放つ。咒を紡ぐ必要などはない。司狼と恵梨依が代わりにやってくれるから、エリオがすべきは力の行使だけである。

 

 

太・極(Briah)――悪性腫瘍(マリグナント・チューマー)・自滅因子(・アポトーシス)っっ!!』

 

 

 幾何学模様の宙が広がる。蠢く黄色の世界に触れた瞬間に、影でしかない爪牙達は次から次に消えていく。

 拮抗さえも起こらない。余りにも一方的に軍勢が消されていく光景は、ラインハルトですら思わず驚愕を晒してしまう程。

 

 

「我が軍勢(レギオン)が、自壊していく……」

 

 

 もしも此処に居たのが、爪牙の影ではなければ。もしも誰か一人でも、騎士達が残っていれば結果は違っていたのだろう。

 だが此処に在ったのは、所詮は過去の残滓である。黄金の獣はその実たった一人に過ぎなかったから、自滅の法に抗えなかった。 

 

 それを口惜しくは思う。彼らが居たのならと、思わずには居られない。だがそれを口に出す事はない。唯笑みを浮かべて、敵を称えるだけである。

 

 

「……見事だ。エリオ・モンディアル」

 

 

 獅子は鬣と爪牙を失った。ラインハルトは既に、あらゆる異能が使えない。残るは最早、片手に握った聖槍だけだ。

 向かい来るエリオ・モンディアルの背中には、彼に力を貸す者達の姿が浮かんでいる。迫る彼を迎え打つ為に待ちながら、獣はその顔触れを愛おしそうに見詰めている。

 

 嬉しそうに笑っている、小さな少女は烈火の剣精。詰まらなそうに呆れている、黒髪の男はナハト=ベリアル。会心の笑みを浮かべて嗤うのは、天魔・宿儺と呼ばれた男と女。

 未だ軍勢と呼ぶには少ない数だが、質は既に十分だろう。そしてその絆もまた、見事と言える物なのだ。それが確かに分かったから、ラインハルトはもう認めていた。だがだからと言って、退いてやる心算もない。

 

 

「さぁ、来るか」

 

「おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」

 

「来るか! 来るか来るか来るか――来いっ!!」

 

 

 魔槍と聖槍をその手に握り、互いに最後と交差する。異能も奇跡も混じらぬ純粋な武技は、血肉を抉って突き刺さる。

 胸より背へと貫く槍は、滴る血に染まった黄金。勝者は一人。敗者も一人。聖なる槍が、敗北者の命を確かに刈り取っていた。

 

 

「……嗚呼、成程。これも、自明の結末か」

 

 

 そう。黄金の獣と言う敗北者の身体を、聖なる槍が貫いている。何時しか彼は徒手空拳で、槍を握っていたのはエリオだけであった。

 一瞬の驚愕も、直後には納得へと至る。槍が少年の身体に触れた瞬間、吸い込まれる様に彼の魔槍と同化した。その理由など、自明の事であったのだから。

 

 

「私は既に、卿を後継と認めていた。そうである以上、卿が資格を満たせば継承は終わる。卿が己を愛そうと決めた時には既に、この槍は卿の物に成っていたと言う訳だ」

 

 

 軍勢を消された時点で、聖なる槍もエリオの物になっていた。それに気付かず振るったからこそ、こうして奪い取られて突き刺されたのだ。

 だが仮に気付いていたのだとしても、同じく振るっていたのであろう。既に己の役目は終わっていた。晩節を汚す事など出来ない。それ程に素晴らしい舞台であったから。

 

 黄金の槍を握った少年を、愛おしそうに獣は見詰める。口から溢れそうになる血反吐を飲み干してから、震える腕で少年の頬を撫でた。

 強い瞳を持っている。覚悟を決めた彼となら、全霊で競い合ってみたかった。そう想ってしまうのは、やはり未練があったからなのか。

 

 けれどきっとこれで良いのだ。獣は既に死んでいる。ならば飽いていれば良い。飢えていれば良いのだ。或いは何時か得たであろう答えを胸に、黄金の獣は淡く微笑んだ。

 

 

「さようなら、ラインハルト。アンタの槍は、貰っていく」

 

「好きにしたまえ。それは既に卿の物。ならば誰に許しを得ずとも、卿の自由に使うと良い」

 

 

 微笑む獣から槍を抜き取り、握り締めた少年は背を向ける。もう用はないと、突き進む先にはきっと輝かしい未来が待ち受けている筈である。

 黄金の獣は、そう想う。或いは彼の目には、既に見えていたのかもしれない。だからこそ、万雷の喝采と万感の祝辞を。褒め称えて、彼を送り出そう。

 

 

「勝者へ贈る、門出の言葉だ! 卿の未来に――――勝利万歳(ジークハイル・ヴィクトーリア)!!」

 

 

 崩れ出した黄金の城で、ラインハルトは勝者を称える言葉を告げる。そうして黄金の光の中へと、共に消えていく古き神。

 打ち破った少年は、その足を止めない。振り返る事すらせずに、外を目指して立ち去っていく。唯一つ、小さな言葉だけを送り返して。

 

 

「……勿論。負けはしないさ」

 

 

 もう負けない。誰にも負けはしないのだ。誓う様に呟いて、エリオは前へと歩き続ける。

 修羅道至高天。黄金の獣は此処に、その後継に敗れ去る。こうして聖なる槍は、確かに次代へ継承された。

 

 

 

 

 

4.

 そして、エリオ・モンディアルは帰還する。修羅の天から外側へと、踏み出した彼は既に大きく外れていた。

 進む歩みを緩めずに、後ろ手に槍を握る。黄金に染まった神魔の槍を、虚空で軽く一閃。唯それだけで、世界がズレた。

 

 肥大化した力を自覚する。まだ世界を壊してしまう訳にはいかないから、何処まで出来るか確かめる為の一動作。

 唯それだけで、数百年と生きた老人達の残骸は消え失せていた。脳髄が浮かんでいた管には傷の一つもなく、中身だけが奈落へと。

 

 そして少年の背後に、新たな群が連なった。未来を渇望し続けた、管理局の頂点達。彼らを無自覚の内に眷属と変えながら、エリオはゆるりと歩みを進める。

 

 

――偽りの仮面(Wer ist der Mann mit der Maske)影絵の怪物(Wer ist die Schattengestalt)その真実を知るであろうか(Hast du getst die Wahrheit geseh'n.)?――

 

 

 口を衝いた言葉は神咒。神威に至る音の羅列は、無意識なままに溢れ出す。黄金と言う抑圧が外れた今、彼は正に流れ出そうとしていたのだ。

 世界はきっと変わるであろう。新たな時代はこれから始まる。誰も愛せなかった悪魔が此処に、己を愛し始めたから。未熟で不器用な形であっても、確かに許そうとしていたから。

 

 

――呪われた者(Ich Hexe,)間違った者(Ich Dämon,)この身は地獄の悪魔である(Ich Höllentier.)嘆きと脅威と悲鳴を齎す怪物は(Ein stummer Schrei, halb ein Flehen,)憎み滅ぼす為に生まれた(halb ein Droh'n.Ich Zum Hass gebor'n.)それを君は知ったのだろうか(Wirst du mein Los versteh'n.)――

 

 

 今もまだ、許されて良いのだろうかと言う疑問はある。今もまだ、救われてはならないと言う想いはある。地獄で産まれた怪物は、世界の全てよりも己の事を憎んでいたから。

 世の半分が綺麗だとは知っている。けれどもう半分は、穢れているのだと分かっていた。そんなエリオにとって己とは、世界の誰より穢れた生き物。何よりも嫌悪する怪物だった。

 

 己が辛い想いをしたのに、他者に同じ感情を圧し付ける。掲げた愛すら偽りで、嘆く様に喚く様に暴れ回った。そうして多くを台無しにして来た怪物が、幸せになって良い筈がないのだと。

 

 

――それでも醜い怪物は(Fratzenhaft doch sehnsuchtskrank,)美しい君に焦がれている(Nach der Schönheit.)それでも地獄の怪物は(Fratzenhaft doch sehnsuchtskrank,)天の光に焦がれてしまった(Nach dem Himmel.)。――

 

 

 けれどそうして否定し続ける理由を、少女の姉が奪ってくれた。己の命を捨てた献身で、エリオから逃げる理由を奪ってみせたのだ。

 言い訳を奪われてしまえば、後に残るのは真実だけ。どれ程に自虐し抑圧しようとも、望んだ願いは変わらない。彼はずっと前から(イカ)れていた。

 

 愛と言うには幼いのかもしれないけれど、確かに強く求めている。こんなにも共に居たいと、ずっとずっと望んでいたのだ。

 

 

「キャロ」

 

 

 今も眠るキャロの傍らに膝をついて、脱いだ外套を少女に掛けた。そうした後に僅かな逡巡を挟んでから、壊れ物を扱う様な所作で髪に触れる。

 壊さぬ様にと優しく撫でる。抱擁は愚か強く握っただけでも砕けてしまいそう少女がどうして、こんなにも愛しいと感じるのだろうか。分からないから、エリオは小さく微笑んだ。

 

 

――君は悪魔の傍に居た(Früher warst du doch so nah.)温かく包んでくれていた(Warst weich und herzlich-)しかしそれは儚く消えた(Doch es war nur ein Traum.)悪夢よりも穢れた怪物を(Schlimmer als ein Alptraum,)どうして愛していられよう(Wie erträgst du's hinzuschau'n)――

 

 

 キャロに触れながらエリオは想う。彼女から余りに、多くを奪ってしまったと。眠る少女は目覚めぬ内に、大切な人達を沢山亡くしている。

 父も居ない。母も居ない。姉も居ない。共に育った白竜も、もう何処にも残っていない。そしてその全ての原因に、エリオは大なり小なり関わっていた。

 

 ゼスト・グランガイツとメガーヌ・グランガイツ。彼ら夫妻を奪った魔群を、仕留め損ねたのはエリオの失態だ。

 幾ら生き汚い魔群とは言え、魔刃が全力で殲滅に乗り出していれば滅びは防げなかったであろう。それをしなかった理由は、取るに足らないと油断したから。

 

 フリードリヒとルーテシア・グランガイツ。彼らの死は、エリオに関わってしまったから起きた出来事だ。

 片や見せしめとして処理されて、もう片方は愚かな少年を諭す為に全てを捨てた。知っていれば防げたであろう。後悔しない訳がない。

 

 キャロが家族全員を失ったのは、エリオ・モンディアルの所為である。極論ではあるが、そう言われてしまえば否定などは出来ない事だ。

 

 

――悪魔は孤独が相応しい(Träumen allein hilft mir nicht zu sein.)愚かに過ぎた怪物には(steinern, stumm und schmerzlich.)嘆きや苦痛ですらも過大な幸福なのだから(Keine Tränen mehr, keine Bitterkeit.)――

 

 

 恋い慕う少女から全てを奪った。愚かに過ぎる怪物は、許されるべきではないのだろう。罵倒されて蔑まれ、恨まれ憎まれて然るべき生き物なのだ。

 そんな事は分かっていて、けれどそれでも求めてしまう。眠る少女の温もりを。彼女の愛と優しさを。恨まれるのも憎まれるのも恐ろしくて、なのに抱き締めて欲しいと願ってしまう。

 

 嗚呼、何と言う恥晒し。エリオ・モンディアルの本質とは、こんなにも身勝手な生き物だったのか。逃げる理由を無くした彼は、己の醜さを直視していた。

 

 

――それでも醜い怪物は(Fratzenhaft doch sehnsuchtskrank,)美しい君に焦がれている(Nach der Schönheit.)それでも地獄の怪物は(Fratzenhaft doch sehnsuchtskrank,)天の光に焦がれてしまった(Nach dem Himmel.)――

 

 

 どんなに醜いと自覚しようと、それでも願いはもう偽れない。今も尚、眠る少女に焦がれている。彼女と過ごした日々に愛しさを、この今だって感じてる。

 この醜い怪物は、少女の事が好きなのだ。分不相応だと分かっていても退けない程に、醜く身勝手な怪物だから。エリオは微笑みを浮かべたまま、触れる少女に向かって告げた。

 

 

「君に、伝えたい事がある。沢山、沢山、伝えたい言葉がある」

 

 

 伝えたい事は本当に、数え切れない程にある。謝罪と感謝。悔恨と切望。溢れ出そうとする感情は、どんな言葉にしても足りない程に。

 けれど眠る少女に、言葉が伝わる事はないだろう。それに今はまだ、其処まで自分を許せない。だから想いを音に紡ぐのは、全てが終わったその後だ。

 

 

――君を今も求めている(Könntest du doch wieder, bei mir sein.)君が居なければ、息する事すら出来やしない(Seit du fort bist leb ich kaum.)君と共に生きていきたい(Könntest du doch wieder, bei mir sein.)許されない事だと知っていながら、(Gib mir Liebe,)僕は君を求めてしまう( mehr will ich nicht von dir.)――

 

 

 それでも心は隠せない。流れ出す神咒神威は、彼の内に募った想い。抑え続けた恋情は、狂気に等しい程に重く深く変わっている。

 どうしようもなく求めてしまう。耐えられない程に欲してしまう。醜悪に映る感情は、それでも一つの愛なのだろう。他に何と語れば良いのか、言葉なんて何もない。

 

 愛に幻想を抱いていたのだ。美しい物は美しくあって欲しい。潔癖であったのだと、エリオは悟る。己を許そうと踏み出し始めた少年は、漸くにそう想える様になっていた。

 

 

――勇気が欲しい(Gib mir Wärme, um mir Mut zu geben.)力が欲しい(Gib mir Liebe, um mir Kraft zu geben.)そして何より、君が欲しい(Lieb mich, mehr will ich nicht von dir.)――

 

 

 だからそうとも、一番伝えたい言葉はそれだ。この想いを伝えたい。受け入れられなくても良い。唯、愛しているのだと口にしたい。

 

 

「だけど、僕はまだ、僕を許せてはいないから――許せる様に成る為に、行って来るよ」

 

 

 けれど、そう語るにはまだ早い。エリオは己が犯した罪を許せていないから。愛を語る資格はないのだと、彼は今も思っている。

 だから許せる様に成ろうと、これから遥かな戦いへと向かうのだ。どれ程の苦難が、どれ程に長く続くのか。先さえ見えない暗闇へ。

 

 

――どうか君を守らせて(Vor Ängsten und Gefahren,)闇の語りは終わりとしよう(Die Nacht erreicht dich nicht.)恐怖劇はもう要らない(Denn ich will dich bewahren.)僕が君を守り抜こう(Ich will dir helfen, ohne Angst zu leben.)――

 

 

 未来を閉ざす闇を、照らして払う為に進もう。誰もが涙を流し続ける恐怖劇など、今宵で終わりとしてしまうのだ。

 

 

――もしも許されるのならば(Möchte dein Licht sein.)僕は君の光になりたい(Lern, an Dich allein zu glauben.)闇に居るのはもう嫌なんだ(Möchte dein Retter sein.)だから僕は、君と生きたい(Ich will für dich da sein. )。――

 

 

 そうとも、Darksideはこれにて終幕。これより続くは、Lightsideの物語。闇に生まれた少年が、光に成ろうと足掻く物語。

 多くの犠牲者達は恨むであろう。多くの死者達は憎むであろう。どうしてお前だけが、と。けれどそれすら背負って、エリオは進むと決めたのだ。

 

 そうでなければ、己を許せないから。己を許せなければ、少女を愛せはしないから。少女を愛せなければ、少年はもう生きている事すらも出来ないから。

 

 

(どうか、待っていて欲しい)

 

 

 不器用な少年は、そんな言葉すら口には出来ない。今はまだ、少女に触れるだけで限界だった。

 開き直れる強さはないから、何時か語れる様に成ろうと誓うだけ。少しでも早く戻って来ようと、心に強く決めるだけ。

 

 そんな少年は、だからこそ――――少女が浮かべた笑みと言葉に、その瞳を奪われたのだ。

 

 

「……待って、るよ」

 

「――――っ!?」

 

「ずっと、ずっと、待ってるから…………帰って来てね、エリオ君」

 

 

 涙が零れた。唯、嬉しくて。唯、満たされていたから。溢れる様に瞳から、零れた雫が少女を濡らす。

 神域に到達した今のエリオは、直視するだけでも苦痛を与える存在だろうに。それでもキャロは、笑みを浮かべて口にしたのだ。

 

 微笑んで、言葉を口にして、耐えられなくなって気絶する。意識を失い再び眠った少女を前に、エリオは茫然と自失する。唯々溢れ出す物が止まらぬ程に、今の彼は満たされていた。

 

 

――この願いを受け容れよう(mich verstehn und mich befrein.)君の光になる為に(Ich geh mit dir ins Licht.)僕は僕を許すとしよう(Für alle Zeit dir nah sein.)君の傍に居たいんだ(Und versprich, dass ich dich nie verlier')――

 

「……嗚呼、約束する。必ず、君の傍に帰って来る」

 

 

 倒れた少女に優しく告げて、エリオ・モンディアルは立ち上がる。涙を拭う事さえせずに、少年は少女に背を向けた。

 進む足に、震えはない。迷いはない。恐れはない。立ち止まる理由はもう何もない。流れ出す感情は止めどなく、全能感すら溢れる程に。

 

 

――僕は君を愛している(Du bist mein Ein und Alles,)理由はそれで十分だから(Mehr will ich nicht von dir.)――

 

 

 先ずは此処から、世界を変えよう。光となって、全てを救おう。奪って来た以上の幸福を、果てに愛する少女を抱き締める為。

 

 

流出(Atziluth)――」

 

 

 定めた想いが流れ出す。願う未来は、誰もが望めば変われる世界。誰もが強く成れる場所ならば、最悪の罪人さえも変われるだろうと信じている。

 そうとも、誇れる己に成ろう。そうとも、今より強く成長しよう。誰よりも何よりも嫌いな己を愛せたならば、きっと世界の全てだって愛する事が出来るから。

 

 エリオは黄金の槍を高く掲げる。湧き上がる輝きは天を衝き、腐毒の大気を、蟲の雲を、振り払って塗り替える。

 立ち上がった彼の視線の先に続くのは、何処までも青く晴れ渡った雲一つない空。そして終わる今日を明日へ、繋ぐ光輝に満ちた新世界。

 

 

全てを愛そう(Holen sie sich)君をこうして愛する様に(wille zur macht)

 

 

 流れ出すのは進歩の法則。前に進むと言う意志を、誰もが抱いて歩ける世界。そんな世界で誰より先を歩くのは、この少年以外にない。

 新たな世界の法則は、戦時においては覇王を筆頭とした軍の行進へと変わる。黄金の槍を手に進むエリオの後に続いて、誰もが前へと進むのだ。

 

 

「行こうか、お前達」

 

 

 向かうは戦場、第零接触禁忌世界。倒すは強敵、穢土・夜都賀波岐。これより世界全土を塗り替えながら、次代の神は進軍する。

 後に続くは、腐れ縁の悪魔と小さな妖精。愉しげに嗤い合う鬼の男女に、器を取り戻した老人達。そして少年の心に触れて、果てを見ようと変わり始めた犠牲者達。

 

 二十七万を超える軍勢。数に不安はあれど、質に不満などはない。彼らを率いて、エリオ・モンディアルは出陣する。これより東征を始めよう。

 

 

「彼女が過ごす未来の為に、僕らの世界を作りに行こう!」

 

 

 少年の声に、返る歓声。多くの想いを背に負って、エリオ・モンディアルは穢土へと向かう。

 これより為すのは神殺し。そして果てには、新世界の創造を。旧世界最後の夜は今、朝の日差しを迎えようとしていた。

 

 

 

 




因みに軍勢時のナハトの容姿は、パラロス時代のライルベースの見た目です。


プロット製作前の作者「司狼お前、本編でやりたい放題だったから出番カットな! IFでは一番最初に倒される夜都賀波岐にしてやんよ!」

十九話執筆中の作者「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ!? 司狼死なねぇぇぇぇっ!? てかお前、ある意味本編以上に美味しいポジションじゃねぇかこの野郎ぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」



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第二十話 魔群

大変長らくお待たせいたしました。待たせた割には何時もより薄い内容ですが、この先がどうにも形にならないので一先ずここまで投稿しておきます。


1.

 その凌辱は凄惨を極めた。

 

 笞打石抱海老責釣責強姦異種姦異形懐胎強制堕胎。

 四肢ヲ解体シ肉体ヲ改造シ露出サセタ神経系ヲ肥大化サセテ哀レデ醜悪ナ姿ヘト。

 凌辱ノ果テニ孕ンダ子宮ヲ引キ摺リ出シテ、中ニ蠢ク胎児ト胎ヲ無理矢理ニ口腔内ヘ。

 咀嚼サセテ美味デアッタカト問イ掛ケルノハ、美麗ナ華ノ如キ笑顔ヲ浮カベタ女。

 

 こんな物は一端だ。凄惨を極めた行為の一割所か一分にも届かぬ上霞。

 狂った女の性根は極まり切っていて、その行いは常人では発想すらも出来ない物。

 

 誰であっても壊れるだろう。誰であっても狂うであろう。誰であったも涙を流して、許しを乞うであろう。死んだ方が遥かにマシだと、断言出来るその地獄。

 けれど――その女が死を望む事は終ぞなかった。その執着を一心に受け嬲られ続けた女はしかし、今も瞳を燃やしている。例え涙を零そうとも、許しを乞うなど決してない。

 

 そう、この今も、壊され続けた女は諦めてはいないのだ。もう生きているのも辛いだろうに、その精神は当の昔に狂っていたのかもしれない。

 

 既に彼女には己の肉体すらも真面に残ってなどいない。犯され嬲られ穢され切った肉体は、その半分以上を蟲に喰われて溶かされた。

 中身の欠けた肋骨の隙間を、染み入る様に風が吹き抜ける。残されているのは、頭蓋が凹んで中身が晒されている頭部と其処から繋がる僅かな部位のみ。

 

 片方しかない乳房と、片方しかない眼球。中身のない肋骨から繋がる脊髄を、支える部位などありはしない。足の指から寸刻みに裁断されて、腰から下は解体された。

 血に染まった長い髪が顔を半分覆い隠す。開かれた頭蓋から流れ続ける体液は滝の様に、もう半分も残っていない女の身体を濡らしながら滴り落ちる。……そんな様で一体どうして、生きていようと思えるか。

 

 蟲に嬲られたからこそこうなって、薔薇に生かされているからこそまだ死ねない。魔群が望めばその瞬間にも死に至る。そんな様を、生きていると言えるだろうか。

 仮に何か奇跡が起きて、生き延びる事が出来たとする。だが果たしてその先に、何か救いがあると言うのか。残骸と化した今の女が生き続けたとして、それは苦痛でしかないのだろう。

 

 死んだ方が良い。そんな事は分かっている。泣いて許しを乞うべきだ。そんな事は分かっていた。この執着に応えてやれば、きっと楽にはなれるから。

 そんな簡単な事が分かっていて、なのに女は諦められない。今も死ねないと燃え続ける瞳の強さを残しているというのだから、これを狂気と言わずに何と言う。

 

 アリサ・バニングスは諦めない。アリサ・バニングスはまだ死ねない。こんな残骸と成り果てて、それでも死には逃げたくなかった。だから――――

 

「あ~あ、詰まんなくなっちゃった」

 

 先に、この女の方が音を上げた。率直に言って飽きたのだ。もう何をしても反抗的な態度しか見せない女を屈服させるという行いに、もういいやと無価値のレッテルを張り付けた。

 

「犯しても壊しても、結局アリサちゃんは媚びないんだもん。私の想い通りにならないアリサちゃんなんて、そんなの単なるゴミだよね」

 

 彼女は既に、クアットロではないのだろう。幸福だった過去に執着した女が、それ以外の者に執心し自ら交わる筈もなかったから。

 けれど彼女は既にして、月村すずかでもなかったのだろう。歪んだ情とは言え執着した相手を、容易く要らぬと言い捨てる様な女で在る筈なかったから。

 

 ならばこの残骸は一体何だ。すずかでもクアットロでもない、魔群と呼ぶしかない怪物。誰でもない誰かは、満面の笑みを浮かべて語るのだ。

 

「このゴミはもう要らないや。残骸を再利用して、私だけを愛する、私だけのアリサちゃんを新しく作ろ」

 

 凌辱の限りを尽くした相手を、其処まで執着した相手を、容易く要らぬと切り捨てる。果てに磨り潰して、新たな人形遊びの玩具へと。

 手段は確かにあるだろう。解体した肉体から取り出した魂を別の受け皿に移せば良い。或いは肉片から培養して、プロジェクトFの様なコピーを作り出すのもありだ。

 

 己を愛さぬアリサ・バニングスなど要らない。磨り潰して作り直して、己を愛する事しか出来ないアリサ・バニングスを作れば良い。

 そう語る魔群はきっと、その果てでもまた飽きるのだろう。盲目に愛し媚び諂う模造品で遊んだ後、これは違うと自分勝手に飽きてまた捨てるのだ。

 

 魔群は滅び去るその時まで、きっとそんな事を繰り返す。壊れ果て瓦解し動かなくなるまで、幾度も幾度も繰り返す。

 その道に価値などありはしない。その果てに未知などありえはしない。何処までも無為に無意味に無価値に無情に、時間だけが浪費されて消え失せる。命だけが消費されて失われる。果てにはきっと、壊れた女の愉悦だけしか存在しない。

 

「だってほら! アリサちゃんも言ってたじゃない! “だったら、殺してやるしかないでしょう! 救えないなら、その矜持すらも穢され貶められるより前に、終わらせるしか道はない”ってさァッッ!!」

 

 魔群は嗤う。その残骸を最期まで、絞り出して遊び尽くす為。魔群は嗤う。嘗て彼女が決意と共に口にした、仲間を想うその言葉を。

 その理屈に不備などない。細瑾さえもないのだと、語れる程に真っ当だ。死ぬよりも苦しい目に合う人を救いたいと言うのなら、それは殺す他に術がないのだと。

 

 事実、その理屈を否定した高町なのははどうだ。魔群がこの地を埋め尽くす際の薪として消費された仲間達に、一体何をしてやれていたという。

 そうともあの時殺しておけば、少なくとも魔群の侵攻は遅れた。もしかすればほんの数日、この世界の寿命が延びていたかもしれない。故にこそ、魔群はその正当性を保証する。故にこそ、魔群は嗤って騙るのだ。

 

「だからほら! 喜びなよ、アリサちゃん! もうこれ以上穢される事はなく、楽になれるんだよ! その方が良いって、貴女がそう語った様にねぇぇぇぇっっ!!」

 

 殺してやろう。お前がそう望んだ様に。救ってやろう。お前が皆に、そう望んだ様に。華やかな笑みで語る女の表情は、美麗であるが為に狂的だ。

 どうしてそんなにも鮮やかに笑う事が出来るのか。裸体を晒しながら近付いて、愛し気に残骸を抱き締める。嗤う女は口を合わせるその距離で、甘える様に呪詛を囁いた。

 

「来たれ――ゴグマゴグ」

 

 瞬間、魔法の陣が展開される。門が開かれた場所は、頭蓋を開かれ晒されている女の脳内。

 それは魔群本来の力の使い方。即ち、相手を体内から喰らい尽くすと言う方法。抗う術がなき今に、アリサは何も出来ずに貪り喰われる。

 

 眼球を無くした左の眼窩から、器具で開かれている頭蓋から、鼻や耳や口から無数の穢れが溢れ出す。

 それは這うモノ。羽搏くモノ。蟻や百足や蛆虫や、蛾や蠅や油虫。汚いモノ、醜いモノ、悍ましいモノに喰われていく。女の命運は、遂に此処で尽きるのだ。

 

 

 

 

 

2.

 手を奪われた。足を奪われた。胴体を寸刻みにされていき、頭蓋を開かれ眼球を無理矢理引き抜かれる。

 麻酔も無しに行われた拷問の果て、壊され切った女は蟲に喰われながらに想う。嗚呼、これで終わるのだと。

 

(嗚呼、これで、楽になれる……)

 

 そんな弱音が、無かったと言えば嘘になる。辛いし苦しいし痛いし悲しい。そんな現実から、逃げ出したくない訳がない。

 だからこれで楽になれるのだと、脳裏を過ぎったその瞬間に抱いた物は憤怒であった。燃え上がる様な激情が、まだ逃げるなと叫んでいる。

 

(なんて、無様。私は、泣くのが好きだと、認めて堪るか!!)

 

――ならば、何とする。結局君には、もう何も出来はしないだろう。

 

 死の瞬間まで諦めない。更に矍鑠と気炎を上げる思考の隙間に、誰かの声が響いていた。

 男であろうか、女であろうか。分からないのは、思考の鈍化が故にか。或いはまだ、繋がりが薄いというからか。

 

 その誰かが問うている。何も出来ないと言うのに、認めて堪る物かと叫ぶ。そんな女に、これから何をする気かと。

 その誰かが無言の内に語っている。認めて堪る物かと叫ぼうとも、結局は何も出来ずに終わるのだと。それが道理で必然だ。

 

(だから、どうした!)

 

 その問い掛けに、返す答えなんてない。だから知らぬと、鼻で嗤って吹いて飛ばす。

 そうとも、何が出来るかなんて関係ない。結局の所、何をしたいかというだけの話であるから。

 

(認められない。諦めたくない。受け入れたくないから死ぬ瞬間まで、私は私を叫び続ける!)

 

 最期の瞬間に至るまで、叫び続けて退かないだけ。何も出来ないのだとしても、楽にだけは逃げたくなかった。

 

 まるで炎を思わせる女の心。その想いの強さを見詰めて、誰かは少しだけ目を細める。眩しいと、けれど瞳は逸らさない。そんな誰かは、もう少しだけ問い掛けた。

 

――無意味に終わるぞ。辛くはないのか? 無価値に消えるぞ。苦しくはないか? もう死にたいと思えたならば、それで楽に死ねるのだろうに。

 

(そんな事――思うに決まっているじゃない!)

 

 誰かの声に、返した言葉は肯定だ。辛くはないかと聞かれれば、辛過ぎるとしか返せない。それ程に、奪われた尊厳は重いから。

 こう見えて女は、うら若い乙女であるのだ。理想を妄想した事だって当然あるし、女としての幸福にだって多少は憧れていたのである。

 

(辛いし、苦しいし、泣きたいし、ふざけるなって叫びたい。これでも人並みの感性はあるの。初めてがこんな形だなんて最悪過ぎる! 犬に噛まれた様な物だと、口に出来る訳がない!!)

 

――ならば、何故? 君は今も諦めない?

 

(決まってる――)

 

 だからこそ、辛い。だからこそ、苦しい。涙を流して逃げ出したいと、震えている弱さは確かにある。否定できない程強く、けどそれに浸れぬ程には女自身も強かった。

 結局の所、それだけの話だ。泣きたい程に辛いけど、泣いているのは嫌いなのだ。だから涙を堪えて前を見て、死の瞬間まで吠えてやる。それこそが、紅蓮を継いだ女の全て。

 

(此処で終わりたくはないのだとっ! 私の心が叫んでいるから――っっ!!)

 

 アリサ・バニングスとは、そんな女だ。何もかもを穢されて、何もかもを奪われて、それでもその性根だけは変わらなかった。

 負けたくないのだと言う反骨心。逃げたくないのだと叫ぶ誇りの高さ。諦めたくはないのだと言う意志の強さ。それら全てが、余りに鮮やかに過ぎたから。

 

――ふん。下らない。愚かに過ぎる。馬鹿げた感情論に過ぎない無価値さだ。けど、良いだろう。或いはその愚かさこそが、人の有する価値かも知れないと思える様には成れたから。

 

 この接触は偶然だった。だがしかし、或いは必然でもあったのかもしれない。目を細めた誰かは、此処に女の価値を見定める。

 紅蓮の騎士を継ぎ、故に修羅の天と繋がっていた女。黄金の槍を継ぎ、故に修羅の天を飲み込んだ男。繋がれた絆は此処に、一つの奇跡を具現する。

 

――この今この瞬間に、こうして繋がったのも何かの縁。手を貸してやる、アリサ・バニングス。付いて来たくば付いて来い。

 

(ええ、付いて行ってやるから! アンタの力を貸しなさい! エリオ・モンディアル!!)

 

 声は明確に、繋がりは何処までも深くなる。認めた瞬間に理解した、相手の素性と己の行く果て。迷いなんて、欠片もない。

 燃え上がる炎が女を包む。あらゆる不浄を祓い清めて、今新生するその生命。新たな神と目覚めた青年の、腹心と成る赤き騎士が此処に生まれた。

 

形成(イェツラー)――ッ!!」

 

「な――っ!? 嘘、何で、そんなっ!?」

 

 這い摺る蟲を焼き払う紅蓮の炎に手を焼かれ、数歩後退する魔群。驚愕に歪んだ女の眼前で、アリサ・バニングスが変貌していく。

 欠落した自身の肉体を、赤き騎士の聖遺物で埋め合わせる。形成された列車砲。その鉄が形を変えて、肉と交じり合って同化するのだ。

 

機人変生・(デア・フライシュッツェ)狩猟の魔王(・ザミエル)

 

「聖遺物との融合!? 武装具現型から人器融合型への変質!? そんな事、神格でもなくちゃ出来る筈が――――っ!? まさか、あの獣が負けたと言うの!?」

 

 炎の中で、人の形を取り戻す。その半身は、嘗ての黒き英雄と同じく鋼の機構。機械仕掛けの身体を手にして、金糸の女はその目を開く。

 燃え盛る炎の様な紅き瞳を、開いて女は敵を見詰める。睨み付けられた裸の美女は顔を青くし、彼我の力量差を感じ取る。今のアリサ・バニングスは、この魔群よりも強いのだ。

 

「……前言を撤回するわ、すずか」

 

 バリアジャケットを身に纏い、同時に一つ形成する。ドーラ砲内にあった装備の一つとして、取り出したのは黒き鍵十字の軍服だ。

 嘗ての赤騎士が来ていた衣服を羽織るのは、一体如何なる心境か。其処には無数の情が渦巻いていて、中でも一際強い情こそ決別と言う意志だった。

 

「矜持すらも穢される前に、殺してやるのが救いだと。その発想に間違いなんてなかったとしても、私は一つ履き違えていた」

 

 青褪めながら、更に二歩。後退した魔群に向かって、アリサ・バニングスは同じく歩を進める。ゆっくりとした歩みの理由が、迷いである筈などはない。

 今更に、迷う事など何もない。唯寂寥だけはあったから、深く感じる為に時を掛ける。直ぐには終わらせたくないのだと、嗚呼けれどそれはきっと未練でもあった。

 

「死にたくないのよ、道の半ばで諦めていたくない。未知の果てまで、進んで行きたい。どんなに泥を啜っても、どんなに穢され堕ちようとも、私は――私達は、前に行こうと決めていた」

 

 多くを失った。余りに多くを失って来た。その生涯は、痛くて苦しくて無価値なだけの物であったのだろうか。

 泣きたい時もあった。膝を折りたくなる事もあった。けれどきっとその生涯は、無意味でも無価値でもなかったのだろう。だから――

 

「だから、救ってやろうだとか、そんな発想が履き違え。だから――私はアンタを救わない。これから為すのは救いじゃなくて…………そうね、もっと私的な唯の癇癪」

 

 前に進むと決めたのだ。死んでしまった者達も、これから死んでいく者も、背負って先に進んで行く。邪魔をすると言うのなら、斬り捨て先に進むだけ。

 そうともだから救いじゃない。もう友達は既に死んでいて、これから為すのはその死をこれ以上貶めぬ様にだとか、そんな慈愛の意志でもない。唯許せない事をされたから、本気で倒すと決めたのだ。

 

「せめて最愛の炎で送ってやるから、アンタは此処で終わりなさい」

 

 宣言すると同時に、世界を紅蓮の炎が包み込む。単一宇宙全土を焼き尽くすだけの炎に満ちた世界へと、魔群と言う存在を飲み干し取り込む。

 逃げ場などない。逃がす心算などは毛頭ない。強い瞳で語るアリサの姿を前にして、魔群の思考は混乱していた。在り得ない程に力の差、信じ難い現実を前に壊れた女はどう動けば良いのかも分からない。

 

(何よ、これ!? 今の私が、比較にならない!? 何だってこんなに、相性が良いのよアンタ達は!?)

 

 アリサ・バニングスとエリオ・モンディアル。この両者の性質は、極めて似通っていたのだろう。だからこそ、信じられない程に力が増している。

 宿儺や大獄が夜刀の眷属となった結果、彼ら本来の力量を大きく超えて主柱に等しい程の力を得た様に。アリサ・バニングスはエリオ・モンディアルと同格に等しい域にまで強化されていた。

 

(逃げないと! 勝てる訳がない! いえ、ううん。その必要はない。この(スズカ)が壊れても、夢界(ナラク)には魔群(クアットロ)が残っていて、けどそれが何になるの!? 結局、私は死ぬんじゃない!?)

 

 上位の覇道神にも迫る程に強い。そんな神の眷属が持つ能力は、魔群にとっては天敵とも言うべき地獄の炎。力量的にも相性的にも、先ず以って勝てる要素が存在しない。

 だから逃げないとと焦る思考は、一体誰の物であろうか。逃げるのではなく、この器を即座に切り捨てて被害を最小とするべきだ。そう断ずる思考は、一体誰の物であろうか。

 

 元より薄氷の様な拮抗だったのだ。強い執着が無数の自我を、強引に一つへ束ねていただけ。故に切っ掛けさえあれば、魔群は纏まりの付かない衆愚と堕する。

 何が正解かも分からない。何をすれば良いのかも分からない。意味が分からず訳が分からず、無理に思考を続ければ強制停止か自滅が末路。そんな女の命運は、既に尽きていたのだから――

 

(早く早く早く早く――早く? 一体、私は、何を急げば――)

 

――全く、見るに耐えねぇ。

 

 男の声が、其処で響いた。その男の声を、魔群は確かに知っている。己の内に潜んでいた、己が喰らい尽くした筈のその名を。

 

(ヴィルヘルム?)

 

 名を呼ぶ女の声に、男の声は舌打ちする。今にも消えようと言う儚さがない。溢れんばかりの存在感を保つ男は、喰らわれた筈の吸血鬼。

 

――多少は見所があるかと思えば、結局こんな末路かよ。一体どうして、毎度毎度こんな様になるんだか。

 

(どうして、生きているの? (クアットロ)が食べ尽くした筈なのに。けど生きていたのね! それは良かった! 良く分からないけどとても良かった気がするわ!)

 

――ハァ、テメェがもう少し壊れてなけりゃ、アイツの仇と潰してやれたんだろうがよ。……見っとも無く守られて、ハイドリヒ卿の後継とは言え小僧に頭下げて、その末路がこれじゃぁ流石に萎える。

 

 そんな男が、何故今も此処に居ると言うのか。言葉にすれば簡単だ。喰われ切ってはいなかった。彼を守る闇の化身と彼が愛した太陽に、庇われ生きていたのである。

 残滓のままに生き延びて、力を無くした果てにも生に縋り付いていた。そしてその果てにアリサと同じく、獣の後継として覚醒した彼の騎士として蘇る。全てを奪った、女に対する憎悪を宿して。

 

 だがしかし、これは余りにないだろう。復讐すべきと捉えた相手は、既に自壊し自滅していた。そんな残骸を、焼き尽くそうと同じ騎士が猛っている。

 この状況で獲物の横取りなど、空気が読めていないにも程があろう。そして其処までして潰す価値を、この残骸は有していない。だからこそ、興が削がれたと吸血鬼は嘆く。

 

 戦い続けた果ての末路がこれかと、己を呪った蛇を呪う。吸血鬼に出来たのはそれが精々で、だからこそもう残る気なんて欠片もない。

 己の主君は、黄金の獣であってその後継ではないのだから。故に生き汚く喰らい付いていたその残滓は、此処で自ら消滅を選んだ。その最期に、白騎士と言う椅子を女に押し付けて。

 

――つー訳だ。決着はテメェ自身で付けろ。月村すずか。

 

 補強される。補完される。壊れ果てていた自我が、失われていた精神が、繋がった神の力によって補われて復元される。

 散り散りとなった無数の自我を抑え付け、ほんの一瞬、月村すずかと言う個我が表に出られる程には彼女は己自身を取り戻した。

 

「……嗚呼、そっか。そうなんだね」

 

 そうして、己の記憶を辿る。吐き出したい程に、泣き叫びたい程に、己の為した行為を理解して悲嘆と後悔を抱いてしまう。

 けれど、其処に沈む事は許されない。被害者が泣きたくないと叫んでいるのに、どうして加害者が悲嘆に暮れて居られよう。

 

「すずかァァァァァッ!!」

 

「良いよ、来て、アリサちゃん。これで終わりにしよう」

 

 だからそうとも、此処で終わりにするとしよう。紅蓮の世界から炎を集めて、剣の形に変え構えるアリサを見詰めて微笑む。

 彼女と同じく、黒円卓の軍服を形成して羽織る。迎え撃つ様に手を高く掲げて、すずかもまた己が神との繋がりを強く強く意識する。

 

 其の神、其の理に咒を付けるならば――炎帝神農・共喰奈落。競い合う果てに美しい未来を夢見て、これより新たな世を流れ出させる法則だ。

 

「炎帝曼荼羅・大焼炙!!」

 

「炎帝曼荼羅・血染花!!」

 

 炎の剣が世を焼き払う。必中の理と世界を焼くと言う理を併せ持つ炎剣は、エリオ・モンディアルに届かぬ全てを問答無用で滅ぼし尽くす。

 対する血染花の強化は其処までには届かずとも、神格域の者でさえも防ぎ切れずに多大な被害を受ける物。ぶつかり合えば、軽減くらいは出来る物。

 

 だからこそ、その光景は異様であった。炎の剣に刺し貫かれて、燃やされていく女を見る。その瞳を見て、アリサ・バニングスも理解した。

 最期の一瞬、互いの力はぶつかり合わなかったのだと。全く同時に放たれた炎帝の曼荼羅は、同じ標的を狙っていた。月村すずかは、自分自身にその牙を立てていたのである。

 

「……さようなら、私の友達。アンタはもっと、ずっと前に死んでいるべきだったのよ」

 

 己に突き刺した牙。己自身の身体を通して、夢界に潜む魔群の断片の全てを吸い尽くした。そんな月村すずかは、儚く微笑み燃やされる。

 己の犯した罪を知り、だからこそ自決を選んだ友人。その想いを間際に理解したアリサは悲しそうな瞳をしたまま、それでも燃え盛る剣を納めようとはしなかった。

 

「うん、さようなら。私の友達。この今になっても、そう呼んでくれる。そんな所も、大好きだったよ」

 

 己を焼き尽くす剣。その最愛の熱を抱き締めて、微笑むすずかは想いを伝える。その言葉に、裏などない。

 この熱に抱かれて逝けると言う結末さえ、今の己には過ぎた物なのだと分かっていたから。別れの言葉は、望外にも程があったのだ。

 

 嬉しいなと微笑みながら、灰すら残さず消えていく。誰でもなくなってしまった女は最期に、確かな誰かとなって終わった。

 そんな友が居た場所を、揺れる瞳で暫し見詰める。手にした剣を消し去り焦熱世界を閉ざしたアリサは、黙祷の後で背を向けた。

 

「ふん。……私も、アンタの事は大好きだったわ」

 

 あんな目に合わされて、今も怒りは燻っている。けれどそんな感情とは別に、友誼の情は今も残っていたから。

 足を止めたくなってしまう。涙に暮れたくなってしまう。そんな弱さは、大切だったからこその物。噛み締める様に想いに浸って、アリサは再び前を見る。

 

「分かっているわよ、立ち止まらない。エリオ(アンタ)と共に、先へ進む。私はそう、決めたから」

 

 契約を果たそう。力を借りるその対価。力を貸すと決めたのだ。それが親しき友らへの裏切りなのだと知っていて。

 仲間達と同じ道は、もう目指す事すら出来はしない。だから今も続くミッドチルダの戦場に、アリサが立ち入る事はない。

 

 進む先は其処ではないのだ。既にこの地を後にして、穢土に侵攻を始めたエリオ・モンディアル。その後に、付いていくと決めたから。

 

「それじゃあね、なのは。頑張んなさい、ヒヨッコ共。……それと――――さようなら」

 

 友に別れを。高町なのはとはもう二度と、同じ道を歩かぬだろう。

 教え子達に激励を。トーマもティアナもキャロも、精一杯に生きて欲しい。

 

 そして最後、その名を口にする事は出来なかった。

 もう随分と穢れてしまったと思うから――この気持ちにも本当の意味で、決別するべき時が来たのだろう。

 

「もう逢わない事を、願っているわ」

 

 次に出逢えば、それはきっと敵として。容赦なんて出来やしないから、もう二度と出逢わぬ事を祈るのだ。

 

 そうして己の中で別れを告げて、アリサ・バニングスは歩き出す。

 地獄の果てに続くであろう、永遠の理想。それを目指して進む主を支え、共に未来を目指す為――

 

 

 

 

 




多分次回も遅くなるし薄くなるとは思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。


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