Fate/Fallen Craze -魔都の幻影-【現代中華Fate】 (白木蓮之輩)
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序章 -Overture-
プロローグ/骨喰鬼(前)


 

 その日、目覚めた時から違和感があった。

 

 いつもと同じ時間。

 いつもと同じ光景。

 なのに……自分が、もうそこにはいないような感覚。

 ごっそり世界から薄れて、やがて排斥されるような孤独感。

 ……いや。それは上海(ここ)に来る時から感じていた。

 だけど、決定的に違うのは————

 わたしの全てが、今日、失われるだろうという予感だった。

 

 

 *

 

 

【12月10日 朝】

 

 

「…………」

 冷たい空気の中で目が覚める。

 頭が眠気を訴えながらも、身体は半自動的にいつも通りの起床を繰り返す。冬場は温かい布団の中に籠っていたくても朝の少ない時間がそうさせてくれない。

 今日も月曜日で、わたしは学校に行かなければならないのだ。

 なのでだるさを感じながらも着替えを済ませる。普段繰り返している作業でも、こう手足が凍り付いていると面倒なこと極まりない。それでも生活の一部なのだから、スキップするわけにもいかない。

 ベッドの横に置いてあるデジタル時計を見ると——時刻は六時四十分。この時間にもなれば、そろそろ起き上がらないと学校に間に合わない。

(ぐーーーーーー……っ)

 おまけにお腹も……こうして食料を待ちわびているらしい。だがその前に、眠気をキレイさっぱり吹き飛ばさなくては。

 わたしはふらふらとした足つきで洗面所へ向かった。

 

 

 ダイニングへ出ると、テーブルには既にお父さんが座っていた。いつもならわたしより遅い時間に起きて、悠長に新聞——上海に住む日本人(わたしたち)のためのローカル紙なんかを読んでいるはずなのだが、今日のお父さんは黙々と口を動かしていてどこか変だ。

「おはよ、父さん」

「…………ああ。おはよう、(のぞみ)

 何かに集中しているのか、挨拶はそっけない。……でもまあ、いいや。

 テーブル上の袋から面包(パン)を取り、牛乳を入れるために台所に入ると、お母さんが弁当を作っている。出汁の香ばしい匂いから、入れられるであろうモノは推測がつく。

「お母さん、おはよ。卵焼き?」

「そうよ。———それが、何か?」

 いつもなら喜んで味見させてくれるはずが、今日のお母さんはどこか顔色が悪い。体調が優れないのか……お父さんも同じような反応だったのと関係があるのだろうか。ひょっとして、夫婦喧嘩……それとも、わたしの成績——前回の試験結果がバレたからだろうか……?

 けど思い当たる節もないので、気にせず朝食を続行続行。

 そうして、朝の時間は過ぎていくのだった。

 

 

 *

 

 

 朝食と一通りの用意を済ませると、お父さんは出勤するのかと思いきや部屋に行ってしまった。

 普段なら政治ネタでつまらないジョークを言って笑うお父さんなのに、今日のお父さんには表情というものがない。一度も失われなかったはずの表情(かお)が、不気味なまでに消え失せている。

 お母さんもそうだ。どこか、違和感。わたしに興味がないような、冷たい態度。まるでルーチンをこなすロボットみたいに。

 弁当を作り終え台所から離れたお母さんが、わたしの視界から消える前に、

「あ……学校、いってきます」

「ええ、行ってらっしゃい」

 玄関で挨拶をする。

 けれど振り返ったお母さんの目は、人間味を感じないものだった。

 ……不可解だ。

 粘りついたような不安が、ほんの少しだけを焦りを募らせる。

 ……けど考えたってどうしようもない。ただ日常を送るのが、今のわたしにできることだ。

 だからそのまま、家を出ようとして———

 ()()が、目に入る。

 ダイニングテーブルの上に紙束……無造作に置かれた、お父さんの仕事の資料らしきものに混じって、

 古びて。ボロボロになったノートが、挟んである。

(なんだろう……?)

 そっと抜き出して、手に取る。

 薄い紙の表紙に、鉛筆のかすれた文字。

 

『聖杯戦争 記録』

 

 ……怪しい。

 一瞬、そういう中学二年生的な趣味かと思われたが、この筆跡は違う。とても古そうだ。何だろう……背中に、寒気が走る。

(これを、お父さんが読んで……?)

 聖杯戦争……などという単語を聞いたことはない。ただ、聖なる杯と、戦争という言葉から———殺し合いを連想させる。

 パラパラとめくっても知らない言葉ばかり。不可思議な単語の羅列。胡散臭いモノだと感じるのに、何故だか興味を惹かれる。

(どうしよう……)

 近くに誰も見ていないか、ぐるぐる見回して確認。……よし。

 わたしは、さっとノートをバッグに入れて家を飛び出した。

 

 

 *

 

 

 ブルル、とエンジンの音。

 埃っぽくガスの混じった空気。

 冷たく汚れた空気と曇った太陽の光が、この街における冬の朝だ。

「何……これ」

 現地の人々の喧騒が響く公交車(バス)の中で、盗み出したノートを読む。

 ……けどその内容は、子供騙しにしては出来すぎていた。

 

 

 *

 

 

 ——聖杯戦争。それは、英霊(サーヴァント)を使役した魔術師(マスター)同士の戦い。

 ——聖杯とは、あらゆる願いを実現する願望機。七騎の英霊を従えた七人の魔術師が(これ)を求めて争い、最後に勝ち残った一組のみが手にする。

 ——七騎の英霊(サーヴァント)はそれぞれ、

 剣将(セイバー)

 槍君(ランサー)

 弓手(アーチャー)

 騎覇(ライダー)

 殺客(アサシン)

 神導師(キャスター)

 狂酔夫(バーサーカー)(クラス)をもって召喚される。

 ——聖杯に選ばれた者には三画の令呪が顕れる。令呪は英霊との契約に必要であり、三度のみ英霊への絶対命令を可能とする。令呪を失えば、英霊との契約も失われる。

 ——聖杯戦争の基盤は日本の冬木にて発明された。そして1930年頃、何者かによってこの地に聖杯のメカニズムが植え付けられ、昨年の発見まで眠っていた。

 ——この地の聖杯は199*年に覚醒予定である。

 ——その刻限までに、■■■は何らかの準備をしている筈だ。

 

     —19※※.5.4.—

 

 

 *

 

 

 ……読み進めていくうちに、ますますわからない。

 日本とこの街……上海に関係のあるものらしいが、どこか違う世界の出来事のようでとても信じがたい。……でも中国(ここ)には、胡散臭い情報なんて溢れるほどある。これもそのひとつなんだろうか。

 そう思った所でノートを仕舞う。エンジンのうるさいバスに大きく揺られ、窓から外を眺める。

 

 街ゆく人、車、自転車はせわしなく、道路沿いに連なった小さい店や、その背後にマンションらしいビルが時折見える。それだけでなく、取り壊されてもおかしくないような、木造の家が並ぶ風化しそうな景色も。

 この街に引っ越してから三年で、改めて思う。幹線道路やオフィスビル——現代的な風景が生まれているこの街には、未だ古い町並みや生活が隙間を埋めるように残っている。

 その様子は、どこか空しいように見えた。暮らしや価値観をすぐに変えることはできない。ならこの街の人間は、古きを保ちたいから固執するのか、それとも取り残されているから追われているのか。

 ……判らない。わたしには答えを出すのは難しいし、そもそも当事者たちが気にしているのかさえ不明だ。けどどちらにしろ、今は古いものと新しいものが隣人同士のように存在していて、少しずつ、時代に合うように変わっていっているのではないか。

 他所(よそ)から来たわたしでも感じ取れるんだから、きっと完璧に間違いだということはないだろう。なんとなくだけれど、奇妙な活気のあるこの街のことを、わたしはこの三年で、段々と解ってきたような気がするのだ。

 

 

 *

 

 

 とはいえわたしは、普通の学校に通っているのではない。普通の学校……とは現地のカリキュラムで授業を行う学校だと定義しよう。しかしわたしの通う所は、そうではない。わたしが所属しているのは語学学校の日本語科。そのうち日本では高校にあたる部分だ。〝国際部〟と銘打った外国人だらけの棟の一フロアで、人数こそ少ないものの、同じ日本人の学生が同じ教室で学んでいる。

「ねえ望ぃー、今日の国語どこやんのか教えてよーぉ」

 そうやって首に巻きついてきたのが同級生の(かえで)だ。彼女はああ見えて、わたしより幾分成績が良い。それはいつもわたしや、他の人を利用しているからだ。女子高生とは見かけと振る舞いだけで信用してはならないものだと世の中の男性に伝えておきたい。……といっても、わたしだって女子高生だが、単に人に好かれようとするとか、そういうのに興味がないだけである。

「……古典の『論語』でしょ。この前の授業で先生が言ってたと思うんだけど」

 上着を脱ぎながら席につく。楓はいつも一番乗りだから、わたしは二番目に来たということになる。

「それがさぁー、あの人気分で予習の抜き打ちチェックやるじゃん? 週末遊んでたから、すっぽりやり忘れちゃったんだよねー……」

 ……途端、楓は目を伏せながら笑う。短い茶髪が風でわずかに揺れた。

 風———教室のドアを閉めているのに感じる風は、温かい。一番に来た楓が暖房を付けてくれたからだろう。

「ちょっと今からダッシュで予習スーパー特急するよ!」

 そう言って楓は、わたしの後ろの席に座って教科書とノートを広げた。シャーペンでカツカツと書き込む音が、二人だけがいる白い教室に響き渡る。

「なんて素早くあざとい……」

 それを呆れながら見届けると、わたしも自分の準備を始めた。

 

 

 *

 

 

 クラスの中でも地味なわたしは、そう愛想が良いわけではない。人と話す時は思っているよりもエネルギーを使う。だからひっそりと、当たり障りのないように生活してきた。他人といるよりは独りでいたほうがコストがかからない。

 ……それは、何度も引越しと転校を繰り返しているせいでもあるのかもしれない。上海(ここ)に来る前にも、小学校と中学校で何度か転校し、その度に友人と別れた。最初は別れを惜しむばかり、何週間も立ち直れずにいた。しかしだんだん転校先に慣れ、友達……といえるものもできるようになった。転校前の友人とはメールの回数が徐々に減り……やがて、連絡は途絶えた。

 そんなもの、といえばそんなものだ。あれからまた転校して、同じような事の繰り返しだった。けれどしばらくしてからはもう、いずれ繋がりを絶ってしまうのだとわかっていたから。だから失うことを恐れなくなった。

 ……自分の性格、なんてものは好きではない。嫌いかどうかも、自分ではわからない。つまらない人生だろうか。こうして衣食住に困らず、環境にだけは恵まれている。それは普通と同じ生活があって、親の仕事の都合で今、ここにいるというだけ。

 これといった信条、目標もなく。ただ、目の前で流れる時間がわたしに与えられた全て。それを甘受しているし、自分(なかみ)が薄いといえば薄い。ありきたりなコンプレックスだけを頼りにして、かろうじてわたしという存在(じぶん)がいる。このままじゃ何もなく、何者でもないのはわかっているけれど……それはきっと、これからも……何も、変わらずにいるのだろう。

 

 

 *

 

 

「『長沮(ちょうそ)桀溺(けつでき)(ぐう)して(たがや)す。 孔子(これ)を過ぎ、子路をして……』————」

 四時間目の国語の授業。数人しかいないクラスの、がらんとした教室の中。教科書を片手に、日本語(こくご)の担当教員が朗読していく。

 この話は、孔子が弟子の子路に、畑を耕している隠居人……長沮と桀溺に渡し場の場所を尋ねさせる場面から始まる。

 しかし長沮と桀溺は孔子を、人を避ける者だとして批判する。長沮と桀溺は孔子とは真逆の、世を避ける者として生きているのだった。孔子に従っているのは間違いだ、孔子などより自分たちに従ったほうがいい——と、彼らは子路に言う。子路を通じてそれを聞いた孔子は、残念そうにするのだった。

「『……(われ)()の人の()(とも)にするに非ずして誰と与にせん。』———この一文を……じゃあ柚木、これはどういう意味でしょうか」

「……『私は人間という仲間と共に生きないで、誰と生きようか、いや人間と共に生きる』」

「はい、正解ですね」

 

 人と共に生きる……か。

 孔子は思想家、そして政治家として、世を変えるため魯国に仕えた。しかしその理想——仁をもって世を治める徳治主義は理解されず、とうとう職を辞し、自らの理想の在り処を探すために各地を放浪した。

 孔子はそのあまりに規模の大きい理想を抱いていたが、長沮と桀溺は孔子の、仕える主を選ぶような態度が気に入らなかったのだ。孔子にとっての「人」とは、万人ではなく己が求める一部の人間でしかない——と。

 ……人を選んで生きる、というのはわたしにも言えることなのかもしれない。理想……はさしてないけれど、自分が傷つかないために、そして都合のいいように生きるために……わたしは、進んで人と関わる事をしないのだ。

 

 

 *

 

 

「——————」

 四時間目終了のチャイムが鳴る。

 なんだかいやに疲れたな……なんて思いながらボーッとする。

 ……眠い。

 それも限りなく。

 でもこれは、眠いというより……。

「望っ! 今日のお昼さ……って、どう……たの?」

 頭が重い。

 なのに手足に力は入らない。

 意識がふわふわ。

 軽くて羽毛のように飛んでしまいそう。

「だい……うぶ? ちょ……と、……しつ……いこ……か?」

 声がする。

 声はわたしを一度ゆすって、そして持ち上げる。

 つた、つた。

 浮いているような足取りと、ぐらんぐらんと揺らぐ身体。

 白ばんだ視界が、落ちる寸前の電源のごとく点滅して……。

 

「ひん……つで……ね。しば…………ていれ……おる……しょう」

 今度は違う声。

 いつの間にか違う場所で、横たわっている。

 感じ取れるものは少ない。

 真っ白な世界と、砂のような意識。

 

 時間も空間も、自分の感覚さえ掴めない。

 ……そして、そのまま。

 消えるように、思考が途絶えた。

 

 

 *

 

 

「………………っ」

 灰色の天井と白い壁。

 起きた時には、すでに授業が全て終わっていた。

 

 夕暮れを映す間もなく空は深い藍に染まる。窓から雲が流れるのを視認すると、ようやく自分のいる場所を理解した。

「やっと起きたね。よかった……」

 ベッドの隣に座っている楓が心配そうに言う。ぎこちない笑顔で、スカートをギュッと握りしめている。

「医務の先生は貧血だって言ってたけど、あたし、一時はどうなるかと思っちゃった」

「……そうなの。迷惑かけて、ごめんね」

「う、ううんっ! その……望にしては珍しいから、びっくりしたんだよ」

「そっか。でも……」

「んーと、どうかした?」

「もしかして……授業、抜け出してきたの?」

「えっ、そ、そんな事ないよっ! ほんと、全然っ!」

「……見ていてくれたの、ありがとね」

「っ…………!」

「それじゃ……わたし帰るから、また明日ね」

 布団から起き上がる。籠った熱がふわりと発散されていく。

「あ、待って、まだ先生が———」

「ごめん……今日はレッスンなの。あともう少しで始まるんだ」

 脇に置かれた荷物——おそらく楓がまとめてくれたものだ——を背負う。

「うん……また、ね」

 楓の弱々しい声が、背後から聞こえる。

 ……少し、後ろめたい気持ちになる。けどわたしには、こうやって現実から目を背ける事しかできない。

 振り返ることなく医務室を出て……そのまま、国際部棟の出口へ向かった。

 

 

 *

 

 

 学校から少し離れた場所に位置する、外国人向けの英語学習教室からの帰り。

 地下鉄を使って帰宅する。

 

 ……今日は、なんだかおかしい。

 気のせいか地下鉄駅構内の青白いライトが、痛まない頭痛を助長させている。

 周囲は静かで、人はいない。無機質で不気味なのは元からだが、今日はやけにそれを意識してしまう。

 まったく、お化けを恐れるような年齢じゃないんだし……。

 まとわりつく夜の不快感を必死で追い払って、ガラス張りのドアの先にある地下鉄に乗り込んだ。

 

 

 ……時々、酷い空虚感に襲われる。今がまさにそれが起こっているんだろう。その違和感は上海に来て一年で平気になったから、かなり久しぶりだ。この街の……妖しさの漂う雰囲気のせいで、最初は慣れなかったのだ。

 怖い、とは少し異なる。路地裏に幽霊が出てきそうな恐怖感よりも、自分が、乱雑で理解の及ばないものに埋没してしまうような錯覚。それをこの街の夜を濁す街灯を見ると、感じてしまう。

 文化も。生活も。この街の空気も。なるべく慣れようとしているのに———どこか、障壁がある。

 それが排斥。それが孤独。すぐそばにあって引きつけられるのに、決して触れられぬ隔たり。

 ひと言でいえば、()()————

 ……そんな曖昧模糊な異常を感じながら生活しているのだと、今になってようやく思い知る。

 だから、自身が何か暗い穴に吸い込まれて消えていくような感覚も体験する。自我という概念を、この街では実体化しない不安が平坦にする。

 こうやって家の鍵を開ける時すら、帰ったという感触がないほどに。

 

 

「——————?」

 家の鍵は掛かっていない。疑問に思いながらも、一応はノブを回して開ける。だが———家の中は電気すら点いていない。

「ちょっと、なに……」

 スイッチを押しても電気は点かない。冷たい空気が廊下から吹き抜ける。

 仕方が無いので、携帯電話のライトをつける。とりあえず母さんと父さんは———

 と、思った。その時。

「—————」

 ……気配。いや、これは気配ですらない。

 蠢いているのではない、何か、()()()()()()()()()()()を感じる。

(ねえ、やめてよ……)

 あの二人は、父さんならともかく専業主婦の母さんなら家にいるはずだ。いないとしても連絡をくれるはずなのだが、それもない。

 けれどこうして暗闇で突っ立っているわけにもいかない。

 部屋にいるかもしれないと思い、そこへ行くと、

 

 ————ふたつのヒトガタ。死体。

 両親は鮮血を撒き散らしながら倒れていた。

 

「っ————」

 眼前の光景を受け止められない。

 脳が理解を拒絶する。

 見たくない。

 見てしまう。

 二体のオブジェ、その胸には穴の空いたような刺傷。

 そこから血が出ている。

 そして、音もなく呼吸もない。

 

 ———ドクン。

 異常。理解不能の恐怖。

 ———ドクン。

 身体が崩れる。呆然とただ叫べない喉で叫ぶ。

 ———ド ン。

 逃げないと。だが意識は倒壊してパニック状態だ。

 ———   。

 音か、それとも声か。

 けど違う。

 これは、こんな悪い予感は……

 

 鼓動が凍結する。

 時間が静止する。

 見えない影が、首の後ろを舐めるように狙っている。

 ここは危険。

 そう、頭の信号を切り替えた———瞬間。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「何が、どうなって—————」

 状況を掴めない。自分が何をしているのか、何を見ているのかわからない。

 暗い部屋の中で唯一、携帯の明かりが照らす男の像が顕になって———おぞましい殺気に、心臓を握り締められたように苦しい圧迫を覚える。

「……やはり、帰って来たか。なに、(マスター)からの命令でな。可能性は潰した方がよい、とのことだ。許せ」

 そう言って、男——人間の形をしたそれは、手にした得物を軽く構える。

 …………ズキリ。ズキリ。

 右手の甲が痛みを発する。突如訪れた痛覚に意志のない悲鳴をあげる。

 ……この痛みで、ようやく理解出来た。

 わたしの両親は、殺されていた。

 そしてわたしは、無防備にもそれを見てしまった。

 …………ああ。それなら。わたしもきっと、ここで殺されるのだ。

「小娘の命を取るような男が儂だとは……あまり思われたくないが」

 感情のない声。だがその奥には、命を奪う宣戦布告。

 

「しかし———()ッ。霊魂まで失えば、思うこともできまい」

「っ…………!」

 

 一瞬で突き出される。

 音も空気も切り裂いて、得物は一直線に突き刺さる。

 ———ぐちゃ。

 心臓が抉れた音。

 痛い。

 動けない。

 心臓を貫通して、再び抜かれる。

「…………————」

 失われていくのを知る。

 痛みに耐えられず精神が飛んだのか、枯れた痛みだけが脳と心に残響する。

 ———どうして。

 ———どうしてだろう。

 ———どうして死ぬんだろう。

 ———どうして生きていたんだろう。

 ———どうしてここで終わってしまうんだろう。

 ———どうして。どうして。どうして。どうして。どうして。

 ———どうしてこんなに、何も、何も何も何も感じないんだろう。

 

 ……薄まっていく。

 暗闇に誘われるように、わたしの人生——自分でもよくわからなかったわたしという存在が、幕を閉じる。

 生と死の狭間で漂う。

 ……薄まっていく中で。

 右手の模様が赤く光ったと同時に、後ろから眩い光が差したように見えたのが、最後の視界だった。

 

 

 *

 

 

 醒めない奈落の夢を視る。

 それは深く裂かれて、閉ざされる記憶。

 異物に満たされたように、暗闇に沈んで———

 このとき、わたし(柚木 望)は。

 

 死んだ。

 

 

 *

 

 

 戦いの緞帳は上がる。

 願望を抱いた者も、そうでない者も。

 否応なく選ばれ、その運命の中でもがき続ける。

 もはや夜が明けることすら、上海ではおこがましい事の一つになる。

 幻影が膿まれ、伝染するまでの間。

 魔都の夜は、長く、長く、続いてゆく————

 



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プロローグ/外籍修行僧

中の人その二だよっ、みんな宜しくネッ


 ——夢に見た国とどこか違っていた。

 大人になるにつれ、夢を失っていく。

 僕らはきっと現実の見方を覚えたのではなく、夢の見方を忘れたのだ。

 だが、強欲なこの国の見境のないこの魔都では。

 現実が夢を覚まさせるのではなく、夢が現実を裏切る。

 そうしてやがては嘘と真実が反転するのだろう。

 

 *

 

 上海に来てもう三年。チャイナドレスはコスプレで、西遊記はまやかしだと気づくのには十分すぎる時間だ。公園で太極拳をするご老人達がせめてもの救いか……

 高層ビルの並ぶネオンの町は、幼少期の私が思いはせていた幻想的な世界ではなかった。父は貿易会社に勤めていて、彼は出張の都度に外国の書籍や玩具を私にくれる、ちょっとしたサンタクロースだった。その中で私の一番のお気に入りは連環画という、中国の絵本だ。タイトルは誰もが知る三国志。ボロボロになるまで何度も読み返したが、中国語など分かるすべもなく、ただ純粋に絵として楽しんでいた。

 サウスアプトンは港町で、貿易船がよく泊まっている。いつかどれかの船に飛び乗って、海を渡りたいとよく浜辺で文句を並べながら黄昏ていた。大学まで待てと、両親は私に行かせなかったのだ。それからは辛抱だった。大学で中国語を勉強して、やっとのことで短期留学生の資格を得て、彼女とも別れて覚悟を決めた。断捨離を悟ったかのように、二十の私は町を出た。

 

「こんなド田舎二度と戻るか、俺は世界を見に行くぜ!」

 

 などと喚いたのは黒歴史の一ページである。

 そうして夢のないことに船ではなく、飛行機で私は上海に向かうことができた。……その旅の果てはさらに夢がないことも知らずに。空港を出たときの衝撃はそこそこだった、本音を言うと、覚悟はしていた。私もいつまでも子供じゃあない。だが、それでも虚しかった。例えるのなら、サンタクロースが自分だと親から聞かされるような、そんな感じだ。薄々とは気づいていたが、心のどこかで希望を抱いている、自分への甘えだった。

 此処が異国だとさながら風前の灯火のように残る、希少なチャイナ元素といったら、辺りに充満している薄っぺらい東洋人の顔と、クリスマスツリーより過度装飾な古典建築ぐらいか。虹色蛍光灯で悪趣味に飾られているあれらを古典と呼ぶのも些か不適切かもしれないが。

 ……あとは不衛生極まりない環境と空気である。それでもイギリスのド田舎よりかは幾分か居心地がいい。果たして東洋の神秘はどこに消えたやら。さらにその東の国、日本へ行って忍者や侍を見に行ったほうが良かったのかもしれない。

 そうした現実諸々から目を逸らそうとしても到底叶わず、せめてもの抗いだと思って、ネオンの熱気に頭をやられた私はつい先月に、考えられる最高に破天荒な決策をした。正直成り行きみたいなものだが……

 それは、僧侶になることだ。

 

 *

 

 貯金で借りたボロアパートの頼りない鍵を二重に閉め、私は職場である静安寺に向かう。

 閉めた勢いでドアノブを引っこ抜きそうになり、引越しの意を固めた。英語教師より安定な職に乗り移せたため、当分金の心配はしなくて済むだろう。正直もうたくさんだ。

 

「痛て……」

 

 手の甲から鈍い痛みを感じた、どこかにぶつけたのだろうか。……こうも汚い部屋だ、生傷絶えなくても仕方がない。むしろ感染を心配する。

 その一室はネズミとゴキブリが闊歩し、雨の日には形容しがたい臭気が下水道から這い上がる。上の層からの水漏れをなんとか処理できたと思った一週間後、濡れたまま放置した床の隅からキノコが生えた。

 ……気を取り直して息を吸う、冬の朝の空気は比較的綺麗だ。

 月曜の黎明である。休日じゃないため人は多くないが、暇を持て余した老人達が寺にくる。出来もしない株で年金をドブに捨てるより、寺のお賽銭として投げたほうが建設的だと思いたい。この国の老人は株をするのが普通だと、数少ない教え子から聞いたことがある。

 不愉快なきしみ音がなるエレベーターから降り、建物の外へ出る。冬風が坊主頭になったばかりの私を撫でるついでに、朝飯屋台の油っこい匂いを連れてきた。

 やはり帽子を買うべきか、どうやら髪の毛の保温作用を見くびっていたようだ。

 英国の飯は自国民に自覚を持たせるほど不味い、私が故郷を嫌う理由の一つである。この国の料理は一口で表せない、国土が広すぎて、飯も地方によって天地の差があるからだ。大きい春巻きのようなものを買って一口齧る。これは確か東北地方の食べ物だったか……味を堪能する間もなく通勤ラッシュの人ごみに吞まれてゆく。歩き食いはモラルに反すると母によく小言を挟まれたものだが、ここは上海だ、構うものか。

 

 *

 

 人の流れは、血流を連想させる。都会に住む者は知らぬ間に流れを読み、流れに溶け込むことを体得している。だとすると、人間一人一人は血小板みたいなものか。血小板は流れているだけで仕事だという、羨ましいことこの上ない。残念なことに、人間血小板に給料は与えられないようだ。などとしようもない狂言を脳裏に浮かべながら、私はその大いなる流れからこっそり抜け出し、寺へとたどり着く。

 ビルとビルの間に無理矢理押し入れたかのような、時代錯誤の金色に輝く建築がそこにあった。幸い金色の塗装が施されているのは屋根だけで、虹色ネオンよりかはセンスがいい。大きな楕円を半分切ったかのような木造の大門が、三つ。今日は客が少ないので、二つが閉まっている。潜り抜けると、広場の真ん中に小さな塔が、一つ。お香を中に刺して燃やすものである、近づいた瞬間煙が鼻腔を充満し、思わず咳き込んでしまう。

 

「来たか、行者」

「……はい」

 

 振り向くと、男の姿が目に入った。その男は古びている黄色い袈裟を身に纏っていて、手には大きな数珠を構えている。些かアンバランスな黒縁の四角い眼鏡の後ろの双眼には、年相応でない異常なまでの鎮静を秘めていた。

 彼は私の師匠だ。ド素人である私を無理矢理寺に突っ込んだ張本人でもある。本来僧になるためには佛学校だのなんだので修行を積まなければならないが、私は特別扱いらしい。 忘れもしない一か月前の夕方、途方に暮れて寺に迷い込んだ私は、このいかにも胡散臭い男に勧誘されたのだ。曰く、自分探しに出家は最適。曰く、金髪碧眼僧は中年女性にバカ受け間違いなし。……その話に乗った私も私で可笑しいのだが。

 

「取り敢えず今日も倉庫に籠って経典の暗記だ、新しいのも運んでおいたから自分で片づけるんだぞ」

「分かりました。……今日の賄まかないも白粥ですか?」

「当たり前だ、いい加減慣れろ。それと……」

 

 彼は壮健な右手で懐から何かを取り出した。目を濁らすと、新しい袈裟のようだ。

 

「今日からこれがお前の制服だよ」

 

 *

 

「呵呵、これがモーメンツ映えというものか。何とかにも衣装というものよな」

「……あまり笑わないでください」

 

 本殿の脇には小屋がいくつもある、その中の一つを借りて、私は所謂修行をしている。

 無骨な木製の低い机には蝋燭が置かれている。その上に本が数冊、筆が一本。壁には何もなく、窓も小さいものしかない、そのため光も控えめだ。部屋の中には古本屋で嗅ぐような、カビと錆びと紙の匂いで充満していて、本好きの私には悪くない環境である。

 ここが倉庫兼勉強部屋。ちなみに電力は通っていない。

 着替え終えた私の横目に、師匠はそそくさと写真を撮り、早速SNSに乗せる気である。現代的過ぎてもはやシュールの域を達していた。レトロなこの部屋に尚更合わない。いっそのこと経典もデジタル化したらどうなんだ、と冗談半分で聞いてみたところ、検討中だという夢も味気もない返事が返ってきた。

 

「さて、僕はこれでお暇するよ。暗記、頑張れよ。それと……」

 

 彼は身をひるがえし、頭だけ捻ってこちらを見る。いかにも人が悪そうな、ニヒルな笑いを浮かべて。

「あそこに丸秘、と書かれている巻物があるだろう」

「ええ……」

 

 埃にまみれた本棚の上には如何にも怪しそうな巻物と、骨董品のような剣が鎮座していた。西洋のそれと少しばかり違う、鋼の長剣。少し錆びているが、蝋燭の淡い光を淡々と反射する無機質なそれは、どこか不気味で、まるで本当に人を切ったことがあるかのような―

 

「今朝方、本山から送られたものだ。暇があったら読んでみるといい」

「いいんですか?重要機密とかじゃ……」

「仏家人に秘密などあってたまるか、全ては身の外のものよ」

「はぁ……」

 

 何やら深い話でついていけない。

 

「それを読んだら、お主の人生は変わるだろうな……なに、いずれ俗に帰るものだと思っていたさ」

「そんな……帰る場所なんてないから、ここにいるんですよ?」

「ふん、やはり若者とは思い込みが激しい生き物よな……」

 

 などとブツブツ念仏のようなものを唱えながら、師匠は倉庫を後にした。ああなると誰の話も聞かなくなる。

 

 *

 

 ページを捲っていくうちに日が暮れて、私は大きなあくびをした。

 

「……飽きた」

 

 暗記は作業だ、同じことを繰り返す、工場の生産線のようなもの。無聊に耐えることができず、私は例の巻物に手を伸ばした。機密のようなものだが、気にする私ではない。楽しいことは決まっていけないものだと知っているからだ。……ひょっとしたらこの道理は逆で、いけないからこそ楽しいのでは、と思ってしまう。

 

「うん……?魔術……?」

 

 童話のような、夢物語がそこにあった。

 童貞を失う数時間前、その時に感じた、人生の価値観を改変する事件を待ち構える焦燥感と、高揚感が私を襲う。魔術、魔力、聖杯戦争、願望機。見慣れたようで見慣れない単語の羅列、新鮮と期待が起伏する感情の揺らぎ。まるで昔、三国志を読んだあの時のように。

 

「でも……違うよなぁ。師匠も人が悪い、すぐに私で遊ぼうとする」

 

 きっと今回も、幻滅するのだろう。そう思いつつも、私は気が付けば書かれた通りに召喚とやらの手順を進めていた。筆で床に陣を描き、音読するかのように、おぼつかない中国語で呪文を唱える。

 

「……汝為身纏三大言霊之七天」

 

 ……難しい単語を使いやがる。だが、俺は唱えるのをやめなかった、いや、どうしてもやめられなかったのだ。

 それは過去への鎮魂歌であると同時に、今なお止めることのできない明日への祈りだった。

 

「来自於抑止之輪、天秤之守護者!」

 

 今度こそ、夢を見しておくれと、しゃがれた声で叫ぶ、しぼんだ夢想で求む。

 

「……こいつは流石に……師匠に怒られちまうなぁ」

 

 静謐の後の一秒、二秒、また一秒。何も、起きなかった。夢はどこまでも夢だったのだ、きっと俺がおかしかったのだろう。そうだな、これではまるで、()()()()()()()()()()()()()()()

 一人で気まずい空気を作り出し、後片付けに手を出そうとしたその時。世界は()()した。

 稲妻のような眩い光と、肌を刺すような突風が部屋を襲う。それに伴うかのように、溶けた鉄を頭から浴びるような熱が迸った。身体が燃え上がる、末端である手の甲には、刃物で切られたかのような鋭い痛みが刻まれた。

 俺は忘れていたのだ、師匠が私にかけた、最初の言葉を。

 この魔都では強欲が満ちているゆえに、現実と夢に境はないのだと。いともたやすく、裏切りはまた別の手のひら返しで裏返されるのだと。

 

「ここは誰もが夢を見る、皆夢に塗れて夢に溺れているのさ」

「しかし嘆くことなかれ、連中が目の覚まし方を忘れたのではない、お主らが眠りにつく方法すら忘れた、それだけのこと」

「届かぬ明日に手を伸ばし、叶わぬ夢に身を焦がす」

「それこそが人の本質(本我)、というもの」

「呵呵、救いようがないのう」

「しかし、どうだ?奇しくも、いや、これもまた縁か」

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 *

 

 一人の大男が、そこに立っていた。魔法のように、唐突に現れた彼。人と呼ぶには、些か早計だったのかもしれない。身体は私より一回りも二回りも大きくて、漂わせる雰囲気は剣呑だった。虎のような眼に、筆で描かれたかのような眉。豹のような鼻は逞しく、さながら本に出てくる武将だ。白銀の、中華風の鎧は小さな窓に微かに差し込んだ淡い月の光に照らされていて、煌々と輝いている。そしてその獰猛で、刃のような眼光は、俺だけを見据えていた。

 

「問おう」

 

 深沈厚重、といったか、彼の声は小さな書斎に木霊し、部屋全体を震えさせた。一声しか発していないはずなのに、何度も音が脳裏で反響する。

 あぁそうか、今この時この瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「お前が俺の、マスター(主君)か」

 

 最高だ、最高の最高に、最高だ。何度も夢見た()()が、ここにはあった。無くして堪るか、堪るもんか。命にだって代えてやる、明日さえ捨てて掴んでやる。どうしようもなくつまらなかった、今までの人生が無駄な迷走ではなかったことを、証明できたのだ。

 コイツが俺の世界(全て)で、()()()()()()()だ。

 いい夢みとけよ、現実。(Get up quickly, my dream.)




改稿しましたー


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プロローグ/光失き少女

【12月10日 日没】

【南京路 路上】

 

 

 上海の中心に位置する繁華街は、絶えず民衆の喧騒に包まれている。

 『○○公司』『××集団』———

 食品、金銀、眼鏡、宝石……様々な中小企業直営店の大きな看板が、地上数メートルの高さでズラリと並ぶ。

 歩行街(パラダイス)と呼ぶに相応しい光景。上海で最も繁雑で、絢爛な色を放つ、人口の密集した大通り。

 その、片隅で———

 埃とゴミに汚れた少女が、ひとりうずくまっている。

 

 誰にも認識される事はなく。

 誰にも助けられる事はなく。

 いや、むしろ。

 人は少女を避けて、街路を通り過ぎる。

 温かい家も、食べ物もない。

 ただ寒い体をこうして丸めて、体温を保つしかない。

 あと何日保つのかすら少女には分からない。

 飢えと、孤独と、冬の寒さ。

 そして————汚れた身体。

 それが少女の全てであり、もはや、人間として生きてはいなかった。

 

 名前など既に彼女にはない。

 『棄孩(キハイ)』———

 そう蔑称として少女は街往く通行人に疎まれていた。

 

 少女はホームレスだった。

 冬の野外に適さない、乱れた服装。

 近くにあるゴミか、ダンボールがなければとても夜を過ごせない。

 第二次性徴を迎えていない小さな身体は、栄養が足りず痩せている。

 髪も、栄養不足とストレスによる精神の疲弊でくすんだ灰色に変色している。

 その眼に光はなく。

 生きている実感や希望は、欠片も残らずなくなっていた。

 

 

 少女は物心ついた時から上海に住んでいた。

 ごく普通の家庭で、愛されて育った。

 しかし、ある日。

 人混みで親とはぐれ、迷子になった時。

 見知らぬ男に手を引かれ———誘拐された。

 

 上海ではよくある話だ。少女は、その被害者の一人だった。

 だが少女が連れ去られた目的は人身売買ではなく———もっと、単純な欲望だった。

 

 暗く、光の差し込まない屋内。

 市内ではあるが、人が寄り付かない区画の、朽ちそうな木造の建物の一室で。

 地獄のような日々を送る。

 

 男たちは彼女の身ぐるみを剥がした。

 何も身につけていない少女の体躯が露になる。

 少女は泣き叫んで嫌がる。だが男たちは少女を押さえつける。

 力の強い壮年の男性に、齢十歲にも満たない彼女が勝てるはずもない。

 必死に手を、足を、首を動かそうとするが———逆らえば、暴力が振るわれる。……やがて、動かすことを諦めた。

 そうして従う。服従した少女を、男たちは嗤いながら玩具にしていく。

 嫌な感触。素肌を汚い手で触れられる。嫌だ。執拗に弄ばれ、知り得ない不快感にただ拒絶だけが走る。

 怖い。

 嫌だ。

 少女はそれが何であるか理解出来ない。だがそれが汚いもので、自分が汚されているのだということだけは、わかっていた。

 あるのは、恐怖と不快だけ。

 悦んでいる男たちから必死に目を背ける。だが身体に、口に、押し付けられて含まされる。

 

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 こんなの、いやだ、いやだよ。

 たすけて。

 だれか、たすけて————

 

 だが、そんな心の叫びは、誰にも届かない。

 男たちは、ただ獣の欲望だけを剥き出しにして。

 順番に。貪るように。

 少女を、陵辱し続けた。

 

 

 男たちの残飯のみで生きながらえる日々。

 それ以外の時間は、欲望を処理するための人形。

 それまであった家族と生活を失った少女は、人間としての意志すら喪失した。

 助けを求めることすら諦め、感情を殺し、何も感じないフリをする事が一番楽に思われた。

 死というものを理解できない彼女は、やがてこれ以上のどん底はないだろうと思い始めた。

 ちょうど、そんな時だった。

 

 男たちの隠れ蓑は、一人の善良な一般市民によって暴かれた。

 彼は少女を暗闇の部屋から連れ出し、「もう大丈夫だよ」と逃げることを促した。

 しかし、彼がそれを警察に通報する前に——

 ……男たちに見つかる。勇敢に立ち向かう彼だが、男たちに道徳はない。彼は、たった一撃の殴打で殺された。

 

 それを目の前で少女は見ていた。

 彼が倒れ、痙攣ののちに動かなくなった姿を。

 少女はただ走った。

 身体が、もうここにいるのは嫌だと叫んでいた。

 殺された彼がせっかく作った逃走の機会を、逃すわけにはいかなかった。

 男たちに追われながらも少女は市の中心へ向かい——そして、振り切った。

 

 

 *

 

 

 それから、街を彷徨う。

 しかし少女には、帰る場所はなかった。

 お腹が空くとゴミを漁って食べられるものを探した。路頭で寝ていても、手を差し伸べられることはない。加えて、その服装は毛布一枚で身体を包んでいるだけ。それは、裏社会のケダモノ達にとって恰好の獲物だった。

 

 突如。

 ガシッ——と。

 頭を掴まれる。

 そしてそのまま、暗い路地裏——排水管と汚水の溜まった隙間に連れて行かれる。

 見れば、以前とは違う三、四人の男が手足をがっしりと捕らえている。

 その中の、一人の男に背を向けた姿勢になる。

 包んでいた毛布がはらりと落ちる。あられもない姿。瞬間、絶望の淵を悟る。

 一秒後。

 身体の中に、嫌なものの入る感覚が蘇った。

 

 ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ。

 

 泥のように扱われる。

 耳に障る嗤いと強く掴まれる痛みが、壊れた心を(こわ)していく。

 

 たすけて————

 

 心の中で叫ぶ。

 だが、行為は止まずに幾度も繰り返された。

 

 そうして、ひとしきり身体を侵されたあと。

 中身に汚いものを注がれたまま、その場で捨てられた。

 

 

 *

 

 

 本当の地獄は、それが繰り返される事だった。

 棄孩にとってはむしろ、ホームレスとして街を彷徨っている間が安寧だった。

 だがそれは続かない。

 どういうわけか、一日路頭で過ごしても次の日にはまた違う男の集団に囚われた。

 逃げ場のない毎日。

 欲望の捌け口に使われるだけの日々。

 棄孩が生きている時間は、ホームレスを続け、誘拐され、陵辱され、逃げ出す間もなく捨てられる———その繰り返し。

 体は痣だらけで。

 大事な部分は、もうとっくに意味を失ってぐちゃぐちゃで。

 誰も———

 誰も、彼女を助ける者はいなかった。

 

 

 *

 

 

 薄暗い中で、ピンクや黄色の刺々しいネオンが点滅する。

 ———夜は、さむい———

 冬の寒さは、いとも簡単に体温を奪っていく。衆目の見て見ぬふりに晒されながら、ぶるぶると震えることしかできない。

 ———こんな世界が、きらいだ———

 棄孩は、親に捨てられたのではない。彼女を棄てたものは、この世界。故に、彼女の嫌うものは、この世の全てだった。

 ———なんのために、生きて———

 こんな身体で。意味を失った心で。

 一体、どこに生きる希望があるのか。

 

 かつ、かつ、かつ。

 ……また。棄孩を見つけるハイエナたちの足音。

 身体を縮めることしかできず、精一杯身構えるが……意味はない。

 ハハッ———と、笑い声。

 また繰り返される。また侵されて、道端に棄てられる。

 逃げ出したい。だけど逃げ出す体力も、精神力もなかった。

 

 ……腕を引かれる。針金のように細い腕を、乱暴に抑えつけられる。

 ざらざらして、太く力の強い指。

 いたぶるような、醜い声と視線。

 びちゃびちゃと撒き散らして、かわりばんこに屍体漁り。

 生きてなどいない。

 心だったものは、既に死んでいる。

 体格に不釣り合いなリズムと共に。何もかもを、暴かれていく。

 ……棄孩には、それを何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も味わおうと、厭な感覚だった。

 ———痛い———

 ———どうして———

 ———いつもと同じなのに———

 ———同じ、玩具にされるだけなのに———

 ———こんなに、理不尽で、痛い、だなんて———

 今までそう思う事はなかった。

 それが自分の運命だと受け入れて、なされるがままでいた。

 ……だけど。

 死んでしまった方が楽に思えるほど、痛い。

 初めての時だってそうだった。

 大事な場所を破られて、吐き気のする笑い声を聞きながら必死に痛みに耐えた。

 もう自分が以前とは違うものだとわかっていても、ただ死んだように生きて痛みに耐えた。

 体だけが痛いのではない。こんな、普通じゃない事をされているという自覚が、いちばん辛くて消えたかった。

 この瞬間……三回目の順番が終わる時だって、バラバラに、ズタズタに、胸が茨に穿たれたように痛い。

 ———なんでわたしが、こんな———

 その理由を知らない。なにも悪い事なんてしていなかった。なのに、こんな、わけのわからないモノたちに侵され続けているだなんて。

 それが、この世界に見捨てられた少女に生じた、何より深い痛み。

 だから———初めて。

 死んだ心から、涙を流した。

 

「……だれか……たすけ、て————」

 

 耐えきれず呟く。

 ———瞬間。

 それが呪文となったように。

 何かのスイッチが、カチリと入ったように。

 彼女の令呪と魔術回路が、赤と蒼の光に輝きながらその機能を駆動した。

 

 

「……………………!!」

 ————風を切る音。

 体に掛けられた体重が離れていく。

 あらゆる呼吸が止まり、あらゆる声が凍結する。

 ばたん、と。

 囲んでいた男たちが、尽く倒れる。

 見れば。

 男たちの首、心臓には——鋭く細い、銀色の針。

 一秒前まで活きていたモノたちは、今やピクリとも動かなくなり———

 呻き声も漏らさず。

 血飛沫すら一滴もなく。

 虚空から射出された針は全て急所に刺さり、男たちの生命活動を終わらせていた。

 

「———獣に堕ちた下郎共よ。報いと思え」

 現れたのは、髪を長く垂らした長身の男。

 薄暗闇の中。

 この時代のものとは思えない出で立ちで、その後ろ姿は立っている。

 そして———

 男は、少女に振り返って言った。

「私は———君の声を聞いたサーヴァントだ」

 

 

 *

 

 

 その声を確かに聞いた。

 「座」で眠る私に、その叫びは確かに届いたのだ。

 

 ———その声が、助けられなかった者達への慚愧を呼び起こす。

 ———私はかつて神技へ至ったが、それでも救えなかった者がいた。

 ———だから、この声を無視するわけにはいかない。

 ———私は、私の力でこの手を伸ばさなければならない。

 

 そうして、掴み取る———

 あらゆる時空の座標を越える事を、聖杯の機能が可能にする。

 少女の召喚(さけび)を頼りにして、私は、穢れに満ちた現世に浮上した。

 

 

 *

 

 

【二時間後】

【南京路 ホテルの一室】

 

 

「……とりあえずこれでいい……な」

 整頓されたベッドの上、眠る棄孩(マスター)の姿を眺める。

 彼女には調合した薬草を飲ませ、栄養素を補填すると共に痛みを和らげた。眠っているのは、その副作用だ。

 ふう、と。

 僅かに安堵のため息を漏らす。

 これでもうマスターが冷たい風に晒される事も、危険に遭う事もない。

 

 

「私は———君の声を聞いたサーヴァントだ」

 暴漢たちを斃した後。

 英霊はそう少女に言った。

 

 少女の頸元には、赤色をした歪んだ紋様。

 ———令呪。

 それは少女が、彼——サーヴァントと契約した証だった。

 彼らの契約の成立には、長い呪文も膨大な魔力も必要が無かった。現界には、聖杯から与えられた魔力と器で十分。そして、少女の「助けて」という呼び声が、最後の鍵となった。

 

 だが———

 彼を見上げた少女の目には、一点の光もなく。

 濁りきった色が、ずっと奥まで拡がっていた。

 

「—————」

 動揺よりも、怒りが走った。

 こんな、普通ならば幸福に暮らせていたであろう幼子が、並ならぬ恐怖と苦痛に遭い、それが幾度も繰り返されている。親も、家も、安心できる場所も———何もない。身体も、心も、とうに限界を過ぎている。

 彼の診眼には全てが判っていた。

 生前、医者としての知識と経験が昇華された知覚。あらゆる病状と病因を見通す目で、少女の容態を知る。

 ……だがそれは、とても事実として受け入れ難いものだ。

 少女はその全身に暴力を振るわれ、筋肉は衰えている。それだけでなく——少女の陰部の中身が、酷くかき乱されて、ボロボロになっているのだ。

 おそらく二度とまともに機能する事はなく、子を宿す事もできまい。

 未発達の身体はこうも壊れていて、終わっている。

 ……しかし。その要因は、決して物的(かんたん)なものではなかった。

 

 ————それは、「呪い」だった。

 彼の診眼は、呪いとまで云われた病すら見通す。だがこの病は、方技——自らの能力としての最大の医術を以ってしても、およそ治せないものだった。

 その呪いは、何ら拍子もなく世界から与えられたモノ。

 少女は生まれつき———穢れた情欲を持った男を引き寄せる呪いを患っていたのだ。

 

 ……なんて、最悪だろう。

 彼は必死で、叫びだして狂いそうな衝動を抑えた。

 こんな事があってたまるか。

 こんな残酷な運命があってたまるか。

 何より———そんな冒涜を許した世界を、彼は赦せなかった。

 

 呪いという次元の病を治すには、単純な能力では不可能だ。

 それこそ宝具——あらゆる病を「隔絶」する神技でなければ、少女の呪いは治らない。

 …………しかし。

 マスターから供給される魔力はあまりにも微弱だ。命ですら風前の灯火だったのだから、魔術回路を数本有しているだけの、魔術師ですらない少女からそう多くの魔力は望めない。

 加えて彼自身の魔力も少ない。生前は道士ではなかったため、キャスターとして召喚される事は叶わなかった。逸話によって、無理やり狂酔夫(バーサーカー)の器にこの身を嵌めているに過ぎない。

 故に狂化は最低限に留まり、比較的正常な精神を保っている。しかし、キャスターの持つ魔力を生成する技能を、彼は持っていない。魔力の燃費はいい方だが、それでもかろうじて実体を留まらせるだけで、宝具を使用するには能わない。

 ……致命的、な状況だ。

 できる限りの手は尽くしたが少女(マスター)の身体が元あった機能を取り戻したわけではない。宝具を使えなければ医術の技量は現代のそれを大きく超えるものではなく、呪いという科学では手に負えないモノを取り除く事ができない。

 だから状況は一歩も進んではいない。彼女が再び襲われる事のないように、自分が護らなくてはならない。

 先程のように、唯一の武器である針を使って外敵を傷つける事はできるが、それ以外に戦闘に使えるほどのものはない。宝具ですら、完全に病への特攻であるため向いていない。だから、騎士クラスのような攻撃力に優れたサーヴァントに遭遇した時、危険は計り知れない。

 

「————聖杯、か」

 

 そう。

 聖杯ならば呪いを完治するに足る魔力がある。

 現状で宝具を使えないのなら、聖杯を求める以外に術はない。

 ……だがそれは、他のサーヴァントとの戦闘を強いられる事を意味する。

 バーサーカーといえど彼は一介の医者に過ぎない。どれだけ薬で、手術で、患者を救おうと、同じ英霊を前にたったひと振りの太刀に対抗できる強靭さはない。……だから、これは身を捨てる覚悟の大きな賭けだ。サーヴァントであってもただの弱い医者である自分が、そんな賭けに勝つことなんて———

 

「——————成し遂げて、みせるとも」

 

 ……ああ、答えは初めから決まっていた。

 彼女の声を聞いた時から、腹を決めていたのだ。

 絶対に救わなければいけない。

 絶対に勝たなければいけない。

 医者としての使命よりも。

 英霊としての矜持よりも。

 一人の、心ある人間として、その少女を————

 

 ……だが、忘れるな。

 オマエが生前、救えなかった者達。

 万能の医者であるオマエが、ただ助けようとして取り零した命。

 ソレらがオマエを無辜の怪物にさせる。

 オマエの傲慢で死んでいった機能が、器官が、同じようにオマエに還りオマエの霊体(からだ)を破壊する。

 臓腑は今も腐りながら仮初の生命を侵蝕している。

 内側からの痛みに、魔力の身体が砕けて剥がれて磨り潰されそうになる感覚を味わう。

 

 ()()()()()()()

 

 ———私はきっと、あの汚濁に染まった眼差しを忘れられない———

 

 光のない瞳。この世全ての闇を視て、絶望に濁った瞳。

 その地獄から、光を取り戻したい。

 自身が、同じく世界の運命に翻弄されたものだとしても。

 それでも、彼女に比べれば些細なものだと耐えて立っていられる。

 ……後戻りはできない。

 この傲慢が、二度目の生に与えられたただ唯一の意味なんだから。

 

「…………マスター」

 

 目を閉じる。

 数秒の苦しい沈黙。

 あまりにも強烈な、痛みに満ちた感傷が駆け巡る。

 目を開く。

 苦渋に満ちた顔で、少女(マスター)を見る。

 

「君の(のろい)は、必ず私が治す」

 

 そう、誓いを口にした。

 

 

 *

 

 

 不夜の南京路は、雲のかかった空を薄橙色に染めながら沈んでいく。

 窓の外、散光の夜を眺める。

 建ち並ぶビルは、コンクリート造りの楼閣と天に届かんばかりの摩天楼が同じ空間にある。

 その隙間に人は息づく。完全な暗闇を抱えながら、それでも明かりを点けて生きている。

 ……聖杯から知識を与えられながらも、現代のこの地の風景は真新しく映る。

 いや、私の時代にはまだ上海という街はなかったが。

 その活気と虚ろな光芒はどこか、かの洛陽の都に似ている。

 

 ああ———愚かな医者、なのかもしれないな、私は。

 

 処刑された時ですら、きっと私は愚かだった。

 だが愚かであったが故に、私は最期まで医者である私を見失わなかったのだろう。

 ……だから、過去にあった己の生涯は、今はどうでもいいのだ。

 今は、これからの事を考えよう。

 聖杯へと至る道を。全てのサーヴァントを凌いで、勝利を手に入れる方法を。

 

 夜明けにはまだ、遠い。

 立ち向かわねばならない敵が、この街に潜んでいる。

 ———なら切り開くのみ。

 喩え未来が、腐りながら滅びる運命であろうと。

 この身が堕ち果て、何者でもないモノになろうと、尚。

 ……己が尊き信念を、最後まで貫こうというのなら———

 少女(マスター)を脅かす全存在を、切除するだけだ。

 

 

 医者の英霊は拳を握り、明けない夜に沈思する。

 安らかに寝息を立てる少女を、見守りながら。

 

 




【サーヴァントステータス】

<CLASS> 狂酔夫(バーサーカー)
<マスター> 棄孩(キハイ)
<真名> ???
<性別> 男
<属性> 混沌・中庸
<パラメーター>
 筋力:E 耐久:E 敏捷:C 魔力:E 幸運:E 宝具:A+
<保有スキル>
1. 無辜の怪物:D
2. 方技(医):A+++……スキル「外科手術」の上位互換であり、「人体研究」「星の開拓者」としての側面をもつ。万病を治す神域の医療だが、科学の範疇を超えた呪いの治療は不可能。漢方薬の調合もこのスキルに含まれる。
3. ???
<クラス別能力>
 狂化:E-……キャスター適正はなく、バーサーカーのクラスとして無理やり現界しているため狂化のランクは低い。
<宝具>
 「???」


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プロローグ/白銀老錬金術師

 最上階は心地がよい。高いところが好きだというわけでもないが、ただ、こうして摩天楼の頂点に立っていると、何もかも掌握しているかのような気分になれる。

 無論、気分になれるだけであって、実際にそうなるわけではない。

 野心を現実とするためには、何が必要か。若い頃からよく己に言い聞かせた、何かを真の意味で手に入れるためには、手腕と決心が必要なのだと。それが女であろうと、金銭であろうと、地位であろうと、魔術の秘法であろうと、聖杯であろうと、だ。

 静かに呪文を唱える、目の前にあった一面のガラス窓が淡い光を放ち、その向かいにあるネオンの街と合わせるかのように眩い、数本の線条が浮かび上がる。それらの線条は形を変え、字へと画へと生まれ変わる。記されているのは私が数ヶ月に渡って調べ上げた、此度の仕事の資料である。

 国家勢力との交渉の記録、手札。各競争相手の情報、弱点。戦闘に適した地形、万が一のための脱出経路。そして最短で目的に達するための、()()()

 人道を除けば、すべて完璧だ。幸い私は魔術師の端くれの錬金術師で、人道も所詮はマテリアルの一つでしかない。

 血の滲むような努力、などと言う輩はみな阿呆だ。的確な方向性と、確実な下準備。この二つが揃えば、楽に充分な成果が出せる。

 

「そこに気が付けるかどうか、それが人の差だと思わないかね、キャスター」

「あら? そういう自惚れは男友達の前でしてくれます? 古来より狩りは男の役目、女は過程なんてどうでもいい、成果だけ持ってきてちょうだいな」

 

 返答をくれたのは、私が此度の聖杯戦争で召喚したサーヴァントである。一面のネオンから目を外す、振り返れば彼女はベッドの上に転がっていて、服装は何時もの中華式のあれではなく、バスローブになっていた。

 随分と現代に馴染んだものだ、それともありとあらゆる物を駆使して男を虜とするのが、かの英霊の性質であるのか。

 

「フェミニストに叩かれそうな言論だな、そういえば君は男尊女卑の時代の生まれだったかな?」

「その中の異類よ、私は。まうんてぃんぐなんて品も風情もないことは言わないお約束だったでしょう? 上下関係はべっどの上だけで充分、それも日替わりでお願いするわ」

 

 成程、罪な女だ。

 

「なら、お望みどおりに」

 

 ベッドにゆっくりと膝をかけ、少しずつ彼女に近寄る。上体のみ起しながら伏せていた彼女の肩を軽く押せば、何の抵抗もなく彼女は為されるままに仰向けとなった。まるで体重がないようだ。

 

「年齢の割にはお盛んなのねぇ……?」

「年齢の話はするな」

 

 それに覆い被せるように身を置くと、彼女の頬が目前まで迫った。瞬間、苛烈で濃密な芳香が鼻腔を満たした。果実のそれとは程遠く、もっと肉質な、しかし赤子の乳香とも訳が違う、さらに淫美な、背徳な香気。それは今までの何度も嗅いだ雌の匂いだが、かつてのどれよりも鼻に残り、脳天まで突き抜ける。

 手で水墨のような長髪を退かせば、そこには黒洞々とした眼がぽつりと静かに灯っていて、こちらを凝視していたかと思えば、また焦点がぼやける。誘っているのか?答えはきっと否であり、是でもある。

 手のひらに収まりそうな華奢な頬を手で擦ると、カーテンにも似た秀麗な睫毛が目を匿う。桜桃のような小さく丸みを帯びた唇を軽く齧ると、火照った吐息が果汁のようにあふれ出す。あぁ、なんとも甘美な……

 ありとあらゆる果物を蜂蜜と混ぜ、発酵させたような香りの濃さでいて、不思議なことに甘ったるさは感じない。

 淫蕩でいて純潔、潔白の中に汚れを帯びる。それが彼女だった。

 これほど強く抱き締めたのはいつ以来だろうか、このまま抱き潰したい欲求といつまでも傍に居てほしい情念が葛藤し、解けることなく正気を失う。彼女という名の海におぼれて、蕩けてなくなりそうだ。

 

***

 

 寝台の横に予め淹れておいたアールグレイを一口すする、ホテルが用意したものだが、悪くない。

 

「お前もいるか?」

「プーアルなんてないのかしら? それは柑橘が効きすぎて呑む気が起きないわ」

「ほう、ならルームサービスでも呼ぼう」

 

 やはり年なのか、体と脳が既にクタクタだ。脱ぎ捨てた服の中から小瓶を取り出し、内容物を数滴紅茶に垂らす。

 

「なぁにそれ? 精力剤?」

 

 二回戦かしら。などと彼女は少し期待しているように見えた。

 

「まぁそうだな、しかも私特製だ。だが残念ながらお前に使う精力ではない、今の情報を纏めようと思ってな」

「えぇ……もっと構って頂戴よ……」

 

 音もなく後ろから抱きつかれた。両腕は私の胸元で交差し、背中から懐炉にも似た暖かさが伝わる。

 

「後でな」

 

 この国には温故知新、という言葉があるらしい。実にいい言葉だ。新たなるもの、まだ知りえないは配下に探らせているところだが、近頃芳しい情報はない。残念なことに、この四字成語の前半しか実行できない。お得意の情報閉鎖が始まった、ということか。

 主なる組織は二つ。一つは、此度の聖杯戦争の運営側。同時にそれは、私がこの聖杯戦争に参加できるよう取引をした相手でもある。

 

「参加者と運営者の掛け持ち、か」

 

 無論、向こうは出来レースにしようとしている。故に私も名目上彼らに協力し、最後には彼らに勝利を譲り、聖杯を渡すよう伝えてある。新薬の臨床実験と、聖杯戦争の体験。それと引き換えに、私は莫大な資金の提供と、彼らとの長期合作の契約を設けた。

 お得意の情報屋をいくつか使い潰してしまったが、致し方無い。必要な投資、というものだ。

 

「とは言え双方、取引の約束など守ろうとはしない」

 

 何せ聖杯である、リスクを冒して、契約を破棄してまでも手に入れる価値が、ソレにはある。最後の最後で、私は聖杯に手を出す。向こうもそれを見越して、口封じがてらに私を殺しにくるだろう。全く誠意の籠っていない、上っ面だけの取引だ、実に商人らしい。何せ戦争だ、何かしらのトラブルに巻き込まれて命を落としてもおかしくない。彼らはそういったトラブルに見せかけて襲い掛かってくる。

 

「隠蔽工作などしなくとも、私が死んだこと如きでカンパニーは動じないだろうがね」

「あら、薄情ね」

「私がそう組み立てた」

 

 しかし()()は、巨体(傲慢)である。総力をあげてくるとは思えない。だとすると、捨て駒か、()()()()を差し向いてくるだろう。七人のマスター中、大半が彼らの支配下だ。そのうちの誰か、という可能性もあるが、支配下であるマスターたちの資料はもらっているため、その線は薄い。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

彼らに関しては、当分は協力関係を保ちつつ、堤防するのが得策だろう。

 

「もう一つの組織は通称、()()、か」

「ふぅん……? 人心を惑わすものかえ?」

 

 それだけなら、恐るに足らんがな。

 

「烏合の衆を優秀すぎるカリスマが統べる集団は、いつの時代だろうと、パブリックエネミーだ」

 

 私が手を出すまでもないだろう。

 

「お前はお前の為すべきことを為せ」

「はぁい、()()()()をしておくわ」

 

 直に部下が報告に来る頃合いである。紅茶を一思いに飲み干して、着慣れた正装を掴み上げる。

 窓の外を見れば、そこには合衆国とどこか似ていて、どこが致命的に違う風景があった。ここが異国であると、再認識させてくれる。思えば両親もよく旅行先の土産話をしてくれたものだ。

 そこに映し出された散りばめられたネオンは一つの大きな、星空の幻燈を彷彿させた。偵察用の魔術礼装がとあるマンションの窓を横切ると、家族の団欒がそこにあった。遍く星光の一条だ。あの光の一つ一つに、一つ一つの家族と、その暖かな物語があるのではないのかと、ふとそう思った。遠い、あまりにも遠すぎる存在だ。くだらない、くだらない感傷だ。今の私には、会社がある、夢がある、野心がある。

 聖杯だけを考えよう。心と決意を鉄にして、光沢すら帯びさせるほどに磨きあげれば。慢心と愛憎をどぶに捨て、退路すら見えぬほどに身を投じれば。

 私は無敵だ。




久しぶりの投稿です……
受験とか色々ありました、申し訳ございません。
今年も私生活の方で、中の人ことブラックと白は両方依然として忙しいと思いますので、引き続き不定期連載となります。
来年こそ、安定した更新連載を!目指せ週刊!
次回は来週投稿予定です。
不届きなところをご指摘してもらえたら、大変有り難いです…
お気に入りと感想、是非是非よろしくお願いします。


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プロローグ/魔剣異能力者

 

【12月10日 夜】

 

 

 風が(はし)る。

 黄浦江沿岸、浦東・陸家嘴。

 辺り一帯の高層ビル群は、レーザーと巨大液晶の眩い光を闇空に放射する。

 魔都の夜。人工の構造物体(それら)が無機質に濁った灯火に照らされ、夜を妖しく危険な匂いに染め上げる。

 黄浦江の向こう側——外灘(ザ・バンド)を一望できる塔の頂上に、二つの影が立つ。

 塔の名は東方明珠(オリエンタル・パール)

 上海では最もシンボルらしい、浦東・陸家嘴における景観の代表とも言うべき建築物だ。球体の形をした二つの展望台は千変万化の色彩を放つが、その先端部は航空障害灯の赤を除けば暗闇に沈んでいる。

 ———いや。

 赤色なのはライトだけではない。二つの影のうちの一つ。紅い旗袍(チャイナドレス)を模した戦闘武装(タクティカル・スーツ)に身を包んだ女が、同じく深紅に染まった剣を手にしていた。

 女が独り言のように呟く。

開始(はじまり)はもうすぐだ。……この辺りは、魔の色が濃い」

 遠くを見ているような目。その先には、対岸——外灘の市街。

「……いずれ、交戦は免れまいな」

 隣に立った男が答える。男は使い古された外套を纏い、素顔はフードで隠されている。

 彼らはただ遠くを見据える。夜は未だ長く、明ける気配もない。

 しばらくすると男の姿は消えた。だがその存在は未だ女の傍にあり、霊体化によって魔力の消費を抑えているにすぎない。

「————」

 不敵に笑う。

 女の手中にあった剣はカタチを変え、紅き紋様(シンボル)となって女の右腕に収まった。

 ……近くに漂う闇の味が、鼻先をくすぐる。

 女は知っている。上海に巣食う魔の存在を。

 故に闇を掻い探る。この戦いの裏で、暗躍する異端(イレギュラー)の在り処を。

 一歩、一歩と女は尖塔の辺縁に近づく。

 そして。

 その、次の一瞬には。

 夜に連れ去られたように。女——蘭梅麟は、空へ跳んでいた。

 

 

 *

 

 

「———お前には、魔術の才能がない」

 

 いつかの記憶。古く、幼い頃に置き去った記憶だ。

 物心ついた時からそう言われ続けていた。

 自分の家系はどうやら他とは違っていて、自分には刻印(それ)を継ぐ権利はないらしい。

 魔術回路——魔術を扱うために必要な性質が、備わっていなかったのだ。

 中国において、数ある魔術の家系の中でもとりわけ権威を持つ『(ラン)』家の娘のひとり——梅麟(メイリン)は、そのような突然変異体であった。

 一族からは疎まれながら幼少期を過ごした。邪魔者、除け者として隅に弾かれるだけで、いつしか誰にも気に留められなくなった。

 だがその過程で。彼女の隠された異能はその力を成長させていった。

 蘭家は表向き上海市中心の大地主であったが、梅麟が六歳の頃、経営不振で土地の大半を海外の企業に売り払わざるを得なくなった。

 また数年が経った後、蘭家は国内の多くの家とも契約を交わし同盟を結んでいたが、その全てと交流が途切れた。

 さらに数年、梅麟が世間の中学生と同じ歳になった時には——家に異変が起きていた。

 父親は病床に伏し、職を辞する召使いが絶えなかった。幾人かの兄弟姉妹は養子に出され、その一部は不審死を遂げた。そんな混乱の最中で梅麟は生活した。魔術師になれず養子にも出せない彼女は、ただ自室に引き籠もっていた。

 もはやこの家は、埋没した家だった。金脈も人脈も、ある日突然捻れては消え、蘭家は変わり果てていった。

 やがて疑いの的は梅麟に降り掛かった。彼女は魔術を使えない身だが、一般とは異なる特性(チャンネル)を持っていたのだ。

 一族は梅麟をいっそう不気味がり、彼女は益々酷い仕打ちを被るようになった。そうして知る。自身の「感じ取っていた」モノが、常人には決して触れられぬ領域のモノであると。梅麟にだけはそれが何であるか理解でき、また無意識に——夢遊するように、操ることができた。

 

 ちょうど梅麟が十五歳を迎えた時。

「明日からは———お前がこの家にいる事を許可しない」

 目の前で、寝たきりの父親にそう告げられた。

 愕然とするのでもなく。

 呆然とするのでもなく。

 梅麟は、ただ受け入れた。この事実が覆る事はないと知っていたからだ。

 普通の人生なんて最初から送っていなかった。初めから、持たないもののせいで外れ者にされていた。そのくせ、違うものを持つと忌み嫌われた。人間として扱われた事なんてなく、これまでずっと、家の都合に縛られてきた。

 だから———これで、やっと、自由が手に入る。

 

 

 その晩、眠る事などできなかった。

 何かが自分を呼んでいるようだった。最後の夜はきっと、全てを変える運命の夜だ。

 屋敷中が寝静まった頃。こっそりと部屋を出て徘徊する。

 予感があった。最初から、何かのモノを探していた。それが今一番自分の近くにあって、この先一人で生きていくのに必要なものだ。

 やがて梅麟は屋敷の最奥、階段を下った先の地下室に辿り着いた。余所者が近寄ると警報を発するその地下室は、その日までは梅麟の侵入を許した。

 途中、誰にも見られていない。()()に手を伸ばすなら、今がそのチャンスだ。

 ———目を閉じる。

 それが放つ『脈動』を、第六の知覚で感じ取る。

 比喩でも何でもなく。梅麟は、真にそれの息遣いを読み取っていた。

 どくん、どくん、と。血のように迸る生命力。それは()()()()()。猛るように脈打ち、最も適合した使い手を喚んでいる。

 流動が、梅麟とそれを繋ぐ。導かれるように、暗い地下室の一番奥まで進むと———

 

 淡く、赤い光を放つ刀身。

 梅麟の『異能』にシンクロし、生き物のように輝いた〝剣〟が、そこにあった。

 

 ……以前、父親から盗み聞いていた。

 蘭家には伝家の宝剣が隠されている。

 その()は『魔剣・(せき)』。

 ある刀匠夫婦の子が鍛え、その血を浴びた呪いの剣である。剣の名称も作り手の名をそのまま冠し、そして伝えられた。

 この剣の使い手に素質がなければ神経はたちまち腐り、人間としての機能を失う。故に厳重に管理され、誰にも触れられる事なくこうして残った。

 蘭家の歴代当主でさえ使用は不可能だった。だが梅麟には、ひと目見た瞬間からその真価が解る。

 触れられた痕跡はなく、その魔剣は自身の価値を引き出す者でなければ決して封印を解くことはない。だが今に剣は(あか)色に輝き、真なる開放を待ちわびている。

 それを。梅麟は、たまらなく欲しいと思った。

 ———これを手にすれば、自由になれる。

 ———今までなんて関係ない。誰にも負けない強さが目の前にある。

 ———きっと運命だ。こいつに出会うために、今まで生きてきた。

 ———手を伸ばすんだ。何もかも終わってしまっていい、それでも。

 ———私の人生は、私のものだから。

 だから、自分なら使いこなせるだろう——と。

 剣の柄を掴む。

 途端———光が、全身を包んだ。

 

 歓喜が迸る。

 やっと、やっと。

 自分だけの、自分にしか扱えない武器を得た。

 剣は、最初からそうであったかのように手に馴染んだ。それは初め剣の形をしていたが、意識すれば入れ墨(タトゥー)のような紅い紋様にも変形した。

 

 だが夜は終わっていない。まだ一線を越えられていない。

 梅麟は剣を手に入れた時から既に、復讐の炎に燃えている。

 このまま放っておく事など、できるはずもない。

 だから———

 ふらふら、と。

 風に漂うように、歩みを味わうように、目的の部屋へ向かう。

 見つければ狩りは一瞬だ。

 その間のかくれんぼが、せめてもの執行猶予。

 もっとも。

 隠れる者も逃げる者も、存在すらしない。

 あるのは、ただ狩ろうとして剣を携えた梅麟に、無意味に奪われる者達(いちぞく)だけだ。

 

「—————」

 屋敷で最も豪華な装飾に彩られた一室。

 父の寝室だ。

 扉を開けるのに迷いはない。

 堂々と踏み入る。父親は既に身構えていた。

 気付かれているのは判っている。梅麟はただ、じっと自身の肉親を見つめる。

「……何の用だ。お前には出てもらうと言ったはずだ」

 厳しい顔つきで魔術師は言う。

 その身体が不動となろうと、魔術回路は生きている。一触即発だ。

「まだ分からないのか、親父?」

 だが梅麟は余裕に満ちている。眼前の脅威など恐れることなく、胸を張って立つ。

 今の梅麟は、すでに檻から解き放たれていた。彼女を縛るものはもう、何もない。

「…………化け物め。一体何をする気だ」

「さァね」

 魔術師の表情が強ばる。

 一歩でも動けば、魔術師の合図一つで部屋に仕掛けられた(トラップ)が作動するだろう。

 それも知っている。自分がすでに子ではなく『敵』として認識されている事など承知で、梅麟はここへやって来ている。

「目的は……何だ」

「無いよ、そんなの」

 梅麟は感じている。ここに()()()()()()()全てを。それは、人並みから外れた知覚(チャンネル)で、手に取るように解っている。

「…………」

 沈黙が訪れる。

 だが梅麟の感覚は、沈黙の中で空間に共鳴し同化する。

「ただ———」

 ……右手に握ったそれを、強く握り締める。

 どくん、どくん。

 脈が聞こえる。

 増幅・拡張された知覚で、同じく生命ある脈動を聴いている。

 それは自身のものであり、剣のものであり———目の前にいる、標的のものでもあった。

 

「私は。アンタが一番、()()だった」

 

 瞬間。

 右手にあったモノは形を変え———それは血のように紅い魔剣のカタチへ変容する。

「その剣は……ッ!」

 どくん、どくん。

 脈動。生命の蠢動。

「———————ッ!」

 その異能(ちから)は、魔剣・(せき)との接続を開始した。

 

 ……森羅万象は、その全てに「方向性」が宿る。

 それがないものは、死。

 中華において気、或いは『脈』と呼ばれるそれは、あらゆる生命と、生命による活動から生まれるものだ。

 梅麟の能力はそれを——〝流動する存在〟という視点(かくど)で捉える異能だった。

 魔剣・赤は持ち主と世界を繋ぐ概念武装。

 彼女自身が自然へ微弱な影響をもたらす装置(モーター)であるならば、この(コイル)を媒介して感覚を増幅し、『脈』の支配・操作すらも可能である。

 ……剣を通して識った感触は、魔力……すなわち生命力から起因するものだ。

 それは血管のような、直接生命に関わるものが当てはまる。

 そして。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 故に———

 

「覚悟はいいか、親父……!」

 その叫びを合図に、魔術師の全身に張り巡らされた神経(かいろ)が躍る。

 小源(オド)の流動。魔力が魔術師の身体に溜め込まれ、詠唱によって放出される僅かな間——梅麟は紅色の魔剣を振り上げ、その呪縛を開放する。

 周囲(せかい)が、嵐のようにうねる。

 怒りに満ちた魔術師の貌から生気が消え、身体の隙間という隙間から張り裂ける痛みに苦悶して、

「ああ、お前……だったのか……我らが、悲願…………」

 言い終わらぬうちに、阿鼻叫喚を上げていた。

「ガ、アアァァァ…………ッ!」

 

 それは一瞬の出来事。

 血のように紅い、鮮やかな輝きを放ちながら。

 剣は魔術師(父親)から、魔術回路を()()()()()

 

 ———勝利は、梅麟に舞い降りた。

 魔術師だったモノはその神経が不全となり、命は保たれたものの再起不能となった。父親だった魔術師の魂が抜けたような姿を最後に一瞥して、梅麟は部屋を去る。

 こうして。

 やがて止まる事を忘れた梅麟は、まるで血に飢えた虎のように、屋敷の全ての人間の魔術回路を奪い去った。恩情など残すことなく、余すことも許さず。家の中を、嵐のようにかき乱して、その復讐は成し遂げられた。

 魔剣が腹を満たし、込み上げていた衝動が収まった後。

 「自由」を手に入れた梅麟は、家に決別(わかれ)を告げた。

 

 

 *

 

 

 五年後。

 かつての梅麟は、もういない。

 

 聖杯戦争が開戦する一日前、その深夜。

 人目につかない廃ビル。コンクリートが剥き出しになった、冷たく殺風景な部屋。

 部屋の中は、窓から差し込む濁った色の街灯で仄かに明るい。

 チョークで描かれた魔法陣の上に、魔剣・赤の切っ先を円の中心に向けながら、梅麟は佇んでいた。

 身体に刻印はない。

 赤い模様——令呪は、肉体ではなく()()()()()()、淡い光と共に浮かび上がる。

 もうすぐ、時が満ちるのだろう。自身の異能と魔剣が最大限に高まるまで、あと十数分。

 呼吸を整える。

 懐かしい感覚に浸る。

 網膜には、過去の幻燈片(イメージ)が蘇る————

 

 

 *

 

 

 人生で最初の、叛逆とも言うべき決別を果たした後。

 屋敷を出た先には、見知らぬ男がいた。

 壮年の男は梅麟の手にあった魔剣を一瞥して、口を開く。

「目覚めたな。力の感触は、どうだ?」

「……なぜ、それを問う」

「この『家』に関係があった、と言えば分かろう。その顛末を見届けたまでだ」

「私はもう、家とは関係ない」

 警戒。そのはずが、丸め込まれている。

 巧みな話術に苛立ちがのぼる。けど抗えない。身体の芯から出ずるが暴発し、

「私は、私の力でッ———」

「いいや。お前はまだ、力の制御が出来ていない」

 一瞬、男の息の根を止めてしまいそうな衝動に駆られる。だが、それはできなかった。

「『力』の使い方を教えてやる。俺について来い」

「…………。……行かないと言ったら?」

「ああ。お前はその力で暴走する」

 淡々とした口調で男は言う。

 起伏のないその声は、不気味なまでに冷酷だ。

「…………」

 剣を紋様に収めた。男の雰囲気は決して只者ではなく、たとえ異能を以てしてもこの男には勝てないだろうと判断したからだ。

 ———これが、『師父』との出会いだった。

 

 梅麟は、男と共に上海を出た。

 車に乗り、列車に乗り、宿を転々とした。

 そうして辿り着いたのが、上海から遥か遠く離れた桂林だった。

 巨大な石灰岩塊(タワーカルスト)の聳え立つ桂林の風景は、いわば山と河の明鏡止水である。曰く——生命とは何であるかを知るために、ここが最適だという。

「お前の『力』はまだ、『脈』との親和性が低い。だがここならば命の脈動を肌で感じ取れる筈だ」

 男の言う通り、四季の区別が鮮明な桂林では生態系が正しく移り流れる。この場所なら、手を伸ばせば自然という大きな生命に触れられるだろう。

「俺も元は魔術の家でな。お前のような者が稀に生まれる事は、少し知っていた。だからお前をここに連れてきたのだ」

 男は退役した軍人だった。しかしその肉体は未だ衰えず、生身のまま『脈』と接続する武術を得手としていた。男は(けん)により、『脈』の本質と共に武術もまた叩き込み、それは剣術に応用された。

「———俺の事は、師父と呼べ。お前が一人前の能力者になるまでの、後見人だ」

 秘境での修行の中で、師父は梅麟に全てを伝授した。

 

 三年が経ち、梅麟は以前と全く違う人物のように変化した。世界の法則は特別なものではなく、ごく自然な道理として梅麟はそれを我が物にしていた。

 しかし間もなく巣立つ間際。師父は、遂に朽ち果てた。

「……俺には、娘がいた。もうとっくに、この世にいない。だが———梅麟。お前は、まるで俺の娘のようだった」

 その言葉を最後に、師父は静かに息を引き取った。

 梅麟の中で何かが終わり、何かが始まったのは、後にも先にもこの時だろう。家を破滅に導くまでは人を知らない獣だった梅麟が、この時、ようやく自身の触れた人間の在り様を知った。

 異能者など人間社会とは相い容れない異物に過ぎない。だが師父との日々で、ヒトと交わらないモノの道を梅麟は思い知らされたような気がした。

 

 

 やがて梅麟は、師父の遺した財産で世界を回った。

 世界には未だに悪徳と欲望が渦巻き、非道に手を染める魔術師が多くいた。

 彼らは国家の管理が甘い中東や東南アジアに跋扈し、戦争や麻薬、人身売買や兵器開発に加担した。根源に至るためではなく、魔術師という肩書きと手段で利益を得ようとする者たち。それは——多くを捨て、魔術で権威を獲得した蘭家の在り方によく似ていた。

 だが梅麟の能力、そして魔剣は、その渦を断ち斬るもの。魔術師を憎む彼女にとって、彼らは路銀の足しになると同時に、魔術回路の提供者に過ぎない。

 風の噂に聞いた魔術師の元を訪れては魔術回路を奪い、魔剣の懐に入れた。獲物の末路は常に、回路を剥奪される苦痛に耐え切れず絶命するか、魔術師として植物状態のまま生涯を遂げるかのいずれかだった。梅麟はその手口ゆえに、いつしか『魔術師狩り』として恐れられた。

 

 放浪の生活を二年。

 その末に立ち寄ったのは中国の最南端・海南島。

 南シナ海への玄関口であるその島には、数年前より政府の情報機関と対立した暗黒集団の一派——その隠れ蓑が存在した。彼らの目的は、海洋から錬成された新媒体の開発だった。

 

 

 *

 

 

 男は一派の頭領だった。

 楼閣。六つ星酒店(ホテル)の地下十八階。暗い迷路の奥に構えた工房(アジト)に、数人の研究員と数多の信者を統率して潜んでいた。

 十余年前の戦いでの敗北を機に、新たに編まれた計画。その中で男は頭角を現し、ついに一派の首長たる座に据わった。

 しかし彼には知られてはならない秘密がある。それは、()()()()()であることだ。

 〝内側より喰い破る側〟と〝外側から衆を治める側〟。

 双方の情報を裏で交換し、次の戦いにて有利に立ち回るために。

 そう、彼は聖杯に選ばれていた。であれば秘密裏に通ずる絶好の機会を、逃す道理はあるまい。極秘の情報は画策への近道であり、加えて元より所属していた組織の積み上げた神秘がある。勝利の条件は整った。聖杯の入手はもはや、確実と云えるだろう。

 左眼の下の令呪が、笑みで歪む。

 開発した新媒体の転送も間もなく終わる。終われば、この島を引き払って聖杯戦争が開幕する時を待つのみである。今まさにコンピュータ上の数字が「98.463%」を示す。上海に移った後、速やかに召喚を済ませ媒体を起動——そんな(たばか)りを、脳裏で反芻する。

 だが。

「———無法無天は、そこまでにしてもらおうか」

 衝撃音。

 数名の信者の悲鳴が聞こえる。警備は尽く突破され、重要機密管理室の扉が白煙を上げて崩れる。残り転送量、0.017%。

「聞けば怪しい組織。何やらバイ菌のカイハツをやっているんだと。……でも弱いなァ。入るのは結構、簡単だったよ」

 男は、戦慄した。

 ——なぜ、なぜ。ここにいる?

 『血の猟犬』。

 それが、彼女の()()。冗談じゃない。僅か二年で多くの違法魔術組織、果ては死徒までを壊滅させたあの女が、なぜ。

 ここにいるのだ——と、背後を振り向き、

「聖痕がこんな、三流の手下にあるなんて芸がない。これじゃまるで……」

 束の間。

「私に奪われるために、在るようなものじゃないか」

 死神が、立っていた。

 

「あぁぁ——ぐ、っああぃぁああぁ———!!!」

 ただ一人、未だ立ち尽くしていた男が崩れる。

 痛ましい絶叫。

 二十メートル平方の部屋は淀み、赤い連鎖は魔術回路が引き出される残像だ。

 まるで血の涙のように。男の顔から令呪が消え去り、それは回路と共に——魔剣に吸収されていく。

「———、————、————————!」

 声にならない。神経を直接引き裂かれたような苦痛は、想像を遥かに超える。

 魔術を行使しようとした、まさにその時に抜かれた事が何より不運だったのだろう。

 激痛のあまり気絶した男の身体が、床に転がる。

 魔剣の刀身には——鮮やかな赤色の刻印が浮かび上がった。

 

 男の身体を蹴り飛ばして、梅麟はコンピュータへ歩み寄る。

「チッ」

 転送は既に終わっていた。海南島での一派は全滅だが、その研究成果たる媒体は運営側(あちら)の手に渡ってしまった。

 その送り先は——魔都・上海。

 コンピュータに残されたファイルには、機密とされた〝聖杯戦争〟の詳細が記されていた。

「上海、ねェ……。面白いじゃないか」

 いかなる運命か。この刹那にて、次の行き先、旅の終点は決まる。

 願いという響きは、かつての渇望を呼び起こした。自由、力、強さ。単独で生きていくための、険しく遠い道のり。

 それは。

「……いや、そうじゃないな。きっと、私は」

 死に場所を探してるんだ——と。

 呟いて、梅麟は工房を去った。

 

 かくして魔剣の猟犬は、道の果てを予感する。

 上海。

 自身が生まれ、自身で断った、欲望渦巻く魔都。

 自らの運命と決着をつけるために。梅麟は再び、因縁の街へ向かう。

 

 

 *

 

 

 五年振りの上海は、多くが変わっていた。

 知らないビルが並び立ち、新しい種類(タイプ)の携帯電話が使われるようになり、航空の便も増え、空の色も、行き交う人の服装も、変わっていた。

 そして、何より。

 かつて蘭家の屋敷があった場所には、もう、何も残っていなかった。

 ……それでいい。自分の選んだ道だ。自分の人生を歩いて、ここまでやってきた。

 だから———

 

 

【12月9日 深夜】

【廃ビルの一室】

 

 

封閉(みたせ)封閉(みたせ)封閉(みたせ)封閉(みたせ)封閉(みたせ)

 

 魔剣より迸る脈動に合わせ、チョークで描かれた魔法陣が点滅する。その光芒は廃墟を照らし、濃厚な魔力が渦巻いた空間を作る。

 

「——————宣告(告げる)

 

 神経は中枢から末端まで緊張し、空気の音すら聞こえるほど。それは異能による錯覚だが、幻覚ではない。

 

汝身在吾令下、吾命与汝剣同在(汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に)

 応聖杯之召(聖杯の寄るべに従い)若願順此意志、此義理即呼応(この意、この理に従うならば応えよ)

 

 全身からエネルギーが引き抜かれる。知覚世界を構成していた『脈』が、魔剣を介して〝魔力〟に変換(かわ)り、魔法陣に注がれていく。

 

在此起誓(誓いを此処に)

 吾願成就世間一切善行(我は常世総ての善と成る者)

 吾願誅尽世間一切悪行(我は常世総ての悪を敷く者)

 

 おぞましいほどの轟音とフラッシュ。

 液体とも気体ともつかぬ魔力が極限にまで回転し凝集して、セカイにひとつの奇跡を成そうとする。

 

汝為身纏三大言霊之七天(汝三大の言霊を覆う七天)

 来自於抑止之輪、天秤之守護者(抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ)————」

 

 ———突風が舞う。

 それは一瞬の破裂にして、破壊。世界の理を破って顕れた、異能による魔術行使。

 魔剣に溜め込まれた魔術回路は、全てこの工程の為にエンジンを回し———

 

「サーヴァント・アーチャー。

 召喚に応じ現代の華土に参じた。

 ……(なんじ)(オレ)の、マスターというワケか」

 

 運命の夜。

 白髪の英霊は、昏い血のような目で梅麟を見据えた。

 

 

 *

 

 

【12月10日 深夜】

 

 

 東方明珠を背後にして地上に降り立つ。辺りに人気(ひとけ)はない。

 高架の真下。不気味なまでに艶めいた装飾(ネオン)に、照らされた大通り。

 冷たい夜気の籠った風が薙ぐ。

 ざわめく木々。幽かに、鬼火のように揺れる葉の囁きが耳朶を撫でる。

 直線道路の続く先。

 黄浦(かわ)を阻むようにして、集まる闇がそこにある。

 

 人ならざる異形の怨嗟———

 命あらざる屍の嘆き———

 否。

 ()()()は血飛沫を上げることなく誅される。黒い霧のような、はたまた蝗の大群のような蠢くモノたちに———しかし静かに斃され、限り果てた魂を散らす。

「鼠の群れよ。貴様らは何者だ」

 梅麟が問うた。

「我らは、教主様の(いと)()なり。この世に遍く和平をもたらしめん御方の———(つかい)なり」

 口を揃えた声が響く。いつしか魔の色は薄れた。代わりに、ぞろぞろぞろと集まったのは、黒ずくめの、

 

 忍者(シノビ)か。いいや。

 これほどまでの数量。技術。神秘。

 華土に暗殺者は存在すれど、東の海の果てに派閥を成した謀術の仕事人のそれではなく。

 明らかで、自明な、〝義〟によって結ばれた邪教の徒である。

 隠密を超えた堂々たるその行いは。

 まさしく、誅罰————

 

「へェ……つまりは私の獲物って事らしい。その紋章、南方でこの目に焼き付けた。なら———」

 腕が、紅く灯る。

 竜巻のように梅麟の剣が顕れる。

 風を斬り、闇を斬り、梅麟の指先がその柄を捕らえて———剣先が、黒ずくめの集団へ差し向く。

 同時。高架の柱や、近くの建物。塀や植木や地下や屋上に至るまでの隙間から、一斉に魔術が投げ放たれ、

 ————十六方位全方角から迫る集中砲火。

 その中心。梅麟と背中合わせに()()()男の外套(コート)が翻り、フードが隠していたその貌が(つまび)らかになる。

 剣が踊る紅であるなら、

 男——青年の眼孔は血に濡れたような臙脂か。

 二つの対照的な赤に、豪速の魔力が束となって襲い掛かる。

 教徒たちの魔術の斉射が、梅麟の躯体と、青年の霊基に到達する———しかしその直前に。

 

「—————投影(トレース)開始(オン)

 

 (いた)んだ少年の声で、(アーチャー)はその言葉(まじゅつ)を口にした。



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プロローグ/独り身漢方医

「お客さん、今日はどんな髪型にするんだい?」

 

 接客業はスマイルが一番だ。笑って出身地や職業さえ聞きゃ大体何とかなる。小汚いおっさんだろうと、ファッション誌で出てきそうなお姉さんだろうと。まぁ後者はこんなおんぼろ散髪屋なんかにはこないだろうが。

 後はお客さんにお望みの髪型を聞いてその通りに切るだけ。カタログから選んで貰うのがベスト、俺みたいな三流スタイリストには、この薄っぺらい冊子のバリエーションで精一杯なのである。大当たりは丸坊主か丸刈り、草刈りと同等の技術含量で、それの何倍もの報酬が貰える。

 

「……そうだなぁ、うーん」

 

 如何にも適当に切ってくれ、なんて言いそうなおじさんが、一体全体何を迷っているのだろうか。そう思いながら目の前で思案している男を見定め直す。お気に入りの風俗嬢とでも出会えたのか?

 幸いこのような客はあまり無駄話をせずに済む、コミュ力が高そうには到底みえない。

 確か何度かうちの店に来たような、ないような。それほど影の薄い男である。ぼんやりとした垂れ目に、灰色にすら見える薄い眉……幸が薄そうだ。目の下には濃いクマがついていて、顎全体には無精ひげがだらしなく生えていた。何日も寝てなさそうな、そんな感じだ。

 しかしよくよく見れば、彼は彫の深い五官と、そこそこスレンダーな四肢を備えていた。頑張って整備すれば、そこそこな伊達男に化けるかも知れない。まぁそんなことはサービス外なので、頼まれてもやらん。スタイリストの心が揺さぶられていなくもないが、ボロ散髪屋のド三流にそんな余裕はないのである。

 

「正式の場に出られるような、そんな髪型にしてくれないかな……?」

 

 正式の場、ねぇ。なりからしては、何かの研究員かも知れない。しかし先程から漂ってくる洗髪剤と混じった妙な薬臭さから察するに、コイツは向かい側の大学病院の先生とみた……だからどうってこともないのだが。

 

「何か、医学の研究発表会にでも出るんですかい?」

「おや、よく医者だと気づけたねぇ。いやぁ、そんな大層な行事ではないのだが……」

 

 ま、悪い人ではなさそうだ。

 

「大事な人に、会えるかも知れないんだ」

 

 ……そう淡々と語った彼の表情は、酷く複雑だった。口角は上がっていたものの、笑ってるようには見えなくて、泣き出しそうに見えるものの、涙はとうに枯れていた、そんな顔だった。なんて面してやがるんだ、死ぬ間際の祖母ちゃんにそっくりだ。

 全くずりぃなぁ。そんな顔されちゃあ、放っておけねぇじゃねぇか。

 

「……よし、お客さん」

「な、なんだい?」

「特殊サービスだ、あんたのそのだらしのねぇ無精ひげ、綺麗さっぱり刈り取ってやんよ」

 

 

 些か値引きされた散髪代を申し訳なく卓上に置く。懐が常に裕福じゃない僕にとってはありがたいことであるが、こんな特殊サービスを受けられるような徳を積んだ覚えはない。

 

「これでだいぶ良くなったな、おっさん」

 

 その恩恵を授けてくれた張本人である、不真面目そうに見えたスタイリストさんが、良く晴れた六月の早朝のような笑みでこちらを見てきた。

 見た目に反して、中身はとことん善良でお節介のようだ。如何にもおばあちゃん子、といったものだろうか。 

 

「そうだね、恩に着るよ。また、伸びたらお世話になろうかな」

 

 どうやら彼とは違って僕は表裏一体で、天性の詐欺師だったようだ。

 

「……会えるといいな、その人と」

「……あぁ」

 

 この国の人はみんなそうだ、始発点が如何に利己的あろうと、途中経過が如何に打算に満ちていようと、結果的には、甘ったるいほど優しい。

 他人への寛容は、何れ己に帰ってくる。陰陽相克、盛者必衰の理を誰もが弁えいる国ならではの、合理的な優しさと白黒無常な道理は、華人以外には分かり合えないだろう、僕たちの流儀だ。

 ……そのような道理を弁えているからこそ、僕は葛藤に苛まれていた。僕の犯した巨悪は、何時になったらこの身に跳ね返ってくるのだろうか。

 おぼつかない足取りで店を出る、外の空気は思っていたよりも凍てついていて、先刻の彼の言葉のように肺へと突き刺さった。とうの昔にやめた喫煙を再開したのはいつだっただろう、使い潰されている肺の痛みが深刻になっていく。僕の記憶が正しい限り、辞めたのは大学で肺癌患者のレントゲンを見てしまった時だと思う。

 再開したのは……この身が肺癌など心配できるほどの生の余裕を、失ってしまったときだったことは、はっきりと覚えている。

 街は喧噪だった。往来する人々はどれも活気に満ちていて、春を彷彿させる。

 行きつけの花屋に入り、毎週欠かさず買っていた胡蝶蘭を掴み上げる。起伏の多い僕の人生で、数少ない続けられたルーチンワークの一つだ。

 

「毎度。家に飾る用でいいんだね?」

「いや……今回は、贈り物用なんだ」

 

***

 

 男は誰にも気づかれぬような足取りで、静謐なる病室へと足を踏み入れた。それはまるで、ガラス細工を扱っているように繊細で、突いたら割れる泡沫を弄ぶかのように小心であった。神殿に踏み入るように、深々と、儀式を行うかのように、粛々と。

 それも仕方のない。この一室は紛れもなく、男にとっての聖域であったのだ。

 彼は手にした胡蝶蘭の花束を、空になっていた花瓶に収めた。花瓶の横には、護身用の小刀も置かれている。それはある一人の少女以外の全てを毒殺する、男の数少ない成功品の一つだった。男はその小刀に不備があるかどうかを念入りに確かめた、それを扱う相手はいないというのに、繰り返される作業に慣れた男はとうに虚しさを感じなくなっていた。それらを終えると、彼は病床の前に立たすんだ。

 そこには窓から差し込む静かな月光に照らされた一人の少女が、死人のように眠っていた。純白の寝具に身を包まれている少女は、それと同様に純白であった。視界に入る唯一の黒は、少女の長い長い黒髪だった。入念に手当をされているものの、常人では結ばなければ歩きの妨げになるであろうそれは、少女が長年病床から降りていないことを物語っていた。

 死人、という表現は誇張ではない。色素の抜けた彼女の死蝋にも似た顔色をみれば、誰もが勘違いをしてしまうだろう。しかし、少女は息絶えてなどいなかったのだ。微かに感じる体温と、上下起伏する彼女の胸元がそれを証明した。それらの微弱に残っている生の象徴は、男の心を潤すオアシスの湖であった。

 ……同時にそれは、男を犯す猛毒でもあった。

 男は砂漠を歩んでいた、渇きの果てに見つけたただ一滴の甘露が、同時に男の首を絞める縄であった。それでも飲み干すしかなかった。

 それは生き延びるためのせめてもの救いであって、己を徐々に殺す不可避な断頭台であった。

 ()()()()()()()()()()

 それが男を生かし、それが男を殺していた。

 

「僕は今日、嘘をついてしまったんだ」

 

 男は語りかけるように、静かに独り言を綴った。

 

「……大事な人に会う、そう言ってしまったんだ。もう合わせる顔なんて、どこにもないのにな」

 

 男は葛藤と苦痛が、何時までも続くものだと思っていた。それが己への罰であると、信じて止まなかった。

 

「今戻ったぞ、マスター」

 

 纏まるようで纏まらない、諦観に満ちた思考を遮るように、病室の外から声がした。先刻まで人の気配どころか、物音すらしなかった男の研究室に瞬間移動でもしたかのように、一人の武士が現れた。武士は病室の中に顔を出すことはなかった、それはまるで、男の聖域を守るようであった。

 

「……おかえり、ランサー」

 

 男は振り返らずにそう呟いた。

 

「仕事は順調だったかい? ……すまないな、こんな事をさせてしまって」

「致し方のないことだ、向こうも覚悟の上であっただろう」

 

 武士の荘厳な声が病室に響く、男はその声がどこか苦手であった。

 

「ただ……娘は何も知らなかったようであったがな」

「娘……か」

 

 組織から下された情報には、一人娘がいるとしか書かれていなかった。魔術の後継者である以上、抹殺は必要であった。……覚悟の上であった。それでも、その子が運よくいなかったら、避難として別の都市へ行っていたら、と、心のどこかで願っていた。

 

「年端もいかない、娘だったか……?」

「年端もいかぬ、娘であった」

 

 男は再三その言葉を噛み締めた。

 

「主が苦悩することではないさ、下手人はこの儂なのだからな」

「いや……いいんだ、ランサー」

 

 既に罪に塗れた人生だった、背負うと決めたんだ、どのみち圧死するこの身、罪がいくら重くなろうとも、構いやしない。

 震える声で男は囁く、それは己に言い聞かせるような、虚ろな言葉。

 

「たとえ合わせる顔がなくとも、その手に触れる資格がなくとも、だ」

 

 ()()、全ての願いを叶える願望機。それを知ってしまったがために、男の運命は収束した。それは確かなる自壊願望。生きる綱を自ら切り捨てる自滅衝動。

 

「僕は全てを投げ捨てて君を再び、この華ある世界に歩ませよう」

 

 白衣と病床と白磁色の少女は、病室をさながら()()であるかのように塗り替える。

 その中心にいる孤独な男の悲願は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 



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プロローグ/骨喰鬼(後)

 

【 ------- 】

 

 

 

 空の上だろうか。

 果てしなく続く雲と澄んだ群青が、成層圏を水平に切り分ける。

 静止した時間の中で。私は、小さな窓越しに切り取られた空を眺めている。

 記憶の残滓。

 揺蕩う無意識の中で、再生される静寂の映像。それは何かを失った記憶で、失ったという感慨だけが、私という容器の片隅に残留している。

 乗客は私ひとりだけだ。

 両の手の平で覆い尽くせるほどの窓からは、翼さえ見えない。身体の輪郭が闇にぼやけて、境界をつかめない。……キャビンの中は暗く。周囲の構造は、利かない目ではよく見渡せない。

 水の無い水槽のように。飛行機のその空間は、どこまでも気が滅入るくらい、空っぽ、で———

 硝子に映る私の姿は、何か、違う物に見えて。

 だから、ずっと。窓の外の空を見続けた。

 

 

 *

 

 

 あなたはだれ。

 あなたはわたし。

 わたし()が死んで、

 あなた(ノゾミ)は生きる。

 そう。だって、この(からだ)は———

 

 

 *

 

 

【12月11日】

 

 

 痛み。

 そして、吐き気と頭痛。

 体の内側が空っぽになった感覚に耐えかね、ゆっくりと目を開ける。

「ここは……」

 知らない部屋。

 そこに在ったのは初めて知るものばかりだった。呼吸も、指先の感覚も、自分の存在も———まるでリセットされたかのように、初めてだ。

 虚無の中に漂っている。現実であるはずなのに、そうだとは信じられない。それは、何か……喪失した感覚のようで。

「っ——のぞみ……?」

 私の時計は、すぐ近くからの知らない声によって、動き出した。

 

 

(ウチ)の玄関の前で……血を流して倒れてた時は、本気で焦ったんだよ? ……傷口は、塞がってるみたいだけど」

 ベッドの脇。丸椅子に座った少女が語りかける。

 目尻を濡らして。顔は仄かに紅潮して、かと思えば安堵したように笑った。

「あの……」

 辺りを見渡す。……木製の家具。柔らかい色の天井。時計が音を刻む。私は困惑して、もういちど少女の顔を眺めた。

「あなたは……」

 誰ですか、と続けようした時。

 ——気のせいか。少女はまた、悲しそうな表情に戻る。凍りついたような。それも一瞬だけで、すぐ状況を理解したように小さくうなずいた。

 私には、その意味が……わからなかった。

「やっぱり……昨日の夜、何かあったんだ。午後も貧血で、医務室で寝なきゃいけないくらいだったんだし……うん。でも大丈夫だよ。心配しないで」

 少女の名前は、長月(ながつき) (かえで)といった。そして私の名前も教えてくれた。

 柚木(ゆずき) (のぞみ)

 それがこの体の名前。

 カーテンから漏れる光が、ちょうど少女の片方に影をつくった。それでも彼女は少しも笑顔を崩さず、私の記憶の手がかりを見つけようと、試みる。

 街。家族。通っていた学校。友人の名前。

 私にまつわる、ほとんど全ての情報を挙げられて……引っかかるものは一つとして無い。

 ほんの数分前に、私が始まったように。何もかも、記憶が無記名で空白。

「きっとショックだったんだよ。あたしは、望の記憶が戻るって信じてるから」

 震える声で、私を見つめる瞳。

 その奥には初めて知る、誰か()の姿が映っていた。

 

「もう少し、眠る? 体が痛かったら教えてね」

 お粥で朝食とも昼食ともいえる食事を済ませて、私は起き上がれるくらいに恢復した。

 食事を作ったのは、もちろんのこと目覚めた時から付きっきりの少女だ。

「ううん……大丈夫。本当に、どこも痛くはないよ」

 楓は優しかった。何も知らない私に、ほとんど赤の他人のような彼女の存在は、心強かった。……だけどそれでも、私の空白が消える事はない。

「それじゃあさ、」

 まっすぐで、大きな瞳が向けられる。その、澄んだ黒水晶のような意志が私に訴える。

「散歩でも、しに行こうよ。たとえば、そう——あたしたちの思い出の場所に。そうすれば、思い出せる……かもしれないから」

 

 

 *

 

 

 午後一時に私たちは出発した。

 ……この街は広い。長い時間を地下鉄に揺られて、そして歩いた。舗装された道。むき出しの砂利道。坂を上って、緑が茂る林を抜けた。

 街の西側の、ずいぶんと遠いところだ。『虹橋』と呼ばれた郊外地区。高いビルのない、ほとんど田舎のような土地。そこには——

 校舎。

 そこには、学校があった。

 

「三年も前だっけなあ。望が転校してきた時のこと」

 校舎の外周をぐるりとひと廻りして、楓は言った。

「望は結構、人見知りでさ。あたし達は席が隣だったよね。その頃からの腐れ縁。結局、中学を卒業して高校に上がってから、望はあんまり遊んでくれなかったけど。あたしは、それで満足だった」

 楓は……語り続ける。それを私は聞いている。その柚木望はきっと私じゃない。私は他人の思い出を聴かされていることになる。けれど楓は本当に、楽しそうに笑いながら話していて。その姿に私も少しだけほころんだ。

「ミキっちもマホカちゃんも、日本に帰ったけど元気みたいだよ。なんだか懐かしいなぁ……」

 風が吹いた。雲が、遠くから流れてくる。冬の弱々しい陽の光は、すぐに灰色の雲の後ろに隠れた。すると瞬時に寒くなって、肌をぞわりとさせる。

「…………」

「そっか……まだ思い出せない、よね。でも大丈夫だよ。……きっと。きっといつか思い出せるって」

 ごめんなさい、と私は言うほかなかった。

 ……こんな、思い出に浸る笑顔を見せつけられて、私はどうすることもできなかった。この身体に入った私という魂が、無に塗りつぶされているだけだった。

「帰ろっか」

 

 

 また地下鉄を、帰りの方向へ下った。

 その途中。ついでだからと降りて、歩く。

「魯迅公園はあたしと望の中間地点なんだ。虹口にあるあたしの家と、望が住んでる外灘(バンド)近くのね。ここで少し休まない?」

「学校は……いいのかな。今日は平日なんだよね。朝から私の、面倒ばかりみてくれて」

「あっはは。学校なんてサボるものだよ! 今日が初めてだけどね。望は友達だからいいんだ」

「そう……」

 辺りはだいぶ、橙色に染まってきた。雲が出ているからよけいに赤い。

 私たちは空いているベンチに並んで座った。

 そこから、大きな池が見渡せる。水面には鴨が泳いでいる。なんて悠長なんだろう。でも眺めていると、どうしてか落ち着いた。

「そういえばさ。あたしもまだ、行ったことない所がたくさんあるんだよ。華の17歳だっていうのに、ぜんぜん遊ばないのは勿体なくない? 今年は遠足で豫園を巡っただけだし。外国書の本屋とか、新しくできたアニメショップとか……今度、望と行ってみたいなー」

「……うん。そうだね」

「約束してくれる? 記憶が戻ったら、一緒に行くって」

 その時私は、気づいていたのだろうか。楓を染めたのは、夕暮れの紅か、それとも。

「いいよ。約束、する」

 段々と薄暗くなって、表情もよく見えない。最初から人がまばらだった公園は、私と楓の貸切状態だ。でも彼女が、嬉しそうに笑っていることだけは判った。暗い空に一瞬だけ、雲間からオレンジ色が覗いたから。その笑顔は、初めて知るのに———なによりもまぶしくて。朗らかだった。

 

 ……辺りは静かだ。このまま、ずっとここにいたい気持ちになってしまう。

 楓との距離は近い。直に体温を感じられそうなほどだ。指先をつつかれたような感触のあと、手と手が触れ合う。……鼓動が速く。見入るように楓は、私に顔を近づけて。

「………き」

 のぞみのことが、と。

 聞こえたような気がして。

 薄く開かれた小さな唇が、触れそうになり……

 

 

 それは。急速に暗転する周囲によって、阻まれた。

 

 

 *

 

 

 夜は訪れた。

 夜が来てしまった。

 夜になれば決まってそれは戦いと、暗雲のような異端たちの跋扈する地獄である。

 暗くなった公園。

 静まり返った公園。

 そこはすでに、街の人間を狙う———『魔』の足が及んでいた。

 

 

 *

 

 

【12月10日 襲撃後】

 

 

 現界後、何かが欠けていることに気づいた。

 視界はある。

 意識はある。

 感触がある。

 自我がある。

 だが足りないものは、肉体にあった。

「ご———が———ッ」

 この(れいき)は穴だらけだ。不完全な召喚だった。

 (あるじ)たる少女は心肺を貫かれたまま生存した。

 血統に植えられた呪詛が彼女を生存させた。

 刻印は右手の甲に。

 薄く烙印のような傷跡が刻まれた。

 ……だがその生命活動すら不完全で、魔力源が不安定だ。

 移動させねば。

 存続させねば。

「我に——ちカラ、ヲ……」

 我に力を分け与え給え。

 そう、自らの奥に棲む()()(ねが)う。

 これが代償か。

 馴染んでしまった魂魄が腕を脚を作動させる。

 既に少女を抱えたまま公寓(マンション)を飛び出し、携帯電話に記録されていた地址(アドレス)へ急ぐ。

 ……魔都の通りは異形と邪教徒の巣窟だ。

 それらを避けながら、ある家の前へ到達する。

「貌を……、繕わナケれば————」

 濁った月を見上げて睨む。

 恨んだのは神かこの世の輪廻か。

「———否——オレハ、アノ業ノタメニ———」

 だからこのような姿に成り果てたのか。

 ……歪な聖杯。

 そのカタチを暗く細い(あな)で垣間見た。

 これは正当な戦いではない。

 正しい闘争ではない。

 ならば、自らが喚ばれたのは———それを抑止せんが為か。

「タダ、求道アルノミ—————」

 それが目的だろう。願望だろう。

 行うべき業は、ここに於いて唯一つに決定した。

「聖杯ヲ———喰ラウ」

 

 

 *

 

 

【12月11日 宵】

【魯迅公園】

 

 

 ……寒気がする。

 辺りは静かなのに、騒がしい。

「何か……おかしくない?」

 楓が我に返ったように離れる。手を引き戻す。

 池にも緑にも生気はない。まるで、吸い取られている。

「——そろそろ帰らないと」

 お互い顔を見ずに、公園の出口をめざす。

 ザザ——と木々が不吉な雑音を奏でる。

「夜は怖い?」

 私は答えない。

 いや、()()()()()()

 なぜなら。

 なぜなら———すぐ後ろに。

「逃げてっ……!」

 叫んだと同時、茂みから黒い物体が飛び出る。

「きゃ——⁉︎」

 それは生物ではない。黒く淀んだ、ヒトの形をした化け物。

 目と思わしき白い穴がイカれている。口からは醜くよだれが垂れ、まるで……腹を空かせたケダモノ。

 だがそれを怪物と言うにはあまりに輪郭が整いすぎている。ぼろぼろに破れた服を着込み、しかしその躯体は黒色の霧に包まれる。

 ギョロッ——

 白い眼球が禍々しい蛍光を放ち、その中央に黒点が宿る。

 こちらを見ている。

 私の鼓動は止まりそうになり、体を思うように動かせない。

「何してんの、望…………っ!!」

 楓が腕を掴んで引っ張ろうとする。だが私はそれを、振りほどいてしまった。

 いつの間にか、化け物は一体ではなくなった。

 ……蜂の影のように集まる。ざっと目視しただけでも六つ。

 ヒト型の異形。

 そうとしか形容できないモノたちを前に、私の目は釘付けられる。

 醜いのに。

 汚いのに。

 だけどそれはどこか———親近感にも似た、

 

 ()()

 

「望……しっかりしてよ、ねぇってば!!」

 変わってしまったものたち。

 変えられてしまった者たち。

 衝動が引火する。

 何か、体の奥から———湧き上がる破壊欲求。

「…………アァ、うッ……」

 異形が迫る。背後では楓が叫んでいる。

 ……瞼を閉じて、また開いた。

 六体の頭部には———視える。人間の()()()が。

 そして、私の世界は狂い出した。

 

 

 /

 

 

 六つのヒト型が蜘蛛のように這いながら二人の少女に近づいた。

 一人は怯えて足がすくんだ。

 一人は髪を掻き毟り金切り声をあげる。

 ……周囲に魔力が撒き散らされる。六つのうち一つが飛びかかり———動けない少女の腹部を貫く。

 夥しいまでの血が空中を舞う。そうして地面に打ち付けられた音が響き、倒れたのは——怪物の方だった。

 

 そこで覚醒は済んだ。

 後に残されたのは一方的な蹂躙である。

 捕食されながらも少女の傷口は瞬時に癒え、代わりに怪物が絶命した。

 少女の眼には怪物の〝骨格〟が視える。それを片っ端から折って折って折って、「消滅」させていく。

 見事なまでの早業だ。行使する少女自身すら、この顛末を認識し得まい。

 手で触れずとも向こうから襲い掛かり、鋭利に変化した爪を少女の皮膚に食い込ませた瞬間に———事は済んでいる。

 その傍で。ただ恐怖と驚愕に打ちひしがれた観客()が、蹂躙者(ノゾミ)の破壊を目撃する。

 昨日までと、今日この瞬間の。

 友人だった者の、そうだと思われていなくとも友人と信じ続けた柚木望の、完膚なきまでに逸脱した姿に本能が拒絶して、

 六体目が破裂した時には、気絶していた。

 

 

 /

 

 

 終わった後は、痛みで全身が軋みを上げた。

 目の前で繰り広げられた——自分の体が繰り広げていたのは、凄惨すぎる光景だった。

「っ、あ————」

 見られた。

 楓に……見られてしまった。

 血の海から生臭い腐臭が漂う。化け物たちの臓腑は塵となって虚空に消え、身体中に魔力が満ちる感覚をおぼえる。……数秒前の興奮が、やっと手の中でリアルに伝わる。

「これは、ちが——」

 違う。こんなの違う。

 そう言い訳したい。私がこんな、バケモノじみたことをするなんて、違う。

 ……衝動が薄れる。また、無で空白な私に戻る。

 言い訳しようと、振り向いた時には、

「——————」

 楓の姿は無かった。

 

 

 *

 

 

「ハア———ハア———」

 夜の歩道を駆ける。

 公園を出ると暗闇が晴れ、街灯の明るさに目が慣れない。

「楓———どこに」

 がむしゃらに、路上の悪臭を放つ水溜りやゴミを避けながら走る。一本、一本と。街灯の影を踏み越えて、人通りの多い十字路に脱出する。

 ……ここはどこだろう。でもそんな事は構っていられない。

 一刻でも早く楓を見つけて、見つけて……どうするのだろう。

 自身の歪な衝動に釈明する?

 そもそも自分でもわからない自分の姿を、楓の口から告げてもらう?

 ———そんなのは、恐い。

 嫌われるのが恐い。

 拒まれるのが恐い。

 だから歩調が緩慢に、歩幅が小さくなる。肩から力が抜けて、言いようのない絶望感に吐きそうになる。……遠くの灯りが、霞んで網膜に染み付く。

「私は、どうすれば」

 やがて止まった。行き場所を見失った。楓——かえで。私から離れてしまった彼女を想う。しゃがみ込んで、通行人の視線を受けながら俯くしかなくなる。もう、私には残されたものなんてひとつもない——そんな事を、考えていた時。

 

 ……い、た。

 楓の姿が、二つの交差点の先に。しかしその横には、屈強そうな黒服の男たち。

 ——眠らされている。

 通行人が誰も目に留めないのか。腕をだらりとぶら下げた楓が、三人の男によって堂々と大型の自動車に乗せられる最中で、

 それと同時に、左の方からバスがやってくる。目の前には丁度、電光掲示板付きの停留所がある。

 これに乗るしか……そうしなければ、あの、既にエンジンの掛かった自動車には追いつけない!

「迷うな……ぜったいにッ!」

 頰を叩いて立ち上がる。

 ドアが閉まる直前———私はバスに飛び乗った。

 大きく前後に揺れながらバスは発進する。その前方、数台の車を挟んだ先に目標の自動車が見える。

 おおよそ同じ距離を保って……しかし、それも束の間だった。

 自動車は。まるで闇にかき消されたように、突如として消えた。

「う、そ————」

 目を凝らす。数台の車両の間に生じた空間。街灯に黄色く照らされ……道路に映されたのは、自動車の()

 原理はわからないけど……とにかく追うならこの影だ。

 予想はしていたものの、やはり自動車の影は次の交差点で左へ曲がり———

 そのすぐ近くには停留所。バスが、減速しながら停まる。

 私は前方から踵を返して後方の降車ドアへ向かおうとして——代金も払わずに——けど先に降りる乗客にぶつかって転倒する。

 背中から衝突し、一瞬だが激しい痛みにむせ返る。再び起き上がろうとした時には、

 既に扉が、警告音と共に閉まっている。

「まずい……!」

 急いで運転手の方へ。すぐにバスを停めてください——と。伝えようとしたが、

「 あ  ————」

 出て、こない。

 喉元で息が止まって、みっともなく呻き声を詰まらせる。それもそのはずだった。……ここは、私の知らない街。言葉も通じない街。私が何かを言おうと、私と同じ言語を話す誰かがいなければ会話すら不可能なのだ。

 乗客の奇異な視線が痛い。近くに座る中年のおばさんが何やら喋っている。その声は次第に怒鳴り声に変わる。次の停留所で降りろ、との事なのか。……この街は全然、優しくない。理解できない言葉がよけいに思考をかき乱す。バスがようやく停まって降りる頃、私にはもう———同じ道を逆戻りして、あの自動車の影を追うことしか、頭になかった。

 

 

 /

 

 

 暗闇に溶ける「彼」には予感がある。

 魔の苗床となった上海。それらを狩る者。監視する者。生み出した者。

 此度の戦いの、遥か以前より定められた筋書き。その状況から己を喚んだ存在も、また知らずのうちに関係した者だ。

「———グルゥ——」

 既に仮初めの生を受けて、一日。

 この魔都の夜に時間の区別はない。ただ聖杯戦争が進行すれば明ける夜だ。

 その間。街を彷徨い真相への手掛かりを捜した。……だが成果は乏しい。解った事といえば、街には奇妙な魔力が充満しているという現状だけだ。

 一日も経てば、自身の魔力量にも底が見える。

「……頃合いであろうな」

 であれば。一旦捜査を停止し、召喚者(マスター)と合流するべきなのだが———

「  ————ッ!」

 ——呼び声。

 頭部(のう)の奥へ魔力が流れる。それも膨大な。遠距離跳躍・大質量攻撃などを可能とする絶対命令権による、回帰指令。

 前奏は終了だ。これより始まるのは人と異端の戦い。魔と使い魔の戦争である。魔力が霊基を満たし、鬼気みなぎる全身を薄赤い光が包み込んで、

 一瞬後。戦場に、飛翔した。

 

 

 /

 

 

 数歩走った足が重い。背後でバスの発車音が轟き、遠ざかる。いつの間に人は少ない。車通りも皆無だ。これなら——これなら。公園で一度味わった、鼻先の粘ったい感覚から見つけ出せる……!

 

 広い路を信号さえ無視して渡る。最短距離でなければまた取り逃がす事になるだろう。あと一つ、あと交差点を一つでも渡れば見つかるはずだと信じて走る。湧き出した汗が冬の冷気に触れて凍りそうになる。身体中重苦しいのもそのせいで、だけどきっと気持ちにもとっくに陰りができている。

 それでも、それでも追わないと。吐く息に鼻水が交じっていく。限界なんて見えない。そんなものはない。ただあの校舎で、あの公園で———つい数時間前に楓が語ったことが、脳裡に流れては泣きそうになる。……昨日までの私は。記憶を失う前の私は、ちゃんと向き合っていたのだろうか。自分は一人なのだと自分で自分を辱めて、距離を置いていたのではなかろうか。……それは今だって同じだ。ぜんぜん変わらないんだ。勇気を持てずに、失うことを恐れるばかりで——ちっともなにも、誰か(たにん)のために考えていないじゃないかっ———!

「あぁ………ぁああっ——————!」

 だから苦しいんだ。寂しいんだ。こんなに、あの優しい楓に会いたいのに現実が変わってくれない。傷つけてしまったのではないかと後悔する。でもなにより、離れていくのが連れ去られていくのが不安で不安で———助けなければと、歯を食い潰して前を向く。

 すると。

 また、一つ先の交差点に———見つかった。

 大きな黒塗りの外車。そこからドアが開け放たれ、まるで私が来ることを予測していたように……二人の男がこちらを向く。車の中の一人が、おそらく楓を抱えている。

 もう我慢なんてできない。ただ頭に上った憤りに任せて突進して——、しかし。

「え——」

 男たちの手から光。口にはブツブツと何かを唱える。まずい……これって。私を、始末(ころ)しに来て、

 ———そこで、ふと。自分でも驚くほど自然に、右の手を眼前に掲げた。

 

 手の甲には——初めて気づいた、何かの模様。

 (つるぎ)のような。その周りには……気体が蒸発するように妖しく込み入った、歪な曲線の束。

 ……無意識が訴える。それを使え、誰か(助け)を呼べ、と。

「なら———」

 (それ)を、空高く突き抜けるように振り上げる。

 男たちから目を離さず。光の奥から球のような質量が迫り、時間がコマ送りのように感じられゆっくりと引き伸ばされて流れるなか。

 ありったけの願いと祈りと、誰にも負けない意志を込めて叫ぶ。

「来て———私の———」

 

 

 /

 

 

 暗がりに潜む「彼ら」は遠くから眺めている。

 少女が黒衣の邪教徒に立ち向かう場面。乱入の隙を窺っている。

 閃光の発動を合図とし、男たちの背後を獲る。少女から目を離さず。建物の陰から舞い出て、三十メートル斜め前方を狙う———だが異変がある。

 着地した時には既に遅い。一瞬赤い光が輝いて、その眩しさに視界を奪われそれでも二秒後に目視したがすでに、

 少女と男たちの間には長い()()で閃光を斬り、有り得ぬほど「妖鬼」の気を纏った、

「サーヴァント————」

 

 

 /

 

 

 目の前で何者かが現れた瞬間、それが私の救いなのだと判る。

 流浪の武者のような出で立ち。だけど何かがおかしい。その、よれよれの衣服から伸びる屈強な腕が、腰に付けられた長物を掴み———()()する。

 巻き起こったのは旋風。それとも嵐。黒い霧のような爆発が雷鳴とともに広がり、

「鬼神、招来」

 そう聞こえた、直後。

 剣士——男の姿が()()()。禍々しく鎧にも似た、けどそれにしては蠢く様子が布を思わせる胴体四肢。その上にある面は黒く———眼窩の無い、阿修羅か般若に見紛う形相。到底人のそれとは思えない(ソレ)が握るのは、剣——いいや。腕と同化して爪のように、異形の刃へと変化して——自動車と男たちを寸分違わず無力化(スラッシュ)する。

 ———でもその向こうに。

 紅い服を着た女と、白髪の男。おびただしい魔力の吸入に吐き気を催して、

「…………双刀使いッ………!」

 人間の体に姿を戻した剣士——貌の無い青年が楓を抱きかかえてこちらを振り返る。

「———逃げるぞ!」

 私は青年に背負われ、向こう側の女と白髪(ふたりぐみ)の乱舞が虚しく空を滑ったのを見届けて、

 

 突風に吹かれながら。混沌と化した、無人の交差点を離れた。

 

 

 *

 

 

【長月 楓 宅】

 

 

 交差点に現れた剣士の青年に連れられ、楓の家に到着する。

 リビングに慎ましく置かれた、小さな一人用のソファに寝かせたあと。身体の状態を確認する。……幸い、傷はどこにもない。

 楓は安らかに寝息を立てていて、生きていることに安心する。

 ……けど。それも気休めだ。

 どうか覚めないで欲しいと、思ってしまう。私の胸にはそんな畏れがある。短く強く……チクチクと。後ろめたい気持ちが、砕けた容器から絶え間なく流れるように起こる。

 もう———合わせる顔がない。

 だって知られてしまったから。怖がられてしまったから。変わってしまったんだから。楓の中にいた私はもう、この世の何処にもいないんだから。だから……一緒になんていられない。私から離れなきゃ、いけないんだ。

「……最低だ」

 そんな理由で?

 あの、死ぬかもしれない夜の戦いから、巻き込みたくないからじゃなく?

 自分に怒りを覚える。どこまで私は、空回りなんだろう。嫌気がさして、これからどうすればいいのか、わからない。

「……っ」

 涙を堪えようとして、顔を上げる。……調度品の棚が目に入る。写真。幸せそうな家族の集合写真に、とびっきりの笑顔で笑う幼い楓の姿。

 でもそれは。その横には。

「ぁ————」

 それは……仏壇だった。消えた線香といっしょに、小物と缶入りの食べ物が供えられている。

 ……そこで悟ってしまった。写真の日付は遠く昔。この家には楓以外、誰一人住んでいなくて——思い出の品物だけが、白い壁と天井にせめてもの彩りを与えている。

「なんて、こと」

 楓は、独りだった。

 ずっと前から独りで、孤独に生きている。あの窒息するような空白を抱えて、それも家族と呼ばれる存在に守ってもらえない世界で、それでも無理して笑っていたんだ。

「私は……」

 

 私は、背後に佇む剣士へ振り向いた。

 貌を面に覆われた逞しい体格の男。私の知らないうちに、召喚してしまった英霊(サーヴァント)

「私に———できる事を。教えてください」

 迷いなんてきっと、山ほどあった。握った拳が震えて、堪えていたものが溢れそうになる。真っ白な胸の中に赤い筋が入ったような痛みが、かろうじて私という容れ物を自認させる。

 聖杯戦争。マスター。殺し合い。願望———

 ……奇跡なんて、欲しくはない。それでも私が……この私が虚無に生まれたのは、運命以外の何だっていうんだろう。

「オレとの契約は、既に破る能わず。選択肢は一つしか有り得ん。その凶星から逃れる事も、命運を覆す事もできまい。令呪を棄てる気がないのなら……全てを賭ける、覚悟があるのならば——(こたえ)は自明なり」

 戦わなければならない。

 生き抜かなければならない。

 それが孤独で、報われないものだとしても。

「あなたと、戦います」

 私は、ここにいるのだから。

 

()い。

 我がクラスはセイバー。ノゾミ———汝の剣となろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

/次章へ続く

 



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