戦車大戦-大洗華撃団、出撃せよ!- (遠野木悠)
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第一幕 黒髪の貴公子、大洗女子学園に着任します!
帝国海軍少尉、大神一郎


 

懐かしい匂いがする。

 

つんと鼻につく、それでいて爽やかな──潮風が運んでくる海の匂いだ。つい先日まで籍を置いていた江田島の士官学校では寝ても覚めてもこの匂いが付きまとい、うんざりすることもあったが、それでも海軍軍人の自分にとって特別馴染みのあるものだと断言できる。

 

しかし、どうして俺はそれを懐かしいと感じたのだろう。

 

その理由を探そうとしたところ、ふいに身体が揺さぶられて意識が浮上した。長旅の疲れもあって、つい眠ってしまったらしい。そろそろ上野駅に着く頃だろうか。配属先の上官に失礼があってはならない。俺は頭を振って眠気を飛ばす。そして列車を降りようと立ち上がり、

 

「……海?」

 

目の前の景色に対し、何の捻りもない感想を漏らした。

 

おかしいな。俺は賢人機関の花小路伯爵より、帝国華撃団なる組織の隊長就任の命を受け、機関車で上野駅へ向かっていたはずだ。しかし現実はどうだろう。眼前の柵から身を乗り出してみれば、ずいぶんと下の方に海が広がっている。波の動きから察するに、動いているのはこちら側だ。そうなると、今俺が立っているのが島や岬ではなく、巨大な船か何かの上だと推測できる。そしてここはその甲板で、椅子の配置などから展望台のような役割を担っているのだろう。それ以外に……わかることはなさそうだ。

 

手元にある情報から自分の置かれた状況を模索し、早々に匙を投げる。さっぱりわからない。まるで公式を知らない問題を解かされている気分だ。

 

敵兵の姿はないし、とりあえず何者かに拉致されてここへ来たわけではないのだろう。もっとも、士官学校を出たての新兵を捕らえる理由などありはしないのだけど、他に思いつかなかったので悪しからず。

 

思考に区切りを付け、今一度椅子に腰を下ろす。懐中時計を確認すると、時刻は14時を回っていた。帝国華撃団からの使者とは、10時に上野公園で待ち合わせの予定だったから、大幅な遅刻である。しかも座標が不明なので、いつ(おか)へ上がれるかわからない。軍人とは時間を破ることが許されない職業だ。自分に非がないとはいえ、ここはとにかく先方へ連絡を入れ、今後の方針を請うことにしよう。

 

未知の場所とはいえ船の上、艦橋まで辿り着ければ誰かいるに違いない。目先の目標を定めたところで再び立ち上がる。鞄を手にし、この場から去ろうとしたところで、微かに人の声が聞こえた。

 

「うーん……どこいっちゃったんだろう」

 

何かの助けになるかも知れないと思い声の方へ向かうと、遊歩道の脇に植えられた芝生を掻き分けるようにしゃがみ込む茶髪の少女を見つけた。見たことのない服を着ているし、ともすれば外国人だろうか。

 

「何か困っているようだね」

 

日本語が通じるか不安だったが、放っておくこともできなかったので声を掛ける。これで駄目なら士官学校で習った英語を使うしかないと思いながら反応を待つ。

 

よほど集中していたのだろう、俺の声を聞いた途端に少女はびくりと身を震わせた。恐る恐るといった様子でこちらへ振り返る。そして俺の顔を見て──信じられないものを見たとでも言いたげに絶句した。

 

「俺の顔に何か?」

 

「あ、いえ、その……なんでもありません」

 

少女は控えめに首を振る。いかにも隠し事をしていそうだが、しかし無用な詮索はすべきではない。それより声を掛けた理由を説明しなければ、わけもなく女性に話し掛ける軟派者だと勘違いされてしまう。

 

「ところで君はここで何をしていたんだい? 見たところ探し物をしていたようだけど」

 

「えっと……」

 

彼女は視線を泳がせたのち、小さく息をついた。

 

「この辺りで家の鍵を落としてしまって」

 

「それは大変だ。もし良ければ俺も探すのを手伝うよ」

 

「そ、そんな、悪いですよ」

 

「遠慮はいらないさ。こう見えても俺は帝国軍人だからね、困っている人を放ってはおけない性質(たち)なんだ」

 

「帝国軍人……」と呟き、少女はこちらに目を向けた。あまりに真剣な眼差しに、女性に縁のない生活を送ってきた俺は緊張してしまうが、それを悟られては格好が付かないので必死に表情を繕う。

 

やがて、彼女はふにゃりと頰を緩めて頷いた。

 

「それじゃあ、すみませんがお願いできますか」

 

「ああ。任せてくれ」

 

俺は軍服を脱ぎ、簡単に畳んで鞄の上に置く。それから服の袖をまくり、彼女に倣って近くの茂みを調べてみることにした。

 

失くした直前の行動を踏襲し、少しずつ範囲を変えながら探すこと四半刻、遊歩道から死角になっているところで鍵を発見する。

 

「探し物が見つかって良かったね」

 

「はい! これで大家さんに怒られずに済みます。ありがとうございます」

 

「ははは、今度から気を付けるんだよ」

 

言って、俺は軍服に袖を通す。目の前の仕事につい夢中になってしまったが、こちらにもやるべきことがあるのを忘れてはいけない。少なくはない時間を使ってしまったことだし、早く目的地へ行かねば。

 

「──あ、あのっ!」

 

別れの挨拶を口にするのに先んじて、少女が声を上げる。

 

「何かお礼をさせてください」

 

「人として当然のことをしただけだから、気にすることはないさ」

 

「いいえ。受けた恩は必ず返しなさい、って教わりましたから」

 

今までの不安そうな雰囲気は霧散し、逆に彼女の表情からは不退転の決意が感じられた。先ほど俺も似たようなことをした手前、断りにくいというのが本音である。

 

「立派な考えをしたご両親をお持ちのようだね」

 

〝ご両親〟という単語に彼女は過敏に反応し、俺の視線から逃れるように俯いてしまう。もしかして、触れてはいけない部分だったか? いずれにせよ、これ以上踏み込むことは避けて然るべきだ。

 

「君に頼みたいことがあるんだけど、聞いて貰えるかな」

 

俺の言葉を受け、少女は顔を持ち上げる。どうも本調子とはいかないみたいだが、それでも頰の強張りが幾らか和らいでいた。

 

「実は俺、本当は上野へ行くはずだったんだけど、気付いたらこの船の上にいてさ。とりあえず、ここがどこなのか教えて欲しい」

 

「ええっ? 上野って、東京の上野ですよね」

 

「ああ。その上野だよ」

 

少女は眉をひそめ、かわいらしく唸ってみせた。

 

「まずここは、茨城の大洗港を母港とする大洗女子学園の学園艦です」

 

「学園艦?」

 

鸚鵡返しに尋ねる俺に首肯を返し、彼女は続ける。

 

「わたしも詳しい座標はわかりませんが、次の寄港は明後日のはずですし、少なくともそれまでは陸には上がれないと思います」

 

「いいっ!? それじゃあ、今日中に上野へ行くのは……」

 

少女は顔を背けることで否定を示した。

 

下半身の力が抜け、俺は膝から崩れ落ちる。初日から大遅刻をした挙句に、数日は帝都へ行けないとなれば、これは任官を拒否したとみなされても仕方がない。人のためになる仕事がしたいと軍人を志して十余年、猛勉強の末に士官学校まで出たというのに、これでは軍人として職務を全うする前に首が飛びかねないではないか。

 

「いや、せめて連絡だけでもしておくべきか」

 

まだ除隊になると決まったわけではない。俺の意思でここへ来たわけではないのだから、事情を説明すればきっとわかって貰える。たとえ藁のように細くとも、そこに希望があるなら縋らない手はない。

 

心が折れてしまわぬよう、空元気でもって自らを鼓舞する。

 

「そういえば、まだ名前を聞いていなかったね。俺は大神一郎。帝国海軍の少尉で、本日付で任務に就く予定だ」

 

「大神一郎……やっぱり他人の空似、だよね?」

 

「おや? 俺のことを知っているのかい?」

 

「い、いいえ、別に」

 

音が聞こえそうなほど勢い良く首を振る。彼女の必死さがこちらまで伝わってきたため、俺は追求の手を緩めて受け流すことにした。

 

「あの、西住みほです。大洗女子の、新2年生になる予定です」

 

よし、お互い自己紹介は済んだな。時間が惜しい、彼女も協力的なことだし、早速本題に入ろう。

 

「では西住さん。俺をこの船の責任者のところへ案内してくれないか」

 

 

 



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大洗女子学園

 

学園艦というだけあって、この船は大洗女子学園という高等学校──陸にある高等女学校とはまた違うものであるそうだ──によって運営がなされていると、道すがら西住さんが教えてくれた。なんでも、学園を中心としたひとつの街をそのまま切り取って船に乗せた形になっているのだという。どうりで甲板の先が視認できないくらい遠くにあるわけだ。聞けばこの学園艦には数万の住人がいるらしい。

 

艦内の行政に始まり、食料、住人の給料等は学園の支配下にある。したがって学園の長が、実質的な船の責任者であるという。そういう事情もあって、西住さんは件の大洗女子学園に案内してくれているのだが、

 

「…………」

 

「…………」

 

どうも言葉が続かない。

 

初めこそこちらの質問に応じる形で会話が成立していたのだけど、ある程度情報が集まった後に待っていたのは重苦しい沈黙である。

 

会話の糸口を見つけるために視線を移動させると、ちょうどこちらを仰いでいる西住さんと目が合った。数秒の間を置いて、どちらからともなく顔を背ける。言い忘れていたが、彼女はとても可憐な容姿をしている。したがって、直視するのは至難の業だ。

 

「黙っちゃってごめんなさい。男の人とお話をする機会なんてあまりないから、どんなことを言えば良いのかわからなくて」

 

かくして、西住さんも同じことを考えていたようだ。いや、きっと俺が感じる以上の気まずさを覚えているに違いない。これ以上彼女に負担を掛けるのも忍びないし、年長者としてこちらが一肌脱ぐとしよう。

 

「それより君のことが知りたいな」

 

とりあえず頭に浮かんだ台詞をそのまま口にして、すぐに後悔した。これではただの軟派者である。西住さんも頬を染めて落ち着かない様子だし、誤解されてしまったに違いない。すぐに訂正しよう。

 

「えっと、名前は西住みほで、出身は熊本、血液型はA型、10月23日生まれの天秤座で、ぬいぐるみ集めとコンビニ巡りが趣味です」

 

俺が声を出す前に西住さんが口を開く。どうやら普通に教えてくれるみたいなので、訂正の句は呑み込んでしまっても良さそうだ。

 

「好きな花は桜、好きな食べ物はマカロン、好きな戦車はⅡ号戦車で……」

 

途中耳に馴染みのない言葉が出てきたものの、せっかく自分から話してくれているのに水を差すのは悪いので聞き流す。

 

「それから憧れの人は──」

 

そこまで言って西住さんは口をつぐんだ。瞬く間に顔が真っ赤になり、わたわたと手を動かして動揺を呈す。ひとしきり慌てたところで落ち着いたらしい彼女は、こほんと咳払いをひとつして閑話休題とした。

 

「あ! 見えてきましたよ、あれが大洗女子学園の校舎です」

 

彼女が指差す先にあったのは、この辺りで最も大きな建物であった。なるほどこの船の中心というだけあって立派な趣である。

 

「今は春休み中で授業はありませんが、先生方はいるはずです」

 

「わかった。それなら西住さん、案内はここまでで構わないよ」

 

「え? でも……」

 

「これ以上君に迷惑は掛けられないからね。俺なら大丈夫さ」

 

このように念を押すと、やがて「そう言うのであれば」と消極的な肯定が返ってくる。これだけして貰ったのに、まだ恩を返しきれずにいると考えているようだ。西住さんは可憐なだけでなく、優しい心を持ち合わせているらしい。

 

「ありがとう。本当に助かったよ、西住さん」

 

「いいえ。こちらこそ、いろいろとお世話になりました」

 

互いに軽く頭を下げる。

 

「あのっ、大神さん!」

 

(きびす)を返し、大洗女子学園の校舎を目指して歩き出そうとしたところ、背後から呼び止められた。そういえば初めて名前を呼んでくれたな、なんて思いながら振り返る。

 

彼女自身無意識に飛び出た言葉だったのだろう、西住さんはつい先ほどと同じように慌てふためいていた。

 

「あ、えっと……早く東京に戻れると良いですね」

 

「ありがとう。もしまた会うことがあれば、そのときはよろしく頼むよ」

 

これを最後の挨拶とし、今度こそ目的地へ向かう。

 

学園艦の中枢を担う機関というだけあって、建物周辺の警備が徹底されているかと思いきや、校門の前には守衛の一人も付いていなかった。変に怪しまれる心配がないとはいえ、学園長に取り次いでくれる人がいないと不安になる。校門は開いているが、このまま進んでも良いのだろうか。少し考え、俺は躊躇いながらも構内へ足を踏み入れる。

 

しかし、これだけ広いと学園長がどこにいるのかわからないな。西住さんは他の教師もいると話していたし、そちらを探す方が効率が良いかも知れない。

 

などと考えているうち、水兵の制服を着た少女がこちらへ歩いてくるのに気付いた。小柄でおかっぱ頭、西住さんより幾らか幼いので教師ではなさそうだが、学園の関係者で間違いないだろう。

 

「そこのあなた、ちょっと止まってください」

 

言われて足を止める。向こうから声を掛けてくれたのなら話が早い、学園長へ取り次いで貰おう。そんな風に考えていたのだが、こちらへやってきた少女は俺が口を開く暇も与えずこう続けた。

 

「あなたは学園関係者ではありませんよね? 外部からのお客様の場合、受付で入校許可証が渡されているはずですが」

 

「ああ、すみません。学園長に用があるんだけど、どういう手順を踏む必要があるのかわからなかったから、校門から入ってきたんだ」

 

俺の言葉を受け、少女の顔が険しくなる。

 

「つまり、正規の手続きを経て中に入ったわけではない、と」

 

「そうなるね。もし良ければ取り次ぎを──」

 

「学園内に変質者入ってきたわ! 総員、確保しなさい!」

 

言い終わるより先に、少女がそう叫ぶ。それに応じて、瞬く間に彼女とよく似たおかっぱ頭の女の子が集まり始めた。

 

「いいっ!? 待ってくれ、俺は別に怪しい人間じゃない!」

 

「言い訳無用! 変質者はみんなそう言うの。弁解は守衛さんに聞いて貰うことね」

 

両腕を拘束される。女の子が相手なので下手な抵抗もできず、俺はされるがままにどこかへ連行されることとなった。

 

このまま変質者として届けられれば、誤解を解くのに時間が掛かってしまうに違いない。それは同時に、上官への連絡が遅れることになる。言い訳が許されないのなら、せめて話のわかる人が守衛なら良いなと、俺は諦め気味に考えた。

 

 

 



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生徒会長

謎のおかっぱ集団に取り押さえられ、渋々守衛の詰所へ向かっていると、廊下の最奥の横道から小柄な老人が現れた。

 

彼を見て、みなが足を止める。左右の腕を押さえられている俺もまた然りだ。

 

「おうおう。ずいぶんと大所帯じゃねえか、園」

 

「はい、実は先ほど変質者を捕まえまして」

 

「……そいつは穏やかじゃねえな」

 

老人は、今までにこやかだった目を刃物のように鋭くする。士官学校の教官で慣れている俺でさえ、思わず息を呑むほど迫力があった。

 

「それで、お前さんたちが捕まえているのがその変質者ってわけか」

 

老人はおもむろに顔を持ち上げる。激情に震える声は、彼が本当に生徒を大切に想っていることの証左だ。初対面の俺でさえわかるほど強い怒りを抱いているのだ、ひょっとしたら弁明の前に1発は殴られるかも知れない。俺は、ある種諦めにも似た覚悟を決める。

 

結論だけ言えば、彼は何もしてこなかった。それどころか、俺を視認した途端に、まるで魂でも抜けてしまったような表情を作る。

 

「あの?」

 

先頭に立つ少女、園さんに呼ばれて老人ははっと我に帰る。それから用意しておいたような笑みを浮かべて「なんでもねえよ」と言った。

 

「それで学園長、この人の扱いについてなんですが」

 

彼女は老人に俺の処遇を仰ぐ。あれ、ちょっと待て。今、学園長って言ったよな。

 

「貴殿が大洗女子の学園長殿ですか? 俺は帝国海軍の大神一郎と申します。このような姿で恐縮ですが、貴殿にぜひ聞いていただきたいことが──」

 

「こら、無駄口を叩かないの!」

 

園さんに口を塞がれ、言葉が途切れた。

 

「ああ、園。すまんが彼を放してやってはくれないか。入校許可証はねえみてえだが、これでも学園のお客人なんだよ」

 

思わぬところからの援護に、内心で戸惑いが隠せない。また、そう言われて驚くのは園さんたちも同じで、素早く俺を解放したかと思えば、みな一様に気まずそうな顔を作る。特に園さんは顔を青くして、俺への行動に対する後悔をにじませていた。

 

「その……お客様とは知らず、大変な失礼をしてしまって、どうお詫びをしたら良いのか」

 

「いや、入校許可証を付けていなかった俺にも責任があるし、気にしなくて良いよ」

 

「で、でも」

 

「まあまあ、今回は喧嘩両成敗で良いじゃねえか。なあ、お客人もそれで構わねえだろう?」

 

こればかりは相手を責めても仕方がない。俺は同意を呈する。

 

「それとお前さんの用事なんだが、俺はこれからやることがあってよ、すぐには対応してやれねえんだ。代わりに何とかしてくれそうな奴に取り次いでやるから、それで勘弁してくれないか」

 

「そうですね……」

 

できれば学園長と話がしたいが、あいにくこちらには時間がない。少し考えた末、この申し出を受けることにした。

 

「助かるよ。あんた、話がわかるぜ」

 

言って、彼は園さんに目を向ける。

 

「角谷なら事情がわかるはずだ、お客人を生徒会長室に連れて行ってやってくれ。それから、入校許可証も忘れずに渡してやるように」

 

「了解」

 

園さんは敬礼をした。うむ、と応じたのち学園長はこの場を去る。

 

それを見届けたのち、園さんはおかっぱ集団に解散を命じる。2人になったところで、彼女は懐から入校許可証を取り出し、俺に手渡した。

 

「改めまして、大洗女子学園風紀委員長の園みどり子です。先ほどは本当に失礼しました。その罪滅ぼしとしては簡単かも知れませんが、わたしが責任をもってあなたを生徒長会室までお送りいたします」

 

 

 

 

 

こちらに対して思うところがあるのだろう、園さんは終始無言で俺の前を歩いていた。西住さんのときとは違い、彼女には気持ちを整理する時間が必要だろう。そう考えた俺は、無理に話を振ることもせずにその背中を追う。そのまま階段を上り、廊下を伝って別の階段を上り、辿り着いたのは学園の最上階、その最奥の部屋であった。

 

園さんは扉を叩き、

 

「すみませーん、会長のお客様をお連れしたんだけど」

 

「はーい、今行きます」

 

ゆったりとした声とともに扉が開けられた。中から現れたのは、園さんと同じ海兵の制服を着た少女である。結い上げた茶色の髪と垂れ目が特徴の、どこか母性を感じさせる子だ。

 

彼女は俺の顔を確認したのち、ぺこりと頭を下げた。

 

「大洗女子学園、生徒副会長の小山柚子と申します」

 

「ああ、これはご丁寧に。自分は大神一郎です」

 

「大神様、ですか」

 

小山さんは頬に指を添えて記憶を手繰り、そして申し訳なさそうに眉をひそめた。

 

「すみません。会長はそのような方とお会いする予定はなかったはずですが」

 

「元は学園長のお客様なのよ」

 

横から園さんが補足を入れる。これで納得したらしく、小山さんは表情を緩めて大きく頷いた。

 

「わかりました。では、会長にお取り次ぎしますね。……園さん、お客様をここまで連れて来てくれてありがとう。あとはわたしがご案内するから、あなたは風紀委員のお仕事に戻って」

 

でも、と呟き、園さんは俺を見る。どうやら先のことをまだ気にしているみたいだ。

 

「手間を掛けさせたね、園さん。もう十分償って貰ったから、俺はさっきのことを忘れる。だから君も忘れて、本来の職務に戻ると良い」

 

ここまで最短で来られたのも彼女のお陰である。本来なら面倒を押し付けたこちらが謝るべきところだし、これ以上この子に負担を掛けさせたくはなかった。

 

俺の言葉が駄目押しになったようで、園さんはひとつ息をつき、初めてこちらへ笑みを見せる。年齢相応の、かわいらしい笑顔だった。

 

「そこまでおっしゃるなら仕方がありません。わたしは仕事に戻ります。……じゃあ小山さん、後は頼んだわよ」

 

一礼をし、園さんは部屋を出る。

 

「あのう、園さんと何かあったんですか?」

 

小山さんの問いに、俺は苦笑混じりに首を振って応える。それで察してくれたのだろう、彼女は柏手を打って話を戻した。

 

「では、すぐに会長の角谷へ取り次ぎますので、わたしの後ろをついて来てくださいね」

 

言葉を切った小山さんは身を翻して歩き出す。案内されたのは、部屋の奥にある観音開きの大きな扉だった。

 

「会長、お客様がお見えです」

 

「お客? あれー……小山、今日ってなんか予定入ってたっけ」

 

「元は学園長のお客様なんですけど、会長が代わりに対応するようにとお達しがあったみたいです」

 

「なるほど……んー、よくわかんないけど、了解。それじゃあお客さん、中に入ってくーださい」

 

中の人の間延びした声に従い、俺は扉を開けた。

 

生徒会長室と銘打たれた部屋は、手前に応接用の机と椅子、脇に仕事で使う設備、中央に執務用の机、そして最奥には学園艦を一望できる窓と、学生が使うものとは思えないほど立派な造りをしていた。

 

執務机の周りには2人の少女がいて、俺が来るまでは何かを話し合っていたらしい。手前に立つ黒髪で背の高い子は、手元の紙面を机に置いてこちらへ怪訝そうな目を向ける。対して、執務椅子に座る二つ結びの小柄な子は、茫然自失とした顔をし、 紙面ではなく黄色い食べ物──干し芋をぽろりと手から落とした。

 

後者の反応に既視感を覚え、俺は喉を鳴らす。

 

「嘘、なんで────がここにいるの?」

 

扉から聞こえた声は、恐らく二つ結びの子のものだろう。けれども今の彼女からは先ほどの飄々とした雰囲気は感じられず、うわ言のような呟きの大半が空気に溶け、ほとんど俺の耳へ届かなかった。

 

「会長、どうなさったのですか」

 

黒髪の子がそう尋ね、彼女の顔を覗き込む。

 

「あっ……ううん、何でもないよ」

 

二つ結びの子は今しがた落とした干し芋を拾い、素早く口へ入れた。

 

「ごめん、かーしま。今の話はまた後でにしよ。それよりお客さんの対応をするから、少しの間下がっててくれる?」

 

「それは構いませんが……会長おひとりでお客様の対応なさるんですか」

 

「そうだねえ。他の人にはまだ秘密のことだからさ、頼むよ」

 

わかりました、と頷いて黒髪の子が部屋から出て行く。去り際にお辞儀をされたので、こちらも同じように頭を下げた。

 

「待たせちゃってごめんなさい。わかっていると思うけど、あたしが生徒会長の角谷杏です。なんかお話があるみたいだし、とりあえずそっちの椅子へ。学園長の代わりにあたしが聞きますんで」

 

角谷さんに促され、応接用の椅子に腰を下ろす。彼女は俺の対面に座り、持っていた干し芋の袋をこちらへ向けた。

 

「良かったらおひとつどーぞ」

 

分けてくれるらしい。目が覚めてからというもの、絶えず動いていたせいで小腹が空いていることだし、せっかくだからいただくとしよう。

 

貰った干し芋を齧ってみると、深く凝縮された甘みが口いっぱいに広がった。

 

「……ほう、これは美味いな」

 

「でしょー? 干し芋はね、大洗の名産なんですよ」

 

言って、自らも干し芋を取り出そうとする。すんでのところで手を止めた彼女は、いけないいけないと首を振ったのち、机に袋を置いた。

 

「それで、大神一郎さん。話って何でしたっけ?」

 

「おや、どうして俺の名前を知っているんだい」

 

「そりゃあ、あたしが昔見た写真と全然姿が変わってないですもん。別人だって言われたら逆に困っちゃいますって……まあ、どうしてあなたがここにいるのか全然わかんないから、別の意味で困っているんですけど」

 

後半は急に声が小さくなって聞き取れなかったが、なるほど写真か。

 

最近撮ったのは士官学校の卒業写真である。それ以前だと、たぶん進学する前、栃木の生家で姉や甥の新次郎と一緒に撮ったものがあったはずである。新次郎もちょうどこの子くらいの歳だし、もしかしたらあいつの友達だろうか。

 

「もしかして、君は新次郎の知り合いかい」

 

「知り合い、ねえ……まあ、そうなるのかな」

 

「最近会えていないんだけど、あいつは元気にしているかな」

 

同郷らしきことがわかり、つい気持ちが乗ってしまう。一方で、角谷さんはどこか悲しげな表情をしていた。

 

「あー、うん。元気だった、と思いますよ」

 

「だったと過去形にするってことは、もう長く会っていないのかい」

 

「というより、直接会ったことはないんです。……あたしが生まれる前に死んじゃったから」

 

「新次郎が死んだ!?」

 

彼女の口から告げられた言葉に、思わず身体が持ち上がった。俺を慕ってくれる甥が死んだと言われて、平静を保てるはずがない。

 

「そんな馬鹿な、だってこの前も俺に手紙をくれて、」

 

「あの人はずいぶんと長生きで、あたしの顔を見るまで生きるぞーって言っていたらしいけど、産まれる少し前に倒れて、そのまま……老衰だったそうです」

 

「老衰とは言うが、あいつは君とそう変わらない歳のはずだろう!」

 

至極当たり前のことを言ったはずなのに、角谷さんはその顔に困惑の色を浮かべる。鳩が豆鉄砲を食ったようだ、と形容すればわかりやすいだろうか。

 

「なるほど、記憶がないんだ。そうなると、今の姿は若返ったんじゃなくて、若かった頃の……」

 

「なあ、角谷さん。もっと詳しく話して──」

 

「角谷さん、なんてよそよそしい呼び方はやめてくださいよ。詳しいことはわかんないけど、たぶんあたしたちって血繋がってると思うし。だから杏って呼んで。ね、〝一郎叔父〟?」

 

「なっ、それは新次郎の……どうして君が」

 

「混乱しているみたいだし、改めて自己紹介するね」

 

話がまったく見えない俺を尻目に、彼女は不敵な笑みを浮かべて立ち上がった。そしてこちらへ手を差し出し、

 

「あたしの名前は角谷杏。お母さんの旧姓は大河で、新次郎はあたしの曽祖父なんだ。あなたのことは、その息子のじーちゃんからよく聞いているよ。よろしくね、一郎叔父」

 

 

 



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一郎叔父


私事ではありますが、先日拙著への感想をいただきました。
こういう形で投稿するのは初めてなので、自分の文章を読んで貰えていることがわかって嬉しく思います。お気に入り、しおりの登録をしてくれた方々もありがとうございます。それらを励みに、粉骨砕身の思いで完結を目指す所存です。




 

新次郎は自分の曽祖父である──目の前の少女はそう言った。

 

未成年の甥にひ孫がいるなんて、普通に考えればおかしな話である。しかしながら、この子は名乗る前から俺のことを知っている様子だったし、また初対面の相手にこれだけ手の込んだ嘘をつく理由もない。少なくとも、思考停止で否定するのは間違っているように思う。

 

けれども、手放しで信じるのも土台無理な話だ。

 

そんなこちらの事情が透けて見えたのだろう。彼女は「困らせるようなことを言ってごめんね」と苦笑いを浮かべた。

 

「ところで、一郎叔父は今日の日付ってわかる?」

 

「それはわかるけど、いきなりどうしたんだい、角谷さ──」

 

「もう、さっき『杏』って呼んでって言ったでしょう?」

 

彼女は俺の言葉を遮り、拗ねたような声でこちらを(たしな)める。

 

「あ、ああ、すまない。杏、で良いのかな」

 

「よろしい。……それで、今日の日付なんだけど」

 

杏の問いに、俺は忘れもしない着任の日を伝える。

 

彼女は目を見開いて驚きを示すが、先ほどのように取り乱すことはせず、「それを証明できるものを見せて」と言った。その顔があまりに真剣だったので、俺は手持ちの物で最も信頼できるであろう、任官の通達書を渡す。それに目を通した彼女は、長い沈黙ののちゆっくりと息を吐いて、ある未来の日付を口にした。

 

「あたしの記憶が正しければ、今のが今日の日付だよ」

 

「……何だって?」

 

その日付は、上野行きの列車の中で眠りに就く前、最後に時計を確認した日から100年以上が経過したものであった。あまりのことに狼狽える俺に、彼女は手のひらほどの板を見せる。指で触るよう促され、おっかなびっくり従うと、蒸気機関もないのに杏、小山さん、黒髪の子の3人の写真が突如現れる。そして同じ画面には、今しがた杏が言った日付がそっくり表示されていて──未知の技術と併せ、俺の中の否定しようとする思いがどんどんしぼんでいくのがわかった。

 

「……なあ、杏。帝国華撃団は、この時代にも残っているのかい」

 

最初は深い霧の中にあった状況も、話を聞くにつれてその輪郭がぼんやりと窺えるようになってきた。そのため、この問いに対する答えも何となく想像がつく。本音を言うと確認するのは怖いが、ここで逃げては一生前を向く機会がなくなってしまうような気がした。

 

だから、この質問はある種「どんな現実からも目を背けないぞ」という俺の覚悟の表れだと考えて構わない。

 

「残念だけど、帝国華撃団はもうずっと昔になくなっちゃったよ」

 

低い声で杏は言う。下手な夢を見させまいとする容赦のない一刀両断は、この場においては同情よりずっと心に響く優しさであった。

 

「それからね、もっと言いづらいことなんだけど」

 

「俺は大丈夫だから、きちんと真実を話してくれ」

 

杏は逡巡(しゅんじゅん)しつつも頷き、そしてゆっくりと口を開く。

 

「大日本帝国軍は……今から半世紀以上前に戦争で負けて、その責任を取る形で解体されたから、もう存在しないんだ」

 

「……ああ、そんな気はしていたよ」

 

考えてもみれば、艦の上に街を築くなんて発想は、そこに兵器を乗せる必要がないくらい平和でなければ浮かびはしない。きっとここに住む人の大半は戦争を経験したことがなくて、またそれを経験せずとも豊かな暮らしができるくらい、この100年で国力が上がったのだろう。

 

それはまさに、俺たち軍人が抱く理想の未来であった。

 

御国が敗戦し、軍が解体された末に平和が訪れるというのも皮肉な話であるが、しかし結果として我々は本懐を遂げたことになる。だから絶望する必要などない──そう自分に言い聞かせる。

 

「一郎叔父、大丈夫? 顔、青くなってる」

 

「……帝国軍人として、人の役に立つような仕事がしたかった。それが叶わないと知った今、生きる意味を失ったというのは言い過ぎだけど、人生の目標がなくなってしまったことは否定できない」

 

遠縁の親戚──今さら彼女を疑っても仕方がないので、ある程度の情報は鵜呑みにしていこうと思う──とはいえ、歳下の女の子に弱みを見せるなんて紳士としてあるまじき行為であるが、誰かに気を遣えるほど気持ちの余裕がなかった。

 

まるで心の真ん中に穴が開いてしまったような感覚である。

 

「……太正に戻る方法はないのだろうか」

 

「ごめんね。同じような例は聞いたことがないから、あたしにもわかんないよ」

 

言葉が途切れる。息苦しさを覚えるほど空気が重たい。

 

「あのさ。一郎叔父は、人のためになることがしたくて軍人になったんでしょう?」

 

いつの間にか下を向いていた顔が自然と持ち上がる。杏と目が合った。

 

「それって、軍人じゃなきゃ駄目なのかな。この100年で世界はいろいろ変わったから、人の役に立つ仕事なんて幾らでもある。その中にはきっと、一郎叔父にとってやり甲斐のあるものが必ずあるはずだよ」

 

杏は身を乗り出し、言葉を連ねる。

 

「たとえば学校の先生なんてどうかな。この学校先生足りないし、今は教員免許がなくても何とかなる制度があるから、きっと──」

 

「励ましてくれてありがとう。だけどすまない、今は先のことを考える余裕がないんだ。もう少しだけ、気持ちの整理をさせて欲しい」

 

「……わかった。じゃあ、気分転換に海でも眺めて来たらどう?」

 

「ああ、そうしようかな」

 

「帰り道はわかる? 不安なら正門まで案内させるけど」

 

「いや、大丈夫だ。1人で平気だよ」

 

杏は無理をして作っているのがわかる、引き()った笑みを見せた。

 

「あと2時間くらいであたしも帰れると思うから、後でまた正門まで来てくれる? 一郎叔父、この時代じゃ住むところもないだろうし、とりあえずあたしの家においでよ」

 

「……どうして君はそこまでしてくれるんだい?」

 

俺は思わずそう尋ねた。いくら血の繋がりがあっても、親等は離れているし、ましてや俺たちは初対面である。親戚とは名ばかりの、赤の他人と言っても過言ではない。普通なら助ける義理などないはずだ。

 

「さっきも言ったけど、あたしのじーちゃんって一郎叔父と面識があってさ、小さい頃からずっとあなたのことを聞かされて育ったんだ。そのせいもあって、あたしは一郎叔父を心から尊敬しているの。憧れの人って言っても良いよ。……そんな人が目の前で困っているのに、何もしないなんてできない。他の誰でもない、あなただから力になりたいって思ったんだ」

 

かくも世界から冷たくされ、心が折れかけていた俺にとって、杏の言葉はさながら太陽のようにあたたかく感じられた。自然と目頭が熱くなる。しかし、涙だけは見せまいと必死にこらえた。

 

「ありがとう。では、お言葉に甘えることにするよ。今から2時間後というと……16時くらいにここへ戻れば良いかい」

 

「そうだね。それまでに気持ちの整理がつけば良いけれど」

 

「やるだけのことはやるつもりさ。だから君も、残りの仕事を頑張っておくれよ」

 

「うん。あたしも頑張るね」

 

最後の最後、これまで繕ってばかりだった杏の顔が緩んだ。

 

 

 

 

 

大洗女子の正門を抜けた俺は、杏の助言に従って海を見に行くことにした。とはいえこの辺りの土地勘はないし、新たな道を開拓する気力もないので、とりあえず西住さんと出会ったあの展望台を目指す。

 

目を覚ましたときに座っていた椅子に腰を下ろし、杏との会話を思い返す。最初の四半刻であれこれ思案し、何も建設的な意見が見つからなかったため、いっそ俺は開き直って頭の回転を止めた。波の音を聞き、遠くに見える海を眺めながら深呼吸をする。そのうち身体を取り巻く焦燥感が薄れていくのがわかった。海を見て心が落ち着くなんて我ながら単純だと思うが、悲観的な感情に支配されて追い詰められるよりはずっと健全な精神の在り方だと自賛しておこう。ともかく、先のことはわからないが、だいぶ気持ちの整理がついた。

 

頃合いの良いところで椅子を立ち、大洗女子学園へ向けて歩き出す。また怪しまれてはいけないので、正門から少し離れたところで待っていると、16時を少し回った辺りで杏と小山さん、黒髪の子の3人がこちらへ歩いて来るのが見えた。

 

杏はきょろきょろと周囲を見渡し、俺を見つけると笑顔を作って手を振った。こちらも手を振り返して合流する。

 

「その顔を見ると少しは楽になったみたいだね、安心したよ」

 

「君には心配を掛けさせたね。ありがとう、杏」

 

お礼を言うと、杏は頬を掻きながら「どういたしまして」と返した。

 

「……えっと、あなたは先ほどのお客様ですよね」

 

脇から小山さんが声を出す。それを受け、杏は俺の手を取って自らの隣に引き寄せた。

 

「この人、歳は近いけどあたしの叔父さんでさ。いろいろあってあたしの様子を見に来てくれたんだよ。ねえ、一郎叔父?」

 

話を合わせろと目配せされたので、こちらも自然な風を装って頷く。

 

「いつも姪と仲良くしてくれてありがとう。改めまして、杏の叔父の大神一郎です」

 

「いいえ。わたしの方こそ会長にはお世話になってます。小山柚子です」

 

「同じく、河嶋桃です。先ほどは挨拶を忘れて申し訳ありません」

 

「気にしないでくれ。小山さんと、それから河嶋さんだね。こちらこそよろしく頼むよ」

 

握手でもしておこうかと思ったところで、反対の手を杏に引っ張られる。ぼろが出る前に2人と別れよう──彼女の目はそう語っていた。

 

「それじゃあ小山、かーしま。あたしたち、買い物があるから先に失礼するね」

 

追求される前に早足で正門を後にし、2人が見えなくなったところで歩調を緩める。手を離した杏は、その場で身を翻してこちらを仰いだ。

 

「買い物っていうのは方便だったけと、せっかくだから一郎叔父の服でも買いに行こっか。いつまでも軍服じゃ暑くて大変でしょう?」

 

口には出さない意図を感じ、つくづく優しい子だなと俺は考える。貸し借りがどうとか言うのは憚られるが、今後この子が困っていたらできるだけ力になろうと、このとき決意した。

 

 

 



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過去の自分が歩んだ未来

章タイトルを変更しました。個人的にはこっちの方がしっくりくる気がする。


今度の寄港で陸に上がったら、ぜひ会って欲しい人がいると杏は言った。その人物もまた俺のことを知っているらしく、これからの方針を定める上で必ず力になってくれるという。

 

この時代における俺の立場は限りなく不安定で、極端な話をすれば密入国をした状態と変わらない──というのが、杏と状況を整理して導き出した結論だ。きっと考えなしに行動をしても自らの首を絞めるばかりで、得をすることはないだろう。

 

以上の理由から今後の在り方について決めあぐねていた俺にとって、杏の提案は願ってもいないものであった。正直なところ自分のことを他人に委ねるのは気が引けるのだが、状況が状況であるし、背に腹は変えられない。俺は二つ返事でこの申し出を受けることにした。

 

「ところでひとつ気になっていることがあるんだけど、良いかな」

 

向かいの長椅子に寝転がって干し芋を食べている杏に声を掛ける。

 

「んー? なになに?」

 

「昨日君は俺を尊敬していると言ってくれたね。それについては嬉しく思うよ。だけど、考えてもみれば妙な話だ。君がお祖父さんから何を聞いたのかは知らないけれど、新次郎が知る俺の功績など士官学校の成績くらいしかない。これだけだと尊敬されるには弱いんじゃないか」

 

「いやぁ、あの時代の士官学校を首席で卒業したってだけで十分尊敬できると思うよ。まああたしの場合、ひいじーちゃんだけじゃなくてじーちゃんもお母さんも似たようなことしてるから、本音を言うとあんまり実感ないんだけどさ」

 

「ほら、やはりそうだろう」

 

「……っていうか、あたしまだ話してなかったっけ」

 

「何をだい?」

 

「一郎叔父の未来のこと──それとも過去って言うった方が良いのかな? まあ別にいっか。とにかく……一郎叔父ってさ、ある程度踏み込んで歴史の勉強をしている人だと知っているくらいには有名なんだよね。具体的には教科書には載ってないけど、難関大学向けの日本史の教材には載ってる感じ?」

 

「いいっ!? ど、どういうことだい、それは……」

 

「まあ、一郎叔父は帝国華撃団の隊長として幾度となく帝都防衛に貢献したすっごい人だからね。それに、普通の軍人さんとは昇任のスピードが桁違いだったし」

 

「というと?」

 

「帝国華撃団は、良くも悪くも既存の枠を超えた組織だったの。だから前例がないのを良いことに陸軍が人事に介入してね。隊長を退いてからは2つの軍を行ったり来たり、それで毎回活躍しちゃったから……どちらの軍も一郎叔父が欲しくて、異動のたびに待遇を良くするなんて無茶をしたんだ。結果、普通より20年以上早く大将へ昇任だよ」

 

他の官公庁よりも実力主義の側面が強いが、それでも帝国軍人は公務員なので、皇族でもない限り昇任の基準は勤続年数と比例する。殉職すればまた話は別だが、普通は年齢不相応の階級を与えられることはない。故に杏の言葉は信じがたいものだった。

 

「……しかしそこまで型破りなことをしていれば、一部の教材だけでなく、それこそ初等教育でも取り扱いそうなものだけどな」

 

「なーに? もしかして、自分が思ったより有名じゃくて不満なの?」

 

「いや、そんなことはないが……どうにも信じられなくてね」

 

悪戯っぽい笑みを浮かべる杏に慌てて否定を返す。すると彼女は「証拠を見せてあげるよ」と言って立ち上がり、部屋を出た。ほどなくして戻ると、手に持った本──題字を見るに国立大学向けの教本らしい──を開いてこちらへ見せる。

 

そこには、先ほど杏が言った内容がほとんどそのまま記されていた。

 

「実績の割に知名度が低いのは、そうだなぁ……一郎叔父、第二次世界大戦が終わる前に死んじゃったからさ。敗戦国の戦犯にならなかったのもあるんだろうね」

 

「俺が、死んだ?」

 

「うん。世間には殉職って発表されたけど、じーちゃんの話だと、本当は長年の激務が原因の病死みたい。一部では、一郎叔父が死んじゃってから戦況が悪くなって、そのまま敗戦したって言われてる」

 

ここまで聞いて、遅ればせながら自らの誤解を悟った。

 

「つまり、俺は未来へ来たのではなく、この時代に〝20歳の身体で生まれ落ちた〟わけか」

 

「詳しいことはわかんない。〝昨日まで〟の記憶がある以上、たとえばパラレルワールドから迷い込んだ可能性も捨てきれないよ。……どちらにせよ、あたしの知ってる常識とは別の力が働いたんだろうね。それでも確かなのは、かつてこの国には大神一郎という英雄がいて、そして今あたしの目の前にも大神一郎(あなた)がいる。これくらいかな」

 

途中わからない単語もあったが、それ以外の部分は概ね合点がいく。ただ、俺の出自を検めたところで元の時代へ戻る手掛かりが見つかるかはわからない。それどころか、元の時代が存在するかも未知数だ。結局、今それを考えても仕方がないのだろう。

 

溜息とともに思考を切り替え、先ほどの教本に目を落とした。実感はこれっぽっちもないが、自分の名前が教本に載っているのを見ていると、段々背中がむず痒くなってくる。やがていたたまれなくなった俺は本を机に置いて立ち上がった。

 

「少しこの辺りを走ってくるよ」

 

「……わかった。夕飯までには帰って来てね」

 

まるで遊びに出掛ける子供とその母親の会話である。そんな風に考えた俺は、苦笑しながら首肯を返したのだった。

 

 

 

 

 

慣れないことばかり経験して疲れていたのだろう、昨日は夕飯をご馳走になってすぐに寝てしまった。半日以上睡眠を取ったのは実に数年振りである。お陰で今日の寝覚めは人生で最も良いものだった。当然体力もあり余っているので、いつも以上の距離を走ろうと思う。

 

ちなみに今俺が着ているのはジャージと呼ばれる現代の運動着で、杏に昨日買って貰った衣類のひとつだ。親戚の女の子から一方的な施しを受けるなんて情けない話だけど、これは俺が所持する通貨が使えなかったのが原因である。無論出世払いで返す予定だ。

 

走り込みは、士官学校に入る前から欠かさぬ日課のひとつだ。人生の大半をそうして過ごしてきたために、昨日走っていないことが無性に気持ち悪く感じられ、それを払拭しようと夢中で身体を動かす。

 

そうして半刻ばかり経過しただろうか。水平線に日が沈み始めた頃、程良い疲労を覚えた俺は、知っている道に差し掛かったところで速度を落とす。この先にあるのは、何かと縁があるあの展望台だ。

 

特別意識したわけではないのに、自然と近くへ来ている。俺の事情を踏まえると、これはある種の帰巣本能ではなかろうか。などと考えながら、この世界で最も馴染みの深いあの椅子に腰を下ろす。

 

出がけに杏から持たされた手巾で汗を拭い、遠くを赤く染めた海を眺める。やはり海は良い。在りし日の、歳の離れた姉に抱き締められたあのときのような安心感を覚える。

 

長い時間を掛けてひと息ついたところで、思いの外喉が渇いていることに気付いた。杏曰く、すぐそこにある機械で飲み物を買えるらしいのだが、前述の通り俺は現代の通貨を持ち合わせていない。手を伸ばしても届かない、けれども確かに見えるところにそれはある。これでは生殺しだ。

 

「──あれ、大神さん?」

 

早く帰って水分補給をしようと思い至ったところで、横から声を掛けられる。見ると、そこにはこの時代における最初の恩人である西住さんがいた。俺とよく似た運動着姿に少し赤らんだ頬、そして薄っすらと汗ばんだ顔などから、彼女も身体を動かした後なのがわかる。

 

「やあ、西住さん。こんなところで会うなんて奇遇だね。君もこの辺りを走ってきたのかい?」

 

「はい。ジョギングは、黒森峰──前の学校にいた頃からの日課で」

 

「前の学校?」

 

「……その、いろいろあって、1人で転校して来たんです」

 

西住さんは目を伏せる。これはまた失敗してしまったか。

 

「すまない。無粋なことを訊いてしまったね」

 

「い、いいえ! こちらこそ、気を遣わせてしまってごめんなさい」

 

勢い良く首を振ったのち、彼女はぺこりと頭を下げる。それっきり互いに言葉がなくなってしまったため、少々居心地が悪い。

 

「まあ立ち話もなんだし、君も座ったらどうだい」

 

俺の申し出を承諾したのち、「ちょっと待っていてください」と言って向こうへ行った西住さんは、あの機械で飲み物を2本購入してから戻ってくる。そしてそれらをこちらへ差し出すと、

 

「よろしければ、お好きな方をどうぞ」

 

迷った末、俺はお茶と印字された容器を受け取る。ちなみに、迷ったのは飲み物の種類だけでなく、受け取るか否かもだ。恩人にさらなる負担を掛けたくはなかったが、すでに現物がある以上、受け取らないのは失礼に当たる──というのは建前で、本当は喉が渇いて仕方がなかったのだ。

 

俺がお茶を飲んだのを確認してから、西住さんは同じ椅子の端、手すりに密着しそうな辺りに座る。

 

「そんなに端では窮屈だろう」

 

「……だってわたし、走ったばかりで汗臭いから」

 

「それはお互い様さ。大丈夫、今は潮風の匂いしかしないよ」

 

あくまで善意から出た言葉だったのだが、応じる西住さんは究極に複雑そうな面持ちになった。それを見て、「あなたは女心に対する理解が足りていないわ」と昔姉に怒られたのを思い出す。

 

気を悪くさせたなら謝らねばならない。そう考えながら相手の出方を待つ。俺の顔と地面とを交互に見たのち、西住さんは躊躇いながらも身体ひとつ分こちらへ来てくれた。

 

安堵の息をつき、今一度お茶を口に含んで──ふと、彼女が飲み物をくれたことに疑問を抱く。

 

どうして俺が無一文であることを知っているのだろう?

 

答えはすぐに出た。俺がこの時代の人間でないと、西住さんはそう確信しているのだ。

 

事情をまだ知らなかった昨日の俺は、当時の状況を自分の物差しで語ってしまった。きっと西住さんもその齟齬には気付いていたに違いない。それでもあの場で指摘しなかったのは、たぶん俺を混乱させないためだろう。知らずのうちに、彼女の優しさにまた助けられていたようだ。

 

「……大神さん?」

 

西住さんが俺の名を呼ぶ。どうやら彼女を見つめていたらしい。

 

「なあ、西住さん。たぶん君は、どうしてこの時代に俺がいるのか疑問に思っているんじゃないかな」

 

彼女は顔を背ける。その反応は、言葉以上に心の内を表していた。

 

「昨日からいろいろと助けて貰って、西住さんには本当に感謝しているよ。だから君の疑問にちゃんと答えてやりたい……ところなんだけど、実は俺もわからないことがたくさんあってね。それでも構わないというのなら、君に俺のことを話したいと思う」

 

西住さんは恩人で、おまけにこちらの正体に薄々気付きつつある。そういう前提があるのに、わざわざ隠す必要があるとは思えない。

 

「……差し支えない範囲で構いません、ぜひ聞かせてください」

 

彼女の意思は受け取った。ならば、あとは俺が応じるだけである。

 

頭の中で情報を整理しながら、順序立てて説明をする。ときおり相槌を挟みながら、西住さんは終始真剣な表情で話を聞いてくれた。

 

「大神さんはこれからどうするつもりなんですか?」

 

「そうだな。明日の寄港で陸へ上がった後、杏──俺の甥のひ孫の子が会わせたいという人物と面会することになっているんだ。今後のことは、その結果を踏まえた上で考えようと思っているよ。もしかしたら、この学園艦のどこかに就職するかも知れないね」

 

「あの……太正時代へ帰ろうとは思わないんですか?」

 

「何とも言えないな。帰る方法がわからないし、仮に帰れたとして、そこに俺の居場所があるかどうか……正直あまり自信がない」

 

そうですか、と西住さんは呟く。顔を俯かせているので、どんな表情を浮かべているのか確認できなかった。

 

「もしも学園艦でお仕事をするのなら、またどこかでお会いできるかも知れませんね」

 

「ああ。それに俺たちは同じ日課があるみたいだからね、きっとまた会えるだろう。そのときを楽しみにしているよ」

 

「……わたしも。楽しみにしています」

 

小さな声だったので、最後に何を言ったのかはわからなかった。訊き返すと、西住さんはどこか嬉しそうな声で「何でもありませんよ」と答える。気にはなるが、追求するだけ無駄だと諦めることにした。

 

 

 



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初めての寄港


(恐らく)最初で最後の名前付きのオリキャラが登場します。それが誰なのかは、察しの良い方ならもう検討が付いているかも。


 

学園艦が本拠地に寄港するのは、特別な用事でもない限りは年に5回程度で、そのうちの2回がこの弥生の後半に固まっている。大洗女子を例に挙げると、1回目に陸に実家がある在校生を帰省させ、2回目に彼女たちと新入生を入艦させて出航する流れになるらしい。

 

2度の寄港の間隔は10日ほどで、額面通りなら停泊させていた方が運営費の節約になりそうだが、しかし艦の規模の関係で他の船が入れないなどの問題が起こるから無理なのだそうだ。

 

ちなみに今回は2回目の寄港に当たる。そのため、陸へ上がる者より艦に乗り込む者の方が格段に多く、特に公共交通機関には新入生らしい比較的小柄な女の子の姿が目立った。

 

その波に逆らう形で、俺と杏は陸へと上がる。現在時刻は午前8時、出航まで約半日といったところか。これを逃すと搭乗に別料金が発生するそうなので、くれぐれも乗り遅れないようにしないといけない。

 

件の人物は、大洗の駅まで迎えを寄越してくれるという。思いの外道が空いていたために予定より早く目的地へ到着した俺たちは、とりあえず近くの店に入り、少し遅めの朝食をとることにした。

 

「そういえば、杏が俺に会わせたい人って誰なんだい?」

 

「あたしのじーちゃんだよ」

 

砂糖をふんだんに入れた珈琲を飲みつつ、杏は簡潔に答えた。

 

「君のお祖父さんというと、新次郎の息子か。確か俺のことを知っているんだったね」

 

「うん。一郎叔父と直接話したこともあるみたいだし、すごく尊敬していたみたいだから、きっと力になってくれるはずだよ」

 

それにさ、と言って杏は口の端を吊り上げた。

 

「あたしのじーちゃんって、自衛隊──旧帝国軍の後継組織みたいなものなんだけど──そこのトップになった後、天下りでいろんな仕事をしてたから、結構顔が広いんだよね。昔より影響力はなくなってるみたいだけど、こっそり戸籍を作っちゃうくらいならできると思う」

 

「……戸籍か。今まで考えたことがなかったけれど、言われてみれば確かに今後必要なるだろうね」

 

戸籍はこの時代で生きて行くためには不可欠なものだし、手に入れる機会があるならこれを逃す手はない。正当な方法でないのが気掛かりだが、そもそも正当に手に入れるのは不可能だろうから、この際開き直ってしまうことにしよう。胸の内から湧き上がる罪悪感は見ないふりをすることにした。

 

待ち合わせの少し前に店を出て、外から見えやすいところに並ぶ。杏の祖父が寄越した車は、時間ぴったりにやって来た。

 

軽い挨拶を経てから車に乗り込む。当然と言えば当然だが、俺の知る車とは乗り心地が異なり、平地と錯覚するくらい揺れが少ない。

 

「ねえ、一郎叔父は再就職先ってもう決めてるの?」

 

「いいや。君のお祖父さんと話をしてから考えようと思っているよ」

 

「それならさ、大洗女子(うち)の先生になってくれないかな」

 

ともすれば縋るような声で杏は言った。

 

「前にも似たようなことを言っていたけれど、そんなにあの学校は人手が足りていないのかい?」

 

「……一郎叔父を困らせちゃうと思うし、まだ詳しくは言えないんだけど、新学期から始める選択授業の先生がまだ見つからないんだ」

 

「新学期からだと、確かに新任を雇うのは難しいか。ちなみに何の科目なんだい? 俺に勧めるってことは、さほど専門的な分野ではないんだろうけど」

 

「一郎叔父の世代だとぎりぎり知ってると思う。大洗女子学園は、20年振りに戦車道の授業を復活させることになったんだ」

 

戦車道という単語には、杏の言う通りぼんやりと聞き憶えがあった。

 

あれは士官学校を卒業する直前、教官の目を盗んで酒盛りをしたときのことだ。最初は平時の不満を言い合っていたが、宴会が進むにつれて話題が「好みの女性像」に変わり、その際親友の加山雄一が戦車道女子の良さを力説していた。

 

『戦車道をやっている女性は良いぞ、大神ぃ! 可憐で清楚で、そして何より凛々しくて素敵だ。ああ、一目で良いからお会いしたい!』

 

こんな感じのことを言っていたか。

 

「俺の時代ではまだ黎明期だったけど、話は聞いたことがあるよ。戦車道は乙女の嗜みで、大和撫子や良妻賢母の育成を(うた)った武芸だと」

 

「そーそー、その戦車道。今度プロリーグが発足されるからって文科省が推しててさ、助成金も出るみたいだし、うちも流行りに乗ってみたんだよね」

 

「しかし、20年振りに授業を復活させるとなると、履修者の大多数は戦車道の経験がないに違いない。教官がいないのはなおのこと問題だな」

 

「だから、気が向いたらで良いから戦車道の先生になってよ、ね?」

 

「だけど俺も戦車道についてはあまり知らないし──」

 

「それでも良い。たとえ記憶がなくても、一郎叔父ならきっと大丈夫だよ。だってあなたは、将来とんでもない指揮官になる人だから」

 

杏はいつになく真剣な表情でそう言った。

 

実のところ、彼女の言葉に根拠はない。何故なら俺は、確定した未来を超えてここにいる、極めて不確定な存在であるためだ。したがって仮に俺に将の器があるとしても、歴史と同じ道を歩むとは限らない。

 

決して身内贔屓ではなく、客観的に見ても杏は要領の良い子だ。だからきっと、自らの言い分に矛盾があることはわかっているだろう。そして、わかった上で俺を頼るのは、そうでもしないと心が折れてしまうくらい大きな問題を抱えているからだ。

 

「……わかった。考えてみるよ」

 

それを察してしまった以上、俺は曖昧な返事をするしかなかった。

 

 

 

 

 

大洗駅から北東へ四半刻ほど進み、住宅区のはずれにある立派な邸宅の前で車が止まった。どうやらここが杏の祖父の家らしい。

 

「君の話からなんとなくそんな気はしていたが、ずいぶんと大きな家だね」

 

「あたしが言うのもなんだけど、じーちゃんお金持ちだからねえ」

 

杏は、特に感慨を抱かない様子で門をくぐった。彼女とはぐれた途端に不審者になってしまうので、尻込みしながら俺も後を追う。

 

すでに先方にはある程度の説明をしているらしく、玄関で待っていた女中は杏の顔を見るなり「旦那様は書斎でお待ちです」と告げた。

 

彼女の案内で書斎を目指す。これから会う相手は戸籍上大甥に当たるが、俺の主観だと50近くも歳が離れており、また面識もない。いったいどんな距離感で接すれば良いのだろう。

 

「あたしと同じようにすれば良いんじゃない?」

 

「簡単に言ってくれるね」

 

「さすがに一郎叔父とおんなじ気持ちにはなれないからね……っと、この先の扉だよ」

 

何も答えが浮かばないうちに書斎へ着いてしまった。俺が困っているのを察してか、女中は部屋に入るのを躊躇う素振りを見せる。しかし、そこへ割り込んだ杏が無慈悲にも扉を開け放った。

 

「お、おい杏!」

 

「こんなの悩むだけ無駄だって。当たって砕けたら良いじゃない」

 

「砕けてどうするんだ! 俺はまだ心の準備が──」

 

視線を感じて言葉を切る。見ると、部屋の奥の執務机のところに偉丈夫と称して良い老人が立ち尽くしていた。

 

時間にして数秒老人を見て、不思議なくらいすんなりと彼が杏の祖父であることを悟る。記憶の中の新次郎と比べてずいぶんと体格が良いが、目元があいつとそっくりだったのだ。

 

「──本当に、若い頃の一郎叔父だ」

 

まるで目に映る情報を噛み締めるように、老人は呟いた。

 

「なあに? じーちゃん、あたしの話を信じてなかったの?」

 

「い、いや、そう言うわけではないんだけど……」

 

「大丈夫、怒ってないよ。あたしも最初は驚いたもん」

 

2人してこちらへ視線を向け、ゆっくりと頷き合う。どうして良いかわからずにいると、そんな俺に気付いた老人が慌てて頭を下げた。

 

「恥ずかしところをお見せしました。杏の祖父で、新次郎の長男の大河新之介です。初めまして……になりますかね」

 

老人、新之介は顔を曇らせる。

 

「すみません。自分には20歳までの記憶しかないもので」

 

「ああ、失礼。あなたの事情は杏から聞いております。それについてはこちらも承知しているので……できれば敬語など使わず、杏と同じようにいただきたいのですが」

 

「えっと、はい。善処しま──するよ」

 

こちらの受け答えになんとも言えない顔をしたのち、新之介は俺たちに座るよう促す。それから戸惑う女中にお茶を持ってくるよう頼んだ。

 

「あんまり時間がないから早速本題に入るね。じーちゃんは、一郎叔父がこの時代にいることについて何かわかることってある?」

 

開口一番に杏は疑問を投げ掛ける。応じる新之介は複雑そうな顔で、

 

「結論から言うと、僕は一郎叔父とまったく同じ境遇の人物を1人だけ知っているんだ。彼は僕の友人で、今でも付き合いがあるよ」

 

「ほんと!? じゃあ、ひょっとしたら──」

 

「僕と彼が出会って、もう30年になる。これまでいろいろと試しはてみたんだけど、元いた時代へ帰してやることはできなかった」

 

無駄な希望を抱かせまいと、新之介は強い口調でそう言った。

 

「現実はそんなに甘くないかぁ」

 

弱々しい声で呟き、杏はこちらを窺う。

 

「……心配してくれてありがとう。だけど、それは真実を知ったときからある程度は覚悟していたことだよ」

 

できる限り明るい声を心掛けつつ俺は言った。

 

もちろん、これが空元気であることは否定しない。しかし、まるで自分のことのように悲しむ杏を見て、こちらまで落ち込んでいてはいけないと思ったのだ。

 

「今考えるべきなのは、これからどうするかについてだろう」

 

「……ごめん。一郎叔父の方がつらいはずなのに、あたしばっかり弱気になってちゃダメだよね。気を遣ってくれてありがとう」

 

両の手で頰を叩く。それっきり杏はいつもの調子に戻った。

 

「でさあ、じーちゃん。今話に出た人が30年も普通の生活ができてるってことは、きっとじーちゃんが裏技を使ったからだよね。それならさ、一郎叔父にも同じことをしてあげてよ」

 

そうは言うけどね、と新之介は言葉を濁す。

 

「その人は良くて、一郎叔父はダメなの?」

 

「いや、別にそうではないんだけど……」

 

「じゃあどうして!?」

 

「杏、落ち着きなさい。お祖父さんも困っているぞ」

 

このままでは話が進まなくなりそうなので、感情的になりつつあった杏を宥める。彼女自身も無自覚だったらしく、俺に指摘されるとすぐに「ごめん」と呟いて口を閉ざした。

 

内なる葛藤を表情に表しつつ、 新之介は言った。

 

「協力してあげたいのは山々なのですが、杏の頼みを聞くためには僕自身かなり危ない橋を渡る必要があります。……一郎叔父を疑っているわけではありません。けれども、僕にも覚悟を決められるだけの確証が欲しいんです」

 

「確証、か……いったい俺はどうしたら良いんだ?」

 

「先ほど話に挙げた友人は、ある手順を踏むことで知るはずのない──別の自分の記憶を取り戻したそうです。同じ境遇の一郎叔父も、恐らくはそれが可能なのではないかと」

 

「それって、じーちゃんがあたしに話してくれた一郎叔父の記憶ってこと?」

 

新之介は頷く。

 

別の自分の記憶と言われてもしっくりこないというのが本音だが、それを取り戻さねばならないというならやるしかない。

 

「わかった。では、その手順とやらを教えてくれ」

 

「はい。では、すぐにお持ちしますので」

 

言うなり新之介は部屋を出て行った。何か心当たりがあるなら教えて欲しいと杏に目を向けてみたが、「あたしにもわかんないよ」という返事しか貰えなかった。

 

ほどなくして新之介が戻ってくる。その手に携えているのは、黒塗りの鞘に収められた日本刀だ。彼はそれをこちらへ手渡し、

 

「これは神刀滅却という銘の刀で、我が家の家宝です。元々は旧陸軍の重鎮が所有していたものですが、それを一郎叔父が継承したと伺っております。一郎叔父の死後、刀は父へ受け継がれ、そして現在の所有者は僕になります」

 

「ふむ。それで、俺はどうすれば?」

 

「刀を抜いてみてください。それで友人は記憶を取り戻したそうですから」

 

それだけで良いのか。手順というくらいだし、もっと儀式めいた作法が必要かと思っていたので、少々拍子抜けしてしまう。

 

特に難しいことはない。俺は右手に力を込め、ひと思いに抜刀し……刹那、刀身から眩い光が放たれた。

 

「な、なん──」

 

動揺から思わず出た声は、突如俺を襲った激しい頭痛によって搔き消える。言葉を紡ぐことはおろか、息をすることもできず、鳴り止まぬ耳鳴りとともに目の前がどんどん暗くなっていくのがわかった。

 

痛みのあまり意識を手放す直前に見たのは、目に涙を浮かべて俺の身体をゆする杏の姿であった。

 

 

 



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記憶と記録

大神さん(故人)の過去編です。サクラ大戦4より後の設定は全部オリジナルなので、苦手な方は前半を飛ばしてください。

一応あとがきで補足しておくので、飛ばした方はそちらを参考にしていただければと思います。




帝国華撃団の隊長就任を命じられた俺だが、上野公園で出会った使いの者──真宮寺さくらに連れられて辿り着いたのは、秘密部隊の詰所とは対極に位置する銀座の大帝国劇場であった。劇場の支配人にして陸軍中将の米田一基氏は、俺が左遷されてここへ配属となったと話す。

 

失意に暮れていたところ、しかし黒之巣会なる悪の組織が現れ状況は一変した。

 

歌劇団は仮の姿、華撃団が公にならないための隠れ蓑だった。男にしては珍しいほどの霊力を観測した俺は、それを用いて悪を討ち、帝都の平和を守るべくその隊長に抜擢されたのだという。

 

黒之巣会の長である天海大僧正を滅し、大きな犠牲を払った末、華撃団は葵叉丹の野望を打ち砕いた。それから1年の海外遠征を経て再び帝劇へ戻ったのち、今度は陸軍大臣の京極慶吾が企てていた計画を阻止する。

 

その後中尉へ昇任した俺は、欧州華撃団の後継組織である巴里華撃団の隊長に任命され、仏蘭西(フランス)へと渡る。隊員たちと絆を深める過程でパリシィたる概念を破り、帰国の直後にヤフキエルという偽りの天使を用いた事件を解決へ導く。そして、三度帝国華撃団の隊長として大久保長安の暴走を食い止めた。

 

同時期、花組の演目に関連して結婚について調べたことがある。それを曲解され、俺が彼女たちのいずれかと結婚するという話が浮上したが、このときは「今は平和のことしか考えられない」と誰を選ぶこともしなかった。

 

大久保の一件を機に米田支配人は引退を決意し、帝劇の屋根の上で華撃団の総司令の座、支配人の肩書き、そして愛刀の神刀滅却を俺に譲った。「これからはお前が総司令だ」と告げる彼の顔、そして2人で眺めた銀座の夜景は深く心に残っている。

 

総司令と支配人、隊長の三足のわらじを履くことにようやく慣れてきたあるとき、米田元支配人の早過ぎる訃報が俺の耳に入った。悲しみに暮れるみなを慰め、俺は彼のために何かしようと提案する。華撃団総出で弔いの公演をすることに決め、その計画を立てる最中──陸軍参謀本部への異動が命じられた。

 

後から聞いた話だが、引退してからも米田元支配人はかなりの発言力を持っており、こと俺の人事に関しては大元帥閣下の次に決定権を有していたのだという。加山曰く、俺が大帝国劇場にいられるよう、亡くなる直前まで尽力してくれていたそうだ。

 

言い換えれば、俺は知らずのうちに元支配人の後ろ盾を得ていたのである。

 

彼が死に、その力関係は大きく崩れた。帝国華撃団が既存の枠を超えた組織であったが故に、陸軍が人事に介入してきたのである。ともすれば、帝都を守る過程で身に余る功績を得てしまったからなのかも知れない。面識のない陸軍上層部に、俺は不思議なほど好かれていたのだ。

 

急な人事に不満はあったが、軍人である以上従わなければ首が飛ぶ。抗議をしようと躍起になる隊員たちを止めた際に一悶着あり、結局俺は有終の美とは言えない形で華撃団を去ることとなった。

 

参謀本部で働くことになって以降、俺は心の穴を埋めるべく仕事に邁進する。陸軍と海軍をたらい回しにされ、異例ともいえる昇任周期で分不相応の責任を負わされようとも決して足を止めなかった。胃薬が手放せなくなり、いくら寝ても疲れが取れなくなって何年経っただろう。気付けば俺は通常より20年以上も早く海軍大将、そして元帥になっていた。

 

それから先はよく憶えていない。2度目の世界大戦が始まり、海軍省から軍令部へ異動になった俺は、寝る間も惜しんで戦況を確認していたような気がする。そして迎えたある夏の日、夜半に部下を休ませ、1人で仕事を続けていると、急に目の前が真っ暗になった。身体がふわりと浮いたように感じたが、果たして椅子から転げ落ちたのか、それとも意識だけが落ちたのかは定かではない。

 

ひとつ確かなのは、大神一郎(かれ)の生涯はここで幕を下ろしたということである。

 

 

 

 

 

目が覚めると、そこは見たことのない和室であった。

 

気怠さに頭を抱えながら身を起こす。近くにいた杏と新之介がそれに気付き、大丈夫か、身体に異常はないかとしきりに尋ねできたので、今のところ問題はないと伝えた。

 

「一郎叔父、あの刀を抜いた途端に倒れちゃうんだもん。心配したんだからね?」

 

「それはすまなかったね。しかし怪我の功名というか、そのお陰で大きなものを得ることができたよ」

 

「……そうおっしゃるということは、記憶が戻ったのですね」

 

新之介の言葉に対し、俺は素直に肯定を返すことができなかった。

 

確かにあれは大神一郎が辿った人生の一部始終なのだろう。思い出はすべて一人称視点から見たものであったし、そのときどきで抱いた感情は今でも心に刻まれている。しかし、一切の実感がないのだ。たとえるならそう──語り部のいない活動写真を観たような感覚である。

 

言うなれば記録だ。決して俺自身の記憶ではない。〝彼〟と俺がまったく同じ人間だとしても、あれは紛れもなく他者が歩んだ軌跡だ。

 

「……大神一郎は、どうやら過労が祟って死んだらしいね」

 

無言のままでもいけないと思い、とりあえずそんなことを言う。それを受け、2人は不可解そうな顔を見せた。

 

すぐにその原因を悟る。自分でも疑問に思うほど、今の俺は他人事のような言い回しをしていたのだ。

 

「……やはり、君たちの知る大神一郎と俺は別人みたいだ」

 

隠しても仕方がないため、記録を取り戻した感想を口にする。

 

「今後の進退に関わることだし、嘘でも本人だと言い張るべきなんだろうけど……俺に真実を教えてくれた君たちを裏切るような真似はしたくはないんだ。だからもう一度言おう、俺は大神一郎であって大神一郎でない。今の俺は、何の力もないただの軍人崩れだ」

 

「……不器用だね、一郎叔父は」

 

俺の言い分をどう捉えたのか、杏は困ったような笑みを見せる。

 

「ひとつ訊かせていただきたい。生前のあなたが最後に僕と会ったとき、なんと声を掛けてくれたか憶えていますか」

 

次いで悲しげな顔をした新之介がそう尋ねる。それに答えることに意味などあるのかと考えるも、その目があまりに真剣であったので、俺は口を挟まず大神一郎の記録を辿ることにした。

 

「──『新之介、お前は俺の誇りだよ』」

 

結局誰とも添い遂げることがなかった〝彼〟にとって、新次郎の子である新之介は息子同然の存在だった。

 

新之介と最後に会ったのは、彼が尋常小学校へ上がる前のことだ。半年振りの休暇の折、新次郎が家族を連れて遊びに来たのである。

 

このとき新之介は俺に近況を語っていた。近所のいじめっ子から女の子を守ったとか、そのような内容である。まだ幼いのに新次郎に似て優しい子だと思い、先の言葉を掛けたのだ。

 

「あなたは僕の知る一郎叔父と同一人物です。……僕の気持ちを慮って、こんなにつらそうな顔をしてくださるのですから。境遇は違えども、根っこの部分は変わっていません。僕が保証します」

 

新之介はつらそうな、それでいて決意に満ちた表情を見せる。

 

「約束通り、あなたの戸籍は僕が用意します。すぐにとは行きませんが、半月もいただければ必ず何とかしてみせましょう」

 

「……良いのかい?」

 

頷いたのち、新之介は隣の孫娘がよく見せるあくどい笑みを浮かべた。

 

「代わりといっては何ですが、杏の願いを聞いてやってはくれませんか」

 

「というと……大洗女子の教師になれという、あれかい?」

 

「はい。実は今、大洗女子の学園艦は非常に大きな問題を抱えておりまして。本当は僕が解決してやれれば良いのですが、学園艦の問題は文部科学省、つまりは国の管轄です。茨城県の教育委員会ならばある程度言うことを聞かせられるのですが、今の僕には、残念ながら国の機関を相手にわがままを言えるだけの力はありません」

 

「まあ、じーちゃんの影響力が弱まってきたからこそ、今になって文科省が動き出したんだろうけどね」

 

2人は揃ってため息をついた。飄々としているが、その顔には(かげ)が見え隠れしている。

 

「しかし、教師というのは公務員だろう。そう簡単になれるものなのかい?」

 

「今申した通り、県の教育委員会の説得は恐らく可能です。現行の法律には、特定の条件を満たせば免許がなくとも先生になれる特別非常勤講師という制度がありますから。そうですね、防衛大学校──昔でいう士官学校のようなものです──そこを卒業したものの、一身上の都合で任官を拒否したという経歴を用意すれば、戦車道の講師を頼むことにも違和感はないかと思います」

 

新之介は眉を吊り上げ、続ける。

 

「幸い大洗女子の学園長は僕の友人です。採用試験はあるものの、一郎叔父の頭ならきっと簡単でしょう。新学期には間に合わないとは思いますが、戸籍の取得と同じ時期……戦車道の授業が始まるまでには何とかします」

 

「いやぁ、これから忙しくなりそうだねえ」

 

抑止力がないこともあって、俺を教員にしようという話は、本人のあずかり知らぬところでとんとん拍子に進んでいた。

 

「ちょっと待ってくれ、俺はまだ引き受けるといったわけじゃ」

 

「……ダメ?」

 

瞳を揺らし、上目遣いに杏は問う。

 

ぐっ、と喉を鳴らす。どうも俺は彼女には頭が上がらない。

 

「そうは言っていないよ。だけど俺は、まだ大洗女子が抱える問題について何も聞いていない。まずそれを教えてくれないか?」

 

「ああ、ごめんね。まだ話してなかったっけ」

 

こほんと咳払いをしたのち、杏は背筋を伸ばす。

 

「夏に高校戦車道の全国大会があるんだけどね。そこで優勝できなければ、大洗女子学園は今年度で廃校になっちゃうんだ」

 

 

 




大神さん(故人)の人生を3行にまとめると、以下の通りになります。
・いわゆる「大神ルート」を辿っている=花組の誰とも結ばれていない。
・米田支配人の訃報がきっかけで陸軍が人事に介入し、華撃団にいられなくなった。
・持ち前の真面目さが祟って、若くして過労死してしまう。

始めは花組の誰か、或いはそれ以外の女性と結ばれる構想でしたが、ヒロインはあくまでガルパンのキャラクターにしたかったので没にしました。これについては意見があるかも知れませんが、本編にはほとんど影響がないため、納得できないという方は各自で補完してください。


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今の自分にできること

学園艦の運営には莫大な費用が掛かる。

 

考えてもみれば当然だ。あれだけ大きな船を動かすために必要な燃料代に始まり、搭乗員が生活できるだけの物資、そして学園関係者や街の住人たちの衣食住を確保するのに、いったいどれだけお金が必要になるだろう。魚の養殖や穀物、野菜の栽培など、ある程度自給自足ができるだけの設備が整っていると杏が言っていたが、恐らくすべてを賄うのは不可能に違いない。大洗女子の場合、基本的に県の税金が運営費に充てられており、払いきれない分を国が負担する形になっている。それ故に国の意向を無視することができないそうだ。

 

そして、「目立った実績のない学校」という選考基準でもって、大洗女子を廃校にしたいというのが国──とりわけ学園艦の管轄である文部科学省の言い分である。恐らくこれはまったくの建前であるわけではない。けれども、運営に難航している学園艦は他にもあるはずだ。

 

ならばどうして大洗女子学園が真っ先にその標的になったのかといえば、杏が話していた通り、新之介の発言力が弱まってきたためだろう。地方に権力者がいるのは、国としては面白くないことだ。新之介の孫娘である杏の母校を廃校にすれば、結果的にその影響力が小さくなったように見える。たとえそれが幻想であろうとも、ひとたびそうなってしまえば、出る杭を打つのは容易い。

 

きっとそれを指摘したところで、向こうはのらりくらりと追求を(かわ)すに違いない。彼らはそういう人種だ。記録の中の大神一郎も、軍部の予算を捻出するため幾度となく彼らと戦い、苦い思いをしている。それはきっと、地方公務員たる学園長も同じであるはずだ。ましてや、ただの学生である杏が立ち向かうにはあまりに大きな壁といえよう。

 

「戦車道の全国大会で優勝すれば廃校を撤回するという約束は、誰が取り付けたんだい?」

 

「あたしだよ。こういうのってほんとは学園長がやるべきなんだろうけど、あの人もいろいろ忙しいからさ。他の先生は動いてくれないし、仕方がないからあたしが交渉をやらせて貰ったんだよ」

 

「……無粋を承知で訊くが、杏は今年度で卒業だろう? 廃校になるのは来年度だ。はっきり言って、君には関係のない話ではないかい?」

 

「関係なくなんてないよ! あたしはあの学校が好き。たとえ今年で卒業だとしても、あの場所なくなっちゃうなんて考えられない!」

 

彼女は続ける。

 

「卒業まであと1年、泣いて学校生活を送るなんて嫌なんだ。たとえどれだけ難しい条件であっても、可能性がゼロじゃないなら……希望があるなら、あたしは絶対に諦めたくない!」

 

状況的に、心の中では不安で押し潰されてしまいそうなはずなのに、啖呵を切った杏は毅然としていた。それはきっと、どれだけ困難な道でも挫けないという意思表示である。

 

客観的に見れば、杏の挑戦はたいそう無謀な行為だ。与太話と嘲笑する者もいるだろう。けれども彼女の懸命さは、俺の迷いを断つには十分な材料であった。

 

「わかった。未経験者の拙い指導で構わないというなら、俺は君の願いを叶える力になろう。いや、協力させてくれないかい?」

 

俺が言うと、杏は一瞬泣きそうな顔になって、すぐに唇を噛んでそれを律した。

 

今涙を流してしまうと、ここ一番のときに踏み留まれなくなる。杏の執念と形容できるほどの強い意思を垣間見ることができた。

 

「ありがとね、一郎叔父」

 

だから、彼女の声が震えていたことは秘密にしておこう。

 

 

 

 

 

俺が意識を失っていた時間は思いの外長かったらしく、諸々の手続きについて話を聞き終えた頃にはすっかり日も沈み始めていた。

 

「ねえじーちゃん。あたしたち、そろそろ帰らないと」

 

「……もうそんな時間か」

 

杏の言葉に、新之介は名残惜しいといった顔をした。俺は思わず含み笑いをする。それが、記録の中の彼が新次郎に手を引かれて俺の家を去るときに見せたものとまったく同じであったためだ。

 

「新之介。次に学園艦が帰港したときにまた会おう」

 

「はい! その日を楽しみにしております」

 

大きく頷いたのち、新之介は「渡したいものがあるのでついて来てください」と言った。俺と杏はそれに従って部屋を出る。新之介は先ほどまでいた書斎へ戻り、俺が記録を取り戻すきっかけになったあの刀──神刀滅却を差し出した。

 

「これを一郎叔父へお返しします」

 

「その刀は家宝なのだろう? 受け取れないよ」

 

新之介は首を振り、刀を俺に押し付けた。

 

「本来あなたが持つべきものですから、どうか受け取ってください」

 

昼間のこともあって何となく苦手意識が芽生えているのだが、どうやら向こうも譲ってはくれないようなので、躊躇しつつも俺はそれを受け取る。恐る恐る鞘を抜いてみたところ、あのときのような頭痛に襲われることはなく、夕日を反射した刃が流星のようにひとつ閃いた。

 

新之介に見送られながら、俺たちは大河邸を後にする。行きと同じように大洗駅まで運転手が送ってくれるそうだ。

 

その帰路の最中、ふいに杏はこちらを仰ぎ見て、

 

「そういえば、一郎叔父とおんなじ状況の人のこと、じーちゃんに訊くの忘れてたね」

 

「ああ、それについては問題ないよ」

 

「あれ? 一郎叔父としても、先輩の話を聞きたいんじゃないの?」

 

確かに気にならないといえば嘘になる。むしろ、一刻も早く話を聞きたいところだ。

 

「それならどうして……」

 

「彼は大洗女子の学園艦にいるはずだからね」

 

「ちょっと待って、あたし聞いてないよ!」

 

実を言うと、俺も新之介から直接聞いたわけではない。しかし、彼は俺がその人物に心当たりがあると見越してあえて言わなかったような気がする。

 

「驚かないで欲しいんだけど、この時代に来てから会った人の中に、記録とまったく同じ容姿をした人物がいたんだ」

 

およそ100年の時を経て、なお姿形が変わらぬ人間などいるはずがない。それならば彼の存在をどう説明すれば良いか。 ──きっと俺と同じ境遇を辿っているためだろう。至極単純な演繹(えんえき)だ。

 

「それっていったい誰なの?」

 

「大洗女子の学園長だよ」

 

「……なるほど。どうして学園長が最初に一郎叔父をあたしのところへ連れて来させたのかわからなかったけど、あの人がじーちゃんの友達なら納得できるね」

 

「ついてはすぐにでも彼と話がしたいんだけど、明日俺も一緒に学校へ行っても構わないかい?」

 

「ん、りょーかい。たぶんじーちゃんが連絡してくれてると思うし、向こうも採用の手続きとかで一郎叔父に用があるんじゃないかな」

 

「それなら話が早いな。帰ったら面会の約束を取り付けることにしよう」

 

大洗駅の土産物屋で備蓄用の干し芋を購入し、18時になる少し前に学園艦へ戻る。朝方搭乗を済ませた者が多かったのだろう、帰り道は実に快適で、行きの半分の時間も掛からなかった。

 

杏経由で大洗女子学園と連絡を取り、明日の10時に学園長と会う約束をする。

 

昼間倒れてしまったこともあり、今日は走るのをやめ、空いた時間で杏が集めた戦車道の資料に目を通すことにした。集中すればある程度の量を頭に叩き込めるだろうと高を括っていたが、慣れない外来語に苦しめられたお陰で進捗は芳しくはなかった。

 

これから教師をするのなら、せめて生徒と会話をしたとき違和感を覚えさせない程度に外来語も会得せねばならないだろう。就職するまでの課題がまたひとつ増えてしまった。

 

そして迎えた翌日、就職先の第一候補ということで、杏に買って貰った普段着ではなく海軍の軍服に袖を通して家を出た。

 

大洗女子学園の校門と併設された守衛の詰所を訪ねる。すでに話は通っているようで、滞りなく入校許可証を貰うことができた。杏の案内で校舎を進み、生徒会長室のひとつ下、職員室や教科ごとの部屋が並ぶ階層の最奥へと向かう。彼女が扉を叩くと、記録の中で聞き慣れた声で「入んな」と返ってきた。

 

催促されるまま部屋の中へと入る。そこにいた老人の顔、そしてまだ午前中だというのにお猪口を呷る姿を見た途端、俺の主観では2度目の対面だというのに、不思議と込み上がる懐かしさに涙が出そうになってしまった。

 

「……昼間から酒とは何事ですか」

 

自分でも驚くほど弱々しい声が出た。学園長はえも言われぬ表情を見せたのち、こちらをからかうような笑みを浮かべる。

 

「見当違いだよ、こいつはただの水だ。最近は教師に対する風当たりが強くてよ。こんな時間から酒なんて飲んでいたら、すぐに更迭されちまう。まったく世知辛い世の中になっちまったぜ」

 

それならどうして飲酒の演技をしていたのか。わざわざ確認するまでもない、今のは〝俺〟と〝彼〟との初対面時の再現だ。

 

「お久し振り、で良いんですかね。米田支配人」

 

「バカ野郎。今の俺は学園長だよ、大神」

 

彼に握手を求められたので、ひとつ頷いてからそれに応じた。

 

言ってしまえば、俺たちは数奇な運命を背負わされた同士である。かつて同じ時間を生き、本来ならば生きて到達できない未来で再び合間見える。己が視点ではほとんど面識がないのに、長年の付き合いがあるような錯覚に陥るのだから妙な感慨だ。

 

「ちょっと。2人の世界に入ってないで、あたしにも説明してよ」

 

拗ねたように唇を尖らせ、杏が説明を求める。詳しく話すと長くなってしまうので、要所を掻い摘んで伝えることにした。

 

「……なるほどね。つまり学園長は、一郎叔父が帝国華撃団の隊長だった頃の上官なんだ」

 

「おや、知らなかったのかい?」

 

米田一基といえば、日露戦争で功績を挙げた稀代の策略家である。記録を取り戻す前の俺でさえ名前を聞いたことがあるし、きっとこの時代でも知名度が高いのではなかろうか。

 

「旧陸軍の米田中将のことは歴史の授業で習ったけど、帝国華撃団の司令をやっていたなんて話は聞いたことがないよ」

 

「まあ、華撃団が公の組織になる前に昔の俺はくたばっちまったからよ。そのせいもあるんじゃないか?」

 

確かに、と杏は肯定する。納得したのか、それ以上の追求はない。

 

話が途切れたので、今度は俺が疑問を投げることにした。

 

「しかしそれだけ有名だと、米田支配人も素性を隠すのが大変だったでしょう?」

 

「それについては問題ねえ。何せ俺は、今は米田姓を名乗っていないからな」

 

「何ですって!?」

 

「そう驚くことじゃねえだろう。昔の俺はお前さんよりちょいとばかり活動期間が長かったからさ、その分知名度も高くて、本名で戸籍を作っちまうと面倒が起こりそうだと思ってよ。大河先生のお父上──新次郎氏の提案で、偽名を用意したってわけだ」

 

「な、なるほど。それなら俺は何とお呼びすれば?」

 

「別に昔のまんまで構わねえさ。生徒たちに訊かれたら旧姓と答えれば良いし……ああ、でも支配人はやめてくれよ。司令中将呼びも駄目だ。今の俺は教育者だからな。ここでは学園長って呼んでくれ」

 

彼は懐中時計を取り出し、「おっといけねえ」と呟いた。

 

「悪いが本題に入っても良いかな。実は12時から別の予定があってよ。お前さんとゆっくり話をしたいのは山々なんだが、今日のところは事務的な用件だけで勘弁してくれ」

 

そう言って彼は手前にある応接用の椅子を手で示す。

 

「採用試験があるのは聞いているかと思うが、戦車道の担当が見つかっていない現状を鑑みるに、お前さんの内定は決まっていると言って良い。だから、ここでできる手続きは今済ませちまおう」

 

 

 




サクラ大戦の新作が製作されるそうです。
なんでも、舞台は1の17年後なのだとか。果たして大神さんは出てくるのか……それによって感心の度合い変わりそうですね。


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大洗女子学園教師、大神一郎


UA、お気に入り、評価、感想等の数が増えてきて嬉しい今日この頃です。





 

「──よし、今日記名して貰う書類はこいつで全部だな」

 

学園長は満足げにそう言って、最後の紙面に決裁印を押す。

 

生徒会の仕事があるという杏と別れて半刻、休みなく手を動かしてようやく書類を捌ききった。肉体的な疲労はともかく精神的な疲れが溜まっていた俺は、椅子に身体を預けてふーっと長い息をつく。

 

「おいおい、大神よ。これくらいで音を上げられちゃあ困るぜ」

 

「も、申し訳ありません……」

 

「まあなんだ、お疲れさん」

 

ひとつ嘆息をし、彼は顔に苦笑を刻んだ。

 

「残りの書類はお前さんの戸籍の作成と、県の教育委員会への届け出が済んでから作って貰うことになる。その辺を頭に入れておいてくれ」

 

それから「渡すものがあるから待っていろ」と残して学園長は立ち上がる。執務机に戻った彼は、抽斗(ひきだし)から膨らんだ茶封筒を取り出し、こちらへ差し出した。中を検めろと促されたので、言われた通り開けてみる。出てきたのは、手のひらくらいの手帳のようなもの、年代物なのか天地のすり減った書物、そしてこの時代の通貨だった。

 

「大河先生から話を聞いて昨日のうちに作っておいた大神名義の銀行の預金通帳と、そっちの古本は昔俺が使っていた教育関係の資料だ」

 

「ぜひとも有効活用してみせます。……しかしこのお金は?」

 

「俺からの就職祝いだ。額は少ねえかも知れないが、それで新しい背広でも買ってくれや」

 

「……気持ちはありがたいですが、さすがにこれを受け取るわけにはいきませんよ」

 

紙幣を返そうとしたところ、真剣な顔をした彼に阻まれてしまう。

 

「角谷から話は聞いているだろうが、間もなくこの大洗女子学園は廃校となる。それを防ぐため、これから大神には相当な負担を掛けさせるに違いない。だから、前もって誠意を見せておこうと思ってよ」

 

それにさ、と言って学園長は優しく目を細めた。

 

「俺じゃない俺の記憶の中で、米田一基は大神を息子のように思っていたみたいでな。どんな些細なことでも力になってやりたいって、本能的に考えちまうんだよ。お前にとってはありがた迷惑な話かも知れないが、どうか俺のわがままに付き合ってはくれないか」

 

それを聞いた瞬間、俺の中にある記録が意思に反して声を上げ、激情が心の防波堤を打ち破らんと溢れていく。自分ではそれをまったく制御できなくて、爪が食い込むほど強く拳を握ってどうにか涙をこらえる。

 

「では、そのご厚意を謹んでお受けいたします」

 

こちらの心情を察してか、学園長の言葉はない。

 

しばらくしてようやく心が落ち着いてきた頃、見計らったように彼はこう結んだ。

 

「それじゃあこれで俺の話は終わりだ。何か質問はあるか?」

 

いろいろと知りたいことはあるけれど、あまり時間の余裕がないようなので、この場では事務的な疑問だけ消化しておく。最後の質問に答えたところで、学園長は外出の支度があるからと俺を部屋から追い出した。

 

「正式採用されるまでの間、お前さんは部外者として扱われる。だからあまり1人でうろつかない方が賢明だぞ」

 

去り際、学園長からこのような助言を受けた。

 

言われてみれば、たとえ入校許可証を首から下げていたとしても、これだけ広い構内を案内人なしで歩いていたら不審がられてもおかしくはない。かといってこのまま外へ出ても、家の鍵は杏が持っている。用事が済んだ旨をひと言伝えておきたいし、とりあえずまずは彼女と会うべきか。

 

今は年度と年度の境目に当たるため、本日も通常の授業は行われてはいない。けれども杏のような生徒会役員、園さんのような風紀委員、それから部活動をしている生徒は登校している。別に後ろめたい事情などないが、しかしそれでも何となく人通りの少なそうな道を選んで生徒会長室へ向かった。

 

先日と同じように小山さんを介して手前の部屋を縦断し、奥の扉をくぐる。杏は執務椅子に寝そべるようにして脱力していた。家にいるときならばともかく、外でそんな格好をするのは乙女としていかがなことかと思うも、机に(うずたか)く積まれた書類を見る限り、俺が来るまでは真面目に仕事をしていたようなので、それを咎めるのはやめておく。

 

「思ったよりも早かったね。学園長の用事はもう全部済んだの?」

 

「ああ。残りはこちらの問題が片付いてからになるそうだ」

 

後ろに小山さんがいる手前、聞かれて困る部分はぼかして伝える。こちらの意図を察してくれたらしく、杏は神妙な顔を作って首肯した。

 

「ねえ小山、ちょっと河嶋を連れて来てくれない? 今から2人に大事な話があるの」

 

ただならぬ雰囲気を悟ったらしい小山さんは、上擦った相槌を挟み、足音を立てて部屋から出て行く。1分も掛からないうちに河嶋さんを伴い戻ったところで、杏は椅子を下りて俺の隣へやって来た。

 

「あの、会長。それで、大事なお話とは?」

 

どこか怯えるように言って、河嶋さんはこちらに目を向ける。部外者たる俺に聞かれて良い内容なのかと、その顔は語っていた。

 

「大丈夫だよ、河嶋。一郎叔父には廃校の件を伝えてあるし、これから2人に話す内容にもちゃんと関わってるからさ」

 

「そ、そうなのですか……」

 

要領を得ない部分はありそうだが、それでも河嶋さんは言葉を連ねることはなかった。小山さんも顎を引いて話を聞く姿勢になっている。

 

杏はちらりと俺を見たのち、おもむろに口を開いた。

 

「この前も紹介したけど、彼はあたしの叔父さんの大神一郎。この春に防衛大を卒業して、うちの学校に内定が決まった。いろいろあって特別非常勤講師という扱いだけど、戦車道の授業を担当してくれる」

 

一度言葉を切り、大きく息を吸ってから彼女は続ける。

 

「2人とも喜べ。担当の先生を見つけて我々が抱える問題は全部解決した。これなら文科省も文句は言えない。大洗女子は胸を張って戦車道の授業を始めることができるんだ!」

 

 

 

 

 

昼食を挟んで生徒会の3人と打ち合わせをしていたら、あっという間に下校時刻となってしまった。帰路の途中で夕飯の食材を調達し、その荷物を両手に提げて、杏とともに西日に照らされた帰り道を進む。

 

今しがた打ち合わせと銘打ったが、実際のところはあまり実のある話はできなかった。というのも、戦車道の先生が見つかって安心したのだろう、杏以外の2人が泣き出してしまったのである。特に河嶋さんは子供のようにわんわんと声を上げるものだから、何事かと様子を伺いに来た先生に事情を説明するのが大変だった。

 

その場で決まった方針は、「俺の本採用と時期を合わせて生徒たちに戦車道の魅力を宣伝をする催しを行うこと」「それまでに各々ができることをする」の2点である。中でも俺は戦車道についてほとんど何も知らないので、これからの半月の大半を勉強に充てる必要がありそうだ。

 

家に帰るとすぐに杏は夕飯の支度を始めた。本当は手伝うべきなのだろうけど、不得手な俺がいても邪魔にしかならないし、彼女は料理作りが趣味なので、任せてしまった方がよほど効率が良い。

 

俺は台所を離れ、部屋着兼運動着に着替えて外へ出る。この時間を利用して日課の走り込みをしてしまう算段だ。

 

街ひとつが乗っている学園艦は空母の何倍もの規模があって、その場では甲板の端が視認できないほど広い。その上道は何本も通っており、階段や坂で構成される起伏、建物の隙間など、とても一筋縄ではいかない地形となっている。この艦で生活する以上、周辺の地理を把握しておいて損はないし、せっかくなので今日はまだ足を踏み入れたことのない場所を中心に回ることにした。

 

道中で「せんしゃ倶楽部」なる店を発見する。立ち寄って店主に話を聞くと、どうやらここでは戦車道関係の品を扱っているらしい。20年も前に授業が廃止になった学園艦に専門店が残っているとは何たる僥倖(ぎょうこう)だろう。これは今後贔屓(ひいき)の店になること間違いなしだ。

 

その後も分かれ道に差し掛かるたび行ったことがない方へ曲がっていたはずなのに、気付けば俺は見憶えのあるところを走っていた。察しの良い方ならおわかりだろうけど、あの展望台へと続く道だ。やはりこれは帰巣本能に違いない。見えない何かに手を引かれるような錯覚に陥りつつ、俺は早足でそちらへ向かった。

 

この際、いつもの椅子で休憩するところまで日課にしてしまおうか。そんな風に考えていると、視界の奥、例の椅子に腰を下ろす少女の後姿を認めた。この短期間で何度も会っているから、顔を見ずとも誰だかわかる。幸いにも学園長から軍資金をいただいたことだし、この前のお礼を兼ねて今度はこちらが奢るとしよう。

 

「やあ、西住さん。最近よく会うね」

 

自販機で2つ飲み物を買ってから椅子の方へ向かう。俺の声に顔を上げた西住さんは、立ち上がって微笑を浮かべた。軽い挨拶を終え、飲み物の容器を手渡したところで互いに腰を落とす。

 

俺と西住さんの間隔は、この前より少しだけ狭くなった気がした。

 

「ところで、君は新学期から大洗女子学園に通うと言っていたね」

 

就職先の目星が付いたこと以外は特に代わり映えのない近況報告をする途中、ふとそれを思い出して確認を取る。

 

当たり前のことを訊いたためだろう、肯定を示す彼女には若干の困惑が見られた。

 

「実は、先ほど話した俺の働き口というのがその大洗女子学園でね。もしかしたら、君も俺の教え子になるかも知れないと思ったんだ」

 

質問の意図を話すと、目に見えて西住さんの表情が明るくなった。

 

「本当ですか!? 教え子っていうくらいですから、用務員さんじゃなくて先生になるんですよね? どの科目を担当なさるんですか?」

 

ひと区切りずつこちらへ詰め寄りながら、彼女は間断なく質問を続ける。これほど興味を持たれるとは思っていなかったので、言った俺の方が戸惑ってしまう。男の教師は珍しいのだろうか。

 

「西住さんの言う通り、一応は学園の先生として採用されたことになるのかな。担当は選択授業で、科目は戦車道だよ」

 

「──戦車道、ですか」

 

今までの元気はどこへ行ったのだろう、担当科目を伝えた途端に西住さんは顔を青くする。椅子の中ほどまで乗り出していた身体をゆっくりと持ち上げ、居心地が悪そうに背筋を伸ばした。

 

「あの、大洗女子は戦車道の授業がなかったはずじゃ?」

 

「あ、ああ。詳しい事情は省くけど、今年から復活することになったんだ」

 

「そんな……わたし、この学校は戦車道がないと思ってわざわざ転校してきたのに」

 

髪に隠れてその表情は窺えないけれど、震える声には悲痛の情が見え隠れしていた。

 

今の台詞を聞く限り、戦車道に対して嫌な思い出があるのかも知れない。けれども直接それを尋ねるわけにもいかないし、俺は何を言ってやれば良いのだろう。

 

「大神さんは、西住流という武道の流派をご存知ですか?」

 

その答えが見つかるより先に、西住さんがそんな質問をした。何かの口火になるやも知れないと思った俺は、記憶の隅、かつて姉から教わった知識を引っ張り出して応える。

 

「俺も古武術を修めているから、名前くらいは聞いたことがあるよ。確か江戸時代から続く流鏑馬の流派だったはず──って、西住? もしかして、君はその流派の関係者なのかい?」

 

「……はい。わたしのお母さんは、西住流の師範をしています」

 

つまり彼女は伝統ある流派の家元の出身というわけか。言われてみれば、柔らかい雰囲気を漂わせながらも、その立ち居振る舞いには無駄がない。武道を修めているならそれも納得だ。

 

しかし、それが今の話とどんなの関係があるのだろう。

 

「大神さんの言う通り、西住流といえば昔は流鏑馬の流派だったんですけど、今は戦車道の方が有名なんです。お祖母ちゃんの代から、お母さんもお姉ちゃんも……わたしも。西住の名に恥じないよう、小さな頃から戦車乗りになるよう育てられました」

 

頭の中で話が繋がり、なるほどなと相槌を打つ。

 

戦車道の師範の娘として、幼少より西住流を学んできたと彼女は話した。家柄を踏まえると、前の学校でもその教えを十全に発揮するような環境にいたことは想像に難くない。

 

そんな前提がある中、西住さんはわざわざ戦車道のない学校へ転校してきた。詳しいことは定かではないが、今まで培ってきた西住流を捨ててまでそうする理由があったと考えて然るべきだろう。

 

ならば、年長者として彼女に掛ける言葉はひとつしかない。

 

「俺は、西住さんに戦車道の授業を取ってくれとは頼まないよ」

 

「……え?」

 

「それは経験者がいてくれると心強いし、やってくれるのなら大歓迎だ。でも、君の気持ちを無視してまで受講させようとは思わない」

 

「で、でも……お母さんもお姉ちゃんも他のみんなも、西住の家に生まれたからには戦車道をやらなきゃダメだって」

 

「詳しい事情はわからないけれど、君はその西住流から離れるためにわざわざこの学校へ転校して来たのだろう? それなら、せめてここにいる間だけでも戦車道とは関係ない生活をしてみるのも良いんじゃないかな」

 

西住さんの瞳が揺れた。

 

「……本当に、わたしは戦車道をやらなくても良いんですか?」

 

「あまり偉そうなことを言いたくはないけれど、俺だって教育者の端くれだからね。自分の教え子には〝今〟を楽しんで貰いたいし、大人になってから『あの頃は楽しかった』と思えるような時間を過ごして欲しいんだ」

 

ちなみにこれは米田学園長の受け売りである。教師としての心構えと題して先の言葉をいただき、いたく感銘を受けたので早速使ってみた。まあ俺のような若造が言っても説得力があるとは思えないが、少しでもこちらの考えを伝えられればと思って口にした次第である。

 

対する西住さんは驚いた顔をしたまま固まっていた。言葉選びを誤ってしまっただろうかと危惧するも、その目が潤んでいくのを見て思い違いだと悟る。声にならない声を上げながら、それでも自らの気持ちを整理できたのだろう、彼女は溜まった涙が流れないよう器用に笑ってみせた。

 

「ありがとうございます」

 

決して大きな声ではなかったのに、西住さんの言葉は俺の心に重たく響いた。

 

ときおり隣の様子を窺いながら、それでも無言のまま時間が流れていく。何となく話を切り出す契機を失ってしまったものの、この沈黙は不思議と苦ではない。そんな風に考えていると、

 

「あの、大神さん。ひとつお願いを聞いて欲しいんですけど」

 

「何だい?」

 

「わたしのこと、『みほ』って名前で呼んでくれませんか」

 

彼女は恥ずかしそうに頬を染めながら言った。

 

どんな要望か見当も付かず、少しばかり身構えていたので思わず拍子抜けしてしまう。

 

あいにく鏡がないので確認はできないが、今の俺はよほど変な顔をしていたのだろう。彼女は身振り手振りで焦りを表現し始めた。

 

「別に深い意味はないんですけど、お姉ちゃんと被ってややこしいと思いますし、苗字呼びされるとむず痒いというか……いいえ、今まではそんなに気にならなかったんですけど、大神さんに『西住さん』って呼ばれると胸の奥がざわざわするっていうか、よくわからないけどちょっとだけ嫌で──」

 

「わかった。みほくん、で良いかな」

 

口を動かすごとに頬の赤みが顔全体へと広がり、目を回しながら暴走する彼女をひと言で止めてやる。親戚である杏は別として、そう歳の変わらない女の子を名前で呼ぶのは気後れするところがあるけれど、あの慌て振りを見て羞恥心を押し殺すことに決めた。

 

いろいろ言ってはいたけれど、流派から距離を置いていることだし、たぶん西住の姓を名乗ることに負目があるのだろう。

 

それに、心から嬉しそうに頬を綻ばせる彼女を見られただけで、恥を忍んで名前を呼んだ甲斐があったというものだ──なんて柄にもなく臭い台詞を思い浮かべた俺であった。

 

 

 




これにて本編第一幕は終了となります。

各章の最後に組み込むヒロイン視点の話、(サクラ大戦風の)次回予告+αを挟んで第二幕へ入る予定です。書き溜めが少なくなってきている関係で定期更新が難しくなるかも知れませんが、できるだけ投稿ペースを維持していきたいですね。


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わたしの足あと

みほが大洗女子へ転校するまでの経緯と大神さんとの出会いを、彼女の視点で綴ってみました。視点主(語り手)はもちろんみほです。

手元に資料がないため独自設定となります。正史と違う部分は、お手数ですが各自で脳内補完してください。

あと長いです。


撃てば必中、守りは固く、進む姿は乱れなし──

 

というのは、大和撫子を意味することわざをもじって作られた西住流の真髄である。特にお母さんが好きな表現で、良いことをして褒められるときも、悪いことをして怒られるときも、大事な話をするときはいつも一緒に聞かされた。そのため、わたしやお姉ちゃんの中ではお母さんといえばこの言葉という共通認識がある。

 

日本戦車道において西住流は最も歴史があり、そして最も多くの門下生を囲う大きな派閥だ。

 

西住流は統制された一糸乱れぬ陣形から繰り出される圧倒的な火力を用いて短期決戦で決着をつける──いわゆる電撃戦を得意とし、防御よりも攻撃、ないし機動力に重きを置いている。

 

西住流の教えでは何より勝つことを尊び、負けること、逃げ出すことを忌諱する傾向が強い。勝利至上主義をそのまま形にした流派で、試合に勝つためなら多少の犠牲を出しても構わないとされている。その徹底した勝ちへのこだわりから、観戦する側からも「華がある」と評判が良い。

 

かくいうわたしも、戦車に乗って西住流を体現するお母さんの姿に憧れ、いつか自分もあんな風になりたいと思う時期があった。戦車でお出掛けするときはいつもお姉ちゃんと一緒に真似をしていたし、戦車ごっこをするときはどちらがお母さん役をやるのか毎回のように喧嘩したのをよく憶えている。

 

やがてわたしも西住流を習い始める歳になった。想像していた何倍も練習は厳しく、最初の頃は筋肉痛がつらくて泣いてしまったこともある。それでも先に始めたお姉ちゃんには負けたくない、そしてお母さんに認められたいという想いを胸に毎日遅くまで練習をした。

 

目に見えない努力だけだと不安だから、誰が見ても明らかな結果を早く出したい。だから来る日も来る日も頑張って……そうして見えた結果は、わたしには西住流の才能がまったくないという惨憺(さんたん)たるものだった。

 

戦車の操縦は苦手だけど、それ以外の役割ならいつ任されても平気なくらい基礎は身に着いている。でも、西住流が絡むと途端に実力が発揮できなくなってしまう。そのせいで負けた試合は幾つもあった。

 

西住流は勝利至上主義を掲げる流派であるため、基本的に試合に勝つことをゴール地点に据えている。目的のために勝利するのではなく、勝利自体が目的と言えばわかりやすいだろう。

 

わたしにとって、勝つための目的とは心に火を灯す燃料のようなものだ。それが大きければ大きいほど頑張ろうという気持ちになるし、窮地に陥っても挫けない胆力を奮い立たせることができる。逆に、勝った先に何もない西住流の考えを取り入れると、わたしは心の重心をどこに置いたら良いのかわからなくなってしまうのだ。

 

今までも薄っすらとそんな気はしていたけれど、本格的にそれを自覚したのは中学へ進学してからである。1年生だけで行う校内模擬戦で、わたしは戦車道を始めて間もないチームに撃破されてしまったのだ。

 

西住の次女はスランプに陥っている──すぐにそんな噂が流れた。

 

日に日に周囲の目が気になるようになって、戦車道から逃げ出したいと考えるようになる。けれどもわたしが進学した黒森峰女学園は西住流の影響を強く受けた学校であったため、その跡取り娘が戦車から降りることを誰も許してはくれなかった。

 

逃げられないのならば仕方がないので、わたしは自分なりに目的を持って西住流と向き合おうとした。しかし、気持ちとは裏腹に校内模擬戦での黒星は積み上がっていく。事態を重く受け止めたお母さんがわざわざ様子を見に来てくれたのだけど、面と向かって西住流を否定するようなことは言えず、そのときは適当なことを言って誤魔化してしまった。

 

去り際に見せたお母さんの寂しそうな顔は今でも記憶に残っている。

 

負けが込むにつれ、段々と周りの人たちがわたしを遠ざけるようになっていった。西住の次女は不調なのではなく、単に才能がないのだと気付いたのだろう。西住流の落ちこぼれ、家元の娘だから特別扱いされている──直接言われたことはないけれど、裏でチームメイトがそう話しているのを何度も耳にしたことがある。

 

ダメなわたしとは対照的に、お姉ちゃんは華々しい戦績を幾つも打ち立て、2年生でありながら隊長に抜擢されるほど周りから期待されていた。当然姉妹で力量を比較され、そのたびに劣等感を抱いたものである。でも、不思議と妬ましいと思ったことはない。お姉ちゃんになら負けても仕方がない。心のどこかでそう諦観していたのである。

 

いつの頃からかわたしはお姉ちゃんを避けるようになっていた。自分を守るためではなく、わたしに構っているとお姉ちゃんまで悪く言われてしまうと考えたのである。

 

それを悟られてしまったようで、ある日わたしはお姉ちゃんに呼び出された。てっきり怒られると思っていたのだけど、実際に対面してみるとそこにいつもの凛々しさはなく、ただただ悲しそうな顔をしていた。「何か怒らせるようなことをしたか?」と問われ、わたしはすぐに否定をする。

 

迷った末、自分の気持ちを全部伝えることにした。最初は「考え過ぎだ」と否定していたお姉ちゃんは、しかしわたしの「もう戦車に乗りたくない」という言葉を機に顔色を変える。苦しそうに息を呑み、まるで呻くようにこう尋ねた。

 

「みほは、戦車道が嫌いになってしまったの?」

 

わたしは首を振る。

 

今も昔も戦車に乗ること自体は嫌いではない。むしろ、好きなのだと思う。だから余計に西住流の看板を重たく感じてしまうのだ。

 

「それなら西住流は全部お姉ちゃんが引き受ける。だから、みほはみほだけの戦車道を見つけなさい」

 

優しく目を細めてお姉ちゃんは言った。

 

それは久しく見ていなかったお姉ちゃんの〝素の表情〟で──懐かしいと思う一方、わたしはどこか救われたような気分になった。こんなわたしでも味方になってくれる人がいる。それを再認識すると同時に、どれだけ探しても手に入れられなかった「戦車に乗る目的」を見つけることができた。

 

お姉ちゃんの力になりたい。

 

その想いを心の底に留めてみると、自分でも不思議なくらい動きが良くなった。相変わらず西住流は下手っぴだけど、わたしだけの戦車道を模索しながらいろんな策を試すうち、段々と模擬戦で勝てるようになっていく。西住流の定石を知った上で、その弱いところを攻めるやり方が多いことから、わたしのやり方を「邪道」と言う人もいた。それでも良い成績を残すたび、お姉ちゃんがまるで自分のことのように喜んでくれたので、それを励みに頑張った。

 

黒森峰の高等部へ進学した辺りから、わたしのことを認めてくれる人が増えていく。西住流に傾倒する先輩からは相変わらず良い顔をされなかったけれど、同学年の子たちからお休みの日に遊びに誘われるようになって、もう少しでお友達になれそう──なんて思っていた矢先、事件は起きた。

 

忘れもしない1年生の夏、高校戦車道の全国大会でのことである。黒森峰女学園は前年までに9連覇の快挙を成し遂げ、前人未到の10連覇を賭けて試合に臨んだ。大きな目標のお陰でチームの士気は1回戦から最高潮で、OG会や世間の期待に応えるように勝ち進んでいく。

 

そして迎えた決勝戦、その当日はあいにくの悪天候で、視界も足回りも最悪だった。

 

この大会でわたしはお姉ちゃんから副隊長の任を拝命し、決勝戦ではチームの心臓部であるフラッグ車の車長として主に後方支援を担当していた。

 

決勝の相手である青森のプラウダ高校に対し、お姉ちゃんたち本隊は持ち前の電撃戦術で序盤を制することができた。このまま行けば順当に勝利するだろうと考えていたところ、運悪くわたしたちフラッグ車が相手の斥候に見つかってしまう。

 

お姉ちゃんに指示を仰ぐと、撤退ではなく進軍を命じられた。

 

このときわたしたちは崖に面した細い道におり、降りしきる雨で滑りやすくなっていること、相手の砲撃で絶えず地面が抉られていることなどを踏まえると、ここでの前進は無茶な作戦に思える。しかし「西住流に逃げるという道はない」という教えがある以上、お姉ちゃんも弱気な行動は取りたくはなかったのだろう。

 

命令なら従わなければならないので、わたしはフラッグ車が率いる小隊を前進させた。 再三にわたって注意を喚起したこともあって順調に前へ向かっていたのだけど、道も半ばのところで敵の砲弾を避けた1両が滑落し、荒れ狂う濁流へ呑まれてしまう。

 

それを見た瞬間、わたしの頭は真っ白になった。

 

早鐘を鳴らす鼓動が耳朶(じだ)を打つ。行き場のない焦燥感で麻痺しかけた頭を回転させ、わたしは打開策を見つけようと必死になった。

 

けれどもそれは底なし沼の中で足の踏み場を探すように無謀な行為で、足掻けば足掻くだけ胸が苦しくなってしまう。いったいどうすれば良いの?

 

自問自答に雁字搦めになって身動きが取れずにいたところ、ふいにわたしの世界からすべての音が消えた。……今でも不思議だけど、そう形容するしかない現象に襲われたのである。

 

数瞬の沈黙を経て最初に聞こえたのは、無線越しに助けを求める隊員たちの声であった。

 

刹那のうちに天与の閃きを得る。すぐさまわたしはキューポラから出て、転げ落ちるように崖を下った。

 

そこから先はよく憶えていない。目が覚めるとそこは病院の個室で、身を起こすと、いたるところから鋭い痛みを感じた。腕や足には包帯が巻かれていて、少し動かしてみた感じ切り傷を負っているようである。

 

その後お見舞いに来たお姉ちゃんの話で、先の試合でわたしが戦車を降りて水没した車両まで泳いで行ったこと、救助隊が来る前に搭乗員を助けることができたこと、彼女たちも入院しているけれど命に別状はないこと……そしてわたしがいなくなったことで動けなくなったフラッグ車が撃破され、10連覇を逃してしまったことを知った。

 

聞いているうち、いつも通りの凜とした表情の中に怒りが見え隠れしていることに気付く。その理由はわかっているため、機先を制してわたしはごめんなさいをした。

 

するとお姉ちゃんは溜息をついて、

 

「いくら水没車両を助けるためとはいえ、砲弾がいつ飛んでくるかもわからないのに外へ出たら危ないじゃないか」

 

てっきりわたしの行動が原因で負けてしまったことを咎められると思っていたのだけど、怒りの矛先はどうやら危険を冒したことに向いているようだ。

 

こちらの身を案じてくれるのは妹として純粋に嬉しい。けれども西住流を体得しているお姉ちゃんが負けることに無頓着、ということはないだろう。わたしの行動を怒っていないのかと訊くと、

 

「実のところ、悔しくないといえば嘘になる。確かに西住流としては咎めるべきだし、今後誰かにそれを責められてしまうかも知れない。しかし、みほの行為は決して正義に(もと)るものではないはずだ。……それに、同じ状況で同じことをできる者はほとんどいない。だからこそ、お姉ちゃんはお前が妹であることを心から誇りに思う」

 

よくやった、とお姉ちゃんこの前と同じ笑顔を見せる。

 

他の誰でもないお姉ちゃんが認めてくれたから、わたしは自分の行動に自信を持つことができた。

 

たとえどんな批判に晒されても受け止めてみせる──そんな思いはしかし、すぐに打ち砕かれてしまった。

 

一番尊敬する戦車乗りのお母さんに、真っ向からわたしの行為を非難されてしまったのである。

 

あの日お姉ちゃんに励まされてからというもの、わたしなりに積み重ねてきたすべてが音を立てて崩れ落ちた気がした。誰かのために頑張り、誰かのために行動するのが悪だというなら、いったいわたしはどんな理由で戦車に乗れば良いのだろう。

 

……ううん。それ以前に、わたしの想いを全部否定する戦車になんてもう絶対に乗りたくない。そう考えてしまった。

 

チームメイトの大半やOG会、西住流の門下生など、お母さん以外の人からも会うたびに叱責された。「批判を受け止める」なんて意気込みはどこへ行ったのか、今まで以上の冷遇に耐えきれなくなったわたしは、秋を待たずして戦車から降りる決断をする。

 

いつも気に掛けてくれたお姉ちゃんや、お友達の一歩手前まで仲良くなっていた逸見さん、その他にも止めてくれる人はいた。正直こんなわたしを必要としてくれるのは嬉しくはある。

 

だけど、もう心が折れてしまった。

 

西住流なんて──戦車道なんて大嫌い。

 

面と向かってそう告げると、わたしを引き止める人はいなくなった。

 

黒森峰女学園の10連覇を邪魔した戦犯であるわたしのことは戦車道を受講していない生徒の間でも有名になっていて、せっかく戦車を捨てたというのに、取り巻く環境は前よりむしろ悪くなっていた。お姉ちゃんや逸見さんたちが悪評をなくそうと動いてくれていたらしいのだけど、目立った改善はなく……むしろ、わたしを庇うことでみんなに火の粉が降り掛かり、今やその立場が悪くなりつつあるらしい。

 

わたしの行動が原因で自分が傷付くだけならまだ我慢できる。でも、そのせいで他の誰かが悪く言われるのは耐えられない。

 

だから、あの1件以降苦手意識が付いてしまったお母さんに何度も頼み込んで、わたしは黒森峰から別の学校へ転校することにした。

 

「西住流の名を継ぐ者として、本来ならあなたは戦車から降りることが許されない立場にいます。それを理解した上で、みほがどうしてもと言うのなら転校を許しましょう。ただし、今後あなたには戦車に乗ることを禁止します」

 

以上が、転校に際してお母さんから受け取った言葉である。

 

これ以上お母さんに迷惑は掛けたくないし、わたし自身もう戦車に乗りたくないので、転校先は戦車道が何年も前に廃止となっている大洗女子学園を選んだ。

 

これからは本当の意味で戦車とは無縁の学生生活を送ることになる。異性とほとんど接したことがないし、そもそも女子校だから恋を経験できるとは考えていないけれど、いわゆる普通の女子高生として今度はお友達とたくさん思い出を作りたい。

 

3月最初の寄港で学園艦へ搭乗し、新学期に向けていろいろと準備をしていたある日、わたしは不思議な出会いを体験した。

 

その日は荷造りも一段落して、学園艦の地形を把握しようとお散歩に出掛けた。途中「せんしゃ倶楽部」というお店を見つけて気が動転してしまい、周囲の確認を怠っていたところ同じくらいの歳の女の子とぶつかってしまう。その拍子に家の鍵を失くしてしまい、1人で探していると、

 

「何か困っているようだね」

 

横から声を掛けられる。突然のことに驚きながら視線を上げてみれば、そこには眉目秀麗という言葉がよく似合う男性がいた。

 

思わずわたしは声を失ってしまう。脳が目の前に〝彼〟がいる事実を受け入れられず、一種の思考停止に陥ってしまったためだ。

 

面識こそないものの、わたしはこの人を一方的に知っている。

 

彼はお母さんの初恋の相手で──本人は「尊敬する偉人」と言って譲らないのだけど、実家の使用人の菊代さんがこっそり教えてくれた──、わたしやお姉ちゃんは何度もその半生を聞いて育ったのだ。

 

実のところ、彼はわたしにとっても憧れの存在である。そのためこうして会えたことに内心では舞い上がってしまいそうなくらい嬉しいのだけど、しかしどうしても気掛かりなことがあって素直に喜べない。

 

わたしの記憶が正しければ、彼はもう半世紀以上も前に亡くなっている。それに顔立ちは瓜二つと表現して良いものの、お母さんが持っていた写真よりずっと若々しく、わたしとそう変わらない年齢であることも不可解だ。

 

本当に彼はわたしの知る〝彼〟なのかな?

 

疑問が氷解するより先に、彼は失くした鍵を一緒に探したいと申し出た。憧れの人に迷惑を掛けたくはないので遠慮するも、「自分は帝国軍人だから困っている人は見過ごせない」と押し切られてしまう。それから彼の手を借りて30分、無事鍵を見つけることができた。

 

目先の問題がなくなったところで互いに自己紹介をする。

 

そこで彼は自らを大神一郎と名乗った。

 

他人の空似だよねと表面的に考えたのは、それが最もシンプルな解であったためである。しかし心の一番深いところではまったくの逆、むしろ今の自己紹介でわたしは彼が〝彼〟であると確信していた。

 

根拠と呼べるほど論理的な材料はない。でも、出会ってから今までに見せたすべての行動は、あのお母さんが優しい笑みを浮かべて語る彼の人物像とこれでもかというほど一致していたのだ。

 

幸いなことに、彼との出会いは一期一会にはならなかった。その翌日のこと、日課のジョギングの途中で顔を合わせたのである。黒森峰にいた頃の癖が抜けきらないだけで、ほとんど惰性で身体を動かしていたのだけど、こうして彼に会えたのだから喜びも一入(ひとしお)だ。

 

どうやら彼にも同じ日課があるらしい。それを聞いた瞬間に、わたしは惰性を習慣へ再び昇華させる決意を固めた。

 

話をするうち、わたしは彼が自分でもどうしてこの時代にいるのかわかっていないのだと知る。けれども手掛かりはあるようで、次の寄港でそれを確かめに行くそうだ。

 

その2日後、日課を終えて休憩していたわたしに、今度は彼の方から声を掛けてくれた。密かに期待していただけに嬉しさが込み上げてきたのだけど、はしたないので表には出さない。

 

なんと、彼は今度わたしが通う大洗女子学園の先生になるそうだ。

 

もはやわたしに感情を隠すことなどできはせず、詳しい話が聞きたくて彼へ詰め寄った。絶対にその授業を履修しようと担当科目を尋ねてみたら、狼狽えながらも戦車道を任されたと言う。

 

それまで上り調子であった意識が急下降する。お母さんは獅子ではないけれど、まるで千尋の谷へ突き落とされたような気分だ。忍道や仙道を始めとする未経験の選択授業ならともかく、よりにもよって戦車道……というか大洗女子学園には戦車道の授業はなかったはずじゃ?

 

聞けば、故あって今年からそれを復活させることになったらしい。確かプロリーグの発足に伴って、どの学校でも戦車道に力を入れるようにと文科省が推していたはずだし、その影響だろう。

 

一瞬、「最初からわたしが西住流の娘だと知って声を掛けたのかな」と勘ぐってしまうも、すぐに否定する。彼の時代ではまだ西住流は流鏑馬の流派でしかなく、少なくとも初めて会った段階ではわたしが戦車乗りの家系の出とは知らなかったはずだ。念のため確認を取ってみたら、似たような答えが返ってきたのでひと安心である。

 

わたし自身もまだ心の整理が付いていないことを察してくれたのだろう、必要以上の詮索を避け、代わりに彼はこのように言った。

 

「俺は、西住さんに戦車道の授業を取ってくれとは頼まないよ」

 

「それは経験者がいてくれると心強いし、やってくれるのなら大歓迎だ。でも、君の気持ちを無視してまで受講させようとは思わない」

 

「詳しい事情はわからないけれど、君はその西住流から離れるためにわざわざこの学校へ転校して来たのだろう? それなら、せめてここにいる間だけでも戦車道とは関係ない生活をしてみるのも良いんじゃないかな」

 

それらは彼がわたしのことを〝西住の娘〟という色眼鏡を通してではなく、〝西住みほ〟として見てくれている何よりの証拠で……お母さんはもちろん、いつも味方になってくれたお姉ちゃんでさえ掛けてくれたことがない、今わたしが一番欲しい言葉だった。

 

嬉しさのあまり涙が出そうになるも、彼にみっともない姿を見せたくないという自尊心、もとい乙女心でどうにかこらえる。

 

それでも感情の昂りは抑えきれず、気付けばわたしは自分を下の名前で呼んてくれるよう頼んでいた。

 

彼からしてみれば、何の脈絡もなくそうお願いされて困惑したことだろう。だけど、わたしだって無意識のうちに口を()いて出た言葉だから言い訳のしようがない。それは彼に「みほ」って呼ばれたくないのかと訊かれたら首を振るしかないけれど……そういうのはもっと2人の距離が近くなってからでも遅くはないというか。

 

恥ずかしさといたたまれなさからどうにか場を繕おうと口を動かしていると、それに割って入る形で彼はわたしの名前を呼んでくれた。

 

それを耳にして平静を装えるはずもなく、感極まって頰が緩んでしまったことは言うまでもない。

 

 

 




姉住さんは、みほと2人きりのときは一人称が「お姉ちゃん」に変わりそうなイメージ。

不器用で、自分の想いを上手く伝えられないけれど、心の中ではいつも妹のことを考えていて……黒森峰が10連覇を逃したときも、西住流の教え通りにみほを批判するのではなく、後でこっそり「よくやったな」と褒めてあげる気がします。


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次回予告&別の世界線(聖グロリアーナ編)

頭の中で「檄!帝国華撃団」か「御旗のもとに」のイントロを思い浮かべながら読むのをお勧めします。実際に曲をかけながら読んでも構いません。
それっぽくなっていれば幸いです。
ちなみに、次回予告に関しては、その前の話で語り手をしたヒロインが読み上げている設定にします。今回はみぽりんが担当ですね。

後半部分は、文字数制限の関係で急遽作った短編となります。


次 回 予 告

 

 

無事、大洗女子学園の先生になることができた大神さん

 

初めての授業に備えて戦車道について調べるうち、大神さんは西住の娘でありながら戦車を降りた少女が抱える心の傷を知った

 

たとえ戦車道の経験者が他にいなくても、あの子だけには無理強いをさせてはならない

 

そんな考えとは裏腹に、彼の(あずか)り知らないところで暗躍する影があって──

 

次回、戦車大戦

 

第二幕『結成、大洗華撃団です!』

 

学園艦の明日を目指して、パンツァー・フォー!

 

「あの、大神さん。……わたしと勝負してくれませんか?」

 

 

 

 

 

 

おまけ「もしも大神さんが聖グロに赴任したら」

 

 

 

「一郎さんはこんな言葉を知っていて? 成功は最終目的ではなく、失敗したら終わりでもない。大事なのは続けることなんですのよ」

 

正面の椅子に座る金髪碧眼の少女、ダージリンくんはそう言ってティーカップを口元へ運んだ。目を閉じ、静かに紅茶を飲む姿は本物の英国淑女のように優美で、つい我を忘れて見惚れてしまう。

 

「イギリスの元首相、ウィンストン・チャーチルですね」

 

ダージリンくんの言葉を補足するように声を出したのは、向かって左側にいる小柄な少女、オレンジペコだ。OG会の発言力が強く、年功序列の意識が濃く残るこの学校で、入学して間もなくダージリンくんの信頼を勝ち取った期待の1年生である。

 

「いきなりどうしたのです、ダージリン」

 

今度は右側の席に腰を下ろす、色素の薄い髪をおでこが見えるようにまとめた少女、アッサムが口を開いた。淑やかで礼儀正しく、面倒見も良いことから多くの生徒に慕われる模範生である。

 

ここ、聖グロリアーナ女学院は、英国の格式や作法を身に着けることで気品ある乙女の育成を目指すお嬢様学校だ。

 

名門校ということで、生徒たちには学業のみならず芸術や運動、ボランティアへの取り組みが推奨される他、「社交性を重視する」という校風の下、全員参加が義務付けられるお茶会が定期的に開催されるなど、あらゆる活動を通して女性としての資質を磨くことを教育方針として挙げている。

 

配属先の大帝国劇場へ向かう機関車の中で眠りに就き、目を覚ますと俺は100年先の未来へ迷い込んでいた。途方に暮れていた俺に手を差し伸べてくれたのは、そのことを教えてくれたダージリンくんである。彼女の働きによって住む場所を得た俺は、紆余曲折を経て、聖グロリアーナの教師として戦車道という武道の選択授業を受け持つことになった。

 

新たな就職先まで斡旋してくれたダージリンくんには本当に感謝している。今の俺があるのは彼女のお陰だと言っても過言ではない。

 

しかし、経歴はおろか身分も不確かな相手をここまで支援するのは、いくらなんでも学校の方針を逸脱しているのではなかろうか。彼女の厚意を疑うわけではないけれど、どうして見ず知らずの俺にそこまでしてくれるのだろう。

 

前にその理由を尋ねてみたことがある。すると、ダージリンくんは相変わらずの不敵な笑みを浮かべながらこう言った。

 

持てる者の義務(ノブレス・オブリージュ)ですわ」

 

今思えば答えになっていない気もするが、彼女が言うと納得できてしまうから不思議である。事実、過去の俺は何の疑問も抱かなかった。

 

聖グロリアーナにおいて、戦車道は生徒たちが最も関心を集める事柄のひとつだ。

 

受講者のうち、戦車にまつわる技術はもちろん、学業成績、気品や優雅さ、礼儀作法から人望に至るまで高い資質を持つ生徒は幹部生として認められ、紅茶にちなんだ渾名が送られる風習がある。彼女たちだけが利用できるクラブハウス『紅茶の園』は全生徒の憧れで、そこへ入る資格を得るために日々切磋琢磨しているそうだ。

 

もうお気付きだろうが、俺と相席する3人はともに紅茶の渾名を持つ幹部生だ。中でもダージリンくんは戦車道チームの隊長、ペコやアッサムはその副官、参謀役を任されているため、『紅茶の園』の利用を許された生徒からも注目されている。

 

さらに言うと、紅茶の渾名を賜ったわけでもなく、ましてや男の俺がいることで周りの関心が助長されている気がしないでもない。ここへ来るたび様々な感情を乗せた視線を注がれて正直落ち着かないのだけど、他ならぬダージリンくんが是非にと言うので毎日のように足を運んでいる。

 

さて、話を戻そう。先のダージリンくんの言葉に対して、アッサムは疑問を呈した。しかしそれも当然といえば当然で、現状で彼女の真意を理解し得るのは恐らく俺だけである。……というか、明日の朝一番に話そうと思っていたのに、どうしてダージリンくんがそれを知っているのだろうか。

 

きっと尋ねたところで飄々と躱されるのは目に見えているし、下手な抵抗はしないでおこう。俺は溜息をつくことで肯定を示した。

 

「……昨日の会議でついにOG会が首を縦に振ってくれてね。近く導入が予定されていたクロムウェル巡航戦車に加え、新たにセンチュリオンが今年の全国大会から使用できるようになった」

 

特定車輌以外の運用を禁ずるこの学校の流儀、そしてその発信源たるOG会に対して真摯に、粘り強く交渉を続けた末にようやく成果を勝ち取ることができた。ただ伝統に縛られるだけでなく、より良いものにするため、時に新たな文化を取り入れる──これを皮切りに、ダージリンくんが夢見る温故知新が実現することを願うばかりである。

 

「本当ですか!?」

 

「なるほど、それで朝からダージリンの機嫌が良かったのですね」

 

俺の言葉にペコが目を輝かせ、アッサムが納得したように頷く。

 

聖グロリアーナを全国優勝へ導くため、教師として当たり前のことをしただけなのだけど、それでみなが喜んでくれるのなら俺も頑張った甲斐があるというものだ。

 

「あなたにかかれば、あの頑固なお姉様方も骨抜きですわね」

 

2人だけでなく、そう話すダージリンくんも嬉しそうだ。

 

「先ほどの言葉の通り、何事も継続することが大切なのよ。だから一郎さんには引き続き交渉に励んでいただいて、ゆくゆくはコメット巡航戦車も運用できるようにしてくださいな」

 

元々運用が決まっていたクロムウェルでさえ難色を示していたOG会が、さらに別の戦車を導入することに否定的なことは自明の理だ。そんな前提がある中、ようやくセンチュリオンの運用にこぎつけたというのに、ダージリンくんも無茶を言う。しかしまあ、教え子の頼みを無碍(むげ)にはできないし、やれるだけのことはやってみることにしようか。

 

これはまた骨が折れそうだと考えていると、横から不満げに息を呑む音が聞こえた。見ると、アッサムが眉間に皺を寄せており、

 

「言葉が過ぎますわよ、ダージリン。わたくしたちのことを想ってご尽力なさっているのに、あなたの言い方では、一郎様を便利な道具としか思っていないように聞こえます」

 

データ主義とダージリンくんが評するように、過去の統計などに精通する彼女は、知識を蓄える過程でかつてこの世界で生きていた別の俺のことを知ったらしく、こうして味方をしてくれることが多い。彼女が知る大神一郎の記憶がない以上、なんだか好意を利用しているようで罪悪感を憶えることもあるが、その反面「こんなに可憐な子に尊敬の眼差しを向けられるのも悪い気はしないな」とも思う。

 

しかしながら、先の発言に悪意がないことは経験則でわかっている。それにダージリンくんのことだ、きっとアッサムの小言に心を揺らすこともなく、持ち前の巧みな話術で煙に巻くに違いない。

 

「あら。それは誤解よ、アッサム。一郎さんに期待し、全幅の信頼を寄せているからこそ、わたくしはあえてあのような言葉を使ったのですわ」

 

予想通り、ダージリンくんはもっともらしいことを言ってこの場をやり過ごすつもりである。

 

いつもなら追求するだけ無駄と諦めるところだが、しかし今日のアッサムはひと味違った。席を立ち、ダージリンくんの耳元へ顔を寄せた彼女は、

 

「……一郎様に嫌われても知りませんわよ?」

 

離れていたので密談の内容はわからないけれど、それを機にダージリンくんはぴたりと動きを止めた。ティーカップを胸の辺りまで持ち上げた状態で、淑女の手本のような微笑をたたえたまま──いや、よく見ると口の端が引き攣っている。金切り音が聞こえると思ったら、彼女が持つカップとソーサーが手元の震えに共鳴していた。

 

「そ、そそそ、そんなことにはならないわよね? ね? 一郎さんはお優しい方だから、わたくしがちょっと意地悪を言っても決して嫌いになったりしないはず……よね?」

 

ひと味違うのはダージリンくんも同じで、どういうわけか平時では考えられないくらい取り乱していた。

 

果たして何を言えばここまで彼女を動揺させられるのだろう。後学のために知っておきたいところだ。

 

「ねえ、お願いだから返事をして頂戴。無視されているみたいでとっても寂しいの。一郎さんにそんな仕打ちをされたら立ち直れなくなってしまいますわ。……あの。早く何かおっしゃらないと、わたくし泣いてしまいますわよ? 良いんですの?」

 

先ほどよりも弱々しい声が聞こえ、思考の海に沈んでいた意識が持ち上がる。視線の先にいるダージリンくんは、言葉通りその瑠璃色の瞳をこれでもかというくらい潤ませていた。

 

「ああ、すまない。少し考え事をしていてね、別に無視をしていたわけじゃないんだ。それに、多少きつい言葉を使われたとしても、それでダージリンくんを嫌いになることはないから安心して良いよ」

 

聞こえていた範囲で答えを返す。嘘偽りのない本音だ。

 

俺の声からそれを察したのか、ダージリンくんはその顔に大輪の花を咲かせる。今までに見たことがない、歳相応の幼さが残るかわいらしい笑顔だった。

 

そののち、彼女は腕組みをしてアッサムへ向き直る。

 

「ほら見なさい、アッサム。一郎さんはね、あなたが思うよりずっと心の広い方なのよ」

 

「……まったく、すぐ調子に乗るんですから」

 

ダージリンくんの百面相ですっかり毒気を抜かれてしまったのだろう。呆れ顔で嘆息しつつも、アッサムに先ほどまでの怒りは見られなかった。

 

カップに残る紅茶を飲み干して、ダージリンくんは席を立つ。

 

「さて、そろそろお昼休みも終わるわ。午後からはお待ちかねの戦車道よ。アッサムもペコも早くなさい、授業に遅れてしまいます」

 

その場で右手を突き出し、高らかに彼女は宣言する。

 

「──英国華撃団、出撃ですわ!」

 

 

 




ダー様はデレるとめんどくさかわいくなりそうなイメージ。

あと、聖グロについて調べて知ったのですが、アッサムさんの背は150センチしかないそうです。見た目の雰囲気から、なんとなく160以上あるような気がしていました。大神さんと二人羽織をしたらすっぽりと身体が収まりそう。


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第二幕 結成、大洗華撃団です!
あんこうと過ごす休日



婚活戦士ゼクシィ武部の語呂の良さは異常。

というわけで、これより第二幕に入ります。
書き溜めの量が心許ないのは相変わらずですが、なるだけ定期更新を続けていきますので、これからもどうぞよしなに。




 

俺が大洗女子の学園艦で生活するようになってから、早いもので10日が経過した。気付けば暦も4月となり、陸では桜の花が見頃を迎えている。

 

けれども、1年を通して移動を続ける学園艦では季節の花が自生できないため、残念ながら春らしさを感じることはできない。なんでも、街の彩りが様変わりするのは雪が降ったときだけであるそうだ。日本男児たる俺としては、それに少々物足りなさを覚えてしまう。

 

ちなみに大洗女子の学園艦は太平洋を南下しているらしく、朝の天気予報で熱中症に警戒するよう呼び掛けていた。昨日の朝までは上着が手放せないほど気温が低かったこともあって、その寒暖差に少しばかり辟易してしまう。初出勤までに体調を崩さぬよう気を付けねば。

 

内定が決まってからというもの、俺は1日の大半を勉強に充てていた。これから授業を受け持つ戦車道のことはもちろん、この時代における常識や生徒たちが当たり前のように扱う外来語など、その内訳を挙げるときりがない。杏と出掛けて荷物持ちをしたり、ジョギング終わりにみほくんと取り留めのない話をしたり、ときおり息抜きを挟んでまた机へ向かう。昔から勉強が苦にならない体質だということもあるけれど、時代を経て進化した御国について学ぶのは想像以上に楽しく、ある調べ物をしているうちにひと晩が過ぎてしまうこともあった。

 

念のため付け加えておくが、俺は別に寝る間も惜しんで勉強しているという認識はない。あくまで好きなことを好きなようにしているだけだ。しかしながら、客観的には相当根を詰めているように見えるらしく、今朝一番に杏から「たまには休みなよ」と言われてしまう。

 

無理をしているつもりはないと食い下がったところ、

 

「一郎叔父」

 

杏に名を呼ばれた途端、部屋は蒸し暑いのに寒気を感じ、思わず身を震わせる。

 

低い声を出したにもかかわらず、その顔には表情が宿っていない──それは姉が本気で怒っているときに見せる兆候と同じだった。決して逆らってはならない。本能的にそう察し、俺は抵抗の意思を捨てた。

 

杏が学校へ行ってから、空いた時間をどう使うか考えてみる。テレビやパソコンなどの電子機器にはまだ慣れていないので、勝手に触って壊してしまわないか不安だ。昼食はすでに用意されているし、まだ早いうちから惰眠をむさぼることには抵抗がある。家にいてもやることがなさそうだし、ここはひとつ出掛けてみようか。

 

いつもの展望台で海を眺めるも良し、せんしゃ倶楽部の店主から話を聞くも良し、童心に返って艦内を探検するも良し、剣の修行をするのも良いだろう。できることはたくさんあるので、何から手を付けようか思案しながら支度をし、とりあえず地図と財布を持って家を出た。

 

改めて調べてみたところ、大洗女子の学園艦は全長約7600メートル、3万人が船上で生活しているという。旧海軍で最も大きいとされる空母が信濃の266メートルなので、概算で30倍もの規模だ。正直数字だけではどれほど巨大か見当も付かないが、しかしこれでも学園艦の中では小さい方らしい。果たして最大級の学園艦はどれほどの全長があるのか、一度で良いから見てみたいものだ。

 

家から少し離れたところにあるT字路で立ち止まった俺は、周囲を確認してから地図に目を落とす。そこに書かれた情報と目に映る景色、それから自分の記憶とを比較し、より深く地理を把握しようという寸法だ。

 

たとえば、ひとつ先の交差点を左折するとコンビニがある。右折したのち2つ先の角を左へ進めば杏御用達の和菓子屋があるし、このままずっと真っ直ぐ行けば服や雑貨、食品などの店を集めた複合商業施設が見えてくるはずだ。

 

どちらへ行こうかと考え、そういえば洗剤の予備がないと杏が話していたのを思い出す。商業施設の中に薬局が入っていたはずなので、良い機会だから買いに行くか。

 

交差点を3つばかり越えたところで立ち止まり、もう一度地図を広げてみる。ここで脇道に折れると、その先に散髪屋があるらしい。もう軍人ではないとはいえ、今さら髪を伸ばすことにも抵抗があるし、給料が出たら利用させていただくとしよう。

 

このような発見があるから探索は面白い。他にも何かないか、地図を見ながら歩き出す。

 

当時は無自覚であったが、これはいわゆるながら歩きに該当し──実際にぶつかってしまうまで、近くに誰かいることに気が付かなかった。

 

小さな悲鳴が耳に入り、一拍遅れて我に帰る。視線を上げると、栗色の髪の少女が目の前でよろめき、今にも倒れそうになっていた。どうやらこの子とぶつかってしまったらしい。咄嗟に地図を放り投げて彼女の手を握った俺は、そのまま抱き寄せるようにして転倒を阻止する。

 

すぐそばで感じるふわふわとした感触と、鼻腔を撫でる砂糖菓子のような甘い匂いで頭が沸騰してしまいそうになる。顔が近い。ああ、可憐だ……そこまで考え、これではいかんと距離をとる。

 

回らない頭を無理矢理動かして謝罪の言葉を探す。

 

対する彼女は何を思っているのか、呆然とこちらを見たまま立ち尽くしていた。

 

「……もう、沙織さん。しっかりしてください」

 

脇から聞こえた声に、目の前の少女ではなく俺が肩を震わせる。見ると、長い黒髪の女の子──余談だが、この子も可憐な容姿をしている──がすぐそばにいた。全然気付かなかった……というか、一連の出来事を見られていたのか。なんだかいたたまれない気持ちになる。

 

彼女に肩を揺すられて意識を取り戻した栗色の髪の子、沙織さんは途端に顔を朱に染めた。どうしたのだろうと思ったのも束の間、彼女は「華、ちょっとこっちに来て!」と黒髪の子の手を引いて向こうへ行ってしまう。

 

「ねえ、華」

 

「どうしました?」

 

「わたし、今あのイケメンと出会い頭にぶつかって、手を握られて、抱き締められちゃったんだよね……こんなに偶然が重なるなんてもう運命としか言えないんじゃないかな。早く結婚しないと」

 

「何を血迷っているのですか、あなたは」

 

「わたしはいたって正気だよ!」

 

「どう考えても正気でないから言っているんです」

 

「だってだって……ほら! 朝遅刻しそうなヒロインがジャムを塗った食パンを咥えて走っていたら、曲がり角で男の子とぶつかって……なんてシチュエーション、少女漫画の定番じゃない? 今の状況はそれとそっくりだよ。だからきっと彼はわたしの運命の相手で──」

 

「わたくし、食パンならジャムよりハニートーストが良いです」

 

「朝から重いよ! だいたい、パン1斤を咥えて走る絵面はいくらなんでもシュール過ぎるでしょう……てか、そんなヒロインじゃ恋に発展する気がしない!」

 

「そんなことより、あの方を放っておいてよろしいのですか?」

 

「もう、華が話を脱線させたんじゃん……って、そうだったね」

 

密談を終えた2人ががこちらへ向き直った。

 

聞き耳を立てるわけにもいかなかったので、彼女たちが何を話していたのかはわからない。

 

沙織さんは未だに落ち着かない様子である。何を言われるだろうと警戒していたところ、俺の予想とは裏腹に彼女はぺこりと頭を下げた。

 

「先ほどはよそ見をしていてごめんなさい。それから、助けてくれてありがとうございます」

 

「え? ああ、いや……こちらこそ、ぶつかってしまってすまなかったね。怪我はないかい?」

 

「大丈夫です。その……あなたが支えてくれたから」

 

「そうか、君が無事で本当に良かったよ」

 

安堵で口元が緩む。怪我がなくてひと安心だ。

 

沙織さんはぽかんと呆けたかと思えば、すぐに手で頬を覆い、

 

「……やだもー」

 

と独りごちる。どういうわけかその顔はとろけきっており、耳まで真っ赤になっていた。怒っているわけではなさそうだが、しかし彼女が何を考えているのかは(よう)として知れない。

 

「友人を助けてくださってありがとうございます」

 

会話が途切れて困っていたところ、いつの間にか目の前へ来ていた黒髪の子、華さんがお礼を口にした。数分前と同様、声を掛けられるまで気付かなかった俺は思わず後ずさりをする。

 

華さんは親切にも俺が落とした地図を拾ってくれた。別に変わった動きこそないけれど、その所作の一つひとつが洗練されている。みほくんのように、彼女も何が嗜んでいるのだろうか。

 

「ありがとう」

 

「いいえ、お気になさらないでください」

 

言ったのち、華さんはその顎に人差し指を添える。

 

「ここの地図を見ながら歩いていたようですけど、もしかして最近学園艦へいらした方ですか?」

 

「ああ。少し前に大学を卒業して、この春から学園艦で働くことになっているんだ」

 

彼女たちがいたずらに吹聴して回るとは考えていないけれど、「正式採用されていないうちは不用意に身分を明かすべからず」と学園長から釘を刺されているので、先の質問には当たり障りのない答えを返すことにした。

 

「さてと、俺はそろそろ行くとするよ」

 

これ以上追求されても困るので、そろそろこの場を離れるとしよう。

 

「あ……」

 

歩き始めて間もなく、沙織さんが寂しそうな表情をしているのに気付いて足を止めた。どんな要因があってのことかは定かではないが、どうやら俺との別れを名残惜しく感じてくれているらしい。

 

見たところ2人は杏やみほくんとそう変わらない歳のようだし、恐らくは大洗女子学園の生徒だろう。戦車道のことはまだ言えないけれど、ひょっとしたら俺の教え子になるかも知れない。そうでなくとも同じ船の上にいるのだ、きっとどこかでまた会えるだろう。

 

「今度会うことがあったら、改めて今回のお詫びをさせて貰うよ」

 

「は、はい! 楽しみに待ってます!」

 

ぶんぶんと大きく手を振る沙織さん、控えめにお辞儀をする華さんと別れた俺は、当初の目的であった洗剤を買うべく進路へ戻った。

 

 

 

 

 

「よう、大神先生。よく来たな」

 

買い物を終え、荷物を置きがてら家へ戻った俺は、杏が用意してくれた昼食をいただいてから再び外へ出る。その足で向かったのは、近頃足繁く通っている戦車道関連の店、せんしゃ倶楽部だ。

 

ここの店主は強面の風貌でありながらたいへん気前の良い方で、資金不足のため冷やかししかできない俺に対しても「戦車道好きに悪い奴はいない」とあたたかく接してくれる。これから長い付き合いになるだろうということで、彼には俺が大洗女子で戦車道を教えることを話しており、こうして足を運んでは意見を交わす仲だ。

 

せんしゃ倶楽部は休日こそなかなかの賑わいだが、今日のような平日はたいてい閑古鳥が鳴いている。客層もかつて戦車道を嗜んでいたご婦人方がほとんどで、大洗女子に在籍するくらいの歳の子がいるところを見たことがない。

 

ここへ来るほど関心があれば、きっと戦車道の授業を履修してくれるはずだ。多くは望まない。せめて1人くらいはそういう子がいないだろうか。

 

「大洗女子に通っている子なら、ときどきうちに寄ってくれるよ」

 

「本当ですか?」

 

「ああ、昔からこの学園艦に住んでいる子なんだ。近くの散髪屋の娘さんでよ……っと、噂をすれば。あの子だよ、先生」

 

店主が顎で示すと同時に、来店を告げる電子音が聞こえる。入り口に目をやると、もふもふとした髪が特徴のかわいらしい女の子がそこにいた。

 

彼女は見るからに嬉しそうな顔をしてこちらへ来る。

 

「店長殿、この前おっしゃっていた新作のプラモデルはもう入荷していますか?」

 

「昨日届いたところだよ。いつものところにあるから見ておいで」

 

店主の言葉に敬礼を返して、女の子は一目散に奥の棚へと向かう。すぐに目的の品を見つけたらしく、「ふおぉ!」という歓喜の声がこちらまで届いた。軽やかな足取りで戻ってきた彼女は、

 

「店長殿。お会計をお願いしま──っ!?」

 

店主のそばにいた俺に気付いて固まってしまう。他に客がいるとは思っていなかったのか、はたまた知らない男に浮かれた姿を見られて恥ずかしいのか、彼女はばつが悪そうに顔を俯かせた。

 

これは困ったぞ。何も悪いことはしていないはずなのに、罪悪感がふつふつと込み上げてくる。いたたまれなくなった俺は逃げ道を探して店内を見渡し、とりあえず目に留まった棚へ行ってみることにした。

 

そこには軍服を女性用に改良した衣類が並んでいた。パンツァージャケットというらしい。名称からして、恐らく戦車道の練習や試合で着る制服だろう。

 

中でも気になったのは、「今年のトレンド」と題して飾られている小袖と行灯袴(あんどんばかま)の組み合わせだ。これは太正時代の女学生によく見られる服装で、流行や趨勢(すうせい)を意味するトレンドとは合っていない気がする。むしろ100年ばかり時代遅れではなかろうか。

 

「そいつは新作のパンツァージャケットでな、戦車道をやっている子たちの希望で今年から流通するようになったんだ。見た目は華やかだけど、軽くて丈夫な素材を使っているから競技に支障はないらしい」

 

店主がやって来る。俺の隣で立ち止まった彼は、「おすすめだから先生のチームで使っておくれよ」と言った。……新作というだけあって他のものより少しだけ値が張るらしい。茶目っ気があるというか、こういうところはちゃっかりしているな。

 

「ところで、さっきの子はもう帰りました?」

 

検討しますとあしらったのち、俺はそう尋ねた。店主は頷き、

 

「気を遣わせたようで悪かったな、先生」

 

「いいえ、気にしていませんよ。……それで、あの子が例の?」

 

「ああ、そうだ。あの子はかなりの戦車好きでな、昔からの常連なんだよ。今日はタイミングが悪かったが、次に会ったら声を掛けてみたらどうだい」

 

「そうですね。俺も、時間が空いたらまた店を覗くことにします」

 

頃合いを見て話を切り上げ、せんしゃ倶楽部を後にする。そろそろ商店街の魚屋が安売りを始める時間だ。

 

良い鯛が安価で手に入れられたので、心を弾ませながら家路に着く。刺身はもちろん、昆布締めにしても美味い。さて何を作って貰おうか。

 

杏が帰宅し、夕飯の支度を始めるのに合わせてジョギングに出る。走っているうちにみほくんと会ったので、途中からは並んで走ることにした。

 

いつもよりゆったりとした歩調で1時間ほど甲板を周り、休憩がてら話がしたいという彼女の要望でいつもの長椅子を目指す。

 

俺にとって第二の故郷ともいえるあの場所は、左舷公園という名前があるらしい。これは最初に推理した通り展望台として作られた施設で、大洗女子の生徒たちにも人気の景勝地なのだそうだ。

 

この時間帯ならそれほど混雑することはないが、人の姿が皆無の日はそう多くはない。

 

今日は、いつもの長椅子に先客がいた。

 

白い髪留めがよく似合う小柄な少女だ。容姿は端麗だが童顔で、体格と合わせて考えるとたぶん中等部の子だろう。彼女は長椅子の手すりにもたれ掛かるようにして眠っている。隣に置かれた荷物を見るに、買い物の最中にここへ来て、そのまま寝てしまったといったところか。

 

まるで、この世の至福を体現したかのような寝顔だ。これだけ気持ち良さそうにされると、彼女を起こして良いものか考えてしまう。

 

話し合いの末、しばらく寝かしておいてやる方針で意見がまとまった。安眠を妨げないよう、俺たちは隣の椅子を利用する。

 

恥ずかしくて本人には言えないが、俺はみほくんと話をするこの時間を気に入っている。こちらを気遣ってくれているのか、彼女は会うたびに違う話をしてくれるので飽きが来ないのだ。

 

今回も聞き手に徹していたらあっという間に時間が過ぎてしまう。変質者が目撃されているわけではないけれど、あまり遅くなっては心配なので、そろそろ帰宅を促すべきか。

 

喋り足りないのか、みほくんは眉をひそめ、渋々といった様子で首肯する。

 

「わかりました。大神さんがそう言うなら、」

 

「──おおがみ?」

 

みほくんの言葉が聞き憶えのない声に遮られる。いつの間にか目を覚ましていた隣の少女が、眠たそうに目をこすりながらそう口にしたのだ。驚く俺を尻目にむくりと立ち上がった彼女は、ふらふらと覚束ない動作でこちらへやって来る。そして俺の顔を覗き込み、

 

「……人違いだった」

 

心なしか残念そうな口振りである。

 

「お邪魔しました」

 

それだけ言って目礼した少女は、危なっかしい足取りはそのままにこの場を去ろうとする。

 

「あの、荷物を忘れていますよ」

 

隣の椅子に置かれたままになっている袋を手に、みほくんは少女の方へ駆けていく。立ち止まった彼女は自らの失態を恥じらうように頬を染め、憮然とした面持ちで「ありがとう」と言った。

 

「あの子とはお知り合いですか?」

 

少女の背中をぼんやりと見送っていたところ、みほくんにそう声を掛けられた。

 

「いや、初対面のはずなんだけど……」

 

あの子の顔には薄っすらと見憶えがあった。しかし、あいにく記憶にも記録にも思い当たる節はない。ただの既視感だろうか。

 

俺の答えが曖昧模糊としたものだったためだろう、みほくんは不可解そうに小首を傾げる。こちらとしてもそれ以上は何も言えず、胸のつっかかりを溜息として吐き出すことしかできなかった。

 

 

 




好きなキャラは躊躇いなく優遇していくスタイル。
彼女に「やだもー」って言わせたい一心から今回の話を考えました。

あと、個人的に今回のサブタイトルが気に入っています。
初めは沙織と華さんだけの話でしたが、サブタイトルの変更に伴ってあんこうチーム全員を出しました。
登場が多いみほはともかくとして、あとの2人は次回以降に掘り下げる予定です。


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着任の日


この辺りはもう少し掘り下げても良さそうですが、原作との兼ね合いとテンポを重視して少し駆け足気味に進めていきます。ご了承ください。

あと、長くなってしまったので分割しました。


 

戦車道という競技の基本原則を確認しておこう。

 

まず参加可能な戦車についてだが、高校戦車道においては、終戦までに戦線で活躍または設計が完了し試作されていた車輌、及びそれらに搭載される予定だった部品を使用した装備品のみが許されている。この条件を満たせば車輌の改造は自由とされており、元の様式を逸脱しない範囲で武装の交換、強化が可能だ。設計図通りなら現在の工作精度で部品を作って良いため、競技で扱う車輌は基本的に大戦期のものより状態が良い。整備の信頼性なども段違いであるそうだ。

 

ただし、これには幾つか例外もある。たとえば競技で使用する車輌の上面や側面、底面には連盟公認の白旗判定装置を取り付けなければならない。白旗が上がった車輌はその時点で戦闘不能と判断され、以降の砲撃で敵戦車を撃破しても無効になってしまう。

 

それからもうひとつ、各車の乗員室を特殊カーボン製の装甲材で覆う義務がある。戦車道はあくまで武道、相手を傷付けるのが目的ではないため、被弾した際に搭乗員が怪我をするようなことがあってはならない。つまりは競技者の安全を確保するための規定である。以上の観点から、車輌上面の装甲がないいわゆるオープントップの戦車は基本的に使用してはならないことになっている。

 

続いて試合形式について、調べた限り殲滅戦、フラッグ戦、陣取り戦の3種類が確認できた。

 

まず殲滅戦は読んで字の如く、相手チームの全車輌を撃破、或いは戦闘不能にすれば勝利となる。続いてフラッグ戦はあらかじめ決めておいたチームの心臓部──フラッグ車を取り合い、どちらかが撃破された時点で試合終了となる。最後に陣取り戦は、戦場に定められたある地点を先に占領すれば勝ちだ。

 

ちなみに高校戦車道の全国大会では、各校の戦力差を少しでも縮めるためにフラッグ戦が採用されている。

 

安全に配慮されているとはいえ、負傷者が出ない絶対の保証はないことから、学校で戦車道の授業を行うに当たっては、必ず担当教師を選出しなければならないことになっている。彼らは戦車道経験者が望ましく、強豪校では外部から優秀な戦車乗りを雇うこともあるそうだ。公式試合で戦車に乗って一緒に戦うことこそないが、彼らは作戦立案の最終決定権を持ち、精神面でも選手のサポートをすることが求められる。

 

試合中、担当教師はそれぞれのチームに与えられた部屋で自陣の戦車に取り付けたカメラから送られてくる映像、並びに無線の内容を確認することができる。

 

戦車道は選手主体の競技であることから、どちらも基本的に受信専門となっているが、例外として公式戦では1度だけ担当教師の無線発信が認められている。不正防止のため暗号での会話は禁止されているものの、試合の最中に作戦変更を命じるも良し、選手を鼓舞してチームの士気を上げるも良しとその自由度はかなり高い。一方で、選手たちが知り得ない情報を発信するのは重大な規定違反とされ、発見され次第失格となる。

 

無線発信の権利、そしてそれによって実質的に隊長へ命令できる立場にあることから、担当教師はしばしば「司令官」と称される。どこで権利を行使するのか、どんな内容の通信をするのかは人によって異なり、それによって戦況をひっくり返すこともあるので、かつては試合を観戦する上で注目すべき点のひとつとされていたようだ。

 

とはいえ強豪校ともなれば各選手の練度が高く、教師の口出しの必要がない……むしろ隊長と違う意見を言って混乱を招きかねないと、これに関しては昨今ではすっかり形骸化してしまっている。何度か戦車道の試合映像を観たが、実際に運用された場面は1度もなかった。

 

しかしながら、大洗女子学園の戦車道チームはそのほとんどが初心者で構成されることが予想される。全国優勝が目標である以上、正当な権利であればどんなものでも使って行きたい。どこまで役に立てるかはわからないが、俺は自分にできることを全部やるつもりだ。

 

 

 

 

 

戸籍の取得と特別非常勤講師に関する茨城県教育委員会への届け出が完了した、と新之介から連絡が来たのは3日前のことである。

 

すぐさま米田学園長にその旨を伝えると、その翌日には採用試験が行われた。日頃から欠かさず勉学に励んでいたので筆記は及第点、面接官からも「これからよろしくね」とお墨付きをいただく。事前に学園長が動いてくれていたため、あとの手続きも1日で終わり、すべての書類が完成した時点で晴れて正式採用が決定した。

 

そして、今日が俺の着任日である。

 

昨晩からそれを意識していたためだろう。いつもより2時間ばかり早く目を覚ましてしまった俺は、準備と朝の走り込みを終えてから、戦車道の勉強をして気を紛らわしていたわけだ。

 

明後日の午後に行われる選択授業のオリエンテーションの中で戦車道の宣伝をすることになっている。杏たち生徒会は連日準備に追われており、今日も彼女は授業開始の1時間前には登校した。手伝おうかと申し出たところ、「あとは細かい確認をするだけだから」と断られてしまったので、俺は当初予定していた時間に家を出る。

 

何事もなく学校へ到着した俺は、米田学園長の案内で職員室へ向かい、これから一緒に働く先生方に挨拶をして回った。その際、学年主任など一部の幹部教師から哀れむような目を向けられる。

 

せっかく赴任してきたのに、今年度で廃校になるなんて気の毒だ。そんな心の声が表情に出ている。

 

──これから俺が、いや、俺たちが廃校を阻止するために頑張るんだ!

 

無責任なことしか言えないので口には出さないが、すでに諦めてしまっている人に対抗する意味合いも込め、心中で決意を表明する。

 

想いを形にする第一歩として、早速仕事をしようと自分の机を探してみたが見つからない。学園長にそれを訊いてみたら、

 

「すまんな、大神。急な採用だったもんで、まだお前さんの机が用意できていねえんだ。今月中には何とかするから、それまでは生徒会長室で仕事をしてくれ。角谷には話してあるからよ」

 

そういうことなら仕方がない。最初の最初に空回りしてしまった感が拭えないものの、贅沢を言える立場ではないので大人しく従おう。

 

他の先生方に断ってから職員室を出た俺は、その足で生徒会長室を目指した。

 

「ところで大神、初仕事は何をするか決めているのか?」

 

「そうですね。手元にある資料は概ね目を通してしまったので、過去の試合映像を観て、他校の傾向などを分析しようかと」

 

「お前さんの勤勉さが昔と変わんねえみたいで安心したよ」

 

しかしそうだな、と米田学園長はひとつ唸った。

 

「昔は付き合いでよく観たが、近頃はとんとご無沙汰だし……今の子がどんな試合をするのか興味もある。俺もその映像を観てえな」

 

「俺は構いませんが、お仕事は平気なのですか?」

 

「これから廃校を賭けた戦をするってのに、学園の総大将たる俺がその競技内容をきちんと把握していないのは頼りねえ。だからこれも仕事のうちだよ」

 

屁理屈のようにも聞こえるが、本人が大丈夫だと言っているのに止める理由もないだろう。

 

などと考えているうちに生徒会室が見えてきた。これまでは副会長の柚子くんに経由して貰わないと入りづらかったが、今日からはその助けなしに堂々と足を踏み入れられる。本当の意味で学園の一員になれたことを実感しつつ、俺はその証明として首から下げている身分証を軽く撫でた。

 

明後日のオリエンテーションで使う道具が置かれているため、生徒会長室はいつもより少しだけ散らかっている。学園長がいる手前心苦しく思うも、下手に触って問題が起きたら大変だから何もしない。

 

彼には応接用の椅子へ座っていただき、お茶などを用意してから、俺は机のパソコンを起動させた。

 

ここには桃が作った宣伝用の動画が入っている。なかなか素晴らしい出来になっており、生徒たちの反応が今から楽しみだ。

 

「さてと、今日はどの映像を観るんだ?」

 

机に積まれたケースを一瞥し、学園長は尋ねた。

 

試合映像は、後で購入することを条件にせんしゃ倶楽部の店主の私物を借りている。戦車道は1試合あたりの時間が長い上、手元にある過去5年分だけでも数十の映像があるので、ほとんど確認できていないのが現状だ。

 

これまでは古い順に観ていたのだが、今日は学園長がいらっしゃることだし、特に内容の濃い試合を選ぶ必要がある。裏表紙を頼りに吟味するうち、「黒森峰女学園は前人未到の10連覇を達成できるか!?」という謳い文句が書かれたものを発見した。

 

黒森峰といえば5年前の優勝校である。裏表紙によると西住流の流れを汲んだ学校で、主に電撃戦を得意とするらしく──おや?

 

「そういえば、みほくんは黒森峰から転校して来たと言っていたな」

 

西住流と聞いて、この時代へ来て最初に出会った少女の顔を思い浮かべる。

 

「みほくん? ……どこかで聞いた名前だな」

 

「西住みほ、高等部の編入生です。個人的に付き合いがある子で、前年度まではこの黒森峰女学園に通っていたと聞いています」

 

「ああ、なるほど。確かに編入関係の資料で名前を見掛けた気がするぜ」

 

言ったのち、学園は眉間に皴を刻む。

 

「黒森峰で西住っていうと、その子は流派の関係者に違えねえな?」

 

「ええ。家元の娘だと聞いています」

 

「となれば、彼女自身も西住流の戦車乗りってことだろう? うちは今年度から戦車道の授業を再開するが、その申請をしたのはつい最近だし……正直、古巣を離れる理由がないと思うんだがな」

 

「詳しい事情はわかりません。けれども、みほくんは戦車道がない学校を選んでうちへ来たと話していました」

 

「そいつはつまり、彼女は何らかの理由で自ら戦車を降りたってことか……どうする大神よ?」

 

学園長は俺の手にある映像媒体のケースに目を遣った。

 

彼の言いたいことはわかる。わかるが、返す言葉が浮かばない。

 

みほくんは高校2年生になるのを機にこの学校へやって来た。黒森峰を離れる時期が高校進学と重なっていないということは、恐らく彼女はこの1年の間に転校を決意したのだろう。そのきっかけは、極めて高い確率で戦車道だ。

 

穿(うが)った見方をすれば、昨年の黒森峰にまつわるどんな記録の中にも、みほくんが抱える心の傷が映り込んでいる可能性がある。

 

もしもみほくんの心の整理が付く前にそれを見つけてしまったら──俺は、今まで通り彼女と顔を合わせることができるだろうか。

 

「でもよ、お前さんはどうしてもそれが知りてえんだ。それが善意の押し付けであることは承知で、下手に首を突っ込んで関係が壊れちまうかも知れねえってのに……彼女の心に刻まれた傷を見て、触れて、癒す力になりてえって思っている。違うか?」

 

「……おっしゃる通りです」

 

俺にとってみほくんは恩人で、友人で、胸襟(きょうきん)を開いて接することができる数少ない相手だ。こちらの事情を知っているから無理に取り繕う必要がないし、控えめながら魅力的なその笑顔を見ているだけで元気が湧いてくる。それに、彼女の気遣いにはこれまで何度も助けられてきた。

 

今度は俺がみほくんを助けてやりたい。貸し借りの清算なんて機械的な動機ではなく、本能がただただ行動を求めているのだ。

 

しかしその一方で、理性が俺をこの場に踏みとどまらせる。彼女が話してくれるのを待つべきではなかろうか、と。

 

答えを出すことができなかった俺は、助けを求めて学園長へ視線を向ける。しかし首を振られてしまった。

 

「こいつは大神が自力で答えを出さなきゃいけねえ問題だと思う。だから俺は勧めも止めもしない。どちらが西住にとって良い結果に繋がるのか、お前なりによく考えてみるんだな」

 

その言葉で、いかに自分が愚かであったかを悟る。甘えるな、大神一郎……彼の言う通り、これは俺が答えを出さねば意味がない。難しい問題だからといって、誰かに判断を委ねるのは無責任だ。

 

とにかく自分なりに答えを探してみよう。学園長に詫びを入れ、俺が何をすべきなのかを自分の心へ問い掛けてみる。

 

長い時間を思考に充てて、ようやく言いたいことがまとまった。

 

「どちらが正しい選択なのか、未熟な俺には見当も付きません。そんな状態で何を選んでも、必ずどこかに悔いは残るでしょう……ならば、俺はやって後悔する道を選びたいです」

 

結局〝正解〟が何なのかはわからなかったので、自分なりの解を学園長に伝える。

 

「ちょっとばかし頼りねえが、大神らしい良い答えじゃねえか」

 

彼はどこか嬉しそうにそう言って、

 

「ちなみに、俺がお前なら迷わず映像を観るよ」

 

「迷わずに、ですか?」

 

「ああ、そうさ。だって考えてもみろ、戦車道の試合映像は連盟が公開しているもんだ。したがって、誰にも閲覧を止める権利はねえんだよ。……たとえそこに西住が戦車を降りた理由が映っていてもな。だから、そもそもお前さえ気にしなけりゃ何の問題もねえんだ」

 

「しかし、それは詭弁ではありませんか?」

 

「詭弁でも何でも、非難されたときに説得力のある言い訳ができりゃあ良いんだよ。まあ、ずるい大人の処世術って奴さ」

 

お前には憶えて欲しくねえけどな、と学園長は楽しそうに言った。

 

 

 




圧倒的男女比!
分割したせいで、大神さんと米田司令しか台詞がありませんでしたね。

米田司令は、人生の先輩として大神さんにいろいろアドバイスをするポジションです。

彼はサクラ大戦の中では大神さんの次に好きなキャラなので、その魅力が表現できていれば良いのですが……。こういう格好良い年長者キャラは、今の時代ではあまり見ない気がします。


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ある少女の軌跡


というわけで、着任日の後半部分です。

書き溜めが底を尽きてしまったため、もしかしたら次回以降の更新が遅れるかも。連休中にどうにかストックを増やしたいところです。


 

いささか腑に落ちないところはあるけれど、学園長の言い分が間違っていないこともわかる。何にせよ、俺たちが選んだ答えは同じだ。もたもたして決意が鈍る前に行動しよう。

 

手順を誤らぬよう、慎重にパソコンを動かす。他の機械と繋げたら大きな画面で観られるようになるのだが、基本の操作を憶えたばかりの俺には荷が重いので、今回はキーボードの上にある画面で観るしかない。

 

決勝戦の相手はプラウダ高校といい、説明書によると旧ソ連の流れを汲む学校である。

 

試合当日はあいにくの雨模様で、各車の車長はテントの中で挨拶を行うようだ。

 

まず目に入ったのは黒森峰の副隊長──みほくんである。1年生のうちから副隊長を任されるなんて、やはり彼女は相当な実力者らしい。さすがは家元の娘といったところか。

 

続いて隊長を見る。みほくんをかわいいと形容するなら、綺麗という表現が似合う子だ。凛々しい雰囲気ながら、顔の造形はみほくんそっくりで……たぶん、前に話に聞いたお姉さんだろう。

 

ほどなくして試合が始まった。フラッグ車はみほくんたちが担当し、お姉さんたち本隊とは別行動を取るらしい。

 

隊長の的確な指示のお陰で、黒森峰は序盤を制しつつある。しかしあるときプラウダの斥候がみほくんの車輌を発見し、その場で戦闘が始まった。

 

地形的に不利だったことから、みほくんたち小隊はお姉さんの指示で前進する。しかしその途中、敵の砲弾を避けようとした1輌がぬかるみに足を取られ、すぐ横の濁流へ呑み込まれてしまった。

 

その場にいた全車輌の動きが止まったのは一瞬で、すぐに砲撃が再開される。

 

「この場合、試合は中断されないのですか?」

 

「いいや、さすがにそんなことはねえと思うが……おっと、よく聞け大神。審判団も揉めているみてえだぞ」

 

確かによく聞くと映像には言い争っているような声が入り込んでいた。審判団の面々からしても、これは予想外の事態なのだろう。

 

しかし、中断するならするで早く決めてやらないと、救助班の要請をしてやることができない。水没車輌に取り残されている子たちのためにも、早急に対応するべきではないのか。

 

もどかしさを(くすぶ)らせながら画面を観ていると、ふいに審判団のざわつきが大きくなった。しかしそれも当然である。砲弾が飛び交う中、1人の少女がフラッグ車から飛び出したのだ。

 

悪路に足を取られて転び、傷だらけになっても走り続け、彼女は濁流へ飛び込んだ。そのまま泳いで水没車輌へ向かい、閉じ込められていた仲間を救出する。岸へ戻ってきたところで緊張が解けたのだろう、彼女はふらふらとその場に倒れ込んでしまった。

 

ここで終われば美談なのだが、あいにく筋書きには続きがあった。

 

仲間を助けたところで力尽きた少女はフラッグ車の車長で、司令塔を失った車輌は完全に動きを止めてしまう。それだけではない、フラッグ車のそばにいた護衛車輌もいつの間にか砲撃をやめていた。

 

決勝まで勝ち上がってきた強豪校がその隙を見逃すはずもなく、最初に動き出した1輌がフラッグ車を撃破──黒森峰の10連覇を賭けた一戦は、中盤以降の怒涛の展開とは打って変わって、拍子抜けするほどあっさりと幕を下ろした。

 

「……なるほど、そういうことか」

 

米田学園長の呟きを耳にして、はっと意識を取り戻す。想像だにしない結末に、俺は呆気にとられていたようだ。

 

「あの、学園長。今の映像に、みほくんが黒森峰を離れた原因が映っていたのですか?」

 

結果的にフラッグ車の車長──みほくんの行動がきっかけで、黒森峰は試合に負けてしまった。

 

だがそれは水没車輌の搭乗員を助けるためで、何もふざけて戦車を降りたわけではない。みほくんが責められる(いわ)れはないし、むしろ賞賛されて然るべき行動ではなかろうか。

 

俺もお前と同じ考えだがな、と言って学園長は目を伏せる。

 

「それがどんなに立派な行いだったとしても、西住が戦線を離れたせいで黒森峰が10連覇を逃しちまった事実に変わりはねえ。……俺たちは関係者じゃねえから客観的な意見を言えるが、連中が同じように考えられると思わねえ方が良い。ましてや彼女たちは心が未成熟の子供だ、つい感情的になって西住を責めちまっても仕方がねえんだよ」

 

「しかし、仮にみほくんを責めようと思っても、それより先にあの場で進軍を命じた隊長や、試合を中断させなかった審判団に文句を言うのが筋ではありませんか?」

 

「上官の命令は絶対──お前も軍人としての教育を受けた身ならわかるだろう? それに審判団を批判して、もしも来年以降の大会に影響が出たらどうする。良い思いはしねえが、目に見える戦犯にすべての責任を押し付けるのが一番楽な道なんだよ」

 

奥歯を噛み締め、どうにか感情を抑える。学園長の言葉は正論だ。どれだけ納得がいかなくても、決して言い返してはならない。

 

「意地の(わり)いことを言ってすまねえな、大神」

 

「……いいえ。学園長のおっしゃる通りだと、頭では理解できていますから」

 

そうか、と相槌を打つ彼の顔には様々な感情が浮かんでいた。

 

気持ちの整理に幾分か時間を要し、ある程度落ち着いたところで顔を上げる。すると、こちらを見ていた学園長と目が合った。それを契機に改めて彼が「しかしよ」と口を開く。

 

「こいつは俺の勝手な想像だが……たとえ周りから批判されたって、それだけで西住が戦車道から離れるとは思えねえんだよな」

 

「というと?」

 

「考えてもみろ。仲間を助けるためとはいえ、いつ砲弾が直撃してもおかしくねえあの状況で、躊躇いなく戦車を降りられる奴がどれだけいる? 並みの精神じゃとても務まらねえ……たとえ火事場の馬鹿力だったとしても、それを土壇場で発揮できる西住は相当強い心の持ち主だ」

 

果たして、彼女は批判に屈して他校へ逃げるような子だろうか──と学園長は結ぶ。

 

確かにその通りだ。

 

自分の行動が正しいものだと確信していれば、どんな逆境に立たされても決して心が折れることはない。もしもみほくんが責任追及を逃れて転校してきたのだとしたら、それは彼女が自分を曲げてしまった何よりの証明である。

 

短い付き合いではあるけれど、あの子が〝仲間を助けた過去の自分〟を責めるとは思えなかった。

 

「つまり、今の映像とみほくんの心の傷は無関係だということですか」

 

「いいや、そもそものきっかけはあれで間違いねえだろう。ただ、直接的な原因じゃねえ。……俺が何を言いてえかわかるな?」

 

「あの行動の結果、みほくんは敗戦の責任を押し付けられるよりも嫌な目に遭ったということですか」

 

学園長は首肯した。

 

「あれだけの胆力を持つ西住でさえ心が折れちまった理由か……まあ、何となく想像が付くけどな」

 

「いったいどんな事情があったのでしょう?」

 

「悪いが、お前には教えてやれねえな」

 

にべもなく言って、彼はにやりと笑う。

 

「一から十まで全部教えていちゃあ、いつまで経っても大神が成長できねえからよ。さっきと同じで、自分なりの答えを探してみな」

 

ぐっ、と喉を鳴らす。痛いところを突かれてしまった。

 

「まあ、今回は新米教師の大神には少しばかり難しい問題だろうし、ひとつだけヒントをやろう。──西住流について調べてみな。彼女と縁深いお前なら、それで最適解を見つけられるだろうよ」

 

こいつは宿題にしておくから、ちゃんと解いておくように。

 

それだけ残して学園長は部屋を去る。

 

一難去ってまた一難、山積する難題を前に俺は思わず頭を抱えた。

 

 

 

 

 

昼食を済ませた後、俺は西住流について調べるために図書館へ向かった。しかし、いくら探しても戦車道について書かれた本は見つからない。司書に尋ねてみたところ、授業が廃止になるのに合わせて関連書籍を処分してしまったそうだ。

 

早くも計画が頓挫してしまう。学園の図書館に蔵書がないとすると、次に訪ねるべきはせんしゃ倶楽部だろうか。

 

すぐにでも向かいたいところだが、しかし今は仕事中である。戦車道の授業が始まるまでは生徒の下校時間になったら帰って良いとお達しがあったし、それまでは事務作業でもしていようか。

 

経費で賄う道具の申請や、訓練をする上でどうしても発生する騒音問題への対策など、目を通す書類はたくさんある。慣れない作業に手間取っているうち、気付けば終業時間になっていた。

 

きりの良いところで書類を片付け、まだ目を通していないものを鞄へ詰め込む。残りは家で確認するとして、今は西住流だ。

 

杏と学園長、それから他の先生に声を掛けて学校を出た俺は、その足でせんしゃ倶楽部へ向かう。息も絶え絶え訪問したことに店主は驚きを示すが、俺が西住流について知りたいと話したところ、「ちょっと待ってな」と言って店の奥へと消えていった。

 

呼吸を整えた頃に戻ってきた店主は、数冊の本をこちらへ手渡す。

 

「西住流についてわかりやすく書かれた本を幾つか見繕ってきた。俺の私物で構わないっていうなら、しばらく貸しておいてやるよ」

 

「良いんですか?」

 

「まあ、本当なら売り上げに貢献して貰いたいところなんだけど、先生も急ぎの用事みたいだしな。特別サービスだよ」

 

「助かります。……このお礼は必ず!」

 

頼んだぜ、と返した店主と別れてせんしゃ倶楽部を出る。

 

幸いどの本もそこまでページ数があるわけではないので、上手く時間を使えば夕飯前のジョギングまでに1冊は読破できそうだ。

 

「──あ、あのっ!」

 

急いで帰路に着こうとしたところ、横から呼び止められた。そこには大洗女子の制服を着た少女がいて──どこかで見たことがあると思ったら、先日せんしゃ倶楽部で模型を買っていた子である。

 

「俺に何か用かい?」

 

頷いたものの、彼女は両の指先を合わせて動かすばかりで何も言わない。

 

口にしづらい内容なのだろうか。どちらにしろ今日は都合が良くないので、急ぎの用事でなければ、話はまた次の機会にして貰おう。

 

そう告げると、少女は申し訳なさそうに目を逸らした。言葉を探しているようだが、彼女の口が開くことはなく……と思いきや俺の手元、正確にはそこにある本を見るなり勢い良く顔を持ち上げる。

 

「……西住流について調べているのですか?」

 

「ああ。上司から宿題を出されてしまってね」

 

「それでしたら、わたしがお役に立てるかも知れません」

 

先ほどまでのおどおどとした印象が一変し、彼女の瞳には炎が灯っていた。それはまるで、スイッチが切り替わったような──

 

「戦車道のことなら、この秋山優花里にお任せください!」

 

そう言って彼女は、見えない軍帽を被っていると錯覚するくらい綺麗な陸軍式敬礼をした。

 

 

 

 

 

結局、秋山さんの熱意に押し負ける形で西住流のことを教えて貰うことになった。

 

せっかく話を聞くなら左舷公園辺りへ行きたいところだけど、あいにく別の仕事も残っているので、今回は彼女を送る短い時間を使うことにする。

 

「まず、西住流は日本戦車道の中で最も由緒ある流派のひとつです」

 

俺に気を遣ってくれているのか、単に話したいだけなのかは定かではないが、自己紹介を挟む間もなく秋山さんは言葉を連ねていった。

 

曰く、西住流は統制された陣形と高い火力を用い、真っ直ぐに勝利を目指す流派である。その堂々とした戦法で、周りからは王者と呼ばれることも多い。

 

曰く、西住流は何があっても前へ進む流派であり、強きこと、勝つことを尊ぶ伝統がある。

 

曰く、西住流の勝利に対する想いはどの流派より強く、試合に勝つためなら多少の犠牲はやむを得ないとされている。

 

「撃てば必中、守りは固く、進む姿は乱れなし。鉄の掟、鋼の心──それが西住流」

 

「……それは?」

 

「西住流のスローガンのようなものですね。流派の教えをそのまま凝縮した、まさに真髄といえる表現だと思います」

 

秋山さんの言葉を受け、俺は腕組みをした。

 

「戦車道の名門、勝利至上主義の体現か。ありがとう。いろいろと参考になったよ」

 

「お役に立てて何よりです! ……っと、そろそろわたしの家に着いてしまいますね。まだ喋り足りないのに、残念です」

 

秋山さんは言葉通りしょんぼりと肩を落とす。

 

ほとんど初対面の男に家の場所を知られるのは嫌だろうし、彼女のためにも見送りはここまでにしておいた方が良い。そう考えつつ、何の気なしに視線を彷徨わせたところ、不思議と今いるこの通りが印象深く感じられた。何故だろうと記憶を探ったのは一瞬で、先日沙織さんとぶつかった場所であることを思い出す。

 

確か、ここから脇に逸れると散髪屋があって──せんしゃ倶楽部の店主や本人の話を総合すると、秋山さんはそこのお嬢さんか。

 

「……すまない。別に詮索するつもりはなかったんだけど、どうやら俺は君がどこに住んでいるのかわかってしまったみたいだ」

 

知ってしまった以上は黙っているわけにもいかないので、謝罪と一緒に事実を伝えた。昨今では個人情報の取得に関する事件が多いと聞くし、これが原因で大きな問題に発展してしまったらどうしよう。

 

「うちは父が自宅でお店をやっていますから、あまり神経質にならなくても大丈夫ですよ」

 

秋山さんはさして気にする様子もなく、

 

「それに、戦車好きに悪い人はいませんから!」

 

後半部分は特に力強い口調だった。

 

せんしゃ倶楽部の店主も同じことを話していたし、それはもしかしたらこの時代の共通認識なのかも知れない。

 

ともかく、秋山さんが気にしていないようで安心した。これで思い残すことはなくなったし、彼女をもう少し先まで送って俺も帰るとしよう。

 

「そういえば、君は俺に何か話があったんだよね?」

 

歩きながら、聞き忘れていたことを尋ねておく。顔を上げた秋山さんはどこか恥ずかしそうに頬を染めて、

 

「たいした話ではないのですが……その、先日は失礼な態度を取ってしまったので、次にお会いしたら謝ろうって思っていたんです」

 

「わざわざありがとう。こちらこそ、あのときは楽しい時間に水を差してしまったようですまなかった」

 

「い、いいえ……あの出来事があったお陰で、久し振りに戦車道の話ができましたから。それだけでわたしは満足です!」

 

ここまでで結構です、と言って秋山さんは頭を下げる。今度せんしゃ倶楽部で会ったらまた話をする約束をして、俺は彼女と別れた。

 

1人で歩く帰り道、そういえば結局自己紹介をし忘れていたことに気付いた。

 

 

 




秋山殿、再び登場です。
みほたちと出会うまでは人見知りであるような描写がされていましたが、戦車道のことになると饒舌になりそうなイメージ。


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西住流の教え


5月4日の日間ランキングに載ったみたいです。
正直実感がありませんが、書く前から決めていた目標のひとつを達成できて嬉しい限りです。読んでくださった方、ありがとうございます!

あと一応今回からアニメの1話と同じ日になりますが、例のごとくヒロイン成分は少なめでお送りいたします。大神さんがヒロインと触れ合うまでもうしばらくお待ちください。


 

西住流の戦車道は、格上の相手に臆することなく立ち向かう勇気を、格下の相手に慢心することなく立ち向かう心意気を説き、各選手の高い練度を前提とする統制の取れた陣形と不撓不屈(ふとうふくつ)の精神をもって、真っ直ぐに勝利を目指すことを念頭に置いている。

 

その徹底した勝ちへの意識は、良く言えば目的に一途、悪く言えばそれ以外のことに排他的と評して良いだろう。或いは、それまでの過程より勝利という結果を優先すべきと考えているのかも知れない。

 

黒森峰女学園の戦車道チームは西住流の影響を受けている。言い換えると、選手たちの心には流派の精神が深く根付いているわけだ。

 

それらを踏まえて昨年の決勝戦、その勝敗を決したあの場面を思い返してみると、今までの考えとはまた別の側面が見えてくる。

 

すなわち、みほくんの行動は西住流の教えに背くもので、チームメイトだけでなく流派の人間からしても非難の対象となり得るのだ。

 

あまり考えたくはないが、恐らくみほくんは西住流の門下生──周りの大人たちからも先の行動を咎められてしまったのだろう。

 

しかしながら、彼女の心が折れてしまった原因は他にあると学園長は言っていた。初めは文字通り別の出来事がきっかけなのかと思ったが、流派について調べるうち、それは間違いだと考え直す。

 

みほくんが否定されたのは自らの行動ではなく、もっと根本的な……たとえば戦車に乗る理由、言うなれば彼女の戦車道そのものではないか。そして、誰にそれを否定されるのが一番堪えるか──

 

「西住流の師範、つまりはみほくんの母君だと俺は考えました」

 

子供は親の背を見て育つ。幼い頃から流派の教えに触れてきたみほくんにとって、その体現者たる西住師範は憧憬(しょうけい)の対象であったに違いない。他ならぬ彼女に自らの戦車道を否定されてしまったからこそ、みほくんは西住流から距離を置いたのではなかろうか。

 

以上が、せんしゃ倶楽部の店主から借りた本と秋山さんから聞いた話の内容を総合し、丸1日を掛けて導き出した俺の解答である。

 

選択授業のオリエンテーションを午後に控えた日のこと、朝一番に学園長室を訪ねた俺は、そこで例の宿題に対する自らの考えを伝えた。

 

こちらが話をしている間、学園長は終始無言を貫いていた。相槌さえいただけなかったものだから、途中で「俺は間違った結論を出してしまったのか」と不安になってしまう。ただ、実際には返事を忘れるくらい真剣に聞いてくれていただけらしく、ややあって彼は目尻の皺を緩めた。

 

「短時間でよくそこまで考えをまとめたな、さすがは大神だぜ」

 

「そうおっしゃるということは、学園長も?」

 

「概ねお前と同じ結論だよ。たぶん西住は、自分の中の譲れねえもんを一番尊敬する戦車乗り──彼女の母親に否定されちまったんだ」

 

椅子から立ち上がって、学園長は空を仰いだ。

 

「だけどな、大神……西住師範を頭ごなしに批判しちゃならねえぞ」

 

彼の言葉の裏に隠された意図を察し、少し迷ってから俺は肯定した。

 

思うところがないと言えば嘘になる。だが、ここで西住師範を悪く言っても感情に任せた独善にしかならない。少なくとも彼女が娘の正義を断じた理由がわかるまで、部外者は口を出すべきではないだろう。

 

しばらくの沈黙を経て、再び学園長は椅子に腰を下ろした。

 

「さてと、これで西住の心の傷についてはおおよその見当が付いたわけだが……それが原因で彼女は転校を決意したのか、或いは別のわけがあったのか、手元の情報だけじゃどうにも判断できねえんだよな」

 

「自分も同じ意見です」

 

理詰めで答えが出せるのはここまでである。たとえみほくんの人柄を知っていても、彼女が黒森峰でどのような生活をしていたのかわからない以上、その理由を幾ら考えても憶測にしかならない。

 

「その通りだ。下手な仮説を立てたばっかりに、それが先入観になって真実を見落としちまうことがあるかも知れん。俺たちが知りてえのはもっともな答えだ、もっともらしい答えに用はねえ」

 

「……そうなると次に考える必要があるのは、俺が教師としてみほくんにどんな道を示してやることができるか、でしょうか?」

 

うむ、と学園長は頷いた。

 

「何か考えはあるか?」

 

「選択肢は3つあると思います。ひとつはみほくんが改めて西住師範と話をすること。もうひとつは逆に彼女や戦車道から距離を置くこと、つまりは現状維持です」

 

「なるほど。それで、最後のひとつは何だ?」

 

「みほくんがもう一度戦車に乗ることです」

 

俺の言葉を受け、学園長はすっと目を細めた。

 

「そいつはどういう了見だい?」

 

「たとえ西住流の教えに背く行為であっても、俺は仲間を助ける道を選んだみほくんは間違っていないと信じていますし、彼女にもそう思っていて欲しい……主観的な意見で恐縮ですが、みほくんの戦車道が正しいものであると証明するには、やはり戦車に乗り続けるのが効果的かと」

 

「たしかにそうかも知れねえが、西住の意思はどうする。まさか無理矢理授業を取らせるなんてことはしねえだろう?」

 

「もちろんみほくんの同意を得ることが大前提です。こちらから強制するつもりはありませんし、彼女にもそう話してあります」

 

「それじゃあ、今のところはあくまで理想論ってところか」

 

「ええ。ひとつ目の選択肢もみほくんの心の整理が付くまでは難しいでしょうし、結局は消去法で現状維持しかないと思います」

 

「……だな」

 

直接みほくんの力になれないのは残念だけど、考えを尽くして導き出した最適解がこれなのだから仕方がない。他にできることはといえば、彼女が俺を頼ってくれたときに相談相手になることくらいだ。

 

教師という立場は決して万能ではない。悔しくないといえば嘘になるが、自分の限界を知ることができたと思えば諦めもつく。何より、彼女のために使った時間が無駄だったとは思いたくはなかった。

 

──こちらから戦車道をやることを強要してはならないが、みほくんの方から「戦車に乗りたい」と申し出があれば喜んで受け入れる。それ以外のことに関しては基本的に現状維持とし、彼女が間違った道へと進まない限りは過剰な干渉をしてはならない。

 

今後の方針を固めたところで、俺は学園長室を辞する。

 

本日の俺の仕事は、6時間目に行われる選択授業のオリエンテーションの会場作りだ。他の授業との兼ね合いで手を貸してくれる先生が少ないので、早いうちからやってしまうとしよう。

 

会場となる体育館の掃除や大道具の運搬は男手があった昨日のうちに済ませてあるので、今日はパソコンを始めとする小道具の用意と会場作りが中心になる。行ったり来たりするのは面倒なので、まずは小道具を体育館へ運んでしまおうか。よって、目的地は生徒会長室となる。

 

真っ直ぐにそちらへ向かうと、朝に一度施錠しておいたはずの鍵が外されていた。どういうことだろうと思いつつ扉を開けてみたら、杏と柚子くん、桃の3人が応接椅子に並んで座っていた。

 

「やっと帰ってきた。もう、どこ行ってたのさ?」

 

「ちょっとした野暮用でね。それより俺に何か用かい?」

 

いくら杏たちでもこれは話すべきではないと判断し、内容をぼかして伝える。応じる杏はぴくりと眉を動かすも、触れて欲しくないという俺の気持ちを汲み取ったのか、それ以上の追求はせず、

 

「小山とかーしまは小道具類の不備がないかのチェックを、あたしは一郎叔父に話し忘れていたことがあるのを思い出してね」

 

前者はすでに確認済みだという。後者については、オリエンテーションの演目に一部変更があったという旨だった。

 

「今から対応すればそちらも何とかなりそうだ。わざわざ休み時間にすまないね。ありがとう、助かったよ」

 

「ううん。こっちこそ、一郎叔父に準備を全部押し付けちゃってごめんね。オリエンテーションはあたし主導でやるから、もうひと頑張りお願いできる?」

 

「押し付けられたなんて思っていないよ。今の俺は君たちの手助けをするのが仕事だし、これくらいならお安いご用さ」

 

「うん。ありがとう」

 

照れ臭そうに視線を逸らした彼女は、机の上に置いてある、俺が学園長と会うまで読んでいた西住流の本を手に取った。

 

「西住流って、確か戦車道の有名な流派だったよね。一郎叔父、そこの教えを授業の参考にするつもりなの?」

 

「あ、ああ。まあそんなところだよ」

 

「ふうん」

 

言って、杏は再び俺の目を見る。こちらの思考を見透かしているような、居心地の悪さを覚える眼差しだった。

 

「……西住流といえばさ、この前家元の娘さんがうちへ転校してきたらしいね」

 

鼓動が早くなる。果たして、俺は表情を繕えているだろうか。

 

杏だけでなく他の2人もそれを知っていたのだろう、柚子くんは視線を落とし、桃は表情を強張らせる。

 

ひと言ずつ、こちらの反応を窺うように杏は続けた。

 

「前の学校でも戦車道をやっていたみたいだし、西住ちゃんの存在はまさに渡りに船ってやつだね。ここは何としてでも戦車道の授業を取って貰って、メンバーの底上げを、」

 

「──それは駄目だ」

 

気付けば俺は声を上げていた。

 

「みほくんの意思が伴わない限り、彼女は戦車道をやるべきではないと俺は思う」

 

「……わざわざ下の名前で呼ぶくらいだし、やっぱり一郎叔父は西住ちゃんのこと知ってるんだ」

 

「彼女は俺のジョギング仲間でね、よく一緒に走っているんだ」

 

「それで転校の経緯を……なるほどね」

 

杏は指で眉間を押さえ、小さく唸った。

 

「大洗女子が戦車道の授業を復活させることにしたのはつい最近だし、西住ちゃんがそれを避けてここへ来たことは想像が付くよ。でもさ、一郎叔父。あたしたちにはメンバーを選んでる余裕なんてないんだよ? 確かに良い気はしないけどさ、経験者がいるといないとでは何もかもが違うだろうし……負けたら廃校になっちゃうんだから、長い目で見たらこれは彼女の居場所を守ることにも繋がるんじゃないかな」

 

戦車道の全国大会で優勝することが廃校を免れる条件である以上、みほくんが授業を取ってくれたらどれだけ心強いことか……杏の主張は痛いほどよくわかる。だが、戦車道の授業が復活すると話したときの彼女の表情が頭から離れない。

 

みほくんは今、瀬戸際のところでどうにか踏みとどまっているように思える。俺たちの事情を優先して無理に戦車道を受講させたら、今度こそ本当に彼女の心は壊れてしまうかも知れない。

 

それがどれだけ不合理であろうと、みほくんにだけは戦車道を押し付けてはならない──俺の意見は変わらなかった。

 

「しかし大神教官。裏で調べたところ、我が校に西住以外の戦車道経験者は1人もいませんでした。彼女がいなければ、我々は素人だけで戦うことになります。そんな状態で大会に出るくらいなら、多少強引にでも西住に授業を取らせるべきでは?」

 

「桃、君の言いたいことはもっともだと思うよ。でも、やはり許可はできない」

 

「何故ですか!?」

 

桃はなおも食い下がる。

 

杏と同じで、彼女の言い分は正論に違いない。事実、それが一番の近道であることは俺自身もわかっている。

 

しかし、わかっているからこそ、みなには非情な選択をして欲しくないと思う。だからこそ俺は、心を鬼にして彼女たちにもうひとつの正論を叩き付けた。

 

「学園艦を守るためにみほくんを利用する。それは、国の都合でここを潰そうとしている文科省のやり方と何が違うというんだい?」

 

俺の言葉に3人、特に杏の表情が大きく歪んだ。胸が痛い。彼女たちを傷付けるような言い方しかできない自分に嫌気が差す。米田学園長ならば、もっと気の利いた話ができただろうに。

 

「……ごめん、言い過ぎたよ。だけど、君たちの行動がどのような意味を持つのか、それをわかって欲しい」

 

自分の未熟さを痛感しながら、それでも想いを伝えようと口を動かす。

 

しばらく無言の時間が続くも、やがて杏は頷いてくれた。

 

「わかった。一郎叔父の言う通り、表立った勧誘はしないことにする」

 

「……良いんですか、会長?」

 

柚子くんが問う。杏は嘆息してから応えた。

 

「まあ、一郎叔父の言うことが正しいっていうのはよくわかるからさ。……仕方がないよ」

 

彼女は両隣の2人へ交互に目を遣ったのち、

 

「これであたしの話は全部終わり。何か質問はある?」

 

「いや、大丈夫だよ。わがままを言ってすまないね、杏」

 

「ううん、平気……それじゃあ一郎叔父。体育館の準備、頑張ってね」

 

まだ全部は納得できていないのだろう。声音とは裏腹に、杏の表情は硬いままだった。

 

 

 

 

 

「──小山。西住ちゃんってどこの所属だっけ?」

 

「普通Ⅰ科の2年A組だったはずですけど、急にどうしたんです?」

 

「あたしさ、今日のお昼休みに西住ちゃんのとこ行って、戦車道のことを頼んでみようと思うんだ」

 

「し、しかし会長。先ほど教官にあれほど注意されたではありませんか。……それに、会長自身も『勧誘はしない』とおっしゃっていましたよね?」

 

「あたしは〝表立った〟勧誘はしないって言ったんだよ、河嶋」

 

「でも、それって屁理屈なんじゃ……」

 

「わかってる」

 

「大神先生にはどう説明するんですか?」

 

「もちろん何も言わないよ。まあ、後でめちゃくちゃ怒られることは目に見えてるんだけどね……だけど、それでもあたしはやろうと思う」

 

「理由を伺ってもよろしいですか?」

 

「一郎叔父の言う通り、あたしの行動は少なからず西住ちゃんを傷付ける結果になると思う。本当はこんなことしたくない。……でも、ここで何もしなかったらきっと後悔する。どちらを選んでも悔いが残るなら、あたしはやって後悔する道を選びたい!」

 

「「…………」」

 

「そういうわけだからさ。今回はあたしの独断で、2人は知らなかったってことにしてくれないかな。これなら怒られるのはあたしだけで済むから、」

 

「──杏」

 

「……小山?」

 

「1人で抱え込まないで。わたしはどんなことがあっても杏の味方だから。杏がやるって決めたのなら、最後まで協力させて欲しいな」

 

「わ、わたしもついて行きます、会長!」

 

「……2人ともありがとう、それとごめんね」

 

「謝るくらいなら考え直してくれても良いんですよ? 普段優しい人ほど怒ると怖いって言いますし、たぶん大神先生も……」

 

「な、何だ、柚子ちゃんは怖がりだな……とうに覚悟ができているわたしをそのっ、見習ったらどうだ」

 

「そんな震え声で言っても説得力がないよ、桃ちゃん」

 

「う、うるさいな!」

 

「まあ何にせよ、やるからには一郎叔父にばれないようにしなくちゃ。2人とも、共犯者になるならその辺りは気を付けてね」

 

「「はい!」」

 

「よし、んじゃあこれから3人で作戦を考えよっか」

 

 

 




というわけで、先の次回予告でも触れた暗躍の描写を入れました。
会話文だけで3人を書き分けるのは大変です。

大神さんも杏も、どちらが正しい選択なのか一概に言えないところが難しい……まあ、次の次の話くらいで決着がつくのかな?

とりあえず、第二幕はアニメ2話の前半までを考えています。


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交錯する想い


投稿が遅れてすみません。
連休明けの月曜から風邪でダウンしてしまいまして……まさかこんなに長引くとは。
今日の夕方頃からある程度調子が戻ったので、急いで書き上げました。



 

「朝から働き詰めなんだし、大神くんはそろそろ休んでおいで」

 

キャットウォーク内の設営を終えて下へ戻ると、そばで作業をしていた大柄な男性、古文担当の吉村先生がそんなことを言った。壁の時計を見ると、もうじきお昼休みが始まる時刻を示している。作業を始めて、かれこれもう3時間が経過していた。

 

「もうこんな時間ですか……じゃあ、すみませんがお言葉に甘えて」

 

「こっちは気にしなくて良いから、ゆっくり飯でも食べて来な」

 

豪快な笑顔で見送ってくれる吉村先生に頭を下げ、他の先生方にもひと言断ってから体育館を後にした。

 

生徒会の仕事で忙しい杏に弁当作りまで頼むのは忍びないため、俺は基本的に購買部で昼飯を買っている。しかし今日は力仕事の連続で腹が減っていることだし、少し割高だが学食へ行ってみようか。

 

大洗女子学園は中等部と高等部に9000人ずつ、合わせて18000人の生徒が在籍している。その全員が利用するわけではないものの、書き入れ時ということで学食は大変混雑していた。

 

少々げんなりしながら列の最後尾へ並ぶと、同時に俺の周りがざわつき始めた。何事かと生徒たちに視線を向けてみたのだが、目が合うなりみな俯いてしまうから理由が知れない。声を掛けてみても「な、何でもありません!」と要領の得ない返事をされるばかりだ。

 

生徒向けということもあって、学食は献立の割にずいぶんと安価だった。これならば平時でも利用できそうだなと考えつつ、俺は海鮮丼の特盛りを注文する。味噌汁と小鉢が付いて650円だ。

 

食べる場所を探して歩いている間も謎の視線に晒され続け、居心地の悪さを覚え始めていたところ、奥の方で椅子を蹴る音が聞こえた。顔を上げてみると、見憶えのある栗色の髪の乙女──沙織さんが茶碗を持ったまま立ち尽くしている。その手前には同じく虚を突かれた様子の華さんが、向かいには明るい表情を浮かべるみほくんがいた。

 

顔見知りがいることに内心で安堵し、とりあえず俺は彼女たちのところへ向かう。

 

「な、ななな、なんで……何でこの前のイケメンがここにいるの!?」

 

まさか俺が学園の関係者だとは思っていなかったのだろう、目に見えて沙織さんは動揺していた。いつの間にか頬が赤くなっているし、呟く声は震えている……というか、イケメンって何だ? 外来語の教本には載っていなかった言葉である。悪い意味でなければ良いのだが。

 

「あの。立ち話もなんですし、よろしければこちらの席へどうぞ」

 

沙織さんを一瞥したのち、華さんは自らの正面、みほくんの隣の席を手で示す。他の2人も快く迎えてくれたので、言われた通りお邪魔することにした。

 

簡単な挨拶を済ませた後、俺は隣で鯖煮を食べているみほくんに声を掛けた。

 

「どうやら無事友達ができたみたいだね」

 

「はい! 実はついさっき2人がお昼に誘ってくれたんです!」

 

みほくんは心から嬉しそうな声で言った。

 

やはり彼女には笑顔がよく似合う。しみじみとそう考えていると、俺たちの遣り取りを見ていた沙織さんが疑問の声を上げた。

 

「ねえねえ。みほはこのイケ……お兄さんとはお知り合いなの?」

 

「うん。大神さんには引っ越して来たばかりの頃に助けて貰って、それからもいろいろとお世話になっているの」

 

「「大神さん?」」

 

みほくんの話に、沙織さんだけでなく華さんもこちらを窺う。そういえば2人にはまだ名乗っていなかったな。俺は首に下げた身分証を相手に見えるように持ち上げ、

 

「初めまして……ではないから、お久し振りで良いかな。俺は大神一郎、4月からこの大洗女子学園で先生をやらせて貰っているよ」

 

「わ、わたし、みほのクラスメイトの武部沙織っていいます。沙織って呼んでください!」

 

「同じく、五十鈴華です。わたくしのことも名前で構いませんよ」

 

「わかった。沙織に華くんだね、これからよろしく頼むよ」

 

みほくんや生徒会長の子たちで免疫が付いたのか、実際に2人を名前で呼ぶことにそこまで抵抗はなかった。

 

「ところで、せんせーは何の授業を担当してるんですか?」

 

自己紹介を終えたのち、沙織が話を切り出した。

 

横目でみほくんを確認する。やはりと言うべきか、彼女は硬い顔をしており、鯖の小骨を中途半端に引き抜いたところで箸を止めていた。

 

「そうだな……悪いけど、今は秘密にしておくよ」

 

みほくんの前で戦車道の話はしない方が良いと判断し、俺は答えをはぐらかす。

 

「えー、そんな風に言われると余計に気になるじゃないですか」

 

「すまないね。でもまあじきにわかるはずだし、そのときまでのお楽しみということでここはひとつ頼むよ」

 

むぅ、と沙織は唸り声を上げる。心中でもう一度謝罪をしてから隣を見ると、それに気付いたみほくんから目礼が返ってきた。

 

ひと呼吸置いて、今度はみほくんが疑問を呈す。

 

「そういえば、武部さんたちもどこかで大神さんと会ったことがあるの?」

 

それを受け、沙織は目を輝かせながらこう返す。

 

「よくぞ聞いてくれました! 実はわたし、この前せんせーと運命の出会いをして、」

 

「──転びそうなったところを助けていただいたんですよね」

 

「ちょっと華、そんなに短くまとめたらダメだよ!」

 

「そう言われましても。だって、放っておいたら長くなるでしょう?」

 

「当たり前じゃん。出会ってから2人の未来まで、少なく見積もっても4部作は硬いよ」

 

「それは拝聴のし甲斐がありそうなことで……と、誇張しているところは多々ありますが、先生が沙織さんのことを助けてくれたことは本当なんですよ」

 

「あ、うん……わかった」

 

みほくんは苦笑いで応じた。

 

それにしても、沙織と華くんの遣り取りは気心が知れているというか、互いに遠慮がないように思える。きっと仲が良いからこその距離感だろう。

 

俺は何となく親友の加山の顔を思い出し、彼ともう会えないことに寂しさを覚えた。

 

だが、それは考えても仕方がないことなので気持ちを切り替えよう。

 

沙織も華くんもみほくんのことを気に掛けてくれているようだし、2人ならきっと彼女を良い方向へ導いてくれるはずだ。

 

「みほくんに良い友達ができたようで安心したよ」

 

「ありがとうございます」

 

俺の声を拾った彼女は、はにかみながらそう答えた。

 

 

 

 

 

『──戦車道。それは伝統的な文化であり、世界中で女子のたしなみとして受け継がれてきました』

 

暗幕で光を遮断した体育館、その舞台に設置された銀幕に、桃が編集した戦車道の宣伝映像が流れ始めた。制作期間の都合で砲弾の音以外は入っていないため、今回は柚子くんがその場で台本を読み上げる形を取っている。独特の雰囲気もあって、太正時代でいう活動写真を観ているような気分だ。

 

柚子くんの口上によると、戦車道とは淑やかで慎ましく、礼節をわきまえた凛々しい婦女子を育成するための武芸であるという。なるほど確かに、映像の女性たちはみな洗練された美しさを備えているな。加山が熱を上げるのも納得である。

 

『さあ、みなさんも是非戦車道を学び、心身ともに健やかで美しい女性になりましょう』

 

映像が終わると同時に舞台の下の装置が稼働し、体育館中に炸裂音が響く。音の発信源から立ち昇る煙も合わせて、戦車の砲撃をイメージした演出だ。なお、これは生徒会の希望で設置したのだが、当初は一部の先生方が難色を示していたために、導入には結構苦労している。

 

煙も引いたところで、杏たちが舞台の真ん中へ歩みを進めた。

 

「実は、数年後に戦車道の世界大会が日本で開催されることになった。そのため文科省から全国の高校、大学に、戦車道に力を入れるよう要請があったのだ」

 

「んで、うちの学校も戦車道を復活させるからね。選択するといろいろ特典を与えちゃおうと思うんだ。……副会長?」

 

「成績優秀者には、食堂の食券100枚、遅刻見逃し200日、さらに通常授業の3倍の単位を与えます!」

 

それからもうひとつ、と杏は続けた。

 

「なんと、戦車道を受け持つ先生は若い男、しかもかなりのイケメンなんだよね。今挨拶をして貰うので──大神先生、壇上へどーぞ」

 

事前の打ち合わせ通り、彼女の紹介に合わせて席を立つ。始業式には間に合わなかったこともあって、これから着任の挨拶をする運びだ。

 

少し気になるのは、俺の紹介の仕方が台本と違うことである。あんな台詞はなかったはずだが……というか、杏も俺をイケメンと称したな。これだけ頻繁に言われると、やはり意味が知りたくなってしまう。

 

などと考えているうちに壇上へ到着した。いかん、今は目の前のことに集中しろ。杏からマイクを受け取り、俺は生徒たちへ向き直る。

 

薄暗くてはっきりとは見えないが、それでも圧倒されてしまうだけの生徒数に思わず俺は後ずさりをした。

 

しかし怯んでいる暇はない。ひとつ深呼吸をして気持ちを整えた俺は、昨晩のうちに暗記しておいた原稿をそらんじる。

 

「みなさん、初めまして。今年度からここで戦車道の授業を受け持つことになった大神一郎です」

 

この場で俺が話すことは大きく3つに分けられる。まずは俺の自己紹介、次に戦車道を受講して得られる恩恵──先ほど柚子くんが言っていた内容の補足、最後にそれを受けるに当たって生徒が被る負担についてだ。

 

3つ目については、初めに今年度の全国大会に出場する旨を伝え、そこである程度の成績を残すことを前提に活動すること、単位に見合うだけの練習量、朝や放課後にも追加で訓練することなどを挙げた。

 

1人でも多くの生徒を獲得したい事情がある中で、あえて受講のデメリットを話したのには理由がある。書類を調べているうちにわかったのだが、大洗女子は戦車道の授業を廃止した際、学園の運営費を賄うために大半の車輌を売却してしまったようなのだ。

 

残存する戦車の量はまだ判明していないけれど、満足な数を確保できる可能性は低いだろう。その上うちの学校には新しい戦車を購入する財政的な余裕はない。

 

したがって、仮に興味を持ってくれた子が何十人も授業を取ったとしても、その全員を必ず戦車に乗せてあげられる保証はないのだ。せっかく戦車道を学んでいるのに、ずっと補欠で試合にも出られないとあってはあまりに不憫である。ならばここで一度ふるいにかけて人数を絞った方が良い、と俺たちはこのような原稿を作った。

 

この選択が吉と出るか凶と出るかはわからない。願わくは、俺の話を聞いてもなお受講を検討してくれるやる気のある生徒がいてくれますように──そう考えながら俺は着任の挨拶を終えた。

 

 

 

 

 

「西住さん、やっぱりショックを受けているみたいでしたね」

 

「ああ。覚悟していたとはいえ、こちらも心が痛む」

 

「……河嶋。西住ちゃんはあたしたち以上につらいはずだから、間違っても生徒会長室以外で弱音を吐いちゃダメだよ?」

 

「わ、わかっていますよ」

 

「わたし、なんだか悪者になった気分です」

 

「まあ、事実悪者なんだろうねえ」

 

「もう、会長。そんな他人事みたいに言わないでくださいよ」

 

「だって、そうでもしないと罪悪感でいたたまれなくなっちゃうからさ」

 

「……会長」

 

「今のあたしたちは、西住ちゃんの心を傷付けたことを中途半端に悔やんで免罪符にしようとしてる。『自分たちも胸が痛いからおあいこでしょう?』ってね。でも、それじゃあダメなんだ。そんなの責任を取ったって言わない。責任を取る道っていうのは、もっとずーっと地味で真っ当な道だから……どんなに苦しくても、あたしたちは前を向いてなきゃいけないんだと思う」

 

「会長……!」

 

「あの。格好良くまとめたみたいに聞こえますけど、それってわたしの弟が持ってる麻雀の漫画の台詞をそのまま使っただけですよね」

 

「あ、バレた?」

 

「少しは悪びれてくださいよ……というか、それよりわたしは西住さんが大神先生にこのことを言わないかどうか気になるんですけど」

 

「あ! た、確か教官と西住はジョギング仲間だったはずだから、もしかしたら柚子の言う通り密告されてしまうのでは?」

 

「それなら問題ないよ」

 

「どうしてそう言い切れるんですか? わたしたち、あの場で先生のことは何も話しませんでしたよね。先生には内緒って釘を刺すのも忘れちゃいましたし……」

 

「だからこそ、かな」

 

「どういうことですか?」

 

「たぶん西住ちゃんは、今回のことがあたしたちの独断だって確信してるんだろうね。自分の境遇を知ってる一郎叔父が戦車道の受講を強要するはずがないって思ってるからこそ、あの子は何も訊かなかったんだよ」

 

「しかし、それだとなおさら教官に報告するのでは?」

 

「んー、これはあたしの勝手な推測なんだけど……話をした感じ西住ちゃんって結構気を遣いそうなタイプだったからさ、こっちの意図がわかるまでは一郎叔父に相談はしないと思うんだよね」

 

「じゃあ、わたしたちにはまだ猶予があるってことですか」

 

「明日の朝に記入用紙を確認して、もしも西住ちゃんが戦車道以外を選んでいても……あと1回くらいは問い(ただ)す機会があるんじゃないかな」

 

「そこで勝負を決めないといけませんね」

 

「うん。また新しい作戦を考えなくちゃね。今日も居残りだー!」

 

 

 




次回、麻子さんが再び大神さんと相見えます。


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みほの選択


1話辺り4000~5000文字くらいを目安にしているのですが、気付けば倍くらいになってしまいました。そのため話の進行ペースとは裏腹に長いです。ご容赦ください。

なお、オリエンテーション中は原作以上に爆睡していたため、麻子さんは大神さんが大洗女子の先生であることを知りません。



 

オリエンテーションから2日後の朝、昨日いっぱいが提出期限であった選択授業の記入用紙の集計をするからと、この日も杏は早くに家を出た。

 

今回も生徒会の管轄ということで、俺の出る幕はないらしい。そのため、一緒に朝飯を食べたのち彼女を見送ったらもうやることがなくなってしまった。

 

そこで米田学園長からいただいた教育関連の書籍に目を通すことにしたのだが、これがなかなか面白くてつい読み耽ってしまう。気付けば出勤時間もとうに過ぎており、俺は慌てて荷物をまとめて家を出た。

 

このまま走り続ければ何とか始業に間に合いそうだ──そんな考えとは裏腹に、道も半ばで行く手を阻む存在が現れる。視界の先に、千鳥足で歩く1人の生徒の姿を捉えたのだ。

 

「ちょっと君、大丈夫かい?」

 

あんな調子ではいつ転んでもおかしくはない。とても見過ごすことはできず、俺はその背中に声を投げ掛けた。

 

彼女は足を止め、俯き加減のまま呟く。

 

「……つらい」

 

「ん?」

 

「生きているのが、つらい」

 

喉の奥から絞り出したような、苦悶に満ちた声だった。

 

予想だにしていなかった言葉を受け、思わず鞄を落としてしまいそうになる。「朝からなんてことを言うんだ、君は」という叱責の声はしかし、口から出る手前で止まった。あんなことを言うくらい精神的に追い詰められているのだとしたら、俺が声を掛けても逆効果になるだけである。だがしかし、今の言動は到底看過できるものではない──

 

「これが夢の中なら良いのに……」

 

今度は前のめりに転んでしまいそうになった。どうやら眠たいだけらしい。心配して損したとは言い過ぎだが、人騒がせな発言である。

 

紛らわしいことを言うものじゃない。そう注意しようと顔を覗き込んで、彼女に見憶えがあることに気付く。少し前、左舷公園の椅子でうたた寝をしていた少女だ。中等部の子かと思っていたのだけど、スカーフの色から察するに高等部の生徒らしい。

 

背広から懐中時計を取り出す。彼女の歩調で進んだ場合、授業開始時刻に間に合うかどうか微妙なところだ。できることなら手を貸してやりたいが、それだと俺が遅刻してしまう。かといって見捨てることはできない。どうしようか考えるうち、ふと良い案を閃いた。

 

俺はその場にしゃがんで、

 

「このままだと心配だから俺の背中に乗ってくれ。学園まで送るよ」

 

「……平気、わたしは大丈夫だ」

 

拒絶されてしまった。

 

いや、初対面でないとはいえ、素性の知れぬ男にこう言われて簡単に身を預ける乙女などいるはずがない。というか、俺の提案の仕方にも問題があるな。これではただの軟派者である。

 

身分を証明すれば怪しまれないだろうと、俺は懐から名刺を取り出して彼女へ手渡した。

 

「先日のオリエンテーションで挨拶をした通り、俺は大洗女子学園の教師だ。その名刺も本物だから安心して良いよ」

 

ちらりと見ただけで名刺をスカートのポケットへ仕舞った彼女は、ほとんど落ちている瞼をこすって「んー」と返事をする。ちゃんと伝わっているだろうか……って、それよりもう時間がない。

 

この際了承を得るのは後にしよう。俺は非難を覚悟で彼女を背に乗せる。

 

あれだけ明確に断っていた割に、抵抗する素振りは見られなかった。

 

時間も時間なので、通りには大洗女子の制服を着た女の子の姿が目立つ。背中に乗る彼女も変に注目されるのは本意でないだろうし、通学路からひとつ外れた道を利用することにした。

 

ジョギングで艦内のあらゆる通りを周っていたことが幸いして、裏道を使っても迷って遅刻ということにはならなさそうである。ただ、それでも全速力で走らねば始業に間に合わないのがつらいところだ。

 

しかし弱音を吐いている暇はない。余計なことを考えるより、まずは足を動かせ。これは日頃の鍛錬で培った筋肉が飾りでないことを示す絶好の機会ではないか。

 

高揚した気持ちを燃料に裏道を駆け、数分ののち辿り着いた交差点で足を止める。ここを左折したら学園の正門が見えてくる。この辺りで下ろしてやれば、彼女も遅刻しないで済むはずだ。

 

そう考えて声を掛けるも反応はない。軽くゆすってみたが、彼女は身じろぎするばかりで背中から離れてはくれなかった。耳を澄ませば小さな寝息が聞こえるし、どうやらこの短時間で夢の世界へ逆戻りしてしまったらしい。

 

あいにく俺の位置からでは見えないが、たぶんこの前同様に幸せそうな寝顔をしているのだろう。それを妨げるのは忍びないけれど、こちらにも時間がないので、今回は少女を起こすことにした。

 

「……どこだ、ここ?」

 

目を覚ました彼女はきょろきょろと辺りを見回し、横目で窺う俺を視認して動きを止める。

 

「お、下ろしてくれ……ください」

 

自分の置かれた状況を察したらしく、彼女は早口にそう言った。こちらとしても引き止める理由はないので素直に従う。

 

何事もなく地面を踏んだ彼女は、羞恥心を誤魔化すようにスカートを数回はたく。それから怪訝そうな目をこちらへ向けた。

 

先ほどはほぼ眠っていたようなものだし、もう一度説明しておく必要がある……と言いたいところだが、こうしている間にも始業時間は刻々と迫っている。俺は鞄を背負い直し、

 

「すまないが急いでいてね、俺のことは先ほど渡した名刺を確認してくれ。それと、この通りを左折したらすぐに学園の正門が見えてくるから、君も遅刻しないように気を付けるんだよ!」

 

あいにく返事を待っている余裕はないので、言い終わると同時に俺は走り出す。この位置だと職員用玄関は正門の手前になるので、彼女に示したものとは別の道を進み、なんとか時間内に校舎へ滑り込んだ。

 

更衣室で仕事用のベストとズボンに着替え、ネクタイを締め直す。これは杏が選んでくれた洋服なのだが、記録の中にある大帝国劇場のモギリ服とそっくりなのは果たして偶然だろうか。

 

学園長や他の先生方に挨拶をしてから仕事場へ行く。すでに記入用紙の集計が完了しているのだろう、授業開始の10分前の段階で、杏たちだけでなく手前の生徒会室にも生徒の姿はなかった。是非とも結果を検めたいところだが、生徒会の担当でない俺が見て良いものか定かではないし、そもそもそれがどこにあるかわからない。

 

受講者の数は後で杏から訊くことにして、今は自分の仕事に集中しよう。とりあえず、過去の売却記録から残存する戦車の数でも調べてみるとするか。確か少し前に柚子くんがまとめておいてくれた資料が奥の棚に……うむ、これだな。

 

それらを手に仮の執務場所である応接スペースへ向かう。個人的に気に入っている奥の長椅子に腰を下ろしたところで、テーブルに1枚の紙が置かれていることに気付いた。そこには杏の字で、

 

『先週頼んだ諸々の道具の用意ができたみたいだから、お昼になったらせんしゃ倶楽部まで取りに行ってくれないかな。あと、ついでにパンツァージャケットのカタログも貰ってきてね』

 

と書いてあった。

 

詳しい説明をしておくと、置き手紙の「諸々の道具」とは戦車道の周辺機器──主に車載カメラや咽頭(いんとう)マイクを指す。これらはかなりの機種があり、どれを買うべきかその場では決められなかったので、幾つか実際に使用した上で検討する方向で落ち着いた。ちなみにサンプルの貸し出し料金については、杏の交渉で無料となっている。

 

せんしゃ倶楽部は昼の12時開店なので、お遣いへ行くとしたら午後になる。急ぎの用事とはいえお昼まで着手できないとあれば、それまでは当初の予定通り残存する戦車の確認でもしていようか。

 

資料によると、かつて大洗女子学園は平均して25輌、全盛期には30輌以上の戦車を保有していたらしい。だがそれも過去の栄光で、記録があるだけで20輌近くをすでに売却してしまっている。残りがすべて学園艦のどこかに残っていると仮定しても10輌未満、もっと言えば売れ残りの可能性が高い。つまり、戦力の方は……わざわざ語るまでもないか。

 

思わず溜息をついてしまう。厳しい現実から目を逸らすように時計を仰ぐと、時刻は11時半を回っていた。

 

俺は書類を片付け、元あったところへ仕舞う。それから学園長にお遣いのことを話し、彼のご相伴にあずかって少し早めの昼飯を済ませた。

 

準備ののち玄関を出たところで、正門の前に白いワゴン車が止まっているのを発見する。どこかで見たことがある気がして足を止めてみると、すぐに運転席の扉が開けられた。あの厳つい風貌は、せんしゃ倶楽部の店主だ。

 

「お、ちょうど良いタイミングで会えたな。実は今、守衛さんに大神先生を呼んで貰おうと思っていたところだったんだよ」

 

「授業で使う道具の件でこれから店へ行こうとしていたのですが……俺に急ぎの用ですか?」

 

「ああ、まさに先生と同じ用事だよ。頼まれた車載カメラと咽頭マイク、会長の話じゃ先生1人で取りに来る予定だったんだろう? 結構量があるし、大変だと思って俺の方から届けに来たんだ」

 

「ありがとうございます。それと、わざわざすみません」

 

「気にするなって。もうじき娘の誕生日でよ、プレゼントを買いに行った帰りに寄ったから、こっちも別に手間ってわけでもなかったんだ」

 

「それはおめでたいですね。娘さんは幾つになるんですか?」

 

「今年で4歳になるよ。顔が俺に似なかったお陰で、それは女の子らしくてかわいいんだ……っと、話が逸れちまったな。せっかくここまで来たんだ、俺も運ぶのを手伝うよ」

 

「何から何まですみません。お詫びと言ってはなんですが、今後とも贔屓にさせていただきますので」

 

「ああ。その辺は頼んだぜ、大神先生!」

 

話が終わり、守衛に店主の分の入校許可証を貰ったところで、早速道具が入った段ボールを運び始める。無料で貸し出してくれるとはいえこれらは一応商品らしいので、万が一にも壊してしまわぬよう慎重に廊下を進んでいると、

 

「あ、大神先生」

 

途中でそう声を掛けられた。段ボールで声の主が見えず、少し身体を捻ってみたところ、おかっぱ頭と風紀委員の腕章が目に入る。

 

「やあ、そど子くん」

 

彼女は風紀委員長の園みどり子さん、通称そど子くんだ。彼女は俺がこの学園で最初に出会った子で、あれからもたびたび会って話をする仲である。

 

「先生までそど子って呼ぶんですね……まあそれは置いておいて、そちらの方は?」

 

「戦車道の専門店の店長さんだよ。彼の店で注文した品を運んでいる最中なんだ。……ああ、もちろん入校許可証は貰っているから安心してくれ」

 

「も、もう! その話は忘れてくれたんじゃないんですか!?」

 

「ごめんごめん。だけどまあそういう事情だから、そど子くんも心配しなくて大丈夫だよ」

 

「わかりました。でも、先生のお客様なら、そもそも信用できる方なんでしょうけど、」

 

『──普通Ⅰ科2年A組西住みほ、普通Ⅰ科2年A組西住みほ。至急生徒会室に来ること……以上』

 

そど子くんの言葉が校内放送に遮られた。今の声は……桃か?

 

昨日の放課後も生徒会長室で仕事をしていたが、あれ以来杏たちはみほくんについて何も言及していない。それなのに、今になって改めて彼女を呼び出す理由は何だろう。

 

……嫌な予感がするな。

 

「すまない、そど子くん。店長さんを生徒会長室まで案内してくれないかい?」

 

「は、はあ。それは別に構いませんが……」

 

「ありがとう。それと、ついでにこの箱も頼むよ」

 

「えっ? ちょっと待って……お、重っ」

 

そど子くんに段ボールを預け、店主に頭を下げたのち俺は走り出した。

 

激しい運動で身体が熱を帯びるのと対照的に、不思議と頭は冷静になっていく。

 

生徒会の3人とみほくんを結ぶ架け橋は、考え得る限り戦車道しかない。あのとき俺が反対し、その理由を説いて杏たちもわかってくれたのだと思っていたが、もしも彼女たちがまだみほくんを諦めていなかったのだとしたら。

 

たとえばみほくんが戦車道以外の授業を選択し、それを問い質そうと思ったら──本来俺が学園にいないこの時間帯は、彼女たちにとってまたとない好機といえる。

 

「お、大神先生?」

 

生徒会室へ入ると、そこで作業をしていた役員の子が驚きの声を上げた。悪いが今は返事をする余裕がない。彼女には後で謝るとして、俺は真っ直ぐに会長室へ向かい、蹴破る勢いで扉を開けた。

 

「──おい、杏! いったい君は何をしようとしているんだ!」

 

俺の声を受け、生徒会の3人とみほくん、それから彼女の両隣に付き添う沙織と華くんが一斉にこちらを見た。

 

みほくんは暗い顔をし、沙織と華くんは怒りをにじませ、柚子くんは気まずそうに目を逸らし、桃は引き攣った悲鳴を上げ、杏はその頬に冷や汗を浮かべる。

 

「げっ……い、一郎叔父。お遣いに行ったんじゃなかったの?」

 

「せんしゃ倶楽部の店長さんが頼んでいた品を学園まで届けてくれてね、今はそれを運んでいる最中だったんだ」

 

言って、俺は部屋の中央へ目を向ける。

 

「みほくん。今日君がここへ呼び出された理由を教えてくれないかい?」

 

杏たちに訊いてもはぐらかされてしまうかも知れないので、直接本人にそれを尋ねる。

 

みほくんは躊躇いがちに、それでも包み隠すことなく答えた。

 

「あ、えっと、わたしが必修選択科目の記入用紙に香道って書いたからだと……前に戦車道を取るよう言われていたので」

 

俺は額を手で覆う。杏たちは、今日だけでなくそれ以前にもみほくんに戦車道を受講させようと動いていたのか。

 

「杏、桃。みほくんに戦車道の受講を強制させてはならないと、前にあれほど言ったじゃないか」

 

「ひっ。ご、ごめんなしゃい!」

 

「……バレちゃった以上、言い訳はしないよ」

 

「柚子くん。2人が暴走しても、そのときは君が止めてくれると思ったんだけどな」

 

「うぅ……ごめんなさい」

 

言葉は三者三様でも、浮かぶ表情は同じである。どうやら彼女たちも心から非情にはなれなかったようで、一様に苦しそうな顔をしていた。

 

ここで杏たちを叱るのは簡単だけど、それでは年長者としてあまりに無責任な対応である。何故なら今回の件は、突き詰めれば俺の監督不行き届きが招いた事態なのだから。

 

「……あの。ひとつ訊いても良いですか?」

 

沈黙を破ったのは、状況が掴めないと言いたげに眉根を寄せる沙織だった。

 

「生徒会がみほに戦車道をやれって言ってたこと、せんせーは知らなかったんですか?」

 

「そ、それは……」

 

「──うん。今回のことは全部あたしたち……もっと言えばあたしの独断でやったことだから、一郎叔父は関係ないよ」

 

俺の声に被せるようにして杏は言う。否定すべきか逡巡するも、彼女の強い視線を受け、ついぞ声を出すことができなかった。

 

「なら、西住さんのおっしゃっていた通りだったんですね」

 

次いで華くんが口を開く。

 

「どういうことだい?」

 

「大神先生がこんなことをするはずがないって、西住さんはわたくしたちに何度も話していたんですよ」

 

「い、五十鈴さん、それは言ったらダメなやつだよ!」

 

「あら、どうしてです?」

 

「だって、その……恥ずかしいから」

 

言葉通り、みほくんはもじもじと恥ずかしそうに身をよじった。

 

彼女が俺を信じてくれたことに嬉しくなる一方、同じだけ申し訳ない気持ちになる。「着任したてで心の余裕がなかった」なんていうのは所詮言い訳で、もっと俺がしっかりしていれば今回の事態も未然に防げたに違いない。自らの未熟さを痛感するばかりだ。

 

だが、起きてしまったことをあれこれ言っても仕方がない。謝罪や悔恨は後で幾らでもできる。それより今はこの場を収めるべきだ。

 

「ここはひとつ、みほくんの意思を聞かせてはくれないかい?」

 

「わたしの意思、ですか?」

 

「ああ。君が戦車道をやりたくないと思っているなら、今ここではっきりと口にして欲しいんだ」

 

面と向かって相手に否定の意思を伝える行為は、どんなに些細なことでも恐怖を伴うものだというのは承知している。その上で俺は、一度だけで良いから勇気を出して欲しいと頼んだ。

 

「みほくんが間違った道へ進まない限り、どんな選択をしても俺はその意思を尊重する。君が『戦車に乗りたくない』と言ったら、今回のようなことが起こらないよう尽力すると約束しよう」

 

「わたしは……」

 

そこまで言ってみほくんは俯いた。内心で葛藤しているのだろう、その瞳はとどまる位置を探るように揺れ動いている。

 

時間が掛かっても良いから、他の誰でもないみほくんの答えを聞かせて欲しい。そんな想いを胸に、ただ俺はその瞬間を待つ。

 

言うべきことがまとまったのか、彼女は静かに顔を上げた。

 

「わたしは、自分がどうしたいのか……わかりません。だから──」

 

みほくんは深呼吸を挟んで、

 

「あの、大神さん……わたしと勝負してくれませんか?」

 

想定していたものとは違う答えに、俺は返事に窮してしまった。いったい何をどうすれば今の2つを「だから」で繋げられるのだろう。

 

また、そう考えているのは俺だけでないらしく、彼女以外の全員が頭に疑問符を浮かべていた。

 

続く言葉がないことを不可解に思ったのか、みほくんは「あれ?」と首を傾げる。それからきょろきょろと辺りを見渡して状況を察したようで、途端に彼女は慌て出した。

 

「あ、あの、頭の中がぐちゃぐちゃになっちゃって上手く説明できないんですけど、武部さんも五十鈴さんも本当は戦車道をやりたいのに、わたしに合わせてくれて、わたしを庇ってくれて……大神さんも、わたしが戦車道をやらなくて良いようにしようとしてくれたって聞いて、それがとっても嬉しかったんです。わたしのために一生懸命……だからわたしも恩返しがしたくて。戦車に乗るのはすごく怖いけれど、でも今までとは違って嫌だとは思わなくて、それで……」

 

「えっと……つまり、みほくんは戦車道をやろうかどうか迷っているということかな?」

 

みほくんはおもむろに頷いた。

 

「2人と一緒なら……大神さんがそばにいてくれたら、勇気が出して前へ進める気がするんです。でも、そんな中途半端な決意じゃきっとチームのみなさんに迷惑を掛けちゃいますし、何よりわたしが納得できません」

 

──だから大神さん。これから胸を張って自分の意思を伝えられるように、わたしの迷いを断つお手伝いをしてくれませんか?

 

自らの想いを確かめるように胸に手を乗せ、みほくんは凛とした声音で言った。その目はどこまでも澄んでいて、言葉とは裏腹に迷いは感じられない。一度決めたらどんな困難にも立ち向かう──本人には言えないけれど、その姿は彼女が背を向けた西住流そのものだった。

 

ともかく、みほくんの意思は聞かせて貰った。約束通り俺はそれを尊重したい……が、その前に尋ねておくことがある。

 

「いったい俺はどんな分野で君と勝負をすれば良いんだい?」

 

知っての通りこちらには戦車道の心得がないし、学園艦にどんな車輌が残っているのか、どこにあるのかわからないため、それで雌雄を決することはできない。

 

加えて、俺とみほくんは育った時代も文化も違う。対等な条件で戦えるような競技は果たしてあるのだろうか。

 

「大神さんは二天一流の剣術を修めていらっしゃるんですよね」

 

「ああ、確かに幼少の頃から学んでいるけれど……それが?」

 

「前に西住流は戦車道が主流だとお話ししましたが、他にも流鏑馬や弓術、薙刀に剣術などにも精通しています。そのすべてを修めているわけではありませんが、うちの家系は戦車道の次に剣術に重きを置いているので、力不足に目を瞑っていただけるのならお相手を務められると思います」

 

なるほど確かにみほくんが剣術を修めているのであれば、こちらとしても良い勝負ができるだろう。

 

「それなら、勝負の規定などはどうしようか」

 

「対等な条件になるよう調整してくれたら、わたしはどんなルールでも構いません」

 

「わかった。ならば、放課後にでも空いている場所を借りるとしよう」

 

俺は杏に目を向ける。彼女は「ここまで来たらもう何も言わないよ」という顔で首肯した。

 

もし時間が許すようなら米田学園長にも立ち会っていただこう。万が一他の生徒に見られても、彼がいてくれたらあらぬ誤解を生むこともないはずだ。

 

「場所や道具の準備が終わり次第教室まで迎えに行くから、みほくんは動きやすい服装に着替えて待っていてくれ」

 

「わかりました」

 

「あ、あのぅ、せんせー?」

 

学園のどこなら簡単に借りられるだろうかと考えていると、少ししてから遠慮がちな声が上がった。見ると、沙織がおずおずと手を挙げていて、

 

「なんかいろいろ話が進んじゃってるみたいですけど、わたしや華はどうすれば良いんですか?」

 

「ふむ、そうだな……みほくんはどう思う?」

 

「やっぱり1人だと不安なので、できることなら一緒にいて欲しいです」

 

「──だそうだ。2人とも、もしも都合が付くならどうかみほくんに付き添ってはくれないかい?」

 

この申し出を、沙織と華くんは快く承諾してくれた。

 

気付けばもうすぐお昼休みも終わる頃である。他に質問はないようなので、みほくんたちにもう教室へ戻って良いと伝えた。

 

「さて」

 

彼女たちが部屋から出て行くのを見送ったのち、俺は残る3人の方へ向き直る。それに合わせて杏たちの背筋が伸びた。

 

「ああ、今回のことに関しては俺にも責任があるわけだし、別に君たちを叱るつもりはない。だからそう警戒しなくても平気だよ」

 

柚子くんと桃は露骨に安堵した素振りを見せる。が、杏だけは硬い表情を崩さない。

 

もしかしたら、言葉に続きがあるのを察していたのかも知れないな。

 

「だが、教師として……そして1人の人間として、君たちがやったことに関して話がある。今は時間がないから、放課後になったらすぐにここへ来ること。良いね?」

 

平静を装ったつもりであったが、それでも幾らか感情が表に出ていたのだろう。杏たちは揃って身体を震わせた。

 

 

 




次回予告の伏線をようやく回収し、第二幕の山場を迎えました。大神さんと生徒会のすれ違いも一段落し、原作とは違う形でみほが戦車道と向き合う決意をしたところで、今回は終わりとなります。

次回は完全オリジナルの話となります。今回の揺り戻しでたぶん文字数は少なくなります。

余談ですが、せんしゃ倶楽部の店主は大神さんより一回り歳上(32~33歳)の設定です。


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勝負の前に


前回の揺り戻しで文字数が少なくなると言ったな?
……あれは嘘だ。

今回は6000字を過ぎた時点で「これは1万字を超えるな」と悟ったので、前後編に分けることにしました。お待たせした上に中途半端な進行具合ですみません。


 

「──なるほどな。そんでお前さんは、これから西住と剣を交えることになったってえわけだ」

 

午後の空き時間に学園長を訪ねて事の顛末を話したところ、そう言って彼は重たい息をついた。

 

「……申し訳ありません」

 

「どうして大神が謝るんだ?」

 

「みほくんの件は静観すると決めていたのに、生徒会のみんなに行動を許してしまいました。彼女たちの思惑に気付けなかった俺の失態です」

 

「相変わらず真面目な野郎だぜ……まあ、とりあえずこっちに顔を見せな」

 

言われて頭を持ち上げる。学園長は困ったような笑顔を浮かべていた。

 

「正直、俺には角谷たちの気持ちもわかるんだよな。確かに褒められた行為とは言えねえけどよ、あいつらだって何も悪意があって西住に声を掛けたわけじゃない。恣意的に解釈すれば、こんなことをしちまうくれえこの学校を守りたいって想いが強いってことだろう? そんな風に思ってくれるなんて、教師としちゃあ嬉しい限りじゃねえか」

 

「それは……」

 

「さらに付け加えるなら、西住に追い討ちを掛けたのならともかく、角谷たちの行動は彼女が決意を固めるきっかけになったみてえだしよ。雨降って地固まるとまでは行かなくとも、俺にはそこまで悪い結末とは思えねえんだ」

 

学園長の話を受け、知れず自分の視野が狭まっていたことを悟る。なるほどそういう見方もあるのか。少々感情的になってしまったと自戒し、顎を引いて押し黙る。

 

彼の言う通り、杏たちの行動はみほくんにとってプラスに作用したのかも知れない。

 

でも、だからといってそれを見過ごすことはできなかった。

 

「学園長のおっしゃることはもっともですが……しかし、今回の件でみほくんがどれだけ傷付いたのか、生徒会のみんなには話しておくべきだと思います」

 

「まあ、放課後までに手持ちの仕事を済ませたり、剣道部の瀬川に道場の使用許可を取り付けたり、俺には俺でやることがあるからよ。その辺の判断はお前さんの裁量に任せるぜ」

 

それにしてもよ、と学園長は感慨深そうにひとつ唸った。

 

「なんというか、今も〝昔〟も大神は変わらんな」

 

「……と、言いますと?」

 

「大帝国劇場で働いていたときも、お前さんは隊員たちが抱える問題と向き合い、一緒に乗り越えようって頑張っていただろう? あっちの大神とお前さんがどんな関係なのかは知らねえが、100年先の未来で同じようなことをしてるのが面白くてさ」

 

彼に言われてそういえばと記録を辿ってみれば、確かに帝国華撃団に籍を置いていた頃の〝俺〟は今の俺と似たようなことばかりしていた。時代が変わり、取り巻く人や環境が変わっても、俺が身近な女の子の悩みに直面する未来は変わらないらしい。ここまで来ると、もはや運命を通り越して宿命と形容できるのではなかろうか。

 

妙に説得力のある仮説を心中で提唱していると、

 

「──何よりよ、〝昔〟の俺が認めた大神の一番根っこの部分が変わっていねえのがわかって、それがたまらなく嬉しいんだ」

 

どうしてだろう。実感など全然ないはずなのに、彼の言葉は心に大きく響いた。前にもこんなことがあったなと思いつつ、俺は押し寄せる感情の波に呑まれてしまわぬように歯を噛み締めた。

 

 

 

 

 

お昼休みの話だと、みほくんはあくまで戦車道の片手間に剣術を学んだようなので、姉の指導の下、幼い頃から二天一流に傾倒していた俺とは練度に差があることが予想される。そこで、勝負を成立させるために幾つかのルールを設定した。

 

初めに、今回の勝負は三本ないし五本の有効打を取った時点で終了と定めた。ただしこれはみほくん側には適用されず、こちらの有効打が規定回数に到達するまでに一本でも先取できたら彼女の勝利とする。

 

次に、俺が得物を落とした場合はそれを拾ってはならず、それを2度、つまり両方とも手放したらみほくんに一本が入る決まりを設けた。なかなか変則的な規定だが、みほくん側に勝利へ至る道を複数用意してやれば戦略性も高まるし、終盤でも逆転の芽が残ると考えた次第だ。

 

「ここまでで何か質問はあるかい?」

 

米田学園長の口添えもあって、条件付きではあるものの、瀬川先生は剣道場の使用を許可してくれた。

 

たまたま午後の授業がなかった彼女に手伝って貰いながら道具の準備を済ませ、杏たちとの話し合いを終えてから、みほくんたちを迎えに普通Ⅰ科の校舎へ向かう。すでに体操服に着替えていた彼女と付き添いの2人を伴って剣道場を目指す道すがら、俺は取り決めについて話した。

 

「いいえ、大丈夫です」

 

「わかった。それなら次はひとつ目の決まり事についてだけど、みほくんはこちらが何本先取の方が戦いやすいだろう?」

 

みほくんは指先を口元へ運び、考える素振りを見せた。

 

「あまり自信がないので、五本先取でお願いできますか」

 

「承知したよ」

 

「……あの、横からすみません。大神先生にお尋ねしたいことがあるのですが」

 

右隣にいる華くんが口を開いた。

 

「今回の勝負は、先生と剣を交える過程で西住さんの心の迷いを払うことが目的なのですよね。だとすると、極論を言えば試合の勝敗に大きな意味はないと思うのですが……先生は、何をもって勝ち負けを決するおつもりなのでしょう?」

 

ふむ、良い質問だ。

 

華くんの言う通り、確かに勝負と銘打ってはいるが、今回の試合における勝敗はさほど重要ではない。何故なら、たとえみほくんの一本より先に俺が五本の有効打を取ったとしても、その時点で彼女の心に迷いが残っていたら目的を果たしたとは言えないからだ。

 

「だから俺は試合の決着を勝負の制限時間だと考えたよ。戦車道をやるかどうかは別として、期限までにみほくんの心を晴らしてやれたら俺の勝ち、それ以外はすべて負けということになるね」

 

「でもそれって、せんせー側はかなり不利なんじゃ……」

 

「心配してくれてありがとう。だけど今回の件は俺の不手際が原因で起きたことだし、それによってみほくんの心を傷付けてしまった。だからこれくらいの不利はあって当然で、むしろもっと条件を課すべきなんじゃないかと思うくらいだよ」

 

言って、俺は沙織から目を離す。じきに目的地へ着くことだし、話はここまでにしておこうか。

 

先日オリエンテーション会場として利用した第一体育館の東側にあるひと回り小さな建物──第二体育館の1階部分が剣道場になっている。

 

次の通りを左へ曲がると、道の先に人だかりができていた。普段なら第一体育館の周りに多くの生徒が集まっているのだが、今日はその隣が賑わっており……何というか、少し前より制服姿の子が増えた気がする。

 

「……大神さん?」

 

困惑するみほくんに、俺は肩をすくめて応じる。

 

「これには事情があってね」

 

剣道部顧問の瀬川先生は自身もその有段者で、今回の勝負にもたいへん興味を示した。察しの良い方ならお気付きだろうけど、彼女が道場を貸してくれる条件に挙げたのが「自分と剣道部の子たちに試合を見せて欲しい」という内容で、部員も20人ほどだというし、他に会場のあてもなかったので俺はこれを承諾した。

 

「あの、それならどうして他の人たちが?」

 

「……なんでも瀬川先生から話を聞いた剣道部の子たちが、俺が剣術の試合をすると周りに広めてしまったみたいなんだ」

 

言われるまで全然気付かなかったのだけど、着任の時期が特殊だったこともあって、俺の存在は学園内でちょっとした話題になっているらしい。そのため噂を聞きつけた生徒たちが見物に来たようだ。

 

「あー。言われてみれば確かに、ここ何日かでせんせーの話をよく聞くようになった気がするよ」

 

「……ですが、これだと西住さんが緊張してしまうのでは?」

 

華くんの言葉を受けてはっとなった。

 

慌ててみほくんに目を遣ると、観客の存在を知って萎縮してしまったのだろう、その身体は小刻みに震えている。顔色も悪くなっていた。

 

「すまない、準備に気を取られてそこまで気が回らなかったよ。もしも無理そうなら、勝負は後日に改めようか?」

 

「い、いいえ。大丈夫です」

 

みほくんは首を振った。

 

「たとえ後日にしても、剣道部の方がそばにいるのは変わらないんでしょう? どちらにせよ人の目がなくならないのなら、20人もそれ以上もわたしにとって大差ありません」

 

弱々しくも、どこか芯の強さを感じさせる声で続ける。

 

「試合が始まってくれさえすれば、周りのことは気にならなくなると思います。それに……大神さんたちのお陰でようやく前を向こうって思えたのに、時間が空いたら決意が揺らいじゃうかも知れませんから」

 

「ありがとう。そう言ってくれると助かるよ」

 

しかし、このまま正面の入口を使うのは気が引ける。本来生徒は利用してはいけないのだが、今回は職員用の裏口から入ることにした。

 

靴を脱ぎ、こっそりと剣道場へ足を踏み入れる。すると、剣道着姿の生徒と話をしていた瀬川先生が俺たちに気付いて手を振ってくれた。

 

高い位置で括った髪を揺らしながら、彼女はこちらへやってくる。

 

「大神先生がいない間に準備は全部済ませておきました。もう学園長もいらしてますし、こっちはいつでも試合を始められますよ!」

 

「ありがとうございます。何から何まで任せてしまってすみません」

 

「いえいえ、気にしないでください。なんといってもかわいい後輩の頼みですからね、わたしも頑張っちゃいました」

 

ふんす、と瀬川先生は得意げに胸を張る。

 

彼女は昨年度から採用された若手教師で、ひと月前までは学園で最年少の職員だった。そのため先輩という響きに強い憧れを抱いていたらしく、初めての後輩に当たる俺には何かと親身に接してくれ、今回の件でも多くの場面で力を貸してくれた。美人で優しいなんて、こちらからしても理想の先輩である。

 

などと考えていると、次いで瀬川先生は俺の1歩後ろに目を向けた。

 

「えっと……体操服姿のあなたが西住さん?」

 

「は、はい」

 

「剣道部顧問の瀬川です。よろしくね、西住さん」

 

「西住みほです。よろしくお願いします」

 

「さっきお試しで手合わせをして貰ったんだけどね。大神先生、とっても強くて驚いちゃった。だから西住さんも大変だとは思うけれど……まあ今回は勝つことが目的じゃないみたいだし、怪我だけはしないように気を付けて頑張ってね」

 

「ありがとうございます。……頑張ります!」

 

「ファイトだよ、みほ!」

 

「わたくしたちは少し下がったところで応援していますからね」

 

激励を残して離れる沙織と華くんを見送ったのち、瀬川先生の案内で用具室へと向かった。

 

試合で使う木刀はどれも重さや長さ、癖などに微妙な差異がある。みほくんの手に最も馴染むひと振りは彼女にしか選べないため、勝負を始める前にそれを吟味して貰わなければならない。

 

こちらの得物はすでに決めてあるので、瀬川先生にみほくんを任せて用具室を後にした。彼女が木刀を選んでいるうちに、この場を取り持ってくれた学園長に挨拶を済ませておこう。

 

「よう。来たな、大神」

 

得点板の横に座っていた彼は、こちらに気付いて立ち上がる。

 

「この度は、お忙しい中ご足労いただき感謝します」

 

「そんなにかしこまらねえで良いよ。……だけどそうだな、せっかく頑張って仕事を片付けたんだ。俺の労力に見合うだけの太刀捌きを見せて欲しいところだぜ」

 

「これでも毎日鍛錬は欠かしていませんから、その辺りにぬかりありません」

 

うむ、と学園長は頷いた。

 

「それからもうひとつ、お前の剣が西住の心に届くことを期待しているよ」

 

「はい、お任せください!」

 

「……ところでよ、大神に訊きてえことがあるんだが」

 

言って彼は得点板の脇、他からは死角となる場所に視線を向ける。

 

つられて見ると、そこに並んで座る生徒会三役の姿があった。みな俺がみほくんたちを迎えに行く前と変わらない様子で──柚子くんと桃は互いに身を寄せて泣きじゃくり、ただ1人静かに正座をしている杏も唇を噛んで瞳を潤ませている。

 

「あいつらのことはお前に任せると言ったが、こいつは少々やり過ぎなんじゃねえのか。角谷のあんな顔、俺は初めて見たぞ」

 

「あ、あはは……」

 

学園長の指摘に、思わず乾いた笑みが口から漏れる。

 

初めに断っておくが、あれから俺は彼女たちを怒鳴ったり、責任を追及したりはしていない。手を挙げるなんて論外だ。努めて冷静に順序立てて彼女たちがしたことを説き、各々に動機と事情を尋ね、自らの行動がどれだけみほくんを傷付けたのか聞かせただけである。……途中で熱が入ってしまったことは否定しないけれど、あくまで俺は正しいやり方で話し合いをしたつもりだ。

 

「大神のやり方が間違ってるとは言わねえよ。でもな、正論ってのは時に相手を傷付ける言葉よりずっと暴力的なものなんだ。……あの様子を見る限り角谷たちも反省しているみてえだし、ちゃんと後でフォローしてやるんだぞ」

 

彼の言葉を受け、もう一度杏たちに目を遣る。三者三様に心の内を露わにする彼女たちはいつもより幼く見えて──いや、重責に押し潰されないよう気丈に振る舞っているだけで、本来ならこれが歳相応の姿であるに違いない。みんなしっかりしているからつい自分と同じ目線で話をしてしまったが、その実3人とも年端もいかぬ少女なのだ。

 

……確かに、言い過ぎてしまったかも知れない。

 

まだまだ教師になりきれていないことを自覚し、全部終わったら彼女たちにも謝らなければいけないなと俺は考えた。

 

 

 




近頃は投稿期間が延びてしまいがちですみません。
相変わらず難しいところなので、書いては消してを繰り返しています。
失踪だけはしないようにしますので、長い目で見守ってやってください。

余談ですが、瀬川先生のモデルは「BAMBOO BLADE」の吉河先生です。……わかる人いるかな?



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二天一流対西住流

長らくお待たせしました。ようやくきりの良いところまで書き終えたので投稿です。

今回の話では剣道の専門用語がたびたび登場します。その中でも、わかっていないと場面を想像しづらい単語を幾つかここに書いておくので、参考になさってください。

二天一流の上段→サクラ大戦で大神さんが抜刀するときのポーズです。

正眼の構え→いわゆる中段で、剣道の一般的な構えです。

後の先→カウンターだと考えて大丈夫です。

一足一刀の間合い→1歩踏み込めば相手を打突でき、また1歩下がれば相手の打突を躱せる距離のことです。

遠間、近間
→それぞれ一足一刀の間合いよりも遠い、或いは近い間合いです。



しばらくののち、みほくんは用具室から出てきた。その手にはひと振りの木刀が握られている。無事得物を決められたようだ。

 

試合場を囲った白線の中央に集まったところで、学園長がルールの確認をする。

 

「──んで、今回の主審は瀬川が、副審は俺と剣道部の浅倉が務める。……ここまでで何か質問はあるか?」

 

「こちらは特に」

 

「あ、ありません」

 

俺たちが剣道場へ来たときよりも、遠巻きにこちらを見る生徒の数は増えている。それで緊張がぶり返してしまったのだろう、みほくんの声は震えていた。

 

「まあそりゃあ、こんだけ観客がいたら緊張しても仕方がねえよな」

 

学園長はみほくんに優しい笑みを向けた。

 

「……まずは軽く深呼吸だ。そんで、落ち着いてきたら対戦相手の大神にだけ意識を向けろ。目の前の勝負に集中するんだ」

 

彼の言葉に合わせて呼吸を整えたみほくんは、静かに目を開いてこちらを見る。いつもとは違う力強い瞳に俺の姿が映っていた。

 

「よし、これで大丈夫そうだな。……瀬川、あとは頼むぞ」

 

そう言って学園長は浅倉さんと同じように白線まで後退する。入れ替わりでこちらへ来た瀬川先生は、俺たちを交互に確認して、

 

「これから試合を行います。一同、礼!」

 

よろしくお願いします、という俺とみほくんの声が重なる。

 

「それじゃあ、2人とも位置について剣を構えてください」

 

彼女の合図で開始線へと移動する。半身になった俺は切っ先が相手を捉えるよう左腕を伸ばし、もう片方の剣が顔の横に来るよう右腕を曲げる──二天一流の上段に構え、みほくんは木刀を正眼に構えた。

 

「──始め!」

 

瀬川先生の声に合わせて周りの音が聞こえなくなり、寒気にも似た緊張感が身体中を伝う。それは、忘れかけていた勝負の感覚だった。

 

みほくんに目を遣る。彼女がどんな動きをするのか。まずは後の先で相手の出方を窺おう。

 

木刀を右脇に構え直し、みほくんは駆け出した。即座に近間へ迫り、勢いをそのままに木刀を振るう。

 

「やあっ!」

 

掛け声とともに放たれた一撃を左の太刀で受け流す。力が外へ逃げるように武器を差し込んだので、みほくんはバランスを崩して前のめりになった。

 

その隙を見逃しはしない。俺は身体を反転させ、咄嗟に振り返る彼女の頭上数センチのところへ右の太刀を運んだ。

 

「有効!」

 

瀬川先生が有効打を認めて白旗を掲げた。学園長たちも同じように白旗を持つ手を上げる。全員の意見が合い、正式な一本となった。

 

仕切り直しのために開始線まで戻る。

 

初撃を返されて有効打を取られるとは思っていなかったのだろう、みほくんは未だに驚きが抜けない様子である。

 

間もなく第二戦の開始が告げられ、彼女は首を振ったのち木刀を握り直す。

 

先ほどとは対照的に、みほくんはその場から動こうとしない。俺の動きを警戒しているようだ。

 

ならば今度はこちらから行かせて貰おう。2歩前進して一足一刀の間合いへ詰めた俺は、そのまま右の太刀を袈裟懸けに振り下ろす。

 

みほくんは最低限の動きでそれを躱し、隙を突いて木刀を振るった。

 

左の太刀で防ぐ。思いの外衝撃が小さい。考えるうち、すぐさま彼女は切り返しで追撃を放つ。なかなかの反応速度だ。

 

だが、少し勢いが足りない。右の太刀で彼女の木刀を弾き、左の太刀を持ち上げる。それを察知して後退しようとするみほくんに合わせて剣を動かし、その鼻先に刃を向けた。

 

瀬川先生が有効を宣言し、副審の同意を得て一本が成立する。

 

開始線の上で剣を構えるみほくんの顔に、今までにない感情が表れていた。まだ具体的な答えが出ていないのに、このままだと試合が終わってしまう──そんな焦燥感が窺える。

 

実のところ、俺も似たようなことを考えていた。ここまで戦ってみたけれど、未だに彼女の心は見えてこない。思わず「手を抜いて時間稼ぎをするか?」という考えが浮かび、すぐに頭からはたき落とす。

 

剣とは己の心を映し出す鏡にも似ていて、何気ない一撃にも使い手の想いが宿るものだ。強い闘志は実力以上の力を発揮するきっかけになるし、逆に気持ちが弱い方へ傾けば太刀筋に必ずぶれが生じる。

 

もしここで手を抜いたら、剣を通じてそれを悟られてしまうに違いない。みほくんの迷いを断つために戦っているのに、彼女に余計なことを考えさせてしまう材料を与えるなんて本末転倒も良いところだ。

 

第三戦開始の合図で間合いを詰め、みほくんは体重を乗せた斬撃を放つ。俺は一戦目と同じように左の太刀でいなし、右の太刀を振り下ろした。瞬時に木刀を持ち上げた彼女は、左手を峰に添えてこちらの反撃を受け流す。

 

ここからみほくんは攻勢に転じた。今までより威力こそ低いが、継ぎ目のない怒涛の連撃にこちら側は防戦を強いられる。

 

攻め返す機会を窺いつつ、彼女の剣がどんなものかを分析してみた。

 

特筆すべきはその対応の速さだろう。一戦目で真っ向勝負では勝てないと悟るなり受けへ回り、それでも通用しなかったら手数で押す戦法に変えた。まさに変幻自在の立ち回りである。

 

続いて注目するのは体捌きの速さだ。木刀を振る速度はもちろんのこと、二戦目の初撃に対する動き──俺の太刀筋を見極める動体視力もさることながら、それを躱す反射神経も一朝一夕で身に付くものではない。戦車道をやっているとこういった分野も鍛えられるのだろうか。

 

いずれにせよ、これらの速さはみほくんの大きな武器である。

 

これだけ連続で剣を振えば普通はすぐに体力が底をつくものだが、日頃から走り込みをしているだけあって、彼女は息を上げる素振りも見せない。

 

あるときみほくんは小さく前進した。来る、と本能的に察して後退する。瞬きの間に、今まで俺がいた場所を木刀が通過した。

 

彼女は対峙する俺にしかわからないくらい小さく笑った。それはまるで、獲物が罠に掛かったとでも言いたげな──

 

「たあっ!」

 

床を蹴る音とともにもう1歩踏み出したみほくんは、直前の攻撃で足元付近に置いていた切っ先を燕返しの要領で振り上げた。

 

速い。この機を狙っていたと言わんばかりに放たれた必殺の一撃は、俺という的を射抜かんとする矢のように鋭く、軌道を捉える頃にはすでに回避不可能なところまで剣が迫っていた。

 

もしも平時のみほくんが相手だったなら、或いはここで負けていたかも知れない。それくらい鮮やかで非の打ち所のない一撃である。

 

しかしながら、今回に限ってはそれが届くことはない。

 

──心の乱れが太刀筋に表れている。

 

俺が反応できた理由などそれだけで十分だった。

 

刃で受ける暇はない。俺はみほくんの木刀を右の太刀の柄頭で弾いた。

 

みほくんは目を見開いて驚きを呈す。今のを防がれるとは思っていなかったようで、踏み込んだ体勢のまま動きを止めてしまっていた。

 

手を抜いてはならないとはいえ、さすがに大人気なかったかも知れない。そう考えつつ、俺は右の太刀をゆっくりとみほくんの頭上へ持っていく。三戦目の幕引きはかくも静かなものだった。

 

「えっと……それじゃあ、開始位置へ戻ってください」

 

瀬川先生が苦笑交じりに仕切り直しを促す。米田学園長も渋い顔をしており、「いくらなんでもやり過ぎだろう」と言いたげだ。

 

これに関しては言い訳のしようがない。内心で反省しながら指定の位置へ移動する。そののちみほくんを確認すると、彼女はまだ先ほどの場所から動いていなかった。

 

「みほくん?」

 

「……あ、すみません」

 

こちらの呼び掛けに応じ、みほくんは小走りで開始線へと向かう。

 

四戦目が始まり、互いに間合いを詰める。

 

先に仕掛けたのはみほくんの方だったが、その一撃は威力も速度も今までとは比べ物にならないほど質が落ちていた。これならば目を瞑っていても防げるだろう。隙も大きく、反撃も容易いが……彼女の瞳から闘志が抜け落ちていることに気付いて手を止めた。

 

勝負も後半戦に差し掛かり、みほくん側の有利はほぼなくなってしまったと言って良い。すなわち、以降の優劣は互いの実力に依存することになる。ならば一日の長がある俺に軍配が上がるわけだが、それで彼女が諦めてしまうような子でないのは知っている。

 

だったら、どうしてその剣技に精彩を欠いているのか。

 

みほくんは自身の最高の一撃──三戦目の燕返しを俺に防がれて、決着の時が近いことを悟ったのだろう。だから結論を急いで、試合よりも考えることに意識を傾けているのではないだろうか。

 

それが自分1人で答えを出せない問題だということは、勝負を提案したみほくんが一番よくわかっているはずだ。それなのに、彼女の心は内へ内へ引っ張られつつある。このままでは何の進展も望めない。

 

とりあえず、まずはみほくんの意識をこちらへ向けさせよう。

 

相手の剣を受けながら静かに機を窺う。何度目かの連撃をいなしきったところで、彼女はそれまでより半歩余計に後退した。大振りの攻撃が来る。考えている間に打ち込まれたそれを、左右の太刀を交差させて受け止めた。

 

鍔迫り合いが解けないように力加減を調整しながら、俺は彼女にこう尋ねる。

 

「いったいみほくんは何を迷っているんだい?」

 

「何をって……お昼休みにもお話しした通り、わたしが戦車道をやるかどうかを、」

 

「──それについては、もうすでに君の中でおおよその答えが出ているんじゃないかな」

 

「……え?」

 

みほくんは困惑の色を露わにする。どうやら彼女にも自覚はないらしい。或いは、無意識のうちに考えないようにしていたのか。

 

俺がそれに気付いたのはつい先ほどのことである。違うな、正確にはもっと前から予想はしていたのだが、実際に剣を交えるまで確信が持てなかった。

 

たぶんみほくんは今、戦車道を受講したくないと心から考えているわけではないのだろう。

 

……いや、これだとあまりに言葉足らずだな。

 

語弊がないよう補足しておくと、少なくともみほくんは、お昼休みに生徒会長室へ行くまでは戦車道をやる気はなかったのだと思う。それは杏が彼女を呼び出した理由からしても明らかだ。

 

それなら、どうしてみほくんは心変わりをしたのか。

 

沙織たちの献身に触発されたのかも知れないし、はたまた別のわけがあるのかも知れない。その候補は幾らでも想像が付くが、ここで何を話しても憶測にしかならないため言明は避けるとしよう。

 

とまあ詳しい理由はわからないのだが、以上のような仮説を立てた根拠は説明できる。

 

今回の勝負を提案したのがみほくんだということ──この事実こそ、俺の考えに説得力を持たせる重要なファクターだ。

 

彼女が心変わりしていないとすれば、昼休みの段階で受講を拒否するだろうし、たとえあの場で本音を言えなくても別の形で決着をつけようとする公算が高い。少なくとも「新しい環境でなら戦車道をやるのもやぶさかではない」くらいの心持ちでなければ、わざわざ俺と剣を交えようとする理由がないのだ。

 

だったら、みほくんのいう〝迷い〟の正体は何か?

 

「これは俺の私見で、もしも間違っていたら訂正して欲しいんだけど……みほくん。君はもう一度戦車に乗ることへの不安、ひいてはそれに対する葛藤を迷いと表現したんじゃないかい?」

 

戦車道をやることに消極的であっても、決して否定的ではない。そんな前提があると仮定すれば、この勝負を通してみほくんが払拭したいのは迷いとは別の感情である可能性が浮上する。

 

「みほくんは、自分の戦車道に自信が持てないだけなんだと思う」

 

──でも、そんな中途半端な決意じゃきっとチームのみなさんに迷惑を掛けちゃいますし、何よりわたしが納得できません。

 

昼休みに戦車道をやるかどうか尋ねたとき、みほくんは「勇気が出して前へ進める気がする」と言った後にこう付け足した。

 

今思えば、彼女は最初から意思を示していたのである。

 

木刀越しに感じるみほくんの力が弱まった。動揺に染まる顔は、図星を突かれたというより、今それを自覚したのだと声もなく語っている。

 

均衡が崩れないよう太刀に込める力を調整しながら、

 

「みほくん。君は、昨年の全国大会の決勝戦──そこで自分がしたことを今も気にしているのだろう?」

 

俺の言葉を受け、彼女は頬を引攣らせた。

 

「ど、どうしてそれを……」

 

「仕事中にあの試合の映像を見つけてね、みほくんが戦車から降りた理由が映り込んでいるかも知れないことを承知で確認させて貰った。……詮索するような真似をしてすまなかった。君からの批判は、どんなものでも受け入れるつもりだよ」

 

複雑そうな面持ちをしつつも、みほくんは小さく首を振った。

 

「思うところがないと言えば嘘になります。でも、大神さんに気を掛けて貰えて嬉しくもあるんです……あれからわたしのことを心配してくれたの、大人だとお父さんしかいなかったから」

 

「みほくん……」

 

断じて軽く考えていたわけではないが、彼女が抱える心の傷は俺の想像よりずっと深いところまで根ざしているようだ。

 

もしかしたら、これから言うことはその傷口に塩を塗り込む結果になるかも知れない。だが、どうしても確かめておかねばならないことがある。

 

「あの試合で勝ち負けより仲間の救助を優先したことを、みほくんは後悔しているのかい?」

 

「──っ!」

 

あれだけ弱々しかった彼女の剣に、今までで一番の力が込められた。

 

「……もしかしたらあの行動は最善ではなかったのかも知れません。だけど、わたしはチームメイトを助けたいって思ったんです。自分で決めたことだから、後悔なんてしたくありません!」

 

「だったらどうして戦車道から逃げたんだい?」

 

「──わたしだって初めは向き合おうとしたんです!」

 

体当たりで鍔迫り合いを解き、みほくんは木刀を振りかぶった。

 

「チームメイトだけじゃない、OG会も西住流のお弟子さんも黒森峰の教官もわたしのことを批判しました。途中で挫けそうになりましたけど、お姉ちゃんやわたしのことを認めてくれた子が支えてくれたから、一度は踏みとどまることができました……でも、わたしがやったことは間違っているって、お母さんがそう言ったんです!」

 

感情を乗せた連撃とともに彼女は続ける。

 

「本当は褒めて欲しかった! 西住流としてはいけないことでも、人として正しいことをしたねって認めて欲しかったんです……だけどお母さんはわたしのやったことを──わたしの戦車道を否定しました!」

 

重い一撃を最後にみほくんは攻撃の手を止める。力任せに剣を振るっていたからだろう、彼女は肩で息をしていた。

 

「……誰かのために頑張り、誰かのために行動するのが悪だっていうなら、いったいわたしは何を信じれば良いんですか?」

 

みほくんは苦しそうに顔を歪めながら声を紡ぐ。その姿は、まるでこの半年のうちに溜め込んだ心の(おり)を吐き出しているようだった。

 

酷いことを言ってしまった罪悪感で胸が痛む。しかし今は謝罪の時間さえ惜しい。荒療治であることは否定しないが、ともあれみほくんの本音を引き出すことができた。

 

──これでようやく俺も前へ進める。

 

再び始まった攻撃を両の太刀で防ぎつつ、俺はみほくんの〝迷い〟を断つための材料を探した。

 

頭を回せ、大神一郎……信じ続けてきた正義を否定されて自信を喪失した彼女に対して、いったい俺は何をしてやれるだろう。

 

危険を顧みず仲間を助けたみほくんのことを褒めるべきか? ……いや、それはない。彼女が褒めて欲しい相手はあくまで西住師範だ。付き合いの浅い俺がその代わりを務められるはずがない。

 

ならば慰めてやろうか? ……これも違う。話を聞く限り、黒森峰にもみほくんの味方になってくれる人間がいたようだ。それならきっと、もうすでにその子たちが彼女を慰めているに違いない。

 

だったらどうすれば──そこまで考えて、みほくんの剣が眼前に迫っていることに気付いた。すんでのところで身を引いて、何とかそれを回避する。

 

あと1秒でも反応が遅れたら直撃していた。命の危機に晒され、今までの思考が全部吹き飛んでしまう。慌てて太刀を構え、みほくんと向き直り──真っ白になった頭にひとつの考えが浮かんだ。

 

思わず含み笑いを漏らす。あれだけ悩んでも妙案は思い付かなかったのに、頭を空っぽにした途端に〝答え〟がわかってしまったのだ。

 

どうやら俺は正解だけを探そうとするあまり、本当に大切なものを見落としていたらしい。灯台下暗しとはまさにこのことだろう。

 

それがどんなに正鵠を射た意見であっても、現実的になせねば不正解と変わらない。今の俺にしてやれることなどたかが知れている。だったらその中でできる最善を考えれば良いのだ。

 

教師として、友人として、みほくんにしてやれることは3つある。

 

「俺は、あのときのみほくんの行動は間違っていなかったと思う」

 

ひとつは、彼女の正義を認めることである。これに関してはあの映像を観て以来ずっと考えていたことなので、ただそれを口に出すだけで良かった。

 

みほくんの瞳が揺れた。振りかぶった木刀は、しかし重力に沿うようにゆっくりと落ちていく。

 

俺はその切っ先を両の太刀で受け止めた。

 

大洗女子(ここ)は西住流とは何の縁もない学校だから、無理に流派の教えを守る必要はないんだよ。西住流がみほくんの戦車道を否定するなら、そのときはみほくんの〝西住流(せいぎ)〟を示せば良いんだ」

 

もうひとつは、西住流とは別の道もあるのだと教えることである。

 

家元の娘として幼い頃から流派の考えに触れていたが故に、みほくんは戦車道と西住流が同じものだと思っているのではないかと俺は考えた。

 

言い換えれば、彼女は西住流以外の戦車道を知らないのだ。だからいくら合わないと感じていても、自分の心を西住流という型に嵌め込もうとした。西住流の戦車乗りであろうとしたのである。

 

流派とは無関係の俺が軽々しく口にして良い話でないことは承知の上だ。無責任だと罵られても仕方がない。たが、それでも無理をして傷付いたみほくんを見て見ぬふりすることはできなかった。

 

「で、でも、わたし……」

 

みほくんは言い淀む。

 

新しいことに挑戦する弊害とでも言えば良いか。たいていの場合、人間は変わることに対して過敏に反応するものである。

 

みほくんはたぶん、西住流とは別の道へ踏み出すことが怖いのだ。

 

彼女の気持ちはよくわかる。突然100年先の未来へ飛ばされ、元の時代に帰る術はなく、第2の人生を歩むことをになった──少し勝手は違うけれど、俺だって変わることを強いられた1人だ。

 

その先駆者として、彼女に掛ける言葉はこれしかない。

 

「沙織や華くん、それに俺だって──前へ進むのがつらくなったときに、君の手を取ってくれる人がそばにいる。怖くなったら周りを頼れば良い。俺たちは決して君を見捨てたりはしないから」

 

俺にとっての彼女や杏がそうであったように、一番つらいときに支えてくれる人がいるのは心強いものだ。たとえ躓いても次へ向けて奮起できるし、その人たちのためにも勇気を出そうと思える。

 

「──みほくんは決して1人じゃないんだよ」

 

俺はそう結んだ。

 

こちらの想いを余すことなく伝えたつもりだが、果たしてどこまでみほくんの心に届いただろう。

 

彼女は顔を俯かせたまま動かない……と思いきや、あるとき身体中の力が抜けてぺたんと座り込んでしまう。すぐさま構えを解き、手を差し伸べようと近付いたところ、小さな嗚咽が耳に入った。

 

ゆっくりとみほくんは頭を上げる。こちらを仰ぐ顔は、止めどなく溢れる涙で濡れていた。

 

「大神しゃん……わたし、わたし……っ」

 

「……無理に何か言わなくても良いよ」

 

空いた手で彼女の頭を撫でる。それで緊張の糸が切れてしまったのだろう、みほくんは声を上げて泣き出した。

 

心配して駆け寄ってきた沙織たちにみほくんを任せて、瀬川先生のところへ向かう。突然の事態にあわあわと取り乱す彼女に、俺は試合の中断を申し出た。

 

 

 




……そうです、三部作です。
お待たせした上に完結しなくてすみません。今回は8000字を過ぎた辺りで「これは1万字を超えるな」と悟りました。華撃団結成はもう少しおあずけです。

書き終えた感想としては、「いろいろと反省の残る話だったなあ」というところでしょうか。剣術の描写もそうですが、モノローグに改善の余地が残されている気がしてなりません。のちのち修正するかも知れないので、その辺りはよろしくお願いします。

それと、今回は「大神さんの青臭い正義感」をテーマにしました。ちゃんと表現できたでしょうか?


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勝負の行方


近頃忙しかったため、なかなか書く時間が取れず投稿が遅れてしまいました。
これ以降もしばらくは不定期での更新になるかと思います。申し訳ありませんが、どうかご容赦ください。


 

恥ずかしながら泣いている女の子にどう声を掛けたら良いかわからなかったので、引き続きみほくんのことは沙織たちにお願いすることにする。その間に俺はもう一度杏たちと話をしたり、学園長や瀬川先生と勝負を続けるべきか協議したりした。

 

その結果、最後までやるかどうかはみほくんの希望に沿う方針で意見がまとまる。

 

15分ほど休憩を挟んだのち、みほくんの方から試合を続けたいと要請があった。俺はそれを承諾し、手早く再開の準備を済ませる。

 

「あの、大神さん」

 

開始線へ向かおうとしたところ、みほくんに呼び止められた。

 

「正直なところ、前へ進むのはまだ怖いんです。だけど今ならちょっとだけ勇気を出せそうで……大神さんがわたしと向き合ってくれたから、やっとそう思えるようになりました」

 

「あくまで俺はきっかけを作ったに過ぎないよ。そう考えられるようになったのは、他の誰でもないみほくんの力だ」

 

「それでも、わたしは大神さんの言葉に心を救われました。本当にありがとうございます」

 

涙と一緒に余計な感情も外へ出すことができたのだろう、みほくんの声にはに今までの〝迷い〟が感じられなかった。

 

これ以上否定するのも野暮だと思った俺は、肩から荷が下りたことを実感しつつ「どういたしまして」と口にした。

 

「……それと、見苦しいところをお見せしてすみませんっ」

 

早口にそう言って、みほくんは開始線へと駆けて行く。せわしなく木刀を構えた彼女は、目の周りだけでなく頬も赤らんでいた。

 

「それじゃあ、四戦目を再開します。──始め!」

 

瀬川先生の声で近間まで詰め、みほくんは初撃を放つ。威力も速度も申し分ない一撃だ。

 

迫る剣を弾き、攻撃後の隙を狙って右の太刀を振り上げる。こちらの動きを読んでいたらしく、彼女はその軌道に木刀を合わせて受け止めた。

 

剣と剣がぶつかり合う鈍い音が響く。その中で、俺はみほくんの変化を実感していた。

 

受けるたびに痛みを覚えるほど一撃が重たいのに、攻めの周期はまったく衰える様子がない。身体に余計な力が入っていない証拠だ。

 

何より彼女の顔は生き生きとしていて、純粋に試合を楽しんでいるように思える。

 

「病は気から」なんてことわざにもある通り、人は自分で考えるよりずっと己の感情に影響されるものだ。少し考え方を変えるだけで結果に違いが出ることもあるし、今のみほくんのように楽しんで事に当たれば時に実力以上の力を発揮することもある。

 

みほくんの連続斬りを丁寧に捌いていたところ、あるとき急に威力が弱くなった。仕掛けてくる。どんな事態にも対応できるよう、俺は両手の太刀を下段に構え直した。

 

踏み込みと同時に木刀が振り下ろされる。右の太刀で受け止めようとしたが、剣と剣がぶつかる直前にみほくんは身を引いた。

 

続けざまに彼女は袈裟斬りを放つ。直前の行動の意味がわからず困惑していた俺は、一瞬反応が遅れて攻撃を許してしまった。

 

みほくんの木刀は、中段より少し下にあった俺の左の太刀を叩く。

 

今度はこちらの戦力を削ごうとしてきたか。その衝撃で手が痺れてしまったものの、ここで放すわけにはいかないと夢中で柄を握る。

 

俺の気合いが勝ってなんとか落とさずに済んだものの、上手く力が入らず、太刀の動きを封じるように被せられた彼女の木刀を払うことができない。

 

だが、こちらの武器はまだ残っている。みほくんは左の太刀に意識を集中しているようだし、反撃するなら今しかない。

 

右の太刀を素早く持ち上げる。俺の動きを察知してみほくんは顔を上げたが、あいにく攻撃を防ぐには少しばかり反応が遅い。

 

我ながら完璧な奇襲で一本取った──そう考えたのも束の間、彼女の表情を目にして思わず太刀筋がぶれてしまう。

 

子供が悪戯を企てているときのような、楽しくて仕方がないといった顔をしていたのだ。

 

体勢はそのままに、みほくんは左の手を木刀から放す。そして、自らの腕を俺の剣の軌道へと持っていったのだ。

 

──このままだとみほくんが怪我をしてしまう!

 

咄嗟に剣を引いて直撃だけは免れた。しかし、無理な身体の使い方をした反動で俺の右腕が硬直してしまう。

 

その間に木刀を握り直したみほくんは、大きく振りかぶってもう一度左の太刀を叩く。今度こそ衝撃に負けて手から離れたそれが、床に落ちて乾いた音を鳴らした。

 

小さく息をついて、みほくんはふにゃりと頬を緩める。

 

俺の得物を奪うためとはいえ、躊躇なく自らの腕を囮にした女の子と同一人物とは思えない、何とも気の抜けた笑顔だった。

 

「これでようやく一矢報いることができました!」

 

「……ああ、素晴らしい立ち回りだったよ」

 

少し迷ったのち、俺は賞賛の言葉を送った。

 

危ない作戦だと注意すべきかも知れないが、それは試合が終わってからでも良い。瀬川先生が何も言わない以上、試合はまだ続いているのだ。俺は得物を失った左手を右の太刀に添え、正眼の構えを取る。

 

それを見てみほくんは後退する。試合が中断されることはなかったものの、心理的に仕切り直しをしたいのかも知れない。

 

そんな推測とは裏腹に、彼女は構え直すよりも先に床を蹴った。間合いを詰めながら切っ先をこちらへ向け、放たれるは神速の突きだ。

 

ただでさえ得物を片方奪われてしまったというのに、これ以上の無様を晒してなるものか──という意地でもって遮二無二身体を動かし、俺はみほくんの攻撃に木刀を合わせる。そのまま刃を滑らせるようにして受け流し、突きの勢いを殺したところで切り返した。

 

今の一撃に全力を注いでいたみほくんは、反応はできても対応はできないといった苦々しい面持ちで俺の反撃を受ける。これが有効打だと認められ、四戦目も俺が制する結果となった。

 

互いに開始線へと戻り、息を整えたところで試合再開が宣言される。

 

いよいよ勝負の終わりが見えてきた五戦目、みほくんは持ち前の速さを軸に手数で攻める作戦を選んだ。先ほどの大胆さとは裏腹に、長所を生かすその立ち回りは堅実であるといえる。

 

得物を片方失って万全の状態とはいえないが、剣術の基本である一刀の動きは心得ているので、少なくとも今の状態が続く限り劣勢になることはないはずだ。仮に力の均衡が崩れることがあるとすれば、それはみほくんが奇を衒った策に打って出たときだろう。

 

彼女の表情はまだ死んでいない。俺に反撃の隙を与えぬように攻めながら、絶えず突破口を探して視線を彷徨わせている。このまま負けるわけにはいかない。そんな気迫が伝わってくる。

 

みほくんは大きく振りかぶって俺の太刀を横薙ぎにした。次に繋がらない力任せの一撃は、彼女が行動を起こす合図だ。

 

すぐに太刀を構え直して受けの準備をする。対するみほくんは仕掛けてくるのではなく、逆に距離を取った。

 

そこで構えを解いた彼女は、駆け足で試合場を反時計回りに進み、道中にあったもの──四戦目で俺が落とした得物を拾う。それから素早くこちらへ肉薄し、両の木刀を交差させるように振り下ろした。

 

落とした得物を拾ってはならない、というのは俺にだけ適応される決まり事なので、それをみほくんが拾って使うことに問題はない。瀬川先生たちは極力介入しない立場を取っているため、床に残されていた俺の得物だが、まさかそれを再利用するとは思わなかった。

 

当たり前の話ではあるけれど、太刀は両手で握る武器である。二刀流はその前提に背いた運用法であるため、たとえ一刀に慣れた人でも上手く使いこなせるとは限らない。

 

普通は両手で振るうものを片手で扱うことになるため、二刀流にはかなりの膂力(りょりょく)が必要になる。百戦錬磨、一騎当千の実力を誇る姉ならばともかく、普通の女の子には荷が重いのではなかろうか。

 

などという俺の考察はまったくの見当違いで、みほくんは思ったよりもずっと二刀流を使いこなしていた。さすがに両手持ちのときより一撃は軽いが、それと引き換えに手数が倍加している。剣に振り回されている様子もないし、どうやらジョギング以外にもきちんと身体作りをしているらしい。

 

「戦車道を始めて最初に任される仕事は砲弾の装填ですから。これでも腕力には結構自信があるんです……っ!」

 

言って、みほくんは左右の木刀を同時に振り下ろした。俺は横一文字に得物を構えてそれを防ぐ。攻撃の反動で彼女の両腕は持ち上がり、がら空きになった脇腹目掛けて俺は引き胴を入れた。

 

みほくんは飛び退いてそれを躱し、2本の木刀を中段に構える。再び近間へ詰めた彼女は、こちらの防御を崩すべく今まで以上に鋭い連撃を放った。

 

しかし、残念ながら俺には届かない。

 

姉の指導は二刀流での立ち回りが基本だったので、実際に相対したとき、俺は一刀よりも二刀を相手にした方が上手く動ける。彼女には悪いが、この作戦ではいくら粘ったところで勝ちの目は薄いだろう。

 

攻撃を続けるうち、徐々にみほくんの動きは緩慢になっていった。いくら膂力があっても、慣れない動きをしていれば嫌でも疲労は溜まる。もしかしたら、決着の時は近いのかも知れないな。

 

自らの劣勢を悟ったのか、みほくんは攻撃に見切りを付けて遠間の外まで後退した。すっかり息が上がっている。そろそろ体力も限界のようだが、しかしその目に宿る闘志はまだ死んでいない。

 

小休止を挟んで呼吸を整えた彼女は、額の汗を手の甲で拭うと、

 

「これだけ打ち込んでダメなら、あとはジリ貧になる一方です。……悔しいですが、今のわたしじゃどれだけ粘っても試合を長引かせるだけで、大神さんから一本を取れる気がしません。だから──」

 

みほくんは右の木刀の切っ先をこちらへ向け、宣言する。

 

「〝次〟にわたしの全部をかけます。それで決着を付けましょう」

 

潔い決断である。瀬川先生に意見を仰ぐと、ややあって首肯が返ってきた。主審である彼女が認めるなら、こちらから断る理由はない。

 

「わかった。ならばみほくん、君の全力を俺に見せてくれ」

 

「はい!」

 

その場で半身になったみほくんは、左の木刀をこちらへ向け、右の木刀を振りかぶる。仕掛けるにはいささか遠い位置だが、上段に構え直すのだろうか。

 

頭の先まで木刀を持ち上げたみほくんは、ひと呼吸置いて背中を反らし、身体のバネを利用して勢い良く投擲(とうてき)した。円を描く軌道で放たれたそれは、まるでインディアンが扱う手斧のようである。

 

またしても定石を無視した戦法に驚いて初動が遅れてしまうが、それでも努めて冷静に木刀を叩き落とす。問題はこの後で、俺が投擲物への対処をしている間に、みほくんは次の行動に入っていた。

 

気付いた頃にはすでに彼女は遠間の中におり、なおも全速力でこちらへ迫っていた。もう片方の木刀を両手で持ち直しているし、自分の間合いに入ればすぐにでも攻撃が可能な体勢である。

 

回避行動は間に合わない。ならばどうすべきか。考えるよりも先に俺は太刀を納め、軽く腰を落として両足に力を込める。

 

近間へ入ったところで、みほくんは大きく飛び跳ねた。そして上空から振り下ろされるのは、彼女の体重を乗せたまさに全力の一撃だ。

 

迎撃のタイミングを誤ってしまえばみほくんが怪我をしてしまうかも知れない。俺は明鏡止水の心持ちでその一瞬を待った。

 

「狼虎滅却──」

 

慣れ親しんだ言葉とともに太刀を引き抜いた。なるだけ速く、鋭く──名前の通り太刀筋が光って見えるような居合い斬りで応じる。

 

「はああああああ────ッ!」

 

「紫電一閃ッ!」

 

剣と剣、想いと想いがぶつかり合い、これまでのものとは違う耳障りな音が道場全体に響き渡る。それは、俺の居合いを受けたみほくんの木刀が中ほどのところでへし折れた音だった。

 

慌ててみほくんの姿を確認する。攻撃の瞬間に床から足を離していたがためだろう。力の逃げ道がなく、衝撃をもろに受けた彼女は後ろに投げ出されてしまっていた。

 

俺は太刀を捨ててみほくんの落下地点へ先回りをし、どうにかその身体を受け止める。

 

「わっ」

 

横抱きの形ですっぽりと俺の懐に収まったみほくんは、場にそぐわないおっとりとした声を上げ、そして小さくはにかんだ。

 

「えへへ、負けちゃいました」

 

「いいや、勝負は君の勝ちだ」

 

「え?」

 

どうやら状況を把握できていないらしい。両手が塞がっているため、俺はその根拠を顎で示すことにした。

 

それに合わせてみほくんは首を動かす。その先には、驚きの表情を浮かべつつもみほくんの有効を示す赤い旗を掲げる瀬川先生がいた。

 

「あれ? でもわたし、最後の打ち合いに押し負けたはずじゃ……」

 

「その後、俺は空中に投げ出されたみほくんを助けるために木刀を手放してしまったからね。事情はどうあれ、これで左右両方の得物がなくなってしまったわけだから、勝負の取り決めに則って君の一本になったんだよ」

 

みほくんは頬を膨らませた。意に沿う決着の仕方でないことが不満らしい。

 

そう思う気持ちもわからないでもないが、いつまでも道場を借りているわけにもいかないし、たとえ他の場所を見つけられたとしても、これから再戦となれば体力的にも厳しいものがあるだろう。どうしても続きがやりたいというなら後日相手になるとして、今は彼女に訊いておかねばならないことがあった。

 

「ともかくこれで勝負はついたわけだけど……どうだろう。俺は君の心の迷いを晴らしてやることができたかな?」

 

みほくんがどう答えるのかおおよその見当は付くけれど、今回の勝負を行うにあたっていろいろと協力してくれた学園長や瀬川先生、場所を提供してくれた剣道部のみんな、彼女を支えてくれた沙織たちのためにも本人の口から聞いておく必要がある。

 

何より、勝負の相手を務めた身として俺もそれを知りたかった。

 

「えっと、それについてはお陰様で──」

 

言いながら顔を上げたみほくんは、俺と目が合ったところで口をつぐんだ。みるみるうちに頬が朱に染まっていく。どうしたのだろうと見つめ返してみると、ふいっと顔を逸らされてしまった。

 

あー、やうー、といった特別意味がなさそうな唸り声を上げたのち、みほくんは消え入りそうなほど小さな声でこう言った。

 

「あの、わたし……戦車道、やります」

 

 

 




さて、今回でようやくみほとの勝負も一段落しました。
時間は掛かってしまいましたが、これでようやく話を進めることができますね。

大神さんの必殺技の中で1番好きなものを出せたので、個人的には満足しています。
みなさんはどの技が思い出に残っているでしょうか?


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手を取り合うために

たいへん長らくお待たせしました。
とりあえず資格の試験が終わってひと息つけたので、リハビリがてら久し振りに筆を取った次第です。読みづらい点などあるかも知れませんが、どうぞよしなに。




「誰かに見られているような気がする、ですか?」

 

日替わり定食の主役である唐揚げを摘もうとしていた箸を止め、みほくんは俺の直前の言葉を鸚鵡返しにした。隣の沙織、対角に座る華くんも、声を発した彼女と同じ怪訝そうな表情を浮かべる。

 

昼飯を調達しようと購買へ行く途中でみほくんたちと出会い、彼女たちに誘われる形で学食に進路を変更した俺は、その席でいの一番に「何か困ったことでもあるんですか?」と質問された。自分では上手く隠しているつもりだったのだけど、考えが顔に出てしまっていたらしい。今さら隠し通せるとも思わず、正直に悩みを打ち明けたところ、先ほどのような反応が返ってきたというわけだ。

 

みほくんと華くんが顔を合わせ、次いで沙織に目配せをする。3人とも思っていることは同じなのか、互いにひとつ頷き合ってみせた。

 

「考え過ぎとまでは言わないけど、ある程度は仕方ないんじゃないかな。わたしだってせんせーが歩いてたらそっちを見ちゃうもん」

 

「沙織さんではありませんが、ここは女子校ですからね。若い男の先生、というだけで注目されているのではありませんか」

 

「っていうか、せんせー前にもおんなじこと言ってなかったっけ?」

 

「あ、ああ、それはそうなんだけど……」

 

沙織の言う通り自分が注目されていることは話に聞いているし、徐々にではあるがその自覚も芽生えつつある。しかし、今日のそれはひと味違うというか……ありていに言えば、以前までとは比べ物にならないほど強い視線を感じるようになったのだ。

 

「もしかすると、あれ(・・)の影響かも知れませんね」

 

「心当たりがあるのかい、華くん?」

 

俺の問いに肯定したのち、華くんは他の2人に目を向けて、

 

「ほら、3階の突き当たりの掲示板に……」

 

それで合点が行ったらしく、みほくんと沙織は揃って「ああ」と気の抜けたの吐息を漏らす。もったいぶらないで教えて欲しい。説明を求めると、何故かみほくんが目を逸らした。頬が赤く染まっている。

 

少し迷いを見せたのち、代表して沙織が口を開いた。

 

「あー、えっとね、昨日せんせーとみほが剣術の勝負をしたでしょう? あのとき剣道場に新聞部の人もいたみたいで、その様子が学生新聞にまとめられてたんだけどさ……記事と一緒に貼られてた写真が、ちょうどせんせーがみほをお姫様抱っこしてるやつだったんだよね」

 

「お姫様抱っこ?」

 

「ほら、勝負の最後に後ろへ飛ばされてしまった西住さんを大神先生が支えたときのあれです」

 

横抱きのことを言っているようだ。

 

「あれはみほくんに怪我をさせないための行動だったんだけど……もしかすると、そういう事情は抜きにして、男の俺が特定の生徒と密着してしまったことを声もなく非難されているのかな」

 

「どうしてそうなるのさ……もう、せんせーは乙女心ってものが全然わかってないんだから!」

 

俺の推測は的外れだったようで、真相を知っているらしい沙織に強く否定されてしまった。いかにも怒っている様子だが、頬を膨らませる子供っぽい仕草が似合っているから迫力に欠ける。

 

「せんせーみたいな男の人にお姫様抱っこされるのは、全女の子の憧れなんだよ?」

 

「えっ……そうなのかい?」

 

思わず訊き返した俺に、力強い首肯で沙織は応じる。

 

向かいを見ると、華くんは苦笑しつつ「わたくしからは何とも……」と言った。みほくんに至っては顔を俯かせてしまっている。

 

「ですが、人の噂も七十五日と言いますし、きっと時間が経てば落ち着くのではありませんか」

 

「……なるほど。そうかも知れないね」

 

今のところ実害はないから、変に注意するのも気が引ける。結局、華くんが言った通り時間が解決してくれるのを待つしかない、か。

 

「相談に乗ってくれてありがとう。とりあえず、少しでも気にしないように頑張ってみるよ」

 

喉の先まで出掛かった溜息を呑み込み、お礼を口にする。

 

これ以上彼女たちを付き合わせるのも忍びないし、ここはひとつ話題を変えることにしよう。そうだな、近頃の流行でも尋ねようか。

 

話を聞いているうちに各々昼飯も食べ終わり、そろそろお暇しようと思ったところで、大事なことを伝え忘れていることに気付いた。

 

「時にみほくん、今日の放課後は空いているかな」

 

小首を傾げつつも、みほくんは特に予定がないことを教えてくれた。

 

「それは良かった。実は杏──生徒会長から言伝を預かっていてね。帰りのホームルームが終わったら生徒会長室へ来て欲しい、と言っていたよ」

 

「会長さんが?」

 

「ああ。大事な話があるそうだよ」

 

昨日の今日で思うところがあるのかも知れない。みほくんは即決せず、俺からわずかに目を逸らした。

 

「1人で行くのが嫌なら、わたしが一緒について行こっか?」

 

見かねた沙織がこのように言う。確かにその方がみほくんも気が楽だろう。実に彼女らしい提案だと感心しつつ、しかし俺は首を振った。

 

「少々理由があってね、悪いけどみほくん1人で来てくれないかな」

 

「……わたしたちには言えないような話をするんだ」

 

沙織が半目でこちらを見る。また何かやるのではないか、と声もなく問い質されているような気がした。

 

「こちらには前科があるし、手放しで信じてくれとは言わない。だけど、それを承知の上で今回は俺に任せてはくれないかな」

 

それに、と今度はみほくんに視線を移して、

 

「君の方からも杏に尋ねたいことがある──違うかい?」

 

彼女は背筋を伸ばすことで無言の肯定を示す。ひと呼吸置いたのち、真っ直ぐにこちらを見つめて「わかりました」と言った。

 

「……大丈夫?」

 

「心配してくれてありがとうね、武部さん。だけど大神さんの言う通り、会長さんには訊いておかなきゃいけないことがあるから」

 

みほくんの言葉で一応は納得したのだろう、複雑そうな顔をしつつも沙織は追及をやめる。代わりに俺に目を向け、

 

「ねえ、せんせー。この前みたいなことにはならないよね?」

 

「ああ、約束する」

 

「……うん。わかった」

 

沙織は今度こそ安心したようにはにかんだ。それは華くんも同じで、彼女もまたみほくんのことを真剣に考えてくれていたのがわかる。

 

みほくんが友人に恵まれて本当に良かった、と俺は改めて実感した。

 

 

 

 

 

「かーしま、うろうろしない。みっともないよ」

 

部屋の中をふらふらと歩き回っていた桃は、杏の声を受けて大きく身震いをした。彼女はばつの悪そうな顔をして、

 

「し、しかし会長──」

 

「言い訳しないの」

 

「……申し訳ありません」

 

何を言っても無駄だと悟ったのだろう、桃はその場で深く項垂れた。

 

一方で、彼女を諭した杏も真一文字に口を結び、険しい表情を見せている。2人の遣り取りを窺っていた柚子くんも、応接の準備を進めつつも落ち着かない様子だ。

 

もう間もなくみほくんが部屋を訪ねて来る。

 

そうせざるを得ない理由があったとはいえ、彼女に戦車道の受講を強要したことに対して後ろめたさを感じていたに違いない。だからこそ杏たちは自ら話し合いの場を企画したのだろうし、こんなにも緊張しているのだろう。

 

杏たちに掛ける言葉は幾らでもあるが、あえて何も言わないでおく。3人とも自分のしたことと向き合おうとしているのに、ここで甘やかしてはその頑張りまで否定することになってしまうと思ったからだ。

 

ほどなくして扉を叩く音が聞こえ、「失礼します」という声とともにみほくんが部屋に入って来る。昼休みの彼女とは対照的に毅然とした面持ちで、その瞳には昨日と同じ強い意思が感じられた。

 

そんなみほくんは、杏たちの様子を見てすぐに困り顔を作る。

 

「えっと、わたしに話があるんですよね?」

 

「……あー、うん。ごめんね。とりあえずこっちの椅子に座ってくれるかな」

 

一拍遅れて杏は返事をする。どこか腑に落ちない顔をしつつ、それでもみほくんは言われた通り俺たちの正面の席に腰を下ろした。

 

「まずは、あたしたちの都合で西住ちゃんに嫌な思いをさせちゃったことを謝らせて」

 

いつもより少し低い声で杏は続ける。

 

「詳しい事情までは調べてないけど、去年の全国大会の映像を見て、西住ちゃんがうちに来た理由についてある程度の想像はできた。その上であたしは、あなたの都合を無視して戦車道の受講を強制したの」

 

そこまで言って杏は席を立ち、

 

「あたしの身勝手な判断であなたを傷付けたことを謝ります。本当にごめんなさい」

 

「西住さん、ごめんなさい」

 

「すみませんでした」

 

彼女に合わせて柚子くんと桃も頭を下げた。

 

3人の謝罪は簡素なもので、中には言葉足らずだと思う方がいるかも知れない。しかし俺はこの飾り気のなさこそ彼女たちの矜持であり、また最大限の誠意の表れなのだと感じられた。

 

幸いにもそれはみほくんに伝わったようで、慌てて3人に頭を上げるように申し出る。恐る恐る言われた通りにした彼女たちに、

 

「もちろん初めは『どうしてこんなにひどいことをするんだろう?』って思いましたし、今でも胸のつかえが全部取れたわけではありません。……ですが、同時にもう一度戦車道と向き合おうと考えられるようになったのは、ある意味で会長さんたちのお陰なんじゃないかな、とも思っているんです」

 

みほくんは小さく笑みをこぼした。

 

「わたしに悪いことをしたって本当に思ってくれているなら、これからはわたしを含む全員に対して誠実でいてください。それを約束してくれるなら、わたしは喜んでみなさんに協力しますし、これまでのことをすべて許します」

 

「……ありがとう。本当にごめんね、西住ちゃん」

 

応じる杏の声は震えていた。涙ぐんでいるのかも知れないが、それを確認するのも野暮なので、今度はこちらから言うべきことを言うとしよう。俺は杏たちと同じように頭を下げ、

 

「今回の件は、杏たちの独断を許してしまった俺にも責任がある。改めて謝らせて欲しい。すまなかったね、みほくん」

 

「大神さんまで……も、もう気にしていませんから。頭を上げてくださいっ」

 

困っているのがわかる声音だったため、言われた通り顔を上げる。それを見てひと息ついたのち、みほくんはこほん、と咳払いをした。

 

「みなさんの気持ちはちゃんと伝わりましたし、わたしもこれ以上追及するつもりはありません。……でも、ひとつだけ気になることがあって」

 

「気になること?」

 

「オリエンテーションのとき、確か大神さんは全国大会で良い成績を残すことを目標にするって言っていました。そのためにも経験者であるわたしがチームに欲しい──理屈はわかります。ですが、事情を知っている大神さんに一度は勧誘を止められたんですよね。にもかかわらず、会長さんたちはわたしに戦車道を取ることを強要した。きっと、そうまでして目標を達成したい理由があるんですよね」

 

よほど心に余裕がないのか、杏は言葉に窮してしまう。何か言おうとしたが声が出ず、最後にはこちらへ縋るような目を向けた。

 

杏が躊躇う理由はわかる。しかし、みほくんだって何の考えもなくそれを口にしたわけではない。彼女はきちんと覚悟を決めて話を聞こうとしているのだ。それがわかっている以上──

 

「俺はすべてを話すべきだと思う」

 

「で、でも……」

 

「みほくんには、こちら側の事情を知る権利があるはずだよ」

 

今回の件で少なからず心を痛めたはずなのに、それでもみほくんは俺たちに協力してくれると言った。その好意に報いるためにも、ここは彼女が望むようにしてやるのが筋で、誠意の示し方なのだと思う。

 

念を押してそう続けたことで決心が付いたようで、杏はこの学園艦が抱える問題のすべてをみほくんに伝えた。

 

「戦車道の全国大会で優勝しないと今年度で廃校、ですか」

 

杏の言葉を反芻し、みほくんはこちらを見る。動揺で瞳が揺れていた。

 

「残念だけど事実だ」

 

「……そう、ですか」

 

みほくんは顔を俯かせてしまった。膝の上で握った拳が震えている。ああは言ったが、編入したての彼女には荷が勝つことだったのかも知れない。

 

などと考えているうちにみほくんは頭を上げる。その顔は想像していたよりずっと力強く、そして頼もしさを感じるものであった。

 

「わかりました。お役に立てるかどうかわかりませんけど……それでもわたしを必要だと言ってくれるなら、喜んでみなさんの力になります。頑張って優勝を目指しましょう!」

 

そう言ってみほくんは胸を張る。聞いているこちらまで気分が高揚するような──そんな魔法が掛けられた言葉だった。

 

「気負い過ぎてはいないかい?」

 

それを心強く思う一方で、無理していないか心配になった俺はそう問い掛ける。応じるみほくんは首を振って、

 

「それはまったく責任を感じないわけではありませんけど……正直、ただ漫然と戦車道を受講するよう言われるよりもずっと気が楽になりました」

 

それに、と彼女は目を輝かせながらこう続ける。

 

「大神さんだって、大きな目標がある方がやる気が出るでしょう?」

 

「……ああ。そうだね、みほくんの言う通りだ」

 

やはりみほくんは強い子だ。目先の問題が片付いたことを実感しながら彼女の台詞に首肯を返す。

 

それから俺たちは3日後に迫った初授業に向けて簡単な打ち合わせをした。戦車の保有台数が不透明なことを知ったときは流石のみほくんも苦笑を見せたが、やはり経験者の意見は大きく、今まで漠然とし過ぎてわからなかったようなことも段々とその輪郭が窺えるようになる。

 

気掛かりだった杏たちとの関係も良好で、徐々にではあるが3人の表情もいつものように戻っていった。戦車道は個人競技ではない。今回の件が尾を引いてチームワークに影響が出てしまうかも知れない、という俺の懸念は杞憂に終わったようで何よりである。

 

話し合いも一段落したところで、「ああ、そうだった」とみほくんが柏手を打った。

 

「大神さんにひとつ確認しておきたいことがあって」

 

「ふむ、何かな」

 

「チームの隊長を誰にするのかは、もう決めてありますか?」

 

「そうだね。ここはぜひ経験者のみほくんにお願いしようかと、」

 

ここまで口にして、彼女があえてそれを尋ねた理由を悟る。

 

みほくんは目を伏せ、申し訳なさそうな口調でこう言った。

 

「えっと……試合中の指揮はわたしが取りますし、作戦の立案も主導になって考えます。その代わりといっては何ですが、形式上の隊長は別の方にしていただきたいんです」

 

少なくとも今のうちは、と結ぶ。

 

「そっかぁ。西住ちゃんが隊長の方が他のメンバーの士気も高まるんじゃないかと思ったんだけど……仕方がないか」

 

心底残念そうに杏は返す。

 

「よろしいのですか、会長……それに教官も」

 

かねてより俺や杏がみほくんに隊長の職をお願いしようと考えていたことを知っているため、桃は怪訝そうな声を出す。みほくんを見つめるその瞳は、彼女が辞退した理由を問うているようだった。

 

それを受けてみほくんは、

 

「実はわたし、お母さんからもう戦車道をやっちゃダメだって言われているんです。それが転校を許してくれる条件で……もちろん一度決めた以上みなさんとの約束は守ります。でも、可能な限りメディアへの露出は避けたいんです。もしもお母さんにばれたら大変だから」

 

概ね予想通りの答えが返ってきて、思わず俺は腕を組んだ。

 

正直、みほくんが隊長をやらなかったとしても、試合に出続けていればいつか必ず西住師範に知られてしまう日が来る。故に彼女の選択は秘密の露見を先延ばしにするばかりで、根本的な問題の解決には繋がらない。むしろ彼女たちの関係をさらに悪化させてしまうだろう。

 

しかしながら、今はそうはわかっていてもみほくんを頼らざるを得ない状況であることも確かだ。最悪俺が彼女に無理矢理戦車道を受講させたと言えば良いが、それで西住師範が納得してくれるかどうかわからない。いや、納得してくれるまで食い下がるしかないだろう。

 

代わりの隊長は発起人である生徒会の誰か──役職との兼ね合いで桃辺りにお願いするのが妥当か。いずれにせよ、授業が始まるまでには調整しておかなければならない。

 

それから細かい点を幾つか確認し、ある程度きりが良いところを見計らって今日のところは解散となる。

 

廊下までみほくんを送ってから部屋へ戻ると、先ほどまで一緒にいた柚子くんと桃の姿がなく、杏が1人椅子に深くもたれかかって天井を見上げていた。

 

「お疲れ様、杏」

 

俺の声に「んー」と間延びした返事をしたのち、杏は椅子を叩いて横に座るよう促す。

 

「自分が悪いってわかっていても、面と向かって謝るのは緊張するよねぇ。……こんなに疲れたの、ほんと久し振りだよぅ」

 

「ああ。よく頑張ったね、杏」

 

杏の隣に腰を下ろし、その頭を軽く撫でてやる。少しの間されるがままにしていた彼女は、「たまには子供扱いされるのも悪くないなぁ」と呟いたのち、俺の手をのけてこちらを見上げた。

 

「西住ちゃんにもちゃんと謝れたし、これで目先の問題がひとつ片付いたかな」

 

「あとは肝心の戦車をどうするかだけど……まだ倉庫のあれ(・・)以外見つかっていないんだよな」

 

「だねぇ。一応生徒会の方でも情報を募ってるんだけど、未だに何も届けられてないし」

 

「最悪、最初の授業は戦車の捜索に充てるしかないか」

 

「それはそれで良いんじゃない? 見つけた人が見つけた戦車に乗るようにしたら愛着も湧くだろうしさ」

 

「なるほど一理あるな。メンバーの親睦を兼ねて、レクリエーション感覚でやれたらやる気も上がるかも知れない」

 

「せっかく授業を取ってくれたんだし、メンバーの子たちには少しでも楽しい気持ちで戦車に乗って欲しいよね」

 

しみじみと言う杏子に、俺は大きな首肯を返した。

 

 

 




本編の合間の箸休め的な1話でしたが、どうでしょう?
大神さんの関与によって微妙に事情が変わっています。みほと生徒会の関係も、この時点としてはかなり改善されたのではないでしょうか。

あと、当初の予定とはずれてしまいますが、きりが良いので次回第二幕の最終話とさせていただきます。アニメ2話以降は第三幕となるかと思います。

これからはぼちぼち投稿ペースを戻していけたらなと思いますので、よろしくお願いします。


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チームの名前は──

お待たせしました、第二幕の最終話です。




待ちに待った戦車道の授業初日──ある意味で学園存続の分水嶺ともいえるこの日も、艦上には突き抜けるような青空が広がっていた。遠くに見える空と海の境目が陽に照らされ、ゆらゆらと煌く様が何とも幻想的である。

 

かくも清々しい光景は、俺たちの行く末を暗示しているのではなかろうか。そんな希望的観測に心が踊り、つい日課のジョギングにも力が入ってしまう。一緒に走っているみほくんが悲鳴にも似た声を上げるまで、全力で走っていたことに気付かなかったほどだ。

 

しかし節目の日でも平日に変わりはないので、出勤までの動きはいつもと変わらない。校舎に入ったところで杏と別れ、いつもの服に着替えてから生徒会長室へ向かう。

 

授業が始まるまでの時間で最後の確認を行なっていたところ、米田学園長が訪ねてきた。

 

「よう、大神」

 

「おはようございます、学園長」

 

挨拶を済ませ、お茶でもお出ししようと思ったところで待ったが掛かる。

 

「お前さんも忙しいみてえだし、今は気持ちだけで構わんよ」

 

それから学園長は真面目な表情を作った。

 

「結局、受講者はどれくらい集まったんだっけか?」

 

「みほくんたち2年生を筆頭に18名──杏たちを入れて21名になります」

 

「少しばかり寂しい数字だが、うちの事情を考えりゃあ案外妥当なところかも知れん」

 

「倉庫のあれ(・・)が5人乗りですから、単純計算で5台……正直なところ、これでも戦車が足りるかどうかわからないですしね」

 

「……すまねえな。俺より前の学園長が決裁書類を処分しちまったもんだからよ。種類はもちろん、数さえこちらは把握できていねえんだ」

 

頭を下げようとする彼を慌てて止め、俺は強引に話を進める。

 

「受講者の子たちには申し訳ないですが、とりあえず今日は戦車を探すところから始めようと思っています」

 

「それもやむを得んか。まあ、どうしても必要台数が集まらんときは俺に相談してくれ。文科省からの助成金も幾らかあるし、最悪県に借金すりゃあ廃棄寸前の戦車が買えるやも知れん」

 

この学園艦の解体を望んでいる文科省が助成金を出すなんて不思議に思えるかも知れないが、なんてことはない。戦車道の教育に力を入れるという国の方針から、申請さえ通ればある程度の資金を確実に担保して貰えるのだ。その分金額には融通が利かず、他校はもっぱら周辺機器や弾薬、合宿等の遠征費用に充てるらしい。

 

そんな話をしているうち、受講者の子たち全員の出席を確認したと柚子くんから報告があった。時計を見ると、もうじき始業のチャイムが鳴る頃合いである。

 

「それじゃあ大神、頑張ってこい」

 

そう残して部屋を出た学園長に敬礼を返し、俺は柚子くんを連れて集合場所──かつて使用されていた戦車の格納庫を目指す。

 

いよいよ授業が始まると思うと少しばかり緊張してしまう。隣を歩く柚子くんに悟られぬよう、ズボンのポケットに入れた拳を握り込んで武者震いを抑えた。

 

格納庫はグラウンドの脇に建てられており、校舎を出てすぐのところからでも見ることができる。またそれはあちらも同じで、一部の生徒が俺たちの姿を視認するなり幾つかの声が上がった。もしかしたら、みほくんとの勝負を観戦していた子もいるのかも知れない。

 

それはそれで交流を深めるきっかけになるから良いだろう、と考えをまとめるのと同時に集合場所に到着した。

 

受講者の向かいに立つ杏の横へ並び、その顔触れを確認する。みんながみんな可憐な容貌をしていることは置いておいて、みほくんたちや秋山さんなど、見知った生徒の姿もあった。みなの顔に浮かぶのは、新しいことに挑戦する不安……かと思いきや、期待の色の方が大きそうである。心なしか、視線が熱を帯びている気がした。

 

慣れない扱いに戸惑いながら、俺は用意していた挨拶を暗唱する。

 

「オリエンテーションのときにも自己紹介をしたからわかっているとは思いますが、改めまして、本日付で戦車道の授業を受け持つことになった大神一郎です。この春にこの学園に赴任したばかりの新米教師で、至らないところもあるかも知れませんが、粉骨砕身の覚悟で頑張りますのでどうぞよろしくお願いします」

 

いったん言葉を切って頭を下げる。ややあって沸き上がった拍手をこそばゆく思いつつ、今度は口調を崩してこう続けた。

 

「とまあ、硬い挨拶はここまでにして……君たちがこの授業を取ってくれたことを心から嬉しく思うよ。実績も何もない一からのスタートになるけれど、だからこそみんなで良いチームになるよう力を合わせて頑張って欲しい」

 

口を動かしながら、一人ひとりの顔を確認して行く。

 

「だけど気負う必要はないよ。とりあえず今は実際に戦車に乗ってみて、戦車道という競技を楽しめるようになることを目標にしよう。前に言った全国優勝というのは、そのおまけ程度に考えておいてくれれば構わないよ」

 

ただでさえ初めてのことだらけの彼女たちにこれ以上の重荷を背負わせたくはなかったので、学園の実情は伏せておくことにした。いずれ話すときが来るかも知れないが、少なくともそれは今ではない。これに関してはみほくんにも納得して貰っている。

 

「俺からの話はここまでにしておいて、次はこのチームの隊長に挨拶をして貰うことにしよう。さあ、桃。頼んだよ」

 

こちらの声に応じて桃が前に出る。

 

「大神教官からの紹介があった通り、チームの隊長を任された河嶋桃だ。なにぶんわたしも戦車道の経験に乏しく、みなに負担を掛けさせてしまうかも知れないが、どうかよろしく頼む」

 

結局、杏や柚子くんと比べて比較的手が空いている桃に隊長をお願いすることにした。消去法のような形になって申し訳ないが、彼女は彼女でやる気を出してくれているし、こちらとしても期待している。

 

しかしながら、桃は凛とした外見とは裏腹にどこか抜けている上、あがり症のきらいがある。彼女の名誉のためにみなには黙っておくが、実は先ほどの挨拶は手のひらに書いた文章を読み上げていた。これを機に精神面での成長も成し遂げることができたら幸いである。

 

そんな風に考えているうちに桃の挨拶が終わった。途中、原稿にはないこの学園の歴史についても話していたが、割愛させていただこう。

 

次に、みなの自己紹介を済ませておくことにした。名前と出身──公立高校ということで茨城出身の子が大半だった──、それから簡単なPRとでも言おうか、自分のことを30秒程度で好きに話して貰う。丸山さんという子がほとんど何も喋らなかったのには驚いたけれど、お陰で1番に顔を憶えることができた。緊張してしまったのかも知れない。他のみんなについては時々言葉に詰まることはあっても話し切ってくれたので、個々の人柄を知る良い機会になったと思う。

 

概ねつつがなく全員の話が終わり、満足げな表情で場所を譲った桃と替わって、今度は杏が前に立った。

 

「んじゃあ、ここまでで何か質問とかあるかな。どんなことでも良いよ。あたしたちや一郎叔父──じゃなくって、大神先生に訊いていておきたいことがあったら手を挙げてくれる?」

 

みほくんや生徒会を除くほぼ全員が手を挙げた。授業に入る前からこれだけ関心があるなんて、熱心な子ばかりで感動してしまう。

 

しかし俺とは違う感想を抱いたのか、杏の表情は芳しくない。

 

「若い男が少ないうちの事情を鑑みれば察しが付くけどさ……今手を挙げた中で、純粋に戦車道のことについて訊きたい子っている?」

 

これを受け、あれだけ勢い良く伸びていた手がみるみるうちに下がって行く。結局、残ったのは秋山さんとごく一部の子だけだった。

 

「みんな一郎叔父に興味津々みたいだし……生徒との交流って意味も兼ねて、いったんみんなとお話する時間を取ろっか」

 

杏は諦観とも取れる含み笑いを浮かべてそう言った。

 

こちらとしては出鼻を挫かれた形になったけれど、彼女の言うことはもっともである。生徒との信頼関係を築く以前に、まずはみなのことを知っておきたい。こちらの事情のすべてを明かすことはできないが、俺自身のことを会話の取っ掛かりにできるのなら幾分言葉に詰まることもないだろう。

 

1台の戦車に複数人で搭乗する性質上、友人同士で受講した子が多いらしい。すでに幾つかのグループができているようなので、俺から見て近い順に回って行くとしよう。最初は……1年生の子たちである。

 

誰が最初に質問したいか訊くと、みんな一斉に手を挙げた。その中から俺は、「あい!」と元気良く声を上げた桂利奈──話をする前に全員名前で呼んで欲しいと要望があった──を指名する。

 

「大神先生は付き合ってる人っていますか?」

 

桂利奈の問いを受け、割と離れたところにいるみほくんと沙織がこちらを見る。特に沙織はいつになく真剣な表情をしていた。

 

やはり年頃の乙女ということもあって、みなこの手の話題が好きらしい。他の1年生の子たちも、心なしかそわそわしているように思える。

 

「そうだな……俺自身、学生時代は勉強ばかりしていたから女性とは縁がなくてね。残念だけどみんなに話せるようなことはないよ」

 

俺の回答に周りがざわつく。期待を裏切ってしまっただろうかと思いつつ、しかし嘘をつくのも憚られるので、いっそのこと次の質問を受けてしまうことにした。

 

「先生は大洗の出身なんですか?」

 

「いいや、違うよ。隣の栃木県の出身だ」

 

「誕生日と血液型を教えてくれませんかぁ?」

 

「えっと……1月3日生まれのA型だよ」

 

「先生って背が高いですけど、何センチくらいあるんですか?」

 

「確か採用前の検査で測ったときは176センチだったかな。成人男性の平均より少し高いくらいだし、君たちと比べると大きく見えるかも知れないね」

 

「戦車道をやるとモテるって本当ですか?」

 

「それは人それぞれだと思うけど……参考までに俺の友人を例に挙げると、戦車道を嗜む女性は清楚で素敵だと話していたかな」

 

あゆみくん、優季くん、梓くん、あやの順番で投げられた問いにひとつずつ答えを返して行く。本当に俺個人への質問ばかりだったけれど、訊かれたら困る部分には触れられなかったのでひと安心だ。

 

あらかた疑問も出尽くしたところで、今度はこちらから彼女たちへ話を振る。その最中、裾を引っ張られたので顔を向けると、いつの間にかすぐそばへ来ていた紗希くんがこちらを見ながら、

 

「……パパ」

 

彼女の発言に、辺り一帯がどよめいた。俺自身も動揺のあまり声が出せなくなってしまう。いったいどういうことなのだろうか。

 

「先生、ちょっとだけパパに似てる……ます」

 

そう続けて、紗希くんは微かに頬を染める。

 

「あ、ああ、そうなのかい」

 

学園艦には中等部も併設されている。もしかしたら彼女は、長いこと家族と離れて生活しているのかも知れない。その寂しさがつい表に出てしまったのだとしたら、驚かせたことを咎めるのは気が引ける。

 

かつて〝大神一郎〟が新之介にしてやったときの気持ちを思い浮かべながら、そっと紗希くんの頭を撫でてやる。彼女は抵抗することもなく、まるで今にも寝てしまいそうな子猫のように目を細めた。

 

 

 

 

 

「大神先生はバレーボールについてどう思いますか!?」

 

1年生組と別れ、次のグループのところへ向かったところ、典子くんが開口一番にそう尋ねてきた。

 

「バレーボールというと、確か排球のことだったかな。それなら学生時代に少しだけやったことがあるよ。個人的にはなかなか楽しい競技だと思うけど、それがどうかしたのかい?」

 

「実はバレー部の新しい顧問の先生を探しているんです。それで、もし良ければ大神先生に引き受けていただけたらなと思いまして」

 

「顧問か。なってあげたいのは山々だけど、そこまで詳しいわけじゃないし、教師なったばかりでいっぱいいっぱいだからなぁ」

 

「それについては問題ありません! 基本的に練習は自分たちでやりますし、まだ部員が足りなくて試合にも出られませんから。名前だけでも貸してくれたら……いいえ、暇なときだけでも練習を見に来てくれれば十分ですので、どうかお願いします!」

 

典子くんの声に合わせて妙子くん、忍くん、あけびくんもこぞって頭を下げた。ううむ、ここまで真摯に頼まれると断りづらい。

 

「……わかった。名前を貸すくらい別に構わないし、手が空いたときなら練習にも顔を出せると思う。その代わりと言っては何だけど、気分転換にもなるだろうし、たまに練習に参加させてくれないかな?」

 

「もちろん大歓迎ですよ、大神コーチ!」

 

「よろしくお願いします、コーチ!」

 

「一緒に練習頑張りましょう!」

 

「目指せインターハイ!」

 

4つの「おー!」という声が重なる。

 

勢いで顧問を引き受けてしまったけれど、果たして俺に務まるものなのか……まあ試合には出られないようだし、典子くんたちが自主的に活動してくれるのならそこまで負担はないだろう。

 

彼女たちが笑って活動できる未来を作るためにも、何としても廃校を阻止しなければならない。

 

とりあえず今日のところは図書館でバレーボールの教本を借りることから始めるとしよう。

 

 

 

 

 

「ようやく我々の番が回ってきたか」

 

「待ちわびたぞ、元帥!」

 

バレー部の次に話をすることになったのは、一見すると仮装をした子のグループだった。聞けば彼女たち揃って歴史に明るく、服装も好きな偉人を模したものであるという。

 

赤いマフラーを首に巻いたカエサルと、緑色の軍帽を被ったエルヴィン──記録によれば先の戦争で名を馳せたドイツ陸軍の将校の名前らしい──が言葉を連ねる。紋付の着物を羽織ったおりょうと六文銭の額当てをしている左衛門佐も、こちらへ詰め寄らんとする勢いだ。

 

彼女たちの様子に心当たりがないわけではない。杏やみほくんはもちろん、柚子くんや一部の先生からも同じ反応をされたことがある。要は俺ではない大神一郎について何かしらの知識を持っているのだ。

 

そういう相手に対し、決まって俺はこんな方便を返す。

 

「よく誤解されるというか、勘違いされてしまうんだけどね。俺は君たちの知る大神一郎とはまったくの別人だよ」

 

そう告げると、4人はまるで雷にでも打たれたと言わんばかりの衝撃を受けた。

 

「え、いやだって同姓同名だし……出身地も元帥と同じ栃木だって」

 

「出身地に関しては本当に偶然なんだ。名前については父が歴史好きな人でね、苗字が同じという理由で一郎と名付けられたそうだよ」

 

「この前剣道場で披露していた二天一流の腕前は決して伊達ではあるまい。かの大神元帥と同じ、一朝一夕では会得できない技のはずだ」

 

「それについては否定しないよ。歳の離れた姉が熱心だったこともあって、物心付いた頃にはもう二天一流の稽古を始めていたからね」

 

「か、顔が若い頃の元帥とそっくりぜよ!」

 

「確かによく似ていると言われるけれど……考えてみて欲しい。彼が半世紀以上前に亡くなっていることは、歴史に明るい君なら知っているだろう。それとも、俺が明冶生まれの人間に見えるかな?」

 

少し意地悪な言い方かも知れないが、曖昧にしてはいけないことだと思うので、いっそのこと真正面から彼との関連性を否定しておく。

 

あてが外れたといった様子で彼女たちは頭を垂れた。思ったよりもショックを受けていて、なんだか申し訳ない気持ちになってしまう。

 

「……いや、たとえ先生が大神元帥本人でないとしても、これだけ条件が重なっているのに赤の他人と割り切るのはどうなのだろう」

 

ふいに聞こえたカエサルの呟きに、他の3人が顔を上げる。互いを見合わせたのち、彼女たちは再びこちらに目を向けた。

 

「よもやこれは偶然の産物などではなく、約束された必然で……きっと先生は名前と一緒に元帥の魂をも受け継いでいるに違いない」

 

先ほどまでの落胆はどこへ行ったのだろう、カエサルは高らかにこう続けた。

 

「ともすればそれは、かの人物の志を継いだ我々と本質的に同じではなかろうか」

 

「うむ」

 

「確かにその通りだ」

 

「違いない」

 

俺本人を置いてけぼりにして、彼女たちはうんうんと頷き合う。なんだか事態がややこしくなっているように思うのは気のせいだろうか。

 

などと考えていると、4人を代表してエルヴィンが俺の前に立って、

 

「今ここに新たな同志の誕生を宣言しよう。我々とともに高みを目指そうではないか、大神先生──いや、元帥!」

 

「いや、さっきも言ったけど俺は、」

 

改めて否定しようとしたところで、それを遮らんと彼女は手を突き出す。

 

「みなまで言わずともわかっているさ。先生と元帥は別人……けれどもせっかく同じ名前を貰ったのだし、伝説の軍人と名高い彼にあやかってみるのも悪くないとわたしは思うのだが、どうだろう?」

 

「確かに良い考えだと思うけれど……」

 

憧憬の対象がある意味でもう1人の自分というのが複雑な心持ちである。

 

その後も戸惑う俺を尻目に彼女たちはどんどん話を進めて行き、気付いた頃には当初の予定通り「元帥」と呼ばれるようになっていた。

 

 

 

 

 

「あー、えっと……お疲れ様です、大神さん」

 

度重なる質問や予想通りに進まぬ会話で体力を消耗したのが表に出ていたのだろう、俺を迎えるなりみほくんは困り顔でそう言った。

 

いくら仲の良い子たちが相手とはいえ、気の抜けた姿を生徒に見せては示しがつかない。お礼を口にする一方で、俺は内心で反省する。

 

3人と向き直ろうとしたところで、少し離れたところから優花里が俺たちの方を窺っているのに気付いた。もじもじとしているのは、もしかしたら話の輪に入りたくても入れない心の表れなのかも知れない。そう考えた俺は、みなに断った上で彼女を招く。

 

優花里は恥じらいながらも嬉しそうにこちらへやって来ると、自己紹介ののち改めて「混ぜていただけて光栄です!」と頭を下げた。

 

元々名前通りの優しい子だし、人懐っこい沙織が間を取り持ってくれたこともあって、優花里はすぐに他の2人とも打ち解けることができた。どうもみほくんのことを知っているようだが、彼女が戦車道に精通していることを考えれば特段おかしなことでもないだろう。

 

交友も一段落したところで、改めて俺は口を開いた。

 

「そろそろ質問を受け付けようと思うんだけど……そうだな、まずは優花里から話を聞かせて貰えるかい?」

 

目に付いた優花里を指名すると、彼女は申し訳なさそうに首を振った。

 

「あー、実はですね。わたしも先生と大神元帥の関係が気になっていたのですが、別の方にすでに質問されてしまったので……とりあえず先生のことを戦車道風に司令と呼んでもよろしいですか?」

 

「もちろん構わないよ。他の子もそうだし、好きに呼んでくれ」

 

「了解しました! では、大神司令と呼ばせていただきますね」

 

びしっと敬礼をした優花里にこちらも同じように敬礼を返す。

 

次いで俺は他の3人に目を向ける。確かみほくんは手を挙げていなかったので、残るは沙織と華くんだが、

 

「君たちとは授業外でもよく会うし、今更話をするようなこともないんじゃないかな」

 

「そんなのダメだよ! わたしだってせんせーとお話ししたくて待ってたのに、他のみんなだけずるい!」

 

ぶー、と沙織が不満げに唇を尖らせる。

 

「わかった。ならば沙織は俺に何か訊きたいことはあるかい?」

 

「うぇ!? ……いや、その、元々考えてた質問は他の子にされちゃったから、特に訊きたいことはないんだけどね。でもさ、わたしたちだけなんにもないのはちょっと寂しいっていうか」

 

「だけど、普通の話ならいつでもできるしなぁ……何も今この場で済ませなくたって、沙織さえ良ければ俺はいつでも相手になるよ」

 

このくらいの歳の子だと、友達には打ち明けづらいような話のひとつもあるに違いない。そういった悩みの捌け口になってやるのも、きっと教師の仕事のうちに含まれるのだろうと思う。

 

「あ……うん。せんせーがそう言ってくれるならそれでも良いかな」

 

心なしか早口で言い、そのまま沙織は顔を伏せてしまう。それっきり黙ってしまったので次の質問を募ると、今度は華くんが手を挙げた。

 

「つかぬことをお伺いしますが……大神先生は、花は好きですか?」

 

「え……」

 

「──ちょっと華!?」

 

彼女の問いにみほくんが乾いた声を漏らし、沙織が勢い良く顔を上げた。優花里でさえ驚きのあまり目を見開いている。果たして、今の質問にそこまで過剰反応する要素などあっただろうか。

 

「こ、こここ、こんなところで告白なんて、華ってば大胆過ぎ!」

 

ああ、なるほど。華くんの名前と植物の花の響きが同じだから、質問の意図を誤解してしまったらしい。彼女の名誉のためにも否定しておいた方が良いだろうと思い、口を開こうとして、

 

「な……っ!? ち、違いますよ、誤解ですっ! 違いますからね、先生……実はわたくし華道を嗜んでおりまして、昔から花に触れる機会が多かったものですから、少し気になっただけなんですからね!?」

 

華くんにしては珍しく取り乱した様子で言葉を連ねた。顔が真っ赤になっている辺り、本人も予想だにしない誤解だったのだろう。

 

「大丈夫、ちゃんとわかっているから」

 

とりあえず彼女が落ち着けるよう声を掛け、

 

「それから質問への答えだけど、やはり俺も日本男児だからね。強いて言うなら、季節を感じられるような花が好きだよ」

 

ついでに返答も済ませておく。

 

これに華くんはぴくりと肩を震わせると、幾ばくかの逡巡を経てこんなことを言った。

 

「あの、大神先生。よろしければもう一度おっしゃっていただけませんか?」

 

「 わかった。俺は特に季節を感じられる花が、」

 

「もっと端的に、好きか嫌いかで言うなら?」

 

「えっと、俺は花が好きだよ」

 

「……ふむ。悪くありませんね」

 

しきりに視線を動かしながら何度も頷いたのち、華くんはどこか満足そうな面持ちで「わたくしからは以上です」と結んだ。

 

 

 

 

 

生徒との交流という大義があるとはいえ、いい加減切り上げないと学園長に叱られてしまう。まだ話し足りないという子もいたのだが、続きはまた後日と約束し、俺はみなを倉庫の前に集めた。

 

「さて、そろそろ授業を始めるとしようか」

 

「あ、せんせーごめんね。たぶん授業と関係があることだと思うんだけど、ひとつだけ質問しても平気?」

 

申し訳なさそうに沙織が手を挙げる。戦車道に関する質問なら問題ないだろうと思って発言を促すと、

 

「ほら、戦車道ってみんなでやる競技でしょう? だからチーム名とかって大事だと思うんだけど、その辺はもう決まってるのかなーって」

 

「チーム名、か……」

 

そういえば考えていなかった。少なくとも夏の大会までは同じ名前を使うことになるだろうし、せっかくだから全員で決めるのも悪くないと思うが──

 

「チーム名なら、昨日までに生徒会(あたしたち)と西住ちゃんで決めといたよ」

 

「そうなのかい?」

 

初耳である。いや、元より生徒の自主性を尊重する方針だから別に構わないのだが、そういう大切なことは俺にも話しておくべきではなかろうか。

 

やんわりと苦言を呈したところ、「まあまあ、固いことは言いっこなしだよ」と杏はいつも通りの調子で返す。少しは悪びれて欲しい。

 

「お説教は後! 今はチーム名の発表が先でしょう?」

 

確かにそうだと思い、追及を止める。言いくるめられてしまった感が否めないが、個人的な遣り取りにみなを巻き込むのも忍びない。

 

俺が黙ったのを確認してから杏は言った。

 

「知ってる人もいるみたいだけど、大神先生って戦前に活躍した有名な軍人さんと同姓同名なんだよね。んで、その人が若い頃指揮していた秘密部隊があるんだけど……わかる子っているかな」

 

「聞いたことがある。大神元帥に秘密部隊といえば、太正時代に帝都の危機を幾度も救ったあの帝国華撃団のことだろう?」

 

杏の問いに、代表してカエサルが答えを述べる。

 

「しかし、帝国華撃団の隊員は非公開とされていたはずだ。大神元帥が関わっていたというのも、実際のところ噂程度の信憑性しかない」

 

「おー、鈴木ちゃん詳しいねぇ」

 

「あの、できればカエサルと呼んでいただけると……」

 

わかったわかった、と言葉よりわかっていなさそうな相槌を挟んだ杏は、

 

「まあ確かにそうなんだけどさ、そこんところを議論しても仕方がないし、とりあえず噂が正しい前提で話を進めさせてね」

 

そんな風に断りを入れ、彼女は続ける。

 

「せっかく面白い偶然が重なってるんだし、いっそのことチーム名は帝国華撃団の丸パクリ……もとい、尊敬の念を込めてその名前を使わせて貰った。ここまで言えばもうわかると思うけど、改めて発表します! あたしたちのチームの名前は──」

 

杏の呼吸に合わせて柚子くんと桃、それからみほくんのが口を開き、声を揃えてこう言った。

 

「「「「──大洗華撃団!」」」」

 

 




本編で台詞が多くないキャラクターほど淡白な描写になってしまいましたが、一応大神さんを大洗の全員と会話させています。漏れがあったら教えていただけると幸いです。

さて、当初の予定通りアニメ本編1話が終わったところで話を区切らせていただきます。前回同様、幕間と次回予告を挟んで第三幕に入りますのでこれからもどうぞよしなに。

ちなみに、呼び名に「くん」を付けるか一番悩んだのは優花里でした。




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わたしの一歩

いつもの18時には間に合いませんでしたが、更新します。

今回は第一幕のときと同様にヒロイン視点の幕間です。
語り手は沙織、時系列はアニメ本編における校内模擬戦~聖グロ戦の間となります。そのためまだ登場していないキャラが出てきますのでご注意をば。

なお、話の都合で明らかに本編と異なる描写があります。その旨をご留意の上読んでいただけたらなと思います。

あと、ついに1万文字の壁を超えました。


陸にいるお父さんとお母さん、実は今沙織には気になっている男の人がいます。彼はこの春高等部に赴任した戦車道の先生で、背が高ければ顔も良く、性格は優しくて誠実、おまけに頼り甲斐満載の完璧なスペックの持ち主で、名前は──

 

「あー、はいはい、わかったから。今度はどの港のカレー屋さん?」

 

向かいの席で納豆を掻き混ぜていた妹の詩織が、うんざりとした様子でわたしの独白に割り込んでくる。あ、あれ? 娘の近況を心中で報告していたはずなのに、もしかして声に出ちゃってたのかな。

 

「いかにも聞いて欲しいって声だったのに、よく言うよ。……まあ、お姉ちゃんの〝発作〟は今に始まったことじゃないけどさ」

 

「ほ、発作って……病気みたいに言わないでよ!」

 

「だって、ねえ?」

 

含みのある言い方をして、詩織はわざとらしい溜息をつく。

 

むぅ、なんか冷たい反応だなぁ。昔は「お姉ちゃんお姉ちゃん」っていつも後ろをついて回っていたのに、いつの間にかわたしへの当たりが強くなった気がするよ。まあそれでも叱ったり怒ったりできないのが姉の(さが)なんだけどさ……でも今回は特別、生意気盛りの妹にはお灸を据えなくちゃダメだよね。

 

「苦手なくせに怖い番組を観ちゃったせいで『1人じゃ眠れない』って泣き付いてきた誰かさんのために、わざわざ管理人さんに頼んで泊まってあげたお姉ちゃんに対して、その言い方はあんまりじゃない?」

 

わたしの言葉を聞いて、詩織はぴくりと頬を引き攣らせた。

 

「それはそうなんだけど……ごめんなさい、わたしが悪かったです」

 

「わかればよろしい」

 

悔しそうな顔をしつつも黙ったままの妹と静かな朝食を済ませる。それから並んで歯を磨き、久し振りに髪を梳かしてあげ、その他身だしなみを整え終えた頃にはすっかり詩織の機嫌も直っていた。

 

「ねえねえお姉ちゃん」

 

いつもと違う通学路の景色を珍しく思いながら歩いていると、隣を歩く詩織が話し掛けてきた。

 

「さっき言ってたカレって、ほんとにカレー屋さんじゃないの?」

 

「それはモチのロンよ。詩織だってびっくりするくらい格好良い人なんだから!」

 

「ふ、ふうん、そうなんだ」

 

そっけない相槌を打ちながらも、妹の顔と声音には関心の色が見え隠れしている。どんな人なのお姉ちゃん、という心の声が今にも聞こえてきそうだ。

 

そこまでわかりやすい反応をされたら、教えてあげないのもかわいそうだよね。

 

「ほら、今年からお姉ちゃん戦車道を始めたじゃない? 彼はその授業の担当で……正直戦車の中は狭いし暑苦しいし、おまけに鉄臭いんだけどね。それでもせんせーがいるから頑張れるって感じかな」

 

「んー、それだけじゃよくわからない──」

 

「おや、その後ろ姿は沙織じゃないか。おはよう、通学の時間に会うとは奇遇だね」

 

詩織の言葉に被せるようなタイミングで聞こえた声に、わたしたちは揃って後ろを振り返る。するとそこには、いつもと違ってスーツを着た一郎せんせーがいた。

 

「あ、せんせーおはよう」

 

普段のカジュアルな服装も良いけれど、ぴしっとしたスーツ姿も素敵だなぁ、なんて思いつつわたしは挨拶を返した。

 

「わたしの寮は違う方向なんだけどね、昨晩は妹の部屋に泊まったからさ。そういうせんせーのお家はこっち側なの?」

 

「ああ、そうだよ。この先の……っと、俺の家はどうでも良いか。それより妹さんというのは、隣にいるその子のことかい?」

 

「うん。中等部の3年生で、詩織っていうの。……ほら、あんたもちゃんと挨拶しなさい」

 

俯き加減の妹の背中に手を当てる。別に痛くなるほど力を込めたわけじゃないんだけど、それを受けて詩織はびくりと大きく身震いした。

 

「あ、あのっ……武部詩織、です」

 

妹の口から出たとは思えないほどしおらしい声だった。

 

「詩織ちゃんだね。初めまして、俺は大神一郎。高等部の教師で、君のお姉さんが取っている戦車道の授業を受け持っているよ」

 

爽やかな笑みを浮かべてせんせーは手を差し出す。ゆっくりと握手に応じた詩織は、「よろしくお願いします」と小さく言った。

 

「それにしても、沙織たちはよく似ているね。一目で姉妹だとわかったよ」

 

「当然でしょう? これでも陸にいた頃は『大洗の美人姉妹』で通ってたんだから」

 

「うむ。そう言われるのも当然の道理だね」

 

「えっと……うん。ありがとう」

 

実は美人姉妹って言われたのは幼稚園のときのことで、半分冗談のつもりだったんだけど……せんせーってば普通に認めちゃうんだもん。嬉しさ余って恥ずかしくなったわたしは生返事しかできなかった。

 

「……っ」

 

急に腰の辺りが痛くなって背筋が伸びる。詩織が制服越しに肌をつねってきたのだ。赤くなった頬と複雑そうな表情から、わたしと同じように恥ずかしくなってしまったことがわかる。

 

ごめん詩織、今度の休みにアイス奢ってあげるから許して!

 

そう目で訴えると、すぐに痛みが消えた。本当に必死になれば2人の間に言葉なんて必要ない。これぞまさしく姉妹愛だね。

 

そんな風に考えていると、せんせーはふと何かを思い出したように柏手を打った。

 

「午後の授業で使う資料に不備があって、これから印刷しに行かねばならないんだった。……2人には悪いんだけど、先に行かせて貰うね」

 

「わかった。また後でね、せんせー」

 

ああ、と頷いてせんせーは走り出す。その後ろ姿を見送ってから隣へ向き直ると、詩織はぼんやりした様子で正面を眺めていた。

 

わたしの呼び掛けにはっと息を呑んだ妹は、興奮気味にこちらへ詰め寄ると、

 

「お姉ちゃんお姉ちゃん! 今のイケメンが例のカレなの!?」

 

「う、うん。そうだよ」

 

さっきあれだけ興味のないふりをしていたのに、本物のせんせーを見た途端これだよ。我が妹ながら現金だと呆れる一方で、こういうところはやっぱり姉妹なんだなぁって思う。いやはや、血は争えないね。

 

「良いな良いな、羨ましいなぁ……わたしも高等部に進学したら戦車道を取りたくなっちゃったよ」

 

「そんな不純な動機で受講したって続かないよ?」

 

「またまたぁ。お姉ちゃんだってどうせあの先生目当てで入ったくせに」

 

「うぐっ……お、お姉ちゃんにはちゃんとした理由があったんだからね!」

 

戦車道をやるとモテるからって動機は、せんせー目当てとはまた違うと思う……たぶん、いやきっとそうに違いない。

 

そんなわたしの訴えも虚しく、詩織は全然信じていないのがわかる笑顔で適当な返事をして、「だけどさ」と新たな話題を切り出した。

 

「あれだけ格好良い先生だと、お姉ちゃんの他にも好きになっちゃう人がいそうだよねぇ」

 

詩織の言葉に、自然とわたしは身近な人たちの顔を思い浮かべた。

 

編入する前から付き合いがあるみぽりんはもちろんのこと、ゆかりんや麻子も怪しいし、最近は華までその気があるような素振りを見せている。姪の杏会長はほぼ間違いなく親戚以上の感情を持っているし、他のみんなだって少なくとも悪いイメージを抱いていることはなさそう。……改めて考えてみると、実際に戦車道をやっているのはわたしたちなのに、せんせーの方がずっとモテモテだよ。

 

なんだか不安になってきたので、自らを奮い立たせるためにも虚勢を張る。

 

「わたしにはモテ道の心得があるから、きっと大丈夫だもん!」

 

「モテ道なんて言葉、わたし初めて聞いたんだけど……まあ何でも良いけどさ。実際のところ、お姉ちゃんのことだから肝心なところでヘタレちゃって全然アピールできてないんじゃない?」

 

「そ、そそそ、そんなわけ……お姉ちゃんが何年結婚情報誌を読み込んでると思ってるの? 気になるあの人へのアプローチの方法のひとつやふたつ、暗唱できるくらい頭に叩き込んであるんだから!」

 

「えぇ……? わたし読んだことないからわからないんだけど、結婚情報誌ってそういうのを全部済ませた人が読む本じゃないのかな?」

 

くうっ。ちょっと話に挙げただけなのにそれの本質を穿つなんて、詩織ってば恐ろしい子……っと、そんなの今はどうでも良いよ。

 

妹に論破されたままだとわたしの沽券にかかわるし、姉としての威厳を保つためにも何か言わないと!

 

すーっと息を吸って、わたしはこう宣言した。

 

「お姉ちゃんだってやるときはやるの! すぐにでもせんせーを虜にしちゃうんだから、今に見てなさい!」

 

 

 

 

 

なーんて大見得を切っちゃったんだけど、本当は詩織の言う通り全然せんせーにアプローチできていないんだよね。

 

それはわたしだって、やろうやろうって決心してせんせーのところへ行ったんだよ? でも本人を前にしたら急に恥ずかしくなって、そのときは「何でもない」と誤魔化してしまった。脳内シミュレーションではあんなに上手に話せたのに、どうしてこうなっちゃうんだろう。

 

ううん、答えはもうわかっているよ。結局わたしはせんせーに自分の好意を否定されるのが怖いんだ。他の子には調子の良いことを言っておいて、いざわたしの番になると尻込みしちゃうんだから情けない。

 

自分が恋愛に対してこんなにも奥手だったなんて──実際に誰かを好きになるまで気付かなかったし、考えもしなかった。

 

人差し指を軸にくるりとペンを回して、わたしは溜息をつく。ホワイトボードに板書をするせんせーがいやに遠く感じられた。

 

毎週金曜は4限目まで普通科の授業、午後は戦車道って時間割なんだけど、今日は半月に一度ある艦上のメンテナンスの日だから車輌を動かす訓練ができない。代わりに小会議室で戦車道の基礎的な勉強をしているんだけど……お昼ご飯の後ということもあって、みんな眠たそうにしている。というか麻子やバレー部のみんな、桃ちゃん先輩辺りはすでに夢の世界に迷い込んでしまっていた。

 

かくいうわたしも少しだけ、ううん、だいぶ頭が働かなくなってきている。せんせーの手前頑張って起きているけれど、気を抜いたらすぐにでもあちら側へ落ちてしまいそうだ。

 

眠気を紛らわすために視線を動かして、右隣の桂利奈ちゃんがこっくりこっくりと舟を漕いでいるのに気付く。そっと肩を叩くと、はっと目を覚ました彼女は照れ臭そうに頭を掻き、微睡みの中でノートに描いたぐちゃぐちゃの線を慌てて消し始めた。かわいい。

 

その後も1、2回危ない場面はあったものの、何とか意識を保った状態で6限終了のチャイムを聞くことができた。やりきった達成感に浸ると同時に、安堵の息が口から漏れる。なまじ戦車に乗るより疲れたよ。

 

せんせーの方はといえば、質問に来た子に応じながら教材の片付けをしている。お手伝いをしようと席を立つも、同じことを考えたらしいみぽりんに先を越されてしまった。これ以上あっちへ行ってもかえって邪魔になっちゃうだろうし、わたしはそっと椅子に座り直す。

 

何となく気落ちしながらぼんやりとその様子を眺めていると、ちょうどせんせーの後片付けが済んだタイミングで学園長が訪ねてきた。

 

「なあ大神、今日が何の日かわかるか?」

 

「何の日、ですか……ああ、そういえば今月は繰り上がって今日になるんでしたっけ」

 

「当日が土曜だからな。そんでよ、ついては今夜辺りに一杯やりに行きてえんだが、お前さん何か予定はあるかい?」

 

「問題ありません。急ぎの用事もないのでぜひお供させてください」

 

せんせーが承諾すると、学園長は嬉しそうに頷き返した。

 

いったい何の話をしているんだろう、って思ったのはわたしだけではなかったようで、近くにいた会長さんが2人の会話に割り込む。

 

「ねーねー、さっきから一郎叔父たちは何の話をしてるの?」

 

おう角谷か、と言ってから学園長は質問に応じる。

 

「今日は俺たち公務員の給料日でよ。こいつにとっちゃあ初任給になるわけだし、そのお祝いに飯でもどうかって誘いに来たんだ」

 

「学園長、さっき『一杯やりに』って言ってませんでした?」

 

「ま、まあ細けえことは置いておこうぜ、角谷。当然ながら学園艦にも大人は住んでいて、数は少ねえが居酒屋もある。今回の場合、贔屓にしている店にたまたま酒が置いてあるだけの話なんだよ。なあ?」

 

「え、ええ……」

 

学園長に促され、せんせーは弱々しく肯定する。

 

要は2人でお酒を飲みに行きたい、ってことみたい。

 

そういえばよくお話ししているところを見るけれど、せんせーたちって不思議なくらい仲良いよね。苗字も違うし、たぶん親戚とかでもないんだろうけど、この春初めて会ったにしてはおかしな距離感だよ。実は生き別れた親子だったり……なんてことはさすがにないかな。

 

それはそうと、学園艦に居酒屋さんなんてあるんだ。

 

いや別に行こうとも思わないし、そもそも未成年だからお店には入れないんだろうけど……わたしくらいの歳だと好奇心優先に物事を考えちゃうっていうか、興味がないか訊かれたら迷った末に首を振る程度に関心はあるんだよね。まあ、そう思うだけで行動は控えるけどさ。

 

会長さんのジト目に耐えられなくなったのか、「そういうわけだからよろしく頼むぞ、大神」と残して学園長は部屋を去って行く。その背中を溜息混じりに見送って、彼女はせんせーの方へ向き直った。

 

「じゃあ、今日は一郎叔父の分の夕飯は作らなくて良いんだね?」

 

「なんだかすまないね、杏」

 

「ううん、事前にひと言伝えてくれたらそれで大丈夫だから」

 

会長さんの言葉に、せんせーはほっとした顔でありがとうと返す。なんだか大人な対応……というより新婚さんの会話っぽいかも。ぐぬぬ。

 

輪の外から意味もなく対抗心を燃やすわたしを尻目に、「あー、そうだった」と会長さんは新しい話題を提起する。

 

「初任給が出たってことは、早いところ一郎叔父のあれ(・・)を買いに行かなくっちゃね」

 

「あれ、というと……ごめん、何だったかな」

 

「もう、忘れたの? 今のままじゃ連絡手段がないから、お給料が入ったらまずはスマホを買おうって決めたじゃない」

 

「すまほ? ああ、携帯電話のことか。そういえばそうだったね」

 

「今日はあたしたちと同じ時間に帰れるんだよね。だったら学園長と飲みに行くまでの時間でスマホを買いに行っちゃおうよ、ね?」

 

「ああ、わかったよ」

 

へえ、せんせーってスマホ持っていなかったんだ。今時珍しい……というよりよくそれで生活できるなぁ。わたしだったら不便過ぎて1日も持たないよ、たぶん。今だってスカートのポケットに入れてあるし。

 

いやそれよりも、今の流れだとせんせーと会長さんは2人きりでスマホを買いに行くってことだよね。それはきっと放課後デートといっても過言ではないイベントで、なんと羨ましい──ううん、いくら親戚とはいえけしからん事態ですよこれは。

 

「スマホ、かぁ……」

 

ふいにせんせーの隣でホワイトボードの文字を消していたみぽりんが呟いた。でも意図して会話に混ざったではないらしく、2人の視線を受けるなり顔を赤くして、

 

「あ、えっと、そろそろわたしもスマホに替えようかなーって思っていたところで、つい……ご、ごめんなさいっ」

 

あわあわしながら頭を下げる。みぽりんって戦車に乗っているときは凛として格好良いのに、こういうときは本当にかわいい反応をするよね。……これもわたしがやったらあざといって言われちゃうんだろうなぁ。いったい何が違うんだろう。日頃の行いとか?

 

「ならさ、良い機会だし西住ちゃんも一緒に買いに行こうよ」

 

な、何ですと!?

 

会長さんの言葉に、わたしと同じく話を聞いていたらしい数名が顔を上げる。

 

初日に全員の連絡先を交換したからわかるんだけど、わたしたち大洗華撃団内におけるスマホの普及率は極めて高い。そのためみぽりんに便乗して「わたしも一緒に!」と手を挙げることができないのだ。

 

そんな事情を知ってか知らずか、せんせーたちは何やら内緒話をしている。歯痒い思いでそれを見ているうちに話がまとまったらしい。杏会長がこちらへ向き直り、「ちょっとごめんね」と口を開いた。

 

「授業も全部終わったし、本来ならこれで解散なんだけど……各チームの通信手の子はこっちへ来てくれるかな」

 

左隣で教科書を片付けていた妙子ちゃんと目を合わせる。その表情を見る限り、心当たりがないのは彼女も一緒みたいだ。

 

未だ机に突っ伏したままの麻子の相手をゆかりんに任せ、わたしたちはホワイトボードのところへ向かう。同じく優季ちゃんとエルヴィンさんも集まったところで、会長さんではなくみぽりんが口を開いた。

 

「みなさんの中で、今日これから何か予定がある人はいますか?」

 

この質問にわたしを含めた全員が首を振ると、

 

「では、わたしたちと一緒に携帯電話を買いに行きましょう!」

 

今度はみんな揃って疑問符を浮かべた。急にどうしたんだろう。

 

「それってつまり、どういうことですかぁ?」

 

優季ちゃんがわたしたちの心の声を代弁した。この指摘で言葉足らずを自覚したみぽりんは、ほんのり頬を染めて咳払いをすると、

 

「沙織さんがそうなのは知っているんですけど……他のみなさんも、たぶん普段使いの携帯電話はスマホですよね?」

 

わたし以外の3人が肯定する。予想通りと言わんばかりにみぽりんは頷き返し、

 

「前に説明があったかと思いますが、戦車道においては公式戦を含むすべての試合で携帯電話の所持、及びルールブックに記されている範囲で自由な運用が認められています。……でも、授業では戦車の中にそれを持ち込むことが禁止されていますよね」

 

みぽりんの言う通り、初めて戦車に乗る日にせんせー……じゃなくて会長さんからそんな注意を受けた。あのときは「携帯電話なのに携帯しちゃダメなんておかしいよ!」って考えたけれど、今の口振りから察するに、どうやらちゃんとした理由があるみたい。

 

「ほら、戦車の中ってかなり揺れるじゃないですか。実はその振動が原因でスマホの画面が割れちゃう、なんてことが結構あるんです」

 

あー、確かにそれでスマホが壊れちゃったらせんせー側も困っちゃうもんね。理不尽だなーって思ったのを反省しなくっちゃ。

 

「試合中に戦車間、大神さんと遣り取りをするときには無線を使いますが……途中で壊れてしまったり、何らかの要因で使えなくなったりすることがないとも限りません。そういうときは携帯電話を使うのが一般的ですが、先ほどの理由でスマホは持ち込めないんです」

 

「そんでね、試合用に幾つかガラケーを買おうって話になったんだけど……予算の都合で全員のは賄えないからさ、一番使う機会が多そうな通信手のみんなの分だけ用意しておこうってわけよ」

 

会長さんがみぽりんから言葉を引き継いだ。

 

「学園側にはまだ話を通してないんだけど、これくらいなら経費で落とせると思うから大丈夫。……ってなわけで、あたしは学園長と交渉してくるから、みんなは荷物を持って校門前で待っててね」

 

 

 

 

 

勉強道具を愛用のトートバッグへ入れ、忘れ物がないかチェックしてから小会議室を出る。数学の時間に配られた課題のプリントを置いてきてしまったみぽりんに付き添って教室へ寄ったのち、わたしたちは校門の前へ向かった。

 

ほどなくしてやり遂げた顔をした会長さんと、少し疲れた様子のせんせーがやって来る。呼ばれた全員がいるのを確認し終えたところで、わたしたちは最寄りの──まあ、電波の関係でこの学園艦にはひとつの会社の系列店しかないんだけど──携帯ショップへ行くことにした。

 

その道中でせんせーとお話しする機会を模索するも、しかし彼は妙子ちゃんとバレー談議に花を咲かせていてこちらに気付く様子はない。

 

初日に勢いでバレー部の顧問を引き受けた話は聞いているけれど、それでよく妙子ちゃんの話についていけるなぁ。知らないカタカナ語がひっきりなしに飛び交っていて、わたしには何を言っているのか全然わからないよ。

 

10分ほどの道のりを経て、一行は目的地に到着する。結局わたしはひと言もせんせーに声を掛けることができなかった。

 

なんだか今日は気持ちばかりが空回りして、肝心なところで足を取られてしまっている気がするよ。

 

そうするなって言われても無理な話なんだけど、変に意識するあまりせんせーとの距離が開いてしまっては本末顛倒である。詩織との遣り取りはいったん忘れて、平常心で彼と接する努力しなくちゃ。

 

お店に置いてあるガラケーはどれも似たような価格、月額使用料ということもあり、それぞれが気に入った機種を選んで良いことになっている。他のよりひと足早く自分に合ったものを見つけたわたしは、向こうでスマホを選んでいるみぽりんたちのところへ行くことにした。

 

2人は揃って同じ棚の前にいたんだけど、いつも通りの柔らかい表情のみぽりんに対し、せんせーはしかめ顔で商品とにらめっこしている。どちらが悩んでいるかは明白なので、お話ししても邪魔にならなさそうなみぽりんの方に声を掛けることにした。

 

「みぽりんはもうどれを買うのか決めたの?」

 

「うん。わたしは沙織さんと同じリンゴの会社のやつにしようかな」

 

「あー、やっぱり? この前ちょっと貸してあげたときに『操作が簡単でわかりやすい』って言ってたし、そうするんじゃないかって思ったよ」

 

「……ふむ」

 

わたしたちの会話が耳に入ったのだろう、小さく唸ったのちせんせーがこちらを向いた。

 

「話に割り込むようで申し訳ないんだけど、見ての通りどれが良いのかさっぱりわからなくてね……良ければ沙織が使っているものを見せてはくれないかな」

 

「う、うん。わかった」

 

せんせーの頼みに応じてスマホを取り出し、基本的な機能を紹介してみせる。彼は無意識なんだろうけど、画面を覗き込む顔が思いの外近くにあってドキドキが止まらない。それでもここで取り乱したら格好が付かない、なんて意地でもって何とか自然体を演じた。

 

ひと通りの説明を終え、実際に触って貰ってみた方がわかりやすいと思ったわたしは、自分のスマホをせんせーに貸してあげる。そうして勝手がわかったのだろう、いつしか彼の表情は明るくなっていた。

 

「ありがとう。助かったよ、沙織。思ったよりも操作が簡単だし、何よりボタンがひとつしかないのがわかりやすくて良い。……決めた。俺も君と同じものを買うとしよう」

 

わたしは拳を握って小さく喜びを体現した。全然そんなつもりはなかったんだけど、結果的にせんせーとスマホがお揃いになるみたい。きっと麻子なら「僥倖」とか「望外の喜び」とか難しい言葉を口にしているところだろう。

 

「それじゃあ、2人とも色はどうする?」

 

「この中だとわたしはピンクかなぁ……沙織さんと被っちゃうけど大丈夫?」

 

「わたしのはスマホカバーを付けてるし、取り違えることはないから心配しないで平気だよ。それに長く使うものだもん、みぽりんが気に入ったのを買った方が絶対良いって!」

 

「わかった、それならピンクにするね。ありがとう、沙織さん!」

 

「俺はこの白……いや銀か? ともかくこれにしようかな」

 

「うん。わたしもせんせーならそれが一番似合うと思う」

 

何でかって訊かれたら困るんだけど、せんせーって白が似合うような気がするんだよね。こう、白以外ないって雰囲気が漂っているというか……とにかくそんな感じなの。伝わってくれたら嬉しいな。

 

閑話休題するね。どのスマホを買うか決まり、早速契約しに行った2人と入れ替わるタイミングで他の通信手の子たちがやってくる。みんな自分に合ったガラケーを見つけたみたいだ。学校名義で契約する都合上いっぺんに買った方が手っ取り早いそうで、わざわざわたしを呼びにきてくれたらしい。

 

ひと言謝って輪の中へ入り、全員でカウンターへ向かう。学園長が前もってお店に連絡してくれていたこともあって、自分のスマホを契約したときよりずっと早く手続きが終わった。

 

各々買ったばかりのガラケーを手にし、自分のものとの操作感の違いに四苦八苦しながら必要な設定を済ませる。みんなのメールアドレスを登録し終えた頃、無事スマホを買うことができたみぽりんたちがこちらへ来る。どうやらケースや保護フィルムも購入済みようだ。

 

お店を出ると、春らしからぬ西日がわたしたちを迎えてくれた。この感じだと雨も降らなさそうだし、週末は暑くなりそうである。

 

目に映るすべてのものが赤みを帯びた帰り道、みんなは手元の携帯に夢中になっていた。真面目なせんせーも今日ばかりは咎めようとせず……というか、他ならぬ彼自身も画面に釘付けになっている。

 

「どうかしたの、せんせー?」

 

難しい顔をしていたので声を掛けると、

 

「沙織か。いや、先ほど店員さんに言われた通りやっているつもりなんだけど、めーるあどれす? の設定の仕方がわからなくてね」

 

「あー、確かにこの機種のアドレス変更はちょっと手間が掛かるからね……貸して。わたしがやってあげる」

 

「ありがとう、助かるよ」

 

せんせーからスマホを受け取り、ちゃちゃっと設定画面を開く。どんなアドレスにするのかは決まっているみたいなので、言われた通りの文字を打ち込んで……ろうこめっきゃく? ああ、せんせーが修めている剣術の技の名前だっけ。

 

特に問題もなくアドレスの変更をし、スマホを返そうとしたところで、ふいにわたしの脳裏にひとつの妙案が舞い降りる。高鳴る鼓動を抑えながらあるひと手間を加えたわたしは、

 

「……ついでにわたしの電話番号とメールアドレスを登録しておいたけど、大丈夫かな?」

 

ダメだって言われたらどうしよう、と身構えながら尋ねる。でもそれは杞憂だったようで、スマホを受け取ったせんせーはうむと頷いてから、

 

「もちろん構わないよ」

 

「良かった。……じゃあさ、せんせー。寮に戻ったらメールしても平気?」

 

「俺としても文字を入力する練習になるし、大歓迎だよ。……ああでも、もしかしたらすぐに返事を送れないかも知れないな」

 

「これから学園長とお酒を飲みに行くんだもんね」

 

わたしの言葉に、せんせーは「面目ない」と頭を掻いた。

 

「別に急いで返事をしなくても良いからね……その代わり」

 

口を動かしながら、わたしはなけなしの勇気を振り絞ってせんせーの方へと歩み寄る。

 

「内容は何でも良いし、ちょっとの文字数で構わないから……毎日メールが欲しいかも」

 

「わかった。約束しよう」

 

「ありがとう……えへへ、嬉しいな」

 

かあっ、とみるみるうちに顔が熱くなっていくのがわかる。感情に歯止めが利かなくなり、緩んでしまった口元を手に持ったガラケーでひた隠す。

 

「──さおりん先輩だけずるいですよぉ! 大神先生、わたしとも連絡先を交換しましょう、ねぇ?」

 

綿飴にも似たふわふわとした気持ちの余韻に浸っていたのも束の間、優季ちゃんがわたしたちの間に割って入ってきた。いつから遣り取りを見られていたのかな……って、優季ちゃんって彼氏いるんじゃなかったっけ。そういうのを気にしない人なのかな?

 

彼女の行動を皮切りに、他のみんなもせんせーとアドレスを交換しようとこちらへやって来る。その流れに押し負けて彼との距離が開いてしまったものの、不思議と嫌な気分にはならなかった。

 

だって、最初にアドレス交換したのはわたしだもん。

 

きっとこれからせんせーのスマホには多くの連絡先が登録されて行って、そのうち順番なんてわからなくなっちゃうだろう。もしかしたら他ならぬ彼もそれを忘れてしまうかも知れない。

 

でも、たぶんわたしは今日の出来事をずっと憶えているだろう。奥手でヘタレなわたしが初めて自分から前へ進めた記念日だから──せんせーの〝一番〟は他の誰でもないわたしだってことを決して忘れたくない。

 

なんてささやかな独占欲を胸の奥底へ仕舞い込み、わたしはまた一歩足を動かした。

 

寮へ戻ったらお夕飯の支度をして、お風呂を沸かして……せんせーに送るメールの文面は湯船に浸かりながら考えることにしよう。数学の課題もあるし、それが終わったらガラケーの使い方を勉強しないといけないかな。

 

あとはそうだなぁ……っと、大事なことを忘れていたよ。

 

やるべきことはたくさんあるけれど、それより先にまずは今日のことを詩織に自慢しなくちゃいけないね。

 

 

 




この話の仮タイトルは「初任給の使い道」でした。

今回は沙織の一人称ということで、普段の大神さんはもちろん、みほ視点よりもだいぶ柔らかい語り口調を心掛けました。
ここまで崩した地の文を書くのは初めての試みでしたが、いかがでしょう。個人的に気になるところなので、感想等で意見を頂けたら幸いです。

余談ですが、沙織に「やだもー!」を言わせそびれたことを投稿してから気付きました。


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次回予告&別の世界線(黒森峰編)

気付けば、ガルパン最終章第2話と新サクラ大戦のPVが公開されましたね。
ゲームの主題歌である「檄!帝国華撃団~新章~」は個人的にかなり中毒性があって、1日1回は動画を再生してしまいます。聞いたことのない方は、この機会に是非!



次 回 予 告

 

 

ようやく結成したわたしたち、大洗華撃団

 

今までいろんなことがあったけど、これでようやく前へ進める──と思いきや、肝心の戦車がないってどういうことなのせんせー!?

 

しかも、戦車を見つけたら見つけたで今度は「練習試合が決まった」なんて会長さんが言い出すし

 

大会まで時間がないとはいえ忙し過ぎだよ、もう

 

……なーんて、文句ばっかり言っていても仕方がないよね

 

まだまだ大変なことが起こるかも知れないけど、あなたの期待に添えるようわたしも頑張ってみる

 

だからさ、みんなで力を合わせてひとつずつ困難を乗り越えて行こうね、せんせー!

 

次回、戦車大戦

 

第三幕『実戦実戦、また実戦です!』

 

学園艦の明日を目指して、パンツァー・フォー!

 

「わたしたちの晴れ姿……ちゃーんと見てなくちゃダメだよ、せーんせ?」

 

 

 

 

 

おまけ「もしも大神さんが黒森峰に赴任したら」

 

 

 

瞼越しに感じた強い光に誘われるように、深く沈んでいた意識が浮上する。覚醒に伴う気怠さの中で辺りを見渡し、現在進行形で身を預ける椅子にほど近い窓から差し込む西陽がその光源であると知った。

 

昨晩は特別寝付きが悪かったためだろう。仕事の合間に仮眠を取るつもりが、そのまま3時間も寝てしまったらしい。我ながら無意義な時を刻んでしまったと自省し、机に広げた書類と再び向き直る。

 

四半刻ほどで残業も一段落し、夕飯までいかにして時間を潰そうか考え始めた頃、部屋の戸を叩く音が耳に入った。

 

「──大神教官。少しよろしいでしょうか?」

 

「その声はエリカくんだね。鍵は開いているよ」

 

俺の声に応じて扉が開き、この春からチームの副隊長を任せているエリカくんが顔を見せた。

 

朝の集会で今日は休養に充てる旨を伝えたこともあって、彼女はパステルカラーのワンピースを着ている。パンツァージャケット姿のときとは雰囲気だけでなく表情まで異なり、そこからは歳相応のかわいらしさというものが感じられる。

 

けれども、前に同じ感想を本人に伝えたときには「破廉恥です!」と叱られてしまった。素直に容姿を褒めることが正解でないとは、女心はかくも難しい。同じ轍を踏まぬよう気を付けねばならないな。

 

「さて。エリカくんの要件を聞かせて貰っても良いかな」

 

とりあえず要件を尋ねてみると、

 

「今日が休養日であることは承知していますが、明日の試合の作戦でどうしても気になるところがあって……教官や西住隊長から意見を伺いたく思い、こうして訪ねた次第です」

 

「なるほど……うむ、わかった。ちょうどこちらも手が空いたところだし、ホテルの小会議室を使わせて貰えないか頼んでみるとしよう」

 

「お時間を取らせて申し訳ありません」

 

「明日のことで落ち着いていられないのは俺も同じだからね、気にすることはないよ。……して、エリカくん。まほくんにはもう声を掛けたのかい?」

 

俺の問いに、彼女は目を伏せて首を振った。

 

「ここへ来る前に訪ねてみたのですが……同室の先輩の話だと、入れ違いになるタイミングで出掛けてしまったみたいなんです」

 

そうなると、まほくんを探すのが先決か。

 

「よし、ならば俺はロビーへ行って、そのままホテルの外周を回ってみる。エリカくんの方は、他の子がまほくんを見ていないか確認しておくれ。彼女の足取りがわかったら連絡してくれるかな」

 

 

 

 

 

意図せず遠い未来の世界へ迷い込み、路頭に迷う寸前のところまで追い詰められていた俺に手を差し伸べてくれたのは、戦車道の名門──西住流の跡取り娘であるまほくんだった。

 

自分とは違うもう1人の大神一郎を知るまほくんとその母君、しほさんの力添えで危機を脱した俺は、彼女たちから受けた恩に報いるべく、西住流と繋がりが深い黒森峰女学園で働くことを志す。

 

過程を話すと長くなるので要点をまとめると、俺は前任が産休に入る関係で空席になる戦車道の教官に抜擢された。無論身に余る大役だと初めは辞退しようとしたが、他ならぬしほさんに頼まれてしまっては考えを改めざるを得ない。元より個々の練度が高い黒森峰では教官の存在意義が薄いというし、安全面での責任者が必要だからと念を押され、恐れ多くも俺はその任を拝命することに決めた。

 

教師として初めてまほくんたちと顔を合わせたあの日からかれこれ四半期が経つが、改めて振り返ってみると、教えることより学ぶことの方がずっと多かったように思う。いや、きっとそれは今この瞬間においても変わることはない。みなと肩を並べられる地点へ辿り着くためにも日々これ精進、研鑽を積んで行こうと思う。

 

「──という特徴の女の子なんですが」

 

まほくんが外へ出たならロビーの人が見ているかも知れないと考えた俺は、小会議室を押さえるついでに彼女のことを尋ねる。

 

それを受け、係の女性は「ああ!」と声を上げると、10分ほど前にホテルの外へ出たのを見たと話してくれた。事前に身分を明かしているとはいえ、いやにすんなり他人の情報を教えてくれたのは、ここが黒森峰御用達の宿泊施設だからだろう。

 

このホテルは高台に面した場所に建っており、麓へ行くためにはバス等を使う必要がある。戦車は会場の倉庫に置いてあるし、まほくんがいるとしたら敷地内のどこかに違いない。お礼を言ってロビーを出た俺は、そこから見える範囲にまほくんがいないか探すことにした。

 

予想通り、ホテルの入り口から駐車場へ向かう道の半ばにまほくんの背中を捉える。声を張れば彼女の耳にも届きそうな距離だけど、しかし俺は開きかけた口を閉じた。

 

まほくんの動きに合わせてひらひらと舞うサマードレスの裾が、彼女の心の内を暗示している気がして──水を差してはいけないと考えたのである。

 

しかし、このまま見惚れていてはあっという間に日が暮れてしまう。どうすべきか思案する最中に彼女が歩き出してしまったので、とりあえず俺はその背中について行くことにした。

 

距離が開いていることもあって、俺の存在に気付かぬまままほくんは駐車場の奥へと進む。送迎用に手配したバスに忘れ物でもしたのだろうか。そんな推測とは裏腹に彼女はその脇を抜け、車止めの向こうの茂みへと入って行くではないか。

 

あの先は確か崖になっている。その気がないにしても危険だ、と俺は慌ててその後を追った。

 

本来人が通る想定がなされていないため、道中には夏の草花が生い茂っている。みだりに踏むのは忍びないが、あいにくそんなことを言っている余裕はない。

 

足を取られぬよう気を付けながら先へ進むと、あるときふいに視界が開けた。突然のことに動揺しつつも、無我夢中で俺は声を発する。

 

「──まほくん!」

 

これにびくりと肩を震わせ、まほくんはゆっくりと振り返る。後ろにいたのが顔見知りで安心したのだろう、目が合うなり彼女はひと息ついて頬を緩めた。

 

「どうして大神さんがここに?」

 

「どうしてって、それは君がこちらへ行くのが見えたから」

 

あえて語らなかった言葉の意図を察したらしい。まほくんは困ったような、それでいてどこか嬉しそうな表情を浮かべ、

 

「ご心配をお掛けしました。それと、ありがとうございます」

 

「いや、君が無事ならそれで良いんだけど……差し支えなければ、どうしてまほくんがこの場所に来たのか教えてくれないかい?」

 

こちらの声に首肯を返し、まほくんは自らの背中側──すぐ近くで途切れた道の向こうを手で示す。促されるままに顔を上げ、視界に飛び込んできた景色に思わず俺は声を失った。

 

絶妙な角度のお陰か、崖の先から明日の試合で使う東富士演習場、及び無人になって久しい市街地を一望に収められたのである。

 

「大神さんは、この景色をどう思いますか?」

 

「何の捻りもない感想で申し訳ないけれど……とても綺麗だね」

 

「わたしもそう思います」

 

喰い気味の返事は、どこか弾んで聞こえた。

 

「もう少し日が落ちたら会場全体が一斉に真っ赤になって、もっともっと見応えのある景色になるんですよ」

 

「ふむ、それは楽しみだ……っと」

 

あまりの絶景に、ついまほくんへの要件を忘れかけてしまった。

 

なおも言葉を紡ごうとする彼女に断りを入れ、俺は本題を伝える。

 

「明日の試合はあの子にとっても大事な試合ですからね。……わかりました。名残惜しいですが、早くホテルへ戻りましょう」

 

言って、まほくんは再度崖の先へと目を向ける。表情の大部分は死角になって窺えないものの、唇の端が強張っているのが確認できた。

 

「明日の試合に特別な想いを抱いているのは、どうやら君も同じのようだね」

 

「これでも頑張って表情を繕っているつもりだったのですが……やっぱりわたしは、大神さんに隠し事はできないみたいです」

 

その場でくるりと身を翻し、まほくんは苦笑を刻む。

 

普段は冷静な彼女がどうしてここまで緊張しているのか、曲がりなりにも黒森峰で教鞭をとっている俺にはよくわかった。

 

「明日の決勝で戦う大洗女子学園は、みほさん──まほくんの妹さんが籍を置く学校だ。君が身構えてしまうのも無理はないよ」

 

昨年の大会で妹さんが何を選択し、そしてどんな結果になったのかは話に聞いている。思うところがないといえば嘘になるものの、だからといって俺の心情をここに特筆するつもりはない。

 

聞けば大洗女子は、もう何十年も戦車道の授業をしていなかったようだ。当然隊員たちも初心者ばかりなのだろうけど、しかし彼女たちはサンダース大附属、アンツィオ、そしてプラウダを破って決勝へ上がってきた。かの大番狂わせを成し遂げた立役者が誰であるのか、戦車道に関して素人に毛が生えた程度の俺でも想像に難くない。

 

「前の大会でわたしが副隊長にみほを選んだのは、決して身内贔屓をしたからではないんです。確かに校内模擬戦の成績が優秀であるとは言えませんでしたが、それはあの子が自分に合わないことを理解した上でなお西住の教えを守ろうとしてしまうからで、本来の実力はチームの誰よりも……ひょっとしたら、わたしより上かも知れません」

 

──みほは戦車道の天才なんです。

 

悔しそうな声音とは裏腹に、まほくんの表情は誇らしげであった。

 

「あの子がついている以上、たとえ初心者ばかりのチームであっても決して油断はできません。それどころか、相手チームの経験が浅いことこそ黒森峰の脅威となり得るのではないかとわたしは思うんです」

 

「というと?」

 

「春に戦車道を始めたとして、みほたちが練習に取り組めた期間は長くて3ヶ月──普通なら、ようやく自由に戦車を動かせるようになる頃合いでしょうか。過去の試合を観る限り、他の隊員はほとんど実践的な訓練を積んでいません。よって彼女たちには、強豪校が当たり前のように有している基礎的な知識が身についていない……大洗女子には戦車道の定石が通用しない恐れがあります」

 

言い換えれば、我々にとっての〝当たり前〟が何の力も持たない可能性があるということだ。それは西住流という、ある種堅固な定石を尊ぶ黒森峰とは正反対といえる相手で、ともすれば一番苦手とする相手といえるかも知れない。下馬評とは対照的に、苦戦を強いられる公算が高いと睨んでいるのだろう。

 

「それに──」

 

まほくんは言葉を切り、天を仰いだ。その行動にどんな意味があるのか定かではないが、見上げた先に答えはあったのだろう。静かにこちらへ向き直った彼女は、

 

「大神さんもご存知でしょうが、去年の大会の後にわたしたちは……もっと言うと隊長のわたしは様々な方面から批判を受けました。『西住の娘が指揮していながら敗戦するとは情けない』『黒森峰の歴史に泥を塗った』──これらは然るべき反応で、裏を返せばそれだけ周りが期待していてくれていたのだと理解はしています。でも……」

 

「頭でわかっていても、心がついてこなかった?」

 

これに対して、どこか躊躇いがちな首肯が返ってくる。

 

「わたしよりも理不尽な理由で責められてしまったみほの手前、表には出せませんでしたが、これでも戦車に乗りたくないと考えてしまった時期があるくらいです。……ほんのちょっとの間だけですけど」

 

「まほくん……」

 

「西住の娘として情けない限りですが……明日また負けてしまうかも知れないって考えると、怖くて怖くて堪らないんです」

 

まほくんは力なくそう言った。

 

こんな彼女は今まで見たことない。逆に言えば、普段のように凛とした姿を繕えないくらい、その心に余裕がないのだろう。

 

まほくんのために何をしてやれるか考え、迷った末に俺は彼女の頭に手を乗せた。

 

「確かにまほくんは西住流の跡取り娘で、黒森峰でも隊長として本当によく頑張っていると思う。自分の力に慢心せず、ひたむきに努力するその姿勢は尊敬に値する……しかし立場ある人間である以前に、君は1人の女の子なんだ。時には弱音を吐きたくなっても仕方がないよ」

 

言って、その髪を梳くように撫でてやる。一瞬びくりと身を震わせるも、まほくんは特に抵抗することもなくそれを受け入れてくれた。

 

「教官とは名ばかりで、俺は戦車道に関しては君たちにほとんど何もしてあげられない。でも、こうして君の不安を共有してやることはできる。他の子の前で強い姿を演じなければいけないのなら、せめて俺と2人きりのときくらいは素の自分を表に出しても良いんじゃないかな」

 

俺の言葉を受け、まほくんは顔を上げる。そこに浮かぶのは、いつもの彼女よりもずっと幼い──どこにでもいる18の少女の表情だった。

 

「……そんなことを言ってくれたのは、大神さんが初めてです」

 

まほくんは頬を緩める。ふにゃりと締まらない笑顔は、写真で見た妹さんのそれとよく似ていると俺は感じた。

 

しばらくののち、まほくんは自らの頭に乗った俺の手に触れ、人差し指と小指をそれぞれ握る。

 

「名残惜しいところですが……ずっとこうしていたらいつまでも甘えてしまいそうなので、いったんお別れです」

 

そう言って彼女は俺の手を優しく払った。

 

「続きは明日の試合が終わってから──優勝旗を大神さんに届けたときにお願いします」

 

「その意気だよ、まほくん」

 

いつしかまほくんの顔にはいつも通りの凛々しさが戻っていた。どうやら元気を取り戻してくれたらしい。安堵したのも束の間、一度は思い出したエリカくんとの約束をまた忘れてしまったことを思い出す。

 

「これ以上待たせたらエリカが可哀想ですし、急ぎましょう」

 

まほくんはこちらに手を差し出す。俺が握り返すと、すぐに身を翻して歩き始めた。

 

顔を背けるその一瞬、彼女は先ほどと同じ笑みを浮かべているように見えた。

 

 

 




黒森峰編……というよりはまほ編といった方が正しいでしょうか。
実のところ、思うところがあって丸々1回書き直していたりします。
本来、幕間は大洗女子が戦った学校順に並べて行こうと考えていましたが、故あって黒森峰を前に持ってきました。その理由はおいおいわかるかと思います。

正直、まほの性格に関しては脚色し過ぎている感が否めませんが、本編の裏で彼女なりの苦労があったらこんな感じなのだろう……なんて妄想しながら書きました。

この話とは関係ありませんが、米田学園長のかつての呼称を「米田司令」から「米田支配人」に修正しました。
新サクラ大戦の情報が公開され、のち帝国華撃団が秘密部隊でなくなったことを知って衝撃を受けました。その辺りはおいおい修正していこうと思います。


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