ポケットモンスター虹 ~Raphel Octet~ (裏腹)
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Episode Smart
01.Drowning Diver


「こいつは何を考えてるかわからない」

 

「全部がみんなと違って気持ち悪い」

 

「不気味だから追い払っただけだ」

 

 ヒト――およそ五〇〇万年前にこの地球に誕生し、以来進化と繁殖を繰り返し、今日まで生き延びている生物。

 

「ごめん、君みたいに頭よくないから、君の言ってることはよくわからないや」

 

「ちょっとお勉強できるだけで偉そうに」

 

「俺達のグループ研究課題もやっといてくれるよな? 天才なんだから」

 

「鬱陶しいな……そんなに自分の才能を自慢したいのかっつの」

 

 時と共に隆盛を極め、この星を覆いつくさんとするほどの数に増えた現在であっても、一つとして同じ個体は存在しないという。

 肉体の作りも、行動も、思考も、何もかもが『個の性質』として独自のものとなるのだ。

 まるで、多様性を利とするかのように。

 だが――。

 

「――君は天才だ、認めよう。この論文も、出せば間違いなく学会賞を受賞することだろう」

「であるならば! 何故これを取り下げられねばならないのです! 何故!」

 

 多様性を否定することも、

 

「私に、私を超える才能を受け容れるつもりがないからだ」

 

 また、ヒトの多様性だとでも、言うのだろうか。

 

 

 

「おうい」

 

 耳を小突くような緩い声音と、肩を中心にして生まれる横揺れで目が覚めた。

 

「おはよう。朝だよ」

 

 よく知る白んだ天井に、ひらひら躍り出る男の右手。そのまま視界を横倒すと、無造作に物がすっ転がるテーブルが現れて、頭上の清潔感を呆気なく裏切って。

 しかして青年――否、少年は、まるで当たり前の光景を目にするが如き血相で、ぼやけた卓上から眼鏡を取り、すちゃりと着け、気だるげに起き上がる。

 俯き、ん、と微かな唸り。繰り返しぱち、ぱちと強く目を開閉するのは、眼球が光を取り込み切れていない証拠だ。

 いつも寝すぎるソファでの仮眠。毎度開いたままのノートPC。散らかりっぱなしの研究資料。そして、

 

「今日はいくらか目覚めが良さげだね。驚くほどの晴天だ」

 

 しょうもない情報を携え、決まって起こしに来る同僚。

 

「――カイドウ」

「……ああ」

 

 これがリザイナシティ超常現象研究機関『CeReS』の、いつも通りの朝というものだ。

 女性のそれとも見紛う金の長髪を日差しに輝かせ、柔和な笑みを湛えた青年は、背格好だけならば己とそうは変わらない、或いは追い越してしまうであろう少年に言葉を続けた。

 

「また作業中に寝落ちていたのかい?」

「寝落ちではない、仮眠だ」

「ははあ、本当に六時間が仮眠と見なされる頃には、人間はほぼ一日眠るようになっていることだろうね」

「それもまた一つの可能性だ。俺達はそれを追究するためにここにいる」

 

「上手に逃げたな」とは、眼前の同僚“ヒース”の言。

 すっかり目覚めたカイドウは、己と同じく眠っていたPCの電源スイッチを押すと、食い入るようにディスプレイで作業進捗を確認。カタカタとキーを打ちながらおぼろげな記憶を確実なものにする。

 暗転した画面に一瞬映った生気が薄弱な細面にも、構わずに。

 

「さてさて、此度のラボ籠りは何日ぐらいだい?」

「さあな。詳しく覚えてはいないが……200時間は越えているはずだ」

 

 日常茶飯事ながらに、図らずもヒースは声に出して笑ってしまった。

 

「新記録! いやいや、さすがだね」

「今回PGから依頼された案件が、思いの外深淵でな。知れど探せど知識が一つのデータに収まらん」

「えーっと、ポケモンの進化を超えた強化について……だっけ」

 

 深夜に半分減らして以来の、飲みかけのパックジュースを空にする。

 

「全ては数か月前――バラル団が引き起こしたネイヴュシティ転覆事件『雪解けの日』に遡る」

「そこで作戦に当たっていた隊員の一人が、突如手持ちのルカリオを覚醒させた」

「それも、キーストーンやメガストーンといった、本来必要とされる特定のデバイスも無しに、だ」

「いかにもな君のお好み案件じゃないか。何の前触れもなく突然、本当に突然、出鱈目みたいなことが起こる……未知の領域の片鱗に他ならない」

 

 否定はしない。聞いているかいないかも判断できない横顔ではあるが、確かにそう答えた。

 

「まあ、研究熱心は結構だけど、体は壊さないようにしてくれよ。君みたいな奴でも、こうして心配する人間がいるんだからね」

「手前のことをそっちのけで、他人に興味を向けるどうしようもない人間の忠告を聞くのは些か気が進まんが――善意と思って頭に留めておいてやる」

「まったく、君はいつもそういう言い方しかできないんだからな」

 

 憎まれ口のはたき合いまでがセット、とでもいうのか。

 このCeReSには、カイドウより若い者は当然ながら、同い年すらも在籍していない。誰もが必ずいくつかは年が上で。

 一四という若さで博士という肩書きを取得し、天才の称号を欲しいままにした彼からすれば、寧ろそちらの方が自然な事なのだが。

 なればこそ、孤立しがちな自然の中で、年上でありながらも自分に幾度と向き合う不自然(ヒース)は、多少なりとも刺激にはなっているのだろう、と。そう思う。

 尤も、それを何と呼ぶべきか、自分の中で具体的な答えは出ていないのだが。

 

「おっ、散歩は終わったかい」

「グェス」

 

 二人の時間を止めるように、するりと無作法にも壁を通り抜け入室する影のような存在。しかしポケモンならば仕方がないだろう、カイドウはそんな心情でヒースの手持ち“ゴースト”を瞥見に留める。

 

「研究機材に悪影響を与えたらどうする」

研究員(こういうこと)が本業である以上、こんな暇な時間でも出来ない限りポケモンを外に出してやる機会もないのさ」

「場所を考えろと」

「まあまあ。それに、そんなに悪い奴じゃあないよ」

 

 知った事か、と内心でごちる。

 そして同じく知った事か、とそれをかき消す三つ目の人声が、注目を集めた。

「今日はお客が多いな」多目的室の出入り口に顔向けするカイドウとヒースの視線の先に、白衣の男性がまた一人。

 

「お早う、天才殿。日夜研究ご苦労」

 

 この特定の人物にのみ見せる険ある面構えと、棘ある言い回しを、飽きるほどに知っている。同僚の『ドルク』だ。

「おやおや、どうしたんだいご機嫌に」「お前に用はない」

 ヒースの問いを一蹴し、彼は頼んでもない丁寧でカイドウを指さし続ける。

 

「そちらの天才殿にご連絡ってやつがあるのさ。――尤も俺達のような凡人の言葉を、ちゃんと聞き入れてもらえるかはわからないがね」

 

 著しく愉快さを欠いてしまう、最悪な後味の最低な笑い。嗤い。ドルク自身と、脇を固める助手のものが相まっての不協和音。ヒースが大きなため息をつく傍らで、カイドウはやはり無表情で開口した。

 

「さっさと用件を言え。時間が惜しい」

「ああ失礼、そうだったな。PGのお偉いさまが応接間にてお待ちだ」

「PG……? もしや“これ”関係かい?」

 

 そこから彼の返事がかえったのは、だいぶ後のこと。書類と書籍の山を乱雑に掘った果てに出てくる、ボロボロのノート。の、一ページ。

 

『3月18日、研究経過報告、アストン』

 

 の、中の一行。

 それを凝視したかと思えばノートを閉じて、まるで早回し映像のように忙しなく乱れた白衣を整え、書類をまとめ始める。自らの悪癖を恨む隙もないままに、どたんばたんと支度を整えて。失念ならば仕方がない。無理もない。

 

「いくら天才様とはいえお相手は国家機関だ、くれぐれも失礼のないようにし」

「暇ならばテーブルでも片付けておけ」

 

 焦燥で駆ける足を踏み出した。

 

「なっ……、だと貴様!? おい!」

「はっはっは、いってらっしゃーい」

 

「調子に乗るなよ! ここで貴様の自由が利くのはあくまでもその頭脳ありきで――」

 その先は、早足を刻むうちに勝手に聞こえなくなった。もともと聞いていたかも定かでないのは、ここだけの話。

 それから人を追い越し、すれ違い、いくらかガラス張りの壁の部屋を通過してから、カイドウは無事、客人を待たせる部屋に到着した。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――よって特定のデバイスがない状態でのメガシンカは、カロス地方で発見された“キズナ現象”の例から、可能であることはまず間違いない。今後は先程挙げた“ゲンシカイキ”、そして只今挙げた“キズナ現象”の相違点を詳らかにすると共に、ネイヴュで件の現象が起こった際の状況を完全再現し、その上で諸々を検証していくつもりでいる」

 

「以上」。そう締めくくって、報告は終わる。

 国家機関すらも頼り、

 

「……うん。なるほど」

 

 そして唸る。リザイナの技術力と、それを扱う才能の主を前に、感嘆にも似た反応を見せ、机に資料を置き直した。依頼者――PG本部所属警官である『アストン・ハーレィ』は、どうやら彼の仕事ぶりに満足したようだ。

 深い頷きが、それを如実に語っている。ごくごく、本当に極めて僅かに曇りがちな先方の面持ちも構わずに。

 

「申し訳ない。遅れた上にこの体たらく。まだまだ有用な成果を提供できればよかったんだが……」

「イヤ、十分です。キズナ現象こそが、進化の向こうにあるポケモン強化のルーツであったということを知ることが出来ただけでも」

 

 “雪解けの日”に壊滅的な打撃を受けながらも最後まで最前線で戦い、朝日が昇るその時まで立ち続けた隊員『旭日の英雄』の賞賛を受けても、この頭蓋の中いっぱいに広がる靄は晴れなかった。

 別に、約束をあわや反故にしたことへの自責でこうなっているわけではない。満足なデータを提示できなかったからでもない。

 寧ろ慢性的なものだから、気にするようなことでもないのだが。

 

「天才と呼ばれるだけの頭脳、確かに体感しました。今後にも期待しています、プロフェッサー・カイドウ」

 

 ああそうだ。

 

「――……尽力する」

 

 この瞬間、この場面だ。

 こういう時に、どうしようもないほど『これ』で息が苦しくなるんだ。底の無い海に放り込まれたかのように沈んでいく。

 酸素が、陸が、青空が。光が世界が境界線が。自分のいられるありとあらゆる場所が。そこにいるための全てのモノが。何もかも、全部全部遠ざかっていく。

 そのたんびに景色が澱んで、(うろ)だけ残した胸がゆっくり閉塞していく。呼吸が出来なくなっていく。まるで減圧症の潜水士だ。

 何気ない気持ちや、皮肉めいた悪意。中には真理のように、人々は彼を「天才」と呼ぶ。その一言に込められる意味や感情が、各々で違っているのはよく解っている。

 それでも。望んだ肩書でないそれは。そしてそれを扱い接する周囲は。自分にとってはえらく、ひどく毒で。

 彼の賢すぎる頭では到底思いつかないであろう「好きでこうなったのではない」なんて、愚図り文句を大声と一緒に出すことが出来たなら、少しでも変わっただろうか。

 よく知る人物は、彼に代わってそんなことを考える。

 

「それでは」

 

 上機嫌な挨拶に、セットで付いた握手。それは見た目よりもずっとざらついていて、冷たく感じられた。

 カイドウはアストンをCeReSの出口まで送り届けて必要最低限の礼儀を通し、別れた背中をぼんやり見送る。

 

「天才、か」

 

 云われるたびにどうすればいいか悩んでいたそれも、悩む前にはどうしていたかを忘れた時点で、思考は止まった。

 さて――おそらく今日もラボに缶詰だ。

 エスパーポケモン使いらしく、そんな自分のほど近い未来を予知して、歩いてきた道程に視線をシフト。研究に戻ろうかとしていたところだ。

 

「カイドウ教授」

 

 一人の男がカイドウを呼び止める。眼鏡に白衣といった、彼にとってはとうに見飽きた出で立ち。そこから用件を察するのは容易であった。

 

「挑戦者か」

 

 簡素が過ぎる二文字の返答に、少々の辟易。珍しくわかりやすいため息を吐いた。

 見ての通り現在は取り込み中であり、兼業する“また別の務め”を果たすのは楽じゃないというのもあるが、何よりも純粋に気分ではない。

「待たせますか?」そんな気回しを飲みたいところではあったが、案件が案件なだけに何日かかるかもわかったものではない。

 そうなってしまった場合、もはや出てくる答えは一つであった。

 

「通しておけ。準備ができ次第向かう」

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 技術都市、リザイナシティ。

 言ってしまえばラフエルの頭脳を司る町であり、経歴に「リザイナ」の四文字があるだけで、ラフエル内は無論のこと、他地方においても話の種の一つとして十全に機能する。それほどまでにこの都は、学術の方面に特化している。

 故にポケモンバトルもまた、ここでは体系化された学問の一つとして取り扱われる。

 であるならば。

 

「――ルールは一対一の真剣勝負。先に相手を戦闘不能にした者を勝者とする。又、トレーナーによる道具の使用、及びジャッジへの反発は禁止行為とする」

 

 ポケモンジムが置かれるのも、必定と言う他にあるまい。

 

「両者、定位置に!」

 

 チェックタイルの床に、光のスクエアが重なる。天井ガラスで切り取られた日光が、塵すら巻き込み屋内の全てを等しく照らした。リザイナシティジム内に設けられたバトルフィールド内で、審判員の声が木霊する。

 カイドウはびりり、と震える物々しい空気を、目交いの少年と共に吸い込んだ。彼が本日の挑戦者。

 

「ポケモンをフィールド内へ!」

「ユンゲラー」

「いけ! ルカリオ!」

 

 ジムリーダー――この言葉に説明は不要だろう。これこそがカイドウのもう一つの顔。同じ肩書きを持つ七人と共に、ポケモンリーグへと至る者を選定する役目を担う者。

 白線で作られた長方形の両端から二つのモンスターボールが投げ入れられると、忽ち小さな光が発散、少年の方に波導ポケモンの『ルカリオ』が、カイドウの方に念力ポケモン『ユンゲラー』が現れた。

 

「アルバといいます!! 最強を目指してルカリオと修行を積み、メーシャタウンから出てきました! よろしくお願いします!」

「………………」

「えっ、あれ。あの」

「メーシャということは、最寄りの初挑戦がここ、という解釈でいいな」

「あ、はい! ここで初めてのバッジを手に入れて、幸先よく」

「もう話さなくていい。必要な情報は得た」

「ええっ」

 

 ここで何か意気込むとか、闘志を表明するとか、何かしらあるだろう。アルバの顔はそういうものを期待していたそれだ。しかし容易に裏切るのがこの男。

「もう一つの顔」なんて大仰に言って見せたが、実際に闘技場に立とうが、彼の振る舞いは変わらない。別に威張る訳でも、優位だからと先輩ぶる真似もしない。ただ受けた挑戦を淡々とこなすのみ。

 そんなものだから、相手からするとやはりこうして調子が狂うもので。そしてこれが、戦闘中の相手の思考をかき乱す事にも一役買っている……かはどうかは、定かではない。

 

「それでは、バトルを開始する!」

 

 が、それも程なくして解ろう。

 

「ポケモンバトル!」

 

 何故ならば死闘の展開は、今この瞬間すら、

 

 

「レディー、ゴー!!」

 

 

 待ってはくれないのだから。

 

「ユンゲラー」

「ルカリオ!!」

 

 逸る声がかち合う。審判の掛け声が激闘の始まりを告げた時の事。

 開いた窓から入る風を思いきり吸って、先に指示を出したのはアルバだった。

 

「“しんそく”!!」

 

 早口を確実に聞き入れたルカリオが、一瞬の下に消える。

 

「ッ……!」

 

 そして現れる。

 瞬きの眼前に。

 

「“グロウパンチ”ッ!!」

 

 びゅおんっ。次の瞬間、振るった拳から起きた衝撃の波が空気を巻き込み、遠いカイドウの白衣を揺らした。

 だが肝心の手応えはというと、ルカリオの怪訝そうな表情が詳細を述べる。

「外した……!?」今しがたまで認識していた位置から大分離れたユンゲラーを見やって、アルバは愕然とする。スピードにおいて自負があっただけに。

 

「この距離を一瞬で……“テレポート”か! でも、いつの間に指示を……!?」

 

 “しんそく”――身体能力、とりわけ『すばやさ』を瞬間的に底上げし、光にも追い縋る速さで攻撃する技。ルカリオの十八番だ。

 トレーナーの反応速度すら悠々と超えてくるその一撃を回避する手段は、極めて限定されてくる。

 

「勘違いするな、こいつの独断だ。俺の反応速度ではまず間に合わん」

「ポケモンが、トレーナーを無しに的確な判断をするのか……」

 

 目を丸くし、静かに俯くアルバ。

 そうさせたのは、今まで触れたことが無かった世界への衝撃か。或いはあまりに異なる次元に対する、怖じか。

 

「――すごい! これがジムリーダーか!!」

 

「しんそく!」上げた喜面が、連ねた命令が、杞憂だったとわからせる。

 回避。既のところで差し込む今一度の瞬間移動で難を逃れるユンゲラー。だが、

 

「まだだ! 恐れず踏み込み続けろ!」

 

 次の一撃は、そう易々とは引き下がってくれなかった。

 顰み眉でもって、呻く。ユンゲラーの視界は未だ晴れない。

 滂沱たる豪雨が如き勢いで降りしきる攻撃に、曝されてしまっては。

 

「速度に物を言わせたインファイトか」

「エスパータイプは『とくこう』の高いポケモンが多い! でも、引き換えにッ!」

「ヌッ、……!」

「『ぼうぎょ』の値が平均を下回っている!」

 

 追撃。迫撃。

 

「打たれ弱い種類のやつが多いって! トレーナーズスクール通信教育で習ったッ!!」

 

 ――連撃。

 必ず攻め落としたいルカリオと、絶対逃げ遂せたいユンゲラー。神業が如き速攻と、超人が如き空間移動とが相対する。

 蹴りが、正拳が、光弾が――相手を戦闘不能にするための、ありとあらゆる攻撃が絶え間なく襲い掛かる様相は、まさしく怒涛と呼ぶにふさわしい。

 失礼な話、このアルバというトレーナーはあまり賢そうな振る舞いをしていない。実際、賢くないのかもしれない。

 

「だから――速攻で決める!」

 

 でも、決してがむしゃらではない。

 カイドウはレンズ越しに捉えた状況を整理し、察した。

 己が防戦一方を強いられるのも。相手がどかどかと消耗も気にせず技を出してくるのも。全ては彼なりに考えた果ての、リザイナジムの攻略法なのだ、と。

 

「そしてそれこそが! 僕らの得意分野だァッ!!」

 

 やるんだ。やられる前に。

 更なる指示が闘士の蒼炎を大きくした。伴って、猛攻はより激しさを増す。

 次から次へと紙一重で避けてはいるが、そんなものは時間の問題で。アルバの言う通り、ユンゲラーの心許ない耐久力では、たとえ小手先の一発であったとしても、ルカリオの攻撃は致命傷たりえる。

 加えてこの尋常ならざる『すばやさ』……無傷で凌ぐなど、子供でも通らぬ理屈だとわかろう。

 

「……ここまでか」

「ルカリオ!! “バレットパンチ”だあああああああああッ!!」

 

 だからと言って、アルバは何か手を打たせる気もさらさらなくて。

 ズヒュン。僅かな空間を抉り取る、独特な音。鋼鉄と化した正拳の突きの一発が、瞬時にユンゲラーの胸を抜いた。

 常に手にしていたスプーンはとうとう、からんと虚しく地に落ちる。

 

「ぐ、ウウウゥ!!」

「く、浅い!」

 

 今度は大きな呻き声ではあったが、『地面にほど近い位置で』『交差させた両腕越しに』喰らったことにより、ワンパンチノックアウトは防ぐことが出来た。どうにか取れた受け身も相まって、なんとか立ち上がって見せるその姿が、その証明。

 

「でも」

 

 でも、所詮はギリギリで生き延びただけの、そんな話。

 

「もうテレポートも、できない」

 

『ユンゲラーは虫の息』。アルバにとっても、ルカリオにとっても、審判にとっても、

 何よりカイドウにとっても。それは共通な認識で。

 にしてはあまりにも落ち着き払っていて、まるで能面のような無表情ぶりなのだが、アルバは必要以上にそれを疑う真似はしなかった。

 ポーカーフェイスか表情筋が固まっているのかは知らないが、自慢の神速のラッシュを防げる唯一無二の手段を失った事実に、変化はないと理解しているから。

 

「……鍛えられたルカリオだ」

「へっへ、光栄です」

 

 ようやく重い口を上げたと思えば、対戦者への賞賛。

 何が来るかと身構えてた分、拍子の抜け方も盛大だったろう。

 しかし、アルバはこれによって勝利を確信した。

 もう躊躇うことはない。慎重になることも、同様。

 

「この鍛えられたルカリオで――――スマートバッジを頂く!!」

 

 勢いのままに、握った拳を突き出して命令した。

 

 

「ボーンラッシュ!!」

 

 

 聞き入れたルカリオが、蒼白いエネルギーで骨型の棍棒を作り出す。そうして大地を蹴った。

 向かうは一直線――肩で呼吸する、ネタ切れの超能力者(マジシャン)

 

「いっけえええええええええええ!!」

 

 叫ぶ。相棒と共に。討つべき敵を見据え。到達する瞬間も。振りかぶる瞬間も。何もかも余さず目に入れた。

 自分たちの、初勝利の瞬間を。

 

「……――」

 

 

 そう信じていた、瞬間を。

 

 

「……え?」

 

 

 裏切られる、瞬間を。

 

 

「な……ん!?」

 

 ビリビリ。初めに聞こえた音だ。

 とどめの一撃が光の障壁に阻まれている。初めに見えた光景だ。

 突き出したユンゲラーの平手から発されたそれは、物理攻撃を防ぐ“バリアー”という技。

 

「くっ、まだ!」

「ユンゲラー、“ねんりき”」

「!? ルカリオ!!」

 

 動転した一瞬の隙を突き刺すように、カイドウは短く示す。

 ユンゲラーの空いた手がゆらり横へ伸びると、スプーンが吸い込まれるようにそこへ収まる。次の瞬間、ルカリオは壁に激突していた。

 

「クォっ!?」

 

 見えない力にふっ飛ばされて、ゆっくり壁を擦って崩れる背中。

 今度は何の手品だろう、と目を白黒させる。

 何が起きた、なんだというのだ。そんな焦りを隠す時間すら、今は惜しい。決めなければ。

 

「ルカリオ! “しんそく”!」

 

 テレポートはできない。壁を張るにも、この速度を片時も逃さずぴったりと目に焼き付けながら、的確な場所を絞れるものか。その理解はある。わかってる。よくわかってる。だから一刻も早く終わらせなければ――。

 

「は……!!?」

 

 今一度張られた障壁(バリア)は、その思考を盛大に嘲った。

「なんで!? どうしてこの速度に対応して防御行動を取れるんだ!!? バリアが張られるまでのタイムラグは!!??」

 声荒らげた質問に、すちゃりと持ち上げられた眼鏡。答え合わせの時間がやってくる。

 

「お前が知恵を絞って、俺を防戦一方にまで追い込んだところまでは褒めてやる」

「へ……!?」

「だが、俺もあの状況の中で、何も考えがなかったと思い込んでいたのなら――楽観が過ぎる」

 

 再度指示『ねんりき』。

 次はかわしてみせた。そして文字通りの刹那で背後を取る。だが。

 

「そんな!!?」

 

 エネルギーの壁はしっかりとルカリオの拳を圧し止める。

 何度繰り返しても、どこからどう切り込もうとも、その悉くは阻まれた。

 音を置き去りにし続けて、光すらも追い越しかけて。それでも、それでもだ。

 

「なんで! どうして!?」

 

 ――拳を振りかざした瞬間、目の前に壁が現れるのだ。

 

「どうしてこんなに読まれ――」

 

 発話の直後、は、とする。

 おもむろにカイドウを見やると、口が小さく動いているのが分かった。

 

「1.2秒後10時方向仰角7度、1.4秒後4時方向仰角4度、さらに0.6秒後12時方向仰角同様に4度、3ターン後攻撃パターンの変更が予想され、状況を鑑みて最も高確率なのはバレットパンチとされる。翻って142ターン後までの防御プロセスを転送後、再調整した強度式の算出作業を行い――」

 

 最初はまるで何を言っているのかわからなかった。あまつさえ一点から視線を一切ずらさない奇行もあったものだから、人の言葉を発しているのではない、とすら思った。

 しかし、じきに理解が及ぶ。

 

「……本当に、読んで、る……」

 

 徒にテレポートを連発していたわけではない。

 無意味に逃げていたわけではない。

 あの回避行動の随に、アルバとルカリオの攻撃パターンを記憶していたのだ。

 にわかには信じがたいだろう。そうだろう。ましてやこんな短い間に。到底人間業と思えない。

 されど、畏怖にも似た吃驚の合間で彼は思い出す。

超常的頭脳(パーフェクトプラン)』という、カイドウのキャッチコピーを。

 

「『ここまでか』って……僕の攻撃の記憶作業のことだったのか……」

 

 己の脳内情報を、ポケモンのそれと共有させる力の使いどころを窺っていた、超能力者(エスパー)の一言を。

 一度見れば、全てを記憶する。

 一度考えれば、必ず答えを導き出す。

 一度組み立てれば――それは崩れることがない。

 

 不幸かな、彼は天才である。

 

 呼ばれたくなくとも、呼ばれ続ける。

 

 それほどまでに、優秀な頭脳を持っているのだから。

 

 

「――挑戦者、お前の敗因を教えてやる」

「よく鍛えられたなんて、褒めてくれたのになあ」

「一つは、俺に時間を与えすぎたこと」

 

「ずるいや」

 

「もう一つは、一番最初で俺に挑んだことだ」

 

 

 以降、勝利の方程式は解を出すまで破られることなく守られ続けた。

 

「ルカリオ、戦闘不能!」

 

 そうしてルカリオはついぞ、

 

「――勝者、ジムリーダー!」

 

 ユンゲラーに、二撃目を浴びせることはなかった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「お勤めご苦労様、っと」

「本当にな。忙しい一日だ」

 

 疲れた身体にとっては、たとえ缶のコーヒーであっても、キズぐすりと同等の効能を発揮する。どこかの誰かが言った言葉。それ以上のことは知らない。

 所は変わって、夕刻のCeReS所内。元より沢山のビルのせいで陽光の入りがよろしくないというのに、こうも日に傾かれてしまっては、蛍光灯に頼らざるを得ないというもの。

 

「バトルセンスを高額で買ってもらえるのは結構な話であることに違いはない」

 

 が、という一文字で繋げながら、愛用のソファにもたれかかる。

 

「やはり楽な仕事ではないな」

 

 くたり、よれた白衣も一緒になって、温もりの上で横たわって。必要なものでも今だけは煩わしくって、目に当たる人工光を腕でカットした。

「本当だよねえ」理解してるのかどうかも定かじゃない、そんな当たりも障りもしないヒースの返事。のんきなものだと溜息吐いた。本日、何度目か。

 退屈を埋める一瞬の魔に身を委ねていると、ヒースに肩を叩かれる。

 

「なんだ。口頭で伝え――」

 

 不機嫌のまま起き上がった先で、カイドウの発言はすっかり途切れた。

 理由は語るまでもない。大変おかしな場面に直面したからだ。

 

「こういう子も、相手にしなければならないんだものねえ」

 

 先程破った相手が、自身が所属する研究所の窓に貼り付いて、自身を仰望する――そんな場面に。

 

「それは……、ねえ」

「弟子に!!!! ぜひ弟子にしてくださいいいいいいいいい!!!!!!」

 

「大変、だよねえ」

 

 彼が日常に戻るのは、どうやらまだ先なようだ。



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02.まつろわぬ日の話

「お前に構っている時間」

「はい」

「それは、俺にとってひどくひどく惜しい」

「はい」

「故に。俺は。お前に。時間を。割かない」

「はい」

「わかったな」

「はい」

「よし」

「ところで」

「なんだ」

「いつ頃弟子にしてくれますか!」

 

 サイコキネシスッ!!!!!!!!!!

 先刻のルカリオを超える速度でユンゲラーに指示を繰り出すカイドウ。その瞳は澱みがひたすらうねっていた。疲れ目というやつだ。いやひょっとすると弱り目ともいうかも。

 もちろん技は出ない。皮肉にもここで行き届いた教育を発揮する。

 

「アアアアアアアアアア!!!!!!!! ユンゲラーの柔らか尻尾をッ!! 毛を!! 一本一本確かに味わうッ!!!! もふっ! もふっ!! もふッ!!!」

 

 トレーナーからは普段禁止とされている人間への攻撃を指示され、初対面の人間からは密着されひたすら尻尾を握られるユンゲラーの脳内は、もはや戸惑いを通り越して混乱にまで至っている。ただでさえ伸びてくしゃくしゃになっている髪をよりくしゃくしゃにする主の様相も相まって、第三研究室内は混沌を極めていた。

 

「まったく……いいかい少年、ここは君のような子が来ていいところじゃないんだよ? なんといってもラフエルが誇る叡智が一手に集結する場所、CeReSなんだから……あ、アイスティーでよかったかな?」

「ヒース!!!!!! 茶を出すな!!!!!!!」

「まあまあいいじゃないか、こういう賑やかなのも一興ってね。ずっと静かで狭いところにこもっていてはカビとキノコが生えてしまうよ」

 

「こうも疲労するならばキノコ人間でもパラセクトでも構わん……」切なる願いが虚しく響く。

 アルバは再びカイドウの前に現れて以降、弟子にしろの一点張りでいる。曰く、

 

「最強を目指す身として、強者であるあなたから学びたいことがたくさんあるんです!」

 

 らしい。何度断っても壊れたレコーダーのようにこれを繰り返すのだから、たまったものではない。

 話を聞いていないのか、嫌がらせなのか、その実態をいまいち把握しきれてはいないが――手持ちのルカリオから制止のチョークスリーパーをかけられてもなおユンゲラーの尻尾の心地を堪能しているのを見るに、常に本能で生きているんだというのは理解できた。

 

「何度も言うが、俺にはお前に教えることなどない」

 

 いくらたじたじになろうが、これだけは絶対に曲げない。断固として。意地のようなものだ。

 自分のしたいこと、すべきことをする、そんな日常への軌道修正を図らねばならない。

 

『カイドウ研究員へ連絡致します。シエル様がお見えです。繰り返します、シエル様がお見えです。至急、応接間に向かってください。至急、応接間に――』

 

「…………」

 

 尤も、それが成功するかどうかは、別の話。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「私のポケモンを、探してほ」

「さらばだ」

 

 応接間を全力で退室しようとしたところ、アルバに全力のブロックで止められた。

 

「どけろもうたくさんだ!!!!!」

「まあまあ話ぐらいは聞いてあげましょうって!!!」

「俺はこのガキを知らなければ、交番を勤務先にした覚えもないッ!!! なんだ!! 何の災難だと言うのだ!!?? そしてなぜ貴様はここにいるのだ!!!??」

 

 カイドウは一旦の深呼吸で乱れた思考を立て直す。そうした後に、眼前で座る七、八歳ほどの少女を見下ろした。半ば子供に向けるには酷すぎる冷ややかさを秘めてはあるが、疲労困憊故だ、許されよう。そんな考えが根底にある。

 

「今、消えたポケモンを探せ、と言ったのか?」

 

 その問いに、こくん、と小さく頷く、カイドウと同じ銀の髪をした少女。外見から伝わる年齢よりも、ずっと大人びた雰囲気が見て取れる。名を『シエル』。

 曰く、ポケモンの失踪。しかして発話の意味は理解できても、発言の意図までは残念ながら汲み取れなかった。

 それは平素からあまり他人と関わらない彼の生来の質ではあるのだが、今回ばかりはそういった事実を抜きにしたとしても、今とまったく同じ反応になっていたことだろう。

 それだけこのシエルという子供は、場違いな真似をしていたことに違いない。

 

「悪いが、ここにはお前の望むような者はいない。俺は探偵でなければ、ましてやポケットガーディアンズでもない。そういったことは――」

「それはわかってる」

 

 暗影すら感じさせる落ち着きの下で行われた言の葉の遮蔽にただならぬものを感じたのだろう、カイドウは開きかけの口を結んで、大人しく聞き届けることにした。

 

「でも、ポケットガーディアンズはこういうことじゃすぐに動いてくれない」

「そう、だよね。ペット探しの類だもんな。それでなくても、今は全土で騒がしいバラル団で忙しいだろうし……」

「だったら、待てばいいだろう」

「待てないから言っている」

 

 またしても、勢いのままに発話をぶつける両者。

 次は彼も多少の身じろぎがあった。駄々をこねるような印象は、受けなかったがゆえに。

 アルバもまた、彼女一人によって放たれた殺伐とした空気、間に気圧され、すっかり黙りこくってしまった。

 

「ここには、優秀で凄い人ばかりがいる、ってお父さんが言ってた。どんな不思議も解き明かしてくれる、凄い人が沢山なんだ、って」

 

 俯いての視線は、非常に安定しない。だがしかし、それが訴えるものは何よりも固く、それでいてぶれを知らない。

 

「中でも、カイドウっていう人は、本当にすごいんだ――って」

 

 あと少しばかり床に足りない足が、ぷらんと揺れた。

 何が彼女をそうさせるのか。何が彼女をここに運び込んだのか。

 

「お願い。私のキノココを、見つけてほしい」

 

 焦りにも、恐れにも似たその表情の真意は、程なくして明かされる。

 

「私の、友達なんだ」

 

 ぴくり。カイドウの指が小さく動いた。ポケットの中ではあるが。

 

「たった一人の……、大事な友達なんだ」

 

 その二文字に、興味を抱かなかったと言えば嘘になる。

 

「だから……」

「いい」

「!」

「もういい。わかった」

 

 懐かしむ訳ではないし、望んだモノでもない、と思う。というよりも、今からでもその気になれば手に出来るのかもしれない。だから、もう入手できないことを前提としてこのワードを扱うのは、少々間違った認識だろう。

 

「とりあえず、引き取り願おう」

「…………」

「か、カイドウさん!」

 

 そうだ。

 確かに自分には縁遠いものでこそあるが、そんなに珍しいものでもない。惹かれるような部分はなかった。共感など以ての外。

 ただ、それでも、しかし。

 

「――明日の午前一〇時、もう一度ここに来い」

「……へ」

 

 幼少の頃から、気になったものは放っておきたくない。

 気にならなくなるまで調べて、観て、知り尽くしたい。

 

「今日はもう日も沈んでいるから、明日から探すと、そう言ったんだ」

 

 ずっと変わらずに持ち続けてきた探究心だ。

 時に自分を苦しめる枷となり、時に自分を守る盾となったそれが、幸か不幸か、シエルの言葉に反応した。

 ただ、それだけ。

 

「……うん、わかった」

 

 なのだが、彼女にとっては、とても嬉しいことであったようで。

 

「ありがとう」

 

 下げた頭と上げた口角が、よく語っていた。

 

「それじゃあ、また明日」

 

 ここからまた、少年の長い一日が始まる。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『ようこそ! 明るい未来を作る街、リザイナシティへ!』

 

 街頭ビジョンにでかでかと掲げられる電子文字だが、地元の人間はもう慣れっこで、目も暮れやしない。

 車輪の付いた幾体ものロボットが、あちこちでゴミを拾う。道案内をする。緑の植え込みを整備する。

 ホログラムの道路標識は音も用いてわかりやすく通行人を整頓するし、その合間を縫うように道を走る車は、エンジン音もなければ排気ガスもない。まるで進むだけの箱だ。

 公園では仮想現実として生み出された光の球が、同じようにして光るラケットを持った男子二人にはたいて回される。

 まるで未来を髣髴させる街並み。ここがリザイナシティ。最先端の科学都市。

 

「待ち合わせは……中心の海洋研究所『Mystic』前だよね……」

 

 時と共に流れる雲を、多様な鳥ポケモンが鮮やかに彩る。

 ビルの谷を駆ける忙しないスバメが、少女の真横をすり抜けてった。

「ひゃっ」風に煽られたか、少女が思わずそちらへ、自然な回れ右。

 

「…………」

「やあ! おはよう!」

「あ……二人とも。おはよう」

 

 それは、二人の少年と一人の少女の、再会の合図。

 元気な手の振りを見せた後、三者は合流する。

 

「ほんと、リザイナシティってすごいなあ。屋台販売まで無人で行ってるなんて……ロボット工学のロマンを感じちゃうよ」

 

 そう言って朝食のホットドッグを頬張るアルバの表情は、今から友人との遊興でも控えているのかと思えてしまうほどに明るいもので。

「明らかに目的を見失っているだろう、貴様」となれば、そんな疑念が出るのも無理はなく。

 

「というか、なぜ貴様までここにいるんだ」

「言ったじゃないですか、弟子入りですよ!」

「もう、勝手にしろ」

「てことは!」

「俺も勝手にやらせてもらう」

「へへ、やった!」

 

 気が違いそうになる主張も、一晩置けば冷静に処理できるもので。

 

「何より、困った人を助けるのは強い人の役目だし! 僕も強くなるために、お手伝いするよ!」

「アルバくん……、ありがとう」

「の前に、一旦喉が渇いたから、あっちの屋台でトロピカルきのみドリンクを」

 

「あだだだだ!」

 ルカリオに耳をひっ掴まれ、連行。たった数秒前に雄々しく胸を叩いた甲斐甲斐しさが、遥か太古の事柄のようだった。

 やれやれ――内心そんなありきたりな呆れ文句を垂らし、カイドウは現場へと向かった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――状況を整理する。事が起こったのは三月一八日未明。又気付いたのは朝六時のことで、隣で寝ていたはずのキノココが、忽然と姿を消した」

「その時まで変わったことは何一つなくて、キノココ自体にもおかしな点はなかった……かあ」

「うん……、おとなしい性格だから、夜中に勝手にどこかへ出ていくような真似はしないし、その跡も全然なかった」

「うーん、今でもどっかに隠れてたりして。おーい」

 

 真面目にやれ。そう言わんばかりの形相をしたルカリオに尻を小突かれ、アルバはまたも悶絶する。

 三人の捜索活動は、滞りながらも行われていた。

 現在地である、なんということはないマンションの一室、この場所こそシエルが生活を営む場所であった。

 顎に添えられた左手は、そこから何分も離れていない。キャラクターとしても人気なポケモン『プリン』の絵柄があしらわれたベッドの前でひたすらに考え込む、約四尺九寸にも及ぶ男。

 もう一体の手持ち『シンボラー』による、土地の残留思念の読み取りを行うことが出来れば、何もかもが一発で解決することなのだが――どうも連日の根の詰め過ぎで疲弊し、その行為が阻まれているらしく。

 昨日否定した、それこそ探偵の真似事をする他になかった。

 

「本当に、何も変わったことはなかったか?」

「えー、と……あ」

「なんだ」

「寝てる間に、こわい夢をみた……?」

 

 苦し紛れの質問に、苦し紛れの答えが返る。

 たぶん、きっとと連ねた後、絶対を上書きして「関係ないな」と言い放った。

 

「だよね……」

「密室で、なのにポケモンが消えて……謎だらけだよォ」

「お父さんとお母さんも家にいれば、もしかしたら変わったかもしれないんだけれど」

「そうそう。パパとママはどっちも働いてるんだったっけ」

「うん。いつも夜が遅いし、忙しいときは帰ってこない日もあるんだ」

「それで、一昨日と昨日がたまたまその日だった、と?」

 

 無言の頷き。そして今日も。後から付け加えられた言葉でわかった話。

 

「はえ~、そりゃあこんなにしっかり者になるわけだ」

「あ、お茶、淹れてくるね」

「あーお構いなく! って行っちゃった……」

 

 足が小さいと、スリッパも小さい。そしてスリッパが小さいと、足音も小さい。

 微かであっても、そうやってペタペタと鳴るその音は、集中を重ねているカイドウにとっては看過しがたいものであったのかもしれない。図らずもそこへ向く視線が、その度合いを示してくれた。

 

「――待て」

 

 その時だ。

 はけていくシエルの後姿を引き留めるカイドウ。何事かと、シエルは戻ってきた。

「来い」下から上へと人差し指を動かす、およそ子供に行うべきではないジェスチャーだが、表情から何かの発見を察したのか、シエルがカイドウの傍で足を止める。

 

「どうしたの?」

「スリッパを脱げ」

 

 きょとんと見上げる少女の前で屈んで、次なる指示。それを諾って、彼女が望み通りの行動を取ると、おもむろにスリッパを持ち、見つめるは真黒い裏の部分。

 

「カイドウさん?」

「これは、なんだ」

 

 独り言が指しているのは、そこに付着している白い粉のようなものだった。

 

「これ、ええ? えっと……ゴミ?」

「埃にしては密度がある。塵にしては整い過ぎている。小麦粉にしては細かすぎる」

「あ僕に聞いてないのか。そうなのか」

 

 張り巡らされたフローリングを見るに、清掃は行き届いているようだから、簡単にゴミの類が付着する訳はない。そういった見立ての上で、覚えた違和感。

 何かが掴めそうだ。大きな何かが。しかしあと一歩が足りない。小脇に抱えていたノートとペンをぽいっと放り、ポケットに常備している使い捨て実験用手袋を着用、人差し指でその『粉状の何か』を絡め取った。

 いくら近くで凝視しても、その瞳は顕微鏡にはならないし、眼鏡のレンズは眼鏡のレンズのまま。プレパラートが恋しい。

 だが持ち帰る時間も惜しくって。頭を捻って、脳みそ絞る。その矢先。

 

『ずっと静かで狭いところにこもっていては、カビとキノコが生えてしまうよ』

 

 ヒースの何気ない一言を、思い出した。

 直後、は、と目蓋がより上へ行く。全てが繋がるかちり、という音が頭蓋の内側で響くと、

 

「――胞子、だ」

 

 カイドウの口は反射的に、粉の正体の名を滑らせた。

 

「ほう、し? 頭に被るやつですか?」

「それは帽子だよ、アルバくん」

 

 茶番を意にも介さず、話が進む。

 

「キノココは、きのこの性質を備えたポケモンだ。他にもカントー地方のパラス、アローラ地方のネマシュ、カロス地方のタマゲタケ等がある」

「うーん?」

「そしてそれらには、『過度なストレスを受けると、胞子を散布する』という共通点がある。何よりもきのこの特徴だからな」

「そうか! ダメージを受けると胞子をばらまく特性を持ったポケモンがいるって習ったけど、今挙がったポケモン達がまさにそれか!」

 

 アルバにしては珍しくバトル以外での閃きを見せたが、それも束の間、

 

「で、つまり、これが胞子ってことで、要するに……?」

 

 再び首を傾げると、あっという間の本調子。

 やはり難題の前で頭にクエスチョンを浮かべる二人を無視し、カイドウはあるポケモンを出す。

 猫の額ほどの空間いっぱいに爆ぜ散る光の中から“とりもどきポケモン”の『シンボラー』が顕現する。

 

「“ミラクルアイ”だ」

 

 目というものは、認識できる範囲に限界がある。それは眼球の位置関係からなる物理的なものであったり、或いは種の眼球そのものの発達度合いが設けているものであったり、様々。カイドウが今しがた放った指示は、そういった限界を一時的ながら取り払う、ある種の魔法であった。

 

「――接続(コネクト)、――共有(リンク)

「カイドウくんの目が、虹色に……」

「……やはりか」

 

 片手間でシエルとアルバに手袋を渡し、少し離れた位置の床を撫でさせるカイドウ。

 

「これ……また、胞子?」

「こっちにも!」

 

 ミラクルアイによって進化した視界を共有して、わかること。

 マンション室内の至る所に、同様にして胞子が散らばっていること。

 

「これだけの量の胞子が撒き散らされた痕跡があるということは、もうわかるだろう」

「……それだけ、ストレスをかけられていた?」

「そうだ」

 

 そして。

 

「それも、急激にな」

 

 それは自然に生活する上では、明らかに起こりえない現象である、ということ。

 

「どうやら、この騒動――ただ事ではなさそうだ」

 

 後々からわかったことではあるが。

 胞子は、点々と標のように玄関へと続いていた。そしてそれを辿って扉を開けると、さらに一本の線となって続いていた。

 

 まるで、誰かに示すかのように。

 

 不穏の音が、欹てた耳に潜り込む――。



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03.わかりあえない

 ――三者による推理は、こうだ。

 

「お願いしまーす!」

 

 深夜、シエル宅に何者かが音もなく侵入し、

 

「体長五五センチ、重さ五キロのキノココを探してまーす!」

 

 気配もなくキノココと争い、力づくで拘束。

 

「少し大きめな子でーす! 何か情報ありましたらお願いしまーす!」

 

 そのまま拉致した、というもの。

 穴だらけも穴だらけ、ともすれば全ての穴が繋がってしまって大穴になりそうな推理だが――現場の状況を何度思い返してもそうとしか言えないし、言いようがない。

 事は、そこまでの事件性を秘めていた。少なくともこの中で最年長であるカイドウは、そのように踏んだ。

 途中で胞子の痕跡が途切れて、やっと見つけた糸口もまた先細った。

 

「あ、ごめんなさい」

「気を付けろ」

 

 ドン、と自分よりも何倍も大きな人にぶつかって、こける。そうやって見上げた先でやっと空を見れたし、それによって大まかな時間の確認も出来た。

 冷たくも素通りしていく者達をよそに、アスファルト上に散らばった手作りの写真入りビラを拾い集めるシエル。ゆっくりと日暮れが近づいているのを知ったからか、その手の動きには慌てが現れていた。

 沈んだ視界に、落としたはずのビラ数枚が躍り出て。暫し離れていた面影が、影法師に慣れた瞳に眩く焼き付いた。

 

「カイドウくん」

「PG駐在所への捜索願は、無事に出せたぞ」

「うん。ありがとう」

 

 そして自分なりの捜査の結論として導き出した「事件性あり」の事実を伝える旨も、ちゃんと添えてきた事を報告する。

 おかしな話だが、自分の社会的な地位、というものについてはそこそこの自覚がある。子供が一人で騒ぎたてるよりもずっと大きな鶴の一声を以て、彼らに働きかけたのだ。

 これで何かが変わればいいのだが。二人はそんなことを思いながら、再度ビラを配布し始めた。

 雲のように自分をすり抜けていく人人波の中に、ひたすら紙切れを伸ばしていく。手応えがあればまたもう一枚の紙切れを持ち、ないのならば別の方向へこの手伸ばしていく。

 

「そんなに大事なんだな」

「ん?」

「友人というものは」

 

 単調作業に退屈を抱いていた訳ではない。

 だからこうして切り出した一言は、彼のまっさらで素直な疑問のようなもの。

 

「私、友達を作るのが下手くそで」

「友を作るのに上手い、下手があるのか?」

「それ、質問?」

「と、いうことになるな」

 

 くすり。生まれた笑みは、そこそこに長い時間を過ごしながらも、カイドウが初めて見るものであった。

「なんだ」と返す前に、開口するシエル。

 

「物知りさんでも、わからないことがあるんだね」

 

 目を合わせないながら、彼女もまた、知ってか知らずかまっさらな答えを真面目に返す。まるで、純粋な子供同士の会話みたいに。

 特に訂正するべき発言ではないから、それ以上これについて何かを続けることはなかった。

 

「上手とか下手とか、あるよ。嫌われるのがこわいのは、下手くそな人」

 

 恐らく自分の事を指している。少年は珍しく顔から推察する。

 

「仲良くなった後に……ううん、仲良くならなくたって、『誰かが自分に嫌な気持ちを持ってる』って知っちゃうのが、すごくこわいんだ」

「ただ生きていく上で、そうも他者から嫌悪感を抱かれるものとは思えんが」

 

 ようやく横に振られた首。ずっと頷いてばかりだった、彼女の頭。

 

「普通にしてるだけで、嫌われることだっていっぱいあるよ」

「…………」

「そうやって普通にしてる姿が、沢山の人に気に入られづらい姿だったら、その人は簡単に一人ぼっちになっちゃう」

 

 とても年端もいかぬ子の発言ではない、そんな諦観が詰まった彼女の言霊に、濁った灰の記憶が呼び戻されて、カイドウは腑に落とす。

 確かに自分はこれまで、誰かを傷付けようとして生きたことはなかったし、誰かの不快がる表情に悦を感じたためしだって、当然ながらない。

 それでも。自分は。

 

「そう、だな」

 

 ずっと否定されてきた。常に突き放されてきた。誰かから。何かから。

 これだけは自分でも覆せなくて。裏をかえせば断言できて。

 

「だから、心の底から私を好きだって言ってくれる人は、大事にしたいんだ。キノココだって……」

「なるほど、な」

 

 ワンクッションを挟んで出る、誠実にして切実な少女の願いは、少年の耳には届いたろうか。

 それは今後一生かかろうと少年にしか知りえぬことではあろうが、

 

「一秒でも早い発見を願う」

「ふふっ、なにそれ」

 

 無意識で出すヒントのようなものは、あったと思う。

 

「おーい!」

 

 遠くから近付くもう一つの少年の声を合図に、二人は作業を中断した。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『リザイナシティが、午後五時をお知らせします』

 

 時報を右から左へ聞き流しながら、公園のベンチに腰掛けた。右から大、中、小の順で並ぶ三つの人影は傍から見れば少々、奇妙な絵面ではあるのだが――言うほど傍に寄る者もいないから、存外気にされない。

 

「学校、通学路、よく利用するお店……シエルちゃんに関わる場所をあちこち回ってみたけど、胞子の痕跡どころか、目撃情報すらないんだ」

 

 アルバは自分側の収穫を口にしながら、両脇の二人にアイスバーを手渡す。二本一組、フレンドリィショップで気軽に購入できるロングセラー商品「なかよしバイバニラバー」だ。手ごろな価格と確かな味で、多くの人々に愛されている逸品。手持ちのポケモンに食べさせると、なついてくれること請け合いだろう。

 一服を提案した、アルバの奢りというやつだ。

 

「ありがとう、これ大好きなんだ」「そういえば糖分補給はまだだったな」各々の独り言を口々に、二人は一組ずつへまるごと齧り付き――。

 

「いやいやいやいや違うでしょう」

「?」

「なんだというのだ」

「シェア! シェア!」

 

 そう言いながら、何かを割るようなジェスチャー。

 三人に対し四本になるが、余りの処遇は後に考えるとして、ひとまず一本ずつでしょう。言外に伝えてはいるが、カイドウもシエルも一向に理解している節はない。

 

「えっ、なんで分けないの!? バイバニラバー割らないで食べる人っていたの!!?」

「馬鹿が。分ける相手がいない人間はそのまま割らずに食うに決まっているだろう。おかしな奴め」

「いや何その寂しい文化!? 聞いてごめんだけど! ごめんなさいだけども!!」

「わはひほいははへほうひへひは」

「飲み込んでから喋って!!」

 

 アルバが「私も今までそうしてきた」と訳せたのは、少し後の話。

 そして「寂しい同盟だな!」と突っ込むのは、そこからさらに少し後の話。

 話を本題に戻すまでの間に、最終的にはカイドウからバイバニラバー一本を渡される。なぜ彼が渋々な態度だったのかは、まるでわからなかったが。

 

「でも、カイドウさんもPGに話を通してくれたし、シエルちゃんが作った捜索用のビラもある。事は間違いなくいい方向に向かっている――もう少しだ」

「でも、アルバくんは旅人でしょ?」

 

 最初は、彼女の質問の意図が理解できなかったアルバだったが、次いで聞こえるカイドウへの「それで、カイドウくんは、研究者でしょ」という質問で、柔らかく察することが出来た。立場を確認しているんだ、と。

 

「『だから、明日にはいなくなっちゃうんじゃないか』って?」

 

 ビンゴだ。無音の肯定が証明。

 しかしそれをきっちりと否定してやるのが、きっとこの男。お人好しではないが、真人間。

 学んでいるだけに強さをよく知り、力の使い方を誤らぬ善人。

 

「乗りかかった舟ってやつさ! 君の友達を見つけるまでは、また明日も、明後日も、いつまでもいるよ!」

「長居をしないためにさっさと探すんだろうが」

「二人とも……」

 

 歯をにっかり見せる破顔にいつもの嘆息が後押しすると、顰んだ眉した面持ちも、温かな微笑に早変わり。

 

「……また明日、か」

「いい言葉だよね」

「うん……、私が大好きな言葉」

「へえ! どうして?」

「『明日もまた会いたい』って思う人にいう言葉でしょ。そういう人がいるのって、すごく素敵なことだと思うんだ」

「うんうん」

 

 脇で連なる会話に、目ならぬ耳も暮れず、湿り切ったアイスの棒を加えたままぼう、とするカイドウ。

 されどなんとなく断片的に聞こえるフレーズについて、思考を巡らせて。こればかりはもう性だから、諦めた方がいい。

 

「私、二人に言いたいよ」

 

 ――自分には、一人でもいただろうか。

 

「『また明日』、って」

 

 そう言いたいと、思える人間は。

 

 

『人を馬鹿にしやがって! お前みたいな奴とはこれっきりだ!』

 

 

 そもそも、自分はそれを言うべき人間なのだろうか。

 

 

『お前はみんなと住む世界が違う。知能指数が落ちる。だから周りと話すんじゃない』

 

 

 言える、人間なのだろうか。

 

「ねえ、二人とも」

 

 根差す興味で追いかけてはみたけれど。

 

「あの、ね」

 

 もしかして、これは。

 ひょっとして、これは。

 

「私と――友達に、なってほしいんだ」

 

 自分が触れてはいけない、そういう別世界の話なのではないか。

 アルバが聞くまでもない即答で、彼女と一緒に笑みを合わせて。ようやっとその光景に視線を向けたその瞬間、二人が果てしなく遠い場所に感じられた。

 無限に手を伸ばしたって、永遠に追いかけたって、辿り着けないほどに。

 どれだけもがいたって、どんなにあがいたって、芥子粒みたいに小さくなっていくように。

 そう思えた――いいや、思ってしまった瞬間、途端にしんと脳髄が冷えた。

 

「ずっと解らないことがある」

 

 夢から、覚めた気がした。

 

「友人というものは、不完全な己の不足を埋めるために作るものだと聞いた」

 

 深海に引き戻された彼が、今から酸素を漏らしながら吐く言葉は、

 

「不足を補われるから、充足感があるのだと、そう聞いた」

 

 淡く期待を膨らませる少女が聞くには、あまりに苦しいものなのであろう。

 

「だが俺は、完全だ。欠けている点など存在しない」

 

 だが、しかし、それでも。これは伝えねばならない。

 問わねばならない。

 

「その上で尚、俺がお前たち共にいるメリットというのはなんだ?」

 

 だって自分は、そちら側の人間ではないから。

 お前たちといると、そんなことすら忘れてしまうから。

 

「……カイドウ、さん?」

 

 曖昧なまま、呼吸をしてしまうから。

 

「それは、許されることなのか?」

 

 ボコ、ボコと絶え間なく出ていく泡。

 都度見える世界が狭まって、暗んで、全身に冷ややかな圧力が加わる。

 闇色が、この視界を塗り潰した。

 

「それは――意味があることなのか?」

 

 そのうち彼らの事も、視えなくなった。

 

「……あ……」

 

 期待させる夢が悪かったのか。期待できない(うつつ)がいけなかったのか。

 何が彼らをそうさせた? そんなことを問い掛けたって、誰一人教えてくれない。

 ほろほろと輪郭が乱れる君に、一体何と言えよう。どう返すことができよう。顔を覗かせる子供らしさは、この時俯いて、初めて主張が出来た。

 ああ今更、今更だ。それもこんな場面で。

 

「はは……そう、だよね。いきなりこんなこと言われても、困る、よね」

 

 ――なんて、どうしようもない話だろう。

 

「ごめん、ね」

 

 シエルがゆっくりと伏した面を上げ直した時、頬には宝石みたいな橙の雫が伝っていた。

「ばいばい」最後に震えながらも結ばれた口は、それ以上何かを発することはなかった。

 

「シエルちゃん!」

 

 温もりだけを残して去っていく彼女を、彼は目ですら追えなくて。あっという間に消えてしまって。

 

「カイドウさん! なんであんなこと……!」

「……知る必要があった」

「は? ……何が……、何をですか!」

 

 アルバは立ち上がって激昂する。この年代ならではの盛んな血気、というやつだろう。

 

「答えてくださいよ! 何か言ってくださいよ!」

 

 が、残念ながらうんともすんとも返してはやれない。相手取るだけの力がない。それが身体的なものか、精神的なものかすらも自分でわからなくなっているんだから、当然の話。

 そんな雲を掴むような感覚にしびれを切らして、彼もまた、

 

「……あなたは、持つ者だから。持たざる者の気持ちがわからないんだ」

 

 思わず誰かに傷を負わせてしまう。

 

「何かを欲する人の気持ちが、伝わらないんだ」

 

 雨が、降り始めた。

 感情のない無機物が、せっかく積み重ねた彼らの一日を、無情に洗い流す。

 呆気なく、簡単に――たった数時間であっても履き捨てが大変な、苦も、楽も、ただ記憶と一緒に濯いでいく。

 

「……シエルちゃんを、連れ戻します」

 

 それに抗うような、そんな歯噛み。一人呟き、アルバもまた駆け出した。

 濡れた足音が、ノイズもろとも鼓膜からフェードアウトしていく。背中なんてもう見えない。尤も端から望んでなどいなかったが。

 

 置き去りにされた少年は、雨天にさらされていた。

 

 服がくちゃくちゃになろうと。

 

 どれだけ雨粒が痛かろうと。

 

 ずっと、ずっと、濁った空を見つめていた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 体温が、じわじわ奪われていく。

 白んだ息が中空を泳いで、主からゆっくりと離れて消える。また熱が、逃げてった。

 されどアルバは、この足を止めない。

 

「シエルちゃーん!」

 

 リザイナ中を走り回って、さっきまでの面影を道行く者と重ね合わせる。ひたすらにだ。

 ここまで必死になる理由――まあ色々あるが、単純にあれぐらいの年の女の子を夜の街に放っぽり出しておくのは、普通に考えれば誰でも危険に思うだろう。

 だが、それより何よりも。

 

「……くそっ!」

 

 アルバは、胸騒ぎを感じていた。

 己の語彙力のなさからなのか、単純に表現しがたいからなのか、上手くは言えないのだが――とかく、得もいわれぬ『嫌な予感』というやつを、覚えていた。

 だからこそ、進んで彼女を一人にするような真似をしたカイドウに、きつい言葉選びをしてしまった。

 尤も到底許されることではないので、謝罪の頭の用意もあるのだが――。

 

「シエルちゃーーーん!!」

 

 まずは、見つけない事には始まらない。

 第六感だとか、それこそ超能力だとか、そういう類を手放しで信じているわけではない。

 ただ、浅学非才の身でも旅人として、同時に各所を回るトレーナーとして積み上げられた経験が、この胸中の『引っかかり』を唯一裏打ちしているのだ。

 

「(……やっぱり、おかしい)」

 

 独白の始点は、そこだった。

 

「(もし本当にキノココを狙うだけならば――ここから西の方面にある“ハルザイナの森”で、ゲットできるはずなんだ)」

 

 ハルザイナの森。自然豊かな町“ハルビスタウン”とこの“リザイナシティ”を結ぶ森林なのだが――アルバはここに来るまでの通り道で、野生のキノココと遭遇していた。これはこの地において、キノココの希少性は認められないということを意味している。

 それらを踏まえたアルバが思うに、キノココが欲しいのならわざわざこのような危険を冒さなくとも、入手は出来るはずだ……という話。

 引きずられて出てくる次なる疑問が、引き続いてアルバの脳内を支配した。

 

「(わざわざ、人のポケモンを誘拐する必要性があったのか? ……身代金目当て?)」

 

 即座に首を振る。ならば既に犯人から何かしらのアクションが起きているはずだから、その線は薄い。

 だったら、なんだろう。何が目的なんだろう。

 一人になった途端に頭が回転し始める――よくない癖。

 そう考えながらも思考は止まらなくって。

 

「(根本はもっと、別の方向にある気がする)」

 

 たとえば。

 

「(“ただのキノココ”でもなく、“人のキノココ”でもなく、“シエルちゃんのキノココ”が狙いなのか?)」

 

 それを狙う何かがある。絞るだけの何かが――そうして駆ける一抹の不安を、強く噛み潰す。とうに日は暮れていた。

 

「(だったらまずいぞ……! シエルちゃんだって無関係じゃない。無事である保証だって……!)」

 

 思考すればするほどに、脳裏に嫌なビジョンがちらつく。

『早く見つけないと』。

 アルバがようやく口に出して唱えた時だ。

 

「――――――――――!!」

 

 

 そんな決心を雨音ごと引き裂く悲鳴が、彼の耳を劈いた。

 

 

「――シエルちゃん!!」

 

 主がそうとわかったわけでもない。

 ただ、響き続ける水の破裂音の中で、薄くても聞こえたのだ。

 慣れきった少女の声を。

 一日、ずっと耳朶に当てがい続けた声を。

 

「くっ……~~~~~!!」

 

 最悪な予感の的中を嘆いて、少年はより一層の速度で走り出す。

 微かに通った一筋の音の線を、ひたすらに辿って。

 曲がって、曲がって、曲がり抜いて。向かう先は闇。暗がりの中で落ちるさらなる暗がり。灯り出した街頭すら知らないそこは、有り体にいうのなら路地裏というもので。

 誰も止めないものだから、どんどんと深い黒を進んでく。

 自分しか気づいていない。自分しか成せない。自分しか。

 

「……ッ!!!!」

 

 引き返す道のりを忘れた頃。足が止まって、目のピントが合った。

 ――気絶したまま抱えられたシエルが、いた。

 

「あら~、やっぱ気付いちゃったかあ」

 

 瞳孔開いた眼に映る、数メートル向こうの声の発生源。

 それを認識した時、

 

「……そんな……!」

 

 信じられない。アルバはそんな表情をする。

 いや――信じたくなかったという表現の方が、適切なのかもしれない。

 身に着ける青紫の“B”のエンブレムも。濃密な灰の色した衣服も。全てが、裏切ることなくテレビのニュースで観た通りで。

 遠い幻想であれ、と。

 誰かの空想であれ、と。

 心のどこかでずっとそう思っていた――。

 

「やっぱりもっと自然なタイミングで寝せるべきだったかなあ~、……っあっは、反省反省」

 

「何故こんな所にいるのか」だとか「どうしてお前たちが関わってるんだ」だとか、そんな事情の聞き取りすらも飛ばして立ち向かわねばならないほどに、その悪意は禍々しく、そして恐ろしいものだから。

 

「バラル団……――!」

 

 開きっぱなしで塞がらない口の呼びかけに、その女は不気味なまでの笑顔で応えた。

 

「へえ~嬉しいなあ! 私たちも有名になったんだねえ……うんうん」

「……なんで、なんで」

「あっはは大丈夫? もしかして有名人に会えて緊張しちゃった??」

 

 雨で誤魔化されてこそいるが、確かに発汗するアルバ。無理もない。寧ろ凶悪犯罪者に遭遇した一般人の反応としては、満点とすら言えよう。

 言う通りの緊張に躰をこわばらせるそんな様を覗き込んで、バラル団の女は上機嫌に言葉を弾ませた。

 

「なんで、どうしてお前らがこんなことをしてるんだ……!」

「んー? なんでだと思う?」

「キノココをさらったのもお前らか! 何のために!?」

「がっつくな、がっつくな、せっかちな男子は嫌われちゃうぞ??」

 

 依然敵意と警戒心で凝り固まった少年へ「はー、遊びがないなぁ」と吐き捨てる。標的搦め獲った蜘蛛が如き視線を影からぎらつかせ、口車を回し続ける。女は、饒舌だった。

 

「私の名前は『ソマリ』――まずはお友達になれるかもしれないから、名乗っておくね」

「(わざわざ名前を明かすだって……!?)」

「ちなみに偽名じゃありませーん! 呼びタメあだ名大歓迎! もっとちなんで教えちゃうニックネームの人気所は、マリちゃんとマリーでぇーっす!」

 

 少年が、不信感を加速させてしまうほどには。

 

「ま自己紹介が終わったところでさくさく回答コーナーいっちゃうんだけどもぉ」

 

「耳かっぽじってよ~く聞いててね」言葉に伴わせて自分の耳をつついて、傾けた。

 

「私たちもさ、世界の皆々様を相手取って戦う偉大な偉大な秘密結社なわけなんだけれどもぉ~~、ま昨今色々抱えた事情があるわけなのだねえ? 資金不足とかー、戦力不足とかー……それに、人員不足とか」

「雪解けの日の件か……」

「ごめいと~う!」

 

 ソマリは順取って折り曲げていた三本の指を起こすと、ひらひらとアルバに掌を振る。

 

「ネイヴュ陥落したことばっか報道されてっけどね、それを成し遂げるために、こっちもな~かなかの被害を被っちゃってるんだよね。みんな知ってくれないけどさ」

「……何を……」

「んーで、その立て直しに、今はこんな具合にあれやこれやと裏でちまちまやっている次第でありま~す! 敬礼!」

 

 そしてその角が上がりっぱなしの口が指し示す通りの挙動を、してみせた。

 そこに反省はあるだろうか。後悔はあるだろうか。

 明るい笑声に。愉快そうな身振りと手振り。

 

「……なんで、そんな風にしていられるんだ?」

 

 ――そんな様相で振る舞うこいつに、人の血は通っているのだろうか。

 アルバは戦慄していた。

 生まれて初めて目の当たりにする、大いなる悪意に。世界に差す光を喰らう、災いの花に。

 

「お前、らは……、沢山の人の、帰る場所を、奪ったんだぞ?」

 

 過るのは、テレビ越しに見た、まるで戦争映画のような散々たる光景。

 

「沢山の人の、居場所を、ぐちゃぐちゃに、消し去ったんだぞ……?」

 

 話す誰もが泣きじゃくっていた、インタビューにならないインタビュー。

 

「どうして……、どうしてそんなに、笑えるんだ……?」

 

 画面いっぱいに並ぶ、犠牲者たちの名前――。

 己を震わす未知の何かを、いよいよ本能が断定する。

「これが悪だ」と。

「世界に根差す闇だ」と。

 

「誰かの不幸でご飯がおいしくなるんだからさぁ――――しょーがないじゃん?」

 

 証明が完了したその瞬間、アルバは震える手でモンスターボールを握り締めていた。

 

「おっと、やるんだ? マリちゃん優しいから逃がしてあげようとも思ったんだけどなあ??」

「嘘をつけ、そんな気なんかないくせに……!」

「いいや? いくらトレーナーでも所詮は子供、私の目撃情報を語ったところで証拠を提出できなきゃ意味もないでしょ? つまり現段階で君を自由にしたところで、不都合はないってこと」

 

 それを聞き受け、怒りと恐れで逸る思案を御する。

 考えろ――こいつは、普段から戦闘で相手をするようなトレーナーではなく、ただの犯罪者だ。

 何をしてくるかもわかったものではない。正々堂々なんて言葉は、まず除外すべき要素だろう。

 そんな中で負けては、それこそただでは済まない――。

 で、あるならば。

 

「(一度引き返して、PGに通報した方がいいのか……?!)」

 

「わからない」と「考えろ」が交互に積み重なっていく。今、シエルを半ば見殺しにするのが正しいのか。それとも戦うべきなのか。

 間違えるな。間違えれば次はない。

 刻々と時だけが流れるうちに「わからない」の数が増えてきて。急激に自分の容量を圧迫し始める。

 負ける未来を想像するなど、らしくない――自分でそうとわかっていたって、それほどまでにこの存在は。『敵』というものは。

 自分には脅威で。あまりに重く大きなもので。

「ああ、そうそう」

 ソマリは伏目で逡巡を続けるアルバに、今一度声をかけた。

 

「地味に訂正するけどキノココ拉致ったのは、私じゃありませ~ん。というかバラル団じゃありませ~ん」

 

 協力する第三者がいる。そう言った。

 勝った時の褒美に正体を明かそう。と、さらに続けた。

 

「しかしこのー、シエルちゃんだっけ? すっごくかわいい子だね」

 

 退屈にでも襲われたか、ずい、と近づけて抱えた寝顔を凝視する。

「やめろ!」反射的に叫ぶアルバ。

 

「やーだな、なーんもしないよう、なーんも」

 

 私はね。あまりに不穏な付け加えと、悪趣味な舌なめずり。

 

「ただ――これだけかわいいと、ぎゃんぎゃんと嗚咽にまみれて絶叫する顔もかわいいんだろうなあ、って」

 

「――――ルカリオ!!!!!」

 

 次の瞬間、アルバは考えるよりも先にモンスターボールを投げ放っていた。

 

「やっすい喧嘩のご購入、毎度ありぃ~!!」

 

 ソマリも待ってましたと言わんばかりに、それに合わせて投げ返す。

 招かれた“絵描きポケモン”の『ド―ブル』が、尾のインクをびちりと垂らした。

 

「――返品きかないから、そこんとこよろしく頼むよ」

「ここで倒すぞ……絶対に!!」

 

 トレーナーの怒りを乗せた闘士の咆哮が、地獄みたいな暗闇の底で木霊した。



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04.Libertas

 あの時、どう思ったか。

 彼女を突き放した時。彼から突き放された時。

 自分は何を思っていた?

 どうしたかった?

 いつもいつも、漠然と見ているだけだったが。それでもいつかは答えが必要なのかもしれない。

 だから訊いてる。さっきから。

 あの時、どう思ったか?

 

「今日も今日とて缶詰かい?」

 

 ただ、今だけは、それは重要ではない。

「ヒースか」CeReSに戻って机と睨めっこしていた――もとい、本来の務めを果たしていたカイドウが、肩に置かれた手の正体を当てる。目が合わないのは毎度の事なので、ご愛嬌。

 

「上がるのか」

「そんなところ。ここ最近のどこぞの無能くんに倣って、僕もたまには定時上がりしようか、なんてね」

「ドルクの奴か……」

「結果はなくとも口だけは一丁前だからねえ……同じポケモン生体学の研究者として、恥ずかしいよ」

 

 忘れかけていた時刻だが、PCのディスプレイの隅には17:48の表示。

 

「それはそうと、どうだった、おでかけの方は」

「……どうもこうも、語るような特別なことはないが」

 

 不適切な言い回しをすげなく退けてやると、ヒースはたちまち残念がった。

 

「ん~もっと何かないのかい? 連絡先が交換できたとか、一緒に何か食べたとか、どこか行ったとかさ」

「お前は俺の親か何かか」

「何ってわけじゃあないけど、強いて言うなら、友達ってやつなんじゃないか?」

 

 刹那、オフィスチェアが後ろへ往く。

 おっとっと、ヒースが短兵急な動作で慌てて引き下がった。

「どうした」次の反応は、至極真っ当なものであった。

 

「……俺は、“それ”を持っていい者なのか?」

 

 なるべく避けているのが、透けて見える。

 長らく考えていたこと。ずっと思っていたこと。誰かに委ねるようなものでは、ないけれど。

 勝手に、口が動いてた。それだけ何かに期待していたのかもしれない。久しぶりの感覚だから、忘れた。

 

「全ての物事には、あるべき姿や状態というものがある」

 

 柄でもない、なんて、後々思う。

 

「俺は、誰かを近くに置いておく必要がない。すなわち一人で完結するべき存在のはずだ」

 

 実は、少し頭を働かせればわかることなのだが、

 

「それでも、誰かと在ることは許されるのか?」

 

 働かせる詳細な部分をわかっていない、とでも言うべきなのだろうか。

 まるでスイッチが入ったかのように豹変し、湯水よろしく言葉を紡ぐものだから、少しだけたじろいだ。

 

「……君は、本当にそういう言い方しかできないんだな」

 

 でも、わかっていた。

『いつものことだ』と、ヒースにはわかっていた。

 ふっ、と鼻で短く吹く笑いが、証明。

「いいか、一度しか言わないから、しっかり頭に入れときな」そして訝るカイドウを小突く。

 

「君の言う通り、水は生物にとってマストであるべきだし、チャンピオンはポケモンリーグ最強であるべきだし、羊羹は甘くあるべきだし、雨が降れば傘を差すべき、だし――天才は孤高であるべきだ」

 

 おもむろに開封した羊羹は、おそらくどこかの地方の土産物であろう。シンオウあたり、だろうか。

 

「でもね、それを否定したっていいんだよ」

 

 窓でうねる水の膜が、入り込む光を歪めても。

 

「水で死んでしまう生き物がいたっていいし、弱いけれど、その分優しいチャンピオンがいたっていい。辛い羊羹を作る人がいてもいいし、雨の中で傘をささずに踊り続ける人がいたっていい」

 

 立て続く雫の音が、耳を塞いでも。

 

「孤高と知ってもなお寄り添おうとしてくれる人を、受け容れたっていい」

 

 男は語り続けた。

 

「世の中は、思ったより自由に出来てるよ」

 

 立派な立派な、しかしどこか抜けた残念な友のために。

 

「その自由を味わった上で、どうするかは――自分で決めな」

 

 謎を解くことをこよなく愛する友のために。

 ヒントを並べ続けた。

 

「『在り方』というのは義務じゃなく、権利だよ」

 

 外の世界を、一瞥する。語った手前『雨に濡れながら踊り続ける手本』を指し示したかったのだが……なかなか上手くいかないね、と苦笑い。

 

「たまには休みなよ」

 

「じゃ、また明日」と残して、項垂れる男の前から立ち去った。

 それでも男はしばらく、その場所から微動だにしなかった――。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ビルが作り出す無機質な渓谷の中で、閃光が奔り抜ける。

 辺りがすっかり暗がりになったのもあるのだろう――逐一の明滅が、その観測者の水晶体に深刻なダメージを与える。

 

「――“しんそく”!!」

 

 それでも、少年アルバの瞳は片時たりとも欠かさずに、討つべきものを捉えていた。

 ルカリオがこの宵闇に蒼白の軌跡を刻んで襲うは、使用者に質に似合わぬほどの白色をこさえた芸術家ならぬ芸術犬。

 

「ちっ! また……!」

 

 外した。なかなかの跳び蹴りだった。

 今に始まった事じゃないのは、今しがたの舌打ちで瞭然だ。

 

「なーかなかやるっしょ? うちのこ」

「僕は認めない! 悪行のために育てられたポケモンの強さなんて!」

 

 ドーブル――どれだけレベルを上げて成長しても、“スケッチ”という技しか覚えない特異なポケモン。

 ただ、何よりもその一点が問題であった。

 

「ルカリオ! “はどうだん”! 周りに人はいないから、遠慮なく撃ち込みまくれ!!」

「ドーブルーーーー、もーいっかい、」

 

 このスケッチという技の効果は、

 

「“しんそく”」

 

 一度見た相手の技を、一生ものとしてコピーしてしまう、というもので。

 ルカリオが球状に錬成した波導エネルギーを飛ばす前に、ド―ブルはその場から消えていた。

 かつていた場所なんて聞こえはいいが、結果的に何もない空間を穿つ光球。そんな様子が六回も繰り返される。

 

「ダメだ、こんなんじゃ埒が明かない……!」

 

 同じ動作で。同じ攻撃方法で。

 アルバは、まるで己で磨いた刃をそのまま向けられているような感覚に陥った。

 鍛え上げてようやっと習得した技を、こんなにも容易に真似てくるのだ。苦戦しない方が変だろう。

 このまま長期戦に持ち込み、誰かが通りすがるのを待つのもやぶさかでなかったが――どうにも場所が場所で、確実性に欠けてしまう。

 純粋な打開ならばもっと他に冴えた方法があるはずだ。派手な破砕音と閃光に晒されながらも、この集中は切らさない。

 

「(……そうか!)」

 

 それが功を奏した。ルカリオがドーブルの攻撃を間一髪で回避する。

 

「ルカリオ!! 地面に“バレットパンチ”! そしてもう一度“はどうだん”連射!」

 

 そんなギリギリのタイミングに眉間で起こったひらめきを、アルバは間髪容れず実践した。

 まずは、拳を鋼鉄化させての連打。全てを地面に叩き込む。するとこの一区切りの空間の中のありとあらゆる座標に、砕けたアスファルトが浮かび上がった。

 次に、――睨む。確かに眼光であたりを付けたその先に、今一度多数の波導弾を解き放つ。

 

「あれれ? 疲れてめんどくなっちゃった?? でも舐めプレイは感心しないなあ」

 

 デジャブよろしく繰り返された、数刻前の光景。

 空虚を撃つルカリオに、

 

「いいや、舐めてるのは――」

 

 容易に避けるドーブル。

 

「……あれ?」

「ド、ド、ブ――!」

「どっちかな!」

 

 だが、宙空を舞う瓦礫にぶつかるドーブルは、どうだろう。

 今まで見られなかったシーンであり、今まで見たかったシーンでもあり――とかく、新鮮な瞬間であったことに変わりはない。

 たちどころに白目の面積を拡げたソマリの眼が、証拠だった。

 アルバの疑念が、確信に変わる。

 

「やはり、いくらコピーしたところで! 技の練度だけは真似できない!」

 

 ルカリオはこの瞬間を逃さなかった。

 

「出すことが出来ても!」

 

 捕らえたドーブルに膝蹴り。

 

「制御は出来ない!」

 

 後退る一歩を詰めて、ヘッドバット。

 

「経験値は模倣のッ、例外だった!」

 

 電光石火のワンツーパンチ。

 いずれも波導沁み込ませた肉弾フルコースを、耐えることなど許さぬと、ここぞとばかりに浴びせかける。

 どんなに精巧に他人の車を模倣しても、それを動かす運転技術までは真似できないように。

 どれだけスピードを上昇させる技をコピーしても。そのスピードで動く肉体の制御方法は、コピーのしようがなかった。

 だからこそ、進路上のアスファルト片に激しく衝突するんだ。

 勝負は、それに気付いたアルバの作戦勝ちであった。

 

「あーらまぁ」

「一気に決める!!」

 

 尚も頭頂をわしわし、と掻くソマリの余裕ごと叩き潰さんと、アルバは最後の指さしを行う。

 これで終わりだ――。

 

「――こんなに空けちゃってサ」

 

 発声が出来なかった。あまりに一瞬のことだったから。

 

「え?」

 

 にたぁ、と歯を剥き出しにして出る笑みから、一八〇度目を逸らした方向。

 どむん、という鈍く痛々しい音が鳴ったのはそこからだった。

 でも、どうだろう。出し抜けに己に食いついた激痛は、そこからさらに一八〇度回った向きで。

「視認できない何かに後頭部を殴打された」といったら、信じてもらえるだろうか?

 

「そ、――な」

 

 思考が白む。

 視界が狭まる。

 意識が、ぶつりと、千切れる。

 アルバは振り向こうとした勢いのままに、倒れた。背負ったリュックがクッションになり、後頭部はこれ以上傷付くことこそなかったが――トレーナーとポケモンの指示系統は、無残にズタズタになった。

 

「結果オーライ、勝負に勝てなくてもいいのさぁ」

 

 ドーブルを撃破後、ルカリオが形相で振り向くも、時すでに遅し。横たわったアルバの前には、光学迷彩よろしく透明化を解いた色変化ポケモン『カクレオン』が佇んでいた。

 言うまでもない、ソマリの第二の駒。

 

「戦いで勝っちゃえば、さ」

「――――オオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

 

 薄ら笑いに闘士は憤った。激情のままに、波導の光芒を放った。

 それだけで、次に取る行動は理解できた。

 

「おおひい~~~~~~、こっわ~~~~い! ご主人様大好きなんだワン! ってところかな?」

 

 いくら増援に囲われようと、主人らを救出するために恐れず立ち向かっていくのだと――理解できた。

 

「よ~し、君たちも一緒に材料にしちゃお」

 

 それからルカリオが動かなくなったのは、数十分後のこと。

 闇が、二人と一体を攫って消えた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 雨足が、弱まってきたような気がした。

 

「帰ってない、のか」

 

 いいや、気がするのではなく、弱まったんだろう。傘に付着する水滴のサイズが小さくなった。判断材料には十分だ。

 鳴らすインターホンに反応が返らないのを知って、気持ち下向きになる視線。

 カイドウは今一度シエルの部屋の前に訪れていた。勿論意味を求める職業だから、当然この行動にもれっきとした意味はある。別にセンチメンタルな気持ちに駆られたとか、忘れ物をしただとか、そういうしようもないものではない。

『悪いことをしたと思うのなら、謝る』

 成否以前にある、シンプルにして真理じみた誰もが習う思想を、実践しにきた。

 言ってしまえばそれだけなのだが、彼女は確かに自分の言葉で泣いたし、自分の振る舞いで自分から離れていった。であるならば、これは重要な行動だとも、考える。

 

「出直す、か」

 

 尤も不在となれば意味がないわけなのだが。

 ふう、とその場でため息をつく。

 そこで、自分が「与えられた自由の先のこと」を考えていなかったことも、思い出した。

 ごめんねの後に恐らく訊かれるであろう、彼女から投げかけられた問いへの答えを、未だに出せていない。

 どうにでもなることはわかっても。どうしたいかはわからない。

 傘を差した。濡れたくないから。

 謝りに来た。過ちを正したかったから。

 でも、そんなに簡単じゃない。“これ”に関しては。

 今でも己の中でどうなってほしいのか、わからない。

 相手が望んだ事を、自分も望んでいるのか。本当に自分は間違えたいのか。

 わからない。解らない。判らない。

 改めてそれを考えるためにも、だ。カイドウは鉄の戸の前で身を翻す。

 

「! ……お前は」

 

 そこで、思わぬ再会を果たした。

 雨と滲んだ血に濡れる、半ば人の形を成した蒼の獣――アルバのルカリオだった。

 認識の刹那、風に解けて霧散する。

 ただでさえただごとではないとわかるそれが、更なるただごとではない現象を起こし、そして、消えた。

 

「今のは、波導エネルギーで作った影分身……?」

 

 早急に伝えねばならない何かを、伝えようとした。

 伝えなければ何かが起こる事を、報せようとした。

 

「……まさか」

 

 そうとわかれば、することは一つ。

 口出すよりも先に、シンボラーを出していた。今から行うのは、未だ自身の身体的都合で控えねばならぬとされている、残留思念の読み取り――。

 だが仕方がない、誰がどう見てもわかる非常事態なのだから。あまりに想定外の状況なのだから。

 光の粒に変わり漂う伝達者(メッセンジャー)の残骸に、手を伸ばした。瞳に蓋した。

 

「――読取(リーディング)

 

 脳内に戦闘の記憶を流した。

 すると目蓋の裏で虹の光が広がって、いつ、どこで、誰が、何を、なぜ、どのようにしたのかが、ルカリオの視点の映像となって高速で再生される。

 壁で御された、ぐらつく躰。それでも進行は止まらない。

 しばらく後に短い呻きが漏れると同時に一つの作品は終了した。

 

「ッ……、PG、に、連、絡する……」

 

 しかしカイドウは、額を押さえながらもシンボラーを下げることはしなかった。

 何故ならまだある、次がある。この場所に――現場に残る、記憶の読取が。

 がくり崩れかけの膝で踏ん張って、再び開いた劇場。公開されるのは、今しがた上映された悲劇の、そのプロローグ――。

 

「教えろ……お前は、誰だ? お前の名は――」

 

 そこに、全てがあった。

 真実が、映っていた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「……ん……」

「やあやあ、目覚めたかい?」

 

 気絶していた人間にかけるには、あまりに陳腐な言葉。それを聞いて、アルバは目覚めた。

 離れで屈んで頬杖ついて、愉快そうに目を向けるソマリに気付き、火急の臨戦態勢。

 モンスターボールを手に取ろうとした瞬間に、気が付いた。

 

「うっ……!? 動け、ない……!!?」

「あ~、やめときなよ、抵抗が無駄になるパターンのヤツだから」

 

 ――手と足を金属の拘束具で、封じられている。

 

「なんだ、これ。僕は確か、負けて、そこから……」

 

 途切れた記憶をつなぎ合わせるのに、そう時間はかからない。

 続けて思い出したルカリオも、自分と同じ状況で。

「いや~とんだ暴れ馬だったよ。捕獲までにカクレオンもダメにしてくれちゃってさ」

 く、と強く噛み締めた少年に、ここまでの経緯が話される。しかし与えられた分以上の情報を求める声が、足りんとばかりに辺り一帯に木霊した。

 

「ここはどこだ!? シエルちゃんとキノココはどうした!?! 一体何をするつもりなんだ!!?」

「君はほんっとに質問が多いなぁ」

 

 パチン。ソマリがそう言って辟易を笑みに混ぜながら指を擦り鳴らすと、この場を支配していた薄暗さが忽ち和らいだ。室内のあらゆるものを照らし出す、そんなライトアップ。

 

「アルバくん……」

「シエルちゃん! それに……キノココ!」

 

 部屋の端は、銀色で埋め尽くされていた。専門家でもない限りはさっぱりであろう、用途も仕組みも不明な装置が立ち並んで。

 そのうちの一つ、椅子型のマシンが、シエルと“ずっと探していたもの”を己に括りつけて離さない。

 アルバが確認したのは、そんな状況だった。

「あとは、この人が教えてくれるよ」加わる扉への瞥見。

 パチンと膨らませた風船ガムを、噛んで割る。破裂音が合図になって、広がる薄灰の殺風景にひとつの人影を呼び込んだ。

 ゆっくり耳朶に迫る、光の落とし物を踏んづける足音。肌に伝う冷徹と非情と陰惨とがないまぜになって、背筋を一瞬で凍てつかせた。

 確認は要らない――そこまでに異質な情調だった。ソマリが言っていた第三者。この事件の首謀者。

 

「ただいまより入場致しますのはー、冷静、冷徹、冷血、三つの『冷』を兼ね備えた正真正銘のアイスハートマン。冷酷を地で往く天才デビルサイエンティスト……」

 

 その姿を目の当たりにした時。いいや、してしまった時。

 

 

「――ヒース・ハーシュバルトさんでーす!」

 

 

 アルバは言葉を失った。

 だって眼前に現れた人物は、そこにいるはずのない存在なのだから。

 

「……ようこそ、僕の研究所(ラボ)へ」

 

 慕っている人と、とてもとても親しい人だったのだから。

 開いたままの口が、ぱくぱくと動く。呆然、というやつなのだろう。

 

「そんなに驚いてくれて、ありがとう。ふざけた口上でも胸を張って出てきた甲斐があった」

「なんで……なん、で……?」

「その『なんで』には、たぶん色々なニュアンスが含まれているんだろうけれど……有り体に言えば、僕はそもそも“こちら側”の人間だったんだ。ただ、それだけ」

 

 含む微笑も。陽気な冗談も。滑らかな口調も。残念ながら全てが本人のそれで。他人の空似でも、精巧に作られた偽者でもなくて。淡い望みすら簡単に踏み潰す。そして続ける、

 

「資金援助やモルモット集め、ゴミ掃除にエトセトラエトセトラ――諸々のサポートをしてやる分、研究成果をバラル団(こっち)に提供してもらってる、てとこかな。ギブアンドテイクってやつだネ」

 

 本当の答え合わせ。

 

「じゃあ、シエルちゃんと、キノココは……」

「さしずめモルモットってところだね。ある発明の実験体になってほしかった……『ポケモンへの愛情が深い人間と、そのポケモン』を必要とする発明の実験体に、ね」

 

 おもむろにアルバから臍を逸らして注意を向けるのは、装置のコントロールパネル。弾むような軽やかさで実験の準備を進める青年の後ろ姿からは、躊躇どころか良心すら感じられない。

 少年がふざけてる、と呟こうとした時、隣の壁から彼の手持ちであるゴーストが顔を出した。

 

「……そう、か……そうやって、シエルちゃんの家に……」

「透過で壁を通り抜けさせ、中から鍵を開き侵入、彼女を技“あくむ”で一時的な昏睡状態に陥れるまではよかった……」

「ココッ!! ココーーッ!!」

「ただ、途中でこいつが起きちゃってね。抵抗されていっぺんの捕獲は失敗」

 

 そして身動きを封じられて尚、少女を守らんとじたじた暴れるポケモンに、再び“さいみんじゅつ”を浴びせかけた。

 

「――……」

「キノココ!」

「だから一旦こんな風に眠らせて、先に持ち帰ってきたという訳だ」

 

 おわかりいただけたかな? 振り向きざまの問いかけでも、アルバは未だ納得を見せない。

 

「……まだだ。何の発明で、なんの研究をしていたのかを聞いていない。あなたが悪魔に魂を売ってまで、極めようとしているものを……」

「お、そんなことも聞いてくれるのかい? いやぁ、嬉しいな」

 

 ――『人間の心的作用によって行われるポケモンの強化について』。

 さして高くもない天井を仰ぎ、両手を広げ、まるで高説を垂れ流すかのような格好で掲げたテーマは、それだった。聞いたところでしかめっ面を覗かせるアルバだが、それも織り込み済みなのだろう、次いで先刻の発言を噛み砕いて聞かせる。

 

「一時的にポケモンを超強化する現象『メガシンカ』……これは特定のポケモンと人間の精神状態がぴったりとシンクロした際に起こるものだ。しかしながらその発生確率の低さ、起こせる種が限られるという自由度の低さ、そして習得までの難易度の高さから、総じて『奇跡の力』と、昨今まで云われ続けている」

「素晴らしくゴキゲンな話だよね~。強さを求めるトレーナーには嬉しい話、いい話。でもでもとっても難しい、そんなそんな惜しい話」

「僕がしようとしているのは、その難解にしてハードなプロセスの簡略化。つまり誰でも簡単に、トレーナーが望んだ瞬間に、メガシンカさせられる技術を生み出そうとしている。それによってトレーナー間のバトルもより活発化するし、非力なポケモンもより実用的に」

 

「――――ふざけるな!!」

 

 あまりに食い気味だった。

 でも、最もな反応だった。

 アルバが聞くに堪えなくなった理由――努力に対する軽視や、奇跡を奇跡のままとしないヒトの傲慢さ等、考え付くものは多くあるだろう。

 でも。それより何より、根本的な部分で憤怒していた。

 

「そうやって人間の意思一つで勝手に強化されたポケモンの気持ちはどうなるんだ!?」

 

 ポケモンがどうなるか、それについては一切触れられていなかったからだ。

 

「弱いままでいることを喜ぶポケモンなど、いるはずな」

「そんな簡単に考えるなッ! 総意みたいに! まとめ上げるなッ!!」

 

 蔑ろにされていたからだ。

 

「人の一方的な都合の押し付けで手に入れた強さなんて、そんなの本物の強さじゃない!」

 

 本当の強さは、こんな紛い物ではなかった。不確かで不安定で、影を帯びなければならないものではなかった。もっともっと輝かしいものだった。

 それを知るからこそ。今でも身に焼き付いているからこそ。

 二度目の遮りが、より強く行われる。断言を用い、否定を用い、信念を用い、強く、強く、実験室いっぱいに響き渡るように、

 

「僕の、目指すものじゃない!!」

 

 アルバは叫んだ。

 焼き切れんばかりの熱さを持った声帯を意気で振るわせ、椅子の捕縛から脱するように、身を乗り出して。

 

「がっ!!」

 

 間もなく、殴打されるとも知らないで。

 

「あちゃ~」

「アルバくん!!」

 

 ごしゃっ。手始めに聞こえた音だ。とてもじゃないが人体が鳴らしていいものではなかった。

 一挙でぶびゅるっ、と吹き出した鼻血は、殴った青年の力加減のいかれようを如実に表す。

 生まれて初めての痛みにたまらず俯いた。ヒースは暫く鉄仮面じみた表情でその様子を見つめた後、お構いなしに横から椅子ごと蹴り倒した。

 続けて上がる短い呻き声。赤黒く生臭い体液が、今度は頬を伝って床を汚す。

 

「大した力も持たないくせに、格上の者を否定する――――君みたいなのは、僕が一番嫌いな人種だ」

 

 図らずも蹲った少年の腹部に、容赦も忘れた爪先が叩き込まれた。声にならぬ声がまた漏れる。

 

「ひえ~~、きっついわぁ」

「いやああっ!」

 

 少女が涙に包まれた双眸を目蓋で隠しても、この蹂躙が止むことはない。

 

「弱く、ちっぽけで、何の影響力もない」

 

 背中を蹴飛ばした。噎せた。

 

「だのに声は大きく、妬み僻みは一丁前。他者の否定だけは一級品」

 

 頭を足蹴にした。額がひどく汚れた

 

「そうやって何人の人間を潰してきた。どれだけの多様性を滅ぼしてきた」

 

 首を握った。痛々しく悶えた。

 

「そんなことすら考えずに今日までのうのうと生きている、貴様ら無能な凡人は――ヘドが出るほど許せない」

 

 そうやって苛烈な暴力に淡々と言葉を乗せ続け、ひとしきりいたぶっても尚、その全てを氷漬けにしてしまいそうな眼差しは、収まることがなかった。

 

「ねえねえ、彼もモルモットなんでしょ? 殺しちゃダメなんじゃないの~?」

「かはっ……、こほっ」

「もう、やめて……」

 

 大分先の段階で見かねていた少女が、すすり泣きながら唯一の自由が許された首を振る。

 するとヒースは思い出したようにアルバを解放し、乱雑に投げ捨て、血濡れた手をハンカチで清掃しながらシエルの元へ歩み寄った。

 

「そうだね……、実験しないと」

「……」

「大丈夫、痛くしないよ。ただ、ここに座ったままキノココのことを思い浮かべるだけでいいんだ。そしたら君のキノココはもっと強くなる……そして、キノガッサに進化する」

「……嫌だ」

 

 涙枯れぬまま、シエルは重ねて首を振った。

 

「どうして? 何もポケモンを傷付けるわけじゃあないんだよ? 安全性にだって注意しているのに」

「……それでも、嫌だ……」

 

 それは抵抗ではない。勿論、反抗でもない。できるわけがない。自分も彼のように真っ赤で生臭いじゅうたんを敷いてしまうのかもしれない。怖い。苦しい。辛い。

 何ならば言う通りにした方がこんな地獄絵図もすぐ終わるだろう、なんて考えている。よくわかっている。

 

「あなたは、誰かを傷付けるためにこの研究をしてる……、そんなことのために、私の大事な友達を利用されたくない……」

 

 でも、自分を想ってくれる友達は。友達だけは。絶対に手放してはいけないと、思った。

 

「……して……」

 

 自分に負けない強さをくれる、笑う事の出来る安らぎをくれる、一歩踏み出す勇気をくれる、そんな友達だけは。

 

「私の友達(キノココ)を、返して!」

 

 恐怖にすら、明け渡してはいけないと思った。

 少しの沈黙が挟まり、僅かに時間が止まる。

 ヒュー。こんな状況でもおどけていられるのは、きっと正常な人格ではないだろう。ソマリは彼女の決意を前に、賞賛とも喜悦とも取れない口笛を吹いて、手をぱちぱち叩き合わせた。

 

「よくぞ言った! うんうん、抗う意志ってすごく大事だよね! 屈しないっていうの? お見事だよシエルたん!」

 

 そしてその手を、静かに壁へと翳した。

 

「そういうものが崩れる瞬間ってのがサ。見てて最高に楽しいんだよね」

「――え?」

 

 どけていく。

 ゆっくりと。

 掌が。

 その先で顔を出したコントロールパネルが、『BOOT』の文字を浮かばせて。

 

「一名様、ごあんな~い!」

「!? いや! やめ――!」

 

 ヒースの無音の挙手が、終わる。瞬間、阻まれる視界。機械音を纏って降りてくるリング状の機械が、シエルの頭をすっぽり覆い隠した。

 きっと「やめろ」の意味なのだろう。アルバが意味を成さないままに大声を上げるが、時間というものはそんなもので止まってくれるほど都合のいいものではない。

 

「ああ、わかっていたさ。簡単に頷いてくれないことぐらい」

 

 同じように他人だって、そうも都合のいいものじゃない。

 ヒースはとうにそれを知っていた。だからゴーストを隣に呼び出した。

 

「彼女に“ナイトヘッド”だ」

 

 故に力ずくで、眼前の少女を動かそうとした。

 

 

「――――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」

 

 

 指示を受けたゴーストがその魔獣じみた手を向けて数秒。

 ひょっとすると親ですら聞いたことがないのではないかというほどの少女の絶叫が、この場にいる全員の耳を劈いた。

 喉が引きちぎれそうな甲高い声音と、そこにへばりつく咽び。汗と涙にまみれてびくん、びくんと跳ね回る身体。正常じゃない事なんて、言うまでもないじゃないか。

 

「やっべえかわいい!! アハハハハハハハハハ!! 思った通りだァ!!」

「な、……っにをしたァァァ!!!!」

 

 げたげたと大笑いし悦に浸る黒い方の悪魔へ、口辺の唾液ごと怒号を飛ばす。

 

「“ナイトヘッド”でとびきり恐ろしい幻覚を見せて、恐怖を煽っているのさ」

 

 しかし答えたのは、白い方の悪魔だった。

 

「なんだと……!?」

「恐怖というものは急激な感情の爆発を誘発するものだ。これによって溢れ出た感情をマシンが吸い取り生体エネルギーに変換、それをキノココに注ぎ込む……!」

「そん、な、酷いこと……!!」

「うわ、あ、あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!」

「シエルちゃん!!」

 

 目を覚ませ。聞いてくれ。何度言ったところで、焼け石に水。

 (にえ)を孕んだ白銀の卵の中で、宵闇の白昼夢が広がって、すくすく絶望が育ってく。

 

「感情がみるみるうちに溜まっている……! そうだもっとだ! もっと恐怖しろ!」

「あああああああ、あああああああーーーーーーーーーああああああああああッ!!!!!」

「絶望に狂え! 顔面が溶けるほどに泣いて叫んで暴れるんだ!」

「や、め、ろおおおおおおおおお!!」

「ここはハルザイナの森の奥! 外からは誰も助けてくれなければ何人も来れやしない! さあ早くキノココを思い浮かべろ! 鼻水と唾垂らしてお友達に助けを乞え!」

 

 いくら叫ぼうが、この手を封じる輪が消えることは無い。この足を包む輪が解けることも無い。

 誰も見ないし聞いてない。もはや、少年は蚊帳の外であった。

 さりとて呼びかけ続けるのは、少女の身を案じてのこと。

 こんなことを続けていては精神が崩壊し、廃人に堕ち、まともな生活を送れなくなる。そんなもの馬鹿でもわかる。

 だから――

 

「あのさ、もう諦めたら?」

 

 もう一度。だが、黒の悪魔が涼しい嘲りでそれを遮る。

 ソマリは今しがたの態度とは打って変わり、静かに屈んで、アルバに顔を近づけた。

 

「なにを……」

「君は弱いんだ。だからこの子を救えないまま終わる……何回吠えたって、無駄だよ」

「そんなこと! 今は関係……!」

 

「ありまくりなんだなァー、これが」言い切る前に積んだ。そうやって続ける彼女は、何一つ笑っていない。

 

「彼女がこうなっているのは君のせいでもあるんだよ?」

「……は……!?」

「君があの時、戦わないで逃げて、ここにPGを連れてきていたなら……どうなってたかな?」

 

 思い出した事。興奮で吹き出したアドレナリンと、目の前の壮絶な光景とで、忘れていた事。

 誰もが、というか本人すら置き去りにしていた事実を耳打ちで突きつける。責任をちらつかせる。今更になって。

 

「もしかしたら私たちをまとめてお縄に出来て、キノココとシエルちゃんも無事に救えて、一件落着だったかもよ……?」

「……ッ違う! ここを早くに見つけられなくて、手遅れになってた可能性だってある! だから!」

「だから。自分なりの考えがあったから。正しいと信じた上での判断だったから。こんなに無駄な被害を出しても仕方ないだろう、って?」

「……!」

 

 なんと意地が悪いんだ、なんて思う。

 

「自分の愚かしさを棚に上げるのはさ……よ・く・な・い・ぞ?」

「……――あ」

 

 でも、そんな意地の悪さで数々の人間を堕としてきた。し、心というものをへし折ってきた。そもそも意地悪という表現で済むかどうかすら曖昧で。

 何故か?

 ソマリという人心を取り扱う悪魔は、それを至上の喜びとするから。

 時に道を踏み外させて、奈落にずり落としたり。

 時にどん底に手を差し伸べて、暗黒の中に引き込んだり。

 時にきまぐれで、ただ光り輝くものをズタズタに踏み砕いたり。

 

「もうわかったよね? 君は弱い……、そんな弱さが、今から一人の少女を跡形もなく壊すんだ」

 

 色とりどりの花が咲く園の真ん中で、バケツいっぱいの墨をぶちまけるように。

 透き通る水の中を、沢山の泥で埋め尽くしてしまうように。

 

「なーにが『本物の強さ』だ」

 

 ソマリはこうしてまた、人を真っ黒に染め上げる。

 

 

「――笑わせるなよ」

 

 

 少女は今も終わりなき夢の中心で、地獄を見ている。

 喚いて、鳴いて、唸って、深淵に嬲られている。

 助けないと。なんとかしないと。

 

 ――不思議だった。

 

 そう思えば思うほどに、自分の目の前に靄がかかる。

 

 僕のせいで。

 

 そしてこう聞こえるのだ。靄の向こう側から。

 今はこんなことしている場合じゃないと、知っていても。

 肉体と精神が乖離して、この体は、まるでぜんまいの切れたおもちゃのようにぐったりと動かなくなって。

 

 視える全てが、虚ろになった。

 

 でも、視えるものが悪いんじゃなくって。

 視るものが、空っぽなだけで。

 無力感に打ちひしがれたまま、アルバはとうとう外界からの刺激全てを遮断し、物言わぬ人形と化した。

 

「ックク……一丁あがりっと」

 

「そっちはどうだい?」「もう少し、もう少しだ」

 仕込み終えた抜け殻の耳元から、話した口の形を変えて、ボリュームを変更。ヒースの方へと向き直る。

 返す言葉の通り、極上の悲鳴から取り出したエネルギーはみるみるうちに溜まって、装置のメーター越しでもわかるほどの存在感を放っていた。

 相も変わらず悲痛な叫びがのたうち回るが――助けてくれるものは、誰もいない。

 

「ああ、これで、僕の才能がまた、世界に知れ渡る!」

 

 亡霊がより一層精神を汚染した。望みの達成が近付いた。思わず笑みがこぼれた。

 野心に駆られてぎらつく瞳に、倫理はあるだろうか。良心は残っているだろうか。

 答えは言うまでもないだろう。

 

「もう少しで僕の居場所が――――選ばれし者だけの、新たな世界が誕生する!」

 

 光も声も届かぬ場所で、少女はひっそりと破壊されていく。

 歪んだ意思の犠牲になっていく。

 誰の邪魔にもならない、そんなささやかな願いも、叶えられないまま。

 

 

『“サイコキネシス”』

 

 

 そんなことは許さない――と、言った気がした。

 シエルの絶叫すらも一発の下にかき消す出し抜けの爆発音は、誰も彼もを釘付けにした。

 少女に苦痛を強いていた亡霊も。狂気の沙汰に踊る青年も。人を過ちへと誘う悪魔も。

 

「……へ……?」

 

 そして地獄の底で挫けてしまった少年もまた、例外ではなくて。

 刹那的に轟いた『念』という不可視の力が、実験室の扉をぶち破り、外で見回っていた下っ端共を放り投げる。侵入後という、あんまりなタイミングの緊急用アラートが煙にくるまれ大騒ぎ。

 否、侵入者の手際がよかっただけの可能性もある。

 

「間に合ったようだな」

 

 この、悲しくも果てしなく天才と呼ばれ続ける男の、手際が。

 

「うーわぁ……すごくめんどくさいのに絡まれちゃったなぁ……」

 

 やっと逸らした横目。

 助けはない、という口ぶりは、訂正せねばなるまい。

 

「……まさか、こんな所で君と顔を合わせる日が来るなんてね」

 

 事件について嗅ぎまわっていると、ソマリを通じて聞いた時から。

 

「思ってもみなかった」

 

 嘘をつけ。そんな憎たらしい独白を取っ払う。

 彼ならば或いは、と。

 自分を誰より理解してくれて、自分と肩を並べてくれる、この男ならばもしかしたら、と。

 薄々でも考えていた事だ。

 

「……どう、し、て……」 

「さすがだね」

 

 ヒースは予感が的中した喜びにも、邪魔をされた口惜しさにも似た表情を湛えて、友へと振り返る。

 

 

「なあ? ――カイドウ」

 

 

 ここに至るには理由が多すぎる、そんな友の方へと。

 

「訊ねたいこと、と……話したいことがある」

 

 粉塵が晴れた時、同じくして彼の者の姿も明瞭になった。

 

 

「答えてもらうぞ。――ヒース」

 

 

 そうしてかち合わせる眼には、確かな光が宿っていた。



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05.呼吸

 密度の高い木々の隙間から、柔らかな光が零れ落ちる。

 積み重なった暗闇が、誰も彼もを隠し立て。

 ぞわぞわと吹く風下で、雨天の残滓は優しく揺らぎ、そこに月を映し出す。

 

「――突撃ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!」

 

 今宵のハルザイナの森は、荒れている。

 女の意気盛んな一声で、いくつもの“黒”が殺到した。

 

「くっそ! なぜポケットガーディアンズが……!」

「森でカムフラージュは完璧なんじゃなかったのか、あの研究者め!」

「本部へ緊急連絡! こちら作戦中ソマリ班! 何者かの通報によりPGが殺到、活動拠点が攻撃を受けています! 至急応え――うわああああああッ!!」

 

 フード姿の黒は、また別の“黒”。強いて言うなら、“悪の黒”だ。

 そして活気と共に前進を繰り返し、彼らをその助けごと切り裂いていくのが、“正義の黒”。

 野生ポケモンも食うものか。だから逃げていくんだろう。

 ヒースの研究所、もとい隠れ家前は、戦争と呼ぶにふさわしい――PGとバラル団の構図が、展開されていた。

 

「一匹たりとも逃がすな! 四肢の一本や二本は無くて構わん! 敵方の還る場所を破壊してこそ初めて還れる――殲滅するまで温かいメシはないと思え!」

 

 犯罪者らにとっては指折りの危険人物である女性刑事、獄下の狂犬(ヘルハウンド)ことフィールは、今日も今日とて執った指揮棒をひたすら前に突き出している。

 そこに込められる意味は『前進あるのみ』『玉石同砕』『一敗地に塗る』と、表現は様々だが、伝わる意味はすべて一つに収束する。

 悪は跡形もなく全て破壊する――まったくもってシンプルだ。

「ガーディ! “かえんほうしゃ”!」「カラマネロ! “ばかぢから”だ!」

 あちらこちらで起こる技の応酬を、やに片手に遠目で見つめていた。

 

「状況が整った者から順に中へ侵入しろ。細かい命令は好きじゃないからな……各自生き残って殺せ! 以上だ」

 

 あまりに部隊のリーダーとは思えない、いい加減な命令の後に、取り直す無線。

 

「こちらフィール」

『大変です! 案内人として協力してくれたリザイナのジムリーダーが、真っ先に中に入っちまいました!』

「何ィ? ったくあの小僧、余計な真似を……市民の安全は最優先事項になるんだぞッ……!」

「フィール警部! 敵がそちらに!!」

 

 敵というものは、何かと残酷だ。

 

「見つけたぞ、獄下の狂犬!」

「貴様を潰せば昇格が待っているゥ!!」

 

 こうした一瞬の取るに足らない隙すら、許してくれないのだから。

 

「もら」「くら」

 

 尤も、それ以上に残酷なのが、このフィールという女なのだが。

 

「どうした? 忘れ物をしているが」

 

 モンスターボールも忘れて殺しにかかった団員二人が、あっという間に喋らなくなった。

 無理もなかろう、彼女のすぐそばを護る巨体(メタグロス)に、たったの一動で捻じ伏せられてしまっては。

 

「私の逞しい立派な彼氏だ、覚えておくといい」

 

 縮こまって震え上がる団員二名に手錠をかけ、三度の無線連絡。

 

「フィールだ! 民間人が関わってるとなれば、特例を発動する他もあるまい――――私も出るぞ!」

 

 潰れた煙草が、静かに大将を送り出す。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「“サイコキネシス”」「“シャドーボール”」

 二人の男が別々に口にするのは、エスパーとゴースト、両タイプの高火力技。

 球状に膨れ上がる薄紅の念と漆黒の影とが、よーいどんで放たれた。

 ユンゲラー、ゴースト双方は、目先で挟んだ空白を埋め合わせるように、技同士を激しくぶつけ合う。

 エネルギーの発散。強烈な閃光が走ると、びりびりと紫雷が這いずった。

 

「うっひゃあ」

 

 忽ち広がる眩さにたまらず見物人が目を瞑る。

 隙あり――狙い通り、だ。

 

「“テレポート”」

 

 淡々とした表情は、最大のチャンスを掴み取るための冷静さの、裏返し。

 ユンゲラーの瞳がスプーンの煌めきを反射させるのと同時に、囚われだったアルバとシエル、そして彼らのポケモンが一瞬にしてカイドウの背後に出現する。

 何よりの最優先事項の達成。これで、存分に戦える条件は揃った。立て続く想定外に、ソマリは不満を漏らす。

 

「あー! 何かあった時の保険になると思ったのにー!」

「進化に十分なエネルギーは蓄えられた……いいさ」

 

「無事か」救出した二人に言葉をかけるも、一向に返らない。

 肩越しに目を配せて、その訳を理解する。

 一人は精神作用による身体的消耗でそれどころではない。そしてもう一方は――。

 

「カイドウさん……すみません……」

「…………」

「……僕は……」

 

 喋りたく、ないんだろう。

 無力を突きつけられて。弱さを思い知らされて。底を見せつけられて。

 精神を保っていろという方が、酷な話だろう。

 

「僕の、せいで……僕が弱いせいで……」

 

 壮大な夢を見て、世界に踏み出した。

 でも世界は、自分が思い描いたよりもずっとずっと穢れていて、凄惨で。

 拭っても拭っても拭いきれない悪意に満ちて、溢れていて。

 

「全部……、全部……ッ」

 

 少年が味わうには早すぎたのだ。あまりにも。

 

「……ごめん、なさい……」

 

 現実に踏み潰された夢の跡に零れるのは、無残の涙だけだった。

 尚も無言を貫く男は、宛先もわからぬ謝罪を聞き受け、ゆっくりと目を離した。

 

「お前の、言う通りだった」

「へ……?」

 

 だがそれは見捨てるということではない。

 繋がる言葉が、それを教えてくれる。

 

「少し考えたが……、俺は持つ者だ。だから持たざる者(おまえたち)の心理が理解できなかった。し、これからも理解はできないのだろう」

 

 別に貶める訳ではない。軟弱者と追い打ちする訳でも、毛頭ない。

 

「だが努力はできた。理解するために分析し、実験し、考察し、推論を組み立てて結論を導き出すことができた」

 

 だからと慰めるほどの気が回るはずだってないし、励ますのもやっぱり違う。

 

「そしてそれこそが、何より重要なファクターなのだと気付いた」

 

 もしかしたら、意味なんて伝わらないのかもしれない。

 

「見苦しく足掻いて、もがいて、届かないとわかりつつも足りない頭を捻って――それでもいつだって、何かをひたすらに求め続けている」

 

 それでも彼は、精一杯伝えるのだ。

 残念な思考回路と、粗末な言語力を以て。

 

「それは、持たざる者であるお前たちの専売特許のはずだ」

 

 最大の、賛辞を。

 

「勝てない相手がいたのなら、勝利をもぎ取らんと梃子でも動かずそいつから学習する。……頑固だ」

 

 気の迷いでもいい。偶然でもいい。得られたものは、確実なものだから。

 

「孤独が嫌になったのなら、拒絶の恐怖も恐れずに誰かへ言葉を投げかける。……蛮勇だ」

 

 なんとみっともない話だろう。そう思ったりもした。

 

「しかし持たざる者だからこそ、手にできるものがあるはずだ。そうして得られるものは、この先にもまだ広がっている」

 

 でもそれこそが、自分に欠けていたものだと。ずっと諦めて、見向きもしなかったものだと。気付くことが出来たのだ。

 ――こんなに有意義な事があるか。

 だから僅かばかりの感謝を込めて、彼は発破をかける。

 

「だから起きろ。お前が挫けるには、まだ早い」

 

 聞こえているかもわからない背中から注意を逸らして、もう一度構えた。

 目が合った。重く、ゆっくりと。

 夜の闇と静寂に包まれていても。この鈍く爛々とした輝きだけは、どうにも消えそうにない。

 

「……貴様か。CeReS(うち)の人材を不正な行為に利用しているのは」

「人聞き悪いなあ。彼から協力を志願してきたんだけれども?」

 

 食い気味なソマリの返答に促され、視線をヒースに置くカイドウ。訴える意味は、様々。

 

「『なぜお前がここにいる』……って、顔かな」

 

 こうやって言うまでもなく伝わるから、言外のままでいい。それぐらいには信じていただけに、問い質さねば気が済まない。

 

「その疑問は、今更だよ。ずっとあり得たことじゃないか」

「……なんだと?」

「知っているくせに」

「ッ! ユンゲラー!」

 

 バチィン。想定しえないタイミングでの攻撃――奇襲、というやつだ。

 

「僕と同じように、ただただ嫉妬され、ひどく疎まれ、いわれなき迫害を受け、居場所を追いやられ続けてきた君ならば――わかるだろう?」

「っ……“サイコショック”!」

 

 ゴーストの物理攻撃(シャドークロー)を、紙ならぬバリアー一重で防ぐユンゲラーだったが、守るばかりではない。念動力で浮かせた瓦礫で眼前をかっ裂いた。手応えは言わずもがな。

 

「もう疲れたんだよ。世界に」

 

 続くシャドーボール。持ち前の身軽さで、上下左右と位置を変えながら連ねて放つ。

 

「限られ過ぎた居場所を、探し続けることに」

 

 しかし“ねんりき”で軌道を捩じられたそれは、目標に到達することなく口惜しそうに壁際で爆散した。

 直後、もくもくと煙が立ち込める。

 

「だからね、考えたのさ」

 

 さりとて彼らはお互いに、お互いを見逃すことはない。視界が曇ろうと開けようと、変わらずにかち合い続ける眼光が「逃げるな」と示すのだ。

 

「世界が生き辛いのなら。それを壊して、新しい世界を創ったらいい」

 

「悪ふざけはよせ。神を標榜するつもりか」否定の下で、一蹴するカイドウ。

 

「ああそうさ、神だよ……、ッ、神になるんだ僕は!!」

「科学者が眉唾を語るのか!」

「眉唾じゃないさ! 実現できるんだ彼らなら! このバラル団ならば!!」

「お前のそれは逃避に他ならない! 今いる場所から目を背けるな!」

「逃げることの何がいけないっていうんだ!! 降り掛かる不幸から逃げて、自分に害なすものを潰して! 何がいけない!!?」

「……ッ……!」

「――……こうでもしないと、生きられない人間だっているんだよ」

 

 そもそも自由すら、手に取れない人がいるんだよ。

 この言葉を聞いた時、カイドウはすっかり問答を止めてしまった。

 柄にもなく声を荒らげたのは、憤っているから。

 何に、と問われると、途端に答えには詰まる。

 ありもしない幻想に縋り付く、同輩にだろうか。

 同輩を唆した、自ら『混沌』の名を掲げる悪魔共にだろうか。

 わからない。あまり造型したことの無い、感情だから。

 

「なあ、カイドウ」

 

 先程からの衝撃で破損した機械類が、虫のようにケーブルをうねらせて、じりじり鳴き声とスパークをひり出している。

 

「こんな風になってしまったが……、僕は今でも、君を友達だと思っているよ」

 

 それでもかつての仲間の声は、よく通る。今も変わりようがない、穏やかな笑声は。

 耳に馴染んでしまったんだ、きっとそうだ。

 

「同じ光景を見て、同じ道を歩んできて、同じ場所でこうして巡り逢えた君を……今でも大切だと、思っている」

 

 遠ざかってわかる日常を、脳が勝手に懐かしんで、尊んで。

 その度に目の前で転がる現実が、ただでさえ大きく開いた胸の穴をぐいぐいと広げてくる。

 

「だからこそわかる。僕が苦しむここは、君にとってもまた、いるべき場所じゃない」

 

 ともすれば――――何が正しいのかも、わからなくなって。

 

「カイドウ。僕と共に来い」

 

 どこか離れた別の海の底で、彼は自分の名を呼んだ。

 

「新しい世界は君を爪弾きにする者はいないし、君を否定する人間だっていない。君を異物として扱う奴だって生まれない。悪い話じゃないはずだ」

 

 自分と同じ量の水を飲み込んで。自分と同じだけの酸素を失って。自分と同じぐらいの深さにまで沈んだ彼が『一緒に上がろう』と、呼んだ。

 灰色の記憶が、死に際でもないというに、走馬燈よろしく駆け巡る。

 瞳を閉ざして、俯いた。無視じゃない。待てと言っている。

 ずっと苦しかった。

 ずっと虚しかった。

 瞼の裏では、今でも漏れ出す気泡の幻影が、ちらついている。

 そんなものから救われるのなら――悪い話ではない、と、思う。

 

「――断る」

 

 でも、だ。

 自分は、そっちには行けない。頑強な意志が再びの開眼に宿った時、青年の言の葉は跳ね除けられた。

 

「……何故だい? もう、こんな場所」

「俺達みたいな者にとっては、価値がないのかもしれない」

 

 あったところで、微々たるものなのはまず間違いはない。

「だったら」「それでも」両者の声が交錯する。

 

「何かを壊してまで、自分の居場所を作ろうとは思わない」

「……!」

「それをしてしまっては、俺達もそうやって価値なき世界の一部と化すだけだ。新しい世界など待っちゃいない」

 

 自分で傷付くよりも、誰かを傷付けることの方がずっとずっと楽。それが世の常なのだろうし、だからこそ、彼らは『こんな風』に構築されてしまった。

 それでも、折れるか、折れないか。

 同じ二人を唯一分けたのは、そこであった。

 

「『この場で研鑽を積み、自分の知識で人類史の明るい未来を切り拓きたい』……CeReSの入所式で、お前が語っていた事だ」

 

 ――少年は、今でもわからないことばかりだ。

 自分の感情も。在り方も。

 勉学は一丁前なくせに、手に入れた自由の扱い方すらも、満足に理解できていない。

 でも、今は一つだけだが、わかっていることがある。

 

「ああ……よく覚えていたね。みんなで夢を語らうその場の流れで適当に言ったことだから、忘れかけてたよ」

「適当でも、なんでもいい。俺が認めたお前の言葉だ」

 

 彼と出会って。彼女を見て。奴を知って。

 それはポケモンみたいに得られた経験値で、やっと覚えたこと。何かや誰かを、想うこと。

 

「俺はあの日の――科学者としてのお前を守るために。この凶行を止める」

 

 正しいや間違いを通り越して。何かを『したい』と思うこと。

 カイドウは、初めて誰かに芽生えたエゴを振りかざす。

 一緒にいるから止めねばならないのだ。共に在るからこそ、体当たりしてでも歩む道を正さねばならないのだ。

 

「戻れ。お前の居場所は“そこ”じゃない」

 

 眼鏡の位置を人差し指でしっかり直す。二度と見失わないように捉えた、硝子と瞳の二段構え。

 その向こう側で、ヒースは腰に手をやり項垂れた。

 

「そうか……それが、君の答えか」

「俺は。お前が教えた俺の自由で、お前を引き戻す」

「ゴースト」

「ユンゲラー!」

 

 エネルギーの弾丸、作られること一〇個。

 パープルとピンクの球体が双方でまったく同じ数練り上がるやいなや、待ちきれないぞと飛び出していく。

 矢継ぎ早の衝突と消滅とが繰り返される。

 撒き散らされる塵煙、残った宝石のような光の粒子が、超能力者と亡霊の飾り付け。

 

「突き抜けろ」

「っ!!」

 

 天然の煙幕をかき分ける、額面通りの魔の手があった。

 亡霊は今一度、その手に鋭敏化された暗影を帯びる。

 迫る悪魔的な掌。

 テレポートでは間に合わない――

 

「シンボラー!!」

 

 から待機させておいた『鳥擬き』。

「ファーォ!」秩序的に線引かれた翼が音もなく羽ばたくと、風を切って亡霊を撃ち落とした。

 たまらずグェアア、と叫ぶも、そこに助けは来なくて。

 唯一の手持ちが、負傷したまま袂へと戻ってくる。

 

「やっぱり、一筋縄ではいかないね」

 

 片や好機、片や危機……そんな状況に見えるだろう。しかしどうだ、青年は前髪の切れ間から闇色の眼を覗かせながら、不敵に笑っていた。

 その面の真意すらわかってしまうのが、相対する彼にとっての悔しいところ。

 躰から不意に抜けていく脚力を、込め直した。

 

「でも“いつもの”を出せる余力は、ないんだね」

「想像に任せよう」

「強がるなよ。対応がずっと後手後手じゃないか」

 

 慣れないことはするものではない。何度でも思う。

 この忘れた頃に襲うよろめきも、ポケモンと脳内リンクが出来ないのも、偏に残留思念の読み取りをしすぎた。これに尽きる。

 故にヒースの看破を、否定しない。

 盤上は上から見るよりも、ずっと複雑だ。

 カイドウは気付いていた。何一つ、有利なはずがない、と。

 そしてただでさえ悪い旗色を、より悪くしている要素――。

 

「ねえねえ、私もそろそろ混ぜてよ。ズッ友ごっこ」

 

 それが、満を持して動き出す。

 ソマリの最後のモンスターボールは、燐光ごとその中身を勢いよく吐き出した。

 

「変・身」

「グェェェス!」

 

 今の今まで聞いていた鳴き声が、そこからまた新たに生まれる。

 

「『メタモン』か……」

 

 場に出た瞬間、自分の不定形の肉体をうねらせて隣り合うポケモンに変形――否、変身した。一連の光景を目にしたカイドウが、その現象を発生させた存在の名を呟く。

『メタモン』と呼ばれる紫色したそのポケモンは、細胞レベルで肉体を変質させることが出来るために“変身ポケモン”の二つ名を持っていた。

 姿も、技も、身体構造も、塩基配列すらも自由自在に組み替えて、本当の意味で対象に成りきるポケモン界の百面相が此度に化けたのは、ゴーストだった。

 すばやさが高く、エスパータイプのポケモンに有利が取れて、攻撃性能が高く、催眠に幻惑と搦め手も備え……この状況では最適解と言う他にない。

 

「じゃ早速、“シャドーボール”!」

「“サイコショック”で壁を作れ!」

 

 相手のチャンスは、自分のピンチだと忘れない。

 カウンターのように指示を合わせると、ユンゲラーは“視えざる手”で再度転げる瓦礫をかき集めて壁を建造した。

 どひゅどひゅという、即席の盾の向こうで炸裂音。

 

「それは悪手だぞ」

 

 だが、インターバルはない。

 ヒースのゴーストが壁を通り抜けてユンゲラーに襲い掛かる。

 

「その悪手に食いつくのを、」

「!」

「待っていた」

 

 シンボラーへの指示が行き渡った瞬間、今にも敵に触れそうだった爪が、全身ごと遠のいた。

 カイドウの口から発されたのは、「ねんりき」の四文字。ユンゲラーの補助として鎮座していたシンボラーが、その一声の下でゴーストを突っ返して壁に磔にした。

 絶好の瞬間ほど絶望を呼び込みやすい――ジムバトルで得た経験則が、ここで活きる。

 まずは一体。即座に仕留める一発(サイコキネシス)が翳したスプーンの前で膨れ上がった。

 しかし放つのは眼前の身動きが取れない亡霊の方ではない。寧ろ、その隙に乗じて強烈な一撃を加えてくるであろう紛い物(メタモン)の方へ。

 

「今だ、突っ込んじゃえ!」

 

 来た。思い通り。スプーン握った拳が方向転換。

 獲物にありつけると確信の笑みを浮かべる、メタモン。その顔面に。

 

「カイドウ」

 

 叩き込む、はずだった。

 

「……!?」

 

 はずだったのに。

 

「知らないというのは、何よりもこわいことだな」

 

 次の瞬間に吹き飛んでいたのは、ユンゲラーであった。

 至近距離のシャドーボールが直撃。この絵面から、ユンゲラーが立っていられる道理はなかった。

 何が起こった、と点にした目へと飛び込むのは、念で抑え込まれたゴーストの、怪しく輝く瞳。

 そしてその正体を察した瞬間、カイドウはしまった、と独白する。

 

「“かなしばり”……意外と使い道があるじゃないか」

 

 バトルをしない彼だから、そんな高度な技も覚えさせてはいないだろう、などという甘い見立てを恨んだ。

 ごくごく短い時間、相手の一切の行動を封じてしまう技。状況をひっくり返したのは、そんな玄人向けの技で。

 

「くっ、シンボラー!」

「そうは問屋が卸さないってね」

 

 せめて一体を持っていく。拘束していたゴーストを捻じ伏せんとシンボラーが念を練り上げるも、フリーなメタモンに阻まれ、叩き落とされ。

 あとは簡単だった。暗黒の集中砲火を受け、あっさり倒れてモンスターボールに還っていく。

 こうしてカイドウの手元には、戦えるポケモンがいなくなった。

 目の前が真っ白になって、ポケモンセンターにでも引き戻されれば楽な話なのだが――、そんなに易しいものじゃなくて。

 諦めたわけではない。ただ、肉体を酷使した分のツケが一気に回ってきて、へたり、と足を三角にして座り込む。

 

「終わり、ということでいいね」

 

 真っ白どころか真っ黒な鋭い影が、目の前に躍り出た。喉元で止まるそれに怯える訳でも、背く訳でもなく、静かに俯くカイドウ。

 返らぬ答えは降伏の証。少なくともヒースはそのように捉えた。

 

「もう一度だけ問いたい。一緒に来る気はないか」

「答えを、曲げる気はない」

 

 爪と牙をもいだので、或いは、なんて思ったりもしたが、ダメだったようだ。

 諦めにも似た感情のスイッチを入れた。もう話す事もできないのだから、少しぐらいはいいだろう。旅立ちの前に、犬も食わぬような昔話をするぐらい。

 

「どこで違えたんだろうね、僕たちは」

「……最初から、違っていただろう」

「そう、なのかな」

「ただ似ているだけの道を歩いて、偶然同じようなものを見ていただけで……向いてる方など、別々だった。ずっと、ずっと」

 

 今からすることを考えると、その言葉の否定は叶わぬものであった。

 どんなに願っても、いくら望んでも、すれ違った果ての結末が、ここにこうして転がっているのだから。

 それをわざわざ指さし突きつけるカイドウを見つめながら、一足先に踏ん切りがついたか、なんて推し量る。

 

「だが――過ごした時間と、そこから得たものは、今でも変わらず同じだと思っている」

 

 些か早計であったようだ。

 

「なら、……それをどう扱うか、で差が出たのかな」

「どちらでもいい。間違い探しは終わりだ」

 

 珍しく強引に話を終わらせると、カイドウは面を上げてヒースへと向き直って。

 

「戻ってこい」

 

 言われたことを、そのまま返す。

 相応しくないと知りつつも、あまりのらしくなさにフフと短く笑った。

 気でも狂ったか、もしくは脳の酷使で判断力も落ち込んだか。よくよく目を合わせてみればその瞳も腐っていない。

 愉快な不可思議に、ヒースが思わず問い掛ける。

 

「君、そんなに諦めの悪いやつだったっけ?」

「さあ……わからん」

「何が君をそんなにしてるんだい? その歳でヒーローにでも目覚めてしまったかい?」

 

「わからん」もう一度聞こえた。

 自身の事を問えば、いつもそうだった。ポケモンの生態を一〇〇訊いても余さず全てを答え、技の効果を一〇〇〇問うても外さずに解くような奴でも、自分のことだけは赤ん坊のように何もかも知らない、そういう奴だった。

 

「だが、いつでも俺の目の前には、お前がいた」

 

 でも、次に聞こえたのは、想像もしない言葉で。

 他でもない、誰でもない、自分の意思を、自分の口から発した、そんな自分の言葉で。

 

「そしてこれからも、そうだと確信している」

 

 だから戻れと。不器用で下手くそな言葉遣いだけれど、ずっと言っている。

 

「……君は、最後まで面白い奴だな」

 

 ――新しい友を、見た気がした。

 尤もそれが自分にとって良しか、悪しかは、もう決める由はないのだが。

 大きく息を吸って、手を挙げる。

 これから述べるのは、自身を認めてくれた、ただ一人の者に対する別れの言葉。

 ヒースは、合わせた上下の唇をゆっくりと離した。

 

「さようなら……、カイドウ」

 

 震えた風の音、振った腕の音。

 研ぎ澄まされた影の爪は、何不自由なく頂点に上って、カイドウへと降り掛かった。

 どんなに時間をかけて育んだ関係も、一挙で全てがなかったことになるのだから、ほとほと無情なものだ。

 呆気なくても終わり。

 これで、終わり。

 

 

「――う、わァァァァァァァッ!!!!」

 

 

 果たして、本当にそうか。

 そう訊ねるように駆けた叫びが、誰しもの注意を引き付けた。

 悲鳴とは違う、そもカイドウとは違うその声。

 

「あらら?」

「……お前……!」

「まだだ……、まだ、終わってない!!」

 

 アルバだった。閉ざした眼を開き直したカイドウが背中を間近にして言うのだから、違いはない。

 カイドウとゴーストの手の間に割り込み、指と掌に当たる部分を押して、食い止めている。

 ぎちぎち歯を食い縛って踏ん張るその姿勢を前に、先刻までの虚ろな佇まいは消失していた。

 

「ふーん……まだ動けたんだ……」

「よせ、危険だ……!」

「さっきの、で、思い、出せたんです……!」

 

 ぐわ、と込められた力で、ぐらつく身体。

 なにくそ、と右足を踏み出す。

 

「どうしようもないぐらい、諦めの悪いのが……、僕だな、って!」

 

 これは、何も特別な事ではない。

 誰もが「願わくは」で手にするもう一度を、自然と、好きに行使できる力――――精神力。

 アルバは思い出したそれを、行使しているだけだ。

 お前が教えたんだぞ、と言わんばかりの強気な笑みで、後ろのカイドウを見やる。

 

「一〇〇転んでも、ちゃんと一〇〇回起き上がるのが、僕だなって!」

 

 ただ一体の手持ちは瀕死になって行動不能で、自身も負傷で日常的な動作すらも容易ではない。そのはずだ。

 それでも未だ光が失われず、あまつさえより輝きが増している少年を見て、

 

「それはさー、自分の弱さからの逃避ってやつなんじゃないのカナ?」

 

 彼を叩き潰したはずのソマリは半ば腑に落ちないまま開口する。

 

「何回倒れようが次に起き上がる、その決意は確かに少年マンガみたいでカッケ~! だけどもさ? その倒れた一回で、君は取り返せない何かを失ってしまうかもよ?」

「ああ……そうかも、しれない」

 

 にへらあ、と上がった口角を憎たらしいと思いながらも、彼は否定しなかった。

 

「だったらさ、どうせ弱いならさ。その自分の弱さや、後々来るであろう決定的に大事な何かを失う瞬間から、目を逸らして生きた方がずっといいと」

 

「それでも!! 戦わないといけないんだッ!!!!」

 

 だが、遮りはした。

 それは己を蝕むものからの逃避などでは決してないから。

 

「どんなに弱くても、それは弱いままでいていい理由にはならない!!」

 

 ただ――悪魔の囁きなぞよりも、ずっとずっとよく自分を見てくれた者の言葉を、信じただけだ。

 まやかしの知ったかぶりな演説を、続けられるものなら続けてみろ。かっ開いた瞳と放つ声に宿る気迫が、世界の悪意を一蹴する。

 

「まだ、少しだけど……旅に出て、色んな人に会って、色んなものを見た」

 

 良い人も、悪い人もいた。

 綺麗なものもあれば、目も当てられないほどに汚いものもあった。

 

「同時に、どうしようもないぐらいに、どうしようもないものも知った」

 

 悲しみと憎しみを純粋なまでに好む、世界の悪意と向き合った。

 

「怖かった」

 

 勝てないと思った。

 

「逃げ出してしまいそうだった」

 

 自分の限界を知った。

 

「足が竦んだ」

 

 今でも震えが止まらない。

 

「それでも」

 

 だからこそ。

 

「――強くなるんだ!!」

 

 立ち向かわないといけない。

 何回負けても。

 どんなに弱くても。

 どれだけ傷を作っても。

 奪われるだけじゃ、あまりに虚しすぎるから。

 諦める事だけは、絶対にしない。

「ゴースト」名前だけの指示で、押さえる手の力がさらに大きくなって、アルバもさすがに後退った。

 呻き声ですら枯れかけている。

 

「聞こえるか、ルカリオ……そのためには、お前の力が必要なんだ……」

 

 しかし、されど、アルバは発話を止めようとしない。

 

「……時間の無駄だな」

 

 何をし始めるかと思えば、すっかりのびたポケモンへの再起を促す。その愚行には、ソマリも声を上げ笑いだした。

 苦肉の策という他にあるまい。

 

「お願いだ……こんなに弱い僕でも、認めてくれるのなら」

 

 手札切れを確信したヒースが、ソマリにも攻撃しろ、とアイコンタクト。

 肯った彼女のメタモンが、指先にシャドーボールを蓄える。

 万事休す。カイドウが無意識でシエルとキノココとルカリオを庇った。

 

 

「もう一度だけでいい――、起きろォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」

 

 

 アルバが叫んだ次の瞬間、強烈な光が室内全域で迸る。

 色は、虹色。およそ怪異の属性が放てる輝きの色ではなくて。

「なんだ!?」「これは……!」「ッ」

 誰一人意図しなかった事態のようだ――誰もが眩さに視覚を遮断しながら、驚愕していた。

 胸を焦がすような、でも、そっと包み込むような、矛盾した感覚。しかしこの光は、アルバにとって不思議と悪い心地はしなかった。

 広がり伸びて、辺りを結んだ虹の帯が、そっとほどけて消えていく。

 

「――――」

 

 ああ、一度失った世界が、再生されていく。

 肉体や物体といった、物質的なもののずっと向こうの所で、誰かの声を聞いた。

 風景が晴れても、恐らく自分はその正体を知ることはないのだろう、と、思った。

 だが。

 

 

「――――――ルォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォッ!!!」

 

 

 それはきっと、自分を救ってくれるものだろう、とも、思えた。

 

「ルカリオ……!!」

「……なに……!?」

 

 突如広がった光が完全に消え失せ、視覚情報が修復される頃。少年に被さる亡霊の姿はなかった。

 引き換えに彼の前で立つのは、今しがた名を叫んだ相棒――主よろしく鋼の心を持つ、蒼色の闘士。

 

「復活したとでも、言うのか……」

 

 アルバの前にいたゴーストを殴り飛ばしたのだろう、ルカリオは右の拳から薄い煙を吹いていた。おまけに、意識ついでに傷も全快しているようで。

 だがそれ以前に、姿を見回すカイドウが愕然とした点がある。

 

「お前、その姿……」

 

 背中越しでも理解できた姿の変容に、目を丸くするアルバ。

 黄と黒の体毛が長く伸び、グローブでも纏ったかのような深紅が拳と足先を彩っている。

 進化か何かとでも騒ぎ立てたくなる様の変わりようだが、カイドウはそれをよく知っていた。

 

「あの姿と、あの光……、ハリアー様の報告にあった『雪解けの日』の――!」

「“メガシンカ”だ」

 

 まさに自分が今研究している現象そのものだ、忘れる訳もない。

 

「本当に何のデバイスも用いずに……まさか……」

 

 本当かどうかすらも怪しかった。が……起こしてしまったのならば、仕方がない。飲み込むしかない。

 奇跡の力を得たルカリオ――“メガルカリオ”が今一度猛々しく咆哮を上げると、風は衝撃と化し波となって押し寄せた。

 

「ああ……、わかってるよ、ルカリオ」

 

 打たれ続ける鉄は、少しずつだが、着実に硬くなる。

 

「どんなに悪いモノが惑わしてきても――僕はもう、自分を見失ったりしない!」

 

「もう一度」の衝撃を受け続けて、強くなる。

 

 

「決着をつける!」

 

 

 もう一度――――そう言って立ち上がった彼らの前に、討てぬものは、ない。



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fin.Look up at the sky...

 ――――メガシンカ。

 絆によって結ばれた人間とポケモンの精神状態を完全に同調させることで発生する、進化の上を往くポケモンの超強化のことを云う。

 

『雪解けの日――――作戦中の隊員の一人のルカリオが、突如メガシンカした』

 

 そのメカニズムは一定の深みまで解明されており、“メガストーン”及び“キーストーン”と呼ばれる二つの石を媒介にする、という点までは、今日まで多くの人が共有する情報になっている。

 

『別に、それを見越した特殊なトレーニングはしていなかった。本当に突然のことだ』

 

 人間の身に着けるキーストーンが、その思念を莫大な生命エネルギーに変換し、同じくポケモンが身に着けたメガストーンへと送信。それによって外見と能力が著しい変化を遂げ、その神秘的な現象は完了する。

 

『メガストーンとキーストーンを所持していたわけでもない。なのに』

 

 はず、なのだが。

 

『虹色の光を伴って、ルカリオはその姿を変えたんだ』

 

 

 

 今ここに転がる現実は、人々が創り出す神話の一節のような眉唾話よりも、うんと異なる様相を呈していた。

 

「フゥゥー……!」

 

 より一層の波導をその身に蓄えた闘士が、唸る。されど止まらぬそれは彼の肉体に高熱を与え、加えて淡青の燐光を纏わせる。生まれた上昇気流が、収まりきらずに垂れ流しの波導エネルギーを巻き込んで、空へと連れ去った。

 年相応の語彙力曰くは、凄まじいパワー。

 数メートル離れた人間の肌すらひりつかせるのだから、疑いようもない表現。

 

「まさか、ねえ、ほんとに少年マンガやっちゃうなんて」

 

 熱気にあてられながら、すっかり動かなくなったヒースのゴーストを一瞥。ソマリは開口した。

 思い出すのは、あの日、作戦中に突然光の柱が立ち上った光景。

 今なおルカリオとアルバの間を流れる光の色が、あの時のそれとまったく同じであることに、一抹の不安を覚える。

 

「――“バレットパンチ”」

 

 尤も、覚えたからといって、今更どうなるわけでもないのだが。

 風が吹く。

「ッ」歯噛みしてかわせ、と続けるつもりであったのだろう。しかし瞬きの間に広がった絵面は、ソマリの求めるものとは大きくかけ離れていて。

 ルカリオの拳を震える両手でやっとこ止めるメタモンが、助けてくれと言った気がした。

 

「きっつ……! “シャドーボール”!」

 

 散り散りの影が収束する。

 紛い物の亡霊は手甲を握る力を強めて、大口をいっぱいまで開いた。

 狙うのは、言わずもがな。

 

「ベェルベルベルバァッ!!」

 

 静かな睥睨を向ける敵へ、口元でこさえた影の玉を。

 

「“しんそく”」

 

 威力は一撃必殺であった。無論、当たればの話。

『そこ』にもうルカリオはいなかった。

 メタモンが目を回す。シャドーボールはルカリオでなく壁に当たり、当の自身は背後からの衝撃で地を舐めている。これらの情報をほんの一瞬の内に認識してしまったからだ。

 姿勢を御した。

 急いで向き直る。

 

「!?」

 

 あるのは、もはや望まぬ肉迫で。

 

「ウオォォォォッ!!!!」

 

 次は蹴りであった。

 しかし攻撃は止まない。

 繰り返す拳と蹴りが、手玉のようにその身を跳ね回した。

 文字通りの目にも止まらぬスピードは、音だけ残し標的を滅多打ち。

 反撃はおろか視認すらも許さぬ乱打と、一向に衰えの気配がない一方的な猛攻をぼやり捉えながら、ソマリが呟いた。

 

「ッハハ、冗談でしょ……」

 

 この場の誰もがそう思い、同じ顔をしている。

 

「全ての能力が飛躍的に上昇している、比べ物にならん……」

 

 未知が織り成す、圧倒的な力を畏れて。

 

「馬鹿な、速すぎる!」

 

 奇跡が紡ぎ出す、最上級の力に驚いて。

 

「これが、メガシンカ……!」

「――なめるなァァァァァァァ!!」

 

 ようやく苛立ちが顔を出す時。それは反撃の時。

 ルカリオは火急に飛んできたカウンターを横跳びで回避し、あまる勢いをローリングで殺した。

 ずざ、と引き摺った足を止めると、己を囲む二つの亡霊の手に、視線を当てる。

 

「手を、切り離したのか……」

「元から浮いてるからね。こういうことも、できるの、さ!」

 

 指揮者よろしく虚ろを指でなぞった。やにわに飛び出す手が、囲った対象へ次々と攻撃を加える。

 時にシャドーボールの射撃、時にシャドークローの突撃。その手は四方八方どころか十二方にも及ぶ勢いを以て縦横無尽に駆け回り、近中遠全ての距離から抜け目なく闘士を襲う。逆転だと言わんばかりの切れ間ない猛攻は、見事にルカリオを釘付けにした。

 対応で手一杯。いくら速かろうが、動きを封じれば何も脅威ではない。

 

「身をもって知ってるはずだよ、盤上はいつでも簡単にひっくり返るって!」

「くッ……!」

 

 ルカリオが強制された余所見を反復する中で、挙がる敵の手刀。彼女のすぐ傍の頭が、もう一度口元でシャドーボールのチャージを始める。

 同時にそれを見て、アルバの柔い焦燥が顔出した。

 どうすればいい? たちまち頭の中が独白でびっしりと埋め尽くされる。

 手からの多少の被弾を覚悟の上で、隙だらけの本体へ大きな一撃を加えるか。いや、あまりに不利な賭けだろう。だがしかし――。

 

「取り乱すな」

「!」

 

 重たくも静かで優しい声が、彼を平静の水辺へと引き戻す。カイドウだった。

 

「いつもここぞの場面で一歩引いて状況を見ない、それがお前の詰めの甘さに繋がっている。……焦らなくとも、お前のポケモンは強い――。早々簡単に倒れたりはしない」

「カイドウさん……!」

「行動、仕草、なんでもいい……しっかりと相手を見ろ。そして覚えろ。勝利の布石の打ち込みは、観察するところから始まる」

「――はい!」

 

 彼とのジムバトルを通して覚えたこと。しっかり「見る」こと。

 何よりの超常的頭脳(パーフェクトプラン)の強みを、今ここで実践する。

 自分に出来るだろうか。いいや、やるんだ。

 何かを解き明かすために、ずっとずっと何度だって焼き付ける――その意思が宿った目こそ、

 

「今だ、ルカリオ!!」

 

 本当の『ミラクルアイ』になるのだから。

 暗影で作られた籠から、抜け出した。

 アルバの上げた声を、ちゃんと聞いた。

 消耗が生み落とすほんの一瞬のインターバルを、見逃さなかった。

 煙に巻いた連撃をこじ開けて目指す先は、本体(あたま)。一歩、また一歩で、幾度と踏み蹴る足に、迷いはない。

 

「一気に決める! この手に全てを込めろ!」

「っ……!!」

 

 泡を食って主へ一目散に戻る掌が、神速に追い付けるだろうか。答えはノーだ。

 となれば――。

 

「ッ()ェェェェェェェェェェェェェ!!」

 

 真っ向勝負しか、あるまい。

 がぱ。口が開き歯が開き舌がのけ、鳴る咆哮が砲口を開いた。

 ありったけの力をためて。この眼鼻の先を睨む。迫った闘士へ狙いを向ける。

 

「バレットパンチだァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

 

 闘士は構えた。拳を頑強な鋼で包んだ。腰を捻って、重力から逃れた脚を放っぽった。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!」

 

 速さが決める。全てを決める。もう逃げられない避けられない。もうそんな間合いではない。

 互いに互いを目交いで収め、叫ぶ。振り抜き、或いは打ち放って出した一撃は、恙なく双方の向かう先へ。

 善と悪。光と闇。闘士と悪魔。抵抗と奪取。訪れる両者の終わりと決着の時。

 

 

「グェアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 

 それを制したのは、ルカリオの方であった。

 メタモンがシャドーボールを放つより先に――バレットパンチはまさしく弾丸のように空気を穿ち、その一撃を顎に届かせた。歯を砕いて、口を閉ざし、天井に届くまで上げ抜いて、中で弾けた闇のエネルギーが望まぬままに暴発。そういって誘発される第二波が、亡霊の正体を晒してしまった。

 戦闘不能。目を渦巻かせたまま、くたりと液体のように伸びる様が、その証明だろう。

 

「そこまでだ」

 

 メタモンをボールに戻したソマリに、ルカリオが「動くな」と掌を向ける。

 しかし彼女がそれを飲み込むことは無かった。不審がった意識を、風船ガムの破裂音がつつく。

「何をするつもりだ」さらに続くカイドウの声で、ようやっとヒースの行動に気が付いたアルバ。

 彼は、自身のマシンにゴーストを座らせていた。

 

「まだだよ。まだ終わりじゃない」

「まさか……!」

「僕の頭脳の証明が、まだ――終わっていないじゃないか!」

「ぐ、っ!!」

 

 そのまさかだ。

『RADIATE』――コントロールパネルには、確かにそう表示された。

 ヒースが行ったのは、シエルの感情から吸い取った進化エネルギーの解放であった。矛先は他でもない、己の唯一の手持ち。

 確認した刹那、再び辺りが強烈な発光現象に見舞われる。眩んでしまうようなまぶしさだが、既のところで薄目を開けていられる時点で、先程の輝きと違うのを理解する。何よりも、先に感じた温かさがなかった。冷たい光だった。

 微かに得られる視覚情報の向こう側で、ゴーストは苦しみながら少しずつ変容していく。輪郭を変え、顔だちを変え、大きさを変え――悪しき光に撫でられた部分から、少しずつ変わっていく。こんなものを進化と呼んでいいのだろうか。そう呼べるのだろうか。

 

「ゲェェェェェェェェン!!!」

 

 光が消える。叫びが聞こえる。頭上に螺旋状の模様が起き上がる。

 次に見た時、ゴーストは“シャドーポケモン”の『ゲンガー』へと進化を遂げていた。

 

「ハハ! ハハハ! やった! やったぞ!」

「そんな……!」

「本当に人為的に進化させたのか……」

「僕の仮説は正しかった! 実験は成功だ!」

 

 それもただのゲンガーではない。腕が大きく膨らみ、額に第三の眼が浮かび上がった、進化を超えた先の形態。『メガゲンガー』だ。

 

「さあ、性能実験だ。僕が起こした奇跡と君の奇跡、どちらが強いか力比べしよう。本当に最後と行こうじゃないか!」

 

 変わり果てた亡霊はずずん、と沼みたいな形した足元の影に浸かり、その手にシャドーボールを蓄え始める。

 どうやら曲がりなりにもメガシンカらしい、うねる球体は際限なく巨大化していき、いつしか三人の人間などたやすく飲み込んでしまう程に夥しい成長を遂げていた。

 理由はわかっている。偏に底上げされた能力のものであると同時に、奇跡の片鱗だ。何なら自分も今この瞬間、しかと味わっていた。

 

「……最大出力だ」

 

 だからこそ、やるべきこともよくわかっている。

 目には目を、歯には歯を、奇跡には奇跡を。

 尤も相手が掲げるそれを奇跡と認めていないからこそ、アルバは止めねばならぬと、思った。

 

「おもしろいよ……今、この場で世界の奇跡を否定して、僕は神になる」

「あなたに何があったのかは知らない。でも、命を自分の思い通りに操ろうだなんて、それはおこがましいことなんだって、気付かないといけない」

 

 波導が気流を道にして、構えたルカリオの手に収まっていく。

 

「おこがましいものか。この世界に拒まれ続けた僕らのような存在には、権利がある。この世界の理に根底から干渉できる、その権利が」

 

 少しずつ、少しずつ、散らばった希望をかき集めるように。

 

「どんなに拒まれ続けても、自分から拒んでしまっては、全てが無意味になっちゃうじゃないか。あなたが生きた跡だって……!」

「…………」

 

 丸くなって、そのサイズを膨らませていく。

 

「意味などないよ――――はじめから!」

 

 仕上げだ。ゲンガーの咆哮がそう告げる。三人どころではない、シャドーボールは建物丸ごと吹き飛ばしかねないくらいに大きくなった。

 

「っ……止めるぞ、ルカリオ!」

 

 そして同じくした時で、はどうだんも同様に準備が完了する。

 轟々とエネルギーの寄せ集めが猛り鳴く。捩じれる空間が、時間の感覚を崩していく。場を飲み込む熱と光が一緒になって、威圧感の奔流となって、皆を押し潰しそうになる。

 

「(凄いエネルギーだ……でかい……)」

 

 次の光景を、まるで想像できない。どうなるのか。何が起こるのか。

 

「(僕が倒れると、後ろの二人は、きっと)」

 

 明日(みらい)が、想像できない。

 腹は決まっている。し、やらねばならないというのは、わかっている。それでも。

 

「(僕に……これを覆せるのか? ……僕に)」

 

 自分に出来るだろうか。未だにそんなことを考える。

 

「信じろ」

「……!」

 

 それでも、立っている。立っているから。

 アルバは、背中に触れた二つの温もりに、振り返る。

 

「カイドウさん、と、シエルちゃん……!」

 

 未だにショックで声は出せないが、いくらか回復したのを見せつけるように、にっと微笑んだ。

 そしてカイドウは言う。

 

「お前が身に纏う(それ)は、まごうことなき奇跡――正真正銘、かつてのラフエルが起こしたものだ」

「でも」

「自分の可能性に目を向けろ。何だって、そこから始まっている」

 

 それを気付かせてくれたのは、他でもない彼らであったろう。

 上を向くことを教えてくれたのは。光の見つけ方を教えてくれたのは。呼吸の仕方を教えてくれたのは。

 

「お前ならば、できる。だから恐れるな」

 

 海面から、顔出して――この空を見る手段を示してくれたのは、彼らであったろう。

 触れた背中に、彼らの波導エネルギーが流れ込んできたのがわかった。それはやがて体内を巡って、滲んで虹になって、自分の手先からルカリオに届いていく。

 アルバは、もう何かを言う事はなかった。

 静かに向き直って。確かに見据えて。息を吸って。

 ただ、吐いた。

 

 

「“シャドーボール”」

 

「“はどうだん”」

 

 

「終わりだ」叫びと共に、全力同士のぶつかり合い。膨大なエネルギーが衝突しては消えてをする内に、視界は塗り潰された。

 何もかもが、純白に飲まれていく。

 されどアルバは、地に付けた足を踏ん張り続け――最後まで、その目を逸らさなかった。

 

 こうして、全てが終わっていく。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 これからは、それからの話をしよう。

 

「……ハァ、ハァ、ハァ……」

 

 メガシンカ同士の壮絶なぶつかり合いは、終止符を打たれた。それはこの事件の決着という意味も、当然含んでいる。

 結論を急ぐと、息を切らしながらも、最後まで立っていたのはアルバであった。

 自分と、シエルと、カイドウの波導で造り出した最大出力のはどうだんで、あの出鱈目のような大きさのシャドーボールを、見事に相殺してみせたということだ。

 ほどなくして元の姿に戻ったルカリオと一緒になって倒れ込むのを見れば、どれだけオーバースケールな真似をしたのかが伝わるだろう。なんて、本人の肉体は考えているのかもしれない。

 

「動くな! ポケットガーディアンズだ!」

「大丈夫か、救出に来たぞ!」

「こちら実験室。通報通り二名のガイシャあり。負傷しているようですが命に別状はなさそうです。至急、救急車の手配を――」

「クソッ、バラル団の班長格がいないだと!? まだだ、中をくまなく探せ!」

 

 細腕で頼りなくシエルを抱えながら、アルバのそばで腰を下ろすカイドウだったが、外の荒事を片づけて突入してきたPGが、あれよあれよと彼より先にアルバに群がって状態の確認に入った。すっかり手持ち無沙汰になったものだから、雑音の中にシエルも寝せる。

 思い出したやり残しを、片付けるためにも。

 

「……いいザマ、だろ」

「本当に、な」

 

 きょろり。目だけが動いて、そっと呟く。

 カイドウはぼそりと返し、仰向けのヒースの隣に腰を下ろす。

 生命力を注ぎ込んだのは彼も同じだったようで、その反動で動けないでいる。精魂尽き果てるとは、こういうことをいうのだろう。

 

「そういや……君が馬鹿みたいに覚えててくれた、入所式でのあの言葉。僕、否定してたろ」

「ああ」

「あれ、さ。嘘」

「知ってたさ」

「ああ、本当に?」

「お前は嘘をつく直前、まばたきが僅かに長くなる」

「フッ、参ったな」

 

 恨み言を吐くでも、憎しみを露にするわけでも、まして自棄に狂う訳でもない。

 することといえば、いつもの話。他愛もない、毎朝交わすような、言ってしまえばしょうがない話。

 いつもと違う事と言えば、ヒースが寝て、カイドウが起きている、真逆の絵面になっていることぐらい……だろうか。

 

「僕も、最初はさ。人類史に残る凄い発見をして、皆を見返してやろう、って……ちゃんと、思ってたんだぜ」

 

「本当、どこで間違っちゃたんだろ」

 虚空に放り投げる言葉に、返答は重ならない。

 ああ、そうだった。こいつはいつも素っ気ない返しか、無視かの二択だった。

 青年はそうやって『戻りゆくいつも通り』を噛み締め独白するたびに、頭の中から消えていく日常の音を聞いている。

 

「シナリオでは、僕の発明で戦力増強を図ったバラル団が世界を滅ぼし、何もかもなくなったそこに、新しい世界を打ち立てる……という話、だったんだけどね」

「………………」

「なかなかどうして、上手くいかないもの、だ」

 

 薄めていく。失くしかけの意識が、枯れかけの面を、少しずつ。

 寝転がる横顔には未練一つも置かれてなくて、寧ろ清々しいぐらいだ。

 

「何をしても阻まれる――、本当に、この世界は嫌いだよ」

「……俺もだ」

 

 賢い人間のはずなのに、話す事はいつでも子供の絵空事。机上の空論。誰も靡かなければ、誰かを先導することもできない。中身も影響力も何もない、欠け落ちるべくして欠け落ちた言葉。

 そんなことを喋り続ける彼は、ついぞ一人ぼっちであった。

 けれども、そんなに侘しい夢物語でも、傾ける耳がある。

 

「だが俺は、お前がいたから、全てを呪わずにいられたんだ」

 

 この男を、孤独のままにしておきたくない男の、耳がある。

 嘘をつけ、なんて返しを遮られるとは思わなかったらしい。力の抜けきった肉体でも、眉ぐらいは動く。

 そうして続いたのは、ほんの少し溢した光が置く笑みで。

 これはきっと「ありがとう」って言っているんだろうなと、考える――で、考えて、きっとじゃなく確定なのだと考え直す。

 考え直して全てが馬鹿らしくなったから、ずっと開いてた胸の穴に納得を詰め込んだ。

 

「馬鹿。さっきも、同じようなことを聞いたよ」

 

 指で額を小突いてやった。

 

「……そんなことよりも。決まったのかい」

 

 ずっと聞きたかったことを、訊いてやった。

 それは恐らくヒースにとっての最後の質問になる。と同時に、カイドウにとっての最大の疑問になる。

 片や聞かねばならないし、片や答えねばならないこと。長らく不透明にされたこと。自分の未来を決めること。

 膨らした肩。細面が上がって、下がって、彼を向く。

 吹き返した息をす、と吸い込んで、出す答えは。

 

「――――まだ、わからない」

 

 まだだ、まだ。

 まだ、時間が足りない。

 “ここ”へ来たばかりの彼は、ここだけの自由(モノ)を捨てるにも、握るにも、少し早すぎたらしい。

 願わくはずっと、許される、許されないの単調な話で迷っていたかった、なんて思う。

 どんなに自由を味わって、どれだけ「いいえ」と答えることの虚しさを知っていても――傷付けてでも「うん」だなんて言い放つこと、簡単に出来るはずがないんだ。

 ――だが。でも。だけど。しかし。

 

「それでも、俺は」

「まったく」

 

 

『君はどこまでいっても、そういう言い方しかできないんだからな』

 

 

 ヒースがせき止めたのか。それともカイドウが詰まらせたのか。

 少年が届けようとしたその言の葉は最後、彼の耳に届くことはなかった。

 双眸に収める何もかもが、揺らいでく。

 尊いものと、忌々しいものとを含む全てが仕舞われた脳みそに、風が吹く時。青年の魂はゆっくり(ほど)けて、そのまま無くなった。

 たちどころに意識の糸がぷっつりと途切れて、動かなくなった孤独の傀儡。残ったそれに何度呼びかけようと、何回揺すろうと、視線一つも返ってこなくて。

 

「お前は俺のそういう言い方しか、聞く気がないだろうに」

 

 弱く小さく頼りなく、ため息一つを笑顔に溢した。

 受け取られないアンサーを、眠った鼓膜に置いといて。

 

 戻らない君のことを、『自分とは別の空を見に行ったんだ』と、思うことにした。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『臨時ニュースです。たった今「ポケモンの新たな進化体系が発見された」とする発表を、リザイナ超常現象研究機関CeReSが行った模様です。繰り返します――』

 

「大丈夫なんですか、こんな場所でボクの相手なんかしてて」

「いいんだ。会見は所長等の上役が行うからな」

 

「ならいいんだけれど……」「早速始めよう」応接間のテーブルに置かれた携帯型テレビの音量を、片手間に落とす昼下がり。薄ぺらな四角の中で、中年の研究者がマスコミに話しかけられている。

 自身の大発見のせいでCeReS内が騒然としているというに、生憎とカイドウは平常運転で、来客の対応に精を出す。研究成果の発表だ。

 向かい合うアストンに手渡す資料は、ここ数日で煮詰めた発見と実験の結晶。表紙には『新たな進化の可能性について』と書かれている。

 

『まず最初に、ラフエル気象庁協力の元で研究を行った結果、このラフエル地方の地底には「莫大な量の生命エネルギーが巡っている」という事実が判明いたしました』

「今から話すのは、その前提を理解の上で、聞いてほしい」

 

 一言で、誰も彼もが、世界中がどよめいた。

 

『従来のメガシンカは、ポケモンとヒトの精神状態を調和させた際の、メガストーンとキーストーンの反応によって起こっておりました。しかし』

「今回発見された進化は、メガシンカとの類似点を持ちながらも、全く異なるメカニズムで発生していることが判明した」

 

 映像をご覧ください。雑に注意を引かれて目を向けて、アストンは吃驚の表情を形作った。

 切り替わる映像で、リザイナジム内が映って――――ルカリオはその中で、七色の光を纏ってメガシンカした。

 

「これは……! 報告書の通り……!」

 

 そうだ。トレーナーの身には石のようなものどころか、アクセサリすら見受けられない。

 

「精神をシンクロさせるところまでは、同様だ。だが反応するものが圧倒的に違っていた」

『このメガシンカに使われたエネルギーは、メガストーンのものではなく、この地底に内包されていた――』

 

 

「ラフエルのものだった」

 

 

 そして画面の向こうの研究員は、この未知なるエネルギーを、ラフエルでのみ起こる進化現象であることに因んで『Raphel Evol』と呼ぶこと。又それを『Reオーラ』と略することを、伝えた。

 最後に、煌々焚かれるフラッシュの中で、

 

 

『加えて、そのReオーラを用いての進化が伴う現象を――我々は今後“キセキシンカ”と、呼ぶことと致します』

 

 

 時代を変える未来のワードを、付け足して。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「ええ、意識こそありませんが、確かに生きてはいます」

 

 自分が誰かの傍にいることは、やはり間違っている。

 

「ただ。臓器の動作の状態等を見るに、本当にギリギリのラインで生命維持活動が成されている程度の認識で、よろしいかと」

「事実上の昏睡状態、と?」

「はい」

 

 でも、間違えることが許されるのなら。本当に自由があるのなら。

 

「生きていても、彼――ヒースさんは、もう目覚めないかもしれません」

 

 ――――『間違えたい』と、思った。

 

 

 

 いつかは彼にも言うつもり――そんな言葉を少女へ伝えて。握手を、ゆっくりほどいた。

 

「まだ、俺がそうした先で何が起こるのか、わかっていない。好都合と不都合の話を、してる。故に」

「わかってるってば。だから、時間が欲しいってことでしょ」

「ああ」

「ふふ、ほんとに不器用なんだから」

 

 流れに流れる春の陽気にくるまれて、不揃いな背丈の少年少女は、言葉を交わしていた。

 携帯電話のメールアドレスをカイドウへと伝えるシエルの姿はまったく元通りで、かつての事件をまったく感じさせないものであった。隣のキノココが、ルカリオと仲睦まじく木の実をつまんでいた。

 彼らのやりとりは、まさしく春にふさわしい出会いの挨拶だ。

 

「でもほんとによかった、大事に至らなくて」

 

 そして同時に、別れの挨拶でもある。これもまた不本意ながらに、春らしさを醸し出す。

 やはりというのかなんというのか、頭の回転量が心許ないアルバが、わざわざ口に出しての状況整理。

 まず、事件の要となったキノココは無事であった。そしてその主であったシエルも精神面で大きな負荷をかけられたが、この数日の入院で全快に至った。

 

「アルバくんは大丈夫?」

「もっちろん! なんてったってこの僕さ、心も体もヤジロンのように、何回倒れても起き上がる!」

「そのままネンドールに進化して、どこへなりとも浮わついていけ」

「残念、ネンドールは重力が使えるのさ! だから慢心せずにどっしりと構えていける!」

「お前にも知識という概念があったんだな。アルバのくせに」

「馬鹿にしてない? すごい馬鹿にしてない?? いやしてるよね、してるわ」

 

 見ての通り、アルバもまた数日の入院で旅が再開できるまでに完治した。骨折等がなかったのは幸いと言うべきか、或いは若さゆえの必然というべきか。わからないが、喧しいことには変わりないらしい。

 

「……さて、と。じゃあ、そろそろ」

 

 尤も、その喧しさとも、今日を境にしばらく顔を合わせられなくなるのだが。

 アルバはバッジケースで輝く一個目――スマートバッジを見つめながら、再挑戦時のことを思い出す。それは数日前のルカリオの姿と、ぴたりと重なった。

 

「キセキシンカ――これを使えるようになったのは、カイドウさんのお蔭です。ありがとうございました」

「安定して発動もできない現段階では、使えるとも言えないだろう」

「あーもう、本当に手放しじゃ褒めてくれない人だなー! 今回の成長を少しは評価されても」

「感謝する」

 

 短い礼は、たぶん気のせいではないだろう。

 しかしアルバは、何に対しての感謝なのかわからなく、目を白黒させた。が、悪い気はしなかったので、そのままで受け取っておいた。

 彼の事は、彼のみぞ。

 

「近くを通ることがあれば、また来い。会ってやれるかはわからんが……キセキシンカの習熟度ぐらいは、見てやる」

「はい。また、どこかで!」

 

 意気で活きた返事が発されて、少年はくるりと自分に向く後ろ姿を、見送った。

 ここで得たものを胸に、新たなるものを得んと大手掲げて往く、夢追い人を。

 気付かぬまま彼を追いかけ飛んでいく、(ヤヤコマ)を見た。どうやら幸先はよさそうだ――。

 青空にとける一人と一体の武運に思いを馳せながら、そんなことを考える。

 

 こうして、少年の非日常は終わりを迎えた。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「……い……おい……」

「………………」

「おい!!」

 

 カイドウは、いつものように寝るべきでない場所で目を覚ます。誰かに叩き起こされて、だ。

 またよくわからない違和感で身を起こした。自分にとっているべきものなどいないはずで、もう帰ってはこないはずだと、知るからこそ。それでも“この感覚”をおぼえるのは、きっと何かに期待しているからなのかもしれない。

 ぼやける視界を眼鏡で補助して、ピントを合わせる。

 

「ったく、何故俺がお前を起こさないとならんのだ……」

「……ドルク、か?」

「そうだ。文句があるか?」

 

 意識のスイッチが入り切っていないが故の疑問形ではあるが、正解していた。

 自分をやたらと目の敵にする奴だが――自分がラボ内の寝落ち常習犯故、大方上司にでも頼まれたんだろう。

 上が事情を知らないとはいえ、よりにもよって気の毒なものだ。嫌悪よりも内心で先行するのは、それ。

 深い干渉をしない方が双方の不利益が無くせるだろうと踏んで、しわが寄る眉間から目を逸らし、無言のまま立ち上がる。

 

「だらだらするな。さっさとブリーの実ジャムマーガリンサンドを買って仕事を始めたらどうだ、天才殿」

 

 この言葉を聞くまでは、そのつもりではあったのだが。

 

「……お前、俺の好物を知っているのか」

「だッ……! いつも食っているのを見れば、嫌でも覚えるだろうが!」

「気味の悪いやつだな……敵を知るには観察が鉄則だが、着眼点をはき違えているぞ」

「だァまァれ! 貴様のことなど見たくもないし知りたくもない! いいからさっさと行けばいいだろうが!」

 

 その案は却下だ。そうだと言わんばかりに、彼は同僚へ次々疑問をぶつける。勿論他意などないのだろう。そんなに器用でないのだろう。

 

「そもそもお前、この役目は立候補してなったわけではないだろうな」

「いい加減にしろ! 興味がないからこそ進行形で心底苦痛なんだろうが! フンッ!」

 

 準備をしながらも続く押し問答。

 そうして、彼は日常に戻っていく。

 めいっぱいの息を吸い込み、光を取り込み、また深い、深い海へと潜っていく。

 

「と、いうか、起こした時間がぴったり九時だったな……そう律儀な奴にも見えないが」

「もう喋るな!!!!」

 

 もう一度で沈んだ場所の景色は――――少しだけ、明るい気がした。




 これは、彼がほんの少しの呼吸ができるようになるまでの、ちょっとした話。


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Episode Guild
01.職人の羽休め


 トン。テン。カン。キン。

 ギュイン。チュイン。ジジジジジジ。

 ピーッピーッ。ガガガガガ。ウインウイン。

 今日も今日とて祭りだと言わんばかりに、擬音たちが歌って踊っての大宴会を開いている。ゴリゴリと耳の孔をこじ開け脳みそを激しく叩くそれらが、一つの材質から発生しているなど、とてもじゃないが信じがたいもので。されど表向けの看板に掲げられた『カヤバ鉄工』の五文字を見れば、偽りがないことを解ってもらえるだろうか。

 

「入庫報告まだかー! 次いくぞォー!」

「オーラーイ、オーラーイ!」

「受注番号M-5の方どうなってるー!!?」

「今仕上げにサンダーかけてるとこですー! もう少しで完成すると思いまーす!!」

「サビ止め塗料切れそうなんで、誰かちょっとストック分崩してきてくれー!」

 

 機械たちが、人々と元気に大騒ぎ――ここはラフエル最東端、工業の町『ユオンシティ』。

 かつての戦時中は軍需工場で埋め尽くされていたこの町も、歴史の移ろいと共にすっかり鳴りを潜め、世界中のあらゆる企業、組織を支えるモノづくりをするようになった。

 今では町単位で誇るその高度な技術力を学ぼうと、ラフエル地方外から留学に来る者も少なくない。

 そしてこのカヤバ鉄工もまた、ユオンのブランドを支える工場の一つだ。その名が示す通りに鉄を焼いたり、切ったり、溶かしたり、削ったりといった事を日々行っている。平たくいわば、金属加工というもの。橋一本で繋げられる二つに割れた高地のうちの東側、地元民が『旧市街』や『工業地帯』と呼ぶ所に、それは位置していた。

 

(あね)さん! 第三工場の方、今日の製造予定数に達しました!」

 

『姐さん』と呼ばれた茶髪の小柄な少女は、少し考え込んだあとに、咥えっぱなしの鉄製ホイッスルをピ、と短く吹いた。悪ふざけのようにも見えなくもないが、真顔である以上は真面目な行動なのだろう。彼を姐さんと呼んだ青年は頷き、別の方へと走っていく。

 ここに生まれ、ここで育ち、幼い頃よりここで父親の手伝いとして働いてきた彼女『アサツキ』の独特なホイッスル指示(サイン)は、もはやここの従業員で通じない者は存在しない。それほどまでに現場では重要な地位に在る。現場監督の重責を軽々と背負う背中は、見かけよりもずっと大きく感じられて。

 黄昏を映す安全第一(ヘルメット)が、今日の終わりをまだかまだかと待っていた。

 

「よーし本日分終わりだー! みんなおつかれさーん!」

「おつかれさまっすー!」

「っしゃ、今日は飲むぞォ~~!」

 

 ヤミカラスが飛んでいきそうな夕焼けで化粧する、朽ちた要塞跡や崩れた城壁跡。換気窓に切り取られた、自分も知らない戦争の傷跡をぼんやりと眺めてるうちに、工場内でチャイムが鳴り響く。本日の業務終了が告げられた。

 皆が一斉に手を止め、後片付けに入って、また忙しなくなる午後五時の話。

 今日の晩御飯はなんだろう。そんなことを考えながら鉄かすを箒で掃いているうちに、

 

「おねえちゃーん! みんなー! ただいまー!」

「ヨルガオちゃん! お帰りっす!」

 

 学校から妹が帰ってきて、また一日の終わりを、噛み締める。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「乾杯!」

 

「かー、うめえ!」「飲め飲め!」

 お世辞にも広いといえない部屋の中で、グラス片手に快音を奏でる男達。誰も彼もがいかついせいか、より窮屈に感じられた。

 それを言ったところで、彼らはお構いなしに仕事終わりの美酒に酔い痴れるのだが。

 いいのか、悪いのか……アサツキは年季の入った木造家屋の居間で、彼らとテーブルを囲みながらそう思う。

 

「みんな、今週もおつかれさまでした」

「ありがとうございます!」

「はー、奥さんの手料理と酒のおかげで、この一週間頑張れてるようなもんだぜ!」

「あら、嬉しいこと言ってくれるのね。そうやって褒めてもらえると思ってもう一品作っちゃった」

「さっすが奥さん!」

「アサツキもまだ食べれるわよね?」

「……ああ」

 

 近所迷惑すれすれな野郎達の喧騒も、足の踏み場の確保すら危うい床も、こうして母の手からほいほい出てくる大皿も――すべては毎週恒例の、見慣れた光景だ。

 金曜夜は工場長たる父の計らいで、必ずこうして自宅に従業員を招いて、遅くまで飲み会を開く。そのうちまた父が真っ赤な顔のまま腹を出して踊り出す事だろう。

 アサツキはとりわけ苦ではないのだが、まだ法的に飲酒が出来る年齢に達していないため、早々に腹を満たして離席する、というのが普段の運びとなっている。

 の、だが。

 

「しかし、姐さんも来年で二十歳か~……」

「ん、あ、ああ、そうだな」

 

 こうして絡み酒をされると、なかなか出ることもできなくなる。

 

「ついこの間まではこーんなちっちゃかったのに……、もうすっかり大人の女性だもんなあ」

 

 一人が言った何とない一言に、父が笑声上げながら食いついた。

 

「オレからいわせりゃ、まだまだひよっこでちんちくりんなおてんば娘よ! だはは!」

「いや、ほっとけよ、うっせーな」

 

 ところに、さらに食いついたアサツキ。逆鱗に息が吹かれた。顰めた眉が微かに動いている。

 看過するにも穏やかではなかったのだろう、かねてよりの悩みだから。

 

「んおお? どっちだ? 子ども扱いされたことにキレたか、それとも女扱いされないことにキレたか?」

「どっちでもいいだろ、んなモン……」

 

 時として、小さな認識の齟齬というのは、大きなすれ違いを生んでしまう瞬間がある。

 

「そう不機嫌になるけどなあ、お前、男と遊び歩いたことあるかぁ?」

「……ねーけど」

「自撮りしたり、同性の友達とスイーツ食ったりしたことは??」

「ねーよ……」

「なんたっけ……えすえむえす、か! で、むっちゃ拘って撮った写真を投稿したことは~??」

「だからねぇーよ鬱陶しいな! あとSNSだこのアナログ親父ッ!!」

 

 これなんてものは、まさしくだ。

 

「あーそうだったか、MじゃなくNか!」

「もー、ここで性癖出さんで下さいよ親方!」

「バーカ野郎俺はSの方だよ! だははははは!」

 

 からかい慣れした子供みたいに歯を見せ、言葉通り本人的に放っておいておしいところを余計につつく様は、どうにも自分の心情が伝わっていないように見えた。

 長らく一人で抱えて話さなかったことによる弊害だろう。時には口にしてみるのも大事か、などと思いつつ、許容のため息をつく。

 デリカシーのなさは昔からのことだし、酒で頭と口が緩むのも一緒。ムキになってもしょうがない。こういった部分は大人なんだぞと、内心で育む自尊心。

 

「まあなあ、愛用ポケモンも格闘タイプだしなあ、我が娘ながらやっぱ華はねえよなあ!! はっはっはっは!!」

「………………」

 

 そして瓦解する、自画自賛。

 

「おふくろ……わり、サイコソーダもう一杯くれ」

「はいなはいな。長女はつらいよ……」

 

 またも上がる分からず屋共の笑いの渦中――ひとおもいにあおって空になったグラスの底を、テーブルに叩き付けた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 一人は言う。

 

『お前、口悪くて男みたいだな!』

 

 二人は言う。

 

『女っぽい恰好似合わねえ!』

 

 三人は言う。

 

『お前みたいな腕っぷしの強い女がいるか!』

 

 四人目が言った。

 

『もうちょい女らしく振る舞えないもんかね?』

 

 

「ッハァ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」

「う、うわぁ、な、長っ……」

 

 このため息の長さは、ハブネークか、或いはアーボックだろうか。はたまたレックウザもありうる。どのみちひと月分ほどの幸福が逃げていきそうな、そんな溜息を窓の外に向けて吐くアサツキ。寝間着で抱きかかえたヘルメットが次に反射するのは、深い夜に広がる海で、こうしてみると自分たちの部屋の位置も存外悪いものではないな、なんて考える。

 尤も、そんな気の紛れも、刹那的な話だが。

 

「どーーーーーせオレは口が悪くて女モノの服似合わなくて腕っぷしが強いゴーリキーだよ……」

「ご、ゴーリキーは言ってないと思うんだけどなー……」

「じゃあ……、カイリキー」

「腕を増やさない方がいいと思う……」

 

 幼い頃より使ってきた共用部屋(ここ)では、無愛想な顔も千変万化になるし、重く閉ざされた口も饒舌に早変わりするし、気丈な振る舞いもとろとろに軟化する。アサツキの唯一の素が出せる場所、という表現は些か大袈裟かもしれないが……ここにいる二つ下の妹『ヨルガオ』こそが、姉アサツキを誰よりも理解しているというのは、過言でもなんでもない事実だろう。

 だから彼女は、今もこうして過去にアサツキがへこんでしまった時の事を思い出している。のだけれど、どうにも今回はそうして浮かぶ全ての前例を、凌駕するほどの落ち込みようで。

 長らく気にしていたことなので、無理もないだろう、と情を寄い添わす。

『お父さん、今回のはちょっとやりすぎだよ』という、叱責を独白にして。

 

「…………オレだって、興味ねぇわけじゃねえよ……」

 

 座り込んでた窓枠から尻を離し、おもむろにクローゼットを開くと、中には女性を綺麗に飾ってくれる服が沢山眠っていた。

 レースの入ったチュニック、シースルーが大人っぽいシャツ、リボンがあしらわれたブラウスに、チュール地のキャミワンピ、丈が様々なスカート類、エトセトラ……レディース衣服がぎっしり詰まる空間は、まるで彼女の本音を包括した、心のドアのよう。

 

「……でも、みんな男っぽいなんて、言うから」

 

 悲しくも新品の匂いを発するタグの数々が消えることを願って、どれだけ経つのだろう。心のドアをまた閉ざす。振り向いた作業机の隅に立つピィやピチューの雑貨が、今日も肩を竦める自分を眺めていた。

 

『内に眠る女の子を開放したい』

 

 これがしたくてもできない、それがアサツキの悩みであった。

 環境が決めた振る舞い、そして振る舞いが定めた印象は、修正不可能なまでに周囲にしみ込んでしまって、気が付いた時には女性誌を買えば驚かれ、化粧品を持てば笑われるようになっていた。

 幼い頃から男子を取っ組み合いで泣かせていたからだろうか。父の傍で男言葉を聞き続けたせいだからだろうか。遊びも控えて家の仕事に身を捧げたからだろうか。そうやって何が悪いかを考えているうちに、彼女は自分を閉じ込めた。

 別に後悔はないし、何一つ恨んじゃいない。恨んじゃないけど、今でも「出来る事なら」と思って、焦がれ、憧れはする。女の子っぽい女の子になった自分を、夢に見たりもする。

 夢を笑われて気分がいい人間はいるまい。そんなこともわかんねえのか、クソ親父。内心の叫びが木霊した。

 

「だー、もう! 寝る!」

 

 思考すればするほど気持ちがマイナスの方面にぶれていく。良しとしないので、寝床に飛び込んだ。二段ベッドの、下の方。寝れば全て忘れるし、何よりも明日も明日で母の手伝いがある。ので、夜を更かす意味もない。

 

「待った!」

 

 アサツキが寝る前の挨拶を口にしようとした時、すぐ上からそれを阻止するヨルガオ。

「のわっ!」上の段から大きく乗り出し、逆さまに覗き込む妹の顔を出し抜けに見たものだから、酷く驚いた。

 驚かせついでにヨルガオが致したのは、

 

「休も、この土日」

 

 リフレッシュに何がいいかと悩み抜いた末に行き着いた、最もシンプルな案の提示であった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 母の手伝い――家事もだが、受注リストの整理。そして生産予定表の更新。有り体に表現すると事務作業である。

 工場が動かない土日でするようなものだし、主婦一人でやるにも苦しいものがある。だからなるべく手伝うようにしていた。

 

『ストレスは毒! たまには外出て、好きなとこ行って好きなことしておいでよ! お手伝いは私がやっておくからさ!』

 

 ――そのはずだったのだが。

 二日限定ながら、あっさりと自分の代わりが出来てしまった。部活動もないそうだ。

 なまじ責任感が強いばかりに、これでいいのかと戸惑ったり、でも少しだけ身の軽さを覚えてみたり。

 メイクをしても物憂げだ。車窓に映り込む愛嬌無しの、向こう側を望んでいる。

 

「好きなとこ……っても、なあ」

 

 たとえ珍しくても、足音で簡単にかき消される独り言。

 アサツキは、ラフエルにおける数少ない陸上長距離交通手段『バンバドロ・キャリッジ』に揺られていた。

 小洒落た名前をしているが、ばん馬ポケモンの『バンバドロ』が引く馬車という認識で違いはない。山道の中、一〇トンにも及ぶ荷物を三日三晩不休で引き続けることができる、と言えば、その有用性は伝わるだろうか。

 

「テルス山は抜けたね。ラジエスシティへはもう少しで到着だよ、お嬢さん」

「あ、……はい」

 

 御者の老人が目的地までの距離をそれとなく伝えると、手綱を握り直した。

 

「確かー……なんだっけねえ? 今日はラジエスの方で、『あーちすと』ってのが『らいぶ』だかをやるそうでねえ。お嬢さんみたいな若いのがみんなラジエスに集まってるらしいや」

「へえ、そうなんですか」

「その口ぶりだと、お嬢さんは目的が違うんかえ?」

「ええ、なんとなくの、旅行みたいなものです」

 

 ジムリーダーという職務も果たすようになり、それなりに目立つ存在であるという自覚はあるのだが、存外気にされないし、気付かれないこともある。

 まして今に限れば『こういう格好』をしているから当たり前か、なんて風にも思ったり。

 長袖カットソーも、重なるフリル付きキャミソールも、七分丈パンツだって。「こういう時でないといつ着るんだ」という、ヨルガオの熱烈な説得の果てに着用したものだが、図らずもそれが普段の作業着姿の面影を跡形もなく消し去っている。

 極めつけにヘルメットも本日は留守番なために、いよいよこうして頬杖ついて外を眺める可憐な少女を、“拳で語る職人”であると証明するものはなくなった。

 

「(いいんだか、悪いんだか……)」

 

 わからないが、形からでも女性らしくある自分を俯瞰できている今この瞬間は、余計なことは考えるもんじゃない。そんな風に考える。

 遠くで連絡船が海を渡った。行きたいところまで、あと少し。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 人が行き交い、物が行き交い、そうやって全てが寄り集まって、最終的には一枚の絵画のように色鮮やかになる。首都というのはそういうものだろうし、国の脳みそというのはそうでなくてはならない。

 物流の最前線であり、法の根源であり、情報の最先端であり、人々の憧れでもある――ここはラフエル地方の中心にして最大規模の街、『ラジエスシティ』。

 前後左右どこを見渡しても人、人、人の様相でこそあるが、それらに囲われていても見えてしまうぐらいには高い背の建物が、いくつも立って皆を見下ろしている。中でも観光スポットにもなっている北区(ノースエリア)の電波塔『ラジエスタワー』は、圧巻の一言に尽きる。

 無いものが無い、と云われるほどには物や施設が充実する此処だから、「なんとなく」という言葉でも、来た理由としては十全な意味を持つことが出来る。アサツキの来訪動機は、まさしくそれであった。何を求めなくとも、何かを求めて歩く……この場所はそういった宙ぶらりんな欲を発散することだってお手の物だ。

 

「本日は北区のイベントホールで、シンガーソングライター『Freyj@』さんのライブがありますね」

「誰だそりゃ……ふれい、あ?」

「『フレイヤ』です。御存じありませんか? 今人気急上昇中のアーティストなのですが……」

 

「ほら、まさに」合図で耳を傾けると、ちょうどのタイミングで備え付けのテレビから流れる、アップテンポなロックナンバーのCM。鼓膜から耳を熱くするような、しなやかで逞しい女性の歌声であった。

 

「抑圧されがちな本当の自分を呼び覚ますようなリリックを、新しいスタイルのロックに乗せて熱く、力強く」

「……わり、わかんねえわ」

「ううん、そうですか……」

 

 公式サイトなんかに記されてそうな宣伝文句を一蹴すると、しゅんとした。申し訳なくはあるが、聴いても尚同じリアクションを取ってしまう、カウンター越し。

 最近まではネイヴュ復旧工事用の資材造りで本当に激務だったから、仕事終わりも早々に飯を平らげ、風呂で行水して、あくびと共に眠るだけの生活が続いていたな、なんてことを思い出す。

 であるならば、流行り廃りをチェックする暇がないのも道理か、と言外に思考を嚙み合わせた。やけに察しのよろしさが目立つが、この修道服にくるまれた金髪の女性『ステラ』は、ここ、ラジエスシティのジムリーダーを務めている。同業者なのだから、アサツキの訳知りであり、顔見知りなのも当然だ。

 

「滞在はどれくらいで?」

「一泊二日、ってとこかな」

「あら、そうですか。事前に言ってくだされば、宿を取っておきましたのに……」

「いいよ。急に決まったことだしな」

 

 現在地東区(イーストエリア)は、ラフエル地方の歴史の歩みを記すように、過去の建造物が連なっているのが特徴である。そしてそれらを管理する市庁舎『ケレブルム・ライン』も、この場に位置する。というか、今まさに二人が話している所。

 気まぐれで何か参加できるイベントはないかと、ここで働く彼女に問い合わせてみたりもしたが、どうにも期待通りにはいかないらしい。せっかくの旅行なんだがな、なんてほんのり不満を抱いてみたり。しかしぶすくれても仕方がないから、カウンターから「邪魔したな」と離席する。

 

「明日は私も休みですから、お暇でしたら食事でも」

 

 そう誘って手をひらひら舞わせるステラと、彼女の頭の上で同じ動作をする相方『ミミッキュ』を一瞥し、肩越しに掌を向けて外へ出た。

 細腕にかかる腕時計が示す時間は、午後の一時。「そうだった」昼時と認識するのと同時、思い出したように腹が空きを訴えてくる。舌のチューニング曰く、求める味は“甘いもの”。西区(ウエストエリア)の繁華街に行けば、この食欲も満たせはするが――。

 

「(……遠いな)」

 

 余談だが、三食きっちり食べる質だ。一日では到底回り切れない広さの中、空腹を抱えたまま真逆の方角まで歩くのは、本意とするところではない行動で。

 するとどうするか、近場で済ませようとする。見回した風景の中で、幸運にも屋台が一つ。看板にはクレープの四文字……まさしく甘いものだった。アサツキは迷わずそちらへ歩いていく。

 

「キャラメルホイップアイスミルフィーユ。カラースプレーましましで」

「はーい、まいど」

 

 そしてメニューを数秒で確認するやいなや、二人いる接客のうちの一人に、所望する。

 自分の髪色にほど近いキャラメルは、何よりもお気に入りで大好物。漂う甘味の香りに胸と腹を鳴らしながら、二つ目の注文を検討する脳内会議を開いた。太るだろうか、太らないだろうか? 自分で言うのもなんだがハードワークな日々だし、少々の過食ならば大丈夫ではないか? なんて、甘党な本当の自分を甘やかしてみたり。

 では、何を注文しよう。そうやって奥に掲げられるメニューを覗く、今一度の背伸び。

 

「このクレープの生地の小麦粉は、オレント産と見受けるが」

「ですから、お客様、その、商品のレシピについては企業秘密で……」

 

 隣のやり取りにそれを邪魔されるが、気を取り直してメニューを端から望んでいく。

 しかし迷惑な客だな、と考える。大方味が気に入ったので自分の手で再現したい、といったところか。

 

「使用されている卵はオニスズメのもの――とりわけドリルブランドの高級品だな。あれは黄身が濃く、滑らかだったはずだ」

「あの、えーと、お客様」

 

 おまけに喋り方が理屈っぽい。もっとシンプルに伝えられないのか、と思う。これではあまりに、とある陰気な眼鏡野郎を思い出してしまってかなわない。

 いやだいやだ。気が合わないから。

 ああはなりたくないな、そんな独白。

 

「独り言だ、客が来たらすぐにどく。気になったものはわかるまで考え続ける質なものでな」

 

 そうだ。あいつもそんな感じのことを言っていたっけ。気になったものはわかるまで考え続ける――。

 

「ん?」

 

 脳内に刷り込まれた言葉と、聞こえた言葉が一言一句違わず一致した時、アサツキは自然と首を回していた。

 

「む」

 

 ノートは手に持つ、不動の手荷物。どこにいようが纏う白は、その色味に反し、一周回って鬱陶しさすら感じるところ。

 差し込む光を不機嫌そうに突っぱねる二枚のレンズが、彼女を映した。

 瞬間、相反する二人の世界が交わった。

「なんでこんなとこにいるんだよ」腹の底で思っても、言葉は出ない。

 

『……………………』

 

 そんな沈黙を垂れ流したままでも、間抜けなもので、日常はとぼけて絡み合う。

 固まる時間。平行線上の賢者と職人。隣の客は、よく物言う客だ。

 

 彼女の言う陰気な眼鏡野郎――カイドウが、そこにいた。



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02.最上級の脳、最高級の力

 平行線。

 同一の平面上に存在する、どこまで延長されても交わることのない二本以上の直線のこと。

 

『同じジムリーダーとして忠告しておくが……、お前の戦い方はあまりに感覚的で、力任せで、出鱈目だ。子供でも真似出来るほどに』

 

 この“延長”というのは、きっと“時間を重ねる”ということを言っているのだろう。

 

『技の構成も滅茶苦茶、シナジーなどというものが一切考えられていない』

 

 とかく人というものは、簡単に自己を曲げられない。

 故、どれだけ経過しても、一切交差しない世界だってあるのだろう。

 重畳、結構だ。

 

『そもそも論理が破綻しているんだ』

 

 十人いれば十通りの考えが存在して、百人いれば百通りの考えが存在している。そうなれば当然相性の良し悪しも出てくるだろうし、だからこそお互いがお互い無駄に傷付かないよう、距離を取って棲み分けせねばなるまい、と思っている。そういう単純にして明快な、理の話をしている。

 

『もう少し頭を働かせて育成することを推奨する』

 

 でも、環境やその他やむを得ない事情で、そういったストレスからの解放を許されない者もいる。

 例えば同僚なんてものが、まさしく自分にとっての“そういう人間”であった場合は。

 

『例えば攻撃の値を伸ばしたいのなら、マンキーやワンリキーといった格闘タイプと戦わせたり、防御を育てたいのならば、イシツブテやイワークといった高耐久な岩タイプと戦わせる。他には――』

 

 

 

「……うるせ」

 

「何か言ったか」「なんでも」

 思わず口走った当時の言葉を、クレープ頬張り押し詰めた。ちなみに最後の一口。

 アサツキとカイドウは、不仲である。

 感覚派と理論派、或いは犬と猿、または水と油。そう周囲に例えられるほどには。

 二年前、ラフエルリーグ本部での初顔合わせで、ポケモンバトルの方向性を巡って大きく口論したあの日から、ずっとそうだ。

 可視の力おいて最もシンプルな拳は、不可視の力たる念を信じ難く、それでいて好まない。一方向こうからすると、此方は原始的で粗暴な何かに見えているのかもしれない。

 嫌悪はないが苦手はある。不快じゃないが不得手である。職人は、そのような印象を持ち合わせてこの賢者を認知している。

 

「…………で、なんでこんなとこにいんだよ」

「近々ネイヴュまで用があってな。行政局に通行許可証の発行を申請しに来た」

「……ふうん」

 

 町並みという器の中を、流動する二人。同じ方を歩けど、眺めるのは全くの別方向。開けた間には、時空神と云い伝わるディアルガとパルキアでさえも真っ青になってしまいそうなほどの時空の断裂が見えた気がした。

 上顎に重りでもついているかのように、言葉が出てこない。寡黙を通り越し、無口――アサツキは平常運転時よりも遥かに口数が減っている。

 苦手意識を拭えぬ相手に対した場合、何一つおかしな反応ではないのだが……それ以前にこのような姿、オンを知る他人になど見せたことがないものだから、気まずくて気まずくて仕方がないのだ。

 確認しなければわかりもしないのだけれど、内心で「笑っているかも」とか「変なの」だとか、思われているんじゃないかと邪推してしまう。

 

「……ってか、ついてくんなよ」

 

 立ち止まってようやく目を合わす。よくないな。腹の底で落とし込んでも、こういう切り上げ方しかできないのが、不器用の悪いところ。

 

「どこへ行こうが俺の勝手だ、何故指図する」

「いや、別にオレと同じ方を歩かなくたっていいだろ」

「それはお前にも言えることだが」

「いっ……オレには用があるんだよ!」

「どんな用事だ。言ってみろ」

 

 滞る対応、それは出まかせをわかりやすく意味する。

 だってそうじゃないか。言いなりはなんだか癪じゃないか。

「~~~~~っ……」

 頭をわしわしとかいた。そして魂も抜けていきそうなほどの大きな嘆息を吐いて、身を翻す。

 

「もう、わーったよ……、じゃあな」

 

 曲がりなりにも入手したせっかくの休日だから、なるべく有意義に過ごしたい。目的を再認識した少女は、少年と真反対の方へと向かった。

 

「ねえねえ彼女」

 

 そうやって二人組の男から声をかけられたのは、その直後の話。

 派手な風味に染まった二色の髪をちゃらちゃらと揺らしながら壁よろしく立って、アサツキの歩みを阻んだ。ゆっくり怪しく、暗影がかかる。

 

「すっごいかわいいね、どこから来たの? よかったら俺らと一緒に遊ばない?」

「ね、いいでしょ? 少し歩くとカフェがあるから、ちょっとそこでお話だけでもさ」

 

 そのいかつい手は、小さな肩を無作法に包んだ。

 ああそうか、そういう奴らか。

 こういったことをされるのは初めてでは、あるが。二挙目で彼らがどういう人物かは、すぐに理解が及んだ。

 世の中は何かと不思議なもので、人が持つ“汚れ”というものは、わりと簡単に伝わるようになっている。

 彼らの場合、引き延ばして取り繕った柔和な笑みに、力ずくを目一杯隠し立てている、そういう暴力の“汚れ”を持っているらしい。

 一応の女扱いをされたのだから、手放しで喜んでおけばいいものを――そんなことを思う。しかしどうにもそんな単細胞ではいられないし、だからこうして悩みもあるのだろうし。

 面倒そうな面で、手に手をかけた。追い払い方を算出する方に、思考のパターンがシフトする。

「あ、いいってことなんだ。ありがとう」何も知らずに自分を運ぼうとする者共へ、眼光を――

 

「やめておけ」

 

 ぶつけたところで、一声が注意を引いた。今しがた別れたはずの、眼鏡(カイドウ)だった。

 なんということだろう。立ちはだかって止めに入っているぞ。夢でも見てるのか、現実ならば槍が降るぞと、素直な吃驚を見せるアサツキ。

 

「お前……」

「何だお前?」

「今さあ、僕たち取り込み中なんだよね」

 

 完全にアサツキから離れた男二人が向かう先は、言わずもがな。カイドウはあれよあれよと彼らに囲われ、下卑た視線の的になる。

 どうもバトルを嗜まない者達なのだろう、ジムリーダーであることにまったく気付いている風はなくて。参ったアサツキが、PGでも呼ぼうかと思案する。

 

「君、彼女のなに?」

「なんでもないさ」

「だったらなんだ? 混ざりてえのか?」

「心配だから、止めに入っただけだ」

「へえ」

 

 ドン。嫌な音が鳴った。カイドウが突き飛ばされた様子を描写する音だ。あまり激しい挙動ではなかったが、女性にも匹敵する細身は辛抱堪らずしりもちをついてしまう。

「っ、カイドウ!」

 カムフラージュしていた暴力が顔を出す。一人の男が、間髪容れずに座り込む彼へ拳を振りかぶった。

 

「心配なら、自分の心配をしとけや――!」

 

 しかし、それきり続けて何かしらの音が響くことはなかった。

 

「……っぐ……!?」

「………………」

 

 きっと、彼女自身が介入したからだろう。

 男が真ん丸になった目を、振り抜くはずだった自分の拳に向けると、一回りも小ぶりな手がそこに巻き付いていた。二進も三進もいかないそれをふりほどこうとする。

 

「いッ!? 痛ぇ痛ェ! 折れる!! 折れるゥゥゥゥ!!」

 

 そんなことすら許さないで、掴んだ手首に強烈な握力を掛けた。

 

「おいおい、ダメだろ女の子が乱暴しちゃあ……!」

 

 たちまち襲い掛かるもう一人の男だが、そちらも問題はない。工場仕込みの剛力ならば。

 ぐえ! 踏み出した足を、さらに自分の足で上からスタンプ。そうして引っ掴んだ襟を力一杯手繰り寄せると、情けない顔から、情けない声が漏れた。

 

「わりぃ、今取り込み中でな……これ以上続けんのはいいけど、余裕がなくて加減ができねえかもしんねぇ」

「……オーケイ、オーケイ、悪かった。邪魔してごめんよ、気を付けるよ」

 

 解放されて尻尾を巻いた愚か者共が、そそくさと雑踏に消えていく。

「二度と話しかけねーよ、カイリキー女」何か台詞を捨て置いていった気がしたが、アサツキはそんなことよりも先に、地べたに尻をつけっぱなしのカイドウへと手を伸ばした。

 

「おい、大丈夫か。立てるか?」

「まったく……だから『やめておけ』と忠告してやったというのに……」

 

 そして起きかけた瞬間に手を放す。

 再びどてん、と彼の臀部がアスファルトを突いた。

 

「何をする」

「手が滑った」

 

 立ち戻る無表情。大方面白くない、といったところだろうか。賢者は意味こそ解れど、意図を知るのは下手くそだ。

 

「何が不服だ。筋力が高いことは、日常生活を送る以上メリットの方が圧倒的に多いはずだ」

「いや、理屈の話じゃねんだよ」

「理屈以外に何があるというのだ。脳組織も筋肉に置き換わっていそうなお前に、到底感情があるとは考え難い」

「うっせーメガネ!!」

 

 こうやって双方の双方に対する不平不満があーだこーだ云々と重なって、平行線上の諍いは此度もご機嫌に始まる。知る者の間では名物であり、様式美であり、語り種であり。各々の性質を遺憾なく発揮する、水と油の本分というやつだ。

 そんな扱い、当事者たちにとってみれば迷惑極まりない話ではあるのだが、彼らも彼らで所構わずおっ始めてしまうので、おあいこ。

 どんどんとエスカレートして、そろそろ道行く者たちの目を引くようになってくる頃だろうか。そこに彼らを止める何者かが、現れた。

 

「……?」

 

 それは、五〇センチにも満たなかった。決して誤認ではない。

「みゃあ、みゃあ」足元に視線を落とすと、猫の形質を継ぐポケモン『チョロネコ』が二人を見上げて鳴いていた。

 

「なんだ……来い、ってのか?」

 

 チョロネコは二人の眼差しをきっちり集めたのを確認すると、尻尾を振りながら向かい側の歩道が固める建物の方へと歩いていく。その足取りには、心なしか焦りがこもっているようだった。

 呼んでいるので、続ける訳にもいくまい。轢かれぬように渡って、人混みを上手いことすり抜けて辿り着く路地裏。

 マンホールを跨いだところで足を止めて、もう一鳴き。恐らく仲間なのだろう二匹目のチョロネコが、冷える日陰で座り込んでいた。

 日中にもかかわらず落ちる漆黒で認識が遅れこそしたが、そのチョロネコは他の個体と明確な差を付ける“違い”があった。

「あああっ……色違いじゃねえか……!」

 通常の紫色の体毛に対して、赤茶の体毛がふわふわと隙間風に揺れている。

 

「待て、脳筋」

「んだよメガネ」

 

 カイドウは、物珍しさと愛らしさに惹かれ瞳輝かせる少女の興をすっかり削いだ。そして彼女が一撫でするよりも前に近づき、屈み、寝そべった後肢を静かに指さす。

 怪我をしているようだった。

 

「お前、これ……!」

「成程、な」

 

 吃驚するアサツキと、納得するカイドウ。

 麻糸のような赤毛の隙間から流れる鮮血が、生々しく争いの痕跡を伝える。目線を案内役のチョロネコに逸らすと、ひどく不安をため込んだ、そんな顔をしていた。まるで「助けて」とでも、言っているかのように。

 

「……わり、ちょっと見ててくれ」

 

 アサツキはカイドウにそう言い残し、この手狭な空間から大急ぎで飛び出した。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「一丁あがり、っと」

 

 幼少の頃から、暇さえあれば体に傷を作るような人間であった。一つの傷を治す間に、五つの傷を新たに作るような――よく言えば活発、悪く言えばやんちゃな性格をしていた。なので、傷の手当てはよくやっていたし、その記憶を忘れないまま育った今となっては、特技といっても何ら過言ではないのかもしれない。

 血を止めて拭き取り、消毒し、すごいキズぐすりを浸透させた脱脂綿をあてがい、保護用フィルムを上から巻き付ける。剥がすときに毛を巻き込んでしまわないよう粘着力を落とし、又、締め付けすぎないことがポイントだ。

 

「よしよし、もう大丈夫だぞ」

 

 手当てを終えると、案内のチョロネコがようやく安堵の息を吐いて仲間に寄り添った。

 近くにフレンドリィショップがあってよかったなと、少女もこれまた一緒になって安堵の息を吐く。

 “いつもあなたのそばに”というキャッチコピーも、存外嘘っぱちではないようで。

 ポケモンセンターに連れていくということも選択肢にはあったが、傍に置くでもないのに、人が必要以上に野生の世界へ干渉すべきでないという思考から、早々に諦めを付けた。

 何よりもダメージが、軽傷の域でもあったから。

 みゃあみゃあと鳴き声をかけあうならではのコミュニケーションの内容を想像しながら、アサツキはしゃがんだまま頬杖をつく。

 

「……こいつら、なんだってこんな怪我したんだろうな」

「チョロネコは、縄張り意識が強い種だからな。同じくここ(ラジエス)に生息し、同様に縄張り意識が強い『ニャルマー』と小競り合いを起こすことは、容易に想像できる」

 

「が」――繋がる一文字が、彼女を「なんだよ?」と訝らせる。

 

「このケースだと、恐らくは“変異種の道理”だろう」

「……!」

「お前の代のジムリーダー試験で取り扱われた問題のはずだ。忘れてはいまい」

「わーってるよ……」

 

 “変異種の道理”というワードに眉を一瞬浮かせたアサツキだったが、その表情は「覚えている」というよりかは、記憶の保存場所を特定できた時のそれに近い。

 それは、ポケモン生体学で学ぶ言葉。同時にあまりに残酷な、自然の法則。

 

「突然変異で生まれる色違いのポケモンは、その通常種との差異によって、群れや仲間から疎外され、同族として扱われなくなる事がある――最悪の場合、敵視もありうる」

「そうやって周りから弾かれて、孤立していくんだっけ」

「製造で例えるならば、規格外(エラー)の個体だからな。こればかりはどうしようもない話だが」

「ま、こーやって知ってか知らずか構ってくれるヤツがいるだけ、救われてんだろうけどさ」

 

 んなっ。助けを求めたことを褒めるように、紫に語り掛けて撫でてやる。

 

「……型から外れちまってるだけで、認めてもらえないんだもんなぁ」

 

 赤茶の彼が背負うものの深刻さと、自分が抱えるものの重大さは、天と地ほどの差があったりするのだけれど。それでも意識と裏腹に重なるビジョンを目の当たりにして、密かににシンパシーを覚えてしまった。

 

「どんな姿でも、お前は、お前なのにな」

 

 周りに定められた形に収まらないといけない窮屈さも。自己欺瞞の扉の向こうに、雁字搦めの自分を押し込む口惜しさも。よく味わってきたことだから。

 この子がこれから経験する苦労や困難を想像して、なんだか心配なような、悲しいような、自分まで辛いような。

 人一倍敏感になって、感傷的になって。

 

「……お前はどう思う。こういうの」

 

 気が付くと、隣で突っ立っている眼鏡に、柄にもないことを訊いていた。

 すぐに変なこと言ってるなあ、なんて我に返って、そっと取り下げようとする。

 

「俺が『かくあるべきだ』と定めることはできない」

 

 でも、返答は自分が想像したものより何倍も早くて。

 

「だが、たとえどんな生まれのどんな存在であっても、自由を行使する権利はあるものだと、思っている」

 

 遮りを遮って、そうだな、と吸い込む一呼吸。

 

「雨の中でも、傘を差さずに踊り続ける者がいたっていいように……全ては自由に出来ている」

 

 鷹揚に眺めて、らしい、と吐き出す一呼吸。

 ――アサツキは、彼がチョロネコに落とすその横顔をなんと表現すればいいのか迷ってしまった。今までに見たことが無くて。

 なんだか、陽だまりが溢す優しい熱を湛えた微笑にも映ったし、反面揺らぐ水面(みなも)の上で無邪気に踊る月光のような喜色にも見えた。或いはどちらも正しいのかもしれない。

 しかし本人に自覚はなさそうだし、何でもいいかと、なあなあにしてしまう余所見。

 

「『らしい』って……なんだそりゃ」

「受け売りだ」

 

「恩人の、な」どちらにせよ、そうやって知らぬ誰かのことを話す彼はどこか楽しげに見えたから――きっと、それだけで十分なのだと思う。

 

「つーかお前、誰かに感謝出来たんだな」

「お前に悩むほどの頭があったなど、微塵も思わなかった」

「言ってろ」

 

 クスリと笑って、曲げた足を勢いよく正した。

 影の位置がちょっぴり変わった気がする。太陽が移動したとも言う。

 大きく息を吸って、背筋をぐいーと伸ばすと、頭の中の霧がすっかり晴れた。

「じゃあな、がんばれよ」二色の猫達に、激励とも応援とも取れる別れを告げて、また歩いていく。

 こうしてみれば、人と話すのも悪くないな、なんて噛み締めながら。

 

 

 

 もう一度、通りへ出た。

 第一声は眩しい、であった。

 少し日向から退くだけで、こんなにも瞳が明かりを疎んでしまう。意外にして不要な自分の脆弱性に、今更気付く。

 昼下がりの気温も良好そうだ。紆余曲折を経て、ようやっと始まる自分の休日に思いを馳せて――、

 

 

「――たすけてええええええええええええええええええええ!!!!」

 

 

 旅をするのは、もう少し先のようだ。

「今度はなんだ」。所々で長い茶髪を外はねさせる少女は、職人と賢者が呆れ返るのも露知らず、両者の元へと猛スピードで、かつ形相で突っ走ってくる。

 

「あ、っと、と、おお、お!!」

 

 それはもう、わざとらしいほどに。

 謎の少女はぶつかりそうな勢いを、がばっと掴んだアサツキの肩で殺した。おっとっと、と倒れそうになる姿勢を、数歩後退りながらも目一杯の脚力で御す、当のアサツキ。

 また先程のような輩だろうか、と根拠なしの推測。いかんせんそっちの趣味はないのだが、という早とちり。

 この土壇場でこんなにも下らない事を考える程度には精神が摩耗している。

 少女は荒れる息を整えるのも忘れて、目を大きくしたまま二人へ助けを乞うた。

 

「あの、ね! アタシ今めっっっっっっっっっちゃ追われてて! ちょっと、困ってる、から! 助けてほしいな、って!!」

「はあ……?」

 

 素っ頓狂な言葉に、困惑を隠せない。何に追われているのか。どう困っているのか。事情の説明は一切なくて。

 曰く追跡されている状況から生まれる、余裕のなさか。それとも新手のいたずらか。

 そもそも逃げながらに、こんなにわかりやすいほど助けてと叫ぶ、白々しい救難信号があるだろうか――カイドウはそこから考える。

 

「よっ、誰だか知らねーけど、今日は天気がいいな」

 

 どよめきと思考とを一気に引き裂く、調子はずれな男の声。それが二人の耳に渡った刹那、ぐるぐると回転していた疑問の全てが発散された。

 両者はすぐさま身構える。

 どんなに声色が穏やかであっても、勝手にありありと滲み出るその鋭さの名を、二人はよく知っていた。

 

「絶好の追いかけ日和――だよなぁ?」

 

『戦意』という、手練れの特権だ。

 そんなものを持った男二人が並び立てば、事の由々しさに理解が及ぶのも、時間の問題というもの。

 

「その女を、こちらに渡してもらおうか」

 

 絵に描いたような『只者じゃない奴ら』とでも、言えばいいだろうか。

 

「……こいつら……」

「どうやら、訳ありらしいな」

 

 口が軽々しい青年は、ファー付きジャケット。

 瞳が刺々しい青年は、真っ黒なコート。

「ひっ」そうだ、こいつらが追手だ。少女はそういわんばかりの雰囲気で、アサツキとカイドウの背後に隠れ忍んだ。

 まったく、いつからラジエスはこんなに治安が悪くなったんだと、嫌気が差す。

 

「アタシはひとまず、こいつらから逃げなきゃなんない――だからお願い、追い払って、助けてっ! なんでもするから……! 具体的には何か奢るから!」

「ったく、全っ然話が見えねえよ……」

 

 アサツキは困り顔で手を合わせる彼女を一瞥し、そのままカイドウを見やる。

 

「状況が理解できていない、何が起こっているか説明を求める。でなければ正しい対応を取ることも出来ない」

「正しい対応など、必要ない。貴様らは黙って俺達にそいつを返せばいいんだ」

「実力行使という訳か……」

 

 そうやって穏便に済まさんとする賢者の言葉もすげなく跳ね除けられるのならば、もはや“そういうこと”なのだろう。職人も同様に感じ取った。

 これは元来、ジムリーダーの仕事ではないのだがな。微弱なぼやきを誰も拾ってくれない。

 腐ってもという注釈はつくが、人前に立つ存在である以上は、人から助けを求められて見殺しにすることも出来まいて。

 時として何の得にもならない人助けを強いられるのが、この肩書きが煩わしくなる場面のうちの一つだ。

 

「シンボラー、周囲に“ひかりのかべ”と“リフレクター”を展開しろ」

 

 腰のポケットから取り出したモンスターボールを上空へ投げると、シンボラーが出現。黄と紫に輝く二重の壁をドーム状に広々展開し、相対した二対二プラス一人、計五名の人物を囲い込んだ。これで、どんなに暴れても街の景観を損ねない、簡易バトルフィールドの完成だ。

 カイドウは続けてバトル要員としてユンゲラーを召喚。それを合図に、残った三人も兼ねてより握っていたモンスターボールを放り投げる。

 立て続けに膨らんでいく光。ジャケット男の前にダークポケモンの『ヘルガー』、コート男の前には忍ポケモンの『ゲッコウガ』が配置、そしてアサツキの前には、

 

「ブッシイィィィィィィィィィィィィィィィン!!!!」

 

 あまりに逞しすぎる剛腕――彼女の主力にして大将格の筋骨ポケモン『ローブシン』が顕現した。

 

「その白衣姿に、ユンゲラー……お前まさか、リザイナジムリーダーのカイドウか」

「正解だ。残念なことにな」

「てなると、そっちは――変な格好してるけど、ユオンシティのアサツキ!!?」

「悪かったな、変な格好で」

 

 ヘルガーだけは必ず倒す。掲げたてほやほやのアサツキの誓いだ。

 

「事情は知らんが面白い、僥倖だ。ジムリーダーとやりあう機会は早々ないからな……俺の名はクロト。賞金稼ぎをしている」

「俺は言わねえぜ? なんてったって、ミステリアスな方がカッコい」

「そしてコイツはハルク。箸にも棒にも掛からん浮浪者だ」

「言うなよッ!!!! んで浮浪者じゃなくポケモントレーナーな!?」

「軽率に行き倒れる。浮浪者みたいなものだろう」

「だから、そうならねえためにやることやってんのーー!!」

 

 やるしかないかと腹をくくった手前だが、なんとも緊張感がなくて「調子狂うなあもう」と、脱力して嘆息をつく。

 しかしカイドウは違っていた。寧ろ、より警戒心を強めた。いつの時代も余裕というものは、強者にのみ許される態度だと熟知するからこそ。

 

「侮るなよ。ゲッコウガにヘルガー……いずれも、相当育成しないと発現しない進化形だ」

「わーってるよ、んなもん」

 

 いや、前言撤回か。

 

「だから、合わせろよ。……友達いねえから、大変だろうけど」

「……お前にだけは絶対にいわれたくない言葉だ。そして合わせるのは、お前だ」

 

 赤熱化した鉄のように、煌々と暖気を蓄えたその眼を見る限り――どうやらスイッチは入っているらしい。叩き合わせる拳が、だめ押しの証明になる。

「なんだなんだ」「バトルがおっぱじまるらしい」「ていうかあれ、ジムリーダじゃない?」

 人目が少しずつ増えていく。さあさあまばたき厳禁のお立ち会い。拳で語る職人の、業前披露の始まりだ。

 

「しっかしジムリーダーとダブルバトル……すげえことに巻き込まれちまったなあ」

「上等だ。相手にとって不足はない」

 

 一歩踏み出した。苦手な顔を見て、輩に絡まれ、猫の救助を行い、今度はいわれのない人助け。内心で本当に最高な一日だ、と悪態を垂れて、職人と賢者は並び立つ。史上最強のブレイン&パワーズの誕生だ。

 

「ゲッコウガはオレが持ってやる」

「取りこぼすなよ。言ったからには」

 

 片や眼鏡のポジションを正し、片や首から提げた鉄製ホイッスルを唇で挟むのは、誰もが見慣れたルーティンで。

 地獄の番犬と決水の忍者の猛りを掻っ切るように、笛が吹かれた。

 

 やがてそれは始まりの合図となりて、四者を戦場へと駆り立てる。



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03.職人と賢者と歌い手と

『中央区、ビッグタス公園行き。ビッグタス公園行き』

 

 人が作り出す大波を、縫っている。

 

『出発致します』

 

 呼吸を荒くし、風に汗を流して、湿った肌を乾かして。

 

『間もなくドアが閉まります。ご注意ください』

 

 少年少女は三人で、走っている。

 

「乗り――ッ!!」

「まあああああああああああああああす!」

 

 遠ざかろうと走り出した路面電車に、縋るように飛び乗った。

 ぐわん。一度は慣性にやられた三半規管も、数秒もすれば元通り。駆け込み乗車なんてタブーの所為で襲ってくる視線も知らんぷりで、出入り口の縁を掴む。ギリギリで乗り出した身を踏ん張りながら、未だ追い付けずにいる一人に手を伸ばした。

 

「彼女に掴まって!」

「追い付けるか、一緒にするな脳筋!」

「言ってる場合か!? ちったあ根性見せろメガネ!」

 

 必死に走っているのだが、どうにも日常で運動が遠い場所にあるのがわかる、そんな早歩き。

「早く!」「く、っ!」

 白衣が揺れる。髪が靡く。フリルが暴れる。各々気流に遊ばれるまま、つんのめって手を出すカイドウ。柄にもない、そんな形相が伸ばした掌をアサツキはしっかりと握って、

 

「うお、らああああああああああっ!」

 

 全力で引き寄せた。

 一瞬浮ついた長身はどうなることかと思ったが、きちんと箱の中に吸い込まれてくれて、安堵するように壁面に寄りかかった。尤もこうして肩でする息は、安堵のそれとは限らない。

 寧ろ怒りの類、なのかも。

 

「お前、な……何考えてんだ……!」

「助けを求めたかと思えば、バトル中に突如として逃走……正気……では、ないぞ……」

 

 呼吸の合間に物言うのか、物言いの合間に呼吸をするのか、三者の誰もがまるでわからないので、事の説明が多くなくてもいい。

 つい先ほど、追手から助けてくれと半ば泣きついてきた少女が、その追手を追い返している最中に逃げ出したのだ。それ以上でも以下でもない、発生してしまった単なる一人の奇行の話。

 そして二人が即刻バトルを切り上げ、大急ぎで彼女を走って追いかけ、今に至る――。

 

「ごめんごめん……、人が集まっちゃったから、さ……あんまり目立っちゃいけなく、って」

 

 軽く折り曲げた膝に両手を置いて、目一杯酸素を取り込みながら少女は言う。

 

「お前な! さっきから滅茶苦茶言いやがって――!」

 

 先程からまったく話の内容が見えない事に対しての苛立ちもあったのだろう、アサツキはいよいよ彼女への語気を強めた。

 の、だが、少女がへとへとになりながら行った指さしで、それが遮られる。どうも背後の何かを示していたようだったから、おもむろに振り向いた。

 爪が向く先、それはつり革で甘く固定された客でも、流れていく景色でも、まして座席でもない。何とない車内の吊り広告で。

 載っているのは、今現在車両に乗っている、彼女の顔であった。

 

「――――は?」

 

 繰り返そう。

 

「騒がしくなるのはまずいな~、って、そんな感じ」

 

 近日中に発売する新曲宣伝の意図を込めた、彼女の――アーティスト『Freyj@』の顔であった。

 それからアサツキは、何十回と平面と立体の彼女を幾度と交互に見比べていた。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 ステラとのやり取りから、色々な事を思い出す。

 Freyj@というアーティストがいるという事。

 そしてその人物が、有名人であるという事。

 又、今夜この街で、ライブを行うという事。

 果てに、目の前の少女がその人だという事。

 

「ほんっとに諸々ごめん! んでありがとう! アタシの名前はフレイヤ。フレイヤ・ルウ――って本名言っちゃダメなんだっけ」

 

 そしてこれからカイドウが話すのは、今現在わかった事。

 

「ライブを当日に控えた中で、マネージャーと進行予定を巡って言い争い、その勢いでホテル待機の指示を無視し、街中に飛び出してきた……ということで間違いはないな」

「そだね。強いて言うなら街中うんぬんの前に『息抜きのために』って付け加えてくれると嬉しいかも?」

「じゃあ、さっき戦ったアイツらは」

「ま、雇われのボディガードってとこかな。頼んでないしアタシに限ってあり得ないと思うんだけど、近頃なんか物騒らしいしさ。それで、事務所が」

「っつーことはなんだ。オレらは無駄に戦って、無駄に走って、無駄に疲れたってことか……」

 

 そう言うアサツキはバン、と叩かれたテーブルの音で、小さく跳ねた。

 

「そう、そこなんだよ! 無駄じゃないんだ、全くもって!」

 

 大層な元気で開口するフレイヤだったが、己に集中する無数の目で速やかに声のボリュームを落とす。人が憩う喫茶店の中となれば、それはまさしく必要な行為で。

「ごゆっくりどうぞ」注文したコーヒー『グランブルマウンテン』を出すウェイトレスの笑顔の一言も、途端に嫌味たらしく聞こえてきた。

 

「無駄じゃないってのは、どういうことだよ」

 

 アサツキは今しがた掴み損ねた言葉の真意を望む。こちらは優しい甘さで定評があるエネココアを、一口。

 ロズレイティーで一息置くタイミングが、それに応え始める頃合いだ。

 

「マネージャーと喧嘩して、空気悪くなって……そん時アタシ、けっこうムカつくこと色々言われたワケ」

「……まあ、喧嘩となったら、な」

「つまり今、気分ががくっと下がってるわけ」

「で? その落ち込んじまった気分を変えたいから、この逃避行に付き合ってくれってか」

 

 察しの良さからかはわからないが、アサツキは彼女よりも先に彼女の言わんとすることを並べる。これが正解か不正解かは、両手で指さすジェスチャーで確かに伝わった。ビンゴ!と思わず口走った後に、すぐに「じゃなくて」と、取ってつけたようなしおらしさで、頭を下げるお調子者。

 

「このままいても、きっとアイツらがまた探してとっ捕まえに来るんだよ~……。こんな気分でステージの上に立ちたくないし、歌いたくないんだ。だからお願いっ! ちゃんと準備開始の五時には戻るから、その間だけでも、このお姫様を守ってはくれないでしょうかっ……!!」

「自分で言うかお姫様」

 

 垂れた首の上で合わさる掌が、切実さを如実に表している。

 渋い顔、とでも云うのだろう。そんな表情で腕を組むアサツキの内心は、けして明るいものではなくて。

 折角の休日を願ってもない、なんなら願い下げたい面倒事に丸ごと費やすこととなるのだから、無理もないだろう。特段次にすることを定めていたわけではないが、それとこれとは話が別。

 悩み抜いた末、現状同じくテーブルを囲うカイドウの腹積もりが気になって、視線を向ける。図らずも同時で、彼の口が開いた。

 

「結論を急ぐと、断る」

 

 ばっさりだった。ガムシロップとスティックシュガーをコーヒーに溶かしながら。

 

「お前がどこの誰で、どんな奴から逃げて何をするのも勝手だ。が……それに巻き込まれてやるかどうかも、また俺の勝手というものだ」

「そこをなんとか!」

「駄目だ。身の危険がある訳でもなし、守ってやる義務もない。他を当たるんだな」

「ぬっ……」

 

 カイドウは無慈悲、という訳でもない。ただ良くも悪くも『平等』であるだけだ。そんな根底に対しては拘りどころか自覚すら持っていない。だから子供でも、大人でも、老いも若きも男も女も人畜生も、皆あるべき姿のままで接することが出来る。

 こいつにはそういう強みがあるんだなと、場違いながら隣で納得するアサツキ。

 カフェインの摂取と糖分補給を一度に済ませる飲料を飲み干し、カイドウは席を立った。

 

「俺の分の金は置いていく。後はそこの脳筋とでも話を付けろ」

「お、おい」

 

 続けてポケットから取り出した黒の財布を開ける。煮え切らないままのアサツキの事など、構うこともない。元々行動を共にする予定だってなかったのだから、当然か。

 寸分の狂いもなく、自身が注文した分きっかりの額を小銭で並べた。それと同時に視界へと躍り出る一枚の紙は、見逃そうにも見逃せなかった。

 しかしそれでいいし、それがいい。少なくともフレイヤにとっては。

 ぎょ、という表現で、通じるだろうか。どちらにせよ滅多なことでは表情を変えない、鉄仮面という曰くすら付くような男が目を白黒させているのだ。よほどの事であるというのは、間違いない。

 

「……何の真似だ」

「何の真似も何も、そのまんまっしょ? お好きな額を書いたらいいんだよ」

「こ、小切手……」

 

「ちなみに本物だよ?」

 紙の差出人であるフレイヤが、強調するようにそれへ指の腹を置く。

 

「まあつまり、『日雇いでどう?』って言ってるんだけど」

 

 こんな人生初の遭遇だ、驚くのはアサツキも同じであった。こんな場所でそれを見るなんて思わなかったし、自分よりも若いこんな人がそれを出すなんてことも思わなかったから。

 

「カイドウは、研究所務めだよね。そこらへんあんま詳しくないけど、お金が増えたら研究が進むっていうのは、アタシでもわかるし……、アサツキは、そうだね。こういう格好してるぐらいだから、きっと遊びにきたんでしょ? その分のお金が全部誰かによって支払われるんだとしたら、どうかな?」

 

 当惑と、驚愕。二人は、どうやらフレイヤを過小評価していたようだった。もしかするとわがままでお調子者なだけの小娘とでも、思っていたのかも。そうやって失念していた。

 彼女は曲がりなりにも早くに世間へ出て、活動し、賃金を貰う社会人だ。こういった『大人のやり方』というのも、無論熟知しているわけで。気付けない方が悪いのか、気付かせない方が悪かったか。その議論は別の機に譲るとする。

 立場が、一気に対等になる。均衡が保たれた途端、無邪気な笑みに不敵な意思が加わったような、そんな気がした。

 

「改めて『ご依頼』です。今から数時間、アタシのボディガード――どうかな?」

 

 単純なわがままから改まる取引の申し出に、視線を漂わせるアサツキと、足を止め見下ろすカイドウ。

 片や、行政局に頼んだ通行許可証が手元に来るのは五時。片や、この先に予定らしい予定はない。

 一時的に背負う肩書は荘厳なものかもしれないが、ほんの僅か少女の道楽に付き合ってやるだけで金が貰えるというのなら――二人が下す決断は、一つであろう。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 それは駆動音なのかもしれないし、電子音声なのかもしれない。いや、ひょっとするともっとシンプルな、人の声の塊かも。空調の怠慢で生ぬるい空気がのさばるその中で、フレイヤは立っていた。

 

「お縄に付けい……ミュウツーっ!!!!」

 

 騒音にも負けず猛々しく叫ぶと同時、手に持ったモンスターボールを対面する大きな機械の箱へと全力で振った。

 すると、箱の中のいでんしポケモン『ミュウツー』は、すっぽりモンスターボールに収まって、大人しくなった。かちり、と発される星のエフェクトが、ダメ押しの知らせを届ける。

 

「いよーーーーーっしゃあーーーーー!」

 

 遺伝子操作の果てに生まれた人工生物――フレイヤは実在すら危ぶまれた伝説のポケモンと遭遇するばかりか、なんとゲットまでしてみせた。これは後世に語り継がれるべき偉業に他ならない。

 

『特別ステージクリア、おめでとう! よくぞ150匹目のポケモンをゲットしてくれた! 君のようなトレーナーを助手に持つことが出来て、ワシも鼻が高いわい! 祝いと言ってはなんじゃが、景品を受け取ってくれい!』

 

 それでもこの場に居合わせる誰一人として関心を示さないのは、きっとこれが「ゲームの世界の話」だから。

 

『ぜひともまた遊んでくれ! みんなもポケモン、ゲットじゃぞ!』

 

 筐体にあしらわれた画面の向こうで、ポケモン研究の権威と呼ばれる博士がそう言った。続けて取り出し口から出てくる景品は、今しがた掴まえたミュウツーのフィギュア。

 フレイヤはガッツポーズをつくり、もう片方の手に持ったバッグにそれを仕舞う。

 誰でも本格的なポケモンゲットを体験できるシミュレーションゲーム『Let's GOポケモン!』は、まさしくフレイヤのような非トレーナーの層から人気を博している。少なくとも家庭用からアーケードに移植され、こうしてアミューズメント施設に置かれるくらいには。

 

「やっぱゲーセンはいいね。思いっきり騒いで遊べる」

 

 休憩がてらの独り言。

 週末というのも手伝ってか、人が多い。どの趣味にも一定数の愛好者がいるというのは不変の事実なもので、このアーケードゲームとて例外ではない。たとえいくら金がかかっても、だ。

 

『K,O!!』

「……よっし!」

 

 そしてここにも、多くの時間を割けてはいないものの、愛好者が一人。

 ポケモンを操作し、リアルタイムで多種多様な技を出しあって戦う対戦格闘アクション『ポッ魂』は、アサツキのお気に入りゲーム。ラジエスに来たら、必ず遊んでいく。

 

「フン、馬鹿らしい」

 

 フレイヤの「すごいじゃん!」という賞賛も遮り、立ち上がる対戦相手(カイドウ)

 

「へっ?」

「一秒でも意味ある時間消費ができればと考え、騙されたと思ってプレイしてみたが――本当に子供騙しだったな。心底呆れた。し、時間を無駄にしたぞ」

「ん? えーと? つまらなかった、って言ってるの?」

 

 発言の意図が理解できない、といったフレイヤの表情は、霧がかった知らぬ道を歩く者のそれ。心の底からの不理解とそこに添えられた不安だが、さしておかしなこともなく。むしろ初対面なら正解でもある。

 

「ほっとけよ。下手くそなのをゲームのせいにして勝手に騒いでるだけだ」

「お前はつくづく人の神経を逆なでする奴だな。他人と言葉を交わさないからそうやって短絡的な面だけが肥大化していくとわからんのか」

「……対戦の続きでもやりてえのか? 今度はもうちょいリアルなグラフィックでやれそうだけど、どうだよ?」

「悪い話じゃないな。少なくともカイリキーに手も足も出せないまま倒れるサーナイトや、スイクンを一方的に撃破するバシャーモが出るゲームよりかはうんと楽しめそうだ」

 

 不正解の瞬間を目の当たりにした時の一瞬、ほんの少しだけ「雇う相手を間違えてしまったか」と後悔したのは、秘密の話。

 ぐん、と背面に伝わる力で、注意がそれる。フレイヤが二人の背中を力一杯押していた。

 

「おい、何すんだよ!?」

「まあまあ喧嘩はここまでにして、せっかくだしプリでも撮ろう、ねえ!」

「はあ!? なんでそうなんだよ!」

「おい、プリとはなんだ!」

「仲良くしようって! 親睦を深めるにはプリが一番だって、ラフエルも言ってた!」

「ラフエルそんな十代みてえな感性してねえだろ!」

「それよりプリとは一体なんなのだ! よく知らんが、俺はこいつと顔を合わせるだけでも精神的負荷がかかるというのに、何かをするなど可能なはずがない! まっぴらだ!」

「はあ!!? オレだってお前と一つ同じ宇宙の下で生きてるだけで一苦労だっつの! 自分だけみてぇな言い方してんなよ!」

 

 ゲームセンター特有の騒音にもまったくひけを取らない賑わい。ぎゃあぎゃあと竜巻よろしく巻き起こる、文字通り三者三様の大喧騒。

 迷惑を誤魔化せてしまうのは、果たして良しなのか悪しなのか。それを知るのは、こんな悪戯を仕掛けた神のみぞ。

 交差する職人と賢者の時間は、もはや他者をも巻き込みひとつの奇譚に飛躍して。

 

「なんか、こういうところでは息が合うよね」

 

『合ってたまるか!』

 

「喧嘩するほど仲が良いって」

 

『言うわけないだろ!』

 

「そういうとこね」

 

 約束の時を目指して、珍道中は続いてく。



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04.『アサツキ』

 ただハイテンポに連なるのは、レールにしがみついたカーテンが滑空する音。

 

「あー、いい! いいよ!」

 

 しゅるり、しゅるりと開いて閉まってを繰り返す。

 

「これもよき! かわいい!」

 

 忙しないだろうか。きっと忙しないだろう。

 

「んん好き! これすっごい好き!」

 

 それでも咎められないのは、ここがアパレルショップ、それも試着室だから、というのが理由にある。

 アミューズメント施設の次は、ショッピング――ひとしきり遊戯に洒落込んだなら、お次は買い物という訳だ。三人の若さ任せの道楽は、まさしく十代の風情を漂わせていた。

 

「ねねね、ポーズ取ってポーズ! んで次はこれ着てみよ!」

「やめろよ、恥ずかしいだろが……」

 

 ショッピングエリアに入ってから、カイドウと「時計塔の下で一七時に再集合」という約束を取り付けて別れ、さしずめ即興ファッションショーを楽しむアサツキとフレイヤ。尤も、フレイヤが一方的にアサツキを着せ替えているだけなのだが。

 

「やっぱアサツキはちっちゃいから、美人系よりもかわいい系だよねえ。アタシ似合わないからなー、憧れるわホント」

「逆に、オレはその美人系が似合わねえんだけどな」

 

 アサツキはそんな短い苦笑いの間にも、フレイヤのリクエストに応えるように、次々と彼女が持ってくる洋服を着こなして見せる。

 タートルネックニットにフレアスカートで、上品に。デニムジャケットにミニスカートで、可愛らしく。花柄ワンピはその小さな体躯に彩りを与えるし、ストライプのロングシャツは少し大胆だけれど、ジーンズとなかなかどうしてベストマッチ。

 素人目でも、どれもこれもが彼女にぴったりで。似合うものを選んでくるフレイヤが凄いのか、それとも着こなすアサツキが凄いのか。どちらにせよ、今は考える必要はないのだろう。

 

「うん、これも似合ってる。回って、回って」

「そうか? 自分の中では、そんなに合ってる感じもねえけど……」

「かーわーいーいーよー! 写真撮っていい?」

「ばっか、タグついてんだろって」

 

 彼女たちの心底から零れている笑みが、そんな事を示している気がした。

 

 

 

 レジカウンターにて清算。表示された金額を見て、露骨に渋い顔。とかく衣服というのは安いものではないなと、再認識。フレイヤこそは「小切手あるし! 大丈夫大丈夫」なんて、涼しい顔で。能天気な彼女の声を聞いて、時間も一緒に買ったと思っておこう、と考える。

 まとまった紙幣と細々した釣銭を交換して、衣類が詰まった袋を二つばかり受け取って、その穴に腕を通して。開口した財布への釣銭入れに少しだけ手間取りながら、身を翻した。

 

「アサツキ! タイム!」

 

 身を、さらに翻す。「なんだよ」と言う前におお、と感嘆の声が漏れていた。具体的には、彼女のかわいいセンサーに、何かしらがビビっと反応した時の声。洒落の利いた表現してみれば、アラートというやつだ。

 

「ね、めっちゃよくない!?」

「あ、ああ……めっちゃ、いい」

 

 二人の視線の先、レジ機のすぐ横にあったのは、流れ星ポケモン『メテノ』がデザインにあしらわれたヘアピン。小さな木の籠に、ビニール包装されたものがいくらか入っていた。

 

「それ、今売れ筋なんですよ。色も複数あるから、お召し物に合わせて変えられますし」

 

 そう言う店員の髪筋にも、キラリと光る小粒の流星があって。

 実演、というわけではないが、こうして気になる物が目前で実際に使用されているのを見ると、俄然欲してしまうのが人の性。

「赤いの、一つください!」次の瞬間、フレイヤが口にすることは一つ。

 

「ありがとうございます、三二五円になります」

「アサツキも買うよね!」

 

 言わずもがなだ。既に色選びに煌びやかな視線を迷わせているのだから、訊くまでもないことだろう。

 デザインもかわいい。着けた状態もかわいいし、隣の陽気な少女が着用した姿だって容易に想像が出来る。かわいい。だから、きっと自分も。自分だって――。

 

 

『二度と話しかけねーよ、カイリキー女』

 

 

 自分、だって。

 

「アサツキ?」

 

 妹や母から、よく似合うなんて云われていた、オレンジ色。力と元気に溢れて、でも優しい温かさも備えた、大好きな色。それを取ろうとした手が、ぴたりと止まった。

 アサツキは隣で訝る少女の「どうしたの?」なんて問いかけに、苦々しく頬を綻ばせて、

 

「オレ、やっぱ、見てるだけでいいや」

 

 苦し紛れに、言葉を絞り出した。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 ラジエスの西側がショッピングエリアなのは、ちゃんと理由がある。海にほど近い場所故、船で来た品物の流通を迅速に行えるからだ。

 こんな夕刻になっても、最西端の公園から望めるラフエルの海上では、貨物船が悠々と歩みを進めている。汽笛に驚いたのか、水上のキャモメがぱたぱたと羽ばたいていった。

 他に見えるものなんて、ただ水平線に落ちていくだけの夕陽ぐらいだが、その景色もこれまたどうして馬鹿にならなくって、なかなか見ごたえというものがある。

 

「よよ、お待たせ」

「ああ、わり」

 

 ベンチに腰掛けたまま、柔らかな潮風に撫でられるアサツキ。ひときわ強いものが吹いてきた時に、思わず俯いた。その先の視界に躍り出てきたフレイヤの手の中のトロピカルきのみジュースを、礼と引き換えに受け取る。

「それ、百万円したから」「はは、なんだよ、それ」背負う夕明かりで影になって視認出来なかったが、冗談めかして、にししと笑んでいるのは声音でよくわかった。

 隣に座って、二人して取る休憩時間。特段不自然な事もなく、追手が来ることもなく、時刻は一六時半を回ったところ。重ねるのは、つい先ほどまで観ていた映画の話。

 

「てーかさ、アサツキってば、さっきのホラーシーンやっぱ見てなかったよね? 洋館に養子で貰われてきた女の子が、執事さんを殺すとこ」

「み、見てたっつってんだろ。ビビってねーし」

「いやいや、ビビってたなんて一言も言ってねーし」

「え、うぁぐっ……」

「大体ヤバいシーンくる時、アタシの肩に顔うずめてたっしょ?」

「だー! 言うな! 言うなってもう!」

 

 アサツキのクリムガンのような真っ赤な顔を見て、フレイヤはけらけらと笑う。朝起きてからどころか、二人がこうして会ってから数えはじめても、何度目の破顔かわからない。カイドウの内心は知るところではないが、少なくとも二人は、それだけ濃密で、充実した時間を過ごしていたということでいい。

 久しぶりに心の底から、無邪気になって、やりたいことをして、時間も忘れて、遊べたと思う。

 一日のスタートは確かに散々ではあったけれど。今になってみれば、彼女に巻き込まれたのも悪くなかったな、なんてアサツキは考えていて。年甲斐もなく、時間の経過に対して惜しさすら覚える始末だ。

 いや、もしかすると、彼女がスター『Freyj@』だからなのかもしれない。多忙だし、長い時間同じ場所にいられるような仕事でもなければ、立場でもない。自分だってそうだ。通常の商品に加え、ネイヴュ復旧工事用の部品も作っている今の工場で、やっぱり自分の空きを作れる時間は限られ過ぎていて。

 次はないのかも――とか、焦燥のような、悲嘆のような。

 しかして女子の会話というものは、秋空よりもずっとずっと移ろいやすく、変わりばえしやすい。感傷に浸るのも野暮なのだろう。

 言っているそばからそうで、出し抜けにフレイヤが出したのは、今ここにいない人物の話。

 

「てか、カイドウどこで何やってんだろ。ぜんっぜん想像つかないわ」

 

 それはオレもだよ、と、内心で返す。されどそれでは会話も終わってしまうので。

 

「……家電とか、見てんじゃねえか?」

「ぶっは! 数時間も家電見る!? ちょーウケんだけど!」

「しっ、知らねーよ、オレだって!」

 

 さておき「携帯とかは見てそうだよね」「ああ、あり得るな。いつも最新のにしてそう」という、取るに足らない会話もするが、

 

「どのみちアイツは訊いたとこで、ぜってー教えてくんねえよ。どうせ『それをお前たちに教える必要があるのか』とかなんとかごたごた並べながら、突っかかってくらぁ」

 

 そんなアサツキの愚痴にも聞こえる仮説で締めくくられる。

 厳密には「目に見えるわ」という一言で終わらせたかったのだが、珍しく多く喋るもので喉の水分も減りが早いのだろう。ジュースで喉を潤す動作に打ち消された。

 

「アサツキってさ、カイドウのこと結構好きでしょ」

 

 尤もそれもまた、噴出という動作をもってキャンセルされるのだが。次にアサツキがすること、いや、してしまうことは一つであった。げっほげっほと噎せ返って、胸元をどんどんと叩いて、落ち着く頃の心底物言いたげな表情に続けるフレイヤ。

 

「ごっ、ごめんごめん、ラブじゃなくてライクの方だからね?」

「そういう問題じゃねえだろ!」

「え、違うの?」

「ちっげーよ!」

 

 食い気味の返答でも、まだ気道の準備が整っていないのだろう。もう暫くだけ噎せて、ようやく静かになった。滑稽と笑うように、ヤミカラスがかあかあと鳴く。

 

「結構そんな感じ出てたんだけどな……、違うのか」

「ああ……やっぱ、ちげえよ」

 

 アサツキははあ、とため息を吐いて、ぽかんとする彼女の独り言にそっと訂正を加え始めた。

 

「好きとか、嫌いとかさ。たぶん、その、なんだ。そういうのじゃねえんだよ……アイツは」

 

 発話を滞らせ、喉元で言霊を渋滞させながら。

 

「あ、いや、あれだぞ! 口うるせえし感じ悪ィし配慮とかそういうのねえし、そういうとこはムカつく! くっそムカつくんだ!」

 

 歯切れが悪くて、言い淀んでる。必死さが滲んでる。

 

「ムカつくん、だけどさ」

 

 苦手も苦手、超苦手。まさに彼に対する意識が見て取れる――そんな語り口。

 

「ああやって、誰にでも自分の態度崩さねえで奔放なとこは、……たまに『羨ましいな』って、思ったりもするんだ」

 

 それでも彼女が今、この場で――彼がいない日陰で、日向では絶対に言わないことを言っている。

 この光景は、きっと大きな意味がある事なんだろうなと、フレイヤにもすんなりとわかった。

 自由でいること。自分が自分でいること。誰の型にもはまらない、他者の言葉に踊らない、どんなものにも抑圧されない。そういう『強さ』。

 アサツキがずっと欲しがっていて、そして今でも欲しいもので。

 女の子だから、男っぽいだなんて茶化されるのが嫌で。かわいい服を着るだけで笑われるのがさらに嫌で。そういうのを気にせずいられない自分の弱さもすごく嫌で。でもだからって自分を捻じ曲げるのはもっと嫌で。せっかく買ったを服を、身に着けた姿を想像するだけで終わらせるのはもっともっと嫌で。

 ――いつしかアサツキは、フレイヤに抱え込んだ何もかもを吐き出していた。

 今日会ったばかりだけど。本当なら他人にこんな姿を見せようものなら、その夜は風呂で一人反省会だけど。

 身勝手だけれど、もう会うこともないだろうから――と考えて。

 当のフレイヤはというと何を言うでもない。彼女の気が済むその瞬間まで、無言でずっと視線を向けていた。

 

「なるほどねー……。だから、買わなかったんだ。着けたくても、着けられないから」

 

 そして長らくの沈黙を破壊しながらに思い浮かべるのは、彼女がヘアピンを諦めた、先刻の記憶。

 

「アイツにイラつくのは、もしかすると、そういうのもあるんじゃねえかな……って、最近思い始めた」

「嫉妬みたいな?」

 

 こくん、と静かに頷く。

 

「『オレはこんなに我慢してんのに、なんでこいつは』、みたいなさ」

「あー、なるほどね」

 

「情けねえよな」相槌が止んだら、くた、と首を前にへたらせて、視線をそっと落とし込む。自嘲する横顔が、痛々しく心の傷というものを表す。話はそこでぷっつり途切れた。

 気が済んだのか、それとも己に辟易したのか。どのみち再集合の時間も近いので、この心境をいつでも引きずる訳にもいかない、という頭はあって。

 無音を取り消さんと立ち上がった、そんな折だった。

 

「……――」

 

 旋律が、突然耳朶に流れ込んできた。楽器らしいものもなく、それを持つ者も周りにいなかったものだから、あまりに不意のことで最初は目を真ん丸にした。が、少しおいて、それの出所がフレイヤの口の、喉の、声帯であるということがわかった。

 蓋を開ければ何のことはない――歌、であった。

 でも、何のことはないその曲に、アサツキの耳は自然と傾いていた。芯の通った優しい歌声に、温かさを湛えた詩が乗って、浮雲みたく、ゆっくりなだらかに流れていく。

 足をぶらつかせ、海の向こうを望みながら、その場にいるポケモンも、人も、植物も、果ては建物や車なんて無機物までもを聴衆にして、フレイヤは唄った。まるで森羅万象を抱き締める、陽光のような(バラード)を。

 上手いとか、下手とか、そういったところよりも前の段階で聞き入ってしまったのは、きっと「魅了された」と云ってもいいのかもしれない。

「アカペラだけれど」アサツキが言語能力を取り戻すのは、フレイヤが再び開口してからだった。

 

「あ、いや……いい歌、だな」

「ありがと」

 

 にこ、と微笑んで、返す。そしてこの歌がまだ未発表のものであること、そして何よりも“これ”こそが此度の騒動の発端になったことを、アサツキに打ち明けた。

 

「アタシ的には、自信作だったんだけどね。ただマネージャーに聞かせたらボロクソこき下ろされちゃってさ! やれ『お前はロック以外似合わない』だの、やれ『慈善事業じゃないんだから売れそうな歌にしろ』だの! お前は何様だっての! てか、思い出したらまた腹立ってきた!」

 

 わなわな、とオコリザルよろしく歯噛みして拳を握り締める形相に、苦笑するアサツキ。彼女からすれば、そんなフレイヤの姿は意外に映った。たった一日という時間で人を知るのは早すぎるなんて言われればそれまでだが、少なくともこの短い時間の中で得たフレイヤの情報から見れば、こんな様相は想像だにしなかった。

 だって、明るくて、大らかで、一緒にいるだけで元気が出て。だから。

 

「――アタシさ、“英雄の民”なんだ」

「……へ?」

「あ……、知ってる? 英雄ラフエルの」

「し、知ってるも何も、知り合いにいる」

 

 テルス山を指し示す、人差し指。独白の隙間を突いた、攻守交代。今度はフレイヤが、私の番だと言わんばかりに自分の話をし始めた。アサツキは語られる出自で一瞬呆気に取られこそしたが、身近に同じ生まれの者がいたお蔭で、そう時間を食わずに理解が進んだ。

 

「まあさ、そういう、天下の大英雄様の末裔ってやつになるからさ、やっぱり色々と厳しい決まりがあるんだわ。おまけに民族だしさ。服装だとか、食事だとか、生活のあれこれで」

 

 そうなのか、というのが率直な感想だった。というのも、その身近な人物というのが、そこまで英雄の民というものについて詳しく語ってくれない所為なのだが。

 

「んで、それがアホらしくなっちゃって」

「『なっちゃって』って……、もしかして」

「うん。家出た。喧嘩して勢い任せで飛び出してきた」

「すっげえ行動力だな……」

 

 曰く『波乱万丈』な、彼女の軌跡にある種の感心を示すアサツキ。

 無一文で家を出てきたものだから、生活に困って路上のダンボール布団で寝たこと。雑草を食べたこと。同じ服を一週間も着回したこと。悪い人間に襲われかけたこと。湖で水浴びをして溺れかけたこと。お金を求めて自販機の下を漁ったこと。そうして入手したお金で豪勢なパン耳ディナーにしゃれ込んだこと。でも、このままじゃいけないと思ったこと。ゴミ置き場から拾った薄汚いギターで、素人のまま路上ライブを始めたこと。少しずつ上達したこと。お金を貰えるようになったこと。そして、スカウトされたこと――――彼女特有の、手短で、簡潔で、どこか語彙力が足りていないトークではあったが、色々なことを聞いた。知れた。

 

「だからさ、アタシもアサツキと一緒。型に捉われるのがどうしようもなく嫌だし、誰かからあり方を決められるのも、まっぴらごめんって感じ」

「……でも、お前は強いな。そうやって行動を起こした後の事を、何も怖がってなくて」

「あーね。確かにホームレスはキツかったけど、それでも楽しかったよ。だって嘘つかないアタシが、一番したかったことだもん」

 

 どん、と音がした。幻聴なのだろう。ここにいるこのアサツキ(・・・・・・)にとっては。

 空気の振動は明確な向きを指示する。耳孔をくぐり、鼓膜を打った。そうして生まれた鳴動が響き渡り、灰白質を渡って扁桃核に潜り込む。されどもまだだ、まだだと言霊は呟いて、さらなる意識の向こうへと少しずつ沈んでく。やがて今の人の言葉では説明できない場所に達して、それすらも道程に置き去りにして。

 届いた先は、皆に憧憬を抱かれる、頑固で、強いと呼ばれる男勝りな彼女じゃない。

 受け取ったのは、吐かざるを得なかった嘘で塗り固められた、そんな悲しい彼女じゃない。

 

 フレイヤが手を伸ばしたのは。

 

 無数に重なる他人の言葉で真黒く塗り潰された――小さな小さな少女。押し寄せる誰かの幻想に自らの声をかき消されて、ずっとずっと目隠しして泣いている、一人の女の子。

 

 偽らない、本当のアサツキ。

 

「もう大丈夫だよ」と、誰かが言った気がした。

 ――霧にくるまれた視界が、ゆっくり晴れていく。

 アサツキは、いつの間にか大きくしていた琥珀玉のような目を、元に戻す。そして、まばたきを一つ。次に見えた風景には、優しく笑いかけるフレイヤがいた。

 ああ、そっか。そうなんだ。自分はきっと――心細くて、しょうがなかったんだ。

 自分が自分でいることに平気な人ばかりで。何も苦しむことが無くて。そんな人しか見えてなくて。

 だから、自分が一人ぼっちなのかもって思い込んで。焦っていたんだ。

 

「ねえ、アサツキ」

 

 時間が流れ出す。

 

「アタシこうなってから、やりたいことが出来たんだ」

 

 空間が広がり始める。

 

「全ての、自分を見失ってる人たちに――アタシの歌で、自分を取り戻させてあげたい」

 

 鼓動を、この身に感じる。

 止まっていた世界が、再び動き出した。

 

「できると思う?」

 

 フレイヤはそう問うて立ち上がり、尻をぽんぽん、と払う。そんな彼女に向き直るアサツキの瞳に、もう迷いはなかった。

 

「……できるよ。少なくとも今、ここで、取り戻せた奴はいるから」

 

 ありがとう。そう短く言うと、小さな頷きが返って、

 

「ん。短い人生、思いのままに生きろ」

 

 元気いっぱいの笑顔も、おまけで忘れずに。

 それを締めに、深みの極みにまで突き進んだ女子二人の会合は、終わりを迎える。携帯で時間を確認すると、一六時五〇分を過ぎようとしているところだった。

 まずい、時間にタイトなカイドウにどやされる、とはアサツキの言。フレイヤもフレイヤで「一〇分前行動は社会人の基本だろうが、ふん! ふん!」などと、微塵も似てもいない物真似で笑いを誘いながら、ベンチに預けた荷物を持ち直す。

 目指すはもう少しだけ東に向かった先の、飲食街入り口周辺の時計塔。そこでカイドウと合流し、報酬の受け渡しを行い、改めてそれぞれが別れるという手はずだ。

 

「最低でも五分前には着いておかないと、また文句言われんぞ」

「うわぁ、見た目通りの人だな……」

 

 そんな事を愚痴りながら、急ぎ足の爪先を東側に向けた、その瞬間のことであった。

 

 

『オォォォォォオオオオオオオオオォォォォォオオオォォォォォオオオオオオオォォ!!!!』

 

 

 突如打ち上がったその音は、最後の最後で、彼女たちの平穏を脅かす。



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05.私が私であること

 ――愕然。最初に揺すられた二人の恰好は、それだった。

 天まで叩き割ってしまうような、凄まじい音がラジエス全域を揺らしたのだ。

「な、何、今の!?」「わかんねえ。けど、ただ事じゃねえ」晴れ空だから、雷はあり得ない。隕石などもっともっとあり得ない。暫しの静寂を押し退け、アサツキとフレイヤはきょろきょろと辺りを見回す。しかしあるのは同じように今の衝撃に圧倒されてどよめく者ばかりで、肝心な異変のようなものは見当たらなく。これだけの音量で誠に信じられない事ではあるのだが、音源はどうにもすぐ近くではないらしい。

 

「今の音、なんだったんだろ……は、花火?」

「なわけ。……あんまり考えたくはねえことだけど――ッ!」

 

 ズドド、ドォン。

 

「ちょちょ、マジほんとなんなのーーーーーーっ!?」

 

 再びの、謎の音。次は音色というものが少し違っていて、天というよりも、大地をぶち壊しそうな勢いを持っていた。フレイヤは驚きと恐怖でしゃがみこみ、たまらず視覚と聴覚を遮断したが、アサツキは違った。そして明確にその音の正体を理解した。

 自分だって、あまり当たっていてほしくなんてないが。むしろ外れであってほしかったとさえ思うが。

 

「――――ポケモン、だ」

 

 遥か向こう――東区(イーストエリア)から立ち込める大きな煙を見れば。否定など出来る道理がないじゃないか。

 ゾクリ。アサツキと視覚情報を共有した誰も彼もが、背骨を悪寒にわし掴みされた。こんな情勢だからこそ、何が起きても不思議じゃない。今のラフエルだからこそ。

 

「アサツキさん!」

「ステラ! ……それに、カイドウ!」

 

 最悪のビジョンが頭蓋の中を過った時だ。数時間ぶりのカイドウを伴ったステラが、とても険しい面持ちで駆け寄ってきた。

 一目してわかるただ事ではない事態の詳細を訊ねようとするアサツキだったが、ステラはそれよりも早くに言葉を紡ぐ。

 

「落ち着いて聞いてください。現在東区で、ポケモンが暴れ回っています」

「それも巨大も巨大、超特大サイズのヤツがな」

「なんだと……?」

「これを見てください」

「……!」

 

 次いでステラが差し出した携帯電話に、全ての疑問の答えがあった。

 SNS上の一般人による投稿。画質が荒く、画面のぶれも酷い。が――確かに再生された動画の中には、けたたましい咆哮を上げ、狂戦士が如き秩序ない挙動でラジエスの街を破壊する、熊型のポケモン『リングマ』の姿があった。

 それもカイドウが言う通り超特大サイズで、推定にしても六メートルは下らない。少なくとも「街中で暴れようものならば相応の被害は免れない」ということが一瞬で理解できてしまう程度には、大きい。

「う、うわあ!」しゃれにもならない短い悲鳴で映像は途切れる。最後にリングマがフレームアウトしたのを見るに、撮影者は逃げたのだろう。そう思う他もなく。

 

「おい……なんだよ、これ……!?」

「わからん。突如現れた。原因も目的も不明だ。ただ、これが今ここで起こっていることだというのに変わりはない」

「現在、ラジエス市内を巡回中のPGの方々が対応に当たって下さっていますが、規模が規模――戦力が足りず、注意を引くので精一杯です。なので、避難を呼びかけて回っています。アサツキさん達も」

 

 アサツキはこく、と短く頷く。そして傍らのフレイヤに目を配せた。

 

「……おい?」

 

 何故かはわからないが。そこにいた彼女は、血気の欠片もない青白い顔をして、呆然と立ち尽くしていた。

「フレイヤ? どうした?」不審に思っての質問に、

 

「――テルスの、主」

 

 まるで答えになっていない答えが返る。

 譫言のようにフレイヤが溢したそのワードに、この場の誰もが反応した。

 

「……なんだよ、そりゃ?」

「こいつを知っているのか」

「知ってるも、何も、アタシが住んでたとこの付近に暮らしていた、リングマ、だ」

「住んでた……テルス山か?」

 

 ここに来た理由も、ここで暴れる目的もわかったことではないが、ここにいる存在の正体は、ぶつ切りながらもフレイヤの証言で明らかになった。

 テルス山に生息し、そこの住人の間ではすっかり名物となっていた規格外な体格をした野生のリングマ――通称『テルスの主』。

 彼女が言うには『人懐こく穏やかな性格で、時折遭難者を助けたり、子供にきのみを与えたりするような奴』らしく、彼女もまた彼と一緒に遊んだことがあるとの事。

 進行形でこの惨状を引き起こしている獣とは、あまりに噛み合わない情報だった。

 

「成る程、だから東から来たのですね」

「でも、そんな奴が、なんでこんなこと」

「わからない……でも、きっと何かの間違いなんだ! ほんとはそんなことする奴じゃない!」

 

 すごくいい奴で――というところで、黒と赤の衣服が視界に入る。ラジエス外より応援にかけつけたPGであった。ステラの「ご苦労様です」という挨拶に、柔く返した敬礼がその証拠。

 

「状況はどうなっていますか?」

「現状の戦力では止められないと判断し、市民の避難を最優先に進めていますが……」

 

 目まぐるしく事が進み、場面が切り替わっていく。続けて隊員はトランシーバーで連絡を入れる。その先は当然、現場だ。

 

「こちら本部カーゴ、詳細な状況を説明されたし。どうぞ」

『目標、現在破壊行動を繰り返しながら中央区に向け進行中。“はかいこうせん”や“だいもんじ”といった強力な技を確認済。又、どうやら目の焦点が合っていないため極度の混乱状態にある模様、無傷での停止は望み薄との見立て。どうぞ』

「了解。市民の安全と街機能を優先し、殺傷やむなしとする。至急応援に向かう、状況を継続されたし」

 

 引き続き避難の手引きを。では。連絡後、簡素な挨拶だけを済ませ、隊員達は早急に東へと流れていく。

 フレイヤにとって、そのリングマとの記憶は数えるほどしかないのかもしれない。どこまで重要な存在かと問われると、回答に詰まるのかもしれない。

 しかし『殺傷やむなし』という言葉を聞いた瞬間、眉がぴくりと動いた。

 

「おい、フレイヤ!」

 

 看過出来なかった。

 咄嗟に、その場から駆け出そうとしたフレイヤの腕を掴むアサツキ。不穏を察した形相だからこそ、その様子は筆舌に尽くし難い。

 連なるは、在り来たりな問答。

 

「一体どこにいくつもりだ」

「決まってる、アイツを助けにいかないと! やっぱり混乱してるって言ってたじゃん、誰かに何かされたんだ!」

「バカなことを言うな。あのサイズを止められるはずがないだろう」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!? 殺されちゃうかもしれないんだよ!!?」

「それはお前も同じことだと言っているんだ! 戯言も大概にしろ!」

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!』

 

 二度目の(たけり)が聞こえると、またも大地が揺れた。その根源が近づいているからなのかもしれない、先程のものよりも幾分か激しくなっていて。

 図らないところでカイドウとフレイヤの口論が止んだ折、戸惑うステラを尻目にアサツキは口を開く。

 

「……お前がよっぽどアイツを止めてえってのはわかった。けどそれはそれとして、何か考えはあるのか?」

 

 アサツキの動じない姿勢がそうさせたのだろうか。焦燥に追いやられていたフレイヤではあったものの、返る言葉は存外冷静であった。

 いやむしろ、間もなく聞くこのアンサーこそが、彼女の逸りの裏打ちだったのかもしれない。

 

「全ての英雄の民は、みんな親からある歌を教えられるんだ」

「歌……?」

「英雄ラフエルが、ポケモン達と心を通わせる時に奏でていた歌――『つながりの唄』。その歌詞とメロディは、全てのポケモンに安らぎを与えるって伝えられてる」

「そいつを聞かせでもすりゃ、止められるってのか?」

「……わからない。試したことも、ない」

 

 でも。だけど。それでも。だからって。荒らげた声で、必死に言葉を繋ぎ止めた。

 

「アタシは、友達を黙って見殺しにしたくない。見殺しにされるのも見ていたくない。……だったらやるしかないじゃん!」

 

 確かに自分は生まれた場所を、テルス山を、レニアシティを、家族を、過去を捨てたかもしれない。

 さりとてそこに懐かしむものがあってもいいはずだし、離れた今に想い馳せるものがあったっていいはずで。

 友達は苦しんでいるのかもしれない。辛いのかもしれない。そして誰かのせいでそんな風になってしまっているのかもしれない。そうやって理不尽に殺されてしまうのかもしれない。

 考えただけで居ても立ってもいられなかった。

 

「茶番だな」

 

 だが、虚しくもそんな彼女を一蹴する言葉が、さらに積み重なる。

 クロトとハルク、並ぶ二つの顔には残念ながら見覚えがあった。尤もこのような状況で遭遇するとは、思わなかったようだが。

「探した。ずいぶんと苦労をかけてくれたな」片や腕を組み木に寄りかかり、片や手をひらひらと振っておどけている。それを見たフレイヤの面構えは、より厳しいものになった。

 

「お前ら……!」

「今がどういう状況で、お前が何を考えていようが知ったことではない。言う事は一つ」

「俺らは依頼こなせりゃなんでもいいんだ。マネージャーもスタッフも無事だしさ……とりあえず、戻ってくんねえかい?」

「……誰が!」

 

 返すやいなやその動作、電光石火と呼ぶに相応しいものだった。

 絞まる喉、浮く躰、上向く視界で、フレイヤは自分がどうなったかを刹那で認識できた。

 

「フレイヤ!」

「っぐ、う……!」

 

 されどしかめ顔と短い呻きしか、返せない。詰め寄るなり首を締め上げられては、普通そうだろう。クロトの突き刺すような眼光に、容赦などなかった。

 

「有名人だか、英雄の民だか知らんが……自分を特別視して自惚れるなよ。全てがお前のためにあるんじゃない。我儘も大概にするんだな」

 

 辛抱たまらん、と先に動いたのは、フレイヤでなくアサツキ。

 どんな状況であっても、男性が女性に暴力で訴える行為は許されていいことではないだろう。

 クロトの腕に手を伸ばそうとする。

 

「……い」

 

 ――が。その掌は上がりきるよりも前で止まった。

 

我がまま(・・・・)で……、何が悪い」

 

 大層、不思議な事だったと思う。 

 

「何……?」

「……自分のしたい、ままに生きて、何が、悪い……」

 

 震えて、今にも消え入りそうな声で。

 

「誰だってみんな、みんな……自分でいることが、幸せなんだ」

 

 一言一句の発音すらままならなくて、弱々しいのに。

 

「自分を失くしている奴がいたら、そいつの前で、歌って、あげたい」

 

 フレイヤの言葉はこんなにも強く、大きく響いている。聞き手の耳を奪っている。

 

「自由は、最高なんだって。言ってあげたい――救って、あげたい!」

 

 何故だろうか。どうしてだろうか。彼女が英雄の末裔だからだろうか。人の目を引く芸能人だからだろうか。

 いいや。どれも違う。

 

 

「今、ここで動かなきゃ! アタシはアタシでいられないんだッ!」

 

 ――私が私であること。あり続けること。

 

 

 腹の底から湧き起こるこの“叫び”――これこそ、彼女『フレイヤ』が『Freyj@』とした、ただ一つの約束だからだ。生まれ変わる時に掲げた、誓い事だからだ。

 次の瞬間、フレイヤの気道に沢山の空気が通った。解放されたのだ。何度か咳き込んだ後、己を救った手の主へと向く。

 

「アサツキ……!」

「……何のつもりだ」

 

 引き剥がされ、心底面白くない、といった顔つきで睥睨するクロトだったが、そんなものはお構いなし。

 

「手前が手前でいられねぇなら、仕方ねえよな」

「あ、おい! 待……!」

 

「行け」アサツキは言った。そして頷き、走っていく“自由の歌い手”の背中を見送る。

 

「ああもう、何してくれてんだお前!」

「……あーいうのは、手前で言った事通しきるか、二度と前に進んでいけねえぐらい痛い目見るかでもしなきゃ、止まらねえよ。お前らだってわかってんだろ」

 

 そうやって目線を合わせるのは、カイドウとステラ。想起するは、何度でも諦めず、勝利を掴まんと自分にぶつかってきた挑戦者たちの記憶。

 

「でもって……、どうやらオレも“そっち側のヤツ”らしいや」

「アサツキさん、貴女は……」

「あいつ一人なら、無理かもしれねえけど……例えばPGにプラスして、ジムリーダーの加勢があったならどうだ?」

 

 カイドウは足元に目を落とした。呆れの顔だ。そういう人間が一定数いるのは知っている。愚かしくも、存在してしまうのは理解できる。だがこれは、そもそもの解決策すら存在しないに等しい、博打じみたこの選択はあまりにも。

 

「……無茶苦茶だ。付き合いきれん」

「ああ。だから、付き合わなくてもいい」

「なに?」

「でけー力には、でけー力をぶつけるのが一番いい。んでそれは、こん中だとオレがお誂え向きだろ」

 

 おもむろに取り出したモンスターボールを、膨らませた。

 

「……安心しろよ。ちゃんと連れて帰るって。リングマだってぜってー止める」

 

 とかく職人というものは、頭を使うのが苦手だ。脳みそよりも先に手が動くときている。

 理屈よりも感情が先走るし、(うつつ)より夢を見ようとすることもある。そんな風に、此度も義理より人情を優先するのだろう。

 嗚呼、まったくもって非合理で考えの足りない、無駄で馬鹿げた話だろう。

 

「あいつはオレを救ってくれたから。見つけてくれたから。今度はオレが、あいつを助けねえといけないんだと思う」

 

 だが、いつだって人心を豊かにしてきたのは、無駄なことだった。意味がないことだった。誰かの非合理が、別の誰かを救ってきた。ヒトとは元来そういう生き物だった。

 賢いだけでは、味がないから。

 正解だけでは、乾燥しているから。

 

「アサツキさん!!」

 

 やがて彼女も駆け出していた。風に服を乱されど、髪を崩されど、脇目もふらずにあの子のなぞった道を辿っていく。授かったとびきりの恩を、倍にして返すために。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『庁舎ケレブルム・ラインより市内全域へお伝え致します。現在、東区にて野生のリングマが暴れており、大変危険な状態にあります』

 

 人波に逆らって、走っていく。早足、時々、刻み足。煙の方向へと一歩、一歩と足跡(そくせき)を重ねるたび、すれ違う人々の血相が恐怖に慄いた者のそれに変わっていく。

 追いやられた夕焼けが、一足先に皆を見捨てて行ってしまった。

 

「PGは何やってんだよ!!?」「これもバラル団の仕業なの!?」「終わりだ! 助けてくれええ!!」

 

 東区(イーストエリア)は、混迷を極めていた。

 

『市民の皆様は、職員とPGの指示に従い、すみやかにラジエス市外へと退避してください。繰り返します――』

 

『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

 近付くのは、何も人の悲鳴だけではない。

 禍々しさすら覚える凶獣の雄叫びも。破壊を証す地響きも。彼女の心臓をひどく不安に陥れる。

 市の庁舎『ケレブルム・ライン』は中央区寄りということで、どうやら無事なようだった。フレイヤは一瞥して、未だ轟音が立ち起こる方面へと走っていく。

 

「……っ」

 

 現状の全体を見れば、大きな被害という訳ではないのかもしれない。駆け抜けついでに流れていく景色は、西に寄れば寄るほど綺麗にこそなっていくが――それでも瓦礫が点々と、かつ着々と歴史ある街の景観を侵しているのは明白であった。

 自分は、あのネイヴュの事件『雪解けの日』の、被害者ではないけれど。はたとあの人達はこんな感情だったのかなとか、こんな状態だったのかなとか、建物の谷間で急ぎながら考える。

 都度に加速する。「こんな悲劇は早く終わらせねば」と。

 

 

 

 彼は何を見て、どこに向かっているのだろう。

 

「ヴゥウ……オオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 空気が、波打った。ぎんぎらと鋭く輝く赤紫の瞳が、あてもなく転げて回る。

 どしん、どしん。激しい足音を伴い、塵煙と瓦礫を後にして街中を進行していくその様は、もはや熊などという生易しいものではない。怪獣だ。

「ウインディ、だいもんじ!」「ムーランド、ギガインパクト!」

 PGのポケモンたちが矢継ぎ早にリングマへと攻撃を仕掛けた。昇る煙が晴れた先、待つのは傷一つない巨躯。残念ながら、微動だにしない。

 しかしここまでは計画通り、こんな光景は先程から見慣れたもので。本番はここから。

 

「――()ーーーーーーッ!」

 

 リングマの視線が眼前の二体に行った刹那の事。背の高い建物の屋上から、本部の隊員が一声を下す。すると道脇で構えていた隊員たちが、同様に待っていた沢山のデンチュラに向けて一斉に指示する。

 唱えた言葉は共通。体内で生成した糸を射出して対象に巻き付け拘束、そのまま機動力を下げる技『いとをはく』だ。

 

「糸を出し惜しむな、全て使い切れ! 無理に状況を畳む必要はない! 応援が揃うまで持ち応えればいい……足止めに専念せよ!」

 

 さらに一筋、二筋と電気蜘蛛の糸が増えていく。容赦も遠慮も忘れて、一つの巨体へと一目散に向かって絡みつく。

 不意を打ったのもあるのだろうが、効果はてきめんだった。

「よし!」まさに糸口が掴めてきたようで、ようやっと隊員のポジティブな表情が見られた。でも、それも束の間。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 ブチブチ、ブチブチブチブチ。この場面で、最も聞きたくなかった音が響き渡った。リングマは怪力を以て、まるで羽衣を脱ぎ捨てるかの如き軽快な動作で糸状の拘束具を取っ払う。

 

「目標……止まりません」

「……化物め……ッ!」

 

 かくして事を繋ぐ希望の糸は、途切れた。

 

 

「――いた!!」

 

 

 それでも、未だに止まらぬ者がいる。否、走り出してすらいない。

 絶望が視界にちらつき、諦めすら胸に抱いていた隊員たちの横を抜け、フレイヤはとうとうリングマと対峙した。

 

「な、み、民間人!? なんで!」

「おい、何してる! 下がれ!」

 

 粉々になったコンクリ片も。所々で泣いて喚く火柱も。引きちぎられた鉄骨も。こうして引き合った彼女たちを、不敵に祝福している。逢魔時(おうまがどき)の逢瀬を、悲しみで揺らめく火の粉と陽炎が彩った。

 

「……久しぶり、覚えてるかな。何年ぶりだろ」

 

 瞳に自我が宿っていない。フレイヤの見立ては的中であった。

 それでも足が竦んで、声も震えている。冷や汗すら垂れているが、自分より何倍も大きな獣と向き合うこの場では、極めて自然な状態に違いない。刺激するまいと静かに見上げ、語り掛けた彼女であったのだが、

 

「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」

 

 焼け石に水で。耳が砕け散りそうなほどの雄叫びの後に飛んできた炎を、紙一重で避けた。ちり、と奔る熱風が彼女の服を微かに焦がす。

 

「っ……ニョニョさん、お願いします!」

 

 僅かであっても、インターバルは見逃さない。地を転がりながらも、フレイヤがすぐさま投げたモンスターボールは、一頭身のウサギにも似た囁きポケモン『ゴニョニョ』を呼び出す。

 

「無理だ、そんなポケモンでは!」

「無理じゃない! コイツが苦しみながらいたぶられていく事の方が、アタシにはずっと無理だ!」

「馬鹿な真似はよせ!!」

 

 頬に付着した汚れを拭い取り、勢い任せに立ち上がる。大丈夫、まだ動く。

 それに再三言うが、彼女は決して死に急いでいる訳でもない。この『つながりの唄』を、ラフエルが残した希望の一端を、行使するタイミングを狙っている。

 

「グオオオオ、オオオオオオオオオ……!!!」

 

 そしてその期は、早々に熟する事となる。

「目標、“はかいこうせん”発射体勢に入ります!」PGが言った。それに続くのは、各々のポケモンに対する『まもる』の指示。とてもじゃないが、このサイズのリングマが放つはかいこうせんを打ち消せる技もあるはずがない。

 開けた大口に集合するは、光の粒子。それらが寄り集まって段階を追って巨大化していき、確実にエネルギーを溜め込んでいく。隊員が「君も逃げろ」とフレイヤに呼びかけるが、やはり聞かない。聞く訳がない。

 

「ニョニョさん、アタシの指さす方向、見える?」

「んにょ」

「うん、そうそう。一回きりのチャンスだから、見逃さずに頼みますよ……!」

 

 何故ならばこの大技を放つ時こそ――『はかいこうせん』の反動で動きを止める時こそが、リングマへ歌を届ける千載一遇のチャンスだからだ。

 そうとあっては逃げる訳にもいかないだろう。

 

「おい、まさか受け止める気か!?」

「そのまさかってやつ……実現できれば、最高っしょ!」

 

 アスファルトが唸る。ぐらぐらと湯が煮えているかのような熱さと、震えが、この場全てを包み込んだ。

 その身と本能で理解が及ぶだろう。発射までもう少し――――三、二、一。

 

「ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 あえて表現してみるのならば。きっと『ぶぉわ』という音。

 破壊を司る最強の煌めきが、とうとう獣の口辺から解き放たれた。

 散々轟いた衝撃の正体は、これだろう。いざ近くにしてみれば、遠くで感じていたものよりも遥かに大きい熱と、輝きで。ともすれば自分が消し飛んでしまうかもしれない、なんて思ったり、思わなかったり。

 さりとて絶対に退かない。退いてはならない。

 目をかっ開き、すう、と大きく吸気を取り込む。

 だって、今彼を救えるのは、英雄の血を受け継いだ彼女だけだから。虹色の奇跡の欠片を握る、彼女だけだから。

 

「……いくよ、ニョニョさん!」

 

 彼女自身、そんな風に思えば。

 

「――ハイパーボイスだああああああああああああああああああああっ!!!」

 

 どんなに怖くても、力が湧いてくるのだ。

 

 

「ワ゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 

 歌手であり、並よりかはうんと声量があるフレイヤの全力の発声をもかき消す絶叫が、ゴニョニョの口から飛んでった。

 説明は要らない。“ハイパーボイス”は、そういう技だ。

 空間が歪む。万物が痺れる。地表がもがきながら捲れ上がる。この場に居合わせる誰もが、耳を塞ぎながらに思う。これが本当に音の力なのだろうか――と。

 

「いぃぃぃっけえええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」

 

「私の歌を聞け」。そう言わんばかりに、破滅の光へと一迅の希望の音が立ち向かった。少女に合わさる光線の直撃コースに、とんでもない厚みの防壁が生まれる。素材は空気。

 風が逃げ、営みの残骸が舞った。

 

「相殺、っだと……!!?」

 

 一度きりだが、この攻撃を止めるたった一つの冴えた方法。相殺。衝撃に衝撃をぶつけるだけという、お世辞にも賢いと言えない戦法であったが、それこそ「実現できれば最高」と言わざるを得ない。

 この結果を、何も壊さず侵さずで霧散していくエネルギー光を見れば、余計に。

 

「今だ!」

 

 眼前の道が晴れる。向こうで膝をついた巨体を捉えた時、彼女の眼に宿る確信。それは踏み出す一歩を大きなものにした。

 迷わず走り、駆ける。この時間ならば、彼の声が届く範囲まで迫れる。歌が聴こえる位置まで近づける。既に大きかったのに、少しずつ大きくなる輪郭。比例して激しくなる威圧感も、無視できない。

 しかし彼女の胸にもはや恐れはなかった。今助ける。その苦しみから解放してやる。そんな独白すら巡るほど。

 

「……オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!!!」

 

 ――だった。だったはずなのだが。

「へ」目が合ったときに聞こえたのは、言葉にもならない、吃驚の出来損ない。

 本当に瞬間的なこと。

 フレイヤの体は、引き戻された。

 いや、正しくは押し戻された、だろうか。

 無情かな、いくら人が善意でその身を寄せたところで――全てが敵に映る彼には、その意思を汲み取る力など、どこにもありはしない。苦し紛れに振り下ろした拳が、彼女を見事に襲った。

 直撃こそ免れたが、粉々にされたアスファルトは彼女の肉体をどかどかと手酷く殴り打つ。

 

「……――――っ」

 

 そんな真似をされてしまっては。平気なはずもないだろう。

 咄嗟に腕で身を庇えど、数メートルもの距離をふっ飛ばされて全身を強く打った彼女は、立ち上がれないままで。

 

「うっわぁ……血……、い、って……」

 

 もはや意識があるのも、奇跡に等しかった。

 

「おい!」

「……大丈夫、……大、丈夫……」

「くそ! 彼女を保護しろ! 早く!」

「目標、再び動き出します!」

「くッ……!」

 

 それはもう最悪のタイミングだった。でも、順当だった。

 拘束が解けたリングマが、再度立ち上がる。錯乱により誤作動を重ねる敵愾心が狙ったのは、言わずとわかることだろう。誰もが最も望んでいなかった者だ。

 

「ゴオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 

 リングマはもう何度目かもわからない咆哮を上げると、フレイヤに向かって一直線に駆けていく。

 一丁前の図体に反した速度、その勢いたるや暴走トラック。人間が一瞬で粉砕される様など、容易に想像できた。

「ダメです! 保護、間に合いません!」

 絶望の一言が響く。誰かが割って入って身代わりになることすら許されない段階で、誰もが目を閉じた。

 ごめんね――――そうやって呟く、フレイヤ自身も。

 

 ドゴォン。

 

 鈍い音が、絶望の袂で寝そべった。

 直後、無音に差し変わる。皆例外なく次に広がる光景を直視するのが嫌だった。ある者は救えなかった未来を、またある者は精神を病んでしまいそうなほどの不条理を目の当たりにしてしまうから。

 それでも彼女は目を見開いた。

 

 違う。

 

 (ひら)けてしまった。

 

「……あ、れ」

 

 フレイヤは、自身の生存に数秒戸惑った。あまりに何もなさすぎて。三途の川の向こう側かとも思ったが、確かに蝕む痛みは、先程の記憶からの地続きなのだと知らしめる。

 なんで、と言いかけた。

 

「よお」

 

 でも、そこで聞こえた声に視線を奪われて、やめてしまった。

 

「無事かよ」

 

 だって、君が助けてくれたのがわかったから。

 

「アサツキ……!?」

 

 フレイヤにかかった影を押し止めるローブシンと、そうするよう指示を出したアサツキ。その小さくも逞しい背中。彼女の目の前にあるのはそれだった。

 

「……へ? あ……」

「ったく……『行け』とは言ったけどな、誰もあの世まで行けなんて言ってねぇよ」

「なんで! どうして! これはアタシの勝手で!」

「これもオレの勝手だよ」

 

 アサツキが無言で指さすと、これまで誰一人として止められなかった凶獣を、

 

「フゥヴゥン!!」

 

 武神はあろうことか押し返す。そして持ち直した二本の柱をばちりと打ち合わせ、後退ったリングマに雄叫びを浴びせた。

 

「これも、嘘つかないお前がやりたいことなんだろ? だったら手伝わせろよ」

「で、でも、危ないよ! こんな!」

「どの口が言うんだ、ばーか」

 

 肩を借りながらに小突かれる。傷もないし問題ないだろう。

「いて」とたまらず仰いだ空で、鳥ポケモンがいることに気付く。どうにもそのシルエットは記憶に新しく。

 

「勘違いするなよ。この騒動の収束に協力するだけだ」

 

 シンボラーがゆっくりと降り立ち、カイドウを地上に解放した。

 だが、遅れてきた来客はこれだけではない。

「みずしゅりけん」「だいもんじ!」水と炎の波状攻撃が、リングマを釘付けにする。今しがたの技の主、ゲッコウガとヘルガーは、それぞれローブシンの両脇を固めるように立ちはだかった。

 

「ったく、どいつもこいつもバカやってくれやがって。もうどうなっても知らねえぞ!」

「こうなってしまっては、これしか手段もないだろう」

「アンタらまで……!」

「特例捜査員の協力だ、そう目くじらを立てるな」

 

 顔見知りであるがゆえに物言いたげなPGらへ向け、半ば強引な理屈を吐き捨てるクロト。しかし突っぱねる者は誰もいまい。なにしろジムリーダー二人に、腕利きトレーナー二人――最高の応援故に。

 

「ま、こんなところだな」

「みんな……、ありがとう……」

 

 少女が涙をそっと拭って、向き直る。討つべき敵へ。救うべき友へ。

 風が吹く。地が揺れる。太陽が少しずつしおれていく。

 日頃会わぬ者に会い、普段戦わぬ者と戦い、でもいつも言えぬことを言えて。私じゃない私と決別できた。本当に奇特な一日だった。

 

 

「じゃあ、お前のわがまま――最後まで付き合ってやるよ」

 

 

 そんな記憶を飲み込み、アサツキは静かに構える。日没まで、あと少し。



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fin.Hello me

 ()(がれ)時。昔の人は上手いことを言ったものだ。太陽の残滓か、はたまたあちらこちらをほっつく小火か――何の明かりがこの戦場を色づけているのか、わかったものではない。

 少しずつ万物の視認に手間取るようになる頃ではあるが、彼らは誰一人として目的を見失っていない。

 

「“リフレクター”と“ひかりのかべ”を五〇〇メートル圏内に展開」

 

 青と黄色、二色の光のパズルが組み上がっていく。バリケードとしての役を請け負ったそれは背が伸び、幅が広がり、やがて一つの巨大なドームを形成した。

 

「神殿、図書館、果てはジム……現状、これら重要な施設が無事なのは不幸中の幸いと言う他にない。この奇跡的状況を駄目にしないためにも、一気に決める」

 

 軍師よろしく作戦を説明するカイドウ。彼の挙手を以て、手持ちのシンボラーがゆっくりとフレイヤを空へ攫う。

 

「え、え、なになになに!? ちょちょちょちょ!」

「シンボラーを上空で旋回させる。お前はそこから、その『つながりの唄』とやらを聴かせるタイミングを窺え」

「な、なるほどわかっ、落ちるーー! 落ちるーーーー!」

「ありゃ聞いてねえな……たぶん」

 

 彼女を空中で半ば離脱状態にするのは、戦闘に巻き込まれることを避ける意図があった。カイドウにとって彼女の歌が通じるかどうかなどまるで知ることではないが、今のところの最善手の、それを実現するための、最も欠かしてはいけない人物だと判断したのだ。

 そして彼がそのように思うのは、フレイヤの他にもう一人。

 

「……アサツキ」

「あん?」

「あのデカブツの動きを止めるには、最終的にお前のローブシンが鍵となる」

「んなもんわーってるよ。だから」

「今は、戦うな」

 

「は?」遮る言葉を聞き、アサツキは頭上にエクスクラメーションを浮かべた。

 

「先程の競り合いを見た上での判断だが、恐らく今のローブシンでは(・・・・・・・・・)拮抗……よくて削り程度だ。俺達の攻撃に至っては注意の引き付けにしかならん」

「回りくどい野郎だな、要はどうすりゃ――」

 

 次の瞬間、は、と、何かに気付く。そのままアサツキはおもむろにローブシンへと向き、

 

「……“ビルドアップ”だ」

 

 カイドウの問いに対する解答を口にする。

 すると、全身に赤い湯気を帯び始めたローブシン。同時に上がる唸り声も発動の証拠だ。

 ビルドアップ――主にかくとうタイプのポケモンが覚える技であり、全身の筋肉を一時的に強化し、『こうげき』と『ぼうぎょ』の能力を向上させる効果を持つ。

 今でもあの巨躯と渡り合えるローブシンならば。そんなローブシンのステータスが上がったのならば。アサツキは百点満点の答えを述べた。

 それを確認したカイドウは、ユンゲラーを出して、皆まで言うのをやめた。

 

「となれば、俺達はビルドアップ完了までの時間稼ぎということになるな」

「なーんか脇役みてえで気に食わねえけど……、生活のためだ、いっちょやってやんよ」

 

 一縷でもいい、一筋でもいい。残った希望を通すために、各々が各々の役目を理解する。

 

「過剰な攻撃も瀕死を招く。力任せで黙らせるのはお前の特技だろう……一撃で決めろ」

「はあ? お前、こんな時まで憎たら」

「お前に、託す」

「!」

 

 かくして役者は揃った。

 

「ああ――やってやんよ!」

 

 あとは、力を尽くすだけ。

「行くぞ!」カイドウ、クロト、ハルクが一斉に手持ちを奔らせる。

 リングマが吠え立てた。狙いを付けるは切り込み隊長を買って出る水流の忍者(ゲッコウガ)。彼に気迫と共に打ち出された“きあいだま”が襲い掛かる――。

 

「“ねんりき”」

 

 甘い。そう言わんばかりに掲げたスプーンが、肉迫するところで光弾の軌道を一気に逸らして。

 

「“みずしゅりけん”だ、ありったけを叩き込め」

 

 生まれた隙は見逃さない。ゲッコウガは空気中の水分を集束させ出来た手投げ刃を、大量に投げ込んだ。それらはばしゅん、ばしゅんと矢継ぎ早に当たっては弾けてを繰り返すが、雀の涙。じりりとも動かない。だがそれでいい。

 

「グワ、オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 閃光――あえて表現するならばそれだ。

 次いで聞こえた言葉は『つじぎり』で、こちらが大本命。足裏から噴き出す水を推力に一気に加速、青い逆手の一太刀を袈裟にして、すれ違いざまに獣へと刻み込む。

 たまらず悲鳴じみた叫びを上げるリングマだが、ダメージとしては明らかに足りていない。怒りと共に振り返る形相がゲッコウガへ向いた。

 

「“だいもんじ”!」

 

 しかしヘルガーは余所見を許してくれない。

 大きな背中になぞられた橙の『大』の字。何よりも火力に物をいわせた一撃の痕跡。再度身を翻す巨体に、

 

「まだまだァ! “だいもんじ”! “だいもんじ”!」

 

 さらなる轟炎を重ねていく。

 追ってきた“ハイドロポンプ”と“サイコキネシス”も合わさった時、リングマにもう一度膝をつかせることに成功した。

 

「やるじゃないか。さすがはジムリーダー様だな」

「私語は慎め。相手に意識を集中しろ」

「まだ足りねえ! 続けていくぜ!」

「すごい……これが、トレーナー……」

 

 上空からその猛攻を見下ろしながら、フレイヤが呟く。さすがは凄腕、といったところだろうか。まるで付け焼刃とは思えない完璧な連携と指示で、リングマを圧倒する三人。言葉はおろかアイコンタクトもなしにこれをやってのける事がどれだけ離れ業か、素人でも想像に難いものではなかった。

 以降も上がる技の名が止むことは無く、着実にリングマを追いつめて、事が運んでいく。PGの後押しも十全に活きている。

 恙なく終わればいいというのはこの場の誰もが抱く共通の認識ではあったのだが。

「大人しすぎる」。

 アサツキは、彼女だけは、一歩引いた地点から何か妙な、得も言われぬ違和感を覚えていた。

 

「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 ――そしてそれは、不幸にも的中することになる。

 

「どわああッ!?」

 

 ずどん、と人を悠にプレスしかねない巨大な落石。厳密にはアスファルトの塊。三人は散り散りになって既のところで回避こそしたが――突然すぎる行動に、驚きを隠せなかった。向こうが今の今まで防戦一方で、かつ消耗していただけに、余計に。

 

「おい、なんだなんだ!? いきなり動きが変わったぞ!」

「確かに削っていたはずだ。どこからあんな力が……」

 

 急いでリングマへ向き直るカイドウ。

 肩で成される呼吸に、焼け焦げた肌の一部。そして眼鏡越しからでもわかる、瞳に迸ったその殺意――彼の状態をあらかた視認した後、起こった事を瞬時に理解した。

 

「そうか……“こんじょう”か」

「! リングマの特性か……!」

 

『こんじょう』。麻痺、或いは火傷といった何らかの状態異常に陥った時に“こうげき”の力が著しく上昇する特性。トリガーはヘルガーの炎技による火傷。カイドウの見立ては正解であった。

「早合点だったか」

 同時に彼は己のミスを悔いる。フレイヤに襲い掛かった時の速度を見て、もう一つの特性『はやあし』であると断定してしまったミスを。

 

「まったく、お前は口も余計ならやることも余計だな。こんな奴と組まされるとはな……依頼を受けたことを後悔するレベルだ。これだから浮浪者は」

「し、しょうがねえだろ! 火力が出て満足に戦力になりそうなのがこいつぐらいだったんだから! あと浮浪者関係ねえだろ!」

「来るぞ!」

 

 肉体を蝕む火傷の苦しみか、思い通りに行動できない苛立ちか、リングマは絶叫と共にその場でじだんだを踏んだ。荒れ果てた地面を、追い打ちかけるように叩いて乱す。

 一見無意味なように捉えられるこの行動だが、そんな風に感じているのは誰一人としてここにいない。

 

「――ウガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

 

 そうやって発生した瓦礫の砲丸を、次の瞬間にはぶん投げてくると知っていたから。

 まるで爆撃だ――着弾の音が、人々の耳を劈く。たちまち沸き立つ塵煙が五感の二つ目、視力を間接的に奪い取った。

 続々と無差別、無作為、手あたり次第に土くれの弾を放つ様子は、まさに大暴走と呼ぶに相応しい。

 

「くっそ、こんなデタラメもアリかよぉ!?」

「防御技を備えたポケモンがいる者はその場で凌げ! 無い者は近くにいるそいつの元に寄れ!」

 

 戦地を滅茶苦茶にかき回される、混沌の中では。

 

「ダメだ……これじゃ作戦どころじゃない!」

 

 組み立てた戦術がガラガラと音を立て瓦解していく様子が、上からよく見える。そのうち、誰も彼もが凶獣の視界から退避していくのもわかった。

「攻撃を一時中断する! 各自、身の安全を最優先しろ!」

 カイドウがユンゲラーの“バリア”で衝撃を防ぎつつ、声を荒らげる。続けて視線を送るのは本作戦の第二のキーパーソンだが、直後、彼は目を疑った。

 

「おい、何をしている! ビルドアップを一旦解け!」

「託すっつったのは、お前だろ」

「周りが見えないのか!? この危険の中ではポケモンに満足な指示すら通せない、引け!」

「バカ野郎、それじゃ全部パーになんだろうが。大丈夫だよ……信じろ」

 

 彼女とその手持ちだけが、リングマの前から退いていないからだ。そればかりか、一歩も動いていない。

 頑なだった。ローブシンも当の彼女の判断に逆らわず、疑わずで、ただ黙々と無防備を晒しながら力をため込んでいる。傍目から見れば、愚の骨頂以外のなんでもない光景。

 心底理解できない、といった心情を飲み下し、されど逃げるよう促す。

 

「危ない!!」

 

 しかし時間は待ってくれなかった。防ぐことも、避けることも、誰かが割って入ることも。いくら上空からフレイヤが危機を知らせても、もう遅い。

 突っ込んでいく。灰の色した巨大な砲弾が。アサツキ目掛けて。

 世界がスローモーションになった。彼女の水晶体に映る、少し早めの月。不格好な満月。

 考えればわかる。理性を失うほど過剰な戦意に支配された者が、視界に入った唯一の存在に攻撃を加えることなど――必然だったのだろう。

 

「アサツキーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

 

 そうやってこの必然は、無残にまかり通る。世界が再び動き出した時、最初に聞こえたのは『ドン』という爆発にも迫る轟音。そして最後に見えたのは。

 一つの丸が、一人と一体がいた場所を無情に破砕した痕。

 皆静まり返った。呆然とした。唯一の希望が潰えたから。友を失ったから。

 理由は個人の差で変動するだろうが、誰にとってみても、致命的な損失であることに変わりはなくて。

 フレイヤは叫び、項垂れた。もくもくとうねる煙が眼下の惨状を隠しても、どうだろう。そんなものは気休めにすらならない。

 暫しの静寂を置き唇の裏で歯噛みして、リングマを見据える。覚悟と一緒に腹に決めた歌を、強引にでも届けようとする。今からシンボラーの尾羽を手放す。そういう顔をした。

 

 ピーーーーーーーーーーーーーーーッ。

 

 尤も、甲高い長音が出し抜けに鳴り響くまでの、話だが。

 消沈を破る笛にも似たその音の出所は、誰もが想像の及ばない場所。

「へ……?」フレイヤがか弱く漏らしながら目元の水分をくしくし拭い、今一度先刻と同じところに目を落とした。

 その時だ。

 

「……あっぶねえ」

 

 モノトーンの球体の向こう側で声がするやいなや、ひびが乾いた音を立てる。そこから瓦礫玉が欠け崩れていくまで、そう時間はかからない。ぴしぴし呻いて、バキン。ガラガラと泣きながら破片が毀れた。

 

「ギリセーフ、ってやつな」

 

 そうしたその先で、声の主は、従者と待っていた。

 

「アサツキ!? な、なんで……おばけ!?」

「生きてるわ! 勝手に殺すな!」

「だって、あんなのくらって無傷だなんて絶対……!」

 

 ともすれば、何の手品かどんな魔法か如何な奇跡か、仰天する周囲は云うだろう。しかし、種も仕掛けも確かに存在していた。

 フレイヤはアサツキの隣に意識を向けて、はっと腑に落とす。

 

「オレはいつだって安全第一だ。あぶねえ事はしても、怪我の可能性はなるべく潰す……工員の鉄則だっつの」

 

「んな」彼女が笑いかけ同意を求める相手は、土壇場で出したもう一体の手持ち――まるで彼女の趣味とでも言いたげな、テディベアによく似た剛腕ポケモン『キテルグマ』。

 二メートルを超える巨体と、クッションにもなるこの高密度の体毛ならば、あれだけの規模の攻撃から彼女らを庇うのは簡単だろう。し、こうして無事なのも合点がいくというもの。

 そんなことよりも、と、アサツキはさっきと同じように鋭い高音を鳴らす。正体は指笛だった。些かホイッスルほどに伸びの良い音色は出ないが、持つ意味はいつもと一緒。士気を高めて戦意を煽ぐ、物言わぬ職人の一吹き。

 それを以て我に返る戦士らは、もう一度叫びを上げ、狂戦士へと意気盛んに立ち向かう。

 おおおおお。続々といきり立つ叫声が武神を囃す。湧き起れと背中を押して、進撃せよと発破をかけた。

 

「オオォォォォォォォォォン!!!!」

 

 それはやがて、一つの希望を輝かせて。溜まりに溜まったフラストレーションを体内の蒸気もろとも発散し、遠く吼えるローブシン。彼が伝えることはただ一つ。「もういいぞ」の意思表示。

 もう二の足を踏む必要もない。主が静かに正面のリングマを指を差すと、抉れた足跡だけを置いて、ローブシンは猛烈な勢いで突っ込んでいく。

 

「本当に、滅茶苦茶をする。行き当たりばったりもいいところだ」

「……いいんだよ。これがオレだ」

 

 アサツキは、相棒を見送りながら言った。

 ――いつだってそうだ。

 高い壁は越えられるまで。長いトンネルは、抜けられるまで。

 自分は抜群に光る才能があるわけでも、優れた素晴らしい頭脳があるわけでもない。まして由緒ある技の担い手でもなければ、伝説を受け継ぐ存在でもない。何も特別な事はない――ジムリーダー『アサツキ』とは、そういう存在。

 複雑な事は考えられないし、凄い力もない。だからこそ、ただ一つだけ煌々と輝くものがある。それはジムリーダーとしての彼女が常に挑戦者に示し続ける事であり、また自らも忘れずに抱き続けているもの。

 何度でもぶつかっていくこと。幾度となく立ち向かう魂。

 自分には、それだけ。それしかないから。

 故に、彼女は今日も諦めない。

 

「――チェストオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!!」

 

 拳で、その在り方を語り続ける。

 それから鋼の肉体を得たローブシンが止まることはなかった。瓦礫がぶつかろうが、火を吹かれようが、一歩たりとも譲らず前進を続け、渾身のパンチをリングマへと叩き込んだ。

「今だ、フレイヤーーーーーーーーーっ!」

 連なるシンボラーの急降下。自由の歌い手はいよいよ仰向けに倒れたリングマの胸へ、真っ逆さまに飛び込んでいく。

 そしてつながりの唄が、奏でられた。

 極彩色の光が伸びる。それは歌を乗せて伸びていき、繭状になって一人と一体を包み込む。流れ込む穏やかな熱は、悪意に捉われた優しき獣の心を浄化していく。終局を告げる煌めきが広がる中で、寄り添い祈るフレイヤ。

 彼女のその姿は――――かつての英雄に見えた。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 モンスターボールが、手から手へと渡る。

 

「ご協力に感謝致します。後日感謝状を贈らせて頂くので、遠くないうちに連絡がいくやもしれません」

「ああ……どうも」

「それでは、リングマはこちらでお預かりします」

 

 短い敬礼とそれだけ言い残して、PGが引き上げていく。すっかり訪れた宵闇に溶ける彼らの後ろ姿をぼうっと眺めながら、「あのモンスターボールが彼の暫しの寝床になるのだろうな」なんて、アサツキは考える。

『テルスの主は、無事正気を取り戻した』――結論は、ひとまずこれだけでいいだろう。

 暴れていた間に相当の攻撃を受けていたが、駆け付け診療したポケモンセンターのスタッフが言うには、命に別状はないとか。さりとてはいそうですかでテルス山に還すわけにもいかないので、一時保護してリザイナで精密検査を受けさせた後、ポケモンレンジャーの手で自然に戻されるそうだ。

 

「アサツキー!」

「のわっ、だ、抱きつくなよ! わかったから!」

「PGのオッサン共どちゃくそこわかったわぁ……すんごい剣幕で叱られたもん……」

「そりゃあ、あんな身投げみてえな真似すりゃなあ……。で、終わったのか」

「うん。途中何人かからサイン求められて要らない時間使ったけどね。ってか、気付くの遅すぎ」

 

 PGの事情聴取をやっと終えて、恋しかったぞとアサツキに頬擦りするも、クロトに襟を引っ掴まれ半ば強引に剥がされるフレイヤ。終始嫌がっているようで、「キシャー!」などとアーボックも真っ青な威嚇を披露。怪我人に優しくしろという割には、応急手当だけでぴんぴんとしているのはなかなかの笑い種か。

 

「ひ~、こりゃなげえぞ……夜通しかもしんねえ……」

「そうならないために必死こいて仕事するんでしょって。たのんますよ、ミナモ先輩」

「……あのなぁアラン、その先輩ってのやめろ。なんかこう、むずかゆい」

「あー……怠慢おじさんとかでいっすか」

「それは悪口が過ぎる! もっと落としどころってのを探せ!?」

「冗談っすよ。さ、仕事しましょ」

 

 道路清掃中のぼやきが聞こえた。派遣されたポケモンレンジャーらを一瞥。

 早速復旧に取り掛かっているようだが、こうも早期に行動できるのは、被害が区内全体の一割にも満たなかったから……という点が大きい。

 このようにダメージの少なさから、延いては死傷者もゼロ。街機能も路面電車の路線がやられた程度で、他に目立った損害はなくて。

 踏まれてひしゃげた車も、叩かれ崩れた建物も、邪魔と折られた街灯も。傷付いた人がいないとわかった瞬間に、何もかもが可愛く見えてしまう――不幸の中でも幸に縋ろうとする、ヒトの悪癖なのかもしれない。

 

「んーじゃま、行きますか」

 

 よっこらせ、と付け足して、瓦礫の山からハルクが飛び降りる。時刻はもう五時の半分を回っており、となれば約束の時間もとっくに過ぎていた。

 ところで、このあと数時間してから行われるフレイヤのライブだが――。

 

『やる! やるったらやる! 会場も無事、アタシも歌える! こんな時だからこそ歌うんでしょ!? 大変だからこそ希望ってやつは必要だし、人だって来るはずでしょ! なんでアンタはそんなこともわから』

 

 本人たっての希望で、行う運びとなった。

 この通りマネージャーとは仲直りどころか第二ラウンドにまで発展したようだが、曰く「楽しい思いをしたし、希望も通ったのでなんでもいい」らしい。良くも悪くもざっくばらんなところは、アサツキからすれば彼女とルーツを同じくする知人の顔を思い出す。

 

「行くぞ」

 

 先に背中を見せて促すクロト。それを合図にフレイヤとアサツキは向き合った。時間もないので、別れはシンプルに。この後控えたライブでも、話すことはできずとも顔を合わせることはできるから。

「ほんと、ありがとね」噛み締めるように礼を一言。そして続けて謝罪を述べようとしたが、人差し指がそれを許さない。

 

「やめろよ。今更」

「……うん」

「オレこそ、ありがとな。まあ、ごたごただったけど……でも、ほんとに楽しかった」

「うん!」

 

 また会おう。握手でそう誓って、離れるはずだった。

 

「そういや、カイドウどこ行ったの?」

 

 のだが、どうにもいない時に初めて存在感を発揮する男のせいで、それは叶わない。

 

「ああ……用事が済めばさっさと消える。いつもの事だ。礼ならオレから言って」

「じゃなくて」

「……?」

「しなくていいの? 仲直り、って言っていいかわかんないけど」

 

 アサツキは遮ったフレイヤの心理を知って、思わず乾いた笑いを漏らしてしまった。

 

「いいんだよ、アイツは。っつか、オレらはそういうんじゃないっていうか」

「本当に? 心の底からそう思ってる?」

「な、なんだよ急に……」

 

 じ、と真正面から瞳を見つめられて、たじろぐ。彼女なりの気遣いというか、よかれと思っての世話焼きなのだろう。しかし自分と彼は正反対で、平行線の上を歩く存在であるからして、きっとわかり合えないし、わかり合うこともないのだろう。そう思っていて。同時にそれこそが安定した間柄であると、考えてもいる。

 磁石のように反発しあう一定距離。口うるさくて、感じが悪くて、配慮の「は」の字もない。そんな彼とは、そうだ。それが一番いいんだ。

 

「――それは、本当の(・・・)アサツキが望んだこと?」

「……!」

 

 平行線の向こう側から、私はずっとずっと見ていた。

 

『だが、たとえどんな生まれのどんな存在であっても、自由を行使する権利はあるものだと、思っている』

 

 やりたい放題する、身勝手な振る舞いを。

 それで、そのたびに考えてた。

 

『雨の中でも、傘を差さずに踊り続ける者がいたっていいように……全ては自由に出来ている』

 

 どんな気持ちなんだろう、って。

 そんな風にいられたら、どれだけ気持ちいんだろう、って。

 

『だって嘘つかないアタシが、一番したかったことだもん』

 

 ああ――、うん。

 私はずっと。

 お前を、知りたかったんだ。

 

 

「……わり、ちょっと、行くわ」

 

 

 いってらっしゃい。温かい送り言葉が、聞こえた。

 アサツキは、気が付くと駆け出していた。

 なんでだろう、どうしてだろう。勝手に体が動く。爪先が先走る。向かい風なのに。荒れた道なのに。どんどん前に進んでく。だんだん前にのめってく。

 街明かりを振り払い、雑踏の隙間をくぐって、流れる景色に目もくれず、走ってく。彼女はあの子へ、聞きに行く。

 

「い、いらっしゃい、ませ……?」

 

 再び来店したアパレルショップ。物凄い勢いでレジ前にまで立たれ、店員は困惑した。

 しかし、まあ、仕方のないことだ。急いでるから。答えを早く聞きたかったから。

 

「――このメテノヘアピン、全部買います!」

 

 あの子は、いいよと言った。

 釣銭も受け取らないで店を出る。突っ走りながらオレンジの星一つ取り出して、器用に綺麗に取り付ける。長いサイドバングがまとまった。

 もう迷うことも、余所見することもない。日向に出たあの子が向かう先は、真っ直ぐそのまま彼の元――。

 

 

「おい!」

 

 

 南区のビジネス街。の、ホテル前。カイドウは背中にぶつかる聞き覚えに、振り返る。

 するといたのは、衣装も乱れ、息も絶え絶えのまま、両膝に手を置くアサツキで。

 

「……なんだ、まだ何か用があ」

「オレとこの後、フレイヤのライブに行ってほしい!」

 

 そんな彼女が望んだのは。彼を知るための、ほんのもう少しだけの時間。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 人の流れが激しい。ライブ終わりで会場を出てもなお、心身に未だ冷めやらぬ熱を宿したまま余韻を語る者達ばかりの、そんな午後九時の帰り道。

 

「……なんか、すごかったな」

 

 レニア川を見下ろす橋の上、アサツキは前を歩くカイドウへ苦し紛れの語彙力をさらけ出す。

 誘ったはいいが、内心まさかオーケーをもらえるなどと思っていなかったようで。ライブ中も今も自然な言葉が出ないのは、そんな事に面食らっているからでもあって。

 一方のカイドウは、彼女が此度の功労者であるが故に、彼なりの義理立てをしたつもりだったのだが――口にも顔にも全く出てこないので、多分逆立ちしても伝わらないのだろう。

 ライブはあんな事があっても大盛況で終われたし、最中だって確かに楽しめたが、終わってみればなんと気まずいことか。勢い任せの行動特有のものだ。

 

「あれで盛り上がる理由が、よくわからん」

「あ、あぁ……まぁお前からすれば、そうだろうな」

「だが。ひとつの芸術として見るのならば、奴の歌の出来は確かに目を見張るものがあった。十分な評価に値する。……曲の合間のトークは致命的だったがな」

「いや、めちゃくちゃ上から目線じゃねえか」

「客として来ているのだ、良し悪しを定める権利ぐらいはあるだろう」

「……ま、正論だわな」

 

 でも。無駄ではなかったと、思う。

 限られた時間で、十分な会話もできやしなかったものの。望み通りのことができたと思う。ほんの少しだけ彼に近づけたと、思う。

 歩きざまに撫でていた手すりから、掌を離した。長かった一日も、もう終わり。間もなく別れる、分かれ道。アサツキは一瞬、少々だけ足を早めてカイドウよりも前に立った。

 

「今日は、悪かったな。巻き込んで」

「まったくだな。一生分のお前の顔を拝んだ気がする。暫くはいい、というのが率直な感想だ」

「っお前は、毎度毎度本当に……」

「が、礼は述べておこう。今日に限っては、お前がいないとどうにもならなかったこともある」

「うわ、きもちわり。お前が感謝するとかきもちわり」

「一体なんなのだお前は」

 

「冗談だよ」軽快に言い残して、一足先に一人の道に入る。

 

「――お前のこと! ちょっと見直したかも!」

 

 そして振り返って、伝えたかったことを口にする。

 遠くで言ったのも、そうやって言った後にすぐ走っていったのも。何より彼女が恥ずかしかったからに違いない。

 近付き寄って、けれども最後はどうにも平行線なので。

 

「……なんだ、あいつは」

 

 やっぱり結局、伝わらないのだろう。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『そういえば……カイドウさんから、預かりものが』

『ん? オレにか?』

『ええ。どうやら中身は漢方薬、とか』

『……?』

『「昨日のお前の言動は明らかにおかしかった。その悉くが意味不明だったし、支離滅裂だったし、はっきり言って薄気味悪いものがあった。疲れているに違いないので、帰ったらこれでも飲んで少し休め」――だ、そうです』

『あんの野郎ーーーーーーーー!!!!』

 

 

 

 ユオンシティの家路を刻みながら思い出すのは、ラジエスを去る間際にした、ステラとの食事中の一コマ。

 無駄に増えた荷物を嘆きながら、ため息をつく。

 今日も午前に少しだけ観光地巡りをして、昼食も現地で取った。フレイヤとの本当の別れも忘れず済ませ、ラジエスを出たのが午後一時。そこから帰りもバンバドロ・キャリッジの世話になり、気付けば日没。夕飯時。

 休めたかどうかで言えば全くそうでもない気がする休日だが、旅情を思い出す彼女の面持ちが清々しいものだったので、良しとしよう。

 

「ただいま」

 

 頭を動かしながら歩くうちに家に到着、アサツキはやっとその羽休めを終えた。

 上がると「おかえり」と優しく迎えてくれる母もいれば、「ニュースで見たよ! 大丈夫だった!?」と心配してくれる妹もいて。脇のダンボールで取っ散らかった廊下の景色も、ちょっぴり鼻先をくすぐる木の匂いも、古臭いテレビが陣取る手狭な居間も、夕食の準備に慌ただしいキッチンも。何もかもが自分の帰宅を教えてくれる。

 長旅に出ているような感覚だったのもあり、やはり疲れていたのだろう。足を止めてすぐに、テーブルの傍らでどっと腰を下ろした。

 

「えー、この服すごいかわいいんだけど! ってか、ヘアピン! ああっ!」

「なんでも、都会では流行らしいぜ。八色あるから、お前にもワンセットやるよ」

「やったー! お姉ちゃんありがとう!」

 

「めっちゃ買っちゃたし」これは独白で終わらせる。

 妹と荷物を崩し広げながら、あれやこれやと確認していく、そんな折だった。

「おお、帰ったのか!」父が二階から降りてきた。

 

「うぉい、ってなんだその髪飾り! 似合わねえなぁオイ……イメチェンか?」

 

 そして開口一番で人の気に障っていく。

 すると当然と言うべきか、なんと言うべきか、やはり沈黙が押し入って。母はほとほと呆れた、という表情を、妹は「あーあ」なんて落胆を、それぞれ見せる。

 間違いなく悪くなる雰囲気。しかし気付かないのがこの父であり、この鈍感男。何故この男の遺伝子からこんなにも繊細な娘が生まれたのだろうとさえ、母は考えていて。

 気まずく思ったヨルガオがフォローを入れようと、今にも口蓋を持ち上げた、その時だ。

 

「――おめーは可愛げってモンを知らねえのか!! 仮にも娘だぞ!?」

 

 他でもないアサツキが、父に怒号をすっ飛ばした。

 それはなんとも初めてなことで。新鮮で。

 

「おぉ!? ……お、おお」

「ちったぁ頑張って女気出した娘を褒めたらどうだ! ええ!?」

「な、なんだよ、そんなキレるこたぁねえだろぉ……!?」

「似合うよな!? 似合うな!!? 似合うって言え!! おい!! 似合ってるーーーーーーっ!」

「だー! わーったよ! に、似合ってる! 似合ってるからそんな近くで叫ぶな! 悪かったって! ごめんて!!」

 

 けれど、嘘をつかない彼女の、偽りのない本当の声で。

 家族全員が目をまん丸にした光景を、彼女はきっと忘れないだろう。

 

 

 

「おねえちゃーん! お風呂空いたよー!」

 

 一階から声がする。

「今行く」それに反応し、職人は携帯をベッドに放った。

 長らく眺めていた待ち受け画面がぱっ、と光る。

 

 茶髪の少女と、彼女を中央に挟んで仏頂面のままフレーム外に視線を逸らす男女が映る、そんな画像が――。




《一件の通知》
早速連絡するよ!今度の公演はセシアタウンってことで、移動中です!途中で寄ったフレンドリィショップで売ってた新作スイーツがどっちゃくそおいしくて、思わず叫…


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Episode Brave
01.小さき大火


 テルス山――――ラフエル大陸の中心にそびえ立つ、山岳地帯のこと。

 山々が連なって出来る所謂山脈というもので、町『レニアシティ』が存在する最高峰にして、標高二二八〇メートル程度の規模となる。

 又、ラフエル英雄譚の終章の物語が刻まれた場所でもあるのだとか。なんでも彼は、ここで最後の偉業を成し遂げ、幾久しい眠りについたそう。

 詳しいことはレニアに住まうと云われている英雄の民が教えてくれるので、彼の歴史に興味があるのならば、そちらへ赴くのが手っ取り早いだろう。麓の町、サンビエタウンから出ている直通のケーブルカーを使えば、数時間もあれば到着する。

 

「……ひい……、ひい」

 

 尤も『それが十全に機能していれば』の話だが。

 息を切らしながら、亀が如き速度で登山道を歩む若い女性が、一人。マウンテンジャケットにリュック、トレッキングポールという登山に於ける手本のような出で立ちは、一見様にこそなっているのだが、どうにも山腹時点のばてばてな姿で、慣れていない事実が丸出しになっている。というか心底苦悶に歪んだ顔に、そう書いてある。

 

『次はレニアまで取材ね。先日起こった『テルスの主暴走事件』について、訊いて回ってほしい』

『え? ですが今、レニアまでのケーブルカーはメンテナンスで休止中では……』

『だったら登ればいいでしょうに。メディア関係者たるもの、情報ってのはいつでも足で取りに行くの。わかる?』

『し、正気ですか!? あそこの標高はおいそれと登れる高さでは……!』

『シャーラップ! キャスターは適性がない、リポートも向いてない、というかそもそも口下手な君が出来ることはなんなの! 見聞きした情報を記事にまとめること! 違う!? 少しは根性を見せなさいよ! まったく最近の若いものはすぐに弱音を吐く! 僕らが現場だった頃はね、そりゃあもう大変な――』

 

 ――彼女、ジャーナリスト『エルメス』は、あまりに不幸だった。

 先日ラジエスシティにて起こったリングマ暴走の真相究明を命じられたまでは、いい。問題は有力な情報を得るまでの道のりが、荊のように困難なものしかなかったということだ。

 どうしてこのタイミングでレニア行きのケーブルカーが止まっているのか。どうして自分がこんな一度きりのために高い金を自腹ではたいて登山道具一式を揃えなければならなかったのか。どうして終わりの見えない地獄のような斜面をひたすらに歩いていかなければならないのか。どうして私はやまおとこならぬやまおんなになっているのか。

 

「――ちくしょーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」

 

 仕事のストレス、登山の過酷さ、恋愛トラブル、エトセトラ。諸々の苛立ちがやまびことなって虚しく響く。

「……はあ」立ち止まって、一息。サンビエで配られているテルス山内の地図を覗けど、まだまだ道は遠い。だからこそ休憩しよう、エルメスは内心で唱えた。

 振り返れば四時間歩きっぱなしで、足も張りに張ってぱんぱんだ。途中の怪我が何よりも恐るべきことだと、付け焼刃程度ながら登山の指南書にも書いてあったし。

 見回すと、地表から出張った手ごろな岩肌を発見する。少しルートから外れた位置だが、座るのにはちょうどいいと、杖に体重をかけながらそこへ歩み寄る。その時だ。

 

「へ……!? わ、ひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!?」

 

 がくん、と見える景色が上がった。重力という手で、山中に埋められるような感覚。正解であった。

 ポケモンの掘り跡か、はたまた土の軟化か――緩んでいた地面がエルメスの足踏みによって崩落、そのまま自然の落とし穴となって彼女を引きずり込んだのだ。

 エルメスは魂でも抜けていきそうなほどの勢いを前にして、さらに大きく叫ぶ。

 ずるずる、ずるずる。望んでもいないのに、彼女をどんどん深みへと連れていく体重。

 ある程度まで滑落し、上がる事はおろか発見すら絶望的かと思い始めた頃。前進を擦るような感覚が止まった。

 

「あっ、わあ!!」

 

 かと思えば、今度は冷感に包まれる。同時に閉塞感。不快。どぼん、と聞こえた。

「え、おっ、溺れる!」正体は水たまりであった。

 パニック状態で両手足をばたつかせていたが、冷静に体勢を正してみればなんのことはない、足が付くばかりか子供用プール程度の深さしかなくて。

 ゆっくりと立ち上がり、暗闇の空間を認識する。

 

「……もしかして、洞窟?」

 

『テルス山の内部は、生息するポケモン達が掘ったために洞窟になっている』――ラフエルに住むなら誰でも見聞きした話だ。

「っもう、なんなのよー!」落とし穴の先が水たまりで、命を拾えたのは不幸中の幸いだったのかもしれない。しかしそれだけで喜ぶのは、些か課題が散らばっていて。不安と不満が思わず声に出て、八つ当たりに水面を叩く。そしてその声ははねっ返ることなく無限数の闇に飲まれていった。……少なくとも、狭くはない洞窟だという事だ。嫌なおまけに気付いてしまった。

 びしょ濡れのまま水面から上がり、自分を放り出した縦穴を見上げるエルメス。深さは最低でも五メートルはある。どう考えても人間が上がれる高さではない。

 そこに追い打ちをかける曇天――どうあっても登山日和とは言い難い。ともすれば人が通りかかる可能性だって低い。し、今日は実際に人にも会っていない。そればかりかポケモン一匹も見ていないときている。

 思考の切れ間に『遭難』という言葉が、過った。

 親への感謝を述べようか、それとも自らが生涯で積み重ねた業への懺悔を記すか。なんて、覗き込む鉛の空に目を合わせて、ぼやり考える。

 そんな所で起きる更なる場面転換に、果たしてエルメスは驚かずにいられるだろうか。

 

「あ、あ、あ、わわわ! わあああーーーーーーーーーーーっ!!?」

 

 答えはノーだ。

 まるでリプレイ映像を観賞しているようであった。差し込む薄明かりが途切れたと思ったら、声が近づいてくるではないか。それも実に若く高い、しかし女性とも違う、寧ろ声変わりしていない少年の声。

 

「わっ、おぼ、おぼれる! おぼれる!」

「落ち着いて、底は浅いわ!」

「あ、ほんとだ」

 

 人影は自分と同じようにひとしきり転げて回ると、自分と同じように水面に飲まれ、自分と同じように無駄に溺れた。

 パニックから脱すると打って変わってけろりとして、「ひゃー、やっちまった」と陸に上がる。

 正体は、十代になるかならないかぐらいの子供だった。褐色の肌に、ぽさぽさと伸びた赤髪を携え、右頬に小さな傷一つ。だがなによりどれよりエルメスの目を引いたのは、およそ山登りと呼ぶには足らなさすぎる服装。腰巻きが付いたボロボロな裾のズボン――それだけだ。

 軽装を通り越しもはや半裸なその姿から、外部から来た者でなく、この山に暮らしている者だと察することが出来た。

 

「君……」

「ん、声、聞こえてな。だからきたんだー。落っこちちゃったけど……」

「ああ、いや、そうじゃなくて。ここの人?」

「うん、そうだよ! レニアシティ!」

 

 エルメスが話しかけると、彼は人懐こい太陽にも似た笑顔を浮かべ、はきはきとした発話でそう返す。人見知りするような子ではないらしい。

 

「レニアからこんな場所まで!? かなりの距離があるはずだけれど」

「んーんー、いつもの修行コースだともっともっと遠いとこまでいくからなー、全然きつくないよ」

 

 純粋に、疑問だった。レニアとここを結ぶ距離は、大人が歩くにしてもひどく骨が折れる。いくら地元とはいえそんな規模の移動を、こんな子供が出来るのだろうか。ただの、子供が。

 

「……君、名前は?」

 

 探る物の性か――只者ではないと直感が告げた。まるで獣のように全身をふるふる振るわせて体中の水滴を飛ばす少年へ、今度は正体を問う。

 

「えっとな、カエン! おれは英雄の民、カエン!」

 

 次に聞いた存在を、彼女は知っていた。

 いや、ポケモンに触れている人間ならば、知らない者を探す方がずっとずっと難しいのかもしれない。

 それほどまでに、世に名を轟かせている人物であった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「……テルス山が、変?」

 

『レニアシティジムリーダー』と『ラフエルの末裔』。

 二つのワードは少ないながら、カエンという人物を表すには十分すぎるものだ。

 ゆえに彼が今語るのは、ここにいる理由。

 

「うん。ポケモンもみかけないし、なんだかなー、変なにおいもする」

「匂いって……」

 

 曰く、今朝からずっとテルス山の様子がおかしい、とか。それで居ても立ってもいられずレニアを飛び出し、山中を見回りしている折に彼女の悲鳴を聞き、すっ飛んできたのだ、とか。……尤も足を踏み外すのは想定外だったようだが。

 消えかかる焚き火に、木をくべる。途中の飲食を見越しての業務用割り箸だったが、思わぬところで役に立った。

 ゆらりうねる炎に照らされたカエンの表情は真剣そのものだったが、エルメスはというと話半分、というのが正直なところ。

 

「あー、もしかしてねーちゃん、うたがってるな!」

「疑っている、というわけではないのだけれど……こんな天気なわけだし、ポケモンが身を隠す事だって、別にありえないことじゃないんじゃないかって思……って、」

 

 突かれた図星を誤魔化すまでは予想通りの展開だった。だがしかし、まさかカエンが立ち上がって自身に顔を近づけるなどとは思わなんだ。

 

「な、なに……?」

「……んー」

「も、もしもーし?!」

 

 前に後ろに、下から上に。向きと位置を変えながら、エルメスの体中のあちこちをまるでスキャンするように見回すカエン。意図もわからぬ突如の奇行に身を竦めるエルメスだったが、しばらくすると彼は適正な距離まで離れて、

 

「ねーちゃん、水でちょっと薄いけど……車のもくもくのにおいがする。あとはたくさんの食べ物のにおいもする。ひとのにおいもすごくぐちゃぐちゃだ。ラジエスのひとだな?」

 

 にっかり笑ってそう言った。

 

「もしかして、私の匂いを嗅いでいたの……?」

「うんー、ほんとは女の人にそういうことしちゃダメってかーちゃんに言われてるんだけどなー、ねーちゃんがうたがってくるから、ちゃんとほんとのことだって教えたかった」

 

 意味を知れてほっとしたものの、内心それで納得していいのか、とも自問したり。まあ、このレニアのジムリーダーはまだ十歳と聞くし、“そういったこと”にも疎いのだろうと落とし込む。

「んーで、あたりか? はずれか?」忘れていたカエンの質問に、返答した。

 

「……正解よ。私はラジエスシティで仕事して、生活してる。エルメスっていうの」

「エルメスねーちゃんか! よろしくな!」

「よろしくね。でも凄いわね、本当に鼻がきくなんて」

「だろ? おれのすごいところのひとつ!」

「自分で言っちゃうのね……」

 

 無邪気なピースサインが自慢を伝える。本当に笑顔が絶えない子供ではあるが、この嗅覚の鋭さは超越的で、むしろ人というよりポケモンのよう。勘が示す通りに只者ではなかった。

 英雄神ラフエルはいつもポケモンと共に在ったと云われているが、彼もまたポケモンのような形質を持ち合わせていたのだろうか? ――折角過った疑問だが、どう考えてもすぐの解決は難しそうなので、見過ごすことにする。そんなことよりも、とエルメスは切り替えた。

 

「温まって呑気に話すには、少し苦しいものがあるわね」

「あ~……そうだったぁ……」

 

 遭難という事実が大前提に存在している現状を、再認識。カエンは忘れても、エルメスは忘れない。いくら彼がジムリーダーで英雄の民といっても、比べれば大人と子供。責任ある立場がどちらなのかは明白だろう。

 やがて割り箸も尽きるし、洞窟内に燃焼物もない。何より食料だって有限で。いくらポケモンを見かけないとは言え、こんなお先真っ暗で広大な穴ぐらの中、女子供で一夜を過ごすのも危険が過ぎる。であるならば、一刻も早く出なければならない。

 幸いその認識は共通だったようで、二人してぽっかり開いた空間を見上げる。

 

「カエンくん、空を飛べるポケモンはいる? その子に引き上げてもらうのが、手っ取り早い手段なのだけれど」

「そ、それが」

 

 いないことはない、という表情。からの、苦虫を噛み潰したような面持ち。

 

「よ、ようすが変って話をきいた勢いで飛び出してきたから、ポケモンみんな、わ、わすれちゃって……」

「Oh……」

 

 くしくしと、自らの後ろ髪を撫でる苦笑が希望を突き放す。そもそも出来ればとっくにやっている。考えればわかる。それでも眉間をおさえて悔やんでしまった。

 しかし思考を放棄することは許されないぞと、顎に添える手。

 となればどうするか――この洞窟をひたすらに辿って出口を目指すか、人の往来に賭けてこの場で助けを呼び続けるか。

『だめよ、全然だめ』独白が胸中を突き刺した。

 前者はより発見を困難にするだろうし、まず無事に出られる保証がない。し、後者は野生のポケモンを呼び寄せてしまうリスクがある。自分もポケモンは所持していなくもないが……トレーナーを本業としない以上、バトルの腕などたかが知れている。

 八方塞がりな状況で、エルメスは酷く懊悩した。生来の後ろ向きな性質が悪い形で働いたか。

 

「ポケモンさえいればなー、なんとかなりそうなんだけど」

「ええと、どういうこと?」

「おれな、ポケモンと話せる。野生とも話せるから、そいつらにおねがいして助けてもらえりゃ、一発なのになーって」

「もはや野生児……」

 

 曰く、カエンはポケモンと言葉でコミュニケーションを取れる能力を持つ。これは英雄の民の誰もがそうという訳ではなく、現在のところカエンにのみ発現が確認されている体質だそう。そしてそれこそ彼が『ラフエルの生まれ変わり』と謳われ続ける所以なのだとか。

 エルメスもこの期で疑うことはなかった。逆に打開策が見え始め、思考がポジティブな方にシフトしている部分すらあった。

 信じるならば、あとはポケモンが訪れるのを願うだけ。

 

「まって」

 

 そんな好機は、予想よりもはるかに早く巡ってくることになる。

 ゴロリ。踏み転がされた石ころの音が鳴る数メートル先を、反射的に見ていた。焚き火の輝きを浴びる正体を確認し、歓喜を飲み込むエルメス。誠に信じられない好都合だが――二人の視線の先に現れたのは、岩石ポケモン『ゴローン』であった。

 洞窟の中といえば必ずと言っていいほど遭遇し、古今東西津々浦々でその姿が確認されている、広い生息分布を敷く種だ。

 しかしエルメスはこれを必然などと思い上がったりはしない。救世主たるその存在を愚弄することにも繋がるから。ゴローンへ感謝の眼差しを数秒送った後、カエンへと向き直った。

 

「……カエン、くん?」

 

 明らかに様子がおかしかった。少年は先程の柔和さを一瞬にしてしまいこんで、あまつさえ口を噤み、その険しさを横顔に浮かべていた。

 その様相は、有り体に表現するならば『警戒』を意味する。

「どうしたの? 会話、しないの?」エルメスが訝る。それこそ必然だろう。

 

「あのな、変、だ」

「……?」

 

 だが彼も、いや彼こそが、彼女よりも早くに彼女と同じ心情になったことは、言われてようやく気付く話で。

 それが少しでも遅れていたならば、どうなっていたか。

 

「ねーちゃんあぶない!!」

「っ!?」

 

 彼女は数秒してから身をもって知ることになる。

 唐突にカエンに突き放された。バランスを崩したまま尻もちつくのを待つだけの刹那で――岩石の刃が眼に映った。

 どん。腰が落ちるのと時を同じくし、それは“かつて彼女のあった場所”を強く穿った。

 

「へ……へ……?」

「ねーちゃん……やっぱテルス山な、おかしくなっちゃってるみたいだ」

 

 衝撃で焚き火が一瞬にして潰える。包んだ暗闇が嘲笑う。「何が救世主か」と。

 技名“ストーンエッジ”。岩タイプの高威力技は、明確な敵意の表われであった。

 当惑に飲まれる思考を即座に整理する。野生のポケモンならば、人間へ攻撃を加えるのはそう珍しい事ではない。寧ろ当然かもしれない。

 しかしされど募る焦燥は、きっとその“野生ポケモンと友好的な関係を築ける者”さえも、今まさに目の前で攻撃を受けているからだろう。

 もう一度の攻撃を横っとびで回避するカエン。そして目を赤紫で充たしたゴローンへと、いつものように言葉を投げかける。

 

「どうした! なんでこんなことする? おれたち、おまえの敵じゃない!」

 

 だがなんと無情か、一言一句、何一つとして通じなかった。代わりに返るのは聞き知ったポケモンの言葉ではなく、巨大な石刃。

 

「っ……シママ!」

 

 まずい、と上げたエルメスの声に呼応して、モンスターボールより彼女の手持ち『シママ』が出現。四本の速足が隙だらけのカエンをその場から攫い、間一髪で救い出す。

 

「なんで……なんでだ!? ことばが通じない……どうして話せない……!?!」

「わからない! でも、今は――これしかない!」

 

「シママ、“ニトロチャージ”!」続けてエルメスが指差しで答えを出した。指示に肯う雷馬(らいば)は周囲に炎のリングを展開してゴローンへ突撃、襲い来るストーンエッジを次々とすり抜けて体当たりを見舞った。

 見事に技が決まるも、相性の悪さが祟ってダメージは雀の涙以下。少々のノックバックのみで平然としている光景が、そう告げている。だがそれでいい。

 

「今よ、走って!」

 

 何故なら戦闘の意図がないから。

 ニトロチャージによって起きた肉体の覚醒(エンジン)ですばやさが上昇したシママの狙いは、ただ一つ。この場からの逃走であった。

 己の手持ちが猛烈な速度で少年ごと離脱したのを確認すると、エルメスも身を翻し一目散に突っ走る。

 合間にゴローンの状態を確認する余裕はとてもとてもなかったが――少なくとも、彼が追ってくることはなかった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 あれから、どれぐらい走っただろうか。何度も躓きかけ、暗黒の中で岩壁にぶつかりかけたりもしたが、なんとか無事に逃げ遂せた事実だけで、今は喜べるだろう。

「ありがとなー、ちゃんと出られたらお礼になにかあげるからなー」自ら体力を消耗しなかったカエンは、シママを撫でて気遣う余裕があった。

 対するエルメスはというと、皆まで言う必要もない。切れ切れの息をどうにか整えんと、壁面に沿って腰を下ろす。

 

「エルメスねーちゃん、だいじょうぶ?」

「だい……はぁ……大丈夫、はぁ……ではない、わね」

「え!? どこかいたいのか! それともくるしいか?」

「そう、じゃあなくてね……」

 

 エルメスの言葉から、意味にはっ、と気づくカエン。

 大丈夫じゃないのはエルメスの方ではなく、この状況で。シママのたてがみの輝きを頼りに来た道を振り返って、思い出す。幾度と分かれ道を通過したことに。

 そして来た道を失念する。最悪の状況であった。こうするしかなかったとはいえ、彼らはより事を絶望に近づけたのだ。

 景色に目印もなければ、変化もない。似たような道がずっとずっと続き、時に分岐して迷路のように広がっている。変わり映えしない道――迷うための最たる要素。

 

「携帯電話も通じない。方位磁針だって狂ってる……ああ、もう、終わりよ……」

 

 エルメスはそうぼやき、いよいよ空になった頭を抱える。大人が子供に見せる態度として適当でないことはよく理解しているが、生憎知識もない、技術もない、そんな中で専門的なトラブルに当たってしまえば、誰だってまともなままでいられなくなるのも道理だろう。

 

「だいじょーぶだいじょーぶ! 入ることもできたんだから、出ることだってできるって!」

 

 不安に飲まれない強さか、それとも空元気かはわからないが、カエンの前向きな言は却ってエルメスの耳には酷く痛いものであった。

 思考がぐちゃぐちゃに乱れてしまった。精神がくたくたに萎びてしまった。少し休ませてくれと、ぐったり三角座りして項垂れるエルメス。

 そんな彼女の様子を何となしに眺めているうち、

 

「エルメスねーちゃん」

 

 カエンは開口した。

 

「今度は何? もう走るのはい」

 

 強引に遮られるエルメスの返答。右手がむんず、と頬を抑え、左の人差し指が口を施錠したのだ。

 突然のことで吃驚を隠せなかったが、少年の小声が耳朶を打つ。

 

『こえがきこえる』

 

 と。

 そこからは簡単だった。彼と一緒に、耳を澄ますだけ。

 それで、澄ますだけ澄まして、十秒ほど無音を味わった頃だろうか。表情に乗っかっていた不信感が消え去った。

 

「だーかーら、しつけえな。あんたの案には乗らねえって言ってるんだ」

 

 人の声が、本当に聞こえたから。

 

「(お、男の、声……?)」

 

 認識はカエンよりも遥かに遅いタイミングではあったが――今ははっきりと、遠くで低い声が捉えられている。

 

「だけど、道もわからないなら、ひたすら歩いて外を目指すのが一番だ。野生のポケモンを捕まえて“あなをほる”を使うにも、あんな凶暴さでは」

「そいつが一番手っ取り早いだろうが。わかったらとっとと消えな、あんたは口うるさくてたまらねえ」

「ダメだ。今は単独行動よりも、お互い助け合って行動するべきだ」

「しつけえなあ、学級委員長かよ」

 

 どんどん近づく、男二人の話し声。なんだか小競り合いにも思えてくるそれの輪郭が、少しずつ明白になっていく時。そのやりとりが自分たちの目鼻の先にまで迫った時。

 カエンとエルメスは、彼らと向き合った。

 

「……お?」

 

 いや――『鉢合った』、という言い回しが適当だろうか。

 

「そんな、まさか……本当に?」

 

 愕然。こんな場所に人などいる訳がないと、常識ならば思う。

 だが、今、闇から顔を出したつば広帽子とロングコートの男も。フェドーラ帽とレザージャケットの男も。

 追い込まれた故に姿を現す幻想などでは、決してない。

 本当に、ちゃんと生きている人間で。

 

「――人だあ!!」

 

 冒険する考古学者『ジェリオ』と、トレジャーハンター『テソロ』――二人の求める者達との邂逅は、目が覚めてしまう程に現実であった。



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02.招かれざる客

「……ということは、あなた方も事実上の遭難、と?」

「違う。脱出する手段を知っているから遭難じゃない。必要なものさえ揃えば」

「それがないから、こうやって出られないでいるんだよなー」

「…………」

「フッ……ああ、返す言葉もない」

 

『いつまでもここに留まっていても仕方がない』。初対面ながらに、一発で一致した認識であった。

 引き続きたいまつ代わりに電気エネルギーを光らせるシママを先頭に、道なき道を歩く男女四人。この奇妙な出会いが生み出されるまでの過程を、各々が説明しているところだ。

 

「研究どころではなくなってしまって、正直少し心細かったんだけど……君たちのおかげで解消されたよ」

 

 フェドーラ帽の青年はつばを持ち上げ、緊張を和らげんと冗談を言った。

 名を『ジェリオ』――職業、考古学者。各地の伝説や神話を主な研究テーマとし、広く深く調べて全国を回っている。延いてはそういった題材ゆえに、積極的なフィールドワークを行う事が多々。というか、むしろそちらの姿でいることの方が多く、本人曰く「冒険者のようなもの」だとか。

 現在はラフエルの伝説についてを研究しており、テルス山へ足を踏み入れたのも、その材料集めのためだそう。

 

「笑っていなさんなよ。根本的にはなーんにも変わっちゃいねえぞ、この状況」

 

 雰囲気を良好にするそんな気転なぞ露知らず、彼を一瞥し、嘆息まじりにぼやくロングコートの青年。名を『テソロ』。

 あちこちに点在する未発掘のままの財宝を探り当てる『トレジャーハンター』と呼ばれる者であり、テルス山来訪理由も勿論「お宝目当て」。非常に簡単な話で。

 

「ジェリオさんと、テソロさん……だったわよね。あなた達は、元々一緒に行動していたの?」

『いいや、これが初対面だ』

「とは思えない息の合いようだけど……」

「ってなると、にーちゃんたちが出会ったのも偶然ってことか? すんげえなー!」

「こんな出会い方しちまうぐらいなら、誰とも知り合いたくなかったけどな」

 

 違いない、と頷くジェリオ。

 図らずも同じ日同じ時間に、同じく何かを求めて、同じ場所に足を踏み入れ、同じように帰れなくなってしまったとは――なんと不可思議な巡り合わせか。カエンは「奇跡だ」などと陽気に喜んでいるが、残念なことに場違いな振る舞いであることに違いはない。されど彼が責められないのは、きっとその年齢ゆえだろう。

 求める者達は質問に答えた代償として、逆に質問を返してよこした。

 

「で、あんたらは誰なんだ? なんだってこんなとこに」

「私はエルメスといいます。レニアシティまで、少し用事があって。そして、こちらの子は」

「カエン! レニアシティのジムリーダーをやってる、英雄の民だ!」

 

 そうやって得意げに答えた次の瞬間であった。少年の正体を聞くやいなや、テソロが短兵急にして大袈裟な動作をもってカエンの方へばっ、と向く。当然驚くカエンであったが、そこに宿った表情とうっすら感じた匂いで、何かを察した。

「もしかして、にーちゃんも」少年との意識の合致を確信して、それ以降聞くこともなく勝手に話し始めるテソロ。

 

「レニアシティのジムリーダーってんなら、この山の事情にも精通していると踏んで訊ねるがよ」

 

 その内容とは。

 

「“アレ”は、なんだ?」

 

 ひとえに、進行形でこの山に起きている『異常』の一端のこと。

 誰もが立ち止まる。心当たった、誰もが。

 テソロがそれについて開口する意味を理解できないほど、カエンとて頭の回転は遅くなかった。

 

「俺達はそれぞれの目的を求めるうち、さっきみてえに鉢合った。そんで、野生のゴローンに襲われた」

「別に、ポケモンバトルに自信があったわけじゃない。だけれど……あまりにも強かった。まったく歯が立たなかったんだ」

「おかげで手持ちは全滅。買い置きした“げんきのかけら”も枯渇。しかも追い回されたせいで来た道もめちゃくちゃにされ、挙句(しるべ)に積んどいたケルンも見事にパー。泣く泣く『けむりだま』で逃げたはいいが、気付いてみりゃあこのザマだ……最悪さ」

 

 続けて「数日前の下見の段階じゃあんなやべーやつはいなかった」と加える。

 

「なあ、ジムリーダーさんよ――この山、相当におかしなことになってるぞ」

 

 危険が伴う職業故、癖のようにリスク管理を徹底する彼が言うからこそ、その言葉には重みがあった。

 襲われて、同様のケースを見て、エルメスはようやく今を侵す異常性に確信を持つ。飲み込んだ生唾がその証明。

 

「……わかんない。でもそれを調べるために、おれもここにきた」

 

 それは、二度目の溜息だった。

 

「やっと何か掴めると思ったのによぉ……、返事はこれかよ」

 

 主は想像に難くない。未だ泡沫のように淡いままというに、期待を抱きすぎたのだろう。次いで口に出しているのだから、もはや疑う余地もない。

 

「いや、いい。いいんだよ。こんなちんちくりんな小僧に過度な期待をかけた俺が悪かったんだ……ああ、そうだ。俺が悪いんだ」

「おいテソロ、そういう言い方はあんまりだぞ」

「だからいちいち口出すなって。文句の一つ二つ垂らさねえとやってらんねえんだよ、わかれよ」

「心中は察するが、今ここで荒んだ気持ちをぶつけ合ったところで、どうにもならないだろ」

「ふ、二人とも……」

 

 語気こそ静かだが、テソロは激しい言葉を選んでジェリオと反目しあった。縋った分だけの失望がそのまま態度となって、周囲も巻き込んでささくれ立たせる。

 策が尽きてしまうことよりも、尽くすだけの策が存在していない事の方が、ずっとずっと問題で、それでいて苦しい。そんなことはエルメスも、ジェリオだってわかっている。だがそれでも、そうであっても。頭でわかっていても、どうにもならない感情がそこにはあった。

 四者の足は依然動かない。強い苛立ちと、それからなる殺伐とした空気だけが、辺りをぴりつかせる。

 やがて沈黙が連れてきた一触即発の様相が、エルメスをより当惑させた。

 

『ぐ、きゅるるる』

 

 尤も、それもせいぜい数秒だけの話だったが。

 

「……なに、今の」

 

 生物の体というのは、必ずその意識の介在を必要としない機能がいくらか備わっている。

 例えば、発汗とか。例えば体内ガスの排出とか。例えばあくびとか。

 

「へ、へへへ……ごめん、朝からなにも食べてなくて……」

 

 空腹時の、胃袋の収縮だとか。

 いくらばつが悪そうに追従笑いしようと、そういうものは往々にして時と場を選んでくれない。仮に人と人が、今にも諍いを起こさんとしている時であっても、だ。

 エルメスが二人へ向き直った時には、どちらもすっかり肩の力が抜けていた。

 彼らの体もまた、主の意識の外で「ばからしいな」と言っていたのかもしれない。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 四人の脱出劇は、尚も続く。

 洞窟内が無限に広がっていようとも、どんなに辛く長く厳しかろうとも、その足は止めてはならない。強いられるのは終わりが一向に見えない、ひたすらの苦行。

 したたる汗を拭く作業も、いよいよ行われなくなってきた。しかしエルメスの内心は上々、というところであった。

 一定距離ごとに、道の右端に石を積み上げて作るオブジェ――“ケルン”。置く(サイド)を一定にしておけば、行き道か戻り道かもわかる。そして二人が出会った地点から、カエンとエルメスを拾った場所までもを巻き込み、こまめに描かれ続けるアナログ地図。

 いずれも「何もないよりはまし」と、ジェリオとテソロが紡ぎ出した探索者の知恵の賜物であった。

 やはり知識人がいると、幾分か安心感を覚えてしまう。専門家は大切なのだなと、えらく優先度の低い体感。

 先導役たるシママの隣で、その光源を頂きながら地図を拡張するジェリオが、あるタイミングを境にぴたりと立ち止まった。

 不審そうに、少し後ろからそれを確認するテソロとエルメス、

 

「これは! 空気のひろがり!」

「こ、こら! 危ないわよ!」

 

 と、同時に走り出すカエン。

 エルメスの制止も聞き流して前を行った彼は、ジェリオも追い抜き、「いこ!」とシママを連れてどんどん先を急いだ。

 引っ張られるように三者が追いかける。

 

「ちょっとカエンくん! 今は遊ぶとこじゃなくて……わっ!」

 

 かと思えば、今度はブレーキをかけて。一度は叱ってやろうと思い、その小さな背中へと目を落としたが、カエンの目線は上を仰いでいたので、訝っているうちにその感情も流れていって。そうやって意識を向け直した眼前にあったのは、

 

「……広場、なの?」

 

 だだっ広い空間。

 シママの明かりは心許なく、現在地の全貌を詳らかに出来るほどではないのだが――確実に先程までの押さえ込まれるような閉塞感は、消失していた。何よりも呼吸のしやすさが段違い。

 

「ジェリオにーちゃん、ここはなんだ?」

「わからない……だけど、見たところ地面が均され整っている。自然によって出来たものではないかもしれない」

「ええへえー! すっげー!」

「ざっくり見た感じだけど……天井もそこそこ高そうってとこか」

 

 ジェリオもテソロも通ったことのない場所であったようで、シママとカエンに導かれるままに中へと足を踏み入れる。

 空気の流動を素肌で感じた。スペースも十分だ。どうやら本当に広場で間違いないらしい。

 エルメスも警戒を解き、くるくる回ってはしゃぐカエンの傍できょろきょろと周囲を見渡す。危険もなさそうで、一安心と撫で下ろした胸。

 

「おい、調べるぞ。まず部屋の規模だ。右から壁伝いに歩け。ライトはあるな?」

「もちろんだ。左は任せる、何か変化があれば伝えてくれ」

「ちょっとちょっと!?」

 

 ――“求める者達”の胸は、まだまだ落ち着くには早いようだ。

 探索者の性なのだろう。男二人は活き活きとした目と、てきぱきとした動作で、この広場内を早急に調べ始めた。

 いえ、それは完全な寄り道ですけど。舌にまで乗った言葉を、飲み直す。歩きっぱなしであったし、もしかすると休憩にはちょうどいいのかも、と強引に納得することにした。

 

「……とりあえず、一服しましょうか」

「わーい!」

 

 無事であった携帯食をリュックから取り出し、カエンとシママに配った後、自分もありつく。時間的には午前のおやつ。

 もすもす、という咀嚼音に紛れて聞こえた「ありがとう」に、微笑んでお返しする。

 

「どう考えても、要らないわよね、あれ」

「んー。でもまあ、おれも知らないばしょにいくときは、わくわくがとまんないし、前の夜はどきどきで寝れないからなー」

「……男ってのはどうして……、こう、探し物が好きなのかしら……」

 

 二人を遠巻きに眺めているところ、ほの明るさの向こう側から、手招き。今度はなんだ、とざりざり砂利を擦りながら右側、ジェリオの方へと歩み寄る。

 言葉よりも先に彼が指したものを視認して、カエンとエルメスはその目玉を大きくした。

 

「――な、なんだ、これ」

「知らないか? ……いつから描かれたものかは、わからないが」

 

 壁一面に大きく広がる抽象画に、大の大人でも習ったことのない意味不明な文字の羅列――どうにか備え付けられていた知識で言い表すならば。

 

「壁画に、象形文字……“ラフェログリフ”? まさか、本当に存在していたの……!?」

「俺も、古代ラフエル語への造詣は深くないが……それでもわかる。これは紛れもない古のラフエルで使われていた言葉だ」

 

 資料でしか見たことがなかった、とは後付けの発言。ジェリオは壁画を撫で、胸を高鳴らせる。いや、彼だけではない。カエンもエルメスも、遷ろう時間の中で風化していった先人たちの軌跡を目の当たりにし、いつしか魅入っていて。

 

「こっちにもあるな。……いや、この部屋を形作る壁全て、か」

 

 テソロが示す通りだった。見回せば四方の壁全てに、ジェリオらが確認したような画が隙間なくみっちりと描かれており、やがてそれらは一つの壮観な景色となって、彼らの前に姿を表した。

 いつ、誰が、どんな理由でこれを描いたのかは定かではないが、確かに断言できることが二つある。

 一つに、ここが『未発見の遺跡である』ということ。二つに――。

 

「この壁画は、たぶん、ラフエルの所業の記録だ」

「おれもな、わかる。ラフエルの話はたくさん読んだから。ここにはそれを思い出させる画ばかりだ」 

「隙間がないのは、もしかして“繋がっている”から……?」

「順序立って描かれてるとなりゃ、どっち回りで見ていけばいい? やっぱ時計の動きと同じ右回りか?」

「……いや、おひさまの動き方と同じ、右から左な気がする」

 

 直感、ビンゴだ。出入り口のすぐ右に、溺れる人。ラフエル神話序章、希望の舟から落とされたラフエルを描写しているのだとわかった。

 そこから“決意の声”で絶望の魔物を打倒するところ、泳いでポケモンだけの大陸に上陸するところ、その大陸の王たるポケモンと対話をするところ、そして認められるところ――ラフエルの行いの一つ一つが絵となって、書物以上のディテールで記されているではないか。

 まだ続く――ポケモンと道を作ったこと。自然を切り拓いたこと。海の底まで潜って、水中のポケモンとわかりあったこと。背中の皮を剥いで作った絨毯で、空のポケモンとの競争に勝って仲間にしたこと。世界を埋め尽くすほどの大洪水から、虹色の光で大陸を守ったこと。氷の鎧を纏った竜を、獣の王と共闘して封印したこと。

 左へ向け、壁伝いに進めば進むほどラフエルは少しずつ強く、逞しくなっていく。奇跡の物語が加速していく。

 

「はわー……すっげえー……!」

「まるで、ラフエル英雄譚の原典だな……」

 

 圧巻の一言に尽きる。……だけであれば、よかったのだが。

「もしこれが悪戯でもなんでもねえ本当の原典だったなら、とんでもねえことだけどな」

 全員の耳を引いたのは、テソロの一言。終わりから辿る彼が指し示した壁画の一つに、その発話の根元があった。

 沢山の人と、ポケモンが並んでいる風景。それだけでは何の変哲もないワンシーンだろう。しかし訴える違和感が見るべきと言うのは、そこではない。

 人とポケモンが、不気味なまでに綺麗に分かれて、向き合っているのだ。

 壁画の左に、人間。手に棒のようなものや、平たい板のようなものが携えられている。

 そして右方に、ポケモン。その誰もが目を吊り上がらせて、牙を剥き出しにしているのがわかる。

 最後にその光景を離れたところから見つめる、一人の人間と二体の獣。

 一転、蒼白。記憶の中のラフエル英雄譚のどの記述を掘り返してみても、この壁画と一致するものはなくて。

 

「これじゃあ、まるで」

 

 信じたくなかったから、だろうか。険が憑依したような面をしながらも、カエンは不意に想起してしまったその単語を噛み潰した。

 

「……ジェリオ、ラフエル英雄譚は上中下の三つの編からなってたな?」

「ああ……ラフエルが大陸に辿り着きポケモンとの絆を深めるのが主な上編、その大陸の開拓模様を描いた中編、そうして出来たラフエル地方に流れてきた新たな人間達とポケモンの共存、ならびにラフエルの死までの物語を紡いだ下編、だったはずだ」

「終章の結末はわかるか?」

「彼は、白と黒の獣の王を従えて世界に降り注いだ“破滅の光”と戦い、打ち倒した後にその生涯を終えた。彼の散り際に白の獣王は彼の骨と光を喰らって白色の宝玉を、黒の獣王は彼の肉と影を飲み込み黒色の宝玉をそれぞれ造り出し、肉体を失って以降の魂の依り代とした」

「ああ、そうだ。俺はその白と黒の宝玉『ライトストーン』と『ダークストーン』が眠る場所――このテルス山内のどこかにあるといわれる、出入り口のない部屋『対極の寝床』を求めてここに来た。そのあると思われた(・・・・・・・)伝説を頼って、だ」

 

 そんな彼へ追い打ちかけるように照らされる、更なる壁画。刻まれたことの意味に気付いてしまった誰もが戦慄し、全ての言葉を失った。

 無理もないだろう。

 自分の信じていたものが、現実と大きく乖離してしまっていた時。自分の追いかけていた背中が、まるきり違う別の何かだったとわかってしまった時。

 きっとどんな人間だって、正気でいられなくなるのだから。

 

「こんな……、こんなのって」

「――終章に降り注いだ“破滅の光”ってのは、一体なんだと思う?」

 

 最後から、三番目の壁画だ――空で禍々しい輝きを纏い、地上に立つ人とポケモンを一緒くたにして涙を流させるラフエルの姿が、そこにはあった。

「うそだ」カエンは終わりにそう呟いてから、まるで氷像がごとき立ち姿で俯き固まり、ぴくりとも動かなくなってしまった。

 これを今この場で事実や正史と判断するには、些か早計だろう。だが世界の希望に胸を膨らませ今にも飛び立たんとする少年が、絶対に見てはいけないものだった。決して見るべきものではなかった。

 わからないからこそ、あり得るのだから。可能性止まりだからこそ、含んでしまうのだから。

 この感情はなんだろう。初めてだからわからないだろう。

 手の届きそうなものに、手が届きそうな瞬間ひびが入ってしまったみたいな感覚。

 とても痛い。触れっぱなしの壁から、棘が生えてきたような気がした。頭の中の『もしも』という言葉が望んでもいないのに研ぎ澄まされていって、脳みそにがりがりと傷をつけていく。

 

「な、何かの間違いよ、こんなの。必ずしも正しいと証明できるものはないもの」

 

 今にもしぼんで消えてしまいそうなちっぽけな体躯を見兼ねたのだろう、エルメスは助け舟を出した。

 

「これを嘘と証明するモンだってないだろう?」

「どうしてここで食い下がるの!?」

「俺達の元にあるラフエル神話が偽りだらけだったとしたらどうだ? こうやって信じたいように信じて、見たいものだけ見てきたような奴らの手によって作られた、目に優しい絵面取ってつけ、耳当たりのいい言葉並べ連ねただけの嘘八百の夢物語だったとしたら。そんなもん洗脳と変わらねえ。俺なら鳥肌が立って仕方がねえ」

「おい、テソロ」

「別に俺だって、子供の夢を壊すような趣味はねえよ。だけど明らかにしておくべきじゃねえのか。探索者として、調べる者として、この世界の真相ってやつはよ」

 

 否定から入った彼女にしても一理ある、もっともな意見である。

 

「やれ洪水を収めたとか、バケモノ退治したとかで『英雄』なんて大層な呼び名は付いているけどな。ラフエルだって本当はなんでもない、俺達と同じ人間のはずだろうよ」

 

 封じられたのか、それとも封じるしかなかったのか。いずれにしても、禁忌とされていたからこそ今日まで人に伝わることはなかったのだし、こうして簡単に立ち入られないような場所にこれを記したのだろう。

 

「喜怒哀楽があって、愛憎があって、時たま矛盾だって抱える。だから間違える。人間なんだよ。ずっとずっと正しくあれるなんてのは機械の理屈だ。違うか?」

 

 真実は残酷だったのだろうか。理想に傾倒するほどに辛いものだったのだろうか。

 テソロの言葉を聞きながら、世界の根底の一端を前にした三者は、三様の思いを巡らせた。

 

「本当のとこ、ラフエルはこの世界を――」

 

 言いかけはそこで止まった。

 彼なりの僅かな温情か。いや、そうではない。そもそも止まったという認識すらも誤りであった。

『止まった』のではなく『止めた』のだ。止めなきゃいけなかったから。

 なんのことはない、ごくごく当たり前の話。

 

「……どうやら、長話が耳障りだったらしいな」

 

 テソロがおもむろに振り返る。敵が襲撃をかけてきた。説明はそれだけでいいだろう。

「カエン」短くも静かなジェリオの呼びかけで、少年も我に返った。そうして仲間たちと同じ方を向いてみれば、暗黒すら突き刺す赤紫の眼光とかち合って。

 ゆっくりと場に乱入してくるその存在は、ここに居合わせる誰とも面識がある。寧ろ嫌というほどに自己を知らしめている。

 ゴローンのとおせんぼうは、どうにも突破できそうにない。

 

「そんな、このタイミングで!」

「クソが……最悪だ。行き止まりだぞ、ここ」

「てーことは、前つっきるしかないってことか……!?」

「……いや」

 

 一体だけなら。そんなエルメスの意向で迸る雷。臨戦態勢に入った唯一の戦力『シママ』へ待ったをかけたのは、構えたままのジェリオであった。

 彼女が読めないその意図を問わんと肩越しに彼を見やった、その時のこと。

 闇色の気配が一斉になだれ込む。

 一組、二組。三組、四組、五組。六組七組八組九組十組。

 闊歩、或いは行軍――二個一対の妖しい輝きは続々と立ち上がって、数える暇も与えず次々と増えていく。背筋がぞくりと震えあがった。

 少し考えれば、わかるだろう。

 

「カエン、エルメス……君たちが襲われた時は、どうだったかは知らないけど」

 

 いくら彼らの本業が、トレーナーでなくとも。いくら向こうの強さが、通常より図抜けていたとしても。

 

「俺たちは“これ”で、全てのポケモンを瀕死にされたんだ」

 

 人によって丹精込めて育て上げられたポケモン達が、たった一体の野生ポケモンに真っ向から負ける事なんて――ありえるわけがないじゃないか。

 だが事実を知った瞬間には、もはや手遅れ。仰々しく蠢く鳴き声が止んだのを合図に、岩石兵の軍隊が組み上がる。

 こいつだ。こいつにやられた。この連携に。

 テソロは舌を打った。ジェリオは沈めたつばの向こうで、忌々しげに睥睨した。

『ゴローンは複数いた』。ほんの数瞬で終わる一言なのに、なんと憎たらしい話だろう。

 完全に囲まれ、壁を作られ、出られなくなった。動き出す者はおらず、誰一人としてその手に何かを掴むこともない。

 万事休す。そう言う他に、なかった。

 

 

『――ォオォーーーーーーーーーーーーーーーン!!』

 

 

 突如として奔ったその叫びは、闇を揺らした。

 否、厳密には闇を満たす空気を揺らした、と言い換えた方がいいか。

 

「……なに、今の」

「鳴き声、か?」

 

 いきなりすぎる事で、置き去りにされる思考。中でもカエンはとりわけその風が強かったようで、呆然と立ち尽くす。さりとて、状況は変わっていく。

 一つ。獣の咆哮のようなものが、どこかで響いた。

 二つ。ゴローンの群れが急にざわついて、背後を気にし始めた。

 そして三つ。

 

「伏せろ!」

 

 ゴローンによって作られたバリケードが、向こう側から破壊された。

 ど、ひゅん。漆黒の波動が虚にうねったかと思えば、堅牢な岩の檻へぶち当たって爆発、容易にその構成物を吹っ飛ばす。響く衝撃と、遮られる視界。

 

「な、なんだー!?!」

「野生同士の抗争でもおっ始まったか……ッ」

「いや、違う。これほどの威力、野生の練度で出せるものじゃない。あれは――」

 

 塵煙が晴れて、岩の壁が真っ二つに割れて。拓く花道に招かれたのは、この洞窟内よりも真黒い色を湛えたかみつきポケモン『グラエナ』だった。

 暗夜の訪れを錯覚させるその闘犬が二度(ふたたび)大きく吼えると、同じ姿をした別の個体が連なって戦場への闖入を開始、寸分たりとも無駄のない動きで陣形を展開する。

 さすがに危機感を覚えたのだろう、ゴローン達は四人をそっちのけにグラエナへと向いた。

 放たれる大量のストーンエッジ。だがそれを許すはずもない。他でもない前列のグラエナ一団が発する“あくのはどう”が。

 獣の口より一挙で生まれ出た悪意の奔流は、束となって一つの巨大な津波と化した。そして石刃(せきじん)を激しく打ち砕き相殺する。

 しかしまだだ。待ち受けていた後列のグラエナは好機を逃さない。三度(みたび)の咆哮が聞こえる時。それは蹂躙が始まる時。

 前列の隙間を暗黒の煌めきが抜け駆けた。牙に纏ったあくタイプのエネルギーが、接近技『かみくだく』で解放される。

 続々として止まぬ突撃。炸裂音。岩石兵は一体ずつ、確実に弱々しく鳴きながら崩れていく。

 合間の反撃は、絶対に小さいものではない。されどどうだ。一頭が浴びかけた攻撃を他の一頭が防ぎ、一頭では足りない火力を、足並み合わせた攻撃で補う。一つが皆のために。皆は一つのために。完璧なカバーが成立している。

 

「なんて連携なの……タイミングに、ずれがない」

 

 グラエナ自体、そこまで強い種ではない。だがそれは個という単位で見ればの話だ。

 彼らの本分は群れにて発揮される精密な連携力と、数に物を言わせた制圧力。強き者は「一では何も出来ぬ」と云うかもしれない。嗤うのかもしれない。

 だがこれこそが彼らの真骨頂であり、何にも代えがたい生存のための偉大なる知恵なのだ。

 彼らの集団行動は、他の種が掲げるような単純な『足し算』などではない。寧ろ『掛け算』だ。四人は、それを今まさに思い知る。

 ゴローンのまとまりに隙間が生まれ、数が疎らになってきた頃。さらに新たなポケモンが乱入する。

 

「スァアアアァ!!」

 

 閃きによる一薙ぎが僅かな時の中で作る、微かな照明。視認には十分だ。

 そのポケモンはグラエナと同じ属性を備え、影形も同じ獣でこそあったが――体の色が決定的に違った。その言い伝えが嘘でないのなら、もっと早くに見てもいいはずだったのだが。とはテソロの独白。わざわいポケモン『アブソル』が、側頭に携えし刃で次々すれ違いざまにゴローンを斬り伏せた。

 そして、もう一体。

 

 それは、言ってみれば“雷”であった。

 

 何かが降り立った中心から八方へ向けて、青い衝撃波は地を駆けた。続けて唸るそれは仕上げとでも言いたげな勢いを以て、敵の残党を飛ばし散らす。

 宙高く放られたモンスターボールから、ポケモンが猛スピードで真っ逆さまに飛来してきた――この一連の流れを目に焼き付けることができたのは、カエンしかいなくて。

 確認していた。落雷にも似た挙動ではあったものの、発生した技の性質は水のそれ。空気中の水分が集合して起きた激流のベールの向こう側で、こうていポケモン『エンペルト』は仁王立ちする。

 少年は本能で理解した。このポケモンが今の全てを終わらせると。この、居合わせる者全ての心臓をわし掴むような尋常ならざる気を放つ、ポケモンが。

 威風堂々たる佇まいでエンペルトは右、左と順立てて空を煽ぐ。すると戦場は忽ちひれ伏して、間欠泉よろしく複数箇所から水柱を立ち上がらせた。

 

「“たきのぼり”だ」

 

 やがて聞こえる、最後の号令。

 その声を契機に全ての水柱は合わさり、残りのゴローンを皆巻き込んで、逆さまに流れる滝へと変容した。

 エンペルトが飛翔する。そうして波乗りの要領で滝を滑る。逃がすものか。持つべくして持った王冠(くちばし)に、討つべき者は反射している。

 

「ウオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」

 

 怒涛の突進は猛りを伴い、彼らを一匹残らず一閃の下にした。直後、お役御免と水壁が両断される。飛沫が雨のように降り注ぐ。

 どん、どんと力尽きたゴローン達が地面に落下する中、大胆に腕組む皇帝は着地点に作った噴水に乗り、それをゆっくりと縮めながら降りてくる。その様たるや、さながら覇王の降臨だ。

 

「よく、わからねえが……」

「助かった、の?」

 

 最後に残った瀕死のゴローンの山を見やって、テソロとエルメスは呟いた。

 何者かの介入によって命拾いした――しかしそれだけでは手放しに喜べない。何故なら、どうあっても事の異質さが増してしまっているから。

 まず、こんな山奥にグラエナ、アブソル、エンペルトなんかが生息しているはずがない。よって、人のポケモンだろう。

 そしてこれだけの規模の戦力の用意、および連携を、一般個人が出来るはずがない。よって、組織的行動を主とする者達なのだろう。

 ジェリオは断片的な情報から生成したパズルのピースを当て嵌めていく。そう待たずして答え合わせは成されるのだろうが、彼はどうしてもこの胸の奥の取っ掛かりを解消したかったのだ。もくもくと立ち込める、不穏な靄を。

 

「……くる」

 

 カエンが、厳密にはカエンの嗅覚が、その時を告げた。

 人の集まりが、足音もなくして現れる。彼らがあの出鱈目なチームワークの正体で、このポケモンたちに指示を送っていたのだろう。素人では絶対に成しえない命令系統を作り、意のままに操っていたのだろう。熟練のトレーナーですら困難とされるそれは見事にして圧巻で「凄い」という賞賛の言葉さえ送れるのだろう。

 何も知らなければ。

 平穏無事な世界で、健やかに暮らせているのならば。

 

「おいおい――どういう状況なんだ、こりゃあよ」

「……まさか、な。外れていて欲しいと思ったんだが」

「嘘、でしょ」

 

 残念なことに、彼らは知っている。

 その混濁とした灰の衣も。平和を蝕む象徴である『B』のエンブレムも。それを纏う者たちがしていることさえ。

 

「目標、全て沈黙しました」

 

 一難去って、また一難。

 ポケモンを戻した“灰の一団”は、遅れて入ってきた人物に短く敬礼し、彼の者の道を開ける。

 

「ごくろうさん。ちゃっちゃと捕獲しちまってくれや。テア、外のバンバドロのコンテナからボールのストック取ってこい」

「りょーかいでっす!」

 

 彼らが今してくれた事よりも。彼らがこれからしようとする事に、気を立てなければならないのだから。

 本当の本当に、残念な話。

 カエンはどこからともなく漂うやにの香りへの嫌悪感を、そのまま顔に出した。

 静かに、だが確かな意志を込めて凝望する先で――その男は待っていた。

 どこかくたびれた木のような、退屈を宿した気だるげな長身。隣に、ようやっとでエンペルトが降り立つ。

 

「――バラル、団」

「……おォ、なんだ。英雄の民のガキじゃねぇか」

 

 名を『ワース』。

 ラフエルの闇“バラル団”の幹部格の男。それはどこの誰にも望まれていない、招かれざる客であった。



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03.奇妙な共同戦線

 人は、精神が恐怖によって完全に支配された時、体が震え始めるという。

 漫画やドラマでも、登場人物の心情を見ている者へわかりやすく伝えるための演出として、その動作は頻繁に利用されている。

 そしてそんなシーンを観るたびに、毎度……という訳でもないが、はたと「本当か?」などという疑念を人並みに感じていたりもした。

 

「神様、仏様、お父様、お母様……神様、仏様、お母様、お父様……」

 

 ――本当だった。エルメスは進行形で慄きながら、そう思い知る。

 

「だー、うるっっっせえなあもう!」

「貴様らァ、何の話をしている!」

「ひえええええええごめんなさいごめんなさい煮るのも焼くのも甘んじて受け入れますからどうか楽に早く一思いに未練も残らない程の手際でお願いしますお願いしますぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!」

「すまない、ずっとこうなんだ。抵抗の意思はないので、続けてくれ」

 

「妙な真似はしない方が身のためですので、お忘れなく」その服に袖を通すにはあまりに若すぎて、それでいて繊細過ぎる少女『テア』が言い残した。

 よもやバラル団に危機を救われることになろうとは、十数分前の自分は思わなかっただろうな――と、隣でひたすら震えあがっている彼女を一瞥し、しみじみ思うジェリオ。

 しかし彼らが慈善事業や道楽でそのような真似をする者達でないというのは、世俗を鑑みてよく理解している。

 であるならば、だ。今こうして自分たち四人を半ば拘束状態にしておくには、相応の狙いがあるということだろう。

 想像力を働かせる。彼らの目的はなんだろう。幹部すら出張るこの規模で、どうしてここにいるのだろう。

 先程から、動かぬゴローンをモンスターボールで捕えている。戦力となるポケモンの確保か。

 傍らで幹部格の男はぼう、と壁画を眺めている。ラフエル絡みの何かか。テソロが言う“対極の寝床”か。

 

「(ダメだ、見当がつかない)」

 

 何かわかれば相応の対応も出来るというものだが、生憎、推理が噛み合わない。あまりに生きる世界が違い過ぎる人物ゆえ、思考をなぞれないし、計ることさえままならないときた。

 現在の認識を共有するのもなくはない。でも、横で腕を組んで壁に寄りかかる探索者(テソロ)が、自分の話をすんなり聞き入れてくれるとは思えないし、だからといって逆隣の彼女は縮こまって怯えるばかり。さしずめテロリストを前にしているわけだから、無理もない反応だとは思うのだが――今はそうあるべきでない。

 だったら、彼はどうだ。年齢に少しの心許なさこそ残るが、現状一番話を通しやすいはずで。

 

「……おまえらの狙いは、なんだ」

 

 少年が、彼の最も避けていた選択をあっさりと取ってしまったのは、そんなことを考え付いた矢先のこと。

 ため息と共に項垂れる。無駄話の時間を作り、脳内の整理を阻害される悪手を差してしまった、と。

 カエンの投げかけに、横顔はゆっくりと角度を変えた。そしておもむろに近づいてきた。二〇〇センチにも及びかねない背格好のせいか、それとも佇まい由来のもののせいかわかりはしないが、並々ならぬ威圧感を伴って。

 

「大方のんびりと山登りに来て、奴らに襲われた。ってとこか」

 

 気迫に圧されて身構える男らも、ピークに達した恐怖で伏せる女もお構いなし。ワースは彼らの前に来るやいなや、煙草を吹かしながらあっけらかんと質問を返す。

 

「な……、おい! ひとの話聞いて」

「でもって手持ちを全ロス、成す術なくして尻尾巻いて逃げたら迷子になっちゃった、と――抵抗しねぇのはそういうことだな?」

 

 遮られたことへの不満で下から叫べど、まるで意に介さない。視線一つもよこさない。

 特段表情を変えずにそれしきをやるあたり、よほどのマイペースなのだろう。反してピジョットも驚く鋭い目に観念したジェリオは、横向きのままに出された問いへの回答を述べた。

 

「ああ、何も違わない。俺たちは例外なく皆そうだ」

「けっ、いい大人とジムリーダーが雁首揃えて情けねえなぁ……三文にも満たねぇ茶番じゃねえか」

「俺たちが聞きてえのは、あんたらがその『情けねえ俺ら』をこれからどうしてくれるのか……ってところなんだがよ」

「……さあて、ねえ」

 

 浸るように空虚ばかりを望んでいた大男が漸く関心を示したのは、親指よりも短くなったやに。だがそれも束の間、押さえていた人差しと中の二本指をぱっと開いて、ほろっと放り捨て、踏み蹴る。

 

「今んとこ、俺の一存で決められはすっけど……、あー、どうすっかなぁ」

 

 そしてソフトケースの一振りで出す、もう一本。現れた尻を直接咥えて容器を引く。着火も勿論忘れずに。

 本人はさらさらその気はないのだと、傍目からでもわかるのだが。気乗りしない声と言い淀みで、却って命を握られているような緊張感を覚えてしまう。「なんでもできるのだぞ」という、包み隠さぬ絶対的な余裕や優位性。その類。

「野郎の判断が」だとか「後々面倒」だとか、音量不足で断片的にしか聞き取れなかったが、煙りもろともぶつくさと垂れていた独り言が終わる。続いたのは、

 

「お前ら、“アレ”見て何か感じたか?」

 

 更なる質問。

 まるで意図が不明な問いであったが、そこで芽生えた疑問以上の疑問が、彼らから素直さを引き出した。

 

「変だった。おれの言葉が通じないし、話も聞いてくれなかった」

 

 とりわけカエンは知りたくて知りたくて仕方がない、そういう顔をしていた。故の即答で。

「いや、あれは声そのものが届いてないっていうかんじもした……凶暴化?」次の瞬間、言い直すカエンを見て、明確な意志を瞳に宿したワース。わかる者にはわかる、何かしらを腹に決めた時の目だった。

 

「……そうか、お前ら、そこまでは理解してんのか」

「? ていうか、なんでもいいからもうたばこ吸うのやめろ! くさい!」

「このガキが仰る通り、変だ。今ここでは、目に見えて異常が起きている」

「だーかーらー! 無視すんなよ! おい!」

 

 マイペース同士は、どうにも波長が合いづらい。

「えらく饒舌だな。訳知りのようだが」ジェリオはどうにか掴みかけた情報を手繰り寄せんと、繋げやすい言葉を投げかける。

 

「がっつくなよ。俺らがここ来たのはそれが理由になってる」

「このポケモンの凶暴化が、ということか?」

「ッハ、やっぱあんたらが一枚噛んでたってことか」

「人の話は最後まで聞け三流。俺はまだ全部言ってねーぞ」

「チッ……なかなか気に障る野郎だ」

 

 口元の棒っきれから灰を落として小休止を挟み、再び話し始める。

 今この場で起こっている事を。混沌の渦の、その目についてを。

 

「何週間か前にラジエスで起こった“テルスの主暴走事件”を、覚えてるか?」

 

 商売根性だろうか――求めるワードを聞いた瞬間に、エルメスは正気を取り戻した。以降は会話に聞き耳を立てていく。メモ帳だって忘れない。

 

「凶暴化したリングマが下山して暴れた、あの」

「ああ。経緯も原因も不明、わかることと言えば『何かしらの強烈な衝動ないし感情で、理性を失っていた』ってことぐらいとされている(・・・・・・)、あれだ」

「覚えてるも何も、おれの友達が起こしちゃったことだから、忘れられない。戻ってきたら何があったかをきこうと思ってる」

「その必要はねぇよ」

 

 ワースが言わんとすることの意味は滞りなく伝わって、口車はより加速する。

 

「……目撃者が言うには、そのリングマはべらぼうに強く、夜に見た雨空みてえな、赤紫色の眼をしてたらしい」

 

 顔を見合わせる四人。先程の光景を脳内で再生し、わかる。ゴローンのそれと一致した。

 

「それで、こっからはまだ公表されてねえことだが……覚醒作用のある薬物反応が検知された、とかなんとか」

 

 話はぴくりと身体を跳ねさせ反応を示すカエンを置いて、さらに続いていく。

 

「なーんでだろうねぇ。野生のポケモンがお薬を摂取する機会なんて、一体どこにある?」

「きのみの中には、食べるポケモンの体質次第で、毒物になったりするものもあるというが」

「だとしても、ひと月足らずの短期間で、そんな偶然がこうも頻発するか? それに山のポケモンを相当数狂わせちまうようなやべーきのみが成っているなら、この件はとっくに起こってていいことだし、環境保全団体(ポケモンレンジャー)だって黙っているめぇよ」

 

 回りくどい言い回しがひどくじれったく感じたのだろう「何がいいたいんだ」と、急かすカエン。

 確かに話し手は煙草もあって唇をもたつかせているが、それでも話は少しずつ、ちゃんと真実に近づいていた。そして同時に、一部の者はそれに気付き始めていた。

 

「……まさか、人間の仕業だと言いたいの?」

 

 決まり手だった。

 ご名答。ワースがエルメスの発言を肯定するのと同じくして部下たちはゴローンの捕獲を完了、したっぱの報告に対し手短に待機を命じる。わざわざ自分たちの行動を休めてまで発する一言は、この後彼らを激しく緊迫させることとなる。

 

「んで、だ。――これを引き起こした奴は、まだこの山のどっかにいる」

 

 彼らはしかと耳に放り込んだ。混沌の主が、未だこの地にいるのだという事実を。テルスの主暴走事件の犯人が、今も山中のどこかに潜伏しているのだという現状を。

 勿論、相手が相手なので、全てを信じられるわけではない。ばらまかれたパズルのピースは一つずつ精査していく必要があるだろう。ジェリオは頭を回すのに割いていたエネルギーを、今度は口を動かすことに使った。

 

「俺たちにこれを教えたということは、この一連の事件にバラル団(あんたら)が関わっていないということの証明になる――そう捉えても差し支えはないか」

「さあなあ。情報ってのは水物だからよ、その値段はいつでもテメーの目一つで判断しなきゃならねぇもんだ」

「委ねる、ということか……。いい、信じよう」

「おい、お前なぁ」

 

 まるで立場が交代したように口を出すテソロ。表情はまるきり疑ったままで、その様たるや信用の「し」の字も感じられないほど。だがジェリオは頑として揺るがなかった。そうするに足る確信と、それを裏打つ彼らの決定的な情報を持っていたからだ。

 

「世界に根差す悪意というのは、何も一枚岩とは限らない。これは合っているか?」

「黙秘だな。けどまぁ、そうではないと思ってんなら、そいつぁ能天気が過ぎる。悪かねぇ着眼点だ」

「悪者にも悪者の事情があり、合う合わないがある。でも、そこは問題じゃない。恐れるべきは『そうなるまでに悪意が浸透してしまった』現状――それそのものだ」

「なかなか脳みその詰まりがいい。んじゃ仮にお前さんの言う通りであったとして、俺はその『現状』について、どう思っていると考える?」

 

 手堅く、時に大胆に。知りたい者と、知られようとしない者。水面下に苛烈さを敷いた、壮絶な情報戦が繰り広げられる。

 幾度と掴みかけるが、要らぬ言葉尻をまるでトカゲの尻尾のように切り離し、ワースは悠々と逃げていく。しかしジェリオも負けじと食らい付く。深みまで追いかけるのは、適した時、適した場でとっておきの切り札を切りたいからだ。

 

「――『ポケモンへは故意に危害を加えない』というバラル団の理念に反したその存在を、今のバラル団は目障りで仕方がない。違うか?」

 

 例えば、こんな風に。

 

「……ハハハハハハ!」

 

 数秒黙り込んだ後に、沸き起こる高笑い。これがワースのものだと予期するのはさしもの部下らも難しかったようで、視線を釘付けにする。

 

「いいじゃねえか。おもしれぇ、おもしれぇよお前」

 

 灰がぽとりと落ちた時に起こったしたっぱへの呼びつけが、問答の終了を告げた。

「おい、ポケモンの予備あったよな」「い、いいのですか。奴らは」「お前だってさっさと休みてえだろ? わーったらさっさと出せ」

 四人が理解の及ばぬやり取りを見ているうち、テアは再び彼らの視界に現れ、一人につき一個のモンスターボールを配る。

 

「『ワルビル』が入っています。暗闇でも目が効き、周辺に多く生息しているいわタイプに有利なじめんタイプです」

「これは……」

「貸すだけですよ。ワースさんが人を気に入るということは、滅多にないことです。光栄に思い、感謝してください」

 

 あまりに突飛な行動だったものだから、手元を瞥見して面を上げるテソロ。

 

「お前らを外に出してやるよ。但し、条件付きだがな」

 

 愕然とした。願ってもない言葉が、望んでもない相手から飛んできたから。

 信じられずに目を点にする者、そもそも言っている事すら飲み込めなくて二度見をする者と十人十色な反応を覗かせるが、曰く『商談』とされた彼の提案は、構うことなく展開される。

 

「その兄ちゃんの当たりだ。俺達は今、一連の事件の犯人を追ってる。理由は一貫して『バラル団の理念に反した行動を取っている』からだ」

「正義の味方ごっことは、ずいぶん柄でもねえことをするな」

「『それもある』ってだけだ。ポケモンをおかしくする薬物――どんなカラクリかは知ったこっちゃねえが、そいつぁ俺達にとってえらく都合が悪い」

 

「……いや、誰にとってもそうか」言い直し、さらに繋げる。

 

「出入口の張り込みや、他ポイントの捜索で別働隊も出てる。だから、ここでとっちめる。んで出来ればその怪しさ満点のおくすりの出所も知られりゃ御の字だが……、まあ、難しいだろうな」

 

 間髪容れずに提示するのは、彼らにとって、

 

「ま、それはそれとしてだ。あんな具合に次々と狂ったポケモンの相手してちゃ、どんどん目的の達成に遅延が生じるんだわ」

 

 より難しいとされる問題。

 ここまで聞き、この処遇に至った原因が四人にも徐々に見てくる。

 

「人手不足、と?」

 

 些かフライングではあったが、エルメスから出た言葉を、ワースは否定しなかった。

 

「そういうことだ。今は猫の手でも借りてえってな」

「そこで、俺たちか」

「お前らは絶賛遭難中。で、山のポケモンが鳴りを潜めてんのは、多分この件と無関係じゃねえ。ビビって出てこねえだけなのかもしれねえが……地元の山が荒らされてんのは、ジムリーダー様にしても穏やかじゃねえだろ?」

「おれたちに、わるものの手伝いをしろっていうのか!?」

「構わねぇよ、嫌なら嫌で。どうぞ正義を有り難がって野垂れ死んで、ポケモンの餌にでもなってくんな」

「へっ……何が商談だ。足元ガン見じゃねえか」

「取引にもタイミングってもんがあってな。株、貿易、販売、サービス、何にでも言えるこった」

 

 誰かが、藁にも縋りたくなるほど溺れる瞬間を待つ。あるいは見つける。信ずる者が神以外になくなった時が、至上の売り時。商売の鉄則だ。

 煙草の火を瞳に映して掲げたのは、否定の余地がない、ぐうの音も出ないほどの正論であった。

 ぐらりとした鈍い輝きに、ジェリオ、テソロ、エルメスが揃って畏怖を覚える。

 的確に状況を見抜く観察眼も、さることではあるが――何より自身の問題解決のためとはいえ、得体どころか素性すら不明な見ず知らずを平気で利用せんとするその飛躍的発想が、常軌を逸した何かを感じさせたのだ。

 形だけ見れば、利害の一致以外のなんでもないのだろう。特段断る理由も見当たらないし、ややもすれば飲んでもいいのかもしれない。しかしそれでも顎が重たいのは、きっと彼らがこの男から薄々感じていた、前述の要素からなる恐ろしさのせいだろう。

『強か』なんて言葉でさえかわいく思える。バラル団とは、世界の悪意とは、こういう者がいる。こういうぶっ飛んだ、まるで化物すら凌ぐ思考力の持ち主の男が属している。

 だから数々の悲劇が起きた。数多の人が絶望した。

 選べ――悪意の一端が言う。事の解決に協力するか、このまま死ぬか。

 選択の時だ、嫌でも彼らは答えを出さねばならない。全容は把握したが、本当にいいのか。これでいいのか。生存のための理論が、「戻れない道に踏み入ってしまうのではないか」という感情に押さえ込まれる。

 流れた汗がとうに冷え切った頃。そうやって二の足を踏み続ける者達の中で、それでも、と呟き、前進する人影一つ。

 

「……おれ、手伝う。ポケモンのために」

 

 カエンであった。

 少年は勇ましくも、静かで強靭な意志を胸にし、怖じることなくワースと向き合う。

 

「へえ、ずいぶんとお利口さんじゃねえか。ラフエルの末裔が悪党に加担していいのかい? ご先祖様が泣いちまうかもしれねえぞ」

「……英雄は、みんなの希望になるためにいる。そのためなら、わるものになることだってあるかもしれない」

「図太いねえ……、あの壁画を見てなお、それが言えるたぁな」

 

 二人が視線を向けるのは、同時。見るものも同じ。

 軌跡をいくら刻んで、どれだけ語り継がれたって。いつもいつでも、意思というのは絶対に正しく伝えられない。その時を生きていた人の気持ちは、心は、その時を生きていたその人だけのものだから。

 仮にこの所業が本当のものであっても、それに至るまでの心情の機微までは判らない。もしかすると彼はこれを正しいと信じたのかもしれないし。だが、そんな脆い屁理屈のような希望に縋る気はない。けれども。

 

「ほんとにラフエルがこんなことして、それを信じたくなかった人たちの嘘がラフエル英雄譚をつくったんだとしても――いい」

 

 子供ながらに、

 

「それでもそれは、その人たちにとってかけがえのない希望だったと思うから」

 

 自分の奥底で確かに生きる英雄の声を、決して否定してはいけないと思った。

 

「だから、曲がりなりにも人を救って希望になっているから、ラフエルは間違ってない、と?」

「そうだ。おれはポケモンたちとわかりあう奇跡をのこしてくれた、あいつを信じる」

「詭弁だな。見たいもの見て、信じたいように信じて理想の虚像を見出す――凡庸にして無能、何にも変えられやしねぇ、無益な大衆の無価値な理屈だな」

「それでも、だれかを救ってくれるものだ。つらいときに助けてくれるものだ。夢を与えてくれるものだ」

「違うねえ、そいつぁ逃避ってんだ。そのきっかけを与えたところで、そんなモンは甘えた少数にしか響かねえ。世界なんて救えねえ。出来てせいぜいテメーの周囲ぐらいだ」

 

 ワースは子供でも容赦のない一蹴を浴びせる。しかし仕方がない、彼の癖のような、趣味のような“値踏み”はいつもこのようにして行われている故。普段は資金繰りを担当して表立った行動もないものだから、こんな風に名前の売れた人物に会って、少し興が乗ったのだろう。

 が、それもここまで。所詮子供か、なんて内心で吐き捨て、彼から視線を外す。いくらジムリーダーでも、夢でしか語れない凡骨であった。

 

「いいじゃん。目の前のやつも救えないで、英雄になんてなれないだろ?」

 

 そんなことを考えていたところだったものだから、その回答には思いきり後頭部をぶん殴られたような気分にされてしまった。

 無垢――思わず見直した先に置かれていたものは、それ。どんなに穢れを目の当たりにしようと、悪意に囚われようと、己が往くべき道を確かに照らす高純度の火。男が一服で焚くそれなど目ではない。夢と希望を乗り越えた先で、『誓い』という名をしてめらめらと燃え盛る、眩しい焔。

 

「それに、嘘でもかなえれば本当になる。ラフエルになるんじゃない。おれはおれとして英雄になって、ラフエルを超えていく」

 

 決して、見失ったりしない。皆に聞けと声を上げた。英雄カエンの決意表明だ。

『見ていたもの』は同じでも、『見えていたもの』は何一つ違っていた。少年の言葉からそれを知った時、ワースはフッ、と小さく笑う。

 含む意味を察するまでに経験が足りているわけではなかったが……彼がそれより先に、何かを言うことはなかった。

 

「カエンくん……」

「やるじゃないか。俺が彼ならば、きっと言えないことだ」

「チッ……しゃーねえ。悪党に子供一人だけ預ける訳にもいかねえだろ」

 

 カエンが口火を切ったのに続いて、決断を下す三人。答えは言わずもがな。

 

「んじゃ、ま――決まりだな」

 

 長の一声で、灰の一団は新たな仲間を囲い込んだ。そして、先を往く。

 かくして奇縁で引き会った四者は、騒動の収拾という必然の下に集結した。

 

 英雄の民に、記述者に、探索者たち――果ては、世界の悪意。彼らが同じ方を向いて進むなど、在りし日のラフエルは思い描いただろうか。予想しただろうか。

 この運命の悪戯が後にもたらすものを、彼らはまだ知らない。



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04.火焔の夢

 尚も、暗闇が続く。

 

『敵について、何かわかっていることはあるか?』

『規模の小せえ同業者ってこと以外に、見当はついてねえな』

 

 しかし先程までとは圧倒的に違っているものがある。明かりの数だ。

 

『いつからここでこうした行為を始めた?』

『最近だろうな。少なくとも“テルスの主暴走事件”以降であるのに違いはねえ』

 

 それは暫定的ではあるが、そのまま自分たちが持つ戦力の多さとなる。

 

『意図をどう見る?』

『その薬物の実験の他にあるか? 山奥なら人に気付かれにくく、ポケモンもわんさといる。多少の事では気付かれやしねえだろうさ。……尤も、今日ばかりはちっとケースが多い気もするがな』

 

 少年が腰を低めてパートナーの背中を見据えるように、そのパートナーも向こうの獲物をじっと凝望している。

 ギィ、ギィと人の耳には些か毒な鳴き声を垂らしながら、狭い空を滞空するのは、二匹のこうもりポケモン『ゴルバット』。悪意に染められた赤紫の視線が、真黒い眼光と重なり合った。

 

「いまだ!」

 

 唸りによる威嚇を遮る“エアカッター”。三日月の形した風の刃が己を襲った時、砂塵の鰐は初めて動き出す。

 カエンの一声をしかと聞き入れ、飛び上がる。頑強な爪を岩肌に引っ掛け天井に貼り付いた。逆さまの世界を、一瞥。自分がたった今まで佇んでいた場所が、無数の切り傷で抉られる。

「もう一回! くる!」

 逃がさんぞと、エッジの利いた空気の第二波が言った。

 しかし歯牙にもかけない。かけてやらない。すれ違いざまに聞こえた音など、置き去りで。

 さしずめ雨を得たコイキングか――ワルビルはしゃかしゃかと壁面を無軌道に這い回り、閉所での範囲攻撃を平然と回避していく。

 崩れる小岩を背に行われる立体的な高速移動が、蝙蝠達の目を翻弄する。まして洞窟育ちで視覚に頼った生活をしない彼らだから、余計にそれは功を奏するだろう。攻撃は当たらないどころか、もはや明後日の方向に飛んでいた。

「仕上げ!」壁の溝を踏ん蹴る。一気に距離を詰めた。ゴルバットは出し抜けに突進してきた大顎(おおあぎと)に、

 

「“かみくだく”!」

 

 成す術なく討たれた。

 ガギン、と捉えた一発が一匹を沈め、怯んで逃げ出すもう一匹。

 

「待ってた! きまれ“おいうち”!」

 

 そんなものはこの一人と一匹からすれば、とうに織り込み済みな話。

 俊足が、逃げる背中をまさしく追い討った。確実な胴への二発目は、蝙蝠を狙い通りに墜落させる。

 獲物のそもそもの数が少ない砂上では、狩りの失敗というのは致命的な問題となる。この高機能な目も、鋭利な爪も、丈夫な牙も、逃避を良しとせぬ追跡者(チェイサー)のような技も。全てはそうならないために備わった、種族としての強みなのだ。

 軍配は、それをこの短時間で見抜き、あまつさえ引き出したカエンに上がった。

「がおーーー!」

 得意げになったワルビルと共に、揃って両腕を挙げて吼える。ここまで息が合っているというのなら、「即席」という言葉も忘れかけてしまうというもの。

 

「さすがジムリーダーね。与えられたポケモンなのに、こんな早くに扱いこなすなんて」

「そう? あんまり考えてないなぁ。ただこいつがな、走るの大好きって教えてくれたから、それをつかった戦いかたをしてるだけだよ」

「レニアシティのジムリーダーは、ポケモンと意思疎通が図れるとは聞いていたが……まさか本当だったとはな。驚いたよ」

 

 彼が備えるポケモンとの会話能力は、日常生活以外でも大いに役立つ。例えばバトルであっても、だ。

 戦闘中のポケモンの状況やコンディションを逐一知ることが出来るし、明確な意思の伝達が可能な分、それだけ成功率の高い戦術を組み立てることも可能になる。延いてはいつもいつでもベストな連携を実現できる。ポケモンバトルに於いて最も必要とされる『結びつき』という基礎の部分が強固になるのは、単純に大きなアドバンテージたりえる。

 加えて、ジムリーダーという肩書に裏打されたバトルセンス――弱い訳がない。

 三人はそれを噛み締めながら、まるで操縦者を失った機関車のように暴れ回るワルビルをボールに戻した。

 ――犯人を捜しながら、道すがらで暴走したポケモンを捕獲という恰好で沈黙させる。バラル団の作戦は、順調に進んでいた。

 

「周辺に敵影無し。このエリアは今ので最後みたいです」

「ゴローン、ワンリキー、モグリュー、続いてゴルバット……奴さんも手当たり次第だな」

「たぶん、既にこっちの動きに気付いてるんじゃないかな、って思います」

「あー、なるほどねェ。それで滅茶苦茶やってるってわけか」

「いくら袋の鼠にしても、これだけかき乱されると……」

 

 あくまでも形だけならば、だが。

 アブソルは、テアの隣で僅かながら呼吸を荒くしていた。それだけではない。他の団員の手持ちも、軒並み消耗の色が見て取れる。偏に長期戦を強いられ続けた結果だろう。

 しかし粘るしかない。粘って粘って、一刻も早く潜伏する首謀者を発見する以外にない。

 

「ここを離れる。外に出次第、一旦休憩だ」

 

 そのためには、立ち止まることも必要か。

 そんな少々の思慮を挟んだ後に、ワースは次の担当エリアを目指した。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――はぁーーーーっ!」

 

 吸いこめなかった分の酸素を、思いきり吸う。肺に流れ込む空気は新鮮そのもので、肉体とて長らく欲していたものだから、ひどく喜んだ。やに臭さなど微塵も気にならないではないか。

 エルメスは僥倖への感謝を胸にしながら、無沙汰であった空を仰ぎ見て、両腕ごと背筋を伸ばす。相も変わらぬ曇り空であってもいい。まずは再会を喜ぼう。

 

「おい、俺達への回復はなしか?」

「ずいぶんと遠慮を知らねえな。ワルビルなら、まだ動けるだろ」

「そうじゃなくて、本来の俺達のポケモンを使わせた方が、いい働きが見込めるって言ってるんだが」

「その場からトンズラすることのどこがいい働きなのかを説明出来たら考えてやるよ」

「チッ」

「これで終わりじゃねえぞ。契約は契約だからな、最後まで付き合ってもらう」

 

 見透かした悪知恵への嘲笑。バラル団達が、自身のポケモンにキズぐすりを与えて体力を回復させている。

 カエン、エルメス、ジェリオ、テソロの四者は、バラル団の手によって無事山の洞窟から脱出できた。

 字面のインパクトは相当なものでどうにも信じがたいことだが、こうして現実として彼らが目の前にいるのだから、疑いようもなくて。

 

「いいさ、本来の不可能が覆った。出られただけでも儲けものだ」

「神様、本当にありがとう……あぁ、もう……」

「このまま解決して、みんなおうちに帰ろうな!」

 

 だが、それはそれ。各々の喜色が如実に物語る。

 連なる緑と、険峻さに造型された岩場のツートンカラー。そんな見慣れた絶景を一望しながら、気炎を巻き上げるカエン。口にせずとも、彼らも志は一緒。終わった後を考える。ちゃんと考えられる。そうなる程度に事は好転していると思う。

 エルメスは張り詰めた気が抜けたのか、近くの小岩に腰を下ろして一息ついた。そして腕を抜いたリュックからメモ帳を取り出し、“テルスの主暴走事件”について得たこれまでの情報を整理する。

 まず、原因は人為的なものであること。次に、方法は何らかの薬物が関係していること。最後に、犯人は未だテルス山を利用し、犯行を続けていること。このまま現状を突き詰めていけば、その薬物の正体にも迫ることが出来そうだ。バラル団が犯人を追い詰め、押さえ込んだところで訊ねれば、きっと――。

 

「……や、無理でしょ」

 

 と、いうところで、思考を止めた。ついでに自己否定した。

 間に置いた指のせいで開きっぱなしのメモ帳が、ゆっくりと下りる。

 

『私、一体何やってんだろ』

 

 買いたくもないもの買って、危険な目に遭って、死にかけて。誰に届いて、誰が喜ぶかもわからないまま情報を持ち帰って、一人で夜通しまとめて。でも結局上司からのダメ出しをくらう。

 肩から力が抜けていく。頭蓋の中で、勝手に喋り出す脳みそ。

 それだけやっても褒められない。自分を見る者はどこにもいない。目に止まるのはいつだって紙切れだけ。それだって何となしに手に取られ、何の感情も覚えられないままに手放され捨てられていく。

 意味が噛み締められなくなる。意義の味がぱさぱさと乾いていく。その都度巡るのだ、この言葉が。

 誰の糧にもなってない。消去法を認めたくない。どうして自分はこんなことをしているんだ。何故自分なのだ。誰も知らない、教えてくれない。納得だけでは不満足なのだ。なのに皆「諦めろ」しか言ってくれない。

 私は、本当は――――。

 

「わっ!?」

 

 いつから、だろうか。俯く視界に覗き込むカエンの顔があった。それで思わず奇声を上げ仰天してしまう。勢い余って天然の椅子からずり落ちたのは、きっと触れない方がいい。

 ごめんごめんと伸ばされた手を助けに、再び座り直す。

 子供というのは、存外気配りだ。否、そう見えるほど変化に対して敏感だ。故に目に入ったのか、それとも単なる好奇心なのか。

 

「時間もあるし、おはなししよーよ!」

 

 わからないが、少なくとも彼は、彼女との対話を望んでいた。

 

 

 

 エルメスは思い出した。カエンへ、というか、ここまで行動を共にした者達へ、自分の目的を教えていなかったことを。

 別段隠していたわけではない。ただ余裕のなさで、言動がそこまで追っつかなかっただけの話。

 

「じゃあ、エルメスねーちゃんはそうやって世の中で起こったことをしらべる人なのか」

 

 でも、それもここまで。落ち着いて会話出来る今ならば、伝えたいこともしっかり伝わる。

 隣であぐらをかくカエンが、周辺でもぎ取ったきのみをかじりながら関心を示す。

 

「そういうことになるわね。レニアシティを目指していたのも、そんな事情があったのよ」

「色んな人にいっぱいのことを伝える……かあ。すげえなー! たのしい?」

 

 無邪気に笑う横顔。答えに迷って、何も返せなかった。

「……たのしく、ないのか?」忽ち不思議がって向いた目と、自分の眼差しが合う。不意の事に、思わず逸らす顏。なんだか逃げているみたいで、ばつが悪い。

 

「もしかして、自分で選んだおしごとじゃないのか?」

「合っているような、外れているような、って感じかな」

 

 くしゃり、と苦そうに頬を崩した。ああ、確かに選んだ。『自分が出来る事の中』から。

 

「……カエンくんには、『やりたいのに出来ない事』ってある?」

「んー? ……泣いてるやつらを、助けてあげられないことかなぁ」

「ふふ、優しい悩みだね」

「だからこそな、英雄になろうって思うんだよ。英雄になれば、ポケモンも人も、みんなを救ってやれる。世界中から悲しいことをなくせる」

 

『だから今は、そのための努力をゼンリョクでやってる』――彼なりの、回答。輝かしい希望に満ち溢れた小童(しょうどう)の、理想だけが目一杯に詰め込まれた願い事にも等しい夢物語。

 誓って、笑う気など毛頭ない。寧ろ今はそれでいいのだろうと思う。かつての自分がそうであったように、きっと必要なことだから。誰だってそうやって大人になっていくから。

 

「……私ね、本当はリポーターになりたかったの」

「りぽーたー? って、なんだ?」

「そうね、“調べて書く人”じゃなくて“行って知らせる人”って説明で、通じるかしら」

「ああ~! テレビでマイク持って出てるひとか!」

「でも私、すぐ緊張しちゃうから……人前で立って、満足に喋れなくて」

 

 頷いて語ったのは、夢の痕。現実で埋めきれなかった理想の亡骸。ともすれば呪いの裏返しにもなる、『なりたい』の成れの果て。

 幼いころははきはきと物言う子で、説明をするのが上手だと、よく褒められていた。だから大人になったら、社会の最前線で何かを伝えたかった。移り行く生きている情報を、リアルタイムで知らせたかった。

 何よりも。そうなれると思っていた。

 だが少しずつ成長し、大人になるにつれ、思い知っていく自分の底。器のサイズ。

 存外大したことないんだ、と。付きまとう客観性は日増しに避けられなくなっていって。

 そうやって出来る事と出来ない事が明確になって、それが目の前で突きつけられた時。

 

『君さぁ』

 

「――向いてないんだ」

 

 そんな時。彼女はついに理想に目を向けることをやめた。

 残ったのは、虚無と落ち着きだけ。出来る範囲で出来るだけ頑張る――やりがいも楽しみもない、なんとなしに過ぎる日々。

 無臭で、無色で、プレーンな毎日を唾棄するつもりはない。憧れる人もいるのだろうから。けれども、自分はそれに価値を見出せない。情報を集めて奔走する今に、使命以外のものを感じられないのだ。

 

「……何言ってるんだろ私。ごめんなさいね」

 

 エルメスは、漸く我に返る。同時に子供に話す事ではなかったな、と省みる。

「今のは忘れてちょうだい」ぼうっと手を止め己を眺める少年に、再びの苦笑いを送った。拠無(よんどころな)い恥じらいも込めて。

 

「諦め、ついたのか?」

 

 されどカエンは、翠眼から彼女を逃がすことをやめなかった。

 

「……へ?」

「エルメスねーちゃんは、その誰かの『向いてないよ』ってことばで、諦められたか? 思い出しても悔しくないか?」

 

 突然の切り返しに戸惑ううち、さらに言葉が積み重なっていく。

 

「もし、ちょっとでも悔しいならさ。まだ目指そうよ、リポーター」

「……もう、簡単に言うなあ」

 

 出てきたものは不満にも聞こえるが、きっと持つ意味は正反対のもの。

 彼はまだ、理想を理想と知らない。現実に敗れていない。そんな穢れの無さ故なのだろうが――これぐらい気軽な返答の方がいいのかもしれないな、なんて、ふっと息を吐きながら思う。

 おかげで視界がクリアーになった。聞こえるものが鮮やかになった。気もちょっとだけ晴れた。

 

「おれもなー、いっぱい失敗したんだ」

 

 だからこそ、彼の新しい表情にも気付けたのかもしれない。

 釘付けに、なったのかもしれない。

 遥かで届かないと、思う。辿って行けないと、考える。もしかするとこの世界にあるものではないのかもしれない。

 

「ポケモンと言葉が通じても、会話は通じてたわけじゃないんだよな。だから最初は考えのちがいでけんかもしたし、お互いのゆずれないものを巡って争ったりもした」

 

 彼が向き直って見据える先は――それほどまで遠くのように感じられた。

 

「最初から、ポケモンと仲良しだったわけじゃないんだね」

「うん。人と人だって傷付け合うんだから、当たり前じゃんなー」

 

 へら、と笑って指す右の頬。刻まれた傷は、相棒に付けられたものだと言った。

 

「あと、色んなやつに負けた。いっぱい負けた。何回も何回も『お前じゃ英雄になれない』って、笑われたりもした」

 

 なおも小さき武勇伝は、もぐもぐと続く食事に伴って紡がれていく。

 

「くやしかったなー。夜寝る前に泣きすぎて、布団がおねしょしたみたいにびしょびしょになってな。んーで何も知らないかーちゃんに怒られて。ぜんぶいやになっちゃって」

 

 意外、以外の言葉が見当たらない。明るく、活発で、朗らかで、真っ直ぐで、前途洋々な道程にさえ見える彼からは全く想像が及ばない感情表現の数々。

 でも、信じられないわけではない。今の重たい声音と、何よりも実直な力強さのこもった言霊が、嘘でないことを証明してくれる。

 

「でもな、でもな? そうなるたんびに、あいつが夢に出てくるんだ」

「……だれが?」

「えっとな、おれの中の英雄」

 

 口の中の食物を、勢いよく飲み込んだ。

 全貌は、まだ見えないけれど。どんな顔をして、どんなことを成したのかも教えてはくれないけれど。されど自分だけは絶対に、紛れもなく英雄だと確信出来る輪郭を持った“彼”。或いはラフエルなのかもしれないし、或いは異なる地方の英雄かもしれない。

 そんな彼が。

 

「いつでもおれに『諦めるな、立ち上がれー!』って言うんだ」

 

 自分に希望をくれるのだ。お前でなければと発破をかけるのだ。

 

「そしたら、胸の奥がめらめらーってなってな、かーっ、て熱くなる。それでいやになることがいやになって、また頑張ろうってなるんだ」

 

 エルメスは語り手の気に止まらぬ程度に微笑みながら、身振りと手振りが大振りな、その話し振りをじっと見つめている。

 足らない語彙力からなる言葉で、必死に胸中の思いを余すことなく相手へ送り込まんとする姿は、やっぱり夢見る子供そのもので。

 しかし、彼を自分と重ねるのは、もうここいらでやめにしよう。

 

「――『なりたい』が、止まらなくなるんだ」

 

 小さき躰に宿る大火は、自分が思うよりもうんと彩り豊かで、立派だったから。そうとあっては自分なんかと比べるのは失礼じゃないか。

 

「夢は簡単にあきらめられないから、夢なんだよな」

 

 だからいつだって、何回だって。

 そう言って、両手を広げ瞳を輝かせる偉大な夢追い人は、心なしかさっきよりも大きく見えた。

 

「……強いんだね、カエンくん」

 

 叶えられないから夢なのだ。翻って捨てられないのも、また夢なのだ。

 寝ている間に最高のビジョンで熱狂させるくせして、成就を易々とは認めない。いかんともし難いものを抱えているなと、我ながら呆れ返る。

 でも――悪くない。

 燃え尽きるまで止まらない、そんな素敵な我武者羅を教えてくれるのならば。そう思う。

 

「ナマケロみたいにゆっくりで、キャタピーみたいに小さな一歩でいいからさ。ねーちゃんも一緒に進もうよ」

 

 ――やはり彼は、理想を理想と知らない。それを明日に待ち受ける真実と信じて疑わない故。そうあれるほど、命の火焔(かえん)を鮮やかに燃やしている故。

 眠れる時も。覚めてる時も。カエンは、生まれた時からずっとずっと夢を見ている。

 そうやって死す時まで、己の中の英雄を見つけんと、魂の命ずるままに走り続けるのだろう。

 

「ねえ、カエンくん」

 

 エルメスは、勇者の名を呼んだ。そしてその反応を待たずして、彼の手をきゅっと握る。

 温かい。優しさと強さを内包した、別の誰かを癒してくれる熱を手中に感じる。

 

「ど、どしたんだ、ねーちゃん。さむいか?」

「未来の英雄との握手よ。来るべき時が来たら、『私が一番最初に握手したんだ』って自慢して回るの」

 

「素敵でしょ?」初めて見せられた表情に、同じものでお返しを。口にする通りのとびきりの笑顔を。

 

「……おう!」

 

 この子ならば、現実さえ降すかもしれない。本当に希望になるかもしれない。

 そんなことを考えながら、彼女は止まったままだった足を再び動かし始める。

 

「仲間からの連絡だ。奴さんの活動拠点らしきものが見つかったらしい――今から急行するぞ」

 

 清々しさを背負って立ち上がると、雲の切れ間から陽が差した。

 事は、着々と解決の道筋を進んでいた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「……動きは無し、か」

 

 険しい自然に鍛えられた豪壮な木々が、(うずたか)さを湛えて立ち並ぶ。

 視界は空模様のせいでただでさえ暗んでいるというのに、重なりかけの樹頭達ときたらそんなことも構わずに光を遮ってしまった。

 残るものといえば、生気一つも感じさせないほどに不気味な静寂。時たま混じる葉掠れの音なぞ、気にする余裕もない。

 木陰から、小声が漏れた。ワースの命によって別働隊を率いる赤髪の青年『ロア』は、部下と共にレニア付近の樹林帯に留まっていた。

 目的は数十分経過した今でも、一貫して監視――対象は十数メートル先で気配を発する、深緑のテント。明らかに人間の存在を示すものだ。

 

「ロア班長。ワース様の班が来ました」

 

 外で待機していたしたっぱが、ワースらを引き連れてきて言う。

 

「おう、遅かったじゃねえか。ってなんだ、このヘンテコな奴ら」

「恰好だけなら、おまえらだってなかなかヘンテコだぞ」

「ああ? んだとこんガキ……ッ!」

「おーおー、落ち着けよクソガキ」

 

 ワースは合流するやいなや、血の気を滾らせるロアを片腕で正面から押さえ込んだ。青年とてけして貧弱な体つきをしているという訳ではないだけに、その腕ぷしの強さが窺える。

 

「おい、なんだこいつらはァ!」

「騒ぐんじゃねえよ、気付かれちまうだろうが。成り行きでひっ捕まえたお供みてえなモンだ」

「どう見ても一般人だろうが! 巻き込んでんじゃねえぞ、おい!」

「ま、待ってください」

 

 現状に適したやり取りではないことを悟ったエルメスがこうなるまでの経緯を話し、どうにか場を収めた。脱線した話が戻っていく。

 

「で、あれがそうか? 随分とまぁ、しょっぺぇ見てくれだが……」

「あの通信からずっと張り込んでる。中にいるのかどうか知らねえけど、今んとこ変化はねえな」

「気付かれているみたいなので、ダミーの可能性とかはないでしょうか……?」

「逆だ。気付かれて包囲されてるからこそ、取っ捕まんのは遅いか早いかの話になってくる。こんな真似するのァ時間の無駄だろうよ」

 

 ワースの見立てに一同の同意が集まる。確かにそうだ――レニアの入り口にも部下を張らせているのだから、どこへ行こうが逃げ切ることは不可能。捜査の邪魔立て、および注意の分散を意図して暴走ポケモンを差し向ける程度には頭の回る人物が、果たしてこの背水の陣の下でわざわざ偽物の拠点を作るだろうか。

 誰一人、この疑問にイエスと言うことは無かった。

 だったらば話も早いというもの。ワースは数人の部下を伴い、すたすたと得体の知れないテントへ近づいていく。

 自分たちは勿論のこと、ポケモンの体力だって有限だ。これ以上の猶予を与えてはいけない。そんな考えあっての大胆さであった。

 

「へぇ、よっぽど余裕でもあんのか」

 

 ある種の感心を覗かせる独り言。ワースがその高い背を折り曲げた所に、焚き火の痕跡が見つかった。

 厳密にはテント前で、おまけというのも何だが、飲食の形跡まである。

 続けざまに漂う、乱雑に寝そべったカップの香り。飲まれていたのはコーヒーらしい。だが、それよりも他に注目すべき点を忘れてはいけない。

 

「(……まだ熱が残ってる。割とさっきまで使われてた、か)」

 

 そして独白を止めさせた団員の元へ赴くと、今度は四角い鉄の塊。平均的な体躯した大人の男でようやっと持ち運びができる程度のサイズの、箱状の物体。

 取り付けられたメーターやスイッチ類を見て、確信する。

 

「ガス発生機――」

 

 こぼれたのは『辿り着いた』という不敵な笑み。なるほどな。そうやって繋がったのは言葉だけではない。思考もだ。

 

「こいつで薬物を霧状にして、散布してたってとこか。そりゃあ数も多いわな」

 

 テソロは答えを代弁した。

 全ての謎がほどけていく。その音を聞きながら、したっぱたちが一度に目を見合わせる。直後に行われたテントの包囲はあまりに手早いもので。

 火急的にモンスターボールを片手にし、誰もがその三角形を睨みつけた。

 ハンドサインで、スリーカウント。言外で示したそれが、突入の合図。

 三。緊張が場を包む。

 二。生唾をごくりと飲み込む。

 一。呼吸を深くする。

 

『突入!』

 

 そう放って、出入り口のビニールを掴んだ瞬間だった。

 

「――ダメだーーーーーーっ!!!!」

 

 びりり。額で立ち起こる電気が確かに言った。

 咄嗟の本能に駆られたカエンの叫びが上がると同時、テントはとてつもない轟音を撒き散らして爆発を起こした。

 空気と大地の響きは無音を容易く引きちぎり、周囲の団員を苛烈に弾き飛ばす。彼らは呆然として宙を転げながら、刹那に見た景色――大量の“ビリリダマ”による『だいばくはつ』を、思い出す。

 

「ば、爆発?! 何が起こったの!?」

「ねーちゃん動かないで! あぶない!」

「急いで周辺を警戒しろ!」

 

 少し離れた位置にあったことと、反射的に伏せたことの両方が重なって無事を掴み取ったワースは、熱を防ぎ終えたマントを翻し、声を荒らげる。

 傍でどしゃ、と音がした。どの団員もまともにもらったらしい。土煙の中でもわかる。誰を見ても火傷し、血を流し、生きていた事だけで喜べるほどの重傷で。駆け寄るロアとジェリオが大至急意識の確認を行う。

 

「おい、ヤドウ! イルム! シーナ! クソッ、返事しやがれ……!」

「応急手当をしよう。救護セットならば持ち合わせている」

 

「連中、やってくれやがったな」全てが込められる、テソロの忌々しげな呟き。

 確かに、このテントの正体は『攪乱のためのダミー』ではなかった。寧ろそんなものすら可愛く思える、もっともっと質の悪い『攻撃のためのダミー』だった。

 予め詰め込まれていたビリリダマ――――罠だったのだ。全ては。

 自分たちを追っているのも。やがてここへ来るのも。そして拠点を物色するのも。何もかもを知った上での、敵方による切っ先鋭い先手だったのだ。

 だが気付いた時には、

 

「ワースさん! ポケモンが――!」

 

 もう遅い。

 鬱蒼と生い茂る緑の隙間という隙間から、青白い光がカッと差し込む。誰もがよく見て、この先もずっと見るであろう光。モンスターボールの燐光。

 数え切れないそれは、恐らくここに住んでいたのであろう『ヘラクロス』を呼び出した。

 

「たいそう、手厚い歓迎じゃねえか」

 

 逃げられない。囲まれた。仕返せない。はめられた。

 追い詰めたつもりが初めから追い詰められていて。なればこの形勢逆転も必然だろう。

 身構える――なんという茶番か。

 

「困るな……爆発だけが取り柄のポケモンなのだから、もっといっぱい巻き添えにしてくれないと」

 

 そうして、茶番の監督者は現れる。

 背の低い木の上から、男が静かに飛び降りた。

 この、関わる者の精神を汚染する特有の匂い。山を回っている時からずっと鼻についていた、でっぷりと血にまみれた悪意の香り。毒々しい臭気。こいつだ。こいつが大元だ。カエンは断定する。

 

「僕ら『暗躍街』の花火は、とびきり派手なものじゃあないとね」

 

 犯罪組織“暗躍街”の構成員『ベルン』はそう言うと、心底愉快、といった風に口角をつり上げた。



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05.続編

「六〇、七〇、八〇……ざっと数えても、一〇〇はいるようだ」

「よくもまあ、こんだけかき集めたもんだな……」

 

 光があれば、影がある。善があれば、悪がある。男がいれば女がいて、太陽あれば月もある。人がいて、ポケモンがいて。

 かつて世界を創造した神がその時に何を思っていたのかは知らないが、少なくとも彼は『一を完全とすること』を拒んだようだ。

 有形無形問わず、二が寄り添う事で完璧を成す森羅万象の仕組みが、如実に物語っている。片方が欠ければ残った方が補うように。一方が歪めばもう一方がそれを正すように。どちらかの変化でどちらにも影響が及ぶように。時空の狂いで世界が破れるように。真実と理想の齟齬が戦争を招いてしまうように。生まれて死んで命が(めぐ)るように。

 全ての物事は、何かと何かが二重らせんのように絡み合ってその存在を保っている。

 

「そう、か……テメェらか」

 

 今示されるのは、表と裏の二極。の、裏の方。

 裏に生きるからこそ、不本意であろうが裏の存在には詳しくなっていく。ワースとてそのクチの人間だ。

 それは、ラフエルの闇として名を連ねる数々の犯罪組織の中でも、彼ら(バラル)からすれば特別厄介で、面倒な存在であった。

 ラフエル内のとある場所に存在するスラムを本拠とし、殺し、盗み、攫い、脅し、辱め、その他法が良しとしない行為を片っ端から行い、罪という罪の限りを尽くす悪党集団――『暗躍街』。

 “光の世界から全てを奪い取ること”を理念に掲げ、他者の不幸や絶望で私腹を肥やす、その行為そのものを原理に据える、バラルとはまた違った色の『悪魔』だ。

 行き当たるところ彼『ベルン』は、その尖兵とでも言えばいいだろうか。若さを見てもそう思える。

 

「まさか、こんな早くに目を付けられるとは思わなかったよ。正直、想定外だ」

「の、割にァ薄ら笑いが止まってねえみてぇだが」

「いいやァ、思い通りに罠にかかってくれて、嬉しくて」

 

 悪魔の呼び名が指す通りに人離れした細長い四肢と、こけた頬を動かし、全身で喜びを表現する。しかしこれは挑発ではない。嬉々として浮かべる喜色が先程から教えている。私は心の底から喜んでいるよ、と。

 エルメスはゾクリと身を震わせた。日向からでは観測しえない陰の向こうで、こんなにもおぞましいものが在ると知ったから。

 ダメもとでも、薬品について訊ねられれば――なんて考えていた。しかし認識が甘かった。この滲み出る不快な悪意は、人を侵すものだ。絶対に触れてはいけないものだ。誰かを簡単に崩壊させる類のものだ。

 そう悟った時、エルメスは奥の歯が震え、声が出なかった。

 

「……これをやったのは、おまえか」

 

 大丈夫。エルメスの背中に、そんな言葉が当たった気がした。カエンが前に出て、出せる限りの最も低い声でベルンへ問うた。

 

「『これをやったのは』か。それならば違う。彼らを言いなりにするには僕の力だけでは足らなさすぎる。もっと冴えた方法があるかもしれないな――そうだ、折角だしクイズでもし」

「真面目に答えろ」

「おお……、ジムリーダー様はすっかりお冠といったところかな」

 

 忽ち飛ばされる鋭い眼光は、そのままおどける男を黙らせた。憤怒や激昂を通り越し、一周回った果てに、その怒髪は静かに天を衝く。少年は此処に居合わせる誰よりも恐ろしく、凄まじい気を放っていた。

 そうして図らずも相手の興を削いだ結果、彼らはずっとずっと求めていた真相を引き出すことに成功する。

「これだよ」ベルンがおもむろにポケットから取り出した物。掌にすっぽり収まる、透明な液体が入った小瓶。

 

「そいつが噂の怪しい薬物ってやつか」

「怪しいとはあんまりだなあ。ちゃんと『薬品R』と名前で呼んでほしいものだ」

「薬品Rだあ?」

 

 聞き直すような反復。手中のそれを再びしまい込んだ後も、ベルンは続ける。

 

「そう――薬品“Raphel”。ポケモンという道具(・・)をベストな状態で、最も効率よく、何よりも自由に、そして世界一有意義に利用できる至上の発明さ」

「ただトチ狂わせているだけのように見えるが? ……尤も、一番狂ってんのはあんただろうがな」

「まだ試験段階なだけさ。最初は……リングマの時はスペックを上げる事しか出来なかったが、改良が加わった今では、簡単な命令ならば聞くようになった。この先も調整を重ねて、ゆくゆくは人間の指示を一から十まで聞くようにするつもりだ」

 

 最終的に生体兵器を目指している。最高だろう? 次いで出た言葉に耳を疑った。だってそれは。強引に何かを思い通りにしようとするそれは。

 

「そんなの、支配と何も変わらないじゃない……」

「……そうだが? 問題があるのかい?」

 

 不理解を微塵も隠さず小首を傾げるベルンを見て、ここまでそれなりの胆力を覗かせていたジェリオとテソロも、さすがに動揺する。

 まるで常識が通じていないのだ。が、何もおかしなことではなくて。

 カエンは表を生きる者の中で、最も早くそれに気付いた。脳を介さないある種の直感ではあるが――そもそも自分たちと彼の常識が、修正不可能なほどに食い違ってしまっている。まるで、異世界のように。或いは暗黒物質のように。掛け違えたボタンですらかわいく思える。

 しかし、だからといって看過出来るはずがない。

 あの悪趣味極まりない名前の薬品も。この害毒を擬人化したような男も。その言動の悉くも。

 仕方ないで済ませるはずがない。そんな気なぞさらさらない。

 

「言い直せ……ポケモンは道具じゃないッ!」

 

 呼気に、殴り飛ばすような激情を込めた。

 

「道具だよ。人のために草むらから出てきて、人の手により捕まって、人のために持ちうる全てを尽くし人のために死んでいく。あれらの何もかもは僕ら人間のためにある」

「おまえはヒトじゃない! ヒトのまねをするバケモノだ! バケモノはバケモノの住処へ帰れ!」

「随分な言い回しだ。君たちだってポケモンを日頃から利用しているじゃないか。その圧倒的な力で他者を叩きのめしているじゃないか」

「違う! おれたちは助けてもらっているんだ! だからおれたちもあいつらのために全力で生きてるんだ!」

「フフ、物は言いようかな」

 

 それはやがて怒号となり、悪魔を手痛く攻め立てる。この行為に意味があるかどうかは関係ない。ただ、言わなければいけないと幼心に思った。人であるために。そして何より英雄であるために。

 カエンがモンスターボールを放ると同時、ヘラクロスが赤紫の瞳をより強くぎらつかせた。

 

「ポケモンを言いなりにしたという、“ラフエルの奇跡の再現”――君には気に入ってもらえると思ったんだけれどね。残念だよ、カエンくん」

「おまえに、ラフエルを語る資格なんてない」

 

 カエンの怒りを代弁するように、ワルビルは苛烈に吼える。

 その目に捉えるものは、何一つ違わない。討つべき者も。討つべき理由だって。

 胸の中の英雄が『許されざる』と否定する。悪鬼を断てと燃え盛り、いきり立つ。

 

 

「行くぞ、あくとう――――おれの中の英雄を見せてやる!」

 

 

 全ての平穏のために。人とポケモンの安寧のために。輝きを背負う希望(ヒーロー)はそうして、誰かのために立ち上がる。

 

「お前ら、わかってんな」

 

 少年のワルビルの突撃を合図に、バラル団も続いて矢継ぎ早にポケモンを召喚した。当然、一言で指示を送ったワース当人も例外ではなくて、眼前にヤミラミを放つ。

 

「利用云々、英雄だなんだと、うだうだうだうだ……お若いモンってのァ暑苦しくてかなわねえ」

 

 ただのヤミラミではない――光を散らす、ヤミラミ。

 その発光は、手首のリングを押さえながら放たれた「メガシンカ」という呟きを起点にして起こったものであった。ヤミラミがぺろり、と出した舌に乗ったメガストーンが、眩さを伴って彼の姿を変質させていく。

 

「だが、まあ――出してくれやがった分の損害は、テメェの手できっちり払ってもらわねえとな」

 

 言葉ごと吐き捨てた煙草を、ぐしゃりと踏み潰す。そんな主の前で誕生した『メガヤミラミ』は、景気づけの笑い声をゲタゲタ上げながら、長大な宝石の盾を構えた。

 メガシンカ。ポケモンと人の間に一定以上の絆がなければ生まれない現象。よりにもよってバラル団の人物がそれを起こしたという事実が意外に映ったのだろう、だからこそジェリオテソロの両者は、ワースのアクションに対する反応が大きく遅れてしまった。

 放られたのをキャッチしそびれ、足元に転がった回復アイテム『げんきのかたまり』を、拾う。

 

「これは……」

「一人一個だ。どいつを復活させるかは慎重に選ぶこったな」

「なんだ、回復させないんじゃなかったのか?」

「こんな状況だ、もう俺らに向かって抵抗する余裕なんざねえだろ。で、お前らも自前の連中を暴れさせた方がやりやすい……まさしくwin-winだ」

「……お前、本当に気に入らねえな」

「なんでもいいさ。この状況をどうにか出来るのなら」

 

 隙を見たヘラクロスの一撃。だがそれは罷り通らない。

 

「こんなに有り難いことはない……!」

 

 何故ならば、ここには堅牢な盾がある。

 バキィン。仰々しい角の一突き(メガホーン)を、盛大に弾く音。ジェリオが再動の機会を与えたのは、ゴーストという闇にほど近い性質を携えつつも、揺るがぬ鋼の煌びやかな品位を宿す王剣ポケモン『ギルガルド』であった。

 

「悪人と一緒に戦うとはな。なんだかこっちまで悪いことしてる気分になるが……背に腹は代えられねえ!」

 

 繋がる景色に、ヘラクロスを吹き飛ばすもう一つの影。矢羽根ポケモンの『ジュナイパー』がテソロの元より再起した。

 共に選んだのはゴーストタイプだが、決して偶然ではない。この属性はヘラクロスが持つ“虫の記号”にも“拳の記号”にも耐性を備えている。それを知るが故の、最良にして堅実な必然の選択で。

 半身で先方を睨む常闇の狩人(ジュナイパー)と、堂々と構える暗黒の王剣(ギルガルド)。そして周囲を固める災いの運び手(アブソル)闇夜の闘犬(グラエナ)の群れ。およびそれらの中心に座す闇色の餓鬼(ヤミラミ)――これにて役者は揃った。

 

「いいか、目標はあの青瓢箪ひとつだ。ちっとばかし壁が厚いが……どいつでもいい、誰か一人でも辿り着けばそれだけで終わる」

 

 ワースが鼓舞の意味も込めて、改めて勝利条件を提示する。しかし言われるまでもなく、何一つ、誰一人見るものを違えてはいない。

 ここまでくれば巻き込まれたも、巻き込んだも無関係。あの邪魔者へ鉄槌を。悪趣味な実験の打ち止めを。それぞれの胸に、この凶行を放っておけない理由がある。だったらば、やることは一つ。

 

「以上だ――ブッ潰せ」

 

 一挙による突撃。それは一瞬にしてフィールドを合戦場に変える。

 

「ヒヒ……、行け」

 

 グラエナとヘラクロス、双方の群れが激しい煙を巻き上げながらかち合った。すると土壌すら崩しかねない衝撃が、テルス山中を駆け巡る。叫んで、吼えて、殴って、噛み付いて。飛び掛かり、乗しかかり、突き飛ばし、投げ飛ばし。通りたい黒と止めたい青とが交錯し、しのぎを削って潰れてく。

 怒涛の攻防により絶え間なく鳴り響く轟音が、やがて戦の余波を連れて数本の木を薙いだ。

 そうして倒れ行く木々の隙間を次々ぬって、鈍く光る右目――ジュナイパーは踊るように低空の高機動(アクロバット)を披露する。

 足元の雑草を揺する、風という名の飛行の残滓。はさり、と一際大きな音がヘラクロスに届く時、狩猟者(ハンター)は羽根の矢を射り放つ。まとめて撃たれたそれらは一本も外れることなく、複数体の急所を仕留めた。

 

「右も左もわからねえ乱戦こそ、暗殺者は足元をすくいやすい。お前らは格好の獲物だ」

 

 気付いた個体が“メガホーン”を差し向けるも、遅いと嘲笑う回避行動。空をものにしてくるりと宙返りし方向転換、足先に来た木を蹴っ飛ばして勢いを付け、

 

「そうら、虫取りと洒落込もうかァ! “アクロバット”!」

 

 すれ違いざまに空気の刃で切り伏せる。

 緑色はそのまま滑空の後に木の上へ着地した。フード状の日よけを窄めるのは、それ自体を狙撃用スコープとして扱うため。再度、縦に広げた翼と紐の間に挟まる矢羽根。引き絞る姿を前に、地上の甲虫たちはとうとう逃げようとするが、冒険を始めて以来の相棒――外すわけもないだろう。

 

「“かげぬい”、BANG!」

 

 テソロがそんな確信と共に、指鉄砲を放つような動作をした。彼の発射合図と狙いにきっちり合わせて、ジュナイパーはその背中を捉える。

「じゃあな、続きの相手はあいつがやってくれるぜ」

 テソロの言葉に続く、銀色の閃光。はがねタイプの特殊技“ラスターカノン”だ。

 しかし怯まず特攻してくるヘラクロスへ、ジェリオが帽子の向こうから瞳を覗かせる。どうもこのギルガルドの細長い光線、速度こそ十分なものの、多を打倒するには大きく範囲の足らない技であった。

 

「やはりこれでないとダメか……変形(チェンジ)!」

 

 尤もそれは、ギルガルドの状態が“最強の盾であるならば”の話。彼はジェリオの声に応え、進化とも強化とも違う過程、変形(フォルムチェンジ)によって姿を変える。

 剣型のボディを盾型の鎧から引き抜くその様は、脱着というよりも、寧ろ騎士による抜剣のそれで。伸ばした左手が掴むのは、今しがたまでアーマーの役割を担っていたシールド。

「もう、一発だ!」黄金の煌めきを湛えた王剣が大群へ掌を向けると同時、ジェリオは大きく叫んだ。

 つられて出るのは、その声のボリュームにも一切劣らない規模の、巨大な輝き。

 まるでビーム。忽ちヘラクロスたちの顔が白に照らされる。迎撃で発された二度目のラスターカノンは、さっきと打って変わって、数多の甲虫を戦闘不能にした。

 威力の低い技であろうと、その攻撃性能の前では他の追随を許さぬ圧倒的火力を付与される――特性『バトルスイッチ』でぼうぎょに割いていた力をこうげきに回した最強の矛『ギルガルド・ソードフォルム』に、断てぬものなし。

 

「バラル団、後ろだ!」

 

 異変に気付いたジェリオが、火急的にワースへ呼びかける。今まさにメガホーンを当てんとする速度で、背後からヘラクロスが迫っていた。

 

「俺達がポケモンを戦わせる時はよ」

 

 殺し合いなんだよ。ワースが続けて言った刹那、彼とヘラクロスの間にメガヤミラミが割り入った。

 バキン。乾いた音が響く。生身であれば一突きで命も失っていたであろう――しかしこのポケモンならば違う。メガシンカエネルギーで大きくなり、頑強になったこのとびきりの宝石(ルビー)の盾ならば。そんな未来を否定できる。

 

「だからこの時ばかりは、テメェの命を高く見積もらなきゃならねぇ。トレーナーのお遊びたァ違う」

 

 さらに、五体。それも複数方向から。ベルンの指示通りに一貫してワースを狙う。

 でも、であっても、ヤミラミは防いで見せた。

 周囲に小さく半透明な六角形を無数に積み上げ、背中合わせの自身とワースを囲むようにして丸い障壁を作ったのだ。

「終わりか?」押し止めた一本角達を一度ずつ瞥見し、呟く。

 

「なら次は、こっちの番だな」

 

 その瞬間、一斉に弾き飛ぶヘラクロス達。一体は木に激突し、一体は地を転げ、そのうちまとめて戦闘不能になったのがわかった。

 

「“メタルバースト”か……!」

 

 バリアが解け、その破片がまるで爆発、あるいはパージのようにして四方八方へと爆ぜ散る。今の光景を見逃さなかったがために、現象の正体に気付けたジェリオ。

 攻撃を受け、くらったダメージを割増して相手に跳ね返す技、“メタルバースト”であった。

 桁外れの防御性能で敵の攻撃を受けきり、その力を利用して相手を討つ。そうやって自らの手を下さずして勝利を掴み取る、まさにメガヤミラミがなんたるかをわからせてくれる一手だ。

 向き直る紅色が、光の屈折で持ち主の顔を写す。進軍を見送る時の、満面の笑みを。

 

「もう少し、もう少しよ!」

「なんでもいい! とにかく前に立つヤツぶっ飛ばせ!」

 

 シママの“でんじは”が駆け抜ける。動きを止めた敵勢を、ロアのザングースが“つばめがえし”で次々に狩り取っていく。それを踏み越え続くグラエナ。皆が一丸となり、ベルン目掛けてひたすら直進する。各々の獅子奮迅の活躍で五〇、四〇と次々に規模を縮小させるうち、いつしかヘラクロスの砦は半壊状態となっていた。

 いける――共同戦線の面々が口にする。

 間もなくこの向こうに至れる。事を終わらせることが出来る。テルス山の奪還まで、あと少し。

 

 

「動くな」

 

 

 決着が望めはじめた、明日の平穏が見え隠れし出した、そんな折。

 静かな言葉が強い語気で発された。あまりに突然なことであったが皆の耳には確かに届いたようで、それは無音の到来という状態で証明される。

 声がした方へと目を向ける。そこは半壊した砦の先などではない。寧ろ逆方向、最も後ろの、ワースが立つ方面で。ゆっくり振り返ると、ベルンがいた。

 

「ワースさん……!」

 

 ――テアを、伴って。

 

「……あ?」

「弱そうな女、年齢は子供ぐらいで、何かしらのハンデを抱えているのが理想……うん、見たとここの子は足だろうね」

 

 後ろから首に腕を回し、がっちりと捕縛した姿勢でベルンが示すのは、人質を取る際の基本事項。

「見ればわかるだろう? この状況」空いた手に握られたナイフは、テアの頬をぺちぺち叩く。

 おそらくこの混戦状態に乗じて位置を変え、裏から回り込み、ポケモンが傍にいない隙を狙って彼女を捕らえたのだろう……誰でも考え付くごくごく自然な流れ。それほどまでにこの局面、何が起きても不思議ではなかった。

 

「はは、どこまでも汚えな。さしずめ悪行のフルコースだ」

「バカだね。堂々と戦ったところで、結果は見えているじゃないか」

「……すみません、不覚を取りました」

「さあ、大事なお仲間に傷を付けたくないのなら、僕の逃げ道を開けてほしいなあ」

 

 長身を活かしてテアの頭に顎を乗せ、悪ふざけでがちがち歯を鳴らす。不快な音だ。擦り付けられたテアが表情を歪める。

 そして知る。ベルンは、最初から自分たちを相手にするつもりなどなかったと。ここに訪れ奴と相対したその瞬間から、ずっと人質に取るべき相手を見定めていたのだと。

 偶然ではない。結果の自分だ。実際にこうして味方の、何よりワースの足を引っ張っている。

 テアは悔し気に歯噛みした。こんなことになるぐらいならばと、いっそ思いきり抵抗してやりたいところだが、後天的なハンデを抱えた足ゆえに、それすらも力負けで叶わない。

 雁字搦めだ。噛み潰した悔恨から、憤りが滲んで出る。

 

「あと……」

「ッ!? ワースさん!」

 

 次に取った行動は、まさかのもの。生き残りのヘラクロス一体の拳が、無抵抗なワースへと飛んでいく。

 テアの叫びによってぎりぎりのところで止まったが、“かわらわり”の一撃は依然彼の額の前に留まっており、いつでもやれるのだぞという明確な意思表示をする。

 テアは怒りのあまりに、言葉を荒らげた。

 

「なんのつもりだ! 目的は逃走だけでしょう!? 何故ワースさんを」

「うるさいよ」

 

 ピッ、と圧力の上がった血が飛び散る。鋭い切っ先が、テアの発話を遮らんと彼女の頬の上を滑ったのだ。

 ひり出た赤は緑を侵し、やがてこびりつく。決して深い傷ではないが、激痛は誤魔化せなくて。まるで張ったファスナーを開いたかのように出来上がった隙間は、大量の鮮血を連れ彼女の細面を汚した。

 

「頭に上った血は抜けたかな? もう少しだけ絞ってあげようか」

「っぐぁ……ッ!」

「テア!!」

 

 より強い首の圧迫からなる苦痛で仰いだテアから、思わず目を背けるエルメス。ロアの叫びも知ったことかと話は進む。

 

「バラル団幹部、ワース――主に組織では財政管理の部門を担当しているね? あまり表には立たず、出番があるとしても君自身ではなく大体その部下。でも今こうして姿を現しているのは、きっと組織が忙しいからかな?」

「……俺は個人情報を投げ売りした覚えはねえが」

「君なりの言い方をするなら、別ルートで購入したんだよ。転売というやつでいいのかな」

「ッハ、俺も安く見られたモンだ」

 

 相手の口車と威圧の上で、今日何本目かもわからないやにを味わい始めるワース。依然表情の変化に乏しい。知ったことじゃないのは、彼とて一緒だろうか。

 肝が据わっている、或いは血も涙もないだけなのか。どちらにせよ、相手次第で反感を買いそうな振る舞いも、ベルンとしては許容範囲内で。

 

「君はね、暗躍街(こちら)に来るべきだ。戦えて、お金の管理も出来る。それでいて頭もいい。何よりも暗躍街の出身……みんな君を歓迎するだろう」

 

 この準備されていた誘い文句が、如実に物語っている。

 ワースが己が組織に降ること。それこそが逃走以外の、ベルンの要求であった。

 

「どうだい。実力を高く買うだけの待遇は保証しよう。相談次第では今の部下を連れて来てもいい」

「へェ、また面白そうな提案だな。そんなに俺が気に入ったかい」

「ワー、ス……、さ」

「何より。彼女も無事に連れてこられるよ」

 

 骨の軋む音がする。繊細さも顧みないで力を加えるから。

 あまりに不意のことで動揺し、どよめく団員達。これまで自分たちを討ち滅ぼそうとしてきた者はあっても、仲間に招き入れようとする者はなかった。珍しすぎたのだ。

 だからこそ対応がわからない。ここで抵抗をやめれば、テアだって帰ってくる。何よりもワースが靡かない事を確信できない。

 ようやっと団結に綻びが見えた。組織に底深な忠誠がない彼と、そんな彼を敬愛し付き従う部下たちの結び目の、ほつれ。独特の立場だからこそ生まれる欠点。

 ワースは尚も手出しせず、押し黙る。誰も理解しえない横顔を作り続ける。

 されど時間は経過するし、目下の事柄は着々と変化を遂げていく。

 

「さあ、決断の時だ」

 

 悶えるテアを見せびらかすようにワースの目線へと入れ、にんまりと笑いかけるベルン。

 吹く風が伝える、期は熟したと。そう決心を迫る。

 少女の薄目が「構わずやれ」と訴えるが、当の大男はそれすらも捉えているかわからない。であれば一体何を。誰を見ているのか――。

 

「いっけええええええええええ!!」

「!」

 

 それは、ワースが顎髭に手をかけたタイミングだった。ベルンの眼がぎょろんと動いた先は、自分から右側の地面。突如そこから出現した何かは、真っ直ぐに自分へと向かってくる。

「守れ」反射的に出した命令を聞き入れ、脇を固めていたヘラクロスがそれを受け止める。正体はワルビルだった。

 そうして注意が逸れた一瞬で、ワースからヘラクロスを引き離すヤミラミの“シャドーボール”。

 振り出しとまではいかないが、マイナスがいくらかプラスに近づいた。晴れて自由の身となったワースではあるが――ベルンが顔向けするのは、彼でなくワルビルの主で。

 

「おいおい……子供が大人の話に首を突っ込んではいけないと、習わなかったのかい?」

「首じゃない。出したのは手だ」

 

 とても意外過ぎる、そんな相手。

「まったく余計なことを」忌々しげにごちるベルンの視線に負けじと、カエンはきっと睨みつけた。

 

「こんなのな、話だなんていわない。ただの脅しだ」

「だからどうしたんだい? 正義感を奮い起こす原因を見間違えているよ。彼らとて君たちにとっての悪であることを忘れたのかな」

 

 生かしておけば不都合が出る。野放しておけば損失を被る。健在であるならば障害たりえる。

 

「だったらば、見殺すことが最も適した解答だろうに」

 

 いずれもベルンの付け足しだ。

 でも何も間違えていないし、真っ当に不正解を指摘できる者なぞ、きっとこの世には存在しない。

 それはたとえ彼ら当人であったとしても、絶対に断言できること。

 なればこそ不可解だし、延いては面持ちにだって出てくるもの。そうして呆気に取られたバラル団らを、静かに見据えるカエン。

 

「……おまえのいう通りだ。こいつらだっておまえと同じ、悪者だ」

 

 少年はかく言う。奴らは確かに悪である、と。

 

「でもな。ポケモンを大事にしているところだけは、おれたちとも同じ、仲間だと思ってる」

 

 だが向き直って、こうも言った。

 

「戦って、ボロボロになって。それでもこいつらは、ポケモンのために何かをしようとしてる。曲がらないものを持ってる。それが、誰かを助けてる」

 

 願った形ではない。されどバラルのポケモンとの対話は、間違いなく英雄の魂に何かを残した。人では語れないものを聞いた。心を知った。彼ら自身から、彼らの在り方を理解した。

 連中とはぶつかりもしたし、許せないことだってされた。きっとこれからもそうなのだろう。彼らは彼らのまま、多分何も変わらないのだろう。

 痛々しい様相で息を切らすテアを、静かに目に入れる。例えば彼女だって。

 

「誰だって、誰かのために生きてるんだ。誰かにとっての代えられないものなんだ」

 

 今度は彼女のアブソルを見やる。ベルンを刺激すまいと大人しくしているように思える。でも本当は憤懣やるかたなくて、気が気でなくて。今すぐにでも助けたい。行ってどうにかしたい。そんなことを“話して”いる。カエンにだけはちゃんと聞こえている。

 

「だからな。この世に踏みにじられていいやつなんていないし、なくなっていい命なんか一つもない」

 

 脳内で繰り返す。バラルは悪だ。然り、然り、然り。

 さりとて。

 

「おれは英雄だ。英雄はぜんぶを救う――こいつらだって、救ってみせる」

 

 今討つべき悪を、誤ったりはしない。

 

「子供の思い上がりというのは、些か害悪だね。少し腹が立ってきたよ」

 

 ポケモンも武器もない、一体お前に何が出来るんだ。ベルンの問い掛けを合図に向き直るカエンが、空気を吸い込み始める。

 武器がなくとも。力がなくとも。英雄は立っている。希望とは、いつの時代もただそこに転がっていたわけではない。力なき者の依り代として世界が勝手に生んだものではない。

 どんな逆境にも折れず、いかなる絶望にも挫けず、地に足付けてひた走る――そういう者こそ、そういう姿勢それそのものこそが、希望(ヒーロー)として世に顕現するのだ。

 肺がぱんぱんに膨らみ、一杯になる。

 

「そいつを、はなせえええええええええええええええええええええええええええええッ!!!!」

 

 その状態で吐き出す息は必然的に大きな叫びとなって、テルス山中に響き渡った。

 ぶわ、と木々が激しく揺れた、次の瞬間だ。ベルンの頭上に巨大な影がかかる。本能的な危機感に駆られて上げた顏の前にあったのは、彼の何倍にもなる水色の巨体。

 躰もろとも迫る咆哮――飛竜ポケモン『ボーマンダ』の飛来だった。

 

「ふ、うわァあああああああああああああ!!?」

 

 全身を用いてありったけのパワーで突撃する技“ドラゴンダイブ”は眼前に落ちてベルンを傷付ける事こそなかったが、恐怖心を煽るには十分すぎる迫力であった。

 凄まじい地響きをよほど恐れたのだろう、脊髄で絶叫し、腰を抜かしてしりもちをつくベルン。

「おい」「ぅげぁ!!!!」直後に短く聞こえた呼び声と、振り抜かれる拳が、先程から小憎らしかった顔面を殴り飛ばした。

 

「次にやってみろよ。二度目はこれで済まさねえぞ、ドグサレ野郎」

 

 刹那を衝いたロアの右ストレートが、テアを解放へと導く。続くしたっぱが手早くテアを救出、ワースの元へと連れ戻した。

 

「ワースさん、どうしてですか! 私なんかよりも、奴を倒す事の方がずっと……!」

「お前にはまだ価値がある」

「!」

「もしくたばるなら、そいつぁ今じゃねえ。もっと必要な時と場所で、俺のために、俺の傍らで拳振るって死にやがれ」

 

 一度の遮りの後、ワースもテアも、それ以上何かを言うことはなかった。

 

「ヘラクロスが来るぞ!」

 

 次なる危機が呆然とする一行を襲うが、それもまた防がれる。

 ボーマンダが再度上げた雄叫びによって呼び寄せられた鷲型ポケモン『ウォーグル』と『ワシボン』が、林から見える空を埋め尽くさんほどの大群を以て、矢継ぎ早にヘラクロスを沈黙させる。

 

「な、何が起こっているの……!?」

「野生のボーマンダが、なんだって種族の違うウォーグルとワシボンを率いてやがるんだ……?」

「カエン、何かしたか?」

「……空の、主」

 

 だがカエンは、このボーマンダを知っていた。モチーフのドラゴンよろしく、伝説的な昔話によって。

 

『テルス山に危機訪れし時、その子連れの飛竜忽ちに現れ、山の戦士と共に災厄を焼き払わん』

 

 英雄ラフエルほど大袈裟ではないが、山に住まう者が代々聞かされてきた伝承。陸のリングマに並ぶ“空のテルスの主”の逸話。

 今ここに立つのは、それを紛れもなく事実と証明する者だ。

 

「がう! がう!」

 

 母の広い背中の上で元気に騒ぐタツベイも、自分を証だと誇示しているようだった。

 

「ああ……みんなぁ!」

 

 その存在は滅多に現れないどころか気配すらないものだから、半ば眉唾物になっていた。

 これまで、やまおとこによるドラゴンポケモンの目撃情報は相手にされなかったし、けんきゅういんによるタツベイの生息報告も取り合ってもらえなかった。もしかすると出てくるつもりなど無かったのかもしれない。

 でも戦士の悲しみが。怒りが。勇気が。愛が――遠くの彼を呼んだ。怯え潜んでいた彼らを、奮い立たせた。

 

「そうか……みんなカエンの声に、呼応しているんだ」

「こ、こおー? なんだそれ?」

「難しかったな。心を一緒にしている、みたいな取り方でいい」

 

 ジェリオの推測は、まさしくであった。

 それは支配とも、指示とも違うポケモンとの繋がり方。ポケモンとの感情共有。人の手如きでは到底至れない、正真正銘の“ラフエルの奇跡”で。

 全てのヘラクロスが倒れる。ベルンが団員に取り押さえられる。そうやって事は落着に辿り着く。

 ――誰もが瞳の奥に、虹を見た。

 

「――おおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

 

 何かを変えられるものの在り方を示し、実際に変えて見せ、しかと偉業を果たした英雄は、ポケモンも三者もバラルをも巻き込んで、凱歌の声を上げる。

 

「う、うおおおおおおおおおおおおおおお!」

「バカかお前、何つられてんだよ」

「す、すいません! つい……!」

「けど、まあ」

 

 大したもんだよなあ。腕を組み、飛竜を従える少年の立派な後ろ姿を眺めながら独白するロア。

「しっかし、散々振り回してくれやがって」こちらはちゃんと言葉にする。腕を封じたベルンをしたっぱと共にワースの元へ連行しようとした。

 

「まだだァァァァァァァァァァァァ!!!!」

「なっ!?」

 

 その時に、事は起こる。ベルンが出し抜けにロアへ回し蹴りを浴びせ、決死の抵抗に及んだのだ。

 

「お前! 今更何を」

「まァだァだァァァァァァァァァァァァァ!!」

「ぐおっ!」

「ここで手に入れたチャンスをォ、捨ててたまるかよォォォォォォォォォォォォ!!」

「こ、こいつ、ガリガリのくせに、なんでこんなに強いんだ……!」

 

 周囲のしたっぱも負けじと応戦するが、頭突き、唾棄、噛み付きと、使えるものの何もかもをフルで利用したダーティーな立ち回りで、見事に彼らの拘束を振り切った。

 転げるヘラクロスの角で、手に縛られたロープを削ぎ切る。最後の悪あがきで向かうは粉々のテント前。

 

「もう諦めろ! やれることは何もないだろう!」

「うるせェばァーーーーか!!」

 

 ベルンはまるで零れ落ちそうなほど眼を大きくし、人が変わったように声を荒らげる。

 

「クソッタレが、道具風情が一丁前に人間様に楯突きやがってよォ……!」

「……まさか!」

「テメェらはただ従順に、人間様にボロ雑巾みたく使い捨てられてりゃ!」

 

 ポケットから引き抜いた瓶を、足元の四角形に装填する様子を前にして。

 

「――それでいいんだよォォォォォォォォォォォォォォォォ!!!!」

 

 答えは、すぐに出た。

「ポケモンを戻せ! すぐにだ!」最後っ屁にいち早く気付いたテソロが促すと同時、薬品Rはガス状に変質し辺り一帯に広がった。即座にもくもくと立ち込める煙がこの場を包み込む中、皆は言う通りに各々のパートナーを収め、万一を考慮して口を布で塞ぐ。

 野生のポケモンたちにも魔の手が襲い来る。ワシボンとウォーグルはその身軽さに助けられ空へ逃れるが、

 

「カエンくん、ボーマンダが!」

 

 飛竜はというと、違った。

 木によって閉ざされた空間は、巨体が空へと出られる場所も限られてくる。おまけに風も通しづらいため、ガスは何の邪魔もなく満ちていく。

「がーう! がぁう!」不安にやられたタツベイが、焦燥から喚いている。

 ボーマンダは必死の形相を隠さぬまま、そんな我が子を背中から振り落とし、尻尾を咥えて樹林の外へと放り投げた。

 

「ボーマンダーーーーーーーーっ!」

 

 彼女がガスに飲まれたのは、その直後の事であった。

「グ、ウ、ガ、ア、ア、ア、ア゛」ぶつ切りの呻き声が、痛々しく人々の耳朶を打つ。皮膚を無理矢理張り裂く勢いで筋肉が膨張し、骨格が力づくで強化されていく度に、全身からめきめきと上がる悲鳴。

 徐々に血走り、禍々しい赤に埋められていく目が、カエンに何かを訴える。

 きっと逃がした子供のことだろう。こればかりは誰もが理解した。

 

「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」

 

 黒い瞳が完全に消え失せる頃。ボーマンダがいた場所には、怪物が蠢いていた。

 

「最低な手品の、最悪な種明かしだな」

「こんなものが、世に出回ろうとしているというのか……」

「ひどいわ……、こんな、こんなこと!」

「ハハハ! 何も酷かねぇ、当たり前のことだろうが。道具が生意気にガキなんざ作るから、ばち当ててやったんだよ」

 

 オラッ乗せろ! ベルンは乱暴に吐き捨て、すっかり自我を失くしたボーマンダに乗り込む。

 そこからは早かった。技“かえんほうしゃ”で周りを追い払い、その曲線で形作られた翼をはためかせる。ガスが充満した中ではポケモンも無闇に出せないので、誰も追えないし追いようがない。あまりに筋道の通った、完璧すぎる逃走。

 

「あばよクソ共! 一人残らず報復してやるから、覚悟しとけ!」

 

 そう捨て台詞を吐いて、空へと発った。

 

「おい、カエン!」

「くそっ……くそっ!」

 

 カエンは走る。木をすり抜けて、地面の凹凸を踏み越えて。だが追いかけても追いかけても、その樹頭越しの後ろ姿は遠ざかるばかりで。

 息が切れる頃に、樹林帯を抜けた。されど置き去りに変わりはない。少しずつ小さくなって、粒に近づいていく。

 限界で足が止まった。気が付くと、隣でタツベイが大粒の涙をぽろぽろこぼして泣いていた。

 

「カエンくん!」

 

 遅れて彼の道程をなぞってきた三人が、それぞれ背中に声をかける。

 

「もう、いいだろう。あとはPGに任せろ」

「ポケモンがないんじゃ、もう追いかけようが」

「……嫌だ!」

 

 静寂に響く、駄々と紙一重の反発。もう一度言った。

 諦めていいはずがない。諦められるわけもない。諦めを付ける理由だって、どこにもない。

 どちらかといえば、諦められない理由しかないだろう。

 誰も泣かせないと言った。皆を救うと誓った。そういう英雄になるのだと、ついさっきも述べたばかりじゃないか。

 カエンの戦いはまだ終わっていない。

 

「まだ、こいつが笑えてないから!」

 

 だから。動く限りはこの足を止めない。

 そうして、頑強な意志を乗せた一歩を踏み出す。

 

 ドンッ!

 

 その音が不自然なほどに大きいものに感じられたのは、決して気のせいでない。

 カエンの前で、淡い土煙が舞う。最初こそその正体を隠していたが、数秒もすれば判明すること。見る者を滾らせる橙色の肉体に、悠然と構えられた長大な翼。それはカエンが今この時、最も思い浮かべていた存在で。

 

「――――リザードン!」

 

 オレンジの翼竜は短く鳴いて、相棒の前に降臨した。

 でも、どうして。当然の疑問だ。

 

「あんちゃーん、リザードンかっ飛ばしすぎだよぉ。もうトモシビへとへと……」

「トモシビ! なんでこんなとこに!?」

「だ、誰!?」

「あ、い、妹なんだ」

 

 それは、その背中からひょっこりと顔を出す幼女、トモシビが説明してくれる。

 

「この子、山がへんだって聞いて、いてもたってもいられなくなって飛び出してったあんちゃんが心配で、いてもたってもいられなくなって飛び出してきたのー」

「おお、そうなのかー!」

「またややこしい言い回しだな……」

「このトレーナーにしてこのポケモン、ってやつか」

 

 似た者同士は寄り添った。片や顎をわしわし撫でて、片や抱擁して各々の再会を喜ぶ。少しくすぐったい、といった風に顔を上向きにするリザードンだが、それでも拒まないのは確かな絆によるものなのだろう。

「それよりも」話題の転換で気を引き締める。

 

「この山をおかしくしてるやつを見つけた。今、こいつのかーちゃんを洗脳して逃げてる最中だ」

 

 リザードンへ、現状を説明した。

 

「こいつな、泣いてる。だからかーちゃんを取り返してやりたい。あと――」

 

 ここまで色々あったし、いきさつは複雑だった。でも多くは要らない。

 

「あいつを一発、ぶん殴ってやりたい」

 

 悲しいも、楽しいも、苦しいも、喜ばしいも、一緒に分かち合ってきたように。言霊に乗せるのはこの気持ちだけでいい。魂の怒りを、彼へと伝えるだけ十分だ。

 それさえすれば彼はまた、羽ばたく翼を授けてくれるから。

 

 

 

 流れる景色が、遅くなった。

 それはスピードダウンを意味する。

 

「いってえ、いてえよお、クソが……テルス山からは引き上げだな」

 

 ベルンはボーマンダの背中で、一人ごちる。ロアのパンチで未だに歪む頬をさすりながら。

 実験場を突き止められ、あまつさえ追われ、終いには打った手も悉く潰されて。

 

「テメーのせいでもあるんだぞ、クソがよ!」

 

 腹の奥底でぐつぐつと沸き立つ苛立ちは、抵抗しないボーマンダの背中に拳を叩き付けることで解消する。こうなりゃ死ぬまで使い込んでやる。醜悪な憎悪が唇通して表に出た。

 

「だが悪いことばかりじゃねえ。八割は完成したようなもんだろうなあ、これ」

 

 薬品Rのことを指していた。度重なる性能試験により、少なくとも一方的に暴力を振り回せるぐらいには意識を支配することに成功している。

 これならカシラもきっと気に入るし、俺たちが覇権を握る日も近い。そうなりゃバラルなんて目ではない。

 遠くない未来に明るみを想像して高揚でもしたか、鳥ポケモンも逃げていくほどの高笑いと独り言が周囲を占領する。

 次はどこにいこうか。テルスがだめならシエトはどうだ。自然が豊かで、これまた人の手が入りづらい。

 こっそりやるにはうってつけだろう。そうと決まれば、早々に退却だ。

 ベルンはレニアシティ上空に差し掛かる地点で、ボーマンダの尻をばしんと叩いた。もう一度速度を上げろ、という意味を持つ。物言わぬ、もとい物言えぬ飛竜が虚しくも一つ返事で肯い、加速の姿勢を取った。

 

「ッ!?」

 

 それを邪魔するものが、二つ。

 背後から急接近してきた高熱と発光を感知、紙一重で回避する。自分の真横をすり抜けたそれは、延長線上で縮んで、何事もなかったかのように消え去った。

 何も驚く必要はない、誰でも知っている燃焼という化学現象であった。

 それでも崩れない険しい面持ち。そうだ、ベルンが不穏を覚えた点はそこじゃない。

 誰も追ってこれないのだから、今、自分以外がこの場に何かしらの影響を与えられるわけなどないのだ。干渉できるわけなど――。

 誰だ、なんて陳腐な問いかけを中断した。振り返れば何もかもすぐに済む話。

 一人と一体によって『事を覆せる手段も持たないと踏んでいた事』が覆された――その事実を、直視するだけで。

 

「ぜったいに――逃がさない!」

 

 翼竜の咆哮を以て、曇天はとうとう断たれる。開く丸は爛々と輝く日輪を招き入れ、ついに現れた希望という輝きは、ぼうぼうと燃え盛る正義の火焔を強く照らして、さらに熱くした。

 タツベイを傍らにするカエンは、リザードンの背中で腕組み突っ立っていた。

 

「しつけぇなあ……ほんとによォ!」

「みんなを泣かせて、だれかを不幸にする、おまえは……おまえだけはな! ここで止める!」

 

 昨日まで流れた涙のために。皆が笑う明日のために。こいつは今日、ここで倒す。

 意気と息吹が一緒になると「うおおおおおおお!」という叫びに変化する。奮えるカエンとリザードンのそれが遠くで重なった時、顔を出した晴天は“虹”を彼らに寄越した。

 ポケモンと人とを繋ぐ通り道。大地がラフエルの形見を届ける一本道。古来から色々な表現が成されてきたが――――今のそれは、“キセキシンカ”と呼ばれている。

 

「――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!」

 

 全身を包んでいた焔が、一回り巨大化した両の腕に集束した。肉体は深紅色に変化し、大翼には鋭い刻み目が幾重にも連なる。僅かに残る橙は太陽が如き灼熱を発するが、誰かを焼くことは絶対にない。彼は誰かを救う者だから。

『キセキリザードン』の覚醒。カエンは、奇跡を起こした。その眼に虹色の光を宿して。

 

「なんだか知らねえが……ハッタリかましてんじゃねえぞォォォォォォォ!!」

 

 眩しさで覆った目を自由に戻したボーマンダが、襲いかかる。

 

「いくぞ、リザードン」

 

 英雄は翼竜に跨り、言う。「ここにいるぞ」と。

 かつての伝説が潰えた場所で。先代の英雄が最期を迎えた、この場所で。

 翼竜は英雄を背にし、言う。「英雄の誕生だ」と。

 同じものを見聞きして育った場所で。何度も彼の奇跡を目の当たりにしてきた、この場所で。

 

「一緒に、たたかってくれ!」

 

 今、ここで、こうしてまた新たな神話が始まる。英雄譚の続編は紡がれる。

 レニアシティの空で――七色の輝きが弾けた。



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fin.俺の道、お前の道

 滅亡の赤紫色と、希望の七色が、幾度となくぶつかり合う。

 ある者は、他の誰かを死なせてでも歪な我欲を追い求め。またある者は、意地に則り死に物狂いで決闘を制さんとする。どちらもどちらに死という言葉をちらつかせて、この果たし合いに臨んでいる。

 一番高いところで、一番激しく繰り広げる死闘――額面通りの頂上決戦を邪魔する者は、どこにもいない。

 

「“かみなりパンチ”!」

「“ドラゴンクロー”だオラァ!」

 

 二つの技がかち合って、衝撃の白波が波紋状に広がった。全ての自由の象徴たる空は遮るものが無いので、大気の振動がより大きく感じられ、伴う音にも遠慮というものがない。

 ぶつかるエネルギーはバリィン、とガラスよろしく盛大に弾けて鳥ポケモンたちを遠ざけていく。

 競り合いの最中にリザードンの背中で声が上がる。カエンがボーマンダを呼んだ。

 

「大丈夫か! 苦しいか、辛いか? おれの声が聞こえるか!?」

「ごちゃごちゃごちゃごちゃうるせえんだよ!」

「おまえには、言ってないッ!!」

 

 カエンの踏ん張りに付随して、ボーマンダを押し飛ばすリザードン。

「うお!?」ベルンはそうして力負けしつつもスピンから即座に体勢を立て直し、かろうじて追撃をカットした。

 

「チクショウ、なんなんだそのわけのわからねえリザードンはァ!」

「ポケモンを力で言いなりにするおまえには、一生かかってもわからない! そういうキセキだッ!」

 

 向き直りついでの反撃で“かえんほうしゃ”を放つも、拳型の炎がいともたやすく相殺してみせる。

 キセキリザードン――格闘練習として主と拳を交えた日々と、近接を主体とした戦闘の記憶がReオーラによって極限まで研ぎ澄まされ、結果として『こうげき』と『すばやさ』の力が跳ね上がった状態のリザードンを指す。

 X、Y、どちらのメガシンカ態とも異なったその形状や性質は完全なる未発見とされ、まさしく奇跡的な進化を遂げた存在といっても過言ではない。

 再び特性『ちからもち』を用いて底上げされた火力の“ほのおのパンチ”で、飛んできた“かえんほうしゃ”を打ち消す。

 

「なあリザードン。声、届くと思う?」

 

 カエンが言う。応えて静かに鳴いたが、周囲に意味は伝わっていない。しかし十分だ、カエンにさえ伝われば。

 

「……だよな! おれたちが、届けてやるんだよな!」

 

『届くんじゃない。届けるんだ』いいのだ。カエンさえ、この言葉がわかっていれば。

 リザードンは、今一度羽音を響かせた。

 

 

 

「いた!」

 

 日光にも劣らぬ、強烈な閃光が反復する。エルメス、テソロ、ジェリオが足を急がせ到着したレニアシティの上空は、そんな様相を呈していた。

 決して無視できない音と光で、なんだなんだと地元住民が天を仰ぐ。

 

「さて、どうしたもんかね」

「俺はひとまずPGに立ち寄り、住民に避難させるよう口添えする! テソロはカエンの援護を!」

「だーかーら、勝手に命令すんなっての」

 

 テソロにそう指示し、一足先に町中に飲まれていくジェリオ。

 カエンが戦っている――もはや説明はいるまい。

 驚異的なスピードは一歩間違えば振り落とされるし、規格外とも云えるパワーは気を抜けば人の命など簡単に持っていく。まして向こうは犯罪者……いくらジムリーダーとはいえ、相手にするにはあまりに不安要素が多すぎて。

 それでも彼は、戦う。拳を握ることをやめない。険しいことだと考える。とても真似できないことだと、思う。

「『なりたい』が止まらない」と、言っていた。

 その言葉のままに、彼は迷いなく誰かのために命を懸け、誰かのために力の限りを尽くす。泣いているならば声かけて。苦しんでいるなら手を差し伸べる。たとえ見返りが、救いが、賞賛がなくたって。誰かの希望になって見せる。

 

 ああ。彼は。

 

 それが出来る彼は、なろうとしていたんじゃない――もう、なっていたんだ。

 英雄に。ヒーローに。神話の続きの担い手に。

 

「――私だって、なりたい!」

 

 その時、エルメスの瞳に炎が灯った。

 取り出した携帯電話の画面で最初に目を配ったのは、電波状態。全快状態を確認して、ライブ配信アプリを起動する。

 

「持ってて!」

「は、ええ?」

「私をそのまままっすぐ映して! いいから早く!」

「お、おう!?」

 

 エルメスはテソロに配信状態の電話を持たせたまま、リザードンとボーマンダの対決を背にした。

 目を閉じる。深く息を吸った。これこそエルメスのしたかったこと。そして何より、

 

「……現在、レニアシティ上空にて同所のジムリーダー『カエン』さんが戦っています。相手はまだ記憶に新しい、先日世間を騒がせた“テルスの主暴走事件”の真犯人、暗躍街なる犯罪組織の構成員『ベルン』と呼ばれる男です。彼は『実験』と称してポケモンを強化し、意識を支配する自作の薬品『R』をテルス山内でばらまいていました。ラジエスの件以降キャンプセット一式とガス発生機を持ち込んで潜伏し、連日に渡って霧状に変えた薬品を散布するなどしていた模様です。真相を突き止めたカエン氏が追い詰めた際、一瞬の隙をついて薬品を使用し野生のボーマンダを洗脳、現在の状況に至ります」

 

 今の自分が、やるべきと思ったこと。

 

「大型ポケモン同士の衝突によって現状は混迷を極めており、負傷者の発生も予想されます。現地住民の方々は落ち着いて、焦らず、市の職員やPGの指示に従ってラジエス方面へ退避してください。繰り返します――」

 

 事件の最前線で、情報を届けるのだ。知りたがる者へ。知ることで助かる者へ。

 強風となった激突の余波が、彼女にまで及ぶ。

「おい、あぶねえって!」倒れかけたエルメスにテソロが思わず声を上げるも、彼女は歯を食い縛って立ち直り、依然リポートを続ける。

 まだ、まだよ。モノローグが頭蓋の中で響き渡る。そうだ、へこたれている場合じゃない。

 

「去年の“雪解けの日”を境に、バラル団のみならず、様々な犯罪組織が勢いづいて、この世界情勢を不安定なものにしています。明日どうなるかすらわからない日々を過ごしている方も、いらっしゃるのかもしれません」

 

 というのも。何故なら。だって。

 

「ですが、諦めないで下さい。悲しまないで下さい」

 

 私は記述者(スペクテイター)ではなく、

 

「――我々には、大いなる英雄がいます」

 

 伝達者(メッセンジャー)だから。

 

「いつの時代も人々の行き場ない心の拠り所となり、吹き荒ぶ災厄の矢面に立ち、されど未来を切り拓いて導いてきた。救ってきた。そんな英雄伝説の担い手が……勇者カエンが、ここにいます」

 

 大手を広げよう。声高に謳おう。そして伝えよう、一人の英雄の勇姿を。かつて終わった場所でまた始まる、彼の一大活劇を。カエン英雄譚を。

 

「だから、願ってください。伝説の再臨を」

 

 流れゆく人並みの中で、ジェリオは足を止め呟いた。

「……俺たちはきっと、伝説を目撃している」獣の王を従え破滅の光に立ち向かったと云われる、ラフエル英雄譚終章の再現を、遥かなる蒼天に見て。

 

「祈って下さい。彼の、勝利を」

 

 

 

 ボーマンダが嘶いた。青紫色の光弾を口から連続して放つ。“りゅうのいかり”だった。

 

「リザードン!」

 

 カエンの呼びかけで、一吼え。

「つかまってろよーっ!」片腕にタツベイをぐっと抱き抱える。急上昇で、真っ直ぐ突き進んだ更なる天上。

 ブオン。直角描く急激な方向転換。

 空気の膜を掻っ裂く音が鳴って、前髪はばたばた暴れて視界で踊り狂う。精神と肉体が乖離してしまいそうなほどのスピードに目を見開いた。

 球体の全部が自分達を逃がしたのを確認し、右斜め下方向の三次元的迂回。

 

「“ほのおのパンチ”!」

「“ドラゴンダイブ”! 弾き飛ばせや!」

 

 頭と拳を撃ち合わせる。二つの技が、再びの肉迫を呼び出した。

「ウオオオオオオオオオオオ!!」「グオオオオオオオオオオオ!」二体の竜の咆哮が、間近で爆ぜる。

 

「起きろ、ボーマンダ! こどもがおまえの帰りを待ってる! 戻ってこい!」

「無駄無駄ァ! もうこいつは帰ってこねえ! 戻す手立てもありゃしねえ!」

『……ヴ、……ガ』

「……!」

「わかったら! とっとと諦めて倒れろってんだよォ!!」

「つっ!」

 

 今度は、威力を上げたボーマンダの突撃が勝った。相棒ごとぶっ飛んで、がくり揺れる姿勢を御すカエン。

 反芻する一瞬は、自分が負けたことよりも、もっと違うところに意識がいった。それはリザードンも同じだったようで、カエンと肩越しに視線を合わせる。

 思い出せるのは刹那にあった、タツベイを映したボーマンダの瞳。

 

「もしかして、まだ……」

 

 リザードンの小さな頷き。しかし、知ってか知らずかベルンはそれを遮るように“りゅうのいかり”をボーマンダに放たせた。だがそれはリザードンへは行かない。寧ろ、彼すらも見ていない明後日の方向で。

 ボーマンダの高度や距離感の認識の誤りかとも思ったが、それが違うと気付くのにそこまで時間は要さなかった。

 撃った方は真下、そこには何があったか?

 

「やめろーーーーっ!」

 

 ――レニアシティだ。

 まるでミニチュアのようになった町の風景に、赤色の点が次々と置かれた。続けて沸く黒煙は、上から眺めた町の様相を曇らせる。

 被害は一見小さく思えるが、決してそうではない。遠くに見るからミニスケールに映っているだけだ。何だって近寄らねば共感が薄れてしまう、人間ならではの悪癖。

 

「ホラホラ町があぶねえぞお、英雄サマよぉ? ちゃんと言った通りに救ってみせろよ??」

「おまえ、どこまでッ!」

 

 カエンはその下卑た笑みをきっと睨みつけた。だがそんな暇はないだろうと言わんばかりに、爆撃の要領で引き続き“りゅうのいかり”を落とすボーマンダ。

 それはまさしく破滅の光という名の災禍となって、レニアシティに降りかかった。まるで隕石のような勢いで飛来し、再び町の景観を壊す。

 

「“れいとうビーム”」

 

 よりも前に乱入する横槍が、その光球を消滅させる。奔った光線にこもる極めて強い冷気が、光球の熱エネルギーと衝突して、整えられた輪郭ごと殺したのだ。

 カエンとベルンが二人して地上を見下ろすと、すぐに作られた沈黙。発生した水蒸気が晴れた先に、エンペルトは立っていた。

 

「バラル団!」

 

 ワースは町中のベンチに腰掛け足組んで、宙空へと灰色の煙を吹き流しながら高台のエンペルトを見やる。

 それだけではない。他の団員も、あちこちの高所でポケモンと待機していて。住民の逃げ足を止めさせない、絶対的な備え。

 

「まさか……」

「間違えてくれんなよ。あのガキから借りたモンを返してるだけだ」

 

 驚くジェリオに、ワースが返した。

 そしてジェリオは知る。確かな悪の中に、されど通る一本の芯を。この男の流儀、或いは拘りを。

 何よりも会わない方が良かったし、こんなことは最悪に散りばめられた最善をかき集めた結果の、不幸中の幸いの上で成り立つだけの言葉ではあるが。

 

「……俺たちの前に現れたのが、あんたでよかったと思う」

 

 そう言わずには、いられなかった。

 一つだけ残してジェリオが走り去ると、ワースは雲が疎らな大空を仰ぐ。

 

「どこでも手に入る安物の量産品か、それとも一点物の特注品か――さて、お前さんはどっちだ?」

 

 そして彼が、最後に見るものは。

 

 

 

「ハッ、バラル団も落ちぶれたもんだな。まさか人助けとはね……滑稽でしょうがねえ」

「なんだっていい。おまえに逃げ場がないってことさえわかればな!」

「粋がるなよクソガキ。テメーはボーマンダを正気に戻して、かつ俺をとっ捕まえてぇんだろ? どっちがキツい条件背負ってるかわかってんのか、ああ?」

 

 どっちかでも落としゃ、ご破算だろうが! カエンはそんな怒号への返答が見当たらず、口を食い結ぶ。

 この男、先程から声も言葉も荒らげて喋り散らしてこそいるものの、話していることの筋道はちゃんと形を成していた。

 その通りだ――否定出来ないままに、肯定する。

 ボーマンダはある種のリミッター解除状態にされており、加減も容赦も忘れてこちらに攻撃をぶつけてくる。それを捌き続けるのは、いくらキセキシンカで性能が向上したリザードンとて容易なものではない。

 加えて彼女の単純な打倒を目的としないのであれば、加減を強いられるのはリザードンの方で。しかしいつまでも冗長な展開を繰り広げたところで、お互いに消耗の一途を辿るだけ。最終的に力尽きようものならば、それこそご破算となり何もかもが終わってしまう。

 極めつけはこいつも逃がしてはならないときた。切羽が詰まっている。優先順位も付けようがない。もはや苦行と呼ぶ他にあるまい。

 事を察したか、タツベイが目に涙を溜めて俯いた。

 

「大丈夫」

 

 それを静かに振り向かせるカエン。腕を回した先で届いた手を、きゅっと握る。

 

「絶対に助けてやる。約束したろ」

 

 望めた横顔は、未だ諦めがない。確かに厳しい現状ではあるが、彼は一瞬たりも降参を考えた覚えはないし、一度たりとも「できない」と唱えた試しはない。

 それは今までも変わらない今更な事実であり、彼の信条でもあって。

 暗中模索、試行錯誤、上等だ。先に光が見えぬなら、足掻いて勝ち取って掴み取るまでだ。

 俯かないし、余所見しない。何もしないまま上を眺めるだけなんてごめんだし、後ろ向きなど以ての外。

 どんな時も見果てぬ先を往く。いつだって背筋伸ばして前を向く。

 これこそがレニアシティジムリーダーの掲げる、唯一にして最大の信念。挑戦者へと受け継がれていく“心”。

 

「無事におうちへ帰ろう。かーちゃんと、一緒に」

 

 それを捨てぬ限りこの火焔、消えることなど有り得ない。

 

「なあ」

 

 カエンはタツベイを連れてリザードンの耳元で言葉をかける。小声で手短に、それでいて内容もシンプルなものだったから、遠くのベルンも気づかぬままに終了した。

 通ったかもわからぬ耳打ちではあったが、リザードンの間をためた頷きが、伝達の成功を示す。

「いっせーの、だからな」残るタツベイとも向き合い、頷くカエン。

 最後に見据えた方向。それは三者とも変わらない。

 少年には、今日倒すべき相手が映る。

 翼竜には、救わんとする相手が映る。

 竜の子には、自分の帰るべき場所が映る。

 吸気を沢山、飲み込んだ。少年は翼竜の首にしっかりとしがみつく。竜の子はそんな少年にしがみつく。そして翼竜は――。

 

「いっ、せー、のッ!!」

 

 一人と一匹もろとも、飛竜目掛けて直進した。

 

「馬鹿が! 万策尽きたかァ!」

 

 かえんほうしゃ、防ぐ。りゅうのいかり、弾く。出しうる最大の加速と最高の速度で、リザードンが突進していく。G負荷だって迎撃だってなんのその。両腕をクロスしてから猛烈なタックルをお見舞いする。

 だが飛竜はそんな真似をみすみすと許すはずもなく、遠距離の姿勢から近距離の姿勢に素早く切り替え、ドラゴンダイブで対応して見せた。直後にドン、と響く衝撃が双方の操者を大きく揺らす。

 

「ボーマンダは捨てたってことで、いいんだな?」

「勝手に、きめるな」

「なにッ!?」

「さあ、かーちゃんを――助けにいくぞ!!」

 

 言霊と言霊のぶつかる距離が、縮んだ。三度目の激突でカエンは勝負を仕掛ける。

 二体の密着状態を利用し、大胆にもタツベイと共にリザードンからボーマンダへと飛び移ったのだ。

 呆気に取られるベルンもお構いなしに、しゅた、と着地。

 

『グ……ア゛ア! ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!』

「う、おおぉ!!?」

 

 瞬間だ。ボーマンダは突然コントロールを失い、その場で絶叫しながら出鱈目な挙動をし始めた。次にリザードンはおもむろに彼女を解放し、監視するようにその周囲をぐるぐると迂回する。

 まるでバグの生じた機械であった。指示も理解できなければ、敵すら満足に視認出来ていない。ただひたすら不規則に、乱雑に、無軌道に飛び回るボーマンダ。

 何かを呼ぶように叫んで回るその姿は、誰かを探しているようにも感じられて。

 タツベイは乗り慣れたいつもの背中へ、呼びかける。

 

「く、くっそ! なんだコラァ!! 何をしたァ!!」

「何もしてない。ただ、こどもを探してるだけだ」

 

 親が子に一瞬見せた反応、戸惑い。

 そこに着眼点を置いた、タツベイという攻略の鍵の投入。カエンの耳打ちの正体は、それだった。

 

「バカ言えよ! ガスは十分に吸ってただろうが! 物の分別なんぞわかるはずが」

「わかるんだよ。親が子供を大事にするきもちに、ポケモンも人も関係ない」

「――この、クソ道具がッ!! 一生喚いてろォォォォォォォォ!!」

「っ!」

 

 たまらん、としがみついていたベルンであったが、ついに内心を占める怒りが理性を上回った。立ち上がり取り出したナイフを手に、カエンへと襲い掛かる。

 

「全部テメーだ! テメーのせいだ! わけのわかんねえ奇妙な力を使いやがって! 気持ちわりィ! このバケモノが! 殺す! くたばれ! 死ね! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」

「くっ、こいつ、めちゃくちゃ……!」

 

 繰り返しの紙一重。完璧に頭に血が上っている、そんな様子。洗脳したポケモン以上に禍々しく充血した目が捉えるものは、カエンただ一人。ベルンは苛烈に揺れる足場の上でなお、少年を執拗に追い回す。

 袈裟、横一文字、縦一閃、突きと、次々に刃が備えるアクションというアクションを用い、閉所での無事を全否定した。

 巧みに回避を続けていたカエンだが、所詮はポケモン一匹の背中の上。簡単に追い詰められ、とうとう絶壁を背にする。

「クソガキ……最後の最後までウゼェなァ……!」ひょろ長い影が自分にかかった。万事休す。

 

「つゥーーーーーかまァァァァァァえ」

「がううーーーーーーーッ!!」

「だッ――――!!?」

 

 まだだ。タツベイが、確かにそう言った。助走をつけ飛び上がり、そうやって全身を使っての“ずつき”がベルンに、厳密にはベルンの背中にクリーンヒット。ごぱ、と大量の体液を吐き散らす。

「おまえー! やるじゃんか!」「がう!」

 悶える悪漢を尻目にハイタッチするが、立ち直りは存外早くて。破裂せんばかりの青筋を立てながら、彼らへと向き直った。

 

「……テメェら、まとめて――!!」

 

 ……が、ベルンの言葉は、それから続きが発されることは無かった。

 でも、誰一人として疑うことなどない。だって無理もないから。

 

『――ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 先程、少年を影で覆ったように。自分もまた、自分の何倍もある影に覆われてしまっては――声など出るわけないだろう。

 見上げたのは、遥かな天空。雄叫びを連れて一目散に突っ込んでくる、キセキリザードンの姿。

 引いた拳に正義の焔を燃やして。瞳に激情の火を灯して。真っ逆さまに飛んでくる。

 

「は、は、アアアアア!! アア! アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

 

 背に浴びる陽光が、後光に見えた。

 

「――ずっとだ。ずっと。ずっと、こうしたかった!!」

 

 怒りを込めろ。悲しみを込めろ。悔しさを込めろ。正しさを込めろ。魂の全部を、込めろ。

 カエンは改めて立ち上がる。右手に最高まで、それはもう血が滲むほどに握り込んだ拳を作って。

 リザードンが今一度吠え立てた。行けと言った。行っていいよと、そう言った。

 踏み出す足は一歩でいい。それだけあれば届くから。それさえあれば叶うから。

 

「ポケモンは道具なんかじゃない! おれたちの、最高のなかまだ!!」

 

 飛び上がった。肩を後ろへやった。歯を食い縛った。

 

「わかったら! 二度とッ!」

 

 懐へ飛び込む。迫った顔面へ、全力のスイングを。

 

 

「道具なんて!! いうなァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 

 ありったけを乗せた、火焔(ほのお)(パンチ)を。

 ズドォン。一人と一匹の一撃が、見事に炸裂する。爆発からなる轟音が全てをぶち壊し、生まれた爆炎が何もかもを包んで隠した。

 しかし、遠くからはその様子がよく確認できる。

 レニアの上で花火よろしく弾けた深紅の輝きが、皆の意識を一手に引いた。

 

「なんだ……!?」

 

 ジェリオが観測する。

 

「終わったか!」

 

 テソロが確信する。

 

「まだよ! ボーマンダが、助かってない!」

 

 エルメスが、気付く。

 カエンの拳がベルンへ至ると同時、リザードンはボーマンダに“ほのおのパンチ”をお見舞いした。それによって戦闘不能となったボーマンダは意識と飛行能力を失い落下、カエンも、彼がぶん殴ったベルンも、タツベイも一緒くたにして宙空へと放り投げたのだ。

 そして今も、落ちている。進行形で。

 

「う、お、わ、わあああああああああああああーーーーーーっ!」

 

 初めから想定していた事ではあるが、いざ実際に味わってみると、やっぱり心臓はびっくりするんだな。カエンは真っ逆さまに空を下りながら、思う。

 すぐそばのタツベイに正気を戻してもらうのは、ほんの数瞬後の事だ。

「だいじょうぶか! けがないか!」タツベイの無事を確認すると、視界が晴れる。天地が逆転した周囲を見回した。

 きりもみ状態で自分の少し下を落ちているボーマンダに、自分と手を繋ぐタツベイ。ベルンは――。

 

「……よし!」

 

 離れた位置で、リザードンが拾ってくれた。それを見て、カエンは相棒へ向け親指を立てる。

 それは行動を褒めたたえる「グッジョブ」という意味合いを込めているが、それだけではない。

『あとは任せろ』――カエンが残った大仕事を受け負う、そういうサインだ。全く同じ仕草を返し、離脱するリザードン。

 

「じゃあ、やるか!!」

 

 見送るやいなやカエンはタツベイを両手に抱え、姿勢を可能な限り直線状態にした。すると忽ち落下速度は上がり、景色の移り変わりもより急激なものとなって。

 何をするのだろう、どうするのだろう。目の当たりにする者達は思う。飛ぶ翼もなければ、衝撃をものともしない鋼の肉体もない。自分を死へと近付けるばかり。

 でも、構わない。高度を下げてもいい。猛スピードで落ちてもいい。堕ちていい。いっそ墜ちてくれ。

 そうやって、ボーマンダに追い付く。ああ、全ては企み通りだ。

 

『おかしくなったリングマは、“つながりの唄”で助けられたって、フレイヤおねーちゃんが言ってたよ』

 

 一度聞いてから、ずっと覚えていたトモシビの発言。かつて近所付き合いがあった、もう一人の英雄の助言。

 

「歌は苦手だけどな……仕上げだ!」

 

 一纏めに更なる重力をかけられる。落下し低下する。町が大きくなり始めた。少なくとも、自分達の同行を見守っている存在を認知できる程度には。

 けれども英雄は恐れない。

 

「どうか――、祈ってくれ」

 

 恐れないから。タツベイに優しくそう言い残し、ボーマンダに触れた。

 

 

 

 星のような、卵のような。虹で作られた玉が、ゆっくりと大地に身を下ろす。

 それは沢山の人に迎えられ、多くの声を貰ううちに、花びらを咲かせるようにして開いた。

 中から顔を出した“空のテルスの主”は、温かい祝福を受け容れる。背中に乗った我が子と、その友となった英雄と、一緒に。

 レニア西の外れ、ラフエルが最後に立っていたとされる環状列石『終わりの跡』で、音が鳴る。英雄譚続編の序章の終了を告げる音色だ。それは「歓声」という形になって、やがて町中に響き渡った。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「――『以上が、“テルスの主暴走事件”の真相である。肥大化する一方の世界の悪意を前に、我々はどのような対応を取るべきか。今一度考える必要があるだろう』……うーん、もう!」

 

 パソコンの液晶から、悩ましく目を背ける朝の話。エルメスはラジエスシティのカフェにいた。先日の事件についての事柄を原稿にまとめているのだが、どうにも思い通りにいかない、といった様子で。溜息を吐く時の顏が、まさしくそういう顔をしている。

 

「出勤前から仕事か。精が出るな」

「そういうのは精が出るんじゃなく、意識が高いってんだよ」

「ほっといて頂戴」

 

 コーヒーを一口飲んでいると、ジェリオとテソロが彼女の肩に言葉を当てる。気に入らなかったので頬杖ついてぶすくれた。

「お、おこんなよ」失言だった、とテソロの訂正。

 

「っていうか、二人ともまだラジエスにいたのね。ポケモンが回復したって聞いたから、もう発ったのかと思っていたわ」

「これから発つんだよ。消耗した分の道具一式を揃えたし、図書館での調べものも終わったしな」

「同じくだ。尤も俺は、半分観光地巡りだったけれど」

「はあ、二人はマイペースに時間を使えて本当に羨ましいわ。こっちはPGの聴取に加え、この後ベルンの取り調べ内容についての取材でPG本部まで行かなきゃなのに。……いっそ私も冒険家になろうかしら」

「はは、今回ので懲りたろ。ああいうこともある」

「違いないわね」

 

 テルス山に巣食う癌からポケモンを救い出し、あまつさえその癌を成敗した、そんな英雄の鮮烈な雄飛から二日経った。

 ベルンは、あのまま駆け付けたPGに逮捕された。今頃は本部で勾留真っ最中だろう。

 そしてバラル団。本当に薬品『R』絡みの問題解決だけが目的だったようで、以降は何をするでもなく立ち去った。

 結果として山は無事平穏を取り戻し、怯えていたポケモン達も再び日向に出てくるようになった。狂わされてしまったポケモンらはまだ疎らながら残っているようで、カエンを始めとする英雄の民の面々は、暫く彼らを“つながりの唄”で取り戻す作業に注力するそうだ。

 ちなみに、救われたボーマンダ親子も現在彼らに協力して山中を飛び回っているというのは、ちょっとした余談。

 エルメス、ジェリオ、テソロもレニアで一晩世話になり、英雄の民たちとの交流を深めた後、カエンとの別れを済ませて下山した。

 そうやって皆が皆、これまで通りの日常に戻りつつある。

 

「しっかし、まるで狐につままれてたみてえだ」

 

 テソロが言った。主語は抜け落ちていても、同じ経験をした二人にならばちゃんと伝わる。

 激動だらけであった、奇妙な運命という語り種が。まるで別世界に飛ばされたかのような、摩訶不思議な一日の話が。

 

「実感は確かに薄い。ともすれば夢のようにも思えるけど、俺たちは見えるし、聞こえるし、食べ物はおいしく感じられるし、物に触れられる。何よりも」

 

 頬をつねると、痛い。ジェリオは言葉通りにおどけて、エルメスをくすりと笑わせる。

「だから、俺たちが過ごしたあの一日は紛れもない現実なんだろうな」そして帽子のつばをつまんで、東に構えるテルス山を仰ぎ、続けた。

 

「英雄というものの存在証明に立ち会えた。きっと、誇っていいことだ」

 

 今云うには、少しだけ大袈裟かもしれない。でも、いつかなら。遠くても近くても、彼のなりたい彼が待つ、いつかの未来(あす)ならば。

 様々な人に伝わる、英雄の奇跡。届いて及ぶ、勇者の鼓動。それは振り返れば感じた各々に色々な変化を与えたのだろうし、残したのだろうし、何かを突き動かしたりもしたのだろう。

 

「あー、みんな楽しそうだよなぁ。結構なこって」

「テソロは信じないの? 英雄のこと」

「……さあなあ」

 

 テソロは「ただ、まあ」と付け加え、静かに青空へ顔を向ける。

 

「もし、世界ってもんを変えていく奴がいるとするなら、そりゃあきっとああいう奴らなんだろうな――とは、思ったよ」

 

 言の葉が、ほろりと風に解けた。遥か上を過ぎていくキャモメが、それを攫ってく。

 そうやって歴史の目撃者たちの余韻は、遠く見知らぬ誰かの元へと運ばれていくのだろう。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「原稿上がりました!」

「リザイナの方の取材許可は下りたの? 薬品Rについての情報まだまだ足りないよ!」

「ハモンズはどこ行った!」

「今出先です。先方が急遽予定が変わったという事で、飛び出していきましたよ」

「もう校閲何してんすか! 誤字だらけじゃないっすか~!」

 

 ラフエル中のニュースが集まる情報の最先端『ラジエス中央報道局』は、今日も忙しい。

 特にこの報道室は、朝昼晩と時間を選ばず人の出入りが絶えず起きていて、いるだけで息が詰まる。

 

「なーるほど、ねえ……」

「い、いかが、でしょうか」

 

 少なくともエルメスは、そう思っている。誰もが慌ただしく歩き回るオフィスの中、イスにふんぞり返って自分の原稿へ目通しする上司(チーフ)を、不安そうにじっと見ていた。

 いつも来るダメ出しだがいつ聞いても慣れないし、こうして裁きを待つ罪人のような時間だけは、息が詰まりそうになる。流れる冷や汗に気がいかなくなり、忙しなく鳴り響く電話の音すら耳に入ってこなくなって。

 一息ついて、はさ、と原稿を置く。おまけについてきた上目からは、相変わらずポジティブな意味が感じられない。

 

「あのさ、文面に記者の気持ちが入りすぎなんだよねえ。お客ってのはさ、誰の手元にもない、新鮮な、ありのままの情報を求めてるわけよ。こんな、誰かの噛み残しのガムみたいなのじゃなくてさ」

「か、噛み残しの、ガム……」

「体験はいいけど、別にそんなに入れ込めなんて誰も言ってなくてさ、そもそも――」

 

 肩ががくんと落ち込む。やっぱりダメ出しであった。それも、今回はとりわけ喧しいやつだ。小言タイプだろうか。

 あーでもないこーでもないと、毎度毎度アプローチの形が違う批判を受けるたんびに「そんな語彙力と頭の回転の速さがあるならば、この人がやればいいのに」なんて思う。思うだけだから、きっとばちは当たらないだろう。

 この原稿に自信があるでも、思い入れがあるでもないけれど。危なげを背負う、冒険的な取材の成果だったということは伝わっているだろう、とは考えていた。

 しかしそれも間違いだったようで、情けない甘えを俯き悔いる。

「まあ、妥協しておくから。行っていいよ」引いて叩いて薄く伸ばした話の、結論の部分を聞いた。

 胸に靄をかけたまま、渋々と身を翻す。頑張ったのになあ――そんな独白。

 

「あ、あとさ。あのライブ配信のリポーターごっこ」

「……今度は、なんでしょうか」

 

 背中に追加の言葉がぶつかるも、今の流れだけで酷く疲れた。故に、対応は肩越しだけで。

 別にいいだろ。どうせ頼んでもないおまけのこき下ろしが――。

 

「あれさ、けっこう良かったよ」

「――へ?」

 

 こき下ろし、が。

 

「緊迫感がすごく伝わってきて、ほんとに自分があの場所にいるみたいだった。僕が確認したのはアーカイブだったけれど、思わず見入っちゃったよ」

「?? え、あ、あの、え……っと」

「リポーター、もしかしたらイケるかもしれないねえ。転向の選択の用意についても、少し上に取り合ってみるよ」

「あ、――ありがとうございます!」

 

 その時、消えかけていた魂が、息を吹き返した。

 

 

『エルメスねーちゃんな、さっきさ。ちゃんとやりたいことやってたよな』

 

 名も忘れていた感情が、再燃する。

 

『どうだった? ……気分、よかったろ』

 

 熱い熱い火が、揺らめき始める。

 

『その気持ちだけで、ひとはみんなどこにでもいけて、何にでもなれる!』

 

 “なりたい”という炎で、道が照らされる。

 

『だから、忘れないでくれ。死ぬまでずっと覚えててくれ』

 

 その先で。希望という予感の向こう側で。

 

『約束だぜ』

 

 会いたい自分が、手招きしていた。

 

 

「ええ――――約束、よ」

 

 だから、会いに行こう。なりたい自分に。

 追いかける中で得た喜びも、悲しみも、きっと自分にとっての財産だから。

 少年との別れ際に絡めた小指。そこに残る熱は、この先も彼女の背中を押していく。

 窓に映るエルメスの笑みは、日輪にも負けないくらい明るいものだった。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 崖から見下ろす、ラフエルの土地。いつか誰もが驚く偉業を成し遂げ、自分の名を上書きしてやると誓った、そんな大地。

 きのみの最後の一口を、ぺろりと平らげた。

 

「あんちゃーん、いくよー」

「わかったー!」

 

 妹の呼び声に応え、隣で「待ちくたびれた」と急く翼竜に跨った。

 

「いくぞ、リザードン!」

 

 そして飛んでいく。やはり勇者は現在という時を、全身全霊を懸けて生きる。我が道を進んでく。

 テルス山は今日も、鮮明な火が灯っていた。




「――以上が、今回の報告だ」
『薬品『R』に、暗躍街か。少々改める必要がありそうだ』

 どこにあるのか、何のためにあるのかもわからない、小さな部屋の一室。そこで行われる通信は、よほど隠し立てしたいものと見える。ワースの絞り縮められた声が、その証拠だ。

「ノーマークだっただけに、なあ。俺らもPGやジムリーダーといった『表の手合い』だけが敵だなんぞと、言ってられねぇのかもしれねえな」
『だからこそ、レニアシティのジムリーダー『カエン』を始末しなかったのは、貴様の言い逃れ出来んミスだったと考えているが――そこはどのように見ている?』

 ばしゅっ、とライターの火が、空焚きされた。オイル切れでもないのに起こるそれは、なんだか面だけでは計り知れない使用者の腹の底を表しているようで。
 グライドの言葉に手早く返してやれるものといったら、今しがた背を預ける椅子の軋む音ぐらいのもの。

「悪ィな。どっかの誰かが俺一人を責任者にして働かせるもんで、ちっとばかし疲れが出ちまった。どうにも現場にゃ慣れてなくてねぇ……次からは気を付けるさ」
『……己の過ちを理解しているのならば、良い。引き続きあの御方のために力を尽くせ』

 少しの間を置いて発した返事でも納得したのか、グライドはそれより先を語らずに通信を切った。
 相変わらず薄気味悪ィな――ワースは言外に唱える。何を考えて引き下がったのか、わかりゃしない。尤も彼も自分の事は理解していないし、微塵もそんな意思はないのだろうと確信できるからこそ、やりやすい部分もある訳で。

「――今じゃねえんだよなあ、アレとやりあうのは」

 ライターが着火する。今度はきちんと発火した。

「認めてやるよ、テメェの価値を。俺たちが命の取引をするにふさわしい、お得意様だってこともな」

 真意をやにの煙に巻く必要は、もうないだろう。
 この男もまた、時の流れの先に楽しみを見出した。脳裏に過るは凡骨ではなく、真の勇者。そして、討ちたいと願えた獲物の姿。
 奴ならば、自分たちを脅かすかもしれない。本当に倒してしまうかもしれない。自分ですら呆然としてしまうほどの高値に、なってしまうかもしれない。
 そんなことを思いながら値付けを改めて、ワースは不敵な笑みを溢れさせた――。


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Episode Prison
01.夜が明けぬ街


 目下の光景を見つめる影が、三つほど。

 一つ、小さくも雪豹のような鋭さを湛えた、端正な顔つきの女性。

 二つ、白熊のような荘厳さを宿しながらも、背中に弱きを受け容れる雄大さも滲んでいる壮年の男。

 そして、三つ。氷細工さえ劣等感で自ずから砕けていってしまいそうな優美さを持つ、釣り目の女性。

 

「へぇ……まるで、秘密基地ね」

 

 言葉の出所も、その人物からで。

 PGネイヴュ支部長『カミーラ』はひどく感心した。あるはずのないものが、あるはずもない場所に存在していたのだから。

 彼女らの現在地であるラフエル本土、リザイナシティとモタナタウンの中継点『15番道路』は、海を越えてセシアタウンを抱える離れ小島『バークル島』を望める事以外、特筆すべき点はない。

 それは地図という絵であっても、教育という声であっても、言い伝えという字であっても、変わることがない事実だった。

 

「まさか、本当にこんな場所に存在していたなんて」

 

 ――そのはず、だった。

 カミーラの隣、部下『アルマ』が険しく呟く。

 

「だんだんと、きな臭い話になってきた。……いっそのこと悪戯やデマの類の方がずっとマシだったかもしれない」

 

 風が抜ける。壁が歪む。一歩先の目視すら許さないうすら寒さと暗闇の手招きに身を固めながら、嘆息を吐くユキナリ。

 

『15番道路のトンネルの真ん中、北側の壁面の一部に、僅かな空間の綻びがある』

 

 最初は、匿名という昨今のネットが掲げる便利な体系を利用した一般人の悪戯だと思っていた。ネイヴュの面々の誰しもがそうであったし、そのように信じて疑わなかった。

 しかし、検証として出向いた結果はどうだ。アルマのルカリオが『みきり』を発動するやいなや、トンネルの脇に一人が通れるほどの抜け穴が出現したではないか。吃驚を隠せない三者の心情を察するのも難くないだろう。

 

「ほら、何突っ立ってるの。行くわよ」

「待つんだカミーラ、少しは準備を」

「私がいて、あなたがいて、アルマがいる。現状で揃えられる最高の戦力なのだけれど、これ以上の備えは必要だったかしら?」

 

「何より、そのためにここに来たんでしょう?」ユキナリは口を結んだ。先へ歩むカミーラを止める言葉が思いつかなかったから。

 続けて顰む眉に気付いたのは、アルマだけ。尤も乗り気という意味では、彼女もまたカミーラ側なのだが。

 ――そもそもこのような悪ふざけと紙一重の眉唾話、試すだけならばこんな仰々しい面子が訪れる必要はない。さらに言えばネイヴュなどという北の果てから人が来る意味すらない。

 しかし、本部に任せていればいいだけの、こんな送り主不明の戯言(メール)に彼女らが付き合うのには、ちゃんとした理由がある。

 

「なんだかわくわくするわ。知らない場所っていうのは、いくつになっても心躍るものね」

「……君は、本当にどうかしてる」

 

 踏み入れた足を迎えたのは、土汚れの激しい緩やかな鉄製階段。錆びや腐食の進行度合いも無視できず、ともすれば怪我すらあり得るほどだ。段差が緩やかであることが唯一の優しさか。

 下りの一本道の脇に等間隔で配置された最低限の明かりのお蔭で、進む先を見誤ったりはしないものの、長さは大いにある。結果的に出口が見えないので、それもまた放たれる不穏さの一因なのかもしれない。

 路端のパイプが蛇のようにうねってる。増していくノイズが三人を急き立てる。きっと出口の向こうの有様を示してる。

 ぶつかる風が澱んだ。固くなった唾を飲み込むと、喉が苦し気に狭まった。

 瞠目しよう――見逃すまい。

 

「あらあら、まあ」

 

 これより差し当たるものは、未知の領域。

 陽の者が絶対に踏み入ってはならぬとされる、禁忌の地。ラフエルが落とした闇の根源。

 

「着くまではどんなドブ川かと思ってたけど――思ったよりも、雰囲気あるじゃない」

 

 そこへは、光が届かない。

 

「……冗談であってほしかったよ」

 

 そこでは、正義が罷り通らない。

 

「ここが……、」

 

 そこには、明日がない。

 

 

「“暗躍街”」

 

 

 表側で生きる権利を失った者達の、終着点――常夜の退廃都市、地底スラム『暗躍街』。

 泥と血とで濡れきった香りも、ほの明るさで怪しく落ち伸びる暗影も、数多の土と石により造られた町並みも。何一つ変わらない。全てはいつも通りだ。

 

『六月七日午後二時、暗躍街北区(ノースサイド)五番地の飲み屋にて、連中とバラル団の取り引きがある』

 

 捨てアドレスよりネイヴュ支部宛てに届いた一通のメールが、かくして三人の戦士を魔境へと駆り立てる。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 ぽっかりと開けられた広大な地下空間に、石や土という比較的入手が容易な資材を投入して造られた建物が立ち並ぶのが、暗躍街の風景だ。

 失業、貧困、犯罪等の理由で地上の居場所を追われた者らが集まる地であり、殺しや盗み、麻薬が横行する無法領域として、ラフエルの都市伝説として語られていた。

 又、同名で結成された反社会組織も擁しており、沢山の犯罪組織が名を連ねる裏社会の中でも、相当な過激派勢力ともっぱらの評判で。

 しかしあくまで都市伝説、真偽が不確かであれば話の出所も不明瞭、延いては実在さえ不透明だった。

 

「概ね、噂通りじゃないかしら」

「……くっ」

 

 が、それもこれまでの話。

 カミーラは道端で転がる小さな肉の塊を見下ろし、にへりと口角を上げる。忌々しげに下ろしたユキナリの目蓋の裏に焼き付くのは、かつて人間であった少女。暴行に次ぐ暴行で、顔面が判別不可能なほど紅に染まっている。他にも糸一本さえ纏わぬ躰は、あらゆる内容液をぶちまけ、まるで汚物のようであった。

 経緯を確認するまでもなくわかる、生命への冒涜――その限りを尽くされ、嗚咽と絶叫にまみれながら生まれた骸。そんな光景であっても、醜穢な装いに身を包んだ彼ら住人は、素知らぬ面してこの乾ききった砂利の道を往く。

 周りを見た。標よろしく唾液を垂れ流しながら、意味不明な言語をうわごとのように呟く者。衣服にこびりついた暴力の痕跡を隠すことなく歩む者。何かを追う者と、何かから逃げる者。断続的に悲鳴と銃声が上がる。朽ち果てたままの名も知らぬ男は、誰の目に留まることなく獣に葬られていった。

 皆が唱えるのだろう。「これが日常だ」と。

 信じるしかないのだろう。悪意が、表の世界では絶対に目にかかることのない混沌を以て、己の存在をこれでもかと証明するならば。

「寒かったでしょう。おやすみなさい」命の意味も知らぬまま逝った彼女へ、潜入用に薄く汚したジャケットをふわりと掛け、アルマは語り掛けた。

 

「ふふ、馬鹿ねえ。死人に寒いもへったくれもないでしょうに」

 

 遠ざかるカミーラの足音。たとえ、この冷たい捨て台詞が何一つ違わなくとも。

 

「……それでも、せめて眠った後ぐらいは、優しくされたっていいよね」

 

 休ませてあげようと、思った。ひたすらに空虚を映し続けていた瞳が、ようやっと閉ざされる。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 暗躍街は、一定間隔で太い岩柱が立っている。柱という表現が示す通り、それは地下特有の災害である崩落を最小限に抑えるために存在している。の、だが、

 

「北区の一番地……だね。ようやく目的エリアに入れた」

 

 もう一つの用途として、現在地の把握に使われることもある。

 ゴツゴツとした岩肌に住所が刻まれただけのシンプルな案内標識だが、この額面通りの未開の地、マップデータが存在しない此処では大いに役立つもので。

 

「安いよ、安いよ!」

 

 区間の出入口ということで、必然的に人通りが多くなるここは、人々が売り買いを行う市場となっている。

 混み具合はといえば、上々。景色だけを切り取ればラジエスの西エリアにも引けを取らないだろう。ただ、閉鎖的空間に人々が密集するので、どこか息苦しいのが難点だ。繁盛がこういった形で計れてしまうのも、些か皮肉か。

「一体どこの誰が始めたんだか」たとえ地獄でも生活の営みがある事実に関心を示しながら、カミーラは独白を噛み潰した。

 尤も店なんて大袈裟には云っても、地べたに敷かれたレジャーシートの上で品物を並べた人が座るだけ。日も差さず雨も降らないから、屋根も要らない。風も吹かないので壁だって出番がない。

 そんな簡素な取引場の上で、色々な人物が様々な物を売り捌く。どうやって入手したかもわからない新品の電化製品に、どこで拾ったかもわからない不思議な色の石、果ては何に使うかもわからないガラクタ等……本当に、雑多。

 

「なんてこった、クスリ(麻薬)ハッパ(大麻)の類まであるじゃないか」

「改造されたモンスターボールに、ヤミラミの体内宝玉、ミロカロスの鱗……無断取引を禁じられているポケモンの希少部位まで」

「ちょっと、違法ラッシュじゃない。本部にチクろうものなら、泣いて喜ぶんじゃないかしら」

 

 勿論、本当にそんなことはしないのだが。決して、知りながらに眼前での悪事をのうのうと見過ごすことに治安維持組織としての問題を感じていない訳ではない。しかし今の目的は“これ”ではない。このような上澄みを突き破った先にある、ひどくねばついた、どす黒いものを求める故に。

 そも、そも。ここで堂々と声を上げてしまうような清廉な正直者は、死に装束とも揶揄される白服なぞ着ていられるはずもないのだ。

 ネイヴュという矛が穿つ闇は、もっと深い場所へ。

 例えば、この街を支配する者。

 例えば、街のあの高い天井に吊るしてある、輝く巨石を此処に齎した――文明の開闢者。

 

「おい」

 

 アルマは空に目を奪われていた。日の輪を遮られながらも光ある、不思議な空に。

 だからこそ人の往来に対応できなかった。肩をいかにもな男に接触させてしまった。

 すう、と不穏がどこからともなく訪れる。カミーラは数歩過った先で足を止めたし、ユキナリは目を大きくした。

 

「いてえなあ、どこに目付けてんだ? あ?」

「最近食べれていなくて、目眩でふらついていた。申し訳ない」

 

 どの面から見てもタトゥーが主張するいかにもなスキンヘッドの男の、いかにもないちゃもん。しかしこういう時ばかりは、さすがのアルマでも嘘はつける。

 

「の割にはお嬢ちゃん、目の焦点はしっかり合ってるみたいだけどな?」

 

 しかし残念ながら相手の話をしっかり聞けるほどの人間性を持つのなら、肩が触れた程度でこうも威圧的になるはずもないわけで。

「待ってくれ、貧困を理由にここに流れ着いたもので、本当に」「まいいや」まるではなから聞く気などないぞと言わんばかりの言葉の上書きでユキナリの気転を無視し、男はアルマの肩に指輪だらけの不格好な手を回した。

 

「よく見りゃかわいい顔してんじゃねえか……、なあ、食えてねえンならオレが介抱してやってもいいぜ」

「…………」

 

 表情に動きこそなくとも、確かに不快感を覚えた。具体的には、指が二の腕の柔肉にわしりと食い込んできた時。こんな変装で偽った(マスク)を褒められたって嬉しくもない。

 面倒だ――アルマが最初に抱えた心情は、それであった。

 この手一つ振り払う事など、雑作もない。もっと言えば再起不能にするのも朝飯前のことではあるのだが、何よりも今は、目立ってはいけない。

 事を荒立てることが出来ず、どうしたものか、と思考を別方向にシフトした時のことであった。

 

「待って」

 

 細く華奢で、今にも解けて消えそうな声が、男を止めた。

 

「あ? なんだよ」

「この人たちは、うちのお客さんなの」

「だったらどうした? 随分度胸あるじゃねえか、ガキ」

 

 それは果たして、力で敵わぬ者と相対した時の怖じからくるものなのか、それとも元来のものであるのか。

 

「市場での取引の妨害はゴトーさんによってルールで禁止されてる。そのことを知らない?」

 

 最初こそわからなかったけれど、答えはすぐに出た。 

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「へえ、君はああやってハンドメイドで生計を立てているんだね」

「うん。正直あんまり稼げないけど……いくら治外法権でも、やっぱり危ない真似はしないに越したことはないと思って」

「素敵な心掛けだと思う。感心するよ」

「ありがとう。さ、どうぞ」

 

 市場で手作り雑貨売りの店を広げていた、十代前半ほど……だろうか。の少女によって、いかにもな男はいかにもな舌打ちを捨て置いてどこぞへと消えていった。あまりに鮮やかすぎる鶴の一声であった。

 そして、その鶴はというと。

 

「ごめんね。こんなものしか出せないけど……」

 

 ああ、どうも。細腕から出されたコーヒーに、ちゃんと発声して礼をしたのは、ユキナリだけで。

 

「ほっほっほ、おかしなものは入っとりゃせんよ。砂糖も切れておるので、入れるべきものも入れられとらんでの」

「おじいちゃん、喋りすぎだよ……」

 

 少女の祖父の冗談に、追従笑いを一滴ほど。

 ときにジョウトの昔話には、鶴が人に恩を返す昔話があるそうだが――鶴が人に恩を授けてくれる話というのは、三者の誰もが初めてのことだろう。

 

「とんでもない。こんな右も左もわからない、ここに来て間もなくの僕らを助けて下さる方々を疑うなんて……ばちが当たっちゃいますよ」

 

 目の前の年季の入った木製テーブルを一瞥し、今度は室内をぐるりと一望。最低限の生活を成り立たせる家具だけが配置された、乾いてしまうほどに素朴なワンルームだった。

 きっと中古で入手したものなのだろう、フロアシートに刻まれた幾つもの小傷が、彼らを見上げている。

 ユキナリは妙な違和感を覚えた。それは確たるディテールを持ったものではないので、明らか且つ詳らかな表現が致せないのだが……、間違いなくあるのだ。胸の奥の取っ掛かりが。

 

「お兄さん」

「……ん。なんだい?」

「気のせいだったら申し訳ないのだけれど……私とどこかで会ったことはある?」

 

 目が点になる。まじまじと不思議そうに己を見つめる少女の突拍子もない問いは、もう少しばかり若ければ“口説き文句”なんて風に捉えられたかもしれないが、残念ながら歳の差が外見に残酷なほど表れすぎていて。

 だからこそ真面目に考えたし、過去を思い返したが、再生される昔の映像に彼女の顔はなかった。

 

「ううん、たぶん、人違いだと思うよ」

「そっか、そう、そうだよね。こんなところにいるわけ……」

 

 こうして被っている別人の顔面が、たまたま別の誰かと重なったのだろう。

 まあいいや、と話の内容が移り変わっていくうちに、彼自身も思考の詰まりを忘れてしまった。

 

「あなた達は、どうしてここに来たの?」

 

「答える前に、こちらからも質問ね」ここで漸くカミーラの挙手、開口。少女に鋭く視線を突き刺す。

 

「逆にあなた達はどうして私達を助けて、それだけにとどまらずこんなにもご丁寧におうちへ招いてくれたのかしら?」

「おい、もう少し言い方を」

「ちょっと黙ってなさい」

 

 それは至極真っ当にして、核心的な質問で。ユキナリも一蹴されつつ、その認識にずれはなかった。

 彼女らからすれば、罠にかかったと言い回しても何ら差し支えないこの暗躍街での状況だ――いかなる事柄も、どんな人物も、懐疑の対象たりえるのだ。

 直接的な恩人にもなるので、ほんの少しばかり内心の良心を痛めるアルマだったが、

 

「そうだよね。ここは、何もかも信じることが出来なくなっちゃった人が来る場所だから……仕方ないよね」

 

 返答は想像以上に早く、あっさりと提示される。

 

「本当は来たくなかった、でしょ?」

 

 小さくもぼろぼろの手が、優しくコーヒーカップを撫でた。こげ茶色の鏡に映り込んだ細面は、揺らいで、歪んだ。

 

「こんなところに来てまで、生きていたくない、って人もいる」

「……君は、望んでここに来たわけじゃないのか」

 

「……望む、望まないじゃないよ。受け入れるかどうかってだけ」それから、言葉が返ってくることはなかった。引き換えとして彼女の祖父が、孫の下がりっぱなしの肩に慰めの手を置いて、口を開く。

 

「ワシらはの、ネイヴュシティに住んでおった」

 

 ぴくり。そのワードを聞くやいなや、眉を持ち上げる一行。さりとてその反応に不自然はない。良しも悪しも何もかもあそこに結び付く彼らならば――否、彼らだからこそ。

 老人が皆まで言う必要はなかった。かの惨劇の贄が、このようなところにまで追いやられていると知るには十分すぎる発話だったから。

 だが疑問もある。素直にぶつけるはカミーラ。

 

「それについては、政府がラジエス・ぺガス・リザイナの三都市に被災者受け入れを要請したことで一旦の収まりはついたはずだけれど?」

「受け容れ『だけ』ならば、してもらえたのう。じゃが、人には生活というものがある。家がなくとも、肉親が消えても、財が失われようとも……変わらん。ワシらとて同じじゃった」

 

『これからの金と働き口がなかった』と、そう言った。

 

「し、しかし。政府からの給付や、支援は」

「居場所を追われたのはワシらだけではなかろうよ。二〇〇万にもなる人間の暮らしを、どうして一度に立て直すことが出来ようか」

 

『救いの手の数には限界があった』と、そう呟いた。

 

「果てにこの子は転入先の学校で、装いや食事が貧相だといじめを受ける始末。クラスで起こった盗難騒ぎで真っ先に犯人として疑われ、証拠もないまま『卑しい乞食』と罵られ続けた」

 

『生きているというだけで、石を投げられたことはあるか』と、そう嘆いた。

 

「世界っちゅうもんは、思うよりもずっと優しくなかった」

「そんなことは……」

「氷獄の街と云われ、外界どころかお天道様すら自由に拝めん狭っ苦しい世界でもな……ワシらには、生きる場所じゃった。それでも帰る場所じゃった」

 

 綴られるべくして綴られた悲劇の後日譚へは、返してやれなかった。誰も、何も。

 故郷ばかりか――なんでもない明日で、すら。

 ユキナリはそれ以上を言うことなく、静かに視線を外した。遠くへ逃げるように、痛みから離れるように、消えた道程を後退るように。そんな風に見えた。

 

「のう。――“表”は、今でも明るいか?」

 

 少なくとも、震える拳を唯一ずっと眺めていた、アルマからは。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「あの家族の情報は、信用していいものなのでしょうか」

 

『私たちは、光の下にいた人たちに、光を失った場所での生き方を教えたいだけ。闇に飲まれちゃわないように――』

 

「あんな演技ができる小娘とジジイがいるとすれば、願い下げたいわよ」

 

 とは言いつつ、嘘であっても進むしかない――というのが、カミーラの本音。

 数十分という僅かばかりの問答の中で、先住民から手に入れた情報を整理する。勿論、どこでどのような者が聞き耳を立てているかわかったものではないので、脳内だけの処理になるが。

 

『――いつから暗躍街は存在していたか?』

 

 あの家族が雪解けの日を境に来たとすれば、ここ一年以内に定住したという事になるが――それよりもずっと前からある『らしい』というのが、彼女らの答えであった。

 具体的な数字はわからないが、天井に街の光源として存在している巨石、通称『虹の石』が数十年前にラジエス博物館より謎の失踪を遂げた展示物と全く同じ物とするならば、少なくともその時期から此処はあったことになる。

 従って、ラフエル最古の犯罪組織である可能性も浮上した。

 

『――組織として、どういった活動をしているのか?』

 

 表側、すなわち地上の世界から幸福を奪い取る活動を繰り返す。具体例として強盗、違法物品の頒布、ポケモン密猟、殺人代行など。

“我らを放逐した世界に報復を、富と幸を我らが手に”という理念の下で、まるで光を飲み込む影のように、ラフエル地方を水面下で蝕んでいく。

 

『――誰がここを支配、管理しているのか?』

 

 すぐさま“ゴトー”なる人物の名が挙がった。

 組織の頭であり、この常夜の街の王。街のあらゆる事柄への決定権を持ち、法を定め、治安を守り、実行部隊の隊長および指揮も務める、暗躍街の中枢と言っても何ら差支えはない存在であるという。

 表より強奪した光で街を豊かにし、結果的に人々の生活を支えているため、一部の者は狂信的な態度で彼を慕っているのだとか。

 ちなみに警官の端くれでありつつも、三人はいずれもその名を知らなかった。これだけの城を築く力がある大物の知名度が低いというのは通常考えられないため、恐らく表の世界での犯歴は存在していないのだろうと仮定した。

 隠し事が達者なだけか、或いは。

 

「……まー、いいわ。それよりも、これからどうしようかしらね」

 

 そこで思考を中断させるものの、足だけは止めない。以降の話について切り出すのは、カミーラ。

「どうしよう、というのは」意図を汲み取れないアルマの疑問に、すぐさま言葉が続いた。

 

「お相手さん、想定以上に大掛かりじゃない? 最初はほんの数人のチンピラみたいなテロ組織だと、思っていたのだけれど……なんだか今無理にお邪魔してもしようがない気がしてきたのよねえ」

「……情報だけ、持ち帰ると?」

「そ。なーんか風向きも悪いしね、いい予感しないわ」

「支部長、地下なので風は吹いていません」

 

 大真面目に揚げ足取りしつつも、アルマは上司の言い分に一理を感じていた。

 いくらネイヴュ最高戦力といっても、相手の本拠地となっては多勢に無勢が目に見えている。まして謎の人物のリークがそのまま事実とするならば、バラル団との衝突もまず避けられないだろう。

 とどのつまり、事を始める前から旗の色が悪いのだ。

 そもそも取引があるというだけで、規模もわからなければ場所の状況すらわかったものではない。諜報に徹して時間が許す限りの情報を集めるか、現場に強襲を仕掛け組織に損害を与えるか。どちらが賢明なのかは、日を見るよりも明らかであった。

 

「待て」

 

 満場一致、というわけではなかった。言葉通りに判断へ待ったをかけるユキナリの姿は、アルマにしても、カミーラにしても、意外なもので。

 歩みを止める。すん、と鼻から薄く息を抜くだけに留め、ユキナリへと振り向いた。カミーラの黙した口は、何よりも聞き耳の存在を誇示する。

 

「……聞くところ、ゴトーが主となって暗躍街を動かしていると見ていい」

 

 と、するならば。

 

「取り引きの現場にも現れるはずなので、そこを叩ける――なんて、馬鹿を並べるんじゃないでしょうね?」

「叩けるうちに、叩く方がいい。頭目だけで成り立つ典型的な組織ならば、尚更だ。壊滅だって狙えるかもしれない」

 

 短気はそんな男よりも先に回った。カミーラにとっては、よもや、程度の認識で吐いた当てずっぽうな結論だったが、悲しきことに一切否定はされなかった。

 最も驚いたのはアルマ。平素の冷静さからはまったく考えられない、強引な主張。理屈もなければ考慮も感じられないではないか。

「……あんたね」呆れ返るカミーラが吐くため息が、さらにユキナリの言を呼び込んだ。

 

「本部ではここをどうにかするのは無理だ。認知の有無は僕らの知るところじゃない……が、この現状が物語ってる」

「へえ、珍しい、アンタも傲りを抱くことがあるのねぇ。初めて知ったわ」

「傲慢じゃない。成し遂げられる者にしか成し遂げられないことがあると、当然のことを言ってる」

「それを傲慢と言ってるの」

「僕らならできる」

「誰が決めたの?」

「そうあるべくして力を得た僕らなら」

「思い上がりは人を弱くする」

「僕が弱いと言うのか」

「そう言ってるうちはね」

 

「真面目に聞いてくれ!」

 次の瞬間、尖る声が立ち尽くす少女の耳を劈いた。

 

「……次、ここに来るのはいつになるのかわからないんだ。今、ここにいる僕らがやるべきだ。僕らでないと。僕らがやらないと――」

 

 特務。短い呼びかけが取り乱す戦士を宥める。

 上下する肩は、僅かでもわかる。険の取り憑いた表情だって満足に隠せていない。

 一言で表すのならば、焦り――「柄にもない」とか「らしくない」なんて反応、ユキナリは欲していないように思えた。それほどまでに、その情動に支配されているように見えた。

 しかして訊ねる他にあるまい。

 

「どうしたんですか」

 

 と。

 ――でも、そんな必要はなかったと、考える。

 よくよく考えれば。自分にだって同じことがあった。

 ちゃんと思えれば。誰にだってあり得る事だった。

 背負ったものを縛り付けて、括りつけて。その身にどれだけ紐をきつく食い込ませようが、痛みを忘れて宿願へと進み続ける。

 

 

『“シャドーボール”』

 

 

 呪いとも言い換えられる、運命へと。

 突如飛来する紫色の炎弾が、三人を離散させた。

 

「なに……!?」

 

 着弾点、目下でゆらゆらと踊る紫炎を一瞥した後に天を仰ぐと、そこには“気球ポケモン”のフワライドが浮いていた。黒いスーツに身を包む男は、おまけのようにそのフワライドに掴まったまま、三人が飛びのく前にいた地点を指さしていた。恐らくこの男がトレーナーだろう。

 三者の認識は瞬時に合致する。あの世へと命を連れ去る際に降りてくる、いわば“死神”の異名をラフエルにて持つポケモンは、不穏を確信させるには十分すぎた。

 

「今のは、明確に私たちを狙っていた」

「指示から行動に移るまでが速い……、よく育成されてる」

「只者、って感じでもないし……どうやら、餌をばら撒いた奴で間違いなさそうね」

 

「いや――正確には、奴『ら』かしら」

 二人がカミーラと同じ方へ目を向けると、およそ一般人では出せない速度で同じ格好をした二名が真っ直ぐ走ってくる。目的なぞ、この殺気を前に推し測るのは愚行。

 

「くっ、やっぱり罠だった……」

「何者なんだ……!?」

「さあねえ。私たちに入り用の暗躍街の一人芝居か、はたまたバラル団の難癖か、それとも全く別の何かか」

 

 まあ、どうでもいいでしょう。

 

「!!?」

 

 カミーラの言葉を皮切りに、白煙が電撃的な速度で辺り一面に広がった。

 

「今後は当初の打ち合わせ通り、引き続き諜報活動に徹するものとする」

 

 足元に転げるスモーク弾の仕業であった。

 

「不用意な戦闘は避け、敵勢からの発見を防ぐという意図の元の判断である」

 

 忽ちもくり、もくりと三者を匿って、その所在を不明瞭なものへと変えていく。

 

「各員散開後、最小限の武力で状況を切り抜け、ヒトヨンマルマルにて目的ポイントで落ち合われたし」

 

 何も見えない中で、長の声だけが響き渡る。

 

「又、時間経過後も合流が行われなかった場合、即座に本エリアより離脱するべし」

 

 それはどれだけ展望が悪くとも、目的だけは明確に指し示す。

 

「せっかくのドラマティックな掛け合いを邪魔されて、どなた様も銘々に思うところはあるでしょうが……一回しか言わないから、よく聞きなさい」

 

 己が正義に狂った犬共の、道標を引く。

 

「世界の中心というものはいつだって私たちであるからして――必ず心臓が動いた状態で戻るわよ」

 

 作戦開始。カミーラの短い発話を合図に、彼女らは煙から飛び出し、一斉に散り散りになって駆け出した。



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02.悪の饗宴

 十数分ほど、足を刻んだ頃だろうか。路地に入っても、虹の石の光はよく届く。ぽつんと照らされた一輪の花が、喜ぶように揺れている。

 追いかけてくる気配がぴたりと止んだのを確認し、ユキナリは振り返る。そうしてひとまず自分が謎の集団のターゲットから外されたことを確信した。

 職業が職業故、日常的に鍛練をしているので、滅多なことでは息が上がらない。

 

(一体何者なんだ、奴らは)

 

 だから全力で走った後も、思考を円滑に巡らせられる。無意識が足元で丸くなった紙くずをくしゃりと蹴ったところで、より深淵へと及ぶ考え。

 ――顔は、進行形で隠している。ただの通り魔というのも思いづらい。まず暗躍街の住人にしては小奇麗すぎる格好をしていたし、何より一連の動きが素人のそれではなかった。

 以上の事から筋道を立てれば、必然的に自分たちの正体を知っていたと断定するのが自然だろう。さらに言えば、『三人が顔を隠してここに訪れることを知っていた者』としたなら、一気に限られてくる。

 ユキナリの内心で、嫌な可能性が過った。それは口にするどころか、脳内で言葉として形成することさえ憚られることで。

 

「……くそっ」

 

 要らないことに思考力を割いてしまった自分への苛立ちを、小さく吐き出す。そして暗示のように独白する。今はやめようと。合流地点――取り引き場付近に向かおうと。

 垂れた頭を上げ、今一度歩みを進める。そんな彼の意識を引っ張るように、目の前でバラル団が横切った。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 バァン。バァン。

 鼓膜を引きちぎるような炸裂音が、街中に響き渡る。揺れる空虚に、人々はなんだなんだと騒ぎ立てる。ごみを漁ってその日暮らしの飯を探すチョロネコは、たまらず震えて隠れ忍んだ。

 何度潰されたかもわからない空き缶が、またも重ねて踏みつけられて。そうやって越えていく四つの人影を、物憂げに見送った。

 ――カミーラの逃走劇は、虹の石の乱反射の下で。

 

「モテモテね。私もまだまだ捨てたもんじゃないかしら」

 

 銃を所持した二人に、フワライドに伴って爆撃の指示を送る一人。発見できた時点での全ての敵が、カミーラ一人に狙いを集めた。

 本当のところは、このような冗談を吐いている場合ではない――いや、冗談の一つも吐きたくなるほどにひっ迫している、とも云えるか。

 目まぐるしく移り変わる景色でも、人波が真っ二つになっていく光景だけは、未だ変化がない。

 後方からまた一発、弾丸が吐き出された。踵のすぐ後ろでバチュン、と音が跳ねたが、構っている場合でもあるまい。何より体の一〇センチ以内を掠められるのは、もう慣れた。

 ここかしらね。呟きの直後、カミーラがまた消えた。猛追に向け三度目の煙のバリケードが張られたのだ。

 

「三度目のスモーク。クロウ2、振り払え」

 

 走りながら落としたスモーク弾は存分に与えられた役目を果たすが、そうやって伸びる目くらましの手を紫の光弾がぶち壊す。フワライドは決して逃がさない。

 ドン、と轟きが走ると、忽ち白煙は地面共々ブロック状に砕け散り、道を拓き直した。

 立ち込める悲鳴が絶望をかき立てるが、カミーラとて無策ではなくて。

 

「目標、タクシーに乗り込んだ! 逃がすな!」

 

 視えた瞬間が図らずもよーい、どんと重なった。暗躍街の交通手段の一つである、ケンタロス二頭が牽引する牛車が、強烈なスタートダッシュを切った。

 

「お、お客さん……! なんか訳ありだけどもね!? ウチは物騒なのはお断りで」

「金は出すから黙って走りなさい! さっさと、早急に!」

「で、でも、ここらへんは入り組んでてスピードが」

「障害物なんざぶっ飛ばしなさい! 止まったら頭に風穴開くわよ!」

「ひぃぃいいいっ!」

 

 運転手が己が命の危機を知るのは、後方の爆音だけあれば充分であった。黙して速やかに鞭打の手を早める。応じて速度を上げるケンタロス達。

「呆れちゃうわね。とんだストーカーだこと」しかし、束の間の休息すら与えられないのは、言わずもがな。ぐらつく窓越しに後ろを覗いたカミーラの眼に映るのは、学名で“火の馬”と呼称されるポケモン『ギャロップ』。

 二頭がそれぞれの主を背に預かり、たかっ、たかっ、と大股で此方に迫ってくる。さらにその後ろにはフワライドが制空権を誇示しながら進攻してくるというのだから、たちが悪い。

 

「来るわよ!」

 

 銃撃、三度。鉛玉が車部分の骨組みに歪みを与え、乾いた笑声を上げた。

 

「わ、ワアアアアアアアッ!!!!」

「振り向くな! 走れ!」

 

 お構いなしに、次は車輪への一撃をお見舞いする。まだ遠いのもあってか、どうにか本来の機能を失わずに済んだ。

 運転手は恐怖にたまらず、減速も忘れて雑な軌道を描きカーブ。角にあった家の壁を盛大にぶち壊したまま激走する背中へ拍手を送り、「やればできるじゃない」とは、カミーラの賞賛だ。尤も嬉しいものではないが。

 双方が双方を視認できなくなったのは、ほんの僅かな時間の話。

「お客さん! と、跳んでます、跳んでますよ!」運転手が絶叫した。ギャロップが宙高く跳躍し、追跡ルートのショートカットを図ったのだ。

 この高跳び、手品に非ず。“とびはねる”という、れっきとしたポケモンの技である。追跡者は建造物の背丈を嘲笑うように次々と飛び越え左右に展開、先に回って逃走経路の封鎖を行う。

 

(市街戦も折り込み済み、か)

 

 建物が立ち並ぶ、複雑に入り組んだ地形での戦闘を考慮した上での、ギャロップ。カミーラはなるほどね、と腑に落とす。そして『かもしれない』という疑念を、確信に変える。

 こちらの正体を知った上で、明確にこちらを殺す気だ、と。

 

「お、お、お客さんんんんんんんんんんん!!」

 

 気を締め直した刹那、運転手の悲鳴が前方の存在を気付かせる。それはどういった現れ方をしただろうか。横から飛び出す? 空から降り立つ?

 どれも否。

 

「あ」

「“つのドリル”だ」

 

 このサイドンというポケモンは、突如としてストレート上の地面を突き破り、立ちはだかった。続けざまに怪獣じみた巨体は鼻の上に携えたドリル状の大角で、二人と二頭をいともたやすく打ち上げて。

 どがしゃん、尋常ではない衝撃が襲った。反応が遅かった。すぐ後に、客車は原型がないほど粉々にひしゃげ、砕け散る。

 

「――――チルタリス!」

 

 が、まだだ。まだ終わらない。空で散り広がる木材片の中で、戦士はいよいよ従者の封印を解いた。

 さかさまの世界に放り投げたモンスターボールより顕現するは、優雅を体現する、純白の翼のドラゴンポケモン『チルタリス』だった。

 天使の歌声のような囀りと共に、落ちるカミーラと運転手を背に掬って飛翔、バックで待機していたフワライドのシャドーボールも悠々と回避し、ゆったりと斜線を描いて離れに降下する。

「チッ」すぐさまギャロップが大ジャンプ。この集合住宅を越えた先に出る大通りが標的の逃げ込んだ先だが、生憎と人通りが多くって、何も見えなくて。

 しかし男の一人は躊躇なく、着地がてら周囲の適当な人間を一名、撃ち殺した。すると一瞬にして、どよめきの海に阿鼻叫喚の嵐が吹き荒ぶ。暗躍街(ここ)の住人にとってそれは珍しいシチュエーションではないにしろ、慣れていて平気でいられるか、と訊かれればそんなものは全く別の話。白昼堂々に降り立った無差別殺人鬼への恐怖を、蔑ろに出来るはずもない。

 

「そう遠くへは逃げられまい。じきにお前を隠す人だかりも消え、視界も晴れよう。無駄な真似はやめて出てきたらどうだ?」

 

 最低最悪な人払いを行った張本人が、逃げ惑う者らの歪んだ声の中心で、ターゲットを呼んだ。

 

『誰が』

 

 それに短く応じるカミーラ。でも、どこまでも姿は見せない――たとえ芸がないなんて言われようとも、だ。

 またもや煙の誤魔化しを始めた。同じ手の一点張りでいよいよ男もばかばかしくなってきたようで、フン、と鼻から笑いを漏らしてしまう始末。

 

「クロウ2――」

 

 振り払え。コードネームに簡単な指示を送ろうした時、事は動いた。

 一歩踏み込む足音と共に、後方左斜め四五度ジャストから、人影が迫って来たのだ。

 いくら強がっても連中は煙が邪魔で、そして手早く除去したくて、その事実は何一つ変わらなくて。だからこそ命令中に敢えて突撃し、不意を打つ一手――。

 

「とでも言うと思ったか?」

 

 を、打ち砕く一手。オートマチックが空薬莢をひり出した。それ以上の説明は要るまい。

 戦闘のプロは、あくまでも彼らとて変わらない。相手の狙いも考慮するのは既に常識としてあった。銃口が綺麗に死角へと向くと、出る弾はどひゅう、と鈍く呻いて急所へ捩じ入った。

 無残に噴く赤黒の体液が、一つの生命の終わりを告げる。

 

「プロなんだから、死に様はしっかり確認しなさいよ」

「!?」

 

 聞こえるはずのない声に、火急な動作で向き直った男。

 視界を潰した上での完全なる死角からの攻撃は読み切ったし、射撃も正確に額へと行った。何一つ不備などなかった。ああ、チェックメイトだった。

 

「私の“その顔”に惚れて、追いかけてきたんでしょう?」

「馬鹿な――!」

 

 尤もそれは、『相手が本当にカミーラであったなら』の話で。

 もし、仮に。足元を転げる亡骸が、本人がほんの数秒前まで繕っていた偽りの顔を被せただけの別人であったとしたら。

 もし、仮に。ずっとこの瞬間を狙っていたのだとしたら。

「なんッ」振り返る水晶体に、薄青の髪が反射した。そこから覗く凍てつく眼光が、色鮮やかに映り込んだ。素気なくトリガーを引く指が、悪魔のような微笑に包まれた素顔が思い出させる。

 彼女も人殺しであった、と。

 

「――あげるわよ、それ」

 

 炸裂と、排莢。直後、男の意識は脳髄もろとも飛び散った。そして溢れ出る不可逆な生命のジュースの如く、それが戻ることはなかった。

 依然続く目くらましの中で起きた銃声は、外で様子を窺う同胞を駆り立てるには十分であった。もう一頭のギャロップが突っ込むが、

 

「へぁ、――ア゛あ゛ぁァァァァあ゛あ゛あァァァァァァァァァァッ!!」

 

 主の声帯が焼き切れそうなほどの絶叫を残し、すぐに音沙汰がなくなった。

 

「ストライダー1、どうした!? 応答しろ! ストライダー1!」

 

 それはあまりに一瞬の出来事だ。上下二分割した人体の上半分が、どろどろにとろけた臓物を垂れ流したまま靄の外側へと放り捨てられる。偶然仰向いた顔面が、仲間であることを教えてくれた。

 なんだ、何が起こっている。次々と転がる展開で脳にバグが生じ、頭の中が疑問だけで埋め尽くされた。

 

「ぐ、おお!?」

 

 しかし、そんな悠長を誰が認めるだろうか。

 

「あーと、ひーと、り」

 

 答えは、誰一人。

 短兵急に押し掛ける瓦礫の塊がその身を掠めた時、充満する不定形のパーテーションが漸く晴れた。

 開いた視界で望めた影は、カミーラと、傍らにもう一つ。

 

「この状況で、“ツンベアー”だと!?」

 

 厳密には、もう一枚の手札なのだが。

 ヒトを真っ二つに分断してしまう剛力も、大型ポケモン二頭を忽ちに眠らせてしまう強さも、この白銀の巨躯の仕業とすれば、全て合点がいく。狂戦士よろしく返り血に染まりし獣――ツンベアーが唸る。

 銀世界の覇者は、雪がなくとも強い。殺意にぎらつく瞳が、上空の死神を捉えた。地面に打ち付ける拳。つられて盛り上がる道は、舗装が甘いばかりにたやすく歪んで、土くれの山を形作った。おかしなことはしていない。今しがた行った動作を、もう一度繰り返すだけのこと。

 白熊がそれを引っ掴んで握ると、掌の中でめきりと砕けて複数の玉へと姿を変える。

 

「……まずい」

 

 震える喉を通る冷気がより濃くなって、食い結んだ歯の隙間から漏れ出る。

 

「まずい――!」

 

 とかく命というのは、本当に脆いものだ。少しの暴力で、こうも簡単に失われるのだから。

 カミーラの「ストーンエッジ」という短い指示が、そのまま最後の一人へ向けた死亡宣告になった。伝達からほどなくして上げた雄叫びで縛り付けたフワライド目掛け、ツンベアーは振りかぶった腕を一気に回し下ろす。前に踏み込んだ足が強烈な膂力で大地を抉ると、投擲された土塊は砲弾へと変容した。

「た、たいちょ」飛んでいくとんでもない速度は空気の層を突き破り、逃げる相手をひっ捕らえ、やがてそれらを屠って。あっという間に完成した蜂の巣は、深紅の蜜を垂らしながらどこぞへと落ちていった。

 

「はあい。お片付け、終了」

 

 カミーラが口元に付いた血液を舐め取ると同時、鮮やかにして悲惨な殲滅行動は幕を閉じる。

 気が付けば人っ子一人いなくなっていた。誰にも見られていないという状況が寧ろ目立ってしまう、そんな状況。

 しかし他人の目どころか存在すら歯牙にもかけない彼女には、関係がなかった。おもむろにツンベアーをモンスターボールに戻し、引き千切られた“男だったもの”へ歩み寄る。意図は一貫して身元特定。

 

「一体、どこの誰がか弱いレディにこんな真似をするのかしら?」

 

 死体に話しかけてるのか、自分の手持ちへ語り掛けているのか定かではない。されど知りたいことは言葉通り、しっかりと決まっている。そんな風に明確な疑問を持ったところで、この状況下となれば誰が襲撃してきても不思議ではないのだが。

 ポケットを漁り、身ぐるみを剥ぎ、転がして様々な場所を舐めまわすように見ても、ヒントらしいものはなし。何にとは言わないが、物理的な意味で深く突っ込んで探ってみようかとも考えたりはしたが、残念ながら時間が足りていない。

 優先順位は決まってる。適度なところで切り上げ、合流地点へ向かおう。

 そう思っていた。自分を称える誰かの拍手が、聞こえてくるまでは。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 ――刻限が迫る。

 ユキナリは不意に目に飛び込んだバラル団を尾行していた。いるはずのない場所にいたものだから、足取りを気にしたのだ。

 するとどうだろう、エリアは北、二番地、三番地、四番地とどんどん深くへと入り込んでいく。そしてやがて辿り着いたのは。

 

(北区五番地の飲み屋……、まさか、本当に)

 

 この瞬間、疑惑の怪文書は偉大なる予言へと様変わりを果たした。

 特に変哲もない、看板が飾られているだけのごくごく普通の一階建てに、灰の色に身を包んだ者達がどんどん集結していく。白昼堂々Bのエンブレムを掲げ罷り通る姿に些かの違和感を覚えるが、そんなことは数秒先にはどうでもよくなっていて。

 

「グライド様、こちらです」

 

 その名を、確かにユキナリは聞き逃さなかった。下っ端団員に先導され、出入り口を潜るくすんだ金髪。一般の団員にはなく、班長クラスのそれよりも長いグレーのローブ。それは幹部の証明で。

「グライド」というのは、幹部格最上位であり、実質組織ナンバー2に座す男の名であった。

 ユキナリという刑事は、勘というものをあまり信用する質ではないが。あまりに異質で、それでいてただ事ではないこの状況ばかりは、本能が背中を押した。

 考えるより先に、体が動く。

 

『思い上がりは人を弱くする』

 

 一瞬だけ。合流するまで待つ――交わした約束が足にブレーキをかける。だが、それは彼自身が望むところではなかった。

 隠れていた壁に、添えた手。もし、彼女らが時間まで来なかったら。もし、今ここで連中を逃したら。

 

『のう。――“表”は、今でも明るいか?』

 

 もし、彼らを救える機会が、今しかないとしたら。

 

『アンタさえ、アンタさえヤツに負けなければ! 父さんも母さんも死ぬことはなかったッ!』

 

 ――もし、それを逃すことで。“あの日”のように、届かぬ手の無力さを味わってしまうのだとしたら。

 それはきっと、消えぬ十字架を抱え続ける男にとって、この身を引き裂かれること以上に耐え難いことなのだろう、と。

 

「……傲慢であったとしても、僕は、この身を賭して成し遂げなければならない」

 

 そんな風に、思う。

 ユキナリは、通りすがるバラル団の一人を、背中から路地裏に引きずり込んだ。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「ちょっとぉ、急いでるんだけれど?」

 

 また同じスーツか。カミーラはそっくりの格好の連中に先程殺されかけたものだから、悪いイメージのままに吐き捨てる。辟易、という表現が適当だろう。

 先を行く気こそあれ、素性を確認するよりも前に手にしたのは、モンスターボール。傍目から見れば不自然であったに違いない。逃げる姿勢すらちらつかせないから。

 

「戦うのか。ああ、それはいいね」

 

 片や戦闘態勢に対して、微笑のままにカミーラのスタンスを肯定する、すらりとした若い黒髪の男。余裕の演出か、はたまた実際に余裕があるのか。

 

「よく言うわよ、逃がす気なんてないくせに。散々女をとっ捕まえて食い散らかしてきましたーって顔してるわよ、色男」

「心外だね。こう見えて一途なんだ。君に夢中とでも、言っておこうかな」

「あら、ごめんなさいねぇ。ミステリアスな男は嫌いじゃないんだけれど、私の前に立つものは例外なくブッ壊すことにしてるの」

「危険にして、強硬な思想。それもまたいいね」

「ンフ、気に入った?」

 

 端から戦う選択こそが最善であると判断した彼女の不敵な笑みを見れば、自ずと答えは出てくる。

『違う』のだ、他とは。深紅のネクタイに刻まれた黒い十字模様は、今しがた処理した奴等にはなかった。眼にしたってそう。生きているはずなのに明確な魂の向きを示していない。輪郭から滲む空気はこれまでにないほど面妖で、異様。およそ人が発するものではないとすら、思える。

 いるのに、いない。生きてるように死んでいる。

 それはまるで――。

 

「じゃあ――――惚れた女に氷漬けにされる最期ってのは、どうかしら」

 

 亡霊のようで。

 ビュオ。冷え切った風が巻き上がる。楽し気に空を舞う水の小粒は、ビキビキと悲痛な叫びを上げながら絶命した。その時凍気は訪れて、暫しの冬期を連れてきて。

 氷獄の女帝による召喚に応じた蒼白の九尾狐(キュウコン)は、彼女の静謐な殺意を透き通る疾呼に乗せ、閉ざされた空へと放った。

 

「時間がないの。本気でいくわよ」

「ああ。話が早くて、本当にいい」

 

 ジャケットが揺れ、髪が靡いて見えた破顔。討つべきは“黒色十字”および『マルマイン』という雷の爆弾。対話の機会が出来たところで“こちら側”とさえわかれば、多くは必要ない。

 彼女は知っている。彼も同じく、命のやり取りでしか誰かと繋がることが出来ない人種である、と。

 

「私の名は“クルス”。咎人カミーラ、君を終わらせる者だ」

 

 クルスと名乗る男は、雷電が迸る先でそれ優しく肯定した。

 闇色の世界に、白雪が降る――。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「なんだ」「騒がしいと思えば」「どうなってるんだ」

 その現象は、暮らして長い地底都市の住人にすれば、よほど久しいことだったのだろう。はらはらと灰雲からこぼれ落ちてくる雪に対し、人々が多少大袈裟な反応を口々にする。

 無邪気に喜んだり、家がないために悲しんだり、単に邪魔に思って怒ってみたり。

 アルマはどうだろうか。彼女は。

 

「支部長が、戦闘に入った。捕まった……?」

 

 町中に伸びる冷気の手を背に感じ、空を仰いで、確証を得た。

 カミーラが逃げきれなかった事実を雪空越しに知り、内心で愕然とする。それも、主力中の主力であるキュウコンを出す――よほどの相手だということにも、驚きを隠せなくて。

「それほどまでの戦力だというの?」そんなモノローグを紡ぎかけたところで、アルマはハッと目を丸くした。

 

「いや、違う……! 最初から支部長だけが狙いだったんだ……!」

 

 追手があっさりと自分を諦めたのも。国家レベルのトレーナーに本気を出させるほどの戦力を用意したのも。全部カミーラというピースを当て嵌めれば、無理なく理解が及ぶ。

 初動の散開させるフワライドの一撃も、こちらが目立つことを避けている意図を知らなければ、取れない行動で。

 

「くっ、やられた――!」

 

 何もかもが先方の筋書き通りであった。しかし気付いたところで、もう遅い。指示はとうに通った後であり、自分一人の行動一つで全体に大きな影響が出るタイミングにまで局面は進んでいた。

 手のひらの淡雪を握り潰し、モンスターボールを持ちかけて止まる。やはり加勢にはいけない。

 何よりも――。

 

「……あの人も、きっと」

 

 今、一人にしてはいけない存在が、他にもいる。

「支部長なら、上手く切り抜けてくれる」アルマは己の肉体が唯一である事実を悔やんで歯噛みしつつ、独白して合流ポイントへと歩み直す。

 そして足を早めた。

 

(急がないと……!)

「やあ」

 

 間もなくすれ違う、鉄とも血ともわからない生臭さに、

 

「――!?」

「こんにちは」

 

 一閃されるとも知らないで。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「いらっしゃいませ、こちらへ」

 

 バラル団の衣を装ったユキナリは、取り引き場とされる店の中へ入るやいなや、訳知り顔したバーテンの人間味を感じない無機的且つ事務的なハンドサインで、奥の下り階段へと案内された。

 別段大きな店でもなかった。だからといって寂れているわけでもなく、適度な席が適度にあって、適度な広さで適度に酔える、地上の世界にある酒場と何一つ変わらない風景。

 しいて違うところを上げるならば、客が街の治安相応である点と、店内が汚れていて些か不衛生、という点だろうか。

 地下の地下へと繋がる道のりはただでさえ薄い明かりがより薄くなって、終いには暗さに包まれた。だがそれも束の間、突きあたる扉を開いて部屋に出ると、ウイスキー色の光と再会を果たす。

 そこには一目でわかる高級品のソファとテーブルが置かれていた。また空間にも大いに余裕があって、ビリヤード台があり、ダーツスペースがあり、一つだがカジノテーブルも備えられているという豪華さ。ユキナリは偏屈な芸術家が作っていそうなオブジェや絵画に睨まれながら、知る。此処は特別会員用の部屋、いわゆるVIPルームというものなのだろう、と。

 

「おい、遅いぞ。何やってたんだ」

「すまん、少し道に迷っていて……」

 

 敵地という事もあり、必要以上の情報を遮断する意味合いで皆自分と同じくフードで顔を隠していたのが偶然にも幸いした。一階の小汚さが嘘にすら思える整備された幾何学的模様の床を歩き、仲間の集まりへと入り込む。

 どうやら暗躍街のメンツはまだ到着していないようで、卓越しに向き合う二つのソファの一方にだけ、グライドが座っていた。その後ろを立って固める下っ端が、四人。自分が意識と衣服を奪い取った下っ端も含めた場合、現状でもバラルは最低六人いるという計算になる。

 

(しかし、何より気がかりなのはこの選任だ……何故これほどまでの男がここに出張ってくる? それほどまでの取り引きとでもいうのか?)

 

 背後から一切ぶれない姿勢を凝視し、独白を巡らせる。外部組織との接触には、同じ幹部のクロックという人員がいたはずであるから、この状況は余計にユキナリの疑念を加速させる。

 何故こいつなのか。何故奴ではないのか。何故高いリスクを背負うのか。あれやこれやと考えるうちに、

 

「来たぞ」

 

 答え合わせする者は、現れた。

 

「よォよォ、皆様ちゃーんとお揃いで」

 

 ――それは、祭り上げられたものなのだろうか、勝ち取ったものなのだろうか。

 

「制服もお行儀よく着込んでらして……あーあぁ、相変わらずだなァ」

 

 今や、それを知る者は殆どいないのだろう。

 

「そうだ、雪解けの日のニュース、見たぜェ? お元気そうで何よりだ」

 

 しかし、一つだけ明確にわかっている事がある。

 

「遠路はるばるご足労頂き、感謝するよ」

 

 この男もまた、強大な闇を支配する力を持っているという事だ。

 

 

「――ようこそ、暗躍街(オレさまのしろ)へ」

 

 

 名乗らずとも、わかる。月さえその巣に絡め取り貪ってしまう、夜蜘蛛のような佇まいをした――このゴトーとは、そのような男であった。

 悪の饗宴が今、始まる。



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03.「交じり合え」と運命は言う

「しっかしよォ、久々にお誘いがあったんで、どんなヤツが来るかと思えば……」

「…………」

「よりにもよって一番おもしろくねぇのたァな」

 

「姉ちゃんの一人でも持ってこれんもんかね」一見、ぼろぼろのレザージャケットに広い肩幅が映える大男――だが、それ以上に何か、彼を常夜の街の王であると確信させる圧倒的な何かが、そこにはあった。

 そして程なくして、正体に気付く。ここに来た時からずっと覚えていた、全身にのしかかる威圧感(プレッシャー)であった。

 蛇の狡猾さ、蜘蛛の残忍さ、鰐の凶暴さ、それら全てをないまぜにした、まるで悪意のキメラのような禍々しい気は、この男のものとようやっと知る。

 バラルの数に対してたった一人で現れ、物怖じすることなくどかっと大股開いて着席する姿は、一組織の長としてはあるまじき光景だ。しかし何よりも自身の自信の有り様を如実に示していて。

 やはり一目でわかる。こいつは“やばい奴”だ、と。ユキナリは呼吸を最小限にして気配を殺し、己の腰を手元にした。もしその時(・・・)があるとすれば、それは一瞬しかないと確信したから。

 

「んーで、お前んとこのボスの申し出はどんなのだったっけ? 確か……」

「『薬品R』生産中止の要求だ」

「おーおぉ! そうだったな。なかなかいいイカした発明だろォ、ありゃ」

「お前が手前味噌を並べるのは勝手だ。ただ、あの御方の理念に反するが故、我々はそれ(・・)を無くせと言っている」

「かーっ、態度がデケェなオイ。立場わかってんのかねェ」

 

 本題に入る――早々に耳に飛び込む固有名詞は、彼とて記憶に新しかった。最近ラフエルを騒がせた『テルスの主暴走事件』と『テルス山ポケモン凶暴化事件』の両件と、密接な関係下にあるワードだったためだ。

 尤も聞いたところで明るいものではなく、ポケモンの脳を限界まで稼働させその力をフルに引き出し、おまけに意識を支配する悪魔の発明である、と聞いている。

 ひどく納得した。そうなったらば、ポケモンへの悪影響を良しとしないバラル団が動くのも必然だろう。実際、テルス山の一件の当事者であるカエンも、バラル団と共同戦線を引いて事を解決したと話していた。

 

(本当に、彼の言った通りだったか)

 

 延いては暗躍街製という犯人の証言は、都市伝説を利用した単なる誤魔化しのための出まかせなどではなく、正真正銘の事実で。

 

「やるのか、やらんのかだけを答えろ。貴様の話は冗長で、徒に時間を使う」

 

 闇の住人は同じ闇の気にあてられることがないのか、グライドは面と向かいぴしゃりと言い放つ。

「ったく、余裕ってモンがねえよなァ、お坊ちゃんは」辛辣な人当たりに肩を落とし、横長の背もたれへ溜息交じりに両腕をかけるゴトー。

 

「何が出来る?」

 

 続けて足を組み、そう続けた。会話が繋がっていないと感じたのだろう、不可解そうに眉を顰める下っ端を一瞥し、付け足す注釈。

 

「俺らがやってるのァ交渉、いわばビジネスなわけだよな? だったらしてほしいことだけじゃなく、テメーらが出来ることも出さなきゃならねえよなァ? ……ってところでもっかい聞くぜ。お前らは何が出来て、何を出せる?」

「……例えば。ミスをして囚われた貴様の部下を、ここに連れ戻すでもしてやればいいか?」

「あァ、ありゃもう要らねェ。次はねえぞと念押ししといたからな、ここまでと思うだろ」

「掴めんな。要求には要求をぶつけるのが手っ取り早いように考えるが」

 

 ここで、少しの沈黙が挟まる。ゴトーはそれを一呼吸置くのに活用したところで、

 

「ウチはなァ、今んとこポケモンが不足しててよォ」

 

 改めて口火を切った。

 

「こちらが保有しているポケモンをよこせ、と?」

「イグザクトリー! ウチの奴らがあんまりに雑に使い倒すもんでな、おまけに薬品R(コイツ)の実験で在庫をだいぶダメにしちまってる。その分野生で元を取ってもらおうなんて考えだったんだが……そんな偉大で崇高な科学の結晶を凍結しろって言われんならァ、そりゃ相応のモンを払ってもらわねえと」

「断る」

 

 再びの無音は、意識的に齎される。これだけご機嫌な弁舌だ、返す言葉がなかったわけではない。即答に驚いたわけでも、当然ない。

 

「もし今、貴様が我々に向かって『ポケモンをドブ川に放り捨てろ』と抜かしているのならば、それは出来ない、と言ったのだが――聞こえなかったか?」

「ック……カッカッ……ハハハ! ハハハハハハ!」

 

 ただ、結論を導き出す時間に使っただけだ。

 極まった愚者の、品性を忘れた笑い声が室内に木霊する。バラルの下っ端らが、一様に表情で不快感を顕わにする中、グライドはまるで機械のように顔色どころか視線ひとつ変えなかった。

 

「テメェらさてはアレだな、そのつもり(・・・・・)で来たな?」

 

 そんな彼を眺め、おう、いいぜいいぜと頷いた次の瞬間には、掌に漆黒の小筒が握られていた。ぽっかり開いた穴が向く先は、言うまでもないだろう。

「ゴトー、貴様!」下っ端の語気を強めた威嚇だが、小馬鹿にするように無視を決め、その剛腕はより固まって手先のブレを抑える。

 

「最低限の労力で事を運ぶに越したことはねえから、ダメ元で穏便に働きかけてこそみたが、ホントのところはクソ真面目にお喋りする気なんぞさらさらありません、と。……そういうこったろ。え、お坊ちゃん?」

「何を言っているのか解らんが」

「だからボスを除いて一番つええお前が出てきたんだ。わざわざ危険を冒して、ここまでな」

「交渉は決裂、ということでいいか?」

「おう、構わねえぞ。せっかくの来客だしなァ、パーッと派手にやろうや」

 

 瞳がぎらりと光った、嫌な色だ。

 そう思いながらも、内心で好機を喜ぶユキナリ。すぐ前、手の届く距離にはテロ組織のナンバー2が構え、さらにその少し先には犯罪組織のトップが座っている。下っ端になど目も暮れず、だ。

 これほどまでの好都合が揃ったことに対し、感謝すら覚える。同時に最大にして最後の機会であると、確信したりもする。

 だからこそ、その手を(えもの)に当てた。いつでも動けるように、取り出せるように。

 固唾を飲み下す。頭で流れを組み立てる。グライドがここにいるのは、ゴトーの推測通りバラルが強行手段を目的としているからに違いないだろう。

 で、あるならば。グライドはこの後に控えている一撃を防ぐ手段を用意していると考えていい。そしてその手をゴトーはまだ読めていないので、何かしらのリアクションを見せるはずだ。

 そこで生まれる隙をついて、まずは奴に叩き込む。次に勿論、傍にいるこの男(グライド)

 彼とてカミーラよろしく殺しをよしとする訳ではないが、今は四の五の言っていられる状況ではない。何よりこうも経験を積んでしまえば、奴らの生け捕りなど贅沢な話だと嫌でもわかる。

「なに、ちょっとした祝砲だ。上手く凌げよ?」発話の直後、引き金に太い指が絡みつく。この動作で出る銃声こそ、そのまま自分が抜く合図であろう。

 息を止めた。滲んだ汗ごとグリップを握った。

 

「んじゃま、おっ始めますか。サイコーの祭りを」

 

 もう少し。あと少しだ。ほんの少しで、その時が。

 

「――人様の話を盗み聞きする不届きモンを、前菜にしてからな」

 

 銃が予定通り怒号を上げる。そして予想通り人体を皮を突き破り、脂肪に傷付け、筋肉を打ち壊して。惨く蹂躙された組織は、悲痛な涙を赤にして噴き溢した。一連の何もかもが予定通り。

 ただ一つ、それから外れたことを挙げるとするなら。

 

「……――は?」

 

 ゴトーが引いた弾道の上にいたのはグライドでなく、ユキナリであったことだ。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 風が運ぶ血の匂いが、教えてくれたのだろうか。切っ先の影を映す足元が、伝えてくれたのだろうか。それとも、何よりも生かしていてはいけない危険人物の傍らで養われた勘が、第六感というやつが、知ってくれたのだろうか。

 乾いた空気で、白んだ息が上ってく。すれ違って落ちる銀の粒は、二つの獣を彩った。

 

「うん、やっぱり間違ってなかった」

「……あなた、誰?」

 

 ――正義に燃ゆる獣と、暴れ狂う獣を。

 アルマを襲ったのは通り魔、というやつだった。少なくともすれ違いざまに刃物で一発浴びせる、という行動は、まさしくといったところ。

 だがしかし、相手が悪かった。滑る一薙ぎと彼女の首の間に銃身が挟まって、次に起こる切断という現象をキャンセルする。

 

「あいつらの、仲間?」

「よく喋る子だな。ま、オレもお喋りは大好きだけど、ネ」

 

 力の拮抗で震える鉄の向こうを見た。体型は細身で声は男のもの。赤黒が粘りついて取れないぼろぼろの刃の刀剣に、バケツいっぱいの鮮血をぶちまけたかのような真っ赤な女ものの着物を召している。そして幼いころに親の読み聞かせで見たことがある、ジョウト地方の伝承生物『鬼』――それを象った、面。

 しかし綺麗なものではなく、斜めに割れ欠損した箇所からヒトの口元だけが覗いてる。

 アルマはそれを確認したところで、僅かに瞠目した。既視感を覚えたためだ。

 察されたのを察してにぱ、と口元を曲げる鬼面の男。

 もし、こいつが。入隊間もない頃、因縁の相手(ハリアー)を探るため閲覧した重犯罪者リストに同じく載っていた男なら。

 もし、こいつが。十数年前に計一〇〇名にも及ぶPGが惨殺された未解決連続通り魔事件『百鬼夜行』の犯人であったなら。

 もし、こいつが。世から忽然と姿を消した“戦士狩りの赤鬼”という異名を持つ男だったなら。

 

「……ラフエル特S級指名手配犯『テンヨウ』……!?」

 

 ただそれだけで、自分を襲うには十分過ぎた。

 なまくらを受け止めていた銃を寝せ、流れるように過った刀身の下をくぐる。勢いのままにその身を回して距離を取って、向ける銃口から躊躇の無い一発。ほぼ至近でそれを切り払う動作で、このテンヨウなる男がどのような人物かは計り知ることが出来た。

 

「くっ……」

「いやぁ、嬉しいよ。地上(あそこ)から消えてだいぶ経つけど、今でも君のようなうら若いお嬢さんがオレを知っててくれるなんてサ」

「今更どうして、ここに……いや。生憎だけれど、私は、あなたに構っている暇がない」

「まま、そうつれない顔しないで。オレが暗躍街の命の下でこうしていると知っても、同じこと言えるかい?」

「……! 匿ってもらっているとでも言うの?」

「当たらずとも遠からず、だな。闇の世話になってることに違いはないが、ここじゃあない。同盟関係にあるだけの別組織サ」

 

 ただでさえきつい構えが、よりきつくなる言葉。自分が相当な敵方に感知されてしまった事を明確に意味しているのだから、無理もないだろう。

 きちんと隠していたが故にこそ「何故」だとか「何が原因で」だとか、内心でおぼろげであれど疑問は浮かぶ――が、ばれたのが事実として揺らがない以上、最早引き返すことなどできなくて。

 何よりも、眼前にいるこの男から意識の糸の一筋でも手放した瞬間、“持っていかれる”確信がある。先程より波打つ胸の鼓動が、加速という形で危険信号を発しているのだ。

 

「どうにも騒がしくてねえ、さっきから街がサ。なもんで、その原因となるネズミ共を探して駆除する……ってのが、オレの引き受けた仕事なんだけども」

 

 相手をする気はさらさらないが、相手を無視する余裕は、さらにない。

 

「差し当たるところ、オレは君がそう(・・)なんじゃないかと思ってるんだがー……そこらへんどうだい?」

 

 だから。だから。

 

「――オレと同じ目をした君なら、間違いなく何かやらかしてくれると踏んだんだけど」

「ッ……!」

 

 彼女は今、戦うしかない。

 仕方がないだろう、やむを得ないだろう。ほんの一度のまばたきですら、

 

「人殺しの目だ。自分のやりたいことのためなら、どれだけ血を流そうが構いやしないって顔してる。世の中で最も上等なエゴイストの面構えだ」

 

 こうして彼を間合いへと招いてしまうのならば。

 音を置き去りにする斬撃を再び防ぐ得物は最適解、コンバットナイフ。受けるつもりで持ち出したのではない。経験で鍛えられた脊髄が勝手に抜いてくれただけだ。

 

「ソイツは間違ってたかな?」

「……あなたが、共感を覚えるのは勝手」

 

 金属が火花を散らして衝突する。視線がかち合い、醜い食い合いを始める。

 

「でも、道楽で人を殺す怪物と同じく思われるのは、とても不快だ」

「あっ、そう」

 

『お前ほど堕ちてはいない』薄汚れた鏡越しの自分はそう言って、留守の右手を前に出しトリガーを三度引いた。

 やはり怪物か何かの類なのか、咄嗟のバックステップをアルマの発砲に間に合わせる赤鬼。肉迫状態から放たれた三発のうちの二発を身を捻り回避、一発を向き直りついでの回転斬りで弾いて見せた。

 だがアルマは動じない。残念ながらこんなもので死ぬような相手で経験値を得てきた覚えなどないから。

 さっき見たぞと言わんばかりに銃口を構え直す。狙いは攻撃を防いだ上での、余剰な動作。剣を振り下ろした後の反応の空白。またの名を隙。

「さよなら」都合よくこちらに差し出している額に向け、決別の一撃を叩き込んだ。

 

「本当に?」

「な!?」

 

 突然の風が吹く。信じられるだろうか。その見えもしないモノに鉛玉が切り裂かれたと言ったなら。

 ドスン。吃驚の一瞬の踏み込み。忽ち少女の腹部に入る突き。

「これについてくるとはネ。いい反応速度だ」ヒュー、とテンヨウが口笛を鳴らす。剣先が捉えた腹は、同じ腹でもナイフの腹。それはまさに紙一重ならぬ鉄一重の防御行動が功を奏した瞬間で。

 

「――つッ!!」

 

 空気の波に揺られる前髪から見開いた瞳が覗くと、またも銃声が一回。今度も避けられたが、これは当てなくていい。足止めでさらなる距離を作る一手だからだ。

 

「今の、気になったろう?」

 

 引き下がるアルマの不可思議と緊張を含んだ表情から内心を見透かして、中の独白を引きずり出した。ギザギザとした刻み目の歯を覗かせている。とても悪い顔。

 でも彼女が身構えたのはそれのせいではない。耳朶を打つそのひやり冷える風の音に、危機を感じた。

 

「焦らなくても、なぁに、大丈夫さ」

 

 来る。

 

「もう一回見せてあげるよ」

 

 ――来る。

 本能が上げる声に従った数秒後、かつて自分が立っていた場所は幾重にも抉られバラバラに解体されていた。まるでミキサーにでもかけられたかのように、だ。

 戦慄を禁じ得ない。武器を下ろして火急的に身を翻す。男がいない方へ、いない方へと赴く有様は逃げという呼び方が最も適しているが、足が「死ぬより安い」と宣うのだから、聞くしかあるまい。

 人は極端に不都合な不可解を前にした時、その事実を少し誇張気味な『理不尽』という言葉で表現することがある。

 

「おいおい、せっかく遊ぼうってのにそりゃないだろ」

「く!」

「なあ、お嬢さん!」

 

 斬撃が飛んでいく。これもまた、あまりに理不尽な光景であった。

 離れているのに。遠いのに。

 

「面白い手品だろう? 滅多にない機会だ」

 

 まるで彼奴の刀剣から透明の刃が伸びているかのように、その場の一振りが気流ごと向こうのアルマを傷付けるのだ。

 

「しっかり見ていきなよ!」

 

 一目散。矢継ぎ早に巻き上がる大地の残骸と、屠られた虚空の悲鳴とが一緒くたになって追いかけてくる。背中に浅い一閃をもらった。右肩に細い一線を引かれた。左太ももに鋭い一本をくらった。されど惨状を捨て置き、走る。

 テンヨウはのらりくらりと下駄で血の(しるべ)を踏みながら、みるみるうちに縮んでいくそんな少女の輪郭を、またも剣でなぞった。すると今度は彼女のふくらはぎがぴしゃ、と肉の弾ける音を立て血潮を噴く。

 

「……!!」

 

 こればかりはアルマもたまらず転倒。しかし前方へのローリングで衝撃を緩和し、そのまま無事な方の脚を踏ん張って横っ跳び、建物の陰に隠れた。

 

「鬼ごっこの次はかくれんぼかい? 子供みたいな趣味してんなあ」

「ハァ……ハァ……」

 

 全力疾走だ、さすがに息だって切れる。身を委ねるように壁に背を付け、最短動作でピストルのマガジンを取り替える。アドレナリンの絶え間から怪我の確認をした。どの傷も浅い。この身に爪立てる痛みさえ気にしなければ、動ける。

 

「まあ、どこに隠れようが無駄なんだけど」

「!? そんな……!」

 

 問題は、この人間業とは思えない、刀から繰り出される“不可視の遠距離斬撃”。

 要される刃物本来のリーチを無視したそれは、創作と錯覚するほどに常軌を逸している。おまけに障害物越しでも通るということが進行形で判明し、物理法則の狂いすら推測の内に入ってきた。

 ばらばら殺人を間一髪で回避し、今度は建物の中へと逃げ込むアルマ。どうやら廃工場であった。

 あるがままを受け止める、というのは、順応性を高めることにおいては重要だと思う。そうして状況に適応することで上手く運ぶ事柄だってあるし、寧ろそれの方が圧倒的に多いのだろう。

 が、アルマはこれ(・・)を有り体にしておくことはしない。疑念もまた打開に繋がる利点がある、と。このような馬鹿げた事象など認められない、と。必ず種がある、と。そう考える。

 思考を繰り返す内、ぬう、っと鬼も半開きの戸から顔を出す。錆びにまみれた屑鉄の谷で、改めて二頭の獣が向き合った。くたびれた鉄骨柱からそれを覗き込むのは、用途も知らぬ巨大な装置。

 

「あらら、諦め? 自ら袋のコラッタになりにいくとは」

「逃げることをね。どこにいようが切り刻まれるなら、この行動は不毛」

「勝算がないままに立ち向かうのも、そんなに変わらんと思うが?」

「計算の間にタイムリミットを迎えることこそ、一番馬鹿げてるでしょ」

「ははあ、さては君、なかなかのせっかちさんだろ」

 

 ま、うじうじするよりかは好きだよ。男は笑声まじりにそう言うと、おもむろに剣を横に寝せ、腰元の鞘に戻した。

 顎を引いて脇を締め、低い半身の構えと、柄尻付近で止める半開きの右掌。武術の心得が多少なりともあるのなら、これが居合の格好であると理解するのは容易だ。無論、アルマも然り。

 

「次は凄いのいくよ、止められるかな」

 

 空が静寂の中で唸る。呼応するように降りる(しろがね)が小刻みに震える。その様は先で待つ地続きの景色を恐れているとも取れて。

「さあ、どうするッ?!」知ったことか、とテンヨウは雷光じみた速度を以て抜刀する。

 ぎゅん。次の瞬間、鼓膜さえ両断せん勢いの凄まじい音が、粉塵を引き連れアルマへと迫った。

 雪よりは重いが、透明な刃。それは着実に周囲を鋭く抉り、今なお刹那的に進行を続ける。しかしアルマは閉目で立ち尽くすだけ。ただそれだけ。

 本当に諦めたのか? 強いられ続ける無意味な抵抗に嫌気が差したか? 否、逆だ。わかったからこうしている。彼と会話する間に、理解が及んだから。

 

「ずっと、気になっていた」

 

 断片的に耳につく、ブブ、というノイズが。

 

「おかしいなとも、思ってた」

 

 どうして先程から断続的に風が吹いているのか。

 

「今だって、そう」

 

 曲がりなりにも屋内でありながら、何故窓が割れてしまう程の風が起きるのか。

 

「――――!?!?!!?」

「けれど、もう」

 

 落とすように転がしたモンスタボールから飛び出したルカリオは、全てを知っていた。

『ウオォォォッ!』見開いた眼の先で、青の燐光と共に飛び出すやいなや、“風”へ挨拶代わりのアッパーをくれてやる。するとそれはいよいよ正体を現した。

 

「超人ごっこは終わり」

「ゲ、グゥゥ……!」

「あーあ、ばれちゃった」

 

 波導の勇者による鉄拳で宙をぐるんと回された後に、体勢を立て直す『蟷螂(かまきり)ポケモン』の“ストライク”。それは赤鬼が従えるポケモンであり、先刻からずっと彼の刀を用いた指示に従い、アルマへと攻撃を加えていた存在で。

 

「さっきからこの子が“こうそくいどう”で、文字通り目にもとまらぬ速さで周囲を飛び回って、あなたの合図にあわせて私に斬りかかっていた。だからかまいたちのような風だって起きていた。そうでしょう?」

「お見事」

 

 テンヨウは口角を釣り上げ拍手を返す。多くは要らない、それが答えだ。

 

「君、おもしろいねぇ。おもしろいよ。好きになれそうだ」

「私はそうでもない。し、心底最低の気分だ」

「そういうところもネ。まぁとりあえず、これを見破れたのなら、オレも本気でいって良さそうだ」

 

 同じ土俵に引きずり込んだ。いくら怪物と呼ばれようが、結局は人であった。

 いや、人の身でありながら人智から逸脱した感性、行動を抱えるからこそ、それは怪物と名付けられるのかもしれない。

 正義に燃える獣と暴れ狂う獣。怪物狩りと戦士狩り。戦姫(せんき)赤鬼(しゃっき)。警察と罪人。両者の反目による沈黙は、程なくして破られる。

 

「“暴獣”のテンヨウ、推して参る」

「いくよ、ルカリオ」

 

 一人と一体同士の殺し合いは、仕切り直され今一度――。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 それは、千切れそうなほどの衝撃だった。

 

「が、あぁあああ……っ!!」

 

 柘榴色の液体が、穿たれた左上腕の一ヶ所からドクドクと噴きこぼれた。やがてそれは痛々しい呻き声を連れて、灰の衣装を彩って。

 ユキナリは片膝をつきながらも、痛覚で断裂しそうな意識を眼球に集めて、前を向いた。最初にいるのは何事か、と視線を向け青ざめる団員達。そしてその向こう側で、悪漢は確かに見ていた。

 

「な、ぜだ……ッ!」

 

 バラル団に溶け込んだ自分を。

「貴様、よくも同胞を!」「よく見ろ」依然動じないグライドの遮りに促されるまま下っ端がフードを捲ると、彼らもまた愕然とする。誰一人としてその顔を知る者はいないのだから、当然だろう。

 

「お? なんだよ、お前らも知らねえのかよ。一体どういう了見だァ?」

 

 何が起こってんだかねェ。独り言に続けてよっこらせ、と立ち上がったゴトーは、おもむろにユキナリの前へと行き、

 

「ここ入った時からずーーーーーーっと、変な匂いがしてやがったんだ」

 

 彼の顔面をわし掴み、輪郭にいかつい五本指を食い込ませた。

 

「陰でこそこそやってるヤツの割にァ、今だって綺麗で上品な香りが漂ってる」

「ぐッ……!」

「まるで借りてきたニャルマーみてェに、お高くとまったお行儀のい~い匂いだ」

「ああああああッ!」

 

 そして持ち上げ、嘘のような握力でプレス。

 

「……答えろ。テメェ、どこのモンだ? さもねえと――」

「ッ、おおおおッ!」

「おおっと活きがいいな」

 

 骨がメリメリと軋み始めた頃、ユキナリは己を捕らえる腕を掴んで、鋼のようなどてっぱらに足を押し付けた。ばねの要領で伸ばしたそれは、囚われの身に解放を与える。

 浮き上がったままに手放されたため、暫しの自由落下。尻もちから即座に立ち直り、背を曲げての構え。

 その際の勢いで変装用マスクは剥がれ、その役目を終えた。

 

「ぴ、PGだと!!?」

「ネイヴュ支部特務、ユキナリ……!」

「何故ここにいる!?」

 

 まさに絶体絶命、というやつだ。こんなにも銃を向けられてしまえば、正体を呼ぶ一斉の声に構っている暇などない。

「ははァん」街に紛れ込んだ異物の正体を眼下にし、ゴトーは胸のつかえが取れたのか、喜色満面といった面持ちでユキナリへと開口する。

 

「どっかしらでこの事を知って、クソ遠い雪国からわざわざいらして下さったわけだ。こんな入念に準備までして」

 

 そして柔らかくなってしぼんだ欺瞞の残りかすを放り捨てて足蹴にし、

 

「その気合ってやつを酌んで手厚くもてなしてやりてえところだがよォ、警察に嗅ぎつけられたとあっちゃあ、俺達としても些か穏やかじゃあ居られねんだよなァ」

 

 すぐさま彼への判決を下した。夜が明けぬ街の、法に従って。

 聞きたいことがいくつかある。ので、四肢のもう一本でも機能を麻痺させようと銃口を脚へと向けた、その矢先。

 バン。第三の砲口が火を吹く。肘の掠り傷だけで済んだのは、咄嗟に手を引いたからに違いない。

 

「オイ、何のつもりだ?」

 

 そう悪態をつき、グライドを肩越しに睨むゴトー。

 

「俺達は別に、その男を生かしておくことですぐに生じる不都合がない。であるならば行動の優先順位は貴様と共通ではないだろう」

 

 返答として当たり前のように吐き捨て、彼もいよいよ立ち上がった。

 

「どうする。薬品R製造プラントの場所を教えるだけで、被害は格段に減るが」

「チッ、あーあー、もう! めんどくせえことになってきたなァ」

 

 ゴトーは大きな舌打ちを鳴らす。続けて大袈裟なフィンガースナップを響かせると、室内にバラルとは対照的ともいえる不揃いな格好の男達がぞろぞろ押し入ってきた。

 数は少なくとも十はくだらない。これがゴトーの仲間であり、万一のため外で備えていたというのは、言うまでもない。誰もが物騒な表情で、物騒なものを手にし、物騒な眼差しをグライドに送っている。

 

「グライド様! くそっ……おのれゴトー!」

「わりィなァ、お坊ちゃん方。暫くウチのと遊んでてくれや」

 

「金髪は俺がやる」「ポケモンは俺のモノ」「身に着けている金品は山分け」「女は殺すな」次々に下卑た笑声が連なった。

 室内はとっくに定員オーバーだ。その上で誰もが暴れようと云うのだから、質が悪い。尤も無法者らしいといえば、無法者らしいが。

 手を挙げて、降ろす。シンプルだが最善のサイン伝達を皮切りに、ならず者共は腹を空かせた畜生よろしく獲物へ殺到する。

 

「うわああああああああああああッ!!?」

 

 ゴトーを再び振り向かせたのは、なんだったのだろう。

 恐怖によって絞り出された仲間の絶叫だろうか。天さえを衝く地鳴りだろうか。それとも。

 

「俺に、触れるな」

 

 闖入せし飛竜の咆哮だろうか。

 何も伏兵は、暗躍街に限った話ではなくて。グライドのボーマンダは上空からの“すてみタックル”で、階上の店もろとも天井をぶち壊しにしながら、鮮烈な参上を果たした。

 倒壊で生まれた瓦礫は人も物も際限なく飲み込んで、容赦なく悉くを下敷きにする。再度上げる叫びは、腹の両脇にマウントされた黒い大箱――コンテナユニットから、同胞たちを呼び出す詠唱となった。

 ぷしゅ、という煙と共に固定ラッチが外れた。封が解かれると、幹部イズロードとその部下たちにより構成された“強襲部隊”が出現する。

 

「茶番は終わったか?」

「破談。ということで、良いらしい」

「今更だな。わかりきっていたことだ」

 

 そう吐き捨て、巻き添えで鮮血に染まった客を踏み越え、前に出たイズロード。

 

「イズロード……!!」

 

 ユキナリもまた、生きていた。瓦礫に当てられた右肩を押さえながら。

 

「ほう……久しぶりだな。“あの日”以来か」

「お前、は……ッ!」

 

 土壇場でも、真っ先に視界に入ってきた。

 あの日から一度も、目蓋の裏に焼き付いたその顔を忘れたことはない。あの日から片時も、耳に打ち付けられたこの声が消えたことはない。

 あの日から、一瞬たりとも。必ず討つと誓ったその宿敵の名を、違えたことはない。

 宿命の再生。惨劇のプレイバック。二人は、またも出会ってしまった。

 

「だが悲しき哉、今日は貴様に用がない」

「ま、待て! お前だけは……ぐッ!!」

「手負いのそのザマでは、俺どころかこのゴミ溜まりの住人にすら勝てまいよ。ネイヴュを再現してやる、指をくわえて黙って見てろ」

 

 戦士は堂々と向けられた背中に、何も出来なくて。口惜しさに歯噛みして。

 ぽっかり空いた大穴から差す光にライトアップされながら、“フリーザー”が顕現する。落ちてくる白雪と一緒になって、一新された殺風景に更なる彩りを与えた。

 

背負(しょ)い物付けてるってこたァ、ボーマンダはあらかじめ暗躍街(こん中)で待機させてたってことか」

「そういうことだ。元よりゴーストタウンのようなもの……ボーマンダレベルの巨体であっても、隠せる廃墟など腐るほどある。己の根城が仇になったな」

「――――やってくれるじゃねェか!」

 

 その瞳、ぎらついて。投げたモンスターボールから生まれる“ガブリアス”が、有無をいわさぬ電光石火の勢いでグライドへと突っ込んだ。

「“げきりん”ぶちかませやァ!」「同じ“げきりん”で対応しろ」ボーマンダはひるむことなく最大級の一撃にその身を割り込ませる。激突する力と力。至近距離で地竜と飛竜は吼え合った。

 開戦の狼煙だ――凄まじい衝撃の雪崩が、もはや形を成していない室内に押し寄せる。暗躍街、バラル、双方の生き残りたちが一斉にポケモンを出し、それを壁に負傷の訪れを凌いだ。

 

「お客様のありがてえ差し入れだ。遠慮は要らねェ、皆殺しにして差し上げろ!」

「偉大なるバラルの名のもと、醜悪にして下劣な賊徒共に鉄槌を下せ」

 

『メガシンカ!』

 

 そして休む間もなく、予定通りに乱戦は開幕する。

 

「……っ、“リフレクター”!」

 

 混沌の中、ツンドラポケモン“アマルルガ”という手札を切って、殺意の荒波の一筋を防ぐユキナリ。

 しかし右肩を蝕む痛みが、その行動を遅れさせた。延いてはリフレクターの展開が中途半端なままに、二体の竜が発する進化時のエネルギーをまともにもらう。

「すまない……!」盾になり自らを守ってくれた事に感謝を示し、倒れた仲間を引き下げる。

 

(今なら……いや今しか、ない!)

 

 入れ違いで混迷に立ち入るは、大昔に存在していたと云われる生物、マンモスの記号を色濃く受け継ぐ『二本牙ポケモン』の“マンムー”。

 だが戦うのではない。ユキナリは片腕だけで踏ん張ってその大きな背中に乗り込むと、すかさず彼を未だ無事な階段へと走らせた。

 

「ゴトーさん! 野郎、逃げますぜ!」

「ああ?」

 

 ゴトーが促され見やった時には、もうユキナリの存在はそこになくて。

『離脱』という緊急下の隙をついた作戦変更だ。この状態では誰しもそうするだろうし、これを咎める者はきっといないだろう。

 

「好きに遊べや、“ルガルガン”、“ドリュウズ”!」

 

 無論彼を除いては、だが。

 新たにバラルの(もり)にすべく二体の(しもべ)を追加した後、ゴトーも外に出る。

 

「逃がすか」

 

 グライドもまた、同じく持っていた“ルガルガン”と“ドリュウズ”をそれぞれに差し向け、イズロードに現状を預けて場を後にした。

 

 

 

「――ああそうだ、東西南北全域だ。戦闘態勢を敷け。バラル団の連中だよ。……おう、例外なくバラしちまっていい、判断はお前らに任せる。あと金髪の男を優先して狙え。どんだけ戦力を投入してもいい、野郎が仕切ってるからなァ」

 

 通信を切る。浅く積もった白色に残る、広くて丸い足跡へ視線を落とすと。

 

「邪魔者はいなくなった。思う存分追っかけまわしてやるよ」

 

「なあ、迷子の迷子のおまわりさん」悪漢は、不敵に笑った。

 暗夜の中で、各々の思惑が重なり合う。



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04.黒色十字

 ポケモン育成。

 人間がポケモンを育み、成長させることを言う。

 一口に育成と表現してもその目的は様々で、或いは強さの頂点へ至るために。或いは上質な種を保存するために。或いは美を極めるために。或いは生活をより良くするために。或いは命を救うために。

 そして、或いは――他者に明確な危害を加えるために。

 ここでは多数派である強さへ至らんとする者、所謂トレーナーを基準として話を進めよう。

 PGや犯罪者、つまるところ命のやり取りが介在する立場の人々によるポケモン育成は、純粋な競技としてポケモンを戦わせるトレーナーのそれとは、一八〇度変わってくる。

 勝敗の決定が生死と等号で結びつく彼らの場合、武装した人間との戦闘、ポケモンを使役する者への攻撃、指示が通らない状況下での行動、エトセトラ……それらを想定、特化したトレーニングを要される。

 かいつまむと最も効率的な、相手の機能停止の方法を突き詰めるところに本分があるのだ。

 そうして重視される要素のことを、人は殺傷と呼ぶ。

 

『ルォォォォォォォッ!!』

『ジェアッ!』

 

 今なお覇気と肉体をぶつけ合う“ルカリオ”と“ストライク”もまた、そういった育成が行われたポケモンたちで。だから人からの命令系統が無くてもここまで動けるし、傍らの主が差し迫る命のやり取りに全神経を注げるのだ。

 物が飛ぶ。塵が飛ぶ。血が飛び声が飛ぶ。錆びだらけの内装がびりびりと震え上がる中で、命の喰い合いは続く。

 アルマはナイフで、テンヨウは深紅の太刀で、それぞれ乾いた輪舞曲(ロンド)を奏でる。走って、回って、跳ねて。振り乱す髪は絹糸のようにしなやかに光り、流れる汗は宝石のように輝いた。

 小傷だらけの肉体からひたひたと落ちる魂の種が、荒廃した景色に赤色の花を咲かせる。

 左右対称の袈裟斬りがぶつかった。暫しの競り合いは図らずも小休止となって、火花という薄明かりが弾けて両者を照らし出す。

 

「正直、驚いてるよ」

「何に」

「これだけ得物の長さに差があるのに、オレの太刀を的確に捌いてくる。でもって低い姿勢から、常に懐に入る機会を窺ってるように見える……まるで獲物に襲い掛かる直前の肉食動物みたいにね。中途半端に体系化された格闘術(おままごと)では決して習得できない、実戦でのみ育つ『生きた技術』だ。君、やっぱ只者じゃないだろ」

「どうだか。ただ言えるのは、簡単に死んでやれなくて申し訳ない、ということだけ」

「とんでもない。いいんだよ、それで!」

 

「くぁっ!」アルマは不意に走った腹部の鈍い衝撃に、たまらず呻いた。己を蹴飛ばした足を望み「腕の筋繊維の持続に意識を割きすぎた」と、後悔する。

 しかし後の祭り。そんな短い思考も許さないまま、体は勝手に後ろへ飛んで、姿勢を崩して横たわり、彼女にダウンという最悪の恰好を取らせてしまった。

 

「すぐに死ぬような奴なら、何も意味がない!」

「ッ!!」

 

 しかしまだ終わらない。顔面を真上から割りに来た凶刃を、反射神経ひとつで受ける。すれすれで挟まれた刃がちりちりと殺気立つと同時、頭脳は脊髄から肉体の制御権を返却された。

 両脚で刀を伴う腕を挟み込んで捻る腰。剛の力を柔術で回すと、男の視界は忽ちに天地が入れ替わる。

 そうしてすかさず背中から起き上がるアルマが、今しがたされたことをそっくりそのまま仕返した。

 

「にひっ」

「口で……!?」

 

 ……が、形勢逆転の一撃は、通らない。

 顔面に突き立てたナイフは、歯と顎の力でしっかりと受け止められていて。

 次の瞬間には、瞬発力にも劣らない尋常ならざる腕力から、仕返しの仕返しをもらっていた。

 頬を殴打された。口内の切れた音がした。勢いのままに倒れる。まずい、起き上がらないと。

 

「さあ、どうする?」

「――――!」

 

 次に上体を起こした時、滑る刃は既に彼女の首に触れていた。

 

『ウオオオオオオオオオオオ!!』

 

 雄叫びがその刹那を縫う。ルカリオが横から弾丸が如き速度を以て、ストライクを攫ったままの拳をテンヨウにお見舞いしたのだ。

「そうだよな、そうこなくっちゃなあ!」ふっ飛ばされ、ストライクごと小さな段差だらけの床をごろごろ転げるテンヨウ。

 鉄の味を噛み締める。九死から手繰り寄せた一生を、無駄にはしない。

 

「ルカリオ、“はどうだん”!」

 

 アルマは起き上がりと同時に指示を通す。そしてパートナーの蒼白のエネルギー弾の射出と共に、銃から鉄火をひり出した。

 

「“つばめがえし”!」

 

 しかしその一声は全てを切り裂いて。寝そべったままで反撃の一手を繰り出すと、仕切り直しと言わんばかりに今一度ルカリオへと音速の翼を奔らせるストライク。

 テンヨウもまたぎらぎらとした目をアルマに合わせた。発砲、三発。俯せのまま左手の踏ん張りだけで飛び上がり、鉛玉を薙ぎ払いながら、空いた地面と体の隙間に足を入れ立ち直る。

 

「オレは自分の命を輝かせたいのさ!」

「何を……!」

 

 これ以上近づくな。次々と落ちる空薬莢が一線を引いて訴えた。

 

「三途の川が見えるほどに死と隣り合った瞬間、オレ達人間が持つ生への執着ってものは最大級に膨れ上がる!」

 

 アルマは話も聞かず横に走る。穴ぼこの壁を挟んで並走する敵に銃撃を浴びせても、手応えはない。

 

「死にたくない、生きていたい! 心の底からそう感じた時! 思えた時! 生命ってのは最高に純度の高い光を放つようになるんだ!」

 

 それは障害物に阻まれているのではなく、やはり刀が邪魔をしていて。

 

「だからオレは何にもなり得ない弱者に対する殺し(・・)じゃなく、この命を脅かしてくれる強者との殺し合い(・・・・)を望んでる!」

「!?」

 

 そこからさらなる邪魔があるなんて、想像だにしなかった。

 頭上からただならぬ気配を感じて仰いでみれば、天井の鉄骨の切り取られたものが目鼻の先に迫っていた。

 

「く、うっ!!」

 

 咄嗟に横跳び、転がって避ける。遠距離技“しんくうは”を用いたストライクの横槍だった。

 至急向き直るも、再度上げた視界に赤鬼はいない。どこだ、どこにいる。見回しても見当たらない。

 瞬時で頭を回す。相手は速くとも化物ではない。だから消えられるはずがない。壁の中に隠れているのか。メリットがない。そもそも何故姿をくらましたのか。不意を打つため。

 ならばどこからか来るはずだ。どこだ。どの方向だ。

 アルマはあらゆるパターンを組み立てる。正面から来ても、右から来ても、左から来ても、何なら背後から来ても、対応できるほどに感覚を研ぎ澄ました。

 

「オレに――――生きてる実感をくれ!!」

 

 予想通りに、やがて現れる男。だが、アルマは反応が遅れてしまう。

 何故か。

 

「上……ッ!!?」

 

 彼の取った攻撃ルートが、前後左右のどこからでもなかったからだ。

 寧ろ、リスクが高すぎて最もないであろうと踏み、一番初めに排除した可能性だったからだ。

 鉄骨を飛び越えた果ての、上からのダイブだったからだ。

 

「ッ――――!!!!」

「君なら出来るだろう!? なあッ!!?」

 

 時の流れがゆっくりに感じられてしまうほど、瞳の中で回される映像は重くなった。なのに、自分は思い通りに動けないというから、虚しい話。

 塵煙が裂けていく、斜め上からの突きの構え。もう間に合わない。無事ではいられない。最低限のラインがより下がってしまった。それこそ命の危機だろう。

 どうしよう、どうなるだろう。一回それらを全部放り捨てて、アルマは一度呼吸した。

 

「……誰かを踏みにじることでしか、生きられないのなら!」

 

 そして、歯を食い縛った。

 

「そんな命――死んでしまえ!!」

 

 なるべく身を捩って、準備は完了。神など信じたことはないが、目一杯の神頼みを込め――人を騙る怪物へ銃口を向ける。

 そして、ありったけの残弾を。

 音は五回鳴った。

 その情報の獲得を最後に、アルマは言葉を紡げなくなった。

 しかしそれは、絶命によるものではない。どんどん体内から喉を通って上がってくる、血液のせいで。

 左胸、心臓の真横の刺突――生きていると言っても、虫の息であった。がふがふ、と咳き込むと、喀血が頬を伝って、今しがた伸びた床に垂れる。

 どうしようもなく息苦しいのは、自分に覆いかぶさるこの男のせいだろう。そうと思いたい。

 とりあえず上の死体をどかそうと、苦痛に顔を歪めながら、最後の力を振り絞った。

 

「……あぶねえー、死ぬかと思った」

「……は……?」

 

 それより前に身軽になった理由を、今は、出来れば考えたくない。

 テンヨウはこれまでの死闘が嘘だったかのようによっこらせ、と肉に刺さる刀を杖にして立ち上がり、にっこり笑って少女の虚ろな顔を見下ろした。

 

「なんで生きてるんだ、って顔してるね」

 

 代弁は正しかった。五発全部当たって、ちゃんと赤い血だって確認できた。それなのに、どうして。

 彼女の胸から色濃くなった得物を引き抜くと、それでおもむろに自分の胸を小突く。

 

「君、心臓(ここ)狙ったろ。ほんとは頭の方が確実だったけど、自分の致命傷を避けつつ狙うには、些か不安要素が多かったから」

 

「でも残念、こっちも当たらなかったんだ」皆を言うまでもなく、アルマは察した。

 本当は固定すら苦しかった、そんな腕の損傷のせいで、狙いがぶれたのだ。

 それでも内臓のどこかしらには、入っているはずなのに――。

 あんまりな生命力だと、思う。でも彼にとって。何度も何度も、鍛練を重ねた戦士と魂を奪い合ってきた、彼にとっては。脳と心臓以外の傷など、取るに足らない虫刺されのようなものなのかもしれない。

 主の危機を見過ごせなかったのだろう。ルカリオはストライクとの戦いを疎かにしたばかりに、つばめがえしの餌食となり、倒れてしまう。

 

「ありがとう。君のお蔭でオレの命はまた一つ、上の方にいったよ」

 

 下で広がっていく赤い鏡に反射する鬼が、言った。もはや微かな呼吸と薄目を開けるしか出来ないアルマへ、太刀を振りかざす。

 まだ死ねない。そんなことをいくらはっきり独白しても、指先ひとつ満足に動かせない。無力感が自分を苛んだ。少女は、本当の意味で少女になってしまった。

 悔しい。悔しいのに。何一つとして成し遂げられそうにない。このような感覚は久々だ。

 

『お前の正義は、お前のものでしかない』

 

 居場所を失ったばかりで途方に暮れていた、あの時以来か。

 

『誰も果たしてはくれないし、肩代わりもしてくれない』

 

 これ(ナイフ)の振り方どころか身の振り方さえなっていなかった、あの頃以来か。

 

『だから、お前がやるんだ。お前の力で』

 

 どうしてだろう。こんな時に思い出してしまうなんて。

 

こいつ(・・・)は、そのためのものだ』

 

 なんで今、急に“あの人”の懐かしさを――感じてしまうのだろう。

 世界の渡り方に、闇での生き延び方に、力の在り方と、ちょっとのナイフの使い方。色んなことを教えてくれた。

 それでも最後まで唯一、名前だけは教えてくれなかった“あの人”。

 月が綺麗な夜、湖畔で『好きな野生のポケモンを一匹捕まえてこい』と言ったきり、(ポケモン)これ(ナイフ)だけ置いて行ってしまった“あの人”。

 遷ろう世界の中で、泣いてあなたを呼ぶ事すら許してくれなかった。だから前へ進んだ今でも、忘れることが出来ない。だから真っ暗な記憶の海に溺れて、びしょ濡れでずっと探してる。

 知りたい。願わくは、この意識が途切れてしまう前に。貴方は今、どこで何をしていますか。

 

「――――お、父、さん」

 

 その時だ。赤黒の刃は少女の譫言ではなく、主の背後の空を斬った。

 いや――斬らされた、という方が正しいか。一瞬を疾風のように駆け抜けた、尋常ならざる殺気に。

 

「……投げナイフ、二本」

 

 テンヨウが手応えの内訳を確認すると、休む間もなく追撃の二本。さすがに動かされ、アルマから離れて切り払う。

 折に鳴るキン、という乾いた音色が、攻撃の主を連れてきた。

 正体の看破を拒むように短い黒マントを纏った男は、少女の前に静かに降り立つ。

 薄れゆく意識の中、その背にいるはずもない“あの人”を重ねたところで、アルマは完全に目を閉じた。

 

「へえーえ、まさかのおかわりか。願ったり叶ったりだ」

 

 腰のホルダーから両手に握ったナイフをぐるぐる回す様を見て、すっかりスイッチが入るテンヨウ。

 フードは相も変わらず揺らめいて正体の露見を避けているが、関係ない。

 

「今日は、最ッ高の日だよ、なぁ!」

 

 切り捨てれば全部一緒だ。そう言わんばかりに俊足で間合いを詰め、豪雨が如き勢いで斬撃のラッシュを叩き込む。

 戦士殺しによる守りを顧みぬ怒涛の猛攻は黒マントに受けを強いて、ひたすらに後退させた。

「取ったッ!!」重心をかけた切り上げの一発がその姿勢を崩し、その短刀を弾き飛ばす。

 後は簡単だ。こうして、首を斬り落としてしまえば。

 

「意外と呆気なかっ――――!」

 

 赤鬼の不穏な喜色を取り消す、面妖な景色が一つ。

 最初に脳みそに飛び込んだのは、黒い影と、濁った音。

 

「なんだ……?」

 

 ――鴉だった。胴から別れた首が、首を探す胴が、突如として数多の不吉の象徴たる黒鳥に変容し、ガアガアと叫びながら思い思いの方角に散っていく。

 一体どんな手品だろう。遊び心に胸躍らせ小首を傾げた、その時だ。

 

「え?」

 

 当然のように背後に現れた男に、テンヨウは四肢の一本を付け根から断たれた。

 メリッ。二本の短刀に鋏の要領で骨もろとも切り離されると、かつて右腕のあった箇所から鮮やかな赤が噴出する。痛いだとか、苦しいだとか、そういったものとは違う、自分を生物たらしめんとする熱が逃げていくような不思議な感触を覚えた。

 呆然に使った一瞬を取り戻し、すぐさま武器を握ったままの右腕を拾い上げ、距離を取る。

 振り向いた先には布切れの向こう側、白髪交じりの黒髪をした壮年の男がいた。彼もまた、瞳に鋭い獣を宿していて。すぐ上に髭を蓄えた口を結び、血に濡れたダガーを構え直す。

 ふてぶてしくも頭上で鳴く“ドンカラス”を一瞥して、テンヨウは悟った。

 

「……幻術、か」

 

 悪や霊の記号を備えし者が使える精神干渉の技“ナイトヘッド”による、幻覚――テンヨウが初めに刎ねたのは、それだった。

 ストライクもまだ戦える。得物を左に持ち換えて続行するのもやぶさかでなかったが、足元に描かれる気味悪さだけは一丁前な紅の絵画を眺めながら、

 

「“しんくうは”だ」

 

 視認を妨害しろ、と指示した。地面に激突した風の刃は淡黄色の煙を発生させ、あっという間に赤鬼とその従者の姿を隠し立てる。

 次に視界が晴れた時、彼らはもうそこにいなかった。

 男は気配の消失を確認すると、年齢不相応に鍛えられた肉体を、拾った黒い衣で再び覆った。勿論、ダガーを腰のホルダーに戻すのも忘れていない。ポケモンを引っ込めることだって。

 続けて気を喪失している少女を数秒見つめた後、両腕で横向きに抱え上げた。

 

『――よろしいのですか、クロウ1。あなたは隊長(かれ)より待機を命じられていたはずですが』

 

 声が聞こえる。己の輪郭を暗黒の霧でぼやけさせた“誰でもない誰か”が、影からぬうっと頭を出す。

 

『それに、“これ”は目標の仲間であったはずです。到底、見過ごせる状況ではありませんね』

 

 簡素な赤い光球二つを眼として光らせ、くぐもったノイズ入りの声はそう繋ぎ、静かに男の行動を咎めた。

 

「……俺達はただ、氷獄の女帝を始末しろとしか言われていない。その過程で何をしようが、自由だろう」

『………………』

 

 肩越しに言う男はそれを意にも介さず、作られた間で廃工場の出口へと歩みを進める。

 

『一つ、訊ねましょう。今のあなたは“鴉”ですか? それとも“ガルシア”ですか?』

「……任務中に名を呼ぶな」

『私としたことが、失礼。軽率さには、お互い(・・・)気を付けましょう』

 

 そのままノンストップで去っていく背中を見送って、

 

『ふふ……さて、隊長はどうしているでしょうか』

 

 “誰でもない誰か”も、闇に溶けて消えた。

 

『一人で済めば、いいのですが』

 

 ちょっとの憂い事を、残して。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 乾燥してぱさついた空間の中を、雷がじぐざぐ描いて走り抜ける。それを打ち消すのは、水色の冷気を孕んだ線状のエネルギー。

 ぶつかる二つの攻撃が残す煌びやかな細氷をかき分け、クルスとカミーラはナイフを重ね合わせた。

 双方の一切譲らない強気な斬撃が、派手な大立ち回りを演出する。あの手もこの足も使われ、一撃必殺の攻勢と紙一重の守勢が目まぐるしく切り替わっていくのは立派な拮抗の証左であり、両者とも達人の域にいる裏付けでもあって。

 

「やけに慎重じゃない? 白兵戦だけじゃ私を思い通りに出来ないってわかってんでしょ?」

「意中の女性には及び腰になってしまうタイプでね。そんな繊細なところも、なかなかいいだろう?」

「繊細な男は、問答無用で拳銃ぶっ放してくる部下を差し向けるような真似なんて、しないわ、よっ!」

 

 カミーラが横、クルスが縦。二人の刃が綺麗な十字を描いていた時だ。カミーラは一気に仕掛けた。

 ぐわん、と逆手持ちのまま腕を振り抜くと同時、一瞬の競り合いの隙間に踏み込んで全体重をかけたタックルをお見舞いする。

「む」いくら内心を読めなくても、想定外の攻撃には驚く他ない。女だてらと侮るなかれ、突き立てた肘にはしっかりとみぞおちへの手応えを感じている。

 しりもちついて眼下となった黒色十字へ、間髪容れず制裁の銃火を吹いた。

 

「“かげぬい”」

「!」

 

 直後、“何か”が弾丸とすれ違う。ほぼ同じ速度で。

 

「……ふうん、こういうズルい真似するわけ」

 

 首を横に寝せる反射行動の瞬間、その正体の視認は完了。黒紫の矢だ。どうやら彼女の頭をぶち抜くつもりだったらしい。

 掠められた頬より流れた血を人差し指で掬い取り、ぺろりと一舐め。

 

「追いかけていると見せかけ、実は追いかけさせている――そういう恋もまた、あっていいだろう?」

「男のそれ、けっこう悪趣味よ」

 

 ゆっくりと起き上がったクルスの影から、ずぞぞぞ、と禍々しい音を立てながら浮き出て、常闇の狩人と呼ばれるポケモン“ジュナイパー”の乱入は完了する。先出しした手の中には、しっかりと銃弾が握られていて。

 狩りの成功率を高めるため、手段としての闇討ちに特化した性質を持つこのポケモンは、生憎なことに対人にお誂え向きだ。

 カミーラは内心で腑に落とすとチルタリスを雪空に呼び出し、そのままジュナイパーに当てがった。

 

「“バンギラス”」

「“ツンベアー”」

 

 味気ない号令の木霊と、上に投げるモンスターボール。手のひらサイズだった頃の勢いのままに上昇したバンギラスは、大口を開けてチルタリスに襲い掛かった。

『グルォ゛ォォ!!』させまいとツンベアーが割り込む。盾にした腕は盛大に“かみくだく”の餌食となったが、そこは歴戦の勇士か、めきめきと食い込む牙すら一緒にして、バンギラスを地面へと連れ込み叩き付ける。

 二つの巨体は落下後、何事も無かったかのように取っ組み合いを始め、夜が明けぬ街を存分に揺らした。ついでに起こる塵煙は巻き上がって天へと上り、錫色を侵食し、やがて空を完全に支配してしまう。

 たちどころに衣替えした暗躍街は、くすんだ茶色を抱えていた。光悦茶……とでも云うべきなのだろうか。

 白雪が止んで、砂塵が舞う。一気に視界が悪くなった。

 

「なかなか厄介なの持ってるじゃない」

 

 現象の正体は、バンギラスの特性『すなおこし』が引き起こした、砂塵嵐への天候変化だ。

 ただでさえ強固な岩タイプの防御力を格段に向上させ、あまつさえ吹き荒ぶ砂粒で岩と鋼と地面以外のポケモンを削るようにじわじわ傷付けていくというのだから、質が悪い。

 ましてや『ゆきふらし』で天気を“あられ”に固定し、フィールドから掌握して有利を作っていく戦法を取るカミーラにとっては、最悪なものであった。

 しかし、血相を変えることはない。対策の対策など、とうの昔に準備してあるから。

 

「行きなさい、あなたの出番よ“ラグラージ”」

 

 カミーラの手中から飛び出てきたのは、あまりに意外な存在で。氷タイプでもなければ、こう言ってはなんだが持ち主のように見てくれが良い訳でもない、ひれとえらの主張が激しい青色の沼魚ポケモン『ラグラージ』。

「“あまごい”よ」彼は多くを語らず、早速仕事を始める。数メートル先すら視認が怪しい中で仰いだ空に向け、祈るように重く、強く嘶いた。

 すると続けば言葉通りに生命を殺すであろう風景、殺風景が役目を終える。それを短い命たらしめんとしたのは、他でもない、彼の新たな天候変化のお蔭だ。

 錫を塗り潰した光悦茶をさらに塗り潰す(にび)の、苛烈な涙。今度は“あまごい”により水タイプを有利にする雨が降り、地底スラムに恵みが訪れる。

 カミーラは恙なく奪還が成功した雨雲佇む空模様を一瞥、次いでクルスへしたり顔を向け、キュウコンを取り下げた。従ってマルマインが続けて戦うのは、この地面の記号を携えたポケモンということになる。電気タイプを相手取る戦場の引き継ぎに、これほどの適役はいるまい。

 次々にカードが切られ、総力戦は展開していく。

 

「一杯、食わされたな」

「もう一杯、おかわりしていきなさい」

 

 ポケモンたちのように――人間同士の争いも、再度勃発する。

 お互いがお互いに真っ直ぐに向かっていき、切り結ぶ。

 雫を踏んづけた。すれ違った。振り向いた。カミーラが速かった。即座にひゅんっとグリップを回して逆手から順手への持ち換えを行い、がら空きの背中へ無遠慮に刃を押し通す。

 クルスは脇を開いて、その腕を抜いた。

 

「捕まえた」

 

 そして腕とわき腹の圧力で強く捕縛し、振り向きざまに逆手の銀を突き立てた。

「っえぇい!!」足を踏ん張り、体を回すカミーラ。皮膚に冷ややかな痛みを感じたところで遠心力は作用し、強引な振りほどきに成功した。

 だが、まだ終わらない。攻勢を崩すつもりなど毛頭ないようで、大振りな動作の隙を衝き肉迫、至近距離の読み合いを強いる。

 コンマレベルの時の切れ間で、カミーラは腕を縦に振り上げた。

 

「私の勝ちだ」

「がはっ」

 

 ――が、それが良くなかった。

 先にどちゅり、と臓器が破裂する生々しい音が鳴ると、胸はついに短刀に犯され、大量の血を撒き散らす。

 腕をさらに押し付け、殺意をより深みへと至らせた。瞳が縮み上がり、反して拡充する強膜。

 死に際でも、まばたきはするのか――なんて、彼女の細面を凝望しながら人体の仕組みに関心を示して。

 

「なに」

 

 次の瞬間である。目を開いたカミーラは、にやりと口角を釣り上げた。

 そして組み付き、動きを封じる。突然の奇行に吃驚を禁じ得ないクルスだったが、背後を肩越しに見てしまえば、それも消え失せよう。

 

「……いつの間に」

「“れいとうビーム”」

 

 遮りの言葉は、そのまま彼を殺す。背中から冷気に喰われ、ビキビキと凍り付いていく随に思い出した。

 直前の、あまりに無意味が過ぎる、彼女の大ぶりな腕の動作を。

 そうか。あれはこの“バイバニラ”が入ったモンスターボールを、背後に向かって投げるための――。

 思考を途切れさせる。必要なくなったからだ。

 白に完全に蝕まれる頃、その黒は静かに歪んだ。まるで映像が乱れるように輪郭が崩れたかと思えば、クルスという男はそこにはいなくて。

 

「――ん」

 

 スパン。雨天に飛んで宙を返る頭が最後に見たのは、まやかしのスペシャリスト“ゾロアーク”。

 カミーラが捨て身で氷漬けにしたクルスは、彼が特性『イリュージョン』で化けた幻影だった。

 待っていたぞと潜んでいたカクレオンは、ようやっとその保護色を解く。決定的な隙に乗じたここぞとばかりの“かげうち”で、女帝の首を鋭く刎ね飛ばした。

 

『……キッ』

 

 が、甘い。自らをそう責める鳴き声。血が出ないから。手応えが浅いから。足元の人形を忌々しげに見やって、口惜しさ満点の表情を作る仕事人。

 

「ふむ……“みがわり”、か」

 

 バイバニラのもう一つの手を知ったクルスの前に、本物のカミーラは無傷のまま堂々と現れる。

「馬鹿馬鹿しい化かし合い」これだけ趣向を凝らした殺し合いも、そんな風に唾棄できる程度には余裕があるというのだから、恐ろしい。

 

「小賢しいわねえ、さっさとくたばってくれないかしら。体のどっかしらに、一回ぽちっと押せば脳みそが爆発四散でもしてくれるようなスイッチとかないわけ?」

「慎重な男のアプローチは、外堀から埋めていくように行うものさ」

 

 だが。繋ぎ目から先をいった言葉に、

 

「もう、細々とやる必要はなさそうだ」

 

 明らかな強い意図を込めるクルス。

 仕上げに入るぞ、と。準備はできたぞ、と。カミーラはそう取った。

 それを確たるものとして信ずる根拠があるからこそ、余計に……だ。

 ただ、馬鹿みたいに武器を振り回していたわけじゃない。それぞれの戦局だって、先方の手の操り方だって、ちゃんと覚えていた。

 大前提から組み立てるに、これはポケモンバトルじゃないので、ポケモン同士の戦いというのはまず重要ではない。

 それでもこれだけ風呂敷を広げて総力戦を挑むのは、この生きた殺人兵器をより早くに相手へと届かせたいから。そして同時に、相手のその行動を妨げたいから。

 故に、何かしらのポケモンは鍵になっているはずなのだ。この中で、絶好の機を確実にモノにしうる切り札(キーパーソン)が、決められているはずなのだ。

 カミーラは続々と開示されていく手札を眺めつつ、ずっと探していた。そしてつい先程、見つけた。

 

「往け、マルマイン」

 

 それは先程から、攻撃が控えめだった。

 それは先刻より、守りを優先していた。

 それは直近にて、位置を獲得している。

 鈍足のラグラージを放置した電磁浮遊で飛び掛かる先は、言わずもがな。

 彼女の読みが正しければ。

 彼の思考パターンが彼女と共通しているのならば。

 

「“だいばくはつ”だ」

 

 その存在は、一手で全てを片づけにくる。

 目前に詰め寄ってきた球体から、エネルギーが煌々と輝いて溢れ出た。

 それは雪よりも白く、砂の小傷も構わずに、雨を蒸発させるほどの熱波を湛えて、広がり、この場のありとあらゆるものを包み込む。でもそれは、抱擁などという優しいものではない。

 膨大なエネルギーの放出、および発散。空間が捻じ曲がるほどの風と熱と光と音とが、『爆発』という最もシンプルにして原初的な破壊行為を引き起こした。

「リセット」元凶、曰く。常闇の狩人と癒しの翼竜による大捕り物も、雪原の覇者と砂塵の怪獣によるレスリングも、七色の暗殺者と生きた氷細工によるマジックショーも。何もかも無かったことにするかのように、白光の波は総てを消し飛ばしていく。

 

「――キュウコン!」

 

 それに抗いし者が、一匹。

 彼女が満を持して今一度出てくると、落ちゆく雨粒も、伸びた水溜まりも、一瞬にして凍り付いた。それは出力を最初から全開にしている証で、同時にこの采配があらかじめ考え抜かれたものであることも教えてくれている。

 カミーラの切り札は、キュウコンだった。

 悟られないため適度に戦わせ、相性有利を作る意図を装って交代させ、この瞬間のために、ずっと温存していた。

 もし彼女のキュウコンに、最低最悪なこの力の奔流を受け止められる手があるとするなら。

 

「“オーロラベール”!!」

 

 ――“これ”しかないだろう。

 その力は、女神の名に由来する。

 極地の夜空でそれに照らされた人々が、地上に夜明けを告げる彼女の奇跡を想起し、希望を込めてそう呼び始めた……とか。

 尻尾を揺らした。手で空を切った。暗躍街の上空に、極彩色のカーテンがかかった。そこから作られ伸びる無数の光の帯は、全てカミーラとキュウコンの元に集結する。

 それはひとりでに次々と編み込まれ、彼女たちと破滅の光との間に幾層にも及ぶ壁を作り出した。

 名を『オーロラベール』。氷雪が絡む気象状態でのみ発動が可能な、絶対防御の障壁。

 広範囲展開し別の対象を同時に守ることが可能であり、又、効果種別は物理、特殊を問わない。

 まさに鉄壁であった。圧倒的な矛には、圧倒的な盾を以て無力化する。それがカミーラの予てよりの作戦だったのだ。

 そしてその策は、見事に成功を収めることとなる。

 

「結び付けええええええええッ!!」

 

 力と力の衝突による強烈なフラッシュが、視える世界をぐらつかせても。ベールの繊維の筋目から漏れる風でばさばさと煽られる髪の毛が、やがて次の景色を隠したとしても。

 この一歩踏み込んだ足は、決して引かず――。

 

 

 

 ほどなくして轟音が止んだ。

 塵煙もそう騒ぐことなく落ち着き、模様替えした現場はその全容を見せる。

 場にいたポケモンは皆例外なく瀕死で横たわっていて、敵も味方もあったものではない。惨憺たる状況だ。

 彼らを取り巻く風景もまた同様で、抉れてささくれ立った地面に、倒壊した家屋の残骸が散乱していた。

「まるで別世界ね」無傷なオーロラベールの内部から見回すカミーラが、独り言を吐いた。

 それを拾ってくれる人物を、寂しくなったわね、と冗談交じりに探す。

 

「(五匹のポケモンを損失してる。生きていたところで、何も出来るとは思えないし……仮に最後の一匹を取っておいたところで、この子(キュウコン)が苦戦することもないでしょう)」

 

 何より、私にはまだアレ(・・)が――。

 

「敵の死を確認するまで、未だ壁を解除しないその周到さ。いいね。見事と言っておこう」

 

 そこで独白は途切れた。バンギラスとツンベアーの巨体を縦にして凌いだクルスが、姿を現したからだ。

 

「だが強すぎる力を持つのなら、油断はまた別の形で招かれるものだ」

「何よ、まだ生きてたの? 今度は何しようってのかし」

 

 彼は独白だけじゃなく、発話さえ許してくれなかった。

 キュウコンが振り向きざまに吠えた刹那と、自分の背中に走る衝撃の一瞬が、重なり合う。

 思わなかったのだ。堅牢な要塞の中にいたものだから。

 考えなかったのだ。先方の手は出尽くしたものだから。

 

「“クロバット”」

「――――」

 

 知れなかったのだ――この防壁を無効化できる特性『すりぬけ』を持つポケモンが、彼の本当の切り札だったなんて。

 

「“どくどくのキバ”だ」

 

 ぷじゅっ。肩の柔肉に喰い付いた牙は、その先端から死の液汁を流し込んだ。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 どこに逃げればいい。どう逃げればいい。閉ざされた空は何も教えてくれない。

 偽りの太陽は死に急いだ果てに待ち受ける結末を哀れと嗤って、見下した。それでもマンムーは、主を乗せてこの味気も先もない道を走り続ける。

 遠い後ろから追手の声を聞く。振り向く最中で過った視界の中に、それはいた。

 

「――ッ!」

「くたばっちまいな!」

 

 ぼろぼろと崩れかけた外壁が無人の事実を示す、褪せた廃屋の二階。そのベランダから覗く狙撃銃を、ユキナリは見逃さなかった。

 尤も、対応できるかは別の話。

 

「ぐッ、つあ!!」

 

 答えを急げば、『しきれなかった』。

 咄嗟に抜いたハンドガンによるカウンターで、相手の頭に穴を作ることこそ成功したが、代償として凶弾に右足をくれてしまった。

 苦悶に歪んだ表情に汗が滴る。

 

「みィーーーつゥーーけたァーーー!!」

「……!!」

 

 悪の饗宴は、まだ終わらない。

 眼前の地面を突き破って出てきたボスゴドラに跨りながら、ゴトーは心底楽し気に言った。

「“もろはのずつき”だこの野郎ォ!!」襲い来る巨躯の姿は、まるでトレーラー。反動も厭わない突進が、マンムーを一撃で打ち崩す。三メートルはあろう図体のポケモンを軽々ぶっ飛ばすというのだから、そのパワーは想像を絶するもので。

 乗り物が横転すれば、搭乗者も倒れるのは必定だろう。額を打った。また血が流れた。痛みにやられ俯せて、土煙に噎せながらも、ひっくり返って動かなくなったマンムーを戻す。

 

「ハハハハハハハハ!!」

「ッ“ユキノオー”!!」

 

 猛攻はかくして、彼を延々と咎め続けるのだろう。

 転がり落ちたモンスターボールを、伸ばした掌が叩いた。するとユキノオーはユキナリを守らんと背を向けたまま立ち上がり、どしんどしんと迫ってくるボスゴドラに立ち向かう。

 掴み合い、咆哮が重なったのを合図に、ユキナリは再び立ち上がる。そして一人になって、また道なき道を駆けていく。

 

「おいおいボロボロじゃねえかよォ、これ以上どこに行こうってんだァ? なァオイ」

 

 引きずる足が逃げ込んだ先はすぐ近く、人の気配どころか畜生の気配すらも怪しい、『第一研究所』なる廃墟であった。

「ったく。困ったもんだなあ、おまわりさんも」先程と同様、下僕に目の前の戦いを預けて、ゴトーも朽ちかけの看板の向こうへと足を踏み入れる。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「……なによ、これ」

「あまり無理に喋らなくていい。可哀想に」

 

 言外に「アンタがやったんでしょうに」と唱え、痺れてもつれる舌は「答えなさい」と発した。

 体が別人のようだった。何よりも息が苦しい。全身から力が抜け、ずっと片膝が地面に貼り付いて動いてくれそうもない。見上げるために首を伸ばすことにさえ必死になる。何が起きたかと訊ねるのも、無理はないだろう。

 

「なに、神経毒のようなものだ」

「ずっと、これを、狙、って……たわけ、ね」

「君が私を知っているのかは知らないが、私は君をよく知っている。痛いほどにね」

「マルマインさえ、わざと、ちらつかせていた、って……えらく馬鹿な作戦じゃ、ない」

「そうでもしないと、君をこんな風に出来なかった」

 

 マルマインの大爆発さえ、誤魔化しのために使い捨てたカードだと言っている。

 クルスが本当に彼女へ差し向けたかったのは、今、隣でげたげたと歯を剥き出しにして笑う『蝙蝠ポケモン』の“クロバット”。

 なるべく多くのポケモンを出させ、頃合いを見て“だいばくはつ”でまとめて処理し、不安要素を潰しきったところでオーロラベールを無事に発動してもらい、侵されまいと思い上がった僅かな隙を『リフレクター』や『ひかりのかべ』といった防壁をすり抜けられる特性を備えた彼で、狩り取る。

 人を殺すのに強いポケモンも、特別な技も必要ない。少しの頭脳と、準備さえあれば。

 そして嵌められたカミーラは、まざまざと思い知ることになる。

 暗殺者クルスという男を。対人戦闘に特化した、“黒色十字”の本領を。

 

「どうして君は、こんな場所に立ってしまったのだろうね」

 

 主の隣で睥睨を続けるキュウコンもお構いなしに、クルスは彼女に投げかけた。

 

「君は自分で、自分の価値を知っている。大きな何かを変えられる、優れた者の資質をわかっている」

「意味、わかんないこと、ぬかし、てんじゃ……な、わよ」

「自分が、自分だけが力あるのだと。それを事実としており、又、そうだと信じて疑わない。仲間すら自分の理想へと至るための願望器とし、そうしてその果てにある祝福を掴み取る。それが許される。いわば選ばれし者だ。君はそうだったんだ」

 

 カミーラが静かになっていくのに比例し、クルスが饒舌になる。

 

「それなのに。どうして己を地獄へ導く道を自ら望んでしまったのか……、僕には理解が出来ない」

 

 急に様変わるものだから、傍目から見れば薄気味悪さすら感じられて。

 

「いいや、本当は理解する力があっても、そうしたくないだけのかもしれない。僕は君が好きだからね」

 

 しかし当人は至って真面目な上、表情の中に戦いの最中では出さなかった真剣さすらちらつかせてくる。

 彼が何を思い、何を考え、何を目的としてこの邂逅に立ち会ったのか。それはきっと彼のみぞ。

 

「なればこそ。僕は僕として、君は別の何かとして――異なる可能性の中で、出会いたかったよ」

 

 尤も、彼女は知りたくなんてないだろうが。現状を加味して表現するなら、知ろうとする余裕がない、というのが正しいのかもしれない。

 霞む中でも、わかった。男の背中が遠ざかる。

 置いていくなど許されない。決着はまだだろう。まだ負けてない。

「待て」――――声にならない声が虚しく響く。カミーラの体内の毒は、もはや言葉を発せなくなるレベルで回っていた。キュウコンに背中を討たせようにも、口が麻痺して指示が出来ない。ひいひいと乾いたぶつ切りの呼吸だけが喉を鳴らす。

 見るしか出来ない。眺めるしか、睨むしか。

 

「じゃあね」

 

 その内。胸が焼けるように熱くなって、彼女の視界は鮮やかな赤に染まった。

 反射的に口を押さえた手の指の隙間から、とぷとぷと流れ落ちる血が自分のものだと理解できた時。

 カミーラの肉体は、毒に細胞を破壊される。

 鼻からなのか、口からなのかも判別できない程の勢いで、大量の鮮血が噴き出る。搾り出されるように、引き抜かれるように。どれだけ願えど止まらない。

 ひとしきり流れたそれは、やがて雪景色に大輪のゼラニウムを咲かせた。

 

「さようなら、カミーラ」

 

 どしゃ、と倒れる人の音を聞く。クルスは寒空の下に供えられた弔花だけを瞥見し、その場から立ち去った。



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05.Freeze

 見知った施設の、見知った通路。それだけで男が思うことも、言うことも、なくなってしまう。

 道に転がる空の消火器を乱暴に蹴飛ばした。劣化が激しいプラスチックの使い捨てカップを踏んづけた。

 枯れ朽ちた観葉植物を尚も飾る哀れな植木鉢の前を横切り、ところどころが欠け落ちたパズルのようなタイル床の上を歩く。

 薄汚い――ゴトーが何度第一研究所(ここ)に来ても最初に思うことが、これだ。

 落ちている血の滴のみを頼りに、吹き抜けのエントランスを越える。

『BIOHAZARD』蝕まれた箇所を三方に向け背中合わせとなった三日月が、バックにリングを携えて、標識越しにそう警告している。

 貼られている扉には、“サンプル室”と記してあった。

 入れば、小型の瓶から、中ぐらいのボトル、果ては巨大な器。様々のサイズのガラスが、謎の液体と一緒に禍々しく変容したポケモンのような何かや、その一部を閉じ込めている。

 ぼんやり室内を照らすレッドライトは、これ以上の立ち入りを制止する赤信号のようにも思えて。

 道標の途切れ目は、ここであった。改めて拳銃を握り直し、研ぎ澄ます感覚。

 

「おっと」

 

 しかし、それは必要はなかったようだ。弾が飛んでくる前に、荒い呼吸が聞こえてしまったから。

 倒れるように弾丸を避け、ついでのように銃声で返事をする。

 小型サンプルが並ぶシェルフの向こうからの一発だったようだ。ユキナリとゴトーは、歪んだガラス越しの世界で目が合った。

 

「くそッ、ダメか……!」

「おうおう、頑張るねェ」

 

 パン、パン、パンと、三発。逃げるユキナリへ弾道を貼り付けるように発射するも失敗、既に死んだ生物たちしか穿てなかった。派手にはじけ飛んだ透明の破片を踏み付け、一足早く退室した彼を追いかける。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『お父さんは、いつ名前を教えてくれるの?』

『お前がその呼び方を改めないうちは、一生知ることもないだろう』

 

 冷静になってみれば、おかしな関係性だったと思う。

 それはそうだ。名前も知らない男を父と呼び、慕っていたのだから。

 

『改めたいから、名前を訊いてる』

『口だけ達者になっていくな。どこの誰から教わっているかは知らんが』

 

 でも、この人は行き場のなくなった私を拾って、養ってくれた。

 色々な事も教えてくれた。食事にありつく方法とか、悪人の倒し方とか、ポケモンとの付き合い方だとか。

 守られるだけじゃない、守れる私を確かに育ててくれた。

 

『大体、もう出会って一か月になるよ。そろそろ教えてくれたっていいはず』

『一年経つころにでも教えてやる』

 

 彼はいつも「ごっこ遊び」と言っていたけれど――あの時の私たちは本当に、何一つ偽りのない、家族だったと思う。

 だから彼の事を知ろうとした。知りたかった。一生懸命だった。

 

『どうして一年なの?』

『特に意味はない』

『またそうやってはぐらかすのね』

『冗談のつもりでいる』

 

 でも、今思えば。

 

『――――お前が(これ)を握らない日が来た時に、教えてやるよ』

 

 何も知らず、わからずな、守られる者でいたからこそ。

 私はあの人と、一緒にいられたのかもしれない。

 

 

 

「!」

 

 アルマはぱちり、と目を開けた。そこで、己が意識を手放していたことに気付く。

 どうやら柔らかいものの上で仰向けになっているようだ。見える天井が誰かの家だということを教えてくれた。

 ぐったり寝せた頭の上に、乗せる腕。妙な夢を見ていた――脈絡のない記憶のフラッシュバックに、どこか辟易しているようで。

 我に返ると、視界いっぱいに包帯が入った。そこから芋づる式にここまでの流れを想起する。

 そもそも、そもそもだ。テンヨウに負けた自分が、こうやって今なお呼吸できていること自体が既に不可思議なのである。

 何が起きて、どうなったんだ。まず、ここはどこだ。遅ればせながら真っ当な疑問を抱くアルマ。

 

「あ……目、覚めた?」

 

 そんな彼女の前に、全てではないが、答え合わせをしてくれる者が現れた。

 その顔は見覚えがあり、おまけに記憶にも新しい。具体的には、ついさっきの。

 雑貨売りの少女が、アルマの枕元に、彼女が身に着けていた衣服を置く。綺麗に畳まれていて、血や土汚れも可能な限り落とされた痕跡があった。

 

「あなたは、……つっ」

「無理しないで。応急手当しか出来てない、から」

 

 起き上がる。痛みで必然的に垂れた首が、隅々に渡る手当ての形跡も教えてくれた。

「ごめんね、勝手な事しちゃったけど」インナーウェアから露出した素肌を瞥見して、少女が言った。

 

「なん、で……ここに」

「なんで、って……うちの前で倒れていたの。それも、こんなに血だらけになって……びっくりした。覚えがないの?」

 

 自分が倒れたのは、ここからは大分離れた廃工場だったはずだが……実際にこうして彼女の家にいるのだから、疑っても仕方がないのだろう、と自分を納得させる。

 何よりも命を拾えたことに喜ぶべきか。そんな風に思考を切り替え、時計を見る。針はとっくに約束のタイミングを過ぎていた。

 

「……ありがとう。このお礼はいつか必ず」

 

『考えている場合じゃない』内心の声が、未だ覚めきらぬ肉体を駆り立てる。

 アルマはそれに逆らうことなくベッドから足を降ろし、少女を尻目に衣服を着用していく。手早い動作を以て次々と元の姿に戻っていく過程で、所持品をチェックした。

 

「……?」

 

 そして、訝る。いつも肌身離さず持っている物がなくなっているのだから、無理もない。優先度が低い物ならいざ知らず、それは紛失しようものなら社会的な立場すら失われかねないものであった。

 ないのだ。PG手帳が。

 戦闘中に落としたか? それとも倒れている間に誰かから抜き取られたか? 単純に歩いている間に落としたというのは、最も笑えないことだが――。

 

「ごめん、私の服のポケットに、何か入ってなか――」

「ねえ、お姉さん」

 

 どうにもならなくなって、だめもとで少女に訊ねた、その折だ。

 彼女の探し物が、見つかった。

 

「……お姉さんは、どうしてここに来たの?」

「……!」

 

 但し少女の、手の中で。

 質問に、質問で返される。それは先程も成された問いかけのはずなのに、アルマの胸に酷く重くのしかかった。

 何故か、どうしてか。

 

「どうしてお姉さんは、顔を隠していた(・・)の?」

 

 それはきっと。

 あの日守れなかった人と、あの日守れなかった時の姿で、向き合ってしまったからなのだろう、と。

 そんな風に思う。

 さしもの鉄仮面も、崩れて変わった。アルマは自らの顔に触れて初めて知る。変装用のマスクが剥がされていることを。

 

「――――!」

「――答えて」

 

 俯く細面が上を向く時、拳銃というもう一つの探し物が見つかった。

 それもやはり、その傷だらけの手の中で。

 今にも落涙しそうな瞳が狙いを定める先で――彼女は、何を語るのか。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「頼む、“ユキメノコ”!」

「やっちまえ“バンギラス”ぁ!」

 

 足止めのために出したユキメノコが、バンギラスと対峙した。くすんだ景色での追跡は、未だ続く。

 

「ッハ、もう満足に狙えてすらいねぇじゃねェか」

 

 ばら撒くように放たれたユキナリの銃弾がひとりでに足元で跳ねるのを確認すると、ゴトーは嘲笑を込めて言った。

 しかし、されど逃げ足は先を進む。グレーのぼろくずだらけの螺旋階段を上り、二階へと移るフロア。

 絵画が久々の来客に心底珍しそうな視線を送った。転がるソファは中綿散らかして邪魔をして、こぼれた天井の残骸は先刻から靴を叩いてはしゃいでいる。苛立つものだから、外れたドアを蹴り壊した。

 戦場は実験室へと移る。広々とした空間に足を踏み入れるやいなや、先客のユキナリが不意討ちの発砲で出迎えた。

 慣れた一本調子だ、と身を忍ばせる壁。しかしせっかく守ってくれたそれを、バンギラスは盛大に破壊した。

 

「あーあァ」

「ぐ……お、ッ!」

「ノックの力加減間違えちまったな」

 

 具体的には、ユキメノコを引っ掴んだ、その手で。

 だがそれでいい。彼はこの隔たりが消えてどちらが困るかを――よく、知っているから。

 瓦礫が爆ぜ散った。一方は自分を守ってくれる盾を、もう一方は障害物を失い、居合わせる者たちの表情が明暗でくっきりと分かれる。

 投げ飛ばされたユキメノコが苦しみを堪えて起き上がった。バンギラスは闘争心を剥き出しにして叫んだ。そうして響くは、第二ラウンドのゴング。

 用途こそわからぬが、少なくとも場を凌ぐものとしては役立つだろう。そう踏んで、大きな装置まで鉄火を散らしながら後退すると、隠れる格好で何度目かもわからぬ盾を作った。そんなユキナリを見て、ゴトーは言う。

 

「いい加減、諦めてくたばっちゃくれねェかい。ここまで入り込んできちまった事に関しては、運がなかったと思ってよォ」

 

 ピンポイントの強烈な力で装置が歪む衝撃を、背中越しで感じた。

 

「ま、それがなくても俺ァおまわりさんってのが大嫌いでなァ。とりわけ無駄なことをせこせことやって、さも『世の中のために生きてますー』って清々しいツラしてるところがよ、どうにも気に入らねんだわ」

「PGのことを語るのか、犯罪者であるお前が!」

「そういう器の小せえ物言いすんなよなァ、らしさが無くなっちまうぜ?」

 

「清く正しく美しい、世間様の法を守るおまわりさんらしさってやつがよォ!」「ほざけ!」

 言葉と弾丸が交錯する。双方は跳弾を合図に、再び身を隠した。

 

「法が守られなければどうなるかを、お前は知っているはずだ! 暗躍街(ここ)を統治する、お前なら!」

「そうかもしれねェなァ! だが俺様は、法に守られなかった奴の結末も知ってるぜ!」

 

 乾いた床に古いマガジンが一つ、カランと落ちる。そんな味気ない音しか返してやれなかった。

 巻き戻される記憶の映像が、その登場人物が、もう喋るなと言った気がしたから。

 ここに居た彼よりも数段劣る言葉の重みを誤魔化すように、ここに来た彼はリロードした弾薬を使い込む。

 

「法律が時代を守る? 社会を助ける? 人に味方する? ちゃんちゃらおかしいぜ! じゃあなんで日も当たらねえこんな場所に人がいる!? 今なお流れ着く!!?」

「ッ!」

「黙ってねェで答えてみろよォ!」

 

 隠れては、撃つ。ターン制じみた応酬が繰り広げられる人間の戦いとは裏腹に、ポケモンバトルの展開はトレーナーの意気が反映するように傾いていく。

 “れいとうビーム”での一撃でまとわりついた氷を一瞬で砕くバンギラスが、ユキメノコを尻尾で殴り飛ばした。

 

「違う、違うんだよなァ! ルールってのは言葉を知っている奴の味方しかしねえ! 字を読める奴の肩しか持たねえ! それを何の苦もなく知り、勝手に埒内に適用され、当たり前のように行使することが出来る、ハナっから恵まれた奴(・・・・・)しか助けちゃくれねえ!」

「だが! 僕ら個人個人の正義は、そういった人たち以外さえ救う力も、意志もある!」

「嘘だなァ! テメェら警察は守られるべくして生まれた人間だけ守って、ありがたがられて得意になってるだけだ! ハハハ、随分と浅い底の正義だなァ!」

 

「気付けよ! テメェらおまわりさんは今までもこれからも、何一つ救えねェんだ!」

 ユキナリは形相のままに乱射する。耳朶に入り込んでくる一言一句の全てを、銃声でかき消すように。

 だって。何故なら。そうでもしないと、

 

「何故か!? 本当に助けてほしい奴ァ、『助けてくれ』の一言すらいえねェでくたばっていくからさ!」

 

 自分が誰かの手さえ、握れなくなってしまうかもしれないから。

 

「それを生み出した奴は誰だと思う! なんだと思う!? テメェらで取り決めた、テメェらだけがおいしい(ルール)がうじゃうじゃ蔓延る地上(うえ)の世界だろうがァ!」

 

『知ったような口を』――それ以上に知ったような口が、言いかけて止まった。

 

「知恵ある奴ァ世界が受け容れられる幸福の総量に限界があると知りながら、独占を働く! そうして次々と野垂れ死んだことにすら気付かれねェ虚しい奴らが増えていく!」

「くっ……!」

「俺達が闇だァ? どの口が喚いてやがんだ、このおたんこなすがァ!」

 

 渦巻く呪いが肌を焼く。滲む辛みが胸を突き刺す。怨嗟は喉から手を伸ばし、ぎりぎりと首を絞める。

 捲し立てに震える手が、俯いた額を伝う血と汗の混じった体液を拭う。もう、軋んだ心臓が張り裂けそうだった。

 

「より良くするために! 暮らしやすくするために!」

 

 弾倉を再び装填する最中、ガササ、と部屋中に散らばる紙が激しい悲鳴を上げた。ユキナリが障害物の向こうから状況を確認した時、事は手遅れで。

 ゴトーは既に、彼の間近にまで迫っていた。

 向けて発砲しようとしても、不可能。必定だろう、あらかじめ残弾を計算した上での、タイミングなのだから。まさしく生まれた一瞬の隙を、鮮やかなまでに狩り取られる。

 声帯が潰れてしまいそうな力で首を掴まれると、ユキナリはその勢いのまま壁に叩き付けられた。

 

「――そんなおためごかしを散々吐いて、弱者から全部を奪い取ってきたのはどこのどいつだァ!!」

「っ――!!」

 

 ぎょっと開いた眼光が、相手の視覚の向こう側にありったけの憎悪を流し込む。

 砲声が木霊した。ユキナリの顔面よりも、離れた方で。

「チッ!」それは、決死と呼ぶにふさわしい。ユキメノコがバンギラスの一撃を顧みず、横からゴトーへと“シャドーボール”を放ったのだ。弾道どころか重心がぶれ、崩れたバランスは転倒という現象を呼び込んだ。

 “ストーンエッジ”に従って倒れたユキメノコだが、彼女の置き土産はまだ終わらない。突如として伸びた彼女の影に侵され、バンギラスもまた瀕死となって倒れ込む。

 誰よりも早くにその意味を察したユキナリが、彼女をボールに戻しまたも逃走した。

 

「クソッタレがああああああ!!」

 

 “みちづれ”――自死と共に相手を無力化する、ある種の呪いのような技。

 いよいよゴトーの堪忍袋の緒が切れる。悪漢は憤怒任せに部屋中に弾丸をひとしきりぶちまけた後「ブッ殺してやる」と黒い火傷に誓い立て、実験室を後にする。

 終わりが、音を立てて近付いてきた。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 もし、自分だったなら。さっきから、ずっとそんなことを考えている。

 もし自分を救ってくれるはずだった人が、無力だったなら。

 もし、その無力のせいで、地獄のような人生を強いられてしまったのなら。

 

「もう一回だけ、聞く。お姉さんはどうしてここに来たの」

 

 自分は、その人を許すことが出来るだろうか。

 流し台に置かれたカセットコンロの上で、ケトルが甲高く鳴いている。彼女に「やめろ」とでも、言っているのだろうか。

 寒さで曇る窓は、外の景色どころか、今の自分がどんな顔をしているかすら教えてくれない。

 救われなかった者と、救えなかった者。明確な対峙が、両者の封じ込めていた様々な感情を呼び起こす。

 

「……咎は、受ける」

 

 アルマは許せなかった。間違っても。だから彼女の震える銃口を逸らそうとはしなかったし、その権利はないとすら考えた。

 

「でも、今はまだ、倒れてあげられない」

 

 さりとて、だ。

 

「身勝手なのはわかってる。それでも、私はまだあなた達を救いたいと思っている。救えるとも、思っている」

 

 たとえ犠牲者から罪科を問われようとも。地獄に堕ち果てようとも。憎まれ、忌まれようとも。彼女はまだ、成さねばならぬことがある。闇の底に沈んでしまった人を、救い出す使命がある。

 それは決して、罪滅ぼしなどという安い行為ではない。ただ己が進む過程で、やるべきと思ったこと。死へと至るまでに踏む必要がある、重要な過程。

 だから。

 

「ので、私は」

「――そうじゃない、よ」

 

 意外な遮りだったと、思う。吃驚するアルマに向け、少女の言葉が続いた。

 

「確かに辛くて、苦しいけれど……、あなた達には感謝してる」

「え……?」

「本当は死ぬはずだった私が、ちゃんと生活できているのも。今、こうして暗闇の中で頑張れているのも。全部あなた達のお蔭だから」

 

 恨んでなんかないよ。実際に弾は出ていないのに、頭を撃ち抜かれた気分であった。さらなる少女の発話に、アルマはより目を大きくする。

 

「『生きる』って……約束、したんだ。サンドパンを連れた、門番のおまわりさんと」

 

 口にされる特徴に、酷く思い当たる節。浮かぶのは、今まさに助けに行こうとしている人の顔。十字架を背負って、昨日の中で氷漬けになったままでいる、彼の姿。

 

「言われたんだ……『どんなになっても、生きててくれ』って」

 

『そしたら、僕がいつか君の明日を取り返すから』って。

 全てを失ったろうに。死にたくなることもあったろうに。彼女の魂とて、未だあの日に閉じ込められているだろうに。

 平和な昨日に帰れない、希望が光る明日にも行けない。だからって幸せな今に立ち止まっていることも、出来なくて。

 閉鎖された夢の屍だらけの空の下、ただその日の安寧さえ約束されない中を、死んだように生きている。

 だったらば。それならば。恨んだっていいだろう。憎んだっていいだろう。行き場のない怒りを、理不尽に縛り付けられる悲しみを、ぶつけたっていいだろう。

 アルマはそんな風に思っていたし、誰もがそうするものだと、信じていた。

 なればこそ、出会った少女の言霊に宿る優しさというものに違和感を覚えたし、その正体がずっとずっと気になっていた。

 

「でも……お姉さんたちがここで今何かしたら、私の生活は、また無くなっちゃうかもしれない」

 

 だがその疑問も、たった今をもってようやっと解消された。

 それは、悉くを手放す諦観ではない。無論、自棄を起こした果ての気の狂いでも、決してない。

 

「それは嫌……、私は死にたくない」

 

 ただ、生真面目で。

 

「生きて、いたいの」

 

 誰よりも誠実で。

 

「生き延びて、ここを出たいの」

 

 常に一生懸命で。

 

「そして、また……っ、また! 太陽を見たいの!」

 

 人一倍、責任感が強くって。

 

あの場所(ネイヴュ)に帰ってきて、おまわりさんに『ありがとう』って、言いたいの!」

 

 そんなどこぞの警官から、願いと一緒に受け継いだ“温かさ”で。

 どうして気付かなかったのだろう。よく拝んでみれば、こんなにもそっくりじゃないか。

 彼女は、死地の中でも前を向いて歩いてる。どこにいられなくとも、いてもいいどこかを探し続けてる。

 こうして少しばかり無茶をしてしまうのが、珠に瑕ではあるが――これもまた彼の面影だと思って、ご愛嬌。

 

「こ、来ないで!」

 

 アルマはそれ以上、立ち尽くすことはなかった。

 

「私は!」

 

 もう迷わない。やるべきことがわかったから。

 

「私、は……っ!」

 

 望まれない黒鉄を掴んで、ゆっくりと下へ降ろす。

 

「……大丈夫」

 

 傷だらけで見すぼらしいなんて、とんでもない。

 

「大丈夫だから」

 

 誰よりも綺麗な、その白魚のような手が汚れてしまっては、いけないから。

 こんなものを握らなくてもいい明日を、彼女と約束するから。

『ありがとう』――その言葉で自分が救われたように、必ず彼女を救うと誓うから。

 揺らぐ声と一緒に、少女を抱き締めた。抑えていた感情が、涙の堤防と共に爆発する。

 

「う、わあああああああああん! わあああああああああんっ! わあああああああああああああああああっ!」

 

 喚いて、叫んで。少女は吐き出す。小童みたいに泣きじゃくって。堪えていた心の丈を。目一杯。

 

「わたし、がんばってる、よ」

「うん」

「まい、にちっ、いたくて、こわい、けどっ……がんばってる、よ」

「……うん」

「ちゃんと、いきてるんだよお……きづいて、よお……っ」

「知ってるよ……えらい、ね」

 

 叶うのならば、氷が解けますように。そう願いながら体温を運んで、指で柔らかな髪を梳った。

 ただ、ただ遠くで寝そべる雲を見上げて。流れる世界の下にいるだけ。

 何も、特別な事は求めていなかった。誰も、悪くなかった。それだけを頭に描いて、望んでいた。

 

「そして、一生――忘れないよ」

 

 きっと夜の向こうを見据えて、生きていた。

 心臓の残された鼓動数に、刻み込む誓い言。彼へ伝えに行こう。届けに行こう。どこか遠くへ、行ってしまう前に。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 カン、カン。金属の足場を、弱々しい刻み足が辿る。それは研究所の五階から続く一本道で、一度外へと運ばれる。そして先にある塔上の建造物を、繋ぎ止めていた。

 橋、というものになるのだが、面のところどころが劣化によって抜け落ちており、手すりも枝のような鉄の棒きれをいい加減に組み立てただけの構造で、本当にそう呼んでいいのかは疑問符が付く。

 しかして、ユキナリは通るしかない。満身創痍の身が思うままに赴いた結果だから、仕方がない。

 頑強そうな扉を開けた。忽ち猛烈な熱気に全身を当てられるが、燃え尽きてしまうレベルではなかった。しかし長居は、間違いなく出来なくて。

 上から見た建物断面の径を細めるよう、(ふち)に配置された円状の足場から、炎上する光景が見える。

 真ん中の大穴を眼下にすれば、

 

「……なんだ、これは……!?」

 

 遥か深くで、溶岩(マグマ)がこぽこぽと煙と泡を吹いていた。

 

「焼却炉みてェなモンさな。ここよりもさらに地底から引っ張り出してる」

 

 熱波の正体を丁寧に解説する声に振り向き、身構える。もはやここまで来れば、気配の主が誰なのかなど嫌でもわかる。

 

「ここは生物研究所でな。実験やら何やらで、色んな廃棄物(ゴミ)が出る。それをまとめて燃やしてんのさ」

「……さしずめ、地獄の釜だな」

「ま何も、人間が入ったことがねえとは言わねェし、お前が初めてとも言わねェ。老若男女も人畜生も不問だからよォ、安心して後悔と共に沈んでくれや」

 

 どこぞへ抜けていく、焦げの臭い。それを背にする戦士が闇の王と改めて対峙した時、両者の注意を引くように、焼却炉の壁を突き破った物がいた。

 

「……ようやく見つけたぞ」

「しぶてェなァ、お坊ちゃんもよォ」

 

 乱入者は、グライドであった。総力を挙げて襲い来る街の者たちを退けここまで至るのは、さすがのゴトーにしても想定外だったようで、少々の困惑を顔に出す。

 

「当然だ。我々は貴様らに幾久しい終焉を与えるために訪れている」

「ったく……まとめて相手にするしか、ねェか」

 

 ぼりぼりと面倒そうに頭を掻いて、ゴトーは最後の一匹のポケモン“ダイノーズ”を出す。

 それに反応を示し、武人然とした佇まいでグライドの前に出るのは、装甲ポケモン“グソクムシャ”。彼をここまで運んできてくれた、これもまた最後の一匹で。

 そしてユキナリも必然的な空気に促され、実質(・・)最後の一匹の“トドゼルガ”を出した。

 静寂の中で手招きする死の空洞を囲んで向き合う、三者と三体。

 

「バラルも、PGも。テメェらの時代は間もなく終わりを迎える。いずれ天と地はひっくり返って、俺達が地上の支配者になるだろう」

 

 先に果てた者から、落ちていく。

 

「下らんな、勝手にやっていろ。我々は必要としていないのだ……その何もかもを」

 

 地の底の獄炎が、三つ巴に近づく壮絶な結末をまだかまだかと待ちわびている。

 

「――“ぜったいれいど”」

 

 男はそれを笑った――――残念だったな、と。

 

「!?」

 

 出し抜けで消え入りそうなユキナリの指示の直後、トドゼルガはその場に氷を殺到させた。

 すると壁面が。足場が。天井が。開いた穴と、扉が。そして仕上げに、溶岩が。周囲のありとあらゆるものが、何もかもをゼロに還さんとする白に染め上げられていく。

 一瞬の下に熱さえ殺す氷獄の凍気は、逃げ場と成り得る穴さえ氷柱で塞いで「逃げるな」と言うのだ。

 全てが凍結し、密閉状態の巨大な冷凍庫へと変わり果てた頃。ポケモンの技で事なきを得た各々が、僅かな呆然の後に口を開く。

 

「……何のつもりだ」

「ハハハ! オイオイ、追い込まれ過ぎてとうとう頭がイッちまったか!?」

 

 彼らの言葉の意味はもっともであった。温度がマイナスの空気で満たされた出口のない箱の中で、どうして生きられようか。子供でもわかる、単純明快な話。

 仮に他者を殺すつもりであったとしても。正常な判断力が働くのなら、己とて凍えてしまうのは理解が及ぶはずで。

 ユキナリが冗談めかした問いかけを無視しながら視線を落とすのは、トドゼルガの方。

 

「ありがとう」

 

 多くは語らない。ただ優しく微笑みながら撫でた頭に、短くそう残した。

 そうしてゆっくりと向き直る背中を、仲間は直視できなかった。険しいままに目を伏せることしか、できなかった。

 

「……明日の若者を思い、戦士を志した時から、ずっと考えていた」

 

 彼は知っていた。いや、知らずにいられるわけがなかった。

 

「僕は未来に、何かを残せているのだろうか、と」

 

 長い時というのは、言の葉を介さずして心を繋ぐ故に、残酷なもので。

 

「でも“あの日”を経て、渦巻く絶望を見て、その答えは得た」

 

 だからその眼を一度見れば、すぐにわかった。

 

「――何一つ、自分の証すら残せていなかった、と」

 

 直面する最期を受け容れる、そんな覚悟ぐらい。

 

「だから、今ここで。僕は身命を賭して、僕の全てを残していく」

 

 主の命の灯火の、最初で最後の煌めきぐらい。

「サンドパン」握り拳で、深く息を吐いた。別れは考えないでおこう――自分は、立ち会うことがないから。厳格さを湛えた声音が、相棒を呼ぶ。

 

「もたせられるか?」

 

 彼が最後に承る注文は、二つ。いずれもサンドパンにしてみれば朝飯前で。

 一つ目、ただでさえ人体の表面が痛みを訴えるこの環境下で、ひたすらに時間を稼ぐこと。

 そして。

 

「あと、彼女たちも――頼む」

 

 事が終わった後。それを同志たちに伝え、脱出の際の力になること。

 サンドパンは静かに頷いて、トドゼルガと一緒に前へ出た。目蓋一つ動かない表情を見送り「そういえばこいつは、出会ったころから職人みたいな奴だったな」なんて、場違いなことを思い出して。

 

「貴様……まさか我々と共倒れしようとでも言うのか」

「そのまさかさ。大規模テロリストのナンバー2と、犯罪組織のトップ――僕の散り際を飾ってくれるには、申し分のない役者だ」

「悲劇のヒーロー気取って名誉の殉職ってか? かーっ、冷めるねェ。今時ドラマでも笑えねェ流れだ」

「お前たちが面白くない顔をするのなら、それは僕にとって最高に好ましい……土産話にでもすれば、向こう(・・・)の人達も少しは浮かばれるだろうね」

 

「持っていかせてもらうよ。お前たちの首もろとも」誰も救われず、報われず。笑わず、泣かず。悲しみも楽しみも、散らばせた悉くを未精算のままに閉幕を迫るデウス・エクス・マキナのようなクライマックス。

 そうして彼の物語は終わっていくのだろう。実質的な未完だろう。けれどもそれで、いいのだろう。

 今日がダメでも、明日ならきっと――続きへの布石は打った。次に繋がる最低限は果たした。そうやって、未来へ託す選択を取った。だから彼はバトンを手放し、礎になりて、思い描く彼だけの明日を一足早くに迎えよう。

 

「ちっ、グソクムシャ」

「行けよ、ダイノーズ!」

 

 心中など冗談ではないと言わんばかりに、ゴトーもグライドも狙いを一人に絞る。

「“であいがしら”」「“パワージェム”だァ!」刹那を駆ける辻斬りじみた一撃と、殺意を持った石の輝きが、ユキナリを襲った。

 先がないと知りながらも庇うのは、やはり捨てることの出来ない絆なのだろう。トドゼルガは身を挺して彼を守り、倒れてしまう。

 

「くっ……!」

 

 一気に傾く、一対二の状況。

 しかしサンドパンは負けるか、と意気を咆哮に乗せて吐き、彼の願いを叶えるために爪を尖らせた。

 その時だ。

 冷たく閉ざされた鉄の扉が、何者かに打ち破られる。

 それはある者にとっては邪魔をしに来た敵と予想されたろうし、またある者にとっては助け舟に乗った味方と予想できたろう。

 多様な想像の余地が大いに残されているこの混沌の中で、終局の場へと遅れて参戦したのは。

 

「……探しました、特務」

 

 邪魔をしに来た、味方であった。



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fin.背負い物

「……騒がしいな」

「アル、マ……」

 

 氷結という名の極刑を告げる監獄は、いともたやすく破壊された。

 決して、万に一つも打ち破られないと思っていたわけではない。物事に完璧は存在しないから。

 それでも、よりにもよってその相手が仲間であったというのは、ユキナリの想像が及ばなかったところだ。

 

「おまわりさんの残りカスかァ。そんなボロ雑巾みてーなナリで、今更どうしようって」

「“ガブリアス”」

「おっ、……と! っへ、こいつァわかりやすくていいや!」

 

 悪漢と悪魔の視線をすげなく跳ね除け、アルマは問答無用に彼らへ地竜を差し向けた。口より体で伝えるのは、彼女が最も得意な表現の仕方。

 お前たちに話す事はない、と言外に意思表示している。

『グァオオオオオオオオオ!!』ガブリアスが束の間の沈黙を取り消すように叫ぶと、三つ巴が再開する。

 助けにきてくれたのに。援護しにきてくれたのに。それなのに。

 ユキナリは乱戦の中を潜っておもむろに歩み寄ってきた彼女に、なんと声をかければ良いかわからなかった。

 

「い、生きてたのか。よかった」

 

 だから当たり障りのないことを喋った。

 ばれているのは、知っている。彼女の物言いたげな相好を見ていれば、わかる。突き刺さる視線から逃れられそうもない状況証拠。

 それでもあわよくば誤魔化せれば、なんて思って、目交いで苦々しいぎこちない口八丁を披露してみたり。

 

「……それよりも、この状況をなんとかしないとな。僕が時間を稼ぐから、カミーラを連れてなるべく」

「どうして、ですか」

 

 もういい。向き合う彼女の眼が、短く言った。

 耳当たりがいい、優しい嘘つきの言い分なんて聞き飽きた。

 閉ざした瞳を撫でる、温かいほら吹きの晴朗な笑顔なんて見飽きた。

 もう、道化ごっこは終わらせよう。

 

「どうして、そうやって勝手に抱え込むんですか」

 

 絞まる喉から必死に搾って出した言霊を、とっくに見透かした胸の(うろ)に押し込んだ。

 

「どうして、一人で全部を持っていこうとするんですか」

 

 それはどこか煩わしさがあって、説教くさかったけれど。

 

「どうして――――遠くへ行こうとするんですか」

 

 置いていかれることをよく知っている彼女の言うことならば。きっと仕方がないのだろうと、思う。

 影に咲く光の花畑に、ぽろぽろと心緒の粒を溢し落とす。ユキナリが仰いだ先で見下ろす少女は、静かに泣いていた。声を詰まらせたまま立ち尽くしていた。

 男はいよいよばつが悪くなって、目線を逸らす。

 

「……僕の代わりは、いくらでもいる」

「いません。誰だって誰かの代わりになんか、なれるはずがない」

「アルマ、わかってくれ。僕一人の力では、もう」

「あなたは、一人じゃない!」

 

 どん、と押された感覚は確認こそ遅れたが、けして気のせいではない。掴まれ激しく皺寄る胸ぐらが、丁寧にも教えてくれている。

 初めて見る、顔だった。そしてこれからも二度と見ることはないであろうと思う、顔だった。音量も構わず、目の前で腹の底をありったけ吐き出す彼女は、

 

「私たちは別々のものを見てきたし、歩んできた道も違う――だけど、それでも!」

 

 そういう顔をしていた。

 

「こうして同じ未来を望んで、そのために集まって、一緒に進んできたはずでしょう!?」

 

 そんな顔して『あなたには仲間がいるでしょう』なんて叫ぶものだから。

 彼も驚いてしまって、決心が揺らいでしまって。

 まるで別人みたいだった。だって、そうだろう。

 

「……私たちが作る世界なんです。私たちがいないと、意味がないんです」

 

 彼が知る彼女は、仏頂面で馴染んでいる副支部長ですら、鉄仮面と揶揄してしまうほどに表情が固いのだから。

 こんなに面と向かって情意を露にするはずがない。

 

「勝手にあがりを決め込まないで下さい。一人で逃げないで下さい」」

 

 彼が知る彼女は、手先も人当たりも不器用で、年下である部下でさえ生き方が下手くそだと茶化してしまうほどなのだから。

 ここまで淀みなく饒舌に言葉を紡げるはずがない。

 

「どこにも、行かないで下さい」

 

「一人ぼっちはもう、たくさんだ」――心細く滲むネオンだけを頼りにし、深い水槽をゆらゆらと泳ぐ金魚のように、呟いた。

 彼が知る彼女は。知りすぎた彼女は。気が付けば、目の前の少女との齟齬を訴えていた。

 一緒に食べ過ぎた時間が、吐き出されていく。そうして繊維になって絡み合って、追いつけない程のメモリーが織り込まれていく。

 春の音も、夏の匂いも、秋の手触りもあったものじゃない、いつもいつでも散々な、冬の痛みばかりだったけれど――彼は確かに、彼女たちといたのだ。同じ地を志した“仲間”がいたのだ。

 そうだ。陳腐な自己欺瞞なんかで、上書きできるわけがないじゃないか。

 

「御託をォ、ぬかしてんじゃねェェェェ!!」

 

 その時、ダイノーズの最大火力技“ラスターカノン”が、放出される。組み合っていたグソクムシャから盾にされる形で受けたガブリアスは、指示者不在というハンデも手伝って急所に直撃、瀕死となって端に転がされた。

 それを合図に面持ちを引き締め、状況へと向き直る。アルマは地を舐めるガブリアスを下げ、次に送り出したロズレイドに“エナジーボール”を命じた。無論、この混沌への参戦表明を意味する。

 

「……奴ら二人を退け、そのまま離脱します。特務も――」

「今でも、夢に見る」

「! ……」

 

 彼女が自分の輪郭を捉えなくなったからだろうか。本音を吐露したからだろうか。だから話そうと、思ったのだろうか。

 わからないが、一呼吸。ユキナリは遮りのほつれから流れる言の葉を、その背中へとぶつけた。

 

「“あの日”のことを」

 

 今でも彼のネイヴュでは、幾体もの土塊の巨人が地均しをしている。

 命も、その営みの記憶も、何もかもを踏み潰して、消し去っている。

 撒き散らされる破滅の光は白雪を解かし、落ちた涙ごと蒸発させる。

 

「その都度、考えるんだ。どうすればよかったんだろう、って」

 

 あの時、自分が“奴”を打倒していたら。ゴルーグが落ちてくることはなかった。

 ちゃんと、捕え直すことが出来ていれば。あそこから人が消えることはなかった。

 無限数のたらればが脳みそに絡みついて、彼を釘付けて、そこに縛り付ける。

 

「許されたいなんて、思ってないよ。当然やり直せるとも思ってない」

 

 さよならすら言えないままに親と別れた少年が、二つの納体袋の前で空虚を見つめ立ち尽くしている。

 明日には希望を抱いて飛び立つはずだった青年が、形の無くなった家族の傍らで泣いて叫んでる。

 未だに響いているのだ。行き場を失くした者の、行き場のない悲嘆が。

 助けてほしかった。救ってほしかった。守ってほしかった。どうして。なぜ。なんのために。沢山の絶望を浴びせられ、その中で溺れて沈んだ。前が見えなくなった。

 

「でもね。僕の残された力と時間で、彼らに返せる最も大きなものは何か――そんなものを探していたりは、する」

 

 憎まれるのが怖いのではない。恨まれるのが嫌なのではない。救われたいなんてとんでもない。

「情けないヤツさ」自嘲が交じって、背筋が萎びて、項垂れた。

 

「けれども僕はもう、こうすることでしか全部を清算出来そうにない」

 

 ユキナリは、断じて死に場所を求めていたわけではない。ただ彼らに捧げたこの命の、その終わりにすら意味を与えられる瞬間を、場面を、ずっと待ち望んでいた。

 

「――僕はね。僕が礎となった世界さえ残れば、それでいいんだ」

 

 そこに僕は要らない、と、言った。

 平和を過ごすには抱え過ぎた。背負い過ぎた。

 

「何も知らない人が、何も知らないまま、何も知ろうとせずに生きる。なんとなく来る明日を嫌がって、昨日楽しかったことを思い出し、今日を空っぽに過ごすんだ。さぞ無意味で、無駄なことだろう」

 

 だから消える。それが正しいから。あるべき姿だから。

 

「でも、それでいいんだ。沢山の人のそれが成り立つのなら、きっとそこは平和な世界に違いないから」

 

 そして、どうせ失くなるならば。ありったけの希望を置いて行こう。

 

「そのために、僕は僕という存在を対価としたい」

 

 これこそが、あの日の“それから”を見て誓い立てた、ユキナリの決意だった。

 出会ってそれなりの時間を経ているが、初めて剥き出しの本心を前にしたものだから、多少の当惑はあったのだろう。しかしアルマはそう間を取らず、口を返す。

 彼女にだってまだ、伝えなくてはならないことがある故。

 

「……あなたに、救われた人がいます」

「……何?」

「その人は、あなたに『生きろ』と命じられました」

 

 ユキナリは黙りこくった。それは話を聞く態度というよりかは、突飛な事を言い出した相手に対する、戸惑いのようなもので。

 だが気にするものかと、肩越しに続けた。

 

「その人は健気にそれを守り、未だに生き続けています」

「おい……、何を」

「居場所を追われ、社会にも見放され、こんな地獄に堕とされ、命があることに喜びを抱けなくなっても……まだ、一生懸命に守り続けています」

 

 これは、願い事である。

 

「あなたに『ありがとう』と伝えたくて。もう一度、あなたが番を務める門を潜って、故郷に戻りたくて」

「……!」

 

 皆と違う歩幅で。合わない呼吸で。遅いかもしれないし、遠いかもしれない。

 それでも確かに前を向いて、手探りしながらでも明日へと進み続ける、たった一人の少女の願い事である。

 

「それでもまだ、あなたは行ってしまうつもりですか」

 

 僕はその名を、知らなかった。

 

『君、大丈夫か!』

『……もう、いいの』

 

 必死なあまりに、訊ねることすら忘れていた。

 

『疲れたんだ。お父さんもお母さんも、潰された。生きていても、いいことなんてない』

『そんなことはない! お父さんもお母さんも、幸せになってほしくて君を生んだんだ! ここで力尽きちゃいけない!』

 

 ただ、ひたすらに残った命を掬い集めるばかりで、顔も見ていなかった。

 

『全力で走るから、しっかり掴まってろよ……落ちたら最後だ。振り返る時間で、木っ端微塵だろうからね』

『……どうして……、なんで、そんなにしてまで……』

 

 あの日、空が落ちていく中で、立つことすら諦めた少女がいた。

 

『終わらないトンネルはない。やまない雨もないし、乾かない涙だって存在しない』

 

 足が動かないと言ったから、その縮こまって震える小さな体躯を背負って走った。

 

『今は辛くても、いつか……いつか必ず、笑える日が来る。僕が約束する』

 

 聞いていたかどうかなんて、わからなかったけれど。

 

『だから、生きろ。精一杯に生きてくれ。生きて、生き延びてくれ』

 

 確かに僕はあの子に、生きろと言った。

 

「――――僕、は――」

「あなたがあの日に残したのは、悲しみだけじゃない。希望もしっかり残してる。明日の種を、ちゃんと蒔いている。芽吹いている」

 

 暗闇に包まれるばかりに欠け落ちていた記憶が復元される頃、ユキナリがあの子(・・・)へ抱いていた違和感は、完全に拭い去られた。

 伝えられたそれは悲しみに比べてみれば、うんと小さいものなのだろう。世界を救うなんて滅相もない、取るに足らなくて、何の力もないささやかなものなのだろう。

 

「だから、どうか見届けて下さい。その行く末を」

 

 でも、彼を閉じ込めていた氷を解かすには、十分なもので。

 

「どうか、生きてください――ユキナリ特務」

 

 ああ――――そう、か。

 僕はもう、救っていたのか。

 この手を、届けられていたのか。

 誰かの未来を、ちゃんと作れていたのか。

 

 

 

 凍ったままだった時間が、再び動き出す。温かくて柔らかい傷だらけの手のひらは、“あの日”に囚われだった一人の男の背中を押した。

 その時のことだ。

『虹』が、彼の元に降り注いだのは。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「大変じゃ! 虹が、虹が出とる!」

 

 最初に聞こえたのは、祖父が発するそんな嘘みたいな仰天の声だった。

 少女は急かされるまま外へ出ると、西の方に光の柱が立っていて。それはちゃんと七つの色を携え、ぬくもりを抱き締めたまま雪上がりの暗い空に伸びて、偽りの日輪にすら負けない輝きを解き放つ。

 何が確信させるかはわからない。でも、頭が明らかに理解している。

 これは誰かを救ってくれるものだと。守ってくれるものだと。道を照らしてくれるものだと。

 

「……お姉さん……!」

「こ、これ! どこ行くんじゃ! おい!」

 

 何がそうさせたのかはわからない。でも、体は勝手に動いていた。

 何も変わらないだろう。少女は今まで通り、真っ直ぐ前見て走っていく。ただ己を呼ぶ、虹の方へ――。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 不可視なままに広がる不可思議な力は、波紋を通して常夜の街の人々の注目を独り占めする。

『隊長、空を!』潜伏する部下からの通信で、発見に至った。

 撤退の道を歩む最中のクルスもまた、その光で足が止まって。

 

「これは……」

 

 その(いとま)に、肩の肉もろとも穴を開ける閃きが一つ。

 

「ぬっ……!」

 

 反応にタイムラグを残しながらも、クルスは敵襲だと気付いた。そうなっても不思議ではない場所にいることに加え、つい先程まで嗅いでいた硝煙の匂いがしたから。

 背後からの一撃だった。誰の弾丸だろう。そんなことを考えながら振り返る途中で、黒色十字の独白は綺麗さっぱり霧散した。

 漂っているつい先程までの香りは、硝煙のものだけではなかったのだ。湿る暖かさの中に甘く鋭い毒々しさを溶いた、まるでジギタリスのような――。

 

「――ボンジュール、地獄の底から戻ってきたわよ。あなたの熱さが忘れられなくて」

 

 完全に相対して、絶句した。目の前に殺した女が立っている。鋭い上目で。

 座から引きずり下ろした氷獄の女帝が笑っている。喪失した分の赤を、艶めかしく舌で還元しながら。

 

「何故だ。致死量の四〇倍は仕込んだはずだ」

「“コールドスリープ”って、知ってる?」

「……! まさか、自分の肉体を一度凍結させ、それもろとも毒素を殺したとでも言うのか!?」

「アハハッ! そうよ、そういう顔が見たかったのよ!」

 

「ピンポーン♪」カミーラは散々拝みたがっていたクルスの表情の揺らぎを確認すると、上機嫌に立てた人差し指で自分の胸をさした。

 

「毒っていうのは細菌やウイルスのように、超高温ないし極低温の環境ではその性質を維持できないでしょう?」

「……有り得ない、滅茶苦茶だ。解凍した時に息を吹き返す保証など、ないのに」

「『私は私の価値を知っている』」

「!」

「アンタが言ったんじゃない。私なら、生き返られる。この私が認めたこの子なら、蘇生させられる……仰る通りだったわ」

 

 隣の主の喜色とは対照的に、戦慄する男を冷ややかに見据えているキュウコン。その相好に興味や注意のようなものは一切感じられず、まるで処理前の死体を眺めているようだった。

 主が主なら、ポケモンもポケモンだ。一歩間違えばトレーナーを殺しかねない判断を、二つ返事で行ったというのだから、正気の沙汰でないとすら思う。

 結んだ唇の向こうで歯噛みした。ミスの原因は色々ある。キュウコンを放置したこと。外傷を与えなかったこと。

 しかし、何よりも。

 

「さて、ピロートークと洒落込みましょうか。一流の男はアフターケアもしっかりしているものだけれどー……アンタはどうかしら?」

 

 カミーラという女を、侮ったこと。

 

「私に最後まで付き合う姿勢は、褒めたげる」

 

 人智が至り得るものの先にある、その思考を。常識を忘念の彼方に追放した、飛躍的過ぎる発想を。

 可能性として、含めなかったこと。

 

「でも『この先』は――どうなっても、知らないわよ」

 

 これに尽きる。

 金の爪型の装飾と、編み目模様が入った真っ青なモンスターボールのようなもの(・・・・・)を取り出した。すると反射光越しの眼光が、忽ちターゲットマーカーに豹変する。

 これから起こる事を知らない彼と、それを体験する彼が迎える結末を知らない彼女による、秘密の会合を始めよう。そう言わんばかりに球体は、世界すら知り得ぬ禁忌を吐き出した。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 その場の誰もが、直視も叶わぬ煌めきに目を覆った。

 

「なんだ、これは……!!?」

 

 ユキナリは、突如として虹色の眩さを一手に受けるサンドパンを目下に、吃驚する。

 いや、それだけではない。自分の心臓が奥底から燃えるように熱い。魂の在処を示すような、そしてそれが何かと繋がるような感覚が、先程から彼をずっと、ずっと突き動かしている。

 己の肉体を先程から食い潰していた痛みが、どこぞへと消えた。血液の出口が塞がっていくのがわかる。視界を塞ぐ手をどける頃、相棒は七色の衣に包まれた。

 

「キセキ……、シンカ……!」

 

 傍らでその優しき波動を受けながら、呟く。

 アルマは“これ”をよく知っている。ばかりか一度経験している。

『守りたい』と猛烈に願った果てに生まれた、祈りの欠片。闇を照らし、影を払い、生きとし生ける者全てを導く虹の道。ヒトが残した、“奇跡”という望みの結晶。

 彼の声がする。ユキナリの下ろした目蓋の裏側に、相棒の感情が流れ込んできた。

 負けて悔しいのは、彼も一緒だった。救えなくて悲しいのは、彼も同じだった。無力な自分を呪ったのは――彼だって、そうだった。

 だから強さが欲しかった。たとえ自分が融け落ちて灰になってしまったとしても、託せるものを探してた。

 

「そうか――――お前も、だったんだな」

 

 ありがとう。前を歩く背中に、短く言った。

 その時、サンドパンを覆う虹が弾ける。

 全身を纏う氷が水を経て、気化する。剥き出しになった鉄の皮膚は錆びるように赤く色付き、灼熱を帯び、やがて火の記号を宿した。

 背中から噴き出す焔と、焼け朽ちる棘。代わりを務めてやるよ、と地獄の業火のように燃え盛る。

 いつか君を見つけよう。どれだけ黒に塗り潰されても、この火で照らして。

 いつも君を思い出そう。この赤錆びのようにこびりついた、記憶を辿って。

 君を背負い前に進もう。失った時の痛みを忘れないように、この焔と共に。

 絶望も、無力も。悲嘆も喪失も悔恨も。もう大丈夫だ。何もかも飲み込んだから。

 

「いこうか――相棒」

 

 焦げた爪の漆黒に、討つべき敵を映し出し――“キセキサンドパン”は顕現した。

 天に逆らうような一吼えが、どこからか橙の光を集め、上空に球体を作り出す。

 

「チッ、今度はなんだってんだ!?」

「“ひでり”……馬鹿な、このサンドパンが発動させた、だと」

 

 それが発するエネルギッシュな眩しさを前に、思わず手を隔たりにしてぼやくゴトー。そんな彼へ、天を仰いだグライドは偶然にも答えを提供する。

 正解だった。キセキサンドパンの特性はあめふらし、すなおこし、ゆきふらしに続く第四の天候支配系特性『ひでり』で。太陽にエネルギーを送り込み勢いを与え、日照の強さを増幅させる。

 それが作り出す空は、生命の象徴兼知恵の具現化である、炎の力を宿す者の味方をしてくれる。

 無論、地底であっても例外に非ず。見えないのなら、そのものを生み出すだけ。この光はそれ故のもの。

 虹の石なんて目ではない程の輝きが、埋もれた退廃都市の全域に等しく降り注ぐ。しかし元を正せば、結局はこれも紛い物になってしまうのかもしれない。

 さりとて、今。この瞬間に訪れている暗躍街の夜明けは、まごうことなき本物で。誰もが夢見て渇望していた、大空が広がっていて。

 喜んでいい。望んでいい。有り難がってもいい。

 

「グソクムシャ、“アクアジェット”」

「“メタルクロー”だ!」

 

 それを伝えるために、サンドパンは前へと出た。

 空気を掻っ裂いて奔ってくる水色の爪を、黒鉄化した同じ部位で受け止める。

 高熱に蒸発。水分の発散。

 衝撃の余波が水玉を連れ、解凍されかけの焼却炉内に行き渡った。

「押し返せ!」かち合う眼光を、拒め。一見無茶な指示でも難なく聞き入れ遂行するサンドパン。繋がっているユキナリは、彼がそれを出来ると知っている。

 一メートル以上の体格差を一笑に付すように突き放し、バランス崩すその巨体へ“ほのおのパンチ”をお見舞い。

 しかし手応えは、虚空に投げ捨てられる。

 

「それがキセキシンカか。目の前で確認したのは初だが」

「!」

「タイプ相性までは覆せまい!」

 

 裂けていく水の残像。映し出された背後の空に奴がいた。

 グソクムシャは甲冑型の外骨格をガシャリ、と鳴らして太陽を背にしたまま再度肉迫、裏拳を重たく叩き込む。

 

「速い……!」

 

 第一印象を裏切るその敏捷性は、足より発される噴水“アクアジェット”が生み出す推進力からなっている。

 これにより一気呵成の進軍も、命を守る戦略的撤退も、思いのままだ。

 無論――単騎のポケモンを、嬲ることだって。

 飛ばされ、たまらず地面に爪立てた。そうやってブレーキ掛けるサンドパンへ、更なる攻撃が追いかけてきた。

 それも一発なんて安いものではない。二発、三発、六発、十発。

 

「どういう理屈かは知らん。が、炎タイプに変わったのが運の尽きだ」

「ユキナリ特務……!」

「畳みかけろ!」

 

 豊富な手数が、凄まじい猛攻が、視覚情報さえ処理落ちさせる縦横無尽の俊足に乗って、矢継ぎ早にサンドパンを虐げる。まるで四方八方からの集中砲火を叩き込むように。

 垂れた頭を、がくついた膝を、逃さない。

 

「仕上げだ、“アクアブレイク”!」

『ジュアアアアアアアアアッ!!』

 

 グライドの号令を合図に空気中の水分が水浅葱の鎧武者に集結、するとそれは球状のフィールドへと変容し、グソクムシャの全身を包み込んで煌めいた。

 その風体は傍目から眺めていれば障壁(バリア)でしかないが、そうじゃない。

 

「潰えろ」

 

『これ』は、こう(・・)使うのだ。

 白波のブーストで、青い結界は一息に太陽神を攫う。アクアブレイクという技は、水のエネルギーを纏った突撃のことを指す。

 火よ消えろ――飛び散る水声(みごえ)はそう唱えている。

 エッジの効いた二本爪は、捕らえたままの標的を勢いごと壁に叩き付けた。

 ドン。氷塊が砕け散った。瓦礫が爆ぜ散った。轟音という格好で明確な危害に糾弾する土くれは、当事者の断末魔すら許してくれなくて。

 効果は抜群だ。まさしく、そんな有様。

 完全に開いた視界で、その終わりを拝んでやろう。散らばった水蒸気が晴れていく中、グライドはその場で黙して待つ。

 

「……僕はもう、立ち止まらない」

 

 そんな確証のない期待など、裏切られるとも知れないで。

 

「!?」

 

 何故立っている。グライドの声が飛んでいく先で、サンドパンはグソクムシャの得物を逞しく押さえ込んでいた。

 壁にめり込みながらも。弱点を真っ向から貰いながらも。傷だらけになりながらも。その眼を開き続けていた。

 理由なんてない。理屈だって、どこにも。ただ、耐えたのだ。特攻属性の直撃を浴びて、ただ、立っていたのだ。

 

「前へと進む」

「くっ……! 振り払え!」

 

 叶わない。逃がさない。覚悟のこもった手は、仇を掴んで到底離してくれそうにない。今一度敵意の水流を迸らせても、たちどころに風化していく。

 いかなる水でも、風でも、この火は消せやしない。

 

「たとえこの身が焼け落ちても、生きていく! 進み続ける!」

「世迷言を……ッ!」

 

 いくら忌々し気に見やろうと。歯噛みしようと。彼の心に灯った、平和という宿願を燃料に燃え盛る、この火だけは。

 

「そして僕は、僕の明日へと必ず至る!!」

 

 何人にだって侵せやしない。

 

「“フレアドライブ”!!」

 

 ユキナリがその身を空にするほどの叫びを上げると、サンドパンは呼応して咆哮を上げた。

 虹の果てに重なり合った彼らの声が、業火を嘲り、烈火を蔑むほどの火――爆炎を呼び寄せる。

 息吹を吸い込み、火山が如き意気を以てサンドパンの全身から噴き出るそれは、密着状態のグソクムシャをも巻き込んで圧倒的な火柱を立てて。

 やがて大きくなり、熱くなり、日輪に迫る頃には塔と化していた。

 

「……この、俺が……!?」

 

 鎧武者を焼き焦がした断罪の焔が、静かに消える。されどこの身は、未だ冷めず。

 思わず後ずさりするグライドから目を離し、次に捉えるのは、言うまでもない。

 どうやら彼も取り込みが終わったようだった。倒れたロズレイドがそう伝えている。

 次のポケモンを出そうとするアルマを静かに止め、ユキナリはゆっくりとサンドパンを敵へと歩かせた。

 

「奇跡だか偶然だか知らねえがよォ、調子乗っちゃってんじゃあねェぞォ!!」

 

 ダイノーズがそんな彼を迎え撃つように、磁力で浮かせた三つの遠隔操作ユニット『チビノーズ』を用い、三発の岩の光線(パワージェム)を発射する。

 まただ、また当たっている。

 

「ゴトー、お前は言ったな。僕らのしていることは、無駄だと」

「何故だ……何故くたばらねえ!?」

 

 それでも歩みが止まらないのは、どうしてだろうか。

 

「今はそうなのかもしれない。手が届かない今だけは、お前が正しいのかもしれない」

「とっくに限界迎えてるダメージだろォが、意味わかんねェことしやがって……ッ!」

 

 焼けた鉄となった皮膚が、耐久力を上げているのだろうか。

 

「でも僕らは忘れない。本当に救うべき人々が、ここにいることを」

「さっさと倒れやがれよ……!」

 

 速度を犠牲にした分の筋力が、助けてくれているのだろうか。

 

「闇に囚われて、影の下で泣いている者たちのことを」

「そんなに死にてェのか!!?」

 

 何発、何度くらっても倒れないし、退かない。その前進の足跡は一向に絶えそうにない。

 

「だから絶対、ここに戻ってくる。今度は全てを救いに。彼らを日向に連れ戻すために」

「止まれ、止まりやがれ!」

 

 蓋を開けた先の仕組みは、そんなに難しいものではない。

 

「そして、僕たちの行動が無意味なんかじゃなかったと――必ず証明してみせる」

「止まれってんだよォォォォォ!!」

 

 サンドパンに“彼”が居るのだ。たった、それだけ。

 でもたったそれだけで。それさえあれば。

 どこまでも行ける。どこへでも進める。

 

「チクショオがァァァァァァァァァァァァァァッ!!」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 最後の一撃を越えると、サンドパンは走っていく。

 今なお前を見続ける、飽くなき誰かの希望を燃やして。願いを“フレアドライブ”に変えて。

 人が追い求める限り。明日を描き続ける限り。背負った彼は止まらない。

 

 

 

 爆炎が広がる。

 

『さよなら』

 

 ホワイトアウトする視界に現れた幻へ、囁くように別れを告げた。

 きっとまた、どこかで会うけれど。

 その時はまた、乗り越えて往くよ。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 太陽どころか、起きた爆発すら見られない。遠い場所で寂しく響く轟音だけを聞いている。そんな路地裏に、クルスはいた。

 

「……は……は……」

 

 四肢を全損した状態で。

 捨てられていたゴミ袋と死骸が血の池に沈んで、より一層ビジュアルを穢らわしいものに変えていく。

 呼吸にならない呼吸をしながら、カミーラの足でいいように転がされる。俯せから仰向けへ変わった景色の中で、彼女は冷血に満ちた眼球で彼を見下ろす。

 

「言ったじゃない。どうなっても知らない、って」

 

 そんな女帝の顔の横で、ひらひらと舞う小さな影が一つ。

 それはまるで人の形に造られた折り紙のような姿をしていて、抱えた白銀に、その哀れな達磨の姿を鮮やかに映していた。

 だくだくと今なお流れ出る血液が真っ赤な水溜まりとなる頃に、痛覚の隙間を縫って思い出す。

 こいつにこうされたのだ、と。

 

「……なんだ、それ(・・)は」

「私のおまもり、みたいなものかしら。手のひらサイズでかわいいでしょう? 切れ味良すぎるのが、ちょっと困ったところだけれど」

 

 知らない生物だった。図鑑に記載がなければ、発見の記録にすら覚えがない。まさしくノーデータ、アンノウンと呼ぶべき存在であった。だからポケモンと定義していいのかすら、わからなくて。

 彼女がそれ(・・)を出す時は、相手がその存在を墓場まで持っていってくれると確信できた時。

 見られてもいいと、思えた時。

 例えば、口を失うことが約束された瞬間。

 例えば、自分の勝利が不動となった瞬間。

 例えば。誰かの明日(いのち)を、明確に絶つ瞬間。

 彼女はこうして、これまでこの力を隠してきた。

 この、禁忌とされるほどに大きすぎる力を。

 

「そろそろ、お別れかしらね」

「……君は」

 

 遺言、とでも思ったのだろう。カミーラは余命幾ばくも無いクルスの言葉を、最後と思って聞き入れる。

 

「君は、自分の命が惜しくないのか?」

 

 なんだか、聞き耳によっては命乞いにも聞こえる、そんな言葉を。

 

「私は、惜しい。私の命は、大きく、この先にも繋がる……、意味あるもので。だから」

 

 そして聞くだけ聞いて、その首を落とした。

 

「ええ――ちっとも」

 

 答えだけを、律儀に残して。

 スパン、と事切れる音を鳴らした後に夥しい赤を噴き出すオブジェへ、背を向ける。恐怖したのではない。ただ、禁忌を再び封印しただけだ。

 

「私はただ、素晴らしい事をしたいの」

 

 そこに立つ権利はない。意味もない。必要だって。

 だから彼女は束の間であっても、無機的な山の谷間から、その朝焼けを拒絶する。

 

「無邪気さを盾におもちゃブッ壊して遊ぶだけのクソガキも、なりたいモノ目指して必死に人生を消費してらっしゃる若者の皆様も、椅子にふんぞり返って保身と搾取にしか精を出せない老いぼれ共も、みんな、みーーーーんなが跪いて、私を崇め奉るような事がしたいの」

 

 されど悦に浸り、焦がれるように仰ぐそこへと語り掛けるのは、彼女の夢の先で待ち受けるものが、この光景だから――なのかも。

 撫でられた九尾の白狐は(こうべ)を垂れると、女帝の足に染みついた生命の搾り滓を綺麗に舐め取った。

 

「長く語られ、教科書に載り、何百何千年先の世の中でも名前を出されるような……そういう真似がしたいのよ」

 

 仲間が願いを叶える器と言ったが、それは違う。

 彼ら、或いは彼女らは、己が己で選んだ、己の成す偉業の記録者だ。

 

「それを果たすまでの過程に。私の命の有無は問わない」

 

 女帝が紡ぎ出す歴史の、目撃者だ。

 

「覚えときなさいな」

 

 カミーラは自分の見ているモノをばらばらの骸に語り聞かせ、その場から立ち去った。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 そこに何が待っているか。どんな光景が広がっているか。

 そんなもの、知ったところではない。

 

「はあ、はあ……!」

 

 少なくとも、彼女にとっては。

 ただ心が赴くままに。足が求めるままに。大手を振って、息を切らして、あの虹の彼方目掛けて走っていく。

 いくら戦乱の呼び声が近かろうと、関係ない。

「愛すならば、急げ」と、暁の温もりが背中を押すのだ。

 減速忘れて角を曲がった。石ころを飛び越えた。建物の森を潜り抜けた。風の海を渡って、輝きに満ちた空を駆け抜けた。

 少女は生まれたばかりの頃を思い出し、そして気付く。これが本能というものなのだと。

 

「避けろーーーーーーッ!!」

 

 それは、誰もが想定出来た。暗躍街各所で行われている、住人とバラルによるポケモン同士の空中戦を、あらかじめ恐れていたのなら。

 しかし少女の双眸は虹にばかり取られていたものだから、直前になるまで気付くことが出来なかった。

 

「……!!」

 

 流れ弾ならぬ、流れ火――“フライゴン”が放った『だいもんじ』が、図らずも彼女の下へと迫る。

 

「――“ほのおのパンチ”!」

 

 短兵急に割り込む拳は、同様の力で破壊の意志を相殺してみせた。

 舞い踊る火の粉と不慣れな熱さで、思わず伏せた少女。

 

「また、同じ出会い方をしてしまったね」

「……へ……?」

 

 次に彼女が(おもて)を上げる時。

 果たして一体、どんな顔をしてくれるのだろう。

 

「やあ」

「…………あ……、あ……」

 

「大丈夫かい」そんなことを考えながら、ユキナリはもう一度彼女の前に立つ。

 

「どう、して」

 

 込み上げる想いが、一杯になる。視界が揺らぎで、満ち満ちていく。

 どうしてだろう。不安な夜も、あなたを思い出して過ごしていたのに。影に飲まれそうな昼も、逃げたくなった朝も、あなたの声を聞いていたのに。

 どうして、その顔がよく見えないのだろう。なんで、その言葉は胸をきゅうきゅうと締め付けるのだろう。

 

「おまわり、さん――」

 

 何故私は、こんなにも、会いたかった――。

 

「君の声が聞こえた。僕を終わらない悪夢から引っ張り出す、君の温かい声が」

「っ……えうっ、――っ」

 

 少女は立ち上がるのも忘れ、息を詰まらせたままぼろぼろと大粒の雫を溢した。

 まるで一人ぼっちみたく感じていた灰の日常が、息を吹き返したから。色が生まれた日のことを思い出したから。

 押し寄せる情動の波に溺れながらも、一生懸命に言語能力を手繰り寄せる。

 

「おまわりさん……っ私、わたし……」

「ありがとう」

 

 救ってくれて。前を向かせてくれて。指で涙を押し退けた向こうで、彼は同じ目線にいた。そして自分が伝えるはずだったことを、先立って口にする。

 

「今はまだ、僕からしか言えない。だからどうか、その言葉は大切に取っておいてほしい」

 

 唇に当てた人差し指の意味を知った。

 それはきっと、呪いの重ね掛けにも等しいのかもしれない。

 今だけは誠実さをひた隠しにしてその手を握りながら、馬鹿みたいで出鱈目な嘘を吐いた方が、いいのかもしれない。

 その方が悲哀を拭えるから。少しは報われるから。握る拳が、ほんの少しでも緩んでくれるから。

 

「……うん、わかった」

 

 でも、彼女は知っている。

 彼が嘘を付かないことを。果たせない(まこと)を言わないことを。

 ――離れていても、一緒に戦ってくれることを。

 

「特務、追手が……、限界です」

「!」

「……それじゃあ、またね」

 

 再会の場を守護するラプラスに跨ったアルマに促されるユキナリは、口惜しそうに翻り、その後部に座った。

 赤胴のサンドパンが人工物のジャングルを先行する。次々と障害を叩き伏せ、出口までの道を切り拓いて。

 するとラプラスはまた進み始める。空気中の水分を凍てつかせて作った氷のカーペットの上を、ボートのように、滑らかに。

 遠ざかっていくあの日のままの小さな輪郭を、唇噛み締め見ていた。

 

「――約束だよ!」

 

 伸ばされた手に、凛とした悔しさだけを置いて行く。

 

「必ず、必ず助けに来て! 私はここにいるから! ずっと待ってるから!」

 

 だが、今はそれでいい。

 

「ちゃんと、生き続けるから!!」

 

 届かずとも、触れるだけで。命そのものじゃなく、温度だけで。

 

「ああ、約束だ!」

 

 もう一度ここに訪れる――やがて、そんな誓い言になるから。

 

「次に会うとき、僕は君をここから救い出す! だから忘れないでくれ! 思い続けてくれ!」

 

 目一杯に搾り出された二つの声を握り締めた掌は、言霊同士を強く結い合わせた。

 そうしてある者は糸として、絆した胸に染み込ませ。またある者は鎖として、心臓に縛って刻み込む。

 

「僕らのことを! ――故郷(ネイヴュ)のことを!」

 

 それは思い思いの形となって、未来まで二人を繋ぎ続ける――。

 

 

 

 一五時四二分――――暗躍街潜入作戦は、失敗で終了。

 参加人員計三名中二名重傷、一名が軽傷。

 話だけを聞くならば散々でこそあるが、彼らの帰りを出迎えた同胞らは誰一人として責を問わなかった。

 生還すら奇跡的と思えるほどの状況が記された、その報告書を見れば。帰還時の様態を、目の当たりにすれば。

 あまりに道理に適った、反応だった。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

「ア゛ル゛マ゛ぜん゛ばあ゛~~~~~~~~い゛!!!!!!」

「ちょ」

「なんでまた死にかけてるんですかぁ~~~~~~~!!!!!!!!」

 

 痛いんだけど、の一言も掻き消す強烈な抱擁を、泣く泣く受け容れた。

 リンカは上司の手術痕を痛ましく思うあまり、公共の場であることも忘れてぴーぴーと泣き喚く。

 

「レイドぉーーーー、喉が渇いたわーーーーーー」

「今すぐ出せる水分は小便ぐれえしかねえが、構わねえな」

 

 見舞いというのに相変わらずの調子で切り返す右腕に、舌を打った。ドブ川みたいに汚いジョークセンスとは、カミーラの談で。

 今回の件で負傷した面々は、リザイナ中央病院の一室に集められていた。

 並ぶベッドの上で、思い思いの姿勢と態度を取ってくつろいでいる。

 ユキナリが、ふ、と一息。およそ警察組織と呼ぶには締まりのない光景だが、壮絶な日々を過ごす合間の休息と思えば、許せよう。

 それに。

 

「出揃ったところで、聞かせてもらおうか」

 

 長続きする様子でもないから、余計に咎めることは出来ない。

「お前らが殺り合ったものをな」レイドの一声が、一瞬にして緊張を呼び込んだ。支部長不在時の指揮を執る存在としての威厳なのだろう、誰もが視線を彼に注ぎ、暗躍街潜入作戦の報告会が始まる。

 いの一番に口を開いたのは、アルマであった。

 

「“暴獣”の構成員と、交戦しました。名前はテンヨウ。着物と赤い鬼の面を着用していました」

「なに……、戦士狩りの赤鬼(レッドオーガ)だと? どこぞで屠られたか野垂れ死んだかしたと思っていたが……まだ生きてやがったのか」

 

 暗躍街の、サイドだった。アルマの注釈で、それぞれがそれぞれに思い思いの事を口走る。

 

「奴らも一枚、噛んでいたのか……」

「さすがは『闇の総合商社』と呼ばれる犯罪シンジケート――悪事あるところにその影あり、ってわけね」

「今回でわかったのは、表舞台から姿を消し、何らかの形であそこに流れ着いた犯罪者はまだ相当数いるであろう……ということです」

 

 勢いのまま挙手、続けて口を開くユキナリ。

 

「結果的に、バラル団と暗躍街の取り引きは存在した。巷を騒がせる薬品Rを巡ってのものだ。よって、今回のメールは少なくとも連中が仕込んだものではなかったと推測する」

「一理ある。こんなクソ辺境に閉じこもって、遭難したようなシケた面でギリギリ生きてる奴らを、わざわざテメーの隠し事明かしてまでブッ殺してえかってと……そうじゃねえよな」

「実際、ゴトーもグライドも諸々の対応に追われ、僕の相手に手間取っているように思えた。準備があったと考えるのは不自然だろう」

「ってところで、なんだが……じゃあ、なんだと思う?」

「!」

「お前には、何が見えた? 事件の奥に、何がいると思う?」

 

 レイドのこの問いは、代弁に過ぎない。それは誰もが知りたがっていることであり、絶対に至らなければいけない核心でもあって。

「……わかった」ユキナリが言葉を詰まらせる様を確認したレイドは、それだけ残して次へ進む。

 

「私はー、パス。ヒントもなかったし、正体知る前にバラしちゃったから」

「バラしちゃった、って……」

「しれっと恐ろしいこと口走らないで下さい、どっちが犯罪者かわかりませんよ……」

「あら、照れちゃうわ」

「褒めてないです!」

 

 おどけた態度だが、カミーラが彼女らに伝えられるのは、本当にそれしかない。

 それをいち早く察したのはやはり懐刀故か、レイドであった。こうなってしまえば訊ねるだけ無駄と踏んで、窓に寄りかかる。逆光の向こうで発した溜息は、じきに「もういいぞ」と、解散の合図を連れてくる。

「外の空気が吸いたい」「ダメですよアルマ先輩! お体に触ります」「まあまあ、いいじゃないか。僕も同じ気分だ」再び起こる賑わいの中で、また銘々の時間を過ごす面々。

 嗚呼、本当に、察しがいい。

 

「助かるわ」

 

 ユキナリ、アルマ、リンカが出ていった後、カミーラは横になっていた体を起こす。

 そして訪れる静寂に甘え、よれて乱れた入院着を整え直し、レイドを瞳に収めて呟いた。

 

 

 

「アルマ先輩、重くなりましたね。車椅子が全然押せない……っ」

「あなたが貧弱になっただけじゃないの」

 

 間違われがちだが、多少のデリカシーはあるんだぞ。そんな内心を風に溶かしながら、見下ろす学術都市。

 三人は屋上に来ていた。干されたシーツが、心地よい太陽の香りを先程から振りまいている。

 

「ま、まあまあ、戻りは僕が押していくから」

「特務も怪我人です! そういう訳には!」

「キセキシンカのおかげでいくらか回復したから、ほぼぴんぴんだよ。実際、三人の中では一番軽い容態で済んでる」

 

 隣の少女による雪解けの日の報告を聞いてから、ずっと信じがたい事となっていたが――身をもって経験した今となっては、事実であることを認めるしかないだろう。

 

『キセキシンカが発現する際に発生する“Reオーラ”は、浴びた生物の傷を治癒する性質がある』

 

 間違いない、その通りだ。

 全快とまではいかないが、機能停止に追い込まれていた四肢を一瞬で回復させる程度、とでも言えば、伝わるだろうか。

 額面通り命懸けで得た貴重なサンプルだ、ジムリーダーとしての同僚に渡すことを、明日の自分に約束する。

 

「感謝、しないとな」

 

 ついでに、拾った命を大事にすることも。

 

「私には」

 

 なんて思いながら柵に手を掛けると、隣で声が聞こえた。

 他人の独り言を拾う行為そのものがなかなかに奇特なことではあるのだが、彼女はそもそも自ら進んで誰かに話し掛けることが少ないので、輪を掛けた珍しさがあって。

 横顔とも正面とも云い難い微妙な角度から刺さる視線に不思議と痛々しさを感じたのか、ユキナリは困り気味な返答をアルマに渡す。

 

「も、勿論感謝してる。君がいないと、僕は彼女が生きていることも知らないまま」

「ではなく、謝罪を所望します」

「し、謝罪……感謝ではなく?」

「勝手な真似をしたのだから、謝って下さい」

「え、ええ……」

「早く。早急に」

 

 相好は真顔、であるはずなのだが。得も言われぬ威圧感にたじろいでしまって、

 

「す、すまない」

「ではなく、『ごめんなさい』を所望します」

「ええ!? ごっ、ご、ごめん、なさい」

 

 結局、謝る。渋い顔で。その追及の成すがまま。

 

「わかれば、いいです」

「ね、ねえ、ひょっとしてまだ怒ってる?」

「……さあ、どうでしょう」

「え、特務何やったんですか!? ずるい、気になります! 私にも教えてくださいよ~!」

 

 やっぱり真顔、であるはずのだが。

 その口元は、僅かに緩んだ気がした。その瞳は、ちょっぴり輝いた気がした。柔らかな夕陽に焼ける彼女の心は、なんだか笑っている気がした。

 

「今回の事」

「ん?」

「覚えていて下さいね」

「……ああ、勿論」

 

 全てが終わって、この背負い物を降ろした後。

 

「お姫様を、待たせちゃってるからね」

 

 あの子もこんな風に、頬を綻ばせてくれるだろうか。

 ユキナリはそんな淡い期待を黄昏に重ねて、そっと目を閉じた。

 

 

 

「……おい、こいつは」

「敵のスーツに付いてたものよ」

 

 レイドに手渡したダークボールのバッジは、戦利品などと喜べる代物ではなかった。

 

「あの日、確かに居たのよねえ、“あいつら”は」

 

 頬杖付いて外のビル群を眺めながら言うカミーラは、誰にも見せたことがない顔をしていた。

 

「それってつまり、“そういうこと”よねえ?」

 

 確かに、今回の件で言えることはなかった――但し、『彼女ら』には。

 この紋章が何なのかを知る人間でないと、話せない事があった。伝えられない事があった。

 その日、存在が証明されたのは、暗躍街だけではなかった。

 それは、あってほしくないと、人々が意識的に排除した可能性。認知を避けた、闇の中の闇。戦士たちが目を逸らしてしまった、正義が生み出した亡霊。

 

「……同情するぜ、本当にな」

 

「他人事じゃないでしょうに」少々の沈黙を経て開口するレイドへ、重なる言葉。

 今まで玉虫色にされていたそれとの構図が、いよいよ今をもって、明確に提示される。

 

「んま、やるしかないでしょう。ここからは想像でしかないけれど……きっと私がぶっ倒れたら、ラフエルは終わるでしょうし」

「何とも茨の道……だな。おまけに向かい風も吹いてやがる。クソッタレで最高のシチュエーションだ」

「同感よ」

 

 バラル団、暗躍街、暴獣以上に、無視が出来ない敵――、

 

「……かかってらっしゃい。全部、ブッ壊してやるわよ」

 

 PG暗部『ダーク・サイト』との、対立が。

 

「健闘を祈るぜ、支部長様」カミーラはまだ見ぬ激動の激闘へと思いを馳せながら、置き土産の缶コーヒーを、おもむろに飲み干した。




『作戦は失敗、か』

 誰も知らない場所で、誰も知らない人々による、誰も知らない会議が開かれた。
 どこからともなく飛んでくる男たちの声が、黒の集団を取り囲んで、それは進む。

「申し訳ありません」
『……我々は詫びの言葉よりも、あの女がどのような終わりを迎えたかを、聞きたかったのだがな』
『そう憤り召されるな。収穫は決してゼロではありますまい』

 広がる暗中で存在の誇示を許されているのは、極めて僅か。恐らく最新技術なのだろう、ドーナツ型の会議机に着席する立体映像達が口にするのは、闇色の正義を掲げる者たちへの不平不満。
 触れられる距離であるのに触れられない場所から会話をするのは、きっと支配者たる男達とて、彼らと関わりたくないからなのであろう。

彼奴(バラル)らが起こした混乱の中へ躊躇なく踏み込んでくれたお蔭で、薬品Rの製造プラントの襲撃に成功したのです。これは後の世に大きな意味を持つこととなりましょう』
『防衛が手薄になったところを“鴉”が攻め落としただけであろう。猿でも考え付く浅知恵ではないか』
『それに――彼の活躍で、虎の子を引きずり出すこともできた。“SLASH”はやはり、保有されていた』
『目の上のたんこぶが思いのほか大きかったことが判明しただけだ。何も進めちゃいない』

 無理もない。彼らは生まれながらにして、正義の傀儡であるからして。
 より強く、より大きく、より正しい存在に傅く。故に。いくら己が今日まで大切に抱えていようと、その刃は明日になれば喉を掻き裂いている。
 それを理解するからこそ。男たちは『利用するだけ』なのだ。

『あの女の首を飛ばし、ネイヴュを支配できねば、意味がないのだ。あそこだ、あそこさえ奪還できれば……』
『焦っておられますな』
『当然だ、本来ならばこんなはずではなかったのだからな! そもネイヴュ支部は来るべき時を見越し、倫理無くとも実力はある狂犬共を飼い慣らして、“キュレム”共々管理しておくために用意した場だぞ!』 
『というのに、力に目が眩んだあの浅ましく忌々しい女狐は、「命だけは」と思ってやった我々の温情も忘れ、前任者(バンタス)共々支部の人員を皆殺しにしてくれた……』
『何を言おうが後の祭り、致し方ない。あの女の底を知らずに、調教を試みた我らの過ちですな』
『チッ……さりとて、時間がないのだ』

 誰がそうしろと言ったのだろう。

『おい、引き継ぎ(・・・・)は終わったな』

 誰がそうあれと定めたのだろう。

「ええ。どうやら私は、首を刎ねられて死んだらしい(・・・)ですね」

 答えはきっと、彼らさえ知らない。

『……十分だな。懸命しよう』

 彼らはただ、執行するだけである。

一人で済んだ(・・・・・・)のは不幸中の幸いだった。以前以上の活躍を期待するぞ』

 世を導く、偉大な正義を。

「高い目標――――、実にいい」

 妄執を越えた先で甦り続ける、誰でもない亡霊として。


「お任せください。この黒色十字の、名にかけて」


 ――クルス。
 黒服の高官がその名を呼んだのを最後に、箱の中は真黒に染まった。


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Episode Old
01.手紙と言霊


 いくつも立ち並ぶ、堆い情報の箱。

 なくした探し物を見つけるために。溢れる知識欲を満たすために。単なる退屈を潰すために。各々の者が、様々な目的の下、銘々に箱の中の凝縮された知恵を手に取って行く。

 どんなに世界がうるさくとも、ここは、ここだけは、いつでも嫌な顔ひとつ見せることなく静寂をくれる。

 歳を召した木の香りも、自分を包み込む紙の香りも、心地よく感じる。自分という人間は外に出て、とかく五感で森羅万象を得るくちだと思っていたのだが――存外、歩かない旅というのも、悪くない。

 そんなことを考えながら遠い地方のジムリーダーの青年、シンジョウはラジエス図書館で本を読んでいた。

 

「……ふむ。次、は」

「ほい。流れ的にお求めはラフエル英雄譚の中編、だよね?」

「ああ、すまない」

「んーんー、いいってことさ。どうせ暇だしね」

「であれば、何故ここにいるんだ」

「何故とはご挨拶だなあ。せっかくの友達との偶然の再会なんだから、そりゃあ話したいでしょ」

 

 否定はしない。テーブルを挟んだ向かいに座るイリスへの返答を独白に終わらせながら、二冊目の書籍を味わい始める。

「ああ、君さては没頭すると周りが見えなくなるたちだな?」「否定はしない」「いや聞いてるのかよ!」

 確かに、ここで一悶着あって以来の偶然の再会では、ある。が、シンジョウの優先順位としては、今のところ読書の方が高い所にあった。というのも自分にはまだ二四時間以上、此処(ラジエス)に滞在する暇があるからだ。

 拝みたくなった顔を求め、ルシエシティへの連絡船を利用しようと思い立った矢先の悪天候。結構、とはおいそれと肯定できない欠航であった。

 とりわけ人生観に対して高い意識を持ち合わせているわけではないが、どうせ時間をかけるならば有意義なものにしよう、という考えに至るのは、そう珍しい事ではないはずだ。そんな風に考える。

 だからって何も今、目の前で頬杖ついて所在なさげな手で遊んでいる彼女との会話を、無益と言っているわけではない。帰結するが、順序の話をしている。

 

「あいだっ」

 

 その衝撃は、リアクションほどではない。

 

「図書館では、お静かにお願いします」

 

 イリスが頭頂部に物が落ちる感覚に従って背後を向くと、そこには修道服に身を包んだ長身の女性が、一人。手にしていた本の表紙の面をトン、と当てがったようで、そう注意しながら再び抱え直した。

 

「ステラちゃーん! やっほー、会いに行こうと思ってたんだよねえ」

「人の話を聞いて下さい……」

 

 名を『ステラ』。ラジエスシティのジムリーダーであり、同市の職員でもある。又、今まさに二人がいるこの図書館の管理を担う者でもあった。

「うん、君も元気そうで何より」その頭上で二人に手を振るポケモン“ミミッキュ”は、公私共に彼女のパートナーで。

 

「お喋り好きなあなたがここを訪れるなんて、珍しいなと思ってみれば……」

 

 困り顔、といった表情で小首を傾げると一緒に揺れる、煌びやかな金髪。ほどなくしてそれは、まるでわんぱく娘のようなイリスの情動を引き出した。

 

「漫画でもあれば、私も大人しくなったとは思うんだけれどね」

「そういう図書館の方が少ないだろう」

「ねえ、よかったら置くのも検討してよ。私はギエピー大冒険が大好きなのさ」

「よりにもよって児童向けギャグ漫画……」

 

「あなたは変わりませんね、本当に」ステラはふう、とため息だけ残して、仕事に戻る。

 

「そりゃどうも」

 

 にしし。遠ざかる背中に笑いかけながら手を振るのは、上機嫌の表われで。

 

「……彼女は」

「うん?」

 

 再び延々と紙を捲る音だけが聞こえてくるようになるのかと思えば、目の前の青年はそんな想像を裏切って、重たい口を開けた。

 

「ステラさんというのは、どういう人なんだ?」

「あ、気になる? うんうん、わかるとも。とても美人だものねえ」

 

 そういうことでは、ないのだが。訂正するどころか視線を手元の文面から外すのも億劫だったので、大人しく続きの答えを待つことにした。

 

「彼女はー、そうだなあ……世界中の全ての人が笑うことをやめてしまっても、唯一笑顔でい続けられる人、かな」

 

 ああ、苦手な手合いだなと、思った。人の話だけで判断するには些か早いと知りながらも、この苦手に寄った直感への裏付けのようなものは、感じられたのだ。

「今、渋い顔したね。ちょっとだけ」己の表情を看破されて、漸く彼女と目が合った。

 

「何故、わかった」

「あはは、わかるよ。だって私だもん」

 

 頬杖は変わらずに、覗き込む面持ちは少しだけ得意げで。

 不思議と沸く納得は、なんだそれ、という月並みの返答をかき消した。

 少しの吃驚の後にふと落とした視線にあったのは、白一色で飾り気ない、手紙用封筒。口を閉じられてからかなりの時間が経っているようで、いくらかのしわや折れがその事実を教えてくれている。

 シンジョウは床からそれをおもむろに拾い上げたが、中身の便箋にまで目通ししようという無粋な考えはない。ただ、落とし物としてステラに届けようと、

 

「いっ」

 

 思っていたところに彼女から来てくれたので、願ったり叶ったり。無論、頭頂部に走る極めて軽い痛みを除けば、だが。

 

「もう、また辱めるおつもりですか」

「す、すまん」

「いや、なんで謝ってんの」

 

 ステラはイリスと同じことを彼にも行い、渡されるまでもなく手紙を取る。どうやら彼女のものだったようだ。

 一連の動作悉くが焦り気味で、そこに会話の余地はない。どうにも苦手なのは彼女とて一緒なようだと、確信。

 

「あとはまぁ、こういう人」

「……把握した」

 

 立ち去った後の紹介で、腑に落ちる。

 

「でもまあ、さ。そんなに嫌わないでやってよ」

「?」

「ああ見えて、けっこう凄いんだ、彼女」

 

 焦がれ、懐かしむような横顔の先。さらなる横顔を正面に捉える彼女は、きっと何かを思い出してるんだろうな――と、シンジョウは悟った。

 

「なんたって一度、世界を救ってるからね」

 

 これから語られる昔話は、聖女を聖女たらしめんとする、その所以(ゆえん)

 ステラというジムリーダーの始まりの物語(エピソード・オールド)

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

 ラジエスシティジムのバトルスペースは、晴れの日に巨大な陽だまりが形成される。

 そしてそれには、いくつかの理由が存在する。

 一つ目に、スタジアムとして屋外に鎮座していること。すり鉢状で天井が取り払われた石造りの形状は、大昔にポケモンバトルが盛んに行われた円形闘技場(コロシアム)の面影そのままだ。

 二つ目に、テルス山を越えた太陽が、真上にあること。縁のどこにも切り抜かれることなく、日光が差す角度と位置がある。

 この二つの条件が揃った時――。

 

『ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

 観覧席のボルテージは、最高潮に達した。

 ラフエルの首都という事も手伝って、ラジエスシティのジムバトルは大々的に行われる。無論全国ネットで模様を放映される訳ではないが、ちゃんと実況と解説まで付いて、インターネットライブで配信される程度には。

 シーズンによっては観光客も詰め掛けるので、ラフエル外でも一大イベントとしてその扱いは浸透している。

 

「見事だ。イリス、と言ったな。本当に強い……六もの地方を巡っただけのことはある」

「それはどうも。私こそ、こんなに熱いバトルをさせてもらえて本当に嬉しいよ、トゥワイスさん」

 

 特に今回は、空前絶後の盛り上がりとすら目されるまでの顔ぶれであった。

『最優のジムリーダー』と呼ばれる青年“トゥワイス”と、『最強のトレーナー』と謳われる女性“イリス”による、バッジを巡る一大カード。人が来ないことを想像する方が、うんと難しくて。

 渦巻く声援の中、トレーナーズサークル越しで交わされる会話は、互いをリスペクトするものばかり。双方総力を尽くして尚、均衡が崩れぬまま最後の一体にまで展開が及んだのだから、無理もないだろう。

 傍らで見守る審判のジムトレーナー、ステラもまた、この熱烈な展開の前で両手を握り合わせた。

 でも、それも終わり。彼女の手から出てきた小さくも鋭い雷鳴が、そう告げる。

 

「“ピカチュウ”、キミで決める!」

「ゴー、“メタグロス”!」

 

 違いないと、四つの蒼い鉄爪(てっそう)が肯定した。

「メガシンカ!」トゥワイスがペンダントに埋め込まれた極彩色の石に触れながら発すると、そこから同じ色の光の糸が伸び、メタグロスを包み込んでその容貌を変えていく。

 

『ロォォォォォォォス!!』

 

 響くような咆哮と共に弾ける虹の繭。メガメタグロスへとさらなる進化を果たした鉄騎は、その爪を研ぎ澄ます腕をもう四本追加し、ピカチュウの前に立ちはだかった。

 

「じゃあ!」

「いざ!」

 

『いくぞ!!』

 意気地(いきじ)の発露が、そのまま二人を急がせる。

 黄色と蒼が、それぞれを求めて小細工なしに突っ込んだ。

 迫る目鼻の先。瞬間に止まった景色で、蒼は黄色が電光を纏ったのを、黄色は蒼が障壁に包まれたのを確認。

 

「“ボルテッカー”!!」「“しねんのずつき”!!」

 

 そうして戦いの火蓋は、切って落とされた。

 激突。爆ぜ散るエネルギーが黒煙を呼ぶ。そこから先に吐き出されたのはピカチュウだった。

 身軽だから飛んだ。飛んだから空転する。そんな世界。

「“10まんボルト”!!」青空に背中預けたまま、イリスの声を聞いた。遊ぶつもりが毛頭ないそれを受け入れた稲妻は、一目散に靄の中へ突っ込んでいく。

 バチィン。確かな手応えがスパークとして輝いた。

 

「その火力では!」

「ッ!!」

 

 直後、風切り音に震える耳。せっかちな反射神経が咄嗟に尻尾を剣に変え、砲弾と化した鋼の体当たり(アイアンヘッド)を受け止める。

 裂きたてだからだろう、煙の残滓を着込んだままに、メタグロスは瞳を煌めかせた。

 

「ピカチュウ、一旦距離を――!」

「逃がすな、“バレットパンチ”」

 

 怯んだわけではない。ただごくごく近い未来に力負けを想定しての指示だったが、迂闊だった。読み負けた。

 砲弾の次は弾丸だ。威力よりも速度を重視したジャブが、立ち直ろうとした小さな躰を打ち飛ばす。

『ピカァアアアッ!!』いくら効果はいまひとつであっても、メガシンカで底上げされた火力で放たれた一撃は、やはり応えるもので。

 悶えて宙を転げる落下。既のところで受け身は取れるも、

 

『ピ――――!!?』

『ロォオオオオオオオオオオオオ!!!!』

 

 追撃は約束済みで。

 大きな影と飛翔体。ピカチュウへ着地して見上げる暇も与えてやらず、まるで隕石のような速度でスタンプじみた面制圧攻撃“じしん”を叩き込む。

 盛大な炸裂音が鳴った。瓦礫が飛び散り大地が罅割れる。叫ぶ観衆も思わず目を覆い、雨避けに止まる鳥たちは驚いて逃げ出した。

 

「どうだね、凄いものだろう」

 

 手前味噌だと知りながら、襟元を整えながら己を誇ってみせるトゥワイス。

 それは同時にパワーのみならずスピードも併せて上昇したメガメタグロスの賞賛にもなり、尚且つ回避を誘い続けてそれをぬかりなく狩り取ったバトルセンスの自慢にもなる。

 その性能差から、ピカチュウがメタグロスとのパワー勝負を嫌う事を知り、初めから有効打となる“じしん”を伏せて警戒心を解き、弱みに付け込みきったところでそれを開示する。

 ――あまりに完璧な作戦だった。ましてそれを初見で組み立てるというのだから、凄まじい。

 イリスは、トゥワイスという男を評価する。

 

「ああ、間違いなく凄いや。恐れ入った」

 

 つばを掴んで、キャップをより深く被った。広がる光景の視認を拒んだからだろうか。

 塵煙から抜け出たメタグロスが、ふわふわと浮遊しながら仕留めた獲物の行方の発覚を待っている。

 

「確かに凄いけど」

 

 視界がゆっくりと晴れていく。見守る聖女が固唾を飲んだ。熱気に満ちるフィールドがどよめいた。

 でもまだだ、まだ足りない。もっと歓声を呼んでやろう。自分を滾らせる名声を聞いてやろう。

 

「――私のピカチュウの方が、凄い」

 

 その願いを実現するための、鮮烈な迅雷(ボルテッカー)を以て。

 

「なんだと……――!!?」

 

 煙が立ち去った場所に、ピカチュウがいないことを確認した刹那であった。メタグロスは想像だにしない明後日の方向から、渾身の稲妻を喰らった。

 本当に、突然の事。しかし時間は考え至るまで待ってくれなくて、地面を抉って道を作らせながら、フェンスまで激突させる。

 

「あの攻撃を回避したというのか……? ピカチュウが持つ最速の技“でんこうせっか”ですら、そんな芸当は不可能だ。あの範囲攻撃ならば、経験則でわかる……これは、“しんそく”でもない限りは……!」

「うん、うん。いい線いってるよ」

「……まさか……!」

 

「初見殺しは、あまり好きじゃないんだけどね」ポケモンに代わり思考する主の可能性の提示に、短く頷いたイリス。その口元は不敵に笑っていた。

 このピカチュウは、ただのピカチュウではないと言った。

 カントー、ジョウト、ホウエン、シンオウ、イッシュ、カロスを旅する過程で経た度重なるバトルの中で、技『でんこうせっか』が洗練されきった“神速のピカチュウ”だと、言った。

 

「なんと、技まで進化するというのか……!?」

「私もびっくりしたよ。でも、考えていることは変わらない。いつだって、いつもやっていることをやるだけ」

 

 流れを覆したピカチュウが、地面に手を付いて姿勢を低める。頬に電気を迸らせ、次なるボルテッカーの指示を待っている。

 そんな中でメタグロスは、再び立ちはだかった。

 明確なダメージを確認出来ても、全力の構えを解かない。強気に睨んでいても、討つべき敵を侮らない。

 

「……面白い!」

「ほんと? ――私も」

 

 声がまたも、鎬を削って重なり合う。

 弾ける西日が見届ける下で、雷電と鉄爪は心行くまでぶつかりあった。

 

 

       ◆       ◇       ◆       ◇       ◆

 

 

『勝者、挑戦者イリス!』

 ラフエルチャンピオンシップ決勝戦にも見紛う壮絶な戦いを締めくくったのは、ステラのこの判定だった。

 決まり手はやはりボルテッカー。本来は反動によって発動したポケモンにもダメージが入る技なのだが、神速のピカチュウは違った。反動を避けつつも最大効率の威力を叩き出すことが可能となっており、これもまた経験という時間の貯金が為せる業として、大いにトゥワイスを驚かせた。

 

「やはり、君は本物のようだな」

 

 ステラ、彼女にバッジを。トゥワイスに促されるまま、差し出したアルミの薄型ケースを開くと、中から一日の終わりを髣髴させる輝きが顔を出す。それはラジエスの港から見える夕陽の色と同じで、この街のイメージカラーとされるゴールデンイエローだった。時計モチーフのデザインは、記憶を刻み続ける古きの象徴。

 イリスはオールドバッジをその手中に収め、ご機嫌に頬を綻ばせた。

 

「おめでとうございます」

「ありがとう、美人さん」

「ステラと申します」

「あ、名前で呼んだ方が?」

「はい。その呼び方は、滅相もありませんので……」

 

 聖職者というのはとかく控えめな印象があったが、本当にそうなのか――なんて感心を抱いてみたり。かわいらしく頬をかいて視線を外しているあたり、単に照れているだけなのかもしれないが、追及するのは野暮だからやめておく。

 

「私の後継者だ。今のうちに仲良くしておいても損はないぞ」

「そんな、とんでもありません……お役所のお仕事だけで精一杯です」

 

 元より市の職員であった彼女は、ジムの管理と運営を手伝う目的でラジエスジムに派遣されたのだが、ジムトレーナーとして挑戦者を撃退したことでそのセンスを買われ、今やトゥワイスをして次期ラジエスジムリーダーと評価するほどに大きな存在になった。

 もしかすると、この事務所でも清掃する立場から、一転して椅子にふんぞり返る日も近いのかもしれない。

 尤もこの淑やかさから想像がつくかと云われれば、頷けやしないのだが。

 

「役所だけで一杯、か。人は元来の務めに精を出すのが無論理想であるし、それだけでいいのだ。が――」

 

 トゥワイスは話を切り替えるように、別の方へ顔向けした。銀の瞳の行き先は、今しがたよりニュースを映し始めたテレビ。

 

『続きまして、ラジエス連続通り魔事件の続報です』

「どうやら、そうも言ってられんらしい」

 

 いいニュースであれば。そんな淡い期待も一瞬で打ち壊す内容が、画面越しのキャスター達から伝えられる。

 ステラは肩を落とし込みながら、その報道に意識を集めていた。

 

「またか……私がここに来てからでも、もう五件起こってる。正気じゃないね」

「本当ならば、人を集めてジムバトルを大っぴらに行っている場合でも、ないのだがな」

 

 旅をしながらでも、世界情勢の確認は忘れない。そんなイリスは、ラジエスに入るにあたり事前に心したことが一つある。連日世間を不穏に騒がせる、通り魔事件への警戒だ。

 

「被害者は合わせて二〇名ほどになる。いずれもラジエスのポケモントレーナーを狙った犯行で、鋭利な刃物を凶器にした傷害事件だ。動機は依然として不明……だが何より不審なのは」

 

 

『やはりこれまで通り、被害者は犯人の容姿を覚えておらず――』

 

 

「姿を、掴めていないこと」

 

 かちゃり、と空になったコーヒーカップの置かれる音だけが、不気味に静まり返った室内に響く。

 

「それは襲われた事実による精神的ショック等からなる、被害者に依存した記憶障害ではない」

 

 依然、四角形は淡々と彼らに隣り合った情報を吐き散らしている。

 

「単純に、誰も覚えていないのだ。犯人はその場にいたはずなのに。自分を襲ったはずなのに、だ」

 

 そうして必要以上に、彼らを焦らせる。

 

「……酷く、おかしな話だと思わないか」

 

 椅子の座面を回して、臍ごと液晶に向き合って。いつしかトゥワイスの面構えは、神妙なものへと変貌していた。

「ああ、違いないね」首で肯いながら組み合わせた腕を解いて、眉をひそめるイリス。

 

「でも、この事件がどうしたっていうの?」

 

 こういった疑問があるからだ。彼女の耳には、ついさっきトゥワイスが残した『本来の仕事ばかりをしていられなくなった』という発言が、ずっと引っかかっていた。

 いや、彼女だけではない。勿論ステラにとっても、それは注意を向けるべき材料で。

 トゥワイスは二人の食いつきを予期していたかのように立ち上がって、あらかじめコーヒーで温めていた言葉を返す。

 

「昨今、ラジエスに限らず――ラフエル全土では、怪しい風が吹いている」

「ええ……理解は、あります」

 

 決していい加減な返答ではなく、確かに思い当たる節があった。今日(こんにち)のラフエルにあっては、『バラル団』なる組織の悪行を小耳に挟む機会が多い。彼らはまだテロや国家転覆といった大それた事を起こしてこそいないが、後にそれの訪れを危惧させてしまう程度には、不安と不穏をばら撒いていると断言できる。

 

「そんな中で、こういった一般の人間が起こす犯罪だ。さしものPGも首が回らなくなってきているそうでな」

 

 何を言わんとしているのだろう――辛抱たまらなそうにして、内心で結論を急かす間の事。

 その足音は、ゆっくりと近づいてきた。

 

「そこで彼らは、我らポケモンリーグにとある提案をしてきたのだ」

 

 それは、大股だ。木霊の間隔が長い。

 それは、逞しい。接地面積が広い靴なのかもしれない。

 

「資金援助と引き換えに、捜査に手を貸す気はないか――とな」

 

 それは、やがて止まった。そうして扉を開いて、主の正体を彼女らへとこれ見よがしに知らしめる。

 日没間際のラジエスジムに訪れた奇妙な客は、トゥワイスの「待っていた」という言葉を聞くやいなや、短い敬礼を返答とした。

 

「え、えー、っと? 話が読めないんですけど?」

「トゥワイスさん、この方は……」

 

 イリスとステラは、同性でありながら自分たちをも越えるその長身に驚いてか、言葉を失くす。

 影が多く落ちる場所であっても、そのプラチナブロンドは気品を失わない。

 着込んだ黒服は正義の証。血管のように張り巡らされた赤を流れるは、法という名の平和の原理。

 

「PG本部勤務、刑事部第一課所属――」

 

 この凛とした顔立ちの女性も。トゥワイスの結論も。そして、これからステラがどうなるのかも。

 

「アシュリー・ホプキンスだ。よろしく頼む」

 

 全ては背負われたマスターボール柄の盾が、教えてくれた。

 

「ステラ。君にはこれから彼女と協力して、ラジエス通り魔事件の解決に努めてもらう」

 

 えええええええええええ!!?

 仰天する修道女の声だけが、ジム内に響き渡った。



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02.文殊の知恵、或いはかしましさ

 寝耳に水―――否、ハイドロポンプ。

 

『ちょっと、私、聞いていません!』

『当然だ、言っていないからな。だが庁舎の方にはしっかり話を通している、安心してくれ』

『言ってくださいっ! そういうお話も込みでっ!』

『案ずるな、あくまでも試みの段階であり、我々がするのは協力のみだ。先方とて、何も自発的に危険を冒すような真似をしろと言っているわけでもないからな……君の安全は保証されている』

 

「……そういう問題ではありませんでしょうに……」

 

 ステラは、深いため息と共に一人ごちる。

 あまりに急で、それでいて強引な展開に。この運命の悪戯とも思いきれない、寧ろ災難にも似た非日常に。

 流れる陽気が回転しきらない頭に元気をくれる、そんな午前一〇時のラジエスシティの南区(サウスエリア)。都市故にいつであろうが人が多いのは変わらないが、通勤ラッシュはある程度落ち着いてきたようで、公園のベンチから緑越しに眺めていても、それがわかる。

 目の前で噴水が白を吐き出した。柱のように立ち上ったかと思えば、崩れてコンクリへ落ち伸びていく。弾ける雫が乾く風を潤して、彼女のぼやきを呼び覚ます。

 

「自分がジムリーダー業で動けないというのなら、何故受けたのでしょうか……まったく……」

「おい」

「あの人はいつもそうです。肝心なことは何一つ言ってくれないし、重要なことほど事後報告」

「おい」

「実力はあるのに、どうしてそういう所でマイナスを」

「おい!!」

「ひゃいいっ!?」

 

 やっと気づいたか、まったくはこちらの台詞だ――立ち上がったベンチの後ろで仁王立ちする女警官は、そういう顔をしていた。

 彼女『アシュリー』は、ただの警官とは訳が違う。PG警察学校を準主席で卒業し、巡査や巡査長といった前段階を飛ばし、いきなり現場監督の権限をも行使できる警部補(スーパーボール)という役職から、人々を守るその務めをスタートした。

 俗にいうエリートというものであり、遅々として解決しないこの事件に満を持して投入された切り札でもあって。

 

「ずぶの素人と公務を共にするのは、私としても気は進まんのだが……上の取り決めに牙を剥けるほど、愚かしい警官にもなれん。すまないな」

 

 そのプライド故なのかはわからないが、なかなかに取っ付きづらい。ステラはファーストコンタクトでそんな印象を抱いた。

 

「改めて、アシュリーだ。よろしく頼む」

「ラジエス市職員の、ステラと申します。この度はよろしくお願い致します」

「ノーサンキューだ。どうせこれきりだろうからな」

「あ……」

 

 差し出した手から、平然と身を逸らす。それは即ち握手の拒否を意味していた。

 アシュリーのそのリアクション一つで、ステラは彼女の考えていることが察せてしまった。面白くないのだな、と確信した。

 気持ちは、理解できる。自分の仕事場に知識も技術もない部外者がいては、それは仏頂面にもなるだろうし、あまつさえ共に職務をこなせと言われれば、当然煩わしくもなるだろう。

 しかし、されど、肩を竦めて迎合するような真似をしないのが、このステラという人間の性質で。

 

「お待ちください」

「……握手ならば、要らないと言ったが」

「これも、何かのご縁です。せっかくなのですから」

「…………」

 

 だからわざわざアシュリーの前に回って、再び掌を求める。

 眉の角度が僅かに鋭くなったが、毅然としていよう。関係ない。

『与えられた務めは、全うする』――そんな彼女の信条の前では。

 いくら素人で、どんなに門外漢であっても、任された以上は絶対にいい加減な過程を踏みたくない。この握手、もとい彼女との結びつきは、己が事を成就するために必須だと、ステラは判断している。

 

「……君は、少し勘違いしているな。いや、いい。君のような奴が、たまにいるんだ」

「どういう意味でしょうか」

「何かを成す力も保証もないのに、当然のように『自分ならば』と思い上がり、やれる気になっている奴が」

「邪魔ならば『邪魔』と、素直に仰ることは出来ないのですか」

「行動で示すだけでは伝わらなかったか?」

 

 かち合う眼光。まさに一触即発だった。きっ、と凍り付くような視線が突き刺す先で、唇の中の歯を噛み合わせる。ぴりぴりと尖る空気は、なんと肌触りの悪いことか。

 

「君がやれることはない。私の隣で社会見学でもしていろ」

「そちらがその気でいるのなら、私も私なりに行動させて頂きます」

 

 くつろぐマメパトが、知ってか知らずか宙へと逃げ出した。居心地が悪くなったことに変わりはないのだろう。

 

「おーーーい!」

 

 すると入れ違う人影が、刺々しい反目を終わらせる。

 続けて声の方を見やった先に、

 

「やあ、待った!?」

 

 本当の部外者は、息を切らして立っていた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 何故、君が。

 

「やだな、旅人はいつでも興味一つで行動さ。エリート警官と特例捜査員の事件簿……うん、刑事ドラマみたいだ」

「あのなあ、遊びじゃないんだぞ……」

 

 そんな問いかけに対するイリスの答えに、アシュリーは額を押さえて呆れ返った。

 昨日の待ち合わせの約束にたまたま居合わせただけの彼女に至っては、来る意味も、必要もないからだ。

 どいつもこいつもふざけすぎている。こんな脳内が花畑な連中のために自分たちが働いていると思うと、やるせなくなる。

 

「大丈夫大丈夫、決して邪魔はしないからさ。ね、ね!」

 

 この、少年のように瞳を煌めかせた女は、平気な顔して独白にすら水を差すというのだから、たちが悪い。

 三人が思い思いの足取りで歩く、ビジネス街。一人はうっすらと影をかけてそっぽを向きながら。また一人は眉間に皺寄せながら。そんな二人に挟まれながら生まれるイリスのごくごく当たり前な訊ね事は、火に油を注ぐことになってしまう。

 

「ところでお二人さん、私の気のせいじゃなければ物凄く、こう……感じ悪くなってない?」

「足枷付けられた状態の捜査を強いられて、どこの誰がご機嫌に振る舞えると思う?」

「あなたは、どうしてそう人との繋がりを蔑ろにする言い方しか出来ないのですか? そのようなことではお友達も減ってしまいます」

「なんだと!? 余計なお世話だ!」

「だー、ストップストップ!」

 

「ごめん、私が悪かったよ……」責任を取るように、間で両者へと手を伸ばす。

 邪魔をしない、本当に見聞きするだけのスタンスでいたが、どうやらそうも言っていられない状況であると踏んだ。

 

「アシュリーちゃん、だったよね。確かに君一人で捜査を進める方が早いようには思うんだけれど、この街に対する知識は圧倒的にステラちゃんの方が足りている――そんな風にも思わない?」

「む……」

「ステラちゃんは、真面目にやりたいんだけなんだろう? でもそれは危ない、っていうのがアシュリーちゃんの考えにある訳だし、だったらば自分なりの活動の仕方を見つけるのがいいと思うんだ。違うかい?」

「……確かに、もっともです」

「だよね。私たちは事件の解決を目的にしているのだから、無益な衝突で捕えられるものも逃がしたら、それこそご機嫌に振る舞っていられないよ」

 

 旅をすれば、人と関わる。人と関われば沢山話すし、沢山話せば人慣れする。

 そして人慣れすれば、人付き合いというものにもある程度の答えが見えてくる。

 

「一理……ある、な」

 

 平和な静寂を前にし、旅人という己の身の上に最大級の感謝を抱いた。

 ふ、と安堵の下に胸を撫でおろすのも束の間にして、

 

「それじゃ、聞き込みといきますか」

 

 次なるアクションの提示も行って。

 三人の表情が一様に引き締まって、同じ方を向く。かくして特例捜査チームは正式に結成され、皆の大きな期待を背負っての、一大捕り物が始まる。

 

「まずは直近で事件が起こった、南区(サウス)で聞き込みを開始する」

「いえ、まずは様々な人が行き交う中央区(セントラル)で情報を仕入れましょう」

「量は聞き込みの数に伴って増えていく。情報で大事なのは鮮度だ」

「効率のいい情報の集め方というものがあります。新しいものばかりが手掛かりになるとは限りませんでしょう」

「素人がプロに口出しするな!!」

「私はあなたよりもこの街を知っています!!」

 

 イリスは何も言わず、頭を抱えた。

 

 

 

 争わずとも時間はたっぷりあるということで、順繰りに回ることを提案するも、そうなればなったで『どちらの意見を先に通すか』でもう一悶着起きたのは、ここだけの話。

 急ぐ者や、彷徨う者。誰かと共に往く者や、そんな人々を呼び掛ける者と、多種多様。十人十色の波にぐらぐらと視界を揺らされる中で、一体どこの誰に話しかけるべきか――ステラはそんな基本的な事を迷いの材料にする。

 その合間にも刻まれ続ける、アシュリーがアスファルトを踏み蹴る音。

 

「すごい、テキパキとしてるんだね」

「おかしいか?」

「ううん、ただ、ドラマでよく見るようなモタつく感じはないんだなあ、って思って。途中でジュース飲んだり、なんとなくその場の景色を見たりさ」

「時間が惜しい。被害者の証言が使い物にならん以上は、私たちの見聞きすることが全てだ」

 

「死人が出ていないうちに、片を付けてしまいたいしな」背中越しに付け加えられるのは、正義の味方が頑として譲らない方針。

 旅人は、己の知り得ない世界を生きる彼女に感心を抱いた。当たり前のことでありながらも、掲げた何かしらを行動で示して厳守する難しさを知っている。このアシュリーという女性は、若いながらも人を守る者として、その覚悟を既に持ち合わせているんだな、と再認識したのだ。

 同時に、ステラもきっとそうなのだろう。彼女たちにはそれぞれ、彼女たちにしか見えない世界が、確かに存在しているのだろう、と。そう思う。

 

「おい貴様、PGだ。ここいらで起きている傷害事件について、少し話を聞かせてもら」

「なんて声の掛け方をなさるのですか。そんな怖いお顔では相手の方も委縮してしまいます」

「ぬああ~~いちいちうるさいな貴様はッ! 少しは黙ることが叶わんのか!!?」

「大人たるもの、人を呼び止める時は『お忙しいところ失礼致します』ぐらい言わなくてはいけません! せっかくの端麗な容姿、言葉遣いで台無しになってしまうのはいけないことです!」

「ほっとけ! まるで論点が違う! 捜査さえ進めばなんでもいいだろうが!」

「高圧的な態度は時として誰かの表現を妨げる、というお話をしております!」

「説教をするな!! 貴様は私の母親か!!?」

 

 たぶん、恐らく、メイビー。そんな風に、思う。

 

「え、あの、えっと……」

「はは、ごめんね、彼女たちは無視していいから。それよりちょっとあっちで話を聞かせてほしいんだけど……、大丈夫かな?」

「は、はい」

 

 こりゃあダメだ――独断で新たな捜査員(ピカチュウ)を召集しても、ばちは当たらないだろう。

 イリスは街に繰り出す黄色い背中を見送った後、通行人からメモを取りながら、嘆息まじりにそんなことを考えた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「お待たせ致しました、ごゆっくりどうぞ」

「ええ、ありがとうございます」

 

 取ってつけたような笑顔でも、ないよりかは断然いい。そういった考えからなる店員のスマイルに、優しく礼を返した。

 凹凸どころか、互い違いにかけられたボタンのようにまるで噛み合わない三人娘の捜査は、難航しながらも座礁することなく続いていた。

 一度、情報整理のために立ち寄った西区(ウエストエリア)のカフェは、ステラが日頃利用する場所で。職場である庁舎『ケレブルム・ライン』からは区画二つ分向こうなのだが、テラス席で海を眺めながら食するハニートーストは絶品で、ついつい休憩時間全てを使い切ってでも来てしまう程。

 

「おい、聞いているのか」

「ちゃんと耳は動かしてるよ~」

 

 シーリングファンが生み出す風の心地よさに表情筋を腑抜けさせる旅人へ、アシュリーが語気を強める。

 イリスは溶けたアイスクリームのようにぐったりと伸びたまま、足元に下ろしたリュックの表面を撫で、ふにゃふにゃと言葉を発していた。

 その様子とは真逆の内容の返事であっても、今は信用して、再びその口を開く。

 

「――事件は、元より断続的に発生していた。最初に確認されたのは一年以上も前だ」

 

 トロピカルきのみジュースを、一口。体と共に頭を冷やし、発話を入れ込むステラ。

 

「犯行方法は一貫して鋭い刃物による切りつけを、複数回。病院から得た被害者の傷口の情報から逆算するに、凶器は刃渡り八センチにも満たないペティナイフ、ないしはフォールディングナイフと思われる」

「それで、内容は決まって人間、状況によってはポケモンも含めた襲撃。たぶんポケモンは被害者の抵抗という形で繰り出され、巻き込まれた格好、になるのかなあ」

 

 寝せた首から発される声は、弱々しくも確かな言葉を紡いでいた。

 

「被害者の方々が負った傷はいずれも浅いものであり、又、これまで二〇人以上が襲われながらも不自然なほどに死人が出ていない事から、殺意による犯行の線は薄い……と」

 

 続くステラが繋げると、そうだ、と言わんばかりにアシュリーは頷く。

 

「盗みを働かれた形跡もなく、トレーナーであるということ以外にも共通点がないため、現時点では愉快犯である、と――判断を下す」

 

 私はな。ぺたん、と閉じるメモ帳の音が、情報整理を締めくくる。が、その面持ちは誰一人として満足していると言い難いものであった。

 

「……まだ、だな」

「そうだねえ」

 

 逮捕されていないことは当然なのだが、まだ、パズルのピースに物足りなさを覚えているため。

 スタートしてからもう数時間、一日で解決に導けるほど簡単なものだと楽観視していた訳じゃない。ただ、こうも手掛かりが不足した状態に陥るとも、想定していなくて。

 

「断片的に、惜しい要素はあるはずだ……」

 

 黒服にしわが寄る。窓に切り取られた橙の陽光を遠くにしながら、アシュリーが顎に手をやり呟いた。

 

「東西南北中央、事件発生の場所については法則性が関する所ではありませんが、何よりも『決まってラジエスで起こっている』という事実は、明確なヒントになっているはずです」

「それと、鑑識さんが全然特定できていないっていう、現場に毎回落ちている“謎の布切れ”だっけ? あれもちゃんと何かの意味がありそうだよね」

 

 そうだ。少ないヒントながら、犯人のぼんやりとした輪郭だけは描けたのだ。

『ラジエスから離れられない理由を持つ、何者か』という、イメージだけは掴めているのだ。

 ただ問題は。

 

『被害者が誰一人として、その顔を覚えていないこと』

 

 やはり、ここに至ってしまうのだ。

 何故覚えていないのか。忘れさせられているのか。忘れさせられているのなら、どういった手段を用いているのか。ポケモンなのか。ポケモンとしたら、どんな技を使っているのか。

 掴みかけた解決への糸全てを、大迷宮へと連れ去るリードに変えてしまうのだから、たまらない。

 ステラは口を結んだまま渋く俯いて、イリスは緊張をほぐすように背伸びとあくびを一緒にする。

 恐らくこれに悩んでいる限りは、いつまでも犯人に辿り着くことは出来ないだろう。アシュリーはそんな確信を抱いた。

 尤も抱いたところで、どうにもなりはしないのだが。

 

「おっ」

 

 軽食達が織り成す美味な香りに、胃袋くすぐられ始めた頃。テーブルに頬の熱を奪わせていたイリスが、短兵急に立ち上がる。

「なんだ」というアシュリーの声も、何事かと首を傾げるステラの相好にも、一律で短く「すぐ戻るよ」と返して、外へ出ていく。

 黄色いとんがり耳に、波を描く尻尾。町並みを映す大窓の外に、仕わせたピカチュウが立っていたからだ。

 物言いたげなその佇まいは意味こそ不明でも、含みがある事さえわかれば十分。チリン、と手動ドアのベルを鳴らして、ほんのり磯の味する空気を吸い込むと、ピカチュウは足早に雑踏の中へと入っていった。

 

「(もしかして、割と緊急かな?)」

 

 何も伝えない。ただこっちへ来い。そういう意図が見える。よほどの事かと思って一瞬だけ店内の二人を望んで逡巡したが、小さな後ろ姿が消えてしまいそうだったので、急かされるままに追いかけた。

 イリスがピカチュウを駆り出したのは、しっかりと意味がある。街に住まうポケモンたちの声をも情報にするという、明確な意味が。

 ペットは飼い主に似る、なんて言葉を信じる訳では決してない。が――どうにも彼女の初めてのポケモン、マサラタウンのとある博士から譲り受けたこの“ピカチュウ”は、どこぞの誰かのように話し好きときている。

 なんとも奇妙な巡りあわせと言わざるを得ない。ただもしもそれが何かに役立つというのならば、彼との出会いもまたさらに悪くなかったなと思えるもので。

 

「ここかい?」

 

 しばらく駆け足で追いかけていると、手狭な空間に招かれる。

 一般に路地裏と呼ばれるそこは、光が届かない構造になっている。無論、この夕焼けも然り。

 入口から視認出来るかどうかの深さで止まって、ピカチュウはイリスへ向き直った。鳴き声一つ漏らさないのは、あまりに珍しい。よほどの事があったのだろう、と推察する。

 その影が落とす物々しい雰囲気に誘われ、彼が立つ場所へと今一度足を動かした。

 

「まったくもう、何か伝える努力はしてくれたまえよ」

 

 あらゆる音が遠ざかる。

 

「君は私と同じで、お喋り好きだってもっぱらの評判なんだからね」

 

 匂いが離れていく。

 

「うん、わかってるって」

 

 そのくせ闇は近づいて、ここがどこかを曖昧にしてしまう。

 

「今行くよ」

 

 身に覚える寒気は、まるで世界との繋がりが切れたかのような感覚を齎して、イリスの注意力に隙間を作る。

 

「で、どうしたんだい。ピカ――」

 

 

 そうして凍らせた背筋ごと、ピカチュウは彼女を切り裂いた。

 

 

「……っ……!!?」

 

 間一髪、だった。

 救われたのだ。顔を近づけた瞬間に、それがピカチュウではないと気付けた自分の目に。

 咄嗟に頬の薄皮を支払って無事を購入したイリスは、即座に“ピカチュウのような何か”から距離を置く。

 驚愕の余韻に逆らうことなく攻撃で落ちた帽子を被り直すと、続けざまにモンスターボールから“バシャーモ”を呼び出した。

 彼はその危険性を本能で感じ取ったか、屈む主の前に腕を出し「下がれ」と合図。

 

「……君は、誰だい?」

 

 項垂れる影に、問う。

 何故ならピカチュウは、こんなに長く鋭い腕を持っていないから。

 

「どこから来たんだい?」

 

 立ち尽くす闇に、訊く。

 だってピカチュウは、こんなにくすんだ色を備えていないから。

 

「――君が、そう(・・)なのかい?」

 

 唸りを上げる怨念に、質す。

 だって彼は、ひりつくような敵意を滲ませているから。

 

『ミ……タ……』

 

 ポケモン図鑑を、遠くで禍々しくなっていく“何か”にかざした。

 

『ミミッキュ、ばけのかわポケモン』

「!? 反応した……!」

『正体不明。ボロ布の中身をみたとある学者は、恐怖のあまりショック死した』

 

 “ミミッキュ”――と、いうらしい。

 図鑑がポケモンとして認識はしてくれたが、当の持ち主が知らないポケモンであった。

 

「でも、すごい……!」

 

 六つの地方を踏破してなお、こうして全く知らないポケモンがいるというのだから、世界は広い。そんな場違いな喜びを漏らす。

 どんな技を使うのか? どんな特性なのか? どんな動きを見せるのか?

 

『ミタアーッ!?』

 

 ミミッキュはそんな彼女の興味に対し、過剰な答えを以て返した。

 ビコン。初めに、眼が光る。そして足元で広々と寝転がる影が起床すると、一斉に彼女目掛けて牙を剥く。次には数十にも及ぶ漆黒の細腕が、地獄へ引きずり込まんとする勢いで獲物に襲いかかった。

 

「バシャーモ! よろしく!」

『ヴァァッジャェアァ!!!!』

 

『フレアドライブ』で全身を発火させ行う、格闘術。厳密には、回し蹴り。

 それは轟炎を撒き散らし、幾重にもなる『かげうち』を暗闇もろとも焼き払って。

『ミタアアアアアッ!!?』でもまだ足りない。怯ませてすらいない。敵が立て続けに取った『闇色の爪(シャドークロー)による突撃』という選択で、イリスはミミッキュと目が合った。

 

「ごめんね! とりあえず話は、後で聞くからッ!」

 

 しかし怯まないのは彼女も一緒。裏拳の要領で握り拳を水平に振るう。

 伴うバシャーモが真似ると、矢が如き雷光が発生した。技“かみなりパンチ”の電気エネルギーだけを抽出、遠距離攻撃として飛ばしてみせたのだ。

 光が空虚な顔面を照らす。飛び掛かる折に頼った勢いが、まんまと裏切り仇になる。

 後悔しても既に遅い。ミミッキュは電撃を直にもらった。

 バチィン、と鼓膜まで痺れそうな音を聞き、勝利を確信。

 

「いっ……!?」

 

 それは早い。傾いた首が、そう言った気がした。

 

「ちょ、やば……!」

 

 ホラー映画のゾンビよろしくぽきりと折れ曲がった頸部が、雷の矢のダメージを実証している――そのはずなのに。

 物の怪は止まらなかった。止まってくれなかった。

 頭をがくがく揺らしながらバシャーモの拳を避けて、脇をすり抜けて。思考さえ無に帰す爪が、やがてイリスの眼前へと伸びて、至る。

 

 まずい――――。

 

 声にならない声が、腹の中で反響した。

 

「“じゃれつく”!」「“れいとうビーム”!」

 

 その時だ。救援が現れたのは。

『バウワァァァァァァァァッ!!』背後からのそれは、叫びと共にイリスの傍らの空気を巻き込んで、ミミッキュにご自慢の太い腕を叩き付けた。

 そうして視界が震えたところに、さらなる追撃。鋭い水色の光線を浴びるとたちどころに吹き飛んで、肉体の一部が凍り付く。

 怒りに任せて立ち直るミミッキュの前に、ようせいポケモン“グランブル”と、こうていポケモン“エンペルト”は立ち塞がった。

 

「ふうー……、ナイスタイミング」

「遅いなと思って来てみれば、これか」

「大丈夫ですか、お怪我は!」

 

 ステラとアシュリーが、遅れてイリスの両脇に立つ。

「まあ、血が……!」「はは、こんなの擦り傷さ」頬にあてがわれたハンカチという心配を受け容れながらも、最新の情報を彼女たちに届けるイリス。第一声は「それよりも」

 

「あのポケモンが、事件の犯人でいいと思うよ」

「鋭い刃物での切りつけ……そのようですね」

「図鑑が言うにはゴーストタイプだ。人の意識や記憶に干渉する技なんて、いくらでもあるだろうしね」

「ああ、何より――」

 

 彼女らが断定する材料はそれらだけではない。

 ボロ布で作られたピカチュウ型の被り物を、手元の“謎の布切れ”の写真と照らし合わせれば、事の意味が自ずとわかってくる。

 経年と共に褪せた黄色も、よれよれなままでいる質感も、何もかもが。

 

「一致、しているしな」

 

 答え合わせをするまでもない程に、主張するのだ。

 そこからは早かった。アシュリーは仲間にどうするか指示するよりも先に、エンペルトへ目配せした。

 僥倖とは、こういうことをいうのだろう、なんて独白。しかし好機は好機、当然それを逃す真似はしない。なればこその独断で。私の方が早く、確実で。

 アイサインに従い、掌を前へ突き出す皇帝に向かって、

 

「決めろ、れいとうビー」

「“じゃれつく”です!」

「は!!?」

 

 大声で叫んだ。ステラと一緒に。

 エンペルトは思わずぎょっ、とする。

 次の瞬間、青白い閃光は確かに狂わずミミッキュへと飛んでいった。

 が、凍らせた対象は彼ではない。では誰か? 割り込んだグランブルに他ならない。

 恐れていたことが起こってしまった――。

 惨状とは、こういうことをいうのだろう、なんて独白。こちらはイリスのものだ。

 

「ご、ごめんなさい! 私ったら……!」

「く……っ~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!!!!」

 

 プチン。彼女の頭では、確かにそんな音がした。ごくごく僅かな間を挟み、いよいよアシュリーの堪忍袋の緒は切れてしまった。

 

「いい加減にしろ!! 貴様に指示を送らないということは、貴様が邪魔だということに何故気付かんのだ!!? どうして一から十まで言われなければわからんのだ貴様はッ!!!!」

 

 ブチン。彼女の耳には、ちゃんと音色が響いた。ほんの少しの沈黙を程なくして破り、ステラもまた怒髪で天を衝いてしまった。

 

「そんな言い草はありませんでしょう!!? 一人よりも二人がいいと思っての行動でした!!! お詫びは致しますが、一人で決めたいと思ったならばその旨を教えてもらわなければ伝わるはずがないとわからないのですか!!??」

 

 ガクリ。旅人が額を押さえて肩を落とす音だ。なんとシンプルでわかりやすいことだろう。

 

「察しが悪すぎるんだ! この局面ならば普通、れいとうビームで確実に足りるだろう!!」

「私をエスパーのように扱わないで下さい! そして何事も絶対はありません! 特にポケモンバトルは万一も考えねばならないのです!!」

「その万一が貴様の妨害か!? 傑作だな!!」

「ご自身が人を使う適性に恵まれていないとは考えないのですか!」

「なんだと!?」

「なんですか!」

 

「ちょっと、ミミッキュ逃げるよ!!?」――両者はイリスの一言で、は、と我にかえる。

 しかしいくら騒いで声を上げようが、後の祭り。ミミッキュは入り口に使ったところとは逆の通過口へと走っていく。こうなってしまえば、エンペルトで氷雪の煌めきを放とうが。グランブルで大岩を投げようが。バシャーモを奔らせようが。何もかもがもう遅い。

 げたげた上がる笑い声が今まさに、再び外界へと躍り出た。折角掴んだ手がかりを、みすみす取り逃してしまう。

 

『――ヂューーーーーーーーーーーーッ!!』

 

 そんな間抜けな事実をギリギリのところで取り消したのは、一つの稲妻だった。

 弾ける鳴き声と共に現れ、怨霊へと“ボルテッカー”を叩き込む、第四の捜査員であった。

 全てを聞きつけ帰ってきた、イリスのピカチュウであった。

 

「……はじめから、君一人でよかった気がするな……」

『ピカ?』

 

 ぐるぐると目を回すミミッキュを捕えながら、イリスは心底疲れきった顔でピカチュウを撫でた。

 そして寂しく思う。解決に文殊も姦しも要らない。そもそも一人で済むであろう、と。



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03.一匹が誰かを愛する一日の話

「名前は“ミミッキュ”、性別は……へえ、女の子なんだ」

 

 イスと、本と、少しの医療器具。

 

「生息、アローラ地方――――タイプはゴースト・フェアリー。ラフエルやその他での発見情報はないね、そりゃ知らない訳だ」

 

 流れ着いたか、捨てられたか。

 押し掛ける様々な飛来物が、壁と床をひたすらに叩き打つ。

 

「特性は“ばけのかわ”で、受けるダメージを一度無効にする特性か」

「うひゃあぁぁぁぁっ!」

「だからあの時、バシャーモのかみなりパンチが平気だったのか……」

「くっ、なんてじゃじゃ馬だ……!!」

「……なるほど! 落ちてる布切れは戦闘で消費した化けの皮の一部か!」

 

 イリスが投げ飛ばされてくるステラを軽快にかわすと、すぐ後ろでどんがらがっしゃん、と聞きたくない音が鳴る。

 ただでさえ拒んでいたから、せめてもと聴覚情報の取得だけに留めた。そんな彼女が、依然として目を向け続ける相手、それこそが“ミミッキュ”。

 ピカチュウの活躍でなんとか捕獲にこぎ着けたものの、今度は詳細を知ろうと連れて行ったポケモンセンターで大暴れときた。同じく本件で別働していたPGらも召集し、解決を伝え祝賀ムードとしゃれ込みたかったが――どうやらそうもいかないらしく。

 今なおセンター内で大暴れするミミッキュが、如実に事実を語っている。

 

「クソッ、こいつ、甘い顔を見せていれば調子に……ッ!」

「ホプキンス警部、ここでポケモンを戦わせてはなりません! 警部!」

「放せッ! つけあがる輩には灸を据えてやらねばなるまい、こういう悪ガキのような奴は特にだッ!」

 

 話しかければ物を投げ、近づけば爪を振り回し、叱れば大声を上げて鼓膜にすら危害を加える。隠されることがない敵意の塊に、誰も彼もがお手上げ状態だ。

 

「あの子、きっと人間に何かしらの恨みを持っているんだわ……」

「やっぱ、ですよねえ。私もそう思います」

 

 単なる抵抗と呼ぶには、目に余るほどの攻撃性。

 過去にヒトと何かあったのか、されたのか――わかりはしないが、少なくともこの振る舞いの根底に、憎悪や拒絶があるのは確かであった。

 門外漢のPGはただただ狼狽し、知識があるセンターのスタッフは数人が気絶、今やカウンターに隠れるのが関の山。小奇麗だった内装が目も当てられないほど滅茶苦茶になり、足元に転がった雑誌の『ポケモンは友達!仲良くなれるたった10の方法!』という記述が、今のイリスにはなんだか虚しく感じられた。

 最悪、鎮静剤でもう一回寝てもらうしかないのかなぁ、なんて素人特有のぼんやりとした考えを巡らせる。

 そのうちに、雑然とした物の山から、ステラが再び顔出した。服はぼろぼろで、その面もところどころ薄汚れてこそいるが、彼女は、彼女だけは、いがみつける怨霊へと向かっていく。

 

「ステラちゃん、危ないよ!」

「愛を絶やしては、なりません」

 

 そうか、こういう奴なのか、彼女は。

 どんな時、いかなる者でも慈しんで、尊び、愛することをやめない。そんな彼女の生き方を目の前で思い知る。

「敬虔たれ」負をものともしない正を抱えて前進していく背中が、そう言っている。彼女という器が言葉を越えて伝わる。

 信じるために、彼女が聖職者になったのではない。聖職者という彼女を表すために、信じるという言葉があるのだ。

 その横顔は「優しい」なんて表現では収まりきらない、聖母にも似た温かさを湛えたまま、おもむろにミミッキュへと寄り添った。

 伸びる手が優しく彼女の頭を撫でると、忽ち憎しみは和らいで――。

 

『ッキューーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 

 いくはずもない。そんなわけあるか。馬鹿にしているのか。

 ミミッキュはまるで駄々っ子のように腕を振り回し、修道服を大きく破ってしまった。ビリリ、という過激な音に続いた光景は、目を覆いたくなるような、焼き付けたくなるような。心なしか後者の選択は男性が多かったようにも思えるが、気にしないでおく。因みに何とは言わないが、目撃者曰く“白”だそう。

 黒いベールの向こうにある全てを露にしたステラが、無言のまま俯いた。

 そして呆然に包まれた頭を両脇からひっ掴んで、持ち上げる。

 

「――――――ミミッキュ」

 

 そんな呼び掛けの直後に覗いた顔は、後に思い出すだけで泡を吹いて卒倒してしまうほどの趣があったという。

 一匹の悲鳴が、ポケモンセンター内に木霊した。

 

 

 

 誰かを恐怖させる者は、別の誰かからの恐怖に陥って大人しくなった。

 慈愛という言葉がどこぞへと消えているような気がしなくもないが、終わりよければ全てよし。所謂結果オーライというものだ。誰一人異論を唱えることもなく、ラジエスシティ連続通り魔事件は解決と相成った。

 

「協力に感謝する」

 

 アシュリーの敬礼に、会釈で返す。

 日はとうに暮れて、いつも通り一日の終わりを運び込むが、不思議と今日はどこか清々しい。きっと彼女たちの感じ方の違いなのだろう。

 街明かりと星明かりで照らされる都市の片隅で、二人と一人は別れた。

「いやー、めでたしめでたし」イリスは見送りを適当なところで切り上げ、さっと身を翻す。

 解決祝いということで、隣の修道女を食事に誘おうと思いついた、その時であった。

 

「お待ちください」

 

 小さくなる背中を、引き留める声。ステラのものだ。

 自分のことかとアシュリーは振り向いたが、正解。夜の海に解けそうなその碧眼と、ぴったり視線が合う。

 

「なんだ?」

 

 怪訝そうに訊ねてみると、返事は聞こえなかった。遠い距離感だったり、雑踏特有の喧騒のせいかと思ってもみたが、どうやら違うらしい。発話そのものがされていない。

 

「おい、用がないなら」

「ミミッキュは」

「!」

 

 急だったものだから、少し驚いた。

 

「ミミッキュは、これからどうなりますか?」

 

 ステラは痺れを切らした聞き返しを遮るついでに、胸に取っかかる疑問を全て吐き出してしまった。

 意図を聞いたところで仕方がないので、そのまま洗いざらい事実を述べてやる。

 

「今日、一晩掛かりで検査をし明日に経過観察、明後日の朝来訪するポケモンレンジャーに保護してもらう」

「明日は一日時間がある、ということですね?」

「……何を企んでいる?」

 

 前言撤回だ。含みがありすぎる追加の問いに、思わず口が動いた。

 

「少しだけ、お願いがあります」

「……なんだと?」

 

 間がどんどん溜まっていく。なんだなんだと、イリスも興味ありげに聞き耳を立てた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 上が黒で、下が青。

 もっといえばボリューム袖のフリルオフショルダーに、適度な露出のミディアムスカート。絡みついたいくつかのバングルは、細腕を十二分に飾ってくれていて。

 これがエリート警官の非番時の格好だなんて、誰も想像するまい。

 内側に向いた腕時計を一瞥して、腰に手を当てるアシュリー。踵を支点にしたままアスファルトを叩き続ける爪先が、丁寧にも彼女の不機嫌を教えてくれている。

 先刻から不要なまでに浴びせられている通りすがりの視線も、その心情と無関係ではないだろう。

 

「……遅い! もう三分遅れている!」

「まあまあ、言い出しっぺは私ですし、代わりに謝りますから……」

 

 クロップドスキニーのペールピンクと、デニムシャツのスカイブルー。その中でちらりと見えるグレーボーダー。

 カラフルな出で立ちで人々の釘付けを後押しするステラが宥めても、仏頂面は綻びそうにない。

 何を思ったか彼女が『ミミッキュと一日触れ合いたい』と頼み込んでから、十数時間が経過した。

 いくらポケモンとはいえ、その立場は重要参考人と何ら変わらないので、一介の市民が連れ回すなど言語道断な話。よってアシュリーはきっぱり断ったのだが、深々と下げた頭が言う「どうしても」に揺らいでしまい、結果『警察関係者が監視役として付き添う』という条件で許可を出した。

 つまり自分の休息を棒に振ったことを意味している。

 あの場で彼女のしおらしさに絆された自身の落ち度は認めているし、当然己の押し負けやすさも少しだが認めてはいる。しかし納得いくか否かは全く別の話だし、待ち合わせで遅刻される今になってみれば、断り切れば良かったとすら思っていて。

 

「お~~~い!」

 

 大半が釣り合いを気にして接触をためらうであろう見目麗しい二人に、平然と駆け寄る赤ジャージ。

 のみならず、ショートパンツもレギンスも、果てはキャップにリュックさえ。彼女だけはいつでもどこでも変わらない。

 上目遣いで苦笑しながら両手を合わせ、イリスは早々に「ごめんっ」と謝った。

 

「貴様、五分の遅刻だぞ! 何をしていた!?」

「本当に申し訳ない! 布団の寝心地にやられてしまって、ついつい寝坊を……寝袋で慣れてるとこれだから、ああ、もう……」

 

 ラジエス滞在にあたり、ほんの少しの贅沢でホテルを借りていたが、どうにもそれが仇になった。

 しかしそれ以上責める真似はせず、

 

「……今回はこいつらの遊びに付き合うだけだから、大目に見てやる。今後、私との重要な用事でそれをやらんよう、気を付けることだ」

 

 短く残して、先を行くアシュリー。

「さっすがアシュリーちゃん! よっ、かわいいよ、決まってる!」「貴様、やっぱり反省してないだろう!!?」

 同じ場所でも、立ち位置が異なるだけでこんなにも慣れなくて、落ち着かない。

 日向に晒され、人に揉まれ、物陰が恋しくなって。楽しげに賑わう後ろ姿を、ただ漠然と眺めた。

 

「うふふ。では、行きましょうか」

 

 聖女はそんな彼女に微笑みかけて、そのちっぽけな躰を和みの輪へと引き入れる。

 四者が中央区(セントラルエリア)の英雄像を後にした。どうやらここは、今日も人を絶やしそうにない。

 午前という現在を教えてくれるのは、昇る最中の太陽で。彼が消えるまで、この忙しい連中と一緒なんだなと思うと、その白日は途端に憎らしく見えた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 いくら一口に『遊ぶ』なんて言っても、方法は色々ある。

 ショッピング、アトラクション、映画に食事に水族館、博物館と動物園と、美術館。奇を衒ったところで植物園――いずれもこのラジエスで味わえるものだから、余計に迷ってしまう。

 極論、どこにも立ち寄らず何の気なしの散策を繰り返すだけでも十分な遊びになるのだが、折角の休みを返上してくれたアシュリーへの義理もある。し、何より一日しか残されていない時間だ。計画的に使いたいから、ちゃんと計画してきた。

 ステラが皆を連れて初めに訪れたのは『ラジエスポケキッズパーク』。

 名前の通りポケモンと子供が遊ぶことに適した、年中無休の屋内遊園地だ。

 息切れを起こす滑り台やトランポリン、迷路のようなジャングルジムといった、フロアを広々と埋め尽くす大型遊具に、一周何百メートルにもなるレールを往く室内電車。加えて本格的なサーキットを駆けるゴーカートに、人工雪が敷き詰められたスノースペース。飽きたら人工芝のポケモンラン。

 アトラクション『鏡の迷宮』は別世界へ冒険できるし、『コウガ忍法カラクリ屋敷』はゲッコウガが客人を忍者にしてくれる。

 ポケモンと一緒に登って走って跳んでが出来るアスレチックエリアはエアー遊具で作られていて、安全対策も万全ときた。

 建物まるごと一つが、遊びのために存在している。此処はそういう施設。

 

「なんだか子供に戻ったみたいだ。テンション上がるなぁ」

「貴様が元気になってどうするんだ」

 

 少し場違いにも映る三人娘だが、ポケモン一匹いればその違和感もたちどころに風化するので、不思議なものだ。

 彼女らはボールプールの前にいた。溺れそうなのに幸せそうにする、そんな子供やポケモンたちの声が飛び交う中で、抱えていたミミッキュを足元に下ろす。

「どうぞ」なんて言ってみたが、立ち尽くすばかりで反応すらなくて。

 

「あら、気に入らなかったかしら」

「安直だったんじゃないのか。静かな場所を好むポケモンだっているだろうに」

「思いきり騒げれば、なんて思ったのだけれど……」

「ひょっとしてさ、遊び方を知らないんじゃない?」

 

 ポケモンと人一倍向き合うトレーナーの知恵が、悩ましげな二人の関心を集めた。

 

「人と触れてこなかったんだとしたら、人が作ったモノの仕組みや扱いを理解するのも、大変だろうし」

 

 なるほどな、と納得するアシュリーの隣で、ですが、と意見するステラ。

 

「でしたら、どうすればよろしいでしょう? どうしたら、用途を教えることが……」

「ん、なに、簡単なことさ」

「?」

「こうするんだ、よっ!」

 

「いーーーやっほーーーーーーう!」言葉をより先に、体を前に。突然走り出したイリスはミミッキュを抜いて、いの一番にボールプールへダイブした。

 飛び散るプラボールがぽよん、とマットの上で跳ねると同時、彼女の真意を理解したアシュリーが溜息を漏らす。

 

「すごいよ! ここ面積もあるのに深さもしっかりしてる!」

「恥というものを知らんのかあいつは……」

 

 行動で伝えろ。言葉も通じず、文化も異なる地を巡った旅人の言わんとすることが、これだ。

 最もシンプルにして相手を選ばない、成功が望める明快なコミュニケーション。だがこの場に限れば些か、シチュエーションに苦しい条件があった。

 ある程度成熟した女性が子供用遊具に興ずるというのは、絵面的に問題を感じないでもない。

 しかしそんな尻込みもお構いなしに「カモン! カモン!」と両手で下から手招きする女性の面持ちは、無邪気そのもので。

 

「もう、こうなったら! ……えーいっ!」

 

 半ば自棄になって、ステラも飛び込んだ。

 バラン。丸い飛沫が暴れて数秒、真っ赤になった顔を出す。

「へんなの!」「おとながやってる!」「おもしろーい!」子供たちの発言に胸を痛めながら、

 

「うう……やっぱり恥ずかしいわ……」

 

 表情隠して呟いた。

 その直後のこと、だったろうか。樹脂の海がもう一度、客を受け容れる音を鳴らした。

 次の光景にステラは大層驚き、そして喜んだ。

 ぎこちなくとも、隣で手足をばたつかせてボールの中を泳ぐミミッキュの、その姿を見て。

 心の底から、笑みがこぼれた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 三人と一匹は、時間も忘れて盛大に楽しんだ。

 とりわけステラとミミッキュは施設という施設全てを回り、まるで童心に返ったかのように遊び尽くした。笑声も何度上げたか、わかりはしない。

 そこに人間へ爪立てる怨霊の姿はなかったし、淑やかにする聖女の静けさもなかった。ただ楽しみ、元気に騒ぐ、そんな仲の良い姉妹にすら思えた。

 ラジエスポケキッズパークを出た彼女らが西区に訪れたのは、正午を過ぎた頃の話。

 

「後でシーヴ姉ちゃんにも送ってやろ」

 

 すきっ腹でも、我慢だ。出された食事の写真を撮って、恒例の旅の記録を作らねばならないから。

 腹の虫が鳴き始めたので、昼食を取っている。

 よさげな店を、とも思ったが、万年金欠という宿命を抱えたイリスへ配慮し、ファストフードの『ビクティニバーガー』に決定。ラフエル全土で有名なチェーン店で、手ごろな価格からなる味の良さがラフエル人の舌を掴んで離さない。

「お待たせしました、ムーランドッグとバニラシェイクです」救助犬としても著名なポケモン“ムーランド”の体型のように厚く、横長なホットドッグが、ミミッキュを抱えて座るステラの前に出てきた。

 腹ごしらえにはお誂え向きのボリュームを持つそれは、メニュー表を見るミミッキュが指さしたもの。

 

「『いただきます』――出されたものを食する時は、こうするんです。真似をしてみて下さい」

 

 早速食べようとするミミッキュの眼前で、後ろからを回した手を重ね合わせてみせた。

『ぷきゅ』手本とは程遠い発話だが、彼女なりの一生懸命さが見えたので、ステラはその反復を良しとする。

 

「はい、偉いです……よくできましたね。召し上がれ」

 

 耳を撫でる温かな手が、その証明。

 

「えっ、ていうか口そっちなの!!?」

「今更ですか……」

 

 被り物の下から潜らせたホットドッグを咀嚼する様に仰天すると、忽ちフライドポテトは喉に詰まった。

 

 

 

「いらっしゃい! 安いよ、安いよ!」

 

 露店街では、読んで字の如く露店が連なっていた。

 特定の所在を持たぬまま、各地を流れて店を出す者達がいる。ラジエスでは、そんな彼らに港まで繋がる道の一本を商売スペースとして貸し出しており、申請さえあればいつでも使える取引場として機能するようになっているのだ。

 時期によって変わる店構えや風景はそれだけで飽きという概念を取り除き、今日(こんにち)まで此処を、知る人ぞ知るラジエスの穴場たらしめんとしている。

 道行く人やポケモンと何度もすれ違い、賑わいの中を通っていく。

 

「かわいいお嬢さん方、見た目通りにかわいいポケモン連れてるね! どうだい!」

 

 食べ物屋が多くあるところで、彼女らが敢えて呼び声を拾ったのはアクセサリーショップ。

「えっへへ、かわいいだってさ」「はしゃぐな、子供じゃあるまいし」クスリとしてから行われる耳打ちを一蹴し、簡素な屋根の下に並んだ。

 どうやらこのショップは出張店舗なようで、元来カロスに本店を構えているそう。

 ネックレスに始まり、リングもピアスも、鉱物資源が豊富な同地方で作られているモノだけあって、素人の一見のみでも上等とわかる。

 イリスは値札一つ一つに赤字を透かしているが、あまりに下世話なのでほどほどにしておく。

 

「どうですか? 何か欲しいものはありますか?」

 

 ミミッキュは、己の化けの皮を大切にする習性がある。汚れれば洗うし、綻べば修繕する。そして機会があれば、グレードアップだってしっかり行う。

 並み以上に身だしなみに気を遣うポケモンなのだ。

 ほんの一夜漬けで得た知識だが、こうして瞳を輝かせている彼女を見れば、意味があったなと思える訳で。

 利口にちょん、と指さすリボンを手に取って、店員に示した。

 

「では、こちらを下さいな」

「お目が高いね! これはキーストーンに使われる“輝く石”を、パウダー状にして生地に織り込んだものさ! 見る角度で色が変わるからねえ、綺麗なもんだよ!」

「二つ買うの?」

「ええ、そうです」

 

 イリスの問いかけに、支払いの片手間で応える。ほどなくして空いた手が、ミミッキュの左耳の根元にパールカラーの帯を結んだ。

 

「お揃い、です」

 

 そしてもう一つの帯を自分の横髪(サイドバング)に結び付けてやると、ステラはほんのり歯を覗かせ、眩しくにっこりと笑った。

 なるほど――はにかんで、腑に落として、

 

「うん、似合ってるよ」

 

 一言だけ。

 顔を並べて隣り合わせるのを眺めながら、本当、姉妹みたいだな、なんて思ってみたり。

 ちょっぴり温まる内心に気分を良くしながら、次の目的地へと足を運ぼうとした。

 

「あ、あの…………こ、これを……」

 

 そんな折、震える指で、ラッキーのようなピンク色を携えた“かわいい”リボン付きピアスを所望する女性警官が、目に入ってしまう。

 

「……かわいいじゃん?」

「や、やめろッ! その目を! 早急にッ!!」

「いやあ、大丈夫大丈夫。すっごく似合ってるよ」

「やめろおおおおおおおおおおおッ!!!!」

 

 赤面。はしゃいでいるのは、彼女も一緒なようだった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 日差しの色に、黄が混じってきた。

 

「あはは、待て待て~!」

 

 横にも縦にも広大な空間は建物には建物なのだが、漂う雰囲気は厳かで、静謐で、でも寛雅で。寧ろ聖域のそれに近い。

 白色と薄黄色の抱擁が、居合わせる人々の情動を穏やかにする。

 見守るように佇む白と黒の二体一対の神像は、一目すれば罰当たりにも思えるポケモンと人の追いかけっこも、許してくれているような気がした。

 此処は英雄ラフエル、そして神と呼ばれしポケモンを祭る、ラジエス大神殿。

 ステラはイリスとミミッキュの賑わいを背にしながら、握り合わせた両手をほどく。常日頃やっていること故なのか、その恰好は違えど、やはり祈る姿は一般人のそれよりもうんと様になっていた。

 

「ポケモンに神話や偉業なんぞ、わかるとも思えんがな」

 

 ラフエルの伝説を、確かに彼が存在した息吹を閉じ込めたこの場所は、貴重だし、人によっては喜ばしいのだろう。しかしミミッキュというポケモンには。人を恨むことでしか生きられなかった存在には。訪れる意味を見出せないのではないか、なんて、アシュリーは思っている。

「良いんです」返す隣に、目を当てた。

 

「私が来たくて、祈りたくて訪れたのですから」

「ほう。その祈りとやらは、どんなものだ」

「――どうか彼女が、人を許せますように、と」

 

 柔らかな風に乗るその願い事は、ここで言わないといけなかった。

 人がポケモンを愛し、ポケモンが人を信じて世界を紡いだ証明が眠る、ここでなければならなかった。

 

「恨むだけでは、虚しすぎるではありませんか」

 

 辛さも苦しみも、拭い去りたかった。

 

「憎むだけでは、悲しすぎるではありませんか」

 

 生命は思うよりも幸せなのだと、知らせたかった。

 

「呪うだけなんて、あんまりではありませんか」

 

 人は『余計なお世話』と嘲るのかもしれないし、或いは『ありがた迷惑』と突き返すのかもしれない。

 それでも、いい。偽善と(なじ)られようが、花畑と罵られようが、結構だ。言われ慣れてる。重畳だ。

 それでも彼女は、傷付く者に寄り添っていたいから。生まれたことが祝福されてほしいから。世界に優しくあってほしいから。何が無くてもその手だけは握るのだ。握り続けて、放さないのだ。

 彼女は、何も持たない。特別なものが、無い。

 

「……お前は、おかしな奴だな」

 

 ただ折れず、砕けず、めげず――。

 

「でしょう? ある人との、約束なんです」

 

 ひたむきに願って、祈り続ける。

 

「一方的な取り付けでは、あるのですが」

 

 ステラという女性は、そういう人。

 そうやって握った手紙にも、ちゃんと書いてある。

 

 

 

 一匹が人を愛するための一日も、終わりを迎えようとしている。

 ビルの陰だけはすっかり夜の風情が漂っていて、車の駆動音よりも、ヤミカラスの鳴き声が大きくなってきた。

 何も都市は排気ガスや、喧騒といった人工物にまみれているわけではない。

 しっかりと自然もあるし、緑だって生きている。

 中央区メインストリートの、北側から入って六番目の植え込み。そこは先日の交通事故によって破損した街路樹が撤去された場所で、並木道の唯一の隙間であった。

 

「これで、よし……と。お願いします」

 

 その前で屈み、ガーデニンググローブとハンドシャベルを以て、手狭な土壌に空間を作るステラ。

 不思議そうに覗き込む二人をよそに、ミミッキュは手に持ったプラタナスの種をそこに置いた。

 土を被せてじょうろで水を溢してやれば、まるで子供のように興味津々として、湿った茶色を凝望する。

 新たな街路樹を植える――わざわざ市から任されている仕事を遊興の終わり際である今に行ったのは、ちゃんと理由があって。

 

「今日に生まれた新しいあなたは、この木と一緒に成長していくのです」

 

『この子が、愛することを知れますように』――それは彼女の、もう一つの願い事。

 時を経て、人に触れ、事を解り、やがて生きる意味を覚えた頃。

 見上げるほどに大きくなったこの木を。自分がすくすくと育んだその命を。どうか愛せますように。

 これは、そんな願掛けだ。

 

「ねえ」

「ん?」

「いずれ彼が見下ろした時、この子は、どんな風になっているのでしょう」

「……さあ、ねえ。未来の事は、誰にもわからないよ」

 

 エンディングを飾るには、少し味気ない風景。腕組むアシュリーも、伸びをするイリスも、共通してそんなことを思ってはいるが。

 

「でもさ。素敵なものになっていてほしいな――とは、思うよね」

 

 彼女の横顔が実に満足そうだったので、微笑みに仕舞いこんで、言わないことにした。

「違いない、な」アシュリーが短く呟いた時、とうとう今日という日は終わりを迎える。

 沈む夕陽を惜しまない。きっとまた一緒に見れるから。今はただ、未来への楽しみに思い馳せながら、清々しい別れを告げよう。

 笑顔で、さよならを言おう。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 なんて考えてから、数時間。ステラはマンションの自室にいた。

 電灯の下、キャミソールとショーツでシャワー上がりの好調な肌色を惜しげもなく晒しているが、一人暮らしには関係ない話。濡れてぽさぽさになってしまった髪をバスタオルで拭きながら、テーブルの前のフロアクッションに座り込む。

 

「何をしているのですか?」

 

 そうして話しかけるのは、卓上で後ろ向きのまま何やら手を動かすミミッキュで。

 別れる寸前になって「寝るまでステラと一緒がいい」と駄々をこねたのは、彼女たちだけの秘密。アシュリーも今日一日行動を共にして態度が軟化したか、許してくれた。

 自前でメイキングしたベッドの枕元で座るアナログ時計を一瞥する、二三時過ぎ。

 気になって背中から覗き込んでみると、化けの皮を修繕しているところであった。

 そういえば、彼女たちは睡眠さえ削って直すほど、これが大切なんだっけ――。

 

「なるほど、任せてください」

 

 得意げになって言うステラが取り出したのは、裁縫箱。これだけで察しが付いたか、ミミッキュは少しの抵抗を見せるも「大丈夫です、悪いようにはしませんから」という言葉を信じ、大人しくなった。

 

「少しお行儀が悪いですが、致し方ないでしょう」

 

 テーブルの上で預かった背中に、ちくちくと針と糸を通す。

 “あの人”から教えられた事が、こんなところで役立つとは……なんて、考えながら。

 

「今度はピカチュウだけでなく、色々な皮を用意しましょうか。どんなポケモンにもなれますよ。メタモンみたいです」

 

 傷が少しずつ、縫い合わされていく。ほつれが、平坦になっていく。

 損壊した生体が息を取り戻すように、回復していく。

 

「どのポケモンになりたいですか? よければ今のうちに聞いて――」

 

 そのうちミミッキュは、静かな寝息を立てていた。

 

「まあ、遊び疲れてしまったのですね……」

 

 クスリ。ささやかな笑みがこぼれる。

 作業を続けよう。拝みたい寝顔を、仕方がないと我慢して。

 

「――あなたはこれから沢山の出会いを重ね、皆から喜ばれながら、大きくなっていくのです」

 

 彼女を、癒せただろうか。この一日を振り返りながら、思う。

 

「そしてやがて、この世に翼広げて、飛び立っていくのです」

 

 今の私はあの人に、胸を張って言葉を返せるだろうか。遠い匂いを、思い出す。

 

「ええ、本当に……楽しみです」

 

 気が付けば、修繕は終わっていた。

 着替えも片付けも忘れたままの一人と一匹は、テーブルの上で寄り添うように眠っていた。

 

 

 

 翌朝、早い着信音で目が覚めた。

 いけない、寝冷えしてしまったわ。遮光カーテンが作る肌寒さにめげそうになりながら取った電話が、寝ぼけた頭を叩き起こす。

 

『アシュリーだ』

「おはようございます。今から準備して、ミミッキュをそちらに――」

『いるんだな?』

「……?」

『そっちに、ミミッキュはいるんだな?』

「へ? ええ……寝ていますが……」

『……そうか。落ち着いて聞け、そして至急こちらに来い』

 

 なんだと傾けた聖女の耳に、

 

『明け方、北区でこれまで同様の通り魔事件が起こった』

「へ……?」

 

 想像だにしない量の不穏が流れ込んだ。



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04.存在証明

「っ!!」

 

 ドタン。切羽詰まった戸が泣き喚く。ラジエスジムが業務開始早々から騒々しいのは、既に応接間いっぱいにPG(ひと)が詰まっているからに違いない。

 そして今しがたそこに入室したステラの血相が正常じゃないのは、完全に想定外の出来事が起きたからに違いない。

 言った相手が言った相手だったので、質の悪い冗談と笑うこともできなくて。ステラは挨拶も忘れ、トゥワイスとアシュリーがいる中心のテーブルまで一目散に駆け寄った。

 抱えられたミミッキュが、ただならぬ空気に圧されて窓へと目を逸らす。昨日が濁ってしまうほどの曇り空だった。

 

「来たか……これを見ろ」

 

 早速差し出すのは、件で撮影された現場の写真。被害者が倒れていないだけで、他はそのままの状態で写されている。

 点々とした血痕の上で無造作に転がる、開きっぱなしのモンスターボール複数個。

 

「被害者はジムに挑戦するため、昨夜にオレントからラジエスに入ったポケモントレーナー(・・・・・・・・・)。鋭利な刃物で皮膚を数か所切られている。布も落ちていた」

 

 アシュリーの言葉に続くトゥワイスが、何を言わんとしているか。

 

「そして、やはり“覚えていない”そうだ」

 

 そんなこと、考えるまでもなかった。

 ゾクリと、悪寒すら走る。折角結びついた糸が、自分の与り知らぬ意図一つでほどけてバラバラになってしまうのだから。

 単独犯という前提が瓦解する。まだ彼女以外の“何か”が潜んでる。とぐろを巻いて、この街の陰から自分たちをじっと見ている。

 悪質なイメージのせいで、頬の上を滑った冷や汗。故意的とも取れてしまうこのタイミングの振り出しは、誰にとってもあまりに耐え難いことで。

 しかし嘆いたところで何一つ変わらないので、人々は再び事に当たっていくしかない。

 

「……ミミッキュとは、ずっと一緒だったのか?」

 

 アシュリーら警察は特に、だ。

 

「え、ええ。共に寝ておりました」

「睡眠……意識を失っている時があった。つまり、こいつから目を離すタイミングがあった、ということでいいな」

「……何を仰りたいのですか」

 

 なればこそ、疑うことを続けなくてはならないのだが――心の余裕の無さなのだろう。こんな形式的な聞き込みにすら、角を立てる。

 ぴりついた雰囲気は、辺りを嫌な静寂で埋め尽くして。

 不理解なまま発されたステラの言葉が、必然的に鋭くなった。

 

「……模倣犯って、線もあるしね。まだまだわからないことがいっぱいだね、あはは」

 

 柄にもなさすぎる振る舞いに危うさを覚えたイリスが、咄嗟のフォロー。

 

「手口が一緒で、状況証拠もある――理由が揃い過ぎなんだ。そんな中でアリバイ証明が出来ないのなら、真っ先に嫌疑をかけられても仕方がないだろう。何故しっかりと見張らなかった? ……いや、いい。結果論の押し付けだ。そもそも許可を出した私の落ち度もある」

 

 だがそれも虚しく、アシュリーは無遠慮且つ無容赦に口車をぶつけた。

 されどそこに感情や、個人の思いのようなものはこもっていない。ともすれば寧ろただ淡々と、使命のみを飲み込んで果たしていく冷たい人形にも空目出来る。

 

「……何故、そうなるのですか?」

「す、ステラちゃ」

「昨日の事は、忘れてしまったのですか。無邪気な子供のように綻ばせたあの表情を見て、どうしてまだそんなことが言えるのですか?」

「我々は感情でなく、事実を知る必要がある」

「この子は私と一緒にいました。間違いなくいたのです。確かに」

「でもお前はそれを証明できないじゃないか」

 

 どちらも語調は穏やかなままなのに、会話には第三者を拒絶する明確な壁があるのだから、不可思議な話。

 重なっているようでまるで合っていない視線が、悲しくも二人のすれ違いを浮き彫りにした。

 もしかすると、事前に予見できたことなのかもしれない。

 何故なら信じる者と疑う者は――本来対極にあるのだから。

 仲良く祈ることも。共に希望を見届けることも。一緒に日常の空白を喜ぶことも。本当は出来ていなくて。見せかけに騙されて気付けなかっただけの、単なる『つもり』だったのかもしれない。

 そう思った途端、ステラはどうしようもなく虚しくなってしまった。言葉を紡げなくなってしまった。

 部屋から、出て行ってしまった。

 

「ステラちゃん!」

 

 イリスが見えぬ足跡を追ったのを機に、アシュリーが部下へと目配せ。それは自分が行っても仕方ないと知る故の、代理派遣の合図。

 かくして煮え切らないまま、濁されたまま、事件の捜査は再開される。それ以上、誰かが口を開くことはなかった。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――あの子を救えるのは、自分だけなんだ。

 そう思った途端に、頭が冴える。足が動く。使うべき正解の言葉が勝手に出てきて、やるべきことが理解出来る。

 ステラは嘆こうとも、止まっていなかった。行動の重要性を承知しているために。

 メモとペンを手に代理PGとイリスを連れ、車を使い、路面電車を用い、時には足のみで奔走し、とにかく情報をかき集める。

 些細なことでも鬱陶しがられるほど訊ねて、街のあらゆる景色に目を配り、びっしりとメモに字を詰めて。最終的にはパッと見で読解できない程になった。

 誰に話しかけるかさえ迷っていた一昨日の姿が嘘のようだし、体よりも先に考えばかり巡らせる二日前の自分とは別人みたいだった。

 

「ふう」

 

 休憩。どか、と西区にある町中のベンチに腰を下ろす。

 捜査開始から既に一時間――連続的に凄まじい集中力を発揮しても、真実は何も掴ませてくれない。

 情報はどれもこれも耳からすっぽ抜けるものばかりで、嘘でも有用とは言えなくて。あえて悪く表現するなら「しょうもない」というやつだ。

 でもまだだ、まだ諦めない。生まれ変わった彼女の無実を晴らすんだ。潔白を証明するんだ。メモ書きを噛み締めながら、何度でも己に言い聞かせる。

 

「大丈夫?」

 

 背中に当たる言葉には、優しさが感じ取れる。情報整理を中断して振り向けば、イリスが背もたれに腰かけて、なんとなしに人の往来を眺めていた。

 

「根を詰めたって逆効果なこともある。PGだって、同じように捜査してくれているし……もう少し楽に構えていいんじゃない?」

「ええ……ありがとう。でも、今なんです」

「今?」

「たとえやったのが彼女でなくても……今犯人を見つけないと、私たちと彼女は、わだかまりを残したままお別れすることになります」

 

 見つけないと、ならないんです。そう話す喉から出る声色はどこまでも険しくて、誰かの意見を払いのけてしまいそうなぐらい鋭利で、刺々しくて。

 頑固さというのは時として息が苦しいな、なんて独白。

 糠に釘を刺すような手応えを覚えたから、項垂れる後ろ姿への言葉かけを止めた。

 

「そういやミミッキュ、いなくない?」

「……いつの間に……!?」

 

 尤もそんな静寂、すぐに破られてしまうのだが。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「おや、小さいお客さんだねえ。いらっしゃい」

 

 ステラとイリスが焦燥に駆られている頃、ミミッキュはそんな心配をよそに、単身で露店街に来ていた。

 ワゴン車を改造して作った簡易店舗が掲げる看板は『きのみ飴』の四文字。様々なきのみを飴でコーティングし、それに棒を取り付けた、屋台グルメの定番だ。

 

「はいよ、“モモンのみ”でいいんだね」

 

 指さしに伸ばした腕を戻す。金が必要なのは、知っている。教わった。

 ラジエスに遍在する自販機の下をひたすらに漁って集めたから、心配は無用。彼女を元気にする一本を買えれば、それだけで十分だ。

「気を付けるんだよ」昨日を必死に思い出し、聖女の見様見真似で銀貨と品物を交換する。香った甘さに少しだけ誘惑されたが我慢して、緊張ごとぎゅっと持ち手を握った。

 

「おつかいかな? えらいねえ」

 

 見上げた落書きのえくぼの赤色は、ちょっぴり濃くなっている気がした。

 

 

 

 ちょみちょみと歩く。極めて短い足なので背が低く、人波の中ではあっという間に攫われかけてしまう。

 ぎこちなく障害物をかわしながら、一生懸命に守るきのみ飴。

 喜んでくれるだろうか。落ち込んだ顔をやめてくれるだろうか。照りに包まれた桃の果実を見て想像するのは、大好きな彼女の笑顔で。

 あの人の感情は思わず伝染してしまうから、面白いものだと思う。人間とはこういうものなのだろうか。本当はこうして健やかな気持ちを、分け合えるものなのだろうか。

 

『こいつは、ボツだな。親にするにも価値がねえや』

 

 ――捨ててしまうだけの生き物では、ないのだろうか。

 継ぎ接ぎだらけの魂が、そっと外の世界を覗き込んだ。

 

 

「――ぐあああああああああああああああああああああああああッ!!!!」

 

 

 その時だ。耳を千切り取ってしまうような悲鳴が聞こえたのは。

 ミミッキュは急な事への驚きでびくっと体を跳ねさせたが、すぐに転びかけから立ち直り、その不穏だらけの音の出所へと走った。

 

「い、痛い、痛いぃ……ッ!」

 

 辿り着いた先は、コンクリの森の奥深く。自分が住処にしていた、暗闇が支配する路地裏であった。

 数体のポケモンが瀕死で転がる中で、名も知らぬトレーナーは痛々しく血と生傷に悶える。ぶつ切りの声はダメージの大きさを伝達するのに十分すぎた。

 どうすればいい? 何をしたらいい?

 初めての事で、不測の状況で、バグが生じた脳内から大量のエラーコードが吐き出されるミミッキュ。これは昨日経験したことではない。彼女が教えてくれたことではない。こんなにおぞましい光景が広がるまで痛め付けたことなどない。

 私は。私はここまでやった覚えが、ない。

 怪しい曇天が、ついに雨天に変わった。湿った匂いが血みどろのそれと混ざる。不快だ。色の濃度が一段上がったアスファルトは、悲しむ空をいい加減に反射した。

 降りしきる水滴に頭を冷やされたミミッキュは、ようやく満足な思考力を入手。とりあえずは人を呼ぼうと思い立ち、身を翻す。

 

「……なんだ、これは」

 

 後ろに、見慣れた顔の戦慄があるとも知らないで。

『ミ』短い鳴き声が先だったろうか、それとも彼女の手が先だったろうか。

 わからないが、被り物にひどく皺が寄った。

 

「――――何故だ!!?」

 

 そして間近で、怒声がぶつかった。それだけは確かだった。

 

「何故、こんなことをする!? どうして人間に危害を加える!!?」

 

 大きく開いた目。怖いものだった。

 

「お前にとって昨日という一日はなんだったんだ!?」

 

 食い縛られた歯。遠ざけたくなる、恐ろしい様相をしていた。

 

「明日に前を向くためだったのではないのか!? 人の中で生きていこうと、一瞬でも考えたのではないのか!?!?」

 

 私たちという魂を食い潰す、ヒトの顔を思い出してしまった。

 

「答えろ! そして言え! 面と向かって私たちに、これ(・・)は違うと、言え!!」

 

 頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されて、終いには真っ白になって。

 

「こんなことはしていないと――否定しろッ!!」

 

 何も、話せなくなってしまった。

 熱を奪われていても、わかる。すっかり縮こまって動かなくなった小さな躰をアシュリーから奪い取ったのは、ステラの手だった。

 

「私が、否定します」

 

 発されるはずだった言を代弁するのは、ステラの口だった。

 

「お前の言葉など、聞いていない!」

「あなたはこの子の言葉だって、聞くつもりがないでしょう!?」

 

 輪郭歪んだ残響に、濡れる灰が踊る。

 

「犠牲者は減らさねばならない! 時間がないんだ、私たちには!」

「それは、誰だって一緒でしょう!? 耳を傾けることさえ放棄して、一体何を得られるというのですか!?!」

 

 溺れてしまいそうになる潤いに、飲み込まれる。

 

「お前だって同じだろうが! こちらの腹を、知ろうともしないくせに!!」

「あなたがわかりやすく伝えてくれたことなんて、一度もなかったッ!!」

 

 雷雲は、滂沱として降りてくる雫に晒され続ける女性たちを、嘲笑った。

 でも、それに気付いているのはイリスだけで。

「もう、いいです――」ただ壁に寄りかかったまま俯く彼女が、立ち去る一人と一匹を寂しく見送った。

 

 

 

 握ったままのきのみ飴を今更差し出しても、もう遅い。

 聖女は笑ってくれない。喜んでくれない。何一つ、言ってくれない。

 雨に濡れてぐしゃぐしゃに溶けてしまったからだろうか。モモンのみが嫌いだったのだろうか。

 それとも。

 

 ――この人も、自分を手放してしまうからだろうか。

 

 立ちどころに出来た水溜まりを踏みつけて、吐き散らした感情の残りかすを落としながら、当てもなくさまようばかり。

 私はこれからどうなるのだろう。どこへ行くのだろう。不思議と息が詰まって、胸は栓がされたように苦しくなった。

 辛いって、こういうことなんだろうか。切ないって、こういうものなのだろうか。

 

「どうして、みんな――――わかってくれないのでしょうね」

 

 悲しいって。こんなにも引き裂かれそうになるものなんだろうか。

 水気で伸びきった前髪の隙間から覗く瞳が、さめざめと泣いていた。

 消え入りそうな声。抱き締められて、より悲しくなって。いつしかミミッキュはステラと同じ面持ちをしたまま、ぴいぴいと鳴いていた。

 どうにもならないことを、どうしようも出来ない。どうやらそれは心を激しく乱されるのだと、知った。

 そうして不本意に成長した一匹、及び一人に、傘を差し出す一名。

 

「……! トゥワイス、さん……」

「風邪を引くぞ」

 

 トゥワイスと呼ばれた男は多くを語らず、静かに彼女たちを見下ろしていた。

 

 

 

「付き添いのPGには引き取り願った。私で十分という事でな」――何より彼らと顔を合わせたい気分でもないだろう。配慮の行き届いた付け加えは、ステラの情緒を落ち着けた。

 テルス山から流れる水路の表面が、忙しなく形を変えている。なんとなしに橋の上からそれを眺めつつ、再び開口するトゥワイス。

 

「聞いたぞ。君は、ミミッキュを救いたがっている……らしいな」

 

 ええ、と返事こそするが、それは雨音に紛れそうで、耳を澄まさねば聞こえそうにない。

 しかし横顔は尚も、構うものかと続ける。

 

「又、それ故に、彼女が今回の件に一切関わっていないという主張を続けている……と」

「違い、ありません」

 

 確かめたいことがあるからだ。

 彼という人間が、ずっと彼女に抱き続けてきた疑問のようなものの、答え合わせを望むからだ。

 

「確証は?」

「ありません」

「ならば、何故」

「信じているからです」

 

 ただ愚直になって聞かず、捻じ曲げず、梃子であってもひとたび決めれば動かない。

 

「この子が私を信じてくれたように、私もこの子を信じています」

 

 芯という呼び方すらかわいく思える、このステラという人間が持つ本質の、正体を。

 一聞だけではただの感情論に過ぎないだろう。恐らく唾棄することだってたやすい。

 

「……ついてこい」

 

 だがそれは、常識に当てはめればの話。

 一息。暫しの閉目から、開眼した。どうやらこの男もまた、並から逸脱した“何か”を持ち合わせているらしい。

 

「ミミッキュの無実を、証明できるかもしれない」

「! 本当ですか……!?」

 

 ステラはトゥワイスから滲むそれを汲み取り、先行く背中を追いかけた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 事件の痕跡と共に、諍いの記憶すらすすぎ落していく。この雨には、そういう役割があるのだと思う。

 救急車が傷だらけの被害者を連れて行って暫く経った。現場は黒服の出入りが激しくなっていきやがて封鎖、そうして実況見分が始まった。

 

「いいのかい? このままにしておいて」

「……私の職務はこれ(・・)だ。カウンセリングは別の誰かにやってもらえばいい」

 

「ふうん」イリスが、先程とは打って変わって下がりきった肩へぶつけると、

 

「の割には、手に付いてないみたいだけどね。本職」

 

 布きれという物証を拾いかけた素手が、大急ぎで引っ込んだ。

 

「貴様、知っているならば最初から教えろ」

「カウンセリングが要るのは、君なのかもしれないね」

「冗談を抜かせ……」

 

 傘を小脇に抱えて、ビニールの手袋を着用する。

 そのために俯いたのではない。さっきから、ずっと俯いていた。きっと彼女には自覚がないのだろうから、黙っておくが。

 

「……私だって、違っていてほしいさ」

 

 仕方がないじゃないか。己を捨て去ることでしか、真相に辿り着けないのだから。

 

「誰が、昨日まであんなに楽しそうにしていた奴を、悪者にしたいと思うんだ」

 

 全てを解き明かすことでしか、彼女を助けてあげられないのだから。

 

「どうして、誰かへの祝福を台無しにする道理があると思うんだ」

 

 ならば。いっそ。

 

「それでも、私は――」

 

 冷たくなるしか、ないじゃないか。

 雨足に踏み潰されて消えたはずの胸中が――残骸として、まだ、ここにある。

 白む息と共にこぼれて、砕けて、散った。

 

「自分に、腹が立つ」

「うん」

「目の前で助けを乞う命一つも満足に導いてやれない、自分にだ」

「……ふふ、優しいんだねぇ」

 

 イリスはその微かな呟きを、アシュリーに届けようとは思わなかった。どうせ「からかうな」なんて目尻を釣り上げながら怒るんだろうし。

 それに多分、これは彼女が隠しておきたいことなのだと、考えるから。

 だから。今はただやれることを、やれるだけ。何も言わず、誰もが笑って終われるように行動するだけ。

 欲しいのは大団円だけだ。ひたすら、そのためだけに。

 

「……しかし、酷い状況だね。ポケモンを総動員させた上で叩きのめしてる」

「たまにあるんだ。過剰な時が」

 

 転がるモンスターボールを眺めつつ話題を展開させると、思わぬヒントが提示される。

 不可解な事ではあるのだが、この通り魔事件、大まかな犯行内容に違いは無くとも、細かく突き詰めれば微妙な差異が存在していた。

 ずばり、巻き込まれたポケモンの数、だ。

 より具体的な表現をするならば、トレーナーに襲い掛かったであろう存在が、応戦として出されたポケモンに与える損害の度合いにばらつきがあるのだ。

 例えば今回と前回のものは、壊滅レベル――全てのポケモンを瀕死に陥れ、いわゆる目の前が真っ暗になるほどの打撃をくらわせていた。

 かと思えば前々回は一匹の瀕死に留めてあって。他にも二匹や三匹の時もあり、どうにも統一感がない。

『そもそもトレーナーが倒された分の数しかポケモンを所持していなかった』線や『ポケモンが強すぎて壊滅させるまでトレーナーを攻撃できなかった』線も考えてみたが、まるで腑に落ちない。

 前者は事実確認の時点で被害者本人に否定されたし、後者は理屈の上で成り立ちそうもない。

 ポケモンが瀕死になった時や、そのポケモンの退き際等、バトルの最中で生まれるトレーナーの隙は絶対に存在するし、実際にそういった注意と注意の切れ間を狙って人に危害を加えるという犯罪も少なくはない。

 であれば、この違いを作る要素は何か。一体どんな意図があって分けられているのか。

 他の捜査員はまるで注目していないが、アシュリーはずっとこれ(・・)について目敏く追求していた。

 

「……妙だよ」

「何?」

 

 詳細を聞かされたイリスが、素人であることに対する恥も臆面も忘れて意見を述べる。

 言葉を練りながらのリアルタイムな頭が想起しているのは、一昨日のミミッキュとの戦闘。

 

「彼女は、こっちが出したバシャーモを無視して、真っ先に私を攻撃してきたんだ」

 

 イリスは直に見ていた。ポケモンをすり抜けてでも奥のトレーナーを狙う、人間に対する確かな執念を。その攻撃性を。

 

「わざわざ律儀に戦って負けて、捕獲されてしまう危険を冒してでもその相手を狙う意味ってなんだい? ……そもそも、必要あるのかい? 『殺意を含まない程度の恨みを晴らす』っていう行為に於いて」

 

 リスクとリターンが、釣り合わない――そう言った。

 

「……確かに、言われてみればそうだ。特定の個人に対する怨恨ならいざ知らず、大まかな括りの下だけで相手を決めているのならば、手強いと感じた時はすぐに逃走を図ればいい。あまつさえ全滅させるだけの力があるなら、ことさらバトルに付き合う必要性が薄い」

「そもそも、だよ。いくら強かろうが野生のポケモン一匹で、トレーナーご自慢のフルメンバーを倒せるなんて――私には到底思えないんだ」

 

 見下している訳ではないと、誓う。

 ただ、ポケモンと密接に関わり合う者ならではの経験と知識が、警察の推理を補填しているのだ。

 噛み合って、結び付く謎。ようやっと解錠音を立てた扉の向こう側が、二人をある結論にまで導いた。

 

「……まさか、人為的なものが絡んでいるとでもいうのか?」

 

 黒幕の中に、人がいる。

 

「多分だけど……、ミミッキュという化けの皮を隠れ蓑にして、裏で何かしらを働いている“誰か”がいる」

 

 トレーナーのポケモンに対して明確な目的意識を持った、人物がいる。

 

「ああ、そうだ。間違いなく、人間が関わって――」

 

 

『そんな中で、こういった一般の人間が起こす犯罪だ』

 

 

「……ねえ」

「なんだ?」

 

 そして、その確信は。

 

「――どうしてトゥワイスさんは、私達に事件の説明をする時、犯人が人間であることを前提にしたんだろう」

 

 決定的な核心を、呼び込むことになる。

 ――そんな、まさか。

 最悪なビジョンが過った。気のせいであれと思った。

『ポケモンの扱いにめっぽう長けた人間』が模倣犯として介入すれば、何もかも合点がいく――そんな推論が間違いであれと。強く願った。

 

「ステラちゃんが、危ない!」

 

 口が出る頃には、二つの影は走り出していた。

 もう止まらない、止まれない。どれだけ遠ざけたい真実であっても、これだけは目の当りにしなければならないのだから。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 目が及ばない路地裏に連れてくるのは、容易だった。事件の発生場所が、決まってそこだからだ。

 

「トゥワイスさん。それで、この子の無罪を証明できるもの、というのは」

「……ああ、それなんだが」

 

 振り向いた先の彼女を叩き伏せるのは、簡単だった。殴られる訳ないと、信じ込んでいたからだ。

「な――っ」ステラが突如として背後に感じた気配へ振り返った時には、もう何もかもが手遅れだった。

 腹部にめり込む“ハッサム”の拳が、その事実を丁寧に彼女の痛覚へと伝えている。

 ドムン。気持ちの悪い残響が頭の中で跳ね回り、平衡感覚を行方知れずにした。呼吸の滞りに引きずられた咳は、蹲った躰からげほげほと予定調和のように吐き出される。

 傘ごと細腕からこぼれ落ちるミミッキュ。出し抜け過ぎて現状への理解が追い付かないまま、ぽて、っと不時着。ハッサムは続けて、そんな少女へ容赦ない『バレットパンチ』を叩き付けると、化けの皮は忽ちアスファルトと鉄拳に挟み潰され、夜なべの記憶ごとぐちゃぐちゃになった。

 

「ミミッキュ!!」

 

 ぎらりと光る赤い悪意が主人へ振り向くと同時に、ステラは今一度トゥワイスを見やる。

 雷鳴が響いた瞬間、背筋が凍り付いた。そこには厳格で、強く、優しい上司の面影など微塵もなかった。ただ半開いた口を三日月よろしく釣り上げて歪め、瞳にどす黒い意志を滲ませる、悪魔みたいな男が立っていた。

 ステラは全てを察してしまう。瞳孔開きかかった双眸に、彼を映して。

 

「そんな……何を……、どう、して……」

「彼女の無実を証明すると、言ったではないか」

 

「こういうことだ」衝撃と悲嘆で混濁とした表情が捻り出すありきたりな問いかけに、トゥワイスという怪物は微笑んで答えた。

 でも、そうじゃない。聞きたいのはそんなことじゃない。

 

「誰からも慕われ、尊敬される、あなたという人間が……何故……」

「強さだ」

「……へ……?」

「慕われるのも、尊ばれるのも、敬われるのも……全ては私に強さがあるからだ」

 

 呻きが混じった不理解の表明を認知し、さらに掘り下げていく、己の底。

 

「ポケモンという、強さがあるからに他ならない」

 

 地位も、名誉も、富も――誰かを叩き潰す力を鍛えて、鍛えて、鍛えぬいた果てに手に入れたものだと。こういった積み重ねの先に得たものだと、言っている。

 

「その“強さ”とやらを得るために、こんな真似をしたと、言うのですか……」

「親、子供、或いはパートナー、居場所に、思い出……とかく生物というのは、大切なモノを脅かされた瞬間、我々が想定しえない力を発揮する。火事場の馬鹿力、というものだ」

 

 ポケモンとて、例外ではあるまい。

 

「信頼するトレーナーが危害を加えられた時。痛め付けられた時。奴らは皆一様に怒りと憎しみを胸に、凄まじい力を行使しこちらに襲い掛かってくる。野生を遥かに凌駕する、闘争本能を以てな」

 

「だから」「そうだ」重なる声。

 

「それを討った時に得られる経験値たるや、通常のバトルで手に入るそれの比ではない。上質で、高級で……私をより高みへと運んでくれる」

「そんな……」

「わかるか? 打ち倒した時の悲鳴は。引き裂いた時の絶叫は。敗北を教えた時の嗚咽は」

「そんな、ことの」

「――私に強さを、くれるのだよ」

「そんなことの、ために――」

 

 聞いたのは、とてもジムリーダーが発していい言葉ではなかった。いや、もしかしたら人の言葉とすら呼べないのかもしれない。

 だって、そうだろう。あまりに身勝手だろう。ポケモンを力としか思っていない。誰かを踏みにじるものとしか考えていない。私は。私が。私の。自分の話ばかりをしている。そこに仲間はいない。パートナーはいない。相棒など、どこにもいない。

 強さを知らしめる道具でしかなくて、武器でしかない。

 こんなことがあっていいはずがない。こんなものがいていいはずがない。

 こんな、こんな――――他を侵すことでしか輝けない、戦闘マシンのような眼をした生物が、存在していいはずがない。

 

「……あなたは、歪んでいる……」

 

 修道女は悲しみに涙を溜め、絞り出すように許されざる凶行を糾弾した。

 

「責めたくば、責めるがいい。されど世界の真理――弱肉強食は、変わらない」

 

 その景色に、憧れた最優のジムリーダーはいない。

 ポケモンとの在り方を説く、厳しくも優しいトゥワイスはいない。

 

「弱きは見向きもされないし、触れられない。ただ何者にもなれず透明になったように扱われ、やがて自然に飲み込まれて朽ちていく。そうして強きの糧になって終わる」

 

 残っているのは、

 

「人もポケモンも、弱い者に存在価値などないのだ」

 

 ひたすら存在証明に拘泥する、おぞましい魔物だった。

 

「“ギルガルド”」

 

 王剣ポケモンを呼び出した。これから彼がすることは、これまでもずっとしてきたこと。

 いけない。ステラはそれを知るからこそ、苦しくとも手を動かさねばならなかった。

 

「くあ……っ!」

 

 しかしさせるか、と言わんばかりにハッサムが彼女の首を掴んで妨害、その細身を拘束して乱暴に持ち上げる。

 

「大丈夫だ、死にはしない」

「ミミッキュ駄目、お逃げなさい……!」

 

 狭窄が軽いうちに発した声が、ミミッキュに向いた。狙いを定める悪意と一緒にぶつかったものだから、小さな体躯は当惑に揺れる。

 悶えながらも訴えるのは、ステラの表情。

 

「お前には、感謝している。お前のお蔭で、PGの捜査の目を攪乱し続けられた」

 

 ――「あなたが狙いだ」と、言っていた。

 

「そしてこれからは、私の糧になってくれるのだからな」

「っ!!」

 

 空いている方のハサミが修道服の背中側を大きく破り裂くと、露になった素肌が冷ややかな雨に晒される。底意地悪い雨雲は再び笑って、この悲劇を良しとした。

 

「ずっと、影から見ていたよ。そしてお前に友が出来る瞬間を待っていた。底なしの強さの原石を持つ、お前にな」

「ミ、ミッキュ……早く……!」

『!? ……!! …………!!?』

「さあ、見せてみろ」

 

「――――いッ――!!!!」

 

「お前の、強さを」

 その促しを合図に、最低最悪の試練は始まってしまった。

 ぶちり。初めに、皮膚の裂けていく音が聞こえた。

 みちり。続けて、肉に切っ先が突き刺さる音が鳴った。

 ずぶぶ。最後に、剣が痛点と血の海を横断する音が響いた。

 

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 

 約束された絶叫が、上がった。

 浅い傷でも、範囲が広ければ意識を千切り取ってしまう程の痛みが生じるもので。マジシャンのように実演して見せる、真っ赤な種明かし。

 腰を流れる血は、ばたついて助けを求める足を伝ってぼたぼたと落ちていく。悲痛な叫びと共に剥き出しの背中に引かれる深紅の一本線は、この雨でも洗い流せそうにない。

 

「こいつはお前を信じているそうだ」

「ああ、あ、あ、ああ、あぁ、あっ――――!!」

「お前の唯一の味方だそうだ」

「いいのか? 立ち尽くすままでは、死んでしまうぞ」

「ああああああああぁぁーーーーーーーーーーーッ!!!!!!」

「一人ぼっちに、戻ってしまうかもしれんな」

 

 瞳を閉ざしたまま仰いで歪む相貌は、もはや泣いているのか、単に水滴に打たれているだけなのか――それすらわからなくて。

 そんなものは彼女(ミミッキュ)だって一緒。

 だが一つだけ、わかっていることがある。

 

 

『――――――ヤ、メロ゛――!!!!』

 

 

 この男を、殺してやらねばならないということだ。

 視界が赤く染まった瞬間。思考が灼け果てた刹那。頭の中に、白紙が生まれた。

 殺してやる。殺してやる。

 

 殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる。

 

 ――殺してやる。

 思い出した怨嗟が再ダウンロードされて、アップデート。

 そうやって初めての感情が書き込まれた時、既にミミッキュはハッサムへと飛び掛かっていた。

 極限まで鋭くした爪を伸ばすも、不発。横から突っ込んできた“メタグロス”に、壁ごと押し潰された。

 ひしゃげたコンクリから、惨めに吐き出される。化けの皮は汚れ、破れ、禍々しい中身を覗かせる。

 結んでもらったリボンはどこだろう。きのみ飴はどうなったんだっけ。この水面に映る醜悪な化物は誰なんだろう。

『アイアンヘッド』は効果抜群であった。

 

「どうした、そんなものか」

 

 ごみくずを見下ろすようにして、もみくちゃに倒れる少女へ言う。

 

「人間一人も満足に守れんのか。そんなものだからお前は人に見放されるんだ」

『……――!』

 

 どうして、私は生まれてきたのだろう。

 

「弱い。脆い。役に立たない。情けない」

 

 なんで、ここにいるんだろう。

 

「ただ世界を圧迫して、ろくな対価も支払わず徒に時間だけを消費する」

 

 誰からも望まれなかったのに。求められなかったのに。

 

「――孤立して当然だ」

 

 だったらいっそ、こんな命――――最初から無ければ、良かったのに。

 ミミッキュは、ぴくりとも動かなくなった。外道が湛える薄ら笑いを、見ることしか出来なくなった。

 虚空に敷かれていく悲鳴を、聞くことしか出来なくなってしまった。

 

「……期待外れだな。それとも死ねば、気も変わるか?」

 

 ため息が連れる、不満。そのまま聖女を犯すギルガルドに、禁断の指示を送ろうとする。

 

「“ボルテッカー”」

 

 が――怒りに震える雷光が、事前に惨劇を阻んだ。

「……とうとう、悟られたか」弾き飛ばされたハッサムとギルガルドが後ろの壁に激突するのを一瞥し、乱入者へ向き直る。

 

「ずいぶんと趣味が悪いことをするんだね、トゥワイスさん」

 

 イリスは帽子を深く被り、つば越しでこれまでにないほど鋭利な眼差しを向けていた。

 

「強さの秘訣、とでも言ってもらいたいがね」

「冗談も悪趣味。――私に『見損なった』なんて嫌いな言葉、お願いだから使わせないでよ」

 

 四つん這いで自然にも負けぬ稲妻を迸らせる雷神(ピカチュウ)が、険しい顔でメタグロスと対峙した。

 

「おい! しっかりしろ!」

 

 水溜まりを踏み蹴り、倒れるステラへと歩み寄るアシュリー。

 

「あ……あの、子は……無事、でしょう、か……」

「馬鹿者が、自分の心配をしろ……ッ!!」

 

 抱え上げた顔を見て、悔いるように歯噛みした。

「動くな!」アシュリーは他のPG達がトゥワイスを取り囲んだところを確認すると、空いた隊員へミミッキュの保護を指示。虚ろに呟くステラを抱え、救急車を呼ぶ。

 

「第二ラウンドといくのもいい。けれど、今度は私一人ではないよ」

「……腕試しも、いいかもしれんな」

 

 強がりか、自棄か、真意を煙に巻いたまま、メガシンカの姿勢を取るトゥワイス。

 その時だ。

 

『ア…………オ……ア………………』

 

 アシュリー警部! ミミッキュの保護に向かった隊員の声であった。

 そちらの方へ向くと、隊員は飲み込まれかけていた。

 

「――――!!?」

「よ、様子が!! 何か、おかし……っ!!」

 

 何に?

 ――わかれば苦労しないだろう。

 

「う、うわ、あああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 有り体に話すならば、化けの皮の裂け目から伸びた“影のような何か”だ。

 それはやがておどろおどろしいほどに巨大化し、PG隊員の肉体を吸い込んでしまった。

 一斉にどよめく場。混沌が生み落とされて、誰もを不安に駆り立てる。

 

「な、なんだ、これ……!?」

「うわああああああああああッ!!?」

 

 尚も止まらずもう一人が飲み込まれるのを確認し、人々はようやっと危険性に気が付いて。

 

「各員、一旦ミミッキュから離れろ!!」

 

 異質だった。

 

『ア、ガ、ギ…………消゛エ………………ダ……』

 

 ぼろ布を突き破って、一本ずつ挨拶を始める黒の触手。それは本意で御せていないことがわかった。

 

『……要、ラ゛……ナイ………………要ラ゛、ナ゛……ッ!!』

 

 ――暴走していることが、わかった。

 少なくとも、激痛で途切れそうな意識を、必死に繋ぎ止めて望んだ聖女には。

 

「……いいぞ。それだ。私が、私の求めていたものは、それだ……!!」

 

 ――強くなっていることが、わかった。

 少なくとも、ただ一人瞳を輝かせて歩み寄る、強さに取り憑かれた悪魔には。

 

「おい! やめろ! 前に出るな!」

「見込んだとおりだった、こいつは――!!」

 

『ア゛ア゛アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!』

 

 終いに皮に収まりきらなくなった中身は、肥大化の動作一つでそれを破り捨ててトゥワイスを嚥下。この場に居合わせる全員――いや。

 

 ラジエスという街全てに広がり、襲い掛かった。



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05.ジハード

「ん、起きたかい」

 

 覚めた目が最初に捉えたのは、覗き込む知人の顔であった。

 心配と温情のこもった、優しくも侘しいヘーゼルカラーの瞳に向かって、頷く。

 

「私は……」

「大丈夫? 無理しない方がいいよ」

 

 イリスが顔をどけると、ステラは未だ続く背中の痛みを堪えて、静かに起き上がる。

 白のシーツに、青の病衣。そもそも香ってくれない清潔な匂いの下で並ぶ、幾らかのベッド。自分の物を除けばいずれも空だが、なんとなくに理解する。どうやらここはラジエスの病院らしい。

 延いては、自分が意識を失っていた――という事実にも、認識が及ぶ。

 

「あの子、は……ミミッキュは……!」

 

 続けて至る思考に、肉体が先走る。

「待って、こっち」ハッとしてベッドから足を下ろすステラへ、手招き。

 イリスに誘われるまま窓際に立ち、五階からラジエスの町並みを確認すると、言葉を失った。

 

「……なんですか」

 

 その時のラジエスは、もう雨がやんでいた。色鮮やかな夕空に、彩られていた。

 鈍の記憶として残る雨雲の欠片が、却って風情を醸し出す。

 綺麗な雨上がりだろう。素敵な景色だろう。空だけならば。

 

「これは」

 

 ――ポケモンにも似た黒い物体が跳梁跋扈する、地上を見なければ。

 混沌、だった。

 街を埋め尽くし、各所で当てもなく銘々に蠢くそれは、見る者の恐怖心をこれでもかと扇ぎ立てる。ステラとて例外ではない。

 寧ろビジュアルというよりかは、滲む雰囲気のようなものに気圧されているのかもしれない。

 憎しみや怒り、恨み悲しみとは違う、でもマイナスの記号を抱えたこの感情は何だろう。

 

「うわああああああっ!!?」

「いけない!」

「たす、助けてええええええ、ええええ!! ああああああああッ!!」

「……っ」

 

 叫んだ時には、もう遅い。その存在が、目下で戦闘するPGを打ち負かし、飲み込んだ。形を変えたそれはやがて行き場を失くしたポケモンにも覆いかぶさって、その存在意義にゼロを与えていく。

 破壊や殺害なんてものとは、まったく性質が違う。まるで生命を消し去って初めから無かったことのようにしてしまうこの力は、さしずめ『否定』によく似ていて。

『居ない方がよかった』と。

『生まれてこなければよかった』と。

 聖女から見た無数の“影”は、譫言みたいにそんなことを呟いていた。

 

「目覚めたか」

 

 背に当たるアシュリーの声に、振り向く。

 

「寝起きのところで悪いが――お前が伸びている数時間に、色々なことがありすぎた」

 

 そう言うと隣に立って手だけを差し出し、その上で転がす携帯端末から、ラジオの音声を垂れ流しにした。

 

『――未だ全域で謎の影による侵略行為が繰り返されているラジエスシティですが、依然として住民の避難は完了していません。それどころか、一部では孤立状態に陥り、救助の目処が立っていない区域もあるとのことです。状況を重く見たラフエル政府は非常事態宣言を発令し、犠牲者が一〇〇名を超えたつい先ほどの段階で、ネイヴュ含むPG支部全てに救援要請を送りました。現在、街では機動部隊と本部の隊員が対応に当たっておりますが、規模が足りず被害の食い止めが精一杯で――』

 

 連なる大仰なワードに、戦慄する。

 

『まだラジエス内にいる住民の方々は決して一人で行動せず、PGやポケモンレンジャーの指示に従い、落ち着いて避難にあたってください。繰り返します――』

 

 機械の音声から引き継ぎで説明する肉声が、そんなステラを我に返す。

 

「信じられるか? ――ポケモン一匹の暴走で、ここまでになった、と」

 

 落ち着き払った手が指し示す先は、遠い北区の電波塔『ラジエスタワー』。

 ……厳密には、“だった何か”。

 数多の帯状の影が絡みつき、枝を作って背を伸ばす。まるで枯れ木のような風体をしたそれは、果実よろしく獣型の影を一つ実らせ、またも世界に生み堕とした。

 

「恐らくあの巨大樹が、この惨状の大元だ」

 

 そして、恐らくあの巨大樹こそが。

 

「――ミミッキュ、なのですね」

 

 アシュリーが皆まで言う必要はなかった。ドクンドクンと脈打つ挙動から、絶望の波導を知る。天を望む背丈から、希死念慮の意思を覚える。それだけで彼女を感じるには十分だ。

 あれからミミッキュは不定形を維持したまま巨大化し、街中を這いずり回って通行人を次々と飲み込んで、最後にはあの場に訪れタワーと一体化。

 

「このまま増え続ければ、やがてラジエスにも収まりきらなくなり、ラフエル中がこいつに侵食されてしまうだろう」

 

 そうして忽ちポケモンと酷似した“飲み込む影”を生み出すようになり、爆発的な勢いでそれをラジエス内にばら撒いた。伴ってパニックに陥る街を防衛するため、PGが駆り出された――というのが、ここまでのあらまし。

 だがステラが遠くを見据えながら訊ねるのは、ここまでではなく、これからのこと。

 

「私は、どうなりますか」

「……ここにいろ。どこへ行こうが“影”だらけだ……この中央区(セントラル)から東西南北いずれを経由しても、脱出するのはまず不可能だろう。だから他の住民もここを避難所にして集まっている。外部からの応援が来るまで、我々が防衛して持ち応えさせるしかない」

「では――、あの子は、どうなりますか」

 

 押し黙って、目を合わせなかった。わざとらしいとさえ思えるほどに神妙な横顔は、惨憺たるセーブデータの『続きから』が、わからないのではない。

 

「……アレを、壊せば」

「はい」

「アレを壊せば。このバケモノ共は消える」

「はい」

「同時に、増殖も止まる。――――政府は、そう考えている」

「……はい」

 

 言えないのだ。怯えているのだ。

 ひとたびデータロードが始まってしまえば、再び涙が流れるから。悲劇が悲劇のまま終わってしまうから。

 積み重ねた喜びも。手に入れた楽しみも。思い知った嬉しさも。何もかもが、これからやってくる時間の波に、浚われてしまうから。

「私はあなたを救えない」――誰がこんなことを言えるのか。こんなものが認められるのか。

 今だって、伝えられそうもない。だから爪痕作った掌を、ずっと丸めて立っている。

 

「わかりました」

 

 それだけ言い残し、踵を返すステラ。

 

「待て。もうお前が出たところで、どうこうなる問題では――」

 

 振り返った表情に、アシュリーは思わず言葉を止めてしまった。

 その相貌は、未だ輝きに満ちていた。夕焼けさえ一蹴してしまう程の眩しさを湛え、強く、逞しく煌めいていた。

 昨日と何も変わっちゃいない――信じて祈る者の瞳だ。

 

「……どうして」

 

 湛える碧色の中で、小さな悪戯っ子が変わらず手を振っている。

 

「どうしてお前はそんなにも、立っていられる?」

 

 撫でた手を抱き締めて、ずっとにこにこと笑っている。

 

「倒れず、前を向き続けていられる?」

 

 願望の反射による幻影だろうか。或いは、待っている本当の明日なのだろうか。

 

「決まっているではありませんか」

 

 そんなこと、わからないが。

 

「信じているから、です」

 

 ――それでも聖女は、今でも夢見る少女のように、優しい明日を見ていた。

 笑ってしまうほどに平和な未来を、望んでいた。

 今日がだめなら、明日。明日がだめなら、明後日。明後日がだめなら一週間で、一週間でだめなら一か月。それでもだめなら一年、十年、何十年――――どんなに悲しみに打たれようと。どれだけ苦難に喘ごうと。明日はきっといいことあるさと、唱え続ける。

 無責任に感じられるだろう。他力本願と責め立てるだろう。

 

「……祈り信じるだけでは、世界は変わらない」

「ええ、仰る通りです」

 

 一丁前な詐欺師が吐く、体のいい方便のように聞く者だって、いるかもしれない。

 しかし、そうであっても。

 

「でも、祈って信じなければ変わらなかったことだって、沢山あります」

 

 誰かが、明日を見られるのならば。誰かを、勇気づけられるのならば。自分がまた、立ち上がれるのならば。そして。

 

「誰かが、救われるのならば――それでいいではありませんか」

 

 私は、そんな風に思うのです。

 肩越しに溢された笑みのせいで、少しだけ視界が明るくなってしまった。

 眼を丸めると靄が消えていき、呆れ果てた胸はとうとう刺さっていた棘を自ずからひり出して。こいつはきっと明日に世界が滅ぶとしても、こんな面して祈り続けるのだろう。使命という牢に押し込めた傍観者の彼女は、そんなモノローグを綴るのだ。

 ステラは廊下に出て、歩いていく。行き先など言うまでもない。

 アシュリーはそれを知るからこそ、病室を出ていく。何をするかは聞くまでもない。

 ただ一人憂いている旅人が、諍いを恐れてその後を追った。

 

「お――……」

 

 彼女が目の当たりにした二つの背中は、並んで前へ進んでいた。

 

「アシュリー……、さん?」

「お前は、一般市民だ。そしてミミッキュは、その一般市民のポケモンだ。私にはそれらを守る義務がある……というだけだ」

「――!」

 

 目は合わなくとも隣の肩が、話す。

 希望に懸けてみよう、と。

 

「それとも、何か。怪我も気にしないで、力ずくで押さえ込んででも止めた方が良かったか?」

「……ありがとうございます」

「怪我人を怪獣映画顔負けの大パニックに送り込む方が、私はよっぽど危ないと思うけどねえ」

「うふふ、違いありません」

 

 一緒に混じる赤い背中も、語る。

 救われることを共に祈ってみよう、と。

 

「政府側は、まだ作戦が決定していない。なんせ首都の命運を左右する状況だからな……慎重なんだろう」

「そうこうしている内に陥落しちゃえば、元も子もないのにね。政治家さんってのはよくわかんないや」

「だからこそ、チャンスだ。連中がアレの破壊を選ぶより先に、私達がミミッキュを救出しつつアレを取り払う選択肢を上に提案する」

「そんな手、あるのですか? というか……通るのですか?」

 

 間を置いても、心配は要らない。大きく息を吸って、吐いた。そうやって臨む姿勢に乱れもない。

 

「――あるさ。そして、必ず通してみせる」

 

 何故ならこれは、未来を掴む戦いだから。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 淡いオレンジ色が、今にも人々の営みを見捨てていこうとしていた。

 

『――以上が、作戦の全容となる』

 

 寿命僅かな残光を眺めてたそがれることさえ、空に散らばる黒鳥は許してくれなくて。焦がれたところで、焦げた匂いしか与えてくれないものだから、まったく参るし厭になる。

 

『あとはこれを遂行し、成功まで導くのみだ』

 

 点々とするビルの谷間から伸びる、煙の手。戦火にせき立てられるそれは、天に縋っているようにも見えた。

 悲鳴と指示とちょっとの轟音が、意識の昂りを手伝って、皆のやるべきことを改めて思い出させる。

 

『見ての通り不確定要素ばかりだが――上手くいけば、この悪夢のような光景をすぐに終わらせられる』

 

 人々を守って、戦うこと。

 

『故に。希望を持て。必ず成功すると、信じろ』

 

 百人力を背負って、準備を整えること。

 

「ん~~~~~~……っ」

 

 明日を掴み取ること。

 イリスは混迷にまみれる町並みをよそに、病院の屋上でストレッチしていた。ポニーテールがなだらかな風に揺れるのと同時にそれを終わらせ、続けて出したモンスターボール。

 二つの燐光はロイヤルポケモン“ジャローダ”と皇帝ポケモン“エンペルト”を形作り、近衛兵よろしく腕組む彼女の両隣を埋めた。

 

「やっちゃいますか――“ハードプラント”!」

 

 ジャローダが気品を損なわないままに叫びを上げると、病院を囲う四方の地面からべきべきと木が顔を出す。それらは自由に、身勝手に形を変えて建物に巻き付き、やがて伸びきって至る頂点で、結び付く。

 その姿は、木だ――――生者の声が聞こえない死の街で、緑色した命の象徴が完成する。

 彼方で絶望の種を撒き散らす、真っ黒な巨大樹と対を成すように生まれたそれは、静謐の中からじっと死を睨んだ。

 

「それじゃ、よろしく」

 

 エンペルトは振り向いて立てた主の親指を肯ってから水を噴射、抱えたジャローダもろとも“アクアジェット”で木の最高点まで駆け上がった。

「……ふう」見上げる頭を再び戻し、黒に侵されたラジエスへ向き直ると、

 

「あー、あー、こちらかわいいかわいいイリスちゃん。準備完了しました、どうぞ」

 

 装着したインカムへ語り掛ける。跳ね返る『了解』という味気ない返答に少しの不満を覚えつつも、駐車場からのエンジン音に耳を欹てた。

 

『では――――状況を開始する』

 

 始まる。一台の警察車両が、二頭の“ウインディ”を伴って走り出す。

 

『これは壊す悲劇ではない。壊される茶番でも、勿論ない』

 

 止まらない。確認した旅人が球体一個を空へと放り投げ、百人力を背負ったまま駆け出した。

 

 

『ただ、明日を掴み取る――戦いだ!!』

 

 

 そして両手足を広げ、闇に染まりかかる空へ飛び出した。

 支えるものが、なくなった。重力と空気が肉体を挟み込む瞬間、獲物を見つけた鳥型の“影”は一斉に襲いかかる。

 不自由な自由落下。乱暴に撫でる大気。そうして眼前に迫った黒鳥。

 

「――ボルテッカーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 抗わない、心配無用だ。打つ手はもう動いている。

 青天に降臨したその霹靂は、イリスに集る影を一瞬のうちに焼き消した。

 落雷よろしく黄色の閃光と化して下ってきたピカチュウが、俯せて未だ地を遠くするイリスの手を握る。

 

「いくよ、空のやつを一掃する!!」

 

 イリスはその言葉と共に、自身ごと掴んだピカチュウを回した。煽られる髪も、膨らむジャージも、天地が覆っていく世界も。全ては構わない。

 

「“かみなり”!」

 

 あの日彼女らと眺めた夕空を、取り戻すためならば。

 

「いぃっ――」

「ピィィカ――!」

「けえええええええええええええええええええええっ!!」

「ヂュウウウウウウウウウウウウウウウウウウウウッ!!」

 

 ラジエス上空を覆っていた空飛ぶ影が、暴れて回る稲妻の前に次々と焦げていく。一つが二つに飛び散り、二つが四つに伝播し、矢継ぎ早に感電を起こしてその叫びをクリアなものに変えていく。

 唸り声と共に都市を包み込む電光は、まるで雷神の怒りであった。

 完全なる空の奪還を確認し、抱きかかえるピカチュウ。まだ落ちている最中だし、依然地上は黒く塗り潰されている。見なくても知っているので、背中を向けて差し迫った。

 何もしなくていい。何も言わなくていい。

 

『ッジャアアアアアアアアアアアアア!!』

 

 ただポケットから落としたモンスターボールさえ、あれば。

 歓迎するように落下地点に集い、イリスの捕食を待ち受けていた。そんな化物共を、傍観者の憂い事もろとも焼き払うのは、バシャーモの仕事だろう。

 あらかじめ落とした球体の中身は一足先に解放され、隕石よろしく大爆発を起こしながら飛来。盛大に足の踏み場を作った。

 

「へへ、さすが私の王子様だ」

 

 そして落ちてきた主を所謂お姫様抱っこで受け止め、相変わらずの冗談に「フン」と短く笑声を上げる。

 だが、まだ終わらない。寧ろ始まったばかり。ピカチュウはイリスの腕から解放されるやいなや、わらわらと自分たちを包囲する“影”に構えた。

『ピカ!』「うん、そっちは任せた……無事でね!」背中越しのコミュニケーションの後に発した“10まんボルト”でこじ開けた道を、“しんそく”で駆ける。

 そうやって相棒が見えなくなったのを合図に、バシャーモも火を纏わせたままの脚部で飛翔。建物を跳び継ぎ、ある場所を目指す。

 

「がんばれ。そっちにいくまで、持ち応えてくれよ……!」

 

 抱えられながら走る宙空。見下ろす小さなパトカーに、ささやかな願いを込めた。

 

 

 

 ランプの灯らない白黒が、閑散とした道路を走っている。飛んでくる影に侵されかけながら。

 またも立ち起こる迎撃の音と輝きに、助手席のステラは思わず目を閉じた。

 

「すごい……もう、空の敵が消えてる……」

「あまりしゃべるなよ、自分の舌を食いたくないのならな」

 

 運転席でやむなく法定速度を無視するアシュリーは、ひたすらに前を――北区の巨大樹を見ていた。

 

 

『――斥候が言うには、あの巨大樹の足元には大きな(うろ)がある』

 

 先行した同志が、仲間を失いながらも手に入れてくれた情報だった。

 

『内部がどうなっているかはわからんが……ミミッキュの本体、のようなものは、恐らくその先にあると踏む。全くもって確証など、存在しないが――何であっても試す他にない』

 

 信じるということは、きっとこういうことだろう。

 

『そこで、私とステラは車で木の内部に突入、そこから彼女を引きずり出して連れ帰る。そうすれば根の腐った木が枯れるように、本体を失った影は破壊せずして消滅するだろう』

 

 ミミッキュと話せるのは、彼女しかいない。そして危険に晒される彼女を守るのもまた、言い出しっぺである自分しかいない。

 

『つまり我々は木を目指すということになるのだが、となればあの町中を覆いつくす影が邪魔だ。しかしいちいち相手にしている暇はない』

 

 そこで頼るのは、百人力。

 

『翻って、ルートをあらかじめ一本に絞り、立ちはだかる障害を一息に破壊していく。火力を集中させた一点突破を強行する』

 

 六地方の殿堂入りを百戦錬磨で欲しいままにした、ただ一人の軍勢。

 

『イリス、お前に頼みたい』

 

 PGが街の防衛にも戦力を割ける、最強の切り札。

 

 

 無意識で尖る防衛本能なのだろうか、木へと近づくたび、その道程で躍り出る影が増えていっている気がした。

 

「ホプキンス警部!」

 

 流れていく風景に、目を向けた。新たに追加された護衛――もう二頭のウインディに跨る機動部隊員が、己の名を呼んだから。

 示し合わせの通り、北区に入るタイミングで合流した彼と話すため、アシュリーは窓を開ける。

 

「ルートは問題なさそうか?」

「はい。付近でうろつく影も、街中に伸びたジャローダの“ハードプラント”がきっちり押さえ込んでいます」

「そうか……ではこのまま作戦通り、大通りから一気に突入する」

「了解」

 

 並走したまま距離が取られたのを確認した、その瞬間だった。

 

「前方、影が急速接近!」

「!!?」

「反撃間に合いません!」

「なっ……!」

 

 アシュリーは酷く驚いた。揺らめいて這うだけだったその存在が、急激にスピードを上げて襲ってくるのだから。

 

「っ、おおおおおおお!!」

「!? ダルクス!」

 

 正面からぶつかるように飛んできたそれを庇った。

「あとは、任せます……ッ!!」隊員はうねる黒に纏わりつかれながらもウインディと走り、最後の言葉を紡いで地に転げた。

 

「ダルクスーーーーっ!!」

「……っ」

 

 影は、ステラが悲しむのも許さない。真正面から群れを続々と殺到させて、そう示している。

 

「そんな……! 今まで、あんな緩慢だったのに……」

「くっ……!!」

 

 ――やはり、あの木は狙われていることを知っている。来る者を拒んでいる。

 アシュリーは歯噛みし、確信する。これは世界を拒絶した結果だと。だから消しているのだ、と。

 しかし悔し気にしたところで、もう遅い。漆黒の津波は、もう彼女たちの先で口を開けて待っている。手招きして笑ってる。

 表情に絶望の芽が出た。護衛班も、同じく。

 言葉を失くした。思考が止まった。万事休す――。

 

 

『ヂュウゥーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 

 

 まだだ。まだ下を向くな。神速の雷光が迸って、そう言った。

 

「ピカチュウ……!」

「間に合ったか……!」

 

 駆け付けた切り札は、想定よりも遥かに多かった進路上の敵を一発で蹴散らし、挨拶。

 そのまま“しんそく”で追いついた警察車両の上に飛び乗った。もはや敵などない、最強の装甲車の完成だ。

 前だろうが、後ろだろうが、左右だろうが。大きくても小さくても関係ない。この雷神が、何が来ようとも逃さず吹き飛ばすから。

 黒を押し退け、閃光を潜り抜けていくうちに、巨大樹はフロントガラスでは収まりきらない程に大きくなっていた。

 それは何よりも、誰よりも近づいた証拠。

 

「……いける、いけるぞ!」

「各員、パトカーを死守せよ! 絶対にだッ!」

 

 雷と炎で切り拓いた道が、いよいよ最後の曲がり角を通す。

 ハンドル切った――大通りに出た。ロータリーの中心に座した影の木の根元は、大量の絶命の果実に隠され、その姿を不明瞭にして。

 びっしりとそれが敷き詰められた風景は、地獄とも見紛う程の漆黒をしていた。

 厚くて大きい闇色の障壁は、一歩先の視界すら阻んでくるというのだから、残忍を極める話。さしものピカチュウでも、少々の怯みを見せる。

 しかしアシュリーのアクセルに迷いはない。怖じもなければ、考えもない。選択肢にあるのはただ踏み切る、フルスロットル。シートに磔にされても、突っ切るのみ。

 

「ぶっ、ぶつかります!」

「構うか……突っ込むぞ! 信じろ、私を!」

 

 だが、それでいい。それが正解だ。

 

「私達の――、仲間を!」

 

 後はたった一人の軍勢が、片を付けてくれるから。

 

 

「――――“ヌメルゴン”」

 

 

 影の群れの視線を、上に引き付ける者があった。

 夕明かりを背に受ける赤い勇姿は、業炎の軍鶏と共に鮮やかに降り立ち、淡い紫竜(しりゅう)を呼び出す。

 

「“だくりゅう”!」

 

 雨天を司る水竜(みずち)は、二人の遥か前方で背を向けたまま咆哮を上げると、凄まじい大波を発生させた。

 だばあ、と立ち上がって広がるそれは、影の奔流など意にも介さず一思いに飲み込んでいく。

 自然が激情を振り回すように。異物を洗い流すように。ただ一撃の洪水で、悉くを浄化する。

 

「今だ、ピカチュウ!」

 

 カッ。ピカチュウが空へと流した一筋の“10まんボルト”を、木の上のエンペルトは見逃さなかった。

「光の合図を目掛けて撃て」と言われて以降、エネルギーチャージしていた“れいとうビーム”を、満を持して解放。蒼白の砲撃は通りすがる空気を次々に凍らせ、霜だけを残し真っ直ぐ飛んでいく。

 

「きゃ……っ!!」

 

 彼方の天が、眩しく光った。忽ちパトカーの横をすり抜けた輝きは、“だくりゅう”でかき消しきれなかった影達の時間を止めていく。

 

「ばっちり決めるよ“エーフィ”!」

 

 仕上げと繰り出した大取が、“かみなり”と“だいもんじ”と“りゅうのはどう”を“てだすけ”する時。

 

「やっちゃえーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!」

 

 明日へと繋がる三色の道標は全ての氷像を打ち砕き、完成の瞬間を迎える。

 

「掴まれ、押し通る!!」

「後は頼んだよ! 二人と一匹で、ちゃんと帰ってきてくれ! 私との約束だ!」

「ありがとう、絶対に皆で戻ります! そちらもご武運を!」

 

 過りがけに重なる視線。窓から乗り出して、誓い立て。

 アシュリーとステラは、未来への水先案内人の声を確かに聞いた。背中で受け止め、胸に抱えた。掌で握って、明日に照らす。

 そうして突き出す拳に託された彼女の祈りも一緒にして、聳え立つ枯れ木へと飲み込まれていった。

 

「……なんか、お祈りってのもさぁ」

 

「けっこう悪くないね」聖女と戦士を見送った旅人が、仲間達と共に再び戦地へと向き直る。

 ――日没まで、数十分。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『――こいつ、まともに技遺伝してないから要らないわ』

 

 踏み砕かれた球体が、毀れて散った。

 

『明日、あなたを売るわね。なんだか、飽きちゃったから』

 

 離れていく温もりが、時を凍らせていく。

 

『まーた色違いじゃないよ。捨ててこようっと』

 

 遠ざかる背中は、二度と会いに来てくれなかった。

 

『ろくなステータスじゃないし、ろくに技も使えない。そんなお前でも、食物連鎖に組み込まれれば自然の役には立つだろうよ』

 

 突き放さないでほしい。拒まないでほしい。傷つけないでほしい。

 

 もし、生命に価値が存在するのなら。格という概念が、あるのなら。

 

 生まれることは、無意味なんだろうか。生きることは、無駄なんだろうか。

 

 もし、素晴らしく輝くことが、認められた一生だというのなら。

 

 私たちは。僕たちは。

 

 ――ここにいては、いけないのだろうか。

 

 

 

「おい!」

「――!」

 

 悪い夢を、見ていた。

 ごくごく短い時間だったような覚えもあるが、気が遠くなるほどに永い時間だったような感じもする。

 まあ、どちらにせよ、だ。どうやら気絶していたらしい。

 ステラは、運転席から伸びるアシュリーの手に揺すられて起きた。

 木に突入し、暗黒に包まれたまでは良かったのだが――そこで意識がどこかへ飛んでいってしまったようで。結果的にどこに辿り着いたかも、未だわからず仕舞い。

 だが入った事実さえ覚えていれば、それでいい。今、眼前に広がる風景が、勝手に答え合わせしてくれる。

 

「――へ?」

 

 この、ラジエスシティの町並みが。

 シートベルトを外し、ドアを開けて降りると、先ほど居た場所と同じ風景が広がっていた。

「待て」呆然とするステラへ、認知の誤りを正す発話が起きる。

 

「“影”がいない。というか――――私達以外に、誰もいない」

 

 先程までの激闘を忘れさせる、不気味なまでの無音と、横に割れてしまった遠くの空を認識して、我に返った。

 そして知る。ここは夕暮れのラジエスシティによく似ただけの『別のどこか』なのだと。

 人がなく、風もなく、雲も動かず。まるで何もかもがすり抜けていくような寂しさと、認められようのない自由だけが寝そべる物悲しさは、なんだか孤立した感覚に陥ってしまう。

 アシュリーが指さした先は、東側。

 

「テルス山が、ない……」

「ああ、真っ白だ。恐らく途切れているのだろうな」

 

 閉ざされた街――否、空間。

 誰にも侵されやしないが、誰にも触れられない。そんな作り物みたいな場所。

 ここより外がないのは、きっと知らないから。ここに人がいないのは、きっと拒んでいるから。

 にわかに信じがたい話だが、聖女も戦士も、認める他なかった。

 

「ここは――――ミミッキュの、心象風景だ」

 

 何にもなれない存在が作り出した、どこでもないイメージの箱庭の中にいるのだ、と。

 腑に落ちた瞬間、ステラの頬にしめやかな温もりが伝った。脳が全く意識していなかったものだから、大層驚いたに違いない。

 

「あ、れ……私、どうして……」

 

 アシュリーは、震える声を咎めなかった。

 

「……やはりお前も、見た(・・)んだな」

 

 何故ならば、彼女もまたそれを覗いたからだ。聖女がさめざめと涙する原因と、同じものを。

 ミミッキュが人に牙を剥いていた、理由を。

 

「多分、彼女の正体は」

「誕生を望まれぬままにこの世を去ってしまったポケモンたちの、魂の、集合体――――」

 

 瞳から流れる雫が止まったのを確認すると、アシュリーは静かに繋げた。

 

「弱さを。醜さを。足らなさを。不完全を。色々な人々から拒絶されて、消えてしまったのだろう」

「だから人に、優れていることを証明しようとした。トレーナーたちに勝って強さを見せつけ、認めさせようとした」

「侵すでもなく、壊すでもなく……ただそこに居ようとしていたんだ」

「生きていたい一心で。いてもいいよと、言われたい一心で」

 

 一生懸命、戦っていたんだ。もがいていたんだ。足掻いていたんだ。

『生まれてこなければ良かった』なんて、聞きたくなかったから。

 ただ、その温かい手で、撫でてほしかったから。優しく抱き締めてほしかったから。

 ステラは、痛いほどに締め付けられた胸へ、手を当てた。

 彼女を想う。そして決意を言い聞かせる。連れ戻さねばならない、と。

 

「何も悪くなんて、なかった。ただ辛くて、悲しかっただけだ」

「故に……だから、引っ張り出してあげましょう」

 

 いてもいい場所へ。外の世界へ。

 

「そして伝えてあげましょう。苦しいことばかりではない、と」

「ああ……きっと誰だって、生まれたことを祝福されてもいい。そんな風に思うんだ」

 

 耳をすませば、彼女の泣いている声が聞こえる。

 どれだけ拒んで嫌がっても、繋がっていたいと言っている。助けてくれと叫んでる。

 

「……急ぎましょう」

 

 車を置き去りに、昨日の風景へと駆け出した。

 その時、彼女たちの視界に入ってその足を止める、第三の人物。

 

「貴様……!」

「……トゥワイス、さん」

 

 それは、真っ先に闇に飲まれて死んだはずの男で。

 幽霊か、なんて面白おかしく冗談めかしてみてもいいが、生憎彼の所業はステラにとってもアシュリーにとっても、それが叶うほど許されるものではなかった。

 トゥワイスはジャケットの裾一つ揺らさず、そしてアシュリーとステラの構えにも動じず、開口する。

 

「……驚いたな、ここまで止めに来るとは。執念というやつか」

「貴様のお蔭で、大変なことになっていてな。来ざるを得なくなった」

「まったく……楽しいかくれんぼも、これで終わりか。残念でならん」

「……あなたは、こんな状況でもまだ……!」

「どんな状況でも、強さは私を救ってくれる」

 

 相対する歪んだ眼差しが、未だにミミッキュを探していた。倒せば強さになると信じ込んで、あちらこちらと漂わせていた。

『正常に狂っている』という表現に些かの矛盾は感じないでもないが、トゥワイスの相好はまさしくそういう状態にあるそれであった。

 目交いの怒号に返す言葉はやっぱり正当性が無くて、徒に酸素を消費し二酸化炭素を増やすばかり。

 

「それは溺れていることと、何も変わりませんでしょう……!?」

「動きもしない偶像に縋って救いを求めるのは、神に溺れていることとは違うのか?」

「願う者には、律することの出来る自分がいます。悲痛に泣かず、不条理に怒らず、ただ黙して救いを待てる気高き御心があります」

「力に犯されてしまえば全てが終わるだろう。貴様は身を以て知ったはずだがな」

「くっ……!!」

 

 平行線をずっとずっとなぞり続け、誰も取らぬと知りながら、ただ言葉を投げ散らかしている。

 認めたくないが、解り合えない者もいる。致し方なしとステラがモンスターボールを取り出した折のこと。

 

「“エンペルト”」

「アシュリーさん……!?」

 

 正義の味方はそんな彼女の前に出て、一足先に相棒――雪国の皇帝を召喚する。

 その対峙が意味することなど、考えるまでもない。

 

「お前は救いに行くのだろう? ここは私に預けろ」

「で、ですが!」

「言ったろう、市民を守るのが私の務めだと。お前にだって同様に果たさねばならないことがあるはずだ」

「……!」

「他でもない、ミミッキュはお前を待っている。お前の手を、昨日という時間で待ち続けている」

 

 己がここに来た理由を、アシュリーはよく知っていた。

 反応するように鉄爪が顕現しても、恐れず立ちはだかる。最大級の邪魔をして、彼女の道を作ってやる。

 そしてただ、打ち砕く。この世界の悪意を。

 これこそ、何よりも此度の彼女が為すべきと判断したこと。誰かの幸福を守るPGとしての、元来の使命。

 

「だから、行け。行って街をあんなにしたじゃじゃ馬を、もう一回叱ってこい」

「……恩に、着ます」

 

「どうか、ご無事で!」「お前も!」

 もう、隠すのはやめよう。誤魔化すのはやめよう。今度こそ、彼女の幸せを願って信じよう。

 アシュリーは重ねた声に乗せた祈りを、聖女の背中にそっと託した。走って縮んでいく後ろ姿を肩越しに一瞥した後、微笑を不敵なものに変えて睥睨へと向き直る。

 

「そういうことだ、トゥワイス。貴様の相手は私がする」

「要らん邪魔を……」

「そうつれないことを言うな。汚い手をした奴の相手には、同じく汚れた手を持つ奴がお誂え向きだとは思わないか? ……例えば、貴様達にヘドが出るほど触れたばかりに汚れが移ってしまった、私とかな」

 

 その表情は、時間稼ぎだなどと生ぬるいことは宣わない。

 

「まあそれがなくとも、貴様は気に食わん。故に――――PGではなくアシュリーとして、地獄に送ってやろう」

 

 今すぐ澱んだ心根ごと、貴様を凍らせてやる――聖戦に臨む絶氷鬼姫は、そう言っていた。



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fin.I Call your name

 ベールを振り乱して、駆けている。息を切らして、走っている。

 固定されたままの夕陽に急かされて? 呼吸音しか受け入れない静寂に引っ張られて?

 ――いや、違う。

 時間を忘れるほどに遊んだ屋内遊園地も。食前の挨拶『いただきます』を学んだファストフード店も。繋がりを持てた気がした露店街も。密かに幸福を祈った大神殿も。共に命の喜びを知った並木通りも。

 私が往く道は、どこの誰に強いられたものでもない。私が、私の意志で動かす私の肉体が、選んでいるものだ。

 平凡に進んでいく日々でいい。退屈が這う日常でいい。降り注ぐ針のような雨の中、一人ぼっちで立ち尽くすなんてまっぴらだ。

 海の底に作られたプールみたいな、無意味な一生でいいから。立派でなんてなくていいから。

 どうか、どうか。それでもあなたに居てほしい。泣きながら消えないでほしい。悲しみに押し潰されないでほしい。

 

「待っていて……今すぐ、行くから……!」

 

 だから前に進むんだろう。歩みが遅くなろうとも、その足を引きずって行くんだろう。

 かりそめの街明かりが頼りなくとも。石畳の道が、名残惜しく足跡を抱いても。

 私は彼女を探し出す。昨日の温もりが、消えてしまわないうちに。

 

「いた……――!」

 

 寂しい後ろ姿は、“あちら側”と同じ場所――ラジエスタワーの前で、ぽつんと立っていた。

 決別の意思を湛えたように、偽りの空を虚ろに仰いでいた。

 ステラは構うことなく、その小さな背中に向かって真っ直ぐ走り出す。だって私は、まだあなたに何も言えていないから。

「ミミッキュ」――声を、上げる。

 そんな尊重されるべき刹那すら、邪魔をするものがある。名前を呼ぶ言霊は、聖女と少女の間に割り入った“それ”に打ち消され、効力を失った。

 

「うふふ、相も変わらず必死なのね。何もないくせに」

 

 一本道で結ばれながらも、未だ届きそうにない距離を笑う、上書きの声。

 場所が場所だから、何が起きても不思議ではないと思っていたが――その再会はあまりに衝撃的で、ステラを動揺に誘い込む。

 同じ背丈と、同じ色の髪、瞳。同じ笑みを湛えて、同じ佇まいして同じ声を出す。

 私は知っている。彼女のことを。

 私は知っている。知らず知らずに、彼女から目を逸らしていたことを。

 それは目を丸くするほど、無意識が出会いたくなかった相手。

 

「あな、たは……」

「せっかくまた会えたのだから、久々にお話しましょう。ねえ?」

 

『――私』

 相対する己の心の闇は――無力を突きつけ、憎たらしく口辺を歪めていた。

 

 

 

 温かみのない日差しに見捨てられて、皇帝は大地を転げた。

 地に伏しながらも発した青の砲撃がいくら果敢に向かってくれようが、行き先の鉄爪は嘲笑うように弾き、その十字の額を叩き付けて刑を執行する。

 

「エンペルトっ!」

「――どうした。息まいておきながら、その程度か?」

 

 “しねんのずつき”で呻きと共に、もう一転がり。

 天がひび割れ終焉が始まる世界の中であっても、聖戦は未だ続いていた。

 

「くそっ、ポケモンリーグには詳しくないが……これが最優のジムリーダーというやつか……!」

 

 吹き飛んだエンペルトは腕を杖にし立ち上がり、再度アシュリーの前に出て、健在をアピールする。

 高貴さを携えたままの眼光がメガメタグロスの沸騰する闘争心と衝突、空気をびりびりと震わせた。

 

「手がないのなら、白旗を上げる準備でもするのだな。“しねんのずつき”」

「っ、“アクアジェット”! やりすごせ!」

 

 認識が甘かった――飛び散る瓦礫と飛沫の向こうを望みながら、歯噛みするアシュリー。

 ギルガルドにハッサムという、既にイリスに削がれた戦力を鑑みて、勝負を挑んだ。実際に余力を残したまま、順当に出てきた『ナットレイ』『アイアント』『キリキザン』を倒せた。ここまではよかった。

 問題なのは、この青色の鉄騎(メタグロス)。彼一体で、アシュリーはエンペルト以外の手持ち全てを失ってしまったのだ。

 けして相性が悪かった訳ではない。彼女には鋼鉄を焼き溶かせる、ほのおタイプの“キュウコン”だっていた。それなのに。

 突き詰めようのない、研ぎ澄まされたただ一匹の強さにより、パーティーは半壊に追い込まれている。

 悔いていたくもなるだろう。まして『こうかはいまひとつ』で、呻くほどの痛みを与えられているならば。

 しかし、そこで諦める戦士ではない。

 

「む……!」

「機動性は貴様に軍配だ、だがな!」

 

「運動性ならば、まだ負けていない!」至近距離での小回りのことを、言っている。

 アシュリーが指示したアクアジェットは最小かつ最短の出力に留められた。なぜならば、最低限の無駄ない動作での回避を、求めていたから。

 それが何を呼び込むのか?

 

「――取った!」

「!」

 

 瞬時に背後に回り込むという、結果だ。

 いくらメガメタグロスのすばやさが高かろうと、その巨体ではすぐには振り向けないし、細やかで精密な動作には手間取ってしまう。俊敏性(クイックネス)の優劣は、一概に敏捷性(アジリティ)に結びつき得ない――そんなアシュリーの気転が作った好機を、エンペルトは無駄にしない。

 

「留守中に叩き込め! ハイドロ――」

「“バレットパンチ”」

「なっ!!?」

 

 紙一重で奪った背中へ、王冠状の嘴を開く。指示をなぞった行動であっても、邪魔をされれば意味がない。

 味気ない切り返しは、アッパーとなってエンペルトの顔面を打ち上げた。微々たる威力だが、いいだろう。吐き出される水流の軌道が逸れてしまえば。

「なぜだ!?」愕然として白黒させる目に映ったのは、メタグロスが背中でエンペルトを捕縛する光景――。

 

「飾りだと思ったか?」

「――まさか!」

 

 いや。正しくは『背中から生えた腕で、エンペルトを捕縛する光景』だ。

 メガシンカによって背面に追加されたメタグロスの腕は、浮遊用の電磁力を発生させる役割を持つ……とされている。

 いわばデバイスのようなものだ。だがそれが動いて、あまつさえ攻撃に転用できるだなんて。

 

「“じしん”」

 

 アシュリーは、思いもしなかった。

 がっちりと皇帝に組み付いたまま上昇した鉄騎へ、最後の指示を下す。

 静かに聞き入れ、後ろ向きで一気に地面へ突っ込んでいくメタグロス。

 いくら手足をばたつかせようが。抗って逃れることを促そうが。全ては無駄だと嗤ってる。

 トゥワイスが短く発したその一言は、聖戦に虚しい幕引きを与えたあと、盛大な轟音と共に響き渡った。

 

 

 

「……どいて下さい。あなたに構っている時間はありません」

 

 声を聞いていると、帰り道を思い出せなくなる気がする。

 ステラは歯を覗かせ、子供の無邪気を偽って笑うステラの横を通り過ぎた。

 

「いいえ、あなたは私と話す必要がある。あなたという命が、触れられざる子供に、本当に手を伸ばすべきかを知るために」

「――あなたの許しが、いるというのですか」

 

 肩と肩がすれ違った。先送りにした自分へ、振り向いた。

 

「命には意味がある。生涯には使命がある。やらねばならないことがあって、成らねばならないものがある」

「知ったようなことを!」

「あなたはあの時もあの人に、同じことを言ったわね」

「っ……!」

 

 揺らいだ前髪の向こうで目が合って、沈黙が壊される。陰から見ているのは“あの人”の言葉をそのまま引用する、“あの時”の私。

 

「あなたはいつもそう。弱くて、力がなくて、ちっぽけで、輝くものが何もない。いつも守られるばかり」

 

 絵空事が沢山に描かれた絵本を、胸にいっぱいに抱えていた、私。

 

「そのくせ人一倍大切にされたものだから、いつでも幸福が皆の身近にもあるものだと信じ込んだ。偶然から得ただけの愛も、当たり前に存在するのだと思い込んだ」

 

 夢物語の文集を、瞳を輝かせながら一ページずつめくる、私。

 

「遠いどこかの知らない誰かが呪詛のように怨み言を吐きながら死ぬ裏で、幾つもの羊雲がたゆたう空を仰ぎ見て、遠い幻想を拝んでる」

 

 育つうちに、歩む道の色が変わっていった。

 

「対岸の火事を眺めながら、(ことば)の意味も知らない少女が唄う人生賛歌に、一体何の意味があったの? 何を変えられたの?」

 

 少しずつ、舗装された跡が見えるようになった。

 

「――あなたはただ、何もできない自分を誤魔化していたかっただけでしょう?」

 

 やがて全てのそれに気付いた時。私は前へ進めなくなった。

 所詮は崇高なわけからなる、低俗な自己欺瞞。

 だから祈ったんだ。故に願ったんだ。

 何も出来なくとも、何かをした気になりたかった。そうでもしないと許せなかった。掴んだものが次々とすり抜けて零れ落ちていく、自分の手が怖くてしょうがなかった。

 

「それがあなたの罪。これが私の業」

 

 輪郭が歪んでも、自我が揺らいでも、はっきりとわかる。これは紛れもない私。自分一人満足に生かしてやれない、私。

 

「あなたはまた、自己満足であの子を助けるでしょう。自分を救いたいがために。己が報われると信じて」

 

 あの人が消えてから、ひた隠しにしてきた自分を見透かした――私。

 影法師が、動き出した。雲が流れ始めた。日がまた、傾きいてきた。

 終わりが近いのかもしれない。記憶の風化が、迫っているのかもしれない。

 

「言いたいことは、それだけですか?」

 

 それでもステラは、ミミッキュを想うことを忘れていなかった。

 どれだけ揺れ動かされようと、その子供の落書きのように描かれた笑顔を失ってはいない。ぴょんと飛び出て解れかかった糸の手触りを、覚え続けている。

「嘘をつき続けるの? そうやって」わかりやすく表情を曇らせた自分へ、儚い陽だまりに照らした微笑みを返す。

 

「嘘では、ありません。私はこの子の幸せを願っています。この子のために。この子を愛すが故に」

「いつまで耳当たりのいいお為ごかしを吐くの? 私は」

「――赦します」

「いいや! あなたは生意気なほどに自責が強い! だから!」

「であるなら、抗います」

 

 何故なら彼女は、夢を持ったから。

 

「弱い自分を赦せるように、信じ続けます。祈り続けます。願い続けます。これからも讃美歌を口ずさみ、手を伸ばし続けます」

 

 それはささやかで、とても人に話せるような立派なものではないけれど。

 

「そうして、同じような境遇の方達に――『足らなくたっていいのだ』と、教えてあげたいのです」

 

 涙と痛みを、自分が目指すべき星へと変えてしまうには、十分なのだ。

 ずっとずっと、煌めき続けているのだ。

 

「……なんで、なんでよ! なんでそんなに前を向くのよ!! どうしてそんなに必死なのよ!? バカじゃないの!!?」

「あなたを、愛しているからですよ」

「…………――っ!!」

 

「ありがとう」――私は私に、決別を告げた。

 前へと向き直る。あの人へと綴った手紙を握る。宛先のない言霊に勇気を込める。誰にも見せない決意をそっと抱く。

 肺がパンパンになるまで、大きく息を吸い込んだなら。

 

「っ!!!!」

 

 あとは遠い後ろ姿に向かって、走り出すだけ。

 大手を振れ。のめって行け。靴が擦り切れるまで、進め。

 慣性力に頭巾が脱げても。邪魔な裾を掴み上げても。どれだけ前が暗んで見えなくなっても。どんなに世界が拒んでも。その手を取りに行け。

 私の意志で。私の願いで。

 

「――“グランブル”!!」

 

 近づくな。立ち塞がった闇色のバリケードフェンスを、呼び出した闘犬と共に蹴り砕く。

 

「“アブリボン”! “ニンフィア”ッ!!」

 

 触れるな。少女を囚われにした真黒い鉄格子を、三つの叫びで吹き飛ばす。

 

「私、は……まだ!!」

 

 引き返せ。伸びて四肢に巻き付いた鎖を、全力で引き千切る。

 

「――まだ! あなたに伝えていないことが沢山あるのです!」

 

 手を取れ。交差するテープに示された『KEEP OUT』を、何度も何度も取り払う。

 

「見せていないものが、いっぱいあるのです!」

 

 人の温かさを。空の青さを。海の広さを。虹の優しさを。

 

「だから! だからっ!」

 

 だから――――、

 

「戻りなさい、ミミッキュ――!!」

 

 私は手を伸ばし、あなたの名前を呼ぶ。

 何度でも、何度でも、響かせる。この声が、枯れるまで。

 

 

 

 

 ――親愛なる、エレナ姉さん。

 

 お元気ですか。

 

 今、どこにいますか。

 

 お変わりありませんか。

 

 お困りな事は、ありませんか。

 

 こちらは相も変わらず忙しくって、時に苦しかったり、辛かったり、悲しかったりして。楽しい事ばかりではないな、と、そんな独白を毎日の終わりに萎んでいく橙へ透かしながらも、笑って過ごせています。

 あなたが行ってしまってから、もう三度の四季が巡ろうとしていますが、やはりあなたが最後に持ち去った秋だけは、還ることなく空白で、抜け落ちてしまったままです。

 私は未だに、あなたの言葉が理解できません。人の生まれる意味というものが、わかりません。探すことへの尊びを、学ぼうとも思いません。

 ただそこに在るだけで許しなど要らないし、ただここにいるだけで生まれた意味があるのだと、信じて疑っていません。

 それはこれからも変わらずに進んでいくのでしょうし、あなたも平行線の上に立って私の言葉を聞き続けるだけで、徒にその道程に足跡を刻んでいくのでしょう。

 

「ようやく、見つけました」

 

 けれど、一つ。

 

『…………カエ、ッテ』

 

 一つだけ、分かったことがあります。

 

「ええ、帰りましょう。あなたを連れて」

 

 人の世に出て。人の影に触れて。人の暗みを目の当たりにして。

 

『……行ケナイ。私ハ、生マレテコナケレバ、良カッタカラ』

 

 世界には、無条件で受けた生を謳歌出来ない者がいることを、知りました。

 

「生きることは、素晴らしいです。だって、おいしいのですから」

『!』

「ムーランドッグ、また食べに行きましょう」

 

 生きたくても、呼吸がしたくても、それすら許されない存在がいることを知りました。

 

「リボンだけが、おしゃれではありませんよ。もっともっといっぱい、色んなものを身に付けましょう。そうね、化けの皮の予備も作らないといけないわ」

『ヤ、ダ……』

「植えたプラタナスの成長を、一緒に見届けるのでしょう? 観察日記を用意するのはどうかしら」

『ヤダ……、ヤダ……!』

 

 そして。

 

『ダッテ私、ワタ、シ、強クナイ……!』

「強くないと、駄目ですか?」

 

 そういった者達のために身命を捧げることは、そう悪い気持ちでないことを、知りました。

 

『何モ、凄クナイ!』

「凄くなくては、いけませんか?」

『特別ナモノ、何モナイ!』

「特別でなくても、いいじゃないですか」

 

 在るだけでいいんだと、伝えること。命の息吹を、響かせること。見て聞いて、触れること。愛することと、笑うこと。

 

『私、ハ、ドコニモ……、イナイ』

「いいえ。ちゃんと、ここにいます」

『ア……、ア、ァ……』

「あなただって、誰だって、生きてるだけで偉いんです」

 

 彼らに生きる喜びを教えることが。

 

「だって、こんなにも一生懸命で、輝かしくて、愛しい――」

『私、ワタシ、わたし、わタ、し……!』

「ミミッキュ」

『――――』

 

 鼓動する心臓の音を、聞かせることが。

 

 

「生まれてきてくれて、――ありがとう」

 

 

 私は、どうしようもなく幸せに感じるのです。

 

 だから。故に。言葉はわからずとも、気持ちならわかるのです。

 

 あの日、あなたが彼の魂を解放しようとしたことの意味が、今なら痛いほどに、わかるのです。

 

 それこそが、あなたの成したかったことだと――ちゃんと、わかるのです。

 

 

 

 

 ――世界の、崩壊が始まった。

 ガラガラと立つ音は大地を割り、建物を分解し、あらゆる物質を空の割れ目へと送り出していく。

 偽りのラジエスは、そうやって終わりへのカウントダウンを刻み始める。

 

「チッ! ふざけた真似をしてくれたな、本当に」

 

 察したトゥワイスは大きく舌打ちをした。静まり返って下を向いたままのアシュリーを、睨みつけながら。

 鳴動する地面に押し付けられたままのエンペルトが完全に動かなくなったのを確認すると、続けて口を開く。

 

「結局願いは叶わなかったが……、勝負は私の勝ちだ。この混乱に乗じて、逃走を図るとしよう」

 

「残念だったな」正義の味方に送り付ける、明確な悪意を込めた嘲笑。それは強さの誇示であると同時に、相手の弱さを知らしめる意図もあって。

 仕事を終えたメタグロスへ、モンスターボールを向けた。

 

「――誰が、逃がしてやると言った?」

 

 それを邪魔するのは、誰でもない。紛れもない対戦者(エンペルト)

「なんだと!?」トゥワイスが見やった顔は、未だ死を迎えていなかった。寧ろ先ほどよりも鋭く、強く活きていた。虫の息で動き出す執念と、計り知れない不敵な表情に薄気味悪さを覚え、悪魔は思わず動揺する。

 

「メタグロスッ! とどめを!」

 

 ぞくりとした。動かない。氷で地面と繋げた肉体を使って、捕縛しているから。

 腕が回らない密着状態の、固定。さしものメタグロスとて、地球を持ち上げることなど不可能だろう。じたばたと間抜けに身を揺らしている様子を見れば、瞭然だ。

 

「くそっ! 今更なんだと言うのだ!? その程度の体力で、何が出来ると――」

 

 目を凝らしてみれば、エンペルトの口元に淡青の輝きが集まっているのがわかった。

「あ――」そして悟る。力を溜めているのだ、と。

 

「強さというものは、優しさが伴っているものだ」

「な……に……!?」

「力を力のままにしないんだよ。誰かに寄り添い、どこで、どう、何のために行使するかを思考し理解しようとする心持ち――それこそが強さの本質だ」

「ほざけェーーーー!!」

「お前みたいな暴力と、一緒にするなよ」

 

 彼女の手が空を切った段階で、或いは仕損じた段階で。全ては遅かった。

 抜け出せ、暴れろ。何度唱えて命令したところで通らない、その何もかもが。

 暴力なんていう紛い物には、屈しない。この力の使い道を――――本当の強さを知る、正義の味方は。

 

「――あいつに、失礼だろうが」

 

『ハイドロポンプ』。

 崩れていく天空に、巨大な水柱が立った。背負った危機を水の力に変える特性『げきりゅう』による後押しを伴ったゼロ距離砲撃は、道一本飲み込むほどの規模と勢いを以て、メタグロスを遥か彼方へと打ち上げた。

 鉄爪の姿が縮んでいく。弾けた飛沫は極めて局所的な雨となって降り注ぎ、覆された勝敗を祝って淡い虹を呼ぶ。

 

「ひ……!」

 

 最後に立ち上がって勝ち鬨を叫ぶ皇帝に、怖じた。思わず後退った脚にまとわりつく、凄まじい冷気。

 

「そこを動くな、膝から下とお別れしたいのか?」

 

 負かされた男からはまるで強さを感じられず、もはや居もしない下僕に縋る姿は、たいそう弱者のそれに似ていたという。

 哀れな末路だな。手錠に光らせるそんな嘲りが、最上の意趣返し。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 終わりが、終わっていく。

 

『目標、沈黙! “影”、次々と消滅していきます!』

 

 隊員の通信を聞いたイリスは、息を切らしながらラジエスタワーを見ていた。

 無限の黒が分かたれて、解けて空へと昇っていく。根は命を吸うことをやめて風化し、数多の光の粒となった幹は、すすり泣く魂たちを連れてどこかへ行った。

 何一つ侵すものがない。否定するものはいない。そうやってラジエスシティは少しずつ平穏を取り戻して。

 

「やった……のか……」

 

 世界の崩壊の取り消しに、なんだか実感が沸かないでいる。

 

『ダルクス、発見しました!!』

『なんだと!?』

『こちら東区、エリア3! ハーヴィン、アレル共に無事です!』

『バカな……影に飲み込まれた者達が、みな生き返っているとでも言うのか……!?』

 

 そんな意識の隙間に入り込む吃驚に、足を急がせるイリス。

 仲間達をボールに戻し、切れた息も忘れて刻む道。向かうは、形も機能も再生した電波塔。

 いつの間にか戻っていた人波の合間を縫って、駆けていく、走っていく。順繰りに点く街灯は、きっと日常への道標だろう。

 

「……――!」

 

 そうして辿り着いた先で、彼女は再会する。

 約束通り――――二人と、一匹に。

 

 

「ただいま、です」

 

 

 おかえり。思いきり泣いて、叫んで、跳ね回って。

 イリスは帰ってきた明日を、強く抱き締めた。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 トゥワイスという悪魔を乗せたパトカーが、彼女たちの前から消え失せた。

 日はとうに沈んだというのに、先ほどまでの詫びしさが嘘だったかのように活気づいている、そんな月明かりの下のラジエスシティ。

 まあ、必然であろう。

 死傷者が結果的にゼロに終わり、物的被害もそもそも発生していないのだから。影が生命体にしか作用しなかった点が、幸いした。おまけに飲み込んだ命も、後々一つとしてもれなく吐き出してくれたというのだから、本当に運のいい話。

 ミミッキュは、何一つ生命を奪わずに済んだのだ。

 

「本当に、ありがとうございました」

「礼を言うのはこちらの方だ。感謝する」

「ちょっと、何二人仲良く握手しちゃってんのー! 私のエース級の大活躍も忘れないでほしいなあ」

 

 やっと出来た握手に、頬を綻ばせた。

 向き合う二人の背中をポンポンと叩くイリスに、ピカチュウはため息をつく。せっかくの雰囲気というのになあ。そんな独白。

 

「そういえば、ジムはどうなるんだっけ?」

「正式な手続きを経た後任が来るまで、代理の方が、しばらくは。私は職員の仕事もありますし、何より未熟なものですから」

「そっかぁ……次はどんな人になるのかなぁ。すごく気になるよ」

「裏でこそこそと人間を攻撃する奴でなければ、なんでもいい気もするがな」

「あはは、そりゃ言えてる」

 

 聴取を終えたステラとイリスの横を通り、次々とPG隊員が引き上げていく。事件も解決し、任務も完了、大団円というやつだ。そうなれば居座る理由だってない。

 従って、アシュリーともここでお別れ、ということになる。

 

「また、会えますよね」

「ああ。まあ私としては、この服を着ていない状態で再会したいがな」

「お、いいね。今度は私もイメチェンしてくるよ。おしゃれ用の金と銀のジャージがあるから」

「ジャージは固定なのか」

「そして何故に金銀」

 

 いや、アシュリーだけではなく、イリスだって。

 そもそも旅人であるからして、そう謳う以上は同じ場所に留まるわけにいかない。何より彼女も、目指す者がある故に。次はこのまま北上し、シャルムまでの長旅を楽しむそう。

 そして、最後に――ミミッキュ。視線が合った瞬間、びくっと体を跳ねさせた。

 

「彼女は……」

「ああ。当初の予定通り、リザイナで精密検査を受けた後、ポケモンレンジャーに保護される」

「それなんですが……」

「?」

 

 ステラは多少言い淀みつつも、あることを切り出した。

 それはこの長い非日常の全てを経て芽生えた感情であり、彼女とふれあった果てに出した、自分の行き先を定める結論で。

 イリスが決めたように。アシュリーが変わったように。

 

 

「――この子を、私の傍に置くことは出来ませんか?」

 

 

 ステラもまた、選んだ。

 彼女の一生を背負っていくことを。彼女の成長を見届けることを。

 新しく生まれた彼女を誰よりも近くで愛し、祝ってあげることを願ったのだ。

 小さな顔がひどく驚くと、忽ち沈黙がやってくる。アシュリーは腕を組んで、そんな彼女をじ、と凝視した。それを続けられて、やがて居辛さを感じ始めた頃。

 

「……仕方がない、どうやらお前といなければ落ち着かんらしいからな。私とは目も合わせてくれやしない」

「では……!」

「ああ。検査が終わったら、レンジャーに里親申請を出しておいてやるよ」

「……感謝します……」

 

 両手を合わせて下げられた頭を見ることなく、身を翻した。後ろ姿から上げた手の甲を見せてやるだけで、十分だ。聖職者の敬虔さというのはどうにも苦手だからいけない。

 ステラはそうして離れるアシュリーを見送った後、きょろきょろ目を泳がせて戸惑うミミッキュの前へ、三つのモンスターボールを転がす。

 忽ち出てきた姉貴分のグランブルが、じろじろとその容姿を見回した。

 最も頭が切れる頭脳派であるアブリボンは、一歩引いて彼女を眺めている。

 ニンフィアは甘えん坊なので、振り返った先の主の笑みを確認した後、向き直って。

 そしてやがて三匹はにっと笑って、おどおどとした震えを止めるように、小さな躰に寄り添った。

 

『……!』

「――生きていきましょう。私たちと、一緒に」

 

 優しい声が当たると、堪えていた涙が溢れ出す。

 いてもいいよと、ちゃんと言えた。

 生きてほしいと、ちゃんと望めた。

 小さな足で一歩を刻むことを、教えられた。

 広さが足らない手でも、幸せを目一杯かき集められることを、伝えられた。

 

 ああ――――願いは、叶った。

 

 四匹をぎゅっと抱き締め、笑顔のままで咽び泣くステラ。

 人前なのに。みっともないのに。

 それでもこんなに止まらなくて、嬉しくて。

 合わせた頬と頬とが、雫の温もりを交換する。

 

 誰も馬鹿にはしない――。

 

 何故なら相棒と目を合わせて、笑いあう旅人も。

 

 涙声を背中で聞きながら、閉目して口角を上げる戦士も。

 

 皆、祝福しているのだから。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 以上が、聖女が聖女になるまでを見届けた、一人の旅人の記録。始まりの物語(エピソード・オールド)は、これにておしまい。

 ――旅の記憶は数あれど、今でもあの三日間の事は、鮮明に覚えている。

 

「……って話。なかなか面白いでしょ?」

「自分で言うのか」

「そこは素直に『うん』って言ってくれよお」

 

「まあ、否定はしないが」会話ばかりなために、遠方のステラの眼光の餌食にされたのは、発話から数秒後の話。

 次はたんこぶを作られてしまいそうな気がしたので、そそくさと本へと目を戻す。

 

「え、そんな、急だなぁもう」

 

 イリスが外を見てぼやくのも無理はない。雨雲が予報を大幅に裏切り、太陽へとバトンタッチしたのだ。

 雲を裂いて降りた日差しは図書館の天窓に切り取られ、シンジョウの手元で寝そべる一文を照らし出す。

 

「……しかし、素敵な場所だな。ラフエルというところは」

「そう? 出身地を褒められて、ちょっと嬉しいよ」

 

 だって、彼女みたいな人が、いるんだからな。

 ただこれは言わないでおこう。新たな神話を知った、この嬉しさは。ここに来たことを喜ぶこの心だけは。

 

『祈ることすらやめれば、屈してしまう。なればこそ屈さぬために祈るのだ』

 

 きっと自分が独り占めしても、罰は当たらないだろう。

 シンジョウは受け継がれるラフエルの言葉を刻み込みながら、そんなことを思うのだ。

 

「あ。今、笑った」

「……気のせいだ」

「うそだぁ、口元ちょっとにってしてたよ」

「そう思うなら、そうなんだろう。お前の中ではな」

「ちぇ、すーぐそうやって逃げる」

 

 

 

 ――四季は、それでも巡っていく。

 ステラはミミッキュを頭に乗せながら、今日も忙しなく駆け回る。

 今度は街中の花壇整備だ。どうもポケモンが荒らしていくそうで、監視カメラも設置しなければいけないときた。

 足を交互に入れ替え、落ちた木の葉の海の上を往く。鳥ポケモンが作った巣を眺めているうちに、かさ、という音に引き戻された。

「落ちたよ」と指すミミッキュの手に従い、拾う手紙。

 そして瞬間的に覚える既視感に顔を上げ、微笑む納得。

 

「――ああ。もう、三年になるのですね」

 

 葉掠れの音に、優しく撫でられた。

 中央区メインストリートの、北側から入って六番目の街路樹(プラタナス)――――ステラもミミッキュも、忘れるわけがない。

 これを見る度に、思い出す。あの日繋いだ、未来のこと。

 これに触る度に、振り返る。あの時君に、出会ったこと。

 これが笑う度に、改め知る。あのままの幸福が育ってる。

 

「ねえ、ミミッキュ」

『?』

 

 楽しいも、苦しいも、悲しいも、喜ばしいも――まだまだ残る時間の中で、彼女たちはもっともっと色々な記憶と感情が、その胸に重ねられていくのだろう。

 

「――これからも、よろしくお願いしますっ」

 

 あと何回、君と笑えるかな。

 ステラとミミッキュは、数えるのが楽しみで楽しみで、仕方がない。



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Episode Purify
01.先生の先生


 人は、泣きながら生まれてくる。

 誰に傷付けられたわけでも、何かに恐れたわけでもないのに。

 大粒の涙をぼろぼろ溢して、苦しそうな顔して生まれてくる。

 ひどく辛そうに喚いて、生まれてくる。

 

 僕はずっとずっと、その理由がわからなかった。知りたかった。

 だから一生懸命調べた。考えた。思い悩んだし、重たい頭を腕いっぱいに抱えた。

 殴られて、蹴られて、首を絞められて。叩き付けられて、踏みにじられて、石を投げられて。

 七年という、ヒト一人が答えに至るにはとても短い時間ではあったけれど、僕はその中で気付いた。

 

 きっと人は、その先で待ち受ける不幸せを前もって悲しむから、泣いているんだな、って。

 

 本当に苦しい時は声が声になってくれないから、あらかじめ叫んでおくんだろうな、って。

 

 死ぬ時は、何一つ残せずにいってしまうから――涙ぐらいは置いていくんだろうな、って。

 

 

 

 飲めず食えずで、とうとう訪れた死期を祝うように、ヤミカラスが輪を描いて飛んでいる。

 町の外れは荒れ果てて、人の往来なんてろくにない。

 どうしてこんなところで倒れたんだろう。もっと目立つところで横になれば良かったのに。世界の無情さに薄汚れた少年は、そんな後悔を飲み込んだ。残念ながら腹は膨れなくて、意識の糸がまた一筋、ぶちりと切れただけ。虚しいものだと思う。

 自分はもっと世界を恨むべきだったろうか。憎むべきだったろうか。他者を侵して、物を奪って、それでもなお生にしがみつくべきだったろうか。命に執着するべきだったろうか。

 ここに来るまでは考えるどころか、周りを見る余裕すらなかったくせに、いざ鼓動が止まりかけてみれば、こんなにも頭が冴える。人体というのは現金だ。

 秋風にそよぐ紅葉の音が、ゆっくりと、少しずつ意識を削っていく。樹林が落とすひだまりは、漸く彼に世界の優しさを教えてくれた。もう手遅れと言うのに。

 ああ、迎えが来るな。体が軽くなっていく。静かに目を閉じた。

 

「あーあー、みすぼらしいねえ、全く」

 

 どんな生まれをすればこんなになるんだか。聞こえた声が、最後の最後というところで、彼を繋ぎ止める。

 鈴の音色にも似た、しゃらしゃらとした煌びやかさ。抱きとめられたように、温かい。そんな女の声は、己が名も分からぬ少年に最初で最後の希望を与えた。

 

「子供がいっちょ前に人様の迷惑を考えて死のうとしてんじゃないよ、まったく」

 

 薄桃色の旗服。淡雪のように白い肌。儚くて、脆くて、それでも優しくて、強くて。

 

「そんなに頭が回るなら、石ころをおいしく食べる方法の一つや二つでも考えられないもんかね。この意気地なしめ」

 

 細く長い黒の二つ結びが、頬を撫でた。

「行くとこないなら、持ってくよ」再び開いた視界で微笑んだその女性は、力なく倒れる小さな少年を背負って、歩き出す。

 

「……あな、た……は……」

 

 そうやって秋の寒さを拭う大きな背中の温もりを、彼は今でも覚えている。

 

 

「――ネリネ。あんたみたいのを拾って集めてる、物好きさね」

 

 

 初めてもらった、人の優しさを――彼は今でも、覚えている。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 カロス地方――――それは、美を徹底した地。

 陸続きで海がなく、石資源に恵まれたそこは、一風変わった独特な文化圏が形成されている。とりわけ建築面においては、その技術が『カロス工法』と呼ばれて世間に浸透する程度には、強い個性を所持していて。

 だが、この土地を語る上であって、何よりも外せない個性がある。

 

 ――『メガシンカ』だ。

 

 進化の限界を突破した更なる進化を呼び込むその神秘が、明確にそう呼称され体系化されたのは、此処の功績によるものが大きい。

 中でも北西に位置するこの町『シャラシティ』は、人類史で初めて意図的なメガシンカが確認された『目覚めの街』として、今日まで人々の間で永く語り継がれている。

 北部の湖を割った細砂の道の先に聳える巨塔“マスタータワー”は、その奇跡の再現を祝うモニュメントとして、カロス初のメガシンカポケモン『メガルカリオ』の像と共に建てられたものだ。

 そんな北西にある町の、東部の道場――『心道塾(しんどうじゅく)』もまた、日々の鍛練の中で、ポケモンと人との在り方についてを究明しながら、メガシンカという確立された概念を世に伝えていた。

 

「ったく、どこにいたかと思えば……またここかい」

 

「芸がないねえ。まるで見つけてくれと言ってるみたいだ」塾長のネリネは、中庭の緑に囲まれて丸く縮こまる弟子の背中へ、声を投げかけた。

 今に始まったことではない。もう育てて三年経つが――彼は何かあれば、いつもいつでもここに来る。けして狭い屋敷ではないが、かくれんぼの鬼役も手慣れたものだ。

 

「リク。ほうら、泣いてないで。みんな薪拾いに行くよ」

「……泣いてません」

「嘘吹きな。お前は心が揺らぐと耳が赤くなるんだ……すぐわかる」

 

 ネリネはとん、と縁側を下りて藁の履物を滑らせると、屈んで池の前から石像のようにしてぴくりとも動かない少年『リク』へ歩み寄り、後ろからその耳に触れる。

 熱を感じた後に覗き込んでみれば、潤んだ目を伏せる。正解の証左だろう。歯を出して意地悪くにまっと頬を崩した。

 

「んで、今日は何さね。メシの取り合いでもしたかい」

「……僕のコイキングが、馬鹿にされました。跳ねるだけの弱虫と言われました」

「イツに?」

 

 無言の頷き。

 

「それでこのザマかい? 勝てないんならやらなきゃいいのに」

 

 恐らく殴り合って口が切れたのだろう、と思う。ハンカチで僅かばかりの血を拭われながら視線を釘づけるのは、眼下の水面から落ち込んだ顔出して、己を見上げる魚ポケモン“コイキング”。

 

「そりゃ、あたしは弱虫なんて思っちゃないけれどもさ……実際に“はねる”しか覚えないじゃないか。バトルでいい結果は出せないだろうに、それでも育てるのは、なんでかね?」

「弱いからと見放され続けるのは……、可哀想に思ったからです」

 

 まるでいることに意味がないみたいな、そんな扱いは辛いと思うから。

 そんな事を聞いて、ふふっ、と昼下がりの春風に笑みを溶かした。そして思い出す。言葉一つ発するにも命がけになるほど内気で、消極の擬人化と嘲られるくらい大人しい彼の、心根を。

 その愛に溢れた情動に触って「そういえば、こんな奴だったな」なんて、想起する。

 

「……先生、笑わないで下さい」

「笑いもするさね。お前は泣き虫なのに、変なところで意地っ張りだ。譲れないもんがあるってのは、いいことだけどね」

「僕はただ……理不尽に存在を否定されるのが、嫌なだけです」

 

 静かでも、芯の強い言葉。それで涙を乾かせば、外出の準備は完了だ。

「では、行ってきます」コイキングをモンスターボールに戻し、目の前から立ち去るリクを、

 

「いっぱしになったもんだよ、まったく」

 

 ネリネは腰に手を当て、見送った。

 

 

 

 シャラの樹林にて生い茂る木々の下で、どすん、と大きな音が鳴る。

 

「ひぃー、腰いったぁ……」

 

 振り下ろした斧が、木を縦割りしたことを教えてくれているのだ。

 子供たちはポケモン共々木漏れ日と木陰の間を交互に行き来して、火の燃料となる薪集めに勤しんでいた。

 誰もが一様に纏う民族衣装のような服はネリネのものと同じで、見受けられる差異は色だけで。何よりもわかりやすい、心道塾生としての身分証明だ。

 

「追加分ー、ここ置いとくね」

「待った、ちょっと誰か、交代……」

「んー」

 

 心道塾の門下生は、十数人ほどいる。年齢もばらばらで、人種が違えば生まれも異なる。となれば個性の独立なんて当たり前。

 だがしかし彼らを結び付け、その関係を強固にする、唯一の共通点がある。

 

「ミカヤぁー、イチが斧つらくなってきたって」

「ああ、わかった。代わろう」

 

 誰もが、帰る場所を失っているのだ。

 死や離別、子捨て等で本来守ってくれるはずの親が消え、幼いうちから味わわなくても良い世の不条理を喰らってきている。

 そんな子供達に知恵と安寧を与えてやるために、ネリネはこの塾を作ったと言ってもいい。

 

「あっちの木も倒してきたよ。三本」

「さすがゴウだ! よっ、ネリネ一門最強の力自慢!」

 

 彼らはその“先生の恩”に報いるから。互いの苦労に満ちた身の上を、重んじているから。結束して寝食を共に出来る。一丸となって日々を送ることが出来る。

 

「そんな木で燃えるはずがないだろう。もう少し太いものを用意しろ」

「僕は力があまり強くないから、軽いものを手早く多く集めて、役に立とうと思ってて……」

「ひょろひょろの燃えカスになって終わりだろうが。どこかの誰かみたいにな」

 

 そんな中だからこそ、例外というのはひどく悪目立ちする。

 

「………………」

「なんだその顔は。さっきの続きでもやるか?」

「やめろお前ら!」

「またかよ、もう」

 

 鋭い眼差しと、物言いたげな相好――“イツ”と“リク”のいがみ合いは、今日も絶好調であった。

 向き合ったところを他の門弟が割って入って事なきを得たが、両者は共に納得していない、といった様子。

 日頃から目の敵じみた接し方をされているリクにしてみれば特にそうだし、表情を曇らせるのも無理はない。

 のだが、門弟らはイツに対しても、その態度に理解を示せるだけの背景を知っていた。

 

「リク、あまり責めないでやってくれ。念願の継承式が近いから、気も立つんだろう」

 

 継承式。

 選ばれた二人組に、それまでで学んだこと全てを試合という形式で披露させ、より優れていた方へ絆の奇跡『メガシンカ』の手段を授ける、心道塾の伝統行事である。

 継承を完了した者は、晴れて生き方と世の理を手にし、再び外へと羽ばたいていく自由を得られるのだ。

 即ち、卒業試験。心道塾生としての集大成の発表会。ネリネの弟子としての最後の務め。

 開催は完全不定期で、選定も彼女の一存で決められ、おまけに選ばれた以上は逆らうなどせず甘んじて受けねばならないという決まりがある。

 そして此度、そんな継承のチャンスを掴み取ったのが、イツとリクで。

 

「そりゃ、僕が選ばれて面白くないのは、わかるけど……」

 

 二人は同い年だった。ネリネの元に来たタイミングもほぼ一緒であったし、心道塾で見たものも、聞いたものも、触れたものも何一つ変わらない。

 それでも両者は時を経るごとに、成績の差が開いていった。

 リクが与えられた試練に音を上げているうちに、イツはどんどん遠くへ進んで、いつしか『ネリネ一門史上最強の弟子』と、褒め称えられるようになっていた。

 彼らを決定的に分けたものは地力の差であり、それに気付いた心無い大人達は二人の扱いにも違いを付け、片や落ちこぼれと呼び、片や後継ぎと担ぎ、彼らの溝を大きな物に変えていった。

 

「でも、僕だってこの現状を理解できていないんだ。だから、あまり……その。目くじらを、立てないで……ほしい」

 

 リクは、イツどころか皆と比べても優れていない自身に継承の権利が与えられたことを不可解に思い、何度もネリネに「何かの間違いではないか」と疑ってかかった。されど「あたしの目に狂いはない」と突っ返され続けて、逃げ場すらも失って。

 真面目に取り組んできたイツにとって、最後の最後で自分よりもうんと劣る存在と同列に競わされるのは、心底腹立たしいし、さぞ屈辱的なことだろう。

 でもリクだって、ちゃんとそれをわかっている。どうにもならない気持ちで雁字搦めにされているのは、僕だって一緒だ。そう思うからこそ、イツの当たりの強い振る舞いには反発してしまう。

 余計に関係が悪化するとは、知りつつも。

 

「出来ないなら出来ないなりに、出しゃばるな。言いなりにしろ。陰に引っ込んでろ。見ててイライラするんだよ」

「……僕だって許されるなら、そうしたいよ」

 

 半ば同門らが、呆れ返っても。この軋轢だけは、どうにかなりそうもない。

 

「あいつら、確か今晩の稽古一緒だったよな……何やってんだ、ったく」

「平和に終わればいいけどね……」

「無理無理、どうせ先生そっちのけで殴り合いおっ始めて終わりだよ」

 

 離れていく二人の背中が、物悲しい。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――形式は一対二の変則勝負、先に全滅した方を負けとします。使用ポケモンは一人一体、アイテムはカロスリーグ公式に準拠し禁止とします。では両者、前へ!」

 

 暗くても山が見える。田舎であっても情緒がある。二人であっても一人に感じる。いずれも矛盾しているようで、成り立っている。

 夕飯を済ませると、すっかり月がのさばった。心道塾はポケモンと人の在り方を説く場所であるからして、無論バトルも行われる。従ってそのためのフィールドだってきちんと用意されていて、この屋敷で言うなれば大庭の一部がそれに値する。石畳と剪定された草木で飾り付けられた広大な空間は、ただ眺めて楽しむだけのものではないのだ。

 間隔を開けて並び合ったイツとリクは、白線のフィールド上で稽古相手――ネリネと向き合った。

 

「さて、今日はいつまで喧嘩せずに」

 

『いられるかね?』

 ネリネが言い切りと同時にモンスターボールを投げ込むと、青の光がおやこポケモン“ガルーラ”の輪郭を作って、空間にディテールを刻み込む。

 

「取り合う手と手で、道行き照らせ――メガシンカ!」

 

 そして続けざまに、さらなる光が呼びこまれる。見守る門弟たちの松明を凌ぐほどの輝きが、ガルーラを包む。

 二つの髪留めから発される極彩色は『道』となり、獣の親子へヒトの思いの力を存分に注ぎ込んだ。皆の目をひとしきり眩ませたら、やがて卵のようになって固まる可視化された絆。

 

『ガルルァァァァァァァァァァァァァァァ!!!』

「……さ、どっからでもかかっておいでね」

 

 それが弾ける時――上空に螺旋の紋章が浮かび上がる時。ガルーラのメガシンカは完了する。

 肉体が強化された母の傍ら、腹の袋に収まっていた子供は、成長した姿で地に足付けて立っていた。

 何事にあっても子を優先してやる。メガガルーラの風体には、そんな子供思いな性質が如実に表れていた。

 

「ボスゴドラ!」「コイキング」

 

 そんな勢い増した親子に怖じることなく、二人もポケモンを繰り出す。

 イツは幼少から共に育ってきた“ココドラ”の最終進化形“ボスゴドラ”を、リクは道端で捨てられていたところを助けた“コイキング”を、それぞれ召喚した。

 跳ねる者と、構える者。銘々に動作は違えど、目先の敵を違えてはいない。

「イツ」緩慢な気流が、かさかさと草場を撫でる中で、言葉を放す。

 

「僕は、どうしたらいい。跳ねることしか出来ないけれど、何かの役には」

「何もするな」

「!」

「居ても居なくても一緒だ……何もせずに黙って見てろ」

 

 リクはそれ以上会話を繋げることもせず、ただ一人で俯いた。

 

「――それでは、はじめ!!」

 

 審判が、数多の火に照らされた掌を振り降ろす。

 

「ボスゴドラ、“アイアンヘッド”!」

 

 そんな開始の合図に、駆けた。

 真っ先に通る電撃のような指示は、必然としてボスゴドラに先制の流れを与えてくれた。

 どしんどしんと大地を打ち均しながら始まるは、鉄鎧の進撃。

 

「遠慮なく行かせてもらいます、先生!」

「おやおや、せっかちだねぇ」

 

「受けて立ちな」右の爪先を二度鳴らす。するとガルーラは、真っ向からその突進に拳をぶつけた。

 ドォン。忽ち衝撃が走って、灯りが揺らぐ。鋼と肉という、勝敗が目に見えた衝突とは思えない程に激しいそれは、二体の大怪獣の動きを競り合いという形で止める。

 使徒が顔をしかめると、主も同じく渋くなって。

 

「“グロウパンチ”か……!」

 

 イツの目には、硬質化された手の皮膚がしかと映っていた。

「ご明察だ」腕を組み、今度は左の爪先で一回地を蹴る。

 

「っ! イツ、後ろ!」

「ついでにこっちも気付ければ、満点だったよ!」

「なに!?」

 

 リクの気付かせる発声と、ネリネの不敵な笑みが重なった瞬間、ボスゴドラの背後に続く地面が短兵急に盛り上がった。足元から飛び出すは子ガルーラ。親の陽動に紛れて穴掘る、知性に溢れし立派な伏兵。

 本来当てるつもりだった方の正拳をまんまと貰うと、元来喰らわなくてもいいはずだったパンチもおまけでついてきた。強烈な二発の前でたまらず転がるボスゴドラ。ダウンを一度奪われて、面白くないぞと言わんばかりに地を殴り、雄叫びを上げた。

 

「焦るな、まだ始まったばかりだからな――!」

 

 イツは起き上がるボスゴドラを宥めながら、今なお強気な眼光を飛ばしてくる親子について、思う。

 このポケモン相手ならば、多少の損害は仕方がないことだと。一度の行動で二回攻撃を行える、この『メガガルーラ』との戦いならば、無傷で勝つのは無理だろうと。そんな風に考える。

 

「一人で大丈夫なのかい? 少し苦しそうだけれど?」

「見くびらないでくださいよ……、この俺を!」

 

 そうと決まれば。地面に敷かれた石のカーペットを叩き割って、身の丈の倍以上の大岩を切り出した。人間の比率で考えれば到底持ち上がるサイズではないそれを、ボスゴドラはあろうことかいじっぱりな性格一つで抱え上げる。

「ヒュー」敬意の口笛を鳴らして見上げる光景から、次の行動を想像するのは簡単だ。それはガルーラも同じ話で。

 

「投げろ!」

 

 だから、動き出す。

『ルルァァァァァァァァッ!!』親が振り抜いた腕にしがみついていた子ガルーラは、凄まじい勢いで斜方投射され、脇目もふらずに放物線をなぞる大岩へと迫った。

 

「砕け、“いわなだれ”!」

「子は“ふぶき”! 親は“シャドーボール”、散らしな!」

 

 重力に逆らう岩石が頂点へ達した時、再び勝負が始まる。ボスゴドラがもう一回り痩せた巌を豪速で投げると灰色二つは激突、盛大に砕け散って小岩の波へと変貌した。

 しかしやらせないと咆えるのが、この親子。

 ネリネの第一の指示は、この雪崩を凍らせ脆くする。そして第二の指示は、その甲斐性を失った玉の数々をかき消す。ショットガンよろしく拡散する霊力の弾丸は、不揃いな岩たちをまるでプラスチックのようにばきばきと打ち砕いていった。

 

「つええ、さすが先生……ッ!」

「……いや、まだだ!」

 

 舞う粉塵に目をやられかけながらも、門下生らはイツの意図に気付く。

 

「それを、待っていた!」

「……――!」

 

 煙をかき分けて成されるボスゴドラの特攻を、双眸に収めて。

 正直を三度目まで待つ必要など、ない。一度の学習を経れば二度目で決まる。

 範囲攻撃は多数のポケモンを扱うバトルでは最も強い。裏を返せば、それを用いられた際のケアも相当な重要性を持つという事を意味している。

 ましてメガガルーラ親子によるコンビネーションプレーを主軸とするネリネが、そんな初歩的なセオリーを知らないはずもなく。

 だから実際、こうして“いわなだれ”に向け入念な対応を見せてくれた。

 ――狙い通りだった。あとは手応えを握り締めて、その隙を突き刺すだけだ。地響きを連れ、鋼鉄の(こうべ)を月明かりに照らすだけだ。

 

「“アイアンヘッド”ッ!!」

「“おんがえし”で受け止めな!」

 

 親に至った石頭は、トレーナーの愛情を物理的な力へと変換する技によってブレーキをかけられるが、その歩みはたとえ遅くとも止まらない。止まってくれそうにない。

 親ガルーラが掴んだ角に押されて、望まぬまま踵で地表を抉る最中に、子ガルーラはようやっと隙の清算を出来た。上空からグロウパンチを叩きこまんと、壁のような背中目掛けて真っ逆さまに落ちていく。

「!?」しかし拳がそこへたどり着く前に、その小さな勇姿は飛んできた何かに阻まれ、横へと転がされた。

 

「へえ、考えたね――“ステルスロック”かい!」

「言ったはずですよ、見くびらないで下さい、って!」

 

 先程のいわなだれには、もう一つの役割があった。

 轟音と砂煙を以て、場に石刃を忍ばせる作業をカモフラージュすることだ。

 そうして敵の目を欺いて無事撒かれた“ステルスロック”が、忙しなく動き回る子ガルーラを巧妙に搦め捕ったのだ。

 次々飛んでくる礫の中で、踊ることしか叶わぬ子供。岩窟の守護者が生むトラップは、かくも鋭い。

 ようやく一対一に持ち込めた、と強気に笑むイツ。

 

「おい……、ひょっとしたら」

 

 あと少し、あと少しだ。

 

「ああ、イツなら、いけるかもしれない……!」

 

 あと少しで、先生に勝てる。

 

「先生を、負かせるかも……!」

 

 ここを去るまでの間に、先生を超えられる。

 イツは目をさらに見開く。固唾を飲んで、拳を握った。

 いける。絶対にいける。

 

 

「――ま、一人でここまでやったことは褒めてやろうかね」

 

 

 出し抜けに通るネリネの一声が、そんな期待で膨らむ胸から空気を抜いた。

 蚊帳の外から観察していたリクは、場の雰囲気を覆す異常に、いち早く気付く。

 

「……どうした、ボスゴドラ!?」

 

 痺れるような感覚が肌を走る。

 力押しが、止まってしまった。体力や馬力が落ちたわけではない。たった今まで一歩ずつ、力強く進んでいたのだから、そんなことは万に一つもあり得ない。

 ならば、何故。増えるまばたきの向こう側で、ガルーラはその答えを教えてくれた。

 

「――グロウパンチ、だ」

 

 呆然として発するリクを一瞥して向き直った風景には、担ぎ上げられるボスゴドラの姿があった。

「馬鹿な……!」いくら四〇〇キロにも及ぶ体重であろうと。どんなに暴れて手足をばたつかせようと。

 一度持ち上げた巨体に、解放の選択肢はない。

 食い縛った歯の隙間から、熱い息が白煙のように漏れ出た。筋繊維はその一筋一筋が怒張し、瞳の輝きに連動してより逞しくなって。重さに踏ん張る足は唸りが溶けた地面を押し潰し、確かに強い母を支えている。

 

「一口に『こうげきが上がる』と言っても、色々な過程があるさね」

 

 長らく不可解であったが、ネリネのヒントでやっと悟った。

 グロウパンチが『衝撃という外的刺激で体組織を活性化させ』こうげきの値を上げる技であったことを。

 わかりやすい肉体強化――――それは、こんな鉄塊じみた生物も持ち上げられるわけだ。

 くらった段階で、勝負はついていた。覗く歯は不敵な笑みの形から、悔いる時の形状に様変わり。

 

「終わらせるよ」

 

 主の言葉を聞いたガルーラが、咆哮と共にボスゴドラを頭上へぶん投げた。

 

「く、くっ! “ヘビーボンバー”!!」

「だから言ったんだよ」

 

 ネリネは、尚も諦めないイツを称えつつも、

 

「――『一人で大丈夫かい』ってね」

 

 足らない点を指し示して、この勝負にけりをつけた。

『グロウパンチ』――最後の指示が通った瞬間、ボスゴドラは落下の重力と拳の突き上げで挟み撃ちにされ、絶叫した。そのまま意識を目の渦巻きに閉ざして、地に伏せる。

 ごく自然な流れで続けて向けられた視線に、リクはどんな対応を取ったのか。

 

「ボスゴドラ、戦闘不能! 及びコイキング、降参! 勝者、師範ネリネ!」

 

 それは、言うまでもないだろう。

 審判の終了宣言で、場の緊張が一気にほどけた。拍手をする者、言葉をかける者、感想を語らう者と、観衆は様々な反応を見せてはいるが、イツとリクの表情は翳ったままで。

 それぞれきちんと理由はあるのだが、少なくとも単に負けたことについて悔やんでいる訳でないことは、確かであろう。

 ポケモンを戻したところで歩み寄ってきたネリネは、二人の頭に手を乗せ、屈んだ。

 

「イツ、いいかい。あたしだって世辞にも若いとは言えないけどね、あんた一人に負かされるほど衰えちゃないよ。なんで二人で挑ませているか、少しは考えな。他の活殺ってのも覚えないといけないよ」

「くっ…………はい……」

 

 稽古後の反省会は、日課だ。優しく褒められる時もあれば、厳しく叱られる時もある。どうやら今日は後者のようで。じろりと物言いたげな目が自分に向くと、思わず視線を逃がすリク。

 

「リク。あんたはやる気があるのかい? まるで棒っきれだ、突っ立ってばかりで声一つ出しゃしないじゃないか」

「……ちゃんと、言葉は発していました」

「おや、屁理屈だけは日増しに達者になっていくねえ」

「ごめんなさい。頭を握り締めないで下さい、ごめんなさい」

 

 わかればよろしい、そんな解放。

 

「……少しでも勝つ腹があるのなら、イツから何をどんなに言われようが、行動してごらんな。あんたにはそれが出来るだろう?」

「……はい。すみません……」

 

 継承式が心配だよ、まったく。心残りを言い残し、去る。

「ほらみんな、風呂いくよ! ついといで!」弟子を伴い、行灯光る屋敷に戻っていく背中。

 リクはそれを暫くの間ぼうっと眺めた後、

 

「くそっ、まだ勝てないのか……力が、足りないってのか……ッ!」

 

 地面に空虚な拳を叩き付ける同門の姿を見て、眉をひそめた。

 

 僕だけが、前を向いていない。一歩も先へ進んでいない。

 ――ずっと、取り残されている。

 空いてしまった心に埋まる折角の再認識も、吹いて流れる夜風に手放し、くれてやった。

 

 リクはそうやって、地続きを求めていく。



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02.立ち止まる理由

 白昼のというのは、どうしてこんなに眠いんだろう。

 一点の曇りもない上機嫌な青空を眺めながら、思う。

 杉の床の上に敷かれた座布団を、より強く歪ませた。開いた障子から通る風を受けながら、机上の頬杖を立て直す。

 

「リク、それじゃああんたに答えてもらおうかな」

「へ?」

 

 黒板へ白墨打ち付けるのをやめて、広間に響かせる声。宛てられた少年の帳面は白紙だった。

 ネリネは知ってか知らずか、座学であるのに集中を遠くへ追いやっていたリクに、口頭での復習を促した。

 

「メガシンカは、人とポケモンがどうなることによって起こるんだっけ?」

「……繋、がる」

「じゃあ、その繋がるってのは、具体的にどういう状態の事を指すんだっけ?」

「ひ、人とポケモンがそれぞれ発する心の信号が、お互いの間を行き来するようになった状態」

 

 質問内容は、メガシンカについて。初歩の初歩の話であるからして、間違える訳がない。

 のだが、板書をろくに記録していない手元のせいで、内心をそわそわと急かされてしまった。

 露骨にまずい顔をしている。仕方ないだろう、まさか振られるだなんて思っていなかったんだから。

 二度はあくびを噛み殺しているそんなリクの相好を見破り、ネリネは意地悪くさらなる問いで追いかけた。

 

「はて……あたしはそれを支えるモノを、なんて呼んでいたかねえ?」

「うっ……!」

 

 リクは、嘘を付けない。

 わかりやすく目を泳がせる様を見て、周りの同輩がくすくすと笑った。

「決まりだね、今日の掃除当番はお前だ」「うぅ……」溜息を鼻から流した後に、言う。

 続けてイツの名を呼んだのは、彼に抜け落ちた回答の埋め合わせを任せたから。

 

「『道』。人の思いの力を通すものであり、ポケモンの心を流すもの――わかり合う個と個の懸け橋となる、絆の結晶です」

 

 うん、上出来だ。腕を組んだまま、頷いた。

 通路一本を挟んだ長机の、一番手前。真っ直ぐ伸びた背筋と、乱れのない折りたたまれた足格好。筆片手に教科書を見つめる厳しい横顔は真面目そのものであり、すっかり見慣れたもので。

 一時はこの姿を望みながら、追い抜くことを夢見たりもしたっけ――なんて、昔話を想起する。

 

「はい、それじゃあ続きからまたやっていくよ! 道を通っていくものを具体化して分けると、人からポケモンの場合では主に――」

 

 今よりもうんと輝いていた、もう戻れない昔の話を。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『先生に勝ちたい』

 

 イツとリクがそう願うようになったのは、ネリネに拾われて半年が経つ――七つの頃だった。

 別に、決まった時間に寝て起きる軍隊のような生活が嫌になったわけではない。まして、日に日にあざが増えていく厳しい手習いが苦になったわけでもないし、念仏じみた学問用語が唱えられる中で知りもしない字の読み書きを教えられるのに飽きたわけでも、当然ない。

 むしろ、逆だ。日々の生活に充実を感じていた。頑張れば褒め言葉と一緒に頭を撫でられ、わからないと言えばわかるまで語って聞かせて教えてくれる。何より自分たちに意味なく手を上げない大人というだけで、彼らにとって幸せを覚えるには十分で。

 だからこそ、早く一人前になりたいと思った。さっさと師を超えて、安心させてやりたかった。幼い男子二人には、少なくともそれが先生にしてやれる一番の恩返しだと思えていたのだ。

 

『まずは先生の弱点を調べよう』

 

 思い立ったイツが、リクに提案した。

 勝つにはまず、相手を知ることから。リクは少しだけずるい気もしたが、真正面から食って掛かっても歯が立たない事実は嫌というほど頭で解っていたので、渋々ながら賛成した。

 そして日々に目を光らせ、数日の調査を経た結果、とある発見に辿り着く。

 

『先生は俺達が寝静まった後に、夜な夜などこかに出かけている』

 

 宵闇と無意識に閉ざされる寝ぼけ眼のせいで、確信には三日もかかってしまったが、イツが仕入れた確かな情報だった。

 どこへ行って、何をしているのだろうか。それを知ることが出来れば、あのポケモンならぬバケモンを攻略するヒントが見えてくるのだろうか。いや、見えるだろう。そうに違いない。

 イツとリクはようやっと掴んだ糸に、縋り付いた。

 

「リク。起きろ、リク。おい」

 

 そうと決まれば、あとは簡単だった。

 

「んんぅー……あと十分……」

「馬鹿、十分も待ってみろ、見失うぞ」

 

 ネリネが門から出る様子を寝室の襖から確認したイツが、リクを揺り起こす。

 夜の一時は、依然闇が強い。月光も頼りにならないものだから、目覚めに多くの時間を使って、そのうちイツを怒らせて。

 

「ッあい、だぁぁ」

 

 悲鳴の続きは、もごもごと塞がれた口の中。見事なまでに額の真ん中を仕留めたでこぴんは、リクにとって最高の眠気覚ましになったに違いない。しびれたように震える瞳が不機嫌なイツを映すと、ようやく目的を思い出す。

 

「着替えろ、早くいくぞ。ポケモンも忘れるなよ」

 

 小声に従って、枕元のモンスターボールを取った。

 小さな二人による密偵調査は、そうやって始まる。

 

 

 

 取り囲む岩肌に、とても息苦しさを感じている。悪すぎる風通しに乗る土の匂いも、遠くで落ち延びる水の香りも、お世辞にも心地いいものとは言えない。

 人の長居に適した場所ではないと表現してしまえば、それまでだが。

 所々の地面から突き出た薄明も綺麗ではあるのだが、目直しと呼ぶには些か及ばない。

 シャラシティを南下した先にある巨大な横穴――『映し身の洞窟』にて、未だ尾行は続く。

 

「ね、ねえ。思ったより遠いところだよ……町を出ちゃったし……」

「だったらなんだ? こわいならお前だけ引き返せばいい」

 

 壁面いっぱいにめぐらされた豊富な水晶は、鉱石系ポケモンの捕食や体表の研磨により削られて自然な鏡面となり、歪みなくコピーした景色を作り出す。

 リクは物珍しいそれを一瞥してから、再び岩陰から遠いネリネの背中を覗き込んだ。

 すぐ下にはイツが屈んでいる。頭頂部に話しかけたところで、返る答えは素気がない。

 

「薄暗いし、迷っちゃうかもしれないよ」

「うるさいやつ。ばれずに先生をつけきれば、塾には帰れるんだよ。見失わない努力でもしてろ」

「そうは言っても、集中できないよ……」

 

「何がいるか、わからないし……」不穏な発話の途端に、確かに身を固めるイツ。

 暗さに恐れて、なんとなく言った。意地悪をしたという事ではない。不思議そうにするリクの表情が、その証明。

 ただ言葉のせいで、気付いてはいたけれど気にしないでいた謎の足音が、気にかかってしまっただけだ。

 それはどんくさいリクの耳では察しきれなくて、ともすればたった一人で不気味になって。

 

「……イツ、どうかした?」

「な、なんでもない! ほっとけよ!」

 

 無の一点を見つめた後に、パチンと両手で自分の頬を叩いた。

 挙動不審? 気のせいだ。そうだ、何もない。怖くないし、おばけなんてものは存在していない。だってそうだろう、考えにくい話だもの。

 

「ほんと? 少し、震えてるけど……」

「は、はぁ? お前が震えてるから、そう見えてるだけだろ……! 意味わからないこと言ってないで、ちゃんと先生見ておけって!」

 

 とんとん。イツの肩を叩く。

 

「……おい! ふざけてるのか!」

「こっ、声が大きいよ……! やっぱり変だ、どうしたの……?」

「どうしたもこうしたもあるか! 悪ふざけしやが」

 

『って』と言い切ってしまう前に、気付いてしまう。

 自身の注意を引く手が、目交いの相手ではなく、誰もいないはずの背後から伸びていることを。

 ぞくりと背筋が震え上がった。首を冗長なぐらいゆっくりと回し、恐る恐る振り返った先は――。

 

『バリ』

「――――ああああッ!」

 

 何のことはない野生の“バリヤード”だったのだが、残念ながら恐怖で余裕のない精神状態では、彼さえパニックの種となり得る。

 リクは混乱で大声引き出されるイツの口を、大慌てで塞ぎ込んだ。

 

「大丈夫だって! ただのバリヤードだから、落ち着いてってば!」

「ん゛ーーーっ! ん゛むぅーーーーーっ!!」

「気付かれるよ!? ほんと、ねえ、気付かれちゃうって……!!」

 

 白目をむいてじたばたする姿を、必死に押さえる。

 結果、図らずも先程の仕返しに見える様相が形作られたが、ここは偶然ということで一つ。

「(野生の喧嘩かねえ……?)」歩きながら離れた音を気にするネリネは、独白を練り上げているうちに洞窟を抜けた。

 

 

 

 11番道路に出た。

『ミロワール通り』と呼ばれるここは、大きなアップダウンを強いられる起伏の激しい道として、通行人を苦しめることで定評がある。

 実の成る木がいくつか立っていたり、花が咲いていたりと自然豊かな地形ではあるのだが、二人とも数えるぐらいしか来たことがないものだから、まじまじとその風景を目の当たりにするのは初めてに等しかった。

 夕方は綺麗かもしれないな。真っ暗な中に空想のオレンジ色を持ってきて、独白。

 そのまま西側へと歩いていけば石の町『セキタイタウン』へと至れるのだが、どうやらネリネには無用らしい。道中で揺れていた花を一礼の後に手折り、そのまま南下して道を外れた。地続きで踏み入るは舗装の行き届いていない樹林帯。

 

「もう、騒がないでよ……」

「うるさいな、ほっとけ……!」

 

 躊躇なく入っていく後ろ姿を忍び足で追いかける。名も知らぬ一輪の花が、指し示す通りに。

 ただでさえ心許ない明かりが、木々に遮られてさらに弱々しくなった。イツにしろリクにしろ、もはやネリネの姿など見えていないようなものだが、それでも耳朶をくすぐる葉掠れを頼りに、ぎりぎりの追跡を続ける。戻りようもないここまで来てしまえば、もう意地一つで踏ん張るしかなかった。

 リクにせよ、中途半端を避けるためならもうなんでもいいとすら考えていて。

 歩みどころか吐息にまで気を配って進んでいると、ネリネは光差す場所に出た。

 辺りが暗闇なので、限られた月明かりでも照らされる者の鮮やかさは損なわない。

 

「石……?」

「これは、もしかして……」

 

 まるで何かを記すように立てられた一つの灰色の四角形は、なんだか墓に見えてきて。

 でも口には出さなかった。そこに花のピンクを添える先生の横顔が、寂しそうに笑っていたから。

 距離のせいでよくは、聞こえないけれど。触れた石に優しく何かを語り掛けるネリネを、ひたすらに見つめていた。

 初めて見る先生の顔を――ずっと、眺めていた。

 

 

 

 ネリネは『誰か』との会話を終えて尚、森林の奥へと飲まれていく。

 もう一時間は歩いているというのに、歩幅も速度も全く衰えがないのは、さすがと言わざるを得ない。

 その体力は一体何歳のものなのかは気になるけれど、彼女は年齢の話をするとオニゴーリのような顔をして怒る。一部の大人からはバケモンと呼ばれているので、そこから推測するしかない。

 尤も、今はやらないが。

 

「のど、かわいた……」

「情けないこと言うな、弱点を調べるんだろ」

 

 寧ろ疲れているのは、イツとリクの方であった。

 だらんと肩を下ろして上向くリクを鼓舞するイツであるが、その言葉には微塵も説得力がない。何故なら彼も息が上がっているからだ。

 まったく行き先の想像がつかず、徒に足跡作っている間に『どこに繋がっているんだ』から『本当に終わりがあるのか』へ、思考はシフトする。

 出口のない迷路をぐるぐると回っている錯覚に襲われた。体内時計は眠気を以て生活の狂いを咎めているし、疲労は思考の余地を無遠慮に埋め立てていく。

 よくない傾向と理解しつつも上を見ながら行っているのは、早く終わりたいという心情の表われに他ならない。

 集中が切れたのだろう。有り体に言えば。

 

「イツ、ねえイツ」

 

 袖を引っ張って呼ぶリクが指さすのは、ようやっと見えた出口。

 ネリネの歩みが明らかに遅くなるのを確認して、少年二人は喜んだ。ようやっと目的を果たせるぞと期待して、通過口の役割を果たす最前列の樹木から、向こう側を覗き込む。

 そこは、広く開けていた。刻んできた道程と違い、差し込む月輪(がちりん)を遮るものはないし、飛んでいきそうなほど揺れる草原を邪魔するものだってない。大地はほんのり乾いた涼しい匂いだけを漂わせて、その静寂を優しく肯った。

 イツとリクがその双眸に捉えたのは、一本の木だけが佇む、小高い丘の上。

 そこは静かで、温かくて――幼心の表現力ではとても追い付かなかったが、とにかく「地図に載っていないことが勿体無く思えてしまう」と云えるぐらいには、趣がある場所で。

 

「こういうのは……綺麗、で、いいのかな……」

 

 深緑の髪を風にばさばさ煽られながら、リクは思わず独り言を漏らす。

「静かに、何か始めるぞ」観察の退屈をいよいよ破るネリネ。すぐ前にモンスターボールを投げ込んで、ガルーラを呼び出した。

 

「それじゃ、いつも通り頼むよ」

『グァル』

 

 ネリネは息を大きく吸い込んだかと思えば、そのガルーラとスパーリングを始めた。

 目尻を尖らせ、激しく打ち込み、声に覇気を入れる。練習と呼ぶにはあまりに熱があったし、殺気すら見え隠れしているではないか。

 

「いつも、ああして鍛えているのか……」

「先生のあんな顔……怒られた時でも、見たことない」

 

 少なくとも子供たちからはそう思えたし、僅かばかりの畏怖すら覚えた。

 だが同時に、達人の強さの秘訣とは、これほどまでに険しさを極めるものなのだと理解して。

 裏でここまでの努力。勝てない訳だ――――口には出さずとも、一緒にそんなことを考える。

『追い越すのは、もう少し先だな』内心に言葉を溶かして立ち去ろうとした、その時だった。

 

「――リクっ!!」

「へ?」

 

 イツにどん、と突き飛ばされる。リクは何が起こったかまるでわからなかったが、体勢を崩しながら彼と離れていくうちに、だんだんとその行動のわけが浮き彫りになっていった。

 視界に入る毒々しい紫の拳が、自分の残像を打ち壊す様を視認できた。

 

「な――!?」

「くそ、ついてないな……!」

 

 発声が追い付く頃には、しりもち。その姿は七歳が見上げるには大きすぎるし、立ち向かうには強すぎる。

 眠りを妨げられて、ひどく激昂した野生の“ニドキング”が、リクの眼前で咆哮を上げた。

「ひ……!」「っ、ココドラ!」そこからのイツは、早い。爛々と輝かせた目で弟弟子を睨みつける背中へモンスターボールをぶつけ、

 

「こっち向けよ……、デカブツ!」

 

 注意を己へと引く。ささくれ立っている気には覿面に効いた。じだんだ踏むようにその場で暴れた後に“つのでつく”で突っ込む巨躯。

 汗を拭い、相殺狙いでココドラへ“ずつき”の指示を送るも、生憎レベルが違い過ぎた。最終進化ポケモンとたねポケモンの差では、打ち消しどころか小傷一つ残せなくて。

 いや、それ以前の問題だ。こうも体格が異なれば、そもそも勝負にすらならない。

 

「ココドラーーーっ!!」

 

 三輪車がトレーラーにぶつかった。いまひとつの効き目とは思えないほどの衝撃がそのままダメージに結び付き、木へと叩き付けられる。

 ニドキングは敵を一撃で片付けたのを確認すると、今度は近くにいたリクへと向いて、その角を鋭く光らせて。

 

「は、は……わ……!」

「リク、コイキングを出せ! 早く!」

 

 役立つかどうかは、関係ない。ただ丸腰でいるよりも、うんとましには違いない。

 そんな意図を伝えるものの、恐怖でそれどころではない。抜けた腰と震える肩がそれをよく伝えている。

 ただ眼光に痺れて、襲われるのを待つばかり。だが無理もないし、責められないだろう。バトルの経験が浅い子供には、到底重荷な相手なのだから。

 そんな事情も知らないで突っ込んでくるのだから、世界というものは残酷だ。

 

「――“おんがえし”!」

 

 リク。イツが名を叫んだ刹那のこと。

 側面から突進する我が身を、文字通り横槍にしてニドキングへくらわせた。

 

『ガルァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!』

 

 紫を上回る茶の巨体――ガルーラは敵を弾き飛ばした後に、森を揺らすほどの大声で吠えた。

 驚く鳥ポケモンが木の隙間から逃げていき、陸上のポケモンたちは地響きに慄いて巣穴深くへこもった。ニドキングとて例外ではなく、尻尾を巻いたかと思えば、大慌てでどこぞへと駆けていった。

 ひらり、と一枚の木の葉が落ちて、頭に乗る。二人して急すぎる沈黙に戸惑っていると、音がようやく聞こえてきた。

 

「……まったく、困ったがきんちょ共だよ」

 

 足音からの、呆れ声。

 どちらもネリネのものであったことは、言うまでもない。

 

 

 

 指一本でたんこぶを作れるのは、世界広しといえどこの人ぐらいだろうと思う。今後とも推していきたい言説。

 痛む頭頂部から吹く煙は、夜に出歩いたことに対する折檻なのか、こそこそとつけ回したことに対する折檻なのか、それとも危険を冒したことに対する折檻なのか……まるで教えてくれない。

 豪華なアイスクリームよろしく三段重ねになっているので、もしかしたらその全部なのかもしれない。尤も得な話と喜べないのに、違いはないが。

 

「こんなことを教えた覚えはないんだけどねえ、あたしは」

「先生に、早く追い付きたくて……そのために、その……秘密を探って……」

「生意気言うんじゃないよ。たかが半年そこらで弟子に越えられるなんて、たまったもんじゃないさね」

 

 悩め、もう少し。ネリネはそう言って、に、と僅かに歯を覗かせてから、見晴らしのいい目先を望む。

 唯一の木の下から見えるカロスの首都『ミアレシティ』の夜景は、少年らが目を覚ますのに十分な眩さだった。果てしなく遠いのに、輝くシンボル『プリズムタワー』もしっかりと把握できる。

 

「すごい……」

「気に入ったかい? あたしの秘密の修行場所」

「……はい」

「そりゃよかった。せっかくだ、もう少し見ていこっか」

 

 鈴虫がのんびりと唄ってる。居合わせた蛍は穏やかな宵闇に流れるそのメロディに合わせ、涼しげに舞って踊った。

 あぐらと、三角座り。先生を挟んで座って、明日の修行のことについて話してみたり、この頃思っていることを語らってみたり、あそこはどうだとか、あれはどうだとか、彼方の光一つ一つに指をさしながら、その正体を当てる遊びをしてみたり。

 また初めて見る顔。楽しそうな顔。子供と一緒になって、目を糸みたいにして頬を綻ばせる、そんな顔。

 隣り合う純粋で可愛らしい笑みは、長らく空いていた胸の隙間を、埋めてくれた気がした。

 

「そういえば――先生は、どうして俺達に『イツ』と『リク』という名前を付けたんですか?」

 

 近況、世間、子弟の出会いと乱雑に転がってきた話題は、やがて弟子たちの名に触れた。

 イツもリクも、ネリネの背におぶさった時には、名無しの子だった。

 一人は望んで捨て去り、一人はそもそも付けられなかったという。どちらもそうなるまでにはとても深淵な経緯が控えているのだが、

 

「ああ、ありゃ名付けじゃないよ」

 

 当の彼女が初めて彼らを呼んだ時の心境は、浅いばかりか単純明快そのものなようで。

 

「五番目に拾った名前のない子供だから(イツ)で、リクは六番目だから(リク)。それだけさね」

「……もしや、イチやフタも」

「そうさ、同じ由来」

「まるで番号……」

「わかりやすくていいだろう? あたしは物覚えが悪いんだ、勘弁しとくれよ」

「歳だから、ですか」

 

 リクのたんこぶが四段になった。いよいよ意識が飛んでいきそうになる。

 きちんと呼吸が出来ているあたり、どうも謝罪は間に合ったようだ。

 いざ聞いてみれば「何かあるのかな」なんて気にしていたのが馬鹿みたいに思えたけど、同時に彼女らしいな、とも思ったり。

 

「……何より、あたしは誰かに真っ当な名を背負わせてやれるほど、出来た人間でもないのさ」

 

 ぽそりと漏らした小さな独り言を確かに聞いたが、リクは考えないことにした。きっと今はまだ、それに思いを巡らす必要がないだろうから。

 なんとなく横顔を見つめていると、その瞳が大きくなったのがわかった。何かを見た際の明確なリアクションに釣られて、同じ方へと顔向ける。

 

「流星群だ!」

 

 上、空だった。敷かれた濃紺いっぱいに広がる星たちが鮮明にまたたいて、三つの吃驚を連れて天駆けていく。

 欠片だらけの海が放つ根源の煌めきは、望遠鏡なんかなくたって壮大で、美麗で、少年たちの水晶を磨き上げるには十分どころか十二分で。言葉にならないまま連れ出される感動の声が、その証拠。

 不意に色めくありふれた日常を、閉口も忘れて味わった。

 無駄なものがないからより素敵に映るし、知らなかったからより有り難く思える。そして愛しい誰かが一緒だから――、

 

「ふふっ」

「せ、先生!?」

「わっ……!」

 

 きっと楽しく、幸せに感じられる。そういうものなんだろう。

 ネリネはきゅっと二人を抱いて、緑の布団の上に仰向けで寝転がった。

 

「流れ星って言ったら、願い事だろう? ほら、終わっちゃう前に願いなよ!」

 

 柔らかな腕枕に、包まれる頭。イツもリクも、心底愉快そうな大の字に抗うことはしなかった。

 それは淡く香る優しい匂いのせいかもしれないし、前へ前へと無邪気に弾んでいく言葉のせいかもしれない。

 

「願い事は秘密、口に出しちゃ叶わなくなるかもしれないからね。ついでにここでの事も、みんなには内緒だよ」

 

 どちらにせよ。

 

「それじゃ、約束だ」

 

 心地いいことには変わりなかったので、今はただ、この温もりに溺れておくことにした。

 小指を結び付けた後に、親指も共に合わせる。そんな指切り。

「不思議な形だ」と宣ってみたら、これがネリネ流だよ、と滅茶苦茶な理屈で突き返されたのは、強く印象に残る記憶の一ページとなった。

 これからの一生、死ぬまで残り続けるのだろう。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 イツは、先生は、あの時星空に何を願ったのか。

 あれからこのことについては話していないから、今や知る由もない。ひょっとしたら覚えてすらいないのかもしれない。

 でも彼は、リクだけは違う。

 幼い自分の願い事をはっきりと覚えているし、忘れようがない。前へと進めない現状を作る理由を簡単に失念できるわけがないし、考えた途端に立ち止まってしまった原因を容易に放棄出来るはずもない。

 世界から無意味と唾棄されたこの命を、なおも繋ぎ止めてくれる生き甲斐を――捨てられる道理なぞ、ない。

 

「だからこの問題は――――ってことになる。いいね?」

 

 どんなに同門が、瞳いっぱいに希望を満たして夢を語ったとしても。皆に認められて笑顔で巣立っていったとしても。

 自分には、何の感慨も沸いてこない。祝えることだなんて、思えないから。

 成長したくないし、先へと行きたくない。どんなに怒られ小馬鹿にされようが、自分は今に縋ってる。縋ってたい。

 皆が前を向く中で――自分だけは、ずっと横を向いている。昔から変わらず隣で歩く、彼女を見ている。

 

「で、あるからして――」

 

 だって、僕は。

 

「ってリク、あんた! 今度はちゃんと聞いてるのかい? ご希望ならメシの当番もやってもらっていいんだけど!?」

 

 ずっとこの人の傍にいたいと、思ってしまったから。

 

「ち、ちゃんと聞いてます! 大丈夫です!」

 

 嗚呼、そうだ。

 僕はこの人に――――焦がれている。

 

 

       ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「だー! かー! ら! いくら名のある石職人だろうとねえ! メガストーンは作り出せないって言ってるじゃないか!」

「いや、形にはなっているんだ! 試すだけでいい! 純粋なメガシンカの使い手による品質試験さえ通れば、より良いものが出来るはずなんだ! 人助けと思って、お願いだ!」

「ダメだ! 神仏の奇跡にも等しい力を人工的に増やそうだなんて、罰当たりにもほどがあるさね! 帰んな!」

 

 屋敷の玄関で固まる同門らが気になって、リクも人だかりの一部になった。

 

「どうしたの? 午前からすごい騒がしいけど……」

「まーたあの石職人だよ」

「ああ……、手作りしたメガストーンを勧めてくる人」

 

 掃除の最中だったが、今ならば手を止めてもネリネに叱られないと確信が持てる。だって来客を捌いている最中だから。

 彼女が向き合って激しく言葉をぶつける相手は、ここ数週間、ずっと自作したメガストーンを「性能を知るため使ってほしい」と頼み込んでくる石職人の男。

 なんでもこの超常的な力の量産を目論んでいるそうで、最終的には売り物にしようとしているらしい。

 

「懲りないよなぁ……メガストーンは地球に存在しない解明不能な物質で構成されてるってのにさ」

「偉い学者ですらわからないものを、造れるわけないのにね……」

 

「もう言葉は要らないよ、出てってもらおうか!」「あいだだだだ!」男は耳を掴まれ、ネリネに額面通りつまみ出される。何度追い返しても来るから、今回だって手放しに喜べないが。

 必死なのに加え、子供にすら『経営の建て直し』という魂胆が見透かされているのだから、哀れでならない。

 

「くう、痛いッ…………この……、このッ! 若作り暴力ババアがァーーーーーーーーッ!」

「もっかい言ってみろコラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!!!」

 

 捨て台詞を吐いて逃げる男を、追いかけていった。

 

「あー、ついに言っちゃったよ……」

「ありゃいよいよだぜ、明日からはもう顔を見ることもねえや」

「送別会でついでに祝っとくか、ハハハ」

 

 思い思いの言葉で会話しながら去っていくのを見送って、自分も掃除に戻ろう――そんな風に思った時だった。

 

「――(わっぱ)

 

 それが自分を呼ぶ声だと認識したのは、本能で。

 返事よりも先に、振り向いていた。

 

「……花芽(かが)が出ておるな。あの青毛の童と同じく、瞳に“水”が湛えられておるわ」

「(青毛……イツのことか……?)」

 

 開けっ放しになった玄関口の縁に寄りかかり、腕を組んで佇む派手な旗服姿。

『澄んだ沼』――――初対面で感じたその女を一言で表すならば、こうだ。

 穢れをまるで感じず、見通しが良くて純度が高いはずなのに――まるで底が捉えられない。

 今話しているこの瞬間でさえ、出てくる言葉が。見える面向きが。発される風情が。何もかもが水面(みなも)に揺らぐ鏡像のように感じられて、ぼやけていってしまう。

 

「となればあとは光だが……さて、主はどちらの輝きに咲くか」

 

 ふんわり漂う花の色香は気を抜けば絆されてしまいそうになるが、鼻先に残る師の匂いを懐かしんで、踏みとどまって。

 

「……ああ、決めた。決めたぞ。どちらも咲かせよう」

 

 毒々しくも華麗で、棘が無くとも命を傷付ける。

 

「そしてどちらの花冠(かかん)がより見目好いか……定めようではないか」

「……あなたは、誰ですか」

 

 リクは掴めぬ実態が抱えるただならぬ気配に背筋から怯えながら、口を開いた。

「石職人の、関係者ですか」すかさず追及を続けるが、答えずに向けられた背中。

 それに納得がいかなくて、少しだけ語調を険しくする。

 

「ちょっと」

「それでいい。今はな」

 

 去り際でようやっとこぎ着けた会話だったが、何一つ情報を引き出せなくて。

 

「ではな童。近々、また会うことになろう」

 

 肩越しに一方的な約束だけ取り付けられて、その邂逅は終わりを迎える。

 上手には言えないけれど、嫌な感じがした。リクはそんな感想を飲み込んで、閉じていた拳を警戒と一緒に緩めた。



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03.決戦前夜

 継承式に向かって、それぞれの時間が過ぎていく。

 誰が何をして、どう思って、どんなことを言って、泣いても、笑っても。時計の針は否応なしに約束の日に迫って、人々を急き立てる。

 そんな中、忙しくも充たされた残り少ない日常を生きるうち、少年たちはとうとう継承式を翌日に控える“送別会”の日を迎えることになった。

 送別会もまた継承式同様、心道塾が開催する恒例行事である。

 文字通り惜別を断って、継承式に出る二人を笑顔で送り出すための祝いの会合だ。この日ばかりはネリネも自給自足一辺倒になることをやめ、町中からかき集めた上等な馳走で、夜遅くまで騒いで踊る。

 塾生らは催される都度、皆を楽しませるための余興を発表せねばならないという決まりが設けられており、それもあってか会は毎度のように盛り上がる。延いては誰もが今日を楽しみにするし、実際に皆機嫌がいい。

 

「きのみ、籠一杯になったよ」

「勝手に戻ればいいだろう。いちいち報告するな、鬱陶しい」

「ミカヤは『二人で持ってこい』って言ってた」

「段取りがスムーズになるほど、準備も早く済むだろうが。少しは自分で判断して行動しろ、愚図」

 

 勿論例によって、イツとリクは除くのだが。

 パーティーの主役であっても、働くことは変わらない。掃除や洗濯に流した汗を拭って迎えた午後、イツとリクはいつものように夕餉へ向け、樹林できのみを拾い集めていた。他の塾生も野草やきのこ、魚を探して山中を散り散りに巡って、少しでも送別会を豪華なものにしようとしている。

 彼らの好意には感謝するが、わざわざ不仲な二人を一緒にするなんて、何を考えているんだ。リクは肺から溜めた息を抜きながら、内心で唱える。

 そう信じないとやっていられない訳ではないが、何か特別な意味があるのだろう、と思うことにした。

 別に、出まかせの心情を転がしているのではない。今まで一度もそんな真似をされたことがない、過去の覚えに頼るだけだ。

 

「ねえ、イツ」

「今度はなんだ」

 

 だから、と言うことはないけれど。

 

「僕らが先生と一緒に、願い事した日のことを――――覚えてる?」

 

 リクは最後と思って、喉につかえていたイツへの言葉を吐き出した。

 鳥ポケモンの囀りをかき分けて耳朶を打つ問いは、一瞬だが確かにイツの手を止める。目が合わない背中越しでも、その様子を確かに捉えた。

 明日の継承式が終われば、残ろうが去ろうが、どのみち彼と自分は別れてしまう。未来ある十歳の子供にすれば、些か大袈裟な話かもしれない。それでもリクにとっては、大切な思い出を共有した大事な仲間で。たった一日違いでネリネ一門に入り、苦楽を共にしてきた家族で。

 それはどれだけきつく当たられ、口汚く罵られようと変わらない。されど絆だと――そう信じて疑わない。

 

「ああ……そんなこともあったな。それが?」

「僕は、知りたいんだ。あの日、あの時、君が先生の隣で何を願ったのかを」

「下らんな。今話すことか?」

「今だから、だよ」

「何?」

 

「だって僕らは……明日きり、じゃないか」離れ離れになる前に。傍からいなくなってしまう前に。心残りを取り除く。納得してさよならを言う。

 だからリクは、数か月ぶりにイツと視線を重ね合わせた。洗い浚い打ち明けられる、思いの丈を求めて。

 

「ますます下らん。俺は何も思い残していない。故に、通り過ぎた時間にしがみつく真似もしない」

 

「お前と違ってな」響く付け足しの発話は、リクの鼓膜を穿って頭の奥深くに突き刺さった。

 目を見開いたのは、振り向いた少年の目尻が尖っていたからではない。思い通りの答えが返ってこなかったからでも、ない。

 

「――……へ?」

「俺が何も見ていないと。他人の気持ちなど知りはしまいと。自分だけが周囲のことを考えていると」

 

 一度も自分の喉から出していないはずの、自分の言葉が。

 

「そう思っていたのか?」

 

 他人の口から出てきたからだ。

 曇天の色が濃くなる。日輪が付け入る切れ間さえ、許さぬほどに。

 

「な……に、を」

「この際だ、教えてやるよ。俺がお前を見限ったのは、お前が継承者候補に選ばれたからでも、お前が出来ない奴だからでもない」

 

 バランス取ることもままならなくなって、小突かれたみたいに一歩後退った。嗤いながら落ちるのは、知らず知らずに取った傷んだ果実。

 どうして自分が透けているのか、わからない。なんで腹の底まで手を突っ込まれて自己が引きずり出されているのか、理解できない。

 

「――あの日のお前が、何も願わなかったと知ったからだ」

 

 一生懸命偽ったものが、がらがらと音を立て崩れていく。

「作ろう」って繕って、「黙れ」と脅して無理矢理騙した生まれない卵の殻が、べりべりと剥がされていく。

 

「お前は今いる場所が幸せで、心地良くて、離れたくない。優れなければ、成長しなければ、変わらなければ、認められなければ永遠に“そこ”にいられると思っている。そうなんだろう?」

「ち、違う」

「だから味のなくなった退屈を噛み締め続けて、とっくに色が抜けた毎日を平凡に這ってなんとなく生きてる」

「違う! 僕は――!」

「たとえ先生がそれを望んでいないと知っていても、だ」

 

 継承式なんざ、ほんとはどうでもいいんだろ? 何がどう違うんだ?

 突き刺されて立ち尽くす。イツの言葉に繋がる口は消えてしまった。

 そうやって散々嘯いていた心の現在地は、自分よりもずっと自分を見ていた友に、呆気なく開示される。

 空虚に押し潰されてしまいそうな自分を、高い月明かりに隠したのに。星の海に流したのに。奇跡に涙する感動を演じて、装って、泣きそうな顔をぼやけさせたのに。

 

「この恩知らずが。弱虫、腰抜け、臆病者」

 

 どうして、追いかけてくるんだろう。叩きのめしにくるんだろう。

 既に叶っている事を願うなんて卑怯だと、咎めてくるんだろう。

 わざと取り残されるなんて最低だと、責めてくるんだろう。

 

「負け犬が」

「――わああああああッ!!」

 

 そんなもの。そんなこと。自分が一番わかってる。

 瞳が水分でいっぱいになる前に、リクはイツへと殴り掛かっていた。

 誤魔化したかった。

 見失ってほしかった。

 忘れてほしかった。

 

 ――情けないままで、いたかった。

 

 どこっ。リクの腕は伸びきることなく、イツの拳とすれ違った瞬間に止まった。

 冗談じゃないほどに鈍い音が響くのは、返す側も本気の証。

 強さの格差が生み出す予定調和に従って、一発腹に捻じ込まれる。

 

「いっ……!」

「図星か。いいんだな、それで」

「う、う~~~~~~っ!!」

 

 唾液よりも先に、涙がぽたりと土に零れた。

 うずくまりかけた肉体を強引に御し、上げ直した泣きっ面で睨んだ無表情へ、今一度握り手を振りかざす。

 

「ぶぅっ」

 

 至らなかった。すり抜ける眼光が近づいたかと思えば、今度は顔面にげんこつ。イツが振り抜いた腕はそのままリクを張り倒し、背負っていた籠を中身ごと吹き飛ばす。忽ちきのみが八方に転がった。鼻血がたらりと垂れてきた。

 どしゃ、とあえなく柔い地面に仰向く友へ、

 

「……お前は、生みの親に拘束され、三日三晩殴られ続けたことはあるか?」

 

 そう問いかけて、マウントポジションを取った。

 

「とても痛かったよ。いっそくたばってしまった方がマシと思えるほどにな」

 

 そのまま息を抜く暇すら与えず、一、二、三、四、五発。

 口も切れてしまったらしい。内部から血が流れている。

 

「でかい図体に圧し掛かられて、手籠めにされたことはあるか?」

 

 視界が痛みと雫で無茶苦茶になっても、彼の言葉は止まなくて。次いで出る額に、額を打たれた。

 

「心底苦しかったよ。脳みそが弾け飛んじまいそうだった」

 

 襟を持ち上げられ、図らずも肉迫した少年の眼。それは禍々しい憎悪に歪んでいた。

 汚れた鏡に映って、リクは思い知る。自分が、本当は何一つ知らなかったことを。

 

「一度しか言わないから、よく聞け。俺があの日願ったのはな、“強さ”だ」

 

 友から見える世界も。

 

「この世はどうやら、親ってものが子を踏みにじるのが正しいらしくてな。思ったよりも意味がないらしい」

 

 同門が思っていたことも。

 

「だから俺は復讐する。このクソみたいな世界に抗う。ここで強さを手に入れてな」

 

 仲間が目指していた、場所も。

 

 

「なあ、わかるか? 俺には背負うものがあるんだよ。目を向けることすら放棄した奴が――、うろつくな」

 

 

 ――全部全部、知った気になっていただけだ。

 

『馬鹿みたいだ』

 

 リクはただ濡れる目を腕で覆って、一人息を殺して泣いていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ジョウト地方の風情溢れる床材『畳』と、装飾品『屏風』。長らく使っていなかったが、電灯はまだまだ元気なようだ。発光が金に反射される様子を見て、確信する。

 お屋敷は久方ぶりの封印解除。

「イツとリクの門出を祝って、乾杯!」ネリネの一声が威勢よく跳ねると、グラスとグラスが鳴り響いた。

 沢山の皿を乗せたテーブル複数と、それを囲う人々で、その賑わいは保証されている。

 西の果てに日が消えるのとほぼ同時で、心道塾送別会は座敷にて始まった。

「イツ、リク、おめでとう!」「ま、どっちかはただただうめえ飯を食うだけだけどな!」「経験者は言うことが違うね……」

 残留する塾生らに思い思いの言葉をかけられ、候補生二人はそれぞれの反応を返していく。

 

「しかし、最後の最後までお前らってば仲悪いのな」

「ほんとだよ~、主役とは思えない顔してる」

「だから、僕は転んで怪我しただけだって……」

「あっちは、そうは言ってなかったけどね」

 

 周りに手当ての跡を笑われてから、遠い斜め向かいを眺めるリク。詳細こそわからないが、イツは素っ気なくも仲間たちの労いに「ああ」や「おう」と返事していた。

 

「派手にやり合うのは控えろよ~? 明日まで取っとけよな」

「うん、大丈夫……わかってる」

 

 視線が合う前に、そっと目を背ける。

 

「何より楽しい席なんだからさ、パーッとやろ! ほらリクも笑って笑って!」

 

 無理難題だなあ。余計に内心がこんがらがってしまった先刻を想起しながら、ジュースごと独白を飲んだ。

 

 

 

 談笑が幾つも重なる。伴う笑声は連なって、部屋いっぱいに満ち満ちた。

 普段の節制もあってか、豪華な料理の減りは早い。美食に舌鼓を打ちながらも、子供たちが食べかす一つ残さず皿を空けていく様子を見れば、師の教育の質というものが窺える。

 徐々につつくものが減っていき、やがて半分になった頃。待ちに待った余興の開幕が告げられた。

 キルリアを用いたマジックショーや、エイパムと共に行う軽業、コロトックの鳴き声を伴奏にした歌唱など、創意工夫が凝らされた芸の数々は、祝いの席に華を添える。

 

「黙ってろ、ドベ」

『ドウシテソンナコトヲイウンダ!』

「弱虫コイキングが。いっそむしタイプにでもなった方がいいんじゃないのか?」

『コイキングハヨワムシジャナイ! バカニスルナ! バカニスルナ!』

 

 中でも、

 

「だはははははは!! すっげえ似てるわ!!」

「ひい、ひい……もう、ほんと上手……いひっ、あはははは!!」

「せ、先生まで……! おいお前ら、笑うな! 俺はこんなに気取った喋り方はしないッ!!」

「えー、続きまして『イツとリクが絶対言わないこと』」

『サキニシャワーアビテコイヨ! サキニシャワーアビテコイヨ!』

「あははははは!」

「おい、やめろ! おいッ!!」

 

 調教が行き届いたペラップの“おしゃべり”を活用したイツとリクの物真似は大変に受け、ここ一番の盛り上がりを見せた。

 送別会は、そうして終盤へと向かっていく。

 夜もいい具合に更けて、ポチエナが遠吠えを初めても不思議ではなくなる時間。酒を飲んでいるわけでもないのに、まるで酔っぱらったようにテーブルの端で眠りこける塾生も出てきて、ようやく会場にも落ち着きが見え始める。

 こじ開けられた静寂をより広げるために、リクはトイレへ行くと嘘を言って“いつもの中庭”へと訪れていた。

 とてもじゃないが、思考の整理がついていなかったから。

 こんなにも取っ散らかった頭蓋の中で、継承式なんて出来るわけがない。皆と素直に、面白おかしく飲み続けられるはずがない。だから逃げるように一人になった。

「おいで」なったらなったで寂しかったから、池にボールを投げ込んで、コイキングを放す。

 記憶に刻まれ続けたお決まりの動作ゆえに、造作もない。

 

「……なあ、君は離れたい?」

 

 心の準備は出来ているかい? ぶら下げた意図を、気付いてくれそうにない。ただ顔出して見つめるばかりで、鳴き声一つ発さない。

 

「僕は……どうしたら、いいんだろうね」

 

 こうやって、幾つもの松に見守られるのも。ぼんやり光る灯篭の熱を感じるのも。鹿威しに耳澄まして、すいすいと泳ぐ相棒をじっと眺めるのも。

 終わりたくない。終わらせたくない。

 瞼の裏には、まだあの人がいる。

 怒っていようが、笑おうが、泣こうが、喜ぼうとも。脳裏にあの人が焼き付いている。いつでも顔を思い出せる。握った温もりが残ってる。

 背負われたまま通った落ち葉の絨毯も、その先にある(ちがや)の一本道だって、そうだ。あの風景、匂い、肌触り――空気の味さえ、片時も忘れたことなどない。だって、その日から自分の帰路になったのだから。

 先生は自分の生きる意味なのだ。命を回してくれる、原動力なのだ。

 

『たとえ先生がそれを望んでいないと知っていても、だ』

 

 たやすく手放せる筈など、ないのだ。

 

「……憎しみを持ったまま旅立つことだって、先生は望んでないに決まってるじゃないかぁ……」

 

 ――だから見当違いの苦しい反論を、居もしない相手に投げつけるのだ。

 リクは結局、いつも通りに泣いてしまう。ぼろぼろと大きい涙を溢し、息を詰まらせて。

 師を思うことが最善と知りつつ、それでも駄々っ子みたいに「嫌だ」と漏らす。そうして“出来ない人”に成りすましただけの“やらない人”は、逃げ場を失った。

「どうすれば、いいのさ……」分かり切っている利己を御しきれないのは、こんなにも罪でもどかしいのかと、初めて水面の自分と向き合って、考える。

 

「リク」

 

 なればこそ、すぐ後ろに近付くまで、彼は師の存在に気付けなかった。

 

「まったく、しょうがない子だね」

 

 振り返った先のネリネはため息を微笑に混ぜて、つむじに掌を置いた。

 

 

 

 縁側から、二人で満月を望んでいる。

 涙は止まっても、まだ湿り気が多分に残る瞳には光が溜まって、ゆらゆらと揺らぐ。

 

「どうして泣いてたんだい?」

「……泣いていません」

「寂しいから?」

「……はい」

 

 問い質されても「誰と離れて寂しいのか」までは言わずに、あくまでも相手を「皆」とぼかした。少しずるいけれど、彼女を悲しませたくないから。

 ぐすん、と垂れそうな鼻水をすすっていると、

 

「わかるよ。あたしだってそうだものね」

 

 静かに同意を示すネリネ。

 その横顔は、ひどく意外に映った。

「送り出す度に、悲しいよ。いつまで経っても慣れやしない」情けない態度を咎められることも覚悟していた身には、特に。

 

「そりゃあ、出来る事ならずっと傍に置いておきたいさね。それでも仕方ない。あたしは誰かの傍で一生を約束してやれるだけ、立派じゃないからさ」

「そんなことない。先生は素敵な人です」

「おや、口説いているのかい? ありがたい話だね」

「なっ、そ、そんなつもりは……っ!」

 

 ありがとう。くすりとしながら頬に添えた手の親指で、雫の残りを拭ってやった。それからのネリネが始めるのは、愛弟子が今まで聞きたくても聞けなかった、昔話。

 

「――あたしにはね、子供がいたんだ」

 

 彼女が先生と呼ばれるまでに歩んできた、道程の記憶。

 

「お母さん、だったんですか」

「うん。って言っても、生まれる前に居なくなっちゃったんだけど」

 

 不幸な事故だった。ケンタロスが引く牛車に、己が轢かれてしまったばかりに。

 

「誰も悪くなかったはずなんだけれどもね――行き場のない理不尽に対する怒りってのは、どうやっても募ってくばかりでさ。あたしはそれがポケモンに向いてしまった」

 

 何日も何日も、虚ろだけが残る腹を押さえて、泣いて喚いた。

 

「いっぱい恨んだよ。何もしていないのに、ただ生きているだけなのに、あたしには酷く憎たらしく見えた」

 

 何度も何度も、出会う度に傷付けて、踏みにじろうと思った。

 

「そのうち旦那がくたばって、一人になって――考え事をする時間が増えて。漠然とだけど『このままじゃいけないな』って思ったのさ」

 

 だから、ポケモンを持った。

 子を想う親の心を、思い出そうとした。

 

「彼らと解り合って、そして許そうとした。その心を鍛えようとした」

 

 進みたかったんだ。

 

「あんた達はね、あたしが一人で頑張れそうになかったから、身勝手で拾ってきたに過ぎないんだ」

 

 ざらついた手のまま、我が子を抱いていたくなかったから。

 

「その笑顔と一緒に歩いてりゃ、乗り越えられる気がした。成長していく姿を見れば、前を向ける気がした」

 

 青空の向こうで見ているあの子に、目を背けていたくなかったから。

 

「そしてそれは、間違いじゃなかった」

 

 共に過ごすうちに、愛しくなった。ごっこ遊びだったとしても、親というものを体験できた。

 桜花舞う春も、蝉時雨賑わう夏も、紅葉包む秋も、白雪積もる冬も――――日に日に笑うことが楽しくなった。

 暁色に昨日を振り返って、橙色に今日を惜しんで、紺碧色には明日が待ちきれなくなって。この腕で彼らを包み込むことが幸せで、しょうがなくて。

 

「あたしは――与えたつもりが、与えられていたんだ」

 

 救ったつもりが、救われていたんだ。

「あの日の事、覚えているかい?」押し寄せる情動の波の中、流れてきた問いを聞き逃さないで、リクは「はい」と小さく頷いた。

 今更どの日か、なんて迷ったりはしない。自分を自分にする、ただ一つの思い出ゆえに。

 

「『一人前になって、子供たちに胸張って名を付けられますように』……それが、あたしの願いなんだ」

「……言ったら、叶わなくなります」

「いいさね。もう、叶った」

「……!」

 

 その言葉の意味で、ただでさえ混濁していたリクの胸中は、余計にかき混ぜられた。

 

「ようやっと前を向けたからさ。手始めとして明日の継承者に、それを贈る。わかりやすさなんかくそくらえな、ネリネの子第一号の名前をね」

 

 それでも、ぐちゃぐちゃの撹拌が続くうちに――己という器の底に眠っていた真意が、少しずつ浮いて上がってきた。

 

「んぁあ、だからって頑張れとは言わないよ。辛いだろうから。でもねリク、これだけは伝えさせておくれ」

 

 自分さえまだ一度も手に出来ていない、形も感触もわからない自分が。

 

「――――ありがとう、ね」

 

 抱き締められて、顕になった。

 その時、彼は、どんな顔をしていただろうか。それはきっと彼にしかわからない。

 

「……はい」

 

 先生にも見せず、ただ強く抱き返して、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 送別会は、終わりを迎えた。だがそればかりではない。今日という日も過ぎ去りかけていて。

 三年間の積み重ねを、捨て去ろうとは考えない。彼にだって思い返すことはあるから。

 イツは最後の一日の最後の一時間を、庭園で過ごしていた。物思いにふけっているのだ。

 生ぬるい夜風が寝間着の隙間に入り込んでも、構いはしない。敬愛する恩師との決別にも、全てを分かち合った友とのさよならにも、必要のないものだから。

 決意を胸に入れ込んで、瞑想じみた閉目を終わらせる。

 

「念入りなことだ。よほどの腹積もりと見える」

「……貴様」

 

 そうして面を上げた時、最初に見えたのは謎の女の姿であった。

 やたらと花に絡めた言い回しをしてくる、ドレスの女。イツは彼女を、石職人の仲間として覚えていた。

「どこから入って来た」「そんなもの、些末事よな」問いかけを無碍にして、真正面から歩み寄ってくるそんな相手へお見舞いする、正拳突き。

 ばしん、と快音こそ響いたものの、踏み込んだ一発は開いた扇子で容易に止められる。

 

「な、に……っ!?」

「止せ。手折るにはまだ早かろうて。妾はこのような不毛を成すために現れたのではないぞ」

「だったら、何を……ぐっ!」

 

 何度力を入れても進んでいかない手を弾かれ、無理矢理会話の機会を作られた。

 

「受け取れ。明日にでも、すぐに主を助けてくれようて」

「これは……」

 

 差し出された『メガストーン』と『メガリング』を見て、愕然とする。

 同時に腑に落ちて、不敵に笑って。

 

「……そうか。先生を通さずして、力を必要としているであろう俺にこの紛い物を直接渡しに来たということか」

 

 だがイツは返事を待たずして、それの受け取りを拒んだ。

 

「しかし、侮りすぎだ。俺は与えられただけの力など使わない。己の強さには結びつかんからな」

「……、ふっ、はっはっは!」

「何がおかしい」

 

 忽ち上がる嘲りにも似た笑声に疑問をぶつけると、女は仕返しよろしくにまりと歯を覗かせた。

 

「誇り高さで以て美とするやいい。が、それはいずれ首を絞めることになるぞ?」

「……なんだと?」

「“この力”は、まだ制御もままなっておらぬ。それを手懐け支配することこそ、主が唱える『己の強さ』とやらの証明になるのではないか?」

 

「なあ……、童よ?」抱き込む少年の耳元で、艶やかな形を成した甘い息がふう、とかかる。

 畳んだ扇子をしまい、持ち上げた掌に力を渡して見せる様は、まるで悪魔が人に知恵を授けているようで。

 闇の盟約に、一瞬だけ。イツの意識は唆されてしまった。手中の極彩色に、魅入ってしまった。

 ずっと欲しがっていたものだから。望んでいたもの、だから。

 またも意趣返しか、少年が答えを出すよりも先に、さっさと歩いていく女。

 

「待て!」

 

 それを引きとめ、訊ねたいこと。何故継承式のことを知っているのか。どうして力を授けようとするのか。そしてなんでそれが自分なのか――色々あるけれど。

 

「貴様は、何者だ……!?」

 

 まず只者と呼ぶには無理が過ぎた、悪魔さえ凌駕するその気配の正体を、探ろうとした。

 

「ふむ。すぐに忘れようが……教えてやろう」

 

 どこからか桃の花びらが発され、舞う。塵も埃も蔑ろにし、周囲を華々しく輝かせるそれに包まれながら、

 

「『イーノ』――――美しきを愛でる者。故に努めよ、童」

 

 女は振り向きざまに自らの名だけを置いて、どこぞへと消えた。

『花咲く明日を、楽しみにしておるぞ』

 

「フン……言われるまでもない」

 

 メガストーンごと残されたイーノの言葉を拳に握り、歩いていく。向かう先は、当然――明日。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 言いたいこと全て、言い合って。

 考えていたこと全て、答え合わせて。

 陽はまた昇って、新たな日の誕生を祝福する。

 前向きであれ、後ろ向きであれ、見合う二人に迷いはなく、後悔もない。

 ただ同輩と師が見守る中で、導き出した“心”を求め、己の“道”をひたすら進むだけ。

 

 

「――これより、第五回『心道塾』継承式を開始する!」

 

 

「両者、前へ!」まだ見ぬ第五継承者を占う決戦の日は、晴れ晴れとしていた。



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04.継承式

 キャモメが休む、青の上。疎らな雲が風に流れて、晴天の飾り付け。

 湖は凪いで、日輪は阻まれず、空から連なっている。

 申し分ない天候で催される継承式をすぐ傍にて見守るのは、堆さを惜しげもなく湛えたマスタ―タワー。

 門前の一本道にて向き合う少年二人は、些かせっかちな周囲の応援を受けながらも、互いに視線を逸らさずいた。

 

「わかってるだろうが――ルールは一対一の真剣勝負だ。道具は使用不可、演武を通して人とポケモンの未来をより深く見せてくれた方へ、メガストーンとキーストーンを贈与、その時点で継承者とする。ちなみに人への攻撃はなしだ。いいね?」

 

 わかりきっている禁則事項をわざわざ伝えねばならないのは、両者の仲が犬猿であるからに他ならない。

「じゃあ、ポケモンを出しな!」審判兼マスタ―タワーの管理者であるネリネが、イツとリクを眼球だけで一度ずつ見やって言うと、それぞれはモンスターボールを前へと投げ込んだ。

 ポンッ、と特有の音が光と一緒に弾けると、たちどころにボスゴドラとコイキングが顔を出す。

 背中から相棒がベストコンディションなのを確認して、重い口を開けるイツ。

 

「人への攻撃はなし……か。こんなドベには、その価値すらありませんよ」

 

 呼吸するように自然な挑発には、乗らない。とっくの昔に慣れている。そんなリクが意識を向けるのは、コイキングのことだけ。大丈夫だろうかと、思い巡らすだけ。

 一方のネリネは昨日のことを思い返しながら、無言貫く彼を黙って見据えていた。その意味を一から十まで述べるのは、恐らく野暮なのだろう。

 

「リク、大丈夫かな」

「普通にいけば、敵う相手じゃないけど……どうだろう」

「傷一つでも付けられれば、御の字じゃないか?」

 

 見届け人として遠巻きに眺める門弟らが、展開に対する思い思いの言葉を重々しく語る。

 

「……いや」

「ミカヤ、やっぱりわかる?」

「ああ。いつもと、何かが違う。あの顔は……そのまま倒れていく奴のそれじゃない」

 

 イツが圧勝するという多数の予想に反して、彼らの兄姉弟子達――いわゆる年長組は、そうとも限らないときっぱり言い放った。

 何故なら、彼らだけはこの場を包み込む異様な雰囲気に気付いていたから。もっと言えば、それがリクから発されているものだと、察していたから。

 それが気のせいか否かは、じきにわかること。

 

「それより……」

 

「なんでこいつがいるんだか」振り返って目が合って、ネリネは辟易する。

 

「みっ、見るだけならば文句はないだろう!? 見るだけだ、ほんとーーーーに、見るだけ!」

 

 そう言うと、おどおどしながら隣の人陰へ身を隠す石職人。自分の身の丈よりも一回り小さな者を盾にする絵面は、なんとも情けない。

 

「式の最中に何かやろうもんなら、承知しないからね。言っとくけど命の保証はないよ」

「わ、わかってるとも! 何もしやしないさ!」

 

 もう既に、してあるからな。

 

「おい、ほ、本当に渡したんだろうな……? お前が協力すると言ったから、私はここまでしているんだからな……!」

「問題はないと言っておろうに。気の小さい男よな」

 

 イーノはそんなモノローグを噛み締め、心底鬱陶しそうに返した。彼女が先程から扇子で涼みながら眺めるは、イツの横顔。

 

「……尤も使われるかどうかは、アレ一人で決まる事ではないが、な」

 

 聞こえることの無い独り言は、やがて重なる号令にかき消されて風化した。

 

「それじゃ、――いくよ」

 

 挙手というネリネの動作で、誰もが固唾を飲んだ。

 言葉が止まる。時流が滞る。風上から広がる水の香りは脳に至らず、嗅覚を無視して抜けてった。

 引き締まる表情に、加速する鼓動。一人は緊張で、もう一人は興奮で。

 どちらがどちらなのかは、説明も要らない。

 全部、始まってしまえば。

 

 

「――第五回継承式、演武開始!!」

 

 

 当人達ですら、わからなくなるのだから。

 

「“アイアンヘッド”!!」

「っ!」

 

 会話など要らない。手刀が空を切ると同時、ばちりと電流奔る瞳がそう言った。

 遠慮も加減もない大声が通った瞬間、ボスゴドラはもう細砂を踏み蹴っていた。雄叫びを上げ、駆ける。そして鋼鉄の頭部を跳ねるだけの敵へと全力でぶつけた。

 ズドン。猛スピードのタックルはシンプルであっても強烈で、純粋なまでに破壊という現象を見せつけて。

 

「馬鹿らしいんだ。こんなにも結果が見えた勝負など」

 

 すぐさまどよめきが起きる。やる気のない奴など、一撃で終わる。こんなものだ、と唾棄した。

『居場所に甘えて、自己の研鑽すら忘れた無能野郎が』――――内心で口汚く罵り、望んだ砂煙の向こう側。

 

「――まだ」

 

 そこにある相好は、ほんの僅かも腐っていなかった。

 

「なに!?」

 

 鈍い煌めきの直後、相棒の『ゴ!?』という短い鳴き声に意識を引かれる。彼が粉砕したはずの相手から背後を奪われている風景に、思わず目を丸くした。

 

「コイキング、“とびはねる”!」

 

 瞬発力に物を言わせた打撃が、空気もろとも鋼鉄の肉体を叩いた。

 バチンと鳴り響く尾ひれの鋭い手応えは、ボスゴドラの後頭部が発したもの。一瞬に揺らぎながらも、振り向きざまで腕を振るう。

 濡れた音と跳ねる水玉が嘲笑えば、その反撃の行方もわかるだろう。

 イツは釣り上げた目で、忌々し気にリクを見やった。

 

「勝手に終わった気にならないでよ。……まだ、始まったばかりだろ」

「貴様……!」

 

 ダメージ自体は大したものではなかった。今一つの効果で、ましてボスゴドラの耐久力だ、世界がひっくり返ろうとも致命傷にはなり得ない。

 だが、イツは歯噛みせずにはいられない。

 三年の付き合いで、初めて見たその顔に。一切知らなかったその表情に。

 ――継承者の座を確実に狙いにきている、覚悟の眼光に。

 

「何を、今更ァ!!」

 

 逃げ込んだ湖ですいすいと泳いで回るコイキングへ、吼えるボスゴドラ。

 その動作を一度で留めると、道端で顔出していた岩石を引っ掴み、投げつける。

 しかしやはり水中、抵抗で投擲の勢いを殺され、折角の質量も無用の長物と化した。

 今度はこっちの番だと言わんばかりに、再び蹴り上げる水面。

 

「馬鹿が! 二度目はくらうか!」

 

 揺れた鏡に溶ける声。学習しないはずがないだろう。構えていたボスゴドラは凄まじい速度で真横に潜り込んできたそれを必然的にキャッチし、機嫌をよくする。だが嬉々として捕えた敵を確認するやいなや、愕然。手中で伸びていたのは水草で。

「まさか尾ひれの力で打ち出したとでも――、くそっ!」気付いたところで、もう遅い。タイミングをずらした二度目の跳躍、それこそがコイキングだった。

 

「“とびはねる”!」

 

 防御行動が間に合わず、まんまともらう第二波。またも頭。

 だがそれだけにはとどまらない。指さす『もう一度』が押し通った。

 

「“たいあたり”!」

「弾き飛ばせ!」

 

 見えているなら。でもそんな見立ては甘い。振りかざした腕が止まると、コイキングは無遠慮に全身で懐へとぶつかった。

 

「!?」

「まだだ、まだ! “たいあたり”! “たいあたり”! “たいあたり”ッ!!」

 

 尚も続いて畳みかけるような猛攻は、まるで止まらない。押し飛ばして潜り、跳ね退けて隠れ、叩き打って泳ぎ――水辺という環境と持ち前の跳躍力を最大限に利用したヒットアンドアウェイが、ボスゴドラの装甲を確実に削ぎ落としていく。

『ゴオオオオオオ!!』たまらず、もう一吼え。

 

「なんだ、何故対応できない……!?」

 

 訝るイツの疑問に、

 

「……そうか、初撃の“とびはねる”か」

「へ?」

 

 観衆の門弟が遠くで答える。

 

「頭に入ったあの一発が、有効だった。外部からの衝撃で脳を揺すって、軽度の神経脱落症状を引き起こしたんだ」

「そうか! “とびはねる”は、そうやって『まひ』状態を見込める技だった……!」

「ああ。だからボスゴドラはあんなにも対応できていないし、よろめいているんだ」

 

 悲しき哉、それは当人に聞こえることはないが、しっかりと正しく答えを出していて。

 

「――“たいあたり”!」

「図に乗るなァァァァァァァ!!」

 

 意気に合わせて浅瀬を殴れど、すり抜ける。へばりつくのは水の重苦しい感触だけ。

 自重が大きいボスゴドラにとって、水中での行動は致命的であった。極端に機動力が落ちるどころか、無に等しくなるためだ。

 それを知りながらに「ここまでおいで」と、コイキングは己だけの領域から憎らしく顔を覗かせ挑発する。

 力で勝てないのなら、状況の有利を作るまで――周りが寝息を立てる中で、ただ一人筆を手に、ひっそり帳面と向き合ったリクの作戦は成功だった。

 

「この野郎、ふざけやがって……!」

「僕は、腰抜けじゃない。コイキングは……弱虫、じゃない!」

 

 人は人と、ポケモンはポケモンと、それぞれ反目し合う。

 

「初めてだ……あいつが、イツと渡り合っているなんて」

「ねえ、あれは本当にリクなのか? まるで別人に見える……」

「わからない。だが」

 

 刹那でちらついた番狂わせに、沸いた観衆。

 ネリネも、仲間達も。瞠目した先に、引っ込み思案で頼りない少年の輪郭はどこにもない。

 代わりに立つのは。

 

「あいつにも相当な決心があることに、間違いないだろう」

 

 とうとう出来ないふりをやめた、門下生の勇ましい姿。

 彼が水際に立ち寄ると、相棒も同じようにして近付き、耳を傾けた。

 

「ごめんね……僕がバトルに慣れてないばっかりに、付け焼き刃の知識しか詰め込めていない作戦だけど」

 

「無理、させちゃってるね」申し訳なさそうに鱗が剥がれたコイキングの体を撫でて、俯く。

 だが掌から返ってくる意志は、冗談のように活気に満ち溢れていて。

 

「へ……――?」

 

 びちびち、と跳ねる身体。ひれが空を叩いて、大暴れ。

 

「……楽しい、の?」

 

 まるで、喜んでいるみたいに。

 コイキングは主人と同じ眼を、していた。同じ顔して、同じ物を見ていた。

 プラスアルファで乗る、己の願望。

 それはどんなに弱虫と後ろ指さされ、身の程知らずと嗤われようと、彼の魂を熱くしていた、何よりの根源。

 彼もまた、ボールの中から流れ星に願っていた。

『恩人のために全力で戦いたい』と。『心行くまで自分を出し切りたい』と。

 

「そっ、か」

 

 そんなコイキングの強靭な決意に、静かに頷く。

 

「うん……わかってる」

 

 一瞥。言葉をなくして思い返すのは、昨夜の誓い。

 あの人が自分の命を背負ってくれたように、自分もあの人の願いを背負っていく。

 明日から前を向いて、背筋伸ばして、真っ直ぐ立って『自分だけの道』を歩いていく。

 後ろ髪を引かれていないと言ったら、きっと嘘になる。だけど。それでも。

 

「……僕は、先生の笑顔を守るんだ」

 

 剥き出しの彼女に触れて震えた心が、確かに出した答えだから。

 

「だからさ……いつまでも、心に残しちゃいけないよね」

 

『彼女のために去る』と、僕はちゃんと言ったから。

 逸らしがちだった視線も、今ではぴったり合う。最早言えないことなんてなくて、何もかもを真っ向から伝えられる。

 

「僕は――継承者になりたい!」

 

 コイキング! 向き直って叫ぶ“たいあたり”が、またもボスゴドラを身じろぎさせる。

 いくら衝撃が入っていようと、与えられる損傷は依然として焼け石に水の状態。しかしそれでも尚、勇敢な緋鯉は割れぬ壁を叩き続けた。打ち壊せる瞬間を夢見て、何度も何度も。

 まるで、天翔ける龍になれる時を待ち望み、滝へと挑み続ける魚のように。

 

「何がお前をそんなにしてるかは知らないが……、もう遅いんだよ! そんな決意!」

 

 イツは青筋を立てながら、次の一手“ステルスロック”を打つ。

 否まず、拒まず、ボスゴドラの体表の装甲が少量、剥離した。粗く生成された鋼鉄製のそれは、生まれもって湛えられた刃じみた鋭さを誇示。

 そして妖しく輝き、巨体の周囲を固めるようにしてぐるぐると回り始めた。

 

「っ、まずい、これじゃ……!」

 

 リクはそれが炸裂する前から、これが何なのかを痛いほどに理解していて。毎度のように仕留められていれば嫌でも覚えるし、嫌な物としても頭に残る。

 射程内に入れば最後、飛び込めば擦り切られ、逃げれば追い撃たれる。意地悪い全自動攻撃装置は、コイキングの手出しを阻むには十分であった。

 沸々と起こる嫌なイメージはそのまま相棒へ待ったをかけ、あまりにも不本意な膠着を呼び出す。

 

「どうした……来いよ! さっきまでの威勢はどこにいった!」

「くっ!」

 

 大きく両手を広げて煽るイツ。対するリクは虚ろを噛み締める様しか返せない。

 最も忌避していた状況が巡ってきて、かつそれに対する策が一切組み立てられていない、そういう顔。

 遠距離から攻撃を加えられる『特殊技』の一つでもあればいいのだが、生憎コイキングというポケモンは『はねる』『たいあたり』『とびはねる』『じたばた』の四種しか、技を覚えてくれない。

 どれも物理的にダメージを与える――つまり対象への接近が大前提となる技。

 この攻撃面のバリエーションの乏しさが、人々に「コイキングは弱い」と言わしめる原因の一端であり、長らくリクを勝利から遠ざけている理由でもあって。

 

「来ないのなら、こっちからいくぞ!」

 

 脳内でどれだけ電気信号を束ねて発したところで、勝負は待ってくれるものではない。

 立てた前腕に三度、立派な角を擦り付けるボスゴドラ。無意味にも思える動作だったが、徐々に黄色の発光が始まり、びりびりと風が震えるうちに、込められた意味を察した。

 推理の的中を確信した時、既に場には苛烈な雷電が満たされていて。

「――ダメだ!!」まずい、いけない。漏らしきれず独白にとどまった言葉を、

 

「“とびはねる”!」

 

 咄嗟の指示で上書きした。

 

「手遅れだ、“10まんボルト”!」

 

 のろま。輝く二本角が、そう嘲った。

 イツの発声と同時に、プラズマ化一歩手前の電気エネルギーがボスゴドラより放たれる。

 それは耳を劈く轟音で大地を揺らすと、読んでいたと言わんばかりに宙に飛び上がったコイキングを容赦なく喰らった。

 バリン。身を焦がさんばかりの高熱が。骨の芯にまで至りかねない衝撃が。水分ごと肉体を焼き討った。

 誰もが圧倒的な閃光の前で、呆然とする。

 

「コイキングーーーーーーっ!!!!」

 

 我先にと我に返ったのは、リク。一瞬で黒に染まってしまい、ただ落ちていくだけの格好になったコイキングへと走っていき、落下地点で受け止める。

 離れていても聞こえた「じゅう」という音は、ダメージの深刻さを伝えるのに一役買った。

 

「あ、っつ……!!!!」

 

 手の皮膚が剥がれ落ちそうなほどの熱が意味するのは、誰が言うまでもない『ひんし』のサインだろう。

「~~~~~~っ」リクは屈んで、灼ける感覚も構わず、ぴくりとも動かなくなった相棒を抱き締めた。

 

「ごめんね…………ごめん……っ!!」

 

 同門らも順繰りに状況の認識が追い付いていき、今しがた齎された“大きな変化”への意味を、理解した。

 

「そうか……ステルスロックは、牽制、か」

「へ……?」

「それそのもので仕留める気はなかった。ただ迂闊な行動を縛り付けて、水中から様子を窺うように、コイキングを誘導したかっただけだ」

「どういう、こと?」

「水は電気を通す。コイキングが飛ばなければ、湖に10まんボルトを撃って感電させていただろう。そして飛べば……こうする気だった。どのみち、ただでは済まなかった」

「イツは、最初から10まんボルトが確実に押し通るような戦況作りを行っていた、ということ?」

 

 無言の肯定。

 そして付け加える「大したやつだ」という賞賛。戦意をどこぞへと迷わせた敵を見据えながら行う、仁王立ちへ向けたもの。

 まさかの奥の手で辺りが騒然とする中、一人の門下生が決着を確信し、急いでネリネへと駆け寄った。

 

「先生、もう終わりました、コイキングを回復させないと……!」

「……いいや」

「!? 先生……!!?」

「もう少しだけ待つ。それで何もないようなら、終わらせよう」

 

 その判断は、誰から聞いても理解に苦しむものであったが、ネリネが指さした方を見れば、誰もが腑に落ちた。

 

「あ……!」

 

 眼下に広がっていたのは、湖。さらにいわば“タマンタ”や“チョンチー”、“テッポウオ”といった、湖に住まうポケモンたちだった。

 継承式などというヒトの都合も知らないで悠々と泳ぐ様子は、緊張さえほぐれてしまいそうになる。

「あたしの教えは?」ネリネが横目で弟子を見やると、

 

「……『世、常々万物在り。とりわけ栄えし人、都度ポケモンが為に死す。故に我ら、ポケモンと共に在り』」

 

 その真意は忽ちに伝わった。

 

「あの“とびはねる”は回避しようとしたんじゃないよ。寧ろ当たりにいったんだ、湖のポケモンたちを巻き込まないためにね」

 

『いつの時代であっても、人とポケモンは手を取り合って共存していく。だからこそお互いを大切に』

 大事な人からの言葉は一つ一つ大切にしているから、一言一句として一度も忘れてはいない。リクはネリネの教えを守って、敢えてコイキングに庇わせたのだ。

 

「ごめんね……」

 

 だから、こんなにも謝罪の言葉を重ねている。服を煤に汚して、火傷に喘ぎながらも抱いている。

 

「僕は、君を身代わりにしちゃった……、君だけに痛い思いをさせた……ダメなトレーナーで、本当にごめん……っ」

 

 ぼろぼろと涙を溢して、歯が軋むほど無力を噛み締める。

 悲嘆に暮れる声が波打ち際に消えていく。

 こうするしかなかった、なんて開き直れれば、もっともっと楽なのだろう。が、少年の甘さではどうにもそれが出来そうにない。

 どうしようもなさに悔やむことを、とてもやめられそうにない。

 

『ゥ……、ウォ』

 

 そんなもの、とっくの昔に知っている。陸上で捨て置かれ、死を待つだけだったところを拾われた時から、ずっと。

 コイキングは残り僅かな体力を振り絞り、べそかく主人の頬を尾ひれで叩いた。瞬間的な挙動に驚く躰から解放されると、再びボスゴドラの前に立ちはだかる。

 リクが手を前に出して止めるよりも先に、口を開くイツ。

 

「焼き魚が……まだやろうっていうのか? 頭にまで焼きが回って、おかしくなっちまったか?」

「ダメだ! これ以上続けたら、死んじゃうよ……!!」

 

 吃驚を隠せなかった。もう勝負はついたようなものなのに、されどぴちぴちと跳ねて戦闘態勢を崩そうとしない。

 弱々しい動作をまったく誤魔化せていないのに、それでも戦意を掴んで離さない。

 

「どうして……! なんでさ!?」

 

 何故だろう。

 

「もういいよ、休んでよ!」

 

 何故、限界を迎えて尚、退こうとしないのだろう。

 

「情けなくていいから! 継承できなくて、いいから!」

 

 何故、頑として、自分の前にどっしりと身を下ろし、消えようとしないのだろう。

 痛いのに。苦しいのに。辛いのに。恐いのに。

 

「なんで――――っ!」

 

 跳ねた一瞬で、ぶつかる視線。心と心が繋がる瞬間。意志が伝わる、その刹那。

 真っ黒に焦げたコイキングの瞳は、煌めいた。

 

「へ……?」

 

 その輝きは、負けに悲しむ涙ではない。まして絶望の証明でもない。

 ひたすら純粋になって、勝利へと貪欲に喰らい付く――純然たる戦士の眼光。

 リクはそれに気付いて、愕然とする。無理もないし、信じがたいだろう。まだ戦いたがっているのだから。

 込められた意志にもはや、継承式や主人という理屈は介在していない。

 ただ心の底から、気の赴くままに、リクと全力の勝負を楽しみ、栄光を勝ち取りたい。それだけのことで。

『まだやめるな』と。自分を救ってくれた、少年へと言っているのだ。

 

「……君は……今が最高なんだね。今の輝きを、まだ……味わっていたいんだね」

 

 甘いだけではない、強くて優しい誇り高い主へと、言っているのだ。

 

「――うん。わかったよ」

 

 ここまで、相棒が望むなら。これまでにないほど、今を欲するのなら。

 リクはくしくしと涙を拭い、大きく息を吸って、抱き締めるように青空を見た。続けて瞳を閉じ、現在の景色を目蓋の裏にしっかり焼き付ける。

 感じる風に声の震えを収めると、平静が訪れた。いつしか戦意は胸に帰ってきて、準備は完了。

 

「行くよ、コイキング」

 

 そうやって、開眼した。

 ――直後に強烈で膨大な光に包まれるとも、知らないで。

 

 

「な――――!!?」

 

 

 眩さは、突然生まれたものだった。

 誰一人として、このコイキングから発される白光を予見できなかった。

 

「ぬうおぉお!? まぶし……ッ!」

「なんだ、この光……!!?」

「……ほう」

 

 皆一様に同じ面をしているのが、その証だろう。

 となれば、真っ先に気付くのは誰か――という話になるのだが。

「まさか、ねえ」ネリネであった。多くは語らずとも、腕を組んで覗かせる満足だけでいい。あとは要らない。

 凄まじいエネルギーが空気を揺らして、すぐ傍、唯一人で直視するリクの前髪を揺らした。

 弾けるような活力が沸いて、心を焦がすような熱さが魂を目覚めさせる。

 不思議な感覚だった。初めての体験のはずなのに、彼はこれが何なのかを知っている。

 見たことと、聞いたこと。望み、思い。触れたもの、触れてるもの。

 別のところから沢山のものが流れ込んで一つになる、この溢れんばかりの温かさは。

 

「これ――『道』、だ」

「立派になったもんだよ、まったく」

 

 先生が、よく教えてくれていたものだ。

 次に視界が晴れた時。それ即ち、コイキングが『進化』を迎えた時。

 各々が逸らしていた目を向けた場所には、

 

『ギャシャーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!』

 

 露草色の龍“ギャラドス”が立っていた。

 

「進化した……」

「ふむ……上出来だ」

 

 イーノは薄ら笑いを扇子に隠し、その急激な展開の仕組みを密かに紐解いた。

 今まで叶わなかった“盟友との共闘”という経験が、『勝ちたい』と願う魂に乗り、コイキングをさらなるステップへと昇華させたのだ。

 肉体を蝕んでいた漆黒はどこかへと消失し、体長は六倍以上にまで伸びた。高い天に向かって勇猛な鳴き声を上げる姿には、進化前の面影などまるきりなくて。

 

「すごいや……やっぱり君は、弱虫なんかじゃない」

 

 けれども見上げているリクだけは、彼が未だ変わらぬままでいる自分の相棒だと、認識できた。

 

「最強で最高な、僕の仲間だ」

 

 だって、そうだ。自分の全部を背負ってくれる、この逞しい背中は――紛れもない、僕の親友だ。

 

「悪あがきを……ッ!!」

「ギャラドスッ!」

「!?」

 

 イツは再びボスゴドラに“10まんボルト”を放たせる。

 でも、飲み込めない。ギャラドスは飛龍よろしく天翔ける動作を以て、そう言った。

 同じ“とびはねる”でも、コイキングの頃よりもうんと高くまで空を昇る。襲ってきた電撃どころか、視認せんとする観衆の意識さえ置き去りにし、咆哮連れて急速落下。

 迎撃に仰いだ眼を咎めるのは、主の思いごと背負った太陽で。

 

「“とびはねる”だあああああああああああああっ!!」

『ギャシャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!』

 

 叩き出された威力も、コイキングの頃の比ではなかった。

 七メートルにも及ぶ巨体は、たやすくボスゴドラを吹き飛ばす。

 ズドン。割れそうなほどの地響きで挨拶を済ませると、主の隣でとぐろを巻いて、今一度立ち上がる相手を見据えた。

 

「イツ……誰かを害するための強さだって、先生は望んでないはずだ。そうでしょ」

「黙れッ! 知ったようなことを、好き勝手言うな!!」

「嫌だ。好き勝手に言ってでも、僕は君を止める。家族が道を踏み外すことを、防ぐ」

 

 そして。

 

「先生のために――――――僕は、君に勝つ!!」

 

 彼の覚悟を聞き届けた後、全てを抱え、真っ直ぐに突っ込んでいった。

 

 

 

 これまでの自分が経てきた総てを解き放って、ぶつかった。

 包み隠さぬ本音も、今まで抱いていた考えも。仲間への言葉だって忘れない。

 全力とは、こういうものなのだろう。何もかもを出し切って、継承式は終わりを迎えた。

 

「そこまで。勝者――イツ」

 

 最後まで立っていたのは、自分ではなかった。

 俯せから望めた視界で、イツとボスゴドラの健在を確認し、リクはゆっくりと仰向けになる。

「リク!」「大丈夫?」「おい、生きてるか!?」くたくたで倒れる少年へと歩み寄る、門弟たち。

 進化の際にいくらか回復が出来ても、やはり10まんボルトの手傷は後引く根深いもので。ギャラドスの蓄積ダメージは、彼が激闘を制することを良しとしてくれなかった。

 

「リク、凄かったぞ。よくやった」

「イツと渡り合ってるところ、かっこよかったよ」

「俺、感動しちゃったよ……! ところで生きてる?」

「もう、生きてるってば」

 

 前髪で目隠しして、ふうー、と長く息を吐いた。いくら口先を尖らせようと、天には届かない。

 

「……ふふっ」

 

 それをわかっていても、彼は満たされていた。

 届かなかった手。尚も届かない手。けれどもささやかに笑って、ずっと高い遠くへ伸ばす。

 

「心に従うっていうのは……こんなに気持ちがいいんだ、ね」

 

 泳ぐ雲が、どうしようもなく愛しく見えた。

 撫でる風に首を従わせて、隣で横たわる龍を優しく撫でて。

 

「ギャラドス……、ありがとう」

 

 と言った。

 最大級の感謝を込めて、彼と出会えた幸せを喜んで。

 負けこそしても、知らない世界へと至れたリクにとって、今日という日は何にも代え難い財産となった。

 イツを止められなかったことは、少しだけ心残りではあるのだけれど……また強くなって挑もうと思った。その日を夢見た。

 同輩らの過剰とも言える賞賛まじりの手助けで起こされると、歩み寄ってくるネリネ。何も言わず、アイテム『げんきのかけら』を手渡してくれた。まずは相棒を回復させろ、ということなのだろう。イツの手中にも『かいふくのくすり』があった。

 

「それじゃあ、二人とも並びな。ストーンを渡す継承と閉式の儀を済ませて、終わるよ」

 

 受け取ったのを確認すると、ようやく開口する。

 そこからは早い。二人がそれぞれのボールにポケモンを戻し、その間にネリネはマスタ―タワーの内部まで『メガストーン』と『メガリング』を取りに行って。

 

「大見得切ったはいいけど、また明日からもよろしくな、リク」

「やめてよ、恥ずかしいなぁ……」

「明日からは、次期ネリネ一門最強を目指すのかい?」

「……わからない。次に、どうするかは」

 

 リクは待っている暇で、仲間達と談笑する。渚の音に紛れて隣のイツにも声掛けてみたが、彼は言葉どころか視線の一つすら返してくれなかった。

 彼をいつか憎しみから解放する――そんな目標を、当面のものとして密かに固める。

 そうこうしている内にネリネが戻ってきて、

 

「それじゃ、これより――継承の儀を執り行う」

 

 彼ら二人の前で、差し出した金属の箱を開いて見せた。

 中で虹色の石が輝くと、いよいよ継承の始まりだ。

 

「イツ、リク。お前たちの研鑽の成果、演武を通して存分に見せてもらった。まずは、お疲れ様」

 

 師が簡単な声掛けをする。いつも通り。

 

「どっちからも、胸の中に抱えていたものがひしひしと伝わってきたし、嘘偽りのない本当の気持ち――“本気”が見えた」

 

 次に箱を持ったまま、継承の証を手渡すためにさらに近づく。従来通り。

 

「どちらにも渡したいけれどもさ。一つしかないから、決めるね」

 

 最後に、自分の隣でイツが祝福を受ける。今まで通り。

 

「――――継承おめでとう、リク」

 

 そんなことを、思っていた。

 

「……へ?」

 

 故に拍手の準備を進めていた手はたいそう驚いて、がぐりと下に落ちたという。

 どよめきは一瞬にして広がった。驚きが添えられているのは言わずもがな。

 中でもとりわけ仰天の色が濃いのは、唖然とするイツとリク。

『まるで意味がわからない』どちらの表情も、如実にそれを語っている。

 

「は? ……何故、ですか? なんで俺じゃないんですか?!」

「イツ、あんたは確かに優れていたさね。作戦の組み立て、ポケモンとの意思疎通、基礎的な育成、バトルセンス……何を取っても申し分なかった。でもね」

「だったら! それを俺に渡してくださいよ! 継承者に相応しい器は、どう見たって俺でしょう!?」

 

 遮られても咎めず、しっかりと聞き届けてからする返事は、正気な判断力の表われで。

 

「リクが僅差で上回っていた。あたしらの都合だけで周りを巻き込まない優しさも、ポケモンを信じて立ち向かい続ける強さも――全部リクが見せてくれたものだ」

「そんなもの、屁理屈だッ……!」

「いいや。あたしは最初から『人とポケモンの未来をより深く見せてくれた方』を継承者にすると言っていたはずだよ。勝てばいいだなんて、一度も話した覚えはないさね」

「く……、~~~~~~~~ッ!」

 

「あんたは強い。けど、強いだけだ」締められる拳と歯を、視界から外した。次に向くのは、未だ目を白黒させて狼狽を続ける、優しい方の弟子。

 

「せ、先生、ぼ、ぼく、ぼくは……」

「リク」

 

 おぼつかない言の葉の向こうから、微笑みかけてやる。

 

「でかくなったね」

 

 誇りの弟子だ、と短く褒めてやった。

 

「……ふぁい」

 

 それだけあれば、十分だった。

 己の栄達を諦めてでも、教えを守ったのだから――師としてこんなに嬉しいことはないだろう。

 

「もう、なーくーな」

「泣゛い゛て゛ま゛せ゛ん゛」

 

 リクは図らずも涙腺を決壊させてしまい、目から滝のように水を流した。ぐすんぐすん、と鼻水を啜りながら、メガリングの受け取りも忘れて嬉し泣きを繰り返す。

 

「ったく、成長したかと思えばすぐこれなんだからね。本当にしょうがない子だ」

 

 ネリネもまた、押さえきれなかった独白を溢す。

 

 

「先生、後ろ!!」

 

 

 その瞬間のことだ。

 ボスゴドラが、背後からネリネへと殴り掛かっていたのは。

 

「せんせ……ッ!」

 

 予期していたかのように、刹那で顕現したガルーラが拳を止めて、事なきを得る。

 そうしてリクの震える声は響き渡る寸前に消え失せて。

 

「おいイツ、お前冗談だろ!?」

「ちょっと、落ち着いてよ……!」

「イツ……何のつもりだい」

 

 押し止める巨体の向こう側から覗く瞳には、確実な敵意が充満していた。

 

「先生が、いけないんですよ……間違った判断をするから……!」

「師に牙を剥いといて、どの口が言うのかね」

 

 茶色の巨躯が、留守だった方の手で白銀の怪獣を一発殴る。すると怪獣も空いていた手を潜らせガード、最低限の衝撃のみで損害を食い止めた。しかし勢いばかりは殺しきれなかったので、ノックバックだけは甘んじて受け入れる。

 結果として生まれる距離が、一時的に与える休息。

 それはあるところで弟子を呼び、

 

「先生、どうしよう……!」

「あんた達は安全なところへ隠れてな」

「でも、さっきの“げんきのかけら”でギャラドスは動けます……!」

「あたしが弟子に負かされるとでも思うのかい?」

「! ……いえ」

「だったら決まりだ。バカ弟子とっちめるのは、師匠の役目ってもんさね」

 

 またあるところでは、教え子をさらなる過ちへと誘った。

 血の色にも似た、光沢あるレッドのメガリング――――それは当然ネリネが与り知るものではない。

 

「あんた、それ……!」

「強さの何が悪いんですか? いいでしょう? それさえあれば、世界なんていくらでも変えられるんだから……!」

 

 イツは澱んだ希望を手首に装着し、今一度従者共々師と相対する。

「……なるほどね」さすがの彼女もその凶行には驚いて、悟った後には静かな怒りを顕にした。

 

「あたしは言ったよ、命の保証はしないってね」

「ひいぃい!!」

「そこを動くなよ。覚えときな」

 

 石職人が心臓突き刺すような睥睨から、逃げる。行き先はやはり隣の女の背中で。

 

「小娘、そう目くじらを立てるでないわ。これからが愉しみであろうにな?」

「ぬかしな、この阿婆擦れ」

 

 代理ことイーノの返しに、舌を打った。

 弟子全員が物陰に隠れたのを確認して、向き直る。そうして取られた構えは、忽ち相方の闘争心を引き出して、逸らせた。

 

「唆されたのかい……だめな弟子だ」

「まだ認められないってんなら……、いい。俺はこの力を使いこなし、あなたを超えていく」

 

 思わず長引く継承式に、暗雲が立ち込める。

 

「そうして本当の強さを証明して、自ら継承者の座を勝ち取ってやる!」

 

 その雲行きは、彼らをどこへと運ぶのだろう。



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05.サザンカ

 二人と二匹が、睨み合っていた。

 唸り声が水面を不穏に揺らす。悪意が怪しげな風を呼び出して、陽を翳らせる。

 子供が放つ岩陰からの視線を一手に受けながら交錯する言葉は、今なお積み重なっていく。

 

「イツ、もう一回だけ訊くよ。あんたはそんな紛い物で満足する気かい?」

「紛い物が本物を打倒する……これ以上に力を示せる場面がありますか?」

「ちゃんと本物だって、認めてくれてるんだね。嬉しいよ」

「だからこそ、あなたの考えには落胆した……嘆かわしいし、とても残念だ!」

 

 言い切りの語調を強めて、左手首のリングを右手で包み込んだ。

 

「我が矛となりて、悉くを打ち砕け――メガシンカ!!」

 

 すると、指の隙間から漏れ出る輝き。それは浴びた者の目を覚まし、繭を作って、その存在を輪郭ごと閉じ込めた。

 そうして完成した虹色の卵は、敵意を明確に映し出す工程を経て孵る。

 眩さで目を覆うと同時に、弾け飛んだ殻。重く響く産声が、立ち会う人々の耳を劈いた。

 空気が巻き上がる。

 

『ドルァアアアアアアアアアアアアッ!!!!』

 

 終いに鋼の上から着込む(しろがね)が目指すのは、要塞か――ボスゴドラは全身に更なる鎧を纏って、メガボスゴドラに生まれ変わった。

 

「おお……!!」

 

 頭上に浮かんで消える二重螺旋の模様は、紛う事なきメガシンカ成功の証左。それを確認し、石職人は興奮で声を大にする。

「成功だ……やはり奇跡の模倣は、可能だったのだ! 素晴らしい!」そんな喧しさを尻目に、イーノは眉一つ動かすことなく、静かにそれを見ていた。

 

「(種を撒き、水もやった。十分な光もある。さて……ここからだ。主は何を見せてくれる?)」

 

 どんな色の、香りの花を咲かせる? 内心で唱える。

 

「最初で最後の反抗期、か」

 

 相対するネリネもまた、虹色の光を開放した。

 二つの髪留めから伸びる、絆を表すかのような極彩色の糸が、先ほどと同じようにポケモンを包んで繭を編み込む。

「おしおきだね」木霊する瞬間の発散、覚醒。

 

「いいよ。あたしは親として初めての、あんたは子として終わりの。そんな親子喧嘩を始めようじゃないか」

 

 袋から出てきた子供が成長すると、ガルーラという名は大小二体の勇姿を指すものへと早変わり。

 

「俺に親なんて要りませんよ、先生。一人で生きていけるから」

 

 睨み合いも、ほどほどに。

 

「そのために――俺はずっと、ここで鍛えてきたんだ!!」

 

 そう言わんばかりに吠え立て、地を殴った。

 ばふん。砂煙が舞う。叩き起こされて火急的に顔出した地盤を持ち上げ、叫ぶボスゴドラ。それは投擲の予備動作で。

 

「“シャドーボール”!」

 

 飛んでくる出鱈目なサイズの土塊を、親子して放つ影の砲弾にて破壊する。

『グラアアアアアアアアアアアッ!!』『ゴオオオオオオオオオオオオオッ!!』

 砕け散って次々と降ってくる攻撃の残骸も厭わず、両者は前進、勢いのままに組み合った。

 ぎりぎりと緊張を固めていく競り合い。最中に親ガルーラは片目の開きを甘くし、引き替えに歯を食い縛った。

 ぐらつく片足でわかる、力負け。メガシンカでより質量を増したボスゴドラ相手に、真正面からの力押しは苦しいものがあった。

「行きな!」状態を知ったネリネが爪先で足場を叩くと、子ガルーラが親の背中目掛けて猛ダッシュ。親の尻尾というジャンプ台に高く打ち上げられると、鮮やかにボスゴドラの上を取った。

 

「“グロウパンチ”!」

 

 仰ぐ視線と下る視線が重なった瞬間、ボスゴドラの頭に凄まじい衝撃が走る。

 はがねタイプにとっては文字通りの大打撃となる、かくとうタイプの技が炸裂――。

 

「な……!」

 

 したはずなのだが、ボスゴドラはびくともしなかった。

 ばかりか、親を変わらぬ力で黙らせたまま、すぐ傍で着地した子ガルーラへ尻尾の反撃を浴びせて見せた。

『がるるーっ!』野太い一発に殴られ、吹き飛ぶ。

 

「こいつの“フィルター”という特性を知ってますか、先生」

 

 イツは起き上がる子ガルーラへの目くばせを、束の間のものにした。

 

「不利な相性の技をくらった際、そのダメージを軽減する……原種では『バリヤード』系列のポケモン、つまり二種しか保有していない稀少な特性です」

「だからか……」

 

 素での耐久値に加えて、装甲に成されたその仕掛け。要塞の堅牢さをも凌ぐ圧倒的な防御力は、彼を構成するその何もかもが、ただそれだけのためにあるからに他ならない。

 さしずめ最強の盾。メガボスゴドラは、守ることに力の全てを回したのだ。

 

「でも、こっちは負けてやる気が毛ほどもなくてね!」

 

 しかし、ネリネは怯まない。腐らぬ表情が指示するは、シャドーボール。

 至近の口元でチャージが始まる闇色のエネルギーは、

 

「“10まんボルト”!」

 

 ボスゴドラからも次の行動を引き出して。

 巨大化した二本角に、苛烈な電気が溜まる。ビリビリと黄色く爆ぜるそれは、今にも獲物を焼き切りそう。

 だが、それは叶わない。

 

『いけ!!』

 

 何故ならば、相殺の意図が込められているから。

 二つの声が同時に上がってから放たれる、それぞれの技。両者はごくごく短い時間ながら濃密に絡み合って、双方を食い潰し合った。

 寂しく残る爆音と煙だけが、二体を次なる展開へと連れていく。

 ふりだしという、展開へ。

 

「メガシンカしても、対等か……」

「言っとくけど、あたしに勝てる日はまだまだ先さね。ちょっぴり気が早かったね」

「ああ、さすが先生だ」

 

 奔る衝撃に引き剥がされ、戻ってくる反目。

 

「俺は、今でもあなたを尊敬している。いや……その強さに憧れなかった日など、ない」

「そうかい、そりゃどうも」

「だが強さは時として周りを見えなくする。間違いを起こさせる」

 

「今の、あなたのように!」付け足す言葉が、それに伴う手が、今一度ボスゴドラを奔らせた。どうにも休憩に甘えるつもりはないらしい。

 

「故に俺は弟子として、あなたの過ちを正します」

「どうも、あんたは人の台詞を取るのが好きらしいね」

 

 爪先で二度地を打つのは、親への指示。

 肯う親が子を掴んで構えると、その場で一歩踏み込んだ。どしん、と音立てる足はそのまま着いた地面を抉って、腕の力を強める手伝いをする。

 そのまま雄叫びと共に上げた肩を思いきりスイング、そうして子供がぶん投げられた。

 幾層もの空気の膜をぶち破って飛んでいく先は、真正面の鎧の怪獣だ。

 

「かかったな!」

 

 急制動からの“ステルスロック”は、子ガルーラの先行を呼んでの事。

 目の前に散らした装甲の欠片は、一度通るだけで肉を削り落とす鑢の壁へと変容し、突っ込んでくる餌に向かって待ち遠しそうに口を開ける。

 

「“ふぶき”!」

 

 そんなこと、親が許さない。後方からの援護射撃が絶大な効果を発揮するのは、イツにしても予想外で。

 そもそも子供への命中を巧みに避けてその雪風を通すなど、まったく想像だにしていなくて。

 びゅおお、と鳴る音が続けざまに連れてくるのは、金属片がびきびきと悲鳴を上げながら凍結していく光景。子が至った頃には、薄氷みたいに砕け散った。

 ステルスロックの果てで振るうグロウパンチは、ボスゴドラのどてっぱらへ一直線。

 

「やるかよ!!」

 

 いくら運動エネルギーを味方に付けていると言っても、まだ力関係は覆らない。ボスゴドラは当てがう拳で子供を弾き飛ばして、事実を知らしめる。

 再び開いた距離。体勢を崩したところで10まんボルトを――。

 

「っ!!?」

 

 イツの独白を瞬時に吹き飛ばすものが、そこにはあった。

 地面にぶつかる予定だった子を、滑り込みでがしりと受け止める影があった。

 

「あたしの教えってのは、こういうもんだよ」

「馬鹿な……!?」

 

 ネリネだった。

 一瞬でもタイミングを見誤れば、ボスゴドラの雷に焼かれる。そんな危険を冒して行う懐へのスライディング――。

 あまりにも奇特な奇襲に、目を見開いて呆然とした。

「次は、どうだろうねえ!」見上げる師が不敵に笑って、子ガルーラをボールよろしく投げ上げた。

 取り直す意識。まずい、防御を。ダメだ。間に合わな

 

「――“グロウパンチ”!!」

 

 い。

 真下からの、突き抜けるような特攻。二つの段階を経て上昇した攻撃力は、未だ押し合いを制するには足らないが、大半の生物に共通する急所『喉』を脅かすには十二分な強さで。

 かち上げる拳が、悲鳴を引きずり出した。

 

「こんな、こんなふざけた真似が……ッ!!」

「おふざけじゃない!」

「!!」

 

 今だけは、震える声を否定する。心を鬼にする。許せとは言わない。

 子が道を逸れていく前に、本来の教えを説いてやらねばならないから。導いてやらねばならないから。

 

「これが、ネリネ流さね!!」

 

 ――それが、親の責任だから。

 身を起こした師の頭上を、飛び越えていく巨体。メガガルーラの親の方。

 彼女は道の先から送られてくる、そんな母の思いを乗せ、ありったけの力で「目を覚ませ」とボスゴドラを殴った。

 オーラを纏った拳が、アッパーでひっくり返りかけの巨躯をさらにふっ飛ばす。すると砂の道に深い一本線が引かれて、続く茶の煙が惜しげもなくそれをなぞった。

 そうやってある程度の距離を転げた後、怪獣は白目を剥いて起き上がらなくなった。

 

「ボスゴドラ!」

「イツ、もういいだろう。あんたの負けだよ」

「ぐっ……!」

 

 どんなに愚かしい真似をしても、眼前に広がる現状が何を意味しているのか、それを理解出来ないほど馬鹿にはなれなかった。

 尻についた汚れを払い、イツを見据えるネリネ。でも発した言葉は、耳まで届いていないように思えた。

 何故なら当の少年は真横で伸びる相棒へ呼びかけ、

 

「おい、起きろ! お前はこんなもんじゃないだろ!? 負け続けて終わるような、そんな奴じゃないだろ!?」

 

 今なお戦わせようとしているのだから。

 端的に言えば、諦めが悪い。されど咎めず待つのは、彼女なりの温情か。

 けれども現実は酷なもので、何度発破をかけても、叩いても揺すっても、立てないものは立てなくて。

 

「クソ! なんで……なんでだよ……ッ…………、俺の方が正しいのに……!」

 

 であっても、並べられる負け惜しみ。振り向く彼の瞳には、悔し涙が滲んでいた。

 

「……帰るよ。そのにせもんを渡しな」

「俺はっ――、メガシンカを、扱えた。完璧に使いこなしてた」

 

 震える声が遮って、ぶつ切りの言葉が遠ざける。

 

「力が……継承者としての資格が、あるんですよ!」

 

 ネリネはとうとう不動でいることをやめた。決して弟子の言い訳が見苦しくなったのではない。

 寧ろ逆で、彼の名誉を損なってやりたくなかったから。聞き分けのない子供が如き惨めさを、これ以上曝させたくなかったから。

 

「だってそうでしょう? 俺は強いんだ……この力で、俺を否定した奴ら全部、全部ぶち壊してやるんだ」

 

 だから。

 

「だから、さぁ」

 

 歩み寄った。

 

「こんなところで立ち止まる訳には――いかないんだよォォォォォォォォォォォォォォォッ!!」

 

「!?」足が止まったのは、その叫びが上がった瞬間のこと。

 異常――僅かな時間で判断するには、それ以外の表現が思いつかなかった。

 距離を取り、全貌を知る。イツのメガリングから、ねばつく泥のような、どす黒い波導が放たれたのだ。

 触れる者を侵して壊してしまいそうな、そんな身の毛もよだつ嫌な『気』を携えたそれは忽ちに広がって、ボスゴドラを飲み込んだ。

 浴びれば悪寒が走り、鳥肌さえ立つ風。漆黒の余波が場にいる人々の心情を不穏で埋め尽くす。

 一人見上げるネリネはこれが何かを知っていた。希望と紙一重にある絶望の奇跡を、わかっていた。

 イツを継承者に選ばなかった最大の理由であり、最も恐れていたこと。

 

「だからあたしは、あんたを継承者にしなかったんだよ」

 

 暴走だ。

 師の呟きも虚しく、弟子の従者は変質を始める。

 めきめき。およそ生体から出ない異質な音を立てながら、歪んでいく輪郭。呻きが痛々しくなると、二本だった角が四本に増える。さらに巨大化する体は立ち上がり、背面から化物のような棘を幾つも生やしてやった後、いよいよ持ち主の理性を喰い殺した。

 

『ラ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』

 

 メガボスゴドラ第二形態の声は、濁っていた。

 雨が降る――――空の鈍色が、摂理に抗って叫ぶ赤目の怪物の禍々しさに慄き、涙を流す。

 

「止めるよ、ガルーラ!」

『ガァルァァァァァァァァァァッ!!』『がるがるがああああう!!』

 

 体格が倍以上にもなろうと怯まない。いや、きっと怯んではいけない。

 ネリネが強い意志を宿して手を前に出すと、揃って猛進していく大小の獣。

 まだ勝算は組み立てられる。グロウパンチで上げた“こうげき”の貯金は、未だ活きている。

 

「“10まんボルト”」

 

 一瞬の一言は、詠唱になった。

 

「……――っ!!」

 

 親子を瀕死にする魔法の、詠唱に。

 一度の放電で、あらゆる状況を鑑みた勝利への算段を瓦解させる様は、まるで赤子の手を捻るようで。

 悪意ある落雷によりガルーラが停止、伴う立場の逆転。主が駆け寄った先で、相棒はただ意識を失っていた。

 

「あんた……!」

「……ふふ、へへへっ。ははは! はははははは!!」

 

 それを視認するため上がったイツの面は、口辺に大きな三日月を形作っていた。

 交わって望む見開いた双眸が、すっかりぎらつく憎悪に歪む。

 この期に及んで、少年は誰かを傷付けようとしていた。その怨嗟を、解き放っていた。両手を開いて、取り違えた力を嬉々として誇示していた。

 

「どうですか、先生! これが俺の積み重ねの結果ですよ! 心道塾で鍛え続けた――世界を焼き払う最強の力だ!」

「イツ、いい加減にしなよ……それ以上間違えると、あんたは帰ってこれなくなる!」

「構うものかよ。俺は今までずっと、このために生きていたんだ。この時のために、このどうしようもない命を取っておいたんだ!」

 

「俺は復讐のために! この地獄を耐えてきたんだッ!」絶叫にも似た咆哮と共に上がる、少年の呪詛。

 それは先生の教えも。皆と過ごした時間も。命という言葉の意味でさえ、真黒くぐちゃぐちゃに塗り潰す。

 

「何もかも、悉く、森羅万象を、全てバラバラにしてやる! 滅茶苦茶にしてやる! 叩いて! 壊して! 踏んで潰して引き千切って――火を付けて! 跡形もなくなるほどに消し去ってやる!!」

 

 これが、イツの腹の底。でろでろと吐き出された、誰も触れざるおぞましい本音。

 いくら天からの雫が滂沱として降り注いでも、洗い流せそうにない。ただ淡々と、人の熱を奪い去っていくだけだ。

 何度優しく語り掛けたって――彼は、変われなかった。

 

「イツ、止まれ。見るに堪えん……もう十分だろう」

「そうだよ、やめよう。こんなの何の意味もないよ……!」

「ああ? なんだ、お前ら。まさかこの俺とやる気か?」

 

 雨音が激化する頃、見兼ねた弟子らも加わった。

 

「ばか、危険だから隠れてろって言ったろう!」

「ごめんなさい先生。でも私たちもほっとけないよ。だって……一緒に育ってきた、家族だから」

 

 次々とネリネの前に、ボールから解放されたポケモンが立ち上がっていく。

 

「家族だ、仲間だ、友だ……どいつもこいつも、そればっかりだな。仲良しこよしのぬるま湯に浸かって、この残酷な世界から受けた仕打ちすら忘れちまった甘ったれの雑魚共が。……いいよ、ぶっ潰してやるよ。何もかも」

 

 イツは、情緒を失っていた。

 前に立つものは何もかもが障害で、討つべき敵で。壊してやらねば気が済まないし、踏み潰さなければ心が晴れない。そうすることでしか、自分を保てない。

 人である事実の、形骸化。破壊衝動に身を任せる、本当の怪物。

 

「やれ、ボスゴドラ」

 

 だからだろう。それ故だろう。

 

「いわなだ――」

 

 彼が主へと、岩を投げたのは。

 

「――……は?」

 

 自然の砲弾が、自分の真横の地面を穿った。イツが状況を認知できたのは、実に事が起こってから数秒後のことで。

 衝撃に揺らいで、呆然とする。それほどまでに想定外だったから。

 

「……おい……何、してる……?」

 

 振り向くボスゴドラの紅蓮の瞳は、同じ色の惨状を求めていた。

 そこに誰がどうなるかなんて、そんな意識は介在していない。たとえ、主人であろうとも。

 唸られて、イツはようやく気付く。

 自分の傍に、ポケモンなどいなかったと。絆などなかったと。

 

「あ…………」

 

 あったのは――ただ主のあり余る凄まじい憎しみを肩代わりし、見える全てを滅ぼさんと暴れ狂うだけの、復讐鬼だったと。

 

「っ、飲まれた(・・・・)か、言わんこっちゃない……!!」

 

「あんたたち、急いで離れな!」ネリネが至急の大声で避難を促しても、時すでに遅し。

 完全に人の声を遮断したボスゴドラは勝手に動き出し、手当たり次第に向き直った景色の破壊を始めた。

 

「きゃああああああっ!」

「フウカ!!」

 

 勢いよく散らした、手始めのステルスロック。それは逃げるために背を向けた塾生の一人を、ボロボロになるまで傷付ける。

 

「マスタータワーに避難するよ!」

 

 その娘を抱き抱えて、門弟らと共に走るネリネ。

 肩越しに見上げた空に、雨粒よりもうんと大きな岩石が沢山飛んでいた。ボスゴドラが力任せに投げ放つ、引きずり出した地盤であった。

 それを悟ると、立ち止まる。

 

「先生?」

「ゴウ、フウカを頼めるかい。リクはマスタータワーの中にある“げんきのかけら”を取ってきておくれ」

「先生は、何を……!」

「あいつの注意を引く。こんなのがシャラの町中に出てごらんね……一大事だよ」

「無茶です! あんなのを一人で止めるなんて!」

「大丈夫だよ。ガルーラが回復すれば、まだ戦えるさね」

 

 それに、と付け加えてから、

 

「まだ、イツが逃げられてないだろ!」

 

 ただ一人、地響き止まぬ地獄絵図へと向かって走り出した。

 

「先生ダメだ、待って!!」

 

 

 

 石職人は、戸惑っていた。この惨状の何一つとして、計算になかったからだ。

 彼は純粋だった。ただ廃れ気味だった己の工房を立て直そうと、客から提案された新たな試みを行っただけ。

 それなのに。ただそれだけ、なのに。

 

「何故だ…………どうして……こんな……」

 

 立ち尽くすのは、彼もまた一緒であった。

 

「狂い咲きよな。ふむ……、ほんに好い眺めじゃ」

「貴様……ッ! こうなることを知っていたのか!? 知った上で、私にッ、このようなことを!!」

 

 たまらず八つ当たるようにして、イーノに詰め寄る男。

 物凄い形相だったが、イーノは上目でそれを嘲って、涼し気に言葉を返した。

 

「何故、支配できると思った?」

「なんだと……!!?」

「“これ”は人には過ぎたる力よ――――先人共が永い歴史の中で何度も、何度も究め、手中にせんと迫ってはしくじってきたもの。だのに、どうして何でもない一介の職人風情が、完全にモノに出来ると思った?」

「……ならば、お前は……、最初から……」

「少しその頭を回せば、判ろうになぁ」

 

 そうやって露になる、心の底から愉悦を享受する笑みは、これまでに見せていた薄ら笑いの比ではなかった。

 相好に乗る魔物のような本性、文字通りの“魔性”は、人のものであるかすら怪しくて。

 やがてそれに夢をへし折られた男は、放心状態のままどこぞへと消えていく。

「邪魔が消えた。さあ、どうなることやら」独り言を連なる轟音に紛れさせ望むは、肩を落として失意に暮れる少年。

 

「おい……、止まれよ……」

 

 ぽっかりと虚無だけが残る瞳は、瞬きの仕方さえ忘れてしまった。

 

「……なんで……言うこと、聞けよ……」

 

 自分は、こんな怪物を生み出したかったのではない。

 こんな、自分ですら御しきれない空っぽな存在を、育てていたのではない。

 

「俺は……」

 

 ただ、強くなりたくて――。

 次々に落ちてくる岩。歩くための道も、繋がるための道も、とっくに形を成していなかった。

 穿たれて荒れる湖上で、ポケモンが力無く浮いていた。足跡だけが残って、何もかもが蹂躙されていく。

 されどイツはひたすら無力に、相棒だった何かの背を仰ぐことしか出来なくて。

 

「俺、は……」

 

 凶獣が、かつて主だった者の譫言へと、振り返った。

 狂気に取って食われた自我に、苦楽と感情を共にした同胞を知る術はない。

 ただ一つ覚えに大岩を構えて、投げることしか出来ない。

 

「……お前の……」

 

 迸る敵愾心は、最終的に“いわなだれ”という形で放たれた。

 避けなきゃ。理屈ではいくら分かっていても、絶望に蝕まれた体は指一本も動かなくて。

 見上げるうちに、立ち尽くす間に、全身から力が抜けていく。

 迫る灰の塊。言語力が霧散していく。意識がぼやけていく。視界が遠のいていく。

 俺は。

 オレは。

 おれは。

 

「――――――――っ!!!!」

「へ……?」

 

 温かい掌が、刹那の中で少年を突き飛ばした。

 広くなる視野は、我に返る明確な証。時の流れが遅くなって、景色の変化をよりよく認識させてくれる。

 その手の熱は、自分が今までに感じてきたもの。

 今、目の前にいるその人の微笑みは――自分が今までに、知らず知らずで癒されてきたもの。

 

「――せん」

 

 ズドン。咄嗟の発声を、衝撃の波がかき消した。

 追いかけてきたリクが足を止める時。即ち、塵煙が晴れる時。

 

「先生ぇぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」

 

 ――ネリネは俯せで、岩に押し潰されていた。

 平常心を司る思考が焼き切れ、言葉を失ったまま駆け寄るリク。

 腹から下がその鉱物に覆い隠され、全く見えない。

 

「あ、あ、ああ! ああああ!! うあああああああっ!!」

 

 声が裏返った。隙間からべっとりとした赤黒の体液が広がると、リクはショックでかきむしった頭を抱える。流れる涙に気を配る余裕さえなくして。

 だんだんと呼吸すらおぼつかなくなる少年の傍らで、しりもち付いたまま絶句する、庇われたもう一人の少年。

 ぴくりとも動かない姿と、一言も発されない口を確かめるごとに、脳みそがパニックに満たされていく。

 冷静さなど、とうに無くなっていた。そんなことも知らないで、ボスゴドラは次の一撃を三人目掛けて投げ撃った。

 

「“ぼうふう”!」

 

 突如現れたピジョットが巨大な弾丸の軌道を逸らす。駆け付けた兄弟子のものであった。

 

「……!!」

「イツ、リク! 一旦避難しろ、先生をマスタータワーまで運ぶ!」

「ここは俺達でなんとかするから、手当てだ! 早くしろ!」

 

 他の兄弟子らも駆けつけ、それぞれのポケモンでボスゴドラを相手取る。うち一匹のルカリオが大岩をどかすとネリネは解放、その勢いのまま見るに堪えない彼女の肉体を担ぎ上げ、マスタータワーへと走った。

 伴う少年二人の表情は、死人のそれであった。

 

 

 

 ――骨が粉々に砕けて、内臓が潰れて。腹部より下が、丸ごと損傷していた。

 医者は歩いて一時間の場所にあって、治癒を得意とするポケモンは周りに一体たりともいない。

 

「……血が、止まらないよぉ……」

 

 そんな応急処置に、何の意味があるのだろうか。誰一人として答えられなかった。

 門弟の一人が、涙声で言う。

 いくら、止血を試みても。

 どれだけ、包帯を巻いても。

 何人の弟子が、瞳を濡らしても。

 万一を考えて、マスタータワーの最上階まで運び込んでも。

 

「先生は――――もう――」

 

 ネリネは仰向けのまま、動いてくれなくて。どんどん冷たくなっていくばかりで。

 

「――うわあああああああああああああああっ!!!!」

 

 そんな言葉、嘘でも絶対に聞きたくなかった。

 だから耳に入れなければ。大声で上書きしてしまえば。元凶を責め立てれば。

 血潮が収まると思った。

 

「なんで、なんでだよ!?」

 

 日に照らされる、柔らかくて白い浮雲のような頬をくしゃっと綻ばせて、また笑いかけてくれるんじゃないかと思った。

 リクはイツの襟に掴みかかり、慟哭のままに糾弾する。

「そんな場合じゃない」なんて、ありきたりな咎めは受け付けない。そんなものは自分が一番知っているから。

 

「違う……俺は…………俺は、ただ……」

 

 怒り任せで、放心状態の彼に叫んだって。

 額を押し付けた先の空の瞳を睨みつけたって。

 血が出るほどに歯を食い縛ったって、唇を震えさせたって。

 わかってる、わかってるんだ。

 

「なんでなんだよおおおおおおおおおッ!!?」

 

 あの日々にはもう、戻れないなんてこと。

 されど、言葉にならない言葉を徒に吐き出すことがやめられない。

 一度でも冷静さが返却されてしまえば、この身がずたずたに引き裂かれてしまいそうで。

 

「リ、ク」

 

 薄い息に混じった儚い言霊が、力一杯に振りかざした拳を既のところで止めた。

「先生……!?」ネリネだった。

 何かを言いたげな薄目と、微かに動く口。それを知るやいなや、リクは大急ぎで傍らの彼女に顔を近づける。

 

「お前は、優しい子だ……。そんなに怖い顔して、人に手を挙げちゃあ、いけないよ」

「は、……?」

「――許せ。あたしが彼ら(ポケモン)を、許したように」

「……そんなこと……、今言うことじゃないでしょ……っ!?」

 

「イツ」続けて、まだ少しだけ言いなりになる首を、リクの隣へと傾けた。

 

「お前は……もう少し、周りを見ろ。お前が思うよりも……、世の中ってのはずっと生きやすくて、あったかいもんさね」

「先生、っごめんなさい……!」

「確かに、一瞬一瞬で……辛いことは、くる。それでも必ずいいことが、あるから。もっと世界に、目を向けとくれよ」

「俺……、俺はぁ……っ!!」

 

 喀血が会話を遮る。ごぽ、と取り返しがつかない量の赤色が掌を汚すと、弟子たちはとうとう零れそうな涙を堪えきれなくなった。

 というのにどこまでも穏やかで、清々しい表情でいる当人。その内心は、最早口にするまでもない。

 

「おまえたちは、あたしの誇りだ」

「……もう」

「自慢の、弟子だ」

「何も喋らなくて、いいですから……」

「何処へ行っても、きっと上手にやっていけるさね」

 

 なんて顔してるんだい。消え入りそうな声で触れる泣き顔と、その指を包む小さな手。

 

「お願いだから、別れの話ばかりを、しないで下さい……」

「どっちみち、くたばるのを待つだけだったところで、あんたたちに出会えた。そして看取られるんだ……こんな幸せが、あるかい」

 

 流れる雫は、頬を撫でる手を洗い流してやれない。

 汚れた手は、頬を伝い流れる雫を拭ってやれない。

 

「僕は、あなたが全てだったんだ……」

 

 死ぬはずだったということは、要らなかったということで。

 

「あなたがいたから、僕は生きていられたんだ」

 

 そんな命に意味を与えてくれたのは、他でもないあなたでした。

 

「あなたが笑ってくれるから、僕は頑張れたんだ」

 

 紆余曲折はあったけれど。あなたが手を握ってくれたから、ここまで歩いてこれた。

 

「あなたがいない明日を、僕は一体どうやって生きていけばいいんですか……」

 

 世界の色に気付いて、それを愛せた。

 

「行かないでよぉ、先生ぇ……」

 

『灰色の明日を生きていけない』と、弱々しく言った。

『まだ傍にいてくれ』と、さめざめと泣きながらそう言った。

 握った手を、頬からずっと離さない。されど沈黙の中で、魂と魂の隔たりは開いていく。

 

「……ったく、困った子だ」

 

 もう、喋らないつもりだったのだけれど。

 

「――リク。よく、聞きな」

 

 ネリネは最後の力を振り絞って、舌を動かし、声帯を振わす。

 

「最後の、教えだ」

 

 視線をしっかり重ねた。頭を抱き寄せた。そうやって、言葉を紡ぐ。

 

 

「……――――――」

 

 

 彼がこの先も、迷わないように。

 

 一人で立って、歩けるように。

 

 決して道を誤らないように。

 

 前へ進んでいけるように。

 

 自分が消えた世界でも、ちゃんと幸福でいられるように。

 

 溢れ出す思いを願い事にして、彼へと伝えた。授けた。託した。

 

 

「――――ありがとう」

 

 

 耳元でそう締めくくられたそれは、彼を今一度、静かに立ち上がらせた。

 今聞いたことは、きっとすぐになんて飲み込めない。もしかすると一生かかっても無理なのかもしれない。

 でも、往かねばいけないと思った。あるものを受け取ってしまったから。それをしっかりと背負ってしまったから。

 

「先生――」

 

 故にリクは、再び走り出す。外へと向けて、飛び出していく。

「行ってきます」笑って目を閉じる師へ、そっと別れを告げて。

 

 

『こんにちは・さようなら・ありがとう・ごめんなさい・いただきます・ごちそうさまを、しっかり言うこと。言葉はいつでも他者との繋がりの基本になる。一時も欠かしちゃいけないよ』

 

 螺旋階段を、一段、一段と駆け降りる。

 

『あんたは優しいけれど、怒ると手が付けられなくなる。少し立ち止まって、一呼吸置いてごらん。言われたこと、されたことを一回、ちゃんと整理するんだ。冷静さはきっと、この先のあんたをずっと助けてくれるはずだ』

 

 保管室に入った。メガストーンを手に取る。

 

『あとね、したいこととか、してほしいことは、はっきりと言いな。人付き合いではとっても大事なことさね。詰まらずに言葉を紡げるようになったら、上出来だ』

 

 そして、扉を開けた。外へ出た。門を潜った。

 

『これは、おまけだけど……飯はもっといっぱい食べるんだよ。大きくなれないし、何よりあたしは逞しい男が好きだからね』

 

 雨にぬかるんだ大地でも、構わず踏みしめ、走っていく。

 

『最後に、渡すものがある――』

 

 

 見えたボスゴドラは、変わらずに暴れ続けていた。

 遠い光へと向かって、モンスターボールを全力で投げる。

 

「……リク!?」

「処置が済んだのか……!」

 

 出現する青龍(ギャラドス)が体当たりでその巨躯を転ばせると、兄弟子たちが一斉に少年の再臨に気付く。

 まずは、止める。そうしなければ何も始まらない。ちゃんと終わることすら叶わない。

 だから彼は、友と並んで向き合った。怖くとも。どうにか出来る確証が無くとも。

 

「……僕に、出来るのか……」

 

 まだ、吼えている。睨んでいる。憎んでいる。滅茶苦茶にしている。

 地面が揺れて蠢くたびに、足が竦む。手が震えて、逃げ出したくなる。

 固唾を飲んだ。そうして胸に抱くは――――ネリネの二つある髪留め(キーストーン)のうちの、一個。

 一つ目の、贈り物。

 

「メガシンカか!? 無茶だ!」

「練習もなしにやれば、イツのようになるぞ!!」

「わかってる。でも、やるしかない。止めるには……これしかないんだ!」

 

 手中から発された極彩色の光が、ギャラドスの口内で転がるメガストーン“ギャラドスナイト”の輝きを呼び覚ます。

「ッ――!!」ばたばたと風に煽られる、濡れた髪。尋常じゃないエネルギーの奔流であった。少しでも気を抜けば、全身がバラバラに弾き飛んでしまいそう。

 強烈な規模のそれは御しきれなくって、ともすれば使用者を弱気にして。

 

「僕は…………やっぱり……!!」

 

 噛み締める歯が緩み、瞳を閉じかけた。

 

『――お前がお前であることを証す、たった一つのモノをやる』

 

 その時だ。手の甲に、よく知る温もりを覚えたのは。

 

「! ……せん、せ……」

 

 だが呼びかけて、気付く。

 今、後ろから抱き締めるようにして自分の手を手で包む師は、きっと此処に在るものじゃない、と。

 無音。無色。居ながらにして、触れられない――そういう存在である、と。

 悟った少年は、はっとして息を詰まらせ、俯いた。

 

『ずっとずっと、我が子にくれてやりたかったものなんだ』

 

「……わかってる。大丈夫だよ――――大丈夫」

 

『あたしの大好きな、花の名前さね』

 

 少しずつ背中が温かくなっていく。一度の吸気を通すごとに、幸せな思い出が遠ざかっていく。

 面向いて覗いた先の優しい顔がにっこりと笑って、彼にしか聞こえない声で「またね」と発した。

 

「だから」

 

『気に入るかはわからないけれど……受け取ってくれると、嬉しいな』

 

 その花言葉は“困難に打ち勝つ”或いは“ひたむきさ”――生涯をかけ試練と向き合い続けた彼女が、ずっとずっと胸の中で、大事に温めていたもの。

 そしていつか我が子が出来た時に与えたかった、限りない感謝を示す第二の贈り物。

 

「どうか見届けて下さい、先生」

 

 己を抱擁していた愛が、光の粒になって解けて、天へと昇っていく――。

 戻らない昨日に「さようなら」と言って、落涙させて、微笑んで。

 

 

「取り合う手と手で、道行き照らせ――」

 

 

 そうやって少年は前を向いて、受け継いで、また進んでいく。

『メガシンカ』静寂に響き渡って、煌めきが爆ぜた。

 胴が逞しくなり、ヒレが翼のように肥大化。伸びた髭は、よりその姿を伝承の生き物に近付けた。

 光の繭を突き破って出現したギャラドスは“メガギャラドス”となって、雄叫びを上げる。

 

「ネリネ一門継承者、サザンカ――――参ります」

 

 降りしきる雨に打たれても。流れる世界に拒まれても。

 僕は、生きていく――――“リク”改め“サザンカ”は、背負ったその名に誓い立てた。



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fin.私のこのごろ

「まさか……本当に……」

 

 黒雲が、空を覆い隠しても。

 

「あいつ、やりやがった……」

 

 無限数の雨粒が、濯ぎ落としても。

 

「いくよ」

 

 確かに残り、消えないものがあるとするなら。

 

「ギャラドス」

 

 ――それはきっと、人の意思なのだろう。

 表情を引き締める。師が残してくれた奇跡を、無駄にはしない。

 いつしか棒のように固まっていた足はほぐれ、荒れていた息は穏やかになり、周りの景色がよく見えるようになっていた。

 仲間が望む横顔は、猛々しくて、凛々しくて。まるで師を髣髴させて。

 見据えた先の物の怪が、やがて狙いを一つに絞った。

 

『グワ゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!』

 

 一際目立つ(みずち)へと、突っ込んでいった。

 

「“たいあたり”!」

 

 ギャラドスとサザンカは、真っ向から受けて立つ。

 虚空を歪ませ、水滴を次々に砕いて進む。

 ドン。鈍い音が戦場にて寝そべり、人々の鼓膜を殴打した。

 ひしめく唸りと、押し問答のような競り合い。

 肉迫した視線が交錯して、頼んでもない均衡を繋ぎ止める。

 

「暴走は、ない」

 

 意識が透き通って、どこまでも続く場所と繋がっている感覚。その地続きにいる存在、ギャラドスと一体化しているような感触。

 先程、進化した時と全く同じだ。確信を持てる。

 不思議なほどの安定感。相棒の精神状態に知見が及ぶ。相棒に己の何もかもを伝えられる。であるならば自分の心は今、虹が目一杯に広がる『道』の上にいる。

 先生の助けだろうか。内心で強気に唱えた。

 これならいける。意気巻く独白を紡いだ。

 

「いっけえええええええええっ!!」

 

 ――メガギャラドスの胴体の側面には、後ろへ向く“孔”が存在している。

 それは初期こそ『排熱のため』とされてきたが、実はそれは誤りで、本当は『推力を獲得する』という生態的意図があった。

 もっと突き詰めるならば、さらなる機動性の確保。より限界まで迫った言い方をするなら、狩りの成功率の飛躍的向上――それに尽きる。

 ギャラドスはサザンカが叫ぶと同時、体内に溜め込んだ水を孔から一気に噴射し、ロケットの要領で鉄塊じみた巨体を押し動かす。

 今この瞬間、勝機はあると、身をもって知った。

 

「一気に、湖まで運んで!」

 

 引き摺る足が渚に侵された時、伝う冷ややかさを拒むように咆えた獣。

 怪力に意地を込めて龍の突撃を一旦塞き止めると、残るスペースの余裕の全てを消費して身を捻り、ギャラドスを受け流した。

 青龍は半ば投げ飛ばされる格好でどぼん、と水面に消える。

 伴って立ち起こった水柱と、その残滓である飛沫に濡れながら、ボスゴドラが向くのは。

 

「……っ!」

 

 もはや、言うまでもないだろう。

 彼らを結ぶ直線の上には、何一つとして障害がなかった。

 つまり、嫌気がするほどによく望めた。

 

「くそ、まずい!」

 

 だからだろう、狙いを彼に定めたのは。

 ギャラドスと距離を作られたサザンカは、何も出来なかった。

 いくらメガシンカを発現させられて、修行を積み重ねたとしても、その地を形作るのは所詮人間のもので。

 故に身の丈の何倍にもなる巨躯にぶつかって来られれば、バラバラに砕け散るに決まっている。この道理はどうあっても覆せない。

 “アイアンヘッド”が道を往く。進路上に妨害の意図で置かれた同門のポケモン達を、雑作もなく撥ね飛ばして。

 戦えるポケモンが消えた。地獄絵図に筆が乗った。また惨状が描き足される。

 ある者は「もうやめて」と願い、またある者は届かぬ手を伸ばした。万事休す。

 

「く……!!」

 

 歯を食い縛って、脳内の辞書で引いたそんな言葉を、否定する。

 そして水から飛び出した。ギャラドスは再び地上へと顔を出し、猛スピードで割り込んで丸腰の主を庇った。

 身代わりになって受ける、四〇〇キロからなる四本角の突進。いくら有利な相性であっても、その物理的な衝撃は想像を絶するものがあった。

 

「か――ッ!」

 

「生身がバラバラに砕け散ることがなくなった」なんていう仲間達の安堵は、なんとも刹那的なもので。

 言うことも聞かないで吹き飛んだ横長の肉体は、すぐ後ろの主を巻き込んで、湖まで宙を転げて行った。

 遥か遠くの深いところで、派手な白波が立つ。

 地上の者らが最後に視認したギャラドスは――白目を、剥いていた。

 

「……そんな……」

 

 泡だけが、ぷかぷかと乱雑に浮いてくる。

 

「おい……」

 

 どれだけの時間、揺らぐ湖上を眺め続けても、一人と一匹が浮いてくることはなかった。

 

「嘘、だろ……」

 

 それが意味することを知った時。

 

「リクーーーーーーーーッ!!!!」

 

 ようやく絶望は、大輪の花を咲かせる。

 地獄絵図の加筆は、避けられなかった。使う絵の具の色が、変わっただけだ。

 兄弟子らも途方に暮れ、とうとうがくりと膝をついた。

 未だ動き続ける鉄鎧を仰ぐことしか叶わず、ひたすらに生まれる呆然。

 衝突する折に手からこぼれ落ちた彼のキーストーンだけが、虚しく雨に濡れていた。

 

「……潮時、か」

 

 呟くイーノ。傘越しで行っていた事の静観を、そろそろやめようか――と言っている。

 

「道楽とは思いながらも、久方ぶりに心躍り、少しは期待というものが持てた頃と云うに……」

 

 興覚めよな。短く、そして静かに吐き捨てた。

「さて、次はどこへ往こうかの……」この場から離れんと背を向ける。

 

「な、い、イツ!?」

 

 そんな折だった。

 急に大きくなる少年の声に、振り向かされたのは。

 行く当てもなく振り回される暴力の隙間を抜け、走って来た少年――イツ。

 息を切らし、全速力で駆ける彼の瞳は、サザンカと同じ色をしていた。

 

「使えるポケモンもいないのに、なんで出てきた!?」

「決まってる。まだ、やれることがあるからだ!」

 

 藤色。温かくも穏やかで、全てを包み込んでくれるような、優しい色。ネリネという、人の色。

 それは、他ならぬ彼もまた恩師の志を受け継いだという、何よりの証で。

 

「おい、やめろ! 先生から助けてもらった命を、無駄にする気か!?」

「無駄にしないために、ここにいる!!」

 

 間近に迫ったかつての相棒。やはり、自分を見てくれそうにない。

 そうだろう、妥当だろう。

 認めよう。底無しの憎悪を振り回した、己の罪を。あまつさえそれを名ばかりの絆に乗せ、相棒へと押し付けてしまったこの業を。

 ――痛かったろう。苦しかったろう。

 

「……切なかったろう。辛かったろう」

 

 そう漏らし、醜く膨れ上がった映し身の前で、立ち止まる。

 目を少しだけ、細めた。悲しげに口にするは、

 

「だが、俺にはもう、お前を連れ戻してやる力はない」

 

 救えない、なんて宣告。

 

「だがそれでも、やれることはやろうと思う。罪滅ぼしとは言わないさ」

 

 それでも、何もしないなんてことは、しない。

 自分が最大限形に出来る、自分なりの愛を、彼へと届けよう。

 

「ただ――待っていてくれ」

 

 そのために、彼はさらにボスゴドラへと詰め寄った。

 忽ちに上がる拳が、間も忘れて下りてくる。

 惨劇を確信して、上がる悲鳴。風が押さえ込んだ。頭頂部に爪の感触を覚えた。

 

「――うおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 だが、イツは砕かれなかった。

 一気に懐へ飛び込み、紙一重で破壊を避ける。

 見上げればすぐに接するは、銀色の腹。しかし目的はそちらではない。足元のキーストーンだ。

 手早くそれを拾い上げたイツは即座にボスゴドラから離れ、そのまま湖へと一目散に走った。

 

「まさか……やめろ!!」

 

 察した兄弟子の声も受け取らず、段階を追って上がってくる水に、躊躇なくその身を沈めていく。

 

「ほう……面白い」

 

 イーノは思いとどまって、再度事態へと向き直った。

 

「(どこまで行っても……今この状況を何とか出来るのは、あいつしかない。……だったら!)」

 

 そうやって言葉さえ届かない、冷ややかな暗闇に身を委ねる少年を眺め、口角を釣り上げながら――。

 

 

 

 ――何も見えない。聞こえない。

 触れたくても触れられなくて、動きたくても、動けない。

 ひっそりと呼吸することさえ、許されない。

 ただ、自由なのに窮屈な水の中を、ゆっくりと落ちている。

 ぼやける視界の中で、輪郭という僅かなヒントから、すぐ傍の存在を感じる。

 ギャラドスだ。いつの間にかメガシンカが解けていて、意識も失っているようで。

 自分と同じく不本意なままに底へと向かっているようだが、彼なら安心だ。水の中でも生きていられるし。

 自己よりも先に、他者の心配をするところは、なんとも彼らしいが――助かるためにすることがあるだろう、なんて咎められると、今回ばかりは言い返せない。

 

「(ダメだ……体、動かな……)」

 

 だが、ギャラドスとの衝突で怪我を負っているのもまた、事実で。

 泳いで、上まで浮いていけないのだ。それまでの力が足りないのだ。

 それを誰かに伝えられれば、まだ良かったのだけれど。

 生憎、水中でエスパータイプのポケモンはいないので、諦めることにした。

 ごぱっ。肺に取り置きしておいた息が、とうとう漏れる。白い気泡が、自分を見捨てて逃げていく。

 

「(悔しい、なあ)」

 

 せっかく、継承できたのに。認められ、宝物まで貰ったのに。

 こんなところで、こんな場所で。消えてしまうのだから。

 反射的に、口が開いた。水を飲んだ。

 走馬灯、というものだろうか。死にたいと願っていたあの頃の記憶が、目まぐるしく脳内を駆け巡る。

 蔑まれて、捨てられて。幾度となく虐げられて――辛い人生だった。悲しいことばかりだった。

 

 

『――ネリネ。あんたみたいのを拾って集めてる、物好きさね』

 

 

 彼女と過ごした時間は、恵まれない子供が思い描いた、束の間の夢物語だったのかも。そんな風にすら、思う。

 

「(……終わりたく、ないなぁ)」

 

 けれども。そうであっても。

 リクは『生きていたい』と、願った。

 サザンカは『死にたくない』と、願った。

 嘘であろうが、真であろうが。

 先が暗かろうが、明るかろうが。

 泣いていようが、笑っていようが。

 彼を強い力で前へと押すのだ。その手を引いて、明日へと連れて行くのだ。

 

 幸せな思い出に、変わりはないから。

 

 彼の中に、いつでも彼女はいるから。

 

 この先も――彼と一緒に、在るから。

 

 

『ここからは――あたしの一方的な我儘、なんだけれどもさ』

 

 伸ばした手に、温かさが伝わった。

 

『先に向こうにいっちゃうけど、あんたの先のことは気になるんだ』

 

 それをそっと握ると、別の熱がその手を包み込む。

 

『ああ、心配じゃないよ。単純な興味さね』

 

 目を開けた。彼がいた。

 

『だからさ。いつでも、どこでもいい――旅をしておくれよ』

 

 共に育った、家族がいた。

 

『そしてあんたの見たもの、聞いたもの、触れたものを、いつかまた会った時の土産話に、聞かせてよ』

 

 同じ師から、同じものを授かった、友がいた。

 

『――――約束、だよ』

 

 あの日、一緒に小指と親指を繋ぎ合わせ指切りした――かけがえのない、兄弟がいた。

 

 

 光が、天へと立ち昇った。

 誰もを釘付けにするそれは柱となって、

 

「イツ、リク!」

 

 闇に飲み込まれた彼らを連れ戻してくれた。

 爆ぜ散る渦巻き。大量の水を巻き上げ、今一度浮上したギャラドスは、前代未聞の連続メガシンカを果たし、少年二人を背に預かっていて。

 

「……なんと」

 

 まさしく、奇跡。

 さしものイーノも思わず目を丸くし、その神々しさに瞳を奪われた。

 逃げるように、雨が上がる。暗雲が縮んで隙間が出来て、果てから差し込む黄金(こがね)の陽気。それは隣り合う二人を、確かに祝福していた。

 柔らかな虹がかかると、もう怖くない。心配だって、要らない。

 サザンカは立てた小指を眺めて、静かに微笑んだ。

 

「約束ですよ――、先生」

 

 そう言うと、最後の声が大きく響く。

 それはギャラドスに、たった今、新たに習得した藍色の突撃『たきのぼり』を使わせた。

 向かう先は、我を失った怪獣。行うは、ネリネが作ってくれた未来の奪還。

 ただ一つの目的の元、成長した三者は一体となり、欲する明日へと突き進んだ。

 憎悪が希望に倒れて、潰えていく。崩壊した化物は受け止めきれなくなった水を吐き散らしながら、かつての姿を差し出して、意識を手放して。

 

「……見事だ」

 

 散々長引いた継承式が本当の終わりを迎える頃、空は晴れを取り戻した。

 イーノはそうして全てを見届け、それだけ残し、立ち去った。

 

 

 

 一歩ずつ、重々しく足を刻んで、灰色の塔を昇っていく。

 鼻につく湿った香りが、拭い忘れた自分のものであると気付けたのは、最上階に到達してからのことで。

 もし一生、髪が濡れたままでいてくれれば。

 もしバルコニーの柵に止まった一羽の鳥が、ああしてずっと鳴き続けてくれていれば。

 

「……ネリネ先生」

 

 ――真っ白になって動かなくなった彼女を見ずに、済んだのだろうか。

 泣き崩れる門弟たちの涙声をかき分けて、サザンカは静かにネリネの元へ歩み寄った。

 

「僕、やりました」

 

 腰を下ろして覗き込んだ顔は、あまりに綺麗で、幸せそうで。

 

「メガシンカを、成功させました」

 

 もう目を開けないだなんて、とても思えなくて。

 

「継承者に、なれたんですよ」

 

 懐かしい声が聞こえてこないだなんて、信じられなくて。

 

「ねえ、先生」

 

 いけない。

 二度と触れられなくなるその瞬間まで、しっかり瞳に焼き付けようと決めていたのに。

 

「お願いだから……何か……、何か、言ってくださいよ……」

 

 ――次々に涙が滲んできて、全く仕方がない。

 

「また……っ、褒めて下さいよぉ……」

 

 願わくは、もう一度だけ。

 

「先生ぇ……――っ」

 

 あなたの手に、優しく撫でられたかった。

 サザンカは止まらぬ感情をぼろぼろと吐き出しながら、安らかに眠るネリネの胸を濡らした。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ネリネは、最期まで笑顔であった。

 その事実は遺された子供たちにとっての、唯一の救いなのかもしれない。

 色々な人が惜しんでくれたし、悼んでくれた。泣いてくれたし、励ましてくれた。そうやって彼女の葬儀が終わって、またなんでもない日々へと戻っていく。

 だが彼らは、彼らの心は、そうではない。

 あの悲劇で受けたショックは、愛する者を失った悲しみは、その幼い身にはあり余る。少なくとも、嘘でも「平気だ」なんて言えないほどには。

 しかし、知っている。誰だって、前を向かないといけないと。ちゃんと進まなければいけないと。

 だから彼女の意志は――心道塾は、消えることなく、未だに続いていく。

 

「……そっか。それじゃあイツは、心道塾を継いで、経営し続けるんだね」

 

 “レンギョウ”だ。かつてのイツが、サザンカの言を訂正する。具体的には、呼び名の部分を。

「ごめん、まだ慣れてなくて」頬をぼりぼりとかいて、誤魔化した。

 

「まだ未熟者だから、師範にはなれないけどな。けど皆と一緒に暮らしながら、看板を守り続ける。そしていつか一人前になった時、俺達みたいな子供を拾って、育ててやれたらなって思う」

 

「先生みたいに」――そう付け加えるレンギョウの双眸は、よく光が灯っている。

 心配性であるからして、自分が離れても大丈夫そうだ、なんて柄にもなく独白して微笑むサザンカ。

 

「何笑ってるんだよ」

「……なんでもない。レンギョウ先生って、なんだか不思議な響きだなと思って」

「はは、サザンカ先生も、大概だ」

 

 生い茂る木々も、爽やかな緑の香りも、あの日のまま。

 二人はミロワール通りのはずれの樹林、ネリネの修行場所までの道中にある、四角い石の前にいた。

 それは以前彼女が作った、生まれずして亡くなってしまった息子の墓で。そして今では、同時に彼女が眠る場所でもあって。

 寝かせるようにして、花『ネリネ』を置いてやる。

 

「先生。僕、約束を果たそうと思います」

 

 布と紐でくるまれた手荷物と、笠。これらを身に着ける彼が今から何をするかは、大方の察しが付くであろう。

 継承式から、二週間経った今日。諸々の事柄を片付け、サザンカは約束通り旅に出る。

 心道塾の伝統を守り、継承者として巣立って、計り知れない前途を歩いていく。

 ゴールどころか、すぐ後に続く道さえ決まっていないけれど……それでいい。

 ただ見て、聞いて、触れて。曰く“土産話”の種さえ、出来れば。

「それじゃあ」改めて別れの挨拶をしようとした時、首は別の方を向いた。

 

「言葉通り、また会ったな」

 

 それは身に覚えのある怪しい声が聞こえたからに、他ならない。

 

「イーノ、貴様……!」

 

 女狐じみた面妖さを包み隠さぬまま、木陰から現れたのを見るやいなや、少年は険しい面持ちで構えた。彼女もまた、二週間ぶりで。あまりに不意の再会に驚き半分、警戒半分といった表情で、言う。

 

「何のつもりだ……」

「そうだ、その顔でいい」

「レンギョウ、この人は」

「継承式の前日、個人的に俺と接触し、紛い物のメガリングとストーンを渡してきた女だ」

 

 どこからも否定の声は上がらない。レンギョウの言う通りだった。飲まれた彼自身が話すことは出来なくとも、確かに云える。

 彼女こそ、継承式という門出の日を台無しにした遠因であると。

 ――ネリネが死んでしまった原因、そのうちの一端であると。

 何故、今になって出てきたのか。なんで、わざわざ自らの立場を示すのか。

 

「そうよな……主らにとっては仇、ということになるな」

 

 どうして、そんなに口を捻じ曲げて笑っていられるのか。

「くっ!!」レンギョウは怒りと悔しさで噛んだ歯を剥き出しにしたあと、モンスターボールを手に取った。

 

「やめよう」

 

 だが煽られて燻った炎を、清い水は優しく鎮めた。

 どうにもその行動は予想外であったようで、口一つで兄弟を止める少年を見やるイーノ。

 サザンカは彼女を問い質すべきだと、考えている。答えによっては報復だって必要なのかもしれない、なんて思っている。

 自身のそれらに対し、己から「違う」と言ってしまうのは、真っ赤な嘘であることも知っている。

 

「――僕は、あなたを恨まない」

 

 それでも彼は、弾劾しなかった。

 正面から魔性と向き合って、澄みきった真心の泉から沸く、偽りのない本当の言葉で「許す」と紡いだ。

 

「僕の力の無さが、いけなかった。彼の心の弱さが、よくなかった。それでいい」

「それは、自己欺瞞というものではないのか? 煮えくり返る己が腹の底を穏やかにさせたいがための、嘘なのでは」

「僕は」

 

 何度くすぐってやっても、おちょくっても。

 その花は闇色の光を遮り続けて、最後まで毒を持つことはなかった。

 珍しくもなんともない、どこにでもある、たった一輪であるのに。

 

「彼女に『旅をしろ』と言われた」

 

 風にそよぐ姿は、逞しくて。

 

「あの人に『生きろ』と言われた」

 

 陽に照らされる姿は、実に美しい。

 

「愛する人に『歩め』と言われた」

 

 倒れないし、手折れない――――そのサザンカは、初めて“花”を知った日の気持ちを、魔女に思い出させた。

 

「だから、あなたを決して傷付けない。呪ったりしない」

「……!」

 

 色づいた世界を、ただ謳歌する。

 それが彼女との誓いだから。約束だから。

 サザンカがすぐ傍のネリネへと、微笑む。それを一瞬のものにして向き直ると、イーノはもう消えていた。

「な……」目を離さずにいたレンギョウさえ仰天しているところをみれば、その退去は早業だったに違いない。

 消える折に舞い散って、今も漂う白いキクの花びらは、一体どういった意味なのだろう。彩りが豊かなので、弔花として都合よく受け取ることにした。

 

「今度こそ」

 

 取り戻された静寂の中で大きく深呼吸して、発する。

 決心に振り返る日々を込めた。今までの自分を誇って、背筋を伸ばして、家族を見る。

 

「留守は任せておけ。お前の食器も布団も、ちゃんと取っておくから」

「……うん」

「だから戻りたくなったら、いつでも帰ってこい」

「ありがとう」

「――――達者でな」

 

 小さく頷いた。固く手を握り合った。幸福の彼方へと消えていく“イツ”と“リク”の日々に手を振り、別れを告げる。

 

「それじゃあ、いってきます」

 

 一歩ずつ、大切に大地を踏みしめ、遥か先で引かれた地平線に、思いを馳せる。

 サザンカはそうやって一人で明日を歩きながら、思い出を追い越していく。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 先生。私のこのごろを聞いて下さい。

 

 

 

 一五の歳になりました。

 背が伸び、声が変わり、見える世界が変わってきて、高いところにも手が届くようになりました。旅の最中で知り合った子供を抱けるようにもなったし、おんぶもできるようになりました。

 とても重くて、驚いています。彼らに触れる度に、命の価値というものを、身をもって知る日々です。

 でも少しだけあなたのことを理解できた気がして、嬉しくなりました。

 

 

 

 二〇の歳になりました。

 今はカロスを出て、メガシンカの原典があると云われる、ホウエン地方にいます。

 人が温かく、かつ自然が伸び伸びとしていて豊かで、心が洗われます。いずれ道場の皆を連れて、再び訪れると決めました。先生もご一緒にいかがですか?

 そうそう。カロスの頃はただ地を巡るだけでしたが、ギャラドスもそろそろ体が疼いているようなので、ポケモンリーグにも挑戦してみようと思います。新しく出来た友人と共に目指すので、応援して下さいね。

 

 

 

 三二の歳になりました。

 遠くの便りで知ったのですが、同輩のフウカが結婚し、子が出来たそうです。

 すぐに行ける場所でない時のお祝いというものは、どうしたらいいのでしょう。ひとまずペリッパーに手紙を預けましたが――届いていることを願うばかりです。

 そういえば伸びた髪が野暮ったくなってきたので、先生の髪留めを使わせて頂いています。いかがでしょう、似合っているでしょうか?

 

 

 

 五七の歳になりました。

 ある程度の経験が積み重なり、自分なりの技も形になってきたので、不肖ながら行く先々で子供たちに手習いを教えるようになりました。生意気と笑われてしまいますね。

 ですが、彼らのその小さな手を眺めていると、私は愛しくてたまらないのです。そしてそんな彼らが少しずつ育っていく様子を見ていると、嬉しくて仕方がないのです。

「先生」なんて呼ばれるのは、まだまだむず痒いものですが……いつか堂々とその二文字を受け止められるよう、精進致します。

 

 

 

 一〇一の歳になりました。

 ラフエル、なる地方におります。

 なんでもここは、大昔に一人の男とポケモンが手を取り合って開拓した場所、なのだとか。

 そのような成り立ちも手伝ってか、人とポケモンの結びつきの証明であるメガシンカの伝承は、行き届いているようです。

 それよりもなんと、聞いて下さい。旅の途中、現地のポケモンリーグから「ジムリーダーにならないか」と声をかけて頂きました。勿論滅多にない機会ですからして、二つ返事にてお受けしましたよ。修練というのは続けてみるものですね。

 だから旅は、一旦お休みです。ここ最近は『キセキシンカ』なる、ラフエルの神話に因んだ不可思議な現象を調べたり、生活の合間に挑戦を受けたりで、慌ただしい毎日を送っておりますが――――面白い人々に囲まれ、刺激的な環境の下で、なんやかんやと今なお楽しく生きております。

 あと、最後に一つだけ。

 

「せんせー! せんせー! サザンカせんせー!」

 

 私にも、とうとう弟子が出来ました。

 

「そんなに戸を叩かなくても、ちゃんと出ますよ。どうしました?」

「おけいこしようよ! おれなー、キセキシンカをもっと安定させたいんだ」

「おやおや、メガシンカの稽古はおさぼりですか? 継承者の私は、なんだか寂しいです」

「あー! ううん、ちがうんだ。バラル団のやつらとも戦わなくちゃいけないから、そのために……!」

「ふふ、わかっていますよ。冗談です」

「うわあ、からかわないでよー!」

 

 澄んだ目をした、とても真っ直ぐないい子です。

 

「ねえ、せんせー」

「なんでしょう?」

「前にしてた、せんせーのきょうだいの話、あるよね」

「ああ、そういえば……、言っていましたね」

「それを思いだしたらさ、会いたくなってきちゃって」

 

 ポケモンと対話が行える、凄い子です。

 

「だからさ、今度、その……か、かお……かおすちほー?」

「カロス地方ですよ」

「そう! カロスちほー! そこに、つれてってよ!」

 

 どこかの誰かのように元気で、温かくて、強い――素敵な人です。

 

「ええ、わかりました。君のことだから、きっと仲良くなれますよ」

「ほんと!? へへ、楽しみだなあー……!」

 

 あなたが私に全てを授けてくれたように。

 私もまた受け継いだ全部を、彼に託そうと思います。

 

「んじゃ、やくそく!」

 

 あなたのように、上手に渡してやれるかはわかりませんが。

 どうか、見守っていてください。

 

「ええ、約束です」

 

 サザンカとカエンは、小指を結び合わせる。そして一緒に親指を重ねることも、忘れずに。

 それはどちらからともなく出来る、二人だけの約束の仕方。二人だけが知っている、誓いの儀式。

 先生の先生から、弟子の弟子へと伝わる、明日という名の眩しい希望。

 飾られた写真の中にいる女性は、二人の少年の肩を抱いて、目一杯に笑っていた。



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Episode Freedom
01.縛られない男


 ブルブル、ブルブル。

 携帯端末が差し込む日光に照らされ、やかましく震える朝。

 太陽というものは部屋の隅に積もる微細な埃さえ輝かせて、見栄えを良くする。加えて人の意識を引き起こしてしまうというのだから、不都合ばかりで困り果てる。

 

「……うい」

『ランタナさん、おはようございます』

 

 すぐ目の前にあるテーブルの上から、寝ぼけ眼で電話を取った。ソファの適度な柔らかさからは離れない。何故なら彼はまだ目が覚めきっていないので。

 

『その……』

 

 遅刻です――尤も次の言葉から数秒もすれば、飛び起きているのだが。

 

「い! ってえ……!!」

 

 芯ある温かい女性のモーニングコールは、黙って聞いていれば二度寝しそうになる。けれども悲しき哉、それどころではなかった。

 少なくとも、とうに正午を回った時刻を確認して、転げ落ちた身にとっては。

 

『あの、大丈夫ですか? 焦らなくてもいいので、事故が無いよう来てくださいね』

 

 朝だなんて、体内時計の嘘っぱちを恨んだ。

「い、今行く! すぐにッ!」速やかに返して、ジムリーダー『ランタナ』は何とも歯切れ悪く電話口の女性と別れる。

 そしてインスタント食品の空容器が散乱する卓上に端末を放り投げ、立ち上がった。

 

「くっそ」

 

 先程とは打って変わって、しゃっきりと開いた垂れ目。独り言を混ぜて立った流し台の前で、歯磨きを始める。旅行が趣味であるからして、癖のように常備している携帯用歯ブラシセットは、彼の必要最低限の身支度を助けてくれた。

 

「(トージョウ交流戦を観ていたはずなのに、どうしてこうなった……)」

 

 悔しげに内心でぼやきながら、昨日のほつれた記憶を縫合する。

 まず、ジムで散々溜めていた分の挑戦を受けていた。終わると夜遅くになっていたので、事務所を借りての泊まり込みを決行。

 寝る前にテレビを使い、衛星放送のチャンネルで深夜の野球中継を観ていたはずが、寝落ち(これ)だ。

 

「(どっちが勝ったかすら)……わかんねえじゃねえか」

 

 濯ぎ終えた口内は、なんとも清々しい。反して気分は最悪で。

 どんな顔をしようが時間は待ってくれないので、トイレに入って着替え、鏡で髪型をセットし、大至急チャレンジャースペースへ出る。

 解放されているかのような錯覚に陥る、スカイライト・ウィンドウが張り巡らされた高天井――シャルムシティジムは、閑散としていた。

 それもそうだ。昨日まとめて処理したので、そこに挑戦者はいない。いるのはポケモンを戦わせてトレーニングに励む、ジムトレーナーだけで。

「ランタナさん、おはようございます!」「おう、おはようさん」彼らの挨拶に掌を見せ、簡素な返事。無愛想に見えなくもないが、彼の性格を知る者ならば何も気にならない。

 ランタナは彼らの邪魔にならないよう壁伝いでジムの出口を目指すと、

 

「おはよう……じゃないか。こんちは」

 

 独特なイントネーションの挨拶と突き当たる。

 

「シズノ、お前なあ! 俺が今日ジムリーダー集会なの知ってるんだったら、ちったぁ起こしてくれたっていいだろうに!」

「いややなぁ、なんで一介のジムトレーナーがそないなことまでせなあかんの。ウチはアンタのお母ちゃんやないで、ランちゃん?」

「あだ名で呼ぶな年下!」

 

 “シズノ”と呼ばれるシャルムジムナンバー2のエリートトレーナーは、出身の方言『ジョウト言葉』を使い、お門違いなランタナの怒りをあっけらかんと受け流す。

 陽気で呑気で、悪戯好き。ランタナはその性質を改めて思い出してから「彼女に真面目さを期待することから間違っていた」と不承不承に己の落ち度を認める。

 眼鏡越しでにやにやと笑う目に、悪意の一つでもあれば……なんて思うが、きっとよくない考えなのだろう。

 

「とりあえず、あれだ。行くわ」

 

 独白もほどほどにし、会話で無駄にした時間を取り返すように、駆け足でジムを出た。

 

「がんばりや~、ラン坊ちゃん!」

「あの野郎覚えとけよ……」

 

 その折に背中から茶化されたことは、たぶん一週間は忘れないのだろう。

 

 

 

 ラフエル地方は、東西をテルス山で分断されている。

 ――言葉では何度そうやって伝えられても、実際に肉眼で見ない事には、ぴんとこない。

 とりわけ外部の地方『アローラ』からやってきた彼はその色が強く、まして現地の文化『しまめぐり』で旅慣れした感性は、誰かが言っただけの「らしい」なんて表現だけで、満足できるはずなどなくて。

 だからこうして、今日も飛ぶ。好きな高さで、好きな場所を、好きなだけ。

 その時だけは心の底から楽しくて、饒舌になって、子供みたいに騒いで楽しむ。

 幼い頃から、何にも邪魔されない空が好きだった。生まれついて、鳥ポケモンを愛していた。

 少し大袈裟に言えば、運命――ランタナという男は飛び立つべくして飛び立ち、呼ばれるべくして『自由な翼』と呼ばれた、縛られない存在であった。

 くせ毛を抜ける涼やかな風に目を覚まし、より大きな陽光を浴びて抱く優越感。灰色の大鷹(ムクホーク)の背から見下ろす、英雄が拓きし大地は、実に偉大であった。

 

「急げ急げ~、っと」

 

 ラフエル大陸の、西側。西側の、ラジエスシティ。ラジエスシティの、東区。東区の、庁舎。

 まるで電子地図を拡大するように、上から目的地に迫った。相変わらずの喧騒も、年中無休の雑踏も、ポケモンの『そらをとぶ』ならば関係ない。

 都庁舎“ケレブルム・ライン”の前に降り立ったムクホークは、ランタナの「サンキュー」という礼を受け取り、ボールに戻っていく。

 そこからは早い。中に入り、廊下に掲げられた「走るな」という強気な命令口調に従って、総合窓口へ行く。

 そして受付嬢に空色のジムリーダー免許を提示すれば、何も言わず会議室へと連れていかれる。

 どうぞ、と開き手で示されたドアをがちゃりと開け、

 

「すまん!!!!」

 

 頭を下げる第一声。

 

「おそいぞランタナにーちゃん! 待ちくたびれちゃったよー!」

「いやぁ、本当にわりぃ……」

 

 今回ランタナに顔を上げさせたのは、カエンだった。

 室内は言うまでもなく、揃い踏み。ラフエルの強さを象徴する七人がミーティングテーブルを囲い込んで着席する様は圧巻の一言に尽き、此度もまたランタナから二度目の謝罪を引き出した。

 畏まったところで良くも悪くも動じないのが、同僚というものなのだが。

 今に始まったことではない、といった風に、

 

「今日はどうしたんだい? 髭の剃り残しがしぶとかったかな。それとも朝食作りに失敗したとか」

「いえ、目の開きが若干甘いです。これは寝坊とお見受けしました。500円は頂きます」

「言えた義理じゃあねえけど、人で賭けないでくれ……」

 

 興じるユキナリとコスモス。そんな二人へ苦笑い。

「こちらです」ステラの案内に従って、アサツキとカイドウの間にある不自然な空白に収まると、忽ちに会議は始まった。

 ホワイトボードに掲げられた議題は『昨今のバラル団の活発化について』。

 

「ではこれより、ラフエル地方ジムリーダー定例集会を始めます」

 

 遅れた分、せめて積極的な発言をして、有意義に。密かな反省が熱意に変わった。

 

 

 

 ――の、だが。

 

「えー、その。何でしたか」

「ハリアー、だ」

「ごめんなさい、そうでした。幹部の中でも、雪解けの日の作戦を立案した参謀『ハリアー』という人物は、とりわけ危険であると考えます」

 

 ランタナはその日の集会に、異様な雰囲気を感じていた。

 別段顔ぶれがおかしいことはないし、部屋に何か特別な変化があるわけでもない。いつも通りの八人が、いつものように意見を出し合って情報や認識を共有しているだけ。

 

「ステラ、それはなんて書いてあるんだい? すまんがキャタピーがうねっているみたいにぐにゃぐにゃした字で、よく読めん……」

「あら、本当ですか。申し訳ありません、書き直します」

 

 なのだが。

 ただ、確かに。上手くは言えないが、確実に。

 この場が作り出す空気感が、肌に合っていないように思えて仕方がなかった。

 

「ステラさんの仰る通り、幹部が強力なのは確かですが、班長格も増員傾向にあるようで。それ即ち、下っ端が増えてきたという風にも考えられませんか?」

「それは……あれです。あのー、その……パンティーのカードみたいな名前の」

VANGUARD(ヴァンガード)な。お前さては寝てるだろ」

 

 そうしてランタナは突っ込みつつ、その正体を垣間見る。

 ホワイトボードの前に立って進行する、ステラ。その目は虚ろになって、まるで焦点が合っていないではないか。レディ故にあまり声を大にしては言えないが、おまけに“くま”も出来ていて。

 

「おいおい、大丈夫かよ……疲れが出てるじゃねえか」

「大丈夫です。大丈夫ですよ。問題ありません。強いて言うならパンモロヌード所属者の個人情報を整理・保管する作業で泊まり込みの四徹をしただけですので、これぐらいどうってこと……」

「ヴァンガードな。なんかそういうビデオみたくなってるからね。聖女にあるまじきこと言ってるからね今ね」

「あら、うふ、うふふ、いけないわ、私ったら。少しお水でも飲んで一息つこうかしら」

「おい手ぇガッタガタに震えてるじゃねえか」

「あぶぶぶぶぶぶぶ」

「おい誰か救急車呼べ! こいつ死ぬぞ! 陸上にいながら溺死するぞ!」

 

 ボトルの水すらまともに飲めず、顔に浴び続けるステラを見て、危機感を覚えるランタナ。

 これでは進行が務まりそうにない。遅刻常習犯の自分は論外として、次に発言力がありそうな存在――それを取り急ぎ探す眼鏡に適ったのは、サザンカであった。

 

「ときにカエンくん。“たぴおかみるくてい”というのはご存知でしょうか?」

「なにそれ! はじめてきくよ!」

「たぴおか、なる摩訶不思議な食物が入った甘い茶だそうです。なんでも今、お若い方たちの間で流行しているのだとか。噂によれば、たぴおかはこの世とは別の次元に位置する世界の物質が含まれており、そこに住む存在が人間界を侵略するために伝えたらしく、味は……」

「へー、すげー! たぴおかすげー!」

「ねえ何の話してるの? どうしてよりにもよって今その話してるの?」

 

 望んだ助け舟は、猛スピードで眼前を通り過ぎて行った。

 しかしランタナは決して諦めない。まだ望みを託せる相手は、何人もいるからだ。ラフエルをなめるな。不敵に笑み、強気な独白をして見やった先には、コスモスの横顔。

 

「タピオカというのは、タピオカガエルという生物の卵から出来ているのです。人の腹に入ったが最後、寄生して宿主の栄養を吸い尽くし、最後はお腹を突き破って……」

「いやお前もか」

『ぎゃあああああ!』

「こっちの台詞だよ」

 

 こうなったら、最後の手段。いつどんな時でも真面目で良識を欠かさない、自分たちの頼れる兄貴分。公務員という立場は、こういうところで活きてくるのだろう。そんなことを密かに思った。

「助けてくれ、ユキナリさん――!」

 

『ちょおっとお! ジムリーダーと私、どっちが大事っていうのよ!? 声だけで昼酒に付き合うなんて、楽なもんじゃないのよぉ!』

「いやだから、カミーラ……今は大事な会議の最中で……」

『ハァ~~~~そんなに若い娘が良いってわけ!? あの、いたわよね! そっちにだらしないおっぱいしたシスター! ステラだっけ、あいつが好みなんでしょ! 知ってるんだから私!』

「本当に勘弁してくれ……」

 

 そうして目を輝かせて向いた先の男性は、電話を使った上司からのパワーハラスメントに喘いでいた。

 歯を食い縛る。いよいよ後が無くなった。残る二人、カイドウとアサツキは、お世辞にも多人数の会話をまとめられる人間性を持っていない。少なくとも自分の経験はそう記憶している。

 募る焦燥が、冷たい汗を呼び込んだ。しかしそれは予想外の働きを見せ、回りすぎて発熱した頭を却って冷やしてくれた。

 

「そういや、毎度のように会えば喧嘩してるあいつらが、今は大人しい……」

 

 ゆっくりと気配が希薄な左隣――アサツキへ顔を向ける。

 

「………………ん……」

 

 そも、論外だった。突っ伏したまま、すーすーと寝息を立てて気持ちよさそうに眠っているのだから。

 頭を抱えてしまう。冗談じゃないだろう。この騒音で眠れるわけがないだろう。どういう神経をしているんだ。

 

「ええい、ままよ!」

 

 ランタナはもはや自棄になって、本当の最後の希望に頼った。

 腕を組み、ホワイトボードをひたすらに凝視する、賢者の眼光に。

 

「カイドウ! お前しかいない! ここはもうまともじゃねえ! すっかり緩んでダメになっちまった雰囲気を立て直してくれ、頼む!」

 

 肩をぽん、と叩く。この際だ、人をまとめる能力については二の次でいい。

 それでも彼ならば。確かな集中力で事に臨める、彼ならば――。

 

「………………」

 

 とさ、と音がした。

「おい……?」突如として椅子からずり落ちるように倒れたのだ。揺すっても、頬を軽く叩いてみても、彼は無言のまま起き上がらなかった。

 そして一向に動じない眼球で、気付く。目を開けたまま眠っているのだと。

 誰一人として正気でないと知った時、男はとうとう膝から崩れ落ちた。

 

「ミミッキュ、ハイドロポンプはいけないわ、うふふ」

 

 ペットボトルの水で死にかけている聖女も。

 

「で、ですが私は負けませんよ、カエンくん! 必ずやたぴおかみるくていを食し、打ち勝って見せます! たとえ魔王アンドロボレアスの卵であったとしても! これは修行なのです!」

「が、がんばれ、せんせー! おれもおうえんしてるぞ! 心はいっしょだからな!」

「違います、魔王アンドロボレアスの卵ではなく、アンドロボレアスヌタウナギ三世の卵です」

『ぎゃあああああああ!!』

 

 流行りものを理解不能な心情で語り合っている男女も。

 

『そもそもねえ、私だっておっぱい大きいわよ! ふざけんじゃないわよ! 眼鏡におっぱいよ!? 無敵でしょうが!??! 揉みたいでしょ!? 揉みたいわよね!! 揉みたいって言え!!!!』

「もう許してくれ……僕が悪かったから……」

 

 パワハラに次いでセクハラに泣く警官も。

 

「んにゃ…………もう食えねえよ、ばか……」

 

 絵に描いたようなべたな寝言を漏らす、職人も。

 

「……………………」

 

 そして死人と見紛う勢いで眠る賢者も。

 

「……そうか」

 

 

 ――――みんなみんな、疲れているんだな。

 

 

 急ぎでも、何でもない。十分な時間を経た上での、結論であった。

 ぐったりとした頭をもたげた。混沌の渦の中心で、ただ一人正気を保ったまま、おもむろに立ち上がる。

 開けた窓から聞こえるは、虫たちの大合唱。入り込む生ぬるい風は、じっとりと汗に濡れたTシャツをいやらしく撫で上げた。ここに至るまでは必死で気付かなかったが――昼下がりの茹だるような暑苦しさを、ようやっと思い知る。

 人のせいだろうか。太陽のせいだろうか。恐らくどちらもだろう。

 季節は真夏――――八月のラジエスシティは、燃え盛る陽炎に揺れていた。

 何度呼吸をしても熱ばかりが肺を支配してきて、まるで生きている気がしない。酸素の味がわからない。

 というか冷房を付けろよ。最もな意見を一人ごちったところで、誰一人としてまともな判断を下せなければ意味がなくて。

 

「……はぁー」

 

 ランタナは悪態をつくように溜息を漏らした。

 別に、壊れてしまうほどに働く彼らへ怒った訳ではない。進行形で人々の体力を奪っていく熱気に嫌気が差したわけでも、当然ない。

 強いて言うなら、不自由に縛られるばかりで、皆に自由を提示してやれなかった己を責めた。

 ゆっくりと留守になったホワイトボードの前に立って、静かに取ったマジックペンを滑らせる。

 その様を誰一人として見ていないし、このままいけば今後も見られないのだろうが、構うものかと暴れる手。

 ときにランタナという男は、その魂が限りなく怠惰に近い場所にある。

 皆が気を引き締める場であっても欠伸をしていることがざらであるし、世間から「大人」と認められる年齢になって尚、人からの拘束を心底嫌っているし、結果的に規則を破ってそれから外れてしまう時もある。

 どこまで行っても自由を愛しているし、ともすれば我が道しか見えていないのだ。マイペースとも、云うのかも。

 そんなものだから、人は彼を「いい加減」と責め立てる時もあるだろう。

 だが縛られない彼には、全く関係のない笑いごとで。

 それはジムリーダー達の中でも一際異質に映るし、場合によっては彼らを困らせてしまうことだって大いにある。

 さりとて、害ばかりではない。少なくとも皆はそう考えているから、彼は孤立しないのだろう。

 

「――ちゅうもおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおく!!!!」

 

 他の七人では思いつかないことを、出来ないことをちゃんと言えて、やれる。

 

「お前ら、会議を続行するぞ」

 

 例えば。鳥のように浮いているから、周りをよく見ることが出来る。

 

「議題は変更するけどな」

 

 例えば。鳥のように鋭い視線を持ち合わせているから、同僚の疲労を看破することが出来る。

 

「何がバラル団だ。何が対策だ」

 

 例えば。鳥のように休憩を次の活力に繋げられると知っているから、堂々と胸を張って休むことが出来る。

 

「何がジムリーダーだ」

 

 視線を欲しいままに集め、叩くホワイトボード。

「どいつもこいつも使命や仕事に燃えるのは結構だがな、働き過ぎなんだよ」ろくに働いていないことを棚に上げ、ランタナは偉ぶった。さぞ反感を買ったろうし、人によっては「お前が言うな」なんて返答すら引き出すのかもしれない。

 しかし、それもまた味だ。今はそれでご愛嬌としてもらう他にない。

「頑張らない」を率先して行い、他者にもその選択肢を作ってやる。

 これぞ、ランタナの真骨頂。縛られないけど縛らない、彼の人としての魅力。

 

「とりあえず――――、旅行に行くぞ!!」

 

『ラフエルジムリーダー旅行計画』手のひらが指し示す白い板の上には、そんな黒字がでかでかとのさばっていた。



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02.戦士たちの休日

 ――その町は、タウンという名が示す通り、あまり大きくない。

 一〇〇万にも満たぬ住民の生活を支える程度のビル街と、アスファルトの道。それは確かに自然を尊重しているし、天を閉ざしてもいない。車の排気ガスがその存在を感じさせない、貴重な都市部だ。

 郊外に出れば、原色たちはさらに活気に溢れ、鮮やかになる。

 立ち並ぶシーヤの木が、風通しが考えられた背の低い建築物たちを飾り付けた。スカイブルーは背景いっぱいに広がって開放感を演出、訪れる者達を浮足立たせて止まらない。

 海に面した、ラフエル地方南東のリゾート地『ククリタウン』は、今日も今日とて元気に人を寄せていた。

 

「よぉー!」

「ランタナさん、おはようございます」

「おーおー、刻限五分前ってのに……皆さんお揃いで。相当楽しみと見たぜ」

「そういう君だって、遅刻がないなんてよっぽどじゃないか?」

 

「ははは、ちげえねえや」からりとした温暖な気候が、声をよく通す。

 着陸したムクホークから降りた。城が如きラグジュアリーな佇まいは、ただそれだけで気分が上がるというもの。

 午前一〇時、ホテル『モンテ・ウェイブルーフ』前で集合。ジムリーダー達は各々、平素の多忙を忘れさせる私服に身を包み、一週間前に提示された待ち合わせの条件をきっちりと守っていた。

 アサツキのサテンキャミソールや、ユキナリのポロシャツ、ステラのノースリーブ等……装いに統一感は無くとも、誰にせよ「涼しそう」という感想は共通している。

 五泊六日のプランで伴う荷物は重いので、

 

「とりあえず、荷物預けるか」

 

 とランタナが提案。それを合図に、皆ぞろぞろと予約済みのホテルに入っていく。

 さすが夏といったところか、混雑しており、人の出入りは激しい。

 が、それでも彼らの表情がこの空のように晴れやかなのを見るに、休息を提言した事も無意味ではなかったな……なんて、思える訳で。

 

「……業務命令でなければ、誰がこんな場所……」

 

 そんなランタナの手応えに、水を差す存在が一つ。

 レックウザの柄が入ったエメラルドグリーンのアロハシャツに、ベージュのハーフパンツ。かと思えば麦わら帽子との間にフェイスタオルを噛ませたファーマースタイル。ビーチサンダルから覗く足は、既にじんわりと汗が滲んでいた。仕方がないだろう、蒸し風呂状態の外には慣れていない。例年のこの時期といえば、冷房が効いたラボに引きこもっているのだから。

「ぶっ」ランタナは、カイドウの恰好を前にして思わず吹き出した。

 

「なんだお前その服装! だはは!」

「黙れ! 知人に訊ねたらこれが最も効率の良いコーディネートだと言われたんだ! なめるな!」

「おまっ……これ、夏によく見るサイコソーダ売りのおじちゃんじゃねえか! ぶははははは!!」

「くそっ! こんなに恥をかくならば、やはり仮病を使ってでも休むべきだった……朝八時に起き、大量のスポーツドリンクをクーラーボックスに詰め込んでいる場合ではなかった……ッ!」

「え、その死にそうな顔で引きずってるクソデカい箱クーラーボックスなの? どんだけ準備入念なの?」

 

 人の往来が多いホテル前で、それはとんでもなく邪魔だった。

 周囲から、この箱の中身よりも冷たい視線を向けられているのを見れば、わかる。

 

「コスモスの奴だって、さぞ乗り気でないことに違いない。だから一分前というのにまだ来ていないんだ」

「そういや……あいつだけ、遅れてんのか」

「暑いし混んでいるし濡れるし暑いし汚れるし疲れるし暑いし暑いし何より暑い! そんな中で浮かれていられる貴様らの頭の方が異常なんだ、いい加減熱にやられていると気付いたらどうだ」

「あーあー、わかったわかった。続きは海で聞いてやんよ」

「今に後悔するぞ! 脳みそが茹で上がった後では遅いということを告げておいてや」

 

 ばさ、ばさ、という逞しい羽音によって、半ばでかき消されるカイドウの言葉。

 その翼は、鳥ポケモンのように軽やかなものではない。

 その風は、撫でる優しさというより、押さえつける強さを持っていた。

 

「ようやく来たか……」

 

 ジムリーダー最強という肩書きだけで、日常の何気ない所作一つにも威厳が付きまとう。これが良いのか悪いのかはわからないが、少なくとも背に乗る彼女の貫禄は、如実に出ている。

 ドラゴンポケモン『カイリュー』の降臨――――コスモスの見参だ。

 

「すみません、準備に時間を取りました」

 

 水中で視界が殺されない、シュノーケル。遊泳と同時に酸素も取り入れられる優れものだ。

 腕にかけた浮き輪は今でこそ邪魔だが、後になれば水上で優雅な時間を提供してくれるに違いない。

 手中の水鉄砲で、誰を餌食にしようか考え中。

 ビーチボールは基本中の基本だ、忘れるなど言語道断。

 砂の城も作りたかったので、子供用バケツとシャベルも持ってきた。

「ぬかりない」と言わんばかりの気迫に、賢者ばかりか旅人も頭を抱える。

 

「さあ、行きましょう。決戦へ」

 

 満を持した、遊ぶ気満々のフル装備――――コスモスの、見参だ。

 

 

 

 日々考える事も、思う所も、山積しているだろうが――暗黙の了解で、今日だけは忘れよう。

 全力で羽を伸ばそう。水着姿で砂浜に一歩足を踏み入れて、そう独白した。

 

「海だーーーーーーーーーーーーー!!!!」

 

 かくして、ククリビーチエリアにて、戦士たちの休日は始まる。

 海パン一丁で元気いっぱいに走って叫んで、一面に広がる水へと飛び込むカエン。

「ひゃー! つめてー! しょっぱー!」ザブン、という海の受け入れの音を合図に、皆もポケモンを開放して、押しては引いてを繰り返す際限のない青に向かっていく。

 ランタナはマット、チェア、パラソルという通称“三点セット”を設置してから、一足遅れて賑わう景色へと向き直った。ある者は泳ぎ、またある者は水遊びに興じ、中には野生のポケモンと“なみのり”する者までいる。

 

「しっかし、久しぶりだなあ……海なんてよ」

 

 肌を焼く日照と、小波の音。鼻を抜けていく潮風のハーモニーは、彼に故郷(アローラ)を思い出させて、懐かしませて。

 

「……おおっ!!」

 

 しかしそれも束の間であった。

 男子というものは、見目麗しい女子たちを前にすれば、いくらノスタルジーであろうが二の次でしかない。

 気が付くと、青年の鋭い視線はコスモスへと向いていた。

 

「ネイビーブルー、フリル付きのホルターネックオフショルダーか……! 控えめなボディラインを盛りつつ、清純さを演出する愛らしいひらひらの飾り――んん!! 白百合のように純白で可憐で綺麗な肌と結ばれた銀髪も手伝い、一人静かに水を掬って遊ぶ姿はまさしく『夏のお嬢さん』ッ!! クソッ、クソッ、胸がきゅーんとくるぜ……!!!」

「お前は何を言っているんだ」

 

 パラソルの陰で腰を下ろすカイドウが言う。

 そんな追及をよそに続けるは、アサツキの捕捉。

「ひゃっ」慣れきっていない冷たさを足先に感じて、思わず引き返した。

 

「ンオオ……チューブトップ……イエローか! 確かに動きやすさを重視するアサツキが好みそうだ……しかしリボンで女子アピールも忘れねえ! そしてその形状の都合から巻き付けるように着用しているので、何とは言わねえがはちきれんばかりに強調されているッ! 何とは、断じて何とは言わねえが! 元々相当だったモンが寄せられ上げられしてさらに破壊力を増してるじゃあねえか! お兄さんはナンパが心配ですッ!!」

 

 誰に言ってるのかもわからないまま、最後と言わんばかりの勢いで見やるステラ。

 己のポケモン達が水遊びする浅瀬を、しゃがんで見守っていた。

 

「でかァーーーーーーい!! まさに色気のはかいこうせん!! 性のギガインパクト!!! 説明不要!!!! 上等な食材が小難しい味付けを必要としないように、小細工のない三角ビキニこそ、その胸には相応しいものだァァーーーーーーッ!! 見るからにオトナでありつつも花柄をチョイスするそのギャップも素晴らしい!! 普段が露出ゼロの修道女なんて、全く思えねえよ俺ァ!!!!」

 

 あまりの喧しさにとうとう堪忍袋の緒が切れたか、黙ってパラソルを守っていた大筒ポケモン“ドデカバシ”は、その立派な嘴でランタナを殴打。

「ぐえ」主は放物線を描いて海まで吹き飛び、やがて落水した。

 濡れた顔を出すと、偶然眼前にいたサザンカと目が合う。

 

「おや、ランタナさん。これはこれは、元気で結構なことです」

「水面に立って歩いてるあんたの方がよっぽど元気だと思うけどな俺は」

「なに、ほんの四〇年程度の修行で簡単に身に付きますよ。ご一緒にいかがですか」

「あんた一体いくつだよ」

 

「ランタナさん、あまりはしゃぎすぎないで下さい。怪我をしますし、他の方々も驚いてしまいます」

 わざわざ歩み寄ってきて注意するステラの言い分は、最もであった。

 いくらジムリーダーでも、ビーチは貸し切りに出来ない。となれば周囲の一般客と何一つ変わらないので、相応のマナーというものは必要で。

 すまんすまん、と返しつつ、

 

「そういや、お前は泳がないんだな」

「へ?」

 

 それはそれとして、率直な疑問をぶつけた。

 羽織られたラッシュパーカーに対し、思うことがあったわけでもない。ただ本当に、なんとなく気になってしまった。それだけ。

 

「ええ、まあ……」

 

 湿った髪をかき上げる間に、言葉は返らない。渋く視線を逸らして、もごもごと歯切れが悪そうに言い淀むだけ。

 その振る舞いだけで「答え辛いんだろうな」と察せたので、ランタナとしては十分だった。

 

「きゃっ!?」

 

 のだが、コスモスは全くそうでなかったようで、視認さえままならない速度で背後から接近、まるで果物の皮むきのような軽快さでステラのピンク色の上着を剥ぎ取った。

 

「こ、コスモスさん!? 何をなさるのですか!」

 

 そう言って振り返る動作で背中の傷を確認し、なるほどな、と言外で腑に落とす。

 

「ごめんなさい、何だか泳ぎたそうにしていたものだから」

「っ……お、泳ぎはしたいですけど」

 

『おい、あの子背中に傷あるぞ』『珍しい……どうやって出来たのかしら』『美人なのに、勿体無いなあ』

 次々に上がる周りの身勝手な声を聞き、苦い顔して赤らんだ。

 

「こ、こういうことに、なってしまいますので……」

 

 忽ちに音量が下がる声と、伸びる手。言うまでもなくパーカーの返却を求めている。

 どういう経緯でその柔肌に一本線が引かれてしまったのか。そしてこれに対して、本人はどういう心境でいるのか。

 ランタナは別に知ろうとも思わないが、彼女が居辛そうにして縮こまる姿を放っておく気も、さらさらなくて。

 何故なら本意を妨げられることは、不自由である故。彼個人が常々強く持つ流儀は、それを許さなかった。

 

「おーい、カエン」

「なーにー!」

 

 遠くでポケモンと戯れるカエンを呼び寄せ、

 

「ステラもポケモン役で、なみのりごっこしたいってよ」

「な!?」

「ちょっと付き合ってやってくれよ」

「わかったー!」

 

 ステラへと差し向ける。

 だからって過干渉は嫌なので、それ以上のことはしない、ただそれだけ。

「ちょ、ランタナさん!」ほどなくして当惑を覗かせるステラだったが、そんな暇も許さず「ステラねーちゃん、おんぶ!」と急かすカエン。

 

「はあ、どうしてこうなるのかしら……」

 

 成り行きに流されるままに屈んで、その小さな躰を背負うと、

 

「あ……」

 

 自身の傷が隠れることに気付いた。

 はっ、としてから、ようやっと旅人がせんとしたことを察するも、先に開口するのは少年で。

 

「ステラねーちゃん、せなかに傷があったんだな」

「ええ、昔にちょっと怪我をして、その時に」

「へへ、おれとお揃いだねー、なかまだ!」

「! ……もう、なんですか、それ」

 

 乗り出した顔の、頬の傷。それを指し示してにっかりと笑う少年の眩しさに、恥じらうのも馬鹿らしくなり、思わず表情が綻んでしまった。

 

「泳ぎたいなら、泳ぎゃいいじゃねえか。そのために小洒落た水着だって選んできたんだろ? 折角似合ってんのに、勿体無いぜ」

「ランタナさん……」

「ほうら行った行った、トレーナーさんが待ってんぞ。ラプラスみてえな乗り心地をご希望らしいから、せいぜい頑張るこった」

「……ありがとうございます」

 

 格好つけたはいいが、感謝を受けて、むず痒くなって。

 気の利いた言葉は柄じゃないし、人を上手に扱えない。

 立ち回りだってお世辞にも達者とは言えないけれど、いつも捨て置けずに中途半端をやってしまう。自由であるが故の視野の広さと、行動力――本人曰くこんな“貧乏くじ”なんざ、いっそ『ない方がいい』なんて思うこともあるが、ああやって美女から微笑みを向けてもらえるなら、頭のどこかで「悪くないな」なんて風にも思ったりする訳で。

 ランタナはそうやって、今日も“いい加減なお人好し”を繰り返す。

 

「ステラねーちゃん、泳ぐのうまいな!」

「そうでしょう? 幼い頃、習い事で水泳を嗜んでいたんです」

「きょうそう! きょうそう!」

「うふふ、負けません!」

 

 姉弟のようにして楽しげに泳ぐ大小二つの人影を眺めていると、コスモスが隣に立って声掛けしてきた。

 

「けっこう」

「んー?」

「周りを見ているんですね」

「いいや……、お前ほどじゃあないさ」

 

 何より、見てる(・・・)ってより、見えてる(・・・・)だけだしな。

 意味深長なやり取りもほどほどに、ということで、返事をそれきりにした。

 そして自身も泳ごうと、沖の方へと進んでいく。

 

「どうでもいいのですが……さっきのは思いきりアウトな方のセクハラなので、お気を付けて」

「ごぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼぼ」

 

 途中で足が攣ったのは、彼女だけが知る秘密。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 忘れていても、時間は進んでいく。

 休息を余すことなく限界まで楽しむ彼らは、きっと誰にも止められない。活気付いた状態のことを指すアローラ言葉『ゼンリョク』とは、本来こういう様を表すものなのだろう。

 ユキナリ、カエン、アサツキ、コスモスが、黄土色の浜辺の上で、先ほどから跳ね回っている。

 二対二に分かれて横長のネットを挟み、ボール一つを飛ばし合う――俗にビーチバレーと呼ばれるそれは、海の遊びの定番だ。

 

「アサツキさん」

 

 トス。

 

「っしゃ、どりゃっ!」

 

 スパイク。

 

「ユキナリおじちゃん!」

「任せろ……!」

 

 ブロック。

 ユキナリの手に止められたボールが、女子二人の前で落ちる。次いで鳴り響く短いホイッスルは、審判サザンカのもの。

「たけージャンプ、さすがだな!」「伊達に警察していないからね、身体能力には自信がある」

「すみません、トスの位置がよくなかったです」「こっちこそだ、勢い足りなかった」

 こうも清々しい絵面だと、流れる汗すら宝石よろしく煌めいて、美しく見える。

 

「試合が揺れていますね……」

「ああ、揺れてるなぁ」

 

「あの、大丈夫ですか?」パラソルの陰からゲームを眺めていると、隣のステラが目の前で掌をはらはらと上下させる。

 

「なんだかぼんやりしているように見えますが……」

「だ、大丈夫だよ。ちゃんとバレーボール見てるよ。アサツキの躍動感溢れる胸元のボールなんてこれっぽっちも……」

「何一つ大丈夫ではありませんね。グランブルとじゃれつけば目も覚めるでしょうか」

「だー! わかったよ! 悪かったって!」

「まったく……殿方とは、皆こういうものなのでしょうか。ねえ、カイドウさん」

 

 そう言って、溜め息を吐きながらランタナから目を逸らす。麦わら帽子で顔を隠して仰向けになるカイドウは、小さく呟いた。

 

「青い雲と、白い空」

「……か、カイドウさん?」

「わたあめに覆われたメリープと走り回る、砂糖菓子の城」

「諦めな、こいつは人混みと暑さにやられて限界だ。もう心象風景を言葉で表現することしか出来ない」

「メープルシロップの海を、ワッフルの船で渡りたい」

「なんてメルヘンな景色なの」

 

 熱中症かと思ってもみたが、単にそもそもの体力不足ということで、大事ではないという結論に至る。

 が、言い出しっぺで半ば強引に連れてきた身としては、きまりが悪くて忍びない。そんなところで彼が甘党であることをふと思い出したランタナは、おもむろにチェアから腰を上げる。

 

「ちょっくら、行ってくるわ。なんか要るか?」

 

 そして親指で示すのは、離れの建物。これまた定番、海の家だ。

 さっき通りかかった時に、店先にでかでかと『アイススイーツやってます』と書かれた看板が立てられていたのを、記憶の海からサルベージした。

 

「あら、ありがとうございます。かき氷のノメルシロップをお願いしても?」

「うい、ノメル味のかき氷な」

 

 ステラにノメルのかき氷、カイドウにアイススイーツ。内心の空白で、忘れないように繰り返した。

 

 

 

「嘘だろオイ……」

 

 海の家の中は、行列が出来ていた。

 人々が求めるのは、一貫してアイススイーツ。やはり暑い日に頂く冷たい甘味は、何にも代えがたい幸福感を得られる、ということでいいのだろうか。

 例えば、こうやって出入り口にまで及びそうな長蛇を並ばされても、食べたいと。そういうことなのだろうか。

 

「(考えるこたみんな一緒だな……)」

 

 頭をぼりぼりと掻く。辟易、といった渋い表情。

 うおんうおんと喧しい駆動音を撒き散らして回る扇風機が、青年を嘲った。

 いくら内装が新しい木目調で、どんなに空席があっても、この身近な窮屈さはそれ以前の問題。

 店内に吊るされたまま、寂しく揺れる『氷』の字。

「参ったぜ」と肩を落としたところで、自分の番が早まることはないので、大人しく列が進むのを待つことにした。

 

「お二つ、お待ちどうさまだよ~」

「マカちゃーん、もうひと頑張りだよー!」

「は~い!」

 

 後ろに人が増えていくうちに、少しずつ、アイススイーツなるものの全容がわかってきた。

 透明なカップに入った、ケーキのような形のアイスだ。見てくれ以外にもケーキ要素があるかどうかは、味わってみないことには何とも言えないが……とりあえず「ちゃんとしたパティシエが考案したもの」というのは、列を作る者達の無駄話から、盗み聞いた情報。曰く、新感覚スイーツ。そう云われるとなんだか自分まで興味が出てきた。

 恐らくアルバイトなのだろう、十代の少女がカウンターの向こうで一生懸命働くのを見て、何となしに昔を思い出す。

 季節度の長期休暇というものは、業界のほとんどがニャルマーの手も借りたくなるほど忙しくなる。そういった場面は、常に資金を要される旅人にとっては最高の稼ぎ時で。

 かつての自分もあんな風に行く先々でてんてこ舞いをしていたと考えれば、図らずも破顔してしまう。

 若いっていいなあ。そんな年寄りじみた独白を自覚して、大慌てで気を引き締めた。

 

「次には食えるぞ。待った甲斐があった」

「な、なんだか緊張してきたよ……!」

「もう、リノくんってばアイス一つで大袈裟だよ」

 

 とうとう目鼻の先にまで迫ったレジカウンター。自分の前の三人が消えれば、この地獄からも解放される。

 彼ら男女はどうも団体として並んでいるようで、大方夏休みをエンジョイする学生仲間、なんてところだろう。

 元気にはしゃぐ声も、間もなく自由が戻ってくると思えば、全く気にならないもので。

「それじゃ、お先!」三人組の紅一点ともいえる女子が、受け取りを済ませて離脱。あと二人。

 リノと呼ばれたプラチナカラーの髪の少年が、自分の番だと首から提げた小銭入れから、代金を取り出した。

 

「お兄ちゃん、譲ってくれる? ありがとう」

「わっ」

 

 事は、そんな折で起こる。

 

「リノくん!」

 

 ちゃりちゃり。小銭が飛び散る音と共に、リノは床に尻もちを付いてしまった。

 突然割り込んできた男に、突き飛ばされたのだ。

「おう店員さん、一つくれや」男は少年が小銭を拾い集める姿に目も暮れず、マカにへらへらとした薄ら笑いを向けながら商品を注文した。

 

「よ、横入りは、ダメだよぉ……」

「ああー、いいのいいの。この子優しいから、譲ってくれたんだわ。なぁ?」

「馬鹿な事言わないで下さい。今の、どう見たって横入りじゃないですか」

 

 店員の注意を歯牙にもかけず、図太く言う男。そこでようやく彼らへと視線を合わせたが、ぶつかったのはリノではなく、一緒になって小銭を拾っていた少女『ケイティ』で。

 

「け、ケイティ、ありがとう、もういいから……食べられないわけじゃないんだし……」

「いいや、こういうのは黙ってちゃダメ。正しくないことは、ちゃんと正しくないって言わなきゃ」

「なんだこの姉ちゃん、うるせえなあ」

「つっ!」

「金払うんだから、文句ねぇだろうが」

「ケイティ!」

 

 今度は力任せに彼女を突き飛ばした。すると一瞬にして険しい空気が店内を包み込んで、誰にとっても他人事ではなくして。

 訪れる、嫌な沈黙。

 

「譲ろうが譲らなかろうが、順番は守ったらどうだ」

「ゆ、ユーリ……!」

「あ?」

「あんたが割り込みで奪うその一個のせいで、別の人が食えなくなるかもしれないだろ」

 

 されどもう一人の『ユーリ』という少年は、勇ましく男に食い下がって、腕へと掴みかかった。

 

「あーあーわかったよ、お前らを列にいられなくすりゃいいってことだろ!?」

「ぐぁっ!」

 

 が、それも長くはなくて。思いきり頬を殴打され、リノの隣に倒れ込む。

 

「ユーリ! 大丈夫……!?」

「くそっ、こいつ……!」

「あ、わわわ、店長さ~ん! け、警察……!」

「いいからさっさと商品出せやゴラァ!」

「ひいっ」

 

 続く男の怒声が連れてくるのは、不快極まるどよめき。

 ケイティを歯噛みさせ、マカを黙らせ、再びユーリの前に立った。

 

「生意気なんだよ……喚くな、ガキが。大人に楯突くんじゃあねえ!」

「っ……!」

 

 上体を起こしただけの状態であろうが、関係ない。隣で呼び掛けるリノさえ巻き込む勢いで、回し蹴りを喰らわせた。

 

「まぁ落ち着けって」

 

 というのは、予定で終わった流れ。

 ランタナは、そうやって上げる直前の足をビーチサンダルで踏みつけていた。

 

「あァ!? 今度はなんだよ!!? 誰だテメェはよォ!!」

「誰でもいいだろうが。それよか止せよ、子供相手にみっともねぇなあ……」

「ほっとけや! 俺はあのガキに譲ってもらったんだっつの!」

「かー、こんだけ証人がいて、まーだ言うかねこのボケナスは」

 

 睨み合いも適度で切り上げ、男の足の拘束を解くと同時、さっと後ろに下がる。

 しかし逃がさない。そんな面構えで数秒前を咎めるように詰め寄ってくる男であったが、ランタナはそれを見越して、モンスターボールを突き出した。

 恐らく突飛な行動で理解できなかったのだろう、動きが止まる数舜。

 

「わりぃな、暴力は嫌いなんだ。でもお前はなかなか気に入らねえ……だからどうだ? こいつで勝ったらその『譲ってもらった』って順番さ、俺に譲ってくれよ」

「はぁ? なんでそうなるんだよ。頭おかしいんじゃ」

「まさか、ガキしか黙らせられねえってか? いい歳こいて、大人の解決方法を取れません、と?」

「……あン?」

「ああー、なるほどな。道理で言動が子供臭くて、アホ丸出しなわけだ」

「――ブッ潰してやるよ!!」

 

 とても安い挑発だろう。しかしどんなであれ、かかればこっちのもの。

 おまけに自分がジムリーダーであることを知らない程度には浅い知識ときている。

「勝った」そうして事前から勝利を確信するランタナであったが、

 

「おーい、遅いじゃん。何してんの?」

 

 それを破るのは、男と同じぐらい柄が悪い、男の連れで。

 出し抜けに現れた仲間に事情説明を済ませ、準備は完了。二人してモンスターボールを取り出すと、にったりと汚く笑い、近付いたランタナの顔を覗き込んだ。

 

「ポケモンバトルなら、何でもいいんだよな? だったら二人一緒に相手してくれや」

「けっ、ちゃっかりしてらぁ……」

 

 全く聞いていなかったことだが、今更「卑怯だ」なんて悪態をつくことなぞ、出来ない。投げた賽を拾い直すなど、あまりに恰好が悪すぎる。

 不安げに見つめる三人組が、露骨にまずそうな顔した青年に心配の声をかけた。

 

「おじさん、無茶ですよ!」

「お兄さんだ。まあ任せろ、なんとかしてやるって」

「あ、危ないですよ、僕は大丈夫ですから……おじさんも、お構いなく」

「お兄さんな。おじさんじゃなくてお兄さんな」

「せめて俺も加勢します、おじ……お兄さん」

「俺まだ二八なんだが? ギリギリ二十代なんだが? 帰りたくなってきたよもう」

「まだかよぉー、さっさとしようや、おじさん」

「っせーなァ! 今相手してやるから、黙って待ってろ!」

 

 と啖呵は切ったものの、だ。

 相手の頭の出来がどうであれ、脳が二つあると言う事は、単純に自分の倍の思考力を持ち合わせていることに変わりない。いくらポケモンの数が対等であっても、戦略の精度に差が出てくるだろう。

 どうしたものか。引くに引けない、どうしようもない状況で考える。

 

「へェー、面白そうなことやってんじゃねえか」

 

 そこで聞こえるとある男の声は、ランタナにとってさぞ頼もしかったに違いない。

 その青年は、一人席で軽食を味わっていた。空になった器がその証拠。

 水を飲み干して、すく、と立ち上がり、レジカウンターにお代を置きがてらマカへと「アイススイーツ一つ、取り置きしといてくれ」と注文した。

 そして、

 

「俺も混ぜてくれよ」

 

 青年は、忽ち修羅場に立つ。

 スタイリッシュさを感じさせる黒の半袖シャツと、清涼感溢れる緑のハーフパンツという装い。胸元に畳んでかけられたサングラスは、いかにもな夏の趣を滲ませる。

 

「ったく、次から次へと……今度は誰だよ、あん?」

「一対二はフェアじゃあねえだろ? だから数合わせに入ってやろうと思ってさ」

 

 男はまさしく乱入者に睨みを効かせるが、海風にわざとらしく髪を靡かせる涼し気な振る舞いの前では、生憎無意味なもので。

 ややもすれば気障(きざ)とさえ云われてしまいそうな声色、佇まいではあるのだが、本人は全く辞める素振りがない。恐らく自信の表れなのだろうと、思う。

 

「チッ、もうめんどくせえ。クソあちぃし……なんでもいい。やんならさっさとやろうや」

「決まりだな。ってわけでオッサン、そういうことだ。折角の休暇だから、バトルは避けたかったんだけどよー……祭りごとじゃ一緒に騒いでおきたい性分でな。手伝ってやるよ」

「お、おう。ところであんた……」

 

『オッサン』の否定も忘れたのは、それどころではなかったからだろう。

 ランタナが丸くする目には、青年を見た覚えがあった。

 いや、彼だけではない。ざわざわと段階を踏んで少しずつ騒ぎ立つ観衆にも、同じ記憶がある。

 どこの誰もが一方的では、あるのだが。

 

「ん? ……ああ、とっくに見飽きたぜ、その反応ならさ」

 

 人は彼を、知っている。

 

「最初に言っとくがツレ(・・)はいねえからな。一人でのんびり、お忍びの休暇中なんだ」

 

 カントー地方出身の彼を、知っている。

 

「ま、現状、そうもいかなくなったけどな」

 

 かつてのチャンピオンであった彼を、知っている。

 

「おっと、悪いがサインは断ってるぜ。一人にやったら皆にやんねえとだからな」

 

 そして今は異国の地でジムリーダーを務めていることを、知っている。

 

「ところでアンタ、名前は?」

「ら、ランタナだ……」

「お? あーあ、ラフエルのジムリーダーかよ! なんだよ、アンタとやり合った方が全然楽しそうじゃねえか……ちぇ、失敗したぜ」

 

 ツンツンに尖った茶髪と、強者のみが許される誇大な態度を――知っている。

 

「ま、いいや。俺は『グリーン』――――って、言うまでもないか」

 

 伝説(レジェンド)と謳われるポケモントレーナーの名を、知っている。

 

「さて、楽しい異文化コミュニケーションだ。ド派手にいこうじゃねえか」

 

 伝説と出会い、共闘する僥倖。及び、それからなる呆然。

 仰天に開いた口が塞がらなくとも、握手はしっかりと交わされた。



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03.Legend of Green

 海の家の前は、不自然なまでに空間が出来ていた。

 偏に木の棒を用いて描かれた、急場しのぎな砂上のバトルフィールドのせいで。

 周囲を固める騒音も、心なしか弱まった。恐らく間もなく始まる二対二のバトルを見せ物として楽しむため、大人しくなったのだろう。

 天候は“日照り”――四角形を囲って立つ四人を、大きな丸がさらに囲う。当事者も傍観者も、一様に元気であった。

 

「んーじゃま早速、やりますか」

 

 対戦者同士が目配せし合って構え、モンスターボールを場に投げ入れる。

 続けて男二人組の前で上がった光は、“リザードン”と“フシギバナ”の姿を成した。

 立ち起こる立派な咆哮が場を盛り上げる一方で、ランタナの傍には“ファイアロー”、グリーンの傍には“カメックス”がそれぞれ顕現した。

「おっ」カントー地方の冒険者が最初に手にする三匹、所謂『カントー御三家』が揃い踏み。あまりの偶然に少しばかりの高揚を覚え、グリーンは目の色を変える。

 

「ハハハッ、懐かしい顔ぶれだな。面白い事もあるもんだ」

「そのカメックス……やっぱりあんた、本物なんだな」

「だから、最初からそう言ってるだろ? 疑うなんて傷付くぜ」

 

「グリーン様、こっち向いて!」促したファンたちが一斉に黄色い声を上げるのは、その白い歯が鬱陶しいまでに煌めいているからに違いない。

 振る舞いだけなら噂通りなんだが……なんて、ランタナの苦々しい表情。

 

「ま、実力で証明するよ」

 

 そこから向き直る不敵な笑いが、

 

「だから、見とけって!!」

 

 そのままゴングとなった。

 カメックスの大砲から“ハイドロポンプ”が放たれ、伝説の戯れはいよいよ開幕。ルールは二対二のダブルバトルで、使用ポケモンは一人一体。アイテムはなし。

 何のことはないシンプルなストリートバトルでもここまで盛り上がるのは、場に華々しさがあるからに他ならない。

 極太の青線が、空気中の水分さえ巻き込んで橙の翼竜目掛けて突っ込んでいく。

 

「覚悟しなキザ野郎!」

「グリーンだかプリンだか知らねえが、吠え面かかせてやるよォ!」

 

 かわせ! リザードンは並み以上の機動力が約束されているからして、主の一声さえあれば回避行動など雑作もない。大翼を羽ばたかせて浮上する巨体は、水が砂に飲まれる様を見下ろした。

 

「かかったな!」

 

 入り込む隙を、見逃さない。ランタナが指さすのはフシギバナ。

 その時、既にファイアローはいなかった。

 ぎゅんっ、と鳴る音。

 それを置き去りにする赤橙の羽毛と残像。

 追い付けない。確実に。

 ひこうタイプの技を使ったポケモンを加速させる特性『はやてのつばさ』の後押しを受けたファイアローは、瞬きを終えた草蛙の視界に突如として現れる。

 輝き帯びて、軌跡を描きながら猛々しく突撃する技を、

 

「“ブレイブバード”!」

 

 と呼んでいる。

 我が身を顧みない一撃は、まさしく勇敢の一言。

 だが悲しき哉、

 

「げっ!?」

「バカが! かかったのはお前だよォ!」

 

 それはいきなりの透明な障壁に阻まれる。

 先立って唱えられた“まもる”であった。

 ばちん。望まぬ衝突を頼んでもない形で飾り付けるスパークは、意地悪く目交いのフシギバナの瞳を照らした。

 だが動くのは彼でなく、相方(リザードン)で。

「まずい!」言葉にする頃にはもう遅い。動きが止まった火の鳥の一瞬を切り取るようにして、体当たりで攫ってく。

 土壇場で通った“つばさでうつ”は、実に的確かつ冷静な判断の元で生まれたものとわかった。

 進行形で敵方と視線をかち合わせるランタナならば、余計に理解が及ぶ。無理もないだろう、笑っているのだから。

 

「フシギバナぁー、“ソーラービーム”いこうや」

「いい。構えて“れいとうビーム”で凌げ」

 

 火力と引き換えにチャージに時間を要する草タイプの大技“ソーラービーム”も、ここまで日光が豊富な状態であれば、即時発射が可能となる。

 眺めているだけで失明しそうになるほど強烈な熱戦が、有無をいわさず重戦車へと襲い掛かった。そうして追い詰められた状況であっても、肩越しならぬ甲羅越しで静かに指示を待ち受けるカメックス。そのキャノンが選択した砲弾は、氷属性のものだった。

 結果、相殺。水蒸気という名の白煙があたりいっぱいに広がり、ほどなくして晴れる。

 尚も反目は、続いていた。

 

「っくしょう……」

「やられたな」

 

 後悔の歯噛みに続く、涼し気な一息。

 リザードンとファイアローがドッグファイトを繰り広げる空と、フシギバナとカメックスが砲撃戦を展開する陸で、綺麗に戦況を分断された――。

 素人目から見れば単なる一対一の構図なので、何故彼らが渋い顔をしているのかは伝わらないだろう。

 

「へへッ、クソ正直に突っ込んで来やがって……ダブルバトルってのは相性だけじゃねえんだよ」

 

 しかし相対する男たちはよく知っている。そうなるように仕組んだ故、必然でしかない。

 ポケモンバトルを行う上で重要視されるものの一つとして『タイプ相性』がある。

 属性間の有効ないし無効によって発生するダメージ量が変動する、いわば得手、不得手の世界だ。

 本来これは絶対的に覆しようのない要素なのだが、複数体のポケモンを一挙に扱うバトルに於いては、その限りではない。

 例えば『片方が相性不利を強いられているポケモンに対して、有利を取れるもう片方がカバーに入る』ことが出来る。さらに相手は『カバーしてきたそのポケモンに有利を取れるポケモンで牽制を行える』し、仮にそれがわかっているならば裏をかき『敢えて不利相性で突っ張る』などというアンサーも大いに許される。

 この通り、シングルバトルだと従うしかない絶対の法則も、ダブル以上のバトルでは要所要所で駆け引きをや読み合いを生じさせる、思考の種と相成っている。

 この状況ならば、誰だって飛行タイプ(ファイアロー)草タイプ(フシギバナ)に相性有利を押し付けることなど考え付く。普通ならばその裏を読むべきだったのに、彼という人は愚直なまでに目の前の選択肢に囚われた。

 カメックスの一撃で引き離されたリザードンが、親切に何もしないでいてくれると思ってしまった。フシギバナには弱点を凌ぐ手段などないと、侮ってしまった。

 味方の不利を押さえ込むほんの一手で、盤上はたちどころに覆る。

 フシギバナを叩くことよりも、カメックスとフシギバナの対峙を防ぐべきだった――。

 

「ダメだな、なめすぎた……」

 

 ランタナは、自責せざるを得ない。

 

「ポケモンバトルなら勝てるとでも思ったか? だったら残念だぜ!」

 

 そしてようやく認識する。敵もまた、れっきとしたトレーナーであったと。

 

「こちとら、ジム巡り経験があるんだからなァァ!!」

 

 フシギバナがソーラービームを乱射する。彼そのものに動きは無くとも、苛烈を極める射撃は猛攻と呼ぶに相応しい。背中に咲いた大輪の花から、幾度となく活きのいい光芒が閃く。

 カメックスは防戦一方だった。体表が干上がりかねない熱射と、体内を蒸しあげてしまいそうな気温。そんな環境下でスタミナを維持し、あまつさえ技を連発し続けることなど、たとえ歴戦の勇士であっても無理がある。

 

「なんでカメックスを選んじまったのかねェ! オイ!」

 

 ジリ貧。時間の問題。矢継ぎ早に立ち込める霧はやがて場に充満し、人々の素肌を冷やした。

 空で行われる戦いを一瞥。

 

「すまねえ」

 

 その後に横目で見たグリーンへ、詫びを入れた。

 

「俺が判断をミスったばかりに、このザマだ。レジェンドにゃ華を持たせてやりたがったんだがな」

 

 しかしまだ負ける気はないようで、

 

「だが責任は取る。この状況を打開するには、俺はどうすりゃいい」

 

 指示を仰ぐ様子からも、窺い知れる。

 

「あんたのことだ、何か考えはあ」

「ねえよ、そんなもん」

 

「……は?」ぽかん、とした。その遮りは、あまりにも予想外だったから。

 あっけらかんと言うグリーン。余裕と捉えていた表情も、急に不安になった。

 思考が停止しているのではないか、と。

 おいおい。ランタナがそう問い質そうとしたところで、再びの遮りが起こる。

 

「あの初撃、アンタはなんでフシギバナを狙った?」

「そりゃあ、カメックスの攻撃でリザードンが離れたと思ったからだろ……最終的には見せかけの罠だったけどよ」

「それはアンタの自由意思でやったことだよな? だったら次も同じようにやってみりゃいいだけだ」

 

 グリーンが掲げるその言葉に、体がぴくりと反応した。

 

「聞いたことあるぜ、ランタナ。アンタは『自由』を教えるジムリーダーなんだろ? だったらそれに拘って、きっちり勝ってみろよ」

 

 自由――それは、己だけが持つものではない。

 己が惹かれるようにして住み着いた街も、共に掲げるものでもある。

 今よりも遥か昔、絶えず争いを続ける世は戦火に満ち満ちていた。

 人々は村を焼かれ、町を均され、行く場所を失った。

 そんな中で年齢も、性別も、種族も、所属も問うことなく、彼らを移民として受け入れた地がある。

 名を『シャルム』。その地を治めていた当時の王は、異なる文化を侵さず、肌色が違う民を虐げず、知見の及ばぬ宗教でも汚さなかった。

 流れるもの全てを、大らかで深い懐を以て良しとした。

 

「好きにやれよ。決まりに縛られず、型に囚われず――最高じゃねえか」

 

 その成り立ちを聞いた時、彼は運命を感じた。

 そしてより強く思ったのだ。悉くが自由であれ、と。

 

「俺の勘が言うには、アンタはそっちの方が強そうだしな」

 

 男は口元を笑ませた。ランタナという名が、違うことなく遠い地へも届いていることを知って。

 

「ま、俺は最強だから? ついつい頼りたくなっちゃう気持ちは、わからなくもねぇけどな」

「……へっ、言ってろ」

 

 なんだか、認めてもらえたような気がして。

 

「そんじゃあレジェンド、遠慮なくその胸、借りるぜ!」

 

 吹っ切れた青年の声は、快活そのものだ。

 空に右手の指先を向ける「行け」というジェスチャーは、ファイアローに交戦を止めさせ、技“そらをとぶ”を発動させた。

 

「お? なんだよ、逃げやがったぞ」

「ハハハ、諦めちまったのか!?」

 

 靄の中を抜けて、彼方の天空へと飛んでいく火の鳥の姿を、相対者達は見逃さない。

 唐突に逃げられて手持ち無沙汰になったリザードンが次に取る行動など、考えなくともわかる。

 

「じゃ、先にこっちから終わらせてやらねぇと、なァァァ!!」

 

 がら空きになったカメックスへの、突撃。

 フシギバナの怒涛の攻撃を打ち消すことで手一杯な彼に、横槍をどうこうする余地などどこにもなくて。

 気が早いが、数十秒先には訪れているであろう勝利を前もって喜び、男は「ソーラービーム」と唱えた。

 エネルギーの充填が始まる。四つに分かれた花びらが、一枚ずつ順繰りに輝いていく。

 リザードンの『かみなりパンチ』が通るタイミングと、合うように。一度の攻撃で全てが済むように。そういう時間調整。

 

「……あン?」

 

 それを裏切るのは、誰だろう。

 遠くで根拠もなく勝ち誇った顔をする、茶髪の青年だろうか。

 或いはただただ攻撃を受け容れることしか出来ない、青色の水亀だろうか。

 

「――なんだあのオッサン!?」

 

 どちらもノーだ。

 

「風よ! 空よ! 万物照らす天高くの威光を――、今こそ我が手に!!」

 

 正解は、腕を広げた後に屈み、一思いで立ち上がると同時に拳を空へ突き上げるランタナ――“踊るオッサン”だ。

 

「何一人で叫んでんだ、気でも狂ったかよ!」

 

 ギャラリーからも笑い声が上がるが、当の踊るオッサンは気にしない。

 自身は真面目も真面目、大真面目だ。今しがたの動作は自分の出身地で受け継がれる神聖な儀式であるからして、恥じては失礼に当たるというもの。

 その誠実な意志に応えてか、突き上げた腕の手首に巻かれたリングが、空色に光り出す。

 

本気(ゼンリョク)だよ。お前らこそ人の本気(ゼンリョク)を笑うとか、ちゃんと本気(ゼンリョク)してんのかよ。趣味悪ィな」

 

 発される輝きはやがて大空へと送られて、そこで黙して待つ仲間の元へと届いた。

 滞空のために上下させる翼が、黄金へと変色する。筋肉は高い気圧にも負けぬよう膨れ上がり、陽光よりも眩しい煌めきは、全身をバリアよろしく包み込んで。

 

「後悔するぜ」

 

 刹那――昼空に、星が見えた。

「んな!!?」今にもソーラービームの発射サインを伝えようとしていた男は、フシギバナへと真っ逆さまに落ちてくる瞬きを視認し、大口を開けた。

 隕石か、流星か。目どころか音すら振り払って飛来する、逃げたはずのファイアロー。

 アローラ地方には『Zワザ』なるものがある。

『Zリング』と『Zクリスタル』なるアイテムを装着した状態で、ポケモンにある種のまじない的な舞いを捧げ、一時的に特別な力を付与する民俗技術だ。

 基本的にポケモンのタイプと同じ数、つまり全一八種あり、その分だけ踊りのパターンも用意されている。

 ランタナがなぞったたおやかなそれは、ひこうタイプのもの。

 

「チッ、なんだあのドデカい技!? 知らねえ! 聞いてねえぞ、クソ!」

「言うかよ、バカタレ。こちとら防がれりゃ全部パーになる、一回こっきりの必殺技だ。悟らせない努力と、命中させる準備は欠かしてねぇんだよ!」

「! まさか、空へ逃げたのも……!」

「リザードンの警戒を解くための、見せかけってな!」

 

 その技は、クリスタル『ヒコウZ』から貰い受けた力で、放つことが出来る。

 

「くらいやがれ! ファイナルダイブ――!!」

「まッ、“まもる”!!」

 

 その技は、自由を追い求める鳥の記号を秘めている。

 

 

「クラァァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッシュ!!!!」

 

 

 その技は、いかなる防御手段を用いても――守り切ることは、叶わない。

 飛び散る砂塵と、衝撃波。鮮やかな縦一閃が、天翔けた。

 満を持して放たれたZワザ『ファイナルダイブクラッシュ』は“まもる”の障壁を薄皮のように打破、文字通り全力の突撃という形を成して、フシギバナを沈黙させる。

 

「ヒュー!」

「っ……り、リザードン!!」

 

 仲間のポケモンが倒れたのを見ると、表情の明暗はくっきりと切り替わる。

 泡を食っても、変わらない。焦燥に駆られた喉が発する指示に、一体どれほどの強さがあるのだろう。

 

「いいリザードンだな。百点満点中の三〇点ってとこか」

「あ……あぁ……」

 

 ――きっと、伝説は一ミリたりとも動かせない。

 カメックスは弱点攻撃“かみなりパンチ”の直撃を受けても、なんのそのと立っていた。

 拳が至った面の皮一枚すら微動だにしない様たるや、まるで壁でも殴っているのではないかと錯覚してしまう。

 顔一つで受け止めた拳を、引っ掴む。

 踏み込んだ足。

 

「ひ、ひぃ! やめろ! バケモノみてーな真似しやがって! テメェら覚えとけよ! 後からけちょんけちょんのボコボコにしてぎったんぎったんに」

 

 食い込ませる爪。

 

「“ハイドロポンプ”」

 

 背負ったバレルを向ければ、準備は完了。

 数センチとはいえ、反動で大地を抉るほどの放水は、約束通りにリザードンを遠方へとふっ飛ばした。

 

「出直してきな――あいつ(・・・)のリザードンの、足元にも及ばねえ」

 

 水が乾く空気であろうが、特攻属性の一発であろうが、関係ない。

 カメックスはそう言わんばかりに鼻息を吹いて、祝砲を宙空へと撃ち放った。

 リザードンも停止が確認されると、沸く歓声。それを共に浴びる自分が場違いなように思えながらも、

 

「やるじゃねえか。やっぱり俺が言った通りだ」

 

 ランタナはグリーンのしたり顔を見て「やれやれ」と気を抜いて呟いた。

「や、や、やな感じーーッ!」ポケモンが戻っていき、男たちが逃げていく。遊戯と呼ぶには過ぎる贅沢な戦いは、かくして終わりを迎える。

 

「さてと! んじゃ、暇つぶしも済んだし行くわ。またな、異国のジムリーダーさんよ」

「え? お、おい」

「あー、楽しかった! 今度会う時は勝負しようぜ。バイビー!」

「行っちまったよ……」

 

 用が無くなるやいなや、一息もしない内に遠ざかる背中。それは二指敬礼じみた独特な挨拶だけを残して、あっという間に捉えられなくなった。

 嵐のように現れ、嵐のように去っていく。

 青年が耳に留めていた“緑色の伝説”は、噂通りの奔放さであった。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 きのみの一種に、“カイスのみ”なるものがある。

 大人の男性でも両手に収まらないほど大きくて、九割の水分と一割の糖分で構成されるそれは、一般的に暑いシーズンが最盛期とされており、夏の風物詩として有名だ。

 目隠しをし、周囲の誘導だけを頼りに木の棒でそれを割る遊び『カイス割り』は、特に広く知られ、浸透している。

 

「がんばれカエン! 右だ、右!」

「こ、こっち!?」

「うーん、惜しい」

 

 陽は沈んだ。暗くなって実像を消して、潮騒だけ残す海も、なかなか乙なもので。

 泳ぎは切り上げ。木で小型の塔を組み上げ、燃やす。キャンプファイヤーならぬビーチファイヤーの前で、カエンはカイスの気配を探っていた。

 

「行き過ぎだ馬鹿者! 右に四三度、一六センチ前方と伝えたろうが!」

「わ、わかんないってそんなのー!」

「分かりやすく甘党だな、あいつ」

「食べた途端、あんなに元気ですものね……」

 

 カエンに細々と指示するカイドウを遠巻きにしながら、ランタナとステラはしみじみ話す。

 少年たちに無事アイススイーツを贈れたし、カイドウの分も品切れになる前に入手出来た。それが最後の一個だったというのは、恐らく不要な情報。

 ふう、と一息吐いて振り返るは、本日のアクシデント。

 貴重な経験だったとはいえ、些か疲れた。

 若かりし日と比べ「歳か」なんて思いかけて、急いで否定する。

 

「ランタナさん」

「ん?」

「せっかくのお休みですし……今夜、ご一緒にいかがですか?」

 

 自分はまだまだ、こんなものではない。

 

「――いいじゃねえの」

 

 手に持った何かを口元で傾ける彼女の動作を見て、ただ一言、そう返した。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 宿『モンテ・ウェイブルーフ』の六階には、バーがある。

 疲弊した大人達を慰める、心のオアシス――酒場などというものは、時としてそんな呼ばれ方をする。

 アルコールは一口に良いものとは云えない。だがそれでも、大人の活力となることに違いはない。

 深夜一時。子供たちが遊び場を夢の世界へと移す頃、大人の時間は始まる。

 

「マスター、スレッジ・ハンマーを」

「かしこまりました。攻められますな、旅のお方」

「たまには乱れたい日も、あるのです」

 

 バーテンの後ろに置かれた棚一杯の酒瓶は、見ているだけで元気が出るもので。控えめな主張のジャズが、嫌味の無い酒くささや、暖色の薄明かりと混じって、味を出している。

 カウンターで照らされながら、ランタナ、ステラ、サザンカ、ユキナリの四人は並んでいた。

 八人の中でもとりわけ考える事が多く、かつ社会的に飲酒が許されている所謂“大人組”というやつだ。

 考える事が多いから、それだけ悩む。それだけ悩めば苦しむし、苦しむならば何かに逃げたくなる日もあって。

 そんな弱みを共有できる集まりとして、ステラは彼らを誘ったのだった。

 

「では私も……“たぴおかみるくてい”を」

「いやねえよ」

「……こほん。タピオッカ・ミルクッテを」

「言い方の問題じゃねえよ。それ以前だよ」

 

 例外はある。

 

「へいお待ち、タピオカミルクティーでぇ」

「いやあんのかよ」

「ありがとう、どうやら私も乱れたい気分のようです」

「何を乱すんだよ。乱舞すんのあんたの口ん中だけだよ」

「アンタもなかなかに攻めんなあ、酔いどれんなっつぶっ倒れても、面倒見れんかんね。この店はアフターはやってねえっぺな」

「んでさっきから雰囲気ぶち壊すその方言はなんだ。ってかなんでお前がここにいるんだ」

 

「ヤシオ」ランタナがその名を呼ぶということは、知り合いであるということだ。

 

「いんやぁ、ひさひさ、ランタナさん。シャルム以来っけえな」

 

 それもそのはず。ポケモントレーナーの青年『ヤシオ』もまた、ラフエルを旅する一人なのだから。

 ヤシュウ節なる実在も怪しい謎めいた方言を用い、飄々と振る舞うが、七つのジムバッジを欲しいままにする実力は折り紙付き。

 そんな彼がどうしてバーテンの装いを取っているのか。疑問に思いこそしたが、想像には難くない。

 

「もしかして、お前もバイトか?」

「いえっさ。なにぶん金がねぇもんでして、昼間は海の家の厨房で、夜はこうしてバーテンやっとりゃす。さっきはお楽しみでしたね」

「いや、見てたのかよ……」

 

 続く「ご注文は」に「マティーニ」と、無難なオーダー。最初はこれにするのが、ランタナの拘り。

 とっとっ、という液体特有の音が流れ、小気味よいシェイク音が店内に響くと、完成。グラスに沈んだ血色のいいオリーブが、ジンの中で艶っぽく輝いていた。

 

「では、素敵な夜にしましょう」

 

 ステラが簡素な乾杯の音頭を取る。こういう洒落た店なら、寧ろこれぐらいで丁度いい。

 

「乾杯」

 

 チン。打ち合わされたガラスの音が、彼らをさらなる夜の深みへと連れて行く。

 

 

 

「あっはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」

 

 それは、悲惨なものであった。

 腹を抱え、人が変わったような高笑いを上げるのは、ステラ。アルコールで顔を赤らめ、何が面白いのかもわからないまま、狂ったように笑っている。否、狂っている。

 

「ナエトルが、萎えとる! フシギダネは不思議だね! っひっひっひっひ……あーははははははははは!!」

 

 理性が焼き切れる、酔っぱらいの向こう側――俗にいう“出来上がり”という状態であった。

 

「お、おい、これちょっとマズくねえか……」

「ちょっとどころじゃない。見ろ、目が据わってる。くそっ……すまない、こうなる前に僕が止めるべきだった」

「いや、しょうがねえよ。誰もこうなるなんて思わないもん。そりゃ『乱れる』とは言ったけど、限度があるだろ限度が。もはや別人じゃねえか」

「確かに……それはそうと“たぴおかみるくてい”を、もう一杯」

「タピオカ好きすぎない?」

 

 膝を叩いて騒ぐ姿に、気圧される三人。

 正直、今のステラには近づきたくない、というのが男達に共通する心境であった。

 

「ヒック! ……ゆーきなりしゃーん、ヒィック! こっちきれくらさいよぉ、あらし△#ぇ☆¥&*のおu%Φヒック!」

「日本語を喋ろうね……」

 

 だが彼女はそんなこと、知った話ではなくて。

 しゃっくりと手招きに誘われたユキナリはおずおずと、そして不承不承にステラの隣に座る。

 

「ましゅたあー、びぃーるうぉひとぉーーーつ! びんのまま! びんのまま!」

「……おい、まさか。僕はもう飲めないぞ!?」

「らぁーいりょうぶらーりょぶ! さきっぽだけ! さきっぽだけだから!」

「オッサンみたいな事を言うな!」

「だぁーってあーしの酒飲めって言ってんだろおおおおおおおおおおおお!!?」

 

「ぐぼァ!!!!」それがユキナリの断末魔であった。

 次の瞬間、その席にユキナリはいなかった。あるのはビールに溺れ死んだ骸だけ。

 

「ユキナリさあああああああああああああああああああん!!?」

「しゃじゃんかしゃーん! しゃじゃんかしゃーん! うふふ、だーつであしょびましょ!」

「すみません、今の私はタピオカ討伐で忙しいもので」

「やらやらぁー、だーつ! だーつしゅゆのー! だーつ! だーつ!」

 

 その時、サザンカはもう立っていなかった。

 

「――お前を的にしてな」

 

 頭から血を流し、床に伏していた。

 

「サザンカさあああああああああああああああああああんッ!?」

「んふ、んふふ! ヒック! んふふふふふふふふふふヒック!!」

「お、落ち着けって……話せばわかる。話せばわかるって!」

 

 とは言うが、本当はわかっていた。言葉など通じないと。その行動に意味などないと。

 単なる不条理である、と。

 

「マスター、ヤシオぉ、助けてくれえ!」

「さて、ヤシオくん……今日は店仕舞いとしようか」

「さいですね」

「聞けよォ!!」

 

 ランタナは獲物を狩る獣の目をしたステラに睨まれ、思う。

 大人の時間とは、こうも険しいものだったろうか? と。

 こんなにも恐ろしいものであるならば、初めから味わわなかった、と。

 

「うふふ……じつはですね、あそこにちょうどいい柱があってぇ……ストリップショーなんてどうかなあ、なんて思っててぇ……」

「…………助けてくれ……」

「脱げオラァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」

「だずげでぐれえええええええええええええええええええええええええええっ!!!!」

 

 翌朝、三人の男は店の前で発見された。

 一人は全身の穴という穴からビールを流し、もう一人は頭にダーツの針を刺し、最後の一人は全裸で下着を被らされていたという。

 ステラは残りの数日で、暇さえあれば天に向かって懺悔を繰り返していたそうだ。

 それらの理由を、子供組は一人として知らない。



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04.自由を司る街

 八人のジムリーダー達は、ククリタウンでの二日間を終えた。

 それは騒がしかったり、慌ただしかったり、時には理不尽が降り注いだりもしたが、誰もが概ね「楽しかった」と言っていた。恙なくビーチを満喫出来たと表現しても、いいだろう。

 財宝が隠されていたとか、伝説のポケモンに出会えたとか、そういった特別にして劇的なこともなかったが――結構だ。それでいいのだろう。平穏無事が一番。

 五泊六日のうちの三日目、つまり今日以降に何をするのかというと。

 

「はいよー、シャルムシティ到着ね。料金は八名様、お荷物が二八個で96000円になります」

「っげ、たっけえ……」

「まいど!」

 

 答えは、この地が知っている。

 ラフエル地方の移動手段は、主に陸路に頼るものが多い。鉄道が開通していないし、飛行機を飛ばす技術はあっても、各地に発着場を設けるスペースも経済力もない。

 よって町から町への大規模移動は、一般的に馬車『バンバドロ・キャリッジ』に頼ることになるのだが……やはり、スピードという面で疎かになってしまう。迅速さが求められたときに、物足りないのだ。

 そんな時の最終手段が、この『ポケット・スカイカーゴ』というサービス。陸地のせせこましさを無視し、町から町を空路でひとっ飛び。コスト面等の問題で値は張るものの、人数も貨物も上限が高く設定されていて、交通手段としての使い勝手の良さはラフエル地方に於いてトップクラス。

「それじゃ、またのご利用をお待ちしてまーす!」高級ブランドの名に恥じない働きぶりを見せた化石ポケモン“プテラ”が、操者を乗せて再び飛んでいく。

 ランタナは束の間の空の旅を終えて、背伸びした。伴わせる欠伸のついでに空を拝んで、天候の確認。絶好の観光日和を確信。

 

「ここが、か。なんだかんだ来たことはなかったな……」

「存外、明確な目的がある奴以外は来ることもねえな。遊びたきゃぺガスで済むし、学びたきゃリザイナでいい。外部からの客は首都ラジエスを見るだけで満足ときた。見られる顔と言や、ネイヴュに御入用の奴ぐれえよ」

 

 賑わうメインストリートには、石畳が敷き詰められている。

 脇を固める建物達は、デザインの毛色がバラバラで一向に統一感がない。

 普通の街ならば不格好以外の何でもないのだが、この地が育てた背景は、寧ろその景色を個性として容認させてくれる。

 至る所に施された飾りや落書きは、素人のものではないと一目でわかる。なんでも訪れた異邦の芸術家たちが、此処の特異な成り立ちに感銘を受けて残していったものだそう。

 高低差があるもので、場所によっては街の全体像が一望できる。住民の誰もが強く主張するエネルギーを持っているのだろう、家々は思い思いの色が乗せられていて、カラフルそのもので。

 

「ま、つまんねえことはねぇからさ。ゆっくりしてってくれや」

 

 ここは世界遺産に登録された街。文化と文化の、交差点。

 

「ウェルカム、シャルムシティ」

 

 一行は、全てを尊重する自由の街――――シャルムシティへと、足を踏み入れた。

 

 

 

 ジョウト地方は、今でこそ立派な名前が付けられている。

 しかし当初は、趣を重んじるその国柄や、柔らかな言葉遣いを多用する国民性から、諸外国からは『和の国』なんて呼ばれ方をしていた。

 ジョウトの甘味は和菓子、詫と寂を大切にする風情は和風。

 

「おいでやす~」

 

 そして民族衣装は、和服と云われる。

 “着物”なる別名を取るそれは、彩り豊かで気品があり、独特な奥ゆかしさが見る者を虜にする。

 特にジョウト外にあっては、憧れる者すらいるとか、いないとか。

 

「……いけないわ、少しはしゃぎすぎですね……」

 

 ステラとアサツキもまた、そのくちの人であった。

 それらしくジョウト言葉を使うのが、その証拠。実際に身に纏って高揚を抑えられなかったのだろう。

 木造の長屋がひたすらに軒を連ねる街並みは、とてもラフエルのものと思えないし、そればかりか現代という時間には大きく噛み合わない絵面だ。

 それもそのはず、ここら一帯は戦争で荒廃したところを、ジョウト出身の職人たちが修復した町『和装街(わそうがい)』なのだから。

 どんなにジムリーダーや、一地方の守り手と言ったところで、アサツキは若者だ。ステラもまた然り。

 やはり流行には興味があるし、洒落たものは写真に収めずにはいられないし、楽しみたいことだって次から次へと出てきて、きりがない……なんてこともある。

 だったらば、旅行先で観光スポットを巡りたいと思うことも、ごくごく自然な話で。

 

「活気に溢れるのは、良い事です。羽目を外すのも、時には大事だと考えます。例えば……」

「みんなー! これすっげーかっけーぞー! いあいぎり! つじぎり!」

「あれぐらいやれれば、上出来でしょうか」

 

 脇差し片手に袴を振り乱すカエンを眺め、言う。安全な材質で造られたレプリカなので、問題はない。

 青い長着を着流すサザンカは、涼やかに袖手(しゅうしゅ)の恰好を取りながら、

 

「お二方、お似合いですよ」

 

 桜色の蝶柄と、黄色の菖蒲柄を褒める。

 ステラの「ありがとうございます」に続けて、無言で自分の姿を何度も見回すアサツキ。まんざらでもないのだろう。

 八人は旅館へ荷物を預け終えると、チェックインまでの猶予を自由時間とした。

 四、四で二手に分かれた後、サザンカ、アサツキ、カエン、ステラは、衣装をレンタルして和装街を散策する選択を取ったのだ。

 カイドウ、ランタナ、ユキナリ、コスモスの四人組は何をしているのだろう――なまじ個性が強いメンバーで固まっていて、動向が気にならなくもない。が、

 

『美味~~~~!!』

 

 今はこの手元にある和菓子の味を、一生懸命に覚えたい。

 運河が見える甘味処で、彼女達はそんなことを思っていた。

 

 

 

 沢山のガラスに、囲まれている。向こう側にいるのは、くたびれた紙くずだったり、ボロボロの布切れだったり、汚れた石だったり、錆びた鉄屑だったりして、千差万別なのだが――決まって『長い時を生きたモノである』ことは、共通している。

 これではどちらが見られているのか、わからない。静寂の中で佇む展示物たちをじい、と凝視しながら、コスモスは思う。

 

「時空を創りしポケモンを繋ぎ止める『赤い鎖』か。人間の意識を構成する三要素――“感情”、“意思”、“知恵”のそれぞれを司るポケモンの骨から生み出されるそれは、長く伸びて絡み合う、ヒトの血管のように複雑な形状をしていた。そんな記述もある」

「人を形作る存在から造られたから、人の血の色。故に赤、と?」

「検証していないので、断定は出来ない。が、そう云われている」

「成程。ガイドをありがとう、カイドウくん。でもこの色は、血を表す赤ではないと思うわ。動脈血の色にするならば少し黄が足りていないし、静脈のものならば緑が僅かに欠けています」

「保管性を重視したレプリカにそこまで求めるな、一瞬の状態を切り取っただけのものに過ぎん。こういう色をしている時期もあった、程度の認識でいい」

「そういうもの、ですか」

 

 何やら知的な会話を繰り広げているが、正直聞く気が起きない。退屈に思えて、冗長に感じられ、眠くなってくるから。

 ショーウインドウ前に並ぶコスモスとカイドウの背中をぼんやり眺めながら、小指で耳穴を掻くランタナ。

 海ではダンマリであった賢者も、ここでは饒舌であった。露骨に増える口数をカウントしながら、やっぱこいつとは趣味が合わねぇな、なんて独白を腹の底に垂らす。

 一方の四人が訪れていたのは『七色資料館』なる施設。

 ラフエル外部から伝わってきた文化財、及び伝説にまつわる物品を所蔵している博物館だ。

 ほの明るい証明に照らされて活き活きとする荘厳さには、自ずと背筋が伸びるというもの。

 

「(……アイツら、和装街に行ったのか。俺もそっちにすりゃ良かったなぁ……)」

 

 尤もランタナは、例外であるが。

 暇な手でなんとなしにSNSを確認すると、タイムラインを流れる和菓子の写真。皆の着物姿も拝めたものだから、余計に楽しそうに見えて。

「ぜってー間違ったわ、ついてく方……」生憎、学術的な話には微塵も興味が沸かない。昔から勉強が嫌い故に。

 そんな風にひとりごちったところで、最早顔ぶれも現在地も、変わることはないのだが。

 しけた顔で突っ立って雰囲気が悪くなっても仕方がないので、切り替えて自身も館内を回ることにした。地元でこそあれ、満足に巡ったことがないので、飽きないという点だけが救いだろうか。

 

「……ん?」

 

 歩き出した足を、ほどなくして止める。

 遠くで望めた赤線入りの黒服に、酷く見覚えがあったからだ。

 

 

 

 ユキナリは、いち早く違和感に気付いていた。

 

「(何でPG本部が、ここに……?)」

 

 一人で館内を回っている折のことだ。その制服が、横切ったのは。

 一人や二人では済まない規模の人員が、七色資料館の中を平然と歩いているのだ。

 背中と両上腕の部隊章は、クイックボールのもの。どうやら機動部らしい。

『渡り鳥』の名を取って平素の巡回を業務とする彼らだが、施設の中まで警らを行うなんて、聞いたことがない。仮に特例があったとしても、二桁という規模はあまりに大袈裟だろう。

 異質さを伝えるには、十分な絵面だった。

 しかし現在の自分はジムリーダーで、同時に休暇中で。深いことは考えずに見て見ぬふりが賢いのだろうが、生憎人一倍異常には敏感にならねばならない職業柄、こうも強調されると気にかかって仕方がない。

 一応手帳は持ち合わせているので、訊ねるだけならばいいだろうか。

 

「ユキナリ特務、ではあるまいか?」

 

 背中に当たった言葉が、そんな思考を散らした。

 記憶の中に、該当する声が一つ。瞬時にそれを思い浮かべると、ユキナリの体は反射的に後ろへと向いていた。

 上にも横にも逞しい体格をした、黒髪の偉丈夫。その男は、見立て通り初めましてではない。

 

「お久しぶりですなあ! もしや“あの日”以来では」

「ギーセ警視……!」

 

 そうだ。

 機動部、第四旅団長。この再会は、あの日以来の――。

 

 

 

 色とりどりな、四角形を見ている。

 赤、青、緑、黄、紫、黒、白といった純色から、グレー、ピンク、シアンといった混色までが鎮座する様は、圧巻に尽きる。

 コスモスは絵を嗜むので、視界を占める色数が多ければ多いほど、満足感を得られるものだ。

 幼い頃からパレットいっぱいに垂らされた絵の具を眺めるだけで幸せだったし、湿った雨上がりに見える虹が大好きだった。いや、今も変わらず愛している。

 だからこの瞬間も、内心を躍らせている。たとえレプリカであっても、シンオウにて“属性(タイプ)という概念が具現化した物”と云われる石板『プレート』は、彼女の感覚を確かに揺すってくれた。

 

「現物でなくても、綺麗なものだな。この世界の最小単位が元素だとするのなら、差し詰めそれを司る物が並ぶ様相は、きっと世界の縮図である事に違いない」

 

「きっとこのガラスの中には、世界が詰まっているのだろう」声が上がった、隣を見た。言外にそっと仕舞いこんだ感想を、図らずも言い当てられたからだろうか。

 派手で明るい金髪だが、品位を備えており、攻撃的な光が抑えられているのは、地毛ゆえなのだろう。

 一見でわかる壮年でありつつも、輪郭が滲ませるのは、“老い”というよりかは“盛り”。彼女はこの『気』を知っている。明確に何かを成さんとする者の、挑戦する者の気配。幾度となく目の当たりにしてきたから、確信を持って言える。

 穏やかな口調と落ち着いた微笑が一緒になって、彼女へと向いた。

 彼が言い当てたのは、何も彼自身とて意図したことではない。知っている。わかっている。

 されどコスモスは、そのしわ一つないスーツを着た白手袋の男性から、目を背けることができなかった。

 

「失礼、驚かせてしまったね。独り言が癖になってしまっているもので。年甲斐もなく、申し訳ない」

「……いえ。こちらこそ、視線を押し付けてしまい、無礼を働きました。お詫びします」

 

 再び向き直るのは、共にプレート。

 

「ご令嬢は、こういった物はお好みなのかな」

「『学芸品』のことを指しているのでしたら、はい、と答えます」

「そうか。私もだ」

 

 だからこそ、ここに来ている訳なのだがね。付け加えで、話を締める。

 

「時に、貴女は“アルセウス”というポケモンを、存じているかな」

 

 しかし話題が切り替わるだけであって、言の葉のやり取りは終わらない。尤もコスモスとて、意思が通じ合えない野蛮人ならいざ知らず、他者と触れ合う行為は己の生産にも繋がるため、決して嫌ではない。

 

「このプレートを生み出したと伝えられる、神代のポケモンの事でしょうか」

 

 もう一度隣を見上げると、彼は小さく頷いた。

 

「そうだ。それ即ち、世界を創造したと謳われる存在だ」

 

 アルセウス。時間を作り、空間を生み出し、宇宙を広げ、元素を与え、星を用意し、命を練った、所謂“世界の始まり”となり、創世を行った神として語られる伝説のポケモンだ。

『ギガス』なる巨人族と争った伝承があったり、実は宇宙を司る神の子だったという説が出たりと、語られる姿は一定のものではないが――少なくとも彼が全ての生命の起源である、というのは、世界中の共通認識なようだ。

 事実、コスモスも神話でそのように教えられ、育ってきた。

 

「不思議なものだね。全てはポケモンから始まっているはずなのに、今では人がポケモンを管理し、あまつさえ彼らをモンスターボールという道具で縛り付けている」

「言い回しに、少々の棘を感じました。手段の意図を画一化すべきでない、と私は考えます」

 

 取り出した球体を見つめる横顔に、静かなる異議の申し立て。

「人の数だけ、用途があると?」「はい」横目の確認に即答し、向き合う。

 

「勿論、貴方が考える使い方をする人もいることでしょう。現在の文明に対する悪意的な解釈も、立派な意見の一つなので、否定を投げかけることだってしません。ですが極端な視点というものは、いつの時代も悲劇の引き金になってきたはずです。歴史に対する認知というものは、特に」

「違いない、肯定しよう」

 

 コスモスは、珍しく饒舌だった。

 

「そもそも、アルセウスが創世する光景を、私達は見ていません。こうして伝わることだって、語り手の立場や解釈の違いで簡単に捻じ曲がっていきます。もしかすると、アルセウスは人が作ったものなのかも知れない。或いは誰の手がなくとも、私たちは最初からただそこに居ただけなのかも知れない。本当のアルセウスは、世界を滅ぼさんとする邪神であったのかも知れない――――過ごした一年で生じる歪みが一ミリだったとしても、繰り返せば十年後には一センチ、百年後には十センチにもなります。そうやって時と共に忘れ去られること、すり替わっていくものが、積み重なっていくのです」

 

 何がそうさせるのかは、わからない。ただ。

 まるで何かを知り、悟ったような語り口は、とても一人の少女が話しているようには見えなくて。

 

「つまり真相など誰にもわかりはしない、と。ラフエル神話もまた、同様だと思うかい?」

「……例外はありません」

 

 それでも少しの逡巡が、挟まったような気がする。

 

「ならば、どうする? 仮に過去を見ようとした時。嘗てと向き合わねばならなくなった時。我々はどうすればいいと思う? 一体、何を重んじればいいと思う?」

 

 確信こそないままだったが、僅かに動いたその表情で、一瞬だけ綻んだ神秘で、たまらず意地悪な質問をしたくなったことに違いはない。

 

「過去が今のためにあるならば、信じたいものを信じれば良いと思います」

「矛盾。堂々巡りではないかな?」

「いいえ。私は先程、否定しないと言いました。貴方の見識が、本当に“今の貴方の心”が導き出したものなら、それは誰にも壊されるべきものではないのでしょう」

 

 今度は、男が発話を遅らせた。

 

「――何かと対立してしまうことに、なったとしても?」

 

 その時、初めて色が出た。

 コスモスと同じ姿勢――相手に臍を向け、視線を正面から重ね合わせる。ライトの横槍を素気なく跳ね退け、ぎらぎらと光る色。彼女はそこに“灰”を見た。

 彩度という“遊び”を欠かした状態にある、純粋が極まった色。コスモスにとって、白と黒はそういった意味を持つ。

 何に於いて、どの方向かまではわからないが、それらに彩られた魂は、まず何かを成し遂げる輝きを湛えていて。

 しかし眼前の彼は白黒どちらの要素を携えつつも、どちらとも取れない不明瞭さがあった。決心が付かないといえばそれまでなのだが、それにしては彼の瞳はぶれを知らなさすぎる。

 凄まじい異様さに当てられ、より深く観察するコスモス。

 リアルタイムで白黒の割合が変動している。明るくなったり、暗くなったり、模様が歪んだり、整ったり。

 常に忙しなく姿を変えて、実在性からぼかそうとしてくるこの表現は、なんだろうか。こんなものは初めてだ。

 まるでブラインドが掛けられているみたいで、何も見ることが出来ない。奥底を掴めない。

 ちらついて、ばらついて、常々不確定たるこれは。この、感じは。

 

「衝突は、掲げた時に初めて生まれます」

「……ほう」

「もしそうなってしまった時は、止めるべき人が、止めるべき方を、止めるべくして止めます」

 

 コスモスはそこまで思い巡らせたところで、言葉を返した。脳の運動を終了する合図だ。

「成程」男も満足したか先に目を逸らし、それ以上問答を続けることはしなかった。

 

「フリック市長、そろそろです」

「む、そうか、もうそんな時間か」

 

 沈黙が付け入る前に現れる第三者は、ギーセ。

 男に歩み寄って「フリック」と呼ぶと、会話が始まった。

 何故PGがこの場にいるのか、些かの取っ掛かりはあったものの、取り込み中故に口を閉じる。

 それに、後から訊ねることも出来るだろう。ギーセに伴って自分と合流してきたユキナリを一瞥し、そう考える。

 

「それでは、無事を祈ります」

「楽にされよ、特務。そちらも良き休日をお過ごしください」

 

 畏まるユキナリの敬礼には、あえて返さなかった。

 ギーセが先を歩いたのを合図に、

 

「邪魔をしたね。素敵な時間をありがとう、ご令嬢」

 

 フリックもコスモスへと声をかけた。

 

「こちらこそ楽しく語らえました、感謝します」

 

 遠ざかる後ろ姿を、最後まで見送ることはしない。

 続けて物言いたげな上目を向けると、つられてユキナリは口を開いた。

 

「彼はフリック。ぺガスシティの市長をなさっている人だ」

「……ここはシャルムシティですが」

「ああ、知ってる。どうやらイベントが好きらしくてね……ラフエルの行事があるたび、ああして各地を視察という体で回っては遊んでるらしい」

 

「なるほど」あんなに慧敏な振る舞いをしていながら、お茶目なところもあるのね。内心で唱える。

 

「でも、ここ数日以内にシャルムでイベントなんてあったかしら」

「それは」

「明後日の夜に“シャルム王感謝祭”がある。旅行先にここを選んだ理由もそれだ」

 

 遮るはランタナ。館内を見終えて戻ってきたようだ。

 

「そりゃ街一つ治める要人だもんな……あんだけのPGも護衛で押し掛けらァな」

 

 そして、頬を掻く訳知り顔。

 

「それでなくとも、近頃は何かと騒がしい。何よりネイヴュの難民受け入れが上手く行っている唯一の都市の長だ……その腕も買われているのだろう」

 

 最後にカイドウも混じり、四人の再集合は完了する。

 

「さてと。皆用事も済んだみたいだし、昼飯にでもすっか」

「甘味処へ行くぞ」

「四人が共通して食えるモンは、と――」

「甘味処へ」

「せっかくだから肉系のがいいか? 今日も暑いしなァ、バテちまいそうだ」

「かん」

「だーっ、うるせえ! 却下却下、却下だッ!!」

「糖分をよこせ! 糖分が無ければならんのだ! ストレスだ!! さもなくば俺の機嫌がドン底に落ちる!!」

「さらっと脅してんじゃねえよ!!」

 

 次の行き先を決めようとする二人を尻目に、コスモスは考える。

 自分は高い位に身を置く人と話していたのだな、と。口々にされる情報を、もう少し早く得られていればな、と。

 タイムラグを抱えた実感は今更どうしようもないのだが、まあ覚えるきっかけになるのならば、良しとする。

 

「ところで君は、彼と何を話していたんだい?」

「……さて。何でしたか」

「ん、んん?」

 

 故意にモザイクをかけ、本当の色を最後まで明かそうとしなかった――。

 

「――そもそも私は、彼と話してすらいなかったのかもしれないです」

 

 そんな彼を覚えるきっかけに、なるのならば。



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05.癒える湯煙

 湯気が立ち込める。

 水流の音が鳴る。

 熱が命の芯を、柔らかくしていく。

 

「……ふう」

 

 広い世界の一部には、大きな器に溜めた湯に浸かる『入浴』という文化がある。

 入浴のために使われる湯を“風呂”と呼び、入浴する行為を「風呂に入る」なんて言い換えをすることもある。

 そしてその風呂に使用される湯が自然由来――つまり熱水泉のものであった場合、人々はそれを“温泉”と呼ぶ。

 清潔を保つ行為として“シャワー”が定着しているラフエルに於いて、温泉は貴重なリフレッシュ手段であり、それを楽しめる場も大きく限られている。

 シャルムシティの旅館『風苑亭(ふうえんてい)』は、温泉が存在する数少ない施設であった。

『日照りで水不足に陥った際、大地から湧き出る温水を風呂として利用した』というホウエン地方の伝承がルーツになっているそうで、ホウエン人が流れてきたのと同時に、ラフエルにも伝わったと云われている。

 コマーシャルでの“源泉掛け流し”の売り文句に誘われた人々が、本日も大浴場に押し掛ける。夏休みとあればさらに客は多くて、混んでいて。風苑亭は繁盛していた。

 

「少々騒がしいが……まあ、休暇とあらばこんなものか……」

 

 様々な効能を持つ、数多の命の泉。刺激ある炭酸の内湯で血色を良くしながら、独り言を極めて小さく響かせる。

 

「それよりも――奴との話も終わったし、アレの受け渡しも済んだ。くくっ、無知というのはつくづく恐ろしいものだ」

 

 小太りの男は、一人浴槽のふちに両肘を乗せながら、続けて呟いた。

 名を『ハロルド』。ラフエルでも有数の富豪であり、たった一代にして同地方の不動産王にまで昇り詰めた『商いの天才』と目される男だ。他にも飲食や運送といった、生活に必要な事業にも抜け目なく手を付けており、人々の暮らしの中で彼が関わっている物事は決して少なくない。

 それほどまでの男が、何故ここにいるのか。

 

「長い取引だった。後は機が熟すのを待つだけだ」

 

 曰く、商売の完了。その祝い。そういう意図があるらしい。

 だから先刻からこんなにも上機嫌だし、嫌な笑みを湛えている。

 

「せいぜい残り少ない時を楽しむがいい、選ばれなかった愚民共よ」

 

「フッ……ハハハ。ハハハハハハハハハハハハ!!」故に人目も憚らないで、高笑いを漏らしてしまう。

 ハロルドは、とても悪い人の顔をしていた。

 

「だーーーーいぶッ!!!!」

「ハハハハババババボボボボボボ!!!!」

 

 そしてとてつもない災難に、見舞われた。

 突如として少年が眼前に飛び込んできたのだ。

 津波のような飛沫に飲み込まれたハロルドは口と鼻に大ダメージを受け、げほげほとたまらず噎せた。

 

「っ、おい小僧! 何をする!!」

 

 水面に顔を出したところを叱ってやると、

 

「うー、ごめんなさい……マーライオンだと思っちゃった……」

 

 反省の弁はさておき、赤髪の少年はすぐに頭を下げた。

 

「それ見たことか。だから大人しくしろと言ったんだ」

「そうですね。そして今の言い訳もいけませんよ、カエンくん。マーライオンの失礼になってしまいます」

「いや失礼なのお前だよ」

 

 続けてぞろぞろと炭酸の湯舟に入ってくる、男達。

 午後五時――ハロルドが温泉で癒えるのと同じタイミングで、ジムリーダー達も大浴場に訪れていた。

 ちゃぷん、という音が止むと、カイドウ、サザンカ、カエン、ランタナ、ユキナリは、一様に肩まで浸かる。

「ふうー……」思わず表情筋を緩ませて、声を漏らした。それだけ疲労が蓄積していた証明だろう。

 頭に乗せた浴用タオルのずれを直すのも忘れ、心地を良くする一行。

 暫しの静寂の中で湯煙を味わうと、深緑の長髪を女性よろしくタオルで包んだ男、サザンカは、一人仏頂面をするハロルドへと話しかけた。

 

「マーライオンさんも、休暇でこちらにいらっしゃったのでしょうか」

「いや言ってんじゃねえか。ハロルドだよ」

「はて……ハロルド?」

「フフ、よくぞ訊いてくれたな私の正体を」

「訊いておりませんが、聞きましょう。まったく訊いておりませんが」

 

 小首を傾げるサザンカに名を呼ばれてスイッチが入ったか、ハロルドは得意になって己の事を話し始める。

 

「ラフエルの人々の衣食住を助け、ラジエスの新観光スポット『ハロルドタワー』を打ち立て、生きとし生ける者全ての未来を照らす、真に選ばれし資産家――――それがこの私、ハロルドだ。お前たちは運がいい、何せ今日ここで私と出会えたのだからな。この縁から知った名前、今後覚えておいて損はないぞ」

 

 男の語り口は尊大で、ひどく偉ぶっていた。

 高慢ちきと捉えられても仕方がないそれは、聞き手次第ではあまりに耳当たりが悪く、不快を催すもので。

「金持ちは優雅で上品だ」などという、庶民の先入観を一笑に付さんとするばかりの態度に、人々は開いた口が塞がらないものだ。

 さりとて当人が辞めようとしないのは、何かと優位になりたがる、その気位の低さの所為なのかもしれない。

 

「なるほど……ところでマーライオンさん、ここへはどれくらいのペースで」

「人の話聞いてた??」

 

 尤も彼らには意図から言葉、何から何まで伝わっていないようだが。

 

「せんせー! 人のなまえを間違えるのはしつれいなんだよ! ハローワールドさんにごめんなさいしないと!」

「ハロルドだ」

「お前達、うるさいぞ。ピロリだかポロリだか知らんが、無駄話もほどほどにしろ。今はゴロリくんなんてどうでもいい、限りある時間だ、疲労の回復に専念しろ」

「ハロルドね」

「ばっかお前、何回間違えてんだよ! すげえ人なんだから、そろそろ覚えろ! アーモンドさんキレるぞ!」

「ハロルドな。お前一番腹立つわ」

「すみません、悪気はないんです。単にこういう人らでして……僕が代わりにお詫びします、マーロルドさん」

「混ぜたね、すっごいマーライオンと混ぜたね」

 

 立て続けに名を間違えられるうち、ハロルドは考えるのをやめた。

 

 

 

 ボディタオルで体を洗う。手で髪の毛を洗う。鏡の前でそれぞれ綺麗な状態、文字通り生まれたままの姿に立ち戻っていく。

 

「ずっと気になっていたがお前達、もしやジムリーダーか?」

「そうなるな。まぁ慰安旅行ってとこだ」

「というか今更か。いちいち訊かれるのも面倒だ、ちゃんと覚えておけ」

「人の名前覚えない奴に言われたくねえんだよなあ」

 

 各々風呂椅子に腰かけて鏡と向き合いながらも、言葉はちゃんと横並びする人間に届けている。

 ハロルドはぼんやりとした既視感からなる疑念を、質問によって解消した。

 そして少々の昂りを覚える内心。理由は簡単。

 

「……コスモスさんも、来ているのか?」

 

 ラフエル地方の八人目は、卑しいお眼鏡のお気に入りだ。

 彼が何に惹かれているのか。一切の他者を寄せ付けぬ強さか。それとも人形のようだと評される見目麗しさか。純潔さが滲む乙女じみた佇まいか。高貴な者の振る舞いか。ステータスか。

 何一つわからないが、少なくとも彼が彼女に清々しい感情を抱いていないことは、確かなもので。

 男でもなんとなくわかる。少なくとも、ランタナには。ハロルドという人間が、彼女の苦手とする格を持っているのだと、わかる。

 

「……来ているだろうなあ。そして、ステラさんもいるのではないか? いい、いい。一番高い酒を注文してやろう。お前たちにもだ」

 

 好きなことになるとご機嫌になって、話を勝手に進めていく。とんでもなくわかりやすい男。

 参ったなあ――どんな風に誤魔化せばいいんだ。ランタナは押し黙りながら、そんなことを考えている。

 

「フフ……たのしぐがぼぼぼばぼぼぼおぼろぼぼ!!!??!?!?」

「!!?」

 

 その時。

 ハロルドが洗顔の泡を流さんと、己の面へと向けたシャワーから、ハイドロカノンのような放水。

 発言どころか呼吸すらままならない水圧は本人も想定外だったのだろう、目を回してひたすらに泡立った白水を吐き出した。陸にいながらに溺れる。

 

「ランタナにーちゃーん、全然シャワー出てこないよー! どうなってんのー!!」

 

 元凶はカエンだった。シャンプーまみれの閉目状態で捻った蛇口が、隣――ハロルドのものだったのだ。

 きゅっきゅっと尚も回り続けるハンドルは、際限なく水流を強め、ハロルドの顔面の穴という穴を侵略していく。

 

「カエン止めろ、それお前のじゃねえ!」

「ほら、沢山の水を吐いて……やっぱりマーライオンではありませんか。ふふ、合っていましたね、私」

「『ふふ』じゃねーんだよ! なんでちょっと嬉しそうなんだよ!!」

「まろやかさん!! 今助けます!!!」

「べっぶぉぶ、ばばべば、ばびばべぶぼば……」

 

 ユキナリが急いで止めるも、気絶は免れなかった。

 余談だが意識を手放す直前の彼が「結局、名前は、間違えるのか……」と言っていたと知る者は、どこにもいない。

 

 

 

 小さな滝のように、伝う湯が流れてくる。

 薄暮で灯った柔らかな照明は、見ているだけで落ち着く。ちゃぷん、という水の音と混じって、風情があると思う。しっとりした時が流れる女湯は、男湯と比べ物にならないほど静かであった。

「ふぁっくしゅ!」露天風呂にてくしゃみをするステラ。

 

「……大丈夫か? 肩まで浸かった方がいいぞ」

「そうですね、誰か噂でもしているのでしょうか……」

 

 アサツキの促しを肯い、三角座りになってより縮こまった。

 湯気越しに望むテルス山も、乙なものだと考える。コスモスは景色を頭の中に焼き付けながら、二人の方に向き直って、両手で湯を掬って。

 

「こういう白濁した温泉は、美肌効果があるんだそうですよ」

「なるほど」

 

 看板に記された効能の欄を読んだだけの付け焼き刃な知識ではあるが、一生かけて美を求め続ける女性にとって、その言葉はさぞ魅力的なものだろう。

 

「滅多に体験できることではありませんから、なるべく長く浸かっていたいところですね」

「同意を示します」

 

「湯上がりには念を入れて写真を撮っておこうかしら。効果を実感したいわ」「そちらも、同意です」

 彼女たちは、激務の日々と肩書きのせいで時折霞んでしまうが――年少で一七、年長でも二四の、うら若い乙女なのだ。

 

「そういや、さ。……風呂上がりに自撮りしたこと、あるか?」

「正直、あります」

「なんだかいけそうな雰囲気が出ますよね、まったく不思議なのですが」

「そうそう、それそれ! あれなんなんだろうな」

「で、いざ後から見返してみると大したことがない、的な」

「わかるわー、オレなんていっつもそれ」

 

 人並みには可愛いを追いかけたいし、整った美しさが羨ましくなることもある。

 

「上がったら食事まで時間がありますし、ポケモンも交えて撮りあいっこなんていかがです?」

「っや、やる!」

「私も異論はありません。アサツキさんも思いの外、乗り気なようですし」

「っ! ほ、ほっとけ……!」

 

 仲間内で集まって、何となしに話して、遊びたい時だって。

 それが楽しくなってはしゃぐ時だって。当たり前に、ある。

 

「……と、友達みたいで……ちょっと嬉しくなったんだよ」

 

 彼女たちもまた、ラフエルの未来を生きる若者であるが故に。

 

「――では明日は、お祭りで着用する浴衣を合わせに行くことを、提案します」

「うふふ、賛成です。勿論、友達同士(・・・・)で。……ね、アサツキさん?」

「……おう」

 

 口元が隠れるほど浸かったアサツキは、くすくすと笑い合う二人の提案に照れながら頷いた。

 

 

 

 温泉といえば卓球。誰が言ったか、今や当然になった組み合わせ。

 卓球台の上、縦横無尽に駆け回るピンポン玉を見ていた。

 休憩所で飲む湯上がりのモーモーミルクには、思わず喉が鳴ってしまう。

 

「ぶはーーーーー!!」

 

 旅館浴衣の隙間から入り込む風も手伝い、極楽であったことに違いない。

 

「良い飲みっぷりですね。こちらもいかがですか?」

 

 カラン、コロンと弾む音が止んだ。そうしてラケットを見せて誘ってくるサザンカとカエンだったが、

 

「いや、俺は見るだけにしとくよ。もう汗はかきたくないんでな」

 

 返事の通りなので、ランタナは断ることに。

 

「そうですか。では楽しめる試合をお見せするため、頑張らなくてはいけませんね。カエンくん」

「よしゃ! 本気でいくぞ、せんせー!」

 

 その言葉の後、ピンポン玉の存在が音でしか認識できなくなったのは、要らぬ余談だ。

「よっこらせ」相変わらずだな、と小上がりでごろ寝すると、すぐ傍のマッサージチェアから声が上がった。

 

「ところで、三人娘は何をしてるんだい?」

「男子禁制の秘密のお遊びだとよ」

「なんでしょうね、利きタピオカとかでしょうか」

「いい加減タピオカから離れろ」

 

 そして卓球台から目を逸らす。

 

「若いってのは、いいもんだな」

「まるで、オッサンみたいな言い回しだね」

「な、なッ」

 

 そこから図らずも意識を向ける先は、機械に体をほぐされながら、天井を仰いでいるユキナリ。

 

「あ、あんたにゃ言われたくねぇな!」

 

「あ~」なんて言って口を半開きにしながら、ツボ押しに委ねる様を見れば、余計にそう思ってしまうだろう。露骨な焦りを湛えて返すランタナだったが、対するユキナリはゆとりがあり余っていて。

 

「……なんて、それぐらいの歳では言いたくなるよね。僕もそうだった」

「うっ」

「でも今、君は寝そべる時に『よっこらせ』って言っていた」

「ぐう……!?」

「そして横向きに寝ながら尻をかいている。進行形でね」

「がはっ!」

 

 反論すればするほど内容が悪あがきに聞こえてきて、なんだか首が締まっている気がしてきた。ので静かに突っ伏し、それ以上言葉を紡ぐことをやめた。

 ぐうの音も出ない状態というのは、こういった過程を経て成り立っていくのだろう、などと妙な納得をする。

 

「ま、僕も通ってきた道だ。同じオッサン同士、仲良くしよう」

「腑に落ちねえし、認めたくねえなぁ……なんか」

 

 ハハハ。ウェットかつ元気な笑い声。

 ランタナは彼の余裕が欠片も解せなかったが、これもまた歳を重ねなければ得られないものと思うことにした。オッサンはオッサンで手に入るものがあると、言い聞かせることにした。

 

「……zzz」

『オッサンじゃん……』

 

 ユキナリと隣り合うマッサージチェアから聞こえる一五歳のいびきは、彼ら以上の哀愁が漂っていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 食事は一流の料理人が作るものだった。

 朝食がカロスやイッシュの料理『洋食』であるのに対し、今回頂く夕食はカントー、ジョウト、ホウエン文化を織り交ぜた料理『割烹』である。

 見た目と味の調和に重きを置いた品が多いために和食とも呼ばれ、昨今の若者が追い求める要素、SNS映えにもきちんとしたアンサーを出しているのも特徴だ。

 味付けは薄くこそれあれ、ベースを尊重した結果であり、最終的には活きた素材の旨みが「美味」と言わしめてくれるだろう。

 彼らとてそれは例外ではなく、存分に飲んで食べて、大変良質な一時を過ごした。

 腹が満足した後は男女で別々に取られた部屋に戻り、

 

「カエンお前、破産だな」

「えええええええ!? おれ、家まであったのにー!!?」

「よりにもよって将来有望な最年少がその言葉を聞くなんて……」

「何が起こるかわからない、これまた人生也……」

「ふん、身の丈に合わん豪邸を無理に買うからだ。こういうゲームはローリスクに立ち回るのが……」

「『通りすがったオカマにラリアットでぶっ倒される。気絶中にキャッシュカードを抜き取られ、持ち金の全額を失う』……だってよ、カイドウ」

「メーカーの電話番号を教えろッ!!」

 

 ボードゲームで盛り上がるなり、トランプで駆け引きを行うなりして時間を使う。

 無を入れたジュース缶と、中途半端に空いた菓子袋でテーブルが埋め尽くされた頃だろうか。あくび以外にすることがなくなって、男たちはようやく寝る準備を始めた。

 散乱した荷物の中身を壁に寄せ、着替えも畳まない。遊んだボードゲームはとりあえずテーブルの下の隙間に捻じ込んだ。見ての通り本当は片付けが未完なのだが、男子は押しなべて活動限界までの行動配分が下手なものだから、仕方がないのかもしれない。

 さっさと歯を磨いて布団に入って、電灯のスイッチを切った。

 

 

 

 一方の女子たちはというと、消灯こそ早かったものの、未だ眠っていなかった。

 

「……ということで私の初恋の人は、語学教室の先生でした。八歳の頃だから歳も離れているし、転勤してしまったから叶っていないし、そもそも現実的ではないですが……」

「いいえ、かわいらしいと思います。私は好きです、そういう話」

 

 並ぶ三つの布団で、動く川の字。美容に悪いと知りながらも、夜を更かして行う水入らずのガールズトークはやめられない。

 トークテーマは『初恋』。彼女達の女子としての起源を知る、貴重な機会だろう。

 一番槍のステラの相手は、十も離れた語学教室の講師だった。いつも穏やかで優しく、目線を合わせて丁寧な言葉遣いで話してくれる紳士的な男性だったという。

 どれだけ体調を悪くしてスクールを休んでも、彼と会うために語学教室だけは一日たりとも欠かさず出席するほど、ステラ少女は熱を上げていたとか。

 日々ラブレターを書いては消してを繰り返すうち、転勤してしまったらしい。実に淡い恋であった。

 

「次は、アサツキさんですね」

「……お、オレか……」

 

「どうかしましたか、とても言い辛そうな顔をして」コスモスだけの認識ではなかった。

 とてもわかりやすい苦虫を噛み潰したような――いや、実際に噛み潰したのではないか、という程真に迫った表情。

 アサツキは両脇の二人にそれを見られるのを嫌がって、仰向けになった。

 

「い、いやぁ、その、なんだ……」

「この期に及んで言わないなんて、なしですよ。私もちょっと恥ずかしかったんですから」

「し、喋るけどよぉ……」

 

 とうとうステラに根負けし、話し始める。

 

「確か、六歳の時だ――」

 

 鉄工所という必然的に男が溢れる環境は、幼い頃から彼女へ強い影響を与えていた。

「だ」「だろ」「じゃねえ」――時と場によっては失礼にあたる、俗にいう野郎言葉が周囲で日常的なコミュニケーションツールとして使われるうちに、彼女の言語野も図らずも乱暴なものとなってしまった。

 加えて、当時から軽くありつつも簡単な力仕事を行っていたので、腕っぷしも強くて、逞しくて。

 そんな自分の性質が“男勝り”だと気付いた頃には、彼女はもうほとんどの人から普通の女の子として扱われなくなっていた。

 それが認められなかったアサツキ少女は深く傷付いたが、そんな中でも自分に優しくしてくれる人がいた。

 何のことはない、同い年の近所の男の子。快活が形を為したような人で、明るく良識があり、誰にでも分け隔てなく接する人物だったそう。

 

「そいつは、いつでもオレを女扱いしてくれた」

 

 魔法少女のキャラクターを好きだと打ち明けたら「かわいい」と言ってくれたし、ヘアピンやヘアゴムで髪型を決めた日は「似合ってる」と褒めてくれた。部屋に招いた際、女ものの服を見ても驚かず「着てほしい」と人の趣味を受け容れてくれた。

 本当に人間が出来ていた子だったと、未だ思う。

 彼と会う日があれば、前の夜は着ていく服で何時間と悩んだし、楽しみで眠ることさえ叶わなかったこともある。

 手を繋げば鼓動は倍速になったし、顔も赤くなって、熱くなった。

 その体験を通して恋を知ったし、誰かを好きになる、ということも学んだ。

 彼が女の子でいる事の楽しさを教えてくれたと表現しても、過言ではなくて。

 

「そしたら『結婚しよう』ってさ」

 

 そしてやがて、告白を受けた。あまりに飛躍したアプローチだったと、大人になってみれば思う。

 それでも子供にとっては、必死に未熟な語彙を練り上げて、気持ちを伝えようとした結果で。

 だから幼かった彼女もとにかく嬉しかったし、心の底から喜んだ。

 

「……そ、それで! どうなったんですか!」

「告白の、返事は?」

「こ……断ったよ」

「えええええええええ!?」

 

 ステラは思わず上がった声を、コスモスの「しーっ」というジェスチャーで急いで引っ込めた。

 

「ど、どうして……? その流れは『うん』というところのはず……今でも続いていたかもしれませんのに……」

「い、いやあ、それ、なんだけどさ」

 

 頬をかき、視線を漂わせ、言い淀む。

 アサツキとて、そこで頷きたかった。OKと言っておけばまた違った現在があったのかもしれない。

 だが、ちゃんと理由がある。断った、否、断らざるを得なかった確たる理由が。

 それこそが話す事に乗り気になれない最大の原因であり、この渋々とした行き場ない面持ちの意味でもある。

 

「……そいつ、実は女の子だったんだ」

『ええええええええええ!?』

 

 次という次は、さすがのコスモスも声が出た。

 凄まじいオチだった。大どんでん返しだった。意地悪い考えだが、笑い話のネタにさえなるほどの着地点だ。

 彼は彼女で、男だと思われた子は、男の恰好と女の子が好きな、女の子だった――という複雑怪奇な話。

 

「告白された時に初めて聞かされて……オレも、性別は気にしなかったぜ? 趣味だって、素直にいいなって思ったよ。実際に好きではあったけど……でも恋愛ってなっちまうと、話も変わってくるって」

「そう、そうですね……デリケートな問題ですものね……まして、幼心には衝撃でしょうし……」

「だから、その……ひ、人としては大好きだって言って……そのまま」

「聞いておいてなんですが、とても切ない気持ちになりますね。加えてどのような顔をしたらいいものか……」

「だから話すの迷ったんだよなぁ……」

 

 そう呟いて枕元のヘルメットを抱き寄せ、ぐったりと伏せるアサツキ。失恋トークの後としては、満点の動作と言えよう。尤も誰も悪くなく、何も責めようがない悲しみに溢れたこの話を、失恋の二文字だけで片付けるべきかどうかは、一考の余地があるが。

 ひとまず置いておいて、最後に話すはコスモス。とは言うものの、

 

「ごめんなさい、今のところ恋というものが抽象的にしかわからないので、私は忘れているか、まだ早いのだと思うわ」

 

 記憶の中にそれらしいものはなかった。

 引っ張っておいて申し訳ないと思いつつ、正直に言うしかない。

 

「本当ですか? 特定の殿方といると心が躍るとか、楽しいとか……」

「いるような、いないような……」

「ガキの頃、手を繋ぎたいと思った男子とかさ」

「……父、でしょうか」

 

 歯切れの悪い問答が続く。

 

「そうですね……何か贈り物をしたいとか、そう思える相手はおりませんでしたか?」

「……あ」

「もしや?」

「いいえ、自分がそういった意図で贈り物をしたことはないのですが、幼少の頃にやたらと男子から花束をプレゼントされていたな……と」

「……ん?」

「あと『あなたといるとドキドキします』と周囲の殿方にひたすら言われていた時期もありました。自分が何か悪い感染症でもばら撒いているのかと不安になり、ドクターに診て頂いたことがあります」

「んん!?」

「しきりに握手を求められたこともあるわ……あれは恋だったのね。ずっと疑問だったので、理解出来て良かったです」

『モテモテじゃん……』

 

 コスモスは恋する方でなく、される方。

 また一つ、友人の新たな面を知った夜なのであった。



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fin.彼だから出来ること

 五泊六日の、五日目の夜。シャルム滞在も三日目だ。

 明日に解散してそれぞれの帰路につくことを考えれば、実質的な最終日ということになる。

 

「……でっけえ……」

「ま、腐ってもラフエル三大祭りの一つだ。ウチのジムトレーナーも何人か準備を手伝ってる。楽しんでくれや」

 

 八人は、喧騒の中にいた。

 旅を締めくくるイベントは、異文化を巧みに取り入れ自国文化を発展させた当時の王“シャルム・アルキエナ”への感謝を示す年一の祭り『シャルム王感謝祭』。

 街の全てを巻き込んで、歌って踊って騒いで回る。この時ばかりは猫も杓子も浮かれ、陽気になって遊び尽くすのがルールだ。多様な人種が交わり、国籍不問の食事や舞を味わう――気分は世界旅行さながら。文化の交差点の真骨頂が、ここにある。

 至る所に吊るされたランタンは人々を温かく見守り、龍のように駆け巡る笛太鼓は人を寄せんと活気付いた。

 

「うまいよーやすいよー、こちらジョウト発祥オクタン焼きやでー、安くしとくよー!」

「寄ってらっしゃい見てらっしゃい、こちらメリープもびっくりなふわふわコットンキャンディ、味は七つで虹の色! 本場イッシュのを味わえるのは今だけ!」

「フエンせんべいは要らんかねー、職人手焼き、できたてほやほやのフエンせんべいは要らんかねー!」

 

 焼ける香ばしい匂いと、浮わつく甘い香り。

 露天商が盛り場に現れるのは、海が青である事実と同じぐらい、当たり前の話で。

 

「うはー! すっげー! 店いっぱいだー!!」

「あ、おいカエン! 勝手に離れるな!」

「問題ありません、ここいらで別れましょう。タピオカもありそうですし」

「おうすまねえ、面倒かける。そしてタピオカはもういい」

 

 目を輝かせながらすたこらと駆けていく姿を見れば、やはりまだまだ子供だ。サザンカがカエンを追って消えたのを合図に、残る六人も三手に別れる。

「そんじゃ、行くか。一〇時に、メインストリートの案内所前集合、それだけ忘れんなよ」改めてランタナの約束が置かれると、二人組の自由行動は始まった。

 コスモスは酷く乗り気でないカイドウを考慮し、他よりかは意思疎通を図れる事を理由にし、彼と歩くことを選んだ。曰く「面倒を見ます」とのこと。

 ランタナとユキナリは「せっかくの夏を、むさ苦しい野郎二人で過ごしても」という意見で一致し、それぞれ女子に頼み込んで男女ペアを作ることに成功、ユキナリはアサツキと、

 

「どうですか? コスモスさんとアサツキさんが選んでくれたんです」

 

 そしてランタナはステラと――そんな組み合わせに落ち着いた。

 くるりと一周して浴衣姿を見せる。絹糸のような金髪を上機嫌に揺らす様は少女のように可憐で、純んだ美しさがあって。

 

「あー……いいじゃん、似合ってるわ」

「ふふ、よかった。では、行きましょうか」

 

 笑う碧眼に一瞬見惚れて、返す。デートとは何年振りだろう。役得というものは、ひょっとしてこういうものなのか。

 頭の中で自分に訊ねるランタナ。

 

「旅行中、既に沢山おいしいものを食べてしまっていますから、太ってしまいますね。なので少し控えて……すみません、フランクフルトを一〇本ほど下さい」

「OK、ちょっと辞書を引いてこい」

 

 恐らく違う。言外の彼は、即座にそう答えた。

 

 

 

 キリキザンの面を着け、きのみをチョコレートで包んだきのみ飴の派生商品“チョコきのみ”を片手に、カエンは店から店へと渡り歩く。

 人懐っこい質だからか、店員にいくらかお代を割り引いてもらって、財布は大変恰幅が良くなっていた。

 

「おっ!」

 

 好奇心に溢れる瞳が次に見付けたのは、浅い横長の器いっぱいに入った水の中を泳ぐ、小さなトサキント。

 無数にいるそれらを、ポイと呼ばれる薄紙が張られたプラスチックの道具で掬う、アトラクション的な店――『トサキントすくい』だ。

 トサキントはそれ用に遺伝子調整、養殖されたものを扱い、手のひら大のサイズながらきちんと成長、進化すれば“アズマオウ”となる。小柄ゆえ餌代も通常種よりも安くつき、場所も取らないため、ポケモンを育てたくても経済面に余裕がない人々に大きな需要がある。

 

「へー……!」

 

 ぶくぶくと酸素供給で泡を立てる水槽の前で屈み、トサキントたちを覗き込む。

 

「彼らは、なんと言っていますか」

「およぐの、楽しいってさ! そりゃそうだよなー……じぶんが小さいと、それだけみえる世界もでっかいもんなぁ……!」

 

 水面から顔出す一匹と、意思疎通した。

 いい人に貰われていきますように。トゲのようにこじんまりした角へちょんと触れてささやかに願うと、隣から声がする。

 

「おじさん、もういっかい! もういっかいやる!」

「はっはっは、頑張るねえお嬢ちゃんも」

 

 一目でわかる、いい人のそれだった。

 悪気を知らず、ありのままを受け止めて自己を発する、鏡のように純朴な感性を持つ者の香り。

 少年の表現に寄せるなら「おひさまの匂い」か。

 長い黒髪をした、カエンと同じぐらいの少女『アイ』は頬に汗を伝わせ、食い結んだ口の端から出る舌先をしまうのも忘れて、トサキント掬いに入れ込んでいた。

 

「ああーーっ!」

 

 びりり。破けるポイの音が響くと、アイは大口を開けた。この開き具合はショックを伝える時のものだ。

 

「せっかく掬いかけたのに……」

 

 空のお椀を見つめ、ため息まじりに肩を落とす。

 このトサキント掬いというもの、上手くすれば数百円でポケモンを入手できるが、何も慈善事業というわけではない。

 ポイ自体が元より水に弱く、加えて破れやすい造りになっており、成功させるには多少のコツが要される。

 おまけに商品(トサキント)も絶やさず酸素とエサが送られ続け、水質管理も徹底されているために、常時元気な状態で弱ることがない。活きの良いポケモンは養殖だろうが野生だろうが、捕獲には苦労するということ。当然のこと。

 翻ってこの屋台――見かけほど簡単なものではないのだ。

 

「うう……欲しいなあ、かわいいトサキント……」

 

 少ない小銭と、心底残念がる横顔を見て、カエンは表情を引き締める。言わずともわかる。助けてやろう、という面持ちだ。

 大きくを吸気を取り入れ、肺を膨らませた、その時だ。

 

「お嬢さんは、トサキントが欲しいのですね? どれ、私がやってみましょう」

 

 サザンカは後ろからおもむろに歩み寄って、アイの肩をぽんと叩いた。

 続けて眼差しだけで店員にポイを出させ、それを受け取る。

 

「せんせー、大丈夫なのか!?」

「お、お兄さん……!」

「威勢がいいねえ、兄ちゃん。だがウチの奴らァ一筋縄ではいかねえぞ。小さくても起こす波はでっけーんだ……たくましいのばっかだからな」

「俄然、燃えます。私も若い頃は、赤いギャラドスを木とたこ糸だけの竿で百万回釣り上げたことが……」

「わかりやすい嘘で張り合うんじゃないよ」

 

「では、いざ」周囲が見守る中で、サザンカとトサキントの戦いが幕を開けた。

 最初に動くは、サザンカ。その一手は、衝撃であった。

 

「ははは、さては兄ちゃんトサキント掬いを知らねえな!? いきなりポイを水に浸しやがった!」

「お兄さんだめ、ポイは水に弱いの! 狙いが付いていない状態で、そんなことしたら!」

 

 あろうことかポイを、水中へと潜らせたのだ。

 元来成功を目指すならば、ポイの入水時間は最小限に止めるべきである。水を制する者がトサキント掬いを制するといっても過言ではない程に、水の扱いというものは重要だ。

 なればこそ経験者がこの光景を見れば、さぞ素っ頓狂に映ることに違いない。

 アイは焦り、カエンは疑い、店員は笑い出す。

 されど尚、サザンカはポイを水面より上に配置することはせず、ひたすらに水中に触れさせて目を閉じた。

 

「水というものは命を包み込む、自然の優しさです」

 

 たゆたう水面に合わせ、ポイが震え始める。事が動くのはそこから。

 

「生き物の体を構成し、汚れを浄化し、渇きを癒し、時には空や陸の外敵から住まう者を守る盾となる――故に、その優しさに逆らってはなりません」

 

 店主は愕然とした。

 

「なんだと!?」

「拒まず抗わず、ただ受け入れ、任せ、我が物とするのです」

 

 信じられるだろうか。

 ポイがトサキントと共に、鮮やかな青の中を泳いでいる。まるで生きているかのように。群れと一体化するように。

 

「ヤツ、まさかポイをトサキントの進行方向じゃなく、側面から潜らせようってのか!?」

「せんせー、いくら水の流れをみかたにしたって、それは無茶で――!」

 

 言いかけて、止まるカエン。

 水槽の中で続いた光景に、とっくにポイはいなかった。

 残るは幾つもの水玉が立ち起こる小池と、縦に引かれた透明の一本線だけ。

 

「水に溶け込む意思――それ即ち、水心と見つけたり」

 

 観衆が顔を上げた時、五匹のトサキントが宙を舞っていた。

 たったの一挙手で生み出された奇跡の産物は、ぽちゃ、ぽちゃと順繰りに滑らされるお椀へ沈むと、あっけらかんと再度泳ぎ始める。

「さ、どうぞ」「あ、あり、がとう……」彼らが無事なまま少女の手に渡って、達人の離れ業は初めて終わりを迎える。相手が一瞬のことで呆然としているが、達人は気にかけない。神業たるもの、見る者を仰天させねば意味がないから。

 

「お返しします。まだ破れていないので再利用できるか、と……」

「く……っ、悔しいが、見事だ……!」

 

 拍手を浴びながらポイを返してくる男を、店主は悔やみながらもただ賞賛するしかなかった。

「知らぬ」などと嗤ったことを猛省する――それほどまでに先の様相は、凄まじいものであった。

 

「では、私はこれにて失礼します」

「待って! お兄さんは一体何者なの? せめて、名前だけでも!」

「なに、名乗るほどの者ではありませんよ」

 

 ドラマなどで聞くありきたりなフレーズも、彼が口にすればこうも風味が出るものか。

 振り返って、にこり。そうして去り際も美しく飾り付け、完璧な人助けが完了。

 

「……あ、せんせー! お金わすれてる!!」

 

 尤もそう思っているのは、本人だけなのだが。

 

 

 

「うわー! くっそー!」

「へっへー、残念賞~!」

 

 段階分けされた赤い台と、コルクを弾にしたライフル銃。

 

「パパママから投資受けての再挑戦、待ってるぜ」

「もう貰えないよ~!」

 

 察しがいいならば、これだけで此処が何の店か、理解が及ぶ。

 圧縮された空気がパァン、と叫んで、ブナの木を速く押し出した。不躾な答え合わせになるが、こんなにもわかりやすい説明はあるまい。

 放つ丸が打ち倒すは、台で行列を成す小箱のうちの一つ。

 

「おめっとさん、シガレット菓子だ! ……っと、なぁに大丈夫だ、お前らは筋がいい。成長を見込んで、きっともう一声ぐらいなら出してくれるぜ」

「ほんとだな!? 嘘だったらハリーセン五万匹飲ますからな!」

 

 おお、こわいこわい。今時のガキは言葉一つも容赦がねえや。

 射的屋のアルバイト真っ最中の青年『ハルク』は、自分のいい加減な発言を訂正することなく、独白と共に駆けていく子供たちを見送った。

 働いても働いても金が無いのは、どうしてだろう。自分の資金繰りの緩さから目を背け、暇な時間で考える。果たして売り上げの何割が自分に入るのか。まかないとかは食えるのだろうか。

 

「射的かあ、懐かしい。子供の頃は大好きだったな」

 

 そんな欲深い思考に駆られかけた時、また金づる――もとい客が近づいてきた。

「いらっしゃい! 三発、五〇〇円。腕利きっぽいな、振るってってくれよ」接客で得た追従笑いと世辞で、手堅い挨拶。

 先程まで子供ばかりを目に入れていたので、その客には多少なりとも驚いた。たとえ偽物でも銃が様になってしまう、それなりの体格の男だったから。

 続くもう一人の客が、男の後ろからひょこりと顔を出す。浴衣姿の小柄な女性だ。

 

「ユキナリさんも、射的好きなんだな。オレもなん――」

「……あ!」

 

「だああ!?」「おおお!!?」裏返る双方の声が、重なった。

 アサツキは自分を指さすバンダナ野郎に見覚えがあったし、ハルクは真ん丸の目に己を映してくるショートの茶髪を知っていた。

 

「お前、ラジエスん時の……!」

「なんだよ来てたのかよ!」

「ん? 知り合い?」

 

 英雄の民を巡るとある騒動の一件で、二人は面識がある。互いに特別な印象を抱いていた訳でもなかったが、間違いなく記憶の片隅にはあった顔と、想像だにしないタイミングで再会してしまえば、このような反応にもなろう。

 

「なんだぁ? ジムリーダーも案外暇かぁ?」

「お前にゃカンケーねえよ」

 

 とりあえず今は客と店員なので、原則に従って金と銃――それぞれの手元にあるものを交換。銭入れがチャリンと鳴いて、大筒がガシャンと上向けば、忽ちに雰囲気が作られる。

 最初に撃ったのは、ユキナリ。いきなり中段を狙い、難なく仕留めた。

 

「おおー、やるじゃねえか、あんた!

「ありがとう、銃の扱いには覚えがあってね」

「あいよ、ビッグベトベトンチップスだ」

 

 倒れた巨大な箱を手に取り、ユキナリへと渡す。

 

「んじゃ、次はオレだな」

「……おいおいまさかお前、いきなり最新ゲーム機『Nantendar Sketch』を狙う気じゃねえだろうな!?」

 

 続くアサツキの銃口を見て、ハルクは思わず口を開けてしまった。

 射的の景品というものは、上段にいくほど距離が遠のき、サイズも大きく、そして重くなるように配置されている。よって最上段には、ゲーム機や高級おもちゃと夢ある物品が揃っているが――その重量からなる堅牢さと、銃撃の威力が減衰する隔たりを前に、敗れる者が後を絶たない。

 準備運動もせず、体が温まっていない序盤では、間違っても狙うべきでない代物だ。

 

「……そのまさかを叶えられりゃ、ソイツは最高にかっけーだろ」

「やめとけ、損する!」

 

 バン。ハルクの忠告を無視し、構えたライフルの引き金を絞った。

 刹那の動作をあっさり済ませると、標的に背を向け、捲れた袖から覗く腕で銃身を抱える。

 煙が無くとも銃口に息を吹っ掛けるのは、西部劇への憧れか何かなのだろう。すまし顔で行っているので、黙ってやるが優しさだ。

 

「で、誰が」

 

 見方次第では悪ふざけとも取れる動作だったが、直後に倒れ行く四角形の鈍い音を聞けば、アサツキという存在の認識もがらりと変わる。

 

「損するって?」

 

 理解が進む。たとえ呑気に、きのみ飴を咥えていても。

 瞠目するハルクの前に、物見遊山の女子は立っていない。

 いるのは――捉えたものを確実に仕留める、狙撃の女神で。

 狙う位置、射角、弾の詰め込む深さ、反動のカット、どれを取っても完成されたものであった。

 

「マジかよ……」

「……言ったろ、祭りの射的は好きだって。こう見えてもガキの頃は、“必中のあーちゃん”なんて呼ばれてたこともあるんだぜ」

「……面白い!」

 

 ユキナリは珍しく不敵な笑みを浮かべ、追加で代金を支払う。

 

「二〇発分貰おう!」

「え?」

「負けるかよ、こっちは三〇発だ!」

「え!?」

「技術が互角っていうんなら、あとはスピード勝負――早い者勝ちってやつだよね!」

「早撃ちか。へへ、いいぜ、受けてやるよ!」

 

 そうして警官と狙撃手の熾烈な競争が始まると、ハルクは頭を抱えて悲鳴を上げた。

 

「うわァァァァやめろォーーーー! み、店が潰れるゥーーーーーー!!」

 

 腕が鳴る――躍る二人の内心に、彼の悲鳴は届きそうもない。

 

「いいですね、賑やかで」

「そうは思わん。作業の迷惑でしかない」

「の割には、先ほどから数千円クラスのものを機械のような精密さで仕上げているようですが」

「これぐらいしかやることがないものでな。お前も同じことだろう」

「私は単純作業が好き、というだけなのかもしれないわ」

 

 ビニール屋根の下で腰を沈め、黙々と板菓子を針で削って成型する、カイドウとコスモス。

 

「出来ました店員さん、1200円のお花です」

「こちらも確認を求む。1800円の鳥の翼だ」

「もう、ちょっ……いや、勘弁してぇ……」

 

 ひたすらに型抜きの成功報酬で荒稼ぎする彼らもまた、店員泣かせと言えるだろう。

 たったの一夜、座るだけで万単位を稼いだ少年少女は、後々子供たちの間で『伝説の型抜きプレイヤー』として語り継がれることになる――。

 

 

 

 一〇時にメインストリートに集合。ランタナの約束は、無事に守られた。

 そんな彼らへ向けた褒美、という訳ではないが、バン、バンと、空に巨大な光の花が咲く。

 青だったり、赤だったり、緑だったり黄だったり、色の奔流は矢継ぎ早に人々の視界になだれ込んで、己が美を訴えかける。

 シャルムの上で燦然と輝く花火は主張に違わず、星空をも超える眺望絶佳であった。

 

「た~まや~!」

 

 両手を口元に持っていって、空へと声を放つアサツキ。

 

「アサツキねーちゃん、それなんだ?」

 

 隣のステラに抱えられながら、カエンは不思議そうに問うた。

 

「花火が上がる時は、こうやって言うのが粋なんだってよ。花火屋の職人が言ってた」

「おおー、なるほどな! たーまやー!」

「コスモスさん、私達も」

「ええ」

 

 フラッペを頬張る口も、水ヨーヨーを弾ませる手も、一旦休憩。

 少年が続けると、やまびこのように同じ言葉が追いかけてくる。

 四人の賑やかしで、花火が少しだけ勢いづいた気がした。

 

「まったく、最後まで騒がしい連中だ」

 

 カイドウは腰に手を当て、人目も憚らず叫ぶ彼女らを尻目にし、嘆息を吐いた。

 

「でも、悪くなかったろう?」

「良くもないがな」

 

 隣で腕を組むユキナリは、知っている。彼が明確な否定をしない時は、悪い心象でない時であると。

 

「僕は楽しかったよ。友人たちのお蔭で、いい時間になった。勿論、そこには君も含まれてる」

「気色の悪いことを言うな」

「勘弁してくれよ。これぐらい生きるとすぐに感極まって、ついつい不要なことを口走るのさ」

 

 誰と居て、何をしようが、今なお無駄で無意味な日々の繰り返し。この騒がしさにも相変わらず必要性を見出せないし、自分が居合わせる事への価値だって微塵も理解出来ない。

 それでも彼は、いつかに見えた“光”をずっと探し続けている。迷う自由を知るから。溺れかけるたんびに、息継ぎをするから。

 

「全部終わったら、またこういうのをやろうよ。皆でさ」

「……海と人混みでないのなら、検討しておいてやる」

 

 正解に至れる日まで、泳ぎ続ける――未だに賢者は、友人(こたえ)探しの最中だ。

 

「うーん、絶景だねぇ。こいつらが揃ってるなら、カメラでも持ってくりゃよかったな」

「それは次の機会までお預け、といったところですか」

「おっ、ノリがいいじゃねえのサザンカ師匠。次回も前向きに検討してくれんのかい」

「勿論。ラフエルの平和を取り戻せた際の、祝いの旅路としましょう」

「ははっ、そういう話ならもうちょい頑張れそうだわ」

 

 空を照らす煌めきが苛烈化すると、八人の夏休みもいよいよエンディングだ。

 蝉の命にも満たない、儚く短い夏であったと思う。束の間の休息であったと思う。

 

「ありがとうございました」

「ん?」

「なにぶんこの状況です、誰にも――私にすら、休むなどという頭がありませんでした。ですが、頑張らないあなたが提案して下さったから、こうして皆で思い切って息抜きをすることが出来ました。なので彼らを代表しての、礼です」

「褒められてんのか貶されてんのか、わかんねえなぁ……」

 

「ま、いいや」されど弾む笑声を聞けば、決して失敗ではなかったとも、思う。

 男は胸を張って、自由な天を仰いだ。

 

「俺は昔っから、好きでもねぇことに努力すんのは嫌いでな」

 

 誰にでも覚悟や、想いがある。人の数だけそれが存在すると、理解している。

 言わぬだけで、どんな者でもそれぞれ戦いがあるのだと、分かっている。

 

「使命を抱えるなんてごめんだし、大役を背負うなんてまっぴらだ」

 

 けれども男には、何もない。

 

「誰かのためなんざ、冗談じゃねえとすら思ってるよ。こいつは死ぬまで変わらねえ」

 

 縛りを拒み、拘りを絶ち、宿命という鎖を嫌ったから。いや、今だって嫌っている。

 バラル団との衝突なんて叶うなら逃げたいし、稀だがジムリーダーの職務すら放りたくなることもある。

 情けない話だ。怠惰な男だ。云われるし、否まない。

 

「でもま、ダチと面白おかしく騒ぐのは大好きでな」

 

 だが、だからこそ、彼は自由の素晴らしさを知っている。

 何にも阻まれず、繋がれない身で歩く世界がどれだけ広いかを、知っている。

 

「何もしちゃいねえよ――俺はただ俺と遊んで欲しかったから、お前らに楽になってもらっただけさ」

 

 空の大きさを、誰よりも知っている。

 

「……大した男ですよ、あなたは」

「そうかい? 光栄だよ、師匠」

 

 サザンカはクスリと笑って、自由な翼が齎した夏を噛み締める。

 いい加減な男が連れ出してくれた今日という時間は、この先を生きる彼らの思い出となり、戦う糧となるのだろう。

 八人の戦士たちは人が消え、音が途切れるその瞬間まで、澄み渡る夏空を見上げ続けていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 かくして八つの希望は、それぞれの日常へと戻っていく。

 

「ふぃー……帰ったぞー、土産配るぞー、並べ並べェーい」

 

 五泊六日の、六日目。シャルムを去る七人の見送りを済ませ、ランタナは久方ぶりにジムへと顔を出した。

 ジムトレーナーの「おかえりなさい」という声に迎えられながら、ククリタウンの土産を部下たちに手際よく配っていく。

 此度の旅は、彼らに何を残したのだろう。

 きっと彼には、何もわからない。だから考えないでおく。

 

「シズノも、ほらよ。キーホルダー」

「おおきに。それはそうとランちゃん、留守中の挑戦の予約取っといたから。これメモ、確認して」

「お、いつもすまねぇな。どれどれ」

 

 いや――。

 

「――――ひ、一〇三件!!?!?」

 

 そもそも、考える暇がない。

 

「お、おおおお、おい! たった六日空けるだけでなんでこんな増えてんだよ!!? おかしいだろ!!??」

「なんか過去にもここ来たけど、留守でアンタに受けてもらえんくて後回しにしたのが、今になってまとめてきたっぽいで」

「は、はぁ!?」

「あっはっは、自業自得やな! ほなリフレッシュ出来たことやし、キビキビ頑張りや~!」

「休暇延長だああああああああああああッ!!」

 

 不自由にめっぽう弱いのも、自由な翼ならでは。

 その後のシャルムシティジムは、暫く悲鳴が絶えなかったそうだ。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――ぺガスシティ庁舎、『ソムニウム・ライン』。

 

「ふう……」

 

 の、執務室。

 太陽が西へと傾き始めたタイミングで、フリックは己の居場所へと戻ってきた。

 スーツの上着を革製の椅子に掛けると、すぐ後ろの大窓から高層ビルが林立する灰色の街並みを一望。

 今日の朝までいた場所に比べれば味気ないが、仕方ない。自分がいるべき場所はここだから。

 そんな風に自身へ言い聞かせていると、コンコン、と扉をノックする音が聞こえる。

 

「入ってくれ」

 

 ガチャリという快音が連れてくるのは、やたら上背がある、くたびれたワイシャツの男。

 荘年といった雰囲気で、焦げ茶の髪をオールバックに整えている。

 これだけの情報ならば秘書に見えなくもないのだが――圧倒的にその可能性を否定されるべき要素があった。

 無礼極まる咥えタバコ、だ。

 

「やれやれ……よくもまぁそんなに堂々と、入って来れたものだ」

「いいじゃねぇか。どうせ顔ァ一番割れてねえんだ、バレやしねえよ」

 

 続けて、室内唯一の机に腰かけ、気だるげに背を丸める。市長に対する一職員の態度としては失格とさえ言えるほどの振る舞いを繰り返す男だったが、フリックは咎めることなく彼との会話を続けた。

 

「それで、どうかしたかい。いつも“下”にこもる君が、自ら私に会いに来るなど珍しいじゃないか――――ワース」

 

 ワースと呼ばれた大男は、

 

「人が悪ィなァ、お前もよ。遊び行った先でジムリーダーを見たっ()って、楽しそうに連絡してきたのはそっちじゃねぇか」

 

 壁をぼうっと眺めながら、そう言った。

 そして机上にある、空っぽで真っ(さら)な陶器の灰皿に、熱いグレーを小さく落とす。

 

「フッ、君は物の価値がよくわかる男だからな。一体誰に注意を向ければいいのか、聞いて知っておくのも、いいと思ってね」

「……ま、一理あらぁな。なんせ間もなくもう一悶着あるし、なァ。ったく憂鬱でしょうがねぇよ、どっかの誰かさんのせいでよ」

「まあ、そう言うな。プロジェクトRRの第一段階(ファーストフェイズ)は、過酷なものとなる。当然君の出向も必要だ。高く買っていると思ってくれよ」

「今んとこ代金が足りてねぇけどな」

 

 が、まぁいいだろう。

 数秒だけの閉目を挟み、沈黙を破るワース。

 

「たとえ取引先がお前さんであっても、俺ァ情報を安売りする真似はしねぇ。だから一度しか言わねえぞ、良く聞いとけよ」

 

『ルキフ』――フリックという偽りを超えた先にある、本当の名前。バラル団ボスとしての名で呼ばれた男は、肩越しに目を合わせる配下へ向かって、口元を深く歪めた。

 悲しみを運び、憎しみを呼び、嘆きを祝い、苦しみを強いる――全てを踏み壊す混沌という名の悪意の元凶は、ぺガスにてしめやかにとぐろを巻いていた。



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Episode Sieg
01.忘れ去られし月


 門番の一族。

 それは、強くなくてはならない。守ることが使命だからだ。

 それは、女性が背負わなくてはならない。初代からずっと引き継がれてきた決まりだからだ。

 いつからそんな風に呼ばれているのかは、わからない。どういう経緯でこの役目が生まれたのか――初代が自ら請け負ったのか。それとも何かに押し付けられたのか。それもわからない。

 が、ただ一つ、明白になっていることがある。

 いつの時代も、当主たちは『竜姫(デュメイ)』の異名を冠してドラゴンを駆り、その手に勝利を収めてきた。

 時に恐れられ、憎まれ、嘆かれ、果てには泣かれ――彼女たちは、数多の旅人の夢に終止符を打ってきた。

 誰かの希望を絶つのだ。難儀な使命だと、思う。

 喜びを感じることはないし、それらしいやり甲斐だって覚えたこともない。誇りなど、もっての外。

 だからといって務めを疎ましく思うかといえばそうではないし、この血が苦になったこともない。

 生まれた時に、ただなんとなくやれることが目の前に転がっていて、それを拾い上げて地続きを歩いている。小奇麗で整然とした惰性。単にそれだけの話。

 百年に一人の逸材と謳われる当代の竜姫“コスモス”にとって、己の立場はその程度のものでしかない。自覚はあれど何でもない。ひたすらに何でもないのだ。

 

「また、違う」

 

 それは、柄にもない独り言だった。

 いつでも思考を整えてから発話する彼女であるからして、頭をすり抜けて言葉が出てくるのは、非常に珍しい。

 一人で使うには勿体ないほどの広さがある部屋(アトリエ)の中で、薄いため息を吐いた。

 壁に添う沢山の額縁に注目されながら紡ぎ始めた新作も、ゴールする前にイーゼルから外してしまう。

 テーブルにはらりと置かれた画用紙の上で、かかる虹。コスモスはそれが気に召さなかった。

 数えて五度目の失敗だ。ここまで難産となれば、そもそも画材の選択から間違っていたのか、なんて思ったり。

 木の香りにつられて棚を瞥見し、閉目。上手くいかなくて、何かのせいにしたがっている。いけないなと戒める。

 そうしてまた筆を握り、新たな無に色付いた水を滑らせた。

 

「……ん」

 

 ほどなくして鳴る、携帯端末。

「もしもし」コスモスは画面で『ステラ』の表示を確認すると、筆洗に波紋を置いて、受話器を取った。

 

『ステラです。今朝のニュースは確認されましたか?』

 

 その声はとても神妙で、遊びが無くて。

 

「観ました、今度はシャルムシティでしたね。ランタナさんはご無事でしょうか」

『訪問しましたが、幸い目立った怪我はありません。街の方も事前の警戒があったので死者もなく、最小限の被害で食い止められました。が……』

「これで、四度目」

『リザイナ、オレント、モタナ、そしてシャルム……もはやどこに現れても、おかしい状況ではありません』

 

 平和を至上とする聖女が、不安を買ってしまう言葉を、はっきりと口にする。

 所構わず冗談を言わない人柄を知るのなら、この言い回しに含まれる深刻さが理解できよう。

 彼女が重々しく語る、ただならぬ異常。何もコスモスだけではない。他のジムリーダーにも注意を促す意味合いを込めて、伝え続けている現状。

 

「PGの動きは?」

『機動部に加え、保安部からも各地へ人員が派遣され、厳戒態勢です』

 

 今、人々は震えている。

 

「目的は未だにわかっていませんか?」

『色々と状況を整理していますが、まるで見当が付きません』

 

 かつて齎された地獄を、思い出している。

 

「幹部クラスが突然街中に現れ、破壊行動を繰り返す……しかし全てを果たすことなく、決まって途中で消えていく。ネイヴュの前例を知る者から見れば、不気味以外のなんでもないですね」

『ええ、形だけ捉えるならば無意味なのです。でもそれは、まるで』

 

 悲劇の再現を、近い未来に予見している。

 

「何かの下準備をしているみたい、でしょうか」

 

 ――各地で連日相次ぐ、バラル団の侵攻によって。

『活発化する混沌(バラル)、狙いは何か』手元の新聞の見出しには、そう書かれていた。

 読み返して、辟易して、伏目になる。強いてコスモスの調子を乱すものがあるとするなら、きっとこれだろう。

 ステラは図らずも無音を連れた。肯定せざるを得ないマイナスの可能性の提示に、返す言葉が浮かばなかったから。

 

『……こちら側で何か進展があれば、また連絡します。コスモスさんも、お気を付けて』

「ありがとうございます。そちらも、お変わりなきよう」

 

 そうして嫌な雰囲気を拭えないまま、終わる通話。

 座って揃えた両脚に、重ね合わせた手を乗せる。そうやってコスモスは、西日が生み落とした染みのような小さな影を、ずっと眺めていた。

 十月四日――ラフエル地方は、これまでにないほどの不穏に包まれている。

 

 

 

 脳裏にかかる虹を描こうとしている。なのに、一向に進まない。

 流線を作る一つ一つの絵の具に拘り、満足いくまでパレットとにらめっこ。そうやって考えた色なのに、いざ紙上に乗せてみれば、忽ちに不格好になる。

 虹色というより、玉虫色。まとまりが悪いというのか、出来が荒いというのか……一色は良くても、何かと合わさった時に、くすむように輝きが落ちる。

 目の錯覚だとか、水彩なら含む水の問題だとか、理論的な話も執事に持ちかけられはしたが――そうではない。

 そも芸術は、感性によって完成する。

 とりわけヒトが持つそれは、一から十まで理屈だけで片付くものではない、というのがコスモスの持論である。

 確かに技術は大切だが、誰かが見る景色の中には黄色い海があってもいいし、白色の空が広がっていてもいいと考える。己の感性が他と異なる世界を容認するように、自分で描いた虹も、感性はただ御託を追い抜いた先で「違う」と訴えているのだ。

 

「ブロンソ」

 

 短く執事の名を呼ぶ。

 趣味が趣味と思えなくなったら、休み時。通説だ。

 展望が悪すぎる作業に些かの苦痛を覚えたので、コスモスは絵を切り上げ、自室に戻っていた。

 

「はい、なんでございましょう」

 

 執事は年代物の家具の間をこなれた様子で抜けていき、ペルシャ絨毯の上を優雅に歩く。至った机と向き合う主人が見ていたのは、複数枚の紙であった。

 しかしただの紙ではない。防腐や防虫加工さえ無意味に思えるくらい、古めかしい香りの樹皮紙。さらに言うと、経年でかすんでこそいるが、壁画調の絵が描かれている。

 

「あなたには、これがどんな風に見えて?」

「おお……何度目ですかな、これを拝見致しますのは」

 

 恐らく、この絵の事を指して言っているのだろう。

 一族お抱えの執事、ブロンソはこれが何かを知っていた。

 竜姫の血筋に代々伝えられる、ラフエル地方を作りし英雄“ラフエル”の活躍を描いた、“ラフエル英雄譚”――その『原典』と謳われるもの。

 尤もただそう記されているだけなので、事実かどうかは定かでない。今更、証明できるものもない。

 そもそもラフエルの血縁でもないコスモスの家系が、いわば本当の歴史を持っているというのも、整合性の取れないおかしな話。

 

「気分転換に、と思って読んでいたけれど……やっぱり、わからないわね」

 

 だから彼女はこれを話半分に捉えて、真実として世に広めることはしなかった。

 

「ほっほっほ……若き日の奥様(せんだい)も、私めに同じことを問うて、申されておりました。『“彼女”の考えがまるでわからない』――と」

「“彼女”が、どうしてこれを持っていたのか。何故この選択を取ったのか」

 

 何よりも。

 

「どんな意図があって、隠すことを望んだのか」

 

 そうしてくれと、記述者たる“始祖の竜姫”が願っているのだから、聞かない訳にもいくまい。

 終章――英雄が破滅の光と化し、泣き叫ぶポケモンと人を一緒くたにして焼き払う様子が描かれたページ。世に出回る活劇とは似ても似つかぬ、惨憺たる光景。

 

『葬られるべき真の記憶を、戒めとしてここに封じる』

 

 その下部に刻まれた古代ラフエル語は、そう云っていた。

 門番の一族の、もう一つの務め。それは伝説の守護であった。

 原典、ないしは正史とされるラフエル神話を保有し、外の目に触れぬよう閉じ込め続ける。

 ――初代の願いに倣い、まるで開けてはならぬパンドラの箱のようにして。

 

「……わからないことだらけ。そしてそれを知る由は、もうどこにもない」

 

 取っていた木の皮を放り、背もたれに身を預けて「お手上げ」といった具合に面向くコスモス。

 

「しかしてこの奇跡が溢れる世の中、何が起こるかもまた、わかりませんぞ」

 

 伴って垂れる肩から心中を察したブロンソは、慰めのつもりで声を当ててみた。けれどもすっかり意図が見透かされており、結局「ありがとう」と優しく受け流される。

 

「でも答えのない謎を追い求めることほど、虚しい話はないわ」

 

「探している時は、楽しいでしょうけれど」窓枠にトリミングされた秋の日差しを浴びながら、物憂げに頬杖をつく。望んだ外の景色は、もう橙に染まっていて。

 

「別に『理解できない物事を守りたくない』なんて、我儘を言う気はありません。ただ……」

「ただ?」

「何も知らぬまま受け継ぐことが、本当に守護と言えるのかしら」

「はて……、どうでしょうなあ」

 

 仮に、自分達もまたラフエルと関わりがあって、この地の守り手としての意義があるならば。

 

「もしこれが正解だとするのなら、一体誰の、何にとっての正しさなのか――そんな疑問は、常々付き纏っています」

 

 この箱の中身が持つ意味は、しかと解き明かすべきなのではなかろうか。

 好奇心を抱きやすいひとりの人間としても、今なお決まりに従う律儀な当主としても、コスモスはそう思ってやまないのだ。

 

「コスモス様!」

 

 ガチャン。部屋の扉が勢いよく開かれる。

 出し抜けの音が耳朶に殺到し、何事かと振り返った。そんなコスモスの前にいたのは、メイド。ノックでワンクッションを挟んだ後の行動だったが、荒い呼吸は正直で、その慌ただしさを如実に物語っている。

「どうした」返るブロンソの問いに顔向けしながら、

 

「ルシエジムより連絡です! 都市部上空に、バラル団と思わしき複数の影あり! 至急対応に当たってほしい、と……!」

 

 メイドは沈黙を破りし悪魔の襲来を告げる。

 

「なんと。とうとうこのような離れの地にまで……」

 

 言葉のみで驚きを表現するブロンソ。しかしコスモスは動じなかった。

 すく、と静かに立ち上がり、机上のモンスターボールを手に取る。

 

「お嬢様、護衛の者を」

「結構よ。すぐに終わらせます」

 

 いずれこうなることは、わかっていた。

 いや寧ろ、遅かったぐらいだ。

 ネイヴュを陥落させ、復興まで最短一年――順調にその道を辿りつつある世界を、彼らが放っておいてくれる保証など、今の今までどこにもなかった。

 民が勝手に安心していただけ。あれだけ壊せば満足だろうと、自分たちの曖昧な物差しで彼らを測って、自己暗示するように不安を紛らわせていただけ。

 平和ぼけのつけが回ってきたのだろう。まったく嫌になる。だって人は光に縋りたがるのだから。

 

「では、行って参ります。あと、今晩はカロス料理がいいわ」

「かしこまりました。ご武運を」

 

 だが、縋りたくなるほどに光を欠かす存在を討たねばならないのも、また現実で。

 その役目は自分が担う。それを知るからこそ、彼女は行くのだろう。

 

「カイリュー」

 

 屋敷を出てすぐに転がしたモンスターボールから、相棒が解き放たれる。

 跨って名を呼ぶだけで、彼女という飛竜は全てを理解した。

 はためいて空を打つ翼。風が巻き上がるとカイリューは徐々に浮いて、やがてその場を後にする。

 庭でそよぐ草木は、飛翔する一人と一頭を消えるまで見送っていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 もし、混沌がどこにでも存在しうるものならば。

 約束された明日など、虚構のものであるならば。

 一体どこへ行けば、安寧は手に入るのだろう。

 悲鳴を引きずって逃げ惑う人々は、そんなことを思っている。

 

「――宇宙生まれる前。その者一人、呼吸する」

 

 高いコンクリが、壊れて舞った。

 

「その者、時空に“物”を、心に“祈り”を生ませ、世界形作る」

 

 上がる火の手は、助けてくれと遠い天に手を伸ばす。

 

「世界の一部の、ある者は言いました――『誰が生めと頼んだ』と。『誰が創ってくれと願った』と」

 

 煙は続く道を塞いで、命を路頭に迷わせて。

 

「在ることが救済でしょうか。産声を上げることが祝福でしょうか。誰にとっても望まれたことでしょうか」

 

 ミニカーのように軽々持ち上がった車が、泣き叫ぶ命を下敷きにした。

 

「誰かを虐げ、何かを侵し、穢し、蔑み、踏みにじり――そのような無価値な肉塊が溢るる世界が、真の美なのでしょうか」

「かかれェェーーッ!!」

 

 サイレンが喚き散らす街の中で、三人の黒服の戦士が、一の混沌目掛けて全力で襲い掛かる。

 

「否、断じて否」

「か――ッ!!?」

 

 一人を影より伸びし爪で切り裂いた。

 

「学べず、歩めず、享楽にふけってただただ限り有る現在(いま)を食い潰す」

「が、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! う゛あ゛あ゛ァァァァッ!!」

 

 次の一人を消えぬ火で蝕んだ。

 

「愚か者。空け者」

「馬鹿な……!」

「――戯け者」

 

 最後の一人を球状の闇で飲み込んだ。

 

「人はいっそ、生まれぬ方が幸せだった。無でいた方が救われていた」

 

 漆黒の人形が女の影から現れた時、三つの魂は終局を迎える。

 

「なればこそ、人が人の手で終わらせましょう。焼き払え、打ち砕け、捻り潰せ」

 

 足元に転がった骸を越えて踏み出す、一歩前。

 やったぞと勝ち誇るでもない。ざまあみろと嗤うわけでもない。ただ障害物があったので、跨いだだけ。それだけ。

 

「悉く無意味。かくしてあるべき姿に戻りましょう。――救済を受け容れ、真っ新に還りましょう」

 

 本当に全てを等しく壊し尽くせるのは、憎悪ではなく、無頓着なのかもしれない。

 ハリアーは口角を釣り上げながら、嬉々として夕焼けに照らされるルシエシティに降り立った。

 足を瓦礫に粉砕された少年が、泣いている。

「可哀想に……」横目だけで合図してやると、隣のメガジュペッタは突き出した手中から“シャドーボール”を放つ。

 

「……おやおや」

 

 少年へ至りかけたそれを、切り裂く存在。ツバメポケモンの『オオスバメ』だった。

 ばさばさと低い空に留まりながら、虹色の目でハリアーの相棒を睨みつける。

 

「利口ではありませんね。大人しく隠れていればよかったものを……」

「ハァ……ハァ……」

「我々が貴女に入用なのは、知っていたでしょう?」

 

 にたりと歪む視線の向こうには、長い銀髪の女性が一人。

 古代人がよく着用していたであろう白の装束を身に纏っており、そのゆったりとした一枚布は、服と呼ぶには時代錯誤が過ぎるほどに古いものであった。

 

「お前たちは、世界を導く者ではないのか」

 

 瞳をすぐ隣のオオスバメと同じ色に輝かせながら、彼女は問う。

 静謐を湛えてこそいるものの、呼吸が荒い。しかも布の所々は薄汚れて損傷しており、血すら滲んでいた。それこそがハリアーと争っていた証左。

 

「正答。間違いではありません」

「であるならば何故、罪無き民を巻き添えにする。王の器として心構えはないのか」

「陳腐。心までもが骨董品……美しいものが、美しいままに時計の針を回し、そこで時間が固着している。重畳、結構。流石。少女のように純粋で汚れを知らぬ。趣があってよろしいではありませんか」

 

「ですが」挙手する。

 

「『我らが王の導く世界に、民の居場所は無い』と申し上げれば、ご納得頂けるでしょうか」

「っ!!」

 

 女性の背に傷が入った。会話の最中、ひっそり後ろまで伸ばしていた“かげうち”による一撃が、再び流血させる。

 突然の痛みで歯を食い縛ったが、既のところで前へ逃れて得る軽傷。

 ただでは転ばない。倒れ様に睨みつけ、こちらの番と言わんばかりにノーサインで奔らせるオオスバメ。

 

「あるがままの世には、要らないのです」

 

 が、甘い。伏兵『コジョンド』が悠然として割り込んだかと思えば、回し蹴りでその鳥を叩き落とす。

 鮮やかな手際で以て、あっという間に戦闘不能。

 

「くっ……やはり、力が……!」

「貴女も、私も」

 

 立て続けに召喚した暴虐の化身(サザンドラ)が何をするかなど、女性にはわかっていた。

 何故なら息を大きく吸い込む姿を、一度見ている。

 空が煌めく様子を、先ほど確認している。

 

「やめ――!」

「“りゅうせいぐん”」

 

 幾つもの凶星が街を破壊する光景を、目の当たりにしている。

 地に伏したまま「やめろ」の一言も発せないで、ルシエ全域へ飛来する青の輝きに、手を伸ばした。

 

「サザンドラ、“りゅうせいぐん”」

 

 まるでオウム返し。追いかけてきた第三の声が唱えるそれは、ハリアーの絶望と全く同じものを閃かせ、見事に相殺。最悪の事態を回避する。

「嗚呼……来ましたか」ハリアーにとって、仰いだオレンジより降臨する存在は、大方予想通り……といったところ。

 

「強く、気高く、美しい。泥にまみれた地にあっても貴女は、貴女だけは、唯一つとして綺麗なままで咲いている。切り立つ崖は何人(なんぴと)も及べぬ至高天――故に純真の花は、見下ろす。在るだけで尊ばれるべきは、かくあるものと見つけたり」

 

 焦げ臭さを振り払いながらズシン、と地面を割って着陸する勇姿は、堂々と腕を組んでいる。

 背負われた少女はパープルの双眸に冷徹を携え、ゆっくりとアスファルトに足を付けた。

 

「……ご機嫌良う、勝利の姫君」

 

 そうしてコスモスは逆光の中、静かに悪意と対峙する――。

 

「バラル団幹部のハリアー、ですね」

「如何にも。貴女のような高潔な御仁に記憶して頂けているとは、恐悦至極」

「行き過ぎた謙遜は、快いものではないわ。命そのものに対する不敬が、却って浮き彫りになっている」

「心外ですね。肉の塊を尊ぶ意志は、私にもありますのに」

「人の真似をするのなら、もう暫くの練習をおすすめします」

「ッフフ……言ってくれますね」

 

 薄ら笑いにも怯まず、毅然とした両手で二つのモンスターボールを開放。

 忽ち二体の“ジャラランガ”が起動すると、近衛兵よろしく少女の前で肩を並べ、敵を睥睨した。

 物言わぬまま白銀の鱗を鳴らす前傾姿勢が、臨戦態勢の合図だ。

 

「然し、奇妙な巡り合わせです。いえ、彼女がこの地まで逃げてきた時から……予測できた事でしょうか」

 

 発言と共に見やる動作につられ、コスモスも女性の存在を認識する。

 

「お前、は……」

「……少なくともあなたの敵の敵、ということに違いはないかと」

「ええ、ええ。話が早くて助かります。どこかの聖女様とは大違い」

「相容れないこともある。それを知っているだけです」

 

「善哉」呟けば、戦闘開始。ジュペッタが先行した。

 

「時間が惜しい」

 

 コスモスはそうやって突っ込んでくるぼろ人形のルート上へ、ジャラランガ兄弟の兄『エストル』を立たせる。

 

「一気に決めるわよ」

 

 交差する前腕が擦り合わされると鱗が振動、メタルカラーの輝きは立ちどころに弾けて、周囲の空間が歪んだ。

「“スケイルノイズ”」再び同じ動作が繰り返された瞬間、凄まじい規模の音エネルギーが爆発を起こす。

 避難が進んで抜け殻になったビル群のガラスが、次々に断末魔を上げながら絶命、砕け散った。

 人体で受けようものならば、鼓膜が破れるだけでは済まない威力。まさしく音の爆弾。

 甲高い風の叫びは、僅か一挙でコジョンドとメガジュペッタを飲み込み、黙らせた。

 

「……なるほど」

 

 手元に忍ばせたオーベムの“まもる”で手繰るは、紙一重の無事。

 ハリアーは直撃を受けた二体のうちの動けなくなった方、コジョンドをボールに戻し、コスモスを直視する。

 

「パシバル」

 

 お前にそんな余裕があるのか。目で語って、手で示した。

 弟の闘竜『パシバル』が、手負いのジュペッタまで一目散に駆ける。濃紺に輝く爪の正体が“ドラゴンクロー”と知れる時は、その一発が目鼻の先に迫った時だ。

 

「見事」

 

 刹那、言葉だけが先走った。

 木霊してから、コスモスは瞳を丸にする。

 

「“いたずらごころ”からなる先制の鬼火を警戒し、前もって特殊型のジャラランガで弱らせる、と」

 

 別に、意識の外から意識していなかった声が聞こえたから、ではない。

 

「取り立てて物理攻撃で仕留めに来たのは、やはり街の被害を最小限に抑えたいからでしょうか?」

 

 危機に瀕したハリアーがなおも笑っていたから、という理由でもない。

 

「お優しいのですね」

「まさか……!」

 

 ポケモンを庇い立て、自ら技を受けるなど――誰も想像しないだろう。

 パシバルが咄嗟に手の向きを逸らしたお蔭で、人体を屠ることは避けた。が、浅くなぞられた脇腹の傷は、無容赦に鮮血を吐いて彼女を蹲らせる。

 ぼたり。地面で赤い玉が割れるのと同時に向き直った細面は、

 

「――貴女もポケモンバトル(・・・・・・・)がお好きで、良かった」

 

 前髪越しにて最大級の笑みを覗かせた。

 

「!?」

 

 乾ききった血のような、赤黒。コスモスはハリアーの色を知って、背筋が凍てついた。

 だって、これは。この色はあまりにも、到底生き物が出すものではない。

 

「教えましょう、姫君」

 

 まるで、戦闘マシンのような――。

 

「我々にとっての勝者とは、ポケモンが多く残っていた方を指すのではない」

「っ!」

 

 ぎゅるりと首を囲う、湿った感触。動揺の隙を衝かれた。

 

「しまっ……!」

 

「た」言い切る頃には巻き付き、締まっていて。直感で危険を察知した左腕が、反射的に割り込んでくれはしたものの――拘束は免れなかった。

 強く張られるゴムにも似た弾性と、ロープにも似た剛性。正体は長い舌。

 振り返り、辿るようにその大元を見やれば、手品じみた迷彩は解けていく。

 

「(カクレオン……!)」

「最後まで命が残っていた方のことを、言うのです」

 

 全貌を明かした闇討ちのスペシャリストは、妖しく唸っていた。

「さあ、施しましょう」「――っ!!」踏ん張り虚しく、軽々と引き回される繊細な体躯。

 ぐわん。風景が暴れた。臓器が飛び出てしまいそうなほどの勢いで横方向へ振られ、やがて宙空に投げ出される。

 

「貴女に永遠(とわ)の、安らぎを」

 

 次いで牙を剥く三つ首の黒竜は、揺らぐ視界を御すことすら許してくれなくて。

 コスモスは発声もままならぬ状態で、大口開けるサザンドラに曝される。

 

「――“ガブリアス”!」

 

 真っ逆さまになって漸く繋ぎ止めた言葉の語気は、ここ一番の強さであった。

 少女の純白を食い散らかさんとした罰当たりな黒翼は、地鳴りと共に顕現するコバルトブルーによって裁かれる。

 無機質な足場を突き破って放つフルパワーの“げきりん”が、サザンドラを盛大に打ち飛ばした。

「消え失せろ」――憤怒で荒ぶる地竜の咆哮が、ルシエ中に響いて渡る。

 すると瞠目するハリアーの隣で、その巨体はズシンと落下。

 コスモスは掬われたカイリューの手の中で、続けざまに処されるカクレオンも見ていた。

 

「……悔しいですが、あなたは賢いわ。こうして私に真っ向勝負で勝てないことを、知っている」

 

 そして乱れたドレスを整えながら、言う。

 

「だから、どこか――必ずどこかで。私という人間を狙いにくることは予見できた」

 

『ハリアーは、決まってトレーナーを狙う』

 手の内の看破は、ここまで暴れた代償か。

 何のことはない。タイミングを図れずとも、先立って対応役を待機させればいいだけのこと。ジムリーダー達の間で共有された知恵は、確かにコスモスを助けてみせた。

 

「かつての私達がバラルに勝てなかったのは、私達がいつでもあなた方に無知だったから」

 

「でも、今は違う」背中にかかった影。

 

「私は、あなたが何をするかを知っている」

 

 バックを取ったジュペッタを、エストルは容易に捻じ伏せる。とどめを刺し、額面通りボロボロになったパペットを、主の前へ乱暴に放り捨てた。

 

「ただ後手に回るだけじゃない。あなたが困る手段を、取ることが出来る」

 

 覆された盤上すら、覆えし直して勝ちを取る。

 勝利(ジーク)の血族が行う決闘に、貴賤の概念など存在しない。清廉潔白な果たし合いも、掟破りを是とする殺し合いも、彼女らにとって差異などない。

 いつでもその場のルールに合わせ、生まれついての力で圧倒するだけ。

 そうやって勝負を制すれば、全て一緒だ。

 

「ごめんなさい。私はポケモンバトルが大好きなの」

 

 世界で一番高貴な「勝てばいい」が、ここに在る。

 竜たちが堂々と完封を誇示すると、ハリアーはそれ以上抗う事はしなかった。

 

「五体中、四体が機能停止。……此度は明確な目的がありましたが、いいでしょう。この場は貴女にお譲りします。何故なら必須要素ではない」

 

 空へ逃げていく部下に合わせ、動けなくなったポケモンを戻していく。

 随に装束の女を一瞥した後、コスモスと目線を重ねた。

 

「勝利の姫君……いえ、不落の飛竜」

「……なんでしょう」

「貴女はこの世界の運命(さだめ)を知った時――決して、傍観者ではいられなくなる」

 

 最後に、もう一笑。

 

「期が熟した折、その真白い掌は果たして何を取るのか……心の底から、楽しみです」

 

「では、またお会いしましょう。約束の日に」ハリアーは捨て台詞のような口舌を吐くと、傍らのオーベムの“テレポート”で消えた。

「追わないで。今は救助を優先します」上空でしたっぱの迎撃を続けていた己のサザンドラを制止し、コスモスも自分の戦力を畳み始める。

 意味深長な言動を内心で気にかけつつも、優先事項を処理。

 

「大丈夫ですか」

「ああ……すまない、助かった」

 

 おもむろに歩み寄った先の女性は、その出で立ちだけで特異な存在だと理解した。

 貸した手を使って立ち上がる様を見るに、重い傷ではないようだ。

 コスモスは、改めて合わせた相好を前にして、言葉を詰まらせる。

 見上げる少女と、見下ろす女性。体型は大きく異なっているが、同じ長髪で、銀色。肌はまるで人形のように白く透き通っており、鏡さながらの瞳には紫水晶が光っている。

 断じて彼女に兄弟姉妹は、いない。だからこそ絶句している訳で。

 

「……お名前をお伺いしても、よろしいですか」

 

 とても他人の空似では片付きそうにない彼女へ、やっと口が追い付く。

 

「“アリエラ・エイレム”だ」

 

 視線を逸らさないし、逸らせない。

「お前の、名は」アリエラと名乗る若い容姿をした女は、逆にコスモスの事が気になっていたようで、真似るように名を訊ねた。

 コスモスは微かに眼の開きを大きくした後、暫く間を置いてから、答える。

 

「コスモス」

 

 とても冷静ではいられなかった。

 クエスチョンマークが頭蓋さえ突き破ってしまいそうなほど、脳裏を支配するのだから。

 

「――コスモス・エイレムです」

 

 風にかき分けられた髪の向こう側には、同じ顔があった。

 いるはずのない存在の、顔があった。

 ラフエルの『太陽』に対し、原典で『月』として語られる――エイレム一族の始祖たる、英雄の顔があった。

 

 

 

 

 

 これはラフエルが辿りし、偽り無き歴史である。

 

 葬られるべき真の記憶を、戒めとしてここに封じる。

 

 我が血を継ぐ者が、忘却の彼方でこれを永劫守り続けんことを、切に願う。

 

 ――アリエラ・エイレム



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02.エイレムの血

「アリエラ・エイレム――始まりの竜姫(デュメイ)であり、私達の祖先」

 

 表情に出ていない、ただそれだけ。

 依然“こんらん”状態は続いているし、ともすれば訳もわからず自分を攻撃してしまいそうになる。

 

「又、エイレム一族に伝わるラフエル英雄譚の原典に登場する英雄であり、世に出回る……便宜上の外典としましょう。そちらでは、ただの人間として描かれる存在」

 

 たちの悪いいたずらであれ。コスモスは、この一から十まで説明が付かない状況に対し、何度そう思ったかわからない。

 問答を重ねる今この瞬間だって実感が沸かないし、好奇心という鎖も、潰えかけの正気を繋いで軋むばかり。受け入れられる不可思議にも、限度があるというもの。

 そこをぐっと堪えて、聞き取りを行う。その肝っ玉は母譲りであろうか。

 

「そして――破滅の光を齎したラフエルを“竜骨の剣”で貫き殺し、民を守った救世主」

 

 コスモスが「違いはありませんか?」と訊ねた時、女傑は小さく頷いた。

 ラフエルが大陸を開拓し、総てを照らすようにして民の前途を作った『太陽の英雄』とするならば。

 その太陽に添い、彼の者の力となって最後まで支え続けた存在――残る影にすら優しい光を与え続けた『月の英雄』。それがアリエラだ。

 一呼吸置いて、逸らす瞳。思考を一旦休める意味がある。

 

「コスモス様、お飲み物をお持ち致しました」

「ありがとう、入って」

 

 扉を叩く伺いに許可を出すと、メイドによって二杯のコーヒーが運ばれてくる。手際よくトレンチからラウンドテーブルに移して、あっという間に退去。室内を二人きりに戻す戸の音を合図に、両者は再び見合った。

 

「これは……」

 

 が、アリエラは集中が続かないようで。どうやら目の前のカップから立ち起こる芳しさが気になって仕方がないらしい。

 コスモスは少し思い巡らせた後、何も言わず向かいの席に与えられたコーヒースプーンを文字通り取り上げた。

 

「……! Bawnett(返してくれ)

「ふむ」

 

 次に、伸ばされた手に大人しく戻す。

 

Grauche(ありがとう)

「シュガーとミルクは要りますか?」

Zivial nessow(間に合っている)

 

 匙から啜った一口で、表情は忽ちに苦くなった。

 

「……Panyas d uxalshug(やっぱり、必要だ)

 

 眉をひそめ、唇をやんわり押さえる彼女へ甘味を差し出して、

 

「何事も、咄嗟に出るものがその人の素と言います。古代ラフエル語を扱い慣れているようですね。発音もお綺麗です」

 

 最後に覗かせる満足。

 

「確実な証明たり得ませんが、本人確認としては十分でしょう」

「まだ疑っていたのか。お前の言う通り、今や私を私だと示せるものはないが……この肌色と瞳だけで、理解は及ぼうに」

「裏付けというものは、どうあっても欲しいものです」

「そういうものなのか……」

 

 試すような形になってしまったのが申し訳なくはあるのだが、習った知識が活きるのは嬉しかったから、ほんの少しばかり頬が綻ぶ。

 

「現代ラフエル語をも巧みに使いこなしているようですが、その知識の源泉は、どちらから?」

 

 シュガースティックを入れ、撹拌。続けて回る表面のブラウンへ、ミルクを垂らした。

 

「……わからない。気が付くと頭の中に、存在している。ただそこに情報があって、言葉が解る。転がっている道具が使えるし、積んでもいない経験が身に付いている。まるで他者に憑依して、その脳を扱っているような感覚だ」

 

 湯気ごと一口を含むのは、白い渦巻き模様が落ち着いてから。

 

「……ああ、わかったぞ。これはコーヒーだな。無論口にしたことはない……が、豆から作られる飲み物だろう」

「現代知識が補強されている……ということで、いいのかしら」

「そう呼ぶ他にあるまい」

 

 どこまでも珍妙にして、面妖な話だった。

 

『しかしてこの奇跡が溢れる世の中、何が起こるかもまた、わかりませんぞ』

 

 数時間前にブロンソが言っていたことを思い出し、鼻から息を抜く。

 

「(所構わず起こる気まぐれな奇跡も、考えものね)」

 

 今なら発しても許されるのであろうが、コスモスは大人であるからして、やはり独白で済むものはそこで終わらせる。

 戸惑っているのは、何も彼女だけではなかった。

 気が付くと復活していて、目が覚めるとテルス山にいて、顔を上げればバラル団に襲われ――そんなアリエラにしても、同じ話で。

 曰く『力』でオオスバメの助けを得て、ルシエまで逃げてきて、今に至るそう。

 その間に彼らから何の説明も受けていなければ、何をすべきかも知らされていない。

 だからそもそも偶然なのか必然なのかも、わからなくて。

 つまり今後どうすべきかで悩む姿勢は、二人とも一緒であった。

 

「あなたは、どうしますか?」

 

 先に口火を切ったのは、コスモス。

「どう、とは?」聞き返すアリエラへと続ける。

 

「これからのこと、です。まさか私の部屋で、来る日も来る日もコーヒーを飲み続けている訳にもいかないでしょう」

 

 正直、自分だけでは決めかねる。それが本音であった。

 ラフエル地方を作った英霊の一人が、何千年という月日を経た現世で受肉――あまつさえ世に知られる同地方のルーツとは、全く異なる事実を保有しているときた。

 伝承を厚く信じて寄り添い生きてきたラフエルの民にとって、この情報を共有することがどれほど迂闊か。それを知らぬと吐き捨てるほど愚かではない。

 

「原因不明ながら、実際に甦ってしまったのはあなたです。そしてイレギュラーであろうと、今ここにいるのもあなたです」

 

 一歩間違えば、混乱。事は慎重を要する。

 故にコスモスは、帰った今でも「先程の件で怪我をした友人の介抱」という体裁を繕って、口を噤んでいる。母が日頃から家を空ける人で良かった。今回ばかりは感謝する他ない。

 

「復活の英雄として世間へ公表するにしても、素性を隠してここに居着くにしても……まずあなた自身のご意向を聞かないことには、始まりません」

 

 丸投げのように聞こえなくもないが、彼女なりの最善を尽くした結果だ。

 転生したのなら果たしたいことがあるだろうし、やり残しだってあるのかもしれない。そういった小さなことでもいい、曖昧で抽象的であろうが、とりあえずは何かの行動のきっかけになれば……そんな風に思う。

 

「……私にも、選択権が与えられるのだな」

 

 じ、と見合わせた目にポジティブを込めていたつもりだったが、当のアリエラは俯き言った。

 

「お前たちに解けぬ呪いをかけたというのに……当代のエイレムは随分と優しいものだ」

 

 卓の中央、シャンデリアに照らされる英雄譚の原典に触れ、続ける。

 とてもばつの悪そうな顔をしていたが、彼女のことは彼女にしかわからない。極めて偶然の産物ながら、話してみて改めて何の考えもなしに歴史を歪める人物でないというのはわかったし、嘗ても明確な“色”の元で動いていた、というのも理解出来た。

 

「もちろん、あなたが真相を葬った理由は、いずれ話して頂くつもりでいます。ただ今は、優先順位が低いというだけです」

 

 コスモスにしてみれば、今はそれだけで十分だった。

 歯切れの悪い言い回しにぴしゃりと放つ。しかし返る言葉は、

 

「……わからない」

 

 という、活気のないもので。

 

「その言葉、二回目です」

「わかっている」

 

 まだ現代語がおぼつかないのか、とも推察するが、次いで出る言い分があるようなので、黙る。

 

「なにぶん、一度は天命を全うした身。いかなる時にあっても、辿れる道は一つと信じ歩んできた……相応の事はしてきたし、為せる総てを為してきたつもりでいる。今更二度目の生を与えられ『好きにしろ』と放られたところで……満足に答えが出るはずもあるまいよ」

 

 その逡巡が当惑からなっていると気付き「でもまぁ、そうね」――小さく同意。

 確かにそうだ。知り合いもいない、記憶も頼りにならない遥か未来で自分が生き返った時、子孫から「何をしたいか」なんて問われところで、簡単に決められる道理はない。

 コスモスは無音でコーヒーを啜りながら、今一度考え込んだ。

 カチャリ。皿にカップを座らせる。そして暫しの間を置き、やがて言った。

 

「では、改めて世界を見に行くというのはいかがでしょう」

 

 それは、英傑の選択を助けるための提案――。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 “青の街”――海に面し、澄んだ空を阻むものがないルシエシティだからこそ、持つことが許される通称だ。

 ビルやドームなど、近代的な建物が林立する区画『シティエリア』と、歴史的建造物が密集する地区『ヒストリーエリア』に分かれているのが特徴。

 新しきと古きが共存する街は、ラジエスやユオンが同様のものとして存在する。だが前者ほど複雑化していないために住みやすく、後者のように片方が商業利用されていない故に観光が楽しめる。

 ラフエル地方の覇者を決める三年に一度の大会『ラフエルチャンピオンシップ』にばかり目が行きがちだが、「遊ぶ都市ならラジエス、住む都市ならルシエ」などと唱えられるぐらい、利便性、住みやすさ、美観の三要素全てがバランスよく纏まっているのも、この街ならではの強みと言えるだろう。

 市街地区と歴史地区を分断するように走る高架橋の上を、市内電車で往く。

 空気が澄んだ日は、遠いラフエル洋が望める。天の色がホワイトの街並みに映写される。眼下の絶景はさしずめ白日のブルーモーメント。より宇宙に近い場所を飛ぶキャモメが、ふと羨ましくなった。

 僅かばかりの旅路を楽しんで、下車。降りたのはシティエリア。昨日バラルから被害を受けたのもこちらであったが、早期の段階で食い止めたのもあり、幸い街機能に支障はなかった。

 

「着きました。足元にお気を付けて」

「あ、ああ……」

 

『コーラル区、コーラル区です。ご乗車ありがとうございました、お忘れ物にご注意ください。次の発車時間は一一時――』到着アナウンスに押されて停留所に降り立つコスモスとアリエラは、ひどく人の目を引いた。

 コスモスの方はルシエのジムリーダーという立場上、ホームで注目を浴びるのは必然であろう。

 問題はアリエラ。

 

「……これは本当に、現代人の服装なのか?」

 

 コスモスの黒紫とは正反対の彩りを持つ、パールホワイトのドレスに包まれながら、困惑していた。

「白装束で歩くのは目立つ」と言われるがままに与えられ、着てはみたものの――突き刺さる視線を前にした途端に、自信を無くす。

 しかし周囲にしてみても何のことはなく、見目麗しい姉妹じみた並びに思わず目を引かれた、ただそれだけのことで。

 

「おい、やはり不安だ。これは違うぞ、何か違っている」

「言っても仕方がありません。これよりも社会に溶け込める服はないこともなかったのですが、私のものではサイズが合いませんので。着られるものを探した結果、この母のドレスの予備しかありませんでした」

「ぬう……だが、やはりこうも全身を布でくるまれては、動きにくい。敵襲に備えられん」

「あなた方が生きていた時代よりもずっと平和なので、ご心配なく」

 

 すたすたと歩きながら、アリエラの焦りを一蹴するコスモス。

 

「それに、何かあれば昨日同様、私が守って差し上げますのでご安心ください。姫様」

「これでも英雄なのだがな……」

 

 後ろをついて歩く彼女が、片手で頭を抱える様を見て、うっすらと意地悪く笑んだ。

 たとえ先祖であっても、その調子は狂わないらしい。

 無邪気な悪戯好きなのか、頼もしい大物なのか。女傑が己の末裔を知りきるには、まだまだ時間が要りそうだ。

 

 

 

 世界を見る。

 大言壮語を述べ立てても、実際特別なことはしない。ただルシエの街を遊び歩くだけだ。

 一見すれば無意味にも見える。が、自分達が拓いた地を、現世に生きる民草は何を考えて生きているのか。齎した未来に、何を思って歩んでいるのか。それを知るには、彼らの生活に近付くのが最も冴えたやり方だろう。

 現在に触れ、見聞きし、感じ取る。そこで得た感情を元に、自分の先行きを決めるという算段だ。

 アリエラはコスモスの提示した選択肢に、快く頷いた。

 

「ここは、様々な水のポケモンを集めています」

「なるほど……見栄えがいいな」

 

 そして至る、今。

 トンネルよろしく広がったガラス越しの深い青色は、中で泳ぐ生物たちの輪郭をゆらゆらと揺り動かす。差し込むライトは湛えられた水にほどかれ、至る所に散りばめられた。

 三六〇度、どこに視線をやっても大小様々な水棲ポケモンが遊んでいる。

 ともすれば一体どちらが閉ざされているかわからなくなる、そんな幻想的なチューブ水槽が名物としてあるのは、水族館『ルシエアクアワールド』だ。

 

「確かに観るだけで楽しめる。人々が訪れるのも納得だな」

「今は少ないですが、休みの日にはもっと人が多くなります。綺麗ですから」

 

 平日なので空いているだろうと推測したコスモスの勘は、見事に的中していた。

 まるで貸し切りのように二人きりになって、静寂の中で飽きるほどに眺め回す。

 

「……現代語では“キレイ”、というのか。こういうものは」

「ええ。美しいものや、汚れないものを褒めたい時は、この言葉を使っておけば間違いないです」

 

 基礎という名の知識は多数あっても、応用という名の知恵はない。

 言葉の使い方にしたって、そう。覚えたての子供と何も変わらないので、精密さには些か欠ける。

 それを慮ったコスモスから親切を受け取るアリエラであったが、含みがある風に「だが」と言って、おもむろに水槽に触れた。

 

「これを綺麗に思えるのは、私達だけだ。彼ら(ポケモン)からは、何も見えてはいない」

 

 それはきっと、ポケモンと共存する時代を生きていたからなのだろう。話すアリエラの感性は、ポケモンの側に寄っていた。

 人の技術の進歩には、確かに驚く。感動することもあるし、考えた者に尊敬の念を抱くことだってある。

 しかしいつもポケモンと共に在り、ポケモンに助けられ、ポケモンのために命を捧げてきた彼女にとって――ポケモンという概念を用いて金を得るという考えが、今一つ理解出来ない場所にあって。

 

「このように不自由な容器に閉じ込め、見せ物になるために生まれて……彼らは喜ばしいものなのだろうか?」

 

 どの時々であろうと、世間には風潮がある。アリエラが生きていたタイミングの風潮と、コスモスが生きる今の風潮に、齟齬がある。だから認識も食い違えば、ズレも生じる。ジェネレーションギャップならぬ、ピリオドギャップ。仕方ない。仕方がないのだ。

 

「そんな風に、思う」

 

 どうしようもなく、どうにもならない話。

 

「理解は、示しましょう」

 

 とコスモスは前置きし、彼女の意見を認めた上で開口した。

 

「見せ物というのに、違いはないと思います。決して綺麗言は並べません」

 

 アリエラへゆっくりと歩み寄り、隣に立つ。

 

「ですが、滅んでほしくないから、種を保護して温存する……そういう心持ちで、こうする者もいます」

「存続を願う、ということか?」

 

 こくんと頷き、同じようにして触れる水槽。

 

「自然の摂理に反した利己思想と言えば、それまでかもしれませんが――人の手が無くば、今日まで生存してこられなかったポケモン達も、ごまんといます」

 

 ガラス越しの白魚のような手に何を見たのかはわからないが、すいすいとポケモンが寄ってきた。

 たおやかに透明を撫でると、引かれてさらに集まって。そのうちの一匹と目を合わせ、アリエラは驚く。

 

「まさか……“プロトーガ”か……!?」

「絶滅しても、こうして復活を遂げたポケモンだっているのです」

「馬鹿な。私たちの時代では、既に終わりを迎えて……」

「この子が見たい。この子に触れたい。この子との時間を思い出にしたい。そんな子供だって、きっといるのかもしれません」

 

 人懐こい化石ポケモンは彼女の傍でたゆたい、笑っていた。

 

「彼らを生き永らえさせんとする気持ちの根底は、なんでしょうか」

 

 続けて眼差しを向け、問う。

 

「私は愛と見つけました。彼らと共に在りたいから、一緒にいたいから――そう思う者なしでは今頃、この水槽にもこれほどまでの彩りは出ていなかった、とも考えるのです」

 

 表情は笑わない。笑っていない。固くて変化に乏しくて、声音だって抑揚が少ないから、まるで何を考えているかわからない。

 アリエラは内心、そう思っていた。

 

「現代人の見識の、お一つとして」

 

「いかがでしょうか」そのアメジストを、見るまでは。

 目交いの紫水晶は、夜を抱擁する月輪のように、優しく煌めいていた。

 正答でなくとも。総意でなくとも。何かを思って雄弁に語る末裔に、英雄は少しだけ熱を感じた。

 

「……悪く、ないな」

 

 そして、嬉しくなった。

 

「今、笑いましたね」

「……そんなことはない」

「いいえ、笑っていました。この辺が緩んでいました」

「や、やめろ! 気安く触れるでない!」

「子孫特権です。末裔向けサービスです」

「そのような権利はない!!」

 

 暫くの間、綻んだ頬をつつかれ続けたのは、内緒だ。

 

 

 

 誰かが言った。よく学んだ後は、よく遊ぶものだ、と。

 出所のわからない教えに従い、次に赴くは遊園地。

 これまた程よく、ぺガスに及ぶ規模ではないにしろ、古代人が現代の娯楽を知るには十二分の場所だ。

 

「おい、よくわからんまま拘束されたが……この上り坂をゆっくりと進む箱はなんなのだ」

「ジェットコースターです。あまり喋り過ぎない方がよろしいかと」

 

 ジェットコースターに乗った。

 

「……ああ、これか。ふむ。遊園地の代名詞とされる乗り物であり、これの出来で遊園地のレベルが決まるといっても過言ではない遊具、と。よって往々にして作り込まれたものが多――――ッ!!?」

「だから言ったのに……」

 

 ぎゃあああああ。コスモスは真横で延々と響き続ける悲鳴に耳を塞ぎ、アトラクションを楽しめなかったという。

 

「おい、ギャロップがいるぞ。これはなんだ」

「メリーゴーランドと言います。跨がれますよ、その子」

「なるほど。手綱はないが……馬術には覚えがある。やってみよう」

 

 メリーゴーランドに乗った。

 

「くっ、こやつ、なかなかの暴れ馬! 何度腹を蹴ってやっても、曲がらぬ……!」

「蹴りが足らないのではないでしょうか?」

「む、そうか。はッ! はッ! はァッ!!」

「ちょっとお客さん壊れる! 壊れちゃうよォォォォォ!!」

 

 当然ながら二度目は乗せてもらえなかった。

 

「……この冷たい、白い螺旋は」

「ソフトクリーム、といいます。ミルタンクやメークルのお乳から作られる、ポケモン達の恵みです」

 

 食を学ぶのも重要だ。休憩所でソフトクリームを食べる。

 

「ふむ……頂くとするか」

「召し上がれ」

「……!!」

「いかがですか?」

 

 一口目以降、無言のまま狂ったようにその甘味を頬張り続け、七つ平らげた頃にようやっと言葉を発した。

 

「気に入ったようで、何よりです」

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 お化け屋敷や、観覧車――時間も忘れて動き回っているうちに、気付けば園内を一周していた。

 そうなる頃には、

 

「なあ、コスモス」

「なんでしょうか、アリエラ」

 

 すっかり二人も打ち解けて、お互い呼び捨てに違和感がなくなるほどになって。

 睦まじい様子は、時の隔たりすら忘れてしまいそうになる。

「見ろ、こやつだけ毛の色が違う」アリエラが指差す先は、ガラスケースの向こうにいる子犬ポケモン『ヨーテリー』。

 日の色が橙になった。残り僅かな輝きを、目一杯に放ち始めた。斜陽が正念場を迎えても、二人の物見は続いていく。

 二人はペットショップを訪れ、ポケモンを身近にしていた。

 ピチュー、トゲピー、ブビィ、エレキッド等々……陳列された成体進化前のベビーポケモン達が、客と触れ合う。

 ポケモンを傍に置きたいが、野生を捕獲するのは難易度が高いので、泣く泣くその願いを諦めてしまう者がいる。此処はそういった人たちのためにある。今ならば理解が出来る。

 アリエラは小さくも逞しい命と向き合い、微笑んだ。

 

「……アリエラはわかるのですか? この子たちの言葉が」

「ん?」

「伝承上のラフエルは、ポケモンと会話が出来たと云います。かつて彼と肩を並べていたあなたも、何か特別な力があるのかな、と」

「ああ……彼奴ほどではない、アレは特異だっただけだ。私は感情を読み取ることと、共有してやることしか出来ん」

「それでも、便利なものですね」

「そうだな。尤も今は部分的に欠け落ち、不完全なものに成り下がっているが」

 

 会話までは出来ない。コスモスの問いにそう答える。

「しかし、これはこれで悪いことばかりでもない」そして付け加えた。

 

「決してラフエルを否定する訳ではないがな、私はこう思うのだ。――『理解出来ない領域や、知りきれない場所があってもいいのではないか』とな」

「想像の余地、ということですか?」

「左様。確かにその心を曇りなく、包み隠さず伝える事は美徳だろうて。誰に限らずとも対話し、通じ合う接し方は、全を豊かにしていくに違いない真実だ。しかしな」

 

 ポケモンを眺める横顔は、さらに言葉を続けていく。

 

「解せぬ、或いは聞けぬからこそ相手を考え、想うことが出来るのもまた、我らの趣のように考える」

 

『理』解しようとする『想』い――理想。

「嫌だ」と言ってもらえないから、されたくない事を想像できる。

「好きだ」と伝える手立てがないから、してほしいことを一生懸命になって探せる。

 知らないからこそ、いつでも他者の立場になって、あれやこれやと頭を回して思い遣れる。

 

「温かい愚かさ、ですね」

 

 意味を悟ったコスモスが達者な言い回しで切り返すと、ふ、と思わず声を漏らすアリエラ。

 

「命が、皆それぞれ違う心と形を持って生まれてくるのは……優しさを育むため、なのかもしれん」

 

 ありがとう、これからよろしくね――弾む声に振り向けばポケモンがまた一匹、買われていく。

 名も知らぬ少女は抱きかかえた“ピンプク”に、目一杯の頬擦りをしていた。

 

「いや――そう信じている。今だって」

 

 その時、虹を見た。

 人々が思い思いに発する色の総てを受け止め、背負う者の色。底無しの愛を持つ者の色。

 されどけしてそれらに染められることなく、混ぜることもせず、ただ受け容れて己の彩りや輝きとして昇華させる、強き者の色。この地と、一つも違わぬ同じ色。

 コスモスはそうして確信を得る。

 彼女は紛うことなき英雄だと。魂朽ち果てるその最期(とき)まで、誰かのためにひた走った偉人だと。

 くすり。ようやっと目の当たりに出来た子孫の情動は、喜色だった。

 

「すまんな……、おかしな話をした」

「いいえ。好きですよ、そういう考え方は」

「……そうか」

 

 真意は明かさずとも、繋がれているのだろうと思う。

 今は今なりのやり方で、皆が手を取り合っている。血で紡がれた道の向こうから世界を見据え、穏やかになれた気がした。

 答えを出す材料は、得た。もたもたしていれば日が暮れるので、あとは戻って決めるだけ。

 

「コスモス、そろそろ――」

 

『帰ろう』言葉は十全に伝わることなく、突如として鳴り響く銃声にかき消される。

 

「――動くな! 全員、レジの前に並べッ!!」

 

 パリン、と蛍光灯を砕く一発が引き連れる悲鳴とどよめきに、二人は成す術なく屈した。

 

 

 

 立てこもり。有り体に言えば、そういう状況。

 犯人は年増ほどの女性一人で、風貌も一般的で変哲もなく、とても拳銃を持ってこのような真似をするようには思えない。

 

「や、やめ、て……」

「暴れなけりゃ、殺したりしないわよ……」

 

 幼い少女とピンプクを人質に取る、ようには。

 女は女児の首に腕を回したまま、まだ冷めきっていない黒鉄をその頭に押し付けていた。

 残された者達は座り込んで、ひたすらに刺激すまいと俯くばかり。ペットショップは一瞬にして恐怖が渦巻き、地獄のような様相を呈する。

 それでもコスモスとアリエラだけは、彼女から目を離さなかった。

 女傑がそうかはわからないが、コスモスの方は決して臆していない訳ではない。いくら倫理の外にいる者共と争っているからといって、決して慣れることなどない。そも、慣れてはいけないとすら思っている。

 しかし力がある以上は、恐怖の支配を甘んじて受け容れる選択も毛頭なくて。なればこそこういった時にも、打開の方法をあれやこれやと浮かべねばならない。いや寧ろ、浮かべてしまう。

 徐々に日常からあぶれるそんな自分に呆れつつも、耳を澄ました。

 

『周囲を完全に包囲した! おかしな真似はやめてただちに出てきなさい!』

 

 サイレンに続く、メガホン越しの声。外にPGが集った証。こんなに派手な真似をすれば必至だろう。

 だが女はそれが狙いだったと言わんばかりに少女を伴って歩き出し、自動ドアが開いたところで、

 

「――バラル団を連れてきなさい! さもないとこの子と中の人質、ポケモン達を全員殺す!!」

 

 と要求した。

 忽ちに騒然とする。気でも触れたかと言い出す者まで現れる始末だ。

 女はすぐさま中に戻り、口を開く。

 

「ごめんなさいね。あなた達には、私の復讐に付き合ってもらうわ」

 

 目的が明らかになった。

 

「……彼らを呼び出して、何をするおつもりですか」

「決まってるじゃない。これでぶっ殺すのよ」

 

 シンプルで汚い、とても嫌な即答。コスモスは問いかけを一度きりに止め、押し黙った。

 

「昨日、ここらでバラル団が出たんでしょう? だったらまだいるわよね……潜伏だってしているかもしれない」

 

 曰く復讐を掲げる女の耳に届かぬよう、希薄な声音で話す。

 

「……バラルとは、昨日私を襲った連中か?」

「はい。世間を騒がせる、犯罪組織です。目的は不明ですが、既に数々の犠牲者を出し、もはや国単位で無視できない存在になっています」

「なんと……、そんなに大きな徒党だったのか。だがそれほどまでの存在が、同じ場所に長々と居座るとも思えんが……」

 

 アリエラの推測はまさしく、であった。

 誰にだってわかる。ひとたび見つかれば通報を免れない彼らが、安易に人前で留まらないことぐらい。

 そうだ、来るわけがない。

「バラル団はポケモンのことになると一生懸命って言うわよね? なら、ここで事を起こせば来てくれるじゃない」――どんなにそれらしく頭を働かせようが、違う。

 彼らには大義がある。目的のために小を切り捨てる覚悟を知っている。それが前提として含まれていない時点で理屈など破綻しているし、こんな行為だってただただ無意味で。

 

「馬鹿言わないで下さいよ! 来るわけないでしょう!? 付き合いきれない!」

 

 二人の背後で店員の怒号が上がった。

 今取る行動としては最悪のものであるが、それを伝える手立ては何もない。

 だから脚を撃ち抜かれるのを、指をくわえて見るしかなかった。

 

「があぁぁあっ!」

「いやあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「……!」

 

 ぴゅっと跳ねた血が目下の床で弾けた瞬間、人質の戦慄はとうとう絶叫と化した。

 

「うるさいわよ! ふざけてこんな真似するわけないでしょうがッ!!」

 

 女は店員の倍以上の怒声を放つと、再び弾丸を床で跳ねさせる。

 もはや秩序などない。人々は耳を塞ぎ、口を閉じ、目を瞑って必死に伏せた。焦げた匂いだけが虚しく残って、惨劇の序章を飾り始める。

 コスモスは急いでスカートの一部を破き、それを痛い痛いと倒れて悶える男性の太ももに縛り付けるが、

 

「余計な事をするなッ!!」

 

 女はそれすら許さない。

 

「一人でも死人が出れば、すぐにPGは突入して来ます。そうならないための手当です。少し落ち着いて下さい」

「落ち着けですって!? 無理に決まってるじゃない! 旦那と娘奪われて、どうやって正気保ってろって言うのよォ!!」

「っ」

「コスモス!!」

 

 さらにもう一発。さすがのコスモスも真横を抜ける凶弾に怯み、目を閉じてしまった。

 自身が言う通り、女の瞳はもはや正常な人のそれではなかった。憎悪に澱み、絶望に歪み、憤怒が無尽蔵に沸いて出る、生きながらにして地獄に堕ちた者の色。

 

「あんた達が何を知ってんのよ……」

 

 安らぎを踏み潰され。

 

「雪解けの日をただ見ていただけの、あんた達がッ!!」

 

 愛する者を引き裂かれた。

 

「私の何を知ってるって言うのよ!?」

 

 そういう人間が出す――赤に血を用いた紫色。

 

「何がわかるって言うのよォォォォ!!?」

 

 深淵を沈む、闇の色。そういう色を湛えていた。

 耳を劈く叫びのせいだろうか。それとも立て続けに鳴る銃声のせいだろうか。

 少女も抑えきれなくなった涙を溢し、わんわんと声を上げて泣き出して。

 

「ちょっと、黙りなさい! 黙れ……黙れ!!」

 

 続々と爆発していく感情。

 最も恐れていたことが起きた。閉じた唇の向こうで歯噛みする。

 呼吸が荒い。目が開く。息が抜ける。

 制御しきれない指が引き金に至る。

 

「――黙れェェェェェェェェ!!!!」

「駄目!!」

 

 コスモスは手を伸ばした。

 

「か――――ッ!!?」

 

 その刹那。

 彼女の掌が向く方に、ポケモンが突っ込んだ。

 バン。バレルは約束通りに殺意を放り出したものの、銃口が逸れたために、虚無だけ撃ち抜き大人しくなる。

 女は、突如ケージを突き破って飛び出してきたピチューに体当たりされた――当惑する中でこれだけの視覚情報を得られれば、十分だろう。

 

「走って!」

「ぐっ!!」

 

 解放された女児とピンプクが、コスモスの合図で、倒れる女の元から一目散に逃げ出した。

 させるか、と落とした銃を持ち直そうと顔を上げるが、もう遅い。

「な、なあああああッ!!?」女の視界は、ピチューの後を追いかけるようにして殺到する商品(ポケモン)達で、埋め尽くされていた。

 一人と一匹を抱きとめた後、罪人が小柄な勇姿達にもみくちゃにされる光景を認知するコスモス。そこから九〇度首を回すと。

 

「アリエラ……あなた……」

「力が、戻ったようだ……」

 

 立っていたのは、瞳で虹を輝かせる英雄であった。

 

 

 

 救急車、野次馬、被害者――大事の象徴が次々と現場から撤退していく。

 PGの事情聴取で言う気は一切ないが、アリエラのお蔭で早期の解決、と言えるだろう。

 怪我人は一名こそ出たが、この時世、死者がいなかっただけでも喜んでいい。

 パトカーも日輪に置いて行かれる前に、引き上げようとしていた。

 

「……お前」

「何よ」

 

 連行され、今にも車両に乗り込もうとしていた女へ、声をかけるアリエラ。

 コスモスは先程の勢いが嘘のような消沈ぶりに半分驚くものの、曲がりなりにも為そうとしていたことを阻まれれば、こういう顔にもなるだろうな、と納得を追い付けた。

 

「復讐と言ったな。悪いことは言わん……よせ」

 

 歩み寄った先の横顔を、自分へと向かせる。

 

「奴らに奪われた娘も、夫も、お前が復讐の炎に身を灼くことなど望んでいない」

 

 真っ直ぐ視線を当てる彼女が今、何を思っているのか。

 諭すような静かな語り口の向こうで何を考えているのか。コスモスにもわからない。

 

「家族が健在の頃は、ただ純粋に幸せを願っていたはずだ」

 

 しかして、思うところがあったのは確かなのだろう、と内心で言い聞かせる。

 

「何も恨まず、永遠の安らぎを欲していたはずだ」

 

『私は、ここに永遠の楽園を作りたい』

 ――女傑の中で、英雄が言っている。

 

「思い出せ、その日々を。憎しみの連鎖からは何も生まれぬことを」

 

『誰も啀み合わず、憎み合わない。ただ在るだけで誰もが幸福を感じられる、そんな世界を創りたい』

 ――女傑の胸で、今なお願っている。

 

「お前を覚えている彼らは、お前が復讐を完遂したところで、喜びはしない」

 

『私がもし朽ち果てた時、我が夢をお前に託すことを、許してくれるか』

 ――女傑の体を、突き動かしている。

 

「だから、前を向いて歩け」

 

『有難う、アリエラ』

 ――女傑の魂を、揺らし続けている。

 アリエラは知る者として説いた。

 続く痛みの罪深さを。繋がる怨嗟の忌々しさを。その果てに待ち受ける、虚しさを。

 誰かが止めねばならぬ、と言った。どこかで断ち切らねばならぬ、と話した。

 正しいだろう。美しいだろう。それが出来れば。叶うなら。誰一人として傷付かぬだろう。

 

「……フフッ、ハハハ! アハハハハハハハハ!!」

 

 ――でも世界は、そんなに甘くない。

「何が、おかしい……?」上向き、大口開けて笑う女へ、少々の沈黙を置いて問うた。

 

「復讐は何も生まない? 皆が喜ばない? ――んなもん知ってるわよ」

 

 胸元を掴みかかられ、吃驚。

 尋常でない力は、爪と一緒になってドレスにくしゃくしゃの皺を寄せる。

 

「私が仇討ちしたってねえ……あの子達にそれを見る目は、もうないのよ」

「……!」

「死人に何が出来るっての? 喜びを表現する口だってない。私の言葉を聞く耳もない。 握ると温かい手も! 作ったご飯を興味津々にして嗅いでくれる鼻も! 何もかも! 全部全部全部! ぜんぶッ!! どこにも残ってないわよッ!!」

「ならば、なおのこと……!」

「どうして耐えないといけないの!? 奪われた私が! 誰を苦しめた訳でもない、私がッ!!」

「っ……」

 

 肉迫する遮りにたじろぐばかりで、アリエラは何一つとして返せなかった。

 

「置いてく方は言うわよ、『恨むだけじゃ悲しい』って。何も知らない方は言うわよ、『復讐は虚しい』って」

 

 伝う涙が、深紅に見えた。

 

「なら置いてかれた方はどうしたらいいの? 知ってる方はどうやって真っ暗な明日を生きればいいの?」

 

 発される言葉が、呪詛に聞こえた。

 

「奪われたなら、奪い返すしかないじゃない! 報われるまで! 救われるまで! ずっとずっと!!」

 

 間近の顔面が、怪物のものに思えた。

 

「これは私の戦いなのよ。私が前を向くための……先に、進むための……!」

 

 崩れ落ちて、縋り付いて。

 

「――そんなに言うなら返してよ! 私の昨日を、家族を! 返してよ! 返してよおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 

 そう叫びながら、黙るアリエラの胸を叩いたところで、女はPGに引っ張られ消えていった。

 痛々しく立ち尽くす後ろ姿に、なんと言ってやれば良かったのだろうか。残されるコスモスは見つめるだけで、最後の最後までわからなかった。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 静寂の中で、月光に照らされている。

 夜風に煽られたナイトドレスが柔らかく波打つと、影が主に反して楽しげに踊った。

 揺らぐ草葉の音色に包まれながら、一人大きく丸い空の鏡を眺め、精神を落ち着けようと思ったのだが――そうもいかないようで。

 

「夜更かしですか」

「……コスモス」

 

 長い夜の一瞬だったらば、ばれることもないだろう。そんな軽々しい気分で足を踏み入れた、石造りのテラス。

 後から訪れたコスモスはアリエラの背に声を当て、

 

「感心しませんね」

 

 佇む様を茶化した。

 

「お前こそ、とうに寝入ったものと思った。まだまだ若い、しかと眠らねば成長できぬぞ」

「精神的な成熟で補っていますので、ご心配なく」

「ほう、そうきたか」

 

 巧みな口車に感服するアリエラだったが、彼女も彼女で一朝一夕の習熟とは思えないほどの達者さで現代語を扱うので、おあいこだろう。

 何をするでもなく並んで、二人で遠くの玄兎を見据えていた。

 

「……私は、ラフエルと戦った」

 

 暫しを放した先祖が語るは、外典には存在しない、真の記憶の欠片。

 

「いや、ラフエルに限らない。剣を握り、ポケモンと共に戦場を駆け、数多の者と幾度となく争ってきた。そうしてこの手にかけてきた」

 

 存在しないとされた、争いの歴史。

 

「だがそれは、未来が現在(いま)より生きやすい世になると信じてきたが故に、重ねてきた業だ」

「……正しい歴史を封印したのも、そういった思いの下ですか?」

「無論だ。どこかで終わるだろう、ましになっているだろう――そんな風に思ったからこそ、走ってこれた。友を討てた」

 

『嘘をつけた』罪と成り下がりし正義が、冷たい虚空に解けていく。

 アリエラは風にそよぐ髪を押さえて振り向くと、自嘲にも似た儚い笑みを湛えていた。

 

「だが、違った。民は今なお終わらぬ争いを続けている。世界に消えぬ火をばら撒いている」

 

 思い返すは先刻の、醜く歪んだ復讐鬼の相好。

 それを目の当たりにした時、彼女は存在を否定された気がした。

 

「彼女の目がな、同じなのだ」

 

 燃やした命を「無駄だった」と吐き捨てられた気がした。

 

「――八千年前の人々のそれと、何も変わらんのだ」

 

 己の描いた虹を「夢物語でしかない」と、放り投げられた気がした。

 胸を刃で抉るように痛めながら。目玉を針でくりぬくように苦しみながら。足のつかない水の中で溺れるように、息を詰まらせながら。

 

「私は決めたぞ、コスモス」

 

 答えを出す。

 そんな彼女の声は、心なしか震えているようだった。

 

 

 

 

 

「我が名はアリエラ・エイレム」

 

 最初に響く一声で、誰もが驚いたことに違いない。

 

「復活せし、ラフエル神話に名を連ねる“八人の英雄”が一人である」

 

 場所は、コスモス宅の応接間。

 

「――今から其方らに、真のラフエル神話を語り教える」

 

 その日、そこに八人のジムリーダーが集結した。

 閉ざされた箱――葬られし原典が今、開かれる。



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03.Origin Mythology

 複数の絵画と、いくらかのオブジェ。シャンデリアも特段大きくて、それは部屋の広さをわかりやすく伝えてくれる。

 応接間というのは文字通り客人に見せる場なので、やはり映えというものが重要視されるのだろう。

 エイレム家によるもてなしが、メイド達の手際を通して成される。

 紅茶やコーヒーといった飲料や、ケーキなどの軽食が並ぶダイニングテーブルの上で、九人の会合は行われていた。

 

「うーん――少し、整理していいかな」

 

 側頭部を人差し指で押さえるユキナリの表情には、大きな戸惑いがあった。

 いや、彼だけではない。ステラも言葉を失っているし、ランタナだってわかりやすく目を白黒させている。カイドウは眉間にしわを寄せて手元のノートと睨めっこするばかりだし、アサツキにあっては一周回って無表情で考え込んでいた。

 誰もがしけた面になっているが、コスモスもアリエラも、彼らを責めることはしない。

 ただでさえ世上が揺らぎ始めているこの状況で、突然召集され、英雄を自称する女から露ほども知らないことを語られれば――こんな反応にもなろう。

 

「ラフエル地方に伝わる英雄は、実のところラフエルの他にも七人存在していて、その中の一人が此方の御仁『アリエラ』である――と」

 

 サザンカは紅茶で一服した後、口を開いた。

 

「延いては彼女を祖先に持つ君もまた、英雄の民だった」

 

 首での肯定に、ユキナリが続く。

 

「そして、お前たちの方で続く英雄の民――便宜上“エイレムの民”としよう。は、今日までこの地に伝わるラフエル英雄譚とは異なる神話『原典』を保有しながらに、その内容を血筋共々歴史の裏に封じてきた。違いはないな?」

「はい」

 

 カイドウの質問を、正面から認めた。

「隠していてごめんなさい」とも言った。しかし誰も咎めない。

 

「ま、しゃーねーだろ。ご先祖様が丁寧に紙に記してまで末代に頼んだことだ。平たく言っちまえば家庭の問題さ」

「……っつか、規模がデカすぎて、オレは何に謝られてるのかも正直わかんねぇ」

「んあぁ、同感だ。何にせよ、俺達がやいのやいの言えるような事じゃあねえのは確かってこった」

 

 そもそも隠されていたことが問題ではないから。

 気にするべきは過去でなく、現在の話。カイドウはその旨を伝え、さらなる深みを問う。

 

「何故これまで黙っていたことを、このタイミングで話そうという決断に至った?」

「それは……」

「私が行動を起こすのに、必要な行為だからだ」

 

 コスモスから回答を引き継ぐは、アリエラ。

 

「それがなくとも、現代のラフエルの英雄は“ジムリーダー”なる立場を取るお前達なのだろう。嘯いたまま守ってもらおうなど、虫がよすぎる……甦った今、そんな風に思ったのだ」

「……ではこれからお前が口にするのは、偽り無きラフエルの行いの全て、ということでいいな?」

 

 訝る賢者が納得したかはわからないが、少なくとも額の強張りは多少和らいだ気がした。

「待ってください」しかしそこでストップをかけるは、ステラの最もな意見で。

 

「確かに、ここまでは理解しました。ですが、本当にあなたが八千年前の月の英雄であると、私達はどのようにして信じれば良いのでしょうか? 決して疑う訳ではありませんが……情報が多く、やはり思考は追い付いていきません」

「……本物だよ、こいつ」

「! カエンくん……」

 

 それを、意外な人物が解消する。

 ここまでひたすらに『原典』を読み込み、柄にもない沈黙を貫き続けてきたカエンであった。

 少年の表情に、いつもの朗らかさはない。パーツの悉くが引き締まって、厳かさを湛え、ややもすれば別人にさえ見えてくる。

 人はそれを“覚悟”と呼ぶらしい。

 

「正直者のにおいがする。ラフエルがもってた盾からも、おなじにおいがしてた。それに」

 

 テーブルで滑らせて続けざまに示すは、英雄ラフエルが黒の光と化す、例のページ。

 

「おれは、これとおなじ絵をテルス山で見た」

「……誰かが記したのだろうな。私が持ち去った真相を、広めようとしていたのかもしれない」

「そっか――これ、ほんとのことだったんだな」

 

 消え入りそうな独り言が、かすれた樹皮紙の表面を撫でる。

 そっと俯く薄目は、日陰に咲く花のように寂しげだった。

 自分は彼になりたい訳ではない。寧ろ彼を超えていきたい。彼より優れたい。だから彼に憧れたでも、生き様をなぞろうとしたでもない。

 それでも自分が夢を持つ、きっかけだった。目標だった。道しるべだったし、通過点だった。

 自分の中の英雄を生み出した、希望だった。

 

「覚悟は出来たか、カエン・セラビム。太陽の末裔よ」

「……ああ。おしえてくれ、アリエラ」

 

 きっとそれは、今でも変わらない。

 よって嫌わない、絶望だってしない。

 

「どうしてあいつが、こうしなくちゃならなかったのかを」

 

 ただ、訊かねばならぬと思った。

 たとえ、目が当てられないほどに残酷でも。耳が引き千切られそうなくらい悲痛でも。

 知らねばならぬと思った。

 自分たちの始まりとして、何故彼がこの終わりに辿り着いたのかを。どんな大義で彼女が世界を欺いてしまったのかを。

 

「世界を、ほろぼそうとしなくちゃいけなかったのかを」

 

 ――本当の英雄譚(オリジン・マイソロジー)を。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『今から遡ること八千年前、世界は戦火に満ち満ちていた』

 

 例外はあったが、主にヒトとポケモンの対立だった。

 

『わかりやすく言うならば、種族戦争だ』

 

 当時は今のようにポケモンを知ろうとする者は少なく、そのための技術も多くはなかった。

 よってあの頃のヒトにとってのポケモンとは、ただ自分たちの領域を踏み荒らす、得体の知れない化物でしかなかった。尤もそれは、ポケモンから見たヒトも同じだったのであろうが――。

 悔やむべきは『歩み寄ろうとしなかったこと』だ。不理解から生まれる衝突ほど、悲しいものはない。

 彼らは少ない海の水を取り合い、狭い陸の土地を奪い合った。限りなく広がる空の大きさも、知らないで。

 

『やがてポケモンとの戦により安息の地を奪われた人々は、新天地を求めて舟で大海原へと漕ぎ出した』

 

 その間も、絶えずポケモン達は襲ってきた。世界そのものが牙を剥いたかの如き猛攻だったという。

 そうして争う合間に、舟からこぼれ落ちたひとりのヒトがいた。

 

『それが、ラフエル・セラビムという男だった』

 

 彼は戦乱の世にあっても、武器を持つことはしなかった。何故ならば数少ない『理解者』だったからだ。

 ポケモンの言葉を解し、意志を汲み、寄り添おうとする者だったからだ。

 どんなに苦しみ喘いでも、声高に不戦と和平を呼びかけ続けていた。

 その行いが天に伝わったのかはわからぬが――ラフエルは命を落とすことなく、ある大陸に漂着した。

 

『後に己の名を付けられる、ポケモン達の大陸にな』

 

 そこは、ポケモン達の国であった。ヒトとの死闘に心を痛め、傷付き、疲れた獣たちが寄り集まった島であった。

 その国の長――“黒陰”と“白陽”を司りし二体一対の獣の王は、彼を焼き殺さんとした。

 当然のことだ。敵対するしかない存在だったのだから。

 周囲に炎が立ち起こり、頭上で雷が唸りを上げる。その時、男は言った。

 

『私はポケモンを愛している』

 

 こんな考え自体が稀だったのだ、珍妙な事を宣う敵に興味を抱いたのかもしれない。

 二体の獣の王“真実神レシラム”と“理想神ゼクロム”は、静かに耳を傾けた。そんな彼らへ、

 

『私は、ポケモンと人間が解り合える日が来ることを信じている』

 

 ラフエルはこう続けたのだ。

 さらに願った。脈打つ衝動を吐き出すように。魂一つで身を焼くように。

 

『故に、私に機会をくれ。ポケモンと人間の懸け橋となりて、彼らを繋ぎ止める宿願を果たすための時間をくれ』

 

 もはや、それを醜い命乞いと嗤う者はいなかった。

 涙を流し、強く願う姿を前にして、彼も一緒だとわかったからだ。同じ世界の下で心を痛めていると、理解したからだ。

 そして彼らは、初めて解り合った。

 

「ここまでが、ラフエル英雄譚の序章だ」

「概ね、合っているね。尤も戦争がきっかけだったってのは、僕らが知る外典の記述にはなかったけど……」

「当然だ、私が捻じ曲げたのだから」

「……不都合があったから、ですか?」

「神話というのは、言うなれば後の世に伝え聞かせる夢物語だ。戦争が繋がりのきっかけなど……、こんな皮肉もあるまい」

 

 次へ行こう。アリエラはそう言って紙を捲り上げ、続きを語った。

 

『ラフエルは彼らがこの地に訪れたばかりだったことを知り、開拓を買って出た』

 

 ヒトがポケモンよりも多く携えるもの“知恵”を用いて、汚れた水を浄化した。草木を刈って整えて、緑に等しく陽が差すようにした。荒れ地を耕して、命の根源となる果実の種を植えた。砂地に埋まった塵芥を取り除いて、巣穴を作りやすくした。

 

『加えて将来的にヒトが暮らすための整備も行った』

 

 大地を均して道を作り、山の一部を掘り抜き、谷には橋を架けた。

 時にはその土地の主であるポケモン達と、「縄張りの一部を分けてほしい」と危険を顧みず交渉したこともあった。

 当たり前に快く思わないポケモンもいたが――戦の虚しさを知る彼は決して武力を持ち出さなかった。何度虐げられて殺されかけても、毅然として彼らへ呼び掛け続けたのだ。

 

『民の住まいをより良くする。たったそれだけのことだったが、彼はそうやってポケモンを助け、そしてポケモンに助けられながら、数百年かけてその大陸を切り拓いた』

 

 終わる頃には、その土地は『ラフエル』と呼ばれるようになっていた。

 ポケモン達に認められた男は、甚く喜んだ。讃え合い、涙を流して彼らと抱き合った。

 

『その時からだ。ラフエルが英雄と呼ばれるようになったのは』

 

 かくしてラフエル英雄譚の上編と中編が、完結する。

 

「ここまでも、ほぼ外典通りか……」

 

 そう言うカイドウの横で通る、ランタナの気だるげな欠伸。

「……ここからだ」それを押し返すように下編を語らんとするアリエラを、カエンはずっと見ていた。

 終盤だ、という確信がある。歴史の歪みがあるとするならば、

 

『ラフエルはレシラムとゼクロムに認められ、この大陸を統べる王となった』

 

 言葉通り、ここからだろう。

 残酷な真実に目を逸らさず、最後まで向き合い続けた者として。

 されど絶望することなく、見果てぬ理想を求め続けた者として。

 そしていかなる時も、理想を真実に近づけようとした者として。

 彼は出会いの日に刻んだ『始まりの証』を反故にすることなく、平和の国を築き上げた。

 ヒト、ポケモン問わず、己と同じようにして流れてきた者達を受け容れ、助け、愛を説き、共存を教えた。

 傷付けず、苦しめず、話すだけで世界は収束するのだと、声高に謳った。不戦の思想を唱えた。

 

『やがて、戦争でヒト側の主力となっていた、“奇跡”と呼ばれる特異な力を持った人々も、彼に賛同した。後にラフエル共々数えられることになる、私も含めた“八人の英雄”だ』

 

 組織の主力ということは、即ち象徴。彼らが揃って矛を捨てることは、終戦を意味する。

 それを見たポケモン達も爪を収め、牙をしまった。

 そうやってラフエルは、長きに渡る種族間の争いに決着(けり)をつけたのだ。

 

『後は簡単だった。ヒト、ポケモン問わず、誰もが一つの“民”として手を取り合い、助け合う日々を送った』

 

 加えて我々がラフエルを手伝ったのもあり、文明は目覚ましい速度で繁栄していった。

 双方が慰め合い、傷を癒す。そうする事が出来るようになった頃、我々は空の青さを知った。充ちる煙にも、起こる火柱にも阻まれない幸せを知った。

 何も起こらず、何百年と連なっていく平和な日々。明日も、明後日も、明々後日も……皆この日常が、果てしなく続いていけばいいなと思った。そう願っていた。

 

『――――だが、世界は許してくれなかった』

 

 ヒトがポケモンの食べ残しを、放り捨ててしまったせいなのかもしれない。

 ポケモンがヒトの住居を、侵略してしまったからなのかもしれない。

 どちらから始まったかはわからなくとも――きっかけは些細なことだった。

 されど双方が致した愚行に感謝はなく、愛情も欠けていて。

 時間というものは残酷だった。“経年”というたったの二文字が両者への想いを、罪を、痛みを忘れさせた。

 呼び覚まされた傲慢が他を蔑ろにする。再生していく憎しみが命を奪い、言った。

「やはり解り合えぬ」と。「滅ぼすしかない」と。

 

『――戦争は、また始まってしまった』

 

 ラフエル大陸の、暗黒時代の突入だった。

 ヒトは森に火を放ち、ポケモンは村を食い潰した。

 かつての涙が染みた大地はまた血に濡れて、青い空には再び黒煙がかかった。

 作物が実る畑に亡骸が転がり、整えられた道は音を立てて崩れ去っていく。誰もが悲しみを失念の彼方に追いやって、あてもない憎悪の下で存分に殺し合う。

 私たち英雄もその凶行を止めようとしたが、叶わなかった。

 ヒトに与し、ヒトによるポケモンの支配を望む“新世主義”と、ポケモンの自由を尊重し、彼らに味方する“原理主義”に分裂を起こし、またしても武器を持ってしまった。

 私もそうだった。原理主義へと傾倒し、新世主義へと仇成した。

 

『あの頃は、それが正しいと考えていた』

 

 皆が次々と他者を手にかけていくのを見て、もう昨日に帰れないと思った。

 彼らという花を散らした黄昏には、もう戻れないと確信した。

 鮮血にまみれた闇に入る。明けを知らぬ宵が来た。

 愛した者が、物凄い形相と共に襲い掛かってくる。

 同じ明日を見た者の身を、真っ二つに切り裂く。

 続いていく「奪った」「奪い返した」の連鎖。

 何体もの同胞が私を庇って死んだ。幾人もの同族が私を憎んで潰えた。

 

『……覚めない悪夢を、見ているようだったよ』

 

 さらに何十年と経ち――この耳朶が嘆きしか捉えてくれなくなった頃だろうか。

 

「どちらにも属さず、奇跡で争いを止めて不戦を呼びかけ続けていたラフエルが、とうとうそれ(・・)を起こした」

「――破滅の、光」

「そうだ」

 

 アリエラの手が指すは、原典の例のシーン。

 

『繰り返される悲劇に心を痛めたラフエルは、レシラムとゼクロムを伴い、総てを滅ぼさんとする破壊者となった』

 

 太陽が、黒太陽と化した瞬間である。

 真実神の炎剣で人々を焦がして、理想神の雷槍で獣を焼き払った。

 燃え盛る世界の中で、ラフエルは言った。

 

『この争いは、民に叶わぬ夢を見せた我が咎である』

 

 と。

 

『なれば、我が手で終わらせてやるのが務めであろう』

 

 と。

 彼にとってはポケモンもヒトも、もはや関係なかった。

 目に入る全てを消し去って、世界を真っ新にしようとしていたのだから。

 我らは、憤怒に身を委ねて悉くを壊していくラフエルを見てなお、戦争を続けることは出来なかった。

 それはそうだろう。望む明日を掴むために今日を切り捨てているというのに、明日そのものが失くなってしまっては、戦う意味が消える。

 気が付けば、我らは同じ方を向いていた。暗い空に佇む破壊神、ラフエルの方を。

 そして敵、味方という理屈も廃れていた。

 そこにいるのは、ただ“何でもない明日”を掴み取ろうとする、民草たちだけであった。

 

『七人の英雄は再び寄り集まり、残る全てのヒトとポケモンを率いて、ラフエルという破滅の光に挑んだ』

 

 皆が一丸となり、一斉に、一方へと突き進んでいく。

 何度ぼろぼろになり、転げ、倒れ、仲間が力尽きようとも――太陽を取り戻すため、誰もが明日に向かって叫び、走り続けた。

 その時の我らの瞳の輝きは、間違いなく虹の色をしていたと思う。

 

『やがて私はかつての敵の助けを得て、そして仲間の屍を乗り越え――至ったラフエルの胸を貫いた』

 

 すると蝕まれていた太陽は忽ちに戻って、再び魂たちを照らした。

 草木が芽吹き、湖からも血の色が抜けきった。

 

『そうしてラフエルはレニアの地で崩れ落ち――二体の獣の王と共に“対極の寝床”で眠りについた』

 

 その後、世界には平和が還ってきた。

 数多の命を奪った黄昏を抜け、宵の中で共闘し、最後に訪れた暁。

 民はそれを数千年と受け継いで、大切にしてくれたのだ――。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――以上が、私の知るラフエルの全てになる」

 

 捲り続けた原典のページが、一番最初に戻ってくる。

 無音。アリエラが全てを打ち明けた時、誰一人として繋げる言葉が出なかった。

 葬られた事実は、それほどまでに余る衝撃だった。

 

「……何も言えない、か」

 

 特に、カエンにとっては。

「だが案ずるな、セラビムの末裔よ」――神妙な沈黙を打ち破る補足が入る。

 

「歴史の生き字引として誓って言うが、ラフエルは正真正銘の英雄だ。讃えられるべき対象であることに変わりはない」

「アリエラ、今は慰める時では」

「慰めではない。事実として言った」

 

 遮るコスモスを一瞥してから、面と向かったカエンへと核心を紡ぐ。

 

「ラフエルはな……この結末を見越して、敢えて魔王となったのだ」

「……わざと、ってことか? でも、なんでそんなこと、わかるんだ」

「――今際の際にな」

 

 竜骨の剣で、ラフエルの躰を貫いた時。返り血を浴びながら、彼の者の顔を間近にした時。

『有難う、アリエラ』

 穏やかな声が、聞こえた。

 

「静かに、笑っていたのだ」

 

 それはいつまでも、どこまでも――。

 

「『永遠の楽園を作りたい』という夢を語っていた時と、同じ面をしていたのだ」

 

 復活した今でさえ、脳裏で残響し続けている。

 

「――どこまでも、ふざけた奴だった」

 

 ラフエルは、希望を諦めたのではなかった。

 自ら世界を脅かす巨悪を買って出て、全てを一つにしようとしたのだ。

 

「確かに、命を奪った。誉れあるやり方ではない」

 

 最後まで民を想い続け、温かい夢を見ながら死んだのだ。

 

「だが過去を悲しんで立ち上がり、現在を奔走して希望となり、未来のために泥を被って贄となった存在を――英雄と云わずして、何と表せようか」

 

 彼女にとって、偽ってでも栄光を伝えたいと思うほどに、偉大な男だったのだ。

 コスモスが横顔から覗くその微笑は、どうしようもないくらい寂しく映った。

 

「正史をエイレムに閉じ込めたのは、それが理由ですか?」

「『も、ある』というだけだ。終生ほらを吹き続けるのだ、一時の感情に任せて下せる決断ではあるまい」

「であるならば、何故……」

「私はラフエルが生涯を賭して得た楽園を、永らえさせようとした。その時、考えたのだ」

 

 未来にどんな記憶を残すべきなのだろうか、と。

 

「えてして民は、歴史に倣いがちだ。そこに英雄がいたらばそれを目指す者が現れるし、神がいたらばそれを信ずる宗教が出来上がる」

 

 視線を、カエンからステラへ。

 

「『呪いの記憶、故に隠してくれ』と頼めば――律儀に聞き入れてくれる」

 

 そしてコスモスへ。

「これが答えであろう」アリエラはそう言って、ステラが持ち込んだ外典を手に取り、ぱらぱらと項を走らせて流し読みする。

 

「争えば滅ぶ絶望ではなく、平穏を守り抜いた希望に、語り継ぐ必要を見出した」

「だからあなたという“月”は、夜明けと共に消えた」

「左様……邪神による悲劇より、英雄による活劇を以て、後世の民を導きたかったのだ」

 

 これが、全ての真相。

 ラフエルという大地の成り立ちであり、英雄の軌跡であり、歴史を葬りし者の思いの丈。

 

「これから、どうする。先ほど『行動を起こす』と言っていたが、その具体的な意図はなんだ」

 

 だが、まだだ。まだ聞き忘れがある。

 二指で持ち上げられたカイドウの眼鏡は、女傑を逃さなかった。そういえば、といった風に傾く皆の耳へ、答えが流れ込む。

 

「……テルス山に赴き、今のラフエルの声を聞く」

「なんと。古代人は、死人の声も聞けるのですか」

「可能だ。“虹の道”があるのならば」

 

 八人中八人、誰もが聞き慣れない言葉であったが、思い当たる表現『虹』さえあれば、彼女が話さんとしていることは労せず理解出来た。

 ラフエル大陸の地底に流れるエネルギー『Reオーラ』の事を指しているのだろう。

 生物の秘めたる力を解放し、時に傷を癒し、損壊した物すら復元する、とかく魔法のような現象を引き起こす未知の物質だ。

 

「アレはラフエルが持っていた異能“奇跡”が、肉体という器から漏れ出たモノだ」

 

 言及しようとした事が、先立って話される。

 

「……要は、昔にラフエルが使ってた特殊な力、ってことか?」

「そうなる。ラフエルの地を媒介し、必要な時に必要な分だけお前達に流れ込んで、貸し出されている状態だ。魔術のようなもの故、ある程度の条件は求められるが……その魂を限定的に復活させることならば、容易だ。そして甦った彼奴は虹の道を通じ、今日までの道程を余さず知るだろう」

 

 そこで、彼にその胸中を問う。アリエラはそう言った。

 

「聞くに世界は、未だ絡み付く因果に囚われているそうだな」

 

 少し息を詰まらせた後、こうも言った。

 

「“バラル”という存在が、憎しみの種を振り撒いている。だから相容れない世界は、終わりなく続いている」

 

 うんともすんとも、返らない。

 何よりも、誰よりも返しようがない。

 深い因縁で悪意と結ばれている、彼らだからこそ。逃げられないほどに繰り返した激闘が、脳裏にこびりついているからこそ。

 無責任に「大丈夫」だなんて、間違っても吐ける訳がない。

 

「もしもラフエルが、今を『過ちだ』と嘆き、嘗ての行いを悔いたのなら」

 

 次いで出てくる言葉など、とうにわかっていた。

 本当は止めなくちゃならない。言わせてはいけない。それでも。

 

「――私は今度こそ、世界を終わらせようと思う」

 

 民を考え抜いた果ての、重く苦しい決意が込もった口を塞ぐ術など――どこにもあるはずがなかった。

 

「おいおいおい……ラフエルの守り手の前で堂々と世界破壊宣言ってか。参ったぜ……スケールがデカすぎて、どうすりゃいいかわかんねーよ」

 

 あーあ、言っちゃったよ。頬をぼりぼりと掻きながら、そんな顔。さしものランタナの軽口も引き攣り、ぎこちない。

 彼のこんな姿は、同僚たちが見る中でも初めてのもので。

 

「お待ちください、月の英雄。どうか怒りを収め、今一度我々に温情を……!」

「怒りなど、ない。お前たちへの温情を絶やしたことだって、一度たりともない」

「では、どうして!」

「愛ゆえに、だ」

 

 アリエラは哀しみを抱えるステラと同じ相好をして、伏目で繋げる。

 

「過ぎ去りし日々の果てに平穏など無いというなら、ただ辛く苦しいだけであろう。……元は我々が始めた物語、終わりも我々で齎してやるのが道理だろうて」

「そんな……!」

 

 ドン。その時、卓上の全てが揺れた。

 

「……なんで、そうなるんだよ」

 

 カエンだった。立ち上がって、ぐっと目を閉じ、垂れたを首をゆっくり振る。

 

「セラビムの末裔……」

「……ラフエルは、やっぱりすげー英雄だって思ったよ。アリエラだってつらいなって思った。――でも、ほろぼすのは違うだろ!?」

 

 それは、目一杯の叫び。誰もが絶句する中でただ一つ上がる、現在に息吹く勇者の熱。

 

「あくまでも可能性の話をしている。何も、最初から消そうというわけではない」

「そういう話をしてるんじゃない! どうして自分のしてきたことを、そんな簡単になかったことにできるんだ、って言ってる!」

 

 月の英雄は世を救った。そして、民の存続を願った。

 その物語は決して美談と言えずとも、知る者の夢になったろうし、光にもなったろう。憧憬さえ抱かせたのかもしれない。

 信じて進み続けた英傑の(わだち)には、未だ紛れもない希望が限りなく残っている。

 魂を燃やした証憑――即ち己の行いを否定する行為を、少年の中の英雄は「許されざる」と糾弾するのだ。

 

「誇れよ、おまえだって英雄だ……だから今があるんだ! それでいいだろ!?」

「繰り返すぞ、カエン。始めたのは私だ。なればこそ、思案を止めることは冒涜に値する」

「託せよ! なんでみんなを信じてやれないんだ!」

「――信じてやれぬのは、お前の方なのではないか?」

「……!」

 

 刹那、視線の奥が揺らぐ。震えた唇が咄嗟に返事を探した。

 見つからないままでいるうち、あれよあれよと白百合色の手が頬の傷に伸びていく。

 女傑は息を詰まらせる様を見て、確信に至る。

 

「……違うな。お前の眼は紛れもない虹の担い手のそれ――大英雄の面影そのもの。お前は寧ろ人を信じられる、温かく優しい子だ。誰かの気持ちになって、笑って泣いてをしてやれる」

 

 そっと一撫でする優しさに反してつつく、さらなる図星。

 

「それ故に、お前は考えているのではないか」

「……っ、やめろ!!」

 

『もし自分がラフエルだったなら』と。

 

「哀しみを抱かずにいられる自信がない」

「ちがう!」

「『それでも』と言い続けられる確信が持てない」

「そんなこと、ない!」

「先人の意志を改めることに、迷いがあるのではないか」

「……おれは……っ」

 

「~~~~~~っ!!」そうして慈悲で苦しむ顔を掌から解放すると、少年はもがくようにして己の頭を掻きむしった。

「カエンくん」向かいの席で一声かけるコスモス。さりとてそれで取り戻した理性など、推測するまでもなく脆くって。

 くたくたになった身を再び椅子に座らせ、項垂れる。

 

「……おまえの言うとおり、世界はかなしいことばっかりだ」

 

 肯定なんて、したくなかった。

 

「……くるしいよ。つらいよ」

 

 けれども“英雄になる夢”を夢で終わらせないためには。大人の笑い種で済ませないためには。

 世界と向き合わなければいけない。真実を背負わなければならない。

 

「生きていたくないやつだって、きっといっぱいいる」

 

 偉物は耳にたこが出来るほど言う。

『理想だけで夢は語れぬ』と。

 

「――雪解けの日の被害者をテレビでみたとき、なみだが止まらなかった」

 

 そんなこと、カエンはとっくにわかっていた。

 ラフエルよりも、ずっとずっと世界を見ている自負があるから。

 

「『じぶんがもしそうなったら』って思うと……息がくるしくなった。胸が締めつけられるみたいに、痛くなった。変になっちゃいそうだった」

 

 本当は、綺麗なのがいいんだ。

 だからどんなに汚れてしまっても、綺麗事を謳い続ける。

 

「でもな、一生懸命やってるやつだっているんだよ。かなしいだけじゃ、ないんだよ」

 

 平和なのが、一番なんだ。

 だからどこまで馬鹿にされようと、平和呆けして笑顔を湛え続ける。

 

「だから、おねがいだから……『消す』なんてこと、世界中のみんなのことばみたいに、いわないでくれ……」

 

 カエンはいつだって、人一倍世界の惨たらしさと対面してきた。

 今なお疼く傷だらけの胸も、零れて止まぬ涙も、そうやって得たものだ。

 だからこそ、簡単に捨てられる訳がない。

 止めねばならないと思った。

 たとえ後ろ髪を引かれ、嘗てから過ちだと否定されようとも。

 先祖の意向に、背くことになってしまおうとも。

 ――対話を臆してしまうほどに、彼の言い分に理解が及ぼうとも。

 

「それでもおまえが、ぜんぶを壊すっていうなら――――おれは、おまえと戦わなくちゃいけない」

 

 血の運命を断ち切って、躊躇いを噛み潰して、飲み込んで、涙拭って。

 当代の英雄は今を守るため、アリエラへと向き直った。

 

「……争う気はない。お前たちにこれを話したのも、我が決意の表明に過ぎん。協力を強いる気もなければ、邪魔をするなとも言わん。ただ、罷り通るのみだ」

 

 双方にとって譲れないものが明確になった瞬間に生まれる、特有のどん詰まり。それは話し合うことがなくなった証明でもあって。

 周囲を巻き込み、居心地の悪さを煽る沈黙。

 

 ――出来立てのそれを破壊する轟音が、一つ。

 

 一手に倒れてしまいそうな衝撃であった。

 地鳴りのような響きを引き連れて発生したそれは、間近――庭での異常事態を伝えるのに、十分で。

 

「コスモス、様……お逃げを……」

「皆さん……!」

 

 駆け付けたコスモスは、いや、九人は愕然とした。

 警備も兼ねるメイド達が、手持ちポケモンと共に負傷し倒れていたのだ。

 駆け寄った一人が震える指で示した先に、敵はいた。

 山すら崩すと云われし巨体を持つ砂塵の怪獣『バンギラス』及び、人魂を食い荒らす伝承がある亡霊『ゲンガー』。

 荒れた大地の上でけたたましい咆哮が上がる。

「ブロンソ」人の家での斯様な悠長、主が許すはずもない。執事に救護を任せるのと同時に、コスモスは“ガブリアス”を呼んでいた。

 

「……サワムラー」

「ユキメノコ、頼む!」

 

 ステラが執事の補佐に駆け出す。アサツキとユキナリが加勢する。

 

「“シャドーボール”、ゲンガーだ!」

 

 練り上げた附子色の球を打ち出すユキメノコ。

 鋭く響く隣の笛の音は、彼女に合わせての突撃を指図。サワムラーは足に炎を纏わせる技“ブレイズキック”を見舞わんと、シャドーボールと共に前進する。

 

「当たった!」

 

 亡霊は影の弾丸をかわしきれなかった。半身が綺麗な丸型に穿たれ、欠け落ちる。

 ここで決着だが、念には念だ。右の飛び蹴りで続くサワムラー。

 

「――“おにび”」

 

 確かに正解だった。周到さまでは。

 

「!?」

『シ、シェヤァーーーーッ!!』

 

 ゲンガーの残骸は己を侵した肉体に忽ち絡みつき、やがて消えぬ火と化して闘士の全身を蝕んだ。

 かくとうタイプを殺すに力は要らぬ。ただそこに火傷があるのなら。

『ゲェーーヒヒヒヒヒヒ!!!!』のたうち回るサワムラーを嘲る笑い声。

「初めから幻影だったのに」と底意地の悪い種明かし。

 

「くそっ、どこに……!」

「遅い」

「何――ッ!!」

 

 女の声が鼓膜に至る頃、既にゲンガーはユキメノコの背後にいた。

 ぬるりとその影から沸き出るやいなや、零距離のシャドーボール。瞭然たる決着で。

『早く、片付けなくては』

 ガブリアスをバンギラスへと向けていたコスモスは、“げきりん”の四文字を発して極めに入る。

 “がんせきふうじ”でバランス崩した躰に差し込む一撃。

 

「“すてみタックル”」

「!」

 

 そんな勝ちを確信したところで、忌むべき横槍が地竜をふき飛ばした。

 空からの鮮やかな特攻。そのポケモンは荒々しいはずなのに、美しく繊細な攻撃だった。

 戦場を汚さず、侵さず、ただ目標のみを、風と共に正確無比に狙い打った。

 

「――すまない、手荒な真似を許してほしい」

 

 正体は飛竜“ボーマンダ”であった。

 暫し転げて立ち上がった地竜は抗うように天を睨み、風に吹かれる竜姫は横髪をおさえて静かに仰ぎ見た。

 

「次から次へと、今度はなんだってんだ……!?」

「はて……少なくとも、バラルではないようです」

 

 必要以上に吠えない、堂々たる竜の気品を知っている。

 多くを見せない、伝説じみた竜の神秘を知っている。

 

「……もしかすると、バラルの方がまだましだったのやも、しれません」

 

 これは紛うことなき、竜の一族が育みし戦士――。

 

「僕たちは、戦いに来たのではない。ただ、同行を求めようと訪れただけだ」

 

 足元に影がかかる。甲高い音が、上空から近づいてくる。付随して緑は波打って、無作法が過ぎる闖入者を迎え入れた。

 

「よもや、とは思っていたが」

「……何故、あなた達が出張るのですか」

 

 飛行艇が全員の目に入った頃。相手の正体が明確になった時。

 

「――四天王」

 

 ボーマンダはゆっくりと降り立った。

 

「八人のジムリーダー、及び月の英雄『アリエラ』――君たちをポケモンリーグ本部の命により、連行する」

 

 その背に立つラフエルチャンピオン――“グレイ”を、誇るようにして。



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04.貴方の未来、私の未来

 そこは、八つ英雄の輝きを受け継ぎし者だけが至れる地。

 ポケモンと向き合い、世を駆け抜け、鮮やかな足跡を刻みし人だけが辿り着ける地。

 民はラフエル亡き後も尚、その英雄の希望にあやからんとした。

 彼の者の生き様をなぞるようにラフエルを巡り、最後に開拓された地『ネオラの高原』にて、ポケモンバトルを以て頂点を決める。

 “神話の再現”という、ますますの繁栄と平和を願う儀式であり、盛大な験担(げんかつ)ぎ――ラフエルポケモンリーグは、そのために生み出されたものだ。

 

「こちらです」

 

 ルシエの向こうの、チャンピオンロードを抜けた先にある、荘厳且つ堆い白の建物。それはまるで城のような、或いは神殿のような様相を呈して、訪れる者達を見下ろしていた。

 周りには、何もない。離れに有事で持ち出す飛行艇の格納庫こそあるが……人の気配はまるで感じない。

 ただ景観を気にした花々と石像だけが、一本道の両脇に佇んでいる。それだけ。

 光が差す。空気がひりつく。ひたすらに静寂。人を突き放す冷たさにも見えるし、最後の試練を見守る温かさにも思える。

 職員のエリートトレーナーに導かれるまま、入り口の前に立った。すると、重々しい音と共に開いていく二枚扉。

 完全に開ききる前に通過するのは、きっと無意識的な余裕の無さなのだろう。

 

「ようこそ、歓迎するぜ」

 

 その日、九人はラフエルポケモンリーグへと召集された。

 広大なエントランスにて鳴り響くは、少し高い、若さが残った男の声。

 

「……って、そんな雰囲気でもねぇか。ったくよ、雁首揃えて辛気臭ぇツラしやがって……」

 

 四つの人影は、同じ数だけある長い階段を降りて、おもむろに彼らの元へと近づいてくる。

 

「仕方ないよ、アドニス。これから彼らは叱られるんだから。僕も笑わせてあげたいけれど、残念ながらここでの笑顔は似つかわしくない」

 

 ――凄まじい威圧感だった。

 

「叱る、か。罰を与える行為にしては、些か甘い言い回しな気もするがな……」

 

 ジムトレーナーをもってしても、身構えずにはいられない。

 

「まあまあ、久しぶりの顔合わせなんだから……そんなにぴりつかないでいきましょうよ」

 

 気配を手放しで受け入れる事が叶わない。

 コツコツ、という全ての足音が止んだ時――四人の王“四天王”は勢揃いし、八人の英雄と相対した。

 

「説明はすっ飛ばすぜ、時間が惜しいからよ」

 

 スポーツサングラスを頭に掛け、長袖インナーと半袖を重ね着する、いかにもといった風貌のアスリート『アドニス』は言った。

 

「必要もない。何故こうなったかがわからぬほど、お前達とて愚かではあるまい」

 

 言葉を引き継ぐは、胸上から首元までがレースになったノースリーブ、及びレザーレギンスという風変わりな格好が特徴の女。名を『サーシス』。フープピアスが赤く煌めいている。

 

「きっかけはルシエの防犯カメラ。彼女同様に隠匿された歴史を知る“彼”がそれを見た時、声を上げた。僕たちも最初は信じられなかったけれど……何にしたって最後まで、何が起こるかわからない。それが世の常だ」

 

 中性的な体型をした道化(ピエロ)の仮面『ジニア』は、アームカバーから覗く指で、一枚のトランプをくるりと回す。すると柄が一瞬にして“エース”から“ジョーカー”へ。正体を判らせぬくぐもった声で「フフ」と笑いを混ぜた。

 

「ごめんね、こわい事ばっかり言っちゃって……そういうつもりじゃないの。少しお話を聞かせてほしいだけなんだ」

 

 子供へ優しく言い聞かせるように伝えるのは、彼女が人を教える立場にあるからだろうか。アイボリーのスーツを纏う、赤い眼鏡の小柄な女性『ハルシャ』は唯一、九人へ柔和に笑いかける。

 はたと目が合った顔見知り……カイドウへとひらひら手を振るのは、マイペースの表れか。当の賢者は渋そうな面持ちで視線を逸らした。

 

「本当に、最初は驚いた。まさか月の英雄が復活するなんて」

 

 最後の声は、九人の後ろから。それは場にいる全員を釘付けにした。

 遅れてリーグの扉を潜る、銀髪の男。

 英雄と、ジムリーダーと、四天王――最後に覇者『グレイ』が加わり、討論の場は完成の瞬間を迎える。

 

「そして、君がそれを隠し立てるなんて思わなかったよ」

 

「コスモス」グレイは、少しつつけば壊れてしまいそうな、そんな儚げな瞳から伸びる視線を従妹に向けた。

 

「事実の秘匿や、良い。まして英雄の民が代々守ってきたものを、我らが今更明かせと咎める筋はあるまいよ」

「問題はその後だね。復活を黙っていたのはどうしてだい?」

「前代未聞のこと故、慎重さと冷静さが必要だったのです。ただでさえバラル団で揺らぐこの世情、さらなる混乱を生む訳にはいかないと判断しました」

「であろうな。最もだ」

 

 そうだろう。言う通りだろう。

 しかし納得しない腕組みは、まだ言い分がある証明で。

 

「が、神話を丁重に取り扱うのは、何もお前達だけではない。寧ろ民と伝承の仲立ちとして、我らほどの適役はおらぬはずだ」

「まぁ要するにだ。何か一言ぐらいくれても良かったんじゃねえか――って、俺らは思ってるワケだ」

「迂愚であったぞ、不落の飛竜よ」

 

 お詫びします。出かかったその言葉は何も言わないのと変わらないので、大人しく引っ込める。

 

「私たちは、これからどうなりますか」

 

 代わりに図太く発するは、すぐにでも返答が成り立ちそうな疑問。

 サーシスの目くばせを受けると、

 

「協会が言うには、ここで事情説明をしてもらう」

 

 ほどなくしてグレイが開口した。本人たちが乗り気かどうかは別にして、どうやら彼らの一存ではないような言い様であった。

 

「事実上の拘束になるけど……一晩経てば解放するし、君たちが僕らにとって大切な仲間であることに変わりはない。おかしなことをしなければ、自由と安全は保証する」

 

 裏を返せば、話はその段階にまで到達している、ということでもあって。

 

「でも――」

 

 次の瞬間、それは明確な形となった。

 

「っ!?」

「月の英雄、あなたは別だ」

 

 誰もが後ろのグレイに注意を引かれていたから、背中を越えてくるモンスターボールには気付けなかった。

 無論、アリエラでさえも。

 アドニスの手元から突如として頭上に投げ込まれたそれは、燐光をばら撒いて“エレキブル”を解き放つ。

 一瞬の出来事だ。一八〇センチメートルにもなる巨体は、稲妻よろしく天井の照明と共に降り注ぐと、属性に違わぬ早業で女傑を組み伏せる。

 吃驚したじろぐ周囲を押し退け、進むやり取り。

 

「ぐ、何をするか……っ!」

「どうか、先祖への不敬を許してほしい」

「……!」

「余計な真似をするなと言ったぞ、コスモス」

 

 少女がボールを持った途端、影からぬるりと伸びる紫色の魔物。

「動くな」そう言わんばかりに、ゲンガーはコスモスの間近でシャドーボールを温めていた。

 

「話が見えません、詳しく説明してください」

「アリエラをここで捕え、明日、ラフエル政府に引き渡す。協会の決定事項だ」

「真の歴史を公にするつもりですか」

「それを判断するために、彼女を国へ委ねるのだと思う」

「私は、あなたの言葉を聞いています」

「……少なくとも、一族(ぼくら)だけで黙秘していられる状況でなくなっているのは、確かだ」

 

 暫く黙りこくってから、避けていた正論を言う。

 

「彼女の復活は、あまりにイレギュラーすぎた。それに彼女を政府に預けるのは、もう一つ理由がある」

「バラル団ですか」

 

 滞りなく辿り着く明察は、別の人物からさらなる言葉を引き出した。

 

「カイドウくん、君なら知ってるでしょ? ここ数日、地底のReオーラの流動に乱れが生じているのを」

「……既にCeReSで観測されていたし、関連付けるつもりはあった。しかし確証がなかった」

「そりゃ、私だってないよ。でも彼らがアリエラを狙ったこと、テルス山に出入りしていたこと、襲撃された町を地図上の線で結べば、丁度テルス山を囲う形になること――状況証拠としては十分じゃない?」

 

 ハルシャの推論にはっ、とするカイドウ。

 左脳を多く働かせがちな彼にあっては、右脳を限界まで働かせた図形でのアプローチなど、まったくの盲点であった。

 思えば、彼女はいつもそうだった。自分のエスパータイプ使いの適性を見出したし、ミラクルアイを用いて情報共有と演算処理を行いながら展開するバトルスタイルも考案した。どれもこれも、誰一人として至れなかった結論だ。

 必ず皆が気付かないことを、最速で敏く捉えていく。

 カイドウとベクトルは違えど、ハルシャもまた“天才”というカテゴリに括られる人物であった。

 

「Reオーラの乱れと、バラル団の活発化、そして月の英雄の復活――同タイミングで起こっているこの三つの出来事は、きっと無関係じゃない」

 

 不穏であるが、言う他にない。

 

「恐らくバラル団は、近々また大きな事件を起こす」

 

 点と点が繋がった先で出る解は、世界規模の危機。

 ジムリーダーとしての自分を作った。超常的頭脳(パーフェクトプラン)を生み出した。

 カイドウは身をもってこれまでの実績を知るからこそ、彼女の仮定を『何でもない凡人の憶測』と否むことが出来なかった。

 されども「待ってください」とコスモスが食い下がるのは、先祖への尊重があるからに他ならない。

 

「彼女は『果たしたい事がある』と仰っていました。せめて身を封じるのは、その後にすることは出来ませんか」

「事は一刻を争うんだ。例えば今ここに混沌の使者が現れ、彼女を攫っていかないだなんて誰が約束できるんだい?」

「……それは」

「ああ、できないよね、できないとも。その沈黙は不格好。金や銀はおろか、胴ですらない。貴金属にも満たぬアルミさ」

 

 即ち、感情の先走りの表われだ。竜姫の威厳が泣いている。

 らしくもない振る舞いと諫められても、退かない。何故なら百も承知している。

 

「そもそも、彼女は今という時代にあってはならない存在だ。本来その悉くに干渉するべきでない」

 

 だがそうではない。そういう事ではない。

 自分のことでなくとも、その腕をどいてほしいと思う。乱暴をやめてくれ、と願う。

 たかだか一日のことでも、彼女は誰より英雄の真心に触れたからして、知っている。

 

「未来を作ったのにね……皮肉なものさ。一定の保証がなければ権利もない。だから」

「“でんじは”だ」

「ッ、くあぁっ!!」

「こんな仕打ちを受けても文句は言えない」

「コスモス!」

 

 少女はアリエラが蹂躙される光景へと、球体を構えた。

 

「怪我で済むのならば、痛み分けです。ジムの留守はあなた達にお任せします」

「貴様……!」

 

 語気を強めたサーシスの威圧に、毅然と立ち向かう。

 祖先だろうが英雄だろうが、関係ない。

 彼の者は笑い、悲しむ。疑問を持つ。苦悩する。夢を見て歩み、誰かを尊んで愛する。その存在は自分たちと全く同じで、何ら変わらず『生きている』のだ。

 であるならば、蔑ろにされていいはずがないだろう。いくら四天王と言えども、目下の蛮行は否定に値する。

「コスモス、待つんだ!」「落ち着いて下さい!」

 同僚達が制止を試みる間にも、膨れていくシャドーボール。彼女がポケモンをリリースした瞬間に放つつもりだと、容易に理解が及ぶ。

 だが当人は一切の躊躇なく、振りかぶった。亡霊が笑って舌を出す。紫電が迸り、立て続けに切り落とされる火蓋。

 

「決まりだね」

 

 もう止まらない、止められない。

 

「“ブレイブバード”」

 

 しかし開幕を告げたのは、彼女ではなかった。

 駆け抜ける閃光と、赤茶の羽毛。疾風が引き連れる甲高い叫びは叛逆の一翼となりて、盛大にゲンガーを弾き飛ばす。

 

「……何のつもりかな。君は、本来止めるべき人のはずなんだけど」

「偉そうに決めんなよ、俺の自由(・・)だ」

 

 ランタナは不明瞭が組み立てる不気味を一蹴し、コスモスの前へ出た。

 

「ランタナさん……!」

「黙って聞いてりゃ、どいつもこいつも好き勝手喚き散らしやがって」

 

 顎を上げたまま四天王へと向ける、鋭い下目。

 ばたばたと低い空を叩きながら留まるファイアローの傍らで佇む彼は、今「実に気に入らない」と考えている。そういう表情をしている。

 

「自由な翼、よもやとは思ったが……貴様も気が触れたか」

「冗談よせよ、とち狂ってんのはどっちだ? 力で他者を思い通りにするなんざ、天下のポケモンリーグ様がやることか、ええ?」

 

 煽るように傾げた首を回し、横目でグレイを瞥見。静観ばかりで物言わなかったので、向き直った。

 さぞ意外な真似だったろう。故にこそ出し抜けの一撃を防げなかったのだが、サザンカだけはよく理解していて。

 元来、ジムリーダーとは個性の塊だ。眼前の旅人にあっては、自由を求めて飛び続ける。不自由を嫌い束縛を振りほどく。その流儀を故意的に侵害すれば、どうなるかなど――想像するまでもない。

 

「くどいぞ。アリエラは特別だと言っておろうが」

「カンケーないね。英雄だか何だか知らねえがな、どこのどいつだろうと、ちゃんと歩ける手前の足ってもんがあんだよ。だったらいつだって、行き先は手前で決めるもんだろうが」

「自由と無法を履き違えた白痴者(たわけもの)が……来い、もはや語るに足らぬ!」

「オーライ、あんたらの道案内は要らねえよ!」

 

 応酬の果て、サーシスが取り出した水晶玉に映る二重螺旋は、ゲンガーと反応してぎらんと輝いた。

 浮足立った影は少しずつ形を変えて、エネルギーの大波を立てる。周囲を震わす音を以て教える、明確な実力行使の意。

 眼前で巻き起こる強敵のメガシンカに、誰もが身構えた。

 

「――待て」

 

 そうやって虹の繭が編み込まれていく映像を、一時停止させたのは誰だったろうか。

 少なくとも、予想していない相手だったに違いない。

 コスモスが、

 

「何故……」

 

 と問うてしまうくらいには。

 凄まじい気迫がこもった英雄の一声に、誰もが黙り込んだ。そして漸く己の言葉が伝わる状況になった頃、アリエラは重々しく呟いた。

 

「……連れて行くが良い。無益な争いだ」

 

「アリエラ」静寂の中、消え入りそうなまま立ち上がる輪郭へ向く呼び声には、色んな意味が込められている。

 なんで抵抗をやめてしまうんだ、とか。

 どうしてそんなにも侘しげな顔をしているんだ、とか。

 一体どんな立派な道理があって、今日までの望みを真白にできるんだ――とか。

 

「私のためにお前たちが傷付け合うのは、本意ではない」

 

 かすりもしない視線の先で返る、答えにならない答え。息苦しそうに沈んだ意気。

 とてもなあなあで、本当にその場しのぎで、あまりに粗末で、雑で。納得なんてするはずなくて。

 

「おい……、待てよ」

「政府の迎えが到着するのは明朝。それまでの間、身柄は地下で預かる。構わんな?」

「無論だ」

「利口だな……連れていけ」

「おい!!」

 

 エレキブルが戻っていく。

 続けて行われる職員二人による後ろ手の拘束を、大人しく受け入れた。

 ガチャガチャと鳴る手錠の無機質は残酷でいて、冷たい。ランタナの引き止め虚しく、アリエラの自由はたやすく奪われる。

 

「なあアリエラ! 悔しくねえのか、あんた!」

「待つんだ、ランタナ……ッ!」

 

 ユキナリとサザンカが飛び出しかけた躰を押さえ込む。

 

「俺は馬鹿だから、何が正しいかなんてのはわからねえよ! でも、あんたがやりてえことをやらせてもらえねえまま、消えちまおうとしてる! そいつははっきりとわかる!」

「ランタナさん、少し落ち着きましょう」

「いいのかそれで? おかしいだろ! 頼んでもねえ不自由を強いられてんだぞ!? もっと声出せよ! 暴れろよ!」

「――民が、民なりに」

 

 今でも、想っているよ。

 行き場のなくなった慈悲が、頭をもたげた後にそう言った。

 

「未来を思い描いて『お前の手は要らぬ』と先を目指すなら――それもまた、一つの答えなのだろう。拒むことはせん」

 

 押し付けがましくてうんざりするほど大きい、受け取り手が不在の愛も。

 どこにも行けなくなるほど重たくて、却って全てを潰してしまいそうになる願いも。

 アリエラは何一つ捨てていない。ちゃんと持っている。相も変わらず抱き締め続けている。

 

「何故なら私たちは、お前たちのために戦ったのだから」

 

 故にこそ手放すのだ、現在(いま)を。

 未来へ繋いだ種が、明確な意思を持ち合わせて「消えろ」と示すなら。それもまた一つの行き先だと説くのなら。

 もはや己が案ずる余地はない。憂う意味も、在る必要だって。だから――。

 

「ここまで、だ」

 

 だから翼をもがれて、鳥籠に囚われる。

 別れの言葉が、寂しく響いた。過去(かつて)未来(これから)の邂逅は、これにて幕引き。

 あまりに呆気ない終わりだろう。そうだろう。

 

「短くはあったが――、有意義な時間であった」

 

 止められるのならば、止めたい。

 自由を掲げる旅人だって。

 

「人を知り、文明に触れ……今なお強く、そして優しく生きる英雄の面影を拝むことが出来た。十分だとも」

 

 迷子のように、掌を揺らがせる勇者だって。

 

「コスモスよ」

「はい」

「数々の献身、感謝するぞ。ありがとう」

「……はい」

 

 ――共に優しさについて語らった少女は、誰よりも。

 

「次に訪れる時、水族館がさらに広くなっていることを願おう」

 

 だが叶わない、果たせない。

 

「メリーゴーランドにもう一度乗れなかったのは、心残りであるが……忘れた頃にでも同じことが起こった折は、連れて行ってくれ」

 

 いくら声が震えて、耳朶に絡みつこうと。

 

「あとは――――またソフトクリームを食べたい、な」

 

 振り返る笑顔が、どんなに痛々しかろうと。

「善いのだ」と残して、淡くなって。

 透けるように彼方へ去っていくのなら――誰も、止められないじゃないか。

 

「ああ……悪いことばかりではない。誇れることだって沢山あった」

 

 物分かりの悪い子供が見る夢のような、そんな理想を掲げる馬鹿者がいた。

 

「どうか大切にして、生きてくれ」

 

 ただ、それだけの話。

 何でもない、ちょっと変わった日常の話。

 

「――さらばだ」

 

 月の英雄は、また嘘をついた。少女が過ごしたとある一日を青に閉じ込め、なかったことにした。

 連れられて遠ざかる背中が、自分の世界から消失する。

 隔たるステンドグラスの光の向こうで、最後にパウダーブルーを見た。

 秋雨のような、くすんだ青。濡れて滲んだ、哀しい青。

 それは筆舌に尽くし難いほど綺麗なはずなのに、どこまでも、いつまでも、コスモスの胸を締め付けていた。

 

 

 

『待って』――そんな簡単な事すら、言えなかった。

 

「クソッタレ!!」

 

 ランタナが叩く客間の壁。どうやらそれは頑丈らしい。ドン、と怒号を発しただけで、破れることもなかった。

 残された八人は、ここで一夜を過ごせと命じられた。

 その時、彼らは銘々に、それぞれの考えを(おもて)に出した。

 戸惑う者に、抗う者。迷う者、ひとまず静観を決め込む者に、無関心でいる者。

 ランタナの「これからどうする」という宛先のない言葉に、無関心――カイドウは、淡白に返した。

 

「どうするもこうするも、ない。こうなってしまえば国を左右する事態だ、俺達の領分ではない」

「だったら、あいつを見放せってのか」

「見放すのではない。委ねるのだ」

「身動き封じられて屈服する様を、良い子ちゃんぶって黙って受け入れるだけだろ」

 

 どこまでいっても気に入らない。

「大層なこと言ってんじゃねえや」ぐつぐつと腹の底が煮える勢いのまま、カイドウが向き合うテーブルを叩く。

 賢者は手元から聞こえた大きな音で、ノートを埋める手を止めた。

 熱くなる一方の旅人を見かねて止めようとしたステラだったが、

 

「――もしもラフエルが、本当に世界に悔恨しか残していなかったとしたら?」

 

 カイドウはそれよりも早くに、口を開く。

 誰もが脳裏にちらついていたことだ。へばりついて仕方がなかった。

 同時に彼女をしがらみの向こうへと送り出してしまった、唯一にして最大の不安要素で。

 

「当然、言い切れない。もしかすると、そうではないのかもしれん。しかし誰が断定できる? どんな材料、基準を以て、奴の真意を量れる?」

 

 正しさだけで、物事は語れない。

 それでも今という瞬間は、正しさを目の当たりにしなければいけない。誤った時に贖うものが、あまりに大きすぎるから。

 

「出来るはずもない。当人のことは当人にしか知り得ん、それは全時代共通の真理だ」

 

 言霊をせき止めるランタナ。口裏で歯噛みをするのは、ちゃんと理解している証拠。

 

「『きっとそうだろう』『恐らくこうだろう』――仮説を立てることはいくらでも可能だろう。しかしそれだけで動くのは、無責任になる。俺達というラフエルの守り手……ジムリーダーは、無責任で世界を動かすべきではない」

 

 刃のような正論は、場の誰もを置き去りにしない。引き換えに、他人事にもしない。

 

「知らぬままの方が、良いこともある。見てみぬふりを決める方が……、救われることもある」

 

 研究者として、吐きたくなかった言の葉だったのかもしれない。

 カイドウはいくらか間を置いてから、締めくくった。

 それ以降、ランタナは何も応えなかった。ただ排熱の要領で、鼻から息を抜く。そうして肩を落として、ぐったりと倒れ掛かるように座る椅子。

 

「……理解はするさ。あいつはやると言ったらやる、そういう目をしてる。そんなもんはわかってる」

 

 それでもな、と言う鎖から、続きを手繰り寄せた。

 

「一人が割を食って得た世界平和が良いものだなんて、俺にゃとても思えねえんだよ……」

 

「カエン、コスモス、お前らはどうなんだ?」相次ぐ名指しの質問に、少年と少女は同じタイミングで、同じ相好をして振り向く。

 共に英雄の民だなんて思えないくらい、情けない佇まいだった。

 何も決まらない、どこも見ない、一つとして語らないし、選べない。

 そうやって俯くだけでいるのは、答えのない正義に踊り続けている事実からなる、ばつの悪さ故だろうか。

 

「おれたちは、今を生きてる。だったら今をまもるしか、ない」

「――しかない、ねえ」

 

 どのみち、そんな状態で紡がれた歯切れの悪い言葉に、一体どれだけの力があるのか。

 

「……しょうがないんだ。だって世界は」

「もういいぞ」

 

 そんなもの、測るまでもない。

 

「そこにお前はいない……それだけわかりゃ、十分だ」

「……っ……」

「……悪かったな」

 

 どこぞで拾った、月並みの事をそれらしく並べるだけの何でもない少年に、勇気(ブレイブ)は欠片も宿っていなかった。

 それならこれ以上訊いても、きっとなじるだけになるから。酷いことをさせてしまうから。

 不自由を強いる前に、ランタナは自己を遮った。迷うなら、迷わせたまま。二つに一つを決めろと迫るのは、世界だけでいいだろう。

 形骸化した責が、ひたすらに二人を苦しめる。

 

 

 

 結局コスモスも、答えあぐねた。

 きっとあの中の誰だって、こんな終わり方に納得しているはずがない。

 それでも、世界の安寧を取る使命があるのなら――そんな意向でいるのだと、思う。

『彼女を思うけれど、世界が』なのか。

『世界を思うけれど、彼女は』なのか。

 あるのはどちら寄りなのか、というところだけ。ぎりぎりのラインで天秤を揺らしていることに変わりはない。

 自分も、カエンも。アリエラの「もういい」という言葉を真に受けて諦められたら、或いは「それは違う」となりふり構わず貫ける愚かしさがあれば、どれだけよかっただろうか、なんて考える。

 でもそれは英雄のすることではないからして、このような心境になるのは必然だったのであろう。

 あとは一つ、ただ一つ。天秤の一方をぐっと押さえ込んで不動のものとし、自分に踏ん切りを付けるものがあれば――と、思うのだが。

 容易に見つからないから、こうなっているんだ。気分転換に出た外は、冷たい風を意地悪く送り付けてきた。

 遠くの見張りを待たせて、もう数分。

 

「……英雄というのは、やっぱり偉大ね」

 

 迷うと、つい独り言をいってしまうらしい。

 輝く者の資質を、再認識する。思い巡らすほどに立ち眩みしそうになる葛藤をいくつも超えた先で、人々に語られているのだな、と。

 

一族(ぼくら)だけで黙秘していられる状況でなくなっている』

 

 従兄の言う通りだ。もはや、要されているのはエイレムとしての選択ではない。

 この大地に生きる命の、一つとして。ラフエルという虹を形作る、一色として。

 世界の行き先を決めようとしている。

 起源に今一度、在り方を問うべきか。それとも今は今として、始祖のように嘗てを封印するか。

 彼女にしたってカエンにしたって、岐路での足踏みは許されなくて。その若さにはあり余る重さで。

 

「!」

 

 おかしな顔はしていないはずなのに。コスモスは思わず独白を漏らし、忖度して現れた飛竜、カイリューに驚きを見せる。

 モンスターボールからひとりでに出てきた彼女は、甘えるでもなく、叱るでもなく、ただ向き合って片膝をついて、いつものように頭を差し出す。

 決して撫でろという訳ではない。ただ忠義を以て伺候する者として『いつでもあなたの味方である』と、最大級の意思表示をしているだけだ。

 

「……ありがとう。私がこんな時でも、あなたはやっぱり頼もしいのね」

 

 主が撫でたい分には、いいだろう。掌の温もりを享受した。

 

「カイリュー?」

 

 そのうち近付く気配に、カイリューは目を開ける。

 立ち上がる動作がゆっくりなのは、遠くから飛んでくる姿に覚えがあるからに他ならない。

 西日を背負って現れたのは、橙色の翼竜――『リザードン』であった。

 

「わっ」

 

 降り立つやいなや、鳴いて喜びを表現し、コスモスへとすり寄る。体格差があるので主は遊ばれる一方だが、これもまたいつものことなので気にしない。

 

「あなた……何故ここに」

 

 それよりペットとして家で育てているポケモンが、どうして。

 その答えは、今しがた竜の背中から降りた燕尾服の古老が教えてくれた。

 

「お嬢様と遊びたいと言って、聞かなかったものですから」

「ちょ、困ります! 今コスモス様は、リーグでお預かりしているからして……!」

「ほっほっほ、ご安心を。すぐに帰りますゆえ。聞き分けのないところもありましょうが、どうぞグレイ様にも宜しくお伝えを……」

「子供みたいに言わないで頂戴」

 

「まったく、しょうがない子なんだから……」ブロンソが駆け寄ってきた見張りと話す間に、戯れる。

 首を撫でてやると、ぐるぐると気持ちよさそうに喉を鳴らす甘えん坊。“黒の意志”を受け継ぐ、甘えん坊。

 とあるリザードン使いから譲り受けたヒトカゲが、進化したものだ。

 この子を見ていると、主たる“彼”を思い出す。特段何という繋がりはない、漠然とした関係なのだが。

 されど日々を生きるうちに、ふと頭を過るのだ。

 何かをしている時は「今頃何をしているのだろう」と。退屈で仕方がない時は「会いたいな」と。

 困ったり、迷ったりした時は、

 

「――彼は、どうするのかしらね」

 

 と。

 あの人の色は、愚直なまでに磨き抜かれた黒だった。

 誰にも染まらず、しかして誰をも侵さない。確かな輪郭線を引き、ただそこにあって存在を示し続ける、ひたすらに強い自己。自我。自身。

 純然たる輝きは鏡のようにして向き合う者を映し出し、黙してその真価を問い続ける。

 勝利(ジーク)を背負いし者は、勝つことが当たり前だった。

 苦もなく、難もなく、握るべくして覇権を握る。英雄譚には程遠く、山も谷も落ちもない、勝ち続けるだけの味気の無い自慢話。

 それが彼女の人生――勝者の物語(エピソード・ジーク)だった。

 

『――“ここ”に聞け』

 

 その筋書きを揺るがしたのは、誰だったろうか。

 

『納得するまで頭で考えて、それでも口が答えてくれないのなら――あとは“ここ”が知っている』

 

 紛れもない、純黒の彼だ。

 

『迷った時には思い出せ。きっと役に立つはずだ』

 

 約束された勝利を否定した。分からない明日(つづき)を教えてくれた。

 常々寡黙で、何を考えているのかはわからないのだけれど。

 彼女にとっての当然が失われ、ぐらついた時。一度だけ饒舌を見せてくれた事がある。

 

『苦しい時ほど忘れるな。いつでも君を君でいさせてくれる――』

 

 そうだ、あの日の彼は。初めて会った日の、彼は。

 

「――たった一つの、証明だ」

 

 (こころ)を指して、そう言っていた。

 無意識で口が動いた瞬間、青空からぶわ、と再び風が流れる。

 扇がれた銀の向こうで顕になった紫の目は、大きく見開かれていた。

 忽ちフィルターが取り払われたかのように視界が透き通って、鮮明になっていく。空気の匂いを感じる。音の味を覚える。

 なんだ――。

 

「……簡単な、ことじゃない」

 

 最後に、意識が完全に澄み渡った時。コスモスは短く唱えて、柔らかく微笑んだ。

 もう迷わない。このトンネルから、抜け出したのなら。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 夜が更けた。

 少しずつ音が離れて、光が遮られる。闇は歓迎され、誰にも邪魔されず悠々とのさばった。

 長らく一人で置かれると、孤独感というものが芽生える。もっと手近に言うなら、寂しさというやつだろうか。

 英雄とて、例外ではなくて。

 モンスターボールの普及率が十分でなかった頃、リーグトレーナーは用の無いポケモン達を此処――地下の檻に閉じ込めていた。無駄な広さがあるのはその名残であろう。

 アリエラは面格子を通して差し込む月明かりを浴びて、一人静かにちっぽけな天を見上げる。

 

「交代だな……」

 

 薄暗さの向こうで、番の職員があくび交じりにごちると、すたすたと檻の前から消えていく。

 明けと呼ぶには少し足らない青黒の空に、自分の先を思う。

 どうなるのだろう。何をされるのだろう。何を言えばいいのだろう……と。

 足音が聞こえてきた。交代の人員だろう。知っているから見ない。背中と封じられた手を、向けたまま。

 

「また、夜更かし」

「……!」

 

 透明な声は、そうさせてくれなかった。

 

「コスモス……!?」

 

 思考が追い付かなかった。無理もない、入れ違って現れたのが己の子孫なのだから。

 人差し指を己の口に当て「静かに」と言った。

 

「お前、何をして」

「ずっと、考えていました」

「!」

「私は一体何をすべきなのだろう、と」

 

 コスモスはアリエラを遮り、彼女の当惑も構わずに続けた。

 

「でも、それがいけなかった。立場に縛られ過ぎていた」

 

 静寂に溶かすように。しかし沈黙を生まないように。

 

「大事なのは『何がしたいか』――いつだって、そうでした」

 

 決まった心――決心を、言葉に当て嵌めていく。

 

「覚悟があるのなら。答えを背負う意志があるのなら。誰だって“ここ”に従えばいい――と、思い出したのです」

 

 胸に手を当てる。掌に鼓動が伝わってくる。

 自分の意思とは関係なく脈打って、身勝手に生きたいと願い続けて。

 

「誰もを説き伏せる難しい理屈は必要なかった。解せない言葉を無理に扱う意味などなかった」

 

 誰にも邪魔されない。誰も妨害出来ない。

 あるものを、あるだけ、ありのまま。

 そうやって存在する(こころ)が出す答えは。

 

「だから、私は」

 

 ――いつだって、皆の正解だ。

 バキン。アリエラの自由を妨げる黒鉄が、黄色の飛竜によってぶち壊された。

 

「“ここ”に従います」

 

 改めて開けた世界で、少女は一言、そういった。

 無責任ではない。自分の明日を決めるために。ラフエルの未来を導くために。

 

「英雄ラフエルと、対話します」

 

 それが、竜姫でもなく、ジムリーダーでもない、ただ一つの命として彼女が出した、混じりけのない答えであった。

 

「あなたはどうしますか、アリエラ」

 

 コスモスは問う。

 

「あなたの“ここ”は、なんと言っていますか」

 

 ただ見据えた、その純真に。

 

「――世界を滅ぼすのかもしれんのだぞ?」

「現代の英雄として、そんなことはさせません。そのための対話です」

「世界の答えを、恐れぬか?」

「知るべきことは、知りたいのです」

「『それでも』と叫び、前へ進めるか?」

「勿論です。でないと私は、自分の明日にすら満足に向き合えません」

 

 アリエラは暫く黙った。

 そして微笑んで歩み寄り、答えた。

 

「……肝が据わっている。さすがは我が末裔だ」

 

 気持ちは一つとして違うことなく、同じで。簡単に諦められる訳がないのだ。

 何故なら続けるにしろ、終わるにしろ、彼女はまだ世界の声を聞けていないのだから。何も知れていないのだから。

 

「――往こう、テルス山へ」

 

 心は言った。

「まだ消えたくない」と。

「答え合わせをしたい」と。

 

「決まりですね」

 

 カイリューが爪を使ってアリエラの手錠を切り裂くと、丁度のタイミングで見張りが駆けてくる。

 

「おい貴様ら! 何をして――ッ!」

 

 まずい、と思った瞬間、見張りはどこからともなく現れた人影に腹を殴られ、気絶。

 

「サザンカさん……!」

「事が起こるならば、そろそろかと思いまして」

「どうして……」

「私も興味があるのです。ラフエルの声というものに」

 

「それに」達人は意識を奪った男に危険がないよう、彼を壁に寄せながら、続けた。

 

「誰もが何かを抱いていた。皆さんが大人しく従うとは、初めから考えておりませんよ。……とりわけ彼なんて、最初からわかっていたことではありませんか」

 

 サザンカの肩を越えて現れるのは、予想をまったく裏切らない。

 

「旅は道連れってな。いい言葉だよなぁ、ほんとさ」

「ランタナさんも……」

 

 さらにもう一人。

 

「……よう」

「アサツキさんまで……」

 

 職人はヘルメットを少し上げて目を見やすくし、アリエラとじ、と見合った。

 もやもやとしたままではいけないので、これから思いの丈を述べるぞ。そういう顔をしている。

 

「……はっきり言って、オレは何も飲み込めてねえ。世界がどうだとか、英雄がこうだとか、まるで何を話してるかわかんねえ。頭だって追い付かねぇよ」

 

 端的に表現すると、余裕がないということだろう。

 

「だからオレは、お前のことしか考えてやれない。……お前がお前でいられなくなるなら、たぶんそいつは、オレが止めなきゃいけないことなんだろ」

「お前達……」

 

 それでも、やれることはやりたい。

 冷めた態度とは裏腹に温かい彼女もまた、心に素直な人であった。

「まあ、こんなところです」サザンカは四人の会話を締めて、アリエラへと向き直る。

 

「月の英雄アリエラ、我々はあなたに味方します」

 

 そして彼女を、テルス山へ導くことを誓い立てた。

 

「……恩に着るぞ」

 

 

 

『アリエラがジムリーダー数人を引き連れ脱走。繰り返す、アリエラがジムリーダー数人を引き連れ脱走。コスモス、ランタナ、アサツキ、サザンカのジムリーダー四名は、彼女の脱走を手引きしていると思われる。発見次第、至急捕えられたし。繰り返す――』

 

 非常警報が鳴り響く。館内放送が急き立てる。

 ただごとではないぞと、騒いで回る。

 しかし彼女たちは、止まらない。目の前に現れる職員――エリートレーナーたちを次々と退け進むは、離れの格納庫。

 テルス山へと赴くにも、悠長に陸路を経由する暇はない。ラフエル洋上を一息に翔け、本土へと至る。

 しかし相当な距離なので、ポケモンの体力では限界がある。そうなった時に、飛行艇は役立つだろうと判断した。

「うわあっ!」格納庫で待ち伏せていたトレーナーを打ち破り、これまで通りに眠らせる。

 

「はかいこうせん」

 

 カイリューがコスモスの指示を肯うと極太の熱線を放射、格納庫のハッチを一撃で吹き飛ばす。

 滑走路(みち)は拓けた。後は乗り込むだけとなった鉄の塊に、次々と足を踏み入れる。

 

「アリエラ、動かせそうですか?」

「問題ない。虹の道から知識は引き出してある」

 

 皆が乗り込む間にも追撃を警戒していたコスモスが、最後にタラップに足を掛けた。

 

「まったく、とんでもないことをしてくれた」

 

 その時だった、グレイが現れたのは。

 それは、いま会ってはいけない最悪な相手。おまけにハルシャも一緒ときた。

 静かに視線を交わすコスモスの隣で、カイリューは身構える。

 

「……何故、行くんだい?」

「物語の行く末を、見届けたいからです」

 

 多くを飾らぬ質問へ重なる、シンプルな回答。

 人が創った。ポケモンが生み出した。やがて織り合って、混じり合った。コスモスはそうやって描かれた虹の行方を望む。

 エンジンが立ち上がった。空気が熱くなった。

 

「最初で最後の一族への反抗を、お許しください」

 

 自分が誰であろうと、どんな者が立ちはだかろうと、関係ない。

 

「それでも、止まれないのです。止まりたくないのです」

 

 これは他の誰でもない、私が決めたことだから。

 

「これが、私の願いなのです」

 

 私の未来だから。

 

「……そう、か」

 

 グレイはそれ以上、何かを言う事はなかった。

「コスモス、発進するぞ!」コスモスは見送るばかりで何もしない彼を不信に思いながらも、カイリューを下げて梯子を駆け上がる。

 腕を組み、やれやれ、といった風に苦笑いするハルシャ。

 

「いいの? 協会に怒られちゃうよ?」

「……構わないさ。僕は今、彼女と戦って負けた。証人もいる」

「ちょっと、巻き込むなんて聞いてないんだけど~?」

「まあ、負けたのは事実さ」

 

 瞳に宿る、迷いない明確な心に。

 

「……昔からそうなんだ。こうと決めたら、聞かない子でね」

 

 ドアが閉まる様を、黙って眺めていた。

 

「僕は何一つ決められていないけれど、彼女には確固たるものがある。……だったらアリエラがどこにいるべきかは、明白だ」

「あーあ、こりゃお(かみ)も荒れちゃうなあ~……どうなっても知らないから」

「どうもならないさ」

 

 信じているからね。グレイは、動力が発する甲高い音へ隠すようにして、言い残した。

 

「私たちは、変わろうとしています」

 

 ロックがかかる。

 

「未来を選ぼうとしています」

 

 席に座り込んで、ベルトを締める。

 

「人々の先行きがどうなるべきか、どうあってほしいか。それを決めねばなりません。英雄の声を聞かねばなりません」

 

 操縦桿をきつく握った。

 

「もしかすると、ラフエルは今を『間違いだ』と否定するのかもしれません。拒絶してしまうのかもしれません」

 

 光差す進路が見えた。

 

「……そんな言葉、いっそ聞かない方がいいのかもしれません」

 

 プロペラを回す。風を、置いていく。

 

「それでも、決して遅すぎることはないと思うのです」

 

 スロットルを開けると、前へと走り出した。

 

「私たちは話し合える。いつでもやり直せるし、正すことだって出来る」

 

 徐々に加速していく機体、肉体。

 

「であるならば、世界に問いましょう。より良い景色を、明日で見るために」

 

 トップスピードに乗ったそれは最後に浮き上がって、暁の空にて大翼を広げた。

 

「――彼へと会いに行きましょう。答え合わせをするために」

 

 そうしてアリエラとコスモスは、約束の地へと飛び立っていく。

 

 

 

 ラフエル洋上を、翔ける。

 星の煌めきを越え、月の抱擁を振りほどいた後のほの明るさは、紛れもない黎明のもの。

 向かうはひたすらに南西。見える大陸は、まだ小さい。

 

「ノリノリでやったから、後悔はねえが……新しい仕事先、探さねえとなあ」

 

 窓から目まぐるしく移り変わる景色を見ながら、ランタナは言った。

 

「きつい汚い危険の3Kが揃った仕事なら、紹介してやるよ」

「なるほど、工場ねぇ。検討するよ」

「私と自給自足、というのもあります。サバイバルを身に付ければ、お金もかかりませんよ」

「バケモンになっちまうのは勘弁だな……」

「では、うちのメイドとして」

「そこは執事じゃねえのか」

 

 四人は気を抜いて楽しく言葉を交わすが、それも束の間。

 

「お前達――――来るぞ」

 

 嵐の前の静けさは、思うよりもずっと短かった。

 操縦席から発されるアリエラの声を聞いた四人は一斉に立ち上がり、遠い後方へ凛として目を向けた。

「追手だ」――教えられるよりも先に、認知する。

 もう一機の飛行艇と、その周りを固めるように飛ぶ鳥ポケモンの大群を。

 

「おいでなすったな……」

「存外、早い対応のようで」

「ったくよ、おちおち喋らせてもくれねえのかい。うんざりするぜ」

 

 とても仰々しい光景だった。

 遊ぶにしては大所帯が過ぎる。争うにしては、一方的が過ぎる。

 たったの五人に持ち出す規模でないそれを構成するは、総動員されたリーグトレーナー達。

 “エリート”の肩書きの下で育てられた、確かな鳥ポケモン達の上に立って放つ意は、一貫しての『止まれ』で。

 

「……飛行艇の上を見て下さい」

 

 それだけではない。コスモスに促されるまま望んだ先にいるのは――。

 

「……アイツら……!」

 

 ユンゲラーを従える、学者だった。

 

「なるほど」

 

 トドゼルガを伴う、警官だった。

 

「奴らはあっち側、って訳だ」

 

 ミミッキュと並ぶ、シスターだった。

 滲む険しさは語っている。彼誰時(かわたれどき)の東雲に、至らせはしない、と。

 ――お前たちの敵だ、と。

 

『警告します。あなた達の行動は、協会によって許されたものではありません』

 

 ステラの声で、通信が入る。

 

『直ちに飛行艇を停め、本部にお戻り下さい』

「出来ないって言ったら、どうする?」

 

 ランタナが即答。操縦席まで行き、言い分に応じた。

 

『……ポケモンリーグの命により、実力行使に訴えます』

「やってみろよ。暴力なんつー、そんなちゃちな手段で本当に俺達を止められると思ってんならな」

『ランタナさん……今は、私たちで争っている場合ではありません。敵は共通(バラル)のはずです』

「ハハハ! そいつぁ言う相手を間違えてるぜ、ステラ」

 

 こんな時でも笑いが起きるのは、きっと彼の度量のせい。

 

「俺達に、敵も味方もあるかよ」

 

 共に進む、しかして馴れ合わぬ。染め合わぬ。

 

「ただ譲れないモン胸にして――、いつでも好き勝手やってきただけだろうが!」

 

 ジムリーダーというものを一番に知っている、彼のせい。

 声高に自由を謳った時、旅人は既に駆け出していた。

 打ち壊すようにドアを開け、大きく跳躍。放ったモンスターボールはそのまま大鷹(ムクホーク)へと変身して主を掬い、一気に敵方へと突っ込んでいく。

 

「フルフォーメーション、ゴー!」

 

 残りの手持ち――ファイアロー、ドデカバシ、グライオン、ヤミカラスも呼び出すと、果敢に制空権の奪い合いを挑んだ。

 

「そういうことです。私たちも、望む所ではありませんが……互いに覚悟を決めましょう」

『……残念です』

 

 通信が切れた。それ即ち、戦闘開始の合図。

「ごめんなさい、ステラさん」小さく呟いた。コスモスもカイリューとサザンドラを空に解放すると、前者の方に飛び乗り、艇内の人員へと指示を送る。

 

「アリエラは引き続き本土を目指してください、私とランタナさんが空の敵を蹴散らしますので。アサツキさんとサザンカさんは、飛行艇の上で防衛をお願いします」

「承知しました。ギャラドスで海からの援護も行いましょう」

「助かります」

「……難儀なものですね」

「いずれは、起こっていたことですので」

 

 いってきます。飛竜の十八番“神速”は、微笑む言葉を置き去りに、戦場へと赴いた。

 

「コスモスが来るぞ! 備え――」

「“しんそく”」

 

 致すは逆走、向かうは多勢。

 その一言からなる一挙だけで、最低十体は海に落ちた。

 

「う、うわあああああああっ!?」

「馬鹿な……!!」

「怯むな、数では勝っている!」

「忙しいでしょうが、加減はよろしくね」

「囲んでかかれェェェーーーーーー!!」

「――“げきりん”」

 

 また、落下する者の悲鳴が上がる。

 ちぎっては投げ、掃いては捨てて。

 ひたすらに繰り返されるは凌駕と、圧倒。竜姫は生真面目に勝負などしない。

 戦いにならない者に、戦意を育む余裕などやらない。負けを認めさせる暇など与えない。ただ一方的に叩き伏せるのみ。

 独壇場というのは、こういうことを言うのかもしれない。

 

「化物がああああっ!!」

 

 “つばさでうつ”は貧弱だ。“ブレイブバード”は蛮勇だ。

 掴み、殴り、回し、投げ。矢継ぎ早に襲い来る鳥たちを、原因も分からせずに沈めていく。

 

「止まれ、止まれーーーっ!!」

 

 二〇体ものピジョットが一斉に放つ“ぼうふう”は、きっと(ストーム)なのだと思う。

 

「“ぼうふう”」

 

 でも、関係ない。飛竜は単騎で竜巻(ハリケーン)を起こせるから。

 曙を阻む影を吹き飛ばせば、咆哮。相対者たちの震える瞳に映る存在は勝利の女神か、はたまた邪神か。

 聞くまでもないだろう。

 薄明かりの中でも煌々と輝く撃墜王(エアキング)は、後悔さえ待たない。

 

「あと、数十」

 

 何故なら時間が惜しいから。

 

「余裕そうね」

 

 目の前を真っ白にする無双は、さらに続く。

 

 

 

「くっ……!」

 

 強者のポケモンは、自律行動であっても強いと思い知る。

 ステラはコスモスのサザンドラと、彼が飛行艇の上に投げて寄越したエストルとパシバルを相手取っていた。

 フェアリータイプの有利をあざ笑うかのように徹底された対策が、ミミッキュを苦しめる。

 

「マズいぞ、コスモスをどうにかしないと、本当に振り切られる……!」

 

 一時的に吹き荒ぶ雪は、トドゼルガによるものだ。聖女と共に飛行艇の上で迎撃するユキナリが、一騎当千の光景に焦りを覚える口で言った。

 

「――彼に任せるしか、ありません。それよりも」

「“ブレイブバード”!」

「っ、“まもる”です!」

 

「今は、やれることを」言いかけたところで飛んできた火の鳥による一撃を防ぐと、続くムクホークはびゅんと頭上を過ぎ去り、風で修道服を煽る。

 旋回。片方は振り向き仰ぎ見て、もう片方は傾く世界で見下ろして。ステラは至ったランタナと反目し合った。

 

「ランタナさん……!」

「らしくもねえな! お前はこっち側だと思ってたよ!」

「何を!」

 

 木霊する“シャドークロー”。ミミッキュが布の下から出した数多の手は、まるでホーミングミサイルの要領で伸び、飛ぶ鳥を追尾する。

 

「あくびが出るようなおめでたいこと言いながら、信じてやる!」

 

 爪の先が届きかけたところで、十時軌道を描くようなファイアローの邪魔立て。振りほどかれた。

 

「ただそれだけで、救われる奴だっていたろうに!」

「論点が違います! 世界を危機に晒すべきではないのです!」

「そこらの人間のことは信じてやれて、英雄のことは信じてやれねえのかい!」

「!」

「どうなんだ、聖女様!」

 

 ドデカバシはくわー、っと喚きながら、飛行艇の下から突如現れる。

 口に溜め込んだ石礫を、“ロックブラスト”という弾丸に変えて発射、

 

「っ!!」

 

 空気もろとも飛行艇を穿つ。

 満ちる白煙。

 

「――信じるからこそ」

 

 させるものか。やらせるものか。

 自分が守りたい彼女の、守りたいものは。

 

「私は彼が繋いだ今を守らんとするのです」

 

 きっと自分が守りたいものに、違いないから。

 石ころの全ては、それよりも立派な決意がこもった化けの皮に防がれていた。

 

「その“今”にあなた達も、含まれているから! 戻れと言うのです!!」

「っ……!!」

 

「傷付けさせない」――煙が晴れた先で、逞しく両手を広げるミミッキュ。

 

「あなたこそ、ジムリーダーとして然るべき振る舞いをして下さい!」

「悪いなァ、俺はダメな大人なんだ! 『やるな』って言われると、ついやりたくなっちまうんだよ!」

「この――っ、ろくでなし!!」

 

 その隣で立ち起こるニンフィアの“ハイパーボイス”が、ランタナを追い払う。

 

 

 

 延々と響き渡る笛の音。先行く道を守り抜くための、号令。

 キテルグマ、サワムラー、ローブシンがそれに従い続けるのは、己の戦いが明日に繋がると信じているから。

 拳のオーラを撃ち出す“マッハパンチ”と、伸びて鞭のようにしなる“ブレイズキック”が、コスモスとランタナをすり抜けてきた追撃隊を迎え撃つ。

 かくとうタイプの射程外で回りながら様子を窺う相手は、

 

「“つばめがえし”」

 

 水流の忍(ゲコガシラ)の餌食だ。

 

「速いッ!?」

 

 次々と鳥ポケモンの背中を飛び移り、それを足場にして一撃離脱。

 

『ゲコゲコゲコゲコゲコゲコ!!』

 

 目にも止まらぬ速度は、そのまま機動性に利用できる。そして小さな体は運動性に。すれ違いざまに「斬り捨て御免」を唱え続ける一筋の青は、高跳びして印を結んで。

 上空に放つ水の大玉を一瞬にして爆ぜさせると、残骸は忽ち“みずのはどう”と化して辺りに降り注いだ。

 

「む、アサツキさん!」

 

 一体だけ、取りこぼした。目だけで意図を汲み取ったアサツキは、その飛翔体を指差し笛吹き、マッハパンチを送らせる。

 しかし一向に当たらない。消えては現れ、現れては消えを繰り返し、まるで位置をショートカットするかのように連撃を処理する様は、超能力者のテレポートのそれ。

 あれよあれよと間近に迫って、視線が重なった。

 最後の空間移動が果たされた時、“鳥擬き”を使役する賢者は、飛行艇の上に立っていた。

 

「……よりにもよって、お前かよ」

 

 アサツキは遠くで背中合わせになるカイドウへ、辟易を見せた。

 

「元よりまともとは思っていなかった。が――ここまで愚かとも、思っていなかったぞ」

 

 白衣を靡かせながら、同じく背中越しで応える。

 

「お前、いつか言ったよな。自由でいればいい、って」

「時と場を弁えろ、と改めて付け加えてやろう」

「オレにんな器用な真似が出来るかよ」

「……そういうところが、愚か者だと言うのだ」

 

 カイドウとアサツキ。

 考える者と、動く者。

 全を捉える者と、個を労わる者。

 

「いいよ、愚かで。オレはそれでも、一本筋しか通せねえ」

 

 平行線上の二人は、お互いをよく知っている。

 

「いつだってオレは、自分(オレ)でしかいられない」

 

 交われないことを、知っている。

 

「もはや、話し合う余地はない」

「今更。だからさ」

 

『解り合えない』と、解り合っている。

 

「――歯ァ食い縛れよ」

「演算を開始する――」

 

 そんな二人の眼光は、よーいどんで振り返った。

 

 

 

 あちこちから立つ轟音と煙が、身をぐらぐら揺らす。

 アリエラはそれでも前を向き、進み続ける。目蓋の裏には、既に約束の地がある。ラフエルがいる。

 幻想にも思える景色でも、彼女を駆り立てて仕方が無いのだ。

 

「っ!」

 

 崩れかけたバランスを、整え直す。機体の上で戦闘が行われているのだと直感した。

 されど行くしかない。向かうのみ。もう少し、もう少しだから――。

 

「熱源!!?」

 

 その時、赤外線センサが急速にアラートを鳴らす。

 最後の最後で、刹那にかかりし影が。

 

「な……!!」

「――“ほのおのパンチ”!」

 

 リザードンが、行くなと言った。

 ズドン。正面からコックピットに襲い掛かった拳を止める。紙一重に割り込んだカイリューは、相手もろとも飛行艇の進路からはけていった。

 

「……っ!」

「止めさせません」

 

 待ちわびたと言わんばかりの妨害は、最大級の警戒の証。

 小物を片付けたコスモスは、肉迫する竜越しで、満を持してカエンと対峙した。

 

「コスモスねーちゃん……! なんで、なんでだよ!?」

「ごめんなさい、カエンくん。私は、世界を見極めに行きます」

「それ、なんのためにやってるんだよ!? 今はどうなるんだよ!? ほっといていいのかよ!!?」

「……それは、貴方の心が本当に言っていることですか?」

 

 まただ、また。カエンは歯噛みするだけで、何も返せなかった。

 

「流されるだけでは、いけないのです。縛られていては、ならないのです」

 

 重なっているのに、交わらない視線。

 別れの決め手は『決められたかどうか』――簡単な事で。

 こんなに単純でも、勇者は優しいばかりに。温かいばかりに。何を取るべきかで、未だ苦しみ悩んでいる。

 何を取ってもきっと後悔する。同じぐらいの哀しみを背負う。

 カエンの“ここ”は、行き場をなくして漂うばかり。

 

「私の未来は、私で決めます」

 

 それでもコスモスは、牙を剥く。覚悟をしたから。自らを定めたから。

 

「――――この、わからず屋ぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

『ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!』

 

 がくん、と首が揺れた。カエンの叫びと共に咆哮し、凄まじいパワーを発揮するリザードン。

 掴んだ両手に灼熱の炎を灯し、強引に崩した均衡。羽ばたく翼でカイリューを押して一気に海面へと突っ込んでいく。

 

「つ……っ!!」

『リューーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!』

 

 コスモスが歯を食い縛った。カイリューが片手をふりほどいた。

 それで不自由を押し付ける方の腕を握ると、盛大な背負い投げ。

 

「く……!」

「“しんそく”!」

「うあ!!」

 

 ぶん回されて乱れた姿勢を整え直す猶予など、どこにもない。カイリューが文字通りの神速で、ヒットアンドアウェイの追撃を見舞う。

 一、二、三、四、五――天地無用にして縦横無尽な三次元の連打。暴れる視界。ふっ飛んだ先でまたふっ飛ばされる、その繰り返し。

 仕上げに選んだ攻撃方向は、真上であった。拳を握って突撃する。

 

「……!!」

 

 ぎろり。至る瞬間に、リザードンはカイリューを仰いだ。

 

「口で……!!?」

 

 不穏を覚えても、時すでに遅し。ギャンブルにも等しい間一髪を狙っていた大顎が、己に殴り掛かった手にばぐんと喰らい付く。

「いけない、カイリュー!」発話も、遅い。

 

「だあああああああああああああああッ!!!!」

 

 拘束した飛竜へ届かせる仕返しの滅多打ちは、熱く、激しく、そして重々しく。

 拳を噛み締められる痛みと、乱打に曝される痛みで、さしものカイリューも苦悶を浮かべた。

 だが、易々と負けてはやらない。顔面を殴られようが、腹に捻じ込まれようが、片時も目を逸らさない。

 

「――“げきりん”っ!」

 

 そうして湧き起る頑強な闘争心で、渾身の一発を返す。

 

「まだッ! “だいもんじ”!」

「“ぼうふう”!!」

 

 飛ばされた者は反撃の爆炎を、飛ばした者は追撃の台風をそれぞれ解き放った。

 真っ向から激突したじゃんけんは、あいこ――相殺で発散されたエネルギーは海を乱暴に叩いて、波紋を残し、そこから巨大な水柱を巻き上げた。

 お互いの姿が、隠される。二体の竜は呼吸を整えた。

 

「……私も、結末を怖がりました」

「!」

 

 雫をばら撒く白の向こう側から、漏れるように聞こえる本音。

 

「けれどもいつかは必ず、その時が来るから。迷うままでは、いられないから」

 

 燃える拳を、おもむろに構える。

 

「私は選択します。自分の行き先を」

 

 不定形の塔が、段階を追って縮んでいく。透明な液体に立ち戻っていく。

 

「――うおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

「己の、道を」

 

 とうとう視界は晴れた。邪魔するものなど何もない。

 二体は拳を握っていた。駆け出していた。叫んでいた。振りかぶっていた。

 全力の一撃が交差した。

 ――すれ違った。

 

「リザードン……!」

「あなたは、何を見ますか」

 

『……ゴァッ』リザードンは短く呻き、よろめく。胸に刻まれた正拳の傷が、痛々しくじんじんと鳴いていた。

 

「何を聞き、何に触れますか」

 

 落ちかけた肉体を、持ち直す。

“げきりん”の威力は、甚大なものであった。

 

「そして――どこへ行きますか」

 

 カエンはコスモスへと振り返る。

 

「……強くなりましたね、カエンくん」

 

 灼ける拳(ほのおのパンチ)の痕跡を腹で疼かせるカイリューへと、振り返る。

 顔を見せずとも、わかった。コスモスは微笑んでいた。一人の英雄の成長を、しかと喜んでいた。

 

「カエン、一旦戻れ!」

「カイドウにーちゃん……!?」

「やられた……!」

 

 戦闘を終えたカイドウが、シンボラーに乗ってカエンの回収に訪れる。

「な……!」目配せだけで示された飛行艇は、もぬけの空になっていた。

 すぐ傍で、遠ざかっていく背中――ガブリアスに跨り滑空する、アリエラの背中。伴うドデカバシとファイアローに頼る、サザンカとアサツキの背中。

 

「全て、時間稼ぎだった……!」

 

 横を抜けて仲間を追うランタナとムクホークの表情を捉え、確信する。

 

「残りの距離を考えても、ポケモンの力だけでラフエル洋は渡りきれる……」

「アリエラさえ逃がせればいい……彼らは最初から、そのつもりで……!」

 

 アリエラが脱出して身軽になれるタイミングまで、囮になっていた。ユキナリとステラはそう言った。

 

「……あなたの前途が、どうか輝かしいものでありますように」

 

 最後に肩越しの祈りだけを残して、飛び去って行くコスモス。

 追いかけようと逸った自分の意識を、律する。

 

「……どうすりゃ、いいんだよ……」

 

 友は、先へと往った。

 

「くそ…………くそっ……」

 

 聳える壁の、向こう側へ。立ち込める霧の、その果てへ。

 

「――ちくしょおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!」

 

 誤魔化すように天へ吠えても。涙を浮かべる瞳を閉ざしても。

『どこへ行く』――彼女の残酷な問いかけは、いつまでも頭の中で残響していた。

 勇者は未だ一人、岐路に取り残されたまま――。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――泣く者がいようと。笑う者がいようと。

 ――善を積み重ねようと、業を繰り返そうと。

 ――突き進もうと、迷走しようと。

 時間は流れていく。世界は、進んでいく。

 そう。たとえ。

 

「斥候より伝達です。北西方面の上空より、こちらに接近する影あり。警戒されたし」

 

 滅ぼす者が、いようとも。

 

「……ふむ、思ったよりも早かったですね。アリエラを逃がしてしまったことは大きかったでしょうか……」

 

 通信機に流す、伝令。

 

『皆さん、お早う御座います。どうやら客人が此方の予定を待てなかったようです――つきましては、前倒しで作戦を開始致します』

 

 それはテルス山を埋め尽くす灰の兵士らに、まんべんなく行き渡った。

「ワースさん、ワースさん」ベースキャンプの簡易ベッドで眠る守銭奴は、部下から揺すられて寝穢さを正す。

 

『なに、恐れることはありません。何故ならばこれが最後なのですから。これで終わりなのですから』

 

 戦士はいそいそと剣となる従者と向き合い、最後のコンディションチェック。

 

『手厚く歓迎しようではありませんか』

 

 大義を掲げし(つわもの)は、黙して瞑った瞳を見開いた。

 

『素敵に、見目好く、壮大に――終末を飾ろうではありませんか』

 

 伝説の足跡の中心で“楔”を打ち込むは、最強の虚無が担いし役目である。

 テルス山の周囲四か所から、虹の光が立ち上がった。

 それはまるで四角錐を形作るようにして空へ伸び、やがてテルス山の上部を頂点として結び合う。

 卵じみた球体が、生まれた。七色は一瞬で暗黒へと変貌し、力を蓄えるかのように少しずつ大きくなっていく。

 それはまるで、神話の原典に見る――ラフエルが齎した“破滅の光”。

 

「約束の日に、約束の地で。我々は集うでしょう。争うでしょう。かつての神話のように。失われし歴史を再現するように」

 

 山頂から太陽が顔を出す。日の出の空は、明るくなった。

 照らす輝きを後光としながら、ハリアーは人気のないレニアの地で、独りにんまりと笑った。

 

「さあ、ラフエルの守り手たちよ――――決着をつけましょう」

 

 テルス山にて待ち受けるは、混沌の軍勢。



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05.答え合わせ

 静まり返る世界。あれから追撃隊が、姿を見せることなかった。

 飛行艇を乗り捨て、ポケモンの翼を借り、朝焼け映す水鏡が形作るグラデーションを抜け、アリエラたちはラフエル本土に至った。

 紅掛空色の暁天が不気味なほどに透き通って、その存在を示す。

 

「……なんだ、こりゃあ」

 

 差し迫ったテルス山上空に座する、巨大な黒の光球。まるで第二の太陽と言わんばかりの勢いで高熱を発するそれを見て、ランタナは愕然とした。

 アリエラは内心で「成程」と納得し、その正体を説く。

 

「あれこそ、ラフエルが齎した“破滅の光”だ」

「なんという凄まじい妖気……」

「これが及ぼす効果はただ一つ、消滅だ。完膚なきまでに壊し、跡形もなく無くしてしまうためだけにある、純粋な破壊の力――存在することで害はあれ、利など微塵も生まれない」

「バラル団……なのですね」

 

 扱う者が誰なのか、そんなことは考えるまでもなかった。直視すれば恐怖さえ覚える、そんなエネルギー体の存在意義を聞けば。

 黒いのに、白い。コスモスの目にはそう見えていた。

 混じりけも歪みも無い、澄み切って澱まぬ破滅への渇望。

 悍ましい風体だった。生まれの祝福も、生きる希望も、何もかもを無意味と唾棄して踏みにじらんとする気配。明確過ぎる終わりの意志。

 これが虹を塗り潰す。キャンバスを引き裂く。悉くを始まる前のゼロへと還す。

 

「ラフエルが善性を持ちながらにして、この忌々しさを生み出したというのなら――彼は一体、どれだけ気が狂いそうになるほどの道を歩んできたのでしょう。……想像を絶します」

「英雄は華々しいだけではない。いつでも試練と葛藤が付きまとう……と有らば寧ろ当人の視界には、無限数の闇しか転がっていまいよ」

「あなたも、そうなのですか?」

「――だから、己だけでは決められぬのだ」

 

 自嘲するアリエラ。

 人は恐ろしい。コスモスらのような温かさを湛える余地を持ちながらにして、この黒太陽が如き絶望すら生み出せてしまう。

 されどアリエラにとっては愛しいものだ、変わりはない。憎みもしなければ恨みもしない。

 だが世が人の闇に満たされる予想図を描いて、でもそれは避けたくて。果てで「悪なるもの」などという結論は、出してほしくないのだ。

 本当は、選択を取り違えたと思いたくないだけなのかもしれない。己の行動を過ちとしたくないだけなのかもしれない。苦し紛れの、自己防衛なのかもしれない。

 

「でも、な。これをどうするべきかは、決められる」

 

 しかして、問答すら彼方に追いやって全を消し去るこれ(・・)は、無くさねばならないと思う。

 まだ何も始められていない。話せていないし、見えちゃいない。

 

「――――止めるぞ。そのためにも、ラフエルに会わねばならん」

 

 出す答えは、一つ。

 遠い瞳に気迫がこもる。虹が宿って光り輝く。

 大きく息を吸い、

 

「はッ!」

 

 一度に吐く。

 すると虹色の波紋が一帯に広がり、ほどなくして呼応するように大量の鳥ポケモンが五人の周りに集まってきた。

 

「おい、おい……おいおいおいおい!」

「種の垣根を越えている……オオスバメ系列にウォーグル、ムクホーク、ポッポやピジョン、ピジョットまで……」

「我が名は月の英雄、アリエラである。奇跡『融和』の下に、其方らの力を借り受けたい。構わぬか」

 

「……感謝する」あっという間に辺りの空を覆いつくした虹色の目のポケモン達は、次々と短い鳴き声で返し、共に同じ方向へと翔け出した。

 

「先で困った時は、彼らに言え。必ずお前たちの助けとなってくれるはずだ」

 

 コスモスは隣で感心する。これが英雄の奇跡。アリエラの力。

 皆の心持ちを共にし、一丸となりて何かを成し遂げる、虹の欠片。

 

「連中だ、来るぞ!」

 

 ぴったりのタイミングだった。戦力の結集と同時に、アサツキの声が上がる。

 向こうで望めたのは先ほどと同じような、人を乗せた鳥ポケモンの軍団。相違点があるとすれば、乗り手が皆一様にグレーの衣を纏っている、というところだろうか。

 伴う複数の飛行艇と、歓迎される衝突。破滅の光を防衛するため、バラル団が立ち塞がる。

 

「ちっ、どうする! このままだとぶつかる!」

 

「突っ切ります」「押し通る」「はああ!?」

 コスモスとアリエラが口を揃えて同じ意味の言葉を述べた。

 一瞬だけ視線を重ね、微かに笑い合う。

 

「もう少しなんかなかったのかよ……」

「結構ではありませんか。どうやら、血は争えないようです」

「お前ら、こんなとこで笑かしにくんなよな」

 

 アサツキもくすりとつられて、緊張が緩んだ。

 が、長くは続けていられない。向き直って、彼方を見据えて。

 

「……ったく、楽に出来ねえな、ほんと」

「やるしかねえさ。世界を脅かす大罪人になったかと思えば、今度は世界を救おうとするヒーローだぜ? 忙しくて参っちまうよ」

「テルス山……いえ、ラフエルに至れれば、事は収まります。正念場ですね」

 

 ちゃんと笑顔を作るのは、明日で。

 

「……辿り着くぞ、絶対に」

「ええ。そして、明日の話をしましょう」

 

 語り合えたその先で。待っている未来で。

 だから今日は、現在は、拳を握ろう。前を見よう。

 

「これまでを振り返り、これからを想像して――ゆっくり、納得いくまで、沢山の時間をかけて」

 

 迫る影に、立ち向かおう。

 だって目指すべき場所は、たった一つなのだから。

 

「――――行くぞ!!」

 

 アリエラの鬨を合図に、英雄たちは灰色の暗雲へと突っ込んだ。

 翼のみが共通する雑多な種のポケモン達が一斉に技を放つと、一瞬にして巻き起こる大乱戦。

 明日を掴まんとする虹の群れと、明日を消し去りたい灰の群れとが、喰い合うように何度もぶつかり合う。

 

「一点突破します!」

 

 混迷を極める中で、コスモスが仲間たちとはぐれてしまう前に取った選択は、カイリューの“ぼうふう”であった。

 天を割るかの如き咆哮に発破をかけられて、確かな道を切り開く横向きのハリケーン。それこそが正解の証明。

 

「行きましょう」

「ええい、ルートを開かれた! 止めろ!」

「無理です! 野生のポケモン共が邪魔を……ッ!」

 

 余波で踊る髪の毛が落ち着く頃、悲鳴を上げながら落ちていくバラル団をよそに、先を急いだ。

「散れ!」しかしまだ、咎めは終わらない。テルス山を眼下にすると、今度は群衆を前座とせんばかりの苛烈な攻撃が、陸の各所から飛んでくる。

 炎、雷、氷、岩、草――様々な属性を以て五人を防戦一方にしてしまう猛攻は、当面止みそうにない。

 

「くっ、これでは着陸どころか、まともな飛行すら……!」

「連中、意地でも世界をぶち壊したいらしいな……!」

 

 とても滞空していられないだろう。窮し、大ぶりな旋回行動を繰り返す。

 

「致し方ありません……!」

 

 その時、サザンカが動いた。ゲコガシラを呼び、襲ってきた一筋のれいとうビームを切り裂いた後に唱えるは、

 

「“かげぶんしん”、ありったけです!」

 

 自身とゲコガシラ、及び乗り込むドデカバシを複製する呪文。

 実体を伴う虚像が膨れ上がるように増えて、狙いを曖昧にした。だが達人の凄業はそれだけでは終わらせない。

 

「すぐにお返しすることになりますが……お借りします、ランタナさん」

「なっ!?」

 

 ランタナの吃驚が木霊するよりも前に、ドデカバシ達は方向転換、余すことなく地上へ特攻を仕掛ける。

 分身を巧みに囮にし、降下。あろうことか相手取ろうと言うのだ。

 怒涛の迎撃だが、コピーの数を見れば本物が無事なまま敵陣へと至るのは明白であろう。でも問題はそこじゃなくて。

「あいつ、一人で……!」多勢に無勢を買って出る、その判断だ。

 

「サザンカさん!」

「このまま足踏みしていても、じり貧なだけです。敵のいくらかを預かりますので、皆さんはその間に約束の地へ」

「ご無事で……!」

 

 コスモスのグッドラックに肩越しで頷くと、サザンカは山の中腹へと消えていった。

 

「なるほどな。アリエラとコスモスさえ無事に届けりゃいい、って頭か。賢いじゃねえの、師匠」

「……オレらも、腹括るっきゃねえらしいな」

「お前たち……!」

「ま、こっちの方がカッコいいのは確かだわな」

「――違い、ねえや!」

 

 続けてファイアローとムクホークも、連なるようにして一団から外れていく。行き先は、それぞれが離れ離れになった別の地点。孤立状態は免れないが、承知の上だ。

 彼らが危険も厭わず先行するのは、鍵となる二人の竜姫を信じているからに他ならない。

 

「ランタナさん、アサツキさん……!」

「心配すんな、ちゃんと持ち応えてやるよ!」

「じゃあなぁお二人さん! 寄り道すんじゃねえぞ!」

「健闘を祈ります!」

 

 そうやって希望を託して遠ざかり、見送られながら縮んで消えた。

 二人きりになると、目に見えて攻撃の勢いが緩む。手数が分散されたのだとわかった。

 これならいける、とコスモスが急かすは己の手持ち、カイリューとサザンドラ。

 

「アリエラ、これは」

「奴らめ、厄介な真似を……!」

 

 手の込んだもてなしは、尚も続く。

 目的地である、ラフエルが没したとされる遺跡『終わりの跡』を擁するレニアシティが、丸ごと透明な障壁に覆われていた。

 その様たるや、差し詰め光のドーム――――外部からの侵攻を頑として許さぬ“ひかりのかべ”と“リフレクター”の仕業だ。等間隔で広がり周囲を固めているエスパーポケモンと団員らを見れば、看破もそう難くはない。

 

「どうする、真っ向から打ち破るか」

「いえ、下のどこからでも狙えてしまう空から攻め入るのは、賢いとは言えません」

 

 よって渋い面持ちに提示した案は「地上から切り込みます」というもの。

 壁を形成するポケモン一体を倒し、それによって生まれる綻びから内部への侵入を試みる。敵全員に存在を把握されている時点で安全など無いに等しいが、されど現状出せるカードの中では最もローリスクなように思える。

 飛行機の着陸の要領で横の距離を稼ぎながら、ゆっくりと高度を落とし、レニア付近に丁度良く降り立った。

 数時間ぶりに足を付けた大地は、砂利と岩と土と草とがバランスよく折り合う、歩きやすい形をしていた。瞥見の限りでは展望もよく、今のところ敵も見受けられない。

 尤も来ることは知っているので、長居は出来ないのだが。

 ポケモンをボールに戻した後、二人はどちらからともなく走り出そうとする。

 

「コスモス!!」

 

 直後で飛来にする竜に、襲われるとも知らないで。

 どんよりと時流が遅れる中、土煙を立てながら揺れ動く景色に、赤い翼があった。

 一度転げて、立ち直る。アリエラの咄嗟の気転で突き飛ばされたことにより、命を拾ったコスモス。

 

「無事か……!?」

「生きてます、なんとか」

 

 飛竜『ボーマンダ』は、そんな彼女が佇む眼前を睨みつけ、先祖との間を隔てるようにして立ちはだかった。

 誰の差し金だろうか。今更語るまい。誰の横槍だろうか。最早口にするまい。

 

「――ルシエジムリーダー、竜使いのコスモス」

 

 “ジムリーダー最強”という、コスモスの肩書きを知るならば。

 “最大級の障害”と、彼女を認識するならば。

 

「貴様を我らが理念に抗う逆賊とし、今日こそ引導を渡す」

「来ましたね――」

 

 この男は現れるべくして現れるだろう。この対峙は避けられなかっただろう。

 目には目を、最強には最強を。

 

「グライド」

 

 おもむろに歩いてくる、自我が失われし傀儡にも似た『(うつ)ろな白』――“空白”を捉まえて、コスモスは最上位にあるバラル幹部の名を呼んだ。

「行ってください、アリエラ」そして短く続けて、再びサザンドラを解放する。

 

「だが!」

「彼を止められるのは、私しかいません」

「!」

「なるべく早く片して、追いつきますから……明日を頼みました」

「……死ぬなよ!」

 

 多くは言わない。大きな輪郭の切れ間から覗いた瞳が、全部を伝えてくれた。

 アリエラは鋭い指笛を吹く。反応して“しんそく”で駆け付けた麓の住民『ウインディ』の背に乗ると、ドラゴン同士の一騎打ちを後にした。

 掴むは首の毛、向かうはレニア、進むは獣道。

 

「待て!」

「これ以上は行かせるかッ!!」

 

 背後で、ケンタロスとゴーゴートの声が木霊する。

 二体の追手だが、アリエラは目も暮れずに「はッ!」と息を吐き、さらに速度を上げさせた。

 姿勢を低めて、より減衰させる空気抵抗。破る草葉に踏み越える土場。木々の隙間を抜けて漏れる陽光をかわしつつ、韋駄天じみた疾走。

 

「くそ、引き離される……ッ!」

「止、ま、れぇぇ!」

 

 操者のフードが脱げる偶然と重ねて、ケンタロスが角から“10まんボルト”を撃ち放つ。

 

「断る!」

「は――……!?」

 

 かわされたと認知出来た時には、もう手遅れで。

 木を用いて方向転換と跳躍を同時に行ったウインディは、既に相手の頭上へと至っていた。

 滾る闘志を込めた捨て身の突撃“インファイト”でノックアウト。急激な動作に対応できず通り過ぎてしまった生き残り(ゴーゴート)なぞ、ただの的であった。

 

「うわああああああああっ!!」

 

 すれ違いざまに浴びた眼光に背筋が凍る。追い越すような“フレアドライブ”は敵を跳ね、容赦なく状況を締めくくった。

 しかし、まだだ。冷めやらぬ残火を身に纏ったまま、樹林帯を抜ける。すると見える“壁担当”のバラル団。

 

「一気に駆け抜ける! 神焔の虎よ、今暫く力を貸せ!」

 

「あの女、突破する気か!?」「急げ、フォーメーションを組んで……!」「幹部の方々はどこ行ったんだよ!?」焔の煌めきにいくら泡を食ってバリケードを作ろうと、もう遅い。

 火の粉という残滓を振り撒いて地を閃く流星に、いかなる攻撃も通りはしない。

 燃える足跡を置き去りにする。目を見開く。

 

「――うぉおおおおおおおおおおおおッ!!!!」

 

 人と獣の叫びがリンクした瞬間、山頂で火柱が昇った。

 かくして爆炎を以て、番の焼き討ちは完了。案の定生まれたバリアのほつれを通り抜け、アリエラとウインディはいよいよレニアシティへと足を踏み入れる――。

 

「(……なんだ? 人の気配がまるで感じられぬ……)」

 

 訪れるのが、久方ぶりなせいだろうか。それともこの違和感は正しいのだろうか。

 町は不気味なほどに静まり返って、沈黙を貫いていた。

 

「争いの痕跡はない……民は逃げたようだが……」

 

 ゆっくりとウインディを進ませ、辺りを見回す。

 曲線を基調とした、素朴なレンガ造りの建物からなる街並みも、土地のシンボル“ラフエル象”も、何一つここでの出来事を話してはくれなくて。

 

「英雄アリエラ、で合ってるな?」

「!」

「安心しろよ。ただ占拠してやっただけさ」

 

 代わりに教えてやろう。灰の軍団はそう言わんばかりに次々と物陰から現れ、とんとん拍子で女傑を囲った。

 

「っひひ、見つけたぜ……余計な損害くれやがって」

 

 地面は勿論、窓に、屋根に、何層も。規模は数十――いや、百は下らない。とんだ伏兵だ。

 無音を破って目を光らせる狩人の中に、短いマントを纏う者が数人ほどいることに気付く。喋っているのもその存在で。

 アリエラは班長格と呼ばれる彼らの中でも、とりわけ最も近い距離にいる人物『ジン』へと問答を吹きかけた。

 

「……貴様らがバラル、世を滅さんとする者だな」

「オフコォーーース。ブッ壊してもブッ壊しても手を緩めなくて嫌われる、天下のバラル団様がここにいるぜぇ?」

「破滅の光を生み出すなど、正気か。それも人の都合からなる、人の手で」

 

 慈悲はある。しかし許しはない。そんな英雄の睥睨にかっかっか、と図太く笑いを返す。

 

「人の都合じゃねえ、ポケモンのためにやんのさ。こいつら押さえ込んで、利用して、甘い汁をちゅーちゅー啜りやがるクソ人類共を、この世界から一掃してやろうって話よ」

「傲慢な……人の身にあって、人を裁こうというのか」

「傲慢でも肉まんでも、神様の力が再現できちまったんだよなァ~! ラフエルが封じ込めた“氷結の凶獣”の残骸を、決まったトコに打ち込むだけさ……そんなに難しい仕事じゃあなかったぜ」

「奴を使ってまで……、愚か者めが……」

 

 あまりに遅すぎる種明かしでも、驚くことに違いはない。

 レシラムとゼクロムを従えし英雄ラフエルにあっても、封印に一月かかった侵略者『キュレム』。そしてその肉体の欠片――“遺伝子の楔”。これまでに襲われた町は、秘密裏にそれを仕込まれていたのだ。

 

「話が見えてきたぞ。楔の作用で“虹の道”を乱して、地上に溢れさせ、この膨大な量の力を顕現させたということか……」

「ご名答だ、話が早くて助かっちまうぜ……だったらテメーが何でこうなったのかも、わかっちゃったりするよなァ?」

「……事故だったのだろう。本来、私という存在までもが出てくる予定はなかった。しかし虹の道の想定外の働きにより、いてはいけない者が甦った――違わぬな?」

「ぎゃはは! いいねえ、いいよテメー。んじゃあとは簡単だ。いるはずのねえ存在だってんなら、消えねえとならねぇってこった」

 

 会話はここまで。ジンのフィンガースナップにより強制終了させられる。

「ゾンビは意味わかんねえことしてねえで、さっさと土へ還れって話だわ」パチンという音が響くと、続々と咲いていく淡い光の花。開く紅白はやがて多数のポケモンを呼び出し、アリエラの退路を潰してしまった。

 

「――最後に、聞かせろ」

「あん?」

 

 されど怯むことなく、俯いて、言う。

 

「お前たちは、自らもまた滅ぶと知りながら……この凶行を続けるか」

「知ったこっちゃねェなぁ! 俺らはブッ壊せりゃなんでもいいのさ……人間サマはテメーが思うほど高尚じゃあ」

 

 手を挙げ、

 

「ねえんだよォォォォォ!!」

 

 下ろす。

 簡素でも、サインはサインだ。ポケモン達は獲物に群がる獣のように、或いは光に集る虫のように、一斉にアリエラへと飛び掛かった。

 

「……そうか」

 

 言葉は通じても、会話が出来ない。アリエラの胸中は、彼らをそういう相手だと断じた。

 触れて交わり、それでもなお解り合えず、寄り合えず。

 悲しく思った。虚しく抱いた。

「愛するが、赦せ」なぞりたくはなかった。封じておきたかった。けれどもそれは叶わないから。通らないから。

 影法師の奔流へと、凛とした面を上げた。

 殺到する技の数々。ポケモンの群れ。覆われる、包まれる。そのうちみるみる消えて、無くなっていく。

 

「――私が復活したのは、お前たちを止めるためだったのやもしれぬ」

 

 刹那、七色が弾けた。ポケモンの牙が、爪が、吐き出した火が、水が、風が――アリエラの肌に触れる寸前でぴたりと静止する。

 まるで時計の針が止まったかのようであった。

 

「……!!?」

 

 そして身を翻し、何事もなかったと蓋をして、主たちの元へ返っていく。

 

「――4ϙ4β65」

 

 携えた殺意も、そのままにして。

 

「なッ……!!」

 

 まるで時計が反転したかのようであった。

 

「お前らポケモン出せ!!!!」

 

 咄嗟の早口と応戦。何が起こっているかわからなかった。言えるのは、ただそれだけだった。

 アリエラへと向いていた全てのポケモンが、打って変わってマスターであるはずのバラル団たちに襲い掛かる。

 

「なに、なんなの!? ポケモン達が急に……ッ!」

「暴走か!? 何故いうことを聞かないんだ……!?」

「くそっ、ボールにも戻らねえ! テメェ何しやがった!!?」

 

 ターゲットを誤認したかの如き形相で押し寄せる獣達の波に、彼らは泣く泣く控えを出さざるを得ない。

 一瞬にして描かれる、同士討ちの構図。混沌が混沌を圧倒する戦場で、アリエラはただ虹を煌めかせて超然と立っていた。

 そこに優しさはないし、まして思いやりもない。

 あるのは戦に明け暮れていた八千年前の惨さと酷さと、冷たさ。愛ゆえに愛を捨て去りし、かつての戦士の残虐さ。

 持ちうる能力を理論値まで解放し、悉くを傷付けるためだけに猛威を振るう英雄が、そこにいた。

 

「クソッ、バケモンがあああああああ!!」

 

 毒蜂ポケモン『スピアー』を出し、十八番の技“こうそくいどう”で突撃させるジン。

 

「――t036ϙ6αφ16ε 4d6567α73∿6b6i」

 

 再び、人智の理解が及ばない領域の言語が響く。虚ろに呟かれたそれは難なくスピアーの羽音を止め、彼自慢の複眼をアリエラの色に染め上げた。

「ふざけやがって……!!」ジンは悔しさで尖る歯をギリギリと擦り合わせて、思い知る。

 この力は、和解や共有といった類のものではない、と。

 寧ろ支配や命令の系統に属するものである、と。

 ここから数秒後には、さらに信じられない光景が広がることになる。

 

「メガシンカなんて、聞いてねえぞ……ッ!!」

 

 厳密には、キセキシンカ。操ったスピアーを虹のオーラで包み込むと、強化形態へと昇華させた。

 かざした手が示す意味は、あまりにシンプルすぎるもので。

「我が道を、阻むな」そうしてキセキスピアーは振り向いたジンへ、躊躇なく突っ込んでいく。

 

「なんだってんだ、チクショウ!」

「班長、主のリングマが壁を破壊しました! レニアに侵入してきます!」

「どいつも、こいつも……!!」

 

 圧巻の脅威は、気付くとすぐそこにあった。

 鳥の歌声よろしく穏やかな高音を遠くに伸ばして『陸のテルスの主(リングマ)』を呼び寄せれば、仕上げは完了。

 いくら一〇〇以上の規模を誇ろうが、自身のポケモンを相手にしながら、地鳴りと共に進撃する六メートルの巨体を止められる道理など、あるはずもない。

 大地の守護神のけたたましい怒号が響き渡る中、アリエラは涼しい顔でウインディに跨り直し、その場を去っていく。

 

「アリエラ、逃げていきます!」

「ここで手一杯だよ! けっ、最高だぜ。バケモンがバケモン呼びやがった……どうしようもねェ!」

 

 ジンは隙間を抜けていくアリエラを横目で見ながら、

 

「あとは、あの人(・・・)にやってもらうしかねえな……」

 

 不穏に呟いた。

 

 

 

 閑散とした場所特有の、熱のない空気を裂いていく。

 平素ならば温かい赤橙の建造物たちも、人がいなければ途端に孤独が落ち延びる。続く石畳にしたって、まるで風情が感じられないほどに乾いていた。

 

「近いぞ……、急ぐのだ!」

 

 アリエラの指示に従い、ひたすら西へと駆けるウインディ。

 終わりの跡は、最西端の崖だ。そこにさえ至れれば、あとはラフエルの魂を再生させるだけだから。今なお天空で肥大化し続ける絶望を、止めてもらえるから。

 あと、ちょっと。

 そんな思考を出し抜けに切り刻む影が、一つ。

 

「……――ッ!!!!」

 

 それは、民家の窓を突き破って疾駆した。

 パリン、という耳障りな破裂音を図々しく引き連れ、横からアリエラの首(・・・・・)を狙ったのだ。

 びゅっ。既のところで上体を逸らして回避する。薄皮を掠め取る鋭さが、ひりひりと疼く痛みを残した。

 姿さえ視認させず、通りすがりに命を奪い去らんとする早業は、まさしく通り魔や辻斬りのそれであった。

 

「マニューラだと……!?」

 

 小さく、黒い。

 炎獣を振り向かせるのと同時に迫った顔で、暗殺者の正体を理解する。

 ウインディが開口し、追い返そうと放つ“かえんほうしゃ”を、阻止。速やかに下顎を殴り上げ、無理矢理閉ざした口内で熱エネルギーを暴発させてしまう。

 ぼん、と鈍くこもった爆発音に続いて着地すると、機敏な動作で前脚を蹴り払う。熱き勇姿は“けたぐり”にて堕ちた。

 

「(やる……!)」

 

 貫くような眼光を当てられた瞬間、沈んだ獣の躰から跳び退くアリエラ。

 覗かせる歯を知った時。新手の追撃を悟る時。

 

「然し!」

 

 両斜め後方という死角から迫ってくる“オニゴーリ”と“ドンカラス”へ、野生の“ヘラクロス”と“ウォーグル”を当てがって対処した。

 アリエラは見え隠れする異常に対し、怪訝そうにする。

『何故、ポケモンを操作出来なかったのか』――――主なモノローグはそれだ。

 彼女の奇跡“融和”は、『ポケモンに自分の感情を投影する』効果を持っている。

 喜ばしい時は一緒に笑い、哀しい時は共に泣く。言葉が通じない彼らを思うからこそ得た、己の心持ちを伝える能力だ。

 しかしそれは時として生まれる情動“憤怒”さえも彼らに押し付ける。多数が怒り狂い、力任せに矛を振り回すことを良しとしてしまう。とどのつまり負を伝播させるのだ。

 アリエラは常々封じていた怒りを解き放って彼らと向き合ったはずで、本来ならばマニューラ達を味方に出来なければいけないはず、なのだが――。

 

「ポケモンを操る面妖な技を使うようだが――無駄だ。こいつらには効かん」

 

 推理の手は煩わせない。男は、そう言わんばかりに堂々たる姿を現した。

 ズン、と地の底に引きずり込まれそうになるほどのプレッシャーが、アリエラを身構えさせる。

 凡そ常人では、その声一つで息さえ詰まってしまうだろう。

 

「靡かんのだよ。人間の浅知恵如きが作った道具で、成り立っている繋がりではないのでな」

 

 地べたで爪を研ぐ、猫鼬の横をすり抜けた。

 かくして一歩ずつ大地を踏みしめるように。足跡を刻み込むように。最後の壁として、彼は英雄の前に立つ。

 

「そこに上下はない。我々はいつでも、唯一無二の対等だ」

 

 羽音が聞こえた。空気が凍り付いた。淡青の羽毛がいくつも舞い降りて、殺風景を彩った。

 放たれる尋常ならざる気配は、早すぎた冬空で嘶くフリーザーのものだろうか。

 

「何故ならこの“イズロード”は――常々ポケモンの自由のために在るのだから」

 

 それとも、この男のものだろうか。

「お目にかかれて光栄だ、英雄アリエラ」イズロードは、不敵に笑った。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――戦局が、整っていく。

 

「くっ……撤退、撤退だ!」

 

 ギャラドスが尻尾で最後の敵を一薙ぎし、主人ごと近くの水場にふっ飛ばす。

 諦めたか、それを見た下っ端らは次々と引き上げていった。

 最後に、戦場である川辺がサザンカ一人だけになった頃、事は次なる展開に進む。

 周囲で生い茂る木々の間から、一目で有害と判る紫色の煙が噴き出てきた。それは忽ちに風上から広がって、視覚を阻害するまでに充満、達人を早々と飲み込んでしまう。

 

「……なるほど」

 

 背後から突如伸びてきた透明の舌を気一つで察知し、裏拳で弾き返す。カクレオンのものだった。

 

「先刻より、辺りでずっとちらついていた禍々しい気配は――あなたでしたか」

 

 敷き詰められた石の絨毯を踏み転がす、そんな足音の先にハリアーはいた。

 

「フフ……驚きました。この有毒ガスが効かないとは、どういったからくりなのでしょう……?」

「驚かされたのはこちらの方ですよ。まさかここまでやるとは……、私でなければどうなっていたことやら」

「困りましたね、もう少し人らしく振る舞えませんか?」

「そっくりそのまま、お返ししますよ」

 

 木陰から様子を窺うは『マタドガス』や『スカタンク』といったどくタイプのポケモン達。

 彼らは有害とされる学説を裏切らず、生物の命を脅かす技“どくガス”を扱える。この事実さえわかれば、もはや何も説明する必要はないだろう。

 

「さて、戯れはここまでと致しましょう、サザンカ。貴方とは初めましてですが……これから消えゆく者に、ご挨拶は要りませんでしょう?」

「ええ、あなたは消えるのです。あなたに全てを奪われた人々が待つ、氷の牢獄へと」

 

 片や修行によって得た特殊な呼吸法で、片や従えたオーベムの“しんぴのまもり”による薄膜(バリア)で隣り合う死を防ぎ、戦いに赴く。

 

「終わりの始まりはもう止まらない、止められない――――故に逝きましょう、共に」

 

「ギャラドス」「ジュペッタ」

 テルス山の中腹で、眩いメガシンカの光が上がった。

 

 

 

 物量戦。至ってシンプル且つ強力で効率の良い作戦が展開されるのは、崖と崖を繋ぐ大橋の上。

 四羽の鳥が有象無象の陣形をかき乱す傍らで、

 

「……拍子抜けだぜ」

 

 幹部ワースは向き合う男、ランタナへと言った。

 睨み合うファイアローとメガヤミラミ。めらめらと闘争心を燃やす双方に反して、主人たちの内心は底冷えしていて。

 

「必死こいて準備したってのに、出てきたのがどこの馬の骨かも知らねえジムリーダー……それも一人ときたもんだ。費用対効果が低すぎる……あーあぁ無駄遣いだなぁ、ほんとによ……」

 

 とりわけワースは、意気消沈と呼べるレベルにまで気分を落としていた。

 ただでさえ表での活動を嫌う男が、唯一の楽しみであった値踏みすら出来ないというのだから、無理もない。目の前の手負いの中古品は、査定の価値すら見出せないほどに傷んでいると判断したのだ。

「テンション下がるわ……」元より足りない愛想をさらに欠かして、物憂い独り言。

 

「……なわけでよぉ、俺ァ今すぐにでも帰りてんだわ。さっさと終わっちゃくれねぇかい」

「馬鹿言ってんじゃねえよ。このままあんたらの思い通りにいけば、終わるのはそっちも一緒だぜ」

「あー、そうさな……いくら人命ってモンが生まれついてのジャンク品であっても、そら有無も言わさずパクられんのぁ損失になるか。一寸の虫にもなんとやらってな」

「わかってるなら話ははえーや。俺があんたの帰る尻尾巻いてやるから、大将に言っとけ――『死にてェなら一人で死ね』ってよ」

「ッハ、いいこと言うじゃねぇか」

 

 咥えたやにから吹く煙。

 

「――同感だ」

 

 それは、開戦の狼煙。

 

 

 

 樹林帯が作る自然にあっては、コンクリ柱も浮いてしまう。

 されど強さには、関係が無い。ローブシンは闘神の二つ名にも違わぬ暴れっぷりを以て、ガブリアスと衝突。

 後方ではサワムラーとキテルグマによる小物の処理が行われ、目の前では幹部クロックとの激闘が繰り広げられ――そんな進退窮まる状況であろうが、アサツキは諦めを知らず立っていた。

 

「弱い者いじめみたいで、趣味じゃないけど……今回は大事な作戦らしい。だから、悪いね」

「趣味じゃねえなら、即刻やめろよ」

「それは出来ない。成り行きなんだ」

「……成り行きなら、しゃーねえな」

 

 気持ち一つは、お互い様か。

 木の葉舞う緑の中で、戦は語るでもなく続いていく。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「我々は、ポケモンの自由のために行動している」

 

 ここまで来て、ようやく答えらしい答えが得られたと思う。

 イズロードは簡潔に、しかし瞭然に組織の目的を語った。

 人を滅ぼすのは、彼らがポケモンの自由を阻むから。世界を終わらせるのは、歴史をやり直そうとしているから。

 再生は破壊からしか生まれない。

 故に全てとの心中を望んでいる。人類史に終止符を打ち、ポケモンだけの新世紀を作らんとする。

 

『ポケモンによって作られた世界を、ポケモン達に返上する』

 

 それが宿願だと言った。理念だと説いた。

 

「……それを望まぬポケモンたちのことを、考えたことはないのか。人々を愛するポケモンとて、少なからず存在するはずだ」

「どちらが多いか少ないかは、問題ではない。我々は『より良い方』を取っている。かつての貴様らがそうしたようにな」

「烏滸がましくも、英傑たちの軌跡と混同するか」

「違わないだろう。理想のためにいくら殺した? どれだけ手に掛けた?」

 

 途端に口を閉じる。

 

「英雄と云うのは、所詮殺戮者よ。その背景に崇高な目的があったかどうか、ただそれだけの話に過ぎん」

 

 否定できなかった。

 原因はポケモンとヒトを巡るもので、大義と大義のぶつかり合い。

 正しさのためならばどこまでも残酷になって、どんなものでも捨て去ってしまう――。

「解るか? 我々とて、また英雄なのだよ」今の彼らが忌まわしき記憶を再現していると気付いたアリエラは、悔しげに唇を結んだ。

 

「そこでだ、アリエラ――おなじ英雄同士、手を取り合う気はないか?」

「……何だと?」

 

 次ぐイズロードの申し出に、耳を疑う。

 これまで散々己を殺さんとしてきた連中の口がそう言いだすのだから、無理もない。

 

「貴様も八千年前、ポケモンのために戦ったのだろう。願いが共通しているならば、行動を共にする理由もまた十分にあるはずだ」

「お前たちの負の施しを享受しろというのか? そんな馬鹿な話が」

「それにな」

 

 繋げるというより、割り込みに近い。寧ろ遮りか。

 

「伝承上でも律儀で生真面目であった貴様のことだ……会いたがっているラフエルが世界への絶望を口にしたのなら、滅亡を齎すこともやぶさかでない、という腹積もりでいるのではないか?」

「……!」

「……答えを待つ必要はない。八千年越しの世界を見て、得られたはずだ」

 

 はたと見上げた天井で輝く、破滅の光。

 何度も諦めかけた。

 精神が折れかけた。

 

「どれだけ温かい夢を抱こうと、優しい物語を紡ごうと」

 

 どこぞの誰かに敗れ、屠られてしまえば、どんなに楽だろう。

 ――光が見えない中で、そんな風に思った。

 

「美しい跡を残そうと――人は絶えず繰り返す」

 

 それでも斬った者達が、自分を見ていて。

 己を殺した存在が作らんとする世界の先を、眺めていて。

 

「痛みも失敗も忘れ去り、なかったことのようにして、白痴にまみれて変わらぬ明日をなぞる」

 

 振り返れば、帰り道などなかった。屍しかなかった。

 彼らを想えば立ち止まれなくて。それでも己を染める赤は日増しに濃度が増していって。

 

「延々と。何度も。何度も。同じ環を廻り続けるぞ」

 

 前に進むしかなかった。信じて往くしか、なかった。

 その先で待つのが、これだ。

 あんまりな話だと思う。悲しい物語だと考える。

 

「アリエラ、我らと共に来い」

 

「もはや終わらせてやる他に、ない」誘う男の瞳は、人への諦観と怒りとが渦巻いていた。

 不本意にも、共感を覚えてしまった。こうなりかけたことは、幾度もあったから。絶望に潰されかけたから。

 本当は彼のようになるべきだったのかもしれない。正解だったのかもしれない。

 誤魔化すべきでなかったのかも、しれない。

 観測者はいつもいつでも冷静だ。隠してきた本心を見透かし、言い当てる。本性を無容赦に引きずり出す。

 

「――――お前は、泣きながら誰かを傷付けたことはあるか?」

 

 それでも、アリエラは面向いた。

 

「過酷さに打ちひしがれ、己を、或いは己の信じるものを疑ったことはあるか?」

「……何を言っている?」

「自分の罪に、苦しんだことはあるか?」

 

 何十回と否定されようと。

 

「何れも、この広い世界に息吹く生物の中で、唯一“人”だけが行える事だ」

「世迷言を」

「挫ける都度、それこそこの世の終わりのように考え込み、悩み、苦しみ、千切れそうな頭から答えを放り出していく」

 

 何百回と裏切られようと。

 

「私はそうやって、ラフエルが残したモノを――思い続けるヒトの可能性を、信じずにはいられない」

 

 生まれて死んで、そして甦っても。

 彼女には、幾らでも言い続けられることがあるからして。

 

「何度傷付けても、愚かでも、私は彼らを愛している」

 

 ヒトが好きだと、胸を張って声高に謳える。

 ヒトがいたから、最後まで走ってこれたと叫べる。

 

「故に、まだ諦める訳にはいかんのだ。見ずして捨て去る訳にはいかんのだ」

「耳が腐り落ちそうなほどに甘ったるいな……どうやら俺は少々、貴様を買い被っていたようだ」

「迷わぬことが是か。立ち止まらぬことが美か。本当にそうか」

 

 歩みが遅くてもいい。矛盾を孕んでもいい。

 それでも、自分達の積み重ねを否定したくない。

 

「私は、その愛なき導きを赦すことが出来ん。よって、お前たちとは行けぬ」

 

 これが現代の英雄を知り、彼らに触れた先で手繰り寄せた、アリエラ自身の意志であった。

 

「いいだろう。であるならば、貴様の行き先は決まった」

 

 空に留まって問答を静かに待ち受けていたフリーザーが、イズロードの言葉で動き出す。

 撃ち下ろすように、アリエラへと“れいとうビーム”を照射した。

 

「――招来する」

 

 その濃紺は、紛れもない竜の証。横から割り入る焔“りゅうのいかり”が冷気を相殺、一瞬にして氷の線を蒸発させてしまう。

 ポケモンを一匹も所持していないはずだが。イズロードは立ち込める蒸気に抱かれながら、そんな独白を漏らす。

 

『始まりの竜姫、己亡き後、その者にテルスの守護を命ずる。彼の者、空の覇者と成りて天にて永らえん』

 

 が、途中でキャンセルした。原典の記述の一部を想起したからだ。

 腑に落とす。そうだ、そうだった。女傑には彼女がいた。

 神話でも常々共に在った、彼女の一部であり、英雄の力の一端――。

 

「今こそ出でよ――、空のテルスの主(ボーマンダ)!!」

『グォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!』

 

 八千年前より血と記憶を引き継ぎ、彼女との約束を守り続けてきた、伝説のボーマンダが。

 降臨に大地が震えた。空がどよめいた。

 痺れる一吼えで白煙が振り払われた後、鮮やかになった主君と「久方ぶりだな」と見合う。

 

「ゆくぞ、イズロード!」

「フハハ! ……面白い!!」

 

 かくして最強の眷属は向き直り、今一度、甦りし英雄と駆け抜ける。

 

 

 

 サザンドラが力尽きた。

 ガブリアスが地に伏した。

 エストルが倒れて、

 

「“すてみタックル”」

 

 とうとうパシバルも陥落した。

 真上からの飛来を受け止めきれず、その身で造るクレーター。ばきんと鳴らして、地にめり込んだ。

 メガボーマンダは続けて、丸腰のコスモスへと脇目もふらずに突っ込んでいく。

「カイリュー」ランプの魔人よろしく、握ったボールから飛び出す最後の一匹。後ろの主を守らんと突進を受け止め、思いきり踏ん張った。

 

「どうする。後がないぞ、ルシエの」

「……そのようですね」

 

 表情は揺らがずとも、余裕の無さは確実にある。

 グライドがメガシンカを発動した途端、一気に形勢が形成された。

 “荒くれ者”という代名詞の通り、ボーマンダはその凶悪な攻撃性能を遺憾なく発揮し、次々とコスモスの手持ちを葬ったのだ。

 

「貴様らにどういう事情があるのかは、俺の知ったところではない。が……無謀だったな」

 

 しかしグライドとて強者、これを手放しで得られた結果と驕らず、騒がず、うぬぼれることはない。

 このカイリューを見た時――いや、戦い始めた時からわかっていた。

 

「万全でない状態の手持ちで、よくこの俺に挑めたものだ」

 

 暗く低い声が示す。コスモスのポケモンが、いずれも手負いである、と。

 数時間前のジムリーダー達との戦闘が、明らかに響いている。

 カイリューにしたって、そうだ。平然と戦っているが、両手と腹が“やけど”の状態に陥っており、決して無視できないダメージを引きずってしまっているではないか。

 改めて、彼らの強さを実感するばかり。

 

「それとも、俺を侮ったか。いや――個人ではなく、俺達全てがその対象か」

「(来る……!)」

「“ハイパーボイス”」

「“ぼうふう”!」

 

 至近距離で音波と竜巻が激突すると、轟く音。尋常ならざる爆発に押し飛ばされた双方はそれぞれの主の脇を抜け、ごろごろと草原の上を転げる。

 カイリューは地面に爪立て、後退る勢いを無理矢理殺した。

 ほぼ同時に立ち直り、宙へと浮上するボーマンダ。己のフィールドに引き込もうとする意図が明け透けだ。

 

「付き合わないで」

 

 拒否しろ。そんなコスモスの指示を肯い飛竜が手に取るは、近場で疎らに生えている樹木。

 それらを矢継ぎ早に引き抜くと、槍の要領で力任せに投射した。目で追いきれない速度を叩き出し、風を穿って飛んでいく。

 

「かわせ」

 

 一本、二本と立て続けに避けてから高速旋回、直撃コースに捕まらないよう空を往く。

 

「“しんそく”」

 

 カイリューは、そこで初めて羽ばたいた。

 六本目まで捌いたところで地上を瞥見し、一瞬でも位置を確かめようとしたのが良くなかったか。

 集中を戻しても、黄色い閃光は既に目鼻の先。

 剣のようにして握った木で、眼下の背中を力強く殴打する。

 ドゴン、と鈍い音が響いてから軌道が逸れた。決めるなら今だ。コスモスと思考を一致させる。

 天翔け追いかけ振りかざす二撃目。

 

「なめるな」

 

 短兵急な宙返りは、さぞ強引だったに違いない。しかし相手の裏をかいたことにも違いない。

 咄嗟の回避をやってのけるセンスは、間違いなく経験で培われたもの。

 流れるように奪い返す背中へ、ボーマンダはドラゴンクローを伸ばす。

 

「でも!」

 

 ばきり。振り向きざまで木をあてがった。凌いだ。折れた破片は回転しながら落下し、やがて大地に突き刺さる。

 

「だとしても!」

 

 交錯する自発的な『“げきりん”』と『“すてみタックル”』――お前も同じ目に遭わせてやる。随にてボーマンダが言った。

 

「甘い」

「!」

 

 発声のタイミングは一緒でも、発生の早さには明確な差が生まれる。

 拳にオーラを纏わせたまではいい。肝心のそれをぶつけるよりも前に、紅の三日月はカイリューを浚ってしまった。

 きりもみ飛行で、真っ逆さま。先程パシバルが貰った攻撃を、もろに受けてしまうカイリュー。

 強烈な衝撃が土を砕き、砂利と石をまき散らす。塵煙が晴れた先で、相棒はボーマンダにマウントポジションを取られていた。

 

「っ……“ぼうふう”!」

「まだ続けるか」

 

 様相に叫べど響くのは、虚しくもコスモスの声だけ。

 ギリギリで耐えている中で大口を開けても、ただただ竜爪に侵されることしか出来なくて。

 火傷が疼く身体でする雀の涙ほどの抵抗が、一体何を変えられるだろう。

 圧し掛かられ、力で押さえられ、

 

「諦めろ――“ハイパーボイス”」

 

 終いには零距離で音の爆弾を叩き込まれ、あえなく決着。

 最後まで、起き上がる余地などなかった。呆気ないものだった。

 仰向いた目は、降参の時に掲げる旗の色していた。自由になった凶竜が、動かなくなった巨体を蹴飛ばして睨む方など――、

 

「さて」

 

 一つだろう。

 

「初めから勝ち目のない戦を、何故挑んだのかは知らん……が」

 

「どのみち、終わりだ」顔向けし、口元に溜め込むエネルギー。

 人体でこれをくらえば、恐らくバラバラになる。早い話が死ぬだろう。

 恐怖なのか。今更うすら寒さが這い寄って、背骨に絡みつく。

 出来るならば、避けたかった。勝ちたかった。今だって死にたくない。そもそもこんなことになるのなら、此処に訪れないのが一番だったのかもしれない。

 たった五人で、それも手傷一つさえ癒せぬまま数百の軍勢に挑みかかり、勝機などあったろうか?

 

「少し考えれば、わかったことだろうに」

 

 ――ある訳が、ない。

 いくら勝利を背負っていようとも、そんなことは火を見るよりも明らかで。

 

「それでも」

 

 それでも、コスモスは行きたかった。

 

「行かねばならぬと、思ったのです」

 

 ジムリーダーの宿命『勝利(ジーク)』を捨て去ってでも、先を見てみたかった。

 どこかの誰かのように――何かに懸けることが、やめられなかった。

 前髪から覗いた瞳は、微笑んでいて。

 されど、イズロードのような冷え切った青の憤りに非ず。ハリアーのような赤黒の愉しみに非ず。グライドのような真白の虚無に非ず。

 ただおめでたいぐらいに諦めず、虹を追うだけのこと。

 楽観が過ぎると思う。らしくもないと思う。ましてこんな時にあるなら、尚更。

 しかし溢れ出す希望は、止められない。止まりたくないと言って、まるで聞かない。この足を赴かせて、仕方がない。

 コスモスはやはり煌めいて、遥か前を見据えていた。

 

「消え失せろ」

 

 虚無は少女の輝く言霊を形見と捉え、掌で短く空を切った。

 幾重もの環状の風刃が放たれる。伴う絶叫は耳朶を劈き、山中を駆け巡り、きたる彼女の終わりを大仰に飾り付けんとする。

 足元を抉り、自然を切り刻み、あっという間に迫った。

 役立たずと知りつつも細腕で胴を庇い、口を噤み、目をきゅっと瞑るコスモス。

 

「――“だいもんじ”!!!!」

 

 その時、彼女を守るものがあった。

 それは、人と同じ温かさをしていた。

 それは、太陽の熱を味方に、上から降り注いだ。

 それは、大の字に爆ぜ散って“破壊の風”をかき消した。

 

「……余計な邪魔を……」

「……!」

 

 腕をどけて、ゆっくりと目蓋を上げる。そんなコスモスの前に、燃えるオレンジの翼が静かに降り立った。

 

「カエン、くん……」

 

 ――――再会。

 少年はリザードンの背からおもむろに離れ、地に足付けて少女へと振り向く。

 

「やっぱり、おれ――今がなくなるのは、いやだ」

 

 そこには言葉選びで小さくなる口も、落ちる眉も。

 

「守りたい。こわされたくない。……ダメだなんて、言われたくない」

 

 漂って宙ぶらりんな眼も、震えて定まらない声も。

 

「だから、それをラフエル(あいつ)に伝えたい」

 

 もう別人みたく、どこにもない。

 険しくも、芯を携え胸を燃やす。熱い火焔を揺らめかせる。

 

「『今はすげーたのしいんだ』って……会って、言ってやりたい」

 

 そうやって言い放つカエンの面持ちには、ほんの少しの迷いもなかった。

 英雄と話し合って『過ちでない』と教えてやる。嘗てと向き合って『現在を抱いていく』と意思表示する。

 されど壊すと言うのなら、喧嘩をしてでも止めてやる。

 これが迷走し、転げ回った果てに得た、勇者の答えであった。

 

「一緒に行こう――、コスモスねーちゃん」

 

 もう、逃げない。見失ったりしない。

 心に英雄を取り戻した少年を祝うように、上空に新たな舟が現れる――。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「は、班長ォ! 上空に敵の増援が……! 数、三〇以上です!」

「チッ、ポケモンリーグの奴等……!!」

 

 希望の光が、増えていく。

 満身創痍の英雄たちの元へ、翼を伴って降りていく。

 ――ラフエルはまだ、堕ちず。

 消耗しきり、膝をついてしまったランタナの前に、先刻ぶりの聖女が現れる。

 

「ステラ……!」

「まったく……啖呵を切ったのに、散々ではありませんか」

「なんで……っつか、どういう……!」

「あら、私はちゃんと言いましたよ?『争っている場合じゃない』って」

 

 子供へ向けるような笑みに促されて仰いだ天には、幾人ものリーグトレーナーがいた。

 

「……ったく。遅ぇんだよ、バカ野郎……」

「ふふ、あなたに堪え性がないだけですよ」

 

 手を差し伸べ、ランタナを再び立ち上がらせると、全ての手持ちポケモンを解放する。

 

「――ポケモンリーグの命により、これよりあなた達を援護します」

 

 そうしてステラは、ワースと対峙した。

 

 

 

 アサツキへの援軍は、後方を守るサワムラーとキテルグマが倒れかけた時に出現した。

「……お前、ほんと変な時に間がいいよな」彼女が、賛辞か文句かわからない言葉を述べる先にいるのは、カイドウで。

 

「感謝するんだな。貴様のような愚か者でも、くたばってほしくないと思う物好きがいる……らしい」

「へえ。……ソイツはお前もか?」

「もう黙っていいぞ。気色が悪い」

「冗談言えよ、今のお前もなかなかだっつの」

 

 やはり背中合わせ。しけた面を見合わせるなんてごめんだし、並び立つのもむず痒い。だからこれで、この状態でいい。

 ただ先程より近付いた背後は、言わずともわかる。

 

「……幹部の野郎は引き続きオレがやる。だから後ろのザコ抑えとけ」

「言ったからには、確実に倒すことだな。挟み撃ちにされての尻拭いとなれば、笑い種にしてやろう」

「ほんっと一言多いな。ちったぁテメーの心配しろよ」

「お互い様だ」

 

 味方のものだと。信頼に足る仲間のものだと。

「テメーが倒れるとオレが困る」「貴様が倒れると俺が困る」

 発される声が、背中越しで重なった。

 

『だから、終わるまでそこに立ってろ』

 

 最後の不敵な笑みから成る生意気な命令が、ローブシンとユンゲラーを各々の戦局へと送り出す。

 

 

 

 晴れた毒ガス。

 

「ほんと、無茶をするよ……」

 

 ユキナリはジュペッタの爪に斬られかけたサザンカを助け、言った。

 しかし咎めない。何故なら、

 

「何かを成さんとする若者があらば、思わず見届けたくなってしまい、手を貸さずにはいられない――いけませんね。これだから年寄りというものは」

「ははは、違いないな」

 

 同じ年長組として、彼らに一定の理解があるから。

 本当に愚かなのは、もしかすると僕らなのかも。見守る者たちがそんな風に揃って笑い、並び立つ。

 

「ハリアー……仇を討たせてもらう」

「ああ、誰かと思えば……薄氷の戦士ではありませんか。救いたい者一人救えず、我々に敗北し、ガラガラと音を立てながら崩れ落ちた、無力で憐れな人――――ネイヴュの次は、世界をその手から溢そうと云うのでしょうか?」

「そんなことはさせません。今度は我々がおります」

 

 未来のために戦う。

 彼らの固い誓いは、未だ潰えることなく、この空で。

 

「ラフエルで永遠に輝く、虹がおります」

「奪いたければ、何度でも奪えばいい――そのたびに僕らは立ち上がり、お前達に挑み続ける!」

 

 ラフエルの大地が、力を貸した。召喚するやいなや、虹を浴びて煙を吹き、赤に染まっていくRFサンドパン。

 やがて雪原の追跡者(アイスチェイサー)は、いつかに立てた誓いを誇示するように赤胴の報復者(ブレイズリベンジャー)へと変容する。

 

「勝負です、ハリアー!」

「ここで決着をつける!」

 

 キセキシンカとメガシンカ――二つの可能性が、此処に集った。

 

 

 

「下で頑張ってもらう分、(そら)は任せろってなぁ!」

 

 アドニスのメガライボルトが、“かみなり”で晴天を唸らせる。

 

「まったく、アレも甘い奴だ……態々協会に取り合ってまで味方するとはな。時折、本当にチャンピオンかと疑ってしまう」

 

 サーシスの指示“シャドーボール”は、一度でメガゲンガーに数十の敵を落とさせた。

 

「まあまあ、何だって楽しんだ者勝ちさ。どうだい、撃墜スコアでも競うっていうのは」

 

 ジニアが持つメガヘルガーによる“だいもんじ”は、視界から悉くが消え失せる程の大火力。

 

「あらら、いいのかな? 私の一人勝ちだよッ!」

 

 ハルシャはメガフシギバナから放たれた草葉の嵐(リーフストーム)が、バラルの飛行艇を複数巻き込んで撃沈させる様を見てから、得意げに言った。

 

「膳立てはした――あとは任せよう。英雄と、その末裔たちに」

 

 飛行艇の留守を務める四人の代わりに、前へ出る。

 そうして従妹と遜色ない無双を繰り広げるメガリザードンYの背で、グレイは呟いた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「リザードン!」

 

 カエンの一声で放たれる三日月型の風の刃“エアスラッシュ”。それは牽制となって、ボーマンダをその場から立ち退かせる。

「こいつを、カイリューに!」リザードンはその隙を逃さず利用し、手から手へと投げ渡された『げんきのかけら』を、カイリューの元へと届けた。

 口に入れてやると、忽ち体力が回復し、瞳に生気が戻っていく。全快とはいかずとも、立ち直って『もうひと頑張り』を叶えるには十分だ。

 腕で頬の汚れを拭う。再動の咆哮を高らかに上げる。

 虹が見える――二体の竜は奮って昂然と並び立ち、いよいよもって同じ明日へと歩き始めた。

 

「……へ?」

「どうしました、カエンくん」

「リザードンと、カイリューが……『先に行け』って」

「!」

 

 カエンの耳は、ポケモンの声を聞く。

 肩越しの視線から通るのは、俺の、私の願いを持っていけ、という確固たる意志。

 コスモスもカエンも、長年連れ添った相棒の覚悟を無下に出来るほど、未熟にはなれなくて。

 となれば、返事は一つであった。

 

「――――ありがとう!」

 

 静かに頷き合って、少年と少女は約束の地へと走り出す。

 

「ポケモンのみで、この俺を倒そうと言うか。空け共が……!」

 

 カイリューの風が、リザードンの炎が、二人の道を守る盾となった。

 決して朽ち果てない。信じた彼らが、未来を手にするまでは。

 

 

 

 目指すべき約束の地――その目前。

 救済の鍵と最終防衛ラインによる死闘は、レニアの中央区画にて。

 轟音が幾度となく鳴り響く。塵煙はもくもくと各所から立ち込め、少しずつ崩れる街の景観を曇らせていく。怪物同士が殺し合う時、世界はミニチュアのように破壊された。

 

「――はあァァァァァッ!!」

「フフ! ハハハハハハ!!」

 

 守護竜と氷鳥の空戦が見下ろす中で、アリエラとイズロードは徒手のみを頼りに激突する。

 意気を一息に吐く両者。それは乱打の随伴動作。

 拳と拳が無を切り、周囲に衝撃波を立てつつ何度も何度もぶつかり合う。

 割れる大地。歪む空気と乱れる髪に、瓦解する建物。

 

「伝承では剣士と聞いていたが、素手(コレ)でもいけるらしいな!」

「侮るなよ! 戦の基礎は鍛えられた肉体だ!」

「ああ認めようとも、まったくもってその通りだ!」

「っ!!」

 

 バゴンッ。鈍い。

 アリエラの視界が空転した。

 頬に至りかけたパンチをいなされくらう、クロスカウンター。

 頭が揺れる。仰向く吹き飛ぶ遠ざかる。

「ぐ、う――ッ!!」ドカンドカンと鳴らしながら、直線上に立つ民家を次々と背中でぶち壊して、漸く止まれた四軒目。

 

「フリーザァーーッ!!」

 

 剥き出した矛は納めない。イズロードは後ろから翔けてきた同胞に至急飛び乗り、今しがた開けた道を低空飛行させる。

 嘴が凍った。言外の指示を飲み込む“れいとうビーム”が伸びていく。

 

「――ボーマンダァァァァ!!!」

 

 迸る虹の眼光、及び目前に降り立つ巨体。

 空の主は“りゅうのいかり”を滾らせて、真っ向からそれを打ち消した。

 生まれる刹那に乱れる呼吸を整え直し、広い背を踏み宙を跳ぶ。敵が同じ構えで同じ高さにいるのは、同じ考えを持つ何よりの証明。

 

「ふゥンッ!!!!」

 

 再びの相対で、強烈なフックが耳元の虚を抉った。だがそれだけ。

 

「たァァァァァァッ!!」

「ぐおっ!!」

 

 紙一重の処理でモノにする後隙を、無駄にはしない。

 今度はこちらの番だと言わんばかりに、右ストレートを顔面にクリーンヒットさせたアリエラ。

 するとイズロードは忽ち彼女の前から消え失せ、地面に超速で衝突する。

 残る風の輪。石畳が砕け散っても、構うか。

 土臭い煙を吸い込み目をかっ開いた先で、

 

「――――!!」

 

 間近の女傑は言っていた。

「ぜえぇぇいッ!!!!」鮮やかにして猛々しい追撃。一度のダウンも命取り。

 もはや地震だ。

 容赦はなかった。躊躇も然り。

 下になった男の頭蓋を粉砕しようとした二撃目だったが、咄嗟に首を傾けられたために回避を許してしまう。

 

「化物が……!」

「どの口が言う」

 

 大地に埋まる正拳を引き抜こうとする暇など、与えない。空く脇腹をめきりと鳴くほど蹴ってやると、当人にとっては不本意すぎる横飛びが距離を生む。

 

「英雄とは謂わば神格を持った凄まじき存在だ。故に、ただの人間にこうも追い詰められるのは想定外だったか?」

「く、……っ!」

「違うなぁ、まったくもって違う! お前を殺せるのは俺だけだ! 俺だからこそ、俺はお前の当て馬になったのだ!」

 

 クールダウンだ。上体を起こした後、口内に溜まった血を痰の要領で吐き出した。

 軽視できないダメージを負っているのに、されど彼を高笑いさせるのは何か。それを知るのは彼のみぞ。

 引っ掴む石畳の破片を、握り潰して灰の礫に変えた。

 立って歯を覗かせ狙うは、街路樹前を転げた女。

 

「言ったはずだぞ、俺もまた英雄であるとなァ!!」

「何を……――っ!!」

 

 振りかぶって、投擲する。

 並外れた膂力から発射されるそれは、ピッチングなどという生ぬるいものではなかった。

 性質はおろか勢いも、威力も、規模も、散弾銃(ショットガン)のそれだ。

 着弾し、辺り一帯で上がる瓦礫たちの悲鳴。アリエラの周りを穿ち、彼女のドレスをボロボロに傷付けた。

 

「貴様ならば嫌というほど知っているだろう!! “イクシス”という、我が血の名をなァ!!!」

「っ――――イクシスだと!!?」

 

 直撃を避けたものの、イズロードはまだ休ませてくれない。間髪容れずに駆け出し、キックという形で荒々しく足裏を叩きつける。

 屈んでかわした英傑の身代わりになって、べきべきと泣きながら折れていく背後の大樹。

 

「そうか、お前は火星の英雄『ゼラキエ』の……!!」

「ああ! 俺も数えられし『八人の英雄』の末裔さ! 英雄の民なのだよッ!!」

 

 アリエラは吃驚を挟んでから、イズロードの不可解なまでの怪力と強靭さに、納得した。

 彼が、ひたすらに獣の自由を求めて戦い続け、最後には自らも獣と化してしまった“火星の英雄”――『ゼラキエ・イクシス』の子孫だと知ったから。

 かち合う視線の向こうで滲む太古の面影に、確信を抱く。

 

「幾ら血を繋いで生まれ変わろうと、お前はやはり人を否んで喰い散らかすか――ゼラキエッ!」

「フハハハハ!! 俺は俺だ!! イズロードという混沌だァッ!!」

 

 しかしそのままでいる訳にもいかないので、急いで脇を抜け離れて。

 

「英雄が敵に背を向けるのかァ!!」

 

 倒れる大木を片手で掴むと、後ろ姿目掛けて振り向きざまに横薙ぎを仕掛けるイズロード。

「悪手だぞ!」アリエラは立ち止まり、ぎろりと振り返った。そして気付く。読みを行ったのだと。

 いい加減なまま無を掻き切る丸太の上に『待っていたぞ』と跳び乗って、軽やかな足で走り出す。

 暴れるスカートを掴んで御して、木肌を伝う一目散。

 

「うおおおおおおおおおっ!!」

 

 高い打点からの爪先蹴りが、ヒールの後押しを受けてイズロードを襲った。

 

「悪手か――、確かに『悪』い『手』だ」

「なっ……!」

 

 頭部すれすれでの、捕捉。

 イズロードの掌は、しっかりとアリエラの靴を握っていた。

「しまっ――!」力を込めようが、もう遅い。

 一秒もあればそれで、それだけで、

 

「ぬうううううううううううううんッ!!」

「ぐああああああっ!!」

 

 掴んだ女なぞ、簡単に叩きつけられるのだから。

 怪力に振り回されるアリエラの躰は、まるで弄ばれるおもちゃのようであった。

 一回、二回ととびきり硬い地べたに殴打され、三度目の振り抜きで遠方へとぶん投げられる。

 流石のアリエラも応えたらしい――ぶつかった建造物の壁にもたれ、呻きながら弱々しくへたり込んだ。

 額からの流血がある。しかし致命傷ではない。されどハァ、ハァと反復する肩の呼吸と、苦悶が見え隠れする表情で、ダメージの蓄積度合いは容易に推し量れる。

 

「どうした、終わりか!!?」

「――まだ、だあああああ!!」

 

 搾り出すような叫び。なおもダッシュで詰め寄るイズロードを、“りゅうせいぐん”が牽制。

 横一列に並ぶ隕石の波状攻撃が、段階を追ってアリエラから見た奥へ奥へと降り注いだ。

 ボーマンダは急制動をかけるイズロードの頭上を飛び越えていく。風ごと追いかけるフリーザーの険しさを見るに、まだ空中戦は終わりそうにない。

 

「……――む?」

 

 そうやって仰いだ空から、陽光を背に襲い掛かる一匹がいた。

 

『ウッギィィィィィィィィィ!!!!』

 

 容赦のないインファイト――それは“ゴウカザル”の影。

 反射神経に物を言わせ後方転回で避けると、そのポケモンの主を看破する。

 

「ほう……ラフエルの末裔か」

 

 正解だ。

 

「大丈夫ですか、アリエラ」

「コスモス……!」

 

 間に合った英雄の民は、コスモスと共にアリエラの前に立ち、持っているポケモンの全部を解き放った。

「みんな、ごめんな……たのむ!」火の猿に加え、“コータス”、“ウインディ”――立ちどころに駆けていく形相が物語るのは、一様に「お前の相手は俺達だ」という、頑なな闘争心で。

 

「貴様も先祖の元へ行こうというのか。フッ……英雄と云うのも、難儀な宿命よ」

 

 イズロードは手が塞がると知りながらも、取り乱すことなく訪れた少年の意図を察し、隠し玉“クレベース”と“ダダリン”を呼んで対応する。

 

「カエン、お前……」

「……後悔は、しない」

 

 目は口ほどに、物を言う。

 

「おれも、おれの行き先を決めたから」

 

 そんな諺の通り、煌めきを宿す少年の瞳は、言葉よりも多くの決心を彼女へと述べた。

 

「今いるここは、まちがいなくおれの道だから」

 

 振り返る凛々しい横顔に、ほんの一瞬だけれど――――あの日のラフエルが、見えた気がした。

 

「――歩いていくよ。どんな未来が、待ってても」

 

 彼の中の英雄が駆けるのならば。赴く心が示すのならば。

 黙して、口を出すまい。

 

「…………来い」

 

 アリエラは何も言わず、コスモスとカエンの手を引いて、戦場から離脱した。

 向かう先は、たった一つ。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――すぐそこでは、激戦が展開されているはずなのに。

 戦火が断続的に上がって、空ではいくつもの光が瞬いているはずなのに。

 三人を取り巻く空間は、嘘のように穏やかで、静謐で。

 まるで世界に置いて行かれたみたいだった。

 人の営みを抜けて、荒れ地を越えて、末裔二人の温かな掌を握って――アリエラはついにその地へと辿り着いた。

 

「着いたぞ」

 

 この先には、もう何もない。

 地続きの終わり。行き止まり。

 

「……ここで、ラフエルの伝説が終わった」

「そして……アリエラの希望が、始まった」

 

 レニア最西端の、巨大な環状列石(ストーンサークル)――『終わりの跡』は、ただ優しく、三人を迎え入れた。

 雲の流れが、よく見える。

 色とりどりの花が、揺らいでる。

 人々もポケモンも、一緒になって逃げたはずであっても、鳥ポケモンが止まっていた。

 

「……中央へ行くぞ」

 

 ざっ、ざっと、追い風に急かされて踊る雑草の上を行き、岩で形作られた丸の中心へと足を踏み入れる。

 鳥たちは交代するように立ち去り、平和な景色を明け渡した。守っていたのかもしれない。根拠はないけれど、そんなことを思う。

 

「間もなく“これ”に虹の道を流し込み、奴が眠りし“対極の寝床”へと行く」

「実在、するのですか。対極の寝床というものは」

「……在って、無い」

「……? なんだ、それ」

 

 ライトストーンとして封印されたレシラムと、ダークストーンとして封印されたゼクロムが眠り、且つラフエルの遺体が埋まっていると云われる出入り口のない部屋『対極の寝床』は、アリエラが言うには実在しているそう。

 

「テルス山内部の、ごく僅かな範囲を切り取るようにして作った『どこにも繋がらない異次元』……それが、対極の寝床だ」

「……うーん、わるい、やっぱりわかんないや」

「実際に行った方が、早そうですね」

「ああ……そうだな」

 

 少なくとも言えるのは、“空間を転移する奇跡”で行けるということ。

 差し詰め終わりの跡は、記念物に加えて、その座標間跳躍を補助するという役割もあるそうだ。

「尤も私が隠したせいで、それを知る者はほとんど存在していないがな……」というのは、アリエラの談。

 

「さあ、跳ぶぞ」

 

 アリエラの合図で、緊張は最高潮に達する。

 これから起こることは何一つ想像の付かない未知で、これから会う存在は己の何もかもを作りし起源で。

 腹は決まっていても、やっぱり構えてしまう。

 進んでいるけど遅くって、勇気はあるけど恐くって。

 

「へへ……」

「……! カエンくん……」

「やっぱり、すげーこわいな。世界と、向き合うって」

 

 気付くコスモス。カエンは自分の気持ちに反して震える手を見つめながら、言った。

 けれども、それを孤独にはしない。白魚が優しく寄り添って、その小刻みな揺動をそっと鎮める。

 

「コスモス、ねーちゃん」

「……一人じゃないから。私も、一緒だから」

「……うん」

 

「二人で、抱えよう」――指の一本一本を絡め合わせて、結び付かせた。離れないように。飲まれてしまわないように。

 

「――――行こう」

 

 セラビムとエイレム――二つの伝説が交わった時、それは起こる。

 遺跡の全域が、虹色を帯びて変化した。

 所々欠け落ちていた石はいつしか傷一つない状態にまで復元され、完全な円環を作り出す。

 足元から、厳密には地の底から光が湧いた。

 

「わ、わっ……!」

 

 何もかもが溶けていくような感覚に包まれ、

 

「……~っ」

 

 胸中が、どこか遠くの温かさと繋がる。

 

「ラフエル――――――、私は――――」

 

 アリエラは今一度二人の手を強く握って、目蓋の裏に昨日を映す。

 すると視界から全てが消え、世界から彼女らが消えた。

 最後に見えた虹は――――その、輝きは。

 

 

 

 夢のようであった。

 

 

 

 どれぐらいの時間を経たかはわからない。

 当然距離だって測れないし、そもそも自分たちが今いる場所がどこなのかも、説明できない。

 

「ここは……」

 

 真っ白だった。

 方向を知るための目安がなければ、規模を解るための指標もない。

 どこへ進むべきなのか。どこにいればいいのか。

 法則性はあるのだろうか。何かしらの概念は存在しているのだろうか。

 脳が破裂しそうになる。わからない、わからない。

 見回しても何もない。望めば望むほどに、際限なく無が広がっていく。

 

「なあ、アリエラ……」

「安心しろ。対極の寝床で、合っている」

 

 頼れる唯一が、安心させる。

 

「ここは世界にあって、世界の外にある場所――――時間は流れていないし、広がるだけの空間もない」

 

 だから、何もないのが正解だ、と言った。

 長い時間いてしまえば狂ってしまいそうになる虚無がありつつも、触れ続けたい温かさも確かに内包している……コスモスはひっそりと、此処に『不思議な場所』という感想を抱いた。

 

「待っていたぞ」

 

 悉くに置いて行かれかけたその瞬間、三者の背中に男の声が当たる。

 それは低くも熱があり、丸くて優しい、柔らかなもの。

 つられて、おもむろに身を翻す。

 

「久しいな、アリエラ」

「……何も変わっていないのだな……、お前は……」

「死者に変わり映えなど、あるまいよ。そういう意味では、お前も同じようなものだ」

 

 鮮やかな赤髪に、陽光じみた煌びやかさを湛えた、黄金の瞳。

 

「……エイレムの末裔、コスモス。よくぞ来てくれた」

 

 そして炎のように燃えながらも、誰かを癒す微笑み。

 

「嗚呼――瓜二つだ。会いたかったぞ。我が子孫、カエンよ」

 

 これらを兼ねて持つ者が。今、目の前にいるこの存在が。

 

「ここで、全てを見ていた。多くは要らぬ。ただ各々、思いのありたけを吐くが良い」

 

 この地の始まりであり、伝説の原点。

 数々を殺し、さりとて数々を焦がした、虹の導き手。

 皆の希望となり、果てで絶望となり、世界を救済した男――。

 

 

「さあ……、未来の話をしよう」

 

 

 英雄神ラフエルは穏やかに佇んで、向き合う三人にそう語り掛けた。



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fin.さらに続く虹

『――我々は現在、サンビエタウン上空にいます』

 

 黒い輝きが、空を覆う。

 

『発生から二時間、未だテルス山の上空にある巨大な光球は肥大化する一方で、その勢いはとどまる事を知りません』

 

 広がる青を侵すように。日輪を彼方に葬り去るように。

 

『PGの手引きにより山から避難した住民は「事が起こる直前、突然バラル団が襲撃してきた」と証言しており、恐らくこの光球も彼らによって作られたものと思われます』

 

 明るいのに、真っ暗。不思議な感覚だった。

 

『専門家によりますと、この黒い物質は凄まじいエネルギーを内包しており、見立てでは大陸一つを消し飛ばすほどの規模である、とのことです』

 

 肌を焼きそうなほどのプレッシャーが人々の息を詰まらせて、ポケモン達は本能の赴くままに気配を消した。

 

『また、歴史学者はラフエル英雄譚に語られる“破滅の光”そのものであるという見解も述べており、バラル団が神話の再現を試みている、とする見方もあるようです』

 

 明日が見えなくなっていく。現在が否定されていく。過去が思い出せなくなっていく。

 

『PGはラフエル地方全域の町で一斉に出現したバラル団の対応に追われており、救援要請を受け出動したネイヴュ支部も、バラル団の防衛網を突破できず、麓で足止めの状況が続いています。よってテルス山内には、早期から異変に気付けたジムリーダー八人しかおらず、今なお世界の命運は彼らに委ねられている状態です』

 

 ――それでも、彼らは。

 

 

 

「ルカリオ! “はどうだん”ッ!!」

 

『どうか、悲しまないで下さい』

 

「みんな、早く逃げて!!」

 

 たとえ太陽が、見えなくとも。

 リザイナでは確かな光が灯っている。

 アルバという、賢者の欠片を受け継ぐ者がいる。

 

「――――キセキシンカ!!」

 

 いつかの虹を纏いしルカリオが、混沌の兵を相手に無双する。

 

『恐れないで下さい。屈しないで下さい』

 

 拳が悪意を打ち砕く。魂が道を切り開く。

 拓けたそれは退路となって、人々を続々と逃がしていった。

 

「カイドウさん……! 僕に、力を!!」

 

 

 

『ラフエルが二体のポケモンと共に絶望を振り払い、民の明日を創ったように』

 

 ラジエスの避難所は、焦燥に駆られた人々で滅茶苦茶で。

 

「おい! 押すなよ!!」

「食料は、食料はまだあるんだろうな!!?」

「子供がいるんです……お願いします、助けて! 助けてください!」

「だめだ!! 俺達はもう終わりだァァァァァァァッ!!」

 

 今、聖女がいたなら。いてくれたなら。

 きっと混乱が収まったろう。泣き叫ぶ子供なんて、生まれなかったろう。

 

『彼らも成すと、信じましょう』

 

「…………なんだ……?」

「これ……歌……?」

 

 優しい声。抱き締めるような、温かい歌。

 伴奏なんかなくたって。言葉が満足に伝わらなくたって。

 怖くたって、追い詰められたって。

 

「……Freyj@……!?」

「Freyj@よ! Freyj@が歌ってる……!」

 

 私は歌える。フレイヤ・ルウは戦える。

 皆の前に立って、逸る心を鎮め――彼女は彼女のやり方で命を燃やしながら、静かに職人を思う。

 

 

 

『未来を掴むと、祈りましょう』

 

「隊列を乱すな! 負傷者は早急に退け、一人たりとも死ぬなよ!!」

 

 テルス山の西側の麓で、アシュリーは黒服たちの鼓舞を続ける。

「“ハイドロポンプ”!!」五人を一気に吹き飛ばし目指すは、

 

「ステラ……!」

 

 聖女が祈る中腹で。

 

「特務……」

 

 アルマは東の麓を駆けながら、同志の無事を望む。

 

「……死んだら、許しませんからね」

 

『また明日を――唱えましょう』

 

 

 

 それでも彼らは、強く立ち続けている。

 

『何故なら彼は、彼らは――――英雄伝説の、担い手なのですから』

 

 エルメスは火焔の勇者に願いを託すと目を閉じて、両手を結び合わせた――。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

『破滅の光、テルス山の面積を超過しました!』

「おいおいおい、そろそろシャレんなんねぇぞ!」

「まずいね……向こうの状況を把握できてないのもあって、余計に」

「奴らめ、何をやっているのだ……!」

「考えてもしょうがないことは、考えない! やれることをやるだけ!」

 

 ひたすらに沸いて減らない敵を迎え撃つ、飛行艇の上。

 目の前の戦況は優勢に変わりない。しかし思い思いを口にする四天王の、誰もが知っている。

 この光が最大にまで膨れ上がった時、何もかもが灰塵と化し、消え去ってしまうことを。

 

「急いでくれ……カエン、コスモス」

 

 オペレーターの声が、先ほどから震えている。

 されど結果を待つことしか出来ないグレイは、歯痒そうに目を細めた。

 

 

 

 思うところは、本当のところ。

 

「……おまえが……」

「神話の大英雄、ラフエル」

「いかにも」

 

「私がポケモンと共に歩み、この地を作った男『ラフエル・セラビム』である」英霊は挨拶として生前を丁寧に名乗り、目を見張る少年少女へと柔和な笑みを向けた。

 端的に言えば、嘘のように思えた。

 それはそうだろう。どんなに奇跡で満たされた土地とあっても、神話に語られし古代人、もとい神にも等しい存在が、眼前で平然として立っているのだから。

 決して疑っていたわけではない。でも、現実味が感じられない。これはきっと、仕方のないこと。

 

「まあ、楽にしろ。此処までの道のりは実に過酷なものであった、其方らも疲れたであろう」

「で、でも、おれたちは、時間が……!」

「言ったであろう、ここに時間は流れておらん。どれほど時を重ねようと、戻った後のお前達の世界では一秒たりとも経過せぬ」

 

 けれども、そう言って座り込む姿を形作る輪郭線は、虹色だった。アリエラやこの大地と、同じ色。

 だったらば信じる他ない。この威厳、及び風格を。

 

「心行くまで語らおうではないか。顔を、よく見せてくれ」

 

 ひたすらに伸びていく静寂の下、コスモスは三角座りで、カエンは胡坐で、それぞれラフエルの隣に腰を下ろす。

 そうして広いようで狭い遠くの白を眺めながら、未来の話は始まった。

 

「先ず、お前たちの思いを聞かせてくれ。それに興味が向いている」

「思い……、ですか」

「今考えていること、生まれてから思ったこと、感じたこと。解らぬことや問いたいこと、願い事でも良い。とにかくお前達の腹の底にたまっているものを、洗い浚い吐き出せ」

 

 最初にラフエルは、民の声へと耳を傾ける。

 果てなき時流の隔たりを気にしているのは、彼とて一緒であった。

 コスモスは重々しく響いた言霊をそっと受け止め、ゆっくり飲み込んで、素直な心で言葉を練って、

 

「――……喉が、乾きました」

「!?!?!?!?!?」

 

 ありのままを吐き出した。

 

「おい、なんのつもりだ!? どういうことだ!!?」

「いえ、ラフエルが仰る通り、ここまでずっと動きっぱなしだったので……」

「ではなくてだな!? わざわざ言うことか!? というかそこからか!!?」

「いえ、だって、今考えていることを吐けと言われたので……」

 

 突飛すぎる言い分に、思わず素っ頓狂な声を上げるアリエラ。

 悪ふざけが一切ないコスモスの大真面目な表情が、余計に彼女を焦らせた。

 

「……その……あ、あく…………あくしゅ、してくれ」

「カエンンンンンンンン!? お前もか、お前もなのか!!?」

「だ、だって、英雄がすぐ目の前にいるんだぜ? こんなこと、めったにないからさ……」

「うむ、構わん。サインはどうだ? チェキもあるぞ」

「貴様も乗るな!!! というかなんだチェキって!? どこで覚えた!!?」

 

 息切れをするほどの怒涛の突っ込みに、コスモスが「ぐっじょぶ」と短く親指を立てた。

 

「キレのあるいいツッコミです。成長しましたね、アリエラ」

「誰のせいだ、誰の……」

「どうやらエイレムもセラビムも、もう暫くは安泰なようだ」

 

 器が大きいというのか、我が道を行くというのか。

 子孫を讃える大笑い。陽気に言葉を弾ませ、彼らと好意的な交流を図る大英雄は本当に楽しそうで、嬉しそうで。

 やがてアリエラは気付く。これが、共に在った八千年前では、一度も見たことが無かった顔である、と。

 打ち解け綻ぶ相好は、まるで憑き物が落ちたかのように清々しかった。

 そうして思い知るのは、かつての彼が流していた涙の多さ。懊悩の日々。

 

『有難う、アリエラ』

 

 たった一人で世界を見据えて。導く者になって。行き先を示して。

 靄を抱えて、責に苦しんで、皆を救い、果てには救った皆に殺されて。

 ――私に、殺されて。

 

「――――すまなかった」

 

 それでも、彼の選択を正解にしてやることが出来なかった。

 アリエラは盟友の前に立ち、懺悔する。

 

「私は、お前から受け継いだ世界を……台無しにしてしまった」

 

 未来を想うあまり、舵を取り違えた。

 

「お前を最後まで英雄として騙り、歴史を欺き、裏切ってしまった」

 

 魔王ではなく、優しい王様だと気付いてほしかった。

 

「今なお戦火が広がる明日を……、作ってしまった」

 

 生きやすくするために生きるほど――生き辛くなった。

 愛が先走って過ちが山積する。湧く情は悉くに痛みを強いて、民を泣かせて過去に縋り付かせた。そのうちどうにもならなくなった。

 

「赦せとは、言わん。だが裁くのならば――――私だけにしてはくれまいか」

 

 笑い種だ。滑稽だ。

 後悔ばかりで、しょうがない。

 

「身勝手で無責任なのは、解っている。されど私は民が好きだ。彼らが今を愛するというのならば、尊重したく思う。望むのならば、叶えてやりたく思う」

 

 崩れ落ちるように、膝をつく。

 

「だから、頼む。彼らだけは……間違いであっても残った、この温かさだけは……、消さないでやってほしい」

 

 上体を低め、脚を折って、最後には頭を垂れた。

 カエンは愕然とした。コスモスは止めようとした。それでも彼女は両の頬に湿った温もりを伝わせ、ラフエルに土下座した。

 英傑にあるまじき真似だった。民の前でやってはならない行為だった。

 揺れる声が悲しみを呼び、吐き出される息が熱を奪う。人によっては見苦しいのかもしれない。哀れで仕方が無いのかもしれない。

 けれども常に感情を大切にし、どこまでも命が持つ情緒を慈しみ続けた月の英雄のありったけを、一体彼らの誰が咎められようか。

 ラフエルは物言わぬままアリエラのつむじを暫く眺めた後、おもむろに口を開いた。

 

「――謝るのは、私の方だ」

 

 そう放つラフエルの風情は、誰にとっても意外であったのだろう。皆を釘付けにする。

 

「私が願っていたのは、悠久の平穏だ」

 

 だがいくら意外で、思い違いでも。

 ここぞとばかりにぼろぼろ零れ落ちるこの言葉こそ、紛れもない英雄の声。

 

「諍うことなく、奪い合うこともない。豊かに溢れ、優しさに満ちて、十年、百年、千年――万年経とうが、ただ青空が広がるだけの、平和な世界を作りたかった」

 

 現在に対する、飾り気のない思い。

 

「全てが『争い』という言葉すら忘れてしまうような、そんな未来(あす)を求めていた」

 

 寂しい横顔が、少しずつ自身を嘲っていく。

 

「自分ならば、出来ると考えていた。ポケモンと解り合ったこの“奇跡”さえあれば、叶えられると信じていた」

 

「しかし、自惚れであった」今なお穢れが付き纏う掌を、握った。

 語る肩は緩やかに下がって、徐々に小さくなっていく。

 

「争いを嫌って、不戦を唱え続けた結果がこの様だ……嗤ってくれ」

 

 果てに、悔いる。

 やはり傷付けてしまったことを。最後には奪ってしまったことを。

 忌んでいた手段でしか、希望を勝ち取れなかったことを。それさえ束の間でしかなかったことを。情けないな。不甲斐ないな。自害じみた自責の言霊が、次々と出所に突き刺さった。

 

「じゃあ、おまえは……」

「……後悔ばかりさ。やり直したいことだらけだよ」

「……っ」

 

 聞きたくなかった返事に差し当たり、噛み締める唇。

 ラフエルはそんなカエンへ、構わず続ける。

 

「だが、お前達を否定することはしない。私がどうしようと栄えた現在(いま)だ、それを破壊しようだなど、如何様な道理を以て言えようか」

「ではあなたは、この世界をどうするつもりですか」

「……どうも、しない。委ねよう」

 

 そしてコスモスの問いかけに、間を置いて述べる。

 それこそ無責任な答えに他ならないのだが、虚しくも、悔恨だらけの彼に言えることは何もなくて。

 

「――アリエラ。お前に我が夢を押し付けてしまったことを、ここで詫びる」

 

 今更成せることなど、女傑と目を合わせて。

 

「カエン、コスモス。お前たちに清算しきれなかった呪いを継がせてしまったことを、謝罪する」

 

 二人の末裔を瞥見して。

 

「思い上がるばかりで楽園を作れなかった、この無力な男を……どうか、許してほしい」

 

 続けられなかった、尊い笑顔を想起するぐらい。

 罪だらけの日々に、黙って胸を切り裂かれるぐらい。

 残せたのは数多の屍だけ。繋げたのは血まみれの戒めだけ。

 落涙を堪えるようにして空虚を仰ぎ、一呼吸。

 

「何も持たない、決められない。何故なら私は、英雄などではないのだから」

 

 ラフエルは夢にも似た幻想の記憶をかき集め、息を詰まらせながら言った。

 

「……何者でも、ないのだから」

 

 誰もが、押し黙る。

 そこに、少年が追いかけた男はいなかった。

 追い越そうと思える足跡を刻んだ英傑は、いなかった。

 輝かしい軌跡はなかったし、煌めく奇跡だって存在しなかった。

 何でもない誰かが、ただただ己を省みるだけの光景。

 民が聞きたがった英雄の声は、思い残しだらけであった。

 拳を握るカエン。

 だけど、それでも彼は、確かに誰かのために生きていた。それは間違いないし嘘でもない。

 ただ、やり方を選べなかっただけだから。こうすることしか出来なかっただけだから。

 それを伝えてやりたい。言ってやりたい。言葉を発そうと、意を決して息を吸った。

 

「確かに」

「……!」

 

 しかし先に口を出したのは、もう一人の英雄の民――エイレムであった。

 

「確かに貴方たちは、英雄とはいえないのかもしれません」

 

 両足を崩し、伸ばす。後ろに手をついて、ありもしない果てを望む。

 照るアメジストは虚ろに見えて、それでもちゃんと捉えていて。

 

「困難に立ち止まり、問題に思い悩み、呵責に苛まれ、葛藤を繰り返し……そのくせいつまでも、いつまでも合理的な判断を下せない。寧ろ、程遠いです」

「こ、コスモスねーちゃん……!?」

 

 彼らの本質を、痛いほどに掴んでいて。

 ここにきて場違いな追い打ちだろうか。或いは非難だろうか。カエンは唐突ぶりに目を丸め、思わずうろたえた。

 

「加えて、苦しまなくていいことで苦しんで、愛さなくていいものまで愛して、負わなくていい傷さえ負う」

 

 されど英霊たちを抉りかねない言語の刃は、饒舌に発されていく。

「フッ……、手厳しいな」彼らが返す言葉もない、なんて乾いた自嘲をしようと、淡々と滑って止まぬ、横顔からの口車。

 

「……そうして結局間違えて、涙を流す。取り返せない血を溢す」

「なあ、もう……」

「それでも笑って、泣いて、怒って、喜んで――豊かな心を捨てられない」

「!」

 

 そうだ、下げるか。下げてやるものか。

 

「確かに、英雄ではないけれど……私はこれらの要素に該当する存在を、一つだけ知っています」

 

 ずっと喉から出かかり、半ば舌に乗っているこれは。この言の葉は。

 必ず聞かせてやりたいことだから。

 対話によって至れた、彼女なりの結論だから。

 

「――――“人間”、です」

 

 不器用なりに伝えられる、彼らへの目一杯の賞賛だから。

 

「……何?」

「貴方たちは、私たち民と何一つ変わりません」

 

 アリエラに出会った時からずっと抱いていた、不思議な感覚。英雄と呼ぶには近すぎて、神と呼ぶには温かすぎる趣。

 その正体に、やっと気付けた。

 

「ごくごく平凡でありふれた、何でもない、ただの人間です」

 

 寄り添うのも、思い遣るのも。

 ジェットコースターで喧しく絶叫するのも。ソフトクリームを美味しそうに頬張るのも。

 他者を傷付けて心を痛めるのも。背負った使命に頭を抱えてしまうのも。

 全部全部、この親近感の元だった。

 

「この土地の神話だって、そう。英雄譚だなんて、そんな大それたものではありません」

 

 ラフエルもアリエラも、偉大なんかじゃない。けして華々しくなんかない。

 泥臭くて不格好で、一つも特別なんてない。

 

「ただ優しいだけの人間が、躓きながらも誰かのために一生懸命になって走り続けた、美しい昔話に過ぎません」

 

「でも、それでいいのだと思います」人間臭くて。凄くなくて。

 だからこそ意味があるんだと、微笑みながら肯った。

 

「だって、何でもない人間に、ここまでのことが出来たのですから。これだけのものを残せたのですから――――こんなに素晴らしいことはありません」

 

 コスモスは彼らの神話を『人の、人による、人のための素敵なお話』と定めた。それがいいんだと締め括った。

 彼女の視線と言霊に連れられて、復元していく二人の原点。

 

「あの日、ラフエルという男がポケモンのために涙を流さなければ、この大地は今頃存在していなかった」

 

 ラフエルは、獣の王の前に立った時を思い出す。

 

「あの日、アリエラという女が未来を思って夢物語を紡がなければ、この少年は勇者を志していなかった」

 

 アリエラは、筆を滑らせた瞬間の事を思い出す。

 

「貴方たちが始めた物語は――過ちなんかじゃない」

 

 気付けば、振り返っていた。

 今に命を燃やす、熱い面影へ。確かに繋がっていた、虹の標へ。

 見紛うものか、この太陽のような優しさを。

 忘れるものか、この月のような慈悲深さを。

 

「……おまえらがいてくれたから、おれは今、ここにいる」

 

 自分たちが残したんじゃないか。

 

「みんながいる。ポケモンがいる」

 

 自分たちの、欠片ではないか。

 

「なあ、聞いてくれ……ラフエル、アリエラ」

 

 人と話す時は、へそを向けろ――きっと英雄でも、関係ない。

 そんな親の教えを律儀に守って、向き合った。

 

「おれな、毎日がおもしろいよ。いろんなやつと戦って、強くなって、いっしょに遊んで、いっぱいごはん食べて、いろんなところに行って――」

 

 思い出が残る昨日を振り返り、新たな今日を一生懸命に過ごして、寝る前には楽しみで仕方がない明日の事を考える。そんな彼の毎日は喋っても喋り切れないほどに忙しいものだから、いつも上手に伝わらなくていけない。

 

「あー、そうだ! 夏もみんなで海とか、おまつりに行ったんだ。楽しかったなぁー……!」

 

 生まれてから現在までのことを語ろうものなら、残念ながら自分が成長して大人になってしまう。だから今は我慢して、取捨選択を頑張って、一番に伝えたいことだけ。

 

「そりゃ、たいへんなこともあるよ。でもおれは、おまえらが作ってくれた今がだいすきだ。幸せだ」

 

 足らない語彙で、口ぶりも拙くて、浅い表現かもしれないけれど。それでも。

 

「おれの――とっても大事な、宝物だ」

 

 八千年前の君へ、はっきりと告げる「ありがとう」。

 八千年後の僕から、いっぱいの呼気で届ける「愛してる」。

 小さき大火は遠くの未来から、ただ元気に、にこにこと笑っていた。

 はっとするアリエラの傍で「――……ああ」静かに顔を伏せるラフエル。その面持ちは、先ほどまでの哀ではなくて。

 では何か? 言うまでもない。そして覗き込むまでもない。

 

「アリエラよ……我らは少し、急ぎ過ぎたのやもしれんな」

「あぁ……、そうだな」

 

 くすりと漏らすだけの、取るに足らない“人の笑み”なんて――どこにでもあるんだから。

 二人はようやっと、自分たちが人間であったと自覚する。

 どこまでも己の首を絞めて否定するくせに、誰かの肯定にはこんなにも素直に喜んで。報われた気分になって、救われて。

 簡単なことだった。

 彼も、彼女も、世界の向こう側から欲していたんだ。

『そんなことはなかった』と、言ってほしかったんだ。

 何でもない、誰かの感謝を――ずっと、聞きたかったんだ。

 

「そうか……人、か」

「ええ。貴方たちはどこまで行こうと、最後まで人でした」

「道理で……世界も救えんわけだ」

 

 満たされたように納得し、上を見る。

 

「先人の煌めきに魅せられた後の誰かが、それをなぞって、また煌めいて……その繰り返しで、良いのではないでしょうか」

 

 救済するのに、神は要らない。だってこの世界は、余さず私たちのものだから。

 

「長い時間をかけて、少しずつ繋げていって、未来について考える人を増やしていく。じっくり悩んで、しっかり向き合って、迷いながらも明るい方へと進んでいく」

「……今すぐでなくていい。いつかで、いい」

「ただ、誰かのためにひた走る。そんな勇敢なだけの人間がいれば、それでいい」

 

 信じるべきは己の力でも、まして強さでもない。

 ずっとずっと、何かを変えてきたのは『ヒトの可能性』だった。

 争うしかなかったポケモンと、解り合ったように。優しい御伽噺を愛した少年が、奇跡を起こしたように。

 

「光を受け継ぐこと――――私たちが世界にしてあげられることは、きっとこれが正解なのだと思います」

 

 世界というものは、いつの時代も手に余る。

 なればこそ美しい。麗しい。愛しくて温かくて、輝かしい。

 穏やかに頬を綻ばせるアリエラ。肩の荷が下りた気がした。心のどこかで、花が咲いた気がした。

 

『最初から、ただの人間がいただけ』

 

 永らくを経てここに行き着いた瞬間、未来の話は完了した。明日を巡る問答にけりがついた。

 もはや言うことはない。軽やかに立ち上がる四人が見据えるものは、ただ一つ。

 ラフエルとアリエラが目交いで頷き合うと、どこからともなく光の粒子が発生し、末裔二人の前に集まっていく。

 徐々に形を成していくそれは、やがて手のひらほどの球体となって、虹色の波導を発した。

 

「……お前たちに、預ける」

「こ、これは……!」

「……温かい」

 

 まるで、心臓。ドクンドクンと一定のペースで耳朶を打つ脈動は、間違いなく生命が宿っている証。

 彼らは眼前で佇むこの二つの宝玉を見るのは初めてだが、伝承によってその正体を知っていた。

 

「白陽の竜、レシラムを封印せし『ライトストーン』と、黒陰の竜、ゼクロムを封印せし『ダークストーン』……」

「どっちも、ラフエルと一緒にたたかってた、伝説のポケモン……!」

「完全となった私の力でしか、彼らの封印を解いてはやれぬ。受肉すらままなっていない魂だけの現状では、ちと細工をせねば動かぬが……されど、破滅の光を消し去るには足りよう」

 

 まざまざと凝望するカエンの前に白が、静謐を湛えて眺めるコスモスの前に黒が、それぞれ待ち受ける。

「!」「わっ!」尋常ならざる威圧感が、二人の身を今一度転ばせんとした。

 口が無くともわかる。厳かさは問うている。英雄らの肌を震わせながら、この世界をどうするのかと問うている。

 

「なあ、ラフエル、おれ……!」

「臆するな」

「!」

「今を生きている、お前たちが決めるのだ。誰の言葉にも靡かず、踊らず……ただ一つの心を以て、選択しろ」

「……――おう!!」

 

 カエンにとっては、もう慣れた話だった。

 此処に来るまで何度も悩み、沢山転んで擦り傷を作ってきた勇者に、迷う余地などあるはずもない。

 固唾を飲み、言葉よりも先にライトストーンを取った。

 

「さあ、コスモス。お前の番だ」

 

 アリエラが促すと、指先から触れるように、ゆっくりと手を伸ばす。

 きっと、この先にも苦難は山ほど待っているだろう。

 直しても直しても、虹は欠かされていくのだろうし、侵されていくのだろう。

 そのたんびに誰かが泣くのだろう。悲しむのだろう。

 

 しかし。

 

 けれども。

 

 だけど。

 

 

「――私も、現在(いま)が好き。広い世界いっぱいに描かれたこの虹が、大好き」

 

 

 コスモスは、皆と共に希望を繋いでいくことを選んだ。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――刻限が迫る。

 理性なんかに何を言われなくても、本能で理解する。

 世界の寿命が迫っている。比喩でもなんでもなく、熱を感じる。触れた全てを焼き払う、ひりひりとした獄炎のような温度が、表皮を痛め付ける。

 太陽は完全に隠され、ラフエル中のどこからも見えなくなった。

 どこへ逃げればいいのだろう。破滅の夜だ。神話終章に記された、終わりの日だ。

 

「ふふ……諦めてはいかがでしょうか? 神話の再現はもう止まらない……もはや何をしようと、助かりませんよ」

 

 最後の一体同士――サザンドラとキセキサンドパン、メガギャラドスが殴り合う中で、ハリアーは宣った。

「はは、冗談!」滅亡が迫っているというのに相変わらずの薄ら笑いだが、それはユキナリとサザンカも一緒のこと。

 

「お前らと出会ってからというもの、僕は日増しに諦めが悪くなっていくばかりでね! どうしようって感じだよ、ほんと!」

「なにぶん、命運を握るのが私の自慢の弟子なものですから。まだ、なんとかなると思っている自分がいます」

「在りもしないものを見通し、根拠のない希望に縋りつく。人はそれを逃避と云うのです」

「違う……ただ、捨てられないモノがあるだけだ!」

 

 彼らはただ、明日を目掛けて走っている。

 救い出すと誓った人に手を差し伸べられる瞬間を、追い求めている。自分の全てを授けた教え子が道を切り拓くと、信じている。

 故に諦めないと言った。まだ倒れないと、そう叫んだ。

 誰しも、そうだ。

 

「くっ……、限界が近いぞ!」

 

 賢者は、呼吸を覚えた。この世界で息をする喜びを知った。

 明日も、変わらずに続けていたいと思う。

 

「折れんなよ! オレらが送り出したんだ、絶対どうにかなるって信じろ!」

 

 職人は、自分らしくあることを知った。少しだけ世界が輝いて見えた。

 明日は、もっと眩しくなっていると思う。

 

「こうなっちまったら、あいつらが来なけりゃどうしようが仲良くお陀仏だ! 待つっきゃねえさ!」

 

 旅人は、自由であることを授け続ける。この世界に立っているだけで上等だ。

 明日は何をしよう――気ままに生きるのが、楽しくてしょうがない。

 

「信じるのです、英雄たちの奇跡を。彼らという希望を」

 

 聖女は、世界の奇跡を信じている。命の温かさに祈って、どんな時でも前を向く。

 明日が来るのだと、意地一つで唱え続ける。

 

 みんなみんな、捨てるには惜しいほどの光を齎してきた。同じ分だけの光を浴びてきた。

 どんなに暗もうと、簡単に消せるはずがない。

 どれだけ翳ろうと、放り出せる訳がない。

 だから戦うのだ。

 非力でも。変わらなくても。それでも在ってほしいと願って、足掻き続けるのだ。

 

「――――果てしなく続いていく、虹の可能性を!」

 

 光り輝く、七色のために。虹がかかる空を、再び見るために。

 

 

 ――その時だ。

 奇跡が、起きたのは。

 

 

 柱が、立った。眩しく鋭い、光の柱。

 出し抜けに顕現するそれは天弓と同じ色を携え、遥かな高みへと昇っていく。

 突き刺すように閃いて、貫くような勢いで破滅の光へと伸びていくそれは、ラフエルに生きる人々を釘付けにした。

 

『レニア上空にて、膨大なReオーラ反応あり! これは……!!』

 

 眩しくも優しいその威光が、全ての戦闘を止めさせる。

 私を見ろと誇り示した。私が来たぞと昂進した。

 オペレーターの声に引かれてレニア方面を見やったグレイは一目で悟り、静かに確信する。

 いや――彼だけではない。

 

「……来たか……!」

 

 カイドウも。

 

「ったく、待ちくたびれたっつの!」

 

 アサツキも。

 

「ヒーローは遅れてやってくる……ってね」

 

 ユキナリも。

 

「見ていますか、先生――――あれが私の弟子です」

 

 サザンカも。

 

「大バカ野郎! 勿体ぶりすぎなんだよ!」

 

 ランタナも

 

「ああ――、戻ったのですね」

 

 ステラも。

 誰一人として、見間違えるはずがない。

 この煌々と爆ぜ散る、逞しい輝きを。

 思い悩んで苦しみ抜いた果てに、それでも闇に染まらなかった、純然たる強者の痕跡を。

 命の温かさに手を伸ばし、語りかけ続けた者だけが得られた、研ぎ澄まされた結晶を。

 最後まで諦めなかったヒトだけが持てる、

 

「――――コスモスさん、カエンくん!!」

 

 “もう一度”の、兆しを。

 

 

 

 レニアシティの空にて、黒と白――――二体のポケモンが翼を広げた。

 光と影、或いは理想と真実、或いは陰と陽で分かたれた彼らは、“終わりの跡”から湧き出るReオーラに絆されながら、まるで双子のように咆哮を共鳴させる。

 すると大地が、かつての王の再臨に打ち震えた。大空が凱歌で以て揺れ動いた。遠くの海はざわめいて、逃げるように潮が引く。

 恐れよ――盛る(おこ)し火は命じた。

 祝えよ――迸る稲光りは令した。

 二体一対の獣の王は、その伝承に違わぬ威容を見せつけ、鮮烈な復活を遂げた。

 

「これが……、こいつが……!」

 

 その獣、いつの時代も身を灼かれそうなほどの真実に「それでも」と唱え、抗い続けし者に味方した。青目の白竜、名を『レシラム』。

 彼は決して真実に目を背けず、ここまで駆け抜けてきたカエンを背に預かる。

 

「ラフエル英雄譚に名を連ねた、伝説の、ポケモン……」

 

 その獣、いつの時代も気が遠のくほどの理想を掲げて「けれども」と呟き、進み続けし者に味方した。赤目の黒竜、名を『ゼクロム』。

 彼女は理想を愛し、茨と知りながらもそれを叶えんとするコスモスを乗せる。

 

「と、いうか。戻ってきたのですね、私たち」

「あ、あ……そういえば!」

 

 きょろきょろと見回し、状況を確認。

 あまりに一瞬のことで、何が起こったかわからなかった。

 それぞれがそれぞれの宝玉に触れた途端、突如Reオーラに包まれ、気付いた時にはこの有様だ。

 が、これ以上の時間は要らない。

 成すべきことはわかってる。やるべきことは知っている。

 

「ひゃー……でかくなったなぁ……」

「ええ……、本当に」

 

 改めて天焦がす滅亡の光を仰ぎ、しみじみと呆気に取られる二人。

 

『久方ぶりに見るが――――やはり、厭な輝きだ』

「ひうわわあああああああああレシラムが喋ったあああああああああ!!??!?!?!?!」

『落ち着け、私だ』

「あ……、ラフ、エル?」

 

 予想だにしない挙動に驚き、図らずも落ちかけたカエンをどうにか持ち直して、レシラムは言った。

 

『復活には小細工がいる、と言ったな。これがそれだ』

「んー? えー、えっと……」

『私たちの魂を核とし、二体の力と肉体を纏わせた』

「アリエラ……あなたも、そこにいるのですね」

『ああ。ポケモンとしては不完全な状態であるが、お前たちだけには戦わせん』

 

『私たちも、共にある』跨る背中に語り掛けると、ゼクロムは確かに聞き慣れた声で返す。

 未完成でも、不完全でも、かくして二つの伝説は満を持して並び立つ。

 元は一つであったという。相反したから分かれたという。

 されどラフエルが矛盾を抱えずに二体ともを使役できた事実は、他ならぬ何よりの英傑の証明で。

 理想を真実にしようとした。真実を理想に近づけようとした。どちらにとっても幸せな優しい世界を、創ろうとした。

 

「へへっ」

 

 カエンはそんな男と共闘できることを、喜んだ。場違いと理解しながらも、漏れ出る笑みを抑えきれなかった。

 

『笑うには、まだ早いのではないか』

「だってな、嬉しいんだもん。英雄といっしょにとべるなんて、想像もしてなかったから」

『……光栄だ。尤も、そうする原因となったアレ(・・)を最初に生み出してしまったのは、私なのだがな』

 

 誤りではない、誤りの記憶。

 総てを飲み込んでいく暗黒を目の当たりにして。無明の世界の入り口に立って。ラフエルはやっぱり、己の所業の程を改めて認識する。

 見れば見るほどに「……醜いな」恐くて、不安で、狂いそうで、逃げ出しそうで。

 

『アリエラ。……お前たちがあの日に見ていた景色は、こんなにもおぞましいものだったのだな』

 

 自戒した。

 私はこんなものを存在させてしまったのか、と。こんなことをしてしまったのか、と。

 

「――救いにいこうよ、もう一回」

 

 それでも、それでも。

 訴える少年の言霊は火焔よろしく揺らめいて、彼の魂に熱を与える。

 

「こんどこそ、あのとき救えなかった世界を、ちゃんと救うんだ」

 

 覗き込む笑みは、たちの悪い希望なのかもしれない。ひょっとすると無謀にも等しい子供の駄々なのかもしれない。

 

「それでさ、ちゃんと英雄になろう。おれと一緒に。みんなと一緒に!」

 

 ――それでも、この手を引いて仕方がない。

 

『ああ……そうだな』

 

 為し得なかった願いを遂げよう。八千年前の忘れ物を取りに行こう。

 

『――救いに行こう、世界を』

 

 若かりし頃の面影に導かれるまま頷き合い、向き直った。

 

『迎えに行こう、明日を』

 

 そうして迷いを完全に断ち切って行うは、救済。

 

『今こそ忌まわしき因果を断ち切り、歴史を呪いから解放する』

 

 二体一対が持つ唯一無二の技を用いた、破滅の光の破滅。

 

『そして再び笑い合おう、この闇の向こうで。何でもない人々が創った、何でもない青空の下で』

 

 二人の英雄は、今度こそ見果てぬ夢を叶えるために。

 二人の末裔は、そんな素敵な物語を受け継ぐために。

 

『――――往くぞ!!』

 

 それぞれが、未来に向かって漕ぎ出した。

 

 

『レシラム、ゼクロム、共に破滅の光への進行を開始! バラル団が戦線より離脱していきます!』

「奴ら、末裔たちの邪魔をするつもりか……!」

「僕が行く。動ける者は続いてくれ」

「ち、ちょっと、グレイ!!」

 

 グレイは灰が織り成す混迷へと、リザードンを駆り立てる。

 

「最後まで、懸けるよ――君たちに」

 

 

 鳥ポケモンで出来たトンネルを、潜り抜けた。

 風に出会って、見送って。背後から襲い来る色とりどりのエネルギーを避けて、惚けるように置き去りに。

 ただ阻むものを焼き討ち、迫るものを撒いていく。

 レシラムは紅き烈火(ターボブレイズ)を、ゼクロムは蒼き轟雷(テラボルテージ)を尻尾に灯し、軌跡を刻みながら天翔ける。

 重々しくはためく翼が、ごまんといる追手の猛攻から逃げ回る、そんなレニア上空。

 活路はまだ、見えない。

 

「カエンくん、散ります!」

「任せろ!!」

 

 コスモスの声を合図にし、二体は上下に広がって狙いを分散する。

 下――町並みすれすれまで降りて低く滑空するは、ゼクロム。

「敵、散開します!」「追って各個撃破だ!」

 抜かさない、抜かせない。さらに加速し、混沌の大群を怯むことなく引き付けた。

 

『掴まれ、コスモス!』

「はい――っ!!」

 

 頸に抱き着くと放たれる、数多の技。

 流れゆく景色。人造の谷。風見鶏が舞っている。

 天が地に、地が天に。ローリングで横に揺れ、ムーンサルトで縦にぶれ、そうして視界は狂ってく。

 背後に細やかな爆発音を次々残しながら、草木の舞踏会を横切った。

 

「……ーーーーーーーーっ!!」

『飛ぶ、ぞおおおおおおおおおおおおおおッ!!』

 

 突き当たる鉄塔、舌を噛みそうな急制動、髪を煽られる急上昇。

 乱れる三半規管はいつしか勝手に上方を前方と再定義し、重力に逆らって猛然と駆け上がる。

 悲鳴にならない悲鳴が言う。いつかの絶叫マシン以上の迫力だと。

 

「“かえんほうしゃ”!!」

 

 そうして高くまで連れてきたバラルの飛行隊たちを、一陣の灼火が墜とした。

 

『アリエラ!!』

『ラフエル……!』

 

 レシラムだ。

 手が空くと、刹那のアイコンタクトを挟んで旋回、カエンとすれ違うコスモス。

 

「“10まんボルト”!!」

 

 直後に唸った稲妻は、彼の後部に貼り付くバラルを同じようにして焼き払う。

 片や炎をめらめらと燃やして、片や雷をバチバチと爆ぜさせて、背中合わせで続々と敵を叩き落としていく。

 嘗てと遜色ない伝説らの戦いぶりは、獅子奮迅と呼ぶにふさわしかった。

 だが――。

 

「くそっ、こいつら、やっつけてもやっつけても……!」

「消耗しているはずなのに……、きりがないですね」

 

 まるで包囲網に、穴が開かない。

 

『連中、倒すことは諦め、時間稼ぎに徹する腹積もりのようだ』

『そこまでして、終焉を求めるとは……凄まじい執念よ』

 

 崩しても崩しても立ちどころに修繕されていくそれは、彼らに不本意すぎる足踏みを強いる。

 

「うわああああっ!?」

「!? なんだ、横から……ぐあぁ!!」

 

 彼方より至りて二体を助ける、蒼黒の焔。竜の息吹。

 その時降臨した男の正体は、言わずもがな。

 

「グレイにーちゃん……!」

「時間がない、急ぐんだ」

「……お願いします!」

 

 グレイは交代するように戦場に踏み入り、離れていくコスモスとカエンを見送った。

 続けざまに虹を放って発する、希望を繋ぐメガシンカ。従うプテラとボーマンダが変容する。

 二体目以降の進化だ――肉体への負担は免れない。

 わかっている。でも、下がれないんだ。

 ごふ、と吹く喀血が掌を汚しても。今こそ、今だから全てを出し切らないといけないんだ。

 

「これは、世界を救う戦いだから」

 

 ラフエルチャンピオンだけが持つ個性――“複数体のメガシンカ”を発動させ、グレイは口辺の深紅を拭い取った。

 

 

『間もなくだ、近いぞ!』

「わかってる! 一気にいく!」

 

 グレイが引き受けてくれたお蔭で、敵は格段に減った。

 途中で何体かは出張ってきたものの、ラフエル全土を視界に収められるほどの高度に及んでしまった今ならば、恐るるに足らない。

 後は振り向かず、ひたすらに上昇するだけ――。

 

『避けろ!!』

 

 アリエラの一声が、数秒先の危機を知らせる。

 猛ける叫びが“ハイパーボイス”だったと理解できたのは、白黒が離れ離れにされた後のこと。

 飛んでくる音波を避けてから呼んだ名が、

 

「おまえ――、グライド!」

「禍々しい光を纏いしケダモノが……貴様の出る幕はない!」

 

 最後に立ちはだかる敵の名だ。

 

「くっ、リザードンとカイリューを倒したってのか!」

 

 虚無を背負いしメガボーマンダは、正面から“すてみタックル”を放ち、レシラムの行く手を阻んだ。

 

「ハハハ! 伝説を目覚めさせたこと、ひとまず褒めてやろう!」

「イズロード……あなたは、最後まで!」

 

 引き裂いた片割れを襲うのは、フリーザー。

 後方を陣取ると“れいとうビーム”を拡散させ、機銃のようにばら撒きながらゼクロムを追い回す。

 かくして漆黒の輝きの真下で、最後の戦いが始まった。

 勝った方が世界の命運を左右する。生かすも壊すも決められる。泣いても笑っても、明日は彼らに委ねられた。

 全てを抱いてここに至った者と、全てを捨ててここに立った者が、熾烈な激闘を繰り広げる。

 

「人の温かさ! 可能性! 情! 愛! 夢! 優しさ! そんなものをいくら育もうと、奴らは結局この天上に黒太陽を掲げるではないか!」

『短いヒトの一生で、答えを出すことではない! 幾万もの奇跡による積み重ねを断じる権利など、誰にもありはしないのだ! お前にも、私にも!』

「惚けろ! そうやって先延ばしを続けて、悲劇の歴史は繰り返されてきたのだ!」

 

 避けて避けられて、対流圏での背中の奪い合い。

 雷電と氷雪とが飛び交う。描かれる光の尾は何度も雲を割り、絡んでは解けてを繰り返す。

 

「どうする、此度もそうするか!? 不都合から目を逸らし、耳当たりが良い夢だけ垂らして逃げ回るか!?」

「彼女は逃げていない! いつでも世界の未来を憂いてきた! どんな時でも自分に正しさを問い続けてきた! その優しさは、紛れもなく英雄のものだった!!」

 

 紙一重を連ねてかわすは“こおりのつぶて”の追尾弾。

 コスモスは風に振り回されながらも、力一杯、雄弁に語った。先祖の強さを。誰にでも誇れる、命としての気高さを。

 

「もはや価値を問う時期は過ぎた! 救うに値しないのだ、ヒトは!」

『私はお前のように急ぎもしなければ、諦めてもいない! 明日はきっといい日になると信じている!』

「腑抜けた昼行燈がァ! 導き手としての矜持すら捨て去ったかァ!!」

『ぐっ……!!』

「アリエラ!」

 

 旋回の一瞬を、咎められた。逆さまの景色で腕に“れいとうビーム”をもらう。

 しかし構うか、されど彼女は止まらない。

 

『っ……私は、導き手ではない!』

 

 冷たさに打ちひしがれようと。目が眩む靄に包まれようと。

 

『彼らと同じ道を歩む――、ただの人間だッ!!』

 

 振りほどいて、進んでく。

 人間としての己に気付いた女傑は、声高にその在り方を叫んだ。

 

「“げきりん”!!」

「“すてみタックル”!」

 

 ぶつかり合ってすれ違い、睨み合う。

 黒竜と氷鳥によるドッグファイトの傍らで、幾度も身を打つインファイト。

 吼える二頭の竜は、大技を使って額と額を密着させ、その場で回転した。

 

「ミイラが……今更出てきたところで、貴様に果たせることなど何もない」

『どうかな。少なくとも、お前と戦うことは出来る』

「違う。貴様にはそれしか(・・・・)出来んのだ」

「ぐっ……! パワーが……!」

「ボーマンダ」

 

『グルァァアアアアア!!』グライドが闘志を焚きつけると、連戦とは思えないほどのスタミナとパワーを発揮し、レシラムを火花もろとも力業で押し飛ばす。

 

「わ……――ッ!!」

「破滅と共に消えゆく運命(さだめ)の人間と渡り合うのが、関の山だと言っているのだ!」

『自らを捨て去り、駒とするか。……空虚な男め』

 

 ラフエルは動揺でコントロールを忘れたカエンを助け、自発的に追撃『りゅうせいぐん』を回避していく。

 

「何とでも言え、これこそが我らが悲願!」

『ぬ……ッ!』

「予てより望み続けた結末だ!」

 

 肉迫。空気の悲鳴。

 二度目の“すてみタックル”はより速くなり、ラフエルとカエン、どちらの瞬きをも上回って盛大な突撃を仕掛けた。

 体勢を崩され、成す術なく三六〇を転がされる自由は、寧ろ今は仇になっていて。

 落とされまいと必死にしがみつくカエンだったが、グライドにとっては隙でしかない。

 響き渡った“ハイパーボイス”。咄嗟の反応で当てがう“かえんほうしゃ”。

 

「ぐ、っ! うぅ~~~~~~っ!!」

「それを妨げる貴様らは、ここで葬らねばならん」

 

 大技同士の真っ向勝負だが、優勢はボーマンダ。

 畳みかけんと決した最大出力が、その音波を炎の倍近いサイズにまで膨らませる。

 強烈な余波に押され、素肌が熱くなる。

 カエンは無意味と知りながらも歯を食い縛り、目を強く閉じて踏ん張った。

 

「終わらせねばならん! 殺さねばならん! 誰であろうと、今ここで!!」

 

 白と橙が織り成す二色の線が、少しずつ白一色に近付いていく。

 

「古代の亡霊が――貴様の時代は終わったのだ! 忌々しき記憶と共に消え失せろ!」

 

 終いに音の砲撃が目前まで近寄った。

 まずい。危ない。負ける。

 

「――違うッ!!」

 

 そんなことを思っているのは、観測者ぐらいだ。

「何!?」開き直った少年の瞳で弾ける虹を、認知。

 だが、その頃にはボーマンダの威勢などとうに失われていて。レシラムだけが持つ最上級の技に、押し返されていて。

 

「なんだ、一体何が……!!」

「これから始まるんだ!」

 

 炎は、温度が高くなると蒼くなる。逞しくなるほどに穏やかになる。

 本当の怒りが全てを見放すように。他者への関心を薄れさせていくように。暖色から寒色へと、徐々に風体を変える。

 

「おれたちは今日、ここで世界を救って! 新しく始まるんだ!」

 

 されど強く、逞しく吼え盛る火焔は、リアルタイムで“動”から“静”へ。

 健やかなる『あおいほのお』は、めらめらと燃えていた。

 

「英雄の物語を――――、あるき出すんだ!!!!」

 

 優しい熱に、燃えていた。

「……何故だ」予期しない逆転で呆然とするグライドは、迫る蒼炎を虚ろに反射し呟いた。

 

『ゆめ忘れるな、グライドよ……明日へ進むことを放棄した者に、我らは倒せぬ』

「いっ、けええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」

「何故だアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」

 

 そうして壮絶な捨て台詞を吐き散らしながら、ボーマンダごと飲まれて消えた。

 視界の端にて起こった強烈なフラッシュで、大まかな事情を察するイズロード。

 だが、注意まで向ける暇はない。何故なら、

 

「――――“らいげき”!!」

 

 雷神の証明とも言うべきゼクロムの最強技が、今しがた放たれたから。

 全身に膨大な量の蒼雷を纏い、霹靂が如き勢いで突っ込んでいく。

「ちっ、“リフレクター”だッ!」フリーザーに障壁の生成を指示。これで威力の半減は約束された。あとは耐えきれるか、どうか。

 スパークがびりびりと不規則に明滅する。半透明の盾は鋭く高い千鳥のような鳴き声を上げ、少しずつひび割れ歪んでいく。続けたい意地と、終わらせたい意地のぶつかり合い。譲れない最後の衝突。

 

『私は……!!』

「……ぐ、おお、おッ……!!」

『――……私ッ、は!! 人間が、大好きだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!』

「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 ――制したのは、アリエラであった。

 パリン。エネルギーが瓦解する。全霊の一撃はフリーザーに至った瞬間、凄まじい音を立てながら爆ぜ散った。恒星にも負けぬ光で煌めいた。

 氷鳥は焼け焦げて、寄る辺もなくして落ちていく。

 そして、虚構よろしくどこぞへ消える。

 

『なんだ!?』

「……“みがわり”です。リフレクターが割れるまでの間で、拵えたのでしょう」

 

 コスモスの見立て通りだ。傷は負っているものの、彼女から少し離れた位置に現れるフリーザー。状態は確かに健在だった。

 

「フン……馬鹿な奴だ。世界を陥落させる機会は、まだあるというのに」

 

 イズロードはぼろぼろのまま気絶するグライドを抱えながら、一人ごちる。

 

「英雄共よ。貴様らの覚悟の程、確かに見せてもらったぞ」

 

 次いで四者の視線へと向き直り、彼らを讃えながらも、

 

「此度は痛み分けで手打ちとしよう。次にまみえる時こそ、決着をつけようではないか」

 

『必ず殺す』と宣言した。

 それを最後の言葉とし、渦状に吹雪を巻き起こす。そうやって濃密な白で姿を覆い隠してから、どこぞへと飛び去っていった。

 しかし黙して、何人(なんぴと)も追う真似はしない。

 それよりも大切なことを、忘れていない故に。

 

 

『さあ――救済を始めよう』

 

 

 未来を掴み取る使命を、忘れていない故に。

 何も、言うことはない。

 ただ長い長い道のりを、振り返る。何千年にも感じられた、たった数時間を思い出す。

 果てに搾り出した決心を今一度握り締め、静寂の中で首を縦に振った。

 見上げる空は暗くても、明日へと期待し飛翔する。

 白と黒、二つの光が、二つの希望を乗せて誰よりも高く、高く昇っていく。

 恐れない。闇の向こうで、虹があると信じてる。

 挫けない。積み上げたこれまでが、素敵なものだと想ってる。

 犠牲にするだけの昨日を、清算しよう。石化した今日を、解き放とう。

 

 一人は、果たせなかった願いを果たさんと、あの日の地続きを刻み込む。

 

 一人は、心の底から愛せた世界を守らんと、あの日の足跡をなぞってく。

 

 一人は、優しく温かい記憶を受け継がんと、あの日の先を目指していく。

 

 一人は、彼らの英雄譚の完結を見届けんと、あの日の終局を探しに奔る。

 

 視界が黒太陽に埋め尽くされた頃。肺いっぱいに息を吸い込んだ。

 白き獣の肉体が松明のように燃えて、黒き獣の肉体が雷雲のように弾ける。

 コスモスとカエンは呼吸を合わせて、最後の技を指し示す。

 

『クロス――!!』

 

 それは、同時に放つことで凄まじい威力となる、伝説を伝説たらしめんとする技。

 

「サンダーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」

「フレェェーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーイムッ!!」

 

 二人が叫ぶと、巨大な雷と炎は交差し、神々しき光となって黒の球体へとぶつかっていく。

 

 次の瞬間、目の前が一杯の輝きに包まれた。

 

 喚かず、騒がず、無音のまま際限なく広がるプリズムライト。

 

 七色はいつまでも、どこまでも遠い場所を、ひたすらに照らしていた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 黒太陽が、勢いよく弾け飛んだ。

 見る者の胸をぞわぞわと騒がせた歪な容貌は跡形もなく消え去り、残った破片は綺麗な光の粒となってラフエル全土に降り注ぐ。

 広がる波紋と、顔出す橙。根拠はないけれど、なんだか果てしない間、離れていたみたいで。

「世界が救われた」――人々を安堵させるには、多くを語らずとも、この青空を見せれば十分であろう。

 一方で惜しまれ、もう一方で喜ばれつつ、それぞれの戦局は終わっていく。

 

「毎度毎度、貴方たちというものは」

 

 構えるサザンカと、息を切らすユキナリを呆れた目で眺めながら、ハリアーはそう言った。

 含みは色々とあるだろうが、全て出し切ることはせず、

 

「……チッ」

 

 一回の舌打ちにとどめる。

 

「良いでしょう。奇跡が絶え、世が事切れるその瞬間まで抗うと仰いますのなら――相応の最期を、用意しておくことに致しましょう」

 

 では。そんな置き土産にもならない言葉を、追う事も出来なくて。

 満身創痍なのは、何も彼女を乗せて去っていくサザンドラだけではない。次々と空へ引き上げていくバラル達を見ながら、その場に座り込むユキナリとサザンカ。

 

「楽な仕事じゃないよ……、本当に」

「仰る通りです」

 

 瀕死寸前のポケモンらを戻し、無駄話する。

 いいだろう。平和を勝ち取ったのだから、ばちも当たらないだろう。

 

「ですが……遣り甲斐ある仕事では、あります」

「……そりゃ、そうだ」

 

 充実感を覚えながら吐くため息には、確かな重さがあった。

 

 

 

「潮時だね、うん」

「……あん?」

 

 行儀悪く聞き返すアサツキだったが、戻されていくポケモンを前にして言葉の意図を知る。

 

「いやいや、お互い命拾い出来てよかった」

 

 彼女にしてみれば、そう言いながら胸を撫でおろす青年は、ますますわからなくなる一方なのだが。

 

「まだ自分だけ助かる方法を確立できていないからさ。どうしようか迷ってはいたんだ」

「……なんだそりゃ」

 

 モンスターボールをホルダーに戻す姿は緩慢としていて隙でしかないけれど、攻撃することはしない。

 不思議な事だったが、クロックという男は最後まで人間を狙うこともなく、トレーナーとしての振る舞いに終始していた。とどのつまり普通のバトルをしていたのだ。

 ただのバトルならば、仕方がない。

 他のジムリーダーならばわからないが、アサツキはそういう点でも無駄に律儀であるからして、大人しくローブシンを取り下げる。

 何よりも最大目標が達成された現状、彼一人を捕えるためだけにこれ以上の消耗を重ねるのも賢いことではないだろう。

 

「まあ、成り行き同士、またどこかで会おうよ。帽子が赤じゃなくて黄色なのは、残念だけど」

 

 クロックは怪訝そうな相好に「それじゃ」と簡素な挨拶を済ませ、早々に消えた。

 

「なんなのだ、あいつは」

「……オレが聞きてえよ」

 

 なかなか人の理解を得られない二人が、さらに不理解を示す相手。その他に得られた情報はないが、それでいいのだろう。

 要するにただの「変な奴」と、わかるだけで。

 

 

 

「おうさっさとしろー! 撤収だ撤収だー!」

 

 作戦が失敗したというのに、煙草咥えた口から出るのは実にあっけらかんとした号令。

 ワースは気怠い調子さえいつも通りに、先ほどまで戦っていたステラとランタナを平然と無視し、ポケモンを下げる。

 乱れがない息は、強さの証明か。それとも手抜きの痕跡か。

 

「お、おい! 堂々ととんずらしてんじゃ……つっ!」

「ランタナさん、お怪我が……!」

「なんだァ? ぶっ殺して退路作った方がよかったか?」

 

 戦闘の合間に損傷した脇腹を押さえてしゃがみ込む。そんな男を見下ろす表情は、実に底意地が悪い。

 

「手前の価値を理解出来んのァ、いつだって手前だけだ。わーったら大事にするこったな」

 

 ランタナの目下で捨てたやにを踏みにじるのは、次はこうなるぞ、という示唆なのかもしれない。

 そしてワースは、どこまでも掴めない落ち着き払った面持ちで、二人の横を抜けて去っていった。

 

「派手にやりやがって……だァーから言ったんだよ、初期段階で気合入れすぎんなって。大体今回だって――」

 

 縮んでいくぼやきは、彼の輪郭が判らなくなるまで続いたらしい。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 “クロスサンダー”と“クロスフレイム”が炸裂した。

 天空に座する黒曜石(オブシディアン)が砕け散る瞬間を見届け、太陽との再会を果たして。

 

「…………ここ、は……」

 

 ――コスモスは、立っていた。

 “対極の寝床”に続き、またしても初めて見る場所に足を付けていた。

 隣のカエンとお互いの一瞥を重ねてから、辺りを見渡す。

 前も、後ろも、右も左も、上下も――延々と伸びる虹だけで満たされた、だだっ広い不思議な空間。

 先程の純白の景色で慣れてしまったのだろう、二人は現在地を「やはりこの世界にある座標ではない」と断定し、わかりやすい答えを探す。

 

「ここだ」

「わっ!? びっくりさせないでくれよ……!」

 

 いつの間にか背後にいたラフエルとアリエラに、吃驚。

 振り向いてみれば、レシラムとゼクロムの状態から元の姿に戻っており、二色の宝玉をそれぞれ携えている。

「はっはっは、すまんすまん」と茶目っ気を覗かせて謝るラフエルへ、コスモスは問うた。

 

「此処は、どこなのでしょうか」

「紡がれた数多の奇跡の中――、さらに続く虹の中」

 

 透明感を伴って響き渡る声は、精神を穏やかなものに変えていく。

 安心というものなのだろうか。いるだけで、なんだか清々しい。

 

「有り体に言えば、“虹の道”というものになる」

 

 アリエラがその正体をさらに噛み砕いて説いてやると、頭上にクエスチョンを浮かべるだけだった末裔らはしっかりと理解し、腑に落とす。

 

「破滅の光は、無事に消えた。一件落着だ」

「次に見た空は、また青が広がっていることだろう……安心して戻るが良い」

 

 なんだかぐらついて聞こえるのは、彼らの声が震えているからなのだろうか。それとも自分たちの耳が揺らいでいるせいなのか。

 

「……あなたたちは、どうしますか」

「さて、なあ。どこへ行こうか……決まっていない」

 

 こんなことを訊ねてしまうあたり、きっと後者なのだと思う。

 コスモスもカエンも、彼らが発する言葉の一つ一つを受け取るだけで、寂しくなった。切なくなった。

 薄々、わかっていた。ちゃんと考えていた。

 それでも十分に思い巡らす時間をくれないというのだから、実に人が悪い。

 

「なにぶん、心残りが無くなってしまったのだからな」

 

 ――お別れだ。

 微笑む二人が、静かに告げた。

 もう英雄が必要となることは、ない。

 既に尽きた魂が成すべきことは、ない。

 憂うこともなければ、悔いることもない。悲しみだって。

 カエンは名残惜しそうに俯いて、口を開く。

 

「……もう、いっしょにいられないのか?」

「伝承の存在が現代に甦ったところで、ややこしくなるだけだ。お前たちとて、アリエラの事で懲りたであろう?」

「メリーゴーランド、壊されましたしね」

「よ、よせ! ち、知識の不足というものもある……次は必ずや乗りこなす!」

 

 水臭い雰囲気は得手ではないからして、誤魔化すコスモス。

 でも、彼女とて知っている。本当は次なんてないと。ここでさよならだと。

 

「だからな、ここまで(・・・・)だ」

 

 こんなにも満たされた表情を見せられてしまっては、察するしかないじゃないか。

 

「これより先はお前たちが作る、お前たちの道だ。故に、お前たちだけで往くが良い」

 

 されど笑顔での別れを望むなら、気丈でいなければ。そう言い聞かせる竜姫に反し、勇者はというとどこまでも年相応に、素直に、しんみりとして、手を差し出す。

 

「じゃあ、さいごに、もう一回だけ……あくしゅ」

「フフ、どうした。先ほどまでの勇ましさが偽りのようではないか」

 

 瞳を見るのは、涙がこぼれそうで苦しい。しかし英雄の証を最後の瞬間まで刻みたいので、がっちりと掌を握り合わせた。

 

「“英雄カエン”よ――――世界を、お前に託す」

「――……!」

 

 なのに彼というのは、そんなことも知らないで少年の胸を打つ。

 

「ぇ……、……あ……」

 

 つくづく、ひどい男だ。罪な奴だ。

 生まれた時から追いかけていた夢の始まりから『英雄』と認められ。

 どんな時でも魂を熱く焦がした自分の原点から『託す』と任せられ。

 泣きながらも突き進んだ旅路の果てで――ようやく聞きたかった言葉を、聞けて。

 

「っく――……ぅっ~~~~……!!」

 

 一体どうして、感極まらないなんて思えるんだ。

 カエンは、頬いっぱいに心の雫を溢れさせていた。

 歯を噛み締め、息を詰まらせ、垂れる鼻水を啜っていた。

 

「――約束だ!!」

 

 それでも逞しく、面向いて。

 伝え聞くよりもずっとずっと大きな懐にぶつける、握り拳。

 

「おれ、おまえを超える英雄になるから!」

 

 背中を押してくれた“これまで”に、別れを告げた。

 

「そして、いつか――っ、いつか絶対! おまえの願いを叶えてみせるから!」

 

 “これから”はちゃんと一人で歩むと、誓い立てた。

 

「どれだけかかっても……平和な世界を、つくるから!!」

 

 だから、待っていろと言った。

 

未来(あした)で待ってろ! カエン地方を、楽しみにしてろ!」

 

 楽園でまた会おうと、契りを交わした。

 

「――……頼もしい、限りだ」

 

 一足先に、ラフエルの姿が透ける。

 歴史の呪縛から解き放たれた男は、八千年前の忘れ物を大切に抱えた。もう落とさぬように。二度と失くさぬように。

 外典は、正典になった。邪神は、本当の英雄へと様変わり。黒から虹に塗り替わっていく道程に手を振りながら、満足げに、ゆっくりと、粒子になって溶けていく。

 凛として向き合う子孫の瞳に、笑ってしまうほどに眩しい楽園を見た。

 

 嗚呼。

 

 嗚呼。

 

 

「救済というのは――――……こんなにも心地良いものなのだ、な――」

 

 

 始まりの英傑は穏やかな喜色を浮かべ、澱みない天を仰ぎながら、虹の彼方にほどけた。

 

「私も、時間のようだ」

「……行くのですね」

 

 太陽の英雄に続き、月の英雄の肉体も希薄になっていく。

 

「嘗てが吹かせた芽を育て、明日に種を撒いていく――そうやって一歩ずつ、歩いてく」

 

 自分とそっくりな、柔らかで懐かしい香りを抱き締める。

 するとコスモスの背中にも、温もりが触れた。

 

「あなたは、間違っていなかった」

「お前が、正解にしてくれた」

「世界は、きっと変われる」

「お前たちには、その力がある」

 

 子孫は、祖先の愛の深さを知って。祖先は、子孫の魂の強さを知って。

 彼女らが此度で得られた答えは何年経っても、どんなになってもその心の中で呼吸し続けるのだろう。

 

「……忘れぬぞ、コスモス」

「お元気で……あなたの子孫で在れたことを、誇りに思います」

 

 肩に顔をうずめる。出会えてよかったと、甦ってよかったと、万感の思いを込めて言った。

 でもまだ、まだ足りないから。

 

「――――Grauche hielia(ありがとう、友よ)

「ありがとう――我が盟友」

 

 ちゃんと伝えよう。あなたに伝わる、あなたの言葉で。

 八千年越しの私から、最大級の感謝を込めて。

 

 

「いつまでも、いつまでも――――……お前たちを、愛している」

 

 

 人に懸けた自分を、受け容れながら。優しき物語を紡いだ選択を、誇りながら。

 アリエラは満面の笑みを連れて、コスモスの腕の中から消えた。

 最後に足元に落ちていた涙は、どちらのものだったのか。それは彼女たちにしか知り得ない。

 

 

 

 虹の道から引き戻される。高すぎる空に連れ戻される。

 遠ざかる雲と青を見つめながら、仰向けのまま落ちていく。

 ばたばたと空気の層に遊ばれるうちに、回復を終えて飛んできた相棒たち――“カイリュー”と“リザードン”。

 二人の“新章の英雄”は二頭の竜に優しく受け止められ、やがてレニアに降り立った。

 

 少女が希望と出会い、幾つもの困難を乗り越え、数多の激闘を繰り広げ、未来を勝ち取るまでの勝利の物語(エピソード・ジーク)は、かくして完結を迎える。

 彼女は明日をどう生きるのだろう。何を思うのだろう。どんな顔をして過ごしているのだろう。

 

 ほんの少しだけ続いている先は、そんな疑問に回答する、とっても近くの後日談。



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Episode Rainbow
∞.Raphel Octet


 日々が戻っていく。転んだ痛みに鈍くなって、擦りむいた悲しみも忘れて。

 まだ見ぬ明日に根拠のない期待を寄せて。これまで通り、これからを見据えて。

 太陽と月から、交互に見守られながら。

 今日も地球(ほし)は回っていく。

 

「やあお早う、天才殿。レポートをまとめている最中で誠に申し訳なく心苦しくてこの身が張り裂けそうだが、本日も元気に来客の対応をして頂こうか」

「政府とメディア関係者は断れと言ったはずだが。記憶すら出来なくなったか」

「ではないから言っているんだろうがッ! いいのか貴様、俺の一存で追い返すことなど容易なのだぞ!? おい! おいッ!」

 

 超常現象研究機関『CeReS』は今日も慌ただしい。

 ラボにて研究成果をまとめる三徹目のカイドウだが、振る舞いは驚くほどに変わらない。嫌味な同僚『ドルク』の相手であっても、それは例外ではなくて。

 

「大体な、世界を救っただかなんだか知らんが! 直接やったのはレニアとルシエのジムリーダーだそうではないか! お前は露払いをしていただけに過ぎん! 貢献しただけだ! いい気になっているようだが我々の本分は研究であってだな――」

 

 眼鏡を上にずらし、微睡む目を指で擦った。

 ドルクの捲し立てをよそに、いくらばかりかクリアーになった視界でラボのドアの方を見てみれば、見覚えしかない銀髪の少女。

 来客――シエルはひょっこりと顔だけ出して、少年を物言いたげに見つめていた。

 

 

 

「……これは?」

「ブリーのみジャムマーガリンサンド。朝ごはん、まだかと思って。ドルクって人が『これを渡しとけば間違いない』って言うから」

「そうか……、頂こう」

 

『……ワンパターンか』ドルクへのぼやきをシエルに吐いても仕方がないので、内心にとどめる。

 CeReSの庭のベンチに座りながら聞く用件は、何のことはない、彼女から彼へ向けた心配で。

 つい昨日には同じ理由でアルバという約半年ぶりの顔も拝んだ。

 カイドウは此度の戦闘の演算で脳に負担こそかけたが、二四時間のノンストップ睡眠のみで回復に成功しているからして「大丈夫だ」という返事で済ませる。

 しかしそれだけでは味気が無い、と話題に出したのは、

 

「……アレ(・・)、結局なんだったの?」

 

 数日前の、破滅の光についてのこと。

 彼女も避難の最中、この青空が黒に隠されているのを見た。身の毛がよだつ感触を視神経越しに覚えた。

 アレ、という抽象的な表現をしながらも、質問者が年齢不相応に賢いことを踏まえて『破滅の光の正体を問うている』と敏く捉え、カイドウは口内の食物を飲み込んでから開口する。

 

「……十中八九“Reオーラ”だ」

「Reオーラって……ラフエル地方の地底で流れてるっていう、虹色の光のこと……?」

 

 それは、彼女が目の当りにしたことがあるものと同列の力である、と言った。

 しかし彼女は腑に落ちない、何故なら、

 

「でも、あれは黒色の光だった。虹なんて綺麗さはなかった」

 

 奇跡にしては、色が全く異なっていた。かつてのアルバが見せたあの輝きとは、似ても似つかない。

 

「だろうな。が、今回の騒動で明らかになったことは多数あった。謎が明かされる都度、情報は形を変える」

 

 俺達は、一般の認識以上のモノを得られた――カイドウはまた朝食を一口運び、お供として購入したカフェオレで流し込んでから、続ける。

 

「Reオーラの正体は『波導』だ」

「……波導? ……ルカリオとかリオルが扱う、あの……?」

「そうだ。今回見られた様々なファクターを、これまでのReオーラについての検証結果と照らし合わせてみて、確定した……――アレは波導のそれと、まったく同質だった」

「……じゃあ、波導って何?」

 

 頷く。それについても回答を用意している証だ。

 

「波導とは、全ての生体が発する不定形にして不可視のエネルギーだ。少々オカルティックな言い回しになるが……ある時は『魂』と呼ばれ、ある者は『心』と表す。もっと俗に近づければ『雰囲気』や『気配』と云われることもある」

「それじゃあ、初対面の人に理由もなく『こわい』って思ったり、あまり知らない人になんとなく『優しそうだな』って感じたりするのも、私たちがその人の波導を読み取っているから……?」

「そういうことだ。特定の誰かといて活力が溢れたり、逆に悲観的な感情になったり……俺たちの心理的な働きの殆どは、この波導によるところが大きい」

 

 ずずず、と出し抜けにストローが音を出した。どうやら紙パックが空になったらしい。

 

「その他にも、生物非生物問わず損傷を回復させられるし、何かを動かすといった物理的干渉を行うことも出来る。さらに視覚を用いずに他者を視認することが出来たり、言語を超えた先でのコミュニケーションを取ることも可能だ。終いには空間を無視した長距離移動や、時の狭間を思いのままに行き来する……などという出鱈目な芸当も為せてしまう」

 

 尤も最後の二つは、まだ「らしい」止まりだがな。科学者としての、呆れ気味な注釈。

 

「ただ、様々な作用が存在するのは確かだ。不可視ではあるがちゃんと色があるし、不定形ではあるが一瞬一瞬で何かしらの形質を取る。それを思い通りに扱って、前述の現象を任意で発生させられるところまで、研究は至っていないが……観測だけは十分にされ、サンプルも大量にある」

 

 命を命たらしめんとするもの。生体の概念を“肉の塊”だけで終わらせぬ奇跡。生物の証明書。

 カイドウは一区切りつけた後、“波導”をこのように喩えた。

 されどシエルの疑問は、止まらない。己の「わからない」を消さんとして前のめりに聞きこんでいくあたり、ひょっとすると研究者気質なのかも。

 

「じゃあReオーラも、誰かの波導、ってこと……?」

「……それは俺が言わずとも、解るはずだ」

「ラフエル……?」

「間違いない」

 

 この地で暮らすならば、ヒントを出すまでもなくて。

 

「本来、生体が生物学的な死を迎えれば、波導も同様に失われるはずなのだがな……どうもラフエルのそれだけは、特別だったらしい。死して肉体が土に還ると、まるで器から溢した液体のように、その大地の隅々にまで流れて染み込んだ……」

 

 何がそうさせたのかは、わからない。

 ただ、古代人が持っていたという異能“奇跡”と関連があるのではないか、とCeReSの所長はあたりを付けている。現に今日もこの後、古代人についての資料を持った歴史学者が来訪するそう。

 

「その虹色の波導は、この土地に立つ誰かの波導と結び合って、無限に性質を変えていく。“キセキシンカ”は、そのうちの一つに過ぎない。虹とはいわば」

「……定まらない色」

「ああ。数学的アプローチで表現するならば『(エックス)』……どんな色にでもなり得る。目に優しい青にも、全てを塗り潰す黒にも」

「虹を黒に変えてしまう人も……世界を愛せない人も、いるんだね」

「当然だ。誰にとっても優しい世界なんてものは、存在しない」

 

 世界を愛せない人――その言葉で想起する存在は、きっとカイドウもシエルも一致している。

 生まれ落ちた場所の許容量がたまたま狭かったばかりに、優しさという舟から弾き出されてしまった彼。

 泳ぎ方を覚える前から波に浚われてしまって、光も届かぬ深い深い海の底で、泡を吐きながら溺れるしかなかった彼。

 忘れるはずがない、己の裏返しを。見失うはずがない、己の可能性を。

 何も初めから悪意を持っていた訳ではない。ただ、環境が脆くした。その脆さが罅を作った。そこから漏れてしまう闇だって、きっと少なくなくて。

 誰も、何も悪くない、不条理な不幸せ。

 これがあるから、未だに彼は世界を愛せない。人を愛してやれない。

 

「それでもカイドウくんは、ヒーローになってくれた」

「!」

「……悲しいこと、いっぱい知ってるのに」

 

 ――それでも。

 

「世界を見捨てないでくれて――――守ってくれて、ありがとう」

 

 少女は、青空を見ながら言った。

 呪わなかった彼に、感謝を告げた。

 強い友達を讃えて、横顔を綻ばせて、静かに讃えた。

 きっと大仰なのは嫌いだから。面と向かわれると、上手に物を言えない不器用だから。

 

「……消し去るしかなかったあいつの世界を、続けている。その責任があるだけだ」

 

 暫く目を伏してから、シエルと同じ景色を眺める。

 

「それに――――放り捨てるには、色んなものを持ちすぎた」

 

 海の青は、見飽きてる。

 だから空の青が、悪くない――そんな事をガラス越しで思いながら、カイドウは自由な浮き雲に言霊を隠した。

 友が消し去らなくてもいいと思えるような世界を、僅かばかりの夢にして。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「――で、結局俺らはお咎めなし、ってことか」

「正式な通達はまだだけれど、ステラが言うには『曲がりなりにも世界を救った英雄たちだから、贈るべきは叱責でなく賞賛だ』と、チャンピオンが上に陳情したらしいよ」

「噛み付いたってのに、口添えしてくれるなんてなぁ。坊ちゃんの懐の深さには感謝しかないね……足向けて寝らんねえや」

「ははは、失業がこわいなら途中でやめておけばよかったのに」

「一回啖呵切っといて引っ込むなんて、んなだせー真似ができるかよ……」

 

 シャルムジムの応接室に、ユキナリはいた。

 事件以降、連日政府関係者からの取り調べを受けているのだが、ネイヴュまで出向くには距離がありすぎるという理由で、直近の町であるシャルムシティでの滞在を命じられている。

 ランタナのついで、という形なのだろう。

 取り調べまでの暇を持て余した彼は、ランタナと一緒にテーブルを挟みチェスに興じる。

 窓からの光が指す盤上で、思い思いに動いて回る駒の軍隊。

 

「街の被害はどんな感じだい?」

 

 ポーンを一歩前に出す。

 

「こうやってジムリーダーが呑気に遊んでられる程度にゃ、元気してるよ」

 

 強気にナイトを高跳びさせた。

 

「まさか、PGを押さえるために全ての町に下っ端を投入してくるなんて、思っていなかった」

 

 そんな得意げな馬面をビショップで奪い取る。

 

「あーっ、待った!」

「残念。四回目だからね」

 

「っくしょ~、やっちまった……」通らぬ願いに渋い表情を見せながら、思考を再開した。

 

「……けどまぁ、どこも初動からの警戒があったから、被害はそこまで酷くなかったって話だ。何人かのトレーナーは有志で戦ってくれたらしいし、な」

 

 討ち取ったルークの底面をコトコトとテーブルに打ち付けるのは、きっと無意味な手癖。

 

「陽動目的だったのもあるんだろうけど……立て直しが早いのは、幸いなことだ」

 

 苦肉の策で逃がしたキングを、追い回し始める。

 

「しかしネイヴュの完全復興は、延期――時期未定ときたか」

「ああ……やってくれるよ、本当に」

 

 ばれない程度に混ぜたため息も、駒を動かす手の意気が死んでいれば、何の意味もなくて。

 いくら少ない被害といっても、地方規模で考えれば見て見ぬふりは通じない。十ある町で一ずつの被害に抑えられたとしても、結局直すべき箇所と、それに割く労力は十になる。

 ネイヴュでの復興作業にも遅延が出る結果と相成った。

 

「やることがいっぱいだ……」

 

 低い声音から滲む苦々しさが、物語る。復興祭で花火を上げられるのは、まだまだ先になりそうだ。

 使命があり、約束が待ち、奪還を掲げ、なおも駆けねばならない多難な前途。

 

「ま、手伝ってやるよ」

 

 自由な翼は、そんな氷獄の番人の重い宿命に薄々と気付きつつも、結局やっぱり面倒なので、

 

「気が向いたらな」

 

 頬杖ついた適度な構えで「適度にやれよ」とだけ伝えて、やんわり笑んだ。

 

「ああ……ありがとう」

 

 良くも悪くも、旅は続く。

 

「ところで、チェックメイト」

「……おお!? いつの間に!!?」

「ダメだよ、ちゃんと集中しないと」

「ま、待った!」

「待たないよ」

「くっそ、じゃもう一回! もう一回だ!」

「僕もそうしたいところだが、生憎そろそろ政府が来る」

「ちくしょう!!」

 

 彼らは終わりが来る日に、笑えるだろうか。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 ――――封印されしラフエル地方の歴史、即ちエイレム家が持つ“原典”は、世に出回ることはなかった。

 政府要人やポケモンリーグ、並びに一部ジムリーダー、そしてエイレムとセラビムの末裔を交えた会議で取り決められた事だ。

 引き続き外典を“陽の書”として語り継ぎ、“陰の書”たる原典をエイレムに任せる、という選択に落ち着く。

 偏に民の混乱を避けるためであり、復活の英雄が消え去った今、彼の者の影響でぶれかけた世界を元鞘に戻そうとしているのだと思う。聞こえは良くとも最終的には事なかれ主義。しかし最優でなくとも、最善ではあったと考える。

 

「続けて、被害者ですが……総じて五四名ほどが軽傷。死者はいませんでした」

「……そうか」

 

 少なくとも、同席したステラは。

 ラジエスの行きつけのカフェにて後の事をアサツキに説明しながら、コーヒーをちびりちびりと飲み進める。

 お堅い場所では喋りづらいかと思って回した気だったが、そもそも喋る質の人ではなかったと思い出しながら、報告書と睨めっこする。

 続くのは、バラル団についてのこと。

 

「PGが撤退する最中に数十人は逮捕したそうですが、全員下っ端。幹部はおろか班長すら捕らえられず、です」

「……けど、カエンのヤツが一番つえー幹部をやっつけたって言ってなかったか? 確か……」

「グライド、ですね。ですが逮捕には至らず、イズロードの気転によって逃げられました」

「……ふーん……」

 

 テーブルへの眼差しを遠くしながらホットミルクを一口含むと、ステラが俯いて総括する。

 

「……結局、何も変わりませんでした。世界を救えたこと、現在を英雄に認められたことは、確かに喜ぶべきことではあります。でも……」

 

 何も、変わっていない。ここに帰結する。

 バラル団という今を震わせる脅威は依然健在だし、人的被害は及ばないにしろ『雪解けの日』レベルの大事件を起こした。

 一過性かもしれないが、実際に直後である世間は恐慌に陥っている。これによって発生した事件や事故も既に数件ある。

 おまけにメディアも『世界を滅亡寸前にまで追い込んだ組織』と煽り立て、てんやわんや……といった状況。

 勝利と呼ぶには、成果が足りなさ過ぎた。

 

「彼らは、頭目を抜きにしてあれほどのことが出来てしまいます。崩壊する一歩手前まで、世界を追い込むことが出来ます」

 

 ステラとて言いたくはないし、考えたくもない。

 しかし日々増していく闇の強大さを改めて肌で感じた時、

 

「次に事が起こった時、私たちは……」

 

 ほんの少しだけ、揺らいでしまった。

「……ごめんなさい」柄にもなく弱気になる。

 当然、力を尽くすつもりではいる。されど、はたと、思ってしまったのだ。

 彼らが悉くを捨て去るほどの覚悟で、全てを懸けてぶつかってきた時――自分たちは皆を守れるのだろうか? と。

 簡単に出るはずがない結論だ。まず、これからというタイミングでこんなことは話すべきじゃない。

 両膝の上で拳を握って「失言でした」と撤回しようとした。

 

「……やるっきゃねぇだろ」

 

 そんな聖女をはっと見向かせる、琥珀色。

 答えは全部そこにあった。

 職人は多くの御託をがたがたと達者に抜かせないので、口よりも“こっち”で言った方が早い。

「嘘がつけない」と目に見える、純鉄みたいに光る双眸で語った方が、ずっと伝わりやすい。

 

「だって、やらないと終わらねぇんだから」

 

 一丁前な威勢で飾り付けた、内心を誤魔化す暗示よりも。耳だけが気持ちよくなる、刹那的な綺麗事よりも。

 まるでストレートパンチのようにシンプルで愚直な一言は、先細っていくステラの心を覚ました。

 どんな相手でも関係ない。

 倒れようが何度だってぶつかっていく。転んだ分にプラス一回で立ち上がる。

 明日に夢を描かない。昨日の傷に悲しまない。常に訪れる今日へひたむきに、真っ直ぐ前見て打ち込んでいく。

 行き止まりはこじ開けて往けばいい。ぬかるむ道は踏み続けていれば固まるし、明日は明日の風が吹く。

 

「……勝てねぇぞ。戦わねぇと、さ」

 

 誰に(うつ)けと嗤われようが、アサツキはいつでも変わらない。

 ドリンクを飲み干した。そうして空になったカップを重りに代金を置き、去っていく。

 別れ際でにっと歯を覗かせるのは、ぶっきらぼうなりの「一緒に頑張ろう」という激励か。

「ふふ……」笑みを溢して見送る背中。

 

「ええ、そうですね。あなたたちの輝きはこんなにも頼もしく、力強い……」

 

 そこには確かに、希望が見えた。

 

「だから――、きっと」

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 クシェルジムの道場では、相も変わらず修練が行われている。

 母屋では素手と素手の撃ち合う音が、それを囲う湖上では火と水の爆ぜ散る音が幾度と鳴り響く。

「休憩にしましょう」丸ごと一時間の組み手を終えたサザンカは、弟子のカエンやポケモン達と昼食を共にしていた。

「いただきます!」パン、と元気に両手を合わせてから頂く、串に刺さった焼き魚。

 ジム前の焚き火の傍らで、感謝しながら。おいしいと連呼しながら。笑顔で、口いっぱいに熱々を頬張る。

 夢を叶えても、世界を救っても、彼はいつも通りの振る舞いで、いつも通りの光景に生きている。

 

「英雄になったというのに、君は相変わらずですね」

「んー? どういうことだ?」

「ふふ……いいえ、なんでもありませんよ」

 

 何のことはない、自分だけが知る懐かしさに、少しだけ誇らしくなっただけ。

 サザンカはとある眼鏡のジャーナリストが置いて行った新聞の一面『華々しき英雄の再臨』を密かに眺めながら、ほんのり笑んだ。

 そうして喜ぶ。師に誇れる師になれたことを。誰にも誇れる弟子を持てたことを。

 

「……これからさ」

「?」

 

 されど、まだゴールではない。

 

「せんせーの言うとおり、おれ、ちゃんと英雄になった。でもまだ、これからなんだ」

 

 寧ろ彼にとっては、ここからがスタート。

 

「今度はみんながずっと、ずーっと笑える世界をつくる。カエン地方をつくる」

 

 憧れるスピードで追い抜く蜃気楼は、通過点でしかなくて。

 

「――あいつとした、約束だから」

 

 虹に煌めく足跡はこれからも続いていくし、鮮やかな新章の筆が止まることはない。

 勢いよく含んで、噛んで、飲み込んで。太陽に拳掲げて、輝く瞳で立ち上がる。

 

「待ってろよーっ! ぜったい叶えてやるからなー!」

 

 まだ見ぬ世界へ踏み出そう。新たな夢を語り合おう。築いた楽園でまた会おう。

 向かい風さえ巻き込んで――カエンはまだまだ、命を燃やす旅の途中。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

「ごめんなさいねぇ、うちのコスモスちゃん、ちょっと今手が離せないみたいで……」

 

 銀の結い髪の女性が淑やかにそう言うと、スーツ姿の男たちは身を翻して去っていった。

 忙しない世情にあっても、エイレム邸は穏やかに、和やかに時間を刻んでいく。

 この優雅さは、きっと騒動を聞き付け一時的に帰ってきた先代当主――即ちコスモスの母『ヒメヨ』のお蔭なのであろう。

 

「奥様、お飲み物でございます」

「ありがと、ブロンソ」

 

 テーブルに置かれた紅茶に反射する顔は、娘は勿論、此度の英雄にもよく似ている。

 

「まったく……政府もしつこいわよね、ほんとに。私ですら未だ顔を合わせられていないコスモスちゃんに、どうして会えると思ったのかしら。ぷんすか!」

「奥様、最後のそれは口に出すものではないように思います」

「細かいことはいいの! 問題はコスモスちゃんがアトリエごもりしてること!」

「どうやら行き詰まっていた作品に、進捗の兆しが見えられたようでして……」

「それはわかってるけれど……久々の帰宅なんですもの。はやく抱き締めて、くんかくんかしたいわ……」

「奥様、言い回しが変質者のそれでございます」

 

 しかし生来の天真爛漫ぶりは、歴代の誰とも似つかないようで。

 肩を竦め、嘆息を吐いてから開く口は、執事越しに聞き知ったあれからの事。

 

「でも、びっくりしたわ……まさか、原典を焼却しちゃうなんて。思いもしなかった」

 

 アリエラが去った後、コスモスは彼女が記した正史の記憶を世界から抹消した。

 祖先の復活でさえ信じがたいというのに、加えてこんな真似をされたものだから、ヒメヨを含めたエイレム家の人々はひどく混乱に陥った。

 代々引き継がれてきたものが一瞬にして灰になるなんて、そんな想像を働かせられる方が奇特だ。無理もないだろう。

 勿論、周囲からの反動が無かったわけではない。

 

「他人事ですな、本当の歴史が葬られたといいますのに」

「当然よ、今の当主はコスモスちゃんだもの。私がどうこう言う話ではありません」

 

 されど、ヒメヨは信じた。

 世界と一族を八千年の呪いから解き放つ、その選択を。

 真のものになった優しい夢物語が、紡いでいく明日を。

 もう、戒めなくたっていい。ただ、願い続ければいい。

 何でもない彼女へ、野に咲く花のような幸福を。何でもない彼へ、路傍の石ころみたいな日常を。

 願え、望め、祈れ。

 

「……答えを出した英雄が、昔みたいに誰かのために何かを選んだ。いいんじゃない? それで」

 

 大地に、民草に――プラスアルファで、英傑たち。

 全てに笑顔を届けて、コスモスの戦いはようやく終わりを迎えた。

 

 

 

 何も考えない。言わず、悩まず、迷わず、止めることなく滑らせる。

 あの日、あの時見た彩りを目蓋の裏に映写して、思いのままに手を走らせる。

 水を溢して。絵の具を散らして。パレットがとうに定員オーバーと嘆いてる。くそくらえ、くそくらえ。

 高鳴る胸に従って、ただただ描く未来予想図。

 滲む遠くを愛してる。綺麗な七色を想ってる。

 

「……うん」

 

 ――明日も皆が、大好きだ。

 宝石を散りばめたような星空に、透き通る雲が浮いている。

 見惚れるほどの極彩色は手前から奥へと伸び続け、遥か彼方へ繋がった。

 カラフルな花畑でそれを見上げる女性が誰かなど、きっと言うまでもないのだろう。

 

 コスモスは汚れた頬を拭いながら虹を眺めると、満足げに絵筆を置いた。

 

 

      ◇       ◆       ◇       ◆       ◇

 

 

 誰もいないし届かない、遠くの遠くの、時空を超えた名も無きどこか。

 色とりどりの花々が、どこ吹く風に揺れている。

 青紫のグラデーションカラーに、終わりの見えないアーチが架かった。

 

「――――また、いつか」

 

 鳥たちが月の向こうへ飛んでいく。

 そんな満天の希望を静かに仰ぎながら、アリエラは今日も笑ってる。



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